二〇一一年 九月三十日 鳥取県岩美郡岩美町小尾羽
海沿いを走るローカル線に揺られながら、怜次は窓の外に目をやった。右側の窓には青々とした日本海が広がり、左側の窓には紅葉を間近に控えた山々が並んでいる。聞いた話によれば近くに温泉も湧いているそうなので、骨休めの為に訪れるなら絶好の環境だろう。
だが、至極残念なことに、怜次がこうして鉄道に乗っている理由は別にある。
「……明らかに浮いてるよなぁ、俺」
怜次は窓から視線を外した。吊り下げ広告の目立つ車内には、おおよそ二十人程度の乗客が座っている。思い思いの普段着や学校の制服、着こなされたスーツ姿など、格好も年齢もバラバラだ。
その中でただ一人、怜次だけが濃緑色の軍服を身に纏っていた。
厳密には日本陸上自衛軍の夏用制服。白いシャツに長袖の上着という、見るからに軍人の制服といった雰囲気の装束だ。
襟に指を引っ掛けて、形を整える真似事をしてみる。怜次は今年の四月に入隊し、半年間の教育期間を終えたばかりの正真正銘の新兵である。十九歳まであと半年近くもある怜次にとって、似合わない軍服で人前に出るのは妙な気恥ずかしさがあった。
『次は、岩美。岩美に停車します』
車内アナウンスが響き渡る。乗客達の雰囲気と同じく、妙に呑気な語調をしていた。
「やっぱり、この辺りはまだ平和なんだな……」
四半世紀前――つまり二十五年前に、世界の歴史は大きな曲がり角を迎えた。
それまでの常識では考えられない奇妙な戦争の発生。いや、果たしてそれを『戦争』と呼んでいいものなのかも定かではない。ともかく、人類は現在に至るまで理不尽な戦いを強いられ続けていた。
戦いがこんなにも長引いている続いている原因は、たった一つの理由に集約される。
これは『人ならぬモノ』との戦いなのだ。
しかし、世界の隅々まで戦争一色というわけでもなく、ここのように平穏この上ない空気が漂っている場所もある。喩えるなら砂漠のオアシスといったところか。
『当車両は緊急停車致します。周囲の物にしっかり掴まり、身の安全を確保してくださるようお願い致します』
唐突な警報の直後、車両が急激に減速。車内の人間が慣性で押し流されていく。怜次はあちこちから上がる悲鳴を聞きながら、座席にしがみついて衝撃に抵抗した。
「な、何だよ、おい!」
平穏から一転。車体が完全に停車した頃には、車内は混乱と喧騒の坩堝と化していた。大声や怒号に混ざって子供の泣き声まで聞こえてくる。
車両の最後部から車掌が飛び出してきた。そして、落ち着いて避難するよう呼びかけ始めた瞬間、まるで落石でも直撃したかのような凄まじい衝撃が車体を揺るがした。
「うわあああっ!」
「きゃあああっ!」
ついに乗客達の混乱が頂点に達する。車掌の必死の呼びかけも悲鳴にかき消され、非難経路の説明すら満足に行き届いていない。
「くそっ! 今の衝撃……落石か?」
そんな状況下でも、怜次は不思議と冷静さを保つことができていた。半年間とはいえ軍人としての教育を受けたおかげか、それとも混乱が一巡して冷静さに変わってしまったのか。どちらにせよパニックを起こすよりは遥かにいい。
怜次は上下スライド式の窓を開け放ち、数十センチ四方の窓枠に上体を捻じ込んだ。
潮の匂いを帯びた風が吹き抜ける。その香りを堪能する暇もなく、金属の塊を押し潰す不快な音が怜次の鼓膜に襲い掛かった。
「あれは……」
先頭車両の車体側面が内向きに潰れ、大きな穴を潮風に晒している。
そして、車体に覆い被さる巨大な影――六本脚の金属のケモノ。
ワイヤーを束ねたような筋肉。それに覆われた六本の脚と、身体全体を包む金属質の装甲。鉤爪を車体に食い込ませ、長い首をうねらせてプレス機のような顎で車両を喰いちぎるその姿は、この世の生物とは思えない有様だ。
大きさは六肢を伸ばして車体を包み込むほど。一階建ての建物くらいはあるだろうか。水牛の死体を喰らうハイエナのように、金属製の車体を咀嚼し飲み込んでいる。
「グレムリン!」
怜次は思わず叫んだ。
鉄を喰らい、鋼を喰らい、遍く金属を喰らう金属の怪物。
それこそが世界に蔓延る人類の敵。
「どうしてこんなところに……!」
車内の騒がしさが一段を増していく。他の乗客達も怪物――グレムリンの存在に気が付いたようだ。このままではすぐに壮絶なパニックが起こってしまうだろう。怜次は歯噛みした。どうにかしなければならないと分かっていても、どうすればいいのか分からない。
上半身を車内に引き戻すと、中年の乗客が非常用ドアコックを捻って扉を開けようとしているところだった。
「馬鹿、止めろ!」
「うるせぇ! このまま食われろっていうのかよ!」
止める間もなく、無謀な乗客は車外に飛び出した。
その瞬間、グレムリンが長い首を回して乗客を視界に納めた。歪な歯の生えた顎を極限まで開き、鼓膜をつんざく金切り声を上げる。共鳴によって窓ガラスが一斉に震動し、バリバリと落雷のような音を響かせた。
グレムリンが六本の脚で跳躍する。踏み切りの反動で車体が傾き、危うく脱輪する直前で線路に戻る。車内の乗客は立っていることすらできずに倒れ、床を転がった。
怜次は悲鳴に埋め尽くされた車内を後に、開けっ放しの扉から無謀な乗客の後を追った。
「早く隠れろ! グレムリンは人間も襲うんだ!」
数十メートル先の車道に男の背中が見える。脇目も振らずに必死に走り続けているようだが、人間の足でグレムリンから逃れられるはずがない。
巨大な影が男の周囲に生じたかと思うと、先ほど跳躍したグレムリンが地響きを立てて着地した。アスファルトに亀裂が走り、弾けるようにめくれ上がる。
重機よりも強靭な六本の脚がうごめき、長く柔軟な首が哀れな男へ近付いていく。無機質な顔面の中央で、不気味なまでに有機的な眼球がぎょろりと動いた。
男は地響きに足を取られて転倒した挙句、腰を抜かして立ち上がれなくなっていた。
「くそっ……」
怜次は考えるより先に走り出した。
車道を走る自動車が次々に急停止する。ある者は車線を無視して引き返し、またある者は車を乗り捨てて逃げ出していく。
怜次は扉を開けっ放しで乗り捨てられた車に駆け寄り、助手席に腕を突っ込んで緊急時用の発炎筒を掴み出した。そして即座に着火し、グレムリンの頭部を飛び越すように投擲する。
眩いオレンジ色の炎が気を惹いたのか、グレムリンは男から目を外して首を上げた。
その隙に怜次はグレムリンの足元まで走り、腰を抜かしていた男を助け起こした。
「あわ、わわ……」
「落ち着け! 立ち上がって、列車の陰まで隠れろ。そうすれば見つからないはずだ」
強い口調で言い含める。怜次よりも男の方が明らかに年上だが、今はそんなことを気にしている状況ではなかった。
男が転びそうになりながらも走り出したのを見届けて、怜次もこの場を離れようとする。
その刹那、一瞬前まで怜次がいた場所にグレムリンの鉤爪が振り下ろされた。
「うわっ!」
砕けたアスファルトが降りかかる。
顔を振り上げると、金属と生物の肉体が複雑に絡み合った異形の姿が視界を埋め尽くしていた。これがグレムリンと名付けられた怪物。金属臭と獣臭が混ざった臭いを放ち、生臭い体液が巡る金属繊維の筋肉を軋ませる、生命と言えるのかすら判然としない構造物。
金属喰らい。機械喰らい。文明喰らい――異星生物グレムリン。
「ミイラ取りが何とやらだ……」
怜次は悪態を吐きながらも走り出す。人間の脚ではグレムリンから逃れられないのは承知の上だ。だが乗り捨てられた自動車に気を向けさせながら走れば、どうにか安全なところに隠れられるかもしれない。
背後でグレムリンが甲高く吼えた。怜次の淡い期待を踏みにじるように、長い首が空気を裂いて襲い掛かる。怜次が本能的に振り向いたときには、ギロチンよりも残忍な牙が目と鼻の先にまで迫っていた。
『伏せろ!』
拡声器を通した声が響き渡る。怜次は条件反射的に反応し、アスファルトに身を投げた。
グレムリンの胴体に穴が穿たれ、爆風と破片が肉体を内側から破壊する。数瞬遅れて、高速の物体が大気を引き裂いた衝撃波が、路面に伏せた怜次を打ち据えた。
耳が痛くなるような静寂の後、グレムリンの巨体が道路に倒れる音がした。
怜次は耳鳴りを堪えながら後方に眼をやった。
「痛っ……! 今のは……?」
胴体を無残に破壊されたグレムリンは、半透明の体液を撒き散らしながら、荒れたアスファルトに崩れ落ちていた。六本の脚と首は力なく投げ出され、瞳孔の開き切った眼球が虚空を見上げている。
誰が見ても死んでいる。機械じみた肉体を持つグレムリンといえど、活動に必要な箇所さえ破壊すれば、あのように行動停止――普通の生物でいう死亡状態に追い込めるのだ。
『こちらは第三特機群第一中隊の特機だ。今からそちらに向かう』
先ほどと同じ声が道路の向こうから聞こえてきた。相変わらず拡声器特有の音質だが、よく聞くと女の声のようだ。それもかなり若々しい印象を受ける。
『緊急事態のため退避を確認せずに砲撃した。負傷状況を確認したい』
怜次は身を起こし、声が聞こえる方向へ向き直った。
不自然に大きな人影が近付いて来ている。背丈は付近に放置された自動車の倍以上はある。数値にして三メートルから四メートルといったところか。道路に掛かる電線を立ったまま潜れる程度の大きさだ。
全体的に人間そのままの形とはいえない歪さで、特に肩関節と股関節の形状は人間と大きく異なる。背中には特大のドラム缶に似た弾装を背負い、右腕を大口径の機関砲と保護のための追加装甲がすっぽりと覆っている。
前後に張り出した胸部に、左右から腕を、下方から腰と脚を後付けで組み合わせたような、そんな印象を受けるシルエットだった。
表現を変えれば、人間の姿を真似たグレムリンのようだと言えなくもない。
「大丈夫だ。怪我はしていない」
金属の巨人が目の前に立ち止まったところで、怜次は声を張り上げた。
巨人は足元から股関節までの高さだけで怜次の身長と同じくらいのサイズをしている。股関節から頭頂部までは、それより少し短い程度の高さだろう。
アニメや漫画に登場する巨大ロボットよりは格段に小さいはずだが、実際に間近で見ると不気味すぎるほどの威圧感がある。怜次はそんな感想を抱いていた。これでも数値の上では戦車の車高よりも一メートル少々高いだけというから驚きである。
センサー類やカメラを搭載した頭部が動き、足元の怜次を捉える。
『分かった。少し待ってくれ』
拡声器から音量を絞った少女の声がした。さっきまでは女の声だと思っていたが、こちらの方が正確な表現だと怜次は考えていた。自分と同じ新兵か、一年早く入隊した一等兵といったところだろう。年齢にすると、若くて十八歳から二十歳の範囲に収まるくらいだ。
兵隊としては相当若いが、この金属の巨人――特殊駆動機械、通称『特機』の操縦者は、比較的若手の軍人に任せられる傾向が強い。かくいう怜次もその一人であり、列車に乗っていたのは配属先へ移動するためであった。
胸部の前面装甲が下半身に近い側を軸として開いていく。
完全に開き切った装甲を足場にして、特機の操縦者が姿を現した。
「こちらは中部方面軍隷下、第三特機群所属の黒河内二等兵。そちらの所属部隊と階級は」
怜次は咄嗟に返事をすることができなかった。
特機の操縦席からこちらを見下ろす少女の姿は、怜次が想像していたよりも遥かに若々しい。年下であるのは間違いない。恐らくは高校生、下手をすれば中学校を卒業しているかどうかも怪しいくらいだ。
それなのに、迷彩服と航空機のパイロットの対G装備を組み合わせたような見栄えの無骨な装備が不思議と似合っていた。きっと、切れ長でありながら大きく見える特徴的な目が、可愛いというより美人だという印象を与えているからだろう。
「……って、んなわけないだろ」
怜次は頭を振って、自分のおかしな考えを否定した。
自衛軍の志願者は高校生を除く十八歳以上に限ると法律で定められている。彼女は単に若く見られる外見をしているだけに決まっている。
「どうかしたか?」
「いや、何でもない。こちらは久我二等兵。明日付けで第三特機群に配属される予定だ」
それを聞いて、黒河内と名乗る少女はきゅっと目を細めた。
怜次は睨まれたかと思って身構えてしまったが、別に睨まれるようなことをした覚えはない。となると、恐らくは――微笑んでいるのだろう。だとすれば相当不器用な笑い方ということになるが。
「それは奇遇だな」
黒河内は胸部装甲から飛び降りて、柔軟に膝を曲げて着地した。気軽そうな態度でやっているが、実態は高さ二メートル以上はある場所からの飛び降りだ。上手く着地しなければ脚を痛めてしまう。
逆に言えば、黒河内がそれほど特機に慣れていることの証明でもあった。
「配属先の中隊と小隊はどこだ? もう分かっているんだろ?」
中性的な口調で質問を重ねられ、怜次は問われるままに答えるしかできなかった。
「第一中隊の第三小隊だけど、それが何か」
「いや、ただの私的な好奇心だよ」
黒河内は悪びれる様子もなく言い切った。つくづく掴みどころのない少女だ。短く切られた艶やかな黒髪や眼差しの力強さから受ける印象とは違い、実態のない陽炎と話しているような感覚に陥ってしまう。
上下共に長袖の戦闘服を着込んでいる上に、両手にも皮製の手袋を嵌めているので、首から下には肌の露出がない。そのせいか、戦闘服を脱いだら気体になって消えてしまうのではないか、なんていうおかしな想像まで浮かんでくる。
怜次が黙り込んでいると、黒河内はくるりと踵を返して歩き出した。
「お、おい。どこ行くんだ」
「中隊長に戦果を報告するだけだよ。私達の任務は、さっきの奴を山狩りで追い立てて仕留めることだったからね」
「さっきの奴って……」
怜次は死んだばかりのグレムリンの亡骸を見やった。通常、グレムリンは蟻や蜂に似た群れを形成して活動している。単体で活動しているとすれば斥候の線が強いが、この近辺にグレムリンの巣があるなんて聞いたことがない。
「ああ、たまにいるんだよ。巣を潰された後も生き残って『はぐれ』になる奴が。こんなところまで逃げてくるケースは珍しいけどね」
黒河内は怜次の考えを読んだように解説を入れた。その間も、振り返ることなく淡々と歩き続けている。
そうかと思うと唐突に振り返り、返怪訝そうな眼差しを怜次へ送ってきた。
「ついて来ないのか?」
「先を急ぐに決まってるだろ。俺は偶然居合わせただけなんだから」
「ふぅん。この様子じゃ鉄道は当分運休だろうし、ここから第三特機群の駐屯地まで二十四、五キロはあるけど、歩いて行くのか。そうか凄いな」
「…………」
またも怜次は返答に詰まってしまった。
破壊された車両の周りでは、迷彩服姿の男達が乗客を外に避難させている。あの車両をどうにかした後でレールの損傷の有無を確かめなければ、鉄道の運行は再開させられないだろう。鉄道の代わりにバスを使いたくても、土地勘がなければどうしようもない。
「君が良ければ、撤収するときに送っていこうと思っていたんだけど」
「分かった……頼んだ」
怜次が降参すると、黒河内は再び目を細めた。口の端も上向きに動いているように見えたので、やはり微笑んでいるつもりらしい。
正直なところ、贔屓目に見ても『不敵な笑い』か『皮肉げな笑い』としか思えない表情だ。もしかしたら本当にそういう意味合いを込めた表情なのかもしれないが、怜次はわざわざ確認するような度胸を持ち合わせてはいなかった。
だが、さっきからいい様にあしらわれているのも気に食わない。怜次は黒河内の後ろを歩きながら呼びかけた。
「俺からも一つ、私的な好奇心の質問していいか?」
「どうぞ。答えられる範囲なら答えるよ」
「それじゃ遠慮なく。……あんた幾つなんだ? 見たところ子供っぽく見えるんだけどさ」
怜次は冗談めかした口調でそう言った。怒らせるかもしれない質問のは承知している。それでも黒河内の感情的な表情を引き出せるなら悪くない、なんて失礼な考えが、怜次の行動を後押ししていた。
ところが、黒河内の反応は至って平然としたものだった。
「ああ、そうか。自己紹介が中途半端だったね」
黒河内は相変わらずの不敵な笑み――ということにしておこう――で振り返り、怜次の目をまっすぐ見据えた。鳶色よりも深く黒いその瞳は、見つめられているだけで吸い込まれてしまいそうだった。
「私は第三特機群第一中隊第三小隊、特機三号機操縦士の黒河内月子。年齢は今年で十六歳になる。君とは同じ小隊の同僚だよ」
「えっ……? お、おい……」
怜次の思考回路は、一気になだれ込んできた情報を処理しきれずフリーズ寸前になった。
同じ隊の所属だというのはともかく、十六歳の軍人なんて現代日本に存在するわけがない。
「十六ってどういうことだ? そんなの有り得ねぇだろ」
「今はまだ十五歳だって。それに、ありえないなら私が今ここにいるがわけないじゃないか。常識的にものを考えてくれないかな」
やれやれとばかりに肩を竦める黒河内月子。怜次はその態度に軽い苛立ちを覚えたが、表に出すのは全力で堪えた。怒らせても構わないという意図で投げかけた質問なだけに、こちらから怒りを露わにするなんて大人気ないことこの上ない。
それに同じ部隊に配属されることになるなら、下らないことで不和を生じさせても損をするだけだ。
「十五も十六も大して変わらないだろ。……ったく、何がどうなってるんだか」
「さぁね。ひとまずここは、コンゴトモヨロシクとでも言うべきかな」
月子は左手の手袋を外すと、色白の掌を上にして怜次に差し向けた。
「……何?」
「握手だよ。ほら」
「ああ……なるほどね」
本人から説明されて、怜次はようやく月子の意図を把握した。握手は右手でやるのが普通だと思っていたので、咄嗟に理解することができなかったのだ。
左利きだからつい左手を出してしまったのだろうか。そう考えてもみたが、よく見ると左の手首に自衛軍推奨モデルの腕時計が巻かれていた。普通、これは右利きの付け方だ。
「……よろしく、黒河内」
「こちらこそ。久我さん」
怜次は月子と左手での握手を交わした。少女らしい滑らかな肌触りで、華奢な骨格をした小さな手だ。
互いの手が離れた直後、月子はあっさりと踵を返して歩き出した。
よく分からない子だ。ここでさり気ない笑顔の一つでも浮かべれてくれたら、これまでとのギャップもあって、好感度が跳ね上がっていたかもしれない。
ストイックな性格のせいで、そういう仕草が嫌いなのか。それとも不器用な性格のせいで、そういう表情が苦手なのか。出会ったばかりだから当然なのだが、久我怜次という男は黒河内月子という少女のことをあまり理解できていないらしい。
「私は中隊長に報告を入れてくるから。君、特機の操縦は出来るだろ? 三号機をトレーラーに乗せておいてくれないかな」
「それが年上にものを頼む態度かよ。そりゃ階級は同じだけどな……って、おい! 聞いてんのか? ていうか、俺はまだ正式配属されてねぇんだぞ」
悠然と歩き去る月子に文句をぶつけつつ、怜次は三号機の胸部装甲に手をかけた。
装甲の出っ張りを足場にして機体をよじ登りながら、今後のことを思い浮かべてみる。あんな変わり者が同僚にいるのだ。少なくとも退屈だけはしない筈だ。
もっとも、怜次は退屈しない生活なんて望んでいるわけではないのだが。
――望む望まざるに関わらず歴史は動いていく。
この瞬間の出会いも、きっと小さなターニングポイントになるのだろう――
二〇一一年 九月三十日 鳥取県鳥取市 津ノ井駐屯地 第一中隊将校室
「失礼します」
律儀に扉をノックして、曹長の階級章を付けた男が将校室にが入室した。
新築の趣きを色濃く残す将校室には、執務用の事務机が六つほど並べられている。卓上の様子は様々で、書類が積み重なっているものもあれば、最近置かれたばかりのようにすっきりとしているものもある。
机は片手に余るほどの数が置いてあるが、室内にいる人間はそれよりずっと少なかった。士官の制服を着た男が二人座っている以外は空席だ。曹長はそのうちの一人のところまで大股で歩いていった。
「中尉殿。四号機の帰還を確認しました。残る三号機は現在トレーラーにて移送中です。それと、最後の新入隊員も県内に到着した模様です」
よく通る低い声が将校室に響く。
本人としては普通に言葉を発したつもりなのだろう。しかし無人に近い将校室では音が必要以上に反響し、曹長自身の肺活量の大きさも合わさって、部屋いっぱいに響き渡る大声となっていた。
中尉が事務用の椅子を回して曹長に向き直る。手にしているファイルの表紙には『機密 新設特機小隊編成報告書』と印刷されていた。
「そうか。部隊での訓練は予定通り十月から始められそうだな」
若々しい声で言いながら、中尉は白髪頭を掻いた。
二十代半ばという実年齢とは裏腹に、この青年将校の頭髪は大量の白髪に占拠されていた。黒髪の中に白髪が混ざっているというよりも、白髪に黒髪が溶け込んでいると表現すべきだろう。見方によっては白と黒の虎縞模様といえるかもしれない。
「はい。特機は搭乗員になれる人間が限られていますから、頭数が足りなくて編成中止なんてことにならなくて良かったですよ」
そう言って曹長は生まれつき薄い眉を僅かに寄せた。何気ない仕草であるはずなのに、曹長の強面が更に威圧感を増したように思われた。
曹長と中尉、二人の年齢を比べれば明らかに曹長の方が年上である。だが実際は、曹長の方が年下の相手に敬語を使っている。軍隊とはそういう組織なのだ。少なくとも表向きの態度では、年齢よりも階級の方が優先される。中尉は曹長よりも三つほど上の階級だ。
「確かに。特機が兵器として実用化されて僅か数年。今年に入ってようやく配備数が大幅増になったけど、人材育成の制度はさっぱり整備されてないからな。……それはそうと」
白髪頭の中尉は、自宅のソファーで寛いでいるかのように緩慢な動作で、椅子の背もたれを軋ませた。ゆっくりと体重をかけて背を反らし、曹長の顔を仰ぐように見上げる。上官の唐突な奇行に対して、曹長は困惑した様子で一歩退いた。
「何ですか、いきなり」
「猪熊。新兵のことが気になるのか?」
中尉は不真面目な姿勢のまま、真剣な口振りで問いかけた。
曹長こと猪熊竜馬は思わず口篭った。しばしそのまま押し黙り、やがて観念したように短く息を吐く。
「やはり……分かりますか。今回の新兵どもには心の底から同情します。まさか上層部が『あの制度』をこういう風に利用するとは思ってもみませんでしたよ。理解に苦しむと言わざるを得ません」
竜馬の言葉には明らかな怒気が含まれていた。放っておいたら小一時間は熱弁を振るっていそうな勢いだ。
中尉はまだまだ語り足りない様子の竜馬を制し、軽い口調で嗜めた。
「確かに『あの制度』は兵隊集めなんかに使っていいものじゃない。文句を言いたくなる気持ちも分かる。気持ちは分かるんだが、今の発言は軽率だな。悪い奴が聞き耳を立ててるかもしれないぞ」
そう言いながら、白髪頭の中尉は斜め向かいの席をちらりと見た。眼鏡を掛けた士官が仕事の手を止めて冗談交じりの苦情を返す。
「おい、悪い奴って俺のことか」
「違うのか? そりゃ失礼」
士官同士が笑い合っている間、竜馬は神妙な面持ちで直立不動の体勢を維持していた。傍から見る限りでは、不相応な発言をしたことを自戒しているようにも、真面目な話を冗談で誤魔化された憤りを我慢しているようにも見える。あるいは、この態度こそが彼にとっての自然体なのかもしれない。
中尉はおもむろに立ち上がると、機密書類のファイルで竜馬の肩を軽く叩いた。腑抜けた笑い顔は完全に影を潜め、真剣な面持ちで竜馬に声を掛ける。
「変えられないことに文句を言っても仕方がない。俺達は俺達にできることをするだけだ。そうだろ、猪熊」
「ハッ!」
竜馬は返答として背筋を完璧に正した。
「よろしい。頼りにしてるぞ、猪熊曹長」
そして中尉はひらひらと手を振りながら、将校室から出て行こうとする。
「……どちらに行かれるのですか?」
「格納庫。そろそろ指揮官用の『特機』が到着するんだが、車庫入れは自分達でやってくれって言われてるんだ。輸送部隊にはアレを動かせる奴がいないんだとさ。まったく、人材不足は辛いよな」
白髪だらけの後頭部を見やりながら、竜馬は訝しげに首を傾げた。強面の竜馬には妙に似合わない仕草だった。
「自分も『特機』が到着することは知っていますが、それ以外は初耳です」
「俺もさっき電話で聞いて初めて知った。連絡が遅いっての」
中尉は振り向きざまに機密書類のファイルを竜馬へ放り投げた。
突然の行為に竜馬は目を丸く剥いて、書類が折れ曲がらないように両腕でファイルを受け止めた。
「新人が集まり次第、顔見せと部隊説明を始めておいてくれ。納車が間に合ったら俺も後から行く。相手は餓鬼なんだから、あまりビビらせるなよ」
「……善処します」
そう答える竜馬の顔は、既に相当な威圧感と圧迫感に満ちていた。これでも、自分の顔の怖さをどう抑えるべきか真剣に悩んでいる表情なのだから困ったものである。
中尉は苦笑しながら士官室を後にした。