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[29194] 【ネタ】甲州風雲録 ~戦極姫3~
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/08/05 21:53


 信濃上原城を発って数日。
 実に半年ぶりに甲斐の地に足を踏み入れた俺を出迎えるように、山道を通って薫風が吹き付けてくる。
 山野の息吹に満ちた風の香は、信濃であれ甲斐であれ、さしてかわらないはずなのだが、やはり慣れ親しんだ甲斐のそれの方が心地よく感じられた。


 それは俺の気のせいとばかりは言えないようで、俺の隣で馬を進ませていた僚将も、心地よさげに表情を緩めている。常は厳しい表情を崩さない少女の横顔に、つかの間、俺は見惚れてしまった。
 幾多の戦場を駆け抜けたとは思えないほどに白い肌、幾十の敵将を討ったとは信じられないほどに細い四肢、形良く整った眉目は秀麗の一語に尽きる。
 もっとも、この人物の場合、美しさはかよわさ、たおやかさには結びつかない。明眸皓歯との表現どおり、生気に満ちた健康的な美しさなのである。
 重臣筆頭の山県昌景殿などは「駿馬の美々しさよな」と笑いながら言っていた。聞いた当人は馬に例えられたことに微妙な表情をしていが。


 この人物こそ、精強をもって知られる甲州武田家が家臣団にあって、当主晴信様にその妙なる武勇を認められ、『雷』の一字を与えられた武田家秘蔵の霹靂、真田幸村その人であった。


 この幸村と俺は、共に晴信様の近習衆から立身したという共通点を持っている。
 まあ近習衆と一口でいっても、幸村は信濃の有力国人衆である真田家直系の一族であるのに対し、俺はただの料理人の子せがれ、おまけに甲信の生まれですらないため、互いの立場は天と地ほどに違う。
 しかし、縁とは不思議なもので、近習衆であった頃も、またその後も、俺は幸村と何かと役割を同じくし、共に武田の臣としての責務を果たしてきた。今のように轡を並べることは、俺たちにとってさして珍しいことではなかった。
 

 そんなことを考えていると、不意に幸村が口を開いた。
「何をじろじろと人の顔を見ているのだ、颯馬?」
 俺の視線に気づいたのだろう、訝しげに問いを向けてくる。
 俺はいささか慌てながら、平静を装って言葉を返した。
「い、いえ、幸村様がめずらしく穏やかな表情をされていたので、つい……」
 見惚れていました、などとはさすがに言えないので、もごもごと口を動かすにとどめる。
 それを聞いた幸村の目が、すっと細くなった。
「まるで私が日がな一日しかめっつらをしているような物言いだな?」
「当たらずといえども遠からずだと思うんだが」
 つい素で返してしまうと、幸村はわずかに口ごもった末、しぶしぶ、という感じで頷く。
「……まあ、否定はできないか。それはともかくッ」


 幸村は強い眼差しで俺を見据える。
「公の場ではないときは、そのむやみに畏まった口調はやめろと言っているだろうがッ」
「一応、今も任務の最中です。兵たちの前で目上の方を呼び捨てにするわけにもいかないでしょう?」
「ならばせめて『幸村殿』にしろ。お前とて天城の家名を襲名した武田の臣。立場や責任に違いはあれど、同輩には違いないのだからなッ。颯馬に『幸村様』などと呼ばれると鳥肌が立つ」
「そういわれると、余計に幸村様と呼びたくなってしまうのだが」


 冗談半分で俺がそう言うと、幸村は半眼になり、聞こえよがしに内心を口に出した。
「……そうか、颯馬は他人が嫌がることを喜んでするような奴なのだな。そのような性根の折れ曲がった輩が家臣にいるとは一大事。これは此度の報告の折、御館様にもお知らせもうしあげねばなるまい」
「申し訳ございませんでした幸村殿。以後二度と様付けで呼んだりせぬことをここに誓約いたしますのでぜひただいまの戯言はお忘れいただきたく存じます」


 これから半年ぶりに顔を拝することになる方のことを思い、俺は内藤殿もかくやというほどに(?)素早く頭を下げる。
 俺にとって晴信様は尽きせぬ敬愛の対象であり、この身を引き立ててくれた恩人でもある。その尊顔を曇らせるのは断じて避けねばならない。ましてこんなしょーもないことで御心を騒がせるなど、決してあってはならないことだった。
 




 そんないつもどおりのやり取りを繰り広げながら、幸村と俺は二百ばかりの兵を率いて武田家の本拠地である躑躅ヶ崎館へと向かう。
 久方ぶりの甲斐の山野、その情景を楽しみながらも、俺はついつい戦略的な考えに耽ってしまう。
 甲斐の国は四方を山に囲まれた要害の地。この天険は、古来よりこの地の支配者を守ってきた自然の恵みであるといえるのだが、逆にこちらからうって出る場合、峻険な地形が兵の展開や物資の輸送を阻み、かえって足枷となってしまうことが多々あった。
 甲斐一国を守ってよしとするのであれば、これまでどおりで良い。しかし、武田家は天下を目指す家。いつまでも天険に頼るような安易な心構えでいてはいけない。
 そんな家臣を、晴信様は決して望んではいないだろうから。


 では具体的にどうするか。街道の整備と一口に言っても、それには多くの人や物、さらには多大な金が必要になる。武田家は領内の治水に力を入れている真っ最中であり、府庫にこれ以上の負担をかけることは避けたいし、民を酷使するのはなおのこと避けねばならぬ。
 となると、武田の府庫に負担をかけず、民に頼らない計画が必要になるのだが、さて。


 真っ先に考え付くのは、道を広げ、より安全にするとの名目で有力な商人や豪農たちの協力を取り付けることだが、海千山千の彼らが都合良くこちらの思惑に乗ってくれるとも思えない。
 元々、甲斐は山がちの国土がひろがって産物に乏しく、四方を山に囲まれた地形上、お世辞にも交易に適しているとは言いがたい土地である。商人たちにしてみれば、この国に街道を設け、あるいは整備したからといって、目に見える利が生じるわけでもないから、彼らの協力を取り付けるのは難しいだろう。なによりも――
「道を拓き、街道を整備した挙句、隣国に攻め込まれた、などという事態になれば目もあてられないからな」 


 そう呟いた俺は、もう何度目のことか、額から流れ落ちてきた汗を拭う。
 季節は初夏。風が山野の草木を揺らしながら駆け抜ける、実に快い季節なのだが、今日は日差しがことのほか強い。平服であればまだ良かったのだが、今の俺は鎧兜に身を固めた格好であり、ついでに信濃の上原城から半年振りに戻ったばかり。
 つまり何が言いたいのかというと、ものすごい疲れてます。


「……ほぼ同じ条件の幸村が、なんで汗一つかかずに涼しげな様子なのかが心底不思議なんだが」
「日頃の鍛錬と心構えの差だ。武田の将たる者がこの程度で音を上げるな」
 そう言うと、幸村はちらと俺を見て、小さく息を吐いた。
「まったく、先の戦での奮戦ぶりはどこへいったのやら」
「それを言われると一言もない」
 とはいえ、甲信の山野を駆け巡って成長した幸村を基準として考えるのは勘弁してもらいたい、というのが京育ちの俺の本音だった。


「……まさかとは思うが、先ほどからぶつぶつと口にしている考えは、自分が楽をしたいから、というわけではあるまいな?」
 どうやら俺の呟きを聞き取り、内心を察していたらしい。まあ幸村には直接口に出して言ったこともあるから、そのあたりから推測したのだろう。
「はっはっは、何を言うんだ真田幸村殿。この天城颯馬、あくまでも主家の発展と繁栄を願って頭をひねっているのであって、体力に欠ける自分が楽をするためなどではないですぞ」
「都合の悪いことを聞かれた時に笑う癖は何とかしろ、といつも言っているだろう。本心が筒抜けだぞ」
「はっは……」
 笑いかけて、俺は咳払いを一つした後、言葉を続けた。


「だが、実際にいつまでもこのまま、というわけにはいかないだろう。武田の領土は信濃に及んだ。いずれ関東、北陸、東海へと広がっていく。この国の天険が、武田家にとって足枷となる時は必ず来る――京を、天下を目指す以上は、いつか必ず」
「それは御館様と重臣の方々が考えるべきことだ。我らは方々の命の下、命を賭して敵と槍をあわせるのが本分。そこまで口にするのは僭越というべきだろう」
「もちろん、こんなことを目上の方々に申し上げたりはしないさ。幸村だから言ってるんだ。ただ、口にするのは僭越でも、考えることは僭越ではないだろう? 常に視野を広く、とはよく御館様が口にされている御言葉だ」
「ふむ……そもそもの始まりが、己が楽をしたい、という一事でさえなければ、素直に頷いてやるところなのだがな」
「だからそれは違うと言っているだろうが……ッ」




◆◆




 甲斐国 躑躅ヶ崎館


 甲斐の地を統べる武田家は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の嫡流にあたり、現当主たる晴信様はその第十九代目にあたられる。
 武田家の威勢はすでに甲斐一国を覆い、隣国である信濃にまで及んでおり、躑躅ヶ崎館はその武田家の領国経営の中心であった。
 ちなみに名称こそ『館』となっているが、躑躅ヶ崎館の防備はきわめて厚い。石垣やら城壁やらで周囲を囲っているわけではないために誤解する者も多いが、いざ敵が押し寄せてきたとしても、三重に張り巡らされた堀と、要所に配置された各曲輪や家臣団の家屋敷が敵の攻勢を阻む防壁となり、容易に侵入を許さない造りとなっているのだ。


 ただ、躑躅ヶ崎館を中心として広がる甲府の町は、先代の信虎様が京の町並を参考として建設した町であり、躑躅ヶ崎館を中心として街路が伸びている。それは平時においては暮らしやすさをもたらすが、戦時においては、いざ敵に外周の守りを突破された場合、敵の主力がまっすぐに躑躅ヶ崎館を直撃できることを意味する。
 このため、武田家は躑躅ヶ崎館の後方に要害山城を築いていた。いざという時は晴信様たちはそちらに移って指揮をとられるのである。


 ……もっとも、敵勢の手が要害山城にまで届いたことは、その建設から今日まで一度としてない。要害山城を躑躅ヶ崎館に置き換えても同じことが言える。つまりはそれくらい、武田家は安定した治世を築いてきたのである。




 その武田家が隣国である信濃の雄、諏訪家との決戦のために兵を発したのは、昨年の晩秋のことであった。
 信濃守護小笠原長時、北信濃の村上義清をはじめとした信州国人衆の援軍を得た諏訪家との争いは、戦前の予想どおり、激しく苛烈なものとなった。
 動員された兵力は武田勢が六千、信濃勢が五千。兵数は武田軍が勝り、兵の質においても、精強をもって知られる武田軍に軍配があがったであろう。
 ゆえに大勢として武田軍の有利は動かなかったが、信濃勢にしてもおいそれと退くわけにはいかない理由があった。


 諏訪家の領土は甲信の地を結ぶ玄関口。ここを武田家に奪われることは、信濃攻略のための橋頭堡を与えることに等しい。
 そうなれば、近年、急速に国力を高めている武田家は、連年のように信濃に兵を出し、信濃全土を征服しようとするだろう――信濃勢の多くはそう考えたに違いない。
 そんな事態を避けるために、彼らは諏訪に戦力を集中させたのである。多少の不利で兵を退けるはずがなかった。



 諏訪家の居城である上原城を中心として、甲信両軍は激しく矛を交えた。
 信濃勢は堅固な城壁と険しい地形を利して守りを固め、強兵で知られる武田軍も容易にこれを突き崩すことができず、戦線は膠着する。
 晩秋に始まった戦はほどなく冬に入り、朝晩の冷え込みは日を追うごとに厳しくなる一方であった。そして、ついに信濃の山並に初雪を見るに及んで、戦は物別れに終わるかと思われた。
 事実、武田軍はこの戦に利あらずと見て、一度は上原城から兵を退いたのである。これまで防戦一方だった信濃勢は、この時とばかりに追撃をかけてくると思われたのだが、武田軍の策略を警戒してか、あるいは武田の猛攻を受けて追撃の余力がなかったのか、上原城に立てこもった信濃勢は息を殺して武田軍が去るのを見送るばかりであった。
 かくて、諏訪領をめぐる攻防は年明け以降に持ち越されるものと思われた――のだが。



 結果だけ言えば、この十日後、上原城は武田軍によって陥落し、城主諏訪頼重は自刃して果てた。
 小笠原、村上の両将も自領へと退却し、ここに諏訪領は武田家の有となったのである。
 当主である晴信様は信濃勢の退却を確認した後、兵を甲斐に帰すことを決定したのだが、占領したばかりの諏訪領は当然不穏な状態である。
 これを鎮めるために選ばれたのが武田家の重臣筆頭である山県昌景殿であり、幸村と俺はその補佐として諏訪の地に残ることとなった。


 もっとも、補佐などと偉そうに言ったところで、俺は晴信様の近習から引き立てられたばかり、武田家臣団の中では新参末席の身である。今回の戦では多少の功績をたてたとはいえ、やることはもっぱら雑用ばかりだろう――とか思ってたら、昌景殿からやたらと面倒な仕事ばかり任されて往生してしまった。諏訪の旧臣の説得とか、旧主を慕って反抗する農民たちの説得とか、諏訪湖で鰻を取って来いとか。


『颯馬もようやく将として一廉の手柄をたてたのだ。責任ある務めを任せても問題はあるまい? なに、仕事はきっちり選んでおる。けっしてわしが面倒だと思う仕事ばかりまわしておるわけではないぞ。ちなみに最後のはわしの好物じゃ。ほれ、占領したばかりの土地を治めるのは気苦労が多いでな。補佐役としては上役の疲れを慮り、好物を供してしかるべきであろう?』
 くくっと喉の奥で笑いながら、やたらと晴れ晴れとした顔でのたまう昌景殿の顔が思い浮かぶ。
 ……決して昌景殿に不満など覚えてはいない。それどころか、若輩の身に重責をたまわったことを感謝してやまないほどである。感謝と感激のあまり、ついつい眉間にしわが寄ってしまうのだ。信じてお願い。


 ……と、まあそんなこんなで諏訪の地で過ごすことおよそ半年あまり。
 山国の厳しい冬も終わり、春を迎え、信濃の山々に緑が萌え始める頃、甲斐からの使者が到着し、幸村と俺は躑躅ヶ崎館へと帰還することになったのである。
 昌景殿らの尽力もあり、諏訪の遺臣の動向もようやく落ち着いてきた矢先でもあり、俺はこの命令を受けてほっと安堵の息を吐いた。
 繰り返すが、決して昌景殿の下で働くことを厭うわけではない。しかし、どうせこき使われるなら、いい年して童顔のけったいなおやじよりは、可憐で麗しい主君の方が良いに決まっているではないか。決して昌景殿に不満はないので悪しからず。






 そうして諏訪から甲斐へと戻り、晴信様に報告を済ませた俺は、その日は館で泊まることになった。占領したばかりの領土で厳しい任に耐えてきた家臣たちに対し、晴信様は酒食を用意してくれていたのである。
 無論、これは俺個人に対するものではなく、幸村や俺を含めた、諏訪領から戻ってきた家臣たち皆をねぎらうためのものであるが、だからといって晴信様の心遣いに対しての感謝や感激が目減りするわけもなく、俺は夜の宴を楽しみにしつつ、侍女に案内された部屋に向かったのである。


 俺が部屋で腰を落ち着けてしばし後。
 不意に部屋の外から声がかけられた。
「……颯馬くん、いますか? お疲れのところ申し訳ないんですけど、少し話をさせてもらっても良いでしょうか?」
 控え目で、どこか申し訳なさの漂うその声に、俺は聞き覚えがあった。
 というか、俺を「颯馬くん」と呼ぶ人物は、武田家に二人もいない。
 だらしなく寝転がっていた俺は、慌てて身を起こすと襖をあけて来訪者を迎え入れた。
「春日様、わざわざお越しいただかずとも、お呼びいただければすぐに参りました……もの、をを?!」


 俺の前にいる妙齢の女性、名を春日虎綱という。
 武田家の家臣はいずれも智勇仁義の持ち主として知られ、他国にまで雷名を轟かせているが、春日様はその中でも屈指の実力者である。
 武田家の旗印である風林火山、その一字である『林』を許されている、といえばその凄さも伝わろうか。


 春日様は古くから甲斐の地に根を下ろす名門の出ではなく、晴信様の近習衆から引き立てられ、今の地位までのぼりつめた。それはつまり門地も人脈もなくして、武田家臣団の頂点にたどり着いたということであり、一体どれだけの才能の持ち主なのか、と話を聞いた者たちは驚くのだが、そういった人々はたいてい本人に会うと意外そうな表情をする。
 というのも、春日様は性格も容姿も実に控え目で、率直にいって影がうす――げふんげふん、慎ましく、自分というものを主張しない方なのである。
 実際、俺などは春日様から見れば下っ端もいいところなのだが、俺に話しかける口調は丁寧そのもので、ともすれば俺の方が目上の人間だと誤解されかねないほどだ。


 春日様は、似た境遇である俺のことを何かと気にかけてくれていて、俺が近習衆であった頃も、また近習衆から引き立てられ、武将の一人となった後も、なにかとお世話になっていて、俺はまったく頭が上がらない。時々からかいはするが。
 父一人、子一人の家庭で育った俺は、姉さんがいればこんな感じなのかしら、などと恐れ多くも思っていたりするのだが、無論、それを口にしたことはなかった。


 ともあれ、春日様の来訪は俺にとって喜ばしいものであり、重臣の身でここまで出向いてきてくれたことに深く感謝するべき――なのだが。
 俺は、今ばかりはそういった事情をひとまず脇に置くしかなかった。
 何故といって、俺の視界にいる春日様は、胸に予期せぬものを抱えていたからである。
 それは、おぎゃーおぎゃーとよく泣く生き物で……いやまあ、要するに赤ん坊だった。しかも、生まれてから、まださほど経っていないように見える。赤子の世話をしたことなぞないので、生後何ヶ月か、なんてわかるはずもないのだが。


 指折り数えてみると、俺が甲斐を離れていた期間はおおよそ六ヶ月。最後に春日様と会ったのが出陣前だから計算があわない……いや、妊娠して二、三ヶ月では見た目があまりかわらない女性も中にはいるか。あの時、もう春日様はお腹にこの子を宿していたのだろう。
(出陣前の俺を動揺させないように、あえて黙っていたのかな)
 そんな風に考える。実際、今の俺は結構動揺しているし。
 ひそかに春日様に恋情を抱いていた、というわけではないのだが、やはりそれなりに思慕の念はあったし、近しい女性がいきなり母になったと知れば、動揺の一つ二つは仕方ないだろう……




 奇声を発してから、わずか数秒でそこまで考えを進めた俺は、なにはともあれ祝いの言葉を口にすることにした。実際、動揺が通り過ぎれば、めでたいという気持ちがわきあがってくる。
 異性に不慣れなはずの春日様が一体誰と、という疑問は拭えなかったが。
「これは、知らぬこととはいえ、今日までお祝いの一つも申し上げず失礼いたしました。おめでとうございます、春日様」
「……はい? あの、颯馬くん、なんのことです? 祝いを言う人と言われる人が逆のような気がするんですが……」
 不思議そうに首をかしげる春日様に対し、俺も知らず同じような仕草で問い返してしまった。
「何といって……その子をお産みになられたのでしょう? そのことなんですが」
 

 俺が健やかに眠っている赤ん坊に視線を向けると、春日様は、あ、という感じで口を開き、慌てた様子で言葉を発した。
「ち、違いますよ、颯馬くん?! この子は私の姉さんの子で、今、姉さんはちょっと事情があって私の屋敷に来ているんです。それで、今日は姉さんが身体の調子が悪いので、私がこうして子守を……」
 春日様の姉君には幾度かお目にかかったことがある。事情とやらについては春日様は口にしなかったが、少し呆れた様子が見えたから、多分、そう深刻なものではないのだろう。また夫婦喧嘩でもしたのだろうか。気が強い方だからなあ。


 それはともかく、なにも武田家の誇る四天王が子守をせずとも、家臣なり侍女なりに任せれば良いのでは、と思ったが、楽しげに甥(男の子だそうだ)の顔を見ている春日様を見ていると、そんな野暮なことを言うのもはばかられた。


 と、俺がそんなことを考えていると、横合いから第三者の声が割って入ってきた。
「ふふー、颯馬もおばかさんですね。殿方と肌を重ねたことがない春日殿が、やや子を授かるわけがないのですよー」
 若々しく、張りのある女性の声は聞いていて心地よいが、その内容はけっこうひどい。
 ぶふ、と俺と春日様が同時に吹き出した。


 慌てた春日様が、この闖入者を制するために口を開く。声はやたらか細かった。
「ちょ、信春さん?! な、何をいきなり言い出すんですか、は、肌を重ねたことがないなんて、その……」
 すると、相手はきょとんとした様子で首をかしげる。
「何をって、事実を言っただけなのですよ? 私だってそうですし。いつも二人でどうしようって相談してるじゃないですか」
「い、いえ、事実がどうということを言っているわけではなくて、ですね。そ、颯馬くんは仮にも殿方で、その、殿方の前でそういうことを口にするのは……」
「ふむー?」


 春日様が何を言いたいのかがよくわからない様子のこの女性、名を馬場信春といい、春日様と同じく四天王の一人である。
 春日様が『林』であるならば、馬場様は『火』。初陣よりかぞえて三十もの戦に臨み、そのすべてを無傷で切り抜けたという豪の者――なのだが、戦場で彼女を見た人物が脳裏に刻み込むのは、その武勇ではなく容姿である。より正確にいえば、その兜。
 はじめて戦場で馬場様を見た敵は口をそろえて言う。「何故、馬に馬が乗っているんだ?!」と。


 ……いや、まあ、要するに馬そっくりの兜をいつもかぶっているのである。あと、為人はその言葉を聞けば大体わかってもらえるのではなかろうか。目下の者にも分け隔てなく接するその度量は見事なもの、と言いたいが、この方の場合、単にそういう性格なだけかもしんない。



「なんだかよくわからないのですが、とりあえず颯馬におめでとうを言うのですよ。今回は大手柄だったじゃないですか、颯馬ー」
「大手柄、というほどのことでは……」
「謙遜するな、なのです。颯馬の隊の雪道を駆けての奇襲が、敵将を自刃に追い込む要因となったって御館様もおっしゃっていたのですよ」
「それはありがたい仰せですが、一番槍は幸村ですし、実際に城を陥としたのは山県様の手勢ですから」


 俺がそう言うと、馬場様はちょっと眉間にしわを寄せた。
「むむ、どうしても素直に私からのほめ言葉を受け取らないつもりなのですね? ならば私はこの馬に懸けて、颯馬にほめ言葉を受け取らせてみせるのですよ!」
「いや、意味がわからないんですけど?!」
「問答無用なのです!」
 とう、と掛け声と共に飛び掛ってくる馬場様に、たまらず押し倒される俺。
 馬場様は身体つきこそさして大きくないものの、数々の戦場を馳駆した体力と、体術の妙は俺ごときが対抗できるものではない。
 たちまち組み伏せられてしまった。それは良いのだが――いやあんまり良くはないが、それよりもこうして密着していると、女性の柔らかい身体の感触が感じられて非常に落ち着かない気分にさせられる。妙齢の女性なんだから、もう少し恥じらいというものを持ってください馬場様。



◆◆



「ほほう、源助くんというんですか」
 しばし後、俺はお二人にお茶を淹れつつ、件の赤ん坊に視線を向けた。
 聞けば源助くん、先月で一歳になったところらしい。まだはっきりと言葉をしゃべることはできないが、ある程度は人や物の区別はつくようで、今も馬場様の馬の兜に向けて、もみじのような小さな手を伸ばし「まー、まー」と楽しげに笑っている。
 なんというか、実に可愛くて仕方ない。見ていると、ついつい頬が綻んでしまう。


 ところで、そんな俺や、当の源助くん以上に楽しそうなのが、日ごろから馬兜に関して他者の理解を得られずにいる馬場様だった。
 今も源助くんの頬をつつきながら笑み崩れていらっしゃる。
「むふふー。この年で私の馬ちゃんの魅力に気がつくとは、実に見所のある子供なのです。長ずれば武田家にその人ありと言われる名将となること、疑いなしなのですよ! 原殿から受け継いだ美濃守の栄誉を次に担うのは、もしかしたらこの子かも、なのです」


「あ、あの、信春さん。多分、姉さんはこの子を武士にするつもりはないですよ……?」
 ちなみに春日様の生家は甲斐の農家、というか豪農である。その家に生まれた以上、この子はいずれ広大な田畑を継がなければいけないわけだが――
「いえいえ、きっとこの子は我らが武田騎馬軍団に憧れ、家を飛び出して躑躅ヶ崎館へとやってくるのです。ねー、源助くん?」
 すると、まるで「そのとおり」とでも言いたげに、源助くんは声をあげて笑った。それを見て、馬場様はもちろんのこと、俺も春日様も思わず声をあげて笑ってしまう。



 そんな風にほのぼのした気分に浸っていると、再び襖の外から声がかけられた。
 そして、室外からかけられた声は、今度も俺の記憶にあるものだった。
「颯馬、なにやら騒がしいようだが、邪魔しても良いか?」
「ああ、幸村か。かまわないぞ」
 俺がそう応じると、丁寧に襖が開かれる。
「では、失礼する……って、春日様に馬場様ではありませんか?! こ、これは失礼いたしました」
 二人の重臣を前に慌ててかしこまりながら、幸村は鋭い目で俺をにらみつけてきた。
「お、お二人がいらっしゃっているなら早く言わぬか、ばか者!」
「いや、どうせすぐにわかるから良いかな、と」
「良くないわ! 心の準備というものがあるだろう!」
「はっは、古の名将のごとく『全身これ肝』な幸村に心の準備なんか必要ないだろう。あるとすれば、髪に触られる前くらい……」


 そこまで口にした俺は反射的に口を閉ざす。幸村は何故だか髪を触られるのが大の苦手なのだが(身体に力が入らなくなるそうな。耳も弱いらしい)幸村本人はこの弱点を非常に恥じており、からかいの種にすると本気で怒られるのである。
 というか、以前怒られた。その後、一ヶ月近く口をきいてくれなくなり、心配した晴信様が口ぞえしてくれて、それでようやく機嫌を直してもらえた、などという笑えない話もある。
 

「……颯馬、今、何事か口にしかけたように聞こえたが?」
 半眼になった幸村の詰問に、俺はしごく真面目な顔で応じた。
「気のせいでござろう。幸村殿もお茶をどうぞ」
「……む、馳走になる」
 一瞬、何事か口にしかけた幸村だが、追及しても俺がとぼけるだけと見切ったか、素直に茶に口をつけた。


 そんな俺たちのやりとりを見て、春日様は口に手をあてて笑いをこらえている。
「ふふ、あいかわらず二人は仲が良いですね」
「春日殿に同意せざるを得ないのですよ」
 そう言って、うんうんと頷く馬場様。
 そんな二人を見て、幸村は表情を引き締めて反論を口にした。
「お二方に申し上げます。それは誤った認識というもの。たしかに私と颯馬は一時は同じ近習衆でありましたし、その縁で多少は親しくしていると申せましょうが、所詮はただそれだけの仲。ことさら親しい結びつきがあるわけでは……」
 と、そこまで口にした幸村が、不意に言葉を途切れさせた。
 不思議に思ってその視線を追うと、源助くんの姿に行き当たる。どうやら、ようやく赤ん坊の存在に気がついたようだった。


「……う」
 幸村は、誰が見てもそれとわかるほどに表情を引きつらせ、正座したまま足の指の力だけで後ずさるという妙技を披露した。
 幸村は子供が嫌いというわけではなく、むしろ本人的にはその逆なのだが、いつも厳しい顔をしているせいで子供の方からはあまり好かれない、とは本人の弁だった。
 がんばって笑顔をつくろうとして、姉の子に余計怖がられ、大泣きされたという心的外傷もあるそうな――これは幸村本人ではなく、信之様(幸村の姉上)に一昨年の年賀の席で挨拶した際、教えてもらったことである。


 赤子とは聡いもの。声にせずとも幸村に避けられているということがわかったのか、源助くんの顔がみるみる歪んでいく。
 慌てたように春日様があやしはじめるが、あまり効果があるようには見えなかった。
 そうしてほどなく響き渡る赤子の泣き声。
 馬場様は険しい顔で口を開いた。
「むむ! 幸村殿があどけない赤子を泣かせてしまったのですよ!」
「べ、別に私は何もしておりませぬ!」
「言い訳はいけないのです! 事実、幸村殿の顔を見た途端に源助くんは泣き出したじゃないですか!」
「う……そ、それはそのとおり、ですが……」
 珍しく困惑をあらわにする幸村を見て、馬場様はここが押し時とばかりに、ずずい、と迫った。


「ここは源助くんにご機嫌を直してもらうため、幸村殿に一肌ぬいでもらうしかないのですよ」
「い、いえ、私があやしたりすれば、余計に泣かれてしまいますし……」
「ふ、御館様から栄えある雷の字を許された侍大将が戦う前から降参するとは笑止なのですよッ!」
 ずびしィッ! と勢いよく幸村を指差す馬場様。


 その理屈は正直俺にはよくわからんかったが「赤ん坊を泣かせた」という明確な罪の意識を抱える幸村は、そこまで思い至らなかったらしい。
 一千の敵兵に後背から奇襲を受けても、ここまで悲壮な顔はすまい、という感じの顔で馬場様に向き合っている。
「た、たしかに戦わずに逃げるなど武人の名折れ。抜擢していただいた御館様に申し訳のしようがありませぬ。なにより赤子を見捨てて逃げるなど、人として決してしてはならぬこと。馬場様、この幸村、心得違いをしておりましたッ」
「わかってくれれば良いのです。そんな幸村殿のために、私は勝利のための切り札を用意したのですよ! それがこれなのですッ」


 どん、と床に置かれたのは毛艶もあざやかな馬頭の兜であった。
 それを見た瞬間、張り詰めていた幸村の表情がさっと平静なものに戻っていく。その変わりようはいっそ見事なほどだった。
「…………馬場様、これは?」
 そういった声は、すでにいつもの幸村のものである。どうやら馬兜のおかげで、あっというまに正気に戻ったらしい。
 一方の馬場様の様子はさほど変化が見えない。まあ、いつもこんな感じの人であるから、いつもどおりといえばそれまでなのだが。


「ふっふ、私の馬ちゃんを幸村殿用にあつらえたものなのです。ちなみに春日殿と颯馬のものもここにあるですよ」
 馬場様がかぶっている分には、もうあまり違和感を覚えることもなくなったが、こうして三つも馬の兜が並ぶと、さすがにちょっと気味が悪かった。
 というのも、馬場様みずから作ったというこの馬兜、馬場様の要らん情熱がこれでもかというくらい込められており、本物そっくりなのである。
 一見すれば、馬の生首が三つならんでいるようにも見えてしまい、幸村はもとより、源助くんをあやしている春日様も顔をひきつらせていた。


 大声で怒鳴ろうとしたのか、幸村は大きく口を開けたが、すぐに慌てて口をおさえた。これ以上、源助くんを怯えさせないように配慮したのだろう。出来るかぎり低くおさえた声で、幸村は叱責を口にした。
「勝手に人の頭にあわせて妙なものをつくらないでいただきたい! それに、今、一体どこから取り出したのですか、こんな無駄に大きなものを?!」
「乙女には秘密がつきものなのですよ。それよりも、さあ幸村殿。今こそ馬ちゃんを身につける時なのです!」
「断固としてお断りいたします!」


 力強く断言する幸村を前に、さすがに馬場様も少し勢いを殺がれた様子であった。
「むむ、ならば内藤殿のように本当に一肌ぬいで源助くんをあやすのですか? 源助くんも男の子だから、もしかしたら喜ぶかもしれませんが」
「な、なんで馬の兜と、肌をさらすの二つしか選択肢がないのですか?! 大体、男といってもまだ赤子でしょう。私のような無骨な者が肌をさらしたところで喜ぶはずがありませぬ」
「ふむ。まあ、むっつりな颯馬はこっそり喜ぶでしょうが、それはさておき、ではやはり馬ちゃんをかぶるしか幸村殿に道はないのです。何故なら源助くんは馬ちゃんが大好きであり、赤ん坊が苦手な幸村殿が、一度は泣かせてしまった源助くんをあやすためには馬ちゃんの力を借りるしかないからですッ!」
「く、ここでいきなり論理的に攻めてくるとは……」
「さあ幸村殿、こうしている今も源助くんは泣いているのです。迷っている暇はないのですよ、さあさあさあッ!」





 
「……さすがは『火』の馬場様。勝機と見ればなりふり構わぬ見事な攻めです」
「……そ、颯馬くん、止めなくていいんですか? 幸村さん、ずいぶんこまってるみたいですけど」
「……今の馬場様の勢いに水を差すほど命しらずではございません。むしろここは勢いにまさる方に味方することこそ得策というもの」
「……え、それは一体どういう……?」





 ぼそぼそと小声でやりとりする俺や春日様をよそに、馬場様の攻勢に押されっぱなしの幸村はきつく目を閉じて考え込んでいた。
「ぐ、あのようなふざけたものをかぶるなど断じて御免こうむりたいが、しかし、いとけなき赤子を泣かせた罪は罪。これを償うためには一時の恥など顧慮するに足りぬか……? 槍を振り回し、人を殺めるしか能のないこの身が赤子に笑顔をもたらせるならば、馬の兜をかぶるなど恥にして恥にあらず――真田源次郎幸村、これより修羅に入る……ッ」


 ……うーむ。なんかすごい勢いで、すごい方向に突っ走ってないか、幸村?
 根が真面目なだけに、考えすぎると変なところに入り込んでしまう危うさがあるんだよな、幸村は。
 余計なことか、と思いつつも、俺は幸村に声をかけることにした。
「幸村、源助くんが馬の兜を気に入っていたのは本当だぞ。この場だけ、この場だけ耐え忍ぶのが良いと思う」
 大事なことなので二回言っておく。


 俺の声を聞き、幸村はなにやら慌てたようにかぶりを振る。自分が変な方向に向かっていた自覚はあったらしい。
「く、他人事だと思って気楽なことを! この場だけというなら、お前も協力してくれるのだろうな?!」
 そう言うや、幸村は閉じていた目をくわっと見開き、俺に指を突きつけようとして……その動きを途中で止めた。
 その口がぽかんと開かれる。


 そんな幸村を眺めつつ、俺はいつもよりやたらと重くなった頭に尋常でない違和感を覚えながら、あえて平静な調子で幸村に言う。
「すでに装着済みですがなにか?」
「はやいわ?!」
 いつの間に、と驚く幸村に、俺は隣を指差してみせる。
「あと春日様も」
「……この兜、思っていたよりも、ずっと着心地がいいですね」
「なッ?!」
 ちょっと気に入ったっぽい様子の春日様を見て、幸村はもう声も出ない様子。
 そんな俺たちを見て、にたーりと笑った馬場様は、ただ一つ畳の上に残された幸村用の兜を手にとり、ずずいっと迫った。
「さあ、幸村殿。そろそろ年貢の納め時なのですよー」
「う、くううううッ」






◆◆






「……なるほど、それでこの有様、というわけですか」
 宴の席の片隅で固まっていた四頭の馬に歩み寄った晴信様は、ここに至る事情を聞き、呆れたような、笑いをこらえかねたような、微妙な表情で頷いて見せた。
 ちなみに周囲からは、宴の開始からずっと奇異の視線が注がれているのだが、なにしろ俺はともかく春日様、馬場様は重臣中の重臣。幸村もまた御館様にその武烈を認められた家中随一の勇士である。周囲からすれば、からかうこともならず、かといって事情を聞くこともはばかられたのだろう。結果として、まるで存在しないもののように放置されている俺たちだっ。


 ちなみに源助くんはとうの昔に泣き止んでいる。幸村が馬の兜をかぶったらぴたりと泣き止み、その後はかえって幸村にひどく懐いてしまい、幸村が去ろうとしたり、兜を脱ごうとすると、くしゃっと表情を歪めてしまうため、幸村はずっと兜を脱げないままなのである。源助くんに懐かれた幸村の、困ったような、それでいて嬉しそうな複雑な表情は一見の価値があった。無論、口に出しては言わないけれども。


「信春や颯馬はともかく、虎綱や幸村までどうしたのかと思いましたが、ふふ、そういうことならば納得です」
 くすりと笑う晴信様からはえもいわれぬ香気が漂う。晴信様の中では、俺は信春と同じ人種だと思われているらしいが、そんな自分の扱いに対する嘆きも、この晴信様の笑みを見れば吹っ飛ぶというものであった。
 ちなみに、俺と春日様は兜を脱いでもよかったのだが(事実、俺たちが脱いでも源助くんは泣き出さなかった)、さすがにそれをすると幸村が気の毒なので、こうして付き合っている次第である。


 晴信様が源助くんの頬に手を触れると、源助くんはきゃっきゃっと笑いながらも、決して大声をあげることなく、かつ晴信様の手を嫌がるでもなく、されるがままに任せていた。
 晴信様は感心したように頷いた。
「賢い子ですね。それに、これだけたくさんの大人たちが騒いでいるというのに、少しも怖じるところを見せないのは勇ある証。信春の言うとおり、将来、武の道に進むのならば、良き将となることでしょう」


「さすが御館様、そのとおりなのですよ! 少なくとも、どこかの内藤殿のような傍迷惑な男にならないことだけは確実なのです。なにしろ私の馬ちゃんの良さに気づいたくらいですから」
「の、信春さん、だめですよ、同輩の方をそのように言っては……」
「むむ? 春日殿は源助くんに内藤殿のような殿方に成長してほしいのですか?」
「……い、いえ、それは、その、違います、けど……」
 春日様は困惑しきった顔でうつむいてしまった。


 内藤殿というのは、春日様や馬場様と同じく四天王の一人内藤昌秀殿のことである。
 その為人は、まあ、別にここで語らずともいいだろう。今は相模との国境に出向いているのでこの場にはいないし、あえて語りたい人でもないし。
 ……決して悪い人ではない、とだけ言っておこう。 


「虎綱、私にもこの子を抱かせてもらえませんか?」
 晴信様がそう言ったのは、困じ果てた様子の春日様に助け舟を出す意味もあったのだろう。
 無論、春日様がその申し出を断るはずもない。
「は、はい、もちろんです。この子にとっても、光栄なことですから」
 そういう春日様から源助くんを抱き取った晴信様は、はじめこそ少し慣れない様子を見せていたが、すぐにコツを掴んだようで、ゆっくりと源助くんの身体を揺らしてあやす姿は、実に実に絵になるものだった。


(それにしても)
 晴信様はもちろんのこと、春日様も、それに幸村もだが、女性というのは、どうしてこう赤ん坊を抱くと綺麗に映るのだろう。その表情は年齢にかかわりなく、母としての慈しみに満ちており、晴信様の優しいまなざしを向けられる源助くんに年甲斐もなく嫉妬してしまいそうだった――いや、もちろん嫉妬云々は冗談だが。



「颯馬」
「………………」
「颯馬?」
「……はッ?! な、なんでしょうか、御館様」
 源助くんを抱く晴信様の姿に見惚れていたら、当の晴信様から不意に話しかけられ、思わず声を上ずらせてしまった。


 そんな俺の慌てた様子を意に介する様子もなく、晴信様はにこやかに微笑む。
「宴が始まる前にも言いましたが、長きに渡る他国での任、本当にご苦労でした。制したばかりの土地で冬を越す。危険も苦労も絶えなかったと思いますが、よく務め上げてくれましたね」
「恐れ入ります。しかし、この天城、御館様のお役に立てるのであれば、たとえ火の中水の中であろうとも厭うものではございません。隣国で雪を見ながら過ごす程度のこと、労苦とすら考えておりませぬ」
「ふふ、常にかわらないあなたの忠勇、頼もしい限りです。昌景も書状で記していましたよ。颯馬がいるからずいぶんと楽ができる、ありがたいことだ、と」
「…………ほほう、それはそれは」
 やっぱり面倒事を押し付けていただけですか、昌景殿――今度、酒の肴をつくるときには大陸伝来の辛子をふんだんに使って差し上げよう。


 多分、晴信様は山県殿の書状や、俺の表情から、大体のことを察しているのだろう。くすくすと微笑みながら、なおも言葉を続けた。
「戦における手柄もあわせて、何らかの褒美を、と考えているのですが、何か望みはありますか、颯馬? かなう限りあなたの希望に沿うよう努めますから、望みのものがあれば教えてほしいのですけれど」
「の、望みでございますか? いえ、特には……」
 俺が慌てて首を横に振ったのは、なにも遠慮したわけではない。
 春日様や幸村が凄すぎてあまり目立っていないが、外様の俺が近習衆から引き立てられ、一家を構えることを許されたというのは、実はものすごい大抜擢なのである。これ以上を望めば、身の程知らずと陰口を叩かれても仕方ない、というくらいの。


 そんなわけで俺はかぶりを振ったのだが、晴信様はそんな俺をじっと見据え、何事か口にしようとする。
 だが、その言葉が発されるよりわずかに早く、横合いから口を挟んできたものがいた。
「むふふー、颯馬は御館様が源助くんを抱く姿を間近で見られただけで、もう十分に満足なのですよねー」
 ぶはー、と酒臭い息を吐く馬場様。いつの間にか、ずいぶんと出来上がっていたらしい。
「ちょ、馬場様、いきなり何を?!」
「隠しても駄目なのですよー。御館様にぽやーっと見惚れていたのは誰の目にも明らかなのです。ねー、春日殿?」
「え、あの、はい、そうですね……?」
「ほら、春日殿もこう言っているのですッ」
「明らかに最後が疑問形になってるでしょうが!」
「ほほう、つまり颯馬は自分は御館様に見惚れてなどいない、とこう主張するのですね? 御館様に目を惹かれたりなどしていない、と?」
「う、いや、それはその……」


 言いよどむ俺を見て、晴信様がどこか沈んだ顔で口を挟んできた。
「無理をせずともいいのですよ、颯馬。女子として、自分が豊麗には程遠いというのは自覚していますから。こんな私を間近で見たとて、殿方は何も感じたりはしないでしょう」
「そんなことはまったくございません! 見惚れましたし目を惹かれましたし、なんで赤子を抱いた女性はこんなに綺麗なんだろうとも思いましたッ! ましてそれが御館様であってみれば弁天様もかくやというような――」


 思わず大声をあげてしまってから、自分が何を口走っているかに思い至り、俺は一気に青ざめる。
 一方の晴信様は、ちょっと困った様子で微妙に視線をさまよわせていた。
 多分、さっきの沈んだ顔は、場にあわせた冗談のつもりだったのだろう。しかし、甲斐の虎といえど、俺がここまで恥ずかしい台詞を叫ぶのは予想外だったと見える。


「……ええと、颯馬、その……ありがとうございます。この子のおまけとはいえ、面と向かってそこまで褒められると、さすがに少し照れますね」
「……は、いや、あの、おまけというわけでは、いえ、こちらこそ失礼なことを……いや、失礼というのは違うか……えーと、ご無礼を……これも違うような……?」


 ああ、穴があったら入りたい。というか、よく考えたら、まだ俺は馬の兜をかぶっているではないか。この状態で主君に向かって何を口走っているんだ、俺は?!
 水を向けてきた馬場様にしても、俺の反応は予想を超えていたらしく、戸惑った様子があらわである。
 かくて、なんとも言いがたい空気が周囲に満ちようとした――その寸前。
 不意に大きな笑い声が響き渡った。
 晴信様の腕に抱えられていた源助くんが、俺の珍妙な表情と馬頭の組み合わせを見て、手を叩いて笑っているのだ。 
 
  
 一歳にして空気の読める男、春日源助。
 その笑い声にたちまち微妙な空気は霧散していく。
 そのことに心底安堵を覚えながら、俺は一歳児に窮地を救われる自分に対し、深甚な失望を覚えずにはいられなかった……




[29194] 甲州風雲録 ~戦極姫3~ 第弐話
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/17 00:43
 

 信濃上原城から甲斐に戻ってはや数月。
 夏は瞬く間に俺の頭上を通り過ぎ、気がつけば甲斐の山野にも秋の気配が色濃く漂うようになっていた。
 収穫を控えたこの時期、躑躅ヶ崎館は常にもまして騒がしくなる。多くの家臣たちが気忙しげに歩き回り、館の内と外を出入りする姿は、どことなく春先のアリの巣を思わせた。我ながら妙なたとえであるが、館から出て行く者と帰ってくる者が絶えないところが、俺にそんな思いを抱かせたのだ。


 まあ案の定というか、それを口にしたら配下の一人――大蔵長安という――に「なにをわけのわからないことを」と真顔で呆れられてしまったのだが。おまけに長安の肩にいた猿(長安は元は猿楽師だった)にまで歯をむきだしにして笑われた。ちくせう。


 それはさておき、この時期の多忙さは俺のような小身の者であってもかわらない。内向きのこともそうだが、収穫間際の田畑を焼き討ちしようとたくらむ隣国の動静にも注意しなければならないのだ。逆にこちらから敵領に押し込む場合もありえる。
 特に武田家は先ごろ諏訪家を滅ぼしたばかりであり、信濃の国人衆との関係は険悪の一途をたどっている。おそらく、俺も近いうちに再び信濃に向かうことになるだろう。 主君に指図されてから準備するなど誰でも出来る。そのあたりもあらかじめ考慮して動いてこそ良い家臣というものだ、とは頼りになる配下からの献言であった。



 その献言に従って色々と動き回ってはいるものの、ふとした拍子に時間が空いてしまうこともある。
 今日はちょうどそんな日だった。馬場様(馬場信春)に頼まれていた仕事が予想外に早く終わってしまい、午後が丸ごと空いてしまったのである。
 では、城下にある自分の屋敷に戻り、自家の政務(小なりといえど、一応天城家の領地もある)を執ろうかとも思ったが、そちらは日ごろから長安に任せているため、俺が手を出す余地がなかったりする。
 もっとはっきり言うと、下手に手を出すと長安に怒られるのだ。余計なことをするな、と。どっちが主で、どっちが従だかわかったものではないが、実際、こと政務に関するかぎり、長安の能力は俺のはるか上を行くので反論することも出来ない。
 天城家の家宰というのは、明らかに長安にとっては役不足であり、俺はいずれ折を見て長安を御屋形様に推挙するつもりだった。まあ、今の俺は他人を推挙できるような身分ではないので、推挙がいつになるかはわかったものではないのだが。



 それはさておき、急いで館を出る必要はないと考えた俺は、中庭の方に行ってみることにした。
 先刻、顔見知りの庭師から、山ツツジや竜胆が見事に咲いているので、お暇があればご覧になってください、と言われたのを思い出したのだ。
 俺には花を愛でるような趣味はなく、中庭に足を向けたのはちょっとした思い付きに過ぎなかったのだが、中庭に着いた俺は、その思い付きのきっかけをくれた庭師に心底から感謝した。
 何故といって、中庭には予想だにせぬ先客がいたからである。



 秋空の下、咲き誇る花々を見ながら、一心に絵筆をはしらせていたのは御屋形様だった。
 よほど集中しているのか、俺のことに気づく気配もない。
 御屋形様は時々、こうして館の風景を絵筆であらわすことがある。近習としてお傍に仕えていた時も、こんな御屋形様を幾度となく見かけたことがあった。
 御屋形様が対象とするのは花であったり、池であったり、あるいは館そのものであったりするが、どれであっても実に巧みに描かれる。たぶん、普通に絵師としても食っていけるのではなかろうか。


 それはさておき、御屋形様の近習であった俺は、その絵の腕前以外にも知っていることがある。それは、こうして絵を描いている時間が、御屋形様にとっては貴重な休息ないし息抜きの時間だ、ということだ。
 甲斐の国と武田の家を支える御屋形様、その双肩にかかる重責がどれほどのものなのか、俺には想像することすら出来ぬ。だが、それが尋常なものではないことくらいは察することができる。
 ゆえに、御屋形様の憩いの一時を妨げてはならない。その真摯で可憐な横顔を見ることが出来ただけで満足するべきであろう。


 俺はそう考え、そっとその場を立ち去ろうとしたのだが――
「……あ、あれ、颯馬?」
 別に足元の何かを蹴飛ばすようなへまをしたわけではないのだが、御屋形様に気づかれてしまった。もしかしたら、ちょうど絵の作成に一区切りがついたところだったのかもしれない。
 めずらしく、慌てたように声を高めた御屋形様であったが、俺を見る眼差しはすぐにいつものそれ――武田家当主としての威厳と慈愛を感じさせるものにかわっていた。
「どうしました、そのようなところで? 物陰から主君の顔を盗み見るのは、あまり良い趣味とはいえませんよ」
 そう言うと、御屋形様は、それが冗談であると告げるように小さく微笑み、俺を手招きした。


 主君に招かれては応じざるを得ない。俺は恐縮しつつ、御屋形様の前に歩み寄り、頭を下げた。
「失礼いたしました。庭師から、ここの花が綺麗に咲いていると聞いたもので、どんなものかと見に来たのですが」
 まさか御屋形様がおられるとは思わなかったのです。
 恐縮する俺に向け、御屋形様は口を開く。
「構いません。庭師が丹精込めて咲かせた花たちです。見るのが私だけではもったいないでしょう。もっとも、颯馬の視線は花ではなく私に向いていたようですが?」
「おかしいですね。それがしは一番綺麗な花を見ていたつもりだったのですが……」
 追従にあらず。本心である。
「……は、はい?」
 一瞬、何を言われたのか、という感じで目を瞬かせた御屋形様だったが、すぐに俺が言わんとするところを悟ったのか、その頬は瞬く間に朱に染まった。


「そ、颯馬、追従を口にするのは感心しませんよ?」
「本心なのですが」
「た、たとえ本心であっても……あ、いえ、その私とて一人の人間ですから、花のように美しいとほめてもらえるのは、と、とても嬉しいのですが……」
 群臣の前にあるときは常に冷静沈着な面持ちを崩さない御屋形様が、視線をさまよわせながらあたふたしている様は、なんというか、実に良い。これだけで向こう一ヶ月くらいは休みなしに働けるくらいに良い。
 いつまでも眺めていたいが、さすがにこれ以上主筋の方を戸惑わせたままにしておくのは申し訳ないので、俺は話題を転じることにした。


「竜胆、でございますか?」
 御屋形様の絵をちらとのぞき見た俺は、そこに描かれている釣り鐘型の花を見て、花の名を口にした。
 御屋形様は俺の気遣い(?)を察したのか、こほんと咳払いしてからこくりと頷く。
「秋に咲く花はどこか淋しいもの。これから冬に向かうという人の思いが、そう感じさせるのでしょう。ただ、それゆえにこそ、そこには春の花にはない味わいがあると思うのです」
 言いながら、御屋形様は絵筆を走らせ、紙面の花は見る見るうちに形を得ていく。ただ、そこにあるのは竜胆のみで、周囲に咲いている山ツツジ等は描かれていなかった。どうやら御屋形様は中庭の風景ではなく、竜胆だけを描いているらしい。


 むろん、そのことに異議を唱えるつもりはない。芸術的感性など薬にしたくてもない俺が、御屋形様の絵の構図に口をはさむなどとんでもないことだ。
 しかし、である。竜胆だけを描くのであれば、鉢にでも移しかえて自室で描いていただけないか、とは思ってしまうのだ。
 まだ日が出ている時刻とはいえ、夏はとうの昔に過ぎ去り、山国である甲斐の山野には涼風が吹いている。長時間、この風にあたっていれば身体が冷えてしまうだろうし、体調を崩してしまう恐れもある。


 そう考える一方で、部屋の中ではなく、外で絵を描いてこそ気晴らしになるのかもしれない、とも思う。
 どうしたものか、と俺が内心で苦慮していると、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、御屋形様がこんな問いを発された。
「颯馬。花言葉、というものを知っていますか?」
「花言葉、でございますか」
 俺は首をかしげる。聞き覚えながい言葉だった。
「いえ、存じませぬが、それはどのようなものなのでしょうか?」
「山野に咲く種々の花々に言葉を託す異国の風習だとのことです。先日、駿河より来た商人の一人から聞きました」
「それは雅な習わしですね。ふむ……」
 何か気の利いたことを言おうと頭をひねってみたものの、何も思い浮かばなかった俺は自分自身に失望しつつ、御屋形様の様子をうかがう。


 御屋形様は俺にちらと視線を向け――おそらく、俺が何か言おうとして、結局何も思いつかなかったことを察したのだろう。くすくすと楽しげに笑っていらっしゃった。ぬう、なんかとてつもなく恥ずかしい。
 俺が羞恥で頬を赤くしていると、御屋形様はこれまたすぐに気づいたようで、慌てたように表情を改め、取り繕うように口を開く。いつもより少しだけ早口だった。
「興を覚えて幾つか訊いてみたのですが……ふふ、不思議なものですね。いえ、あるいは当然のことなのかもしれませんが、異国人も秋の花には物悲しさを覚えるようで、竜胆の花言葉は『淋しい愛情』というのだそうです」
「『淋しい愛情』ですか。それはたしかに物悲しいですね」
 俺は中庭に咲いている竜胆に視線を向ける。こうして見る分には淋しげな花だとは思わないが、野山で見かける竜胆の花は群生せずに一本ずつ咲いている。そのあたりも、そんな花言葉がつけられた理由の一つなのかもしれない。


 俺がなんとなく思いついたことを口にすると、御屋形様はにこりと微笑んだ。
「良いところに気がつきましたね、颯馬。おそらくそれと関わるのでしょう。『あなたの悲しみに寄り添う』という花言葉もあるそうですよ」
「……なんと申しますか、花言葉というのはとても情緒的なものなのですね」
「たしかに、すこしばかり気恥ずかしく思えてしまうかもしれませんね。とくに殿方には」
 御屋形様は笑みを絶やさぬままにそう口にした。
 だが次の瞬間、ふと、その顔にそれまでとは異なる色合いが浮かんだように思われた。
「――言葉は人の想いを映すもの。竜胆の花に淋しい言葉を託した者の中には、やはり淋しさがあったのかもしれません。それを遠く離れた異国のわたくしたちが、今日、こうして知るを得た。ならば、その淋しさにもなにがしかの意味があったといえるのかもしれませんね……」


 そこで御屋形様は不意に我に返ったようだった。どこか慌てた様子で絵筆をしまい始める。
「す、すみません。愚にもつかないことを言いました。風も冷えてきたことですし、そろそろ部屋に戻ることにします。颯馬も勤めが終わったのならば、はやく屋敷に戻って、たまには家臣たちをねぎらってあげなさい」
「は、かしこまりました。ただ、ひとつだけ申し上げたきこと」
 不思議そうに俺を見る御屋形様に向け、短く気持ちを告げる。
「決して愚にもつかないことなどではございませんでした。少なくとも、それがしにとりましては」
 俺がそう言うと、御屋形様はわずかに目を見開き、そして今日一番と断言できる柔らかい笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます。ふふ、颯馬にはときどき驚かされてしまいますね」
「う、驚かせるつもりはまったくなかったのですが」
「わかっていますよ。さて、それでは私はここで。颯馬もわかっているとは思いますが、戦のときが近づいています。くれぐれも身体をこわしたりしないでくださいね。あなたは今やれっきとした武田の武将なのですから」


 そう言うと、御屋形様は何か思いつかれた様子で、ぱんと両手を叩いた。
「そうですね。今度は颯馬の凛々しい武者ぶりを描いてみましょうか」
「りりッ?! あ、いえ、それはあまりに恐れ多いことで……」
「ふむ。颯馬は私に描かれることに興味はない、ということですか……」
「い、いえ、そ、そんなことは決してございませんが、しかし――」
 沈んだ様子の御屋形様になんと言ったものかと俺は頭を抱えかけたのだが、見れば御屋形様はくすくすと笑っていらっしゃる。これはどうやらからかわれたらしいと悟り、俺はおもわずじと目で御屋形様を見つめてしまった。
 すると、御屋形様は軽やかに微笑みつつ――
「ふふ、最初に私をからかったのは颯馬でしょう? これはその仕返しです。甲斐の虎がやられっぱなしであるとは思っていませんよね」
 その姿に、つい先ほど感じた淋しげな様子は見て取れなかった。
 からかわれたことよりも、その事実に俺はほっとする。そして、これ以上御屋形様を引き止めてはならないと思い、この場を去ろうとしたのだが――嵐は突然にやってきた。




 
 

「花も恥じらう美しさ、それすなわち私のこと! 風のごとく内藤、おのが噂を聞きつけて、ここに参上! ――おや、御屋形様に天城殿ではありませんか。このような場所で私の噂話に花を咲かせずとも、およびいただければすぐに参りましたものを。さあ、この美々しき身体をご堪能あれッ!」
 唐突に姿を現した秀麗な容姿の青年が、こちらに口をはさむ隙もあたえずに言葉を重ねた挙句、おもむろに上衣に手をかける。
 ちなみに、青年の台詞も行動も冗談などではなく、本人がきわめて真剣であることを俺は知っている。御屋形様もご存知である。なにしろこの方こそ、武田家にその人ありと謳われる風林火山の一角、『風』の内藤昌秀様、その人なのだから。


 常であれば、御屋形様が苦笑まじりにたしなめるところなのだが、いきなりの出現に咄嗟に声が出ない様子である。
 俺は俺で、身分に差があるために力ずくで制止するわけにもいかず、手をこまねいていた。
 このままでは見たくもない男の裸体を見せ付けられてしまう、という俺の危惧は、しかし、幸いにも杞憂に終わった。救世主が現れたからである。


「御屋形様に妙なものを見せるでないわッ!」
 その異名のごとく、雷のごとく現れ、内藤様を吹っ飛ばした人物の名を真田幸村という。
 さすがに武器は用いていなかったが、幸村の掌底を胸元でまともに受けたのだ。内藤様は筋骨隆々という型ではなく、むしろ男にしては細身にすぎるほどの体格であり、その身体はひとたまりもなく宙を飛んだ――のだが。


 さすがというか何というか、内藤様は地面に叩きつけられる前に、空中でくるりと華麗に身体を翻すと、両の足でしっかりと着地してみせたのである。俺と御屋形様がそろって拍手してしまったほど、見事な身のこなしであった。
「これはこれは真田殿。今の打ち込みの速さは素晴らしかったですよ。しかし、妙なもの、とは聞き捨てなりませんね。十三で初陣を迎えてから今日まで戦場に出ること数知れず、しかし刀はおろか矢の一つも受けていない、この一点の染みもない私の美しき身体のどこが妙だというのです?」
「時も処もわきまえず、おのが裸体を晒したがる男が妙でないとでも? 妙な男の身体は妙なものに決まっているでしょう」


 それを聞き、内藤様は、ふ、と軽やかに微笑んで見せる。磨きぬかれた白い歯に、秋の陽光がきらりと反射したような気がした。
「その理論は美しくありません。しかし、私は真田殿を咎めはしませんよ。真の美を見たことのない者が、真の美を知らぬは道理。ゆえに真田殿には今日こそ真の美とは何であるかをしっかりと見せてさしあげましょうッ!」
 そう言うや、再び上衣に手をかける内藤様。
 まだ懲りぬか、と言いたげに幸村が一歩足を踏み出した。


 だが、再度の激突は未発に終わる。ふと自分の胸に視線を向けた内藤様が、そこにあざやかに刻まれた青あざに気が付いてしまったのだ。むろん、先の幸村の打撃によるものである。
「……おおおおッ?!! わ、私の白く美しい胸元に青いあざが……ッ?! な、何という、ことだ……」
 がくり、とくずおれるようにその場にうずくまる内藤様。
 傷一つない身体の美々しさを誇っていただけに、青あざの一つであっても膝を折るほどに衝撃であったのか――などと思ったのだが。


 がばっと身を起こした内藤様は、天にも届けとばかりに叫ばれた。
「……なんと、なんと美しいッ! 白と青の調和。ひときわ目立つ青が美白を強調し、我が美をさらに際立たせる。ふふ、いい、素晴らしい! 真田殿、感謝いたしますよッ!」
「……いや、感謝など心底どうでもいいので、御屋形様の前での振る舞いをもう少し改めてください」
 言葉どおり、心の底からうんざりした様子で幸村はそう口にするのだが、内藤様の耳には届いていないようだった。
「ふふふ、はーはっはっは! さあ御屋形様、この内藤、描かれる準備は万端。存分に、心行くまで、我が美を絵筆にて写し取ってくださいませッ。御屋形様の英名が後世まで轟くことはすでに確定しておりますが、この身を描くことで、その栄えある名はより高く飛翔することでございましょうッ!!」
「だから脱ぐなというに! ええい、目上の方ゆえ我慢を重ねてきたが、これだけ言ってもわからぬのであれば是非もなし。我が槍にて御屋形様の視界を清めてさしあげねば――ッ!」





「いつものこととはいえ、賑やかなものですね」
 二人のやりとりを聞く間に落ち着きを取り戻したのだろう。御屋形様がくすくすと笑う。俺は苦笑まじりにうなずくことしかできなかった。






◆◆◆






 自覚はなかったが、予期せぬ御屋形様との邂逅を経て、俺はよほど上機嫌であったらしい。まあ最後に余計な一幕があったが、気にしてはいけない。
 自分の屋敷(というほど広くもないが)に戻った俺を出迎えた――もとい、たまたま玄関で顔を合わせた長安は、常の無表情を保ったままわずかに首を傾げて問いかけてきた。
「何かあったの? 顔が緩んでいるけれど」
「うむ。とても良いことがあった」
「そう。ただ、その顔で屋敷を歩くのはやめた方が良いでしょう」
「む……そんな変な顔をしてるか?」
「ええ」
 淡々とうなずくと、長安はさっさと出て行ってしまう。何か用事があったのだろう。愛想がないのはいつものことである。というか、愛想のある長安とか、とても想像できない。
 俺は長安の忠告に従い、意識して顔を引き締めつつ、自分の部屋に戻ることにした。


 


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