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[29961] 東方界境輪舞 (東方Project 鍵山雛の現代入り、完結)
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 16:58
<まえがき>
本作は東方Projectの二次創作であり、オリジナルの設定やキャラクター等が多々登場しますのでご注意ください。

※別名義で小説家になろう様等、他所でも投稿しておりますが同一人物です。いろんな人の意見を聞きたくて行ったことでしたが、もしも混乱させてしまいましたら申し訳ありません。

それでは、以下本文です。






「教授。岡崎教授」
「……ぅ、んぁ?」
「んぁ、じゃないですよ。最近データ集めで忙しいのはわかってますが、だからってこんなところで寝ないでください。折角奥に仮眠室もあるんだから」
「あぁ……」

 のっそりと突っ伏していた机から起き上がり、ポリポリと頭を掻きながら奥へと引っ込んでいく赤毛の女性の姿を見送ると、青年――門倉甲斐(かどくらかい)は苦笑いを浮かべ、ついでに出てきた欠伸を噛み殺した。

「ふぎゃ!? ちょ、ちょっと教授、いきなり上にのしかかってこないでくれよっ。こっちのベッドはアタシが使ってるんだから教授はそっちの方に……ってだからそのまま寝るな! 重いってば!」

 かくいう自分も徹夜で作業をしていたことだし、もう今日は家に帰って寝ることにしよう。そう思った甲斐が荷物をまとめて帰る準備をしていると、教授の引っ込んでいった奥の方から何やらバタバタと騒がしい声が聞こえてきた。大方寝ぼけた岡崎教授が、先に仮眠をとっていた助手の北白河ちゆりの寝ているベッドに入っていったのだろう。これはこの研究室では割とよくみられる光景なので 甲斐は特に気にせずそのままその騒ぎに背を向け、襲い来る眠気に多少気だるげな顔をしながらも研究室から出ていった。
 ほとんど早朝といってもいいような時間の、閑静な廊下にかつかつと甲斐の足音だけが響いていく。そうして機械によってちょうどいい気温に調整されていた大学構内から外へと出ていくと、すぐにうだるような暑さが身に直撃した。
 季節は夏。道路を一人歩いていれば、アスファルトが溶けて靴の跡を残し、目を凝らせばそこには陽炎がみられる。一昔前には世間でよく温暖化だ環境問題だとメディアで騒がれていたが、そう言いたくなるのも分かるような……そんな冗談のように暑い真夏日だった。
 徹夜明けの体には、まだ完全に昇りきっていないとはいえ今日の陽射しは少々辛い。甲斐はふっと立ち止まりその場で数秒間目を閉じ沈黙した後、おもむろに重い瞼を無理やり開いて再び足を動かし帰宅の途へと着くことにした。

「ふぅ……」

 大学を出てから、十数分ほど経った頃。甲斐は歩きながらもほとんど無意識に溜息めいた吐息を漏らし、グイッと額に浮いた汗を拭った。
 日本の首都がかつての東京から京都へと移されて、もう暫く経つ。都市機能も次第に移されていき、一部地域に高層ビルのような高い建物が増えたことも、この暑さの一端を担っているのかもしれない。これは京の都の景観を損ねるか、それともそこで過ごす人間の快適さを損ねるか。そんな択一の選択肢だったのだろう。
 まあ、個人的にはどちらでも構わない。全ては時代の、世界の流れのままに。その中に生きる一人の人間として、受け入れながら生きて行くだけなのだから。……そんな事を考えて、なんとなく甲斐は苦笑しながら意味もなく空を見上げてしまう。そこに浮かぶのは、こちらをジッと見下ろしながらジリジリと照りつける太陽の姿。どうにも暑さに頭がやられて、思考が変な方向に向かっているようだ。睡眠不足真っ盛りなのも、原因の一つかもしれない。
 そうして甲斐がその、眠気とあさっての方へと向いてしまった思考を振り払うべく頭を振って、

(さっさと家に戻って、み~こと謹製のアイスでも食べてから一眠りしよう)

 などとその甘さと冷たさを思い浮かべながら再び前を向いて歩き出した、その時だった。

「ん?」

 ふと視界の端に妙なものを見つけて、無意識に小さく声を漏らしつつ不意にその場に立ち止まってしまう。そんな甲斐の視線の先にあったものは……歩道の隅っこに広がる、黒ずんだ陽炎のような何か。

(……なんだ、あれ?)

 大きさはだいたい、人間大くらい。あえて無理に言葉にして表現するのなら、『立体映像で作った黒い寝袋』と言ったところだろうか。

(――って、流石にそれは無理がありすぎるか。我ながら語彙が貧困というか、表現力がないというか)

 ついつい内心で自嘲気味に苦笑しながらも、少し近づいたり遠ざかったりしてそれを観察する。普通に考えて目の錯覚のたぐいなら距離で見え方に変化の一つもあるはずだが、それはないようだ。
 となると後は、寝不足が行き過ぎて幻覚を見ているとか、そんなものくらいしか候補に残らないのだが……

(まさか一日徹夜したくらいで、そんなことになるとは思えんのだけど……)

 まあこのまま一人でうだうだと考えていても埒があかないだろうし、この際だからもっと近づいて、可能ならば触ってみるとしよう。それが何かの現象――幻覚含む――ならば手で触れることはできないだろうが、何か一つくらいは分かることがあるかもしれない。
 といったところで思考を打ち切り、甲斐があと一歩でそれに触れる距離にまで届くというところまで近づいたところで――

「……お待ちなさい。それ以上、私に近づいてはいけないわ」

 どこか息絶え絶えな、だけどしなやかさは損なわれない……そんな不思議に綺麗な声が、甲斐の鼓膜を震わせた。それに甲斐は反射的に足を止めて、辺りに視線を巡らせる。
 直後、この声の主は何処に……という疑問は、足元にあった不思議な陽炎"だった"ものに視線を向けた時に、氷解した。
 その時甲斐の瞳に映っていたものは、地面に倒れ伏し、顔だけをこちらに向けている緑髪の少女の姿。そこに人などいなかったはずなのに、確かに声は彼女が発したものだったのだ。

(まさか、地毛ではないよな?)

 染めたにしては、やけに自然で鮮やかな美しい艶と色。それが染料によるものなら、さぞやその筋には人気のものだろう。服装もやけにゴスロリチックだし、もしかしてバンドでもやっているのか、それともコスプレが趣味なのか。
 やはり徹夜明けということもあり、思考が大分鈍っていたのだろう。甲斐が彼女のその姿を目にしてはじめに抱いたものは、今の状況にはいまいちそぐわない、そんなどこかずれた感想だった。

(それにしても……)

 普段なら、今のように人が倒れていれば取り敢えず声をかけて場合によっては救急車、といったところだろうが……どうにも妙だ。
 少しして、段々と事態を飲み込めてきた甲斐が次にしたことは、そのまま倒れている少女の言葉に返答もせず、一度距離を取ることだった。そしてもう一度近づいて同じ位置に立ち止まると、右の肘に左手を添えてそっと顎を撫でる。

(なんか、変だな。最初に声をかけられるまで気づけなかったことといい、こりゃあどういうことだ?)

 今しがたの行動で、分かったことは二つ。距離が離れると先ほどの黒い陽炎のようなものに見えて、近づくと今のように少女の姿に見えるということ。
 それらを頭の中で確認すると、次に甲斐はその間にふらふらと起き出して立ち上がっていた少女の正面まで近づき、

「ちょっと失礼」

 と声をかけて、今度はぽんとその細い肩を軽く叩いてみた。

「……?」

 彼女は初め、最初の言の通り己に近づくのをよしとしないのか眉を潜めていたが、その行動の意味が理解出来ずに今は訝しげに首をかしげて甲斐を見ていた。しかし甲斐はその怪訝そうな視線に気づかぬまま思考に没頭して、更に頭の回転を早めていく。

(問題なく触れる、か。これで夢幻のたぐいであることは、否定されたな)

 まあそれには自分の頭がまともであるのなら、という条件はつくが……己の正気を自分で疑っても仕方が無いことなので、それは今は考えない。
 予想。仮定。想像。可能性。様々な考えが甲斐の頭の中を巡っていく。そのどれもが、目の前にいるこの少女の正体に対するものだったが――

「あ、ぅ……」

 その思考は、彼女がふと漏らした小さなうめき声に遮られた。と同時に甲斐が顔を上げてもう一度そちらを見ると、そこには再び地面に倒れようとしている緑髪の少女の姿が。

「え、あっ、おい!?」

 それに慌てた甲斐は、すぐに考えることに夢中になりすぎていたことを内心で反省しながら、その華奢な体をなんとか地面に倒れ込んでしまうギリギリのところで抱きとめた。

「……これは、どうしたもんかな」

 相手が普通の人間なら熱射病か何かかと思うところだが、どうにもこの少女は普通ではなさそうだ。となれば果たして、このまま普通の対応――軽度なら水分補給をして木陰などへ、重度なら病院へ連れて行く――をしてもいいものか。

 一度体勢を立てなおして少女を背中に背負った甲斐は色々と考えた末に、取り敢えず自分の家で寝かせて、それで目を覚ましたら本人に確認しようという結論を出す。
 幸いなことに、家は一軒家だ。仮に何かがあったとしても、近所の人に迷惑がかかるということは早々あるまい。

「そうと決まれば善は急げ、だな」

 このまま日光降りしきるこの場にとどまり続けるのは、少女にも自分にもあまりいいことではないだろう。そう考えた甲斐はもう一度背負い直して落ちないように気をつけると、家路を急いで足を早めた。



◇◆◇◆◇◆



「ここ、は……?」

 倒れていた緑髪の少女――鍵山雛(かぎやまひな)は掠れた声を漏らしながら、ゆっくりと体を起こした。そしてぼやける視界にもどかしさを感じて目を擦りながら、静かに視線を巡らせる。
 畳の部屋。しかれた布団。横たわっていた自分。なぜか部屋の隅のタンスの上にポツリと置かれている、何かの動物のぬいぐるみ。
 ここはどこなのか。自分はどうなったのか。……何故、自分は存在できているのか。

「う……」

 頭が重くて、考えがまとまらない。頭痛もするし、体が酷くだるかった。人間の病気には経験がないが、重度の風邪を引いたとしたらもしかしたらこんな感じなのかもしれない。
 雛が額に手を添えながらそんな事を考えていると、かたりとその時戸の開く音が。その音のした方へと視線を向けると、そこには水差しとコップを載せたお盆を持っている、倒れる直前に話をしたあのよく分からない男の姿があった。

「あ、起きたのか」

 その男――甲斐はお盆を布団の脇に置くと、自分も床に腰を下ろした。そしてその後雛の顔を覗くようにして、

「やっぱり調子が悪そうだな。さっきは病院に連れていっていいものか分からなかったから取り敢えず家に連れてきたけど……どうする?」
「え? どうする、って……?」

 未だ血の気の引いた青白い顔色のまま、甲斐の問いに質問を返す雛。

「病院に行くんならこれからでも連れて行くし、それが嫌ならそのまま寝ててもいい。なにか欲しいもんがあるようなら持ってくる。ま、あんまり無茶言われても困るけどな」
「いえ……」

 雛は一度目を瞑って間を取ると、軽く首を横に振って甲斐の目を見た。

「必要ないわ。これは人間の医者のところに行ってどうなるものでもないもの」
「そか。それで、欲しい物は?」
「それも、いい」

 再度首を横に振った雛を見て、甲斐は「分かった」とだけ短く相槌を打った。
 何も聞いてこないし、疑問を挟んでくるわけでもない。雛はその、いっそおかしいくらいの物分りの良さに疑問を抱くも、しかしそれは内心に留めて立ち上がろうとするが――

「あ……」

 すぐに目眩を起こし、再び布団に倒れこんでしまった。

「おいおい、無茶するなよ」
「だめっ」

 その様子を見て、甲斐は何も聞かずにもう一度布団をかけ直し寝かせようと手を伸ばすが……同時、雛はその手から逃げるように身を引いて強い拒否反応を見せた。

「あ、悪い。そりゃそんな状態で見知らぬ男の部屋に連れ込まれちゃ、警戒もするよな。少し配慮が足らなかった」

 雛はその、まるで気にした様子もなく真摯に謝ってくる甲斐に小さな罪悪感を覚えるが、それは胸の内に仕舞い込むとすぐにそうではないと首を横に振った。

「違うわ。アナタが悪いわけじゃないの。私は……」

 そこまで話して続きを一向に口にししようとしない雛に、甲斐は訝しげに首を傾げて頭の上に疑問符を浮かべる。

「? 私は?」
「……いえ、なんでもないわ。それよりも、私は行かないと。助けてくれたことには感謝するけども、あまり長居するわけには……」

 そう言って雛は懲りずに再度立ち上がろうとするが、しかしその言葉に込められた意志の強さとは裏腹に体には全く力が入らないようで、今度は布団から抜け出すことにすら苦労する始末。その様子を鑑みるに、どうやらただごとではない事情があるのであろうことは察するに余りあるが……とは言えいくらどんな事情があろうとも、流石にこんな弱った状態ではいそうですかと放っておくわけにもいくまいと、甲斐は困ったように眉を潜めて再び口を開いた。

「……で、また行き倒れるつもりか?」
「そんなつもりはないわ」
「残念ながら、全くもって説得力の欠片もないな」

 苦笑いを浮かべ、甲斐は思わずといった様子で肩をすくめた。

「アンタが元気なら、別に止める理由はなかったんだけど」
「どうしてそこまで……、いえ、そもそもあなたは、何故私を助けたの? 最初はなにか邪な考えでもあるのかと思ったけど、そういうわけでもなさそうだし……」

 雛のその言葉を聞いて、そんなに不思議がられることかなと甲斐は首を傾げる。

「何故と言われても、そんな大した理由は必要かねえ? 普通助けるだろ、目の前で誰かに倒れられたら」
「……それは私が、人間じゃなかったとしても?」

 その、こいつは何を言っているんだとそう思われることも覚悟で口にした雛の言葉は、

「アンタが人じゃなかったとしても」

 思った以上に、効果を発揮しなかった。

「なっ……!?」
「そこまで驚くことか? あれをみりゃあ、アンタが普通じゃないってことくらいはさすがに分かるさ」

 絶句している雛を前にして、甲斐は事もなげに言い切った。

「ま、だからどうしたって話ではあるけどな。ほらほらそういうことだから、とりあえず布団に戻って。そんな今にも倒れそうな顔して無理に動こうとしない。分かったか?」
「え、あ、うん……」

 なんだか彼のその勢いに押されて、ついつい素直に頷いてしまう。そうして雛が大人しく布団の中に収まると、

「それじゃ、俺は晩飯の買い物に行ってくるけど、アンタは何がいい? リクエストが無いようなら、お粥かなんかにするつもりだったんだけど」
「え? あ、いえ。私は別に、」
「いらない、っていうのはナシな」
「でも……」
「でももカカシもなにもない。俺が気にするの。んじゃ、お粥で決定だな。オーケー?」
「……う、うん」

 おずおずと布団をかぶりながら頷いた雛に、甲斐はふっと柔らかに笑い返すと、

「よし。じゃあみ~ことと一緒に行ってくるかな。一応言っておくけど、ちゃんと大人しく寝てるんだぞ?」

 と言って立ち上がり、部屋から出ていってしまった。
 そんな甲斐の反応に、なんだか途中から自分が我がままを言っている子どもになってしまったような気がしてしまい、胸の内に気恥ずかしさが残ってしまう。

「変な、人間……」

 事故で外の世界に来てしまって、力は減る一方。信仰もなければ自分が見える人間すらいなくて、その上『現実』の強力な否定にさらされて……もう消えるのを待つばかりなのだと、そう思っていたのに。後はどうやって厄を振りまかずに、人知れず消えようかと悩んでいたはずなのに、こんな事になってしまうとは思いもよらなかった。

(そういえば……)

 そこまで考えて、あることに思い当たる。こちらの世界に来てからむこう、ずっとさらされていた存在の否定が、この家に来てからは全くないのだ。
 外の世界では、自分のような幻想の存在は否定され時間と共に消えさってしまう。だからこそ、妖怪や自分たち神々は『幻想郷』へと渡っていったというのに、これは一体どうしたことなのだろうか。
 この家の中は、許容に満ちている。現実の冷たい否定ではなく、ただ温かいだけでもない、優しい許容に。それはきっと……

(あの人間が、そうだから?)

 彼が戻ってきたら、自分のことを話してみるのもいいかもしれない。住んでいる家の雰囲気を形作るのは、当然そこに住む者だ。こんな許容に満ちた空間を作ることのできる人間なら、否定せず聞いてくれるかもしれない。

(……違う、だめよ。なにを考えているのかしら、私)

 とそこで、雛はまるでそれまでの考えを否定するかのように小さく首を横に振った。
 話すことはいい。きっと彼は事情を話さなければ、自分がすぐに離れることを納得してはくれないだろうから。だけどそれは、受け入れてもらうためにではない。いなくなるためだ。
 自分の存在は、彼に不幸をもたらす。本当なら今すぐにでも、ここから離れなければならないのだ。

(ああ、でも……)

 今は、今少しだけはこの居心地のいい空間に、身を浸していたい。現実の冷たさに凍えてしまっていた心が、そう訴えていた。
 きっとこのまま勝手に出ていってしまったら、あの様子なら彼は探しに出てしまうだろう。だから帰って来て事情を話し納得してもらうまでは、自分が出ていく訳にはいかないのだ。
 そんな拙い、理論武装。それが免罪符にすらならないであろうことは自覚していながら、雛は次第に襲ってくる睡魔に負けて、優しい微睡みの世界に身を沈めていった。



 休まずに、走り続けられる者はいない。休まずに、飛び続けられる鳥はいない。休まずに、泳ぎ続けられる魚はいない。しかし家がなければ、人は休むことができない。巣がなければ、鳥は羽を休めることはできない。住処がなければ、魚は休むことができない。
 そこはきっと、人のために生き続けた神……『厄神』鍵山雛にとって初めて得ることの出来た、心休まる空間だったのかもしれない。



[29961] 第一話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 16:58
 そっと音を立てないように戸を開いて、静かに部屋の中の様子を窺う。するとそこには、小さく寝息を立てて眠っている雛の姿が。お粥が完成したので様子を見に来たのだが、これならまだ用意するのは後にしたほうが良さそうだ。
 そうして甲斐は雛を起こしてしまわないよう足を忍ばせながら、ゆっくりとその傍らに腰を下ろす。どうやら最初に会った時よりは、だいぶ顔色も良くなってきているようだった。

(それにしても……)

 出会った時や出かける前はゆっくり観察している暇などなかったから分からなかったが、こうして余裕ができて改めて眺めてみると、まるで人形みたいに整った容姿をしていることが見て取れる。
 美しさの中にどこか愛らしさを秘めた、大人と子どもの中間のような顔立ち。見た目で判断するのなら、歳は甲斐の二つか三つほど下だろうか。身長は甲斐より頭一つ分小さいくらいだから、女性としては平均的な高さだろう。
 更に目につくのは、地毛なのか未だ判断がつかない自然で色鮮やかな緑色の髪の、その髪型だろう。長さはセミロングほどで、それを胸の前まで伸ばして大きめのリボンで束ねているという、少々変わり種なそれ。似合っていないというわけではないのだが、あまり見るものでもないのでなんとなく目が行ってしまっていた。

「ん……」

 とそこで、雛が小さく吐息を漏らしながら身じろぎをした。
 それと同時に甲斐はそこから視線を外すと、少しずれてしまっていた布団をかけ直してやる……が、あまり眠りが深い方ではないらしく、その拍子に目を覚ましてしまったようだ。直後にまぶたを開いた雛のその大きな瞳と目があって、甲斐はなんとはなしに目元を緩めて微笑んだ。

「……あ、帰ってきてたのね」
「ああ、悪い。起こしちまったかな」
「別に、気にしないでいいわ。お世話になってるのは私の方だもの」
「それこそ気にしなくていいって。全部俺が勝手にやったことだしな」

 助けてくれと頼まれたわけでもなく、自分が好きでやってることだ。正直な所、変に気にされても困ってしまう。

「そう……」

 雛のその一言を最後に会話が途切れてしまい、部屋の中に沈黙が流れる。気まずい、という程でもなかったが……さりとて気持ちのいいものでもなかったので、甲斐はその沈黙を破るために再び口を開いた。

「もう晩飯の用意は出来てるんだけど、アンタはどうする? すぐに食べてもいいし、食欲がわかないようならもう少し――」

 休んでからにするか? と甲斐が口にしようとした所で、

「鍵山雛」

 その言葉は、雛の静かな声で遮られた。

「ん?」
「私の名前よ。できれば"アンタ"じゃなくて、名前で呼んでくれないかしら」
「あ、名前ね。バタバタしてたのもあるけど、そういえばすっかり忘れてたな」

 雛の言葉に甲斐は合点がいったように頷いて、

「苗字と下の名前、どっちで呼んだほうがいい? それと、さんはつけたほうがいいか?」
「変わったことを聞くのね」
「そうか?」
「ええ、そうよ。……私のことは、呼び捨てでいいわ。雛、ってね」

 雛がそう言うと、甲斐は小さく笑顔を浮かべて頷いた。

「あいよ、分かった。それと、俺は門倉甲斐っていうんだ。まあ俺のことも、好きなように呼んでくれ」
「じゃあ、甲斐で」
「おう」

 甲斐がにっと笑って頷いたのを確認すると、雛はどこか安心したように目元を緩めて微笑んだ。

「ほんと、変な人間」
「失礼な。なぜか他のやつにもよくそう言われるけど、俺は至って平凡な普通の学生だぜ?」
「全然普通じゃないじゃない。今後自分のことをそう言う時は、自称ってつけたほうが良さそうね?」
「おいおい、ひでえなあ。こんな凡人捕まえてそんな事言うなんてよ」

 甲斐がおどけたように言葉を返すと、雛がくすくすと笑みを漏らした。それに甲斐も、ふっと笑い返して目を細める。それからしばらく二人の間には再び沈黙が流れたが、今度のそれは悪いものではなく、むしろ心地のいいものだった。

「少し……」
「?」

 しばらくして、ぽつりと雛が目を閉じながら口を開いたので甲斐はそれに耳を傾ける。

「もう少し、眠らせてもらうわ。そうすれば多分、今よりは動けるようになれそうだから……その時に、色々説明させて。そしたら、ここを出ていくから」
「ああ、分かった」

 自分の出ていくという言葉にあっさりと頷いた甲斐の様子に何故か少しだけ不満のようなものを感じてしまって、雛は『自分は何を考えているのだろう』とすぐにその想いを胸の奥にしまい込むと、緩やかに襲いかかってくる睡魔に身を委ねていった。

「そうだ。俺は飯食ってくるつもりだけど、大丈夫か? 何だったら、雛が起きるまではここにいるけど」
「……いいえ、いいわ。私には構わないで、貴方は食事を……」

 その一言を最後に、雛は完全に眠りに落ちた。

「そうか。まあゆっくり寝て、早く元気になれよ」

 そしてその様子を見て、甲斐も最後に囁くように呟くと、食事を摂るために立ち上がろうとする。が――

「あれ?」

 そこで自分の服の裾が、雛のその白魚のような指に掴まれていることに気づいて、すぐにその動きを止めた。そして少し考えてから、浮かしかけていた腰をもう一度そこにおろして、

「やれやれ。仕方ないな」

 と優しげに笑うと、ゆっくりと裾を掴んでいた指を解いてその手を握る。そして空いていたもう一方の手で雛の手の甲をぽんぽんと軽く撫でてから、そのままぐぅと主張を始めた腹の虫を宥めるべく自分の腹を押さえた。



◆◇◆◇◆◇



 鍵山雛は、神である。もっとも神とは言っても全知全能の絶対者という意味ではなく、日本で言う所の八百万の神の一柱だ。
 そんな彼女の役割は、『厄神』。それは『厄』と呼ばれる、不幸をもたらす穢れを集めるというものだった。その『厄』は彼女の身の内にではなくその周囲に溜め込んでいるので彼女自身に影響はないが、それ故彼女に近づく生者全てに不幸という名の牙を剥く。
 だからだろうか。
 彼女は人や妖かし問わず不幸を防ぐという、本来なら大変ありがたがられてもおかしくないようなご利益のある女神だというのにあまり誰かに好かれることはなく、また誰かと関わることも殆ど無い。どころか人妖問わず皆に嫌がられ、遠ざけられているというのが実態だった。
 他にも彼女自身それがあたりまえだと考えてその認識を改めようともせず、自ら人妖と接触を持とうとしないことも恐らくそう思われる原因の一つなのだろう。

 そんな彼女の神としての始まりは、今から数百年前の日本……その山間部の、とある村でのことだった。



 昔々、ある所に、小さな村がありました。その村には、一人の幼い少女がいました。少女は早くに親を亡くし、一人で生活していました。
 少女には家こそ両親の残してくれたものがありましたが、しかしそれでもまだ子ども。農作業をするにも上手く行かず、狩りをするのもままならない。細々と近くの家の手伝いをして、どうにか食いつないでいくのが精一杯の毎日でした。

 だけど少女は、自分のことを不幸だとは思いませんでした。家に帰ればいつも見守ってくれている、一つの人形。それは母が亡くなる前に少女に作ってくれた、手作りの雛人形でした。
 少女はその人形を見るたびに母のことを思い出し、父のことを思い出して……きっと自分のことを両親が見守ってくれているのだと信じて、一生懸命に生きていました。

 そんな少女のもとに、ある日旅の修験者が現れました。その修験者は修行の旅の途中で村に訪れて、宿を探していたところを偶然少女が家に招いたのです。そのまま修験者は少女の家で数日を過ごし、そして再び旅へと戻る前に、少女に一つ言葉を残しました。

 貴女の周りには、不幸の影が見えます。それをそのままにしてしまったら、きっと貴女はいつか酷い目にあってしまうでしょう。だから――
 母の遺した、大事な大事な雛人形。それを自分のヒトカタとして川に流しなさい。そうすればその人形が少女の纏った厄を代わりに引き受けてくれる。

 そんなことを最後に言い残して、修験者は村を去って行きました。
 それから一日経ち、二日経ち、一週間の時が経っても、少女は修験者の言葉通りにすることができませんでした。彼の言葉を信じていなかったわけではありません。ですが少女にとってその人形は、母の残してくれた唯一のもの。そう簡単に手放すことは出来なかったのです。

 しかし、そうして眠れぬ夜を過ごしていた少女に、一つの転機が訪れました。

 ある日突然村を襲った、激しい豪雨。それはいつもの山に恵みをもたらす慈雨ではなく、災禍をもたらす神の怒りのようでした。
 川は氾濫し、村の一部は崩れた山に巻き込まれ、作物は全てダメになり、幾人かの人が流される。それはそれは、大変な不幸でした。村人たちはその豪雨が収まった後も、しばらくは満足な食事もままならず、とてもとても苦労しました。

 そして少女はそれを、自分が修験者の言葉を無視したせいなのだと、そう思い込んでしまいました。

 それが真実がどうかは、分かりません。本当に少女に降り注いだ不幸がその豪雨を呼んだのかなど、神様にしか分からないことなのですから。ですが少女には、それが間違いのない事なのだと思えてしまったのです。

 少女は雨が止んで、まるで少し前の天気が嘘のように晴れたある日、ふらふらとお腹を空かせて朧気な足を引きずりながら山の上、川の上流へと向かいました。少女の母が作ってくれた人形を、その小さな胸に抱いて。
 そして川の上流へとたどり着いた後、少女は夜なべして作った小さな木の船に人形を載せて、そっと川に流したのです。
 その船は、少女の最後の心遣いでした。せめて人形が溺れてしまわないように。そして出来れば自分の知らないどこかで、親切な誰かに拾われてくれますようにという、幼い願い。
 その後少女はそこで力尽きてしまい、先の豪雨で増水した川に落ちてしまいます。始め少女は一生懸命泳ごうと抵抗しましたが、雨のせいで早まった流れはそれを許してくれません。
 やがて少女は力尽き、抵抗をやめ自分も流されてしまいました。まるで流した人形と一緒になるように。これであの子も寂しくないかなと、そんな思いを残して。

 そして、その日の夜。少女がいつも手伝いに行っていた家の夫婦が、少女がいなくなってしまっていることに気づきます。
 今はまだ村の復興も終わっておらず、山は雨で地盤が緩んでいるし川も酷く増水している。子どもが独りでで歩くのはあまりに危険過ぎます。
 慌てた夫婦はどこかに手がかりがないかと探して、少女の家で修験者が残した言葉を少女が書き記した、その紙を見つけました。
 その横には一言、ごめんなさいという言葉。それはまるで、遺書かなにかのようでした。

 それからすぐに、手の開いている村人総出で少女の捜索が始まりました。程なくして一人の村人が、川の下流に打ち上げられた壊れた人形と、それに寄り添うようにして倒れていた少女を見つけます。ですが少女は既に事切れていて、助けることはできませんでした。

 村の住人であり、それも健気な子どもが人知れず死んでしまったことに、村人は皆嘆き悲しみました。そして同じようなことがもう起こらないようにと、少女の遺体を埋葬した後傍らにあったその人形を供養して御神体として祀り、毎年同じ時期にヒトカタを川に流すようになりました。
 それからいく年かの年月が経ち、やがて祀られた人形には信仰が集まって、それは一柱の神となったのです。



 それが、人のために生きる神……『秘神流し雛』の異名を持つ鍵山雛の、始まりだった。
 雛には、自分が人形だった頃の記憶が残っていた。そして少女の死を悲しんだ、村人たちの想いを受けて彼女は神になった。
 だから彼女は、人が好きだった。たとえどれだけ嫌われようとも構わない。それで不幸になる人々が、ひとりでも減るのならば、と。
 自分のためではなく、自分のせいで周りを不幸にしてしまったことを何より悲しんだ少女。不幸をもたらした少女を恨むことなく、少女を死なせてしまった不幸を疎んだ村人たち。優しい優しい、人間たち。その記憶がある限り、なにがあったとしても雛が人間を嫌うことはないだろう。
 役割だから、『厄神』として在るのではない。自らが望み続けたからこそ、今も『厄神』として変わらず在るのだ。だから厄を集め続けることも、それによって人や妖かしから疎んじられることも苦とは思わなかった。
 だけど――

(時々、酷く寂しくなることがある。これまでもこれからも、ずっと独りであることが)

 自分に誰かが近づくということは、厄によってその相手を不幸にしてしまうということだ。それは嫌だった。だから常に独りであることは、自ら望んたことでもあったのだ。

 しかしだからと言って、何も思わずにいることは、例え神といえど無理だったのだ。

 神とて、心持つ存在。それも八百万の神は、どれも人に望まれて生まれたものばかりだ。故に人を求めるのも、必然のことなのだろう。正の方向にも、負の方向にも。
 人がいなければ神は存在することは出来ず、そして人は神に寄って恩恵を受ける。
 神と人との共存。それが八百万の神々が作ってきた、神と人との関係だったから。
 だから、なのだろうか。この……手から伝わってくる、初めて感じた人の温もりが、どうしようもなく離れがたいものだと感じてしまうのは。

「……、え?」

 微睡みの中で自分の思考にふと疑問を感じて、思わずパチリと目を覚ます。そうして体を起こしてすぐに目に映ったのは、うつらうつらと船を漕いでいる甲斐の姿と、その彼に握られている自分の手。そしてそこから感じられる、確かな人の温かみ。

「えっ、あ――、どうして……?」

 こうして男性に手を握られたことなんて、ついぞ経験したことがなかった。不思議と会ったばかりの相手だというのに嫌悪感こそなかったが、それがだんだんと恥ずかしくなってしまって雛は頬を紅潮させ、つぅと顔を俯ける。
 体はもう、本調子とは言えないまでも、普通に動く分には問題なさそうだ。ならば一刻も早くここから、この家から去らなければならない。
 だけど……

(人の体が、誰かの温もりがこんなに優しいものだなんて……知らなかった。今まで人とは距離をとって生活していたし、誰かに触れようだなんてしようとも思わなかったから……)

 どうしても、それは離れがたいものだった。そんな事は、本来あってはならないことなのに。
 早く甲斐を起こして一言お礼を言って、そしてここから離れなければ。雛の理性はずっと自分にそう訴えかけていたが、どうしても唇が声をだそうと動いてくれなかった。
 そうして幾ばくか雛が逡巡していると、その気配に気づいた甲斐がふっと目を覚ました。

「ああ……起きたのか」
「ええ」

 それと同時……ぐっと何かを飲み込んで、雛は静かに頷くと視線を未だ握られている手に向けた。

「あの、離してもらえるかしら」
「あ、悪い」

 すると小さく謝って、甲斐はすぐにその手を離す。それにどこか名残惜しさを感じながらも、雛はどうして自分の手を握っていたのかと疑問を口にしようとしたが、

「これ……この服、私のじゃ、ない?」

 そこでようやく、自分が着ている服がいつものドレスではなかったことに今更気がついて、小さく目を見開いた。

「ん、なんだ、気づいてなかったのか。何も聞いてこなかったもんだから、おかしいとは思ってたけど」

 雛が着ていたのは何故か、ボタンの付いた無地の白いシャツ一枚。その下は下着のみで、シャツ自体が大きいから仮に立っても見えはしないだろうが、それは酷く心もとないものだった。

「甲斐、まさか貴方……」

 ここにいるのは、自分を除けば甲斐一人。ということはこの服に着替えさせたのは――

「なんかひどい疑いの目で見られてるから誤解を受ける前に言っとくけど、それに着替えさせたのは俺じゃないぞ。実は家にはもう一人、み~ことっていうメイドがいてな。俺が雛を連れてきた時、それじゃあ寝づらいだろうからってあいつがあの服を脱がしてそれを着せたんだ。服が何故かワイシャツ一枚なのもあいつが勝手にやったことだから、もし文句があるようなら後で会ったときにでも直接言ってくれ」
「あ、そうなの……。それなら、いいのだけど」

 どこかほっとした様子で吐息を漏らした雛に、ふっと甲斐は苦笑を浮かべる。

「まあ何にせよさっきよりだいぶ調子も良さそうだし、取り敢えず飯にしようぜ。ついでだから、俺もここで食べちまうかな」
「え? 甲斐もまだ食べてなかったの?」

 甲斐の言葉に思わずといった様子で聞き返してきた雛に「ああ……」と小さく呟きを漏らすと、甲斐はぽりぽりと頭をかいた。

「前日から徹夜だったせいか、あの後俺も気づいたら一緒に寝ちまってたみたいでね。まあそういう訳だから、まずは温め直さないと駄目だな。ちょっと待っててくれ」
「待つのは別に、構わないのだけど……」

 それからすぐに、どこか腑に落ちないような顔をして首をかしげている雛を残し、甲斐は踵を返して部屋を出ていった。
 そして雛はなんとはなしにその背中を見送った後、寝る直前のことを思い出しながら先程まで甲斐に握られていた手のひらに視線を落として、じっとそれを見つめていた。



[29961] 第二話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 16:58
 甲斐は雛を寝かしていた和室を出ると、居間を通り過ぎ対面型のキッチンまで歩いて行く。そしてそこで何やら作業をしているメイド――み~ことの背中に声をかけた。

「み~こと」
「あ、甲斐ぼっちゃま。お目覚めになられたのですね」

 何度言っても一向に治らないぼっちゃん呼ばわりに内心でため息を漏らしながらも、甲斐は小さく頷いた。

「ああ。それと雛……朝に連れてきたあの子も目を覚ましたから、飯にしようと思ってな。悪いけど、み~ことはお粥の方をあっためてくれるか。俺は自分の食う分やるからさ」
「それでしたら大丈夫ですわ。いつお二人が起きられても食べられるようにとどちらにも定期的に火をかけて温めておきましたので、いつでも食べられちゃったりしちゃいますです」
「あ、そう……」

 何度聞いても力の抜ける、変な敬語だこと。甲斐は相変わらずの卒のなさに感心しながらも、どこか気の抜ける思いで頷きを返した。
 ――このちょっと奇抜な名前をしている『み~こと』というメイド、実はただのメイドではないのだ。もちろんその名前や口調はちょっとどころではなく変わっているが、彼女の普通では無い点はそれだけではなく……なんと彼女は驚きの、ロボットなのである。なんでもみ~ことは、以前岡崎教授が自分の身の回りの世話をさせるために作ったメイドロボの姉妹機らしく、余ってしまったからとモニターがてら任されたのだ。
 どこか赤みがかった金色のロングヘアーに、くりくりと可愛らしく大きな目。見た目からは絶対にロボットとはわからないような自然さで、だけどやっぱり完璧すぎてどこか不自然さを感じてしまう北欧風の顔立ちをしている。
 容姿端麗で料理は美味く家事は万能と、それだけ聞けば言うことはないのだが、ところどころにその頭脳と才能の代わりに常識というものを母の腹の中にでもおいてきたのだろう岡崎教授の妙な趣向が凝らされているのが困ったものだった。
 まあだからといってそれが嫌というわけではないし、今ではすっかり家族のようなもの。もはや彼女は門倉家にとって、なくてはならない大事な一員なのだ。

「? どうされましたか、ぼっちゃま。わたくしの顔をじっと見つめて……、――はっ!? そ、それはもしかして、まずは飯なんかよりお前を食わせろという合図だったのですかっ? もう、そうでしたらきちんと言ってくだされば、わたくしはいつでもお相手しちゃいますのにー。奉仕はメイドのお勤めですもの、夜のご奉仕もこのみ~ことにちょちょいとおまかせ下さいませませ!」
「いきなりハイテンションでなにいってんだ。んなわけあるかい」
「あ痛!?」

 いやんいやんと一人で悶えていたみ~ことの頭にごちんとげんこつを落として、さっさと食事の用意を始める甲斐。そしてみ~ことは自分で頭を撫でながら、涙目になって痛みを訴えってくる。

「うぅ、ひどいですわぼっちゃま。いきなりグーで叩くだなんて……。ああ、ですがわたくしは主人に忠実なメイド。どんなにひどい事をされたとしても、何も言わずに付き従うのがさだめなのですわ……」

 よよよと泣きまねをしながら妙な寸劇を始めたみ~ことを無視して、甲斐はお盆に載せた食事を持って和室へと向い始める。それを見たみ~ことはあっと声を上げて、慌てて泣きまねをやめて立ち上がった。

「まあっ、お待ちになってくださいませ! わたくしもお客様にご挨拶したかったのでございますです! あぁぼっちゃま、待って~」
「だったらはよ来い、置いてくぞ。……と、ついでにお粥用のレンゲ持ってきてくれるか? すっかり出すの忘れてた」
「あ、はい、分かりました。すぐにお持ちして参りますわっ」

 なんだかんだ言いながら、一人で全部をやらずに自分に仕事を残してくれる優しい主人に喜びを覚えながら、み~ことは急いで要求通りレンゲをとって甲斐の元へと駆け寄って行く。
 その姿はなんだか主人が投げたものを取ってきた犬のようにも見えて、直後に甲斐はほとんど無意識に微笑を浮かべながらみ~ことの頭をなでてしまっていた。

「?」

 それに一瞬首をかしげたみ~ことだったが、すぐに頬をほころばせて嬉しそうに笑顔を浮かべる。

「よし、それじゃ持ってくか」
「はい!」

 そうして甲斐が和室の戸の前に立つと、み~ことが自然な動作でそれを開ける。すると雛が直ぐに二人に気づいて声をかけてきた。

「あら、甲斐と……貴女はどちらさまかしら?」
「はいっ。わたくし、甲斐ぼっちゃまにお仕えさせていただいております、メイドのみ~ことと申します!」

 そうして初対面の挨拶がてら賑やかに話し始めた二人の声を背景に、甲斐は持ってきた食事を置くための押入れから小さな木のテーブルを出して足を立たせると、更にその上にみ~ことが用意しておいてくれたカバーをかける。そして避けておいたお盆をテーブルに乗せると、再び二人に視線を戻した。
 そしてその次の瞬間、

「そうなんでございますよ~。もう甲斐ぼっちゃまったら毎晩毎晩激しくて、求めてくださるのは嬉しいのですけど、少し大変で~」
「まあ。見た目によらず意外と元気なのね、甲斐って」

 甲斐はひくりと、己の頬がひきつっていくのを感じてしまう。何やらちょっと目を離していた隙に、随分と調子にのって有ること無いこと色々とくっちゃべってくれたようである。

「おいこらそこの駄メイド。なにデタラメ吹きこんでんだ」
「駄メイド!?」

 直後に何やら、「ひどいですよ甲斐ぼっちゃまぁ!」などとみ~ことから抗議の声が飛んでくるが、それを適当に流して甲斐は雛に弁解を始めた。

「一応言っとくけど、今そいつが言ったのは全部嘘だからな?」
「あら、そんなに恥ずかしがらなくても……甲斐も若いのだし、いいんじゃないかしら?」
「まったく信じられてない上にむしろ肯定された!?」
「……ぷっ。ふふ、冗談よ」

 甲斐がツッコミを入れた直後にクスクスと笑い始めてしまった雛を見てからかわれたことを理解すると、甲斐は憮然とした表情で肩を落とした。
 とそこで甲斐は改めて雛の顔を見返して、その様子が最初とはずいぶんと変わっている事に気づく。なんだかただ顔色が良くなっただけではなくて、その表情や雰囲気が何と言うか……どこか大きな余裕を持った、何か超然としたものに成っているように思ったのだ。そしてその態度からは初めの頃に感じられた人間らしさを薄れさせ、まるで別次元の存在のような……そんな見えない壁を感じさせられた。

(これが、普段の雛なのかな?)

 雛からは病院だけではなくて……どこにも、誰にも連絡をとってくれとは頼まれなかった。それは恐らく、普通の手段で連絡のつく仲間がいないからなのではないだろうか。そんな状況であんな状態になってしまっていては、きっと心も弱っていたのだろう。こうして体が回復して、やっと普段通りに振る舞えるようになったということか。

(これならもう、本当に大丈夫そうだな)

 そんな事を一人考えて頷いていると、気づけば小首をかしげた雛から怪訝そうな目で見られていた。それで我に返った甲斐はいい加減食べ始めようかとテーブルを雛の近くまで移動させて、

「それじゃ悪いけど、雛にはみ~ことが食べさせてやってくれ。俺もここで食ってるから、何かあったら言ってくれればいい」
「承知致しましたでございますよ」

 甲斐の言葉を聞いて任せておけと言わんばかりに胸を張ったみ~ことを見て、雛はすぐに遠慮するように小さく首を横に振った。

「そんな……食事まで用意してもらって、そこまでして貰う必要はないわ。自分で食べるから、私のことは気にしなくても――」
「いいえ、ダメですよ? そんな遠慮はしないで、病人さんは大人しくいうことを聞いてくださいね~」

 しかしみ~ことはさっぱりこたえた様子を見せないで、少し強引なくらいの勢いで雛にお粥を勧めていく。そのみ~ことの勢いに押されて、次第にじりじりと雛は身を引いていった。

(こういう時は、み~ことのこの押しの強さは助かるなあ)

 しみじみとそんな事を考えていると、雛が助けを求めるような視線を向けてきた。しかし甲斐はそれににっこりと笑顔を浮かべると、諦めろと視線だけで答えを返す。そうしてまるで我関せずと言わんばかりに、もそもそと食事を始めるのだった。

「さあさあ雛さん、観念して大人しくわたくしの手ずからこのお粥を食べるのですよっ。そう、それはまさしく親から餌を与えられる雛鳥のように! あら、わたくしったら今、ちょっとうまいこと言ったんじゃないでしょうか」
「ちょ、ちょっと! もう、私の話を聞いてー!」

 そんな悲鳴じみた雛の声は、完全にスルーして。
 別にさっきからかわれたことへの意趣返しも兼ねているだなんて、そんな事は全くなきにしもあらずだったりしなかったり。



[29961] 第三話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 16:58
「うぅ……こんなの初めて。私、穢されちゃったわ。厄神なのに……」

 何やら口の周りにちょこちょこと米粒やらお粥の汁やらをつけた雛が、ペタリといわゆる女の子座りをしながら嘆いている。その最初の様子からはとても考えられない雛の姿に、大分み~ことのペースに乗せられているなと微笑ましいような苦笑いを浮かべたいような不思議な心持ちになりながらも、甲斐は箸を進めて食器を空にする。
 その後も食べ終えて空いた食器をお盆に載せなおして立ち上がった甲斐を置いてけぼりにして、二人はそのままわいわいと賑やかに騒いでいた。

「ああ……申し訳ありません! いけませんわ、お粥で雛さんのお口周りがべったりです! しかもそれが垂れてしまって首元にまでっ。これはすぐにでもお風呂に入っていただかなければ!」
「えぇ!? いえ、いいわそんなの! タオルか何かを貸してもらえばそれでいいから本当にっ!」
「うふふ、そんな遠慮なさらずともよろしいんでございますことよ。さあさあ雛さん、これからわたくしとお風呂でゆっくりしっぽりと――」
「はい、そろそろいい加減にしとけよ?」
「あふん!?」

 『お前はどこのエロオヤジだ』なんてことを思いながら、手をわきわきとさせつつ雛に迫るみ~ことの頭頂部にビシッとチョップを落として動きを止める。それでみ~ことは痛みに悶えて「あぅぅ……」とうめいていたが、それは完全スルーの方向で甲斐は雛へと向き直った。

「悪いな、雛。み~ことが悪乗りしちまったみたいで、迷惑をかけた。俺があんまり家に客連れてくることなんて無くて珍しいもんだから、こいつもついテンションが上がっちまったんだろうな」

 まあ実際には、雛のやけにかしこまった態度やら遠慮やらをほぐすためにある程度わざとやっていたところもあったのだろうけど、そこまで説明してしまうのはさすがに野暮というものだろう。

「あ、いいえ……」

 甲斐の謝罪の言葉を聞いて雛はすぐに首を横に振ると、こほんと一度咳払いをして佇まいを整える。

「迷惑なんかじゃないわ。ただ、誰かとこうして接するのなんてほとんどなかったから、ちょっと戸惑ってただけよ。……それより申し訳ないのだけど、さっきも言った通りタオルか何かを貸してもらえないかしら。色々お世話になっておいてこちらから頼むのは心苦しいのだけど、ちょっと気持ち悪いのよ、これ」
「ああ、それなんだけど――」

 そこで甲斐は一度雛から視線を外して、未だ悶えたままのみ~ことの方へと顔を向けた。

「み~こと。さっきはあんな事言ってたけど、もう風呂にお湯は張ってあるのか?」

 そして甲斐がそう問いかけると、み~ことはさっきまでの態度がまるで冗談のように柔らかな微笑を浮かべて顔を上げ、

「はい。もちろんでございますわ、甲斐ぼっちゃま」

 とどこか恭しい態度で頷いた。

「そか。んじゃあ提案なんだけど、さっきみたいな冗談じゃなくてホントに風呂に入らないか、雛。もちろんさっきのこいつの悪ふざけは置いといて、一人でさ」
「え、でも……」
「み~ことじゃないけど、遠慮はいらないぞ? そんなんになっちまったのはうちのメイドのせいなんだし、多分寝てる間に汗もかいてるだろ。あんたも風呂くらい入りたいんじゃないか? 使い方は当然教えるし、別に減るもんじゃないからな。変に気にするこたあないさ」

 甲斐がからりと笑ってそう言うと、雛はしばらくの間迷っていたようだが、

「それじゃあ失礼して、少しお借りしようかしら。確かに一度体を流しておきたいっていうのはあったから、それはすごくありがたいわ」

 と言って頷いた。

「おう、そうしとけそうしとけ。んじゃあみ~こと、悪いけど雛の案内とかは頼むな。そっちは女同士のほうが安心するだろうし、俺は上で休んでっから」
「はい、分かりましたわ」
「えっ」

 先程のことを思い出したのだろう。また何かされるかもと警戒した雛に甲斐は安心しろと軽く笑って一言、

「み~こと、念のために釘刺しとくけど……今度余計なことしたら、今後一週間はデザート作り禁止令発動するからな?」
「畏まりましたわ、ぼっちゃま! 決してそのようなことはいたしませんともっ!」

 甲斐が告げたその言葉を聞いたみ~ことは直後にビシッと軍隊の最敬礼にも劣らぬ機敏さで直立し、叫び声にも似た声を出した。

「えっと……?」
「ほら、これでもう安心してもらって大丈夫だぞ。み~ことの一番の趣味はデザート作りでな。こいつはそれを凄く楽しみにしてるから、こういっとけば大抵の事はきちんとやるのさ」

 戸惑いを隠せずに視線を彷徨わせた雛に対して、甲斐はどこか楽しげにそう言った。
 そうまでしないときちんということを聞かないメイドというのは、果たしてどうなのだろうか。この変わり者の主従のやりとりを見た雛が思わずそんな事を思ってしまったのは、きっと仕方のないことだろう。

「それじゃあそういうことで、俺は自分の部屋に行くな。あ、それと雛の服はみ~ことが洗濯しておいてくれたんだけど、まだ乾いてないらしいから着替えはまた適当にみ~ことにもらってくれ」

 そして甲斐は最後にそう言い残して踵を返すと、静かに戸を空けて部屋を出ていった。

「それでは雛さん、早速お風呂へ参りましょうか。こちらですわ」
「……そうね。それじゃあお願いしようかしら」
「はい、お任せ下さい」

 そんなやりとりを背中越しに聞きながら、甲斐はとんとんと軽い足取りで階段を登っていく。そしてガチャリと自分の部屋の扉を開けると、早速机に向かって省スペース展開型の携帯端末を開いた。
 その端末に保存してあった、岡崎教授の最新論文。それを流し読みしながら、甲斐は次の実験について思いを馳せる。
 若干一八歳にして博士号をとった天才、岡崎夢美教授の研究内容は、『魔力』と『魔法』の存在証明。当然ゼミ生としてその研究室に所属している甲斐も、微力ながらそれについてのデータ集めや分析などの手伝いをしていた。
 統一原理。現在世界で一般的とされている、様々なエネルギーに関する大原則に、真っ向から対立する『魔力』、『魔法』という法則。甲斐のそんなものの研究に関わっているという下地が、今回雛のような人外の存在をあっさり信じるということの一因だったのかもしれない。
 もっともそれだけが原因というわけではなかったし、おそらく『門倉甲斐』という人間の性質上、仮にそれらがなかったとしても本人から告げられれば案外あっさり受け入れていただろうが。

「はぁ……」

 そうして甲斐が自分の部屋に戻って論文を読み始めてから、およそ数十分ほどした頃……甲斐は突然小さく溜息を吐いて、携帯端末の展開型ディスプレイを収納しそれを非接触充電機の上に収めた。

(……相変わらず、さっぱりわけがわからない)

 例えば、考古学の研究をするとしよう。その場合普通研究者というのは、まず資料を集める事から始める。それは古い文献であったり遺跡であったり、そういったものを参考にしてそこから自分なりの答えを出していくものだ。
 大抵の場合文系理系問わず、普通何かの研究というのは参考にするものや研究対象が先にあって、そこから研究を進めていく。しかし岡崎教授の場合はそうではなくて、『魔法』そして『魔力』という研究対象の実例が手元にないというのに、既存の原理を常人には理解出来ないほど複雑な論理を持って組み立てていき、そこから論拠を見出し理論をひねり出す。……言うなれば、『どこにも隙のない机上の空論』とでも言うべきもの。それが彼女のその論文には記されていた。
 そんなもの、ハッキリ言って常人どころか知識人にだって理解出来ない。実際問題、岡崎教授はその人格にさえ目をつぶれば一〇〇人が一〇〇人納得するような確かな天才だというのに、学会においてはその頭脳と理論が全く認められていなかった。

 結局のところ、彼女のそれは早すぎたのだろう。かつて天動説が主流であった時代に地動説を唱えた学者のように。あるいは相対性理論という現代にも通じる理論を打ち出した過去のとある天才のように。
 ではなぜ甲斐がその論文……いうなれば研究の大前提とでも言うべきものを理解できていないのにその研究室のゼミ生になったのかというと、これが全くと言っていいほど甲斐本人の意志が介在していなかった。

 そもそもの原因は、およそ一年半前に遡る。その時甲斐はとある知人の所属しているサークルの、その活動の手伝いをしていたのだ。そしてその過程で偶然岡崎教授と少し話す機会があって、そこで彼女に妙に気にいられてしまい、そしてそのまま半強制的に研究室に入れられてしまった、というものだった。
 とはいえ昨日から今日の朝まで徹夜でその研究の手伝いをしていたことから分かる通り、甲斐自身は案外今のこの状況を楽しんでいたりする。
 基本的にこの門倉甲斐という人間、大抵の事をあっさりと受け入れるずぶとい神経をしているのである。



[29961] 番外編:上
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 16:58
「門倉。アナタ、今日からバイトやめなさい」
「……、はい?」

 全ては岡崎教授の、そんなセリフから始まった。





「えっと……要するにまとめると、念のために作った発明品の予備が余ってしまってそのままお蔵入りするのももったいないから、データ集めがてらついでにモニターをして欲しいのでバイト代を出す代わりにそれを俺にやってくれと、そういう事ですか」
「ええまあ、だいたいそんな感じね」
「岡崎教授。アンタねえ……」
「? なによ?」

 講義が終わって今日はゼミもないから、バイトまで家に帰って一眠りしようとしていた矢先にこれだ。相手の都合を全く考えないその傍若無人っぷりに、さすがの甲斐も少々呆れてしまう。

「……いや、やっぱいいです。教授にコミュニケーション能力を少しでも期待した俺がアホでした」
「ほっほう、言うわねえ門倉甲斐くん。せっかくあなたの事情を加味して給料は月20万にしてあげようと思ってたのに……そういう事言うなら、少し下げちゃおっかなー」
「――はあ!? 月給20万っ? 教授アンタ、やっぱりバカですか!? 普通バイトなんて掛け持ちしてせいぜい一〇万超ですよ! 確かに未発表の発明品のモニターって聞けば多少給料が高いのは分かりますけど、それにしたって月二〇万って、大学生の平均初任給も超えてるじゃないですか!」
「な、なにさ……じゃあ、いらないの?」

 甲斐の勢いに負けて若干身を引きながら岡崎教授がそう口にすると、甲斐はそれまでの驚きの表情がまるで嘘のように平静な表情に戻って首を横に振った。

「いえ、くれるって言うんなら当然ありがたく頂戴しますけど」
「……いつもなんだかんだと言ってくれちゃってるけど、門倉もたいがいよね、ホント。ていうかそもそも、モニターする発明品の詳細も聞かないでそんな安請け合いしちゃっていいわけ?」
「かまいませんよ。基本的に岡崎教授の作るものは仕様はぶっ飛んでることが多いけど不良品はないから使い方さえ間違えなきゃ危険はないだろうし、まさか俺に武器やら危険物やらの試用は頼まないでしょうからね」

 甲斐が問題ないと頷くと、その瞬間に岡崎教授はプイッと顔を横に背けて、

「――ふん、まあいいわ。門倉に頼みたいモノは研究室にあるから、さっさと行って説明するわよ」

 と言って甲斐の反応もまたずに言葉通りさっさと歩き出してしまう。

「……? って教授、俺置いてってどうする気ですか。ちょっと待ってくださいよ」

 そして甲斐も岡崎教授のその様子に一度訝しげに首をかしげてから、その背中が完全に見えなくなってしまう前に小走りで追いかけ始めるのだった。




「ちゆり、いる? ……ちょっと、ちゆり?」

 研究室についてすぐ、自分の助手の姿を探す岡崎教授。しかしいくら声をかけても一向にちゆりからの返事は来ず、その姿も見えない。どうやら彼女はどこかへ出て行ってしまっているようだ。

「全く……この天才、岡崎夢美の助手なら時空間くらい飛び越えてどんな時でも私の要望に答えるくらいはしなさいよね、使えないなあ」
(……またこの人は、無茶苦茶言ってるなあ)

 おいおいと一瞬苦笑を浮かべながら、甲斐も彼女に続いて研究室の中に入った。

「しょうがないなあ。それじゃあ門倉、ここは無能な助手に変わってこの私が直々に説明してあげるから、着いて来なさい」
「了解です」

 コクリと頷き、紙束やらなにやらが散らばっている雑多なその部屋から奥の扉へと歩いて行く。そして直ぐに目に入ったのは、訳のわからない機械だらけの、学校の体育館くらいはある広さの部屋だった。

「――」

 甲斐はパチリと目を瞬かせて、思わず無言で岡崎教授を見てしまう。
 確かに、岡崎教授は天才だ。が、しかし教授は博士号を取って以降、世間には全く評価されていないのが現状なのである。その彼女のために、大学がこれほどの設備や部屋を割り当てるとは、到底思えることではなかった。
 ……と言うかそれ以前に、外から見た部屋の大きさをこの部屋は明らかに超えているのだが、これは一体全体どういうことなのだろうか。
 すると彼女はその視線で甲斐の疑問を察したのか、自慢気に胸を反らせてこの状況の説明をしはじめた。

「ふふん、この部屋はそこにある『おばあちゃんの知恵袋シリーズ第五号、らくらく空間上手くん』の機能で、本来の大きさ以上に広げてあるのよ。このらくらく空間上手くんは、指定範囲内の空間の拡張が出来る機械なの。どう? すごいでしょ」
「いや、たしかに凄い……というかとんでもないけど、物理学者が気軽に物理法則超えんなよ」

 思わず敬語を忘れて素で突っ込んでしまう甲斐に対して、岡崎教授はチッチッチと指を振ってにやりと口角を吊り上げた。

「なに言ってるのよ大学生。これはきちんと物理法則に則って、工学的に作ったものよ? まだまだこれくらいで驚いてもらっちゃ困るわね。こんなのは今作ってる『可能性空間移動船』のついでに片手間で作った、ただの試作品の一つだし」

 もうなんか、岡崎教授は『魔法』『魔力』の研究の前に、先にこれを学会に提出すればそれでいいんじゃないかな。思わずそう思ってしまう甲斐であった。

「いやよそんなの。つまらないし、悔しいじゃない。あの論文にはなんの間違いもなかったのに、頭の硬い懐古主義の老人どものせいで認められないだなんて、冗談じゃないわ。絶対にアイツらには完膚なきまでに確定的な『魔力』の存在証明を突きつけて、見返してやるんだから」

 できれば口に出してもないのにナチュラルに心を読むのはやめて欲しいと思ったが、もうこの人には何を言っても手遅れなのだと理解した甲斐は適当に教授の言葉と現状を流して、

「それで、俺にモニターを頼みたい物ってのはどれなんですか?」

 と話をすすめることにした。
 すると岡崎教授は「むっ……」と呟きを漏らして一瞬唇を尖らせたが、すぐに「こっちよ、着いて来て」と言ってひょいひょいと床に転がってるよく分からない機械を避けながら奥へと進んでいく。
 甲斐もそれに続いて慎重に物を避けながら歩いて行くと、何やらその先に薄ぼんやりと光っている二メートルほどの高さのカプセルが3つ並んでいるのが見えてきて、教授がその前で立ち止まったので並んでそれを見上げた。

「これは……」
「これが今回、門倉に頼みたいって言ったものよ。どうかしら?」

 そこにあったのは、よく分からない緑色半透明の液体の中に浮かんでいる、美しい裸身の少女の姿だった。それを見た瞬間甲斐は横で自慢気に腕を組み胸を逸らしていた岡崎教授の肩をぽんと叩き、目を瞑って小さく首を横に振った。

「? 何よこの手は?」
「岡崎教授……アンタついにやっちまったんですね」
「……は?」

 その言葉の意味が分からず口をぽかんと開けたままの岡崎教授に甲斐は続けて、

「まさか研究材料に生きた人間をそのまま使うだなんて……確かに教授はマッドサイエンティストだしいっつもやることなすこと無茶苦茶だったから、いつかはなんかやらかすんじゃないかとは思ってたけど、いきなりこんな事をするとは思ってもいませんでした」
「は、はあ!? な、んなわけあるか! 門倉アンタ、なにいってんの!?」
「ダメですよ岡崎教授、誤魔化しちゃ。これ、ちゆりさんは知ってるんですか? いや、教授のやってることをあの人が知らないわけないか。……大丈夫です。俺がちゃんと警察まではつきそってあげますから、きちんと二人で罪を償ってきてください。臭い飯でもたっぷり食って、ついでに常識でも身につけてくれると個人的には嬉しいですね」
「……そう。とりあえず、門倉が私のことをどう思っていたのかはよぉく分かったわ……」

 半目でこちらを睨みつけてくる教授にあははと軽く笑い声を上げた後、「冗談だって、わかってますから」と笑い返して甲斐はもう一度口を開いた。

「っで、ホントにどこの人さらってきたんですか? なんにせよちゃんと家に返してやらないとダメですよ、岡崎教授」
「それのどこが分かってるのよ!? 全然わかってないじゃない!」
「わはははは!」

 くわっと目を見開いて叫び返してきた教授にかんらかんらと楽しげに笑い声で返答した後、甲斐はいいかげん話を戻そうとぜいぜいと息を荒げている岡崎教授へと向き直る。

「それじゃ、ホントに冗談はこの辺にして……どうして今更、人型のロボットなんて作ったんですか? もう基本的には機械工学でそっちの分野の研究は出尽くしてて、機能性の面じゃ劣るからって今じゃこういう形のは介護関係のロボットとか、あの辺の業界くらいでしか使ってなかったと思うんですが」

 すると岡崎教授はどこか不満気にぶつぶつと、

「まったく、本当なら裸のこの子を見て慌てる門倉を私がからかってやるつもりだったのに平然としちゃって、相変わらず予定通りに行かないやつなんだから。ホントに男か、この不能め……」

 などと口の中で呟いた後、目の前のカプセルの脇にある端末を操作してモニターを展開した。
 そしてこほんと一度咳払いすると気を取り直して、そのモニターに彼女のスペックや設計図などを表示する。

「それじゃあ説明するわよ。この子は型式番号I-003:家事手伝い用メイドロボット、名称み~こと。隣にあるのは、この子の姉妹機ね。この子たちは元々私の身の回りの世話をさせるために設計したんだけど、それだけじゃ市販のやつと変わんないしつまんないからってついでに色々つけてみたのよ。設計コンセプトは、新しい機械生命体ってところかしらね。動力は三人とも超小型核融合炉を搭載してるから、壊れさえしなければ半永久的に稼働が可能よ。それで――」
「ちょっと待てい」
「……なに? まだ説明の途中なんだけど」

 つい反射的に待ったをかけた甲斐に、いきなり説明を遮られたことで不機嫌そうな視線を向ける岡崎教授。

「人間サイズのロボットに搭載できるような小型の核融合炉なんてまだ実用化してないはずだろとか爆発したらどうすんだとか、気軽にそんなもん載せんなよとか色々ツッコミどころは多いけど……そもそもそれ以前にまず、これって日本政府に許可はとってんですか」
「大丈夫よ」
「え、本当に?」

 流石の岡崎教授も、核の扱いは適当じゃなかったかと一瞬ほっとしたのも束の間。そんな気持ちは次の教授の台詞であっという間にどこかへすっ飛んでしまった。

「ちゃんと安全装置は二重三重にしてあるし、仮にどういう壊れ方をしたとしても絶対に爆発なんてしない私自慢の新型機なんだから、安全性はバッチリよ」
「ってそういう問題じゃねえですから!」
「なんなのよ門倉、さっきから文句ばっかり。そんなに心配しなくても、核融合炉はプルトニウムとか必要ないからヤバイ材料は使ってないし、そもそも誰もこんな大きさの核融合炉なんて在ると思わないからばれないわよ、絶対」
「あ、そっすか……」

 相変わらずのやりたい放題な教授の態度に、これ以上はいっても無駄かと一度深いため息をつくと、もう諦めて受け入れることにした。
 実際問題、岡崎教授の言うとおりそれこそ中身を調べられさえしなければばれないだろうし、壊れても爆発しないというのも教授の言うことなら本当なのだろう。この人は自分の発明品のことに関しては嘘をつかないので、そこは信用していいはずだ。そう考えると、教授の言う通り大した問題ではないような気がしてくるから困る。

「どうやら納得してもらえたようだから、説明を続けるわよ。次はこの子たちの頭脳周りのことだけど……この子たちは、AIを搭載してないの」
「AIはなし? じゃあ自律行動はできないのか」
「ノンノン、そいつは早とちりよ門倉甲斐くん」

(あ、なんか地雷踏んだ……)

 甲斐の漏らしたつぶやきを聞いた瞬間に何故かものすごく嬉しそうな表情を浮かべた教授の様子に一瞬頬を引きつらせるが、そんな甲斐の様子はお構いなしに岡崎教授はものすごい勢いで得意げに語り始める。

「そもそもの話、ロボットに人工知能なんて搭載するのが間違ってるのよ。体は金属。神経もなければシナプスもない、心臓もなければ体は有機物ではなく無機物で構成されてる。命令の伝達方法はアナログではなくデジタルで機械言語。それなのに思考は人間に近づけようだなんて、土台無理な話なのよ。精神や人格は外的要因と内的要因の両方が複雑に影響しあって構成されていくっていうのに、内的要因が人とはかけ離れてる上に、外的要因の入力方式だってそもそもぜんぜん違うんだから。
 じゃあどうすればいいのか? 答えは簡単。人工的にではなくて、自然に知性が生まれるようにすればいい。あんまり思考が人間とかけ離れすぎても家事手伝い用メイドロボとしては問題があるから、基本は人間と同じ……左脳、右脳、大脳新皮質、脳幹なんかの機能を模した装置を組み合わせて、記憶域も意味記憶、エピソード記憶と分けたりしてるわ。一応知識に関しては事前にある程度入力してあるしモニタリングだけは私限定でできるようにしてるけど、後は私もノータッチなのよ。
 この子たちは己の意思で動くことが出来、己の意思で主人を決め……そして己の意志で主人を見限ることができる、完全自律型ロボット。そんなロボットを作ることを目標として作られた、いわば新しく生まれた新しい種族。それがこの子たちなのよ」
「ええっと……」

 勢い込んでまくし立てられ若干くらくらする頭で、話の内容をどうにか聞き取れた部分だけでも反芻する。

「つまりこのみ~ことっていうメイドロボとその横にある姉妹機は、教授が腹を痛めずに頭を捻って作った子どもみたいなもんだってことでオーケー?」
「え? あー、まあ……そういう見方もあるかもしれないわね、確かに。だいたいそんな感じかも」

 甲斐の言葉に一瞬キョトンと目を丸くしていたが、すぐに岡崎教授はなるほどといった感じでうなずきそう言った。

「ちなみにこの子――門倉にモニターを頼むみ~ことは、他の同型機と違ってその基礎性向……人間で言うところの性格も与えてないわ。だから多分この子は、最初のうちは数世代前のAI未搭載型ロボットとあまり変わらない受け答えしかできないはずよ。だけどこの子は自分で考え、覚えて、学習していく。いずれはきっと人ともまた違う精神性を持った、新しい存在として独自に成長していくはずだわ。そしてこの子を育てるのは甲斐、あんたよ」
「……」

(なるほど。これはモニターという体を保ってはいるけれど、実態は小さな子ども一人を……それも性格、人格面では赤ん坊と変りない子を預かるのと同じようなものなのか)

 そうなると、どうしたって気軽にはうなずけない。岡崎教授の説明を受けてそう考えた甲斐は、暫くの間腕を組んで顎に手を添え考える。そして教授がいつまで経っても帰ってこない答えにしびれを切らして口を開きかけたその時に、静かに顔を上げるとその彼女の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「一つだけ、この話を受ける上で条件を付けさせてもらってもいいですか?」
「条件? 何かしら。言ってご覧なさい」

 岡崎教授がそう言って頷いたのを確認してから、甲斐はその内容を話し始める。

「俺のことをそこの彼女……み~ことって言ったっけ。その子が自分で俺が主人でもいいと言わなければ、この話は受けないということ。そしてもしその後にでも彼女が俺と一緒にいるのが嫌だと言ったら、その時はすぐにモニターをやめて教授が引き取ってください。それが条件です」
「ふうん……。ようするに、門倉の所に行きたいかどうかは、その子本人の自由意志に任せることが条件だ、っていうこと?」
「まあ、そういう事ですね」
「なるほど。なるほどね……」

 岡崎教授はなぜかうんうんと、どこか楽しげな表情を浮かべて頷くと甲斐に向かって、

「それはすごく門倉らしい話だわ。分かった、それでいいわよ。み~ことがもし自分であなたの所に行くのが嫌だって言ったなら、その時はこの話はなかったことにするわ」

 と言って最後に小さく「まあ、それは多分ないと思うけど」と呟いてから、何やらみ~ことの入っているカプセルの前にたって作業を始めた。

「それじゃあみ~ことを多目的休眠機から出すわよ。……あ、門倉は少しそこから離れてて。危ないから」
「了解です」

 甲斐がそう言って横に何歩かずれてから視線で確認すると岡崎教授が頷いたので、そこで立ち止まる。そしてそのまま作業の様子を眺めていると、しばらくしてカプセルの中に入っていたよく分からない液体が排出され、裸のままの『み~こと』が屈んだままゆっくりと外に出てきた。
 直後に甲斐が岡崎教授に視線を送ると、その視線に答えて彼女はもう一度小さく頷いた。甲斐はそれに頷き返すとすぐに数歩前に歩みでて、み~ことの真横まで行くとパサリと自分の着ていた上着を彼女のむき出しの肩にかけて目線が合うように屈みこみ、穏やかな表情と共に声をかける。

「初めまして。俺の名前は門倉甲斐って言うんだ。アンタの名前も、教えてくれないか?」
「門倉……門倉、甲斐様? わたくしは……」

 それが甲斐とみ~ことの、最初の邂逅……そしてみ~ことが門倉家の一員となった、その最初の日の出来事だった。



[29961] 番外編:中
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 16:59
「初めまして。俺の名前は門倉甲斐って言うんだ。アンタの名前も、教えてくれないか?」

 名称:門倉甲斐。推定種族:人間。記憶域に一件の該当項目あり。現在のマスター候補第一位。優先度、暫定高。優先度の変更をしますか? →No

「門倉……門倉、甲斐様? わたくしは……わたくしの名前は、み~ことと申します。初めまして、門倉甲斐様」

 み~ことが初めて目を覚ました時、一番初めに口にしたのは自分の名前ではなく、甲斐の名前だった。その事実がなんとなくみ~ことには何か意味があるような気がして、この後甲斐が口にした自分の所に来るか否かという問いに是と答え、門倉家のメイドとして仕えることになる。それが、初めてのみ~ことの『思考』だった




 ガチャリと甲斐が家の鍵を開け、玄関の中へと入る。それに続いてみ~ことも家へとはいってその中を見渡した。

「さ、ここが今日からアンタの家だ。俺はちょっとこれから前のバイト先に行って色々やってこなきゃならないことがあるから、悪いけど適当にくつろいでてくれ。中にあるものは好きに使ってくれていいから、テレビでも食いもんでも……あ、物は食べれないのか。まあ、ともかくそんな感じで」
「畏まりました、マスター」

 甲斐の言葉の後に、恭しい態度で頭を下げるみ~こと。

「マスター、マスターね……。まあ確かにそういう事になるんだろうけど……出来ればその呼び方はやめて欲しいな。名前で呼んでくれ、名前で」
「畏まりました。では、今後は甲斐様とお呼び致します」
「様、ね。まあいいか。んじゃまあ行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ、甲斐様」

 深々とお辞儀をして、軽く手を振って背中を見せた甲斐の見送りをする。そしてバタンと扉が閉まり完全にその姿が見えなくなった後に、み~ことは早速動くことにした。
 眼球のモードを写真記憶に変更。もう一度そこをぐるりと見渡すと、まずは間取りの把握と他の部屋も同じく隅々まで記憶していく。そして周辺地図も組み合わせて通常時、危急時、災害時などの状況別の最適なルートを構築すると、次に家にある家具や家電などの把握を開始した。
 家の大きさに対して総じて置いてあるもののランクが少々低めで、充実度もあまり高い方ではない。その上靴箱の中にも靴が一人分しか存在せず、冷蔵庫の中の食材があまり多くはなかったことから、一人暮らしと断定。次に清掃、洗濯、料理などの作業の効率化を図るために道具の位置や種類を把握。不足物があればリスト化する。

 それで大体の準備が終わったので、み~ことはまず家の中の掃除から開始することにした。
 初めに家全体のホコリの処理。さらに念のために内蔵されている対防虫低周波発生装置を使用し、発見した死骸の処理。次に清掃用無菌布とバケツを用意して窓の拭き掃除。その後も風呂掃除や洗濯、料理の下ごしらえなど、大凡思いつくすべての家事を驚くほどの短時間で済ませていく。
 そうしてちょうどすべての作業が終了し、み~ことがすぐに出来ることはだいたい終わらせた頃に、み~ことの聴覚センサーに反応があった。どうやら甲斐が用事を終えて帰ってきたようだ。
 み~ことはすぐに使い終わった道具をしまうと、玄関へと移動して己の主人を迎えるべく待機する。

「ふう……、――ん?」
「おかえりなさいませ、甲斐様」

 そして扉が開いて甲斐が玄関へと入ってくると、すぐにみ~ことは深々と頭を下げて出迎えた。
 すると一瞬甲斐はきょとんとして首をかしげて動きを止めたが、

「ああ、そうか。今日からアンタが居るんだったもんな。……ただいま、み~こと」

 ふっとどこか嬉しそうに表情を緩め、目を細めてそう口にする。
 その表情と、声を聞いた瞬間み~ことは、初めて名前を呼ばれた時と同じ何かを感じて、そっと自分の胸に手を添えた。

「み~こと?」
「え、あ……」
「どうした、いきなりぼーっとして。なんかあったか?」

 靴を脱ぎながら首を傾げた甲斐に、み~ことは少し慌てながら首を横に振って、

「い、いえ。なんでもございません。……甲斐様。先ほど甲斐様がお出かけしていた間に掃除やお洗濯はすませておきましたので、もう他にお出かけする予定がないのであれば、後はごゆっくりお休みくださいませ」
「あん? 掃除も洗濯もやっといたって、この短い時間に全部か? そりゃすごい。どれどれ?」

 そう言いながら居間へと移動すると、甲斐は一度部屋の中をぐるりと見回して、ほうと感心の吐息を漏らした。

「おお、すげえ。どこもかしこもピカピカだ。まるで新築の頃に戻ったみたいだぜ。ありがとな、み~こと。こりゃ今晩は気持よく眠れそうだ」

 その後甲斐はみ~ことに向かってにっと明るい笑顔を見せると、ぽんとその肩を軽く叩いて着ていた上着を脱ごうとする。

「いえ。この程度、メイドとして当然の務めでございます。それよりも甲斐様。お召し物はわたくしにお任せ下さい。お手伝いします」

 み~ことがそう言って上着を脱ぐのを手伝い受け取るが、甲斐はそれに思わず苦笑して、

「いやいや、み~こと。家は上流階級でもなんでもないんだから、そういうのには抵抗があるんだ。だから家事手伝いはありがたいけど、必要以上の世話はいらないから」

 それにみ~ことは「畏まりました」と口にしながら恭しく頭を下げた。その態度に甲斐はもう一度小さく苦笑を浮かべた後、居間から出ていき部屋へ戻ろうと廊下に出る。

「甲斐様。お部屋にお戻りになられる前に一つお聞きしたいことがあったのですが、少々よろしいでしょうか?」
「ん、なんだ? 別にいいけど、まだなんか気になることでもあったか?」
「ありがとうございます。では……」

 み~ことはもう一度静かにお辞儀をすると、甲斐に確認事項を告げる。

「お部屋にあった、奥に積まれていた雑誌類はまだ読まれることがあるのでしょうか? もしもそうではないのなら、紙は埃がたまりやすいのでできるだけ廃棄をしたいのですが」
「部屋の奥にあった、雑誌……? ――あっ」

 甲斐の脳裏に、自身のコレクションたちの姿が浮かぶ。一人暮らしで誰に見られることもないものだから、特に隠しもせず積んであったのがまずかったかと顔を引きつらせて肩を落とした。若い男が"そういう類い"を持っているのは当たり前だが、だからといって必要以上に見せびらかすものでもないのだから、今後は気をつけるべきだろう。

「あ、あー……、悪いけど、あの辺の本は今後ノータッチでお願いします、はい。一応今度からは、人目にはつかないところにおいておきますので……」
「? はい、畏まりました」

 とまあ、そんなこんなでこの日から、甲斐とみ~ことの共同生活が始まったのであった。
 初めのうちは、初日のようにそれぞれの認識をすり合わせる必要があった。上着の時のように彼女の過剰なおもてなしを控えてもらったり、バイトが無くなって暇が増えたからと少し家事を回してもらったりと色々だったが、み~ことはともかく優秀で何をするにも卒がなかった。そのたびに甲斐は感心したり驚いたり、ついでにみ~ことに頼まれたものを買って揃えてやったりしながら、同時にその機械的な態度に少しだけ不満を覚えてしまう。

 甲斐はいつも、他人に対して自分から何か干渉するということが少なかった。それは甲斐の根本にある、何でもすぐに受け入れる気質の弊害とも言えるものだったのかもしれない。その相手を、世界をそのまま受け入れてしまうからこそ、余程のことがない限りそこにそれ以上の干渉をせずに自然の変化のみを受け入れる。
 とは言えやはり、甲斐とて人間だ。仮にみ~ことが他人だったら、これまでのように甲斐は何も思わなかっただろう。しかし甲斐は早くに家族を亡くしており、その孤独を受け入れながらも忘れることはしていなかった。
 だから――

「なあ、み~こと」
「はい。なんでしょうか、甲斐様?」
「そう、それだ」

 甲斐はピッとみ~ことを指さした。

「……?」

 み~ことは訝しげに首を傾げて甲斐を見る。

「前はそれ、スルーしたけど……なあ、み~こと。お前は当然、これからもこの家に居るつもりなんだよな?」
「甲斐様の質問の意図が理解できませんが……、はい。おそらく甲斐様がわたくしを返却しない限りは、こちらにいさせていただくことになると思います」
「そりゃありえないし、んじゃあみ~ことはもう俺の家族ってことだよな? それならやっぱり、お前さんは今後様付けで俺のことを呼ぶのはやめてくれ。できれば口調ももう少し崩してくれると嬉しいんだけど……まあ流石にそれは今は置いとくか」
「……しかし、マスターのお名前をメイドのわたくしがそのように呼ぶわけには……」
「さん付けでもダメか?」
「……」

 無言で眉尻を下げて、目線を伏せるみ~こと。そんな初めて見る彼女の困り果てた表情に、甲斐は一度残念そうに吐息を漏らすと小さく肩をすくめた。

「仕方ない、今は諦めるか。別にお前を困らせたかったわけじゃないからな。まあ、いつか自然に呼び方が変わることを期待するよ」

 そして最後にそう告げると、み~ことから視線を外してソファーでテレビの続きを見始める。み~ことはその様子を横目に見ながら、呆っと考え事をしつつ掃除の続きをするために手を動かし始めた。

(家族……)

 本来は、共に住んでいる直接の血縁者に対して使用する言葉。

(わたくしはロボットで、甲斐様は人間。血縁どころか機械と人……何もかもが違うというのに……)

 そしてガシャンと、大きな音がする。続いてバシャリと大きな水音が。考え事をしていたせいなのだろう。み~ことは手元が疎かになってしまい、その時磨いていた半円級の水槽をつい手落としてしまったのだ。

「あ……!」
「ん?」

 その音に甲斐が振り返ると、珍しく失敗してしまったみ~ことの姿。それを見た甲斐は目を丸くして驚きながら、「大丈夫か?」と反射的に声をかけていた。
 するとみ~ことは、

「申し訳ありません、甲斐様。すぐにお片づけを……」

 と言いながら深々と頭を下げた後、手早くそれの処理をし始めた。
 表情は無表情。同時に死んでしまった水槽の中の金魚達は手際よく処理して"ゴミ箱"へ。その様子を見た甲斐は一瞬眉を顰めて、「なるほど」と小さくひとりごちた。
 先ほどみ~ことが頭を下げたのは、ただの反射行動。悪いと思っているから謝っているのではなく、悪いことをしたのなら謝らなければならないから謝っている。そこに介在している感情はなく、"失敗"に関しては謝罪していても、それで失われてしまったものには何も感じていないのだろう。
 先ほどの表情を鑑みるに感情が全くないということはないのだろうから、これはやはり単純に教授の言っていた情緒の未発達が原因なのだろう。

「……ふむ。なあ、み~こと」
「はい。なんでしょうか?」

 すべて片付け終えたみ~ことに向かって甲斐は声をかけるとソファーから立ち上がって、

「ちょっと出かけるぞ。悪いけど、少し付き合ってくれ」
「それはつまり……わたくしも一緒に、ということでしょうか?」
「ああ、そういうこったな。よし、行くぞ」
「……畏まりました」

 そう言って上着を取って玄関へと向かった甲斐を追いかけて、み~ことも玄関へと歩いていった。



[29961] 番外編:下(前)
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 16:59
「まずは服だな」

 家を出てすぐにそう呟いた甲斐が向かった先は、家からバスで三〇分ほどの位置にある大型デパートだった。

「甲斐様。わたくしのこのメイド服は自動洗浄機能がついておりますので、修繕不可能な破損でも負わない限りわたくしに着替えは必要ございません」
「あのなあ、おまえ前もそんな事言って自分の服は買わなくていいって言ってたけど、女の子なんだからもう少し身だしなみは気にしたほうがいいぞ。まあたしかにそのメイド服は似合いすぎるほど似合ってるし、み~ことは冗談みたいな美人だから何着てても変じゃないけど、それにしたって外行きの服くらいはなんか買っとけ」
「しかし……」

 み~ことはそう呟いて困ったように眉尻を下げるが、

「しかしもだってもかってもない。俺が気にするの。お前はもう俺の妹みたいなもんなんだから、妹に服の一つも買ってやれない兄貴なんて情けなくて仕方ねえっての」

 最後に甲斐はそう言ってみ~ことの手を引き、適当に目についた女性服売り場に入っていく。そして丁度目の前を通りかかった店員に向かって話しかけた。

「あ、店員さん。ちょっといいですか」
「はい、何でしょうか?」
「いやあ、こいつ最近田舎から出てきた家の妹なんだけど、こっち来る時色々あって服が全滅しちゃったらしくて。だから上下合わせたの何着か、適当に見繕ってもらえますか」
「まあ、持ってきたもの全部ですか。それは災難でしたね……。わかりました、それでは……、……あら? 妹さんがいま着られているの……メイド服、ですか?」
「ああ、もともとこいつ、そういう関係のイベントに出るために来てたんですよ。それでその服だけは別にしてたからたまたま無事だったんで、仕方なくそれで」

 心よく頷いてみ~ことの方へと視線を移した後、一瞬動きを止めて疑問を口にした店員に甲斐はさらりと平然とした表情で事前に考えておいた理由を口にした。もっとも、赤の他人が明らかな嘘であろうととりあえず事情を説明した上で変に突っ込んでくることもないだろうと判断したためか、大分中身は適当だったが。

「へえ……そうなんですか。分かりました。では、どうぞこちらへ。……それにしても妹さん、凄く綺麗な髪をしてますね。顔立ちも外国の方みたいですし、まるでお人形さんみたいに綺麗」
「ええまあ、一応ハーフですからね。妹は親父の再婚相手の連れ子だから、俺は違いますけど。……あれ? ほらみ~こと、なにやってんだ。お前の服選ぶんだから、お前が着いて来ないと意味ないだろ。早く来いよ」

 甲斐がそう言って後ろに振り向き名前を呼ぶと、

「あ、え……、はあ……」

 とみ~ことも、若干目を白黒させながらその背中についていった。




「お客様、少々よろしいでしょうか」
「はい? ……ああ、店員さんか。もう選び終わりました?」

 おそらく服選びは長くなるだろうし、自分がいても女性の服は分からないからと途中で離れて店のすぐ側にあるベンチで待っていた甲斐に、先ほどの店員が話しかけてきた。

「ええ。先ほど何点か選ばせていただいて、今はご試着していただいております。それで一度、お兄さんにも是非見ていただきたいと思いまして」
「ん……オッケー、分かりました」

 甲斐が頷いてベンチから立ち上がると、「それではこちらへ」と言って歩き始める。甲斐もそれに続いて歩いて行き、やがて店の奥にある仕切りの前で足を止めた。

「み~こと?」

 そして甲斐が声をかけると、

「あ……は、はい」

 み~ことはどこか恐る恐ると言った様子でカーテンを開けて出てきた。

「おお……、すげえ似合ってるなその服。まるでいいとこのお嬢様みたいだ」
「ですよね、ですよね! 妹さん髪も綺麗だしスタイルも良くて素材が凄くいいものですから、私もつい張り切って色々合わせちゃいましたっ」

 何やらかなりテンションが上がってしまっている店員にうんうんと頷くと、甲斐はもう一度み~ことに視線を戻す。
 み~ことの髪の色が映えるように上着は黒っぽい落ち着いた感じのトップスに、胸にはアクセントとして小さなリボン。更に色の近いカーディガンを上に羽織って、スカートは花をあしらった黒と白のシックなデザインのもの。

「今回は全体的に抑えめのデザインで揃えて、素材の良さを引き立てる方向でコーディネイトしてみました。妹さんは顔立ちがはっきりしておりましたし、特に髪の色がよく映えるように全体的に色を暗色系で統一して、ワンポイントにリボンをつけて服が負けてしまわないようにしてみたのですが、いかがでしょうか?」
「いや、たいしたもんだ。さっきも言ったけど、すげえ似合ってますよこりゃ」
「ありがとうございますっ」
「あ、あの……恥ずかしいのであまり見ないでくださいませ……」

 二人の手放しの賞賛にすっかり顔を赤くしてしまったみ~ことは、小さくなってどこか小動物チックに抗議の言葉を口にする。

「いやいや、何が恥ずかしいのさ。すっげえ似合ってるぞそれ。ほら、自分でも鏡見てみろよ」
「うう、そういう意味ではないのですが……」

 しかし甲斐はむしろみ~ことにもそういう普通の感覚をあったのかと嬉しくなって店員と一緒にテンションが上がってしまい、その後もこのみ~ことのファッションショーは続いてしまうのであった。



「うぅ……」
「いやあ、悪かったって。ついつい調子に乗って店員さんと一緒に着せ替えちまったのは謝るからさ、そろそろ機嫌直してくれよ」
「……別に、怒っているわけではございません」

 これが甲斐以外の人間なら、きっとみ~ことは気にも留めていなかっただろう。しかし何故か甲斐に普段とは違う自分の姿を見られるのは、どうしても嫌だった。
 ……否、嫌と言うわけではなかったのかもしれない。そこに不快感は存在せず、しかしなぜだか甲斐の目を正面から見ることのできない。……それはきっと人間で言うところの、羞恥と呼ばれる感情だったのかもしれない。

「え? そーなのか?」
「……はい、そうです。ですのでそのように、何度も謝って頂く必要はございません。どうかお気になさらないでくださいませ」

 そもそもみ~ことの中に、マスターに怒りを覚えるという感覚はない。己の身は機械であり、そして主人に全てを尽くすメイドである。故に粉骨砕身し、たとえ自らが砕けようとも主人に仕えるのが責務だった。それどころか主人から物を与えてもらって、それに怒ることなどありえない。
 とはいえみ~ことの本質は、ただのプログラムで動くロボットなどではない。だからそうではない行動を取ることも、もちろん可能なことであった。しかしみ~ことの中には、そうする理由が存在しない。彼女にとって己とはあくまで被造物であり、そしてただの物なのである。

「む……」

 そこで突然黙りこみ、そしていつものまるで能面のような無表情に戻ってしまったみ~ことを見て、甲斐は小さくうめきを漏らす。その後甲斐は気を取り直すようにパンと軽く手を鳴らすと、「よし」と呟きみ~ことに視線を向けた。

「それじゃあこの話はもう終わりってことで、そろそろ次の目的地に向かうぞ」
「? 次の目的地、でございますか? それはいったいどちらに……」
「ああ、次は公園だな。ほら、家の近くに割とデカ目の所があっただろ。そこに行く」
「公園、でございますか。畏まりました。お供いたします」
「おう。んじゃ行くか。そうと決まったら、まずはバスに乗らないとな。えっと、次のバスの時間は……」

 甲斐はそう言ってバスの時刻表を携帯端末で確認しようとポケットに手を入れたが、

「今から一五分後に到着の予定でございます」

 とみ~ことが代わりに答える。

「一五分か。なら少し急いだほうがいいな」
「はい」

 最後に短くそう話して、二人はバス停へと向かうために足を早めるのであった。






「甲斐様」
「ん? どうした、み~こと」

 み~ことはバスを降りて公園へと向かう道すがら、不意に甲斐に声をかけた

「今日はどうして、甲斐様はこちらに来られようと思われたのですか? それも、わたくしをお連れになって」
「ああ、そうだな……」

 甲斐はしばらく沈黙して己の中で言葉を選んでいたが、やがて静かに口を開いた。

「み~ことに少し教えて……いや、分かってもらいたいことがあったから。それで今日は、あちこち連れまわすことにしたんだ。もしかして、迷惑だったか?」
「いいえ、迷惑だなんてとんでもない。ただ、疑問に思っただけですので。それにしても……分かってもらいたいこと、ですか。それは一体、なんなのですか?」
「そりゃ俺の口からは言えないな。というよりも、誰かが口で言っても意味のないことだ……って言ったほうが正しいか」
「? それはどういう……」
「あ、見えたか。あそこが目的の公園だな。まあ、着いて来いよ」

 み~ことはさらに疑問を重ねようとしたが、甲斐はそれに答えずさっさと歩いて公園の中へと入っていってしまった。

「ああ、お待ちください甲斐様」

 その背中を追いかけて、すぐにみ~ことも公園へと足を踏み入れていった。



「あ、どうも荒見さん。お久しぶりです」
「あらまあ、門倉くんじゃないの。久しぶりねえ。どうしたの? 最近は来てなかったみたいだけど」
「いやまあ、最近色々とありましてね」

 甲斐は今、公園の中で首輪をつけた犬にディスクを投げて一緒に遊んでいた、恰幅のいい四〇代前半ほどの女性と話しをしていた。
 ここは近所の犬好きの集まる公園で、その散歩コースに使われたり遊び場に使われたりと、周りを見ればいくらでも犬のいる犬好きの天国なのである。甲斐は犬や猫が昔から好きだったので、時折ここに来て遊ばせてもらったりしていたのだ。

「あら、そうなの。……ところでさっきから気になってたんだけど、そちらの綺麗なお嬢さんはどちらさま? もしかして、門倉くんの彼女さんか何かかしら?」
「あはは、違います、妹ですよこいつは。家のおやじの再婚相手の連れ子なんで、全く顔は似てませんけどね」
「あらあら、そうだったの。こんにちは、門倉くんの妹さん。私は荒見っていいます。お兄さんとは時々ここで会うことのある……まあ、犬好き仲間のようなものかしら」

 その言葉を聞いて、み~こともペコリと頭を下げる。

「こんにちは、荒見さん。わたくしの名前はみ~ことと申します。いつもか――、ごほん。兄がお世話になっているようで、ありがとうございます」
「やだわ、お世話だなんて、そんな事してないわよ。むしろ私のほうこそ、こうして若い子と話す機会が持てて楽しんでるもの。おかげでなんだか若返っちゃった気分にさせてもらってるくらい。感謝するのは私の方だわ」
「なにいってるんですか、まだまだ若いのに」
「もー、こんなおばさん捕まえてそんな事言うなんて、女泣かせねえ門倉くんは」
「はは、まさか」

 朗らかにそんな事を話している甲斐に、み~ことはちょんと服の裾を掴んで注意をひくと、

「あの、それで結局こちらには何をしに来られたのでしょうか?」
「ああ、そうだったな。悪いけどちょっと待っててくれ。……荒見さん、今から少しカイくん借りても大丈夫ですか?」
「ええ、いいですよ。あの子もあなたにはよくなついてるし、きっと久しぶりにあえて喜ぶわ」
「なら、嬉しいんですけどね」

 そう言って甲斐が向かったのは、ちょうどさっき投げたディスクを取って戻ってきた――

「犬?」
「ふふ、そうよ。あの子の名前、カイちゃんっていうんだけど……私があの子を呼んだら偶然通りがかった門倉くんが返事をしてね。それがきっかけで、今のように話すようになったの」
「カイ、ちゃん……」

 み~ことの脳裏にふと、大きな声で「カイちゃーん」と呼ぶ荒見の姿と、それに反射的に返事をしてしまう甲斐の姿が思い浮かんで、ついくすりと笑みを漏らしてしまう。

「ん? どした? なにか面白いものでもあったか?」

 とちょうどその時小さな犬――ミニチュアダックスフンドを胸に抱いた甲斐が戻ってきて、み~ことは慌てて首を横に振りながら、

「い、いえ……なんでもございません」

 と否定した。

「そうか? んー、まあいいか。やっとみ~ことの初の笑顔も見られたことだし、細かいことは置いておこう。それよりみ~こと、ちょっとこっち来いよ」
「? なんでしょうか?」

 甲斐の言葉に首をかしげてみ~ことが近づくと、「はい」と言って甲斐が胸に抱いていたカイくんを差し出してきた。

「……え?」
「ちょっとお前も抱っこしてみろよ。大丈夫、カイくんは大人しい上に人懐っこいから、変に力を入れすぎたりしなければいい」
「ですが、あの、わたくしは……」

 み~ことがもごもごと口ごもりながら視線を彷徨わせるが、少し離れたところでその光景を眺めていた荒見はニコニコとするだけで止めてくれない。
 やがてみ~ことは一向に引く様子の見えない甲斐の顔を見て肩を落として諦めると、おずおずと腕を伸ばして恐る恐るカイくんを胸に抱き寄せた。

『わんっ』

 するとカイくんは一度小さくみ~ことに向かって一鳴きすると、ふるふると尻尾を振ってぺろりと顔を舐めてきた。

「あ、え、あ……ちょっと待ってください、あの、あう……」

 そして初めみ~ことははあわあわと戸惑っていたが、しばらくするとカイくんのその行動にも慣れたのか、やがて小さく「ふふ」と笑顔を漏らした。それを見て甲斐は大丈夫そうだと安心すると、自分も荒見の横まで移動しその姿を見守る。

「どうやら妹さん、カイちゃんに好かれたみたいね」
「ええ、そうみたいですね。いや、よかったですよ。実はあいつ最近までかなりの田舎にいた箱入りだったもんで、あんまり人とも動物とも触れ合ったことがなかったんです。だから今日は助かりました。ありがとうございます、荒見さん」
「あら、いいのよ。カイちゃんも喜んでるみたいだし、気にしないで。ほら、あの子ったらあんなに嬉しそうにして。よっぽど妹さんのことが気に入ったのねえ」

 くすりと笑みを漏らした荒見の視線を追うと、そこにはさっきにも増してぶんぶんと尻尾を振るカイくんの姿と、それに嬉しそうに満面の笑みを見せるみ~ことの姿があった。その光景は午後のやわらかな日差しとあいまって、凄く優しい光景で……ついついいつまでも眺めていたくなるような、そんな穏やかさを感じさせられた。
 その様子を見た甲斐は一瞬どこか眩しげに目を細めると、眉尻を下げてその場に静かに座り込みそんなみ~ことの姿を見守り続けるのであった。



[29961] 番外編:下(後)
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 16:59
 陽の光がだんだんと落ちてきて、時間も夕方に差し掛かった頃。甲斐の隣に座っていた荒見が「あっ」と小さく声を漏らした。

「大変、もうこんな時間。門倉くん、私そろそろ家に帰らないと。これからお買い物して晩ご飯の支度もあるから……ごめんなさいね、妹さん、あんなに楽しそうにしてるのに」
「いや、気にしないでください。こんなに長い時間遊ばせてもらって、むしろこっちが悪いくらいですから」
「ふふ、それこそ気にしなくていいのよ? 私も、それにきっとカイちゃんも楽しかったから。今日はありがとうね、門倉くん」
「こちらこそ。それじゃあ……み~こと! 遊んでる所悪いけど、そろそろ行くぞ。荒見さんももう帰るらしいからな」
「あ……」

 甲斐の呼びかけに振り向いて、ピタリと動きを止めるとみ~ことはカイくんを撫でていた手を離す。そこで荒見が「カイちゃん、行きましょう?」と言うと『わん』と一鳴きしてカイくんは荒見の元へと駆けていった。

「妹さんも、ごめんなさいね。あまり遅くなっちゃうと困るからそろそろ帰るけど……私たちはよくここに来てるから、また遊んであげて。それじゃあまたね、門倉くん、妹さん」

 そしてそう言って二人に笑いかけると、荒見とカイくんは去っていった。

「ああ、行っちゃった……」

 その背中を見つめながら、み~ことは名残惜しそうにやり場を失った手を彷徨わせながら呟く。まるで悲しみを全身で表しているかのようなそのみ~ことの姿を見て甲斐がポンとその頭を軽く撫でると、そこでようやくみ~ことははっと我に返って甲斐に視線を向けた。

「今日はもう無理だけど……この公園はそんな遠くないし、元々俺も時々ここには来てたからな。今度からはみ~ことも、また一緒に来ればいいさ」
「……はい。ありがとうございます」

 み~ことは甲斐の手を頭に載せたまま小さく頷くと、そのまま沈黙して甲斐の撫でる手を受け入れていた。

「――よしっ、それじゃあまた移動するか! 次が最後の目的地だから、早めに済ませて俺たちも飯にしよう」

 そしてしばらくしてから甲斐がそう言って手を離すと、み~ことはいつものように恭しく、

「畏まりました」

 と頭を下げて、静かに歩き始めた甲斐の背中を追い始めた。






 甲斐たちが公園を出て最後に向かったのは、家の近所にある花屋だった。甲斐はそこに着くと店先でみ~ことの訝しげな視線を受けながら、おもむろに口を開いた。

「さ、今日の用事はここで最後だ。……み~こと」
「はい、何でしょうか?」

 甲斐は未だに首を傾げているみ~ことから視線を外して栽培用の鉢植えに淹れられている花が置かれている一角に目を向けると、そのままみ~ことには顔を向けないで、

「お前、今日から一つ花を育ててみないか? もちろん嫌だっていうんなら無理強いはしないけど、よかったらどれか一つ好きなのを選んでくれ」
「花を……育てる、ですか? もしかしてそれが、今日こちらまで赴いた用事だったのでしょうか?」
「ああ、そうだな。ここが終わったらもう用事はないから、後は帰るだけだ」
「……そうですか。それが甲斐様のご意向でしたら、わたくしに否はございません。ですが……好きなものを選べと仰られても、わたくしにはそういったものが存在しないのですが……」
「あー、そうだな……。好きな花が思いつかないんだったら他に何か……好きな色とか形とか、それで決めてみたらどうだ?」
「色や形、でございますか……」

 そういわれてもう一度そこに視線を向けると、なんとなく目が止まったものがあった。そこに書かれていた花の名は、ハイビスカス。どこかみ~ことの髪の色を連想させる鮮やかなオレンジ色の、綺麗な花だった。

「お、それが気に入ったのか?」
「……それでは、それでお願いします。他に気になったものはございませんので」
「オッケー、それじゃあレジ行ってくるからちょっと待っててくれ」

 甲斐はそう言ってその鉢を持って行くと、レジでお金を払い戻ってくる。そしてその花の入った袋をひょいと掲げると、

「ほら、これはお前が持っとけ。きちんと責任持って育てるんだぞ?」
「はあ……」

 み~ことの気のない返事を気にもとめず、甲斐は一度軽い笑顔を見せるとそのまま花屋から出ていく。そしてすぐにその姿を追ってみ~ことも店から出ていった。
 一度家へと帰る途中で信号を渡る直前、信号無視をした黒いスモーク窓の車が突っ込んできて危うく事故にあいそうになったこともあったが、それはみ~ことが未然に気づいてくれて事無きを得た。その後は特に何も起こらず、二人は家に帰るといつも通りに過ごししていた。一つ違いがあるとすれば、ほとんど寝るためにしか使っていないみ~ことの部屋に花が一つ増えたくらいだ。




 それから、一月程の時がたった日のことだった。甲斐とみ~ことにとって、一つの大きな転機となった出来事が起こったのは。
 み~ことの行動優先順位は、まず第一に甲斐に関わることである。食事の準備や、家の掃除、洗濯などの家事。その他すべての『優先してすべきこと』は甲斐を基準に決められている。
 そのため、なのだろう。以前に買ったあの花。ハイビスカスは所有権が甲斐からみ~ことに移され、それが『己のもの』になってしまった瞬間に、その優先順位は酷く下がってしまったのだ。
 自分のことは後回し。それがこの頃のみ~ことには、当たり前だった。例えばみ~ことの部屋の中にはほとんどの家具が存在せず、岡崎教授から譲られた休眠兼メンテナンス用ベッドとタンス以外は何も無い。さらにはそろそろ秋も終わりが近づき気温が下がってきたというのに、その部屋の中は暖房がつけられていないどころかその電源が落とされていた。

 しかしある日偶然に、その時み~ことがやらなければならなかったことが全て終わってしまい、完全に隙間となってしまった時間が出来た時があった。
 そしてようやくみ~ことは己の部屋の隅に置いてあったハイビスカスのことを思い出して、足早に己の部屋へと足を向けた。何故かその時み~ことの胸のうちには小さな震えのような『悪い予感』が立ち込めていて、その足取りはいつもより重いものだった。

 ガチャリと扉を開けて、部屋の中を見る。そして鉢に植えられているハイビスカスへゆっくりと近づくと、み~ことはその前で立ち尽くした。何故ならそれは――

 あの鮮やかだった花弁は全てくすんだ色になって地面に落ち、茎も完全に萎れ枯れ果てていたからだ。

「あ……」

 み~ことは初め、マスターに任されたのに枯らしてしまうとはと、それしか考えてはいなかった。しかし同時に、何か予感がした気がしたのだ。
 そして彼女は恐る恐る、その手を枯れ草色になってしまった茎へと伸ばす。直後、それに触った瞬間に、み~ことは胸に震えを覚えて手を引っ込めた。しかしみ~ことはそれでももう一度それに触れ、今度は軽くそれをひとさし指と親指でつまんでみる。するとかつてハイビスカスであったその花は、カサリと"中身のない"音と感触を返してその身を小さく揺らした。

 ――その瞬間、み~ことは言い様のない冷たい感情を心の深い所に覚えて、思わずその手を胸にかき抱いた。

 その手に残る感触は、決定的な死の影。それは生物の終わった後の姿。なにをしたとしても取り返しの付かない、全ての存在にいつか訪れるであろう終焉の感触だった。

「ああ……」

 み~ことは、自分がなぜこれほどに衝撃を受けているのか理解できなかった。しかし己がしてはならないことをしてしまったのだと、そんな想いだけが心のなかに渦を巻く。

「……甲斐様」

 気づけばみ~ことは、居間にいた甲斐の元へとふらつきながら縋るように歩み寄っていた。その震える手の中には、いつの間にか抱えていた枯れてしまったハイビスカスの姿。

「み~こと……? どうした、顔が真っ青だぞ?」 

 そして甲斐は居間に入ってきたみ~ことの姿に気づいて声をかけ、次に遅れてその手にしていた鉢に気づいて視線を向ける。

「あ、その花は……こないだのやつか。――そうか。枯らしちまったんだな」
「甲斐様……。わたくしは、どうすれば……」

 なぜこれほどに、み~ことは気に病んでいるのか。そこにはそのハイビスカスが既に『み~ことのもの』になっていたことが起因する。
 以前み~ことが金魚を落としたて死なせてしまった時は、あくまでそれは甲斐のものであり、かつ家事の1つとして優先順位の高い作業としてその行為があったから、何も感じなかったのだ。
 しかし今回のことは『しなければならないこと』ではなく、また同時に『自分だけにしか関係のないこと』であったことから……それを覆うものの存在しない、完全に素の心のままでみ~ことはそれを受け取った。故にみ~ことは初めて己の心に入り込んできたその『死』という感触に、彼女の幼い心は強い衝撃を受けたのだ。

「……どうしようもないさ。生き物は、死んじまったらそれで終わりなんだ。もう二度と、生き返ることはないんだよ」
「ごめんなさい……」
「俺に謝ることじゃない。それよりも、お前が今何を気にしてそんなに落ち込んでるのか……それを忘れずに大事にして、自分なりに考えて欲しいんだ」
「……」

 そして、翌日のこと。まるで追い打ちをかけるかのように、ある出来事が起こった。
 その日甲斐はみ~ことと二人、連れ立って買い物に出ていた。昨日の今日で少し心配だったので、一人では行かせられないと考えた甲斐が無理を言って一緒に家を出たのだ。
 行きは何事もなかったが……その帰り道――

「……え?」
「なっ、み~こと危ねえ!!」

 ――突然の、ブレーキ音。
 そしてその先にいたのは、以前にも見た黒塗りの乗用車の姿だった。車はどうにかこちらを曲って避けようとしていたのだろうが、しかしそれはどうみても間に合わない。甲斐は咄嗟にみ~ことに体当りするように道路に飛び込むと、その体を抱き寄せて前方へと飛び込んだ――瞬間、足がわずかに車に接触。

「う、ぐっ……!」
「甲斐さ、きゃあ!」

 甲斐の体に勢いがついてしまって、二人はゴロゴロと道の端まで転がっていった。

「う、ごほごほっ、げほ、こほ……――、はー……」

 足がかなり痛むのと、背中を強く打ち付けて息が詰まってしまっていたが、幸いなことに大怪我だけはせずにすんだようだ。これだけ派手に吹っ飛んで大事ないなんて、まるでどこぞのスタントマンみたいだなと内心で苦笑しながら、甲斐は緊張を解すようにゆっくりと深い息を吐き出した。

「か、甲斐様! ご無事ですか!?」

 慌てて身を起こして甲斐の腕から抜けだしたみ~ことが、半ば叫ぶようにして甲斐に声をかける。

「ああ……何とかな。打撲くらいはありそうだけど、骨を折ったりはしてなさそうだ。そういうみ~ことこそ、大丈夫だったか?」
「わたくしは――っ」

 その瞬間、み~ことの脳裏に昨日のハイビスカスの萎れた姿と、触れた時のあの感触が蘇える。
 自分とは違い、生き物はすべからく脆く儚い。それは現在の己のマスターたる甲斐とて変わりはなく、そして死の恐怖を知ってしまったみ~ことには、そうなってしまったかもしれないという事実だけで既に耐え難く苦しかった。
 故に――

「わたくしなんてただの物なのに……どうしてあんな、庇ったりなんかしたのですか! わたくしは壊れても直せばそれでいい! だけど甲斐様は、死んでしまったらそれで終わりなんですよ!」

 それはみ~ことがあのカプセルから出て目を覚ましてから、初めて抱いた怒りという名の感情だった。み~ことは甲斐に、死んで欲しくはなかったのだ。甲斐が『あんな事』になってしまったらと、少しでも想像してしまうと……それは酷く、恐ろしいことだった。
 今やみ~ことにとって、目覚めてからのそのほとんどの時間を共に過ごした甲斐の存在は自覚なく……だけど絶対に、失いたくはないものになっていたのだ。
 それは刷り込みのようなものだったのかもしれない。しかし――目が覚めてから初めて話したのが、初めて目にしたのが、初めて言葉にした名前が、初めて何かをするのが……全て、甲斐と共にあった。故にその想いに人や機械の垣根はなく、確かな彼女の想いだったのだろう。
 だからもう自分なんかほっといて、もっと体を大切にして欲しかった。その身はあの花と同じく、失われてしまえば取り返しの付かないものなのだから。
 だが――

「……物だから、体が機械だから、壊れてもいいって言うのか?」
「そうです! わたくしの体なんて、壊れたら直せばそれで済むことなのですっ。甲斐様には、予備のパーツがありません。頑丈な体も、修理器具だって用意できない! ですがわたくしは、何かあったら岡崎様に頼めばそれで直るのですからっ!」
「み~こと、お前……」

 ギチリと、歯が噛み締められる音がした。そして甲斐から発せられる、確かな怒りの感情。それはみ~ことが初めて人からぶつけられた、感情の発露だった。

「ふっざけんなよ! 治せるから壊れていいだなんて……そんなことあるわけあるか! ……馬鹿な事言うんじゃねえよ、まったく……」

 み~ことは甲斐に怒鳴られびくっと体をすくませると、まるで初めて親に怒られてしまった幼子のように顔を俯かせる。しかしその表情からは僅かな不満の色が漏れていて、どうやらどうして自分が怒られたのか理解してはいないようだった。

 ……甲斐は、悲しかった。
 甲斐は何も、自分が大事じゃなかったからみ~ことを助けたわけではない。自分のことは当然大事だけれど、それでもやはり今は妹のように思っているこの少女のことも大切だったから、半ば無意識に身を挺して庇ったのだ。
 だけどみ~ことには、自分がない。己の中に確固とした自己が存在していないから、自分の身を案じるという考えがそもそも存在しないのだろう。
 それはもしかしたら、ロボットとしては正しいことなのかもしれないが……しかし己の家族がそのように思ってしまっているというこの事実は、甲斐には酷く悲しいことだった。
 そして甲斐は、その悲しげな表情をそのままに……未だ顔を俯けたままのみ~ことの姿を見て、その体を静かに抱きしめた。するとみ~ことはぴくりと肩を跳ねさせたが、しかしそのままなにも抵抗せずにいる。

「なあ、み~こと。俺の心臓、動いてるだろ? 当然息だってしてるし、体温だってある。……俺だって、生き物だ。いつかはこの心臓も止まって、冷たくなって死んでいく。だけどそれは……一度きりのものだからこそ、大事なモノなんだよ。それはもちろん、俺だけじゃない。カイくんだって、お前が枯らしちまったあの花だって……いつだったかお前が水槽を落として死んじまった、あの金魚だってそうだ」

 甲斐はそこで覗くようにして見上げてきたみ~ことの視線を感じて、視線を下に向けるとその目をまっすぐに見つめ返した。

「そしてお前だって、いつかは死ぬんだよ。形あるものは、いつかは壊れる。そこに人間だとかロボットだとか、そんな些細な違いは関係ないんだ。治すことも元に戻すこともできないような、決定的な死はお前にだっていつかかならず来る。……だけどだからこそ、お前だって大切なんだよ。み~ことは一人しかいない。今ここに居るお前は、一度失われちまったらそれで終わりなんだ。だからもう、自分のことを壊れてもいいだなんて……そんな悲しい事は、言わないでくれ」

 み~ことは甲斐の言葉を聞いて、無言でそっと視線を伏せた。甲斐はそんなみ~ことの様子を見て、おもむろにその小さな頭に手を載せそっと撫でる。

「すぐに分かれとは言わない。だけどいつか何かを感じた時に、俺の言葉をもう一度思い返してみて欲しい。それが俺からの……初めてのみ~ことへのお願いだな」
「お願い……」

 そして甲斐はポツリと呟いたみ~ことに一度苦笑を浮かべると、

「……悪いな。もっと上手く伝えられればよかったんだけど……俺も人間としてまだ未熟だってことなんだろうな。まあ、まだまだ時間はたっぷりあるんだ。これから一緒に成長していこうぜ。家族なんだからさ」

 そう言ってみ~ことから体を離した。

「あの~」

 とその時、突然横から声をかけられた。すわあの車の運転手かとそちらを見ると、そこにいたのはなんと――

「……ちゆりさんに、岡崎教授? 何であんたらがここにいるんですか?」

 甲斐は目を丸くして、どこか問い詰めるような口調でそう言った。状況が状況だったのと、この二人が揃っている時は大抵ろくなことが無いのでほとんど無意識にそのような口調になってしまったのだが、

「あはは……。いやー実は、あの車を運転してたのってアタシだったりするんだよ……」
「いやーまいったまいった。まさか門倉が庇いに行くとは思わなかったもんだから、焦っちゃったよ」

 どうやらそれは、甲斐の勘違いではなかったようだ。
 バツが悪そうに白状するちゆりとぽりぽりと頬をかきながらそう口にした岡崎教授に、今度こそ甲斐は「はあ!?」と叫んであんぐりと口を開けた。






「結局、この子たちに最初に与えなければならなかったものは、死の恐怖だったのよ。自我の構築には、死への抵抗が必須なの。人間だって基礎的な欲求は、全て生存欲に依存する。生物が生きていく上で、必ず一度は意識しなければならないことなのよ、これは。門倉だって、それはわかるでしょ? ……この子たちはただの機械じゃなくて、もう一つの生命だから。それを教えないわけには行かなかったのよ。人と暮らす上で、人とかけ離れた精神性を持たせるわけには行かないからね」
「……んで、それを実感してもらうためにわざわざちゆりさんに無理やり運転させてあんな事をした、と?」
「そうそう、そういうわけなのよ。まさか門倉があそこまでしてみ~ことをかばってくれるとは思わなかったけど……まあ、それは嬉しい誤算だったわね」
「まったく、アンタって人は……」

 甲斐はみ~ことの入っているカプセルの前においた椅子に座りながら、心底頭が痛そうな顔をして額に手を添えた。

「ちょっと、そんな顔しないでよ。一応これでもあの子たちの強度は把握してるからね。絶対に大丈夫なように車の重量とかスピードまで計算してたんだから、せいぜいちょっと傷がつくくらいだったわよ。それなら十分、あの子の自己修復でまかなえる範囲だったはずよ」
「あのねえ……そういう問題じゃないっつの! 今度似たようなことしやがったら、その時はアンタが計算してる数式に誤情報混ぜてエンドレスループ地獄にはめてやりますからね!」
「うあ待って、それはやめて! もうしない、絶対もうしないから!」

 岡崎教授には、ヒューマンエラーが存在しない。計算ミスをしないのだ。それ故彼女は何かの計算をしていても自分が間違っているのかもしれないという可能性を初めから排除してしまうので、中に誤情報が存在するとどうして答えが合わないのかと思考の迷路にはまってしまうのである。

「……はあ。それで、み~ことは大丈夫なんですか? 一応メンテナンスするからって聞いて着いてきたけど、どっか悪いとことかは……」
「それはなさそうね。どっちかって言うとこれはメンテナンスよりモニタリングがメインの作業だから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「そうですか」

 最後に相槌を打って、甲斐は黙りこんでしまう。そして岡崎教授もみ~ことの入っているカプセルの前に戻って、作業を再開した。
 それから、しばらくした頃。甲斐は座ったまま瞑っていた目をゆっくりと開き、カタカタと音を立てながら仮想キーを打つ岡崎教授の背中に向かって、再びおもむろに口を開いた。

「教授」
「なに?」

 作業を続けながら短く答えた岡崎教授に、甲斐は静かな声で言葉を続けた。

「……その内、今のこのモニターのバイトが終わったとしても……み~ことは、家にいさせてはもらえませんか。もちろん本人の気持ちありきだけど……あいつがいいって言ったらその時は……お願いします」

 一瞬だけ、甲斐の頭の中にバイト代をゼロにすることを条件にこれを頼もうかという考えもよぎったが……それはつまり、金でみ~ことの取引をするということだ。それは彼女を家族のように思っている甲斐には、最早できないことだった。
 よってその選択肢は早々に却下して、甲斐は岡崎教授にただ頼むことを選択した。もちろんこれで向こう側から何か条件を言われたとしたら、大抵のことはそのまま飲むつもりだったが――

「この子はもう、私の所有物なんかじゃないわ。独立した一個の生命体なのよ。だからこの子が自分でそうしたいといったのなら、私に止める権利はない。……要するに、門倉にこの話を頼んだ時にアナタが言った通り、初めから全部この子の意思次第ってわけ。だからその言葉は、私じゃなくて本人に言いなさい」

 岡崎教授は一度動かしていた手を止めて、甲斐に振り向くことなく静かな声でそう語った。そして最後に、

「門倉。もう私からは、この子に一切手だしはしないわ。だからこの子のことは、アナタに任せたわよ。この子がちゃんと、自分のことを一つの命なのだと思えるように……門倉が、それを教えてあげて」

 と言葉を締めくくると、再び作業を開始する。

「俺にそんなだいそれた事ができるかはわかりませんが……俺はもう、み~ことのことは大事な家族の一員だと思ってます。だからこれからも、俺はみ~ことと一緒に生きていきたいと思ってますよ。きっと俺に出来ることは、それだけなんだと思いますからね」
「……そう。ありがとう。やっぱりこの子を門倉に任せたのは、正解だったみたいね」

 甲斐の言葉は少なく拙いが、その想いだけはなんとなく伝わった。だから岡崎教授もそれ以上は多くを語らず、一言そう言うだけでその唇に言葉をのせるのを止めた。

 ちなみに。
 実は二人のこの会話は、カプセルの中にいたみ~ことにも聞こえていた。本来は聞こえるはずがない……どころかその中にいる間の意識は完全になくなるはずなのだが、教授の計らいで今回はそうなっていたのだ。
 み~ことにはまだ、自分が二人の言うように甲斐や岡崎教授と同じ命なのであるということが、理解できなかった。そして、甲斐の言う家族という感覚も分からない。
 だけどこうして休眠機の中で揺蕩いながらこれまでのことを思い出していくと、自然ともっと甲斐と一緒にいたいのだという気持ちが湧いてきた。そしてそうしていればいつか自分も、自分のことが一つの命なのだと……自分が甲斐の家族なのだと、そう思えるようになるのではないかと、そんな風に思えた。
 そしてなによりみ~ことは、自分から『甲斐の家族』になりたいのだと、そんな気持ちが胸の内に存在するのを自覚していたのだ。

 だから――

 まずは呼び方を変えるところから、始めよう。呼び名というのは、きっと大事なものなのだ。以前にマスターも様付けはやめてくれと言っていたから、それはきっと間違いない。だけどはじめから名前だけで呼んだりするのは馴れ馴れしい気がするから、まずは少し変えるところから。
 それに話し方も、少しだけ崩してみよう。だけど敬語を止めるのも、自身のあり方を考えればやはり抵抗がある。それなら今よりは柔らかく、だけど敬語だけはそのままにして話してみよう。
 それと今度は、もっと人間のユーモアについても学んでみるのもいいかもしれない。そうすればもっと、マスターは笑ってくれるかもしれない。
 ……時折家の中に一人でいる時に見せる、寂しそうな表情。あれはもう、見たくなかった。マスターの笑顔は、いつも自分を温かい気持ちにさせてくれる。だから今よりもっと明るく振る舞って、何度も笑わせてあげるんだ。

 ――そんなことを、み~ことがカプセルの中で微睡みながら、どこか夢の中にいるかのようにボンヤリと考えていると、次第に意識が鮮明になってきたのを感じた。どうやら全ての作業が終わったようで、もう外に出られるようだ。

 そしてカプセルの中から半透明の液体が全て排出された後……み~ことは不意に肩にかけられたタオルに気づいて顔を上げ、そこに甲斐の姿を確認すると表情を緩めて体にタオルを巻きつけながらゆっくりと立ち上がった。

「なあ、み~こと。いきなりこんな事言われても困ると思うんだけど……お前はさ、今のモニターのバイトが終わった後も、うちに住むつもりはあるか?」

 普通であれば急なその問いかけに面食らうところだろうが、み~ことは外で二人の間に交わされていた会話の内容を知っていたので特に驚くこともせずに……そしてとても嬉しそうな満面の笑みを浮かべると、

「もちろんですわ、甲斐ぼっちゃま♪」

 と明るい声で、答えるのだった。

 そうしてこの日から、門倉家では毎日明るい声の飛び交う賑やかな日々が始まるのだが……それはまた、別の話。





 名称:門倉甲斐。種族:人間。分類:マスター。優先度変更→優先度、極高。優先度を極高にすると自壊する場合でもそちらを優先して保護してしまい、また容易には再変更をすることはできなくなりますが、本当に変更しますか。 →Yes



[29961] 第四話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:00
「甲斐ぼっちゃま。お休みの所申し訳ありませんが、少々よろしかったりしちゃいますでしょうか」

 こんこんこんと、ノックが三回。そうして扉の向こうから聞こえてきたのは、み~ことの声だった。

「ん、どうした? もう雛は上がったのか?」

 言いながら、甲斐は部屋に備え付けてあった時計に視線を向けて時間を確認する。どうやら部屋に来てからもう一時間は過ぎていたようだ。いかに女性の風呂が長いというのが通説であったとしても、流石にこれだけ経てば大抵の人は出ていることだろう。

「はい。それでなにやら、雛さんが甲斐ぼっちゃまにお話があるということで……今はお着替えも済ませられて、居間でお待ちになっていただいておりますです」
「話? ああ、あの時言ってたやつか」

 甲斐の脳裏に、結局二人揃って寝てしまったあの時の光景が浮かんできて、なんとはなしに口元を緩める。それからすぐに机から立つと、扉を開けてみ~ことと共に雛の待つ居間へと向かった。するとそこで待っていたのは、和室で寝ていた時と何ら変わりのない服装でどこか恥ずかしそうにソファーに座っている雛の姿だった。
 風呂上りのせいか体の前でまとめていた髪を下ろしており、さらにほんのりと上気した肌ともじもじと上目遣いでこちらを覗いているその姿はハッキリ言ってひどい破壊力だったが、しかし甲斐はそれを適当に流して呆れ顔でみ~ことにジト目を向ける。

「……で、何で雛の服が相変わらずワイシャツ一枚なんだよ? もっとなんかあっただろ、ましなのが」
「え? それはもちろん、甲斐ぼっちゃまはこういうシチュエーションがお好きだろうと思ったからでございますけど。やっぱり男のロマンでございますよね、女の子がワイシャツ一枚の格好って」
「甲斐、貴方って……」

 それを聞いた瞬間、思わず体を腕でかばいながら身を引く雛。

「いやいやいや、まてまてまてい」

 甲斐はすぐにブンブンと首を振って、部屋の中に流れる嫌な空気を払拭するべく口を開く。

「確かにその格好がロマンだってのは否定せんが、だからと言って殆ど初対面みたいな相手にそれを頼むほど変態になった覚えはねえぞ」

 実は内心ちょっとだけ『み~ことグッジョブ』などと思ったりしてなかったりしたりする甲斐ではあったが、しかしまあそこはそれ。思ってしまうこととそれを実際に実行するかどうかには、大きな隔たりが存在するのである。
 ということですぐに甲斐はつい流れて行ってしまっていた視線を雛からみ~ことに戻すと己の理性の訴えに従って、

「取り敢えず、何でもいいからちゃんとした服を貸してあげなさい。確かメイド服以外にもなんかあっただろ、お前の服」

 とみ~ことに告げるのだった。
 しかし――

「雛さんにわたくしの服をお貸しするのは構わないのですが、そうすると一つだけ問題が御座いまして……」
「? 問題ってなんだ?」

 そう言って首をかしげた甲斐に向かって、み~ことはとんでもない爆弾を投下してきた。

「わたくしの服だと、悲しいことにサイズが合わないのでございますよ。下は問題ないのですが、主に胸の方が」
「え……」

 上着のサイズが胸のせいで合わない→当然ブラジャーのサイズも合うわけがない→今雛はワイシャツ一枚の格好→イコール、

「あ、ぅ、っ……――!!」

 甲斐がなにに思い至ったのか、何となくその表情を見て悟ったのだろう。とうとう雛は羞恥に顔を真赤にして声にならない悲鳴をあげると、ピューッと擬音が聞こえてきそうな勢いで和室の中へと逃げて行ってしまった。

「ああ、お逃げになられてしまいました。ですが雛さんの恥ずかしがっていたあの表情、とってもお可愛らしかったですわ……」
「み~こと、お前ってやつは……」

 どこか恍惚とした表情でいじり根性満開な台詞を吐息混じりに漏らすみ~ことに、これは確実にわざとであろうと心底呆れた表情を浮かべ、甲斐は頭を抱えながらうめき声のような声を上げる。
 駄目だこのメイド、早く何とかしないと。甲斐はみ~ことにお仕置きするべくその小さな頭のてっぺんにげんこつをロックオンしながら、そんなことを考えていた。







「あの……、ごめんさい。こちらから呼んでおいて、いきなり逃げだしてしまって」
「いやいや、ありゃ俺とみ~ことが悪い。だから気にすんな」
「あうぅぅ……」

 頭を押さえて涙目になっているみ~ことを背景に、二人はテーブルを挟んで向かい合いながら話していた。ちなみに雛の服装は、ワイシャツの上からさらにカーディガンを羽織ることで落ち着いた。

「それよりも、雛から俺に話があるんだって?」

 この話題を終わらせるために少し強引に話を変えた甲斐を雛はなにか言いたげに見つめていたが、しばらくして諦めたように一つ吐息を漏らすとゆっくりと口を開いた。

「ええ。さすがにここまでしてもらって何も話さないのも不義理だし、簡単に事情くらいは説明しておこうと思って」
「ふむ。それなんだけど……ちょっと待ってくれないか?」
「? 待てって……どうして? あまり長居するつもりはないから、話すとしたら今しかないのだけど」

 訝しげに首を傾げた雛の目を見返して、甲斐はそれに「ああ」と小さく頷いた。

「それは分かってるさ。だから要するに俺は、雛に無理には話さなくてもいいって言ってるんだ。もちろんアンタが話したいんだって言うんなら当然聞くけど、義理だとか……もしくは俺の説得のためだってんなら、それは必要ないぞ。もう十分動けるようになってるみたいだし、前にも言った通り俺にもうアンタを引き止める理由はないからな」

 それは酷く冷たい……いや、厳しい言葉だった。
 誰にだって何かしら、事情があるのはわかっている。だからそれを話す理由に自分への義理人情を勘定に入れなくていいから、雛自身が話したいか話したくないか、そこだけで判断しろという意味での言葉。
 しかし雛はその言葉を受けて、むしろその表情を柔らかくした。

「そう……分かったわ。そういう事ならお言葉に甘えて、貴方には話さないことにする。その方が、きっとお互いのためだもの」

 ともすれば酷く冷たい、突き放したものと受け止められそうなその甲斐の言葉を、雛はその聡明さから正確に受け取っていたのだ。

「ああ、それとあと一つ言っておくけど」
「? なにかしら?」

 どこか微笑を浮かべているようにも見える穏やかな表情で聞き返してきた雛に、甲斐はからりと笑顔を見せて言葉を続ける。

「我が門倉家のモットーは『去る者追わず、来る者拒まず』でね。だからもしもやっぱりここに残りたいだとか、その内またうちに来ることがあるんだったら……その時は、いつでも歓迎するぜ」

 その言葉を聞いた雛は今度はハッキリと微笑を浮かべて、どこか嬉しそうに目を細めた。

「ふふ、そうなの。それはとても、魅力的な提案ね」

 もちろんその提案に、雛が頷かないことはお互いにわかっていた。しかし甲斐はなんとなく、それを今言っておかなければならないような気がしたのだ。
 それから少しの間甲斐は二人の間に流れたどこか心地のいい沈黙を堪能していたが、しばらくしておもむろに膝に手をつきゆっくりとした動作で立ち上がった。

「あ、そうだ。一応言っとくけど、今日だけはうちに泊まっていけよ? 外はもうすっかり夜だ。さすがにこんな真っ暗闇の中外に一人で女の子を放り出したんじゃ、寝覚めが悪くてしょうがないからな」

 それに雛はすぐには答えなかったが数瞬の逡巡の後に無言で頷いたのを確認すると、更に甲斐は後ろで空気のように控えていたみ~ことに、

「俺がやったんじゃ気になるだろうし、悪いけど雛の布団のシーツの交換とかはみ~ことに任す。俺はまだ徹夜の眠気が残ってるから、今日はもう部屋で寝るから」

 と告げて去っていった。

「それでは雛さん、わたくしも家のことで少々することがございますので、これで失礼致します。先ほど紅茶をお淹れいたしましたので、こちらに置いておきますわ。どうぞごゆっくりおつくろぎくださいませ」
「ええ。ありがとう」

 その後み~ことも雛のお礼の言葉ににっこりと笑顔を返すと、小さくお辞儀をしてから家の奥へと歩いていった。それを雛は何気なく見送りながら、穏やかな表情で出された紅茶を口にする。

「ああ、あったかい……」

 そしてカップからゆっくりと桜色の唇を離して一言そう呟くと、雛は柔らかく微笑んで吐息を漏らした。



[29961] 第五話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:00
 ちゅんちゅんと、鳥のさえずりが聞こえてくる。障子で遮られた窓の向こうからは、うっすらと太陽の光。雛はその光を体に浴びながら、穏やかな表情で壁に寄りかかり座っていた。
 外はまだ、陽が登り切らない早朝。未だ人々の喧騒は遠く、今起きているのは特別早起きな一部の人間のみの時間帯。だというのに……その雛の様子からは、少しも眠気を感じられなかった。
 そもそもの話、鍵山雛にとって――ひいては神という種族にとっては、睡眠という行為は必要のないものだった。もちろん寝ることができないというわけではなかったし、確かに昨日のように回復のために眠りにつくことはある。しかし体に不備がない時に、必ずしもそうしなければならないというわけではないのだ。言うなれば、娯楽の一つのようなものなのである。

(それにしても……)

 この家の中は、間違いなく全ての幻想を否定した外の世界であるのにもかかわらず、まるで幻想郷の中にいるかのように居心地が良かった。まさか最後の最後に……それもほぼ全ての神々が去った後の外の世界で、こうして自分が受け入れてもらえるだなんて、思いもよらなかった。
 今の雛の体は、決して万全とは言い切れない。だが身動きがとれないほど衰弱しているわけでもなかったし、それに信仰のないこの世界ではこれ以上の回復は何をしたとしても望むことができないだろう。だからそれならば……自身の最期が近い今くらいは眠らずに、少しでもこの短い夢のなかに沈んでいたいと、そう思ったのだ。
 もしかしたらこの家……そして甲斐のそばにいれば、雛は消えずに済むのかもしれない。しかしそれは鍵山雛という神にとって、何があろうとも絶対にとりえない選択肢だった。
 当然のごとく雛の心の内に自殺願望が在るというわけではなかったが、『厄神』である自身が人に限らず"誰か"のそばにいるということは、すなわちその"誰か"を不幸にし続けるということだ。
 それはかつての村人の想いを継ぎ、少女の魂を今でも想い……そして何より、神として生まれたその時から変わらず人間を愛しその不幸を少しでも減らそうと生き続けた雛には、できようはずもないことだった。
 それもよりにもよってその相手は、完全に赤の他人のはずの自分を無条件に助け受け入れてくれた……優しい優しい、人間たち。もしもそんな選択ができるのならば、そもそも雛は『厄神』なんかにはならなかっただろう。

「こらみ~こと。お前、いっつも言ってるだろ。妹キャラ作って腹の上に乗っかてくる起こしかたはもう止めろって」
「うぅ、だからってげんこつはひどいでございますことよ、甲斐ぼっちゃま。ああ、ぼっちゃまがわたくしの愛を受け入れてくださるのはいつのことになるのやら、まだまだ先は長いのですわ」
「まったくこの駄メイドは……」

 ふと閉じられた戸の向こう側から、賑やかな話し声が聞こえてくる。雛はその相変わらず仲の良さが伺える会話の内容についついくすりと笑ってしまいながらも、寄りかかっていた壁からゆっくりと離れ、立ち上がった。
 その後雛は昨日み~ことから借りたカーディガンを羽織ると、敷いてもらった布団をたたみ、窓についていた障子戸を開ける。そしてそこから覗く明るい空の青さをしばらく堪能してから、部屋全体を軽く見回して汚れている所がないのを確認すると、和室の戸を開けて居間へと出ていく。
 雛が居間に入って甲斐の姿を探すと、すぐにキッチンに立っている彼の姿が見つかった。それから雛はゆっくりとした足取りでとんとんと慣れた手つきで包丁を操っている甲斐に近づくと、対面キッチン越しに正面に立ち「おはよう、甲斐」と声をかけて柔らかく微笑んだ。

「ああ、雛か。おはよう。昨日はよく眠れたか?」
「ええ。おかげさまで……とてもいい夢が見られたわ」
「お、そうかそうか。そいつは良かった」

 甲斐はそう言いながらどこか嬉しそうにニッと明るい笑顔を見せた。

「なんだか、随分と嬉しそうね?」
「そりゃまあ、一応これでも家主だからな。なんだか昨日は雛が起きてからずっと俺とみ~ことで騒いでばっかだった気がしたから、さっぱり気が休まらなかったって言われるんじゃないかと戦々恐々としてたんだよ」
「ふふ、そんなことはないわ。甲斐もみ~ことも、とっても良い子だったもの。私も楽しかった」
「いい子って……さすがにこの歳で良い子呼ばわりは少し抵抗あるんだけど」

 甲斐が小さく苦笑を浮かべてそう反論するが、雛はくすりと小さく笑って、

「私はこれでも、あなた達よりずっと歳上なのよ? 私にとっては何歳だって、子どもも大人も同じだわ」

 とどこか楽しげにそう言った。

「へえ、そうなのか。とてもそうは見えないけど……まあ、そういう事もあるか。ちなみに、具体的に何歳なのかは……」

 甲斐が視線で伺いを立てると、雛は無言でニッコリと笑顔を見せる。

「はは、了解」

 その笑顔から言葉に出来ない圧力を感じた甲斐は、そう言って乾いた笑い声を上げるとそれ以上この話題を続けるのをやめることにした。

「そうそう。女性には余計なことを聞かないのが、いい男の条件よ?」
「うい、肝に銘じておきます。……ああ、そうだ雛。アンタ、朝飯は何がいい? 今丁度作ってたところだから、和食か洋食かくらいのリクエストなら応えられるけど」
「……いえ、私の朝ごはんは必要ないわ。そろそろお暇させてもらおうと思ってたから」

 甲斐の朝食の誘いは断って、雛は小さく首を横に振った。

「え? なんだ、もう出てくのか。別にそんな慌てなくても、せっかくなんだから朝飯くらい雛も食ってけばいいのに」
「だめよ。本当なら、こんなに長居をするつもりはなかったもの。これ以上、ここに居るわけには行かないの」

 胸の内に名残惜しさがないと言えば嘘になるが、しかし雛はそんな思いが嘘のように晴れやかな表情で首を横に振った。その表情を見て、雛が考えを変える気がないのが分かったのだろう。甲斐はそうかと頷くと、包丁を操る手を止めてキッチンから出てきた。

「オッケー、分かった。これ以上は余計なお世話みたいだな。それなら……、み~こと! もう雛の服は乾いてるのか――」
「はい、もちろんでございます!」
「うおわ!? おま、どっから湧いて出てきたっ」

 てっきりみ~ことは洗面台の方に居るものだと思っていた甲斐は、突然真横から声がしたことに驚いて思わず飛び上がってしまった。

「まあ……湧いて出てきただなんて、そんな虫みたいに言わないで下さいませ。この不肖み~こと、甲斐ぼっちゃまにお呼ばれすれば例え火の中水の中、マグマの中でだっていつでもすぐに参上しちゃう所存でございますですわ」
「……うん、まあこいつのことはほっといて……服はもう用意できてるそうだから、着替えは雛の寝てた和室か脱衣所を使ってくれ」
「ええ、分かったわ」

 甲斐が呆れ顔で雛の服を手にしながら語っているみ~ことをスルーしてそう言うと、雛も空気を呼んで何も言わずに頷いた。

「ああん、ぼっちゃまのいけず~。でも、そんな所も素敵ですわ!――さ、もう少しでお洗濯も終わりますし、雛さんがお出になられる前に一区切りさせちゃいましょ」

 しかしみ~ことは相変わらず堪えた様子を見せずに、そんな事を言いながら仕事へと戻っていく。

「はあ、やれやれ……」

 甲斐はその姿を見て小さくため息をつきながら肩をすくめるが、しかし微妙にその表情が緩んでる辺り、なんだかんだ言いながらこの状況を楽しんでいるようであった。



◇◆◇◆◇◆



「それじゃあ……お世話になったわね、甲斐、み~こと」

 そう言って玄関先に立つと、ゆったりとした優雅な動作で頭を下げる雛。
 頭にはフリルのたくさんついた大きなリボン。やはり地毛なのだろう相変わらずの綺麗な緑髪を体の前で束ねていて、服装は何やら渦のような不思議な模様のついた赤いロングドレス。そしてひっそりと浮かべている、あまりにも綺麗過ぎる秘めやかな微笑の姿。それはまるでここではない遠いどこかからこちらを眺めているような、いっそ神々しさすら感じさせる超然とした表情だった。
 格好こそ始めてあった時と同じはずなのに、表情ひとつでこれほど印象が変わるのかと甲斐は内心で驚きながらも、やっぱりさほど気にせずこれまでと変わらない態度でニカリと明るい笑顔を見せた。

「なに、前も言ったけど、全部俺たちが勝手にやったことだ。気にするこたあないさ。な、み~こと?」
「ええ、もちろんその通りですわ。雛さん、もしお近くを通られることがおありでしたら、その時はぜひまたお越しくださいませ。今回はわたくしの作ったデザートも振る舞えませんでしたし、あまりお時間がなくて何もできませんでしたが、次こそは全力でおもてなししちゃいますですわ」
「私が甲斐に助けてもらったのは確かだし、み~ことが何も出来なかったなんてそんな事絶対にないわ。貴方たちがいなかったら私はきっと、今ここにはいられなかったもの。だから……本当にありがとう、ふたりとも。感謝してるわ」

 二人の言葉に、雛は小さく首を横に振って感謝の言葉を口にする。しかし甲斐はそれを聞いてふっと目元を緩めると、まっすぐに雛の目を見つめ返して言葉を重ねた。

「旅は道連れ世は情け、寄らば旅路の義理人情ってな。困ったときはお互い様。もしまた会うことがあったんなら、その時また笑顔の一つでも見せてくれればそれで十分だよ」
「まあ、ぼっちゃまったら変に格好つけて。だめですよ、まず口説くんなら誰よりも先にわたくしを口説いて下さいませ。浮気は男の甲斐性ですが、さすがに目の前でされては悲しゅうございます」


「色々やかましいわ。浮気以前にそもそも俺は誰とも付き合ってねえし、もしも誰かを口説くとしてもその相手をお前にすることは絶対にない」
「ああっ、酷いですわ! 何も絶対とまで言わなくてもいいではありませんか!」
「……くす。本当、貴方たちはいつも楽しそうね。仲が良くて羨ましいわ」

 いつも通りの主従漫才に、雛はくすりと笑みを漏らした。そして僅かな沈黙の後に、名残惜しそうに別れの言葉を口にする。

「さようなら……甲斐、み~こと。短い間だったけど、楽しかったわ」
「む、さようならだなんて寂しいな。こういう時はまたねって言うもんだぞ? そっちの方が、これから先の楽しみが増えるからな」
「ふふ、そうね。また、会いましょう。二人とも」
「おう。またな、雛」

 そうして雛は、ふわりと身を翻して去っていった。
 その後ろ姿からは、ヒラヒラと手のひらに落ちてあっという間に溶けてしまう一粒の雪の結晶のような、そんな儚さを感じさせられて……甲斐はなんとなく不安を感じて、ふいに眉尻を下げてしまう。
 とその時突然、み~ことが身体の向きを変えてまっすぐに甲斐に向き直ると、ひどく真剣な表情で口を開いた。

「甲斐様」
「?」

 み~ことが家に来てすぐの頃にしかほとんど聞いた覚えのないその呼び方に、甲斐はどうしたのかと疑問に感じて首を傾げる。
 すると次の瞬間み~ことは、見るものがビックリしてしまいそうなくらいに真剣な表情と、どこか必死さを感じさせられる声で、

「わたくしは……み~ことはこの身が壊れ停止するその時まで、必ずあなた様のお側におりますわ。ですからどうか……そんなお顔を、なさらないでくださいませ」

 と懇願するように語り甲斐の瞳を見上げた。

「……」

 きっとみ~ことは先程甲斐が浮かべた表情を、寂しさ故か悲しさ故のそれと勘違いしたのだろう。そんなみ~ことの様子に甲斐は穏やかに微笑みを浮かべると、ぽんと一度み~ことの頭を撫でて玄関先から去って行った。

「……あっ、待ってください甲斐ぼっちゃま!」

 それから少しの間み~ことは呆っと立ち尽くしていたが、すぐにはっとして顔を上げるとその背中を小走りに追いかけ始める。
 ……去り際に甲斐が小さく呟いた、「ありがとう」という言葉に、僅かに頬を緩めながら。



◇◆◇◆◇◆



 雛は門倉家を後にしてすぐ、その門の前でどこか驚いたように目を小さく見開いて立ち尽くしていた。

(これはいったい、どういうことなのかしら?)

 始め雛は、自分が長く滞在してしまったことで甲斐とみ~ことに移ってしまったであろう厄を集めようと、手をかざし目を閉じて意識を集中させていた。しかしいくら家の中にある厄の気配を探っても見つからないという事実に驚いて、雛はどこか信じられない思いでどういうことかと考えこんでしまう。

(み~ことは……分からなくもないわね。この感覚は、魔法の森の人形遣いの操るそれに近い感じだわ。全く同じというわけではないのでしょうけど……体が生き物のものではないというのなら、厄が移ってないのは理解できる)

 どうしてそんな存在が外の世界にいるのかとも思うが、幻想の匂いはしないので彼女は自分が知らないだけで外の世界固有の何かなのだろう。
 しかし――

(甲斐のこれは、どういうことなの? 完全にゼロというわけではないけれど……だけどこの量は、私と一緒にいて増えるどころか、普通の人間と比べても少なすぎるわ)

 以前の異変の折に会った、あの巫子ならば理解できる。彼女はその能力によって全てから、世界からですら浮いているからだ。しかし甲斐は外の人間であり、それに特に強い霊力を持っているというわけでもない。なにか特別な力を持った人間でもないというのにこの量は、完全に異常だった。

(……なんにせよ……)

 せめてものお礼にと、二人の厄祓いをしようと思っていたが……これでは仮にこれ以上ここにいたとしても、自分にできることはもうないのだろう。その事実に雛は気分を沈めながら、ふらふらと朧気な足取りでこの場から去っていった。



[29961] 第六話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:00
「そういえば、さっきは聞き損ねてしまったのですが……」
「?」

 昨日は眠気に負けてしまって入らなかったので、大学に行く前に風呂に入ろうと着替えを受け取った所で、み~ことに話しかけられて甲斐は動きを止めた。

「先ほどわたくしの目には玄関でお別れした雛さんのお姿が、その後すぐに消えてしまわれたように見えた気がするのですが、あれは気のせいだったのでしょうか?」
「あれ、言ってなかったっけ。詳しくは知らないけど、何でも雛って実は人間じゃないらしいから……多分そのせいだろうな、それは。初めて会った時もたしかそんな感じだったし」

 甲斐がそう言うと、み~ことは胸の前で手を合わせておっとりと「まあ、そうでしたの」と呟いて、

「でしたら今度お見えになられた時には、食べられるものが人と同じなのかもお聞きしちゃったりしなければなりませんね」
「あ、なるほど。たしかにその辺は確認してなかったな。晩飯の時は何も言ってなかったから、多分米とかあの辺は大丈夫だったんだろうけど」

 果たしてその話を聞いて気にするのはそこでいいのだろうか。この二人、主従揃ってズレ過ぎである。

「まあなんにせよ、今はその話はいいだろ。んじゃ俺は、いい加減風呂に入るかな」
「そうですね。では、参りましょう」

 ……。

「……おい」

 風呂場の前まで移動した後、何故かみ~ことも一緒になって着いてきたので甲斐は思わず顔を引き攣らせながらその顔を見返した。

「? どうかされましたか?」
「いや、どうしたかじゃなくて……」

 あまりにも平然と聞き返されたものだから、甲斐は一瞬自分がおかしいのかと思ってしまったがすぐに、

(いやいやおかしい。これは絶対おかしいだろ)

 と思い直す。

「だからどうして、お前も一緒に風呂場に来るんだよ?」
「それはもちろん、甲斐ぼっちゃまのお背中をお流ししちゃおうと思っちゃったりしちゃったからでございますわっ」
「……そうかそうか、そいつはありがたいなー。よし、み~こと」
「はい? なんでございますか、ぼっちゃま?」

 未だに風呂場の前から動かずキョトンとした顔で小首をかしげているみ~ことに、甲斐はニッコリとした笑顔で一息に、

「デコピンとげんこつとチョップとグリグリ、どれがいい? どれかひとつ選びやがれ」

 と言い放った。

「……――え?」

 そして呆けたような顔で目を丸くしているみ~ことに、甲斐は棒読み無表情なのに何故か明るさを感じさせる口調で、

「あ、なに? 全部がいいって? 仕方ないなあみ~ことは。そんなに俺にお仕置きされるのが好きなのか。よーしパパ張り切っちゃうぞー」
「え、ええっ!? あ、ちょ、ちょっとま、お待ちください甲斐ぼっちゃま! 謝りますっ、謝りますから――」

 慌てて言い募るみ~ことの言葉を無視して、甲斐はジリジリと近づいていき――

「みゃー!?」

 直後、特大の悲鳴が門倉家の中に盛大に響き渡ったという。そして後にはプスプスと頭から煙を上げるみ~ことと、少しだけ手を痛そうにさする甲斐の姿のみが残ったのであった。
 男女七歳にして席をどうじゅうせず。ここ門倉家では、不埒な真似は許されないのである。
 ……まあ結局のところは、いつものじゃれ合いということなのだけど。




「さて、飯も食ったし忘れ物もないし……そろそろ出るかな」

 そう独りごちると「んー」っと伸びをして、甲斐はソファーから立ち上り玄関へと歩いていった。
 そして靴を履こうとするといつの間にか待機していたみ~ことが、「どうぞ、ぼっちゃま」と靴べらを差し出してきたので、「おう、ありがと」と小さく礼を言ってそれを受け取り靴と踵の間に差し入れ靴を履く。

「……よし、それじゃあ行ってくる。今日はゼミもないし用事もなかったはずだから、多分そんなに遅くはならないはずだ」
「承知いたしました。それでは行ってらっしゃいませ、甲斐ぼっちゃま」

 ペコリとお辞儀をしたみ~ことに軽く手を上げると、甲斐は身を翻して玄関から出ていった。そしてみ~こともそれを確認してから無言で頭を上げると、主人のいぬ間に家事を済ますべくパタパタと家の中へと戻っていったのであった。



◆◇◆◇◆◇



「う……」

 ふらりとぐらつく体。思わず漏れるうめき声。甲斐の家で回復した力などとうに消耗しきって、雛は今にも倒れそうな体を引きずりながら歩いていた。
 周りを見渡せば、どこに行っても人間ばかり。しかしこれだけ弱りきった姿を図らずも晒してしまっているというのに、誰一人雛に声をかけてくるどころかその姿を目に留める者すら存在しなかった。とは言えそれはこの場に居る人間たちが特別に冷たいというわけではなく、単に甲斐のように雛の姿を見ることのできる者がいないというだけのことなのだろう。

 ……弱った心に、影がさす。あれだけ共にいて厄が移らないのなら、幻想郷へ帰る方法を見つけるまで甲斐のもとで厄介になってもいいのではないのかという想いが生まれてしまう――

(――ありえない)

 しかし雛はそんな情けない想いが浮かんだ瞬間心の中で握りつぶすと、ふらふらと周囲に視線を巡らせて少しでも人や動物の姿が少ないところを探しながら歩を進める。

(……どこか、生き物のいない所。いえ、せめて普通より広い場所があれば……)

 が、その瞬間。雛の膝からすうっと力が抜けて、まるでひどい貧血になってしまったかのように意識が遠ざかっていってしまう。

(駄目よ。こんな人間の多い所では、倒れられない。私が……『厄神』が、人に不幸を撒き散らす訳にはいかないもの)

 そして雛は無意識の内に崩れ落ちてしまっていた片膝に手をついて力を振り絞るとどうにか立ち上がり、ゆらりと朧気な足取りで再び歩き始めた。
 その様はまさに、風前の灯火。己の末を知った蛍火のごとく明滅する、儚くも美しい煌きの姿だった。



◆◇◆◇◆◇



「……」

 時は進み、時刻は時計の針が12の文字を僅かばかり過ぎた頃。大学に着いて午前の講義を済ませた甲斐は、本来ならば昼食をとるべきこの時間に食堂へも行かず、屋上で一人フェンスに手をかけて体に風を受けながら佇んでいた。

(……なんなんだろうな、この胸騒ぎは)

 家を後にしてしばらくたった頃から、甲斐はずっと胸の内に滞る嫌な予感に苛まれていた。そのおかげで午前の講義にはまったく集中できなくて、右から左に抜けていってしまいメモの一つもまともに取っていない始末。
 とはいえそもそも大学の場合高校とは違って、一度や二度聞き逃した程度では講義についていけなくなるようなことはない……というか、講義内容は全て携帯端末に録音されるようにしているので、それに関しては問題なかった。
 しかし……

(ホント、なんなんだろうなこれ。もしかして、いわゆる虫の知らせってやつなのかねえ? ただの勘違いだと嬉しいんだけど……なんにせよこれじゃあ、さっぱり講義に集中できねえ。こまったもんだなあ……)

 一応先ほど、『岡崎夢美のひみつ道具シリーズ第七号、未来型糸電話くん』――耳の裏に貼ることのできるシール型思考操作式携帯電話――で家に連絡をとってみたが、それは変にみ~ことのテンションを上げてしまう結果に終わっただけで、向こうでは特に変わりがなかったようだ。

「はあ……」

 一向に正体の知れない身の内にたちこめる不快感に、甲斐はつい深いため息を吐いてしまう。

(今後も吸うつもりはもちろんねえが……こういう時はなんとなく、未だに数世紀単位でタバコってやつがなくならないのがわかる気がするな……)

 そうしてぼうっとしながらもそんなことを考えていると、その時突然耳元から――

「わたしメリーさん。今貴方の後ろにいるの」

 ――というなんともずれたユーモアに満ちた声が聞こえてきた。それを聞いた瞬間甲斐はのったりと後ろに振り向いて、その声の主に胡乱気な目を向ける。

「……また随分と悪趣味な冗談だなあ、マエリベリー」
「む、悪趣味とは非道いわね。……うーん、それにしても今回は全く気づかれてなかったし自分でも上手く行ったと思ったのだけど……やっぱり貴方は驚かないのね。たまにはちょっとくらい動揺したところをみせてくれると、もう少し可愛げがでて面白くなると思うわよ? 主にわたしが」

 色素の薄い金髪のロングヘアー、お嬢様然とした上品な紫の服の隙間から覗く肌は抜けるような白磁の肌。謹製のとれた細面に……まるで水晶のように透き通った、吸い込まれてしまいそうなブルーの瞳。そして今にもどこか遠くへいなくなってしまうのではないかと不安を抱かせる儚げな雰囲気と、それに相反するようにいつも浮かべている、赤く艶かしい唇をより魅力的に引き立たせる楽しげな笑み。
 この街を歩いていれば十人が十人とも振り返ってしまいそうな絶世の美女の名は、マエリベリー・ハーン。通称メリー。大学に入学してすぐに知り合って以来、何故だか甲斐にちょくちょくちょっかいを掛けてくる、さっぱり考えの読めないよく分からない女性だった。
 ちなみに甲斐にメリーのことをどんな人間だと思っているかと問いかけると、『半分は優しさで出来てる昔の頭痛薬みたいな奴』という答えが返ってくるのだが、それはまた別の話。

「別にアンタを楽しませる理由は俺にはないから却下だ。それで、何か用か?」
「あら、冷たいお言葉。偶然とはいえせっかく仲間に会ったというのに、用がなければ話しかけちゃいけないの?」

 相変わらず、人を喰ったような喋り方をする。それ自体は嫌いではないしむしろ会話していてわりと楽しいのだが、正直な所今のように平常運転じゃない時は少々疲れるというのが甲斐の本音だった。

「……」

 そうして甲斐が何も語らず黙っていると、メリーは楽しげに弧を描かせていた唇の形を元に戻して、「あら?」と何か意外なものを見たような表情を浮かべ首を傾げた。

「もしかして門倉くん、今はご機嫌斜め?」
「まあ、よろしくはねえかな」
「へえ……それはまた、珍しいこともあるものね。余程のことがあっても貴方はいつも、"いつも通り"なんだと思ってたけど……ここに来る途中で妙な境界も見るし、なんだか今日は珍しいことが続く日だわ」
「妙な、境界?」

 オウム返しをする甲斐に、さらりとメリーは頷いた。

「ええ。さっき大学に来る道すがら、『世界との境界が酷く薄れている何か』を見たの。それで何かと思って少しの間それを観察してみたのだけど、ゆっくりと移動する境界以外には特に何も見えなくて、それ以上はなんだかわからなかったのよね」

 境界。それすなわち、何かと何かを分け隔つ境。それがメリーの目には見えているという。その範囲は多岐に渡り、空と海の境界なんていう当たり前のものから結界の境界なんていうオカルトじみたものまで、ありとあらゆる境界が"見えてしまう"のだとか。

「……マエリベリー。その話、もう少し詳しく教えてくれないか? なんだか……」

 やけに、気になる。
 急に表情を引き締めて、真剣な顔になった甲斐にメリーは一瞬目を丸くしたが、すぐにいつも通りの笑みを口元に浮かべると、

「構わないわよ。どうも冗談ごとじゃなさそうだし、今回はタダで教えてあげる。その代わり……」
「その代わり?」

 甲斐がメリーの言葉をオウム返しすると、メリーは極上の笑みを浮かべてその続きを口にした。

「その用事が終わったら、今度デザートか何かを食べに連れてって。もちろん、門倉くんの奢りでね?」
「マエリベリー。それは無料とは言わないと思うぞ」

 メリーの言葉に、甲斐はついつい呆れ顔で突っ込んでしまう。

「あら、よく言うじゃない。タダより高いものはないって」
「それはつまり、これはむしろまけてやったんだとでも言いたいのか?」
「ええ、そうよ。それとも門倉くんは、どこかの高級レストランにでもご招待の方が良かったかしら? デートのお誘いでしたら、いつでもお受けいたしますけど?」

 メリーが小首をかしげて可愛らしく告げた言葉に甲斐は、「はは、そいつは勘弁だ」と軽く笑って首を横に振った。どうやらメリーと話している間に甲斐も調子を取り戻したらしく、表情は変わらず真剣なものだったが、しかし最初に浮かんでいた暗い影はどこかへと消えていた。

「んじゃ今度なにかデザート奢りで決まりってことで……詳しいこと、教えてくれるか?」
「ふふ、残念ね。これで高級おフランス料理は食べ損ねてしまったわ。まあそれは、未来に期待ということにしましょうか。それじゃあ――」

 そうしてメリーは甲斐に件の『妙な境界』の詳細を説明し始めた。



[29961] 第七話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:00
「ここは……」

 どこをどう歩いたのか全く覚えていなかったが、雛はとうとう探し求めていた『ある程度広さのある土地』を見つけて力なく胸を撫で下ろした。

(……人も殆どいないようだし、ここなら……)

 そう思ったと同時に、ガシャンと背後から音がする。すぐに首を回して後ろを見ると、そこにはいつの間にかぶつかっていたフェンスの姿が。雛は安心して気が抜けてしまった瞬間に自分でも気づかない内に倒れこみ、背中からフェンスにもたれかかってしまっていたのだ。

(ああ……どうにか、間に合った。後は厄を薄めて世界に還しながら、消えるだけ)

 元々雛は、人妖に滞った『厄』を払い自分の周囲に溜め込む能力しか持っていなかった。よって溜め込んだ『厄』を更に別の神へと譲渡して還元してもらっていたのだが、外の世界ではそれをすることは当然不可能。そのため今の雛にできることは、できるだけ生物に影響が無いよう『厄』を大気のように薄く伸ばして、それを拡散させることだけだった。

「あ……」

 とその時、雛の薄く小さな唇からかすかなうめき声が漏れる。これまで気力だけでもたせていた意識が、とうとう限界を迎えて潰えようとしていたのだ。

(まだ……まだ、気を失う訳には……)

 雛は魂を振り絞りどうにか意識を保とうとしていたが……しかしその最後の抵抗も虚しく、彼女の華奢な体はズルリと力なくフェンスから滑り落ち、倒れ伏した。



◇◆◇◆◇◆



「運動場……」

 甲斐がメリーから聞いた話では、件の境界はゆっくりとこの大学の運動場の方へと移動していったそうだ。朝の時点では講義もあるしいつまでも観察しているわけにはいかなかったからと、なんでも後でまた見るためにその移動先を分析、計算して割り出しておいたのだとか。岡崎教授のようにトンデモ発明こそしてないものの、メリーもメリーで相変わらずとんでもない頭脳の持ち主である。
 ちなみに余談ではあるが、元々メリーはそれを上から眺めるために屋上に来ていたのだそうだ。

 何はともあれ甲斐はその話を聞いた後、メリーに礼を言ってほとんど駆け足で階段を下ると、昼時間であることもあってほぼ無人の運動場のあちこちを見て回っていた。自分がどうしてそこまで境界それを気にするのかは甲斐自身分からなかったが、何故だが一刻も早く見つけなければならないような気がしてならないのだ。
 その後甲斐は運動場の、大学の校舎側半分はざっと確認して反対側――外側からの入り口の方へと小走りに近づいていく。
 そしてその周辺をぐるりと見渡して、

「あれは……」

 ついに甲斐は、"それ"を見つけた。

「黒い、陽炎――って、まさか!」

 地面に広がるその黒い陽炎は、甲斐が慌てて近づくと案の定すぐに人の姿をとる。

「雛!」

 甲斐は急いで雛の直ぐ側に駆け寄って地面に片膝を着くと、体の下に手を差し入れて揺らさないよう慎重に抱き起こす。そうして露わになった、雛のまるで蝋人形のように真っ白に血の気の失せた顔色が目に飛び込んで来ると、甲斐は愕然とした思いで目を見開き息を呑んだ。

「朝は普通だったのに、何でこんなに衰弱して……!?」

 すると雛は微かに戻った意識の中で力なく身動ぎし、甲斐の顔をうつろな瞳でおぼろげに捉えた。

「か、い……? あ、れ……どうして甲斐が、ここにいるの……? だめ、よ……こないで。すぐにわたしから、離れて……」
「お前、そんな状態でなに言ってんだ! 人の心配してる場合か! すぐに医者に――いや、それは意味ないんだったか……クソっ! どうすりゃいいんだ!?」

 まるでうわ言のように言葉を途切れ途切れに口にする雛の姿を見て、甲斐は一瞬まるで泣くのを我慢しているかのように表情を歪めると、自身の胸中に湧き上がる感情を持て余し唇を噛み締める。

(こんな、少しの間外にいただけでここまで消耗するなんて……!)

 この時甲斐の脳裏には、あの夜雛に余計なことを言わず話を止めたりしなければ、こんな事にはならなかったのではという考えが過ぎっていた。
 しかし直後に甲斐の顔色に己を責める兆しを見つけた雛はその考えを悟ったのか、息も絶え絶えになりながら小さく震えるように首を横に振った。

「……それは、ちがうわ。もしもあのとき止められなかったとしても……どちらにせよ、くわしくははなさずに、すぐにこうして出ていくつもりだったから……。……だからこれは、貴方のせいじゃないのよ。……ごめんなさい。けっきょく甲斐にめいわく、かけちゃった……」
「迷惑って……、迷惑ってなんだよ! そんなのっ」

 その甲斐の、どこか怒りにも似た焦燥をにじませた否定の言葉をしかし、雛は再び力なく首を振って遮った。

「甲斐、だめよ……だめ。わたしのことは、きにしないで。わたし、わたしね……人間じゃ、ないの。わたしはもともと……『げんそうきょう』っていうところに住んでた、やおよろずの神のひとりなのよ。それも、やくじんっていう……人や妖怪のふこうを……やくを代わりにためこむやくわりを持った、神。だから……わたしのちかくに来たら、甲斐がふこうになっちゃうの」

 雛はこの時既に自分のことは頭になく、甲斐の安否しか考えていなかった。というよりも正確には、もはやそれ以上を考えるだけの余裕がなかったのだろう。しかし他人の事しか考えていないということは、すなわちそれを自分に置き換えて考えてみることができないということでもある。
 つまり雛には、仮に同じ状況でそれを自分が告げられたらどう思うだろうかという、会話においては最も重要な要素の一つでもある相手に対する想像と理解が、全くといっていいほど足りていなかったのだ。
 だがそれは、今の雛が心身ともに弱りきっているのだという証左であり、決して責められるべきことではない。
 だから雛のその言葉に、もしも問題があったとしたらただ一点――

「お前が……雛がそういうもんだってのは、今さら疑う気はねえさ。だけど……だからってそれで俺に、雛をこのまま見捨てろって言うのかよ!? そんなの嫌に決まってんだろうがっ、冗談じゃない!」

 ――それが"誰か"にとっては『鍵山雛』を拒絶するだけの理由足り得たとしても、『門倉甲斐』にとってはその理由たり得なかったのだということだけだった。

 確かに。
 神であるということ。そして不幸をもたらす厄というその存在は、人が雛を遠ざけるに値する事柄ではあるのだろう。だけどそれは、『鍵山雛』という存在の持っているほんの一面でしかない。

 鍵山雛は、女の子だ。見た目は幾つか年下に見えるけど、実年齢は本当はもっと高いらしい。
 鍵山雛は、まるで宝石のように髪が綺麗だ。サラサラとしたその髪は見るからに気持ちがよさそうで、一度でいいから触らせてもらいたくなるようなとても艶のある髪をしている。
 鍵山雛は、意外と恥ずかしがり屋だ。普段は冷静で大人っぽく見えるけど、たまにその態度が崩れてまるで幼い子どものような顔を覗かせる時がある。
 そして鍵山雛は、厄を司る『厄神』という女神であるらしい。

 ――だけど鍵山雛は、とても優しい女の子だ。ほとんど初対面のはずの他人を不幸にしたくなくて、自分の方が今にも死んでしまいそう顔をしているというのに、それでもその相手の心配をすることしかできないでいるのだから。

 人と――誰かと関わっていけば、自分とは違う嫌なところとか、それとは逆に好きなところとか……その相手のいろんな面が目に入るのは当たり前で。
 だけど少なくとも、甲斐にとっては"その二つ"は絶対に、雛のたくさんある好ましさを帳消しにしてしまうようなものでは、決してないのだった。

 しかし雛にはもう、誰かと会話をするだけの余力は残っていなかった。だからもしかしたら、とうに甲斐の声は聞こえてすらいなかったのかもしれない。
 そして雛は最後に今にも消え入りそうな細々とした声で、

「……かい、わたしのことはもういいから、あなたははやくとおくへ……」

 と告げると再び意識を失いぐったりと目を閉じてしまう。

「どうして、そこまで……」

 最後まで、最後まで自分のことなんかまるで考えずにどこまでも他人を優先するその姿は、あまりにも自身のことを蔑ろにしすぎていて……

 甲斐はもう訳もわからずに、涙を流してしまいそうだった。

 しかしそれまで肩を震わせていた甲斐が、瞼を重く閉じてしまった雛の顔を見つめた後に実際にしたことは――

「ああもうちくしょうっ、もう知らねえ! そんなに自殺がしたいんだってんなら、そんなもんは俺の知らない所でやりやがれ! 見ちまったら、知っちまったら……ほっとけねえだろうが! このまま見殺しになんてできるかよ! こうなったらお前が何を言ったって絶対に、見捨ててなんかやらねえからな!」

 ――まるで天に噛み付く獣の如く、身の内で暴れる抑え切れない激情を吐き出すように空に向かって叫ぶことだった。
 直後。甲斐は雛の体を負担をかけないよう丁寧に抱きかかえ、力強く立ち上がる。

 その時の甲斐の胸にあったのはただ一つ、

(気に食わねえ……!)

 ひたすらに激しく体の芯を燃え上がらせる、怒りにも似た想いだった。

 人の……生き物の生き死には、世の常だ。だからもしもこうして倒れている雛に気づかずに、後日誰かにどこかで雛が死んでしまったのだという話を伝聞として聞かされていたとしたら……甲斐は悲しみこそすれ、それを受け入れて納得したはずだ。
 しかし今、雛は他のどこでもない、甲斐のその目の前にいる。ならば――それはまだ、受け入れられるはずもない。
 だって雛は今、生きているのだ。だから――

(生きてる奴が死ぬのを納得するのは……死を受け入れるのは、生きる努力をして精一杯足掻いた、その後の話だろうが!)

 それは義務ではない。生きとし生けるものは全て、生きている以上常に死を隣人としている。故に死を自ら招くかどうかは、本人の自由意志なのは確かなのだろう。

 だけどやっぱり、甲斐にはそれが納得行かなかった。

 甲斐が今、これ以上ないほどに"激情にかられて"助けようとしているのは、相手が雛だったからだ。
 しかしもしもそうではなくて、仮にこれが全くの他人だったとしても、やはり甲斐はその"誰か"を全力で助けただろう。

 ――『門倉甲斐』は、別れも出会いも幻想も現実も区別なく、"あらゆる全てを受け入れる"。

 これからも、訪れるものを拒まずに、別れるものは引き止めず。

 しかしやはり……それでも甲斐は、人間なのである。
 故に――受け入れるのは、最期まで抗いきった後でいい。物事の過程までをも放棄するのは、それは最早生きることを放棄しているのと同じ事だから。
 考えうることを全て考えて、できることを全てやって……そうしてようやく、成るように成って出た結果を、甲斐は受け入れられるのだ。

 だが、同時に……今の甲斐には自分が雛を助けるために何をすればいいのかまるで分からないというのもまた、受け入れざるをえない確かな現実でもあったのだ。





 結局のところ。
 人間最後に頼るのはやはり『己の家』であり、また自身の最も信頼する『家族』なのだろう。
 一体どこをどう歩いたのか。気づけば甲斐は雛を背中に背負って全身汗だくになりながら、自身の家の眼前に立ち尽くしていた。
 ……確かに、昨日は家で寝かせることで雛はある程度回復していた。
 しかし今の容態は、素人目に見ても瀕死にしか見えない。どこを見ても怪我らしきものは存在しないことから単純に衰弱しているだけのようには見えるが、仮にそうだったとしてもなにか他の問題があったとしても、とてもではないが寝かせているだけでまた以前のように目を覚ますとは思えなかった。

(……なにか、できることはないか。なにか……)

 冷静に、冷徹に、厳然に――論理的に、思考の回転は最大数へ。熱を持った脳は、冷えた心で冷却する。自身の所有物・技能・能力・知識・記憶・状況・状態――全てを加味して模索。

 ――結論。何も、できることはない。

 これは多くの人々が既に遥か記憶の彼方に忘却してしまった神秘――オカルトの領域なのは間違いない。つまり物理的、科学的なそれは何も役には立たないはずだ。教授やメリー達に関わることで今まで培ってきた、特異な経験から来る勘がそう告げていた。

 ――ならば、それができる誰かに任せればいい。

 甲斐の手元に最後に残っていた手札――人脈。
 甲斐は特別顔が広いわけではなかったが、しかしその脳裏に浮かぶ顔ぶれはどれもこれもが変わり種。つまり今回のような変わり種な出来事に、その内の誰かが対処できる可能性は十分にある。
 直後に甲斐が立ち上げたのは、思考によって起動するその機能。耳に取り付けられている岡崎教授製の電話に備えられた、緊急コールモード。それは相手の端末が現在どんな状態であろうとも、強制的に割り込んで通話を繋がらせる機能だった。
 そして甲斐はこの状況に対処できる可能性の最も高い人物に、鋭い声で呼びかけた。

「――マエリベリー、いきなりで悪いが聞いてくれ!」



[29961] 第八話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:00
 外では太陽の日差しがジリジリと突き刺さり、その日の気温も最高潮へと達しようとしていた昼下がりの午後。メリーはあの後甲斐はどうしただろうかと頭の片隅で気にしながらも、そんな悪夢じみた暑さとはまるで無縁な環境調整の行き届いた講義室の中で講師の話を何気なく聞き流していた。
 そもそもメリーがこの大学で専攻している分野は、相対性精神学という学問。その相対性精神学というのは、精神の絶対的基準点を設定し、そこから人の心の動きをプラスマイナスいずれかで数値化するというのが基本理論の学問なのである。
 しかし今ホログラム越しに講師が熱弁を振るっているのは、古典文学に宗教的なアプローチをするという専攻とは全く真逆に位置する興味のないものだったので、メリーは適当に流しながら単位が取れる程度に要点を押さえておくだけに留めていた。

 とそんな風に、メリーが要領よく手抜きをしながら講義を受けていると、その時突然――

『マエリベリー、いきなりで悪いが聞いてくれ!』
「わきゃっ!?」

 ――メリーの持ってきていた手提げ鞄の中から、講義室中に響き渡るような甲斐の大声が聞こえてきて、メリーは椅子から転げ落ちそうになりながら驚いて立ち上がった。
 ちなみに何故そのような大音量になってしまっているのかというと、あの電話を持っていないメリーにはあずかり知らぬ所ではあるが、実は緊急コール機能を使って通話をすると音量の増幅もされてしまう仕様になっているからである。

「な、なに? なんで……なにごとなの!?」

 そうしてメリーが頭の上に《!》と《?》を量産しながら講義室中の視線を一身に集めていると、その時慌てて拾いそこね取り落としてしまった鞄から、もう一度大音量で甲斐の声が流れ始めた。

『すまん! 急なことで混乱するだろうとは思うけど……後で土下座でも何でもいくらでもするから、今は何も言わずに大至急うちまで来てくれ! お願いだマエリベリー……頼む!』

 メリーが未だかつて聞いたことのないような、甲斐のあまりに余裕のない必死の声色。それを聞いた瞬間メリーはそれまで見せていた動揺を、まるで仮面を被ったかのような唐突さで瞬時に収めると落ち着いた声で、

「――分かったわ。今すぐ講義室から出るから少し待って。それと電話、一旦切るわね。どういうわけか知らないけど、門倉くんからの通話音量がなんだかおかしなことになってるから」
『ぁっ……、――』

 メリーが文句も言わずに了承してくれたことに、お礼の言葉でも口にしようとしたのだろう。甲斐は何事かを言いかけて、しかしすぐに状況を思い出しその言葉を咄嗟に飲み込んだ。
 そんな甲斐の様子にもメリーは何も語ることなく、素早い動作で腰をかがめて床に落ちていた鞄を拾い上げると、

「取り敢えず、ここを出たら移動しながらかけ直します。それではまた」

 短くそう口にして颯爽と身を翻し出入り口へと足を向け、相手の反応を待つことなくすげなく通話を切って歩き始めた。



 コツコツと、硬い靴底が地面を叩く。
 メリーはそんな自分の足音を耳にしながら、先を急ぐべく更にリズムを早めて視線を上げた。そして歩きながら携帯端末で事前に大学の門前に呼んでおいたタクシーにまるで無駄のない滑らかな動作で乗り込むと、

「行き先は電話ですぐに確認しますので、急いで出していただけますか?」

 と運転手の瞳を覗き込みながら、まるで一刻の猶予もないのだと言わんばかりの硬い口調で言葉を告げる。

「う、承りました」

 すると運転手はどこか気圧された様子で即座に車を発進させたので、メリーはそれを確認すると手早く短縮ダイヤルを押して甲斐に電話をかけ直した。直後にメリーの耳に届いた呼び出し音が、ほとんど鳴るか鳴らないかという刹那の間で甲斐の応答を示すように途切れる。
 それからすぐに、メリーは甲斐が口を開きかけたその間隙を狙って鋭い口調で、

「門倉くん。まずは状況の説明の前に、貴方の家の住所を教えて。わたしは今タクシーに乗ってるから、それを先に運転手さんに伝えないといけないの」

 これまでのやり取りは全て、お互いに言葉は少なく説明不足。しかしどうやら状況は理解出来ないまでも、あまり余裕がない様子なのは察することができる。なのでメリーは甲斐なら問題なく対応できるという信頼を込めて、余分は全て締め出し必要最低限のことしか口にしなかった。
 甲斐は実際、その言葉に電話先で一瞬驚きの気配を見せたが、しかしさほどの間を開けずに立ち直るとメリーの予想通りすぐに無駄を省いて必要事項のみを伝えてくる。

『南東京区鶏ケ瀬平町〇〇だ』

 そしてメリーはそれを聞き終えた後、運転手に門倉家の住所を教えるともう一度携帯端末を耳に当てて電話に戻った。

「それじゃあそろそろ、そっちの状況を教えてくれる? どうしてわたしを呼んだのか。貴方はわたしに、一体何をして欲しいのか。そのために、必要なことはなんなのか。全て簡潔かつ正確に……お願いね、門倉くん?」

 その口元に浮かぶのは、いつものごとく余裕の笑み。それは自信の現れなのか、それとも強さの現れなのか。それを知る者はただ一人、マエリベリー・ハーンその人しか存在しないのである。



◇◆◇◆◇◆



「……」

 甲斐は今、先日のように和室に寝かせている雛の姿を硬い表情でじっと観察しているメリーの様子を、固唾を飲んで見守っていた。

「――……。これは……」

 そんな視線の先で小さくつぶやきを漏らし、再び沈黙してしまったメリーの答えを促すように甲斐は、

「マエリベリー」

 と静かな声で彼女の名を呼んだ。

「……わたしの見える境界のことは、確か以前にも少し話したことがあったはずよね?」

 メリーはそう言って雛からゆっくりと視線を外すと、そのまま甲斐の方へと向き直って静かな口調で自身の能力によって見える境界について語り始めた。

「人は……それに"全て"は"何か"と境があるからこそ、融け合うことなく存在できる。自分と他人の境界。身体と精神の境界。肉体と魂の境界。生と死の境界。――そして、世界と自分との境界。だけどこの女の子は、その中でも一番大事な……世界との境界がもうほとんど、見えなくなってしまいそうなほどに薄れてるみたいなの」

 そこでメリーは一息つくと、わずかに表情を暗くして視線を落とした。
 その様子を見てメリーが言葉にしようとしていた続きを半ば察しながらも、甲斐は視線だけで頷いて無言で先を促す。

「――境界というのは、隔たりがあるからこそ生まれるもの。世界との境界がなくなってきているということはつまり、この女の子が世界と同化して消えかけてしまっているということなのでしょう。……多分、単純にこの娘は自分の存在を維持するために必要な何かが底を尽きかけているから、こんな状態になってしまってるんじゃないかというのがわたしの予想よ。ここではその早さが緩やかになっているようだけど……どちらにせよこのままじゃ、恐らく時間の問題でしょうね」

 それが対処可能であるにしては、あまりにも曖昧なその物言い。
 その事実が何を意味するのかを頭の冷静な部分で理解してしまった甲斐は、直後にまるで底なし沼にでも嵌ってしまったかのようなぬかるんだ気持ちで、濁りのないメリーの透き通った瞳を見返した。
 その視線を受けたメリーはもう一度静かに頷いて、甲斐に一切の誤魔化しを混ぜずに説明を続ける。

「それがなんなのか……そしてそれをどうすれば、この娘に補充できるのか。それはわたしにも、分からないわ。……正直に言ってしまえば、畑違いなの。例え秘封倶楽部が本物のオカルトサークルだとは言っても、わたしたちがいつも見て回っていたのは結界の境界だから。仮にここに蓮子が居たとしても、わたしと同じで何も出来なかったと思う」
「……そう、か」

 もう他に、オカルトに対処できそうな誰かの宛は存在しない。そしてそれはおそらく、メリーも同じなのだろう。もしもそれがあるのなら、とうの昔に彼女は紹介してくれたはずだから。

 それに、そもそもの話。

 雛に残された時間は、最早それ程長くはないであろうことはオカルトに造詣の深くない甲斐にですら理解できていた。
 即ち――ここから更にオカルトに関わりのある"誰か"を探して赴いて、そこから事情を説明して移動してもらうなどという、悠長なことをするだけの時間は最早存在していないのである。
 よってメリーに事態が対処不能であった以上、必然……既に結果は出たに等しかった。

 それは、欠片の誤魔化しも許してはくれない確かな事実。

 甲斐が感情の部分でそれを納得せざるとも、『全てを受け入れる』という過去より培った甲斐の"人生"がそこから目を反らすことを許してはくれなかった。

「詰み、か」

 そして甲斐は、覚悟を決める。

 たとえ己がどうなってしまおうとも、彼女を必ず最期まで看取る覚悟を――
 そしてそこに己に対するどのような影響が存在しようとも、絶対にそこから目を反らさず受け入れる覚悟を。

「マエリベリー。こんな急な頼みを聞いてくれてありがとうな。ここからはもう――」

 直後に甲斐は、ここまでしてくれたメリーに何かあっては困るので、礼を言って家から離れてもらおうと話しかけたのだが……

 ――その瞬間。部屋の中の空気が、変質した。

 緊張した、というのともまた違う。決して張り詰めているわけではないが、しかし弛まず緩みを無くした不思議な空気。
 その原因は、甲斐の眼前にいる一人の人物。その一瞬前まではメリーであったはずの、姿は変わらずとも全てが変わってしまった彼女だった。

「甲斐様、お下がりください」

 甲斐がそれらを認識したのとほぼ同時、それまで数歩下がった位置で全てを見守っていたみ~ことが、目にも留まらぬ素早い――もとい、高速の動きで甲斐を背中に庇う。
 その表情に浮かぶのは、"極大"の警戒心。"最高"ですら生温い。目の前に存在するのは危険という言葉すら既に通り過ぎてしまった『ナニカ』なのだと、み~ことの五感センサーではないどこかが喚き散らしていた。

「――門倉、甲斐」

 しかし、警戒心を剥き出しにして睨みつけるみ~ことを無視して、彼女はまるで遥か遠い霞の向こうにいるかのような不思議な声色で話しかけてくる。

「貴方は、その厄神を救いたい?」

 その問いを耳にした瞬間甲斐は、すぐにみ~ことの肩に手をおいて一歩前に出た。

「できるものなら、今すぐにでも」
「甲斐様!」

 まるで噛み付くように叫ぶみ~ことに、甲斐は静かに首を横に振る。

「大丈夫だ、み~こと」

 彼女の『ナニカ』はみ~ことと同じく肌で感じていたが、なぜかそれでも甲斐の勘は、彼女を信用は出来ずとも信頼はしていいと告げていたのだ。

「俺は、何をすればいい? 教えてくれ」
「これを……貴方に、お渡ししましょう。これからしていただくことに、必要な物ですので」

 そう言って彼女が差し出したのは、一つの扇。そんな物は先程まで持っていなかったはずなのに、彼女はまるで宙より取り出したかのようにそれを甲斐に手渡した。

「それを手にしたまま貴方がそちらの厄神に触れられれば、自動でその扇が貴方の霊気を神力へと変えて彼女にそれが流れこむようになっております。そうすれば、その厄神は力を取り戻しいずれ目を覚ますことでしょう。ですが――」

 さらに彼女は、甲斐に忠告するように言葉を付け足す。

「――お気をつけを。霊気とは精気であり即ち生気。いわば命に等しいモノ。それを全て失えば、同じく貴方の命もその指の隙間から零れ落ちることでしょう」
「なっ……!? 甲斐様、そのようなことはおやめ下さい! そもそも本当にそれで雛さんが目を覚まされるのかどうか……この方が本当のことを言われている保証はないのですよ! わたくしには到底信用なりませんわっ」

 そういうみ~ことの気持ちも理解できる。元々メリーには何を考えているのかわからないような所があったが、今の『彼女』はまるでその美貌から表情が抜け落ちてしまったかのように無表情で、普段のそれを通り越して考えが読めないどころかもはや妖しいといっても過言ではなかったからだ。

「それをしたら、俺はどうなる?」

 しかしそれでも甲斐は首を横に振ってみ~ことを制すると、確認のために彼女に再び話しかけ先を急ぐ。それは当然雛に時間が残されていないであろうことも理由としてあったが、それだけではなく何故か目の前のこの女性に余裕が無いように見えたからだった。

「勿論、命を捧げろとは申しません。流石にそれは過分故。ですが暫くの間動けなくなってしまうような大きな疲労と、それに恐らく気絶されてしまわれるくらいの覚悟は、していただく必要があるでしょう」

 彼女の言葉を聞いた甲斐は少し安心したようにほっと息を吐くと、

「そうか。その程度ならお安い御用だ。このままできることがあるのに何もしないで雛に死なれちまうなんて、真っ平御免だからな」

 と言って未だ納得行かなそうにこちらを見ているみ~ことに顔を向ける。

「そんな心配そうな顔をするなって。そもそもこれで俺を騙したってこいつに得る物なんて何も無いんだから、そうする理由なんてないはずだろ? こいつがなんなのかは知らねえけど、俺を騙すにしちゃあ意味が分からなすぎる。どちらかと言うとこいつは、雛の関係者なんだろうさ」
「この際それが本当かどうかは関係ありませんわ!」

 み~ことは甲斐の説得も聞かず強い否定の言葉を返すと、甲斐に詰め寄り薄く瞳に涙を溜めながら、

「わたくしが心配なのは、甲斐様のお体の方でございます! それに甲斐様にだって、今のハーンさんが普通では無いことくらい分かっているはずです……!」 

 と捲し立てる。
 そして最後にまるで穴の開いた風船のように急にその勢いを失速させ、今にも貯めた涙を零しそうになって……ひくりと喉を震わせながらも、か細い声を絞り出した。

「……万が一、万が一にでも甲斐様が死んでしまうようなことがあったら……わたくしは、どうすれば良いのですか……」
「み~こと……」

 甲斐は自分の目の前で肩を震わせるみ~ことの様子に困ったように眉尻を下げた後その小さな背中に腕を回し、とんとんとまるで子どもをあやすようにそっと撫でた。

「ごめんな。お前のそんな悲しそうな顔は見たくなかったけど……それでもやっぱり、俺はやめるわけには行かないんだよ。……そうじゃなきゃ俺は、受け入れられないから。何もしないで誰かを見殺しにした自分を、受け入れられなくなるから」

 そしてこちらを見上げるみ~ことの視線を感じながら、甲斐は目を細めてみ~ことに語りかける。

「だから、頼むよみ~こと。心配するなとは言わないけど……せめて、信じて見守っていてくれないか。俺が自分を、許せなくならないために。俺が、俺である為に」
「……」

 するとみ~ことは返事の代わりに暫く沈黙した後、胸のうちで暴れ狂う不安を必死に押さえ込みながらもう一度口を開いた。

「それなら……」
「うん?」
「それならせめて、約束して下さい。絶対に、死んだりなんかしないって。甲斐様は絶対に、わたくしの前からいなくなったりしないんだって、約束して下さい。それが信じる条件……です」

 甲斐はまるで懇願するように、上目遣いで瞳を覗き込んできたみ~ことの頭をぽんと撫でると穏やかに微笑んで、

「ああ、分かった。約束するよ」

 と頷いた。
 するとまるでそれを待っていたかのようなタイミングで、

「どうやら話が纏まったご様子」

 と彼女が口を挟んだので、み~ことははっと思い出したように慌てて甲斐から離れる。
 そんなみ~ことを尻目に、彼女はまるで感情の読めない酷く平坦な声で、

「それではワタクシはそろそろお暇させて頂きますので、この場は貴方にお任せいたしますわ。またお会いできる日が来ることを楽しみにしております、門倉甲斐。――では、御機嫌よう」

 と言葉にすると上品にお辞儀をして踵を返した。

「ちょっと待ってくれ。その前に、マエリベリーはどうなったんだ? 大丈夫なのか?」

 甲斐は彼女の姿が見えなくなってしまう前に、慌ててその背中に声をかける。
 すると彼女は背中を見せたまま一度足を止めて、

「ご心配には及びません。ワタクシは彼女の……もう一つの人格のようなもの。今は意識がありませんが、数分後にはワタクシではなく元の彼女に戻っていることでしょう」
「そうなのか。……色々、ありがとな。アンタには感謝してもしきれないよ。また会えるかは分からないけど……元気でな」
「――いいえ。こちらこそ……ありがとう、ございました」

 そして何故か彼女は去り際に、甲斐に聞こえるか聞こえないか分からないくらいの小さな声でお礼の言葉を口にして去っていった。



「……さて」

 彼女の姿が完全に見えなくなると、甲斐は渡された扇をしっかりと右手に持ちなおして布団の上で苦しそうに寝ている雛の横に片膝をついて屈み込む。

「ぼっちゃま……」

 するといつもの呼び方に戻ったみ~ことが不安げな視線を送ってきたので、甲斐は大丈夫だと小さく笑いかけると、胸のあたりで布団の上に乗せられている雛の手に視線を落とした。

「あ、う……」

 それと同時に小さく呻き声を漏らした雛の苦しそうな顔をもう一度見つめると、甲斐は意を決したようにその手を空いていた手で握りしめる。

「ぐっ……!」

 そしてその瞬間、甲斐の意識は吸い込まれるようにして闇の中へと落ちていった。



[29961] 第九話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:01
 人を愛し、生命を愛して、生ける者の不幸を避けるために生き続けた神、鍵山雛。
 しかし彼女のその生は、まさに愛したその者たちに疎まれ続けるというものだった。

 それを辛いと思ったことはない。己の胸には、常にかつての想いがあったから。
 それを悲しいことだと思ったことはない。営みを続ける彼らの、元気な姿が嬉しかったから。
 それを恨んだことなんてない。全ては己が望んだことだから。

 だけど……寂しく思うことだけは、止めることはできなかった。

 長い時の中で慣れ、心の奥に秘めていたその想い。それは与えられた人の温もりと共に、強く思い出してしまった想いだった。

 それはなんと、残酷なことなのか。

 決して誰の隣にも、己の居場所は存在しない。
 それは確かな事実であると同時に、もはや自ら望んだことでもあったのだ。

 初めからそんなものは有り得ないと思い込んでいれば、求めることはしなかった。そうすれば、耐えるのは簡単なことだったから。

 しかしもう、雛は知ってしまったのだ。
 誰かの隣にいる温かさを。誰かと共にいる楽しさを。

 だから雛は、神という永い生を……これから先、心の奥で"誰か"を求めながら、自ら遠ざけて生きていかなければならないのだ。

 "誰か"と一緒にいたい。"誰か"の隣に居場所が欲しい。

 全てを肯定してもらいたいわけではない。だけど、許容して欲しかった。自分がここに存在するということを、否定しないで欲しかった。
 絶対に離れないでいて欲しいとは思わない。だけど寂しくなった時に伸ばしたその手を、払わないでいて欲しいとは思ってしまう。

 特別なことはいらない。"誰か"に受け入れて欲しかった。神ではなく、『厄神』でもない……全てを含めた鍵山雛という"自分"を。

 ――そしてだからこそ今のこの感覚は、耐えようもなく離れがたかった。

 己の全身を包み込む、柔らかな誰かの温もり。それがあまりにも優しくて優しくて、雛の胸の内には思わず泣き出してしまいそうな、そんな気持ちがこみ上げてくる。
 頭に浮かぶのは、自分は今受け入れられているのだという言葉。身の内に流れ込む誰かの心が、そう告げてくれていた。

 この感覚に、いつまでもどこまでも、浸っていたかった。しかし、明けない夜がないように。覚めない夢がないように。終わらない世界がないように。
 雛の意識はゆっくりと、温かい幻想ではなく冷たい現実という名の"否定"の中に、戻っていってしまうのだ。


 だれか わたしのてをとって


 それが夢のような微睡みの世界の中で最後に想った……何の虚飾もない、雛の素直な心だった。








 薄ぼんやりと、目が覚める。
 そしてまず最初に、目が覚めたということに疑問を持った。『自分は消えたはずだ』という考えが、脳裏に浮かんでくる。

 しかし、直後に雛はびくりと身動ぎすると、ようやく自身の状態を理解して驚きに固まってしまった。
 見覚えのある部屋の中で寝ている自分。何故か隣で寝ている甲斐と、その手の平に握られている己の手。
 まるで昨日の、焼き直しのような状況だった。違うのは上に毛布をかけて横になっている甲斐の姿と、その脇に転がっている扇くらい。
 それら全てを認識した雛は、先ほどまでの感覚が夢ではなかったのだと理解すると、その瞬間に何か……体の芯の部分に寒気のような震えを感じた。

 元々雛の纏う厄は、幻想郷ではなんの力も持たない人間ですら見えてしまうほどのものである。それも今は、とある事情により厄の量が普段以上に膨れ上がっていた。
 故にありえない話ではあるが、仮にその全てが一度に誰かに渡ってしまうなことがあったとしたら……それは最早不幸という曖昧なものであるにもかかわらず、容易に命を奪い去ってしまいかねないほどのモノだったのだ。

 それはまるで、災厄のごとく。

 だから雛は、心の底から震えを感じた。
 それは、恐怖だったのかも知れない。今まで誰にも受け入れられたことがなかったからこその、初めて得ることができたかもしれないそれを自分のせいで失ってしまうという恐怖。

 そして雛はその初めて感じた恐怖という名の感情に従って、ひくりとしゃくりをあげるように息を吸い込み布団を払いのけると、まるで甲斐から逃げるように反対側へと飛び出した。

「んわっ、なんだ!?」

 するとその拍子に、甲斐も頓狂な声を上げながら飛び起きる。そして部屋の端で怯えるようにしてこちらを見ている雛の姿を見て、きょとんと目を丸くした。

「……あ、雛? 何だ、今のはアンタか。何事かと思った……。元気になったみたいなのは嬉しいけど、そんな所で何やってんだ?」

 それからすぐに甲斐が雛に近づこうと足を一歩前に踏み出した所で、

「だ……ダメ!」

 と大きな制止の声が飛んできた。
 それを聞いた瞬間甲斐はビクリと肩を跳ねさせ動きを止めると、「雛……?」と訝しげにその名を呟く。

「わ、私に近づかないで。早く……早くここから離れないと。甲斐、お願いだからそこをどいて!」

 その時の雛の姿は、甲斐の目にはまるで何かに怯える子どものように見えた。

「どうして……なにを、そんなに怖がってるんだ、雛? また消えそうになっちまうのが怖い……ってわけでは、ないんだよな?」

 それならば、そもそもこのような事態にはならなかったのだろうからそれはわかる。しかし、ならばいったい何に雛は恐怖しているのか。

「私は……」

 そんな甲斐の疑問の声に、雛は沈黙を返して自身の内へと埋没していった。

(私がなにを、恐れているのか……)

 そうしている内に次第に自分を取り戻していった雛は、やがて以前のように超然とした雰囲気を纏い……そしてどこか厳かな口調で、甲斐に向けて真っ直ぐに言葉を紡ぐ。

「私は厄神、鍵山雛。人の不幸への嘆きの想いより生まれた、幸福を妨げる厄を落とし不幸を遠ざける神。故に私が恐れるのは己の消滅にあらず。"誰か"に振りかかる、災厄を恐れるのみ」

 その声はまるで、森の中で響く葉擦れの漣のごとく揺ぎ無い……あるいは最高級のガラス細工が奏でる鈴音のごとく透き通った、神秘的な響きを以て甲斐の耳朶を震わせた。
 その言葉を聞いた瞬間甲斐は、人とは違う精神性を持った神という存在を改めて認識し、

「なるほどな……」

 と小さく溜息を吐いて呟きを漏らした。
 そして甲斐はもう一度顔を上げると、静かに口を開いて雛に自分の言葉を告げる。

「……雛。俺はアンタがここを離れたいっていうんなら、それを否定する気はない。雛の心は雛のものだ。だからそれを否定する権利は俺にはないし、初めからそのつもりもない」
「あ……」

 その時雛の花弁のように秘めやかな唇から零れたのは、安堵かそれとも別の感情か。それが何だったのかは、ついぞ雛自身にも分からなかった。
 何故ならそれは、甲斐がその次に口にした言葉が、雛にとってあまりにも予想外だったから。

「だけど、悪いな――」

 そして甲斐は一語一語言葉を区切りながら……静かな足取りで雛の目の前まで歩み寄り、

「――俺はもう、絶対に雛を見捨ててなんてやらないんだって決めちまったんだ」

 どこまでも真っ直ぐな瞳で、立ち尽くす雛の瞳を見つめながら言い切った。

「甲斐、貴方……」

 その言葉を聞いた瞬間、雛は思わず口に手を添え絶句する。
 甲斐のその瞳はたとえ言葉にしなくとも、絶対に自殺まがいの事はもうさせないと語っていた。それは雛の気持ちを否定するのではなく……受け入れた上で、それでも自分の主張を曲げる気がないのだという意味なのだろう。

「どうして……、どうしてよっ。私がここにいたら、貴方は不幸になるかも知れないのよ!? そんな疫病神を助けたって、貴方に得なんて一つもないのに!」
「知るかよ、そんなの」

 そして雛は必死になって甲斐を説得しようと声を荒げたが、しかし甲斐は軽く笑顔を浮かべてこともなげにそう答えた後……その笑顔の質を見るものが思わずほっとしてしまうような温かいものへと変化させて、

「昨日も言っただろ? 俺のモットーは『去る者追わず、来るもの拒まず』なんだって。だから俺は、神様だろうが厄だろうが不幸だろうが……相手がどんなやつだって、来るんだったら受け入れるんだよ」

 困惑する雛をまるであやすように、ぽんと優しくその頭を撫でた。

「それに、得ならあるさ。俺は雛が生きててくれることの方が、ずっと嬉しいからな」

 そして最後に甲斐はそのままの笑顔でそんなことを口にすると、そっと目を細めて本当に嬉しそうに笑みを深めるのだ。
 その表情を見て甲斐の言葉がすべて本気なのだと理解した瞬間に、雛はくしゃりと顔を歪めてその大きな瞳に思わず涙を貯めてしまう。

「そんなこと……そんなこと言われたら、もう逃げられないじゃない。ばかぁ……」

 その雛の今にも泣き出してしまいそうな表情を見て、甲斐は少しだけ笑顔に苦笑の色を混ぜて「悪い悪い」と小さく謝罪の言葉を呟くと、

「ま、今のままじゃとてもじゃないけど放っておけないから……俺に追い掛け回されるのが嫌だったら、早く外に行っても無事でいられる方法でも見つけるか、ちゃんとした行く宛を見つけるこったな」

 とどこか冗談めかして言いながら、雛を撫でる手をほんの少しだけ強めた。

「謝らないでよ、もう……」

 雛は心の中がいろんな気持ちでいっぱいで、わけがわからなくなってしまいそうだった。嬉しくて、切なくて、温かくて……もうこれ以上甲斐を拒絶することは、雛には出来そうもなかった。

 こんなに誰かと接したのは、初めてだった。
 こんなに誰かに心配してもらったのは、初めてだった。
 こんなに誰かが自分と真っ直ぐに向き合ってくれたのは、初めてだった。

 そして雛は気づけばその宝石のような瞳からポロポロと涙を零しながら……いつまでもいつまでも、頭を撫でる甲斐のその温かい手を受け入れていた。








 雛は確かに甲斐のおかげで力を取り戻していたが、しかし失った体力はそれとは別のもの。だから甲斐は色々な説明を後回しにすることにして、一先ず雛にもう一度布団で眠るようにと促した。
 すると布団に潜り込んだ雛が、顔だけを出してどこか恥ずかしそうに、

「一つだけ、お願いがあるの。聞いてくれる?」

 と話しかけてきたので、甲斐は首をかしげて「お願い?」と聞き返した。

「あの……その、ね。もう一度……私の手を、握っててくれない? ずっとじゃなくて、私が眠るまででいいから……」

 その言葉に甲斐がキョトンとした顔で「え?」と声を漏らすと、雛は不安げな瞳で甲斐を見つめて確認するように、

「だめ、かしら……?」

 とか細い声で口にした。

「いや。別にそれくらい、構わないよ」

 それを聞いた甲斐はすぐに首を横に振って小さく微笑を浮かべると、そう言って雛の手を取り柔らかく握りしめる。
 その瞬間、雛の脳裏に『だれか わたしのてをとって』という言葉がふっと浮かび上がって、そしてすぐに消えていった。

(ここに、居る。私の手を払わないでいてくれる、"誰か"が)

 そうして雛は安心したようにほっと吐息を漏らして目を閉じると、ぎゅっと甲斐の手を握り返して優しい微睡みの中へと落ちていった。



[29961] 第十話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:01
 時は少々遡り、甲斐と雛が目を覚ました直後のこと。
 み~ことはその、人とは比べ物にならないほど優れた聴覚で、二人が起きだしたことに気がついていた。そして直後に、何やら中の様子がおかしいことにも気づく。
 その聴力をもってすれば、例え家のどこにいようと中の会話を聞き取ることくらい造作も無いが……み~ことは流石にそれはあまりにマナー違反だろうと考えると、聴覚から一部の条件を満たさないかぎり人の声を遮断するフィルターをかけて、閉じられている和室の戸の前で小さくため息を吐いた。

(……本当なら今すぐにでも、ぼっちゃまのご様子を確認しかったのですが)

 それはもう、今すぐ駆けつけたかった。今すぐにと言うか一刻も早くと言うか刹那の間もかけずと言うか瞬間的にというかむしろコンマゼロ秒で駆けつけたかったが――

(とりあえず健康面での異常はなかったのですから、そこまで心配する必要は……)

 ないのだと己に言い聞かせて、どうにかみ~ことは一向にそこから動こうとしてくれない自らの足をその場から引き剥がした。
 それに中の様子こそ分からないが、きっと甲斐は自分の時と同じように雛を無自覚に篭絡していることだろうし、それを邪魔してはいけないという想いもあった。
 それとついでに、メリーが帰る前の時のことを思い出すと、少しだけ気恥ずかしい思いが湧いてくるのも……その足を前に踏み出さなかった理由に追加しても良かったかも知れない。

「はあ……」

 本当に、あの甲斐のどんな相手にも優しくする性格は考えものであった。男であろうが女であろうが、人間であろうが動物であろうが、それこそ人外にですら気にもとめずに平等に接する。

 それはもはや異常といってもいいほどに、甲斐は誰に対しても平等であった。

 甲斐は、人間である。故に性格もあるし、心もある。だから完全な不干渉をとることもなく、確かな自分をもって眼の前で起こったことに対し自分なりに行動する。しかしその結果に関しては、例えどのようなものになったとしても受け入れるのだ。
 ただ受け入れて、全てを否定しない。それは時に厳しく、残酷でさえあるものだった。
 甲斐が誰にでも優しく接するのは、偶然甲斐の性格が優しいものに育ったから。もしもそうではなかったら、甲斐は一体どんな人間になっていたのだろうか。

 ……とはいえそのような仮定は、何の意味もないことであろう。

「さあ、いつまでもこうしているわけにも参りませんし、まずはご飯の支度をすませてしまいましょう」

 み~ことは一度頭を振ると思考を切り替えて小さくそう呟き、そのままいつもより少しだけ重い足取りで料理を作るべくキッチンへと向かっていった。



◇◆◇◆◇◆



 実はこの時代に、きちんと材料を調理して一から料理を作る人間というのは少数派であった。それどころか一般的な家庭では、大抵の場合簡易キッチン程度のものしか家についていないというのが普通である。
 では外食をしない人間はどのようにして食事の用意をしているのかというと、殆どの料理をレンジで温めれば作ることができるよう、店頭で販売されているのだ。現代において食事というのは、二〇世紀後半で言うところのレトルト食品が主流なのである。

 しかし甲斐は母親が生前食事にこだわっていて自分で必ず料理をしていたためにその感覚が抜けず、そのため一人暮らしになってからも自分で料理をしており今ではかなりの腕前になっていた。
 そしてみ~ことももちろんレトルト(厳密には違うが)などという手抜き料理を甲斐に振る舞うはずもないので、結果として門倉家のキッチンは甲斐が作ろうとみ~ことが作ろうと常にフル稼働というのが平常運転なのであった。

 ……しかしだからといって、いくら何でも今のように水道、レンジ、調理器具、コンロ、包丁などがほとんど同時にトンデモない勢いで動き回っている様子は、流石に異常な光景であった。
 そのため雛が寝静まって、自然とその手から力が抜けたのを見計らって和室から出てきた甲斐は、その瞬間に思わずぽかんと口を開いて固まってしまう。

「……なあ、み~こと?」
「……」
「おーい?」

 しかも甲斐が呼びかけたのにみ~ことが反応しないなどと、これは本当に珍しいことである。一体どうしたのかと思って甲斐は対面キッチン越しに目にも留まらぬ素早い動きで料理(?)をしているみ~ことの顔を覗き込んだ。
 しかしみ~ことはそれからも逃げるようにぷいっと顔を背けると、更に料理という名の大道芸に没頭していく。

「あー、み~ことお前……もしかして、拗ねてるのか?」
「……そんなことはございませんとも。例えものすごく心配していたのに何時間もほっとかれようと、メイドとは常に主人にお仕えするのが責務ですから、ええ。――ああ、滅私奉公。なんと素晴らしい言葉なのでございましょうか」

(まいった、こりゃ完全に拗ねちまってるな……)

 一瞬だけ動きを止めむすりと喋ったと思ったらまたすぐに作業を再開したみ~ことを見て、甲斐は「はは」と乾いた笑いを上げて顔を引き攣らせた。
 そしてこのままだと家にあった食材という食材が全て調理されて、しかもそのほとんどを一人で平らげなくてはならなくなるような未来が待っていることを悟ると、甲斐はなんとかみ~ことの機嫌を取るべく頭を捻らせる。
 が、そんなものが都合よくぱっと思い浮かぶはずもなく、結局甲斐は本人に聞くことにした。

「えっと……すまん、み~こと。別にほっといてたってわけじゃないけど、あんな事があったのに二時間も音沙汰なしだったのは謝るからさ、機嫌直してくれよ。……そのー、あれだ。なんだったらなんか一つくらい、埋め合わせに言うこと聞くからさ」

 なかなか和室から動けなかったのは甲斐のせいではないが、甲斐には手を使わずともかけることのできる電話がある。それを使って会話だけでもするくらいのことは出来たのだから、その点に関しては言い訳のしようもないだろう。
 そう思って素直に反省した甲斐が小さく頭を下げると、み~ことはピタリと動きを止めてゆっくりとした動作でこちらを見た。

「……それは本当でございますか?」
「おう、もちろんだ。今ならだいたいのことは聞くぞ?」
「それなら……」

 そうしてキッチンから出てきたみ~ことが甲斐に要求したのは、ぴっと部屋の真中にあるソファーを指さして「まずはそちらに座って下さいませ」というものだった。
 その内容に首をかしげながらも、おとなしく指示通り甲斐はソファーへと座り込む。するとみ~ことは、すぐに無言でどかりとその膝の上に乗っかってきた。

「み~こと?」

 直後に甲斐は訝しげに名前を呼ぶが、それには答えずみ~ことは、

「手を」

 と短く口にして自分の腕を体の内側に入れた。
 それを見た甲斐は「ああ」と合点が行ったように頷くと、み~ことを抱きしめるようにして腕を前に回す。
 そしてすっぽりと腕の中に収まったみ~ことの様子を見て内心で、

(まるで猫みたいなやつだ)

 などと思いながらそっと苦笑した。

「甲斐ぼっちゃまが……」
「ん?」
「甲斐ぼっちゃまが悪いわけではないのは、分かっておりました。ですが……」

 初めみ~ことは、料理をしながらも時々そわそわと心配で和室の前を右往左往したり、たまに恥ずかしさに煩悶としながら悶々と過ごしていた。しかしそれから三〇分経っても、一時間経っても一向に甲斐は部屋から出てこなかったのである。もう雛と会話しているわけでもないというのにだ。
 それどころか、声の一つもかけてくれないのである。み~ことの耳ならば、小声で名前を呼んでくれればそれだけで十分聞こえるというのに。
 甲斐の健康状態は異常があった時のみわかるようになっているから、何かがあったというわけではない。つまりきっと甲斐は自分のことを忘れてしまっているのだろうと、み~ことはそう解釈した。
 だから、つい拗ねてしまったのだ。
 実際には、動けなかったのは雛がずっと手を離さなかったからというのが理由だったし、忘れたどころか甲斐はこの後み~こととメリーについてどうフォローしようかなどと考えていて、別に直接移動しなくても会話する手段があることを失念していただけなのだが。
 そして甲斐は若干頬を紅潮させながら顔を俯けるみ~ことの様子を見て、ついついこらえきれずにくくっと喉を鳴らすような笑い声を漏らしてしまう。
 それを聞いたみ~ことはすぐにむっと唇をとがらせると、

「……何がおかしいのですか。わたくしは怒っちゃったりしちゃっているのですよ、甲斐ぼっちゃま」

 と抗議してきた。
 しかし甲斐はそれに全く堪えた様子を見せず、そのまま更に腕に力を入れてみ~ことの体をぎゅっと抱きしめるとニカッと笑い耳元で、

「お前はほんっとに可愛いやつだなあ、み~こと」

 恥ずかしげもなく真顔で明け透けに、そんなことを囁いた。

「ふみゃ!? か、からかわないでくだしゃんせ! いきなりなんでございますのことよ!?」
「み~ことみ~こと、口調がいつにも増してわけわからんことになってるぞ?」

 その時の甲斐の眼差しは、まさに可愛い妹を見守っている兄のように優しいものだった。

「そ、それは甲斐ぼっちゃまが……! ――……っ、もう知りません!」

 そしてみ~ことはぷいっと顔を背けると、すっかり黙りこんでしまう。しかしそれでも膝の上からどこうとはしなくて、それがついつい可愛くなってしまった甲斐はもう一度明るい笑顔を見せると無言でぽんとその頭を撫でた。



[29961] 第十一話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:01
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
「いや、ここで人と待ち合わせをしているので……」

 甲斐は大学の側にある喫茶店の店員の問いにそう答えると、店内に待ち人――メリーの姿を探す。

「ああ、いたいた。あのテーブル……金髪の女性の居る席です。そこで」
「畏まりました。それではすぐにご注文をお伺いに行きますね」
「ええ、どうも」

 甲斐はそう言って店員に小さく会釈をすると、話しながら視線で示していた席へと歩いて行く。

 甲斐はみ~ことの機嫌がどうにか収まった後、ずっと気になっていたメリーに確認の意味も込めて電話をかけてみたのだ。するとメリーから直接会って話がしたいという言葉を告げられたので、メリーに大きな借りのある甲斐はみ~ことの作った料理を急いで全て平らげて――そうしないとみ~ことのせっかく治った機嫌がまた悪くなりかねなかった――この喫茶店へと赴いていた。
 なんでもメリーはあの後ずっとこの店にいたらしく、この上更に家に呼び出すのは違うだろうと甲斐の方から向かうことにしたのだ。他にも以前にしたデザートを奢るという約束を果たすのに丁度良かったという考えもあったが、まあそれはついでである。

「マエリベリー、さっきはありがとな。おかげで雛も助かったし……それに迷惑もかけた。丁度いいから約束のデザートの奢りと……あとお詫びも兼ねて、今日は何頼まれてもここは俺が全部払うぞ」

 甲斐はそう声をかけながらメリーの向かい側の椅子に腰を下ろした。そして料理の食べ過ぎでシクシクとまだ少し痛む胃を宥めながら顔を上げでメリーと目を合わせると、そこで小さく首を傾げる。

(……おや?)

 その表情からはいつも口元に浮かべていた笑みが消えており、精彩を欠いていた。視線も若干俯きがちであるし、どうにも浮かない顔をしている。それに、反応も悪い。いつもの打てば響く様なテンポのいい返事は返ってこず、暫くの沈黙の後メリーはようやく重たそうに口を開いた。

「……あの人はあんな事言ってたけど、どうやら貴方は大事ないみたいね。あの雛っていう子はその後、どう?」

 その『あの人』という表現に少し引っかかるものを感じながらも、甲斐はすぐに相づちを打つ。

「ああ、おかげさまでもう大丈夫そうだ。今は疲れて寝てるけど、前と比べたらずいぶん元気になったよ。多分もう、無茶をしなきゃ前みたいな事にはならんだろ」
「そう……」

 ポツリとメリーが呟きを漏らして、それで会話が途切れてしまう。
 とそこで丁度店員からの注文を求める声が聞こえてきたので甲斐は紅茶を頼み、メリーはショートケーキを頼んだ。
 しかしそれ以降メリーは黙りこんでしまって、何があったのか分からない甲斐も戸惑いを滲ませながら視線を彷徨わせ口を噤むしかなかった。

 そして重苦しい沈黙が、このテーブルの周りの空気をどんよりと包んでいく。
 仮にここにメリーの相棒でもありサークル仲間でもある蓮子がいたとしたら、

「相変わらずポンポン頼んではパクパク食べてくれちゃってるみたいだけど、デザートは女の子の友であると同時に明日の敵でもあるんだからね。……もっともわたしの最大の敵は、それだけ何も気にせず好きなだけ食べてるくせに完璧なプロポーションを誇ってらっしゃりやがるメリーの方なんだけど」

 などとメリーのお腹周りを睨みながら呟いて自然とこんな空気も打ち消してくれたのだろうが、甲斐には真似できそうもなかった。
 元々甲斐は、あまり弁が立つ方ではないのだ。人の話を聞くのは好きだったが、自分から積極的に話すことはあまりなかった。
 なので甲斐は色々と考えた末に結局メリーが話し始めるまで待つことを決めて、静かに店員が持ってきた紅茶に口をつけると穏やかな空気を纏わせながら、このまま無言を貫くことにした。

「門倉くんは……」
「?」

 そうしてしばらくして、ようやく口を開き沈黙を破ったメリーの声を耳にして視線を上げる。

「門倉くんは、あの時出てきた『あの人』のこと、何か知ってる?」
「あの人、と言うと……当然あの扇子を俺にくれた?」
「ええ」

 その言葉を聞いた瞬間、甲斐はわずかに意外そうな表情を浮かべて目を瞬いた。甲斐はあの時去り際にメリーの言う『あの人』の口にした、『自分はメリーの別人格のようなもの』という言葉に納得していたからだ。
 初めは雛の関係者だと思っていたが……、一人の人間に、二つの人格。それは即ち身の内に境界を宿すことに通じるのではないだろうか。そう解釈した甲斐はメリーの力が生まれた背景にはこれがあったのか、と考えていた。だからついでにやけに色々詳しかったことについても聞いてみようと思っていたのだが、どうやらそれは外れだったらしい。

 実際甲斐のその考えを聞いたメリーも「いいえ」と首を横に振って、

「仮にわたしの中に別の人格なんてものがあったとしたら、そこには門倉くんの言った通り境界が生まれる。だけどそんなものは、昔も今も見えたことがなかったもの。だからあれはわたしとはなんの関係もない、全くの別人」

 という答えを返してきた。

「あれから『あの人』は真っ直ぐにこの喫茶店まで歩いてくると、しばらく紅茶だけを頼んでここにいて、そして突然わたしの意識が戻った」
「記憶は、残ってるんだな」
「そう、ね。あくまでわたしの体がどういう行動をとっていたか……だけで、『あの人』が何を考えていたのかとかは、分からなかったけど」
「……」

 それは……いくらメリーでも、不安に思うのは無理もなかろう。いきなり誰かもわからない何者かに体を乗っ取られて、その上本当に何も分からないのだから。
 メリーは多少浮世離れしたところはあるが、しかしそれでもやはりあくまで普通の女の子なのである。確かに色々と変わったところはあるし、性格も当たり前のものとは言えない。でも、異常かと言ったらそんなことはない。普通の感覚だって持ってるし、一般的な女の子とそう変りない感性をしているところもたくさんある。
 そういったメリーの普通なところをそれなりに付き合いのあった甲斐は知っていたから、その不安もなんとなく想像することは出来た。

「あくまで、俺の視点から見た話だけど」
「え?」
「マエリベリーのいう『あの人』は多分、悪いやつじゃあないと思う」
「……どうしてそう思うのか、伺ってもよろしくて?」

 相変わらず暗い表情のまま、じっと甲斐の真意を探るようにこちらを見ているメリーに頷きを返すと、

「一番最初に思ったのは、正直に言うとただの勘だ。信用はできないけど信頼はできるって、見た直後になんとなくそう思った」
「……」
「だけど、根拠はそれだけじゃない。……なあ、マエリベリー。あいつはさ、なんであの時に出てきたんだと思う?」
「なんでって……そんなの、分かるわけない。それが分かったら……」

 こんなに不安になんてならなかった、ということだろう。
 そしてその、心にのしかかる重い不安。それがマエリベリーの思考を停止させていた。
 しかし、それも無理は無いだろう。もしかしたら気づかない内にまた体が乗っ取られるかも知れず、その上今度も自分に戻れる保証なんてないのだから。

「俺は……いくら勘でそう思ったって言ったって、あの時あいつの言葉を全部信用したわけじゃなかった。嘘ではなくても何か言ってないこと……隠してあることがあるとか、それくらいには考えてたんだよ。だけど……」

 そこで甲斐はふっと表情を少しだけ緩めると、そのまま続きを話すべくもう一度口を開いた。

「結局そんなものはなかった。雛の体はきちんと回復したし、俺もどこもなんともない。それにあの後何かおかしなことが起こったわけでもなかった。……ってことはだ。あいつは多分、初めから雛を助けるためだけに出てきたんじゃないかって思うんだよ。というか、他に目的が思いつかないって言ったほうがいいかな」

 甲斐の言葉を聞いて、メリーがぱちりと一度瞬きした。

「だって、考えても見ろよ。あれがマエリベリーとは全くの別人だってことは、別に体を乗っ取るのはアンタじゃなくても良かったはずだ。それこそ俺の体を乗っ取って、勝手に雛に神力とかいうのを渡すことだって出来たはず。だけどあいつはそうはしないで、俺にどうするかの選択肢を残してった。何か目的があったり他の意味があったんなら、そんな結果がどうなるかわからないやり方なんて、しないだろ? それしか手段がなかったんならわかるけど、そうじゃないんだからさ」

 そして長いセリフを言い切った甲斐は最後に、

「っていうことで、恐らくあいつはただのおせっかいのお人好しだったんじゃないかっていうのが、俺の考えだな。ま、誰かの頭ん中なんざ分からないし……これは俺のただの予想だから、証明終了QEDとは行かないけどよ。自分でも、多少無理があると思わなくもないしな」

 と締めくくると、ぽりぽりと頬をかいて苦笑いを浮かべる。
 メリーの心はメリーのものだ。そしてそこから見える世界は甲斐にはわからない。だから想像は出来たとしても、気軽にその気持ちがわかるなどとは言えなかったし、保証のない慰めなんて言えなかった。

「だから、心配はするなってこと? きっとわたしの体を勝手に使った誰かはお人好しなんだから、もうそんなことはしないだろうって」
「そういう訳じゃないさ。……正直言って、どうしたって俺にそれを防ぐ手段なんて思いつかないし、だったら無責任なことは言えないから自分の思ったことをそのまま口にしただけだ。だからそれをどう受け止めるのかは、アンタに任せるよ」

 どこまでも、自分の姿勢を崩さない男だった。そこで「何があってもお前は俺が守る」くらい言ってしまえば、もっと格好もつくというのに。
 だけどその、"いつも通り"の甲斐の姿は、むしろメリーに心地よさを感じさせた。そして安心とまでは行かなくとも、少しだけ気持ちを上向きにさせたメリーはその時ふっと湧いた興味をそのまま口にしてみることにした。

「それじゃあ門倉くんは、もしまた『あの人』が今度は悪意を持ってわたしの体を乗っ取ったら、その時はどうするのかしら?」
「ん……そう言われても、俺がその時そこにいるかは分からないしなんとも言えねえけど……まあ、それが俺にできることで何とかできそうだったらそうするだろうし、そうじゃなかったら何とかできそうな人を探すだろうな。それぐらいしか、俺にゃあ出来ねえしよ」

 甲斐はさも当たり前のようにそう言うけれど、果たしてそれをしてくれるような人間がどれだけ居るものか。
 『境界』なんて意味のわからないものが見えていると言いはる人間が、今度は体を乗っ取られるかも知れないからどうする? などと聞いてきて、そして当然のごとくその時は助けようとするだろうと答える。
 それも甲斐は、もしもそうなったとしたら実際にそうするのだろう。
 メリーには、そこに嘘や気負いは何も存在せず、本当にただ思ったことを口にしただけにしか見えなかった。これで嘘を言っているのだとしたら、きっと甲斐は稀代の詐欺師になれるのではないだろうか。

「ふふ……」

 なんだか、本当に安心してしまった。
 甲斐の口にした論拠は穴だらけで、解決策も対抗策も見つかってない。あれが誰だったのかも分からないし、どうして自分だったのか、また同じことがあるのかすらわからない。
 だけどもし何かがあったとしても、当たり前のように助けに来てくれる人がいるのだと思うと、それだけでもう不安に思うことは出来なかった。
 仮にそれでどうにもならなかったとしても、きっとメリーは甲斐を恨んだりはしないだろう。だって甲斐は本当に、自分にできる限りのことを全力でしてくれるのだろうと信じれたから。
 さすがにそれで恨むのは、筋違いだろう。それはきっと腕をもう一本増やせとか、生身で時速一〇〇キロで走れとか、そんな無茶を言うのと変わらないのだろうから。

「ありがと、門倉くん」
「……別に、礼を言われるようなことはしてないと思うんだけどな。結局マエリベリーの安心できそうなことも思いつかなかったし、気休めの一つも言えなかったんだから」
「いいの。わたしが貴方に感謝してるのはホントなんだから、こういう時は素直に受け取るものよ? どういたしまして、ってね」

 メリーが本当にいつも通りの明るい表情に戻っているのを見て取ると、甲斐は「そっか。そうだな」と呟いて、小さく微笑を浮かべた。

「ところで……」
「ん?」
「今日のここのお代は、門倉くん持ちなのよね?」

 目をいたずらっぽく輝かせながら問いかけてきたメリーの疑問に、

「ああ、そのつもりだけど」

 と甲斐は頷きを返す。

「じゃあ、たっぷりごちそうにならないとね。それこそ、このお店の材料が空になるくらいには」
「え……」

 メリーのお菓子好きっぷりが尋常じゃないことを知っていた甲斐は、思わずピタリと固まってしまった。それが冗談なのは流石に分かっているが、しかし全てが冗談というわけでもないのだろう。

「ああ……楽しみだわ。最近出費が多くて、あまり食べてなかったのよね」
「あー、できれば俺の懐が氷河期にならない程度には遠慮していただけると、とっても嬉しかったりするのですが……」

 そう言って小さくバンザイして白旗を揚げる甲斐に、

「――さあ、どうしようかしらね?」

 しかしメリーはまるで小悪魔のように魅力的な笑みを浮かべて、可愛らしく小首を傾げてみせた。

(流石に門倉くんのお財布が空っぽになるまで食べるのは、勘弁してあげましょ)

 そしてそんなことを考えながらも、メリーはいつもより少しだけ遠慮を忘れることにした。それは基本的に素直ではないメリーの、彼女なりの甘え方だったのかも知れない。
 最後にメリーはもう一度「ふふっ」と心の底から楽しそうな笑顔を浮かべると、目の前に運ばれてきたケーキやパフェの山にとりかかり始めた。

 なにより結局のところ、マエリベリー・ハーンという人間は基本的に、快楽主義者で楽しいことが大好きなのだ。せっかくこんな楽しそうなことが目の前にぶら下がっているというのに、それを止めることなどできようはずもなかったのである。



[29961] 第十二話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:01
 喫茶店でメリーとの話し合いを終えた甲斐の懐に、季節はずれな北風が吹きこんできた日の翌朝。
 み~ことは毎日の日課でもあり楽しみでもある寝顔鑑賞を堪能して、たっぷりと幸せ気分に浸った後甲斐にようやく声をかけた。

「――ぼっちゃま。甲斐ぼっちゃま。起きて下さいませ、もういつもの時間だったりしちゃいますでございますよ?」
「ん……」

 ゆさゆさと、優しげな手つきで体がゆすられる。そして甲斐はゆっくりと、眠りの世界から意識を浮上させていった。

 甲斐は特別に朝に弱いわけではないので、本来無理にみ~ことに起こして貰う必要はない。実際、朝早くに起きなければならない時や前日に遅くまで起きていたりしなければ、自分から何時に起こしてくれと頼むこともないのだ。
 しかしそれにも関わらず、甲斐が寝起きにみ~ことの顔を見ない日というのはほぼないと言っていい。
 それは何故かというと、いつもみ~ことは甲斐の脳波などから起きるタイミングを把握して、あえてその直前に起こすようにしていたからである。完全に優れた身体機能ハイスペックの無駄遣いであることは間違いない。

「み~、こと……?」

 み~ことは半分以上寝惚けながら、未だ薄目すら空けずにその名前を殆ど寝言のように呟いた甲斐を見つめると、くすりと幸せそうに目を細め微笑を漏らしてそっと耳元に自身のその瑞々しく形の良い唇を近づける。
 そして次の瞬間み~ことは、

「そろそろ起きて下さいまし、ア・ナ・タ♪」

 などとそれはそれは甘い……まるで前日に結婚式を挙げたばかりのほやほやの新婚さんのように甘ったるい蕩けそうな声で、甲斐に熱っぽく囁きかけた。

「うぇ!? ――ってだから、毎回妙なキャラ作って起こすのやめい!」

 み~ことも昨日からすればすっかり調子を取り戻して、完全に絶好調のようである。

 ――とまあ、毎朝だいたいこんな感じの一幕を繰り広げ、その後起き抜けの甲斐に怒られて場合によってはお仕置きをされるというのが、門倉家のおおまかな一連の流れであった。

 とはいえこれもひとつのじゃれ合いのようなもの。なんだかんだといってもこの二人、結局はいいコンビなのである。



◆◇◆◇◆◇



 とんとんと軽い足音を立てながら、階段を降りていく。

「あ、雛」

 そして小さくあくびをしながら廊下を通り過ぎ居間の扉を開けた所で、雛の姿を見つけた甲斐は軽く手を上げ、

「おはよう。もう起きて――」

 と朝の挨拶をしようとしたのだが、その瞬間に雛がぴゅーっと逃げて行ってしまったので途中で言葉を止めてほとんど無意識に苦笑いを浮かべてしまう。

「甲斐ぼっちゃま、昨日目を覚ました雛さんに何かしちゃったりしたのですか?」
「あー、いやあ……何かしたってわけじゃないんだけど……」

 ただちょっと泣かせてしまって、それを慰めてから手を握っていただけである。

(……なんかこうやって事実だけを並べると、俺ってとんでもなく悪い男みたいだな……)

 自分の思い浮かべてしまった考えにひくりと頬を引き攣らせ、もう一度苦笑を漏らす甲斐。
 甲斐も自身がおおよそ一般的ではない行動をとっていることは周りの反応などから悟ってはいたのだが、基本的に素で行動しているためにその時々で自覚することはできないのであった。

「あ、まさか……!」
「え?」
「まさか雛さんが弱っていたのを良い事に、そこにつけこんで押し倒してしまったのでは……!? だめですわよぼっちゃま、夜這い朝這いはわたくしだけにかけてくださいませ!」
「んなわけあるか。ていうか朝這いってなんだよ」
「うみゅ!?」

 突然妙なことを言い出したみ~ことに、甲斐はいつも通り呆れ顔でげんこつを落とした。
 そして甲斐は頭から煙を出しているみ~ことを尻目に、雛の逃げて行ってしまった和室の戸の前に立ち止まると、「んー」と小さく唸りながら腕を組んで考える。
 数瞬の後、甲斐は不意に顔を上げると目の前の戸をノックするように軽く叩き、

「雛」
「な……なにかしら?」
「やっぱり俺たちはまず、お互いの認識のすり合わせをするべきだと思うんだ」

 甲斐は雛が衰弱した根本的な原因やその他の状況について全く知らず、そして雛はどうやって自分が助かったのかを知らないはずだ。そう思ってでてきたのが、今の甲斐の発言だった。

「――ってことで、できれば朝飯を作り終わった頃にはでてきてくれると助かる。まさか部屋越しにそんな話をするわけにも行かねえしな」
「ま、前向きに努力させていただくわ……」

 甲斐は直後に返ってきたどこぞの責任逃れをする政治家のような台詞につい笑みを漏らしながら、

「ああ、そうしてくれ」

 と返事をすると甲斐はキッチンへと向かって歩いていった。

「うう……、さすがに完全に無視されるのは悲しいですわ……。ここは嫁に嫉妬する小姑のごとく、嫌味の一つでも言ったほうがよろしいのでございましょうか……」

 肩を落としながらなにやら地面に座り込んで嘆いている、み~ことをスルーしつつ。






「それで、もう話しても大丈夫か? 雛」

 甲斐は未だ若干頬に赤みを残している雛と差し向かいに座りながら、おもむろに口を開いた。

「ええ」

 そして雛が頷いたのを確認すると、甲斐も頷き返して、

「それじゃあまずは、雛の方から説明を頼む。こっちの話をするには、雛の詳しい事情を知ってからのほうがいいと思うからな」
「……そうね。それなら順を追って、本当に初めから話したほうがいいかしら。……ちょっと長くなると思うけど、大丈夫?」
「ああ、もちろんだ」

 心よく頷いてくれた甲斐の姿を見て、雛は一度目を瞑っていくらか沈黙して頭の中を整理すると、ゆっくりとした口調で語り始めた。

「この日本には、私たち八百万の神々や妖怪、妖精、悪魔などといった……幻想の存在が最後に行き着く所があるの。その場所の名は――」

 ――幻想郷――

 その語り口はまるで村の賢者たる長老の昔語りのように厳かで、それでいて神々の神託のごとく神秘的な、不思議な響きを持っていた。
 そんな雛の声を甲斐はどこか心地よく感じながら、静かに……そしていつものように穏やかに耳を傾けた。



 雛の住んでいた幻想郷と言う所では、忘れ去られ幻となった様々な存在が流れこんでくるという。勿論例外的なものはどこにでもあるものだが、今はそれは割愛する。

 そして雛たち神々も、その多くが忘れ去られ消えてしまう前にそこへ流れ着いたそうだ。
 そうせざるを得なくなってしまった原因は、人間の信仰心。科学や文化の発展にともなって次第に忘れ去られて行ってしまったそれこそが、神にとっての力の源だったのである。
 神は力の塊であり、あるいは精神の生き物だ。よってそれが尽きてしまえば、ただ消え去るのみ。だのにその上幻想郷の外の世界では、もはや『オカルトなんて存在するはずがない』『科学万能のこの時代にそんなものは有り得ない』という人の否定の精神が満ちている。
 それは人の信仰心というものを糧とする神にとっては、毒にも等しいものなのだ。
 そのため雛は外にいるだけで力を失っていき、消滅の危機にあったのだという。

 ただし門倉家の中にいればその限りではなく、ほぼ力の消費は抑えられるのだそうだ。それはこの家の中が甲斐と同じく『全てを受け入れる』という精神に満ちているためなのだという。そして同時にそれに満ちている甲斐の周囲にいるだけでも、同じ効果は得られるそうだ。もしもそれがなかったら、雛は甲斐が家へと連れてくる前に、消滅してしまっていたはずなのだ。

「……つまり」
「?」

 そこまで語った所で、雛はゆっくりとした動作で立ち上がった。それだけの動作の中にも誇りや気品を伺えられるのは、恐らく雛のその在り方故なのだろう。

「私が今、ここでこうしていられるのは……本当に一から十まで全て、貴方のおかげなの」

 そして雛は甲斐の姿をまっすぐに見つめると、静かに深々と頭を下げた。

「だから、甲斐。貴方には心から……感謝しているわ。――ありがとうございました。こんな私を、助けてくれて。そして、受け入れてくれて」

 その時に雛の顔に浮かんでいた笑顔はいつものひっそりとした微笑とは違い、まるで父母の下に居る童女のごとく純粋で、そして嬉しそうなものだった。
 そんな雛の笑顔を目にした甲斐はなんだか自分までも嬉しくなってしまって、にかっと明るく笑い返すと、

「いやあ、そんな可愛くて綺麗な笑顔が見られたんだから……雛が元気になってくれてよかったよ、ホント」
「か、かわ……きれいって、からかわないでよ、甲斐……」
「からかってなんてないって、本気で言ってんだから。もしかして、そうは見えなかったか?」

 どこか無邪気な動作で首を傾げた甲斐から、雛はすっかりりんごのように赤くなってしまった頬を誤魔化すように顔を背けて、

(見えるから困ってるんじゃない……)

 と内心で項垂れていた。
 神というのは基本的に、人の精神の変化には敏感なのである。故に甲斐の本気がわかってしまった雛は、胸の内から湧いてきたいろんな感情を抑えこむのに必死だった。

「あ、そういえば……」

 とそこでふと、甲斐が何かを思い出したように口を開いた。
 それを話を変える好機と悟った雛は一度こほんと咳払いをして座り直すと、

「な、なにかしら!?」

 と甲斐に聞き返す。
 若干気持ちが逸って勢いがついてしまったのは、仕方のないことであろう。

「え、いや……さっきの話を聞いてちょっと、どうして雛がわざわざ明らかに危険な幻想郷の外にでてきたのか、気になっただけなんだけど……」

 その雛の勢いに押されて少し顔をのけぞらせながら、甲斐はふと頭に浮かんでいた疑問を口にした。

「そ、それなら事故でこっちに来ちゃっただけだから、気にしないで頂戴っ」
「あ、ああ、そうなんか……」

 それから少しの間二人の間に微妙な沈黙が流れたが、数瞬の後に甲斐も一度咳払いをして気を取り直す。

「えっと、とりあえず話を戻すけど……つまり雛はその、幻想郷ってところに帰られれば問題ないってわけだな?」
「……ええ、その通りよ」

 少しだけ……少しだけあまりにもあっさりと言い切ってしまう甲斐の姿に雛は寂しい物を感じてしまうが、しかし雛の中にも幻想郷へ帰らないという選択肢は存在しない。
 雛はあくまで幻想の存在であり、外の世界ではその身は異物。
 それに『厄神』である自身を捨てるつもりなど、雛には微塵も存在してはいなかった。それはそうであるために己の消滅をも厭わなかった彼女にとって、考えるまでもなく当たり前のことなのである。

 受け入れてもらうということは、依存するという意味ではない。居場所というのは、そこに縛られるものではない。
 雛は自身を甲斐に受け入れてもらったからこそ、その選択をすることだけはできないのである。
 それは感情だけでもなく、理性だけでもない。それら全てを合わせた確かな『自分』であることのできる居場所にいるからこその、ある意味必然とも言える雛の生き方だった。

「それで、そこにはどうやっていけばいいんだ? 協力位はするつもりだけど……何か宛はあるのか?」
「そうね……」

 それっきり雛が考えこんでしまったので、甲斐も同じく沈黙を選んでみ~ことの出しておいてくれた緑茶をすすることにした。ちなみに当然のごとくみ~ことは話の間、空気のように同化して甲斐の後ろに控えていたが……それはもはや、言うまでもないことだろう。

「幻想郷は……」

 どうやら考えがまとまったようで、静かな口調で再び話し始めた雛の声を耳にして甲斐が視線を上げると、その視線に同じく目だけで頷いて雛は続きを口にした。

「博麗大結界、そして幻と実体の境界と呼ばれる二つの結界によって遮られているの。これは論理結界といって、物理的なものじゃないから普通に歩いたり飛んだりして移動することはできないわ」

(飛んだり……?)

 雛の口にした飛ぶという単語に反応して甲斐は首を傾げたが、そのまま雛の話の邪魔をしないように口は挟まなかった。

「だから特別な方法を使わずに外から幻想郷へ入るためには多分、博麗神社まで行く必要があると思うの。博麗神社っていうのは外の世界と幻想郷の狭間にある……簡単に言うと接点のような場所ね。そこまで行けば多分、幻と実体の境界が勝手に私を幻想郷へと引き込んでくれるはずよ」
「なるほどな。詳しい理屈は今一理解出来ないけど、とりあえずその博麗神社っていう所を見つければ、あとは何とかなるわけだ」
「ええ」
「ふむ……」

 自分の質問に雛が頷いたのを確認すると、甲斐はそのまま顎に手を添えて小さく唸る。

 ここは京都。神社仏閣に詳しい権威なんて恐らく相当数いるだろう。そしてその知識人の力を借りられれば、恐らく簡単にそこを見つけることはできるはずだ。しかし甲斐には、そこへ至るまでの手段がない。一介の一大学生が、そうそう関係のない教授クラスの人間に接触を持つのは難しいし、誰がそうであるかもわからない。
 とはいえインターネットなどを利用し、時間をかければ甲斐にも誰がそういったことに詳しいかくらい調べられないこともないが、そこから更に話を聞くところまで持っていくというのは一苦労だろう。
 となると、

(やっぱり教授に頼るのが一番か)

 しかし岡崎教授は別に悪い人間でもないが、理由もなしに人に手を貸してくれるほどのお人好しでもない。彼女に頼みごとをするためには、ギブアンドテイク……何か彼女に利益のあるものを提示できなければ駄目なはず。

(俺が当分の間研究の手伝いを今以上にするとかじゃ、無理だろうな……)

 元々甲斐が頭脳面で協力することは難しい。それは別に甲斐の頭が特別に悪いというわけではなくて、むしろ教授が規格外すぎるのだ。そういう訳で普段甲斐が手伝っていることといえば、もっぱら単純作業か彼女の発明品の試用くらいのものなのである。

(……って、あれ? 博麗神社? 博麗、博麗……)

 とその時甲斐が突然に、

「あっ」

 と声を上げて、まるで何かを閃いたような表情を浮かべて顔を上げた。

「? どうしたの、甲斐?」
「いや、今ちょっと思い出したことがあったんだけど……」
「思い出したこと?」
「ああ。……なあ、雛」
「何かしら?」

 訝しげな雛の視線を感じながら、甲斐はニヤリと口角を持ち上げて言い放った。

「その博麗神社っていう所……案外すぐに見つかるかもしれないぞ」



[29961] 第十三話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:02
 雛はあの後、「ちょっと待っててくれよ。今確認してくるから」といって部屋へと戻っていった甲斐の背中を見送ると、そのままソファーに座って戻ってくるのを待っていた。

 甲斐はあんな事を言っていたが、果たして本当なのだろうか。なんだかそこまで行ってしまうと、偶然を通り越していっそ作為的なものすら感じてしまう。
 甲斐には雛を助けることで得られるメリットなどないし、邪な考えがないであろうことは一目でわかるほどに伝わってくる精神が穏やかすぎる。だから甲斐が自分を騙しているなどとは露程も思わないが、とはいえこの状況を全て偶然で片付けてしまっていいものか。
 などと考え事をしていると、不意にその時み~ことから、

「雛さん、紅茶のおかわりはいかがですか? それとこちらに、お茶うけもございますよ」

 と声をかけられたので、雛は手元に視線を落とす。
 すると目に入ったのは、白いカップの底に描かれている装飾部分。どうやら自分でも気づかない内に飲み干してしまっていたようで、いつの間にか中身が空になっていた。

「それじゃあいただこうかしら。ありがとう、み~こと」

 そして再びソーサーの上にカップが置かれると、雛はまずみ~ことが一緒に出してくれたお茶うけ……小さな円形のお菓子に手をつけた。

「あら。このお菓子、すごく美味しい。なんていうお菓子なの? 和菓子ではなさそうだし……西洋由来のものかしら?」

 口にした瞬間に感じる事のできるサクサクとした口触りのいい食感と、鼻腔をくすぐる芳醇な香り。甘さも丁度良く、少々口の中が乾いてしまうのが難点といえば難点だが、しかしお茶請けとしてなら最高の物だろう。

「はい、そうですわ。ちなみにそのお菓子の名前は、クッキーと言います」
「クッキー……。そう。あまり西洋の物は幻想郷に多くはないから初めて食べたのだけど、たまにはこういうのもいいものね」
「というと、あまり洋菓子などは食べられないのですか?」
「ええ、そうね。幻想郷が隠れ里から今のようになって以来、外とは隔離されているから……西洋の物に限らず、あまり舶来のものは多くないのよ。全くないというわけではないし、行くところに行けば手に入るのだけど。……あ、そういえば前にみ~ことがお菓子を作るって話をしてたけど、もしかして?」

 雛が紅茶を手にしながらそう質問すると、み~ことは「はい」とすぐに頷いて微笑を浮かべた。

「それはわたくしの手作りでございますわ。先ほど甲斐ぼっちゃまが朝餉を作られていた時に空いたスペースを使っての片手間でしたので、あまり凝ってはおりませんが」

 その言葉を聞いた雛は、どこか意外そうに小首を傾げた。

「そうなの? 片手間でこれだけの物が作れるんだったら、さぞや本気のみ~ことの腕前はすごいのでしょうね。甲斐が羨ましいわ。いつでもこんなに美味しい物が食べられるんだから」
「あ……ほ、ホントにそう思われますか?」
「もちろん。だって本当に美味しんだもの、これ」
「そうでございますか……」
「?」

 雛の賞賛の言葉を聞いてなんだか本気で胸をなでおろしているみ~ことを見て、雛は不思議そうな視線を向ける。

「あ、いえ。わたくしには……その、機能としての味覚は存在していても、やはり全く人のそれと同じというわけではございませんので……実は少しだけ、不安だったのです。甲斐ぼっちゃまもいつも美味しいとは言ってくださるのですが、それが本音である保証はなかったので……」

 その説明を聞いた雛は、すぐに合点が行ったように頷いた。

「ああ、確かに甲斐なら、自分のために作ってくれた物を不味いとは言わなさそうだものね」
「そうなのです。ですので雛さんに美味しいといっていただけて、正直ホッとしておりました。やはり身近な者以外の意見というのは、また違うと思いますので」

 そう言って言葉通り安心したように微笑んでいるみ~ことを見て、雛はついくすりと笑みを漏らしてしまう。

「み~こと、貴女……すごく可愛いわね。そういうの、いいと思うわ。とても健気で可愛らしい。み~ことは本当に、甲斐のことが好きなのね」
「え!? そ、そんな好きだなんてそんなことない――とは言えませんけどいえやっぱり今のはなかったことにして下さいませ!」

 突然カッと赤くなってアワアワと慌てるみ~ことの姿に、雛はとうとう堪えきれずにくすくすと笑い出してしまった。どうやら普段から似たようなことを自分から言っているくせに、誰かに逆に言われるのは苦手らしい。いや。むしろだからこそ、だろうか。

「なんかやけに楽しそうだな……ってどうしたみ~こと、そんな真っ赤になって?」

 とその時丁度戻ってきた甲斐がその状況を見て頭の上に《?》を浮かべる。

「な、なんでもございません! ええ、なんでもございませんとも! ですよね、雛さん!」
「ふふ。ええ、そうね。特に何もなかったわよ?」
「? そうか? まあいいけど。……っと、それより雛。さっき知り合いにメール……すぐに届く手紙みたいなもんだけど、それで確認してみたらやっぱり、博麗神社を知ってそうな奴の当てが見つかったぞ」

 甲斐の言葉を聞いた雛は、一度目を閉じて間を取った後、

「……本当に、見つかったのね」

 とおもむろに口を開いた。

「ああ。俺がメールしたのはマエリベリーっていう、昨日雛を助ける手伝いもしてくれたやつなんだけど……ついでだから、そのへんの説明も今しちまうか。丁度いいしな」
「ええ、分かったわ」

 そして甲斐ももう一度ソファーへと座り込むと、昨日雛が倒れた後に何が起こったのか、どういった経緯で助けることが出来たのかを語り始めた。

 メリーの力。それを知っていた甲斐が彼女に頼ったこと。初めは何も出来なかったが、その後にメリーの様子が変わったこと。その後の彼女の台詞や行動。そして最終的に彼女からもらった扇を使って、甲斐が雛に力を渡したこと。

「……」

 それら全てを聞き終えた雛は、どこか深刻な様子で黙りこんでしまった。

(それは恐らく、妖怪の賢者。やっぱり無事だったのね。だけど……あらゆる境界が見える女の子? いえ。それも気になるけど、それよりも……)

 そして雛はゆっくりと、甲斐の瞳をまっすぐに見つめ覗き込みながら静かに口を開いた。

「甲斐。貴方は……」
「うん?」
「貴方は本当に、人間なの?」

 そのセリフを聞いた瞬間、甲斐は思わず面食らったように目を丸くした。

「――へ? なんだいきなり……どうしてそんな事思ったんだ?」
「雛さん……?」

 こうして見ている限りでは、甲斐が人間であることを疑ってしまうような要素は特に存在しない。姿形や、感じる事の出来る感覚。体から微かに漏れ出る霊気。その全てが雛に甲斐が人間であるということを訴えていた。
 だが、

「今の私の中に満たされている神力の量は、下手をすればかつての全盛期時代にも迫るくらいの量なのよ? もしもこれが全て甲斐の霊気から齎されたものだって言うんなら……甲斐がこうして普通でいられるはずがない。いえ、それどろか――」

 雛自身もまるで理解できていないような、眉を潜め困惑の表情のままで言葉を続ける。

「多分きっと、死んでなければおかしいっていうくらいには……。――ううん、違うわね。それでもさらに、足りないくらいだわ」

 場合によっては、複数人を儀式や術式といった形で増幅させて命を捧げる、くらいの事をしなければ無理かもしれない。

「だけど私の目から見ても、やっぱり甲斐の体はなんとも無い様にしか見えないの。もちろん健康面に関しては見た通りしかわからないけど……霊気が空になってるかどうかくらいなら、私にもわかるのに」

 雛も甲斐が嘘を吐いているわけではないのは分かるのだ。しかしだからこそ、どうしても納得が行かないのである。
 それだけではなく、ずっと気になっていた……何故か甲斐には今だに厄がつく様子がないことも最初の質問に繋がった要因だったのだが、それについては今は何も言わなかった。

「ううん……?」
「――」

 雛の説明を聞き終えた後、甲斐は腕を組みながら首を捻り、そしてみ~ことは僅かに顔を青ざめさせていた。特に死んでなければおかしいというくだりは、み~ことにとっては聞き逃せないところだったのだろう。

「甲斐。その話に出てきた扇子、ちょっと私にも見せてくれないかしら。もしかしたら、それに何かがあるのかも」

 あの妖怪の賢者なら、何をしでかすか分からないのだ。それを見て分かることがあるかは微妙だが、それしか手がかりがないのだから仕方ない。

「ああ、いいぞ。すぐ持ってくるから、ちょっと待ってて――」

 とその時甲斐の了承の言葉に割り込んで、み~ことが口を挟んだ。

「お待ちください。それでしたらわたくしがお持ちしてまいりますので、甲斐様は雛さんと一緒にここでお待ちになって下さいませ。――それでは、失礼致します」
「あ、おい。み~こと?」

 恭しくお辞儀をして踵を返したみ~ことを、ほとんど反射的に呼び止めてしまう甲斐。

「……なんでしょうか」
「あー、いや、そうだ。あの扇子が俺の部屋にあるってことは……」
「存じておりますので、ご心配には及びません」

 ピシャリと言い放って今度こそ居間から出ていったみ~ことの背中を見送りながら、甲斐は困ったように眉尻を下げると雛と顔を見合わせて、そして二人はほとんど同時にそっくりな苦笑いを浮かべた。






「雛さん、こちらがそうでございます。どうぞ、ご確認ください」

 少しして、み~ことの持ってきた見た目は何の変哲もない扇を受け取る。

「ええ、ありがとう。……それと、ごめんなさいね、み~こと」

 と同時に、雛は小さく頭を下げて謝罪の言葉を口にした。

「……なぜ、雛さんが謝られるのですか?」
「だって、私のせいで甲斐が無理をしたみたいだから。……甲斐も、ごめんなさい。その上私は、貴方を疑うようなことを言ってしまって」
「んー」

 すると甲斐は小さく唸って、ちょいちょいとみ~ことを手招きした。

「甲斐ぼっちゃま?」

 直後にみ~ことはその意図が分からず、訝しげな視線を甲斐に送るが――

「いいからみ~こと、ちょっとここに座りなさい」

 ……そう言って甲斐が指し示したのは、自分の膝の上だった。

「……え?」
「ほらほら、早く」
「本気、でございますか……?」

 甲斐は二人から突き刺さる視線を気にも留めず、にっと軽い笑顔を浮かべ頷きながらもう一度自身の膝をポンと叩く。その様子を見たみ~ことは甲斐に全く引く気がないのだと理解すると、数瞬躊躇うように視線を彷徨わせた後、ゆっくりとそこに腰を下ろして真正面に居る雛から目を逸した。
 さらに甲斐はまるで借りてきた猫のように大人しくなったみ~ことの体の前に腕を回して抱きすくめると、今度は顔を上げて雛に真っ直ぐな視線を向ける。そして真剣な表情を崩さずに、宥めるような穏やかな口調で、

「別に俺があの時その扇子を使ったのは、雛の"せいで"じゃないよ。あれをやったのは、何より自分の"ために"だ。もしもあのまま雛を見殺しにしてたとしたら、俺はそれをしなかった自分を受け入れられなかっただろうからやっただけ。そういう意味じゃあ、雛と同じだな」
「私と、同じ?」

 雛は初め目を白黒させながら甲斐とみ~ことを交互に見ていたが、その言葉を耳にした瞬間顔を上げて甲斐の真意をはかるように視線を合わせた。

「ああ。雛は自分が不幸を払う『厄神』だから、誰かが不幸になるのをよしとしなかったんだろ? それと同じで、俺も自分が『門倉甲斐』であるために……自分がそうでいたかったから、そうしたんだ。だから結局のところ、俺は俺の都合で勝手をやっただけなんだよ。――ま、それを聞いてどう受け取るのかは、"二人"に任せるけどな。その上で雛がまだ俺に謝りたいっていうんなら、その時はその謝罪も受け取るさ」
「――いいえ」

 甲斐の語った言葉の内容を反芻しながら、だんだんとその意図が理解できてきた雛はニッコリと屈託の無い笑顔を浮かべて、

「もう謝るのは、止めておくことにするわ。多分貴方に伝えるべきなのは、謝罪じゃなくて感謝だと思うから。二度目になっちゃうけど、もう一度……ありがとう、甲斐。私からは何も、言葉しか返せるものはないけれど……きっと甲斐には、それ以上は余計なんでしょうね」
「ん……どういたしまして、ってところかな。それが余計とは言わないけど、気持ちだけ受け取っとくよ。――み~ことも、そういうことでもう……いいか?」
「……」

 最後に甲斐が確認するように視線を落としてそう告げると、み~ことはもぞもぞと体を横にずらしてまるで甘えるように服の裾をぎゅっと掴み、

「……にゃ~」

 と答えの代わりに一鳴きして、紅潮した頬を隠すように甲斐に体を預けた。
 そして甲斐と雛は同時に目を細めてまるで子どもを見守る親のような表情を浮かべると、少し前と同じように顔を見合わせ笑い合った。



[29961] 第十四話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:02
「……はあ」

 暑い。いくら夏とはいえ、まだ午前中。朝といってもいい時間帯だというのに、空に浮かぶ太陽は容赦なく地面を照らしており、普通に歩いているだけでもじんわりと額に汗が浮いてしまう。さらにその熱は自身の通う大学への道のりを歩いている甲斐の体を襲い、その思考能力を奪っていく。
 が、それでもやはりどうしても気になることというのは、勝手に頭の中に浮かんでしまうものらしかった。
 そうして自然と脳裏に浮かんできたのは、あの後例の扇を調べた雛の言葉。

『どうやらこの扇子には、特別な力はなさそうだわ。あるのは人の力を変換して対象に渡す能力と、その使用者に悪影響がない程度に抑えるための制御能力だけみたい』

 万が一があった時を考えると、それをまた使ったとしても死ぬような事にはならないという事実はありがたいものだと言えるが……

『もしかしたら甲斐にも何か、能力があるのかも知れないわね。私や……貴方の話してくれた、そのマエリベリーっていう女の子みたいに。もしも甲斐が無意識の内にそれを使っていたのだとしたら、一応の説明はつくから』

(……能力、か)

 正直に言えば、心当たりがないでもない。
 以前……初めて大学でメリーに出会った時甲斐は彼女から、甲斐にはどんな境界も見えないのだと言われたことがあった。元々それがきっかけで彼女と知り合いになったようなものなのだが……あれがもしもその『能力』とやらのせいなのだとしたら、納得することはできる。
 とそこまで考えた所で、

(まあでも、あってもなくっても正直な所、どちらでも構わないかな)

 甲斐には不思議と昔から、自身が世界のどこにいたとしても自分でいられる確信があった。
 ならば、何を恐れればいいというのだろうか。いつでも変わらぬ己でいられるのなら、他に必要なものなどなにもないのだ。場所も、状況も、どんな時でも変わりなく、結局はいつもと同じ事をするだけなのだから。

 そして甲斐は顔を上げると、まっすぐに前を向いて歩き出した。
 メリーに頼んで合う約束をしてもらった蓮子との待ち合わせ時間は、大学が終わってからだ。それまではいつもどおり、勉学に励むことにしよう。



 ――そんなことを考えながら歩いていた、甲斐の遥か後方。そこには手に持った携帯端末をじっと見つめて、画面に映る甲斐の姿を監視する一つの人影が存在した。
 日常に潜む影達は己の気配を消して隠れながら、ひたりひたりと甲斐のすぐ近くまで迫っていたのである。



◇◆◇◆◇◆



 宇佐見蓮子は、門倉甲斐が苦手だった。とは言え別に、嫌いというわけではない。もしもそうだったとしたら、たとえメリーの言うことであったとしても秘封倶楽部の活動を手伝ってもらうこともなかっただろう。
 というかむしろ、人間的には好きな部類に入るのかも知れない。彼のあのよくわからない包容力のようなものは、自分たちのような変わり者にとっては特に居心地のいいものだろうから。
 しかし男性として好きかと問われたらそれは全くの躊躇なく否と答えるし、そしてそれ以上に恐らく、甲斐が自分を好きになるということはありえないだろう。
 さらに宇佐見蓮子は、天邪鬼だった。だからメリーとの約束をした時なんかはわざと少し遅刻してみせたり、ちょっとした悪戯を仕掛けることなんかもよくある。元々はそれが高じてオカルト好きになって秘封倶楽部なんていうサークルを立ち上げたのだから、本当に筋金入りの天邪鬼なのである。

 そしてだからこそ、甲斐のあのあっさりとなんでも受け入れる性格は苦手だったのだ。

 例えば甲斐に蓮子が、「わたしはあんたなんか嫌いだ」と言ったとしよう。すると甲斐はきっとあっさり「そうなのか」と頷いて、適度な距離を保ちつつ必要があれば普通に接するのだろう。そして後から「ホントはさっきのは嘘だった」と言ったとしても、きっと特に怒りもせずに「そうだったのか」とあっさり頷いてやっぱり気にせず普通に接してくるのだろう。
 メリーのように皮肉の一つでも返してくれればこちらも悪びれることなく笑うことができるのだが、そうもあっさり流されてしまうとむしろこちらが困ってしまうというのが本音だった。

 ということでやっぱり基本が天邪鬼な蓮子は甲斐のことが苦手だったので、その甲斐と待ち合わせをするというのは嫌ではなかったが少しだけなんとも言えない複雑な気分だった。
 積極的に付き合いたくはない……というほどに苦手意識を持っているわけでもないのだけど、それでもやっぱり理由もなしに自分から会いに行ったりはしない。
 蓮子の甲斐に対するスタンスは、だいたいがそんな微妙なものなのである。



 とまあそんなこんなで、時刻は午後四時を少し過ぎた頃。蓮子と甲斐は大学の食堂で約束通り合流すると、かたや手元に被っていた帽子を下ろして弄りつつ、かたや適当に取ってきた水を持って椅子に座って対峙していた。

「……ふうん。門倉がわたしにわざわざ聞きたいことがあるなんて言うから何事かと思ったら、わたしたちが前に秘封倶楽部の活動で行ったあの神社の住所が知りたいって?」
「ああ、そうなんだよ。今朝マエリベリーに聞いてみたら、そういう行き先なんかはいつも宇佐見が決めてて自分は詳しくは知らないから、そっちに聞いてくれって言われてな。それでこうして、待ち合わせの約束を取り付けてもらったってわけだ」
「それはわかったけど……なんで今さらあんなとこに行きたいの? あそこは一般人が行ったところで特に何の変哲もない、ただの普通の神社なんだけど?」

 訝しげに首を傾げた蓮子の言葉に甲斐は軽く首を横に振って、

「……詳しいことは省くけど、正確に言うとそこに行きたがってるのは俺じゃなくて、俺の知り合いなんだよ」
「門倉の知り合いって……この大学の人?」
「いや、違う」
「あれ、そうなんだ。それでその人って、男? それとも女? 名前はなんて言うの? あと歳は同年代? 学校はどこに通ってるの? それとも社会人かな?」
「あー、ちょっと落ち着いてくれよ。ちゃんと質問には答えるからさ」

 蓮子は自らサークルを作ってあちこちを飛び回るくらいには好奇心旺盛な上に積極的な性格をしているので、喋るときも勢いがあることが多い。そんな蓮子に苦笑いを浮かべながら、甲斐は一度蓮子を宥めて一つ一つ当たり障りがない程度に質問に答えていった。
 流石に雛が神であるとか、幻想郷のこととかは話していない。メリーや蓮子には話しても別にいいといえばいいのかも知れないが、仮にそうするとしても雛の意思を確認してからの話だろうと思ったからだ。
 そして甲斐が全ての質問に答え終わると蓮子は小首を傾げて、

「ねえ、その子って可愛い?」

 ずいぶんと率直な物言いでそんなことを口にした。

 甲斐は大抵の場合話をしていても聞き役に徹することが多く、また積極的に人に関わる方でもない。そんな甲斐の口から女性の名前が出てきたものだから、蓮子は上手く行ったら珍しく甲斐をからかうことくらいはできるかも知れないと思って、自然と自分の口元が釣り上がって行くのを感じていた。

「ん? そうだなあ……。まあ雛を見て可愛くないっていうんだったら、世の中の美人の八割くらいは普通に分類されるんじゃないかってくらいには可愛いんじゃないか?」
「あ、そうなの……」

 ――が、全く恥ずかしげもなく甲斐がそんなことを口にするものだから、それは早々に諦めた。相変わらず、可愛げのない男である。その点に関しては、蓮子も甲斐に対してメリーと共通の見解を持っていた。
 なので蓮子は、少々切り口を変えて見ることにする。別に場所を教えること自体は構わなかったのだが、このままあっさりとただで教えてしまうのもちょっと面白くない。甲斐が自分に頼みごとをしてくるなんて珍しいことはそうそうないのだし、少しくらいは楽しみたいというのが蓮子の本音だった。

「んー、じゃあさ……近い内にその雛って子と一度、会ってみたいな。ちょっと色々興味も出てきたことだし、その子と一日一緒にみんなで遊ばせてもらうっていうのが神社の場所を教える交換条件ってことで……どうかな?」



◆◇◆◇◆◇



「――っていうことなんだけど……どうする、雛? もし嫌なんだったら、宇佐見には何か別のことにしてくれって頼んでみるつもりだけど」

 甲斐は蓮子との会話を終えて家へと帰った後、早速雛に話し合いの結果を報告していた。

「いえ、嫌ということはないのだけど……」

 そしてその話を聞いた雛は、どこか困ったようにして頬に手を添えた。

 当然のごとく一日誰かとどこかへ出かけるだけで幻想郷へ帰れるというのなら、雛に断る理由はない。だがしかし、そこには外へ出ることによる力の消耗や、その相手や周りの人間に厄が移ってしまう可能性があることなど、様々な問題がまるで眼前に聳える山のごとく横臥していた。
 しかしそれら雛にとっては致命的とも言うべき問題を同時にどうにかする方法が、一つだけ存在する。……するのだが、むしろ雛にとってはそれこそが、正に一番の問題とも言えた。

(まさか外にいるあいだ四六時中、常にぴったりと離れずそばにいてくれだなんて、そんなこと言えるわけない……)

 それはその状況を想像するだけで胸中に湧いてくる恥ずかしさだけの問題ではなく、雛のこれ以上甲斐やみ~ことに迷惑をかけたくないという、ある意味必然とも言うべき気持ちの問題だった。
 確かに少しでも恩返しをしたいと思って今日一日ずっと家事を手伝おうと色々やってはいたが、しかし雛は外の世界の道具などに詳しくはなく、その上み~ことの手際が余りにもよすぎてむしろ邪魔にしかなっていなかった気がしてならない。
 ただでさえ今も衣食住すべて頼り切り――ちなみに下着はみ~ことが買ってきてくれていた――だというのに更にそのようなことを甲斐に頼むというのは、もはや雛の性格上できようはずもなかったのである。

「ふむ……」

 そして暗い表情で顔を俯け黙り込んでしまった雛を見て、甲斐は大体のその心情を察していた。事前にそばにいれば外にでても大丈夫らしいことは聞いていたし、後は雛の立場にたって考えてみればそれは自明の理とでもいうべきものだったからだ。
 甲斐にしてみれば仕方のないことなのだし遠慮することはないと思うが、雛からしてみればそうも行かないのだろう。しかし現実問題博麗神社の場所を聞くことは必要なことであるし、この機会を逃してしまうのは忍びない。

 ということで甲斐は、あえて道化に徹することにした。

「なあ、雛」
「何かしら?」

 視線に疑問を込めて顔を上げた雛に対して、甲斐は明るい表情のまま話しかける。

「雛は、プールって知ってるか?」
「ぷーる? いえ、知らないわ」
「ん、そうか。えっと、そうだな……一言で言っちゃえば、水遊びをするために人の手で作ったおっきな池みたいなもん、ってところかな」
「へえ……外の世界には、そんなものがあるのね。それで、それがどうかしたの?」

 当然と言えば当然の雛の疑問に、甲斐は少しわざとらしいくらいに真剣な表情で、

「いや、さっきの話の中で宇佐見が『夏って言ったらやっぱりプールでしょ!』とか言っててな。だから雛がいいって言ったら、宇佐見はそこに行くつもりらしいんだ」
「? うん、それで?」
「つまり当然、水場で遊ぶってことは水着も必要になるよな?」
「ええ、そうね」

 雛が水着のことを知っているのか多少疑問だったかが、問題なく知っていたようだ。
 そして甲斐は雛が相槌を打ったのを確認すると、

「雛はスタイルもいいし美人だからさ……すごい見たいんだよ、その水着姿。だからさ、一緒に行こうぜ、雛?」

 しごく真面目な顔でそんなことを口にした。

「な!? な、な、な、」

 その瞬間、雛はまるで頭から湯気でも出ているのではないかというくらい真っ赤になって硬直してしまった。

「いきなりなに恥ずかしいこと言ってるの!?」
「恥ずかしくなんてないし、見たいものは見たいんだからしょうがないじゃねえか。な? プール行こうぜ雛。こんないい機会を逃しちまったら、俺は当分の間毎晩枕を濡らす羽目になっちまうよ」

 とその時突然、

「――わたくしに言ってくだされば、そんなものいつでもお見せいたしますわ!」
「うぉわ!? ってだからいきなり湧いてくんなってみ~こと!」
「そんなことよりも、ぼっちゃまはビキニをご所望ですかっ? それともワンピース……マニアックな所でスクール水着とかでございましょうか!? さあさあ遠慮なさらずに、どんとご希望をお伝え下さったりしちゃってくださいませ!」

 咄嗟の甲斐のツッコミも意に介さず、勢いもそのままに捲し立ててくるみ~こと。

「いや、家ん中で水着になってどうすんだよ。ちょっと落ち着け、み~こと」
「なんとつれないお言葉っ。ぼっちゃまがわたくしの水着姿を見たいといったのではありませんか!」
「ちげえよ、俺はお前じゃなくて雛に言ったんだ!」
「まあ、贔屓はイケマセンわぼっちゃま! ですのでどうかわたくしの水着姿も褒めてください!」
「お前ね、自分から褒めてくれっていうのはどうなんだよ……」

 とそこで甲斐がみ~ことの勢いに押されてげんなりと呟いた所で、

「ぷっ、ふふ、あはは」

 とうとう雛は吹き出して、くすくすと笑い出してしまった。

「あ、ほらみ~こと、雛にまで呆れて笑われちまったぞ」
「全く構いませんわ。わたくしは己の心の命ずるままに行動したまででございます」
「たまにはその命令に反抗したほうがいいと思うぞ……?」
「それは無理です」
「即答!?」

 そして未だに続けられている主従漫才に、雛は目尻に涙を浮かせながら暫くの間笑い続けた。……そこにはただの可笑しさだけではなくて、もしかしたら感謝の気持ちも込められていたのかも知れない。



◇◆◇◆◇◆



『――もしもし、宇佐見か? 今日言ってた話、大丈夫だってさ』
『あ、ホントっ? ラッキー! 前からプールには行きたかったんだけど、メリーは付き合い悪いし一人じゃ嫌だったんだよね!』
『ああ、雛にとってもいい気晴らしになってくれればいいんだけどな。……と、そうだ。それとこの話、俺も一緒ってことになっちまうんだけどいいか?』
『え? もちろんいいよ、当然じゃん。その子も知らない人間だけじゃいずらいだろうし、元々そのつもりだったからさ。それじゃあ、はい。博麗神社の住所、メールで送っといたから』
『あれ、いいのか? まだプール行ってないのに教えてくれて』
『別にいいよ。初めから、行けなくてもそうするつもりだったし。たかが場所を教えるくらいで、そんなに引っ張るつもりはなかったからね』
『そっか、ありがと。助かったよ。一応確認だけど、日にちは明後日でよかったんだよな?』
『うん、それでオッケー。それじゃあまた明後日。楽しみにしてるわ』
『おう、またな』



(……、明後日)

 日の下に立つ者達の影法師。それは今まさに、甲斐達のつま先へと重なろうとしていた。



[29961] 第十五話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:02
 甲斐達の通っている、とある大学の奥にある研究室。その更に奥にある冗談のように広い部屋で、岡崎教授は何やらよく分からない機械の前で作業をしていた。しかししばらくするとその手を止めて、がんっと軽く八つ当たりするようにそれを叩く。

 岡崎教授は、苛立っていた。いつも警戒し監視を怠っていなかったはずのそれが、少し目を離していた隙にとんでもないことをしようとしていたからだ。
 これは到底、許せることではなかった。
 これ以上、その好き勝手を許すことはできないのである。
 そして岡崎教授は自身の助手の名を、まるで今感じている苛立ちをぶつけるような鋭い口調で呼びつけた。

「ちゆり」
「ん、何だ? 呼んだか教授?」
「呼んだわ。ちゆり、すぐに出る用意をしなさい。装備はMの1型よ」
「え、M-1!? それって……!」
「ええ、そうよ。つまりそれだけの事態だってこと。ほら、グズグズしないでさっさと準備してきなさい。40秒以上かかったらお仕置きね」
「ちょっ、そんな理不尽な!」
「いいから早くしなさい。すぐに行くわよ」
「いやだから、行くってどこに!? せめて少しくらい説明してくれよ!」
「……はあ、仕方ないわねえ。それじゃあ行く場所くらいは教えてあげる。これから私たちが向かうのは――」



◆◇◆◇◆◇



 ――南海山公園前プール

 そこは近年少しずつ作られるようになってきた、パノラマ型の水泳場である。
 パノラマ型水泳場とは、簡単に言ってしまえば映画のセットのようなものを楽しむことのできるプールのことだ。
 場内のそこかしこに映し出された立体映像と演出効果。更に設備機器と砂などの小道具を組み合わせて擬似的に特定の環境を再現する。その再現する環境は施設によって違いがあるのだが、ここ南海山公園前プールでは南の島――恐らく沖縄あたりだろう――の海を再現していた。
 天井に広がる、まるで本物のようにしか見えない抜けるような青い空。透き通ったエメラルドの珊瑚の海にしか見えないプール。さらには足の裏にサラサラとした感触を感じる、白い砂浜。

「ねえ、蓮子。わたしはたしかに嫌だって言ったはずなのに、どうして今ここに居るんだと思う?」
「そりゃああたしがあんたを無理やり連れてきたからに決まってるじゃない、メリー」

 そしてその砂浜にビーチセットを出して寝そべりとてもイイ笑顔を浮かべているメリーと話しながら、蓮子はイタズラっぽくニコリと笑った。

「じゃあどうして嫌がるわたしを無理やり連れてきたのかしら、蓮子」
「それはもちろん、嫌だと言われたら多少無理やりにでも連れてきたくなるのが人情だからよ、メリー」
「……そう。なら、もしもわたしがいいって言ってたらどうしてたの?」
「え? 何言ってんの? いいって言ってるのに連れてこないわけ無いじゃん」

 蓮子がさも当然のように答えると、メリーはとうとう「この天邪鬼め……」と呟いて押し黙ってしまう。

「……」
「……」

 そして蓮子も沈黙すると、二人は無言でじっと見つめあっていた。

「蓮子」
「なに、メリー?」

 それから暫くした後に、メリーはまるで男女問わず見るもの全てが蕩けてしまいそうな極上の笑みを浮かべると、

「向こう一ヶ月わたしに無視され続けるか、今すぐここで謝るか……どちらか一つ選んでくださる? もちろん、今すぐに」
「ゴメンナサイ!」

 それを聞いた瞬間、蓮子はほとんど土下座する勢いで謝っていた。甲斐のことが苦手であるということからもわかるように、蓮子のようなタイプにはなにより無反応が一番きつかったりするのである。

「よろしい」

 まあメリーも元々本心から怒っていたわけではないし、それで水に流すことにする。こういったやり取りはある種日常のようなものであるし、二人にとってはじゃれ合いに近いものなのであった。
 というかそもそも本当の理由は、三人よりもメリーを含めた四人のほうがいろんな意味で都合がいいと考えたから誘ったのだろう。それなら納得はできなくもないし、仕方ないと妥協してあげなくもないのでメリーも本気で抵抗はしなかったのだ。
 とメリーがそんなことを考えていると、その時ふと蓮子は顔を上げて、

「ところで……」

 小さく呟きを漏らしながらプールの方へと視線を向ける。
 そしてその視線を辿っていくとその先には――

「あの二人って、やっぱり付き合ってるのかな? なんか合流した時からずっとびっくりするほどくっついてるし、しかもやたら仲いいし」

 ――ばしゃりばしゃりとバタ足をして一所懸命泳ぐ練習をしている雛の姿と、その手を引いて補助をしている楽しげな甲斐の姿があった。

「ああ……」

 メリーもその疑問の声を聞いて、思わず納得したように小さく首を縦に振ってしまう。多少事情を知っているメリーからすれば恐らく付き合っているということはないと予想できるが、それでも蓮子がそう思ってしまうのも無理もないと思ったからだ。
 なにせ二人と合流した時もその後も、雛が水着を持っていないからと直前に入ったショップの中でも、その試着の時でさえも試着室の側に待機して甲斐は片時も離れようとはしないのだ。しかも合間合間に見せる雛のギャップのある反応が余りにも初々しくて、何度かメリーまで勘違いしてしまいそうになったほどである。

 ちなみに余談ではあるが、甲斐が持ってきた水着が普通のトランクスタイプだったのを見て蓮子が、

「何だつまんないなー。どうせならブーメランとか持ってきてよ、ブーメラン」
「いやいや、んなもん持ってないから!」

 などとという一幕があったのだが、それはまた別の話。

「むむむ……。可愛くて彼氏もいてしかもスタイルが良くてその上おっぱいもおっきいなんて――」

 とその時急に蓮子が何やら呻くように喋りだしたので、メリーが考え事を中断してそちらを見ると、

「――わたしなんて大学に入ってからさっぱり恋人なんて縁がなくて、密かに裏で百合サークルとか実は二人でデートしてるだけの不良サークルとか言われてるくらいなのに……リア充爆発しろ!」

 くわっと目を見開きながらそんなことを叫んでいたので、思わず呆れ顔で小さくため息を吐いた。

「あの大きさ、多分C以上……いやさ、Dはあると見た!」

 しかしメリーのそんな反応も意に介さず、直後に蓮子はフリルのついた上下一体型の赤っぽい水着の胸部部分を押し上げる雛の双丘を睨みつけながら、びしっとそう言い切った。

「髪に隠れてて最初は分からなかったけど隠れ巨乳だなんて、お雛ちゃん……恐ろしい子!」
「はあ、全くもう……。蓮子、別に女性の魅力ってそこばっかりじゃないでしょ。あんまりそういうことばっかり言ってると、人間が安っぽく見えるわよ?」
「むかっ」

 その痛烈な皮肉を聞いた瞬間蓮子は唇を尖らせて、

「それはメリーもスタイルがいい上にそんな立派なもの持ってるから言えるんだからね! くー、こうなったらそのけしからんおっぱいに持たざる者の怒りをたっぷりと思い知らせてやる!」

 そんなことを叫びながらすぐ横にいるメリーに飛びかかると、むにゅむにゅと言葉通りに大きなメリーの胸を揉みしだきはじめた。

「え!? きゃっ! ちょ、ちょっと……ひうっ、やめ! あっ、もう、いい加減にしなさーい!」

 水着姿で絡みあう、二人の美女の姿。その様子は完全に、いちゃついて百合百合しい花がその場に咲き誇ってしまっているようにしか見えなかった。こんなことばかりしているから周りから百合サークルなどと言われてしまうのだが……しかし蓮子にはそのあたりの自覚が、さっぱり足りていなかったのである。



◆◇◆◇◆◇



「……? 二人とも、なんかあったのか?」

 元々最低限溺れてしまわない程度に泳ぎを教えてくると言って一旦離れていただけなので、しばらくしてメリーと蓮子に合流するべく浜辺へと戻ってきた甲斐は、直後に二人の様子を見て目を丸くする。
 胸を腕で隠すようにしながら顔を赤くしているメリーと、頬に真っ赤な紅葉マークをつけている蓮子。ちょっと見ただけでは何があったのかさっぱり想像のつかないその状況に、甲斐と雛は二人揃って首を傾げた。

「なんでもないから、聞かないでちょうだい……」
「にゃはは……」

 そして疲れたようにため息を吐くメリーと誤魔化すように明るく笑う蓮子にもう一度首を傾げた後、甲斐は「そうか」と頷いてスルーすることにした。
 すると直後に蓮子が少々不自然なくらいにテンションを上げて、

「あ、そうだ! それよりさ、向こうにウォータースライダーがあるから今度はあたしと一緒に行こうよ、お雛ちゃん!」

 と言って雛の手を取ろうとする。
 しかし雛はススっと自然な動作でそれを避けて蓮子から距離を取ると、

「えっと、ごめんなさい蓮子。私、甲斐と一緒じゃないとダメなの」

 と申し訳なさそうに口を開いた。
 その雛の激しく誤解を招く言い方に、案の定蓮子はすっかり勘違いして驚いたような表情を浮かべると、

「おお、まさかそこまでとは……! ごめんねお雛ちゃん。もうお邪魔はしないから、ウォータースライダーにはみんなで行こっか。それならいいでしょ?」

 と確認してきた。

「? それはいいのだけど……お邪魔って?」

 その言葉の意味が分からなくて聞き返した雛に、蓮子はきょとんとした表情で、

「え? だってお雛ちゃん、門倉のことが好きで好きでたまらないから一瞬でも離れたくないんでしょ? さっきのはてっきり、そういう意味だと思ったんだけど」
「確かに、今のセリフはそうとしか聞こえなかったわね」

 メリーもすぐにそれに同意すると、うんうんと頷いてにこりと微笑んでいた。ちなみに内心では、ものすごくこの会話を楽しんでいたりする。
 そしてその瞬間、雛はまるで瞬間湯沸かし器で沸騰させられたかの如くかあっと頬を紅潮させると、

「え!? あ、ち、違うわっ、今のはそういう意味じゃなくて! これはその、あの――」

 と慌てて否定するが、蓮子はまるで聞いた様子もなく分かっていると言わんばかりに手を振った。

「あはは、いいっていいってそんなに照れなくてもー。それじゃあメリー、行こっか」
「そうね。そうしましょうか」
「ああっ、ふたりとも全然聞いてくれない!? 違うのよー!」

 ちなみに甲斐はそのやりとりを無理に否定するわけにも――蓮子になんと事情を説明したものかわからなかった――行かず、さりとてうまく助け舟をだすこともできなくてぽりぽりと頬をかきながら眺めているしかなかった。

 いつの世も、女性の会話に男が入り込む隙間などないのが常なのである。



[29961] 第十六話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:02
 あの後甲斐たち一行は、

「念のために言っとくけど、雛も一緒なんだから押すなよ? 宇佐見」
「え、なにそれ振り? じゃあ、えいっ!」
「っておい!」
「え、え!? な、なにこれっ? きゃあぁぁ!」
「蓮子、貴女芸人じゃないんだから」

 とウォータースライダーで騒いだり、

「くらえ! これがわたしの必殺の魔球だ!」
「ビーチバレーで魔球って何?」
「いやあ、この状態で動くの大変だなあ」
「もう、変に落ち着いてないで少しは焦ってよ甲斐!」
「おお、お雛ちゃんったら門倉のこと引きずりながら動いてるよ」
「すごい身体能力ね」
「っていうかそこまでして離れたくないのかなあ?」

 などと浜辺で道具を借りてバレーをしたりしていたのだが……

 しかし楽しい時間というものは、いつもすぐに過ぎ去ってしまうもの。やがて全員が遊び疲れ、自然と満足して帰る用意をし着替え終えると、一行は外に出てそれぞれ別れの言葉を交わしていた。

 だが、それでこの日は終わらなかったのだ――



 それはとっぷりと陽も暮れて行き、時刻も夕方へと差し掛かった頃。

 人と人との別れ時。陽が落ちきり、昼が夜へと移り変わる直前のその境界線。
 一日で最も禍々しい、幼子が魔へと出会い何処かへ誘われてしまう隙間時。

 ――人はそれを、逢魔ヶ刻と呼ぶのである

 そして其の刻に出会ったのが魔ではなく人であったというその事実は、一体誰にとっての皮肉だったのだろうか。



 鍵山雛は、油断していた。
 いや、それを安心と呼ばず、油断と呼ぶのはあまりにも酷だろうか。しかし、事実雛は忘れていたのである。自身がこの世界にとって異物であるということを……甲斐のせいで。
 そしてなにより、甲斐のお陰で。

 マエリベリー・ハーンは、驚いていた。
 その時目に入った黒いスーツに身を包んだ壮年の女性が自分や蓮子、甲斐と同類であることが境界を見てしまって分かったから。

 宇佐見蓮子は、面食らっていた。
 一度だけ自分に会いに来たことのある、自身の人生の中でもトップクラスの要注意人物が、このタイミングで己の目の前に現れたことに。

 そして門倉甲斐は、警戒していた。
 突然に現れて、自分たちの行く手を硬い空気を纏わせながら塞いだその黒いスーツの女性を。さらに周囲に視線を巡らせれば、十数人の黒服の男たちがこちらを囲みながらカメラや何かの機材を出して道を開けさせて、まるで映画か何かの撮影のようにカモフラージュし始めたのを確認して。

(本当にテレビや映画の撮影の類いでは、ないよな)

 そう考えるには、矛盾が多すぎる。すぐに一瞬浮かんだその考えを否定して、甲斐は視線を尖らせ目の前の女性の様子を伺った。
 何かを判断するにも、行動するのにも、余りにも情報が少なすぎる。率直に言って、わけがわからなかった。
 これだけ大々的に公道を占拠して、どこからの警告の一つもない。ならばこれは、正式な申請の元に行われていることなのだろうが……。

(まさか、警察? ――いや)

 警察が一般人を騙すようなことまでして、こんなことをする意味が分からない。仮に、全く有り得ないだろうが仮定として、自分たちの中に誰か犯罪者がいたとしても……警察がこんなことを果たしてするだろうか。

(無い、な)

 ならばこの集団は、一体……?

 と甲斐が己の中の疑問を消化しながら思考を巡らせていると、その瞬間唐突に、

「確保」

 "ミシリ"とまるで、空気が軋むような音がした。
 それは比喩でも何でもない。文字通り、確かにそんな音が甲斐の耳へと届き、そして雛の耳元で鳴ったのである。

 直後、雛の体が動かなくなった。

 本当に、全く体のどこの部分も固まってしまったかのように動かせなかったのだ。手足だけではない。首も動かなければ腰を曲げることも出来ず、口を開くことすら出来なかったのである。

「んう!?」

 そのせいで雛はくぐもった声しか出せなくなりながら、唯一動いた目だけを驚愕に見開いた。
 そして次の瞬間、甲斐はいつの間にか迫ってきていた男たちに押さえこまれ、

「な!?」

 さらに雛の体はまるで風船のようにフワフワと宙に浮かんでいるような不思議な動きをしながら、黒いスーツの女に拐われてしまう。

「雛!」
「鍵山さん!?」
「お雛ちゃん!」

 ――直後

 雛は外の世界に来てから今までで、最大級の否定の意思をその身に受けた。

「む、んぅ……!」

 それはまるで、毒のように。そしてあるいは、呪いのごとく。雛の身体を、精神を、存在を浸していく。その盲目的で妄信的な否定の意思は……外の世界全体に満たされているそれの、比ではなかった。
 それは今雛の体を良く分からない方法で浮かせ抱えている、その黒スーツの女が纏っているもの。
 その意志は正に、甲斐の許容の意思とは真逆。絶対不可侵の現実という名の、幻想を喰らう怪物の如く残酷な冷たく固い意志だった。
 そして雛はそれに力を急速に打ち消されていってしまい、すぐに意識を手放してしまう。それは少しでも力の消耗を抑えようとする、無意識の防衛機構のようなものだったのかも知れない。

(くそ! なにがなんだかわけが分からねえ……!)

 何もかもが唐突で、甲斐たち一行の誰一人として全く状況について行けていなかった。
 だが、雛が甲斐から離れるということは、即ち先日の二の舞になるということだ。故に甲斐には、これをこのまま見過ごすつもりは毛頭なかった。

 状況を把握したり、会話や説得や交渉をするのは、出来るとしても全て雛を取り戻したその後に。
 しかし、それを成すのは一人では無理だろう。甲斐にはこれほどの人数を一度に相手取るだけの、力も能力も権力もないのだから。
 だから甲斐はその瞬間、大きく息を吸って己の肺に酸素を目一杯満たすと、自身に出せる最大の声で唐突に虚空に向かって一言その名を叫んで彼女を呼んだ。

「み~こと、来てくれ!」
「は?」
「え?」
「何を?」
「……?」

 そして当人以外……その名を知っている者も知らない者も、誰もが甲斐の奇行に首を傾げた、その刹那。
 甲斐の体を拘束していた二人の黒服が、ものすごい勢いで吹き飛んだ。

「はい! 呼ばれて飛び出て参りました、ぼっちゃま!」
「ぐあ!」
「な、なんだ!?」

 とそこで初めて、身を翻し用意していた車に乗り込んで雛を連れ去ろうとしていた黒スーツの女が動きを止め、

「岡崎教授製のガイノイドか」

 と警戒もあらわにみ~ことを睨みつける。
 しかしみ~ことはまるでその場の空気を(あえて)読まず、「いいえ!」と首を横に大きく振り元気良くそれを否定すると、

「わたくしはもはやロボットでもなければガイノイドでもない――ただただ甲斐ぼっちゃまだけのメイドでございます!」

 とよくわからない宣言をした。

「……メイド?」
「というか一体いつの間にここに?」
「警戒班は何をしていた」
「あのガイノイドが家を離れたという報告はなかったぞ。どうやって現れた?」

 直後に色んな意味でわけのわからなさにざわつく黒服たちに、み~ことはさらに続けて、

「主人がこの身を呼んでくださったというのに、たとえどこにいようと瞬時に駆けつけないメイドがこの世におりますか! 取り敢えず監視とか空間とか距離とかは適当にブッチして飛んで参りました!」

 とりあえずで物理法則やらなんやらを無視しないでください。

「ねえメリー。最近のメイドさんって、すごいんだね」
「……状況についていけない気持ちはわかるけど、お願いだから目を覚ましなさい蓮子。そんなわけないでしょ」

 もうなんか、シリアスとか色々と台無しであった。これがみ~ことクオリティの恐ろしさである。間違いなく、色々と間違っているが。

 しかしおかげで、場が動いた。

「み~こと! まずは雛を助けるのが最優先だ、頼む!」
「承知いたしました」

 その瞬間、先ほどまでの態度が嘘のように硬質な返事と共に、み~ことが高速で地面を低く駆け抜けた。その踏み込みはまるで重機か何かのように容易にアスファルトを砕き……もはや残像を残さんばかりの、人には決して叶わない速度を実現するもの。
 そしてみ~ことが完全に黒服たちの虚を突いて、黒スーツの女に死なない程度の拳を向ける……が、

(硬い!?)

 ――ガキンとあたりに響き渡る快音。

 黒スーツの女はその攻撃に素手のまま手をかざしていただけだというのに……それはみ~ことの拳にまるで、鉄でも殴りつけたかのような硬い感触を返してきた。

「……速いな。それに、いい奇襲だ」

 み~ことの攻撃を受けてそう呟いた女が次にしたことは、

「まずは門倉甲斐を確保しろ。その方が早く無力化できる」

 という指示を出すことだった。

「くっ……!」

 そのためみ~ことは、要所要所で牽制を入れてくる黒スーツの女の攻撃を防ぎながら、全ての黒服の相手を同時にしなければならなくなった。
 いくらみ~ことが人にはありえないような身体能力を有していたとしても、それを発揮する体は一つだけ。分身でもできない限りは、殺さないようにこれだけの人数を同時に相手取るのは流石に不可能。

 そしてとうとう、一人の男が甲斐を捕らえようと無表情のままに掴みかかってくる。それを見てようやく事態に追いついてきたメリーと蓮子が、背後ではっと息を飲んだのを甲斐は気配で感じていた。
 向かってくる男は、見るからに屈強。そして甲斐はどうみても普通の体格をしている。そんなただの一般人が、自らを鋼のごとく鍛え上げた男に対抗できるものではないだろう。
 だが、しかし。

「――」

 それを見つめる甲斐の瞳には……そしてみ~ことの表情にも、焦りの感情は全くみられなかった。
 甲斐には少なくとも、戦いに使えるような特別な能力はないし、武術を習っているわけでもなければ、喧嘩慣れしているわけでもない普通の人間だ。
 ――が、

「ぐ、が……げほっ!?」

 その時甲斐に掴みかかった黒服の男は、自身の伸ばしたその手が相手の体に届くことなく地面に引倒されたことを、その衝撃に息をつまらせてからようやく驚愕と共に理解した。

 向かってきた力を受け入れて受け流し、そしてそれを利用する。

 甲斐はどうしてか昔から、誰かに教えてもらったわけでも習ったわけでもなかったのに、それだけは当たり前のように何時の間にか自然とできるようになっていた。
 どうしてかはわからない。強いて言うのなら、できるからできるのだ。そのまるで、魂に刻まれていたかのような技術を何かと騒動に巻き込まれやすい甲斐はかなり重宝していた。特に岡崎教授たちと付き合うようになってからはその頻度が高くなり、以前よりもその精度は高まっている。

 受けて流して、大地へ還し……循環させる。それはまるで、輪舞の如く。

 甲斐一人の戦力は、そこまで大きくはない。甲斐には自分から攻めることができず、一対一でなければあっさりとやられてしまうだろうから。だがしかし、逆に言えば一対一の状態を常に作り上げてやれば、甲斐は倒されないのだ。その事実は、み~ことにとってかなりこの状況を楽にしてくれるものだった。
 この一対一の状態は、全てを自身だけでは捌き切れないことを悟ったみ~ことが意図的に作った、甲斐への信頼の証でもあったのだ。

(あの二人には構わずに、ここはさっさと引くべきか)

 このままでは、下手をすれば全滅するのはこちらの方かも知れない。
 甲斐とみ~ことに次々と無力化されていく自分の部下たちの姿を見てそう判断した黒スーツの女は、一度小さく舌打ちをすると随分と数の減ってしまった己の部下に新たな指示を出すことにした。

「総員撤退。初め!」

 その命令を聞いて、まずは雛をかかえた黒スーツの女の撤退を援護すべく動き出した黒服たちはしかし……そこから先、何をすることもできなかった。
 それはなぜかというと――この直後に、岡崎夢美がこの場に現れたからである。



[29961] 第十七話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:03
 岡崎夢美は、門倉甲斐を気に入っていた。少なくとも、甲斐に手を出されて平然と無視できない程度には、気に入っていたのである。
 それはなぜかというと、甲斐があっさりと『魔力』そして『魔法』を信じたから……というわけではない。
 さすがの甲斐とて、証拠も実例も理由もなしに何もかもを信じるわけではないのだから、初めからまるっきり信じていたわけではないのだ。
 では、それは何故なのか。

 岡崎教授が甲斐を気に入ったその理由は、"岡崎夢美が"本気で『魔力』と『魔法』の実在を確信しているという、彼女にとっての世界を否定せず受け入れてくれたからだった。

 おまけに今回の相手は、あの自分の研究を信じようとしなかった老害たちよりもある意味で更に憎たらしい、岡崎教授にとっては宿敵のようなものだったのだ。それが自身のテリトリーに無遠慮に侵入してきたというのに、無抵抗でいるはずなどあろうはずがない。
 だから彼らが甲斐とその周辺に手をだそうとしていることを知った時、岡崎教授は部外秘も良いところである自らの再秘奥の一つすら持ちだして、それを放った。

 ――科学魔法――

「――苺クロス!」
「なに!?」

 その名の通り、苺色の巨大な十字架。それが岡崎教授の宣言後に、残っていた数人の黒服を巻き込んで地面を抉りながら弾丸のように飛んでいく。しかし黒スーツの女だけは声と同時に背後へと振り返り、すぐにまたそれに手をかざし防いで難を逃れた。
 そして教授の放った十字架は、その後まるで空気に溶けるようにして消えていってしまう。その光景を目にした岡崎教授は、フンと鼻を鳴らして腕を組んだ。

(確か……硬と軟を操る程度の能力、だったわね。予定通り防がれたか)

 そして教授はそのまま多少わざとらしく首をかしげて、

「うーん……魔法が素晴らしいのは間違いないんだけど、名前を宣言しなきゃいけないことだけは難点よね。そこは科学魔法でもおんなじだし、奇襲には使いにくいわ」
「ちっ、岡崎夢美か……!」



◆◇◆◇◆◇



 甲斐は驚いていた。岡崎教授が何故かここにいることや、突然よくわからないものを放ったから、ではない。岡崎教授がレーザーだろうが十字架だろうが何をだそうと正直今更だったので、それは大して驚かなかった。この人はあのみ~ことの生みの親なのである。常識が通じないのは元からなのだ。
 だから問題はそこではなく――

(もしかして岡崎教授には、雛が見えてないのか!?)

 門倉家、もしくは甲斐のそばにいる時は、外の世界でも力の有無にかかわらず雛は誰にでも見える。そして数日を共にしたことで、甲斐とみ~ことには雛との繋がりができていたから、もはや外の世界のどこにいようとその姿を視認することができるが、果たして岡崎教授はどうなのだろうか。
 その可能性に思い当たった瞬間、甲斐は慌てて黒スーツの女越しに岡崎教授に叫んだ。

「教授! 今俺達は人質を取られてるんだっ。だから手を出さないでくれ、頼む!」

 より正確に語るのならば……黒スーツの女にとって雛の安全というのは護るべきものではないので、そのため岡崎教授が何かしらの攻撃を加えでもした場合雛自身を盾にでもされかねないという実質的な……『状況的人質』とでも言うべきものだったが、そこまで説明する余裕はなかったのだ。それに仮に盾にされなかったとしても、先ほどの岡崎教授の攻撃はやけに範囲が広かった。どうやら吹き飛ばされた黒服たちも気絶する程度ですんでいるらしいとはいえ、黒スーツの女と一緒に雛まで吹き飛ばされてしまってはたまったものではない。

「えー、人質? 全く、わざわざ来てやったってのにいきなり指図されるなんて、面白くない上に面倒くさいなー」

 と同時に岡崎教授は言葉通り本当に面倒くさそうな顔をして、はあっとため息を吐いた。

(……?)

 なんだか随分と、岡崎教授らしくない発言だ。それに、

(今の、目配せは……)

「まーったく、今ごろちゆりはどこで油売ってるのかしらね。ちゆりもいたら大分楽になったのに、肝心な時にいないなんて……相変わらず使えないんだから、ホント。あとでお仕置き決定ね」

 それはもしかして、ちゆりが来るまでの時間稼ぎをしろということなのだろうか。
 だが、この状況で甲斐が動かせるのは口のみだ。そしてあの黒服たちと会話する材料なんて、甲斐にとってはないに等しい。時間稼ぎをする以上、黒スーツの女が聞く必要のある内容の話をしなければならないのにもかかわらずだ。

(……可能か? いや……)

 今のこの状況は、ほぼ三竦みになっていると言ってもいい。
 甲斐たちは言わずもがな動けないが、教授には人質の意味がないのだ。岡崎教授が今止まっている理由は、偏に甲斐の言葉のみが原因。そして黒スーツの女にはもはや手勢は存在せず、何らかの要因で人質を失えばその瞬間に挟み撃ちされる状況にある以上、迂闊には動かないだろう。

(これなら、話しかけるのを黒服にする必要はないかもしれない)

 そして甲斐は黒スーツの女への警戒を怠らないように気をつけながら、岡崎教授に向かって、

「ところで岡崎教授は、どうしてここに居るんですか? もしかして、こいつらが誰かを知って?」

 と疑問をぶつけて見ることにした。

「もちろん知ってるわ。いえ、知ってるどころの話じゃないわね。言っちゃえば私にとっては目の上のたんこぶみたいなものなのよ、この連中は」

 岡崎教授が学会へと研究成果を発表した時、その多くの人間はそれを一笑に付した。しかし、学者という人種全てが誰一人例外なくそれを否定するということなど、本当にあり得るのだろうか。
 答えは、否である。
 一部だけ、本当に一部の数少ない人間だけではあったが、岡崎教授の研究に興味を示したものは確かに存在したのだ。しかし、そんな彼ら彼女らの意見と興味は全てなかった事にされた。

 それを行ったのが、今ここに居る黒服たち。それを知る者にはただ『監視者』とだけ呼ばれている、日本政府直属のブラックボックス。
 『監視者』の目的はただひとつ。現実を守り幻想との均衡を保つこと。現実が幻想に侵食されないために結界が誰にも暴かれないよう監視し、そして再び現実が幻想へと至るのを阻止するために幻想を否定することだけが目的の組織だった。

「あれが本当は正しいことだってことを知っていながら否定してくれちゃったこいつらは、学者という真実を正義とする人種全てにとっての敵。だからこいつらは、私にとっては障害であると同時に最大の天敵なのよ」
「ふん。なんだ、今までなかなか尻尾を見せなかったが……やはりあの研究は続けているのか」
「当たり前でしょうが。あれが間違ってたんなら素直に諦めただろうけど、ホントは正しいのに否定されるだなんて冗談じゃない。私たち学者っていう生き物は、知識欲と諦めの悪さだけが心情なのよ。舐めてもらっちゃ困るわね」
「そうか。だが……」

 とその時黒スーツの女はもう一度ふんと鼻を鳴らすと、思わず見る者の背筋を凍らせてしまうような苛烈な視線を雛に向けた後、

「まずはこれを処理するのが先だ。――時間を稼いでいたのは、何も貴様達だけではない」

 ――手榴弾グレネード

 最後に女がそう呟いた瞬間、甲斐たちの眼前に禁断の果実アップルの別名で呼ばれる金属塊が何処からか転がり込んできた。
 直後にみ~ことは刹那の間もかけず瞬時に甲斐を庇うようにして地面に押し倒したが……しかし次の瞬間その場に溢れたのは爆炎と共に生じる破片の雨ではなく、

「煙――発煙弾スモークグレネード!? 目くらましか! くそっ、マズイ……雛!」

 しかし人ならざる瞳を持つみ~ことにとっては、これはむしろ好機となり得る。

 そうしてあたりに煙が充満する中何時の間にか立ち上がって一歩踏み出したみ~ことの足を――本来は硬いはずのアスファルトの地面が、グニャリとまるでぬかるんだ泥のごとく絡めとった。

「!?」

 これにはさしものみ~ことも流石に転倒せざるをえず、屋外であったことから視界が晴れるまでにはさほど時間がかからなかったというのに、その時にはもはや黒スーツの女と雛の姿はどこにもなかった。
 直後に甲斐はふらふらと立ち上がりながら周囲を見渡しそれを確認すると、一度「クソ!」と悪態をついた後己のメイドへと向き直る。

「み~こと!」
「はい!」

 そして甲斐はみ~ことからすぐに返事が返って来たことを確認すると、次にとんでもないことを口走った。

「お前、俺を抱えても!?」

 だがしかし……み~ことの生みの親は、独力で現代に魔法というものを擬似的にとはいえ再現させたあの岡崎教授なのだ。

「主人に求められればそれを果たすのがメイドの務め。そのくらい、お茶の子さいさいでございますわ」

 ――故にその程度のことが、出来ないはずがないのである。

「なら、追うぞ!」
「承知いたしました!」

 そして甲斐の身体を軽々と抱え上げたみ~ことは、すぐに空へと向かって飛び上がったのであった。



◆◇◆◇◆◇



 岡崎教授は雛を連れ去った車を追うべく頭上へと舞い上がった甲斐とみ~ことの姿を見上げながら、内心でほくそ笑んでいた。

 甲斐とみ~ことにとって最も危険なのは、今回のように一度に相手取る人数が多すぎる状況である。
 しかしこうなってしまえば、後はあの女とのタイマン勝負。この場にいる黒服たちが復活して援護に向かわないよう拘束しておけば、後はあの二人が片付けてくれるだろう。
 さらに『監視者』からの新しい人員の導入はないように、昼間の内にすでに岡崎教授は『監視者』との交渉を終えている。そして今回の件がこちらの勝利で終わってしまえば、これ以上甲斐や自分には少なくとも当分の間手出しは出さないという条件も飲ませていた。

 しかも、

(今回は色々と、素敵なデータがとれたわね♪)

 というように、ちゆりにはそれデータ収集に専念させていたので、教授にとってはかなりの収穫が見込めるだろう。
 そしてそれに専念させていたということはつまり、多少露骨に時間稼ぎをしようとしているように見せかけていたのは、実は黒スーツの女にこの場に留まっていてはこちら側の援軍があると勘違いさせるためのブラフだったのだ。
 そのお陰でもう、これで万が一にも他の黒服の援護はあの女に届くことはないだろう。

 確かに岡崎教授は甲斐のことを気に入っていて、そしてそれを助けるために自身の秘密兵器の一つまで明かしてしまった。しかし逆に言うと、手札を一つ明かしただけでこれだけの様々なリターンを得ているとも言える。
 この岡崎夢美という人間は、基本的に転んでもただでは起きない性格と頭脳の持ち主なのであった。

 ということで、

「あ。あのメイドさん、とうとう空飛んじゃったわよ」
「なんか、わたしの知ってるメイドと違う……」
「なんていうかわたしたちって、完全に置いてきぼりの蚊帳の外よね……」

 今回の件でもっとも割を食ったのは、もしかしたらこの二人かも知れなかった。



[29961] 第十八話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:e938a2aa
Date: 2012/04/15 00:21
 黒スーツの女――形式優希(かたしきゆうき)はどこまでも冷静に、鋼の意志を以て自身を制御していた。
 感情を力とするのは精神を糧とする幻想ばけものの側の十八番。現実の側に属し常にそれを心がけている人間として、理性を忘れる訳にはいかないのである。
 冷徹に、理知的に、そして何より理性的に。何故なら知性こそが現代において現実から幻想をほぼ完全に排斥するに至り、人の世をここまで発展させてきた我々の最大の武器にして力なのだから。
 しかし自身を制御をしているということは、即ち制御しなければならない感情を今も変わらず有しているということでもある。
 つまり形式は、実は心の底では苛立っていたのだ。
 そこには彼女の根底に眠る、様々な想いが原因としてあった。それはまるで感情の坩堝のごとく形式の腹の底へと沈殿し渦を巻いていく。

 かつて彼女が幻想郷へと迷いこんだ時の記憶を発端とする、幻想の存在全てへの憎悪。
 もはや世界からほぼ排除できていたはずの幻想の存在が、まだ外の世界に隠れ潜んでいたことに対する苛立ち。
 結界の向こう側を殲滅しようという自分たち強硬派の意見を一顧だにもせず、過去にあの胡散臭く憎らしい妖怪の賢者と結んだ不可侵条約を未だに守り続ける上層部の弱腰への不甲斐なさ。
 己だけではそれを成せず、しかも今回実質的にはたったの二人を相手にしただけでほぼ全滅にまで追い込まれてしまった弱い自分とその部下に対する怒り。
 そして――此方側に属しているはずの人間が、向こうの存在を何故か助け守ろうとしたことに対する強い軽蔑の気持ち。

(門倉甲斐は報告通りなら、岡崎夢美と関わりがあるだけの何も知らない一般人……少なくとも、表の人間であることは間違いなかったはずだ。だというのに、あの近接格闘能力はなんだ? それに何故――)

 そして脳裏に甲斐に対する疑問と怒りが浮かび上がったその瞬間……、けたたましい音と共に激しい衝撃が形式の運転していた車を襲いその思考を強制的に中断させた。



◆◇◆◇◆◇



 み~ことに搭載されている飛行ユニットは岡崎教授謹製の特別な装置であり、そしてそのためその機能や性能も少々特殊な物であった。

 ――重力制御式任意落下装置

 それがみ~ことに搭載されている、飛行ユニットの名だ。
 普通重力というのは、常に地面に向かって下に働く力である。しかしこの装置は、任意に自分にかかる重力の方向を変更することができるのだ。
 要するに真上に飛ぶ時は空に落ちて、前に飛ぶ時は前方へと落ちて自身の落下エネルギーによる加速で空を飛ぶのである。
 この装置の利点は、物体の質量や大きさによって必要になるエネルギーの量が変わらないことだ。例えば仮定としてこの装置で船を空に浮かそうと考えたとしても、人一人分飛ばすのとかかるエネルギー量はほぼ変わらないのである。
 ただしみ~ことの体は元々戦闘を前提にはしていないため、これとは別の推進力は保持していない。この装置を使って落下速度以上の速さで飛ぶためには、それとは別の推進力がオプションとして必要となってしまうのが難点だった。
 そのためみ~ことは、形式の運転している車を補足すること自体はその高い身体能力によって苦労していなかったのだが、それ以上……中々車に追いつくことは出来ておらず、今より距離を引き離されないように追跡することが限界だった。

 だがここで、形式が拐った相手が雛であったことが甲斐たちにとっての追い風となる。

 その時雛を乗せて人気の少ない裏道を走行していた車は、雛に触れたことで形式に移ってしまった厄に齎された不幸によって、交通事故を起こして派手に横転し無人の工事現場へと突っ込んだのだ。
 しかも雛の体は形式の能力によってその周囲の空気が固められていたので、それがまるで防護膜のようになってその身体を守ってくれていた。本来それは拘束用のものだったのだが……形式にとっては不本意なことに、そのお陰で雛は横転した拍子に車から放り出されてしまったというのに傷ひとつ負わずに済んでいたのだ。
 ただ、あくまで人である甲斐には上空からその状況を正確に把握することなど当然できようはずもなかったので、

「おいおい、冗談だろ!? いや、そんなことより――早くあそこに降りて、み~ことはそのまま雛の保護と手当を! 俺があいつの相手をして引き付けるから、それが終わったらすぐに家に連れて行ってやってくれ!」

 とすぐに慌ててほとんど叫ぶようにみ~ことに指示を出した。
 が、しかし甲斐とは逆にその優れた視力と分析力によってその時目に映った全ての光景をほぼ正確に捉えていたみ~ことは、慌てず騒がずしごく落ち着いた冷静な態度で、

「どうか落ち着いて下さいませ、甲斐ぼっちゃま。どうやら雛さんには外傷はないようですので……もちろん急ぎはしますが、そこまで慌てる必要はございませんわ」
「……そっか、無事なのか。良かった……」

 み~ことのその、まるで疑う必要のないであろう落ち着いた声を聞いた瞬間、甲斐はほとんど無意識にほっと胸を撫で下ろしながら小さく独りごちた。
 すると今度はみ~ことが、

「ですから今はそれよりも、あそこに到着するまででいいので……どうしてあの女と相対するのがわたくしではなく甲斐ぼっちゃまなのか、そう判断した理由を教えてくださいませ」

 と先の指示に対して感じた不満混じりの疑問をぶつけて来たので、甲斐はすぐに落ち着きを取り戻して「ああ、分かった」と相槌を打つと、それを頭の中で簡潔に纏めながら早口に説明し始めた。

「まず一つ目の理由は……み~ことがあいつに決定打を与えるには、さっきの様子を見た限りじゃそれなりに時間がかかりそうだったから。二つ目は、雛をいつまでも外に居させるのは危険だしまずは家に連れてくことを優先すべきだと思ったから。そして最後に当然の話だけど、その場合俺よりもみ~ことの方が遥かに早く雛を連れて家に帰れるだろうからってのが、だいたいのおおまかな理由だな」
「ですが……確かぼっちゃまのそばに居れば、それだけで雛さんは外にいても大丈夫なはずでは? それならわたくしがあの女と戦っている間、ぼっちゃまが雛さんを守っていて下さればそれで事は済むはずです」
「だけどその場合、み~ことを掻い潜ってまた雛に何かされる可能性もゼロじゃないだろ? さっきのあれがただの煙幕だった以上、多分向こうにはこっちを殺したりするつもりはないはずだ。なら今は、何より現在進行形で力を失くしていってるはずの雛の安全を確保するのが一番じゃないか?」

 既に先ほど岡崎教授から通信で、残りの相手は彼女のみであることは聞いていたので……もはや彼女が車という移動手段を失った以上、このまま上手く一度引き離す事が出来れば門倉家が安全地帯も同然であることは間違いないはず。故に雛の安全の確保には、そうしたほうが確実なのは確かだろう。

「むう……」

 しかしそれでもみ~ことにとっては、仮にどんな理由があろうとも絶対に、甲斐の安全が最優先であることは変わらないのだ。だからすぐにはそれに頷けず暫く渋っていたのだが、いくら思考を巡らせど甲斐を上手く説得できそうな理由も良案も思いつけず、しかもそうしている間にとうとう地面についてしまう。

 み~ことは危地において最もしてはいけないことが、判断に迷いそれに縛られて動きを止めてしまうことであることを知っていた。
 なので結局きちんとした反論が出来なかった以上すぐに甲斐の言う通り動かざるをえず、内心でこんな時でも冷静に的確な判断をしてしまう己の頭脳を恨みながら雛を瞬時に抱えると、即座に家へと向かって飛行ユニットも併用しながら自動車もかくやというスピードで駆け自身の体を加速させた。

「甲斐様、どうかご無事で! 雛さんを家までお連れしましたらまたすぐに戻って参りますので……それまでは絶対に、もたせていて下さいませ!」

 そして甲斐はそのみ~ことの去り際の言葉に無言で頷きを返しながら、ドアを壊して車から這いでてきた形式を真っ直ぐに見据えて身構えた。






 形式は車から抜けだした後注意深く周囲を見渡し、そして雛の姿が何処にもないことを確認すると、

「貴様……、門倉甲斐。そうか、わざわざここまで追ってきたのか」

 すぐにこちらに顔を向けてそれはそれは忌々しそうな表情を浮かべ、甲斐の事を睨みつけた。
 そしてその後またすぐに元の無表情へと戻ると、次の瞬間――

「ふっ……!」

 鋭い呼気を吐きながら、素早い足取りで滑るように近づいてきた形式の回し蹴りが飛んでくる。

「――っ!? いきなりかよ、危なっ!」

 甲斐はそれに意表を突かれ面くらいながらも、咄嗟に受け流して前の黒服と同じように形式を地面に倒れさせようとする。

「ちっ、その技……厄介だな」

 が、形式は甲斐のそれを事前に見ていたので、体制を崩された瞬間に能力を使って擬似的なエアバックを形成。それを利用して反動をつけながら飛び起き一度距離を取ると、動きを止めて"見"に入る。
 そして甲斐も形式が動かないのなら自分から何かをする理由はない――そもそも甲斐には自分から攻められるほどの実力がないが――ので、同じく動きを止めて注意深く形式の様子を伺った。

 硬直状態。この場で油断なく対峙している二人の一方には攻める理由も手段もなく、そしてもう一方も攻めあぐねている以上、そうなってしまうのは必然とも言えるだろう。
 そしてそれから暫くの間二人は互いに無言だったが……先にその状態を破ったのは、またしても形式の方だった。

「なら飛び道具なら、有効か?」

 形式はボソリと呟きを漏らした後ズブリと砂利の混ざる地面につま先を勢い良く埋めて、そのまま硬度を操作しながら甲斐に向かって蹴り上げた。

「やっば!?」

 当然そんなものをどうにかすることはできない甲斐は、慌ててその場から飛び退き避けようとする。しかしそうしている間にも形式は次弾の用意をしていて、甲斐はそのまま狙いを定めさせないように動きまわり逃げることしか出来なかった。
 それから数度それを繰り返し、時折飛んでくる塊を一部受けて体に痣をつけながら、息を荒げて走りまわっていた甲斐の体力が限界へと近づいてきた頃、

「? はあっ、はあ……」

 突然形式が散弾のように土と石の雨を飛ばすのを止めたので、二人は再び動きを止めて睨み合う。
 とその時、

「一つだけ……」

 形式はおもむろに、まるで腹の底から響いてくる唸り声のような声を喉から絞り出した。

「一つだけ聞かせろ。貴様何故、そうまでしてあれを助けようとする? 一緒にいた以上、貴様も知っているのだろう? あれは我々人間とは決して相容れない、幻想という名の化物だぞ」
「……」

 向こうから攻撃を止めて時間を稼がせてくれるというのなら、甲斐にとっては渡りに船だ。だからそれを無視する理由はないが……

(何故、か)

 きっとそれは、甲斐が"誰か"を助ける理由ではなくて……"雛を"今助けようとしているその理由を、問うているのだろう。

(俺が雛を、放っておけない理由……?)

 そんなものは正直に言って、最初からその時思った通りに行動していただけで大した理由はなかった。
 だからあえてそれを言葉にしろと言うのなら――

「知っちまったから、かな」

 あの真っ直ぐであまりにも優しすぎる、可愛らしい少女のことを。

「だから、気に食わねえんだ。あの子が失われてしまうことが、悲しい事だと思っちまった。多分俺の動機なんて、初めからそれだけだ」

 その時の甲斐の表情には、とても言葉では表現しきれない、何かがあった。
 あえてそれを、例えるならば。
 あるいは、凪いでいる穏やかな大海原か……それとも、春になって草木の芽吹く、萌ゆる大地のようとでも言うような。
 そんな、不思議な表情だった。
 だが形式は、そんなものは歯牙にもかけず、それまで内に抱えていた感情を爆発させたかのような恐ろしい表情を浮かべ犬歯を剥き出しにして吼えた。

「知ったから、気に食わないから、悲しいと思ったから……助けるだと!? ふざけるな! もはやこの世は人のものだ! やつら化物のものではないのだぞ!? 奴らがこの世界を貪り侵すのを、貴様は人でありながら容認するというのか!!」

 しかし甲斐はそんな激情も柳のごとく受け流し、変わらず静かな表情のまま穏やかに首を横に振った。

「……違うよ。世界は誰のものでもない。ただ流れて、巡るだけだ。俺たち人間も雛たち幻想も世界の流れの一つとして、平等にどこまでも」

 世界は否定も肯定も拒絶も暴力も正義も悪も何もかもを受け入れて、巡り巡って行くだけだ。
 個はせかいを構成し、そしてせかいは個の集合体でもある。故に甲斐たち人間だって世界の中の一要素にすぎないし、同時に雛たち幻想の存在だって確かに世界を形作っている個の一つなのである。

「知ったような口を……!」

 その時形式のその身から吹き出したのは、鬼気と呼ばれる形をなした黒いユメ。
 そこに込められていたのはきっと、憎悪や殺意や悪意という、負の感情の集合体。
 それが形をなしたものを、人は呪いと呼ぶのだろう。

 だが――

 呪いなんて、とっくに受け入れている。殺意なんて、とっくに受け入れている。悪意なんて、とっくに受け入れている。だって甲斐はとうの昔に、世界全てを受け入れているのだから。

「な、なんだ、能力が……通じない!? 何故……貴様、何をした!」

 彼女が何に驚いているのか、甲斐にはまるで理解出来なかった。
 だけど甲斐は己が理解できるかどうかにすら関係なく、ただ世界を受け入れて在り続け、生きていくだけなのだ。
 いつだって、世界に生きるただの一人の人間として、変わらず世界全てを愛してそれを受け入れながら。
 受け入れていないのは、過程だけ。まだ出てもいない結果を何もせず看過してしまう自分という、人として生きることを放棄したあり得るかもしれない己のみ。
 何を受け入れても変わらず在り続ける"自分"が……狂気だろうと憎しみだろうと、諦めだろうと絶望だろうと死だろうと何を受け入れても変わらない"心"が、これからもすべてを受け入れ続け『門倉甲斐』として在るために、それだけは受け入れるなと喚いていた。

 『門倉甲斐』は、あらゆる全てを受け入れる。そしてそのために必要なことは、何を受け入れたとしても変わらず在り続ける"己"のみ。
 『門倉甲斐』は全てを受け入れているからこそ、『門倉甲斐』で在り続けるのだ。

 故に、


 ――何人たりともその存在、決して侵すことあたわず


「貴様本当に……何者なんだ!?」
「別に、何者でもないさ。俺はただの人間だよ。きっと死ぬまで変わらず"俺"で在り続ける、ただの一人の人間だ」

 正直に言えば……甲斐は彼女が雛を消そうとしていることだって、否定するつもりはなかった。多少行動自体は過激だが、きっとそれは現実に生きる人間としてむしろ当たり前の側の反応なのだろう。
 自分のほうが普通ではないことをしているのは、初めから理解していた。もしかしたら正義ってやつも、向こうの側にあるのかも知れない。それに反抗しているのは別に、今目の前に居るこの相手が憎いわけでも気にくわないわけでもなくて、ただ何もしないで雛を見殺しにしてしまったら自分が許せなくなるだろうからこうしているだけ。
 だから、

「アンタだって、俺には否定するつもりはない。受け入れるさ。アンタも俺と同じ人間で、変わらず世界の一部なんだから」
「門倉……かどくら、かい!!」

 そして甲斐は自身の切り札を無効化された事実に混乱して飛び込んできた彼女の真っ直ぐな拳を受け入れると、それを否定せず流れに身を任せ世界へと循環させた。



[29961] 最終話
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2012/04/12 17:04
「ん……」

 小さく吐息を漏らしながら目を覚ました甲斐は、そのままゆっくりとベッドから起き上がった。
 甲斐はあの後通信してきた岡崎教授に後始末を任せて――やけにタイミングが良かったのでどうせ何かで見ていたのだろう――戻ってきたみ~ことと共に家へと帰り、そしてその後疲労困憊していたために勧められるまますぐに泥のように眠ってしまっていたのだ。
 外はすっかり夜の帳が落ちて、真っ暗闇。まだ夜中というほどの時間ではなさそうだが、それでも随分な時間寝てしまっていたらしい。

「ふう……よっ、と」

 そして甲斐は小さく伸びをしてから立ち上がると、自身の部屋の中に置いておいた例の扇を手にして扉を開けると雛に力を渡すべく部屋を出た。

 元々甲斐は家へと戻ってきてからすぐに、消耗しているであろう雛に力を渡そうとしていたのだ。しかし明らかに疲れている上に怪我まで負ってしまっていたことから心配したみ~ことに止められ、さらに雛を見てくれたメリーに前のようにすぐに消えてしまいそうになるほど消耗はしていないからと諭されて、一旦それを止めて仕方なく休んでいた。
 しかしそのお陰でもう体は全快とは言わずとも体力は戻っているので、雛はまだ寝ているかも知れないが取り敢えず力だけでも渡しておこうと考えて、甲斐はそのまま階段を降りると雛を寝かせていたはずの和室へと向かって行った。



◆◇◆◇◆◇



 み~ことは隣にある自分の部屋の中で、その優れた能力でもってして甲斐が起きたことに気がついていた。そして甲斐がすぐに部屋から出ていって、おそらくは雛の元へと向かったのだろうこともほとんど同時に悟る。
 しかし仮にあの扇を使っても大きな危険はないことは聞いていたし、さすがにここで過剰に心配して止めてしまうというのは無粋が過ぎるだろう。

(……もう博麗神社の場所もわかって、雛さんは明日幻想郷というところにお帰りになられるご予定。これ以上はきっと、心配でも何でもなくただの余計なお世話になってしまうのでしょうね……)

 そんなことを考えながら甲斐がとんとんと階段を降りていく音を耳にしていたみ~ことは、一度小さくため息を吐くと万が一にも邪魔をしてしまわないよう、ベッドに横たわり意識を休眠モードに変更して静かに目を瞑った。



◆◇◆◇◆◇



 雛は少し前に目が覚めてから今の今まで、ずっと暗闇の中で自身の体にかけられていた布団をぎゅっと抱きしめながら、胸の奥から沸き上がってくる震えと一人戦っていた。
 その姿からはまるで、強い孤独感に苛まれながらもそれに一生懸命抵抗しているかのような……そんな見る者全ての心を絞めつけてしまう、心細さを感じさせられた。

 あの時……、形式に捕まった時に彼女から流れてきた、その否定の精神。
 外の世界に常に満ちている、漠然とした"幻想全てに対する否定"とは違う……『鍵山雛』個人へと向けられた、強い否定と拒絶の意志。
 さらにはそれに存在が食われ、侵され、そしてなにより……己の全てを否定されていく、あの感触。
 それら全てが今もお前がここに存在することを許さないと声高に訴えかけて来ているかのように思えてしまって、もう大丈夫なのはわかっていてもどうしても雛の心にこびりついて離れず、強い震えをもたらしていた。

 恐怖とも孤独ともつかない、なんとも言いがたい寂しさのような……己自身を否定されてしまったことによる、どこか悲しみにも似た感覚。
 その感覚に打ちひしがれ、本当なら今すぐにでも誰かにすがりつきたくなるような強い不安を感じているというのに……しかしそれでも雛は神として培ってきた強靭な精神を以ってして、それら全てをどうにか押さえこもうと気力を振り絞っていた。

 自分からは何も返せていないというのに……甲斐にもみ~ことにも、これ以上迷惑をかけられない。そしてなによりあの二人に、もう心配を掛けたくなかったから。
 だから雛は明日の朝になったらまたいつもの自分に戻っていられるように、ぎゅっと目をつむりながら布団を抱きしめ直して強く唇を引き結んだ。

 しかし、その時……

「雛、起きてるか?」

 雛が寝ている場合のことを考えて配慮したのであろう控えめな小さな声が、ぴったりと閉じられている戸の向こうから聞こえて来た。そして雛はすぐにその声で、その向こうに立つのが誰なのかを悟ってしまう。

 だけど……雛はその呼びかけに自分から返事をすることが、どうしても出来なかった。

 今の自分の姿を見られたくない。弱っている自分を見ないで欲しい。だけどやっぱり、気づいて欲しい。"誰か"にそばに居て欲しい。
 そんな複雑な想いが雛の体を雁字搦めに縛り付けていて、その白く細い喉から声を出すことを許してはくれなかったのだ。

 それからしばしの時が経ち、暫く待ち続けていても一向に雛からの返事が返ってこないことを確認した甲斐は、

「ん……、やっぱり寝てるのか」

 と小さく呟きを漏らした後に音を立てないよう、静かにその時の雛の気持ちのように確りと閉じられていた和室の戸を開いた。

「甲斐……」
「あれ、雛? なんだ、起きて――」

 そして、その時。甲斐が部屋に入ってきたのを確認して、ひっそりとその姿を見上げながらポツリと名前を呟いた雛と目が合ったその瞬間……甲斐は計らずも、目を見開いて絶句してしまう。
 二人はその後暫くの間、甲斐は眉尻を下げた曖昧な表情で……そして雛は未だ微かに震えながら何かを言いたそうな、それでいて強い迷いと躊躇に苛まれている複雑な表情を浮かべて、無言で見つめ合っていた。

「――」
「……」

 その時甲斐は、雛の吸い込まれるような綺麗な瞳から目が離せなくなりながら……同時に深く、悲しんでいた。
 ただただ雛が、苦しんでいるように見えるのが悲しくて……その表情に、その姿に、その揺れる瞳から伝わってくる感情に胸が締め付けられて……そしてそれを今すぐにでも、どうにかしたいと思っていた。
 だけどそのためにどうすればいいのかわからなくて、どうすればその震えが止まってくれるのかもわからなくて……そして言うべき言葉も、甲斐にはどうしても見つけることができなくて。

 だから――

「か、甲斐……!?」

 ――気づけば甲斐は、雛を優しく抱きしめていた。

「……ごめん。嫌だったら、振りほどいてくれて構わない。それだったらもう、雛には触らないようにするから……」

 甲斐にはこれ以上何もせずただ見ているだけで居ることが、どうしても耐えられなくて。だけどだからといって、それが相手に対する配慮とか気遣いとか、そういった思慮もなしに断りもなく抱きしめたことへの理由にも免罪符にもならないことは、甲斐も自覚していた。
 ……それを自覚していたが故に甲斐はこの時言葉通り雛に拒絶されるどころか、このまま嫌われてしまっても仕方がないとさえ覚悟していたのだ。
 が、

「あ……」

 その時甲斐の腕の中に収まっていた雛の顔に、嫌悪の色は存在していなかった。
 雛はただただ、安心していたのだ。

 まるでぽかぽかと暖かい、陽だまりの中にいるような心地よさ。

 今雛の心の中は、まるで先程まで感じていた冷たい心細さを打ち消すような、真逆の温かい気持ちで一杯に満たされていた。
 お前はここにいてもいいのだと、世界甲斐がそう伝えてくれていたから。

(ああ……私は今、世界にいだかれているんだ)

 そして雛はその瞬間、どうして甲斐のそばに居れば自分の力が減らないのか、厄がどうして甲斐には意味がなさないのかを本当の意味で理解することができた。

『全てを許容する程度の能力』

 それが甲斐の保持している、能力の名前だったのだ。

 そして――

 『門倉甲斐』は現実も幻想も……あらゆる全てを受け入れている。

 あらゆる全てを受けいれているということは、それ即ち世界全てを受け入れているということでもあった。つまり……世界全てを受け入れているということは、『門倉甲斐』は個でありながらあらゆる個を受け入れる全であり、世界と等しいということでもあったのだ。

 よって転じて、それは――

『世界と等しくなる程度の能力』

 でもあると言えた。

 世界はあらゆる個を円環のごとく循環させ、受け入れて許容する。
 それこそが『門倉甲斐』という全でありながら人間であるという個を失わない不思議な存在の、本質であったのだ。

(それは……)

 それはなんて、温かい力なんだろうか。
 ただそこに優しく在るだけの、自分のためではなく自分以外の誰かのための力。
 この能力は、甲斐自身には何も齎さない。だって甲斐は『門倉甲斐』という自分を絶対に捨てず、そしてそれ故に全てを受け入れられるのだから。

 じしんを捨てず、しかしそれでも全てせかいを許容し受け入れる。

 それは絶対的な受身の力であり、不変の器があるからこその受容の力。
 故に『門倉甲斐』はただの人間であると同時に、ただただ全てを受け入れて、ただただそこに存るだけの世界なのだ。

 そして雛は甲斐に体重を預けて身体を凭れさせ、静かに目をつむりながらその美しい眦から一筋涙を零した。

(きっともう、私は世界の何処に居たって絶対に……寂しいなんて思わない)

 だって自分の居場所は甲斐の隣にいつでもあって、そして甲斐は世界なんだから。







「……甲斐」

 甲斐はずっと顔を俯けていた雛が不意に顔を上げて声をかけてきたことに反応して、

「……ん? なんだ、雛」

 と優しく囁くように聞き返した。

「ありがとう。もう私、大丈夫だから……」

 そう言われて意識を向けてみると、確かに何時の間にか雛の体の震えはもう止まっていた。そしてそれを確認すると、甲斐は小さく頷いて微笑を浮かべ体を離す。

「雛。悪かったな、いきなりこんな事しちまって」
「いいえ……謝らないで。嫌だったら甲斐の言う通り、とうに振りほどいてたもの。むしろ、その……」
「?」

 そこで甲斐が首を傾げると、雛は頬をほんのりと赤らめさせながら、まだどこか潤んだままの瞳で真っ直ぐに甲斐の目を見つめ返した。

「嬉しかったというか……私、安心してたもの。上手くは言えないけど……色々あって、ホントは心細かったの。だから……。それにもしかしたら、明日帰ることも寂しかったのかも知れない。ここに居るのは思いの外、楽しかったから……」
「そっか」

 そして甲斐はもう一度微笑んで、ぽんと優しく雛の頭を撫でた。

「まあでも、仕方ないさ。出会いがあるってことは、いつか必ず別れることもあるんだからな。だけどまあ、だからこそ一度別れた人と再開する楽しさとか、また誰かとの新しい出会いがあるんだと思うよ」
「だから、『去る者追わず、来る者拒まず』?」
「ああ、そういうこったな」

 そう言って甲斐がニカッと笑い返すと、雛も柔らかく目尻を下げて微笑んだ。

 そして二人の間に、沈黙が流れる。

 だけどそれは、何も語らずともとても穏やかな時間だった。
 窓から差し込む柔らかな月光と、静かな静かな夜の静寂。
 それはまるで花火が終わった後のような静けさと、ほんの少しの寂しさを含んで……だけど二人とも真っ直ぐに、前を向いて佇んでいた。

「あ、そう言えば……」
「え?」
「いや……元々俺、また雛にこの扇子で力を渡すためにきたんだったって思いだしてな」
「ああ、それで……」

 雛は不意に沈黙を破った甲斐の言葉に合点が行ったように頷いた後、小さく首を横に振って、

「大丈夫よ、甲斐。心配してくれたみたいなのは嬉しいけど……それは必要ないわ。幻想郷に帰れればすぐに回復することはできるし……仮にそうでなくても少なくとも、こっちのように急に力が無くなってしまうようなことはないもの」

 と言葉を告げるが、しかし甲斐は当然のごとくそれに頷かなかった。

「あん? やだよそんなの。やっぱ別れの時は気持ちよく、ってのが一番だろ。雛がふらふらになってるのを知ってんのに、それをそのままほっといて気持ちいい別れなんてできないだろうしな」
「嫌だって……。甲斐、ホント貴方って人は……」
「? なんだ、俺なんか変なこと言ったか?」

 甲斐はその何処か呆れたような言葉に首を傾げるが、雛はそれに満面の笑みを返して、

「いいえ、なんでもないわ。甲斐は本当に、いつでもどこでも変わらないんだなって思っただけ」

 そう明るく口にしながら甲斐の頬に顔を近づけてそっと唇を落とした後、きょとんと目を丸くしたその顔を見てくすりとイタズラっぽく微笑んだ。








 そして、翌日。甲斐と雛が出会ってから六日目の土曜日のこと。

「ここでもう、大丈夫。力のことも心配ないから、後は私一人で行くわ」
「ん、そっか。了解。まあそれじゃ、また外に来ることがあったらいつでも家に遊びに来いよ」

 甲斐と雛は外の世界の博麗神社の石段の前で、別れの挨拶を交わしていた。

「ええ。その時は必ず、そうさせてもらうわね。……それにしても本当に、甲斐にもみ~ことにも、何から何までお世話になったわ」

 雛はどこか遠くを見るようにしてそう口ずさむと、すぐに甲斐とまっすぐに向き合って深く頭を下げお礼の言葉を口にする。

「ありがとうございました。み~ことにも、後で私がそう言ってたって伝えておいて」
「ああ、それは構わねえけどな。でもまあ、礼には及ばねえさ。我が門倉家のモットーは――」
「『去る者追わず、来る者拒まず』だから気にするな、でしょ?」
「はは、そういうこった」

 そう言ってからからと明るく笑う甲斐に、雛も「ふふ」と柔らかな微笑を返した。

「それじゃあそろそろ……、さようなら。――いえ。またね、甲斐」
「おう。またな、雛!」

 そうして二人は軽く手を振ると同時に背を向けて、雛は一段一段ゆっくりと石段を登っていき、甲斐は少し後ろのほうで待っていたみ~ことと共に駅へと向かって戻っていった。





「あ……」

 雛が石段を登りきり、そして神社の鳥居をくぐったその瞬間……明らかに空気の質がそれまでとは違うものになった。外の世界とは違う……幻想に対する否定のない楽園のような世界、幻想郷。
 さらにその正面には、赤と白の巫女服に身を包んだ少女――『夢と伝統を保守する巫女』博麗靈夢の姿。

「あら? 貴女は――」





 ――完?――



[29961] エピローグ
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2011/10/22 22:08
 雛を幻想郷まで見送った、その次の日。
 甲斐は色々と迷惑をかけたメリーと蓮子、そして借りのできてしまった岡崎教授とちゆりを焼肉へと連れて行く約束をした後、朝風呂に入っていた。昨晩は特に暑くて寝苦しく、服が汗だくで気持ちが悪かったのだ。

「はー、すっきりした。やっぱり風呂は命の洗濯だなあ」

 そしてそんな何処か年寄り臭いことを口走りながら髪から滴る水をぐいっと手で拭い、体を拭くべくバスタオルに手を伸ばした所で、

「あれ?」

 何故か脱衣所に例の扇が落ちていたことに気づいてそれに手を伸ばした、その瞬間。

「え、は……?」

 甲斐の体は突然空間の裂け目のようなナニカに落ちてしまい、そして門倉家の何処からも姿を消した。

「あ……、甲斐ぼっちゃま……?」

 直後に家の中からその反応が突然消えたことに気づいたみ~ことは、すぐにその姿を探してすべての部屋を見てまわるが……

 当然甲斐の姿は、家の中のどこにも見つかることはなかったのである。











<あとがき>

 これで一旦、東方界境輪舞は完結です。とは言えここまで読んでくださった方なら分かるとは思いますが、甲斐たちの物語はまだ続きます。言ってしまえば現代入り完ということですね。
 とはいえまずは全体の見直しや推敲をしなければなりませんし、最終話前後は、特に甲斐の能力の説明なんかが上手く言ってないかも知れないので、微修正位はするかも知れませぬが。

 さて、何はともあれまだプロットの細かいところを煮詰めていなかったりするので次は少々時間がかかるでしょうが、その時はまたお付き合いいただけると嬉しいです。

 ではではそういうことで、取り敢えず今はお別れということで……私の拙い文章をここまで読んでくださった皆様に感謝を。ありがとうございました。



[29961] 番外掌編:終わりの合間に
Name: ピステリカ◆8a182754 ID:e938a2aa
Date: 2012/04/12 16:57
 雛を助け家に帰ってきてからすぐに、すっかり疲れ切って眠ってしまった甲斐をみ~ことが優しげに……いや、そんな言葉では表しけれないほどにただひたすら、とてもとても愛おしげに見守りながら撫でていた。
 その様子を目にして同じく甲斐の部屋まで来ていたメリーの脳裏に浮かんできたものは、今日一日の甲斐と雛のやり取りだった。

「み~ことさんは、もしも鍵山さんと……いえ、そうでなくても誰かが門倉くんと付き合ったりしたとしたら、どうするの?」

 それはあまりにも無神経な問いかけだった。何故そんな疑問が口をついてしまったのか自身でもわからず、メリーは言った自分が一番戸惑いながらも、それでもいきなりのことにきょとんと目を丸くしてこちらを向いたみ~ことをジッと見つめていた。
 それからしばらくして、み~ことはメリーの言葉を飲み込むと、どこまでも綺麗で優しげな表情で、答えを告げた。

「わたくしは、信じておりますから。例えこれから先、甲斐ぼっちゃまのお側に誰が立たれようとも……甲斐ぼっちゃまにとってのみ~ことは、わたくし一人だけなのだと」

 門倉甲斐という人間は、きっと誰か一人を愛することはできない人間なのだ。
 なぜなら彼は好きだとか恋だとか恋愛だとか、そういった特別な感情を持つ以前に……世界すべてを既に受け入れて愛してしまっているから。全てを愛してしまっているからこそ平等に、優劣をつけることができない。それが甲斐だった。
 そんな甲斐と共にあるということは、つまりはそういうことなのだと。
 これ以上語ることはないとでも言わんばかりに視線を戻したみ~ことの言葉に強い強い衝撃を受けながらも、メリーはそう理解した。

「……ごめんなさい、余計なことを聞いてしまって。門倉くんも寝ちゃったし、わたしがいつまでもいてもしょうがないだろうから、今日はもう帰ります。門倉くんにはよろしく言っておいてください」
「畏まりました」

 メリーを玄関まで見送るためだろう。そう言って腰を上げたみ~ことを、メリーは小さく首を横に振って制した。

「み~ことさんは門倉くんについていてあげて。今日は随分無茶したみたいだし、まだ心配なんでしょう?」
「……はい。ありがとうございます、ハーンさん」

 少し考えて頷いたみ~ことを確認してから、メリーは静かに踵を返して部屋から出ていった。

「? メリー、どうしたのさそんな顔して。なんかあった?」
「蓮子」

 メリーが居間へと降りていくと、すぐにそこで待っていた蓮子から声がかかった。

「いえ。なにかあったってわけじゃないんだけど……ちょっと圧倒されちゃって」
「? そういう感じじゃなかったと思うんだけど……、まあいいか。ところで、門倉は? もういいの?」
「ええ。門倉くんはさっき疲れて寝ちゃったから、わたしたちはもうお暇させてもらいましょう」

 最後に蓮子にそう告げて、メリーは玄関へと向かっていった。
 メリーがこの時己の浮かべていた表情の意味に気づくことになるのは、それから随分と先。……本当に遠い未来の事だった。




<あとがき>

全体の推敲作業中。順次、幻想郷編を別スレへと移行作業開始


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