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[29376] 鋼鉄のネフィリム【第二章】
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/26 22:53
※第15話時点で前書き変更


本作はミリタリー要素の強い現代SFです。
第1話から第15話までを一章として区切りを付けました。
内容的な区切りというよりも、個人的な節目としての章分けです。
どこかで節目を付けないと、だらだら書いて冗長になってしまいそうなので。


このSSは他サイト「小説家になろう」に二重投稿しています。



[29376] 少女との出会い 【第一章 第一話】
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/26 22:54
 二〇一一年 九月三十日 鳥取県岩美郡岩美町小尾羽

 海沿いを走るローカル線に揺られながら、怜次は窓の外に目をやった。右側の窓には青々とした日本海が広がり、左側の窓には紅葉を間近に控えた山々が並んでいる。聞いた話によれば近くに温泉も湧いているそうなので、骨休めの為に訪れるなら絶好の環境だろう。
 だが、至極残念なことに、怜次がこうして鉄道に乗っている理由は別にある。

「……明らかに浮いてるよなぁ、俺」

 怜次は窓から視線を外した。吊り下げ広告の目立つ車内には、おおよそ二十人程度の乗客が座っている。思い思いの普段着や学校の制服、着こなされたスーツ姿など、格好も年齢もバラバラだ。
 その中でただ一人、怜次だけが濃緑色の軍服を身に纏っていた。
 厳密には日本陸上自衛軍の夏用制服。白いシャツに長袖の上着という、見るからに軍人の制服といった雰囲気の装束だ。

 襟に指を引っ掛けて、形を整える真似事をしてみる。怜次は今年の四月に入隊し、半年間の教育期間を終えたばかりの正真正銘の新兵である。十九歳まであと半年近くもある怜次にとって、似合わない軍服で人前に出るのは妙な気恥ずかしさがあった。

『次は、岩美。岩美に停車します』

 車内アナウンスが響き渡る。乗客達の雰囲気と同じく、妙に呑気な語調をしていた。

「やっぱり、この辺りはまだ平和なんだな……」

 四半世紀前――つまり二十五年前に、世界の歴史は大きな曲がり角を迎えた。
 それまでの常識では考えられない奇妙な戦争の発生。いや、果たしてそれを『戦争』と呼んでいいものなのかも定かではない。ともかく、人類は現在に至るまで理不尽な戦いを強いられ続けていた。
 戦いがこんなにも長引いている続いている原因は、たった一つの理由に集約される。
 これは『人ならぬモノ』との戦いなのだ。
 しかし、世界の隅々まで戦争一色というわけでもなく、ここのように平穏この上ない空気が漂っている場所もある。喩えるなら砂漠のオアシスといったところか。

『当車両は緊急停車致します。周囲の物にしっかり掴まり、身の安全を確保してくださるようお願い致します』

 唐突な警報の直後、車両が急激に減速。車内の人間が慣性で押し流されていく。怜次はあちこちから上がる悲鳴を聞きながら、座席にしがみついて衝撃に抵抗した。

「な、何だよ、おい!」

 平穏から一転。車体が完全に停車した頃には、車内は混乱と喧騒の坩堝と化していた。大声や怒号に混ざって子供の泣き声まで聞こえてくる。
 車両の最後部から車掌が飛び出してきた。そして、落ち着いて避難するよう呼びかけ始めた瞬間、まるで落石でも直撃したかのような凄まじい衝撃が車体を揺るがした。

「うわあああっ!」
「きゃあああっ!」

 ついに乗客達の混乱が頂点に達する。車掌の必死の呼びかけも悲鳴にかき消され、非難経路の説明すら満足に行き届いていない。

「くそっ! 今の衝撃……落石か?」

 そんな状況下でも、怜次は不思議と冷静さを保つことができていた。半年間とはいえ軍人としての教育を受けたおかげか、それとも混乱が一巡して冷静さに変わってしまったのか。どちらにせよパニックを起こすよりは遥かにいい。
 怜次は上下スライド式の窓を開け放ち、数十センチ四方の窓枠に上体を捻じ込んだ。
 潮の匂いを帯びた風が吹き抜ける。その香りを堪能する暇もなく、金属の塊を押し潰す不快な音が怜次の鼓膜に襲い掛かった。

「あれは……」

 先頭車両の車体側面が内向きに潰れ、大きな穴を潮風に晒している。
 そして、車体に覆い被さる巨大な影――六本脚の金属のケモノ。
 ワイヤーを束ねたような筋肉。それに覆われた六本の脚と、身体全体を包む金属質の装甲。鉤爪を車体に食い込ませ、長い首をうねらせてプレス機のような顎で車両を喰いちぎるその姿は、この世の生物とは思えない有様だ。
 大きさは六肢を伸ばして車体を包み込むほど。一階建ての建物くらいはあるだろうか。水牛の死体を喰らうハイエナのように、金属製の車体を咀嚼し飲み込んでいる。

「グレムリン!」

 怜次は思わず叫んだ。
 鉄を喰らい、鋼を喰らい、遍く金属を喰らう金属の怪物。
 それこそが世界に蔓延る人類の敵。

「どうしてこんなところに……!」

 車内の騒がしさが一段を増していく。他の乗客達も怪物――グレムリンの存在に気が付いたようだ。このままではすぐに壮絶なパニックが起こってしまうだろう。怜次は歯噛みした。どうにかしなければならないと分かっていても、どうすればいいのか分からない。
 上半身を車内に引き戻すと、中年の乗客が非常用ドアコックを捻って扉を開けようとしているところだった。

「馬鹿、止めろ!」
「うるせぇ! このまま食われろっていうのかよ!」

 止める間もなく、無謀な乗客は車外に飛び出した。
 その瞬間、グレムリンが長い首を回して乗客を視界に納めた。歪な歯の生えた顎を極限まで開き、鼓膜をつんざく金切り声を上げる。共鳴によって窓ガラスが一斉に震動し、バリバリと落雷のような音を響かせた。
 グレムリンが六本の脚で跳躍する。踏み切りの反動で車体が傾き、危うく脱輪する直前で線路に戻る。車内の乗客は立っていることすらできずに倒れ、床を転がった。
 怜次は悲鳴に埋め尽くされた車内を後に、開けっ放しの扉から無謀な乗客の後を追った。

「早く隠れろ! グレムリンは人間も襲うんだ!」

 数十メートル先の車道に男の背中が見える。脇目も振らずに必死に走り続けているようだが、人間の足でグレムリンから逃れられるはずがない。
 巨大な影が男の周囲に生じたかと思うと、先ほど跳躍したグレムリンが地響きを立てて着地した。アスファルトに亀裂が走り、弾けるようにめくれ上がる。
 重機よりも強靭な六本の脚がうごめき、長く柔軟な首が哀れな男へ近付いていく。無機質な顔面の中央で、不気味なまでに有機的な眼球がぎょろりと動いた。
 男は地響きに足を取られて転倒した挙句、腰を抜かして立ち上がれなくなっていた。

「くそっ……」

 怜次は考えるより先に走り出した。
 車道を走る自動車が次々に急停止する。ある者は車線を無視して引き返し、またある者は車を乗り捨てて逃げ出していく。
 怜次は扉を開けっ放しで乗り捨てられた車に駆け寄り、助手席に腕を突っ込んで緊急時用の発炎筒を掴み出した。そして即座に着火し、グレムリンの頭部を飛び越すように投擲する。
 眩いオレンジ色の炎が気を惹いたのか、グレムリンは男から目を外して首を上げた。
 その隙に怜次はグレムリンの足元まで走り、腰を抜かしていた男を助け起こした。

「あわ、わわ……」
「落ち着け! 立ち上がって、列車の陰まで隠れろ。そうすれば見つからないはずだ」

 強い口調で言い含める。怜次よりも男の方が明らかに年上だが、今はそんなことを気にしている状況ではなかった。
 男が転びそうになりながらも走り出したのを見届けて、怜次もこの場を離れようとする。
 その刹那、一瞬前まで怜次がいた場所にグレムリンの鉤爪が振り下ろされた。

「うわっ!」

 砕けたアスファルトが降りかかる。
 顔を振り上げると、金属と生物の肉体が複雑に絡み合った異形の姿が視界を埋め尽くしていた。これがグレムリンと名付けられた怪物。金属臭と獣臭が混ざった臭いを放ち、生臭い体液が巡る金属繊維の筋肉を軋ませる、生命と言えるのかすら判然としない構造物。
 金属喰らい。機械喰らい。文明喰らい――異星生物グレムリン。

「ミイラ取りが何とやらだ……」

 怜次は悪態を吐きながらも走り出す。人間の脚ではグレムリンから逃れられないのは承知の上だ。だが乗り捨てられた自動車に気を向けさせながら走れば、どうにか安全なところに隠れられるかもしれない。
 背後でグレムリンが甲高く吼えた。怜次の淡い期待を踏みにじるように、長い首が空気を裂いて襲い掛かる。怜次が本能的に振り向いたときには、ギロチンよりも残忍な牙が目と鼻の先にまで迫っていた。

『伏せろ!』

 拡声器を通した声が響き渡る。怜次は条件反射的に反応し、アスファルトに身を投げた。
 グレムリンの胴体に穴が穿たれ、爆風と破片が肉体を内側から破壊する。数瞬遅れて、高速の物体が大気を引き裂いた衝撃波が、路面に伏せた怜次を打ち据えた。
 耳が痛くなるような静寂の後、グレムリンの巨体が道路に倒れる音がした。
 怜次は耳鳴りを堪えながら後方に眼をやった。

「痛っ……! 今のは……?」

 胴体を無残に破壊されたグレムリンは、半透明の体液を撒き散らしながら、荒れたアスファルトに崩れ落ちていた。六本の脚と首は力なく投げ出され、瞳孔の開き切った眼球が虚空を見上げている。
 誰が見ても死んでいる。機械じみた肉体を持つグレムリンといえど、活動に必要な箇所さえ破壊すれば、あのように行動停止――普通の生物でいう死亡状態に追い込めるのだ。

『こちらは第三特機群第一中隊の特機だ。今からそちらに向かう』

 先ほどと同じ声が道路の向こうから聞こえてきた。相変わらず拡声器特有の音質だが、よく聞くと女の声のようだ。それもかなり若々しい印象を受ける。

『緊急事態のため退避を確認せずに砲撃した。負傷状況を確認したい』

 怜次は身を起こし、声が聞こえる方向へ向き直った。
 不自然に大きな人影が近付いて来ている。背丈は付近に放置された自動車の倍以上はある。数値にして三メートルから四メートルといったところか。道路に掛かる電線を立ったまま潜れる程度の大きさだ。
 全体的に人間そのままの形とはいえない歪さで、特に肩関節と股関節の形状は人間と大きく異なる。背中には特大のドラム缶に似た弾装を背負い、右腕を大口径の機関砲と保護のための追加装甲がすっぽりと覆っている。
 前後に張り出した胸部に、左右から腕を、下方から腰と脚を後付けで組み合わせたような、そんな印象を受けるシルエットだった。
 表現を変えれば、人間の姿を真似たグレムリンのようだと言えなくもない。

「大丈夫だ。怪我はしていない」

 金属の巨人が目の前に立ち止まったところで、怜次は声を張り上げた。
 巨人は足元から股関節までの高さだけで怜次の身長と同じくらいのサイズをしている。股関節から頭頂部までは、それより少し短い程度の高さだろう。
 アニメや漫画に登場する巨大ロボットよりは格段に小さいはずだが、実際に間近で見ると不気味すぎるほどの威圧感がある。怜次はそんな感想を抱いていた。これでも数値の上では戦車の車高よりも一メートル少々高いだけというから驚きである。
 センサー類やカメラを搭載した頭部が動き、足元の怜次を捉える。

『分かった。少し待ってくれ』

 拡声器から音量を絞った少女の声がした。さっきまでは女の声だと思っていたが、こちらの方が正確な表現だと怜次は考えていた。自分と同じ新兵か、一年早く入隊した一等兵といったところだろう。年齢にすると、若くて十八歳から二十歳の範囲に収まるくらいだ。
 兵隊としては相当若いが、この金属の巨人――特殊駆動機械、通称『特機』の操縦者は、比較的若手の軍人に任せられる傾向が強い。かくいう怜次もその一人であり、列車に乗っていたのは配属先へ移動するためであった。
 胸部の前面装甲が下半身に近い側を軸として開いていく。
 完全に開き切った装甲を足場にして、特機の操縦者が姿を現した。

「こちらは中部方面軍隷下、第三特機群所属の黒河内二等兵。そちらの所属部隊と階級は」

 怜次は咄嗟に返事をすることができなかった。
 特機の操縦席からこちらを見下ろす少女の姿は、怜次が想像していたよりも遥かに若々しい。年下であるのは間違いない。恐らくは高校生、下手をすれば中学校を卒業しているかどうかも怪しいくらいだ。
 それなのに、迷彩服と航空機のパイロットの対G装備を組み合わせたような見栄えの無骨な装備が不思議と似合っていた。きっと、切れ長でありながら大きく見える特徴的な目が、可愛いというより美人だという印象を与えているからだろう。

「……って、んなわけないだろ」

 怜次は頭を振って、自分のおかしな考えを否定した。
 自衛軍の志願者は高校生を除く十八歳以上に限ると法律で定められている。彼女は単に若く見られる外見をしているだけに決まっている。

「どうかしたか?」
「いや、何でもない。こちらは久我二等兵。明日付けで第三特機群に配属される予定だ」

 それを聞いて、黒河内と名乗る少女はきゅっと目を細めた。
 怜次は睨まれたかと思って身構えてしまったが、別に睨まれるようなことをした覚えはない。となると、恐らくは――微笑んでいるのだろう。だとすれば相当不器用な笑い方ということになるが。

「それは奇遇だな」

 黒河内は胸部装甲から飛び降りて、柔軟に膝を曲げて着地した。気軽そうな態度でやっているが、実態は高さ二メートル以上はある場所からの飛び降りだ。上手く着地しなければ脚を痛めてしまう。
 逆に言えば、黒河内がそれほど特機に慣れていることの証明でもあった。

「配属先の中隊と小隊はどこだ? もう分かっているんだろ?」

 中性的な口調で質問を重ねられ、怜次は問われるままに答えるしかできなかった。

「第一中隊の第三小隊だけど、それが何か」
「いや、ただの私的な好奇心だよ」

 黒河内は悪びれる様子もなく言い切った。つくづく掴みどころのない少女だ。短く切られた艶やかな黒髪や眼差しの力強さから受ける印象とは違い、実態のない陽炎と話しているような感覚に陥ってしまう。
 上下共に長袖の戦闘服を着込んでいる上に、両手にも皮製の手袋を嵌めているので、首から下には肌の露出がない。そのせいか、戦闘服を脱いだら気体になって消えてしまうのではないか、なんていうおかしな想像まで浮かんでくる。
 怜次が黙り込んでいると、黒河内はくるりと踵を返して歩き出した。

「お、おい。どこ行くんだ」
「中隊長に戦果を報告するだけだよ。私達の任務は、さっきの奴を山狩りで追い立てて仕留めることだったからね」
「さっきの奴って……」

 怜次は死んだばかりのグレムリンの亡骸を見やった。通常、グレムリンは蟻や蜂に似た群れを形成して活動している。単体で活動しているとすれば斥候の線が強いが、この近辺にグレムリンの巣があるなんて聞いたことがない。

「ああ、たまにいるんだよ。巣を潰された後も生き残って『はぐれ』になる奴が。こんなところまで逃げてくるケースは珍しいけどね」

 黒河内は怜次の考えを読んだように解説を入れた。その間も、振り返ることなく淡々と歩き続けている。
 そうかと思うと唐突に振り返り、返怪訝そうな眼差しを怜次へ送ってきた。

「ついて来ないのか?」
「先を急ぐに決まってるだろ。俺は偶然居合わせただけなんだから」
「ふぅん。この様子じゃ鉄道は当分運休だろうし、ここから第三特機群の駐屯地まで二十四、五キロはあるけど、歩いて行くのか。そうか凄いな」
「…………」

 またも怜次は返答に詰まってしまった。
 破壊された車両の周りでは、迷彩服姿の男達が乗客を外に避難させている。あの車両をどうにかした後でレールの損傷の有無を確かめなければ、鉄道の運行は再開させられないだろう。鉄道の代わりにバスを使いたくても、土地勘がなければどうしようもない。

「君が良ければ、撤収するときに送っていこうと思っていたんだけど」
「分かった……頼んだ」

 怜次が降参すると、黒河内は再び目を細めた。口の端も上向きに動いているように見えたので、やはり微笑んでいるつもりらしい。
 正直なところ、贔屓目に見ても『不敵な笑い』か『皮肉げな笑い』としか思えない表情だ。もしかしたら本当にそういう意味合いを込めた表情なのかもしれないが、怜次はわざわざ確認するような度胸を持ち合わせてはいなかった。
 だが、さっきからいい様にあしらわれているのも気に食わない。怜次は黒河内の後ろを歩きながら呼びかけた。

「俺からも一つ、私的な好奇心の質問していいか?」
「どうぞ。答えられる範囲なら答えるよ」
「それじゃ遠慮なく。……あんた幾つなんだ? 見たところ子供っぽく見えるんだけどさ」

 怜次は冗談めかした口調でそう言った。怒らせるかもしれない質問のは承知している。それでも黒河内の感情的な表情を引き出せるなら悪くない、なんて失礼な考えが、怜次の行動を後押ししていた。
 ところが、黒河内の反応は至って平然としたものだった。

「ああ、そうか。自己紹介が中途半端だったね」

 黒河内は相変わらずの不敵な笑み――ということにしておこう――で振り返り、怜次の目をまっすぐ見据えた。鳶色よりも深く黒いその瞳は、見つめられているだけで吸い込まれてしまいそうだった。

「私は第三特機群第一中隊第三小隊、特機三号機操縦士の黒河内月子。年齢は今年で十六歳になる。君とは同じ小隊の同僚だよ」
「えっ……? お、おい……」

 怜次の思考回路は、一気になだれ込んできた情報を処理しきれずフリーズ寸前になった。
 同じ隊の所属だというのはともかく、十六歳の軍人なんて現代日本に存在するわけがない。

「十六ってどういうことだ? そんなの有り得ねぇだろ」
「今はまだ十五歳だって。それに、ありえないなら私が今ここにいるがわけないじゃないか。常識的にものを考えてくれないかな」

 やれやれとばかりに肩を竦める黒河内月子。怜次はその態度に軽い苛立ちを覚えたが、表に出すのは全力で堪えた。怒らせても構わないという意図で投げかけた質問なだけに、こちらから怒りを露わにするなんて大人気ないことこの上ない。
 それに同じ部隊に配属されることになるなら、下らないことで不和を生じさせても損をするだけだ。

「十五も十六も大して変わらないだろ。……ったく、何がどうなってるんだか」
「さぁね。ひとまずここは、コンゴトモヨロシクとでも言うべきかな」

 月子は左手の手袋を外すと、色白の掌を上にして怜次に差し向けた。

「……何?」
「握手だよ。ほら」
「ああ……なるほどね」

 本人から説明されて、怜次はようやく月子の意図を把握した。握手は右手でやるのが普通だと思っていたので、咄嗟に理解することができなかったのだ。
 左利きだからつい左手を出してしまったのだろうか。そう考えてもみたが、よく見ると左の手首に自衛軍推奨モデルの腕時計が巻かれていた。普通、これは右利きの付け方だ。

「……よろしく、黒河内」
「こちらこそ。久我さん」

 怜次は月子と左手での握手を交わした。少女らしい滑らかな肌触りで、華奢な骨格をした小さな手だ。
 互いの手が離れた直後、月子はあっさりと踵を返して歩き出した。
 よく分からない子だ。ここでさり気ない笑顔の一つでも浮かべれてくれたら、これまでとのギャップもあって、好感度が跳ね上がっていたかもしれない。
 ストイックな性格のせいで、そういう仕草が嫌いなのか。それとも不器用な性格のせいで、そういう表情が苦手なのか。出会ったばかりだから当然なのだが、久我怜次という男は黒河内月子という少女のことをあまり理解できていないらしい。

「私は中隊長に報告を入れてくるから。君、特機の操縦は出来るだろ? 三号機をトレーラーに乗せておいてくれないかな」
「それが年上にものを頼む態度かよ。そりゃ階級は同じだけどな……って、おい! 聞いてんのか? ていうか、俺はまだ正式配属されてねぇんだぞ」

 悠然と歩き去る月子に文句をぶつけつつ、怜次は三号機の胸部装甲に手をかけた。
 装甲の出っ張りを足場にして機体をよじ登りながら、今後のことを思い浮かべてみる。あんな変わり者が同僚にいるのだ。少なくとも退屈だけはしない筈だ。
 もっとも、怜次は退屈しない生活なんて望んでいるわけではないのだが。

 ――望む望まざるに関わらず歴史は動いていく。
   この瞬間の出会いも、きっと小さなターニングポイントになるのだろう――










 二〇一一年 九月三十日 鳥取県鳥取市 津ノ井駐屯地 第一中隊将校室

「失礼します」

律儀に扉をノックして、曹長の階級章を付けた男が将校室にが入室した。
新築の趣きを色濃く残す将校室には、執務用の事務机が六つほど並べられている。卓上の様子は様々で、書類が積み重なっているものもあれば、最近置かれたばかりのようにすっきりとしているものもある。
机は片手に余るほどの数が置いてあるが、室内にいる人間はそれよりずっと少なかった。士官の制服を着た男が二人座っている以外は空席だ。曹長はそのうちの一人のところまで大股で歩いていった。

「中尉殿。四号機の帰還を確認しました。残る三号機は現在トレーラーにて移送中です。それと、最後の新入隊員も県内に到着した模様です」

 よく通る低い声が将校室に響く。
 本人としては普通に言葉を発したつもりなのだろう。しかし無人に近い将校室では音が必要以上に反響し、曹長自身の肺活量の大きさも合わさって、部屋いっぱいに響き渡る大声となっていた。
 中尉が事務用の椅子を回して曹長に向き直る。手にしているファイルの表紙には『機密 新設特機小隊編成報告書』と印刷されていた。

「そうか。部隊での訓練は予定通り十月から始められそうだな」

 若々しい声で言いながら、中尉は白髪頭を掻いた。
 二十代半ばという実年齢とは裏腹に、この青年将校の頭髪は大量の白髪に占拠されていた。黒髪の中に白髪が混ざっているというよりも、白髪に黒髪が溶け込んでいると表現すべきだろう。見方によっては白と黒の虎縞模様といえるかもしれない。

「はい。特機は搭乗員になれる人間が限られていますから、頭数が足りなくて編成中止なんてことにならなくて良かったですよ」

 そう言って曹長は生まれつき薄い眉を僅かに寄せた。何気ない仕草であるはずなのに、曹長の強面が更に威圧感を増したように思われた。
 曹長と中尉、二人の年齢を比べれば明らかに曹長の方が年上である。だが実際は、曹長の方が年下の相手に敬語を使っている。軍隊とはそういう組織なのだ。少なくとも表向きの態度では、年齢よりも階級の方が優先される。中尉は曹長よりも三つほど上の階級だ。

「確かに。特機が兵器として実用化されて僅か数年。今年に入ってようやく配備数が大幅増になったけど、人材育成の制度はさっぱり整備されてないからな。……それはそうと」

 白髪頭の中尉は、自宅のソファーで寛いでいるかのように緩慢な動作で、椅子の背もたれを軋ませた。ゆっくりと体重をかけて背を反らし、曹長の顔を仰ぐように見上げる。上官の唐突な奇行に対して、曹長は困惑した様子で一歩退いた。

「何ですか、いきなり」
「猪熊。新兵のことが気になるのか?」

 中尉は不真面目な姿勢のまま、真剣な口振りで問いかけた。
 曹長こと猪熊竜馬は思わず口篭った。しばしそのまま押し黙り、やがて観念したように短く息を吐く。

「やはり……分かりますか。今回の新兵どもには心の底から同情します。まさか上層部が『あの制度』をこういう風に利用するとは思ってもみませんでしたよ。理解に苦しむと言わざるを得ません」

 竜馬の言葉には明らかな怒気が含まれていた。放っておいたら小一時間は熱弁を振るっていそうな勢いだ。
 中尉はまだまだ語り足りない様子の竜馬を制し、軽い口調で嗜めた。

「確かに『あの制度』は兵隊集めなんかに使っていいものじゃない。文句を言いたくなる気持ちも分かる。気持ちは分かるんだが、今の発言は軽率だな。悪い奴が聞き耳を立ててるかもしれないぞ」

 そう言いながら、白髪頭の中尉は斜め向かいの席をちらりと見た。眼鏡を掛けた士官が仕事の手を止めて冗談交じりの苦情を返す。

「おい、悪い奴って俺のことか」
「違うのか? そりゃ失礼」

 士官同士が笑い合っている間、竜馬は神妙な面持ちで直立不動の体勢を維持していた。傍から見る限りでは、不相応な発言をしたことを自戒しているようにも、真面目な話を冗談で誤魔化された憤りを我慢しているようにも見える。あるいは、この態度こそが彼にとっての自然体なのかもしれない。
 中尉はおもむろに立ち上がると、機密書類のファイルで竜馬の肩を軽く叩いた。腑抜けた笑い顔は完全に影を潜め、真剣な面持ちで竜馬に声を掛ける。

「変えられないことに文句を言っても仕方がない。俺達は俺達にできることをするだけだ。そうだろ、猪熊」
「ハッ!」

 竜馬は返答として背筋を完璧に正した。

「よろしい。頼りにしてるぞ、猪熊曹長」

 そして中尉はひらひらと手を振りながら、将校室から出て行こうとする。

「……どちらに行かれるのですか?」
「格納庫。そろそろ指揮官用の『特機』が到着するんだが、車庫入れは自分達でやってくれって言われてるんだ。輸送部隊にはアレを動かせる奴がいないんだとさ。まったく、人材不足は辛いよな」

 白髪だらけの後頭部を見やりながら、竜馬は訝しげに首を傾げた。強面の竜馬には妙に似合わない仕草だった。

「自分も『特機』が到着することは知っていますが、それ以外は初耳です」
「俺もさっき電話で聞いて初めて知った。連絡が遅いっての」

 中尉は振り向きざまに機密書類のファイルを竜馬へ放り投げた。
 突然の行為に竜馬は目を丸く剥いて、書類が折れ曲がらないように両腕でファイルを受け止めた。

「新人が集まり次第、顔見せと部隊説明を始めておいてくれ。納車が間に合ったら俺も後から行く。相手は餓鬼なんだから、あまりビビらせるなよ」
「……善処します」

 そう答える竜馬の顔は、既に相当な威圧感と圧迫感に満ちていた。これでも、自分の顔の怖さをどう抑えるべきか真剣に悩んでいる表情なのだから困ったものである。
 中尉は苦笑しながら士官室を後にした。



[29376] 『救済』
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/08/23 03:45
  金属食性異星生物関連年表  陸上自衛軍教育用資料より抜粋


一九八〇年 新たに発見された超巨大彗星に『シュレット彗星』という名称が与えられる。
      この名称は発見者のゲオルグ・シュレットから取られたものである。

      同年年末、シュレット彗星の地球最接近が来年八月であると予測される。


一九八一年 八月、シュレット彗星が地球と月の中間点を通過。
      その後、原因不明の爆発現象を起こし、地表に大量の破片が落下する。
      これにより世界六十以上の国と地域で多大な被害が発生。
      人類は前代未聞の天体災害への対応と復興に追われることになる。

      全世界の合計死傷者数は現在も明らかになっていない。
      ただし、最も被害を多く見積もる説でも死傷者数は一億人を下回っている。
      破片の落下による被害は、むしろ経済的なものが大きいというのが定説である。

      彗星破片の調査は暫く放置され、本格調査の開始は災害から二年後であった。


一九八三年 破片落下地点において未確認生物を発見。機械類に攻撃的な反応を示す。
      この性質から『グレムリン』との通称が付けられる。
      グレムリンとは、飛行機などの機械に悪戯をすると伝えられる妖精である。

      同年、機械への攻撃的反応は捕食行動であることが判明。
      調査中の生物に『金属食性異星生物』という正式名称が与えられる。


一九八五年 世界各地の破片落下地点を中心に、金属食性異星生物が大量発生。
      それらは無数の群れを構成し、近隣の都市や鉱床に攻撃を開始した。

      同年、異星生物の活発な行動には生物由来の栄養が必要となることが判明。
      これにより、金属食性異星生物によって人間が捕食される原因が解明された。










 二〇一一年 九月三十日 鳥取県鳥取市 国道二十九号線

 郊外の静かな街並みがゆっくりと流れ去っていく。
 怜次は輸送トレーラーの荷台の隅に座ったまま、目の前の巨大な積荷を見上げた。荷台の大半を占める人型の巨体――三式特機。二〇〇三年に制式採用されたことから『三式』と名付けられたこの機体は、世界で初めて実用化された『人間の形をした兵器』である。
 本当にこんなものを造ってしまう辺りが日本らしい。怜次は三式を見るたびにそんなことを考えてしまう。
 戦車と同じ迷彩塗装の装甲。その奥に潜む、灰色の保護皮膜に包まれた金属質の人工筋肉。右肩から手先に掛けてを覆う増加装甲と、それに護られるようにして搭載された三五ミリ口径機関砲。
 陸戦兵器としては、いや、史上全ての兵器と比較しても異端。グレムリンという怪物が出現しなければ、この兵器も永久に現れることはなかっただろう。
 赤信号でトレーラーが停車する。エンジン音が静かになったせいか、他の音が聞こえやすくなった気がした。

「おーい、久我さん」

 不意に名前を呼ばれ、怜次は顔を上げた。
 開け放たれた三式の胸部装甲から、月子がひょこっと顔を覗かせている。戦闘服は脱いでしまったらしく、白いシャツを着た肩も見える。
 怜次が何事かと思っていると、月子は躊躇うことなく荷台へと飛び降りてきた。

「よっと!」
「うわっ! ……黒河内、お前いつか大怪我するぞ」

 月子は怜次の苦言を聞き流して、荷台の後方中央に座り込んだ。皮手袋を嵌めたままの左手に銀色で直方体の機械らしき物が握られている。

「何だ、それ」

 そう訊ねてしまってから、怜次はもっと疑問に思うべきものを目にしてしまい、そちらに意識を奪われた。
 月子は戦闘服を完全には脱いでいなかった。上下でひとつなぎになった戦闘服の上だけを脱ぎ、袖を腰元で括って固定している。白い半袖シャツは戦闘服のアンダーウェアとして着ていた服らしい。
 だが、服装自体は別にどうでもいい。怜次の意識を惹き付けたもの。それは、月子の右腕を完全に包み隠す真っ白な包帯だった。手首から先は皮手袋のせいで確認できないが、少なくとも肩口まではしっかりと巻きつけられている。まさか、左手で握手をしようとしたのはこれのせいだったのか。

「ただのラジオだよ。ニュースでも聞く?」

 そう言って、月子は右手でラジオのチューニングをし始めた。器用で淀みのない動きだ。右腕に大怪我をしているのではないか――そんな怜次の考えはあっさりと否定された。
 右腕が使えないわけではないようだが、それでも腕全体を包帯で隠しているというのは尋常ではない。しかし、怜次はその理由を訊ねるタイミングを完全に逸してしまっていた。身体的な特徴に関する話題は往々にしてデリケートな問題だ。出会ったばかりの現状では、勢いに任せなければ訊けたものではない。

『次のニュースです。日本時間の本日未明、ロシアの首都モスクワで都市奪還の記念式典が開催されました。この式典は、ロシア西部の都市エカテリンブルグの支配権完全奪還を記念したもので――――』

 そこまで聞こえたところで信号機が青に変わり、トレーラーが動き出した。ラジオの音声がエンジン音にかき消され、怜次のところまで届かなくなる。

「ふぅん。そんな都市が奪われてたんだね」

 ラジオから流れる国営放送のニュースに対し、月子は冷ややかな反応を見せた。ニュースが伝えている内容は、人類がグレムリンから生活圏を奪い返したことを伝えるものであり、本来なら喜ぶべき報道のはずだ。
 しかし、これに関しては怜次も月子と同じ感想を抱いていた。

「俺も初耳。負けたときは申し訳程度に報道して、勝ったときは大々的にアピールしまくるんだから現金だよな。エスカルゴなんとか何て聞いたこともないっての」
「エカテリンブルグだよ」

 月子はちらりと怜次に視線を送り、ラジオの音量を調節する。

『――――ロシア政府は今回の都市奪還成功を、ウラル山脈権益とシベリア鉄道運行の復活の足がかりとする考えを表明し、更なる攻勢を強める意向を明らかにしました』
「都市を取り返しても、金属という金属を食べられて廃墟になってるだろうね。シベリア鉄道もレールは壊滅状態じゃないかな」
「黒河内……お前、ニュースに突っ込みいれながら聞くタイプか」

 たまにそういうタイプの人間がいるとは聞いていたが、よもやこんなところで出会うとは。それも妙に筋の通った突っ込みだ。これでは聞かされている方も反応に困ってしまう。
 このままだと、また月子の独壇場になりそうだ。怜次は疲労を溜息と共に吐き出した。

「そういや、さっき鉄道を襲った奴はレールじゃなくて車両を食べてたよな。あいつらにも好みとかあるのかね」
「え? ……ああ、まだあの報告を聞いてないのか」

 何気ない一言に月子が食いついてきた。月子はラジオの音量を大幅に絞ると、怜次に面と向かう形で体勢を変えた。

「あのグレムリンは最初レールを齧っていたんだ。それで警報装置が作動して鉄道が緊急停止したんだが、その直後に捕食の標的が切り替わったらしい」

 そういうことだったのかと、怜次は内心で納得した。月子の説明は怜次が体験した一部始終と合致している。唐突な急停車と、直後のグレムリンの強襲。月子達の部隊がタイミングよく到着したのも、レールが破損した際の警報を受けて即座に駆けつけたからだろう。

「てことは、グレムリンも選り好みはするんだな」
「酸化物よりも精製された金属を好む傾向があるそうだ。だから錆びだらけのレールよりも、メンテナンスの行き届いた車体の方が美味しそうに見えたのかもね」

 滑稽な表現だが、それを語る月子は苦笑すら浮かべていない。
 とりとめのない会話をしているうちに、周囲の街並みは見晴らしのいい田園風景に取って代わられていた。トレーラーの後方、つまり北側にはそれなりに広い町が広がり、トレーラーの前方にはまた別の集落が見える。そのまた向こうには、秋の装いを整えつつある里山が軒を並べている。

「駐屯地はあの町の向こうだ」

 月子は遠くを眺める眼差しでトレーラーの進行方向を見やった。
 三号機と二人を乗せたトレーラーは、月子が示した町を左手に南下を続けていく。遠目に見る限りでは、生活に必要そうな設備が一通り揃っていそうな雰囲気の町だ。

「特機群の他に輸送隊や整備隊なんかも駐留しているから、他の小規模な駐屯地と同じくらいの規模はあると思うよ。後は特機の修理用パーツを加工する工場も併設されているね」

 地図の上では、あれが駐屯地に最も近い町である。南にも別の町もあるのだが、そこへ行くには山を一つ越えなければならない。恐らく駐屯地の兵士や工場の職員はあの町を活動の拠点として暮らしているのだろう。
 国道と県道の合流点の付近で、トレーラーは国道を降りて国有地へと入っていった。厳重なゲートを通り過ぎたところで、月子が例の不器用な笑みを浮かべる。

「ようこそ。私達の津ノ井駐屯地へ」
「…………」

 怜次は少々緊張した面持ちで辺りを見渡した。
 ちょっとした住宅地ほどの広さがある敷地内に、大小様々な施設が立ち並んでいる。新築同然の新しいものから、築十数年くらいかと思われるものまであるが、極端に古びた建物は見当たらない。
 建物の集まっている場所から少し離れたところには、平らに整地された広い空き地がある。運動場というには広すぎるので、恐らく特機の操縦訓練に使われる場所なのだろう。
 駐屯地の一角、倉庫群の手前でトレーラーが停車する。運転席から輸送隊の兵士が身を乗り出して声を上げた。

「着いたぞ、デカブツ」

 デカブツとは特機のことだろう。確かに戦車の車高と比べると、特機は一回り背が高い。だが奥行きは戦車の方がずっと大きいのだ。特機と関わりの薄い人間は、この辺をよく勘違いしている。
 月子は立ち上がってから軽く伸びをして、包帯に覆われた右手で装甲の出っ張りを掴んだ。

「私は三号機を格納庫に入れてくる。後は一人でよろしく。迷子になるなよ?」
「誰がなるか」

 挑発に悪態を返し、怜次はトレーラーの荷台から飛び降りた。
 三号機が曲げていた脚を伸ばして立ち上がる。怜次は降車の邪魔にならないように、足早にトレーラーから距離を置いた。
 駐屯地の空気は街中とはまるで異質なものであった。
 軍用車両が敷地内を行き交い、道行く人は軍服や作業服姿の軍人ばかり。喧騒も街の騒がしさとは全く違う。
 怜次は半年間の訓練期間を通じて軍の雰囲気に慣れたつもりだったが、こうして実際に活動している駐屯地を訪れると、自分が駆け出しの新兵に過ぎないことを改めて実感させられてしまう。

「えっと、まずは小隊本部に行かないと……」

 怜次は忙しなく辺りを見渡した。
 予め駐屯地の地図を用意してはいたが、初めて訪れる場所では、今いる場所が地図のどこに相当するのか調べるだけでも一苦労だ。

「えっと、久我怜次君だよね」

 何の前触れもなく、そんな言葉が耳に飛び込んできた。軽い口調の女の声だ。誰かが出迎えに来てくれたのだろうか。怜次は安堵して振り返り――盛大に硬直した。
原因は女の容貌だ。スカートタイプの白い夏服に身を包み、律儀に制帽まで被った姿は、あまりにも幼すぎた。月子と出会ったときも似たような感想を抱いたが、それとはまた性質が違う違和感だ。
第一に、背丈が小さい。小学校高学年の女子の平均身長といい勝負だ。自衛軍の採用基準は女性の場合で身長一五〇センチ以上だが、それを満たしているかすら際どいほどである。その上、痩せ気味で身体の線もかなり細く、化粧も質素に留めているものだから、余計に若々しさが増している。
怜次は念のため制服左腕の階級章を確認した。桜の刺繍の下に、矢印の先端のように折れ曲がった直線が三つ。兵長の階級章であった。二等兵である怜次よりも階級が二つ上だ。怜次は慌てて姿勢を正そうとしたが、女にそのままでいるよう制されてしまった。

「まぁまぁ。そんなに気張らないの」

女は怜次のことを頭から爪先までじっくり眺めていたかと思うと、一人で勝手に満足したらしく、大袈裟な素振りで頷いた。

「うん、理想的な体格ね。背は高過ぎないけど、しっかり鍛えてある。頼りになりそう」
「……それは褒め言葉なんでしょうか」
「特機は操縦席が狭いからね。大柄だと色々苦労するんだよ」

 どうやら褒め言葉ではあったらしい。男としては背が高くないことを褒められてもあまり嬉しくはないが、相手が上官なだけに、それを素直に表すのは憚られる。怜次は戸惑いを愛想笑いで誤魔化して、説明を理解できたことと伝えようとした。そこでようやく、女の名前を聞いていないことに気がついた。

「えっと……」
「あ、名前教えてなかったか」

 女は怜次の様子を察したらしく、質問に先回りして答えを返した。

「岸田佐代子。私の名前ね。君と同じ第三小隊に配属されてるわけだけど、岸田兵長とか兵長殿とか、堅っ苦しい呼び方は嫌いだから……そうだね、佐代子ちゃんとかどうかな」
「……よろしくお願いします、岸田さん」

 怜次は本能的に無難な呼称を選択した。 女――岸田兵長はわざとらしく顔をしかめた。どうやら怜次の呼び方がお気に召さなかったらしい。
 怜次は凄まじい勢いで精神的な疲労が蓄積していくのを感じていた。早く話題を変えなければ、小隊長に顔見せをする前に力尽きてしまいそうだ。

「素直じゃないな。上官命令はちゃんと聞かないと」

あんな命令は軍規に違反していないんですか、と言い返す気力はとっくに失せていた。
 恐ろしい想像が脳裏を過ぎる。よもや、この小隊には変な奴しか早くいないのではないか。特機の操縦士の数が足りていないというのは、訓練生時代に何度も聞かされている。その穴を埋めるために、多少問題のある人材でも配属しているのでは――

「あっ! お帰りなさい、佐代子さん」

 突然、背後から少女の声が飛んできた。振り返ると、真新しい制服に身を包んだ見知らぬ少女が、元気に手を振りながら駆け寄ってくるところだった。

「玲奈ちゃんもお帰り。今日の戦果はどうだった?」
「それが……私は歩き回ってるだけで終わっちゃいました」

岸田兵長は自分より背の高い少女の肩を両手で叩いた。着ているのが軍服でなかったら、女子校生同士のじゃれあいとしか思えない光景だ。
怜次は少女のことを知らなかったが、岸田兵長は顔見知りのようだ。兵長に敬語を使っていて、新品の制服を着ている辺り、怜次と同じく新兵なのだろう。だとすると、年齢は十八かそこらに違いない。……それにしては、妙に体付きが幼い気がしたが。

「おや、もうマークしちゃったんですか? れーじ君?」

岸田兵長が、顔面に下世話な感情を満遍なく貼り付けて、からかうように怜次を見上げた。怜次は口元を歪めて顔を背ける。少女をあからさまに観察しすぎていたらしい。愉快犯に犯行の動機を与えてしまった。
兵長は当然のように怜次の反応を無視し、一人で楽しそうに笑っている。彼女のことを軍人だと信じられる人間が、果たしてこの世に何人いるのだろう。怜次は、仮に物好きな民間人のコスプレだったと聞かされても驚く気がしなかった。むしろ軍人だという事実にひどく驚いているくらいだ。
兵長のペースについて来られないのか、玲奈は怜次と兵長を交互に見つめていた。

「えっと……この人が久我怜次さんですか?」
「うん、そうだよ」

玲奈は兵長にそんなことを尋ね、兵長はさらりとそれに答えた。
会話の内容から察するに、玲奈は『久我怜次という人間がいる』という事前情報を与えられていたらしい。そして兵長の横にいる男がそうだと思い、確認を取ったのだろう。
そこまで分かれば、この少女と岸田兵長の関係を推測するのは簡単だ。

「岸田さん、もしかして自分と同じ小隊の……?」
「察しがいいね。玲奈ちゃんも新人さんだよ。可愛いでしょ」

最後の一言は無視することにした。
怜次は改めて玲奈を観察する。岸田兵長ほどではないが、小柄な部類に入る体格である。清潔なショートカットの頭髪は、茶髪どころか赤毛と呼べるほどに淡い色合いだ。これが生まれ持った髪色なのだろう。二重瞼の目は綺麗な鳶色で、顔の輪郭に骨ばった感じがない。確かに可愛らしいという印象を受ける外見だ。
玲奈は怜次と目があったことに気付くと、ぺこりと丁寧なお辞儀をした。

「榊玲奈です。よろしくお願いします」
「あ、ああ、こちらこそよろしく」

内心、怜次は戸惑っていた。同輩にしては仕草や外見が幼すぎる。外見については、岸田兵長という極端な例が目の前に存在しているが、態度の違和感は拭えない。まるで、年の離れた後輩とでも話しているような雰囲気だ。
 いや、明らかにおかしい。岸田兵長のせいで感覚が麻痺しかけていたが、玲奈を見たときの違和感は月子と初めて出会ったときのそれとよく似ている。
 つまり、この少女も。

「私、隊長に報告しに行かないといけないので。失礼します」

 玲奈は丁寧に一礼して立ち去っていった。月子とは人当たりの良さがまるで違い、岸田兵長とは常識の度合いがまるで違う。怜次は荒んだ心が癒えていく感覚を覚えた。
 岸田兵長は笑顔で玲奈を見送ると、くるりと怜次に向き直った。

「ねぇ、怜次君。あの子何歳だと思う?」

 兵長の唐突な質問に、怜次はびくっと身体を震わせた。突然話しかけられて吃驚したのもあるが、それ以上に、今まさに考えていた疑問をまるで心を読まれたかのようなタイミングで訊ねられたことが驚きだった。
岸田兵長は怜次の反応をけらけらと笑うと、同じ質問を繰り返した。

「玲奈ちゃんって何歳くらいに見える?」

口元は悪童のように笑みを作っていたが、眼差しは笑っていなかった。嫌な予感が怜次の胸中を駆け巡る。どうしてそんな質問をするんだ? 分かりきったことじゃないか。 ……そう笑い飛ばすことができればどんなによかったか。

「……ひょっとして兵長の同類なんですか?」

 怜次は精一杯の冗談を返した。想像してしまったコトよりも、見かけ以上の年齢だと言われたほうがマシだった。

「同類って何さ。珍獣扱い? 私はこれでも立派な成人女性なんだけど。……やっぱり答えにくい質問だったかな。ごめんね」

岸本兵長は声のトーンを落とす。快活そのものだった声色が影を潜めると、雰囲気が急激に深刻さを帯びてしまう。
更に悪いことに、兵長が話そうとしている内容は、相応に深刻なことに違いないのだ。

「あの子はまだ十五歳なんだ。三月に中学校を卒業したばっかりの」

 怜次は無言で兵長の言葉を受け止めた。想像した通りだった。月子と同じだ。
あれだけ幼い容姿と人格で十八歳というのはありえない。大人と子供のメンタリティには著しい違いがある。岸田兵長でさえ、内面的には年齢相応の年長者であるはずなのだ。容姿が同い年くらいに見えたとしても、玲奈の言動は明らかに子供のそれだった。
果たして、十五歳の兵士は存在しうるのか。無論、怜次が知る限りの常識では絶対にありえないことである。
 自衛軍の兵員募集年齢は前身である自衛隊の募集規定を踏襲して、十八歳が下限とされている。六十五年以上前の旧軍ですら、戦争末期になるまでは、そんな年齢の子供を引っ張り出したりはしなかった。

「そんなの有り得ないでしょう。完全に違法行為ですよ!」

 怜次は語気を荒げた。それに対して、岸田兵長は諦観の表情を浮かべ、首を左右に振るだけだった。

「君、戦災者救済法っていう法律は知ってるよね」
「当たり前じゃないですか。グレムリンとの戦闘で受けた被害を補償する包括的な法律ですよね。それがどうかしたんですか」

二十年以上の長きに渡る戦いは、人類に多くの被害と犠牲をもたらした。
 それは日本も例外ではなく、際限なく増え続ける被害者に対応するため、今から十五年ほど前に『戦災者救済法』という法律が施行されていた。この法律は人々の生活にも深く浸透しており、先の鉄道襲撃で生じた被害も、この法律を根拠に保証されるはずである。
 戦災者救済法の存在は、今や日本人の常識になっていると言っても過言ではあるまい。

「この法律は、親を亡くした子供や経済的に追い詰められた家庭の子供を支えることも目的にしてるの。家計の状況によっては、十八歳未満の戦災児童を公的機関で雇用して、職業訓練と収入確保を同時に進めるとか、とにかく色々な方法でね」

 岸田兵長の語る内容は怜次も聞いたことがあった。
 通常は学費免除や生活費支援などで対応するのだが、それでも不足を補いきれない場合は、公的機関で収入を得つつ、学費免除の通信制高校に通うという援助方法を選択することもできるのだ。
 この方針自体は、働き口に困った子供が悪条件で労働せざるを得なくなる悲劇を防ぐことにも繋がり、国民の好評を得て現在に至るまで継続している。

「けど、その公的機関に自衛軍は含まれていないはずでしょう。そんなの聞いたこともない」
「実は含まれてるのよ。救済法が施行された当時からずっと。単にこれまでは軍の判断で雇用を見送っていただけなの。子供を受け入れる制度が整っていないっていう理由でね」

 兵長の言葉には明らかな怒気が含まれている。怜次はさっきまで語気を荒げていたことも忘れて、兵長の外見に似合わない気迫に飲まれてしまっていた。

「公的機関といっても雇用できる人数や職場の種類には限りがある。その点、自衛軍は色々な職種があるし、人材は慢性的に足りていないくらい。だからあちこちから催促され続けてたのよ。早く戦災児童を受け入れろって。……本末転倒よね」

 最後の一言は、まるで吐き捨てるような言い方だった。岸田兵長は現状に彼女なりの憤りを感じているのだろう。
 怜次が黙り込んでいることに気が付くと、兵長は表情を和らげた。

「ごめんね、愚痴っぽくなっちゃって。とにかく、自衛軍は各所からの要請を無視しきれなくなって、今年から『自衛軍特別年少採用制度』っていう制度を開始したの。読んで字の如く、戦災者救済法の一環として戦災児童を雇用する制度ね」

 岸田兵長はここで一旦言葉を切り、怜次の反応を確かめるような視線を送ってきた。

「この制度で採用された兵士は、原則的に戦闘部隊には回されない。通信とか輸送とか、後は整備とか。要するに後方の裏方ばかり」
「じゃあどうして!」

 怜次は思わず大きな声で口を挟んだ。まるで理屈に合わない。岸田兵長の言うとおりなら、これまで会ってきた彼女達がここにいるはずがない。

「話は最後まで聞きなさい。原則的ということは例外も有り得るってことでしょ。どういうつもりかしらないけど、自衛軍は戦闘部隊の中でも特機部隊だけは例外扱いにしたのよ。本当、何を考えているんだか」
「…………」
「じゃ、行こっか。隊舎はこっちよ」

 兵長は建物が建ち並んでいる方へ向き直ると、ついて来るように手振りで示した。
 もはや、怜次の中に岸田兵長を子供と看做す価値観は存在しなくなっていた。年長の上官に向けるに相応しい態度で、どうしても気になっていたことを口にする。

「黒河内……っと、黒河内二等兵と榊二等兵のような特例の兵士は、他の隊にも配属されているんですか?」
「第一中隊ではうちの小隊だけだったと思うけど、他の中隊がどうかは知らないなぁ。小隊長なら知ってるんじゃないかな。……そうだ、大事なことを伝え忘れてた」
「まだ何かあるんですか」

怜次の問いに岸田兵長は頷きを返した。嫌な予感は今もフル稼働だ。どんなことを言われるのか見当が付いてしまう。
 それだけに、怜次の気分は重くなる一方だった。

「うちの隊……第一中隊の第三小隊は、君を含めて五人の新人が配属されることになってる。そのうち、正規兵は君だけなんだ。他の四人は特別採用制度で入隊した……子供なの」

 兵長は『子供』という表現を使うときに、微笑を浮かべながら悲しそうに肩を竦めた。その仕草だけで、怜次は彼女がこの事態に納得できていないのだと理解できる。この人は子供みたいな外見とは裏腹に、本物の子供達のことをひどく気にかけているのだ。
重苦しい雰囲気を払拭したいのか、岸田兵長は明るい声で前向きな情報を付け加えた。

「でも、小隊長と曹長はベテラン中のベテランだから。曹長はこの分野じゃ指折りの古参兵だし、小隊長は伝説の特機兵って呼ばれるくらいの凄腕なんだよ。怜次君みたいに頼りになりそうな新人も来てくれたことだし、きっと大丈夫だって」

 岸田兵長の口調には気楽さが戻ってきていた。
 怜次は力なく顔を上げた。何が大丈夫なのかは分からなかったが、兵長が自分を元気付けようとしていることは分かった。

「さっき言ってた『頼りになりそう』って、こういうことですか」
「うん。君ならあの子達の良い先輩になってくれそうだと思って」

兵長はあっけらかんと言い切った。早くも信頼されたことを喜ぶべきか、大役を押し付けられそうなことを嘆くべきか悩みどころだ。怜次はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決して宣言する。

「分かりましたよ。頼られたらいいんでしょう、頼られたら」

半ば自棄になって言い放つ。どうせ一介の兵士に拒否権などないのだ。思い悩むだけ無駄というものである。
岸田兵長は満面の笑みを浮かべ、ぱちぱちと拍手をした。

「流石はお兄ちゃん。そうそう、新入生は女の子が多いんだけど、みんなレベルが――」
「そういうのは訊いてないです」

からかい文句をばっさりと切り捨てる。
このとき、怜次は確信した。今後の軍生活で最も頭を悩ませることになるであろう要因は、中学校を出たばかりの同僚などではなく、雲のように掴みどころのない彼女であると。いくら根は真面目なのだと分かっていても、言動がとにかく予測不可能で、まともに受け止めるのは難易度が高過ぎる。
 願わくば、小隊長と曹長が真面目な人であって欲しい。怜次は心の底からそう思った。



[29376] 第三小隊結成
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/08/24 02:07
  二〇一一年 九月三十日 津ノ井駐屯地 第一会議室

 学校の教室の倍ほどの広さがある会議室に、簡素な長机とパイプ椅子が規則正しく並べられている。本来は一個中隊に所属する兵を全て収容できる広さの部屋なのだが、今は片手で数えられるだけの人数が、互いに距離を取ってまばらに座っているだけだった。
 会議室に集まっているのは怜次を除いて四人。内訳は少年が一人に少女が三人。その誰もが真新しい陸軍の制服を着用している。

「それじゃ、私は隊長達を呼んでくるから。ちょっと中で待ってて」
「分かりました。また後で」

 岸田兵長は怜次を会議室に残し、廊下の向こうへ歩き去っていった。

「あ、怜次さん」

 笑顔を向ける玲奈に、怜次は軽く手を振って応えた。相変わらず人好きのする笑顔だ。
 何気なく周囲を見渡すと、初めて見る顔の少年と少女が、怜次に対して好奇の眼差しを向けていた。
 一人はよく日に焼けた少年だ。かつては体育系の部活に所属していたのだろう。運動しなれているのが分かる体形をしている。少々背丈は低めだが、平均身長に少し届かないくらいという程度で、小柄というほどではない。
 もう一人は、見るからに生真面目な雰囲気を湛えた少女だった。制服をきっちりと着込み、髪型も規則通りに整えてある。表情にも緊張感が満ちているが、顔のところどころに幼さが垣間見え、それが少女に愛嬌を与えていた。
 この二人に玲奈を加えて三人。残りの一人は、他のみんなから離れた窓際の席に座り、無言で外を眺めている。怜次からは身体の右側と綺麗な短めの黒髪しか見えず、表情を伺うことすらできない。
 それが誰であるかは、わざわざ顔を見なくても分かる。黒河内月子だ。出会ったときは戦闘服姿だったので、軍服を着た姿を見るのは初めてだ。右手には相変わらず皮手袋を嵌めていたが、左手には何も付けていない。やはり、あの包帯を隠すためなのだろうか。
 岸田兵長が言っていた通り、怜次と比べて一回りも年下の子供ばかりだ。
 自衛軍の駐屯地にいるという実感は全く感じない。軍服を着用しているという点に目を瞑れば、部活動のミーティングのために集まった面々といった雰囲気である。
 怜次が適当な席に腰を下ろすと、日焼けした少年が近くの席に移動してきた。

「こんちわ。えっと……レイジさんでしたっけ」

 外見から年上だと見定めたのだろう。少年は敬語で怜次に話しかけてきた。

「久我怜次だ、よろしく」
「よろしくっす、久我さん。俺、長谷川翔也っていいます」

 少年は歳相応に砕けた敬語で自己紹介をする。話し方が軍隊的というより運動部のようで、怜次は少しだけ懐かしい気持ちになった。高校生だった頃、入学したばかりの後輩と話しているときの気分とよく似ている。

「そうだ。さっき来たばかりなら、俺が他の連中を紹介しますよ」

 少年――翔也はやけに嬉しそうな態度で怜次に接している。まるで他人との会話に餓えていたかのようだ。
 特に断る理由もないので、怜次は翔也の提案を受けることにした。

「それじゃあ頼めるか?」
「了解っす。まずは、一番前の奴から……」

 そう言って、翔也は赤毛の後頭部を見やった。怜次は既に玲奈のことを知っているが、とりあえず翔也の紹介を聞いてみることにした。
「あのやたら目立つ頭をしてるのが、榊玲奈っていう奴っす。さっき一度だけ話したけど、とにかくテンションの高い奴でしたね」
 おまえも相当テンション高いけどな、という突っ込みは心の奥に秘めておいた。
 翔也は湧き上がる高揚感を抑え切れていない様子だった。楽しみにしているイベントを目前に控え、我慢できなくなっている状態と表現すれば近いだろうか。不安で饒舌になっているわけではないようだ。
 生真面目そうな雰囲気の少女が立ち上がり、こちらに向かって近付いてきた。

「長谷川君、さっきも注意したでしょ。遊びに来たわけじゃないんだから、大きな声で騒ぐのは止めなさいって」

 少女は腰に両手を当てて翔也を注意した。強気な口調と表情が実によく似合っている。
 さっきというのは、恐らく玲奈と翔也が話したときのことだろう。怜次はそのときの光景を想像してみた。二人が元気に会話を交わしているところから、この少女が注意をしにやってくるところまでが、容易に脳内に浮かび上がる。
 一応、声が大きくなっていた自覚はあったのか、翔也は声量を絞って話を続けた。

「はいはい。それで、こいつが……あー、えっと……」

 目の前の少女を紹介しようとして、急に翔也は言葉を濁す。
 何があったのかは考えるまでもあるまい。単に彼女の名前を思い出せないのだろう。

「すんません。委員長っぽい奴だから、頭の中で『委員長』って呼んでたら、名前の方をド忘れしちゃいました」

 本人を前にして、翔也は包み隠すことなく正直に言い切った。
 委員長という表現に、怜次は思わず吹き出してしまった。彼女の第一印象をこれほど的確に表す単語は他に思いつかない。委員長のステレオタイプにありがちな、眼鏡に三つ編みという姿をしていないのが不思議なくらいだ。
 少女は頭痛を堪えるように額を押さえた。

「ド忘れも何も、あなたに名前を教えた覚えはないんだけど」
「あれ? そうだっけ」

 首を傾げる翔也。
 少女はその抜けっぷりに呆れ返り、怒る気力すら削がれたようだった。

「はぁ……先が思いやられるわ」

 溜息を吐き、少女は翔也から怜次へと向き直った。

「上原亜由美と申します。若輩者ですが、全霊を尽くして職務を全うする所存です。久我二等兵、ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します」

 少女こと亜由美は、しゃんと背筋を伸ばして口上を述べた。社会人の挨拶の指南書を丸暗記してきたような型通りの内容だ。
 あまりにも丁寧すぎる物言いに、逆に怜次の方が怯んでしまった。二等兵は軍隊における最下位の階級だ。指導だの鞭撻だのを乞われる立場ではない。そもそも怜次と亜由美はどちらも同じ階級なのだ。
 確かに怜次は亜由美よりも年上ではあるが、それでも高校を卒業して半年程度しか経っていない。プロの軍人と比べれば、若輩者という点ではどっちもどっちだ。こんな台詞はベテランだという小隊長達に向けるべきだろう。

「大袈裟だな……。もう知ってるみたいだけど、俺は久我怜次。よろしくな、上原」
「はいっ。この単細胞よりは役に立ってみせます」

 亜由美は妙に毒のある表現で翔也を引き合いに出した。どうもこの二人は波長が合わないようだ。体育会系と学級委員長の関係を想像すれば、不思議と納得のいく相性ではある。
 机の陰で足を蹴りあう二人を横目に、怜次は月子の方を見やった。
 自衛軍特別年少採用制度――このとんでもない制度を知ってからというもの、月子に対する印象がもやもやとしたものに変わっていた。
 あの制度は戦災によって真っ当な生活を送ることが難しくなった児童――法的には高校生以下の子供を指すらしい――を対象としたものだ。それを思うと、月子の右腕を覆う包帯にも重大な意味があるように思えてくる。
 印象が変わってしまうのは、月子だけに限った話ではない。ここにいる年少兵は例外なく特別採用で軍に入ったはずである。各々が、それ相応の理由を背負った上で。

「なぁ、長谷川。あと一人は……」

 怜次が翔也に紹介の続きを頼もうとした矢先、会議室の前側の扉が勢いよく開かれた。
 そして、もう聞き慣れてきた感のある岸田兵長の声が響き渡る。

「集まったな野郎ども! それじゃミーティング始めるぞー」

 この場の誰よりも小さな身体がホワイトボードの前に立つ。
 上官がやってきたにも関わらず、会議室の空気は引き締まるどころか、逆に弛緩すらしたように思えた。だが、それも次の瞬間までだった。

「全員揃っているな。よろしい」

 岸田兵長の後に続いて、屈強な体格の男が論壇に立つ。その途端、会議室は水を打ったように静まり返った。
 一目で歴戦の兵士だと分かる。年季の入った軍服を着こなし、鋭い眼光で新兵達を睥睨する様は、まさに軍人と呼ぶにふさわしい。年齢は三十に達したくらいだろうか。短めの髪を後ろに撫で付けた髪型が、その強面ぶりを遺憾なく強調している。
 言葉を失った怜次達を、どういうわけか男はじっと見据え続けていた。彫りの深い三白眼というものは、黙っているだけでも相当な威圧感があった。

「怯えてますよ、曹長」

 岸田兵長が男の脇腹をからかうように肘で突く。男は気難しそうに表情を崩した。

「む、むぅ……」

 大きな咳払いをして、男は改めて話を切り出した。

「まずは自己紹介から始めておこう。小隊付き下士官と諸君らの訓練教官を兼務する、猪熊竜馬曹長だ。そこにいるのは岸田佐代子兵長。もう会った奴もいるはずだな。こんななりだが、訓練教官補佐を務める予定だ。見かけに騙されるなよ」
「曹長、二言くらい多いです」

 岸田兵長は素敵なスマイルのままで毒づいた。曹長とは兵長よりも格段に上の階級だ。それなのにここまで砕けた態度を取る岸田兵長に、怜次は何とも言いがたい感情を抱いていた。物怖じしない態度への尊敬が三割と、こんな大人にはなるまいという反面教師的な思いが六割。残り一割は、この人は本当に軍人なのだろうかという純粋な疑問だった。
 子供の雇用に苦言を呈したときとはまるで別人のようだ。もしかしたら、本当に同じ顔の人間が入れ替わって登場しているだけなのかもしれない。怜次はその光景を想像し、表情に出さず密かに笑った。
 猪熊曹長は何事もなかったかのように、岸田兵長の苦情を無視して話を続行する。

「諸君らが配属されたこの部隊は、中部方面隊隷下第三特機隊第一中隊所属第三小隊、いわゆる『特機小隊』の一つだ。諸君ら五名と我々二名、それとここにはおられない小隊長を加えた八名で部隊が発足することになる」

 一旦言葉を切り、新兵達を一通り見渡してから言葉を継ぐ。

「とはいえ、黒河内二等兵と榊二等兵は一週間早く着任していたから、実質的には新たに三人が着任して小隊が完成した形になるな」

 なるほどそういうことか、と怜次は納得した。
 月子が実戦参加しているのはこの目で見ており、玲奈も実戦に関わっていたことを匂わせる発言をしていた。怜次と同期の隊員になることを考えると不自然だが、一足先に配属させられていたなら話は別だ。

「ここまでで、何か発言しておきたいことはあるか」

 そう言われて、翔也が遠慮がちに手を挙げた。

「質問、いいっすか」
「許可しよう。言ってみろ」
「えっと、八人って少なすぎじゃないですか?」

 翔也の疑問は、特機部隊の内情を知った者が必ず一度は思うことだ。
 軍隊において最もメジャーな兵科である歩兵部隊の場合、一個小隊はおよそ四十人で構成される。八人というのは、それのたったの五分の一でしかない。小隊を幾つかに分割して行動するときは分隊という小集団を構成するのだが、それですら十人前後が一般的だ。

「長谷川二等兵か。お前がいた教育隊では一隊二十人編成だったな。それなら少なく感じるのも止むを得まい」

 猪熊曹長はその質問を予想していたらしく、淀みなく回答を返した。

「確かに歩兵小隊なら四十人前後が定数だ。だが他の部隊には、それぞれに適した人数というものがある。例えば戦車小隊は十六人から十二人で構成されている。上原二等兵、理由が分かるか?」

 猪熊曹長は亜由美に話の矛先を向けた。
 亜由美は驚いて目を瞬かせていたが、すぐに気を取り直して立ち上がった。

「はい。戦車小隊は戦車四輌で一個小隊を構成するからです。四人乗りの戦車なら十六人、三人乗りの場合は十二人が小隊の人数となります」

 まるで教師に問題を解くよう命じられた優等生のような語り口で、亜由美は答えた。曹長は別に起立しろとは言っていないのだが、学生だった頃の癖が残っていたのだろう。彼女が送ってきた学園生活を想像させるには充分な態度である。

「模範的な回答だな。特機小隊もこれと同じだ。一個小隊の配備数は四機で、一機あたりの乗員数は最大二人。一人で操縦することも不可能ではないが、身体的な負担を考慮して長時間の単独操縦は非推奨とされている」

 鉄道が襲撃されたとき、月子は単独で特機を動かしていた。非推奨といっても禁則事項というほど厳しい制限ではなく、できれば二人で動かしたほうが良いという程度なのだろう。
 実際、教育隊のカリキュラムにも単独操縦の訓練が組み込まれている。絶対に行ってはならない事柄なら、わざわざ時間を割いてまで習得させたりしないはずだ。

「そういうわけで、合計八人が特機小隊の標準的な員数となる。これくらいは事前に知っておいて欲しかったが……戦線に投入されて十年も経っていない兵器だからな、仕方がないか」

 曹長は会議室を端から端まで見渡して、ふむと頷いた。

「そろそろ小隊長に同席して頂いた方がいいな。よし、総員起立。これから特機の格納庫へ移動する。そこで小隊長と特機に挨拶だ」
「やった!」

 先に部屋を出た猪熊曹長と岸田兵長の後を、翔也が嬉しそうに追っていった。感情が顔に出ないよう気をつけてはいるらしいが、誰が見ても喜んでいるのは明らかだ。怜次は他の隊員達から少し遅れて、猪熊曹長に置いていかれない程度の速さで歩いていく。

「久我二等兵、ご存知ですか」

 亜由美が怜次に身を寄せて、小声で囁く。

「長谷川君……長谷川二等兵のことですけど、特機のことをヒーローが乗るものか何かだと勘違いしているみたいなんです。年甲斐もなくはしゃいでいて……」

 怜次は内心で首を捻った。これは世に言う告げ口というものか? 不満を述べる亜由美の顔は、言うことを聞かない悪餓鬼に手を焼いているまとめ役の生徒といった雰囲気だ。ここまで見事に委員長気質の性格だと、彼女を頭の中で『委員長』と呼んでいた翔也の気持ちも分かってしまう。
 それはそうと、彼女の発言にどんな答えを返せばいいのだろう。適当に同意するべきか、反対意見でも考えてみるべきか。どちらを選んでも角が立つ気がした。

「まぁ、確かに特機は凄い外見してるから、分からんでもないが……」

 そこまで言って隣に視線を移す。亜由美は不服そうに眉をひそめていた。

「……見かけが良くても兵器は兵器だからな。真面目に取り組んでもらわないと」
「当然です」

 結局、怜次はどっちつかずの返答をするに留まった。
 亜由美は線の細い肩を怒らせて、曹長達のすぐ後ろまで早足で掛けていった。本当に、亜由美と翔也達は相性が良くないらしい。
 怜次は大雑把な仕草で後頭部を掻いた。当面の間、小隊はこの面子で運営されていくことになる。いわば一蓮托生の共同体なのだ。初日からこんな様子では、これから先を不安に思わないほうが難しい。
 格納庫は、会議室のある建物から少し離れたところに建てられていた。
 高さ十メートル強、奥行き三十メートル以上はある、白いプレハブ造りの建造物。それが十五棟ほど規則正しく並び建っている。まるで工場地域の一画を切り出して、駐屯地の敷地まで持ってきたかのような風景だ。
 隊員達は猪熊曹長を先頭にして、格納庫の間を歩いていく。路面は土で薄汚れ、ところどころが浅く陥没していた。
 やがて、曹長は真新しいプレハブの前で立ち止まった。

「ここが我々の小隊の格納庫だ。他はよその小隊の格納庫だからな。間違えるなよ」

 プレハブの外見自体は、他の格納庫と全く同じものだ。同一規格のプレハブを建てているのだろう。しかし外壁の汚れは他より格段に少なく、最近になって新築した建物だということが見て取れる。
 屋根の真下まで届く大きなシャッターが、鈍い金属音を立てながらゆっくり上がっていく。地面から一メートル程度の高さまで上昇したころで、一人の男がシャッターを潜ってひょっこりと姿を現した。

「ん、全員揃ったのか?」

 男は気さくな態度で笑った。
 最初に目に付いたのは、豊かな白髪に黒い毛髪がまだらに混ざった模様の頭髪だった。顔付きや身体はかなり若々しいのに、髪のせいで実年齢が分かりにくくなっている。一見すると、男はスラックスにワイシャツという極めてラフな服装をしているようにも見える。だがよく見れば、男が肩に掛けている上着は陸軍士官の軍服であった。
 猪熊曹長がお手本のような敬礼をして、白髪頭の士官に現状を報告する。

「中尉。猪熊竜馬以下七名、全員集合致しました」
「ご苦労さん」

 白髪頭の中尉は猪熊曹長を労うと、新人達の方を向いた。
 その間にも格納庫のシャッターは少しずつ開き続けている。
「俺が第三小隊の小隊長、日向虎彦だ。正式な隊の発足は明日付けだが、顔と名前くらいは今のうちに覚えといてくれ」

 日向中尉は、猪熊曹長とは正反対の飄々とした態度で、格納庫の前に並んだ新人達に名前と肩書きを名乗った。
 そのタイミングを狙っていたかのように、岸田兵長が茶々を入れる。

「顔より頭の方が覚えやすいと思いますよ?」
「ははは、違いない」

 小隊長に対する新人達の反応は十人十色であった。
 亜由美は不真面目な態度に閉口している。
 翔也は今までの騒々しさがすっかり影を潜め、がちがちに緊張して立ち尽くしている。
 そして、月子は今まで見たことがないくらいに真剣な顔つきで、小隊長のことをまっすぐ見据えている。
 ふと、怜次は岸田兵長と交わした会話を思い出す。確か兵長は『小隊長は伝説の特機兵って呼ばれるくらいの凄腕』だと言っていた。
 それが誇張でないとしたら、この気さくな青年が『伝説の特機兵』なのだろうか。
 確かに日向中尉の肉体は無駄なく引き締まっている。しかし、まさしく歴戦の兵士といった風体の猪熊曹長とは違い、優男という表現がしっくりくる容姿である。
 巨大なシャッターが全開になる。がしゃんという音を立て、シャッターの巻き上げが停止する。日向中尉は不敵な笑みを浮かべて、格納庫の照明スイッチに手を掛けた。

「さて、せっかくここまで来たんだ。自分達が乗る機体くらい確認しておきたいだろ?」

 スイッチが入り、格納庫の照明が一斉に点灯した。
 殺風景な格納庫の内装が次々と照らされていく。巨大なクレーン。二階通路を繋ぐ空中の渡り廊下。唸りを上げる発電機。山と詰まれた大型コンテナの数々。
 それらに囲まれて、人造の巨兵が静かに立っていた。
 頭までの高さは三メートルから四メートル。脚の付け根までの高さだけで人間の身長に匹敵する。胸部は前後に張り出し、強靭な足腰と上半身を柔軟な腰部が連結している。金属繊維で編まれた筋肉を合成皮膜で包み、グレーの外装で装甲した巨大なヒトガタ。
 月子が乗っていた機体と同型だが、まだ迷彩塗装を施されておらず、武装も未搭載だ。他に違いがあるとすれば、頭部周辺のアンテナ類が大幅に増設されているくらいだろうか。

「正式名称、三式特殊駆動機械。通称『三式特機』――当分の間、お前達が世話になる機体だ。しっかり挨拶しておけ」

 日向中尉は特機の爪先に腰を下ろしてそう言った。先ほど、顔と名前くらいは覚えてくれと言っていたが、別にそんな心配をする必要はないだろう。
 こんなに印象の強い人なのだ。覚えないほうが難しいに決まっている。










  二〇一一年 十月一日 津ノ井駐屯地 司令官執務室
 
 第三特機群群長、天野大佐はデスクの椅子に深々と腰を降ろし、四十歳という年齢を感じさせない眼光で、整列した若い部下達を見渡した。駐屯地の司令官は、その駐屯地に配備されている部隊の隊長の中で最も階級の高い者が兼任する。津ノ井駐屯地の場合は第三特機群の群長がこれに該当していた。

「予定通り、特機群隷下の五個中隊に小隊を一個ずつ新設することができた。これも諸君らの尽力があってこそだ」

 天野大佐は型通りの言葉で部下を労った。
 司令室に集まっているのは、七月一日付けで新設された特機小隊の小隊長達だ。階級は少尉か中尉のどちらかで、五人全員が二十代前半から二十代半ばまでの年齢層に収まっている。軍人としては若手と呼ばれる年齢の者ばかりである。

「諸君らには、これから小隊長として新設小隊を率いてもらうことになる」

 大佐は椅子から立ち上がると、壁に貼り付けられた東アジア地区の地図を示した。敵勢力地域を示す赤いマーカーが、大陸沿岸部を中心に、陸地の二割から三割の面積を制圧している。その一方で、日本列島を始めとした島嶼地域には殆ど赤マーカーが乗っていない。
 天野大佐は地図の枠外に除けられていた赤マーカーを一つ取ると、マレー半島の南端に配置した。

「五時間前に入った情報だ。シンガポールにまとまった戦力を持った敵勢力が上陸した。即座に排除したものの、軍事関連の港湾施設が多大な損害を被ったらしい。この結果、諸君はどう見る?」

 小隊長達は僅かにざわついたが、すぐに冷静な分析を開始した。

「マラッカ海峡を守る戦力が一次的に低下して、石油タンカーの運行が滞る危険が考えられますね。日本が輸入している原油の殆どはあそこを通りますから、海上交通の停滞は大きな打撃になります」
「そこを通っているのは石油タンカーだけではない。他の物資にも影響がある」
「金属資源の輸入が途絶えれば大変なことになるな」

 天野大佐は小隊長達の議論に耳を傾け、大きく頷いた。大佐が何かを話そうとしていると察し、小隊長達はすぐに静かになった。

「金属食性異星生物――いわゆるグレムリンとの戦いは今も世界規模で続いている。今日、我が国に資源を輸出している国が、明日も同じように輸出を存続しているという保証はどこにもない。そうでなくとも、他国への輸出に回す余裕がなくなるかも知れん」

 一旦そこで言葉を切る。天野大佐は小隊長の顔をひとりひとり順番に見据え、充分な間を置いてから改めて口を開いた。

「故に、今後の戦いでは特機が重要となるのだ。諸君らが育てる新設部隊もまた、将来の防衛戦線を支える大切な柱となることだろう。そのことを肝に銘じて、部隊運営に臨んでもらいたい。私からは以上だ」

 そして、天野大佐は解散を命じた。小隊長達は頭を軽く下げ、順番に退室していく。
 自衛隊とその後継組織たる自衛軍では、額に手をかざす形の敬礼は帽子を被っているときにしか行わない。脱帽時の敬礼は文字通り『礼』となる。

「――ああ、日向中尉は残ってくれ」

 天野大佐に呼び止められ、虎彦は足を止めた。他の四人が執務室を出ていったのを見届けてから、執務用のデスクの前へ戻る。

「君の小隊には、特別採用の年少兵が割り当てられていたな」
「はい。それが何か」

 虎彦は無感情な声で答えた。
 割り当てられているというよりは、それしか割り当てられていないという方が正確である。配属された新兵五人のうち実に四人が年少兵なのだから、普通の新兵こそが少数派だ。それどころか小隊の半分が年少兵という勘定になる。
 こんな異様極まりない編成の部隊は、新設された五個小隊の中でも虎彦の隊だけである。
 天野大佐は蛇のような眼差しで虎彦を見据えている。痩せ気味の顔の中で、無機質で切れ長の眼球だけが爛々としている様は、まるで人の形をした爬虫類と向かい合っているかのような感想を抱かせる。

「第三小隊に配属された黒河内二等兵……決して彼女を戦死させてはならない」
「それは命令でありますか」

 努めて無表情を維持したまま、虎彦は問い返す。

「厳命だと言っておこう。私よりも上の権限からの要請だ」

 大佐も無機質な表情を崩そうとしない。表情筋がこれ以外の形を作れないのではと思ってしまうほどだ。

「拝命します」

 虎彦は素直に要請を受け入れた。ここで問答をしたところで何の意味もない。天野大佐は上からの要請を伝えたに過ぎず、また大佐自身にも拒否権などなかったに違いない。
 どこからの要請なのかは凡そ検討がつくが、つくづく無意味な要請をしたものだ。部下を死なせたがる上官などいるわけがなく、そう願っていても死んでしまうときには死んでしまう。配属された後になって、戦死させるなという圧力を掛けるくらいなら、最初から特機部隊に配属させない方向で圧力を掛ければよかったのだ。
 更に言えば、自衛軍に入隊させたこと自体が理屈に合っていない。
 天野大佐は一冊の書類を虎彦の方へと滑らせた。

「君の部隊に配備される予定の新型特機、一〇式の仕様書だ。後で目を通しておきたまえ。現在、追加改良のため製造に遅れがみられるが、半年以内には定数を揃えられるだろう。それまでは三式を継続して運用するように」

 虎彦は書類を受け取り、一枚目をめくってみた。そこには、三式よりも洗練されたフォルムの設計図が描かれていた。新型機の配備が半年以内。その間に何も起こらなければいいが――虎彦は内心の不安を隠したまま、新型機の仕様書を受け取った。
 そのとき、執務室の扉が軽くノックされた。

「空木です」
「おお、君か。入りたまえ」

 現れたのはスカートスーツに身を包んだ妙齢の女だった。軍人という雰囲気ではないが、化粧が薄くやたらと愛想のないその表情は、軍需製品を売り込みにきたセールスレディとも思えない。
 女は無関心に虎彦を一瞥したが、すぐにもう一度顔を向け、目を丸くした。

「驚いた。まさか、あの日向少尉か?」
「今は中尉だ、空木技官」

 天野大佐が訂正を入れる。

「なるほど、昇進されたのか。大佐殿、彼と少々話がしたいのですが、お借りしてもよろしいでしょうか」
「構わんよ。こちらの話は済んだばかりだ」

 どうやら本人の意思が介在する余地はないようだ。虎彦は大佐に屋内式の敬礼をし、空木という技官の後に続いて廊下へ出た。
 司令官執務室から少し離れたところで、空木は虎彦に向き直った。

「私は技術研究本部、陸上装備研究所の空木都子。お会いできて光栄だ、日向中尉。神奈川へ帰る前に大佐殿に挨拶をしようと思ったら、とんだ有名人に出会えたものだ」

 そう言って、空木は握手を求めてきた。虎彦はそれに応じながらも、空木のことをさりげなく観察した。
 技術研究本部――通称『技本』は防衛省の下部組織で、自衛軍の装備品全般の研究開発を行う組織である。単に『技官』と呼ばれていたので、軍人ではないらしい。軍人と技官を兼務している場合は特別な階級名で呼ばれるのだ。
 技本の職員が一地方の駐屯地を直接訪れるのはかなり珍しい。それこそ珍客の部類に入るくらいだろう。

「はじめまして、でいいのかな。空木技官」
「ああ。私が一方的に知っているだけだからな。というより、私の同業者で『日向少尉』のことを知らない者はまずいないよ」

 昇進前の階級をあえて使うのは、虎彦が少尉だった頃の行為が有名なのだという意味を込めているのだろう。となると、理由は一つしか思い浮かばない。
 空木は虎彦が手にしている書類に目を落とした。冷徹な美貌に喜色が浮かぶ。

「中尉に昇進したということは、一〇式の小隊を指揮するのか?」
「予定上では。今のところは、練習用の三式しか届いていないけどな」

 それを聞いて、空木は自嘲気味に髪を掻き揚げる。

「とんだご迷惑をおかけしているようだ。メーカーには性能に妥協しない方針で生産させていたのだが、現場に行き渡るのが遅れては元も子もない。開発メンバーの一員として切にお詫び申し上げる」

 なるほど、と虎彦は内心で納得した。空木技官は一〇式開発のプロジェクトチームの構成員で、一〇式に関する用件で駐屯地に来訪していたということだ。そんな相手と遭遇できたのは随分と気前のいい偶然だといえるだろう。

「お詫びといってはなんだが、一個小隊分計四機、耳を揃えて五週間後にはお届けできることを約束しよう。十一月第二週には新たな特機への移行訓練を始められるはずだ」
「そいつは有り難いが、こんなところで安請け合いしてもいいのか?」
「なぁに、うちの業界には君のファンが多いんだ。なにせ上海から特機を連れ帰ってきたのは君だけだからな。多少の贔屓くらいできるさ」

 やはりあのことか。虎彦は押し黙り、睨むように目を細めた。忘れたくとも忘れられない出来事。地獄の縁を覗いた瞬間。あれを評価し、あまつさえ感謝すらできるのは、最前線と無縁に生きてきた人間に違いあるまい。

「怖い顔だ。しかし我々が君に感謝しているのは本当だよ」

 薄い口紅で彩られた唇が、にやりと歪む。

「地獄の上海戦役。自衛軍結成以来、空前絶後の大敗。君があの戦地から持ち帰った機体は、我々にとって何物にも代えがたい貴重なサンプルだったよ。おかげで一〇式に更なる改良を加えることができたんだからね」

 そして、空木は笑った。



[29376] ファーストミッション
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/08/25 21:45
  二〇一一年 十月六日 島根県奥出雲町 猿政山周辺部

 まさしく日本の山というべき風景を眺めながら、怜次は嘆息した。山肌に沿って続く日当たりの良い林道からは、中国山地を構成する山々をぐるりと一望することができた。十月の彩りに染まった木々と青空のコントラストは、まさに絶景と呼ぶに相応しい。
 大きく息を吸い込むと、冷たく澄んだ空気が胸を満たしていく。空気が美味しいという表現は、決して比喩ではなかったらしい。都会では決して体験できない贅沢な味わいだ。
 見事な展望に澄み渡った空気。休暇で訪れるには最高の環境に違いない。
 惜しむらくは、怜次がここを訪れた理由が休暇ではないことである。

「久我さん。小休止はそろそろ切り上げよう」

 月子が相変わらずの口調で呼びかけてきた。
 怜次は溜息を吐いた。今度は感動を込めた嘆息ではなく、疲労感がたっぷりと詰まった溜息である。

「……そんなに急がなくてもいいだろ。時間はたっぷり余裕があるぞ」

 愚痴りながらも、声のした方へ向き直る。
 登山客の団体が余裕を持って通過できる道幅の林道に、迷彩塗装の特機がしゃがみこんでいる。第三小隊の三号機だ。張り出した胸部を下に、箱を背負ったような背部を上に傾けているので、窮屈な体勢で片膝を抱えているようにも見える。
 右腕には三五ミリ機関砲を装備し、背部左寄りには機関砲の弾装を背負っている。いわゆる標準戦闘装備という兵装である。
 月子はその足元に座って地図を広げていた。
 近くへ来いと手振りで示されたので、怜次は月子の正面に腰を下ろした。

「にしても、まさかこんなに早く出撃させられるなんてな。小隊の編成が一日で、今日が六日だから、まだ五日しか経ってないってのに」

 怜次と月子は揃いの戦闘服に身を包んでいる。二人が初めて出会ったときに月子が着ていた装備と同じものだ。どちらの戦闘服も陸戦用の迷彩服と対G装備を組み合わせたようなデザインで、それぞれにサイズ以外の違いはない。
 それに加え、月子は例の皮手袋を両手に嵌めていた。

「特機兵は常に不足しているそうだ。私なんか小隊発足より前から駆り出されたくらいだよ。考えようによっては、気軽な実地訓練と言えなくもないさ」
「……確かに、下手すりゃ待機してる間に作戦終了ってことも有り得るしな」

 怜次達が猿政山を訪れた理由。それは、第三小隊に下された任務のためである。
 特機部隊は各方面隊に一個もしくは二個ずつ配置されており、中部方面隊の場合は第二特機群と第三特機群が該当する。
 中部方面隊の管轄は岐阜富山愛知の三県から山口までの西日本と四国であり、第二特機群は中部地方西部と近畿地方を、第三特機群は中国地方と四国をそれぞれ担当している。
 つまり、島根県と広島県の県境で特機部隊が必要となった場合、怜次達の所属する第三特機群から部隊が派遣されることになるのだ。

「再出発の前に、今後の行動指針を確認しておこうか」

 月子は膝の上に地図を広げた。地図上には、猿政山の周りの計八箇所に赤インクで印が付けられている。

「私達の待機地点はここだ。現在位置はそこだから、林道をもう少し登れば到着する」
「それで、歩兵大隊からの連絡を受け次第、攻撃に移る。だろ? 日向中尉と岸田兵長の一番機の待機地点はその赤丸で、向こうの四つは第二小隊の場所、と」

 任務の内容自体は出撃前に何度も確認している。しかし、いざというときに思い出せなければ何の意味もない。だからこそ、こうして何度も確認することが大切なのだ。
 怜次は自分が新兵に過ぎないことを自覚している。それ故に、当たり前としか思えないことでも繰り返し確認するようにしていた。きっと月子も同じ考えなのだろう。
 例えば地図に記された印の意味。月子が指で示した待機地点には、赤い丸印と、算用数字で一‐三‐三という書き込みが記されている。これは第一中隊第三小隊三番機の待機場所を示す印という意味だ。この任務には第一中隊第二小隊も参加しているので、印は全部で八つ記入されている。
 いざ戦闘となったときに、この読み方を間違えれば悲惨な事態になる。馬鹿らしいと思われるかもしれないが、混乱した人間は馬鹿らしい間違いを平気で犯してしまう。それが新兵であれば尚更だ。

「私が先週参加した任務と似たようなものだな。巣を潰されて『はぐれ』になったグレムリンを歩兵部隊が追い立て、先回りした特機でトドメを刺す。典型的な山狩りだよ」
「あのときは先回りできずに列車がお釈迦になってたぞ?」
「それは……歩兵部隊が追い込みに失敗したからであってだな。私は精一杯やったんだ」

 怜次が茶々を入れると、月子は不愉快そうに眉をひそめた。これ以上からかうと本気で反論してきそうだったので、怜次は話題を戻すことにした。

「それはそうと、この山の近くで目撃されたっていうグレムリンは、二ヶ月前に壊滅に成功したっていう巣の生き残りで間違いないのか?」
「恐らくはそうだろうと推測されている。巣のあった赤名峠からここまでは二十キロ程度しか離れていない。それに、中国地方で他の巣が発見されたという報告もない。この前みたいに単独で百六十キロも逃走するのは珍しい事例だ」

 先週グレムリンが鉄道を襲った場所は、鳥取県の北東の隅に位置する。一方、そのグレムリンの巣があったとされる赤名峠は、島根県中部の県境にある。
 首都圏を例に挙げれば、東京都の都心から静岡県静岡市までの距離に近い。
 下っ端のグレムリンが単独でこんなに移動するのはかなりのレアケースである。

「例外的に『女王』が群れを率いて移動する場合は、何千キロだろうと平気で移動するらしいけど、赤名峠の巣穴は『女王』も仕留められてるから……いや、これは関係ないか」

 月子は地図を折り畳んで立ち上がった。ついでにズボンの砂を払ってから、しゃがんだままの三号機の胸部装甲に手を掛ける。
 外部からのレバー操作で内蔵モーターが作動し、張り出した胸部の前面装甲が開いていく。開閉時には下半身に近い側が軸となるので、必然的に装甲の一部が地面と接触して、地表を浅く掘り返す。
 開閉する側の装甲の内側にはちょっとしたステップが設けられており、通常はこれを使って乗り降りすることになっている。月子のように平然と飛び降りるほうが少数派なのだ。

「ここまでは久我さんが操縦だったから、今度は私が動かすよ」

 そう言って、月子は怜次に手招きをした。

「……お言葉に甘えるかな。操縦頼んだ」

 先ほど、怜次が疲労感の篭った溜息を吐いていた理由がそれだ。特機の操縦は見た目以上に心身の疲労を招く。まして不整地を行軍するとなれば、単に平地を移動するよりも何割増も疲れてしまう。
 まず怜次は上半身を操縦席の乗降口に入れて、前部座席の背もたれを手前に倒した。次に、両手と膝を使って後部座席のところまで移動する。そして、座席の上で身を捩って着席し、ベルトで身体を固定する。これが特機の後部座席への搭乗手順だ。

「搭乗完了っと。黒河内、もういいぞ」
「了解」

 月子は倒された背もたれを元に戻し、そこに腰を下ろした。前部座席は後部座席よりも乗りやすくなっている。それでも天井が低く幅が狭いことに変わりはなく、月子が簡単に乗り込めるのは、歳相応の少女らしい小柄な体格のお陰である。

「閉めるよ」

 内部からのレバー操作によって、開放されていた胸部装甲がゆっくり閉まっていく。それが完全に閉じきった頃には、操縦席を深い暗闇が覆い尽くしていた。
 特機の操縦席は凄まじく狭い。文字通り、座った状態の人間が辛うじて納まるくらいの高さしかなく、奥行きも座席二つ分しかない。積載機器も必要最小限に留まっており、操縦席の左右に通信機や各種計器が取り付けられている程度だ。
 月子は薄手のベルトを首に巻いて、手元のボタンを押した。そのベルトは細い配線の束で操縦席と連結していた。まるで月子と機体を繋ぐ神経節のように。

「っ――神経系インタフェース、接続完了」

 狭い操縦席に搭載可能な機器で、人型という複雑な機構を制御する手段。それがこの神経系インタフェースという技術だ。
 この技術は、医療方面でも頭で思い浮かべた通りに動く義手などの研究に用いられている。これにより、特機の操縦士は肉体の延長のように特機の四肢を動かすことができるようになるのである。
 月子が始動ボタンを押しながら足元のペダルを踏み込む。まもなく充電器が動き始め、操縦席のコンソールが次々と起動していく。機体の下部で燃料槽のポンプが作動し、鈍い鼓動を立てながら、金属製の筋肉繊維に動力溶液を行き渡らせる。

「筋動力安定。平衡調整完了。……三式、起動確認」

 機動シークエンスを済ませてから、月子は座席越しに振り返った。後部座席の方が僅かに高い位置にあるため、軽く見上げるような眼差しになっている。

「久我さんもインタフェースを付けておいてくれ。何かあったらいけないから」
「ん、分かった」

 怜次は座席の脇から神経系インタフェースのベルトを引っ張り出し、月子と同じように首に巻いて手元の接続ボタンを押した。ヴン、というスイッチが入るような幻聴の後で、身体の感覚が延長された錯覚が訪れる。
 事故などで四肢を失ったとき、稀に失くした手足の感覚が残り続ける『幻肢痛』という症状が起こるという話を聞く。この場合は、最初からありもしない手足の感覚が新たに生じるようなものだ。
 今は機体全てのコントロールを前部座席に預けているので、その錯覚も大して強くはない。だが、前部座席に座っていたときは身体が二つあるように思えて仕方がなかった。

「これって便利だけど、色々疲れるんだよなぁ……」
「そうか? 私はあまり気にならないけど」
「……慣れるの早いな、おい」

 雑談をしている間にも、月子は手早く準備を整えていた。操縦席の左側に折り畳まれていた二本のアームとその先に取り付けられた液晶ディスプレイを正面まで引っ張り出して、右側のもう一対のアームと連結させ、前部座席の正面にしっかりと固定する。
 電源を入れると、画面上に外の風景が映し出された。頭部カメラが撮影している映像だ。
 三式特機は胸部装甲を開閉させて乗り込む構造のため、前部座席の正面にディスプレイを配置することができない。そのため、わざわざこんな回りくどい手順を踏んでセッティングする設計になってしまったらしい。

「立ち上がるぞ」

 計器の淡い光に照らされた前部座席で、月子が独り言のように宣言する。
 三号機が曲げていた脚部をゆっくりと伸ばす。
 ゆり籠のように傾く操縦席の中、怜次は通信機のスイッチを入れた。

「こちら一‐三‐三。小休止を終了。これより待機地点へ向かいます」

 少しばかりの間を置いて、耳に馴染んだ感のある岸田兵長の声が返ってくる。

『りょーかい。変に緊張しちゃダメだからね。隊長機はすぐ近くにいるから、何かあったら頼りなさいよ』
「何も無いことを祈ります」

 通信を終え、怜次は深く息を吐いた。どうにも気分が重たい。胸の奥に鉛の塊が入っているかのようだ。
 認めたくないことだが、自分は緊張しているのだろう。
 三号機が歩き出す。機体の幅よりも多少広い程度の林道を、一歩ずつ前へ進んでいく。すぐ左手は崖に近い角度の急斜面になっている。自分の足で立っているときは風光明媚な絶景ポイントでも、特機に乗っている状態では恐怖の対象にしか感じられない。
 もし月子が操作を誤れば、三号機はたちどころに斜面を転げ落ちて無残な残骸に成り果ててしまうだろう。
 怜次は心臓の高鳴りを押さえるように。もう一度息を吐き出す。

「……ふぅ」
「何だ、初めての実戦で緊張してるのか」

 前部座席から、からかうような声が投げかけられる。怜次はむっとした表情を浮かべた。確かに図星ではある。しかし、それを三つも年下の少女に指摘されるのはどうしても腹が立ってしまう。

「そんなわけないだろ。教育隊の訓練でも実戦には参加してるんだからな」
「訓練課程の実戦参加なんてエキストラみたいなものじゃないか。ちなみに私は、これで三回目の出撃だぞ」

 月子はどこか自慢げにそう言った。
 これで三回目ということは、先週の鉄道襲撃事件より以前に初陣を終えていたということになる。

「どうせ最初の出撃は見学同然だったんだろ?」

 怜次は妙な対抗意識を覚えてしまっていた。これでは売り言葉に買い言葉だ。もしかしたらすぐにでも戦闘が起こるかもしれないのに、操縦席の中で不和を生じさせるなんて論外もいいところだ。
 しかし、月子の反応は以外と素直なものだった。

「……まぁね。実は、私も少し緊張してる。こんなに狭い山道を歩くなんて初めてだからね。足を踏み外したらどうなるか、正直想像もしたくないよ」

 軽い感じで笑いながらも、月子はディスプレイから顔を離していない。
 正面ディスプレイの四分の三には機体前方の風景が映し出され、左下の四分の一には機体左側の足元の様子が表示されている。特機には頭部のカメラ以外にも幾つかのサブカメラが搭載されており、必要に応じてディスプレイの表示を切り替えられるようになっている。
 怜次は、ばつの悪さを誤魔化すように頭を掻いた。これでは自分の方が子供みたいではないか。

「こういう任務が多いのは仕方がないと思ったほうがいいな。不整地や山道でも移動できるのが特機の強みなんだから」

 もっともらしいことを言いながら、怜次は後部座席のディスプレイを準備した。表示するのは機体左側の風景。急斜面の向こうに広がる山々である。
 こうして複数の方向を同時に確認できるのも、操縦士が二人いることのメリットだ。
 やがて林道は斜面から離れ、機体の両側を木立が取り囲んだ。当分は見通しの悪い状態が続くが、また暫く進めば別の斜面に行き当たるはずだ。

「それにしても、まさか黒河内とペアを組まされるとは」
「……不満なのか?」

 月子は低い声で言い返してきた。

「いいや。小隊の男女比が一対一なのに、わざわざ男女で組ませる意味があるのかなって思っただけだよ」

 今回の第三小隊の編成は次のような内訳だ。
 一号機、つまり小隊長機に日向虎彦中尉と岸田佐代子兵長。
 二号機に猪熊竜馬曹長と長谷川翔二等兵。
 四号機に上原亜由美二等兵と榊玲奈二等兵。
 そして、この三号機には怜次と月子が乗っている。

「どうなんだろうね。もしかしたら、くじ引きで決めただけとか」
「流石にそこまでいい加減じゃないだろ。岸田兵長ならやりかねないけど、曹長あたりが止めてくれるはずだ」
「ああ、それは確かにありそうだね」

 任務と関係ない雑談を繰り返す。作戦中に不真面目だと叱られるかもしれないが、こうでもしなければ緊張が解れそうになかった。
 少なくとも月子と離している間は、胸の奥に掛かる重みを忘れられる。それだけでも、作戦遂行上の利点があるとは言えないだろうか。
 木立を抜け、再び見晴らしが良くなる。
 後部座席のディスプレイに紅葉した山々が映し出される。少し前まで見えていた山とは違う風景だ。

「久我さん。そろそろ待機地点だから、隊長機に連絡を――」

 その瞬間、斜面を挟んだ向かい側の山肌で何かが動いた。
 木々の梢が局所的に震動し、不可思議な形の物体が飛び出してくる。

「黒河内! 左から来る!」
「えっ――――きゃあ!」

 『それ』は瞬く間に谷を飛び越え、三号機に激突した。
 左側面から凄まじい衝撃が襲い掛かる。
 三号機は成す術もなく山肌に叩きつけられた。

「くぅ……」

 月子が苦悶の声を漏らす。三号機の右半身は山肌の柔らかな土にめり込み、立ち上がることを困難にしていた。機体の四肢に搭載された金属製筋肉が唸りを上げる。それでも三号機が起き上がる気配はない。

「どうした、黒河内! 立てないのか?」

 ディスプレイから得られる外の情報はまるで役に立っていない。幾らカメラを切り替えても土や空しか映し出されていない。
 ガリガリと金属の削れるような音が響く。あまりにも耳障りな雑音で、思わず耳を塞ぎたくなってしまう。どこから聞こえてくるのか分からないが、まさか四肢に故障でも発生したのだろうか。

「違う! 何かに押さえつけられてるんだ!」
「何かだって……?」

 怜次は次々とディスプレイの表示を切り替える。やがて、機体左側面のカメラの映像が映し出される。
 どういうわけか、ディスプレイは真っ暗なままだった。
 明らかにおかしい。三号機は右半身を山肌に押し付ける形で倒れている。ならば、左半身に取り付けられたカメラは向かい側の山々を映していなければならないはずだ。
 故障か、あるいは――

「黒河内! 機体側面に何か張り付いてる!」
「やはりか!」

 月子は右手のレバーの撃鉄を引いた。
 機体右腕の三五ミリ機関砲が轟音を唸らせて回転し、無数の砲弾を吐き散らす。山肌に押し付けられた状態での砲撃だったため、激しい震動と砲弾の衝撃波が山肌の土砂を吹き飛ばして土煙を巻き起こす。
 粉塵に追い立てられるように、三号機を押さえ込んでいた『何か』が飛び退いた。それと同時に、金属を削る不快な音も消え失せた。
 怜次のディスプレイに光が差す。
 後光を背に飛び退き、斜面から突き出した大木にぶら下がった『何か』は、形容しがたい奇怪な形状をしていた。

「……っ!」
「まさか、あれは……グレムリン?」

 怜次は言葉を失い、月子もその正体を断定できないでいる。
 その生物は、まるでヒトデのような姿をしていた。
 いい加減な比喩ではない。星型をした典型的なヒトデではなく、触手に近い柔軟な腕を持つ類のそれだ。金属質の筋肉で構成された六本の触腕をうねらせ、そのうちの一本を大樹の枝に引っ掛けてぶら下がっている。触腕の先端には一本ずつの鉤爪があり、それを用いて重量を支えているらしい。
 触腕の付け根は金属の殻のような装甲で覆われている。恐らくはあそこが胴体に相当するのだろう。胴体の底には黒い穴が開いており、その周囲を鋭い牙が覆っていた。
 大きさは、胴体の直径が一メートルほどで、触腕の長さはそれぞれ三メートル前後。触腕を伸ばせば特機など容易く包み込めるに違いない。
 怜次はディスプレイに映る異形に視線を奪われながら、一号機への通信回線を開いた。

「こちら一‐三‐三、グレムリンと遭遇。繰り返す。こちら一‐三‐三、グレムリンと遭遇。形状は六本腕のヒトデ型。それ以外の情報はまだ何も分かりません」

 自分でも驚くほど淡々と報告することが出来た。決して緊張していないわけではない。むしろ、心臓の鼓動が激しすぎて胸が痛むほどに緊迫している。

『グレムリン? 嘘でしょ?』

 通信越しに聞こえる岸田兵長の声は明らかに動揺していた。

「本当です! 今、目の前に……」
『そんなはずはないよ! だって……』

 食い違う怜次と岸田兵長の会話に、日向中尉の鋭い言葉が割って入った。

『いいか、よく聞け! 標的のグレムリンは歩兵部隊が追撃している! お前達の前にいる奴は違う!』

 操縦席の空気が凍りつく。
 怜次だけでなく月子までもが言葉を失い、思考をフリーズさせた。

『それは未確認の標的アンノウンだ!』

 海星型グレムリンが五本の触腕を同時に振り抜き、大樹の枝を大きくしならせ、その反動で上方へ吹き飛んでいった。

「逃走……!」

 月子が機体の頭部を動かし、天を仰がせる。誰が見ても逃亡としか思えない行動だ。
 メインカメラに映るグレムリンの影はだんだん小さくなり――

「違うっ! 黒河内、避けろ!」

 ――直滑降で三号機へ襲い掛かった。
 六本の触腕を振り乱して風車のように高速回転しながら、真下に位置する三号機目掛けて急降下。強靭な触腕が大気を掻き乱し、操縦席まで響く轟音を撒き散らす。
 咄嗟に飛び退こうとする三号機だったが、左脚の反応が僅かに鈍い。

「脚がっ……!」

 高速で唸る触腕が三号機の左脚を打ち据える。衝撃でバランスを崩され、三号機は林道に膝を突いた。
 地面に落下したグレムリンは手近な木に触腕を絡め、瞬く間に梢の間へ姿を消した。

「どうしたんだ。やっぱり脚に故障が……」
「……今確かめる」

 メインカメラが機体の左脚を映し出す。それを見て月子は絶句した。
 先ほどの攻撃で刻まれた爪痕の他に、膝関節の付近に刃物で削り取ったような跡が残されている。不調の原因は間違いなくこれだった。
 怜次の脳裏に、金属を削る耳障りなガリガリという音と、グレムリンの鋭い牙が重なって浮かび上がる。

「喰われてたのか……」

 怜次の呟きを聞いて、月子が操縦席の壁を殴りつけた。座席越しにも苛立ち焦っていることが見て取れる。これは不味い状況だ。焦燥感に任せて戦っても、碌なことにならないのは明白である。
 冷静になるよう注意しようとした矢先、ディスプレイの隅をグレムリンの陰が過ぎった。
 六本の触腕と鉤爪を使って木の幹や枝を掴み、木々の間を滑るように移動していく。

「このぉ!」

 月子は三号機の右腕を振り向けて三五ミリ機関砲を乱射した。大口径の機関砲弾が枝を吹き飛ばし、樹木に直撃して幹を抉り取る。だが、身軽に動き続けるグレムリンには一発たりとも当たらない。
 あのグレムリンにとって、立ち並ぶ樹木は絶え間ない移動のための足場であり、同時に砲弾を防ぐ盾でもあるのだ。

「黒河内! 落ち着け! 黒河内ッ!」

 操縦席に怜次の叫びが響き渡る。このまま連射し続けても当たるはずがない。一度体勢を整えて、狙いを定められる状況で攻撃しなければ。
 海星型のグレムリンは不恰好な車輪のように木々の間を走破し、砂埃を上げて山道を横断。勢いのまま斜面へ飛び出した。
 滑り落ちる刹那、二本の触腕が三号機の足首に絡み、鉤爪を突き立てる。

「なっ……何!」

 三号機が一気に斜面へ引きずり寄せられる。グレムリンが残りの触腕を斜面に突っ張って支えとし、総身の力で三号機を引き落とそうとしているのだ。
 月子は機関砲を足元に向けて撃鉄を引いた。無数の砲弾が地面を吹き飛ばし、そのうち数発が触腕を傷つけ破壊する。
 千切れた触腕が体液を撒き散らしながら斜面へ引っ込むと同時に、新たな触腕が機関砲の砲身に爪を立てた。

「くっ……」

 触腕を振り解こうとした結果、機関砲の砲口が斜面から逸れる。
 まさにその瞬間、斜面の下からグレムリンが身を躍らせた。

「――あ」

 回避する猶予すら与えられない。
 咄嗟にかざした左腕に、グレムリンの鋭い牙が深々と突き刺さる。
 そこから先は目にも留まらぬ早業だった。四本の触腕が三号機の左腕を何重にも締め上げ、肩から先の自由を完全に奪い取った。
 間髪入れず、金属を削り砕く不快音が操縦席に反響する。
 ――喰われている。三号機の左腕が無残に食い散らされていく。

「嫌あああああああああっ!」

 絶叫が不快音を塗り潰す。
 余りに唐突の出来事に、怜次はその悲鳴が月子のものであると、すぐには理解することができなかった。

「黒河内! どうした! おい!」
「嫌ああああっ! あああああ!」

 怜次は混乱を抑えることができなかった。こんなにも取り乱した月子など見たことがない。これはもう混乱という域ですらない。――――恐慌だ。
 左腕に喰らいついたグレムリンの背で眼球が光る。触腕の数と同じ六つの目が、ぎょろりと三号機の頭部を睨みつけている。こんなところに目があったのか――怜次は不思議なくらいの冷静さでそんなことを思った。
 ごきり、と関節を喰い折る音がした。
 次の瞬間、グレムリンと三号機の左腕に大穴が穿たれる。
 亡骸と化したグレムリンが腕から滑り落ちた後には、肘から先を失った左腕が残された。

『黒河内! 久我! 無事か!』

 通信機から日向中尉の声がしたかと思うと、山道の向こうから一号機が姿を現した。その手には機関砲よりずっと細身の単発砲が握られている。
 グレムリンと左腕を穿ったのは、あの火砲から放たれた徹甲弾だったのだろう。
 情けない――怜次は心の中で自嘲した。結局、あれこれ叫ぶだけで何も出来なかった。奇跡的な発想や技術で窮地を抜けるなんてことは起こらずに、救援に駆けつけた味方の手によって救われる。泣けてくるほどに現実的な決着だ。

「怪我はありません。けど、黒河内が……」
「……私なら……大丈夫だ」

 途切れ途切れの言葉が聞こえてくる。月子は前部座席の背もたれに体重を預け、力なく項垂れているように見えた。

「んなこと言われてもな……」

 こちらに意識を向けさせようと、怜次は月子の右腕に手をかけた。

「触るなっ!」

 悲鳴も同然の叫びと共に、強引に腕を振り解かれる。
 怜次が過剰な反応に唖然としていると、月子はハッとした顔で振り返り、気まずそうに視線を伏せた。

「……ごめん、久我さん」
「いや、俺こそ悪かった。驚かせたりして……」

 怒る気にはなれなかった。理由は分からないが、あんなに怯えてしまった直後なのだ。些細なことで過剰に反応しても仕方がない。しかも、こちらを振り返ったときの目は明らかに不安と恐怖に満ちていた。
 そんな目を見せられた後で、どんな風に怒ればいいというのだ。

「それにしても……」

 怜次は自分の右手を見下ろした。ほんの一瞬の出来事だったので、単なる勘違いだったのかもしれない。
 だが、これだけは確信できる。
 月子の右腕を掴んだときに感じた感触は、当分忘れることができないだろう、と――



[29376] 死体は語る
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/13 21:22
  二〇一一年 十月六日 津ノ井駐屯地 特機整備工場

 整備員の誘導に従って、怜次は三号機を工場の奥へ進ませていく。
 戦闘で損傷した左脚部は依然として動きが悪く、足を引きずる歩き方にならざるを得ない。怜次は前部座席のディスプレイを注視して、前方に立って誘導を続ける整備員との距離に気をつけながら機体を歩かせた。うっかり蹴飛ばしてしまうなんて笑い話にもならない。

「…………」

 一人で乗る特機の操縦席は、心なしか広く感じる。後部座席が空席になっているだけなので物理的には大差ないのだが、どうしても何かが足りないような気がしてしまう。
 ディスプレイ越しに、整備員が壁際のクレーンの下を指し示すのが見えた。

「あそこか……」

 怜次は指示通りの場所に三号機を移動させ、乗降口の開閉レバーを操作した。内蔵モーターが作動し、胸部装甲がゆっくり開いていく。
 それを待つ間に、怜次は前部座席の通信機のスイッチを入れた。

「岸田さん。三号機の工場への搬入、そろそろ終わります」
『ご苦労さま。整備隊に引き継いだら、今日は業務終了ってことでいいよ。定時はだいぶ過ぎちゃってるけどね』

 胸部装甲が全て開き切る。だが、怜次はすぐに降りようとしなかった。
 整備手順の都合で、三号機は直立したまま停止している。この状態で機体から降りるたければ、月子のように飛び降りるしか手段がない。なので、整備員が乗降用の脚立を持ってきてくれるのを待っているのだ。

「……黒河内はどうしてますか」
『月子ちゃん? もう落ち着いてるよ。隊長の判断で先に宿舎に帰らせたけど』
「そうですか。……それなら、よかった。通信終わります」

 安堵の息を吐き、通信機のスイッチを切る。
 怜次は首筋の神経系インタフェースと、身体を座席に固定するためのベルトを手早く外し、脚の方から操縦席を這い出た。月子くらいの体格なら前屈みでも楽に出ることができるのだろうが、怜次の場合はこうしなければ酷く窮屈になってしまう。
 外へ開いた胸部装甲の上にしゃがみ込み、機体の足元に目をやる。ちょうど第三小隊の機体を担当する整備班の班長が、部下に指示を出して脚立を設置させているところだった。班長の作業着には二等軍曹の階級章が縫い付けられている。
 二等軍曹とは、旧陸上自衛隊の二等陸曹に相当する階級である。自衛軍の階級は自衛隊の階級をそのまま読み替える形で制定されたため、かつての帝国陸軍の階級とは多少のずれが生じている。

「こりゃこっぴどくやられたな」

 班長は怜次を見上げて豪快に笑った。見た目からすると四十代に達しているであろう年齢だが、声の張りはかなり力強い。

「すいません、お手数かけます」

 怜次が恐縮すると、班長は腕を組んだまま豪快に笑った。

「なぁに。これくらいなら今日中に終わるさ。手足をとっかえるだけで充分だ」

 三号機には猿政山での戦闘の痕跡があちこちに残されていた。左腕は肘から先を喪失し、左脚にも齧られた傷と爪痕が刻まれている。機体の表面にこびりついた土の汚れもそのままだ。山肌に押し付けられた背部と右腕の機関砲は、汚れ具合が特に酷い。
 それでも、班長からすれば致命的な故障に含まれない程度のダメージらしい。

「まぁ、生きて帰ったんなら万事オーケーってことだ。機体がぶっ壊れるよりも、動かす奴に死なれるほうが厄介だからな。人間の身体は特機みてーに付け替えできないだろ?」

 怜次は脚立を降りながら、三号機の左腕に目をやった。
 恐らく、あれを肩からごっそりと外して予備の腕と取り替えるのだろう。それと同じように人間の腕を付け替える――想像できない光景だ。

「いや。不可能ではないよ」

 聞いたことのない女の声がした。
 怜次は床に降り立つと同時に、声のした方へ向き直った。

「生身の腕を予備として用意するのは至難の業だが、人工物の腕を造って代用とする研究は、既に完成したといっても過言ではない。普及に何年掛かるかは別としてね」

 声の主は、スカートスーツの上から白衣を羽織った妙齢の女だった。普通なら整備工場というロケーションにそぐわない服装のはずだが、不思議なことに違和感を殆ど感じない。
 何者なのだろうかと訝しがる怜次の横で、班長が気さくな態度で女に話し掛けた。

「おお、あんたか。こんな時間にどうしたんだ」
「今後のサンプルとして、喰いちぎられた腕を見せてもらおうと思ってね。場合によっては装甲配置を再検討する必要もある」
「いやぁ、あの齧られ方は防ぎようがねぇだろ。装甲だろうと筋肉だろうとガリガリ削られてやがる。素材自体を変えねぇことにはな」
「装甲材か。そこは私の専門外だな。破損した装甲を貰えないか司令に掛け合ってみるとしよう。専門部署に送れば研究の一助になるかもしれない」

 白衣の女と班長が込み合った立ち話を交わす横で、怜次はぽつりと立ち尽くしていた。
 話の内容からすると、白衣の女は特機に関わる専門的な立場の人間らしい。頑固な職人肌で知られる班長が饒舌になっているのは、単に彼女が美人だからなのか、それとも議論の相手として相応しいと認めたからなのか。ともかく、会話に割り込む余地がまるで見当たらない。
 岸田兵長は、整備班への引き継ぎを済ませておくように言っていた。しかし、当の整備班のリーダーがこれではどうしようもない。
 いっそ三号機を預けた時点で引き継ぎ完了ということにしてしまおうか。怜次がそんなことを考え始めたとき、白衣の女が怜次へ視線を向けた。

「君が件の三式の操縦士か?」
「え、あ、はい」

 どうして分かったのか。そう聞こうとして、怜次は今の自分の服装を思い出した。特機の操縦士用の戦闘服を着ているのは、工場の中でも自分だけだ。
 ここで初めて、怜次は白衣の女の顔を正面から見た。
 怜悧という言葉が良く似合う顔立ちに、冷たさすら感じられる理知的な眼差し。まるで氷のような人だと怜次は思った。単に見ているだけなら綺麗だが、実際に触れてみると身を刺す冷たさに驚かされる。そんな印象だ。

「私は技本の空木都子。この駐屯地には新型機の引渡し準備のためにお邪魔している」

 技本――技術研究本部。戦車や特機、または歩兵用の装備など、自衛軍で運用される兵器を研究開発する施設だ。あそこから来た人だというなら、特機について詳しいことも頷ける。

「今日の戦闘について話を聞きたいのだが、構わないかな」

 空木は口元だけに笑みを浮かべてそう言った。
 怜次が返事をしようとした矢先に、工場内のクレーンが大きな音を立てて動き出す。整備対象の特機を吊り上げて作業をしやすくするためのものだ。特機を整備するためには必要不可欠な設備だが、立ち話をするにはうるさくなり過ぎる。

「……続きは外で話そう」

 空木はそんな主旨の提案をした。クレーンの駆動音に紛れて怜次の耳に届かなかった単語も多いが、言わんとすることは伝わってきた。怜次は空木の提案を受け、工場の外に出ることにした。
 外の風景は既に夜の装いを整えていた。黒く染まった空にはぽつりぽつりと星が浮かび、基地施設の照明がそこかしこで眩しく輝いている。
 涼やかな夜風が、今日一日の疲労を押し流してくれるような気がした。

「それで、三号機の腕を喰いちぎったというグレムリンは、本当にヒトデのような形で間違いないんだな」
「はい。ヒトデと言っても……」
「星型ではなく長い腕を持つ種類。腕の本数は六本で、それらの付け根は厚い殻状の胴体に繋がっている。胴体の下部に円形の口があり、上部には六つの眼球。移動方法には、腕を周囲の物体に絡めて運動する方法と、勢いをつけて車輪のように転がっていく方法がある。……そういう奴だろう?」
「……!」

 怜次は驚きに言葉を失った。空木の発言は、まるで現場を見ていたかのように正確で写実的なものだった。

「そいつはキリスト教圏ではブエル、中国大陸ではリウワンシンと渾名されているものだ。後者は漢字で六つの腕の星と書く。他にも長腕陸星という呼び名も使われているらしい」

 空木は淀みなく語り続けている。
 喋る内容を途切れなく考え付くなんて凄いな、と怜次は変なところに感心していた。

「ブエル……ですか」
「あくまで非公式の呼称だ」

 空木は手近なところにあった小型コンテナに腰を下ろした。コンテナには中身を記してあると思しきシールが貼られていたが、怜次の位置からは暗くてよく読めなかった。

「ユーラシア大陸の森林での発見報告が多く、東南アジアでは森に入った人間が襲われる事例も報告されている。力自体は貧弱だがやたらと敏捷で、地元では厄介者扱いらしい」

 空木の語る知識を聞きながら、怜次は小さく首を傾げた。
 話の内容はよく理解できる。しかし、ここでそんな話をする意味が分からなかった。外国での渾名やら出現場所やら、単に薀蓄を語りたいだけにしか思えないのだ。
 空木は怜次の疑問に気付いたのか、薀蓄語りを切り上げて本論に入った。

「実を言うと、このタイプのグレムリンは日本列島では全く確認されていないんだ。サンプルが欲しいのもその為でね。ブエルに破壊された特機の装甲は史上二例目、腕そのものが喰いちぎられたサンプルは初めてだ。……ただし、回収不可能だったものを除いてね」

 最後の一言に不穏な空気が感じられた。
 まるで、残骸を回収することすらできない状況で、あのグレムリンに食い荒らされた特機が存在したかのような。

「さっきの質問は、本当にブエルとかいうグレムリンと戦ったのか確かめるため、ですか」
「察しがいいな。私も海外の論文を読んでいるだけで、実物をみたことはないんだ。確認のためには本人に訊ねるのが一番だろう」

 空木は口元だけを動かして笑みを浮かべた。空木都子という人物は、怜次と異なる価値観に住んでいる人間のようだ。人類全体の敵対者であるグレムリンを知的好奇心の対象とし、獲得した知識を何らかの形で発露することに喜びを覚える――怜次の視点からはそんな人物であるように見えた。

「えっと……確か特機の開発の関係者でしたよね? どうしてそんなにグレムリンのことに詳しいんですか?」
「特機に関わる技術者はグレムリンの研究者と紙一重なのさ。三人に一人はそっち方面にも興味がある人間だと思ったほうがいい」

 そう言って、空木は笑った。
 今度は目元にも笑みを浮かべた、人間味のある笑い方だった。
 不意に、大型車のエンジン音とヘッドライトの光が近付いてくる。荷台にクレーンを搭載した特別製のトレーラーだ。
 その積荷を見て、怜次は思わず息を呑んだ。
 細長い胴体。そこから垂直に生えた六本の脚。金属の怪物――グレムリン。
 無論、生きた個体ではない。全身に銃弾を打ち込まれ、砲弾らしきもので顔面を吹き飛ばされたその有様は、一目で生死を理解させるには充分過ぎる。

「あれは大して珍しくないタイプだな」

 空木がトレーラーを目で追いながら呟いた。

「資料としての価値もないから、処理工場で特機用の材料に加工するのが関の山だ」

 先ほどの熱弁とは打って変わって、興味の欠片も感じられない態度だ。本当に、あのグレムリンに対して微塵の関心も抱いていないのだろう。
 グレムリンの死骸を積んだトレーラーは、徐行速度で整備工場の前を通過すると、少し離れたところにある別の工場の前で停車した。
 エンジン音が止み、重苦しい空気が辺りを包み込む。
 それを吹き飛ばしたのは、空気を重くした張本人である空木自身だった。

「さて、引き止めてしまって悪かった。私はそろそろ帰るとするよ」

 空木はコンテナから立ち上がり、軍事施設の明かりが集まっている方へ歩き出した。その途中で唐突に足を止め、怜次に向かって振り返る。

「私は半月ほどここに滞在する予定だ。また興味深い出来事が起こったら、是非とも教えてくれないか」

 予期せぬ要請に、怜次はすぐに返答することができなかった。

「……そんなこと起こりませんよ」
「いいや。初陣で国内初の貴重な戦闘を経験したんだろう? そういう奴のところには、似たような出来事が集まってくるものだ」

 一体何が面白いのか、空木は口元を歪めて笑みを形作っている。
 怜次は言い返そうと言葉を捜し、やがて諦めた。何を言っても無駄な気がしたのだ。
 空木にとって興味深い出来事が次々と集まってくる――縁起でもない。まるで呪いのような予言ではないか。
 そんなことになったら、月子まで巻き込まれてしまうというのに。




  二〇一一年 十月六日 津ノ井駐屯地 第三小隊格納庫

『岸田さん。三号機の工場への搬入、そろそろ終わります』
「ご苦労さま。整備隊に引き継いだら、今日は業務終了ってことでいいよ。定時はだいぶ過ぎちゃってるけどね」

 岸田兵長――岸田佐代子は、一号機の通信機を用いて三号機の久我二等兵と通信を交わしていた。
 とはいえ、操縦席に乗り込んでいるわけではない。一号機は操縦士の乗降のためにしゃがんでおり、胸部装甲を開放して内側のステップを露わにしている。佐代子はそのステップを椅子代わりにして、操縦席から引っ張り出したマイクに向かって喋りかけていた。

『……黒河内はどうしてますか』

 操縦席の通信機から、久我二等兵の不安そうな声が聞こえてくる。どうやらパートナーの容態が心配で仕方がないようだ。佐代子は微笑ましさに頬が緩むのを堪えられなかった。相手のことを気遣えるのは、ちゃんとした人間関係を築けている証明だ。

「月子ちゃん? もう落ち着いてるよ。隊長の判断で先に宿舎に帰らせたけど」
『そうですか。……それなら、よかった。通信終わります』

 雑音を発しつつ通信が途切れる。
 佐代子はほっと胸を撫で下ろした。怜次の精神状態は安定しているようだ。
 初めての戦いで窮地に追い詰められ、心が折れてはしないかと心配だったが、杞憂に終わって何よりだった。彼にとっては手厳しい初陣だったかもしれないが、長い目で見ればは貴重な経験になるはずである。

「怜次君は大丈夫。月子ちゃんは……仕方がないよね。うん、あれは仕方がない。もう落ち着いてるから平気だとは思うけど」

 佐代子は己に言い聞かせるように呟いた。
 誰に見せるでもないその表情は、若者――それどころか少年や少女達の生命を預かる立場としての責任感に満ちていた。

「虎彦隊長。三号機が工場に着いたみたいですよ」

 ぱっと表情を緩め、通信の終わりを待っているはずの小隊長へ振り返る。
 だが、当の虎彦は刷り立ての報告書を睨んで立ち尽くしていた。

「どうかしたんですか?」
「ん……兵長か。今回の報告で気になるところがあってさ」

 虎彦が黒髪交じりの白髪をくしゃりと掻き乱す。これは腑に落ちないことがあるときの、虎彦の癖だった。
 佐代子は背伸びをして報告書を覗き込んだ。

「気になるって、月子ちゃん達が戦ったグレムリンのこと?」
「ああ……」

 報告書の内容は、三号機が戦った未確認のグレムリンについて記されたものだった。怜次の証言とカメラの映像記録を元に、詳細な記録が綴られている。報告資料としては充分な出来になっているはずである。
 それでも、虎彦は納得できないという表情を顔に貼り付けたままだ。

「こいつは日本にいないはずの種類だ」

 佐代子は暫し目を瞬かせ、ああ、と納得した。国内に出現するグレムリンの資料には一通り目を通しているが、こんなタイプは見たことがない。

「ということは、新種?」
「いや、今まで日本で確認されていないだけだ」

 虎彦が奥歯を噛み締める音がした。
 佐代子は視線をさり気なく虎彦へ移す。困惑、疑念、混乱、そのいずれでもない表情だ。既に虎彦は自分の中で結論を出していて、それを確信しているているのだろう。
 ただ、その結論がどうしても納得できないだけで。

「岡山の研究所に連絡を取ろう。あそこならグレムリンの組成物質の分析ができる」
「研究所で分析すれば、日本のどこら辺にいた奴なのか判別できるかもしれないしね」

 二十数年に渡る戦いの間、人類はグレムリンの研究を継続的かつ精力的に行ってきた。その結果、二体のグレムリンの肉体から組成物質を採取し、それらを比較することで、二体が同じ群れに属する個体か否かを判定することができるようにまでなっていた。
 この技術を応用すれば、巣や群れから離れたところで発見されたグレムリンが、どの群れに属する個体なのか判別することも不可能ではない。

「……調査対象は日本のグレムリンじゃない。上海戦役で持ち帰った死骸のサンプルだ」
「上海戦役……!」

 佐代子の表情が急激にこわばる。
 それと同時に、佐代子もまた、虎彦が導き出した結論に辿り着く。

「出来ることなら外れて欲しい仮説なんだが」

 虎彦は白髪を掻き揚げた。
 地獄の上海戦役――
 自衛軍最大の敗北――

「師団を壊滅させた上海のグレムリン……あんなのが日本に渡ってくるなんてな」



[29376] 戦場は遥か
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/08/30 00:30
  二〇一一年 十月十一日 津ノ井駐屯地 第一中隊将校室

『――――次のニュースです。先ほど防衛省において会見が行われ、本日未明に対馬へ上陸した金属食性異星生物の勢力は午前七時を以って壊滅し、同地における戦闘は終了したとの発表がされました』

 虎彦はテレビから流れるニュースの音声を聞き流しながら、ファイル閉じの資料に目を通していた。表題は特機小隊の訓練方針資料。第三特機群司令官の、天野大佐の名義で作成された資料である。
 斜め向かいの席に座る銀縁眼鏡の士官が、ぼうっとした様子でニュースに視線を移した。

「気軽に言っちゃってくれるよな。対馬つったら国内屈指の激戦区じゃねぇか。大勢死んだに決まってるのに、どれだけ被害が出たのかはノータッチとはね」

 どこか眠たげな目だが、焦点はしっかりテレビの画面に合わさっている。
 画面上のニュースキャスターが原稿をめくる。どうやら対馬におけるの戦闘の報道はこれで終わりらしい。

「やっぱり被害甚大みたいだな」
「佐々木。やることは終わったのか?」

 別の士官が銀縁眼鏡の士官に口を挟む。どちらも虎彦と同じ中尉の階級章をつけている。
 中尉とは、陸上自衛軍では一般的に小隊長を任せられる階級だ。佐々木と呼ばれた銀縁眼鏡の中尉は第二小隊の小隊長で、もう一人の硬い雰囲気の中尉は、石川という名前の第一小隊の小隊長である。
 少尉も小隊を率いることのある階級だが、こちらは士官学校を卒業して間もない新人士官という色合いが強い。

「一通り終わってるよ。今は情報収集の時間ってことで」
「情報統制されたニュースなど役に立たんだろう。朝鮮半島南端と長江河口付近の都市が奴らの巣窟になっていることすら、碌に報じていないんだからな。後者は東シナ海があるからいいとして、前者は対馬と壱岐に大部隊を配置しなければならないほどの脅威だというのに」

 歴史上、対馬は国外との戦いで重要な役割を担ってきた。それは現代においても変わっていない。
 佐々木中尉は石川中尉の高説に生返事を返し、虎彦の方へ目をやった。

「日向、何読んでんだ?」
「ん? 訓練内容の方針資料だよ」

 そう言って、虎彦はファイルを閉じた。

「何せ隊員の半分が子供で、しかもその殆どが女子だからな。きつい訓練なんかさせたら体を壊しちまう。……ったく。俺達は女子高の体育教師じゃないんだぞ」





  二〇一一年 十月十一日 津ノ井駐屯地 グラウンド

 この日は昼下がりになっても涼しいままだった。
 青空には雲ひとつ浮かんでおらず、気温もそこまで高くない。湿度も高すぎず低すぎず、適切な状態を保ち続けている。そのため、かなり快適な気候だといえるだろう。一月前までの残暑の不快さが嘘のようだ。
 しかしそんな涼やかな空の下、第三小隊の面々は地味な色のジャージに白いTシャツという格好で、黙々とランニングを続けていた。

「速度が落ちているぞ! 歩くな、走れ!」

 最後尾を走る猪熊曹長が、走りながらとは思えないほどの大声を張り上げている。そのすぐ手前を怜次と翔也が走っている。そして前方数メートル先では、女子の集団が一塊になって脚を動かしていた。
 これは怜次と翔也の二人が遅れているためではない。先行しすぎて追い抜いてしまいそうなところなのだ。
 ランニングは自衛軍の体力トレーニング――軍では体力練成と呼ばれる訓練の中でも一般的な方式だ。もちろん、通常であれば日課としてこなせる程度の距離なのだが、十五やそこらの少女には課題が厳しすぎたようだ。

「ほら、追いつかれちゃうよ。頑張れ」

 岸田兵長は集団の一番後ろの位置を維持しながら、遅れ気味になっている玲奈と亜由美を応援していた。同じ距離を走っているにも関わらず、玲奈達よりも遥かに余裕を残している。一体あの小さな身体の何処にこれだけの体力を隠しているのだろうか。

「……ハァ……亜由美ちゃん……ハァ……今何周目……?」
「はぁ……はぁ……話しかけないで……余計に疲れる……」

 亜由美は前を向いたまま、玲奈の泣き言に答えていた。横を向く余裕など残っていないらしい。棒のように硬直した手足の悲鳴と、焼け付くような喉の痛みを堪えるだけで精一杯なのだろう。

「女子はラスト一周! 男子は一週半だ!」

 怜次達の背後で猪熊曹長が声を張り上げる。プロの軍人だけあって凄いスタミナ
だと感心してしまう。怜次は前方を走る少女達ほど疲れてはいないが、それでも大声を出すような余力はない。

「久我! 長谷川! 手を抜くんじゃない!」

 猪熊曹長にどやされて、怜次と翔也は慌てて速度を上げた。必然的に、前を走る玲奈と亜由美を追い抜いて、集団の先頭を行く月子の横に差し掛かる。
 月子は自衛軍制式のジャージを上下共に着用し、土で汚れたスニーカーを履いていた。
 さすがに皮手袋は嵌めていない。必要以上に汗をかいてしまうからだろう。だが、ジャージの袖から覗く右手は白い包帯に覆われたままだった。

「…………」

 隣を通り過ぎる直前、怜次は月子の表情を覗き見た。
 粒のような汗が額や首筋を伝い落ち、苦しそうな呼吸を繰り返している。それでも、月子は真剣に前を見据え続けていた。基礎トレーニングだからといって気を抜くような態度は微塵も感じられない。
 怜次は月子に掛けようとしていた励ましの言葉を飲み込んだ。下手な励ましは却って彼女を侮辱してしまう――そんな気がしたのだ。
 だが、怜次の先を走る翔也は、そういうことを考える性格ではなかったらしい。

「なんだ、疲れてんのか? 無茶すんなよ」
「……っ!」

 翔也としては月子を気遣っての発言だったのかもしれない。しかし、この場に限れば完全に逆効果であった。
 月子が急にピッチを上げた。両腕を大きく振って加速し、翔也との距離を一気に詰める。

「おおっ?」

 翔也が驚いて道を開ける。月子はそのまま翔也を追い抜いて、ランニングを完走してしまった。男女双方含めての一番乗りだ。
 その直後、月子は地面に崩れ落ちるように座り込んだ。

「お、おい!」

 怜次は慌てて月子のところへ駆け寄った。

「私のことは……いいから……」

 俯いたまま肩で息をする月子。長距離を駆け足で走っていた上に、あんな短距離走みたいなダッシュをすれば疲れ果てるのが当然だ。
 怜次は口ごもり、月子を見下ろしていることしか出来なかった。どんな言葉を掛ければいいのか分からない。慰めも応援も、この場では相応しくないように思われた。

「久我ぁ! 立ち止まるな!」

 猪熊曹長の怒号がグラウンドに響き渡る。
 駆けつけてきた岸田兵長が、月子の左肩に手を置いて怜次を見上げた。

「ここは私に任せて、さっさと終わらせちゃいなさい」
「は……はい!」

 怜次は踵を返して駆け出した。
 いつの間にか先を走っていた翔也を抜き去り、二番乗りでランニングを完走する。無茶な走りをした月子を心配しておきながら、自分も似たようなことをしてしまうとは。

「久我さん。あいつ、何で急に走り出したんですかね」

 苦笑しながら足を止めた怜次の後ろで、翔也が小声で疑問を口にする。多少の汗
をかいてはいるが、そこまで疲労している様子はなかった。
 もし月子のことを何も知らなければ、単なる強がりな子だと答えるだけで済んだのかもしれない。しかし、怜次は見てしまったのだ。グレムリンに特機の腕を喰われ、尋常ではなく狂乱する月子の姿を。
 その姿を目にしておきながら、あれをただの強がりだと思い込める図々しさを、怜次は持ち合わせていなかった。

「……俺に分かるわけないだろ」

 姑息な返事をすることしかできない。
 月子から二十秒ほど遅れ、亜由美と玲奈もランニングの課題を終わらせた。ジャージが汚れるのも構わず地面にぺたんと座り、荒い呼吸で酸素を求める。玲奈に至ってはグラウンドに大の字になって横たわっている。

「はぁ、はぁ……ふぅ」
「もう駄目、動けない……」

 現在グラウンドを使っているのは第三小隊だけだが、周辺には他の隊の隊員もちらほらと見える。当然ながら、彼らは亜由美達のような特別採用の年少兵ではない。規定通りの手段で入隊した正規の軍人ばかりだ。
 周辺の兵達は、時折仕事の手を休めては亜由美達のことを盗み見ていた。年少兵が珍しいのだろうか。ランニング中に感じていた視線も、きっと彼らのものだったに違いない。
 ふと、さっきまで休んでいた月子が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。

「黒河内……」
「心配はしなくていい。私なら大丈夫だから」

 すれ違い様にそう囁き、月子はグラウンドの外へと歩き去っていった。
 翔也がその後姿を見やりながら、不可解そうに眉をひそめる。

「何なんだ、ありゃ。年上に敬語の一つも使えないのかよ」

 体育会系気質の翔也にとって、月子の態度は許容しがたいものであるらしい。
 その価値観自体は怜次も理解できる。だが、この場合は少し事情が異なる気がした。月子の態度から受ける違和感とでも表現すればいいのだろうか。相手に敬意を払わないだとか、高圧的に接するとか、そんな類の意図は感じられないのだ。
 むしろ、相手と対等にあろうと背伸びをしている。そんな印象さえ受けてしまう。

「……考えすぎかもな」
「何か言ったッスか?」

 独り言のつもりだったが、つい口に出してしまっていたらしい。

「いや、何でもない。それと黒河内のことだけど、俺は別に気にしてないから、あまり騒ぎ立てるなよ」

 適当な言葉でその場を誤魔化して、怜次は会話を切り上げた。
 少し歩くと、猪熊曹長と岸田兵長が何やら話し合っているところに出くわした。どちらも怜次が近くにいることに気付いていないらしい。猪熊曹長に至っては、普段なら新兵達の前では決して見せない砕けた態度で、気の緩んだ声を漏らしていた。

「むぅ、いかんな。ノルマを厳しくし過ぎたか」
「だから言ったじゃないですか。いきなりランニングの距離を五割増にしちゃったらバテるに決まってるでしょう」
「久我くらいの奴らを鍛えるのは慣れているんだが、あんな子供はどうもな……経験がなくて加減が分からん」

 どうやら、猪熊曹長が体力練成のメニューの件で岸田兵長に文句を言われているようだ。岸田兵長は猪熊曹長より階級も年齢も下であるはずなのに、ああして腰に手を当てて叱っている様が妙に似合っていた。

「次から女の子の訓練内容は私に任せてください。怜次君と翔也君のメニューはお願いしますから」
「…………」

 猪熊曹長は拒否も反論もしなかった。きっと、そうするのがいいと自分でも思ってしまったのだろう。
 不意に岸田兵長が振り返る。

「あ、怜次君」

 兵長の声を聞いて、猪熊曹長がじろりと怜次を睨んだ。
 たったそれだけのことで、怜次は怒鳴りつけられたのと同じくらいに怯んでしまう。

「午前中の課業はまだ終わっていないだろう。早く汗を洗い流して着替えて来い。分かったら駆け足!」

 怒鳴り声を最後まで聞くより先に、怜次は一目散に走り出していた。
 しばらくそのまま走った後で、充分に距離が離れたのを確かめて、駆け足から早足程度にまで減速する。
 猪熊曹長は生粋の下士官だ。大抵の兵は声を聞いただけで姿勢を正してしまうくらいの雰囲気がある。……怜次も含め。

「お疲れ様です、怜次さん」

 グラウンドを出たところで玲奈が話しかけてきた。色素の薄い前髪を額に貼り付けたまま、人好きのする笑顔を浮かべている。ただ微笑んでいるだけで他人を和ませられるのは、なかなか稀有な才能ではないだろうか。
 玲奈はジャージの上を小脇に抱え、涼しげな白いシャツを秋風に晒していた。怜次はその涼しげな格好が羨ましくなって、ジャージのファスナーを開け放ってみた。

「災難だったな、あんなに走らされて。曹長も加減を間違えたとか言ってたぞ」
「あはは。確かにくたくたですよ」

 玲奈は体の前で指を絡め、腕をぐっと前に伸ばした。汗で湿った白いシャツが線の細い体格を浮かび上がらせる。

「でも、やっぱり体力つけなきゃ強くなれないじゃないですか。それを考えたら、多少のことは頑張れます」
「そっか……しっかりしてるな」

 年少兵として軍に入った以上、彼女も何らかの重い事情を抱えているはずなのだ。それを微塵も感じさせないどころか、絶え間なく笑顔をふりまき続け、辛い訓練にも耐える覚悟をも固めているのである。

「そんなことないですよ。私だって……」
「委員長って意外と体力ないんだな」

 玲奈の声が翔也の大声に掻き消されてしまった。振り返って見てみると、ふらふらになっている亜由美の横をゆっくりと歩いている翔也の姿があった。

「ねぇ……何でそんなに……平気そうなのよ」

 亜由美は今にも倒れそうな様子だ。恐らく――というより間違いなく、第三小隊で最も体力がない隊員は彼女に間違いない。
 そんな亜由美とは対照的に、翔也の顔には疲労の色が殆ど見られなかった。

「ん? 何でって、中学んとき陸上部で長距離やってたからな。言ってなかっけ?」

 けろっとした顔でそう言われ、亜由美はがくりと肩を落とした。運動し慣れているようだとは思っていたが、長距離を走ることが本領だったというなら、あの程度のランニングで音を上げないのも納得である。

「なぁ、榊。この隊に来る前の教育隊ではどれくらい訓練してたんだ?」
「んー……ランニングの距離はさっきの六割か七割くらいでしょうか。亜由美ちゃんとは隊が違ったので私と同じだとは言い切れませんけど。少ないですか?」
「俺の場合と比べたらかなり少ないな。もっとも、俺みたいに高校卒業してから入隊した連中ばかりだったけどさ」

 やはり教育隊も中学を卒業したばかりの少年少女を扱いかねていたのだろう。今年入隊した年少兵は特別採用の第一期ということになる。ノウハウなど持ち合わせているわけがない。
 教育隊の教官も、猪熊曹長と同じ心境だったはずである。

「やっぱりみんな大変なんだなぁ」

 玲奈がしみじみとした口調でそう呟いた。










  コラム:世界における戦争の現状
        蓬莱書院発行 高等学校現代社会教科書より抜粋


(前略)

 金属食性異星生物は、一九八一年に地球へ降り注いだ彗星の破片から発生したと考えられている。これらの破片は世界中に落下したため、金属食性異星生物の発生地点も世界中に分散してしまった。

(中略)

 現在の学説では、この生物は蟻や蜂のような生態をしているとされている。
 『女王』を中心とした群れが巣を構え、群れが大きくなると、新たな『女王』が群れを引き連れて移動し、移動先に巣を作る。このサイクルの繰り返しによって、異星生物は次々と生息域を広げていく。また、巣の周辺の餌が尽きれば、群れは巣を棄てて大移動を開始する。
 軍事的には、巣や女王を中心とした縄張りの推定範囲を『敵勢力地域』と呼称している。

 こうした生態のため、人間同士の戦争とは異なり、地球上のどこからどこまでが異星生物に侵略されているか断定することは困難である。例え一度人間が駆逐された場所でも、群れを維持できる環境がなくなれば、その群れは即座に別の場所へ移動してしまう。また、他の群れとの縄張り争いに敗れて移住を余儀なくされるケースもあるとされる。

(中略)

 異星生物との戦いにおいては、発見された巣や群れを一つずつ撲滅していく以外の撃退手段が存在しないとされている。一つ一つの巣や群れが完全に独立しており、異星生物すべてを統率するリーダーが存在しないためである。専門家の間では、異性生物との戦いは戦争ではなく世界規模の害獣駆除に過ぎないと表現されることもある。

 現代の戦争はこうした特殊性を帯びているが、被害を受けやすい地域の傾向は明らかになっている。多くの金属製品が存在する都市や、金属資源が埋まった鉱床等である。大陸国家はこれらの条件を満たしやすく、逆にわが国のような島国は

(この行からページの余白の最後まで、誤字脱字の酷い殴り書きの文章が記されている)












こんな奴ら消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ

消えろ消えろ消えろきえろきえろ消えろきえろ

きえろきえろきえろきえろきえきえろきえろきえききえろきえろきえろきえろ

死ね死ね死ねしね消えてしまえ死ねシネシネしねしねしし消えてしまえ死ね死ね死ね

消えろ消えろ死んじゃえ死んゃえ消えてしまえいなくなればいいんだ

来なければよかったんだ何で来たんだ何で何で何で何で何でどうしてどうしてどうして


(以下、最後の一文まで判読不能)


おとおさんをかえせ おかあさんをかえせ ともくんをかえせ












  二〇一一年 十月十一日 津ノ井駐屯地 隊舎一階廊下

「…………ッ!」

 怜次は反射的に教科書を閉じた。
 背筋に冷たい汗が流れる。心臓が爆発しそうなほどに高鳴っている。初陣のときでさえ、こんなに嫌な震えは感じなかった。
 体力練成が終わり、シャワーを浴びて制服に着替え、次の課業に向かおうとした直後のことだった。怜次は廊下に落ちていた本を何気なく拾い上げてしまった。「高等学校現代社会教科書」という、蓬莱書院が発行している教科書である。
 落し物かと思い、どこかに名前が書いていないか調べていると、怜次の手の中でとあるページがひとりでに開いたのだ。恐らくはそのページに開き癖が付いていたのだろう。繰り返し繰り返し癖が付くまで開いていたせいで。

「何だったんだ、あの落書きは……」
「おい、そこで何をしている」

 急に声を掛けられ、怜次は跳び上がりそうなくらいに驚いた。
 恐る恐る振り返ると、制服姿の猪熊曹長が怪訝そうな表情でこちらを見やっていた。

「こんなものが廊下に落ちていたんです。名前は書いてありません」

 怜次は説明の手間を省くために拾った教科書を見せた。すると、猪熊曹長はその表紙を見ただけで、納得した様子で頷いた。

「年少兵が使ってる教科書じゃないか。どこの隊の奴が落としたんだ」
「……年少兵? 黒河内二等兵達のことですか?」

 そう訊ねてから、怜次は年少兵制度――特別採用制度の意図を思い出す。
 あの制度は、戦争の影響で学校に通いにくくなった子供に公共機関での職を与えると共に、通信制高校等の形で教育を施すことを目的としている。つまり、彼らが教科書を持っているのは極めて当たり前のことなのである。

「あいつらは通信制高校の生徒でもあるからな。教科書くらい持ってるだろ」

 曹長は怜次が怜次が気付いた事実と同じ内容を説明した。

「名前が書いてないなら遺失物として届けて来い」
「いえ、持ち主を探してみます。駐屯地の年少兵は人数が限られていますから」

 咄嗟にそんな言葉が口を突いて出た。
 遺失物として届ければ、必然的に担当者もあのページを見ることになるはずだ。果たして、この教科書の持ち主はそれを望むだろうか。残酷なまでに赤裸々な告白を、これ以上他人に覗き見られるなんて。
 ただの余計なお節介かもしれないが、怜次はその考えを無視することができなかった。

「確かに虱潰しで探すのは楽だが……」

 猪熊曹長が腕時計に視線を落とす。

「次の課業まで三十分。格納庫で特機の操縦席周りの調整だったな。それまでに切り上げろ。間に合わないなら遺失物管理の担当に届けろ」
「了解しました」

 怜次は姿勢を正して敬礼に代えた。
 教科書が落ちていたのは廊下の真ん中だった。そんな目立つところに落ちていて、なおかつ怜次が見つけるまで拾われていなかったということは、落とされてからあまり時間が経っていなかったのだと推測できる。一時間も二時間も前の出来事なら、とっくに他の通行人が見つけているはずである。
 隊舎で教科書を広げて勉強できる場所といえば、自分の部屋か資格取得の勉強等に使われる自習室くらいだ。それを考えると、教科書を落としたタイミングは自室から自習室へ向かう途中、またはその帰りである可能性が高い。
 まずは自習室から調べてみるべきだ。怜次はそう考え、自習室へ向かおうとした。
 その前にふと足を止め、猪熊曹長の方へ振り返る。

「曹長。ひとつ質問があるのですが、我々の隊が前線に投入される可能性はありうるのでしょうか」
「意外と心配性だな」

 猪熊曹長が口の端を上げる。

「日本国内における激戦区は北海道と北九州だ。どちらも大陸からの侵攻を防ぐ防波堤になっている。次に戦闘が頻発するのは太平洋側の沿岸部だな。ミクロネシアや東南アジアを転々とする群れが定期的に上陸を試みては、海上自衛軍の艦隊と陸上自衛軍の迎撃部隊に撃退され続けている」

 ここで暫しの間が入った。
 怜次が話について来れていることを確認してから、猪熊曹長は続きを喋り始める。

「だから、第三特機群が前線に出るとすれば、四国の太平洋側――高知県や徳島県に大規模な敵勢力が上陸した場合くらいだ。それに万が一そんな事態になっても、年少兵を抱えた部隊を最前線に送るとは思えん」
「……そうですか。ありがとうございます」

 怜次は教科書を抱える腕に力を込めた。
 この教科書の持ち主は、どんな気持ちで戦況を見つめているのだろう。戦線から離れた場所で過ごせて幸運だと思っているのだろうか。それとも、敵に直接手を下せないことを歯がゆく感じているのだろうか。
 鎖で縛られた扉が眼前に立ち塞がっているようで、怜次はそれ以上何も言えなかった。



[29376] チルドレン・イン・ザ・ウォー
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/03 01:32
  二〇一一年 十月十一日 津ノ井駐屯地 自習室

 駐屯地には自習室と呼ばれる部屋が設けられている。隊舎の施設としては珍しくエアコンが常時起動している部屋で、消灯時間までなら暑い夏や寒い冬でも快適に過ごすことができる場所である。
 普段は兵士達が資格試験の勉強などのために使う部屋なのだが、今日に限っては少しばかり趣が違っていた。

「あれ、全員揃って何やってんだ」

 自習室に入るなり、怜次は意外そうな声を上げた。自習室の机の一つを第三小隊の面々が占領している。翔也に玲奈、亜由美に月子と、隊の年少兵が揃い踏みだった。机の上にはテキストと大学ノートが広げられている。内容は数学……のように見えた。
 怜次以外にとっても奇怪な光景なのだろう。居合わせた他の隊の隊員もしきりに視線を向けていた。利用者があまりいない時間帯なので人数こそ多くないが、少なからぬ隊員がこちらの様子をさり気なく窺っている。
 体力練成のときもそうだったが、この小隊は他の隊員からの注目を集めやすいらしい。当たり前といえば当たり前ではあるのだが。
 四人を代表して、亜由美が怜次の疑問に答えた。

「通信制高校の課題です。特別採用で自衛軍に入った人は、みんなそうしてます」
「ちなみに学費はタダっす」

 翔也が聞かれていない情報を付け加える。
 ランニングが終わってから次の課業までは一時間も空いていない。そんな隙間の時間を使ってまで勉強をするのは素直に賞賛の対象だと思えた。

「何これ、全然分かんない……亜由美ちゃーん」
「さっきもその公式で詰まってなかった?」

 苦戦して頭を抱える翔也と玲奈。自身は軽々と解き進めながら、二人に問題の解き方を教える亜由美。独りで黙々と解答欄を埋める月子。エアコンが吐き出す涼風の下、シャーペンの芯が紙面を擦る音が妙に大きく聞こえていた。
 そのとき、自習室のドアが騒々しく開け放たれた。

「ああー、やっぱりここは快適でいいなー」

 集中力を容赦なくぶつ切りにする黄色い声で、岸田兵長が来襲した。ここが『自習室』であるという重大な事実をなかったことにしそうな勢いだ。軍服の襟元をぱたぱたと動かして、冷気をシャツと肌の間に送り込みながら、岸田兵長は四人と同じ机に腰掛けた。
 亜由美はあからさまに遠慮して欲しそうな顔になった。亜由美にとって、こういう気の抜けた人物はすこぶる相性が悪いらしい。
 無論、岸田兵長は亜由美の無言の抗議を軽やかに無視している。

「お勉強? それなら私が教えてあげるのに」
「結構です」

 掛ける言葉も自然と刺々しくなっている。だが岸田兵長には文字通り蛙の面に水だったらしく、一向に堪える様子もなくだらけ続けていた。

「で、怜次君はどうしてここに?」

 岸田兵長にそう言われて、怜次は自分がここに来た理由を思い出す。

「そうだ。廊下にこんな教科書が落ちてたんだけど、誰か知らないか」

 四人が机に広げた教科書とノートを見渡す。月子の手元に積み重ねられた教科書の中に、怜次が持っているものと同じ本が混ざっているのが見えた。
 怜次は軽く首を傾げた。かなり失礼な妄想ではあるのだが、もしかしたら月子の使っている教科書なのかもしれないと思う気持ちがあった。予備を持っているとは考えにくく、新たに調達するには気が早い。
 やはりただの考え過ぎだったのだろう。そう考えて、怜次は自習室から出るため振り返ろうとした。

「あ! それ、私のです」
「え――――」

 細い指が怜次の手から教科書を抜き取った。
 呆然とする怜次の目の前で、玲奈が可愛らしい笑顔を浮かべていた。

「やっぱり廊下に落としてたんですね。ありがとうございます」

 偽りのない感謝を込めた言葉と。

「こっちで勉強するときは、教科書を一通り持ってくるようにしてるんですけど」

 相変わらずの人好きがする笑顔で。

「失くしたのかと思って焦っちゃいました」

 怜次に向かって微笑んでいた。

「……本当にお前のなのか?」
「そうですよ? ほら」

 玲奈は件の教科書と別の教科書を一緒に見せてきた。どちらも裏表紙の隅に手書きのマークらしきものが描かれている。形も癖もそっくりで、同一人物が描いたことは間違いない。恐らく、これは玲奈の所有している教科書全てに記入されているマークなのだろう。
 怜次が言葉に窮していると、玲奈の手の上で、開き癖の付いたページが浮き上がる。
 そして、殴り書きの文字が――

「――――!」
「あっ……」

 硬直する怜次と裏腹に、玲奈は至って普通の態度で教科書を閉じ直す。まずいものを見られてしまったという態度は微塵も感じられなかった。

「他の皆には言わないで下さいね。恥ずかしいから……」

 玲奈は二冊の教科書を片手で抱え、気恥ずかしそうに頬を掻いた。
 何かがおかしい。何かが致命的にずれている――怜次は得体の知れない違和感に襲われ、僅かに退いた。
 周囲の面子は、怜次が言葉を失っている原因も、玲奈が照れている理由も知らないままに、思い思いの会話を続けている。

「あれぇ……なんで間違ってんだろ」
「ちょっと見せなさい。どうせ公式でも間違って覚えてるんでしょ」
「飲み物でも買おうと思うんだけど、何か要るかい?」
「あ、じゃあ俺コーラ」
「私は……せっかくだから烏龍茶でもお願い」

 数学の問題が解けずに頭を捻っている翔也と、彼に解き方を教えている亜由美。そして、あくまでマイペースに振る舞っている月子。誰一人として怜次の戸惑いには気が付いていないようだ。
 唯一、岸田兵長が怪訝そうに怜次を見やったのを除いて。
 月子は紙コップ式の自動販売機から飲み物を購入し、翔也と亜由美に渡して代金を受け取ると、元の席に戻って再び勉強に集中し始めた。
 その右手の傍では、淹れたてのミルクコーヒーが白い湯気を立てていた。

「私も何か飲もっと」

 玲奈が自動販売機に駆け寄り、商品を品定めし始める。
 立ち尽くす怜次に岸田兵長が声を掛けた。

「どうかしたの? 顔色悪いけど」
「……なんでも、ないです」

 言えるわけがない。
 何に驚き、どうしてたじろいでしまったのかなど。
 怜次の意図を汲んでくれたのか、岸田兵長はそれ以上追求しようとはしなかった。

「でも、どうして……」

 岸田兵長に届かない程度の小声で呟く。
 怜次は、あの殴り書きを『他人に見せてはいけないモノ』『他人に見られたくはないモノ』なのだと考えていた。心の底からの呪詛と、覗き見られるべきではない本音を書き連ねたものだと、勝手に思い込んでいた。
 だからこそ、これ以上他人に見られないように自分の手で返そうとしたのだ。
 しかし、現実は明らかにズレていた。
 落とし主はいつも笑顔を絶やさない榊玲奈で、殴り書きを見られても、感じるのは憎悪や嫌悪の類ではなく単なる羞恥。例えるなら日記帳を誤って見られた場合と大差ない反応でしかなかった。
 怜次は眩暈らしきものを感じ、自習室の壁にもたれ掛かった。

「気持ちの整理をつけたってことならいいんだけど……」

 筆舌に尽くし難い感情に区切りをつけ、結果として笑顔を見せられるようになったというなら、むしろ歓迎すべき状況だと言えるだろう。恥ずかしそうにしていたのも、昔の激情の痕跡を見られたためだと考えれば何の不思議もない。
 だが、仮にそうではなかったら。
 教科書の殴り書きが、今も変わらぬ玲奈の本心だとしたら。
 あの笑顔にどんな意味を見出せばいいというのだろうか。

「くそっ、また間違えた」

 翔也が苛立った様子で消しゴムを動かしている。しかし勢い余ったのか、消しゴムの摩擦でノートのページを破いてしまう。

「しまった……」
「何やってるのよ」
「やっちまったもんは仕方ねぇだろ」

 翔也は破れてしまったページを切り離し、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ放り投げた。だが、それは目的の箱まで届かず、少し手前に落ちてしまった。

「まったく、前も同じことしてなかった?」
「……うるさいな」

 翔也はおもむろに席を立ち、肩を揺らしながらゴミ箱のところへ歩いていった。その近くには月子が座っているのだが、拾って捨ててくれとは頼まなかったのは、失敗の理由が不恰好過ぎたからだろう。
 落ちていた紙屑を捨て、月子の隣を通って席に戻ろうとしたところで、翔也の身体が月子の右肘にぶつかった。

「あっ……」
「……おっと」

 当たった衝撃で右腕が大きく動き、紙コップ入りのミルクコーヒーに接触。
 揺れた拍子に中身がこぼれて月子の右手にばしゃりと掛かった。

「危ないな。ノートに掛かったらどうするんだ」

 月子は素早くノートを避けると、大して慌てた様子もなく右腕の袖を捲り上げた。コーヒー色に汚れた右手の包帯と白いままの右腕が、奇妙な対比を生み出している。

「悪りぃ。医務室から替えの包帯貰ってくる。ロール一個で足りるよな」

 翔也もごく普通の態度で月子の文句に返していた。下手な気負いも感じられない気軽なやり取りだ。
 下手に気を使うよりも、いっそこれくらいの接し方が丁度いいのかもしれない。
 怜次がそんなことを考えていると、唐突に亜由美が席を蹴って立ち上がった。

「ちょっと!」

 周囲の視線が一点に集まる。
 亜由美は血相を変えて月子のところへ駆け寄り、月子の右手と翔也の顔の間で視線を右往左往させた。明らかに焦っている素振りだったが、本人以外は何に焦っているのかさっぱり理解できていない。
 月子が説明を求めるように怜次へ眼差しを向けてきた。そんな困惑した顔をされても困ってしまう。怜次も何が起きたのか理解できていないのだ。

「早く冷やさないと火傷しちゃうじゃない!」

 その一言で、この場にいた全員がハッと月子の右手を見た。手元に置かれた紙コップからは依然として白い湯気が立っている。右手に掛かったコーヒーは熱湯のままだったのだ。その事実に一番驚いていたのは、他ならぬ月子自身であるようにも見えた。
 亜由美が包帯に覆われた右腕を掴もうとする。次の瞬間、月子は反射的としか思えない勢いで、亜由美の手を振り払った。

「――――ぁ」

 呆然と、亜由美は目を瞬かせた。
 やがて何が起こったのか理解したらしく、わなわなと肩を震わせる。

「黒河内さん! 何するの!」
「それはこちらの台詞だ!」

 怒号が怒号を塗り潰す。亜由美は予期せぬ反撃に狼狽し、何も言い返せずに後ずさった。
 月子は自身に注目が集まっていることに気が付いて、左腕で右腕を隠すように抱すくめる。まるで、右腕そのものが『他人に見られたくないモノ』であるかのように。

「……怒鳴ったことは謝る。だけど、このことは気にしないでくれ」

 それだけ言い残して、月子は自習室から走り出てしまった。
 後に残されたのは、状況を理解し切れていない玲奈と翔也に、言葉もなく立ち尽くしたままの亜由美。そして顔を手で押さえて溜息をつく岸田兵長。怜次は散々躊躇った挙句、遠慮がちな態度で亜由美に声を掛けた。

「おい、上原……」
「……あの子はいつもそうなんです」

 ぽつりぽつりと話し始める亜由美だったが、その顔は怜次へ向けられていなかった。

「まるで、何でも独りで済ませられるみたいに振る舞って……勝手に動いて規律を乱して……協調性を狂わせて……。噂になってるんですよ。軍の偉い人の子供だとか、親戚だとか。だからって規律を乱していいはずがないのに……」

 様子がおかしい。視線が明らかに宙を泳いでいる。喋る内容も分かりづらく要領を得ない。
 特別採用制度。それは、ごく当たり前の生活を送ることすら困難になった子供達を支援するためのルール。その対象となった子供達は、必ず相応の過去と現実を背負っている。
 亜由美はすがるような眼差しで怜次を見上げた。
 ならば、この少女はどのような重荷を背負っているというのだ。

「黒河内さんだけじゃないんです。規律を守らなかったら、みんなきっと死んでしまうのに。そうですよね? 私、間違ったこと言ってませんよね? 久我二等兵も気をつけてください。あの子に道連れなんかにされたら――」
「亜由美ちゃん。自習室で騒ぐのもマナー違反よ」

 岸田兵長が鋭い声で口を挟む。亜由美はびくりと肩を震わせて口を噤んだ。

「す、すみません」

 亜由美は声を潜めて謝罪の弁を述べた。さっきまでの異様な態度はすっかり消えてなくなっている。元に戻ったというべきなのだろうか。怜次は語るべき言葉を見出せず、戸惑う玲奈の視線を無言で受け止めることしかできなかった。
 しんとした空気が自習室を包み込む。それを破ったのは翔也の声だった。

「……なぁ、上原。俺も黒河内がお偉いさんの親戚だって噂は聞いてるけど、はっきり言っておかしいだろ。本当にそんな親戚がいるなら、軍なんかに入るわけないと思うんだけどな」

 翔也にしては珍しく表現を選んだ様子の発言だ。
 口には出さないが、怜次も翔也と同じ意見を抱いていた。特別採用制度は戦災児童を救済する目的で設立された制度である。そんな社会的地位を持つ親族がいるなら、わざわざ年少兵にならずとも、直接養って貰えばいいはずだ。
 仮に、直接的な援助ができない関係だというなら、親族の権力で好き勝手ができるという理屈自体が成り立たなくなる。そもそも、危険な戦闘部隊に配属されたことからしておかしい。権力を傘に着られるなら、比較的安全な後方部隊に配属させてもらおうと考えるのが普通の発想ではないのか。

「怜次君、ちょっといいかな」

 くいくいと裾が引っ張られる。怜次は抵抗の余地もなく、自習室の隅に連れて行かれた。

「どうかしたんですか?」

 怜次は身を屈めながら小さな声で訊ねた。こんな形で引き寄せられた以上、表立って話せない話題を切り出そうとしているのは間違いあるまい。
 岸田兵長は周囲の様子を窺いながら怜次に耳打ちをした。

「月子ちゃんの右腕のこと、気付いてる?」
「……………………」

 月子の右腕。肩から指先までを包帯に覆われ、その上、包帯すらも見せまいとするような皮手袋を愛用する腕。触れられることすら徹底的に拒み、それでいて、熱湯を浴びても気付かない――――たっぷり数秒考え込んでから、怜次は岸田兵長の耳元に口を寄せる。

「何となく、想像はできています。でも黒河内が話したくないというなら、そのことには触れないつもりです」
「そっか。できれば、そのままでお願いね」

 怜次は無言で頷いた。岸田兵長の喋り方が妙に大人っぽく見えたのは、きっと気のせいではないだろう。実際、彼女は怜次よりも十年近く多くの人生経験を積んでいるのだから。
 岸田兵長はくるりと回るように向き直り、他の三人に号令をかける。

「さっ! そろそろ次の課業だ。さっさと月子ちゃんと合流するよ」



[29376] 上海戦役
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/03 16:46
   件名(Subject):【重要】サンプル分析調査の結果に関する報告

 陸上自衛軍中部方面隊第三特機群 日向虎彦様

 平素は格別のお引き立てをいただき、ありがとうございます。
 先日ご依頼を承りましたサンプルの分析調査の結果が判明したため、急ぎ連絡をさせていただきます。
 分析結果は以下の通りです。


一、依頼されたサンプル二種と、国内で確認された異星生物との照合結果
    サンプルA(六脚型):全ての既存データと不一致
    サンプルB(触腕型):全ての既存データと不一致

二、依頼されたサンプル二種と、上海で確認された異星生物との照合結果
    サンプルA(六脚型):一致
    サンプルB(触腕型):一致

三、サンプル二種の同定分析
    一致率:九九.八パーセント


 結論を申し上げますと、九月三十日に鳥取県で回収されたサンプルAと、十月六日に島根県で回収されたサンプルBは、どちらも上海の異星生物群に属する個体である可能性が極めて高いと考えられます。
 今回の分析結果は軍事的に極めて重要な意味を持つと思われるため、我々の判断で軍上層部への通達を行いました。結果的に事後報告となってしまったことをお詫び申し上げます。



               岡山異星生物総合研究所 構成物質分析センター
                第一研究班主任研究者  阿佐ヶ谷龍太郎










  二〇〇九年 十二月七日 中華人民共和国領 上海市市街跡

 放棄された装甲車の外装に、雨粒がぽつりと滴った。

「雨、か……」

 虎彦は誰に聞かせるでもなく呟いた。
 真っ黒な頭髪に雨が滴り、頬を伝って落ちていく。
 かつては洋風のカフェテリアであったらしい廃墟の片隅で、赤錆が浮いた客用の椅子に腰を下ろし、疲れ果てた身体を休ませる。
 虎彦の顔付きからは、二十代前半という若々しさは既に消え失せていた。疲労と消耗を極限まで積み重ね、生気を削り尽くされたような表情だけをやつれた顔に貼り付けている。迷彩色の戦闘服も、汗と土埃と生臭い透明の液体に塗れ、見る影もなく汚れていた。
 遠くで砲声が響き渡る。
 二発、三発、四発と連射したかと思うと、唐突に途切れて何も聞こえなくなった。
 虎彦は制服のポケットからブロック状の携帯糧食を取り出して、厚手の包装紙を歯でちぎった。乾いた粘土のようなそれを黙々と咀嚼し、金属製の水筒の中身を呷る。水筒の中身はもうすぐ空っぽになりそうだった。
 廃墟と化したビル街の向こうで黒煙が上った。目を凝らさなければ分からないほどに、細く薄い。さきほど発砲した戦車が破壊されたのだろう。虎彦はその黒煙を無感動に眺めていた。あの程度の光景なら、とっくの昔に見慣れている。顔も知らない誰かの死を嘆くことすら忘れるほどに。
 制服のアタッチメントに取り付けられた通信機が受信を告げる。虎彦はスイッチを押して音声を流した。耳障りな雑音の後に、飄々とした若い男の声が聞こえてきた。

『――――よぉ、日向。おっと、今は日向中尉殿か』
「気にするな。小隊長が死んだから、臨時で繰り上げられただけだ。で、何かあったのか、岸田少尉」

 虎彦は皮肉げに返した。最後の方はわざと固い口調を使ったが、口元は綻んでいる。

『休憩してるところ悪いんだが、エスコートの引継ぎを頼む。台湾軍の戦車小隊が二個分だ。第二臨時港湾まで送ってくれ』

 要するに、港まで撤退中の戦車小隊の護衛任務を交代して貰いたいという要請である。
 通信機から流れる声は明るい口振りだったが、焦りの色も少なからず混ざっていた。岸田少尉達の置かれている状況は、決して気楽なものではないようだ。

「了解。位置情報を機体の方に送ってくれ」

 虎彦は携帯糧食の残りを一気に飲み込み、カフェテリアの残骸を後にした。
 岸田少尉は『戦車小隊が二個分』と表現していた。
 普通なら、どこの部隊に所属する小隊なのかを通達してくるはずだ。それをしてこないということは、文字通り二つの小隊が逃げているのではなく、壊滅した部隊の生き残りを集めた結果、車両数が二個小隊分、即ち八輌に達したというだけなのだろう。
 戦局は壊滅的だ。
 勢いを増した雨が、ひび割れたアスファルトに染み込んでいく。虎彦は黒々とした髪を濡らしながら、建物の隣の路地へと入っていった。
 ごみと瓦礫にまみれた袋小路の最奥で、黒い装甲に身を包んだ金属の巨人が、静かに跪いて主人の帰りを待っていた。
 三式特機――近年になってようやく実戦投入された、人間の形をした兵器。
 虎彦は機体の脚部を足場にして胴体まで登り、外部から操縦席の開閉機能を操作した。何十回と繰り返した搭乗手順を速やかに終わらせ、虎彦は細い配線の束が取り付けられた薄手のベルトを首に巻いた。目蓋を閉じ、手元のボタンをオンにする。

「――神経系インタフェース、接続」

 始動ボタンを押しながらペダルを踏み込む。操縦席の中はひどく暗い。光源らしい光源といえば、座席正面のディスプレイが前方の風景を映し出している光くらいだ。

「全シークエンス完了……三式、起動」

 機体が曲げていた脚部をゆっくりと伸ばす。
 ゆり籠のように傾く操縦席の中で、虎彦は岸田から送られた戦術情報をサブモニターに表示し、その内容を確かめていた。内容は友軍の種別と座標を一覧にした文字情報だが、あちらの状況を把握するには充分だ。

「台湾軍戦車が八輌……これが護衛対象か。その後方に殿の特機が三機……」

 無人の大通りを、漆黒の装甲を纏った巨人が歩いていく。降りしきる雨が夜間迷彩で塗装された装甲を滝のように伝い落ちる。
 周囲に人の気配はない。
 ――否、機体の周囲どころか、上海全体から人間という存在が駆逐されつつあるのだ。

「……来たか」

 虎彦は機体を停止させた。流れるような動作で、機体右腕部に装着した三五ミリ機関砲を前方へ向ける。
 その体勢は、人間が拳銃や突撃銃を構える場合とは全く違うものだ。グリップを手で握るのではなく、機体全長と同程度の長さの砲身が右腕の肘から手首にかけて固定され、その上から追加装甲が取り付けられている。砲弾を収めた弾装は胴体から右肩に掛けて背負うように搭載し、上腕を覆うカバーの下を弾帯が通る構造になっている。
 安定のため右腕に左手を沿え、足を開いて腰を落とす。
 射撃体勢を維持したまま、虎彦は目標が視界に入るのを待ち構えた。
 雨の帳を潜り抜け、迷彩塗装のM60戦車が現れる。総数は七。先ほどよりも一輌減っている。確認のため通信を入れると、移動中に一輌やられたという旨が英語で返ってきた。

「四人戦死、か」

 M60戦車の乗員は四名。一輌が破壊されたということは、これだけの人数が戦死したことを意味する。仮に脱出できていたとしても、この戦況では死期が僅かに延びたに過ぎまい。しかし、虎彦は隈のできた目を僅かに細めただけで、死者を悼む様子すら見せなかった。
 七輌の戦車は時速五十キロにも満たない最高速度をいっぱいに振り絞って、背後に迫る鉤爪の音から逃げ切ろうとしている。
 虎彦は照準が四車線道路の中央線に重なるように調整して、攻撃のタイミングを計った。
 戦車群が機体とすれ違った直後、雨の帳の向こうに鈍色の影が揺らいだ。
 ――巨大な狗。
 体高だけで巨人の肩に達するほどの獣が、鉤爪でアスファルトを削りながら急速に接近してくる。
 無論、尋常な生物であるはずなどない。肉体の各所は金属質の部品で構成され、平らな装甲板のような皮膚が主要な部分を覆っている。一方で、顔面の中央でぎらぎらと輝く単眼は極めて生物的だ。
 例外なく六本の脚を有する、金属と有機体の入り混じった血肉を持つ巨獣。
 それが人類の敵――金属食性異星生物、グレムリン。

「三、二、一……ッ!」

 虎彦は右手のレバーのボタンを押した。
 三五ミリ機関砲の砲身が高速回転し、音速の三倍を超える焼夷榴弾が秒間数発の間隔で放たれる。鉄鋼製の砲弾は巨獣の皮膚を易々と穿ち、内部で爆発して金属的な筋肉繊維を焼き焦がし、破壊力を帯びた破片を体内に撒き散らす。
 先頭を疾走していた巨獣は、二秒間にも満たない射撃によって、肉体の前面をズタズタの残骸に変えられていた。

「まず、一つ」

 後続の『敵』が素早く左右に散開する。
 数は三体。どれも先ほど撃破したグレムリンと同じ種類だ。

「次っ……!」

 虎彦は機体の膝をバネのように曲げて、一体だけに別れたほうに追随して横に跳んだ。
 巨獣がガードレールを踏み躙って方向を変える。
 次の瞬間、虎彦の三五ミリ機関砲が火を噴いた。砲口から吐き出される濃厚な黒煙の向こうで、巨獣が色の薄い体液を撒き散らして盛大に転倒した。

「二つ」

 虎彦は即座に機体の向きを変え、道路の反対側を疾走する巨獣の側面を蜂の巣にした。流れ弾がガラスを突き破り、倒れていく巨体が窓枠と壁を粉砕する。

「三つ」

 これで四体のうち三体までを仕留めたことになる。残るグレムリンは一体のみ。
 虎彦はアクセルペダルを踏み込んで機体を加速させた。最後の一体が路地裏に潜り込むのが見えたのだ。虎彦はM60戦車が逃げていった方角に走りながら、周辺の地図情報をサブモニターに映した。
 あのサイズのグレムリンが通過できる横道で、ここから一番近い道は一区画先にある。

「……間に合うか?」

 機体を極端なまでの前傾姿勢に移行させ、路面を斜めに蹴り疾走する。爪先がアスファルトを抉り、土砂と雨水が混ざった飛沫を撒き散らす。
 操縦席が激しく振動するのも構わずに、虎彦は可能な限りの速度で走り続けた。二脚と六脚ではどうしても後者の方が速い。後は相手が回り道をしているという有利をどこまで生かせるかだ。
 機体に急制動を掛ける。片足を突っ張って速度を一気に削ぎ落とす。強烈なGが虎彦を左右に揺さぶり、機体の足元で壁のような水柱が立った。

「そこっ!」

 目的の路地に三五ミリ機関砲の砲口を突っ込み、照準を定める手順すら省いて発砲した。
 がむしゃらな弾幕が路地を埋め尽くし、目と鼻の先まで迫っていた巨獣を打ち抜いていく。頚部が半分吹き飛び、取れかけた頭が急に牙を剥いた。死の直前に振り絞った力で機体の胸部装甲に食らいつき、厚みの半分ほどをもぎ取って絶命する。
 巨獣が倒れ、大きな水飛沫を散らした。
 路地に静けさが戻る。降り注ぐ雨粒が硝煙を薄め、機体の筋肉組織を冷却していく。胸部に刻まれた歯型からは、装甲の奥のフレームが僅かに覗いていた。

「……ふぅ」

 虎彦は黒い髪をかき上げ、操縦席のシートに深く身を横たえた。操縦席は気密性が非常に高いため、雨音や空気の冷たさは伝わってこない。しかし、ディスプレイ越しの雨模様を見ているだけでも、火照った身体が涼しくなっていく気がした。
 不意に、機体に備え付けの通信機がノイズを吐き出した。送信元は岸田少尉の機体だ。通信状態が悪いせいか聞き取りにくい。虎彦は通信機の音量スイッチを捻った。

『――よぉ、日向。そっちは好調みたいだな』
「ああ、さっき四体倒した。次は何体来る予定だ?」

 雑音が混ざり、大口径の火器の発砲音が聞こえた。
 戦闘中なのか? 虎彦は眉をひそめた。それにしては岸田少尉の声が暢気過ぎる。

「護衛対象は逃がした。今頃は川岸の仮設港まで辿り着いてるはずだ。お前達の方はどうだ。戦況は? 現在位置は?」

 内心に滲む焦燥を抑え切れず、矢継ぎ早に報告を促す。
 返ってきた声は、酷い雑音に侵されていた。

『なぁ――向。俺達が――こで負け――ら、日本はどうな――かな』

 聞き取りにくいのは、雑音が混ざっているということ以上に、声そのものが衰弱しているせいだ。虎彦は全てを察し、視線を伏せた。

「どうにもならないだろう。上海への上陸作戦は失敗、それだけだ。投入した戦力以外は何も失わない」

 虎彦は無意識に言葉を選んでいた。
 失われた戦力とは、虎彦や岸田のことをも含んでいる。その現実には触れず、なおかつ嘘にならない範囲で、可能な限り肯定的な表現を使おうとしている。

「俺達が派遣される前と同じだ。自分の近くで戦いが起こるまで、対岸の火事みたいに暢気に過ごして……平和に暮らすんだろ」
『ああ、そりゃ――いいな。姉さんも――でなきゃ――で死ぬ、意味が――』

 甲高いノイズが鼓膜を突き、それを最後に通信は途絶えた。
 虎彦はきつく奥歯を噛み締めた。歯の表面がこすれ合う不快な音が鼓膜を震わせる。そうしなければ叫び出してしまいそうだった。
 機体を急旋回させ、最後に岸田機の反応を捉えた方角へ走らせる。既に手遅れなのは分かりきっている。走らせずにはいられなかった。
 疾走を続けながら通信機のスイッチを弄る。一縷の望みを託して、他の二機との交信を試みるも、耳障りな雑音が神経を苛立たせるばかりであった。
 虎彦は吐き捨てるように舌打ちをして、本隊との通信回線を開いた。

「こちら臨時遊撃小隊! 本隊、応答してくれ! 俺以外は全滅だ……!」
『――――撤退は許可できません。可能な限り遊撃と支援を続け、主力部隊の撤退が完了するまでの時間を稼いでください』
「……クソッ!」

 乱暴に通信を切り、激戦によって荒れ果てた道路を南下していく。街並みは極限まで荒れ、建ち並ぶビルはまるで穴あきチーズのような有様だが、不思議と兵器の残骸は少なかった。
 三百メートルほど進んだところで、虎彦は舌打ちをして機体を減速させた。大通りから死角となるように位置取って、ビルの陰に機体を隠す。大通りに複数の敵の反応があった。大型の敵影が一つと、それを取り巻く形で小型の敵影が散らばっている。
 未だ降り止まぬ雨が、機体の装甲の表面を流れ落ちていく。

「ちっ……」

 各種センサー類を搭載した『頭』を回し、敵の一群を映像で捉える。
 そこには正体不明の巨大な生物がいた。寸詰まりの海鼠か蛭のように生々しい胴体から、金属質の六本の脚が左右に三本ずつ生えている。脚はクレーンの腕と似た構造をしていて、皮膚はまるで分厚いゴム膜のよう。脚部に支えられて浮き上がった高さも含めれば、その大きさはビルの五階部分まで達している。
 怪獣じみた大きさの、異常発育した海鼠が数台の重機で持ち上げられている――虎彦はそんな印象を抱いた。初めて見るタイプだが、あれもグレムリンなのだろうか。

「デカブツが一匹に小物が……数えるのも面倒だ」

 巨大海鼠は六本の脚を互い違いに動かして、無人の道路を我が物顔で闊歩している。速度は極めて遅く、一歩進むのにたっぷり三秒以上かけていた。あまりにも緩慢すぎて、虎彦にはアレが前進しているのか、それとも後退しているのかすら分からなかった。
 巨体の両端が伸縮し、地面の臭いを嗅ぐ象の鼻のように路面をまさぐる。この怪物の前後を区別できない最大の理由。それは、肉体の両端に口腔がぽっかりと開いていることだった。肉筒としか表現のしようがない孔の周りに、大きく内側に湾曲した牙が環状に生え、一定のペースを維持して開閉を繰り返している。
 その周りには、小型のグレムリンが数え切れないほど群がっていた。成人の男より一回りは小柄で、恐竜図鑑に載っている小型恐竜を髣髴とさせる形状をしている。

「小さいのはともかく、でかい奴は倒しきれそうにないな……」

 巨獣の片方の口が、破壊され放置されていたM60戦車を銜えた。砲塔に牙を食い込ませ、瓶の蓋をこじ開けるように捻じ切る。高く掲げられた砲塔から、戦死した砲手の亡骸がずるりと滑り落ちた。巨獣は砲塔をごりごりと咀嚼し、更には車体そのものまでも喰らっていく。
 身の毛もよだつような光景を前にしても、虎彦は無表情を崩さなかった。

「……一気に抜けるか」

 機体を捻り急加速。向かいの路地を目指し大通りを横切る。それと同時に、三五ミリ機関砲の焼夷榴弾の嵐で小型恐竜の群れを薙ぎ払う。アスファルトに無数の孔が穿たれ、メタリックな肉片と半透明の体液が、水飛沫に混ざって四方八方に飛び散った。
 大通りを挟んだ反対側の路地に機体を滑り込ませる。移動射撃は有効な打撃を与えた。小型恐竜は大半が吹き飛び、生き残りもパニックを起こしている。
 流れ弾が何発か巨獣に当たったようだが、どうやら全く堪えていないらしい。戦車の乗員を食べていた側とは反対の口が、砕け散った小型恐竜の残骸を捕食し始めた。敵味方関係なく死体を食らう――まるで掃除屋だ。
 虎彦は路地の奥へと機体を走らせた。追ってこないのなら、無理に攻撃を加え続ける必要はない。弾数を考えても、無駄な戦闘は避けるべきだ。
 時間と共に強さを増す雨を潜り、虎彦の駆る特機は無人の上海を走り続けた。
 勢いもそのままに十字路を曲がり、即座に三五ミリ機関砲を振り向ける。
 その瞬間、虎彦は驚愕に目を見開いた。

「――なんだ、これは」

 眼前の町並みが数百メートルに渡って陥没し、異世界じみた深淵が口を開けている。
 崩落した地盤と道路。倒壊し、引きずり込まれた高層建築。折れ曲がった信号機。それらを白い繊維のようなものが包み込み、歪な半球が幾つも重なり合った有機的な形状の構造体を作り上げている。
 まるで、暗い穴の中央から大量の泡が吹き出しているかのようだ。
 無論、実際は泡などという生易しいものではない。表面に白銀の光沢があり、降り注ぐ雨粒が飛沫を立てて弾けている。明らかに硬質の物体、それも金属的な物質に違いなかった。

「これが……グレムリンの……巣、なのか……」

 白き奈落の中央に、兵器の残骸が塔のように積み上げられていた。
 M60戦車。M41D軽戦車。C21M装甲兵員輸送車。七四式戦車。八九式装甲戦闘車。七三式装甲車。戦車砲が、装甲が、車輪が、無限軌道が重なり合い、折れ曲がり、無残な姿を晒している。この惨状が自然発生したものではないことは明白だ。何らかの意図を持って実行された所業に違いない。

「…………っ!」

 ディスプレイ越しに映る塔の頂に、異質なモノが座していた。
 黒金の残骸とは対照的な白銀の外皮。陽光を弾く幾何学的な鱗。腕のように発達した六本の足。水晶のように透明な二対の翅。脚よりも強靭な一本の尾。その尾と見紛うばかりに長く伸びた首。そして、首の先に付いた小振りな頭と、人間のような平べったい貌。
 人面の飛竜。有史以来、この世に存在した如何なる生物からもかけ離れた『異物』が、残骸の塔から虎彦の機体を見下ろしていた。

「岸田……!」

 乱杭歯を何重にも生やした顎の狭間に、虎彦の機体と同じ胴体ブロックが挟まっている。両腕と下半身を喪失し、残された胸部に不規則な配列の牙が何本も突き刺さり、機能を停止していた。
 『異物』が顎を噛み合わせ、巨人の残骸を粉砕した。無色に近い動力溶液に混ざって赤い少量の液体が飛び散ったのを、虎彦は見逃さなかった。
 虎彦は腹の底から叫び、機関砲を振り向けた。泡状のドームを引き裂いて種々多様なグレムリンが姿を現し、敗残兵を狩り尽くすべく各々の武器を剥き出しにする。さながら主を守らんとする忠臣のように。
 首を持たない四腕二脚の巨人。触腕を振り乱す鋼の海星。六本脚の奇蹄生物。
 それはまさに、地獄の釜の蓋が開いたような――



[29376] それは珍しくもない出来事で
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/07 02:19
  二〇一一年 十月十二日 鳥取市津ノ井 自衛軍士官用宿舎

「――――くそっ」

 最悪の寝起きだった。
 虎彦はベッド代わりに使っていたソファーから身を起こし、真っ白になりかけている頭髪を掻き乱した。

「またあの夢か……二年も経つってのに、女々しいもんだ」

 寝惚け眼のまま、殺風景な部屋を見渡す。2DKの洋間には必要最小限の家具だけが置かれている。独り暮らしという簡潔な生活規模に対して、部屋の面積が広過ぎるのだ。
 贅沢だと言われるかもしれないが、この部屋は虎彦が好んで借りたものではない。
 一般に、自衛軍の兵士は駐屯地内で生活することが義務付けられる。そして猪熊曹長のように下士官と呼ばれる地位になると、一定の条件さえ満たせば、駐屯地の外に居を構えることが許可されるようになる。
 だが、少尉以上の軍人……いわゆる士官の場合、逆に駐屯地内で暮らすことが許されなくなるのである。これは自衛軍が自衛隊だった頃からの決まりであり、自力で家を用意できない場合は、軍が借り上げた集合住宅の一室に入居することになる。
 虎彦の居室もそういった士官用集合住宅の一つだった。

「もうこんな時間か」

 日付表示付きのデジタル時計に目をやる。
 午前七時五分。虎彦の感覚から言うと、これでも寝過ごした内に入る時間だ。

「今日は……日曜の振り替えで休みだったな」

 自衛軍の軍人にも休日は存在する。
 どうしようもないほど熾烈な最前線は別として、そうでないなら週に一日から二日の休養は与えられる。ただでさえ人員不足が深刻となっているのに、過労で使い潰すなど論外だということなのだろう。
 しかし社会一般と同じ土日の週休二日を徹底すると、突発的な事態に即応できる部隊がなくなってしまう。それを防ぐため、部隊ごとに――第三特機群の場合は中隊単位で――休日をずらして割り当てるのが、陸上自衛軍における実質的な休日制度となっていた。
 とはいえ、緊急時には即座に駐屯地へ戻れる範囲で行動すること、という最低限の条件も定められているのだが。

「……ん?」

 ふと、隣室へ繋がる扉に顔を向ける。
 扉の隙間から、食欲をそそる匂いが漏れ出してきていた。虎彦は溜息混じりに扉に手をかけると、一気に開け放った。

「おはよう、虎ちゃん」

 隣室のダイニングキッチンで、どういうわけか岸田兵長が調理にいそしんでいた。
 質素な私服を着用し、その辺にあった踏み台を足場にしてフライパンの中身をかき混ぜている姿は、どう贔屓目に見ても料理に挑戦した中学生だ。

「何をやってるんだ、岸田兵長」
「見ての通りだけど」

 岸田兵長は砕けた態度で答え、足場の上で振り返った。この姿だけを見て、彼女が軍人であると気付くことができる人間がどれほどいるのだろう。

「今日は私もオフだからね。どうせ虎ちゃんは簡単なもので済ませてるんだろうなって思ったから」
「おい、兵長……」

 虎彦が口を挟もうとした矢先、岸田兵長はびしりと指を突き出した。

「オフは階級関係なしって約束したでしょ。そっちのほうがやりやすいって言ったの、虎ちゃんじゃない」
「……そうだった。それで、皿が二人分あるのは佐代子さんの分なのか?」

 虎彦は僅かにに喋り方を変えた。敬語を使う者がいなくなり、普段とはまるで異なる空気が流れ始める。

「いいじゃない、私も朝食まだなんだから」

 岸田兵長――佐代子は軽い口調でそう言って、食卓に並べてある食器に朝食を並べていく。そうして一通り準備を終えるや否や、佐代子は部屋の主を差し置いて席に着いた。その後に続く形で、虎彦も椅子に腰を下ろす。
 恋人とは異なる砕けた雰囲気。あえて近いものを挙げるとすれば、長年連れ添った家族の間に流れる空気だろうか。
 佐代子は軽く手を合わせ、虎彦より先に朝食に手をつけ始めた。

「ところで、岡山の研究所に頼んだサンプル分析の方はどうなってるの?」
「今日はオフなんだろ? 完全に仕事の話じゃないか、それ」
「オフだからよ。仕事中だと却って聞きにくいじゃない。部隊長やってる士官と下っ端兵士の関係なんだから」
「……そういうものかね」

 虎彦は溜息を吐き、四つ折りの白い紙を差し出した。岡山の構成物質分析センターから送られてきた報告メールを印刷したものだ。
 報告内容は虎彦が想像していた結果と同じ――想像しうる限りで最悪の展開。
 猿政山で交戦したグレムリンだけでなく、九月末日に回収されたサンプルまでもが上海由来の個体だったのだ。
 佐代子は報告書を一読するなり、ぽつりと呟いた。

「もうすぐ二年になるんだね。司が死んじゃってから」

 その名を聞いて、虎彦は額を押さえた。
 上海戦役。地獄とも称される、自衛軍結成以来最悪の大敗。この戦いにおいて、岸田司少尉は虎彦の同僚として、後には部下として戦い、戦死した。
 それだけなら、数え切れないほどに出遭ってきた戦争の犠牲者の一人に過ぎない。
 だが、岸田司の場合に限っては、他の戦死者達と同一視できない理由があった。

「しっかりしなくちゃって思うんだけど、やっぱり弟のことだから難しいかな」

 佐代子は食事を取る手を緩め、物憂げに微笑んだ。

「でも小隊の子達はきっちり面倒見るから、心配しないで。中尉くらいになると隊員のひとりひとりまで見てる暇はないんでしょ。そこんところは、私と竜馬君に任せていいからね」
「はは……頼りにしてますよ」

 岸田司と岸田佐代子。その苗字が示すように、二人は血を分けた姉と弟という関係だった。むざむざ死なせてしまった男の血縁者と食卓を囲む――考えようによっては、ひどく倒錯的な光景なのかもしれない。

「やっぱり心配だよね」
「……何のことだ?」
「これからのこと。虎ちゃんのことはランドセル背負ってた頃から知ってるんだから。隠しても無駄なんだからね」

 佐代子は半分ほど空になった食器を箸の先でなぞりながら、虎彦の顔をじっと見据えた。
 虎彦は眼を背けることができなかった。非難や叱責といった類の感情ではなく、純粋な真摯さだけを湛えた眼差しだ。

「大陸のグレムリンが日本にいるということは、女王も海を渡ってきている可能性が高いはずでしょう。そうだとしたら、私達の小隊も戦いに駆り出されるかもしれない。でも、今のあの子達に本格的な実戦は早過ぎる。虎ちゃんもそう思ってるんでしょ?」

 虎彦は沈黙を以って肯定に代えた。佐代子の指摘は紛れもなく的を射ている。否定する余地など微塵もない。

「ねぇ、どうにかならないかな」
「出撃の判断は司令官が権限を持ってるから、俺の権限では意見を上奏するのが精一杯だよ。……だけど、最善は尽くす」

 その返答を聞いて、佐代子は子供のような笑みを浮かべた。
 上海戦役で虎彦は旧友を失い、佐代子は弟を失った。そして今、彼女は新たに得た弟達と妹達を危険に晒している。だからこそ気に病まずにはいられないのだろう。あんな喪失感を二度も味わうなど、想像するだけで気が狂いそうになるに決まっているのだから。




  二〇一一年 十月十二日 津ノ井駐屯地 第三小隊格納庫

「……よっと」

 怜次は身を捩り、仰向けのまま三号機の操縦席から這い出した。
 開け放たれた胸部装甲の内側に脚を置き、そのまま上半身を引きずり出す。こうした特機特有の降り方にもだいぶ慣れてきた。最初は頻繁に頭をぶつけたものだが、教育期間を含め半年以上も乗っていれば、否が応でも身についてしまう。

「ふぅ……後部座席は終わったぞ」

 怜次は薄めた消毒用アルコールを染み込ませた布切れを胸部装甲の縁に置いた。
 同じく胸部装甲の内側に座っていた月子が、その布切れを掴み取る。

「前は私の担当だから、交替だな」

 二人とも軍服の上着を脱いだワイシャツ姿で作業をしていたが、月子はそれに加えて、いつもの皮手袋を嵌めている。

「にしても、操縦席周りの整備が操縦士の仕事ってのは面倒だよなぁ」
「戦車は乗組員が車体のメンテナンスも担当するそうだから、それに比べれば楽だと思うよ。特機の手足を整備しろと言われてもお手上げだからね」

 そう言って、月子は膝と手を突いた体勢で、上半身から操縦席に入っていった。
 特機の操縦席は、胸部装甲が乗降ハッチと足場を兼ねている。しかし、その足場の広さにはどうしても限りがあった。胸部自体の幅より広くすることができないのだ。そのため、二人が同時に座ろうとすると、どうしても手狭に感じてしまう。
 そのことを考えて、怜次は月子の作業の邪魔にならないように、足場の先端付近に腰を下ろしていた。下手に誰かの近くに座っていると、接触した拍子に転落しかねない。これは特機の操縦訓練において真っ先に叩き込まれる常識である。

「ん……普段は気にならないけど、やっぱり座席が汗臭いな。入念に拭いておこう」

 月子は上半身だけを操縦席の中に入れたまま、座席を消毒用アルコールで清掃している。
 さり気なく、怜次は視線を逸らす。操縦席の手入れとしては基本的な作業の一つなのだが、どうにも視覚的に宜しくない。膝を突いて上半身を操縦席に入れている関係上、どうしても臀部をこちらへ向ける形になってしまうのだ。
 人によっては、好機とばかりに眺めるのかもしれないが、怜次にそんな趣向はなかった。

「よし。次はインタフェースの調整を……」

 そんな怜次の意図など知る由もなく、月子は操縦席から上半身を抜いて、胸部装甲の内側にぺたんと座り込んだ。その手には、細い配線の束で操縦席と繋がった薄手のベルト――神経系インタフェースが握られていた。
 それを手早く首に巻き、操縦席内のコンソールを操作する。

「接続……確立。体性感覚同調……右腕、左腕、右脚、左脚……」
「……やること無くなったな」

 怜次は何気なく辺りを見渡した。月子がてきぱきとメンテナンスを進めていくので、却って手持ち無沙汰になってしまったのだ。
 格納庫の内部には第三小隊の一号機から四号機までが立ち並んでいる。
 しかし、操縦士が乗り込んで整備をしているのは、怜次達の三号機だけだった。
 第三小隊は本来祝日だった月曜日に即応部隊として営内待機し、今日はその代替として休日扱いになっている。なので、他の隊員達は思い思いの形で休養を取っているはずである。

「他の連中は何してんだろうな」

 怜次の何気ない呟きに、月子が神経系インタフェースを付けたまま答えた。

「長谷川君と榊さんは市街地に行くとか言っていたけど。……ああ、一緒に遊びに行ったわけじゃなくて、偶然行き先が同じだったらしいよ」
「で、上原は自習室でのんびりお勉強か」
「仕事をしてるのは私達くらいってことだね」

 さらりと言ってのけた月子に対し、怜次はほんの僅かの反感を覚えた。大袈裟な不快感などではなく、日常的に起こり得る些細な苛立ちではあったが、少しばかり言い返してやろうという気持ちが湧き上がってきたのだ。

「左腕を丸ごと付け替えるわ、泥汚れが酷くて洗浄に手間取るわ、色々あってメンテナンスのスケジュールが大幅に遅れたからな。休日返上も止む無しって奴か」
「…………」

 皮肉めいた口調でそう言うと、月子が左手を伸ばして小突いてきた。
 どうやら、前回の戦闘は月子にとって悪い意味で印象に残る戦いだったらしく、そのことが話題に上るたびに苦々しげな反応を見せてくるのだ。

「おっと、避難避難」

 怜次はおどけた態度でそう言って、用意されていた脚立を使って床へ降りた。そして、三号機の足元から、開きっ放しの胸部装甲を見上げる。
 あの戦いから六日が経った。それなのに、怜次は未だに月子に訊ねることができずにいた。
 何故あんなに取り乱したのだ――と。
 それ自体は大して特別な質問ではないはずだ。今まで遭遇したことのない事態だったので、つい混乱してしまったのだとでも聞けば、簡単に納得できるような疑問に過ぎない。
 こんなに単純なことが出来ないでいる理由はただ一つ。怜次の中に『きっと聞かれたくない事情があるに違いない』という思い込みが巣食っているためである。
 勝手な思い込みであるとは理解している。だが、それを払拭するのは容易ではなかった。

「訊いてみれば楽なんだろうけど……やっぱり臆病者なんだな、俺って」

 怜次は適当な物資の箱に腰掛けた。
 格納庫の中は不思議なくらいに静まり返っている。例の戦闘以降、第三小隊は本格的な戦闘を伴う作戦に参加していない。そのため、整備班の仕事も他の隊と比較して少なく、時間帯によっては開店休業も同然になっていた。
 この時点で格納庫にいるのは、怜次と月子を除けば、資材を搬入しにやって来た二、三人の整備員だけだ。
 静まり返った格納庫の資材搬入口の方から、女物の靴の足音が近付いてきた。

「久しぶりだな」

 靴音の主は怜次の前で立ち止まり、親しげな口調でそう言った。濃紺のスカートスーツの上から白衣を羽織った、怜悧な顔立ちの女だ。
 怜次は暫し記憶の糸を辿り、女の名前を思い出した。

「……空木さん?」
「ちゃんと覚えていてくれたか。ええと、君は……三号機の操縦士だから……」

 空木は困ったような顔で首を捻った。察するに、怜次がどこの誰であるかは覚えているが、肝心の名前を思い出すことができずに困っているのだろう。

「久我です」
「そうそう。久我怜次君だったな。資料を読んで何度も確認したんだが、どうにも他人の名前を覚えるのは苦手でね」

 空木は悪びれる様子もなく笑った。彼女の価値観においては、他人の名前を忘れることはさして重大な問題ではないらしい。

「ところで、今日は休日扱いなんだろう? きちんとメンテナンスされるのは開発者冥利に尽きるが、休養を取らなくても大丈夫なのか」
「大丈夫ですよ。相方の作業が終わったらゆっくり休むつもりですから」

 月子のことを相方を表現したことに、怜次は軽いくすぐったさを覚えた。間違った表現でも大袈裟な誇張でもないが、何となく変な感じがしたのだ。奇妙な喩えかもしれないが、少年時代に一人称を『僕』から『俺』に変えたときの気恥ずかしさと少し似ている。

「相方というと黒河内月子か。そうだな……何なら、暇潰しに雑談でもしようか」

 発言内容は提案形式だったが、拒否権を与えられていない気がした。恐らく空木も時間を潰す方法を探していたところだったのだろう。そうでもなければ、唐突にこんな提案をしてくる意味が分からない。
 怜次は適当な話題を探そうとして、出会い頭に空木が話していたことを思い出した。

「そういえば、人工の腕を造って本物の代用にする研究は完成しているとか言っていましたよね。それ、本当なんですか?」
「よく覚えていたな」

 空木は口の端を上げて笑った。

「義肢の研究について説明するには、まずは特機の開発経緯から解説する必要がある」

 話題を間違えたかな――怜次は内心で軽く後悔した。
 空木都子という人物は、知識を披露することに楽しみを覚える性格であるらしい。この前のグレムリンに関する高説がそうであったように、今回の話も長くなりそうだ。

「知っての通り、日本は資源に乏しい国だ。地下資源が皆無なわけではないが、自国の生産量では突然変異的に発達したメガロポリスを支えきれない。だが、世界各地でグレムリンとの戦いが始まってからは、必要な資源を必要なだけ輸入できる保証がなくなった」

 怜次は相槌の代わりに無言で頷いた。日本の不安定な資源事情は、小学校の社会科でも習う事柄である。

「その危機感を背景に、一九八七年頃、とある研究が国家レベルの案件としてスタートした。グレムリンの肉体を構成する金属を再資源化し、輸入資源の代替とする研究だ。その先駆けとして、グレムリン由来の金属で兵器を製造する試みが進められた」

 豊かな金属資源を有する土地はグレムリンの標的になりやすい。石油等を運ぶタンカーも、中継地点の港が壊滅していれば航行できず、またそれ自体もグレムリンの餌となる。
 問題はそれだけではない。戦争が長期化すればするほど、金属資源の需要が上がって争奪戦が激しさを増し、資源輸出国が危機に陥れば輸出そのものが途絶えかねない。資源の安定した確保は、世界中のありとあらゆる国が頭を悩ませる難題なのだ。

「君もグレムリンの兵器利用については聞いたことがあるだろう」
「戦車の装甲や銃弾の素材として使う研究が進んでいるんですよね。でも、それと義肢にどんな関係があるんですか?」
「そう急くな。物事には順序というものがあるんだ」

 どうやら、空木は本腰を入れて語り尽くすつもりらしい。
 怜次は三号機の胸部を見やった。月子はまだ作業中のようだが、この分では話が終わる方が遅いかもしれない。

「グレムリンの装甲は簡単に再利用の目処が立った。実際に戦車の装甲として使われていないのは、普通よりもコストが掛かるというだけの理由でしかない。輸入資源が値上がりすれば、速やかに再資源化装甲へ切り替わるだろうね」

 ここまで話したところで、空木は急に声のトーンを変えた。これからが本番だとばかりに、口調に力を込めていく。

「ところが、筋肉だけは再資源化が難しかった。あれは有機物と無機物が巧みに組み合わさった複雑怪奇な構造体だからな。金属だけを分離するのに莫大なコストが掛かる一方で、質のいい金属は殆ど得られない。とにかく割に合わないんだ」

 筋肉――怜次はグレムリンの強靭な四肢、否、六肢を思い浮かべる。
 一見しただけでは単なる金属繊維の束に思えるが、間近で見ると、想像以上の生々しさに驚かされる。いかに無機質な外見をしていようと、あれは紛れもなく生物の一部分なのだ。

「だが、四年後の一九九一年に、その常識を逆転の発想で克服する兵器の開発が始まった」
「それが特機なんですね」

 怜次の推理を聞いて、空木は嬉しそうな笑顔を浮かべた。失礼な感想だが、この人もあんな表情ができたのかと驚かざるを得なかった。

「ご明察。筋肉を再資源化することが困難なら、筋肉を筋肉のまま使えばいい。しかし、既存の機械に部品として組み込んでも、整備が難しくなるだけで性能は大して上がらない。だから『グレムリンの筋肉を主な動力とし、それ以外のメカニズムを極力排除した兵器』を開発する必要があったわけだ」

 語り口にどんどん熱意が篭っていく。相変わらず、放っておいたらいつまで経っても本題に入らない人だ。それでいて、淀みのない饒舌さで喋り続けるものだから、口を差し挟むタイミングを見つけることすら難しい。
 もしかしたら、怜次のことを『話せる』相手だと見なしたのかもしれない。仮にそうだとすると、喜ぶべきなのか嘆くべきなのか判断に困るところである。
 空木は背後の三号機を親指で指し示した。

「特機にはエンジンなんか搭載されていないだろう? せいぜい電子部品やモーターを動かす蓄電池が必要なくらいで、燃料はグレムリンの死骸から絞り出した動力溶液のみ。地下の金属資源も化石燃料も殆ど使わない、資源小国にうってつけの兵器だ」
「……特機の材料がグレムリンだというのは教えられました。けど、そういう経緯があったというのは初耳です」

 特機が有する兵器としての優位点は、大きく分けて二つ。
 一つ目は、戦車を初めとする戦闘車両が立ち入りづらい場所に、歩兵では扱いにくい高火力を持ち込めること。特機が山狩りや残党狩りに用いられるのは、この特徴を評価されての運用である。
 二つ目は、建造素材と燃料の大部分を敵の死体から調達できること。駐屯地に運び込まれたグレムリンの死体は、駐屯地内に設けられた工場で修理用の素材と燃料に加工されることになる。空木が語った話の内容は、まさにこの特徴の裏話とでもいうべきものだ。

「兵器の開発史なんてそんなものだ。乗り込む者は知らなくても構わない知識だよ」

 空木はここでようやく言葉を途切れさせた。その隙を見逃さず、怜次はすかさず口を挟む。

「それで特機と義肢にどんな関係があるんですか」

 すると、空木は意味深に笑った

「改めて訊くまでもないだろう。君は既に理解しているはずだ。それとも、わざわざ私の口から説明して欲しいのか?」

 怜次は思わず口ごもった。空木の言うとおりだ。特機の操縦士が先ほどの解説を聞けば、嫌でも空木の言わんとすることを理解できてしまうだろう。
 空木が三号機のに目をやる。
 開けっ放しの胸部装甲の上から、月子がこちらを見下ろしていた。何故かは分からないが、月子は驚きに目を丸くしているようだった。

「さて、君の相方は仕事を終えたらしい。私はそろそろお邪魔するよ」

 急いで脚立を降りる月子から逃げるように、空木は踵を返した。そして、去り際に意味深な言葉を残す。

「『それ』は既に完成している。どうして世に普及していないのか考えてみるといい」

 空木が格納庫から姿を消した直後、月子が急ぎ足で駆け寄ってきた。

「久我さん! さっきの女に変なこと言われなかったか?」
「いや、ただの雑談だったよ」

 嘘は吐いていない。客観的に見れば、日本の資源事情と特機開発の関連について熱く語られていただけだ。知的な会話をしていたのだと誤解される可能性はあるかもしれないが、変な話題だと言われることはないだろう。
 しかし、怜次の胸の奥では、許されない嘘を吐いたかのような不安感が渦巻いていた。

「そうか……考えすぎか」

 月子は左手で右の二の腕を抱き寄せた。きっと癖になっているのだろう。一緒に仕事をしていて頻繁に目にする格好だ。
 怜次は椅子代わりにしていた資材から腰を上げ、あえて明るい声を出した。

「さて! メンテも終わったし、ゆっくり休むか」
「そうだな。午前中に終えられてよかった。早く宿舎に戻るとしよう」

 ちょうど居合わせた整備員に施錠を任せて、怜次は月子と連れ立って格納庫を後にした。
 男性用の宿舎と女性用の宿舎はそれぞれ別個に用意されている。だが、極端に離れて建っているわけでもないので、格納庫からの帰り道は男も女も変わらない。厳密に言えば、男性用宿舎が格納庫と女性用宿舎を結んだラインの延長線上にあるという位置関係だ。

「こうしていると、部活帰りに不純異性交遊でもしているみたいだな」

 唐突に、月子がとんでもないことを言い出した。
 驚いて振り向くと、口の端を上げて挑発的に微笑んでいる月子と目が合った。これは彼女なりの笑い方であり、別に相手を馬鹿にしているわけではない。
 怜次はそれをしっかり理解していたので、普通の雑談らしく冗談を言い返した。

「意外と経験豊富ってか。お盛んで羨ましいよ」
「失礼な。これでも異性関係の絶無さには昔から定評があるんだ」
「定評じゃなくて悪評って言うんじゃないか?」

 下らない雑談に興じているうちに、二人は女性用宿舎の前に到着していた。男性用宿舎は、この道を一、二分ほど歩いた先にある。

「久我さん……もう少しだけ、立ち話をしたいんだが」

 月子は声を潜めてそう言った。さっきまでの冗談めかした口調とはまるで違う。真剣な、そして不安そうな声だ。

「榊さんの教科書に書かれていた落書き、久我さんも見たんだろう?」

 一瞬、呼吸を忘れた。
 どうしてあのことを知っているのか。そう聞き返そうとしたが、上手く言葉が出てこない。怜次の動揺をよそに、月子は俯き気味に発言を続けた。

「私と榊さんは同室だから、たまに視界に入るんだ」
「榊は……気にしてないのか? あんなものを他人に見られて……」

 怜次は曖昧な問いを口にするのが精一杯だった。月子の言い方だと、玲菜は例の殴り書きを隠すわけでもなく、平然と教科書を広げているとしか思えなかった。それはもはや、怜次の想像の埒外にある光景であった。

「違う。それは『あんなもの』なんかじゃないんだ。私達にとっては『当たり前のこと』なんだ。特別採用に縋るような人は、少なからずああいう感情を抱えている。教育隊でも榊さんのような子はたくさんいたよ」

 月子の表情が哀しげに歪む。線の細い左手が右腕を握り、包帯に爪を立てる。
 ――なんてことだ。怜次は己の浅はかさに絶望すら覚えた。
 特別採用制度で軍に入った子供達は、通常の生活を送れないほど追い詰められた環境に置かれている。つまり、玲菜のような心境や行為は決して異質なものではなく、外聞を気にして隠したりする対象などではないのだ。
 例え他人に見られたとしても、異常だと思われることを恐れたりはしない。精々、個人的な日記帳を見られるのに近い羞恥心を感じる程度。何故なら、それが彼女達にとっての当たり前なのだから――

「……悪い。考えが甘かった」
「ち、違う! そうじゃないんだ!」

 月子が珍しく慌てた様子で取り繕う。

「榊さんや上原さんのことを特別視しないで欲しい……。出来る限りでいいから、普通の態度で接して貰いたいんだ」

 彼女達の『当たり前』を、怜次の『当たり前』の態度で受け入れる。そんな『当たり前』のことを、月子は心の底から申し訳なさそうに口にした。それとも、月子の中の久我怜次という男は、こんな頼み方をしなければならないような人物なのだろうか。
 あの子達の良い先輩に――いつか誰かに言われた言葉が、頭の中で反響していた。



[29376] 急転する運命
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/10 02:57
  二〇一一年 十月十三日 兵庫県伊丹市 伊丹駐屯地

「――以上が、九月末から十月初頭にかけて得られたサンプルの分析結果です」

 天野大佐は壇上から薄暗い会議室を見渡した。楕円形のテーブルに座した軍人達は、誰もが重苦しい表情で前方の大型スクリーンを見やっている。彼らは中部方面隊に属する師団や旅団といった大部隊の司令官であり、天野大佐よりも階級の高い将官ばかりである。
 スクリーンに映し出された日本地図上の二つの赤い光点は、それぞれ九月末と十月初頭に交戦したグレムリンの出現地点を示している。

「これら二つのサンプルが、上海戦役において我が軍と交戦した勢力の個体であることはほぼ間違いないと思われます」

 将官達の間でざわめきが広がる。

「よりによって上海の勢力か……」
「本州上陸を察知することすらできないとは! 海軍と西部方面隊は何をしていたんだ!」
「まぁ、待て。大規模な移動ならともかく、少数の群れが隠密に行動した場合は警戒網を潜り抜ける場合もある」
「少数の群れだと? 新たな女王が巣立ったとでもいうのか」

 議論ともいえない憶測が飛び交う。情けないが無理もないことだろう。上海戦役には中部方面隊の部隊も数多く送り込まれ、甚大な被害を出した。あの悲惨な戦いは陸上自衛軍のトラウマになっているのだ。上海の勢力が本土上陸を果たしたかもしれないという可能性だけでも、彼らの判断力を低下させるには充分過ぎる。
 烏合の衆と化した将官達を静めたのは、上座に座る男の一言だった。

「上海では圧倒的物量に敗れたのだ。少数ならば脅威にはなるまい」

 軍服に中将の階級章を付けた将軍が会議室を睥睨する。他の将官達は――階級が同じはずの中将も含め――無為な憶測を口にするのを止めた。
 中部方面隊方面総監。それが、あの将軍の肩書きである。
 方面総監とは方面隊隷下の師団長や旅団長を束ねる、いわば軍団長とでも言うべき役職だ。この場の誰よりも強力な権限を持つ人物だが、将官達が押し黙ったのは、むしろ彼自身が持つ威圧感によるものに違いない。

「天野大佐。上陸した勢力の女王がどこにいるか推測できるかね」
「はっ。サンプルAは鳥取県北東部、サンプルBは島根県南部で発見されています。しかし、勢力の移動経路は西から東であると考えられるため、移動についていけず落伍した個体である可能性は低いと考えられます」

 天野大佐はレーザーポインタでスクリーン上を指し示しながら話し続ける。

「本当に可能性はないのか?」
「サンプルAの発見とサンプルBの発見の間には一週間のタイムラグがあります。そもそも、サンプルBと遭遇した地点は他の勢力の巣を潰したばかりの地域です。多くの部隊が残党狩りを行っている中で、一週間も存在を認知されないのは考えにくいでしょう」

 サンプルB、つまり海星型のグレムリンは作戦行動中の特機に奇襲を仕掛けるほど好戦的な性格だ。目撃すらされていないというのは考えにくい。しかも、日本には存在しない特徴的な外見なのだから。

「結論を申し上げます。上陸勢力を率いる女王は、中国地方または近畿地方西部に潜伏しており、サンプルとして回収されたグレムリンは斥候であると推測されます」

 再び会議室がどよめく。しかし、今回は方面総監によって素早く制された。

「こちらも君と同じ仮説に至っている。数日中に徹底的な掃討を行う必要があるだろう。天野大佐。君の部隊にも働いてもらうことになるな」
「承知しています、黒河内中将」





  二〇一一年 十月十三日 岡山県岡山市北区 三軒家駐屯地
 
 この日も、三軒家駐屯地は目を見張るほどの騒がしさだった。道という道を大小様々な輸送車両が行きかい、無数のコンテナや積荷が右へ左へ運ばれていく。その合間を縫って、輸送大体の隊員達が休むことなく駆け回っていた。
 虎彦は最近新築されたという新本部ビルの三階から地上の様子を見下ろしながら、懐かしそうに呟いた。

「相変わらず、ここは騒々しいな」

 この駐屯地は西日本の物流の要だ。兵庫以東から持ち込まれる物資は一旦この駐屯地を経由して、中国地方の各地や四国、九州へと運ばれる。逆に兵庫以西から東海、近畿、北陸へと向かう物資も同様である。
 基地を眺めている虎彦の隣に、スカートスーツに身を包んだ妙齢の女がやってきた。二週間ほど前、小隊発足の日に会った技術研究本部の空木都子技官だ。

「久し振りだな、日向中尉。色のお陰で遠くからでもよく分かったよ」
「こんな髪でもその点では重宝してるよ。ところで、半月は鳥取にいると聞いていたんだが、今日はどうしてここにいるんだ?」
「ただの日帰りの出張さ。荷物はあちらに置いてある」

 軽い挨拶を交わした後で、空木は大きな封筒を渡してきた。受け取ってみると意外に重量がある。

「一〇式の最新版仕様書と引き渡し書類だ。後で天野大佐にも見せておいてくれ」

 そして空木は口元を緩めた。

「確か五週間で四機という約束だったな。まずはこいつが一機目だ。残りも三週間以内に配備できる目処が立っている。ついでに新しい装備を幾つかオマケしておいた」
「性能は大丈夫なんだろうな」

 空木は「当然」と言って、虎彦について来るよう促した。
 本部ビルの隣の建物まで移動して、巨大なシャッターを空木が持っていたカードキーで開ける。シャッターの向こうは広大な格納庫になっていた。第三小隊の格納庫の軽く五倍はありそうな威である。
 三式が立ち並ぶ格納庫の一角に、異質な機体が鎮座していた。
 大きさは三式と同程度だが、陸上兵器らしい無骨さを持つ三式とは逆に、戦闘機を思わせる洗練されたフォルムを有している。そんな印象を受けるのは、まだ迷彩が施されておらず、素材自体のメタリックな質感が残されているせいだろう。
 三式と同じ迷彩をすれば、多少は兵器らしく見えそうだ。

「一〇式筋動力二脚二腕型特殊駆動機械――通称一〇式特機。三式の優れた操縦性を引き継いで、骨格と筋肉配置を中心に構造を改善。運動性を向上させた機体だ。三式より分厚い装甲を装備したり、一二〇ミリ砲の強烈な反動を受け止めることも可能になっている」

 そこまで言って、空木はにやりと笑った。

「要するに、攻撃力、防御力、スピードの全てで三式を上回る機体さ」

 空木は一〇式の性能によほどの自信を持っているらしい。
 三式の正式採用から七年も掛けて完成にこぎつけ、採用後も本格生産までに一年近い改良期間を経てここまで来た兵器なのだ。平時ならともかく、戦時中の新型開発としては難産というより他にない。
 性能もそれに見合ったものでなければ、これまでの苦労が無意味になってしまう。

「三式の操縦性を引き継いだということは、簡単に乗り換えられるのか?」
「もちろん。機体の性能自体は上がっているが、三式乗りなら一〇式にもすぐ慣れるはずだ。ここで試乗してもらいたい所なんだが、もう少しばかり調整が必要でね。それと、迷彩塗装はそちらでやってくれ」

 特機としては最新最高の性能を持つ新型機。これ以上なく頼もしい筈の存在を前にしても、虎彦は内心の不安を拭いきることができなかった。
 ――自分達は一手遅かったのではないか。
 そんな懸念が泡のように浮かび、弾けることなく増え続けていた。





  二〇一一年 十月十三日 鳥取県八頭郡八頭町落石
 
 ――獄山山中。
 鬱蒼と茂る木々の奥、山道から遠く離れた場所に、それは座していた。
 月の光からも見放された深い窪地。その奥底で白い塊が蠢いている。
 膨らみ、泡立ち、弾け、砕けた波頭のような形で静止する。純白の熔鉱炉じみた地獄の泉から、鋼の獣が鼻先を突き出した。牙を剥き、窪地の壁に爪を立て、ずんぐりとした六肢でその巨体を押し上げていく。
 金属質の獣が遂に外気に触れる。新たな同胞の誕生を、巨木の頂から六脚の大蛇が見下ろしていた。
 機械の獣が大いなる主を仰ぐ。彼らに言葉があったのなら、声を揃えて高らかに謳っていたであろう。雌伏のときは終わった。陸を駆け、海を渡る日々はもう来ない。今こそ雄飛のときを迎え、この地に楽土を築こうぞ――





  二〇一一年 十月十四日 津ノ井駐屯地 男子宿舎

 緊急放送が駐屯地にけたたましく響き渡る。怜次は暗闇の中で飛び起きて、大急ぎで電灯のスイッチを入れた。壁時計の表示は午前三時過ぎ。まだ早朝と呼べる時間ですらない。

「起きろ長谷川!」

 同室で眠っている翔也を大声で叩き起こしながら、制服の袖に腕を通す。こんな警報は軍に入って初めてだ。訓練の一環として真夜中に起こされたときもあったが、それとは明らかに雰囲気が違う。
 翔也はしばらくベッドで寝ぼけていたが、並々ならぬ気配を感じ取ったのか、転がり落ちるようにベッドから降りた。

「何があったんですか!」
「俺に聞くな! とにかく格納庫に急ぐぞ!」

 一分足らずで制服を着用し、部屋を飛び出す。廊下は格納庫へ急ぐ他隊の隊員達でごった返していた。怜次と翔也もその流れに乗り、駆け足で宿舎を後にする。
 女子宿舎の前を駆け抜けたところで、岸田兵長や月子達と合流した。亜由美と玲菜も緊急事態に面食らいながらも兵長の後を追ってきている。
 怜次は岸田兵長に併走しながら声を掛けた。

「岸田兵長! 今の警報は……」
「敵襲みたいね。詳細は分からないけど、まさか隊長不在のタイミングで来るなんて」

 その会話を聞いていた亜由美が、横合いから驚きの声を上げる。

「隊長って……小隊長がいないんですか?」
「昨日から新型機の引き渡しで岡山に行ってるのよ。今日の朝には帰ってくる予定だったのに……よりによってとしか言えないわ」
「そんな……」

 亜由美は絶句した。他の面子も同じ心境に違いない。
 転々と灯された照明を頼りに、真夜中の駐屯地を走り続ける。格納庫に近付くにつれて、怜次は事態の深刻さを否応なしに理解させられた。
 各小隊ごとに設けられた格納庫から、次々に特機が姿を現している。特機は五機、十機、二十機と数を増やしており、このままでは第三特機群の全機体が出てくるのではないかと思わされてしまうほどだ。
 否、実際に全部隊に出撃命令が下っているのだろう。それはとりもなおさず、全部隊を動員しなければならないほどの緊急事態が生じたことを意味する。
 第三小隊の格納庫に足を踏み入れると、猪熊曹長が他隊の士官と怒鳴り合っている光景が目に入った。

「曹長!」

 岸田兵長もそちらに駆け寄っていく。後に残された怜次達新兵は、ただその場に立ち尽くしていることしかできなかった。

「怜次さん、私達はどうすれば……」

 玲菜が不安そうな声を漏らす。
 銀縁眼鏡の中尉と猪熊曹長のやり取りから察するに、第一中隊の第三小隊は出撃すべきかどうかも判断できない状況に陥っているらしい。出撃命令は全体に下っているのだが、小隊長が不在な上に年少兵まで抱えている第三小隊を出撃させるべきなのか、司令部が決めかねているとのことだった。
 怜次は必死になって言葉を探した。玲菜の不安は、今何をすべきか分からないことに原因がある。それを解消するには、やるべきことを提示してやるのが最も確実なはずだ。
 考えが纏まった直後、怜次は咄嗟に声を上げていた。

「猪熊曹長、念のため出撃の準備だけはしておきましょう!」
「それもそうだな。総員、出撃準備を整えておけ! 追って指示を出す!」

 曹長の号令を受け、第三小隊の面々は格納庫隅の簡易更衣室へ駆け込んだ。その中で、怜次は大急ぎで制服から戦闘服に着替えていく。何度も繰り返した作業だが、焦れば焦るほどに、袖や裾が引っかかって余計な時間を浪費してしまう。
 格納庫から出たところで、怜次は月子と鉢合わせた。
 三号機へ向かう足を緩めることなく、月子は眼差しを伏せる。

「久我さん。この騒ぎは多分、大規模な戦闘の前触れなんだろうね」
「……不安なのか?」

 月子の唇がきゅっと引き結ばれる。否定するわけでもなく、軽口を言い返すわけでもない。まさか本当に図星を突いてしまったのか。怜次は己の軽率な発言を悔やんだ。大規模な作戦を前にして、相方を不用意に緊張させるなんて愚の骨頂だ。
 何とかしなければ。そう思ったときには既に身体が動いていた。
 少し前を走る月子の背中に掌を叩きつける。

「うわっ! な、なにを……!」
「大丈夫だ! 何かあっても、俺がどうにかしてやる」

 月子はぽかんとした様子で目を瞬かせた。
 我ながら気恥ずかしい大見得だ。安請け合いにも程がある。だが、言葉にしなければ自分の心に響かない。
 これは自身への檄なのだ。何かがあれば死ぬ気でどうにかしろ――己に対する命令だ。
 やがて月子は表情を引き締め、いつもどおりの不敵な笑みを浮かべた。

「信頼したからな? もう撤回はできないし、させないぞ」
「んなことするかよ。二言はない」

 三号機の傍に設置された脚立に足を掛け、ふと岸田兵長の方へ振り返る。兵長は怜次のことを眺めて微笑んでいるように見えた。

 ――君ならあの子達の良い先輩になってくれそうだと思って――

 以前、岸田兵長から言われた言葉だ。あのときは何かの冗談だと思っていたが、今なら兵長の気持ちが痛いほど理解できる。
 しかし、こんなやり方でも良かったのだろうか。
 姑息な時間稼ぎで気を紛らわせ、実行できるかどうかも分からない約束をぶち上げてその場を誤魔化す……嘘も方便という言葉もあるが、これでは彼女達を欺いているに等しい。もし、この懸念を岸田兵長に打ち明けたら、どんな表現で煙に巻いてくれるのだろう。

「……ったく。どうして、こうも言われたとおりになっちまうんだ」

 怜次は三号機の狭小な後部座席に身を沈め、自嘲気味に笑った。
 岸田兵長の言葉だけではない。空木と知り合ったときに告げられた、呪いのような推測……怜次のところには彼女にとって興味深い出来事が集まってくるという発言も大当たりだ。

「総員注目! 司令部から通達が下った! 我々第一中隊第三小隊も作戦に参加する!」

 猪熊曹長が声を張り上げる。予想できていたとはいえ、冗談としか思えない状況だ。
 前部座席で、月子が拳を握り締めたのがはっきりと見えた。



[29376] 強きもの、弱きもの
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/18 01:43
  二〇一一年 十月十四日 鳥取県八頭郡 県道二百八十二号線

 津ノ井駐屯地から山を一つ越え、更に南東。兵庫県との県境の山地へ繋がる県道を、数輌のトレーラーが列を成して走っていた。
 それらの荷台には、一輌ごとに二機の特機が跪くような姿勢で載せられている。三五ミリ機関砲と巨大な弾倉を装備し、ワイヤーによって荷台に固定されたその姿は、静まり返った夜の山村において隠しようのない異彩を放っている。

「なんだか不気味だな……」

 走行中のトレーラーから生じる震動が、特機の操縦席にまで伝わってくる。
 怜次は暗く狭い後部座席に身体を押し込んだまま、後部用ディスプレイに視線を落とした。頭部の暗視カメラが映し出す風景は、トレーラーの向かう先を暗示するかのように、不気味に静まり返っていた。
 前部座席の月子が、怜次の呟きに振り返ることなく答える。

「住民の避難は済んでいるみたいだね。流石に警察の対応は迅速だ」

 確かに、里山沿いに建ち並ぶ家々からは人の気配が感じられない。夜も更けているので眠っているのだろうとも思ったが、状況を考えれば避難していると考えるほうが自然だろう。

「これなら少しは戦いやすいんじゃないかな」
「……正直、あまり変わらない気がするぞ」

 いつもの軽口もこわばって感じられる。月子も少なからず緊張しているようだ。
 怜次達は未だに詳細な戦況を教えられていない。より正確に言うと、軍の上層部も詳しい情報を得られていないらしい。猪熊曹長曰く、確かなのは鳥取県南東部に纏まった敵勢力が出現したということだけで、何故そんなものが現れたのかも定かではないそうだ。

『総員。今回の作戦内容について通達する』

 通信機から猪熊曹長の声が流れる。怜次は気を引き締めて通信機の音声に耳を傾けた。

『我々第三特機群は、主力となる戦車部隊と歩兵部隊が到着するまでの間、敵勢力の市街流入を阻止する役割を与えられた。いわゆる足止めという奴だ。主力部隊は岡山県側の駐屯地から派遣される手筈になっているが、我々の到着から最大三十分程度遅れる計算になる』

 三十分――怜次は暗闇の中でぎゅっと拳を握った。
 不意に操縦席の前方で明かりが灯る。見ると、月子がペンライトを片手に、狭い前部座席一杯に地図を広げていた。

『第一中隊から第三中隊までは県道二百八十二号線を直進し、敵勢力が発見された場所へ直行する。第四中隊と第五中隊は南の国道二十九号線を進み、南から敵勢力へ接近。同時に、敵勢力が南回りの迂回進路を選んだ場合に備えている』
『どうせなら、私達を楽そうな方に回してくれたらよかったのにね』

 岸田兵長が冗談めかして口を挟む。隊員達の緊張を解きほぐそうとしてくれたのだろう。だが、今回の任務には楽そうな方など存在しなかった。
 怜次達が進む県道は市街地への最短経路であり、グレムリンの群れが市街襲撃を考えたとしたら、十中八九通過するコースである。一方、別働隊が進んでいる国道周辺の街並みは、県道周辺よりも規模が大きい。手早い餌場を探しているとしたら、狙われるのはこちらだ。
 結局、どちらも同じくらい危険な任務なのだ。

『偵察に向かった先遣隊の情報によると、敵勢力は獄山周辺に留まっている。我々第一中隊は県道三十七号線との合流点に布陣。第二中隊と第三中隊は南北に分かれて獄山を包囲する。後の指示は目標地点に到達してから行う。通信は以上だ』

 短い雑音を立てて通信が途切れる。
 獄山とは、県道二百八十二号線の終点付近にそびえる、標高八百メートルほどの山である。地図によると、南東へ伸びる二百八十二号線と、南北に蛇行する三十七号線は、この山の少し手前で合流している。その合流地点が、怜次達の戦場となるのである。

「久我さん……」

 月子が囁くように切り出した。その声は明らかに不安に沈んでいる。

「もし、私がこの前みたいになったら……そのときは、無理矢理でもいいから止めてくれ」

 怜次は一瞬言葉を失った。猿政山での一件は、怜次が思っていた以上に、月子の心境に影響を与えていたのだろう。ただ、あの戦いの何が影響を与えたのかまでは分からない。まともな反撃も出来ずに翻弄されたことか、それとも――

「…………」

 ――いや、今はそんなことを考えているときではない。月子が正直に不安を打ち明けてくれたのだ。それに応えなくてどうする。
 しかし、実行できるか分からない約束を交わすことが許されるのだろうか。
 あのとき自分は何もできなかったではというのに。

「……黒河内。俺は……」

 怜次の言葉を掻き消すように、通信機が猪熊曹長の声を吐き出す。

『三号機! 九時方向に敵影!』

 次の瞬間、重く鈍い衝撃がトレーラーの左から襲い掛かる。まるで大型トラックでも突っ込んできたかのような衝撃に、怜次は操縦席の内側で大きく揺さぶられた。

「ぐうっ……!」

 衝撃は一度だけでは終わらなかった。巨大な金属の獣がトレーラーの側面に身を押し付け、凄まじい力を加えているのだ。左車輪が浮き上がり、重心が致命的なまでに傾いていく。

「黒河内!」
「分かってる!」

 月子は三号機の脚部で荷台を蹴り、右方へと跳躍した。機体を固定するワイヤーが一気に張り詰め、付け根部分の金具ごと引き千切られる。金具の残骸が付いたワイヤーを機体に引っ掛けたまま、三号機は真っ暗な路傍へ飛び降りていった。
 道路の高さから二メートルほど落下して、水深の浅い川に着地する。水音の残響消えやらぬ間に、機体頭部の暗視カメラがトレーラーに起きた異常を捕捉した。
 横転寸前のトレーラーに、逃げ遅れて荷台に固定されたままの四号機。
 そして、強靭な四本の前肢で車体を持ち上げる、金属の巨獣。

「グレムリンッ……!」

 月子が三五ミリ機関砲を振り向ける。それを見て、怜次は反射的に声を張り上げた。

「止めろ! 味方に当たる!」

 熊に似たそのグレムリンは、三号機から見て倒れかけのトレーラーを挟んだ反対側に位置している。ましてや三号機は道路より低い場所にいるため、下方から上向きに砲撃する形になってしまう。こんな状態で攻撃すれば、十中八九トレーラーと四号機に被害が及ぶだろう。
 トレーラーが横転する直前に、四号機が緩んだワイヤーの隙間から脱出した。

『三号機と四号機は敵から距離を置け! 二号機は俺を援護しろ!』

 先行するもう一台のトレーラーから、猪熊曹長が操縦する一号機が降り立った。その後ろでは、岸田兵長と翔也が乗った二号機が機関砲を構えている。
 だが、グレムリンは他の機体には目もくれず、三号機に向かって飛び掛ってきた。

「……このっ!」

 月子が右手のレバーのスイッチを押し、三五ミリ機関砲を連射する。無数の徹甲榴弾がグレムリンの胴体に直撃し――全て外皮の表面で爆発した。
 グレムリンが煙を割って川面に落下する。道路まで降りかかる水柱に気圧されるように、三号機は数歩退いた。
 三五ミリ機関砲の徹甲榴弾は、その名の通り装甲を貫徹した後で内蔵の火薬が爆発し、破片と爆風で標的の内部にダメージを与える砲弾である。徹甲弾と榴弾の特徴を兼ね備えた弾薬といえるが、内部爆発を前提とする関係上、貫通力は純粋な徹甲弾ほど高くはない。結果、あのグレムリンの分厚い皮膚を貫くには至らず、表面で爆発を起こすに留まったのである。
 怜次は焦りを堪え、小隊の全機体への通信回線を開いた。

「徹甲榴弾が効かない! 徹甲弾を撃ってください!」
『分かった! 二号機と四号機は攻撃に移れ!』

 こういった状況に備え、特機部隊では複数の弾薬を同時に運用している。第三小隊の場合は一号機と三号機が徹甲榴弾を、二号機と四号機が徹甲弾を搭載しているのだ。

『月子ちゃん、下がって!』
『そこのでかいの! 怜次さんから離れろ!』

 岸田兵長と玲菜の叫びを皮切りに、砲弾の雨がグレムリンの背中へ降り注ぐ。音速を遥かに超える徹甲弾がグレムリンの厚い外皮装甲に穴を穿ち、骨肉を抉って体液を迸らせた。
 しかし熊のような姿のグレムリンは、重低音で吼えるばかりで一向に倒れない。
 それどころか、不気味な眼光で三号機を睨んですらいるように見えた。

「何て硬さだ……」

 月子は改めて機関砲の砲口を向けた。大して効果がないのは分かっているが、襲って来るなら迎撃しなければならない。
 怜次が後部座席のディスプレイに視線を落とした瞬間、画面の奥に異変が生じる。
 路上から砲撃を続ける二号機と四号機の後方、山肌に生い茂る広葉樹の枝葉が不自然に揺れ動いたのだ。まるで、猿政山のグレムリン――ブエルが現れたときのように。

「後ろだ!」

 叫ぶが早いか、高速回転する円盤が二号機に襲い掛かる。

『うわっ!』
『きゃあっ!』

 鋭い鉤爪に右肩から背部にかけてを切り裂かれ、二号機は路面に膝を突いた。同時に機関砲から吐き出される砲弾が途切れ、弾切れのときと同じ音が虚しく響く。左背部の弾倉から右腕の機関砲へ弾薬を送る弾帯は、柔軟に動く金属製カバーで保護されている。それが破断したために、機関砲に砲弾が供給されなくなったに違いない。
 二号機を無力化した謎の円盤は、路面にぶつかってから跳ねるように浮き上がり、速度を減じて正体を現した。
 猿政山で遭遇したグレムリンと同じ、六本の触腕を有する海星型。回転速度が速過ぎて円盤状に見えていたのだ。

『伏兵か!』

 すかさず一号機が機関砲を連射し、落下中のグレムリンを粉々に破壊する。
 それと前後し、大熊のグレムリンが水飛沫を上げて駆け出した。

「黒河内、来るぞ!」
「分かってる!」

 大量の体液を迸らせながら、巨体が三号機へ突っ込んでくる。二号機の射撃が途切れたことにより、大熊に浴びせられる砲弾の絶対数が半減。結果、あの巨体を押さえ込むことができなくなったのだ。
 月子がグレムリンの頭部目掛けて砲弾を乱射する。厚い外皮のない眼球と口腔に徹甲榴弾が突き刺さり、肉の中で爆風と破片を撒き散らす。
 だが、それでも敵は止まらなかった。片目を潰され、口から体液の反吐を逆流させながら、瞬く間に三号機へ肉薄する。

「しまっ――」

 咄嗟の後退も、僅かに遅い。逆袈裟に振り上げられた大熊の腕の先端が、三号機の胸部装甲の端に引っかかる。
 たったそれだけの接触で、三号機は紙切れのように吹き飛ばされた。
 緩やかな放物線を描き川岸に激突。操縦席を凄まじい衝撃が襲う。

「ぐう……」

 怜次は苦痛に歯を食い縛りながらも、ディスプレイから目を離すまいとした。
 川中に立ちはだかる屈強のグレムリン。
 その胴体が、二つに千切れて吹き飛んだ。

「――――あ」

 一瞬の出来事だった。グレムリンの脇腹が突如として拉げたかと思うと、間髪入れずに巨大な穴が穿たれたのである。
 衝撃波が大気を殴りつけ、水面を激しく波立たせる。その轟音は三号機の操縦席の中にまで響き渡った。
 やがて周囲に静寂が戻った頃、通信機から若い男の声が聞こえてきた。

『――えるか――聞こえるか? こちら日向。これより第三小隊に合流する』

 日向中尉だ! 怜次が驚きに言葉を詰まらせていると、他の機体からの音声が次々と飛び込んできた。

『虎ちゃん! よかったぁ……』
『中尉殿! 申し訳ありません、待ち伏せを受けたようです』
『え、マジで隊長? どうしたですか、その機体!』

 錯綜する交信を聞きながら、怜次はシートに体重を預け、安堵の溜息を吐いた。
 助かった――情けないかもしれないが、素直にそう感じていた。日向中尉が駆けつけてきてくれたのもそうだが、月子にも感謝しなければなるまい。トレーラーからの離脱と、先ほどの回避を成功させたのは、他でもない月子自身の技量なのだから。

「また……助けられた……」

 だが、前部座席から聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな声だった。
 怜次は掛けるべき言葉を捜したが、結局、何一つとして見つけることができなかった。

「黒河内。操縦は俺がするから、少し休んでくれ」

 やっとのことでその一言を絞り出す。月子は無言で頷いて、後部座席に全てのコントロールを委譲した。
 迂闊だった。月子にとって、今の戦いは猿政山の再演だ。力の限りを尽くし、それでも敵を倒すことができず、日向隊長によって助けられる。怜次にとっては幸運な出来事だが、月子もそう感じるとは限らない。それを理解できなかったのは、あまりにも愚かだ。










  二〇一一年 十月十四日 鳥取県八頭郡 県道二百八十二号線 沿線

 未明の閑散とした駐車場に五体もの特機が跪いて並んでいる。それらのうち、無傷の三式は一号機と四号機。二号機は機関砲と右腕が破損し、三号機は胸部に傷が刻まれている。
 そして迷彩塗装の三式に混ざった、未塗装の鈍色の特機……一〇式。
 虎彦は駐車場に集まった隊員達を見渡した。携帯用のランプに照らされた彼らの表情は、それぞれ三者三様の顔色を浮かべている。

「朝になるまで帰ってこないと思ったのに、ほんと良いタイミングで来てくれちゃったね」

 佐代子が微笑みながら囁く。

「嫌な予感がしたからな。輸送隊の連中に無理言って早めに出発してもらったんだ」

 無論、完全な直感だったわけではない。中国山地に潜む敵勢力が上海由来の群れなら、好む戦術も同じに違いないだと考えたのだ。猿政山で三号機が受けたような、不意打ちの強襲から大打撃を与える戦術。上海では、莫大な物量でそれをやられ、甚大な被害を出してしまった。
 グレムリンにも獣並の知性はある。二度も手勢が倒されたのだから、本格的な攻撃が近いと予想して、先手を打ったとしても不思議ではない。

「猪熊曹長。現在の状況はどうなってる」

 竜馬は不意に矛先を向けられたにも関わらず、予め命じられていたかのように、淀みなく戦況を報告し始めた。

「先行していた第二、第三中隊は獄山周辺にて戦闘中。第一中隊の他の小隊は、作戦を変更して周辺の森林や山地を索敵しています。第四、第五は三分後に獄山に到着する予定です」
「別働隊の伏兵が撃破されたから、獄山の本隊を動かしたというところか」

 伏兵自体は特機を一機半壊させたに留まったが、その効果は大きかった。他の別働隊の存在を考える必要が生じたせいで、獄山へ向かうはずだった第一中隊が山狩りをしなければならなくなっている。つまり、最前線の戦力が予定より手薄になったということだ。
 虎彦は暫し考えてから、竜馬に指示を飛ばす。

「機体の割当てを変更する。二号機は現時点を以って編成から除外。今の一号機を二号機にスライドさせ、俺が乗ってきた機体を新しい一号機とする。操縦士の配分はいつもの通り。以上の内容を中隊本部に具申しろ」
「了解しました」

 具申、つまり上への提案という形だが、実質的にはただの事前報告でしかない。一刻を争う緊急事態なのだから、中隊本部も二つ返事で許可を出すに決まっている。
 通信機を使うために機体へ戻る竜馬の後ろを、翔也が駆け足で通り過ぎていった。何事かと目で追うと、翔也は佐代子の目の前で立ち止まり、やけに改まった態度で何か話しかけているようであった。

「申し訳ありません。あれは自分のミスです。後方の警戒を怠っていました」
「あれは仕方なかったと思うよ。けど、正直に反省点だと思えたのは偉いね。今度はそれを次に活かせばいいよ」

 佐代子はまるで歳の離れた弟に接するような態度で、落ち込む翔也を励ましている。
 虎彦はさり気なく視線を外した。客観的に見れば望ましい関係と言えるのかもしれないが、こればかりはどうしても主観的な感想を抱かざるを得ない。果たして佐代子は、あの笑顔の下にどんな思いを抱いているのか――それを思うだけで見ていられなかった。

「日向隊長。あの機体と大砲はどうしたのですか?」

 不意に声を掛けられ、虎彦は反射的に振り返った。
 駐車場の中央に置かれた電燈を背に、亜由美が背筋をしゃんと伸ばして立っている。逆光のため表情はよく見えないが、いつもの肩が凝りそうな真面目顔をしているのだろう。

「ん、あれか。三式に代わって配備される予定の新型だ。本当は駐屯地まで持ち帰るだけのつもりだったんだが、現場の判断で実戦投入って奴だな。で、大砲の方は……」

 虎彦は一〇式――新たな一号機に目をやった。
 その足元には、特機の全長を上回るサイズの砲が置いてある。前半分は細く、砲身そのものが剥き出しになっている一方で、後ろ半分には幾つもの装置が大袈裟に盛り込まれている。
 特機が腕を入れて固定するための孔と、もう一方の手で掴むための外部グリップ。砲弾等を詰め込んだ大型マガジンと自動装填装置を保護する装甲。シリンダー型の大型緩衝装置。最後部には、砲撃の反動を相殺するカウンターウェイトの発射装置が配置されている。
 これこそが一二〇ミリ滑空砲特機仕様。ドイツのラインメタル社が開発した戦車砲に対し、徹底的な低反動化と携行化の改造を加えた代物だ。強引な改造を重ねたせいで砲としての性能自体が低下しただけでなく、最新鋭の一〇式ですら一発撃つごとに転倒しそうになるという、まさに曰くつきの新兵器である。
 システム総重量は四トンを上回って五トンに迫り、両腕を使って支えなければ歩くことすらままならない兵器だが、特機が扱える火力としては最強。戦車の運用が難しい戦場に、これを担いだ特機を一機送り込めば非常に頼もしい存在となるだろう。
 以上の内容を、虎彦は一言でまとめて口にする。

「クソ重くて死ぬほど反動がキツいが、桁外れに強力な試作兵器だ。戦車砲の改造品だな」
「はぁ……」

 亜由美は理解したのかよく分からない表情で、曖昧な相槌を打った。
 『一〇式は一二〇ミリ砲が撃てる』という空木の言葉は嘘ではなかった。本物の戦車には到底及ばず、連続射撃も難しい代物ではあるが、確かに扱うこと自体はできている。
 そして何より、一二〇ミリ砲が誇る長射程のお陰で三号機を襲うグレムリンを狙撃できたのだから、役に立ったのは間違いない。

「……そう言えば、三号機の二人はどこだ?」

 さり気なく尋ねると、亜由美は言葉を濁しながら駐車場の隅に目線を動かした。
 虎彦はそれ以上何も訊ねずに、電燈の光が届かない隅へと歩いていく。
 そこでは、コンクリート製の車止めに座り込んだ月子のことを、怜次と玲菜が心配そうに見下ろしていた。

「あっ、隊長……」

 玲菜が虎彦の接近に気付いて身を引く。
 虎彦は俯いた月子の前で立ち止まり、落ち着いた声色で話しかけた。

「随分投げ飛ばされたみたいだが、身体に異常はないか?」
「……ありません」

 声に覇気が感じられない。相当塞ぎ込んでいるのが手に取るように分かった。その理由については容易に想像できる。猿政山での戦いと、今回の戦闘。二度に渡って不覚を取った事実が彼女を追い詰めているのだろう。
 虎彦は傍らに立つ怜次を横目で見やった。怜次は虎彦が近くにいることすら気付いていないかのように、月子のことを真剣な眼差しで見つめている。
 昏い空を仰ぐ。虎彦には『黒河内月子を死なせてはならない』という命令が下されている。しかし、仮にそんな命令が存在しなかったとしても、部下を死なせるつもりなどない。
 だからこそ、今回ばかりは月子の意に沿わない指示を下すしかなかった。

「三号機は一時後退。下津黒に設営している臨時整備場で、点検と整備を受けろ」

 月子がハッと顔を上げる。その大きな黒い瞳は、驚きと困惑の色に塗り潰されていた。
 安全圏への後退――この命令は事実上の戦線離脱を意味している。現在の月子の精神状態では、戦況を無視して無謀な戦いに手を出しかねない。精神面の不安要素が他の隊員の誰よりも大き過ぎる。
 しかし、これは月子から挽回の機会を奪うことをも意味する。
 翔也が失敗を生かす好機を得た一方で、月子はそれすら失うことになるのだ。

「久我。整備場に着くまでの三号機の指揮はお前に任せる」
「……はい」

 歯切れこそ悪かったが、怜次は確かに返答した。
 本人には自覚がないかもしれないが、この小隊では彼以上に月子と相性のいい者はいない。負けん気が強い月子をベテラン兵と組ませるのは難しく、同じ年少兵では、月子を『死なせてはならない』理由が壁になる。
 だからこそ、怜次が最適なのだ。
 虎彦は踵を返し、駐車場の中央で待機している残りの隊員達に向き直った。

「一号機、二号機、四号機を起こせ! 前線部隊の支援に回る!」



[29376] The Angel Arm
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/23 15:21
  二〇一一年 十月十四日 鳥取県八頭郡 県道二百八十二号線 沿線

 冷たい夜風が耳元を撫でて通り過ぎる。夜明けはまだ遠いようだ。
 怜次は真っ暗な駐車場を照らす携帯用電燈を持ち上げ、光量を絞った。駐車場の片隅に佇む三号機が夜闇に飲まれ、その輪郭を薄れさせていく。
 誘蛾灯というわけではないが、暗闇の中でぽつりと灯っている明かりは、敵にとっても丁度いい標的になってしまう。かといって、完全に明かりを消してしまうと自分達の行動に支障が出る。電燈の光量は適切に調整する必要があった。
 怜次は一抱えもある電燈を三号機の足元に置いてから、コンクリートの車止めに座り込んだ月子のところへ歩いていった。

「黒河内……大丈夫か?」
「本当にそう見えるなら、君の目は節穴だね」

 月子は冗談めかした口振りでそう言うと、乾いた笑みを浮かべた。
 他の隊員達は既に前線へ向かっている。この場に残っているのは怜次と月子の二人だけで、残されているのは損壊した二号機と無傷に近い三号機だけだった。
 周囲の暗闇が与える奇妙な圧迫感のせいで、密室に二人きりで取り残されたかのような錯覚を覚えてしまう。

「別に、誰かのことを恨んでるわけじゃないんだ。中尉の判断は正しかったとも思ってる」

 置き去りにされた事実を嗤うように、月子は小さく首を横に振った。

「ただ……自分の弱さが嫌になった。それだけなんだ」
「……焦らなくてもいいだろ。訓練が終わって、まだ半月なんだからさ」

 小隊結成後初めての出撃で無様な結果に終わったことを悔やみ、日々の些細な訓練にも妥協を許さず、今もこうして実力のなさを嘆いている――これを焦りと言わず何と言う。
 意外なことに、月子はあっさりとそれを認めた。

「そうだね……確かに私は焦ってる。でもね、久我さん。こんなご時勢だと、焦らずにはいられないこともあるんだよ」

 怜次を見上げる月子の表情は、大人びているようでいて、今にも泣き出しそうな子供の顔のようにも思えた。
 何も言えず、口を閉ざすことしかできなかった。良くも悪くも人並みの半生を送り、特別採用制度の世話になることもなかった怜次は、月子の生々しい言葉に反論できるだけの経験を持ち合わせていない。知った風な口を利いたところで、空虚な響きにしかならないだろう。
 ならば、己の無理解を認めるしかあるまい。月子が自身の焦りを認めたように。

「正直に言って、俺は何も知らない」

 怜次は一瞬だけ月子の右腕に視線を落とした。そして、すぐに正面から視線を合わせる。

「黒河内がどんな風に生きてきたのか……どんなことを考えてここにいるのか……黒河内だけじゃなくて、他の連中についてもそうだ」

 月子は車止めに座ったまま、怜次のことを見上げている。いきなりおかしなことを語り出されて困っているのだろうか。だとしても、もう少しだけ付き合ってもらわなければ。

「それだけじゃない。知らないくせに、知ろうともしなかった。聞かれたくないに決まってるだとか、話したいわけがないとか、勝手な言い訳ばかりしてきたんだ」

 玲奈の教科書を拾ったときもそうだった。教科書の持ち主の気持ちを勝手に推し量り、自分本位の価値観で処理して、自爆同然に困惑を覚える結果となってしまった。
 それを間違ってはいない、仕方のないことだと考える人もいるかもしれない。
 けれど、玲奈達のことを理解したいと思うなら、完全な悪手である。
 相手のことを知りたいなら――ほんの僅かでも役に立ちたいと願うなら――自分から歩み寄らなければ、何も得ることはできない。そんな当たり前の理屈を、今の今まで気が付かなかったことが情けなかった。

「だから……黒河内のことを、教えて欲しい」

 月子の大きな瞳が一際丸くなる。そのまま暫くきょとんとしていたかと思うと、皮手袋を嵌めた右手で顔の下半分を覆い隠した。

「いきなり何てことを言うんだ、君は。ここは戦場だぞ。それに、私のことを知りたいなんて……物好きにも程がある」

 月子は戸惑っているのか怒っているのかよく分からない態度で視線を泳がせ、上目遣いで目線を向けてきた。光源から離れているせいで、顔色まではよく分からない。しかし初めて見る表情なのは間違いなかった。
 怜次はそんな月子の眼差しを正面から受け止めた。

「そうかもな。きっと俺は物好きなのかもしれない」

 山中で機関砲が鳴り響いては、唐突にぱたりと止む。先ほどからこのサイクルが繰り返されている。さほど遠くないところで戦闘が起きているのだ。

「……本当に私の話を聞きたいなら、二つほど約束して欲しい」

 やがて、月子は意を決したように立ち上がった。

「まず、私が見せたもの、話したことを他人には言わないでくれ。中尉や曹長、佐代子さんは最初から知っているから別として、小隊の皆や他の隊の人には絶対に教えないで欲しい」

 怜次の目をしっかりを見据えながら、右手の皮手袋を外していく。
 そして、迷彩柄の戦闘服の金具とボタンをを取り外し、上着を躊躇いなく脱ぎ捨てた。

「お、おい!」
「二つ目の約束」

 携帯用電燈の光が月子の身体を淡く照らし出す。
 華奢な身体に、薄手の白い半袖シャツと迷彩ズボン。指の先からシャツの袖口――恐らくは肩口までも――を厳重に包む真新しい包帯。

「これから何を見ても、私のことを嫌わないで」

 短く切られた黒髪と大きな瞳に飾られた顔が、怜次を真剣な眼で見上げている。
 怜次は大きく頷き、それだけでは足りないと思い、明確な宣誓を付け足した。

「……分かった。両方とも約束する」
「約束、したからね」

 縋るようにそう言うと、月子は左手を右の肩へと伸ばし、袖口の中へと指を滑らせる。その指先は明らかに震えていた。怯えているのだ。あの包帯が覆い隠す何かは、彼女にとって重過ぎるほどの意味を持つ代物なのだろう。
 まさか、罪深い行為に手を染めてしまったのではなかろうか。そんな錯覚が怜次を襲った。しかし、もう後には引けない。結果を全て受け止めるだけだ。
 月子が固く縛られた包帯を解いていく。
 白く細長い布が、重力に曳かれて滑り落ちる。

「あ――――」

 淡い光に照らされた月子の右腕は、一切の人間的な質感を欠いていた。
 骨格代わりのフレームに、グレムリンの筋肉と同じ金属質の筋繊維を繋ぎ合わせた、人造の腕。そうとしか表現することができなかった。特機の腕部から装甲を除き、サイズと重量感を人間の腕に合わせれば、もしかしたらあのような形になるだろうか。

「あまり驚かないんだね」

 月子は自嘲気味に笑い、金属の右腕を左手で抱き寄せた。
 驚いていないといえば嘘になる。だが、ある種の心の準備ができていたのも事実だ。
 最初の出撃で右肩に触れたときの、硬い質感。右腕に熱いコーヒーを浴びても気付かなかった事実。そして、空木との会話で執拗に暗示された『特機の技術を利用した義肢』の存在。
 確信できていたわけではないが、想像だけは常に頭の片隅に巣食っていた。

「こんなの……ただの義手じゃないか。どうして隠さなきゃいけないんだ」


 ――榊さんや上原さんのことを特別視しないで欲しい。


 いつか月子から告げられた言葉が脳裏を過ぎる。


 ――出来る限りでいいから、普通の態度で接して貰いたいんだ。


 それは月子自身のことをも含んでいたのではないか。


「分かってるくせに」

 月子は哀しげな笑みを浮かべた。図星だった。そんなもの、あの右腕が『何』で造られているのかを思えば、容易に想像できてしまう。
 これ以上、月子に辛いことを語らせたくはない――怜次は自ら口を開いた。

「グレムリンのせいで不幸になった奴が、グレムリンの身体で造られた腕を見ていい顔をするわけがない……か」

 月子は右腕を抱き寄せたまま、沈黙を肯定に替えた。
 理屈だけで考えれば不条理なことかもしれない。けれど、人間は理屈だけでは割り切れないものだ。自分達の不幸の原因を利用し、腕の喪失という不幸を克服しているように見える相手に、ネガティブな感情を抱く者がいたとしてもおかしくない。

「私が十歳くらいの頃だ。当時住んでいた町をグレムリンの群れが襲って……私は右腕を喰いちぎられた」

 怜次はその光景を想像し、目を逸らしたくなる衝動に駆られた。
 しかし、ここまできて顔を背けるわけにはいかない。

「暫く母方の親戚を転々とした後……中学三年生になった頃だったかな。その頃、父方の伯父と初めて会った。そのときまで知らなかったのだが、私の父は陸上自衛軍の将軍の弟で、若い頃に親から勘当されていたそうだ」

 陸上自衛軍の将軍。それを聞いて、怜次は中部方面隊の黒河内中将を思い浮かべた。珍しい苗字なので気になってはいたが、まさか本当に親類だったのだろうか。

「てことは、亜由美が言ってた噂は根も葉もない流言ってわけじゃないのか?」
「あちらからすれば、勘当された不出来の弟の娘だ。引き取るつもりもなかったそうだ」

 月子はゆらりと右腕を上げ、精緻に組み上げられた右手を広げてみせた。

「だから、上原さんが聞いていた噂のような援助はない。ただ――この右腕を実験的に取り付ける代わりに、陸上自衛軍の特別採用枠に入れてもらった……それだけだよ。いくら福祉目的の制度でも、五体満足でなければ軍には入れないからね」
「……自分から志願したのか」
「いや、提案してきたのは向こうからだ。伯父は義手の研究をしている軍の研究所から頼まれて、定期的に被験者を紹介していたそうだ。最初は傷痍軍人が中心だったみたいだけど、幅広い年代のデータが欲しいということで、私に目をつけたらしい」

 あくまで淡々と、月子は身の上を語り続ける。
 内容の善し悪しに関わらず、軍が研究のために人員を都合するのは珍しくない。それに、義肢の研究は社会的な貢献度も大きい。軍が積極的に関わっていたとしても責められることはないだろう。だが、目の前の少女がそれに関わっていたと聞かされると、何故か居た堪れない気持ちになってしまう。

「どうして、そこまでして軍に入ろうと思ったんだ」
「一言で説明するのは難しいかな。これ以上他人の世話になりたくなかったんだと言っても、あのグレムリンに復讐したかったんだと言っても、どちらも間違いじゃない。あえて言うなら……弱いままの自分が嫌だった、ということなのかもしれない」

 月子は珍しく曖昧な表現を繰り返した。正直な動機を話したくないわけではなく、月子自身の中でも動機を言語化し切れていないのだろう。
 遠くから機関砲の発射音が反響し、がらんとした駐車場に消えていく。

「さて……自分語りはこれくらいにしよう。久我さんもこれで分かっただろう? 私はもう、他の人達には受け入れて貰えない身体なんだ。その上、特機乗りとしての力量も伸び悩むようじゃ焦るのも当然じゃないか」

 そう語る月子の口振りは、自虐的を通り越して被虐的ですらあった。
 硬い右腕を掴む左手に力が篭る。抱き寄せるのではなく、そのまま握り潰してしまうのではないかと思えるほどに。
「受け入れられないなんて……そんなこと!」

 怜次は理屈を考えるより先に口を開いていた。

「教育隊では皆そうだった! 隊長達だって軍務だから我慢してるだけに決まってる!」

 剥き出しの感情が響き渡る。受け入れられたいという願望と、受け入れられるはずがないという確信――心が軋むような鬩ぎ合いが怜次の胸にも伝わってくる。
 ずっとこんなものを抱えていたのか。そんな思いと共に、今日まで気付くことができなかった不甲斐なさが襲い掛かる。

「黒河内! 俺は――――!」

 その瞬間、川を挟んだ向かいの山肌で爆発が巻き起こった。
 轟音と同時に眩い炎が吹き上がり、暗がりを一瞬だけ拭い去る。
 怜次は何が起きたのか即座に理解した。グレムリンの肉体に爆発性の物質は存在せず、可燃物だらけの山中で炎を伴う兵器を使うとは思えない。つまりあの爆発は、特機が装備している機関砲の弾倉が破壊され、火花か何かで引火したものとしか考えられなかった。
 炎は延焼することなく収まり、夜の闇と静けさが帰ってきた。
 怜次は我に返るが早いか、月子の腕を掴んで駆け出した。

「久我さ――」
「敵がいる! 多分、味方がやられたんだ! 早く三号機で逃げ……」

 直後、月子が怜次の腕を強引に振り解いた。
 こんなときに何をしているんだ! 怜次は苛立ちを堪えて振り返った。しかし、月子の顔を見た瞬間に、そんなものは跡形もなく消え失せていた。
 月子は右腕を庇うように抱き締めて、怯え切った顔で立ち尽くしている。
 怜次が咄嗟に掴んだ月子の腕は、あろうことかあの右腕だったのだ。

「黒河内……」

 ここで謝ってはいけない――直感がそう告げる。怜次はあくまで当たり前の態度を貫き通したまま、もう一度月子に呼びかけた。

「味方がやられたらしい。たぶんここも危なくなる。俺が操縦するから早く離脱しよう」
「……分かった。それと……ごめん」

 怜次は無言で頷き、三号機へ駆け寄った。三号機は胸部装甲を開放したまま、駐車場の隅に佇んでいる。怜次はその胸部装甲に手を掛け、懸垂の要領で一息に這い上がると、飽きるほど繰り返した手順で後部座席に乗り込んだ。
 続いて月子が前部座席に座り、胸部装甲が閉まるまでの間に起動準備を完了させる。

「行くぞ……」

 三号機は体勢を低くし、早足で駐車場から走り出た。できればなりふり構わず逃げてしまいたいところだったが、そのせいで敵に見つかっては元も子もない。
 県道を百メートルほど逆送したところで、後方の山裾で木々の梢が激しく揺れ動いた。

「久我さん! 後ろ!」

 月子が焦った声を上げる。怜次は三号機の進行方向を素早く変更し、県道沿いの民家の陰に駆け込ませた。特機の全高は四メートル程度。二階建ての民家なら直立したままでも遮蔽物とすることができる。
 その数秒後に、奇怪な形状のグレムリンが県道に降り立った。
 四本の脚と二本の腕。こう表現すれば、多くの人はケンタウロスを連想することだろう。しかし三号機のディスプレイに映った敵影は、神話のように整った姿形をしていなかった。
 強靭な筋肉で編み上げられた巨大な芋虫の胴体から、馬のような四本の脚が生え、頭の辺りに歪な上半身がくっ付いている。人間の形とはお世辞にも言えない。首に相当する部分が存在せず、縦長の肉塊が胴体に癒着しているとしか表現のしようがなかった。
 上半身の左右からは一本ずつ腕が生えている。二の腕は極端に細く、それとは対照的に、肘から先は太い円錐状に尖っていた。まるで騎兵の突撃槍だ。

「あれが友軍の特機を……?」

 前部座席の月子は頭部カメラの映像を表示し、未知の敵を真剣に観察している。
 その間、怜次は別視点の映像を次々に切り替えて、周囲の様子を窺っていた。
 機体側面、民家の二階を捉えた映像を目にしたとき、怜次は思わず操作の手を止めた。二階の窓は開け放たれたままだが、明かりは全て消されており、普通なら一寸先も見えない暗闇が広がっている。故に『それ』が見えたのは、ひとえに暗視カメラの性能のためと言わざるを得ない。
 怜次が目にしたもの。それは、押入れの奥で身を寄せ合う幼い兄妹の姿であった。



[29376] マイナス・ファイア
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/29 13:41
  二〇一一年 十月十四日 鳥取県八頭郡 県道二百八十二号線 獄山近傍

 暗い県道を機関砲弾の嵐が吹き荒れる。
 火薬の炸裂音と衝撃波の爆音を撒き散らしながら、明るい赤色の光の線が、真っ暗な未知の奥へと吸い込まれていく。
 発光しているのは、通常の砲弾に混ざって、数発ごとに発射される曳光弾だ。超音速で飛翔する砲弾を肉眼で捉えるのは不可能に近く、そのままでは砲撃中の照準調整は困難を極める。そこで用いられるのが、飛翔中に発光して軌跡を知らせる曳光弾である。
 路上に布陣していた特機部隊が一斉に砲撃を止める。
 曳光弾の光が暗闇に消え、あれほど大気を震わせていた騒音が、夜の闇に溶けるように消え去った。
 数瞬の間を置いて、グレムリンの一群が特機部隊目掛けて殺到する。
 三五ミリ機関砲が通用しない外皮の個体を先頭に集め、掃射に斃れた仲間の死骸を踏み越えて、六脚の獣がアスファルトに爪を立てる。

「来たよ、虎ちゃん! 重甲タイプが先頭に三体!」
「了解、まずは中央から突き破る!」

 虎彦は一号機を県道の真ん中に仁王立ちさせ、一二〇ミリ砲を振り向けた。砲身を覆う装置類に右腕を差し入れた状態で、外付けのグリップを左手で握るその姿は、まるで右腕そのものが砲身と化したかのようにも見える。
 周辺の僚機が示し合わせたように一号機から離れる。
 新型でも相変わらず狭苦しい操縦席の中で、虎彦は右手のトリガーを引いた。
 瞬間、凄まじい衝撃が操縦席を揺るがす。

「ぐっ……!」

 音速の五倍に迫る砲弾が一直線に大気を引き裂き、先頭を駆ける熊のようなグレムリンを貫き四散させる。
 直撃を受けたグレムリンのみならず、後方にいた一群までもが砲弾に穿たれる。
 同時に、砲身後部から同程度の運動エネルギーを持つ硬質プラスティックの塊が発射され、空中で粉々に砕け散った破片と爆風が路面を薙ぎ払った。
 砲撃時の反動を、反対側に同威力のものを放って相殺する、デイビス式と呼ばれる無反動砲の原理の一つだ。
 虎彦は相殺し切れなかった反動で傾く機体を立て直し、敵の一群に再度照準を合わせた。

「次っ!」

 二発目の砲弾が敵陣を打ち崩す。壁役のグレムリンが吹き飛ぶのを見計らったかのように、各部隊の特機が路上に集まって一斉に機関砲を放ち始めた。

『日向隊長。流石に一二〇ミリは強力ですな』

 前方で機関砲を連射する二号機から通信が入る。余裕のある竜馬の声の陰で、翔也が余裕のない雰囲気で何事か口走っているのが聞こえた。恐らく、実践訓練という形で射撃を翔也に任せているのだろう。

「威力だけなら相当だが、主武装としては使えたもんじゃないな。反動が強烈過ぎる」

 虎彦は一二〇ミリ砲に固定してあった一号機の右腕を外し、砲を道端に置いた。五トン近い重量故か、ゆっくり置いたつもりなのに、アスファルトが僅かに沈んだような気がした。

「あれ? 外しちゃっていいの?」

 後部座席から佐代子が怪訝そうに話しかけてきた。

「同じ手は何度も通じるものじゃないからな。次の命令は、全機前進で敵勢力を押し返せってところだろう」

 自由になった一号機の右腕を腰の後ろへ回し、腰部アタッチメントに提げてあった武装を掴み取る。人間用の武装でいうショットガンに近い外見で、三五ミリ機関砲や一二〇ミリ滑空砲と異なり、砲身と腕部を装甲で包んで固定する方式ではなく、グリップを手で握ることで固定する方式の短砲身兵装だ。
 グリップの前には長方形の弾倉が取り付けられており、これが連射を前提とした兵器であることを誇示している。

「それなら、こっちの方がやりやすい」

 一号機が武装を構えたタイミングで、現場の中隊を指揮する大尉から、前進制圧の命令が下された。
 戦列を成す特機が機関砲を構えて走り出す。先ほどの攻撃で崩れかけたグレムリンの一群に機関砲弾を浴びせながら、敵陣の最奥――獄山への距離を縮めていく。
 虎彦は他の部隊の動きを確かめた上で、随伴する二号機と四号機に指示を出す。

「俺と岸田兵長は最前線の部隊を援護する。四号機は猪熊曹長の指示に従って、前線を抜けてきたグレムリンを迎撃しろ」
『了解しました』
『了解ですっ!』

 亜由美と玲奈が同時に返答する。少し遅れて翔也も口を挟んだ。

『二号機も後方支援でいいんですか?』
『前線に出たいなら、俺から隊長に頼んでやろうか』
『冗談きついっす、曹長……』

 翔也と竜馬のやり取りを、後部座席の佐代子は楽しそうに笑いながら聞いている。通信機越しに亜由美の呆れ声と玲奈の苦笑が聞こえた気がした。どうやら新人達から余計な緊張が取れてきたようだ。
 緊張感を失うのは問題だ。しかし逆に緊張しすぎるのも危険を招いてしまう。その点では、ここの三人は良い方向へ進んでいるように思える。月子の件は未だに懸念事項ではあるが、今は怜次に任せるしかない。
 県道の奥で機関砲の発砲音が折り重なるように鳴り響く。一機や二機の攻撃ではない。相当大きな衝突が起きたと見るべきだろう。

「俺達も行くぞ」
「りょーかいっ!」

 一号機の脚部がアスファルトを蹴り付ける。シートに押し付けられる感覚を全身に感じながら、虎彦は遥か前方を飛び交う曳光弾の残像を睨んだ。

『――――たっ、助けてくれ! 化け物だ――――!』

 通信機から、他部隊の特機兵が発した悲痛な叫びが吐き出される。
 虎彦が戦況を訊ねようとした矢先、獄山の麓の一角が凄まじい土柱を立てて吹き飛んだ。
 前線部隊の機関砲が一斉に射線を収束させる。明赤色の曳光弾の輝きが、低空を滑るように飛ぶ不可思議な影を照らし上げた。
 白銀の外皮。燃焼剤の光を弾く幾何学的な鱗。腕のように発達した四本の脚。水晶のごとく透き通る二対の翅。脚よりも強靭な一本の尾。その尾と見紛うばかりに長く伸びた首。三式の脚部を銜えた乱杭歯。
 ――人面の飛竜。恐らくはあれこそが『女王』――
 虎彦は反射的に一号機を跳躍させた。新型であるが故の優れた出力と脚部の構造が、三式では達し得ない高度まで機体を持ち上げる。
 刹那、人面の飛竜が凄まじい速度で真下を飛び去った。

「何あれ――!」
「舌、噛むなよっ!」

 虎彦は曲芸じみた空中制動で機体の姿勢を変え、衝撃を最小限に抑えて着地した。
 一方、人面の飛竜は一号機の後方で急上昇し、大きな弧を描いて旋回しながら、再び地上に狙いを定めているらしかった。

「今のは……」

 似ている。虎彦の記憶の中には、あれと同じ姿のグレムリンが強烈に焼きついている。今しがた襲い掛かってきたグレムリンは、上海戦役において一個師団相応の部隊を壊滅に追い込んだ女王と瓜二つの姿をしている。
 だが、一箇所だけ明確な相違点があった。

「五時方向に敵影!」
「ちっ……!」

 佐代子の報告を聞くや否や、虎彦は右腕の武装を後方へ振り向けて引き金を引いた。
 砲口から放たれた円筒形の弾が空中で裂け、大粒の散弾の嵐が吹き荒れる。散弾銃ならぬ散弾砲の一撃は、間近まで迫っていた犬型のグレムリンの頭部を蜂の巣にし、原型が残らぬほど粉々に撃ち砕いた。

「虎ちゃん! 上っ!」

 返事をする間もなく真横へ飛び退く。一瞬前まで一号機がいた空間を、人面の飛竜が凶悪な速度で飛び去っていく。
 風圧に紛れて高温の風が機体を押し流す。
 あの飛竜の翅では、どう足掻いても飛べるはずがない。察するに、翅は滑空や滞空のために用いられる器官に過ぎず、飛翔自体は圧縮空気なり可燃ガスの爆発なりを放出して推力を得ることで実現しているのだろう。
 虎彦は機体の体勢を整えて前線を見渡した。他部隊の特機は獄山から押し寄せるグレムリンとの戦闘に追われ、上空の『女王』と交戦する余力がないようだった。

「ねぇ、あのグレムリン……まさか上海の……」

 佐代子が震える声で呟く。
 上海の群れを率いた『女王』――それは即ち、岸田司を殺めた元凶――
 しかし、虎彦は明確にそれを否定する。

「いや……サイズが違い過ぎる。上海の奴より一回りは小さい。いくらグレムリンでも、身体が小さくなるってことはないだろう」

 虎彦が上海で遭遇した『女王』は、三式特機の胴体ブロックを丸ごと噛み砕くほどに巨大な顎を具えていた。しかし、あの『女王』の顎は脚部を銜えるのが精一杯の大きさしかなかった。どちらも特機と比べれば桁外れの巨体だが、誤差として片付けるには差があり過ぎる。

「それなら、あれは……」
「上海の群れから分化した、新しい群れの『女王』ってところだな」

 虎彦は苦々しく吐き捨てた。
 日本に上陸したグレムリンの群れは、上海の勢力そのものではなかった。この事実は決して喜ばしいだけのものではない。上海に巣食う勢力が、もはや対岸の火事などではなく、日本に直接的な脅威をもたらす存在になった証拠でもあるのだ。
 この戦いがどんな結末を迎えようとも、日本の防衛指針は大きな見直しを迫られるだろう。虎彦はまさにその瞬間に居合わせてしまったのである。

「兵長。右腕の制御を任せる」
「いきなりどうしたの?」

 人面の飛竜が上空を旋回し、一号機に三度狙いを定める。
 虎彦が人面の飛竜を特別なグレムリンだと看破したように、あのグレムリンも虎彦の一〇式を特別な特機だと見抜いたらしい。

「次の突撃は回避に専念する。タイミングを合わせて、翅の付け根に撃ち込んでくれ」
「一人でやったほうが確実じゃない? やれっていうならするけどさ」

 虎彦は機体を道路の中央で立ち止まらせ、上空のグレムリンと正面切って向かい合った。
 こうすれば次の襲撃を正面突撃に限定できる。紙一重の回避を実行する状況が整った。
 人面の飛竜が爆発的な加速を帯びて急降下する。路面の寸前で水平に軌跡を変え、一号機へ向かって一直線に飛来する。

「来るぞ!」

 特機の動力液に塗れた乱杭歯が十数メートル手前まで迫る。
 虎彦は極限まで敵を引き付けた上で、機体を真横へ跳躍させた。
 目と鼻の先を巨大な人面が横切っていく。
 その口元が、ぐにゃりと歪んだ。
 直後、壁に激突したかのような衝撃が、一号機の操縦席を揺るがした。

「なっ――――!」

 ――前腕。グレムリンがすれ違いざまに前腕を横に突き出し、一号機を鷲掴みにしたのだ。虎彦はグレムリンの口元が歪んだ理由を理解した。あれは嗤っていたのだ。
 機体がふわりと宙に浮かぶ。虎彦は空中へ連れ去られまいと一号機をもがかせたが、桁外れの握力に捕らえられて抜け出すことすらままならない。
 そのとき、一号機の右腕が虎彦の意思とは無関係に動いて、散弾砲の引き金を引いた。
 至近距離で放たれた金属の粒が透明な翅に殺到し、容赦なく無数の孔を穿つ。

「どうだっ!」

 佐代子が会心の笑みを浮かべる。虎彦が突然の事態に動揺している間にも、佐代子は自分の役割を果たすタイミングを図り続けていたのだ。
 人面の飛竜は二対四枚の翅のうち三枚までを根元から引きちぎられ、残る一枚も数本の筋で辛うじて繋ぎ止められた有様で、無様にアスファルトの路面に墜落した。慣性でそのまま路面を滑り、激しい火花を散らしながらアスファルトを削って、次第に速度を落としていく。
 力が緩んだ隙を突き、虎彦は一号機をグレムリンの手中から脱出させた。
 脱出の直前に佐代子から右腕の制御権を取り戻す。即座に散弾砲を投げ捨てて、脚と同時に接地させて衝撃を受け止める。減速しきっていない状態だったために、両脚だけでなく両腕までも使って着地せざるを得なかったのだ。
 人面の飛竜は更に数十メートル程進んだところで、ようやく速度を失って停止した。

『中尉殿! 大丈夫ですか!』

 二号機の竜馬からの通信が飛び込んでくる。ディスプレイの隅に、こちらへ駆け寄ってくる二号機と四号機の姿が見えた。いつの間にかこんな後方まで引きずられていたのか。
 それを確認するや、佐代子が通信機に向かって叫んだ。

「近付いちゃ駄目! あれはまだ生きてる!」

 人面の飛竜の鱗が蠢く。一際大きな鱗が開き、ジェットエンジンのように高温の風圧を吐き出した。その凄まじい圧力の反作用により人面の飛竜が加速する。翅を失った以上、まともな飛翔はできまい。制御を失ったロケット弾さながらに路上を蛇行し、路面に爪を立ててその場で半回転。虎彦の一号機を正面に捉える。
 虎彦は道端に放置してあった一二〇ミリ滑空砲に駆け寄り、砲身を担ぎ上げた。

「そんなの当たらないよ! 相手が速過ぎる!」
「大丈夫だ……!」

 一号機が一二〇ミリ砲を腕部に取り付けた瞬間、遥か前方でグレムリンが地を蹴った。
 虎彦は機体を僅かに前方へ傾けた。
 直後、巨大な砲弾と化した女王が一直線に飛翔する。
 砲を構える猶予もなく、数十メートルの距離が一瞬にして塗り潰される。
 さながらギロチンの如き勢いで肉薄する乱杭歯。
 虎彦は、血のように紅い口腔に、一二〇ミリ砲の砲身を突き立てた。

「これなら、外さない」

 密接よりも更に深く。マイナス距離からの直接砲撃。
 飛竜の胴体が衝撃波で爆発的に膨らみ、超音速の徹甲弾が背中を突き破る。背中の穴と口腔から、一二〇ミリ砲の発射炎が噴火さながらに噴き出した。
 虎彦は右腕を一二〇ミリ砲から抜き去って、完全に動きを止めた『女王』から距離を取る。砲身は喉に突き入れたままだ。あんな無茶苦茶な撃ち方をして、砲身が無傷で済むとは思えない。使い物にならないほどに歪んでいるはずだ。
 人面の飛竜が上体を起こす。口から背までを串刺しにされ、体内を灼熱の爆圧で焼き尽くされながら、尚も無機質な眼球で虎彦の一〇式を睨む。

「まだ動けるなんて……!」

 佐代子が悲鳴にも似た叫びを上げる。
 しかし虎彦は、不思議なくらいに落ち着いた心境で『女王』を見上げていた。かつて自衛軍に地獄をもたらした『女王』と同じ姿のグレムリンが、無残な瀕死の有様を晒している――それなのに、不思議と心が躍ることはなかった。

「全機――撃て」

 二号機と四号機の機関砲が一斉に吼える。
 砲弾の雨が『女王』の胴体に降り注ぎ、胸部を経て次第に頭部へと上っていく。二機の射線が顔面で交錯。口腔に残された滑空砲の弾倉を撃ち抜く。
 残された全ての弾薬が起爆。
 燃え盛る炎と暴発した砲弾によって、飛竜の顔面が柘榴のように弾けて吹き飛んだ。



[29376] その手をとって(上)
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/24 17:44
  二〇一一年 十月十四日 鳥取県八頭郡 県道二百八十二号線 沿線

「子供がいる……」
「何だって?」

 怜次の呟きを月子は耳聡く聞きつけ、ディスプレイの表示を次々に切り替えた。そして、遮蔽物に使っていた民家の二階を映す映像を目の当たりにし、言葉を失う。
 地域住民の避難は既に済んでいたはずだ――少なくとも怜次はそう認識していた。
 しかし現実は違った。何かの手違いか、それとも不幸な偶然か。三号機が盾とした民家には二人の子供が取り残されている。

「久我さん……どうしたら……」

 月子の声は戸惑いに震えていた。彼女にとっても予想外の出来事だったのだ。
 だが、迷っている暇はない。このままでは、いずれ三号機は山から下りてきたグレムリンに発見され、攻撃を受けることになる。
 そうなったときに、怜次達の実力では民家への被害を出さずに戦えるとは思えない。
 ならば選択肢はただ一つ。

「……助けるしか、ないだろ」

 怜次は音を立てないように細心の注意を払いながら、民家の窓に機体の正面を向けた。
 二腕四脚の異形のグレムリンは、単調な足取りで県道を渡り、二号機が残された駐車場の付近に到っていた。駐車場に放置してしまった携帯用電燈と、その近くに佇む二号機の姿に引き付けられたのだろう。
 この状況を幸運と見るべきか、それとも不運と見るべきか。
 怜次は胸部装甲を開き、姿勢を調整して先端部を窓際へ近付け、屋内へ入る架け橋とした。

「私が、行くのか……?」

 月子が不安そうに振り返る。駐車場の一件の直後に、逃げるように三号機へ乗り込んだので、月子は白い半袖シャツに迷彩ズボンという服装で、右腕には包帯どころか皮手袋すら身につけていなかった。
 この姿のまま見知らぬ人間の前に出ることを厭う気持ちは理解できる。
 だが、時間がないのだ。
 異形のグレムリンは駐車場から離れ、道路をこちらに向けて歩いてきている。二号機が破損し放棄されたものであると見抜いたに違いない。三号機が発見されるまで二分か、一分か、あるいはもっと――

「敵が近付いてる。早く助けるんだ! お前のその手で!」
「私の、手で……」

 押入れの襖がゆっくりと開き、幼い兄妹が恐る恐るこちらを窺う。
 県道では、異形のグレムリンが杭上の両腕を引きずり、鋭い先端でアスファルトをがりがりと削っている。もはや物陰から様子を窺える距離ですらない。不用意に顔を出せば、その場で民家を巻き込む戦闘になるに違いなかった。

「……私が……」

 月子は神経系インタフェースのベルトを外し、ディスプレイを操縦席の脇に動かした。
 そして、足場となった胸部装甲の裏を踏み越え、窓枠に手と足を掛けて、部屋の中へ呼びかける。

「もう大丈夫だ! 助けに来た!」

 声が微かに震えている。恐れているのだ。他者に拒絶されてしまうことを。
 異形との距離が百メートルを切る。もはや時間的猶予は微塵もない。

「だから……ほら、おいで」

 月子は窓から家の中に入り、腕を広げてみせた。怜次の目には月子の背中がいつも以上に小さく感じられた。兄妹を助けるために入っていったはずなのに、まるで拒否せずに助けられて欲しいと懇願しているかのようだ。
 異形の足音が次第に近付いてくる。
 兄妹は暫く不安そうな顔で月子を見やっていたが、やがて不安と恐怖が堰を切ったように、月子の元へと駆け寄って腕の中に飛び込んだ。操縦席までは聞こえてこないが、泣き声混じりに自分達の現状を訴えかけているようだ。
 月子が三号機へ振り返る。その顔には安堵の色が浮かんでいた。

「黒河内……」

 だけど、間に合わない。

「……その子達を頼む。俺はアイツを引き付ける」
「何を言って――」

 怜次は月子を民家に残したまま、胸部装甲を閉じ始める。
 民家の向こう側で異形のグレムリンの足音が止まる。三号機の存在に気付いたのだ。さもなければ、こんなところで足を止める理由がない。
 今ここで三人を操縦席に乗せても、その状態で異形と戦わざるを得なくなる。そんなこと、殺してくれと言っているも同然ではないか。
 ならば、いっそのこと。

「久我さん!」

 胸部装甲が閉まり切るのも待たずに、機体を真横に跳躍させて県道に躍り出る。
 異形の歪な上半身の真ん中で眼球がぎょろりと動いた。挽肉を粘土細工の如く練り上げた胴体に、人間の目蓋を縦に埋め込んだような異物感。余りにも悪趣味な造詣に、生理的な嫌悪感すら覚えてしまう。

「こっちだ、化け物!」

 あえて外部出力の拡声器を通して叫ぶ。
 右腕の三五ミリ機関砲を振り向け、一瞬だけ引き金を引く。そして間髪を入れず川岸の土手を滑り降りた。砲弾自体は命中することなく空を切ったが、相手の注意を民家から逸らすには十分だ。
 一人では勝てなくても、逃げ続けて時間さえ稼げば何とかなる。怜次はそう信じて機関砲を振り向けた。
 異形のグレムリンが歪んだ蹄でアスファルトを蹴る。
 瞬きする間もなく、ただの一歩で、異形が三号機に肉薄した。

「――――ッ!」

 想像を遥かに超える速さだ。
 咄嗟に機関砲を放とうとするも、それよりも更に早く異形の左腕が繰り出される。鋭く尖った金属の杭が、機関砲の砲身と三号機の右手を諸共に貫き通す。

「こいつ……!」

 敵は明らかに戦い慣れている。真っ先に機関砲を潰しにきたのがその証左だ。
 怜次は反射的に三号機の左腕を動かして、敵の右腕――厳密には、肘から先の槍を掴んだ。そもそも、このグレムリンは山中を警戒していた他部隊の特機を撃破してここに来たのだ。未熟な怜次の技量で倒せる相手ではない。
 それこそ、よほどの幸運が手伝わない限りは。

「……ちいっと、まずいか?」

 三号機と異形のグレムリンは、川の中で互いの腕を封じ合っている。
 こう表現すれば互角のように思えるが、実際には三号機の方が圧倒的に不利な状況に置かれていた。三号機は主武装を破壊された上に右手首から先まで潰されたが、異形のグレムリンは右腕の槍を掴まれているに過ぎない。
 異形の肩越しに、民家の玄関から人影が出ていくのが見えた。月子と子供達だ。
 彼女達さえ逃げ切れれば充分だ。その後のことは――後になってから考えればいい。

「もう少しだけ……付き合ってもらうぞ」

 三号機の左腕に力を込め、異形を引き寄せる。両者の足元で川の水が大きく波打った。
 月子が異形の認識から消えるまで、せめて月子の姿が見えなくなるまで、この敵を食い止めておきたい。怜次はそれだけを胸に己を奮起させていた。

「あいつはまだ、これからなんだ……」

 ずっと役に立てずにいた。戦いではいつも月子が主導権を持ち、窮地に陥ったときは日向中尉が助けてくれた。
 ならば、せめてこんなときくらいは役に立ってみせなければ。

「だから……!」

 異形のグレムリンが右腕を跳ね上げる。三号機の左手は容易く振り払われ、無防備な半身を異形の単眼の前に晒した。
 星明かりを弾く鈍色の槍が三号機の左肩を貫く。
 静止は一瞬。異形は即座に肩から槍を引き抜いた。
 機体を揺らす衝撃を感じながら、怜次は山中で起きた爆発の意味を理解した。
 槍の穂先は左腕と胴体の連結を完全に寸断し、胴体ブロックの側面を深々と抉った挙句、背部の大型弾倉までも穿っていた。
 引き抜く瞬間に生じた火花が弾薬に着火。三号機の背部で弾倉が大爆発を起こす。

「――――ぐぁっ!」

 左腕が根元から焼け落ちる。
 胸部側面の損傷から爆風の一部が吹き込み、操縦席の怜次へ襲い掛かる。
 炎が操縦席を焼いたのは、時間にすれば一秒にも満たない。しかしたったそれだけの出来事ですら、三号機の戦闘能力を削ぐには充分過ぎた。

「く……、う……」

 顔の左半分が灼熱感と酷い疼痛で疼く。
 焦げ臭い煙と熱気が操縦席を満たしている。
 耐燃素材の戦闘服と座席が燃えるように熱い。
 現状を認識するのが厭になる有様だ。
 怜次はディスプレイの煤を指で拭った。県道に月子達の姿はない。上手く逃げ切ることができたのだろうか。それなら、この戦いにも意味があった。
 異形のグレムリンが左腕の槍を機関砲から抜き去る。機関砲が三号機の右腕から滑り落ち、大きな水飛沫を上げて川に沈んだ。右手首から先が完全にちぎれてなくなっている。

 万策尽きた。

 左腕を根元からごっそりと喪失し、右手と機関砲をまとめて失ってしまった。逃げ出そうにも、三式の速力で逃げ切れるとは思えない。

 異形が単眼を見開く。

 左腕の槍が三号機の右脚を貫き、先端を川底に突き立てる。大腿が砕かれ、串刺しになる。まるで虫ピンで縫い付けられた甲虫だ。逃走すら許さないということか。

「はは……徹底してるな……」

 異形は右腕の槍を水平に構え、後ろへ引いていく。加速をつけているのだ。
 胸部装甲の正面は他の部位よりも厚く造られている。それでも、あの槍の一撃を防ぎきれる気がしない。仮に耐えられたとしても、逃げることも防ぐことも叶わない現状では、一方的になぶり殺しにされるだけだ。

「……そういえば、返事……してなかった……な」

 視界が闇に沈んでいく。爆風を受けた左耳の刺すような耳鳴りだけが薄れない。
 月子は久我怜次という男を信じてくれた。
 だから、誰にも見せたくないはずの瑕を見せ、心の内を告白してくれた。
 それなのに、久我怜次は月子の信頼に報いることができていない。
 どうすれば報えるのか分からなくとも、絶対に成し遂げなければならないというのに。


 こんなところで、勝手に終わるなんて――


「――――ぁぁぁああっ!」

 異形の槍が目にも留まらぬ速さで放たれる。
 判断は一瞬だった。
 まるで己の腕を動かすかのような滑らかさで、怜次は三号機の右腕を繰り出した。

 槍の先端が胸部へ斜めに突き刺さる。
 装甲を穿ち、無人の前部座席を蹂躙し、破片を撒き散らし、怜次の足元を貫いていく。
 
 手首から先を失った腕が異形の単眼を突き破る。
 勢いに任せて肘まで捻じ込み、上半身の背中側に手首の断面をめり込ませる。

 三号機の胴体を、鋭い穂先が斜め下方へ刺し貫く。
 破れた異形の眼球から、淡い色の体液が滝のように溢れ出す。その一部が槍状の前腕を伝い、破壊された胸部装甲の孔から操縦席に流れ込んできた。

 周囲を静寂が包む。

 朝陽が山肌を鮮やかに染め上げ、夜空を淡い金色に塗り潰していく。
 人型の巨体と人馬の巨体は、陽光を弾いて煌く河川に膝まで沈め、互いの肉体を右腕で穿ち抜いたまま、全ての機能を停止させていた。

「は……はは、は……」

 前半分を抉り潰された操縦席の中で、怜次は笑っていた。
 無理だと信じていたのに。
 不可能だと確信していたのに。
 結果はこれだ。勝ち目がないはずの戦いに勝ち、死ぬだろうと思っていた状況から生き残った。自虐的な評価なんて案外当てにならないらしい。
 機体の損壊部分から眩い光が差し込む。
 怜次は目映さに目を細め、後部座席に身を預けて長く息を吐いた。



[29376] その手をとって(下)
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/26 02:40
  二〇一一年 十月十四日 鳥取県八頭郡 郡家東小学校

 早朝。小学校のグラウンドは、普段ではありえないほどの賑わいに満たされていた。
 臨時の補給所や医務施設の機能を担うテントが建ち並び、野戦服姿の軍人達が忙しそうに行き来している。
 獄山における戦闘の大勢は決した。戦線を支えてきた第三特機群の第一、第二、第三中隊は八キロ後方の小学校に設けられた仮設陣地まで後退し、遅れて到着した第四中隊と第五中隊、そして歩兵と戦車からなる主力部隊に役割を受け渡した。

「本当に、生き残ったんだな……」

 怜次は医務用テントの脇に腰を下ろして、ぽつりと呟いた。
 戦闘服の上着を脱ぎ、左の頬と腕に火傷治療用保護材を貼り付けた状態で、仮設陣地の忙しない風景を眺める。保護用シートの表面は肌の色に近い色合いだが、それを固定するネットやテープが白色なので、遠目からでも負傷していることが分かるだろう。

「無茶しちまったからなぁ。曹長あたりに説教されるかも」

 思わず苦笑が浮かぶ。
 戦果はグレムリン一体撃破。対する被害は三式特機一機大破。単純な数の上では一対一交換だが、互いの数量を考えれば収支はマイナスだ。一体倒すために一機を犠牲にしていては割に合わない。
 ふと、怜次は人ごみの向こうに目をやった。
 忙しく働き続ける軍人達の合間を縫って、華奢な輪郭の人影が近付いてくる。

「黒河内……?」

 月子は迷うことなく怜次のところへやって来ると、目の前で立ち止まった。
 怜次とは逆に戦闘服の上着を羽織り、右手にいつもの皮手袋を嵌めている。
 外部からは右腕の様子を窺うことはできない。袖の奥に隠された秘密を知っているのは、この場では月子自身を除けば怜次ただ一人。
 月子もそれを認識しているのか、左手で右腕を軽く抱き寄せた。

「怪我をしたと聞いていたけど、元気そうで……よかった」
「ああ……軽い火傷で済んだみたいだ。皮膚の表面が焼けただけだから、たぶん後遺症も残らないらしい」

 会話が途切れる。前線の陣地に相応しい騒がしさが、二人の間にまで流れ込んできて、言葉だけでは表現しにくい雰囲気を作り出す。
 月子は何か言いたそうに視線を泳がせて、不意に怜次と視線を合わせたかと思うと、また目を外して口を閉ざすというぎこちない行動を繰り返している。
 そんな月子を、怜次は静かに見上げていた。
 ころころと表情を変える月子なんて、そう見られるものではない。

「何か嬉しいことでもあったのか?」
「えっ? それは……えっと……」

 月子はあからさまに言葉を詰まらせた。どうやら図星だったらしい。
 知らず笑みが零れる。頬と腕の疼痛も気にならなくなってきた。

「ありがとうって、言ってくれたんだ」

 小声で囁いたその言葉は、戸惑いと嬉しさが混ざり合っているように感じられた。

「そうか……よかったな。あの子達か?」
「……両親がどちらも夜勤で留守にしていたそうだ。二人で眠っていたところに警報が発令されて、どこかに隠れようと思って押入れに避難したらしい」

 本人は淡々と報告しているつもりのようだが、綻んだ口元は誤魔化しきれていない。
 何も知らない子供だからかもしれない。戦争だとかグレムリンだとか、難しいことを考える必要がない年頃というのもあるだろう。それでも嬉しいのだ。あの身体を嫌悪することなく、素直に受け入れて貰えたことが言いようもなく有難かったのだ。

「不幸な偶然だったけど、助けられたのはまさに不幸中の幸いだったね」
「とにかくみんな無事でよかった。黒河内もあの子達も。そうそう、小隊のみんなは全員怪我ひとつないってさ。衛生兵の世話になったのは俺だけだよ」

 怜次は名前も知らない兄妹に感謝の念を覚えた。
 あの子達の自然で飾らない感情は、自分がわざとらしい理屈を重ねるより何倍も、月子の心に響いたに違いない。そんなことを考えていたものだから、怜次は月子の一言をすぐに理解することができなかった。

「……ありがとう」
「え?」

 怜次は不意を突かれて、はっと顔を上げた。
 言葉にすれば、たった一息。
 周囲の騒々しさに呑まれてあっという間に消えてしまう一言に、いくつもの想いが折り重なるように織り込まれている。
 月子は微笑を浮かべ、そっと右手を差し出した。皮手袋と袖の隙間からは鈍色の義肢が覗いているが、それを隠そうとする様子はない。
 いつもと違う柔らかな笑みに、怜次は思わず視線を奪われた。

「さぁ、みんなのところに戻ろう」
「……そんな顔、できたんだな」

 月子が拗ねたように目を細める。
 怜次は謝りながら笑い返し、その手をとって、そっと握り締めた。





  二〇一一年 十月十七日 津ノ井駐屯地

「やぁ、日向中尉」

 中隊本部のある建物の廊下で、虎彦は何気ない声に呼び止められた。
 振り返ると、白衣にスカートスーツといういつもの格好の空木が、窓際に背を預けてこちらを見やっていた。

「一〇式の二機目の納入が終わったぞ。それにしても、せっかく用意した一二〇ミリ砲が一日でおしゃかになるなんて想定外だ。参考までに状況を詳しく教えてくれないか」
「戦闘の詳細は報告書に纏めてある。一二〇ミリも『女王』と相打ちになったんだから充分な戦果だろ」

 興味津々といった様子の空木の追求を、虎彦は軽い態度で受け流した。
 獄山における戦闘から既に三日。
 第三特機群が受けたダメージは決して小さくなく、所属特機の一割ほどが小破以上の損壊を負っていた。当日中に修理できた機体もあるが、中には今日に到るまで修復が完了していない機体も存在しているという。
 虎彦の小隊も例外ではない。小破と大破が共に一機ずつ。前者は簡単な修理で対応できたものの、後者は胴体ブロックの損壊の度合いが酷く、直そうと思うなら造り直しにも等しい労力が掛かるらしい。
 だが、あれは機体を使い潰すだけの価値がある戦いだった。

「隊員が生き残って成長してくれるなら、武装や機体を容赦なく使い潰していくつもりだ。開発畑の人間には悪いが、部隊長って奴はそういう考えの連中ばかりだからな」
「それでいい。兵器を大事にして人材を失うのは本末転倒の極みだよ。桁外れに高額な秘密兵器ならまだしも、特機はお手頃な値段が強みなんだから。知ってるか? 君が『女王』の命と引き換えにした一二〇ミリ砲を改造する予算で、三式特機が二機と半分造れたんだ」

 単に愉快なのか、それとも嫌味を言いたいのかよく分からない態度で、空木は笑い混じりにそんなことを喋った。空木はいつもこんな態度だ。色々な知識を喋りたがるが、それに意味があるのかは釈然としない。
 虎彦は何気なく窓の外に視線を移した。
 格納庫の前に佇む新しい一〇式の周囲に、ちょっとした人だかりができていた。開け放たれた胸部装甲の上には月子が座り、操縦席から身を乗り出す怜次と何やら会話を交わしている。群集の殆どは他の部隊の隊員だが、第三小隊の面子の姿も見えた。
 あの戦いを通して、月子と怜次の距離は大きく近付いていた。
 怜次には、精神的に不安定な月子の支えになってくれたらと思っていたが、どうやら期待以上の結果になりそうだ。

「ふむ、あれは今回の戦いで一番の収穫だな」

 いつの間にか、空木も虎彦と同じ方向を見やっていた。

「あの右腕の開発に携わった者としては、被験者の生活が充実しているのを見るのは喜ばしいものだ」
「……あんたは特機開発の担当じゃなかったのか?」
「私の専門は、神経系インタフェースを用いた、グレムリン由来の金属質筋肉と人間の神経の連携制御だ。特機も義肢も、このプロジェクト・ネフィリムと渾名される研究の一環だよ」
「ネフィリム……地上に降りた天使と人間の間に生まれた怪物か。悪趣味な名前だな」
「皮肉で付けられた渾名に決まっているじゃないか」

 月子の右腕――グレムリンの肉体を使用した精巧な義手。その開発には特機開発のノウハウが大いに活用されているという。
 ならば、空木が月子の腕について知っていても不思議ではない。

「黒河内月子の義手の件だが、あれは感覚の再現を除けば完成に近い技術ではあるが、普及には技術力ではどうしようもない問題が残されている」
「周りの目、か」
「そうだ。人類の怨敵たるグレムリンを人体に接合することに対し、心理的な抵抗感を持つ者は少なくないはずだ。特機ですら反発する者がいると聞くくらいだからな」

 空木は窓枠に肘を乗せ、物憂げに遠くの風景を眺めた。技術では解決できない問題――それに誰よりも直面しているのは、空木のような現場の技術者なのだろう。

「だからこそ、あの義肢を使う者には理解者が必要なんだ。黒河内月子にとっての久我怜次のように、ありのままを受け入れてくれる理解者が……」
「なるほど。だから怜次に接触して、色々と吹き込んでいたわけだな」
「バレてたのか。事前知識があれば受け入れられやすいかと思ってね」

 空木はばつが悪そうに目を逸らした。
 その効果があったのかどうかは不明だが、怜次は月子を受け入れ、月子も怜次を信頼した。これから先には幾つもの乗り越えるべき壁が待ち受けているに違いない。それでも、こうして彼らが最初の一歩を踏み出せたのは喜ばしいことだ。
 不意に、廊下の向こうから佐代子が呼びかけてきた。

「虎ちゃー……じゃなかった、日向中尉ー! ちょっといいですかー!」
「ふむ、こちらも仲がよろしいことで」

 空木は肩を竦め、どこかに歩き去っていく。
 まったく、なんてタイミングだ。虎彦は気恥ずかしさを誤魔化すように眉をひそめた。誰かに聞かれていたら一大事だ。規則上の問題はなくても、他の連中が妙な誤解をしかねない。
 虎彦は色々な感情の篭った溜息を吐いて、佐代子の方へ向き直った。



[29376] 招かれざる寄り神 【第二章 第一話】
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/09/26 22:54
  二〇一一年 十月二十四日 鳥取県鳥取市 白兎海岸

 国道九号線沿いの決して広くはない砂浜に、大勢の人が集まっている。
 夏は海水浴客が、冬にはサーファーが集まるこの海岸は、本来なら閑散期の只中にあるはずである。しかし今日に限っては、冷たい日本海の波が打ち寄せる砂浜を無数の軍靴が往来し、無機質で画一的な靴跡を刻み続けている。
 人だかりの殆どは軍人だ。それも迷彩服を着た陸軍の兵士ばかりで、他には近くの町の住人が野次馬として遠巻きに事の次第を見守っているくらいある。

「クレーンはまだか! 波に攫われちまうぞ!」
「は? 七八式回収車? 何で古い奴しかないんだよ! せめて普通のクレーン車でも借り上げて来い!」
「そんなトレーラーじゃ乗せられないと言っているだろう! 漂着物の規模を考えろ!」

 波の音に混ざって、軍人達の声が四方から飛び交う。その内容は、現場の混乱を表すかのように錯綜していた。
 やがて、戦車を改造した小型クレーン付きの軍用車輌と、通常の工事現場でも見られる民間用のクレーン車が砂浜に乗り込み、キャタピラの跡を深々と掘り込んだ。
 クレーンのフックとワイヤーに繋がれていく、巨大な『漂着物』――それは常識的な代物などではなかった。
 六脚を持つ金属の巨獣、グレムリン。
 大きさはちょっとした倉庫ほどもある。六本の脚はどれも人間がすっぽりと納まるサイズの鰭と化し、胴体となだらかに繋がった長大な首と尾を、浜辺に力なく垂らしている。
 既存のイメージで喩えるなら、絶滅した首長竜が最も近い印象だろうか。
 無論、実際の首長竜とは相違点が幾つもある。首や尻尾は胴体との境界が分からないほどに太く頑丈で、身体の表面を盾のような鱗が覆い尽くし、鰭の先端には黒光りする金属の爪が生えている。

「まるで海竜のゾンビだな……」

 現場を指揮する大尉がぽつりと独りごちた。
 白兎海岸は漂着したこのグレムリンは、既に完全な姿を留めてはいなかった。全身の筋肉が形を崩し、膿を孕んだ傷口のように成り果てている。
 恐らくは、漂流を続ける過程で筋肉を構成する有機物が腐敗し、分解されてしまったのだろう。その残り物が金属の部位に絡み、腐肉を滴らせるゾンビのような残骸となったのだ。
 こんな代物が近所に漂着した周辺住民の迷惑は、察するに余りある。
 第一発見者は、飼い犬の散歩をしていた老人だという。見慣れた散歩コースに海竜のゾンビが横たわっていたのだ。きっと腰を抜かさんばかりに驚いたに違いない。

「大尉、漂着物をトレーラーに積載しました」
「分かった。輸送先は岡山の総合研究所でいいだろう。受け入れ態勢が間に合わないなら、近場の特機部隊の駐屯地にでも置かせてもらえ」

 大尉は大型トレーラーに積み込まれた残骸を横目で確かめ、部下に追加の指示を出す。

「荷台はシートで隠しておけ。あんなモノを晒して街中を走らせるな」
「了解しました」

 走り去っていく部下を見送って、大尉は溜息混じりに顎鬚を撫でた。
 グレムリンの死体を然るべき場所へ輸送して、これでようやく彼らの仕事は折り返し地点に到達した。悲しいことに、死体を片付けて終わりではないのだ。
 大尉の眼前には、兵達の足跡と車輌のキャタピラの跡で傷つき、グレムリンの残骸で汚された砂浜が広がっている。次はここを綺麗に清掃し、整地しなければならない。場合によっては死体を片付けるよりも重労働かもしれない。

「積荷を隠させたのでトレーラーを出発させました」

 先ほどの部下が戻ってきて、任務の遂行具合を報告する。

「それにしても、あれはどこから漂着したんでしょうね。日本海側では見られないタイプのグレムリンですよ」
「さぁな。この前、大陸から『女王』が群れを引き連れてきただろ。大方、その群れから落ちこぼれて行き倒れたんじゃないか」

 適当な答えではあるが、現時点での状況証拠ではそう考えるしかない。
 大陸にはどんな形のグレムリンが存在し、どういう戦いをしているのかなど、現場の兵隊は知らないのが当然だ。当然、日本にいないタイプのグレムリンが漂着したところで、その意味するところなど理解できはしない。
 そんなものは上層部が頭を使って考えるべきことだ。

「ぼさっとしてないで、次の仕事だ! まずは清掃! 肉片は残らず回収しておけ。消毒も簡単でいいからやっておくように。それが終わったら整地だ!」

 大尉は矢継ぎ早に指示を飛ばした。
 いつの間にか、周囲の野次馬は姿を消していた。見物の目玉であるグレムリンの漂着死体がなくなったので興味を失ったのだろう。もしかしたら自分達に襲い掛かっていたかもしれないのに、現金なものだ。
 或いは、これが一般市民の標準的な態度なのかもしれない。
 グレムリンとの戦争は――これを戦争と呼んでよいのかは別として――長引きすぎた。
 多くの世代にとって戦いは日常の一部になり……謂わば『慣れて』しまったのだ。自らが直接的な戦禍を被るまで、彼らはいつまでも野次馬であり続けるのだろう。
 大尉は大きな溜息をひとつ吐いた。





  二〇一一年 十月二十五日 鳥取県鳥取市 鳥取県八頭町 境界付近 南部

『現在時刻一〇三〇。状況を開始せよ』

 通信機から猪熊曹長の声がした。
 亜由美はマイクを取ろうと手を伸ばした。指先が緊張で震えている。

「……あっ!」

 爪の先が配線に引っかかって、マイクが通信機から落ちた。慌ててそれを拾う。大丈夫、まだ時間に猶予はある。亜由美は一呼吸置いて心を落ち着かせてから、通信機の向こうにいる猪熊曹長に準備完了の報告を送った。

「こちら四号機。作戦行動を開始します。榊さん、お願い」
「了解っ」

 前部座席の玲奈の制御に従い、四号機は木立の中をゆっくりと歩いていく。
 亜由美達が搭乗している機体は従来型の三式特機である。新型の一〇式は整備関係の準備が終わっていないということで、使わせてもらうことができなかった。
 通信機から猪熊曹長の声が漏れ聞こえた。

『こちら一号機。本当に四機がバラバラに散開する作戦でいいんだな』

 作戦内容の最終確認だ。こんな通信が来る予定はなかったのだが、どうしたのだろう。
 亜由美は玲奈に目線を送った。玲奈は肩越しに亜由美と目線をあわせて、小さく頷いた。

「大丈夫です、話し合った通りやりましょう。頭数を増やしたほうが見つけやすいはず」
「曹長がアドバイスしてくれたら、もっと良い作戦が思いついたかもしれないんですけど……ねぇ、亜由美ちゃん」
『それではお前達の訓練にならんだろ。やると決めたなら、自分達の作戦を信じろ』

 木立の中は想像以上に視界が悪い。文字通り林立する樹木の幹だけでなく、その上部に広がる枝葉までもが容赦なく視野を遮っている。高木ならまだしも、特機と同じくらいの高さの広葉樹は目隠し同然の障害物だ。
 頭部カメラが広葉樹に邪魔されている間は、他の場所のカメラが非常に有り難くなる。
 動力液を循環させる機関の音と、歩行の振動が操縦席を包み込む。
 四号機の足元には落ち葉と枯葉が降り積もり、暗い暖色の絨毯となっている。

『こちら三号機。未だ標的は発見できず』
『二号機も同じく』

 通信機から怜次二等兵と岸田兵長の声が聞こえてきた。他の隊員達も状況は芳しくないらしい。四機のうちのどれかが標的を発見すれば、その報告を元に『標的』へ一斉に攻撃を加えることができる。
 それが来ないということは、まだ『標的』は警戒網に引っかかっていないということだ。
 亜由美は通信機に向けてこちらの状況を通達した。

「こちら四号機。同じく標的は捕捉――」
『待った! 一瞬だけ姿が見えた! 四号機の方に行ったぞ!』

 怜次が叫んだ瞬間、亜由美のディスプレイにも『標的』の影が映った。三式特機とほぼ同じサイズの体躯を屈め、広葉樹林の只中を滑るように走っている。
 方向は前方僅かに左寄り。距離は目測できない。速過ぎる。
 だが、四号機へ急接近しているのは明らかだ。

「榊さん、十一時の方向!」
「……っ!」

 怜奈が機体の右腕に装着された三五ミリ機関砲を放つ。
 盛大に茂った紅葉のせいで視界は最悪だが、弾幕さえ張れば何発かは当たるはず。亜由美はそう確信していたが、敵の機動は想定の遥か上を行っていた。
 敵影は木々の間を鋭敏に動き回り、太い幹を盾代わりとし、巧みに四号機の砲撃を回避していく。
 敵影が十メートル手前まで迫った瞬間、足元に積もった枯葉が盛大に舞い上がった。

「しまっ――」

 古典的な目眩ましだが、亜由美は完全に意表を突かれてしまった。
 亜由美が口を開くより早く、玲奈が機体を横へ跳躍させた。そのままの勢いで、密集している樹木に身を隠す。

「ふぅー……危なかった」
「やられたかと思った……」

 亜由美は玲奈の咄嗟の判断に感謝した。『標的』がどんな攻撃をするつもりなのかは分からないが、距離さえ取っておけば柔軟な対応ができる。

「えっと……『標的』は……」

 各部のカメラの映像を次から次にディスプレイに表示させる。
 四号機の右斜め後方、ここから少し離れたところに『標的』姿が見えた。木々の隙間から、角張った小さな背中が覗いている。移動速度は速くない。四号機への攻撃を諦めて別の場所へ移動しようとしているのだろう。

「ターゲットを発見。方角は四時方向。榊さん、ここから狙える?」
「……うーん。木が多いから、ちょっと難しいかも。連射すれば何発かは当たるかもしれないけど、その前に気付かれて逃げられちゃうと思う」

 玲奈は歯切れ悪く答えた。三五ミリ機関砲はピンポイントの狙撃よりも弾幕を張る戦術に適しており、障害物の隙間を縫って標的に命中させるような使い方には向いていない。そんな使い方ができるのはベテランの特機兵くらいだろう。
 普段、四号機が装備している徹甲弾であれば、砲弾の威力に任せて枝や幹を撃ち抜くことも可能だが、今回はその手段を採ることができない事情がある。

「……ここにいたら何もできないよ」

 玲奈が諦め混じりに首を振る。

「榊さん。二時の方向は木が少ないみたい。そこに移動しましょう」

 亜由美は機体右側のカメラの映像を確かめながら、そう提案した。ディスプレイに映し出された映像を見る限り、その方向だけ妙に木々の密度が薄くなっている。

「そうだね、行ってみよう」

 提案を受け、玲奈が四号機を走らせる。
 やがて四号機は森を抜けて、立ち木のない拓けた場所へと――

「――――っ!」

 突如、玲奈は機体を急減速させた。
 眼前に広がっているのは平坦な土地などではない。崖のような斜面だ。
 辛うじて減速が間に合い、滑落する寸前で停止する。

「あ……ぶなかったぁ……」
「道理で木が見えないと思ったら、崖だったのね……」

 亜由美と玲奈は揃って溜息を吐いた。 
 考えてみれば当然だ。山中の斜面を遠くから眺めれば、その辺りだけ木々が少なく見えるに決まっている。

「亜由美ちゃん。ターゲットは確認できる?」
「あ、ちょっと待って!」

 焦りを隠しながら、ディスプレイに表示する映像を切り替える。明らかに亜由美の失態だ。滑落の危機に気を取られて、思わず『標的』から目を離してしまった。
 先ほどまで『標的』がいた方向のカメラにも、今は紅葉した森林しか映っていない。

「正面、右、左……ごめん、見失ったみたい」

 最後に、真後ろを映すカメラの映像をディスプレイに表示させる。
 左右の光景とあまり変わらない、赤茶けた広葉樹林。その木々の間を高速で潜り抜け、金属の『標的』が迫り来る。

「っ……! 後ろ!」

 叫んだときにはもう遅い。
 巨大な拳で殴りつけられたような衝撃が、四号機の操縦席を揺るがした。





  二〇一一年 十月二十五日 鳥取県鳥取市 鳥取県八頭町 境界付近

 四号機被撃破。この一報はすぐに他の機体へも伝わった。

「くそっ……!」

 怜次は掌に拳を打ちつけた。狭苦しい後部座席に乾いた音が響く。
 最初に『標的』見つけたのは怜次達だった。しかし見つけたはいいが、一発の砲弾を当てることも出来ずに取り逃してしまったのだ。その失敗がなければ、三号機と四号機で『標的』を挟み撃ちにできたかもしれない。

「久我さん、私達はどうする?」

 月子が振り返り、怜次に今後の指針を尋ねた。
 現在、三号機は最初に『標的』を見つけた地点と四号機が脱落した地点の中央付近にいる。このままだと、引き返してきた『標的』と一対一で戦うことになる危険もある。
 そうなったらまず勝ち目はない。ならば、選択肢はただ一つ。

「こちら三号機。二号機、応答頼みます」
『――こちら二号機。何か用ですか?』

 しばしの間を置いて、岸田兵長の気楽そうな声がした。

「位置情報を送ってください。そちらへ合流しようと思います」

 答えはすぐには返ってこなかった。マイクから口を離して、何事か喋っている気配がする。恐らく操縦担当の翔也と話し合っているのだろう。

『りょーかい。私達はここで待機しておくから、そっちの位置情報も送信して』
「分かりました」

 コンソールを操作し、三号機の位置情報を二号機へ送信。ほどなく、二号機の座標がサブモニターに表示された。怜次は両機の座標と周辺地図を照らし合わせながら、三式特機の不親切さに不満を溢す。

「これくらい自動でやってくれたらいいのにな……」

 互いの位置をリアルタイムで共有し、戦術画面に視覚的な情報として表示する。この程度なら技術的に不可能ではないだろう。
 勿論、怜次が考える程度のことはとっくに研究されているはずだ。そういう機能が三式に実装されていないのは、単に現実的な理由があるからに違いない。制式採用が八年前の兵器なのだから、最新技術に対応できなくても不思議はなかった。

「黒河内。十時方向に歩行者用の林道がある。特機なら通れると思うから、そこを使おう」

 方角を時間に喩える表現は、アナログ時計の文字盤を想像すれば理解しやすい。正面を十二時、真後ろを六時と考え、右を三時、左を九時と当てはめていく表現だ。

「こちらでも確認した。道沿いに北上するだけでも二号機の近くまで行けると思う」

 月子は肯定の頷きを返すと、指定されたルートに沿って三号機を走らせた。

『ほら、頑張って。今回のターゲットは強敵だから、上手くやらないと返り討ちだよ』

 岸田兵長の声は何故か弾んでいた。みんなを鼓舞しようとしているのか、それとも単に現状を楽しんでいるだけなのか。この人の場合はどっちだとしても違和感がない。

『ついでだから再確認。私と猪熊兵長は必要なら援護してあげるけど、みんながヤバい判断をしても止めたりしないからね。今回はそういう判断力を養う訓練でもあるんだから』

 作戦開始の前にも聞かされた注意事項だ。
 今、怜次はその意味を痛いほど実感していた。
 結果論でいえば、戦力を分散させて索敵するという判断は誤りだった。しかし、その作戦を採用すると報告したときにも、兵長達は止めようとしなかった。開始直後に猪熊曹長が作戦の再確認をしたくらいだ。
 見通しのいい林道が緩やかなカーブに差し掛かる。月子は流れるような重心移動で機体を制御し、遠心力と振動を可能な限り抑えてカーブを曲がりきった。

「それにしてもまずい状況だね。戦力分散の末に各個撃破。最悪のパターンかもしれない」

 月子の表現は辛辣だが的を射ている。

「ああ……最初の選択ミスがここまで響くなんてな」

 広大な作戦区域から『標的』を見つけ出すことに意識を奪われ、発見後の戦闘を軽視していた。誰かが『標的』を発見したところで、友軍が駆けつける前に倒されてしまっては何の意味もない。
 ディスプレイに表示していた側面の風景を、一瞬だけ黒い影が横切った。

「三時方向、敵影!」
「いたっ!」

 考えるより先に口を開く。月子もそれに追随し、林道脇の木立に機関砲弾を叩き込む。しかし敵影は緩急を付けた動きで直撃を逃れると、あっという間に森の奥へ消えていった。

「待て!」

 月子の操縦に従い、三号機が『標的』を追って木立へ飛び込もうとする。

「追うな! 攻撃は合流してからだ!」

 怜次は思わず声を張り上げた。
 その一言で、月子は機体の脚を止めた。
 前部座席のシート越しに振り返り、不服そうな視線を怜次に送りながらも、三号機を林道へ戻して移動を再開させる。

「……少し、先走り過ぎたみたいだ」

 先に矛を収めたのは月子の方だった。こうして自分の反省点を自覚できるのも、月子の長所の一つなのだろう。怜次は漠然とそんなことを思った。





  二〇一一年 十月二十五日 鳥取県鳥取市 鳥取県八頭町 境界付近 北部

「いやぁ、翔也君もやるね」

 二号機の後部座席で、岸田兵長は嬉しそうにディスプレイを眺めている。
 単純に感心しているのか、それとも予想よりマシだから驚いているのかは定かではないが、なんにせよ褒められてはいるらしい。翔也は複雑な心境になった。本来なら喜ぶところかもしれないが、状況が状況なので素直には喜べない。

「でも、地味で格好悪いっす」

 岸田兵長の賞賛を自虐的に否定する。
 二号機は三メートルほどの高さの崖に寄りかかってしゃがみ、枯葉をたっぷりと湛えたまま折れた枯れ枝を何本も被って身を隠していた。その場にあった材料を利用した、即席のカモフラージュだ。じっくり観察されればすぐにバレてしまう程度だが、ぱっと見では風景と区別しづらいはずだ。
 三号機から待機要請を受けた直後から、二号機はこうして身を隠し続けていた。
 岸田兵長が座席越しに翔也の肩を叩いた。

「いやいや。三号機は識別信号のおかげでこっちの位置が分かるけど、ターゲットはそうもいかないんだから。合流できるまで隠れておくのはいい判断よ」

 兵長が褒めているのは、カモフラージュした状態での待機という選択の堅実さである。華々しい活躍とは程遠い、とにかく地味で土臭い戦い方だ。翔也は何度か物言いたげに口を開閉し、やがて諦めたように黙り込んだ。
 不意に岸田兵長が身を乗り出し、翔也の肩に顎を乗せた。

「うわっ!」

 翔也は上ずった声を上げた。自衛軍の売店で売っているような、安物のシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。耳に当たる髪の毛の感触は、翔也のそれとは桁違いに柔らかい。

「なるほど、翔也君は地味な戦いが嫌いなわけね」
「いえ、そういうわけじゃ……」

 翔也が言葉を濁すと、岸田兵長は翔也の肩から顔を離して座席にもたれかかった。

「怒ってるわけじゃないよ。アンケートみたいなもの。……で、派手なほうが好き?」

 岸田兵長の口調は、まるで同年代の友人と話しているかのような気さくさだ。少なくとも、兵器の操縦席で使う言葉遣いではない。このまま放っておいたら、そのうち特機の中で色恋話でも始めそうな勢いだ。
 翔也はしばらく迷っていたが、結局は兵長の雑談に乗ることにした。待ちの一手を決め込むと判断した以上、状況が動くまでは大人しく待っているしかない。

「好きか嫌いかで言えば、こういうのは好きじゃないし、もっと格好良く戦いたいっす」

 不思議と本音が口を突く。

「嫌いって言う割には、きっちり思いついて実行してるんだね」
「俺、まだ弱いですから。こうでもしないとベテランには追いつけないでしょ」

 翔也達新兵が挑んでいる『標的』は、彼らの実力に不相応なほどに強い。初手に失敗した以上、ここからの逆転は難しいだろう。
 それでも、胸の奥のちっぽけなプライドが、簡単には負けたくないと訴えている。
 好きではない戦術に身を投じてまで勝ちを拾おうとしているのは、翔也のささやかな悪あがきだ。

「驕らないのはいいけど、向上心は失くしちゃ駄目だよ。どんなベテランだって最初は弱かったんだから」
「そう……ですか」

 翔也は思わず黙り込んだ。単なる雑談かと思いきや、いつの間にやら含蓄のある指導に移り変わっている。まさか、岸田兵長は最初からこの話をするつもりで雑談を振ったのではないだろうか。
 岸田兵長の話し方はいつもこうだ。知らず知らずのうちに本音を引っ張り出されてしまう。

『こちら四号機。一瞬ですが『標的』を目撃しました。二号機の方向に向かった可能性があります。気をつけてください』

 通信機が怜次の声を響かせる。
 翔也の緊張の糸が一気に張り詰める。その場凌ぎのカモフラージュを信用しすぎ、不意打ちを喰らってリタイアなんて無様な真似はできない。せめて見つかるより先に相手を見つけなければ。

「はいはーい、こちら二号機。作戦はどうする? 待ち伏せ? 挟み撃ち?」
『できればそこで待機を――ちょっと待ってください』

 怜次の声が途切れる。通信を切断したのではなく、喋るのを止めたのだ。
 数秒ほどの間を置いて、怜次が緊迫した様子で報告を再開した。

『――ターゲットを発見しました。このままの速度と方向なら、二号機の南の林道に出ていくはずです。今すぐ林道に移動すれば挟み撃ちにできると思います』
「だってさ。どうする?」

 岸田兵長が翔也に話を振った。聞かなくても分かっているはずなのに、意地が悪い。

「行くに決まってます」
「よしっ。怜次君、挟撃の予定座標を送って」

 翔也は二号機をゆっくりと立ち上がらせた。カモフラージュに使っていた枯れ木が装甲表面を滑り、乾いた音を立てて地面に落ちた。
 三号機から、ターゲットの予測進路と林道が交差する地点の座標が送られてくる。
 作戦区域の南南西から北北東へ斜めに延びる林道。二号機は林道の北側の森に隠れており、三号機は林道を二号機の方へ向かって北上中だ。そして『標的』は、三号機の右側の森の中を真っ直ぐ北へ走っているという。
 翔也達が林道で待ち伏せておけば、森から出てきた『標的』を三号機と挟み撃ちにすることができるかもしれない。

「上手くいくんでしょうか……」
「やってみないと分からないって。良くも悪くもね」

 一歩ごとに遭遇の瞬間が迫っていると考えると、心臓の高鳴りを抑えられない。これは緊張ではなく高揚だと自分に言い聞かせながら、翔也は二号機を加速させた。
 特機を覆い隠すほどの茂みを突っ切り、林道へと躍り出る。
 道の奥から三号機が走ってくるのが見えた。

「敵は、どこだ――?」

 翔也が二号機の頭部を巡らせた瞬間、広葉樹林を突っ切って『標的』が姿を現した。
 三式特機と変わらない背丈。
 より強靭に改良された足腰。
 細緻かつ剛健な構造の手腕。
 『標的』役を担う一〇式特機が、二機の眼前に躍り出た。

「そこかっ!」

 翔也は三五ミリ機関砲を振り向け、即座に連射した。
 彼我の距離は、僅かに特機の数歩分。これほどの至近距離ならば外れるはずがない。
 だが、砲撃と同時に一〇式特機の姿が掻き消え、砲弾が尽く空を切る。

「消え……! 違う、上か!」

 咄嗟に二号機の頭部を空へ向ける。
 前部座席のディスプレイに、上半身を下にして二号機を跳び越える一〇式が映る。
 宙返り――翔也は思わず我が目を疑った。嵩張る機関砲と弾倉を装備していないとはいえ、トン単位の質量がある特機を、ああも軽やかに跳躍させられるものなのか。
 一〇式は曲芸のような鮮やかさで機体を回転させ、二号機の真後ろに着地する。

「……しまった!」

 巧みな操縦技術に惹きつけられ、今が戦闘中であることが意識から消えてしまっていた。
 翔也は慌てて機体を振り向かせた。
 それを待っていたかのように、一〇式の散弾砲が二号機の胸部装甲に密着同然の距離から砲弾を浴びせる。大きな拳に殴りつけられたと錯覚しそうな衝撃と共に、ピンク色の塗料が胸部装甲に撒き散らされた。

「やられた……」
「負けちゃったね、残念」

 がくりと肩を落とす翔也の後ろで、岸田兵長が座席に深々と身を預けた。
 訓練用のペイント弾――これを胸部に浴びた以上、先にやられた四号機と同じく、問答無用で被撃破判定だ。

「って、三号機はまだ無事ですよね!」

 翔也が振り返ってそう言うと、兵長は手振りで後ろを確認するように示した。
 前部座席のディスプレイの表示を操作し、後方のカメラの映像を表示する。
 林道に立ち尽くす三号機。その全身は、黄色の塗料でまだら模様に汚れていた。
 黄色の塗料は友軍側のペイント弾の色である。つまり……

『長谷川君……後でお話、いいかな』
『お、おい、黒河内? 落ち着けって……』

 三号機から、厭に落ち着き払った月子と動揺した怜次の声が届いた。
 友軍誤射による撃破。挟撃において最も気をつけるべき凡ミスだ。
 翔也は操縦席の中で頭を抱えた。



[29376] 争いの林檎
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:40db9bfe
Date: 2011/09/29 20:30
  二〇一一年 十月二十五日 鳥取県鳥取市 津ノ井駐屯地 第一中隊将校室

「お疲れ様です、中尉殿」

 虎彦がデスクに腰掛けるなり、竜馬がいつもの良く通る声を響かせた。
 将校室には他の小隊長の姿はない。大方、さっきまでの虎彦と同じく小隊の訓練を指揮しているところなのだろう。

「それにしても容赦がなかったですな。あんなに強いグレムリンはそうそういないでしょう。まさか単独で女王を倒せるくらいに鍛えるおつもりですか?」
「お前なぁ……」

 虎彦は椅子を回して竜馬と向き合った。竜馬は制服をきっちりと着込み、手を腰の後ろに回して、直立不動の体勢で微笑を浮かべている。
 先ほどの模擬戦において、虎彦は小隊の特機と交戦する敵役――つまりグレムリンの役を務めていた。普通は指揮官たる小隊長が担当する役回りではないが、今回の模擬戦は少々特殊なシチュエーションを想定していたので、あえて虎彦が敵役に回ったのだった。

「俺としては、お前も戦力に加わるものだと思って動いてたんだが。まさか最初から最後まで傍観してるなんて想定外もいいとこだ」
「そのせいで力加減を誤ったというわけですか」

 一対四で戦っているつもりが、実質的には竜馬の特機が外れて一対三。その上、残る三機の乗組員は佐代子を除けば全員新兵だ。竜馬を含めた四機を相手取るつもりで戦えば、やり過ぎてしまうに決まっている。
 佐代子も佐代子で、基本的には新兵任せで助言や忠告を殆どしなかったに違いない。あの人はそういう性格だ。

「新兵達が決めたことですよ。私は要請を受けて支援を行うという役割でした。支援要請がなければ動けないのが当然でしょう。そもそも今回の模擬戦は、新兵達が自らの判断で戦わざるを得なくなった状況を想定したものですからね。下手な親心は連中のためになりません」

 竜馬に一切の迷いもなく言い切られ、虎彦は押し黙った。
 階級では虎彦が上位だが、軍人としての経歴は竜馬のほうがずっと長い。形式上は下士官が士官に敬意を払うものの、実務的には若い士官が古参下士官の意見を尊重し、その能力と経験を活用する。それが軍隊という組織の性格である。
 結局、虎彦は竜馬に言い負かされた形になっていた。

「ですが、現在の訓練形式が最良とも言い切れませんな。空軍のアグレッサー部隊のようなものがあればいいんですが」
「特機部隊の教導隊は計画中らしいけど、流石に敵役専門部隊は厳しいだろうな。そもそも、作ったところで意味があるのかどうか……」

 アグレッサー部隊とは、演習や訓練において敵部隊の役を専門的に果たす部隊であり、航空自衛軍では新田原基地の飛行教導隊が相当する。敵の戦術を模倣する必要があるため、必然的に技量の高いエリート部隊となっている。
 教導隊も――この場合は陸上自衛軍の部隊を指している――訓練と教育に携わる部隊だが、任務内容は飛行教導隊よりも多種多様であり、兵器の使い方を研究したり、他部隊を教育するための部隊という色合いが強い。
 どちらも『教導隊』と称される部隊だが、役割は微妙に異なっている。
 竜馬は左腕を腰の後ろに回したまま、右手で顎を撫でた。

「万が一、特機専門のアグレッサー部隊が設立されたとしたら、間違いなく中尉殿にも声が掛かるでしょうな。あの手の部隊は腕前のいい兵が集められますから。……いや、もしかしたら設立予定の教導隊に……」
「あー、いきなり気が重くなった」
「有名になった自分自身を恨むんだな」

 最後の発言は竜馬ではない。虎彦と竜馬は揃って将校室の入り口を見た。銀縁眼鏡を掛けた佐々木中尉が、にやついた顔で書類の束を抱えている。

「そうそう。昨日、修理工場の冷凍室にグレムリンの死骸が搬入されたのは知ってるよな? 浜辺に打ち上げられてた奴だ」

 佐々木はあっさりと話を変えて、自分のデスクに腰を下ろした。卓上に放り出された書類が重い音を立てる。

「ちょっと見てきたんだが、結構凄かったぞ」
「唐突にどうしたんだ」

 虎彦は話し相手を佐々木に切り替えた。
 今まで会話を交わしていた竜馬は、佐々木が入ってくるなり姿勢を正して彫像のように黙り込んでしまっていた。士官同士の話を優先できるように気を使ったのだろう。この辺の切り替えの早さは流石である。

「単なる感想だよ。かなり形は崩れてるけど、まさしく海のドラゴンって感じだ。海軍さんはいつもあんなのと戦ってるのかね」
 佐々木は言いたいことを言い切ると、黙り込んで書類を整理し始めた。
 虎彦はおもむろに席を立った。佐々木との付き合いは短くはない。こういう性格の男だというのは理解しており、とっくに慣れてしまっていた。

「グレムリンを見に行くのですか?」
「一応な。もしも水陸両用のタイプなら、後で戦うことがあるかもしれないだろ」

 尤もらしい説明をしてはみたが、好奇心を刺激されたというのも理由の一つだったことは否定できない。
 特機は陸戦用の兵器だ。よほど特殊な状況でもない限り、海中のグレムリンと交戦する機会はない。目にするチャンスが少ない代物なら、とりあえず見ておきたいと思うのが人の情というものである。
 将校室を出たところで、後からついて来ていた竜馬に問いかける。

「ところで、他の連中は何をしてるんだ?」
「当初の予定通り、模擬戦の反省会をやらせています。監督は岸田兵長に一任しました」
「それなら心配はないな」

 佐代子は不真面目で予測不可能な言動とは裏腹に、重要な場面では極めて真っ当な対応をしてくれる。特に新兵達の教育に関しては、全幅の信頼を置くことができた。
 彼女にとって、第三小隊の新兵は弟や妹のようなものだという。
 手抜きの教練を施して弟妹を死なせるなんて、佐代子に限っては絶対にありえない。

「中尉殿も臨席しますか」
「いや、止めとくよ。俺がいたら余計なプレッシャーになりかねないからな」

 返答の分かりきった誘いだ。確認のために訊いてみただけなのだろう。
 その証拠に、竜馬は一言「そうだと思いました」と口にしたきり、同じ誘いを持ちかけてはこなかった。





  二〇一一年 十月二十五日 鳥取県鳥取市 津ノ井駐屯地 第二会議室

 ミーティングルームに疲れきった溜息混じりの声が響く。
 怜次はこの場に集まった面子を眺めた。
 向かい合わせにくっつけられた長机の反対側には、色素の薄い髪の頭と黒い短髪の頭が揃って突っ伏している。そんな玲奈と翔也に挟まれた中央の席で、亜由美が畏まった態度で姿勢を正していた。
 机のこちら側も似たようなものだ。元気なのは右端に座っている岸田兵長くらいで、左端の月子は不服そうな表情で頬杖を突いており、怜次は二人の間で所在無く視線を彷徨わせるしかなかった。

「それじゃ怜次君、進行よろしくね」
「どうして自分なんですか……」

 怜次は小声で抗議した。この場で階級が最も高いのは岸田兵長だ。反省会の進行役としては一番の適任だろう。

「これも訓練のうちだよ」

 岸田兵長は怜次の肩を軽く叩いた。机の向こう側では、書記役の亜由美がノートを広げてこちらをじっと見ている。早く議論を進めるように訴える無言の圧力である。
 怜次は観念し、改めて全員を見渡した。

「……猪熊曹長からの課題は、模擬戦の総評と個々の隊員の課題点を、書面でまとめて提出することだ。まずは担当機体ごとに、今日の模擬戦における相方の評価できる点と問題だと思う点を挙げてみよう」
「自己評価じゃないんですか?」

 翔也が不思議そうに口を挟む。

「それも後でして貰おうと思ってる。でも、その前に他の人の意見を聞いておいたほうがやり易いだろ」

 己の評価を自分自身で下すのは難しい。
 客観的に見れば明白な欠点でも、本人にとっては自然で当たり前のことかもしれないし、そもそも欠点の存在に気づいていないことすらあり得る。
 こういう場合は、自分の行動を間近で見ていた他人――つまりは同じ特機の相方に訊くのが一番だ。怜次はそう考えていた。

「まずは二号機からお願いします」
「ん、私ね」

 岸田兵長が椅子の上で姿勢を整える。

「翔也君は四号機が脱落してすぐにカモフラージュを決断したのが良かったかな。悪かったのは、いざっていうときに攻撃を焦ったこと。決断力があるのは長所なんだけど、行動の結果をしっかり想像しておかないと」

 淀みなく喋りきるその様は、小柄な体格から受ける印象とは異なり、まるで生徒を指導する教師のようだった。
 もしかしたら、岸田兵長は軍人よりもそちらの方が似合っているのかもしれない。
 翔也は机に体重を預けたまま、神妙な面持ちで兵長の指摘を聞いている。
 ふと、怜次は学生服姿の翔也を指導しているスーツ姿の岸田兵長を思い浮かべた。一度も見たことがない光景なのに、妙にしっくりきてしまう。

「次は三号機だな」

 さり気なく月子へ視線を向ける。
 月子はそれに気付かず、むすっとしたまま頬杖を突きっ放しでいた。

「……え? あ、私?」

 慌てて態度を取り繕う月子だったが、色々ともう遅い。
 月子は咳払いを一つして、普段どおりの口調で喋り始めた。

「久我さんは周囲をよく見て作戦を考えていたと思う。だけど、誤射の危険性にまで思い至らなかったのは詰めが甘かったんじゃないかな。私も撃たれるまで想像もしてなかったから、偉そうなことは言えないけど」
「確かに……指示を出すなら、そこまで責任持たないと駄目だな」

 一〇式に対する挟撃を構想し、月子と翔也に行動を促したのは、他ならぬ怜次自身だ。
 仮に、操縦を担当していた二人の判断や操作に誤りがあったとしても、それは怜次の責任を軽減するものではない。むしろ作戦の危険性を充分に認識せずに行動させた責任があると言えるくらいである。
 これを否定するつもりなど毛頭ない。それどころか、誤魔化さずに指摘してくれたことを感謝したいくらいだ。

「次は俺だな。月子はとにかく上手に操縦していたと思う。技術的には、間違いなく俺よりも上じゃないかな」

 そこまで言って月子に目をやると、何故か月子は怜次から顔を逸らしていた。
 知らないうちに機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。まだ欠点の指摘はしていないのに。

「でも、たまに冷静さを失うのは問題だな」
「自覚はしてる。けど、久我さんならきちんと止めてくれるって、信頼もしてるよ」

 月子はちらりとこちらを見ると、口元を柔らかく緩めた。彼女にしては珍しい表情に、思わず気を惹き付けられてしまう。

「……」
「痛っ!」

 机の下で、岸田兵長が怜次の足を蹴った。笑顔のままなのが妙に怖かった。

「……それって、直す気はないってことか?」

 気を取り直すため冗談めかしてそう言うと、月子はわざとらしく肩を竦めた。
 何だよそれ、と翔也が笑う。
 亜由美は真面目な雰囲気が壊されたのが気に入らないらしく、シャーペンの先端でノートを小刻みに叩いている。
 向かいの席の二人がいつもと同じリアクションを返す中、玲奈だけは何故か沈んだように表情を変えなかった。

「……榊?」
「あ、はい!」

 流石に心配になって呼びかけた途端、玲奈が上擦った声をあげた。
 様子がおかしい。単に話を聞いていなかっただけにしては、反応が極端すぎる。

「四号機の話ですよね? 亜由美ちゃんは私をちゃんとリードしてくれて……悪いところなんか思いつかないです」
「それじゃあ意味がないでしょ」

 遠慮がちな玲奈の物言いに、亜由美が自ら反論する。

「私の問題点は、状況把握の甘さと、予想外の事態が起きたときの対応の拙さです。榊さんの長所は咄嗟の判断力と反射神経の良さだと思います。短所は――強いて言うなら自信が足りないところでしょうか」

 亜由美は口を差し挟む暇もなく言い切って、すぐにノートへ書き込んだ。
 余りにも自然な流れだったが、怜次は違和感を感じずにはいられなかった。今は自己評価ではないと言ってあったはずだ。この手の取り決めを自分から破るなんて、亜由美にしてはかなり珍しい。

「これでいいですか?」
「んー……」

 怜次は岸田兵長に横目で助言を求めてみた。
 しかし、やはり兵長はにこにこと笑ったままで、助け舟を出してくれる気配がない。

「いいってことで、いいのかな」

 曖昧で滑稽な表現をすると、月子が肘で小突いてきた。
 客観的な意見だけではなかったが、全員分の長所と短所を一通り挙げることはできた。これで目的を達成できたと考えるべきだろうか。
 懸念事項があるとすれば、玲奈と亜由美の態度から感じる違和感だ。

「質問、いいっすか」

 おもむろに翔也が手を挙げる。
 怜次は質問の続きをするよう手振りで促した。

「今までの話題とは関係ないんですけど、グレムリンと戦うための訓練なのに、特機と戦って訓練になるんでしょうか。なんつーか、筋違いな気がするんです」
「おっ! いい質問だね」

 食い付いたのは岸田兵長だった。
 兵長は机に身を乗り出し、向かいの席に座る新兵達と見渡した。

「確かに、特機部隊の対グレムリン訓練の敵役を特機が務めるのは、いくらなんでも非効率的じゃないかって意見は何度も出てるんだよね。けど、現実には訓練方法が変わるどころか、戦車部隊や歩兵部隊のための敵役も特機に任せようっていう案も出てきてるの」

 反省会のために借用したミーティングルームが、いつの間にやら座学の教室に化けていた。やはり、この人は教師に向いているのではないだろうか。怜次は半ば本気にそう思った。

「それを踏まえて、玲奈ちゃん。どうして模擬戦の相手が特機なのか分かるかな?」

 急に矛先を向けられて、玲奈は淡色の瞳を瞬かせる。しかし解答を放棄することはなく、口元に手を当てて考え込んだ。
 亜由美の欠点を指摘することは避けたのに、こちらの問いには抵抗がないらしい。
 玲奈はたっぷり十秒使って考えてから、上目遣いで答えた。

「他に手段がないから、ですか?」
「そのとおり。戦車と戦う訓練なら戦車を使えばいいし、戦闘機と戦う訓練なら戦闘機を使えばいい。だけど、グレムリンと戦う訓練のためにグレムリンを用意することはできないでしょう? だから代わりになるものが必要なわけ」

 岸田兵長の説明は、考えてみれば当たり前のことだった。
 対戦車なら戦車、対人なら歩兵、対戦闘機なら戦闘機――人間同士の戦争なら、ある意味で『単純』だ。兵器の種類や戦術の分析といった問題はあるかもしれないが、訓練用のグレムリンなんて夢物語と比べれば簡単な注文だろう。

「人間の兵器でグレムリンに一番近いのは、やっぱり特機でしょ。他に代用品ができるまで、特機を使った訓練体制は広がる一方だと思うよ」

 兵長が椅子に深々と座り直す。どうやら抜き打ち講義は終わったらしい。
 場の雰囲気はすっかり岸田兵長に呑まれていて、元の路線に戻すには苦労しそうだが、この場の仕切りを任されたのだから手を抜くわけにはいかない。
 怜次は短く息を吐き、隊員達にミーティングの続行を呼びかけた。





   二〇一一年 十月二十五日 鳥取県境港市 美保飛行場
 
 空港の到着ロビーは喧騒に満ち溢れていた。
 運行状況を告げる放送が反響し、スーツケースのキャスターが転がる鈍い音と混ざり合う。四方八方から飛び交う話し声。決して広大とはいえない飛行場だが、今はまるで都会の大通りのような騒がしさである。
 だが、場内を行き来する乗客の中に観光客の姿はなかった。時間帯や時期のせいか、見渡す限り軍服ばかりだ。
 濃紺色の空軍の制服やグリーンの作業着、海軍の定番といえる金ボタンの黒スーツなど、デザインや色合いこそ様々であるが、どれも軍服だということに変わりはない。
 他にここを利用しているのは、軍相手に商売をしていると思しきビジネスマンや、妙に俗っぽい服装をした報道関係者くらいのものだろう。
 その只中を、余りにも鮮烈な『例外』が通り抜けていく。

「やっぱり南に行くと暖かいのね。海を越えただけなのに」

 金髪に限りなく近いライトブラウンの長髪をなびかせ、軍服が持つ機能性からは縁遠い着衣のスカートを翻し、少女は軍人の合間を縫ってキャリーケースを転がし続ける。形のいい唇から零れる呟きは、日本語でも英語でもない言語で綴られていた。
 年齢は十代中盤かそれよりも若い程度だろうか。
 日本人にとってはどことなく親しみを感じる、消えきらない幼さを称えた造形。

「ウラジオストクからトヤマ経由で……何時間掛かったのかな」

 少女は一旦キャリーケースから手を離し、ぐっと背伸びをした。近くを通る利用客は、珍客の存在に多少なりとも視線を奪われ、僅かに行く足を遅くしている。
 しかし、当の本人は周囲の反応を微塵も気にせず、異国の風景に無邪気な関心を向けているようであった。

「……っと。観光より仕事が優先か」

 少女は幼い顔を真摯に引き締め、キャリーケースのネットに差してあった中国地方の詳細地図を手に取ると、通路の真ん中でおもむろに広げて眺め始めた。

「確か、運び込まれるとしたらオカヤマだっけ。シンカンセンの直通便はないのかな」
「カデット。我々は任務遂行のためにここへ来たのだ。それを忘れるな」

 少女の後ろに長身の男が立つ。
 スラヴ系の顔立ちに黒いスーツ。癖のある濃厚な茶色の髪を短く整えたその姿は、軍人が行きかうこの場においてすら、明らかに尋常ならざる雰囲気を湛えている。

「分かっています、レイチェナント。だけど私達は観光客としてここにいるんですよ?」

 少女が男へ振り返る。
 そうして男の胸の高さくらいしかない背丈を反らし、間近から男の顔を見上げて微笑む。

「楽しそうにしければ却って怪しまれます」
「ふむ、確かに今の我々は一介の観光客だ。求めるものは、世にも珍しい『モルスコイ・ズメイ』だがな」

 男が納得しているうちに、少女はいつの間にやらガラス張りの壁に近付いて、外の風景に目を輝かせていた。
 郊外に設けられた空港の周辺など、観光客の関心を煽るものではないはずだが、この少女にとっては興味深い光景らしい。
 男は無邪気な後姿を無感動に眺めながら、感情の薄い目を伏せた。

「あのような子供に頼らざるを得ない日が来ようとは。嘆かわしいものだ」



[29376] フローズンドラゴン
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/10/01 07:06
  二〇一一年 十月二十五日 鳥取県鳥取市 津ノ井駐屯地 修理工場付属低温倉庫

 口から漏れた吐息が一瞬にして白く染まる。
 冬の寒さにも迫る冷気が肌を刺し、指先からじわじわと体温を奪っていく。設定温度は零度近くだったか、それとも氷点下だったか。虎彦は記憶の糸を辿ろうとして、すぐに止めた。今思い出したところで大した意味はない。
 体育館数棟分ほどの面積があるこの倉庫には、窓が一つも存在していなかった。
 そのため日光は毛筋ほども差し込まず、見上げるほど高い天井の電燈が放つ申し訳程度の淡い光が、この場における唯一の光源となっていた。
 虎彦は防寒着代わりに羽織った丈長のコートの襟を引き寄せながら、倉庫の奥へ大股で歩いていった。

 倉庫にはグレムリンの死体やその一部が幾つも並べられている。

 頭部を撃ち抜かれた亡骸が床に置かれ、原型不明の残骸がフックで吊り下げられ、同じ形の脚部が六本、太いワイヤーで束ねられ……否応なしに、肉屋の倉庫か猟奇殺人の現場を連想させる光景である。
 死体の配列は無秩序なようでいて規則的だ。当然といえば当然だろう。悪趣味の発露として死体を並べているわけではなく、加工を待つ『材料』を保管しているだけなのだから、必要なものを探したり運び出したりしやすい計画的な配置になっている決まっている。
 それでも、死体だらけの倉庫の中を歩くのは奇妙な気分がする。

「日向中尉もいらっしゃいましたか」

 少しばかり開けた場所に出たところで、防寒着に身を包んだ男がひょっこりと現れた。虎彦の冬用コートとは異なり専用に作られた正真正銘の防寒着だ。

「やっぱり皆さん興味があるんですねぇ」

 男は何やら勝手に納得して、頻りに頷きながら白い息を吐いている。
 言わんとすることはよく分かる。虎彦と同じように、噂のグレムリンを見に来た者が大勢いたのだろう。

「白兎海岸に漂着したグレムリンはこちらです。……あ、私は特機資材管理班の松永三等軍曹といいます」

 こちらから何か訪ねたわけではないのに、松永という三等軍曹は饒舌に喋り続ける。その異様に明るい振る舞いは、冷凍死体だらけの薄暗い倉庫の中では悪目立ちしている。
 虎彦はコートのポケットに両手を突っ込み、無言のまま松永の後について行った。
 相槌の一つも打たないのは、別に松永の騒々しさが煩わしかったからではない。ただ単に、寒くて喋るのが億劫になっているだけだ。

「こちらが例の死体です。あんな状態の死体は私も初めて見ました。誰かが言っていたんですけど、まさしく海竜のゾンビですね」
「……へぇ」

 口元で白い息が靄になる。
 倉庫の最奥に横たわるその亡骸は、まさに海竜と呼ぶに相応しい姿だった。
 かつて地球上に生息していた首長竜には、首が長く頭が小さいものと、首が短く頭が大きいものという二つのタイプが存在したとされている。このグレムリンはそれらを足して二で割ったような容貌だ。
 全身を強固な鱗が覆い、その下には形の崩れた筋肉が詰まっている。六枚の鰭のうち、前の一対が最も幅広で、先端に生えている爪もとりわけ太い。

「筋組織の有機物が劣化しているので、特機の筋肉としては使えませんね。サイズが凄いので動力液はたくさん搾り取れそうです。他に使い道があるとすれば、研究のために解剖するくらいでしょうか。案外、海軍さんからしたら珍しくないタイプなのかもしれませんけど」

 松永の注釈を適当に聞きながら、虎彦はグレムリンの周囲をぐるりと回ってみた。
 歩幅と比較してみた感覚では、胴体部分だけで十メートル前後はある。そこに胴体の半分に匹敵する首と尻尾が付いているので、全体としては二十メートルほどになるだろうか。
 巨大だ。身体が長いだけではない。隅々までが強靭で、大きいのだ。
 兵器に喩えるなら、縦に並べた戦車二輌に匹敵する。陸上自衛軍最大のトランスポーター、特大型運搬車ですら全身を荷台に納めきれなかったというほどだから、そのサイズがどれほど規格外か知れようものだ。

「いや、わざわざ岡山の総合研究所に運ぼうとしてたくらいだし、研究材料としての価値は充分あるってことなのかな……」

 松永は虎彦が話を聞いているのかどうか、全く気にしていないらしい。
 技本の空木も話好きだったが、彼女の場合は自らの知識を相手に聞かせ、理解を得ることを楽しむ性格であった。それに対し、松永はその場で頭に浮かんだことを喋っているだけに過ぎない。

「松永三曹。岡山に運ぶつもりだったグレムリンが、どうしてここに転がってるんだ」

 岡山異星生物総合研究所といえば、西日本におけるグレムリン研究の中心である。
 この海竜について調べるつもりなら、こんな駐屯地の倉庫の片隅に放置せず、さっさと持ち込んでしまうべきだろう。

「今はあちらさんに余裕がないんですよ」

 松永が虎彦の疑問にあっさりと答える。

「この前の一件で『女王』の死体が手に入ったでしょう? 今はそいつの調査に掛かりっきりらしいんですよ。そのくせ普段と変わらず調査依頼が来るもんだから、倉庫もスケジュールも一杯なんだそうです」

 そういうことか、と虎彦は納得した。
 十日ほど前、獄山周辺で第三小隊が撃破した『女王』は、頭部が粉々に吹き飛んでいたものの、首から下は原形を留めていた。研究畑の人間からすればめったに手に入らない貴重なサンプルだったに違いない。

「しかし、こんな巨体でどうやって戦ってるんだろうな」
「水中では浮力がありますから。いくら金属とはいえ泳ぐくらいはできるでしょう。私は専門家じゃないので想像に過ぎないんですが、このグレムリンは大型船舶を標的とした強襲を担当しているんじゃないでしょうか」

 ようやく、松永が軍人らしい話題を口にする。

「上顎も下顎もがっつり開く構造になってますから、鰭を振って海面まで上昇しながら、顎を百八十度開いて船底にがぶり――とですね。やけに鋭い爪は、船体にしがみ付くために使うんだと思います」

 松永の表現は妙に生々しく、虎彦は鋼の海竜が海中を泳ぎ回り艦艇を襲う様を克明に想像してしまう。地球外からやって来た生命体とは思えないほど、海という環境に適した個体であると言わざるを得ない。

「……海に、適応……」

 虎彦は自分の考えに何か引っかかるものを感じた。
 グレムリンは地球外に起源を持つ生命体だ。それには疑いを差し挟む余地などない。
 ならば、これはいつ『海に適した身体構造』を獲得したのだろうか。
 宇宙のどこかにも海に似た環境があり、このグレムリンはそちらに適応した肉体を持っていたため、地球の海で暴れることができた……そう仮定すれば説明はつくが、いささか偶然に頼り過ぎている。
 異星生物が地球に降ってくるだけでも天文学的確率なのに、その発生地にも地球と同じ海があるなんて、天文学的確率の掛け算だ。
 地球に来襲してから獲得したと考えれば、確率的な問題は多少マシになる。
 しかし代わりに別の――或いはもっと深刻な――問題が生じてしまう。

「まさか、たったの三十年で海に適応する身体に進化したってことか……?」

 だとすれば、なんて規格外の適応力なのだろう。
 懸念はそれだけではない。これから先、虎彦達が戦うことになるグレムリンが更なる進化を遂げ、未知の能力を備えるようになるかもしれないのだ。
 もしかしたら研究者レベルでは周知の事実なのかもしれない。
 だが、少なくとも戦場で戦う兵士の教育課程には、そのような理屈は含まれていない。

「ん……これは……?」

 虎彦は海竜の頭部に顔を寄せ、表面を間近から観察した。
 額にこびり付いた霜をコートの袖で削り落とし、頭部中央の鱗を露わにさせる。

「このグレムリンの調査は着手されているのか?」
「いいえ、まだ手付かずだと思います」

 予想どおりの答えが返ってきた。もしきちんと調査されていたなら、こんな分かりやすい違和感を見逃すはずがない。

「中隊長に、いや、天野大佐に直接報告すべきだな」
「えっ? そんなヤバいことでもあったんですか?」

 虎彦は何も言わず、額の鱗を指先で撫でた。氷のように冷たい触感が神経を逆流し、痛みにも似た刺激を脳髄に送り込んでくる。
 額の中央に位置する鱗――海竜型グレムリンの全身を覆う無数の鱗の中で、それだけが極小のボルトによって螺子止めされていた。
 こんなグレムリンが自然に発生するなんて聞いたことがない。
 誰が何のために手を加えたのか分からないが、人為的な加工が施されていることは疑いようがなかった。
 虎彦は誰に聞かせるでもなく吐き捨てる。

「……ったく。何が『まさしく海竜のゾンビ』だ。これじゃまるでフランケンシュタインの怪物じゃないか」





  二〇一一年 十月二十五日 鳥取県鳥取市 津ノ井駐屯地

「何だか、妙に疲れた……」

 怜次はよく分からない疲労感を引きずったまま、独り廊下を歩いていた。
 反省会という名のミーティングは、少し進んでは横道に逸れ、また進んでは前の話題に戻りを繰り返して、先ほどようやく終わりを迎えた。
 結局、後片付けを済ませた頃には予定を三十分ほど超過していただろうか。

「まぁ……意見はまとまったからよしとするか」

 怜次が小脇に抱えたノートには、今回のミーティングの議事録と結果が丁寧に書き込まれている。その几帳面な筆跡の文字を読めば、誰であっても、これを書いた人物の性格を理解できるだろう。
 ふと、窓の外に目をやる。
 西の空に赤銅色の太陽が熔けている。
 どろりとした液体の太陽が、青空に染み込んで空と地表の境界線を燃えるように鮮やかな赤で染め抜いていく。
 ――そんな大袈裟な表現がしたくなるほど濃厚な夕焼けだ。

「怜次君、ちょっといい?」

 後ろから呼び止められ、振り返る。
 怜次のことをこうやって呼ぶ知り合いは一人しかいない。

「岸田兵長。どうかしたんですか」

 ミーティングルームで別れたはずの岸田兵長が、廊下の真ん中にちょこんと佇んでいる。
 決して長身とはいえない背丈の怜次でも、兵長と視線を合わせると、どうしても俯き気味になってしまう。
 物理的に止むを得ないとはいえ、上官を見下ろすというのはやはり不思議な感覚だ。

「今日の仕切り、結構良かったよ」

 岸田兵長は前振りもなく切り出した。
 夕日に照らされた笑顔は陰影のコントラストが深く、普段とは異なる雰囲気を放っている。
 怜次は自分のことを疑い深い性格だとは思っていない。けれど今の兵長が浮かべている笑顔の裏には、純粋な賞賛以外の意味を感じずにはいられなかった。
 ミーティングの前にも同じことを思ったが、二等兵に過ぎない自分に仕切りを任せたこと事態が不可解だ。ああいう議題の進行は、同じ階級の者ではなく上官が担当したほうが角も立たないはずである。

「どうして自分に仕切りを任せたんだ――そんな顔してるね」

 怜次は思わず息を呑んだ。心を見透かされたとしか思えない一言だった。
 まさか考えていることが顔に出ていたのだろうか。怜次は制服の袖で顔を拭った。すると、兵長は愉快そうに笑って踵を返した。
 背中を向けて数秒。岸田兵長は声のトーンを落として会話を再開する。

「もしも小隊長に何かあったら、小隊の指揮権は次に階級が高い人に委ねられる。それは知ってるでしょ」
「はい。うちの小隊の場合は猪熊軍曹ですよね」

 当たり前すぎて、逆に何が言いたいのか分からない。この前の獄山における戦闘でも、小隊長不在の第三小隊を猪熊軍曹が指揮した。改めて確認するような事項ではないはずだ。

「それで、猪熊軍曹も隊の指揮ができない状態になったら、今度は私に指揮権が回ってくることになるわけ。だったら……」

 岸田兵長がくるりと振り返る。
 焼け爛れた空の色に顔の半分を染め、目を細めながら口の端を少しだけ綻ばせる。
 この表情の変化に如何なる感情が込められていたのか、怜次はついに理解できなかった。

「私まで力になれなくなったら、誰が小隊を率いることになると思う?」
「――縁起でもないこと言わないでください」

 怜次は首を左右に振った。日向中尉に不慮の事態が起こり、猪熊軍曹は隊を指揮することができなくなり、岸田兵長が戦力から外れてしまう。もしもそんな状況になったら、第三小隊は壊滅したも同然である。
 けれど、壊滅したからそこで終わるわけではない。誰かが残存兵力をまとめ、戦場からの撤退や他部隊との合流、或いは戦闘の続行を指揮する必要があるのだ。

「俺は二等兵だから他の連中と同じ階級です。指揮権だなんて……」
「違うよ」

 強い口調で断言される。
 岸田兵長はもはや笑みの欠片も浮かべていない。

「君は他の子とは違う。君だけが陸軍の正規兵で、他の子はみんな年少兵なんだから。階級は同じでも扱いまで同じにはならないの」

 この小さな身体のどこに、これだけの胆力があったのだろうか。怜次は岸田兵長の真っ直ぐで真剣な眼差しに気圧されて、余計な口を差し挟むことができずにいた。

「だから、万が一私達に何かがあったら、君があの子達を率いることになる。それだけは肝に銘じておいて」

 きっとそれこそが、わざわざ仕切りを負かされた理由。久我怜次は彼らを率いうる立場なのだと自覚させるための遠回しな下準備。
 最後に、岸田兵長はほんの少しだけ表情を緩めた。

「余計な重荷に感じるかもしれない。だけど、君にはあの子達の拠り所になって欲しいの」

 軽い口調の、重い要請。
 怜次はすぐに返事をすることができなかった。



[29376] 謎めく者との遭遇
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/10/05 01:45
  二〇一一年 十月二十六日 岡山県岡山市 岡山異星生物総合研究所近辺

 その施設は郊外の開けた土地に設けられていた。
 使われていなかった余剰の土地を区画整理して拓いた場所らしく、大型の輸送車輌が余裕を持ってすれ違える道幅の道路が一帯に交差し、そこに種々多様な研究施設が点在している。まさに研究地区と呼ぶに相応しい風景だ。
 住宅地を始め、生活に必要な施設は殆ど見当たらない。職員は外部から通勤しているのだろうか。それとも研究施設に見える建物のいずれかが宿舎になっているのか。
 見栄えや自然環境に配慮してか、余った土地には芝生や広葉樹が植えられ、ちょっとした緑化地帯の相をも呈している。
 その中でも一際大きな広葉樹の木陰で、少女は幹にもたれて座り込んでいた。

「ああ、いい気持ち……」

 梢から柔らかな陽光が注ぎ、涼やかな風が色素の薄い前髪を揺らす。グレムリン関連の研究という剣呑なことをしている場所とは思えない長閑さである。
 少女から十数メートルほど離れたところでは、制服姿の警備兵が小銃を担いで歩き回っている。不審な外国人観光客の片割れの監視を命ぜられているのだろう。少女が笑顔でひらひらと手を振ると、警備兵は帽子を深く被って目線を逸らした。
 研究施設といえども、民間人の立ち入りが完全に禁止されているわけではない。正規の手続きさえパスすれば、ある程度のところまでは見学することが可能である。
 無論、あの警備兵のような監視が常に付いてくる上、重要な研究施設があると思しき地区には接近すら許されないという制約はあるのだが。

「渡り鳥が南に飛んでいくのも分かるわ。こんなに過ごしやすいんだから」

 そんな大人の事情などお構いなしに、少女はぐっと背伸びをした。
 木漏れ日を見上げながら、眠たそうに目を細める。
 このまま放っておいたら寝入ってしまうのではと思われたとき、黒スーツの男が少女に近付いて声を掛けた。

「カデット。寝るなら置いていくぞ」
「まさか、そんな。眠りそうに見えました?」

 少女は広葉樹の根元から立ち上がり、服に付いた砂を払った。
 黒スーツの男は表情の薄い顔を気難しそうにしかめている。苛立っているのは誰の目にも明らかだ。

「どうしたんですか、レイチェナント」
「ここは空振りだった。追跡は振り出しだ」

 苦虫を噛み潰したような返答に、少女は首を傾げる。

「一昨日から、外部からのグレムリンの搬入を受け付けていなかったらしい。故に『モルスコイ・ズメイ』は代替となる機関に持ち込まれたのだと考えられるが……」
「どこに運ばれたのかは分からないんですね」
「警戒心を抱かれずに聞き出すのは不可能だと判断した。本職の諜報部ならもっと上手くやれるだろうが……どうした、何をしている」

 黒スーツの男は怪訝そうに眉をひそめた。
 少女は話が終わるのも待たず、足元のキャリーケースを漁り始めたかと思うと、中国地方の大判地図を取り出した。
 そして、地方の北東を男に提示する。

「発見地点の海岸からこの研究所へ向かう途中に、陸軍の基地があります。きっとここに運び込まれたんだと思います」

 男は少女から地図を奪い取ると、穴が開かんばかりに凝視した。

「確かに可能性は考えられる。だが、いくら移動経路の途中にあるからといっても、そんな小規模な基地に運び込む意味があるのか? もう少し南下すれば大きな基地もあるだろう」
「根拠はあります」

 そう言って、少女は微笑むように唇を緩める。
 しかし、そのくりくりとした瞳だけは、どこか遠くに焦点を合わせているように見えた。

「あの基地には『特機』が配備されているんです」
「そうか! 日本の『特機』はグレムリンの肉体を材料としていたな。その基地なら、グレムリンを保管しておく施設くらいあるはずだ」

 声のトーンが一段階上がっていた。一見すると無表情で無感動に思えるが、口の端をしっかりと上げている辺り、手掛かりを掴めたことを喜んでいるのは明らかだ。

「それさえ分かればこんな場所に用はない。その基地へ向かうぞ!」
「えー……オカヤマのブドウが美味しい季節だって、姉さんが……」

 少女は黒スーツの男に急かされながら、研究所の敷地を後にして、駐車場に停めておいた黒塗りのレンタカーに乗り込む。
 黒スーツの男は少女が後部座席に座ったのを確認して、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
 二人を乗せた車は、郊外から市街地へ向かう交通の本流に逆行するように、中国山脈へ北上していく。
 岡山異星生物総合研究所から中部方面隊津ノ井駐屯地まで、直線距離にしておよそ百キロ余り。自動車ならば二時間ほどで辿り付く距離だろう。

「それにしても、あの基地に特機部隊が駐留しているとよく知っていたな。他国の小規模な基地の駐留部隊など、いちいち覚えていられるものではないだろう」

 周囲の風景から住宅地が消え、緑豊かな山々が近付いてくる。
 少女は車窓に顔を貼り付けるようにして、流れ行く異国の風景を楽しんでいたが、運転席の男から話しかけられたことに気付いて座席に座り直した。

「姉さんが教えてくれたんです」
「……スヴェトラーナか」
「はい。もしオカヤマの研究所に行っていなかったら、近くの特機部隊の基地に運ばれているだろうって。……あと、ブドウの果樹園の所在地も教わりました」

 運転席で黒スーツの男が口を噤む。
 車はいつしか山道に入り、岡山と鳥取の県境付近へ差しかかろうとしていた。少女は再び顔を窓外に向け、紅葉した山々に視線を奪われている。この姿だけ見れば海外旅行中の観光客としか思えないだろう。

「お前の姉とは何度か顔を合わせた程度だが、どうにも掴みどころがないというか……何を考えているのか分からない娘だな」

 突如、周囲が暗闇に包まれる。
 規則的に並んだオレンジ色の電燈が、後方へ流れながらトンネルの内壁を照らし上げる。
 平日ゆえか対向車とは殆どすれ違わない。トンネルに入ってから、対向車のヘッドライトが現れたのは一度きりだ。
 黒スーツの男はバックミラー越しに後部座席を見た。後部座席の窓は、トンネルの暗闇を背景に車内の風景をうっすらと映している。鏡ほどはっきり反射しているわけではないが、窓を見れば自分と目が合う程度の像は結んでいることだろう。
 少女は窓に映る自分と向かい合うようにして、窓ガラスに顔を寄せたまま、楽しそうに微笑んでいた。
 窓の外には暗闇と電燈とコンクリートの内壁しか存在しない。
 それなのに、少女はトンネルに入る以前の風景を眺めたのと同じ表情で、無機質かつ人工的な光景に見入っているのだ。

「……こんなものすら珍しいのか……」
「どうかしました?」

 やがて車はトンネルを抜け、陽光が目を眩ませる。
 天頂付近に輝く太陽を歪な影が遮った。

「――ッ!」

 男は反射的にハンドルを切った。急激なハンドリングが後部座席の少女を揺さぶり、シートの上を転がした。

「えっ? わ、わっ!」

 黒塗りの車をガードレールに接触させたまま、塗装が削れるのも構わず、道路の中央から車体を引き離す。
 直後、車の真横に鈍色の巨体が落下。その重量が路面のアスファルトを粉砕する。

「グレムリン……!」

 アスファルトの破片が車体に降りかかる。
 男はアクセルを踏み込んだ。グレムリンと自動車の距離は僅かに数メートル。背を向けている隙に逃げ切るしかない。
 だが、グレムリンの行動は逃走よりも遥かに速い。
 鞭のようにしなる『尾』が車輌後部を打ち据え、トランクと左後輪を吹き飛ばす。
 鉄製の車体が紙細工の如く潰され、路面との摩擦で火花を上げながら停止した。

「リュボーフィ!」

 男は運転席を飛び出して後部座席の扉をこじ開けた。
 幸いにして車体の損壊は車内にまで及んでおらず、少女は座席の上で目を回しているだけであった。

「あの……今のは?」
「グレムリンだ! くそっ、こんなところで……!」

 トンネルの入り口を塞ぐように、巨大な背中が立ち上がる。
 甲羅状の平たい装甲を背負い、短く太い二本の脚で砕けたアスファルトを踏み荒らす様は、二本足で立つ陸亀を思わせる。
 前脚も後脚と同様の形状をしているが、下方へ向かって生えた三本の杭状の爪は尋常の生物に見られる器官ではない。あの巨体の重量を乗せて前脚を振り下ろせば、戦車の上面装甲程度ならば容易く打ち破られることだろう。
 グレムリンならば当然具えているはずの三対目の脚は、自動車を破損させた鞭のような二本の『尾』として発達したらしく、不気味なまでの自由度で動き回っている。

「逃げるぞ!」

 しかし男の焦りとは裏腹に、少女の反応は穏健そのものであった。

「無理でしょう。全力で走っても逃げられません」
「だがな! 私にはお前を護衛するという任務が……」

 甲殻のグレムリンが破損した車のほうへ向き直る。一歩足を動かすごとに、アスファルトが軋みを上げてひび割れた。
 白濁した眼球が男と少女を捉える。
 次の瞬間、迷彩色の鋼鉄の巨人がグレムリンの背に飛び降りった。

『離れて!』

 拡声器を通した少女の声が峠に響き渡る。
 迷彩色の巨人はグレムリンの甲殻の縁を掴み、平たい表面に膝を押し付けてしがみつきながら、機関砲に覆われた右腕を振り回す。
 グレムリンが体躯に似合わぬ金切り声を上げた。
 巨人は機関砲の砲口をグレムリンに向けようとしているらしかったが、グレムリンの抵抗があまりに激しく、振り落とされないでいるのが精一杯であるように見えた。

『何をしている! 早く逃げろ!』

 今度は力強い青年の声が響く。
 男は我に返り、後部座席から少女とキャリーケースを引っ張り出して、破損した自動車から距離を取った。
 もがき続けるグレムリンの尾――に見える後脚の先端が自動車に引っかかり、トン単位の重さがあるはずの車体を軽々と転覆させた。

『このっ……!』

 巨人が甲羅を蹴って後方へ飛び退く。
 着地と同時に右腕の機関砲が轟音を上げて火を噴き、体勢を崩したグレムリンに無数の砲弾を浴びせかけた。

「きゃあっ!」

 男の陰で少女が耳を押さえて悲鳴を上げる。
 グレムリンと遭遇しても顔色一つ変えなかった彼女を叫ばせたのは、多量の炸薬が絶え間なく爆発する音の物理的な衝撃であった。機関砲の発射音はそれほどまでに凄まじく、トンネル周辺の杉林を重厚な爆音で瞬く間に包み込んでいく。
 砲弾が堅牢な甲殻にぶつかっては炸裂し、炎と破片を撒き散らす。グレムリンはその威力に押されるようにして杉林に飛び込み、幹を圧し折りながら山中へと消えていった。
 グレムリンの姿が見えなくなるのと前後して、巨人は砲撃を止めた。

「……助かった、のか?」

 静寂が辺りを包み込む。
 迷彩色の巨人が機関砲を下げ、首を動かす。人間のそれとはかけ離れた無機質な頭部に見据えられて、男は思わず息を呑んだ。
 巨人の姿はありとあらゆる意味で常軌を逸していた。筋肉に固められた四肢。腕を覆う形で取り付けられた火気。前方へ大きく張り出した胸部。胴体と比べて格段に小さな頭部。兵器としてもヒトガタとしても歪で不完全な形状でありながら、その動きは不気味なほどに滑らかで人間的だった。
 無論、人間の動きそのものというわけではない。それでも見る者の不安感を煽るには充分すぎる。

「わぁ! 特機? 本物? 初めて見た……」

 少女が無邪気に騒ぎ始める傍ら、男は睨むような眼差しで異形の巨人を見上げていた。
 その姿はさながら人型のグレムリンのようであり――



[29376] 冷たい時代
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/10/07 03:16
  二〇一一年 十月二十六日 鳥取県八頭郡智頭町 黒尾トンネル北口近辺

『こちら一号機。逃走中のグレムリンは第一小隊が撃破したみたい。とりあえず任務終了ってことになると思うけど、念のため二号機が確認に向かってるところだからから、暫くそのまま待機しておいて』

 通信機から岸田兵長の声がした。
 怜次は開け放たれた胸部装甲の内側に座ったまま、外へ引っ張り出した有線ハンドマイクを口元に添えて返答する。

「こちら三号機。了解しました」
『そうそう。一般車輌が通るかもしれないから、念のために機体は車道から避けておいてね。停車中の特機にぶつかって追突事故なんて前代未聞よ?』
「大丈夫です。機体はもうドライブインに入れてあります」

 黒尾トンネルの北口を出てすぐ右手には、ちょっとしたドライブインが設けられている。三号機――未だに従来型の三式のままである――は乗降ハッチを兼ねた胸部装甲を開いたまま、その駐車場の片隅に屈み込んでいた。
 すぐ、という表現は誇張は決してではない。このドライブインは、文字通りトンネルの目と鼻の先に位置しているのだ。
 つい先程の戦闘で、三号機がグレムリンをわざわざ山中へ追い立てたのもここの存在が大きい。こんな場所で本格的な戦闘を始めたら、流れ弾やらグレムリンの抵抗やらで、周辺に多大な迷惑をかけていたことだろう。

『もしかして、こっち見えてる?』
「はっきり見えてますよ。一号機も岸田兵長も」

 ドライブインの駐車場の反対側では、迷彩塗装の一〇式が三号機よりも深く身を屈めてしゃがんでいた。
 装甲が三式と同じオリーブ色の迷彩で塗装されているので、素人目には三式との区別がつきにくいかもしれないが、特機兵ならば見間違えるはずなどない。あれは間違いなく一〇式の体型だ。
 一号機の足元で小さな人影が手を振った。ドライブインには大勢の兵士が集まっていたが、誰が手を振っているのかはすぐに分かる。それこそ第三小隊の隊員ならば三式と一〇式の区別よりも簡単である。

『ひとまず今日はご苦労様。撤収命令が出るまで休憩していいよ』
「了解しました」

 怜次はハンドマイクを通信機の本体に戻し、開きっ放しになっていた三号機の胸部装甲から降りた。
 可愛らしい名称のドライブインには、無骨な形状と迷彩塗装の軍用車輌が何輌も停車しており、ある種の異様な雰囲気を湛えていた。
 近隣でのグレムリンの出現を受け、ドライブイン自体の営業は一時的に停止している。そのスペースに目をつけた自衛軍が、本作戦の行動拠点の一つとして借用したのだ。
 無論、部隊の撤収が完了すれば、ドライブインの営業も再開される。
 それを考慮してか、キャタピラやタイヤの形に残される泥汚れを落とすための清掃車が、店舗のすぐ隣で待機していた。
 こういうところが自衛軍らしい――怜次はそう思った。
 前身が自衛隊という微妙な立ち位置の組織だったせいか、周辺住民に気を使う癖が染み付いているらしいのだ。

「話は終わったのか?」

 背後から月子が声をかけてきた。
 怜次は振り返って返事をしようとして、眉を傾ける。

「どうしたんだ、その紙袋」

 何故か月子は皮手袋を嵌めた右腕に茶色の紙袋を抱えていた。黒尾峠に来る前はそんなものなど持っていなかったはずだ。
 月子は平然とした様子で袋の中身を取り出した。

「たい焼きだけど?」
「……いや、だからなんでそんなの持ってるんだよ」
「向こうの屋台で売ってたよ。今日は肌寒いから丁度いいかと思って」

 月子が示す方向を見ると、道路を挟んだ反対側で小さな屋台が店を構えていた。それどころか、軍服姿の軍人達が軒先に列を成しているらしかった。

「昔からあそこで店を開いているそうだよ」
「目の前で戦闘が起きたばかりだってのに、元気なもんだな」

 日本という国は国土の大半を山と森に覆われており、平坦な土地は田畑や居住地として利用され、大陸のような『何もない平地』が殆ど存在していない。例外といえば、広大な平地を擁する北海道くらいだろう。
 そのため、人の住む土地の周辺から追い立てられたグレムリンは、必然的に山地へ逃れていくことになる。
 特機のような兵器が実戦投入されている理由の一つもそれだ。キャタピラやタイヤで走行する車輌では対応しづらい地形に、歩兵では扱いにくい火力を持ち込み、従来兵器では補えない要求を補完すること。裏を返せば、山中に高火力を求めるニーズが存在していることの証左でもある。
 グレムリンの上陸地点となる沿岸に次いで危険なのは、餌の多い市街地などではない。
 潜伏場所となり得るなだらかな山地や森林なのだ。

「別にいいじゃない。お陰で暖かくて甘いものにありつけるんだから」

 月子は取り出したたい焼きを咥えると、そのまま怜次の傍にやってきた。そして、もごもごと何事か言いながら紙袋を差し出す。
 怜次は少しだけ考え込んでから、紙袋のたい焼きを一匹貰った。
 一口齧ると、餡の程よい甘みと香りが口腔を満たし、緩やかに鼻腔へと抜けていく。疲労した身体には丁度良い等分補給だ。

「さっきの戦い、少し懐かしかったな」

 不意に月子が呟く。最初、怜次はその意図を測りかねて首を傾げたが、すぐに月子の言わんとすることを理解した。

「初めて会ったときの戦闘か。あのときは黒河内が一人で三号機に乗っていて、俺がグレムリンに襲われていたんだな」
「結果的にはそうなるのかな」

 九月三十日。第三小隊の制式発足の前日に、怜次と月子は今回の戦闘と似た状況で出会っていた。
 山間の道路に出現したグレムリン。
 それに襲われる生身の人間と、窮地に駆けつける三式特機。
 類似点が多すぎて、自然とあの日のことが頭に浮かんでしまう。
 不意に冷たい風が駐車場を吹き抜ける。否が応でも冬が近付いていることを思い出させる、乾いた風だった。
 月子は戦闘服の袖越しに二の腕をさすった。

「う……寒い……」
「そうか?」

 確かに肌寒い風ではあるが、月子の反応は少々大袈裟なように思えた。
 すると、月子は耳を貸すように手振りで示し、怜次に小声で囁いた。

「右腕はすぐに冷たくなるんだ」
「あ……」

 そういうことか。間抜けなことに、本人の口から説明されてようやく理解が及ぶ。
 月子の右腕は、肩口から指先に至るまで、全て特機の腕と同じ素材の義肢によって代替されている。筋肉以外の素材は金属やプラスティック、セラミックの類であり、生身と比べて温度が低下しやすいのだ。
 そんな代物を常時身に付けているのだから、寒さに敏感になるのも仕方がない。

「大丈夫か? ここら辺は雪が多いっていうけど」

 秋風すら身に沁みるなら、本格的な冬が到来すれば余計に辛いはずだ。
 月子は苦笑気味に肩を竦めた。

「うーん……雪には慣れてるつもりなんだけどね。一時期、新潟に住んでた頃があるから」

 鳥取県は、豪雪地帯対策特別措置法によって県全域が豪雪地帯の指定を受けた県の中では、最南端に位置している。それでも、より高緯度にある豪雪地帯と比べれば幾分かはマシなのだろう。

「新潟のどこら辺だ?」
「佐渡島。本土の方と比べれば雪は少ないけど、関東よりはずっと積もるよ」

 月子は左手に息を吹きかけながら答えた。
 国が指定する豪雪地帯は、通常の『豪雪地帯』と『特別豪雪地帯』に分かれている。新潟の場合は山側の一帯が特別豪雪地帯で、佐渡島や県庁所在地のある越後平野は豪雪地帯に相当するらしい。
 文字通り、近所よりは少ないが他所から見れば雪ばかりという気候なのだろう。

「へぇ、佐渡島か。……ん?」

 怜次は妙な引っかかりを覚えて軽く首を傾げた。月子の発言におかしな点があったわけではない。佐渡島という土地の名前に何となく感じるところがあったのだが、その理由すらよく分からなかった。
 本人にすら分からない感情が他人に伝わるはずもなく、月子は黙々とたい焼きを食べ終え、紙袋の口を折り畳んで三号機の爪先に置いた。

「そういえば、あの車に乗ってた人はどこに行ったんだろうね」
「さぁ? 車が使えないなら、山を下りてるとは思えないけど……」

 月子のさり気ない疑問に返事をしながら、怜次はトンネルの入り口付近を見やった。
 グレムリンに破壊された自動車は、交通の妨げにならないように路肩へ移動させられていたが、運転手の姿は見当たらない。

「いないみたいだな」

 視線を戻そうとした瞬間、視界の隅に少女の姿が入り込んだ。
 偶然、近くを通りかかった人が視野を横切った――ただそれだけなのに、少女の姿は不思議なくらいに怜次の意識を惹きつけた。
 華奢な体躯に色素の薄い髪。色白の肌。軍人だらけの空間に不釣合いな可愛らしい服。
 怜次は何も考えず、頭に浮かんだ名前を口にした。

「……玲奈?」
「えっ?」

 月子も少女のいる方へ振り返る。しかし、そこにいたのは第三正体の榊玲奈などではなく、グレムリンに襲われた自動車に乗っていた少女だった。

「見間違いか……」

 怜次は気まずさを隠すために頬を掻いた。

「なんだ、そそっかしいにも程があるぞ」

 月子が呆れた様子でそう言った。返す言葉もなかった。
 贔屓目に見れば似ていないわけではないが、あの少女と玲奈は明らかに別人である。
 そもそもあの少女は日本人ですらないらしい。今となっては、どうして誤解したのか分からないくらいだ。
 怜次達の視線に気付いたのか、少女がこちらに振り返り、ひらひらと手を振ってきた。
 戸惑う怜次に代わって、月子が軽く手を振り返す。

「元気そうだね。あんな危ない目に遭ったばかりだっていうのに」

 何気なく月子が呟く。
 本人としては少女の気丈さを褒めたつもりだったのかもしれない。だが、その一言は怜次の思考の片隅に引っかかり、なかなか離れてくれなかった。





  二〇一一年 十月二十六日 鳥取県八頭郡智頭町 ドライブイン店内

 営業を一時的に中断しているはずの店内は、休息を求める軍人達で溢れ返っていた。本来ならレストランのために設置されたテーブルと椅子も、今は迷彩服の男達のための休憩スペースと化している。
 虎彦は六人掛けのテーブルに腰を下ろし、向かいに座る黒スーツの男と向かい合った。

「助けて頂き感謝します、日向中尉。私はユーリー・ルスラノヴィチ・ディアギレフと申します。同行者はリュボーフィ・アレクサンドロヴナ・ドラグノヴァ。姓は違いますが、私の姪にあたります。日本へは観光で訪れていたのですが……」

 ユーリーと名乗る男は、訛りの少ない流暢な日本語で事情を説明した。
 名前の様子から察するにスラヴ系、恐らくはロシアの人間だろう。
 日本人にとってロシア人の名前はややこしい。苗字と個人名の間に父親の名前を変形させた父称を挟む上に、父称と苗字の語尾が性別に応じて変形するのだ。つまり同じ父親を持つ兄妹であっても、微妙に異なる父称と苗字を名乗ることになる。

「礼ならうちの部下に言ってやってください。見つけたのも間に合わせたのも彼らです」
「はい、飲み物買ってきましたよ」

 人の波を縫って佐代子が現れ、テーブルにミネラルウォーターを二本置いた。
 ドライブインの商店はまだ営業を再開していない。きっと屋外の自動販売機で購入してきたのだろう。緑茶やジュースの類ではなくミネラルウォーターを選んだのは、外国人であるユーリーの好みを判断しかねたためか。佐代子らしい気遣いである。

「ありがとうございます」

 ユーリーは佐代子に向かって頭を下げた。言葉の流暢さといい、日本に対する造詣がかなり深いようだ。
 佐代子が立ち去った後で、ユーリーが重々しく口を開く。

「この国でも少年兵の運用が始まったと聞きましたが、実際に会うと衝撃が大きいです」

 あまりに真剣な表情だったので、虎彦はうっかりそれを聞き流しかけてしまった。
 少年兵というのが月子達のことを指しているなら間違ってはいない。しかし、話の流れからすると、ユーリーの認識に大いなる誤謬があるとしか思えなかった。

「さっきの兵士は何年も前に成人していますよ」
「……本当ですか?」
「本当です」

 自分よりも年上だとは付け加えなかった。そんなことを言えば、余計に混乱させてしまうに決まっている。

「年少兵なのは、あなたを助けた特機の操縦士の方です。厳密にはそのうちの一人ですが」
「そうだったのか……」

 ユーリーは聞き取れるかどうか危ういほどの小声で呟いた。佐代子に対する反応から察するに、この男は年少兵――より一般的な表現をするなら、少年兵に関して良い印象を持っていないらしい。
 もっとも、そんな制度を素直に喜ぶ人間などいるとは思えない。どんな国でも、背に腹は変えられないという状況だからこそ、子供を戦場に送る愚行に及んだに決まっている。

「私の国でも少年兵に近い制度があります。身寄りのない子供を集め、士官候補生カデットの地位を与えた上で長期的な教育を施し、適正な年齢になったところで士官として編入するのです」
「ロシアの早期士官教育制度か。どっちがマシなんだろうな」

 ユーリーは虎彦の溢した言葉に答えなかった。
 無言のまま、窓ガラスの向こうに広がる駐車場へ視線を送る。規則正しく並んだ軍用車輌の奥で、薄い髪色の少女……リュボーフィ・アレクサンドロヴナ・ドラグノヴァが跪いた三号機を興味深そうに見上げている。
 どうやら、怜次と月子は彼女にどう接するべきか判断しかねているらしく、三号機の足元でリュボーフィの行動を眺めているだけだった。

「あのままでいられたら幸せなのかもしれませんね」

 ユーリーの独り言に、虎彦は無言の肯定を返した。



[29376] 新旧の境界面
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/10/09 03:48
  二〇一一年 十月二十六日 津ノ井駐屯地 特機整備工場

 秋の日没は早い。怜次は薄暗くなった空に背を向けて、眩い明かりの灯った整備工場に足を踏み入れた。
 甲高く耳障りな工具の音が怜次を出迎える。
 幾つもの電燈によって隅々まで照らし出された工場の中では、黒尾峠の戦闘で破損した特機の修理が行われていた。
 今回の作戦は単純な山狩りであった。獄山の『女王』が遺したグレムリンを捜索し、迅速に撃破するという、ある意味でありがちな内容である。交戦したターゲットも一体のみだったので、大破させられた機体こそなかったが、何機かは軽微な損傷を負って工場へと送られた。怜次達の三号機もその一機だ。

「やっぱり三式は脆いのかな」

 修理用の台に立つ三号機を見やりながら、怜次はぽつりと呟いた。
 作戦全体を通して、三号機は一度も攻撃を受けていなかった。それなのに修理が必要なほどの損壊を受け、修理工場に送られることになったのだ。
 二等軍曹の階級章を付けた班長が怜次の肩を豪快に叩く。

「痛っ!」
「よぉ、久我二等兵」

 班長はわざわざ階級をつけて怜次の名を呼んだ。こういう場合は大抵からかいの意味が込められている。恐らく今回は、今被弾もしていないのに機体を壊したことを揶揄するつもりなのだろう。

「特機の引渡しはもう少し待ってくれ。新人に練習がてら任せてるんだ」

 班長が親指で指し示した方に目をやると、三号機の左腕の傍で若い整備兵が機材を奮って悪戦苦闘しているところだった。
 左手の装甲と保護カバーを外し、金属質の筋肉を小型のジャッキのような機械で押し広げ、露出させたフレームと関節に何やら手を加えている。怜次は修理に関する知識をあまり持っていなかったが、関節を修理していることは理解できた。

「それにしても、今日は面白い壊し方だったな。片手の関節だけ壊すなんて器用にも程があるぞ。どんな奴と戦ったんだ?」
「二本足の陸亀みたいな奴でしたよ。途中でそいつの甲羅にしがみ付いてたんですけど、後になって確かめてみたら、左手の指や手首が動かなくなってたんです」

 怜次は思わず苦笑した。無傷で戦いを終え、些細な後始末のために三号機の左手を使おうとしたところ、指や手首が全く動かなくなっていたのだ。
 そのときの月子のきょとんとした顔はちょっとした見ものだった。
 今思い出しても、よく分からない感情で口の端が緩んでしまう。本人としては一つのミスもなく作戦を終わらせたつもりだったのに、蓋を開けてみれば原因不明の損傷を受けていたわけだから、相当驚いたに違いない。

「背中にしがみ付いて、ロデオみたいに暴れたわけか。そりゃ関節も壊れるわな」

 班長は愉快そうに顎鬚を撫でた。暴れるグレムリンにしがみ付く特機の姿を想像したのだろうか。確かに滑稽な想像だが、今日はそれに近いことが起こってしまった。世の中、何が起こるか分からないといういい例だ。

「三式って指が壊れやすいんでしょうか」
「新型と比べればな。今回のケースだと、機体と火器の質量から生じる遠心力を指先だけで支えたわけだから、生半可な造りだと三号機みたく関節が壊れちまう。三式の設計は古いところが多いから、多少の強度不足は放置されてたりするんだよ」

 これでも初期型よりは改良されてるんだけどな、と班長は付け加えた。
 一般に、二〇〇三年に制式採用された時点の三式の仕様を初期型と呼称し、それから数年後に全国配備が始まった頃の仕様を後期型と呼ぶ。尤も、初期型は黎明期の実験用という色合いが強く、実質的に無意味な区別となっている。
 現在では、実戦部隊の三式といえば無条件で後期型を指すと考えて差し支えない。

「白川! 神経ケーブルの連結箇所も確認しとけって言っただろ! 何さっさと終わろうとしてんだ」

 不意に班長が怒鳴り声を上げた。白川という名前らしい新人整備兵はびくりと肩を震わせ、塞ごうとしていた筋肉を再び開き直した。

「す、すいません」
「気ぃつけろよ。ケーブルの配線が切れたらそっから先は動かなくなるんだからな」

 まるで巨人の手術をする研修医と、その指導医のような様相だ。特機の四肢、特に手首から先はあからさまに人体を参考にしているので、一層その雰囲気が強くなる。

「すまん、まだ時間が掛かりそうだ」
「適当に時間を潰してきます。……それにしても、何だか手術でもしてるみたいですね」
「人間の手をモデルに設計されたんだから、そりゃ似てくるさ。原材料も曲がりなりにも生物なんだしな」

 聞いたところによると、世の中には、特機を人間に似せることを不気味だとか、非効率的だとか評する自称識者も多いらしい。しかし怜次は――いや怜次に限らず、実際に特機を動かす人間の殆どは、そんなことを考えていなかった。
 神経系インタフェースで機体を動かす場合、当然ながら人体に近い形状とした方が圧倒的に扱いやすい。これよりも効果的な制御方法が開発されない限り、わざわざ人類から掛け離れた形状で造るメリットがないというのが現実なのだろう。
 何より人体をモデルに開発したからこそ、特機の技術をフィードバックした義肢を開発することができたのだ。

「白川! そこはそうじゃねぇって……」

 班長が白川に駆け寄って指導を始める。
 怜次は三号機の前を離れ、工場の出口へ歩いていった。
 開け放たれたままの出入り口は、工場内部の明るさと屋外の薄暗さの境界面となっており、その強烈なコントラストに目が眩みそうになる。
 視覚が照明の光に慣れていたせいか、外の風景は殆ど真っ暗にしか見えなかった。

「久我さん」

 出入り口横手の暗がりから怜次を呼ぶ声がした。
 姿は暗くてよく見えないが、誰なのかくらいは声だけでも分かる。

「黒河内か。そんなところで何してるんだ? 中に入ればいいだろ」

 怜次は月子の方へ向き直った。月子は左手で右腕を抱き寄せた恰好で、出入り口の横の壁にもたれ掛かっていた。

「遠慮しておくよ」

 困ったように笑いながら、月子は怜次の傍に近付いてきた。
 出入り口から漏れる光に照らし出されて、ようやく姿と顔がはっきり見えるようになる。
 怜次は何気なく首を傾げた。工場に入ることを遠慮する意図が掴めない。修理が終わった特機を受け取りに行くだけなのだから、遠慮なんかする必要はないはずだ。
 そこまで考えて、班長が三号機の損傷を話題に出していたことを思い出す。
 三号機の操縦を主に月子が担当していることは、整備班の隊員も知っている。つまり、左手だけを器用に壊した操縦士も月子だと気付かれているということだ。
 要するに、それを揶揄されるのが恥ずかしいのだろう。

「……君、変なこと考えてないか?」

 月子が目を細めて怜次の顔を覗き込む。
 言い訳のしようもないほどの図星だったので、怜次は適当に笑って誤魔化すことにした。

「そんなことより。修理はまだ終わらないらしいぞ」
「本当に? 手首以外にも故障があったとか?」
「いや、新人の整備員の訓練も兼ねてるから、その分時間が掛かってるらしい」

 怜次は整備工場の中へ視線を移した。それに釣られるように、月子も工場を覗く。
 三号機の修理は先ほどよりも進んでおり、白川が左手を弄っている間に、脚立に乗った班長が肘を調べているところだった。
 指や手首の関節が破損するほどの負荷が掛かったのだから、他の部位……具体的には肘関節や肩関節にダメージがあっても不思議ではない。

「久我さん。あれは何をやってるんだ?」
「何って、修理だろ。手首と指、あと肘の辺りをだな……」
「そうじゃなくて。その向こうだよ」

 ほら、と月子は修理工場の奥を指差した。
 怜次はその方向に目を凝らした。土台に横たわる特機の周りに、ちょっとした人だかりができていた。集まっているのは作業着姿の整備兵ばかりだ。特機を修理しているというよりは、少しずつ分解しているといった様子に見える。
 備え付けのクレーンで、特機の頭部がゆっくりと吊り上げられていく。それは紛れもなく、無塗装の一〇式の頭であった。

「一〇式を解体してるのか……」
「せっかくの新型機を壊すなんておかしいだろう? 何を考えているのやら……」

 怜次と月子は折り重なるようにして工場を覗いた。
 整備兵達は二人の視線に気付くことなく、修理と解体に集中し続けている。直す行為と壊す行為が同じ場所で同時進行しているのは、何とも言いがたい不可思議な雰囲気である。

「新型だからこそ色々弄ってるのよ」

 すぐ後ろで岸田兵長の声がした。下になっていた月子が不意打ちに反応して振り返る。怜次はその後頭部に押し退けられながら、少し遅れて岸田兵長の存在に気がついた。
 岸田兵長は二人のリアクションを一頻り眺めてから続きを口にする。

「三式と比べて、一〇式は殆ど別物なくらいに改良されてる上に、新しいシステムもたくさん搭載されてるからね。ああやって機体構造をくまなく勉強して、整備のコツを身に付けないといけないんだってさ」

 言われてみれば当たり前のことだ。
 三式の制式採用から九年。途中で後期型へのアップデートを挟んだとはいえ、九年間で更に高められた既存技術や、制式採用移行に開発された新技術の数々の大部分は、未だ三式に反映されていない。
 厳密には、そもそも反映することができないのだ。三式特機の構造を維持したまま改良を加え続けるには限界がある。その限度を無理に超えるくらいなら、いっそ全く新しい機体を設計した方が、効率的で効果的な結果を得ることができる。
 その理屈で生み出されたのが、他ならぬ一〇式特機なのだ。

「操縦するときの感覚はあまり変わらないから、私達にはあまり関係ないんだけどね」

 岸田兵長はそう言って説明を締め括った。

「要するに、一〇式の解体は整備の訓練の一環ということですね」

 月子は納得して頷きながら、右腕を抱き寄せて怜次に寄りかかった。
 柔らかな質感の黒い短髪が口元に触れ、洗髪剤の香りを仄かに漂わせる。

「お、おい」
「……? わあっ!」

 上擦った声が辺りに響く。本人としては壁にもたれたつもりだったのだろう。月子は飛び退かんばかりの勢いで怜次から離れた。
 怜次は咄嗟に表情を取り繕った。怜次から見て月子は三つも年下の少女だ。こんなことで過剰な反応をするのは、子供相手に取り乱すのと変わらないように思えて気が引けてしまう。
 岸田兵長はそんな二人の慌て様を心底楽しそうに眺めてから、怜次に視線を移した。

「そうそう、怜次君。明日の十時に第二会議室に来てくれないかな」
「会議室……ですか?」

 意図を掴み切れず問い返す。
 用事があるならここで言えばいい。月子に聞かせたくない話だとしても、席を外させるなりすればいい。わざわざ日と場所を改めるということは、まだ本題に入る準備が整っていないのか、それとも岸田兵長だけの用件ではないのか。

「日向中尉がね、直接話したいことがあるっていうの」
「小隊長が……?」

 予想外の返答であった。小隊長に呼び出されるような理由に心当たりはない。怜次は暫く考え込んでから、諦めて問い返した。

「……どうして隊長が」
「私は怜次君を呼び出すように頼まれただけだから。理由までは聞いてないけど、多分、怜次君に頼みたいことでもあるんじゃないかな」

 岸田兵長は『命令された』ではなく『頼まれた』と表現した。両者の階級の違いを考えると違和感のある言い回しだが、単に兵長が遊びのある表現を選んだだけだろう。

「頼みたいこと……ですか」

 兵長は嘘を吐いている――怜次はそう直感した。嘘というのは、日向中尉が怜次を呼び出す理由を知らないということだ。中尉の用件を把握した上で、それについてこの場で――つまり月子の前で言及することを避けたのだ。
 そう考えれば、中尉の用件も自ずと想像することができる。きっと、月子を含む年少兵の訓練に関することに違いない。怜次も特機兵としてのキャリア自体は彼らと大して変わらないのだが、そこはやはり正規兵と年少兵、更に言えば十八歳と十五歳の違いなのだろう。

「……分かりました。明日の十時に第二会議室ですね」
「よろしくね、怜次君」

 岸田兵長は嘘が下手だ。そんな哀しげな表情をされたら、隠すものも隠せなくなる。
 怜次は夜の暗闇に感謝した。これほど薄暗ければ、怜次以外に兵長の顔は見えていないだろう。これなら月子が要らぬ心配をすることもないはずだ。



[29376] 昏天暗地
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/10/10 21:16
  二〇一一年 十月二十六日 鳥取県鳥取市 津ノ井駐屯地隊舎

 結局、三号機を引き取って格納庫に納めた頃には、とっくに午後八時を回っていた。
 怜次は自室に戻るなり制服の上着を脱ぎ捨て、簡素なベッドに腰掛けた。

「何だか疲れた……色んな意味で」

 昨日今日の出来事だけで、気力の殆どを使い切ってしまった。
 黒尾峠における戦闘の疲労。小隊長直々に呼び出されたプレッシャー。落とし切れなかった先日の模擬戦の疲れ。種々多様な疲労と心労が混ざり合って、さながら疲労感のカクテルとでも言うべき有様だ。

「どうして一気に舞い込んでくるのかね」

 悪酔い確実なカクテルに苦しみながら、背中からベッドに倒れ込む。
 蛍光灯に照らされた天井は、人間が寝泊りする部屋というよりも、教室や研究施設の天井を髣髴とさせる。

「やっと修理終わったんですか?」

 部屋を二分するパーティションの向こうから翔也の声がした。
 一般に、自衛軍の兵士が暮らす部屋は複数人で寝泊りする相部屋となっている。入隊直後の教育隊は六人から四人、実際の部隊に配属されてからは四人から二人が相場だ。ただし、兵長より上の曹クラスになると一人部屋も多くなる。
 第三小隊の場合、猪熊曹長が一人部屋で、怜次と翔也が二人部屋、月子達が女子隊舎で四人部屋という割り振りになっている。

「ああ、ちょっと長引いた」
「それじゃ、黒河内もついさっきまで工場にいたんですか。大変だなぁ、あいつも」

 同情心混じりの呟きが漏れ聞こえる。それを聞いて、怜次は思わず身を起こした。
 パーティションの向こうを覗いてみると、翔也は自分の机に向かって勉強に精を出しているようであった。

「大変って……何かあったのか」
「いやいや、そんな大袈裟なことじゃないっす。今月分の課題の締め切りが近いのに、遅くまで大変だなってだけですよ」

 翔也は肩越しに振り返った。広げている教科書は現代社会だろうか。
 よく見ると、教科書に掲載されたユーラシア大陸の地図の上から、新しい地図を印刷した紙を貼り付けているところであった。

「で、お前は何をしてるんだ」
「ロシアの地図がまた変わったんですよ。またどっかの州が合併したとかで。この前はアメリカの地図が変わったばかりだっていうのに」

 グレムリンの出現と侵攻は学校教育にも影響を与えている。
 特に社会科系の科目は影響が大きく、世界情勢や戦況の変動に応じて内容を変えなければならないという。具体的にはどこかの国が崩壊したり、他の国と併合したりすれば地図を書き換えなければならず、政治的なスタンスが変われば現代社会の教科書の記述を変える必要が生じてしまうのである。
 しかし、その都度教科書を再発刊することは不可能だ。そのため日本の各種学校では、変化があったところだけを、必要に応じて差し替えるというシステムを採っているのだ。

「外国は大変だな」

 他人事のように言いながら、怜次は翔也の後ろへ歩いていった。
 先進国と呼ばれる国の中では、日本は比較的戦況が落ち着いている。ただし、それは島嶼よりも大陸を優先的に標的とするグレムリンの性質によるものであり、日本の軍事力が特別抜きん出ているわけではない。

「こんなの見てると、日本に生まれてよかったって思いますよね」
「アフリカ辺りに至っては、大陸丸ごと統一国家にしようとか考えてるらしいな。どれだけ追い詰められてるんだか」

 怜次は卓上に広げられた教科書に視線を落とした。
 広大なロシアの領土に、赤い印が無数に散らばっている。この赤い点は、有力なグレムリンの巣の推定座標を示している。グレムリンは何度も巣を移動させるので、地図に表記されているのは推定の位置に過ぎないが、大まかな勢力図としては充分だろう。
 特に赤い印が多いのは、ロシア中央部の一帯だ。
 ロシアの西端から三分の一に位置するウラル山脈から、東端から三分の一程までの範囲――いわゆる西シベリア低地と中央シベリア高原。その地帯がロシアにおける主戦場となっているようだ。

「確かロシアって、西の方に大都市が集まってるんですよね」

 翔也がぽつりと呟く。

「そのはずだが……それがどうしたんだ?」

 ロシアの人口分布は西側に大きく偏っている。ウラル山脈よりも西の土地に人口の約七割が住んでおり、残りの土地に居住する国民は三割程度に過ぎない。
 翔也は芯を引っ込ませたシャーペンの先で、ロシアの東端を円で囲むように擦った。

「中央部がグレムリンだらけで、大都市の殆どが西の端っこにあるってことは、東に住んでる人はどうやって暮らしてるのかなって。前々から疑問に思ってたんですけど、教科書にも載ってないんですよね」
「……考えたこともなかったな」

 言われてみれば確かに疑問だ。
 極東地域は日本の目と鼻の先にあるが、その現状に詳しい日本人はあまり居ないのではないだろうか。
 西を山脈に、三方を極寒の海に塞がれた極東の辺境。
 そこに住む少なからぬ人々は、厳しい環境とグレムリンの脅威に晒されながら、どのような生活を送っているのか。
 想像だけならいくらでもできるが、どうしても悲惨な空想ばかりが浮かんでしまう。
 怜次は窓の外へ目をやった。

「たぶん、寒いんだろうな……」

 日没をとっくに終えた空は墨色に染まり、世界を冷たく抱き込んでいた。
 その中に灯る幾つかの人工的な光は、きっと駐屯地の施設のどれかだろう。
 極東地域と日本の間に時差は殆どない。その地に住まう人々も、同じ暗い空を見上げているのだ。





  二〇一一年 十月二十六日 ロシア連邦沿岸地方 ウスリースク 極東軍管区本部

「そうか……分かった。引き続き調査を進めるよう通達しろ」

 無線式の受話器が本体に下ろされる。
 少佐の階級章を付けた士官は、困惑と心労が混ざり合った溜息を吐きながら、革張りの椅子に深々と腰掛けた。
 執務室にはクラシカルな外見の机と棚が並べられ、淡い色合いの間接照明がそれらを煌々と照らしている。二十一世紀の建造物に懐古趣味のインテリアが収められた風景は、部屋の主の趣向を如実に物語っていた。

「日本からの連絡ですか、レオノフ少佐マイオール・レオノフ

 扉の付近から、女の――或いは少女の言葉が投げかけられる。子供というには落ち着きがあり過ぎ、大人というには未成熟。レトロとモダンの組み合わさった内装に、幼さと妖艶さが同居した声色が調和し、ある種の神秘的な雰囲気を生み出していた。
 レオノフと呼ばれた少佐はアンティークの机に両肘を突き、指を絡めた手に額を押し当て、忙しなく目線を泳がせている。何事か口走ろうとしては唇を引き結び、結局は吐き捨てるように顔を歪める。

ディアギレフ中尉レイチェナント・ディアギレフからの連絡でしょうか」
「……中継役の連絡員がディアギレフの報告を上げてきた。探索中の『モルスコイ・ズメイ』を保管している基地をほぼ特定したそうだ」

 レオノフ少佐は長い吐息を漏らした。まるで、こんな報告など来なければ良かったと言わんばかりの反応である。
 三十半ばに達して間もない男の顔には、百年分の艱難辛苦を一挙に集めたかの如き苦悩が刻み込まれ、執務室の照明の角度も合わさって、まるで疲れ果てた老人のように思われた。

「くそっ……どうしてこんなことに……」
「極東が孤立を続ける限り、いつかはこうならざるを得ない。そう表現するべきでしょうね。『モルスコイ・ズメイ』の件はただの切っ掛け……なるようになったに過ぎません」

 少女はゆっくりとした足取りでレオノフ少佐の机に歩み寄っていく。
 間接照明の仄かな光が、少女の流麗な容姿を照らす。
 限りなく白色に近い淡色の髪を肩に流し、薄絹の肌に微かな微笑を湛え、宝石のような瞳を細めたその様は、芸術的な彫像が言葉を紡いでいるかのようだ。
 しかし、少女の纏う衣装には女性的要素がまるで存在しなかった。
 ズボンにネクタイという男物の軍服。士官候補生カデットであることを示す印を貼り付けた肩章。どれをとっても士官を目指して訓練に励む青年の装いである。
 レオノフ少佐が顔を上げ、苦々しく少女を睨んだ。

「ドラグノヴァ! 私は貴様のように楽観できる立場ではないのだ!」
「楽観論ではありません、少佐。極東地域は事実上の孤立状態にあります」

 少女――スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・ドラグノヴァは上官の机に手を置き、天板に広げられたロシア連邦の地図を指でなぞった。

「極東地域の人口はロシア連邦全体の僅か五パーセントにも達していません。モスクワでは極東の五パーセントを生かすより、シベリアのグレムリンの殲滅を優先すべきとの主張が、憚られることなく語られているそうです」

 スヴェトラーナは淡々と現状を語り続ける。
 本来、士官候補生にとって少佐とは見上げるほどに高い階級のはずだ。だがスヴェトラーナの言動は冷静そのもので、慇懃無礼とすら感じられるほどに淡々としていた。

「このままでは、我々は遠からず切り捨てられるでしょう」
「分かっている!」

 怒号と共に拳が机を殴りつける。
「だからこそ! 我が軍は中枢との安定した繋がりを取り戻そうとしているのだ!」

 レオノフ少佐は頭を抱え髪を掻き乱した。グレムリンという異質な生物の出現は、世界中の国家の政治と経済に深刻な影響を与え続けている。それは広大な領土と多大な人口を抱えるロシア連邦も例外ではない。
 元を辿れば、アメリカ合衆国との冷戦で疲弊していたソビエト連邦が、グレムリンに対応しきれず破綻を迎えたことがロシア連邦誕生の直接的な原因なのだ。

「シベリアの……シベリアのグレムリンを殲滅することさえできれば……」
「最善を実現できない以上、次善の策を選ぶより他にありません」

 スヴェトラーナは上官の怒りを軽く受け流し、卓上の地図を指でなぞった。

「……極東軍管区司令官。太平洋艦隊司令官。プリモルスキー地方知事。サハ共和国大統領。ハバロフスク地方知事。アムール州知事。カムチャツカ地方知事。マガダン州知事。サハリン州知事。ユダヤ自治州知事……」

 そして、絶望に歪むレオノフ少佐の顔を正面から見据える。

「極東地域の指導者層は既に同意を結んでいます。レオノフ少佐。貴方が『モルスコイ・ズメイ』の捕捉を司令官に通達すれば、それが計画の始動の合図となるのです」
「私が……歴史を動かすことに、なるのか……」

 レオノフ少佐は憔悴しきった表情で、二十歳近くも年下の少女に、縋るような眼差しを向けた。少佐と士官候補生の地位の格差など、この場では何の意味も成していない。重圧に押し潰されそうな一人の男と、ただ只管に冷徹な一人の少女がいるに過ぎなかった。
 スヴェトラーナの薄い唇が、妖しい笑みを形作る。

「大丈夫です。計画の成否に関わらず、貴方に責が及ぶことはありませんよ」
「……分かった、司令官に報告を入れよう。暫し席を外してくれ」

 震える指先が受話器を持ち上げる。言葉では受け入れたように見えても、精神の奥底が恐怖に押し潰されかけているのだろう。

「それでは失礼致します、少佐殿」

 形式的な敬礼を残し、スヴェトラーナは執務室を後にした。
 外出用の厚手の上着を羽織り、軍帽を深く被る。少女らしい体躯を無骨な軍装で覆い隠し、無機質な電燈に照らされた廊下を黙々と歩いていく。
 夜間ゆえか、他の軍人とすれ違う気配はない。

「お偉方の同意は得た。日本政府と中部方面軍に接触する下準備も整った。モスクワの連中はまだ計画を掴んでいないはずだ」

 窓の外は黒一色に塗り潰されている。
 防寒仕様の窓ガラスを冷え切った風が叩く。
 まるで、夜の海原を冷酷な北風が吹き抜けるかのように。
 不意にスヴェトラーナは足を止め、ガラスに映った自身の顔をじっと眺めた。

「リューバ……後はお前が上手くやれば、極東の歴史を最善の形で変えることができる。仮に上手くいかなくとも……次善の形でどうにかしてやろう」

 スヴェトラーナは、南の空に向かって妖しく口の端を上げた。



[29376] 軍隊流将来設計
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/10/13 04:19
  二〇一一年 十月二十七日 鳥取県鳥取市 津ノ井駐屯地 第二会議室

「失礼します」

 怜次はミーティングルームの扉を開けて明瞭な挨拶を述べた。
 ところが、緊張感の篭った挨拶の声は、無人の室内に空しく響いて消えた。

「……やっぱりまだいないか」

 ぽつりと呟いて、怜次は規則正しく並べられた長机に腰掛けた。
 現在の時刻は午前九時五十分。岸田兵長から聞かされた呼び出しの時間は午前十時なので、ちょうど十分前集合という形になる。今回は小隊長との面談なので、早く行動するに越したことはないだろう。

「ちょっと早く来過ぎたかな」

 世間一般の印象だと、軍隊では五分前行動を徹底するものと思われているようだが、実際は必ずしもそうとは限らない。
 帝国海軍と海上自衛隊の気質を引き継いだ海上自衛軍では、五分前行動はありとあらゆる行動に対して、半ば鉄則のように扱われる。しかし航空自衛軍の場合は事情が異なり、遅過ぎず早過ぎずの時間厳守が重んじられる。
 五分前に行動しなければ軍艦の出航に間に合わないという現実や、早過ぎる行動は燃料の浪費に繋がるという懸念が、それぞれの軍ごとの主義を決定しているのだろう。

「……」

 怜次は椅子に座ったまま、手持ち無沙汰に時間を潰していた。
 一人しかいないミーティングルームはやたらと広く感じられる。そもそも一個中隊を丸ごと収容できる部屋として用意された部屋なので、収容人数は四十人を優に上回る。そこで一人待ち呆ける気まずさは筆舌に尽くしがたいものがあった。
 白塗りの壁。人工的な蛍光灯の光。キャスター付きの長机。軍事施設の一角というより、どこかの研究施設の会議室を思わせる内装だ。
 尤も、怜次は研究施設なる代物とは縁遠い生活を送ってきたので、本物がどういう内装をしているのかなど全く分からないのだが。

「十時……か」

 壁の時計に目をやると、長針が十二のところへ差しかかろうとしている瞬間だった。
 軍隊での五分前行動のことやら、ミーティングルームの雰囲気やら、関係ないことを考えて時間を潰してきたが、そろそろネタが尽きてしまう。

「おっ、もう来てたのか」

 扉の開く音と同時に、軽い響きの声が飛び込んできた。九割方が白い頭髪に、中尉の階級章を付けた軍服。こんなに特徴的な容貌の軍人は自衛軍に二人といないはずだ。

「悪い悪い、待たせちまったな。天野大佐との話が長引いた」
「そ、そんなことは……」

 日向中尉は弁解じみたことを言いながら、椅子を動かして怜次の前に座った。長机に対して、本来座るべき向きの反対側に座っている格好だ。
 内心、怜次は困惑の極みにあった。日向中尉は時間を守っているのだから弁解なんてする必要はない。それ以前に、二等兵風情がしっかり椅子と机を使っているのに、上官たる中尉がその長机にきちんと座れていないというのはどういうことなのか。
 怜次の困惑を悟ったのか、日向中尉はひらひらと手を振って笑みを浮かべた。

「手短に終わらせるから、あんまり固くなるなよ」

 日向中尉の椅子がぎしりと軋む。

「それで、本題なんだが」
「はい」

 内容の見当は昨日の時点でついている。十中八九、年少兵――月子達の訓練に関する指示だろう。
 本来なら怜次も訓練と教育を一方的に受ける立場の階級である。しかしこの第三小隊には年少兵という特殊な立場の子供達が配属されている。ならば、他の部隊の二等兵と扱いが違っても仕方あるまい。
 ところが、中尉の次なる発言は、怜次の想像から著しくかけ離れたものであった。

「久我。お前、階級を上げてみる気はないか?」
「……はい?」

 間抜けな返答が口を突く。
 予想だにしないというのを通り越して、まるで意味が分からない。階級を上げると聞いて、真っ先に思い浮かんだのはボクシングの階級だった。フェザー級のボクサーが体重を増やしてスーパーフェザー級に転身するのは、文字通り階級を上げるということだろう。
 無論、日向中尉が言う『階級』とはボクシングのことではあるまい。
 怜次は余計な考えを振り払って、日向中尉に問い返した。

「昇進を目指すつもりがあるか……ということですか?」
「端的に言えばそうなるな」

 怜次は、曖昧な相槌を打った。軍隊の階級の話なら納得ではあるが、それを二等兵である怜次に言うのはおかしい。

「どうしてそれを自分に言うのですか? 二等兵から兵長までは勤続していれば自動的に昇進するはずでは」

 四月に入隊した二等兵は、約一年を勤め上げれば一等兵に昇任し、一等兵になってから更に一年経てば兵長に昇任することになっている。
 これは自衛隊のシステムをそのまま継承したもので、過去の帝国陸軍の場合は一等兵と兵長の間に上等兵という階級があり、上等兵への昇任は自動的ではなかった。
 何にせよ、陸上自衛軍の兵は時間さえ経てば一番上まで昇進できるのだ。
 二等兵である怜次に『昇進を目指すつもりはあるか』と訊ねても意味はないはずである。

「そうだな……順を追って説明しよう。周知の通り、自衛軍は常に人手が不足している。特に特機部隊の人材難は慢性的だ」

 日向中尉は椅子の位置を整えて怜次と正面から向かい合った。
 真っ白な前髪の向こうで、鳶色の瞳が細められる。

「三式が制式採用されてまだ八、九年。本格配備が始まって四年程度しか経っていない上に、主力兵器とは到底呼べないからな。主力の部隊を差し置いて人材を集めるのは難しい」

 それは自衛軍に関わる者にとって常識とも言える事柄だ。全面的な志願制を敷く自衛軍は、人材獲得を自発的な志願者に頼らざるを得ない。特別採用制度を利用して公的機関に就職する児童も、本人が希望しなければ自衛軍に配属されることはない。

「今のところは、特機部隊も定数を満たすことができている。一番の問題はその次だ」
「次……ですか?」

 怜次は知らず知らずの間に身を乗り出していた。
 小隊長という地位も中尉という階級も、自衛軍全体から見れば中堅以下ではあるが、最下級兵の怜次とは比べ物にならないほどの権限と情報を持っている。
 そんな人物から一対一で話を聞くことができるのだ。自然と気が引き締まるのも当然だと言えるだろう。

「兵隊の階級は大きく分けて三段階に分かれている。少尉以上の階級の『士官』と、三等軍曹から曹長までの『下士官』に、兵長以下の『兵』だな」

 日向中尉は指先でテーブルの天板に三つの円を描いた。
 そして、天板を指でトンと叩く。

「特機部隊はとりわけ士官と下士官が少ないんだ。それもわざと少なくしているわけじゃない。単なる人手不足の煽りとしてだ」
「……でも、員数は満たしているんですよね」
「最低限の数はな。だが人数に余裕がない。喩えるなら、労働力が最低でも十人はいなければ仕事にならない職場なのに、社員が十人ちょうどしかいなくて、一人でも辞めれば立ち行かなくなる会社みたいなもんだ」

 指先が何度もテーブルを叩く。そのリズミカルでテンポの早い硬質な響きは、まるで中尉の内心の焦りを表現しているかのようであった。

「士官や下士官に戦死者が増えれば、その欠員を埋めるために多大な労力を掛けなければならなくなる」

 中尉に正面から見据えられ、怜次は息を呑んだ。
 戦死者――冷徹な重みを孕んだ言葉が、怜次の心に突き刺さる。

「上海戦役では大勢の士官と下士官が命を落とした。その人的損失を埋めるまでに、少なくとも一年は掛かったくらいだ」

 日向中尉の一言一言が、果てしないほどに重く感じられる。
 これまで、第三小隊は戦死者や負傷者と無縁でいることができていた。しかしそれは、幸運と部隊運用の賜物――年少兵に危険過ぎる任務は割り当て辛いという判断を含め――であり、生存が約束されることなどありえない。
 昨日まで隣で訓練していた人物が、今日からはいなくなっている。軍隊とは、そんなことが当然のように起こる組織なのだ。

「……兵を下士官に、下士官を士官に昇進させて補うことはできないのですか?」
「当然やってるさ。けど、それらは役割が異なるから、要求される能力も変わってくる。兵は戦闘や任務に直接関わる教育を受けて、下士官は兵を率いたり訓練させたりするための教育を受ける。士官なら部隊全体を指揮運営する能力が要る」

 背もたれの軋む音がする。日向中尉が姿勢を変えた音だ。

「お前が言ったような昇進をさせるには……そうだな、半年は専門教育を受けさせるのが理想だな。よほど穴埋めを急がなければならないなら、教育期間を短くすることもあり得るだろうが、教育を一切しないというのは無理がある」

 つまり、人材が足りなくなったからといって、下位の兵士を即座に昇任させて補填するというやり方は困難であるということだ。
 戦況がよほど切羽詰り、他に手段が存在しないなら止むを得ないかもしれないが、今の日本は流石にそこまで追い詰められてはいない。個人レベルの戦闘技術しか身につけていない兵長を無理やり下士官に据えたところで、一体誰が得をするというのだろう。

「さて、本題に戻るとするか」

 そこから先は言われなくても理解できた。むしろ、言わなくても理解できるよう懇切丁寧に説明されていた、と表現するべきかもしれない。

「階級を上げる……つまり、下士官を目指すつもりはないか、ということなんですね」
「俺個人としては、いっそ士官を目指してほしいくらいなんだがな。天野大佐の方針としては下士官増強が理想らしい」

 日向中尉は微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべた。どうやら下士官への誘いは、天野大佐――第三特機群の司令官の指示によるものだったようだ。
 それならきっと特機群の兵という兵に要請を出しているのだろう。
 少なくとも、怜次だけを狙い打ちにする理由など微塵も見当たらない。

「ひょっとして、岸田兵長にも同じ要請をしたんですか?」
「ああ。快く引き受けてくれた」
「へぇ……ええっ!」

 思わず声が裏返る。

「てことは、兵長が半年もいなくなるってことじゃあ……」

 兵から下士官になるには半年程度の教育期間が必要だと話したばかりだ。岸田兵長が下士官を目指すということは、その間は小隊から離れてしまうことを意味する。残される身としては不安要素しかない。

「心配するな。当分の間、特機兵を下士官にさせやすくするための特例措置が施行される予定だ。岸田は勤続年数が長いし、下士官に近い仕事も経験してるから、それなりに教育期間を短縮してもらえるはずだ。流石に今のお前は無理だけどな」

 それはそうだ。いくら人材不足とはいえ、入隊したての二等兵が下士官に取り立てられるわけがない。恐らく来年度の特例措置とやらは、兵長から三等軍曹への昇任が容易になるという内容だろう。

「第一、今日明日の話じゃない。少なくともお前達が一等兵になるまではさせないよ」

 怜次は安堵の息を吐いた。来月から岸田兵長は半年ほど隊を離れます、なんて言われたら、困るなんていう程度では収まらない。

「二年の従軍期間が過ぎたときに、すっぱり軍を辞めるか、下士官やら士官やらを目指してみるか。お前の場合は一年以上も先のことだが、まぁ記憶の片隅にでも留めておいてくれ」

 そう言って、日向中尉は席を立った。今回の面談はあくまで方針を伝えることが目的で、何かを強制したり命令するためではなかったらしい。
 まるで高校時代の進路指導だ――怜次はそんな感想を抱いた。
 中尉は一年以上先のことだと言ったが、本気で群での出世を目指すなら、早い段階で対策を立てておいたほうがいいに決まっている。そのためには、やはり早い段階で将来の指針を決めておく必要がある。
 考えれば考えるほど高校の進路決定を思い出して、憂鬱なような懐かしいような心境になってしまう。

「……隊長は、できれば士官を目指して欲しいと言っていましたけど、下士官から士官になるには物凄く時間が掛かると聞いたんですが」

 最後に気になったことを訊ねておく。日向中尉は椅子を元の位置に戻しながら、不敵な笑顔を浮かべてその問いに答えた。

「二年経った時点で軍を辞めて、大学なり士官学校なりを卒業してから軍に入り直せばいい。四年間在学して、何ヶ月か訓練受ければすぐに少尉だ」
「それ……裏技じゃないですか」

 日向中尉は肯定も否定もせずに、笑いながら怜次の肩を叩いて会議室を出て行った。



[29376] 兵士の休日
Name: 一城一樹◆0d54f147 ID:e1085049
Date: 2011/10/23 06:54
  二〇一一年 十月二十九日 鳥取県鳥取市津ノ井

 古今東西、軍事基地の存在は周辺地域に少なからぬ経済的影響を与えるとされている。
 軍隊とは常に大量の人員を必要とする組織である。主力部隊の一種である歩兵連隊の場合、歩兵だけでも千二百人から千五百人の兵士が所属している。この連隊が駐屯する基地には、戦闘部隊に加えて後方支援隊を始めとした非戦闘部隊も配備されるため、基地――陸軍では駐屯地と呼び習わす――の総人員は更に膨れ上がる。
 また、士官や一部下士官のように駐屯地外で暮らす軍人には、家族も一緒に引っ越してきている者も多い。

 駐屯地の周辺地域からすると、これらの大所帯が丸ごと顧客に化けるのだ。

 外出した隊員の来店。駐屯地内の売店やその他一部業務の民間委託伴う仕事の増加。駐屯地誘致による国からの補助金。純粋な税収と人口の上昇。これだけの条件が揃って、影響が皆無であるはずがない。
 無論、経済効果の波及範囲や大小は、部隊の種類や規模、駐屯地の立地に左右される。
 第三特機群が属する津ノ井駐屯地の場合、全ての部隊を合わせても三百人から四百人という比較的小規模な駐屯地だが、地元にとってはそれなりの客層として看做されているらしい。その証拠に――

「相変わらず軍人が多いよなぁ、ここ」

 怜次は周囲を見渡して独りごちた。
 津ノ井駐屯地の北東に位置するデパートは、今日も多くの客で賑わっている。主婦らしき女性に家族連れ、中学生か高校生らしき集団。それらに混ざって、制服姿の軍人がちらほらと見えた。
 一箇所の人ごみにつき一人は軍人がいるだろうか。他ではなかなか見られない光景だ。
 もっとも、かく言う怜次も制服姿で来店した軍人の一人なので、他人事のように語れる立場ではなかったのだが。

「まぁ、端から見たら俺もその他大勢の一員か」

 他の軍人達との間に違いがあるとすれば、手にしている買い物袋がビニール袋か書店の紙袋かの差異くらいだろうか。無理に違いを見出そうとしてみたが、結局然したる差異は見つからなかった。

「久我さんも買い物ですか」

 聞き慣れた声に呼び止められる。亜由美もデパートに来ていたのか。怜次はそう思いながら紙袋を手に振り返った。

「上原か。お前も……って、あれ?」
「……? どうかしましたか」

 亜由美が怪訝そうに眉をひそめる。その服装は、怜次とは違いごく普通の私服であった。
 シックな色合いのスカートに白いパーカー。亜由美らしい飾り気の少ない服装だが、彼女のこの姿を見て、曲がりなりにも軍人であると気付く部外者はまずいないだろう。文字通り休日を過ごす高校生といった様相だ。

「外出するときは制服って決まりだろ。何で私服なんだ」

 怜次は改めて亜由美の格好を見直した。何度見ても歳相応の私服である。
 外出時の服装の取り決めは時代や軍隊によって異なるが、現在の陸上自衛軍の場合は制服で駐屯地に出入りすることが定められている。
 もっとも、これはあくまで基本的な取り決めに過ぎないので、駐屯地あるいは所属部隊の方針によっては例外もありうる。日本全国に十万単位で存在する軍人の中には、私服外出を許可されている者も少なからずいるかもしれない。
 しかし、津ノ井駐屯地所属の第三特機群の方針は、制服着用での出入りを遵守することだ。亜由美の性格を考えると、ルールを積極的に破るというのは考えにくかった。

「ああ、これですか」

 亜由美は平然とした態度でスカートの裾を摘んだ。駐屯地内では滅多に見られない、少女然とした仕種である。

「駐屯地を出るときはちゃんと制服でしたよ。駐屯地の外のアパートに私服を置いておくための部屋を借りているので、そこで着替えてきたんです」
「アパートって……部屋を借りるのもタダじゃないだろ。二等兵の給料なんか高が知れてるんだし」

 怜次は納得が半分、不服が半分といった態度で再度疑問を口にした。
 確かに、亜由美の言った方法なら規則には引っかからない。制服着用のチェックは駐屯地に出入りするときに限定されるので、駐屯地外で着替えた場合は規則違反にはならないはずだ。どうしても私服で町を出歩きたいのなら有効な手段だろう。

 だが、この方法には現実的な障害がある。

 いくら郊外とはいえ、一室を借りるにはそれなりの費用が掛かる。しかも、下っ端の兵士の給与は住宅費や食費、光熱費などの諸々のコストが駐屯地負担になる分、額面としては控えめになっている。着任直後の二等兵ではとてもアパートの家賃など負担しきれまい。

「それはですね……」
「皆で負担しあって部屋を借りてるのよ。私服置き場兼着替え場所としてね」

 ひょっこりと姿を現した岸田兵長が、亜由美の言葉を引き継ぐ。
 兵長も亜由美と同様に、普段は滅多に見られない私服姿をしていた。そのせいか軍服のとき以上に年齢が分かり辛くなっている。亜由美と並んでいると、同じ高校の先輩と後輩のように思われても不思議ではない。

「うちの隊の三人と私、あと他の小隊から二人。合わせて六人で家賃を分割してるの。住むわけじゃないから、あまり広くなくて安い部屋だけどね」

 岸田兵長は人数を指折り数えながら喋り続けた。

「亜由美ちゃん達が三人で四分の一を分担で、残りの三人が四分の三を分担ってとこかな」

 その計算なら亜由美達が負担する額は家賃の十二分の一という計算になる。
 怜次はこの辺りのアパートの相場には詳しくなかったが、月十二万以上の部屋でも借りない限り、一ヶ月あたり一万は越えない勘定だ。荷物を置く程度の広さの部屋なら数千円で済むかもしれない。それくらいなら、新人の年少兵でも無理なく負担できる額だろう。

「やっぱり制服より私服で出歩きたいものなんだろうか……」
「当たり前じゃないですか。せっかくの休日なんですから」

 亜由美は当然だといわんばかりに肯定した。
 正直、怜次の抱いていた印象だと、亜由美は制服を律儀に着続ける人物というイメージだったが、どうやら単なる思い込みに過ぎなかったようだ。

「それに男の人でもこうやってる場合は多いそうですよ」
「へぇ……知らなかったな」
「近頃は軍服のほうが格好いいって風潮が強いみたいだけどね」

 最後の一言は岸田兵長のものだ。

「自衛軍が自衛隊だった頃は、制服で出歩くのは望ましくないっていう雰囲気もあったらしいけど。グレムリンが出てきてからは状況が変わっちゃってるというか」

 兵長は皮肉そうに肩を竦めた。
 どんなものでも必要に迫られれば受け入れられる。かつてこの国に染み付いていた軍事アレルギーは、グレムリンという明確極まりない脅威の出現によって、あっさりと押し潰されてしまったのだろう。
 この時代、軍備に劣る国はそれだけで追い詰められてしまう。それなのに軍備の存在を否定するなんて顰蹙ものだ。少なくとも怜次が物心ついて以降はその手の論調が有力になった覚えがない。

「そういうものかもしれませんね。……ところで、上原。今日は二人で買い物か?」

 怜次は岸田兵長に相槌を打ってから、亜由美に向かって問いかけた。
 上官と同僚を相手に喋っていると、言葉遣いを頻繁に切り替えなければならないので、少し面倒に感じてしまう。

「買い物は合ってますけど、今日は二人じゃありません」
「月子ちゃんと玲奈ちゃんも一緒に来てるよ。今は別行動中だけど」

 岸田兵長のさり気ない発言に、亜由美が真顔で異議を差し挟む。

「別行動じゃなくてはぐれただけでしょう。それも私達の方が」
「いい、亜由美ちゃん。迷子っていうのは引率者からはぐれた子のことを言うのよ。つまり私からはぐれた側が迷子とも言えるわけ」
「ものは言いようですね……」

 ぽんと胸を叩く岸田兵長。迷子だと断言するのではなく、迷子『とも』言えるという表現に留めている辺りに、兵長の人柄が滲み出ていた気がした。

「黒河内も来てるのか……」

 岸田兵長と亜由美に月子と玲奈。要するに、第三小隊の女性陣が連れ立って来店しているということだ。

「個人的には一人でもよかったんですけど」
「いいじゃない。こういうのは大勢のほうが楽しいって」
「ですから、買い物は楽しむためにするものではないでしょう」

 二人は怜次のことを置いて好き勝手なやり取りを始めた。
 こうして会話を聞いているだけでも、兵長と亜由美の関係が何となく理解できる。

「……そうか、私服なのか」

 ふと、怜次は妙なことを思い浮かべた。
 年少兵の女子三人は揃って部屋のレンタルに参加している。つまり、三人とも外出するときには私服に着替えているのだろう――月子も含めて。

 だが月子の私服姿を思い浮かべることがどうしてもできなかった。

 軍服か戦闘服に、包帯と皮手袋を付けた右手。それが月子の格好だと頭にインプットされていて、違う衣装を着ている姿が想像できない。
 怜次は頭を掻いた。つくづく、勝手なイメージを作ってしまう性格だと実感する。
 ほんの僅かな付き合いから印象を固め、そのフィルターを通して他人に接する。それが悪いことか否かは別として、癖になってしまっているのは間違いない。

「……どんな服着てるんだろうな」
「やっぱり気になる? 気になっちゃう?」

 岸田兵長が独り言を耳聡く聞きつけて、にやけた笑顔で怜次を見上げる。
 ――しまった。怜次は前髪をくしゃりと握り潰した。一番聞かれてはいけない人に聞かれてしまった気がする。

「気になりませんから」
「月子ちゃんは意外と可愛い服着ちゃってるよ。ギャップがまたいいのよねぇ。確かあれって玲奈ちゃんが見立てたんだったかな」
「だから聞いてませんから」

 どうやら変なスイッチを押してしまったらしい。
 亜由美の方に目をやると、呆れ帰った様子で首を横に振られてしまった。
 果たしてそのリアクションは岸田兵長に向けたものだったのか、それとも不用意な発言をした怜次に対するものだったのか。
 どちらにせよ、亜由美にとっては苦々しい状況に違いない。

「そうだ。一緒に買い物しない? それなら月子ちゃんや玲奈ちゃんの私服も見放題だよ」
「遠慮させて頂きます」

 怜次は即答した。全く気にならないといえば嘘になるが、そんな素振りを少しでも見せるのは、この場に限っては悪手もいいところだ。

「どうせ荷物持ちでもさせるつもりでしょう」
「あ、やっぱりバレた?」

 大して本気ではなかったらしく、岸田兵長はあっさりと答えた。その隣で亜由美が諦めたように肩を落としている。
 本当、岸田佐代子という人物は言動の真意が読めない。
 真剣な顔で不吉にも取れる忠告をする日があったかと思えば、十五歳の少女と比べても子供じみて見えるときもある。

「じゃあ、私達は月子ちゃん達を探さないといけないから。怜次君も勉強頑張ってね」

 そう言い残すと、兵長は亜由美を連れて立ち去っていった。
 エスカレーターの方へ遠ざかる二人の背中を見送って、怜次は手にしていた書店の紙袋を閉じるテープを切った。
 袋の中に入っていた書籍――士官学校の入学試験の参考書を取り出す。一般教養を中心としているため、普通の大学受験にも流用可能という触れ込みの教本だ。
 将来的な身の振り方を決定したわけではなかったが、どうせなら今のうちから準備しておいたほうがいいだろう。そういう臆病な、聞こえのいい表現でいえば慎重な考えで購入したのだが、こんなにあっさりバレるとは思っていなかった。

「最初から見抜かれてたってことか」

 怜次は思わず苦笑を浮かべた。そう考えると、先ほどの岸田兵長の態度も意味深なものに感じられてしまう。
 これ以上、余計なことに巻き込まれないうちに帰ろう。そう思って歩き出そうとした怜次の背中に、人間大の何かがぶつかってきた。

「きゃっ!」

 何事かと振り返ると、白い手が色素の薄い頭を押さえて痛がっているところだった。

「榊――?」

 いや、違う。一瞬見ただけの印象は似ているが、きちんと確認すればまるで別人だ。それに怜次はぶつかった少女のことを何日も前から知っていた。
 三日前、黒尾峠で出会った少女が、怜次を見上げて満面の笑みを浮かべていた。


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