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[29283] 【習作 短編】私、触手(オリジナル 私小説?風ファンタジー)
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/22 18:46
前書き

・小説家になろうにも掲載させていただいております。

前書き終わり


「そろそろ触手切ろうかな」

 そんな事を思って鏡を覗くと、貧相で不細工で気味の悪い化け物がこちらを覗いていた。あまりの驚きに腰を抜かして後ろに倒れ、頭に光が走り、洗濯籠をぶちまけて、そして苦笑する。今のは鏡だ。今のは私だ。一体何年見てきたのだろう。それなのに。いや、今のは寝起きなのが悪かった。働いていない頭が悪い。

 気を取り直して鏡を覗き直して、そこに映った自分の姿に少しげんなりとしつつ、私は触手に手を当てた。浅黒く汚らしい。蛸やイソギンチャクの様に綺麗な色はしていない。クラゲの様な透明な美しさも無い。私のはただ醜い。ぬらりとした粘液に塗れている。それがまたいやらしい。伸びている。伸びて量の多くなった触手に押されて服が盛り上がっている。一本だけ服の裾から伸ばした触手が、私の顔に、私の手に寄り添ってうねっている。一体いつから切っていなかったのか。盛り上がった服が何とも不恰好で、私に良く似合っていた。

 ああ、嫌だ。鬱々とした気分が溜まっていく。外に出ないからだ。外に出よう。じめじめとした場所に居ては、触手が更にべとべとしてしまう。電話を掛けて予約を取って、私は外に出た。美容院のスタッフは1時間後に来いと行っていた。それならその辺りをぶらつこう。美容院はすぐそこだ。

 私は家の前の通りを通って、本当にすぐそこにある美容院の前を過ぎて、商店街へと向かった。商店街は酷く侘しい。人が居ない訳じゃない。店も、何店かは閉まっているけれど、ほとんどの店は開いている。シャッター通り何て揶揄される程じゃない。それでも侘しかった。雰囲気、見る者が受け取る何とない空気、それが淀んでいた。淀んでいるのだ。別に何らおかしい事なんて無いというのに。表面上は普通なのに。

 商店街の通りをゆっくりと歩んでいるが、何となくお店に入る気にならない。入ると、また、更に、もっと、私は酷くなってしまう。そんな気がした。だから結局、何処にも入らずに──

 触手がするりと伸びた。地面を這って、私の後ろへ、まるで引かれる後ろ髪の様に。何かと思って後ろを見ると、人が居た。私の触手は人に向かって伸びていた。私のほんの些細な欲望の糸は、太く、醜く、粘液に塗れていた。その先には背を向けた人が居る。私とは違う、しっかりとした、魅力的な、完全な、人間が私から離れて行こうとしている。私の欲望は更にするりと速度を上げて地面を這った。ああ、もう少しで人間に届く。憧れの、人間へ。

 思いっきり地面を踏みつけ、触手を踏みにじった。痛い。

 馬鹿か、私は。こんな街中で人に向けて触手を伸ばすなんて。痛みを堪えつつ、慌てて触手を引っ込めて、頬に手を当てると、顔がとても熱い。熱くて暑くて、胸が苦しくなった。駆け出したい。でももっと体が熱くなるから走れない。氷が欲しい。氷の中に入って永久に凍結してしまいたい。見ると、先程の人は怪訝な顔をして私へと振り返っていた。そして私の勘違いじゃなければ顔を気味悪そうに歪めて、また私に背を向けて、何処かへと歩いて行った。

 嫌だ嫌だと思いながら、ショーウィンドウの横を通り過ぎた。が、つつ、と後ろに下がって、ガラスに手を当てて覗き込むと、そこに白い服を着たマネキンが二体立っていた。服は余り好みではない。如何にも安っぽい形と柄だった。でもマネキン二人は綺麗だった。穢れの無い白い肌を堂々と晒して怖じる事無くこちらを見つめている。服も場所も関係なく、ただ自分を誇示している。そしてその姿が美しい。羨ましいと思った。私とは違うと思った。違いを見せつけられた。でも、それが嬉しい。世界にこんなにも美しい物が在る。それがとても嬉しかった。世界は汚いだけじゃないのだ。ああ、綺麗だなぁ。

 酷く単純な私は元気になって、また歩き出した。コンビニを過ぎて、果物屋を過ぎようとした時、老人が道端に果物をまき散らした。老人は、ああ、だとか、わあ、なんて悲しそうな声を上げて、ころころと転がる林檎を追っている。

 私はチャンスだと思った。何のチャンスなのかは分からない。とにかく私には触手がある。これならすぐに拾ってあげられる。そう思った時には、既に私の足元から触手が伸びていた。擦れる音と粘性の音がしゅっぴしゃりと荒々しく踊る間に、果物達は老人の落とした籠の中に入っていた。

 最後に老人が追いかけている林檎を拾い上げて手渡すと、老人は驚いた表情を作っていたが、すぐに破顔して頭を下げてきた。

「すみません。ありがとうございます」
「いいえ、どう致しまして」

 私は気恥ずかしくなって、小さい声でそれだけ言って、早足でその場から去った。気恥ずかしくて、嬉しくて、後ろが見たいのだけれど、見られない。もしかしたら老人が嬉しそうにこちらを見ているかもしれない。そんな時に顔を合わせてしまったらどうして良いのか分からない。いや、きっともう私の事なんか忘れて何処かへと去っているのだろうけど。

 すぐに商店街の端まで行き当たった。これ以上行っても仕方が無い。でも後ろには老人が居るかも知れない。どうしようどうしようと、悩んだのは一瞬の事で、後は野となれ山となれといった一種自暴自棄な勇気を振り絞って振り返った。そこに老人は居なかった。安堵と虚しさと恥ずかしさが混じり合って、どろりと私の心に入り込んできた。顔がまた火照ってきた。

 ああ、駄目だ駄目だと歩いて戻ると、老人の姿見えた。何故かコンビニの前で店内を覗き込む様に立っている。入ろうとしている様には見えない。ただ店の中を見ているだけの様に見える。

 何だろうと思っていると、老人が突然果物の入った籠を両手で持ち上げて、ゴミ箱の中に放り込んだ。

「あ」

 そんな声が近くから聞こえた。確かめるまでも無く私の声だが、他人の声の様に思えた。良く分からなくなって、ふらりとした足取りになりつつ、老人が去った後のゴミ箱に近寄って中を覗き込むと、確かにそこに幾つかの果物と籠が入っていた。林檎もしっかりと入っていた。少し欠けて白い中が見えている。

 ああ、これはもしかして──

 頭が真っ白になっていた。気が付くと、私は美容院の前に居た。体が熱い。汗を掻いていた。これは恥ずかしいからじゃない。怒りでもない。感情の発露じゃない。ただ走ったから熱いだけだ。強がりなんかじゃない。

 時計を見るともうそろそろ予約の時間だった。でも何となく入りづらい。いつも通っている場所なのだから、大丈夫。そう頭の隅っこが励ましてくれるのだが、その他の大部分は中に入りたくない様だ。ガラスの向こうの店内を眺めていると、スタッフの一人が私へと気が付いた。鋏を持ちながら顔を歪めた。動悸が早くなった。

 スタッフが他のスタッフに声を掛けている。すると他のスタッフも私を見て、そうして何故か入り口へと向かって来る。そうして入り口を開けて、やはり表情を歪めて私を見つめながら口を開き──

 そこで私は駆け出して、家へと逃げ帰って、鍵を閉めて、布団の中に籠って、熱い吐息を封じ込めながら、私は目を瞑って、光を、意識の光を締め出して、そうして思いっきり触手をひっかいた。粘ばっこい感触と音と痛みがくぐもった世界で光を発した。もう当分林檎は食べられないなと思った。それだけを考え続けた。



[29283] 触手さんさく よかんの夜道
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/22 18:47
 卵のパックを取ろうと伸ばした私の手がふと止まった。何の気なしの行動で自分でさえその行動の意味が分からなかった。止まった腕を動かして卵を手に取って、ようやくその理由が見えた。どうやらいつもとの違いに戸惑った様だ。
 卵はいつもよりもずしりと重く、良く見るまでも無く粒が大きかった。実家近くのこのスーパーはどうやら気前がいいらしい。粒は大きく数も同じなのに、自分のマンションの近くに立つスーパー達よりも余程安かった。
 プラスチック容器に収まる卵を見ていると、不吉な予感がした。安さの所為だろうか。外見は変わらないのにいつも買っている卵よりも不潔で粗悪な気がした。黄身の表面にびっしりと血管が詰まっている気がした。大きすぎる所為か、すぐに割れそうな脆さを感じた。
 卵一パックだけを買って店を出ると、雨が止んでいた。曇り空で星はほとんど見えないが、月だけが大きく照っていた。満月だった。明るい夜だ。
 聞いた話を思い出した。満月の夜は明るいから、夜行性でない動物が這い回る。それを狙って夜行性の動物がいつもより活発に動く。それを聞いた時、人の作った街並みは絶えず明るいのだから、常にそういった獣が獲物を探して歩き回っているのではないかと思った。馬鹿げた考えだと思ったが、獣でなく犯罪者に置き換えればその通りな気もした。
 何処かで犬の遠吠えが鳴った。それに合わせて、別の犬達が幾度か吠えた。ついで悲鳴も聞こえた。この辺りはうるさい。自分が今住んでいる町よりも幾分都会だからそういう物なのかもしれない。一人暮らしを始めて早数年、地元だったこの町が見知らぬ町になりかけていた。何だか色々とこの辺りの事を忘れはじめている。多分もう少ししたら写真の中の故郷になるのだろう。親が居なくなったらそれは色褪せるに違いない。
 道の向こうからタンクトップを着た男性が歩いてきた。下はショートパンツで露出が多い。私はというとまだ残暑の季節だというのに、いつもの通りのロングスカートで上は七分丈のTシャツを着ている。手首まで隠れていないのが私の精一杯の露出だ。これが限界だった。自分の体を見せるのが怖い。そんな異常な自分が嫌だった。あの人は私よりも少しだけ若いから体を見せていられるんだと言い訳している自分が居た。
 男性はすれ違う時に私のスカートを見た気がした。そして顔を顰めた気がした。自意識過剰だろうか。すれ違ってからどきどきと心臓が強く脈打ち始めた。自分の体を見下ろして何度も確認する。何処からも触手は出ていない。きっと私の勘違いだ。あの人がスカートの中を見透かして、中に詰まった触手を見たなんて。超能力者じゃないんだし。
 でももしかしたら、なんて馬鹿な事を考えつつ、歩いていると道の向こうから女の子が走って来た。遠目に見ても目立つブロンドが日本人で無い事を主張している。近付くにつれて、その幾何学的な美しい顔が良く見える様になった。自分等とはまるで違う。それどころかそこらの人間とまるで違う。次元の違う美しさだった。人を見れば羨望を憶え、自分もあんなだったらと憧れてやまない私でさえ、その女の子に憧れを感じる事無くただ見惚れる事しか出来なかった。羨ましさなど感じる余地が無い位、私とその女の子は隔たっていた。
「助けて下さい!」
 そう言っていた。唐突な言葉に私は最初その意味が良く呑み込めなかった。縁の無い言葉であったし、異国の少女が流暢な日本語を喋っている事も奇異と言えば奇異で、何だかずれた印象のある言葉を中々受け付けられなかった。
 しばらくしてようやく意味が呑み込めてきた私は後ろを振り向いた。女の子の知り合いが私の後ろに居るのかと考えて。だが居ない。とすると、私に助けを求めているのだろうか。そんな訳ないと思いつつ、振り向いていた体を戻すと、女の子はすぐ近くにまで寄って来ていて、私に向かって懇願する様な表情を見せていた。
 女の子は私の前に立つと一瞬前までの懇願する表情から、唐突に疑わしげな表情に変わった。もしかして私の事を気味が悪いと思っているのかな。そりゃあ、こんなに綺麗な子だもんな。周りに居る人も綺麗な人ばかりなのだろう。私みたいな醜いのが居るなんて信じられないのかもしれない。そんな諦めの気持ちで少女の視線を受けていると、女の子はまた表情を変じて、今度は不安そうな怯える様な表情になって、一度背後に視線をくれてから私の事を見上げてきた。思わず心臓が高鳴った。
「助けて下さい」
 女の子がそう言った。私の胸よりも一段低い所から見上げてくる眼には確かな恐怖が染みついている。しかし私が夜道を見渡しても女の子に危害を加えそうなものは無い。綺麗な子だし変質者か何かに出会ったのかなと思うのだが、変質者の影も形も見当たらない。
 女の子は私の反応が無いのに焦れたのか、苛立たしげな表情になって何度か背後を振り返った。だが私がそちらを見つめてもなにも居ない。そういえば先程悲鳴があった。あれを発したのが目の前の女の子なのだろうか。すると直前に犬の吠え声が上がっていたし、犬にでも追いかけられたのかもしれない。けれど犬の姿だって見えない。女の子はどうやら心の内の不安に追われている様だった。
 そこで、なにも居ないのだから安心する様に言おうと思った。が口ごもった。あまり人と喋り慣れていないのと、目の前の女の子がどれほど日本語を理解出来るのか分からないのとで、咄嗟に何と言って良いのか分からなかった。女の子の発音は綺麗なので日本語が達者なのかもしれない。もしかしたら難しい言葉が分からない位かも。それなら平易な表現で言えば。という希望はもしかしたら日本語はほとんど分からないかもしれないという不安ですぐに塗り潰される。何て言ったって外国人なのだし。もしも何か言って、分かって貰えないとすればとても恥ずかしい。そうして英語で言い直す様な事になったら最悪だ。私は英語が喋れない。
 どうしようかと悩んでいると、女の子は涙の浮かんだ目で一度私を睨みつけると、また背後を気にしてから、そのまま私の横をすり抜けて何処かへと駆けていった。女の子を引き留めようとスカートの内から触手が漏れた。それを私は必死で抑えつけた。これでは私が変質者になってしまう。ようやく気を静めるのに成功した時には少女は大分離れて、もうぼんやりとしか見えず、靴音だけが聞こえてくる。離れていく靴音を聞きながら、女の子を失望させてしまった事に罪悪感を覚えた。だがそれ以上に少女に何か語りかけてミスをしていたであろう未来や女の子に触手を伸ばして悲鳴を上げられていたであろう未来を避けられた事に安堵していた。そうしてほっとした心地でまた帰り道を歩き始めた。
 女の子の靴音が消え、私の足音だけになってしばらくすると、私の足音に加えてまた別の靴音が混じり始めた。ようく先を見ると、またブロンドの人影が駆けてきた。先程の女の子よりも髪が短い。近寄るにつれそれが少年だという事が分かった。先程の女の子よりも少しだけ歳が高い様に思う。少年もまた幾何学的な美しい顔をしていた。先程の女の子とは似ていないので兄妹ではないだろう。けれど同じ様な美しさと雰囲気を持っていて、やはり私は羨ましがる感情すら湧かず、ただ見惚れた。
 少年は私の前に立つとあからさま嫌悪の表情で見つめてきた。侮蔑には慣れていたが、それが目の前の美しい少年から発せられると胸に響いた。心臓が痛くなった。
 少年は一度溜息を吐いてから、如何にも仕方なさそうに、あからさまに嫌々そうに、私へ尋ねてきた。
「この辺りに女の子供は来なかったか?」
 今しがたの子の事だろうか。向こうへ行ったと言おうとしたが、声が詰まって出なかった。だが私の仕種で察した様で、少年は私には一瞥もくれずに女の子の行った方へと駆けていった。
 女の子も少年も消えた夜道を歩きながら、あの二人は何だったのだろうと考えた。顔が似ていなかったから兄妹ではないと思う。もしかしたら女の子が怯えていたのはあの少年だったのだろうか。それにしては綺麗だったし。まあ、どうせ恋人かなにかだろうなと、結論付けて、自分とは違いすぎる世界があるのだなとぼんやりと考えながら、私は曲がり角を曲がった。
 大地が揺れた。続いて轟音が響いて来た。地震と雷が同時に起きたのかと思って避難しようと辺りを見回すと、遠くの空が赤く輝いた。続いてまた揺れと轟音が届いた。火事、ではなく爆発だろうか。何処かの工場で爆発があったのかもしれない。この辺りに工場があった覚えはないが、新しく建っていたのだろうか。
 また爆発が起こるだろうかと待ち構えていたが、それからはしんと静まり返って、もう爆発は響いてこなかった。何処かで犬の遠吠えと悲鳴が起こった。犬の吠え声が連鎖した。だが爆発はもう起こらなかった。
 それでも私は待って──何を待っているのかは分からない。爆発かもしれないし、あるいは別の何かかもしれない──ぼんやりと空を見上げていると、月の輪郭を見ている内に唐突に寒気を覚えた。それは先程の爆発の所為なのか、あるいはその後の遠吠えと悲鳴の所為なのか、それとも冷たい照明に照らされた氷の様な静かで明るい夜の所為なのか、分からないがとにかく怖くなった。
 怖くなった私は少し急ごうと心に決めて、安物のサンダルで地面を強く踏もうとした。その時、風が吹いた。風は私を突き抜けて、スカートをはためかせて何処かへと消えた。呼応する様に背後で声が上がった。
「げっ」
 そんな短い、引き潰した様な声が聞こえて振り返ると、スーツを着た男性が私の足元を見て竦んでいた。すぐに悟る。私のスカートの中に詰まった粘液に塗れた触手を見たのだろう。男の恐怖に歪んだ表情を見て、私は悲しくなった。
 男はしばらく呆けていたが、急にはっとした様子で私と顔を合わせ、顔を歪めて踵を返し去っていった。
 ふと去り際に男の手に握られた瓶に意識がいった。中は蠢いていて虫か何かが入っている様だった。もしかしたらあの男は変質者で私に虫をかけようとしたのかもしれない。ところが虫以上に気味の悪い私を見て逃げ出したに違いない。ざまあみろ。そんな高圧的な悲しみが私をほんの僅かの間苛んだ。
 慣れた事なので気を取り直して、更に帰り道を進む。気が付くと些か足が速くなっていた。気が付くと少し遠回りして明るい道を選んでいた。
 飲み屋の並ぶ道に差し掛かり、そこに懐かしい顔を見つけた。中学校の時の同級生だった。無口で目立たずあまり他者と交流をしなかった私なので、友達というものは居なかったが、入り口に立つ二人は知人の中でも用があれば話してくれた方だった。二人は携帯で何処かに連絡を取っている様だった。
 普段の私なら絶対に話しかけなかったであろうが、今は何だか人恋しくて光に誘われる羽虫の様に同級生へと引き寄せられていった。
 同級生は私に気が付くと、ぎょっとした表情をして、続けてぎこちない笑顔を向けてきた。しまったと思った。改めて自分の姿を考えてみれば、ほんの少しの買い物と油断して、化粧もせず服装も貧相で、自分で見ても酷い恰好だった。まして自分の顔は人より醜い。幾らなんでも多少の化粧はするべきだったと反省しつつ、今更どうしようもないので、私は精一杯の愛想を浮かべて二人に声を掛けた。
「こ、こんばんは」
 裏返った声に二人はぎこちない顔を更に強張らせて返答を返してきた。
「こんばんは、えっと久しぶりだね」
「本当に久しぶりだね。今何やってるの?」
「えっとお母さんに頼まれて卵を買いに」
 言ってから、そういう事を聞かれたんじゃない事に気が付いた。失敗したと気を沈ませていると、二人は急に朗らかな顔になって、
「そうなんだ」
「ごめんね、急ぎみたいなのに引き留めちゃって」
 声を掛けたのは私だ。何だか気を遣わせているみたいで恥ずかしくなった。とはいえ、私の馬鹿みたいな受け答えが結果的に場を和ませてくれた事に感謝しつつ、私は少しだけ心を弾ませた。
「ううん。二人は何しているの?」
 二人は顔を見合わせてから笑った。
「えっと、何だか久しぶりに会ったから、食事でもって」
「う、うん、そうそう! あの、良かったら一緒に飲む?」
 そう私を誘ってくれた。こんな事は初めてだったので、とても嬉しかった。
 ふいに私を誘ってくれた方がよろめいた。
「大丈夫?」
 私は如何にも気遣わしげにそう言ったが、内心は誘ってくれた事が嬉しくて嬉しくて仕方が無く、もしかしたら体調が悪いのかもしれない旧友を前にして踊り出したい気分になっていた。
「うん、大丈夫」
 そう言って笑いかけられて、私は更に嬉しくなる。出来ればもっと一緒に居たい。
 だが母親にお使いを頼まれている。もしも私がここで引き留められたら、母は一人で夕飯を摂る事になる。それを想像すると何だか悲しい様な、申し訳ない様な気持ちになった。それに身なりにもほとんど気を使っていない。それに何より、今の様なほんの少しの会話であれば良いが、長く話せば多分何処かでぼろが出て、二人をとても嫌な気にさせてしまうに違いない。
 そんな言い訳を頭の中で並べ立てた私は、出来るだけ不快にさせないように精一杯の笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい。ちょっと用事があって」
 大した用事も無かったがそう言った。二人は気遣ってくれて、残念そうな声音で笑顔をくれた。
「そっか、残念だね。また今度何か機会があったらね」
「うん、そういえば、クラス会とかあるのかな?」
「え? いや、私は分からないけど」
「うん、私も良く分からないけど」
「そっか、もしあるなら私も参加するから、その時はよろしくね」
「うん、分かった」
「その時はね。それじゃあ、またね」
 二人の笑顔に見送られて私は意気揚々とその場を後にした。かつての友人との再会は私の心を弾ませ、何だか世界全てを相手取って戦いたくなる様なそんな強気な心にさせてくれた。もう変質者も何も怖くなくなっていた。
 私が蛮勇でもって電灯と満月の照らす仄明るい道に踏み込むと、一人の男が私の横をすり抜けていった。それもまたかつてのクラスメイトだった。多分、今しがたの飲み屋に行ったのだろう。さては遅刻でもしたか。確かあいつは中学校の時もずぼらな奴だった。遠目に見ていても馬鹿に見えたものだ。
 私はほっと安堵する。女性だけならまだしも、そこに男性まで加わると完全に私の限界値を突き抜けていた。多分、あそこに残っていたら酷い醜態をさらしたに違いない。
 道の向こうにひょこひょこと奇妙におどけた調子で歩く人影が居た。良く見ると、タンクトップにショートパンツの男だった。店を出てすぐのところで会った男だ。一体どうしたんだろうと思っていると、男はひょこひょことした調子で歩き続け、すれ違いざまに急にこちらに向きを変えて近寄って来た。まさかストーカーで私の事を付けて来たのかと、自分の容姿を棚に上げて、私は危惧した。武器は無いが、とりあえず今持っているバッグで殴りつけようと心に決めて、心持ち取っ手を掴む力を強くして身構えていると、男はいやに茫洋とした表情で、虚ろな目をして迫って来た。
 さっき見た様子と比べると如何にも尋常でなかった。薬でもやっているのなら怖いし、病気だとすれば放っておけない。どうしたものかと悩んで、私はとりあえず声を掛けた。
「あの、大丈夫ですか?」
 男はゆらりゆらりと振り子の様に揺れながら止まる事無く私の元へと近寄ってくる。
「あの」
 怖くなってそれ以上は言葉が続かなかった。私が後ずさると、男はその分だけ迫って来て、私が立っていた場所に立った。
 そこで男が立ち止まり俯いた。何だろうと思っていると、突然男が鼻を鳴らし始めた。それが臭いを嗅いでいるのだと分かった時、私の背に怖気が走った。気味が悪い。逃げ出したい。だが後ろは壁で逃げられない。何とか刺激しない様にと壁に服を擦り付けながら、私は横にじりじりと移動する。
 男はしばらく同じ調子で鼻を鳴らしていたが、私が完全に男の圏内から抜け出して今まさに駆け足で逃げようとした時に、男は急に興味を無くしたみたいに私がずり動いた方向とは反対に向かって、またひょこひょこと歩き始めた。呆然と見送っていると、角を曲がって消えた。
 何だったのか分からない。もしかして酔っ払いだったのかもしれない。考えてみれば、今男が曲がっていったのは先程私が通った飲み屋のある道だ。ふと私も鼻を鳴らしてみた。男から漂うはずの酒気は感じられなかった。
 何となく釈然としない気持ちを抱きながらまた帰路を歩きはじめると、今度は女性が二人駆けてきた。一人は頭に大きなリボンを付けて、常人が着るには余りにもファンシーな、衣装とでも言った方が良い様な服を着ていた。手には奇妙な形状の、子供の時に良く見た類のステッキを持っていた。髪の色は抜け落ちた様な金髪なのに顔は日本人顔で、何処か不思議というか、見ていると痛々しくなる様な空気を纏った女の子だった。もう片方は見慣れない高校の制服を着ていて、如何にも純朴そうな眼鏡を掛けた同年代の女の子で、走り慣れていないのか苦しそうに表情を歪めている。
 そういえば、近くに高校が立ったという話を聞いた気がする。制服を着ているのはそこの生徒だろうか。もう片方は何だか良く分からないけれど、最近はああいうのが流行っているのかもしれない。確かに私も子供の時にああいうのに憧れたけれど。アニメの中で魔法を使って人助けをしていた少女を思い出して、何となく私は恥ずかしくなった。
 二人は私などにはまるで気を払わずに、横を通り、駆け去っていった。
 ふと背後から
「危なかったね」
という声が聞こえた。もしかしたら補導でもされそうになったのかもしれない。
 澄ませた耳をそのままに歩いていると、祭囃子が聞こえてきた。お祭りやってるのか。行きには気付かなかったけれど。多分公園だろうと見当づけて行ってみると、案の定祭りが行われていた。赤い提灯が並び、屋台が威勢よく煙を上げ、浴衣を着た人々が押し合い、熱した空気が夜空に放たれている。やけに浴衣を着ている人が多い。どころか珍しい事に皆浴衣を着ている。今迄浴衣を着た人とは全く出会わなかったので奇妙な気がした。そうえいば、先程出会った二人の女の子はこの祭りに居たのかもしれない。それでもあの恰好はどうかと思うけれど。
 立ち寄って綿菓子を買った。アニメの柄がプリントされた袋が少し恥ずかしい。袋は直ぐに捨てて、綿菓子に口を付けた。綿は柔らかく肌を刺して、すぐにべたついた。食べ終えて改めて祭りを見ますと、中央で盆踊りをやっていた。沢山の人が参加していて、何重にもなった巨大な輪を作って、踊りあっていた。見ている間にも周りの人ごみからどんどんと人が加わって更に大きな円が作られている。何だか熱狂的だなと思った。私には合わないなとも思った。
 それから人ごみを縫ってぶらついていたが、段々と一人で回っている事が悲しくなってきた。それに久しぶりに大量の人に巻き込まれた所為で、息苦しくなってきた。ついでにスカートの下の触手が人に当たるので、申し訳ないのと恥ずかしいのと、ばれたら嫌だなという気持ちが湧き起こった。
 そろそろ出ようと、出口へ向かおうとした。だが向かえなかった。進もうとしても人ごみに阻まれて逆に中央へと押し返されて、盆踊りの輪へと近付いてしまう。何度か遠慮がちに謝りながら人の合間を縫おうとしたが一向に出口へは近付けなかった。段々と苛立ってきて、私はついに強硬手段に出た。むりやり人を押し退け押し退け、時にはこっそりと触手で人を掻き分けながら突き進んでいった。汗で体中が濡れに濡れて蒸れ切った頃にようやっと外に出られた。普段は不快な汗が心地良く、何だか清々しい気分だった。
 さて帰ろうと祭りを後にしようとした時に、ぽんという何かがはじける様な軽い音がした。その後、辺りが色とりどりに光って、空からぱらぱらという破裂音が聞こえた。振り返ると、また同じ音がして、花火が上がり、同じ音がして、花火が開いた。結構大きくて立派な花火だった。ただの市民祭りの様だけれど、あんな花火を上げるなんて豪勢だな。少し前の爆発の正体が分かった気がした。すっきりした気持ちで私は公園から離れ、対照的に寂しくて暗くて静かな夜道に戻った。
 また何処からか犬の遠吠えが聞こえて来て、悲鳴と吠え声の連鎖が起こった。今日は不思議な夜だなと思って、空を見上げると、雲は大分晴れて、満月とその周りの夥しい星々が夜の天幕を彩っていた。ふとこの前プラネタリウムを見た時の事を思い出して、秋の四辺形を探した。思い起こせば小学校の時に母親と今は亡き父親に連れ出されて、望遠鏡で星を見た。生きている上で必要のない思い出かもしれないけれど、今星座を探す事は出来る。久しぶりに父親の事を思い出しながら、空を見上げていると、突然幾つかの星が黒く消えた。
 驚いていると、更にまた消えた。それは何かが空をかすめたからの様だった。それが何かは一瞬の事で分からなかった。何となく人影だった様な気がするが、空の高い所に人が横切れるわけもなく、鳥にしては大きい気がするし、飛行機にしては音がしなかった。一体今の影は何だったのか。結局分からず終いで、もやもやとした気持ちが残った。
 背後から複数の足音が聞こえてきた。振り返ると、黒いスーツに黒いサングラスをかけた男達が無表情で走っていた。一瞬前に未確認飛行物体らしきものを見たからか、メンインブラックを思い出した。私を消しに来たのかと思った。
 だが男達は私などには毛ほどの興味も示さずに横を通り過ぎた。一人の男が大きな麻袋を肩に乗せていた。まるで人を入れた様な形状をしていた。まさか人攫い? 一瞬前の都市伝説的な印象は消えて、もっと現実的な暴力団関係者なのではないかと疑った。
 確証を持てないまま、男達は駆け去っていった。そういえば、さっきのタンクトップの男、何だか虚ろだったけれど、やはり薬でもやっていて、それで暴力団と悶着を起こしたのかもしれない。そう考えると恐ろしくなった。これ以上夜道を歩いていたくない。
 家はすぐそこだ。玄関の灯りが煌々と照っていた。何処からか地鳴りのような低い唸り声が聞こえてきた。お経を大音量にした様な抑揚のない声音だった。怖くなって、私は家の中に駆け込んだ。
「ただいま!」
 そう叫んだが、返事が返ってこない。普通なら玄関を開けた音を聞いて、台所から顔を覗かせるのに。訝しんでいると、
「お帰りなさい」
ようやく返答が聞こえた。けれども何だか声が低い。一瞬、母親の声ではないかと思った。まさか長年会わなかったから声すら忘れたのだろうか。ほんの一時間前家を出る時にも聞いたばかりなのに。
「お母さん! 卵買って来たよ!」
 そう叫ぶと、
「そう」
という短い答えが返ってくる。何だか変だった。もっと明るく返事をしてくれると思ったのに。まさか体調が悪いのだろうか。
「風邪でもひいたの?」
「そんな事無いけど。何で?」
 抑揚のない声で否定された。それなら良いけど。
 もしかして何か怒らせる事でもしてしまったのか。全く身に覚えが無いけれども、間の抜けた私の事、うっかり何をやったか分からない。
 とりあえず卵を無事買って来た事を伝えて怒りを和らげようと、袋の中から卵を取り出して、愕然とした。
 全部割れていた。ひとつ残らず底が割れて、白身と黄身が混じり合ってぐちゃぐちゃになっていた。やっぱり脆かったのだ。嫌な予感はしていた。よくよく見ると、少し血が混じっている。
 溜息を吐いて、脱ぎかけていた靴を履き直した。とにかくやってしまったからには、また買って来なくてはならない。でも今からまたスーパーへ行くのは面倒だ。母親は安いからスーパーでと言っていたが、もうこの際もっと近くにあるコンビニで買ってこよう。私がお金を出せば文句はないはずだ。
「ごめん、お母さん! 私もちょっともう一回外に出てくる!」
 私が言うと、
「うん、わかった」
抑揚のない間延びした言葉が返ってくる。やっぱり体調が悪いのかもしれない。
 早く帰って来た方が良いだろう。
 玄関の取っ手に手を掛けると、外から犬の吠え声と悲鳴とお経と爆発音と足音と騒ぎ声と祭囃子が微かに聞こえてくる。何だか今日は騒がしいなぁと思いつつ、私は取っ手を捻って勢いよく玄関を開けて飛び出した。



[29283] 友達を思うと触手が笑う
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/10/19 22:50
「だからそんなに落ち込むの止めなって」
「でも……」
 目の前で友人が泣いている。好い加減にしろよと思いながら私は焼酎を呷って息を吐いた。
 何でも同窓会に呼ばれなかったと落ち込んでいるらしいが、それを聞いて私はだからどうしたと思った。思っただけでなく、実際にそう言ったが、友人はぐじぐじといじけ続けている。
「気にし過ぎだよ、ホント」
 もう少し楽に生きればと思う。結局の所、世の中なんて自分の感じた様に出来上がる。だから前向きに捉えれば人生なんて如何様にも楽しくなる。別に友人や私は特別不幸な境遇でもないのだし。
 友人は何かと落ち込む性質の人間だ。その原因を辿って行けば、彼女から生えている触手に突き当たる。触手は確かに気味悪がられる事が多い。それで子供の頃から馬鹿にされてきたのだから、性格が歪んでしまうのは仕方が無いのかもしれない。
 だが、かくいう私も角が生えている。鬼の様に力が強い。その所為で同じ様に馬鹿にされ嫌われてきた。友達と言えば目の前で落ち込んでいるこいつしか居なかった。だが今は違う。交友も広がったし、彼氏も出来た。思い一つで変えられるのだ。世界は。
 だがそう言っても彼女はこう言う。でも吉美は美人だから。化粧っ気も飾り気も無い姿でそんな事をのたまう。なら綺麗になる努力をしろと思うが、友人にとっては全てが生まれつきのもので、変えようのないものらしい。何かを変えようとする努力を全くしない。
 自分は何もせずに愚痴だけは言う。はっきり言って一番嫌いなタイプで他人ならば関わろうともしないだろうが、どうにもこの友人は放っておけない。放っておけないという事は多分何かしらの魅力があるのだと思う。けれど全くそれを活かそうとしない。それが歯がゆい。
 どんという腹の底に響く様な音が聞こえた。俄かに辺りが騒がしくなった。
「気にしすぎって言っても、気になるのはしょうがないでしょ?」
「だからさ、気になるのは動かないからだよ。だから腐るんだって。もっと自分から変えよう変えようってしていけば、そんな些細な事気にならなくなるって」
「変えるって言ったって、何を? 今度同窓会をやる時には誘ってくださいって、みんなに連絡するの?」
「だからそういう事じゃなくてさ、あんたが落ち込んでる理由はみんなに嫌われたと思ってるからで、その原因は自分が不細工だからって思ってるんでしょ?」
「で? だったら何? 整形でもすればいいの? 触手ちょん切れば良い?」
「だからそうじゃなくて」
 頭を掻いて、友人から視線を外した。どうにも扱い辛い。
 やあ、皆さん。お食事時かな? お風呂でも入ってた? それとも奥さんの上に圧し掛かってた? それじゃあ、今日も張り切って行ってみよう!
 真面目にお願いします。
 あ、すみません。いつもの癖で。さて今日はここで爆発がありました。ほら見てくださいあの人だかり。煙も出てますねえ。今、あそこで不具者達が死にかけているそうですよ。もう少し表現を柔らかく。はい、分かりました。それではちょっと行ってみましょう。
 まずはあそこで寝転んでいる方にお話を聞いて見ます。こんにちはー。ご機嫌はいかがですか? 楽しいですか? お名前は? え? すみませんが聞こえないのでもう一度。はい? 何と言っているのか分かりませんねえ。僕の耳が悪いのでしょうか? うーうーとしか聞こえません。あ、蟹の手が外れていますよ。痛々しいですが、この方にとっては気味の悪い腕が取れてまともになれた訳ですね。あ、でも頭にまだ触覚が生えています。残念ながらまだ健常者という訳にはいかないみたいですね。それじゃあ、頑張ってください。
 次はーっと、お、こちらでは大きな牙を生やした化け物が、失礼、大きな牙を生やした方がいらっしゃいますね。見てください。あの牙。あれじゃあ、キスだって出来ません。まあ、あの顔ですし、する機会もなさそうですけど。あ、顔が紫色になっています。苦しそうで。あ、倒れました! 皆さん、倒れました。見てください。倒れましたよ。牙が折れてます。
 おっとこっちにはとびっきりの不細工が居ますよ。酷い不具もあったものだ。お嬢さん、こんにちはー。
 震えた。
『きょう親いない』
『あっそ』
『遊びに来て』
『今、友達と遊んでる』
『友達と俺どっちがダイジ?』
『友達』
「嫌だね」
「テレビ?」
「うん」
「どうせ苦情が行ってるよ。あのリポーターもそろそろ干されるんじゃない? 出た当初は過激さが物珍しくて人気があったけど、今はみんな飽きて落ち目だし」
「そうじゃなくて、事件の方」
「爆発?」
「毒ガスらしいよ。不具者だけに効く毒なんだって」
「へえ」
 熱気が顔に掛かった。遅れて焦げた臭いが鼻を刺激する。揺れ上がる炎。爆ぜる音。油が滴り。炎が肉を舐める。焦げあとが毒々しい。
 箸を伸ばして掴んで上げる。油が垂れる。肉が揺れる。押し殺した声。左見右見。皆テレビを見ている。見れば紫色の煙が辺りを這っている。紫色の海の中で人々がおぼれている。苦しんでいる。
「毒ガスねえ」
 箸の先が肉を運ぶ。口がそれを迎え入れる。舌先が触れ、熱さでひっこみ、歯が受け止めて、箸が離れる。
「嫌だよね?」
 話しかけられたから慌てて噛む。噛み、噛んで、飲み下す。
「嫌というか」
 嫌じゃない。と言うより、興味が無い。どうせ私には関係ない。
「どうでも良いよ」
「なんで?」
「だって私達と関係ないし」
「無差別テロだってテレビで言ってるよ?」
 無差別テロ。沈鬱な司会者。専門家の饒舌。国家は安泰である。抵抗せねばならない。徹底。冥福を祈る。狙われたターミナル。狙われた巨大商業施設。死者数十人。
「狙っているのは人の多い所だし。こっちには来ないでしょ?」
「でももしも」
「来たとしたらどうしようもないでしょ」
「そういうんじゃなくて、なんていうのかな、何か思う所は無いの?」
「全く」
「あっ、そう」
 友人がふてくされてグラスを呷った。だが水は無い。氷すらも溶けてなくなっている。友人は未練のこびりついた仕種でグラスを揺らめかせ、端に置いた。隣にはまだ口を付けていないカクテルの入ったグラスがある。赤く濁ったその酒を友人はゆっくりと口に近付けて、如何にもせせこましい様子で啜った。ほんの僅かの量を口に含んだだけなのに、たちまちの内に顔が赤くなる。炎が上がる。また肉が燃えている。
「世界は悠然とただそこにある。変えたいのであれば立ち上がれ」
 おやと思ってテレビをみると、洋画になっていた。番組が変わったらしい。きっと誰かが苛立ちのあまりチャンネルを変えたのだ。
 金網の上には最後の一切れが残っている。丁度良い焼き加減で、身を縮こませて湯気を上げ、箸に掛かるのを待っている。きっと友人は取らない。絶対に遠慮をして相手に譲る。だから私はその一切れを拾い上げ、口に放って、伝票を取った。値段はまあこんなものか。友人に手を差し出し、金を寄越せと合図する。
「千」
「え、それじゃあ私の方が少ないでしょ?」
 丁度半々で無いと気が済まない。そう言っている。こちらの方が三倍食べて三杯飲んだのに。友人はしばらくごちゃごちゃと何か言っていたが適当に聞き流した。昔、レジの前で同じ様な問答を繰り広げてからは、必ず会計前に払い分を定める事に決めた。
「千」
 言葉が途切れたのを幸いに、私はもう一度それだけ言った。友人はしばらく迷う素振りで財布を開け閉めしていたが、やがてそこからお札を二枚取って差し出してきた。
 皺の付いたみすぼらしい札が二枚。手に取ると柔らかい。自分の財布の中にある固いお札と比べると、毛でも生えているんじゃないかと思う。一枚を友人へ突っ返した。友人は何だか良く分からない顔をした。
 立ち上がると仕切りに遮られていたざわつきが周りから押し寄せてきた。音は真っ直ぐに飛んでいるのだと改めて思った。レジに向かう途中ふと上を見上げると天井に白煙が舞っていた。左では高校生が談笑している。右では一人でサラリーマンが寂しそうにしている。左には家族連れがつまらなそうな顔をした子供を中心に笑い合っている。レジの呼び鈴を鳴らすと店員が如何にも慌てていますといった様子でやって来た。妙に作り物めいた笑顔を浮かべている。
 伝票を渡すとデジタルな数字が四桁示された。丁度になる様に払い、レシートは要らないと言うと分かりましたと返ってきた。レシートも一緒にやって来た。そのままレシート入れに放り込む。飴が差し出される。二つ受け取って一つを友人に渡す。渡すと擦れたありがとうが聞こえた。テレビでは動物達の愉快な映画がやっていた。犬と猫と烏がはしゃぎ合っている。笑い声が聞こえてくる。牛がやって来た。
 店を出る。閉まり切っていない背後のドアの奥から喧騒とありがとうございましたが聞こえてくる。外は涼しい。気持ちが良い。清々しい冷たい空気。店内は煙臭い。そう思った。
 飴の包みを開けて、そこには店名が書いてある、中身を口の中に入れると、固い異物感が口の中で口蓋と舌を押し退けようとする。それを舌で抑えつけながら舐めていると、飴は段々と丸みを帯び始め、口蓋が段々と痛くなってきた。
 更に舐める。何だか飴が憎らしくなって荒々しく舌で弾くと、歯に当たって音が立ち、それがまた不快で、面白く、舌の勢いを強めて、
「さっきのビル、上の階にまだ人が残ってるんだって」
「そうなんだ」
「聞いてなかった?」
「全く」
 興味が無かった。
「八人居て、みんな不具なんだって」
「へえ、どうでも良いんじゃない?」
「もし私達がその八人だったらどうする?」
 質問の意図が分からない。
「どういう意味?」
「もしも私達が上の階に取り残されたらどうなってだんだろうって」
「別にどうって事ないんじゃない? 毒ガスは空気よりも重いみたいだから屋上で救助を待ってれば良いんだし」
 震え。馬鹿だ。携帯を取り出して耳に当てる。
「寂しいよー」
「何か用?」
「寂しい!」
「あっそう」
「大丈夫だった?」
「何が?」
「またテロだって」
「全然違う場所に居るから」
「でも心配だなぁ。気を付けてよ、ホントに。俺の未来のお嫁さ」
 遠く灯りが滲んでいる。屋根の合間にビルが見える。件のビルだ。改めてみればそんなに離れていないのかもしれない。それでも歩いていくには遠すぎる。いつの間にか口の中の飴は溶け切って無くなっていた。
 携帯をしまうと友人がにやけていた。
「彼氏?」
「そう」
「素っ気ないなあ」
「良いの。調子に乗るから。それよりこの後どうする?」
「え? 何処かに向かってるんじゃないの?」
「全然。何となく歩いてただけ」
「じゃあ、カラオケでも行く?」
「んー、いや、あんたの家に行こう。カラオケは明日の朝で良いよ。夜は高いから」
「そうだね」
「時間はあるんだし」
「そうだね」
「場所は」
「直ぐ近く」
 明るい自動販売機。こんな夜にも買いに来る者が居るのだろうか。居るんだろう。今は辺りに誰も居らず、寂しげに光る自動販売機は誰にも見られる事無く朽ちていきそうに見えるけれど。
 直ぐにマンションが見えた。駐車場に車が十台。友人の車は無い。車を持っていないから。駐車場を横切り、車の中に豚の人形が置いてある、入り口の前の段差を上る。段差は所々欠けている。何となく人間臭いと思った。
 友人の後ろから、高らかに靴音を響かせて、マンションへと乗り込む。灯りが煌々と照っている。だがどうしてだろう。明るいはずなのに何だか不気味だ。明るいのに暗い。砂嵐が掛かっている様なそんな明るさ。響く靴音が不吉な予感を膨らませた。エレベーターのボタンを押すと扉がすぐに開いて、のりこむと鏡が掛かっていた。角の付いた自分の顔。服が少し寄れているのでさり気無く伸ばした。友人の背。無造作に伸ばされた手入れのされていない長い黒髪。スカートが不自然に膨らんでいる。中には触手が詰まっている。
 エレベーターが開いた。右に曲がってドアを三つ。三つ目の前に友人が立った。ふと気になって子細に玄関を観察した。どうやら押し売りのマーキングはされていない。少し安堵する。友人が鍵を取り出す、それが差しこまれると、捻られて、玄関が開いた。中は暗い。月の仄灯りと外灯に照らされた淀んだ玄関の中は何だか寂しくて、少しだけ息が詰まった。
 友人の手で廊下の電灯がつけられて中が光に満たされる。明るいと余計に物寂しい。ドアが二つある。奥に部屋が見える。薄暗い部屋はどうやら綺麗に片付けられている様だ。
「結構綺麗にしてるね」
「うん、前のアパートでは散々に言われたからね、誰かさんに」
「だれでっしゃろ」
 先に友人が部屋に入って電気を付ける。私はその後に続いて部屋に入る。正面にガラス窓。右の壁にドアがあった。どうやら二部屋在るらしい。真ん中にはテーブルとソファ。端にテレビと観葉植物。あまり物がない。応接間といった所か。左の壁に風景画。
「広いね」
「家賃、それなりに高いから」
 友人がソファの上にバッグを置くので私もそれに倣う。友人の様子がとても辛そうに見える。
「どうしたの?」
「ちょっと疲れた。喋りすぎた」
「喋りすぎたって……じゃあ、寝るか」
 震え。寝室へ通される。ベッド、パソコン、本棚、詰まった本、動物のぬいぐるみがベッドの上で出迎える。キッチンが付いている。寝室にキッチン、何となくおかしな取り合わせだが、友人らしいとも思う。
『夕飯作ったよ、一人で』
 写真が付いている。何の変哲も無いカレーを盛り付けた器とスプーン、それから馬鹿面が二本指を立てて映っている。
 写真立が窓枠に置いてある。中には写真が入っている。風景写真だ。何処かの草原を写した物で、一杯に草が生い茂り青々と空が掛かっている。他には何も映っていない。
 友人が居なくなっていた。
「じゃあ、先にお風呂入って来るね」
という声がさっき聞こえた気もする。そんな気がするだけで実際は何も言わずに出て行ったのかもしれない。消臭剤のきつい匂いが漂っている。カーテンはクリーム色の無地、半開きになっていて、隙間から夜景が見える。気になって立ち上がり、固いカーペットの上を歩いて、窓に近寄ると、遠くに光の粒が点々と建物の形を作っていて、私はそれに魅せられた。一際高いビルの下から赤い光が滲んでいる。恐らくパトカーか救急車の灯りだろう。
 ざわめきが聞こえてきそうな気がした。窓を開けて赤い光を見つめながら耳を澄ますが、風の音しか聞こえない。それでも何かを聞こうとして耳を澄ませ続けた。
 風が冷たくて寒い。段々と肌が冷えていく。でもどうせこの後お風呂に入るのだから良いだろう。何も聞こえない。何かが聞こえてもいいはずだ。そう思うのに。寒い。思わず体が震えた。ふいに清々しい心地になった。寒い。寒いが心地良い。
「何してるの?」
 振り返るとスウェット姿になった友人が不思議そうに私とその後ろの夜景へ交互に目をやっていた。
「いや、別に」
「やっぱり事件の事が気になる?」
「別に」
 私は部屋に戻って窓を閉めた。
「タオル貸して」
「お風呂場に置いてある。寝間着は? 私の使う?」
「角が引っかかっちゃうよ」
「そりゃそうだ」
「あるから大丈夫」
「そ。後脱いだのは洗濯機に入れちゃって」
「ありがと」
 寝室を出ると灯りの点った居間。やはり煌々と照る電灯は不気味だ。人が居ないからだろうか。夜景が綺麗だと思うのはあるいはそこに人が居るからなのかもしれない。あの赤い光の元にも沢山の人が居る。バッグから下着とパジャマを取り出した。私は人の沢山居る場所へ行きたいのだろうか? あの赤い光の元へ行きたいのだろうか? 行きたいのだろうなと思う。ただふらふらと歩み寄って何の努力もせずに沢山の人に受け入れられたいのだと思う。毒ガスがあるのだから死んでしまうのだけれど、それでも万が一を信じて何の用意も準備もせずにふらふらと寄って、全国放送されているカメラの前に躍り出て、何の訳も無しに受け入れられたいのだと思う。だがそれをはっきりと口に出せば、それは敗北だ。ただの劣った人になってしまう。廊下に出て、途中の扉を開ける。脱衣所が待ち構えていた。
 そろそろ冬だ。これから寒くなるだろう。脱いだ端から肌が冷えていく。だが逆に夜気で冷えた部分、腕と肩と顔は妙に温かかった。この脱衣所は肌よりも冷たく、外気よりも温かいらしい。多分室温よりも温かい。
 脱いだ衣服を洗濯機の中に入れて、浴室の扉を開いた。浴槽にはお湯が張っていない。多分、シャワーだけで済ませたのだろう。まあ、それで良いか。それよりも、と見回して案の定だと溜息を吐く。体を洗うための物が無い。スポンジすら無い。石鹸だけ。多分友人はタオルで洗っているのだろう。仕方が無いから私は手で洗おう。シャンプーもトリートメントもそこらで売っている安物。脱衣所に立ち返って洗面台を見ると、化粧品もそこらの安物。思わず叫びそうになったが堪えた。これでもまだマシになっている。前は最低限の化粧品すら無かったのだから。そう、少しは成長しているのだ。もう少し教育が必要だけれど。
 あまり気にしてもしょうがないと諦めかけた時に、ふと小瓶が見えた。『Eau de vent』という最近高校生の間で流行っているコロンだ。如何にもな甘ったるい薔薇もどきの匂いに、高校生の手が届くぎりぎりの値段設定であやふやな高級感を醸しだし、人気を博している。それは良いのだけれど、何故ここにあるのか。少なくとも二十の後半を迎えた人間がつける物ではないし、そもそも友人が持たなそうな一品で不思議に思った。
 まさか恋人でも出来たのかと思ってコロンを取って見てみると、まだ使われた形跡が無い。封も開けられていない。箱から出されただけの状態だ。まだ買ったばかりなのか、使っていないのか。
 まあ、後で問い質してやるか。浴室に入って蛇口をひねるとお湯が出てきた。自分の家だとお湯が出るまでにもっと時間が掛かる。羨ましく思いながら化粧を落とし、石鹸を体に擦り付け、何となく上を見た。一面のタイル張り、繰り返しの模様は天井で途切れている。体を濯いで、シャンプーを泡立たせ髪を洗う。目を閉じると、無防備になる。これが楽しい。次の瞬間には背後に何かが立っていて自分の首を掻っ切るかもしれない。そう思うと何だかわくわくした。多分子供の頃に培った破滅願望の名残なのだと思う。
 髪を濯ぐと肌にへばり付いた。この感触が嫌だ。だがもう一回味わわなくてはならない。トリートメントを掌に伸ばし、髪に擦り付けていく。シャンプーもトリートメントも安物な事を思い出した。多分今、キューティクルが死んでいる。そんな破滅は嫌だった。
 何だか億劫になった。自分の体を整える事が馬鹿馬鹿しく思えてきて、お風呂なんて入っていたくなくなった。お風呂すら面倒に思うのは風邪をひいた時くらいだ。洗い流してへばり付いた嫌な感覚もお湯で流し、再び石鹸を手に取り、体を洗う。風邪をひいた時と同じという事は私は熱に浮かされているのかもしれない。友人のずぼらさにか。あるいは巷を騒がせているテロルにか。よくよく考えてみれば、お湯がすぐに出たのは友人が入ったすぐ後だったからかもしれない。
 洗い流して、立ち上がり、ごわついたタオルで髪を拭き体を拭き、肌が少し痛くなったので残念な気持ちになりながら、浴室を出て更にお湯を拭き取って、何となく沈んだ気持ちを発散させる為に、タオルを洗濯機へと放り投げた。
 下着を付けて、パジャマを着て、ふと気が付く、化粧水を叩き付け、着信を示す携帯のランプが灯っている事に、乳液を塗り付け、クリームを塗って、携帯を開いて、
『何で返信してくれないの?』
 写メ。食べ終わったカレーと笑顔の馬鹿面。
『うざいから』
 外に出ると、ひんやりと静まる夜気の向こうからぼそぼそと話し声が聞こえてくる。時折笑い声も聞こえる。テレビでも見ているんだろう。居間を通って寝室に入って、
「何か見てるの?」
尋ねると、友人は無表情でテレビを見ていた。
「ニュース」
 ならさっきの笑い声は? その疑問はすぐに解消された。テレビの向こうでさっき見たリポーターが馬鹿笑いをしながら傷心の人々をいたぶっている。
「こんなの見てどうするの?」
「何となく。気になるでしょ?」
 気になりはするが、それ以上に苛々する。
「こんなの見てもしょうがないでしょ」
 テレビを消して、
「ああ、そういえば、あのオーデコロンどうしたの?」
「え? あの香水? お母さんが買ってくれた。機会が無いから使ってないけど」
 やっぱり自分で買った訳では無かったか。それにしても恋人に買ってもらった訳でも無く、母親に買ってもらったなんて。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。もう寝る?」
 既に床に布団が敷いてある。友人はとろんと溶けそうな眠たげな顔をして頷いた。テーブルの上には飲みかけのコップと何も入っていないコップがあった。何も入っていないコップを取って、ペットボトルに入った紅茶を注いで飲み干してから寝室を出た。振り返ると友人は既にベッドに入るところだった。
「歯磨きは?」
「え?」
「え、じゃないよ。早く来な」
 面倒くさそうな友人を連れ立って、居間を通り、廊下に出て、脱衣所へと戻る。置いてあるコロンを指差して、
「使ってみれば良いじゃん」
と言うと、
「どういう時使えば良いのか分かんないし」
と友人は答えて、歯ブラシに歯磨き粉を塗って歯を磨き始めた。
「いつ使っても良いんだよ」
 私も歯ブラシに、歯磨き粉を借りて塗り付け、歯を磨き始める。
「んーんん?」
「んーんん」
 友人は悩みながら歯を磨き、逸早く磨き終わった私は口を漱いで、コロンを手に取った。
「今使う?」
 同じく口を漱いだ友人が首を振る。
「今は止めとく」
 そう言ってずっとしないんだよなぁと思ったが、無理強いして抵抗感を持たれてしまっては仕方が無い。
 そんな事を思っていると、突然友人が真顔で聞いてきた。
「そういえば、結婚するの?」
「え? 何で急に?」
「だって彼氏いるんでしょ?」
「結婚ねえ」
「私達ももうこんな歳だし」
 自分がウェディングドレスを着ている様を想像出来ない。自分が奥さんをやっているところも想像できない。自分が想像できたのは、同じ家に住んであの馬鹿を叩きながら掃除をする場面だ。それでは今と変わらない。
「良く分からん」
「早くした方が良いんじゃない?」
「そっちこそ。まず相手を見つけなよ」
「私はもう、諦めた」
「早いんだって、諦めるのが」
 私が床に敷かれた布団に入ると、友人が電気を消した。
「もしも居るならいずれ見つかるよ」
「探しに行かないと見つからないよ」
「分かってるけどさぁ」
 頭上から布団が擦れる音が聞こえてくる。友人が寝返りでも打ったのだろう。
「それより、事件の事だけど」
 暗闇の中に密やかな声が響く。
「また? どうでも良いじゃん」
「だって……」
 見えずとも友人の落ち込んだ様子がありありと浮かぶ。億劫だ。
「で? 何?」
「うん、あのさ、あのビルの最上階はワンフロアが大きなレストランになってるでしょ?」
「そうだっけ?」
 思い出す。かつて二人で行った事がある。その時は……その時は最上階の食事処の合間を縫って何を食べるか議論しながら、結局どこも混んでいてたった一つだけ空きに空いていたとても美味しくないラーメン屋に入ったはずだ。
「でね、それってさ」
「え? あ、うん」
「何だか映画みたいじゃない?」
「は?」
「大きな爆発が起こって、建物の中に閉じ込められて、それでそこがとっても豪華なレストランで」
 豪華なレストランと言われてもどんな所か分からない。友人が思い浮かべている光景は私も見た筈なのに。なのに私には全く覚えがない。憶えがあるのは安っぽいラーメン屋だけ。本当に友人と私は同じビルの事を話しているのだろうか。
「それで、最初はみんな不安に沈んでいるんだけど、段々と疑心暗鬼になってきて」
「そうなの?」
「ううん、ここは私の想像」
「アホか。もう寝るよ。そっちもつかれてるっつったんだから早く寝な」
「はーい、お休み」
「お休み」
「……でもさ、本当にあんな大事件の渦中に居たら、いつもみたいに助けられるばかりじゃなくて、助けてあげられる気がする」
「私を?」
「うん」
「馬鹿。いつも助けてもらってるよ、あんたに」
「そうかな?」
「勿論」
 それっきり会話が途切れた。ざらついた暗闇に見知らぬ部屋が照らされている。カーテンの隙間から白い月の光が微かに差しこんで、闇と混ざり合って青く輝いている。あの青の向こう、そう離れても居ない場所で今ニュースを盛大に賑わせている事件が起こっているのだと思うと、私も何だかスペクタクルをこの身で味わいたくなった。

 目を覚ますと、そこは大きなシャンデリアに見下ろされた巨大な洋風のレストラン。外では怒号が飛んでいるが、このレストランの中とは関係ない。素早く辺りを見回して確認できた人影は八、いや、六人。私と隣で怯える友人を含めて八人。皆、常人よりも醜い不具者達だ。
 目の前に用意されたコーヒーを飲んで落ち着いていると、いきなり肥満気味の神経質そうな男が立ち上がって私を指差してきた。その腕は緑色で、その指は粘液に塗れている。
「良くこんな状況で落ち着いていられるな!」
「こんな状況だからこそ落ち着かなくちゃいけないでしょう?」
 冷静に言い返されたのが鼻に着いた様で、男はテーブルを思いっきり叩いた。私の隣の友人が酷く怯えて体をすくませた。私に突っかかって来るのは構わないが、友人を怖がらせるのはいただけない。
「あなたが荒々しくしているとこの場の雰囲気が悪くなるんですよ。助かるものも助かりません。大人しく坐っていてください」
「き、き、貴様は」
 回らない呂律と紅潮した顔が痛々しい。惨めにしか見えない。惨めな豚面が私へと向かってくる。面倒だと思いつつ、私が応戦しようとすると、横合いから現れた影が男を殴り倒した。長身の美青年はつまらなそうな顔をして男を見下している。
「大人しくしてろよ、あんた」
 男には聞こえていない。のびてしまっている。
 青年は顔を上げると、私に向かって言った。
「大丈夫ですか?」
 大丈夫も何も、私は何もされていない。
「それもそうですね」
「むしろ助けなんていらなかったから」
「ですが、心配でしたので」
 青年はきざな笑いを浮かべてから、
「さてと」
と呟いて、
 なんか違う。

 目を覚ますと大きな洋風のレストランに居た。人影が六、私と友人を入れて八。皆、化け物の様な容姿をしている。
「私達、ここに居れば助かるよね」
 隣の友人が震えながらそう聞いて来た。私が頷きかねていると、
「助かるに決まっているだろう!」
神経質そうな豚面が苛立たしげに答えた。だが、
 轟音が起こる、階下からだ。
「また爆発か?」
 豚面が不安げにそう尋ねてきた。誰も分かる訳が無い。
「ガスは空気より重いから上に来ないんだよな? だから大丈夫だよな? な?」
 豚面がそう尋ねてきた。豚面がそう言うと現実がその反対になりそうな気がして皆不安になる。友人も顔を青ざめさせて私にしがみついてきた。
 励ます為にその手を握って、なんとなしに外を見る。紫色のガスが立ち上っていた。
 毒ガスが上へやって来ている。それに気が付いて、思わず総毛立った。一拍置いて何とか心を落ち着ける。大丈夫だ。ここの扉は全部閉まっている。外からガスが漏れてくる事は無い。
「ガスだ! 毒ガスが上って来ている」
 豚面が騒ぎ始めた。
 これでは場の混乱に拍車がかかる。思わず舌打ちをすると、他にも何人かが同じ様に苦々しい顔をしていた。皆気が付いていたが騒ぎになる事を恐れていたのだ。それを豚面が踏みにじった。
「まずいぞ! とにかく逃げねばならん!」
 豚面が急に出口へと向けて走り出した。見ればもう出口の向こうには毒ガスが浸り始めている。扉を開ければどうなるか。
「おい、あの馬鹿を止めろ」
 誰かが叫んだ。だが豚面は逃げ足だけは俊敏で、誰も追い縋る事が出来ずに、扉は開かれた。豚面は何処かへと走り去っていく。代わりに毒ガスが滑る様に這い寄ってくる。
 豚面を捕まえようと追いかけていた男の足元を毒ガスが浸した。男は狂った様に足を跳ね上げながら、踊る様にして血を吐いて毒ガスの海に倒れた。二人三人と毒ガスの海に倒れていく。
 逃げ場はない。私と友人は窓際まで追い詰められ、そこへ毒ガスがやって来る。
 と、その時、外にヘリコプターがやって来た。救助のヘリはビルに横づけになって、乗組員がこちらに向けて何か叫んでいる。何と言っているかは分からないが、飛び移れと言う様な事を言っているのだろう。
 私は窓ガラスを素手で叩き割る。だがヘリまでは距離が離れている。飛び乗るにしても風に揺られていて着地点が定まらない。
「大丈夫。私に任せて」
 友人が触手を伸ばして言った。それがヘリに巻き付き、友人は私に手を伸ばして、私はその手を取って、
 アホらし。

 目を覚ますと、巨大な中華レストランに居た。赤色を基調にした店内の真ん中、大きな円卓に私と友人とその他に六人、合計八人が不安そうに座っている。誰もが黙っている。目の前には冷めた料理が並んでいる。誰も手を付けない。
 沈黙に我慢しきれなくなって、私は口を開いた。
「つまり、この中にあの毒ガスを撒いた犯人が居る訳ですよね」
 皆が、一様に怯えた顔をしてお互いの顔を盗み見あった。
 そのうちの一人が恐る恐る言った。
「どうせすぐに救助が来る。今、下手に犯人捜しをして、疑心暗鬼になっても仕方が無いだろう。犯人がすぐに分かるのならともかく」
「犯人、分かりました」
 私が間髪入れずに言い重ねる。
「誰なんだ?」
「どうして分かったの?」
「簡単ですよ。あの警備員の方が残したダイイングメッセージを解いたんです」
 私は自信を持ってダイイングメッセージの説明を始める。
 あれは
 あれは……どうしよう。どんなのにしよう。何だか眠くて頭が働かない。眠い。

「どうでした?」
「駄目だ。錆びついていて、開かない。そっちはどうだ?」
「こっちも駄目です。下はもう毒ガスで降りられない」
「そんな」
「救助が来るでしょうからそれを待つしかないですね」
 ここは巨大な中華レストラン。大きな円卓に座って、皆疲れた顔でうなだれた。
「とにかくテレビで外の様子を見てみましょう」
 皆が同意して、テレビが付けられた。画面に大きなビルが映る。その半分を毒ガスが覆っている。リポーターが馬鹿笑いをしている。
「見てください、皆さん。下に溜まっていた毒ガスが上に向かっていきます。ビルの最上階にはまだ取り残された方々がいらっしゃいますのに。ご家族の方々につきましてはご愁傷様でございます。皆さんで屋上に残る方々のご冥福をお祈りいたしましょう!」
 誰かが立ち上る毒ガスを見て悲鳴を上げた。毒ガスが迫っているなら逃げなくてはならない。だが何処へ? 屋上への扉は錆びついていて使えない。下は毒ガスで満ちている。後はこのレストランに立て籠もって毒ガスをやり過ごすしかない。扉を閉めて、隙間を埋めれば大丈夫なはずだ。だが何故だろう。一抹の不安が私の中にこびりついている。
「大丈夫。私が何とかするから」
 友人の心強い言葉に励まされて、私は大きく頷いた。
 周囲の論調もこの中華レストランに立て籠もろうという方向だ。早速隙間にシーツを詰める事にした。
 しばらくシーツを詰める作業に没頭して静かな時が流れていたが、突然怒声が響いた。
「お前が犯人なんだろう!」
 その大声に驚いて慌てて振り返ると、友人が周りから責められていた。
「そんな訳無いでしょう。私がそんな事したって何の意味も」
「うるさい! お前しかいないだろう!」
 一人が石を握りしめると、他の者達も石を握りしめ。今にも投げようとしている。
 大変だ。助けなくちゃいけない。私は友人を庇って前に出た。躊躇なく石が飛んできて私の頭に当たる。酷い衝撃に世界が揺れて、私は気を失った。
「何だ、そいつも仲間か」
「二人とも殺しちまえ」
 友人はにじり寄る人々を一睨みすると、気絶した私を抱えて店の外へと飛び出した。
 暗い倉庫の中で友人が心配そうに私の事を覗き込んでいる。私が気を取り戻すと、友人は安堵して扉を指差した。
「みんな私達の事を探してる。しばらくここに隠れてよう」
「うん、でも毒ガスが」
「何とかできればいいんだけど。まあ、任せてよ。絶対に助けてあげるから」
「うん」
 確かに扉の向こうから私達を探す声が聞こえてくる。皆、手に手に武器を持って恐ろしい形相で私達の事を探している。これでは容易に外に出られそうにない。
「毒ガスだ!」
「もうここまで上がって来た!」
 外が俄かに慌ただしくなった。
「どうしよう、毒ガスが来ちゃったって」
「むしろ好都合。混乱に乗じて外に出られる」
 友人がそっと外を覗いた。辺りには誰も居ない。毒ガスもまだここまではやって来ていない。
「行こう」
「うん」
 二人で外に飛び出して、階段を上った。
「何処に行くの?」
「とにかく屋上へ」
 その時、爆音と衝撃が世界を揺らした。爆発だ。階下でまた爆発があったのだ。酷い衝撃で建物に亀裂が走った。
「まずい! 床が崩れる!」
 何処かから聞こえてくる声に促されて足元を見ると確かにひび割れて今にも崩れそうになっていた。
「どうしよう!」
「いいから急ぐ」
 二人で廊下を走り抜け、階段を上る。階段の先に屋上への扉が見える。だがそこで廊下が崩れた。私の足元にぽっかりと穴が開く。
「馬鹿!」
 友人の怒鳴り声が聞こえる。ゆっくりと少しずつ私の体は穴の中へと落ちて行って────途中で触手が引っかかって止まった。
「危なかった」
「ほら、手」
 友人から差し出された手に捕まって、引き上げられて、廊下を走り抜け、階段を駆け上る。再び屋上への階段が目に入る。もう少しだ。けれど、確か扉は錆びついていたのではなかったか。
 疑問に思ったが、先に扉の前に辿り着いた友人が扉を力任せにこじ開けた。
「行くよ!」
 友人と共に屋上へ出ると、ヘリコプターが止まっていた。あれに乗れば助かる。だが毒ガスは迫っているし、建物も崩れそうだ。油断は出来ない。
 足元がみしりと鳴った。大きなヒビが足元に走っていた。
 まずい。そう思って、何とかヘリへと近付こうとするが、急げば急ぐほど、踏みしむ足の衝撃が足元を壊していく。
 みしりみしりと鳴り響く音に、焦りが心を満たした時、遂に崩れた。今度は友人の足元が。友人は触手を持っていない。引っかかる事も出来ずに落ちて行く。
 私が駆け寄ると、幸い友人は一階分下の鉄骨に掴まっていた。完全に落ちた訳ではないが、自力で上がるのは難しそうだ。それに今にも建物が崩れそうである。
「今助けるから!」
「私の事は良いから! あんただけヘリに乗りな! もう行っちゃうよ」
 確かに背後のヘリは既に飛び立とうとしている。だが友人を見捨てられない。
「嫌! 今度こそ助けてあげるから!」
 飛び立つヘリにも構わず、私は触手を穴の縁に掛けて体を支えてぶら下がり、別の触手を友人へと伸ばした。届きそうだがつかめない。更に体を近付けようと身をよじると頭上の穴の縁がぴしりと鳴った。これ以上大きく動けば崩れ落ちる。これ以上は伸ばせない。
 すると友人が鉄骨に片手でぶら下がり、もう片方の手で私の触手を捕まえようとした。だが空を切る。
 何度か繰り返して、友人はようやく私の触手を掴んだ。ところがぬめった表面に手を滑らせた。慌てて私はそれを掴む。更に触手を何本も友人へと伸ばして少しずつ引き上げながら、友人の体中に触手をからめていく。同時に穴の縁に掛けた触手に少しずつ力を加えて、穴の上へと上がった。
 何とか二人で穴を抜け出すと、ヘリはもう飛び立って、何処かへ行こうとしていた。私と友人が慌てて立ち上がりヘリを追う。だがヘリはその高度を少しずつ上げて手を伸ばしても届かない。
 私はまた触手を伸ばしてヘリの足、ランディングスキッドに絡みつけた。見る間にヘリの速度が鈍る。その機会を逃さずに、私は友人へと触手を伸ばして絡め捕り、二人でヘリにぶら下がった。ヘリは少しずつビルを離れ、やがて完全に毒ガスの届かない場所へと上り切った。
 ヘリの中で、友人が彼氏と仲睦まじくしている。私はそれを見て微笑み、安堵する。助けられた。私はただ助けられるだけじゃない。ちゃんと友人を助ける事が出来た。それだけで十分だった。後は何もいらない。ただ満足だ。何だか眠くなったので、私は目を閉じた。

 目が覚めると、部屋には朝日が薄らと差しこみ明るくなっていた。見ればテレビがついている。どうやら昨日つけっぱなしで寝たらしい。
 起き上がろうとして、下半身の触手の感触が気になった。いつもならこの感触と今迄の人生に落ち込む所だが、今日は違う。すぐそばに友人が寝ている。これほど心強い事は無かった。自分の触手など些細な事のように思えてくる。
 つきっぱなしのテレビではニュースがやっていた。
 おどっどととと。おどっどととと。昨日のリポーターが愉快な拍子で踊っている。多分寝ずにリポートをして狂ったのだろう。右上に犯人逮捕の文字があった。捕まったのか。あまり感慨は湧かなかった。
 おどっどととと。リポーターの背後で警察に引きつられられる人影が見えた。顔は隠れて見えない。だが服の異様な盛り上がりからその者が不具者だと知れる。おどっどととと。
 解説が入る。何でも最上階に取り残された内の一人が犯人だったそうだ。おどっどととと。カメラが寄る。犯人が何かを叫んでいる。おどっどととと。リポーターの拍子で聞き取り辛いが、確かに何かを叫んでいる。そうして懐から瓶を出した。おどっどととと。辺りが騒然とする。警察が犯人を羽交い絞めにする。おどっどととと。だが瓶は投げられ近くの見物客にぶつかった。途端に紫色のガスが発生し、何人もの人が血を吐いて、おどっどととと、倒れ始めた。画面が暗転し、すぐにスタジオに切り替わる。
 起き抜けのぼんやりとした頭は興味を失って洗面所へと私の体を導いた。そういえば、夢を見た気がする。何だったか思い出せないが、楽しい夢だった気がする。足の先が冷たい。フローリングよりはやはり畳の方が良い。
 洗面所に着いて顔を洗って、ふと香水が気になった。読めない外国語が書いてある何だか可愛らしい小瓶。無性にそれを付けたくなって、私は瓶を手に取り蓋をとろうとして、余りの固さに驚いた。タオルを手に取って、瓶に被せて捻ってみるが、どうしても開かない。長く放置しすぎた所為かどうやっても瓶は開かなかった。
「何してんの?」
 驚いて振り返ると友人が眠そうにあくびをしていた。
「いや、その」
 香水を付けようとしていたと言うのは恥ずかしくて口ごもり、私は香水を後ろ手に隠す。だが友人は目敏く察して、にやりと笑った。
「あー、つけようとしてたんだー」
「何? 文句ある?」
「無いよー」
 にやにやと笑っているのが腹立たしい。だが自分でも滑稽な事は分かっているので言い返せない。
「早くつければ?」
「瓶が固くて開かないの」
 私が小瓶を友人へ突き出すと、友人はそれを手に取って、
「どれどれ」
無造作に捻って蓋を開けた。
「馬鹿力」
「開けたげたのに」
 小瓶を受け取って、塗ろうと思って、でも友人に開けてもらったのだと意識すると、何となくつける気がしなくなって、そのまま蓋を閉めて洗面台に置いた。
「つけないの?」
「うん、今日は止めとく」
「今度別のオーデコロン買ってあげようか?」
「いいよ」
 これ以上迷惑をかけたくなかった。


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