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[29321] 【習作】僕ら仲良し家族(機動戦士ガンダムSEED 憑依もの)
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/18 23:51
ついむらむらして突発的に書いてみた。後悔はしていない。
未熟者ではありますが、お楽しみいただけたら幸いです。

注意
このお話はご都合主義分を含みます。
現実(?)からの憑依です。
感想は作者の栄養です。必ずすべてに目を通しますが、お返しができるかどうかは分かりません。

以上のことをあしからずご了承くださいませ。

8/16 御指摘箇所を一部修正。
8/20 ご指摘部分修正(仮)



[29321] PHASE0 どこかとおくのおはなし
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/18 23:51
 枕元には、馬鹿たちがたくさんいた。
 暖かな布団に包まれた彼は、自分を取り囲むように顔を突き合わせている連中を見て小さく苦笑する。どいつもこいつも、辛気臭い表情ばかりだ。せっかくの旅立ちなのだから、一人くらい笑って見送ってくれてもいいだろうに。
 そう思っていたら全員笑いだした。きっとこちらの考えていることなど筒抜けだったのだろうが、いざ笑われると何故か非常に腹立たしい。いやいや、仮にも死出の道を歩もうとしている友人の前で笑うなよ、常識的に考えて。

「でも、そっちの方がお前はいいんだろう?」

 まあ、そうなのだが。そいつらは苦笑してこちらを見ている。彼は腕を伸ばした。長い年月を経たとは思えぬほど瑞々しく張りのある肌だ。きっとその気になればもう数百年くらいはこの色合いを失わずに済んだろう。もっとも、そんな気持ちはもはやない。

「じゃあ、また」

 また。今更そんな言葉をかけてくる友人共に彼はつられるように苦笑した。そんなことはもうないと言うのに。
 でも。もしも。もしまた出会えるとするならば。その機会を得られるというのならば。
 もう一度まみえるのも、悪くはない。

「いつかまた、どこかで」

 かすれた声でそれを呟き。彼は静かにまぶたを閉じた。



[29321] PHASE1 ごろごろーごろごろー
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/18 23:53
 空が非常に高かった。
 さんさんと降り注ぐ日差しは肌をじりじりと焼き、じんわりと額に汗粒を浮かばせる。そよぐ風は若干の湿り気を帯びていたものの爽やかといっていい。火照った身体にはひどく心地よく、彼は先ほどまで自らを襲っていた不可解な悩みと重圧から刹那の間だけ解放されていた。

 青い空。遠くには紺碧に輝く海が一面に広がり、南洋樹の並木道が自らと同じく風に身を任せ陽気に踊っている。思わず踊り出したくなるような気分に駆られ、彼は再び頭を抱えて地べたに這いつくばった。
 そこは自宅のバルコニーであるため、そんな真似をすれば服が悲惨なことになってしまうのだが今の自分にはそこまで気を回す余裕はない。
 もしもこんな有様を母か、あるいは使用人たちに見られたらどんなことになるか。わずかに呟きを洩らす理性すら、彼の脳内議場では窓際の極少数派であった。ちなみに先ほどまで側にいたお世話係はとっくの昔に人を呼びに駈け出している。次に出会うときはきっとお医者先生と御一緒であろう。

 どうしてこうなった! と叫ぶ段階はとうに過ぎている。現在彼を煩わせているのはもはや単純な混乱であり、切っ掛けや理由などの介在する余地はもはやない。要するに、惰性で悶えているのである。
 さらに数分ほどそうしてごろごろしていた彼であったが、やがてぴたりと動きを止め、よろよろと立ちあがった。重心が定まらないせいか恐ろしく立ちにくくはあったが、白い手すりにつかまってどうにか体裁を整える。
紅葉のような、と称すにふさわしい手のひらが視界に入り、憂鬱な気分が泥のようにさらに深く沈んでいく。
 わずかに頭の奥に炎が揺らめいた。ずきりと目を刺激するその熱は先と比べて無視できるレベルまでおさまっている。彼はほんの少しだけその頭痛を憎んだ。これがなければもう少しだけでも、自分は何も知らずにいられただろうに。遅かれ早かれ現状は認識したろうが、それでも今しばらくはまどろむことができたはずである。
 ばたばたと廊下が騒がしくなった。きっとお世話係が医者と共にやってきたのだろう。彼はよろつきながらも部屋に戻り、彼のために置かれたクッションに身を沈ませた。広い室内は赤く毛先のながい絨毯で覆われており、折々を飾る調度品はどれも気品あふれるもので満たされている。きっとお高いのだろう。彼は思わず値段を想像しようとした。無論現実逃避である。

「先生、こちらです! ぼっちゃま、大丈夫ですか、ぼっちゃま!」

 扉を蹴破るかのように飛び込んできたのは、二十歳ほどの女性と白衣を着た壮年の男性であった。女性は目じりに大粒の涙を浮かべながら彼を抱きかかえ、その豊かな胸元にぎゅっと抱きしめる。常ならば狂喜乱舞なのだが、生憎とそうした感情はピクリとも動かない。非常に残念であった。

「ああ、ぼっちゃま! どうか、どうかしっかりなさってください!」
「あー、君、少し落ち着きなさい。それでは若様を診る事が出来ないじゃないか」

 医師の言葉にも反応する様子もない。ふうっと大きなため息が彼の耳に入り込んだ。理由は異なるもののその気分には大いに同意したいところである。

「ほら、早く若様をベッドに。さあ!」

 先ほどよりも強い口調で促されると、ようやく女性は彼を胸の束縛から解放した。そして、さらなる絶叫をあげたのだった。

「きゃあああああ! ぼっちゃま、どうしてこんなに埃だらけに! ぼっちゃま、ぼっちゃま!」

 唐突に発された高周波は何の備えもしていなかった彼の脳を直撃した。くらくらと視界が揺れる中、半ば自棄になって心内だけで呟く。
 もう、どうにでもなれ。そして彼――ユウナ・ロマ・セイランと呼ばれる三歳の幼子は振動する世界から闇の中へと退避することとなった。それはある意味、救いであったのかもしれない。





 ユウナ・ロマ・セイラン。オーブ連合首長国五大氏族、セイラン家当主ウナトの長子であり、現在三歳の幼子である。
 少なくとも彼は自身をそう認識していたし、周囲の人間にもそのことに異論を唱えるものはいなかった。ただユウナ本人が己の意識に対し大いなる疑惑と混乱を有しているだけである。

 ぼんやりとベッドで横になるユウナは、われ知らず手を顔の前に掲げて指を動かした。開けては閉め、開けては閉め。にぎにぎと動く手は確かに自分の命令を忠実に実行している。当然だ、何せ自分の体なのだから。
 恐ろしいほどの違和感が全身を包み込んだ。ぎゅっと眼を閉じ外界全てを拒絶する。猛烈な吐き気がこみ上げ、しかしそれを必死になって押さえつける。ここで吐いたら、すぐそばにつきっきりになっているであろうあのお世話係の娘が再び大騒ぎするのは目に見えていたからだ。医師に何の異常もないと診断されても、それを全く信用しなかった彼女に、これ以上心配をかけるのも本意ではない。

 口にたまった唾を飲み込み、大きく息を吸う。寝返りを打つと、薄水色の髪の毛が顔にかかった。さっとそれをすくってはねのける。
 自分はユウナ・ロマである。しかし同時にユウナではない。相反し矛盾に満ち満ちた回答は、しかし一点の曇りない真実であった。
 脳裏に刻まれた記憶は、ユウナではない名をもった人間のものだ。ずっとずっと、その名で生き、暮らし、そして永遠にこの世を去ったはずの男のもの。それは間違いなく自分で――自分ではない。

 ああ、頭が痛い。何も考えたくない。このまま起き上がることなく眠り続けられたらどんなにかよいだろう。
 そういうわけにはいかないことを知りながらもユウナは考え続けた。ここに自分がいる事、ここではないどこかのこと、自分のこと、我が身に降りかかった出来事の原因。これから起こること。今日の晩御飯。さっきの胸の感触もう少し覚えておけばよかった。などなど。

 考えて考えて、そして――飽きた。唐突に、ぷっつりと。とてつもない面倒くささが身を蝕み、きれいさっぱり思考を止めた。もういいや、こんだけ悩めば考えなくてもいいよね。そんな言葉が心の奥から洪水のように溢れだす。
 現実逃避、まごうことなき現実逃避である。だがそれの何が悪い! ユウナは開き直った。
 そう考えると、頭痛すらも恥じて身を隠してしまった。再び瞳を開け、日差しを反射した白い天井を見つめる。

 認めよう。ここはあそこではない。自分であり自分ではない男の生きた場所じゃあない。ユウナ・ロマ・セイラン。己の名であり、これ以外のものは存在しないのだ。今は何も考えない。だって疲れるから。
 それが精神を保持するための防御策であることは自覚していた。けれど自覚したからといってどうすることもない。むしろ進んで防壁を構築した。考えるの、面倒くさい。故にユウナはこれからの事に思考の大部分を割くことに決めた。
 この先に待ち受けていること、より正確を期するなら、今から十九年後に生起する事柄に。

 ユウナの、真のユウナ・ロマ・セイランの記憶から察すると、今はC.E.五四年の二月十五日である。C.E、即ちコズミックイラ。ユウナではないユウナはこれに関し非常に言明しがたい感情をその内に抱くこととなった。それを一言で表すと次のようになる。

 あ、ありのままに起こったことを今話すぜ。
 はっきり言おう、何これであった。催眠術とかそんなちゃちなものではない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったのであった。
 うっすらと額に脂汗が浮いた。それをぬぐい、ユウナは自身を落ち着かせるため更に深く息を吸い込む。

 ユウナではないユウナは、あちらでその年号を見たことがあった。というか、その年号を用いている物語を見たことがあったのだ。そしてそれなりに好んでもいたことを覚えている。その物語は最終的にC.E.七四年でひとまずの終結を迎えていた。故にユウナは、少なくともこれから起こる出来事の大筋を知ることができているのである。
 そう大筋。映像と共にその内容を思い出し――絶叫した。

「ほ、ほああああああああああああ!」
「ぼ、ぼっちゃま!?」

 かけられたシーツを跳ね飛ばして、ユウナはばねのように起き上がる。目を見開き、頭を抱える自分を見てお世話係は再び「先生、先生ー!」と悲鳴に近い声で遠ざかっていった。しかしユウナにはそれにかまっている余裕はありの触角ほども存在しない。
 オーブ連合首長国のユウナ・ロマ。その名に関して真っ先に浮かび上がったのは青色の人型兵器が薄水色の髪の青年目がけて落下する一幕であった。彼の引きつった顔、かすれた悲鳴が質感を持って脳裏をよぎる。

「あかん……あかんで、これ……」思わず方言を交えながら頭をかきむしった。

 何故そのことに今の今まで気づかなかったのか。いくら腑抜けていたからといってこれはあんまりだとユウナは自分を罵った。どこをどう考えても死亡シーンです本当にありがとうございましたな展開である。
 やばい、思わず言葉が口をつく。
 背中がびっしょりと濡れそぼり、寝間着に大きな染みを作っているようだ。ぴたりと肌に張り付く感触が生々しく現実感を有してユウナに襲いかかる。このまま何事もなく推移すれば、ユウナは今より十九年後、C.E.七十三年にはこの世から強制退場になってしまうのだ。
 死亡フラグ。まごうことなき死亡フラグ。ユウナは絶叫しながらベッドの上を転がり続けた。三半規管がかき乱されて吐き気がわんさかであるが、それでもなお動きを止めることはない。止まればその瞬間、惑乱が激流のごとく流れ込むのは目に見えていた。

 別につい先ほどぽっくり死んだんだし、いまさら死ぬの怖がったって仕方ないんじゃない? そう問いかける声もあるにはあるが、だからといってうんわかったとほざけるほどユウナの精神は壊れちゃいない。理由があるのならばともかくこんな死に方はご免こうむりたかった。

「どうする、どうするどうするどうする」

 容易に答えは出てこない。否、回答自体はあるのだがそれを行える自信がない、といった方が正しいか。
 変えるのだ、未来を。少なくとも自分が死なずに済むような流れを造り出すのだ。即座にんなことできんのか!? と絶叫したくなるのをぐっとこらえ、ユウナは頭をかきむしった。

「大丈夫、まだ時間はある……まだ、まだあと十九年…いや、ヤキン・ドゥーエ戦役考えると十七年か。ともかく、それだけあれば」

 何とかなる。口が裂けても言えない台詞だった。はっきり言って、たかだか一人の人間が動いた程度でどうにかなるくらいなら、あそこまで悲惨かつろくでもない戦争なんぞ起きなかったはずである。絶望的、恐ろしいまでに絶望的であった。
 落ち着こう。まずはともかく落ち着こう。そうだ、よく考えるのだ。仮に彼の情景が実現したとしよう。あの時、ユウナはオーブ兵を振り切って逃亡しようとした。その結果、運悪くグフイグナイテッドの落下に巻き込まれて死亡したのだ。ならば大人しく兵士に従ってシェルターに避難すればいいのではないか?
 どう考えても国家反逆罪で死刑もしくは重刑です本当にありがとうございました。駄目だ、どうしようもない。ではそもそもジブリールをかばわず、というか大西洋連邦と同盟を組まなければいいではないか。
 ウナトもしくはブルーコスモスに排除されるか、はたまた連合による第二次オーブ解放戦争勃発ですね、わかります。ではザフトの味方をして…これもだめだ。そもそもプラントと組んでもあの議長閣下、オーブ滅ぼす気満々だった気がする。というかデュランダルに尻尾振っても大天使とチートな仲間たちにぶち殺されるに決まっていた。

 八方ふさがり……! 詰みゲー……! まごうことなき詰みゲー……!
 つまるところユウナが生き残るためには、この恐ろしいまでの難関地獄を突き抜けなければならないわけである。

「…………寝よう」

 ユウナはシーツにくるまった。考えすぎて知恵熱が出そうだった。ベッドの中央で丸真理、全ての情報を遮断する。今日はもう寝る。何も考えない。明日からがんばる。働いたら負けだと思う。ぐるぐるとそんな言葉が回り、ふっと気が抜け意識が落ちた。
 ユウナの安眠は、お世話係と医師が飛び込んで切るまでの二分十七秒間だけ続いた。



[29321] PHASE2 人妻が趣味なんじゃない。いい女が人妻なんだ
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/18 23:56
 ふわりと、美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。
ユウナは自らの身長を越えた所に座すおハイソな料理様方を親の敵のごとく睨みつけた。その横でこれまた質のよさそうな衣服をまとった中年の男性が美味そうなパテを口に含み、赤ワインで喉を潤しているのを目の当たりにし、禍々しい憎悪に身を焦がす。このおじさん死なないかな。半ば本気でそう思った。
 くう、と腹の虫が泣き叫んだ。それがこの場を満たす洒落た音楽よりも、あるいはそこかしこでにこやかにかわされる談笑よりもユウナの精神を打ちのめす。お腹すいた。超お腹すいた。しかし料理を取ろうにも、三歳児の身長ではまったく届かないのである。

 こういうときは母親が世話をしてくれるもんだろうに。ユウナは自分のすぐそばで見知らぬ何某殿と楽しそうに会話している母を怨みがまし気に睨んだ。狸親父ことウナト・エマはとっくの昔にお偉いさん方の輪の中に入り込んでいて、優雅にグラスなんぞを傾けていた。

 まあ俗に言う、夜会というやつである。煌びやかな内装に美食を追求した酒と料理の数々、また招待客の殆どは政財界の名だたるお歴々で、その顔ぶれたるやオーブの中枢がほぼ一か所に集められていると断言できるものだった。はっきり言ってここでテロなんぞ起こったら冗談抜きでオーブは壊滅しかねない。
 さすがはオーブ五大氏族の筆頭、アスハ家主催のパーティというべきなのか。ユウナは今宵のホストである現代表首長と、その子息たち――後のオーブの獅子ウズミ・ナラ・アスハとその弟ホムラ――をじっと見やった。彼らは笑みを交えながら招待客一人ひとりと挨拶をかわし、時に雑談に興じて場を盛り上げているようである。
 ユウナ自身も先ほどウナトと共に彼らと言葉を交わしたが、やはりというべきかアスハ家、ことにウズミからは独特の気風のようなものを感じることができた。さすがに一味もふた味も違う。そのことを思い出してしまい、ユウナは一つため息をついた。
 元来小市民であったユウナにとって、正直こうした社交の場は苦手の一言に尽きた。出来るなら料理と酒だけかっくらって隅っこの方で大人しくしておきたい。しかしながら、生憎と五大氏族たるセイラン家は注目の的であるらしく、先ほどから母と共にひっきりなしで頭を下げ続けていた。

「ユウナです! さんさいになりました!」舌足らずでいかにも子供です、と言わんばかりの演技力はなかなかのものと自画自賛している。少なくとも周りの大人は「やあ、利発なお子様ですなあ」と好意的な眼を向けてくれていた。母もご満悦、ユウナは澱のような疲労でストレス倍増である。

 本当ならこんな所になんぞ来たくはなかった。屋敷でテレビを見ながらニートしていたかった。しかしそんな自分を押し殺してでも、ユウナにはこの夜会に来なければならない理由があったのである。
 そう。でなければ過日の騒動で、すわ一人息子の大事と大慌てであった両親に、プライドを宇宙の果てに捨て去るがごときありとあらゆるおねだり攻撃をしようとは考えなかったはずだ。正直言って、そのことを初めて耳にした時、ユウナは飛び上がらんばかりに驚き、困惑した。しかしこれは一つの大いなる機会であるとも感じた。少なくとも、あの物語を知った上で数え切れぬほど存在する懸念事項のいくつかに対し干渉できる好機であるのは間違いない。

 ユウナはじっと、アスハ一家と歓談する二人の男女を窺った。どちらも二十後半程度。男はぴしりと礼服を纏っているが、どちらかといえば白衣の方がよほどに合いそうな風貌をしている。よくいえば理知的、悪く言えば神経質、そんな風貌に無理やり張り付けたような笑みを浮かべ、次から次へとやってくる参加客の相手に大わらわの方だ。女は、一言で言うと美人であった。背中まで伸ばしたブラウンの髪は艶やかで、アメジストの瞳は吸い込まれそうなほど透き通り、輝いている。あまり着慣れていないのか、時折白のイブニングドレスを気にした様子を見せ、その度に男の方からたしなめられているようだ。その様子から見て、二人が非常に近しい関係、もっといえば夫婦であることがわかる。

 彼らこそが、ユウナをこんな夜会にまで引っ張り上げた最大の原因。そしてこれより訪れる未曾有の戦乱の根源である。
 男の名はユーレン・ヒビキ。女の名を、ヴィア・ヒビキといった。
 そう、共にコーディネイターの一大産出企業G.A.R.M.R&D社の研究者であり――キラ・ヤマトの実の両親。ラウ・ル・クルーゼ、レイ・ザ・バレル、その他数多の命と同数の絶望をこの世に産み落としたアダムとイブだ。
 ヒビキ夫妻がオーブを訪れ、あまつさえアスハ家によって盛大な歓迎の宴が催されると知った時、ユウナは椅子から転げ落ちた。この当時コーディネイター研究の第一人者でありブルーコスモス最大の標的である彼らは、普段よりコロニーメンデルから出ることはない。それ故に彼らが暗殺されるC.E.五五年までの接触は不可能と早々に諦めていた。
 しかし、一つの幸運がユウナに奇跡をもたらした。聞けばヒビキ夫妻――もといユーレン・ヒビキ博士がアスハ家に資金提供を求めてきたというのだ。噂によると現アスハ代表首長はメンデルの遺伝子研究に多額の援助を行っていたらしいし、さらにユーレン博士はウズミの学友であるという。

 もともとC.E.五五年のトリノ議定書採択までコーディネイター作成自体は寛容的に見られ、それ専門の企業への投資自体もそこそこに行われていたのだ。故に個人的な感情はともかくアスハ家の行動自体に文句をつけられる所はない。今回彼がオーブへやってきたのも、その伝手を頼りにしているからであった。
 フラガ家からの分だけでは足りない、という事か。思わず唇を噛みしめた。資金の向かう先は、おそらく今年キラを生み出すことになるだろう人工子宮の開発費。
 ユウナは内心で湧き上がる苦々しさを押し隠した。あちらで培った倫理感もさることながら、ユーレン・ヒビキの行動が文字通り世界とユウナの死亡フラグ乱立にしか見えなかったからだ。あの男の知的な笑顔に拳を叩き込めればどれほどすっきりするだろうか。思わず夢想する。

 一方のヴィア・ヒビキであったが、こちらは夫とは正反対に顔色が優れていなかった。それも多分、肉体的というよりも精神的な問題で、であろう。彼女は何とか笑顔を維持しつつも、時折何かをこらえるように外の景色に思いをはせているようだ。
 ふーん、と一つ頷く。一応挨拶回りも一区切りついたし、どうにかして彼女に接触できればよいのだが。
 と、そんなユウナの願いが天に通じたのか、ヴィアが周りに断りらしきものを入れてそっと退出した。ユーレンらが普通に見送ったことから見て、多分花つみだろう。
 ユウナは母に「きじうちにいってきます」と小さく耳打ちし、そっとブラウンの女性を追いかけた。






 南洋の月明かりはひどく優しかった。
 ヴィア・ヒビキは大理石でできた噴水の縁に腰をおろし、湿り気を帯びた吐息を漏らした。すっと通った風にあおられてアスハ家邸宅の庭木がさあさあと揺れる。生い茂った芝生のさざ波が、冷たい月の輝きを受けて銀の波紋とともにヴィアの側を駆けていった。
赤道付近に位置するオーブには四季はない。一年を通して緑あふれるこの島々は、コロニーに住まう彼女にとって非常に興味惹かれるものであふれていた。もしもこれが単なる観光を目的とした旅であれば、どんなにか心躍っただろう。しかし現実はこの常夏の楽園にとてもそぐわぬ、重く寒々しいものであった。
 ちゃぷりと何気なく噴水の水面に手を差し入れ、荒立たせる。気温の高さに比べて水は驚くほど冷たく心地よかった。ドレスが濡れないよう気をつけながら、腕半分まで揺れる鏡へと浸す。

 ヴィアの眉目がひどく歪んだ。噴水の涼やかな水音をかき乱すように雫が高々と跳ねる。つい数瞬前まであったドレスへの気遣いが吹き飛んでいた。ブラウンの髪が滴り、頬が冷たくなった。
 抜けだした夜会の優雅な演奏が微かに耳へと届く。しかし本当なら人の心をいやすだろう音色が、今のヴィアには地の底から何かがはいずり出てくるようなものに聞こえた。深い深い地の底――地獄から、数多の生まれいずること叶わなかった命たちが、まるで正邪を引きずり落とそうともがいているような音。

 胃が痙攣した。気を抜けば吐瀉物をまき散らしかねない体調を何とか抑え、ヴィアは一度大きく息を吸い込んだ。
 オーブのアスハ家に資金提供を願い出る。夫であるユーレンが口にした言葉が、今も彼女の耳から離れない。もう少し、もう少しで完成するんだ! 僕らの子供に最高の贈り物を届けられるゆりかごが! そんな彼の顔を見るたびに、彼女は悲しみと嫌悪の情がわきだすことを押さえられなかった。
 人類の夢。最高のコーディネイター。最初はクライアントの要求を忠実にこなすために、コーディネイター作成最大の不確定要素たる母胎に頼らないシステム開発であったそれが、今や自分の子供を飲み込む恐ろしい化け物へと変じようとしていた。
 既に実験は最終段階へと達し、ようやく人工子宮から初めて一人の赤ん坊が誕生していた。これまでの実験ではその全てが死産であった状態から、とうとう一個の生命が生まれ落ちたのだ。そしてそれによりスーパーコーディネイター計画は最後の扉を開こうとしていた。

 この資金提供が成れば、ユーレンは人工子宮のラストナンバーを完成させるだろ
う。それが意味するところ、即ち――
 かさりと、風のささやきとは違う草の声がヴィアにかけられた。顔を上げる。月明かりに照らされて、白の中に一つの影が生まれていた。小さな体躯、重心の定まらぬ足取り、薄水色の髪はさらりと流れ、幼い顔立ちには無邪気さがあふれ出ている。

「子供……?」
「こんにちは!」

 おそらく二つ三つほどの年であろう少年がぴょこんとお辞儀をした。ヴィアはすぐに笑みを造り、こんにちはと返す。すると幼子は嬉しそうに顔をほころばせ、よちよちとこちらに近づいてきた。
 身なりから見て、夜会出席者の子息なのだろう。にこにことした表情を見て、ヴィアにもまた作り物ではない本当の微笑みが浮かびあがる。彼女は立ち上がり、やってくる小さな紳士を迎えるべく腰を折った。

「僕、一人なの? お母様かお父様はいらっしゃらないのかしら?」
「ちちうえとははうえなら、あっちにいます!」そういって子供は夜会会場の方を指差した。
「そうなんだ。じゃあ、早く二人の所に戻らないと」
「おねえさんはいかないの?」
「…うん。私はもう少し、ここでお月さまでも見てようかなって思って」
「じゃあぼくもおつきさまみる!」

 ひょっとして迷子なのではないかと思ったヴィアは手近な警備員に預けようかとも考えたが、その前に小さな紳士はつい先ほどまで自分が座っていた噴水の縁に腰を落ち着けてしまった。一瞬どうしようかと困惑したが、少年の無垢な笑顔を見ているうちに、まあいいかと隣に腰を下ろす。

「ぼく、ユウナ! さんさい」
「私はヴィア。よろしくね、紳士さん」

 簡単に自己紹介を済ませると、すぐさま少年――ユウナから様々な話題が飛び出した。その多くは子供らしい取りとめもないものであったが、ヴィアは心躍って彼と話している自分に気がついていた。
 どうやらこの少年はオーブ五大氏族セイラン家の跡取りであるらしい。良家の子息だろうと当たりを付けていたヴィアもこれにはわずかに驚かされた。まさか相手がオーブ屈指の名門家の嫡男だとは思ってもみなかったのだ。
 こんな風に気軽に話してもいいのかと一瞬気がとがめたが、ユウナの様子を見ていて杞憂だと判断する。まだ小さいながらも気さくで素直な性格のようだった。

「ねえ、ヴィアおねえさんはなんでさっきないてたの?」

 え、と言葉に詰まった。透き通るような瞳には疑問の感情以外見受けられない。問い自体、まるで明日の天気を訪ねるような気楽さと純粋さであるようにヴィアには感じられた。どう答えようかと視線を揺らす。

「どうして、私が泣いてると思ったの?」
「なんとなく。おつきさまをみてるかおが、さびしそうだなっておもったの」

 子供は驚くほど大人を見ているもの。昔、妹のカリダが口にした言葉が何故か脳裏をよぎった。顔に出していないと考えていても、幼子はその擬態を容易く見抜き突き崩す。愕然とした面持ちで、ヴィアは口元に手を当てた。

「…そう。そうね。確かに、泣いていたわ」
「どうして? なにかかなしいことでもあった?」

 どう言葉を返すべきなのだろうか。彼女は判断に困った。こんな小さな子に自分の悩みを言ったところで理解できるとは思えないし、そもそもあまり口にしたくないものなのだ。しかし適当な理由を述べても、ユウナは容易く嘘と喝破するような気もする。否、するだろう。妹の言葉が再び耳にこだまする。

「悲しいこと、というよりも…辛いことといった方がいいのかな」

 気がつけば、ヴィアの口は自身の思考を無視して勝手に音を紡ぎ始めた。止めようとしても止まらない。これが一種の精神安定を図る行動であることを、何となくだが悟ってしまった。

「私はね、メンデルってコロニーでお仕事をしている学者なの。専門は遺伝子学。私はそこで、コーディネイターを造り出す研究を重ねてきたわ」

 もっと、もっと高く。他者よりも強く、賢く、美しい、そんな我が子をこの手に。様々な願いを込めて人々はメンデルを訪れた。そしてヴィアは、研究者たちはその欲望をかなえ続けてきた。それが人類の輝かしい未来へ繋がると信じ切って。かつてファーストコーディネイター、ジョージ・グレンが夢見た希望へと足を進めるために。
 そんな夢を見続けた結果が、自分の夫ユーレン・ヒビキの研究であった。究極の人類、それを生み出すことで、人をよりよき世界へと導く。しかし夢は狂気となり、いつしかヴィアの周りには、命であったもの、命として生まれいずるはずだったものの憎悪と残骸で満たされることとなった。
 生まれたかった。どうして死ななければいけなかったのか。そんな声なき声が聞こえてくるかのように、培養槽に浮かぶ胎児たちの瞳がヴィアを指し貫く。
自分たちに彼らの命を弄ぶ権利があるのか! そう叫んだのも一度や二度ではない。

「命は…生まれ出るものよ。作られるものじゃ、ないわ」

 だからこそ、ヴィアはユーレンを何度も止めた。もうやめようと。これ以上は踏み込んではならないと。けれど、彼は妻の言葉を聞き入れることはなかった。もはやユーレンは自分がスーパーコーディネイターを生み出したという名誉と栄光しか見えていない。その事に気づき、ヴィアは絶望したのだ。

「私はユーレンを止めたかった。でも、私にはそんな力はない。止められないままここまで来て…そしてもうすぐ、最後の扉が開いてしまう」

 いつか生まれるかもしれない自分の子。男かも、女かも分からぬその子を冷たい実験材料として扱うなど、ヴィアには耐えられないことだった。

「怖いの! 私の子供がそんな実験に使われることも…! そして……もしもその実験が失敗した時、ユーレンがどんなことをするのかわからないのも!」

 現在唯一、人工子宮から誕生した赤ん坊。カナードというコードネームを付けられた彼を見るユーレンの目が例えようもなく恐ろしかった。採取した遺伝子情報を解析した結果、カナードが夫の求める能力水準に達していなかった事がわかったのだ。
 くそ、失敗作か。氷よりも冷たい声音が今なお耳に残っている。自分の夫が、あんなあどけない赤子にそんな言葉が吐けるとは思ってもみなかった。だからこそ、怖い。

「……ごめんなさいね、貴方にこんな話をしても、どうしようもないのに」
「……なるほどねえ。いやいやいや、なかなかどうして良いお話じゃあありゃせんか。じいちゃん涙がでちゃいそう」

 空気の味が、変わった気がした。
 え、と一瞬何が起こったかわからず、ヴィアは呆けた声をあげた。隣に座る少年の唇が、にぃっと弧を形作る。先ほどまで纏っていた純粋な雰囲気は刹那の間で消え去り、変わってどこか形容しがたい、飄々とした薄布が彼を包み込んでいた。

「やっべ、どうしよ。本当に直球ど真ん中なんだけど。良い女過ぎワロタ。ユーレンもげろ」

 くすくすと口元を手で隠して笑う。未だにその変化についていけないヴィアは、どう応じていいのか分からず口を無暗に開け閉めするのみだった。困惑で瞳が揺れる。

「ああもう、本当にいい人だ。うん、来たかいがあったというものだね」ぱっと胸元から扇子のようなものを取り出し、ぱっと開いて口元を隠す。ますます唖然とした。
「貴方にお願いがあるんだ、ヴィア・ヒビキ女史」そんな彼女にかまうことなく、少年は立ち上がった。彼女の正面まで移動し、次いで深々とその首を垂れる。
「ゆ、ユウナ君…? 一体何を……」
「カナードを、助けてください」

 ――ヴィアは、今度こそ完全に硬直した。






 カナード・パルスの人生は、およそ過酷と言って差し支えないものでる。
スーパーコーディネイターとしてメンデルで生み出された彼は早々に失敗作の烙印を押され、廃棄処分になることが決定していた。それをある研究者の情けによって逃がされ、しかしその身柄は研究成果を狙うユーラシア連邦によって拘束される。そして長い時間をモルモットとして苦痛と恥辱の中で成長し――やがて成功体たるキラ・ヤマトへ憎悪の念を向けることとなった。
 彼は自らがスーパーコーディネイターに成り替わる、ただそれだけのために生きる戦闘兵器になってしまった。そしてその妄執と共に闘って…大切なものを失ったのだ。

 それを不幸であると断じることは、ユウナにはできない。何が不幸であるか、幸運であるはかその本人でなければ決められないし、決めてはならないものだと思うからだ。自分がこう思うからこう、などと一方的に定められるほど、彼は傲慢ではなかった。
 だからこれは、自分のエゴと独善の産物だ。幼い子供が愛をそそがれることなく育ち、やがて血みどろの戦場へ送られる。そんな未来を見たくないという、ユウナ個人のわがままから来たものであった。
 大人が子供を守らないなど、あってはならないことだ。絶対に。大人が子供を危険にさらすような真似をすることは、ユウナの最も嫌うものにして唾棄すべきものであったのだ。
 無論、カナードを助ける、否取り込むことで、自分の状況を有利なものにしたいという打算もあった。キラには及ばないものの彼の能力は並みのコーディネイターをはるかに超えるものであるからだ。それが戦いに使われないにせよ――というか、使わせたくない――その力は大きな助けとなるだろう。
 個人の心情と自身の利益。この二つが同じ結果を求めているのなら、ユウナにためらう感情は存在しない。だからこそ、ありとあらゆる方法でもってヴィアを説得せねばならなかった。

「な……何故、貴方がその名を……」
「知っているよ。貴方方が何をしようとしているのか。その過程で何をしてきたのかも、全て」

 ヴィアの瞳に恐怖の色が宿った。よろよろと立ち上がり、こちらと距離をとるように後ずさる。

「どうして…」
「理由は話せない。話しても信じてもらえないだろうし、ね。確かなのは、貴方方の人工子宮計画のこと、今年その初号体が生まれたこと。その子が、貴方方の定める基準値に達していないこと。そして、彼が遠からず廃棄処分されることを僕が知っているということだけさ」
「な、廃棄、処分……? そんな、そんなことは!」
「しないと? 貴方のご主人、ユーレン・ヒビキ博士がこれまでどのようなことをしてきたのか、近くで見てこられたのでしょうや?」

 悲しげに、そして悔しげにヴィアが麗しい瞼を伏せた。それを見てユウナは性急すぎたことを詫びる。

「ごめんね、ヴィア女史。今僕は貴方にひどいことを言った。けれど残念ながらそれが間違っているとは毛筋ほども考えていない」

 美人の泣き顔はかなり心にくるものがあった。けれどそれにひるんでいては自分の目的は達せられない。ユウナは扇子を閉じて、もう一度すっと頭を下げた。

「お願いだ、女史。カナードを、あの子を助けてほしい」
「………謝る必要はないわ。私も、同じことを考えていたから」ヴィアは力なく噴水の縁に座り込んだ。そして顔を隠すように額を抑える。
「そう、そうね。今のあの人なら、きっと何の迷いもなくあの子を廃棄するでしょう。そういう人になってしまったから」

 乾いた笑いが彼女から漏れ出でた。消沈したその様子に、ユウナは心内で強い罪悪感にさいなまれる。しかし自分はヴィアに選択を突きつけ、カナードを助け出さねばならないのだ。手は抜けなかった。

「カナードは僕が責任を持って守るよ。ハウメアに誓ってあの子に苦を強いるような真似もしない。だから、お願いだ」
「…どうして貴方がカナードのことを、いいえ、全てを知っているのか、私は問いません。でも一つだけ聞かせて頂戴。どうして貴方が、何の関係もない貴方があの子を助けようとするの?」

 三歳の言葉など信じられぬのが普通であろうに、ヴィアは真っすぐな視線でユウナを射抜いた。その透き通った瞳に、思わず小さな苦笑が漏れる。嗚呼糞、つくづくいい女だと思ってしまった。人妻なのがもったいない。自身の精神年齢から見ると思い切り年下だったりするのだが――実はユウナではないユウナはちょっとばかり高齢であった――それでも枯れ果てた栗の花臭い情動が燃え盛ってしまいそうだ。

「決まっている。僕がそうしたいから、そうするの」

 苦笑は大きくなった。その回答をしばらく吟味するように沈黙したヴィアは、やがて同じように苦い笑みを浮かべる。

「…ふふふ、なるほど。とても素直で抗いがたい理由ね。やりたいからする、か」
「何だかんだいって、全ての理由はそれに帰結しましょうや。やりたいからやる。個人の感情に基づいた欲求こそが、ありとあらゆるものの根源であると僕は思います」
「私もそう思うわ。だからこそあの子は生まれたし、私たちがここに存在する。…ユウナ・ロマ・セイラン様」

 アメジストの瞳がユウナの全身を貫いた。そこに宿る力は儚くも力強い、まるで燃え盛る紅蓮のような勢いがあった。

「信じても、いいの?」
「我がすべてに誓って」その瞳をじっと見返し、ユウナは力強く頷く。

 ヴィアは立ち上がり、同じように頭を下げた。さらりとブラウンの髪がこぼれ落ちる。

「私は貴方の言葉を信じます。カナードは、どんなことをしても私が救い出す。ですからその後のことは、どうかよろしくお願いします」
「…ありがとう、ヴィアさん。本当にありがとう」

 ユウナはヴィアの手をとって、心からの感謝をささげた。何度も何度もお辞儀をする。そしてそれは、ユウナとヴィアがいないことに気付いた係員がやってくるまで続けられることとなった。



[29321] PHASE3 金じゃ、お金様じゃ
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/18 23:58
 株、株、株である。
 窓の外から流れ入るさわやかな空気とは対照的に、ユウナの周囲はおどろおどろしいオーラによってどす黒く変色していた。くくく、と口から含み笑いが漏れるたびに、南洋の煌めく陽光は途端に回れ右して天へと帰る。部屋の隅でいつものお世話係嬢がドン引きしているような気もするが、今のユウナにはそれすらも面の皮を貫くには至らない。
 室内に備え付けられたコンピュータに羅列された数字が動くたびに、自分の顔から心に至るまでがつられるように躍動した。それは時折愕然としたものも混じるが、全体的には愉悦に属する者の方が多い。実際ユウナは――見かけはともかく――ひどく上機嫌であった。

 何をしているのかといえば、先ほど連呼した代物をしている。つまり株である。三歳児のするこったねえ、という意見は聞かない。あちらの世界ですら株でお年玉を稼ぐぜ、という猛者的小学生がいらっしゃったのだ。より未来のこちらなら、三歳がやってもおかしくはないはずである。
 まあ、両親から家令に至るまで「子供がんなこったするでねえだ!」というご意見であったのだが、幼児特有の駄々攻撃と高音波爆撃によって力づくで確保したのは御愛嬌だった。ウナトなど最後の方は福々とした頬をこけさせ、見るも無残な姿になっていたような感じもするが、気にしてはいけない。
 ともかく、ユウナは資金も潤沢に頂き――といってもセイラン家資産からしてみれば文字通り子供の小遣い程度であるが――自由裁量も確保した。世間知らず、我がまま御曹司等のあだ名を頂くことなど、このことの対価としてなら激安である。証券会社? セイランの名前が出た瞬間平身低頭トップ御自らが接待してくださいましたが何か?
 しかし経済大国オーブの首長家というのは本当に並みはずれた資産を持っているらしい。アフリカでどこぞの獅子姫のためにアスハ家がとんでもない額を使ったことといい、今回の自分のことといい、跡取りに甘い事だ。一般庶民的ユウナは鼻血を吹きだしそうだった。それを利用した自分が言うことではないのは自覚している。

 さて、何故ユウナがこうした事を始めたかというと、簡単にまとめれば自分の自由にできる資産が欲しかったのであった。世の中金、これは真理である。
ユウナの記憶によれば、これから先、世界は間違いなく戦乱の焔に包まれることになる。そうした中で必要になるのは純然たる力、即ち軍事力だ。

 オーブは現在でも高水準の軍事力を有し、世界でも一目置かれる技術大国である。しかしそれはあくまで従来の軍事ドクトリンに沿ったものであり、新体系のドクトリン――端的に言えば、モビルスーツを中核とした有視界近接戦闘には対応していない。当たり前だ。プラントにおいて世界初の実用モビルスーツ「ザフト」がロールアウトするのがC.E六五年、今より十一年も先のことであった
 さらに述べるなら、オーブがモビルスーツを実戦配備し始めるのはヤキン・ドゥーエ戦役が激化した後なのだ。おまけにその開発自体も地球軍の技術盗用によるところが大きいときている。
 困る。それでは非常に困る。ユウナはそう考えた。確かにオーブは二度の大戦では諸国と比べても優秀なモビルスーツを配備した。することができた。その結果オーブは冠たる軍事技術をこれでもかと全世界に見せつけて――オーブ解放戦争で敗北したのだ。

 つまり、C.E七一年から始まった軍事力整備では、大西洋連邦の物量作戦に対応しきれないことが明らかになっているのである。
 そうならない為にはどうするか。答えそのものは単純にして明快だ。即ち改善するしかない。そしてそのためには、早期のモビルスーツ開発と運用実績の蓄積、技術の向上を行わなければならなかった。
 つまり金がいる。それはもう、鼻血を吹きだしそうなほど金がいる。現在の軍事常識からすれば、モビルスーツなど一笑にふされて仕舞であろう。つまり国から予算を頂くことは絶望的な状況ということだった。であれば、どこかから笑いたくなるような規模の資金を調達するしか道はない。

 家長がウナトである以上、次期当主といえどセイラン家の資産は使用不可。というかいかな五大氏族であろうとそれだけの金を使えば破産するに決まっている。ならば多少悪どい手を使ってでも、金を得ておかねばならないのだ。
 そしてその方法というのが、経済の魔物たる投資だった。ユウナはこれより起り得る事件を大まかであるが知っている。それはこの世界において、何にも勝る武器であった。

「今年はS2型インフルエンザが大流行するはず……となればマスクや医療関連の株は確保。それとプラントのフェブラリウス市関連の株は最優先しないと。ああもう、プラントは理事国を経由しないと参入もできないから面倒だよ、ったく……」

 インサイダー? 何それ、美味しいの? ユウナはまた含み笑いをあげた。お世話係がますます引いていくが、気にしてはいられなかった。こちとら命がかかっているのである。
 そう、ユウナは自らの死亡フラグ打破の方策をずっと考えてきた。どうすればあのカオスな状況で生き残ることができるのか、ない脳みそを振り絞って知恵熱出しながらも必死になって頭を働かせてきたのである。その結果、一つの結論に達することができた。

 ユウナ起死回生の一手、それは即ちオーブの獅子ウズミ・ナラ・アスハの生存である。ユウナはウズミの事を政治家として高く評価していた。あの泥沼の中で中立を維持し続けられたのはひとえに彼の政治手腕によるものであったし、ヘリオポリスでの地球軍モビルスーツ開発の醜聞で、オーブがザフトから明確に敵視されなかったのもウズミの力が大きかったからといえよう。オーブ解放戦争での判断ですら、状況自体がもはやどう足掻いても生存不可の詰みゲー状態であった以上、仕方のないことだとユウナは考えていた。というかどうしろと、あんなの。
 少なくともウズミが死ななければ、カガリの代表就任とセイランによる大西洋連邦との同盟も回避できるはずである。実際彼は、大西洋連邦からの最後通告時で親連合派を押さえて中立を貫きとおした。それだけの能力をウズミは有しているのだ。
 カガリも有能な人物である以上、経験さえあれば父ウナトとも渡り合えるだろうとは思うのだが、残念ながら時間は彼女に成長を許さなかった。あの金髪の娘には、未だ親の庇護が必要なのだ。

「地獄の沙汰も金次第ー、と。後はコーディネイター作成企業の株は全部売っとかないと…。トリノ議定書が採択されてからじゃ遅い遅い」

 そのためには、何が何でもオーブの崩壊を防がなければならない。そうすると必然的に軍事力が必要になって、やはり金の問題となる。お金は大事だよー、あったらあっただけこまらないー。
 できる事ならC.E.六〇年までにはモビルスーツ開発の下地を作っておきたい。あとビームの小型化とか、フェイズシフト装甲関連とか、ナチュラル用OSとか、飛行用ユニットとか、ニュートロンジャマー・キャンセラーとか、実用化しなければならないものは山ほどある。ついでにそのための人材確保として、予想されるコーディネイターの地球大脱出に際し有能な人材を少しでも多くオーブに勧誘する仕事も残っているし。
 ちょっとだけ泣きたくなったのは秘密だった。



[29321] PHASE4 貴方は何を信じますか?
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/19 00:00
 赤ん坊の世話というのは、想像よりもずっと恐ろしいものだった。エレン・シフォースはけたたましく泣き叫ぶ黒髪の赤子をあやしながら、自らも顔をくしゃくしゃにして瞳を潤ませていた。

「ああああ…ええと、ええと、どうしたの? おむつ、それともおっぱい? お昼寝…はさっきしたし……」

 哺乳瓶とむつきを取換えようと、赤ん坊をベッドに置こうとした瞬間、さらなる超音波が彼女の耳をつんざいた。とうとうエレンの瞳からこらえきれなかった雫が雨のようにこぼれ落ちる。

「やっぱり私じゃ無理ですよぉ、先輩ー!」

 ここにはいない人物に助けを求めても無意味と知りつつ、しかし我慢できずにエレンは泣いた。二十にもなって号泣するなど恥ずかしくてたまらないが、生憎とここにいるのは同じく泣きわめいている幼子一人。誰にかまうことなくエレンは泣いた。
 若き遺伝子学者エレン・シフォースがコロニーメンデルを本拠とするG.A.R.M.R&D社に入社して、そろそろ半年がたとうとしていた。「禁断の聖域」「遺伝子研究のメッカ」。遺伝子学を志す者にとって、メンデルで働くということは一種の憧れであると言っていい。正直内定書を見た瞬間頭を思い切り壁に打ち付けたものだ。夢だと思ったから。故にエレンもまた、期待にない胸を膨らませてその敷居をまたぐ栄誉にあずかったのだが、情熱に燃える彼女を待っていたのは一人の赤子との日々であった。

 カナード・パルスという名の子供を「今日から君が面倒をみるように」と初日で渡されて、エレンは思わず自失した。どういうことかと涙目で尋ねたところ、この子供はかの遺伝子学の権威、ユーレン・ヒビキ博士による新理論でもって生み出されたコーディネイターの被験体であるという答えが返ってきた。カナードを育成するとともに、その成長データをまとめて提出すること、それがエレンの携わったメンデルでの最初の業務である。
 以来半年間、昼も夜も一向に自分に慣れてくれぬ赤子との生活が繰り広げられた。子供どころか恋人すらいたことのないエレンにとって、赤ん坊など異星人に等しい。正直な話、これまで大過なく育ててこれたこと自体が奇跡に分類される話だと彼女は思っていた。
 もっとも、それができたのもエレンに好意で手を貸してくれた頼もしき先輩職員がいたおかげだったのだが。彼女がいなければエレンの生活は、初期の段階で破たんしていただろう。カナードの気難しさはエレンや他の職員の骨身にしみていることだったのだ。
 だが、今この場にその先輩職員はいなかった。彼女はつい昨日出産を経験したばかりで、とてもではないが赤ん坊の面倒を見られるような体調ではなかったのである。

「お願いだから泣きやんでよぅ……」

 ぐずぐずと鼻を鳴らし、エレンは育児室の中をひたすらに歩きまわった。そんな彼女に救いの手が差し伸べられたのは、それより約十秒後の事である。

「あの……貴方がエレン・シフォース助手ですか?」

 育児室の扉がスライドし、一人の女性がこの阿鼻叫喚の地獄へと足を踏み入れた。ふぁい? とそちらの方を向いたが、涙でにじんだ視界はその女性の姿を結実できていない。慌てて白衣の肩口で顔を拭いた。
 そこにいたのは自分より少し年上の、黒髪の女性だった。服装はメンデル研究員のきる白衣ではなく、余所行きと思われる仕立ての良い、しかしどこにでもありそうなごくごく一般的なものである。エレンは小首を傾げた。はて、この人は誰だろうか。
 ここはメンデルでもそれなりにセキュリティの厳しいエリアである。入ることを許可されるのは基本的に職員か、高位資格を持つ人間に招かれたもののみだ。見たところこの女性は研究員ではなさそうだし、外からの来訪者なのは間違いあるまい。問題は、その上の関係者である女性が、わざわざこんな育児室に訪れて、しかも自分の名前まで知っていることであった。エレンは記憶力に自信があるものの、この女性の顔には見覚えはなかった。

「あの、どちら様ですか? ていうか私の名前を御存じで…」
「ああ、ごめんなさい。急に声をおかけして、驚かせてしまったかしら」

 泣き声渦巻くこの部屋の中にいながら、さして大声でもないのに彼女の声ははっきりと耳に届く。女性は一瞬カナードに優しげな視線を送ると、小さく会釈して自己紹介を始めた。

「私はカリダ・ヤマトと申します。今日は姉の、ヴィア・ヒビキのお見舞いに参りましたの」
「え、ヴィア先輩の妹さん、ですか?」エレンは目を丸くした。優しく頼れる先輩職員、ヴィア・ヒビキに妹がいたというのは初耳だった。
「でも先輩の妹さんが、どうしてこの部屋に?」

 彼女がメンデルを訪れたことに対する疑問はもはやない。昨日、ヴィアが双子を――正確には一人の赤子を出産したばかりであった。新たに生まれた甥と姪の顔を見に、妹がここを訪れても不思議ではない。おそらくユーレン博士が許可を出したのだろう。とある出来事によって、今あの夫婦の間には大きな溝ができていた。それを少しでも埋めるための措置、と考えるのはさすがに穿ちすぎだろうか。

「ええ、さっき姉さんと少しお話をしていたのだけれど、その中で貴方の話が出てきてね。随分と心配しているみたいだから、私が代わりに様子を見に来たんだけど…」そこでカリダの笑みが苦笑に変じた。
「姉さんの言ったとおりになってるみたいね」
「……うう、お恥ずかしいです」エレンは涙でぬれる頬を染めて俯いた。同時に病床のヴィアがそこまで気にかけていてくれたことに大きな喜びを感じる。
「その子を、抱かせてもらっても?」
「え? あー、はい。それは大丈夫、ですけど。この子、ちょっと人見知りが激しいので」

 疲れ知らずのカナードに小さく苦笑し、エレンは彼をカリダに渡す。そして次の瞬間、彼女は驚くべき光景を目の当たりにすることとなった。
 え? と呆けた呟きが漏れる。解放され自由になった手を使い、自分の濡れた頬を思い切りつねって見た。痛い。すごく痛い。また涙が出た。

「いい子ね、カナード君。ほうら、よしよし」カリダの穏やかな声が先ほどとは比べ物にならないほどクリアに鼓膜を震わせた。

 ぴたりと、泣き声が止んだのだ。この小さな体のどこにそれほど大きな声を挙げられる力があるのか不思議だった赤子は、つい数瞬前の事などどこ吹く風で、きゃきゃとその笑顔をカリダに振りまいている。エレンは信じがたい思いでその様子を見続けた。
 あれほど人見知りをしていたカナードがこれほどまでに懐くのは、彼女の知る限りヴィア・ヒビキ以外にはいない。さすがは姉妹と感心すべきか、半年近く一緒にいてもこうならない自身を嘆くべきか、エレンは反応に困った。

「ふふ、本当に可愛いわね。キラとカガリも可愛らしかったけど、貴方も将来はきっとハンサムになるわ」
「あ、二人にも会われたんですか?」
「ええ、ハルマ――夫と一緒に。お義兄さんにちょっとだけわがままを言っちゃったの」

 カガリはともかくとして、キラをこの人に会わせたと聞いて少し驚いた。何故ならあの子供はメンデルでもトップシークレットに属する存在であるからだ。そんなことをして大丈夫なのだろうか、エレンがそう疑問に思った時、再び育児室の扉が開いた。

「カリダ…それにエレンも」

 現れたのは、顔色が真っ青な美しい婦人と、彼女より幾分か年下の男性であった。その登場に度肝を抜かれたエレンは、女性の姿、そして男の腕に抱かれた二人の嬰児の姿を見とがめ瞠目した。

「せ、先輩!? 何をなさってるんですか! そんな、まだ歩いちゃだめです」
「ハルマ? それに、キラとカガリまで、どうして!」悲鳴に近い叫びに、カナードが驚いたようにぐずり出した。慌ててカリダが体をゆすってあやし始める。
「カリダ。カナードをエレンに渡して」

 息も絶え絶えという様子ながらもヴィアははっきりとそう口にした。その瞳は疲労と苦痛に陰っているものの、新星を思わせる強い輝きが宿っている。エレンは困惑した。

「え、姉さん…? 一体どうしたの?」
「説明している時間はないの。詳しい話はハルマに聞いて頂戴。さあ、早く」

 かつてないヴィアの様子にカリダは困惑したようだったが、大人しく彼女の言を受け入れた。再び両の腕に小さな命の重みがかかる。とたんにカナードの顔がくしゃくしゃに歪んだ。

「じゃあハルマ。後のことは」
「…やはり、義姉さんもご一緒に! このままここにいては――」
「…私は残ります。ユーレンを、一人にはできないから」それはエレンが見たこともないような、儚い笑顔だった。「カリダ。ごめんなさい。でもどうか…キラを、カガリを…お願い」
「ねえさん? え、何を…言っているの……?」

 カリダの顔がどんどん強張っていく。そしてそれはエレンも同様なのだろう。自分でも頬が緊張で突っ張っていくのが理解できた。そんな妹にヴィアはもう一度だけ微笑み、ハルマと呼ばれた男性を促した。彼はうなずき、有無を言わさぬ様子でカリダを連れて行こうとする。

「待って、ねえ待って、ハルマ。どうしたの、一体何が起こっているの?」
「カリダ。良いから一緒に来るんだ。時間がない」
「姉さん、お願い、訳を話して。こんな急に、何を」
「行って、カリダ。一生に一度のお願いよ。二人を護って…」

 姉さん! 最後は完全に絶叫だった。引きずられるようにして出て行ったカリダを見送ったエレンは、呆然と立ち尽くしているしかなかった。

「エレン」

 は、はい! と反射的に返事をした。とうとうカナードが泣き出してしまったが、それを気にかける余裕は自分にはない。ヴィアが発している尋常ではない空気に完全に呑まれてしまっていたのである。

「いい? 落ち着いて聞いてね。…つい先ほど、研究所に匿名の情報提供がありました」
「え、匿名の情報提供、ですか?」
「その内容は、一両日以内にブルーコスモス系武装集団が、本研究所を襲撃するというものだったの」

 いやに間の抜けた声が漏れた。一瞬エレンは先輩職員の口にしている内容が理解できず、ぱかりと口を大きく開け放ってしまう。今彼女は何と言った? ブルーコスモス? 襲撃? 一研究者からは程遠い単語が脳に浸透した瞬間、凄まじい衝撃が自身の精神に襲いかかった。

「そ、そんな! 襲撃だなんて、どうして!」
「ここがコーディネイターにかかわる遺伝子研究所で…そして、スーパーコーディネイターのいる場所だから、だそうよ」

 吐き捨てるかのようなヴィアの言葉に、今度こそエレンは返す言葉を失った。ユーレン・ヒビキ博士の人工子宮研究は、その筋に携わる者の中ではわりかし有名なものだ。しかしそれは未だ実用化に堪えないものというのが学界での通説のはずだった。
 つい、昨日までは。

「洩れたん、ですか? 情報が」
「おそらくは」

 そんな。力ない呟きがこぼれた。全身の力が抜け落ちるような感覚に襲われたエレンは、胆力を振り絞って崩れ落ちぬよう身体を支える。

「だからエレン、貴方は逃げて。カナードを連れてここから」
「え、カナード? で、でも。研究所には警備の部隊もいますし、例え襲われても撃退できるんじゃ――」
「…ええ。研究所もそう考えている。だからコーディネイター系職員を除いて避難命令も出ていないわ。けれど、その武装勢力がどれくらいの規模かもわからないし、そうしたことぐらい想定しているでしょう。なら万一のことだってある」
「そ、そんな。あの、けどやっぱり」
「…それだけじゃないの」混乱し、つい煮え切らない態度をとった自分に業を煮やしたのか、ヴィアの口調が厳しくなった。「例え研究所が襲撃を防いだとしても…カナードの命は、助からない」

 エレンは小首を傾げた。先ほどから怒涛のように押し寄せる出来事の数々に、脳が施行することを放棄し始めていたからだろうか。
 あるいは、深く考えることを理性が拒否したか。

「……どういう、ことですか?」
「G.A.R.M.R&D社遺伝子研究所は――カナード・パルスの廃棄処分を、決定したそうです」
「………………………………………………………………え?」

 一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
廃棄? 処分? 茫然とした面持ちでその言葉を受け取った。しばし沈黙と共に、エレンの身体が硬直する。のろのろと首を下に向けると、黒髪の赤子がしゃくりをあげながら手をじたばたと動かしていた。腕が重い、暖かい。確かにここにある、一個の命を見て、エレンは顔をあげる。

「しょ、処分……? え? 先輩、処分って……カナード、生きてますよ? ちゃんと暖かくて、重くて、息もしてて……生きてるんですよ?」
「…そうね」
「そりゃ、設定された規定値とは違う項目もありましたけど、でも…え、生まれましたよね? カナードは、ちゃんと生まれて……ここに、いるんですよ?」

 ヴィアが唇をかみしめて俯いた。その肩が震えていることを頭の片隅で認識しつつ、しかし今のエレンはこれまで感じたことのない戦慄きによって大部分の思考が支配されている。

「なんで――何でなんですか!」

 これは…狂おしいまでの怒りだった。自分が発したとは思えないほどの大声に驚いたのか、カナードが火を付けたように泣きだした。これまでは鼓膜を破るための音波兵器としか思えなかったこれが、今はこの子が確かにここにいる証としてエレンに訴えかけていた。

「こ……」言葉がうまく紡げない。舌が麻痺したように数度痙攣する。「コーディネイター…だから、ですか?」
「…エレン。それは」
「コーディネイターだから、造られた命だから……だから、捨てても良いんですか? 人間じゃなくて、ものだから? だから……殺す、壊すん、ですか?」

 コーディネイターだから、壊す。殺す。このメンデルに来てわずか半年で、しかもその業務の大部分はこの小さな命に関わることであったが、それでもエレンはこのコロニーで日常的に行われている諍いを知っていた。そしてそれは、彼女が――プラント出身のコーディネイターである彼女にとって、唾棄すべき代物であることも把握していたのである。
 ――目の色が違うわ! そう言って我が子を抱き上げようともしない母親、話が違うと研究員に詰め寄る身なりのいい父親。契約違反だと、容姿が望んだものと違うからと、そんな理由で彼らは我が子を、己の遺伝子を受け継いだ赤子を捨てるのだ。引き取りを拒否された赤子がどうなるのかは、下っ端であるエレンには知りようもない。一説にはそうしたコーディネイターの子供を引き取って何がしかを行っている組織があるともされるが、おそらくろくなことにはなっていないはずだった。
 そうしてしばし筆舌に尽くしがたい激情にとらわれていたエレンは、ようやく眼前のヴィアが俯き肩を震わせていることに気がついた。そのとたんに紅潮していた頬は氷を添えたかのように冷たい青に染め上げられていく。怒りのまま、その感情のはけ口としてヴィアを犠牲にしていたことに、遅まきながら気がついたのだった。

「す、すみません! 先輩がお決めになったわけでもないのに、私、つい興奮してしまって…!」
「謝る必要はないわ、エレン。貴方の言ったことは、文句なく正しい事なのだから」

 そうして苦笑する先輩職員に、エレンはその場で床に額をこすりつけたくなった。彼女は何も悪くない。それどころか上層部の――彼女の夫たる主任研究員の決定に身を持って異を唱えているというのに。彼女の気持ちも考えずただ感情のままに暴言を吐くとは、この場に銃があれば迷わず自分の頭を打ちぬくだろう罪悪感が身を焦がした。

「だから、エレン。お願い、カナードを連れて逃げて」

 今度こそエレンは迷いなく頷いた。この黒髪の赤子を連れていけば、おそらくもうメンデルには戻れないだろう。だがそれがどうした。こんな場所、こっちの方から三行半を突き付けてやる。そう憤然とするエレンであったが、ふと一つの疑問がよぎった。小首をかしげてヴィアに訊ねる。

「…あ、でも先輩。それだったら、私よりも妹さんの方が適任なんじゃ」
「ううん、カリダたちじゃあ駄目なの。キラとカガリの避難はユーレンも許可している事だから、研究所から専用のシャトルが出されるわ。けれど、カナードはそうじゃない。だからエレンにお願いしたの。この子に簡単に接触できて、なおかつプラントのコーディネイターである貴方なら、容易にここから脱出できるはずだから」

 聞けば現在、ブルーコスモス襲撃に備えて、メンデルにいるコーディネイター職員の脱出シャトルが用意されていると言う。そこにカナードを潜り込ませるというのが、ヴィアの立てた計画の様だった。

「脱出したら、オーブへ向かって。そこなら、多分カナードを守ってくれるはずだから」
「え…オーブ、ですか?」

 オーブ連合首長国。南太平洋に浮かぶ島嶼国家であり、ナチュラルとコーディネイターが共存する数少ない場所だ。しかしエレンは小首を傾げた。カナードがコーディネイターである以上、プラントの方がよほど安全なはずである。オーブといえど、両者の間には深く広い溝があるのだから。
 しかしヴィアは首を横に振った。

「約束があるの。…正直、私も困惑する部分がないわけではないけれど、実際予測が当たってしまった以上、もう疑っている余裕もないから。
…あそこの首長家の一つが、カナードの保護を申し出てくれているわ。後のことは、その方に任せてあるから」
「首長家……って、オーブの支配階級じゃないですか! そんな人がどうして…ていうか、何でカナードのことを」
「さあ、どうしてでしょうね。けれど、嘘をついているとは思えなかった。主観で申し訳ないけど、私はあの方を信じられる人間だと思った。この子を託すに足る人物であると、ね」

 一瞬だけ、ヴィアの顔に何かを懐かしむような苦笑がひらめいた。しかしそれがすぐに立ち消え、代わって険しく歪んだ表情が浮かび上がる。緊迫感をはらんだ電子音が所内に響き渡ったのは、それとほぼ同時だった。

「避難指示……さあ、時間がないわ。早く行って!」

 先輩、と咄嗟に彼女を掴もうとしたが、とてもナチュラルとは思えない力でエレンは背中から目一杯押し出された。

「それと、これも一緒に。役に立つかどうかわからないけど、ユウナ様にお渡しして」

 すっとエレンの白衣に何かが滑り込んだ。それを確認する暇もなく、どんと身体が廊下に投げ出される。一瞬バランスを崩し掛けるが、そんなエレンを抱きとめる存在があった。はっと顔をあげると、三十過ぎの男性職員の姿があった。見覚えがある。エレンが初めてメンデルに訪れた時、よく相談に乗ってくれたコーディネイター系の職員だ。
 彼は未だ泣きやまないカナードを箱に擬態した特殊ユニットに入れ、頷いた。それをみたヴィアもまた頷きを返す。

「後を、頼みます」

「先輩!」腕を掴まれ、引きずられるように廊下を進みだす。ヴィアは見るものがはっとするような穏やかな笑みを浮かべで彼女を見送っていた。

「行って、エレン。オーブへ! ユウナ・ロマ・セイラン様の元へ!」

 ヴィアは、エレンの姿が視界から消えるまで、ずっとそこに立ち続けた。



[29321] PHASE5 泣け、叫べ! されば与えられるかもしれない
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/19 00:03
 セイラン家の侍女、ユリー・サザナミの主は、はっきり言って理解不能な人物である。
 いきなり何を言っているのか分からないとは思うが、事実なのだから仕方がない。ユリーが世話係として付けられている御方は、とてもじゃないが普通の神経というか精神構造じゃないと言うか、筆舌に尽くしがたい人格を有していた。
 今年で四歳になられた主、ユウナ・ロマ・セイランの屋敷内での評判は、一言で述べると『我がままなおぼっちゃま』である。それは昨年セイラン家で彼が巻き起こした駄々っ子クライシス以降貼られたレッテルであり、今なお根強く残る彼の代名詞だった。

 まあそれは仕方がない。ユリーはそう思った。何せあの騒動は悲惨の一言に尽きたからである。響き渡る大騒音、飛び交う調度品の数々、ズタズタに引き裂かれる布類、ご両親様の怒声とそれをはるかに上回る音声。あれに運悪く立ち会ってしまった家人はその時の騒動とそれに伴う業務増加を未だに忘れ得ることができずにいた。無論、ユリーもその一人である。
 子供の癇癪。そう言ってしまうには少々あれはひどすぎた。以来ユウナはユリーや家令のヴィンス・タチバナを除いた使用人たちから忌避されるようになってしまった。そこまで露骨ではないものの、彼女に対する同情めいた言葉がささやかれたのも一度や二度ではない。
 しかしながら、ユリーは彼らの認識がおおむね正しく、しかし根本から異なっていることを知っていた。それはもうあの若様に付き合うようになって嫌という程。何せ使用人たちがユウナの側に寄らなくなったことに対して、彼はお気に入りの扇子で口元を隠しながら一言こうつぶやいたのである。

「計画通り…」と。その小悪党じみた表情を見た瞬間、ユリーはろくでもない稲妻に打たれたかのように主の意図を悟った。悟らざるを得なかった。あの駄々っ子クライシスに端を発する一連の行動は、幼少期特有の感情の発露などでは断じてない、冷たい理性と論理によって構築された代物であることを。
 ユウナ・ロマは両親、使用人のいる前では徹底的にかぶる子供猫を、ユリーやヴィンスの前でだけはきれいさっぱり脱ぎだすのだ。最初に見たときは、そのあまりの変貌ぶりに「誰ですか?」と突っ込んでしまったものである。主は大爆笑していた。

「だって、四六時中ピュアボーイやってると疲れるでしょ。部屋にいるときくらいのんびりしたいよ、僕だって」笑いの余韻さめやらぬ様でユウナはそう言っていたが、ユリーとしては手放しに受け入れていいものか迷ってしまう。家令はあっさり納得していたようだったが。まあ、あの壮年の男性は常から沈着冷静が服を着て歩いている人物だから動揺するなど考えられないのだが。
 そんなわけで、ユリーにとってユウナ・ロマという主はよくわからない人物という位置に落ち着いていた。故にあの駄々っ子クライシスで得た口座で、彼が何だかものすごい資産を稼ぎ出している事に対してもさほど驚きはない。思わずちょっとよこせと言うと彼はまた大爆笑した。

 そんな不思議人物のユウナであるが、この日、C.E.五五年六月二十六日はつねと違う表情を浮かべていた。執務机に座る少年は、厳めしい相貌を崩すことなく腕を組んでいる。

「コロニーメンデルにて発生したテロの詳報は以上になります。現在も情報を収集中ですが、現時点で確度の高い続報は入っておりません」

 セイラン家令ヴィンス・タチバナが淡々とした声音で報告を続ける。白いものが交り始めた口髭がしゃべるたびに形を変え、ついユリーはそれに見いってしまった。刹那、さっとヴィンスから一瞥され、思い切り背筋を冷やす。あ、これ後で怒られるフラグだ。

「…ヒビキ夫妻はどうか?」
「ユーレン・ヒビキ博士に関しましては未だ行方知れず。ヴィア・ヒビキ夫人の方は…残念ながら」

 そうか、と呟いてそれきりユウナは沈黙してしまった。
 俯いた彼を壁際に待機しているユリーは痛ましい気持ちで見つめる。普段のちゃらんぽらんというか、飄々とした空気が吹き飛んでいた。主は扇子で口元を隠し、静かにもう一度「そうか」と囁く。
 先月末に発生したコロニーメンデルにおけるテロは、大きな波紋を持って世界中に知れ渡っていた。環境保全団体ブルーコスモスによる遺伝子研究所襲撃。それはS2型インフルエンザの蔓延によって発生した、ナチュラルとコーディネイターの対立に大きな影響を及ぼしかねないものである。
 現にプラントの秘密結社黄道同盟は本件に怒りの声明を発するとともに事実関係の調査を明言していたし、地上に残るコーディネイターたちの間にも動揺が広がっているようだ。
 事実、オーブのマスドライバー宇宙港カグヤにもプラント移住を希望するコーディネイターが大挙して押し寄せていた。大規模宇宙港を有する国家であり、かつ地上で数少ないコーディネイター居住国であるオーブは迫害に怯える彼らにとって数少ない安全な道といえる。――現実はそう甘くはないが、ともかく彼らがカグヤを頼って世界各国から集まってきているのはまごうことなき現実であった。

「そうだ爺。コーディネイターたちの引き留め政策はどうなってる?」まるでユリーの思考に被せるように、ユウナが声をあげた。その顔には未だ落胆の残り火がくすぶっているが、それでも現状を何とかしようとする意思の光が瞬いている。

「政府としては積極的に動くつもりはないようです。来るもの拒まず、去るもの追わずが基本スタンスでありましょうからな」
「それじゃ困るんだけどなあ。…セイラン家独自で積極的誘致は可能かな?」
「手配はしております。なお、それに先立ちましてモルゲンレーテやサハク家がコーディネイターの積極採用を行っているとの情報もございます」
「さすがはコトー・サハク。抜け目ないと言うかいやらしいと言うか。この事、父上には?」
「既に」
「なら、こっちが独断で行動してもさほど問題にもならないね。まったくもう。父上もこんな時に大西洋連邦なんぞに行かなくてもいいのに。しかも僕放置だし」
「御公務なのですから、致し方ありません。それに御父上様が若様をお残しになったのは、それだけ若様を信頼なさっているからでしょう」
「そりゃどうも。どう考えてもお荷物厄介者を抱え込みたくないからだろうけどねえ」

 くすくすとユウナは笑んだ。彼の父ウナト・エマ・セイランは外遊中でこの屋敷にはいない。両親に置いていかれ、一人国内に残るのは普通子供的には非常にショックかつストレスのたまることであるはずなのだが、彼女の主はそれを聞いた時「いやっほう!」と飛び上がっていた。つくづく親不孝な幼児であると思う。

「まあいいや。とにかく一人でも多く引きとめて。このまま彼らをプラントに譲り渡すのはあまりにももったいないからね」
「心得ております」

 それきりユウナは黙り込み、ついっと窓の外へ視線を飛ばした。一仕事を終えて気が抜けたのか、その表情に先の陰が再び浮かび上がる。疲れたような、諦めたような吐息がやけに大きく室内に広がった。
 ユリーは何故彼がこうも落ち込んでいるのかわからなかった。普通に考えればユウナと遺伝子研究所の接点は皆無である。主が秘密裏にコーディネイトされていたのならともかく――実はユリーはひそかにユウナがコーディネイターではないかと疑っていた――ナチュラルの子供であればおよそ文字通り空の彼方の出来事である。
 しかしそれを訪ねるのははばかられた。いつもならば気さくな主だが、今の彼はとてもそんな精神状況ではないと素人目から見てもそう思える。

「…喉が乾いちゃったな。ユリーさん、悪いけどお茶を入れてきてくれないかな。ああ、君と爺の分も一緒に」
「かしこまりました、ぼっちゃま」

 ユリーは一礼して部屋を辞した。途中何度か同僚たちとすれ違いながら、彼女は調理場までの道をそそと歩く。素早く、しかし優雅さを持って。例え使用人といえども、仮にもセイランの名を背負っているのだ。効率にかまけて体面を失してはならなかった。
 そのはずなのだが、にわかに屋敷全体が慌ただしいようにユリーは感じた。眉をひそめ、ぱたぱたと歩きまわる侍女仲間を捕まえて問いただす。

「ねえ、何かあったの?」
「あ、ユリー。丁度よかった!」侍女仲間は明らかに安堵した様子を見せた。「あのね、ちょっと問題が起こって…貴女に来てほしかったのよ」
「問題? 私を呼ぶ必要があるってことは、ぼっちゃまに関することかしら?」
「うーん、それがわからないというか、わからないから来てほしいと言うか」

 今一つ要領の得ない答えに、ユリーは小首を傾げた。しかし侍女仲間は随分と焦っているらしく、とにかく来て! と腕を引っ張り強制連行の構えを見せた。その流れに逆らえぬまま、ユリーは様子を見ていた別の侍女に主の茶を頼むと、自分で歩けるからと言って拘束を解く。
 小走りで案内された場所は、セイラン邸の正門だった。ますますよくわからなくなったユリーであるが、その耳に聞きなれぬ女の声が飛び込んでくる。

「お願いします! 少しでいいから、どうかお話を!」
「だから、許可もないのにあんたみたいなのを入れるわけにはいかないんだって!」

 次いで鼓膜を打つ男の声、これは記憶にあった。セイラン家の守衛である。
「約束ならあります! ここに来るよう仰ったのも全てご指示通りなんです!」
「その証拠は! そう言うんなら、ちゃんと書類なり手紙なりを持ってるんだろ?」
「そ、それは……」

 揉めていたのは、二人――否、三人の男女だった。一人は三十過ぎの男性、均整のとれた体躯に理知的な相貌、屋敷の侍女連中が見たら黄色い悲鳴を上げそうなほどいい男だった。ユリー自身、一瞬だけ心臓が跳ね上がったことは否定しきれない。
 もう一人は自分より少し年下と見受けられる若い女性だった。こちらもまた同性なら嫉妬しそうなほど端正な顔立ちだが、どこか子供っぽさが抜けきらない印象を受けた。その腕には三人目、一切ほどの赤ん坊が抱きかかえられ、この騒動にぐずっているのか小さな泣き声が聞こえてくる。
 家族だろうか。小さな落胆を抱えつつユリーは思った。男性の方が「もうよそう」と女性の肩に手を置くが、彼女はそれを振り切ってもう一度守衛に食ってかかった。

「お願いです、どうか、どうかユウナ・ロマ・セイラン様に会わせてください! そういう御約束のはずなんです!」

 ユウナ・ロマ・セイラン。その名を聞き、ユリーはどうして自分がこの場に呼ばれたか理解した。これまでのやり取りだけで、何があったのかも大体理解する。やれやれと小さく首を振って一歩前に出た。

「ぼっちゃまと御約束があるのですか?」

 ユリーの登場に、守衛があからさまにほっとした様子を見せる。女性は突然の闖入者に希望を見たのか、大きく頷いてその意を伝えてきた。

「失礼ながら、貴方様はどちら様でいらっしゃいますか? 御名前をお聞かせ願いたいのですが」
「エレンです、エレン・シフォース。えと、メンデルの研究員をやっていました」

 メンデル。その単語にユリーの頬が引きつった。同時に彼女が真実ユウナの客人ではないかという可能性が湧きだす。

「承知いたしました、エレン様。主に取り次いでまいりますので、少々お待ちくださいませ」

 エレンという女性の顔がぱっと輝いた。それに反し守衛や周りの使用人たちは一様に渋い表情を浮かべる。

「お、おいエリー嬢ちゃん。いいのかい? そんな素性もわかんねえ連中を若様に会わせて」
「取り次ぐだけです。お会いになるかは、ぼっちゃまがお決めになることですから」

 そういいつつも、彼女はユウナが会うだろうということに確信を抱いていた。そしてこの事が、少年の有する負の感情を少しでも和らげることになるよう祈った。






「ぼっちゃま。ただいま正門前に、エレン・シフォース様とおっしゃる方が見えております。何でも、メンデルからいらした研究員と仰せで――」

 ユリーの言葉を最後まで聞くことなく、ユウナは駆けだした。擬音があるならどかんっ、とかずばっ、などと表現されそうな勢いで短い手足をばたつかせる。正門までの最短ルートを脳裏に思い浮かべると、疾風のごとく廊下を走り抜けた。しかしどうでもいいが広い、広すぎだよこの屋敷。正門までどんだけかかるのだろうか。
 凄まじい勢いで玄関扉を開くと、一斉に視線が集まったのを感じた。ぜはぜは肩で息をしつつ、ユウナは渾身の力を振り絞って視線たちの大本へ歩みを進める。

「わ、若様?」

 最初に困惑の声をあげたのはセイラン家の守衛だった。彼は全身汗びっしょりのユウナを見て目を丸くしている。その横に目を向けると、同じく唖然とした様子の男女と――それに一切関心を示していない赤ん坊の姿が目に入った。

「そ……その子…げほげほ」

 せき込んだ。ちょっとは運動しないとなあと殊勝な考えが浮かんだが、それはすぐに怠惰軍によって簡単に駆逐された。弱いぞやる気、強いぞ怠け心。
 ユウナはどうにか息を整えると、額に浮かんだ汗をぬぐった。袖がぐっしょりと濡れるが気にしてなどいられない。すっと背筋を伸ばし、なおも反応に困っている男女に向けて一礼した。

「失礼、御客人。無様な姿をさらしてしまったね。僕が当家の総領ユウナ・ロマ・セイランです」

 二人組だけでなく、使用人に至るまで表情が凍りついた。え、誰こいつみたいな視線がびしばしとユウナの心臓に突き刺さる。
 いやどんだけ驚いてんだよお前ら。そりゃ巷で我がまま御曹司とか呼ばれているのは知っていたが、こうまで激烈な反応が返ってくるとさすがのユウナも少しだけへこんだ。今までどんな目で見られていたのであろうか。

「あ、あの……貴方が、ユウナ様……なのですか?」
「その通りだよ、エレン女史。いや、本当に申し訳ない。よもや貴殿らが御来訪されるとは思ってもおりませんだので。…正直、諦めていた部分もあったから。でもそのことで迷惑をかけちゃったみたいだね。めんごめんご」
「い、いいえ! 私の方こそ事前にご連絡を差し上げもせず、突然押し掛ける形になってしまって…本当にすみませんでした!」
「エレン女史が謝るこったねーですよ。こちらでも…まあ、メンデルでの事は把握してるしね。であれば目立った行動を起こされなかった女史の判断は褒められこそすれ責められるものではない、と僕は思うよ」

 メンデルという単語にエレンと男性の表情が曇った。そう言えば彼はどこのどちら様なのだろうか。エレンと一緒にいると言うことは、おそらく男もメンデルの研究員なのだろうが。
その視線に気づいたのだろう。男性は思い出したように一礼した。

「ああ、これは失礼。自己紹介がまだでしたね。私はダフト・エルスマン。彼女と同じ職場で働いていました」
「…エルスマン?」

 ユウナの顔が驚きに染まった。まじまじと彼の姿を見つめ、ぱかりと口を開ける。エルスマン。すごく聞きおぼえがあった。具体的に言うとグゥレイト! 辺りの関係で。

「そうですが……私が何か?」
「…ダフト・エルスマン博士、か。もしかして御兄弟とかいたりする? プラントのフェブラリウスとかに」

 一目でわかるほどダフト氏の表情がこわばった。図星、ではこの男はディアッカ・エルスマンの親戚にあたるのか。すると自動的に彼もまたコーディネイターと言うことになる。
 そういえばディアッカの父であるタッド・エルスマン評議員はフェブラリウス市の代表だった。兄弟そろって生物学を志しているのだろうか。

「なるほどなるほど。ああ、心配無用。僕はメンデルを襲ったテロリスト共のような思想は持ってないから。でなければ…その子を引きとろうなどとは考えないでしょうや」

 自身がコーディネイターであると見抜かれたことに気付いたのだろう。目に見えてダフトから警戒心がにじみ出した。それに苦笑し、ユウナは女性研究員に抱かれている黒髪の赤子に近づく。気を利かせてくれたのか、背の低い自分にも見えるようにエレンがかがんでくれた。
 黒髪の赤子は未だにふにゃふにゃとぐずり続けている。彼の小さな手を優しく握って、ユウナは安堵の息を吐いた。

「よかった…この子が無事で。本当に……」

 メンデル襲撃の報を聞いてからこちら、ヴィアとカナードの事で頭が一杯だったユウナの万感がその呟きに込められていた。しばし幼子の頬をつついてその感触を楽しんだ後、どうすべきか迷っているらしい大人たちに向けて微笑する。

「とりあえず立ち話もなんだしね。どうぞおあがりくださいな。
あ、君たち。悪いけど応接間にお茶と茶菓子を人数分持ってきて。それとおむつやミルクなんかの手配を大至急ね」

 てきぱきと使用人たちに指示を出し、ユウナは客人たちの手を引いて邸宅へ戻った。



[29321] PHASE6 月が出た出た月が出た 
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/21 01:04
「そう。ヴィア女史は…やはり」
「はい。ユーレン博士を一人にはできないと、そう言ってメンデルに残られました」

 通された応接室は、一目で格式高いものであると認識できるものだった。黒い革張りのソファは非常に柔らかく、体面に座すユウナ・ロマを隔てる机はマホガニーである。紅茶を注がれた茶器はA.Dの頃から続く由緒あるロイヤルコペンハーゲン社の名作フローラ・ダニカ、正直落としそうでエレンは触れたくない代物だった。
 はっきり言ってVIP待遇である。隣に座すダフト・エルスマンも戸惑うように身じろぎを繰り返しているようだ。もっとも彼の場合はあくまで待遇に関してであって、エレンのように庶民的感覚から来る居心地の悪さは感じていないようであった。

「残念だね。本当に…残念」

 ユウナはその幼い相貌を悲しみに染めて俯いた。唇をかみしめる彼の姿はとても演技には見えず、本心からヴィアの事を惜しんでいることが察せられる。
 エレンはこの小さな名士の存在を図りかねていた。聞くところによるとユウナは御年四つ、普通なら物心つくかつかないかといった年齢といえよう。とてもではないがヴィアを巻き込みカナードの保護を画策するような真似ができるとは思えないし、こうして論理的な会話が成立すること自体が信じられなかった。
 コーディネイターかとも思ったが、いかなコーディネイターといえどたかが三つ四つではナチュラルの子供と変わりない。少なくともエレンは四歳の時のことなど覚えていないし、母から思い出話で聞く限りではどこにでもいる子供だった。こんな風に大人と相対するなど不可能である。

 にもかかわらず。わずか四歳のユウナはスーパーコーディネイター計画を察知し、しかもその過程で被験体の処分が行われることを推測、責任者に働きかけて脱出させるという離れ業をやってのけた。誰かに言われれば発言者の正気を疑ってしまいそうな内容だったが、生憎と眼前に就きだされた事実である。
 ダフトはこの子供の裏側に何がしかの黒幕がいると疑っていたようだが、それを察したのかこの部屋に通されて最初にそのことは否定されていた。それがまたこちらの疑いを的確に把握した内容であったためさらに警戒心が募ったというのは皮肉なのだろうか。

「それでも貴方方やカナードが無事であったというのは、喜ぶべきことなんだろうね。本当にありがとう、この子を僕のもとへ連れてきてくれて」

 ユリーという侍女に抱かれたカナードの頬をつついて、ユウナが微笑んだ。つつかれた方は盛大に泣きわめき、行為者に厳重な抗議を申し入れているようだったが。

「すみません、人見知りの激しい子なんです…」
「なんの、元気があって良いじゃない」

 にこにことカナードにちょっかいをかける様子は年相応に見えるようで、しかしどこか老成した――まるで祖父が孫を慈しむかのような印象にも感じられた。いずれにせよ、カナードに対して好意を持っていることは十分理解できる。

「あの、ユウナ様はカナードをどうなさるおつもりなのですか?」
「どうする…と言われてもねえ。普通に育てますがな。可能ならばセイランの養子にしてもいいんだけど」
「…ぼっちゃま、それは」ユリーが窘めるように囁いた。
「まあ、望み薄なのは理解してるけどねえ。サハクのように身軽にできればいいんだけど、そうも言ってられないのがこの商売だから」

 やれやれ、とユウナは肩をすくめる。そのやり取りに何か感じるものがあったのか、ダフトがやや低めの声で呟いた。

「…それだけ、ですかな?」
「ふむ。他に何かあるかな。ダフト博士」
「カナードがどういった存在なのか、セイラン殿は御存じなのでしょう? 何かしらのお考えがあるのではないですかな?」

 まるで挑発するような発言にエレンの顔色がさっと青ざめた。彼女自身そうした懸念がなかったわけではないが、ヴィアの言葉を信ずる限りユウナにその意思はないとも考えていた。けれどダフトはそうした楽観論に背を向けていたらしい。
 だがそうした疑問をぶつけるには、いささか場所が悪いと言わざるを得ない。ここはオーブ、しかもセイラン家のど真ん中だ。仮にも五大氏族の総領にこの発言は無礼と断じられても文句は言えない。
 にも拘わらずダフトがこの場でそう訊ねたのは、これを逃してはもう訊ねることも、また返答によってカナードを再奪還する機会もないと考えたからだろう。それだけの覚悟を持った意思はエレンの繊細な心臓を思い切り殴打していた。

「ないとは言わんがな。そりゃあね、この子が大きな可能性を秘めている以上、その力に期待しないといえば嘘になる」ダフトの眉間に大きな皺が寄った。
「けれど、それはあくまでカナードの自由意思によるものであることが大前提よ。僕は世界とやらのために子供を利用する気も、させる気も全くない。この子が大きくなって自分のやりたいことを見つけ、それでもって僕やオーブに貢献してくれればそれでいい」
「…強制する気はないと?」
「子供を守るのは大人の義務だ、と僕の古い知り合いが口癖のように言っていた。つまるところ、そういうことなんじゃよー?」

 カナードを一人間として育てる、ユウナはそう断言した。そんな彼をダフトはじっと見続け、そして大きく息を吐く。どうやら真実だと断ずることができたらしい。

「いや失礼。ヒビキ女史を疑っていたわけではありませんが、やはり自分で確かめないと気が済まぬ性質なのでね。まして相手は地上のナチュラルだ。同胞を預けるに足る人物か、見極めたかったのですよ」
「ご期待に添えたようでなにより。それはそうと、僕の方からもよろしいか?」

 ダフトのいささか不遜な発言をさらりと流す。ユウナはやや冷めたであろう紅茶に口を付け、肩をすくめた。

「お二方はこれからどうなされるおつもり? ダフト博士はプラントにご家族もいらっしゃるようだし…エレン女史は?」
「あ、私もプラントに家族がいますが…」

 迷いを込めてカナードを見た。ヴィアの願いどおりあの赤子をユウナ・ロマに届けることはできた。しかしそれではいおしまい、とするには少々情が移りすぎてしまっている。このまま放っておくのはさすがに後味が悪すぎるのだ。

「先に言っておくけれど、今プラントにお戻りになるのは少し難しいかんね」
「ふむ、どういうことですかな?」
「現在、我が国のマスドライバー宇宙港はプラント行きの人々であふれかえってるの。シャトルは連日満席、予約も一杯一杯でとてもじゃありませんが、空き席なんてありゃーせんぜ」
「満席って……何でまた、そんなことになってるんですか?」エレンはぱかりと口を開ける。
「S2型インフルエンザの蔓延とトリノ議定書の件で、地球は反コーディネイター感情一色で染まってるのさね。そのため各地で彼らに対する迫害が激化し、それから逃れようとプラントへの移住希望者がオーブへ押し寄せてるの」
「…例の、S2型インフルエンザが我らコーディネイターのバイオテロであるという噂をですか? まさか、本当にそんなものを信じるとは。何と愚かな…そのような事をして我々に何の得があると言うのか」
「狂信者に何を言っても無意味でしょうや。問題なのは、その与太話を大勢の人間が信じてしまったという事実のみ。青き清浄なる世界のために、てね。まったく、馬鹿な話じゃありませんか」

 ユウナは吐き捨てるように眉をひそめた。カップをソーサーに置いて背をソファに預ける。

「各産業に従事しているコーディネイターたちを軒並み追い払うなんて、そんなことをすればどんな事態になるか素人でもわかる話でしょうに。この経済的、技術的損失の回復は十年やそこらではすみそうにない。
まあ、そう言うわけなんで、プラントへの帰国はしばらく見送っていただくほかないね。どうしてもお急ぎの用があるのであれば、当家のシャトルをお出ししてもよろしいが…」
「…いえ、止めておきましょう。あまり貴方には借りを作りたくはない」

 あら酷い、少年は肩をすくめた。次いで視線でもってエレンの回答を求めてくる。その瞳はあくまで優しく、どういう判断でも支持すると言ってくれているようでもあった。

「あの…御迷惑でなければ私もしばらく残らせていただいても良いでしょうか? 気持にも整理を付けたいですし…」
「勿論。歓迎するよ」
「しかしよろしいのですかな? 反コーディネイター思想の蔓延している中で、仮にも一国の重鎮の屋敷に我らを入れて。問題になりはしませんか?」
「幸いなことに、オーブは他国ほどそうした思想に毒されてないんでね。もともと公式にコーディネイターの居住を許可している国だし、どちらかと言えばうちは専制的な国家ですから。必ずしも世論に迎合する必要はない」
「なるほど。貴国の前時代的体制に助けられたと」
「民主主義を近代的、理知的な代物であるとするには議論があると思うけれど? プラトンなんかの例もあることだしね」
「ふむ、部分的には認めましょう。しかし古代共和制と近代民主主義にはそもそも大いなる相違が――」

 何やらユウナ・ロマはこの遺伝子学者の琴線に触れるものを持っていたらしい。ダフト・エルスマンはどこか興味深そうに幼い少年と議論じみたことを始めてしまった。それに苦笑しつつ、ユウナもそれに参加する。
 その様子にエレンは小さく苦笑した。親子と言っても差し支えのない二人が角を突き合わせている姿は微笑ましいというよりはシュールと評するべきものに見える。ふと視線をずらすと同じように苦笑いを浮かべているユリー侍女と交わった。さらに苦笑を色濃くする。
 コロニーメンデルから脱出して幾日、ようやくエレンは心から安堵することができていた。








 空気に臭いがするというのは、純粋な驚きであった。
 満点の星空の中を泳ぐ月を見上げて、エレン・シフォースはアルコールに火照った身体をそっとバルコニーに寄せた。白色の手すりに腕と顎を乗せ、ぼうっとついこの間まで彼女がいた故郷にほど近い場所に思いをはせる。
 エレンは第一世代コーディネイターだが、その生まれ故郷は月面都市であった。そのためこれまで地球へ下りた経験はなく、人の手の入っていない環境というものには驚かされてばかりである。特にオーブに来てからはその熱さもさることながら、強く香る潮の匂いが彼女を困惑させていた。
 ここが地球、ひょっとすると一生来ることのなかったかもしれない大地に立っていると、それだけで不思議な感覚がエレンのうちよりわき出でる。自身の遺伝子が持つ郷愁の念なのだろうか。それともまとわりつく重力に辟易した身体が宇宙への回帰を求めているのか。

「眠れない?」

 ふと柔らかなソプラノが耳をくすぐった。声の方を向くと、隣のバルコニーに小さな人影があることに気づく。そんな容姿を持つものはこの邸宅に一人しか存在しなかった。

「ユウナ様」
「随分飲んでいたようにお見受けしたけど、あまり残っているようには見えないね」
「私、結構お酒強いんですよ。何度かヴィア先輩をつぶしたことだってあるんですから」

 笑おうとしたが、うまくいかなかった。カナードを連れた逃避行中は殆ど思い出さなかった――否、あえて考えないようにしていた数々の記憶が溢れかえっていく。潤んだ瞳を見られないように広がる天空へ顔を向けた。

「僕は一度しか会ったことないけど、それでもわかるよ、うん。あの人は本当に良い人だった。できることなら、一緒に逃げてきてほしかったんだけれど」

 でも、それは無理だったんでしょう? ユウナは悲しみを滲ませた声で呟いた。

「ヴィア先輩は本当に優しい人でした。コーディネイターもナチュラルも分け隔てなく接してくれて…私、ドジだからいっつも助けてもらってたんです」

 あの人のアメジストの瞳が優しく笑む。もう、仕様がないわね。そう言って頭を撫でてくれた彼女は、もういない。
 絵具を混ぜたように星々がゆがんだ。熱い雫が頬を濡らし、とめどない嗚咽が湧き上がる。

「あるいは、これがあの人なりの清算なのか」

 囁くように放たれた言葉にエレンははっと顔を横に向けた。扇子のようなもので口元を隠したユウナが、色を見せぬ瞳で真っすぐこちらを射抜いている。

「メンデルでユーレン・ヒビキの成したこと、そしてそれを止められなかったことが、彼女にこの道を選ばせたというのは…少し穿ちすぎってやつかな」
「それは、ヒビキ博士のスーパーコーディネイター計画のことですか?」
「そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。まあ、ここら辺はダフト博士の方がお詳しいと思うけどねえ」

 彼が何を言いたいのかよくわからない。要領を得ない話し方に少々の苛立ちが募った。そのことが視線に出てしまっていたのだろう。ぱん、と扇子を閉じたユウナが苦笑していた。

「フラガ家、ソキウス。心当たりは?」
「フラガ家といいますと…確か大西洋連邦の名家ですよね? 何度か御当主がいらしていたのは知っていますけど。ソキウス…戦友ですか? そちらはちょっとわからないです」

 一時期足しげく研究所に通っていた初老の男性、名前は――そう、アル・ダ・フラガ。遠目でしか見たことのない人物だが、それとヴィアがどう関係しているのだろうか。
 そこまで考えて、エレンは愕然とする。

「ま、まさかヴィア先輩! おおお金に目がくらんでふ、ふりんを…!」

 何故かユウナが爆笑した。それはもう、お腹を抱えてぴくぴく震えるほど笑い転げている。エレンは憮然として頬を膨らませた。

「そ、そういう発想も…なくはないけど…っぷ!」
「……じゃあ一体何なんですか?」

 つい言葉にも険が入る。自分でも言った後でそれはないと否定したものの、やはりこうまで盛大に笑われるとむっとするものがあった。相手に馬鹿にするという意図がない分、その程度で済んでいるとも言えるが。

「少なくとも、ヴィア女史不倫疑惑のように、笑える話でないことは確かだね。
 …きついよ?」

 隣のバルコニーにいても感じる程の冷気がエレンの背を撫でた。ぴたりと止まった笑声に代わるのは、痛いほど真剣な瞳と苦渋の歪み。ごくりと喉が鳴った。
 だがともすれば怯えが堰を切りそうな一方で、それを冷静に受け止めている自分がいる事にも気づく。彼女は言う。陰惨な話になるのは当然だ。もしもヴィアが何かの清算を求めてその命を散らしたのならば、それはそこまでしなければならないほどの罪であったと言うことだから。
 否、それだけの理由がなければヴィアの死に納得できそうにない。ほんの少しでも悲惨な内容であることを望む自分に吐き気がこみ上げた。

「それでも…聞きます。教えてください」

 しばしエレンをじっと見つめていたユウナだったが、すぐに相好を崩して口を開いた。とうとうと語られる、ユーレン・ヒビキとメンデルの為してきたこと。それらがエレンの耳から脳を震撼させる。
 全てを聞き終えたエレンを襲ったのは空恐ろしいほどの悪寒だった。

「まさかそんな……そこまでのことを…ヒビキ博士が」

 アル・ダ・フラガのクローン体。戦闘用コーディネイター計画。ついこの間まで勤めていた研究所が突然薄暗い奈落へと姿を変えたような気がして、エレンは両肩を書き抱いた。南洋の島国にいるはずなのに震えが止まらない。
 信じたくはない。ひょっとしたらこの少年が嘘を教えている可能性だってある。意識の片隅が囁いた。けれど理性の大部分がそれを否定する。
 彼はカナード・パルスの情報をあらかじめ得ていたのだ。ならば他のものも持っていないとどうして言える? 疑いを晴らすだけの実績をユウナは既に示している。ぎゅっと唇をかみしめた。

「僕も信じたくないけど、生憎と事実らしくてね。しかもそのクローンはテロメアに欠陥があるせいで短命、ソキウスに至っては服従遺伝子とマインドコントロールで自意識すら抑えられてると来たもんです。まったく、人間のやることじゃない」

 ユウナがこれを唾棄すべきものと認識していることに、エレンは何故か安堵感を覚えた。それはメンデルにいた自分の感性が未だ常人であることの証のような気がしたのだ。

「エレン女史。貴方にお願いがある」

 泥沼に沈み込むような気分は少年の声によって破られた。さっと吹き寄せる風がエレンの髪を撫でる。

「今お話したように、ユーレン・ヒビキの残した遺物は尚もこの地に息づいている。そしてそれはこれから先も数多の種をまき続けるでしょうや」

 だから、とユウナは扇子を開き、口元であおぐ。

「遺伝子学者である貴方に頼みたい。新たな悲劇を防ぐために、不完全なクローニングによる遺伝子や細胞の欠損を治療する方法を探ってはもらえないかな」

 治療法の研究? エレンは小さく呟いた。少年はこくりと頷きを返す。

「勿論、貴方だけにお願いするわけじゃあない。こちらでも人材を用意するし、できればダフト博士にも協力を願いたい。でも貴方にいて頂ければ、僕としても非常に心強いのは確かだね」
「でも、私はまだ駆け出しの研究者で…」
「それは謙遜が過ぎると言うもんですよ」くすりとユウナが微笑んだ。それと同時に場の空気がほんの少しだけ和やかなものになる。

「禁断の聖域メンデル。そこに所属を許されたということが何を意味するかくらい、弁えているつもりだもの。少なくとも我が国にいる人材で、現状貴方を超えるような人物に心当たりはない」

 きゅっと手すりを握る力が増した。エレンはユウナから顔をそむけ、南洋の景色に瞳を逃がす。

「ああ。何も今すぐ答えろ、なんて無茶を言う気はないから。よく考え、ご家族とも相談した上で決めて頂戴な。その結果がどういうものであれ、僕はそれに納得するから。
 …そろそろ夜も更けた。僕は先に休ませてもらおうかな」

 では良い夢を。そう言ってユウナは部屋の中に戻っていった。エレンはもう一度、はるか故郷へ続く星の海を仰ぎ見る。聞こえるはずのない星々の潮騒が強い郷愁を湧き立たせた。
 エレンはまだ、眠れそうにない。



[29321] PHASE7 シムシティがはじまるよー
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/21 01:08
 しょーりゅーけーん。
 いやもう、何と言えばいいのだろうか。フェブラリウス市関連株がこう、ね。爆上がり。もうご老体じゃ登れなさそうな坂を描いて連日ストップ高なのである。
 つい先日プラントから発表されたS2型インフルエンザのワクチン開発の報によって、フェブラリウスとそれと直接取引のあるプラント理事国医療機関の株価は軒並み上昇するという現象に見舞われていた。世間ではブルーコスモスちっくなコーディネイター陰謀論が囁かれている中であるが市場は正直である。
まあ、その影響なのだろうがコーディネイターに関わっている、あるいはトップがコーディネイターである企業の株は値下がりを続けている辺り、経済という魔物の凶暴性が垣間見えると言うものだ。勿論、儲けさせていただきました。ええ。

 そういうわけで、此処のところユウナの部屋からは途切れることなく奇声が発され続けることとなった。いつもの通り使用人はドン引きし、カナードは泣き叫び、エレンは真剣に自分の選択に後悔の念を募らせている。

 あの後、エレン・シフォースは正式にオーブへ移住してくれることとなり、現在はプラントから呼び寄せたナチュラルのご両親とセイラン別邸で暮らしていた。ユウナやヴィンスの口利きによって現在はセイラン傘下の医療機関で研究を続けている。なお本人たっての希望により、カナードはシフォース家の養子として引き取られることとなった。もっとも彼女やご両親も忙しいので一日の殆どをセイラン本宅で託児所よろしくあずかっているので、こちらとしてもあまり言うことはない。

 恋人旦那の前に子持ちになるか、と言ったら本気でぶんなぐられた。あの小柄というか気弱な気性からは想像もできない強い膂力は、やはりコーディネイターすげえと言わざるを得ない。ガッデム。
 ダフト・エルスマンはプラント帰参の意思は変じていないようだが、こっちはもう放っておいてもオーブに残ってくれそうだから放置している。何故かと言うと、そのうち我らがお世話係、ユリー嬢が綺麗に狩ってくれそうな感じだからだった。狩りである。アプローチとかモーションとか、そんなちゃちなレベルでは断じてない。あの目は獲物を捉えた狩人の瞳である。

 哀れなダフト・エルスマンが文字通り丸裸にされようが割と知ったことではないのだが――羨ましすぃッ! 妬ましすぃッ!――オーブに残ってくれるのならばそれは朗報だ。ユリーが寿退社しないよう説得するという新たな苦労は残るものの、全体的には喜ばしいことである。
 その他にも、ユウナにとって慶事が続いていた。

「これはマジですかい?」
「マジでございます」

 家令のヴィンスが持ってきたリストはセイラン傘下企業に就職した――つまりオーブに亡命を決めてくれたコーディネイターたちの氏名が明記されたものである。それをぱらぱらと流し読みしているうちに、ユウナの記憶にある名前が出てきたのである。

「工学博士ジャン・キャリー……これはまた」

 元地球連合のエースパイロット、煌めく凶星J。彼の名を見つけた瞬間思わず飛び上がってしまった。何せあのイザーク・ジュールと互角に渡り合えるパイロットであり、優れた工学者でもあるのだ。これほどの人材を抱え込めたことは僥倖といって差し支えないものだろう。
 まあ戦争始まったら連合軍に入る危険性もあるが、そこら辺はOHA☆NASIすれば思いとどまってくれるはずだ。うん、多分。
 他にもそれなりの数のコーディネイターを抱え込めたこともユウナの機嫌を良くしていた。考えてみれば当然であろう。今まで宇宙で暮らしてきた者たちならばともかく、生まれてずっと地球にいたものがプラントへ渡るとなると、相当な覚悟が必要なはずだった。迫害という物理的社会的な強制力があったればこその移住であるが、逆に考えれば迫害さえなければ必ずしも宇宙に出ることをよしとする者たちばかりではないのである。

 特に第一世代は両親や家族の多くがナチュラルだ。ジャン・キャリーのように今回のインフルエンザでその両親を亡くしたものは勿論いるだろうが、移住希望者にはそれなりの数でナチュラルも存在していた。彼らにコーディネイターの巣窟とも言うべきプラントへの移住はそれなりに含むところがあって当然であろう。
 そんな中でオーブの一部がコーディネイター保護及び誘致を行っていれば、わざわざプラントまで行かなくてもいいのではないかと思う者たちが出てきてもおかしいところはない。それは勿論、コーディネイターが多数住まうとてオーブ国民の大多数はナチュラルである。それ故迫害や差別が全くないというのは、情けないことながら断言できない。が、それでも他国よりはよっぽどましなのは確実と言えた。

「とはいえ、今回のワクチン開発でまたぞろコーディネイター排斥論が活発化するのも事実。再度大量のプラント移住者が押し寄せてくるんですね、わかります。つーかはっきり言って前回のそれとは比較にならん大脱出だと思うよ。どうしようか」
「そこはウナト様に全てお任せすればよろしいかと。本日の首長会で例の件を提案なさるおつもりのようでしたよ」
「頑張ってもらいたいねえ。あれが通らなきゃ、こっちの用意も全部無駄になっちゃう」

 ユウナは執務机の上に散乱した書類の一枚を手に取って広げた。それはある建物の図面である。とんとんと紙面を指で叩き、少年は大きなため息を吐いた。

「ま、いずれにせよダミー企業を嗅ぎまわっているところには特に注意してね。いつかはばれるにしても遅ければ遅いほど体制も強固になるから」
「承知しております。幾人か情報屋が嗅ぎまわっているとの報告もございますが、今のところ特筆すべきことは起っておりません。引き続き警戒を怠らぬように致します」

 何このチート爺。どんだけ有能なの? 古くからセイラン家の家内一切を取り仕切ってきた家令の力量にユウナは内心舌を巻いた。ていうか情報屋って誰よ。ルキーニさん家のケナフ君じゃああるまいな。嫌だよ、あんなのと情報戦するの。

「セイラン傘下企業の株式保有率も調整しないと…ぼろはだしたくないねえ。お金は使うとなくなるんだよー。無限の財宝せっせっせー」

 図面の上に書かれた文字をすっとなぞる。そこには大きくこう描かれていた。
 即ち、モビルスーツ開発研究所と。







 濃紫の服の男たちの呻きが部屋に満ちていた。
 窓から入る日差しは強く、十一月の空は透き通るように晴れ渡っている。ウナト・エマ・セイランが座す位置からはその光景が広く見え、さっと流れているだろう爽やかな風に思いをはせた。この室内に蔓延する重々しい空気をそれと入れ替えたくて仕方がない。ふうと野太い息を吐く。
 だからと言って窓を開けて空気を入れ替えるといった贅沢はここでは許されなかった。そんな真似をして、もし何らかの危険物を投げ込まれたらその瞬間オーブ連合首長国は崩壊の危機を迎えるだろう。冗談ではなく、ここに集まる者たちにはそれだけの価値があった。

 枢密院首長会。オーブ連合首長国の最高意思決定機関であり、五大氏族を中心とした国内有力家の集まりである。現代表首長にしてアスハ家当主、その子息であり次期代表と目されるウズミ・ナラ・アスハ、サハク家当主コトー・サハク、そしてセイラン家の自分。他にもマシマ家、トキノ家、キオウ家と名だたる家柄の当主たちが各々の席に座していた。

 あるものは腕を組み、あるものは瞑目し、そしてあるものはウナトと同じように外を見て心を養生させている。しかし各人で異なる仕草をしているものの、その表情だけは全会一致を遂げていた。無論、これはどちらかと言うと喜ばしくない方向のものである。
 中でもウナトのそれは首長会一と言っていいだろう。何せこの苦い沈黙の原因は他ならぬ自分の提案によってもたらされたものだからだ。

「しかし、ウナト・エマ。これはいくらなんでもやりすぎなのではないか?」

 マシマが困惑と疑惑をない交ぜにした表情で口を開いた。代表、ウズミ、コトー以外の首長たちも動作の大小はあれど同意を示している。

「左様。確かにこの件は以前より問題となって入るが…しかし」
「これではあまりにも世論を刺激しすぎる。利点は理解するが、被るであろう被害を考えればおいそれと頷くわけにもいかぬ」
「貴家やサハク家が個々に行う分には構うまい。が、これを政府で主導するとなると話は違ってこよう。考え直すべきではないか?」

 口々に否定の言葉が宙を飛び交う。ウナトはサングラスをかけ直してその言葉を耳に入れた。内心だけで苦笑する。彼は鼓膜を震わせる言の葉全てに聞きおぼえがあったのだ。そしてそれに対する回答もまた、福々しい腹の内で練り込まれている。

「方々のおっしゃることはごもっとも。しかしながら、これは我が国にとって大いなる好機であることも事実でありましょう。実際、先の試験的な動きによってオーブの各種産業は飛躍的な発展を見せつつある。それはお手元の資料をご覧いただければ一目瞭然でしょう。
 現在、地上から大勢のコーディネイターが迫害を恐れて宇宙へと逃げ伸びています。ですが、感情に流され裏も取れぬ噂に流された結果起ったこの出来事が、世界経済にどれほどの打撃を与えたか。方々は御存じでしょう? 各種産業の衰退、技術の停滞と流出、品質劣化と生産効率の悪化。優れた工業製品を手に入れられるプラント理事国は良いでしょう。ですが我らや大洋州連合といった非理事国の受ける影響は計り知れない。今ここで手を打たねば、理事国と非理事国との格差は埋められぬほど広がり、我がオーブは工業生産国から単なる一南洋の景勝地へと転落してしまいますぞ。
 方々はそれでよろしいのか?」
「…それは理解している。だがそうだとしても、この動きはあまりに急進的すぎる。下手をすれば国内にテロの火種を抱え込みかねんのだぞ」
「そのための警察。そのための国防軍でしょう。それを抑えるために彼らはいるのです」
「いかな軍とて全てに対応することなど不可能だ! それこそ神でもなければな」

 キオウが資料を机に放り投げた。がしがしと頭をかき、吐き捨てるように呟く。

「コーディネイター移民の大規模受け入れと、都市開発計画など。諸国が知れば何と言うだろうな!」
「下手をすればオーブは外交的に孤立するぞ!」
「…既にしているではないか」

 揶揄するような台詞にマシマの柳眉が逆立った。ぎっと切り裂くような眼で発言者――コトー・サハクを睨みつける。しかし睨まれた方は飄々とした雰囲気を隠そうともせずせせら笑った。

「もとより我が国はコーディネイターの居住を許可している。今更少々増えた所で目くじらを立てんでもよろしかろうに」

 実際、S2型インフルエンザ蔓延と例のテロ疑惑以降オーブに対する風当たりは強くなる一方だ。地球の一国家でありながらコーディネイターを保護するなど、ある種の人間からすれば裏切り以外の何物でもないらしい。問題はその種の連中が面倒なほど権力を有しており、世論操作にたけているというところにあった。
 おかげで昨今のオーブは悪役そのものである。そのうちオーブ製品の不買・打ちこわし運動にまで達するのではと国内では懸念されていた。
 そこへきて、これである。貿易中継点として栄えてきたオーブにとって、製品が売れないなど悪夢以外の何物でもないだろう。マシマの言うことはこの場の総意に近いものがあった。
 ただまあ、対策はある。

「少々どころではないから言っているのだ! 概算でも数十万、下手をすれば百万の大台に乗る数をどうさばくと! 移民を受け入れることによる弊害は御存じであろうに!」
「何のために我らがここにこうして集まっておると思うのだ。それをどうにかするためであろうや。できぬのは怠慢、給料泥棒と言うものよ」
「コトー殿!」からからと笑うコトーにキオウが憤怒の炎をあげた。それをアスハ代表のしわがれた声が鎮火する。
「まあ、双方の言うことも理解できる。ウナト殿、それらへの対策はどのようなものはあるのかの?」
「確かに、彼らの受け入れにともない各国からの非難あるいは明確なテロ行為が行われる可能性は否定できません。ブルーコスモスなどの厄介な存在もあることですしな」

 ウナトは唇を湿らせて言葉を紡ぐ。苦笑が表に出ないよう必死に顔の筋肉を制御する。何から何まで先日のやり取りと一緒だった。そのことへの滑稽さと、自分だけではないという奇妙な安堵感がウナトの胸を満たしていった。
 言うまでもなかろうが、もともとこの案件はウナトの脳細胞から生じたものではない。家令のヴィンス・タチバナから上がってきた計画である。恥ずかしいことに何を考えてるんだと声を荒げてしまった。しかしびっしりと書きつづられた内容と起るであろう未来予測、そしてヴィンスによる補足説明によってあっさりと丸めこまれてしまった。
 コーディネイター移住計画。恐ろしい危険が伴うものの、その利益は計り知れないことを理解してしまったのである。いかな親大西洋連邦派たる自分といえども、セイラン家当主として、何よりもオーブ首長の一人として、自家の利と国益になるのならばそれを実行するに否やはない。

 しかし、とウナトは胸の内の笑みを深くした。この計画を立案した人物は一体何を考えているのか。愛しさと心配が絶妙に混ざった感情が喉までこみ上げた。ヴィンス自らが考え出したものでないことくらいウナトは初めから察しているし、おそらくあの子も隠す気はないのであろう。ある時期からウナトの愛し子は他人の前でも子供の猫を被らないようになってきていた。「人的資源の補充減少でプラント涙目! くやしいのうくやしいのう!」と笑っている辺り、もう少し隠ぺいしてほしいと思ったのは秘密であった。

 ただまあ、親として予想以上に早く独り立ちを始めたことに対する寂しさはある。妻などは露骨に息子の成長を嘆き、その反動か最近我が家に出入りしている研究者の子息にかまい始めた。なかなか人見知りが激しい赤子であるが、むしろ手のかかる子ほど可愛いと言わんばかりに手をかけている。おかげで教育方針の違いから実の息子と冗談みたいなやり取りをすることも多くなっていた。
 ウナトや妻は職務上滅多に家に帰れないが、それでも帰宅するたびに「母上は厳しすぎ!」「ユウナさんは甘やかしすぎです!」と楽しそうに議論を戦わせている様は、息子との距離感に悩む父親としては羨ましい限りであった。
 …今はそんなことどうでもいいか。

「それを避けるべく、開発する都市はタケヨリ島を考えております。本島に建てるには少々危険でありましょうからな」
「タケヨリ島というと、貴家の私有地ではありませんか」
「あの島が一番適していると考えた結果です。面積、火山熱による発電のしやすさ、湾口部の形状、新都市には最適と言えるでしょう」

 コトー・サハクの唇がにい、とつり上がった。しかし言葉を発しようとはしていない。
 これが新都市をセイラン家の影響下に置くための措置であることは語るまでもないことだった。そしてそれと同時に、都市の治安その他に関する責任の一切をセイランが負うという宣言でもある。
 主導権は握られるものの、憎まれ役をセイランに押し付けたままコーディネイター関連の恩恵にあずかれるというのは首長たちにとっても大きな利益と言えた。彼らももろ手を挙げてとまではいかずとも、消極的な賛意を得ることは可能であろう。

「何よりも、移住自体はコーディネイターのみを対象にしていないということです。新都市にはナチュラルも多く居住することとなるでしょう」
「…ウナト・エマ。貴殿の言っていることが理解できぬのだが。これは迫害を受けるコーディネイターを我が国に誘致するための政策であろう?」
「左様です。しかしお忘れではないですかな? プラントはともかく、地球に住まうコーディネイターの家族はその大半がナチュラルなのですぞ?」

 はっと首長たちが瞠目した。ウズミやアスハ代表に至っては苦笑を隠そうともしていない。

「表向きはコーディネイターが家族にいるナチュラルのための政策とします。コーディネイターのせいで謂れなき迫害を受ける同胞を救済するための措置としてね」
「…詭弁だな」
「当然でしょう? 政治など詭弁を金で包み込んだものなのですから」

 コーディネイター排斥論の渦巻く地上においてその建前は重要である。例えそれが紙きれ一枚分の薄さしかないものであっても、それを盾にして押しきればいいのだ。幸いオーブにはそれを可能とする政治的土壌があった。

「確かに成功すれば、その利益は計り知れないでしょう」

 黙していたウズミが張りのある声をあげた。その瞬間、ウナトは何かにのみ込まれるような感覚を味わう。この男が立ち上がる、ただそれだけのことなのに彼から目が離せなくなる自分がいる事に気付いた。

「またオーブは、その法と理念を守るものであれば誰であろうとも入国、居住を許す国です。彼らが我が国の民となることを望むのであれば、我らは彼らに対し相応の誠意を見せねばなりますまい」
「では、ウズミ殿。貴殿は本件に賛成すると?」
「然り」コトーの言葉にウズミは深く頷く。「我らが望むのは平和と安定。そのために必要であるならば私に否やはありません」
「では、アスハ代表。採決をお願いしたい」

 そう言いつつも、ウナトはこれが通るであろうことが簡単に予測できた。何故なら、自分を含め此処にいる皆がウズミの発する何かにのみ込まれていることに気づいていたからである。

 採決。十二人の内賛成八、反対三、棄権一。都市開発計画はオーブ政府によって可決、実行に移されることが決まった。



[29321] PHASE8 花より団子と団子より花
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/09/02 01:16
 世は並べてことも無し、とはいかぬらしい。
 C.E.五七年七月十日。なおもくそ熱い日差しに辟易しつつ、ユウナは空調の利いた自室でだらだらと抹茶をすすっていた。ニュースでは相変わらず大西洋連邦、ユーラシア連邦、おまけの東アジア共和国宇宙軍のプラント宙域駐留に関して賑わいを見せている。これを受けて新たにプラント最高評議会議員に選出されたシーゲル・クライン、パトリック・ザラ両名が三国を激しく非難し即時撤退を要求していた。
 もう見事なまでに不穏な空気が満載である。ちょっと息しただけでむせかえりそうで、思わず扇子を開いてぱたぱた仰いだ。やめようよー、戦争なんて儲からないだけでつまんないよー。思わずロゴス辺りにそう嘆願したくなった。

 空になった茶碗にお世話係のユリー・サザナミ改めユリー・エルスマンがお代わりを注いでくれた。礼を言って、ついでに茶菓子の追加も要求する。返答は可憐な微笑であった。ガッデム。
 つい先日入籍して新婚ほやほやのご婦人は、もう一人この部屋にいる人物にも茶を勧めて厨房へと去っていった。きっと何だかんだでほだされてお茶菓子を持ってきてくれるに違いない。…そんなわけないか。どうせ愛しい旦那様のために料理人から手ほどきを受けているのだろう。彼の舌と命のために、なるべく早い習得を祈った。

 しかし思ったよりも早かった。ユウナは熱い抹茶を一口すすりながら落ちた男の顔を思い出す。ユリーの夫ダフト・エルスマンはあまり地上のナチュラルに良い感情を抱いていないと思っていたが、先日久方ぶりに顔を見るとその気配はきれいさっぱり消えているように見受けられた。一体何をすればああなるのか。げっそりとやつれた色男を見て、自分が本来嫉妬に狂うべき喪男であるにも関わらずつい慰めてしまったではないか。
 まあ、にこにこと結婚報告をするユリーの目が、幸せいっぱいの新婦というよりも獲物を自慢するハンターのものだったことが大きく影響しているのだろう。その日は四六時中ドナドナの曲が頭から離れなかった。

「女性は怖いねえ。結婚は人生の墓場とはよく言ったもんだよ。そう思わないかな? トダカ三尉」
「…は。私にはわかりかねます」

 返答したのは、一人の青年士官だった。年は二十代半ばほどで、しっかりとした体つきと実直そうな顔立ち、まさにこれぞ軍人と言わんばかりの男である。ぴしりと隙なく着込んだ軍服ははっきり言って酷く暑苦しい。部屋のドア付近に直立不動の姿勢をとる彼にユウナは苦笑した。
 本来オーブ軍に所属するトダカが何故セイラン家の、もっと言うと自分の側に控えているのかというと。彼はユウナの護衛任務を受けているからであった。

 うん、簡単に言うとセイラン家がテロにあったのである。ユウナ自身はその場にいなかったのだが、聞くところによると正門あたりで何だか薬でも決めちゃってるような男が「青き清浄なる世界のためにー!」とか叫びながら爆弾持って突入してきたらしい。おそらくコーディネイターの大量受け入れにプッツンしたブルーコスモス――自称が頭につくと思う――の突発的行動なのだろうが、事態を受けたオーブ政府によってセイラン一族の警護が強化されることとなったのだ。
 無論、今最も狙われているのは計画推進者たる父ウナト・エマだろう。正直父上には悪いことしたかなーとか思いつつ、ブルーコスモスがブチ切れるくらい移民効果が上がっていることにほくそ笑んでしまった。実際タケヨリ島の新都市ワムラビの人口は五十万を越え、なおも増加の一途をたどっている。おかげで連日建築会社があちらこちらで住居を建て、その影響で株価もうなぎのぼりだった。

 予想されていた移住民の職業問題も、多くがコーディネイターだったせいか彼らの職自体はすぐに解決できた。ただそれによる国民の就職率の低下を避けるための施策や調整などで行政府は地獄を見たようである。あのウナトですら「寝かせてお願い!」と叫ぶくらいだそうだから、その苦労は推して知るべし。ごめんねー!

 まあそんな悲喜劇を乗り越えた結果あちらの物語――所謂史実というものよりも、オーブのコーディネイター人口は増加したはずである。その余波でプラントが人的資源の面でちょっと苦労するかもしれないが、そこら辺はご勘弁願いたい。パトリック・ザラに知られれば殺されそうなことを内心で呟いたユウナは、ふと遠くからぱたぱたと足音らしきものが聞こえてくることに気がついた。
 くすりと笑み、トダカに扉を開けるようお願いする。次の瞬間、小さな影が室内に飛び込んできた。黒い髪にこげ茶色の瞳をした、三歳ほどの幼子だ。

「どうしたの、カナード。何か用事かな?」

 少年、カナード・シフォースはそのままユウナの側まで駆けより、無言であるものを差し出した。それは色とりどりの花で編まれた冠である。

「おお、よく出来てるねえ。ひょっとして僕にくれるの?」

「ん」カナードは表情を変えることなく頷いた。ユウナは頬をほころばせ、幼子の小さな手から花冠を受け取って頭に戴く。似合う? と視線だけでトダカに訊ねると、男は苦笑しながらも頷いてくれた。

「ありがとう、カナード。おじいちゃん嬉しいなあ」

 抱きよせて頬ずりをした。幼児特有のぷにぷにした頬っぺたが気持ちいい。カナードは無表情ながらも、どこか嬉しそうな雰囲気を発していた。
 しばらくの抱擁の後、カナードは標的をトダカに変えたのか、また小走りでそちらの方へ向かっていった。ロックされた側は少しばかり怯え腰になる。どうやらあまり子供の相手は慣れていないらしい。
 カナードはもう一つの花束――こちらは首飾りの様だ――をトダカに掲げた。

「む…私にかな?」

 こくりと頷く。困ったようにこちらを見てきたので、苦笑しつつ受け取るよう促した。するとトダカは面映ゆそうにしながらもそれを首にかける。

「ありがとう。とても綺麗だね」

 やはり無表情だ。赤ん坊の頃はあれほど感情豊かだったのに、最近はめったに泣かないし笑うこともなくなった。別に何も感じていないというわけではない。ただ内心を表に出さなくなっただけである。そうなった理由にこれといった心当たりもないので、おそらくは生来の気質なのだろう。史実ではあれだけ狂戦士していたのに。
 トダカに花を渡すと、カナードは再びユウナの側に戻ってきた。その頭を撫でてまた微笑む。弟と言うよりかは、やはり孫を見るような心持になってしまうのは仕方がないだろう。年齢的に考えて。

「カナード、カナード? ここにいるの?」

 そんなちょっぴりへこむことを考えていると、開け放たれた扉からエレン・シフォースが顔を出した。服装は仕事服たる白衣ではなく普段着である。彼女はユウナの傍らにカナードを見ると、少しだけ眉をひそめて部屋に入ってきた。

「もう、駄目じゃない。お兄ちゃまの邪魔をしちゃ」
「じゃま、してない」
「してるの。いつも言ってるでしょう? ユウナお兄ちゃまはお仕事で忙しいの。だから我がままで困らせちゃいけませんって」
「まあまあ、エレンさん。そのくらいで。カナードはこれを届けてくれただけだから。ね?」

 ここのところ教育ママと化したエレンにユウナは苦笑した。どうでもいいが、怒っている姿がお菓子を取られて頬を膨らませている童女にしか見えない。本当に二十二なのかこのお嬢さんは。

「ユウナ様はカナードに甘すぎです。奥様もおっしゃってましたよね? ちゃんと叱る時は叱らないと、将来苦労するのはこの子だって」
「やー、それはわかるんだけど。でもほら、まだ小さいし…」
「関係ありません。ほらカナード、こっちにいらっしゃい」

 しかしカナードはユウナの背に隠れるように下がってしまった。エレンの柳眉がよろしくない角度を描いていく。見かけが童女であろうが美人が起るとものすごく怖いのである。

「そういえばエレンさん! 今日はお休みなんですねえ! 久方ぶりに親子水入らずで遊ぶと言うのもいいんじゃあないですか?」

 慌ててごまかしに入った。ちょっとトダカ三尉、そんな所にいないでこっちを手伝って頂戴。そう視線に思いを乗せると思い切りそらされてしまった。畜生ブルータスめ。
 ユウナの引きつった笑顔にあきれ果てたのか、やがてエレンは大きなため息を吐いた。

「…そのつもりで来たんですけど、カナードがなかなか捉まらなかったんです。屋敷にいると思ってたのに、まさか庭へ出ていたとは…」

 さらに深くカナードが身を縮こまらせた。まああれだけ外に出るなと言いつけられていたにもかかわらず、庭とはいえ屋敷から抜け出したことを咎められると思っているのだろう。そしてそれは正解である。後でエレンがこっぴどく叱る情景がまざまざと思い浮かび、ユウナは苦笑した。
 オーブ国内は比較的安全ながら、世間一般ではコーディネイター排斥論がもうこれでもかと言う程渦巻いている。その上安全と言いつつオーブですら御覧の有様であった。不幸中の幸いはセイランへのテロ以降、続くものが出ていないことなのだが、だからと言って安心するにはあまりにも情勢が悪すぎた。

 少し調べればシフォース一家がセイラン別邸に暮らしていることも容易に知れよう。そうなれば彼らもまた標的の一つに数えられる可能性もあった。そうした検討の結果、幼きカナード少年はセイラン邸に軟禁といって差し支えない状況に置かれているわけである。そりゃストレスもたまると言うものだ。

「…おそといきたい」

 子供に入らぬ苦労を強いているという負い目があるためか、教育上必要な部分以外ではエレンもユウナも強く出られない。うっと声を詰まらせ、無言で訴えかける幼子に気圧された。

「ユウナにいちゃは、おそとでてるのに」
「だ、だからユウナお兄ちゃまはお仕事だって…」
「じゃあおれもおしごとする」
「そうきたか」

 思わず感心してしまった。じろりとエレンの視線が頬に突き刺さる。

「そりゃまあ、仕事の都合上外出することもあるけどさ。今日だって午後からワムラビのモビルスーツ研究所に出向く予定があるし」

 ぱっとカナードの雰囲気が輝いた。顔ではなく雰囲気なのがこの子らしい変化である。ユウナはどうしたもんかと、ブルータスことトダカへ視線をやった。彼は見事なまでに渋い表情を浮かべて首を横に振っている。

「でもさすがにこれ以上閉じ込めるのも可哀想だし……何とかなんない? トダカ三尉」
「お気持ちはわかりますが…お奨めは致しかねます」
「そうですよ。ほら、カナード。今日はママと御部屋で遊ぼうね?」
「やだ」

 しかし子供にそうした事情はわからない。カナードは表情筋を少しも動かさないながら、しかし不満をありありと表現していた。ここまで来ると負い目があろうと親としての自覚が鎌首をもたげるようだ。ぴくりとエレンのこめかみが引きつる。

「カナード。いい加減にしないと……」
「よし、それじゃこうしましょ」

 覆いかぶせるようにユウナはぽんと手を打った。背中に流れるのは冷や汗では断じてない。ユウナのだし汁である。

「カナード、今から言うことをしっかり覚えておくんだよ?」
 幼子の目線に合わせるよう腰を折り、未だ哀れな護衛対象を救おうともしない薄情軍人を指差す。カナードは小首を傾げた後こくんと可愛らしく頷いた。

「あれがパパだ」

 トダカがそれはそれは変な顔をした。次いでこちらの意図に気付いたのかさっと顔を青ざめさせる。

「そして、ママ」

 エレンの場合は改めて宣告する必要はないが、一応付け加える。彼女もトダカの段階でそれに思い至ったのか、げぇ、という感想を隠そうともせず頬をひきつらせていた。

「最後に、僕がお兄ちゃん。わかった?」
「…? うん、わかった」

 素直な良い子である。自分とエレンの教育方針が間違っていなかったと思わず涙がちょちょ切れてしまいそうだった。

「お待ちくださいユウナ様! そ、それはいくらなんでも」
「さあパパ。出かけようか。僕、カフェ『下剋上万歳』のフルーツジュースが飲みたいなあ。カナードはどこに行きたい?」
「…おそと、でていいの?」
「勿論。パパとママも一緒だから大丈夫だよ」
「じゃあ、おはながみれること」
「ふんふん、お花か。となると国立オロファト植物館だあね。あそこには美味しい揚げドーナツの屋台があったから、それも追加ですな」

 ユウナ様! トダカが鋭い声で反対の意を述べたが、ユウナはそれを苦笑のみで押しとどめた。どうせい午後から出かけるのだから、その前に少しくらい子供の我がままに付きあったとて罰は当たるまい。

「大丈夫、狙われてるのは父上であって僕の警護なんて保険程度なんだから。それは自覚しているでしょう?」

 そうでなければ、士官学校を出て幾ばくもしない若造に御鉢が回ってくるはずがないではないか。そう言外の意を悟ったのだろう。トダカの顔に若者らしい赤い感情が宿った。落ち着きなさいな、と彼を手招きする。

「まあまあ。それでもセイランの護衛に回されるってことは、そんだけ期待されてるってことでしょう。そう悲観するものでもありますまいや」
「…失礼しました」
「ともかく、もう決まったことだから。それともこのカナードに今更やっぱ駄目、なんて言えますか? やーいやーい、冷血かーん」

 きらきらと喜びの雰囲気をまき散らしているカナードを前面に押し立てると、トダカだけでなくエレンまでもがうっと言葉を詰まらせた。やはり子供の純粋な感情は恐るべき凶器である。今度試してみよう。

「世の中って諦めが肝心だと思うよ!」

 何かものすごい目で睨まれたけど華麗に無視した。地位と権力ってすごいね!






 オーブ連合首長国首都オロファト。母なる火山ハウメアの腕に抱かれた南太平洋で最も栄えている大都市である。三日月を描く湾部の中心として古くから良港としても知られたオロファトは政治の府のみならず海洋貿易の一大拠点としても有名だった。今も眼前で、エメラルドグリーンの海原を切り裂き、大小様々な船が蒼穹の果てより来訪し続けている。
 詩人があれば千の歌を紡ぎ称える程の美しさがここにはあった。

「いやあ、なかなか楽しかったねえ。花だけじゃなくて果物まで成ってたのはちょっと意外だったけど」

 オーブ自然公園は天と地の青に色鮮やかな花々を描いていた。ヤシの木が水面に煌めく光の粒を受けてきらきらと輝いている。潮騒と共に響くのはその多くが笑い声だった。

「おはな、いっぱいだった」

 それは家族連れであったり、恋人であったり、友人であったりと実に様々な関係の人々である。帽子をかぶった少年がスケボーに乗った少年に笑いかけ、風船を持った小さな娘が父親にソフトクリームをせがんでいる。あるベンチに座るカップルは、つい通りがかりの女性に目が行ってしまった男が平手打ちを食らっていた。ざまあ。
 そう言う意味では、自分たちもありふれた家族の一情景に過ぎなかったであろう。ベンチに座った六歳と三歳の男の子がフルーツアイスを食べ、それを両親が苦笑交じりに見守っている。極々当たり前の、それが故に貴重な光景だった。

「揚げドーナツは美味しかったんだけど、あっちのマンゴー饅頭は微妙だったよ。もう甘くて甘くて、ちょっと砂糖入れすぎじゃね?」
「みたことないはな、いっぱい」
「カナードは本当にお花が好きなのね」

 母親、もといエレンが微笑みながら幼子の頭を撫でた。その手はすぐにハンカチへとってかわり、べたべたと口の周りを黄色に染めているクリームを拭いとりにかかる。

「それとユウ――君は食べすぎです。ドーナツ、お饅頭、クッキー、果ては試食のバナナまで。どんだけ食べる気ですか」
「植物園で熟れに熟れたバナナ超美味しかったです」

 ユウという安直極まりない偽名で呼ばれたユウナは満面の笑みで答える。いや、さすが南国。目茶目茶うまかった。

「お父さんも何とか言ってください」
「は? あ、いや、しかし……」
「パパ、あんまり挙動不審だと目立つよ」

 思わず肩を震わせた。どうやら突き抜けて開き直ってしまったらしいエレンは外出以降、一貫してトダカの妻を演じ切っていた。その演技力たるや有名劇団の俳優も真っ青と言うレベルで、パパは困惑しっぱなしである。いわく、女性は生まれながらの女優なのだそうだ。
 トダカも一応任務と言うことで割り切っているのだろうが、やはり生来の気質からか心なし引いているように見受けられる。まあそれでも頬を赤く染めている辺り、まんざらでもないと見てはいたが。フラグですね、わかります。

「若いって、いいねえ」

 思わず年寄の感想が漏れる。カナードが「わかい、いい」とオウム返しで頷いた。間違いなく意味はわかっていない。

「…ユウ君は本当に六歳なんですか?」
「僕が年寄りだとでも言うのか! 曲がり角とは違うんです!」

 ぶん殴られた。

「え、エレンさん! それはいくらなんでもやりすぎでは…」
「母親としての教育的愛の鞭です。だから問題ないです。ええ問題ないですとも。赤道の太陽のせいでどれだけケアが必要なのかも分からない我が子にみっちりと現実を叩き込むのは親の務めでしょう。ね、パパ?」

 何か最近エレンに遠慮がなくなってきた気がするのは、果たして自分の錯覚だろうか。気のせいついでに言えばユリーも最近暴力的だった。何これ、集団でいじめられているのであろうか。ユウナは少しだけ泣きたくなった。

「まあ、冗談は置いといて。カナード、楽しかった?」

 冗談、そう冗談なのだ。そうに違いない。現実逃避ぎみにそう考え、ユウナはアイス棒を名残惜しそうに握っていたカナードの頭を撫でる。
 ぶんぶんと、この子にしては珍しく何度も何度も頷いていた。その様子に自然と頬がほころんでいく。こんなに喜ぶ様子が見れただけでも、来たかいがあったというものだろう。

「それじゃあそろそろ解散して、僕らはワムラビの方へ――」
「近寄んなよ、改造人間!」

 こちらのささやかな楽しみを見事に粉砕してくださりやがったのは、そんな子供の声だった。



[29321] PHASE9 スーパー波平タイム
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/08/28 03:10

 オーブ国防軍三尉のトダカは、正直困惑していた。
 士官学校を経て任官した後様々な経験を積み、さあどんどん腕を磨くぞと決意を新たにしていた彼を待ち受けていた理不尽な任務。オーブ屈指の名門セイラン家の総領、つまりトダカが最も苦手とする権力者の護衛なる役目に彼は暗澹たる気分で臨んでいた。陸戦隊か艦内勤務、もしや宇宙部隊のパイロットか、と配属に若者らしい大いなる期待を寄せていたトダカにとって、この扱いは憤慨するに余りある出来事である。

 同期の友人はイージス艦の乗組員であったり、リニアガン・タンクの砲手であったりと華々しい職場で活躍しているのに自分はお偉いさんの、しかも甘やかされて育ったぼんぼんのお守。腐るほどまではいかないが、何となく鬱屈した気分を抱えるのはどうしようもないことだと思う。
 おまけに護衛対象を詳しく調べたところ、前評判では『我がまま御曹司』の名をほしいままにする、生粋の問題児とかなんとか。正直言ってどれだけ自分の精神と堪忍袋が持つか、トダカは真剣に悩んでいた。精神を病んで入院、そんな未来を予想し顔を青ざめさせたのも一度や二度ではない。
 その不安は、予想の斜め上をいくものの見事に的中した。別の意味で胃が痛くなったのである。

 護衛対象ユウナ・ロマ・セイランは世間の評判をあざ笑うかのように理性的な人物だった。むしろ本当に子供か? と思う程論理的な思考を行い、大人顔負けの分析をするような意味不明な少年。かと思えば今回のように全てのデメリットを考慮しつつ華麗に度外視する無思慮な行動も平気で行うという意味不明な事もする。本当によくわからない人間だった。
 そんな彼は今、思い切り不愉快そうに顔をしかめていた。

「お前みたいなズルする奴なんかが、何でオーブにいるんだよ!」
「何でもできるからって、俺ら見下してそんな楽しいのか。ああ!?」

 少し離れた所にいる三人の子供、それが原因だった。七、八歳ほどの少年が二人とそれより幾分か下の少女が一人。その内の少女は瞳にこらえようのない涙を浮かべ、ぐっと俯いてワンピースの裾を握りしめていた。それを見て、トダカもユウナと同じ顔をする。水色が鮮やかな服の布に、白いアイスクリームがべったりと付けられていることに気がついたのである。誰が何のためにそうしたのか、この状況を見て気付かぬほど自分は節穴ではなかった。

「そんなこと…してないもん。ズルなんて……」
「はあ? 遺伝子弄ってるのの、どこがズルじゃないって言うんだよ」
「気持ち悪ぃ、コーディネイターなんてよ!」

 ぎり、と誰かが奥歯を噛みしめる音がした。ちらりと見れば、エレン・シフォースが目を釣り上げて少年たちを睨みつけていた。そう言えば彼女もコーディネイターだったか。最初に教えられた情報を思い出し、トダカは居たたまれなくなってその美しい横顔から視線を外す。

 これはオーブの直面している現実の一つであった。現在セイランを中心とした政府の決定によって、オーブのコーディネイター人口は近年あり得なかったほどの伸び率を記録している。その結果、ナチュラル:コーディネイター比率も大幅な変動を迎えており、オーブ社会もまた変化を余儀なくされたのだ。
 基本的にこの国はコーディネイターを差別しない。遺伝子操作の是非に関わらず社会的にも保障され、一国民として保護をしてきた数少ない国家である。しかしそれでもなお、全てのナチュラル国民が彼らを受け入れているかと言えば、決してそんなわけがないのだ。
 個人間の諍いのみならず、パワーハラスメント、差別やいじめ、そうしたものは決して消えはしない。

「たかが肌の色、信じる神、言語、その程度の違いだけで誕生以来殺し合ってきたのが人間ですもの。軋轢が起らない方が驚きだね」

 かつてトダカにそう言ったのはすぐ足もとにいる御曹司だった。その時の彼の瞳はまるで疲れ切った老人のように枯れ果て、砂のように乾ききっていたことを今でも覚えている。あれが子供のする目なのかと衝撃を受けたことも。
 ともかく、止めるべきだ。周囲の市民たちはこの騒ぎを遠巻きに眺めているだけで何らの手も打とうとはしていない。子供の喧嘩だからなのだろうが、少女がコーディネイターだからと考えるのは果たして穿ちすぎだろうか。
 トダカが一歩前に踏み出そうとした瞬間、しかし別の声がその行動を遮った。

「やめなさい、貴方たち!」

 幼い娘をかばうように躍り出たのは一人の少女だった。年の頃は十五、六ほどだろうか。栗色の髪に整った顔立ち、結いあげた髪をなびかせて彼女は頬を紅潮させて少年たちを叱りつける。

「寄ってたかって女の子をいじめるなんて、恥ずかしいとは思わないの?」
「な、何だよ、あんた! 関係ないだろ!」
「そうだ、引っ込んでろ!」

 突然の介入者に一瞬だけひるんだ少年たちだったが、すぐに我を取り戻して食ってかかった。

「コーディネイターだろうがナチュラルだろうが、自分で選んで生まれてきたわけじゃないでしょう! 生まれで人を差別したって仕方ないじゃないの!」
「うるさい、コーディネイターってだけでもうずるいじゃねえか!」
「なんでそんな改造人間をかばうんだよ! …あ、さてはお前もコーディネイターなんだろ!」

 一瞬、明らかに栗色の少女がひるんだ。その様子に図星をついたと思ったのか、少年たちの顔に嘲弄の色が浮かび上がる。

「ほら、やっぱりコーディネイターなんだ」
「ち、違うわ。私はコーディネイターじゃ……」
「うそつけ! じゃなきゃ遺伝子の化け物なんてかばうわけないじゃないか!」

 やはり止めるべきだ。そうトダカが思い至った瞬間だった。


「やめんか、戯けッ!」


 あらゆるものを押し流すような大音声が円心状に響き渡った。少年たちも、栗色の少女も、コーディネイターの幼子も、周囲の人間も、自分たちも、この場にいる全ての人間の動きが止まった。
 それをなしたのは、すぐそばにいる六歳の少年だった。彼はいつも浮かべている飄々とした笑みを綺麗に捨て去り、凄まじい怒りに顔を歪めていた。

「さっきから黙って聞いていれば好き勝手ぐちぐちと、いい加減にせんか小僧ども! 改造人間? 遺伝子の化け物? 何抜かしているんだこの大ボケ! こんなに可愛らしいお嬢さんのどこ見たらそんな感想が出てくる、一度眼科行ってその節穴ふさいでもらってこい!」

 ユウナはずんずんと少年たちの元まで進むと、その小さな体のどこにそんな力があるのかと言うくらい大声で言葉の鞭を叩きつけた。

「お前たち、ここをどこだと思っている! オーブ連合首長国、ナチュラルだろうがコーディネイターだろうが、んな些事放ってのほほんと暮らせる阿呆みたいな国だぞ!? そんな所に居ながらレディに暴言吐くとかあり得んと思わんかオーブ紳士的に考えて! 死ね。氏ねじゃなくて死ね! 首吊って内臓ぶちまけてむごたらしく苦しみ抜いて死んで詫びてこい!」
「な…なんだよお前は」
「どこにでもいる通行人Aに決まってるだろう、そんなことすら見てとれんのか! ママの股座からやり直せ馬鹿もん!」

 下品だ。すごく下品だった。

「お、お前、俺たちが誰だかわかってんのか? 俺たちは」
「知るかボケ! 何様だろうが神様だろうが世の中冗談でも言っていいことと悪いことがあるわ! おまけにこんな美少女捉まえて暴言吐くとか何考えてんの? 不能なの? それともホモ? ウホッなの?」

 本来ならば脱力するべき場面なのだろうが、生憎とトダカはそうした気分になれずにいた。理由はユウナ・ロマが辺りにまき散らしている圧力があまりにも禍々しかったからである。
 怖い、とにかく怖い。士官候補生であったころに自分を徹底的にしごいた鬼教官もかくやと言う程の空気だった。生存本能が今すぐここから逃げ出せと悲鳴を上げている。こんな子供にいい年下大人が気圧されるなんて、などの悔しさは一切浮かんでこない。ただただユウナ・ロマという少年が心底恐ろしかった。

 正規の軍人であり、しかも直接相対していない自分ですらそうなのだから、むしろあの少年たちが未だ気を失っていないことの方が驚きである。自分ならば失神していると確信を持って言えるのに。歪んでいるとはいえ見事な根性だ。
 しかしそれも限界に近いようである。顔を青ざめさせた少年たちは今にも失禁しそうに身を震わせていた。止めた方がいいのは分かるが、出て行った結果矛先がトダカに向くことだけは何としても避けたい。この年になってズボンを濡らすなど想像したくもなかった。
 そんなトダカの願いを慈悲深きハウメアは聞き届けてくれたらしい。

「若様方、いかがなされました!?」

 自分ではない新たな闖入者が現れてくれたのだ。がっしりとした体つきの男が二人。黒いスーツにサングラスと、いかにもそちらの商売に携わっているような連中である。男たちは震える子供たちを背にかばってユウナに剣呑な眼差しを向けた。
 返答は、それらが子供の児戯に等しく見える程の猛々しい一瞥だった。明らかに正規の訓練を受けたであろう男たちですらびくりと身体を震わせる。しかしプロとしての意識が勝ったのか、若干の怯えを潜ませながらもユウナをしっかりと睨みつけた。今度こそトダカは守るべき御曹司の背後、少女らをかばう位置に陣取る。

「何だ、貴様らは!」
「だからさっきから何度も通りすがりの一般市民Aだと言ってるだろうが何聞いてたんだお前ら!」

 いや彼ら今来たばかりだから。そう突っ込みたかったが残念ながら空気的に不可能であった。トダカは嘆息する。案の定、男たちはそんなの知るわけないだろうと怒りの気炎を上げた。

「若様方になんてことを…ワイド様、ファンフェルト様、お怪我はありませんか?」
 黒服の男に気遣われて、とうとう少年たちはわっと泣き出してしまった。しかし男の吐いた台詞は、この大火にさらなる燃料を放り込む結果となってしまったらしい。

「ワイド…ファンフェルト……? まさか、ワイド・ラビ・ナガダとファンフェルト・リア・リンゼイか?」

 ユウナがわずかに驚いたような声をあげた。同時に彼の言葉にトダカの眉もぴくりと動く。ワイド、ファンフェルトという名に心当たりはなかったが、その後ろに付いた家名には聞き覚えがあった。ナガダ家、リンゼイ家と言えば、ホクハ家やサカト家などと同じ下級氏族の家柄である。
 アスハやセイランといった五大氏族には遠く及ばないが、自分たちのような平民からすればそれでも雲の上の存在と言えた。なるほど、「俺たちが誰かわかっているのか」とはこういう意味だったのか。

「何だ、知っているのではないか。そうだ、この方々は栄えあるナガダとリンゼイの――」


「こんの……大戯けがあ!」


 先ほどのものすら超える音声が爆発した。至近距離でその大声を聞いてしまったトダカの耳が血を噴き出しそうになる。

「なお悪いわこん大ボケどもが! 氏族? おま、氏族が国民差別ってどんだけの影響があると思ってんの? 馬鹿なの? 死ぬの? こっちがどうして血反吐出して脳汁じゅるじゅるになりながらも移民計画進めたか、理解すらしてないの? はい死んだー! ナガダとリンゼイの政治生命枯れ果てましたー!」

 子息のみならず仕える家すらも侮辱されたと感じたのか、黒服の顔色が変わった。鋭く研ぎ澄まされる殺気にトダカは内心で肩をすくめた。ぽんと主の方に手を置き、窘めるように口を開く。

「それくらいにしておかれたらどうです? これ以上は子供の喧嘩では済まなくなりますよ」
「失礼な。どこからどう見ても微笑ましい子供の喧嘩じゃない」

 どの口が言うのかこのクソガキは。

「心にもないことを言わんで下さい。そちらも、今ならまだ我々だけの問題として済ますことができますが…」
「主家をああも罵倒されて、収まりがつくとでも…?」

 人間、あまりに怒りすぎると逆に冷静になると聞いたことがある。刃のように冷たい言葉を全身に浴び、トダカは南洋にもかかわらず肌寒い思いに襲われた。まあだからと言って遠慮する気は微塵もないが。

「だ、そうですよ。いかがなさいます、ユウナ・ロマ・セイラン様?」わざわざフルネームで問いただしたことを彼は正確に把握したようだ。
「そりゃ貴方。親も巻き込んだ大闘争するに決まってるじゃないですか」

 にやりとユウナの頬がゆがんだ。言うまでもなく演技であろう。政治に疎い自分ですら、この小さな悪魔に諍いを表面化させるつもりはないことくらい理解できた。利益になるならば鬼の首を取ったように喜々として行うが、そうでないのならば無駄な労力を一切掛けないのがこの守銭奴の性格である。短い付き合いながらトダカの骨身にはそのことが徹底的に染みついていた。

「――セイラン、だと……!?」
「左様です。こちらの御方はセイラン家の御総領、ユウナ・ロマ様にあらせられます」

 誰が聞いているかわからない為、極々小さな声で囁いた。聞こえているのは黒服と少年たち、そして後ろの少女らくらいであろう。
 トダカはこっそりと軍の身分証明書を差し出し黒服たちに見せた。自分の立場を明かすことでユウナの言葉に裏付けをするためである。

「あ…いや…これは、その」

 サングラスの上からですら見てとれるほど、男たちの顔が青ざめていった。
 前時代的な首長制度を色濃く残すオーブであるが、実のところ氏族同士の家格に関してはそれほど厳密な身分社会を構成しているわけではない。サハク家の例があるように下級氏族といえども功績次第では五大氏族へ昇格されることもあるし、地位は常に変動するものであった。故に身分的にはセイランといえどもこの両家に対して高圧的に出ることはできないはずである。そう、身分的には。
 しかしそこは時代遅れのシステムを支えるべく超実力主義をとっているオーブ。はっきり言って経済的、政治的な規模ではナガダ・リンゼイの二家を合わせてもセイランには太刀打ちできぬ差があった。正直、正当な理由があればぷちっと簡単につぶされてしまう程度でしかない。
 氏族というのも大変だ。トダカは自身が平民であることに小さな安堵をおぼえた。

「まあ、子供は喧嘩して育つもの。そして喧嘩した後にはきちんと謝罪して仲直りというのが良き伝統というものでしょうや。…そうでないかい、御両人?」

 大事にする気はないからとっととこの少女たちに土下座しろ。温和な口調でその実恐ろしいプレッシャーを背負ってユウナは微笑んだ。それを受けた子供らがびくりと肩を震わせる。

「……若様方、ここは」
「え…な、何だよ」

 味方であるはずの黒服たちにまで窘められ少年たちは今にも気を失いそうなほど顔色を失っていた。押し出されるように前へ出た二人を遮らぬよう、ユウナとトダカはすっと横に移動する。

「ご……ごめん……なさい」
「もう…言いません。許してください………」
「え……あの………」

 栗色の少女が励ますように彼女の肩を抱いた。小さな少女はきゅっと唇をかみしめて、一度だけ大きく頷いた。

「…もう、いいですから」

 その言葉に空気が一気に弛緩する。黒服の男たちは若君二人を連れてそそくさとハイヤーに引っ込んでしまった。まるで逃げるように――実際に逃げているのだろう、この悪魔から――去っていくエレカを見送ったユウナは、すっと二人の少女と向き合った。彼女らの顔が目に見えてこわばっていく。しばし痛々しいまでの沈黙が場を支配した。
 そして。

「…てへ!」

 空気が死んだ。
 それはもう、恐ろしいまでに張りつめていたものが弛緩したのであった。

「あれ、何この空気。おかしくね? 軽いおちゃっぴーだよ? ほら、何か超場が重かったって言うか、それを和ませるための。イッツァユーモア! ユーモアは大切!」
「この生き物のことは置いておくとしてだ。いや、本当にすまなかった。君たちには不快な思いをさせてしまったようだね。国に仕えるものとしても、またオーブ国民として非常に申し訳なく思う」
「あ、ちょっと! 何人の台詞とってるんですこの野郎! 人に汚れ押し付けといて自分だけいいとこ取りするなんて、こんの、ロリコンが!」

 トダカは未だ困惑を頭に住まわせている少女たちにぎこちないながらも微笑みかけた。虫のいい話だとは思うが、一人の国民として彼女らにこの国を嫌ってほしくはなかったのだ。

「だが、全てが全てあのような人間ばかりではない。ナチュラルだから、コーディネイターだからという考えにとらわれない人は大勢いる」
「無視? 無視と来ましたか!? ぺドめ! きっと甘言でこのお嬢さん方を躍らせてローリーハーレムを作る気だな変態! オーブ紳士条約機構所属紳士たる僕の目の前でそんなうらやまけしからん真似をさせるわけには耳が引きちぎれそうなほど痛い痛い痛いー!」
「ユウ君、いい子ですからちょっとだけお口を閉じましょうねー?」
「らめえ、壊れちゃうのー! あ、お願いエレンさんマジやめ」

 耳を引っ張られて何処かへ連れて行かれるユウナを横目でとらえつつ、トダカは一度大きく咳ばらいをした。本当なら鉄拳を交え如何にトダカがロリコンではないかを三日三晩ほどこんこんと教え込みたかったのだが、生憎とそれができる立場でもないため諦めざるを得ない。ロリコンじゃない。断じて。これといって女性の年齢にこだわりはないが、ぺド疑惑だけは否定させていただきたかった。

「…とにかくだ。少しばかり騒ぎも大きくなってしまったし、そちらのお嬢さんの恰好のこともある。とりあえずこの場を離れないか?」

 未だ混乱から抜け出せない彼女らにたたみかけると、トダカはやはりよくわからない主の解放を試みた。
 この道化っぷりが、素なのかはたまた少女たちを安心させるための演技なのかはわからない。しかし彼女らの顔から先の悲壮さすら感じさせる表情が消えていることに関しては、ユウナに感謝するべきなのであろう。
 軍人として、男として、オーブ女性の涙を見るのは心より遠慮したかったのだから。



[29321] PHASE10 蹴ってきた馬を刺身にした気分
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/09/02 01:19
 先ほどに比べれば幾分改善されたが、それでも場の空気がとても悪いとです。ユウナです。
 殆ど神速と言って過言ではない機敏さでリムジンを実家から呼び出したユウナは、流れるようなのどかな風景につい意識の大半を逃がした。広々とした車内には座席が向かい合わせになる形で設置され、ユウナとカナード、エレンが進行方向側に。名も知らぬ少女たちが相対するように腰をおろしている。トダカはとっとと助手席に座ったため完全に背を向けることでこの沈黙から離脱に成功していた。

 ついさっきのナガダ・リンゼイ両氏族のバカ息子どもとの喧嘩ほどではないものの、少女らの顔には色濃い警戒とそれ以上の緊張がありありと浮かんでいる。それはおそらくセイランの名を持つ自分に対してであり、またたたみかけるようにこんな車に押し込められたことへの不安に見えた。まあ、あんなことがあったのだから無理もない反応であろう。

「ま、とりあえず御名前を聞いていいかな? ちなみに僕はユウナ。ユウナ・ロマ・セイランね。こっちの子がカナードで、そのお母さんのエレンさん。ついでにロリコンのトダカ三尉だよ」
「ユウナ様、殴ってもよろしいですか?」
「やっべ。何か今日一日で明らかに対応が変ってるんだけど。え、扱い悪くね?」

 仮にも護衛対象に殴るとか。エレンもそうだが、ちょっと優しさがなくなっていないだろうか。おかしくない? 何がそんなに彼らを変えてしまったのだろうか?

「まー、とりあえずトダカ三尉の性癖話は置いておくとして。お嬢さん方の御名前は?」

 鋭い殺気が飛んできた様な気もするが、きっと何かの間違いだろう。そもそも武道の達人でもあるまいし殺気などという不確かなものを感じ取る技能はユウナにはなかった。
 少女らは互いに顔を見合わせると、おずおずといった様子で口を開いた。コーディネイターと言われていた、自分と同世代の金髪の娘がびくりと怯えを滲ませる。

「…あ……アビー・ウィンザー……です」

 何かすごく聞き覚えのある台詞が来たんですけど。まじまじと少女を見詰め、ユウナは内心だけで呆けた。アビーとは、あのアビーのことであろうか。ザフト軍艦ミネルバクルーの、アビー・ウィンザー。何故彼女がプラントではなくオーブにいるのだろう? そんな疑問が瞬く間に脳を埋めつくす。
 一瞬瞳が飛び出しそうな感覚に見舞われると、ユウナはなるべく動揺を表に出さないよう心がけて栗色の少女に視線を向けた。こちらはやはりそれなりの年齢だけあってしっかりとした答えが返ってくる。

「エリカ・ローレンスと申します。セイラン様」

 エリカ? ローレンス? ぱちくりとユウナは瞳を瞬かせた。エリカ。エリカ。栗色の髪、美人。女性のエリカ。苗字はともかく名前の方にものすごく聞き覚えのあったユウナはしばしじっと彼女を観察した。記憶にあるあの女性を幼くしたらきっとこうなるだろうと思えるほどにそっくりな容姿である。
 そう言えば、あの女性の苗字は結婚した後のものだった。とすれば、嫁入り前は異なるファミリーネームなのは当たり前なのではないか。思わず小首をかしげてしまった。
 ユウナの反応に戸惑ったのだろう。隣のエレンが何事かを尋ねてきた。そのことに頭をかきつつ苦笑する。

「いや失礼。ちょっとばかり聞き覚えのある苗字だったから。ええと、ローレンス、さん?」
「エリカで結構です」
「……私も、アビーと」
「ありがとう、エリカさんアビーさん。じゃあ僕のこともユウナと呼んでくださいな。それでエリカさん。ひょっとして貴方の御両親って、エンジニアのローレンス夫妻だったりしちゃったりする?」

 少しだけ鎌をかけてみる。もしもこれに肯定するのであれば、この栗色の少女が彼の技術者、エリカ・シモンズであることの証明に繋がるだろう。果たして帰ってきたのは、驚きを交えた肯定であった。

「……両親を御存じなんですか?」
「おおう」

 どんぴしゃである。自然と苦笑が浮かび上がってきた。よもや予期せぬ所でこんな相手と出会えるとは。思わず小躍りしたくなったが、車内なので自重することにした。代わりに栗色の少女に小さな微笑みを向ける、返答は訝しげな表情だった。
そこでユウナはおやまあ、という感想を抱いた。彼女の表情その中にかすかな、しかし隠しきれない動揺の色を見出したのである。ユウナはさらに苦笑を濃くした。彼女が何に怯えているのかは想像がついていたからであった。

「ちょっと仕事柄優れた技術者の情報を集めておりまして、ローレンスご夫妻の事はその折に、ね。本当に惜しい方々を亡くされた。お悔やみ申し上げます」
「…ありがとうございます。ユウナ様のようなお立場の方にそうまで評価していただけて、きっと両親も喜んでいると思います」
「それと、貴方の事に関しても口外するつもりはないんで。安心していただいて結構ですだよ」

 ぴくりと彼女の肩が震えた。きゅっと唇をかみしめ、彼女は睨むようにこちらをじっと見据えてくる。まあユウナの知る来歴の通りならば、この反応も致し方あるまい。内心だけでため息を吐いた。
 エリカ・シモンズは幼少期に受けた迫害から、自身がコーディネイターであることに屈折した思いを抱いていた。両親がS2型インフルエンザで他界した後オーブへ移住してきた彼女は、コーディネイターであることを隠しナチュラルとして振る舞っていたのである。

 エリカがどんな風に生きて、どうしてその答えに行きついたのかは所詮他人でしかないユウナには理解できない。それ故に彼女の行動指針に対しては一切の口出しをする気はないし、その権利もなかった。他人様の権利を侵害しない限りにおいて、その人の行動は何にも抑圧されるべきではない。ユウナの数少ない持論である。

「ありがとう、ございます」
「何の何の。あ、そうだエレンさん。アビーさんの洋服なんだけど、どこで買えばいいかなあ? 僕あんまり服飾とか興味なかったから」
「え? あ、ああ、そうですね」

 急な話題転換に戸惑ったものの、エレンはすぐさま求めていた回答をはじき出してくれた。といっても店名言われてもユウナにはさっぱりわからない。もともと服にはさほどこだわりがなかった上に、せいぜい子供服くらいしか見たことがないのだから当然と言えよう。

「ついでにカナードも服とか見ておこっか。このくらいの子はすぐに大きくなるから、候補くらい見ておいても損はないと思うよ」
「…ふくよりはなのほうがいい」

 残念ながらこの幼児もさして衣装に気を配っていないようだ。きっとこれからも彼の服はエレン辺りが見繕ってくるのだろう。このフラワージャンキーめ。

「あの、そんな。私は別に。…いいですよ、そんなの」
「その格好で家に帰るわけにもいかないでしょ? クリーニングするにしても、替えのものぐらい買っておかなきゃ。生憎うちには女の子がいないもんで、君くらいの子供服っておいてないんだよねえ。あれば直帰もできたんだけど」
「でも私、お金」
「大丈夫大丈夫。うちの連中が迷惑かけたおとしまえ付けるくらいのお金はあるから」
「でも……若様方のあれは……いつものことですし」
「…いつものこと?」

 わずかに声のトーンが下がった。それを明敏に察知したのか、アビーの顔色も比例して青白くなる。エレンから非難がましい視線を送られて、さっといつもの空気を維持した。

「そういえば聞いてなかったけど、アビーさんはあの子息たちとどういった関係で?」

 コーディネイターといっても外見だけで判明するという事例はあまり多くない。彼らの大半は非常に美しい容姿をしているが――勿論例外はある――それだけで出自が分かると言うわけでもなかった。大抵は人づてに広まるか、その圧倒的な能力によって露見するものである。

「おとうさんとおかあさんが…若様のお家で働いてて…だから、その…御当主様も…」

 ぽつぽつと途切れがちに話された内容を要約すると、次のようになる。もともと彼女はプラントで生まれ育った第二世代コーディネイターだったが、とある理由で地上に移り住むこととなった。彼女の祖父母――これは父方母方両方であるという――が地球へ帰りたい、土の上で死にたいと言い出したのである。
 ウィンザー夫婦は困惑した。両親の気持ちはわかる。しかし今の地上はコーディネイター排斥で盛り上がっており、一度降りれば身の安全の保証はない。何度も翻意を促したが、彼らは頑として聞き入れようとはしなかった。しまいには子供夫婦に迷惑はかけられないから自分たちだけで行くと言いだしてしまい、実際に荷づくりまで始めてしまったそうである。その決意の固さにウィンザー夫婦もついに折れ、共に地上への移住を決定した。両親からの愛情を一身に受けてきた彼らには、年老い弱った彼らを放っておくという選択肢はなかったらしい。

 そしていざ地球へ降りようとしていた折、同じようにナチュラルの両親を持つコーディネイターがオーブへ移住するという話を聞いたのだ。移住に際する職業支援を含め各種補助も充実しており、なおかつ新たに建設される都市はその多くの住人がコーディネイターであるという。ウィンザー夫妻はこれに飛びついた。
 かくて彼女ら一家はオーブへ移り住み、両親はとある企業からの熱烈なオファーを受けて無事就職、順風満帆かと思われたの――だが。

「…なるほど。そこは確かリンゼイが運営している会社だね」

 企業名を聞いた瞬間、内心思い切り叫びたくなった。
 畜生あの野郎ども他人様の金づるにちょっかいかけやがった! 感情を表に出さなかったのは良い判断だったと思う。これ以上この金髪の娘に怖がられるのは不本意極まりなかった。
 そりゃあ、いくらワムラビに関する諸々がセイランの権益であったとしても、全てを独占するわけにはいかないのが世の中というものである。そんなことをすればいかな五大氏族といえどもただでは済まないのだ。故に、ある程度のおこぼれは仕方がない。実際セイラン主導でコーディネイターの就職支援――要は各家傘下の企業体への橋渡し。ハローワークみたいなものである――を行い、それらに対応してきたつもりであった。それなのに、ああそれなのに。

 うち通さずに直接勧誘するなんて何考えてんだリンゼイ!

 未だ過渡期でありセイランの支配権が確立していない段階でそれは明らかなルール違反である。確立していないからこそ狙ってきたのだろうが、この手のお話は無秩序に見えてそれなりの決まりごとがあるのだ。だいたいである。こっちがどんだけ犠牲を払ってえっちらおっちら街作ったと思っているのか。あのど汚いサハクですら――否、汚いからこそその手の礼儀には気を払っているのだろう――こちらとの繋がりを大事にしているというのに。
 これは一度ちゃんと落とし前をつけなければならない。勿論ウナトがである。
 ユウナは頭に上った血を数度の深呼吸で下へと戻した。割と洒落にならない展開ではあるが、生憎と今この時に限って言えば関係ない話である。心を落ち着けて続きを促す。
 アビーは言った。両親はリンゼイでもかなり厚遇されており、事あるごとに一家丸ごと本宅へも呼ばれて歓待されていたと言う。そのせいで総領ファンフェルトとの知己を得ることとなったというのだが。

「その…若様はあまり……コーディネイターが好きじゃなくて……その、いつも私に…いじわるを」

 おや? とここでユウナは小さな違和感を覚えた。具体的ないじわるの内容を吟味するにつれ、それは大きくなり次第に明確な形をとって心内を圧迫し始める。
 いわく、蛇の玩具を髪に投げつけられる。いわく、物をよく隠される。いわく、スカートをよくめくられる。いわく、悪口を言われる。
 あれ、あれ?
 普通ならば憤る展開なのだが、何故だかユウナにはその気が起きなかった。エリカやエレン、トダカらはそうしているというのに、妙に引っかかるのだ。ユウナの他人様よりちょっとばかり長い人生経験が何がしかを囁いている。

「…ね、アビーさん。答えづらかったら答えなくてもいいんだけど。あの若さん方に、何か直接的な暴力をふるわれたりとか…なかった?」
「い…いいえ。そこまでは……」
「…………やっべ」

 思わず声が漏れた。途中からまとわりついていた違和感が一つの確度の高い推測へと姿を変え、罪悪感という針でもってユウナの心臓をつつき始めた。
 ――ひょっとしてそれって、気になるお嬢さんへちょっかいかけてただけなんじゃね?
 アビー・ウィンザーは美少女である。それはそれは将来性を感じさせる整った容貌で、あまり人の美醜に頓着しない自分をしてそう思わせるものを持っていた。同年代の――しかもあちらで言う小学校低学年くらいの年頃ならば惹かれない方が珍しいお嬢さんと言えよう。

 もしかして僕のやったことって子供のじゃれあいにマジ切れした単なる道化なんじゃないの? そう思い当った瞬間頭を抱えた。褒められないとはいえそんなほのかな想いにも気づけず殺気叩きつけるとか、大人気ないとかいうレベルではない。文字通り飛び降りて何もかもをなかったことにしたくなるほどの衝撃であった。
 どうしよこれ。謝った方がいいのだろうか。いやしかし実際言っちゃいけないということもあるわけだし。ユウナは思い切り頭を抱えた。
 エレンが何事かと尋ねてくるので、ご本人に聞こえない声量でそのことを伝えた。
 ものすごい微妙な顔が返事だった。

「よ、よよよよーしおじいちゃん何でもおごっちゃうぞー! エリカさん、君も何でも買いなさいな。服でも宝石でも迷惑料代わりに何だって買っちゃうぞ!」
「え? は? わ、私もですか? しかし…」
「そうだ。どうせなら夕飯とかも御一緒しない? ここ最近は父上も母上も行政府内の首長官邸から帰ってこなくて、さびしいんだよねー。アビーさんの御家族も誘って、ね!」
「わ、いいですね。うちの両親も呼んで大丈夫ですか?」

 声がひきつっているとか言うなかれ。現実逃避したっていいじゃない。

「当家は誰でもウェルカム。ついでにエルスマン夫妻も招こうか。トダカ三尉の御家族もどうぞ」
「は? いや、ユウナ様?」

 あまりにも唐突な展開にトダカが疑問の声をさしはさんだが華麗に無視する。こういうのは勢いが大事なのだ。それにこんな予期せぬ良縁、無駄にして成るものか。

「ぱーてぃ? おいしいものいっぱい?」
「そうだよ。カナードの好きなもの、一杯作ってもらおうねー」
「おさかな、おさかながいい」

 カナードの黒髪を優しく撫でる。子供の無邪気さが今はとても心地よかった。

「どうかな、お二方。勿論都合が悪ければ遠慮せず断ってもらってもかまわないんだけど」
「その、いきなりすぎて何と御返事すればいいか……私みたいな平民がセイラン邸にお邪魔するなんて、いいんでしょうか?」
「家人が招待してるんだから、良いに決まってるじゃないですか」
「…でしたら、その。お言葉に甘えさせていただいても?」

 エリカの顔に小さな苦笑がひらめいた。少しは警戒を解いてくれたのだろうか。ユウナは扇子で口元を隠して微笑んだ。次いでアビーの予定を尋ねる。しかし彼女の方は変わらず俯きがちで、こちらを見ようとはしていなかった。

「…あー、ひょっとしてもう予定が入ってる、とか?」
「…いいんですか?」

 あまりに声が小さすぎて一瞬内容が理解できなかった。次いでそれが許諾を問うているものだと把握すると、ユウナはもち当然と言おうとした。しかしその前に吐かれた台詞によって言葉は紡がれることなく舌で転がる。

「……私、コーディネイター……ですよ? ズル…した化け物……なんです」

 エレンとエリカの表情が強張った。彼女らが慌てて口を開こうとしたのをユウナは片手をあげる事で抑え込む。非難の声が上がりかけるが、それはユウナの一瞥によってすぐさま鎮火した。俯き震えるアビーをじっと見つめ、彼は扇子で口元をゆらゆら扇ぐ。

「ねえ、アビーさんは第二世代なんだよね?」
「……は、はい。そうです」
「なるほど。では遺伝子調整されたのは貴方ではなく御両親、もっといえば祖父母方というわけだね」

 ならば話は非常に簡単だ。ユウナは肩をすくめる。

「アビーさん、ズルしてないじゃない」

 そもそも遺伝子操作をズルと認識すること自体に異論があるが、そこは置いておこう。根本的な問題として、コーディネイターは自身がそれと選んで生まれてきたわけではない。第一世代ならば両親の意思で、第二世代に至っては両親がたまたまコーディネイターであったというだけではないか。いわば家が金持ち、血筋がいい、それと全く同じだった。

「僕がセイランに生まれたことは僕の意思ではない。アビーさんが今の御両親から生まれてきたことも貴方の意思ではない。どこにズルの要素があるね? それ言っちゃうと五大氏族の僕なんてもっとズルでしょうよ」

 本当に、何の因果でこんな異世界に来てしまったのか。仮にこの事態を引き起こした何がしかがいるのならば一発ぶんなぐってやらなければ気が済まなかった。自然と苦笑が湧き上がる。

「遺伝子操作って便利な言葉だよね。コーディネイターが生まれる以前から容姿や才能なんかの格差は厳然と存在したのに、今やその一言で全ての感情が集約されてしまう。実に人間的な状況じゃない」

 くくっと喉で笑った。ユウナは思う。結局のところ、コーディネイターは人類にとって最高の生贄であると。
 遺伝子操作以前から、世界は格差に満ち満ちていた。家柄、容姿、才能、本来であればどれ一つとして比べる意味のないものが、社会という共同体にとって「有用か否か」という基準で判断される。幼少期、運動ができるものがよくモテた。勉強ができるものがいい学校に進め称賛を浴びた。高い能力を持っているものが良い企業に就職して所謂勝ち組なるものになることができた。
 無論、これは本人のたゆまぬ努力があったればこその結果であろう。けれど多くの凡人にとって、彼ら才あるものと同じことをしたとて誰一人同じ地にたどりつくことはできまい。生まれ持った才。たったそれだけのことがありとあらゆるものの運命を決めてしまうのだ。努力していないのではない。努力が結果に結びつかないのだ。
 それははるかな昔、人間が社会共同体を構成した瞬間より連綿と続く事実である。その不満、妬み、行き場のなかったあらゆる負の感情がその矛先を見出してしまった。これこそコーディネイター最大にして最悪の不運といえよう。

「僕は凡人だからね。はっきり言って僕よりも優れている人間は、コーディネイターとナチュラルを問わずごまんといるわけだ。そこに是非はないよ。遺伝子操作しようがしまいが、それだけは絶対に変わらない。
 そしておそらく、それはアビーさんも、エリカさんも。エレンさんやトダカ三尉、カナードにとっても同じこと。貴方方より優れた存在は世界に満ちている。否、世界を越えたその先にすらね。そんな中でコーディネイターだから嫉妬する、なんて虚しくない?
 ズルも何も、世界ってそういうものだと僕は思うよ、どうしようもなくね」

 もっとも、それを知るが故に世界に喧嘩を売った人間もまた存在するが。ユウナはエレンと、そしてカナードを見て苦笑を濃くした。

「ま、妬む人間は何もしてなくても妬むもんよ。たまたま貴方方は格好の攻撃材料を持ってしまったというだけさ。ズルとかそうじゃないとか、遺伝子操作そのものは実際あんまり関係ないと僕は思うよ。
 まあ、簡潔に述べてしまうとだ。僕はアビーさんやエリカさんと仲良くなりたい。むさ苦しいロリコンや曲がり角よりも若くてぴちぴちした美人さんとお近づきになる方が断然いいに決まってるさ常識的に考え痛い痛い痛いー!」

 凄まじい殺気と共に耳に激痛が走った。何だかとても良い笑顔のエレンが口元をひきつらせて、ものすごい握力をユウナに知らしめている。

「嫌ですね、ユウナ様ったら。私、まだ二十二歳ですよ? ぴっちぴちの若者です。曲がり角なんて、もう、いけない子ですね?」
「でもあと八年で三十ほぎゃー!」

 足が砕け散りそうなほど痛かった。思い切り甲を踏まないで! とてもとても痛いから!

「ねえアビーさん。ユウナ様は性悪で根性無しでどうしようもないおバカさんですけど、コーディネイターだからって理由だけで人を嫌う方ではないですよ? 実際、私もコーディネイターですが、ユウナ様にはとてもよくしてもらっていますし。ね?」

 あれ、これ普通に泣いてもいいんじゃない?

「そう思ってるならお腹ぐりぐりしないで、あ、ちょ、やめて!」

 アビーとエリカが目を丸くした。驚きにしまった視線はエレンからカナードへと移り行く。彼女がコーディネイターであるということは、その息子である黒髪の幼子もまたコーディネイターあるいはハーフと思い至ったらしい。まあ厳密にはやや異なっているものの結果は同じなので何も言わなかった。

「だから自分がコーディネイターだからという理由だけで、誰かを拒むことだけはしないでください。勿論中にはどうしようもない人もいますけれど、それだけじゃない人もいますから。ここは、そういう国です」

 ね、トダカ三尉? エレンの優しい言葉に実直な軍人は笑みと共に肯定の返事を返した。しばしの沈黙が車内を支配する。それを破ったのは静かな、しかしとても熱い嗚咽だった。
 金髪の少女から流れ落ちる雫。それをユウナはとても綺麗だと思った。ほんの少しだけ笑みを浮かべる。
 と、唐突に袖が何かに引っ張られた。おやと思いそちらを見ると、カナードがじっと色の見えない瞳でこちらを注視していた。

「どうしたの、カナード?」

 何か気になったことでもあったのだろうか。小首をかしげるユウナに、黒髪の子供は深く深く、とても強い感情を込めた声で一言呟いた。

「でざーとは、ぷりんがいい」
「その発想はなかった」

 よもやこの空気でそんな発言ができるとは。大物、恐ろしいほどに大物である。ユウナは慄いた。何この子、もともと物静かだからそんなに気にしていなかったが、ひょっとして今の空気の中でずっと晩御飯のことを考えていたのだろうか。すげえ。色んな意味ですげえ。
 くすりと、さえずるような笑声が浮かんだ。頬を濡らした幼い少女がこらえきれぬという様子で口を手のひらで押さえていた。知らずユウナの顔もほころぶ。やはり娘さんは笑顔の方がきれいである。
 ユウナは意図せず最大の功労者となった少年に小さく笑いかけた。労働には対価を、資本主義の原則である。

「うん。プリンだけじゃなくて、パンナコッタも付けてあげる」
「ぱんなこった? それおいしい?」

 美味しいとも! ユウナはカナードの黒髪を撫でてそう言った。



[29321] PHASE11 爺萌え話
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/03/21 16:08
 タケヨリ島はオーブ本島北西に位置する国内第二位の面積を誇る島である。ひし形の姿を持ったこの島を中心として、周囲には大小二十を超える群島がちりばめられていた。かつてはセイラン氏族の拠点として栄えていたが、オーブ連合署長国建国以降政治・経済の中心がヤラファス島に移ったことで過疎化が進行したため、かつての繁栄は昔日の彼方へと消え去っている。今では高齢者化、過疎化に悩む一地方都市としてかつてを懐かしむだけの地と化していた。

 つい、一年前までは。

 しかしその忘れられし島は、再び未曾有の繁栄の時を享受する機会に恵まれていた。ほのぼのとした田舎風景はたちまち消え去り、代わって人工の大樹が天を貫く鋼の森が現れたのである。
 その地の名はワムラビ。一年にも満たぬ年月でありながら既に国内有数の人口を誇る大都市であった。総人口六十一万二一三一人でなおも増加中、おかげで郊外どころか都心部ですら建築業者が笑いながら泣いている有様が見て取れる。街で買い物に出歩けば、どこからともなく「逃げるのは鉄骨だ! 逃げないのはよく訓練された鉄骨だ! ホント建築現場は地獄だぜフゥハハハーハァー!」という笑声が響き渡るようになって既に数カ月。
 いい加減住人も慣れ切ってしまう程のカオスっぷりであった。交通は地方都市のころから続くフェリーなどの船舶であるが、再開発に伴い地下トンネルが建設中で完成すればオロファトまで地下鉄で四十分。通勤にも配慮されている。
 そんな活気と悲喜劇に満ち満ちたワムラビ郊外のとある施設に彼らはいた。黒塗りのハイヤーから降り立った四人組は眼前に打ち建てられた真新しい建物の威容を目の当たりにして薄く眼を細める。ユウナ、トダカ、エレン、そしてエリカであった。
 一度セイラン邸に戻ったユウナはカナードとアビーをユリー・エルスマンに預けた後、彼らは諸々の準備を整えて本来の職務に戻ったのである。即ち、本日午後より行われるセイラン家直属モビルスーツ工廠「アストレイ研究所」の視察だった。言うまでもなく史実を意識したユウナによる命名である。

「あの…本当にいいんですか? 私までこんな」
「気にしないで。こちらから是非にとお願いしたんだから」
 恐縮しきったエリカにユウナは小さく笑いかけた。
 本来ならばセイラン邸で留守番をしているべきエリカ・シモンズが何故この場にいるかというと、もはや語るまでもないことだが自分のわがままが原因である。史実においてはM1アストレイをはじめとしたオーブのモビルスーツ開発責任者であった彼女をこのまま逃すなど論外、論外だった。何とかこの分野に興味を持ってもらって、あわよくば就職してもらうんだぜげっげっげとか下心満載の行動である。ぶっちゃけサハクに渡すには色々と惜しい人材であるからだ。
 まあエリカ本人も技術者を目指しているだけあって、セイラン家最先端技術の研究所建学は好奇心をくすぐるものであったらしい。どうにか説得して付いてきてもらおうとしたのだが、訊ねた瞬間遠慮の膜につつまれた超新星爆発をユウナはしっかりと認識していた。やはり彼女もれっきとした学者なのだろう。
 四人は案内の元、これでもかという量のセキュリティを抜けて研究所のロビーに足を踏み入れた。そこには白衣をまとった眼鏡の男がにこやかな笑顔で待ち構えていた。

「ようこそ、アストレイ研究所へ。ご無沙汰しています、ユウナ様」
「こちらこそ。お元気そうで何よりだね、ジャン博士」

 年の頃は二十代後半。オールバックの白髪に理知的な鋭い瞳、整った顔立ちはどこか年齢を越えた渋みを醸し出している。きっと街を歩けば黄色い声がそこかしこからかかること請け合いな美男子であった。ガッデム。

「紹介するよ。この方はアストレイ研究所所長、ジャン・キャリー博士。博士、彼らは僕の連れ。右から遺伝子学者のエレン・シフォース博士、オーブ国防軍トシミチ・トダカ三尉、友人のエリカ・ローレンス嬢」

 それぞれの挨拶を交わし合うと、ジャンはちらりと視線を栗色の少女に向けた。エリカは居心地の悪そうな様子を見せたものの咎めもせず彼の観察を受け入れている。

「ジャン博士。あまり女性をじろじろ見るもんじゃないと思うけど」
「ああ、これは失礼。しかしユウナ様にだけは言われたくありませんな」
「おっさん見るより美少女見てた方が何倍も良いに決まってるジャマイカ」
「申し訳ありません、ローレンス嬢。失礼ですが、ひょっとして御両親は技術者のローレンスご夫妻ではないですかな?」
「あ、はい。博士も両親のことを御存じなんですか?」
「ええ。よくお二人の論文を見かけたことがありましたから。…本当に、残念です」
「ありがとうございます」

 そういえば、ジャンもまたこのインフルエンザで両親を亡くしていたのだったか。彼の心中を察し、ユウナはしばし白髪の男の黙祷に付き合った。しばしの後、空気を変えるようにジャンは全員を振り返った。

「それではこれより研究所内をご案内しますが、一つ注意事項があります。ご存じの通り、本研究所は高度なセキュリティプログラムによって防御されています。そのため、絶対に私からはぐれないこと、許可されていないエリアに入るようなことは御遠慮頂くようお願いします。一度セキュリティに引っかかってしまうと、後々非常に面倒なことになりますから」

 全員が頷くのを確認すると、早速ジャンは白衣をなびかせ歩きだした。フロントから預かった身分証明書を胸に付け、その後に続く。

「それにしても、その若さで所長とは。ジャン博士は非常に優秀なのですな」
「はは、本来ならば私のような若造がやるようなことではないのですがね。色々と事情があるんですよ」
 珍しくトダカが率先して口を開いた。てっきりエレン辺りが口火を切るかと思っていたのに、この真面目軍人にしては非常に珍しい。おそらく似た年齢で重職につくジャンに興味を抱いたのであろう。

「ま、博士の前でこういっちゃうのも何なんだけど。ぶっちゃけ押し付けられた役職だからねえ」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ」やはり彼女も興味があったらしい。エレンも好奇心を隠そうともせず瞳を輝かせていた。「もともとここの所長は、年長で実績も豊富な研究者三人の誰かが担う予定だったんだけどねえ。あの三爺ども、自分の研究に専念したいからって「んなの嫌じゃあ!」とか抜かしやがったんだよ。まったく最近のお若いのときたら…」
「それを言うなら最近の年寄り――んん、そうではなく。博士方もお忙しいわけですから、仕方がないのではないですか」
「お忙しい、ねえ。まあそういうことにしておこうか」

 あの三爺が額に汗して働いているという情景がどうにも思い浮かばない。どちらかというと喜々として機械を弄り回している姿しか現れてこなかった。まあちゃんと働いてくれているのだから何も言わないが。ジャンが恐ろしいほど皮肉気な眼差しで見つめてきたが無視である。

「あの、お聞きしてもいいですか?」

 扉の認証をクリアして扉をくぐった先には様々な観葉植物が埋め尽くす廊下に躍り出ることとなった。基本的に無機質な構造であるのはまあ研究施設らしい風体であるが、あちらこちらに装飾ですと言わんばかりにちりばめられている植物は一体何であろうか。設計段階であんなのはなかった気がするのだが。よもやカナードのごときフラワージャンキーが職員として紛れ込んでいるのではあるまいな。

「ここって、何の研究をされているのですか? 最先端技術とは聞いているんですけれど」

 そんな埒のない思考をこねくり回しながらジャンの先導に合わせて堅い床を踏みつけていると、エリカがこらえきれないという風に質問を口にした。すると白髪の所長はおや、という顔をしてユウナに振り返る。

「もしやお話されていないのですか?」
「うん、言ってない。超言ってない」

 何かため息吐かれちゃった! 泣いていい?

「失礼、ローレンス嬢。そうですね、何を研究しているのかですが…実物を見て頂いた方が話は早い。もうすぐですから、少し待っていただけますか?」

 やがて五人はそれなりに広い部屋へと通された。ごちゃごちゃと色々な機材が散らばっていて、お世辞にも綺麗とは言い難い。真新しいはずの建物にも拘わらず、まるで何年も泥臭い探求を続けてきたように煤けたような印象すら受けた。何人もの白衣を着た職員たちが資料なり装置なりを抱えてあちらこちらへと行きかい、それもまた慌ただしさという点でこの部屋を一種の混沌へと導いている。うち何人かがユウナの姿をとらえて軽く会釈した。

「だあ、もう! だめじゃだめじゃ! 全っ然だめじゃ!」

 しかしこの研究室で最も目を引く存在は、はやりあれであろう。最新鋭の機材がひと山いくらで放置されている中で、ひときわ異彩を放つこの研究所の主役。むき出しの精密機械を纏った人の背を越す巨大な手のひらだった。エリカがぽかんとその腕を見つめて口を大きく開け放っている。

「反応速度も柔軟性も、何一つ基準値に達しとらん! やはりクラム社の神経ファイバーは信用できんわい。D3のケーブルに切り替えるぞ」

 響く大声に少しだけ耳を押さえたくなった。トダカもエレンも何事かと訝しげにその人物を見つめている。声の主は四十ほどの男だった。煤けた白衣に小柄な体躯、髪も蓄えられた顎髭にも白いものが交り、どこか知的ながらも現場を尊ぶ職人のような印象を与える人物である。

「調子はいかがですかな、瀬川博士」
「んお? おお、所長。それにユウナ殿じゃないか。元気そうじゃのう」
「御無沙汰、瀬川博士。やっぱり難航してるみたいだね」
「まあ仕様がないわい。何せ見ての通りでっかいからな、制御系も伝達系も調整に苦労ばかりじゃ」

 物理学の第一人者瀬川博士。アストレイ研究所三爺の一角にして、史実では深宇宙探査開発機構DSSDでモビルスーツスターゲイザーの開発に携わった研究者だった。彼自身は他の二人とは異なりオーブ出身であったため、比較的容易に誘致することができた。ちなみにあくまで出向と言う形であるため本籍はオロファト大学の教授である。

「大きな手ですね…腕でこれじゃ、本体はどれぐらい大きくなるんだろう」
「いや、しかしこれが本当に兵器として使えるのかどうかは…」

 ここら辺は職業病に関わるのだろう。素直に感心しているエレンと軍人としてのトダカの反応はどちらもまっとうなものに思える。彼らは事前にここがどういったもので何を作っているのか知っているために、内心はともかく驚愕という点ではさほど大きなものはなかった。
 一方で知らされていなかったエリカは未だ困惑から抜けきっておらず、説明を求めるような視線をジャンと自分へと向けていた。それに答える形でユウナが数歩巨大な手へと歩み寄る。

「これはここで開発されている新型機動兵器モビルスーツのマニピュレーターだよ。他にも足とか胴とかのパーツも別の研究室で組み立てられてる」
「モビル…スーツ? ひょっとしてあのジョージ・グレンの」
「うん。ジョージ・グレンが木星探査の際に使用した外骨格補助動力装備の宇宙服、その軍事発展版になるのかな」

 困惑は疑惑へと変わり、マニュピレーターを眺める視線にも訝しさが加わった。どうしてこれを開発しているのか、理由がさっぱり思いつかなかったのだろう。以前この計画を説明した際にジャンや三爺その他大勢の研究者たちも同じ表情を浮かべて疑問を呈していた。やはりそんなに変な事なのだろうか。

「ま、無理もないのう。普通に見ればそこの小僧の妄言、もしくはボンボンの道楽としか思えんわい。わしらとて最初は正気を疑ったもんじゃよ」
「失礼かと思いますが、私も同感でした。狂気の沙汰としか思えない」
「何を言うだきさまらー」

 と言いつつも無理なきことだとユウナも思う。自分とてこんな人型兵器などという非効率的な兵器を作るなどと言われれば、ロマンを追求するナイスガイか精神があちらに旅立っちゃってる人という感想を持つ。そのくらいぶっ飛んでいる思考であった。本当に、史実で初めて実戦モビルスーツを開発したというジャン・カルロ・マニアーニは何考えてこんなもの作ったんだろうか。

「でも、あの…どうしてモビルスーツを兵器にするんですか? その、あまり効率的じゃないというか、はっきり言ってしまうと役に立つのかどうかさえ…」
「本当に率直だねえ。まあその通りではあるけど」ユウナは小さく苦笑した。
「これは本職のトダカ三尉が詳しいと思うけど。今のオーブの国防事情って、高い技術力に比べてちょっとばかりお粗末というか、問題を抱えてたりするんだよね。うん」

 問題? エリカが小首をかしげると同時にトダカが苦笑とも呼べる表情を作った。彼はユウナの言葉を継いで巨大な手を眺めつつ口を開く。
「簡単に言いますと、オーブ軍は艦艇こそ国産ですが、その兵装の殆どを大西洋連邦製のライセンス生産で賄っている状態なのですよ。主力戦車から宇宙軍の機動兵器まで、何から何までね」

 例えばオーブ陸軍の主力リニアガン・タンク、空軍の戦闘機スピアヘッドと戦闘ヘリ、宇宙軍の機動兵器ミストラルに主砲ゴットフリート、陽電子砲ローエングリン。何から何まで大西洋連邦御自慢の兵器であった。まあそれだけ彼の国の軍事技術が優れているということなのだろうが、よろしくない。この状態は非常によろしくない。

「そもそもオーブと大西洋連邦の国力なんて比べるのも馬鹿らしいほど圧倒的な差なんだよ? もし仮に連中とぶつかつことになった場合、兵器の質が同じならば物を言うのは物量。勝ち目なんてあるわきゃないね」
「ユウナ様。それはいくらなんでも物騒では…」
「これも職業病ってやつだよ、トダカ三尉。備えよ常に、ってね。ま、そんなわけだからオーブとしては、どうしても自国で独自の兵器を作る必要があった。しかもただ従来のドクトリンに従うようなものでも駄目。それじゃあ質の向上を目指しても大した差はないし、大西洋連邦の物量の前には太刀打ちできないから。作るならば今までの軍事常識を一気に覆し、少数で圧倒的物量を制圧できる力を持った兵器じゃなければならない。で、白羽の矢にあたったのが、これ」

 触ると怒られるので取り出した扇子の先で巨大な手を指し示す。

「戦闘機よりも機動力があり、戦艦並みの攻撃力を有し、戦車すら太刀打ちできぬ装甲を有する。そんな阿呆みたいな条件に適うのがモビルスーツだったってわけさ」
「まあ、わしも詳しいコンセプトを聞くまでは眉つばじゃったがのう。実際話を聞いて検証した結果、理論上は可能であるという回答に至ったわけじゃよ。信じられんことにな」
「…しかし、お話はよくわかりますが」エリカがなおも納得できないと頬を膨らませた。「それはあくまでも限定空間内、もっといえば有視界内の近接戦闘でのことでしょう? コンピュータ制御された精密誘導火器の前ではいくらなんでも対応しきれないんじゃあ」
「ええ、シミュレーションではなかなか良い線を言ってはいましたが、大凡はローレンス嬢のおっしゃる通りです。しかしその前提そのものを瓦解させるシステムがあれば、話は変わるとは思いませんか?」
「…前提を崩壊させるシステム、ですか?」
「ま、ここら辺は追々お話しようじゃないの。とりあえずここで作っているのはモビルスーツ、ってとこだけ知ってもらえれば十分よ。そいじゃ次行こうか。邪魔したね、瀬川博士」
「何の、わしとしても綺麗なお嬢さん方を見られて良い目の保養になったよ。またおいで」

 にっと笑う白衣の研究者に手を振り、五人は再び廊下へと舞い戻った。次いで訪れたのは、先ほどと違いかなり整頓された実験場だった。おそらくこの部分は責任者の性格が出ているのだろう。
室内には大きな筒のようなものが一つと、大きな機材が所狭しと設置され、幾人もの研究者が張り付くように何らかの動作を行っていた。それらの職員たちに指示を出していた大柄な男がにこやかな笑みを浮かべてこちらにやってきた。同じく年の頃は四十ほど、少しさみしくなった頭と対処的に、顎には豊かな髭がたなびいている。

「やあ所長。それにユウナ殿も。そうか、今日は視察の日だったね」
「お邪魔します、モリセイワ博士」
「お久しぶり、博士」

 アストレイ研究所三爺の一角、量子力学者モリセイワ博士である。瀬川博士と同じく史実ではDSSDの研究者としてヴォワチュール・リュミエールの開発に携わっており、ここでもそれに類する研究をお願いしていた。

「どうかな、ミラージュコロイドは」
「難しいね。一応生成自体は成功したが、とてもじゃないが小型バッテリーの供給する電力では賄いきれないし、今の大きさでは機動兵器に搭載不可能だ」

 モリセイワ博士率いるチームは主に量子力学に関わる兵装、ミラージュコロイドやヴォワチュール・リュミエールの開発を担当している。リュミエールユニットはまだ理論段階でしかないものの、ミラージュコロイドに関しては元からある程度確立されていた技術であったためどうにか生成には成功しているようだった。

「さっき言ったよね。モビルスーツに戦艦並みの攻撃力を持たせるって。その一つがここで行われている研究だよ。博士、彼らに実験を見せてもらっても?」

 返答は快い承諾であった。モリセイワに連れられたユウナらは、やがて大実験場の展望エリアに足を踏み入れた。強化ガラスで隔てられた向こう側には、耐震耐火耐衝撃と核シェルター並みの強度を誇る広大な実験場が見て取れる。ここでは以後モビルスーツに関わる様々な兵装の実験が行われる予定であるが、残念ながら殆どの代物がまだ開発段階であるため、今のところ絶賛閑古鳥が鳴きわめいていた。おかげで予約もあっさりとれる。
 今その実験場には、大きな戦艦の主砲が鎮座していた。名称はゴットフリートMk.五五。まごうことなきビーム砲である。

「何故ビームがあんなところに…」
「そりゃ実験場だからだよ」

 専門家たるトダカは一瞬であれが何なのか察したらしく、少しばかり顔を青ざめさせていた。まあ地上で、しかも打つ気満々のビームを間近で見るなどあまり心臓によろしくないことである。無理あるまい。

「大丈夫ですよ。実際に砲撃するわけではありませんから」

 ジャンの言葉に頬をひきつらせていたエレンとエリカもどうにか平静へと復帰した。それを見て取ったモリセイワは苦笑して手元の通信機を起動する。

「良いかな。それじゃ、実験を始めてくれ」

 ゴットフリートの砲口に光の粒子が集い始めた。ごくりと誰かが唾を飲み込む音がやけに大きく聞き取れる。各人が注目する中、強大な火力を有する二つの口から熱い息が吐き出された。しかしそれは彼らの知る全てを焼きつくす一閃ではなく――

「ビームが、形を変えている?」

 トダカが驚愕の声をあげた。緑がかった輝きは刃のごとき鋭さをもって虚空で二つの牙を生み出していた。

「コロイドの磁場形成理論を応用したビームサーベルだ。私もこんな使い方があるとは思ってもみなかったよ」
「ええ。これならば近接戦闘で非常に大きな攻撃力となるでしょうね……まだまだ課題は多いですが」

 ジャンが肩をすくめて苦笑した。

「まあ、ビームサーベルなんてそれこそ機動兵器でもなきゃ使わないからねえ。といっても実際モビルスーツに乗っけるためには、コロイド発生機とビームジェネレータの小型化と低燃費化が必要不可欠なんだけど」
「でも、すごい技術です」

 エリカが目を輝かせてほめそやした。軍事に強くないエレンですらすごいすごいと同じ言葉を連呼している。どうでもいいけどもうちょっと語彙増やそうよ。

「ビームの方は別の研究室が担当してるけど、やっぱ難しそう?」
「その分野は大西洋連邦の方が進んでいますからね。以前連邦系企業に勤めていた研究員を中心に開発を進めていますが…やはりなかなか結果は出てきません」

 そこら辺は仕方がないとユウナの中ではある程度覚悟ができていた。ビーム兵器の小型化はC.E.七一年に地球軍が世界に先駆けて実用化した最新技術である。オーブどころかザフトですら容易に開発できなかったシステムだ。そうあっさり成功するとは思っていない。

「まあ結果を急いでないとはいえ、頑張ってほしいね。何せこれから先はビーム兵器がなければどうしようもない世界になるだろうから」

 誰にも聞こえない程に小さく呟き、ユウナはモリセイワに礼を言った。その流れで大実験場を辞し、次なる視察の場へと向かう。
 三度目に訪れたのは幾つものモニターがひしめくコンピュータルームであった。キーボードをたたく音がそこかしこから聞こえてきて、トダカなどは少しばかり眉をひそめている。ユウナは部屋の中心でぶつぶつと文句らしきものを垂れ流しながらキーを打ちこんでいる人物に声をかけた。

「ノストラビッチ博士」
「んあ、何じゃい? …おお、ユウナ殿じゃないか。それに所長も」

 振り返ったのは神経質そうな男である。少しばかりさびしくなった頭部に整えられた口髭、ひょろりとした体躯はいかにも室内労働者といった空気を垂れ流していた。
 彼こそアストレイ研究所三爺最後の一人にして数学者ノストラビッチ博士。やはり彼も史実ではDSSDの研究者として勤めていた。

「研究は進んでいますかな、ノストラビッチ博士?」
「ふん、実物もないのに進むわけないわい。一応シミュレーションデータは作ったが、本格的なのはやはりあれの完成待ちということになるの」
「ノストラビッチ博士はモビルスーツの制御プログラムを担当してくれてるの。平たく言うとOSの開発だね」

 そう言って彼のデスクを覗き込んだが、残念ながらユウナには何一つとして意味がわからなかった。文字と数字の羅列が幾行にもわたって画面いっぱいに広がっている。よくもまあキラはこんなものを短時間で書き換えられたものだ。理系学生ってすごいね。

「OSといっても、大したことはできんがな。そもそもこんな馬鹿でっかい人形を操縦するなんて、普通の人間じゃ不可能じゃぞ。反射神経、情報処理、少なくともナチュラルじゃ不可能じゃわい」
「わかってるよ。モビルスーツの操縦がコーディネイターでもなければ不可能ってことくらいはね。だから博士にはナチュラルでも操作可能なプログラムを作ってって頼んでるんじゃない」
「ならとっとと実物を作れ。でなけりゃ仕事にならんわ」

 ふん、と鼻を鳴らすノストラビッチにユウナは苦笑するしかなかったその話を聞いていたのか、エリカが困惑をにじませて先の話について訊ねてくる。

「ああ、モビルスーツがコーディネイターしか操縦できないって話? マジマジ、大マジですぜ。ていうかサポートなしならナチュラルじゃあ歩くことすらままならないと思うよ」
「あの、それって兵器としてどうなんですか…?」
「だからナチュラル用OS組んでるんじゃない。はっきり言って今モビルスーツを開発できても、きちんと運用可能なのはプラントだけじゃないかな」

 それこそがヤキン・ドゥーエ戦役緒戦でザフトが連合を圧倒できた理由なのだ。一応現段階ではプラントに次いで第二位のコーディネイター居住国のオーブといえども、兵士の大半はナチュラルである。このOSの開発は是が非でも成功してもらわなければ困るのだ。
 そう、出来る限り早く。戦争が始まる前に。

「まあ、そういうわけでノストラビッチ博士のターンはむしろ機体が完成してから何だよね。ガンバ!」
「ああわかっとるよ。じゃからとっとと作れ」

 しっしっとまるで無視を追い払うかのように手を振るハゲ茶瓶に苦笑を濃くし、ユウナらはさっさとコンピュータルームを後にした。まだまだ見るべき所はたくさんあるのだ。何とか夕飯までには終わらせたい。



[29321] PHASE12 みんな大好きホワイト企業
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/09/06 02:44
 本当にすごい。
 一通り研究所を回ったエリカ・ローレンスの心はそのひと言で満たされ切っていた。それほどまでにここで目の当たりにした技術の数々は凄まじいものがあったのだ。
 フェイズシフト装甲、ラミネート装甲、パワーバッテリーにデュートリオン送電システム、ナノ技術によるビーム反射や量子通信システムドラグーン、他にも数え切れぬ新機軸の技術に度肝を抜かれていた。その一つでも実用化できればそれだけで世界が変わる、そう思える程にこの研究所は最先端をひた走っているように感じられたのである。
 なるほど。これらの技術を搭載することができれば、モビルスーツが軍事常識を覆すという言葉もかなりの真実味を帯びてくるだろう。事実トダカなどは先ほどから真剣な顔でジャンに実用化の見通しを尋ねていた。

「少なくとも機体の完成まで後数年はかかります。何しろあまりにもノウハウがなさすぎるのですからね。きちんとデータを蓄積しなければ、どんなことが起こるかわかりません」
「ま、公試でいきなり空中分解されても困るからね」

 ここは研究所内に設けられたカフェテリアである。ガラス張りの天井からはオーブの強い日差しが入り込み、室内は明るい空気で満たされていた。エリカは注文した紅茶をすすってイチゴのショートケーキを口に運ぶ。社員食堂的な代物とは思えないほど繊細な味わいが舌で踊った。思わず瞠目する。

「お気に召しましたかな? ここのパティシエは一流でして、私もよくケーキを食べて帰るんですよ」

 ジャンがにこやかにガトーショコラを口に運んだ。渋い外見に因らず随分と甘党のようだった。本当に美味しそうに食べる。

「食べ物に妥協しない。美味しいものこそわが人生よ」

 ちなみにユウナの前には胸やけがしそうなほどの菓子の山が積まれていた。ケーキからパイ、ワッフル、パンケーキにパフェとある意味で女の子の夢が一杯の光景である。ちょっとつまもうとしたら烈火のごとき怒りをぶつけられた。金持ちのくせに、ケチである。

「まあ僕個人の趣味ってこともあるけど、やはり食事は人間の基本だからね。美味しいものを食べてもらった方が研究もはかどるってもんよ」

 もしゃもしゃとクリームをむさぼりながら言われてもあまり説得力はなかったが、意味としては理解できた。そして同時にその言葉で確信に至る。
 つまりこのアストレイ研究所の意思決定に、ユウナ・ロマ・セイランという人物が非常に大きな決定権を有しているということだ。先ほど回ってきた各研究室のいずれにもユウナが軽い概要を付け加えてきたことからもうすうすそうではないかと思っていたのだが、やはりこうはっきりと見せつけられるとやはり複雑な思いを禁じ得なかった。
 ナチュラルとコーディネイター。比率としては後者が多いようだが、それでも両者かなりの人数がここに努めている。昨今の世界情勢を鑑みれば問題が多発してしかるべきはずなのだが、不思議なことにこの研究所はひどく穏やかな空気が流れているように感じられた。

 ユウナいわく「ナチュラルだから見下すような人やコーディネイターだから差別するような人物は面接段階で首ちょっきん」の効果が表れているようだった。
 ジャン所長も三人の博士たちも、彼の要求には忠実に従っている節がある。それが単なるスポンサーへの義理というだけでないことくらいエリカには容易く察することができた。

 自分とは大違いだ。

 何一つ決められない、ただ流されるまま生きてきた自分とは、全然違う。

「何じゃ、お主らも休憩か?」

 鬱屈した感情にとらわれそうになった刹那、聞き覚えのあるしわがれた声が耳を打った。

「誰かと思えば三爺じゃない。お揃いでお茶でもするの?」
「こりゃ、誰が爺じゃ。わしゃまだ四十だぞ」
「はは。確かにユウナ殿から見ればお爺さんなんだろうけど、そうはっきり言われると傷つくね」
「ふん、わしなんかまだまだ現役のぴっちぴちじゃわい」

 瀬川博士、モリセイワ博士、ノストラビッチ博士の三人が苦笑しながらこちらに手を振った。そのまま相席する形で椅子に腰を下ろす。

「どうじゃ、この研究所は。色々とごたついとったろう」

 一通りの注文を済ませた瀬川が笑いながら問いかけた。エレンとトダカはそれに苦笑しながら同意する。エリカもまたイチゴにフォークを突き立てながら頷いた。

「そうだろうね。確かにここは幅広く研究を行っている場所だから、混乱するのも無理はない」
「どっかの金づるが厄介な注文ばかりしてくるからじゃ。小槌は小槌らしく黙って振られておけばええのに」
「ロシア人のくせに何で極東の小話引用してるんだろうこの人。ていうかこっちとしては血反吐出そうなほどの金を注ぎ込んでるんだから、ちょっとくらい我がまま聞いてくれたっていいじゃない」
「この研究所が余所で何と言われてるのか知っとるか? 我がまま御曹司の玩具工場じゃぞ?」
「あながち間違ってないから困るねえ。ていうかそんな噂でも流れてないと、既得権益侵されたと考える連中が妨害工作かけまくってくるし。いいんじゃね?」

 サハクとかモルゲンレーテが怖いんよ。ユウナが扇子を広げてかかと笑った。瀬川とノストラビッチは嫌そうな顔を隠そうともせず大きなため息を吐く。

「いやいやいや、そんな顔されても。実際利権争いって怖いんだよ? サハクとかグロードとか洒落にならないから。この研究所が普通に運営できてるのも、モビルスーツが傍から見たら道楽としか思えないからなんだから」
「つまり世間様から見ると、わしらは道化ということじゃな」
「まあ我々としても面白い仕事をさせてもらっているわけだから、あまり文句はないのだがね」
「金払いも良いしの」

 そういう問題ではなさそうな気もするのだが、エリカは何も言わずに沈黙を保った。両親がアレだったせいか、頭に筋金入りがつく学者の生態には普通より詳しかったからである。
 …まかり間違っても彼らの様に仕事一筋にはなるまい。エリカは心にそう誓った。家庭と両立してこその人生である。

「おかげでこちとら金欠なんだけど。とっとと結果出せやコラ」
「馬鹿を抜かすでないわ。大体本格的に研究ができるようになったのはここ数カ月のことじゃろうに。こういうのはもともと時間のかかるもんなんじゃ」

 ユウナのもっともな意見に、これまた正論のノストラビッチが返した。両者とも相手の言い分を認めたうえでの軽い皮肉であったのだろう。その顔に焦りも苛立ちも存在しない。
 ふう、と無意識のうちにため息が出た。それを聞きつけたのだろう。ちらりと御曹司が自分を一瞥する。

「ね、エリカさん。この研究所についてどう思った?」
「…え? わ、私ですか?」

 そうそう、とユウナはにこやかな笑顔で頷く。どう思う、と言われても。ひどく先進的で興味を引かれるものだったという程度の感想しか持ち得ていない。エリカはまだまだ駆け出しの技術者であって、一流の研究者でもなければ経営者でもないのだ。

「ふむふむ、興味を持ってくれたのは何よりだね。そいじゃエリカさん、ちょいとここで働いてみやしませんかい?」
「…は?」

 何を言っているのだろうか、この人は。

「ほう、やはりユウナ様もそう思われましたか。いやいや、私もどうやって誘おうかと頭を悩ませていたところなのですよ」
「確かにの。そこのお嬢さんは一番熱心に見学しとったようじゃし、質問も的確じゃった。なかなか見所があるとわしは思うぞ」
「何よりも花があるね。むさくるしい親父たちといるとなお一層そう思える」
「それはこっちの台詞じゃ。どうじゃなお嬢さん、わしの研究室にこんか?」

 貴様は数学者じゃろうが! 瀬川が呆れたようにこめかみをたたいた。するとジャンが工学者であることを理由に自分の研究室に招こうとし、そうはさせじとモリセイワが量子力学の良さを説く。
 一体何がどうなっているのか。エレンとトダカは我関せず、むしろどう転ぶか期待してすらいそうであった。他人ごとだと思って。

「あ、あの! 私はまだ学生で…卒業もまだなんですけど」
「なら嘱託なり助手なりの扱いでも一向に構わないよ? 勿論卒業後は正規雇用で」
「ですから! その、私なんかが入ってもお役には」
「立つとも。少なくともこの四人を虜にできる貴方を無能だとは誰も断ぜるわけがないでしょうや。まあエリカさん個人の意思もあるから、強制はできないけれど。…いいねジャン博士、三爺」
「それは当然でしょう。言うまでもありますまい」
「あたりまえじゃ。というか三爺と一括りにするでないわい」

 打てば響くように、とはまさにこの事ではないだろうか。あらかじめ打ち合わせでもしていたかのような連携だった。
 エリカは困惑していた。はっきり言って彼らほどの傑物たちに絶賛されるほど自分の能力に自信を持てていなかったのである。幼いころからコーディネイターというだけでいじめられ、また両親もエリカ・ローレンス自身ではなくコーディネイターとしてのエリカしか愛してくれなかった。確固たる自分のない彼女が、きちんと目的を持って二本の足で立つ彼らと並ぶなど、想像すらできないことであった。
 わからない。自分が何をするべきなのかも、そもそも何をしたいのかすら。一つとして決める事が出来ないのだ。

「…ああ。そうだったね。うーん、となるとだ…前言撤回」

 悩むエリカを見て、何かを思い出したかのようにユウナが手を打った。そしてぴしりと扇子の先を突き付けてさらりと言った。

「エリカさん。うちで働きなさい。これ命令、五大氏族的な何かの」

 は、と再び間の抜けた声が漏れた。またもや何を言い出すのだこの人は。

「…ユウナ様。先ほど全く正反対のことをおっしゃっていませんでしたか?」
「お主…そんな舌の根も乾かぬうちから堂々と…」
「ええい、黙らっしゃい! 僕だってポリシーに逆らうようなことなんてしたくなか! ばってん仕方なかとね!
 はいエリカさん嘱託研究員として採用しました、異議は認めません! よろしい?」
「え、あ、はい」

 思わず頷いてしまった。勢いにのまれたわけではない。けれど何となく、拒否することができなかったのである。
 何故、唐突に強要の形をとったのか。まるでこちらの心の内が読めていたかのようなユウナの変貌に、驚くのと同時に棘のような気味の悪さが突き刺さった。同時に湧き上がるのは安堵と喜び、そしてよくわからないもやもやとした感情。負のものではない。しかし正のものでもない。文字通り不明なものであった。
 ごちゃごちゃと散らかった心を押し殺して、エリカはもう一度頷いた。

「その、御命令なら従います…」
「お待ちになってエレンさん! ちゃうねん、仕様がないねん。これには抜き差しならぬ事情があってやめて耳がちぎれそうなほど痛い痛い痛いー!」
「ユウナ様? 権力を楯に女性に迫るだなんて最低ですよ?」
「だからこれには深い事情があいたー!」

 笑顔なのにとても怖い女性に耳を引っ張られ、ユウナは悲鳴を上げた。どうするべきかわからず茫然としていると、ジャンがまあまあと仲裁する形で話を先に進めようとする。

「それでユウナ様。どこの研究室に配属されるおつもりですか?」

 ふとエリカは、ジャンの様子に小さな違和感を覚えた。平静を保ってはいるが、どことなく苛立った――否、焦れたような印象を感じさせるものがあったからである。
 それだけではなかった。エリカは遅ればせながら事態の異常性に気がついた。静かなのだ。先ほどまで職員たちの雑談で満ちていたこのカフェテリアが、痛いほどの静寂に包まれているのである。見れば先ほどまで茶を楽しんでいた白衣の集団が、目を真っ赤に染めてこちらを凝視していた。ものすごい形相である。

「ん、あー。どうしよっかなあ…」

 ごくりと、誰かが喉を鳴らした。

「エリカさん、技師だから…とりあえずジャン博士の研究室で。その後いくつか回ってもらって、最終的な配属は本人の希望に沿う形で行こうか」

「っぃいやったあああああああああああああ!」

 歓声が爆発した。幾人かの職員が涙を流さんばかりに立ち上がり、天への祈りをささげていた。彼ら以外は、まるでこの世の終わりを見たかのように顔を暗くし、テーブルに突っ伏している。
 え、何なのだろうかこれ。ジャンに訊ねようと口を開きかけて、しかし何も発することなく閉じられた。何となれば白髪の男もまた無言で天を仰ぎみていたからである。

「何じゃ、結局所長の所か」
「とはいえ、まだ試用段階だからね。機会はあるさ」
「そうじゃな。嬢ちゃん、楽しみにしとるよ」

 三博士は苦笑しているだけなのに、どうしてこうまで温度差があるのだろうか。氷山の様な疑問が浮かんだが、それは喜び咽び泣いている職員たちの言葉によって、ものの見事に爆砕されてしまうこととなった。エリカの幸せな未来像と共に。

「これで、これで家に帰れる! ミサキ、ようやく君のご飯が食えるぞおおおおおお!」
「シフト、楽になる、シフト! 寝れる! 寝れる! 寝れる!」
「新入社員なのに手取りが基本給の倍…! 残業…! 労働基準法違反…! 帰れる!」

 血の気が引いた。ばっと髪が乱れる程の勢いでユウナを振り仰ぐ。すごく笑顔だった。舌を出してサムズアップ。ジャンを見た。眼鏡をはずして目がしらを押さえていた。三博士を見る。とても生温かい、孫を見るかのような視線だった。
 何これ。本当に何これ。

「あの、私やっぱり」
「あはは、やだなあもう、エリカさんたら」

 立ち上がり叫ぶ自分の台詞に被せて、ユウナがいつもと同じように――なのだが、まるで地獄の底から聞こえてくるように思われた――朗らかに笑った。
 途端に全身に刺すような視線と言い知れぬ圧迫感が襲いかかる。いつの間に近づいたのか、職員たちが手を伸ばせば触れられる位置でエリカを取り囲んでいた。顔は能面の様で意思と言うものが感じられない。やばい、身の危険をびんびんに感じた。

「もう逃がさないぞ?」

 ああ。なるほど。今日、エリカは幾つもの大切な事を学んだ。その中でもひときわ輝き、胸の中で燃え盛るものがある。
 これが殺意か。



[29321] PHASE13 漬物うめー
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/12/21 23:17
 お腹一杯胸いっぱい、
 空の炎は既に水平の彼方へと切り裂き、闇のさざ波がにわかに天を覆い尽くそうとしていた。膨れた腹をさすり、ユウナは部屋の窓からその光景に目を細めた。耳には絶えず賑わいと笑い声が入り込み、目の捉える神秘的な光景にかなりのギャップを与えている。
 結局、夕食と言うよりは宴会という規模になってしまった。ウィンザー一家やシフォース一家だけでなく、ジャンや三爺までもがただ飯をかっ食らいに付いてきてしまったのである。置いていかれる職員――多分本日も泊りがけの残業――が人を殺しそうな目で睨んでいた気もするが、そこら辺は御本人同士の問題なので深くは突っ込まない。ブラック企業? 残業代出るんだからバリバリホワイトだよね。

 とりあえずあの馬鹿騒ぎを見るにつけ、プリンとパンナコッタおまけにチョコレートムースまで平らげご満悦だったカナードを寝かしつけたのは正解だったようである。あまり寝付きがいい方ではないためいつもは自分かエレン、あるいはユウナの母が寝物語に絵本を読む必要があるのだが、今日はそれがなかった。植物園ではしゃいでいたのが効いたのだろう。
 ちびりちびりと炭酸水を舐めていると、同じように中央の狂乱に付いていけなかったであろう少女たちの姿が目に入った。エリカとアビーである。エレン? さっきトダカを潰していた。今は三爺と平気な顔して飲み比べの真っ最中だった。

「やあやあ、楽しんでる?」

 近づくと一人は若干怯えをにじませた瞳で、もう一人は露骨に厄介なのが来たという表情で迎えてくれた。心がとても寒い。誰か温めてくれないだろうか。

「あ…どうも」
「ええ、楽しんでいますよ。料理もとても美味しいですし。これでユウナ様がそこの窓から飛び降りてくだされば言うことなしです。お腹抱えて笑えますから」
「なにそれこわい」

 あれ、何で僕こんなに嫌われてるんだろう。思わず目から心の汗がたれだした。こわい。

「いえいえ、嫌ってるなんてそんな。ただとても素敵な職場を紹介していただけたので、喜びの言葉がこぼれ落ちてしまったんですわ」
「そっか。いやあそれほどでも。ただちょっと休憩時間とか休日とか睡眠とか日常生活とかお肌とかを犠牲にしなきゃいけない職場だけど、給料はいいもんね。そんなに喜んでくれて僕超嬉しい」
「ふふ、嫌みだってわかっててそんな返しをするなんて。どれだけ性格歪んでるんですか?」
「これでもそれなりに生きてるからねえ。時には直球で言わなきゃ進まないことだってあるんだよ、お嬢さん」
「この悪魔」

 何だか背筋がぞくぞくする。美少女の怨みがましい視線がまるでマイナスイオンのごとく全身に降り注いだ。そうか。これがかつての友人が言っていた新しい世界なのだな。思わずくせになりそうだった。

「大丈夫大丈夫。多分死にはしないから。きっと、おそらく、ひょっとしたら。あ、労災は降りるよ?」
「最後の台詞で台無しじゃないですか…」
「最近特に思うんだけど、労働基準法って都市伝説だよね」

 はあ、と栗色の娘から苦笑が漏れた。同じくこちらも苦笑を返す。一見すると険悪なやり取りをしているように見えたためか、アビーがおろおろしながらも安堵した様子を見せた。まあ、別段仲たがいしているわけではないから取り越し苦労なのだけれども。
 言うなればこれは愚痴だ。少なくともユウナはそう解釈していたし、おそらく事実からもそう遠くはあるまい。でなければ拒否するなり何がしかの行動に出るはずであった。そうしないのは、なんだかんだで研究所への就職に前向きということであろう。
ひょっとすると単に自らの決定に自信が持てないだけかもしれないが、入ったことで後悔をさせるつもりはないからいいだろうさ。ユウナは肩をすくめた。

「アビーさんはどう? 楽しんでもらえているのならいいんだけど」
「…大丈夫です。とても楽しいですから」

 どう考えてもそうは見えないのだけれど。喉元まで出かかったその言葉をユウナはぐっと飲み込んだ。ひょっとしたら本当に楽しんでいるのかもしれないし、またそうでなかったとしてもそれは仕方のないことだと思っていたからである。
 第一印象はとても大事。未だに怯えのこもった眼差しで射抜かれると苦笑以外に表現する手段がなかった。ちらりとエリカを見ると彼女もまた肩をすくめるだけである。
 さてどうしたものか。あまり美少女に嫌われ続けるというのは精神衛生上よろしくない。VERYよろしくない。何とか関係改善を行いたいのだが、生憎と切っ掛けがつかめなかった。むう、と考え込む。
 生憎とこちとら向こうでも研究一筋で、死んだ女房以外の女性にはとんと縁がなかった。世のリア充どもはこんな時どんな手練手管で場をつなげていくのだろうか。べ、別に羨ましくなんかないんだからねっ。
 ――だから気づくことができなかった。前にも述べたが、ユウナ・ロマは武術の達人でもなければ直接戦闘に長けた人間でもない。他人様の気配だの殺気だのを読み取るなどという超絶技能は持ち合わせていないのだ。

 故に。

「何じゃお主ら! こんな隅っこで逢引か? マセガキじゃのう!」とゆでダコならぬゆで爺になったノストラビッチの接近を察知し損ねた。彼は老人とは思えぬ――実際まだ四十前半だ――力でユウナの背中をバンバン叩き、わははと豪快に笑い転げた。結果、後ろから予期せぬ圧力を加えられた自分の体は大きくバランスを崩しぐらりとよろめく。ユウナの鈍い反射神経といえども、この状態に陥った瞬間均衡を保つべく行動を開始した。近くにあったとあるものを掴んで、身体にかかった力を殺そうとしたのである。
 これは故意ではない。事故である。ユウナはそう思った。
 しかしいくら自分が声高に叫んだとしても。この手が金髪の少女のまな板を掴んでしまったことは、消しようのない事実なのであった。







 少なくともリンゼイ・ナガダ両家の総領たちは、自分に直接的な危害を加えることだけはしなかった。幾度となく嫌がらせを受け、心ない言葉に涙を流すことはあったものの、その一線だけは越える事がなかったのである。
 アビー・ウィンザーは目の前の少年が怖くてたまらなかった。それは初対面時に刻まれた圧倒的な恐怖が直接的な原因ではあるが、その後の対応によってその恐れは深まりこそすれ薄れる事がなかったのだ。
 理由には心当たりがある。今まさに彼の御曹司が一人の男に背を叩かれている様を直視しながら、アビーは何故か他人ごとみたいにそう考えた。

 単純に言えば、それは未知への不安。幼き少女の狭い世界を破壊する暴力への嫌悪。ユウナ・ロマという少年の持つそれらの力が彼女にとって何よりも耐えがたい恐怖をもたらしていたのである。
 深い眼差し、慈しみに満ち満ちたそれは、しかしアビーにとって自分を丸裸にしているも同然の輝きだった。かけられる優しい言葉はその奥深くに隠された何かを内包しているように思えて吐き気が止まらない。
 異質、否、異物。アビーの鋭い感覚はユウナの最奥とも言うべき所に隠された何かを感じ取り、それに怯えきっているのだ。
 情報処理能力に優れているが故に、何よりも知識や常識というフィルターを介さぬ子供であったが故に。アビーはそれに気づくことができたのである。

 怖い。とにかく怖い。肌を切り裂く圧倒的な力が。水の一滴すら含んでいない枯れ果てた情念が。そして何よりも。お前を知っているぞというあの瞳が。
 本当はこんな夜会になど来たくはなかった。この少年の形をした怪物から少しでも距離を取りたかった。けれどそれはできない。アビーには彼の誘いを蹴るだけの胆力も覚悟も信念もなかった。
 ただただ早くこの時間が終わってほしい。一刻も早く家に帰り夢の世界へと旅立ちたい。そんな思いがアビーの心に生じ、ほんの些細な切っ掛けでこぼれ落ちそうなほどそそがれ切っていた。
 だからこそ、それはある意味必然とも言うべき出来事だったのだろう。
 やけにゆっくりとした動作でユウナが前のめりになった。すっと手がのばされる。まるで世界から自分だけが取り残されたような感覚にまたアビーは泣きたくなった。
 そして怪物の手が自分の胸もとに伸び、ぐっと心臓を掴むがごとく強く強く握られた。そして、まるでコップを卓にぶちまけるかのようなその動きは、アビーからありとあらゆる理性を奪い取るに十分な力を持っていたのである。
 軌跡が驚くほどはっきり見えた。幼いながらもコーディネイターの優れた運動能力を有する彼女の身体は、主人の命令を忠実にこなし続ける。ぴんと伸ばされた足が月を描き、顔を青く染めている少年の横っ面に吸い込まれていった。衝撃が軸足を伝って地面に逃がされていく。

 その瞬間、何もかもがかき消えた。

「ふごお!」

 全てが見えていた。柔らかな頬にめり込む足首、口から飛び散る唾液の雫、くるくると回る眼に苦しげな表情。そして何よりも情けなさを助長する愉快な悲鳴。


 ぞくりと、強烈な快感がアビーの背筋を縦横無尽に駆け巡った。


 どたん、どたんと回転しながらそれの身体が床に叩きつけられる。そこにまた苦痛を覚えたのか彼の眉が小さく歪んだ。またぞくりと全身がふるえる。
 瞳が揺れた。アビーの目じりから一筋の雫がこぼれ落ち、ほんのわずかだけ頬を濡らす。悲しみでも苦しみでもない。心の汗をもたらした感情はただ一つ。張り裂けそうなほどの歓喜である。

「あ…アビーさん?」

 エリカ・ローレンスの茫然とした声が鼓膜を震わせたが、それを彼女の脳が認識することはなかった。アビーの意識を支配しているのは、今目の前で無様にのたうちまわっている彼の生物ただ一つ。ああ、と非常に艶やかな吐息が漏れた。

「ちょ、痛い! ものすごく痛いんですけど! お待ちになって! 今のは全面的に僕が悪かったからお待ちになってそんな怖い笑顔浮かべて近づいてこないで!」

 背中を思い切り踏みつける。ほげえという悲鳴がまるで天使の讃美歌のように思われ、またアビーは嗤った。未だ初潮すら来ていない幼子であるはずなのに、あまりの快楽に身体が火照り筆舌に尽くしがたい熱が下腹部に生まれる。
 夢中になって踏みつけた。その度に巻き起こる骨の軋む音、悲痛な呻き、足を伝って芯まで届く肉の感触。全てが生々しくアビーの身体を包み込む。

「駄目え! 新しい世界が開けちゃうのお!」

 その台詞でアビーははっとした。そうか、そうなのか。
 これが、新しい世界というものなのか!
 目の端から一つ、雫がこぼれた。口は下弦の月を描き、ちろりと下の先で唇を舐めとる。
 既に彼女の中には、ユウナの最奥にうごめく怪物への怯えは微塵も残っていなかった。反対に湧き上がるのは、まるで自らの半身に出会ったかのごとき異質な執着心。
 ああ、ああ! これいい! すごくいい! 少年の形をしたどす黒い何かの魅せる波長、それを痛みと苦しみで屈服させる強烈な快感は、このときアビーの持つ価値観の最上位に位置づけられてしまったのである。
 後に彼女の玩具、もといユウナ・ロマという名の飼い犬は言った。「ドSじゃ…!ドSの女神が目覚めたんじゃよ!」と。







「あいたたた……体中がぎしぎし言ってる。けどまあこれはこれで…」
 そこは静謐な空気に包まれた場所だった。さほど寒くはないはずなのに冷たさを感じさせる空気は、すっと身体の澱を洗い流すかのように肺の中を吹き抜ける。地下にありながら完璧に制御されたこの空間はユウナ渾身の一作であると同時に自分のもっとも好む空間であった。
 柔らかな光に照らされた形状は六角形で広々としたものだ。中央にはある特殊な機材と強化ガラスのシリンダー、そしてそれを取り巻く四つの台座が強い存在感を纏って鎮座している。その機材の脇に置かれた簡素なテーブルに、ユウナは持っていたトレイをゆっくりと置いた。乗せられている熱い緑茶がこぼれたら色々な意味で大惨事になるからである。解放された腕が一斉に痛い痛いと叫び始めた。

「お待たせして申し訳ない。いやはや、若い方々の煌めきに酔っちゃってねえ」
「お気になさらないでください。私が無理に押し掛けたのですから」

 卓には既に一人の来客がついていた。二十代前半とは思えぬほど落ち着いた声音で話す彼は、自分の前に置かれた茶と茶受けの沢庵に小さな微笑みを洩らす。ありがとうございますと礼を言って、穏やかに湯のみを傾けた。
 本来ならば陳謝すべき事柄なのであろうが、残念ながらユウナにその気はなかった。この御人があらかじめアポイントメントをとった正規の訪問客ではなく、当日押し掛け誰にも近寄らせなかったこの部屋で勝手に寛いでいるような愉快な人物だったからである。どうやって入ったのか、そもそも何故にこの部屋の事を知っているのか、という疑問は体をなさなかった。まったく想像ができなかったからだ。
 さすがはユウナ的この世界一の謎人物である。

「貴方もいらっしゃればよかったのに。たまにはああいう席も悪くはないよ?」
「御身内の中に私のようなものが交っても、お気を悪くされるだけでしょうから。それに申し訳ないのですが、私もあまり騒がしいのは得意ではありませんので」
「そりゃ残念。ま、確かにあれに巻き込まれるのはちょっと遠慮したいね。あの若さは僕にはないよ」

 彼と対面する形で腰を下ろした。ぽりぽりと沢庵をかじり、熱い茶をすする。じんわりと舌に広がる何とも言えぬ味わいに頬が緩んだ。甘い菓子もいいが漬物の茶受けもまた格別である。

「いやはや。もう女の子が離してくんなくてさあ。「もっと殴ってもいいですよね!」てすっごい笑顔でいうもんだから、思わず四つん這いになってお尻を…いいね、こういうのも」
「新しい世界を開かれたようでなによりです。ですが他者への強要だけはいけませんよ?」

 本当に清らかな笑顔だった。心の底から祝福している様子を見せる男にユウナは我慢できずに苦笑した。また茶をすする。割と嫌がらせのつもりだったのだが。

「それで、どんな感じかな。お外は。色々と騒がしいみたいだけれどね」
「なかなかに、酷いものです。今はまだ小さな火の粉ですが、それでも文字通り天を埋めつくすほどの数がある。いずれは地を覆い尽くす劫火となるは必定でありましょう」

 残念でたまらない。そんな風に男は首を振った。そこに一切の他意は感じられず、ユウナは彼が心の奥底から世情を嘆いていることを感じ取る。自然と苦笑が出た。この人物のこういうところもまた、利己的すぎる自分には真似できないところだ。

「地でうねる焔は天をも焼きつくし灰と化す、か」

 ため息が漏れた。それは自分のものなのかはたまた相手なのか判断がつかない。あるいは両方が吐いたのだろうか。

「誰が誰と殺し合おうが個人的には知ったこっちゃないんだけどな。こっちにさえ来なければ」
「強い光には誰もが引かれ、濃い闇もまた何がしかを呼び寄せます。残念ながらそれは叶わぬ願いでしょう」
「かといって光なくば人は生きられない。闇なくば人は眠れない。捨て去るわけにもいくまいよ。ああ全く面倒ったらありゃしない。とめどなくあふれる欲望、ふりまかれる憎悪。…ぞくぞくしちゃう」

 お手製の沢庵はいい具合に塩辛かった。この分だと自室で絶賛発酵中のぬか漬けも期待できるかもしれない。

「これぞ人間の最も良きところでもあるけどね。小さな種火がすべてを焼き尽くす業火となる。己の望むままに。見てる分にはすこぶる楽しいけれど」
「…多くの種が、焼かれることとなっても?」
「まさか」

 ほんの少しだけ頬が引きつった。ともすれば目をそらしてしまいがちな場所を直視させんとする彼の気遣いにほんの少しだけ感謝した。つまようじを漬物に刺し、口に放りこむ。心地よい歯ごたえを楽しみユウナは囁くように、くすくすと笑みを漏らす。

「人がその欲の果てに倒れるのならそれはそれ。結果は受け入れられるべきだと思う。けれど己の為したことでないにもかかわらず子供らが焼かれるなぞ言語道断だ。灰となるべきはこの老いぼれこそがふさわしい。
 …あの子らには未来がある。希望がある。それを守れずして何が大人か、これは無駄に生きてきたこの爺の義務だよ」

 この世界に来た当初より考えてきた自分の生存フラグ。それらを全てへし折っても惜しくないとユウナは思った。無駄に死にたくはない。けれど裏を返せば意味のある死ならば許容できると言うことだ。どうせ一度死んだ身、二度死のうが同じこと。

「だから、ですか」男は慈しむような瞳で、部屋の中心を見た。「だから貴方は彼らを生み出したのですね。子供らを守るために」

 予感はあった。けれど実際にそれを目の当たりにすると、やりきれないような思いが胸より湧き上がり乾いた笑みが顔に張り付く。まったく、どこから嗅ぎつけてくるのか。実はこの人物は数千数万の時を生きる魔術師だった、とか言われてもきっとユウナは驚かないと思う。
 あれのことをどこで知り得たのか? …まあだいたい見当は付くけれど。

「目的はね。けれどあれは完全な偶然の結果」

 透明なシリンダーの中で、ゆるやかに回転するものをじっと見つめた。淡い光がまるで木漏れ日の様に小さく、しかしはっきりとした力を持って煌めきを発している。それは一辺が三センチほどの立方体、その中に封入された命の輝きだった。
 それが五つ。シリンダーに一つと台座に四つが安置されている。

「よもやあんなものがこの世界にあるとは思いもしなかった。さすがは禁断の聖域といったところか。もっとも完成させるには少しばかり技術が足らなかったようだけれど」
「固定することはできても、能動的なアクセスはできない。でしたか?」
「それでも十分だと思うよ。おかげでクラスター結晶生成に必要な物質が解析できたわけだしね。すんごい希少金属ばっかで、結局五つしか作れなかったけど」

 懐からそれを取り出し男の前に置く。双角錐の結晶体だった。けれどそれにはあの五つと違い、中に輝きが存在していない。まるで抜けがらの様に空虚さを纏っているかのようだった。
 本当ならば組成構造を解析し、もともと中にあった光量子体をシリンダー内の結晶に移し終えた時点で無用の長物なのだが、それでもユウナにはこれを廃棄することができずにいた。
 何せこれは彼女、ヴィア・ヒビキの形見とも言うべきものなのだから。

「エレンさんがこれを持ってきた時は本当に度肝を抜かれたよ。これがここに存在しているとは予想だにしてもいなかったからねえ」

 これは決してあり得べからざる御技。それはこの世界に存在すら許されないもののはずだった。何となれば、母胎となるべき技術体系そのものが違うのだから。断言できる。これは現行の文明では決して生み出すことがかなわぬものであると。
 なぜならこれは――ユウナではないユウナのあるべき場所の業なのだから。

「ま、どの道出番はもっと先になるよ。今はまだ基礎段階以前の問題だから。実際のコミュニケーション段階までは、まだまだかかる」
「楽しみですね」
「確かに。彼らならば、子供たちの良き友人になってくれるでしょうよ」

 ユウナは立ち上がり、装置から少し離れたところに安置されている台座に向かった。バスケットボールより一回り小さい球体が六つ、まるで宝物の様に機械に収められている。その内の一つをさらりと撫で、ユウナは苦笑する。

「ああ、そうだ。ユウナ様。もうひとつお耳に入れておかねばならないことがありました」
「そんなもったいぶって。どうせ最初から機会を図ってたんでしょう? 相も変わらず趣味の悪い事で」

 このすました顔で渾身のネタを今か今かと温めていたに違いなかった。人を驚かせるのが趣味なんて、まるでルキーニさん家のケナフ君である。全くもって、とユウナは息を吐いた。出あった時から思っていたのだがこの御人、なかなかに人を食ったことを平然とやってのける。
 本当に、何の因果でこうして巻き込まれ式秘密のお茶会なぞする関係になったのやら。今思い出しても不思議でならない。きっかけはこちらから出向いたことなのだが、ついつい色々な話をかわしたのが原因だったのだろうか。

 あるいは。少しだけユウナは眉をひそめた。この人物の目的はあの子、カナードにあるのかもしれない。目の前の彼はとある因子を持つ人間に非常に強い執着心があった。カナードがそれを持っているのかユウナには判断がつかないが、キラと同じくスーパーコーディネイターとして調整されたあの子にそれがある可能性は非常に高かった。史実に置いてギルバート・デュランダルがシン・アスカの遺伝子データから「それ」を割り出すことができたように、とある場所に関わり合いのある人間にとってそれを見つけること自体はあまり難しくないのかもしれない。
 禁断の聖域に仕える聖職者。あまりにもはまりすぎていて少しだけ笑いが漏れた。
 本当この人、何者なんだろう。実はロゴスの首領だったのじゃーとか言われても多分疑わないと思った。それだけ彼の持つ伝手は広く太いのだ。
 けどまあ、いい。ユウナは心内だけで肩をすくめた。彼の人となりは嫌いではないし、持っている力は貴重だった。交友を続けて行く上で公私ともに不満はない。

「ふふ、子羊の小さな楽しみとおっしゃってください。…例の件ですが赤道連合、汎ムスリム会議、大洋州連合からは概ね同意が得られましたよ。スカンジナビア王国、南アメリカ合衆国は興味を示していたものの地理的な問題で未回答。アフリカは内の問題で手一杯らしく、それどころではないそうです」
「スカンジナビアは…まあねえ。周りぐるりとユーラシアって笑えない状況だし、南米も北が超厄介…妥当なところじゃない? アフリカは…御愁傷様。まあ、大体はこちらの予想通りの反応ってことかな? さすがはオーブの獅子。やることが的確だことで」

 本当に厄介な土地だなアフリカ。北と南で仲悪いし、ビクトリアのマスドライバー港ハビリスの利権争いも厄介だし。そりゃアンディさんも苦労すると言うものであろう。

「となると、またぞろ面倒な連中と会うことになるわけね。父上も、御愁傷様と」
「貴方がお会いになるのでは?」
「冗談。ただの爺に何を期待めさるか。第一この件に関しては、僕は元からノータッチだもの。苦労するのは政府。まあ年単位の時間はかかるだろうけど、内諾あるのとないのじゃ大違いだからね。お手並み拝見といきましょうや」
「先ほどとおっしゃっていることが違いますよ」

 こらえきれぬといった風に彼は笑った。自然とユウナの頬もほころんでいく。
 まあ実際今回は自分にできることなどそう多くない。殆どはウズミ・ナラ・アスハと愉快な仲間たちが勝手にやって勝手に終わらせてくれるだろう。手伝えることと言ったら、せいぜい他国に太いパイプを持つ怪しげな善人に助力を願うことくらいだ。

「あまり時間はないけれど、もうちっとだけ老骨に鞭打っていろいろ仕込んどくべきってわけだ。…あの子らが生きる世界が、ちょっとでも良くなっているといいんだけれど。ね、マルキオ導師」
「世界の行く末。それは彼ら自身が知り、おのずと導くことでしょう。大丈夫、彼らはSEEDを持つものなのですから」

 男、マルキオはまるで神のごとき慈愛に満ちた笑顔で静かにうなずいた。

「SEEDねえ。それを持つことが幸運とは限らないと思うけれど」

 SEED。種の子ら。あの子たちが種であるとするならば、自分はさしずめ枯れ草といったところだろうか。小さく苦笑して肩をすくめた。子供たちほど成長は望めず、また既に己の限界を見て諦めてしまった自分にはお似合いであった。
 けれど。枯れ草は肥料になるのだ。無駄ではない。



[29321] PHASE14 入管はもっと仕事をすべき
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/09/21 00:36
 C.E.五九年九月十六日。
 この世界に訪れて、いつしかユウナには側にいるのが当たり前の存在が生まれていた。見知らぬ景色、慣れぬ暮らし。そうした様々なことに直面しながらも、それは決して自分の側から離れることなくずっと傍らに寄り添い続けていた。
 故にそれはユウナにとってもっとも信頼の置ける存在であり、もっとも長い付き合いを持っている。そして今まさに、もはや数えるのも馬鹿らしい回数を再び刻む時が現れた。
 即ち。

「どうしてこうなった」

 もはや使い慣れすぎて口が専用に調整されたのではないかと思うくらい滑らかに発音できた。片手で頭を抱え、柔らかなシートに身を預ける。このまま夢の世界へ旅立てたならどれほど幸せなことだろうか。これまた常連となった現実逃避行は、しかし自分の右隣に座る人物によってあっさりと遮られてしまった。

「どちらかと言うと、それは私の台詞だ」

 福々とした腹にオレンジ色のサングラス。濃紫の服をしっかりと着こなした三十半ばの男だ。ウナト・エマ・セイラン。ユウナの父親にしてこの旅唯一の主役…のはずだった人物である。
 本当に、どうしてこんなことになったのやら。時折変に揺れ動く機内でもう一度ため息をついた。そう機内だ。ちらりと窓外を一瞥すると、そこには一面のスカイブルーが白の綿あめを纏って遥かかなたまで広がっている。がくりと全身が揺れるような感覚はおそらく気流に揺られたことが原因だろう。
 オーブロイヤルエアライン保有のVIP専用機、その中がここだった。敷かれた絨毯は清潔で毛先も長く、備え付けの座席もこれまた広々として柔らかだ。これらが恐ろしく金のかかった代物であるとは機内に入った瞬間に理解できた。客室添乗員はきれいどころばかりだし、差しいれてくれるジュースや菓子類も極上。もしもこれが普通の旅行か何かだとしたら、おそらく脳みそ空っぽにしてフィーバーしたに違いない。
 しかし残念ながら、今のユウナにそれは夢のまた夢であった。何となれば今回のフライト理由が、温泉旅行などという素晴らしい行事などでは断じてなかったからである。

「そもそも例の件はアスハ家が主導で進めていたはずだし、『彼ら』の相手はグロード家だろうに。何故私が呼ばれなければならないんだろうな」
「いやあ、モテる男はつらいですねえ、父上」
「…どうせなら若くて美人の女性にモテたいのだがな。何が悲しくて老人の相手など」

 ウナトは不満げに愚痴を吐き始めた。どうやら今回の旅――表向きは大西洋連邦での公務となっているそれを任されたことが相当腹にすえかねているらしい。
 まあ、無理もないか。ユウナは乗務員の美人姉さんが注いでくれた果汁百パーセント葡萄ジュースを舐めて苦笑を洩らした。何せ今回セイラン家はこの一連の騒ぎに一切――セイラン家は、である。個人? アーアーキコエナーイ――関わっていないのだから。

 この騒動、その発端はざっと二年前に起った出来事が原因であった。それは世界各地で広範かつ多岐に渡る内容であるものの、こと言葉で表すならば次の一文でほぼ全ての意味を含めて表すことができた。
 端的に言うと、オーブ製品の打ちこわし・不買運動が始まったのである。
 いつかそうなるんじゃないかなあ、とは思っていたものの実際なるとちょっとどころではないくらいきつかった。「改造人間の手を借りて作ったものなんか使えるか!」「オーブの拝金主義者どもめ、青き清浄なる世界を何だと思ってるんだ!」「こんなもの、こうしてしまえ!」云々で電動鋸でジェイソンばりにオーブ製エレカを真っ二つにしたり情報端末をその場でたたき割ったりと。もう見ているだけで頭に血が上っていると分かるパフォーマンスが世界を席巻したのである。

 まあ、彼らがピースと笑顔を向けているカメラやその映像を映しているテレビってプラント製じゃん、とかあんたその電動鋸のバッテリーパックオーブ製…とかいう恐ろしくシュールな部分がないわけではないが、やっている方もやられている方も割と洒落にならないのでそこらへんは見なかったことにした。どうせマスコミも言及するまい。
 そう、ともかく全く笑えない喜劇であった。ヘリオポリスというある程度の資源自給施設を保有しているとはいえ、オーブは基本的に無資源国家である。故に産業発展とそれに伴う加工技術の向上を図ることで貿易国家として成り立ってきたわけだが、今度のような一件はまさに死活問題とも言える重要事なのだ。

 ことにコーディネイター排斥論が著しい大西洋連邦、ユーラシア連邦、東アジア共和国はこの世界でも最大の市場である。これを失うとなれば冗談抜きで国家経済が瓦解しかねない。実際、この騒ぎを問題視した各国政府がオーブ製品への一部輸入関税引き上げを画策しているという情報もマルキオからもたらされている。さすがに世界最先端であり最大シェアを誇るバッテリーパック関連は除外だろうが、精密機器分野では大幅な変動が見受けられた。あそこの連中はただでさえプラントから高品質の工業機器が安価で輸入できるのだから、関税上昇にためらいはあるまい。
 まったくジャパンバッシングならぬオーブバッシングだった。対策として比較的排斥論の薄い大洋州連合や赤道連合などの非プラント理事国への輸出拡大を行っているが、それでも三つ合わせるまでもなく世界最大の人口を誇る分の代わりを埋めるには全く足りない。
 はっきり言って首長会涙目であった。ユウナ最高の相棒の親友「やっぱりこうなった!」と手をつないで踊っていた首長会だが、そこは何だかんだで有能な連中が集まるオーブクオリティ。昨年代表首長に就任したライオン殿の一言であっさり方向性は定まってしまった。

 いわく「オーブ製品で売れないなら他国製にすればいいじゃない」だった。

 具体的には近隣国の企業を買収・合併して新企業を作り、オーブ国内で作った製品をその企業のある国で組み立て、出荷させるという方法である。それならばメイドインどこかとして堂々と連合国に物を売ることができるはずだった。
 まあ調べればわかるのだが、わかったとしても公表しないという確信がオーブにはあった。何せ仮にその第三国の製品にまで不買運動をしてしまうと、その国の国民感情が悪化して今度は三大国がよろしくない状態に陥りかねないからである。理事国は大きな工業力を有しているが、その莫大な生産力は内需だけで使いきれない。自然外部へと市場を求めなければならないのだが、大市場であるこの三国――ことに大西洋連邦とユーラシア連邦は犬猿の仲。
 となればそれ以外の国に市場を求める動きが出てくるのだ。前者なら南米、後者ならアフリカやスカンジナビア、東アジア共和国は赤道連合やムスリムといった具合である。そんな中で諸外国との関係悪化など、財界やロゴスが許すとは思えない。
 ともあれそうした動きに関する根回しは政府ではなく国営企業モルゲンレーテで行ったし、マルキオ導師の助力もあって太平洋地域に関してはほぼ内諾をもらった。彼らとしても国内企業への投資や輸出拡大、関係国との経済的接近が持てて悪い話ではなかったため比較的容易にまとまったようである。既に段階的な関税の引き下げも始まっていると聞いていた。

 主な面々としてはオーブ連合首長国、赤道連合、大洋州連合、汎ムスリム会議の四カ国。さらに状況次第ではここにスカンジナビア王国、南アメリカ合衆国が加わるかもしれない。まさに非プラント理事国そろい踏みであった。外相たちの中にはこれを機にさらなる経済的発展を踏まえた地域連合発足を画策しているものもいると聞くが、そこらへんオーブがどう出るか少し見物だった。アフリカ? 内輪もめでそれどころじゃないってよ。
 そんなわけで多少打撃は受けたものの、むしろ非理事国間がより緊密になって結果的によかったんじゃね? とまで言われるようになったわけだが、言うまでもなく世の中ああよかっためでたしめでたし、ですむほど甘くはない。こんなバカでかい動きを放っておくほど、国際社会は御間抜け様ではなかったのだ。

 この二年右肩上がりの地域経済成長率のおかげで、ワムラビ市再開発のしわ寄せによって計画延期となっていた軌道エレベータ「アメノミハシラ」も一年遅れで先月より建造開始。順風満帆かと思われていた頃になって、オーブ縁のロゴス幹部グロード家から「ちょっと面貸せや」という幹部連名のお呼び出しがかかったのである。
 先にもウナトが述べたように本来彼らとの折衝はグロード家が担っているのだが、経済的影響力は多大なれど彼らは下級氏族。オーブに対するロゴスの権力増大を恐れた首長会によって五大氏族昇格はタブー視されていたため、多分に表立った政治色を強めるこの問題への対応はグロードでは荷が重かったのだ。
 そこでじゃあどこが行こうかというお話になったのだが。大西洋連邦と強い繋がりを有する五大氏族二家、セイランかサハクに白羽の矢がぶっ刺さり、様々な利権だの影響力だのの折衝の結果見事ウナト・エマ・セイランがその任に付くことになった。なったのだが…。

「どうして僕まで?」
「何、いい機会だと思っただけだ」

 いい機会って何ぞや? そんな思いが顔に出ていたのか、ウナトは苦笑を交えながら口を開いた。

「お前がそれはもう意味不明なまでにかけずり回っていることは知っている。まあ傍から見ているとアホの子以外には見えないが、ヴィンスも口出ししておらんし、我が家に不利益なことではないようだから放置もしていた。けれどまあ…何と言うか、その」

 と、そこでウナトは困ったように頬をかいて瞳をさまよわせた。ユウナの首が斜めに傾く。

「そろそろ、ちゃんとしておかねばならんだろう? …親子の会話というものをな」

 ああ、とユウナは小さく苦笑した。同時にウナトから視線を外し、ぼんやりと天井を見上げる。
 いい機会。なるほどいい機会だ。ユウナとしてもそろそろ腹を割って話さねばならない時期だと思っていた。母とは主にカナード関係でよく話すし、なかなか良好な関係を築けていると思っている。一見するとヒステリックな女性と思われたが、話してみるとこれが滅茶苦茶いい御人だったのだ。厳しいところは厳しい。しかしそれは相手を思いやった優しさと愛情から来るものだとユウナは見ていた。実際、カナードも彼女にとても懐いている。
 人は見かけによらない。本当にその通りだった。今日とて忙しいだろうにわざわざ空港まで見送りに来てくれたのだ。ユウナは彼女が好きになっていた。
 だからこそ、父ウナトともうまくやりたいと思っている。年齢的には彼らよりもはるかに上であるが、それでも血の繋がった両親だ。親と子。その関係が希薄など、さびしいではないか。

「そうだね、父上。その通りだ」

 思えば親として子や孫たちと接することは多々あれど、自らが子供であることは久しくなかったことだ。改めて思うとどう触れあってよいのか少しだけ困惑する。また苦笑が漏れた。
 しばらく沈黙が場に横たわった。けれどそれは決して不快なものではない。どこか穏やかで落ち着いた空気が流れている。

「…ところで父上。親子の会話の前に、一つ確認しなきゃならないことがあると思うんだ」
「…奇遇だな。私もお前に確認したいことがある」

 その木漏れ日のような香りは瞬く間に霧散した。じっと互いの瞳を探り合い、やがて両者の視線はある一角へと向けられた。そこは機内の窓際に備え付けられた座席。ほんの少し姿勢を傾ければ彼方までたゆたう雲海に思いをはせる事ができる位置にあった。
 強化ガラスに張り付いている、見覚えがあるどころではない小さな黒髪の子供。こちらに背を向ける形になっているが、ユウナは彼の顔をまざまざと思い浮かべる事が出来た。

『何故いる』

 見事に重なった。思い切り頬が突っ張っていることが感ぜられる。よほど空の光景がお気に召したのだろう。その子供、カナードはこちらの気など知ったことかとばかりに振りかえろうともしなかった。

「いやいやいや、何でいるの? おかしくね? え、僕連れてきてないよ?」
「私もだぞ。どうやって入り込んだんだ!?」

 客室乗務員を呼び出して詳細を訊ねたところ、普通に自分たちの後ろにくっついてきていたからてっきり一緒にお連れになると思っていたとのこと。
 いやいやいや、おかしいから。ありえないから。セキュリティどうなってんの!? とユウナが青筋を立てて護衛の黒服殿を問いただした。こちらもやはり当然の顔をして後ろに付いてきていたから、ああ一緒に行くのだなと思っていたらしい。父の護衛としてセイラン邸に来ることも多く、カナードの顔を知っていたことも彼らが疑問視しなかった理由の一つの様だった。加えて同じく子供であるユウナの存在が見事に隠れ蓑になったというのだから笑えない。超笑えない。
 よく出国審査通ったな。という疑問はカナードの首からさげられているパスポートが見事に物語ってくれた。そう言えばこの子はもともとオーブ外から来たわけだし、その関係もあって移民後子供用パスポートを申請していた気がする。

「だからって通すなよ! あり得ないでしょう子供一人で手続きするなんて!」
「いえ、その……カナード様の手続きは、ユウナ様とご一緒に私どもの方で……申し訳ございません!」

 気を利かせてくれたのだろうがあっぱれなほど裏目に出ていた。ユウナは大声を出したことを謝罪し、青い顔をしている黒服殿を慰めた。彼は悪くない。さりげなくセキュリティ上破滅的なまでのミスであり、これがブルーコスモスのテロだったら今頃どかんだぜ、な状況であってもユウナには彼を責める事が出来なかった。
 いや、理由はどうあれ雇い主としては厳重な処罰を下さねばしめしがつかないのだが、そもそも後ろにくっつかれていながら気付かなかった時点で糾弾する資格などないという思いが強すぎてそうする気が起きなかったのだ。本当にどうやったんだろうかこの子。無意味にすごいぞスーパーコーディネイター。

「…今更戻るわけにもいかないし、表沙汰にすると色々面倒なことになるよ…。ていうか正直どんだけ首飛ぶことになるか」
「…うむ。仕方あるまい」
「よし、最初から一緒に行く予定だったと言うことにしとこう」

 護衛だの空港関係者だのを考えれば多分ダース単位じゃすまないギロチンを思ったのか、ウナトが渋い顔を露わにした。おそらく鏡を見れば自分も同じ表情をしているだろう。ユウナは思い切り頭を抱えた。
 これが普通の旅行で、友好的な国に向かうのであればこんな思いはしなかったろう。そもそもそうであるならばカナードを置いてくるという選択肢などなかったはずだ。
 けれど今回の旅の目的はすこぶる政治的なものであり、なおかつ向かう先は大西洋連邦。コーディネイター排斥論の中心地とも言うべき国だった。そんな所にコーディネイターのカナードを連れていくなど、カモがネギ背負って鍋に突撃するようなものである。
 ましてや。その先を思い浮かべてユウナは暗澹たる気分となった。

「…後でお仕置きコース、覚えてろ……」

 甘い甘いと言われるユウナだが、さすがに今回の件を見逃すほどど甘ではなかった。こめかみを指で押さえて軋んだような呻きを洩らす。
 ましてや、大西洋連邦での活動の中心地となるのは彼の国屈指の名門にしてこの世界の諸悪の根源。あのアズラエル家なのだから。



[29321] PHASE15 お子様から目を離したらだめだぞ?
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/12/21 23:45
 大西洋連邦有数の工業都市デトロイト。かのヘンリー・フォードによって自動車工場が開かれた後、自動車工業を中心として発展した大都市である。石油燃料が枯渇した後もエレカの一大生産地として知られ、また随所に国際的な博物館などの置かれた歴史の地としても有名だった。
 のべ十三時間に及ぶフライトによって現地時間の朝に到着したセイラン御一行は、時差とか長旅の疲れとかでへろへろになりながらも首都ワシントンで外交官らの歓迎を受けて一日を過ごし、その後デトロイト・メトロポリタン国際空港へとやってきていた。

「気持ち悪。時差気持ち悪……」

 専用リムジンの中でユウナは頭を抱えていた。オーブとの時差は約十二時間、今が現地時間で昼の一時であるから、向こうでは丁度深夜一時となる。夜の早い年寄りはとっくの昔に眠っている時間であった。一応昨日のホテルで寝ようとしたのだが、体内時計の狂いで全く眠れていない。明るいのに眠い、眠いのに眠れない。基本的に睡眠をすこぶる愛するユウナにとって、この状況は地獄以外の何物でもなかった。おまけに昔から海外旅行などでは大抵へばっていたことをすっかり忘れていたため、何の対策もしていない。辛い、とてもとても辛い。
 柔らかなシートに身を沈めて、ユウナは瞳だけで隣でやはり車窓にへばりついているカナードを一瞥した。昨日お尻叩き三十発の刑に処したことで、久方ぶりに大きな泣き声を発したこの幼子は懲りた様子も見せずに外の風景を凝視している。途中手が痛くなったりウナトがドン引きして寛恕を請うたりしたが迷わず完遂、我ながら良い仕事をしたと思っていた。

 まあ正直な話、帰国したら怒り狂ったエレンのさらなるお仕置きが待っているのだから手を抜いてもいいかな、とも思わないでもなかった。昨日ホテルから通信した時のあの憤怒の呻きは並みではない。遥か彼方にいるはずの自分すら背筋が寒くなったほどである。怒っていた。何の関係もないユウナをして空中三回転土下座すら辞さぬ構えにさせるくらい怒っていた。
 ともあれそれは無理もない反応であろう。ほんの少し目を離したすきにかき消えた息子を探すべく相当な体力と気力を消耗していたようであったから、その怒りももっともと言えた。母は強しとはよく言ったものである。
 とはいえ、このプチ家出騒動の原因を聞けば誰でもそうなるかもしれない。はっきり言って尻叩き執行後被告の発言を得た際の脱力感は今なお健在であった。いわく「がいこくのおいしいものがたべたかった」である。

 食欲、完全なる食欲だった。これが置いていかれるのが寂しかった等の可愛げあるものだったならば、まだ同情なり情状酌量の余地なりがあろう。しかし現実は非情、ユウナとウナトは大西洋連邦の大味な食事に負けたのである。ちなみにこの証言によって追加刑として夕ご飯は一人だけ北米のマズ飯に変えられることとなった。先の刑ほど派手ではないが、幼子が涙目になったことを追記しておく。
 と、そんなことをつらつら考えつつぼうっと頭を緩めているうちに、リムジンが馬鹿でかい鉄門をくぐり抜けた。その瞬間、まるで世界が変わったかのような錯覚を受ける。どちらかと言えば殺伐とした印象のデトロイトから、色とりどりの花々や草木の織りなす幻想的な風景への華麗な転換だった。よほど腕のいい庭師がいるのだろう。窓に張り付いていたカナードから無言ながら猛々しいオーラがほとばしった。なにこれこわい。

「父上、僕ホテルでニートしてちゃだめ?」
「…駄目に決まっているだろう。というか、お前が帰ったら誰があの子の面倒をみるのだ?」

 私では止めきれんぞ。今にも飛び出しかねない黒髪の子供を見てウナトがため息をついた。ユウナもまた困ったように吐息する。
 本当ならホテルに残しておきたかったのだが、諸々の理由によってそれはかなわなかった。今回の訪問では護衛こそいるものの五歳の子供を世話できる人材が皆無だったのである。当たり前だがカナードを連れていく予定でなかった以上、子供の世話ができる人間を連れていく必要がなかったからだ。ちなみに、おいおい僕も子供だろうしていうかそんな公式の場に連れて行く気なのかよ、と言ったら何故か鼻で笑われた。ガッデム。
 まあそうである以上、周りの護衛もウナトとユウナを守る職務がある。子守りのために護衛対象から離れるなど論外であった。となると現地で紹介してもらえればいいとも考えたが、これもそうはいかない。言うまでもなくカナードがコーディネイターであることが原因である。昨今の大西洋連邦は絶賛ブルーコスモスブーム。政府高官から一般民衆にいたるまで、かなり広い範囲で思想が浸透しかかっているのだ。雇ったお世話係が「青き清浄なる世界のために!」とか叫び出したら笑い話にもならない。
 というわけで、実はブルーコスモスの総本山たるアズラエル家に連れて行った方が安心、とかいう笑えない状況がここにあった。大西洋連邦…恐ろしい子。

「ようこそ、ウナト殿。お待ちしておりました」

 玄関先に止められたリムジンを降りると、そこには二人の初老の男と一人の青年、そして大勢の侍女たちが待ち構えていた。

「これはこれは、アズラエル理事御自らお出迎えいただけるとは恐縮です」
「いえいえ、遠路はるばるお越しくださったお客様を迎えるのはホストとして当然のことです。どうぞお気になさらず」

 くすんだ金髪の男、大西洋連邦国防産業連合理事ブルーノ・アズラエルがにこやかな顔でウナトと握手した。その隣、セレスティン・グロードも父を歓迎する言葉を発する。

「長旅お疲れ様でしたな、ウナト殿。ご子息もお元気そうで。私のことは覚えているかな?」
「はい、セレスティン殿。ご無沙汰しております」
「大きくなられましたな。確か今年で八つになられたとか。いやいや、聡明な後継者殿だ、羨ましい限りです」

 見え見えのお世辞をありがとう。内心だけで舌を出す。彼らの瞳に何か値踏みをするような色を感じ取ったが、ユウナは気づかぬふりをして無邪気な笑顔を浮かべた。
 警戒、興味、疑心。そうした感情を明確に感じ取る。まるで一挙一足すら観察されているような感覚はあまり愉快なものではなかった。ち、と舌打ちしたい気分になる。どうやらあちらは、自分を単なる子供とは見てくれていないようだった。これは少し、動きにくいかもしれない。

「そちらの男の子は? 随分と可愛らしいですなあ」
「ああ。この子は当家で色々と世話をしている人物の子供でしてね。本当ならば連れてくる気はなかったのですが、息子が一緒でなければ嫌だとあまりにも駄々をこねるもので…」
「ごめんなさい、父上……」

 ナイスだウナト。頭を下げつつも思わず喝采をあげそうになった。実父から噂を裏付けるかのような話を聞かされれば、このオヤジどもの警戒レベルも下がるかもしれない。ユウナはほんの少しだけ期待してホストたちの顔色をうかがった。
 果たして、探るような瞳はますます強くなっていた。ちょ、おま…と叫ばなかった自分をほめてやりたくなる。どうしてここでレベルが下がるのではなく上がるのか。ユウナにはさっぱりわからなかった。…否、予想はできるがわかりたくなかった。
 ふと、彼らの傍らに立っていた青年から強い視線を感じた。自分に向けたものではない。さっと撫でるように彼の瞳を追い掛けると、その先にいたのはカナードだった。睨むような細められた目。
 …これま少しまずったかもしれない。乗せられた感情を読み取ったユウナは、やむを得なかったこととはいえ自分の行いが想像以上に失策であったことを悟らざるを得なくなる。
 青年の抱いていた感情。それは強い嫌悪と嫉妬だった。この小さな子供をまるで醜い化け物を見るかのごとき一瞥が、ある一つの事実を知らしめている。
声を出すことなくユウナは舌打ちしたい衝動を抑えた。
 彼は――否、おそらく彼らは、カナードがコーディネイターであることを知っているのだ。問題はそれ以上のことを連中が知っているかどうかなのだが、残念ながらそれを確かめるすべは自分にはない。

 こんなブルーコスモスの巣窟でコーディネイターだということがばれるなど悪夢以外の何物でもないが、それ以上にユウナの心胆を寒からしめる心配事があった。それはどの深度まで男たちが情報を握ることができたかである。これがオーブ移民局のデータベースのものであれば問題はそこまで深刻ではない。しかし、もしもコロニーメンデルのデータを照会されているのだとすれば事態は最悪の展開へと転がり落ちる。この子がスーパーコーディネイターだと気づかれれば、もはやカナードは普通の生活には戻れなくなるだろう。
 否、そもそもだ。どうしてカナードの事を調べた? 確かにこの子はセイラン家に出入りしているが、それはあくまでユウナの個人的なつながりに留まるレベルである。今回の事でセイラン周辺を洗ったとしても中心はあくまでウナトのはずであり、血統的に何の縁もないカナードの事を調べるのだろうか。

 何故気づかれた? 目的は何なのか? 彼らの目的が一切見えないことが、少しばかりユウナを苛立たせる。ポーカーフェイスを作れたことは奇跡だった。どうにか外見だけは平静を保つことに成功する。カナードに挨拶させると、ブルーノとセレスティンは少なくとも表面上は穏やかに見える対応を返した。

「ところで、アズラエル理事。そちらの方はもしや…」
「ウナト殿にご紹介するのは初めてでしたな。これは私の愚息でムルタと申します」
「ムルタ・アズラエルです。はじめまして、ウナト殿」

 少しだけ唇の端をあげた青年――ムルタは気障な動作でウナトに握手を求めた。人を食ったような印象を受けるが、不思議と慇懃無礼な感覚はしない。
 ムルタ・アズラエル。その名を聞いて抱いたのは、やはりという納得感だった。どことなくブルーノに似通った空気を持ち、コーディネイターに嫌悪の情を表す青年。少なくともユウナは彼以外に該当する人物を見つけ出せずにいた。そしてそれは正解だったようである。
 畜生家に帰って丸くなりたい。カナードの手を握りながら歯がみした。お腹痛いとか言ってホテルに帰るべきか、しかし今ウナトから離れる方が逆に危険とも言える。頭を高速で働かせたが、打開策は出てこなかった。そうこうしているうちに、ブルーノが自邸へと自分たちをいざなう。

「皆、ウナト殿をお待ちかねです。さあさあ、こちらへ」

 結局ユウナにできたことは、今にも庭園に向かって飛び出そうとするこの子供の手を強く握ることだけであった。ガッデム。







 本当にデトロイトか、と疑う程、そこは綺麗に整えられた場所だった。アズラエル邸の中庭に面したその一角は広いテラスとなっていて、白を基調としたガーデンテーブルが幾つも設置されている。ガラス張りの天井からはさんさんと太陽の光が降り注ぎ、明るくさわやかな雰囲気がふっと頬を撫でるかのようにたゆたっていた。
 既にかなりの人数がテラスに集まっており、各々が茶を傾けて雑談に興じているように見えた。いずれも身なりはよく品の良い笑声がそこかしこから上がっている。ユウナたちはその内の一つに案内され、促されるままに腰を下ろした。すると気を見計らっていたかのようにボーイがティーカップを置き、そこに紅の雫をさっと垂らす。柔らかな芳香がユウナの鼻腔をくすぐった。

「さあどうぞ。召し上がってください」

 同じテーブルに付いたブルーノがにこやかな顔で茶を進めてきた。セレスティンは別の席に、ムルタはもともと顔見せだけだったのか、二、三言葉を交わしたくらいで別れてしまった。毒でも入っていそうだ。そんな偏見じみた思いを抱きながらもすっとカップに口づけする。

「これは…」

 ウナトが驚いたように感嘆の呟きを洩らした。ユウナも表に現さないまでもその味わい深さに感心していた。香りもそうだがとにかく味が素晴らしい。入れ方が良かったのか、葉がいいものなのかはわからないが、割と食べ物にうるさいユウナをして唸らせる力がこの紅茶にはあった。カナードの目がきらきらと光っている。

「お気に召しましたかな? これは先日汎ムスリムより取り寄せたダージリンのセカンドフラッシュです。私は大の紅茶党でしてね、毎年これを呑むのが楽しみなのですよ」
「私はさほど紅茶には詳しくないのですが、それでもこれが飛びぬけて良いものだということはわかります。いやはや、こんなのは初めてだ」

 ウナトが茶を絶賛してまた茶を含んだ。ユウナも務めてにこやかな顔を維持し、それにならった。ふとカップに描かれた文様に目を止めた。礼を失しないよう気をつけながら、ソーサーの裏側を覗き見る。青を基調として刻印されているUEの文字、それを確認したユウナはぴくりと眉をはね上げた。

「ゲフレ・ウプサラエクビー……」
「ほう、よくご存じだ。ご子息はこういったものがお好きなのかな?」

 聞き咎められていたらしく、ブルーノが面白そうに微笑んだ。内心で舌打ちしつつ、子供の仮面を装着したユウナは人懐っこく彼の問いかけに答える。

「はい。友達がこういうのを集めていて、色々な物を自慢されましたから」
「なかなか良い御趣味をお持ちの友人だね。大切にして差し上げるといい」

 ゲフレ・ウプサラエクビーは西暦の時代より続くスウェーデンの陶磁器メーカーである。スカンジナビア王国建国後も北欧アンティークとして幅広い層に親しまれていて、事にウプサラエクビーの茶器は希少な品々としてコレクター垂涎の代物なのだ。ユウナもそれなりに数寄者であったため、思わずお持ち帰りしたくなった。

「私もこうしたものには目がなくてね。本当はグスタフスベリやフィッギオも捨てがたかったのだが、今回のお茶受けに合うカップを選んだ結果、こうなったのだよ」

 グスタフスベリは同じくスウェーデン、フィッギオはノルウェーの陶磁器メーカーで、同じくスカンジナビア王国の企業である。何となく意図が読めてきたユウナは、大皿に添えられているクッキーをかじった。さくりと軽やかな音をたてながらも柔らかく甘い。やはり素材がいいのかとても美味である。
 ユウナの考えが正しければ、おそらくこのクッキーに使われた素材の原産地は――

「ああ、やはりこの風味は大洋州連合の小麦でなければ味わえませんな。ウナト殿、御遠慮なさらずどんどん味わってください」
「ありがとうございます、理事。…おお、これはこれは」

 やはり。露骨なまでの嫌みにユウナは危うくポーカーフェイスが崩れるところだった。汎ムスリムの紅茶、スカンジナビアの食器、大洋州の小麦。ここまでそろえられて気づくなと言う方が無理である。
 これらはいずれも今回お呼び出しをされた件、即ち地域経済連合発足がまことしやかに語られている国々の主要産出物であった。おそらくユウナ自身が気づいていないだけで、赤道連合や南アメリカなどの品もどこかに含まれているに違いない。

「私も大概数寄者でしてね。もっとこれらの品々が広まればいいと考えているのですが、何分様々な面でコストがかかる。昔ほどではないにしても、一般家庭で親しまれるにはまだまだ遠い。残念なことです」

 軽いジャブが入った。それと同時に話が本題へと移行したことを場に知らしめる。

「より大勢の市民の方々に幸福を送り届ける。企業としての使命を果たせぬとは、我がことながら情けない。その任を全うしようとしている貴国には頭の下がる思いです」
「ありがとうございます。ですが我が国でも全てがうまくいっているわけではありません。全てを幸せに導かんとしても、それは必ずどこかで齟齬をきたします。神ならぬ人の身では、何もかも完璧に事を成すことは不可能なのやもしれませんな」
「しかし一人でも多くの人々に恩恵をもたらすよう努力せねばならない。ままならないものです」

 表面上はにこやかである。目も笑っているようで、一見して彼らの内情を知ることはできなかった。しかし近くにいるからこそわかるこの張りつめた空気が、目に見えていることとそうでないものの決定的な温度差を表していた。気を紛らわすように茶を含む。少しだけ冷め始めていた。これ以上冷たくなっても風味を殺すだけなので、そのままぐっとあおって嚥下する。
 外交というのは時として恐ろしく迂遠でわずらわしいものがあるのだが、要するに彼らとしては「経済的連携を強めるのならばうちも参入させろ」と言いたいのだ。とはいえ「あんたらみたいな大国が参加したら発展どころか産業衰退しちゃうでしょ」というウナトの突っ込み通り、関税の段階的引き下げを行っている現在、アホみたいな生産力を有する大国の参入など認めれば、後に残るは経済的属国と化した荒れ地だけであろう。それはロゴスとしても本意ではあるまい。

「そういえば理事。ここ最近ますますプラントでの工業製品の製造が活発になっておられるようですが、どうですかな? 使い心地は」
「ええ、おかげ様で順調に生産が進んでおります。つい先日、プラント製のエレカをあつらえたのですが、なかなかの乗り心地ですよ。さすがの技術力、といったところでしょうか」
「それは羨ましい。私どもの製品もそれに引けを取らぬとと自負しておりますが、やはり彼らの力は素晴らしいですな。ぜひともあやかりたいものです」
「ははは、地球でも屈指の技術大国たるオーブのお言葉とは思えませんな」

 となれば、おそらくロゴスの本心は首輪をつけたい、発展に際しある程度の影響力を保持していたいといったところか。南太平洋で経済が活発化すれば、その分だけ市場規模も増大する。今後ますます増えるであろうプラントの工業製品とそれに伴う生産力の増大の良い受け皿になるはずだった。
 とはいえ先ほどの会話、意訳すれば「首輪つけられんのもやぶさかじゃないが、その分プラントの高品質製品を回してくれるんだろうな、ああ?」「てめえもう十分技術力あんじゃねえか。図に乗んな」である。最終的には幾分か回してくれるだろうが、現状ではさほどの数は渡せないと。ケチめ。

「理事におほめいただけるとは、我が国の技術者たちも喜びましょう。しかし恥をさらすようで赤面の至りなのですが、彼らも大きな問題を抱えているのです」
「ほう、問題ですか?」
「ええ。実は我が国の技術者たちはその多くがコーディネイターでして、そのせいか良からぬことを考える者たちが後を絶たないのです。軍や警察も頑張っているのですが、彼らに安心できる職場を提供できず…真に慙愧の念に堪えません」
「おお…それはなんと。心中お察しいたします」

 溜息をつかなかったことを自賛したかった。何せオーブのコーディネイターたちを付け狙っているのは、他ならぬブルーコスモス。目の前のブルーノ・アズラエルが元締めとも言うべき組織なのだから。「だったらてめえんとこの三下なんとかしろよ」「うるせー馬鹿野郎」と。確かに割と切実な問題だから何とかしてほしいのだが。

「やはり経済活動を安全に行うには、治安維持は必要不可欠ですからな。いずれ太平洋全域に広がるであろう貿易網を守るために、我らも力を尽くす所存です」
「…なるほど。確かにそうですな。安全こそ健全なる商取引の要。私も商人のはしくれである以上、その重要性は理解できます」

 ウナトが南太平洋ではなく太平洋全域といった意味を、ブルーノも正しく理解したようだ。この後もプラント工業製品云々やら参入規模やらの具体的取り決めがなされるだろうが、大前提としてこれ以上のブルーコスモス暗躍を停止することがあげられるはずだった。
 まあ、この辺りが落とし所だろう。ユウナはクッキーをかじりながら深く思案した。お呼び出しをかまされた時点である程度の譲歩は覚悟していたし、そもそもロゴス資本の参入は必ずしもマイナスと言うわけではなかった。動く金が大きければそれだけ商いの規模も大きくなる。何よりもロゴスを引き込めれば、三大国もうかつな真似ができなくなるというメリットが魅力的だった。

 国家と企業は違う。企業体であるロゴスに利益があるからと言って、それが三国の国益につながるかと言えば全くもって関係ないのである。というかむしろ害悪? マスドライバー港ポルタ・パナマを巡って南米と対立している大西洋連邦にとって、南アメリカ合衆国が強大化すれば頭が痛くなるだろうし、赤道連合、汎ムスリムと長大な国境線を有する東アジアも国防費の増大などに泣かされることとなると思う。この調子でアフリカまで参画するとなれば、ビクトリアのマスドライバー港ハバリスにちょっかいをかけているユーラシアにまで問題は波及する。国防という視点に立てばちゃぶ台を返したくなるような状況になるのだ。
 ここら辺が自由主義経済における国家と企業の不一致の問題点である。企業の本質はあくまでも利益の追求であって、それが必ずしも国家に福音をもたらすとは限らない。
何故か。極端な話、国――国家政府が滅亡しようとグローバル化した企業がつぶれることはありえないからである。無論、あくまで極論であって、実際滅ばれたら色々な面で企業は多大な損害を被るだろう。しかしながら、だからと言って滅亡するかと言われれば首をかしげざるを得ないのが現状なのだ。

 史実においてアクタイオン・インダストリーがユーラシア連邦・プラント双方にモビルスーツを売り込んでいたことからもそれはわかる。はっきり言って、国益と企業利益が乖離していない会社なんて国益企業たるモルゲンレーテくらいのものではないだろうか。経済って怖いね
 まあ、だからこそロゴスなどという秘密結社が生まれるのだが。国家は国益のために企業を制御しようとする。それに対しロゴスは企業利益のために国家を支配しようとする。二律背反、対立概念。そして近代民主主義国家でどちらが強いかなど、ちょっとでも歴史を紐解けばわかることであった。専制国家でよかった。

「美味しい話にゃ裏がある。他人に美味い話は持ってかない。てね」

 誰にも聞かせることなく口の中だけで転がした。国際社会とは結局のところこれに尽きる。オーブが非理事国と緊密化を図ったのも元をただせば、オーブバッシングに伴う貿易の低調を回避するためである。つまり自国の都合、何よりもまずオーブの利益第一の結果なのだ。無論関係国にも利益が出るようにしているが、それはあくまでこの動きから逃さない為の飴にすぎない。当然向こうもまた利用されているのを承知でオーブを骨までしゃぶりつくす気でいるのだろう。
 またロゴスも自分たちが儲かりそうだからアプローチをかけてきた。オーブは儲かるかどうかわからないからロゴスを巻き込まなかった。メリットは大きい。しかしデメリットもまた大きいからである。だからこうして少しでも自分たちが利益を得ようと言葉の戦争をしているのだ。ていうか世界経済マジ魔窟なんですけど。

 その辺りはウナトも歴とした政治家であるし、何より本国には獅子殿が君臨していた。うかつなことにはなるまい。周りが有能だから自分も一つのことに集中できる。素晴らしきかなこの状況、だった。
 あー、お茶が美味しい。とユウナが完全にまったりモードに移行した時だった。ウナトがふと気付いたように一言洩らしたのである。

「ユウナ。カナードはどうした?」

 …は? と我ながら間の抜けた声を洩らしたものだと思う。最初はそのまま「何を言っているのさ父上、ほらそこにいるでしょう?」と続けるつもりだった。しかし彼の言葉に導かれ、黒髪の幼子が座しているはずの席を見て、かこんと顎が外れる程の衝撃を受けた。

 I☆NEEEEEEEEEEEEEEEEEEE!

 いない。先ほどまでクッキーをむさぼっていた子供が。どこを探しても髪の毛一筋すら残されていなかった。

 ――その瞬間、全身から血の気が引いた。

「ちょ……おま……」

 絶叫を通り越して絶句にたどり着いた。一体いつの間に消えたのか、ユウナには皆目見当もつかない。
 ばくばくと脈打つ心臓を必死でなだめた。不味い不味い不味い。冗談抜きで死ぬほど不味い。ここはアズラエル家で、訪れている客層は世界各国の超お偉方なのだ。当然、色々な情報網を持っているし、利があれば多少の無茶は平気でやる連中ばかりである。そんな中でスーパーコーディネイターなどというろくでもない肩書を持つあの子がうろうろしたらどんなことになるか。
 一応セイランの後ろ盾はある。しかし誰にも見つからず確保されればいかな自分たちといえど取り戻すことは不可能だ。知らぬ存ぜぬで通されてしまえばこちらに成す術は残っていない。
 ユウナの脳裏に、史実で彼がたどった未来がまざまざと浮かび上がった。その最悪と言っていい未来を思い切り頭を振ることで追い落とし、勤めて冷静であろうとする。

「父上。僕はちょっとあの子を探しに行ってきます。…何かあれば、その時は」
「…わかった。こちらでも手配はしておく。よろしいですかな、アズラエル理事?」
「勿論。すぐ警備の者たちに知らせましょう」

 交渉がまとまりかかっているこのときに、オーブの国民でありセイランとも密接に関わっているカナードにもしものことがあれば、それは彼にとって失点、大きな不利益となる。子供の運命まで交渉カードにするのが外交である以上、ブルーノの申し出は信用に値した。

「お願いします」

 少なくとも現時点においてロゴスにとってカナードは守らねばならない存在である。しかしその下部組織や国に忠誠を誓う天誅にとってはそうではない。急がなければ。
 椅子を蹴倒さぬよう細心の注意を払ってユウナは早足でテラスを後にした。手近にいた黒服のガードマンに同行を請い、屋敷の間取りを聞きだす。カナードの行きそうなところを片っ端から調べるのである。
 早くあの子を見つけなければ。ともすれば焦り出す意識を必死に抑えて、ユウナは流れ落ちる冷や汗を拭った。



[29321] PHASE16 こころのそうびはぬののふく
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/12/22 00:13
 実のところ。とことこと廊下を歩くカナード・シフォース少年には、自分が悪いことをしているという認識はかけらも存在しなかった。ただ単純に庭園の花壇がとても綺麗だったからちょっと見てこようと思った、彼の頭にあったのはそれだけなのだ。
 無論、口酸っぱくユウナに戒められていたことを忘れているわけではない。普段全くと言っていいほど自分に手をあげない彼があそこまで怒ったことは記憶に新しいし、いかな子供であるといっても――否、子供であるからこそその恐怖は心に根付いていた。
 しかし惜しいことに、この子供は尻を叩かれたことと自分が悪いことをしたこと、その二つは正しく理解していても、肝心の怒られた理由についてまでは考えが及んでいなかったのである。カナードはユウナがあれほど怒った理由を「勝手に付いてきたから」という一点にのみ集約してしまった。必ずしも間違いではないのが余計にたちが悪い。「勝手についてきた」という事象を強く意識するあまり、「どうしてついてきてはいけなかったのか」の部分への認識が及んでいなかったのだ。
 もっとも、これに関して言えば責められるべきはユウナ・ロマであろう。いかなスーパーコーディネイターであり普通の子供よりもはるかに優れた頭脳を持っていようとも、カナードはまだ五歳。自身の出自や世間を取り巻く空気などを論理的に思考するなど絶対に不可能なのであった。だからこそユウナは付いてきてはいけなかった理由をきちんと説明し、カナードに事実を認識させなければならなかったのである。

 それを怠った結果がご覧の有様だ。豪華な調度品や絵画が飾られた豪邸をふらふら歩く迷子の出来上がりである。
 行きかう使用人たちはカナードの姿を見て怪訝に眉をひそめるも、身なりの良さから招待客の子息と判断し脇に下がって一礼する。今回の園遊会には各国のVIPが集まっており、中には幼い子息や息女を引きつれているものも珍しくなかった。幼いころから誼を通じ合わせ、人脈あるいは将来のお相手を作ることは社交界でも重要事、これほどの面子が集まる機会を逃すほど上流階級という人種は鈍くはない。
 けれどもそこはやはり幼い子供。大人同士の黒々しい談笑など彼らにとって何の面白身もないものである。それ故に保護者の監視付きではあれど、子供だけで集まって遊ぶという光景はそこかしこで見る事が出来た。屋敷内の警備はアズラエル家の威信にかけて徹底されていることも、その放任を助長する遠因の一つであろう。
 だからこそ不幸にも――子供にとっては幸運にも――カナードは誰にも見とがめられることがなかった。どこかに隠れて護衛がいるのだろうという先入観から、屋敷内での自由行動権を獲得してしまったのである。もはや止めるものは何人たりとも存在しなかった。
 きょろきょろと物珍しげに周りを見ながらも、カナードは毛先の長い絨毯の上を歩き続けた。脳裏に浮かんでいるのは、最初に見たきれいな庭園。そして案内される途中に視界へ飛び込んだ見事な花園である。四季なく一年を通して常夏のオーブでは決して見られない種類の花が色とりどり咲き乱れていたあの場所は、幼いカナードの心をつかんで離さなかった。
 早くあそこに行って、近くでお花が見たい。今この子供の頭を支配しているのはこの一言である。

「ねえ、ちょっと。そこのあなた」

 自然と足も速くなる。ちょっと見るだけなら悪くなくても、あまりに遅くなると皆に心配をかけてしまうことはカナードも分かっていた。母に「帰りが遅くなるときは、きちんと連絡しなさい」と教えられたことを覚えていたのだ。だからセイラン家でのお泊りの時は、ちゃんとシフォース家に通信を送るようにしている。

「あなたよ、そこのあなた! きいてるの!?」

 もしも連絡せずに遅くなったりしたら、またお尻を叩かれるかもしれない。カナードはちょっとだけ顔をしかめ、思わず昨日思い切りぶたれた臀部をさすった。

「む…むししないでよ! ねえ、ねえったら!」

 いきなり肩を掴まれた。カナードは驚いて――と言っても表情筋はぴくりとも動いていない――振り返った。

「ひどいじゃない! あたし、さっきからこえかけてたのにむしするなんて!」

 見覚えのない少女がすぐそばにいた。年はおそらくカナードよりも下、三、四歳ほどだろうか。燃えるような深紅の髪に、ミルクのような滑らかな肌。顔立ちははっとするほど可愛らしく、怒りのためかぷくりと膨らんだ頬っぺたは大福を思わせる程柔らかそうだ。
 誰? とカナードは小首を傾げた。いつも自宅かセイラン邸のどちらかにしかいないため、同世代の子供に知り合いは皆無なのである。ユウナなどはこれを嘆いていたが、残念ながら身辺警護上やむを得ないことであった。
 まあそれはともかく。カナードはしばし赤毛の少女を見て考え込んだ。色々と思うところはなくもないが、とりあえずユウナや母などからしっかりとした教育を受けていたためこの場合行わなければならないことを迅速にこなす。

「ちゃお」

 挨拶である。人間こんにちはとありがとう、ごめんなさいを言えなきゃダメ、が我が家の絶対規則だった。

「あ、うん。ちゃお…?」

 とたんに大福がしぼんで、代わりに困惑が顔をのぞかせた。しかし実際に困惑したいのはこちらである。

「だれ、きみ?」
「パパがいってたわ。レディになまえをたずねるときは、まずじぶんからなのるのがれいぎだって。だからまずあなたからなのりなさいよ」

 ぽかんとカナードはあっけにとられた。理不尽、ものすごく理不尽な要求である。そちらから話しかけておいて名乗りを求めることこそ礼儀知らずなのではないか? と普通ならば面食らうところであろう。
 しかしながら。ユウナ・ロマをはじめとした一同にたっぷりと愛情をそそがれて育てられたせいか、はたまたスーパーコーディネイター特有の天然遺伝子でも存在しているのか。カナードは恐ろしく素直な性格をしていた。相手がそう言っているのならばそうなのかな、と極々単純に受け取ってしまったのである。

「カナード・シフォース」
「…あなたのおなまえ?」

 頷く。すると少女は先ほどの不機嫌さをかなぐり捨てて、にこりとひまわりの様な笑顔を浮かべた。

「わたし、フレイ。フレイ・アルスター! よろしくね」

 ぶんぶんと手を握って振り回す。しばしされるがままになっていたカナードは、やがてふと思いついたかのようにまた首をかしげて問いかけた。

「それで、おれになにかよう?」
「ううん。べつに。ただおもしろそうだったからはなしかけただけ」
「そう」

 それなら仕方がない。ユウナもいつも言っていた。物事全部に理由があると考えるのは傲慢だと。深い意味は理解できなかったが、とりあえず彼は何となく面白そうだからというだけで色々と変な事をする人だったため、そういうことなのかなと認識はしていた。だから幼児がなくても話しかけるという行為に疑問を差し挟むこともなく、また憤りを感じることもない。

「ねえねえ、カナードはなにをしているの?」
「おはな、みにいく」
「…おはな?」きょとんと眼を丸くしたフレイは、やがて得心したとばかりにぽんと手を打った。「ああ、おにわのおはなばたけね。あれ、きれいよね! わたしももっとみたかったんだー」
「おはな、きれい」
「…あなた、おとこのこなのにおはなすきなの? へんなの」

 変? そう言われて小首をかしげること三度。男が花好きだと何か変なのだろうか。ユウナやトダカも花は好きだと言っていたし、前に庭を通りがかったウナトもカナードが育てた花を見て素敵だと言ってくれた。
 くるくると頭で考えを回しているうちに、指摘者は先の発言の論理を展開することなく何やら別の結論を紡ぎ出したようだ。ぽんと軽く手を打ち、また笑顔を浮かべる。

「そうだ。じゃあわたしといっしょにいきましょうよ。ちょうどひとりでたいくつだったから」
「…ひとりできたの?」
「ううん。パパといっしょ。でもパパったら、ほかのおとなのひととばかりしゃべって、わたしとあそんでくれないの。いいところにつれてってくれるっていうから、たのしみにしてたのに」

 それは可哀想だ。でもちゃんと連れて行ってくれるだけいいのではないかな、とカナードは思った。こちらは付いてきただけで尻叩きとお説教のフルコースであったのだから。

「だからわたし、パーティをぬけだしてたんけんしてたの! おそとにはでなかったけど、おはなのさいていたおにわもみたわよ?」
「ほんと?」
「うそじゃないわ。わたしがつれてったげる」

 そう言って赤髪の少女はカナードの手をとって駆けだした。何の予告もなく行われた行為に思わずバランスを崩しかける。しかし優れた身体能力の感覚によって即座に安定軌道へと回帰すると、すぐさま彼女の後ろに張り付いた。
 綺麗なお花。その言葉にわくわくする気持ちが抑えきれない。早く早く、とフレイの背中に内心だけで声をかけつつ、カナードは廊下を駆け抜けた。







 小さな雨が降り注ぐと、光を纏った虹が生まれた。
 黒々とした土に根を下ろした草花が、煌めきを纏って生命の讃美歌を歌いあげる。彼らが雫を浴びるたびに、ぐんと大きく背伸びをしたかのような印象を受けて、青年は少しだけ微笑んだ。じょうろを傾けていた手を戻し、それを近くの水場に戻す。
 広々とした翡翠の絨毯が、赤茶けた煉瓦の花壇を覆っていた。柔らかな大地と草を踏みしめるたびに、彼の身体に沈澱していた疲労感が足から抜けて行くような感覚を覚え、思わず腰をおろして寝転がりたいという衝動に襲われる。
 勿論衝動だけで終わる。実行に移した場合、今着ている服と彼の世間一般の評判が悲惨な事になるからだ。ことに今の様に自国だけでなく他国からも要人が訪れている時期にそれは致命傷である。
 青年はふうと重々しいため息を吐き、花壇の側にしゃがみこんだ。柔らかく花弁に触れて、その香りと色合いを存分に楽しむ。

 やはり花はいい。泥のように身体にへばりついている疲労が水で洗い流されたように吐きだされて、青年は小さく苦笑した。未だ二十歳に満たぬ若造の身でありながらそんなことを思っているようでは、この先とてもじゃないがやっていけまい。今日の自分はホストではなく単なる端役、派閥の顔つなぎ程度の仕事しかしていないのだ。これが主役としてあの海千山千の怪物どもと渡り合うなど、考えるだけでもぞっとした。
 青年――ムルタ・アズラエルは肩が唐突に重くなったような感覚を覚えた。われ知らずため息が漏れる。
 花弁から指を放し、次いで土に潜らせた。少々湿っているが暖かく柔らかな感触に得も言われぬ心地よさを感じる。花に混じって香る土の臭いに頬がほころんだ。

 小さなころから花の世話をするひとときだけが、ムルタにとって気を緩める事が出来る時間だった。大西洋連邦屈指の名門アズラエル家の長子として特化した教育を受け、次期国防産業理事、ロゴス幹部の座に付くことを義務付けられた日々の中で、唯一許された趣味と言えるもの。土をいじり自然に触れることがどれほど精神の安定に寄与したかは自分が一番よく知っている。
 花に触れている時間だけは、自由でいられた。常に厳しく容赦のない父もこの程度の趣味くらいならば許す度量を持っていたらしく、勉強や職務に影響しない範囲においてはムルタの好きにさせてくれている。あらゆる重圧を溶かし忘れさせてくれるここは、文字通りムルタの聖域であった。
 ふうと息をつき立ち上がった。今日は各国から訪れた客人との付き合いがスケジュール欄の全てを埋めている。今ほんのひと時とはいえムルタが花にうつつを抜かしていられるのは、父がオーブの重要人物との会談を自ら買って出ているからだ。そうでなければ彼と共に顔つなぎの挨拶地獄にたたき落とされているところである。

 上流階級にとって社交界は戦場にも等しい。幅広い人脈は過酷な派閥闘争を生き残るための重要な武器なのだ。いずれはアズラエル家当主として父の基盤を全て受け継ぐ身である以上、有力者との交流は不可欠なものといえた。
 しかし、とムルタは抜けるような青空に目を細めて思考の海へ潜った。そう言う意味では現在進行形で行われているであろう、オーブとの会談に自分が呼ばれなかったことには少々の疑問を禁じ得ないのである。あの国の政治を牛耳る五大氏族、うち親大西洋連邦と目されるセイラン家との交流はないがしろにしていいものではないし、だからこそ出迎え時にムルタを伴ったはずなのだ。なのに肝心要の会談には参加を許されなかった。
 何故? 思わず問いただしたくはなったがそれは自重した。父の決定である以上それが覆されることはないだろうし、その間少ないながらも自由時間を手にできるのだ。わざわざ自分から休憩を削るような真似はしたくない。
 ただ言えるのは、ブルーノが常らしからぬ迷いを抱いていたことだ。あの果断にして英明たる父が、まるで宇宙クジラを目の前にしたかのように判断に困っていた様子は今なおムルタの網膜に強く焼き付き離れる事がない。あんな彼を見たのは生まれて初めてだった。

 ブルーノは一体何に迷っていたのだろうか。それがあの会談に対する父の考えに関係しているのは間違いないのだが、残念ながらムルタには皆目見当もつかなかった。そんな自分に疲れの混じった諦観がタールの様にまとわりつく。
 どれほど努力しようが越えられぬ一線がある。もしも自分がコーディネイターならばこんな問題、簡単に解くことができたのだろうか?
 湧き上がった問いかけは、すぐさま猛烈な嫌悪感と憤怒にとって代わった。否、それはズルだ。病でもないのに遺伝子を弄り、不正を行って得た結果。そんなものに頼るなど、これまで人類が積み上げてきた英知に対する侮辱である。
 先ほどよりも若干荒く息を吐いた。がしがしと紳士にあるまじき乱暴さで金髪をかき乱し、今浮かんだ思考を追い払う。

「やれやれ……予想以上に、疲れてるんですかね」

 園遊会の場に戻ろうとした足を止めてムルタは再びしゃがみこんだ。もう少し花に触れて心を癒さなければやっていられない気分になったのである。腐った自分にも、やはり花々は控えめながらも笑顔を向けてくれた。自然とムルタの相好も崩れる。

「ほら、ここよここ!」

 そんな穏やかな時間は、甲高い声によって粉微塵に砕かれた。反射的に肩が跳ね上がり、その拍子に花弁を一つむしり取ってしまった。「ああっ」と声を慌てさせたが、ちぎれた花弁は力なく彼の掌に横たわってしまう。
 まったくなんだっていうんだ! 半ば八つ当たりを込めた一瞥を無粋な闖入者に投げかけた。果たしてその先にいたのは、一組の小さな子供たちだった。
 一人は燃えるような赤毛の少女。幼いながらも整った顔立ちをしていて、将来はさぞかし男を惑わすことになりそうである。彼女は頬を紅色に染めて周りの花を眺めやっていた。
 そしてもう一人、そんな少女に手を引かれた少年。彼を認めた瞬間、先の苛立ちなど足元にも及ばぬ程の激情がムルタの全身に燃え広がった。肩で切りそろえた黒髪に感情の抜け落ちた表情、間違いない。少し前に見えたあの子供である。

 コーディネイター!

 頭がカッと熱くなった。桃色の花弁を握った手のひらに力が入り、ぐっと爪が肌に食い込む。ともすれば震えそうになる拳をどうにか押さえつけ、ムルタは憎悪すらこもった瞳で子供らを睨みつけた。
 ムルタはあの黒髪の子供のことを知っていた。父がここ最近のセイラン家の動向を調べていた際偶然発見した事実、即ちあの忌まわしいユーレン・ヒビキの残した負の遺産とも言うべき存在のことを。
 人の欲望の結晶。最高のコーディネイター。全人類の頂点に立つべき能力を持った、自分たちブルーコスモスの消すべき最大の敵だ。ムルタは咄嗟に懐に忍ばせた護身用の拳銃に手を伸ばし掛ける。しかしすぐさま公人としての理性がその行動を押しとどめた。
 セイラン家との交渉を進めている中で、オーブ国民であり彼らと深いつながりを持つこの子供を始末するわけにはいかない。そんなことをすれば現在進められている交渉が流れるどころか、最悪アズラエル家はオーブとの貴重なパイプを永遠に失うことになってしまうだろう。自分たちの連れを殺されて笑顔で握手できる人間なぞいるわけがないのだ。
 ムルタはぐっと歯を食いしばった。憎むべき化け物の親玉め。こちらが手出しできぬのをいいことに自分の聖域に土足で上がり込むなど決して許せることではない。視線で人が殺せればと真剣に願ってしまう。

「うわあ、やっぱりきれいねえ」
「ほんとうに。きれい」

 けれどその表情さえ浮かべてはならない。ムルタは幾度か深呼吸し、鬼のように歪んだ自分の顔を数度揉みほぐした。怒りの代わりに笑みを、仮面をつけかえて己の心を落ち着ける。化け物の方もそうだが、あの少女も捨て置いていい存在ではない。見覚えはないものの彼女が身につけている衣装はいずれも素晴らしい仕立てをしていた。おそらくは招待客の子女だろう。である以上、軽んじるわけにはいかなかった。

「あー、キミタチ?」

 勤めて友好的な態度でムルタは子供らに声をかけた。彼らは目を丸くしてこちらを振り向く。

「おにいさん、だあれ?」

 あの化け物は「あ」という風に口を開けたが、赤毛の少女の方は小首をかしげて名を訪ねてきた。よくよく見るとその顔立ちは非常に端整で、いかにも将来有望といった感じである。もしやこの少女もコーディネイターなのだろうか。浮かんできた不快な発想――よりにもよってこのアズラエル家に化け物が二匹も!――をどうにか抑え込んで、ともすればずり落ちそうな仮面を必死に維持する。

「ここは立ち入り禁止だよ。いい子だから、パパとママのところに戻ろうね?」
「…いや!」

 にも拘わらずこの子供はにべもなく拒絶の意を示した。同時にムルタのこめかみが自分でも驚くほど躍動する。

「だってパパ、おとなのひととばっかりしゃべって、わたしのことむしするんだもん! だからもどらない!」
「…それはお仕事だから仕方ないだろう? きっと今、パパは君のことを探しているはずだよ」
「いいの! わたしはカナードとおはなみてるんだもん!」

 駄目だ、典型的な子供の論理だ。ムルタは頭痛をこらえて息を吐きだした。仕様がない。毒食らわば皿まで。この赤毛の悪魔よりも黒髪の化け物を説得した方が早く終わりそうだとムルタはあたりをつける。活発かつ単純なおつむをした子供よりも、いかに気に入らなかろうが大人しめで頭もいいだろう子供を相手にした方が効率はいい。経営者として私情を廃し、ムルタは化け物をちらりと一瞥し――さらなる頭痛を植えつけられた。
 黒髪の化け物はこちらの悶着など知ったことかとばかりに花畑を凝視していた。その場にしゃがみこみ、瞳をキラキラと輝かせてじっと、じーっと色とりどりの花弁をかがめては香りを楽しんでいる。

「…あー、キミキミ?」

 返事はない。頬を膨らませていた少女もこれには呆気にとられたのか、ぽかんと目を丸くした後、さらなる癇癪を化け物にたたきつける。

「ちょっとカナード! わたしをほうっておいてなにしてるのよ!」
「おはな、みてる」
「みればわかるわ! そうじゃなくて、レディーをきにかけないなんておとこのかざかみにもおけないわよ!」

 どこでそんな言葉を覚えるのだろう。唐突に目の前で繰り広げられる笑劇に思わず毒気を抜かれてしまった。小さくとも女は女なのか、と場違いな感想を抱いてしまう。

「フレイもおはな。みる?」
「…、みる」

 つい数秒までの怒りなどどこ吹く風といわんばかりに素直にうなずいた。しかしその結論にムルタは待ったをかける。

「見るじゃあないでしょう。ほら、ここは誰も入っちゃいけない場所なんだから。さっさと出て行く」
「えー。でもおにいさんははいってるじゃない」
「ぼくはいいんだよ。ここはぼくの庭なんだからね」

 刹那、これまで全くこちらに関心を払っていなかった化け物がぱっと顔をあげた。一切の表情筋を動かすことなくじりじりとにじり寄ってくる。

「な、何だい? 帰る気になったのかな?」
「ここ、おにいさんのおはなばたけ?」
「…そうだよ」

 何となく鳩尾に重いものが落ち込んだ気がした。この子供、コーディネイターに指摘されると、自分の憩いの一時を嘲笑されたかのような心持を味わってしまう。
 脳裏に、あの時自分を嘲っていたコーディネイターどもの顔がちらついてムルタの頬がゆがんだ。

「それがどうかしたかな? …ま、君がどう思おうとぼくには関係ない――」

 そして。これより先、ムルタが生涯を通して決して忘れ得ることのなかった言葉が、黒髪の子供より飛び出した。

「…すごいね」

 その言葉が耳に入ったと同時に、ありとあらゆる感情が消しとんだ。

「…何だって?」

 笑顔がはがれて能面のような表情が現れた。酷く抑揚のない声音にも拘わらず、この化け物は置くした様子も見せずに淡々と、しかしどこか小さな宝石をその瞳に湛えてこちらを見つめ返す。

「おにいさん、すごい。これだけのおはな、せわしてる。とてもきれい」

 もう一度その言葉を聞いた時、ムルタの理性は堤を切った。まるで煮えたぎったスープのような感情が一気に外へと向かって流れだし、憤怒の溶岩が口の中を満たしきった。
 まずい、と思った。しかし僅かばかり残った論理は感情の奔流はそれらの意見をたやすく呑み込み、天をも焦がす業火へと変えてしまう。

「――ふざけるな!」

 腹の底から響く大声でムルタは叫んだ。突如変貌した彼に赤毛の少女がびくりと肩を震わせるが、そんなことにかまっている余裕はない。

「お前、お前たちが!」

 馬鹿にされた! その一色でムルタの頭は染め上げられる。こいつが、自分よりもはるかに優れたコーディネイターのくせにナチュラルの自分をすごいだと? その気になれば一流の庭師も真っ青なほどの腕前を得ることができる存在が何を言い出すのか。

「お前はコーディネイターだろう!? ナチュラルより、ぼくなんかよりずっと強くて頭も良いくせに! 何がすごいだ、ふざけるな!」

 脳裏によみがえったのは、幼き頃の情景。今ここにいるはずもない、あのコーディネイターの顔が視界にちらついた。嫉妬と羨望、あの日のムルタの呻きがまざまざと耳元でよみがえり、思い切り奥歯を噛みしめた。どれほど努力してもあいつらにはかなわなかった。勉強でも、運動でも、何一つとしてあの遺伝子の化け物に勝る部分などなかったのだ。

 ――どうしてぼくをコーディネイターにしてくれなかったんだ!

 そう言って母にはたかれた頬の痛みがよみがえる。どうして自分はナチュラルに生まれてきた? 彼らに比べればあまりに弱く劣った種族として生んだのか。幾度となく自分に対し呟いた言葉が耳元でささやかれ続けている。
 好きでナチュラルに生まれたわけではない! 望んで彼らの踏み台として存在しているのでもない! 遺伝子をいじってズルをしたくせに、自然の摂理に逆らった化け物のくせに、僕など歯牙にもかけぬ力を持っているくせに。
 最高のコーディネイター、人類の頂点。そんな存在が何を持ってナチュラルでしかない自分を認めると言うのか!

 頬が熱かった。触れると手が濡れた感触を覚え、そこでようやくムルタは自分が泣いていることに気がついた。幾つもの雫が筋を作って頤にまで流れ落ちている。無様だった。こんな年端もいかぬ子供にわめき散らし、挙句の果てに駄々っ子のように泣きわめく、まさに恥以外の何物でもない。
 けれど不思議とそこまで羞恥を覚えることはなかった。昂った感情故なのか、それともそうしたものを感じることに「負け」を見ているのか。いずれにせよ怒り以外で顔が赤く染まる心配はなさそうである。
 暴れる肺と心臓を落ち着かせるため、ムルタは数度ほど深呼吸した。相変わらず気分は昂っているが、それでもつい数秒前よりかは理性の力が戻ってきている。十八というこの年代特有の自尊心と羞恥心が、そんな醜態をさらし続けることを拒んだためであった。

「…コーディネイター?」

 赤毛の娘が戸惑ったように黒髪の子供を見た。しかしそれにさほど気を払った様子もなく、この化け物は小首をかしげて疑問の色を浮かべていた。そこにムルタの激情の意が伝わった様子は微塵もなく、それがまた火に油を注いでいく。

「…この!」
「でも」

 ムルタが言葉を発する前に、黒髪の子供がまた首を傾けた。

「おれ、おにいさんみたいにおはなをきれいにさかせられない」

 何を、と言いかけてムルタは口を閉ざした。憎らしいまでに整った顔立ちの化け物の瞳はあくまで淡々としていて嘘も虚飾も何一つとして存在していないように思われたのだ。

「おうちのおはな、ここみたいにいきいきしてない」

 初めて子供の表情に変化が訪れた。ほんの少しだけ眉を残念そうにひそめてそんなことをぽつりと呟く。

「おにいさんゆびって、みどりいろ?」
「…は?」

 何を言っているのか全く分からなかった。これは子供故なのか、はたまたコーディネイター特有のものなのだろうか? あまりのことにムルタは毒気を抜かれて呆けてしまう。

「ユウナにいちゃがいってた。きれいなおはなさかせるひとは、みどりのゆびをもってるって」

 でもおにいさんのゆび、みどりいろじゃない。そう言って子供はムルタの指をしげしげと眺めて困ったように首をかしげる。ユウナ、とはおそらく先ほどあったセイランの総領のことなのだろうが、みどりのゆびというのがよくわからない。というか、この子供は先からムルタに怒鳴られ続けているにも関わらず、どうしてこう何でもないように接してくるのだろうか。

「だからやっぱり、おにいさんすごい」

 喉から獣のような呻きが漏れた。小刻みに頭を振り、数歩後ずさる。顔から血の気が引いていく音が聞こえた気がした。
 この子供は心の底からそう思っている。湖のように透き通った瞳がそのことを嫌という程ムルタに伝えていた。こんな自分がコーディネイター、それも昔のあの少年よりも優れたコーディネイターよりも上回っているだと? すぐれた知能も圧倒的な身体能力ももち得ぬ、弱い人間でしかないのに? 胃が痙攣し酸っぱいものが喉元までこみ上げる。
 何を動揺している、ムルタ・アズラエル。心内の自分が冷徹な言葉で語りかけた。こんな小さな子供一人に認められたくらいで喜ぶなど、みっともないとは思わないのか? ぐっと髪をかきむしる。そうだ、いくら最高の化け物といえどたかが五歳の少年だ。そんなものの言葉だけで揺さぶられるほど、自分は純粋でも幼くもない。

 そう、こんな言葉などで自分が揺らぐはずはない。はずはないのに。

 ムルタはぐっと唇をかみしめた。湧き上がるどうしようもない歓喜と悔しさは、理性の造り出した堤防をいともたやすくまたいでしまう。
 ああ、そうか。オリオスープのように煮えたぎった感情は、ふと酷く醒めた言葉を紡ぎ出した。かつてコーディネイターに勝とうと死に物狂いで努力を続けた自分。しかしどれほど研鑽を積んでも、彼ら遺伝子操作をした人間には決してかなうことはなかった。
 あれほど願った勝利、認めさせたかった自分という存在。それら二つが差し出されのだ。ムルタは混乱する頭を抱えて深呼吸した。気をそらさなければどうにかなってしまいそうである。
 精神安定を図るための逃避活動。幸運にも、その機会はすぐさま訪れた。

「みーつーけーたー……」

 おどろおどろしい声が庭園に響き渡る。それと同時に、これまで表情筋一つ動かさなかった子供の顔が酷くひきつった。その視線は自分の真後ろに向けられていて、ほぼ反射的にムルタは後ろを振り返る。

 やめときゃよかったと後悔した。

 頬が盛大に引きつる。沸騰状態だった脳内は水を打ったように静まり返り、コンマ以下の時間で氷点下へと達した。意思とは関係なく全身がかたかたと震えをきたす。

「あらあらいやだわ、こんな所にいたなんて。でもねでもね。おじいちゃん、ここにくるなんてひとっことも! 聞いてないんだけれど。ねえ、お約束したよね? 勝手なことはしないって。にも拘わらず、かかわらーず。どうしてこんなところにいっるのっかなあ、ねえ? カナードくううううううん!」

 この日、ムルタ・アズラエルは生まれて初めて修羅を見た。



[29321] PHASE17 欲求不満は体に悪い。超悪い。
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/12/21 23:10
 オーラ、と言うものがある。
ギリシア語で「息」を意味する単語に由来するそれは、その名の通り目には見えない空気あるいは雰囲気を表す言葉だった。温和な人物ならばどこか温かみを感じさせるものを発し、厳格な人間であればまさに他を圧する何かを醸し出す。人の持つ五感の一切に触れないにも拘わらず、それらはまるで実体を有しているかのように語られるものである。

 しかしながら、ごく稀に。このオーラなる代物がまるで質量を伴うがごとく発せられることがあると、ムルタはどこかで聞きかじったことを思い出した。無言の気合で落ち葉が爆ぜた、何もない水面にさざ波が立った等、まるで小説の中にしか存在しないような状況が時に現実として真正面に付きつけられることがあると。

 なるほど。これがそうなのか。

 あらゆる感覚がマヒする中、ムルタはどこか他人事のように心内だけで呟いた。否、実際自分には関係のない出来事であるはずなのだ。このある意味超常現象がアズラエル家庭園もしくはムルタの眼前でさえ行われなければ。蚊帳の外、アウトオブ眼中。おそらくこのまま家に入ってベッドで丸くなろうが、場は一切動かないと確信できるほどにムルタはその輪の中に踏み込んでいない。
 にもかかわらず。足どころか指一本動かせずにいた。口内が乾ききって気持ち悪い。と思えば額にはびっしりと脂汗が浮き、体中にかけて冷たい汗がとめどなく流れている。がたがた震える程度の動作すら許されぬムルタは、ただただ己の不幸をひたすらに呪いつつ眼前の公開処刑を眺め続けることとなった。

 殺気と称することすら生ぬるい空気が、翡翠の間を満たしきっていた。
 とうの昔に力を失ったはずの宗教にすらしがみついて、ムルタは天に祈りをささげる。一刻も早くこの場から解放されることを。あの狂える鬼神を自身の聖域から消し去ってくれることを。願いは決して届かぬと知りながら、ただひたすらに祈り続けた。

「ねえ、カナード」

 びょうびょうと噴きつけてくる禍々しい暴風――つい先ほどまでここに吹いていたのはそよ風だった――が髪をなびかせる。ユウナ・ロマ・セイランという名を持つ羅刹は湧水のごとく澄み切った声で小さな子供を撫で上げた。これまで表情一つ動かさなかった幼児が恐怖に顔をひきつらせてびくりと震える。隣の赤毛の少女などがちがちと歯を鳴らして怯えきっていた。

「僕、ちゃんと言ったよね? 今日だけでなくずっと前から、何度も何度も、なんっども! 勝手に行動しちゃダメだって。ね、言ってたよね?」

 黒髪の少年は答えない。ただただ怯え震えるのみだった。

「答えなさい!」

 鞭のように鋭く、聞くものの肉を切り裂くほどの叱責が響き渡る。さほど声量はないにも拘わらず、ムルタは迷わず耳をふさいだ。しかし無駄な努力など笑止とばかりにユウナの怒声はするりと指の隙間から鼓膜へと届く。

「駄目だと言った! 約束もした! なのにどうしてそれをするの!」

 とうとう耐えきれなくなったのか、子供がしゃくりをあげ始めた。ぼろぼろと涙をこぼし、何度も何度も小さな身体を上下させる。正直ムルタはそれだけで済んでいるこの黒髪の子供に尊敬の念すら抱いていた。自分ならあの恐ろしい空気の直撃を受けただけで洩らしているだろう。
 一瞬だけ、ユウナ・ロマからの圧力が消えた。だがほんの刹那、一息の間だけだ。すぐさま生じた気配の空白を圧倒的な質量が駆逐する。

「泣く前にしなければいけないことがあるでしょう! ちゃんとそれをしなさい!」

 涙と鼻汁で顔をどろどろにした子供がまた震える。逃げることも沈黙することも許さず、ユウナ・ロマは青白い炎を称えた瞳で彼を射抜いた。思わず射線を避けるように、ムルタは身体を右に寄せる。
 永劫にも等しい時間。けれどきっと時間にすれば数秒ほどだったのだろう。子供が鼻をすすり、震える唇で必死に言葉を紡ぎ出そうとした。

「……ご」

 ご? と冷たい声でユウナ・ロマが繰り返す。さらに数秒たって、ようやく一つの言葉が翡翠の絨毯に落ち込んだ。

「ごべ……ごべんなざい……」
「…よろしい」

 嘘のように黒い氷嵐が霧散する。同時にどさりと重いものが落ちた音が耳に入った。見るとユウナ・ロマにつき従っていたSPたちが倒れ伏している。普段ならば呆れるか小馬鹿にするムルタであったが、この時ばかりは無理もないと名も知らぬ男に深い憐憫の情を抱いた。黒髪の子供を挟み、なおかつ少し離れた位置にいた自分さえ現実逃避していたのだ。あれを至近距離からくらえばそうなるのも当然と思った。

「まったくもう、心臓に悪いったらありゃしない。年寄りは色々弱いってのに…。
あーあー、せっかくのハンサムが台無しだね」

 そう言って懐からティッシュを取り出し、ユウナ・ロマは子供の顔を拭き始める。未だ泣き続ける少年に彼は小さく苦笑した。そしてとんとんとその背中を優しく叩く。

「無事でよかった」

 その言葉には万感の思いが込められているようだった。目を細めるセイランの総領は先の悪鬼とは思えぬほど穏やかで、彼が心底から子供を案じていたことが見て取れる。確かに黒髪の子供の素性を考えればユウナ・ロマの心配はもっともだろう。ある意味元凶とも言えるムルタがそう思うのは滑稽極まりないが、あの凄まじい一時を過ごした今は驚くほど素直にそう思うことができた。
 正直言って、つい先ほどまで渦巻いていた感情の洪水がきれいさっぱり消えさっており、文字通り嵐の後の様にさわやかな風が心内を凪いでいる。どう考えても恐怖と生存本能による一時的な問題の棚上げなのだが、それすらどうでもいいほどムルタは自身の生を噛みしめていた。

「さてと」

 もっとも、そんな澄んだ空気は泣きたくなるほどあっさりと消滅したが。ほっと一息ついたユウナ・ロマが、すっと視線をムルタに向けたのである。思わず肩が跳ね上がり、顔が悲惨なほど引きつった。

「うちの子がご迷惑をかけたようで。申し訳ない、アズラエル殿」
「あ、や、は、はは。めっそうもない」

 正直腰が抜けそうだった。にこやかな笑顔で雰囲気も穏やかなものだったが、先の記憶がこびりついて頭から離れない。そんな内心を見抜いたかのようにまた彼は苦笑した。

「でもって、そちらのお嬢さんは……」

 ユウナ・ロマの動きが止まった。つられる形でムルタも、いやに静かな赤毛の娘に視線を転ずる。そしてユウナ・ロマの顔色が変わった理由と対面した。

「あ、やべ」

 諸悪の根源の間の抜けた声が虚しく響く。ムルタは生意気極まりなかった小娘を多分の憐憫を込めて見つめたが、すぐに瞳を別の場所に移す。いかな子供といえど、女性のそれを凝視し続けるのはあまりにもあれであるし、何よりも哀れであったからだ。
 赤毛の娘は、放心したように尻もちをついて下着を濡らしていた。見たところ三、四歳であったのがせめてもの救いであろう。これがある程度の年齢だったならば目も当てられない。何も言わず、ただムルタは空と雲を見上げ続ける。下手をすればその立場にいたのが自分だったかもしれないことを思うと、これ以上この娘に鞭打つような真似をしたくなかったのだ。

「うわやっべ、どうしよ。だ、誰か、侍女はおらぬかー!」

 一方で原因はそこまで考える余裕がなかったようで――それでも呼んだのが侍女であったということは、一応最低限の線引きはできているようだ――慌てて声を張り上げた。それを受けて、離れた所に待機していた侍従たちが素早く駆けよってくる。
 侍女たちに連れられて行く少女に深い哀悼の意をささげるようにムルタは数瞬だけ黙祷した。

「いやー、まずった。もうちょっと手加減しとくべきだったね、こりゃ。ところであのお嬢さん、どなた?」

 目を腫らしながらも気を落ちつけたのか、黒髪の子供が先と同じく淡々とした様子で小首をかしげた。どうでもいいが驚くほど立ち直りが早い上に、平然としながら恐怖の大王と手をつないでいるとは、どんだけ太い神経をしているのだろうか。正直羨ましかった。

「フレイ」
「簡潔な答えをありがとう。……てこら待て、フレイ? ちょ、おま、赤毛で三歳くらいの女の子……もしかしてその娘の名前って、フレイ・アルスター…だったりしちゃう?」
「そう」

 やっべ冗談抜きにやっちまった。ユウナ・ロマは思い切り顔をひきつらせた。同時にムルタも聞き覚えのある名に片眉をはね上げる。
 アルスターと言えば、大西洋連邦でも屈指の名家だ。アズラエル財団――もといブルーコスモスとも密接なかかわりを有しており、今の家長ジョージ・アルスターなどは次期事務次官と目される優秀な官僚である。そう言えばジョージ・アルスターには幼い息女がいると小耳にはさんだことがあった。もしやあの小生意気な娘がそうなのだろうか?

「あー…後で謝んなきゃなあ。それと君はいつまで寝てるつもりだね」

 ユウナ・ロマは未だ夢の彼方にあるSPを足で小突いた。お世辞にも品のいい動作とは呼べなかったものの、彼の浮かべる苦笑が粗野な印象を綺麗に打ち消している。まるでだらしのない弟でも見るかのような表情だ。
 目を覚ましたSPは、己のどうしようもない失態に顔を青くしながらも機敏な動作で立ちあがった。震える声音で主人に詫びたが、原因とも言うべきユウナ・ロマはからからと笑ってあっさり謝を受け入れる。

「お気にめされるな。それよりも」

 そこで言葉を切った彼は、ちらりと手をつないでいる幼子に視線を向けた。向けられた側はそれに気づかず、アルスターの令嬢が連れて行かれた方を色のない瞳でじっと見つめている。

「心配?」

 子供は無言でうなずく。正直ムルタには相も変わらずの無表情としか見えないのだが、ユウナ・ロマの瞳は全く別の姿を映しているようである。彼はくすりと笑声を洩らし、かしこまっているSPの男を見やった。

「様子を見てきてあげてくれないかな。本当ならこの子を連れて行ってあげたいん
だけど、そう言うわけにもいかないから」
「いえ、しかしユウナ様」
「護衛のことなら大丈夫。何せここにはアズラエルの御総領がいらっしゃるんだから」

 三対の瞳がムルタに集中した。別段それに臆する謂れはない――ただしうち一つは除く――のだが、何となく居心地が悪い。けれど彼らから目をそらすというのも負けた気になりそうなので、あえて涼しい顔でそれを受けた。

「カナード。僕の目の届くところまでなら庭を見てきてもいいよ」
「…ほんと?」
「よろしいかな、アズラエル殿?」

 そこでこっちに振るのか。いや、確かにこの庭はアズラエルのものであるのだし、自分に許諾を取るのは至極まっとうなのだが、できれば自分に触れることなく戯れていてほしかった。

「え、ええ。かまいませんよ」

 それ以外に何が言えるだろう。先ほどまで部外者――しかもコーディネイターだ――に徘徊されるなど御免という思いが渦巻いていたのだが、今はそんな些事にかかずらわっている余裕はない。さらりと紡がれた言葉に、変わらず無表情ながらも子供の顔がぱあと輝いたような気がした。

「いっといで」

 ユウナ・ロマの言葉が終わるや否や、子供は弾丸のように駆けだした。その瞬発力はまさにコーディネイターの面目躍如と言ったところか。

「本当に申し訳ない。あの子は草花が絡むと抑えが効かない性質でね、自宅でも色々と苦労しててねえ」

 くすくすと、どこからか取り出した扇子を口元に当てユウナ・ロマが笑う。ムルタは「そうですか」と当たり障りのない言葉とともに愛想笑いをする。

「僕は園芸には疎いんだけど、それでもここがかなり手入れされてるというくらいはわかるよ。これは全てアズラエル殿が?」
「…ええ、まあ。僕の趣味みたいなものですよ」

 それはすごい、と感心した様にまた笑う。そこには男の花いじりに対する嘲弄も戸惑いも介在していなかった。ただただ純粋に褒め称えている、父には及ばないながらもそれなりに表情の裏を読む経験を積み上げてきたムルタだからこそ、それがわかった。

「にしても、ここまで世話するのは大変だったろうに」

 ぱたぱたと扇子であおぎ、ユウナ・ロマは一心不乱に花畑を鑑賞している子供を見つめたまま呟く。口調も瞳もひどく穏やかだ。唐突にムルタはこの少年が自分よりも十も下であることを思い出した。先の衝撃が大きすぎて、このあまりにも子供らしくない態度に疑問を差し挟む精神的余裕がなかったのである。

「これくらいのことしか、させてもらえませんでしたからね」

 じっと、ユウナ・ロマがこちらを見つめている。ふむ、とまるで何かを探るかのような不躾とも言える一対の瞳に思わずムルタはたじろいだ。しかしすぐに精神を再構築してそれを跳ね返す。
 さして深い意味があったわけではない。単純に何となく反骨精神が湧き上がったからやったのだ。これに負けたくない、という子供じみた癇癪と言い換えてもいい。
 しばしの沈黙と共に、ユウナ・ロマがうっすらと笑った。


「いいね、うん。実にいい」


 また空気が変わった気がした。
 何がしかを口にしようとしたムルタを、ユウナ・ロマの視線が射抜いた。刹那、ムルタはまるで電流が体中をひた走ったがごとき感覚を覚える。

「まあ前情報があったとはいえ、やっぱり生は違う。貴方はとてもとても『いい人』だね、ムルタ・アズラエル」

 彼の薄青色の瞳は慈愛に満ちていた。にも拘わらず、ムルタはそれに言い知れぬ不安を感じる。

「憎悪」まるで歌うように。心底から楽しいと言わんばかりの言葉だ。

「嫉妬、挫折と屈折。ともすれば理性の鎖すら引きちぎらんばかりの飽くなき欲望。そして何よりも――うんうん、非常に僕好みで結構なことだ。貴方とはいい友人関係が築けそうでなによりだね」

 ごくりと息をのんだ。
 ユウナ・ロマの朗らかな声が耳を打つ。とても陽気で、それでいて乾ききった老人のような声。

「貴方の原風景。コーディネイターへの嫉妬。それによる無力感。届かぬことに打ちのめされ、絶望の中それでも抗い続けるか」
「…何を、言ってるんだい? 君は」
「ちょっとした独り言と、現状確認みたいなものかな」

 扇子が軽い音とともに閉じられた。少年はまた笑う。

「ねえ、ムルタ・アズラエル。貴方が望んでいることはなあに?」

 とても軽い口調だった。それこそ今晩のおかずを訊ねているかのような、日常巻溢れる声音である。しかしそうであるはずなのに、言葉はタールの様にどろついていて、ムルタの全身を包み込むようにへばりついた。
 心臓が早鐘を打つ。可能ならばこの場で胃の中身をぶちまけたい程の緊張感が両肩にのしかかっているが、それでも尚ムルタはあえて気丈の鎧をその身にまとった。そうでなければこの場に崩れ落ちてしまいそうだからである。

「貴方が本当にしたいことは、なあに?」
「べ…別に。君に言うことでもないだろう」
「コーディネイターの抹殺」

 びくりと、今度こそムルタの身体が大きく跳ねた。

「それが貴方の目的を達するために、貴方が選んだ手段」

自分が、もといアズラエル家がブルーコスモスの後援者であることは公然の秘密であるし、セイラン総領という立場にいる彼が知っていても、さほど不思議ではない。が、あのコーディネイターの子供をあれほど可愛がっているこの少年からすれば、自分は排除すべき敵なのであろう。
 次に来るのは罵声か、糾弾か。不思議な事にムルタはそのどちらかを強く望んだ。どちらの反応も非常に人間らしい、自分の知っている常識内であるからこそ、この理解不能な存在を己の条理に落とし込んでくれるはずだからである。
 しかしその期待はあっけなく裏切られた。

「ありだね、それ。悪くないと思うよ」

 何、と声が漏れた。

「最初に自己研鑽で彼らコーディネイターを越えようとした。でもできなかった。どれほど努力してもなお超える事の出来ない、生まれ持った才能に阻まれて。誰が悪いわけでもない、あえて言うなら運の悪い出来事だあね」

 そうだ。あのコーディネイターの少年たちを越えるために、文字通り血のにじむような努力を重ねてきた。机にかじりついて書物を読み漁り、血尿が出るまで身体を酷使し続けた。
 でも、勝てなかった。

「だからコーディネイター抹殺という手段に切り替えた。勝てないならば最初からいなかったことにすればいいと。自分の望みを達成するために」
「……ああ、そうさ」

 はっきりとした声が出た。ユウナ・ロマに対する疑問、異物感、それらの複雑な感情すら押しのける何かがムルタの背を後押ししたのだ。

「あいつらさえいなければ、僕はあんな思いをせずに済んだ。努力に失望せずに済んだ。自分を嫌わずに済んだんだ」
「飽くなき欲望。その結果の殺戮。度し難い、そしてそれでいて魅力的」

 くすりとユウナ・ロマが笑った。またあの顔だ。慈愛に満ち満ちた老人の笑み。

「…理解できないね。君にとって、いいや君たちにとって僕は完全に敵だろうに」
「だろうね」

 何が言いたいのか全く分からない。先までの委縮を取り払い、ムルタは睨みつけるようにユウナ・ロマを見つめた。

「ブルーコスモスという集団の行う結果が僕の利に反するが故に彼らは僕の敵だよ。けれどそれはあくまで結果であって、行動理念や背景とは別のものだ」
「…コーディネイター排斥に思うところはないと?」
「より正確には、コーディネイター排斥の何がしかの行動そのものが不利益であるということ。でも考えるだけなら余所様が口出しすることじゃないしね」

 ムルタは訝しげに眉をひそめた。理屈がわからないのではない。彼のその明快な割り切りに対して疑問を抱いているのだ。
 誰でも口にすることは簡単だ。自分に火の粉が降りかからない限り、人にとってそれは対岸の火事、別世界の出来事なのだから。しかしそれが身近に燃え広がった時、人間はそれまでの考えを容易く捨て去ってしまう。
 ムルタはあえて挑発するように笑った。

「へえ。ならあの子供がブルーコスモスに狙われても、君はその理念を尊重し続けるとでも?」
「するだろうさ。もっとも、それを理解し続けることと悪感情を抱くことは分けて考えるべきだろうけど。多分そうなったら、怒りにまかせてブルーコスモス狩りをしそうな気がするね、我がことながら」

 一体何が言いたいのだ。この少年は。いい加減苛立ちがこみ上げてきて、ムルタは大きく息を吐いた。

「おお、苛立ってるね。ま、何が言いたいかというとだ」

 ぱ、と扇子が再び広がった。

「僕は貴方みたいな馬鹿が大好きで、是非お友達になりたいってことさ」
「…僕が馬鹿だって?」

 そんな言葉が出てくるとは思っていなかったせいか、怒るよりも呆れが先立ってしまった。ムルタはぽかんと口を開き、ユウナ・ロマをまじまじと見つめた。

「違うの? あらゆるものを踏みつけてでも頂点を目指すような欲望。つまり愛すべき馬鹿ってことじゃない?」
「…いやいや、どうしてそうなるんだい?」
「だって、コーディネイター越えようと正規の手段で失敗したからなりふり構わずでしょ? その気になれば後先考えずにプラント群に核ミサイルすら叩き込みそうな感じじゃない、貴方。それを馬鹿と言わずして何と言う。いやはや見上げた向上心だ」

 いや、いくらなんでもそれは、と言おうとしたが、そう言われてしまうと何故か非常に納得できてしまって嫌な気分になった。普通に考えれば憎むべき化け物どもの巣とはいえ、プラントは理事国側の財産であり、経済を支える重要な基盤だ。喪失に伴う世界的混乱を思えばとてもじゃないが核なんてブチ込もうとは思わないはずなのだが…何故かついやってしまいそうな気がしてならない。

「鍛錬もブルーコスモスも、結局は貴方がより高みに登るための手段じゃないか。まさに虚仮の一念なんとやら、だね。そういう馬鹿は大好きだよ」

 けらけらと笑うユウナ・ロマから、それまでのある種静謐だった空気が霧散した。

「…そう人を馬鹿馬鹿言わないでくれないか?」

 口ではそう言いつつも、どうしてかその二文字が心の奥底にすとんと落ちた感触が残る。
 馬鹿、馬鹿か。これまでムルタを突き動かしてきた情念がそう規定されたことで、どうしてかその重さを消失させた気がしてきた。熱量は変わっていない。けれど軽くなったのだ。
 何故か少しだけ笑いが漏れた。

「それは失礼。でも悪い意味で言ったんじゃないよ。ふふ、やっぱり君みたいな人間はいいね。本当に」
「褒められた、と思っていいのかな?」
「勿論。目的がどうあれそこまでして己の望みを叶えようとする人間には敬意を表するよ。貴方が別の方法でのぼりつめるにしろ、やはりコーディネイター抹殺の道を選ぼうとね。
 屍山の頂を踏む貴方を、敵対はしても否定だけは絶対にしない」

 ムルタ・アズラエル、と。少年はすっと息を吐いた。

「僕は貴方を肯定しよう」

 しばしの沈黙が場に横たわった。さらさらと草が揺れる。
 先に口を開いたのは、ムルタだった。

「…やれやれ。止めるのかけしかけるのか、どちらかにしてもらいたいものだね。判断に困るじゃないか」
「僕は蝙蝠って可愛いと思う派だから。それに、これぞオーブって感じでしょう?」

 確かに孤立主義万歳の島国らしい考え方だ。あいまいな灰色。どちらにもつかないくせに、両方に共通する点を持っている。ムルタは小さく苦笑した。ふっと視線を外し、一輪の赤い花に視線を転じる。鮮やかな血潮が花弁を揺らした。

「ならばこちらははっきり白黒をつけよう。僕は、これからもコーディネイターを排斥する道を選ぶ。僕自身の原風景から来る憎悪があることは否定しない。自分のこれまでをないがしろには絶対にしない」

 あの日の屈辱と憤怒は、おそらく死ぬまでムルタにつき従うことだろう。これだけはどうしようもない。なぜならばそれこそがこのムルタ・アズラエルを形作った基盤の一つであるのだから。

「けれどそれ以上に、僕はコーディネイター達の存在を認める事ができない。奴らの持つ圧倒的な能力は、これまで人類が築き上げてきた社会を根底から覆しかねないからだ。ジョージ・グレンの告白から今まで、どれほどの企業が倒産し、何人のナチュラルが自殺に追い込まれてきたかは、君も知っているだろう?」

 コーディネイターがもたらした技術的発展は確かに素晴らしいものだ。しかしそれだけの力を、何千万もの数を許容する懐は今の社会には存在しない。
どれほど個人主義で取り繕おうと、基本的に人間の能力に隔絶した差がないのは厳然たる事実。多くの人々は純粋な資質ではなく、小手先の技でもってのぼりつめ、あるいは蹴落としてきたのである。
 しかし、奴らは違う。コーディネイターは真正面の能力からして自分たちナチュラルを上回っている。これまでほんの一握りしか存在しなかった、天才とも言うべき力を持つ彼らは、確実にナチュラルを駆逐しヒエラルキーの上部に居座ることとなるだろう。そして世界は、コーディネイターという特権階級に富が集中する地獄と化す。
 だからこそ、今しかないのだ。コーディネイターとの文明的、技術的な格差が開ききっていない今を置いて、ナチュラルが隷属の未来を回避する機会はない。

「僕は自分自身の復讐と、そしてこれから先を生きる僕の子や孫のために、あの化け物を退治する。それが僕の進むべき馬鹿の道だ」

 ムルタの強い視線を受けたユウナ・ロマは。
 唇を赤い三日月に導いた。



[29321] PHASE18 くやしい、でも感じちゃう!
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2011/12/22 17:14
 ぞくりと、背筋が震えた。
 狂気、狂喜、驚喜。それら全てが背中を流れ脳天を突き破る。全身の血が湧き、肉が踊り狂っていた。眼球の奥がぱちぱちとスパークを引き起こし、目じりにとめどなく雫が溢れてくる。
 素晴らしい。なんと素晴らしいことか。
 大西洋連邦に無理やり連れてこられたユウナであったが、この出会いによってあらゆる悪感情が押し流されてしまった。生じた濁流は喜びと興奮の渦を巻き起こし、ユウナの脳内を縦横無尽に荒らしまわっている。

 これぞ本懐、これぞ馬鹿の誉れ!

 生まれいずるであろう子のために自らが産み落とした子を殺す。大いなる矛盾にして生命のあるべき姿、命を賭してまで貫き通す絶対の意思。

「ふふ、ふふふふふふ、嗚呼、今日はとても素晴らしい日だ。忌々しい神々共にさえ感謝のキスをしてもいいくらい、最高の気分だよ。まったくもって想像以上、アズラエル殿、貴方は本当に…」

 悪い癖だとは自覚しつつも、ユウナは興奮を抑えきれず頬を紅潮させた。昔からこうした人間の馬鹿さ加減を見るのが大好きなのだ。誇り高き欲望を有する人間、これがユウナの――かつて別の名で呼ばれていた人物の琴線を最も震わせる。
 自身を糞の役にも立たない、代替可能な無能人と認識しているユウナにとって、彼のように綺羅星のごとき輝きを持つ人間は何よりも愛しいと感じるものだ。諦観と現状維持に明け暮れる自分にはないものを見るのはたまらない悦楽と言っていいだろう。

「主人公、だね。ふふ」
「…一応僕は真面目な話をしているつもりなんだけどね」
「こちらも至って真面目だよ。事実は小説よりも奇なり、常識の斜め上をいくことなんざ世の中にあふれているんだもの。そりゃ、主人公じみた人間だって探せばいくらでもいるだろうさ」

 実際、この世界には幾人もの主人公たちが存在する。今そこで花に夢中になっている子供もその一人だ。そこに多少増えたところでどうということはあるまい。

「これはますます目が離せなくなる」くふふ、と笑みを漏らしてユウナは右の手をそっと差し出した。アズラエルは目を丸くして、まじまじとその様を見詰める。
「握手。それくらいはいいでしょう? へるものじゃないし」

 にぱ、と出来る限り明るい笑顔を浮かべる。これは友好だけでなく、彼に対する相応の敬意も含まれていた。それが伝わってくれたのかはわからないが、アズラエルも少しだけ躊躇しつつ握り返してくれる。

「…なかよし?」

 いつの間にか戻っていたらしいカナードが、その黒い瞳を丸くして小首をかしげていた。空いている手で彼の頭を撫でてくすりと笑う。

「そう、仲良し」
「おれもなかよし、する」
「はいはい、しなさいな」
「ちょ…ッ!」

 狼狽したような金髪の青年が口を開く前に、ユウナはさっとカナードの小さな手のひらを重ねさせて、二、三度ほど手を上下に揺らした。

「仲良し、仲良し、いえー」
「いえー」
「君は…! さっきの話を聞いていなかったのか! 僕は――」
「野暮なことは言いっこなしよ。それに、コーディネイター云々とこの子と仲良くなるのは厳密に言えばわけられることだしね」

 アズラエルが口を開く前に、ユウナはさらにたたみかけるように言葉を継ぐ。

「何も皆殺しにするだけが方法じゃあないでしょう? ハーフやクオーターがいることからも分かるだろうけど、ナチュラルとの交配の果ての消失だって目的を叶えることはできるじゃないか。君が憎むのは遺伝子操作であって、彼ら個人個人ではなかろうや」
「し…しかし」
「仲良きことは美しきかな。商売人なら、伝手は大事にするんでなくて?」

 それとこれとは話が別だ! 半ばやけくそといった風に叫ぶ青年だったが、ユウナの、ひいてはカナードの手を振りほどこうとはしなかった。それが打算であれ彼個人の考えであれ、そうあってくれるのは自分にとっては喜ぶべきことだ。
 ムルタ・アズラエルは幸せだと思う。個人の目的が、公人としての義務に相反しないものであるのだから。

「まあ、これからに期待ということで――あ」

 ふと視界の端に赤いものが映り込んだ。すっと視線を転じれば、先ほど粗相をいたした赤毛の娘が侍女に伴われて向かってくる様子がうかがわれる。幼女、フレイ・アルスターはこれまたご立派な大福を両頬に詰めこんでいるようだ。

「これはまた…すごく…ご立腹です」

 それはそうだろう、というアズラエルの突っ込みにユウナは肩をすくめて苦笑した。仰る通りであるから、何の反論もできない。いかな完全に頭に血が上っていたとはいえ、怒りを周囲にまき散らしあまつさえ幼い娘に恐怖を与えてしまった罪は如何ともしがたい事実であった。
 年をとると感情の制御が下手になってくると言うが、あれは真実である。

「ええと、フレイ・アルスター嬢だよね? こ、こんにちはー」

 がん無視であった。赤毛の幼女はぷいと顔をそむけてその不機嫌さを全体に顕現させる。あ、こりゃだめだわ。と可及的速やかな関係修復を早々にあきらめたユウナは、このお嬢様のご機嫌が戻るまで触れるのをやめた。

「大丈夫?」

 と、思っていたのだが。それを押しとどめる光景を垣間見てしまった以上、そういうわけにもいかなくなった。
カナードが小首をかしげてフレイに近寄ると、幼女は困惑した表情で一歩身を引き下げた。彼に向ける視線には、混乱と猜疑がない交ぜとなっていて、あまり良いと呼べる代物ではない。
 どうしてそんな反応をされるのかわからなかったのか、カナードがさらに首をかしげる。さらりと肩で切りそろえた黒髪が揺れた。

「…ねえ、カナード」

 しばしの沈黙ののち、おずおずといった体でフレイがその帳を打ち破る。

「あなたって…わるいひとなの?」

 わけがわからない、という風に黒髪の子供の顔に――当社比である。表情筋が動いてないと言うことなかれ――困惑の色が交った。

「だって、パパがいってたもの。コーディネイターはわるいひとたちだって。だからわたしにもきをつけなさいって」

 ここで思わずアズラエルに怒気を交らせた笑みを送った自分は、果たして責められるのだろうか。金髪の美青年の顔が面白いくらいに引きつっていく。どうやら心当たりがあるようである。
 大方彼が何らかの理由で口を滑らせたのであろうが、この状況はよろしくない。VERYよろしくない。
 フレイの父、ジョージ・アルスターは大西洋連邦の高官であるとともに、穏健派とはいえブルーコスモス一派である。その影響をもろに受けた愛娘フレイ・アルスターもまた、史実においては嫌コーディネイター姿勢をまざまざと見せつけ、アークエンジェル艦内をめくるめく昼ドラへと変えるという実績を誇っていた。
 よもやこの年頃の子供にまでブルーコスモス的教育を施すとは思えないが、親や周囲の言動というのは恐ろしいくらい子の価値観に影響する。父やその交流相手――十中八九ブルーコスモスなんだろうなあ――を近くで見て育ったこの娘も、事情はわからないながらコーディネイターは悪、みたいな認識を持っている可能性は高かった。
 さて、どうしたものか。ユウナは軽くこめかみをたたいた。
 ある意味、いつかは通る道、ではあるのだ。どれだけ気をつけたとしても、どれだけ身辺を固めたとしても、カナードがコーディネイターである以上、ナチュラルのこうした目から逃れることは残念ながら出来はしまい。例え今日ユウナが助け舟を出したとしても、そう遠くない未来、カナードはこうした問題に直面することだろう。そしてそこに自分、あるいは彼に好意的な人物がいるとは限らない。
 ことに、ユウナがひそかに考えているカナードの進路であれば、なおさらだった。
 思考の海に埋没しかかった自分を引き戻したのは、黒髪の子供の何気ない一言であった。

「コーディネイターって、なに?」
「その発想はなかった」

 一瞬だけ気が遠くなった。よもやこの場面でそんな台詞が出てくるとは誰が思うだろうか。アズラエルも目を点にしているし、それまで無表情を保っていた侍女や護衛の方々まで、何言ってんのこいつ? みたいな顔で口をぱかんと開けている。つい〇コンマ一秒前まで険のあったフレイまでもが、きょとんと小首をかしげる始末であった。
 いや、よく考えるとカナードのこの反応は当然と言えば当然であるのだが。これまで安全のためセイラン邸か自宅以外、あまり出歩くことができなかったカナードの交友関係は恐ろしくせまい。自分とその両親、母であるエレンに護衛役のトダカ、時折遊びに来るエリカや仕事サボってないだろうな? と最近疑いが濃くなっている三爺、ジャン、ダフト。最近ちょっとばかし妙なことになっているアビーその他使用人の皆々様と。…あれ、結構広くね?

 まあ、そこは大事ではないので置いておくとして。以上、ナチュラル・コーディネイター入り混じっている上に、ユウナ以外は基本的に人格のできた方々ばかりなのである。である以上、世間様では非常に深刻化しているナチュラルとコーディネイター間の問題がセイラン邸で顕在化することは全くと言っていいほどないのが実情であった。何せ問題ありとされる人物に関しては、初期の段階で家令ヴィンス・タチバナの手で異動や解雇といった処置がとられていたのだから万全なのだ。
 故にカナードはこれまでそうした問題に悩まされることは愚か、意識にすら上ることのない生活を送ってきたわけであるが。その結果として、コーディネイターという存在に対する認識もまた育つことなく今日まで放置されていたというわけであった。先ほども言ったが、周囲の態度は子供に嫌という程影響を与えるのである。

 そりゃニュース見りゃ一発なのは分かる。けれど考えてほしい。五歳児はそもそもニュースなぞ見ぬ。アニメか子供向け番組でそんな生誕差別取り入れるわけがないのである。大西洋連邦じゃああるまいし。

「あー、フレイお嬢さん、でいいのかな?」

 この時点でユウナの介入は既定路線となった。返答どころかそもそもの問題意識さえ有していない当事者に通過儀礼を施しても意味はない。

「な…なによ」

 フレイは怯んだようにこちらを睨みつける。粗相をするほど恐怖を感じた相手にそれだけのことができるとは、何たる胆力かと内心で称賛しつつ、ユウナは努めて笑顔を浮かべて膝を折った。

「先程は失礼を。僕はユウナ・ロマ・セイラン。こっちのカナードの、まあ保護者みたいなものなのかな」

 なおも疑いの眼差しで突き刺してくるが、彼女の視線が頷くカナードを捉えると、徐々にその色も薄れて行った。まあ、警戒だけは何時まで経っても消える様子はないのは御愛嬌であろうや。

「フレイお嬢さんは、カナードが悪い人に見えるの?」
「………わかんない」

 苦しげに幼女は声を絞り出した。一緒に遊んだ友達、悪人出ないと信じたいけれど、彼女にとって絶対の存在たる父親がカナードの存在を悪と断じている。それゆえの葛藤、と言ったところであろうか。
 史実でもそうだったが、フレイ・アルスターという少女は生粋のファザコンである。それは幼少期に母を亡くし、父子だけで生活してきたためであろうが、ともかくアルスター親子の絆は非常に強固なものなのは疑いようがなかった。
 何せ父は職権乱用で危険な軍艦――本人にその認識があったかどうかは置いておくとして――に乗り込んでまで、娘を迎えにきているし、娘の方も大西洋連邦事務次官の子としてふさわしい自分になろうと日々努力していたようである。
 だからこそ彼女の父を、その言葉をここで否定するのは危険だった。それは間違いなく心の聖域を土足で踏み荒らす行為であり、下手をすれば以後フレイはユウナの言葉を一切信用しなくなる危険性をはらんでいる。
 なので、ジョージ・アルスターの言葉を肯定しつつ自分の望む方向へと思考を誘導することにした。

「ねえ、フレイお嬢さん。パパさんが気をつけるように言っていたのは、悪いコーディネイターのことなんだよ?」
「わるいコーディネイター?」
「そう。世界にはね、皆の困ることばかりする悪いコーディネイターと、フレイお嬢さんと仲良くしたいっていう良いコーディネイターがいるんだ。それは僕たちナチュラルにも良い人と悪い人がいるように、どうしようもないことなのかもしれないね」
「……そうなの?」
「うん、そうだよ。きっとフレイお嬢さんのパパさんは、貴方が大切で仕方がないんだね。フレイお嬢さんだって、パパさんが大好きなのでしょう?」
「う、うん! わたし、パパがだいすきだもん!」
「だったら、パパさんが悪い人に傷つけられるのは、嫌だよね?」
「あたりまえでしょ! パパをけがさせるやつなんて、わたしがやっつけてやるんだから!」
「パパさんも同じ。フレイお嬢さんが悪い人に傷つけられるのをとても怖がってる。だから、悪いコーディネイターには気をつけなさいって言ったんだよ」
「……じゃあ、カナードはコーディネイターでも、いいコーディネイターなの?」
「勿論。フレイお嬢さんが良いナチュラルであるのと同じようにね」

 ちょいちょいと手招きでカナードを呼び寄せる。今の話を分かったのか分かっていないのか、判断に困る顔をしながら黒髪の子供はとてとてとこちらに向かってきた。

「ほら、これで仲良し。でしょう?」

 ユウナは二人の手をとって握手の形に持っていった。フレイは幾分何かを考えている顔をしていたが、やがて晴れやかに笑うとその手をぶんぶんと振り回した。

「うん! カナードは、いいコーディネイター!」
「そうなんだ」

 …どうやら帰国後色々と教育が必要であるらしい。苦笑して肩をすくめたユウナは、まるで詐欺師でも見るかのようなアズラエルの傍らに立って小さな声で言葉を転がした。

「チョロいぜ」

 うわあ。呆れたような、引いたような呻きが上がる。何とでも言うがいい。世の中勝てば官軍なのである。これでカナードとフレイの小さな友情が壊れなかっただけでなく、どさくさにまぎれて先の失態を煙に巻くことができたのだ。その成果に対しその程度の引きくらい、どうということはない。
 うわはははー、と思わず哄笑しかけたユウナであったが、その前にこの赤毛の悪魔がとんでもない一言を吐きだしやがった。

「でも、さっきのかりはまだかえしてもらってないわよ!」

 何、とユウナは戦慄の呻きをあげた。にこやかな笑顔を一転させ、フレイは再び頬をふくらませてこちらを睨みつけている。

「わたし、ほんとうにこわくてはずかしかったんだから、せきにんはとってもらうからね!」

 よもやこの単細胞娘がこちらの高度な心理的罠を打ち破ってくるとは。ユウナは内心でほぞをかんだ。舌打ちの衝動をこらえつつ、相手側の要求を静かに受け入れる。

「そうねえ……じゃあ、かくれんぼをしましょ! わたしにかったら、さっきのことはみずにながしてあげる」

 かくれんぼ? と何故かアズラエルと声をハモらせて首をかしげた。かくれんぼ、かくれんぼか。まあ、遊びに付き合う程度であればさほど問題も――

「だたし、まけたらあなたたちは、わたしのげぼくになってもらうから」
「なん……だと……」
「…ちょっと待て。あなた『たち』? ひょっとしてそれ、僕も入っているのか!?」
「とうぜんでしょ! レディをまもらなかったおとこに、せんたくのよちなんてないの! もちろん、カナードもよ!」
「わかった」

 わかるな! そう叫びつつも、ユウナは不敵な笑みを浮かべた。下僕ときたか。面白い。
 この娘は分かっているのだろうか。自分が今、いったいどんな存在にかくれんぼを挑んだのかを。

「ふふ…こう見えても若いころは『隠行のゆうちゃん』と呼ばれたこの僕に、かくれんぼを挑むとは。フレイ・アルスター語るに落ちたり! よかろう、先達として人生を歩み始めた若者に壁というものを教えてやろうではないか!」
 数多の人間を恐怖と絶望のどん底に突き落としてっきたかくれんぼマスターを相手にしたこと、後悔させてくれるわ! うわはははー、とユウナはひたすら笑い転げた。

「何でそんなにのりのりなんだ、君は!? ていうか若いころって、君今でも子供だろう!?」

 未だにアズラエルが何事かをわめいているが、そんなことはどうでもいい。こっそりフェードアウトしようとしていた侍女と護衛の二人も加えつつ、ユウナは自信満々にその勝負を買って出た。


 この日、大西洋連邦の名門アルスター家の御令嬢に、五人の下僕が生まれることとなった。



[29321] PHASE19 誰得的シャワーシーン
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/03/21 16:11
 熱いしぶきが全身に降り注ぐ。

 視界を覆い隠すほど膨らんだ湯気の中を、さあさあと軽やかな音がくるりと踊りまわっていた。全盛期の張りこそ昔日の彼方であるものの、未だ瑞々しいと呼べる肌の上を珠のような雫がつっと線を描く。澄んだ水が汗と共にタールのようにこびりついた疲労を洗い流してくれるような気がして、思わずほう、と気の抜けた吐息が漏れた。

 彼、ウナト・エマ・セイランは蛇口をひねり、若干の名残惜しさを振り切るようにシャワーに別れを告げる。本音を言えば広々とした湯船につかって、柔らかな湯の心地を心行くまで楽しみたかったのだが、残念ながら硬水が基本のこの国においてそれは見ることすら酷な夢であった。それにここはオーブと違い、湯につかるという文化の乏しい場所。きれいさっぱり諦めるのが一番傷の浅い選択肢であろう。
 薄くなってきた頭頂部をしきりに気にしつつ――未だ三十代なのに毛髪の心配をせねばならない自身の遺伝子をウナトは心底呪っていた――残った水滴を拭うと、備え付けられていたガウンをはおった。浴室から流れ出す湿気に押されながら、広々としたリビングルームへ顔を出す。

 一面には、天と地の星々で満ちていた。昼間の不機嫌さはどこへやら、デトロイトの空は満面の笑みを浮かべて遥か天空の輝きを地上に振りまき、また大地も人々の営みを灯火へと変えて静かに煌めいている。
 さすがにデトロイトシティ有数のホテル、その最上階だけのことはあった。賓客用のスイートルームは、その調度やサービスの質の高さもさることながら、工業都市ならではの景観を存分に使いこなし、訪れた客人たちをもてなしている。ロゴス、あの拝金主義者どもから漂う瘴気に疲れ切ったウナトは、もう幾度目かになる感嘆の吐息と共に心のさびを存分に洗い流した。
 冷蔵庫から備え付けのブランデーを取り出すと、いささか乱暴にソファへ身を沈める。グラスに注がれた琥珀の宝石から立ち上る芳醇な香気にうっとりと目を細めた。豊かな味わいと共に舌と喉を焼く熱さを思い切り堪能して、もう一度大きく息を吐く。

「何かつままないと、胃に悪いよ。蒸留酒なんて特に」

 胃の奥に熱を落としたウナトに苦笑を交えた声が掛けられた。主は寝室へと続く扉から現れた息子である。

「寝たのか?」
「ぐっすりと。はしゃぎ疲れてたから、ベッドに入った瞬間夢の中だった」

 つまみつまみー、と冷蔵庫を物色し始めたユウナに、ウナトもまた苦笑を一つ投げかける。人騒がせな幼子を血相変えて探しに出て、戻ってきたら今度は別の意味で顔を青くしていた息子も、ようやく機嫌を直したらしい。
 何か「バカな……! そんな馬鹿な……! この、僕が……! 隠行のゆうちゃんと呼ばれ、数多の敵を恐怖と地獄のどん底にたたき落としてきたこの僕が……! あんな小娘に……!」と世界の終りを見たような顔をして、人目もはばからず落涙していたユウナは、正直言って大変無気味であった。アズラエル家の御曹司やアルスター家の御令嬢と、少しばかり洒落にならない面子と一緒だったことを考慮すれば、ここは是が非でも何があったのか聞きださなければいけないところなのであろうが、聞くどころか何をしゃべりかけても返答すらできない始末であったため、さしものウナトも困り果てていたのである。
 第一、隠行のゆうちゃんとは何ぞや?

「ま、無理もないね。あの子にとっちゃ、初めて同世代の友達ができたんだから」
「…大丈夫なのか? 相手はアルスター家の令嬢なのだろう? それに、アズラエルの御曹司まで…」

 大西洋連邦の高級官僚ジョージ・アルスターは穏健派ながらもブルーコスモスの大物であるし、ムルタ・アズラエルに至っては次期盟主の座すら噂されている人物だ。あの子、カナードをそんな相手に近づけても大丈夫だろうか?

「多少不安ではあるけれど、まあ大丈夫でしょう。今のところオーブとのパイプを失ってまであの子を狙うメリットはないはずだから。会談の方は、そこそこうまくいったんでしょ?」
「まあ、一応な。とはいえまだ予備交渉の段階ですらない。いわば意思疎通と相手側の手札を見極めるための場だ」
「面倒くさいね、外交って」
「当たり前だ。一つの条約を結ぶだけで、どれだけの時間と労力を費やさねばいけないかくらい知っているだろう?」

 実際、新代表首長ウズミ・ナラ・アスハの下構想された、環太平洋経済条約機構は各国の意見調整のため二年以上の歳月を必要としている。というかむしろ、たった二年でここまでこれたと言うのがまず驚嘆すべき現象であり、普通なら五年十年は当たり前、場合によってはそれだけかけたにも拘わらず、交渉決裂すらざらなのだ。これだけ煩雑かつ膨大な国家間利害を整理するなど、常識的に考えれば普通ではない。
 …あらかじめ用意周到に準備でもしていなければ。

「んで、どんな感じだった? 大西洋連邦、もといロゴスの皆々様は」
「基本的には肯定の意見が大半だ。彼らとしても、これらの地域の経済活性は望むところだしな。プラント製品によって散々に打ちすえられた非理事国側のテコ入れとも考えているのだろう」
「やっぱり、市場は欲しいんだねえ」
「プラントとの貿易が年々増加しているのだ。無理もあるまい」

 プラントで作れぬものはなし。近年囁かれているこのフレーズの正しさを証明するかのように、プラント理事国の経済は未曾有の好景気のただ中にあった。良質で高性能の工業機械や豊富な資源が、驚くほどの量と価格でもって流入した結果、理事国の生産力も飛躍的な増加をたどり、企業側はその生産力を受け入れられるだけの市場を血眼になって探している状態である。地域経済の活性化に伴う購買力の増大は、彼らにとってももろ手を挙げて歓迎すべきことだった。
 とはいえ、障害が皆無というわけではない。

「ただまあ、いささか以上に厄介な事になりそうでもあるが。連中、我々が安易に肥え太ることが気に入らぬらしい」
「…例えば?」
「赤道連合、汎ムスリム会議にマスドライバー建設の共同プロジェクトを持ちかけたいそうだ。前者は東アジアが、後者はユーラシアの資本家が乗り気だな。ついでに言えば、東アジアなどカオシュン港の開放に積極的だ」
「すごく…露骨です」

 けらけらと笑うユウナから、実に的確かつ明快な答えが飛び出た。ウナトも非常に頭の痛い問題だった。何せこれは露骨にオーブの権益を侵す重要時だったからである。
この時代、経済圏は地球に留まらず宇宙にまで伸び広がっている。オーブが資源採掘を兼ねた工業コロニーヘリオポリスを有しているように、宇宙はエネルギー資源の枯渇した地球にとってまさに宝庫、フロンティアなのだ。当然豊富な各種資源と経済力に恵まれており、プラント、月面都市群、L4コロニー郡など市場もかなりの規模がある。そのため、これらと経済的接点を持つことは何にもまして重要な事なのだが、生憎と世の中そんなに甘くはない。宇宙を経済圏に収めるためには、非常に大きなハードルが存在した。

 宇宙は遠いのだ。

 まあ、宇宙側からの物資輸送はさほど制約はない。大気圏に突入できる性能を持った輸送船、あるいは降下ポッドが一つあれば事足りるからだ。しかし地上側はそうはいかない。
重力の井戸の底から宇宙の彼方まで大量の物資を輸送するのは、非常にコストがかかる大仕事なのである。通常、宇宙に物を送るためには第一宇宙速度まで加速して、重力を振り切らなければならないのであるが、それをシャトルで行った場合の燃料費は馬鹿にならない。人を乗せた旅客機ならばともかく、恒久的かつ断続的に行わなければならない経済活動には不向き、あまりに不向きであった。
 それ故に注目されたのがマスドライバーである。
 超電導レールによって第二宇宙速度まで加速させ、一気に大気圏の突破を行うこの投射施設は、燃料費や機材維持費の面から非常にコストパフォーマンスに優れている。大量の物資を宇宙に運ぶ天の架け橋は、同量の黄金以上に価値のある存在なのだ。

 だからこそマスドライバーの設置可能な赤道付近の低緯度国家が熱いまなざしで見つめられているのであるが、この便利かつ素晴らしい施設にも欠点があった。
 建造に高度な技術と長い時間、そしてやっぱり金がかかるのである。とはいえ費用対効果の点からいえばシャトルによる輸送よりはるかに低コストであるし、初期投資に見合ったリターンがあるのも事実。だからこそ超大国はこぞってマスドライバーを建造したし、オーブもカグヤだけでなく軌道エレベータなるものにもご執心だ。
 それ故に、空への架け橋を持つ国は非常に高い経済力を有しており、無資源国家たるオーブが貿易立国として栄える事が出来たのも、偏にマスドライバーを保有しているからなのである。

「赤道連合や汎ムスリムへのテコ入れだけじゃないね、これ。脅しかな?」
「多分な。必要以上の儲けを我が国に出させない為の一手だろう」

 そう言ってウナトは眉間をもんだ。
 赤道連合、汎ムスリム共に低緯度地域を領有しており、技術と金の問題さえ解決できればマスドライバーを持つ条件は一通りそろっていた。普通に考えれば、この二国をより有力な市場に仕立てるとともに、カオシュン・ビクトリア以外のマスドライバーを得るための動きと見るべきなのだが。
 しかしオーブにとっては非常に面倒くさいことになる。
 今回発足される経済条約機構で宇宙への道を持つのはオーブ一国だけということを考えれば一目瞭然だろう。ことにプラント工業製品の関税引き下げを声高に叫んでいるオーブを見れば、その狙いを類推するのはさほど難しくない。

 端的に言うと、オーブは対プラント貿易の中継窓口になりたかったのだ。

 プラント側の各種製品はオーブを通じて条約機構加盟国へと流れる。反対に加盟国からプラントに向かう物品も、マスドライバー関係からやはりオーブを通じて宇宙へと送られるのだ。
 こんな流れをつくれば、当たり前だがオーブはものすごく儲かる。何せ窓口は一つしかないのだから、皆カグヤを選ばざるを得ないという仕組みなのだから。
 勿論、オーブ一人勝ちの状態は諸国からいらぬ怨みを買うだけなので、利益配分には気を使う必要はあろうが、諸国としてもこれまで欲しくて欲しくて叫びまくっていた、プラントの優れた製品を手に入れられるという確固たるメリットがある。ただ、他よりちょっとだけオーブが得をする仕組みであるだけだ。

「それがロゴスには気に入らない、と。いやあ、すごいすごい」

 しかしここで赤道連合や汎ムスリムにマスドライバーを持たれてしまえば、たちまちその構造自体が絵に描いた餅へ転ずる。南アメリカ、強いてはパナマ港の参入はまだいい。未だ南米は経済条約に加盟しておらず、また加盟するにしても距離的な関係で、南太平洋近隣の諸国はカグヤ港を多用することになるだろう。第一、パナマは大西洋連邦という巨大経済圏に包括されており、また共同管理という名目の下、その権益の多くは北米の企業が握っている。新規参入の幅は狭いはずだった。だが、彼の二国――ことに赤道連合はオーブと同じく南太平洋に属する国家であり、マラッカ海峡など海上交易の要衝を握る海運国だ。おまけにエネルギー資源こそ枯渇しているものの各種の鉱床にも恵まれ、周囲はぐるりと有力市場という地政学上本気で羨ましい――まあ、国防的にはドン引きなのだが――場所にある。こんな国が宇宙交易に参入してくるなど、オーブにとって悪夢以外の何物でもなかった。
 よろしくない。これは非常によろしくない状況である。このまま放置すれば貿易商人たちは三国に分散し、オーブの得られる利益は当初の計画よりも目減りすることとなるやもしれない。

「ただまあ、使えるマスドライバーが増えるってのは、利点もないわけじゃないからねえ。一概に妨害するわけにもいかないでしょう」
「それも計算して仕掛けてきているのだろう。たまらんな、本当に」

 当たり前だが、入口が一つよりも複数あった方が物流はより大きなものになる。環太平洋経済条約機構の有するマスドライバーの数が増えれば増える程、その貿易規模も拡大し、加盟国の経済活動も盛んになるだろう。何より共同開発が成功すればユーラシア、東アジア両国の連携も取りやすくなり、市場参入の機会も増えるのは間違いない。

「それに、マスドライバーが増えれば……」

 ぽつりと、ユウナが苦笑して何事かを口の中で呟いた。しかし後半部分は紡がれることなく、ただ笑みが色濃くなるだけである。
 またそんな顔をするのだな。ウナトはブランデーをあおり、先ほどよりも酒気を強くした息を吐く。

「ユウナ」

 思考の海へ埋没してしまった息子を引き上げるべく、ウナトはことさら強い調子で少年を呼んだ。ユウナは何ぞや? と小首をかしげて瞳に正気の色を宿す。そしてこちらの目をじっと見つめ、ふっと気の抜けた嘆息を漏らした。

「なあに、父上。何か気になることでも?」

 そう言いつつ、ユウナは肩をすくめた。その面差しは静まった水面のように穏やかで、氷柱のように清んでいる。落ち着いた、あまりにも落ち着きすぎたその様子に、ウナトもまた苦笑を浮かべた。
 まるで全て分かっていると言いたげな息子に、そうするしかなかった。
 この国に来る時、空の上にて自身が放った言葉を、頭の中だけで反芻する。親子の会話、というものをするいい機会だと。正直、言いたいことは色々とあった。ユウナが生まれて、育ち、長いとは言えないまでも決して短くない時間がたっている。そしてそれは父たるウナトにとって、とても看過し得ないことの連続であった。
 あふれ出る疑問、不安、夜のように混沌としていて、しかしどこか冷たく清らかな感情。それを載せる言葉に事欠くことはない。数瞬だけ瞑目し、ウナトは槍のように研ぎ澄ました思いを真っすぐに解き放った。

「お前は、何をそう生き急いでいる?」
「…生き、急ぐ?」

 笑みを湛えていたユウナの仮面に、小さなひびが入った。何を言われたのか分からないといった風に小首を傾げ、ただただ幾度かウナトの言葉を反芻する。まるで予想していなかった、と言わんばかりのその有様は、やはり彼がそれに気づいていなかったことの何よりの証左と言えた。
 きっとこの息子は、ウナトの質問をあらかじめ予想しそれに対する回答を用意していたのだろう。洋上の機内から二日、多くはないけれど考える時間はそれなりにあったはずだ。
 年齢に似合わぬ思考、態度、湯水のごとく金を注いで行っているよくわからない事業。訊ねられる種は無数に存在するが、それでもウナトがまずもって聞きたかったこと、聞かねばならなかったことがそれだった。

 ユウナ・ロマはあまりにも生き急いでいる。

 余裕がないわけではない。焦っているというのでもない。むしろ余裕過ぎて人によっては怠惰にさえ映りかねない抜けっぷりである。しかし、それでもどこか行動のはしばしに、何かに追い押されているかのような圧迫を受けているように見受けられるのは、多分ウナトの気のせいではあるまい。

「正直に言って、お前が何を考え、何を為そうとしているのか私にはさっぱりわからない。だがな、ユウナ。お前は間違いなく何かに急かされて生きている。まるで背中に刃物でも突き付けられたかのように、必死にな」

 ユウナは語らない。目を丸くして、ぱちぱちと瞬きをするだけだ。

「気がついたのは最近だがな。お前のしていることの根底にあるものの正体、母さんはもっと早くから悟っていたようだが、私は随分と時間がかかってしまった」

 なあ、ユウナ。ブランデーで唇を湿らしたウナトは、ただ穏やかに息子へ訊ねた。

「何に、そんなに怯えているんだ?」

 恐怖。それこそがユウナ・ロマの早熟の原因だと、ウナトは考えていた。自分には伺うことすらできぬ何かが、間違いなく息子の精神を圧迫し、何がしかの恐怖へと駆り立てている。ユウナの為すあらゆる行動が、その恐ろしいものに対抗するための攻撃なのだ。
 しばしの沈黙が部屋を満たした。ウナトは一度息子から視線を外し、デトロイトの宝石箱をその瞳に移す。
 大きなため息が漏れた。

「まいったなあ……。僕って、そんな風に見えてた?」
「母さんが嘆いていたぞ。『息子一人満足に救えないのか』とな」
「そりゃ母上に申し訳ないことをしたね」

 たはは、軽く笑うユウナは、やはりいつも通りの彼だ。懐から扇子を取り出し、ぱちりと音を立てる。

「恐怖、恐怖と。ふふ、云い得て妙としか言いようのない感じだよ。確かに、指摘されて初めて気づいた。僕は怯えてたんだね」
「何にだ?」
「死について」

 ぱちりと、また扇子をたたく。

「僕の大事なもの、父上や母上、ヴィンス爺にユリーさん、アビー、ダフト博士、エレンさん、カナード、トダカ一尉、ジャン博士、エリカさん、三爺。ムルタにフレイ。アストレイ研究所の皆。この世界で僕が結んだ多くの人。それを奪い壊そうとするものが、僕は何よりも怖い。恐ろしい」

 ほんの刹那の間だった。

「置いてかれるのは、辛いもんね」

 これまで、ユウナがある程度の年齢に達してからというもの、一度たりとも見る事のなかった感情が、仮面の隙間から顔をのぞかせる。

「もう奪われるのは、嫌だもの」

 痛みと悲しみ。けれどそれはすぐさま常の不思議な笑みに覆われて姿を隠した。
 ウナトは黙した。何を言っていいのか分からなくなったから口を開けなくなったのだ。死が怖い、それは生命の持つ当たり前の感情だ。しかし息子の言いたいことは、単純な意味での生き死にではないことが何となくわかったからだ。

「僕自身は、まあ死ぬのは怖いけれど、さしたる恐怖はないよ。矛盾してるようで、これは偽らざる本音。できれば死にたくなくて、でも必要ならばそれでもいい。意味ある死、なんて贅沢を言う気はないけれど、それでも次へとつなげていくためのそれならば十分受け入れることはできる。でもその『次』を奪われるのだけは、どうしてもだめだ。僕の好きになった人が苦しむのは、許容しかねるよ」
「…それがお前の行動と、どう繋がるのだ?」

 開いて、閉じて、開いて、閉じて。扇子がひらひらと動き、静寂が痛いほど耳を打つ。やがてユウナはもう一度苦笑し、唐突に卓上のブランデーに手を伸ばした。

「お、おいユウナ」

 瓶を満たしていた琥珀の液体が見る見るうちに少年の口へと消えていく。ぷは、と良い感じの吐息を漏らしたユウナは、どこか満足げな空気を漂わせてまた酒をあおる。

「素面じゃ話せないってだけだよ。良くある話、良くある話」
「馬鹿を言うな! 子供がそんな強い酒を――」
「コズミック・イラ七〇、二月七日。アラスカ宣言により大西洋連邦、ユーラシア連邦、東アジア共和国が国連に代わる国際機関として地球連合を発足」

 ――飲んでいいわけがない。そう続けようとしたウナトを制して、ユウナはぽつりと呟いた。

「二月八日。アスハ代表の中立宣言により、オーブ連合首長国はあらゆる国家に対する中立を表明。以後オーブはプラント、地球連合両国から距離をとる」
「…ユウナ?」
「二月十一日。地球連合構成国はプラントに対し宣戦を布告。月面プトレマイオス基地より艦隊が出動。二月十四日、ラグランジュ5宙域において地球、プラント両陣営は本格的武力衝突に陥る。そして――」
「待て、ユウナ。一体何を話している?」
「――地球軍内のブルーコスモス派によって持ち込まれた一発の核ミサイルが、農業プラントユニウスセブンに着弾、同プラントはその場にて崩壊し、二十万を超える民間人が犠牲になる」

 一体、息子は何を言っているのだ? ウナトは混乱する頭を必死に整理して、ユウナの奇行とも言うべき様を茫然と見つめた。淡々と語られる話はウナトの想像をはるかに超えるものだった。
 プラントは新型機動兵器モビルスーツによって、物量で圧倒的に勝る地球軍に対抗し、戦線は一年に渡って膠着、その間に宇宙、地上を問わず激戦が繰り広げられた。そして開戦後十一カ月が過ぎた後、オーブ領ヘリオポリスにて極秘裏に開発された地球軍の新型モビルスーツを奪取すべく、プラントがヘリオポリスに侵攻、同コロニーは崩壊、大量の避難民が発生する。
 流れるように移る戦局、ビクトリア港の陥落とアラスカ、JOSH-Aの崩壊。そして――

「C.E七一、六月一五日。地球連合はオーブ連合首長国に宣戦を布告。その翌日にオーブは降伏。政府首脳陣はマスドライバー施設と共に自爆、以後大西洋連邦支配下に置かれることとなる」
「…何、だと?」
「九月二十七日、プラント所有の軍事要塞ヤキン・ドゥーエ攻防戦によって、パトリック・ザラ最高評議会議長、ムルタ・アズラエル国防産業理事が戦死、これを受けて地球、プラント両陣営は停戦に合意。翌年三月二十日に講和条約が結ばれ、約一年半にわたった戦争は終結。けれどそれは単なるインターバルであり、一年後のC.E七三年に両国は再び矛を交えることになる、と」

 ユニウス条約体制の崩壊とオーブと大西洋連邦の同盟、そして戦争の推移、オペレーション・フューリーとそれによるセイラン家の崩壊と、信じられない、否、考えたくもない話が続く。
 長々と良い終えて喉が渇いたのか、ユウナは冷蔵庫から冷水を取り出し、舐めるように唇を湿らせた。ウナトはどう反応していいのかわからず、狼狽しつつも息子の真意を訊ねる。

「一体、何の話だ? それは…」
「あり得たかもしれない未来。そして、おそらく何もしなければあり得るかもしれない可能性のお話」

 要領を得ない息子の台詞に、思わず頭を抱えたくなった。それと同時に、そんな子供のたわごととしか言いようのない与太話を真剣に吟味している自分がいる事に気づく。
 あり得ない。そのひと言が喉まで出かかって、しかし実際に紡がれることなく胃へと戻っていく。理由はユウナがあまりにも真剣に話しているから――ではない。その情景が、語られる内容が、あまりにも生々しく、それでいて決して起こり得ないと言いきることのできないものだったからだ。
 モビルスーツなる新型兵器――確かユウナが研究しているそれだ――はどうかわからないが、プラントと地球諸国の対立と本格的武力衝突はこの時代の政治家であれば誰もが感じ取っている事象である。オーブの中立政策、プラント理事国による軍事同盟、大洋州連合などの非理事国によるプラント支持、そのどれもが各国のお国柄を端的に表しているようで、単なる妄想と決めつけられぬ質感をウナトに与えていた。

「長い話、そう、ちょっとだけ長い話になるよ」

 酔いの回った頭をぐるぐると回しているウナトに、ユウナはぱちんと扇子を閉じて苦笑した。先端を唇にあてがい、ひどく乾いた笑みをたたえる。

「僕自身望んだわけではないし、そのことを己の罪と断ずるのは傲慢とは思う。でも、申し訳ないという思いだけは消せない」
「ユウナ?」
「ずっと、言えなかった。いんや、言うのが怖かった、のかな。誰かに嫌われるのって、やっぱり痛いからね」

 その苦笑はあまりにも静かで、ひび割れていた。触れればたちまち割れてしまうガラスのような息子に、ウナトは二の句を継げずに唇だけを動かす。

「あったであろう可能性。こんなはずではなかった未来。本来あるべき『僕』を、貴方達の大切な息子を奪ってしまったこと。それだけは、本当に。申し訳なく思ってる」
「…何?」
「全部、話す。そしてその結果、父上が――貴方がどのような決断を下したとしても、僕はそれを受け入れる。怨まれても仕方のないことであるのだから」

 疲れたように、ユウナは大きく息を吐いた。そしてまたブランデーをちろりと舐めて、くっと目を閉じる。

「ね、父上。魂ってどこにあると思う?」

 そして、長い夜が始まった。



[29321] INTERVAL1 どこかのだれか
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/03/21 16:11
――僕は、僕の秘密を今明かそう。

 それはかつて、希望に満ち満ちた門出に際し、送られた言葉。

――僕は、人の自然そのままに、この世界に生まれたものではない。

 人類最初のコーディネイター、ジョージ・グレン。数々の偉業を成し遂げ、当時の人類に人の可能性をまざまざと示した男は、この世界に三つの変革をもたらした。

――僕は受精卵の段階で、人為的な遺伝子操作を受けて生まれたもの。その詳細なマニュアルを、今、世界中のネットワークに送る。

 一つは、木星探査船ツォルコフスキー発進後、未曾有の混乱と共にこの世界に姿を現した、人の可能性の一つ、コーディネイター。

――今、この宇宙空間から地球を見ながら、僕は改めて思う。僕はこの母なる星と、未知の闇が広がる広大な宇宙とのかけ橋。そして、人の今と未来の間に立つ者。調整者、コーディネイター。そのようにあるものなのだと。

 一つは、この十四年後に人類が接触した、初の外宇宙生命体、その化石。宇宙クジラの名でも知られるエヴィデンス01。

――僕に続いてくれるものがいてくれることを、切に願う。

 そして、三つ目は――






 吸い込まれそうなほどの暗い闇と、砕けた真珠の輝きが眼前に広がっていた。
 木星探査船しょうりゅうの乗組員、瀬野渡瀬は分厚い強化窓の外を、飽きることなく見続けていた。もう二十五とそれなりの年齢に達した男であるが、否、男であるからこそその光景から目を離すことができない。彼は感情が見えにくい、と知人に言われる瞳は、今この時、はっきりと興奮の赤を虹彩の奥に湛えていた。

「何か面白いもんがあったか?」

 宇宙の深淵と一体化したかのような高揚は、唐突に加えられた衝撃と豪快な笑い声によってたちきられた。ばんばんといささか以上に強く叩かれた背中に、思わずむせそうになりながら、渡瀬は若干顔をしかめてその人物に目を走らせる。

「宇宙が見えます」
「いや、おめえ。そりゃここで宇宙以外が見えたら問題だけどよ」

 見かけは四十を過ぎたあたりだろうか。短く刈り上げた茶髪に無精ひげ、がっしりとした体つきは、男の精悍な面立ちと相まって、非常に頼もしさを感じさせる。この男がしょうりゅうの船長、竜園辰五郎だった。

「ほら、こう、何か他にもあんだろ? うおおおお! とか、ぬひょおおおお! とか。ぐつぐつとたぎってくるっつー奴? お前さん若いんだからよ」
「何でも若さのせいにするのは年上の方の良くない点だ、と俺は思います」
「あまりの醒めっぷりに俺の心がブロークンだよ」
「こればかりは性分ですので。船長こそ、もう少し落ち着きを持たれてはいかがですか? 奥さまはともかく、息子さんはかなり引いてましたよ」
「おい部下。お前何でうちの家庭事情知ってんだよ」
「言ってませんでした? ていうか、息子さんとか本郷博士とかから聞いてないんですか? 俺、龍之介君の一年上だったんですよ、高校」
「聞いてねえ。超聞いてねえ」

 無理もないですね。とあえて言わなくてもいいことを渡瀬は口にした。さらなる衝撃を受けたのか、辰五郎が暑苦しい筋肉を躍動させて盛大に落ち込む。

「ひょっとしてあれか? 俺息子に信頼されてないとか?」
「今日は良い天気ですね。洗濯物が乾きそうだ」
「ありえない話だなそれ。ていうか露骨な話話題転換も肯定になるって、じっちゃんが言ってた。うわ、マジ。マジなの?」

 実際、彼の息子である竜園龍之介はこの親から生まれたとは思えないほどまともかつ素直なので、父親を疎むとか、そういう思春期的な思考をしないヒトであるから大丈夫なのだが、それを告げるのも面倒なので放置することにした。
 見てると色々愉快だし。

「それにしても、船長。ブリッジにいなくてもいいんですか? 一応そこはかとなく船長なんですから、いないと困ったりすることも、ありえないこともないかもしれないじゃないですか」
「どんだけ否定されてんの、俺。…ま、基本的に木星までは殆ど指示も必要ないかんな。俺の出番は、あっこに着いてから。それまでは部下と交流できる程度には暇なんだよ」
「さすがですね。船長。沈没フラグを着々と立ててますよ」
「立ててねえよ!」

 まあ、この船長が言っているのだから、そうなのだろう。どれほど技術が進化したとしても、宇宙はシビアな世界、些細な事が死に直結する場所であることを、彼が忘れているわけがない。その辺りは非常に有能なので、乗組員としては安心できる要素だった。

「それにしても、木星ですか」
「ああ、木星だ。ジュピター、変革の星って奴だろ」
「そんな所に行って、何が見つかるっていうんでしょうね。またぞろ謎生物の化石とか、超エネルギーとか、古代遺跡とかがあるとか?」
「さあな。ゆーきの奴は、あまりよろしくない反応とか言ってたし、多分あんまり愉快な発見にゃならんと思うぞ」
「恋愛フラグは見逃す癖に、こんなとこだけ目ざといって何なんでしょうね、本郷博士って。そりゃ助手さんも切れますよ」
「あー。まさかの逆レとか、さすがに予想できんかった。正直引いたぞ、俺」
「おまけにロリコン疑惑まで持ち上がるとは。さすがですね、博士は」

 ねーよー、と辰五郎は心底ありえないとばかりに首を振った。個人的にあれだけの美人に迫られるなんて何その御褒美、と思わなくもないが、男の尊厳の代価がロリコンの名というのは確かに泣いても良いかもしれない。

「とはいえ、あいつがこの調査に相当力を入れてんのはわかってるだろ? 長い付き合いだが、あいつがこれだけ準備を整えるときは、決まってすんげえことが起こったりするからな。お前さんも気ぃつけとけよ」
「それはもう。アレを預けられた時点で嫌という程思い知ってますよ」

 渡瀬は幾つもの隔壁によって隔てられた先――例のものが設置されている方を向いて苦笑を洩らした。
 科学者本郷裕貴によって作られた最新鋭コンピュータ。それを搭載した同じく最新鋭の調査船。そんなものを預けられて、ただののんびり木星漫遊記と考えられるほど、渡瀬の脳はお花畑ではない。
 そしてそんなものを投入してまで調べなければならないこととは何なのか。あまりにもきな臭くて、渡瀬は小さくため息をついた。

「おいおい、そんなんじゃ幸せが逃げちまうぜ? もっとこう、スマイルスマイル」
「船長スマイルなんて浮かべたら、奥さんに逃げられてしまうじゃないですか」
「逃げてねえよ! 単身赴任でアメリカ行っちまってるだけだから、逃げられてねえよ!」

 あ、まだ逃げられてなかったんだ。パチクリと瞳をしばたたかせる渡瀬に、辰五郎の悲鳴じみた抗議が幾つも降り注いだ。

 どこか、とおくにて。



[29321] PHASE20 あーがいるスタイル
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/05/21 22:42
 重く鈍い音が、腹の底まで響くかのようだった。
 勿論、実際にそれを己が身で感じ取ったわけではない。しかし目から飛び込んできた情報は、本来あり得ないにもかかわらずユウナの身体を振り動かすことに成功していた。
 まさに圧巻。見学用に作られたスペース、その中央の席に座りながら、強化ガラスに隔てられた光景を見て、ユウナは何度も頷いた。

 アストレイ研究所第一実験場に、巨人の姿があった。
 くすんだ灰色の装甲にツインアイ、ツインホーン。姿そのものは非常に簡素でスマートである。しかし彼から放たれる迫力は、ともすれば味気なさすら覚えるような外装を補って余りある、一種異様な魅力を醸し出していた。
 C.E六〇年、三月。アストレイ研究所は遂に初の試作モビルスーツ『ハウメア』の開発に成功した。足がけ三年。鼻血を吹きだしそうなほどの予算と労力を注ぎ込んだ集大成が今、目の前にある。武装はない。装甲も単なる鋼材で、試作も試作、文字通り丸裸の機体だけであるが、それでもモビルスーツであると断言できる代物だった。
 ユウナはほう、と息をつき、ちらりと周囲を見渡した。所長ジャン・キャリーをはじめとして、三爺以下主だった研究者たちが固唾をのんで見守っている。いずれも緊張と期待に目を輝かせ、実験の開始を今か今かと待ち望んでいるようだった、

「それでは、起動します」

 進行役のエリカ・ローレンスの台詞と共に、メンテナンスベッドの拘束部が外れ、ハウメアの瞳に光がともった。ゆっくりと腕とマニピュレータが動作を開始する。おお、とセガワ博士の歓声が漏れた。
 記念すべき一歩。ハウメアにしても、これよりさらに加速するだろうモビルスーツ開発にしても、これは大きな意味を持つ。ユウナはわれ知らず息をつめて、その動作を見守った、機体が右足を踏みだし、その巨体に力をかけて。

 ――右ひざをついた。

「は?」

 次いで左ひざをついたが、かかる力をさばききれないのか重心が定まらず、腕を緩慢に振り上げる。どうもバランスを取ろうとしているらしいが、全くもって上手くいっていない。やがてハウメアは両膝をついたまま、こちらにまで聞こえてくるような盛大な音とともに、実験場の大地に転がった。もうもうと埃が立ち上る様を、どこか他人ごとのように見つめる。
 …ど、土下座ガンダム! アフリカ辺りで一人の少年が見せた愛憎溢れる一発芸が、ユウナの眼前に広がっていた。

『いやっほおおおおおおおおおおおう!』

 盛大な歓声が鼓膜を破りそうになった。白衣の研究者たちは、ユウナの混乱を余所に、お互いの肩をたたき合ったりと健闘をたたえているかのようだ。

「やりましたな、皆さん」
「うむ、よもやあれだけ動けるようになっていたとは思わなんだ」
「というよりも、きちんと立っていられたことがまず素晴らしい」
「当然じゃ。あのOSはわしが組んだんじゃからな」

 窓外のモビルスーツ(笑)に消火剤が吹きつけられた。瞬く間に膨らむ白煙は、まるで彼らを祝福する花火のようにあでやかだ。
 え、何これ。一緒になって喜ぶべきなの?

「えっと…ジャン博士。これって成功…なんだよね?」
「勿論です。見ましたか、ユウナ様? 自重で崩壊することもなく、バランスよく直立できたのですよ。さらに腕部、脚部の動作も異常なし。初の試作機にしては上出来ではないですか」

 えー、そうなのー。白皙の顔を珍しく紅潮させたジャンに、ユウナはあいまいな笑みを返した。この碩学がここまで感情をあらわにしていると言うことは、実入りのある実験だったということなのだろうが。

「ユウナ様が、それなりに歩けて、それなりに動ける機体を想像されていたのであれば、ご期待を裏切る結果になったのでしょう。ですが、新規開発にかかる手間と労力を考えれば、これはむしろ順調なほうです」
「や、わかってんだけどね。基礎技術の発展に時間は不可欠だってことは」

 そう言う意味では、わずか二年ちょっとで実践モビルスーツを開発してしまったプラントが、どれほど化け物じみているのかが嫌という程分かった。そりゃブルーコスモスも躍起になるわ。
 ジンという基礎ベースがあったにもかかわらず、地球連合、史実オーブがのたうちまわってようやく完成させたことから考えても、妥当と言ってしまえばそれまでなのだが。ハイぺリオン等の少数の実験機を除いて、実際に量産までこぎつけられたのがわずか三国だけという意味がユウナに重くのしかかる。
 甘く見ていたつもりはなかったのだ。けれどそれでもこれはいささか以上に予想外だった。下手をすれば、量産できるようになるのは開戦前夜、なんてことにもなりかねない。
 モビルスーツに搭載する武装やらなんやらは、遅々としているもののそれなりの進歩を見せているのが、せめてもの救いであった。特にフェイズシフト装甲は、その理論提唱者たるヘリオポリス工科カレッジの教授、モーリス・ゲール博士指導の下、一番開発の進んでいる分野である。

 ていうか、フェイズシフト装甲理論ってオーブ発祥なのに、史実であんだけ開発に手間取るってのはどうなのよ。いやまあ新機軸の技術って、自国では見向きもされなかったから、よしおいちゃん海外で一旗あげちゃうぞー、と海外流出するのはよくある話なので、さほど不思議でもなんでもないのだが。ライト兄弟や八木博士も草葉の陰で笑っていよう。
 ともかく、ゲール博士の頬っぺたを札束で叩いて研究チームを立ち上げて、特許関連も全部抑えたから、少なくとも大西洋連邦に流出する可能性は減ったはずである。ざまあ、マリュー・ラミアスざまあ。でもうちに来てくれるのなら超高待遇を約束する。いや本気で。モビルスーツといいフェイズシフトの実用化といい、彼女は本当に優れた技術者なのだと思い知っているのだ。正直言って来てくれるのなら土下座しても良い。
 ちなみにカトウ教授にも一部を委託しているが、何だかんだで大西洋連邦ともつながりがあるっぽいので、さほど深入りさせる気はなかった。変に拘わらせて技術流出とか洒落にならない。

「…やっぱり、もうちょっと考えるしかないかなあ」

 さすがに完成まで五年も十年もかかるのは勘弁してもらいたい。ある程度荒稼ぎしているものの、そろそろ資金的にも乏しくなりつつあるのは避けがたい現実だった。一応先のL5宙域の艦隊駐留、クライン・ザラ両名の最高評議会員選出、アメノミハシラ建設開始等で多少資産を増やしてはいるものの、増加以上に減少速度の方が速いため、正直このままでは早晩破たんしかねない。まっかっかの自転車操業である。
 一応、銀行の融資は取り付けてあるので――本当に五大氏族の名前は社会的信用があるものだ――即座に倒産ということはないが、それでも開発時間は短ければ短いほどいい。

「ある程度収益を得られなきゃいけないよねえ。ジャン博士、造船部門の技術習熟はどんな感じ?」
「部門長によると、どうにか一定水準に達したと。ですが相当無理をしたようで、実際に使い物になるのかは未知数でしょう」

 造船は非常に高い技術力がいる。特に宇宙船などその最たるものだ。いずれモビルスーツ運用を前提とした艦を作るため、プラントで造船業に携わっていた者たちを中心にして一部門を早くから組織していたのだが、それでもまともに動くようになるまでかなりの時間を費やした。適材を適所に移し、各技術力を一定化し、人間関係やら事務仕事やら設備投資やらを行い、やっとのことでここまで来たのだ。

「んじゃ、もうしばらくしたら、セイラン傘下の企業からいくつか仕事もらってくるよ。まずは実績作りからだね」

 どこの業界でも、実績がなければ信用されない。特に宇宙というシビアな世界で、命を預けることになる品物となれば、信用の必要性は筆舌に尽くしがたいものだ。はい、今日から僕たち御船作ります。どうか依頼してね。そんなことで仕事がもらえりゃ苦労しないのである。
 目指せイズモ級。いずれは軍から戦艦建造の依頼を受けられるようになればいい。まあ、造船でどうにか収入が得られるようになってもらわないと、自転車の車輪が外れてしまう。是が非でも成功させねばなるまい。
 となると、早々にウナトと意見調整をした方がよいだろう。ユウナはぱっと扇子を取り出し、ひらりひらりと空を仰ぐ。
 あの夜からもう六ヶ月。一時はウナトとの絶縁すらも覚悟していたのだが、不思議な事にそれまでと全く変わらない関係を維持していた。割と色々カミングアウトしたし、正直追いだされても文句を言えない立場だと自覚していたユウナにとって、これは非常に驚くべきことだ。…否、頭の片隅では、こうなることも計算に入れていたため――我がことながら正直吐き気がする。しかしだからといってどうしようもない――ある部分では受け入れているものの、それでもどこかしらしっくりこないものを感じている。

 何せ。全部ぶちまけた後の、ウナトの反応の一切を、ユウナは覚えていないのだから。

 いや、原因はわかっている。ブランデー、あの魔性の飲み物のせいだ。芳醇な香りと強いながらも豊かな甘みを感じさせてくれる、彼の一品がユウナから思考力と記憶を奪ってしまった。
 はい、酔っぱらって途中から何にも覚えていません。
 故にウナトがどのような決断を下し、それを自分に告げたか、ユウナにはさっぱりわからないのだ。翌日以降、これまでと全く変わらない形で接してくれていることから、そこまで悲惨な印象を抱かれていないとは思うのだが。否、ひょっとすると表に出していないだけなのかもしれない。
 回答のない悩みであれば、いっそ本人に聞くというのも一つの手ではある。しかしいざそうしようとしても、どこかで怖気づいてなあなあで済ませようとする自分がいた。もしも拒絶であったら、と考えると思考が停止するのである。

「金、金、金。地獄の沙汰すらこれで何とかなるんだもの。おっそろしいよねえ」

 ハウメアの回収作業を眺めながら、しみじみと呟いた。
 その後、諸々の手続きや実験を眺めたユウナは、アストレイ研究所の玄関に止めていたリムジンに戻る。黒塗りの高級車の脇に立つ人影を見やると、苦笑しながら小首を傾げた。

「お待ちどうさま。帰ろっか、アビー」

 はい。と淡々と返す少女は、すっとドアを開けてユウナを車内に招き入れる。アビー・ウインザー。御年八才の美少女は、さっと自分の隣に腰掛け、シートベルトを締めた。
 どうしてこうなった。もはや百どころか千を越える回数を共にした言葉を呟き、ユウナはまた苦笑する。なんかこう、気が付いたらこうなっていたのだ。僕は悪くない。
 どうなっていたかと言えば、それは彼女の服装を見れば一目瞭然――多分――だろう。さらりとした金髪の上にのったカチューシャ、白いフリルのあしらわれたエプロン、紺色の、所々に花が描かれた着物。赤と金の蒔絵が見事な下駄。

 メイドだった。しかも和服メイドとかいう、非常にコアな代物である。誤解のないよう言っておくが、彼女に関する一切のことは、ユウナの関わりない部分で進められている。美少女の和服メイドとか何その御褒美、とか思いはしたが――口にしたら顔面に蹴りを入れられた後後頭部を踏みぬかれた――断じて自分は関わっていない。無実、無実なのだ。
 何故か知らないが、彼女はセイランの――もっといえば自分の近従としてセイラン邸に上がり、産休を終えたユリー・エルスマンの補佐として働いているのだ。唐突にヴィンス爺から「今日から彼女がユウナ様のお世話を致します」とか言われた時の自分の顔は、さぞや見物であったろう。後でアビーがわざわざ引きのばした写真を見せてくれた。ブログに乗せて全国展開したと聞いた時、ちょっとだけ泣けたのは秘密である。
 一体全体、彼女にどんな心境の変化があったのだろうか。あちらのご両親様も、是非にと仰られていたし、本人の希望であればそこまで強く反対する気もなかったからこうなっているが、本当に何があったのだろう。
 ていうか、社交界でナダガとリンゼイの総領たちの視線がものすごく痛いのは余談である。恐怖と嫉妬と憎悪の素晴らしい混合で睨まれるのも楽ではない。そんな目で見られても自分にはどうしようもないのだからなおさらだ。
 まあ、それはいいとして。

「どうぞ」

 と差し出された半透明の板――情報端末に目を丸くし、ユウナは眉をひそめた。何これ、と聞くと、お手紙です、と端的かつ明快な回答が戻ってくる。

「それほど多いというわけではありませんが、可及的速やかに返信された方がいいと思われるものをご用意しました」
「そいつはありがとう。でもどう考えてもプライベートな代物も混ざってるのは気のせいかな? ユウナさんのヒ・ミ・チュ。というか、探られると痛いどころじゃないものも混じってる気がするんだけど。いたいけなお嬢さんからのラヴレターとかあったらどうするつもりなの?」
「混ざってるんですか? …いえ、すみません。そうですよね。ご無礼いたしました」
「やめて。超やめて。そんな憐憫百パーセントの微笑みなんか見せないで。悲しくなるから。すごく悲しくなるから」

 何かこの娘最近、精神肉体問わずに僕を痛めつけてくるんですけど。え、最近の若いお嬢さんって皆こうなの? やっぱすごいなこの世界。
 深く考えると色々悲しい事実に気付きそうだったので、ユウナは端末を操作し、いくつかのメールを開封する。一通目は量子通信システム共同開発を依頼した、アクタイオン・インダストリー担当者からのものだった。内容自体は意見調整に難航しているものの、協力自体には前向きとの事。アストレイ研究所は新興で実績もないが、人員は優秀だしセイランが背後にいるという点を考慮してくれたのだろう。世の中やはりコネである。
 二通目は、大西洋連邦のフレイ・アルスターからだ。文脈やら文法は滅茶苦茶だが、メールだけあってどうにか解読は可能なのが救いだった。要約すると、またカナードを連れて遊びに来い、とのことである。ユウナを指す名詞が下僕二号というのには、著しくプライドを傷つけられるが、そこは大人の意地で顔には出さなかった。どうしてこの世界の女性と言うのは、こうも自分を泣かせるのが上手いのか。
 三通目、ムルタ・アズラエルから。経済条約機構に関する諸々がその内容であったが、最後の方には私信が織り込まれている。行間の端々からいかにも不本意ながら書きました、という感じが読み取れて、何とも幸せになれる手紙だった。何だかんだでこちらに付き合ってくれるのだから、根は良い人と言わざるを得ない。男のツンデレも以外と悪くないね。
 四通目はトダカ一尉のご両親様からの御礼状である。何故に彼の親御さんからそんなものが届くのかと言うと、あの真面目軍人がやらかしてくださったからだった。

 あの野郎、きっちりエレンにフラグ立ててやがった。

 いやまあ諸々の理由があったとはいえ、エレンやトダカ一尉にちょっかいかけたり旅行だのなんだのに振りまわしているうちに、自然とそういう仲に発展していったそうな。何となく面白そうだから、と彼らの意識を誘導したのが良かったのかもしれない。ちなみにエレンの夫になるというのはカナードの養父になるということでもあるので、子供の扱いや養育等々で徹底的に話しあったのは極々最近のことだった。ま、彼ならいい父親になりそうだから、いらぬお世話だったやも知れないが。
 ま、なんにせよ目出度いことである。結婚式ではセイラン家諜報部が総力をあげて調べ上げた、トダカ一尉黒歴史を延々とスライド付きで語る予定なので、色々な意味で楽しみであった。
 そして五通目は――

「…そっか。もうそろそろなんだ」

 さっと内容に目を通し、色濃い苦笑を浮かべた。そのまま端末を閉じ、しばし車窓の外を眺めて頭をからっぽにする。

「…そんな顔をなされるのなら、最初から考慮しなければいいのではないですか?」
「とはいってもね。これが僕の考える中で最善手だから。勿論、あの子が嫌がるのなら――」
「あの子は賢い子ですから。嫌がっても、表に出すわけないじゃないですか。そういうの、卑怯ですよ」
「…本当に、容赦なく痛いところをついてくるよね、君は」
「性癖ですので」
「性分の間違いでしょ。…間違いだよね、ね?」

 はあ、とこれ見よがしに大きなため息をついたら、わき腹に思い切り肘を入れられた。肺から息が吐き出され、鈍い悲鳴が口から洩れる。どうでもいいけど本気で痛いんですけど。

「エレンさんとトダカ一尉をうちに呼んで。僕から話すよ」
「既に通達済みです」

 どんだけ仕事早いのこの娘。ていうかユウナが何をどうするかをきちんと洞察した上で行動するって、この年でできることなのだろうか。悔しいのでぐう、と音を出してみたら足の甲を踏みにじられた。何故か汗が瞳から出た。

「それにしても」

 ぼろぼろと涙をこぼして足をさすっているユウナの頬を思い切りつねりながら――これ仮にも従者としてやっていい行動なの?――アビーはふっと視線を落とす。

「寂しくなります」

 その言葉をしばし噛み砕き、ユウナもまた大きな息を吐き出した。そうだね、と同意しそうになりながらも、最後まで口に出すことはなかった。
 それを強要する側が他人事のような台詞を吐く、そんな恥知らずな真似だけはしたくなかったのである。







 ユウナ・ロマ・セイラン様
 この度は当校にご興味を持っていただき、誠にありがとうございます。お問い合わせにありました入学案内、願書を送付いたしましたので、ご確認ください。また随時オープンキャンパスの募集も受け付けておりますので、ご一考いただければ幸いです。
 ご質問の方がございましたら当校広報課にて受け付けておりますので、メールもしくはお電話にてお問い合わせください。

                                              コペルニクス幼年学校経営企画部広報課長 ロルフ・アーネン





[29321] PHASE21 ご飯はみんなで食べたほうがおいしい? ありゃ嘘だ
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/05/21 21:46
「これにて本日の閣議は終了とする」

 ウズミ・ナラ・アスハ代表の声とともに、首長たちが一礼した。首を回し、あるいは同僚と明日の議題に関わることを話しつつ、彼らは三々五々席を離れていく。ウナトもまた大きく背筋を伸ばし、サングラスを外して目をもんだ。くう、といささか出っ張った腹が悲しげな声をあげる。時間は昼を少し回った頃だ。腹の虫もそろそろ我慢の限界を迎えているようである。
 さて、行政府の食堂で何を食べようか。昨日は特盛豪華カニ天丼だったので、今日はトリプルハンバーグとチキンソテーのセットが良いかもしれない。いやいや、決めるのは今日の日替わり定食を見てからのほうが。
 ぐるぐるとそんなことを考えていたウナトに、声をかけるものがいた。深みの中に張りのある、どこか人を惹きつけるような声音である。

「少しよろしいかな、ウナト殿」
「これはアスハ代表。コトー殿も」

 濃紫をまとった厳めしい男を見て取ったウナトは、慌てて立ち上がり会釈した。その隣には好々爺然としたコトー・サハクの姿もある。

「これからアスハ代表と昼食を取りに行くのですが、よろしければウナト殿もご一緒に、と思いましてな。いかがですかな?」
「食事、ですか?」

 ウナトは目をしばたたかせて両名を交互に見た。どちらも穏やかな笑みを浮かべていて、一見だけではその目的を察することはできない。
 何かあるのだろうか。ウナトは暴れ立てる腹の虫と共に、内心だけで大きなため息をついた。ウズミとコトー、それに自分と、少しばかり濃い目の面子をそろえて、単なる懇親会と思えと言うのは、いささか以上に難しい問題である。代表首長ウズミは言うまでもなく、セイラン・サハクと陰謀術策を得意とする両家をそろえる等、何かろくでもないことの前触れのような気がしてならなかった。
 さようなら。日替わり定食。こんにちは、ソースの代わりに瘴気がかかった昼食。ウナトは少しだけ悲しかった。

「良いですな。よろこんでお付き合いします」
「そう言っていただけてよかった。では、少し離れるが良い店があるので、そこで食事としよう」

 言うまでもなくウナトはオーブの政治家である。内心を顔に出すなど二流のすることで、寧ろ代表や同じ五大氏族の当主との積極的な繋がりは持っておくにこしたことはない、とうそぶかねばならない立場だった。
 故にどれだけ憂鬱であろうと、この機会事態を疎むようなことはしないし、それは相手側も同じだろう。ひょっとすると三人が三人とも、こいつらと仲良く飯なんぞ食いたくない、と思っているのかもしれない。
 行政府の入口で待っていたリムジンに乗り込むと、政治家らしく本日の閣議内容に話題が及んだ。その主題は、国防軍から上がってきた新規軍事ドクトリンとそれに付随する予算に関するものである。

「理屈としては理解するし、いずれは必要になるだろう。昨今の世界情勢を鑑みるに、確実にな」
「かといって、あれだけの予算を認めるのは現状からいって不可能でしょうなあ。国内の就業補助にワムラビ、アメノミハシラ等の公共事業、経済条約機構発足による担当部署の再編と、これ以上回せる金もありますまいて」
「ですがコーディネイター移民を受けた軍の増員は行わなければならないでしょう。彼らにとっても、我々にとっても、それは大きな意味を持ちます。そちらの予算は別枠として考えた方がいいのでは?」

 環太平洋経済条約機構は先月の十七日に正式に発足した。加盟国はオーブ連合首長国、大洋州連合、赤道連合、汎ムスリム会議の四国で、本部は地理的に加盟諸国の中心にあり、海上貿易の要衝たる赤道連合の大都市シンガポールに置かれている。
 その主たる目的は地域的な経済協力圏の創出で、段階的な関税の引き下げ、総合的な地域経済の開発といったことに主軸が置かれている。またこれに伴って、大西洋連邦、ユーラシア連邦、東アジア共和国との包括的経済連携協定の協議も開始しており、双方合意に達すれば順次批准、発行する予定だった。

 今、オーブを含めた条約機構加盟国はその対応と順応に追われててんやわんやである。官民を問わず睡眠時間と平均寿命を犠牲にして、この変化に沿うよう体制の見直しを行っていた。勉強会や委員会、シンクタンク等がもにゃもにゃと毎日様々な案件を持ち寄っては胃壁破砕機に作り変えて首長会に持ち込んでくるのである。正直「ヒャッハー、デスマーチだあ!」「寝かせてお願い!」と関係部署で悲鳴の上がらぬ日がないくらいなのだが、生憎と世間はウナト達に冷たかった。
 軍部のあげてきた新体制案もその流れに沿って推し進められたものだ。有体に言うと、これまでの沿岸海軍的なものから、より外洋踏破性を高めたものへの転換である。
 従来のオーブの軍事ドクトリンは、漸減の性格を有した本土防衛に主眼を置いたものだった。領海内で敵の進行を食い止め、航空兵力と本土陸上戦力で敵を撃退する。いわば受動的な軍事思想と言えよう。

 しかし環太平洋経済条約機構発足に伴って、それは大きな変革を迫られた。島嶼国家であるオーブはもとよりシーレーン防衛にもかなりの力を入れてきたが、これからは今までとは比べ物にならぬほどその重要度は跳ね上がる。経済発展による流通の活発化は勿論のこと、マスドライバーを用いた中継貿易も盛んになり、ひいては海上貿易の比率も跳ね上がる。つまるところ、今の沿海防衛に特化した軍備では増大した通商路に対して防衛力が不足しているのだ。
 そして海上流通路を守れぬ国家の末路は――歴史を紐解けば、その惨状を理解することは容易かろう。

 無論、海路の安全を守るのはオーブだけの仕事ではない。しかし軍事的、技術的に最も強いのもまた、オーブなのである。
 だからこそ、国防軍はこの機に従来の体質の転換と拡大を提案したのだ。勿論そこには、軍部の権力を増大させ、より多くの予算を獲得するという、いかにも官僚的な思考も存在している。

「言いたいことはわかるのじゃがな。だが下手を打てば、我らはかつての大英帝国が如く、安全な航路を守るために四方へ戦争をしかけねばならなくなるやもしれぬぞ。軍備の拡大、外洋投射力の増加のための空母、新規宇宙戦艦の建造。どこにそんな金があるというのかの」
「我らは世界帝国でもなければ、それだけの身の代もないのですがね。しかし、移民の受け入れ先という点では、軍は最も適している場所でもあります。国家への忠誠、これ以上の提示はありますまい」
「…やはり、容易に手を取り合うことはできぬか」

 ウズミが沈痛な面持ちを浮かべ、眉間を揉んだ。自分もまた、少しばかりやるせない表情を浮かべていることだろう。コトーはさもありなん、と静かに頷きを返している。
 肌の色、瞳の色、民族の違い。そうした本当に単なる差異――才能や資質の一切に関わらないものでさえ、数千年にわたる殺し合いの理由と化していたのだ。種としての明確な能力差が存在するナチュラル・コーディネイター問題など、泥沼化するに決まっている。
 それは大規模移民受け入れを定めた時から――否、オーブと言う国がコーディネイターの居住を許可した時から、分かりきっていた当然の帰結であった。故に嘆きはしても、悩みはしない。それはそう、という認識を持って対応していくだけである。ことにコーディネイター利権を一手に引き受けている、セイラン家当主として問題解決は至上命題と言えた。

「ま、彼らが軍に入ってくれるというのは、色々とありがたい面もあるがなあ。しかし無秩序になられるのは、こちらとしても困りものじゃて」
「我々としては、そちらの領域を侵す心算などないのですがね」

 結局のところコトーが最も警戒しているのは、コーディネイターの軍への浸透、即ちセイラン派の影響力増大なのだ。互いに陰謀に長け、似通った性質を持つ家柄だけにその辺りはどれほど気にしてもしすぎると言うことはない。互いが家と派閥の長である以上、避けては通れぬ問題だった。
 派閥争い。いかなる国、組織であろうと避け得ぬ宿痾である。
 それを察したのだろう。ウズミが呆れたように首を振った。

「この辺にしておこう。これ以上はここで決められる内容ではないし、食欲をなくしそうだ」
「ほほ、それもそうですな」

 正直手遅れな気もするが、ウナトも苦笑して同意を示した。やがて車はオロファト官庁街から少し離れた場所にある、落ち着いた料亭街でその足を止めた。扉が開かれると、清潔な白と凝った装飾を纏ったお洒落な建物が目に入る。入口の所でシェフや従業員一同が頭を下げて歓迎の意を表していた。

「ようこそおいでくださいました、皆様」

 トリコロールの旗が刺さっているところを見ると、フランス料理の店であろうか。この辺りの料理街は時折訪れるもの、この店に足を踏み入れたのは初めてであった。様子から見てウズミ御用達のようだし、どのような料理が出てくるのか胃と心がぎゅんぎゅん踊る。
 ガラス張りで、よく整えられた庭の見える席に案内されると、逸る気持ちを抑えつけて鷹の目のごとき鋭さでメニューに目を通した。頭の中で素早く吟味し、シェフ特別コースを迷わず選択する。メインの牛フィレ肉の赤ワイン煮など非常に食欲をそそった。

「いやいや、中々に良い店ではありませぬか。よく利用されるのですかな?」
「ああ、娘がここを気に入っていてね。メニューには載っていないのだが、お子様ランチが非常に良い出来なのだよ」

 いや待て、魚の方は鯛と春野菜の包み焼きではないか。しゃきしゃきのアスパラガスと カブの舌触りが思い起こされ、ウナトは深い混乱と葛藤に陥った。こちらも胃への刺激が恐ろしく強く、じわりと額に脂汗が浮かび上がる。

「それはそれは。では私も、次は子供たちと一緒に参りますかな。最近舌が肥えてきたのか、随分と食べ物を選ぶようになっているのですよ」
「ミナ君とギナ君か。前に会ったのが新年会の時だから、随分大きくなられたのだろうな」
「おかげ様で。そう言えば、ウナト殿のご子息等はお元気なのですかな?」

 嗚呼、ウズミとコトーが同席さえしていなければ、禁断の両方を選択できたかもしれないのに。しかし彼らがいなければ、ウナトがこの店を知ることはなかった。ジレンマ、ジレンマである。

「ウナト殿?」
「…は、失礼。少し考え事をしておりました。息子は、ええ、元気ですよ。いささか元気すぎるくらいでして、少々手を焼いております」
「はは、子供は元気が一番ではないか。私の娘も元気盛りでな。しょっちゅう侍女を困らせて、いささか腕白が過ぎるくらいだ」

 やれやれ、と首を振りつつも、獅子の顔はとても穏やかで慈愛に満ち溢れていた。手のかかる子ほどかわいい、といった状態だろうか。その辺りはウナトも――色々あった。本当に色々とあったが――同意見だった。

「カガリ姫もユウナ君も、元気そうでなによりですのう。…おお。そう言えば、ウナト殿の所にはもう一人、小さな子がおられたな。その子も息災かの?」
 一瞬だけ眉をはね上げそうになったが、どうにか笑顔を維持することができた。ウナトは表面上、何のこともないかのように水を口に含み、努めてにこやかに答えを返す。

「よくご存じで。ええ、あの子も元気にしております。息子も、まるで弟のように可愛がっていましてね。おかげで毎日がとても賑やかです」
「はは、幼子が一人いるだけで、驚くほど明るくなりますからな。特にあの年頃の子供は、とにかく好奇心が旺盛で、油断ができますまいて」
「少し目を離した隙に、どこかにいなくなってしまう。私の娘も同じくらいの年だから、ウナト殿の苦労はわかるつもりだ」
「恐縮です」

 何故ここでカナードの話題が出るのだ? 表面で苦笑しながらも、ウナトの頭はその疑問を解くべく高速で回転した。同時に、これが単なる子煩悩パパの世間話でないことを否応なく悟る。両名があの子の情報をかなりの確度で持っていること、そしてそれをこちらに匂わせる理由が棘のように胸に刺さった。
 何が目的だ? ウズミがカナードの情報を――それもかなりの深度に属するものを持っていることに疑問はない。あの酔っ払い息子の言を全て信じるとすれば、彼もまた一連の件に大きく食い込む存在であるからだ。ではコトーは? 陰謀と術策の名門にして、アンダーグラウンドを縦横無尽に駆け抜ける家の長ならば、あの子の情報を有している可能性は高いだろう。しかしそのカードを今ここで、こんな形で切ってくる意味が全くわからない。

「御子息といいその子といい、セイラン家は安泰ですなあ。お噂はかねがね、聞き及んでおりますぞ? どのような教育をされているのか、非常に興味深い」
「買いかぶりすぎです、コトー殿。アレらもまだまだ子供で、先が思いやられることばかりですよ」

 まあ、ユウナに関しては本当に色々と――例の話が全て真実であると仮定して――ナニだが、カナードは真実小さな子供だ。潜在能力が高いからと言って、五歳児には変わりない。子供でいられる時間を大切に、はウナトの息子が口酸っぱく繰り返している教育理念だった。

「いやいや。子供というものはあっという間に大きくなるものですぞ。つい先日生まれたと思っていたのに、いつの間にか学校に通うまでになっている。時の流れとは、真に偉大なものですからなあ」

 確かに、とウナトは思わず頷きそうになった。ユウナもまた、本人の意向と帝王学を優先したこともあり市井の学舎にこそ通っていないものの、本来であれば幼年学校で色々な事を経験している年頃である。時間が流れるのは本当に長い、と思わず年寄りのようなことを考えてしまった。

「小耳にはさんだ話では、その子ももうじき学校に入る年御とのこと。どちらに進まれるのか、私としても少々興味深くはあります。ウナト殿は如何お考えなのかな? やはりオロファトの幼年学校か…はたまた、海外留学とか、かのう」

 刹那、コトーの瞳があやしく輝いた気がした。それを見たウナトは、反射的に話の本題が顔を見せたことを悟る。

「さて。あの子の両親とも相談しなければならないですし。まだ一概にどうとは言えぬ状況ですよ。私としては、しっかりと学べる環境であればそれでいいのですがね」
「ふむ。第一に考えるのは子供に合った環境ということか。良い教育方針をしておられるな、ウナト殿」
「恐縮です。ウズミ様」

 にこにこと笑みの大盤振る舞いをしている代表首長に軽く頭を下げる。同じように微笑んでいたコトーもまた、深く頷いていた。

「そうですなあ。可愛い子供には最高の教育を施してやりたいと思うのは、至極当然のこと。そのためには学舎選びもしっかりしなければならんでしょう。私としても、子供らには高い教育水準を誇るプラントに留学させたかったのですが…生憎と昨今の情勢で、跡取りを送るわけにはいかなくなってしまいました。いやはや、真に残念」
「ほう、プラントに」

 確かコトーの子息は姉弟そろってコーディネイターだったはずだ。ならば優れた技術を誇るプラントに我が子を送り出したいと思っても不思議ではないが…。

「そう言えば、その少年もコーディネイターで、しかもご母堂はプラントのご出身だとか。となれば、プラント留学も候補の一つに挙がっているのでは?」
 ぴくりと、ウナトの眉が跳ね上がった。これまで保ってきたポーカーフェイスに小さな亀裂が入った瞬間だった。
 プラントは原則的にコーディネイターの自治領である。当然ナチュラルに対しては門戸を閉ざしているが、コーディネイターであれば入国、居住が容易な場所だった。上流階級の家庭の中には、コーディネイターの子息をプラントに送り込んで、その高い技術を学ぼうとしているところもあると聞く。
 それを踏まえればコトーの言はごく一般的な内容にも聞こえるが、それを発した人間との関係、立場を加味した時、発言は全く異なる顔を見せる。

 なるほど、『それ』が目的か。

 ウナトはコトーの――否、少なくない人数が胸に抱いているであろうその意見を明確に察した。美食を提供するはずのこの場所で、舌先が苦い何かに押しつぶされていくことに言いようのない不快感を覚える。

「もっともなお言葉です。しかし、何度も言いますように決めるのはあの子とご両親ですから。私からは何とも言えませんよ」

 そう言ってはぐらかすように肩をすくめた。コトーもそれ以上踏み込む気はないのか、左様ですか、と引き下がる。彼としては、それで十分なのだろう。こちらに彼の、彼らの要求を提示するだけでも、大きな意味があるのだから。

「…ご子息はどう考えているのかな?」
「…は?」

 あまりにも唐突なウズミの言葉に、思わず気の抜けた声が漏れた。

「何。ユウナ君は、その子をとても大切にしていると伺ったのでな。さびしがっていないか、とつい考えてしまったのだよ。あるいは、親身になって進路について考えを巡らせているのか、とかな」

 一瞬だけ、獅子の咆哮とも言うべき圧力はウナトの全身に降り注いだ。腹の底を掴まれたかのような冷たい感触を身に覚え、思わずこめかみに力を込める。

「息子のことですから、あの子にとって最も良き道を考える事でしょう。今は寂しくとも、将来を考えて。きっと」

 なるほど。ウズミは笑みを消して、さっとコトーと瞳を交わらせた。老獪な謀略家は仕方がないと言わんばかりに肩をすくめて、メニューに視線を落とす。そんなやり取りを終えると、彼は一つの爆弾をウナトに向けてキャッチボールのように放り投げた。

「ウナト殿。一つよろしいか」

 この場で「アーアー聞こえない」とすることが出来ればどれほど良かっただろう。無論そんな真似するわけにはいかないのだが、甘く熟れたその禁忌は否応もなくウナトを魅了する。
 だがそんな夢想を現実は巨大な大砲でもって粉みじんに打ち砕いた。
 この爆弾は、セイラン家当主をして素晴らしい料理の数々の味を忘れさせるほどの衝撃を与えることとなる。



[29321] PHASE22 ぱらりらぱらりらー!
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/06/08 22:48
 翡翠のかけらが空に舞い上がる。

「ねえ、アビーさんや」
「なんでしょう、ユウナ様」

 セイラン邸の正門辺りでリムジンから降りたユウナは、邸宅と門の間に位置するだだっ広い庭に立ち上る、芝生と土埃のアートに目をしばたたかせた。こめかみを指でかき、とんとんと数回頭をたたく。

「あれは何でございましょ」
「ご覧になったままだと思いますが」

 んなこた分かってるよ畜生。そうじゃなくて、何がどうやったらあんな光景が眼前に広がるのかが聞きたいのだ。つい先ほどしたばかりだが、今度こそはと淡い希望を込めつつユウナは目をこすった。しかしそんな逃避がドSの現実様に通じるわけもなく、相も変わらずその有様は鼻先に突きつけられたままである。

「なんじゃありゃあ…」

 端的に言うと、それは暴走族であった。

「じゃまだ、どけえええええ!」

 ただし、世間様の想像する族の姿とはいささか以上に異なっている。まずそれは僅か一台であった。わらわらと二輪車が群れているというわけではない。

「ざこのぶんざいで、おれのまえをはしろうとするな!」

 第二にそれのマシンが二輪車とは言い難い代物であることだ。古い一般的価値観ならばぶるんぶるんとやたら排ガスを垂れ流すバイクで、この世界の若者なら空気を汚さない、クリーンな電気バイクが主たる得物であろう。しかしそれの駆るマシンはいずれとも合わない、それでいて世代を問わず理解できるシンプルなものだった。最も原始的かつ根源と言える人の力を用いた、何百年という歴史を持つ伝統の一品。

 即ち自転車である。

 しかもただの自転車ではない。後輪の両側にがらがらと景気のいい音を響かせる、スーパー補助輪搭載式の自転車だ。
 第三は、世間一般的な暴走族の構成員は、大抵思春期と言う名の黒歴史まっ盛りの若者たちであるのだが、この場における族はまだ十にも満たぬ幼子であった。若いどころか、幼すぎる暴走族である。
 とまあ、長々と書いてしまったが、結局のところ現状は僅か一文にも満たない内容で要約可能であった。

 何かカナードが自転車乗って暴れまわってるんですけど。
 えー、と気の抜けた声が漏れた。幼いながらもコーディネイターの卓越した能力を駆使してか、幼児とは思えぬ走りっぷりを披露しているカナードを見て、ユウナはしつこいくらいに瞳をこする。少し気分を落ち着かせてみると、庭の周囲には暇なのかはたまたお付きなのか、幾人かのメイドが苦笑しながらも微笑ましげに彼を見守っている様子がうかがえた。
 て言うか本当に何あれ。性格とか変ってるんですけど。普段感情を全く表に出さないはずのあの子が狂気じみた喜色をらんらんに浮かべている様は色々な意味で大変無気味だった。はははははは、と高らかな哄笑が澄み切った空にこだまする。

「いや本当に。何あれ」
「カナードさんですが」
「分かってるってば。僕が聞きたいのは、どうしてあんなネジの五、六本くらい飛び出したようなことになってるのかってことだから。ていうか自転車なんて持ってたっけ? 僕買った覚えないんだけど」

 エレンかトダカか。はたまた我が両親か。カナードに物を買い与える人物の心当たりは山ほどある。まあそのうち買いに行こうとは思っていたから問題ないが、一体誰の仕業だろうか。ここにいるかもしれないと考え、ユウナはさらに場を広く見渡した。
 ――あともう少し気を抜いていたら、思い切り頬が引きつっていたかもしれない。
 屋敷のエントランス近くに立つ四人の姿を見た瞬間、鋼の仮面を表情筋に張り付けた。隣のアビーも僅かに眉を動かすが、こちらも完璧なポーカーフェイスを貫いている。
 こちらは何とか精神的に体制を崩さずに済んだが、生憎と向こう側――四人のうち三人は奇襲によって大打撃をこうむったらしい。見るもの全てが哀れみを覚えるような表情で爆走を続ける幼児を見守り続けていた。

 大なり小なり脂汗を浮かべているのは、トダカ、エレン、ウナトの三名である。特にひどいのがトダカで、その実直そうな顔は油と熱でまみれていた。血走った瞳はどこか虚ろの闇をたたえており、彼がうまく現実を把握しきれていないのが手に取るようにわかって何とも言えない気分にさせられる。
 惨い。何て惨い。ユウナは内心でドン引きしながら、残る一人――諸悪の根源をじっと見つめた。オールバックの髪に清潔感のある髭、言い知れぬ圧力と魅力を抱いていながら穏やかに笑み崩れているその顔には、それなりの経験を積んできたユウナですらわれ知らず引き込まれそうになる何かがあった。

 この国の頂点にして獅子と呼ばれる男。オーブ連合首長国代表、ウズミ・ナラ・アスハその人である。

 わけがわからないよ、と意識を投げ出したくなった。無論そう言うわけにもいかず、離れているうちにうげえ、という本音を吐いて彼らに近づく。可能ならば逃げたかったが、生憎とそういうわけにもいかないらしく、オーブの獅子は暖かみを感じさせる視線をユウナに注がせていた。多分ユウナが気づくずっと前から――車を降りた時から見ていたのだろう。
 ユウナはウズミと初対面というわけではなく、五大氏族と言うこともあって社交界ではそれなりに交流のある人物であった。もしここがどこぞのお家の夜会であるならば、ユウナもこれほどまでに拒否反応を示すことはなかっただろう。カリスマオーラむんむんとはいえ、基本的に気のいい御人であるし、親しく付き合う上で何ら抵抗のない人物であるからだ。

 しかし、この場は不味い。正確には、カナードが側にいる状況で彼に合いたくはなかった。
 今やユウナはあの暴走ちびっこに羽を与えたのが誰であるか、明確に悟っていた。同時にそれの意味するところも察し、一層気分が落ち込んでいくのを感じる。だがそれを表に出すわけにもいかず、努めて明るい笑みを浮かべて緊張感あふれる四人組へと歩み寄っていた。それに二歩遅れる形で、アビーもまた阿鼻叫喚の地獄へと足を踏み入れる。

「ただいま帰りました、父上。それとウズミ様、ようこそいらっしゃいました。エレンさんたちも、忙しいのに呼びだしちゃってごめんね」

 ウズミを除いて誰ひとり挨拶を返そうとはしなかった。疲れ切った彼らに苦笑をひらめかせ、ユウナは原因たる男へしっかりと向き直る。

「久しいな、ユウナ君。少し見ない間に、随分と背も伸びたようだ。やはり子供の成長とは早いものだな」
「おかげ様で、変なコンプレックスを抱え込まずに済むようです。ところで、今日はどうなされたのですか? お忙しいでしょうに、わざわざ御自ら当家にお越しくださるとは」
「何、少々個人的な理由でね。ウナト殿には無理を言ってしまったのだよ」

 個人的な理由? くせえ、ゲロ以下の臭いがぷんぷんするぜぇ! 内心で顔をしかめ、ユウナはちらりとウナトを一瞥した。それだけで通じたのか、疲労を頬に湛えた父はぽつりと言葉を洩らした。

「我が家の子供たちを一目見たいと仰せられてな。ご案内差し上げたのだ」

 うわあ。と辛うじて声を洩らさずに済んだ。その言葉の意味を、ユウナははっきりと認識したのである。ウズミの姿を見た時、もしやとは思っていた。『それ』が理由ならば訪問自体も予想の範囲内ではあった。が、早い。早すぎる。例の件をこちらが既成事実化する前に来るとか、さすがにそこまでは読み切れなかった。
 まあ、いまさら言ってもどうしようもないのだが。

「それはそうとウズミ様、ありがとうございます」
「ん? 何のことかな?」
「自転車。あの子に買ってくださったのはウズミ様でしょう? 普段全く顔に出さないくせに、あんなに喜んで。僕からもお礼を言わせてください」

 ウズミはさらに笑みを深くし、その大きな手のひらをユウナの頭に被せた。

「そう言ってもらえると、選んだかいがあったものだ。何せ小さな男の子の喜ぶもの等、あまり詳しくなかったのでね。喜んでもらえるか心配だったのだが」
「あの様子を見る限り、喜んでいないとは思えませんけどね。それとウズミ様」

 ん? とウズミが自分と目線を合わせようと中腰になった。その様子に苦笑しつつ、ユウナは少しばかり喉元につかえていた疑問を口にする。

「あの子は貴方に、ちゃんとお礼を言いましたか?」

 この言葉が意外だったのだろう。獅子は一瞬間の抜けた顔をしたかと思うと、すぐに豪快な笑い声をあげた。ウナトが思い切り手で顔を覆っているのは、見なかったことにする。

「ああ、勿論だとも。しっかりと自分の言葉で、礼を言っていた」
「ならいいです」

 挨拶と礼と謝罪のできない子供にだけは育ってほしくはない。教えたことをしっかりと守っていてくれて、ユウナはとても嬉しかった。

「よい教育方針だな」
「お褒め頂き恐悦至極」

 ともすれば、甘やかしてしまうのだが。肩をすくめて、小さく苦笑する。

「さて、それじゃあお話の前に…カナード!」

 腹の底から声を張り上げて、ユウナは無限の体力を持つ風の子を呼びつけた。走るのも大概にして、こっちに戻ってきなさい。泥だらけじゃないか。そう叫ぶが、しかし帰ってきたのは高らかな哄笑のみ。こちらのことなど端から眼中にないようである。
 あらまあ、見事な無視っぷりで。今まで三輪車とかに乗せたことがなかったので気付かなかったが、まさかこれほどまでのハンドル狂だったとは。フラワージャンキーだけじゃないのか。
 ならばこちらも色々と考えなければならない。ユウナは努めてわざとらしく、肩をすくめた。

「あそう。そうくるんだ。いいよ、わかった。アビー、カナードは今日のおやつ、いらないんだって」

 悲鳴のように甲高い音が辺りに響き渡った。
 子供用自転車の前輪から煙が噴き出さんばかりの急制動がかかったために、一層の土埃がたちこめる。件の暴走ちびっこは目を見開いてこちらを見、すぐさま相棒から飛び降りた。そして顔を真っ赤にしながらユウナの前に直立した。

「だめ。おやつ、いる」

 汗と埃にまみれ、肩で息をしつつもカナードはそう主張した。他人のことをとやかく言える筋合いではないが、見上げた食い意地である。

「なら、その前にちゃんとお風呂に入ってくること。これ以上好き放題すると、お楽しみのアンパンマンもお預けだからね」

 ぶんぶんと首が縦と横に振られた。古いアーカイブスから発掘したジャパニメーションを三時のおやつ時に鑑賞するのが、今のセイラン家の流行りであった。無論それを主導しているのが自分であることは言うまでもない。
 ユリーさん、と呼ぶと、産休明けの侍女、ユリー・エルスマンが苦笑しつつ頷いてくれた。熱しすぎて湯気が出ているやんちゃ坊主を彼女に預け、再度ウズミらに笑みを閃かせる。

「そいじゃとりあえず、こっちの要件を済ませようか。トダカ一尉、エレンさん。どうぞ中に入って頂戴」
「ゆ、ユウナ様!」

 しかしながら呼ばれた方は飛び上がらんばかりに驚いた。トダカとエレンは必死に首を横に振って拒否の姿勢を示す。その顔は自分たちなどよりも、国家元首の御用を済ませる方が先だと全力で叫んでいるようだった。

「別に良いんだよ、二人とも。だって、そちらの獅子様と貴方たちへの要件はほぼ同じものなんだから」

 は、と目を丸くする両名に肩をすくめ、ユウナは笑みの仮面をゴミ箱に叩き込んだ。苦々しさを隠すこともせず、ウズミに怨みがましい視線を向ける。

「いずれどこかで突っかかってくるとは思ってましたけど、想像以上に早かったですよ。…どこで嗅ぎつけました?」
「さて、何のことかな?」

 知らぬ存ぜぬはいいが、隣で自分と同じく苦い顔をしているウナトを何とかしないと全くもって形になっていないのだが。あるいは、それすらもわざとやっているのか。

「惚けなくても結構。ていうか隠す気ないじゃないですか。言っておきますけど、僕は他人様を試すことも、試されることもあまり好きじゃありません。はっきり言って不愉快です」

 大体、あまりにもあからさますぎるのだ。五大氏族筆頭のアスハ家とはいえ、同じく五大氏族のセイランを訪れる際に、土産を総領の自分ではなくその庇護下にある子供だけに持ってくるなど、普通に考えてあり得ない。おまけに自転車はあつらえたかのようにぴったりで、カナードの詳細な身体データを彼が得ている証左に他ならなかった。第一、『子供たち』を見たかったという台詞、自分だけでなくあの子のことも視野に入れていなければ吐けるものではない。
 つまりこれは、カナードの件で来たと言う声なき声。そしてそのことにユウナが気づくかどうかの抜き打ちテストだ。
 気に入らない。ああ気に入らない。試される形になったこともそうだが、オーブの獅子がカナードのことでわざわざこの家に訪れる、それが意味するところは一つしかない。

 コペルニクス留学の件を、耳に入れたのだ。場合が場合だけに隠ぺいなど不可能と覚悟はしていたのだが、手続きどころか関係者への根回しすら行っていない段階で横やりが入るとは、どんだけ情報が早いのだこの男は。
 否、わかっている。おそらくウズミはカナードの情報収集にかなりの力を注いでいたのだ。それこそこちらの動きに即応できるくらい、逐次報告を受けていたに違いない。カナードに関する情報は、セイランやユウナ独自の諜報網によってかく乱していたにも拘わらず、この体たらくである。ち、と舌打ちしたい気分になった。認めよう。ユウナは情報戦で敗北を喫したのだ。正直、これが敵対的なものであったなら、こちらの打撃は計り知れないものとなっていただろう。
 これは予定よりも早く、あの子を月にあげなければいけなくなるかもしれない。はてさて旗手はサハクか、グロードか。いずれにしてもろくなことにはなるまい。

「…なるほど。やはり噂はあてにならぬということか。否、むしろある意味その通りなのか」

 くく、とウズミが喉の奥で低く笑った。その瞬間、ぐっと大きな何かがユウナの全身にびょうびょうと降り注ぐ。暖かな笑みはそのままで、しかしそのがっしりした体格がさらに何倍もの大きさになったかのように感じる。
 ちらりとウナトを見れば、こちらは先と大差のない苦い顔だ。おそらく彼はウズミ訪問の意図を明確に察しているのだろう。心内だけで苦笑した。
 くいくい、と袖が横に引っ張られた。はて何ぞやこの微妙な空気の時に、と思った瞬間、ユウナの体躯は凄まじい速度で青い天空を舞う。

「ぐぼはぁ!」

 翡翠の絨毯にたたきつけられ、肺から思い切り空気が漏れる。朦朧とする意識をつなぎとめ、下手人の姿を認めると、ユウナはかすれた声で何故、と問うた。今のやり取りの中で、彼女の――暴力和風侍女のご機嫌を損ねるものはなかったはずだ。
 見ればこの場の全員――あの獅子ですら例外ではない――が唖然とした様子で、清楚な侍女の蛮行に瞠目していた。そりゃそうだろうよ、とどこか他人事のように呟く。どすん、と背中を思い切り踏みつけられた。

「この空気を改善しようと努力しました。主の意を組むのも、侍女たるものの役目です」

 ねえよ。
 ねえよ! そう叫びたかったが息が詰まってそれもできない。完全な泣き寝入りにユウナの瞳から雫がこぼれた。
 というか唐突すぎて頭がついていかない。何だろうこれ。扱いが悪いの? それとも本気で空気改善を目指した結果、こうなったの? 彼女の真意がまったくつかめなかった。

「さあ皆様、中にお入りください。すぐにお茶をご用意いたします」

 身もだえしているユウナを空気扱いして、ぞろぞろと皆が屋敷の中に入っていく。常夏の楽園であるはずなのに、何故か風が無性に冷たかった。
 とりあえず、気の毒そうな顔して手を貸してくれたトダカには、全力で恩に報いたいと思う。ま、放っておいても准将までは確実だったんだけどね。
昇進が決まったよ。やったねトダカちゃん!



[29321] PHASE23 ウーロン牛乳さいだあの恐怖
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/08/05 16:59
 さんさんと降り注ぐ明るい日差しとは対照的に、室内は冷たい沈黙に包まれていた。冷房は常夏の楽園を過ごしやすい温度にする程度の設定であるはずなのに、どうしてかここが真空の宇宙のように思えてならない。重苦しく、暗い。ユウナはふかふかのソファに身を沈めながら、熱い緑茶をすすった。茶菓子の饅頭をひょいと口に運び、咀嚼する。
 ユウナの隣にはエレンとトダカが座っていた。対面にはウズミとウナトが座し、アビーとヴィンス爺が壁に背を向けて直立している。それなりに広い部屋であるはずなのに、何故か狭苦しい印象を覚えるのは、きっと周囲の連中の顔色が優れないからだろう。

 生粋のオーブ軍人であるトダカは、自国の国家元首にして軍最高司令官と同席していると言う現実から目をそむけるように、深く深く瞑想に沈んでいた。エレンはどう対応していいかわからず、おろおろとウサギのように周囲へ視線を散らしている。ウズミなどは余裕の表情で出された紅茶をすすっていたが、それとはま逆にウナトは色濃い疲労にさいなまれているようだ。アビーとヴィンスは相も変わらぬ無表情である。
 まあ、無理もなかろうさ。ユウナは他人ごとのように口の中で言葉を転がした。事情を知ってでもいなければ、トダカ夫婦――予定――を国家元首と同席させるなど、非常識以外の何物でもない。いかな私的な場とは言え、格式だのなんだのとは無縁でいられない以上、下手を打てば家名に傷をつけかねない対応であろう。
 だが、ことこの一件に関しては必要な事だ。それを理解しているのは、自分とウズミ、ウナトくらいのものだろうが。

「さて」

 何時までもこうしているわけにもいかないので、頃合いを見計らってユウナは口を開いた。視線が未だせいちょーきの身体に突き刺さる。

「とりあえずこっちの要件を先に済まそうか。トダカ『三佐』、エレンさん」

 びくりと両名の肩が跳ね上がった。それに気付かぬふりをして、努めて朗らかに彼らを呼び出した理由を告げる。

「今日貴方たちを呼んだのは他でもない。これからの貴方たちの将来について、ちょいとお話があるからさ」
「将来、ですか?」

 ちらちらとウズミを気にしつつも、トダカは現実に帰還したようだ。困惑に首をかしげてユウナを視界に収めている。

「そ。本当なら若い二人のことに、年寄りが無暗やたらと口出しするもんじゃないのはわかってんだけどね。そうも言ってられんのよ。何せトダカ三佐、エレンさんを妻にめとると言うことは、貴方はカナードの父親になるということになるんだもの。口出ししないわけには行くまいよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。確かにそのことは一度しっかり話し合いたいとは思っていましたが…その前に、一つお尋ねしてもよろしいですか?」

 どうぞ、と促すと、トダカはそれはそれは嫌そうにその顔を歪めた。その有様は、この会話の意味に気付きつつも、ちがったらいいなーという細い藁に縋りついているように見える。

「…私はまだ一尉なのですが」
「うん、そうだね。でも明日から三佐だから。辞令もすぐに出るよ、やったね!」

 今度はものすごく頭が痛そうにこめかみを押さえられた。気持ちは非常に理解できるが諦めて欲しい。

「色々と言いたいことはありますが、そこはぐっと飲み込みます。ですが一つだけお聞かせいただきたい。何故なのです?」
「貴方を昇進させる理由を聞いているのなら、二つほどお答えしよう。公的な立場からは、自派でかつ有能な軍人である貴方を上層部に食い込ませたいから。ま、言ってみれば軍内部の権力調整の結果だあね。知ってるだろうけど、国防軍でのうちの影響力って、アスハ家やサハク家と比べるとちょーっと見劣りしちゃう部分があるでしょう? だからだよ」

 別に軍部におけるセイラン家の影響力が小さいわけではない。何と言っても五大氏族であるのだからかなりの力は有している。が、筆頭たるアスハ家や軍事関係に謀略の根を張るサハク家には、一歩遅れているのもまた事実であった。
 もともとセイラン家は政治的な陰謀と術策を得意とした家であり、その力は主に省官庁に比重を置いていたからである。故に軍の、制服組へのパイプはいささか心もとないというのが本音だった。

「…私は派閥に入った覚えはありませんが」
「やっだあ、もう、トダカ三佐たらん。
 …それが本気で通じるなんて、思ってないでしょう? 僕の護衛としてそれなりの年月を共にし、かつセイランに縁の深い才女を娶る。これだけの条件で、セイラン派と見なされないわけがないでしょうや」

 うわあ、苦い顔。しかしそれ以上、彼が反論することはなかった。
 大体である。いくら未だ家督を継いでいない身だからとて、士官学校を出てウン年のぴよさんを護衛に、それもSPまがいの真似をさせる役によこすわけがないではないか。そもそも要人警護なんぞ、警察の分野である。何らかの意思が働かない限り、軍人――それもぴよさんが派遣されてくることなどありえまい。そう、例えば警備強化に乗じた、将兵の青田買い、とかでもないかぎり。
 制服組はともかく、背広組への影響力は捨てたもんじゃないよ!

「はっは、必死こいて派閥の会合やら何やらを避けてたみたいだけど、無駄無駄ァ! そういった日に限って僕の――セイランの御曹司の我がままが炸裂していたこと、気づいてなかったなんて言わせないよ」

 例えばセイラン派の集まりに誘われたのに、それを華麗にスルーした軍人さんを旅行に引っ張るとか、ピクニックにしょっ引くとか。そんな情報を流すだけで、なんということでしょう。人脈づくりもしていないのに、あっという間に派閥の中心に近い部分に立っているのです。
 そう言ったらトダカは頭を抱えて黙り込んでしまった。彼ができる限り政治から距離をとった、努めて実直な軍人たらんとしているのは理解しているが、生憎とこの男ほどの人物をそのまま他家にとられるわけにはいかないのだ。
 ちらりとアスハの長を見ると、かすかな苦笑を口元に浮かべていた。それが彼にトダカ争奪戦への参加意思があったこと、そしてそれに対し敗北したことを惜しんでいることを如実に表していた。そっちにゃレドニル・キサカが付くのだから、彼くらいこちらに回してほしいというのに、真に強欲な男である。

「ま、トダカ三佐の無駄な努力のことはさておくとして、話を戻そう。さっきも言ったけど、今日貴方方を呼んだのは、これから先の貴方方の未来についてお話したいことがあるからさ。これが、昇進させる個人的な理由にも該当する」

「私たちの未来……」

 トダカを慰めつつ、エレンが小首をかしげて疑問を口にした。それに頷き、続ける。

「いやあ、僕も新婚ほやほやのお二人にこんなこと言うの、気が引けるんだけどねえ。でも、仕方ないと言うか、お仕事っていうか」

 ひらひらと口元を扇子で隠す。もったいぶった言い回しに、麗しの才媛もまた、旦那と同じくそれはそれは嫌そうに顔を歪めた。これは絶対ろくな事を言いださない、と確信しているかのような表情である。そしてそれは正解だった。

「詳しいことは人事局から辞令が行くと思うけど、トダカ三佐。貴方は翌六十一年をもってオーブ本土防衛軍特務旅団より解任、月面都市在勤オーブ大使館駐在武官に任命されることになります」

 にちゃり、と粘っこい笑みを浮かべて扇子の先を突き付けた。一度こういう無理難題を押し付ける役割というものを演じてみたかったのである。なるほど、確かにこれは少々病み付きになってしまいそうな危うさだった。

「…ちゅ、駐在、武官…?」
「どう考えても新婚早々単身赴任の危機ということです。本当にありがとうございましたって怖っ! エレンさん顔怖っ! ちょ、お待ちになって! そんな殺気振りまきながらにじり寄ってこないで! 訳ならあるから! きっちり説明するから!」

 まさに般若。正直気合を入れていなければ股間を濡らしそうなほどの殺意が全身を貫いていた。びっしりと額に脂汗が浮く。お部屋の隅っこでガタガタ震えて命乞いをしたくてたまらない気分だった。美人は怒ると怖いというのは本当である。なまじ顔立ちが整っているために、与えられる圧力が半端ないのだ。

「…では、どういうつもりなのですか?」

 ともすれば握力でティーカップを握りつぶしそうな女性にユウナは壊れた人形のようにかくかくと頷いた。どうでもいいが、トダカでさえドン引きしているように見えるのは多分気のせいではあるまい。

「なんだよー。ちょっとした年寄りのお茶目さんじゃんかよー。てへ、とかぺろ、とか舌だしてりゃごまかせる程度の、可愛らしいもんじゃんか」

 ものすっごく冷たい目で睨まれた。氷柱で肌をつつかれているようで、非常にぞくぞくする。なんだろう。これ、癖になりそう。
 まあ、個人的なお楽しみで日ごろの疲れを癒したいところだが、それだと話が一向に進まないので、そろそろ本音を暴露する。次はもうちょっと時間の取れるときに行いたいと思う。

「別に本気で単身赴任させるつもりはないよ。むしろ、そうされると困るのは僕」

 小さくため息をつき、すっとテーブルに一枚のプレート型端末を滑らせた。エレンは訝しげにそれを受け取り、さっと流れる文字のダンスに目を走らせる。ぴくりと眉が動き、瞳の驚愕が徐々に強さと大きさを増していった。最後の一行まで心に収めたのか、彼女はしばし瞑目し、真っすぐにユウナを見据える。

「説明…してくださるのですよね?」
「勿論。僕は何の説明もせず、理解を得ないまま選択肢をつきつけるような、悪趣味な真似は嫌いだからね。きちんと話す。ちなみに今彼女に見せたのは、エレンさんの転勤の辞令と、カナードの幼年学校願書だよ」

 ぱん、と扇子を閉じると、ユウナは若干覚めてしまった緑茶をすすった。と、空になった湯呑にアビーがお代わりを継いでくれた。アツアツの牛乳である。嫌がらせとしか思えないのは、自分の心が汚れているからだろうか。

「といっても、貴方方に出した辞令はあくまで建前、あの子を月の――コペルニクスに送るための方便に過ぎないのだけどね。本命は、カナードの幼年学校入学ただ一事だけ。まあ、駐在武官というのも出世には必要な経験ではあるし、エレンさんの研究を滞らせるつもりはないから、その辺りは安心してもらっても大丈夫だけれど」

 さらに圧力が増した。顔を険しくしたエレン、真意を問うトダカ、そして一言も聞き洩らさぬとしたウズミの姿勢がそれを為している。ユウナは火傷しそうなほど熱された牛乳に四苦八苦しながらも、それらをさらりと横に流した。生憎と気合を入れているのはこちらも同じなのだから。

「さて、僕の真意を話す前に、まず前提としなければならないものがある。トダカ三佐、これから先、父として、家族としてあの子とともに歩む貴方には、知る権利も義務もあると思う。だから最初に、それをお話しよう。これはカナード・シフォース――カナード・パルスと名付けられた一人の子供の出生と、生涯にわたって彼を縛り続ける呪いに関する、最高にくそったれな悲喜劇さ」
「――ユウナ様、それは!?」

 驚愕で腰を浮かしたエレンを、鋭さを込めた視線で黙らせる。気圧されたのか、彼女はぐっと息をのんでソファに座りなおした。

「秘密というのは毒と同じ。親しければ親しいほど、同じ時間を過ごせば過ごすほどに、その毒は相手を蝕み、絆と心を壊していくもんよ。どうして教えてくれなかった! そんな言葉で家庭崩壊なんて、したくないでしょう? それに、重ねて言うけど彼はカナードの父親になるんだ。知っておくべきだと、僕は思うけれど?」

 エレンの華奢な拳が握りしめられた。うなだれた顔は見えないが、何故かユウナには彼女の相貌が苦痛にゆがんでいる様がまざまざと見て取れた。
 大きなため息が漏れた。少しだけ身体が重い。疲れを吐き出して、ユウナはトダカの瞳を見据えた。
先まで狼狽と呆れを宿していたとは思えないほど透き通っていた。あまりの眩しさに、逃げ出したくなる。

 こういうときは「良い目だ」とかなんとかお決まりな台詞を吐けば決まるのだろうが、何故かそうする気は起きなかった。あまりの真剣さに、そんな言葉は霧散してしまったようだ。まるで新星のような眩い輝きに、ユウナは自然と目を細める。少しだけ羨ましく思えた。もはや伸び代のない、終わってしまった自分には決して手に入れることのできないものを彼は持っているのだ。ほんの少しだけ苦笑を閃かせた。
 ふと頬にちくりとしたものを感じる。ウズミだった。彼は若干厳しさを増した視線で、この部屋の四隅を――影に徹しているヴィンス爺とアビーをさっと撫でた。彼らに――あの侍女姿の小さな娘に聞かせても大丈夫なのかと言う無言の問いであろう。ユウナは頷いた。
 ヴィンスはカナードを保護した段階で事情を熟知しているし、アビーもまたこの機に知るべきだと思ったからだ。決して長いとは言えないまでもそれなりの附き合いを経て、彼女が十分信頼に値する人物であることは承知しているし、何よりも自分以外の、カナードに近しい年長者として、アビーにはそれを知っていてもらいたいとも考えている。トダカにも言ったが、秘密というのは強烈な毒物であるのだから。
 息を整え、ユウナは静かに語り出した。狂気の科学者ユーレン・ヒビキが産み落とした、大いなる光と影。祝福と言う名の呪いを受けた二人の幼子の話を。
 話が進むにつれて、トダカの肌が赤黒く変色していった。音がしそうなほど拳が強く握られ、小刻みに震えている。噛みしめられた唇から洩れでたのは憤怒の情であろうか。

「外道が……!」

 吐き捨てられた台詞に、一瞬だけウズミとエレンが痛みをこらえるかのように瞑目した。おそらくは、かつての学友の所業を、それを止められなかった敬愛する先達の苦しみを思ったのだろう。しかしそれを指摘するのは野暮と言えた。
 ウナトは前もって話しておいたこともあってか、動揺はまったくない。ただ同じく痛ましげに目元を歪めているだけである。ヴィンスとアビーは、全くの無表情だった。ただ、同じく情報を有していた爺とは異なり、侍女の方は内心の冷たい怒りが滲みでているように、空気が凍りついていた。

「失敗作だから…自分たちの意に染まなかったから……ただそれだけで、子供を…処分だと…!? そんなことが許されてたまるものか!」
「非常に同感だよ、トダカ三佐。僕もそれが恐ろしく気に入らなかった。だから今、あの子はここにいる」

 そう言ってユウナは微笑んだ。同時に怒り狂う彼の姿に、安堵じみた喜びを感じている。トダカはキラやカナード、そして数多くの生まれる事叶わなかった命を真剣に悼み、それを行った者たちに強い怒りを感じてくれていた。彼がそう出来る人間であること、そんな彼があの子の父親になってくれることが、今は何よりも嬉しかった。

「とまあ、色々とお話したわけだけど。それを踏まえて本題に戻ろうか。僕が貴方方を月に、コペルニクスに送り込みたい最大の理由」

 扇子が閉じて、開く。少しばかり喉が渇いたので、一拍置く意味も込めてようやく飲める温度になった牛乳を口にした。

「そこに、キラ・ヤマト――キラ・ヒビキがいるからさ」

 そう言い終えた瞬間、がしゃんと食器の割れる音とともに、驚愕の表情を浮かべたエレンが勢いよく立ちあがった。素早くアビーがこぼれた茶をふき取り、破片を回収するが、それに気づくことなく震える手で口元を覆う。

「キラ…まさか、あのキラが…? ゆ、ユウナ様…!」
「ヤマト姓なのは、ヴィアさんの妹御であるカリダ・ヤマト夫人が養子として引き取ったからだよ。ま、諸々の事情があって、キラだけだけどね。カガリの方は…」

 ちらりとウズミを見た。しかしそれ以上何も言わず、ユウナは落ち着きなさいな、とエレンを着席させる。

「コペルニクスでの貴方方の住居は、ヤマト家の御近所、ほぼお隣さんと言っていいところを確保してる。あの子とキラに接点を作ること、これが今回留学を決めた、個人的にして最大の理由さ」
「…何故、そこまでキラ・ヤマトにこだわる?」

 未だ驚愕から覚め得ぬエレンらを置いて、横から鋭さを含んだ声が差し挟まれた。ウズミま先まで浮かべていた温和な表情を消し去り、抜き身の刀のごとき瞳をユウナに向けていた。

「必要だと思ったから、です。いずれあの子らが迎えるその時のために」

 答えになっていないと分かりつつ、ユウナは言葉を紡いだ。数瞬だけ視線を落とし、真っ向から獅子の咆哮に相対する。

「秘密とは猛毒。そして彼らの持つそれはとびきり強力な、ちょっとでも扱いを間違えればたちまち死に至るほどのものでしょう。ナチュラルでも、コーディネイターでも、真の意味であの子らのことを理解できるものはいやしない」

 キラとカナード。スーパーコーディネイターという、数多の命で購われた彼らの運命を背負えるのは、同じゆりかごで生まれたものだけだろう。彼らが自身の影――ラウ・ル・クルーゼやレイ・ザ・バレルを理解できないのと同じように。そうユウナは考えた。だからこそ、あの子たちに互いを知って欲しかった。

「あるいは互いに憎み合う関係になるかもしれない。成功体と失敗作。押された烙印は憎悪を惹きたて、血で血を洗う関係を彼らに強要する可能性だってある。けれど」

 史実において、ユーラシアのモルモットとなったカナードは成功体たるキラを憎悪し、その存在になり替わろうとした。今のあの子がそうなるとは限らないが、ならないという保証もない。人には人を真に理解することはできない以上、その可能性を捨て去ることはできなかった。
 だが、それでも。

「それでも、『同じ』がいるということがほんの少しでも慰めになるのなら。そうすべきと思ったまでです」

 身体の中から毒を吐き出すように、ユウナはため息をついた。ずずっと牛乳を飲み干すと、またすぐにお代わりを継がれてしまった。ウーロン茶だった。本来澄んでいるはずの茶が白で濁っていて、非常に心が圧迫される。
 次の瞬間、落雷のごとき衝撃が全身を駆け巡った。しまった、これが狙いか! 唐突にもたらされた結論に、ユウナは戦慄した。茶器を持つ手が自然と震える。緑茶、牛乳、そしてウーロン茶を時間と手間をかけたコンボであった。味はウーロン茶。しかし臭いと見た目が容赦なく心を折らんと差し迫ってくる。ユウナはアビーの謀略に歯がみした。きっとあのすました顔の下で自分のことを嘲笑っているに違いない。アビー…恐ろしい子!

「ま、それ以外にも色々と考えはありますが。個人としての理由は今のでほぼ間違いないかと。…御理解いただけたかな?」

 最後の言はウズミだけでなく、この場にいる全員に向けたものだった。返答は期待していない。ユウナは牛乳風味のウーロン茶に顔をしかめつつも、我慢してすすることにした。少し口寂しかったのである。

「…個人としての理由は理解した。ならば公人としての理由は?」
「決まっているでしょう? サハク、あるいはグロード。あの子を政治的に利用――いえ、セイランから引き離し、自派に取り込もうとする動きをけん制するためです」

 空気が軋みをあげて凍りついた。幼子の両親らは瞠目し、その頤に雫を垂らす。ユウナはウズミ、そしてウナトを静かに見やった。そして言う。とっとと出すもん出しんさい。
 疲労で目元がどす黒くなっているウナトが、荷物から一枚のプレート式端末を取り出し、そっとエレンの前に置いた。ここからではその内容を読み取ることはできない。しかし何が書かれているかは大体想像ができた。

「サハク家当主、コトー・サハクからの預かりものだ。カナードのプラント留学に関する書類、と言っていた」
「ぷ、プラント留学…ですか? あの子が?」
「次世代のオーブを担う人材を育成するため、だそうだ。学費、住居から生活に至る一切の費用はサハク家がもつというおまけまでついている。至れり尽くせり、だな」

 そう言う割には、ウナトの口ぶりは皮肉のスパイスがふんだんにきかされていた。それが彼自身として、サハクの行動に良い思いを抱いていないことを示している。個人的にも、セイランの長たる公人としても、だ。

「そんな、何故そこまで…。私、サハク家の方々とお会いしたことはないんですけど…」
「だからこそ、でしょう。貴方やカナードと縁が薄いから、貴方達があまりにもセイランに近しいから、彼らもこうした行動を起こしたんだよ」

 要領を得なかったのか、エレンはただ小首をかしげるだけだった。ユウナは言葉不足を感じ、端的な物言いで彼らの行動の根幹を告げる。

「セイランと同じく陰謀を得意とする一門。それはつまり、アングラの情報にも精通しているってこと。ま、知ってるんだろうね。あの子の素性を」
「知っているって……まさか!」
「だから、連中はカナードを取り込みたいんでしょう。資質は十分、ついでにプラントに留学させれば、あの子の特質上、諸々のものがくっついてくるだろうし」

 完全実力主義のプラントでならば、カナードの能力から言って相当に上層へ食い込むことができるだろう。次代のプラント社会を担う子供らとの人脈、コネを作るのに、これほど適した人材もおるまい。
 地球連合――理事国との繋がりはともかく、地球の一国家であり基本的にナチュラルの国であるオーブでは、コーディネイター中心のプラントとのパイプがどうしても築きにくかった。ま、コーディネイターがいる分、他の国よりはましだろうが、それでも薄いことには変わりない。それをあの子を用いることでより色濃いものにすることが可能となるならば、多少の難事があろうともやり遂げる価値は十分にある。

「政治利用…あんな子供を!」

 憤懣やるかたなし、というトダカに、ユウナは内心で同意した。同意はしたが、それと同時に自分には連中を否定することができないこともまた認識していた。そのことに自然と苦笑が表ににじみ出る。

「ま、僕もやってることは変わんないんだけどね」

 トダカからものすごく恐ろしい目で睨まれた。おお怖い、とわざとらしく身をすくめ、しかし笑みを消すことなく真っ向から彼と向かい合う。ああ、やはりこの若者は良い。

「僕はあの子を月に送ることで、言い方は悪いけどセイランのひも付きにしつつ、キラ・ヤマトというファクターをこちらに取り入れようとしている。サハクはプラントに送ることで、カナードを僕の影響下から外しつつ、プラントでの人脈を作ろうとしている。目的が違うだけで、やってることは同じなんだよね、これ」

「……ユウナ様。本気で仰られているのですか?」低く抑えられたトダカの声に、ユウナは一瞬の迷いもなく頷く。さらに瞳の鋭さが増した。

「本気であるし、正気でもある。そりゃね、僕だって子供を政治の駒になんざしたくないよ? したかないけど、現実がそれを求めるのなら――そうするさ。迷うことなくね。そしてその結果、あの子の未来を拓くことにつながるのならば、僕に否やはないよ。ね、エレンさん。貴方が初めてここに来た時、言ったよね。個人としての僕は、あの子に普通の子供として育ってほしいと思っている。でも同時に、己の意思でその能力を振るい、僕やオーブに貢献してくれることにもまた期待していると」

 私人として、公人として。そのどちらもがコペルニクス行きを求めるのならば、躊躇する必要などない。例えそれが結果的に政争、権力争いと化してしまっていてもだ。
 そしてそれが理解できないほど、この両名は頑迷でも無知でもない。彼らとて、そのことは理解していよう。だが――納得はしていまい。
 それでいいのだ。誰もがユウナと同じ見解を持つ必要などないのだから。

「ま…貴方と同じく、それが気に入らない人が、もう一人いるようだけれどね」

 おら、とっとと本音出せや。そう催促するように、ユウナはカップを持った獅子を促した。オーブの頂点たる男は、刹那の間苦笑を閃かせた後、懐からさらなる端末プレートを取り出し、他の二枚と同じくトダカ等の前に差し出した。

「オロファト大学付属幼年学校への推薦状だ。学費等も、アスハ家が全額持つと記載してある」
「つまり、あの子を政争に巻き込まない選択肢をとる、と」
「諸外国に比して、オーブは治安も安定しており、教育水準も高い。わざわざ危険を冒してまで留学させるよりも、彼の安全を鑑みれば国内進学が最良と思っただけのことだ。さらに、オーブ領内であれば、あの子を政争から守ることもできよう。無論、個人的にそなたの行動が気に入らなかった、というのは否定しきれんがな」

 やはりそうきたか。ユウナは頬が引きつりそうになった。カナードの身の安全、ウズミ個人の意向もさることながら、アスハがこうした手を打ってくることも予想の範疇にはあった。オロファト大学――オーブ随一の偏差値を誇る国立大学付属学校は、氏族、平民問わず優秀な人材の集まる場所であり、純然たる学府である。あそこならば高度な教育をうけることができ、またエスカレーター式で大学まで進学可能なため、毎年かなりの数のお受験が行われているところでもあった。
 だが、そこの特色は学問分野だけではない。彼の大学は各有力氏族から毎年多額の献金を受けており、そのため各家の影響力が入り混じりすぎた結果、ある種の中立地帯のような扱いを受けていた。優秀な人材を得んがために氏族の間で起こしていた骨肉の争い、それにしびれを切らした時の五大氏族の長達が定めた不文律である。

「あそこならば、彼が政治の駒にされる心配もあるまい」
「そして同時に、セイランでもない、サハクでもない、完全な中立の人材にしようと? さらりとえげつないですね」

 どうせ通い出したら、なんやかんやと理由をつけてユウナとトダカ家を引き離そうとしてくるに決まっている。ウズミはカナードを絶対に政争の具にしないと言った。代表首長として国に害をなさず、かつ利をもたらす結果に繋がるのであれば、オーブの獅子はその全力を持って事に当たるだろう。ウズミ・ナラ・アスハはそういう男だ。厄介な、本当に厄介な。

「無意味な派閥争いのために子供を犠牲にする必要はあるまい。それに、彼がオーブを担う人材になることは間違いないのだからな。…それに」

「それに?」ユウナは湯呑を置いた。半分ほど残った牛乳ウーロン茶に、アビーがきんきんに冷えたサイダーを注ぐ。もう嫌がらせとかいうレベルじゃないよね、これ。

「サハクはともかく、そなたの為そうとしていることは、寝た子を起こしかねん。個人的な事情だが、それは承服しかねる」
「ブルーコスモス、ですか」

 然り。獅子の頷きにユウナは頭をかいた。自分とてその点には気をつけるようにしていた。キラ・ヤマト――スーパーコーディネイターの成功体はブルーコスモス最大の標的であり、かつては武装集団を用いてまで抹殺を試みた存在である。今でこそ死んだと思われているため、その襲撃に怯えることはないが、カナード――ひいてはセイラン家の動向によってヤマト家がいらぬ注目を浴びてしまえば、そのささやかな安全が脅かされかねない。ウズミはそれを恐れているのであろう。

「そなたらがブルーコスモス盟主、ブルーノ・アズラエル、また次期盟主と名高いムルタ・アズラエルと友誼を結んでいることは知っている。が、いかな幹部といえど全ての末端にまで目が行き届くわけでもなく、また自称しているだけの者共を完全に抑えきれるものでもない。そなたの行動如何では、彼らの命すら危ぶまれることになる。それは、理解しているのだろうな?」

 カップに舌をつけると、非常に形容しがたい味がした。もうこれ飲まなくてもいいんじゃね? と思ったりしたものの、それをするときっと今晩の食事が愉快な事になるのだろう。アビー・ウインザーとはそういう少女である。ガッデム。

「そりゃ勿論、理解しておりますとも。可能な限りセキュリティには気を使うつもりだし、情報統制も全力を尽くすつもりではあります」
「…その行動自体が誘蛾灯になるやもしれぬ、と言っているのだがな」
「でしょうね。それが何か?」

 びりりと、全身の肌が張りつめた。ただでさえ有り余っていたウズミの存在感が、部屋すら圧する勢いで膨れ上がっていく。本来物理現象を伴わないはずのそれが、かたかたと窓ガラスを揺らしかねないほどの力を持って、ユウナの小さな身体にたたきつけられる。
 まあ、これくらいで揺れているようじゃ年寄り何ぞできないのだが。

「前提条件が違うんですよ、ウズミ様。僕と、貴方とでは」
「…どういう意味かな?」
「貴方は何もしなければヤマト一家が表舞台に出ることはないと考えている。対して僕はそう思っていない。それだけのことです」

 笑みがこぼれる。別に馬鹿にしたわけではない。キラとカナード、あの幼子らに与えられたものの大きさに、ただ笑うしかなかったのである。そこに何らの意味は介在していなかった。

「あの一家を無用の騒乱に巻き込みたくはない。ウズミ様のそのお考えは僕も理解できますし、むしろ同意見と言ってもいいでしょう。けれどね、僕らがこうやって相争おうが、彼らが彼らである限り、その存在は遠からず世界に知らしめられましょう。全ては時間の問題、なのですよ」

 ヤマト夫妻ができる限り甥――息子を政治の場から遠ざけようとしていたことは、ウズミと関わるつもりがなかったと言う彼らの決意から読み取ることができる。だが、ユウナはそれこそ無謀な、悲しいほどに儚い願いに思えてしまったのだ。

「ウズミ様、貴方はユーレン・ヒビキという科学者を、少々過小評価しすぎです。彼の残したもの、与えたものは、例え為政者であっても容易に抑え込めるものではない」

 あまり言いたくはないが、事実なのでどうしようもない。スーパーコーディネイターとは、一国家勢力程度ではどうしようもない程の力を持った、祝福であり災厄なのである。それは史実においてキラ・ヤマトが打ち立てた数々の伝説を見れば、嫌という程理解できてしまうだろう。
 というか、一個人でありながら国家間の軍事バランス一手に握るとかどうなのよ、実際。何せ一隻と一機で正規軍の討伐を逃れるわ、ザフトのヤキン・ドゥーエ防衛線を単騎で突破して歌姫のピンク船掻っ攫うわ、オーブ本土の絶対防衛圏を手ぇ抜いてぶちぬいた揚句、国家元首さらって死傷者なしでトンずらぶっこくわ。正直あり得ない。この、やろうと思えば国家の政治的中枢を爆砕すらできた数々の状況が、ただ一人の手によるものという事実こそ、スーパーコーディネイターの底知れぬ可能性を指し示していると言えた。

「今は良いでしょう。彼らはまだ小さな子供で、その力も萌芽にすぎません。けれど十年後は? 二十年後は? どんな分野に進むにしろ、彼らが己自身で定めた進路を歩むにつれて、その存在が必ず全世界に轟くことは避けられますまい。それだけの力が、彼らにはある。そしてあの子らがその力を全人類の目にさらした時、人々はきっとこう思うでしょうね。もっと高く。もっと上へ。我々は、人類は、さらにより良き世界にたどり着けるのではないか。彼らの力さえあれば、と」
「それは傲慢、妄想と言うものだ」

 遮るように、ウズミが静かに言葉を発した。しかしその顔には、わずかな動揺が潜んでいるようにも見える。

「一人の力では人は生きてはいけぬ。それ故、我らは国、社会というシステムを作り、大勢の力で困難に立ち向かってきたのだ。夢のたったひとりに頼るほど、人は弱い生き物ではない」
「『…僕は、僕の秘密を今、明かそう』」

 ごもっとも。まことにごもっとも。ユウナはウズミの意見に同意を示した。しかし、この世の全てに絶対はない。ただ一人で全人類を破滅に導かんと志したものを、人類を救済しようとしたものを、ユウナは知っている。近い将来、彼らがあの子らに牙をむかんことを、知識として持っている。
 人間という生き物は、とても怖い。

「『僕は、人の自然そのままに、この世界に生まれたものではない』」

 ある人物が発した台詞、それを聞いて、ウズミは押し黙った。彼は、否、この場の誰もが、この言葉の意味を、何故ユウナがそれを紡いだのかを理解したのである。

「人類最初のコーディネイター、ジョージ・グレン。彼はその優れた能力で全人類の耳目を集め、その存在とほんのわずかな言葉で、文字通り世界をひっくり返しました。今の人類社会が抱えている問題は、ただ一人から生まれたものと言っても、過言ではありますまい。それがあの子らに出来ぬと、誰が言えましょうや?
 …お分かりか? あの幼き子供たちに押し付けられた運命は、かように過酷。僕らや、彼らの意思に関わらず、世界はあの子たちを離しはしない」

 如何に政治的な影響力を有していようと、ウズミも自分もその力はオーブ連合首長国の国境を越えることはできない。彼らがオーブ国内にいるのであれば、ユウナは自らの持つ全ての力を持って、子供たちを守り通そう。しかし、あの子がどこか別の、遠くにあったのならば。自分にはどうすることもできない。
 だからこそ。

「政治の駒、上等。汚れだろうがなんだろうが、かぶってやろうじゃないですか。あの子たちが成長し、自分の身を守れるようになるその時まで。それが大人の、無駄に長生きした老いぼれの義務です」

 氷のような沈黙が、場に満ち満ちた。触れればひび割れ、澄んだ音を立てて割れそうなそれは、麗しい楽器もかくやという天上の美声によって粉微塵に砕かれた。

「厨二病、乙」

 それは同時にユウナの心の最も柔らかい部分に、極太の杭をねじり込む行為でもあった。ザクゥ、グフゥ、ドムゥ! とこらえきれなかったうめき声がもれ、ぼろぼろと瞳から雫をこぼしながら思い切り胸を抑え込む。

「あるいは、寝言は寝て言え、です」

 時が止まった、とはこういうことを言うのだろうか。ユウナやウズミのみならず、トダカらや父までもがぱかりと口を馬鹿みたいに開けて言葉を発した人物、アビー・ウインザーを見つめている。唯一動じていないのは、その隣のヴィンス爺くらいのものだ。
 お待ちになって。僕今割と重要な話して、決意表明とかしてなかった? そんな思いとシリアスな雰囲気は、ただ一人の根性悪和風侍女によって綺麗に掃除されてしまった。さしものウズミも唖然と目を見開き、ほんの少しだけ頬を赤く染めている。髭面のおっさんが赤くなっている様などむさいだけなのだが、今は何故かまったく気にならなかった。むしろ心をえぐられた者同士、奇妙な親近感さえ抱けてしまうほどに愛おしい光景である。
 と、不意に豪快というには、いささか以上に大きな笑声が響き渡った。ウズミである。彼は自身が直視した痛々しい現実を忘れようとしているかのように、ただただ笑い転げた。

「な、なるほど……! そ、そなたの言うこと、理解はできる…くはは!」

 うるせえよ畜生。どういうこと? ちょっと、時間数秒くらい戻しなさいよ。ハードでボイルドな空気台無しじゃないの。

「寝言、寝言か! ははは、まさにその通りだ!」

 ひとしきり笑い、ウズミはすっかり醒めきってしまった紅茶――ユウナの者以外はとてもまともなお茶である、ファッキン――をすすり、また噴き出した。

「…本人の意思を無視して、話を進めるなど、まさに寝言だな。はは」

 メイドは何も言わず、ただ一礼した。それだけでウズミはにこりと笑みを浮かべた。そして話についていけないユウナは、ただただ困惑した。

「え、何それ。どこからそういう話になったの? こわい」

 瞬間移動だとか超スピードだとか、そんなちゃちなものではない。もっと恐ろしい片鱗を味わってしまった。

「しかし、ウナト・エマよ。貴殿は後継者に苦労することはなさそうだな。羨ましい限りだ」
「恐縮です」

 ちょっと。だから何人を無視して話進んでんのよ。おかしくね? それともおかしいのは自分の方なの?

「ふふ、やはり百聞は一見に如かず、ということか。――ウナト殿、例の話、真剣に進めさせてもらいたい。どうかな?」
「いえ、ですから、それは……」
「両家にとっても、また我ら個人にとっても、悪い話ではないと思うのだがな。彼とならば、うまくやっていけそうでもある」

 くく、と喉を鳴らし、ウズミは腹を抱えた。ウナトはその薄くなった額にびっしりと汗をかいてサングラスを曇らせている。なんだ、なんなのだこの展開は。
 ついていけん。

「ちょっとお待ちあそばせ。何この空気でそんな真面目な話してんの? てか何、例の話って。何それ美味しいの?」
「何、気にするほどのことではない。ちょっとした縁談話だ」

 さらりと吐かれた言葉に、ユウナの脳みそは一旦停止した。

「ユウナ。そなた、カガリの婿になる気はないか?」

 だが、でっていう。



[29321] PHASE24 あんぱんぼっち
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/08/05 17:08
「ごめんなさい」

 遥か水平線の向こうで燃える紅の輝きに目を細めていると、不意にそんな言葉が耳に入った。振り返ると、柔らかなソファに身を沈めて、沈痛な面持ちをたたえた女性が唇をかみしめている様が見える。
 セイラン邸の、トダカ一家に与えられた貴賓室で、トダカとエレンは二人きりで時を過ごしていた。長話が過ぎて時間が遅くなってしまったため、ついでだからとユウナから夕食に誘われたのである。そして同時に、食事を待つ間に色々な事を話し合うべきじゃね? という言葉をもらった。
 今トダカは、窓辺に立って一面に広がる煌びやかな街並みと、その果てに続く命の母の姿に目を細めていた。そんな自分に向かって、生涯を共にせんと誓った女性が懺悔の言葉を口にする。

「どうして君が謝る」
「貴方に、隠していたから。本当のことを、何も話さなくて」

 トダカは窓から視線を外し、静かに首を横に振った。先ほど聞かされた話は確かに衝撃的だった。養子だという話は知っていたし、何か特別な事情があることも察してはいた。家族になる以上、自分にも話してほしいと思っていたことも事実である。
 しかし、無理に聞きだすつもりはなかった。話せないと言うことは、それだけの大きな何かがあるということだと自身で納得していたからだ。そしてそれは正解だった。人類の夢、最高のコーディネイター。数多の命を犠牲にして生み出された狂気の産物、その失敗作。
 こんなこと、おいそれと言える話ではない。
 トダカが奥歯を噛みしめていることに気付いたのは、頭蓋に響く堅い音を聞いた時だった。じんじんと痛む口から力を抜いて、もう一度首を横に振る。

「君が謝る必要はない。言えなかった事情もわかるし、俺だって今まで聞こうとしなかったんだから」
「でも」
「それよりも」

 遮るように言った。窓辺から離れたトダカは、卓上に置かれた三枚の端末プレートの端を指で撫で、エレンの隣に腰を下ろす。

「これをどうするか、だ」

 ユウナ・ロマ・セイラン。コトー・サハク。ウズミ・ナラ・アスハ。本来ならば自分のような一軍人ではめったに目通りすることさえ叶わない、雲の上の人物たちからの嬉しくもない贈り物だった。こんな薄っぺらい板一枚が、文字通り自分たちの将来を決定する力を有していることに、そしてこの三つの道以外を選ぶことすらできない状況に、トダカは内心忸怩たる思いを禁じ得ない。
 別段自分の出世に対して、思うところは多くなかった。勿論、男である以上、一軍の長として自らの指示で兵を縦横無尽に動かすことのできる立場に、言いようのない憧れを有していることは事実である。しかしだからと言って、愛する女性を、間もなく自らの子になる少年を犠牲にしてまで叶えたいとは思えない。
 もしもそれが必要であり、自分の家族の為になると言うのならば、この三つの道全てから背を向けることも厭いはしなかった。その結果、オーブ軍内での己の地位が泥まみれになったとしても、だ。
 物語ならば、ここで彼らの提案全てに背を向けて、家族を、子供を権力の魔の手から守り抜く選択をすべきところなのだろう。だが、現実は往々にして物語ほど優しくはない、
 彼の御人らの提案には、すべからく利点が、カナードの為になる部分が存在しているのである。ましてやユウナ・ロマの言を信じるとするならば、あの子がそう時をおかず動乱に巻き込まれるのは既定の事実。それがどれほどの規模なのかはわからないが、彼が、自分の息子がそれに直面した時、一軍人でしかない自分では、それに抗することもできないかもしれないのだ。
 権力者たちの庇護、その力がない限り、我が子を守ることすらできないのだろうか。

 ああ、気に入らない。とてもとても、気に入らない。
 トダカは口の中に広がる苦いものを飲み下し、数瞬だけ目を閉じた。心の片端には、いかにコーディネイターとはいえただの人間にそこまでの力があるものなのか、という疑問もまた存在する。しかしそれなりの附き合いを経て、ユウナ・ロマという子供――最近は彼が多用する『年寄り』という自称への違和感すら摩耗しかけていた――が、嘘偽りでこちらを騙し、自らの権益を強化するような人物でないことは理解していた。
 それがなおのこと、トダカには腹立たしい。

「エレン。君はユウナ様が好きか?」

 自然と口をついた言葉に、隣のエレンが瞳を丸くした。今この場で、そんな質問が飛ぶとは思ってもみなかったのだろう。当然だと思う。何せ、訊ねた自分でさえ、どうしてそれを聞いたのか理解していなかったのだから。

「え? ええと」彼女はしばし困惑で小首をかしげていたが、やがて小さな苦笑を浮かべた。「…ええ、好きよ。子供っぽくないし、頭のねじが外れてるとしか思えない言動をするし、デリカシーのかけらのないことをぽんぽん口にするけれど、とても良い方だってことはわかっているもの。それは貴方も同じでしょう?」
「…そうだな。俺もあの方が嫌いはじゃあない。短くはない時間を共に過ごして、彼の個人としての在り方には共感を覚えている」

 そう、トダカはユウナ・ロマを決して嫌っているわけではない。少々ねじくれているが、彼が彼なりに周りの人間を思いやっていることは容易に理解できる。だが、だからこそ。

「俺も、あの方を好ましく思っている。だが同時に、心の底から嫌ってもいる」

 え、と驚愕の声が漏れ聞こえた。口元に手を当て、まじまじとこちらの顔を眺めやっている。

「まさに、個人の好き嫌いという奴だ。あの方の御気性や御人柄は嫌いじゃあない。だが、考え方、在り方は気に入らない。あれは俺にとって、相容れない生き方だ」

 今回の、まるでカナードを駒のように扱う件だけではない。ユウナ・ロマのこれまで為してきたこと、行動、それらが何らかの意味を持っていることは、その姿を近くで見てきたトダカも理解していた。意味、即ち行動の中心ことわからないものの、彼が一貫したものを有していることも、だ。
 そしてそれ以上に、トダカはユウナ・ロマの根底にある一つの感情を知った。知ってしまった。

「あの方は、全てを諦めている」
「…どういうこと?」
「そのままの意味さ。あの方は何に対しても希望を持ってはいないんだ」

 あの幼き瞳に映る底知れぬ混沌。行動の端々からにじみ出る、言いようのない全てへの不信。それこそが、ユウナ・ロマという人物の根源だ。

「物事はこうである。仕方がないからこうしよう。あの方はいつもそれだ。立ち向かうべき何かを絶対のものとして扱い、それを前提に対応策を練る。決して正面からぶつからず、物事の道理を変えようとしない。ただあるがままに、流されるがままに生きている。それが俺には、何よりも腹立たしい」

 カナードに与えられた過酷な運命。ユウナ・ロマはそれを知り、今回のコペルニクス息を定めた。あの幼子の歩みの先に待つ、逃れようのない悲劇に『対応』するために。
 そう、悲劇を『避ける』ことも、『戦う』こともせず、ただただ線をなぞるがごとく、既定のものとして扱っているのだ。
 まるで、立ち向かうことなど、できるわけがないと決めつけているかのように。

「あの方が事あるごとに口にする、『年寄り』という言葉。まさにそれだよ。ユウナ様は、自分の身の丈をあまりにも忠実に守っている。まるで自分が、既に終わったもののような考え方をしている。だが、そうじゃないだろう? 俺は、俺たちは」

 人間の持つ無限の可能性、それに対してユウナ・ロマは目をそむけ、そしてあまりにも悲観的な見方しかしていなかった。自身が前途の開けた、子供であるにも拘わらず、だ。
 まるで何もかもに、意味などないと言わんばかりに。
 きっと今、彼が着手している諸々のことも、将来起こり得る何らかの出来事への『対応策』なのだろう。それに対する回避でも、克服でもなく。
 それができる力を、彼は有しているはずなのに。自分よりも遥かに遠くを見渡せる目を、持っているはずなのに。高みにいながら、トダカが手をかけられる場所にありながら、彼はそれをしよとしない。
 こうである、という己の限界を、彼の御人は勝手にきめてしまっているのだ。あるいは、身の丈と言うものを知りぬいているからか。

「エレン、俺は諦めないぞ」

 ぎゅっと拳を握りしめる。眼前に広がる三枚のプレート、その全てを手に収め、身体中に燃え広がる熱を舌に乗せて吐き出した。
 意味はある。正義もある。かつて人類社会が一度も悪を己に任じたことがないように、人の持つ善は確かに存在した。決して、生きることは無駄ではない。

「俺は立ち向かう。あの方のように、何もかもを諦めたりはしない。今はそれに従ったとしても、決して戦うことを否定なんか、してやるものか」

 トダカはユウナ・ロマが好きだった。そして同時に嫌いだった。複雑に絡み合った、二律背反は、しかしまごうことなき自分の本心だ。
 これは宣戦布告である。可能性を否定する『老人』であり『公人』たるユウナ・ロマへの。そしてユウナを、あのひねくれものの自分の家族を苦しめる、何か大きな存在への、抗いの意思。
 握られた拳が、暖かなものに包まれる。エレンが、悲しそうに、けれどどこか嬉しそうに微笑んでいた。自然と彼女の肩を抱き、己に寄せる。

「負けてなど、やらない。絶対に」

 この愛する女性を、愛しい息子を、そして敬愛し、憎悪する大切な主を。
 守る。絶対に。それがトダカの何にも代えがたい願いであった。







『止めるんだ、黴菌男!』
『現れたな、餡麺麭男!』

 UFOに乗った菌の化け物と、アンパン型超兵器が緊張感のかけらもない戦いを繰り広げていた。飛行力学とか生物学とか、そう言ったものを一切合財無視したそれを、きらきらと瞳を輝かせて――と言っても表情は全く変わっていないが――観覧する子供が一人、手に汗を握ってソファにその小さな体を沈めていた。
 両端には自分と、和服風味の侍女が同じくすわって、大画面に映る両名の死闘(笑)を、おやつなどかじりながら見守っている。ちなみに本日の甘味は、セイラン邸のコックが腕によりをかけたあんぱんであった。ガラスの卓のど真ん中に、てんこ盛られたそれを、ユウナは無造作につかんで一口かじる。こしあんがほろりと崩れ、上品な甘みが口いっぱいに広がっていく。

「やっぱり餡麺麭男を見るときは、あんぱんと牛乳だよね」
「私にはわかりかねる概念です」

 古代アーカイブスから発掘した、由緒正しき子供向けアニメを見ていると言うのに、夢も希望もない侍女である。ユウナは静かにため息をついた。

『餡拳!』
『黴々菌ー!』
「というかお二人とも、こんな時間そんなものを食べて、お夕食が入らなくなっても知りませんよ」
「堅いことをお言いめさるな。たまには、こういうのも良いでしょうよ。ただでさえ今日は頭使って疲れたんだから、一休みくらいしたいんだ」

 ほう、といささか大きくなりすぎたため息をついた。疲労が脳にこびりついているかのように、全身が重く思考の回転も緩やかだ。

「ああ、本当に疲れた。特に最後が」

 とりあえず愉快なジョークを飛ばしてくださった獅子殿に「寝言は寝て言え」を糖度二百パーセントのオブラートに包んでお返しし、藁人形に五寸釘を打つなどしてストレスを発散したが、どうにもこうにも体のだるさが取れなかった。
ともすればあの威厳あふるる御尊顔に拳叩き込みたくなる衝動を抑えきった反動であろうか。はたまた怒涛のごときアビーによる嫌がらせと暴力による物理的な疲労が原因か。いずれにしても、夕食まで惰眠を貪りたくてたまらない。

「それで、どうなさるのですか?」

 何を、とは聞かなかった。ユウナは口を開く代わりに、あんぱんをむんずとつかんで口に放り投げる。おやつを取られまいと頬をぱんぱんにしたカナードが新しい一個に手を伸ばそうとしたのを、ぽんと窘めた。のどに詰まるから落ち着いて食べなさい、とその小さな手をしっかり握る。別の意味で幼児の頬がぷくりとなった。

「どうするもこうするも、お断りするに決まってるでしょう。カガリ姫との婚約なんて、メリット云々考える以前に地雷としか思えんよ」

 というかこの段階でわざわざ婚約話を持ち出すこと自体が不可思議であった。その数分前まで子供の政治利用を嫌うような発言をばかましていたはずなのに、舌の根も乾かぬうちに政略結婚とはこれいかに。いや、むしろこれは政略の部分を取っ払った話だというアピールか。そうだとするなら、そうでないよりもなお厄介だ。

「何を考えてるんだろうねえ、ウズミ・ナラ・アスハ。ここまで読めないと、いっそ清々しささえ感じちゃう」

 怖い人だ、と思う。今日、私人ではなく公人としてのウズミと初めて相対したユウナは、政治家としての彼の恐ろしさをまざまざと感じ取っていた。

「そもそも、今日我が家に訪れた理由すら不透明っつーのが、もうね。徹底しているとしか思えない」
「婚約者(笑)を見定めに来たのではないのですか?」
「婚約者の部分にそこはかとない悪意を感じるのは、気のせいじゃないよね、絶対。…多分、それも理由の一つ、だと思うよ。問題は、事がそれだけにおさまらないってとこ」

 と、そこでくいくいと袖が引っ張られた。カナードが瞳に不満の色を浮かべて、じっとこちらを見つめていた。「うるさくて、きこえない」そう洩らす幼児に、ユウナは無言でワイヤレスヘッドフォンをかけてやる。クリアな音声に満足した彼は、再びあんぱんの世界へと回帰していった。

「先の会談を持った目的、ですか?」
「ただ単にセイランやサハクの動きをけん制しに来た、と考えるには、ちょっとばかしトダカ一家への働きかけが弱すぎるんだよね。あの方が本気でカナードの中立化を狙っているのなら、もっと本腰を入れて行動しているはずだもの」

 あれじゃあ、ただ単にアスハ・サハク両家のたくらみを教えて、注意を促しただけではないか。それが信用を得るための一歩に過ぎない、という考えもあるが、それならばあまりにも悠長すぎる。カナードの月留学は、すでに秒読み段階なのだ。

「果たしてウズミ様は、自分の策を実行に移す気があるのかな?」
「そうでないなら、何故ウズミ様はあんなことを?」
「一応、いくつか考え付くんだけど……」ユウナは眉根を寄せて首をすくめた。「あまり当たってほしいという部類のもんじゃないね。…いや、僕としては当たった方が都合いいのかな? でもなあ」

 ぶつぶつと呟いていたら暴力侍女にあんぱんを口に突っ込まれた。とりあえずもごもごと咀嚼を開始する。餡の部分に舌が触れ、上質な甘みを存分に噛みしめようと――

「カプサイシいいいいいいいいいン!」

 激痛が走った。餡の味を舌の受容体が感じ取った瞬間、凄まじい刺激と共に神経を焼きつくさんばかりの衝撃が全身を駆け巡る。

「いだ、から、いだ、ひらいひらいいいいいい!」
「ユウナ様のためにと心をこめて作りました。濃縮ハバネロソース入りの愛情あんぱんです。辛さ八百九十万スコヴィルの世界を存分にお楽しみください」

 全身から汗が吹き出し、ユウナは我慢できずに床でのたうちまわった。もはや辛いではなく痛いである。死ぬ、これ冗談抜きで舌が腐る。
 あまりの痛さに呼吸すらおぼつかなくなっていて、冗談抜きで三途の川が見え始めた。つい何年か前に大往生した時出会った、川辺近くで子供をいじめていた鬼が顔面を蒼白にして尻もちをついているのが見える。石崩してげらげら笑ってたのを見て、つい出来心でぼこぼこにして尻の穴にこん棒突っ込んだことを、未だに根に持っているのだろうか。なんだよー、仕事だからって子供いじめるとか、やっていいことと悪いことくらいあんだろー。自業自得だよ、自業自得。

 ていうか八百九十万スコヴィルって何それ、馬鹿なの? 殺す気なの? 世界一辛く、健康障害すら覚悟しなけりゃいけないヤンキーどものザ・ソースでさえ七百万ちょっとなのに、それ越すとか、ヤる気だ。この小娘。全身の悪寒を抑え込みながら、ユウナは涙を垂れ流した。冗談抜きでこっちのタマを狙っている。
 もはやしゃべることすらできないこちらの醜態を見て満足したのか、アビーはチーズの塊を口に押し込んでくれた。乳製品のカゼイン様がカプサイシンの野郎と結びついたおかげで、少しだけ楽になってくる。
 ぜいぜいと肩で息をしているユウナを、カナードが不思議そうな眼差しで見やっていた。高品質のワイヤレスヘッドフォンは外部の音声を完全に遮断しているらしく、先の大騒ぎも聞こえていないようである。

「今、明確な殺意を感じた」

 睨みつけるようにアビーを見やると、この小娘は悪びれもせずさらりとユウナの抗議を受け流した。

「いいえ、愛です」
「愛が重い」

 どうしよう、この娘。おじいちゃん素で将来が心配になっちゃう。

「それで、何をそんなに悩まれることがあるのですか?」
「この小娘、自分で逸らしておきながら無理やり話を戻しおった」

 足を踏みぬかれた。痛みで悶絶しているユウナを、下手人は氷のような視線で綱抜きながら、もう一度同じ質問を投げかけてきた。どうしよう、あまりの扱いの悪さに泣きそうだ。

「…今日の一件、ウズミ様にとって僕らにそれを伝える事自体が目的だったんじゃないかってことよ」

 きっと言っても無駄なんだろうな、と悲しいまでの立場の弱さに涙する。牛乳でさらなるカゼインを補給し、ユウナは肩をすくめた。

「アスハ家、サハク家、その他幾つもの国内勢力が、この子の政治利用をもくろんでると知ったら、コペルニクス留学を考えていた僕らはまず何を考えると思う?」
「予定の繰り上げ、早期の留学実現です」
「そ、つまりセイラン家のカナードに対する影響力保持のための諸々の行動、そしてキラ・ヤマトとの関係構築を急ごうとするわけだね」
「…それがウズミ様の目的だったと? …いいえ、むしろ」

 さすがに頭の回転が速いお嬢さんである。オーブの獅子と謳われるまでの大政治家という要素、実際にあった人物像、そして本日の彼の発言からこちらの言いたいことを速やかに察したようだ。

「どれでもよかった。そういうことなのですね」
「だろうねえ。まあ、あの方の立場からすれば、ある意味当然なんだろうけど」

 結局のところ、そういうことなのではないかと思う。ウズミが持ってきた情報と選択肢、それは否応なくユウナの戦略に多大な影響を与えるものだった。事実、ウナトとも話し合った結果、予定よりも早く月留学は実行に移されることが内々に決定されている。獅子の一手によって、こちらは受動的な行動を強いられることになった。

「父上の話じゃ、今日はコトー・サハク殿とも一緒に昼食をとったらしいよ。ご丁寧にウズミ様と二人で食事に誘ってきたんだってさ」
「…あらかじめコトー氏との間にも、何らかの接触を持っていたと言うことですか」
「それが何なのかはわかんないけど。ああもう、面倒だなあ」

 コトー・サハク、つまりカナードを巡って争う一派の上層との取り決め内容は定かではないが、彼との繋がりを強調するような真似をしたことの意味は大きい。ユウナはため息をついた。もうここまで来ると、その意図はある程度輪郭を持って浮かび上がってくる。
 ユウナはパンをもそもそと食べ続けている子供の頬をつつき、遣る瀬ない息を吐いた。

「この子という『権益』を巡る派閥闘争の牽制。つまりそういうことでしょう」

 事情を知らぬものが聞けば一笑に付しそうなその内容に、しかしアビーは深く頷いて同意の意を示した。普通に考えれば、たかが子供一人のためにオーブ屈指の名門がぶつかり合うなど狂人の無双でしかない。しかしながら、先の会談でも述べたが、スーパーコーディネイターの力は国家間のバランスすら崩しかねない強大なものである。それを知っているものからすれば、カナードは非常に魅力的な権益であり財産なのだ。そう、多少の血や労苦をささげても惜しくはないというほどの。
 ふん、とこみ上げてくる不愉快な感情に、ユウナは鼻を鳴らした。自分もまた駒として使っている側にもかかわらず、身勝手と知りながらもわき出る苛立ちは止めようがなかった。だが気に入らないからと言って目をそむけるわけにもいかない。現実逃避の代償は、下手をすればこの小さな子供の未来かもしれないのだから。
 本当に、我ながら救いようのない下衆っぷりである。つい苦笑が漏れた。

「僕も父上も、そしておそらくコトー・サハクやセレスティン・グロードも『この子の秘密』を重々承知している。セイラン家、サハク家というオーブ有数の派閥だけでなく、ロゴスまでもがぶつかりあえば、国内の混乱は避けられないだろうねえ。平時なら――ううん、多少なりとも外が平穏なら、ある程度は許容できたんだろうけど」
「今の国際情勢では、それは致命傷になりかねない、そう判断されたと?」

 だろうね、とユウナは苦笑した。考え方の違いはあれど、セイランもサハクもお互い五大氏族に列せられている家柄であり、派閥のトップという地位についている。である以上、何よりも優先されるのはオーブの国益であるのだから、実際にはそこまで波紋を広げるような争いまではいかない…と思う。
 とはいえ、世の中予想の斜め上に逝くことなどざらである。過去、ほんのささいな小競り合いが、気づけば血で血を洗う全面戦争になった、なんていう事例は枚挙にいとまがない。

「要は、手綱を握っておきたかったってことでしょう。相手のも、僕らのも、そしてこの子のも」
「…では、カガリ姫の御輿入れも?」
「その一面がないわけじゃあないだろうね。とはいえ、あの方の性格を考えれば、あくまでもおまけ要素でしかないんだろうけれど」
「つまりユウナ様の人柄に婿惚れされたということですね。きゃー、ユウナ様かっこいー。ろりこーん」

 うわあ、ちょーむっかつくー。ユウナの頬が思い切り引きつった。無表情で淡々と言われても、馬鹿にされているとしか思えなかった。ていうか御待ちになって。ロリコンはまずい。実年齢的に超当てはまっちゃう。
 まあ、カガリのことは魅惑のでこっぱちボーイに押し付ければ万事解決するはずだ。そのうちこっちでも誘導のための謀略を企てねばなるまい。

「はいはい、そういうのいいから。…しかし、怖いお人だ、オーブの獅子。こっちに人山いくらの予想をしこたま抱えさせて、なおかつ真意を悟らせない。公人としては、付き合いたくないタイプ」
「おまけに、散々こちらの内情をひっかきまわしていかれましたし。大丈夫なのですか? 随分と御怒りでしたよ、トダカ三佐」
「うん、良い怒りっぷりだった」

 けらけらと笑うユウナを、アビーが仕方ないと言わんばかりの目で見ていた。実際、彼の性格を考えると自分のしたことは反感を抱かれずにはいられないものと言えよう。
 だからこそ、いいのだ。

「むしろ、怒って当然とも言えるね。人の親として、自分の子供を道具のように扱われて、気分いいわけないもの」
「どう考えても、嫌われましたね。いえ、前から嫌われていましたから、さらに倍率ドン」
「仕方ないさ。僕と彼じゃあ、性質からしてま逆だから。だからこそ、僕は彼が好きなんだけどね」

 人間である以上、どうあがいても万人に好かれるなんてことは不可能だ。生きている以上、理由のあるなしに関わらず、誰かに好かれれば誰かに嫌われ、その数倍以上の無関心にさらされる。否、そもそも好き嫌いという白黒を明確にすること自体がナンセンスなのかもしれない。
 いずれにせよ、トダカにとって自分は正反対の、苛立たしい存在に見えるのだろう。その程度のことは自覚していた。

「そうであるからこそ、彼なんだよ。あの人は僕の夢だから」

 自分ではない他者。ユウナを肯定せず、対立すら厭わぬトダカだからこそ、何ものよりも深い信頼を抱けた。終点に達してしまった自分を踏み越え、その先に進み続けることのできる彼だからこそ。

「僕は彼に期待してるんだ。遠くない未来、僕みたいな悪党を成敗する、ヒーローになってくれるんじゃないかって」
「ヒーロー、ですか?」
「そ。弱きを助け、強きをくじく。かっこいいじゃない?」

 自分のように、幼い子を駒として扱うような人間を否定し、己の信ずるままに戦うヒーロー。ユウナは彼にそんな子供じみた理想を幻視した。
 ここではないどこかで、国のため、新年のために最後まで戦い抜き、艦と共に海底へと消えていった彼の姿を見たからこそ。遠からぬ先に待ち受ける悲劇から子供たちを守り、導いてくれるヒーローになってくれることを、強く望んでいるのだ。
 世界とは、人間とは、辛く、醜く、残酷である。暖かな理想など冷たい現実の前には無力を露呈するしかないものだった。

「僕だって人間だもの。現実ばっかり見てたら疲れるのは当然でしょう? だから、たまには夢くらいみたいんだよ。それに…」

 それ以上、言葉を継ぐことなくユウナは笑みをたたえて、なおテレビに食い入っているカナードの頬を指でつついた。柔らかな感触と、弾力が人差し指を伝って感じられる。
 さらに反対側からは、アビーの手が子供の頬をこねくりまわし始めた。両側からの圧力に、カナードの顔がつぶれたあんぱんに早変わりする。思う存分ほっぺたをいじりまわし、ユウナは誰ともなしに呟いた。

「だからこそ、世界なんぞにこの子は…この子たちは渡さない。この子らが歩むのは、人が人である証、愛のあふれた光の道なんだから」

 だからこそ、僕は貴方に子供たちを託そう、我が英雄。人の信じる、人の良き部分を有する猛き若者に。
 汚れ仕事は、自分のようなけがらわしい爺の仕事なのだから。
 新しい次に何かを託すことができる。これこそが年寄りの特権であろう。やがて抗議の声をあげたカナードを抱きしめ、ユウナはただ微笑み続けた。



[29321] INTERVAL2 ネタばれ、超ネタばれ!
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/09/30 22:41
 月日は流れる。

 常夏の楽園オーブでは、一年を通して強い太陽と向き合わねばならず、それ故季節の変化に少々鈍感になるところがあった。汗の拭き出る猛暑、それに反し徹底して冷やされた室内。かつて在った四季溢れる極東の国から、南国情緒盛りだくさんのこの国に来ると、季節感というものをどこかに置き忘れてしまうような感じが拭えない。
 今、ユウナは広大な人工の平地と長大な鉄橋を眼前にして、何とも言えない苦笑を浮かべていた。巨大なガラスで遮られたその先では、あまりの熱気に景色がゆがんで見え、隔絶してもなお響いてくる轟音が鼓膜をふるわせ続けている。
 また一つ、箱舟が天かける橋を渡って星の海へと漕ぎ出した。
 オーブ連合首長国カグヤ島。オーブ経済の大動脈たるマスドライバー施設を有する宇宙港である。ガラス窓から視線を外すと、これまただだっ広いロビーを行きかう様々な人々が目に映った。熱いのにピシリとしたスーツ姿を崩さぬ男性、楽しそうにはしゃぐ子供を追い掛ける、キャリーバッグを引いた夫婦。
 皆、天へと足を延ばすために、あるいは重力の井戸の底へ舞い降りるためにここを訪れたものばかりである。
 そんな中に、自分たちの姿もあった。

 月日は流れる。

 ユウナは放浪していた視界をあるべき場所に戻し、困ったような笑みを浮かべた。

「早いもんだね」

 誰に聞かせるでもなく、ただ口の中だけで言葉を転がす。オーブ軍の軍服をぴしりと着込んだトダカ、フォーマルな装いのエレン、そしてカジュアルながらも質のいい子供服を着せられたカナードが、集まったセイランの家人たちとめいめい会話を楽しんでいた。
 セイラン当主夫妻、エルスマン夫妻、トダカ・シフォース両家の御両親、三爺、ジャン、エリカ、アビーと、それなりに大所帯になってしまったが、皆常識をわきまえた大人である。周囲の客に迷惑をかけない程度の声量で、思い思い残り少なくなった時間を楽しんでいるようだ。
 自分を含め、彼らは皆、新たな旅立ちを見送るべく集まった者たちだった。
 そう、今日はトダカ一家が――カナードが、月へと向かう日。
 彼らとしばしの別れを噛みしめる場所だった。

「寂しくなるな」

 ウナトの発した言葉は、ここにいる誰もが大なり小なり抱いている感想であろう。そのあまりの率直な意見に、幾人かの顔にかすかに苦笑がひらめいた。
 本当に、寂しくなる。ユウナは自身が想定していたよりもよほど大きい寂寥感を覚えていることに、驚きと言うよりも深い納得の波紋が心に広がっていくのを感じていた。
 あの日。カナードに月の留学の話をした時から、こうなることはわかっていたと言うのに。どれほど覚悟していても、備えていても、人の生の部分は時として健在意識の鎖すら振り切ってしまう。

『わかった』

 小さな黒髪の子供が、ユウナから話を伝えられて発した一声がこれだった。アスハやサハクの提案もきちんと説明したが、あの子は迷うことなく、ユウナの提示した選択肢を選びとったのである。
 そこに、困惑も反発も何一つ存在しなかった。大人ですら理不尽と感じる、己の運命を保護者とはいえ第三者に勝手に決められるという不愉快な出来事を、あの子は何でもないように受け入れ、納得したのである。

 まるで、そうあることが義務であるかのように。

 揺れ一つ起きない静かな水面。カナードの肯定を経たその日、ユウナは不覚にも自室で整理しきれない感情を爆発させてしまった。胃の中のもの全てをぶちまけてしまう程の自己嫌悪が心をさいなみ、正直アビーに折檻されていなければ、しばらく立ち直れなかったかもしれない。
 本当に、悲しいくらい賢い子だった。五歳でありながら、カナードは己と家族の置かれている立場を完全に理解していたのである。自身がセイランの保護下にあり、それが故に総領たるユウナの決定に逆らうことができないことを、反駁すれば両親の地位やら何やらに深刻な影響が出ることを理解していたのだ。
 そしてあるいは。
 この子は、気づいているのかもしれない。
 自分が、普通の子供とはどこか違っていて、そし自身の両親、母が本当の親ではないことも。
 あんな子供に、それだけの決定を強い、さらには恐ろしいほどの重圧を押し付けてしまったことは、ユウナの精神を折るのに十分すぎる威力を持っていたのだ。

「何か思い出したら鬱になってきた」

 駄目だ駄目だ、一時の別れの場で、そんなしけた顔なんぞできない。もっとこう、楽しいことを考えよう。大体、子供にそんな糞みたいなもの背負わせた張本人が悲劇の主人公気取るとか、もう、ない。色々とない。あまりの厚顔無恥さにおじいちゃんドン引きである。サクッと切り替えなければ、羞恥と自己嫌悪で狂い死んじゃいそう。
 ユウナは沈みかけていた気分を浮上させるべく、ここ数カ月で一番楽しかった出来事を脳裏に浮かべた。脳裏に蘇ってくるのは、トダカ家とシフォース家の結婚披露宴である。
 にまり、と思わず頬が緩んだ。あれは近年まれにみる、会心の出来だったと自負できるものだった。

 まず披露宴席次前列を悉く占めるのは、セイラン当主一家を筆頭にしたセイラン派の軍重鎮のお歴々。何かものすごく重苦しいオーラ満載の最前列に、まず新婦側招待客がドンびいた。次いでどうやって潜りこんだのか分からないが、どこぞの獅子様にクリソツな通りすがりの髭親父と、これまた陰謀大好きな殺伐元下級氏族現五大氏族家の家長によく似たおっさんが仲良く談笑している様に、何故か新郎側招待客が硬直した。そう言えばあの人たちって、どこの誰さんだったんだろう。ふっしぎー!
 おまけに大西洋連邦から、代々高級官僚を輩出している名門一族の父娘とか、何か青き清浄なる世界臭のする屈指の財閥御曹司とかが参列していたりした日には、もうびっくりするほどのカオスであった。
 そこで繰り広げられる、セイラン家諜報部努力の結晶たる、新郎新婦黒歴史スライド、滑る宴会芸に、色んな意味で神がかったスピーチ。和風な感じで決めた侍女に蹴り飛ばされるどっかのショタ的爺。何気に仲人やってたウナトなど、途中から悟りの境地に達した目になっていたことを鑑みれば、それがどれほどのものだったか想像に難くなかろうて。

 しょうじき、すまんかったとおもたのは、ひみつである。
 しかしまあ、最初こそ死人のごとく生気を伺わせなかった新郎新婦だが、式が進むに従ってやけくそ気味にせよ笑顔を浮かべていたのだから、これはもう終わりよければすべてよし、と言ってしまって大丈夫ではなかろうか。なかろうか。
 その次に楽しかったのは、オロファトの百貨店での買い物だ。安全上の問題から、あまり外出できない自分やカナードにとって、数少ない御出掛けの思い出である。正直こんなん買うのなんて、どんだけセレブなんだよ、と思いつつもウインドウショッピングするのは楽しかったし、途中でどういうわけか鉢合わせした髭のエロい獅子とか、最近特にサハクっちゃってる長とかと茶を飲んだり、これまた偶然出会ったナダガとリンゼイの御曹司に我が家のダメイドがシャイニングウィザード決めちゃったりと、非常にスリリングかつ貴重な体験もすることができた。ちなみに最後のものは、絡んできたのが向こうであることと、あちらさんが仮にも氏族の嫡子がするにしては少々品のない行いをしてきたことから、その場の誰もが見なかったふりをした。世の中誰も口にしなければ、そんな事件はなかったことになるのである。やったね!

 シュールだろ…? これ…派閥争いなんだぜ…?

 にまにまと、精神の再構築を果たしたユウナは、ぱしんと両の手で頬を叩いて顔を引き締める。すかさず背後に回ったアビーがものすごい勢いで追撃してくださったおかげで、気合も十分と言えた。十分すぎて頬がひりひりするのは、御愛嬌である。
 ユウナは歩みを進め、トダカ一家の前に出た。相変わらず実直そうに気合を入れている新たなる大黒柱殿の二の腕を数度叩き、一言だけ告げる。

「後は、任せたよ」
「…は」

 彼としても、色々と言いたいことはあるのだろう。この日が来るまで、いつも通りトダカを振りまわし続けていたが、それでも彼の中で何かが変わったと言うのは察していた。生憎と読心の術を持たない自分にはそれが何なのかはわからないが、決して悪いものではないことは、日ごろの付き合いで悟っている。
 何であれ、トダカは歩み始めたのだ。ならばユウナにできることは、それを見守り、時に手を貸す程度のことしかない。
 そんな彼に苦笑をひらめかせ、ユウナはからかうようにエレンに告げる。

「手綱は、しっかりと握っておいた方がいいよ。こういうタイプは、すぐどっか行っちゃうからね」

 釘をさすように、そう笑いかけた。彼女は苦笑しながらも、静かにうなずく。

「しっかりと、面倒を見てあげて。貴方が頼りなんだから」
「…はい」

 そして、ユウナは最後にカナードの前に立った。黒髪の子供は、相も変わらず色の読めない瞳でじっとこちらを見つめている。
 ユウナは膝を折り、カナードの小さな体をぎゅっと抱きしめた。柔らかな頬をその身に感じ、熱いとも言える命の鼓動を全身で受け止める。

「きっとこれから先、辛いことは一杯ある」

 愛しい子供。この世界に来て幾つも結んだ縁、生きがいの一つだ。

「大丈夫、だなんて口が裂けても言えない。ひょっとしたら、心折れてしまうことだって、あるかもしれない」

 すっと、隣から白く艶やかな手が伸びてきた。アビーだった。彼女はユウナに抱えられているカナードを、さらに包み込むようにぎゅっと抱擁する。その顔は常の鉄面皮からは想像できないほど、穏やかな笑みで染められていた。

「でも、どうか」

 その先の言葉を紡ぐことなく、ユウナは彼から身を離した。もう一度、カナードの顔をよく見て、さらさらの黒髪をゆっくりと撫でる。と、フロア全体に響き渡った声が静かに鼓膜を震わせた。

『大変長らくお待たせいたしました。これより、オーブロイヤルエアライン、第二○三四便の搭乗手続きを開始します。御搭乗の御客様は、三番ゲートに御集りの上、係員に搭乗券を御呈示ください』
「…ユウナ様、時間です」

 トダカの言に、ユウナはこくりと頷いた。もう一度だけ、子供の命を全身でしっかりと確かめる。アビーはカナードの額にそっと口づけし、おでことおでこをくっつけた。

「いってらっしゃいませ」

 カナードはくすぐったそうに目を細めた。そしてユウナを、アビーを、見送りに来た全員をしっかりと見やり、ほんの少しだけ、その唇をほころばせる。

「…いってきます」

 いってらっしゃい。
 異口から放たれた同音は、全員の偽らざる花向けの言葉だった。







『カタパルト接続を確認。投射質量のデータに変更なし』

 一機のシャトルが、鉄のかけ橋に向かってゆっくりと近づいていく。

『カグヤ周辺の気象データは全て許容範囲内。超電導レール異常なし』

 管制に従い、青みがかった機体はマスドライバーにしっかりと設置された。宇宙港のメインゲートがせり上がると、途端に目を焼くような日差しを煌めかせた、青々とした海が顔をのぞかせる。発信を知らせるベルが鳴り響き、誘導等が淡く点滅を開始した。

『オールシステムズ、ゴー。シャトル、ファイナルローンチ・シークエンススタート』

 そして、最初はゆるやかに、しかし徐々に加速をつけて、シャトルが動き出した。

『貴船の旅路に、ハウメアの守りがあらんことを』

 祈りの聖句と共に、シャトルは陽光の元へと飛び出し、やがて尾を引きながら蒼穹の彼方へと旅立っていった。
 小さな粒になってもなお、ユウナはシャトルから目を離さずに、ただ吸い込まれそうになる青空を見やっていた。そして、紡げなかった最後の言葉を、胸の内だけで反駁する。
 目を閉じた。そしてただ静かに祈る。神にではない。星の巡り、命の律に願いを込めた。

 どうか。どうか。
 あの子の旅路に、未来に、溢れんばかりの幸があらんことを。






 淡い光が、ワルツを踊っているかのように乱舞する。
 それは巨大な結晶だった。人間の背の倍に相当する高さを誇った、幾何学的な様相の前衛芸術である。幾つもの立方体が、無造作に重なり合い、その一つ一つにはまるで閉じ込められているかのように、光の粉雪がひらひらと舞い咲いていた。
 水晶ではない。宝石でもない。正直、素材そのものが不明な代物であった。
 そんな意味不明な物体が三つ、瀬野渡瀬の眼前に鎮座して、少々ネジの外れたような芸術なるものの威容を存分に発揮していた。

「チェックサム、オールグリーン。全システム、正常稼働中、と」

 渡瀬を取り囲むようにして浮かんでいた情報ウインドをさっと一撫でする。一応全ての情報に目は通したが、やはり機械音痴の自分にはあまり意味のない代物と言わざるを得ない。ふう、と若干身体にたまった疲労を吐き出し、渡瀬はかりかりと頭をかいた。

「そりゃ、俺の専門分野でもあるんだから、メンテ任されるのはわかるんだけど」

 だからといって、こんなバカでかい機械に触らせられる等、怖くてたまらないで
はないか。何か変なところ触って壊したらどうするのだろうか。
 渡瀬はふう、と大きな息を吐いた。まあ、機械専門のスタッフも常駐しているわけだし、そうそうそんな恐ろしいことは起きるはずないか、と無理やり自分を納得させて、数度頭を振る。整備員に引き継ぎを済ませると、渡瀬は整備終了の報告をすべく、船長室へ足を向けた。
 通路を歩いていると、ふいに窓外の景色が視界に入った。煌めく星の輝きを覆い尽くすような、無骨な石塊の群れ。アステロイドベルト、火星と木星の中間に分布する小惑星帯である。

「…そろそろここともおさらば。さて、木星には何があるのやら」

 一昨日見た火星の風景を思い出し、渡瀬は歩みを止めぬまま肩をすくめた。木星探査船しょうりゅうの航海は、彼の星の調査研究を目的としているため、非常に余裕のあるスケジュールが組まれている。それは木星で起こっているであろう何らかの異変を、距離のあるうちに掴んでしまいたいからだった。地球圏では察知すらできなかった兆候も、現地に近付くにつれ詳細なデータも取れるようになる。事実、火星圏を出立した段階で、しょうりゅうの外部センサーは木星軌道上に確かな異常を感知していた。
 このまま順調に推移すれば、早ければ標準時間にして三日後の早朝に、この船は木星圏に到達する。といっても、渡瀬をはじめ乗組員はさしたる緊張も情動もなく、平静を保って職務に当たっていた。

「まあ、何とかなるだろう。あの船長もいるし」

 渡瀬の呟いた台詞は、しょうりゅう全乗組員の抱いている思いだった。抜け作のように見えて、あれでなかなかやり手かつ実績をたたきだしている船長なのだ。これまでの経験から、彼ならどんな状況に陥っても、豪快に笑いながら道を開いてくれると、無条件の信頼を寄せているのである。
 本人に言えば絶対調子に乗るから、絶対に告げることはないが。
 船長室の前までやってきた渡瀬は、扉の脇にある端末を操作し、己の来訪を部屋の主に告げた。

「失礼します、船長。一級特務技師、瀬野渡瀬。計画最終行程終了の御報告に上がりました」

 しばし直立して中からの返事を待つ。二秒、三秒と経っていき、脳内の仮想時計が重病を数えた辺りで、渡瀬の眉が微妙にゆがんだ。

「船長? どうかされましたか?」

 おかしい。この時間、辰五郎は自室にて彼の苦手とする書類の整理を泣きながらやっているはずである。事実、扉の端末は主人の在室を主張しているし、船長がここにいるのはほぼ間違いなかった。
 ひょっとして、寝ているのか? 船長、ともう一度呼びかけて、渡瀬は端末を操作した。不用心にもロックはかかっていない。まあ、船内で彼を害するような勇者は存在しないが、世の中予想の斜め上のことが起るのは当たり前。あまりこうした油断は歓迎できる類のものでないことは確かだった。

「失礼します、せんちょ――」
「俺の聞仲が死んじまった!」

 扉がスライドした瞬間、悲鳴じみた叫びが渡瀬の鼓膜に到達した。
 は? と思わず口を馬鹿みたいに広げる。空間が限られている船の中でも、かなりの面積を誇る船長室、その中心に鎮座する机にて、しょうりゅう船長竜園辰五郎が、本らしきものを抱えてわなわなとふるえていた。

「俺の、聞仲が、死んじまったー!」

 精悍な顔立ちの、筋肉質な男が号泣する様と云うのは、恐ろしくシュールである。しかも叫んでいる文言は意味不明のもの。渡瀬はどう反応すればいいのかわからず、しばしその場に立ち呆けた。

「…あの、何してるんですか、あんた」
「……おう、渡瀬か。見りゃわかんだろ。読書だよ。その余韻に浸ってんだ。邪魔しねえでくれよ」

 吹いた。みっともないが、唾を飛ばす勢いで、思い切り噴き出した。

「どくしょ! せんちょうが、どくしょ!」
「おい何だよその反応!?」

 鼻声ながらも抗議の声が飛んでくる。だが渡瀬は彼の心情を慮る余裕もなく、ただただ驚愕の濁流に翻弄されていた。
 船長が。あの机について三十秒で夢の彼方へ飛ぶ、脳筋の竜園辰五郎が。
 読書。読書と。
 いけない。こんなことをしている場合じゃない。荒れ狂う動揺の嵐を、渡瀬は不退転の決意を持って抑え込んだ。そして努めて平静に――ともすれば震えそうな声を押さえて――辰五郎に語りかける。

「船長。すぐに医務室へ行きましょう」
「え、俺そこまで馬鹿だと思われてたの!?」
「あたりまえでしょう。船長資格が取れたことが奇跡のような船長が、わざわざ活字にアプローチするなんて誰が信じますか。きっとお疲れなんです。早く点滴なり何なりを打ってもらいましょう?」
「なあ、これって新手のいじめなのか? そうなのか、おい?」

 よし、大分落ち着いてきた。漫才のようなやり取りによって心の天秤を水平に戻した渡瀬は、数度深呼吸した後、とりあえずここを訪れた目的だけは果たそうと先の光景を脳内から追い出した。もっとも完全に吐き出すことはできず、まるでタールの様に頭の片隅にこびりついていたが。

「報告します。航行計画に予定されていたメインコンピュータの最終チェックは無事終了しました。全機とも異常なく、調整の方も問題ありません。目的地到達後の任にも耐えられると判断します」
「無視かよ…。ま、それはともかくご苦労だったな。特にゆーきの奴が作ったもんの整備なんてくそ面倒くさいこと、押し付けてすまんかった」
「いいえ、それが俺の役目ですから。というか、そのためだけに乗せられたとも言えますし」
「ホントに悪ぃ。俺はどうにも、ああいう細かい作業ってのが苦手でな。お前さんばかりに苦労かけちまう」
「俺としては、本郷博士の仕事ぶりを拝見できて、結構楽しめてるんですけどね」
「…うへえ、学者気質ってのはわからねえ」

 そう言って辰五郎は痛みをこらえるように頭を抱えた。いかにもうんざりした、という表情は、彼の学問に対するスタンスを如実に表していると言えよう。だから妻子からも脳筋と呆れられるのだ。彼の息子、渡瀬の友人もそれを常々嘆いていた。本郷博士くらいとはいかないけど、せめてヒト並みの知能は持っていてほしかったそうな。

「おい、何か失礼なこと考えてるだろう?」
「船長って脳筋ですよね」
「こいつ、面と向かって言いやがった」
「…本音の暴露はここまでとして。ところで船長、何をそこまで真剣に読んでいたんですか? 正直本当に不気味なんですけど」
「お前本当に容赦ねえな。…見りゃ分かんだろ? 封神演技だよ」

 封神演技、と渡瀬はこれまた心底驚いたと、声を震わせた。封神演技と言えば、中国の古典小説であり、易姓革命を題材とした作品である。人界と仙界を二分した大戦を描き、国や宗教を絡めた古代中国の傑作としても名高く、三国演技や水滸伝に次いで有名なものであった。

「うわあ、中国古典読む船長とか。うわあ」
「なあ、泣いてもいいか?」

 そんな目の端に涙を浮かべた顔をされたとて、渡瀬の内に湧き上がった筆舌に尽くしがたい感触をぬぐい去ることはできなかった。残念ながら、こればかりはどうしようもない。

「でも、船長にしてはなかなか良い趣味ですよね。俺も読んだことありますけど、結構おもしろかったでしょう?」
「おうよ。特に聞仲が死んじまうとこなんて、感涙もんだろ…。くそ、かっこよすぎだぜ」

 聞仲と言えば、商の大使にして金鰲列島の道士である。易姓革命の最中、主人公たる姜子牙との戦いによって命を落とすが、きっと彼の言っているのはその場面のことだろう。
 しかし同時に渡瀬は首をひねった。確かにあそこは封神演技の見せ場と言えなくもないが、そこまで感涙にむせぶほどのものだろうか? そもそもにして、渡瀬に聞仲というキャラクターにそこまでの思い入れを抱けなかった。武成王造反の際にも、たかが妻妹を殺されたくらいで商を裏切るとは、と古代中国チックな価値観を丸出しにしていた人物である。かっこいいか? と聞かれたら微妙、としか答えられない。

「そんなに泣くほどですか?」
「おま、あれ読んでその感想とか、ないわ! ないわー!」

 そう言って辰五郎は顔を真っ赤にして抗議をしだした。どうでもいいが、むさい中年男がそんな動作をしてもうざったいだけである。渡瀬の視線は見る見るうちに温度を下げて、鋭さを増していった。

「ほら、ここだよここ! このシーン!」

 はあ、と大きなため息をこらえながら渡瀬は彼の差し出した本を見た。そしてこれまで抱いていた恐ろしいまでの違和感が氷解していくのを感じる。
 そこに描かれていたのは、非常にハンサムな男だった。何か甲殻類のような黒い動物に乗って、破壊力のありそうな長い鞭をぶんぶん振りまわしている。
 どう見ても、古臭い漫画だった。そして渡瀬の知っている封神演技ではなかった。
「…ああ、やっぱり。所詮船長だもんな……」
「何だよその反応! どっからどう見ても封神演技だろうが!」

 確かに封神演技だった。タイトルにもそう書かれている。しかし、違う。どう考えても違う。保存状態はいいが、如何にも古本と言わんばかりのそれを、渡瀬は頭痛をこらえるように見据えた。

「それ、漫画ですよね」
「おうよ、ゆーきから借りたんだ。あいつ、こういうの一杯持ってやがるからな」

 ああ、本郷博士か。渡瀬は疲労の濃い納得を己の中に得た。彼は色々と深い趣味を有しているようだから、こうしたものを持っていても不思議はない。そしてそれを友人である辰五郎に貸し出したとしても、何ら問題はないのだ。
 問題はないのだが。何だか酷い誤解をしていたように感じ、渡瀬の精神は少しばかり疲弊していた。これ見よがしなため息が漏れる。

「んだよ、見もしないのにそんな反応しやがって。そう言うのは読んでからやれ、読んでから」
「俺、仕事中なんですけど」
「俺が許す! 船長命令だ、読め!」

 何だか話がよくわからない方向にシフトしている気がした。意地になっている辰五郎の顔を見て、もう一度息を吐く。

「分かりましたよ。ま、仕事もひと段落しましたし、ちょっとくらいなら付き合います」

 仕事中と言ったが、実際に渡瀬に割り振られた仕事はこの船のメインコンピュータの整備しかない。後はせいぜいシステムに関する報告書をまとめるくらいで、あまり考えたくないがしょうりゅう有数の閑職と言えた。
 おう、読め読め、という辰五郎の声を流しながら、渡瀬は面倒くさ気に漫画の第一巻を開いた。しばしページを繰る音と、静かな息遣いのみが船長室を支配する。
 五時間後、渡瀬は読んでいた本を閉じて、静かに、だが深い激情を込めて言葉を吐き出した。

「俺の清虚道徳真君が、死んでしまった!」
「渋いととこ突いてきたな、おい」
「何言ってるんですか、恰好いいじゃないですか! 先達として、師匠として弟子たちの未来を切り開くために命をかけて、勝てぬ戦いに赴いていく! まさに男の本懐でしょうに!」
「や、わかるよ。わかるんだけどよ…」

 本当にわかっているのかこの男は! 認めよう、確かに聞仲は素晴らしいキャラクターだった。あそこまで鉄壁の意志と信念を持ったものを、知らなかったとはいえ音占めてしまったのは自分の痛恨事である。しかし、だからと言って道徳を渋いところ、マイナーなどと、そんなことが許されるだろうか!

「船長、ちょっとお話しましょうか」
「誘った俺が言うのも何だけど、お前どんだけ本気なんだよ」

 明日にでも地球の本郷裕貴から、完全版を取り寄せなければならない。というか封神フィールドとか、何それかっこいい。渡瀬はそわそわと辰五郎の頭を右手で掴んだ。
 とりあえず、渡瀬と辰五郎の肉弾飛び交うOHANASIは二時間に及んだことを記しておく。



[29321] PHASE25 あえてがっかりを回るのが通である
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2012/10/01 00:42
 かしゅん、という音とともに、巨大な鉄塊が蒼い光の中に溶け込んでいった。それと同時に、身体が後ろに引っ張られるような感覚がユウナを支配する。緩やかな加速、それと同時にぽん、と軽やかな音が機内に鳴り響くと、天井に設置されていたシートベルトランプが消灯され、数えるほどしかいない乗客たちが思い思いの姿勢を取り始めた。

「うーみーは、広いなー、大きいなー…とと」

 シートの束縛から解放された途端、身体が宙へと投げ出され、ユウナは慌ててバランスを取るべく手足をばたつかせた。と、すぐさま肩に手をかけられ、そのまま壁面に向かって顔面から飛び込んだ。ふごお、と悲痛な叫びが耳奥を抜けて脳まで到達する。

「調子はずれな歌を歌わないでください。耳が化膿します」
「生々しい言い方って結構傷つくよね」

 ぐいぐいと壁窓に押し付けられながらも、何とかユウナはそう絞り出した。強化ガラス一枚を挟んだ眼前には闇よりも濃い漆黒と、それを切り裂くように輝きを持って鎮座する青い球体が存在している。大気圏に落とし込まれたシャトルのブースターを見送りながら、ユウナはシートの端を掴んで先とは別種の束縛から逃れんともがいた。光の軌跡と灼熱の衣をまとった推進機は、やがてその存在を塵芥へと変えて宇宙に帰る。
 オーブロイヤルエアラインが誇る高級旅客シャトル、その中でもファーストクラスに位置する場所だけあって、非常に見応えのある光景だった。だがどうせなら、不安になるくらいふかふかのシートに腰掛けて、宇宙用コーヒーボトルでもすすりながら眺めていたかった。こういう冷たく暗いのは勘弁である。

「あの、そのくらいにしておいたほうがよいのではないですかな? 少ないとはいえ、他の乗客もいることだし」

 顔全体で宇宙と世間の冷たさを味わい、その無情さに涙をこぼしていたユウナにとって、その声と言葉は天上の甘露のごとく暖かだった。先とは違う意味でぼろぼろと涙をこぼし、熱く抱擁中の強化ガラスをぬめりで満たす。

「ああ、優しい言葉って身にしみる…。もっと言ってやってジャン博士」
「こうでもしないと、ユウナ様があらぬ方向に飛んでいってしまいますから。怪我でもなされたら大変でしょう?」
「現在進行形で暴力振るってる人の言葉じゃないよね、それ」

 何か押し付けられる力が増した気がする。しかし同時に、この状況で身体が固定されるということに安堵めいた思いを感じているのもまた事実であった。

「第一、どうしようもないじゃない? 僕、無重力空間なんて慣れてないんだから」

 地球、衛星軌道上。現在ユウナが身を置いているそこは、すでに重力の鎖及ばぬ漆黒の空であった。これまで確固たる力学によって守られてきた自分の幼い肉体は、今そのゆりかごから放り出されたかの如く不確かで、精彩を欠いている。一G下に慣れ切ったユウナにとって、この場所は文字通り身の置き場のない世界であった。

「ふふ、加えて僕の乗り物に弱い体質も合わされば、この日のために整備を重ねてきたナイアガラリバース砲が火を吹くぜ」
「…もし本気でそうなったら、きちんとトイレに行ってください。専用の設備がありますから。念のため申し上げますが、宇宙において気管に物を詰まらせて窒息死、というのはありふれた現象です。くれぐれも、甘く見ないようにしてください」

 ジャンが呆れたように、しかしどこか真剣な色を含んだ眼差しでユウナをちくりと突き刺した。勿論、わかってると言うと、非常に懐疑的な表情が返ってくる。あれ、何か信用なくね?
 アビーが一見乱雑に、けれど非常に繊細なコントロールを持ってユウナを座席に戻すと、自身は見事な舞でもって宙を駆け、ひらりと隣にある自身の席へと戻って行った。
 藍色の着物を着崩すことないその動きは、ほれぼれするほど素晴らしいものである。やはりここら辺でも、ナチュラルとコーディネイターの差は出るらしかった。やれやれと肩をすくめるジャン・キャリーにも、危なっかしい部分はかけらも存在しない。宇宙の果てへ旅立つこと、人類と新たな生命の架け橋となることを望まれた彼ら故、ということなのだろう。

「宇宙こそが故郷、ね。何か納得」

 口の中だけでそう呟き、ユウナは小さく苦笑した。しかしほぼ同時に首を振って、先の言葉を訂正しにかかる。彼らの故郷は宇宙ではない。地上の、南洋の島国でもあるのだ、と。
 肩をすくめて、ユウナはシートベルトをきちんと閉めて座席に座りこんだ。むやみやたらとふわついているよりも、座っていた方がよほど安全であるからだ。自慢ではないが、、頭脳労働派の自分はこと運動に関してはドン亀である。こんな、運動神経抜群のパイロット様の世界に、ユウナは足を踏み入れる気はさらさらなかった。
 ちょっとばかり濡れてしまった舷窓をティッシュで拭うと、青い星の御隣に金色に輝く冷たい弧が見え隠れした。おや、とユウナは身を乗り出してそれを瞳の真ん中に浮かべる。

「おお、お月きさんがこんなに近くに。何て言うか、風流さのかけらもないなあ」
「風流が為されたいのでしたら。いっそ外に出てみてはいかがですか? 放射線下の御団子は、大層美味と愚考しますが」
「まさしく愚行だね。貴様殺す気か」

 アビーが投げてよこした緑茶入りドリンクチューブを加えながら、ユウナはじい、と月を、その煌々と煌めく虚空の大地を眺めやった。地上とは違う飲み物の感触に、少しばかり辟易しながらも、ふうと息をついてまた苦笑する。

「あの子は、元気かな」

 CE六十三年六月、カナードがオーブを去って三年が過ぎ去ろうとしていた。折々で通信を介してだがトダカ一家との繋がりを持っているとはいえ、最後に見えてから随分と時が経ってしまった。子供の成長は早いから、きっと背も伸びていることだろう。

「前回の通信では、元気そうにしていたではありませんか。新しい御友達も増えたようですし」

 新しい友達、つい先日彼らと話した光景を思い出すと、ユウナの頬は自然とほころんで行った。コペルニクスに移住してから最初の通話では、紫紺の瞳を持った少年の話題が上がり、二回目の際に本人と対面した。気性の穏やかな紫紺の少年は、同じくどこか間の抜けたところのある黒の子供と随分仲良くなったようである。
 そして、最近その輪に、翡翠の瞳の少年が加わった話を聞いた。理知的で物静かな彼もまた、あの天然二人組と気があったようで、三人一緒の写真を何枚も送ってもらっている。楽しそうに笑う――一名除く――彼らを見ていると、心穏やかになるのと同時に、自分がそこにいない事実が何とも歯がゆく、悔しい気持ちがふつふつと心内から湧き上がってきて、またユウナの苦笑を誘うのだ。
 …ま、写真の中に、どうしてだかわからないが赤毛の腕白娘が混じってたり、盲目のなんちゃって坊主が映ってたりするのは、御愛嬌…なのだろうか。畜生あいつら、どこで嗅ぎつけやがった!

「ていうかさ、ずるくね? 僕、こんなにも我慢してんだよ? 本当ならこんな糞仕事ほっぽって、すぐにでもあの子たちのとこに飛んでいきたいんだよ? なのに何、あれ。赤毛の悪魔はともかく、どういうことよあの導師。なしていんの? 馬鹿なの? 死ぬの? ていうかセイランのシークレットセキュリティ突破するとか、おかしくね?」

 フレイに関しては、彼女の通う大西洋連邦の幼年学校長期休暇を利用して、トダカ家を訪ねたいということで、一応の報告は受けていた。最近事務次官に出世したことで忙しくなったのか、ジョージ・アルスターの不在が目立つようになったことも、このなんちゃってホームステイを後押しする形になったと、ムルタ・アズラエルとの文通内で聞いていたことでもある。
 ま、あの幼女煽ったのこっちだから、計画通りっちゃあ計画通りなんだけどね! カナードなら月に行ったよー、遊びに行くと良いよー、きっと楽しいよー、と様々な手法でもってフレイの好奇心やらなんやらを燃え立たせた会があったと言うものだ。その効果はそろそろ嫌々感から諦観に代わりつつあるムルタの手紙に、余計な仕事増やすんじゃねえ、という御言葉とともにオブラートに包まれつつもしっかりと記載されていた。おそらく、コーディネイターに良い感情を持っていないジョージ・アルスターに「何とかしてくれ!」とでも泣きつかれたのだろう。それでも愛娘の願いを叶えてしまう辺り、親馬鹿と言わざるを得ないが。

 故に、彼女に関してはなんら問題はない。だが糞坊主、お前は別だ。何だよ、何でトダカ家やヤマト家やザラ家の御近所に、マルキオ教会が建立されてんだよ。おかしくね? オーブの誇る謀略の名門、セイラン家が総力を挙げて隠ぺいしてきたと言うのに、その諜報網に掠ることすらなくそんなものおっ建てるとか、どうなってるの本当に。
 こっちから文句を言っても、「これもSEEDの導きです」としか言いやがらないし。とはいえ、その謎めきすぎた力を子供らの安全のために使うことを確約してくれたので、こちらとしては非常に助かるのは本音だ。本音だが、やはり納得はいかなかった。
 有体に言おう。ユウナはマルキオに嫉妬しているのだ。ずるい、自分もそこに行きたいのに! といった具合にだ。

「考えることは皆一緒、ということでしょう。私だってできるならコペルニクスに行きたいですから」
「この上君にまで置いていかれたら、寂しすぎて号泣する自信があるよ。止めてよ、本当に。ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ?」
「御安心ください。それは迷信です」

 なら行けばいいのに、とは言わない。何だかんだいって彼女との付き合いも長くなってくれば、相手がこちらに付き合って一緒にいてくれていることはおぼろげながらも分かってくるものだからだ。

「良いじゃないですか。どうせこの仕事が終わったら、会いに行くのですし」
「うん、それは超楽しみなんだけど。でもねえ…」

 ふう、と気分を入れ替えるように、ユウナは大きく息を吐いた。くく、と小さな笑い声が漏れ聞こえ、そちらを一瞥する。ジャンがこらえきれないと言わんばかりに肩を震わせているのが見えた。おのれ、何がおかしいこの野郎。
 不満を頬に詰め込んで、ユウナは緑茶をちびちびと喉へ送り込んだ。同時に手元の端末を操作し、目的地までのフライト時間を確認する。

「あと八時間ちょっと。その間何かゲームでもしてようかな…アビー、何かない?」
「こんなこともあろうかと、ウルティマ・モンスターズカードと携帯用対戦端末をご用意しています」
「っしゃばっちこい! 僕の燃えかけ後期高齢者デッキの力、今日こそ思い知らせてくれるわ」
「ハ。ユウナ様ごとき、私のアントワネット・ケーキデッキの敵ではありません」

 言いよったなこの小娘! ユウナはカードゲームへの期待と闘争心を視線に乗せてアビーを貫いた。それに即応するかのように、少女が宙へ浮かび、頭上に備え付けられたダッシュボードから持ち回り用の荷物を取り出す。と、慣性が乱れたのか、目当てとは違う荷物が機内に投げ出された。銀のアタッシュケース、ユウナの満ち込んだ荷物である。
 シャトル天井にぶち当たったそれは、一瞬不自然な制動をかけて、機体全面へゆらゆらと流れ行こうとした。しかしそれに先んじてアビーがケースの進路上に割り込み、その腹目がけて思い切り蹴りを叩き込む。

「…アビーさん。荷物はもっと丁寧に扱いなさい。中身が壊れたらどうするつもりですか?」
「御心配なく。あれらがそんなやわな作りをしているわけがありません」

 あれの中身を知らないジャンは、血相を変えて和服侍女を窘めるが、注意された側は悪びれることなく、しれっとケースを元あった場所へと戻す。ユウナは自分の荷物が蹴り飛ばされたことに苦笑しつつも、中身にとってあれくらいするほうがいいのではないかとも考えたために、何も言わず茶を飲み続けた。
 アタッシュケースを他の荷物の群れに叩き込んだ後、いそいそとカードゲームの用意をしだしたアビーを横目に捕えたユウナは、ふと先ほど起動したフライト状況を表す端末を一瞥した。簡易的に地球圏を表した図に、緑の線であらわされた航路が鮮やかに浮かび上がっている。すっと指で航路を撫で、やがてこれから降り立つであろう到達地を爪ではじいた。

「ユウナ様、準備ができました」
「ようし、それじゃ先攻後攻をじゃんけんで――」
「私のターン、ドローです」
「この駄メイド、何をするだァー!」

 画面に映し出された目的地、それを表しているのは、砂時計を思わせる独特のシルエットだった。ラグランジュ5に浮かぶ、人口の大地にして袋小路と言う名の楽園。
 即ち、プラントである。






 プラント。Productive Location Ally on Nexus Technology――結合的テクノロジーによる生産的配列集合体。それはかつてのファーストコーディネイター、ジョージ・グレンによって設計され、大勢のコーディネイターが作り上げた新世代のコロニー郡である。従来のオニール型コロニーとは一線を画す、砂時計を思わせるような天秤型のコロニーは、強度、維持コストの低さ、コリオリ係数の影響が少なく、また緩やかな自転で一G環境を維持できることなどから、新たな宇宙開発の拠点としてL5宙域に百基近くもの数が建造されていた。
 今、ユウナの眼前にて整然と並ぶ銀の砂時計の列は、まさに圧巻と言っていい威風を持って、暗く冷たい宇宙の海にその身を沈めている。全長六十キロ、底部百六十平方キロメートルの巨体は、見るもの全てに言い知れぬ誇りと自信を見せつけているかのように感じられた。

「あれが、プラントか」

 相対速度を合わせ、センターハブから伸びたドッキングベイに入港しつつあるシャトルの中で、ユウナはほう、と感嘆にも似た吐息を漏らす。空気がないために、距離感覚がつかみにくい宇宙空間でさえ、疑うことのできない巨体が視界を覆う。太陽光を受けて、自己修復ガラスがぎらりと輝いて、自然とユウナは扇子で数度顔を隠した。

「何とも美しい…。コロニーと言うよりも、まるで芸術品のように感じられますね」

 自分と同じく、ジャンもまた舷窓にへばりつくかのようにして、プラントの威容を全身に浴びていた。感動に内震えるその表情は、科学者としての喜びと、美しく巨大なものへの純粋な畏敬を映し出しているかのようだ。

「そういえば、ジャン博士もプラントは初めてだったっけ」
「ええ。私はもともと地球育ちの第一世代ですから。仕事も日常生活も全て地上で事足りていましたので、実はこうして宇宙に上がることさえ、殆ど経験がないんですよ」

 仕事と日常生活、というところに、何やら異様なアクセントが付けられていた。そういえば、アストレイ研究所所長たる彼って、ワムラビ市どころか研究所敷地内からですら滅多に出ない生活だった気がする。今、超忙しいもんね。てへ!
 白皙の顔に、若干血管が浮いているような気もしないでもないが、そこらへん考えると怖いのでユウナは華麗にスル―した。話題をそらすかのように、一人興味なさ気にデッキ構築にいそしんでいるアビーに話を振る。

「ていうか、アビーってプラントの出身だったよね。どう、久方ぶりのプラントは」
「と、言われましても。別に何も。私がここにいたのは五歳まででしたし、周りがコーディネイターばかりというだけで、さして地上と代わりありませんでしたよ。ああ、ですが天気予報は百発百中でしたね」

 そりゃ内部気候は完全に調整されてるんだから、外れようがないだろうよ。というか何、この娘滅茶苦茶ドライなんですけど。こちとらの感動やら得も言われぬわくわく感やらを鼻で笑うかのように、和風少女はトレーディングカードを鷹の目で吟味していた。あ、今のウルトラレアの強力な奴。どうやら勝率ドローだったのがよほど気に食わなかったらしい。

「そもそも、私たちは別に観光に来たわけでもないですから。あまり期待しすぎても、回りきれず不完全燃焼するだけでは?」
「いやまあ、そうなんだけどさ。ちょっとくらいなら時間もあるし。見れるとこはみたいと思わない? ほら、エヴィデンス01とか、名所はたくさんあるわけだし」
「ではセクスティリスツーの素粒子研究所初代所長像などはいかがですか? プラント五大がっかり名所として有名ですが」
「何それ、超見たい」

 五つもあるの、がっかり名所。逆に興味がわいたユウナは、瞳を輝かせてその話をせがんだ。しかしアビーは無表情の中にどこか呆れの色を混ぜ合わせ、肩をすくめるのみにとどまった。

「…ユウナ様、あまり羽目を外されても困るのですが」
「でもさ、ジャン博士だって興味あるでしょう? プラント観光。それに君たちならともかく、ナチュラルの僕にゃ、どうしても行動に制限がついちゃうし」
「それはナチュラル云々ではなく、ユウナ様のお立場故でしょう? 出国の際にあれだけ揉めたこと、よもやお忘れではありますまい?」
「え、何、聞こえない?」

 やれやれ、年をとると耳が遠くなっていけない。ユウナは手のひらを耳に当て、眉をしかめた。まったく、年寄りは耳も記憶力も弱まってしまうのだから、そこらへんは考慮しないとだめだぞ? とジャンに言うと、何故だか重いため息をつかれてしまった。仕方なかろう。年を経るごとにどうしてももの忘れが激しくなってしまうのだ。だから、プラント来訪の際に両親や侍従たちとの喧々諤々の論戦――肉体言語あり――は、ユウナの勘違い、現実にはなかったことである。間違いない。
 …仕方がなかったのだ。ユウナが己の目的を達するためには、もはやプラントを小野ずれる以外に選択肢はなかった。だからこそ、どれほど反対されようと、その意見を封殺し、スケジュール満載なジャンの首に縄ひっかけて連れてきたのである。これから四日間のプラント滞在、割とこの先の未来がかかっていると言っても良かった。

「遅延しているモビルスーツの開発。これ以上の短縮は、彼らの技術を頼る以外に道はないんだもの。どうしようもないね」
「…先にも申し上げましたが、開発計画自体は順調と言えますよ。わざわざ危険を冒してまでプラントの技術を求めずとも、独力でモビルスーツを作りだすことは可能です」
「そうだね。時間さえあれば、それでもよかった。でも、その時間そのものが尽きかけてる以上、荒療治でもやるしかないよ」

 初号機ハウメアから得られたデータをもとに、二号機、三号機と改良に改良を重ねた機体は、確かに無事ロールアウトして、数々の実験をくぐり抜けてはいた。二号機は一号機のできなかった自立歩行を実現し――OS書き換え前のストライクにすら劣るふらふら女の子歩きだが――三号機はバランスの取れた歩行移動やジャンプといったメタ運動野パラメータの劇的な向上――もの持ったら腕取れたけど――が見られている。このまま推移すれば、いずれ実戦に耐えられる機体を開発できることは間違いなかった。
 だが、開発できたとしても、それがヤキン・ドゥーエ戦役に間に合わなければ、無意味、全てが砂のお城なのである。
 悲しきかな地力不足。史実の大戦期オーブ、あるいはプラントのようにモビルスーツ開発を国家プロジェクトに位置付け、国力の粋を集めれば早期開発も可能だったのかもしれない。しかしいかな五大氏族が背後にいると言っても、所詮アストレイ研究所は一民間企業にすぎず、資金力にも、開発環境の整備にも限界がある。そう言う意味では、曲がりなりにも形になり始めている現状は、むしろ十分恵まれているとさえ言えるのだ。

「そのために、オーブ国内での利害調整や大西洋連邦の拝金主義者どもへの根回しをしたんだから。ある程度の成果は、あげたいところだね。まったく、どんだけ金使わされたことか」

 ユウナはちょっとばかり世間様には言えない、御袖に関わることに費やした金額を思い出し、何度目かの頭痛を抱え込んだ。いや、正直自転車操業的なこっちの懐としては、痛いどころじゃなかった。必要経費として割り切ってはいる。いるのだが、やはり自身の財布の痛みはそう簡単に克服できないようであった。
 環太平洋経済条約機構発足に伴って、プラント理事国は極々少量ずつではあるものの、プラントの工業製品の段階的輸出制限の緩和を行い始めていた。輸出入に関われるのは理事国側の指定した特定企業に限っているし、関税もかなりの高水準に定められているものの、これまでの独占状態からすれば大きな一歩であろう。ま、少なすぎと不満の声をあげる国もなくなくはなかったが、あんまりプラント製品が流入しすぎても、オーブ製品と競合して経済的に困ったことになりかねなかったので、こちらとしては現状でも十分であった。理事国みたいに自国の産業構造が壊滅されては困るのである。
 いやあ、セイラン傘下の商社をその特定企業にねじ込むのに、どんだけ苦労したことか。ウナトやヴィンス爺やアビーや自分が、それこそ方々を飛び回って死ぬ気で掴んだ立場だった。正直、あの時の苦労は思い出したくない。グロードは足元見てくるし、ムルタはどや顔だし、ウズミには借り作っちゃったし。ああ、嫌だ嫌だ。だからセレブだの社交界だのって嫌いなのだ。

「…そこまで、なのですね」

 がくん、と衝撃で身体が揺れた。シャトルが星の海から人口の大地へと乗り上げたらしい。アナウンスが放送されると、周囲の乗客たちがベルトをはずし、自身の荷物を取り出し始めた。

「ん、何が?」
「そこまで、危機的な状況なのですね。この世界は」

 ユウナもまた、自身を固定していたベルトを解き放ち、ダッシュボードから手荷物やアタッシュケースを回収する。だが神妙な面持ちとなったジャンは、座り込んだまま、怖いほどに真剣な眼差しでユウナを貫いていた。

「…少なくとも、今のままじゃあ、すまんだろうねえ。どこも、かしこも。後何年もつやら」

 肩をすくめつつも、ユウナはジャンの鋭い洞察力に尊敬の念を覚えていた。彼はユウナのこれまでの行動、モビルスーツに対する期待感、現在の国際情勢から、セイランの総領が何故ここまで無茶をするほどに焦っているのかを正確に察したのだ。
 そう、兵器たるモビルスーツが必要とされる事態、即ち、戦争の時代が遠からず訪れると言う、救いがたい現実を。

「…何故、人はかくも争うのでしょうか。憎しみは新たな憎しみを呼び、戦いは延々と続いていく。大切なものを失ってまで、どうして戦うのか。私には、理解できない」
「人が正義なる代物に固執するからじゃないの?」

 無重力空間であるため、荷物の重みがないのが素晴らしい。どうでもいいが、主人に荷物持たせといて、自分は未だデッキ構築中というのは、侍女としてどうなのだろうか。アビーさんや。ていうかもうついたんだよ。降りるんだよ? 何一心不乱にカード繰ってるのだろうか。

「憎しみが戦争を生む、なんて、世の中そんな分かりやすく出来てるわけないじゃない。世間様ってのは、もっとえげつなく、救いがたく、残酷なもんだよ。憎しみだの、絶対悪だの、そんなもので戦いは起きない。だって、そんな誰もが『悪』と認識できるもんに、多くの人間が付いていくわけないじゃんよ。誰だって正義の、正しい側に付きたがるし、大義というのを重視するからね」

 ことに近代国家の戦争など、正義の名のもとに為されたものばかりであろう。祖国のために、大義のために。『正しい』とは常に血と命を吸って大きくなる概念なのだ。いやあ、非常に救い難い。
 ええい小娘、いい加減にカードから離れなさい。ユウナが抗議の意味を込めて少女の肩に手を置くと、ものすごい視線が返ってきた。人間ってここまで怖い目ができるものなのか、と少しばかり言い知れぬ快感が身を焦がす。

「貴方の志はとても『正しいもの』に思えるよ、ジャン博士。でも、ちょいと歴史を紐解けば――そういう、『誰の目から見ても正しい目的』こそが多くの戦争を引き起こしてきたっていうこともわかると思うんだよね。自国民の幸せのために、故郷を苦渋から救いあげるために、そんな熱い正義こそが、屍山血河を築き上げてきた最たるものだもの。…ジャン博士」

 ユウナはアビーを動かすことを早々に諦めた。仕方ないので、凍りついたように顔をこわばらせたジャン・キャリーに満面の笑みを向けて、小首をかしげる。

「貴方のその思い――あるいはそれこそが、次の戦いの火種かもしれない。そのことだけは、しっかりと把握しておいたほうがいいと、僕は思うよ」

 だからくれぐれも、地球連合に走らないでね。ていうかお願いします。今貴方に抜けられるとユウナさん超御困りになってしまいますの。いや本当に。優秀な工学博士であり、あの三爺含めた研究所勢をまとめられるのは、彼以外にいないのだ。そんな人材に抜けられでもしたら、遅延どころか最悪開発がストップしかねない。
 まあ、彼の高潔な志はとても好ましいものである以上、それを貫き通したいと望むのであれば、ユウナとしても喜んで協力せざるを得ないのだが。ムルタも、トダカも、ジャンも、ベクトルは違えど自分の『欲望』をしっかりと認識して追い求める人間が、自分は大好きだ。
 そして、その欲望が誰に何をもたらすのかを知って、それでもなお追い求める人間には、全面服従してしまうくらい尊敬の念を持つ。だから、彼には知っていてほしかった。
 憎しみの連鎖を断ち切る、その行動の結果がどういうもので、それによって何が起こるのかを。その高潔な思いこそが、新しい戦争を生み出しかねないということを。
 良いも悪いもない。ただただそういうものなのだ。というか、そもそも善だの悪だの罪だの何だの、そんなものを語るほうがよほどナンセンスである。
 知って、納得して、それでも掴んでこそ、栄えるというものではないか。
 ジャンの身体から隠しようもない苦悩と葛藤が漏れ出し始めた。くふ、と笑みが漏れる。悩みこそ至宝、葛藤こそ未来への扉。戸惑いと惑乱の果てにこそ歩むべきものがある。
 ああ、背中をひた走るこの快感がたまらない。人の欲望、希望という名のどす黒い何か。ぞくぞくしちゃう。

「とっても、素敵なことだね」

 そう、とてもとても素晴らしい心持ちなのである。だからアビーさんや、そんなやる気満々な眼で再戦の意志を表明しないでいただけませんか。もう降りるって言ってるでしょ



[29321] PHASE26 もっと、もっと罵って!
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2013/05/29 23:27
 憎しみの連鎖こそが、争いを生む原動力。ジャン・キャリーはこれまでの人生においてその言葉こそが真理であると信じ続けてきた。
 第一世代コーディネイターとして生を受け、地上で、ナチュラルの中で過ごしてきたジャンにとって、憎悪と嫉妬は常に隣に座しているものだった。ナチュラルであった両親からの愛情と、しっかりとした教育方針の下育てられた彼には、宇宙の同胞たちと異なりナチュラルを見下すような思想は存在しない。むしろ隣人を愛し、ナチュラルとコーディネイターが共に手をとって歩む未来をこそ望んでいるほどだ。

 だがそんな世界を夢見るが故に、あるいは生まれも育ちも地上の、ナチュラルたちの中であったが故に、両者の間に埋めがたいほど深く広い溝があることもまた、知りぬいていた。ジャン自身、重力の井戸の底にあって、かけがえのない友人と、それに倍する忌むべき者たちと縁を結んできたことからも、その空虚な絶望は拭いがたく胸の内に存在している。
 ナチュラルたちの嫉妬、コーディネイターたちの驕り、その両方を目の当たりにし、際限なく繰り返される諍いを見聞きしていたからこそ、ジャンは憎しみの連鎖というものに大きな意味を見出していたのだ。

 やったら、やりかえされる。自分が不幸になってなお、周りに優しくできる人間はそう多くない。まして、その痛みと苦しみを己に強いたものに対して、憎悪を抱かないわけがなかった。
 ナチュラルたちは、自分たちを圧倒する力を持ったコーディネイターたちに恐怖し、またその能力によって様々な場面で打ちのめされてきた。コーディネイターたちは、世界の大半を占めるナチュラルたちの容赦ない迫害にさらされ、遠く宇宙の片隅へと追いやられてしまった。
 世界に溢れるのは博愛と平等ではなく、抑圧と暴力。それは人為的、あるいは自然的なあらゆる要素をも燃料にして、暗く冷たい炎を燃え広がらせている。

 その中でもジャンは、己の人生を大きく変えたものとして、S2型インフルエンザをあげていた。多くのナチュラルに死と恐怖を振りまき、そしてさらなるコーディネイターへの嫉妬と憎悪を煽り上げたあの忌まわしき災厄。
 地上を席巻した彼の病は、ジャンから文字通りありとあらゆるものを奪い去って行った。自分を愛し、またこの世界で愛すべき数少ない宝であった両親。気心の知れ、互いに尊敬し合った友人たち。住み慣れた故郷、今日と同じ明日。目を閉じれば簡単に思い浮かべることのできる未来。
 その全ては、もうここにはない。
 そして、何もかも失ったジャンを待っていたのは、昨日までの隣人たちからの容赦のない迫害だった。数え切れぬほどのナチュラルの命を吹き消した死の病、しかしそれは自分たちコーディネイターに対しては何らの力も持たない、単なる対岸の火事でしかなかったのである。

 自分の息子は死んだのに、どうしてあいつらだけが! もしかしてあの病気は、コーディネイターどもが俺たちを滅ぼすためにばらまいたんじゃないのか? 返せ、夫を、子供を、返せ!
 謂れのない罵詈雑言、瞬く間に広がっていく両者の溝。幾度となく彼らに声を投げかけ、話せばわかると信じ続けたジャンであったが、やがてそれは失意と絶望へと代わる。いくら呼びかけても耳を傾けようとしないナチュラルたちに、コーディネイターたちは怒りのままに反撃の権利を行使したのだ。ジャンを含め冷静だったものはその軽挙をとどめようとしたが、その努力はむなしく、住み慣れた故郷は血と恐怖、怒号と悲鳴に包まれた。
 幸いなことに、死者が出る事だけは避けられた。だがそんなことは、ジャンにとって何の慰めにもならない。彼の同胞らが起こしたその一件は、状況の改善どころかそれまで反コーディネイター運動に無関心だった住人をも敵に回すという、無残な結果に終わった。そしてそれまで以上の迫害と暴力の嵐が吹き荒れ、一人、また一人とコーディネイターたちは安住の地を求め故郷を後にした。

 ジャンもまた、身の安全のために移住を余儀なくされた。当初は彼もコーディネイターたちの国家であるプラントを目指そうと思っていたが、ひょんなことから途中で立ち寄ったオーブ連合首長国で民間企業からのスカウトにあったのだ。オーブの指導階級の有力者、セイラン家の家令を名乗る初老の男と、次期当主と呼ばれていた幼い少年によるそれは、その後のジャンの運命を大きく――良くも悪くも。睡眠時間がほしい――変えていった。
 正直、地上を離れることに忸怩たる思いを抱いていたジャンには渡りに船だったとは言える。故郷を追われてもなお、彼の中にはナチュラルへの恨みはなく、ただ暗闇の中を迷走する世界への危機感があった。ちっぽけな力しかなくとも、安易な逃げを選ぶより少しでもそんな未来を回避するために戦いたいという願いもまた存在した。そしてナチュラルとコーディネイターが共に暮らすオーブは、戦場として申し分ない場所に思えたのである。

 オーブはその法と理念を守るものであれば誰でも入国、居住を許可する今の時代希少な国家であった。しかし共に手を携えて暮らす、と言えば聞こえはいいが、実際のところ全てが上手くいっているわけではない。近年の移民拡充計画やワムラビ市計画などで一気にコーディネイター人口の増大したオーブは、潜在的に様々な問題が渦巻いている。
 移民コーディネイターは、コーディネイター居住区とも言えるワムラビ市にこもりがちで、本島のナチュラルや少数の現地コーディネイターたちとの交流を欠いており、その軋轢は年を追うごとに深まりつつある。またそんな中でもその数が増え始めているハーフ、クォーターコーディネイターへの無理解、己の出自を隠す潜在コーディネイターの存在と、火種はそこかしこでくすぶっている状態だった。

 オーブ政府や各氏族たちも尽力しているが、もとより問題は地球圏全体を騒がせるほどに巨大なものだ。簡単に解決するはずもなく、負債と分かっていても次世代に残さざるを得ないほどにその根は限りなく深い。
 だからこそ、自分もまたここで己の理想、信念を試せると思った。今を生きる、そしていずれ生まれてくる子供たちに、少しでも明るい未来を、憎しみのない世界を残すために、自分の持てる全てをかける意味があると考えたのである。

 ――けれど。

 時折、そんな自分の願い、信念が、酷くもろく、そしてあまりにも傲慢ではないかという疑念に襲われることがあった。
 それは、自身の上司であり、あらゆる意味でジャンの想像の斜め上を行く少年の言葉による場合がほとんどだ。
 オーブの貴種であるものの、一見するとどこにでもいるような子供でしかない。だがジャンや、彼に近しい者たちは既に彼の少年を年相応に見る事が出来なくなっていた。知性、態度、何よりもその在り方が、まるで年老い、人生に疲れ果てた人間のものにしか思えなかったのである。

 そして彼の言葉は、態度は、容赦なくジャンの理念を揺さぶってくる。皮肉なのは、彼がジャンの全てを肯定し、後押ししてくれていることだった。自分を認めてくれている者こそが、最も自身の在り方を脅かしているなど、喜劇もいいところではないか。
 彼は――ユウナ・ロマはその在り方によって、ジャンの眼前に濃霧のごとく広がっている。そして今も、すぐそばで。ジャンの瞳を閉ざし、奈落の底へと突き落とさんと大きな鉄槌を下さんとしていた。

「これで君の使役獣は全部攻撃を終了。地獄の若者奴隷化効果で君のライフはゼロだ! ふはははは、僕の、勝ちだー!」
「…何を勘違いなさっているのですか?」
「ひょ?」
「まだ私のバトルフェイズは終了していませんよ」
「な、何を言うか小娘! 君の使役獣は全部攻撃を終了して」
「即効魔法発動! 『パンかケーキか』! 手札を全て捨て効果発動! このカードは使役獣カード以外のカードが出るまで何枚でもドローし、墓場に捨てるカード。そして、その数だけ攻撃力1500以下のモンスターは追加攻撃できる!」

 品のよい調度品に囲まれた、趣を感じさせる室内にそんな声が響き渡る。身を深々と包み込むソファの感触がどこか遠く、まるで自重を思い出させないような、心細い感覚が全身を駆け巡っていた。ジャンはぼんやりと、眼前に座す人物の顔に焦点を置く。同じく黒い革張りのソファに腰をおろしていた壮年の男が、にこやかな商業スマイルの中にかすかな困惑を混ぜ込んでいた。男はガラスの卓に置かれた紅茶を口に含み、どうにか表情の不純物を取り覗こうと試みる。ジャンもそれにならって、同じく茶を舌で転がした。
 本当に、ジャンの色々な物を揺さぶるのが得意な人だ。気の抜けた思考がぽつりとそんな言葉を虚無の彼方へ投げかける。先ほどから必死に緊張感あふれるビジネスを演じようとしていた自分が、まるで道化のようだった。

「いやはや、元気のよい方々ですな」
「…恐縮です」

 商売相手が無駄に気を使ってくれるのが、また無性に辛かった。いっそ「馬鹿にしているのか」と怒ってくれる方が、よほど精神衛生上健全である。
 しかし不幸にして、ジャンも男も、そんな真似などできるはずがないことを知りぬいていた。何せこの空間にカオスをまき散らしているのが、自分たちの中で最も高い地位を有している人物だからである。そう、自分や眼前の男――プラント・マティウス市に本拠を置く大手重工、マティウス・アーセナリー社社長ですら頭を下げ得ざるを得ない人間。

「もうやめて! ユウナさんのライフはゼロよ!」
「ずっとずっと私のターン、です」

 言うまでもなく、オーブ五大氏族セイラン家総領ユウナ・ロマと、その侍従たるアビー・ウインザーである。プラントの国際的な立場に配慮して、あくまでアストレイ研究所のトップとしての、いわば私的な来訪という形をとっているものの、本来であれば彼は国賓待遇の扱いを受けても何ら不思議はない人物だ。いかな企業人としてプラント有数の力を有していようと、こんな人間に頭ごなしの説教をする勇気は、残念ながらこの場には存在しなかった。故に、部屋の片隅でカードゲームなどに興じる子供たちは、室内の空気などお構いなしにぎゃあぎゃあと闘いに熱中し続けている。己の立場を宇宙の果てに放りだしたかのような姿に、ジャンは頭痛をこらえきれずこめかみを強くもんだ。
 そもそも、これは本来貴方のするべきことだろうに。プラントの各企業を回る前に、ジャンがユウナに向かって吐いた台詞を今一度心内だけで再生する。

「じゃ、プラントでの交渉はジャン博士に一任するから。後よろしく」

 は…? と疑問の声を洩らしてしまった自分に、決して責められるべき罪などないと今でも思っている。リニアエレベータから見下ろせる、箱庭のようなプラントの景色に魅了されていたユウナ・ロマは、こちらが己の意志を把握し損ねていると察してもう一度、似た意を言葉として紡ぐ。

「いやだから、ここでの交渉事は、全部貴方にやってもらうよって」
「何をどうしたらそういう結論になるのですか?」
「むしろ僕を矢面に立たそうとすることに驚きを感じるよ」

 何を言っているのだろうか、この人は。名実ともにアストレイ研究所の頂点であり、セイラン家の総領である彼が前に立たずして、誰が立つと言うのだ。そんな感情を白皙の顔にありありと浮かべると、いやいや、とユウナ・ロマは苦笑を滲ませて肩をすくませた。

「よろしい、ジャン博士。まずは僕をじっと見つめてみようか。どう見える?」
「どう、と言われましても。ユウナ様としか」
「そう、ちょっぴり小生意気なプリティショタぼーいしかおりませんことよ」
「ユウナ様、言ってて悲しくなったりしませんか?」
「アビーさんや、ちょいと黙っててくれませんかね。…つまり、ぴちぴち十二歳のユウナ御爺さんしかいないよねって話だよ」

 なるほど。とジャンは少しばかり痛むこめかみを押さえつつ、大きなため息を吐いた。それなりに付き合いも長くなった自分たちは、彼が子供の外見をした糞外道と承知しているが、初見の相手ならば色々と『誤解』してしまっても無理はあるまい。そしてそうした『誤解』の隙をついて、己の望む結果の果実をくすねることを好むユウナだからこそ、自身が交渉という場に出ることの有利不利を常に天秤にかけているのだろう。

「すると、今度のものは御自身が出ない方が得になると判断されたと言うことですかな?」
「手品って種を知られちゃったら面白くなくなるんだよね。何、心配しなくても事前交渉で契約内容はあらかた決まってるから、貴方はにこにこ笑って「よきにはからえー」と言ってりゃいいだけだし」

 つーわけで、よろしくね。そんな軽いノリで告げられた台詞に、ジャンは万通りの異議を返したかったが、同時にこれが半ば命令であり、反駁することの無意味さも理解していたため、大きなため息を一つ洩らすのみだった。

「――では、取引は成立、ということでよろしいですかな?」

 対して遠くもない過去に沈んでいた意識を引き戻したのは、マティウス・アーセナリー社社長の言葉だった。ジャンははっと視線を眼前の男に戻し、取り繕うような笑みを浮かべて、その右手を差し出した。

「ええ、今後ともどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、御付き合いの程、何卒お願いしますよ」

 互いにビジネス用の笑みをひらめかせ、固い握手を交わす。とりあえず上手くいったみたいで何よりである。胸をなでおろしたくなる衝動を抑えながら、ジャンは今回結ばれた契約内容を、今一度視線でさらりと撫でた。
 マティウス・アーセナリー社は鋼材加工に優れた企業である。そのため契約にもこの企業独自の工作機械や複合金属精製、加工技術のライセンス取得が多く盛り込まれていた。以前からコーディネイター系職員の営業やら何やらを使い、水面下でこそこそと取引内容を煮詰めていたためか、価格交渉や商品内容にも大きな齟齬もなく、互いに満足――というか妥協できる範囲に収められている。というか、身も蓋もない話をすれば今行っているジャンとマティウス社社長との契約合意ははっきり言ってポーズというか、セレモニーみたいなものだった。実際の契約はかなり前の段階で、実務担当者によって決められているため、今更ジャンやマティウス社長で条件をさしはさむ要素もない。

 正直、ここまで用意周到に事を進めておいて、いざプラントとの取引を理事国側から認められない、等ということになっていたら、どれほどの損害とユウナの絶叫が上がったかわからなかった。ジャンは訪れなかった未来をしばし幻視し、すぐさまそれを頭から追い払った。
 ひとまず、無事に終わったことを喜ぼう。この後もまだまだ似たようなことをせねばならない茶番が目白押しなのだから、精神力を消耗するような真似は避けなければならない。
 本当に、これでいいのだろうか? 時折首をもたげる疑念が湧き上がるのを抑え、ジャンは最後に、これだけは、とユウナより厳命された仕事をこなすことにした。

「しかし、さすがは世に名高いマティウス・アーセナリー社。見事な技術ばかりですね」
「ははは、恐縮です。これも社員らの努力のたまものと言ったところでしょう」
「羨ましい限りです。我が研究所の職員も日々切磋琢磨しておりますが、玉は多ければ多いほどよいこともまた事実。貴社社員の方々ほどの人材が訪れてくれたなら、どれほど心強いことでしょう」

 露骨な引き抜き宣言ともとれる台詞に、社長の瞳がほんの少しだけ細められた。だがすぐさまそんな意図などないことを継げ、締めくくりとしてジャンは、プラントで活躍するある研究者をアストレイ研究所に迎えたいとする旨を彼に伝えた。

「ほう、キャリー博士ほど方がそうまで御認めになる人物とは。どのような方なのですかな?」
「私も直接はお会いしたことはありません。ただ、その方の専門知識が、今の我々には必要だと思えましたので」
「なるほど。…よろしければ、御名前を伺っても?」

 興味を引いたのか、社長がやや身を乗り出して顔を近づけてきた。ジャンは努めて澄んだ笑みを浮かべ、ユウナから聞いていた名前を彼の前に差し出す。この名を、彼を含めこれより訪れる各社のトップたちに聞かせる事、それが自分のボスが求めたことだった。

「ジャン・カルロ・マニアーニ。そう耳にしております」



[29321] PHASE27 おじさんは、まほうつかい、だからね!
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2013/05/29 23:36
「仕事がひと段落したら、思う存分プラント観光ができる。そう思った時が僕にもありました」

 暮れなずむ街の中、ユウナは一言ぽつりとつぶやいた。

「御一人でたそがれブルース気取られるのなら、それはそれで結構ですが、その前にクレジットカードと暗証番号だけはきちんと渡してください。買い物ができないじゃないですか」
「貴様小娘、何を勝手に他人様の金で豪遊する気でいるのか! ていうかそれ犯罪だから。カード使えるの本人だけだから」
「冗談に決まっているでしょう? 御心配なさらずとも、買い物の類は全てセイラン家とアストレイ研究所の経費で賄ってますから。ユウナ様のカードなんていりませんよ」
「ヘイ、待とうぜ駄メイド。するってーと、今貴様が貪っている三段アイスクリームとクッキーサンドも経費で落とす気なのかい?」
「他人様のお金でもない限り、こんな馬鹿馬鹿しくなるくらい御高い菓子を食べるわけがないでしょう。全く、これだからブルジョワは」
「貴様やはり確信犯か!」 

 畜生、ならどうしてユウナの分も購入してくれなかったのか。明らかに自分のような前世小市民な人間が二の足を踏むような店でほいほい買い物をしおって。まあ彼女が自身で稼いだ金だし、でも豪快な給金の使い方するなあ、と半ば呆けていた自分が馬鹿みたいではないか。くそう、経費で落ちるんなら自分も遠慮せずに盛大にやらかしておくんだった。夕暮れが目にしみるぜ。
 身体の奥底に澱のごとく溜まった疲労をため息として思い切り吐き出した。ぺろぺろと可愛らしい舌を出して三段アイスを攻略中の和風侍女から目をそらすように、ユウナは限りある天を仰いで目を細めた。紅い。逢魔が時の紅炎が世界を焼きつくさんとその舌でぺろりと舐めとっているかのようだ。
 ゆっくりと、視線を地に戻し、やがてそれを眼前にそびえたつ、白の裸身を熱く染め上げていた英知の塔へと突き刺した。そこには数多の人間が行きかい、一日の終わりが近づいているとは思えぬ活気の体を見せている。
 マティウス・アーセナリー社含めいくつかの企業を周り、数日にわたった殺人的なスケジュールを終了させたユウナらオーブ一行は、せっかくプラントに来たのだからと少しでも元を取るべく名所観光に乗り出そうとした。アビー・ウインザーお勧めのがっかり観光地を巡らんと気炎を上げたユウナは、明らかドン引きのジャン及びオーブ大使館員の方々の視線もなんのその、いざ気合を入れて御当地巡りへ行かんと欲し――見事に挫折したのである。

 理由は簡単、プラント評議会からのストップだった。

「何をするだぁー!」と叫んだものの、プラント側から派遣された職員は冷たく「規則ですので」と返すのみ。ユウナは泣いた。かつてヴィア・ヒビキに合うためにセイラン家で巻き起こした駄々っ子クライシス並みに暴れに暴れた。アビーの上段回し蹴りを叩き込まれて気を失わなければ、それはもう酷いことになったこと請け合いのレベルであった。
 もっとも、どれほど泣こうが喚こうが、あちらの決定は覆りなどしなかったろうが。

「わかっちゃいるんだけどねえ。感情が納得しないっつーか、損した気分っつーか。もったいない。超もったいない。毎日毎日大使館に缶詰めで、食事もありきたりというか、味気ないものばっかりで。これくらい大目に見てくれても、罰は当たたらんと思わんかいね?」
「ええ、そうでしょうね」

 ジャンがものすごく疲れた顔で同意する。白皙の顔は常よりもなお青く、涼やかな眼もとは今や見る影もなく血走って充血していた。非常に鋭く殺意すら感じられそうな視線が一身にユウナへ注がれているのは、おそらく気のせいであろう。うん、そうに違いない。
 ごめん、ちょっと駄々こねすぎたかもしれない。

「おまけに素敵な護衛さん付きとは。いやあ、至れり尽くせりだね、はははのは」
「きゃー、さすがユウナさま、びっぷー」
「君の棒読みも麗しいよ、さすがアビー。あとそっちのクッキーサンドちょいとおくれ」
「触った瞬間、息の根を止めます」
「どうしよう。もうオブラートに包むことすら止めつつあるんだけど、この駄メイド。つか君今アイス食べてんじゃん。ちょっとくらいおくれよ…ってああ、貴様そんなにがっつくなんて! ちょっと皆さんどう思いますこの小娘! ひどくね!?」

 思わず黒服、サングラスの護衛という名の監視員三人組に振ってみた。無視であった。如何にもすました感じで、「あ、私ら空気なんで。そこんとこ分かんないっす」といった有様である。お前ら名目上でも護衛なんだから、ちょっとは護衛対象援護したらどうなのよ。
 そう思いつつも、ユウナはそれ以上何も言わず、ただため息をつくだけにとどめた。プロ根性で後光が差しそうなほどに見事なポーカーフェイスだったが、彼らが内心こちらのことを快く思っていないことは、何となくだが察することができたからである。おそらく、ナチュラル風情が面倒事に巻き込みやがって、とでも思っているのだろう。
 ユウナは改めて、ごねにごねまくった挙句、せめてこれだけはと土下座までして勝ち取った、唯一の観光スポットを視界に収めた。プラントの名所の中では、もはや取り上げる必要すらないほどありきたりの場所で、同時に抜群の安全性を誇る施設であったからこそ、許可されたのであろう。というか、ここ以上にセキュリティがしっかりした場所など、プラントにはおそらくあるまい。
 なにせここは、このコロニー、アプリリウス・ワンの象徴にして、プラント行政の中枢。最高評議会本部なのだから。

「エヴィデンス01とか。本命も本命すぎて、逆につまらなそうだけれども、いけないよりはまし。超まし」
「ユウナ様、他人様の趣味をとやかく言う気はありませんが、ネクロフィリアとかはさすがの私もドン引きですよ」
「とりあえずその発言は全世界の考古学者や歴史学者に土下座すべき発言だと思うよ」

 おのれ、結局クッキーサンドもかけら一つ残さず平らげおった。分かってはいたけれど、もうちょっとこう、他人を思いやるとかできないのだろうか、このお嬢さんは。
 主に精神的な毒を吐息として放出し、ユウナは正面の階段を上り、この見るもの全てを圧倒線とする建築物の腹に飛び込んだ。
 ふっと、空気の流れがユウナの頬を撫で抜けた。前髪が流れ、わずかに目を細める。
 エントランスエリアは、巨大な吹き抜けの空間が広がっていた。床は鏡のように磨きあげられ、さほど強くない光源を煌びやかに飾り立てている。全面には三対六枚の、黒曜の光沢を持つモノリスが、まるで来るもの全てを笑み歓迎しているかのように直立していた。様々な服装の者たちが行きかい、立ち止まり、歓談を楽しんでいる様子が、この位置からでも広く見通せる。

 このエリアはプラント評議会議場であると同時に、一般にも開放されたポピュラーな憩いの場であることでも知られていた。ぴしりとした制服を着込む者、私服でうろうろするもの、秩序を司る地でありながら、ある意味混沌とした様相を呈している様相は、しかしどういうわけか矛盾を感じさせない整然さもまた有しているように見える。
 不思議な場所。そう、不思議としか言い表わせない場所のように思えた。
 そして、ユウナは見上げる。
 この得も言われぬ気を纏わせる地において、ひと際強く輝いている、一つの強大な存在を。

 それは、矮小なるヒトを嘲笑うかの如く優美。あまねく星の海を軽やかに踊りゆく力強さ。

「なるほど、これが、この世界の象徴。世界そのものってやつだね」

 エヴィデンス01、宇宙クジラの化石。そう呼ばれるものが、そこに鎮座していた。
 ほう、と思わず感嘆の息が漏れた。こういった不思議生物にさほどの驚きはないとはいえ、やはり得も言われぬ存在感がユウナを圧するかのように迫りかかってきている。無限に広がる宇宙の果て、未だ人類の手に収まりきらぬ可能性の証。なるほど、昔の人間がこれに魅せられ、未来を夢見てしまった気持ちがわかると言うものだ。

「………あるぇー」

 そう、わかるのだが――。

「なんだっけかなー…」

 何故か、引っかかる。月並みな表現だが、喉に小骨が刺さったかのごときうっとうしい違和感が、ユウナの脳にこびりついて離れなかった。

「これが、宇宙クジラ…。何と素晴らしい」

 隣で同じく感動しているらしきジャンを一瞥し、再びエヴィデンス01を視界に収める。やはり、何かがざわついていた。形容しがたい不快感が口の中で苦みを発しているかのように、ユウナは僅かに唇をゆがめる。

「どうかなさいましたか?」
「いや、どうもしちゃいないんだけど。…何かな、すっごい引っかかるんだよ。既視感…って言うのかな。昔…どこかで…」
「……それはそうでしょう。この干物は、世界的に有名なものだそうですから。むしろ、今まで生きてきてこれを見ないで済んでいる方が奇跡です」
「干物て、あーた…。いやまあ、そりゃそうなんだけど。ていうか、かなり棘のある言い方してるけど、ひょっとしてアビー、宇宙クジラ嫌いなの?」

 気のせいではない、それは確かだ。だがどれほど頭を働かせても、現状では回答を得られないのもまた確実だった。仕方がないので、一度結論を棚上げし、ユウナは無表情な――しかしどことなく不機嫌そうな少女の顔を覗き込んだ。

「はい、嫌いです」
「こりゃまたきっぱりと」

 いっそ清々しいまでの即断ぶりに、思わず苦笑が浮かんだ。声を落としているのは、おそらく宇宙クジラに対して感無量となっているジャンへの配慮なのだろう。自分の発言で、せっかくの彼の感動に水を差すことを嫌ったのだ。そのおかげか、若き碩学は白皙のその頬を僅かに赤らめ、エヴィデンス近くに掲示されている、ジョージ・グレンの木星探査紀行を熱心に読みふけっている。こちらの会話が耳に届いた様子は見受けられなかった。
 まあ、代わりにすぐそばにいる監視役兼護衛のコーディネイターたちが、若干身じろぎした気もするのだが、それは放っておいても問題あるまい。
 ふーん、と一息つき、ユウナは三度宇宙クジラを正面に捉えた。初見で美少女に嫌われるとは、何とも残念な魚である。ひょっとするとこの宇宙クジラは、世に数多ある悲しき生存競争の敗者のなれ果てではあるまいか。生命の営みを経験せず、今なおその生きざまを晒しものにされているとは、不遇、真に不遇な魚生である。ユウナは思わずその境遇に、静かに涙を流した。

「喪男ならぬ喪クジラ…泣ける!」
「……ここはどう考えても、何があったの? とか空気読めない発言をするところでしょうに。完全スル―とは、さすがです、ユウナ様」
「ほいほい他人様の触れてほしくないとこに土足で踏み入るような真似はしたくないんでね。友情とはぶつかり合いだ、なんて相手の感情まるで無視みたいな厚顔無恥さは、僕にゃないよ」

 自分の好奇心で、相手を不快にさせるようなことはしたくない。思い出す、語るということは、それだけ「かつて在った出来事」を明確にさせる行為なのだから。
 そう言うと、アビーはただ一言、そうですかと発するだけだった。残念ながら、そこには優しいユウナ様かっこいい! とかそういう尊敬の感情は微塵も感じられない。本当に侍女冥利に尽きぬ娘であった。

「まあ、こんな喪クジラのことなんて、どうでもいいですから」
「スル―してたと思ったら、貴様さては気に入ったな」
「ええ、とても気に入りました。魔法使いクジラでは、少々呼び方が長いですから。今後はその呼び名を定着させていこうと思います」

 どんだけエヴィデンス嫌いなんだ、この娘? 喜々としてクジラを貶める彼女の姿は、少々ねじくれた情念を感じさせずにはいられないものがあった。何があったのだろうか。聞く気はないが、やはり気になるのが人情というものであろうや。気のせいか、喪クジラがいささか煤けて見えた。

「…そんなに嫌いなら、とっとと次いこっか?」
「次? 次なんてユウナ様の辞書にはありませんよ?」
「さりげなくヒトの人生全否定しなさんな。観光じゃなくて、ご飯のことだよ。近場なら食べるところ、こっちで決めていいってさ。きちんと予約、申請しなきゃいけなかったけど」

 決めると言っても、あらかじめオーブ大使館がリストアップした、信頼のおける店の中から選ぶというだけにすぎないが、それでも大使館に閉じ込められて、寂しく物哀しい食事、何てことにならないだけ遥かにマシと言えよう。やはり物事は何でも言わなければ始まらないのである。

「いやあ、プラントに来たら一度食べてみたかったものなんだよねえ、ちょいと楽しみだ」
「食事に関しては宇宙、いいえプラントで期待できるものなんて、殆どないと思いますけれどね。ただでさえ自給できないのに、つい先日まで深刻なエネルギー不足だったのですから。後でがっかりしても知りませんよ」
「ああ、例のブルーコスモスのテロ事件か。エネルギー生産部門が、相当の被害を受けたんだっけね」

 おかげでプラントは理事国側の資源供給ノルマを果たしきれず、それどころか事情を汲み取ろうともしない大国に業を煮やしたプラント技術者たちがサボタージュ、いい加減にしねーと独立すんぞ、あんだとそっちがその気ならやったんぞゴルァと理事国のモビルアーマー艦隊まで出てくるとか言う、非常に愉快な展開に発展した。今のところは鎮静化しているようであるが、水面下ではきっと激しいつばぜり合いが繰り広げられていることだろう。そういや史実では、ザフトの前身である黄道同盟が活発化する時期だったような気がする。いやあ、ぎすぎすですなあ。

「まあ、それならそれでもいいんだけどね。仕掛けさえ十分ならば」
「…餌まきは十分、ということですか?」
「さて、それは結果を見るまではわからないね。蒔かぬ種は生えませぬ」

 肩をすくめて苦笑する。とりあえず未だ興奮状態のジャンを呼び戻し、ユウナはくるりと巨大化石に背を向けた。それでも、やはり、何か離れがたく、後ろ髪を思い切り引っ張られるような感じがして、苦い笑みがさらに濃くなる。

「…気にしても、仕様がないのだけれど」

 踏ん切りをつけるかのように、もう一度だけ彼を見る贅沢を、自分に許した。ぱちり、と大きな瞬きをする。
 クジラの虚ろな瞳が、じっとこちらを見ているようだった。まるで、何かを訴えかけるかのように。



[29321] PHASE28 困った時ー。ミミズでクジラ釣っちゃった時ー
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2013/05/29 23:42
 数多の泡沫が生まれては消える。
 あふれ出て天へと消える霞を見つめながら、ユウナはただ静かにその時を待っていた。ぐつぐつと煮えたぎる音が軽やかに踊る以外は、しんと静まり返っており、その個室は程良い緊張と硬度で満たされている。同じ卓に着くジャンとアビーもまた、水面のような面持ちでもって、それを静かに見守っていた。

「…そろそろ、いいんじゃないの?」
「いいえ、まだです」

 丸い大きめの卓の中心には、一つの鍋が置かれていた。蓋をされているため未だ中身を拝むことはできていないが、ふわりと湯気とともに鼻をくすぐるその香気は辛く、空っぽの胃をぐっとわしづかんで離さない。手を伸ばしたくなる誘惑をぐっとこらえて、ユウナはただその時を待ち続けた。

「…今です」

 時間にすればさして経っていないのだろうが、無限の果てにさえ行きつきそうなほど長く感じられたその閉塞は、アビーの小さな一言によってようやく終わりを告げる。素早く閃いた腕が、鍋蓋を取り除いた瞬間、一面を覆うかのような白の霞が部屋中に待った。
 おお、と感嘆の声を漏らしたのは、果たして自分がジャンか、あるいは両方か。いずれにせよ、些細なことである。
 美しく盛り付けられた野菜、海鮮物がしなやかなる艶姿で横たわっていた。

「プラントの海鮮ジョンゴル鍋。一回食べてみたかったんだよねえ」
「いやはや、プラントでこれほどの物が食べられるとは。正直驚きました」

 アプリリウス・ワン居住区にある、知る人ぞ知る名店。その中でも今密やかな人気を誇っているのが、この海鮮ジョンゴル鍋であった。まだブームというにはほど遠いが、それも時間の問題と通の間ではもてはやされている一品である。

「仕方ないとはいえ、宇宙ってあまり手の込んだご飯って出ないもんね。特に、自給自足のできないここでは、なおさらだ」
「…その状況でもこれだけのものが食べられることを、喜ぶべきなのか、あるいは悲しむべきなのか」
「思い切り飴でできた首輪だしねえ。ま、観光客的には喜んでいいんじゃない? ご飯は不味いよりも美味しいことに越したことはないんだから」
「…御二人とも、鍋の最中に無駄話とはいい度胸です。とっととこのエビをあげてください。堅くなってしまうじゃありませんか」
「おおっと、こいつは失礼、鍋奉行様」

 有頭エビを思い切り口に突っ込まれた。「ひぎぃ! あぢゃあ!」と甲高い悲鳴とともに、口の中でドラゴンが思い切り暴れまわった。椅子から転げ落ちそうになりながらも、必死にバランスをとって、空気を口の中に取り込んでエビと舌を冷まそうとする。

「御鍋の最中に暴れるとは、本当にいい度胸ですね、ユウナ様」
「君の優しさが熱すぎて辛い」

 ジャンが気を利かせて差し出してくれた水を思い切り飲んで、一息つく。きんきんに冷えた水が、痛めつけられた舌を覆い隠し、涼やかな癒しを与えてくれた。少しばかり身体を弛緩させていたユウナの前に、ことりと小さな器が置かれる。エビや豆腐といった、鍋の具材が綺麗に盛りつけられ、湯気を放っているそれをまじまじと見つめ、ゆっくりと両の手で持ち上げる。

「さっさと食べてください。冷めてしまいます」

 アビーが別の器に盛り付けを行いながら、それはもう凍りつきそうな瞳でじっとこちらを見ていた。なんだかこの視線にさらされるだけで、暖かな御鍋もたちまち冷や飯に早変わりしそうな気がしてならない。冷たい飯はそれはそれ乙なものではあるが、今はぐつぐつと煮える彩り豊かな食材を貪るべきところであろう。ぞくぞくっ、と言いようのない快感に背中をふるわせつつ、ユウナは箸を進め始めた。ちなみに食器は箸とナイフ、フォークと多様な文化圏に備えているがごとくきちんと用意されている。プラントはコーディネイターの国、等と一口に言われているが、その実ばりばりの多民族国家であることを忘れてはならない。洋の東西を問わず、地上から脱出を図ってきたコーディネイターたちの最後の楽園、その名はだ手でも酔狂でもないのであろう。

 しばし、沈黙が湯気を纏ってその場にたゆたった。鍋奉行侍女の見事な差配によって、食材は頬をほころばせるに足る美味へと昇華している。ああ、やはり三度の飯は幸せを運んできてくれる。

「ところで、ユウナ様」
「ヒトがそこはかとなく浸っている時に、何でございましょう?」

 ずい、と差し出されたお代わりの器を受け取って、ユウナは小さな苦笑と共にアビーを見やった。

「いえ。そちらの器は、どうすればよろしいか御伺いしたいだけです」

 ああ、器。あつあつの豆腐に箸を入れたユウナは、ちらりと卓の片隅に置かれた二人分の食器類に視線を向ける。この部屋に案内されたときから、あらかじめ用意されていたものだ。人数も事前に伝えていたし、普通に考えればこれは店側のミス、あるいは配慮としてもよいのだろうが――彼女はそう考えなかったらしい。

「これは後から来る…かもしれない御客人用なんだろうね。多分」
「随分とあいまいな御返事ですね」
「そりゃあね。そうなるといいな、とは思ったけど、実際うまくいくかわかんなかったし」
「…例の、ジャン・カルロ・マニアーニ氏のものではないのですか?」

 ぽつりと呟かれた言葉に吸い寄せられるように、二人の視線がジャンに集った。彼はすっかりオーブ文化に染まりきったことを証明するかのように、巧みに箸を操りエビの皮を丁寧に向きとっていた。目線こそエビに釘付けながらも、こちらの動作を意識しているのか、気にせず彼は己の疑問を舌に乗せる。

「行く企業行く企業で、その名を口にし続ける。それがユウナ様から与えられた指示でした。これは、その行動の何がしかが実った、と考えてもよろしいのでしょうか?」
「確証はないけれど、ね。そうであれば、プラントくんだりまで来たかいがあったというものだよ」
「…やはり、本命は別にありましたか」

 ふう、とどこか重々しいため息を吐いて、ジャンはつるりとした滑らかさを見せるエビを口に放り込んだ。本人としては真面目なのだろうが、鍋つつきながらすると非常にこう、シュール極まりないものがある。まあ、そちらのほうが、自分たちらしくて非常に良い感じであろうが。

「まさか。本命は間違いなく、これまで回った企業郡との顔合わせと、各種技術、工作機械の確保、そして貴方に色々な経験を積んでもらうことさ。こっちのは、ほぼ賭けと言っていいもんだからね」
「ですが、それ故に重要度は前者よりもはるかに大きい、でしょう? いい加減、私も貴方という人物というものが分かってきたところです。大方、我々が訪れる前に、あらゆる手段を持って今日、この場を整えていた。ジャン・カルロ何某も、私の行動も、全てここにつなげるための布石。違いますか?」
「割と違わない。僕、賭けごとって勝つ方が好きな人間だし」
「負けることを好む人間など、いないと思いますがね」
「いやいや、人間の性癖の奥深さを舐めちゃあいけない。世の中真正さんっつーのはいるもんよ?」
「さすがはユウナ様。すばらしい説得力です」
「いやですわアビーさんったら。そんなに褒めないでくださいな」

 あはは、うふふ、と非常に白々しい笑いがしばし飛び交った。おのれ小娘、いつか必ず思い知らせてくれる。下剋上万歳。

「そういう腐った冗談は置いておくとして。ともかく、賭けをする以上、でき得る限り勝てる状況を作るのは、そんなに不思議でもないでしょう。それで得られるものを考えれば、特にね」
「得られるもの、ですか。それはやはり」
「最初から言ったとおりの事。この一件に関して、僕の行動は首尾一貫していると自負してるよ」

 ジャンは大きなため息をついた。どこか諦観さえ交えているそれは、鍋の煮える音にかき消されることなく、ユウナの耳に届く。その心内に渦巻いているのは、苛立ちか、絶望か。彼ではない自分には、きっとわからない。

「モビルスーツ」
「『彼ら』の協力が得られれば、研究は飛躍的に進む。そうすれば、何とかこの均衡の破綻までには間に合うでしょう。まあ、その分『彼ら』にも力をつけさせてしまうのだろうけれど…僕たちとしては、さして問題はないよ。何せここは、遠いからね」

 『彼ら』の強大化はプラントの強大化に直結する。それは同時にプラントのモビルスーツ開発を加速させてしまうことに他ならないが、少なくとも現状ではオーブにとってさほどの不利益にはなり得なかった。プラントは遠い。文字通り宇宙の果てにある国である。どこぞの大西洋の巨人や強欲な北極グマ、腐ったパンダ等と違い、地上にさしたる領土的野心もなく、むしろ不干渉を望んでいる節すらあった。よほどの外交的悪手を打たぬ限り、直接的な衝突は起こりにくかろう。
 むしろ、強大になることで、あの大国三人衆を引きつけてくれたほうがよほど国益にかなう。であれば、ユウナにとって戸惑う必要もなかった。
 そう、ユウナにとっては、だ。

「納得できない。そんな顔だね」
「開発に携わっている人間が思うことではない、とは思います。ですがそうなることによって、おそらくより多くの血が流れることになる。私はそれが許容できない」
「そう? 携わっているからこそ、そう思うというのもあるだろうけれど。それに、世の中やっていることと思っていることが違うなんて、往々にあることじゃない。むしろ何一つ迷わず、何一つ悩まず、信念を持って突き進む、なんて方が、僕には疑わしく思えるね。なにより、面白くもない」

 葛藤する姿は眩い。悩み惑う姿は美しい。故にユウナにとって、ジャンの姿は何よりも尊いものに映っていた。工学者として、誰かの役に立つ機械を生み出すことは大いなる喜び。だがその喜びが、同時に数多の人々を傷つけるものとして使われることが、何よりも辛く腹立たしい。彼の姿が、気配が、それを主張してやまなかった。
 嗚呼、何と素晴らしいことか。

「私は、貴方のそういうところが、趣味の悪い部分だと思っています」
「僕はとても良い趣味だと自負してるんだけどねえ。はははのは」
「だから一部から蛇蝎のごとく嫌われているんですよ」

 アズラエル氏とか、トダカ三佐とか。そう呟いて肩をすくめるジャンに、ユウナは苦笑するしかなかった。あれ、どうでもいいけど、ムルタはともかくトダカにはそこまで嫌われていないと思っていたのだけれど。え、もしかして想像よりもずっと嫌われてんの? 少しだけ嫌な思考が脳裏をよぎったが、首を振ることで無理やりそれを外へと追い出す。

「思考の混沌は悪いことではないよ。あれはこうだから、こう! とか、そういうのって結局のところ、他者への押し付けでしかないもの。人には人の考えがあり、それは他者に迷惑をかけぬ限りにおいて、尊重されるべきものだ。貴方には貴方の考えがある。僕には僕の考えがある。それ以上でも、それ以下でもない。そこに何ら意味などない」
「意志はぶつかり合うことでさらに発展していくものです。私は、私の意志を、憎しみの連鎖を止めることを諦めたりはしません。そして、それを為すためならば、誰かと戦うことさえいとわない」
「言ったよ。それもまた尊重されてしかるべきものだと。戦わせたいなら、戦いなさいな。誰も戦うな、なんて言ってないんだから。意味はないだろうけれどね」

 くすり、と笑みが漏れた。この世界に意味も理由も存在しない。ただ自分がそうしたいからそうする。以上も以下もなく、ただそれでいい。
 かつて史実において、キラ・ヤマト少年が発したあの言葉。アラスカ撤退戦で負傷し息を引き取ったザフト兵に告げたあの意志。何故自分を助けたかという問いに向けられた答え。

「そうしたかったからです」

 これこそ真理。理由など不要。意味など塵芥。ただただ自らの欲望のままにふるまうことこそ、最高の望みだ。
 とても心地いい思考の海は、唐突にもたらされたノックによって、たちまち夢幻のごとく消え去った。誰何すると、気弱そうな、妙齢の娘が恐る恐る顔をのぞかせた。この店に来た時、自分たちを案内してくれた店員のお嬢さんである。亜麻色のボブカットが可愛らしい彼女はこれ以上ないほどに表情を慄かせ、震える声音でもって待ち人の来訪を告げた。

「お、御連れの方々が到着されました」
「うん、釣られてくれたみたいで何よりだあね。どうぞ、連れてきてくださいな」

 はい、と引きつった返答を返した店員は顔を引っ込める。さて、撒き餌は上々、エビが釣れるか鯛が釣れるか。口の端を思い切り釣り上げる。
 そして、彼らが現れた。

「いやいや、遅れてしまって申し訳ない」
「御招き、感謝します。セイラン殿」

 ははは、と苦笑しながらくすんだ金髪をかきむしる髭の男と、厳めしい顔で静かに頭を下げる、銀髪を後ろに撫でつけた男。どちらも年の頃は中年にさしかかったくらいだろうか。デザインこそごくありふれているものの、実に仕立ての良い服を身にまとっていて、彼らが一角ならぬ人物であることを否が応にも悟らせてくれる。
 ジャンが、喉を引きつらせた。アビーは黙々と鍋をつついている。
 そしてユウナは、そうきたか、という思いで静かに肩をすくめていた。

「いえいえ、とんでもない。こちらこそ急な御招きをしてしまい、申し訳なく思っていたところです。さあさ、御遠慮なくお座りください。御高名なるお二方をお迎えできたこと、このユウナ・ロマ・セイラン、望外の喜びを感じております」

 朗らかに着席を促しながら、心内だけで言葉を紡ぐ。やっべ、どうしよう。

「お会いできて、光栄に存じますよ。シーゲル・クライン議員。パトリック・ザラ議員」

 鯛どころか、クジラ釣れちまったよ。




[29321] PHASE29 サモン・ザ・胃薬
Name: 牛焼き肉◆7f655480 ID:4a155b5e
Date: 2013/05/29 23:53
 ユウナ・ロマ・セイランが財布の底に大穴をあけてまでプラント来訪に固執したのは、主に三つの目的を果たすためであった。

 一つは、モビルスーツ研究に必要と思われる工作機械及び技術のライセンスの獲得。二つ目はプラント軍需企業へのコネクション確保。これら二つは事前工作の甲斐もあってどうにか成功裏に終わり、ふうやれやれと肩の力を抜けるくらいには得るものも得られたと言える。財務状況を自転車操業なんてレベルじゃねえ感じにまで追いつめたのも無駄ではない、と思えるほどには満足いく結果であった。
 先にもジャンに述べたが、プラント来訪は前二つの目的を達せられた時点で、八割方終わっていたと言っても過言ではない。三つ目は叶ったらいいな、程度の保険でしかなかった。もちろん、賭けであろうと勝つにこしたことはないので、無理ではない範囲で様々な働きかけを『彼ら』に行ったし、『彼ら』自身少なからずメリットのある話でもあったので、まあ成功するんじゃねくらいの意気込みもあった。けれど同時にそこまで期待していたわけでもない、というのもまた本音だったのである。

 三つ目の目的。即ち『彼ら』――プラントの影の政府とも言うべき黄道同盟との、モビルスーツ開発の提携。これが成功すれば、受けられる恩恵はまさに図り知れぬほど大きい。史実においてもオーブは大西洋連邦のモビルスーツ開発に協力したことで、自国防衛用の機体を生み出すことに成功しているのだ。うまくすれば、ザフトとほぼ同時期にモビルスーツを実戦配備することさえ可能になるやもしれない。
 そのためにも、何とか黄道同盟に渡りをつける必要があった。故に有る程度の情報漏えいを覚悟で、アストレイ研究所のデータをプラントに流すことも許容したし、それとなく協力を望むこちらの意志を伝えもした。向こうも理事国という圧倒的な国力差の仮想敵国を持つ以上、この提案には食いついてくることも予想の通りである。

 しかしだからといって、これはどうなのよ。

「いやあ、初めて食べたがジョンゴル鍋というのも、中々乙なものだ。なあ、パトリック」
「確かに。ああ、ありがとうお嬢さん。私のことは気にしなくてもいいから、ゆっくりと食事を続けなさい」

 アビーから渡された器を手にし、髭の男とオールバックの男が朗らかに笑う。その光景を一度視界に焼き付け、次いで隣で未だに現実を受け入れられないらしいジャンを一瞥した。その気持ちは痛いほどよくわかる。ユウナはただ黙して頷いた。
 てっきり、黄道同盟から使者がくるにしても、それはある程度裁量を持った、まあそれなりにえらい御人かな、などと思っていたのだ。
 それがまあ、それなりどころかトップ、てっぺんとか。確かに事は国防の根幹に関わる事態ではある。しかしだからと言って、他国の、しかも見かけ十二歳の子供が率いる者たちに、御自ら逢いに来るなど、予想外すぎると言うものだ。はっきり言って、ねえよ。

 黄道同盟の設立者にして、プラントの双璧。最強の歌姫ラクス・クラインの父たるシーゲル・クライン最高評議会議員と、鋼の突っ込みアスラン・ザラの父たるパトリック・ザラ議員。大物とか言うレベルじゃない。それこそ国家指導者級の人物ではないか。
 とてもじゃあないが、高級店とはいえ鍋つついて向かい合う様な連中ではない。断じてない。下手を打てば、その瞬間ユウナさん終了の御知らせである。
 ともすれば引きつりそうになる頬を気合で抑え込み、ユウナは追加注文した際に持ってきてもらった炭酸水に口をつけた。落ち着け、そう、KOOLになれ。ここで動揺しては相手の思うつぼではないか。
 どう考えても、この状況は外交の常套手段たる、まず出会いがしらに一発決める、という奴に違いあるまい。交渉相手に揺さぶりをかけ、場の主導権を一気に握る、基本中の基本であり、それ故に非常に効果の高い一手と言えた。

 心の体勢を立て直すため、何となく無意味に部屋全体に視線を移す。硬直していたジャンが、非常に物問いたそうにこちらを見つめていた。ユウナは小きざみに首を横に振る。いくらなんでもこんなん予想外じゃあ! と心からの感情を、思い切り瞳に乗せてみた。彼は非常に残念なものを見るかのようにそっと視線をそらす。何それ、傷つくんだけど。
 ひっひっふー、と数度深呼吸し、どうにか精神を落ち着けた。そして同時に脳をフル回転させ、この状況を分析する。この二人が訪れたと言うことは、少なくとも横道同盟側としても、今回の交渉に一考の価値を見出していると考えるべきであろう。希望的観測を混ぜるのはあまりよろしくないが、むしろこれほどの人物らが出てくるとなれば、控えめに言ってもかなり乗り気なのではないか。どうでもいい話ならば、そもそも会談自体行われず、華麗にスルーされているはずであった。

 もう一口、炭酸水を舌に乗せる。アビーに鍋の権限を奪われた彼らは、今のところ奉行に逆らうことなく、見かけは朗らかな笑みを浮かべて海の幸に舌鼓を打っていた。

「生憎と、今のプラントでは新鮮な魚介類、とはいかぬものだが、それでもこれは良い味をしていますな。いかがだろう、セイラン殿。御気に召していただけたでしょうか?」
「…ええ、とても満足しておりますよ、クライン議員。さすが、プラントの隠れた名物、ひそかなブームになっているのも納得です」
「ははは、セイラン殿。今日は久方ぶりの休日でしてね。議員、などと堅苦しいものは抜きにして、どうぞシーゲルと気軽にお呼びください」
「我々も、今日は仕事を忘れて思いきり羽を伸ばしたいと思っていたところでしてね。私のことも、どうかパトリックと」
「これは失敬。確かに、せっかくの御休みなのに校務を思い出させるのは無粋と言うもの。今日は御二人の御言葉に甘えまして、シーゲル殿とパトリック殿、と呼ばせて頂きましょう。その返礼、というわけでもありませんが、僕のこともどうか気軽にユウナちゃーん、と親しみを込めて呼んでくださいな」

 つまり、ここで行うことはあくまでも私的なものであり、公的なものには決して成りえないと言いたいわけだ。この場でいかなる話が出ようと、取り決めがなされようと、それは文章に起こされることもなく、外部に言いふらすこともない。完全な密室。そういう形で話を進めようということか。
 ユウナはそれに快く同意した。こちらとしても願ったり叶ったりな条件だからである。五大氏族の、それも親大西洋連邦派と目されるセイランの総領がプラント独立派の領袖と密談、なんてことが理事国側に知られたら、割とオーブ内外を問わずセイランにとって洒落にならない事態に陥るからであった。全く、これほどの大物相手でなけりゃ、「偶然居合わせちゃいましてー」等と、身内でさえ信じられないような言い訳でも、どうにか黙認までこぎつけられる予定だったのに。この二人相手じゃ、どうあがいても誤魔化しきれません、本当にありがとうございました。

「ははは、なるほど。噂に聞いた通り、ユウナ殿は大層気さくな方のようだ。それにユーモアも御持ちとは。なあ、パトリック?」
「確かに。ユウナ殿は冗談が御上手だな」

 スルーされても泣かない。だって男の子だもん。

「いやあ、お恥ずかしい。父には腰が軽すぎるとよく窘められますが、どうにも治らないものでして。…よろしければ、連れを紹介させていただいても?」

 朗らかな笑顔とともに差し出された肯定の意を受け取り、ユウナは未だ現実に復帰しきれていないジャンと、ただひたすら鍋を最高のものにしようと目を座らせているアビー奉行を紹介した。

「貴方がキャリー博士ですか。御高名はかねがね伺っております」
「お会い出来て光栄です、キャリー博士。オーブに定住なされたと聞いて、私もユーリも非常に残念に思っていたのですよ。貴方のような逸材にこそ、是非御力をお借りしたいと常々思っておりましたのに」

 プラントの二大巨頭から声をかけられたジャンは、刹那の間でもって夢の世界から帰還し、最近とみに活躍しているビジネススマイルの仮面をかぶった。ここ数日、プラント来訪のために必死で練習してきた甲斐のある、見事な早変わりである。

「非才の身に有り余る御言葉、恐縮です、クライン様、ザラ様。ユーリ氏、というのはもしやユーリ・アマルフィ博士のことでしょうか? 私の方こそ、博士の御名前は伺っておりました。是非ともお会いしたいと思っておりましたが、もしや?」
「ああいや、申し訳ありませんが、本日は私とパトリックだけでしてね。ぬか喜びをさせてしまうような言い方をしてしまいました。どうぞ御許しを」
「生憎とユーリは今、あるプロジェクトに携わっていて、多忙を極めているのです。彼も博士とお会いできなくて、無念を噛みしめていることでしょう」

 プロジェクト。その言葉が耳に入り、一瞬ユウナはパトリックに視線を向けた。するとばっちり彼と目が合い、互いに微笑をかわしあった。ああ、なるほど。心の奥でそっと呟く。
 ユーリ・アマルフィ。ザフトのエースパイロット、ニコル・アマルフィの父親であり、後の最高評議会議員である彼は、史実において核エンジン搭載モビルスーツの開発にも携わった優秀なエンジニアである。シーゲル、パトリックと共に黄道同盟の中心的人物たる彼が、直々に関わるプロジェクト。そんなもの、一つしか思い浮かばない。

「そうですか。それは残念です。工学者として名高いアマルフィ博士とは、一度議論を戦わせたいと思っていたのですが…」

 ジャンは苦笑して頬をかいた。わずかに気落ちした様子も見受けられるが、これはおそらく本心なのだろう。なるほど、ユーリ・アマルフィ。ジャンにこれほどまで惜しまれるとは、やはり一角の人物とみて間違いない。

「そのプロジェクトとやら」

 呼吸を読み、彼らの会話が途切れた瞬間、ユウナはさっと言葉を挟ませた。すると彼ら三人は、まるで待ちわびていたかのようにさっとこちらに視線を集める。

「それには、彼のジャン・カルロ・マニアーニ技師も携わっているのですか?」
「ええ、もちろん」

 シーゲルの、どこか愉快そうな笑みは、はっきりと肯定の意志を返してきた。ユウナもまた、朗らかな笑顔を浮かべつつ、同時にこれが予想以上によろしくない事態であることを改めて認識した。
 不味い。どう考えてもまずい。パトリックの興味をたたえた瞳が身を貫くのを感じ、ユウナは内心ほぞを噛んでいた。先ほどから兆候は掴んでいたが、今の返答とそれに伴う態度で確信する。こいつら、知ってやがったな、と。
シーゲル・クラインとパトリック・ザラは、この場の、こちら側の意思決定者がユウナであることを、最初からはっきりと認めていたのだ。そして、こちらにあえてその情報を悟らせることで、彼らが容易ならざる相手であることを否応なしにわからせようとしたのだろう。
 そうでなければ、一番にユウナに遅参の侘びと招待への感謝を述べるわけがない。外交儀礼上、国賓とも言うべき立場の自分に配慮した、とも考えたが、その後の発言でこの場は公的なものではなく、私的なものとして規定されている。私的な場ならば、有る程度の礼儀こそ必要であるが、所詮十二の子供にすぎない自分に、一々御伺いを立てる道理などないではないか。
 にもかかわらず、彼らは絶えずユウナに話の矛先を向け、ジャンやアビーの紹介を請うた。この食事会の主催者が誰であるか、分かっていたからだろう。
 こちらの情報が漏れていたとしか考えられなかった。表向き、ユウナは御飾責任者であり、本来の主導権はジャン・キャリーが握っているということになっていたはずだ。その情報に惑わされず、こちらの実態をしっかりとつかんでいる。プラントの諜報能力はそこまで高いとは聞いていなかったが、果たして向こうがすごいのか、こちらがだめだめなのか、もし後者であればゆゆしき事態どころの話ではない。陰謀のセイラン家涙目である。

「案外、あっさり認めるのですね。仮にも最高機密の一つでしょうに」
「知っている相手に、機密も何も在ったものではありますまい。それに、我々には腹の探り合いをしているような時間も、余裕もないのですから」
「お互い、これからしばし慌ただしくなるでしょうしね」

 パトリックがにやりと獰猛な笑みを浮かべた。元々の鋭い顔立ちも相まってか、非常に絵になる御人である。それにつられて、というわけではないが、ユウナもまた自然と苦笑が浮かび上がるのを止める事が出来なかった。確かに、と肩をすくめて同意する。
 きっと帰ったらセイラン家総出で情報流出への対策や諜報部の引きしめ等で血眼になること請け合いである。家令ヴィンス・タチバナによる地獄の幕開けだぜ、ヒャッハー。またプラント、黄道同盟でもマニアーニ技師やモビルスーツ開発の情報が漏れた――実際は、ユウナが元から持っていた知識の裏付けを取った程度であり、漏えいと言えるほどのレベルではなかったが。プラント諜報部乙――ことへのあれこれで、てんやわんやに違いあるまい。下手をすれば責任者の首がダース単位でぽぽぽぽーん、だろう。

「いやあ、大変ですねえ」
「それだけ大事だった、ということですよ。いや、貴方方の口からマニアーニ技師の名が出たことを知った各部署の狼狽ぶりと言ったら」
「お前も含めて、だな。シーゲル」
「それを言うな。そう言うお前とて、馬鹿みたいに口を開けていたではないか」

 交わされる軽口に、ますますユウナの苦笑が濃くなった。

「仲の良いことで」

 気の置けぬ仲間、と言うものは得てして中々得られるものではない。ユウナは少しだけ羨望の情をこめて呟いた。我が身を思い起こし、小さく首を振る。よくよく考えてみると、自分にはこの世界で真に胸襟を開いて話し合える人間が恐ろしく少ない、というかほぼいないのではないか。こちらから好意を持って接しても、必ずしもそれが返ってくるとは限らないのが人間というものだ。アズラエルとか、トダカとか。こんな風に好き放題言いあえて、お互いを尊重し合える人間など、アビーくらいしか思い浮かばない。
 あれ、ひょっとして僕って友達少なくね? ぱっと出てきて、お互いが対等な友人、と認識していると胸を張って言える人物が、あの暴力侍女以外に見当たらないことに気付いたユウナは、大変な衝撃を受けた。
 悲しい、あまりにも悲しい人生である。部下とか保護対象とか、からかい相手とかはいるのに。友達、いない。どこにも、いない。

 ぶんぶんと、髪が乱れる程首を振った。同時にふっ、と微妙な感情を宿した呼気が耳を打つ。思わず視線を向けると、鍋の具材をボブカットのあの店員のお嬢さんに注文していたアビーと交錯した。彼女は普段全く変化を見せない鉄面皮で、しかしほんの少しだけ、唇の端を釣り上げてもう一度、呼気を洩らす。
 畜生あの小娘鼻で笑いやがった。まるでこちらの考えていることなどお見通し、と言わんばかりの態度に、若干ユウナの目じりもつり上がる。思わず何か一言投げかけてやろうと口を開きかけたが、しかし断腸の思いでもって、その甘露なる誘いを拒絶した。今はそんなことで言い争っている場合ではない。

「腹の探り合いも結構ですけど、あまり時間もないことですし。ざっくり本題に入りましょうか」

 呼吸を整え、ユウナは若干冷めている白菜を口に放り込んだ。シーゲルとパトリックもまた、一つ頷いて賛意を示す。

「この場で嘘をついてもどうしようもないということで、本音をずばりと言いましょう。アストレイ研究所は、貴方方との技術交流を行う準備があります」

 交渉とは、多少の例外もあるが概ね持ちかける側の立場が弱いものである。請う側と請われる側、往々にして持つ者の方が強い以上、場の主導権はどうしても請われる側に握られてしまう。
 この場においても、残念ながらこの力関係は働いてしまう。持って回った言い回し、「準備がある」とあえてお願いしているという体裁をとっているものの、話を持ちかけたのはユウナ側である以上、どうしてもその関係から逃れることなどできはしない。

「アストレイ研究所のことは、ある程度御存じでしょう?」
「まあ、世間一般で言われている程度、ですがね」
「金持ちの道楽、御曹司の我がまま、子供のおもちゃ」首をすくめて、ユウナは笑った。「よもや天下の黄道同盟の双璧が、そのようなものと取引する気になるとは。御子息、御令嬢へのプレゼントをご希望なのですか? でしたら、いずれ素晴らしい贈り物をご用意させていただきますけれど」

 意訳、白々しい化かし合いに付き合う気分ではない。とっとと話を進めろ。そんな噂を心から信じていれば、今この場で貴方方が自分と会談する必要性などありはしない。アストレイ研究所で行っているものが、今後のプラントにとって重要なものであるから、この場に来たのではないか。
 ユウナの無邪気――に見える――な笑みに、プラントの双璧はただ肩をすくめるのみであった。拙速にも見える話し合いに、あるいは若さを感じ取っているのかもしれないが、それは間違いだ。年寄りは必ずしも気長であるわけではない。むしろ老い先を考え、短気になる傾向もあるのである。まあ、ユウナはどちらかと言うと気長な方であるが、かといってむさいおっさんとの化かし合いを、延々と続けることに喜びを感じる精神性はしていない。とっとと終わらせる方が、衛生上宜しいに決まっていた。

「当研究所では、宇宙、地上の別なく活動可能な汎用作業機械――という名の軍事兵器の研究、製造を主たる事業にしております。社内呼称は、モビルスーツ。全長二十メートル近い、人型機械です」

 軍事兵器、という部分でジャンが条件反射とばかりに眉をはね上げ、シーゲルが口髭に手を伸ばした。パトリックは僅かに目元を震わせ、真意を確かめるようにこちらを見据えている。

「軍事兵器、ですか。穏やかではありませんな」
「取り繕っても仕方ないことです、パトリック殿。それに、こんな子供のたわごとに一々左右されるほど、世間様も暇ではありますまい」

 子供向けアニメーションでは、人型機械は大抵兵器ですからね。そう言って朗らかに笑ってみると、シーゲルがわずかに苦笑を洩らした。気付いたのだろう。会談の初めで、如何にこの場が非公式で、話の洩れる心配はない、としたとて、所詮は口約束。それに、先ほどどこで情報が漏れるかわからない、と言うことを再認識したばかりである。つまりユウナは、「例え外部に漏れたとしても、こちらの交渉人はユウナ・ロマ。つまり十二歳の子供である。そんなものの口から出た言葉等、文字通り子供のたわごとだろう?」と予防線を張ると同時に彼らを皮肉ったのだ。その子供のたわごとを真っ向から信じるお前らも、大概だと。

「それに、兵器としても色々言われそうなものではありますが、僕自身目の付けどころは間違っていなかったと、自身を持っていますのでね。幸い、それを裏付けてくださる方々も現れましたし」
「ほう、それは羨ましい話です」

 しれっと答えるシーゲル。それが自分たちを指していると気づいているだろうに、御首も表に出そうとしない。狸である。

「このまま開発を続ければ、近い将来我々に大きな力がもたらされることになるでしょう。それはそれで結構なことなのですが、僕にはその『近い将来』が少々気になりまして。これを『近日中』『数年以内』と、より近しい表現に変えたいと思っているのですよ」

 言いかえれば、別段ここで話がまとまらなくとも、完成させられるくらいには研究が進んでいると言うことである。そして同時に、協力する気がないならそれはそれで構わないと、ユウナは言外に匂わせた。言うまでもなく七割方はったりである。ここで彼らの協力をこぎつけないことには、ちょっとばかり以上に困ったことになるのは間違いない。はっきり言って、それで助力が得られるなら、空中三回転土下座だって決めてもいいくらいの心情であった。弱みを見せれば付け込まれてふんだくられるだけだから強気に出ているだけである。それは勿論、強気に出た結果ここで交渉が打ち切られる可能性が、限りなく低いと思ったからであって、そうでなければ今すぐ泣いて焼き土下座一択であろう。
 内心ここで「それは良かった。それじゃあ、交渉する必要はありませんよね」などと言われた日には、卓上で無心に踊り狂ってやるわ、と思いつつも、それをおくびにも出さず、にこやかな笑みを崩さなかった。
 パトリックの目が一瞬だけ細められた。それに気付かにふりをして、さらにたたみかける。

「我々にはこれまで培ってきたノウハウと、オーブが誇る研究者たちの技術がある。貴方方には、我々の持たぬ資金力、作れぬものなしと謳われる技術がある。お互いの持つ手札を交換し合った方がよいのは。明白と言えましょうや。…あまり、時間もないことですし」

 狐と狸のばかし合い。ユウナは両の手を組んで、そこに顎を乗せた。胃がきりきり悼みそうな交渉の始まりである。誰か、胃薬持ってきてくれないかな。


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