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[30225] 【習作・短編・完結】ロリババアの道程【ゴッドイーターバースト 女主人公ボイス14】
Name: 下劣畜生◆5da806bd ID:53ec0cbf
Date: 2022/11/16 19:09


※2022年11月より、ハーメルン様とのマルチ投稿。


自分の口調が同年代の少女達のそれと比べていささか以上に奇異なことぐらい、誰に言われるでもなくむろん彼女とて気付いている。
無知でも蒙昧でもましてや白痴でもないのだ、気付かないほうがおかしいだろう。自覚した上でなお、一向に改めようとせず彼女は今日まで振る舞ってきたのだ。
簡単なように見えて、これが存外難しい。胆力を要する。
初対面の相手は十中八九顔と口調のギャップに戸惑いぎょっとするし、ある種の変人だとレッテルを張られるのも避けられない。どうしても奇異な目で見られてしまう。
それを心配してか、時折面倒見のいい仕事仲間がそれとなくこの口調を改めるよう忠告してくれたりもしたものだ。

(あやつらは好意で言ってくれておるんじゃろうが、こればっかりはのう)

如何に世間の「普通」から外れていようが、彼女にとってはこれが地。キャラ作りだの何だのではなく、通常の喋り方、言うなれば本性なのである。それを態々矯正する苦労と、しばらくの間羞恥心と画一化への欲求に耐えること。どちらの方が精神の磨耗は少なくてすむか、天秤にかけた結果彼女は後者を選択した。
人間には慣れというたいへん便利で厄介な機能が生来備わっている。最初は違和感を覚える刺激でも、毎日繰り返し同様のものを浴びせられているとやがて感覚は鈍化し、ついには何も感じなくなる。それが当たり前のものとなる。
故に、彼女はしばらく耐えさえすればよいと踏んだ。予想通り、今ではもう誰も彼女の口調を気にかけない。むしろ今更普通の言葉使いをした日には、すわ天変地異の前触れかと腰を抜かすほど驚かれてしまおう。
それでもあえて欠点をあげんとするならただ一つ、こんな喋り方だと一定以上の関係になりたがる男はほぼ絶無ということか。
が、彼女にはそも男性と付き合いたいだとか結ばれたいだとか、その手の願望が絶望的に欠落していたため、本人にしてみれば全くの無問題。気楽なものである。
お陰で彼女は今や、何ら気負う所の無い悠々自適とした日々を送れているというわけだ。

(うむ、安気安気。やはりこうでなくてはな)

それはそうだろう、毎日戦場へ出向かねばならないというのに本性をひた隠しにして、「家」の中にいる時でさえストレスを溜め込んでどうするのか。それが契機となって些細なミスを犯し、ドミノ倒しのように大きな失態へと繋がって最終的に死にでもしたら―――ああ、これほど馬鹿げた話もあるまい。まさしくわけのわからぬ死だ。


戦場。
これは何も比喩表現を用いているのではない。純粋にそのままの意味で使ったまでだ。
彼女が一日の大半その身を置くのは、この上なく命の軽い戦の場なのである。
と言っても、その戦は人類が遥か太古より飽きもせず延々繰り返してきたそれではない。
アラガミという、冗談染みた超生命体との種の存亡を賭けた闘争なのである。勝つか負けるかではなく、喰うか喰われるか。自然界の法則に則った、言うなれば生存競争の一種だろうか。ともあれ人間同士の戦いとは全く根本を異にしていよう。

ではその戦況はどうなのかというと、これが人類に大いに不利。その一因として見逃せないのは、やはりアラガミに対して既存の兵器その一切が通用しなかったことだろう。
これはアラガミの身体が「オラクル細胞」と呼ばれる特殊極まりない細胞で構成されていたことによる。常軌を逸した強靭さとしなやかさを兼ね備えたこの細胞結合を、通常兵器で加えられる衝撃程度では到底破壊出来なかったのだ。
そんなデタラメな細胞があってたまるか、と言いたくなるのも分かるが、現実としてここにあるのだから仕方が無い。
こうした次第で、こちらからの攻撃は微塵も効かないくせに敵は紙細工でも破くかの如き容易さでこちらを殺せてしまうという、闘争に於いて最大級の悪夢が具現化した。
抗する術が無い以上、人類は敗れざるをえない。その個体数はいっそ笑ってしまいたくなるばかりの速度で激減し、歴史を積み重ねた果てに築かれた文明はアラガミの食欲を満たさんがための単なる餌と化した。朽ちて廃墟となるより悲惨だろう。

そんな世の中だから、こうしたただでさえありがちな悲劇がさながらバーゲンセールの如く大量発生する。

(そう、別に珍しいことではない)

親を、兄弟を、親族を、友を、おおよそ頼るべき一切を亡くして天涯孤独の境遇に堕ちる子供など、この空の下には掃いて捨てるほど存在するのだ。
彼女もまた、そんな変わり映えのしないよくいる餓鬼の一人だったらしい。
らしい、といったのは彼女の記憶の何処を探っても父や母と共にいた映像が見つからないためである。ここから推測するに、彼女はよほど小さな―――それこそ赤子同然の時分に両親を失ったようだ。果たしてそれは幸いなのか不幸なのか。

「愚問を唱えるのう、幸運だったに決まっとろうが」

容赦なく一刀の元に切り捨てたのは、祖母を名乗る老婆だった。
彼女と老婆の間に血縁関係があったかどうか、今となってはもう永遠に確かめる術は無い。が、

(無かったと見て間違いなかろう)

と彼女は合点していた。
もし本当に血の繋がりがあったとすると、必然彼女の死んだ両親、そのどちらかは必然老婆にとって実子にあたることになる。にも関わらず、かくも冷静に淡々と、その早逝を幸運と言い切れるものだろうか。

(否、断じて否)

祖母がそんな人間ではないことは、共に暮らした彼女自身が誰よりもよく分かっている。

(あの婆様なら親より先に逝くなど何事か、これ以上の不孝はないと激怒する。その裏に同量の悲しみを抱えながら。そういう人だ)


何故両親が早くして死んだのが幸運なのか、その理由を問うと祖母は笑って彼女の小さな頭をぺしぺし叩いた。

「今回は教えてやるがの、次からはもっと自分の頭で考えるようにするんじゃぞ。おうおう、ようけ中身の詰まっとるいい音がするわい。せっかくこうまでみっちり詰まってるんじゃから、使わにゃあ損じゃないかえ」

とどめとばかりに祖母は髪を滅茶苦茶にかきまわしていった。しなびた手がわさわさと蜘蛛のように蠢く感触を、今でも覚えている。

「なあに、至極簡単なことじゃて。お陰でお主は変にひねずにすんだ。もしあと何年かして、父母の愛を理解出来るようになってから死なれてみよ。やわなお主の心は激烈な感情の濁流で壊れるか、最低でも何らかの歪みが生じておったろう。そんなものを拾って態々矯正してやるほど、わしはお人よしではないわ」

いくら愛を注がれようと、それを認識出来ねば何にもならない。
憎悪や憤怒、悲嘆といった感情は何かを奪われてこそ発生するのである。逆に言えば、真実何も持たぬ者にはどうしたってその手のものは感じられない。
出会った時の彼女は正にその状態だった。何を失ったかも分かっていない、まっさらで生のままな状態。だからこそ祖母は彼女を庇護し、養育したのだと言う。

「でも」

泣きそうな声であった。彼女の胸の中には何やら自分がひどく悪いことをしているような、やるせない気持ちが次から次へと湧き出しており、声にでもして排出せねば五体が破裂してしまいそうだったのだ。

「でもそれじゃあ、いくらなんでもととさまとかかさまが―――」

―――哀れではないか、と言いたかったのであろう。されど当時の貧相な語彙力では、どうしても相応しい言葉を見つけ出せず、彼女のべそは余計に加速した。

「報われず、哀れじゃと。なるほどのう、よくぞそこまで気が回った」

だから、祖母がその言葉を代弁してくれた時は本当に嬉しかったし、救われたような気さえしたものだ。

「そう思うのは決して悪いことではない。むしろこんな時代によくぞかくも真っ直ぐ育ったと、わしア鼻が高いわい。しかしじゃな、気に病むのあまり無用に自責を重ね、ついには自虐へといきつくような真似だけはよすんじゃぞ。あんなものは百害あって一利なし、どうしようもない最底辺の人間がするもんじゃ」
「うん、わかってる」

自虐についての講釈はそれこそ耳にタコが出来るほど聞かされていたので、彼女は大人しく頷いた。

「お主が両親に報いたいと欲するなれば、月並みじゃが精々必死に生き抜いてみせよ。それが唯一、父母の死を無駄死にに堕とさず、注がれた愛への感謝を形にする方法じゃ」


ああ、そうだ。祖母はいつも彼女に対して二言目には生き延びろと言った。

「よいか、必要とあらば例え相手の靴を舐めてでも生にしがみつくんじゃ」
「冗談じゃろ、そげな誇りもなにもあったものではない真似をしてまで、わしア生き延びたくないわい」

舌っ足らずな喋り方はなりをひそめ、自我の芽生えが見えてくると彼女は時折祖母の教えに反発するようになった。

「戯けぇっ」

すると祖母は、荒れ果てた荒野のような顔面を真っ赤にして怒鳴るのだ。

「小娘がさかしらなことを抜かすでない、誇りの意味も分かっちょらん分際で」
「なんじゃと、老いぼれが」
「本当に誇りがあるのなら、一時の屈辱くらいなんじゃ。頭を垂れつつ腹の中には殺意を溜めて、逆襲の時まで耐え忍ぶのが正道じゃろうが。それを沸点低く、簡単にぶっちぎれてどうする。無為に死ぬだけなのは火を見るよりも明らかではないか」

お互い興奮して、いつ胸倉を掴んでもおかしくない雰囲気である。意見が食い違うと、彼女らは万事この調子であった。

「機が来なかったらどうする、いくら待てど暮らせど来なかった場合は。こんな事ならあの時暴発しておれば、と悔いながら生きよと言うんか」
「屁みたいなことを抜かすでないっ。己が踊る舞台ぐらい、手前で築く意気がなくてどうする」

受動的にただ待つのではなく、能動的に自ら動いて機を作れという意味だろう。

「昔日の平和だった時代ならわしもこんなことは言わん。当時は口でなんと言おうが、実際に命の危機に晒されることなど皆無に等しかったからな。が、今は違う。今日びお主のように死を美化する馬鹿は、本来三日も生きられん世になってしまったのじゃ」

平和だった世界で前半生を生きた祖母だからこそ言える、実感籠もった言葉だった。アラガミに世界が貪り食らわれていく、その一部始終を老婆は一体どのような心境で見届けたのだろう。

「酔っ払って安易に死のうとするな。そんなものは所詮、過酷な現実に立ち向かえない臆病者の逃げに過ぎぬ。真の強者とは、例えどんなに長く険しい道のりであろうとも、その途中で如何に屈辱的な思いをしようとも、決して投げ出すことなく歯を喰いしばって前に進める者をいう。よいか、生きることから逃げるでないぞ。とりあえず生きてさえいれば、どれほどの苦境・苦難であろうと跳ね返しうるんじゃからな」

当時の彼女にはさして響かなかったこの言葉が、やがてその中核―――背骨を貫き五体を支える信念になろうとは、とうの祖母自身思わなかったに違いない。


このように彼女を守り、多くを与えた祖母が、ある日死んだ。
死因は老衰、生きとし生けるおおよそ全てのモノの宿命である。驚異的な生への執着心から危機察知能力におそろしく長け、それをフルに活用すろことで幾度となくアラガミから逃げおおせた祖母でも、自分の寿命からだけは逃れられなかった。

「随分遠回りを重ねたものの、わしはついに辿り着いた。見よ、我が勝利はここにある」

彼女に手を握られながら、祖母が残した最後の言葉。
ひどく抽象的で理解し難くはあるが、その声色から、その表情から、籠められた思いは自然と伝わるものらしい。
祖母は真実満たされていた。最早この世に何の未練も残っておらぬと、晴れ晴れとした穏やかな心で最期を迎えていた。
枯れ木のような祖母の身体が、この時ばかりは内から光輝いているかのように彼女の瞳に映ったものだ。

「―――」

力が抜け、だらんと垂れ下がった腕。
物言わぬ亡骸と化した祖母に縋りつき、彼女はわんわん泣きに泣いた。
彼女にとって祖母とは親であり教師であり、またかけがえのない親友でもあった。彼女の半分は祖母のものと言っても過言ではなかろう。
故に血の繋がりがあったとか無かったとか、そんなことはどうでもよい。些末、二の次に過ぎない。彼女にとってあの老婆は、やはりどこまでいっても祖母なのだ。
然らばこの反応は当然、健常な精神性の発露に他なるまい。愛する者の喪失とは、斯くも重かりしものなのだ。

(なるほど、婆様の言った通りじゃ)

自然死、それも考えられる最高の逝き方をされてもこれである。もしもアラガミに捕喰されるとか、その手の理不尽極まりない無念の死を目の当たりにした暁には、精神の一つや二つ壊れたとしてもなんら不思議ではない。
祖母の言った通り、そんなものを認識せずにすんだ己は幸運なのだと、彼女はこの時になって漸く真に理解した。



祖母が死んでしばらくすると、当たり前のように彼女は飢えた。
遺産を頼りになんとか細々と食い繋いできたとはいえ、元々たかが知れている額の上に収入が一切無いときた。これではいくら節制を心がけようと、底が見えてきてしまうのは道理だろう。
何かしら職に就こうと足掻きもしたが、十代前半と幼く肉付きもさしてよくない彼女を雇ってくれる場所は何処にも無かった。それはそうだろう、どう贔屓目に見ても満足に仕事をこなせるとは思えない。性別が男であったのならば、まだ見込みはあったのだろうが。

(これはいよいよ、身売りを考えねばならんかな)

が、そう捨てたものでもない。女にしかできぬ仕事というやつも確かに存在するではないか。
今でこそみすぼらしい様だが、整えさえすれば充分人並み以上になるのである。更に付け足すのならば、そちらの業界には彼女のような未成熟な少女にこそ興奮する客も多いという。
散々足を引っ張ってきたものが、悉く武器に変わるとはなんという皮肉だろうか。
このまま窮迫からの出口が見付からないようならば、本当に堕ちるも已む無し―――と血を吐く思いで決断しかけていた頃。彼女に一つの、決定的な契機が訪れた。

目下地球上で人類が生き延びられる場所と言えば、アラガミの研究・討伐を主として執り行う組織―――フェンリルによって建造されたコロニー以外に無い。
「ハイヴ」と呼称されるこのコロニーは周囲をアラガミ防壁という特殊な装甲で囲っているため、一応の安全が保障されているのだ。
彼女が生まれ育ったのは、極東に作られた第八ハイヴ。計十四万もの人間を収容する、半径千四百メートルの円形の「巣」である。これだけの人間がひしめき合っておれば、貧富の差が生まれるのは考えるまでもなく明らかだろう。
悲しいかな、完全環境都市たるハイヴにも宿命的に掃き溜めは発生するのだ。
住民同士の強盗強姦は当たり前、三日に一度は脳の煮立った宗教団体が怪しげな集会を開き、偶に哀れな生贄の悲鳴が響く。いっそアラガミに殲滅されてしまえと大抵の良識ある者が考えている悪徳の温床。
そんな場所で起こったとある事件の容疑者として、あろうことか彼女が拘束されてしまったのである。

(冗談ではないわい)

濡れ衣を着せられた彼女はあまりのことに呆然としつつも、同時にどこかで安堵していた。
進退窮まってとうとう身を売る決意をかため、残金はたいて少しでも肉付きをよくするべく比較的豪勢なめしを喰らい、暴漢に見付からぬよう周囲を警戒しながら抜き足差し足で掃き溜めにある風俗店までたどり着き、さあ入るぞと唾を呑み込んで足を上げた瞬間横から躍り出た男達に取り押さえられた。フェンリル職員殺害容疑がどうたらと言っていたような気がするが、要するに悪い時に悪い場所に居合わせてしまったという話だろう。
所詮は先延ばし、身を貪られるのが僅かばかり遅くなっただけと分かっているが、それでも心のたがが緩んでしまう。もっとも、この嫌疑が晴れなかった場合純潔どころか命まで奪われる公算が大なのだが……。

(大丈夫じゃろ、フェンリルとて無能ではない。早々に誤認逮捕と認めてくれようぞ)

楽天的な考えである。むろん、本心からのものではなくこう思い込もうという自己暗示だ。
今回のように己が生死をほぼ完璧に他者に握られてしまった場合、幾ら泣き喚いて無実を叫ぼうが無駄でしかない。
どうせ打つ手など無いのだ、ならば運の良さに賭けたいではないか。思いつめるのあまり気鬱になりでもしたら、それこそ最悪だろう。助かるものも助からなくなる。
故に彼女は、ひたすらに思考を楽天的な方へ方へと運ぶ。これもまた、生き延びる術の一ツなれば。

ところが、事態は彼女の想像を遥かに超えて斜め上へと転がっていた。
牢にぶち込まれる前に受けた検査、そこで採取された彼女の生体サンプルから驚異的といっていいまでの神機との適合性が認められたのである。
左様、神機。
これぞ人類存続の鍵。絶対の捕食者たるアラガミに対し、泣きたくなるほど貧弱な人類が抗し得る唯一の法理に他ならない。
その正体は簡潔に言うと、「人為的に調整されたアラガミ」だ。アラガミと同じオラクル細胞によって構成されているがために、連中の強力無比な細胞結合を「喰い破る」ことで破壊できる。
毒を以って毒を制す、鬼を斬るため鬼となる。なんのことはない、脅威と相対した際人はいつもそうしてきたではないか。言ってみれば使い古された手だ。
神機を扱う者が神機と文字通り一体化し、半アラガミ染みたものとなるのもそうした見地からすれば全く自然だ。何もおかしなところはない。
ただ、希望さえすれば誰であろうと神機使いになれるわけではない。完全に先天的な資質が必要とされる。
ざっくばらんに述べると、この資質とやらが適合性である。これを持たぬのにも関わらず無理に神機を扱おうとすると、神機に捕喰されて肉塊になってしまう。実際、一昔前まではよくそうした痛ましい事故があったそうだ。

「ははあ、わしにそんなものが」

そして、彼女が有していたのは単なる神機との適合性ではなかった。
開発されはしたものの、こと極東においては未だ誰一人として扱える者の現れていない「新型」神機との適合性だったのだ。
故に驚異。単純な戦力の増強のみならず、さぞかしデータを吸い上げたかったのだろう。フェンリルはその名の通り、餓えた狼が如くこの「肉」に喰らいついた。

(愉快痛快。まっこと人生とは分からぬものよ、よもやこのような形で風穴が開くとは)

神機使い―――ゴッドイーターが如何に危険で命の軽い職業なのかは彼女とて重々承知している。
と言うより、ハイヴに住みながらそれを知らない方が珍しいだろう。既に一般常識の領域なのだ。
故に、神機との適合性が見付かりながら嫌だ俺はやりたくないと駄々をこねる者もいるという。
が、その反面給金は高く、衣食住までかなりの高水準なものが保証されるのがゴッドイーターだ。彼女の如き貧民にしてみれば、これは垂涎の楽土に他ならない。
中にはこの好待遇を指して特権階級だと悪し様に罵り、目の敵とする者もいるが的外れも甚だしい。骨を折った者がその報いを得るのが道理なれば、仕事の難度に従って報いが大きくなるのもまた道理。命の対価としてはこれでも安過ぎるくらいだ。

どの道適性が見付かった時点で逃げ道など無いのだ、いくら泣き叫ぼうがフェンリルは無理矢理にでもゴッドイーターに仕立て上げる。
然らばここで悲観などして何の意味があろうか。むしろ生活の場と強力な牙を手に入れられるのを喜ぶべきであろう。

(餓死も戦死もわしア御免じゃ。こうなれば、我が命を脅かすのなら例え神であろうと鏖殺してやる)

彼女の生に対する執着心は、既に狂気の域に達しているといっていい。
初めにその念を叩き込んだ祖母は未来予知と見紛うばかりの危機察知能力によって、数え切れないほどアラガミの襲撃から逃れてきた。
それが意味するところは、すなわち第六感の鋭敏化に他ならない。
不吉な予感、虫の知らせ……そうしたものを祖母は度外れた感度で感じ取り、かつその直感に躊躇うことなく身を委ねられる度量と胆力が備わっていた。だからこそ天寿を全うするという、このご時勢においては至極希少な最期を迎えられたのだ。
では、その特性をそっくりそのまま受け継いだ彼女が戦場に出ればどういうことになるのか。答えが判明するのに、さして時は要しなかった。

当たらないのだ。

アラガミがどんなに趣向を凝らした攻撃を仕掛けようとも、彼女には決して当たらない。必ず回避されるか、展開した装甲に防がれる。絶対に直撃はしない。
例え死角から無音のうちに奇襲をかけようが同じこと。本能と呼ぶべきものが思考を無視して勝手に体を駆動させ、その場における最善手を自動的に選択し実行する。脊髄反射に近いであろうこの動作で、対処に失敗したことはいまだかつて一度も無い。
相対するアラガミにとってはたまったものではないだろう。これも一つの理不尽の権化だ。
それでも最初期の頃は膝が震えてみすみす目の前で同僚が死ぬのを許してしまったり、攻撃の挙動が荒っぽく、雑で無駄の多いものであったりと、つけこむべき隙が確かに存在していた。もしこの当時ヴァジュラやボルグ・カムランに遭遇しておれば、さしもの彼女とてただではすまなかったろう。
が、休暇という概念を忘却したかのように毎日毎日ひっきりなしに出撃し、神機を振るい続けているうちにそれらは影も形も無くなってしまった。

「あんなオーバーワークでは遠からず潰れる」

と言われ、一見命知らずの馬鹿そのものな行動だったが、結果から見てみれば、身を危険に晒して命を大事にしたということになるだろう。命を大事にするといっても指先の怪我程度に一々死ぬような大騒ぎをするわけではない、むしろ死を避けるのに必須ならばどのような損害をも厭わないのが彼女という人間らしい。


先人達が何年もかけてようやっと登りつめた場所。それを一足飛びに通り越し、いまや彼女は前人未到の極地に立って猶も処女雪を踏み続けている。第一種接触禁忌種のアラガミを単独かつ無傷で撃破するなど、最早あらゆる意味で人間を超越しているだろう。
そして、そんな彼女だからこそ。
誰よりも死を忌避し、強迫観念染みた生への渇望を力の根源とする彼女だからこそ。
フェンリル極東支部支部長、ヨハネス・フォン・シックザールが極秘裏に進めていた計画―――「アーク計画」の全貌を知った時、大いに揺れ、惑い、狂おしく悩乱した。

「どうしたもんかのう」

フェンリル極東支部、通称アナグラのエントランスに設置されたソファーに身を沈めて、彼女はぽつりと呟いた。
その視線が彼女同様進むべき道に迷っているゴッドイーター、台場カノンに狙いを定める。

「カノーン、カノンや」

気だるげに間延びした声であった。猫を呼ぶかのように、ちょいちょいと手招きまでしている。

「………。あ、はい?」

出口のない迷路に迷い込んだがごとく、ひたすらに自問し続けていたカノンは一瞬狼狽しつつも現実に意識を回帰させた。

「ちょいとここに座って、話でもせんか。共に惑う者同士、胸襟を開きあえば何がしか新たな展望が開けるやもしれんぞ」
「私は―――いえ、そうですね」

それじゃ、と断りを入れてカノンは行儀良く対面のソファーに腰掛ける。

「あなたも迷っているなんて、ちょっと意外でした」
「第一部隊(うち)の衆は皆、どちらであれ旗幟を鮮明にしておるからのう。頭であるはずのわしがこの様とは、情けないことこの上ないわな」
「いえ、そんなことは」
「よいよい、擁護など無用よ。射線上に味方がいようが遠慮なくぶち抜くお主にゃ似合わん」
「そ、それは言わないでくださいよぅ。私だっていつもああじゃないんですから。ただ、その、いざトリガーをひく時になると……」

ごにょごにょと弁明を続けるカノンに、呵呵と笑って彼女は返す。しかしその実、内心彼女は他の誰よりもカノンを高く買っていた。
なぜならば、この台場カノンこそが天上天下に唯一人、彼女に対し直撃打をぶち込んだ存在なのだから。

(あの衝撃、忘れることなど出来まいよ)

彼女は己が超直感を自覚し、また頼りにもしていた。それが高じてこれさえあれば大丈夫、どんな戦場をもくぐり抜けられると思い上がるほど。
ところが彼の時、自慢の玩具は何の役にも立たなかった。一切何をも感ぜられぬまま、彼女はカノンの弾に撃ち抜かれたのだ。
例えるならばある穏やかな昼下がり、野原を歩いていたら突如地割れが起きて足元の大地が消失したような―――まさしく晴天の霹靂としか言いようのない事態。それに直面した彼女の心情は筆舌に尽くし難い。若干吹き飛ばされる程度の衝撃など、精神に喰らったものに比べれば物の数ではなかったろう。

「射線上に入るなって、私言わなかったっけ?」

有無を言わせぬ、氷のような声。罪悪感など欠片もなく、邪魔なんだようろちょろするな目障りだという不快の念が形をとったかのようだった。
彼女がカノンの渾名の一つ、「誤射姫」の意味を畏敬の念と共に―――なんて、ちょっとずれた形で認識したのはこの時である。

当節彼女の心中では様々な感情が入り混じって訳の分からない模様が描き出されていたが、その中で最大面積を誇る色は、あろうことか感謝であった。
己が増上慢、天狗の鼻っ柱をへし折ってくれたことに対する圧倒的感謝。もしあのままであったならいずれ頼みの綱の直感を自ら曇らせ、どこかのつまらぬ戦場で死骸を晒すはめに陥っていたと悟ったがゆえに。
自分も所詮取るに足らない、油断すればあっけなく死んでしまう存在なのだと。完全無欠の絶対者になど、どうあってもなれないのだと。死に対する恐怖、その本質を思い出すことができたから。
彼女はカノンに対し、もういっそ抱き締めたくなるまでの感謝と敬意を抱いたのだ。
むろん、それを口に出したりはしていない。誤射してくれてありがとうなどと言う輩は誰が見たって気味が悪いし、下手をすれば気が狂ったとさえとられかねまい。

「―――と、晴天の霹靂と申さばこれもじゃな。まさか終末捕喰が単なる都市伝説ではなく、真実起こり得るものとは」
「ええ、本当にショックでした。今でこそちゃんと受け止められているけれど、最初はなんだか白昼夢を見ているような、目に薄い膜がかかったような、兎に角奇妙な感じで」


アラガミ同士の共喰いの果て、その行き着く究極のところ。史上最大のアラガミ「ノヴァ」が誕生し、地球そのものを喰らい尽くす―――それが終末捕喰。世にありがちな終末思想の一つだ。
なんともスケールの大きな話である。そのせいか、根っからこれを信じている者は極めて少ない。精々が集団自殺を起こしたカルト教団ぐらいだろう。一般人には大抵、何を馬鹿なと鼻で笑われている。が、しかし、

「支部長と榊博士……この二人が認めている以上、疑う余地は無しか」

特にペイラー・榊博士は過去にアラガミ防壁の基盤を作り出すなどした、アラガミ研究の第一人者だ。そんな彼に対して反証を行えるほど、彼女もカノンも学識豊かではない。

「にしても、どいつもこいつも対応が早いったらないわな。未だ決断を下せておらぬのは、ひょっとするとわしとお主だけやもしれんぞ」
「リッカさんも先日決めちゃいましたしね。乗らないって聞いた時、ああ、やっぱりなあって思いましたよ」
「頑固一徹然とした所のある娘じゃからのう。ああした気骨の入っている、確たる自己を持つ者は見ていて清々しいわい」
「娘って。あなた確か、リッカさんより三つか四つ下でしょう」
「なんじゃ今更、わしの言葉遣いは今に始まったことではなかろう。第一それをいうならば、わしは同じく四つほど上のお主をお主呼ばわりしとるわけじゃが、それはよいのか」
「う、そう言われてみれば……」
「ふむん、随分疲れておるのではないかや。現実の輪郭がぼんやりしておろう」
「疲れもしますよ、告白しちゃうとここ数日碌に眠れてません」

自嘲気味に唇を歪ませ、カノンは深々とため息をついた。

「私にはリッカさんみたいに沈みゆく船を猶も信じて、最期まで運命を共にするだけの度胸も矜持もない。自分が死ぬのも、近しい誰かが死ぬのも嫌なんです。考えただけでも怖くてたまらないんですよ。でも、だからと言って世界中の人を見捨てて自分達だけのうのうと逃げ延びるなんて……きっと罪悪感と自己嫌悪がいつまでも離れない。べったり背に癒着して、いつの日かその重みに耐え切れなくなり潰されるのが目に見えるようです。結局どっちつかずの中途半端」

きっとそんな自分自身こそ本当に許せないのだろう。赤く充血した瞳が、それを何より雄弁に物語っていた。

終末捕喰は避けられない。いずれ必ず来るものと定義して、ならばせめてそのタイミングをコントロールしてしまえというのがシックザール支部長の計画だ。
起こるタイミングが制御できるのならば、その間生かすべき命を安全な場所―――すなわち宇宙空間に逃がすのも可能となる。さながら大洪水を乗り切り種の保全を図る方舟、アーク計画の名に偽り無しというべきか。
補足すると、シックザールの言うところによれば終末捕喰の先に待っているのは生命のリセットされた新世界との事である。何から何までかの伝説をなぞるようで、いっそ嫌味なものさえ感じられる。
問題は、人類総てが方舟に乗船できるわけではないこと。
その定員は実に千。これを多いととるか少ないととるかは各々の価値観なり何なりで異なるだろうから一概には言えないが、人類の総数から見てみれば、

「圧倒的に少ないな。人類総てどころか、この第八ハイヴから見ても一パーセントにすら届かん。雀の涙もいいところじゃ」

まさに命の選別、選民思想の極北。

「それでも零よりはまし、と考えてしまうのはあさましいことでしょうか」
「まさか、誰だって思うさ。誤解を承知で言わせてもらえば、人間なんて放っておけばいつの間にやらばんばん増えてる生き物だからの」

万年発情期は伊達ではないわ、と彼女は皮肉気に笑った。

「もっとも、アーク計画が発動しなければ必ずしも零になると決まったわけではない。終末捕食が事実だろうと、我々ゴッドイーターが事前にその芽を摘み取り続ければいいだけの話」
「できるんでしょうか、そんなこと」
「紙のように薄いが、まあ皆無ではなかろう。可能性はあると見た。が、そんなちっぽけな光明に縋れる者が果たしてどれほどいることやら」

倍率で言えば百倍か千倍か、あるいはそれ以上か。
言うまでも無く馬鹿気た賭けだ。こんなものに全財産はおろか五臓六腑の悉くをつぎ込むだなんて、冗談にもならぬ狂気の沙汰だろう。

「シックザール支部長はそうではなかった。彼は賢明じゃよ、物事を高い視点からよく見ておる」

もし仮にアーク計画を阻止し、人為的な終末捕喰を喰い止めたとしてもその先に自然の終末捕喰が起こってしまっては何にもならない。人類が滅亡したその後で、ごめんなさい、失敗しちゃったやっぱり私が間違っていましたなどと詫びても遅いのだ。

「あなたはアーク計画を正しいと思っているんですか?」
「筋は通っているし、何より堅固で確実な道だと思っておるよ。種の保全、人類の足跡を絶やさぬことを第一目標とするのなら文句の付け所が無い。ああ、じゃがしかし、終末捕食を防ぎ続けられる可能性があるのなら例えどんなに低かろうとそれを追い続けるのが正道だろうと言えなくもないし」

お手上げだ、と言わんばかりに彼女は天井の照明を眺めた。

「駄目じゃな、堂々巡りになっておる。可能性の話をしだしたらきりがない。すまぬなカノン、新たな展望どころかこれでは余計に混乱させてしまったようじゃ」
「いえ、そんなことは。弱音を吐けたお陰で、ちょっと気も楽になりましたし」
「ひとつヴァジュラでも狩りにいかんか」

なにをとち狂ったのやら彼女は話を急転直下させ、カノンを呆然とさせた。

「こういう時は引き篭もってうじうじ考えていてもよくないのよ。血が鬱して逆効果になるわい。それよりも思い切り暴れて泥のように眠った後にこそ、知恵というやつは湧いてくる」
「な、なんですかその体育会系みたいなノリ。大体私、こんな体調だからどんなヘマをすることやら」
「なあに、心配無用。私と共に出撃(で)る以上、何があろうと絶対に死なせなどせんよ」

ともすれば大傲慢ととられかねない台詞だ。彼女もそれを理解しているから、常日頃なら絶対にこんなことを口にしたりはしない。
にも関わらず今確かに言ってしまった。ということは、見えにくいだけでどうやら彼女の精神状態も大概並ではないようだ。

「ほれ、善は急げじゃ」
「あ、ちょ、待ってくださ―――ひゃあん、何処触ってるんですか!」

半ば引きずっていくような強引さで、彼女はカノンをミッションに連れ出していった。


結論から言うとミッションは成功。事前に言った通り、彼女は自分はおろかカノンにさえも傷一つ付けさせることなくヴァジュラを惨殺して帰ってきた。
が、アナグラに帰投した途端ぷつりと糸を切られたかのようにカノンは意識を喪失。鬱屈を晴らすかの如く、常時の倍近い苛烈さで目を爛々と輝かせながら戦っていたのもあり、ついに疲労が限界を振り切ったのだろう。安らかな寝顔を浮かべていた。

「よっ、と」

そんなカノンをベッドに放り込むと自室に戻り、彼女もまたその体を布団の上に投げ出す。
別に眠たいわけではない、それどころか今すぐにでも再出撃が可能なまでの体力が満ちている。

「血の巡りもようなった。思索を再開するとしようか」

さながら宣誓の如く呟いて、彼女は意識を自己の内海へと埋没させた。己が根幹を見つめ直し、最も納得できる答えを手にするために。

(わしにとって絶対に譲れぬものとは何か)

愚問。命を存続させること、これ以外に何がある。

(然らば話は簡単じゃ、アーク計画に乗ればよい)

カノンの前では言わなかったが、膨大な数の人間を犠牲にすることに対して、彼女はさしたる痛痒を感じていなかった。
元より彼女は不特定多数の誰かを守るためにゴッドイーターになったのではないのだから。ただ自分が生きるための手段、彼女にとってゴッドイーターとはそれだ。
無論、仕事に従事している内に誇りめいたものが形を成しはしたが、かといってそれと心中するだけの価値などこれっぽっちもありはしない。祖母の言葉を借りるのならば、こんなのは所詮安っぽいプライドでしかないのだから。
強きを挫き、弱きを助く―――ああ、確かにそれは人としてかくあるべき模範の一つなのだろう。彼女とてこの格言を否定する気などさらさら無い。
されど盲目的にこのフレーズを信奉して酔っ払い、強者に対して要らでもな反骨心を抱き、目を皿のようにして粗を探し、見つけるや否や例えそれがどんなに些細なことであろうと噛み付いて息の根が止まるまで離そうとしない輩は馬鹿以外の何者でもないと断じていた。
弱者と見ればそれだけで丁重に保護すべき対象のように扱うなど、更にその下、最早救いようのない痴愚。
先天的な素質のなさや欠陥などからどうしようもなく弱者の立場に堕ちねばならず、その悔しさに歯を喰いしばって耐え忍び、足らぬ身であると自覚しながらいじけることなく精一杯生きんとしている者ならば、なるほど守るに値しよう。その甲斐があるというものだ。
だがしかし、私は弱いのだと、かわいそうな人間なのだから貴様等俺に同情しろと言わんばかりの顔をして、ちょっとでも救助に駆けつけるのが遅れてかすり傷でも負おうものならまるでこちらを人非人のように扱う連中の、一体何処に守る価値がある。

(アラガミより、むしろこちらにこそ殺意が湧く)

だから彼女は、命の選別に対して別段抵抗を感じないのだ。
力ある者の責務? 知ったことか阿呆らしい。そんなものは屑の戯言、強者を理屈の上だけでもなんとか制御下に置き、己の方が上位に立っていると錯覚したがる恥知らずどもの妄想だろう。
そして上手くできていることには、世にはこうした「強いことは悪いこと」な価値観に嵌まりたがる強者が存外多いのだ。彼等の欲求とは突き詰めていけば、

「ああ、なんて俺は罪深い。こんな自分は世のため人のために奉仕せねばとても救われぬ」

と自虐の快感に耽り、もっともらしく塗り固められた大義名分を手にすること、これに尽きる。なんとまあ狂った話だろうか。

「憂慮すべきは―――ソーマ、サクヤ、アリサ。やはりこの三人に収束するか」

見ず知らずの他者などどれだけ死のうがどうでもいい。それよりも、身近にいるたった一人が失われる方が兆倍苦痛なのは人として当然の生理である。
共に学び、共に笑い共に泣き、戦場を駆け抜けた第一部隊の仲間達。彼等はアーク計画に反対し、その意図を挫かんと画策する側にまわっていた。サクヤとアリサなど既に犯罪者としてフェンリルに追われる身だ。
アーク計画に乗るというのは、すなわちこの三者を切り捨てること。その事実が彼女に最後の一線を越えさせまいと立ちはだかっていた。
特にアリサ・イリーチナ・アミエーラとは肌を重ねて互いの心を伝え合った―――何も間違ったことは言っていないはずである―――仲なのだ。どうしてこれを切り捨てられよう。

「しかし、よしんば彼等に同調しても今度はコウタの願いを砕くことになる」

彼女と同日にフェンリルへ入隊した藤木コウタは、アーク計画の全貌を知らされた際はっきりと表明した。自分はアーク計画に乗るんだ、と。
家族への愛に裏打ちされたその決断、よもや覆りなどすまい。

「どの道無傷では収められぬ、か。いや、しかしそれでも、なんとか流血を最小限に止める術はないものか」

華がなくともいい、みっともなくてもいい。なんであろうと手段は選ばぬと、考えに考えて―――。

「ある」

彼女は一つの結論に達した。

「事ここに至れば仕方が無い、無理矢理にでも気絶させてふん縛り、方舟に放り込んでしまおう」

それはまるで癇癪を起こした子供の発想。相手の思いなど一切斟酌せず、ただ我を貫くことしか念頭にない暴虐に他ならなかった。

「怨まれはするだろう。蛇蝎の如く憎まれもするだろう。しかしそれでも、喪失の痛みに比べればずっとましじゃ」

このあたりが彼女の限界なのだろう。さらりとしていない、むしろ粘着気味である。彼女も所詮女の枠を超えられなかった。
男性的発想ならばここは、流血が必至とあらばいっそ一思いに―――と相手の意思を尊重し、それを貫いたまま死なせてやろうと決意するのだろうが、彼女はもっと俗物的かつ利己的であった。早い話が、情緒に欠ける。

「それにはわしが直接彼等と対峙して、叩きのめさねばならんな」

果たしてそれができるかどうか。互いに勝手知ったる仲間が相手なのである、しかも最悪三対一。
どう考えても一筋縄ではいかないだろう。場合によっては手加減できず、殺してしまうやもしれない。

「そうなったとしても、わしのあずかり知らぬ所で死なれるよりはずっとましじゃ。そう、どこぞの馬の骨にくれてやるくらいなら、いっそこの手で……」

流石に声が悲痛であった。が、内では既に尋常ならざる覚悟が渦を巻きはじめている。

(許せなどどは口が裂けても言えん。憎悪されるのも当然じゃ。けれどそれでも、お主等の意思を陵辱し、屍を踏みしめることになろうとも、わしは先へ生かねばならんのだ)

―――何のために? 生きているものはただそれだけで素晴らしいと、世迷言を信奉しているわけではあるまい。

(決まっておる、勝つためじゃ。婆様のような勝者になることこそ、我が生涯の主題)

―――では、その勝利とは何ぞや。具体的に何を指す?

(分からぬ。わしはまだ未熟ゆえ、その実像を掴むに至っておらん。まるで霧じゃ、霧がたちこめて視界を奪っておる)

そして、なればこそと彼女は一層強く思う。

(今はがむしゃらに生きねばならぬ。生きて生きて生き抜いた果て、自己研磨の末にはきっとこの霧も晴らせよう。そう、何をおいても生きておらねば全ては始まらないのじゃ)


腹は決まった。
情感の上でも理屈の上でも、これこそ己が歩む道と太鼓判を押せる。

「決めたぞ、わしはアーク計画に―――」

乗る、と言おうとしたその刹那。彼女の全身は金縛りに襲われたかの如く硬直した。

「ぬ―――くっ、は……あっ……」

唇が、舌が、声帯が麻痺して動かせない。口から漏れるのは言葉にならぬ喘ぎだけだ。

(な、何ぞ?)

ほどなくして気がついた。何かが彼女を止めている。
よせ、よさんか。その選択は間違いだと、肩を掴んで離さない。

(馬鹿な。理はある、この上なく正確に積み上げられた理があるというのに)

なら、それの正体はさしずめ理外の理。第六感、本能に属するものであろう。はっきり言ってしまえば直感である。
いったいこれはどうしたことか。これまで彼女の生命を守るにあたって最大の貢献をなしてきた直感が、生き永らえるための決断を阻んでいる。矛盾が起きているのだ。
もし仮に直感をこそ信じるのなら、この矛盾が意味するのは、つまり―――

(見落としがあるということか? わしや榊博士はおろか、支部長ですら気付いていない致命的な陥穽が、アーク計画に)

そう考える以外になかろう。アーク計画など所詮は徒花、実の生らぬ花に過ぎないと。
科学的根拠は何も無い。なんの論拠もなしに、ただなんとなく嫌な感じがするのでこれは欠陥品だと思いますなんてふざけているにも程があろう。仮に良識のある大人が聞けば失笑するか、さもなくば激怒するに違いない。

「馬鹿も休み休み言え。シックザール支部長の下、数多の専門家が結集して築き上げたプロジェクトだぞ。一発で瓦解してしまう危険性を孕んだ穿陥に気付かないなんてはずがあるか」

とでも言って。
良識と本能が激突し、がりがり互いを削り合う。そんな混沌とした彼女の脳内に、あるイメージが光輝を纏って飛来した。

(………シオ)

どこか舌っ足らずな喋り方をする、天真爛漫なアラガミの少女。その肌のように純粋無垢な心の持ち主であるシオに、彼女も少なからずひきつけられた。
真っ白ということは、見方を変えればどんな色にでも染められるということ。とくれば俄然教育欲が湧いてくるではないか。その点、シオは非常に呑み込みの早い所謂「いい生徒」だったためなおのこと教え甲斐があった。

(幼児であったわしを拾った婆様も、あるいはこんな心境だったのやも知れぬ)

シオの頭を撫でながら、そんな風に遠い日へ思いを馳せたものだ。誰かを己が色で染め上げる愉悦―――なるほどこれはたまらない。

だが、そのシオはもういない。シックザール支部長の手の者によって奪い去られ、今頃はもうコアを摘出されてしまった後だろう。

(あの男は躊躇などすまい)

何故ならシオこそアーク計画における最大最後の鍵だから。終末捕食を起こすノヴァの核として、支部長が血眼になって追い求めたものだから。
口惜しくは、あるけども。
仇を打ってやりたいとも、思うけれど。
死者に拘泥するあまり命を喪失してしまうような行動が、彼女にはどうしでもできない。根本的にそんな形になっているのだ。

(……ん?)

と、ここで何がしかの引っかかりを覚え、彼女は一旦この思考を停止させた。

(待て、待てよ。シオのコアがノヴァのコアに、という事は―――そも、アラガミのコアとはどのような代物じゃった?)

古びた記憶を掘り返し、コウタやアリサと共に受けた榊の講義へ立ち返る。
アラガミとはカツノオエボシの如き細胞の群体であり、消化器官等の臓器は存在しない。オラクル細胞自体が捕食を行うから不要なのだ。
このオラクル細胞群の指揮、統制を行いアラガミをアラガミたる形に保っているのがコアだ。コアが残っている限り例え体を砕いても、いずれ再びそれをよすがにオラクル細胞が結集し、全く同一のアラガミが復活するあたり、コアこそアラガミの本体と言えなくもない。

「まさ、か―――!」

天啓のように、彼女の中を一つの想像が駆け巡った。

(いや、まさかそんな。いくらなんでもロマンティックに過ぎる。まるで前時代の餓鬼共が愛読した御伽噺ではないか)

ところがどうしたことやら、その御伽噺こそが真実に違いないと確信する己も確かにいるのである。

(この想像が正しければ、確かにアーク計画は失敗しよう。その気配が濃厚じゃ。博士や支部長が気付けぬのも道理、むしろ学問に秀でた者ほどこの陥穽にはまる)

最後と思っていた選択肢、だがその先にはもう一段、更なる選択が待ち構えていた。
流石にこれ以上はないだろう。これから下すものこそ、真に最終最後の決断。
現実的な土台のもと、営々と積み上げられた理を信じ貫くか。それとも直感以外に何も頼るところの無い、女子供の絵空事に飛びつくのか。

「まあ、考えるまでもないわな。自分を信じる、それ以外に何がある」

迷う事など欠片も無いと、彼女は即決してみせた。



アーク計画遂行の地、エイジス島が崩壊し、月がかつての地球のような緑あふれる星へと変貌したのはそれから数日後のことである。
この結果から、彼女がどちらを選択したのか答えはおのずと窺えよう。

「かくして人は相も変わらず穢れた大地にへばりつき、見えれども届くことなきかの楽土へ焦がれ続けるか。それもよかろう、悪くない。こうして足掻き続けておれば、いつか真っ当な手段で、なんら気兼ねすることなくそこへ行ける日が来るやもしれんしのう」

彼女が歩みを止めることはない。誰よりも泥臭く、必死で、そして臆病な生き方をこれからもずっと続けていくのだろう。
積み重ねられたアラガミの死骸。月光を浴びるその頂上で、無意識の内にそっと神機を撫でながら、彼女は静かに微笑んだ。



[30225] 第弐幕
Name: 下劣畜生◆5da806bd ID:0254b2cd
Date: 2011/12/03 10:18
光が降っていた。
蛍火を思わせる淡やかな黄金色の光が、夜の空から深々と舞い落ちていた。
その正体は分からない。後ろにいるペイラー・榊ならば何かしらの考察を打ち立てているのやもしれないが、態々それを尋ねようなどと無粋な真似をする者はこの場に一人もいなかった。
あまりに幻想的な光景を前にして、皆が皆心打たれて慄えていたのだ。
フードを外したソーマが、顔の近くを漂っていた光をつかまえ、きつく握り締める。そうすることで、いってしまった少女の残影をより強く己の中に焼き付けようとするかのように。
が、すぐ隣で行われているこの動作に、彼女は一切気付けなかった。

(美しい。―――)

頭を占めるはその一念。単一の念のみが他の一切が立ち入る隙を潰しきるなど、これまでの彼女の人生において存在せぬことであった。祖母が死んだ時ですら、ほんの僅かとはいえ冷徹に己を客観視する余地を残していたというのに。
彼女自身どうしてこれほど心に響くか分からない、魂抜かれたかの如き説明不能な圧倒的感動。これはもう、忘我の境地といっていい。
故に彼女は気付けない。自分が今していることが、一体どういう効果を生むのか。
常日頃の彼女ならば、未知の事物と遭遇した際には必ずそこに潜む危険について考慮したというのに。
愚かしくも最もせねばならぬこの時に限って、彼女はそれを怠った。

―――この感動は、自分を殺す。

ここでそれに気付いておれば、あるいは先の展開はもっと違ったものになっていただろう。
しかし現実にそうと悟ったのはずっと後で、その時にはもう取り返しのつかないまでに崩壊が進んでしまっていた。




「なんと、わしの神機にガタが?」

アーク計画の後始末にも大方けりがつき、安定した生活の戻ってきた矢先のことである。
神機整備班の楠リッカからもたらされた報告に、彼女は瞠目した。

「うん、あちこちに不具合が出ているんだけど、装甲のジョイント部分が特にね」

差し当たっての応急処置はしておいたけど、と眉根に皺を寄せてリッカは続ける。

「近々本格的なメンテナンスをしなくちゃ駄目かもしれないから、留意しておいて」
「あい分かった、委細承知したとも。しかしなんじゃな、神機とは存外脆いものなのかの。先代もおらぬわしの神機にこうまで早くガタが来るとは」
「何言ってるのさ、普通に使っていたなら短期間でこんな風にはならないよ」

じろっと、なじるような眼光が彼女を睨め付けた。

「わしの使い方に問題があると?」
「それ以外に考えようがないね。ほぼ同期のアリサやコウタには起こっていない現象だし、はっきり言って酷使のしすぎだよ、君」

そうなのである。もうベテランと呼ばれるようになって久しいというのに、彼女は未だ新人時代と変わらないオーバーワークっぷりを披露し続けているのだ。
極東支部の休暇取らず、と一部で噂になりさえしたらしい。多いときなど一日に五回も六回も出撃したと記録に残っている。
その上彼女が愛用している神機形態は「剣」なのだ。こんな持ち主にかかっては、神機の方もたまるまい。いくら丈夫に出来ていようと、悲鳴を上げるのは必然だろう。

「ツバキさんが書類片手に言ってたよ、あの馬鹿どれだけ休暇を貯めれば気が済むんだ、そのうち殴り倒してふん縛ってでも休ませてくれようか―――って」
「おお、おそろしいおそろしい。怠慢ではなく勤労を注意されようとは、なんとも面妖な話よなあ」

こんな彼女を指して、

「あいつは暴れ回るのが好きなんだ。戦闘中毒者ってやつさ」

とか、

「極度のサディストなのよ。アラガミの血飛沫や断末魔に興奮して体を火照らせるって聞いたわ」

などとまことしやかに嘯く連中もいるが、勘違いも甚だしい。
彼女はただ、己の技量と勘が鈍るのを恐れているだけなのである。戦いに悦を覚えたことなど、誓って一度もあるものか。
如何に優れたピアニストでも一日弾かねば自分が気付き、二日弾かねば周囲が気付き、三日弾かねば客が気付く。それと同様に戦の腕も、怠けていればどんどん落ちていくのでは―――と彼女は危惧していた。
ましてや相手はアラガミ、今この瞬間にも知識を貪り高みを目指して変質を繰り返している怪物ではないか。

(もたもたしておれば、一気に置いていかれる)

そう思うのが当然だ、と彼女は言うのだろう。いくら用心を重ねようともし過ぎということはないと。

「どんなにいい薬でも摂り過ぎれば毒になる。たまにはいっそ敢えて毒を飲むのが大切さ」

そんな内心を知ってか知らずか、リッカはにべもなく言いきった。

「そんなもんかのう」
「そんなもん。とにかく、自分の神機がいつ爆発するか分からない爆弾を抱えた状態ってことは忘れないで。もしちょっとでも違和感を覚えたら、すぐに撤退するんだよ」
「了解。しかし、くく、その言い方。まるで母が子に下知するかのようじゃな」
「ん、まあ、これでもそこそこ神機と付き合ってきてるからね。自然とそういう気分にもなるし、それを引きずることだってあるんじゃないかな」
(うむ、やはりいい女じゃなあこやつ)

変に照れを差し挟まないさばさばした態度は、彼女の大いに好むところであった。
そして、ああ、やんぬるかな。リッカの忠告虚しく数日後、最悪のタイミングで抱えた爆弾は作動した。

その日彼女は新種のアラガミ「ハンニバル」の討伐任務を帯びて、第一部隊の仲間達と共に嘆きの平原へと繰り出していた。
ハンニバルについては事前に様々な噂を耳にしたが、なにぶん新種なだけはっきり分かっていることは少ない。ただ、桁違いの戦闘力と生命力を兼ね備えた相手ということは朧気ながらも理解できた。

「大丈夫、このメンバーならどんなのが来たって負けやしないさ」

と、いつものように陽気な声色で放言するコウタ。

「油断は禁物ですよ、まったく」

それを諌めるアリサの声も、心なしか何処かやわらかい。少なからず彼の意見に同調するところがあったのだろう。

「………」

ソーマが無言なのは毎度のことである。
が、今日に限ってはもうひとり、どうしたことやら彼女までもが口を噤んで黙然と歩を進めていた。

「リーダー?」

その態度に不審を抱いたアリサが、そっと彼女に呼びかける。

「―――。ん、ああ。どうかしたかの、アリサ」
「それはこちらのセリフですよ。心ここにあらずって風でしたけど、どうかしましたか」
「ちくと考え事をしておった。思えば長い付き合いになるというのに、こやつへの気遣いが欠けていたとな」

こつ、こつと神機を叩きながら言う。事情を知るアリサはそれだけで、ああ、と合点した表情になった。

(とっさについたにしては上出来だったのう)

ところがどっこい、口に出したのは真っ赤な嘘。真実は別にある。

(―――おる。まいったな、よもやこれはどまでとは思わなんだ。過去に打破した如何なるアラガミよりも、剣呑かつ凶悪な輩がこの先に待ち構えておるわ)

彼女は緊張していたのだ。研ぎ澄まされた直感の為せるわざか、まだ姿を見せてもいない敵手の気配を察知して。
直接対峙していないにも拘わらず、肌が粟立ち鼓動が早まる。まるで新兵の頃、初めてヴァジュラと相対したときの焼き直しだ。

「リッカさんにも言われたでしょうけど、違和感を覚えたらすぐに退いてくださいね。神機の代わりはあってもあなたの代わりはいないんですから」
「嬉しい事を言ってくれる。然らば頼りにさせてもらおうか、お主らが気張ってくれればわしの出番も少のうて済むというもの」
「ふん」
「任せてよリーダー、上達した俺の腕前、見せてやるって」

硬くなり過ぎず、さりとて気抜けしたというわけでもなく。丁度いい具合に気力が充実したのを感じ、彼女もまた丹田に力を籠める。

(おそらく、そう易々とはいかんじゃろうが)

それを口に出すことはしなかった。部隊の頭の恐れというものは、単に一個人の感情ではない。
それは付き従う者総ての心に染み渡り、士気を著しく下げることになってしまう。どれほど大規模であれ小規模であれ、集団の大将たる者は常に泰然自若と構えておらねばならぬのだ。

「ほおう―――」

と、そう自認していた彼女であったが、いざ討ち果たすべき大敵を目にした瞬間、不覚にも感嘆の吐息が漏れるのをどうしようもなかった。
通常、アラガミというものは何かしら既存の生物を思わせる造形をとるものだ。ヴァジュラならば猫科、ボルグ・カムランならば蠍、シユウならば鳥、といった具合に。
しかし、このハンニバルは違う。
形の上でも全く新たな生物としての地平を開いており、その上恐るべき精度で完成している。
暴虐と破壊を体現したかの如きその姿からは造形上なんの欠点も見受けられない。他者を殺傷するというただ一念を以って作製された刀剣や銃器に通じる美々しさを、このアラガミは確かに備えていた。
これが真龍、ハンニバル。紛れもなく今現在のアラガミの頂点に君臨せしモノ。

(二十年か三十年ぽっちでよくもまあ、これほどまでに進化したものじゃ)

なんとおそるべき成長速度であることか、と改めて舌を巻かずにはいられない。
かくして熾烈極まりない闘争が幕を開けた。

「ほれ、いつまで寝ておる、早う起きんか。格好いいところを見せてくれるのではなかったのかえ」
「うう、ごめんリーダー、助かった」

歴戦の古強者たる第一部隊の面々が、リンクエイドを多用せねばならなくなるまで追い込まれている。これはなにも、ハンニバルが特別変わった性質だの何だのを有していたからではない。

「ぐっ……!」

尾による薙ぎ払いを装甲で防御したソーマが、間一髪で射程外に逃れていた彼女よりも更に後ろへはじき飛ばされる。速度、威力、範囲。どれをとってもボルグ・カムランのそれを大きく上回る一撃であった。

「まったく、怪物じゃな」

巨体に似合わぬ俊敏さで一息の内に距離を詰めたハンニバルの拳を、半身になって再びかわす。ものすごい音を響かせて大地が陥没する非現実的な光景を、彼女は間近で見せつけられることとなった。
そう、このアラガミは純粋に強い。
攻撃手段は直接的な拳打に炎と、今まで出会ったアラガミ共と似通ったものばかりだが、その威力が単純に図抜けているのだ。
小細工など要らぬ、絶対的な力を以って押し通るのみというのは大抵のアラガミに共通した特徴だが、こいつほどそれが顕著な奴はいまい。両の手に握られた獄炎の剣、あれを振り回すだけでほとんどのアラガミもゴッドイーターも死ぬであろう。
なるほどこんな化け物が相手では、如何に精強を誇る第一部隊をもってしても苦戦するのは道理だ。

「っ、馬鹿力め。あまり装甲に負担をかけたくないんじゃがな」

が、そんな中でも彼女だけは相も変わらず毫もぶれない。
流石にハンニバルの猛攻ともなるとかわしきるのは至難らしく、装甲を多用させられてはいるものの、直撃打を浴びていない事実に変わりはない。
個々の命など吹けば軽く飛んでしまうかのような苛烈極まりない戦場で、こうも揺るぎないものがあるのは無条件で頼もしい。大丈夫、まだ大丈夫、きっとやれるはずだと見る者達に安堵と力を与えてくれる。
これをみるに、なるほど確かに彼女は一隊を率いる頭として相応しい資質を有しているのだろう。
先代支部長の含むところありきな人事だったとはいえ、その選択自体に誤りはなかったということか。

「渡します、決めてください!」
「おお、任せえ。みなぎるわい!」

故にこの結末はある意味当然。彼女が健在である限り、第一部隊の敗北など有り得ないのだから。
リンクバーストにより極限まで高められた身体能力。それを以って、剣形態の神機をハンニバルの胸に突き立てる。深く深く、柄まで埋もれと言わんばかりに執拗に。
さんざん削られた挙句、こんなものを喰らってはたまらない。さしものハンニバルも断末魔の絶叫を上げ、その身を地面に叩きつけるしかなかった。
誰が見ても分かる、死闘はこれで決着したと。
だいぶ梃子摺ったとはいえ誰一人欠けることなく任務を遂行できたのだ、大成功だろう。
そう、そのはずだし仲間達も同様に考えている証拠に、肩の力を抜いて倒した獲物に群がっている。あの用心深いソーマまでもが、だ。どう勘繰っても不安要素など見受けられないのだが………。

(なんじゃ、これは?)

ほんの僅か、一抹の不安がこびりついてなくならない。まるで魚の小骨が喉に引っかかったかのようだ。
ささいな傷であるにも拘わらず、もたらす不快感が甚大なところなど特に似通っている。

「……レアものだな」

疑念が動きを止めている彼女に代わり、コアを摘出したソーマが言う。コウタなどはその隣で、興味深げに神機の先でハンニバルの死骸を突っついていた。

「いやー、強敵だったねえ。でもまあ、初めての相手にしちゃ上出来でしょ」
「お主ァ餓鬼か」
「余計なことしてないで、さっさと帰還しますよ」
「同感だ……」
「ひどっ!」

と、露骨に傷ついたリアクションをかますコウタ。

「最後まで気を抜くでないぞ、予期せぬ奇襲があるやもしれんからの」

彼女はこの予感をその程度のものと考えていた。どこか死角から、弛緩した空気を狙って木っ端アラガミが仕掛けて来るのではないか、と。
つまり彼女の想像力も所詮その程度だったということだ。せっかく類稀なる超直感を備えていながら、生かしきることができなかった。
その代償は、すぐさま支払われることになる。

「ちょっと待ってよー、せっかくの新種なんだしさー……」

むくれたようにぶつぶつ言うコウタの声を背中に受け、一歩踏み出した瞬間。
彼女の中の不吉な予感が、その体積を数百倍にまで膨張させた。

「―――!」

あまりのことに思考が凍る。裏腹に、体の方は例によって例の如く勝手に駆動し始めていた。
身を翻した先で飛び込んできたのは、確かに息の根を止めたはずのハンニバルが、燃え盛る火柱の中から憤怒の瞳でこちらを見据えているというありえない光景。

「―――!? コウタ、後ろ!」

若干遅れて気付いたアリサが、悲鳴染みた叫びを上げる。

「何!?」

珍しいことに、ソーマまでもが驚愕の声を上げる。その時にはもう、彼女の肉体は次の動作へ移行していた。
問題はここにこそある。この場における真の以上はここから始まると言っても過言ではない、本来絶対に起こり得ないはずの現象がここから始まるのだ。
景色が帯となって後方へ流れていくのを見て、彼女は己が何をしようとしているのか理解した。

(なるほど、割り込もうというんじゃな)

実際、そうする他にないだろう。
コウタは事態の変転について行けず、身を竦ませて叫ぶことしかできない。
そんな彼に向かって、既にハンニバルは弓を引き絞るように拳を振り上げてしまっている。こうなってしまっては、手持ちの如何なる攻撃手段を用いてもその運動を止めるのは不可能だ。悲しいかな、どうしようもなく火力が足らな過ぎる。間違いなくそれがどうした何の関係もないわとばかりに破壊鎚は振り下ろされ、コウタは骨と肉とが混ざり合ったよく分からない赤黒い物体と化す。
かと言って、首根っこをひっ掴んで退避するのも駄目。彼女ひとりならば兎も角、コウタの面倒まで見ねばならぬとあっては遅きに過ぎよう。ハンニバルからすれば、虫がちょっと位置を変えたという程度の差異しかもたらせまい。結果として、赤黒い物体の体積が倍になるだけのことである。
これでは何がなにやら分からない。まるで死ぬために飛び出してきたようなものだ。
となると、とるべき行動は自ずと限られてくる。コウタとハンニバルの間に割り込み、その攻撃を変わりに防御する―――この一択に。

(じゃが、間に合うか?)

ふっと脳裏に浮かんだ弱気な思考を、すぐさま乱雑に振り払う。

(間に合うか、ではない。何としてでも間に合わせねばならぬ)

勇ましい台詞だ。こんなこと、普段の彼女ならば決して夢にも思うまい。
この一事をとってみても、彼女の精神に何か容易ならぬ変調が起きているのが分かる。
第一、彼女がいつも通りの彼女だったならばこんな行動に走るはずがないではないか。始まりからして狂っている。そのせいで、後に付随する諸々までもが逐一おかしなことになっているのだ。
いや、彼女とて成算を度外視して身命を賭した行動に出ることはある。しかしそれはあくまで自分のため、そうしなくては未来がない、生きるための必須条件と判断したが故の結果である。
反対に、他者を救うために一切合財全てを賭けて暴発するなど天地がひっくり返ってもしないのが彼女という人間だ。
他者に回すのはあくまで余力、己が力は己のためにこそ使う。それが道理というものだろう。
大体、他者を救うと言えば聞こえはいいが、それにはまず自分の立つ足場がしっかり構築されておらねば話にならぬではないか。これを怠り分不相応にも溺れる者を救おうとしても、足場が重きに耐えられず崩落し、諸共に死ぬのが定めである。
そうした条理を当然のものとして認識している彼女が、今対極に位置するはずの行動に打って出、しかも何の疑念も抱いていない。
外れている。いや、崩壊していると言った方が理解は早いか。
自分が出血していて、しかもそれが間もなくのっぴきならない量に到達すると欠片も気付くことなきままに、彼女は泥を跳ね上げ跳躍する。
果たして狙い過たず目的の場所へ着地したのと、ハンニバルが暴力を開放したのはほぼ同時。が、それでも彼女は、

(間に合う)

と確信していた。理由は、本日彼女が装備してきた装甲の種類にある。

(三種中、最も展開に要する時間が短うて済むバックラーを選んだのが思いもよらぬ幸運じゃったな)

その分防御面積は少ないのだが、そこは技量でカバーするという寸法だ。
間一髪、展開し終えた装甲に阻まれハンニバルの拳打は空しくも徒労に終わる―――

「―――っ!」

はず、だった。
今まで味わったことのない、何とも形容し難き嫌な感触に息を呑む。頭の天辺から爪先まで、稲妻のように戦慄が駆け抜けた。
彼女の神機を中心として毒々しい波紋が空中に広まり、そして―――

「あ」

彼女は、破滅の音を聞いた。
後々判明したことであるが、これは神機のコアの制御機能そのものに破損が起きたことによって発生した現象らしい。必然として、装甲もまた十全に用を為さなくなり。

「おのれぇ―――」

拳本体の直撃だけはまぬがれたとはいえ、そんなものは何の慰みにもならない。威力は大半が生きたままなのだ。
許容範囲を遥かに超えた痛みが全身を蹂躙すると、かえって何も感じなくなり、やがてじわじわと熱がせり上がって来るのだと彼女は今初めて知った。

「抜かったわ」

自嘲と諦観が入り混じった、この場には不釣合いなほど穏やかな声。それを最後に、彼女の意識は断絶した。

「リーダー!」

興味を失った子供が投げる人形のように勢いよく宙を舞い、二度三度地面でバウンドした彼女の体。
その一部始終を見ていたアリサが金切り声を上げた。
あれは駄目だ、まったく、これっぽっちも受身を取れていない。おそらくは空中に吹き飛ばされた時点で意識を喪失していたのだろう、ああ、本当になんということであろうか。

「どういうことだ……コアは確かに摘出したはずだ」

不可解であった。
コアを抜かれたアラガミはそれで終わり。甦りの目など完全に潰され、やがて崩れ去るのを待つばかりとなるはずである。
この原則からはどんなアラガミも逃れられない。あのシオですらそこは同様だった。
ところが眼前のアラガミ、ハンニバルはそんな条理をせせら笑うかのようにこうして健在ではないか。これは今までの常識を根底から覆しかねない、驚天動地の異常事態であった。

「考えるのは後にしましょう。コウタ、リーダーのフォロー…いえ、やはり私がフォローに回るので、援護お願いします」

途中で言葉を変えたのは、自分の方がむしろ彼女の近くにいることと、曲がりなりにも彼女がうら若き乙女と呼ばれる存在であると思い出したからである。
鉄火場で何を阿呆なことを抜かしてやがると思われるやもしれないが、想定外の事態が立て続けに起こってアリサも動転していたのだ、仕方あるまい。
駆け寄ると、ぐったり垂れた腕を自分の肩に回させ、彼女の体を持ち上げる。

(軽い。―――)

そのあまりの重量感のなさに、アリサは頬桁をひっぱたかれたような、意味不明という顔をした。馬鹿な話だが、これは何かの間違いだとさえ思った。
これが、こんなものがどんなに押してもびくともしない、彼女がおらねば現場が回らぬとまで言わしめた極東支部の大柱石たる女の体なのか。
話が違うぞ、小さすぎるし軽すぎる。これではまるで、どこにでもいる年端もいかない少女ではないか―――。

(あれ、そういえばリーダー、私よりも年下だったような)

老練な雰囲気と特異な口調のせいでほとんどの者が忘れているが、実のところ現在の極東支部最年少ゴッドイーターは彼女なのだ。二位とは半年にも満たぬ僅差であるが、その事実に変わりはない。
そのことを、今更ながらアリサは確と実感した。

「全員撤退だ、急ぐぞ!」

焦りの滲むソーマの声に、はっと我に返るアリサ。
先の一戦で刻み込まれた傷がまだ塞がりきっていないせいか、例の一撃以来怨嗟に満ちた唸り声を上げるばかりのハンニバルだが、逆襲に転じるのは時間の問題だろう。呆けている時間など一瞬たりとてありはしない。
かくして第一部隊は、決して許さぬ必ずや見付け出して鏖殺してやるといわんばかりの暴君の咆哮を背に浴びながら、久方振りの苦い遁走を味わうことになった。



彼女が目を覚ましたとき、周囲の状況は一変していた。

「……ぬ、む」

体を動かすと、肩から胸のあたりにかけてずきん、と鈍い痛みが走る。
微かに鼻をつく消毒液の香りと、自分の部屋とどっこいな殺風景さが、今いる場所は医務室であると教えてくれた。

(そうか、撤退したんじゃな)

手早く現状を認識しながら、痛みをこらえて上体を起こす。

「あ、よかった。目が覚めたんですね」

その挙動にすぐそばの椅子に座っていたアリサと、

「…ん、フン。生きてたか」

反対側のベッドのふちに、腕を組んで腰掛けていたソーマが反応する。

「うむ、手間をかけたの。……こやつも健常そうでなによりじゃ」

と、彼女のベッドに突っ伏していびきをかくコウタへ視線を落とし、言う。
身を挺してまで守った相手が甲斐なく死んでいたとあっては、なるほど何のために傷を負ったかさっぱり分からない。

「おい」

そんな彼女に対し、若干眼光鋭くしながらソーマは言った。

「部下のために体を張るのはいいが、前の隊長の二の舞だけはやめろよ」

それだけ言うと、もうやるべきことはやったとばかりに退出する。大分ましになったとはいえ、人付き合いが下手なのは相変わらずのようだ。

(わしらはいいが、不快に思う者も多かろう。まあ、だからと言って愛嬌振り撒くソーマというのも、不気味なことこの上ないが)

想像してみて、あまりの違和感にぞっとした。人というものはそう易々と変われるものではないし、変わってくれても色々困る。
周囲の者はあまりの差異に、誰か別の人間がそいつの皮を被っているとしか思わないだろう。

(………ん?)

なんだろうか、浮かべて三秒で忘れてもおかしくない他愛なき思考が妙に引っかかる。
まるでお前がそれを言うのか、天に向かって唾するようなものではないかと笑われている気がして………

「本当に、無事でよかった……。あ、ちょっと待ってくださいね」

奇妙な感覚が明瞭な像を結ぼうとした直前、横合いからかけられたアリサの声に彼女の意識は向いてしまう。
慌てて戻したときにはもう遅く、雲散霧消しきって何を考えていたのかすら思い出せなくなってしまっていた。

(ま、大したことではなかろう)

そう考え、アリサに頭を叩かれて夢から醒めたコウタと二言三言ことばを交わす。

「ごめんな、俺の不注意のせいで。神機、壊れちゃったんだろ?」
「ああ、やはりいってしまっておったか。容態はどうなんじゃ、再起は可能か?」
「ええ、直ることは直るんですけど、コアの制御機能にまで破損が生じたから暫く時間がかかるって………」
「それは重畳。いや、本当に何よりだとも」

いくら時間がかかろうとも、再び己の手の内へ納まってくれるのならば問題はない。最悪の事態にまでは至らずに済んだ、それだけでもう十二分にめでたかりしことよと彼女は言う。
むろん、彼女お得意の自己暗示だ。いったい何度こうして負の方向へ流れそうになる思考を矯正したか知れない。

「だから、なあ。そんなに悲愴な顔をするなよコウタ、男が廃るぞ。加えて言うなら、仮にも男子たる者が、ああも簡単に頭を下げちゃならん。もっとその重みを自覚しろ」

彼女にしてみれば、男ならばこうした場合はただ一言、
―――借りができたな
とでも言い捨てておけばよいのである。謝辞など述べたところで何になる、それよか黙って背中で語れ。
不言実行こそが男のあるべき姿であろうがよ、というこの価値観。
古い。
と言う以外にない。
古い人間に育てられた影響なのか、一世紀近くも前の化石を引っ張り出している。もし口外したらば、アリサあたりが即座に、

「それはない」

と処断することであろう。
埃を被ってかびくさく、最早ほとんどの人に見向きもされないそれを、彼女だけが至高の輝きと信じて疑っていない。
現実家に見えて、変なところでお花畑だ。

「リーダー……うん、分かったよ。あ、じゃさ、今度バガラリー全巻持ってくるよ。それくらいの詫びはさせてくれるよね」

案の定、コウタは彼女の真意をやや曲解していた。
とはいえ、沈みがちだった雰囲気を解消するという大元の目的は果たせたのだから彼女の中に不満はない。

「個人的には美味いめしでも奢ってもらった方が嬉しいんじゃがの」

放送による招集がかかるまで、しばし雑談に興じる三人であった。


「それじゃ、私達はもう行きますね。くれぐれもじっとしていてくださいよ」
「そうそう、たまにはリーダーもゆっくり骨休めするべきだって」
「分かっておるさ、どだい今のわしにできることは無いしの。久方ぶりの休暇、存分に堪能する所存じゃ。お主らこそ、油断せずしっかり励んでくるんじゃぞ」

と、この時は大して気にすることなく対応したものの、数日明けて退院してみると、会う者会う者皆が口を揃えて同じことを言ってくるので、さしもの彼女も閉口した。

(いったいわしを何だと思っとるんじゃ、鉄砲玉かロケット花火か)

放っておけば何処かへ吹っ飛んでいってしまいそうな危うさが、彼女にはあると思われているらしい。

「ん、お前か。どうしたこんな所で、神機を使えん今の貴様にできることは何も無いぞ」
「貴方までもがそれを言いまするか、教官殿」

いい加減げんなりした、と言わんばかりの表情だった。背景を知らないツバキには、むろん何のことやら分からない。

「ああ、そういうことか。どうやら随分と説諭された後のようだな」

が、しかしそこは雨宮ツバキ。彼女の表情からおおまかなことは察したようだ。

「ええ、事務員を始めとして整備班に至り、果ては清掃の女性にまで。大人しくひっこんでおれと、そうした趣旨のことを」
「普段の行いの結果だ、甘んじて受け入れろよ」
「これはまた手厳しい」

妙ちくりんな言葉遣いなことに変わりはないが、彼女が今喋っているのは明らかに敬語である。
彼女は決して無頼漢ではない、目上の者にはそれに相応しい態度で接せる。むしろそうした節義には常人よりも厳格な点、ツバキは彼女を気に入っていた。

「で、こんな場所で何をやっているんだ? せっかくの休暇に来る所ではないだろう」

アナグラのエントランスである。
一応ソファーや何やらが設置されているが、基本的にはミッションの受注ないし出撃準備をする場所だ。仕事から解き放たれた者がくつろぐには適すまい。

「こう、いざ休暇になってみると、何をしたものやらと途方に暮れてしまいまして」

年頃の少女が口にすべき言葉ではない。

「お前………」

哀れなものを見る目であった。
鬼教官と聞こえ高いツバキがこんな目をするなど、尋常一様なことではない。

「無趣味な奴とは思っていたが、まさかここまでとは」
「耳が痛い。そこで所在無くアナグラの中をうろついていた次第にござりまするが、どうしたことか、やけに人が少ないですな。ゴッドイーターに至っては未だ一人も見ていない」
「それはそうだ、現在極東支部の総力を挙げてハンニバル捕喰作戦を遂行中だからな」
「ほう、それは―――随分とあやつを重く見ておられるようだ」
「当然だろう、何の対策も事態の究明も為せていないにも拘わらず、奴の特性が他のアラガミにまで伝播してみろ。我々はたちまち窮地に追い込まれる」

故に急務だ、とツバキは語る。
なるほどそんなことが万一にでも現実化すれば、長きに渡った生存競争にけりが着く恐れもほの見えて来よう。勿論人類にとって好ましからぬ形で、だ。

(アナグラを空にするリスクを犯す価値はある、ということか)

と、彼女は合点する。

(これでアナグラが奇襲されでもしたら、そりゃもう笑い話じゃろ。タイミング悪いったらないわ)

アラガミがこうした内部事情を知る術などないし、また理解するだけの頭もない。にも拘わらずこの夢かと見紛うばかりの隙を逃さず奇襲してくるとすれば、それは偏に運によるものだ。
彼女が笑い話と見なすのも致し方なかろう、そんな悪魔染みた偶然は滅多に起こるものではない。

「得心いたした。しかし、そうするとどうしたものかな」

彼女は再び余暇をどう消費したものか頭を悩ませねばならなくなった。

「嘆かわしい。お前くらいの年齢ならば普通、服に化粧にと色々興味が盛んだろうに」
「アリサがそのあたり典型的ですな。あの娘の部屋、ご覧になられたことがおありか」
「一度な。ひどいものだったが、まさか未だあのままなのか」
「それはもう。服など必要最低限でよかろうに、と口を滑らせたところ、もの凄い剣幕の力説を喰らい申した」

二人の部屋はある意味対照的といっていいだろう。
アリサの部屋はそこら中一面に服やら化粧品やらが散乱していて、外見からはちょっと想像できない惨状を呈している。
反対に、彼女の部屋には何もない。
今日から別の誰かが入っても問題無いであろう、宿泊施設の如き簡潔さを保っているのだ。
これは何も彼女が几帳面な性格だから、ではなく、単に散らかすほどの私物がないことに起因している。
服はフェンリル入隊時に支給されたものを未だに着ているし、寝る時は大抵下着一丁だからパジャマも必要ない。
その下着も、彼女らしくなんの飾りもデザイン性もない簡素なものだ。上に至ってはサラシで済ませている始末。
こんなざまだから、化粧など産まれてこのかた一度もしたことがない。肌の手入れも同様だ、精々身を売る直前に、いつもより入念に顔を洗った程度である。

(女として終わっているのではないか)

ツバキもそうしたことにはあまり気を遣わない人種だが、それにしてもここまで極まってはいない。

「もう少し自分の容姿を保つ努力をしろよ、若い内はよくとも後々悔やむことになるぞ」
「人の価値は顔などで決まるものではありますまい」
「お前らしくもない台詞だな、それは理想論というものだ。残念なことに、六・七割は見た目で決められてしまうのが現実だ」
「世知辛い話ですなあ。クリームとか化粧水とか、あの手のものが肌につくとこう、理屈抜きの不快感にぞっとせやしませぬか」
「我慢しろ、腕輪の時を思えば楽なものだろう。それにこれでも大分ましになったのだぞ。一昔前には人は見た目が九割などと、ふざけた標語が平然と罷り通っていたそうだ」

言いながら、ツバキは彼女の容姿をざっと眺め直してみる。
決して不細工ではない。かといって、アリサやサクヤのように、異性がはっと息を呑まずにはいられないような女性的魅力に満ち溢れているわけではない。
なんと言うか、素朴なのだ。さしずめ田舎娘と都会っ娘の違いか。

「まったく、どうしてこう両極端なのか。お前とアリサ、足して二で割れば丁度よく釣り合いの取れた奴ができあがりそうだな」
「善処しましょう。さみしい人間と思われたままでは、いくらなんでも具合が悪い」


彼女と違い、ツバキの方はいつまでも手が空いているわけではない。榊支部長と検討すべき案件があるとのことで、エレベーターの向こうへ消えていった。
それを見送ると、しばし思案した後、一旦部屋に戻ろうと彼女もエレベーターを使おうとする。が、

(待てよ、思い返せば先の出撃、だいぶ物資を消費したな)

よろず屋はすぐそこである。

(丁度いい、この機に補給しておこう。先送りにして忘れてしまっては洒落にもならん)

何気なく下したこの判断が、結果的に彼女の命運を分けた。
かつん、こつんと硬質な音を立てて短い階段を下りていると、視界が赤一色に覆われた。
とっさに返り血でも浴びたかと思ったがそうではない。間を置かずして、神経をそばだてるサイレンの音がアナグラ中に響き渡る。

「第二訓練場に小型アラガミ侵入! 繰り返す、第二訓練場に小型のアラガミの侵入を確認! ……」
(うそだろう)

つい今がした笑い話と切り捨てたことが現実に起こっている。にわかに信じられぬのも無理はあるまい、まったくなんという間の悪さだろうか。

(余程普段の行いが悪い輩がいたのかのう。そうでもなくば、とても説明がつかんぞ)

間抜けなまでにのんびりした思考の裏で、彼女はアナグラの地図を想起する。知りたいのは第二訓練場の位置と、それに隣接するブロックだった。

「神機格納庫か」

答えが口から弾き出た。
主に所有者を亡くした神機が保管される、そんな場所がアラガミによって荒らされる―――その事実に、彼女は軽く舌を打つ。
神機とゴッドイーターは一心同体だが、一蓮托生というわけではない。ゴッドイーターにとって神機は生涯ただひとつなれど、神機にとっては必ずしもそうと限ったものではない。ある程度、替えが効く。
実際、藤木コウタの使用している旧型遠距離式神機「モウスィブロウ」は、かつて雨宮ツバキが現役だった頃愛用していたものに改造を重ねた姿である。
このため、例えゴッドイーターが死してもその神機はぬかりなく回収され、新たな適合者の現われを静かに待つことになる。その場所が神機格納庫というわけだ。

(既に隔壁は下りていようが、出払っているゴッドイーターが戻ってくるまでとなると―――不可能じゃな、まず耐えられん。ああ、なんと勿体ない)

潜在的な戦力がこんなつまらないことでつまらない相手により一挙に失われようとしている。彼女は口惜しさに歯噛みした。
そこで、ふと気がついた。

(これしきの因果、アナグラの内部構造をおぼろげにでも把握しておればすぐに辿り着ける)

そして、楠リッカ。
神機に対する思い入れと理解の深さたるや海の如きあの少女が、むざむざそんなことを許すだろうか。指をくわえて傍観するをよしとするだろうか。

(否であろうよ、あの娘に限ってそれはない)

確信をもって言い切れる。
おそらくは、既に何らかの対策を施すべく現場に向かっているのだろう。身の危険も顧みず、為すべきことを為そうとしている。

「くっ、ふふ、よいではないか。いや実に結構だとも面白い」

奇妙な興奮があった。
胸の奥から湧き出して、ふつふつと肌を粟立たせるこの感覚。もしも彼女に飲酒の経験があったなら、すぐに正体を掴めたろう。
これは紛れもなく、酩酊感と呼ぶべきものだ。
衝動に突き動かされるまま、彼女は飛ぶように駆けた。今再び、彼女は常の軌跡から外れ始める。


「何しに来たの? 君の神機なら…まだ使えないよ。戦えないなら、戦場に出ちゃ駄目だよ」
「人のことを言えるのか。大の男達ですらとうに退避しきったにも関わらず、こんな場所に独り残ったお主に」

彼女が神機格納庫に辿り着くと、そこでは予想通りの場景が展開されていた。
機具に固定された数々の神機は、さながら見本市の如し。リッカはそんな部屋の端、こともあろうに隔壁近くに設置された端末をせわしなくたたき続けていた。

「私も神機のロックが終わったらすぐに逃げるつもりだよ。何を考えているのか知らないけど、そのときになったら君も一緒に退避すること」
「異論はない。じゃがしかし、果たして無事にそのときとやらを迎えることができるかな」
「できるように今こうして尽力してるんじゃない。気が散る、ちょっと黙ってて」

了解、と言う代わりに彼女は小さく両手を挙げる。リッカのタンカに心地好いものを感じながら、それが成就することはあるまいと見なしていた。
何故なら、彼女の勘は今すぐ逃げねば間に合わぬと告げている。ところが神機のロックとやらは、今やっと端の二つが始まったばかりだ。
その速度も、いかんせんどうしようもなく遅い。常日頃ならば何の問題もあるまいが、この非常事態においてはもどかしいことこの上なき、身を焦がす遅行以外の何物でもなかった。

(やはり、やらねばならんかな)

唇を湿らせ、足早にリッカの元へ近付く。予感はとっくに悪寒に変わっていた。

「お主の言うことは正しい。神機を持たぬ身でありながらアラガミを倒そうなどと、狂気の沙汰じゃ」

だがな、と意味有りげに口の端を吊り上げると、

「それ以外ならばやりようはある。鬼札を失おうと、手札が零になったわけではないんじゃから」
「え―――きゃあ!?」

彼女の手が体に触れる。次の瞬間、リッカは虚空を飛んでいる己を発見した。

(投げられた―――)

理解の早いことである。
かくも巨大な神機を棒切れのように振るい、悠々と二段ジャンプまでこなしてみせるゴッドイーターだ。その膂力をもってすれば、人間いっぴき投げ飛ばすなどお茶の子さいさいというものだろう。
どさっ、とリッカの体はエレベーターの側、隔壁とは反対側のところに落ちた。

「あいたっ―――」

できる限り軽く低く投げられたとはいえ、やはり相当に痛い。アザくらいにはなっていよう。

「恨み言は後で存分に聞かせてもらおう。それより今は、ちょいと目と耳を塞いでじっとしておれ」

悪びれた気配もなく鷹揚に笑う彼女の背後で、轟音と共に隔壁が吹き飛んだ。
もうもうと立ちこめる粉塵の向こうで、ようやく見付けた美味そうな餌だ、いざ貪り喰わんとヴァジュラテイルが気炎を上げる。

(どっこい、貴様には何も喰わせんよ)

電光石火、目にもとまらぬ素早さで身を翻すと、彼女はピンを抜いた閃光手榴弾を指から離した。
柔らかな放物線を描き、それはヴァジュラテイルの丁度鼻先で炸裂する。
これが彼女の言う「手札」が一枚であった。殺傷能力は皆無だが、動きをいくらか止められはする。特にこの手の小型アラガミに対しては効果覿面なのだ。

(要は時間を稼げばいいんじゃ)

元より彼女に自らの手でこのアラガミを倒す心算など毛頭ない。それは今頃大急ぎでこちらに引き返しているはずの他のゴッドイーターの役目と心得ていた。
故に重要なのはなるたけ被害を抑えること。物的被害にはある程度目を瞑るもやむなしとして、人的被害は決して出させぬ所存であった。
楠リッカを殺させない。それがこの場における、達成すべき任務である。
よって彼女はヴァジュラテイルが怯んでいるこの隙に、リッカと共に少しでも遠くへ逃げ去りたかった。復活したヴァジュラテイルが追って来ても、通路に設置された隔壁と手持ちの物資を駆使すれば十分対処は可能だろう。
酔っ払った頭でありながらここまで考えられるあたり、やはり彼女は並ではない。が、悲しいかな。

「なっ―――」

彼女の目算は閃光を浴びたヴァジュラテイルが身を竦ませるのではなく、反射的に尾で周囲のものを薙ぎ払うという、そんなセオリーを無視した行動に出たことで一秒にして空中楼閣と化した。
あわてて後ろに下がろうにも、既に遅し。これは無理だ、物理的に避けられないと奇妙に引き延ばされた時の中で理解した。

「―――かあ、はっ」

腹部を突き抜けた衝撃に、内臓が悲鳴を上げている。
とっさに後方へ跳んだことでいくらかダメージは軽減されたが、代償として彼女の身体は大きく弾き飛ばされ宙を舞った。

(ああ、なんじゃろうか。既知感じゃのう、つい先日もこんなことがあったような)

相変わらず時は引き延ばされたままである。その中で、彼女は激痛堪えながら着地体制を整えつつ、腸が煮えくり返るような思いを味わっていた。

(暗愚かわしは、失敗から何も学ばなかったのか。固定観念にべったり甘えて、少しでもそこから外れられれば途端にこれか)

赫怒と屈辱が身を包む。リッカにあれほど横柄な態度をとっておきながらこれでは、格好かつかないことこの上ない。いったいどの面下げて詫びればいいのか。

(あな情けなや、恥を知れ。大和男子ならば腹を切ってもおかしくない、それほどまでの失態じゃ。まったく何をやっているんじゃ、わし、は―――)

ありとあらゆる語彙を探って、己の迂闊さを罵倒する最中。

(―――あ?)

計らずしも、とうとう彼女は己が変調を自覚する一語を引き当てた。

(待て、なんじゃこれは、この状況は。なしてわしはこんなところで、こんな真似をしている)

激情が潮のようにひく。ありとあらゆる酔いが、脳細胞から除去された。

(時間を稼ぐ? 果たすべき任務? 何を馬鹿な、アーク計画に乗るか否か迷った際、一度は切り捨てると決意した女のために、何故今になって命を賭す)

アーク計画に乗るとはそういうこと。コウタが家族と対話して漸く気付いた現実を、彼女は最初から揺るぎなく心得ていた。
だが、これを以ってコウタを愚鈍と責めるのはあまりにも酷だろう。彼女の思慮の届き方が異常なだけであって、これくらいの年代ならばむしろコウタの方こそ正常である。
とは言え、人の心はうつろうものだ。
あれから暫くして、リッカもまた第一部隊の衆達と同位の領域に上がってきたと考えられなくもない。

(ここはひとまずそうと仮定しておこう。しかし、ならばここにやってきた際、いの一番に有無を言わせる暇もなく、リッカを気絶させてでも退避しておらねば理にあわぬ。アラガミと対面するなどという危険を犯すわけがない)

彼女にはそういうところがある。愛しい者に危機が迫れば、例えその意思を強姦し誇りを陵辱してでも命の保全を図ろうとする傲慢さが。
が、今回彼女はそれをしなかった。あくまで限界ぎりぎりまでリッカの意思を通させて、どうにもならぬところまでいかねば動かないという傍観ぶり。
違う、違う。こんなものは断じて彼女ではない。
本能が最大級の警告を鳴らしているにも関わらず、阿呆面下げて他人の仕事を見学するなど彼女であろうはずがない。

(どういうことじゃ、これは。誰じゃ、あやつは。知らぬ誰かがわしの皮を被って動いておる)

一連の動きを鑑みるに、そうとしか思えないのだ。
顔も、声も、仕草でさえも同一なのに、されど中身が全く違う。余りの不快感に彼女は卒倒しかけた。
そして、それゆえにもう一つ不慮の事態が発生する。さながら悪夢の連鎖反応、地獄へ直結する穴をどこどこまでも転げ落ちるかのようだ。
右手が動き、指先が何か硬質なものに触れる。着地はもうすぐだ、されど体勢は不完全。
倒れるのはまずい。一度倒れてしまったら、ヴァジュラテイルが襲いかかってくるまでに立ち直せないかもしれない。多少不恰好でも、なんとかして両の足にて着地したかった。

(これを支えにすればええ)

と、思ったかどうか。
兎にも角にも彼女はそれを握り締め、たたらを踏みつつも願った通りに着地する。
そう、たたらを踏んだ。勢いを殺しきれず、数歩後ろに下がったのだ。
支えにした物が床に固定されている鉄柱か何かだったなら、こんなことは起こらない。生憎と、彼女が掴んだそれは一定以上の力を籠めさえすれは難なく取り外せてしまうものだった。

(この感触、重量、まさか神―――)

視線をそちらにやるよりも、腹部の激痛すら忘却する前代未聞の絶痛が右手を刺し貫く方が早かった。

「―――ッ!? ぐうっ、お、ああっ」

爪が、指が、掌が、腕が―――何が別のものと入れ替わり、編み直されていく。神経が直接蝕まれるこの責め苦は、史上のどんな拷問にも類を見ない別次元の苦痛だ。
あまりのことに脳味噌が白熱し、音を上げかける。発狂寸前の彼女は、自分が今とても人間のものとは思えない、獣染みた叫びを上げていることにさえ気付かない。

「いけない、早く神機を離して! 適合していない神機を持つと、拒絶反応でオラクル細胞に捕喰されちゃう!」

リッカがこれを見ていたら、おそらくこうとでも言うのではないだろうか。が、しかし、現在は閃光手榴弾の音と光に脳を撹拌され意識不明だ。
とっさのことで対応が遅れたのと、アラガミ用に威力を強化されていたのが災いした。と言っても一時的なもので、あと数分もすれば無事意識を取り戻すだろう。後遺症もあるまい。
もっとも、それまで命があればの話だが。

「―――」

視界に映るものは皆輪郭が曖昧で、さながら雲か霞のよう。そんなろくに用を足さないものでありながら、敵手の動きにきちんと対応してみせたのはどういうわけなのだろう。
閃光手榴弾の衝撃から回復し、餌の思わぬ抵抗に怒りの唸り声を上げ、ヴァジュラテイルがとびかかる。

「お、のれがァ―――!」

があん、と、床よ砕けろといわんばかりの勢いで一歩踏み込み、その恐ろしげな体躯を空中で切り落とす。
使った神機が第一部隊の先代リーダー、雨宮リンドウのものであると気付かぬままの、半ば条件反射による運動だ。
が、浅い。
姿勢は滅茶苦茶、型も何もあったものではない一撃だ。こうなるのは必然といえる。
とうとう彼女は片膝をついてしまった。許容範囲を遥かに超えた痛みに苛まれ続けたのだ、むしろよくここまで耐えれたと賞賛されて然るべきであろう。
しかしアラガミにそんな情緒はない。構わず体を旋回させ、尾による一撃を見舞わんとする。

(まずい、この高さは)

先程腹部があった高度に、今は頭がある。直撃すれば首から上が消失するだろう。
あわや絶命という窮地から彼女を救ったのは、後方から飛来した一条の閃光だった。
その光輝、彼女が見紛うはずもなし。神機の射撃によるものである。貫かれたヴァジュラテイルは、身悶えしながら大きくのけぞった。

(だが、何故)

今現在アナグラにゴッドイーターは居ないのではなかったか。振り向くというより股の下から覗き見るような無様さで、彼女は撃ち手を確かめようとする。

「立てますか?」
(誰じゃ)

涼やかな声をした、中性的な面立ちの人物であった。記憶によれば、極東支部にこんなゴッドイーターはいないはずである。

(若いな)

と思ったのは、その人物が男か女かを判別するに足る身体的特徴を有していなかったためだ。男というには線が細く可愛ゆ過ぎるようだし、女にしてはくびれやら何やらが不足している。

「ぬう、おっ」

断絶しかける意識の糸を、死にもの狂いで手繰り寄せて立ち上がる。そこを襲おうとしたヴァジュラテイルにもう一撃、弾が撃ち込まれた。

「今です、決めてください!」
「無茶を言ってくれるではないか、ええ!?」

やけくそ気味に放った言葉と裏腹に、残った力を掻き集め、彼女は「誰か」の神機を担ぎ上げる。
そして全身諸共叩きつけるかのような不恰好さで、ヴァジュラテイルへぶち込んだ。ろくに立ってもいられない現状では、こうする以外に命へ届く一撃は叶わないと見たのだろう。
切断するというより、切り潰すという表現こそ正しい。それだけに威力は十分であった。

「………は」

疲れた―――と続くはずの言葉は声にならず、ヴァジュラテイルの息の根が止まったのを認めると、彼女の意識も急速に薄れていった。



(まあたここかい)

天井の照明だけで、彼女は己が再び医務室のベッドに横たわっていることを悟った。つい先日まで世話になっていた場所である、どうして見間違えようか。
異なっているのは痛む箇所が腹部に移っている点と、視界の中に二つの人間の頭が混ざっていたこと。
内一つはリッカのものとすぐ分かったが、もう一つに見覚えがない。看護師か何かかと思ったが、よくよく見れば先刻神機格納庫で彼女を救った謎のゴッドイーターだと知れた。

(はっきり見えたら益々分からなくなったわい。こやつ、男か、女か)

どちらとも取れる形のいい目をしている。睫毛が、長い。

「あ、気がつきまし」
「気がついた? …よかった…」

瞼が開いたことで、二人が彼女の目覚めに気付く。そのやりとりに微かな違和を覚えつつ、彼女はゆるりと上体を起こした。

「今何時じゃ? わしは」

どれほど眠っていた、と続けようとして、感極まったとばかりに抱きついてきたリッカに止められる。

「お、おお?」

何をされているのか分からないといった風情で呆然としていた彼女だったが、すぐに事態を認識すると、みじめなばかりに狼狽した。
考えてみれば、こんな風に誰かに縋りつかれたことが未だかつてあったろうか。否、抱きしめられたことはあっても自分から抱きしめたことなど一度もない。
ゆえに、惑う。こんな時どう対処すればよいのかさっぱり分からず、彼女は初心な未通女のように固まった。

「まさかリンドウさんの神機を使うだなんて。君は、いつも無茶して……」

落ち着きを取り戻したらしきリッカがぽつぽつと喋り出す。それによって彼女は初めて、

(ああ、あれは彼の神機だったのか)

その事実を把握した。

「約束だよ……もう二度と他の人の神機に触らないで」

と、彼女が行った暴挙の危険性を説くリッカ。そちらは元より、話に傾聴し相槌を打つ彼女もまた気付けなかった。

「……そうなったら、何が起きてもおかしくないから」
「肝に命じておこう。わしとてもうあんなのは御免じゃよ、実は苦手なんでな、痛いのは」

ベッドを挟んだ反対側で、例の正体不明のゴッドイーターが何事かを推し量るような、さながら研究者の如き瞳を彼女へ向けていることに。

「そろそろ、皆帰ってくるかな……。君が目を覚ましたって言ってくるね!」
「ほ、ほう。皆、か。こりゃまた説教の嵐じゃな」

苦い顔つきをしてみせる彼女に微笑を見せて、

「またあとで来るよ!」

とひとこと言い残し、リッカは医務室から退出した。陽気なことに、手まで振って。

(参ったのう、またあの説教大会が始まるんかい)

身から出たさびとはいえ、気が重くなるのはどうしようもない。彼女は思わずこめかみを押さえた。

「リッカさん……いいヒトですよね……。あのヒトは神機のことを、ホントに理解してくれている……」

囲碁や将棋の棋士がその道具を作成する職人に対して払う敬意と同種のものなのだろうか。
リッカに応えて手を振り返していた謎の人物が口を開いた。

「本人はまだまだ未熟などと謙遜しておったがな。あの非常時に格納庫へ走れたのは、並み居る整備員の中でもあやつだけじゃった。大した女よ、本当に」
「ともすれば無鉄砲と言えなくもないから、褒めていいのか迷うところですけどね、それ」
「若いからの。多少のやんちゃや無鉄砲さは若さの証明よ、何恥じることがあらんや。……それより先刻は世話になったな、礼を言わせておくれ。ええと―――」
「あっと……まだごあいさつしてませんでしたね。僕、医療班に配属になります新人の神機使いです。レンって呼んでください」
(新人か、なるほど。そういえばアリサが前々から言い騒いでいたような)

後輩ができるとはしゃいでいた銀髪少女を思い出す。まもなく配属直後の自分自身を思い出し、鬱になっていたが。

「本当は明日付けでこの極東支部に配属だったんですけど……たまたま予定が早まったのが幸いでした……。専門は軍事医療、特に神機使いのアラガミ化の予防及び治療を研究しています」

澱みなく話すその様は、体の何処にも余計な力がかかっていない証拠だろう。
張り詰めた気配も感じられない。この分では、アリサのような後になって思い返すと頭を撃ち抜きたくなる恥ずべき歴史の作成は行われずに済みそうだ。

「この支部は、色んな意味で最前線なんですよね……皆さんの足を引っ張らないようにがんばります!」
「期待しておるよ。何、お主ならばうまくやれるじゃろう。着任そうそうわしとリッカ、二人の命を見事救ってみせたのだから」

そこまで言ったとき、思い出したかのように腹部の痛みが再燃した。く、と彼女は一寸顔をしかめる。

「あっ…病み上がりなのに、すいません……さ、横になって体を休めて……早くよくなってくださいね」

顔に似合わぬてきぱきした物言いに、彼女は大人しく従った。実際こうしていた方が息が楽にできる。
ふと首を横へ傾けてみると、レンと視線がかち合った。可憐な笑みになんとなくいたたまれなくなり、頭を元の位置に戻した。



その夜。
彼女は眼をかっと見開き、虚空の闇を睨み据えていた。
眠れるわけがない。例え鎮静剤を湯水のように注がれようと、今の彼女の精神を鎮めることは叶わなかったであろう。
頭は現在我が身に起こっている変異が何たるかを突きとめるべく、煙を吹かんばかりに高速回転中だ。……いや、答えならばとうの昔に出ている。が、その度に、

「有り得ない。あってたまるか、そのようなことが」

と、握り潰してまた一から考え直すという不毛な繰り返しを行っているため、休まるを許していないのだ。
そのくせ出てくる答えは決まって同一のものとくるのだから、こんなことは誰が見たって徒労と知れる。

「ああ、くそっ」

彼女も漸くその愚を悟ったらしい。現実逃避を続けられなくなった。

「やはりそうなのか。あれは―――自滅願望だというのか」

その言葉を口にした瞬間、彼女は全身の血が冷水と入れ替わったかの如く身をふるわせた。
顔色は青を通り越して、白い。今首を刎ねたところで、果たしてどれほど血が出たものか疑問であった。

程度の差はあれ、誰であろうと高所に立てば墜落を望む。列車が迫れば線路に身を躍らせたくなる。
短刀を持つと腹を割いて臓腑の色を確かめたがり、剃刀ならば手首にあてよう。
どれもこれもその先にあるのは明らかな破滅、絶滅、死滅。無条件に遠ざけて然るべきものなのに、どうしたことか惹きつけられる。断崖の先へはばたいてみたくなる。
生きとし生ける総てのモノに対する絶対効力。これぞ死がもつ求心力、その本領に他ならない。
理解が及ばないのなら、それは幸福なことだ。身近な例をいくつかひくと、重要なデータのたっぷり詰まった会社のHDDをフォーマットしてみたくなるとか、非常時以外押してはならない諸々のボタンを押してみたくなるとか、携帯電話やデジタルカメラ等の電子機器類を水中に投げ込みたくなるとか、そうしたものが挙げられよう。死には至らずとも、その先に待っているのは小規模の破滅である。

この自壊の願望は、しかし彼女にだけは決してあってはならないものであった。
驚異的なまでの生き汚なさ。死にたくない、生きていたいという彼女の根幹をなす狂おしいまでの渇望と真っ向から対立する。
対極にあるものは異常に惹き合うか、相手の息の根を止めてやらねば気が済まぬとまで憎みきるかのどちらかしかない。この場合は後者だった。
〇、〇一秒の悪魔が住まう場所など、彼女の中に一分たりとてあってはならぬのだ。
故に、全力を以ってその封殺を図った。原型留めず引き裂きバラし、二度と面を見せるなと滓になってもなお閉じ込めたはずだった。なのに、

「亡霊めが。分際を弁えず、墓から戻って来おったか」

噛み締め過ぎた奥歯から血が滲む。この復活劇に、残念ながら彼女には心当たりがあった。
あの日、あの夜、あの瞬間。光の降るエイジス島で、彼女に刻み込まれた感動。
あれは何も馬鹿正直に光景そのものに対して打ち慄えていたのではない。真に心を打ったのは、その直前。

―――ありがと、みんな―――

常識の枠を超え、ペイラー・榊を驚愕させ、己が身を挺して愛しき者達を救ったアラガミの少女。
穢れなき純白の魂と、そこから生まれ出でた行いにこそ、彼女は美々しさを感じた。尊いと、そう思いさえしたのだ。
無警戒で受け入れた感動は、彼女の存在を余すところなく直撃した。そう、深奥に封じられていた破滅衝動さえも。
形を取り戻し、永き眠りから揺り起こされたあれはさぞかし歓喜しただろう。
何故ならシオの行為はとどのつまり自己犠牲。滅びを望むものに対して、これほど相性のいいものがいったいこの世の何処にある。
ただ単に死んだのでは、所詮負け犬の末路。惨めな敗北者の自殺、虫が一匹潰れた程度にしか受け取られまい。
ところが何かのために、とか、誰かのために、といった謳い文句を頭に付ければどうであろう。急にそれが何やら崇高な、神聖さを纏ったものに変じてくるではないか。
どんなに言い繕うとも、死は死。無明という本質自体にはなんの変化もないはずなのに、どうやら人間には生まれつき何かのために殉じたいという欲求が組み込まれているらしく、急にひろびろとした気分でそのことに臨めるようになる。
まだ薄いとはいえ、ここ最近の彼女の精神状態は正しくそれだ。

感動を、感動を、感動を―――脳髄を蕩かすあの甘い痺れをもう一度。味わうために、今度は己自身で実践しよう。
おお、それはいい。いい考えだ。これはきっと前回以上の刺激があるぞ、やはり他人任せはよくないな。
だから、さあ、演じるための舞台をよこせ。
窮地とあらば喜んで首を突っ込もう。この際芽でも構わない、しっかり育てて立派な果実をつけさせてやる。

「醜穢な」

反吐を呑み下す思いであった。

「やられたなあ。死に焦がれ死を求め、酔いに酔った亡者の舞。ここ一連のわしの行動そのものじゃ」

そして何よりも性質の悪いことには、これは例え自覚してもどうにかできるものではないという、絶望的なその事実。
滅びの欲求とあの感動、すなわち彼女の美意識は既におそるべき純度で融和してしまった後である。
一体となって彼女本来の渇望を蝕むこれを、封印どころか分離させることさえ今となっては困難だ。否、まず不可能といっていいだろう。返す返すもあの時、忘我の感動に浸っていたのが悔やまれる。
今回ばかりは打つ手がない。解決法が見えないのだ。
考えあぐねている間にも、生への執着が削り取られ真逆の渇望が肥大していく、ああそのおぞましさよ。

「結果的といえども、よもやお主に追い詰められようとはな。あれか、一度は同胞諸氏を裏切りかけたツケを払えということか?」

侵喰速度は衰えない。むしろ加速していく。共存不可能とあらば、強い方が弱い方を駆逐するのは道理。
彼女の中身が空になり、まったく別のものと入れ替わるまでこの侵喰は止まらない。
残された時間は、決して多いものではないだろう。

「たしかに傍からはそう見えるのだろう、なんと図々しい女だと。誰にも明確な意思表示をせんかったのをいいことに、何をのうのうと元の鞘に収まっているのだと」

彼女がアーク計画に乗らなかったのは、何も高尚な信念や友誼に従ったからではない。
打算。生き延びるべく勝ち馬に乗るという、ただそれのみを目的とした打算の結果に過ぎなかった。

「だがな、わしァ決してそれを恥じぬぞ。頭など下げてやるものかよ」

そも本心とは、隠して然るべきものだろう。どんな美女も美男子も、皮一枚剥いでやれば詰まっているものは凡百のそれと大して変わらないと知れる。
同様に如何なる人間であろうとも、その真の姿は醜怪で、正視にたえず、ましてや愛などとても注げぬ代物だ。

―――ああ、だからシオはああまで皆に愛されたのか。この穢土で、唯一清らかだったがゆえに。

「しかし、わしは俗なのよ。みっともなく、薄汚れながら地べたを這いずる人間だし、そうあることに満足している。お主のようになりたいなどと、そんな願い、間違っても抱くものか」

破滅衝動、ひいては己の美意識に対して宣戦布告と吐いた言葉は、彼女自身びっくりするほど弱々しかった。



世界は母親のようにやさしくなどない。彼女ひとりの都合など、微塵も斟酌することなく動いていく。

―――今、アーク計画に勝るとも劣らない、巨大な嵐が極東支部を襲おうとしていた。



[30225] 終幕
Name: 下劣畜生◆5da806bd ID:9707abcd
Date: 2012/10/20 10:13
気付けば、袋小路に立っていた。
彼女の感覚的には晴天の霹靂のようなものである。本当に、ふと気付いてみればどうにもならないところでどうしようもなく突っ立つ己がいた。
どちらから来たかも定かではない。前方も後方も塞がってしまっているから、あるいは袋小路と呼ぶのは不適切か。
左右の壁は高く、厚く、傲岸な貌をしてそそり立っている。いくら殴りつけてもびくともしまい、ぶち破るのは到底叶わぬ絵空事だ。
ただ、前と後ろとを塞いでいる「もの」はこの壁ではない。その何千倍も性質の悪い代物だ。
死である。
趣向はいささか異なれど、いずれにせよ逃れようのない死が大口おっぴろげて待っている。
いや、ただ待つばかりではない。よくよく見れば、一刻、刻一刻と時間の経過に従ってこちらへにじり寄っている。これほどの恐怖はまたとなかろう。
いやだどちらも選べない、お願い許してここから出してと涙ながらに懇願しようが、もはや進退窮った、最後に一花咲かせてくれようず、と奮い立ち、雄叫びを上げて突貫しようが何をしようが迎える結末はみな同じ。
変動するのは過程の美醜のみである。

「なんということじゃあ、これは」

生存を専一とする彼女にとって、これがどれほど物狂おしい儀かは語るまでもない。
語ろうにも、地上のどんな言語を用いようが表現しきれる自信がないのだ。アーク計画の比ではない、とだけいっておこう。

「おまけに、かかる事態を引き起こしたのは他ならぬわしときている。自分で自分を閉じ込めて、なんだこれは覚えがないぞとわめき散らしておるわけじゃ。滑稽を通り越して憐憫を催すな」

自壊を引き起こしかねないほどの握力に耐え切れず、ベッドのシーツが音を立てて裂けた。




アーク計画の頓挫からしばらく、ふとしたことから前第一部隊隊長の生存が確認された。
雨宮リンドウ。
アーク計画に叛心を抱き、これを挫くべく密々に動き回っていたためシックザール前支部長の目にとまり、排除されたかつてのリーダー。
とうに死骸となったはずの彼が、実は何処かで生きていた。この報は、甚大な衝撃となって極東支部を揺るがした。
むろん、歓喜で、である。

「リンドウが……生きてる……」

橘サクヤの声は震えていた。リンドウとは恋仲だった女性である。
折に触れては彼の神機を見詰め、眼を潤ませていたサクヤのことだ。喜びを遥か後方に置き去って、感激と化した感情が如実に顕れたとみて相違ない。

「サクヤさん……!」

そこはアリサ・イリーニチナ・アミエーラも同様だ。リンドウの死―――結果的には誤認だったわけだが―――に深く関わり、重大な責任を感じていた少女である。
サクヤの感激にその心は音叉のごとく共鳴し、更なるたかぶりをもたらしめた。

「フン…さっさと見つけて連れ戻すぞ」

いつも通りぶっきらぼうなソーマだが、言葉尻が明らかに浮いている。
無愛想に見えて情にあつく、存外可愛げのある男なのだ。古い戦友の帰還をおもえば、沸き立つ心を抑えかねたのだろう。

「よっし、そうと決まればさっそく行こうぜ、リーダー!」
「ええ…必ず連れて帰りましょう…必ず…!」

意気軒昂なコウタと、それに同調するアリサ。
このように、兎角第一部隊の面々はリンドウと縁故が深い。当然だ、これは元々彼の部隊なのだから。
ゆえに第一部隊の士気がめざましく上昇したのは自明の理で、なんら驚くべきところはない。彼女が

(意外や)

と面食らう思いがしたのは、他の部隊のゴッドイーター、整備員に研究員、果ては一般の事務員までもが欣喜雀躍とばかりに舞い上がっていたことだ。

(暗い時代、という背景もあるんじゃろうが)

闇の黙が蝋燭の灯火をいよいよ際立たせるように、暗雲たちこめ先行き見えない当世にあって、明るいニュースはただ明るいというだけで、より一層の光輝を着せられ迎えられる。

(皆、希望に餓えているのだ)

おいやったな、と口々に言い合い、肩を組んで目端に涙を浮かべさえする連中は間違いなくこの環境的背景にあてられていた。

(まったく、痛ましゅうて見ておれんわ)

人目のない昇降機の壁に背中をあずける彼女の顔は、弔辞のそれである。

(分かっているのかね。リンドウの生存が確認されたのは、やっこさんのDNAとアラガミ組織片のDNAとが一致したからじゃぞ。つまり、彼奴は間違いなくアラガミ化しておる。ツバキも明言しとったろうに)

その組織片とやらを持ち帰ったのが、他ならぬこの彼女である。

(返す返すも、あれは痛恨事であったわい)

と、痛哭せずにはいられない。
ゴッドイーター達がオラクル細胞を埋め込まれておりながらヒトとしてのカタチと精神を保っていられるのは、なにもオラクル細胞がその人間を宿主と認め、共存しているからとか、そんな夢のある甘っちょろい理由からではない。ひとえに腕輪から注入されるP53偏食因子、この効果に尽きる。
ざっくばらんに分かり易く述べるなら、P53偏食因子を備えた人体はオラクル細胞にとってまずそうだから喰わないのだ。たとえ餓死することになろうと口に入れたくない。喰うくらいなら死ぬ。なるほど偏食とはよく言ったものだ。
では、ここで何らかの事故によって腕輪が外れてしまったゴッドイーターがいたとしよう。外れた上に、修復不可能なほどぼろぼろに壊れ、予備も調達できない状況を仮定しよう。
偏食因子は一度入れれば永続的に効果を発揮するような都合のいい代物に非ず。定期的に注入し続けなければ、呆気ないほど簡単に体の中から失せてしまう。
さすれば、人間にとっては悪夢でも、オラクル細胞にしてみればこの展開は、突如眼前にこの世の贅の限りを尽くしたごちそうが現れるのも同然だ。喰らいつかない理由を探すほうが難しい。

(いまのリンドウが正にそれじゃ。彼奴の腕輪が外れてから、もうだいぶ時間が経っておる。げにおそるべき時間といってよかろう。アラガミ化しきった輩の治癒報告なぞ、寡聞にして知らんわい)

驚くべきは、ひょんなことからリンドウの死を察知し、その三秒後にはこんなところまで読みきってしまった彼女のアタマの回転速度。

(どのみち、殺すことになる。さもなくば檻の中で一生飼い殺しじゃ。悲惨という以外ない、当人も、周囲の者にとっても)

然らばこの事実は胸裡に秘め、一切口外せざるのがどう考えても得策なのだが、息せききってツバキとペイラー・榊へ報告したのはどういうことであろう。
―――考えるまでもない、癌細胞のように増殖しつつある、例の自滅への欲求である。

(ええい、いちいち最悪のタイミングで起動してくれる)

特にここ最近は活性化しっぱなしだ。

(どうやらアレは、わが手でリンドウを殺したくて殺したくてたまらぬらしい)

うずうずしているのが、それこそ手に取るように分かるのである。
脳裏に映るのは、愚にもつかない三文芝居の一場面だ。
畜生道に堕ち、もはや人界に仇なす怪物と成り果てたかつての同胞、友人を、血涙を呑み心を鬼として突き刺し殺す勇士の劇―――。
あいつだって自我があったならこれを望む。殺すことが、死をくれてやることが救いとなる場合があるんだ。
私を憎むか、ああそれはそうだろうな。これはある意味、希望の芽を摘んだ行為である。
よかろう、存分にこの身を憎み、悪罵を投げつけ恨み呪うがよい。それがあやつを殺めた私の義務だ。
だがな、誓って頭は下げぬぞ。誰がどれだけ否定しようと、私は私の正しさを信じている。私は正義を貫き通した、誰に憚るところなし―――と。
激痛に耐え、友の無念を背負い、彼の為にも前へ進もうと決意しているように見えて、その実手前勝手な自己陶酔にばかり浸っているあのつらを見よ。
羨ましいとは思わんかね。己もその蜜を舌に乗せ、咀嚼したいと思わんか。
まったくなんと使いふるされた設定だろう。どんなに出来の悪い頭でも悲劇と理解し、涙を流せる陳腐さよ。
なればこそ気に入った。ああ、実に素晴らしいぞこの舞台。古来より手を変え品を変え、演出を凝らせど根にある骨子はみな同じ。
つまりそれだけ人に愛され、飽きることなく繰り返されてきたのだ、友殺しは。
ならばその突端に、わしが新たな一幕を刻んでやろう。この演目、是非とも成功させねばなるまいて。

(冗談ではないわ)

歪みに歪んだ美意識を、脂汗を流しながら必死の思いでおさえつける。

(リンドウの殺害は、即ち社会的自殺じゃ。美談もへったくれもない、何故こんな単純なことが分からない)

或いは、総て承知の上で欲しているのか。
なにせ彼女の美意識は、自滅、自壊の衝動と同化している。あれにとっては、アナグラ全体の床が一部の隙間もない針の筵と化す展開ほど喜ばしいものはないであろう。

(擬態の髄をこらして振舞えば、なんとか仲間達の同調をかうところまでは漕ぎつけられよう)

仕方がない、ああする以外に手がなかった、お前のせいじゃ断じてない―――と、消沈する彼女を慰め、悲しみを分かち合おうとしてくれるだろう。
しかし心の裏側では、

「あいつはリンドウさんを殺した奴だ」
「情けを知らない、人の心を解さぬ人非人め」

という侮蔑と怨嗟の念がへばり付き、決して離れることはない。どころか時の流れに従って肥大する。

(特にサクヤがどういう目でわしを見るか。こればっかりは想像だにしとうないなあ)

希望に向かって手を伸ばし、跳躍した分だけ絶望は深みを増す。
ひょっとすると落下の衝撃に耐え切れず、今度こそサクヤの心は砕け散るやもしれない。

「どうしてよ」

もしそうなれば最悪だ。理性は完全に吹き飛んで、自制をなくしたサクヤはあらゆる情念の行き場を下手人に求めることだろう。
これは水が低きに流れるが如き、物理的必然である。

「リンドウは死んだのに、どうして彼を殺したあなたなんかが生きてるの?」

人間関係は一筋縄ではいかないのが世の常だ。麻のように縦横無尽に錯綜し、縺れ合い、絡み合っている。
そのうちのひとつが大暴走を始めれば、後は玉突き事故のごときもの。涙が涙を、血が血を呼ぶ破滅の連鎖がはしりだす。
悲劇に次ぐ悲劇の中で、いつしか彼女はかかる惨状を引き起こした総ての元凶として強烈に祭り上げられるに違いない。

(いかんなあ、とても生き残れる気がせぬ。ただでさえカンが失われつつある今、この展開は絶対にまずい)

こんな愁嘆場じみた席で命を落とすなど、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
畢竟、回避が賢明であった。
蚊帳の外とはいかずとも、浴びる火の粉は減らせよう。

(憎まれ役は他の誰かに任せるべし。すまんなあ、わしがみすみすあげな報告を許したばっかりに)


基本的に現実主義者な彼女らしい決断である。この方針のもと、隙あらば全速力で奈落へ下らんと欲するあの衝動に目を光らせ、ときに抗い、今日この日まで歩んできた。
リンドウのものと思しき組織片を大人しく上納したのも、純然たる彼女自身の意思である。一度は任務を承諾した以上、きちりとこなさねば無用な不信を招いてしまおう。

―――あいつ、リンドウが生きていると公にされたら困ることでもあるのか? しかし、その知らせを持ってきた本人だぞ?
―――もしや、今になって隊長の地位が惜しくなったか。リンドウの復帰で、それが脅かされると恐怖しているのか。

と。
特にツバキに思われるのは避けたかった。あの女傑を敵に回して得なことなど何ひとつない。
だから既存の任務はしっかりこなす。が、

(深入りはここまでよ)

幸いにして、第一部隊はリンドウの捜索から実質外された。ソーマ達は不満たらたらだったが、彼女にとってこれは天の恵みに等しい。

(あとは時の流れが解決してくれる)

上等とは決して呼べない結果となるが、それで一応は彼女の思惑通りに進む。
そう、そのはず、だったのだ。
なのに。

「………アラガミ化が進行した結果、二度と人間には戻れません。また、人間によって培養されたオラクル細胞は極めて多彩な変化を遂げる傾向にあり、一般的な神機が通用しない場合が極めて多い」
「レン、レンや」

そんな彼女の努力目論見、刻苦精励悉くを、まとめてむなしくしかねない自称軍事医療専門のゴッドイーターに、彼女は辟易しきった顔をした。

「お主はもう少し空気を読む術を学ぶべきじゃな。いいかえ、一座の者がこぞって酔っ払っているときは、己も酔態を装っておくのが世を円滑にまわすこつじゃよ」
「そんな、アラガミ化した神機使いの処理方法として最も効果が高いのは」
(なんという小僧だ)

レンは彼女の言葉など、正しく歯牙にもかけなかった。
返答どころかおっかぶせるように声量をたくましゅうさえせず、診断を下す医師さながらに淡々と言を繋いでゆくその態度。
これは彼女の声などはなから耳に入っていない、髪を揺らす冷房の風にすら劣る、どうでもいい、取るに足らないつまらぬことだと何より雄弁に物語るものだった。
流石の彼女もこれには興醒める思いがした。壁のほうがまだ可愛げがある。

「適合した者にしか扱えないという矛盾を孕むために、決定的な対策とはいえませんが」
「よせ」

レンが何を告げんとしているかなど、彼女はとうに看破していた。そして、それが彼女の内に誕生しているべつな「彼女」にどう影響を及ぼすかも。

(やめろ―――これ以上、あいつに餌を与えるな)

自分にしか出来ない、我にのみそれが叶う。
これらの限定条件は、倒錯家をして更なる恍惚の渦へ堕とさしめる典型かつ絶好の触媒だ。
要らない、要らない。そんなものは微塵も望んでいないのに―――心臓が痛いほどに脈打つのを、彼女自身どうしようもなかった。

「アラガミ化した本人の神機を用いて、殺すことです」
「よせと言っておろうが、阿呆んだらあっ」

わめくなり、彼女はレンの肩を掴むと、そのまま背後の自動販売機に叩き付けた。けふっ、と、色素の薄い小振りな唇から空気の漏れる音がする。
レンの手からジュースの缶が落ち、甲高い音を立て、雫を残しながらころころ遠くへ転がった。

「リンドウさんの足跡を辿って、運よく彼に出会ったとしましょう」
「こやつ、まだ言うか」
「もし、そのとき、彼がアラガミになっていたらどうしますか?」

第二次性徴もおとずれていないレンの肩は、びっくりするほど細く、柔らかい。本当にこれが男の躯か、とつい疑わずにはいられない。
その柔い肉に手加減抜きで五指を喰い込ませ、肩甲骨を締め上げる。大のおとなでも悲鳴を上げかねない痛みに、しかし中性的な少年は眉ひとつ動かさず耐えてのけた。

「貴方は、その『アラガミ』を殺せますか?」
「おおできるとも。微塵に刻んでくれようず」

勝手に動き、そんな致命的もいいところな暴言を吐きたがる口を、奥歯をがっちり噛み合わせて封印する。
おそるべき貌になった。

「言いたいことはそれだけか、小僧」

ぎりぎりと喰いしばった歯の狭間から絞り出されるものだから、自然声には地獄の底から響き渡るがごとき重圧が付加されざるをえない。

「根拠を欠いた意味なき仮定をぺらぺらと。うぬは結局何が言いたい。わしをして何をしせしめたいのか、今、ここではっきり申してみいや」

知れたこと。どういう事情があってのことかは定かではないが、レンは明らかに彼女をしてリンドウを殺させたがっていた。
彼の神機を扱い、拒絶反応によって重度の侵食を受けながら、何故かこうして安定した状態にある彼女以外に、それは叶わぬ作業ゆえ。

「ふざけるなよ、わしァ断じて斯様な真似はせんぞ」

と、命じられた通り、レンが唯々諾々と胸の裡を明かしてくればこうはねつける算段である。続く台詞はこうだ。

「彼奴がどんなみてくれに変じていようが、既に人の心を喪失していようが、わしは殺さん。ああ殺らぬとも。身動きとれなくなるまで切り刻み、この古巣までひきずってくれよう」

はたして、それは可能なのだろうか。レンによれば、アラガミ化した人間には通常神機が効かないはずだが。

(なんの、盛っているだけよ)

と、彼女は見ていた。
何故ならアラガミ化した人間など、今まで山ほど実例がある。
適合検査の確立していなかった初期の段階では、フェンリルといえば新たなアラガミ生産工場との風評すらあったと聞く。
悪所汚点は殊更に抉り出し、実質以上に誇張して言い触らすのが民衆の習性なれど、火の無いところに煙は立たず。そう呼ばれても仕方のないくらい、さんざ失敗を重ねたのだろう。
では、そのときに生まれたアラガミ共は、彼等をアラガミ化せしめた神機とふるえる者が現れるまで無敵の存在として生物界に君臨しえたか?

(否―――)

そんなわけがない。加えて、圧倒的な経験をほこる彼女には、元神機使いと目されるアラガミと矛を交え、討伐した実績があった。
―――第一種接触禁忌アラガミ、スサノオがそれだ。

(あの生命力の強靭さ、確かに難敵であった)

が、今レンの話を踏まえて鑑みるに、あの強靭さは神機が効きにくいのを誤認したものではなかろうか。

(あと考えられるのは、ハンニバルのごとくコアを抽出されてもすぐまた新たなコアが生成され、生き返る、か)

もしそうならば、彼女にとってはかえって好都合である。
彼女がリンドウ捜索に対して消極的で、対面を避けんと欲していたのは、遭ってしまえば彼を殺しきられずにいられる自信がなかったためである。別に、彼に対して悪感情を抱いているとか、そんなことではない。むしろ好意と恩義を感じている。
だが、いくら殺そうにも殺せないのであれば安心だ。倒し、運び、復活しかけたらまた倒し、を繰り返してゆけばよいだけである。殺害時に蒙る災難と比べたら、遥かに楽な仕事といえよう。

「さすれば後は簡単よ。進行したアラガミ化は治癒不可能? はん、確かに今はそうじゃろうな。じゃが、十年後ならどうじゃ。そのまた十年後なら。アラガミの研究はまだまだ発展途上、それも連中の進化に引き摺られるがごとく、日々急激に進んでおる。期待する価値は存分にあると思わんか」

かつてはそれ―――飼い殺し―――を悲惨極まりない、と評していたくせに何を言いやがるのか、と思うだろう。
だが、あの時と今とでは事情がちがう。方針が転換している。

「たかがン十年の苦痛・苦悩がなにするものぞ。人を救うとは、愛するとは本来それほど勇と忍耐を要するものなんじゃ。安易に殺して終わりにし、これで苦しみを除いてやれたと悦に入るのは愚の骨頂で、所詮薄っぺらな鍍金モノよ」

加えて、この一連の台詞を考えていると、奇妙なことに気持ちがひたひたと沿ってくるのを感じるのである。
―――これこそが正道、物の道理に相違ない
と。
企画屋が自分の企画に興奮し、熱狂し、ついにはその最も激烈な信者と化すようなものか。とはいえ彼女の狡猾さは、

(まあ、まずは捜索本隊の報告を待ってからじゃな。彼奴がちゃんと不死の存在に変じておるか、確かめるまで軽々には動けん。首尾よくなれておらなんだら、他のゴッドイーター共に嬲り殺されるのを静観しよう)

と、地固めを怠らない点である。
そして、確証を得られたのなら―――直々の出陣も吝かではない。むしろ望むところといえた。
だから、万が一にもその場にリンドウを殺し得る物品―――彼の神機を持ち込まれるわけにはいかないのである。

「意味の無い仮定、とは心外ですね」

一方、レンはあくまで死を与えてやることがリンドウにとっての救いだと信じている。
彼女の考えなど重病人をとにかく生かせとチューブだらけにする医師となんら変わらない、とせせら笑うに違いない。
しかし、どうも真正面から角突き合わせて大舌戦、というのは不利そうだ。彼女の準備が万端なことを、鋭敏な感覚で察知していたわけである。
よって、明言を避けた。正面突破は無理と見限り、搦め手を用いた。

「身を引き裂かれんばかりの悲劇が日常茶飯事として横行している昨今です。最悪のケースを想定し、物理的にも精神的にもこれに対する備えを築いておくのは、神機使いとして当然の所作だと考えますが」
「ほう、薫陶を垂れてくれるかよ、百戦の雄たるこのわしに」

彼女の失敗は、売り言葉に買い言葉、ついレンの語りに反応してしまったことだった。しかも咄嗟に切り返し得る理を用意できなかったばっかりに、権威を持ち出したのがなおまずい。
無用に武勇や経歴をひけらかすのは、とどのつまり不安や動揺の裏返しだ。このテのものは人々の口から口へと伝わってゆけばこそ効果を発揮するのであって、本人が謳ってしまうと、相手が余程の馬鹿でもない限り、たちまち威力は霧散する。

「ええ。誰もが貴方をひとつの個体として完成しているように思っていますが、僕から見れば貴方ほど脆く、不安定で、危うげな存在は他にない」
「な、に?」
「ある意味、極東支部で一番弱いのは貴方だ。是非とも教えて欲しい―――貴方は、どうしてそんなにもちぐはぐなんです?」
「―――」

絶句した。

(ちぐはぐとは、うまい言い方をする)

なるほど相克する二つの渇望が渦巻いている彼女の内海、その色彩は、染料と染料が混じり合ってさぞかし混沌としていることだろう。本来一色を以って基調たるべきところがこの様では、まったくいかにも不安定で、ちぐはぐだ。
しかし。

(かつて、ここまで他人に見透かされたことはなかった)

その事実こそが、彼女に名状しがたい感情を生む。
奥の奥に在る本性は基本隠匿されて然るものだと心がけ、他人には幻影を掴ませ、世を渡りゆく腹芸の名手。彼女自身自覚していなかったが、このことはいつしか淡い矜持となり、その小さな躯を支える一助となっていた。
それはそうだろう、どんな道でも休まず延々走り続けば、稼いだ距離、その長大さを誇りたくなる。
その矜持に、看過し難い重大な傷が刻まれた。

「―――、―――」

あまりのショックに脳は攪拌され、空気の排出を忘れる肺。
一時的な全身麻痺にも似たこの症状になんら打つ手もなく、彼女は己が手の内から脱け出すレンをただ呆然と見送った。

「この世界はいつだってわがままで、理不尽な選択を迫り…それが現実として連綿と続いていく」

毅然と向けられた背の向こうからまだ何か言う声が聞こえたが、彼女の耳には半分も届いていない。

(負けた)

どんな強者にだって人間である以上必ずや弱点が存在し、そこをつかれれば嘘のようにあっけなくぶっ壊れるものである。
それをここまで模範的に示した例は、またとない。

(重い―――)

躯が、である。叶うことならいっそ、膝を折ってしまいたかった。
ただ、ひたすらにみじめであった。病んだ野良犬でもここまで暗澹たる心持にはなるまい。

「…変な話をしすぎたかもしれません。医務室に戻りますね」

伝えるべきはすべて伝えたと満足したか、あるいはこれ以上何を言っても無駄と判断したのか。いづれにせよ、一転朗らかに言い残すと、レンはその場から去っていった。
後に残るは唇を噛んでうつむく彼女と、ゴミ箱の上にて静かにたたずむ空き缶のみである。




「リーダー、その……大丈夫ですか? 何か、ひとりで抱え込もうとしてませんか?」

アリサのこちらを慮る気持ちが胸に沁みる。
が、大丈夫なわけがなかった。
レンと起こしたひと悶着により彼女が蒙ったダメージは甚大で、しばらく経った今日でも尾をひいてしまっている。
通常の傷なら自然治癒力がはたらいて、放っておけば自己再生するものだが、彼女に刻まれた傷はいまだ深く、ぱっくりと口を開け、むしろ日に日に浮き彫りになってゆくようだ。
その理由は、分かり過ぎるほどに分かっている。

(塩を塗りこむ者がいる。絶えず激痛を与え続け、掻き毟っては新鮮な血を溢れさせようとする屑が)

よりにもよって、彼女のなかに棲んでいる。
―――いや、そろそろこの言い方では語弊があるか。既に力関係は逆転しているのだから。
元の彼女はいまや、胃の腑で溶かされるのを待つ残留物といった立場だ。

(嗚呼)

そのため、ここ近来の出来事は、さながらスクリーンに投影された映画をポップコーン片手に鑑賞しているよう。我が身、我が事という現実感がまるでないのだ。
小さなことは食堂の新メニュー導入から、大なるものにかけてはリンドウ即ち黒きハンニバルと発覚するまで色々あったはずなのに。

(そういえば、そんなこともあったような)

この印象の薄さは、いっそ笑ってしまいたくなるほどだ。

(レンの奴にとっては、この上なく都合のいい展開じゃろうて)

現在専ら表層に出ている「彼女」は、リンドウを殺すというその行為を、この世で何より甘美な蜜と認識している。その刺激に恋焦がれ、待ちきれなくてうずうずしている。
場と術さえ提供してやれば、「彼女」はたちまちし遂げてのけるに違いない。

(詰みじゃな)

なにがどう転ぼうと、もはや彼女は死ぬしかない。リンドウを殺して社会的に死ぬのが先か、完全に「彼女」に溶かされ、消化されるのが先か。

(いや、もうひとつある)

どういう作用によってなのかは計り知れないが、時たま、急に頭がすっきりして完全に元の彼女に戻り、躯を思うままに動かせることがある。
このとき、まず彼女の眼前には自分の置かれた状況のまずさを示す情報が津波のごとく押し寄せてきて、

「なんということじゃあ、これは」

と唖然とし、次いで総てに於いて後手に回った己の間抜けさを呪い、口惜しさに臍を噛む。この一連の流れは、もはや様式美と化していた。
第三の選択肢が浮かんだのは、この後である。

「どちらにも出口のない、袋小路の死ならば、いっそ」

自分を保てている今の内に、我が手で生を終わらせる。つまりは自刃だ。
やろうと思えば簡単である。ゴッドイーターといえども、うまくやれれば短刀一本でことは足りよう。

「何が第三の道じゃ。袋小路の中の死には、何の変わりもないではないか」

厨房からちょろまかしてきた牛刀。その刀身に映る彼女の口元は、うっそりとした笑みをたたえて歪んでいた。


それが、つい十分前の出来事である。せめてもの気分転換に、と自室を後にしエントランスへあがってきたが、

「ふむ、わしの顔はそんなにひどいか」

アリサは無言でコンパクトミラーを差し出した。仮にも女性相手に、その言葉を使うのは躊躇われたに違いない。

「ぬ―――」

自制心を掻き集め、のけぞることだけは防げたが、呻き声が漏れるのまではどうしようもない。
年頃の娘の所持品らしく、花の意匠をあしらった可愛らしい鏡の中に、いっぴきの幽鬼が佇んでいる。そっと指を伸ばし、土気色の肌に触れてみた。
死人のように冷たい。陳腐な比喩だが、これ以上相応しい表現はなかった。

「実は、わしァ冷え性なんじゃ」
「リーダー」

誰が聞いてもすぐに嘘と見抜ける嘘を、どうして人は口にしてしまうのだろう。つけ込まれる隙にしかならないというのに。
とっさの反射的行動であって、理由などないのかもしれない。とまれ、これを契機にアリサは堰を切ったかのような怒濤の説教を開始した。
どうもこのロシア人は、例のハンニバルとの交戦に於ける一件以来、彼女に対し過保護になったきらいがある。

「―――…、リーダー、ちゃんと聞いてますか!?」
「おお、勿論じゃとも。しかし、くく、こう、説教を受けるなぞ、何やら久方振りで面映ゆいな。こうも真摯に叱ってくれたのは、婆様を除けばお主が初やもしれん」
「おばあさま?」

きょとん、と、アリサは目を丸くした。彼女が自分の家族構成等の、所謂「過去」を話すのは未だかつて一度もなかったことだから。

(―――そう、私達はあまりにもこの人のことを知らない。あんなにも一緒に戦ってきたのに)

と思うアリサだが、なまじい一緒に戦ってきたからこそのこの結果だろう。

(あまりに強くて、強過ぎて。…どこか同じ人間という気がしなかった。ヒトを超越した絶対的に揺るがない、不動の山みたいな頼もしさを無条件で抱いてたんでしょうね)

だが、あのとき知ってしまったのだ。

(山だなんてとんでもない。リーダーだって私達と同じ―――いえ、私達の中で誰よりも、儚く、小さい、ただの人です。傷付きもすれば悩みもするでしょう)

ところが、アリサがいくら記憶をあらってみても、そんな弱弱しい彼女の姿が見付からないのだ。彼女はいつも、いつだとて、不敵な笑みを浮かべながら後に続く者達を導いてきた。
こんなことは有り得ない。完璧な人間など、理想郷と同じで夢想家の頭の中にしか存在し得ないモノだから。
もしそう見える者がいるとすれば、それらしく振舞っているだけなのだ。

(とすると、あれは仮面だったのではないかしら)

そこに思い至るや否や、アリサはいてもたってもいられなくなった。
相手が自分に抱いているイメージを崩すまいと狂言を演じ、虚勢をはる。これは一種のいたわりであり、優しさのあらわれであろう。だが、それもこうまで徹底されると、

(痛ましいですよ、リーダー)

仮面の下に隠された、彼女の素顔はどうなっているのか。
誰にも拭われることのない涙は、いったい何処へゆけばいいのか。
少しでも情のある者ならば、理解したいと願わずにはいられない。
けれど彼女は相変わらず、つけ入る隙のないままで―――どうしたものか、と攻めあぐんでいたところにこの弱り目である。

「然り然り。わしを育み、教育したのはとあるしわくちゃな老婆であった、と―――。話したことはなかったな、そういえば」

相変わらずひどい顔色のくせに、茶目っ気たっぷりな目つきをして、

「聞きたいかな?」

なんて訊かれれば、もう答えはひとつに決まっているだろう。

「はい、すっごく」
「ようし、然らば善は急げじゃ。さっそく部屋に行って布団を敷こう」
「は―――い?」
「どうした、ここの寝具は布団ではなくベッドである、なんて野暮な突っ込みはなしじゃぞ」
「いえ、そうじゃなくて。えっ、なんで布団?」
「内容が内容じゃ。真っ当な形式ではなんというか、かたっ苦しいやら滑稽やらで話し辛い。口が重うてかなわん。寝物語にするほかない」
「ね、寝物語って」

それはあれか、夫婦や恋人がひと情事終えたあとで、腕枕なんかしながら繰り広げるアレのことか。

(あのピンク色空間を作り出す? 誰が? 誰と? えっ、リーダーと私が? ふたりとも女同士じゃない、非生産的、って違う、それ以前に)
「駄目、だめですってば」
「むう、そうまで固く拒絶されると傷つくのう。あれほど本音をさらりと漏らせる手法はないし、冷えびえとした我が身にも、お主の肌で熱が戻る。一石二鳥のうまい手だと思うんじゃが」
「っ、リーダー! 私は真面目な話をしてるんです!」

盛大に脱線しつつある軌道を修正すべく、気を引き締めて一喝するアリサ。が、それに対する彼女の反応は、完全に予想を超えたものだった。

「……冗談で、言っていると、思うのかえ。なあ、アリサ―――」

一字一句噛み締めて、さも丁重気に送り出された言葉には、底の知れない憂いの韻律が宿っていた。
こんなものを肩に手を添え、瞳を覗き込まれながら、産毛をくすぐるように囁かれたのである。
どくん、と。
不必要なまでに大きく跳ねた心臓を、いったい誰に責められよう。
初心なアリサは、あわれなまでに蕩けた。口をついて出てくるのは、意味をなさない奇妙な音の塊ばかりだ。思慮の統制がとれていない。
その様子をじっくり味わうと、

「あっはははははは」

突然大笑をはじめた彼女に、アリサはただ目を丸くした。

「いかにも冗談、戯言の類よ。すまんなあ、お主があまりにも可愛らしいものだから、ついからかいとうなった。いやあ、愛いのう、愛いのう、いいものを見た、寿命が延びる。危うく本当にそちらの趣味に目覚めるところであったわい」

これがアリサの金縛りを解いた。雪をもあざむくその肌が、みるみる朱に染まってゆく。怒りと、羞恥がこみ上げてきたのだろう。
数秒後、それは頂点に到達。大音響の叫びと化して、エントランスの窓をびりびり揺らし、無関係なヒバリをも卒倒させかけた。


端から見ればかなり最低な仕打ちを受けたアリサだが、不思議とその心中に恨みはない。
感情はどろりと堆積せず、逆に清らかさを増して流れている。

(あの目)

こうして自室に戻り、ベッドに躯を投げ出しても考えるのは彼女のことだ。夕闇に脅え、惑う幼子のようなあの瞳―――。

(リーダーのあんな目は、はじめて見ました)

アリサにはどうしても、あれが冗句や酔狂でつくれるものとは思えないのである。
あの一瞬、確かに彼女は赤心をあらわにしていて。
それと悟られぬよう、誤魔化すために態とあんな暴言を吐いたのではあるまいか。
考えれば考えるほど、この想像が確かな質量を伴い息づいてくるのである。

(……な、なら、私があの提案に頷いていたら)

その先を想うとまた顔面が熱くなり、心中悶々としてきてどうしようもない。ついには枕に顔面を埋めて足をぱたぱた上下させた。
アリサはすっかりこのように合点して疑わないが、実際のところはどうなのであろう。

(どうもこうもない。認めようぞ、不覚であったと)

以前、レンにてひどい傷を―――精神に―――負わされた場所で、舌が拒絶反応を起こしかねない液体を強引に飲み下しながら、彼女はひとり苦笑する。

「やはり、まずい。こんなものを好き好んで飲みたがるとは、あの小僧め、どういう味覚をしとるんじゃ」

この劇物を使えばその刺激により、完全覚醒しいていられる時間を増やせるのではないかと期待しての試みだったが、どうも浅知恵に終わりそうだ。

(いかんなあ。死に近付きつつあるせいか、どうも感情が湿っぽく、諸事感傷的になりつつある)

彼女が気心知れた仲間に対しても自分のことをあれこれ語りたがらないのは、なんてことはない、至って単純な羞恥心からだ。わけもなく、ただ恥ずかしい。
語るという、その行為が、である。決して過去そのものを恥じているのではない。
けれども死に瀕した者の多くがそうするように、せめて何かを、己が生きた証をこの世に残したい、せめて誰それには自分のことを取りこぼしなく識っておいてもらいたい、と願う発作的な心の動きが、今の彼女にはあるらしい。

「これは弱さじゃ」

と、彼女はばっさり切り捨てる。

(理解を望む。どうせ理解されないとあからさまにいじけてみせる。これらは弱さの中でも厳にして慎まれるべき、甘ったれた餓鬼の弱さである)

こういうあたまだから、話題のはしに祖母のことを上らせた時点で既に失態。やれ面倒なことになったものよと思ったが、

「お主には関係ない」

と露骨につっぱね、拒絶の意をあからさまにすれば却ってアリサの関心を招こう。意固地になり、何が何でも聞き出してやると気炎を上げる可能性とてある。
だから、あのような方向に話題を持って行った。ああ言えば八割方、アリサの思考は停止し、何も出来なくなるであろうと踏んでやった。現になった。

(じゃが、十割ではない。なんと二割も他所へ流れ、わしの提案を受け入れる可能性があった。業腹なれども、そちらの展開をこそ望む心の存在もまた事実。そう、かまわなかったんじゃよ、アリサ)

そうなれば、彼女は一切合財何もかもを、洗い浚いぶちまけてしまうつもりでいた。
思い切りのいい話だが、現実的でなく思える。
なにより量が膨大だ。とても一晩では語り尽くせないだろう。喉がカラカラに嗄れてしまう。
加えて、彼女という存在の特異性はちょっと言葉で表し難い。
それはそうだろう、狂気的な生への執着による第六感の超鋭敏化だの、それが蝕まれることによって人格まで死にかけているだの、いったい誰が信じるという。まるでSF、夢見がちな少年の妄想だ。
特に後者に至っては本末転倒もいいところだ。所詮後産の付属物に過ぎない渇望が失せたところで、どうして人格が崩壊する? 熱が冷め、興味がなくなるなんてよくある話ではないか。
が、彼女に言わせてみれば、その本末転倒を引き起こすからこそ「狂的なまでの念」と評するに足るのである。

(と、いくら必死に説こうが無駄なことよ。言葉を介しての伝達、その限界というやつじゃ)

しかし、ここに例外が存在する。
言語に頼らず、言語よりずっと明確に、心の内を伝えきる手段が。
―――新型神機使い同士の、感応現象である。
お主の肌でうんぬんとほざいた彼女の真意はここにある。色欲ではない。
衣服越しの接触では、アレは起こしにくいからだ。それに今回は、心の中へ心を突っ込むに等しい所業を行おうというのである。万全を期すため、接触面積はなるたけ多く確保しておくに越したことはないという合理的判断であった。

(それで。伝えて、どうなるという。賞賛してもらえるわけがないわなあ)

彼女の道程は打算と合理の集積物だ。アリサにしてみれば、同じ人間と思っていた相手がその実皮を被っただけのエイリアンだったようなものである。おぞましさに歪む顔が容易に想像できた。
卑下はしない。
むしろ誇らしく思っている。これこそ我よと胸を張る。けれどもしかし、だからといって他者にまで同じ認識を強要するのは、いわばある種の脅迫で、反発が起きるは必然である。

(困ったぞ、何をどうしようが結局は、余計な軋轢しか生まれ得ない。なんの益もありゃあせんじゃないか)

が、もし万一。
アリサの彼女に対する情愛が、彼女の想定を大きく超えていた場合にのみ限って、奇怪な臓物をまざまざと見せ付けられようと、それを拒絶しない可能性が発生する。
それを蔵する彼女を、あろうことか受け入れてしまう可能性が発生するのだ。
これこそ先刻彼女が賭けていた展開。紙のように薄い確率に、全財産を注ぎ込む気でいた。
一見すると自滅衝動の発露だが、まったく違う。彼女にとってその先の果実が、勝負するに十分値するほど価値のあるものだったまで。

(はて、果実とはもったいぶった言い回しを使う。いったい何を指しているのやら)

缶はいつの間にか、すっかり空になっていた。

(答えの分かりきっている自問は何時以来か。それほど昔でもなかろうに、もう十年も前のことに思えるのう)

そう、分かりきっている。なのにそれを認められず、そっぽを向き、別の何かがあるはずだと一から考え直すところまで、前回辿った道と全く同じだ。
人の成長がいかに難しいのやら、覗えそうなものである。

「―――屈辱じゃな」

掌中の空き缶が、音を立てて大きくへこんむ。まったく屈辱的なことだが、それが真実である以上、やがては直視せざるを得なかった。
理解の果てに彼女が求めた究極のモノ―――それは抱擁だった。
母が娘にするように、無限の慈愛を以ってして、表も裏も美も醜も、総てを包み、抱き締めて欲しかったのだ。

「たわけ。どうしようもない甘ったれの、大たわけがッ………! 母の乳房を欲しがる歳でもあるまいに!」

空き缶は既に缶としての体裁を留めていない。わけのわからぬ金属塊と化し、尚も圧縮され続ける。
当然、彼女の手も無事では済まない。皮膚は破れ、裂けた肉から血が溢れた。

(時間を置かれたのが災いした)

白州に引き据えられ、判決の後すぐさま首を刎ねられたなら彼女はこんな無様を晒さず逝けたろう。が、こうも時間をかけて、ゆっくり削られながら死んで逝くとなると、どうしても最期まで意気を保ち続けるのが難しくなる。ふとした拍子に心気が萎えて、愚にもつかぬ弱音を吐き出してしまう。
ただ独り誰にも気付かれずに死んで逝く、その心寒さに耐え切れず、誰かに縋りつきたくなったのだ。

(情けない―――ひとには忍耐を強要しておきながら、なんだわしは)

かつて此処で、レンとの対話のときに描いた構図、その中に於いて飼い殺しにされるリンドウや周囲の者のことだろう。

(鬱陶しゅうてかなわん、自戒せよ。こんなものに囚われておっては、助かるものも助からんわ)

驚くべきことに、彼女は未だ一抹の希望とやらを捨てていなかった。
そも、かかる窮状に陥ったのは、シオの自己犠牲を目の当たりにしたため、つまりは外界からの刺激が元だ。
ならばそれと正反対、本来の渇望を一挙に膨張させ破滅願望を駆逐する、そんな起爆剤めいた「何か」もまた、この広い人界の何処かにあって然るべきではなかろうか。

(我ながら、なんとまあ空想的なことか)

空想的でも絵空事でも、もう彼女にはこれっぽっちしか残っていない。そしてこんな些細なものでも、自害を押し留めるだけの効力はあった。

(諦めるものか。例え最期を迎えるその瞬間でも、勝負は投げぬ。焼かれながらも耐え続けてくれようぞ。諦めて、たまるものかよ、畜生め―――)




ところが、その最期がきた。




時間というやつは無情である。どれほど必死に待っておくれと頼んでも、そ知らぬ顔で頭の上を越えてゆく。

(負けたわ)

アナグラのエントランス、その上段に設置されたソファーに腰かけ、彼女は敗北を噛み締めていた。
照明がやけに眩しくて、たまらず、目蓋を下ろす。その裏にひどく懐かしい姿を認めて、

(婆様、負けたよ、わしは―――)

と、はにかみながら報告した。

あの反則的なカンの鋭さはとっくに失い、いまや常人かそれ以下の地平にまで堕ちている。にも拘わらず、うなじの毛穴が残らず閉じ、逆立っているのはどうしたことか。何かとてつもない凶事、極東支部の命運すら左右しかねない大異変が迫っている、その証と見るが妥当だろう。
なのに彼女は、それに対して思いをめぐらそうとさえしなかった。完全に黙殺しきっている。

(わしはもう、死人じゃよ。死人がいちいち現世の活動に気をとられたりするものか)

という腹である。
死に抗い、希望を捨てず、一分一秒でも長く生き続けようと必死にもがいたあの彼女は、つい先刻、たった数時間前に息絶えた。
無念、怨嗟、憎悪、後悔、慙愧、嫉妬、哀切―――およそ思いつく限りの負の感情を撒き散らしながら、完膚なきまでに死に果てた。
ここにいるのは、残影だ。
生への執着、それがあまりに鮮烈過ぎたため、魂に焼きつき、大元が消えても尚残された影。
生き汚さもここまでくればいっそ見事だ。表彰ものといっていい。
が、そうは言っても影は影。質量を持たない虚。発展もなく、進化もない。当然本体とは比べるべくもない。
何が出来るというわけでもなく、そう時をかけずして主の元へ逝くしかない、何のために存在するのかさっぱり分からぬ、ああその哀れさよ。
蜉蝣ですらその短い生涯の中でつがいを見付け、子孫殷昌をたのしむというのに。
哀れといえば彼女も哀れであった。血を吐くような忍耐をあれだけ重ねておきながら、ついにはそれが丸ごと無駄だったと証明されてしまったのだから。
無意味な足掻きからは無意味なモノが生まれるのやもしれない。この図ばかりはとても笑ってやる気になれず、ただただ悲惨という以外にない。
死を嘲笑い、生を虚仮にし、一時、一瞬の快楽をむさぼることを至上命題とする新たな「彼女」も、流石にこの状景には憐憫を催したのかもしれない。今、この躯は残影彼女の―――面倒なので、以降ただ彼女と呼ぶ。どうせ中身は同じモノだ―――完全なる支配下にあった。

(鬼の目にも涙、というやつか)

しかし、せっかくの好意を受けても彼女には何をしたらいいのか分からない。

(これが正真正銘最後の機じゃ。次は絶対に有り得ない。なら、今度こそ腹を掻っ捌くのもありじゃろうが)

それを実行するだけの心の弾みが、もはや彼女には残っていなかった。
本来の彼女であれば、このような情けを受けたなら、

「おのれ、わしを愚弄するか。よかろう、それが如何に浅慮か思い知らせてやる。無間地獄に堕ちながら、貴様の悔恨に噎び泣くさまをとっくりと見物してくれるわ」

と血が逆まくほどに怒り狂うにちがいないのに、現実には猫のごとく大人しくしている点、口調だけでなく精神まで老境に入ってしまったようである。

(別段、もったいぶってせねばならぬ儀もなし。こうして目蓋の裏に過ぎし日の幻影を燈してまどろんでいよう。さすれば眠りに落ちるのとなんら変わらぬ感覚で旅立てる。先のアレを踏襲するのは、御免じゃよ)

こんな心境でいたものだから、彼女はなかなか気付けなかった。
もう随分前から己の隣に何者かが座っていて、おまけにずっと表情を覗き見られていたことに。

「―――!」
「あ、やっと気付いてくれましたね。あんまり反応がないものだから、てっきり眠っているのかと思っちゃいましたよ」

目を開けて、真っ先にとびこんできたのは淡い桃色の髪。それだけでもう、彼女にはこれが誰だか特定できた。

「―――カノンか」
「はい、お久しぶりです。同じアナグラの中で生活しているのに、逢わないときは逢わないものですねえ」
「縁とはそうしたものじゃろう。何処へ行っても同じ顔に遭遇し、すわストーカーかと早とちりすることもあれば、逆に壁一枚まで迫れども、悉く対面には至れないときもある」

そこまで言って、気が付いた。

「……ん? いやまて、お主とは最近会っているぞ。ほれ、行方不明になっておったあのとき、お主を追っかけとったツクヨミを討って連れ帰ったのはわし等じゃろうが」

彼女の意識が茫漠としている間に起きた、現実感のない出来事のひとつであるが、たぶんこの流れで間違っていない。
圧倒的な戦闘力をほこる未知のアラガミとの遭遇において、使いものにならなくなった新人二名を逃がすべく、カノンとブレンダンのベテラン二名がとった作戦が、自分達を囮に使うことだった。
結果二名はしばらくの間消息を絶ち、一時は殉職という噂までもがまことしやかに囁かれ、新人達の顔色は終日紙のようだった。責任を感じていたのだろう。
が、誰も彼等を責められまい。彼女とて、新兵もいいところだった時分には、敵の襲撃を察知していながら足が大地に根を張ったように動かず、みすみす眼前で先輩を殉職させた苦い過去をもつ。初っ端から十全にこなせる奴のほうがどうかしていて、可愛げがなく、却って信用がおけないものだ。
幸いにしてカノンは彼女が語った通り回収され、ブレンダンは自力での帰還を遂げた。
あまり前の事ではない。そのとき彼女の意識は裏にまわって、表層には「彼女」が出ていたが、そんなことを知るよしもないカノンは、ここで彼女と会話したと認識したはずだ。
はず、なの、に―――。

(……何故、なにも言わんのじゃ?)

にこにこと、穏やかな微笑みを湛えるばかりで口を開こうとしないカノン。総てに対して鈍感になっていた彼女の心が、このときにわかに息づきだした。
しばしの間、二人の間に沈黙が降りる。彼女の人生において、これほどまでに耐え難い沈黙はちょっと前例がない。

「ま、まあ、それはいいとして」

たまらず、折れた。

(まさか)

と膨らみきった疑念があるが、ひとまず無視しておく。

「何用じゃ。よもやそれを言うためだけに、わしの目覚めを気長く待つほど暇人であったのか」
「まあ」

心外な、という顔をした。

「今日はいろんな事情から、部隊編成のときにひとりあぶれちゃいまして。ほら、新人さん達が入ってここも所帯が大きくなったでしょう? だから体裁だけはアナグラの防衛用戦力の中に位置付けられてるけど、実質フリーなんです。ひとりで出撃するのは、いくらなんでも危ないですからね」

目の前に接触忌避アラガミを単騎で狩りまくった怪物がいるが、これはあまりに特殊過ぎて参考にはならない。

「あなたこそ、どうしてここで寛いでたんです? 初めて見ましたよ、この時間帯にあなたがのんびりしているところ」
「あー……」

―――暇さえあれば出撃している。じっとしてられないのか。
―――あいつは、いつ休むんだ。

これらの風聞は伊達ではない。カノンにしてみれば、白昼街中で亡霊にでも対面したような驚きだったのではあるまいか。

「べつに、大事ない。溜まった休暇を消化しておるだけよ」
「えっ、ここで、ですか?」
「以前、ツバキ教官にも似たようなことを訊かれたのう。左様、そうじゃよ、悪いかね」
「いえいえ。むしろ助かりました」

どこか投げやりな彼女の態度にも、カノンは一切頓着する気配がない。花の開くような笑顔を浮かべて胸の前で手を合わせた。
綺麗というより可愛らしい。この形容こそがよく似合う微笑ましい姿だ。微笑ましい、はず、なの、に―――どうしたことだろう、開いた「もの」が野辺に咲く一輪華ではなく、食虫植物に見えるのは。

「助かった、とは?」

眼をこすりながら、彼女が問う。

「えへへ、実は、ですね。今言ったのは半分なんです。もう半分はご想像通り、あなたにちゃんとした用事があったから、こうして椅子をあっためてたんですよ」
「ほほう」

と、相槌を打ち、先をうながした。

「えっと、どこから話せばいいのかな。そう、さっきも触れた新人さん。私、あのふたりにすっかり慕われちゃってるじゃないですか」
「身を挺して彼等を守った実績があるからの。あれで恩義を感ぜねば人ではないわな。特にアネットなぞ、お主を仰ぐこと神のごとしじゃ」
「そんな、大袈裟ですってば」
「だが、満更でもないんじゃろう。頬があからさまに緩んでおるぞ」
「そりゃ」

と、カノンはいっそ開き直ってみせた。

「そうですよ。まともに先輩扱いしてもらえるなんて、私これがはじめてですもん」
「おお、言われてみれば」

アリサにコウタ、そして彼女。
この三人もカノンにとっては後輩にあたるが、コウタはアレだし、アリサも赴任当初は無用に肩を張ること甚だしく、とても可愛げのある後輩とは言い難かった。
彼女に至っては論外である。もはや語るまでもないだろう。

「だから、今回のことはとても嬉しかった。しばらくはそう舞い上がっていられたんですけど、でも、冷静になるにつれて段々と不安が増してきちゃって」
「不安?」
「はい。ほら、私ってそのう、いろいろと不名誉な称号を付けられてるじゃないですか。それって実戦でさんざんミスを重ねてきた代償ですよね。こんなままじゃ、いつかあの子達もあきれて離れていくんじゃないかしら、と」
「なるほどな」

手に入れるからこそ失う恐怖が発生する。だったら始めから何も求めなければいい、さすれば心は安楽だ、と賢しら顔でのたまう輩も存在するが、真正の馬鹿だ。鶏にも劣る臆病者の言い分など、真面目にとりあう価値もない。

「ふむん。わしが見るに、あやつらはお主の実力というよりも、その心意気に打たれたゆえの敬慕であるから、それは杞憂と思うがの」
「いいえ、駄目なんですよ。そんな楽観に胡坐をかいてちゃ」
「はっ、言いよる」
「だから私は決心しました。実力的、技能的にもあの子達の先輩として胸を張れるようになろう、と」

ぐっと拳を形作り、カノンは宣誓してのけた。風貌、堂々としていて強靭な意志が感じられる。

(天晴れ、見事な心意気よ)

発光体を前にしたかのごとく、彼女はまぶしそうに目を細めた。

「それで、第一歩としてまずはあなたに手伝って欲しくて」
「わしにか? むう、協力してやりたいのは山々じゃが、わしの戦闘方式は射撃を核としておらぬゆえ、あまり参考にはならんと思うぞ?」
「いえいえ、いいんですよ。ただ、今すぐ一緒に出撃さえしてくだされば」
「―――なに?」

彼女は耳を疑った。この娘は自分の話を聞いていたのだろうか。

「言ったであろう、わしァ休暇中ぞ」
「協力してくれるって言いましたよね」
「ぬ」

確かに山々とは言った。それも、まだ舌の根乾かぬうちに。

「訓練だけじゃどうしても限界があります。やっぱり実戦の中で試行錯誤して経験を積まないと。そうは言っても実戦は実戦、相手は本気でこちらの命をとりにくる、何が起きてもおかしくない戦いの場。そんなところで暢気にあれこれ実験だなんて、あなたと一緒でもない限り、とても出来たものじゃありません」
「おやおや、これはまた随分と信用されたものじゃ」
「何をおっしゃいますやら。あなたが言ったことでしょう、自分と共に出撃(で)る以上、決して死なせなどしない、と」
「―――」

ああ、そうだ。確かに彼女はそう言った。アーク計画発動直前、惑うカノンを戦場へ引っ張って行く間際、傲慢にも。

(覚えて、いたのか)
「さ、そうと決まれば早速出発しましょう。時間は有限です、大事につかわなくちゃ」
「分かった、分かったから、ぬわっ、そう急かすな。引っ張られずとも自分で歩ける、何処にも逃げなどせんわい」

まるであのときの焼き直しである。配役はまるっきり逆転しているが。
……それにしても、カノンのこの強引さは怪訝である。ときには気弱な印象さえしたこの娘が、どうしてかくも押しの強い存在に変貌したのだろう。
後輩を失望させたくないから、という動機にはなるほど一定の説得力を認めていい。だが、それが休暇中の同僚を半ば強引に引っ張り出すなんて非常識も甚だしい真似をさせるほどのものだろうか、と問われれば、これは首を傾げざるをえない。事と次第によっては、後々懲罰も有り得よう。
確実に、何かある。それほどのリスクを負ってでも、いま彼女を戦地へ引っ張り出さねばならない、何かが。

(まあええ)

ところが彼女はこれを看過した。どうにでもなれ、後は流れに任せるのみよ―――と、自棄的な諦観がそれをさせた。
もう少しよく視ていれば、カノンの瞳、その奥に。神機を握ったときにのみ灯る、あの剣呑極まりない輝きが、仄かに見え隠れしていると気付けたろうに。

(戦っている最中に、わしの時間が切れぬよう祈るばかりよ)

馬鹿な話で、そんな的外れな思考ばかりを展開していた。



「かあ、ふっ―――」

天地が逆転した。だけに止まらず、更に二転、三転とする。顔でおもいきり地面を擦った。視界は白濁し、口中に充満した鉄の味が鼻腔にまで抜けてきた。
満身創痍、という以外にない。

(なんぞ)

と、彼女が現実逃避と嘆きとを同時に行いたくなるのも当然である。既に超直感は失われたにも拘らず、骨の髄まで染み付いた戦闘動作は完全にそれを前提としたものなのだ。
必定、齟齬が生まれる。肝心なところが食い違い、アラガミの猛攻をいいように受けてしまう。
どこまでも空虚な残影では所詮こんなものか。せめて残骸ならば僅かな恩恵を精妙に使い続けることで、だましだまし戦えたろうに。
まあ、それとて一手の打ち間違いも許されない、虚空に張った一本の絹糸を渡り行くような難題ではあるが、今迄はそれで罷り通れてきた。
が、もう駄目だ。大元の彼女が死した今、絹糸すらも消え失せた。

(これではあやつがリンドウと対面しても、返り討ちに遭うだけではないか)

実際、勝率は四割程度だろう。培ってきた経験が如何に多量と雖も、所詮常識の範囲内。あの理不尽なまでの強さを再現することは、確実に不可能であった。
散々殺した後のことばかりを心配してきたが、画餅、取り越し苦労だったかもしれない。

加えて弱り目に祟り目とでも言うべきか、こういうときに限って事前の索敵網に引っ掛かりもしなかったアラガミが、わらわらと群を為して大結集したのである。
ディアウス・ピター、テスカトリポカ、ハガンコンゴウ、セクメト、ゼウス………その力の強大さは、いちいち説明するだに愚かしい。木っ端アラガミだけならまだしも、こんな化け物達まで勢揃いしているのだ。百戦錬磨のベテランチームでもこの光景を前にすれば、
―――俺は今日、ここで死ぬ。
と心を折られかねない。今の彼女には、どう考えても荷が重すぎた。

(そんなに殺したいかえ、このわしを―――)

そうとしか思えないのである。
今まで散々虐殺の憂き目に遭わされ、脅かされてきた怨みつらみを晴らそうと、弱体化をいいことにこの仇敵―――人間の分際で神を畏れず、喰らい堕とす天外の不敬者たる彼女の四肢をもぎ、生きながらにして湯気のたつはらわたを貪り喰らうという、一ツ目的の元に結集したとしか。

(もてもてよの)

間抜けた思考を、背後から飛来した弾頭がぶち抜いていった。

「射線上に入るなって、私言わなかったっけ?」

挙句の果てが、これである。カノンの言った試行錯誤とはいったい何を指していたのだろう。いっそ彼女の頭を狙い撃つのが目的だったのではないかと思うほど、その誤射はいよいよ冴え渡り、間もなく三十の大台を突破しようとしていた。
吹き飛ばされた先にディアウス・ピターの大木のごとき爪牙が風をまいて迫っていたり、トマホークにキスしかけたこともあった。
それも一度や二度ではない。彼女はカノンの異名を理解した気でいたが、どうもまだまだ認識が甘かったようだ。今になって漸く、他のゴッドイーター達と同じ世界を共有した。

(―――なんぞ)

本日何度目の土の味だろうか。血まみれのずた袋のように這いつくばって、改めて思う。
何故まだ死んでいないのか、彼女自身よく分からない。絶望し、悲嘆に暮れるのも自然であろう。

(なんぞ、その目は)

……いや、待て。否だ。これは嘆きなどではない。
彼女はただ、カノンのみを視ていた。ろくに用をなさない視界の中で、その双眸のみがぎらぎらと、はっきり鮮烈に輝いていたから。
カノンもまた、半死半生で倒れ伏す彼女を見た。
―――誤射し、ぶち抜いた者に向けるあの視線ですら比べものにならない、絶対零度のまなざしを、絶望で曇らせることもなく、真っ直ぐ彼女へ浴びせていた。

(やめろ)

路傍の石を見るほうがまだ情の籠もっていよう。つまり、カノンにとって現在の彼女はそれ以下の存在というわけだ。

(見下すというのか。蔑むというのか。よりによって台場カノン、お主が―――この、わしを)

が、それもよく考えれば当たり前のことかもしれない。
彼女は自らを死人と評した。ただの抜け殻、もはや何の役にもたたない死人だと。
戦場に於いて死者に拘泥するほど愚かな行いはない。死骸は打ち捨て踏みつけて、なんら憚らないのが鉄則だ。でなくば自分まで死体になる。
しかし、これはどうしたことだろう。その当たり前が血という血を逆流させ、彼女に総てを忘れさせた。
彼女は、狂った。
激怒した。

「っ、ざ、けるな………」

ぽつりと吐き出された呟きは静謐そのもので、しかしだからこそ水面下で渦巻く無限の激情を感じさせ、まるで爆発寸前の火山であった。
例えアリサに同様の視線を叩き付けられても、彼女の精神はこんなに激烈な反応は起こさなかったろう。むしろ、よくぞここまで成長した、その目が出来れば何の心配もない、と安堵する可能性が高い。
コウタでもそこは同じ。サクヤ、ソーマ、レン、ジーナ、ツバキ―――シオですら不可能にちがいない。
ただひとり、カノンだけが。……億の罵倒、兆の雑言、京の悪口よりも深く、深く。
彼女の魂、その深奥に至るまでを、ただひとつの視線のみで炎上させた。

「おっぐ、うあ―――ぐ、ふあっ」

ごぼごぼと、血泡をふきながら立ち上がる。辛うじてもいいところだ。その足元はおぼつかず、見るからに頼り気ない。
が、そんな状態であるにも拘らず、彼女は死角から大口開けて飛来したヴァジュラテイルを軽々かわし、かわしざまに一閃を見舞い、地面に着く前に絶命させてみせた。
紙一重の処を間一髪のタイミングで通過させ、即刻反撃に転じる神懸り的な回避技能。
視覚に頼ったものではない。
聴覚? 触覚? 嗅覚? 味覚? ―――否、否、否、否、断じて否。
五つのうちのどれでもない、第六の感覚。その起動に他ならなかった。

有り得ぬことが起きている。されども彼女がその事実に気付くことはない。思考などとうの昔に消し飛んだ。そんな馬鹿なと何処かで誰かが悲鳴を上げたが、むろんこれも聴こえていない。
そう、あれこれ考えられるようでは駄目なのだ。思考とはすなわち余裕のあらわれであろう。
畢竟、必要なのはただ一念。「諦めない」だの「自分は残影」だの、みみっちいお小言・小理屈の数々などは一切不要。
その種の猪口才な思慮ごとき鎧袖一触で跡形もなく粉砕する、天地万物を染め上げんばかりの圧倒的な激情の奔流。かつ、その流れが生の方向性を有していること。
これが、これのみが唯一彼女を再臨せしめる道だった。
忘我の感動によって取り憑いた妄念が、忘我―――というより我を粉々に砕きかねない次元違いの憤怒によって焼き祓われる。

「ふ、ざ、けるなァァ―――ッ!」

背を反らし、天を仰いで絶叫する。そのあまりの凄まじさに、一瞬この場に集まった総てのアラガミが動きを停止した。
狩る者と狩られる者とが逆転したと気付けたのは、果たしてその内の何割だったか。
まあ、気付こうが気付くまいが何の関係もない。アラガミひしめく直中に、脇目もふらさず飛び込んだ彼女は、その全身で獲物の鏖殺を告げていたのだから。


散々大袈裟な表現を用いたが、この一件、蓋を開けてみればなんということもない。
誰にだっているだろう。こいつにだけは負けたくない、こいつになめられるのだけは我慢がならぬ、とやたらめったらに対抗心を煽られる、そんな他者の一人や二人は。
朋友であり、同時に不倶戴天の宿敵でもあるかのような奇妙な「誰か」の存在は、人生においてあらゆる意味で重要だ。
だが、何故彼女にとってのそれがカノンだったのだろう。所属する部隊も違うし、基調とする戦闘スタイルも異なっているというのに。
―――答えは簡潔にして明瞭。思い当たるふしなど、たったひとつしかないだろう。
台場カノンこそが天上天下に唯一人、全盛期の彼女に対して直撃打をぶち込んだ存在だからだ。
あの日、あの時、あの瞬間。己が増上慢をへし折られた歓喜に噎ぶ一方で、彼女の深層心理では、カノンを同位同格のモノとして認めるはたらきがつつがなく進行していたのである。
別に珍しい話ではないだろう。女性が己がはじめてを奪った相手を特別視することは、道理すぎるほど道理である。特に、夢見がちな乙女ほどこの傾向が強い。


「今日の占い、すっごくよかったんですよ」

と、傷だらけの顔を精一杯破顔させ、カノンが言う。
二人以外、動くものは何もない。
覇王も帝王も天主でさえも、皆一様に刻まれ、砕かれ、解体されて踏み躙られた。彼等の屍骸で地面が見えなくなったほどだ。

「特に待ち人が、ですね。遅れるが、必ず来ると、出ていまして」
「―――ああ」

その一言で確信した。どの程度かは不明だが、カノンは彼女の変調に気付いていた。
彼女にとっては不可思議この上ない話だが、カノンの側からすれば当然の結果なのかもしれない。
出撃前、エントランスでカノンは彼女にこう語った。慕われるのは初めてだ、と。
しかし、特別視していた者ならずっと以前から他にいる。
誤射姫だの人間砲台だのと呼ばれ、悪意を以って蔑まれはせずとも、「仕方のないヤツ」程度にばかり思われていたカノンを、唯一人純粋に高く買い続けてきた変わり者が。
女は感情の生き物である、という。
それだけに、他者から向けられる感情の察知能力にかけては男に数倍するものがある。

(なにか勘違いをしているに決まってます)

いつか実態を知り、失望するにちがいない。そう信じて疑わなかったが、その人物から向けられる視線の質はいつまでたっても変わらなくて。
自分に対し明らかに好意を持つ相手を無碍に扱えるほど、カノンは人情に欠ける人種ではなかったから―――。

上記の事情を、彼女は知らない。これからも知ることはないだろう。
けれど、何かしら感じるものは確かにあった。

「そりゃあ、めでたいのう………」

一片の邪気すら含まない、赤子のごとき無垢な微笑みを浮かべて。
彼女は、カノンの肩に崩れ落ちるようにして身をあずけた。

「あら、まあ」
「許してたもれ。わしア、少し、疲れたよ」

どれほど戦い続けたのだろう。気付けば太陽はすっかり傾き、山の端に隠れる準備をはじめていた。




この一週間後、星の降り注ぐいい夜に、ひとりのゴッドイーターが極東支部へ帰還している。



[30225] お詫びとあとがき
Name: 下劣畜生◆5da806bd ID:9707abcd
Date: 2012/10/20 09:31
<お詫び>

何はともあれ、まずは十ヶ月余も更新が途絶えた謝罪をば。こればかりはどう申し開きをしても言い訳にしかならず、却って見苦しさを増すため、ひたすら陳謝するばかりです。
本当に申し訳ありませんでした。


<あとがき>

本編を最後まで読まれた方は、なんとなく尻切れトンボのような印象を受けたのではないだろうか。これで終わりか、肝心要な見せ場がすっぽり抜け落ちているではないか、と。
実は、当初の予定では、彼女が立ち直ったあとももうしばらく続く予定であった。具体的にはリンニバル戦を終え、あの台詞を叫ぶまで。
しかし、いざ書いてみると、どうにもその部分が蛇足に思えてならず、いっそ大幅にカットしてしまえと決断。実行した結果が、これである。
彼女の復活劇にカノンを絡ませるという構想は、第二幕を書き始めたときからあった。しかし大まかな構想のみで、細かな手法は定めておらず、この点実に苦慮したものだ。
リンニバル戦直前にカノンと会話し、そのとき心中に植えつけられた種子が戦いの最中発芽、レンに決断を迫られるシーンで完全に開花し復活という展開が最初に思いついたが、はたして人を根本から改革するのに、言葉がそれほど有効なツールだろうか。ましてや彼女のごとき偏屈者に対して。
読めば読むほど説得力に欠け、没にし、次いで浮かんできたものも結局は最初の類型であったため没にし続けた。一時はこれは無理なのではないか、どうあっても彼女は死ぬしかない、と絶望的な気分に陥った。まったくなんと面倒な女だ。
そんなとき、

―――いっそカノンではなく、アリサに助力を乞うたらどうじゃ

と彼女が囁いた。なるほど、アリサこそGEBに於ける正ヒロイン的な存在だし、第二幕できっかけは作ってあるから、いけるやもしれない。
中盤ごろの彼女とアリサのやりとりは、この名残である。
因みに、あそこでアリサが彼女の望む通りの行動をしても、一応彼女は復活する。ただしヤンデレ化する。アリサではなく、彼女がだ。
カノンと違い、アリサに対しては張り合わねばならぬ理由がないため、依存をどうやっても止められないのだ。あの狂念が、まるごと一個人への愛に変換されるわけである。どう考えてもろくなことにならない。何よりそんな彼女を見るのは眼球を抉り出したくなるほどつらく、途中で断念し、没とした。

そんなこんなで紆余曲折を繰り返し、最終的に出来上がったのがこれである。拙作だとは重々承知しているが、少しでも楽しんでいただけたなら嬉しい。
それでは、GE2に於けるロリババアボイスの実装を祈願し、これを以って結びとする。
お付き合い、ありがとうございました。


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