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[28849] ドラゴンテイル 辺境行路 【オリジナル 異世界 ハイファンタジー】
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:8b16bcf6
Date: 2013/01/08 21:00
 あらすじ

 人類の文明が未だ黎明期にあった血と鉄と炎の時代
ヴェルニアの地に様々な種族や亜人が各地に割拠し、強力な国々が覇権を争っていた頃の物語
辺境を旅するエルフの娘が、安宿で女剣士と出会う。朝食時のふとした会話を切っ掛けに意気投合した二人は、旅の目的地が同じ街だと知って、道行を共にすることにした。
数多の人々との出会いと別れが織り成す剣と薬草の物語。降りかかる危機を機知と機転を頼りに切り抜ける冒険譚。


 始めまして

マリみてとムーミントロール読んでいるうちに自分でも小説が書きたくなって筆をとりました。

異世界ファンタジーです

以下のような方達にお勧めです


コナンと言ったら、未来少年でも、体は子供、頭脳は大人でもなく蛮人だよね
映画版は結構良かったよね!特にバレリア姉さん!


スティーブ・ジャクソン、イアン・リビングストンの名前に聞き覚えがある人
ようするにタイタンを旅した事のある人


馳夫さん、つらぬき丸を映画になる前から知ってた人


アリオッホ?
アリオッチ!アリオッチ! 御身に血と魂を捧ぐ!


クロムの長剣、イラニスタンの油を未だ所持している方
何時の日か、ファイヤークリスタルやムーンストーンを求めて探索の旅に出る予定の人


以上のような方にお勧め、とも言い切れませぬが楽しんで頂きたい。
此方がお勧めしているからといって、お勧めされた方が気に入るとは限りませんしね







twitterはしておりません。
猫弾正という方が居られますが、同名なだけの別のお人です。






小説家になろう様の方にも掲載する事にいたしました
arcadia様での連載も続けますのでよろしくお願いします

※2012/06/15 追記



[28849] 01羽
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:8b16bcf6
Date: 2011/08/03 21:48
寒々とした月の青白い光が、静寂に包まれた草原の街道を冷たく照らしていた。

季節は初冬。ヴェルニアでは、野宿するにもそろそろ冷え込みが厳しくなってきた時期だった。
折悪しく、その日は骨まで凍りつくような寒さで、街道沿いで行き倒れたのか。
道すがらの草叢には、息絶えた老いた乞食が行き倒れたがままに打ち捨てられていた。
歩き続けた街道の先に、やがて漆喰と木造で出来たうらぶれた家屋がぼんやりと浮かび上がった。
闇夜に浮かび上がった建物のうちでは、火が焚かれているのだろう。
木製の扉の隙間からは、微かな明かりが漏れて地面に奇怪な影を踊らせていた。



暖炉の傍らで椅子を温めていた肥満の主人が、扉を開けて入ってきた黒い影に不満そうに顔を歪めた。
女だった。
旅塵に薄汚れた躰、擦り切れた衣服、襤褸のような薄いマント。草臥れたサンダル。
到底、上客には見えない。
顔立ちは整っているようにも見えるが、煤に汚れた顔ではよく分からない。
主人が億劫そうと立ち上がると、体重に耐えかねた椅子がみしみしと厭な音を立てた。
床を軋ませながら客に近づき、分厚い掌を突き出す。
「寝台なら真鍮銭一枚。雑魚寝ならクルブ貨か、ミヴ貨幣で三枚だ」
唸るようなだみ声。個室や大部屋の事は切り出さない。

主人の吹っかけてきた途方もない値に、女は思わず鼻で笑った。
「値上げしたのかい?前は雑魚寝なら一枚だったろう」
声は意外と若い。穏やかだが、自信有りげな言葉に主人は女の顔を訝しげに見た。
エルフの血を引いてるのか。女はくすんだ緑髪をしていた。
見覚えはない。ハッタリかもしれないが、先客と違って少なくとも相場は知ってるようだ。
「毛布の貸し賃だ」
顔を歪めながらさらに硬貨を催促する親父のだみ声は、豚のいびきを連想させて女は僅かに微笑んだ。
この親父は何となく二足歩行した豚人に見えなくもない。
「毛布はいらないよ。マントに包まるから。ミヴ貨幣一枚でいいかい?」
「なら、クルブ貨で一枚。ミヴなら二枚だ」
「空いてる床に眠るだけだよ」
なだめるような口調で女は交渉する。
「床で雑魚寝する人数が一人増えても損にはならんし、まけてくれれば、また来た時にきっと此の宿屋を使わせてもらうよ。それに貧しい旅人に慈悲を掛ければ、神々もきっとあんたの行いに心打たれるに違いない。だが、此処で哀れな女に吹っかけるような真似をするなら……」
主は喉の奥から唸り声を発して女の長広舌を遮った。
「女め。よく口の廻る」
だが、確かに女の云う事も尤もに思えた。
一番近くの旅籠まで1リーグ(1.5キロ)はあるとは云え、他所に行かれたら一文にもならないし、床の場所を貸すだけだ。
「ミヴ一枚だ。さっさと寄越せ」
「有り難う」
女はにこやかに礼を言いながら、懐から布の巾着を取り出して中をまさぐった。
ろくに中身が入ってないであろう薄い巾着からミヴと呼ばれる小銭を取り出すと宿の主人に手渡した。
乱暴に引っ手繰った鉛の小銭を腰のベルトに結んだ革製の巾着に入れると、主人は暖炉の傍らにある椅子に戻って、再び船を漕ぎ始めた。
女は薄暗い室内を見回した。ちろちろと弱々しい炎の灯った暖炉だけが四方の壁を微かに照らしている。
隙間風に吹かれる度に揺れる暖炉の炎の照り返しが、薄闇に藁の転がる床の様子を浮かび上がらせた。
それほど広くない部屋に、放浪者や貧しい巡礼、自由労働者、乞食など、およそ社会の底辺を構成する連中が雑魚寝している。
中にはちらほらとゴブリンやドウォーフ、ウッドインプなど人族以外の亜人の姿も窺えた。
大半が死んだように眠る中、数人がギラギラとした白い眼で新参の女の様子を伺っていた。
卑しい顔つき、値踏みする目付きから、金と持ち物を奪う。或いは女自身を捕まえて犯すもよし、女衒に売り飛ばすものいいなどと考えているのだろう。
今の世の中、下衆な手合いは何処にでも溢れている。


警戒しながら、されどそれほど気にすることなく、寝るのに都合良さそうな位置を探そうとする。
辿り着いた時間が遅かったが為、既に暖炉の傍は少しでも暖を取ろうと身を寄せ合う先客たちに占められていた。
暖炉の真正面は杖や棍棒、短剣をベルトに挟んだ薄汚れた三人組の男女が陣取っていた。
その横、顔に刀傷のあるウッドインプに屈強のドウォーフが涎を垂らして寝息を立てていた。
やや離れた位置には、自由労働者だろうか。茶の皮服を着込んだホビットの娘。
くしゃみをかますと大きく身震いして、薄いマントを体に巻きつけてむにゃむにゃ呟きながら再び穏やかな寝息を立て始める。
熾き火から離れ、冷たい風が吹き抜けていく部屋の中央では、貧しげな巡礼の母子連れが抱き合って寒さに震えていた。
暖炉の傍に今から割り込める隙間はないし、起こせば嫌な顔もされるだろう。



扉。そして崩れかけた壁からは冷たい隙間風が間断なく吹き付けてくるが、それでも今の季節。
野宿や路傍に身を休めるのに比べれば、屋根があるだけ遥かにましだと割り切れる。
見知らぬ他人と身を寄せ合えば、物を盗まれ、或いは犯そうと試みるやもしれない。
厄介事を自ら呼び込むことはないと、出来るだけ人の少ない処を探しながら、
部屋の奥に視線を彷徨わせて丁度空いている箇所を見つけた。
皆、出来るだけ暖かな炎の近くがいいのだろう。
暖炉に相対した部屋の反対側は人気も少ない。
元は何色だったのかも分からないほど染みで汚れた漆喰の壁際には、木製の簡素な寝台が幾つか雑多に並んでいた。
中には足が壊れて斜めに歪んでいる寝台も置いてあった。
一番奥の簡易寝台の傍らは、近くに殆ど人もおらず寝転べるくらいの隙間が空いている。
暖炉から離れた位置ではあるが、同時に扉の隙間風からも遠い。
寝るにはいい位置に思えて、鼾を掻いているみすぼらしい老ゴブリンの上を跨いで寝台に近づく。
「……う、ううむ」
起きてしまったゴブリンが驚いたように身じろぎした。
文句を言いたげに藪睨みの目で睨んでくるのを無視して、寝台に近寄き、息を呑んで立ち止まった。


物影に、剣を抱きながら壁に寄り掛かるようにして身を休めている人影があった。
得物は剣。紛れもない剣だった。
どんな鈍らな剣でも、最低でも銀貨の5枚から8枚はする。
こんな汚い安宿に泊まるような人間が普通、持っていていいものではない。
金属が未だ稀少な時代。そして鍛冶の技を修めた者が未だ少ない土地。
剣と言うのは、取り分け高価で特別な武器だ。
槍や弓のように狩りに使う用途があったり、槌や殻竿のように本来違う使い方をされる為の武具とは違って、純粋に人を殺し、それ以外に使い道がない、戦う為だけに創られた純粋の武具。槍や鎌よりも良い鉄を多く使い、鍛えるのに手間隙の掛かる剣は、身分ある者が使うのが普通でもある。
故に人々は、剣にはある種の神聖で特別な力が宿っていると感じていた。
剣が象徴する闘争と殺戮の力に対する恐れと畏れが、剣を特別視させているのかも知れない。
いずれにしても長剣は危険な武器だ。
しかるべき使い手が振るえば、あっという間に人一人の命を奪う事が出来る。
まるで魔法のように命を奪う。その脅威は短剣や棍棒の比ではない。

背筋を毛の逆立つような冷たい感覚が走りぬけた。女は腰から棍棒を吊るしていた。
手頃な大きさの樫の棍棒で、上腕よりやや長く、杖にするにはやや短い。
重さも形もよく女の手に馴染んでいる。此れでコボルドの頭を叩き潰した事もあった。
使い慣れた武器のはずだったが、今は其れが酷く心もとなく感じられた。
自分をあっさり殺せる武器を持つ見知らぬ者の傍らで眠るのは気が進まない。
別の場所に行こうか。だが、他に場所もなさそうだ。
剣の使い手を怒らせたり、或いは絡まれるのは厄介だから、と、室内に視線を走らせて思案するうちに、
黒い影がもぞりと動いた。
「上手く値切るものだな」
話しかけてきた。
笑いを含んだ呼びかけは、微かに掠れていたが紛れもない女の声だった。
宿屋に灯る明かりは暖炉の僅かな炎だけであり、薄暗い室内に蟠る闇に人相は良く見えなかった。
「聞いてたのかい?」
肩を竦めながら、
「値切ったというよりは、相場で落ち着いたって処かな」


「あれが相場なら、あの親父め。私から随分とぼってくれたのだな。」
壁際に雑然と並べられた寝台を借りるには、最低でも錫貨一枚は必要だが、食堂の床に雑魚寝するならば、大抵は鉛の小銭で事足りる。
其れが相場というものであったが、皮肉っぽい声で呟いた女剣士はどうやらろくに宿代を値切りもせずにそのまま支払ったらしい。
「随分と吹っかけられたと思ったら……前の客が鴨葱だったから二匹目の泥鰌を狙われたのかな」

呟きながら、足元の半分腐ったような藁を足で遠くにどかして、埃っぽい床に座り込んだ。

剣士の様子を横目で観察しながら、素性を推察する。
赤く染めた目の細かい上物の上衣。灰色狼の毛皮のマント。
些か旅塵に塗れているとは言え、紛れもなく丁寧な仕立ての装束が良く似合っている。
低く見積もっても郷士。値切る事が下手だから豪族や騎士、下級貴族の出でも不思議ではない。

「あんたは余りこういう宿に泊まる人種に見えない。……普段はもっといい宿に泊まってるんじゃないのか?」

「他人の懐が気になるかね?」
くつくつと笑いながら此方を見つめる剣士の目は、だが笑っていない。
此方を警戒するように微かに細められた瞳からは、冷たい光が窺えた。

こいつは頭がいい。しかも嫌味で意地も悪いな。正真正銘の貴族だとしても不思議じゃない。
貧乏人の貴族階級への偏見を全開にして決め付けながら
「……場違いだよ。いい身なりをしてこんな安宿に泊まるなんて、余り感心できない」

「然り。だが、些か手持ちも乏しくなってきた故にな。止むを得なかった。
とは言え、それでぼられていては本末転倒なのだが……」
呟いて肩を竦めると、女剣士はもう此方への興味を失ったのか。話し掛けて来なかった。
荷物を枕に横になって目を閉じる。

此方の近づいた気配に気づいて起きたらしい。
いや、主人との会話を聞いていたという事は扉を開けた時に目覚めたのか。
気配に敏感なようだし、用心深いのは間違いなかった。
半エルフの娘に害がないようだと確かめて、再び眠りに付いたのだろう。
剣を抱いたまま眠る剣士の姿勢は、ひどく様になっているのが見て取れた。
長剣が躰の一部のように馴染んでる雰囲気とでも云えばいいか。

放浪の騎士かな。……如何でもいい事か。
女も剣士の素性への興味を失った。
寒さをやり過ごそうと薄いマントに包まると、堅い床へと寝転んで目を瞑った。
長旅に疲れた体は、すぐに泥のように深い眠りへと入り込んでいく。
「……空気が湿ってる。明日は降りそうだな」
意識が闇に落ちる直前、薄暗い室内で誰かがそう呟いた。





[28849] 02羽
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:8b16bcf6
Date: 2011/08/31 18:12
目覚めは心地いいものではなかった。
外は薄暗い。雨音からすると小糠雨が降り注いでいるようだ。
鼻腔を奇妙な匂いが刺激して、意識が強制的に覚醒へと向かう。

親父がだみ声を張り上げていた。
「ミヴ貨幣二枚かクルブ貨たったの一枚で、バウム親父特製の粥が喰えるぞ!!
さあ、並んだ!並んだ!」
親父の隣では、昨日の夜は見かけなかった痩せた少女が、暖炉にくべられた土鍋から手際よく粥をよそっていた。

「さあ、旦那方。バウム親父特製の粥ですぜ。舌鼓を打つ事間違いなしだ。
竜の誉れ亭に泊まっておきながら、こいつを食い損ねたら一生の悔いだよ!」
こんな古びた旅籠に、よくもまあ大層な名前をつけたものだと感心しながら、欠伸を噛み殺しつつ起き上がる。


簡易寝台に眠った連中は、どうやら朝飯付きらしい。
横に肥えた親父が、獰猛な丸顔に似合わぬ笑顔を浮かべて愛想を振りまいている。
親父の傍らでは、下働きの少女が二十日鼠のようにちょこまかと動き回り、希望する客に粥を配っていた。


昨夜の女剣士も、金を払う事なく粥を受け取っていた。
一旦は簡易寝台の料金を払っておきながら、思い直して床に寝たのか。
だとしても不思議でもない。
朝の光の下で見れば、蚤か虱でも湧いていそうな不潔な寝台だ。
床に眠った方が幾分ましというものだろう。

客達はいずれも顔を顰めたり、渋い表情をしながら湯気を立てる木皿の粥を不味そうに掻きこんでいた。
僅かに野菜の混じった粥は、如何見ても美味そうには見えない。


意識せずに胃の腑が鳴った。
親父の粥は形容しがたい匂いを漂わせているが、体は食べ物と判断したようだ。

腹も減っていたし、雨天の野外に食べ物を探しに行くのも億劫。
手持ちの保存食も減らしたくなかったので、少女にミヴと呼ばれる鉛の小銭を二枚渡して粥を頼んだ。

茶色の粥は雑穀をとろとろになるまで煮込んだものだった。
干からびた蕪の切れ端が混じった粥は温かいものの、しかし、お世辞にも美味いとは云えないものだった。
古い雑穀が混ざっているのか、時折、やたらと固い粒が歯に当たる。
女剣士は一口食べて、食が進まない様子でハンケチーフで口を拭った。
「……まるで豚の餌だ」
腹立たしげな彼女の罵倒は、幸いにも宿屋の主人の耳には届かなかったようだ。

「口に合わないかい?剣士様」
微妙にからかいを孕んでの問いかけを、彼女は吐き捨てるように肯定した。
「こんな酷い代物をよく美味そうに食えるものだな」


腰につけた袋から若葉を二、三枚取り出し、
「ん、これを入れてみなよ」
女剣士は胡散臭そうに、差し出された葉っぱを眺めている。

「まあ、騙されたと思ってさ。試してみなよ。
どうせそのままじゃ、残すか捨てるかするんだろう?それなら、さ」

「……ふむ」
勧めてくる半エルフの旅人が自身でも同じものを食べているのを確認してから、女剣士は香草を受け取った。
相手がゴブリンやオークなら受け取らないが、曲がりなりにもエルフだ。
不思議と嘘つきや乱暴者が少ない種族だとは知っている。
「砕いてかき混ぜてみなよ」

「……ん、驚いた」
多少、苦味があるものの、香草の濃い味が粥を引き立てるし、粥自体も随分とまろやかになっていた。
湯気を立てる程の暖かさもあって、確かに食べられる食事になっていた。
「ちょっとの工夫で豚の餌でも結構食えるようになるものだろ?」
「ふむ。礼を云うぞ」
半エルフの娘の穏やかな笑みにうなずいて、しばらくは互いに無言で粥を啜る。


食べ終わった木皿は、走り回っている下働きの少女が回収していく。
暖炉の近くに固まっていた薄汚い男女は投げて返していた。
食器の乱暴な扱いに痩せた少女は不満そうに頬を膨らませたが、陰惨な顔つきの三人組に抗議はせず、背丈の半分くらいに積みあがった木皿の塔を器用に抱えて、宿の裏手へと消えていった。
宿の親父は下働きの少女に仕事を任せたまま、自分は椅子に座って行商の老いたゴブリンと何か会話している。


食後は暇なので世間話に興じた。
「剣士さまは、さ。巡礼かね?」
剣士は寛いだ様子で壁に寄り掛かっている。優雅な物腰は満腹になって御満悦な猫を思わせた。
昨日は分からなかったが、マントは灰色狼ではなく僅かに黒い。恐らく、より希少な黒狼の毛皮。
仕立ての丁寧な目の細かい布地に見事な赤染めの胴衣と青い糸の刺繍が為された黄麻の上着の二枚を重ねている。
股引も毛皮や革を使った丈夫な代物で、価値を値踏みしようにも見当がつかない。
いずれにしても相当に裕福な素性なのは間違いない。
「ま、そんなところだ。御主は?」
考え過ぎかも知れないが、何一つ詮索を許さずに切り替えしてきた。
「ティレーの町までね」

西にある大きな町の名前に、女剣士からは微かに苦笑の気配が伝わってきた。

「気の毒だが、しばらく西には行けんぞ。数日前から上流で雨が降っているとかで川が増水しているからな」
剣士の言葉に思わず舌打ちしそうになる。
「……なんてこった。ついてない」
安宿とはいえ、宿賃が重なると貧しい旅人には馬鹿にならない出費だ。
天候を司る女神イースを口の中で罵りながら、街道沿いのよさげな廃屋でも探して潜り込もうかと思案を巡らせる。
「私も昨日の昼頃から此処で足止めさ……そろそろ上流の雨も上がる筈だが」
女剣士の言葉には、予想というより多分にそうあって欲しいという希望的観測が含まれているのだろう。
上がる筈というより、上がってもらわねば困ると云ってるように聞こえた。


老いたゴブリンが、数枚の錫や鉛の小銭と引き換えに宿屋の親父に枯れ草を渡した。
受け取った草をパイプに詰めると、親父は味わうようにゆっくりと吸った。
老ゴブリンもパイプを取り出し、併せるように煙を吐き始めた。
湿った空気が扉から吹き付けて、安物のパイプ草に特有の嫌な匂いと混ざり合う。

窓からは暗鬱な灰色の雨雲が地平線の彼方まで広がっている様子が伺えた。
小糠雨の降り止む様子は、見えなかった。




[28849] 03羽
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:8b16bcf6
Date: 2012/11/22 04:48
「艀は出ないよ」
船着場の小屋に住んでる老婆は、ぶっきらぼうな声で告げた。
太陽が中天に差し掛かる頃、雨はやや小降りになっていた。
当面の目的地が同じティレーの町なので、半エルフの娘と女剣士は連れ立って宿を出た。
河辺にある船着場に着くと、確かに対岸までの川幅は広くて流れもかなり早い。
ゴート川は轟々と音を立て、水流が絶え間なく岩に衝突しては水面を白く泡立たせている。
此れでは艀は出せまい。泳ぐのも、歩いて渡るのも無謀だ。


「出るのが何時になるか分かるかね?婆さん」
女剣士が訊ねるも、鶏がらのように痩せた老婆は曖昧な答えしか返さなかった。
「さてねぇ。明日、明後日になれば出ると思うよ」
「婆さん、あんた昨日もそう云っていたではないか?」
埒の明かない返答に苛立たしげに舌打ちするも、鈍いのか肝が据わっているのか、老婆は動じた様子を見せない。
雨が降っているのが婆さんの責でもなければ、婆さんを責めても状況が変わる訳でもない。


女剣士が老婆と問答しているその傍らで、エルフ娘は未練たらしく川の対岸を眺めていたが、それで流れが穏やかになる訳でもない。
やがて首を振ると、川沿いの集落とその近辺をプラプラと散策し始めた。
足止めされているらしい旅人たちが、所在無げに集落に屯っていた。
旅人や行商人の他、薄汚れた三人組の男女やホビット娘、ドウォーフの男など、昨日、安宿で見た顔もちらほらと見かけられた。


家とも云えない小屋が三、四軒建っているだけのささやかな集落。
一応、旅人が泊まる為の小屋も一軒あったが、五人も泊まればもう余裕はない。
既に足止めされている旅人や放浪者で一杯だった。
一リーグも戻れば、昨晩泊まった安宿もあるし、街道の途中には朽ちかけた廃屋も時折見かけた。
潜りこむ所には不自由しない。問題は食べ物だ。
本格的な冬が訪れるにつれ、野山で獲れる野草や木の実、小動物が加速度的に減っていく。
急ぐ旅ではないが、出来るだけ早く町へと入りたかった。
城市なら風雨を凌ぐ場所には困らないし、えり好みしなければ口を糊するだけの仕事も見つかるであろうから。


旅人の小屋で無聊を囲っていた行商人たちの会話を小耳に挟んだ所では、
上流では一週間ほど前から長雨が続いており、ゴート川も数日前から増水しているのだという。
北の山の峠にはトロル鬼が出没するだの、何処其処の街道にオークが出没しただの、王都では税が上がっただの。
話好きなのだろう。年配の行商人が、取りとめもなく埒のない噂を延々と喋り続けていた。
すぐに聞き飽きて、今度は小雨の降る中を河沿いの道を歩いてみる。


河辺に生えてる草木に食べられそうな木の実や葉、薬になりそうな草や苔などを探してみるが、やはり初冬に早々は見つからない。
漸く見つけた冬蔓も、さして腹の足しになる訳でもない。
とは云え、此れは此れで貴重な甘味である。そして女性の大半は甘味が嫌いではない。
幾つかは売る為に袋に入れたものの、残りは味わいながら歩いていると、釣り人が川魚を獲っていた。


甘蔓を噛みながら、土手に立ち止まって観察する。
粗末な服装からして近隣に住む村人だろう。
中々の腕前とみえて、魚籠には数匹の川魚が入っている。
魚。そういえば暫らく魚を食べてない。
眺めているうちに無性に魚が食べたくなり、財布の中身を確かめてから話しかけてみた。


釣れますか、上手ですね。そろそろ夕飯ですね。お腹が空いてきました。出来たら売っていただけないですか?
釣り人と話してると、ドウォーフの男が近づいてきた。
エルフ娘が段階を経ながら交渉しているのを横合いで黙って聞いている。
鮎を三匹。小銭で譲ってもらえそうになった所で、いきなり横車を出してきた。
曰く、倍を出す。
こっちが先約だと抗議するも、錫や鉛の小銭では真鍮銭には歯が立たないのが世の道理である。
おまけに相手は屈強なドウォーフで、喧嘩を吹っかけようにも体格でも歯が立ちそうにない。
「悪く思わんでくれよ、お嬢ちゃん。はっはー」
悪く思わない筈がない。
恨みがましく睨みつけるが、ドウォーフ族にとってはエルフ族の怨みなど蛙の面に小便のようなもの。
満面の笑みで買い取った鮎を懐に抱えると、ドウォーフは小走りで集落へと戻っていった。
小銭と引き換えに小屋で火を借りると、やがて香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。






[28849] 04羽     2011/07/30
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e2904fa0
Date: 2013/06/09 00:34
老婆との不毛な会話を打ち切って船着場のあばら家を出ると、その頃には外の風も大分、冷たくなっていた。
初冬の夕暮れは早い。あと二刻も経てば、周囲に薄闇が広がり始めるだろう。

灰色の空を見上げると、分厚い暗雲は未だ地平の彼方まで垂れ込めていた。
とは言え、高い空では風の流れも幾分か強いのだろう。
雨雲が所々烈風に切り刻まれて、切れ切れとなった雲の隙間には冬本来の無色の空が顔を覗かせていた。
恐らく夜半には雨も収まるに違いない。

降り続ける小雨に黒狼の毛皮のマントを濡らしながら、額に張り付いた前髪を右手でかき上げた。
上流の天候も、早く収まるといいのだが……さて、此れから如何しようか。
予定といえば、旅籠に戻って寝るくらいしかないが、そこで供される夕餉の質を考えると憂鬱にならざるを得なかった。


「夕食もあの粥か。気が進まぬ」
泥に塗れた黒い子犬と追いかける半裸の子供達が、苦々しく呟いた女剣士の横を駆け抜けていった。
跳ね飛ばされた泥に白い洋袴(ズボン)のすそを汚されて小さく舌打ちすると、鼻水を垂らした少女が立ち止まって不思議そうに女剣士を見上げた。
「……きれいなおべべ」
無邪気に笑みを浮かべた少女を怒鳴りつけるほど横暴ではなく、若干、不機嫌になりつつも眉を顰めて歩き始める。

河沿いの小村落に、多少でも気の効いた食事を出す店などないのは一目で分かった。
船着場の老婆に拠れば、近隣の村や旅籠も似たようなものだそうで、しばらくまともな食事にありつくのは望み薄そうだ。

寝る場所が酷いのは耐えられても、食事が不味いのには我慢ならなかった。
牛や豚のローストにワイン、ブイヨンの効いたポタージュとは云わないが、
出来うるなら、鳥の炙り肉と小麦パンくらいは食べたい。
最悪、温めた麦酒の中に焼いた屑肉と野菜を入れたスープと黒パンでもよかった。
酷い食事ではあるが、しっかり躰を温めてくれる分、今朝の粥よりは幾らか上等であろう。

小雨に泥濘んだ小道を、西の地平から雨雲を追い払った夕日が赤く照りつける。
村の何処からか、焼き魚の香ばしい匂いが漂ってきて食欲を刺激してくれた。
如何やら、村落の奥にある旅人の小屋から漂ってきているようであった。
そう云えば先程、船着場から河原にいた釣り人の姿が見えたな。
何か見繕えないかと村落を歩いてみるが、やはり碌なものはなかった。
しばらくして、見知ったばかりの半エルフの娘が村の小道を歩いているのに気づいた。
昨晩知り合ったばかりの浅い知己だが、悄然と肩を落としているのが妙に気に掛かったので話しかけてみる。
「やあ、元気がないな。如何したのだ?」
「ああ、剣士さまか。……実は魚を買おうと思ったのだけど、値が折り合わなくてね」
緑髪の娘のほろ苦さを湛えた表情に、先刻目にしていた河原での光景を併せて女剣士は事情を察した。
「ははん。さてはドウォーフに競り負けたのだね?」
エルフ娘が悔しそうな、恥ずかしそうな表情を浮かべた。
「見てたのか」罰が悪そうに呟いたので、
「見えたのだ」くつくつと笑い、訂正する。


「意地の悪いお人だな。からかうお心算か?」
蒼い瞳にやや剣呑な光が走ったのを見て、手を上げて怒れるエルフ娘を宥める。
「そう怒るな。私も魚を食べたいと思って村を廻ったが、ろくな物がなかったよ」
 見かけたのは燕麦の粥と小魚の干物。後は精々、黒パンくらいか……」

整った顔立ちで他意はないと微笑みかける。
胡散臭げな、だが何処か憎めない笑顔。
数瞬を如何しようか迷ってから半エルフは溜息をついて怒りを治めた。
「それでも宿の親父ご自慢の粥よりは、幾らか上等なのだろうけれど……」
「ふふ、御主も夕餉があの粥かと思うとうんざりするようだな。
 一応云っておくが、主のくれた香草は悪くなかったぞ」
その一言で緑髪の娘の強張っていた表情も幾分和らいだが、からかい過ぎたのか。
エルフ娘の視線にはまだ微かに不信と警戒が感じられて、女剣士は苦笑いを浮かべた。
「いずれにしても、ティレーに入るまでは碌な食事を期待できそうにない。
 川を渡れば、まっとうな食事を供する旅籠も在るかも知れぬが……」
勢いよく流れるゴートの灰色に濁った川面をじっと見つめて、女剣士は気だるげに呟いた。



[28849] 別に読まなくてもいい設定 貨幣 気候について
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e2904fa0
Date: 2012/04/08 00:14
設定集とか世界観考察を読んでニヨニヨするのが趣味な人の為のものですから、
読まないでも全然平気です。たるい人は飛ばして下さい

貨幣の価値 
銅貨は、10円玉くらいの大きさに厚みが三倍の物が日本円にして大体3000円くらいの価値です。
真鍮銭は、大きさや欠損の有無、鋳造している国の経済力、銅の含有率にもよりますが、
大体、800円から2000円程度です。
無論、銅や真鍮のありふれた土地や、より稀少な土地に行けば価値も変動します。
探鉱、採掘、冶金技術。全て未熟な世界ですから、青銅、赤銅製の腕輪や指輪、真鍮の冑などに鋳鉄や銅を使った農具など金属製品は全般的に非常に高価です。


冒険の舞台であるヴェルニアでは、他にも錫、鉛、銀、青銅などが硬貨の材料として流通していますが、土地や貨幣の種類によって価値はまちまちです。
海を渡った南の土地では、銀は少なく、銅が採れ、真鍮を造れる冶金技術があります。
ヴェルニア内部でさえ、銅貨や真鍮銭が流入してくる南方の港町と、幾ばくかの銀が採れる北の山岳地帯では、当然、価値も異なりますし、多量の物資を買い付けた商人が多くの銀貨や銅貨を都邑などに持ち込めば、それだけで物価や貨幣価値も変動します。

物凄く大雑把な指標 
銀貨  銅貨30枚から36枚の価値 10万円 
銅貨  真鍮銭2枚の価値     3000円 
真鍮銭 錫貨6枚から8枚の価値  1500円 
錫貨  鉛貨4枚から5枚の価値  200円から250円 
鉛貨               50円から60円 

一回掘り出された金属は、蓄積されます。
金属は鋳直して形は変えても、その後もずっと使用されますから、多少の摩耗が在っても貨幣の流通量は次第に増大し、新たな用途が見つかるか、人口が急激に増えない限り、相対的に社会における貨幣価値は徐々に下がっていきます。

上記は貨幣が全て同じ大きさで、含有率も等しいと仮定した場合の数字です。
例えばコルブ貨は比較的小さな錫貨で、大振りな鉛貨であるミヴの倍程度の価値しかありません。
三話でドウォーフが鮎を買い取るのに使った真鍮銭も、恐らくは小さなコインでしょう。

土地によっては琥珀や翡翠、蜻蛉玉なども通貨となります。
鉄貨は、その多くがドウォーフ族の鋳造したもので、エルフ族は余り好みません。
ヴェルニアでは、錫と鉛、亜鉛、そして僅かな銀が取れますが、銅は乏しい為、
少ない銅貨で銀貨と交換できます。
対照的に海を渡った南の土地では、銅が多く採掘され、銀は滅多にない為、
銀を購うには多くの銅、或いは銅貨を支払う必要があります。

銅貨と真鍮銭は、商業の盛んな南方の国々で鋳造された信用度の高い貨幣。
云ってみれば円やドルのようなハードカレンシーで、大抵の土地で歓迎されます。
対して、錫貨や鉛貨にはそこら辺の小領主や都市国家が独自で鋳造したものも多く、それら私鋳銭の多くは、鋳造した土地から遠ざかれば遠ざかるほど、露骨に価値が落ちます。
河を渡ったら、持っていた鉛貨の価値が三分の二に落ちたったという事もありえるのです。
有象無象の土豪や小さな町の貨幣ともなると、地元を除いた殆どの土地で金属それ自体の価値でしか通用しません。


現在に比べて、貨幣の価値が全般に高い理由。
十円玉の銅としての価値とか付加された信用とかひとまず置いて、
現代日本では、単純に銅貨一枚で10円の価値を持つとしましょう。
採掘や冶金技術が未熟な時代では、当然、銅の生産量や精製量も大幅に落ちます。
仮に現代の一万分の一として、銅の価値は一万倍になります。
ですが、単純に銅貨の購買力が一万倍の10万円分とはなりません。
なぜなら、銅と同様。食料や衣服なども生産量が少なく、今よりずっと貴重で高価だからです。だから銅貨で大体3000円です。


冒険の舞台の気候。
小氷河期の中世欧州よりは温暖な、耕作に向いた気候を設定してます。
どちらかと言えば、ローマやギリシア全盛の古代欧州に近い気候です。
かわりに、放牧や畜産技術は余り発達していません。
耕作で充分に食べていけるのが一つ。
もう一つは人跡未踏の土地が多く、広汎な土地を確保する必要がある遊牧が難しいからです。
曠野や山岳、森林には未だ多くの害獣が群棲し、さらに狼や獅子とは比べ物にならないほど危険な魔獣や魔蟲、巨人族などが辺境を彷徨っています。
竜となると、駆逐するどころか最下級のドレイク種一匹怒らせただけで村や町一つが簡単に滅びに追い込まれる事もあります。
因みに上位種はゴジラです。日本版のブレスを吐く奴。魔法も使う。滅多にいませんけど
森の神フンババやもののけ姫の乙事主が実在する世界だと考えてください。
しかもギルガメシュのような英雄もおらず、文明は未だ黎明期。
一部料理や文学、哲学などを除いては紀元前のローマやペルシアにも及びません。
好戦的な亜人と争いながら、森を切り開くのは極めて困難な事業です。
此の世界の人族は、屈指の列強種族ではありますが万物の霊長ではありません。

ヴェルニアには人間並み、或いは人間以上の智恵や知識を持つ、しかも邪悪で強欲な魔獣も多数存在します。小氷河期になったら、人族や亜人は、魔獣によって全滅させられてしまうかも知れません。
ところで小氷河期って、鐘雹餓鬼って書くと仏典に出てくる敵みたいで強そうですね。


架空の古代や中世社会の階級や身分制。軍隊とか衣服、衛生、地図の精度、言語、遠隔地の情報の伝達、食文化、動植物の分布とか、妄想してにやにやするのが趣味です

そういう人って結構いるよね




物価について 追加 
正直、物価を正確に記すのは困難です。
何故なら、物語世界には定価という概念自体が存在していないからです。
作物は豊作の年は食料が安くなり、不作の時は高くなります。
しかし、一応の目安として大方の相場というものを記しておきます。

雑穀の粥一杯 鉛貨一枚 
街道筋の村や旅籠での値段です。
食料を自給する能力に乏しい町や市などにおいては、
農村からの輸送費がかかる為に倍する値段になります。

燕麦の粥   鉛貨二枚 
酸っぱくて、不味いです。人によっては、蕎麦の粥とかパンの方がマシに思えるでしょう。


袋一杯の雑穀 鉛貨二枚 
貧しい四人家族の一日分の食料になります。
お粥にする為の薪代やお椀も必要ですし、美味しくする為の塩なども別料金です。
小麦、大麦、燕麦、各種雑穀などは、通貨として通用します。
また、仕事の代金として支払いにも当てられます。
一日中労働して報酬が寝床と食料の提供だけという場合も在ります。
ブラックを通り越してダークです。


安いエール一杯 鉛貨一枚
薄めた安エールです。
いいものは錫貨一枚の値段をつけます。

安いワイン一杯 鉛貨二枚 
お酢みたいなワインです。
中世欧州の貧しい都市民は、泥水にお酢を混ぜたりして飲みました。
物語世界の辺境では人口密度が低い上に、囲い込みや支配構造も其処まで発達していないので、
貧困の度もたかが知れています。
逆に言えば、発達した都市ほど貧困層も底抜けに状況が悪化します。
南方の都市国家の方が、貧民は悲惨な生活環境を送っています。

袋一杯のカラス麦 鉛貨四枚 200円 
野生の燕麦を摘んで袋に詰めたものです。
家族四人分の一日の量があります。
食料は極めて安いように思えますが、田園地帯の値です。
町では五割り増し。
都市では倍に値上がりする上に、不作の年は数倍に跳ね上がります。

袋一杯の大麦   錫貨二枚 500円 
大麦粥は、少し豊かな市民の食べ物です。
燕麦や雑穀の食事が普通でしょう。


※辺境においては、蜂蜜自体が貴重な為に蜂蜜酒は見当たりませんが、
蜂蜜を取る技能を持つ南方のエルフや森の民の間では、エールより安かったりします。




両替について

辺境の街道筋の安い旅籠で、床での雑魚寝は鉛貨1枚になります。
一方、市内の高級な旅籠で一泊すれば、銅貨が必要です。
銅貨には3000円の価値が在り、一方で鉛貨は50円から60円の価値が在りますが、
両替する場合、鉛貨で銅貨を購うには手数料込みで最低百枚からが相場でしょう。
何故なら、銅貨は信用が高く何処でも使える広域貨幣なのに対して、鉛貨は多くが地元でしか使えない限定された地域貨幣だからです。
一見の客であったり、両替商が悪辣だったり、客が無知で足元を見られたりすれば、手数料によってもっと高くなるでしょう。
なので鉛貨を麦や家畜、毛布などと交換し、それを銅貨で支払ってくれる人に売った方が、値が目減りしないで両替できたりします。
時間も手間隙も掛かりますし、都合よく銅貨で支払ってくれる人がいればの話ですが。


他に通貨としては、塩や布、豚、山羊、羊、牛などの家畜や狐、熊などの各種の毛皮、家具、皿、装飾品、金属製品、翡翠、琥珀、蜻蛉玉、宝貝、鉄、銅などがあります。
薪や縄など日用品、消耗品も適正価格を知っていれば通貨に近い性質を持ちます。
物々交換の占めるウェイトが極めて大きな時代であり、蛮族との取引では貨幣が通用しない場合もあります。
なんだ?此のキラキラしたの?毛皮の代金?
ふざけんな!ちゃんと食い物と女と鉄の武器を寄越せ!という事になる訳です。




[28849] 05羽 前     2011/08/03
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e2904fa0
Date: 2013/06/09 00:38
他所との往来が乏しい僻地の集落や僅かな備蓄しかない寒村などでは、時として貨幣を使おうとしても拒まれる事がある。
河辺の村は街道沿いで艀の渡し場も設けてあるくらいだから、旅人や行商人もよく通りかかる。村の農夫たちとて貨幣の価値や使い道くらいは知っており、一握りの硬貨と引き換えに幾ばくかの食料を購える筈であった。


旅慣れた人々は、何かしらの保存食を持ち歩いているものだ。
代表的な物としては、燕麦のビスケットや日持ちするよう石みたいに焼き固めたパンなどがある。他にも木の実に干した豆。食べられる蔦を乾燥させ編んだ縄などだが、それらは到底、食の喜びを期待出来るような代物ではない。
二人とも一応の保存食は持っているが、これが今泊まっている宿屋の粥よりも不味かった。というより、長期間の保存と携帯に耐える代わりに最低限の味付けさえ放棄している。
どうせ人里にいるなら、せめて火の通った暖かな食事を取りたいと思うのが旅人ならずとも人の心の常だった。

腹を空かせた二人の旅人は、改めて何かないかと村の中を歩き回っていた。
革の長靴を履いた長身の剣士は、泥濘も苦にせず容易に踏み越えていくが、やや背が低いエルフ娘の履物は藁と革に木を編みこんだ簡素なサンダルで、どうしても少し遅れがちになってしまう。
村の周囲に広がるささやかな畑には、大麦の他に荒地でも育ちやすいライ麦や燕麦に蕎麦などの雑穀や蕪などを見かける事が出来た。
畑で育てるあれらの穀類や野菜に河で獲れる魚介などが村人の主食なのであろう。
時に僅かばかりの兎や鳥の肉が食卓を彩るかも知れないが、やはり貧しい食事である。
「うあ……酷いものを食べてる」
あばら家の入口で小さな蕪を齧っている村人の姿に、エルフは微かに眉を顰めて呻いた。
同じ食べるにしても、スープにするなり、焼くなりすれば、味わいだって違うだろう。
勿論、世の中には生の蕪を好む人物とているが、中年の農夫は料理が下手か、或いは手間を惜しんだに違いない。
蕪をもそもそと咀嚼しながら、如何にも不味そうなしかめ面を見せてくれた。

此れは期待できないかもと、エルフ娘が微かに顔を曇らせる。
と、黒髪の女剣士が小道の途中で急に立ち止まった。
女剣士はエルフ娘に合わせて歩く速度を緩めていたから、追い抜いてしまった連れは困惑の表情を湛えて振り返った。

丘陵の傍らに建っている背の低い藁葺小屋は、周囲にぶたくさが生い茂っており、もし迂闊な者であれば見過ごしてしまうほどに、辺り一面の素朴な田園風景によく溶け込んでいた。
エルフ娘も遅まきながらに気づくと蒼い瞳を軽く細めた。
囲いもない村に迷い込んだ野の獣だろうか。或いは村人か。
藁葺き小屋の扉の前。草葉の陰に何やらもぞもぞと小柄な影が蠢いていた。

「ああ……今朝方、旅籠にいた老ゴブリンだね。此処に住んでいるのかな?」
今朝方に旅籠の親父にパイプ草を売ってた老ゴブリンが突き出した屋根の下に茣蓙を敷き、小雨にも関らずパイプを吸いながら旅人相手であろう慎ましやかな露店を開いていた。
客の来る様子も無いのに地べたに座り込んで平然とパイプの煙を燻らせているところを見ると、どうやら露店が本業という訳でもなさそうだ。

「オルの店にようこそ。何か買うかね?」
冷やかし半分で覗いてみると、木の実、干し魚や焼き固めたパンなど貧しげな食べ物の他にサンダルや皮袋なども売ってる。
老ゴブリンは、しばし女剣士の豪奢な装束とエルフ娘のみすぼらしい衣服を訝しげな眼差しで見比べていたが、兎にも角にも片方は金を持っていそうだと判断したらしい。
「取って置きの品があるよ。うふふ」
不明瞭な発音で喋りながら改めて小屋の奥から出してきたのは、変な色をした茸にパイプ草などゴブリンやホビットが喜びそうな食べ物やつまらぬ嗜好品だった。

新たに並べられた取って置きの品々とやらにエルフ娘はさしたる興味を示さなかった。
表面上礼儀正しく振舞いながら、安物のパイプ草だの魔法の茸を喜んで買い求める旅人なんてドウォーフ族みたいなチビの亜人だけに違いないと心中で意地悪く決め付ける。
「黒パンはないかな?」
大麦の黒パン自体それほど美味いものではないが、燕麦のビスケットや石のような固焼きパンに比べれば随分とマシである。
ゴブリンが首を横に振ると、元からさして期待していなかったのか。
次に魚の燻製の値段を訊ねて、幾らか値切ってから二人分を買い取った。
大葉に包んだ燻製が手から手へと渡り、半分を女剣士が受け取って自分の革袋に仕舞い込んだ。
半エルフが値切った方が安く上がると考えて、あらかじめ二人の間で取り決めていたのだ。

半エルフは早速、魚の燻製を口に入れた。久しぶりの淡白な魚肉の味。
濃縮された旨味が口腔に広がり、胃の腑に染み渡り、脳裏を痺れさせる。
唐突に子供の頃に故郷の森の泉で、双子の妹と魚を釣ったことを思い出す。
懐かしい郷愁。ほろ酸っぱい過去の情景が蘇り、エルフ娘はつかの間の郷愁に浸る。
あたしが釣った魚なのに、なぜか妹が母ちゃんに差し出して褒められてたな。畜生。
何処からか冷たい風が吹きつけて、薄いマントを纏っただけのエルフを軽く撫でていった。

「……さて、如何する?他でパンかなにか探すか、此れで済ませるか。
 どちらにしても日が暮れる前に食事をすませてしまったほうがいいよ」
小魚を齧りながら、無言で佇んでいる同行者にそう促したが女剣士は視線を釘付けにしたまま微動だにしない。
「……どうした?」
まさか、あの怪しげな色彩の茸を食べて、幻覚に耽溺する退廃的趣味でも持ってるのだろうか。
幾ばくの不安を抱きながら怪訝そうに訊ねるも、女剣士は沈黙を保ったまま老ゴブリン。正確には彼の傍らにある一点を眺めていた。


半エルフの娘は早速、鉛貨で買い取った小魚の干物をポリポリと齧っている。
しかし、女剣士の目を惹き付けたのは、小屋の壁に縄で吊るされている野兎であった。
黒髪の娘の視線が野兎に釘付けとなったのを感じ取ったのだろう。
「あれ、売りもんじゃない。わしの晩餐。槍で獲ったんじゃ」
どうやら老ゴブリンは中々の猟師でもあるようだ。
小屋の奥には、小さな手槍と短弓がよく手入れされ、置かれていた。
しわくちゃの顔に浮かべた歯の抜けた笑顔には、木製の入れ歯が嵌まっていた。
「久しぶりのご馳走じゃ」

「ふむ、冬にしては肥えている」
女剣士が兎に値踏みする視線を向けて、無遠慮にじろじろと眺めていると、
人族の娘の視線に穏やかならざるものを感じ取ったか。
段々と不安そうな面差しになった老ゴブリンが軽く腰を浮かせて、尖った耳を動かし始めた。

女剣士は巾着を取り出すと、ゴブリンの目の前に銅貨を放った。
兎一匹買うのに普通は真鍮銭一枚で充分にお釣りがくる。
「美味そうだ。売ってくれ」
「駄目。あれ、売り物じゃない。わしの晩飯」
だが、老ゴブリンは皺だらけの顔に渋い表情を浮かべると拒否した。
黒髪の女剣士は目に見えてムッとした様子になり、冷ややかな眼差しでゴブリンを見下ろした。少しだけ緊迫した空気が漂い始める中、干魚を口にしたエルフ娘は、御座なりな気分で我関せずと事の推移を傍観していた。
銅貨一枚払う女剣士の金銭感覚は破綻しているが、裕福な貴族ならまあ不思議ではない。
兎だって次も運よく獲れるとは限らないし、ゴブリンが売るのを渋るのも分からんでもない。
いずれにしても彼女にはどうでもいい事である。

女剣士は不満げに喉の奥で小さな唸り声をあげると、無言でゴブリンを眺めた。
ついで半エルフを見つめると何故か頷き、それから再びゴブリンを見据えた。
やがて半エルフの形のいい尖った耳に口を寄せると、小声で囁いてきた。
「なあ、御主の口車で何とかならんか?」
唐突な提案にエルフ娘の返す声も自然と小声になった。
「口車と言われてもな……随分と渋ってるよ。
 それに今、買った魚は如何する気だい?」
「なに。明日の朝食でも構うまい。上手くいったら兎半分やる」
「……半分?」
「御主、交渉してみてくれ。駄目元で構わんから」
女剣士は黄玉の瞳を細めて、悪戯っぽい笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。
云われて半エルフの娘は、微かに目を細めてみすぼらしいゴブリンの露天商を観察した。
此方を油断なく見据える老ゴブリンからは、警戒と微かな困惑の臭いが嗅ぎ取れた。
悪い話ではない。が、人生は顔に出るものだ。
半エルフの見るところ、老ゴブリンは頑固そうな容貌をしていた。


当惑して女剣士を見つめながら、エルフ娘は少し悩んだ。
高貴なる森の民としては、此処は連れを諌める場面ではなかろうか。
断ろうと口を開くも、瞬間、胃の腑が強硬な抗議の叫び声を上げた。
造反した胃の腑が高らかに奏で上げる空腹の唄声は、人族の娘の耳にも聞こえた。
頬を赤く染めて歪な彫像の如く固まっていたエルフ娘が動き出したのは、十を数えた程の時間が経ってだかろうか。

「やってくれるな」
「取り合えず、やってみるけど……」
結局、肉の誘惑には高貴な森の民の精神力でも勝てなかった。
いまだ頬を紅潮させながら、黒髪の剣士の耳元に口を近づけて囁き返した。
ぼそぼそ呟きあう怪しい二人組に、ゴブリンの翁は益々警戒の色を強めた。
「うむ、期待してるぞ」
「失敗した時がこわいなぁ」
ぼやきながら老ゴブリンに近づくと、エルフ娘は小さく咳払いしてから話しかけた。




[28849] 05羽 後     2011/08/03
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2013/06/09 00:39
「なあ、『翁』よ。銅貨一枚在れば、兎でも鶏でも二羽でも三羽でも買えるじゃないか?
 私たちは腹が空いている。如何かその兎を売ってもらえないだろうか?」
エルフ娘は精々親しげにゴブリン語を交えて呼びかけたが、老ゴブリンの反応は、まるで腐れ銀を財宝と偽って売りつけに来たコボルドを見るように冷たいものだった。

「兎はおらの夕食だ。あんたらに売っちまったらおらは何を食えばいいだね?」
「銅貨一枚在れば、食べたいものを好きなだけ食べられるではないか?」
「……こんな村で銅貨なんか貰っても、使い道なんかねえだ」
慎ましい生活を好む素朴な農民と言った反応で、中々に付け込む隙が見えなかった。
「なら、そこら辺の町か大きな村の定期市へでも行けばいい。
 山羊の炙り肉でも豚の茹で肉でも、腹が裂けるほど食べられるぞ?」
「……そんなに喰ちまったら、また後で腹が減った時、よけいひもじくなるだけだ。
 それに、そんなおっきな町なんか、おら滅多にいかないだよ」
ゴブリンは存外と手強かった。
此れは無理かも知れぬと、エルフ娘は肩を竦めて首を振ったが、女剣士は拳を握って頷いている。
諦めるな。或いは頑張れだろうか。いずれにしても無言の応援が伝わってきた。

「……柔らかく煮たウナギなんか如何だ?美味いぞ。
 銅貨一枚あれば、たらふく食べられるに違いない」
「……おらはウナギはすかねえ」
見るからに不機嫌な様子で、むっつりと老ゴブリンは応えた。
銅貨一枚はそれなりの大金で、伝手も技能も持たない自由労働者では滅多に手にできない程度の価値は在るだろう。
なのに、欲を煽ってみても老ゴブリンは反応はどうにも鈍い。
益々、胡散臭そうな者を見るようにつぶれた鼻をひくつかせるだけだった。
舌打ちしたくなる気持ちを抑えて、エルフ娘は唇の端を引き攣らせながらも笑顔を保つ。
銅貨にちらりとも視線を動かさないから、値を吊り上げる為の演技にも見えない。
金銭にそれほどの価値を見出してないのかも知れない。

「貴方は体も小さいし、兎は細かい骨も多い。
 今してる木製の入れ歯だって、痛んでしまうかも知れない」
半エルフの言葉は完全に余計なお世話だった。
もし、ゴブリンに今の二倍の背丈とそれに相応しい筋骨があったら、目の前の娘達を怒鳴りつけたに違いない。が、現実には彼は老いた小柄な亜人に過ぎなかった。

顰めッ面をして皺くちゃの頬を撫でてから、老ゴブリンは地面で鈍く輝いている銅貨と兎。
そして長身の人族の娘と、腰に吊るしている恐ろしげな長剣を見比べた。
ゴブリンの老人も、辺境の住人である。
強い者が弱い者から、力づくで奪う光景は度々、眼にしてきた。
巧みに剣を使う人の剣士に力づくで来られたら、老いた小柄な亜人など一溜まりもない。
無法者には見えないが、人は見かけでは分からないのもまた事実である。
断れば無理矢理に兎も取り上げられるかも知れない。もし乱暴をされたら如何するか。
女ではあるが、剣士の纏った雰囲気には如何にも剣を使い慣れている感がある。
若いだけに動きは敏捷そうだし、力とて老いたるゴブリンよりは強いだろう。
世の中には、オグル鬼の略奪者や放浪の民の盗人のように、他人のものを力づくで奪ったり、盗んでも、それをまるで悪いと思わない輩も多いのだ。
若い娘たちだから、つい油断してしもうた。
いいものと見たら奪おうとする旅人がおるのを、忘れておったわい。


兎のご馳走を凄く楽しみにしていたのだろう。ゴブリンは中々に強情である。
エルフ娘も、先ほど目前でドウォーフに魚を浚われたので気持ちは分からないでもない。
やはり気が進まないので、女剣士に向けて掌を横にひらひらと振ってみせる。
『難しい』
女剣士が奥の兎を指差し、左手で軽い円を描いてから右手で半分に割る。
『兎』『半分』
此方も強情で早々には諦めそうにない。
悟られぬように微かなため息を吐いてから、エルフ娘は交渉の切り口を変えた。

「本格的な冬の訪れが近いね。
 今年は寒かったな。作物の出来は如何だった?」
「……あんま、出来はよくねえ。
 だから、しっかり肉食って精をつけとかなきゃなんね」
黙殺すればいいものを、律儀に応えてしまう老ゴブリン。
根は人がいい。そして素朴な人が、素朴なままに暮らせる土地でもある証だろう。
「冬越えに食料の備蓄は充分かな?
 鼠に食われたり、腐ったりしないかい?」
老ゴブリンの顔の色や感情の揺れを洞察しながら、半エルフは説得の言葉を組み立てていく。

「春まで持つかい?今年は酷く寒かった。作物の出来は何処に行っても酷かったよ。
 来年も寒さが続いたら、此れは飢饉になるかも知れないね」
ゴブリンにしては人がいい、かつ欲では動かない。
しかし、元来、ゴブリンとはそれほど頭の切れる種族ではない。
「貨幣は食べ物と違って、目減りも劣化もしない。
 銅貨一枚あれば、いざという時にけっこうな食べ物が買えるだろう?」
エルフは不安を煽る言葉を織り交ぜて、朴訥で単純なゴブリンの想像力を悪い方向に誘導してみた。
ゴブリンの表情から不安の兆候を読み取ってみれば、知らずして瞬きの回数が増えていた。
ひりつくような餓えを経験した事のある者なら、考えれば銅貨を取る。
だから、最悪の事態を連想させる言葉を与えて、自身で何が良い選択か考えさせる。

「ねぇ?よく考えてみなよ。金銭の蓄えがあれば、いざという時、他の町や村に食べ物を買いに行くことだってできる。銅貨一枚が命を繋ぐこともあると思うよ」
エルフの娘は嘘はついていない。
嘘ではないからと云って真実ではないが、此の場合、ゴブリンにとっても悪い話ではないのは本当であるから、多少、気が楽でもある。
それが語り口から澱みを消して、言葉に真実味を増していた。
相手は小柄なゴブリンで、喰う量も多寡が知れている。
実際、銅貨一枚在れば、鶏でも豚でも好きな肉を食べられるに違いない。

優しいとさえ聞こえる声で語り終えてから、エルフ娘は沈黙した。
単純なゴブリンは、すっかりと不安そうな顔色を見せている。
実際に、けして悪い取引ではないとエルフ自身は思っている。
彼女を含めた貧乏人に銅貨は貴重だし、一枚在るだけでゆとりを持って冬を越えられるに違いない。
云うだけの事は云った。だから、ゴブリンが答えを出すのをじっと待った。
此れで断るなら、彼女に出来る事はもうない。
女剣士は如何思うだろうか。
此の今の場面で力づくで奪う人物であれば、一緒に行動するのも考えものだ。
そう思って横目で様子を窺うと、黄玉の瞳に面白がるような光を浮かべて微かな笑みを浮かべていた。

渋っている老ゴブリンの前に赤茶色に輝く銅貨がもう一枚放り投げられる。
ゴブリンは真剣に思い悩む様子を見せていた。
地面に落ちている銅貨と兎を見比べて、それから剣士と半エルフに視線を移した。

やがて肩を落とした老ゴブリンが立ち上がると奥に行って兎を持ってきた。
これ以上頑張っても、ろくな事にならないと悟ったのかも知れない。
実際、確かに兎一匹と銅貨二枚は悪い取引ではない。折れるのも有りだろう。
見るからに渋々と、渋々と差し出された野兎を嬉しそうに受け取ると、女剣士は満面の笑顔で振り向いた。
「さあ、肉だ」
半エルフが、微笑みを浮かべて女剣士に頷きかけた。

地面に落ちてる銅貨を素早く拾い上げると、ゴブリンは今度はさっさと懐に仕舞い込む。
他の旅人に見られてはなかっただろうか?
放浪の傭兵や蛮族なんて輩は、ゴブリンが銅貨を弄んでいるのでも見たら直ぐに取り上げようとするに違いない。
そして逆らえば、虫けらみたいに無慈悲に殺すのだ。
人族でも、エルフでも、力の在る者は何時でも好き勝手に振舞うわい。
老ゴブリンは一瞬、猛烈な憤怒に駆られた。
この手槍を片手に、今から追いかけていって挑んでやろうか。
あの娘たちは、どんな顔をするだろうか。
情景を妄想してから、ゴブリンは直ぐに自嘲の感情を孕んで破顔した。
何を馬鹿な。それこそ老いたゴブリンなど一太刀で切り倒されてしまうに違いない。
娘の二人組と見て無用心に話しかけた自分が迂闊だったのだと、老ゴブリンは気持ちを落ち着けた。
それでも、まだ運が良かった。
やや横暴ではあるが、対価を払ってもいる。
次の客人が、欲する品の代価を暴力で支払う輩ではないとも言い切れない。
小柄で非力な亜人が用心と武装を忘れたら、辺境で長生きは出来ない。
だからといって、何処かに住み易い土地がある訳でもなかった。
大きな村や都邑でも、さして事情は変わらない。
弱肉強食の無法は罷り通らない代わりに、法を嵩にきて好き勝手する者もいるし、
支配者に相応の税を納めなければならない。

兎を如何料理すれば美味いか語りながら遠ざかっていく娘たちの背中を見つめて、巻き上げられた老ゴブリンは悔しげに鼻を啜った。



[28849] 06羽     2011/08/11
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e2904fa0
Date: 2013/06/10 00:40
暗鬱な曇天から小雨がぽつぽつと降り注いだ。
時折、冷たい静かな風が吹き抜けては、泥濘んだ細い道を進む二人組の旅人のマントをはためかせていた。


世の殆どの人々にとって、銅貨一枚はそれなりの価値を持つ貨幣であった。
例えば貧しい放浪者からしてみれば、錫銭一枚の有無が其の日の食事の有無に繋がり、また真冬の最中に暖かな寝台での安らかな眠りと夜空の下での野宿を隔てる大きな違いでもある。
其れは即ち命を左右する差であり、そうした諸々を考えれば、女剣士の金銭感覚は殆ど驚くべきものではあったから、エルフ娘は呆れたようにぶつぶつと呟いていた。
「兎一羽に銅貨二枚とはね……幾ら持っているのか知らないけど、手元不如意になるのも無理はないよ」
賢しらげな忠告を、しかし女剣士は鼻で笑って気にも留めない。
「肉が食べたかったのだよ。にしても、御主は年齢に似合わず分別臭いなぁ」

「御主のお蔭で安くついた。それにしても上手く交渉するものだな」
自由労働者として長くヴェルニアを放浪しているうちに身につけた話術であろう。
エルフ娘の世知長けた交渉の手管は、傍から聞く分には中々に興味深いものだった。
「貴女の立派な服はそれだけで買い物には不利だね。
 貴種と見たら、行商人も農民もそれだけで吹っかけてくるだろうから」
「だからといってみすぼらしい服にわざわざ着替える訳にもいかんだろう。
 いや、意外と有りかな。其のうちに一度着てみようか」
楽しげに鼻歌などを歌いながら、女剣士はエルフの娘の智恵と口説を賞賛した。
「御主は、よく智恵が回るよ。口も巧みだ。
 それだけ舌が廻るなら、さぞ世を渡りやすかろう」
「……舌が廻るとは余りいい言い方ではないね」
女剣士は純粋に賞賛した心算が、何故かエルフの機嫌を損ねた。
「いや、弁論術を褒めているのだよ?そう拗ねるな。折角の可愛い顔が台無しだぞ」
「それが褒めている心算か?……ま、いいさ」
半エルフのほうは、女剣士を奇妙に苦手に感じていた。
嫌いと言う程ではない。
が、天然物の上から目線に加えて偉そうな物言いがほんの少しだけ気に障るのだ。
とは言え、身分の高い者など得てしてこんなものだろうとも思う。
幾らか無神経だが、悪気がないのは分かる。今のところは、卑しさや悪意も感じない。
少なくともその点では、女剣士は不愉快な同行者ではない。
富裕だからエルフ娘の僅かな持ち物を狙う事もあるまいし、同性だから襲われる心配もない。
ずっと同行する訳でもなし、些か偉そうな物言いも気にするほどでもないだろう。


土手道を少し曲がった先の河原に、料理の下拵えをするのに丁度具合の良さそうな空き地を見つけた。
雑草も生えていない剥き出しの地面には先ほどまで釣り人がいたが、夕暮れも近づいてきたからだろう。河原には既に人気もなく、荒涼とした侘しい風景が広がっている。
今朝からの小雨に増水した小川から水流が流れ込むうち、いよいよ勢いを増したゴートが轟々と音を立てて時折、冷たい水飛沫を跳ね飛ばしているのを、余り近づき過ぎないように注意しながら二人の旅人は視線を交わした。

「料理は出来るか?」
問いかけにエルフ娘が頷くと、兎を手渡された。任せるという事らしい。
平らで大きな石を見つけると、エルフ娘は腰から小刀を取り出す。
無毒な大振りの葉っぱを見繕って幾つか摘むと、軽く洗浄してから石の上に重ねた。
小刀は普段革製の鞘に包んである切れ味のいい鉄製で、滅多にないが兎や鶏などを捌く時には重宝するのだった。
兎の背中を指で摘み上げると、まずは切り裂いて穴を開けそこから皮を剥いでいく。
手際よく全身の毛皮を取り除くと、頭部と四肢を切り裂いて捨て、腹を裂いて内臓を取り除いた。

「毛皮は如何しますか?」
切り取った頭から脳漿を取り出してなめせば、ちょっとした小遣いにはなる。
しかし、エルフ娘もそれほどなめしには詳しい訳ではない。
故郷の森にいた頃、皮革職人の知り合いもいたのだが、日常生活が植物性の布で充分に事足りていた事も在って習わなかったのだ。
持ち主の女剣士が面倒くさそうに手を振るので、臓物と一緒に草叢に投げ捨てた。

葉を並べた石に兎を乗せると肉をさらに切り刻んで、切り口に香草や食べられる野草などを味付けに挟んでいく。
「此の兎は若いね。凄く柔らかいよ」
感嘆の呟きを洩らしながら、金属性の串を数本、取り出した。
金属製品は全般的に高価な世間である。
金属製の串も例に漏れずに相応の価値が在る。色々な場所で貨幣として支払いや物々交換などに使用する事も出来た。
エルフ娘が手にしたのは比較的に安価な鉄製であるが、中には青銅や真鍮で造られた串もある。

興味深そうに手際よく料理する様子を眺めていた女剣士だが、エルフ娘が串を取り出した瞬間に、思い出したようにあっと呟き、慌てて腰の袋から何かを取り出した。
「使うがいい」
手渡されたのは、親指ほどの大きさの黒ずんだ結晶。岩塩の塊だった。
塩はありふれているが、そこそこ値の張る調味料でもあるから、顔を上げて視線でいいのかと訊ねる。
鷹揚に頷いている為、先端を削って表皮に掏り込んでいく。

岩塩を返し、下拵えが漸くに終わる。
料理の手際に満足したのだろう。女剣士はご満悦の表情で肯いていた。
切り落としを丁寧に葉を乗せた布に包んで、エルフの娘は兎の持ち主に告げた。
「後は、小屋で火を借りよう」
肉料理は焼きあがるのに結構な時間が掛かるから、小雨とは言え雨天の野外で調理は面倒だった。
冬の空は薄暗く、分厚い雨雲が高所で揺れており、空を仰いだ女剣士は目を瞬かせた。




街道を行く旅人たちに開放されてる藁葺き小屋は、長年を風雨に晒されてきた為に歳月を経た板壁は乾燥してひび割れ、屋根は破れたままに修繕もなされず、所々から雨漏りしていたが、金のない放浪者や自由労働者などには好んで寝泊りする向きもあった。

太陽が西の空へ大分傾いた頃。旅人の小屋へ入ると其処に十人近い旅人が屯っていた。
藁葺き小屋一つに此れだけの人数が寝泊りできる筈もないから、旅人の大半は情報なり物々を交換する為に集ったのだろう。村人らしき姿も在った。
夜になれば旅人の半数は近隣の旅籠に引き上げるか、或いは小銭なり労働なりの代価を払って村人の家に泊まるに違いない。

小屋の入り口の直ぐ外には、雨水を溜め込む為の大きな壷が置かれていた。
年代物の素焼きの壷で、陽に当たる側は変色して埃っぽい白に色褪せている。
時として、河の水には何らかの毒素や細菌、寄生虫などが含まれている。
地元の人間は兎も角、飲み慣れぬ余所者が口にすれば、病気になったり、腹痛を引き起こす事もあった。
だから、壷に溜まっている雨水は旅人の喉を潤おす為のものなのだろうが、濁った水の表面には羽虫の死骸が浮いており、此れでは川から生水飲むのとどっちが不衛生か分からない。
壷を覗き込んだ女剣士は不快げに眉を顰めて、何やらぶつぶつと文句を呟いていた。


扉から入って右隅には、陰惨な翳りを纏った三人組の男女。薄汚れた旅装に身を包んだ彼らは、低い小声で何やらボソボソと相談していた。
直ぐ傍には、小柄なホビットの娘が床に敷いたマントの上に気だるそうに寝転んでいた。
小屋の奥には、比較的、清潔な旅装を身に纏った行商人が数人、天候や城市の通行税について愚痴っていた。
その隣には貧しげな身なりをした子連れの中年女が座っている。
甘えるように膝に頭を乗せる幼子を抱きしめ、自分の口で噛んで柔らかくした木の実を与えていた。


部屋の中央にある囲炉裏には、枯れ草や乾燥した枝を薪に火が音を立てて踊っていた。
丁度焼きあがった所なのだろう。ドウォーフが美味そうに焼きあがった鮎を頬張っており、エルフ娘は一瞬、生唾を飲み込んだ。
ドウォーフの健啖振りを見てると、エルフ娘は何やら腹立たしくなってきて、苛立たしげに舌打ちしてしまう。
その仕草に気づいたのだろう、ドウォーフはにたりと笑うと、旅の連れであろうウッドインプに何か呟きかけた。
何かの冗談だったのか。それまで無表情に鮎の塩焼きを貪っていたウッドインプが、呵々と大笑し、ドウォーフの肩を親しげに叩いた。
「……ドウォーフなんか、土か岩でも喰ってればいいのに」
半エルフが忌々しげに呟くと、今度は女剣士が可笑しそうに笑った。


気を取り直して布から葉に包んだ兎肉の串を取り出すと、エルフ娘は囲炉裏へと近づいた。
肉というのは、最初は素早く表面を炙り、焼いて内部に肉汁を閉じ込める方法が一番、美味い。
その後は肉の種類によって異なるが、兎や鶏などは、概ねが強い火で一気に焼き上げるよりも、弱火で万遍なく炙った方がより味わい深くなるものだ。
だが、それはあくまでエルフ娘の考えで、世の中には肉汁の滴る調理法は下品で、
茹でた方がいいと考える者もいれば、強火で一気に焼いた方が美味いと考える者もいる。
兎に角、丁寧に炙るとなれば、此れは強火で焼くよりも余計に手間暇も時間も掛かる。
そのような事を告げ、早めに焼くのと、時間を掛けるのとどちらにするか訊ねる。
折角の肉であるから後者が良いと云うので、表面を素早く焼いてからは、丁寧に仕上げようと火の弱い処に当ててじっくりと炙り始めた。
「私の分は、よく焼いておくれ。その方が好みだ」
エルフ娘の手にした串焼き肉を窪んだ目でじっと見つめる痩せた旅人もいたが、人族の剣士が連れなので兎肉を取り上げようと試みるような輩はいなかった。

表面を焼けては回転させ、また裏返しにして、万遍なく肉に火を当てていった。
灰に脂が滴り落ちて、小屋に肉の焼ける香ばしい匂いが広がっていく。
焼きあがった物から、布に敷いた葉の上に並べていく。
奥にいた貧しげな親子連れの幼い少年が、涎を垂らしながら穴が開くのではないかと思うくらいに肉を凝視しているのに気づいたが、可哀想に思いつつも無視を決め込む。
一々、腹を空かせた子供に食べ物を分け与えていては、自分の分がなくなってしまう。


一方で女剣士は入り口近くの壁際に陣取って、剣を肩に抱えた楽な姿勢で座り込んでいた。
日干し煉瓦で出来た壁は漆喰も剥がれて大分劣化しているが、風雨を凌ぐには充分である。
楽な姿勢を取って料理が出来るのを待ち侘びながら、大地に当たっては弾ける雨音に耳を欹てて、楽しげに即興の歌などを口ずさんでいた。





[28849] 07羽     2011/08/18
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e2904fa0
Date: 2013/06/09 00:39
軽やかな足取りでエルフ娘が近寄ってきた。
手に抱えた布の包みからは、肉の焼けた芳ばしい香りが立ち昇っている。
「待たせたかな」
「なに。こうして待つ時間も楽しいものだったよ」
緑髪の娘はふっと笑って布と葉っぱを広げると、香草焼きが湯気を立ち昇らせた。

自分で猟をしたり罠を仕掛けられる技を持つ者を別にすれば、旅の身空で、普通の庶民が肉を口にする機会は意外と少ない。
家鴨や鶏、豚を飼っている荘園で働くか、自然豊かな森や平原などに隣接する村へ滞在した時。あとは大きな町で祭りが行われた時くらいか。
そもそも家畜を潰すのは、そうした土地でも特別なお祝いの日くらいだから、裕福な旅人でもないと肉は中々に食べられない。
小屋で休んでいた旅人の幾人かは、露骨に羨ましそうな顔を浮かべてご馳走を眺めていた。

上手く焼き加減を調節したのだろう。
しっかり炙ったにも拘らず、肉の切れ目に挟み込んだ野草や香草は殆ど焦げていない。
刻んだ香草が表面に振り掛けられて、香りと味に深みを与えている。
唾を飲み込み、大き目の肉を手に取ると齧りついた。
噛むと口腔にじわっと暖かな脂の旨味が広がる。
黒髪の娘は思わず硬直した。目を見開いて絶句し、それからゆっくりと顔を綻ばせた。
「うむ。これは美味い」
岩塩もよく効いている。
肉に挟んだ香草は仄かな苦味があったが、其れがまた口の中で味わいを深めてくれた。
振りかけた香草の方は香り高く、淡白な肉の風味をより引き出してくれる。

「ああ、美味い。久しぶりの兎。此れでお酒と黒パンでもあればね」
エルフ娘が指をしゃぶりつつ、贅沢な事を云った時。
「黒パンは此処にありますぞ」
間髪おかず、唐突に横合いから話しかけてきたのは、行商人風の見知らぬ男だった。
先ほど、羨ましそうに兎を見ていた旅人の一人だ。
やや肥満した禿頭。質素な服装には僅かに旅塵の汚れもついているが、定期的に洗濯しているのか、気持ちのいい清潔感を保っている。
驚いているエルフ娘を尻目に、大きな顔に人懐っこそうな笑みを浮かべて、大きいが穏やかな声でお世辞から入ってきた。
「美味しそうですなぁ。
その肉をほんの一切れ頂ければ、お二方に黒パンを一つ、いや二つずつ差し上げましょう」
「いいだろう」
行商人の取り出したパンを見てエルフ娘が何事か云い掛けるが、口に出すよりも早く女剣士があっさりと了承してしまった。
「おおっ、ありがたい」
掌程の大きさの黒パンを押し付けると、串焼きを手にとって、
「食べ終わったら、串は返してね?」
「分かっておりますとも」
どこかむすっとした半エルフの言葉にも愛想よく頷くと、大きく肉に齧り付いた。

女剣士がエルフを見つめた。
「何を脹れている?」
「相当にお肉食べたがっていたから、少し粘ればパンを三つずつ貰えたかも知れない」
女剣士が天井を仰いで、可笑しそうにくつくつと笑った。
「細かいことなど気にするな。これでも飲んで機嫌を直せ」
口に運んでいた革袋を渡してきた。
「あ……これ。いいの?」
ワインだった。一般に大麦や雑穀を材料とするエールよりも高価である。
「遠慮するな」
エルフ娘はワインを口に含む。甘い。そして躰が芯から暖まるように感じられた。
喉を潤おしてから、大きく甘い息を洩らした。
「へへ、えへへへ」
「何だ、御主。笑い上戸か?」
「久しぶりにまともな食事ですよ。お肉なんて半年?一年だっけ?」
「私に聞かれても困る」

「美味い。こんなに美味い串焼きは初めてですぞ」
お世辞の心算か、商人がエルフを見て絶賛する。
食べるのが好きそうな見た目だから、本気かも知れない。
「木の実も程よく焼けて噛み応えがあり、柔らかな肉の味とよく合うな」
人族の剣士も賞賛し、緑髪のエルフ娘は満更でもない様子で照れたように笑った。
「ふふ……香草も木の実も、何でもいいと言う訳ではないんだよ」
小さい口で栗鼠のようにもきゅもきゅと肉を咀嚼し、ワインで流し込んでからエルフ娘は服の袖口で口を拭った。
「兎には兎、鳥には鳥。其々に合う木の実や野草、香草があるんだ」
「ほう?」
早くも肉を食べ終わった商人が、面白そうに耳を傾けていた。
無言だが肯いてる女剣士の反応もあり、話題に退屈してないと見てエルフ娘は言葉を続けた。
早くも酔いが程よく廻ったのか、頬を上気させて得々と講釈を始める。
「例えば豚なんかはハーブとしては肉を柔らかくし、躰を暖めてくれる効果の生姜がよく合うけど、鶏などは香りの高いタイムなどが風味を深めてくれる。今振りかけてある薄緑のそれね。
兎は肉自体が淡白な味わいなので、意外と甘い果実をソースにして掛けたものも美味しいですよ」
商人が生唾を飲み込んだのか。喉を大きくごくりと鳴らした。
女剣士が指についた脂を舌で舐め取りながら、エルフを見つめた。
「ふむ、話だけでも、とても美味しそうだ。何時かは食べてみたいな」


その後は、三人で各地の街道の様子や天候、作物の出来を話題にしたり、時折、旅籠の飯の不味さについて愚痴ったりしながら食事を楽しんだ。
名前を知らない商人は、中々に話し上手で聞き上手でもあったから、不快な相手ではなかったし、エルフ娘や女剣士とも結構、気があったのか。色々と話は弾んだ。


その見窄らしい三人組は、近づくのを躊躇わせる陰気な雰囲気を醸し出していた。
先ほどから顔を寄せ合い、なにやら奇怪な響きの言葉で何事かを囁きあってる。
近くにいる者がたまさか不快な響きの相談を聞き取っても、彼らの言葉は意味不明な単語の羅列でしかなく、意味を汲み取る事は出来なかった。
「『黒蜜蜂』は『蜜』をたんまり持ってるようだな」
「だが、『蜂』は鋭そうな『針』を持ってるぞ。ジャール?」
歯擦音の多い聞き取りづらい囁き声に応えたのは、鉄の錆びたような擦れ声だった。
「飾りだろ。けけけ」
ジャールと呼ばれたアイパッチの痩せた男が、残された左目に貪欲な光を宿してにやついた。
「あの『針』が飾りかどうか試してみるか?」
「いや、いいあれ自体はいい『針』だ。高く売れるぜ」
羽振りの良さそうな『獲物』たちの様子を、小屋の隅から剣呑な眼差しで窺い続ける。


「『頂く』のかい?フィトー」
「聞くまでもないだろ?ミュー」
短い赤毛をした若い女は、精悍な顔立ちだけは中々に整っていたが、頬に残る大きな切り傷と滲み出る卑しげな雰囲気が彼女の生まれ持った容貌を損なっている。
「余ってる所から足りない所へ廻してもらうんだ。罰は当たるまいよ」
鉄を軋ませたような擦れ声のフィトーは長身だった。
北国のヴェルニアには珍しい赤銅色に焼けた肌。隆々とした二の腕は、太く逞しい。
『獲物』を見定めている五つの瞳は濁ったまま。
『兄弟』や『姉妹』だけが使う独特の言葉は、隠語や暗喩が入り混じり、本来の意味とは懸け離れた単語が多用されている為、仮に周囲の者に聞きとがめられたとしても、外国人の言葉のように意味の分からない会話でしかない。

「それにしても、いい『肉付き』をしてる。『毛』もまるで鴉のような見事な闇色だ。高く『売れる』ぜ」
独自の符丁を織り交ぜ、淡々と呟く低い擦れた声からは感情の揺れは窺えない。
近くにいる行商人などが偶々耳にしたとしても、精々家畜の品定めをしているとしか思わないだろう。

「いい体つきは当然さね。あの服見なよ。餓鬼の頃から餓えたことなんてないのさ。しししっ」
二人の獲物は肉と黒パンに舌鼓を打ちながら、優雅に皮袋からワインを楽しんでいた。
食事を楽しむその姿が、己以外の全てに憎悪を抱いた歪んだ性根の連中には、また腹立たしく思える。

「……豪勢な飯だ。ご相伴に預かりたいものだな」
「この前の荘園で『頂いた』豚は、年寄りの上に臭くて固くて喰えたものじゃなかったな」
「まともな肉なんて何ヶ月も喰ってないよ」
「残しておけよ、そうすれば少しは扱いを優しくしてやる。よぉし、よしよし」
残した肉を皮に包むのを見て、ジャールが餓えた小声で呟く。

「俺は『緑兎』の方を『貰う』ぞ。
顔は汚いが『長耳』は久しぶりだぜ。例え、それが『合いの子』でもな」
痩せたのっぽのアイパッチが興奮した様子で卑しげな笑みを浮かべてると、赤毛の女がまるで気の毒と思ってない口調で囁いた。
「にしても少し可哀想だね。いかにも初心って感じだよ」
ニヤついてるアイパッチに、フィトーが錆びた掠れ声で告げる。
「『雪』が『純白』なら高く売れる。『踏む』前に確かめて『誰も歩いた事』がなかったらもう片方で我慢しろよ」
ジャールは太い腕をした頭目の言葉に目を剥いて何か言いかけたが、仲間二人の冷たい目つきに気づくと、不満げに口元を歪めながらも不承不承頷いた。
「……分かったよ、フィトー」
苛立ちの込められたアイパッチの言葉に残った二人が頷いた。

ミューが囁いた。無情な瞳。平坦な声で、口元だけが冷たく笑っている。
「『豚』は如何する?『銅』の『餌』をたっぷり腹に『貯めて』そうだよ?」
「村人の見てる『家畜小屋』には手を出さない方がいいだろう。
 まずは『蜂』と『兎』から頂く。『豚』はそれからだ」

『獲物』を品定めしながらフィトーは、硝子玉のような濁った瞳に油膜のように澱んだ欲望の光を宿らせ、厚い唇を歪めて獰猛な笑みを浮かべた。




[28849] 08羽 手長のフィトー01     2011/08/21
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e2904fa0
Date: 2013/06/09 00:39
そうだ。もっと楽しめ。お嬢さん方。
人生、何が起こるか分かりはしない。
大いに食べ、飲み、歌い、踊り、人生を謳歌しろ。
今宵の晩餐が最後に味わう自由の味。
大事な箱入り娘も、おいらに目を付けられたが運の尽き。
窓から入ってかどわかし、銀と引き換え売り払う。
次に目覚めりゃ何処も知れぬ檻の中。哀れ、銅の小片で身を売る娼婦に転落さ。
見知らぬ娘さんにゃ気の毒だが、銀を片手においらは踊る。

―――街道の人浚いの唄 作者不明 


うとうとと気持ちよくまどろんでいたのに、突然に肩を強く揺すられた。
「うあ、なに?」
夢見心地から呼び戻されたエルフ娘が、乱暴な扱いに抗議の声を上げると、
「そろそろ起きなさい。もうじき日が暮れる」
耳元に女剣士の涼やかな声が囁いた。

不満げに唸りながら目を開けると、薄暗い室内に茜色の夕陽が差し込んで茶色い壁を照らしていた。
雨も大分、弱まった様子だ。外から聞こえる雨音も大分、小さくなっていた。
半エルフが目を擦りながら周囲を見回すも、肥満した行商人の姿は見当たらない。
「んむむ。あれ?」
「ああ、あの者は村人の家に泊めてもらうそうだ。
我らも、もう行かなくては夜道を歩くことになるぞ」

手元にあったワインの革袋を口元に運ぶと、女剣士が眉を顰めた。
「余り飲みすぎるな」
「あ、すまない」
他人のワインを飲みすぎたと考えて謝るが、別に物惜しみした訳ではないようだ。
「此れから宿まで戻るのに、足元がおぼつかなくなっては困る。
ワインはまた次の食事まで取っておいて、今は水にしておきなさい。ほら」
差し出された皮の水筒を見て、半エルフはやや疑わしそうな顔つきでまじまじと見つめた。
それに気づいたか、女剣士が苦笑する。
「安心しろ、湧き水で汲んだものだよ」
「湧き水?」
「街道近くに廃村があっただろう?」
「いや、気づかなかったな」
首を振ると、
「旅籠の向こう側だ。明日にでも場所を教えてやろう」
街道を行き来する旅人や放浪者にとって、井戸や綺麗な湧き水を汲める場所の情報というのはかなり重要な話だが、知る者が増えれば取り分が減る類ではない。
だとしても、人族の娘は案外、親切な性格をしているようだった。


ワインを飲んで渇いた喉に水筒の水は妙に甘く感じられ、砂に溶けるように体に吸い込まれていった。
「……なんか貰ってばかりだね」
口元を拭いながらのエルフ娘の呟きは、黒髪の剣士の耳には届かなかった。
大分、頭がはっきりすると、半エルフは鞄から数枚のローズマリーを取り出した。
ローズマリーの葉には、生姜などと同じく肉の腐敗を防ぐ効果が在ると云われている。
残った兎肉から串を引き抜くと丁寧に葉に包んでから、布に包んで紐で軽く結わくと革袋に仕舞いこむ。忘れ物もないようだ。
「では、行くか」

小屋を出ると、日暮れが近づいたからだろう。風は先頃よりさらに冷たくなっていた。
火の焚かれた屋内に比べて外気はかなり肌寒く感じられ、薄いマントを羽織った半エルフは小さく躰を震わせた。


「あ……待っててくれるかな。直ぐに済むから」
翠髪の娘が慌てて川原の方へと走っていった。
何をするかと見ていれば、鉄串を取り出すと水で洗って布で丁寧に拭い、尖った端に木蓋をつけて腰の革袋へと仕舞いこんでいる。

暇を持て余した女剣士が西の彼方を見ると、雨雲は完全に吹き払われて、地平に黄昏の夕陽が淡く輝いてた。
照り返す夕日に赤く染まった群雲へと向かって、天高く渡り鳥の群れが遠ざかっていく。
つかの間、陽炎を纏って揺れる初冬の情景に見入ってると、手早く洗い物を済ませたエルフ娘が駆け戻ってきた。泥濘んだ地面を踏みしめ、二人は村を出ようと細道を歩き出した。


村外れにある矮樹の近くで、胡麻塩頭の痩せた老人と何やら話している襤褸を纏った二人組の乞食とすれ違った。
乞食たちは歯のない口で何やらいやらしい笑いを浮かべると、二人の娘とすれ違い様に嫌な笑い声を上げた。

気に障ったのだろうか。女剣士が立ち止まって、乞食たちの後姿に鋭い視線を送った。
「如何した?」
「今すれ違った老人。小屋にいたな」
エルフ娘の問いにそれだけ呟くと、女剣士は肩を竦めて再び歩き始めた。


川辺の村落を出て、まだ四半刻(三十分)も経ってはいない。
恐らく日が暮れるまではあと半刻ほどの猶予が在るだろう。
街道を歩きながら、足を止めずに女剣士が口を開いた。
「さっきの商人の話ではな。少し歩くが橋が在るそうだ。
 古い橋だが、落ちたとの話は聞かない。迂回する価値は在るかも知れないぞ」
「しかし、そうなると……」
 気が進まないといった表情で半エルフは言いよどんだ。
「何が気になる?」
「北はオーク族が出没し始めてるとの話だよ。
 ……噂では、数十年ぶりの大規模な侵攻でクレインの砦が落ちたとか」
「噂が全て真実なら、クレイン城砦は五年に一度は落ちている事になる。
 それに橋が架かっているのは、下流。南の方だよ」

「渡る際に管理している村の衆だかに、幾ばくか通行料を取られるようだが如何かな?」
女剣士が黄玉の瞳に見つめると、エルフ娘は俯き加減の姿勢で暫し沈思してから頷いた。
「艀の方が安いけれど、食費や宿代を鑑みれば……此処で足止めされてるよりは確かに」
「一考の価値は在ろう?
 今日、明日のうちに天候がおさまる様子を見せねば、下流へ行く心算だが如何だ?」
「一緒させて貰うよ。私も早めにティレーに入りたいからね」
「うん……む?」

明日も一緒に行動するのなら、互いの名前くらいは知っていた方がいいだろうか。
今さらに聞くのは何だが、自己紹介するかな。
それとも、もう少し一緒に行動してからがいいか。
エルフ娘が変なことを少し迷ってから、自己紹介しようとした矢先、女剣士が冷たい笑みを浮かべて口を開いた。

「気づいたか?先ほどから後を尾けてくる者達がいる」
戸惑い、僅かに困惑の態を見せながらエルフ娘が後方を振り向くが、誰の姿も見えない。
「……まさか」
女剣士は低く、囁くような声で続ける。
「先ほどの小屋に此方の様子を窺っている者が何人かいた」
エルフの娘は無言。ただ目を瞬いて、黒髪の剣士の横顔を見上げる。
「腕の太い男と赤毛の女。眼帯をつけた黒髪の三人組だ」
「……いたね。やな雰囲気の奴等だった」

「あいつらの私たちを観る目だが、どうも気に入らなかった」
エルフ娘は、落ちつか無げに視線を彷徨わせてから、足元に長く伸びた己の影を見つめた。

「どちらかな?」
黒髪の人族の娘は黄玉の瞳を細め、楽しげに呟いた。
「どちらとは、どういう意味?」
「狙いは、私か。御主か。それとも両方かな」
懸念通りなら賊に狙われているというのにどこか楽しげでさえある女剣士に、呆れたといった様子で首を振った。
「如何にも金のあるところを見せつけてる、貴族の令嬢だと思うよ」
「半エルフの女なら、娼館にも高く売れるだろうな。きっと人気者になるぞ」
「……高貴な身から娼婦に転落した娘も、人気が出るでしょうね」

緊張した面持ちのエルフ娘とは対照的に、なにがおかしいのか。
女剣士はくつくつと笑っていた。

「貴女は随分、余裕が在るね」
「安心しろ。賊の三人くらいなら私一人で片付けてやるさ」
「……荒事は苦手だよ」
エルフ娘は呟いて、黒髪の剣士の様子を観察する。
大した自信だった。言葉の半分でも、剣の腕が立つならば安心できるのだけれどと思いながら、今度は足音を捉えて半エルフが立ち止まった。
目を閉じて、神経を集中するように尖った耳を微かに動かした。
小雨とは言え、雨音の中で聞き取れるのだろうか。
女剣士が小首を傾げて見ていると、エルフ娘は雷に打たれたように躰をびくっと震わせて、血の気のひいた表情で旅の連れを見つめた。

「奴ら、走り出した。近寄ってくる……四人、五人。いや、多分六人」

「六人?確かか?」
エルフ娘の言葉に、黒髪の娘の表情が微かに緊張に強張った。
「間違いなく五人はいる」
「思ったより多いな」
厳しい表情で舌打ちして、半ば駆けるように足早に歩き始めた。
「まずいな。三人なら、なんとでもなると思っていたが……」
空を見上げて灰色の雨雲を眺め、それから旅籠のある彼方の場所へと視線を走らせた。
染みのように小さく黒い影が、丘陵の手前に小さく佇んでいる。
「此処は丁度、村と宿の中間くらいの場所。いや、まだ村に近いな」
女剣士は視線を遅れがちなエルフ娘の足元に移し、彼女の履物を見た。

エルフ娘の顔色は悪かった。女剣士は長靴だ。
走れば賊徒から逃げ切れるかも知れないが、彼女の履いているサンダルに泥濘では、多人数から逃げ切るのは厳しい。



女剣士が急に立ち止まった。
呆気に取られているエルフ娘の前で、黒狼の毛皮のマントの結び紐を手早く解くと、草叢へと投げ捨てた。
「君は宿屋まで走れ」
意を決したように射抜くように鋭い眼差しで、エルフ娘を見つめた。
「貴女は如何する心算?」
「私は時間を稼ぐ。此処で足止めすれば逃げ出せよう」
「でも……」
見捨てるようで躊躇しているのだろう。翠髪の娘は立ち止まってグズグズしていた。
「五人相手は厳しいが、私一人なら何とでもなる」
黒髪の剣士は断言した。あながち大言壮語でもない。
賊五人に勝つ事は出来ずとも、負けないだけの手腕は持っていると自負している。
「……本当に何とかなるんだね?」
おずおずと尋ねるのに、堂々と言い切った。
「何とかする。逃げ切るだけなら自信はある。行くがいい」
「……分かった」
云って踵を返すが、半エルフは直ぐに立ち止まった。
「何をしている。早く行け、足手纏いだ」
人族の娘の苛立たしげな叱咤。
「そうもいかないみたいだ」
しかし、エルフ娘は、どこか虚ろな響きのする声で呆然と呟いた。


旅籠へ向かう街道沿いの草叢から、二人組の賊が姿を現していた。
重さを確かめるように棍棒を上下に弄びながら、にやにやと残忍な笑みを張り付けて、ゆっくりと二人に歩み寄ってきた。




[28849] 09羽 手長のフィトー02     2011/08/23
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e2904fa0
Date: 2013/06/09 00:38
黒い眼帯をつけたのっぽは、旅人の小屋で厭な雰囲気を醸し出していた三人組の一人だった。
嫌な目付きをした小男も、先刻に小屋で見かけた顔のうちの一つで、行商人たちに近づいては盛んに話しかけていたのを覚えていた。
恐らくは旅人たちに入り混じりながら、適当な獲物を物色していたに違いない。

いずれも薄汚い風体をしており、棍棒を片手に街道を塞ぐようにして立ちはだかっていた。
露骨に値踏みする目付きでじろじろ眺めてくるのが、半エルフにはたまらなく不快に感じられた。

厳しい表情の女剣士は、西の方より歩み寄ってくるより一団の方が気に掛かるようで、剣の柄に手を掛けながら近づいてくる無法者の一群を睨みつけていた。

ゆっくりと歩み寄ってくる赤銅の肌をした男と赤毛の女。胡麻塩頭の老人に二人組の乞食。
赤毛の女は両手に短剣を持ち、カチカチンと刃を打ち合わせる音を立てながら、獲物の恐怖を楽しむように厭な感じの笑みを浮かべている。
老人と乞食の一人が節くれだった杖。もう一人の乞食の得物は扱いやすい短い棍棒。
赤銅の肌の男が手に持っているのは、異様に長く太い棍棒で、普通の人間の片足ほどもあるだろう。
重いだけに取り扱いの難しそうな武器だ。
自由に振るうにはかなりの膂力と技量を必要とするだろうが、あんな棍棒で殴られたら屈強な大男でさえ一溜まりも在るまい。
女剣士は無表情のまま、敵の大方の獲物と体格、年齢を素早く見て取り、素早い動作で剣を抜き放ちながら、此の世の終わりみたいに蒼ざめた顔で縮こまっているエルフ娘の傍らに立った。

前から二人、後ろから五人。
七人の賊徒は、思い思いの武装を手に、じりじりと獲物との距離を詰めて来る。
「……挟まれた」
掠れた声で絞り出されたエルフ娘の呟きに、人族の娘は穏やかとさえ言える声で応じた。
「だが、まだ完全に周囲を取り囲まれた訳ではない。
 打って出るなら、今のうちだな」
女剣士の言葉に含まれた落ち着いた響きが、半エルフの娘にも冷静さを取り戻させた。


前方と後方の街道を完全に塞いだ形になると、賊のうちから一人の男が前に進み出てきて自己紹介した。
「さて、お嬢さん方。俺の名はフィトー。人によっては手長のフィトーと呼ぶ者もいる」
一際長い棍棒を手にした筋骨逞しい男だ。赤銅の肌を持つこの男フィトーが賊徒の頭目なのだろう。
「お二人さんの新しい主人という事になる」
フィトーは顎を撫でながら、主が奴隷に決定を言い渡すように尊大な口調で宣告した。
「此れからお前さんらを新しい職場に案内してやるが……」
じろじろと二人の娘を見てから、にやりと笑みを浮かべた。
「自分からついてくるかね?
 大人しく武器を捨てれば、いい目を見せてやらん事もない。
 食事もそれなりのものを与えてやるし、お楽しみもあるだろう。俺は慈悲深い盗賊だからな」
最後に付け加えた言葉で、賊徒共がクスクスと笑った。
強弱のつけた喋り方が頭目の好みなのだろう。
優しげな口調から、一転、声の口調を荒げて、脅しつけるように言葉を続けた。
「だが、反抗的なじゃじゃ馬には鞭をくれてやらねばならん。
 新しい仕事を紹介してやる前に、好きなやり方を選ばせてやろう。
 お前さんらは優しく扱われるのが好きかね?
 それとも、鞭を喰らうまで己の立場を弁えない馬鹿な身の程知らずかね?
一言云っておくと、俺は無理強いは好かない。お嬢さん方が自分で決めるんだ」
賊徒はいずれも余裕のある表情をしていた。
もう既に、二人の娘とその財布を手中に収めたも同然と思い込んでいるのだろう。

覚悟を決めたのか。
黄玉の瞳に底光りする硬質の光を宿らせて、女剣士が野生の狼のように獰猛な笑みを浮かべた。
まともに聞いていたら付き合いきれないほどの厚かましい言葉を無視して、しなやかな動きで身構える。
降伏する気はないようだ。
女剣士の堂に入った構えを見て、痩せた老人が一瞬怯えた表情を浮かべたものの、数の優位を思い出したのか。直ぐに笑みを浮かべた。
「ほーい、黒髪のお嬢さんはやる気のようだぞ!」
胡麻塩頭の老人がおどけた叫び声を上げると、七名の悪漢共はげたげたと下卑た嘲笑を二人へと浴びせた。

女剣士は烏の濡れ羽色の前髪を右手でかき上げ、ゴブリン共の演じる寸劇でも目にしたように、つまらなそうな表情になって賊徒共を眺めていた。
毅然とした態度は、まるで汚らわしい賊など、自分に指一本触れさせないと無言で主張しているようにも思える。
まるで動揺した様子を見せない女剣士は半エルフには頼もしかったが、反対に盗賊の頭目にとっては気に入らない態度だったようでで、醜く表情を歪めると地面に唾を吐いた。
「息のいい獲物だ。どんな声で鳴くか今から楽しみだぜ」
手長のフィトーは鼻を鳴らして、手下の賊徒共に号令を下した。


「三人までなら切り抜けられるといったね」
半エルフが女剣士にだけ聞こえる程度の声で囁いた。
「ふふ……君が四人引き受けてくれるのかな?」
女剣士はからかうようにくつくつ笑った後、極度の緊張に引き締まったエルフ娘の表情を見て眉を顰めた。
「何を考えている?」
「さて、何人ついて来るかな。
 二、三人はひきつけられるといいんだけど」
呟くと、翠髪の娘はかもしかの如く駆け出した。


引き絞られた弓から放たれた矢のように飛び出した半エルフは、村の方でもなく、宿屋の方でもなく、盗賊の囲みを抜けるようにして、真横にある小高い丘陵の連なる草原を突っ切ってひたすらに全速力で駆けていく。

「逃がすな!」
頭目の大音声の号令に、足に自信が在るだろう。
真っ先にアイパッチが走り出した。賊徒が数人。釣られたように追いかけ始める。


目の前を数人の賊徒が走り抜けても動かず、じっとしていた女剣士が最後尾。動きの鈍い胡麻塩頭の老人に踊りかかったのはその時だった。
盗賊たちには、かつて餌食にした女たちと同じく、ただ脅えて竦んでいるようにも見えて油断していたかもしれない。
雷光のような突きをお見舞いする。
胸を刺された老人が、ぎゃっと怪鳥の如き叫びを上げ、きりきりと舞った末に地面へと倒れこむと、残った賊徒共の顔色が一斉に変わった。
「まず一人」
涼しげな表情で、女剣士は黄玉の瞳を細めて呟いた。
「このアマぁ」
喚きながら盗賊が跳びかかろうとするが、女剣士は囲まれぬよう、牽制の横薙ぎを放ちつつ軽やかにバックステップを踏んで、賊徒の間合いから距離を取っていた。
「さあ!掛ってくるがいい、悪漢共!」

フィトーからすれば馬鹿馬鹿しい限りだったが、大勢に囲まれても恐れを見せない勇ましい女剣士を前に手下の何人かは動揺したようだ。
舌打ちしながら細かく采配を下す。
「追え!ジャール!エルフが欲しいんだろうが!逃がすな!」
「……お、おう!」
一端、立ち止まっていたアイパッチと目付きの悪い小男が、エルフ娘を追いかけて駆け出した。

「こんないい女が相手をしようというのに、目移りとはつれないな」
獲物の分際で舐めた言い分に、賊徒の頭目はすうっと灰色の目を細めて手下に告げた。
「殺すな。……少々痛めつけても構わんが生け捕りにしろ」

乞食の一人と赤毛女が険悪な表情で女剣士を睨みつけながら挟み撃ちにしようと地面を蹴るが、女剣士は素早く足を動かして挟撃を許さない。
不用意に距離をつめれば鋭い一太刀をお見舞いして、数の不利をものともしない戦いぶりを発揮していた。

「じ、爺さん!」
乞食のもう一人は、慌てて老人に駆け寄って抱き起こすが既に事切れていた。
「……し、死んでる」
仲が良かったのだろうか。泣きそうになりながら表情を歪めて悲嘆に暮れた。
「畜生、なんてアマだ!」
他人に対しては残忍無惨な振舞いを平気で行う凶悪な賊が、身内の死に怒りを覚える身勝手さに、女剣士はくすりと笑った。

老人を抱きかかえていた乞食が、怒りの叫び声を上げて杖を振り回し、突っ込んできた
横薙ぎに加えた一撃で振り下ろされた棍棒を反らすと、乞食は大きく体勢を崩したが、もう一人が背中に回り込もうとしているのを見て取った女剣士は追撃しない。
斜め横に飛び込んで、回り込もうとした乞食に鋭い一撃をお見舞いする。
慌てて棍棒を掲げた乞食に、牽制の一撃は木片を撒き散らしつつも防がれたが、相手が慌てて跳び退った為に、再び形成しかけた包囲陣の一角を崩してしまう。

「……は!」
再び叫びながら突進してくる怒り狂った乞食へ牽制の突きを放ちつつ距離を取った。
別の乞食が棍棒を振りおろしてきた、だが、剣の間合いのほうが長く、早い。
余裕を持って躱しつつ、すれ違い様に腕を深々と切り裂いてやった。
悲鳴を上げて仰け反ったのを、しかし追撃する余裕はなかった。
短剣を両手に持った女が素早い動きで飛び掛ってくる。
上手く受け、返しに喉を切り裂こうと突きを放つが躱された。
首の皮一枚で逃げられて、舌打ちする。
賊にしておくには惜しいほどに俊敏な動きだった。
それとも日々の修練が足りなかったかな。

足元にも注意を払いつつ、包囲を受けないよう常に機敏に駆け続けながら小さく呟いた。
「さて、彼女が捕まるまでに何人減らせるか」



目前の賊に勢いよく切り込みながら、横目で一瞬だけ頭目の位置を確認する。
手長のフィトーは猿山のボスよろしく、後方で偉そうにふんぞり返っていた。
賊はギリギリで剣を受けたものの、獲物の樫の杖はボロボロで今にも折れそうだった。
軽やかな動きで横合いから振るわれた短剣を躱すと、再び攻勢に廻って剣を振るう。
よろしい。あの長い棍棒はどうも厄介そうだからな。
残りの女と痩せ犬二匹は勝手に動いて、てんで連携がなっていない。
もし、連中が呼吸を合わせて攻めかかって来れば、さしもの女剣士も無傷ではすまなかっただろう。
それが現実には未だに手傷ひとつ負わずに、どちらかと言えば三人相手に押してさえいる。
にも拘らず、賊の頭目は御山の大将でも気取っているのか、参戦してこない。
口元に冷ややかな笑みを浮かべて、女剣士は賊の手下共を翻弄していく。

今日此処で死ぬとしても、それもそれで悪くない。どのみち、人は何時かは死ぬ。
精々、出来る限り多くの賊徒を道連れにして、華々しく散ってやろう。
達観しているのか、自棄になったのか。
楽しげな笑みを浮かべて、女剣士は一心に体を動かし、剣を振るう。
命のやり取りは楽しい。
自分を殺そうとやっきになって喚き声を上げている賊徒の群れに対し、愛しさに近い感情さえ抱きながら、黒髪の剣士はくつくつと笑った。


短剣の一撃を躱され、それどころか首を跳ね飛ばされかけた。
紙一重で躱したが、大量の嫌な冷や汗が赤毛のミューの背中を濡らしていた。
「……どうも嫌な感じがするよ。こいつは」
目の前の女は何時もの獲物と違うような気がする。
既にゴル爺さんが殺され、ベッラは腕に手傷を負っている。
若く俊敏で、しかも技に長けた剣士なのは間違いない。
不利な戦いを楽しんでさえいるように見えた。
相手が手練である事は確かなのに、フィトーは偉そうにふんぞり返っている。
女だと思って、舐めてやがるのかい。
苛立たしげに視線を送るが、乱暴な頭目に何か言い出す勇気はなかった。
一党に加わってから、フィトーが頭に血が昇ると何をするか分からない所をさんざ見てきたからだ。

フィトーの機嫌を損ねるのは不味い。頭は悪くないが短気で暴君だ。
こっちは三人だ。こいつだって何時までも動き回れる訳じゃない。疲れてくる筈だ。
ジャール達だって、エルフ娘をとっ捕まえれば戻ってくるだろう。
だが、それでも一抹の不安は隠せない。
女剣士は動きやすい長靴を履いてるし、こっちはサンダルで雨で出来た泥濘に足を取られる。
どうしても動き回るには不利だし、回り込むには余計に動かないとならない。
おまけに長剣の間合いは長く、しかも女の一撃は重さには欠けるが充分に速くて鋭かった。
急所でも刺されたら、爺さんのようにあっさりとやられかねない。
実際、短時間の鍔迫り合いで幾度もひやりとさせられた。
よく引き締まった体躯は鍛錬の賜物だろう。若いから体力もあるに違いない。

今までの獲物に剣士がいなかった訳でもない。にも拘らず、こんなに苦戦した事はない。
よく考えれば、剣士って言っても強そうな奴は見逃してきて、何時も口だけの弱そうな連中を襲ってきた。
畜生、奪った剣を売り払わずにロレンソやベッラに持たせておけば、こんな梃子摺ることもなかったんだ。

女剣士がベッラの肩に一撃をお見舞いした。血飛沫が舞って乞食が悲鳴を上げる。
好機と見て反対から近寄ったロレンソが鼻に強烈な頭突きを喰らい、絶叫して仰け反った。
「腰抜けどもが、死ぬ気で掛って来い! さもないと地獄行きだぞ!」
女剣士の挑発に苛立ちを覚えながら、赤毛の女賊は舌打ちした。
こいつは強い。下手すりゃ三人掛りでも負ける。早くジャール達が帰ってくればいいのに。



エルフの娘は、枯れ草と青草のまだらに入り混じった草原を必死に駆け続けていた。
足元に蹴飛ばされた季節外れの花が、花弁を撒き散らして散っていく。
意外にもアイパッチは足が速かった。もう一人はそれほどでもないのが救いか。
半エルフは足の速さにそれほどの自信が在る訳でもないが、死力を振り絞っていた。
だが、長身の賊徒は明らかに彼女の上手をいっていた。
獲物を嗅ぎ付けた猟犬のように素早く、泥濘を軽々と越えて、逃げるエルフ娘に迫ってくる。
真っ直ぐに走っては、直ぐに追いつかれてしまうだろう。
まるで逃げる兎と追う猟犬のように、両者はジグザグに走っては、追いかけっこを続けていた。
勢いよく迫ってくる腕。その度に、心臓が破裂しそうに高鳴った。
延ばされる手を必死に掻い潜って逃れ続けるうち、やがてわざとだと気づいた。
アイパッチは狩りを楽しんでいた。
捕まえられそうなところでエルフ娘が辛くも身をかわし続けるたび、追っ手の賊は下卑た笑みを浮かべるのだ。

エルフ娘の体力が尽きるのを待っているのか、必死さを楽しんでいるのか。
いずれにしても悪趣味な奴だった。

片目の賊が獲物を追いかける事、追い詰めることを楽しんでいるのは明白だったから、舌打ちしそうになって、ならばそれでいいと思い直した。
出来る限り長く、逃げ続けよう。


二手に別れるのが、二人が共に生き残る最良にして唯一の選択肢。
あの時はそう思えた。
仮にエルフ娘が女剣士と一緒に賊を相手に戦っても、足手纏いにしかならない。
いてもいなくても同じだ。故に一緒に戦うという選択肢はない。
対して半エルフが逃げ出せば、賊の一人か二人は追って来るに違いない。
黒髪の剣士の自信が本物なら、人数が減った分、戦って生き残る目も増えた筈だ。
一方、半エルフにとっても、女剣士が大半の賊を相手にしてくれるから、後は追ってきた賊から逃げ切れば助かる事が出来る。

だが女剣士から見れば、半エルフが自分だけ置いて逃げたように思えたかもしれない。
好きになりかけていただけに、嫌われたかも知れないのは残念だ。
だが、今は考えても仕方ないことでもある。


間違えたか。
湧きあがる不安を押し殺して半エルフはひたすらに足を動かす。
二人追って来たからと言っても、街道には五人も残っている。
女剣士は、勝てるかどうかは分からないが五人なら何とか凌げると云っていた。
自信も在るようだった。
二人を遠くに引き離しておけば、きっと宿屋までは逃げ切れるだろう。
……本当に?
分からない。
宿屋まで逃げ込めれば、助かるだろうか?
旅籠の客には、傭兵や武装したドウォーフもいた。
賊が旅籠まで乗込むとも思えないが、かといって客が女剣士を守って無法者と戦うか?
それも分からない。
面子にかけて好き勝手させないような気もするし、関り合いにならないような気もする。
賊徒なんかに勝手に振舞わせては、増長して次に自分の財産や女が狙われたら困る筈。
でも、他者の災厄なら笑って見物しそうな気もする。


答えの出ない疑問がただひたすらと頭の中をぐるぐると廻り続ける。
息が苦しい。呼吸が乱れる。目の前が白くなってきた。
緑の草原と赤い丘陵、潅木の風景が、視界の中で悪夢の世界のように歪んで揺れている。
顔に雨が当たり続けて、呼吸が出来ない。息を吸おうと半エルフは大きく喘いだ。

何故、こんな事になったのだろう。
賊が七人というのは多すぎる。
村に網を張って、定期的に獲物を狩っていたのだろう。
旅人が大勢、犠牲になったに違いない。
だけど、それだけの旅人や行商人が姿を消せば、噂くらい流れないか?
いや、旅人が行き倒れるなんてよくある事だ。
私たちは、何も知らずに蜘蛛の巣に飛び込んでしまった蝶なのだ。
打開案を思いつこうと必死に考える。
日が沈むまで捕まらなければ、闇夜に乗じて逃げ切れる筈だ。
落日まで後どの位、掛かる?

初冬の大気の彼方で、西日は既に翳り始めていた。
地平線の彼方の空は茜色と紫の入り混じった美しい黄昏の極彩色が染め上げつつあったが、黄金の太陽は、なお西方山脈の波打つ稜線のかなり上で揺れていた。
夜の帳が空に舞い降りるまでには、まだ幾ばくかの時間が必要に思えた。

丘陵の頂に差し掛かっていた時だ。
走りながら、色々と考えていた責か。エルフ娘は泥濘に足を取られそうになった。
「……ふあ!」
疲労によるものか、気が散ったのか、いずれにしても一瞬、集中力を欠いたのは事実だった。
飛び越えようとして、勢いをつけ過ぎ、足を踏み外した。
そのまま丘陵の傾斜を勢いよくごろごろと転がり落ちていく。
斜面の裾まで転がり落ちると、ふっと躰が浮かんでから地面に強く叩きつけられた。
マントから服まで泥だらけになり、呻きながらも立ち上がろうとしてもがいている。

「……逃げないと」
よろめきながらも躰を起こすと、エルフ娘の腰骨が火傷を負ったように激しく痛んだ。
冷たい雨に濡れた躰に、腰から痺れるような嫌な熱さが広がった。
よりによってベルトに挟んだ自分の棍棒で手酷く打ちつけたらしい。
涙目で立ち上がる。小雨に咥えて、涙が滲んで目の前がよく見えない。
一端止まってしまうと、それだけで躰が休息を取りたがっているのが分かった。
弱い吐き気が胸を圧迫して、大きく息を吸い、必死に乱れた呼吸を整えようとする。

アイパッチの調子っぱずれな笑い声が近づいてきた。
逃げられない。走れない。戦わないと。
雨に濡れた迷子の子猫のように、半エルフは震えている。
棍棒を握ろうとするが、触れた途端に腰に酷い痛みが走って小さく悲鳴を上げた。
膝を折り曲げてしまい、蹲るような体勢になって呻き、喘いでいた。


それでも無理をして引き抜いた途端に、力強い腕で手首を掴まれた。
「さあ、お嬢ちゃん。追いかけっこはおしまいだぜ」
後ろで響いた声の調子で、アイパッチがにやけているのが見ずとも分かった。
「……ひっ!」
腕が廻って、後ろから胸を抱きかかえられる。
それだけで、あっさりと棍棒を取り落としてしまった。

いやだ、奴隷は……
かつて見た奴隷市の競り台に半裸で佇む娘たちの姿が脳裏をよぎって、エルフ娘は顔を青ざめさせた。
神様。森の神様イーシス様。助けてください。これからは真剣にお祈りしますから。
子供の時分以来、何年も真剣に祈ったことのない森の精霊神に祈りを捧げつつ、必死でもがいた。
喘いで、取り落とした棍棒を必死に手を延ばすが、反対側の地面へと体へと投げつけられる。
背中が地面に当たって、息が詰まった。直ぐにアイパッチが真上から伸し掛かってきた。
「……いやだぁ!はなせ、お前なんかに!」
「へっへっへ。大人しくしな。ウサギちゃん」
腕を押さえつけながら、躰を押し付けてくる。
「んんん、いい匂いだねぇ」
風呂にも碌に入ってないのか。押し付けられたアイパッチの垢じみた不潔な顔は饐えた悪臭を放っており、間近で臭気を吸い込んだだけでエルフの娘は胃が痙攣するほどの強烈な吐き気を催した。

アイパッチは膝で蹴ってくるエルフ娘の足の間を割ると、強引に躰を押し入ってくる。
半ば恐慌状態に陥ったエルフ娘は悲痛な叫びを上げながら、力なくもがき、圧し掛かってくる胸を拳で叩いたが、抵抗は残忍な片眼の盗賊の嗜虐心を刺激して喜ばせるだけだった。




[28849] 10羽 手長のフィトー03     2011/08/26
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:516c4752
Date: 2013/06/09 00:38
必死で抵抗する娘の頬を数発、平手で張り飛ばした。
強くはないが熱を持った痛みがジンジンと残る叩き方だ。
暴力に晒される事に馴れてない素朴な村娘などは、こうして叩けば直ぐに大人しくなる。
なお抵抗を止めようとしないので、ついで腹部。容赦なく拳が振り降ろされた。
エルフの娘もついに怯えを顔に浮かべ、涙目になって許しを乞い始めた。
「……うぐ、もう、許して。
 抵抗しないから 殴らないでください」
「ひひひ、分かればいいんだよ」
必要と在れば別だが、女を痛めつける趣味はジャールにはない。
エルフの薄布の上着を左右に引き裂いて、露わになった胸に顔を近づける。
意外にも、抜けるように白い雪のような肌だった。
思わず口笛を吹いた。
個人的には健康的な小麦色の肌の方が好きだったが、此れは此れで悪くない。
双丘に手を這わせ、桜色の乳首を弄ぶ。
最初はすすり泣いていたが、暫らく弄っているうちに肉体が反応し始めると、やがて開き直ったのか。エルフが微笑を向けてきた。
「……ねえ、どうせなら貴方も脱いで」
「何を考えてやがる?逃げられるとでも思ったら、間違いだぜ?」
「そんな……その方がお互いに楽しめるし、気持ちいいでしょう?ね?」
そっと伸ばした手で男の顎に触れ、次いで唇に人指し指を当てて、誘うように流し目をくれる。
「……へっ、へへっ、いい娘だ。気立てのいい娘っこだな。お前は」
エルフ娘がちろりと桃色の舌を出して、唇を舐めてみせた。
顔は煤で汚れているが、よく見れば顔立ち自体は悪くない。整っていると云っていいだろう。
背筋を震わせる程の強い欲望を覚えて、ジャールは息を荒げて衣服を脱ぎ捨てる。
エルフ娘が媚を孕んだ眼差しと優しい声で愛の言葉を囁きながら、そっと手を延ばして盗賊の胸から臍、脇腹と指を逸らせていった。柔らかく優しく腰近くまで愛撫していく。
「たまらねえな。畜生」
久しぶりに極上の感覚にジャールは舌を伸ばして、半エルフの頬を舐めた。
「……あ」
熱に浮かされたような掠れた声で呟くと、微笑を浮かべ、唇を半開きしてエルフ娘は口づけで応じる。
「……優しくしてやるよ」
「うん、優しくして」
エルフは耳元で呟きながら、片目の賊の頭を抱きしめるように両腕を廻してきて……
賊徒の左目に深々と鉄串を突き立てた。



賊徒たちにとっても、長雨に泥濘んだ大地は厄介だった。
長靴を履いた黒髪の剣士は俊敏に動き回っては、のろまな敵手たちに絶え間なく鋭い突きを見舞って素早く転進し、逃げると思いきやまたもや反撃に転じるといった様子で三人の賊を翻弄し続けている。
距離を詰めようと迂闊に近づけば、鋭い刃での一撃をお見舞いされ、廻り込もうとすれば今度は素早く逃げられてしまう。
女剣士が未だ無傷なのに対して賊共はいずれも出血し、或いは強烈な打撲に鼻の骨を折られるなど浅くない手傷を負っていた。
一党のうちで無傷なのは、未だに手出しせず傍観に徹している賊の頭目くらいのものだ。

女剣士は、絶えず賊徒たちに罵声を浴びせ、挑発し、その悪口雑言は、賊徒たちのトロル並の顔の造形のまずさからオークを思わせる体臭の酷さ、ゴブリンの如き血の巡りの悪さに、彼ら失敗作を世に送り出してしまった両親の恋人を選ぶ目の無さを嘆く所にまで及んだ。
遂に我慢しきれなくなった乞食が立ち止まって、苛立たしげに後ろに控えている頭目を睨みつけた。
「おい、手長の!てめぇは先刻から何やってんだよ!」
盗賊『手長』のフィトーは、灰色の瞳でじろりと喚いている乞食を見据えた。
「さっさとこっち来てこの五月蝿い娘を捕まえるのを手伝え!てめぇの抱えてるご大層な棍棒は飾りかよ!」
怒鳴っている乞食は、肩と腕からかなり出血していた。
身振り手振り交えて喚き散らす度、出血している箇所から派手に血飛沫が跳ね散った。
賊徒の頭目は、暴れまわっている女剣士に再び視線を戻した。
「もう少し疲れさせろ。俺の出番はそれからだ」
「……ああ!?」
激昂した乞食のベッラは頭目に詰め寄ろうとしたが
「ベッラ!戻って来い!助けてくれ!」
仲間の応援を呼ぶ声に苛立たしげに舌打ちした。
僅かな時間、険悪な表情でじっとフィトーを眺めていたが、フンと鼻を鳴らして再び女剣士へと立ち向かっていった。


杖で女剣士と戦っていた乞食が絶叫を上げた。
仲間に助けを求めた乞食のロレンソは必死で杖を振り回していたが、彼の得物は黒髪の娘が振るう長剣と打ち合わせるたびに、かなりの木片を撒き散らして削られていく。
ミューが横合いから必死で庇ってくれなければ、既に数回は殺されていただろう。

「……い、いい加減、観念しろってんだ!こっちは四人だぞ!降参しねえと後が酷いぜ!」
破れかぶれに吐いた脅し文句に、女剣士がぴたりと動きを止めた。
深い水溜りを前に、ちらりと地面を見つめてから面倒くさそうに前髪をかきあげた。
「ほ?……い、いい娘だ。そうやっておとなしくしてりゃあ……」
「ほら、おいで子豚ちゃん。首を刎ねてあげるから。
 その時は、いい声で啼いておくれよ?」
正面の敵を見つめると、女剣士は冷笑を浮かべながら、からかうように手招きをする。
「こっ、この糞アマが!」
鼻の骨をへし折られ、さらには露骨に馬鹿にした物言いに、いい加減に頭に血も昇ってきていたのだろう。
ロレンソは顔を真っ赤にして、喚き散らしながら殺気立った様子で黒髪の剣士に跳び掛かった。
「馬鹿!」
叫んだミューが制止しようとするのも間に合わず、水溜りに足を踏み入れたロレンソは、次の瞬間、派手にすっ転んだ。
踵が地面に沈み込んだ。そう思ったら転倒していた乞食の足が無様に空を掻いた。

待ち構えていた好機を見逃すはずもない。
間髪おかず、女剣士は渾身の力を込めて横薙ぎの一撃を放った。
泥濘に足を滑らせて転倒した所に、脹脛に強烈な一撃を喰らって乞食は絶叫した。
強烈な刃の一撃は、筋肉と脂肪を完全に切り裂いて、白い骨まで到達していた。


深々と切り裂いた手応えを味わいながら、女剣士は素早く距離を取った。
計略が上手くいったとほくそ笑む。
呪詛の言葉を喚いているが、乞食はもうお終いだった。
大量に出血しているし、足を殺して無力化した。
ようやく二人。
声に出さずに唇だけを動かして呟いた。
休みなく動き回っている為に、額には仄かに汗が浮かんではいたが、体力には余裕が在った。
呼吸も整っており、集中力も衰えていない。まだまだ戦える。
呼気は熱く、初冬の冷たい大気に触れて湯気のように白く立ち昇っては溶けていく。
頭目が参戦するか、エルフを追いかけていった二人が戻ってくる前にあと一人は仕留めておきたいな。
エルフ娘の事はあえて頭の外に置いている。心配しても無駄だからだ。
棍棒を振りかざしたもう一人の乞食が突進してきた。
振り下ろされる棍棒を鮮やかに躱すと、すれ違い様に脇腹を切り裂いた。


苦痛に顔を歪めながら、ベッラは躰を後退させた。
じりじりと遠ざかり、安全な距離を稼いでから指先で脇腹に触れてみる。
厚手の生地が完全に切り裂かれているが、その分、斬撃を受け止めてくれたのだろう。
傷は浅く、内臓までは達してない。
ホッと息を吐くと、次は段々と痛みが激しくなってきている左肩を調べる。
此方は深手で、ぬるりとした感触に眉を顰めた。
始めは痺れるようだった痛みが、時間が経つにつれて段々と激しさを増してきている。
乞食は棍棒を投げ捨てると、肩口を押さえたまま曇天を仰いで呟いた。
「……止めだ。付き合いきれねえ」

踵を返した乞食を、長大な棍棒を担いだ頭目が睥睨した。
「何処へ行こうってんだ?ベッラ」
「塒へ帰るのさ。フィトー」
投げやりな態度で答えると、棘を含んだ嘲りの言葉を掛けられる。
「仲間を置いて逃げようってのか?」
ベッラは怒りを爆発させた。
「ふざけんな。俺は手前の手下じゃねえぞ!
 儲け話だって言うから付いてきただけさ。てめえの命令を聞く義理なんざねえ。
 俺は降りるぞ!!見てないで手前が戦えよ!」

「……フィトー。こいつは強いよ」
取り成すように赤毛の女賊が頭目に話しかけるが、フィトーは険しい目付きで乞食を睨みつけたまま、強圧的に言い放った。
「俺に殺されるか、そいつを殺して生き残るか。好きな方を選べ」

「手前で戦え。付き合いきれねえ。俺は帰るぜ。ロレンソだって速く手当てしてやらなくちゃならねえ」
唾を吐き捨てると、ベッラは友達に肩を貸そうと踵を返した。
「後一つ言っとくがな……てめぇの冗談はすげえつまんねえからよ。余り勘違いすんな?」
無言で後頭部へ叩き付けられた巨大な棍棒は、一撃で哀れな盗賊の頭蓋を粉砕した。
ベッラの頭部はグズグズになるまで煮たシチューの具のようにひしゃげて、躰が力を失って雨に濡れた地面へと倒れこんだ。

仲間割れに馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、女剣士は頭目へと向き直った。

「フィ、フィトー。あんたは……」
「下がってろ。役立たず」
赤毛の女賊には一瞥もくれず、長大な棍棒を手に前に進み出た頭目は、冷たい灰色の瞳で女のしなやかな肢体を値踏みしつつ、その呼吸が乱れているのを見抜いた。
女剣士は一見、まるで疲れていないように装いながらも、今も静かに呼吸を整えていた。
強かな奴だと口角を吊り上げる。
三人を相手して休みなく動き回っていたのだ。かなり疲れていると確信する。


「顔色一つ変えねえか?大した女だ。
 腕が立つし、度胸もある。気に入ったぜ」
いきなり何を言い出すのかと、疑わしそうに目を細めている二人の女の前で、フィトーは歯を剥き出しにした獰猛な笑みを浮かべた。
「俺の女になれ。たっぷりと楽しませてやるぜ」
「……フィトー」
赤毛の女賊は目をみはった。愕然とした表情で情人なのだろう、頭目の名を呟いた。

濡れた前髪をかき上げつつ、女剣士が艶やかな微笑を浮かべた。
フィトーがにやりと笑い返すと、女剣士は黄玉の瞳を頭目に向けて笑顔のままで
「牝オークとでも番ってるがいい。それが貴様には分相応というものだ」

つまらなそうにフィトーは、鼻を鳴らした。
「……馬鹿な女だ」
地面を見つめ、それからいきなり咆哮を上げて雄牛のように突進する。
勢いよく振り降ろされた棍棒は、当たれば確かに致死の威力を秘めていた。
紙一重で避けると、女剣士はここぞとばかりに電光如き一太刀を見舞った。
「ぬう!」
互いにすれ違ってから振り返った。今の一瞬で女剣士の全身からぶわっと汗が噴き出ていた。
対して濁った灰色の瞳の大男は、ふてぶてしい表情を崩さない。

「……躱したか。やるじゃねえか?」
「随分、余裕だな。痛くないのか?」
「……あ?」
鈍い痛みを感じたので右手を見ると、指の幾つかが切断されていた。
ちぎれた肉と軟骨が冷たい外気へ触れている。
傷を視覚で認識した瞬間、指先に感じる締め付けるような激痛に頭目の顔が醜く歪んだ。
「あーーーーーーーーーーーーー!!」
憤怒によるものか、驚愕によるものか。
指先から鮮紅の血潮を噴水のように噴き出しながら、眼球が飛び出すのではないかという位に目を剥いて半狂乱になって絶叫する。
黒髪の娘は、実に心地良さそうな表情を浮かべて、敵の苦悶の叫びに耳を傾けている。
「殺す。殺してやるぞ!きさ……あふん」
何事か喚いている最中に、一気に間合いを詰めると横薙ぎの一撃で大男の喉を切り裂いた。
フィトーの半ば切断された首が皮だけを残してぶらんと背中の方にたれ下がった。
街道に巣食って大勢の旅人を餌食にしてきた手長のフィトーの、それがあっけない最後だった。
「此れで三人」

「……フィトー?」
「……在り得ねぇ」
残された二人の賊が、呆然と呟いた。

いち早く正気を取り戻したのは、足を負傷した乞食の方だった。
後退りながら、必死に命乞いをしようとする。
「ま、待ってくれ!お嬢さん!俺たちゃ……」
「待たない」
地面に蹲っていたロレンソは、強烈な蹴りを顎に喰らって、仰け反った所を心臓を貫かれた。桃色の泡を傷から吹き出しながら、血液と共に生命力が乞食の体から抜けていった。
女剣士は死体にブーツを当て、胸を蹴り押して深く突き刺さった剣を引き抜く。
「此れで四人。後は、お前だけ」
返り血を浴びながら、黒髪の剣士は愉しそうに口の端を吊り上げて女賊を見つめた。
強い精気に満ちた黄玉の瞳が炯炯とした光を宿してミューを貫き、彼女の心臓を恐怖に締め付けた。

「……畜生。お前はなんなんだよ?こっちは五人いたんだぞ?」
赤毛の女賊は、顔面を蒼白にして、身震いしながら悲鳴のような声を上げた。

女剣士が愉しそうにくつくつと笑う。
「断罪者さ。お前らを裁く為に復讐の女神に遣わされたのだよ」
「ふざけやがって。このあばずれがァ!」
ヒステリックな金切り声で狂乱の態を見せる女賊に、
「清純な乙女に対して無礼な奴だ。その言葉は万死に値するぞ?」
貴族の娘は憮然とした表情で切り返しながら、剣を構えた。


眼帯の賊は絶叫を上げつつ、仰け反った。
手近な石ころを掴むと、エルフ娘は悲鳴を上げてる盗賊の鼻面に思い切り叩き付けた。
情けない悲鳴をあげ、目に鉄串を突き刺したままに地面を転がって喚いている。
翠髪の娘はよろよろと立ち上がりながら、あの鉄串はもう使う気になれないな。などと考えていた。
気持ち悪そうに唾を地面に吐き出してから周囲を見回し、もう一人の盗賊が近づいてくるのに気づくと、止めを刺すよりも此処は少しでも距離を稼ごうと考えて、急いで逃げ出した。

「ジャールの兄貴!大丈夫ですかい!」
「あの長耳野郎を捕まえて此処へ連れて来い!ぶっ殺してやる」
いかにも心配そうな声を掛ける舎弟に、ようやく鉄串を引き抜いた盲目の賊が怒鳴りつけた。
「……ああ。此れは此れは」
ジャールの負傷の程度を見て取った舎弟の声が、微妙に変化する。
「韋駄天ジャールともあろう者が、女に目潰し喰らうとはねぇ。情けないねえ」
「なに!てめぇ、ダーグ!誰に向かって口聞いてやがる」
明後日の方向へ吼え猛る盲目の男を侮蔑の眼差しで嘲笑う。
「凄んだって無駄だよ、兄貴。いやジャール。
 両目の見えなくなったあんたがこの先、どうやって生きていこうってんだ?」
裏社会の住人には仲間意識などない。少なくとも小男は芯まで性根の腐った人種だった。
周囲を手探りしながら地べたを這いずり回っている先刻までの兄貴分を露骨に見下した目つきで眺めながら、小男は表情を醜く歪めて嘲笑を浴びせかけた。
「まあ、あの女は俺がとっ捕まえて、たっぷり可愛がってやるぜ。
 あんたは其処で指を咥えて待ってるんだな。ジャール」
甲高い哄笑を上げながら小男は泥濘に足跡の続く丘陵の頂きを見上げた。

西方山脈の稜線の上、太陽の周囲に紫色の宵闇が広がりつつあったけれども、
夜のベールが世界を覆い尽くすまでには、今少しの時間が必要だろう。

必死に傾斜をよじ登っていく半裸のエルフ娘の背中を見つけると、ダーグは舌なめずりしながら猛然と追いかけ始めた。



[28849] 11羽 手長のフィトー04     2011/08/30
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:187efca1
Date: 2013/06/09 00:38
ヒースやコケモモが疎らに生い茂っている丘陵の起伏を、上着を破かれて上半身剥き出しになったエルフの娘が、荒い呼吸を繰り返しながら無我夢中に昇っていく。
棍棒に激しく打ちつけた腰骨が、体の何処かしらを動かすたびに酷く痛んだ。
打撲を庇いつつの歩調はどうしても遅くなりがちで、此れでは走って逃げ切るのは到底無理なようにも思える。
時折、ふらついては蹴躓き、足を滑らせては滑り落ちながらも、どうにか丘陵の頂にまで登りつめると、翠髪の娘は苦しげに喘ぎつつ夕闇の迫った四方の景色を見渡した。
隠れるのに良さそうな場所はないかと忙しく首を動かして探すものの、皮肉にも日没直前の今になって空を覆い尽くしていた灰色の雨雲が急速に散りつつあった。
その癖、剥き出しの白い乳房を濡らす小雨は、降り止む気配を一向に見せない。
初冬の冷たい雨滴が形のいい双丘の間を流れ落ちて、容赦なく半エルフの体温を奪っていった。
少しでも体温の低下を防ごうと擦り切れそうに薄いマントを体に巻きつけるが、如何ほどの効果を期待出来るだろうか。
風が殆ど吹かず、雨の勢いも弱まってきているのだけが救いだった。
「縒りにも拠って……忌々しい」
呟きながら、鵜の目鷹の目で周囲を見回しつつ、今度は慎重に丘陵の傾斜を降りていく。
周囲の潅木や岩、窪みなども奇妙に明るい夕陽の茜色に照らされ、人一人隠れるのさえ難しく思えた。
呼吸をする度に鈍い痛みを訴えてくる腰を擦りつつ地衣類を踏みしめて探し歩くと、ようやくにねじくれた柳の近くに、手頃な岩と大きめの草叢が幾つか連なっている都合のよさそうな箇所を見つけた。

幸いにして、翠髪の娘は半エルフ族としてはそれほど背の高い方ではない。
小柄な体は隠れるには有利に働くものだ。
岩も彼女が身を隠すに丁度よい大きさであり、また幾つかの草叢のいずれも充分に半妖精族の小柄な体躯を覆い隠してくれそうだった。
此処に隠れよう。そう思いついて、思わず顔を綻ばせながら駆け寄るが直ぐに思い直す。
盗賊だって馬鹿ではないだろう。私の隠れていそうな場所を探してまわるに違いなく、そうなれば此の場所も直ぐに見つかってしまう。
だが、他に良さそうな場所を探すだけの時間の猶予も、体力の余裕も、最早エルフ娘には残されてなさそうだった。
尖った耳の持つ優れた聴力が、後ろから着実に迫り来る盗賊の卑しげな笑い声を確かに聞き取っていた。
此処は一か八か。賭けに出るしかないようだと思い定めて、痛みを堪えながらエルフ娘はゆっくり岩へと歩み寄っていった。


「お嬢さん、何処へ行ったのかな?
 へっへっへっ、俺様からは逃げられないぜ」
小男は脅かすような言葉を周囲に大声で告げながら、エルフ娘が隠れているとおぼしき場所へと少しずつ近寄ってきた。
「なにしろ、このダーグ様は鼻が聞くんだ。特に女の匂いを嗅ぎ分けるのさ。
 くんくん。すぅーすぅーってな。今もお嬢さんのいい臭いがしてくるぜ」
黒髪の女剣士であれば我慢できずに吹き出してしまったに違いない小男の滑稽な脅し文句は、
しかし、非力なエルフ娘にとっては心底恐ろしい言葉だった。
寒さに耐えようと思ったのか。恐怖に持ち堪えようとしたのか。
隠れた場所で己を抱きしめるように腕を交差させると、半エルフは目を瞑ってキュッと身を縮こませた。

「くっくっくっ、近くにいるのが分かるぜ」
人が隠れる事の出来そうな大きな潅木へと忍び足で小男は近づいていく。
足音を忍ばせても声を出していては全く無意味なのだが、何故か気づいていないようだ。
「其処だ!」
さっと飛び出して潅木の後ろへと回り込むが、其処には誰もいない。
舌打ちすると誰に云うでなく失敗を取り繕う。
「へっへっへっ、お嬢さん。安心したかい。
 だが、残念ながらダーグ様は安心させて、じわじわと追い詰めるのがお好みなのさ」


半妖精の小振りな胸は、不安と恐怖に張り裂けそうに高鳴っていた。
賊の場所を探ろうとして澄ませている尖った耳が時折、無意識のうちに痙攣していた。
近づいてくる足音を耳に捉えて、棍棒を強く握り締めながらエルフ娘は強く歯を噛み締めた。
使い慣れた樫製の棍棒は、眼帯の盗賊の所へと置き忘れてきてしまった。
今、手にしているのは近くで枝を折って作った即席の棍棒で、どうも棍棒としては軽すぎるような気がしないでもない。
人は誰でも手持ちの札で最良を尽くすしかないのだ。
そう自分に言い聞かせながら、不安を押し殺していた。
隠れるより、距離を稼いだ方が良かっただろうか?
盗賊は思ったより、のろのろと近づいてくる。
普通に走ってれば、日没まで逃げ切れたかも知れない。

そこで過ぎた事を考えているのに気づいて、フッと笑って首を振った。
私の悪い癖だ。考えすぎる。
後は対決するだけだ。
意識して腹を決めると、対決の瞬間まで無言で耐えることにする。
片目の賊や筋骨隆々の頭目には、殺伐とした雰囲気が漂っていた。
此方を竦ませるような、逃げ切れないと思わせるような、そんな執念深げな恐ろしい迫力が、しかし小男には感じられなかった。
あいつになら、勝てる。そう自分に言い聞かせながら、
あの娘は、無事だろうか。
最後に想いを馳せたのは、街道に残って戦っているだろう黒髪の剣士の事だった。


エルフ娘は岩陰で蹲っているのだろうが、残念ながらマントの端が僅かに見えていた。
獲物の隠れているだろう場所を見つけて、小男はにやりとほくそ笑んだ。
「さて、何処かな。お嬢さん。へっへっへ。脅えているね?
 俺の鼻は、恐怖の臭いを嗅ぎつけるのさ。へっへっへ。恐怖の帝王なのさ。
 俺が恐怖を支配するんだ」
支離滅裂な下らないお喋りをぺちゃくちゃと口から垂れ流しながら近寄ってくる。
奇妙な話だが賊のお喋りの声が迫ってくるにつれて、エルフ娘は随分と頭が冷静になり、また気持ちが落ち着きを取り戻した。
追跡される場合は、追っ手が無言の場合の方がよっぽど恐い。
相手の意図を察することが出来ず、敵に対する恐怖に未知への畏れが加わるからだ。

「へへ、お嬢さん。かくれんぼはそろそろお終いだぜ。今度は別のお楽しみさ」
鼻息を荒げながら、エルフ娘が隠れている岩へと足早へ近寄っていく。
もう少しで、女を捕まえてやる。そうしたらお楽しみだ。ジャールの野郎の前で抱いてやろう。あいつはさぞ悔しがるだろう。
「それで隠れてる心算かい?……其処だ!」
舌なめずりしつつ、ダーグは岩肌から端っこだけ出ていたマントを掴むと、思い切り引っ張った。
岩に結ばれたマントはびくともしなかった。
「……へ?」

惚けたような間抜け面で立ち尽くす小男の背後。繁みのある窪地から泥中に隠れていたエルフ娘が、棍棒を手に無言のままに飛び出した。
上半身剥き出しで髪の毛から顔、胸、背中に至るまで泥まみれの半エルフは、突進した勢いをそのままに乗せた横殴りの一撃を小男の即頭部へと叩き込んだ。

非力にして急所も知らず、技も持たず体格も華奢なエルフ娘の一撃など、少しでも修羅場を潜るか、幾らかでも強靭な相手には通じなかっただろう。
少しでも戦い慣れた相手なら遮二無二に距離を取って改めて反撃を試みたに違いないし、屈強な相手なら殆ど痛痒を覚えないか、苦痛など無視してすぐさま飛び掛ってきただろう。
幸いにして、小男はそのどちらでもなかった。

小男の瞼の裏に火花が散った。
目が眩むような打撃に悲鳴を上げて、よろめき後退する小男を容赦なく追撃した。
ダーグも棍棒を振り回して必死に抵抗するが、首筋に再び強烈な一撃を喰らい、怪鳥の如き悲鳴を上げて仰け反った。
いまや狩る者と狩られる者の立場が完全に逆転した事を悟って、此処が先途とエルフ娘は死力を振り絞った。
小男も必死に獲物を捕まえようともがくが、エルフの振り下ろした棍棒のうちの一発がその手首を捉えると、枯れ枝をへし折るような音を立てて変な方向に曲がってしまった。
「ぎゃああ!折れた!俺の手首が折れた!止めてくれ!もう戦えないよ!」
ダーグは、今の今まで何をしようとしていたのかを忘れたように悲鳴を上げて逃げ始めた。

「ぎゃっ!」
背中を丸めて逃げ回る小男を、エルフ娘は必死で兎に角、滅多打ちに打った。
「やめっ!いでっ!たっ、助けてくれ!お願いだ!」
泥濘を転がり、這いずって遠ざかろうとし、それが叶わないと見るや、ついに命乞いを訴え始める。
地べたに膝をついて、ひいひい喚きながら、
「助けてくれ。俺は 助けて 
 参ったよ。降参だ。助けてくれ。命だけは。おいらが悪かったから」
エルフ娘はさらに数発殴りつけた。
手首や腕、顔が赤く腫れ上がって、小男は遂に啜り泣き始める。
どうやら本当に抵抗する力はなくなったようだ。
殴打が止まった。息を乱しながら、見下ろしている。
それでもエルフは油断せずに棍棒を構えていた。

「ひっ、命は、命だけは ほら、折れてんだよ?俺。もう戦えない。ね?」
何がおかしいのか、小男はへらへらと笑顔を浮かべて命乞いをしてきた。
或いは、此れで媚びてる心算なのだろうか。
エルフは顔に棍棒を叩きつける。
「ひい!」
悲鳴を上げて哀れっぽく啜り泣きを続けている賊を前に、翠髪の娘の荒々しい気持ちは薄れていた。
逃がしたらどうなるだろうか。
一度逃げて仲間を連れて戻ってくるとしても、その頃には自分は此の場所を離れている。
そして闇夜の下では、少人数の人間は逃げる半エルフを補足するのは難しい。
盗賊は媚びた醜悪な笑顔を浮かべ、ずるそうな眼で翠髪の娘の顔を窺っていた。
剣士はどうなっただろう。ぼんやりと考えながら、急に何もかもが面倒になった。
「行けっ!行ってしまえ!」
小男が飛び跳ねるように立ち上がると、何処にそんな元気があったのか、
飛ぶように走り出した。
「ひひひっ」
媚びたような脅えたような表情を浮かべ、小男が駆け去っていく。
酷く疲れた表情で棍棒を投げ捨て、半エルフは虚ろに視線を彷徨わせた。


まだそれほど遠くに行ってなかった小男が突然、叫んだ。
「おーい!ミューの姉貴!おいらだ!ダーグだ!」
近づいてくる人影を睨みつけ、其処に仲間の姿をを見つけた賊徒は、先ほどまでの屈辱を晴らしてもらおうと勢いよく大地を駆ける。
「ひっひひっ、お前はもうおしまいだぜ。ミューの姉貴はな。短剣使いよ。
 この前も生意気なドウォーフの戦士を決闘で仕留めた、凄腕なのよ」
半エルフを振り返って脅し文句を連ねると、エルフ娘は目を閉じて数瞬、苦い表情をした。
それから小男の走り去る方角をじっと見つめていたが、やがて一旦は投げ捨てた棍棒を拾うと据わった目付きでゆっくりと歩き始めた。


「嬲ってやる!嬲ってやるぜ!このダーグ様に楯突いたことを死ぬまで後悔させてやる!
 たっぷりと犯して、殺してくださいって懇願するまで痛めつけてやらぁ!
 この腕のお礼を……姉貴?ミューの姉貴?」
「……ジャールは?」
赤毛の女賊は尋常の様子ではなかった。血の気の失せた顔色に切羽詰った表情。
服はズタズタに切り裂かれ、全身あらゆる所が刺し傷や切り傷で肉が切り裂かれていた。
始めは夕陽の照り返しかと思ったほどに、全身が出血で赤く濡れている。
掠れた声で搾り出すようにようように眼帯の賊の行方を尋ねてくる。
「へ?ジャールのや……兄貴なら、あの娘に目を潰されて。
 そ、それよりも、その有様はどうしたんで?」
ミューの顔が強烈な絶望の翳りに覆われた。
顔が急激に蒼白になった。紫色の唇を動かして何か云おうとするが、声が出ない。
此処まで持たせてきた気力の糸が切れたのか。目から急速に光が消え失せていく。
聞く者の背筋を凍りつかせるような呻き声を喉から洩らすと、赤毛の女賊はそのまま大地へ崩れ落ちて、再び立ち上がることはなかった。

呆然と立ち尽くしている小男の耳に、楽しげに奏でているハミングの音色が聞こえてきた。
見上げると、仲間に包囲されていた筈の黒髪の女剣士が地面をしっかりと踏みしめながら、近寄ってくる姿が目に入る。
「……おめえ、何で此処に?」
湧き上がってきた恐怖に背筋を震わせて呆然と尋ねる小男に、女剣士が肩を竦めて答えた。
「足跡を追って。濡れた土だから助かった」
当たり前だろうと言いたげな呟きに、小男は全身を瘧のように震わせながら叫んだ。
「そんなことを聞いてるんじゃねええ!」
質問の意味をわざと誤解して応えた女剣士は、くつくつと笑いながら思い出したついでのように賊に仲間の末路を教えてやった。
「ああ、お前の仲間なら皆死んだぞ」
「死んだ?みんな?」
ヴェルニア語で話された単語が理解できないとでも言いたげに鸚鵡返しに呟く小男を、女剣士は鋭い視線で射抜いた。
「私が殺した。バラバラに切り刻んでやった。手応えの無い者共であったよ。
 あれならゴブリンの雑兵の方が幾らかマシというものだ」
無言で口をパクパクと動かしていた小男の顔芸は、顔色を真っ赤にしたり、真っ青になったりして中々の見物だった。
「……で、私の連れは何処だ?何があった?」
虫でも見るかのような冷たい瞳を向けて尋ねるが、賊は訳の分からない事を喚き続けている。
黒髪の女剣士は五月蝿そうに眉を顰めると、いきなり賊の太股を突き刺した。
「きゃ!」
さらに剣を振るう。小男の右耳が飛んだ。
「びあ!」
痛みに身を捩りながら、再び跪いて賊は無意味な命乞いをし始める。
「次は鼻を飛ばす。その次は目だ。さっさと質問に答えろ」

「あの女は無事だ……です。ジャールの兄貴もあいつにやられて。
 今頃は遠くへ行っちまったと」
「ふむ……お前たち二人を倒してか?」
「へっ、へえ」
何かに興醒めしたのか。黒髪の娘は奇妙に醒めた眼差しで丘陵の彼方を見つめていた。
散々に叩きのめされような小男の有様を見るに、どうやら事実を話しているのだろう。
「荒事は苦手……か。囮にされたのかな」
なぞるように呟いて、詰まらなそうに黄玉の瞳を細めた。
「……その……もう行っていいですかい?」
恐る恐る尋ねてみる。

背中に目をやる。一瞬だけ切れ長の瞳を軽く瞠ると、直ぐに小男に視線を戻した。
「ん?……ああ。私はお前の命などに興味はない。
 が、彼女は如何かな?」

背後に急速に足音が近づいてきた。直ぐに止まる。
小男の背筋を冷たい汗が流れた。
翠髪の娘は、氷のように冷たい蒼い瞳で賊を眺めると、おもむろに棍棒を振り下ろした。



滅多打ちにされて頭蓋を割られた小男が、地面で痙攣しながら大小便を垂れ流していた。
半エルフは、しばし荒い呼吸で肩で息をしていたが、
脳漿と血液と排泄物の濃密な臭気に、突然、こみ上げてきたのか。
中ほどから折れた棍棒を投げ捨てて、胃の内容物を吐き出した。
先ほど食べた黒パンと兎肉の吐瀉物を情けない思いで見つめ、涙を流しながら胃が空っぽになるまで蹲り、最後には四つんばいで吐き続けた。

身を守る為に戦った事は幾度かあって、相手が結果的に『死んだ』事もあったけれども、
明確な殺意を持って『殺した』のはエルフ娘にとって此れが初めてだった。
女剣士は、まるで死体が見慣れたものであるかのように濃密な臭気の中でも平然としていた。
口の端を吊り上げた冷笑から、一転、優しげな微笑に切り替えると
「よく頑張ったね」
女剣士はエルフの娘を優しく抱きしめた。

エルフの娘は酷い有様だった。彼方此方すりむいて上半身は完全に裸で泥だらけ。
下半身も股の辺りに襤褸切れを纏っているだけで全裸に近い。乞食よりも酷い格好だった。
髪も泥に汚れて、肌には複数のすり傷や打撲。鼻血も出している。
内容物を全て吐いてからも、胃が痙攣し続けているで苦しげに喘いでいた。
勝ったというより、機知なり機転なりを働かせて辛うじて危地を切り抜けたに違いない。
心身ともに疲れ切った彼女に、毛皮と人肌の温度はとても心地よい。
「……う、ああ」
女剣士の優しい暖かさに包まれて、泣き出しそうになった瞬間にエルフ娘は気づいた。
自分はぼろぼろだが、女剣士の方はまるで無傷だと
のそのそと離れると、なにやら疑わしげな目で人族の娘を見つめた。
「ん……どうした?」
「三人はなんとかなる。五人相手は厳しいと云ってたな」
エルフの視線に黒髪の娘は、何となく居心地悪そうに身動ぎした。
「……そうだったか?」
一瞬前まで自分も半エルフを疑っていただけに、女剣士はやや歯切れが悪くなる。
「……貴方は傷一つ無いように見えるのだけど」
「一つ誤まれば私がやられていても不思議では無かったよ?」
嘘か真か分からぬが、黒髪の娘は優しげな微笑を向けながらしれっとした表情で応えた。




[28849] 12羽 手長のフィトー05     2011/09/06
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:3ac7d629
Date: 2013/06/09 00:40
西方から射す夕刻の陽の光が茫漠とした丘陵地帯を茜色に染めていった。
黒髪の女剣士を会話するうちに、エルフ娘は膝から急激に力が抜けてよろめいた。
「……っと」
大地に膝つきそうになったところを、人族の娘が素早く腕を掴んで躰を支える。
「大丈夫か?」
半妖精の娘は礼の言葉を呟きながら、照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「安心したら気が抜けた」
その表情は今なお幾らか強張っていたものの、蒼白だった顔色に大分血の気も戻ってきていた。

「……にしても、酷い有様だな。
 初めは泥男か、それに類する新手の怪物かと思ったくらいだ」
この軽口はお気に召さなかったようで、半エルフは蒼い瞳を向けて不満そうに眉を顰めた。
手近にあった灰色の岩にゆっくりと腰掛けながら、翠髪の娘は冷たく澄んだ冬の空気を大きく吸い込み、それから胸に篭った澱を全て吐き出すように長い嘆息を洩らした。
「……さんざ追い掛け回された挙句、泥の底に隠れたからね。……地虫のように」
呟いた声には疲れ果ててはいたが、力強い怒りが込められていた。

先刻までは必死で気にも留めなかっていなかったのが、口に出した途端に今更ながら自分の酷い格好に気づいたらしい。
「口の中がじゃりじゃりするにゃ」
エルフ娘が口腔の不快感に傍らに唾を吐き捨てると、小石の混じった茶色い唾液が緑の草を汚した。

腰に手を伸ばして、半妖精の娘は水筒を失ったことに気づいた。
逃げているうちにベルトにしていた腰帯がずり落としたのだ。
腰帯には、お気に入りの水筒だけではなく、小銭の入った巾着袋も結び付けてあった。

薬草や食べ物、その他に針や糸など細々した道具が入った背負い袋だけは掴んでいたが、それだけだ。
命だけは助かったが、衣服もない。財布もない。
焦燥に駆られ、途方に暮れた様子で周囲を見回した。
辺りは夕闇に包まれていた。
半エルフ族の視界でも、夕闇に包まれた丘陵の一帯から財布を探し出すのは困難だろう。
翠髪の娘は急にがっくりきて俯いた。
小さく呻きながら力ない視線を己の足元に彷徨わせる。
もしエルフ娘が一人旅だったら、貧しい者が乏しい財産を無くした時によくそうするように、日が暮れるまで意味なく岩の上に座り込んでいたかもしれない。

黒髪の娘が自分の水袋を差し出してきた。
「まず口を濯げ。飲むのはそれからだ」
「ん……ありがとう」
忠告通りに幾度か口を濯いでは吐き捨ててから、唇を湿らせる程度に喉を潤おした。
「こんな時代だ。女であれば、一度か二度はこんな目にも合うものさ」
「貴女もそうか?」
問い返された人族の娘が一瞬言い淀んだのを見て、翠髪の娘は口元に苦い笑みを浮かべた。
「……羨ましいな。私も己の身を守れる力が欲しいよ」
半妖精の娘の声は穏やかであったにも拘らず、黒髪の剣士はまるで理不尽な批難を浴びたかのように奇妙な怯みを覚えた。
二人とも何とはなしに黙り込む。
エルフ娘が押し黙ったまま迫ってきた冷気に肩を震わせているので、人族の娘は黄麻の上着を脱ぐとその肩に掛けてやった。
「……今日は酷い目に在った」
半妖精の娘は、ぽつんと呟いた。
「野良犬に噛まれたと思って、さっさと忘れてしまうのだな」
「……忘れる事は中々出来そうにないな。いろいろと刺激的な一日だったから」

黒髪の娘は一瞬、言い辛そうに何か躊躇してから再び口を開いた。
「……念の為に洗っておくか?」
「うん?」
「言い難い事だが、孕まずに済むならそれにこした事はないしな」
合点がいった。半裸になった翠髪の娘を見て、賊に強姦されたと思ったらしい。
半エルフは思わず吹き出した。
「え?」
予想外の反応に呆然とする黒髪の娘の前で、エルフ娘は唐突に笑い出した。
始めはクスクスと、やがてややヒステリックに、だが心底可笑しそうにエルフ娘は大きく笑い続けている。
緊張から解き放たれた人間が、時に奇行を行う事をよく知っていたから、黒髪の娘は慌てなかった。
かなりの間笑い転げていたエルフ娘も、やがて大分落ち着いたのか、涙目を拭きながら口を開いた。
「格好が格好だったからね……誤解するのも無理はない。貞操は守れたよ」
無言で見守っていた黒髪の娘が、それを聞いて小さな声で呟いた。
「乱暴されてない?」
「うん」
「ああ……そうか。それはよかった」
「それはよかったか。そうだね、命は助かった」
翠髪の娘は、まだ可笑しそうに肩を震わせていた。それとも寒いのだろうか。
「マントを拾って来ればよかったな。貸してやれたのに」
「此れで充分だよ。有り難く思ってる。……それよりも水浴びしたい」
全身が泥だらけなのが、辛いようだ。

太陽は西方山脈の稜線の僅か上で揺らめいており、黄金の色が地平線に繋がって段々と沈み込んでいく。日没までもう半刻(一時間)もないかも知れない。

エルフ娘の躰の汚れは、小雨を浴びてる程度では取れそうもなかった。
出来るなら川辺の村へ戻り、水浴びでもして泥を洗い流したかった。
「如何する?村へ戻るか?」
言外に自分も付き合うとの女剣士の提案に、半エルフは首を振った。
「今から村まで行って、旅籠に戻る頃には日が暮れているだろうね」
「では、どうせなら村に泊まるか?」
問いかけに少し考えてから、再び、首を横に振った。
村は足止めされた旅人で一杯で、今から行っても泊まれる場所があるか分からない。
旅人のあばら家よりは、宿の方がまだ幾らかは安全に思えると告げた。
「賊の仲間も残っているかも知れないしね」


「では、水浴びは明日の朝にでもするとして、今は取り合えず目立つ泥や汚れだけでも落としておきたまえ」
結局、取れそうなところだけでも泥と汚れを取る事にした。
「手伝おう」
人族の娘の言葉に頷いて、ありがたく受け入れた。
掌で、小雨と水筒の水で肌についた泥や葉、小枝などの汚れを兎に角、洗い流していった。
四本の手と襤褸布と化したエルフの服を引き千切って(こうなってしまえばどの道、服としては御仕舞なので)肩から胸、腹、腰、背中から尻に至るまでしっかりと拭い去っていく。

躰を洗い終わると、まだまだ汚れてはいるが大分さっぱりした様子だった。
吐くだけ吐いて、笑うだけ笑った事もあって随分と気持ちも落ち着いてきたのだろう。
借りた黄麻の上着を肩に羽織ったまま、エルフ娘は岩に腰掛けて身を休めた。
気力も使い果たし、体も酷く疲労しているからか。
絶えず眠気が襲い掛かってくるようで、今も生欠伸を噛み殺して、惚けた表情で夕暮れに瞬く星々を眺めていた。
時折、何するでもなく自分が殺した小男の骸をじっと眺めたり、暫らくすると飽きたように再び夜空に視線を戻してまた星を眺めるのだった。

黒髪の娘は、黙々と剣の手入れをしていた。
鍛鉄の刃にへばり付いた血糊を水筒の水で洗い流し、布で丁寧に水気を拭い去る。
それから剣を残照に翳して、黄玉の瞳を細めて状態をじっくりと見定めた。
賊の首を骨ごと切断した長剣には、しかし刃こぼれ一つ無かった。
満足げに微笑むと長剣を黒檀の鞘へと納め、今度は遠くを眺めている翠髪の娘の様子を気遣わしげに横目で窺いながら、何かを云おうか云うまいか迷っているように視線を彷徨わせている。

「……どうした?」
呆然としていたように見えるエルフ娘も流石に視線に気づいた。
尋ねられて、西の落日に視線を走らせた。
「日没までにまだ幾ばくかの時間がありそうだ。此れから如何するかね?」
「如何とは?やるべき事が終わったなら、早く宿屋に戻ろう。
 今日はもう疲れた。兎に角、早く横になりたいよ」
だるそうに呟いた半エルフの娘に、小首を傾げて尋ねた。
「では、戦利品は如何する?」
「……戦利品?」
「うん、折角の勝利ではないか。どうせ大したものは無かろうが、財布だけでも奪っておこう」
貴族の娘は、銀貨や銅貨に膨らんでいる財布を持ちながら、悪びれた様子もなく略奪を提案してきた。


まず赤毛の女賊の懐に手を突っ込んで財布を奪い、さらに青銅製の腕輪を奪い取る。
地面に落ちていた二本の短剣を拾い上げて、次に小男の死体を改め、首からぶら下げた巾着袋に気づいて紐を引き千切った。
小男の嵌めた銅製の指輪を奪う際には取れないので指を短剣で切り落とし「此れはいい物だ」切れ味に満足そうに呟いている。
まるで死者から戦利品を奪うのを数十回も経験して来たかの様に、黒髪の女剣士は手際よく持ち物を奪っていく。

昔から、貴族は最強の山賊海賊の成れの果てとも云われていた。
周辺の賊徒と喰い合った末に勝ち残った大山賊や大海賊の親玉が、子々孫々栄えて段々と勢力を拡大していくうち、貴族や豪族に成り上がった例もヴェルニアでは珍しくない。
やっている事は賊と同じでありながら、妙に堂々としている女剣士の振る舞いを見ていると、やはり由緒正しいヴェルニア貴族の血筋なのだなと、何となく可笑しく思いながらもエルフ娘は奇妙に感心した。

小男の財布をジャグリングの玉のように軽く宙に放り投げると掌で受け取る。
数回繰り返してから財布をしっかりと掴むと、女剣士は確かめた重みに満足したかのように口の端を吊り上げた。
それから少し考え込むように小首を傾げて二言、三言呟いたが、翠髪の娘には聞き取れなかった。
鋭い視線をエルフ娘に向けて何やら推し量るように見つめてから、大股に歩み寄ってくる。

「……な、なに?」
「ほら、御主の戦利品だ。勝者の正当な権利だぞ?」
云って、小男の財布と銅製の指輪を差し出してきた。
呼び掛けてくる言葉には親しげな響きが含まれていたが、素朴な旅人であるエルフ娘はびっくりして眺めた。
「わ、私はいらないよ?」
遠慮がちに拒否するが、
「どうせ悪事で得たものだ。我らが貰った方が世の為というものさ。
 さあ。遠慮なく受け取っておきたまへ」
ずいっと迫ってきた。
大きな声でも、激しい口調でもなかったが、言葉に秘められた何かがエルフ娘に明確な拒否を躊躇わせる。
恐くはないのに、何かを畏れて目を伏せた。
「でもね。殺した相手の持ち物を奪うというのは……」
「君は命を賭けた闘争に勝利したのだ。
 戦利品は、勝者にとって正当な権利であり報酬でもあるのだよ?」

「それに、もうじき本格的な冬の訪れだ。
 硬貨は腐ることもなければ、減る事もない。
 銅貨があれば、命が繋がるかも知れない……だろう?」
逃げ道を塞いでから、どこかで聞いたようなロジックを展開して黒髪の娘は人懐っこく微笑みかけてきた。
なお迷っていると、腕を掴まれて些か強引に重みのある戦利品が手渡された。
掌で押し付けられた財布がじゃらっと鈍い響きを鳴らした。
「君の財布については、明日にでも明るい時に探しに来ればいい」
片目を瞑って、ウィンクする。

結局は感謝して、貨幣に丸々と膨れた戦利品を受け取る事にする。
かつては小男の物で、今は自身の所有物になった丈夫な革の財布を開いてみる。
数枚の銅貨や真鍮貨の他、鉄銭や錫銭、鉛銭などかなりの小銭で茶色の巾着は一杯だった。
巾着の中身を覗いた半エルフは思わず溜息を洩らした。
そこら辺の町や農園で二ヵ月、三ヶ月畑仕事を手伝ったり、石積み、荷運びの仕事をしたとしても、到底、此れだけの貨幣は得られないだろう。
嬉しいような哀しいような何とも云えない曖昧な心持のまま、革袋へと仕舞い込む。
兎に角、此れで食べていく目星はついたようだった。

大方漁り終わった女剣士が、ふと思い出したようにエルフ娘を振り返った。
「もう一人の賊は?」
半エルフの娘に鉄串を突き刺して目を潰したとは口にし難く、一瞬迷って言い淀む。
「死んだのか?」
重ねて問うてきた。少ししつこかった。
「奇襲されるのも厄介だからな。君は言い難かろうが念の為、知っておきたい」
戦士の思考とでも云うべきだろうか。
女剣士の口にした理由に納得して、半妖精の娘は応えた。
「……死んだも同然だよ」
「……ふむ。では、やはり先ほどから其処に隠れているのは別の者なのだな」
黒髪の娘は野生の狼を思わせる鋭い視線をエルフ娘を。否、その背中に聳える大き目の岩へと注いだ。
「……え?」
翠髪の娘は、振り返るも其処には誰もいない。
耳を欹てるも、何の音も気配もしない。
勘違いではないのか。或いはからかってるのだろうか?
そう問おうとするも、女剣士は厳しい表情で岩へと向き直って、射抜くように鋭い視線で睨みつけている。
濡れた前髪を乱暴にかき上げると、切りつけるような口調で岩陰に呼び掛けた。
「先刻から影に潜んで此方の様子を窺っていた奴、出て来い」
大きくはないが鋭い声の誰何に応えるように、闇に影がぼんやりを浮かび上がって何者かが足音もなく岩陰から姿を現した。




[28849] 13羽 手長のフィトー06     2011/09/10
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:1f041ee4
Date: 2013/06/09 00:41
「其処に隠れている奴……姿を現せ」
黒髪の女剣士の宣告が、冷たく虚空に響き渡った。
「出てこなければ、此方から行くぞ?」
半エルフは尖った耳を済ませるが何の音も気配も感じ取れない。
何かの勘違いではないか?戸惑いを隠せないままに女剣士に告げようとして、
「おお、恐い。今、出て行きますゆえ、堪忍を」
黒髪の娘の誰何に応じるように、囁くような低い声が闇から響いてきた時、
半エルフは心臓の鼓動が跳ね上がるほどに驚愕した。
かつてこれほどの近い距離で気配を悟れなかった事は、同族相手にすらなかったからだ。
岩陰からゆらりと影が浮かび出る。


「……ホビット?」
エルフ娘の半信半疑の呟きに応えるよう、揺らめく西日が照らし上げた小柄な影は、確かにホビットの若い娘だった。
炎を想わせる見事な赤毛の髪は、彼女の種族に多い柔らかな巻き毛で、それを後ろで無造作に紐で束ねている。
仕立てのいい動き易そうな革製の上着を着込み、腰には女剣士のそれにも劣らぬ立派な拵えの小剣を吊り下げていた。
小さな足は剥き出しの裸足。
ホビット族は足の裏に毛が生えており、音もなく歩くことが出来ると云われていた。
微かに垂れ気味の優しげな瞳に形のいい唇を持った穏やかな顔立ちだが、しかし、今はその目の底に警戒するような光を浮かべて、一足飛びに逃げられる距離で立ち止まって女剣士と半エルフの交互に隙なく視線を配っていた。

ホビットの瞳には僅かに険しさが含まれていて、その視線の強さに怯んだエルフ娘は僅かに後退って距離を取った。
「いや、お見事な手管。隠行には少しは自信が在ったのだが、あっさりと見抜いてくれる」
云ってから赤毛の女賊。次いで小男の亡骸へと鋭く視線を走らせて付け加えた。
「しかし、些か惨い殺し方をなされる」
赤毛の小娘の言葉に、エルフ娘は表情を強張らせて大きく躰を震わせた。
血色の戻ってきた顔色から再び血の気が引き、思わず目を伏せる。
「……ふん。一体、何人の旅人がこいつらの手に掛かったのか考えれば、呵責の必要があるとも思わんがね?」
黒髪の女剣士のホビットへ向けた声には、棘々しさが隠せなかった。
小人の偽善的な呟きにも増して、エルフ娘が苦しげな反応をした事がより強く彼女の勘に触れたのかも知れない。
「それより貴様、何者だ?随分と始めから様子を窺っていたようだが……」
眦を吊り上げ、敵意を隠そうともせずに女剣士は冷たい声で詰問する。

「……この娘。何時から?」
「最初からだ」
戸惑ったような半エルフが呟いた疑問に、黒髪の剣士は断言した。
「君の耳は合っていたぞ。
 こいつを入れれば確かに六人。こやつも小屋で此方の様子を窺っていた一人よ」
鋭い目でホビットを睨みつけた。
強く烈しい女剣士の眼光を小人は真正面から受け止めて、内心は如何あれ、表情には欠片も動揺を見せなかった。
「私が戦っていた時にも、影からこそこそと様子を見ていた。そうだな?」

「……お疑いのようだが、私は賊の仲間ではない」
ホビットは静かな口調で、女剣士を真っ直ぐに見つめた。
怯む様子は全く見えない。

「……ほう?」
口の端を吊り上げた女剣士が、不信を言葉に表さずに表明しながら、続きを促がした。
「小屋で盗賊たちが貴女達を狙っているのを耳に挟んで、いざという時は助太刀いたそうと思ったから」
「ほう?どちらに助太刀するつもりだったのか聞いてもよろしいかな?ホビット殿
 我らか?それとも彼らか?」
一番苦しい時に助けてくれなかった者が、実は助太刀する心算でした。など後から言い出したからとて信用する人間など何処にもいない。
慇懃無礼に揶揄する女剣士の言葉には辛辣さが散りばめられていた。
まして手出しする機会は幾らでもあったにも拘らず、傍らにずっと潜んでいただけなのだから。

「……小屋でそんな話聞こえてこなかった。耳はいい心算だけどね」
翠髪の娘も気を取り直したのか、ホビットに反撃する。
殺し方を咎められたのも、気に喰わなかったのかも知れない。
燃えるような赤毛のホビットに不信の眼差しを向けていた。
「隠語で会話していた。盗賊だけが理解できる外国語も混ざった仲間うちの言葉ゆえ、理解できないのも無理はない。
 普通の人が耳にしても、意味は聞き取れないだろう。
 そして二番目の問いだが、貴方に助太刀する必要があるとは思えなかった」

人族の娘は右手を上げると、旅の連れを指し示した。
「では、何故彼女を助けなかった?」
「悟られるぬよう、距離を取って賊の後ろを追跡していたのだ。
 見える場所で窺い始めた時には、既に貴方と四人の賊が戦い始めており、
 其処のお嬢さんが何処に行ったのか、皆目見当がつかなかった」

「戦っている最中、貴様の視線を感じた。
 物影に潜んで一部始終ずっと見ていたであろう?」
ホビットは、潜んでいた事自体は否定はしなかった。
「危地に陥れば、手助けしようと思ったと云った」
「では、何故出てこなかった」
「必要なかっただろう?」
同じ質問と同じ返答を繰り返し、そして二人の間で少しずつ緊張が高まっていく。
「そして姿を現さなかったのは、今のように疑われるのが厭だったから」
「……まるで信用ならぬな、御主が賊の一党ではないという証が何処にある?」
尊大な口調に怒りを込めて、黒髪の女剣士は赤毛のホビットを問い詰める。
「盗賊の言葉というものが在るというのは、戦の際に雇った忍びの者から耳にした事はある。
 だが、それを理解できるのは賊の一員だけの筈。
 さては御主も名うての盗賊の一人か?ホビットよ」
女剣士も半エルフも、今や不信と猜疑の瞳でホビットを見詰めていた。


黒髪の女剣士は、表情の読めぬホビット族の娘を何とも疑わしげに見ていた。
何とも喰えぬ奴。恐らくは、一味ではないというのは嘘では在るまい。
連中もこやつの存在は知らないようだったからな。
だが、と、ホビットが身につけている小剣に、それと悟られぬ程度に視線を走らせて目に留めた。
中々、立派な拵えをしている。鮮明な朱色に塗られた鞘。
真鍮製だろうか。金属製の彫刻がされた金色に輝く柄。
小剣とはいえ、一介の旅人が持つには不釣合いに立派な品物だった。
それに女剣士の詰問にも、まるで怯んだ様子を見せない。
気配を潜める技も、信じられないほどに練達だった。
微かな違和感と戦闘中に視線を感じなかったら、気がつかなかっただろう。
ホビットの話も、態度も、格好も、何かちぐはぐなのが女剣士には気に入らない。
全てが胡散臭く思えて、余計に不審と不信を煽った。

「或いは、我らが隙を見せるのを待っていたか?漁夫の利を狙って共倒れを待ったか?」
「……」
「応えろ」
黒髪の女剣士が威嚇するように、一歩前に歩み出た。

仮にホビットが困惑したとしても、彼女はそれを表には出さなかった。
首を微かに傾げて、踏み出した黒髪の人族の娘を茫洋として見つめていた。
女剣士がホビットを観察していたように、ホビットも人族の娘を推し量っていた。
まだ若い娘だが厳しく冷酷な性格は、真一文字に閉じた意志の強そうな口元、微かに細めた鋭い黄玉の瞳から、容易に読み取れた。
ホビットの間合いを測って踏み込んでこない用心深さから見ても、容易ならぬ百戦錬磨の剣士なのは間違いなく、戦うにしても説得するにしても骨が折れそうだった。

脅そうとしたのか、或いは胡散臭いホビットを追い払おうとしたのか。
女剣士が剣を抜こうと柄に手を延ばした次の瞬間、その喉元に白銀に輝く刃を突きつけられていた。
「……え」
傍目から見ていたエルフ娘が素っ頓狂な叫びを小さく上げた。
エルフ娘には、そして女剣士にも、ホビットの動作が見えなかった。
気がついたら、間合いのうちに入られていた。

女剣士の剣が疾風であれば、ホビットの太刀は迅雷とでも云うべきか。
黒髪の娘は、避ける事も、剣を抜く事も出来ずに、死命を制された姿勢のまま、喉元にホビットの小剣を突きつけられていた。
さすがの女剣士が動けなかった。
柄に手を掛ける途中の姿勢で、歪な石像のように固まったまま、息を飲んだままに低く呻いた。
エルフは信じられないといった様子で、ただ目を見開いている。


ホビットの刃は黄昏の夕日を浴びて朱色に煌めいた。
「私が賊の一味であれば、此の侭貴女の首を跳ねるだろうな」
ホビットが低く囁いた。
「……くッ」
女剣士すらホビットの剣の軌跡を微かにしか捉える事は出来なかったし、半エルフにいたっては銀閃の残像すら見えなかった。
「……だが、幸いにして私は連中の一人ではない」
ホビットがじっと黒髪の女剣士を見つめた。
小人族の目から如何な言葉を読み取ったのか。
忌々しく思いながらも、人族の娘は微かに頷いた。
「……そのようだな」
赤毛の小人は剣を引くと、滑らかな動作で鞘に納めた。
女剣士は乱れた前髪をかき上げたが、額を濡らしていたのは雨だけではなかったかも知れない。
「……では」
ホビットが踵を返し、女剣士に無防備な背中を晒して立ち去ろうとする。

「待て。貴様の名は?」
ホビットが振り返った。瞬きしてから応える。
「……キスカ。キスカ・ロレンツォ」
「覚えておくぞ。キスカ・ロレンツォ」
冷たい声で告げた女剣士が名乗りを返す事はなかったので、ホビットはそのまま音を立てずに夕闇の中へと消えていった。

「ふん」
小人が立ち去ってから、黒髪の娘はつまらなそうに舌打ち一つすると肩を竦めた。
衝撃に顔を強張らせたエルフ娘が、ぼんやりとした口調で独り言のように呟いた。
「あのホビット。一体何者だろう?」
何かに聞かれるのを恐れるような、囁くような声だった。
「さてな。キスカ・ロレンツォとは聞かない名だが、存外、世に手練は多いものだな」
女剣士の秀麗な美しい声が、恐怖だろうか、憤怒だろうか。
微かに震えていたのをエルフの耳は確かに聞き取った。
整った美貌は冷たく無表情で、黄玉の瞳は燃えるように爛々と輝いていた。

「……貴女より早かった。あんな剣捌きは初めて見たよ」
「まあ、不意を突かれたし、私も疲れていたからな。
 次があれば、こうはいかんよ」
人族の娘は一つ肩を竦めると、燃えるような眼差しで蟠る闇を睨みつけていた。
エルフ娘は顔を伏せて首を振った。負け惜しみだと思われたようだ。
少し不愉快に感じたが、人族の娘は気にしないことにした。

ホビットの消え去った闇を鋭い眼差しで睨みつけて、黒髪の剣士は最後に一度だけ名前を呟いた。
「……キスカ・ロレンツォ」
忌々しげな囁き声は、冬の冷たい風に紛れて誰の耳にも届く事無く消えていった。




[28849] 14羽 手長のフィトー07 序章完結     2011/09/16
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:1f041ee4
Date: 2013/06/09 00:41
暫しの間、謎めいたホビットが影のように溶け込んでいった丘陵の彼方を眺めていた黒髪の娘であったが、夕暮れの光が薄くなり、入れ替わるようにして闇の色濃くなる気配に何時までも其処で突っ立っている訳にもいかないと気づいたのだろう。
気持ちを切り替えると、エルフの娘に歩み寄って「行こう」と出発を促がした。

先刻、エルフの娘が全力で駆け抜けてきた丘陵の道なき道を、今は濡れた地面に刻まれた足跡だけを頼りに逆に辿っていく。
街道を求めてただ漠然と南へ戻るよりはいい考えに思えたのだが、此れが思ったより時間が掛かりそうであった。
周囲は既に薄暮に包まれており、丘陵の影を通過する際や水溜りになった箇所では、時に足跡を見失い、再び探すのに手間取りもした。
幸いにしてエルフ娘が夜目の効く性質であったから、頼りない月明かりの下、辛うじて丘陵と丘陵の狭間を縫うように進みながら、娘たちはなんとか道行をこなしていく。

冬の外気と雨に体が冷えたのだろう。
時折、エルフがくしゃみをするだけで、丘陵の谷間を進む二人の上には共に陰気な沈黙が漂っていたが、その原因についてはそれぞれが異なった理由を抱え込んでいた。

人族の娘は、己を虚仮にした赤毛のホビットについて頭を悩ませていた。
自信も自負も持った剣士であるから、鼻っ柱をへし折られた程度とは言え、胸のうちには此の侭にはしておけまいぞとの想いが渦巻いていたものの、だからと言って如何すればいいのかというと、此れが何も思い浮かんでこない。
出来るなら正々堂々と剣と剣での決闘を挑んでもいいし、戦場で相見えたら手段問わずに闘争を挑んでもいい。
ようは彼のホビットの剣士と戦って勝ちたいのだが、そもそも彼奴めが何処に住まい、何者なのかすら定かではない。
よくよく考えれば、キスカ・ロレンツォという名前さえ偽名かも知れない。

考え深げに口を閉じて長々と考え込んでいた女剣士が解けない疑問に眉を顰めて唸りを上げた時に、半エルフが明るい声を上げて傍らを駆け抜けていった。
漸く街道に着いたらしい。

天空に浮かぶ蒼い月が、幽かな光で大地に転がる事切れた賊の亡骸を照らし出していた。
一つは頭を砕かれ、一つは歪に仰向けに倒れ、一つは首を切断されたまま大地に膝を付き、もう一つは見当たらなかったが、日の光の下であればさぞ凄惨であったろう光景は、幸いにして夜の闇に覆い隠され、エルフ娘も動じる事もなく賊の死骸を眺めていた。
「……凄い切り口。本当に強いんだね」
首を半ば切り落とされた首魁の死体をまじまじと見詰め、素直に感嘆の声を洩らした。

女剣士は放り投げた黒狼のマントを探し求めて周囲の草叢を見回してみたが、何処へ行ったものやら、まるで見当たらない。
どうやら、お気に入りのマントを失くしたらしい。
腹立ち紛れに手近な石を蹴っ飛ばした。

興味深げに死体を眺めていたエルフが、ふと顔を上げた。
「……此れ如何する?」
「……此れとは?」
訝しげな表情で訊ね返す女剣士。
「だから、死体。此の侭、街道に放置する?」
街道などに放置された死体が不死(アンデッド)と成り果てて何時しか動き出し、旅人を襲うのは稀に耳にする話でもある。

「動死体(ゾンビ)や骸骨(スケルトン)になられても厄介だし、放置すれば狼や山犬など野の獣を引き寄せるかも知れない」
小さくくしゃみをした後、鼻水を啜りながらエルフが訴える。
「存外、人の良い奴だな。不死になるなど滅多にないよ。
 己が欲心のままに葦の如く世の風に流され、病んだ無花果のように実をつけずに生を終えた者共だもの。
 捨て置いても、不死となるほどの無念を抱いているとも思えない」
黒髪の女剣士は楽観的な意見だが、翠髪のエルフは少し首を傾げて切り返す。
「なればこそ、何も為しえず死んだが為の悔いも大きいのでは?」
「……ふむ」
考えてから頷いた。
「如何様。此の侭、街道に放置して山犬や狼でも呼び込んでも、旅人に迷惑な話か。道端にでも捨てよう」
「余り街道に近いと、狼が出るかも」
「面倒くさいなぁ。草叢でいいと思うがな。さすれば、いずれは野の獣などが処分するだろうし」

露骨に厭そうな顔で女剣士は手間を惜しむ。
どうやら此処に来て余計な労力を割くのが嫌らしい。
「では、あの矮樹の少し先にある、窪んだところへ捨ててこよう。丁度、溝みたいになっているから」
エルフの指差したのは、おおよそ七十歩先の距離。
目を細めるが、薄闇に地面の地形が分かるほどには女剣士の夜目は効かない。
「私が頭を持つから、足の方を持ってくれるか?」
「はいな」
それほど近くでもなくそれほど遠くでもない箇所なので、妥協する事にした。
各々が腕と足を掴んで街道からやや離れた木の根元まで運び、少し溝になっている処に死体を投げ捨てた。
「出来れば、穴でも掘ればいいのだろうけれど……」
二人はやや街道から外れた木の根元まで二度往復して賊徒の骸を投げ捨ててきた。

三人目の頭目を担ごうとして此れが重たく、二人は意外と難儀した。
「こいつ重たいな。……糞。何を食べたら、こんなに重くなるんだ。少し痩せろ」
「よっ……きっと……お袋さんッが……ふうっ……オグル鬼かトロルと浮気でもしたに違いない」
死体は腕の太さだけで、エルフの太股ほどもあった。
頭部は近くの草叢へと放り込んだが、残った胴体だけでも兎に角、重い。
二人で足を持ち、引きずると、何やらいう賊の首無し死体がガツンガツンと地面や木の枝にぶち当たる。
だが、さすがの凶賊も死体になっては乱暴な扱いに抗議の声を上げる事も出来ない。
「文句は云うまいよ。なにしろ、もう口もないから」
笑えない冗談を口にするが、疲労感が増しただけだった。

首がないにも拘らず、頭目は他の死体の五割り増しかもっと体重があった。
エルフは体力のある働き者だったが、取り立てて膂力のある方ではなかったので、引きずっているにも拘らず、余りの重さに手が滑った。
足を地面に落とすと、それを見て女剣士も手を放した。
「ふうっ、ここでいいや。こいつは重すぎる」
「死んでからの方が生きていた時よりずっと私を梃子摺らせてくれたぞ」
エルフ娘も黒髪の女剣士も、安堵の深いと息を洩らして額は少し汗ばんでいた。


土を固めただけの街道に戻ったものの、女剣士はどうも腑に落ちない様子で周囲を見回していた。
「数が足りんな。爺の死体が見当たらん」
獣でも持ち去ったか、ゾンビーにでもなったか。
あれこれ考えるが、どちらも短時間ではありそうにない。
「死者は血を流さない。息を吹き返したんだよ」
地面に屈みこんでいたエルフ娘が低い声で呟いたので、傍に近寄って確認する。
赤茶けた地面を点々と濡らす血痕が向かう先へと、黒髪の女剣士は鋭い視線を向けた。

北国の街道を、痩せた人影が幽鬼のようによろめき歩いていた。
奪ってきた。殺してきた。犯してきた。
今まで散々、弱い者を食い物にしてきた人生の報いがつい来たに過ぎないが、今の今までそんな事は考えた事がなかった。
目が覚めたら、フィトーも乞食どもも皆殺しにされていた。
その時の驚愕。衝撃。弱々しい心の臓が止まるかと思ったほどだ。
後ろから今にもあの女剣士が追ってきているようで、老人は恐怖に喘いだ。
恐慌に陥り、荒い呼吸を繰り返しながら、だが走るだけの血が足りない。

仲間が皆殺しにあっては、此れで盗賊稼業もお終いだ。
行き掛けの駄賃と、手元に抱えた狼の毛皮のマント。
意識を取り戻した時、最初に目に入ったそれを抱え込んで、ひたすら街道を逃げていた。
いい金になるだろうと思った。だが、重くて仕方ない。
まるで纏わりついてくるように老人の進みを阻害する。
「……ひっ、ひっ、ひぃい」

だが、旅籠へは辿り着いた。
「お、おい……誰か、た、助けてくれ」
体当たりするように扉を開けて、入り口へと倒れこむと手当てを求めた。
部屋の隅でサイコロ賭博に興じていた傭兵の二人組が立ち上がると、ゆっくり近寄ってきた。
「如何した?爺さん。」

「わ、わしは……」
その時、死神が老人に追いついた。
翁の胸から短剣の先端が飛び出す。
「……はう」
背骨と肋骨の間に滑り込んだ鋼の刃が、今度こそ心臓を貫いていた。
胡麻塩頭の老賊は、痩せた躰を舞うように回転させると、そのまま床へと倒れこんだ。
全身を返り血で真っ赤に濡らした凄まじい姿の女剣士が入り口に立っていた。

室内から悲鳴や怒号が上がるのにも動じない様子で狼のマントを取り返し、ついでに財布も奪うと唾を吐きかけた。
「こいつらは賊だ。襲ってきた故に返り討ちにした。証人もいる。」
「……へ、へい」
親父の顔は微かに強張っていた。
「待ちな。姉ちゃん」
呆気にとられていた傭兵たちが、警戒しながらも胡散臭そうに女剣士を眺めた。
傭兵たちは共に丈夫そうな革服を着て、一人は粗末な槍。一人は小剣で武装していた。
女剣士がかなりの使い手だという事は見て分かるが、咎めない訳にはいかない。
「……俺らにはおめえの方が盗賊にしか見えねえな」
「この丸腰の爺さんが武装したあんたを襲ったって?如何考えてもおかしいぜ?」
真紅に染まった女剣士が凄絶な笑みを浮かべると、
「賊は全部で七人いた。全員死んだがな」
親父が絶句する。
時々、近隣に出没しては旅人を襲う盗賊たちについては、村の者が被害に会う事はまだなかったにしても、宿屋の親父の密かな懸念であったし、老人は怪しいと睨んでいたうちの一人だったから、口に出してはこう云っただけだった。
「それは結構なことで……へえ」
「とっととこの薄汚い死体を片付けろ、目障りだからな」
理不尽、かつ居丈高な言葉に親父は顔が真っ赤に、しかし、言葉が真実なら七人のならず者をあっさりと片付けるような剣士でもある。

気色ばんでいるのは傭兵達の方だ。
目の前であっさりと老人を殺し、その上に持ち物を奪った。とても信用ならない。
傲慢な態度が気に入らないのもあって、ギラギラした物凄い目で女剣士を睨みつけているが、扉に近い場所に陣取った女剣士は何時でも剣を抜ける姿勢を取っているので動かなかった。
対峙している内にエルフ娘が追いついてきて旅籠へ入ってくる。
「……どうしたの?この人らは?」
「私が賊ではないかと疑ってる。云ってやれ。其処の翁の方が盗賊の一味だとな」
確かにエルフ娘は襤褸を纏った酷い姿であり、彼女が女剣士の傍に駆け寄るのを見て、盗賊に襲われたとの言葉も真実味があると納得した。
「彼女が証人だ。我らが盗賊に襲われた。後は赤毛のホビットもいたが姿が見えんな」

「……そうか。疑ってすまなかったな。姉ちゃんよ」
傭兵たちは顔を見合わせるとやや不愉快そうにもう一度睨みつけてから、部屋の隅へと戻っていった。
「……何があった?」
「別に何でもないさ」

「今日も泊まるんで?」
揉み手しながら親父が発した言葉遣いは、丁寧だった。
「うむ。ただし、他の客と同じ値段でな。私からぼっていただろう?」
睨みつけると、親父の顔が引き攣った。
誰だって七人の賊を返り討ちにするような剣の使い手を怒らせたくはない。
「とんでもねえ。このバウム親父は正直が取り柄ですぜ」

「後は水をくれ。服を洗いたいでな。血糊は早く流さないと取れなくなる。
それと、暖炉の傍を取っておけ。薪は多めにな。
雨の中を走り回ったから、躰が冷えてしまった」
銅貨を放った。親父がそれを腹で受け止め、掌で受け取った。

「……へ、へい。裏手に雨樋の水があります」
旅籠の少女が顔を曇らせたのを横目でエルフは見つめた。
「裏庭を貸してもらうぞ。何してる?来いよ」
「……ん」

「ちょっと気の毒だったな」
「何がだ」
「井戸から水を汲んでくるのはあの娘の役目だよ。きっと。
雨樋の水を使ったら、その分、汲んで来なきゃならん。仕事が増える」
「彼らはそれで金を貰って生活しているのだ。客の要求に応えるのは当たり前だ」
革袋のワインを煽ると口元を拭った。
黒髪の女剣士の服には幾らか染みは出来たが、水洗いで大体、綺麗になった。
エルフ娘は老人の服を奪うか迷ったが、長年の汗や垢がこびり付いた上、碌に洗濯してないので諦めた。
人族の女剣士の寄越したワインを受け取り、半エルフは口をつける。
軒下から空を見上げる。洗った服は軒下に掛けてある。
二人は、上半身裸で服が乾くのを待っていた。

酒を飲んだ分、体も暖まる。躰を拭いた布を首から掛けて、足を組んだ。
エルフ娘が空になった皮袋を振るう。
「……もうちょっと飲みたかったな」


漆喰の零れ落ちた旅籠の壁際で、痩せた傭兵がサイコロを振りながら呟いた。
「……いい女だ。胸もでかいし、憧れるぜ」
長身の傭兵が、短剣で歯を穿りながら如何でもよさそうに答えた。
「ご挨拶してみたら如何だ?一戦、お願いできるかも知れないぜ」
「無理だろ。お高い感じがするぁ」
長身の傭兵が頷いた。確かにいい女だとは思うが、如何見ても高嶺の花に思えた。
「もう一人の方は如何だよ?」
「あれぁ、駄目だ。髪も短いし、顔も真っ黒で……」


「ところで、何故、その美貌を隠してる?」
女剣士が唐突に話題を変えた。
「突然になにを?」
「相当な美人だ。よく見れば分かるよ。まぁ、私ほどではないがな」
大した自信と思いながら、エルフは肩を竦めた。
「なら、分かるでしょう。顔がいいとその分、厄介ごとに巻き込まれる」
「余り巻き込まれんぞ?」
武装した貴族の娘と、貧しげな旅のエルフでは、前提条件が全然違うのに恐らく分かっていてすっとぼけた。
「見たいな。素顔。」
「……女の顔を見ても面白くないでしょうに?」
「美しいもの、綺麗なものは見るだけで楽しめるよ」
耳元で囁くので、少し距離を取る。
「随分と軽く云うけど……貴女のような剣の使い手と違って、私は非力な半エルフの娘に過ぎないのだから。
賊に目を付けられたら、それだけでお終いという事にもなりかねない」
「では、ティレーに行くまでは、私が君を守るよ」
「軽い言い方だな」
断ると女剣士は少し困ったように顎に指を当てて眉を顰めた。

それからエルフ娘に向き直ると、打って変わって真摯な面持ちでじっと見つめてきた。
「カスケード領の後継にしてセレス・シェイナ・エイオンの娘。
 アリアテート・トゥル・カスケード・ソル・エイオン・テュルフィングが、命に替えて君を守ると約束する」
恐らくは己と同年齢程度であろう若い娘が、突然に別人のような風格を発したのでエルフ娘は一瞬だけ混乱し、圧される。
気持ちを立て直して、推し量るように蒼い瞳でじっと見つめる。
推し量る眼差しにも全く揺らぐ気配を見せずに、強い黄玉の瞳で静かに見つめ返してきた。
溜息を洩らした。少し迷って、視線を宙にさまよわせた後、真っ直ぐに見詰めあう。
「……エリス。エリオンの森のエリス。エリス・メルヒナ・レヴィエス」

セーブという植物の葉を袋から取り出し、千切った。
余り知られてないが炭を落とす成分がある。
揉んでから掌にすりつけ、緑色の汁が広がると水瓶で顔を洗い始めた。

「やっぱり、美人だったな」
顔の汚れを洗い流したエルフの整った顔立ちを見て、女剣士は感嘆の吐息を洩らした。
女剣士、黒髪のアリアが上機嫌なのとは対象に、翠髪のエリスはむすっとしていた。
エルフの頬を撫でてから、顔を覗き込んで微笑みかけた。
黄玉の瞳には悪戯っぽい光が浮かんでいる。美形だが、どこか胡散臭そうな笑み。
「機嫌を直せ。折角の美人が台無しだ。私の腕は知ってるだろう?」
実力を伴った自信家で押しが強いから、どうにも敵いそうにない。
「……精々、期待させてもらうよ」
「うん。期待しろ」

何時の間にか小雨は止み、天には満点の星空が広がっていた。
人族の娘が機嫌良さそうに鼻歌を奏でる横で、半エルフは星を見上げながら小さく欠伸を洩らした。



序章 手長のフィトー 完結



[28849] 1章から読む人の為の序章のあらすじ
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:4d438691
Date: 2011/10/27 18:11
序章のあらすじ

旅のエルフが街道沿いの旅籠で女剣士と知り合う。
奇しくも目的は同じ西方の町ティレーのようだ。
目的地が同じ二人は、連れだって艀の渡し場が在る川辺の村へ行くも、
長雨による増水で艀が出ない。
宿屋に引き返す二人を、村で目ぼしい獲物を探していた盗賊たちが襲ってきた。
途中、奇妙なホビットも絡んできたが、何とか危地を切り抜けた二人は
ティレーに行くまでは共に旅する事にした。猫





此処からは裏設定です。
作者が物語の進行で、登場人物をいきなり強くしたり弱体化させない為のメモのようなものです。
物語で面白そうな展開を思いついた時に変更したり、無かった事にしてしまうかも知れません。
全く読まなくても問題ありません。


登場人物の大まかな強さ
数値は真正面から戦った場合です
得意とする武器や相性、地形によっても勝負は左右されるので
必ずしも数字の高い方が勝つとは限りません。意味がないですね

女剣士 アリア
技量点 8 愛剣使用時
体力点 6
打撃点 2

この若い女性は、見た目に拠らず百戦錬磨で勇猛な戦士です。
多分6歳の時には、既に戦闘の訓練を受け始めていました。
冷静沈着で駆け引きに長け、膂力には劣るものの俊敏で技に長けた彼女は、
技量の勝る相手に粘り強く、長時間の負けない戦いを続けることができます。
また、狡猾で駆け引きに長ける為に己よりさらに優れた戦士を幾人となく屠っています。

エルフ娘 エリス 
技量点 4 棍棒を使用時
体力点 4
打撃点 1

彼女は、見た目通りに森で育った平凡な半エルフの娘です。
ケチな盗賊から財布や自分の身を守る為に棍棒を振るった事は幾度かありますが、
訓練されている訳では在りません。
エリスは全くの一般人であり、ならず者なら兎も角、凶暴な盗賊やオーク、
少し訓練を積んだ戦士や冒険者に襲われたら、一溜まりもありません。


主な亜人

オーク族

オークはヴェルニアのみならず、世界中のありとあらゆるところに蔓延っている非人間種族です。
灰色、緑色、黒、茶、桃色など人族のように様々な肌を持っていますが、
不潔な環境に暮らしている為、或いは彼らの奉仕する邪悪な力の影響で、瘤があったり、
爛れていたり、或いは瘡や鱗、時に奇妙な器官が生えてる事もあります。
顔は性格の悪さがそのまま出たように非常に醜悪で、個体によっては牙があります。
非常に不潔でまた厭らしい性格の種族で在り、オーク以外の大抵の種族から嫌われています。
自惚れと虚栄心が強い割には努力を嫌い、また美しいもの、賢いものを憎みます。
体格と膂力は人間に匹敵し、根気には欠けるものの優れた指導者に恵まれれば、
その軍勢は恐るべき力を発揮します。
大柄で優れた大オークや、洞窟オークと言う小柄な代わりに夜目が効く親戚がいます。

技量点 6
体力点 5
打撃点 1 稀に良い武器を使うオークの場合2

上記は、よく訓練されたオークの数字です。
それなりに鍛錬を積んだ冒険者や兵士と互角ぐらいの強さです。

さして鍛錬を積んでいないオークの場合は、
技量点 5~4
体力点 4~2 
打撃点 1

程度となります

ゴブリン族

技量点 5
体力点 4
打撃点 1

上記はそれなりに鍛錬を積み、小槍や小剣で武装したゴブリンの数字です。
女性の冒険者や戦士、訓練をさぼりがちな兵士と互角ぐらいの強さです。
弱い個体の場合は、下記の数字となります

技量点 4
体力点 3~2
打撃点 1

ゴブリンは器用な指先と俊敏な体、節くれだった長い指を持つ小柄な亜人です。
肌の色は大抵、緑か茶色で身長は4フィートから4フィート半。
どちらかと言えば邪悪で利己的な個体が多く、倒れた旅人がいたら、助けるよりは、
身ぐるみを剥ぐ傾向がありますが、知り合いには親切に振る舞う事もあります。
オークよりは弱いと見做される事の多い種族ですが、彼等は狡猾で用心深く、
強い相手とまともに戦うよりは、罠に掛けたり、大勢で戦う事を好みます。
善良や中立のゴブリンは、邪悪なドウォーフやエルフくらいには見かけられる存在です。
邪悪なゴブリンが多いとはいえ、その他もけして無視できる数ではありません。
ゴブリンは自分たちに備わった者を最大限活かそうと努力する傾向がある為、
弱い個体も意外と侮れません。
ホブゴブリンはゴブリンよりは強力な種族ですが、あまり遭遇しません。

コボルド族

直立歩行した犬のような顔を持つ小型の亜人です。ちなみに卵生です。
赤毛や茶毛、黒毛など様々な体毛に覆われています。
ゴブリンよりさらに小柄で、閉鎖的な性格をしており、
奴隷の立場を除けば、人族の都市や村で見る事は滅多にありません。
他種族に対しては敵対的ですが、彼等は弱い種族で、
また、基本的には臆病な性質の為、脅せば追い散らす事が出来ます。
ただし産卵の時期に縄張りに踏み込んだ場合、恐ろしく好戦的となり、
死に物狂いで戦う事も多くなります。

技量点 4~2
体力点 3~1
打撃点 1

コボルドは弱い種族です。
彼らの最良の戦士でさえ、武装した腕自慢の村人や怠け者の兵士に互角か、或いは敵いません。
コボルドが辛うじて対抗できる種族は、精々が似たような体格のグレムリンやインプ、
或いは穴小人や小人くらいで、しかも分は良くないのです。
弱さを自覚しているコボルド達は、戦う時に必ずと言っていいほど徒党を組みますが、
例え敵を退けることに成功したとしても、多大な犠牲を払わされる事が多々あります。
故にそれが出来るなら、彼らは侵入者に対して取引を申し出るでしょう。




[28849] 15羽 北の村 01     2011/09/20
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:1f041ee4
Date: 2013/06/09 01:23
 何処とも知れぬ屋内。周囲は薄暗く、視界は悪い。
時刻が夜なのか。或いは地下深くなのか。それさえも定かではなく、
壁に掛かった松明が弱々しい炎で室内を微かに照り返している。

 目の前には、翠髪のエルフ娘が殺した筈の相手が蘇っていた。
いや、正確に言うならば、死体のままに再び動き出したというべきだろうか。
怨嗟の呻き声を上げながら、動く死体が足を這いずり、滴る脳髄で床を汚しながら、少しずつ近寄ってくる。
エリスは恐怖に喘ぎ、脅えながらも武器をとろうと腰に手をやるが、何処に落としたものか愛用の棍棒は見当たらない。
 死者が彼女の肩を掴んだ。強張った喉から呻き声を漏れしつつ、エリスは逃れようと必死に身を捩るが、ゾンビーの筋張った強靭な指が万力のように半エルフの肩を締め上げる。
死者は憎悪の宿った蒼く燃える眼差しでエリスを見上げると、激しい憎悪に表情を歪めながら、顎の骨が軋むほどに口を大きく開き、乱杭歯でその喉元に齧り付こうと迫ってくる。
目を大きく見開いたエルフの娘が恐怖に発狂する寸前、横合いから突き出された長剣の刃が死者の首に食い込んだ。
 鋼の刃はそのまま恐ろしいほどの切れ味を発揮して頚部を切断。
床へと落下した死者の首は、音を立てて転がった末に壁に当たって止まると、恨めしげな視線で虚空を睨んだまま、煙を上げて急速に溶け始めた。

 吐き気を催すような凄絶な変化から目を逸らし、救ってくれた何者かを見ようとするも、唯一の光源である松明を背後に影となった顔は見えなかった。
安堵の余りに気を失いそうになるも辛うじて持ち堪えていると、助けてくれた誰かは手を伸ばしてエルフ娘の翠髪をゆっくりと撫で始めた。
緊張の解けたエリスは、心地よさに目を閉じて


 エルフ娘のエリスが再び目を見開くと、宿屋のひび割れた漆喰の壁が目に入った。
どうやら、悪夢を見ていたらしい。初冬にも拘らず全身にしっとりと寝汗を掻いていた。
旅の連れとなった女剣士のアリアが、実際にも彼女の頭に手を置いて優しく撫でていた。

 時刻は、真夜中をやや過ぎた程度だろうか。
秋の終わりも過ぎて、冬の入り口に差し掛かっているにも拘らず、しぶとく生きている夜虫たちの鈴の根にも似た歌声が外から聞こえてくる。
夜明けまでにはまだかなり時間がありそうだった。

「……な、何してるの?」
翠髪のエルフの娘が狼狽して訊ねると、黒髪の女剣士は微かに首を傾げた。
「魘されていた」
それで全て説明がついたとでも言いたげな涼しい声で一言。エルフの翠の髪の毛を優しく梳るように撫で続けている。
「……あいつが……ゆめに……何処か暗い場所で……私は……」
エリスの要領を得ない言葉。だが、通じたのだろうか。
 アリアは落ち着いた様子で人差し指を伸ばすと、びくついている半エルフの唇に当てた。
困惑したエリスに優しげに微笑み掛けると、そのまま抱き寄せて己の形のいい胸へと翠毛の頭を押しつけるように当てた。
「……ふっわ」
小さくと息を洩らしたエルフ娘の背中を、今度は肩や背中に手を当てて擦り、時々、指でとんとんと軽く叩いた。
傍らの暖炉に炎が小さく踊っているとはいえ、室内の気温は低く、薄着であることもあって、旅の連れから伝わってくる体温が意外と心地いい。

 何一つ言葉にするでもないが、優しく頭を撫でられ、躰を擦られているうちに、最初は生まれたての小鹿のようにびくついていたエルフ娘の震えもおさまってきた。不思議と気持ちが落ち着いてくると、今度は急速に眠気がぶり返してくる。
人族の娘の温い体温を感じながら、翠髪の半エルフはそのままゆっくりと目を閉じた。
その夜は、もう夢は見なかった。


 乳白色の柔らかな光に瞼を刺激されてエリスが目を覚ますと、何故かアリアと抱き合うような姿勢で眠っていた。曙光が小さな窓や扉の隙間から差し込んできている。
「……よっと」
人族の娘の腕を解いてから半身を起こすと、気持ちよさげに伸びをする。

夕べは散々だった。
賊に襲われた為だろうか。気持ちが昂ぶって夜更けになっても中々に眠れず、やっと眠りについたかと思ったら、なにか酷い悪夢を見たような気もする。

宿屋を見回すと床に雑魚寝している旅人たちが目に入って、よく見れば家族連れなどは、同じように身を寄せ合って寒さに耐えていたようだ。
室内は薄暗く、起きている客は一握りで殆どの者たちはまだ安らかな寝息を立てていた。

布団代わりにしていた狼の毛皮のマントをまだ眠りの国にいるアリアに掛けると、エリスは起き上がって宿屋の裏口へと歩いていく。
裏庭には水桶が置いてあり、そこで汗を拭くついでに水でも飲む心算だった。


 裏口を通り抜けて旅籠の裏へと出ると、曙光の照らす丘陵の麓には先客がいた。
焦げ茶の髪を持つ若い少女が、肌も顕な格好で躰を手拭いで拭いていた。
エリスの足音に慌てた様子で向き直ったが、同性と分かったからか。明らかに安堵した様子でふうっと息をついた。
「……おはようございます。お客さん」
その言葉で宿屋の下働きの娘と気づいた。
「ああ。貴方か。水を使っていいかな?」
綺麗な水が湛えられた水桶とエリスを見比べてから、少女は少しだけずるそうな顔を浮かべて
「こっちの水を使う人は、鉛銭一枚を貰うんですけど……」
親父の言いつけなのか、小遣いを稼ごうという心算なのかは分からなかったが、半エルフの懐はそれなりに暖かい。
鉛銭一枚で抗議するのも面倒なので、半分に欠けた鉛の硬貨を巾着から取り出して放ると、少女は巧みに宙で掴んで微笑を返してきた。

 木桶に水を汲み、借りていた上着を横に置くと、エリスはまるで蛮族の女戦士か、鉱山で使役される奴隷を思わせる格好だった。
もはや胸を覆うだけになった自分の服(の残骸)を脱いで、ざぶざぶと柔らかい手つきでタオル代わりの布を浸してから、昨晩の奮戦の汚れがまだ残る躰を拭いていく。
今日のうちに川か泉で沐浴する心算だが、それまで出来るだけ清潔にしておきたい。

「夕べは大変だったみたいですね」
下働きの少女は、渦巻く好奇心を隠そうともしなかった。
昨日の夜から詳しい話を聞きたくてうずうずしていたに違いない。
「うん……七人もの賊に囲まれた時は、もう駄目かと思ったよ」
「七人!本当に七人もいたんですか!」
「七人。前から二人、後ろから五人の挟み撃ちだった。
 カスケード卿が道連れでなかったら、今頃、お陀仏かもっと酷いことになっていた」
カスケードは、連れの女剣士アリアの姓である。
「素敵ですよね。強くて、お金持ちの貴族で、顔が良くて。
 あの御方が男性だったら良かったのに」
宿屋の少女が胸を抑えて、ほうっと憧憬の溜め息を洩らした。
 男装に近い服装を纏う美貌の女剣士には、凛々しさも相俟って、ある種、倒錯的な魅力が感じられるのかも知れない。
「私はカスケード卿が女性で助かった。男の人だったら一緒には行動しなかっただろうから」
そう口に出すと、意外だという顔をして少女はエルフを見つめた。
美人の多いエルフ族の平均と比しても、なお整った鼻梁と美しい切れ長の蒼い瞳。
下穿きに腰布姿の均整の取れた白皙の裸身は、やや小柄ながらも清冽な色気を漂わせており、同性から見ても妙な色気を感じさせた。
「お二人共、綺麗ですものね。男の人とか放っておかないですよ」
少女の言葉は、微かに嫉妬の棘を孕んだかも知れない。
どうやら女剣士は憧憬の対象で、自分は嫉妬の対象であるらしいと察して、エルフ娘は苦笑する。
旅の最中にその種の感情を向けられる事に慣れていた事も在って、軽くいなした。
「貴方も可愛い顔をしている。周囲の人からもさぞ愛されているだろうね」
満更お世辞でもない。
痩せているが、よく見れば中々に愛らしい顔立ちの少女は、楽しそうに笑っている。
「父さん。ぼっていたのがばれた時、真っ青になってました」
旅籠の親父の子供だったらしい。
エリスは意外の感に捕らわれながらも、さすがに父親に似ないでよかったね、とは口にしなかった。
「……娘さんだったのか。お母さん似なのかな?」
「母さんを知ってる人は、皆、似てるって言ってくれます」
旅籠の少女は焦茶の髪を撫でて、少し寂しげに笑った。
病気か、怪我か、それ以外か。
兎に角、それで何となく事情を察したエリスは口を閉じて、暫し肌を清潔にするのに専念した。

 半エルフの娘が躰を拭い終わってから上着を着込んでいると、焦茶色の髪を拭き終わった少女が刺繍のなされた上着を憧れの目で見つめていた。
「その服……綺麗ですね」
「カスケード卿のものだよ。貸してもらった。私の服はくたびれていたし、賊に破かれてしまった。もう駄目だろうな」
エリスは、少し気落ちした呟きで応じた。

 何処かの町の蚤の市場なり、服屋なりで、新しい服を買い求める心算であったが、当然に中古の、しかも一番安い品物から探すことになるだろう。
毛皮にしろ、布にしろ、作るまでに色々と手間隙の掛かる品であるから、当然、衣服の方もそれなりに値が張る。庶民にとって、尤も安い中古の服の一着さえ馬鹿に出来ない出費で、まして貧しい旅人にとっては、そうそう手の出るものではない。大抵の旅人は、着古した一着を大事にしながら、傷むたびに布や革で継ぎ接ぎを当てて、長く使うのが普通だった。

 盗賊の財布という戦利品の臨時収入がなかったら、エリスも到底、新しい服を買おうなどと考えなかったに違いないし、それでも出来るなら安い布を買い求めて繕いたかった。
しかし川辺の小村落で、ボロボロの服を修復できるだけの布を購うのは難しそうだ。
「……手直しするには結構な布がいるしね」

 半エルフの娘の気落ちした呟きに、少女が思いついたように
「北村なら、布が手に入るかもしれないですよ。
あすこの村は麻畑があって、紡ぎ車も機織りもありますから」
「北村?」
知らない地名に鸚鵡返しに訊ねる。
「ええ、モアレの村です。
 私の服も。布地は北村の物を使って其処で仕立ててもらったんです」
少女の服に触らせて、確かめさせてもらう。
「へえ、いい布だね」
締まった強い糸を使ってあり、布地の目は細かくてしっかりと編みこまれている。厚手でしっかりした布地だった。袖口の縫込みなどもしっかりしていて、華はないが頑丈で暖かい服だと思う。
宿の親父も、ああ見えて娘にたっぷりと愛情を注いでいるようだ。
少女は歯が全部揃っている。栄養ある食事を取り、過酷な労働もさせていない証だ。
後二、三年もすれば客が放っておかないだろう。

 服の値段は幾らくらいだろうか?手触りを確かめながらエリスは考える。
銅貨の三枚か四枚でおさまるなら何とかなるか。麻布を造っている産地であれば、町の定期市や行商人かなんかから買い求めるよりは、安く手に入れられる見込みがあった。

 それとなく旅籠の娘にモアレ村の場所と歩いて掛かる時間を訊ねてみた。
鉛銭の効果に、始終、柔らかな物腰で友好的に接した為か、少女の口は滑らかだった。
北方への街道の中途に位置するそこそこ大きな村で、普通に道を外れなければ、まず見逃すことはないそうだ。

 礼を云って宿屋の広間に戻ると、室内では目を覚まし始めた旅人たちが三々五々に動き始めていた。
少ない荷物を纏めて旅の支度を始めている巡礼もいれば、干豆に水で貧しい朝食を取り始める行商人もいたが、まだ安らかに寝息を立てている自由労働者などもいる。

暖炉の近くに陣取って躰を暖めている女剣士が、睡眠が浅かったのか。眠そうに欠伸していた。
エリスが近寄って今聞いた話を告げると、あっさりと頷いた。
「ふむ。北村か。後でもう少し詳しい場所を親父か、その娘に聞いてみよう。
 距離によりけりだけど、半日くらいで往復できるなら行ってもいいかな」
「……でもいいの?」
信頼できて腕が立つ剣士が旅の連れなのは、正直言って心強いが、彼女にも予定があるだろう。
エリスがそこら辺を訊ねると、アリアは肩を竦めた。
「考えてみれば、どの道、君の服はなんとかせねばならんだろう?
 私も、取り立てて急ぐ旅でもないしな。君も真冬までにティレーにつけば……ふぁ……」
欠伸を噛み殺しつつ、黒髪の女剣士はしなやかな身のこなしで立ち上がる。
「昨日は色々忙しくて疲れたからな。
 今日は躰を休める心算だったが、近くならば構うまい。
 そのモアレとやらまで行ってみようよ」




[28849] 16羽 北の村 02     2011/09/23
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:1f041ee4
Date: 2013/06/09 01:25
 翠髪のエルフの娘が顔を洗っている間に、女剣士は固焼きのパンを古びた暖炉で炙っていた。
「何はともあれ、まずは腹ごしらえをしようよ」
差し出されたパンを受け取り、部屋の隅に座り込んで魚の干物をおかずに簡素な朝食を取っていると、旅籠の奥で親父が朝食の支度をしているのが見えた。
水を入れた土鍋に雑穀や野菜屑を足して、囲炉裏に吊るして盛んに煮込んでいる。例の特製粥を作っているのだろう。
「服もいいが、その前に、まず君の巾着を先に捜しにいこうと思うのだが」
「……有り難い意見だが、時間の無駄だと思うな。広い丘陵の何処を探せばいいか。
 皆目見当もつかないのだから、とても見つかるとは思えないよ」
アリアはパンを指で毟りながら、優美な所作で一口ずつ口元へと運んでいく。
「そうでもない。服を破かれた所か、さもなくば其処から私と出会った場所までの何処かに落ちていると思うぞ」
エリスは魚を口元へ運んで咀嚼しながら、首を傾げて反論した。
「何故?走っている時に落としたかもしれない」
「服を破かれた時、腰帯はついていたか?」
少し俯いて、エリスは昨日の記憶を探った。
「……いや。破かれる前まで棍棒を持ってた。確か腰帯に財布もついていたな」
「町中で落とすよりは、丘陵でなくしたほうがまだ見つかる筋もあるさ。
 なくて元々だ。時間を区切って、午前中は財布を探しに行こう」
「財布は捜しにいくが、貴女は宿で休んでいてくれ。
 さすがに私の落し物で貴女に迷惑は掛けられない。私一人で行くよ」
「何故?二人の方が見つかりやすいだろう?」
エリスは眉を顰めてアリアを見つめた。やや不審そうな口調で訊ねる。
「……何故、其処までして私を助けてくれる?」
「君が気に入ったから、では足りないか?」
その答えでは足りなかったのか。
微かに迷いを浮かべた半エルフの表情に、女剣士は少し考えるように目を閉じた。
改めて黄玉色の瞳でエリスを見つめると、考え深そうに言葉を紡ぎ始めた。
「ふむ。昨日の襲撃。私は君を助けたが、君が私を助けた側面も在るんだよ。エリス。
 お互い一人では切り抜けられなかった。それに二、三、確かめたい事も合ったしな」
此の答えはエリスを納得させたようで、肯いたエルフの娘が堅くて噛み切れなかった古パンの欠片を暖炉へ投げ捨てて立ち上がると、傍らであっと叫ぶ声が聞こえた。
小柄な少年がエリスの後ろに佇みながら、涎を垂らして暖炉の中で炎に飲まれていくパンを眺めている。
「なにやってんのさ。このうすのろ!」
宿屋の少女が慌てて走り寄って来ると、プリプリしながら幼い少年の耳を掴んだ。
「いっ、痛い。ジナ」
「すいません。お客さん!
 もう!金も食べ物もないのをお情けで置いてやったのに、お客さんに迷惑掛けないでよ!」
二人の旅人に頭を下げると、ジナは情けない悲鳴を上げる少年の手を掴んで奥へと引っ張っていく。
顔を見合わせて少し肩を竦めると、半エルフと人族の娘は荷物を担いで宿屋を出た。


 外に出ると、空は昨日とは打って変って透明の色をしていた。
早朝の澄んだ空気を味わいながら、青く晴れ渡った天蓋を見上げると、
白い筋雲と競うように渡り鳥の群れが雁行しているのが見えた。


 街道筋の古びた旅籠の正面には、樹齢を重ねた楡の樹が生えており、目前の地面に胡麻塩頭の老人の亡骸が横たえられていた。あんな垢と埃に塗れた衣服でも、欲しがる者はいたらしい。
身包み剥がされた姿で縄に縛られており、近くに住む村人か。中年男と若い小僧が、太い枝に吊るした縄で亡骸を少しずつ引っ張り上げていく。
吊るされるのは、他の盗賊共への見せしめなのだろう。哀れな末路ではあるが、自業自得だった。
斬首や絞首刑、吊り男に十字架刑など、此の手の見せしめは国中で見られるものの、しかし一向に賊が減る気配は見えてこなかった。

 エリスが横を通り過ぎた時、その秀麗な横顔に見とれた小僧がぽかんと口を開けて振り返り、手にした縄を放してしまった。
老人の死骸が、下にいた中年男を直撃し、老賊の思わぬ反撃に怒りの叫びを上げた中年男が、我に返って逃げ出した小僧を捻り潰さんと唸り声を上げて猛然と追いかけ始めた。
「……罪な女だな。君も」
「……なにが?」
悲鳴を上げて逃げ回る小僧と、猛牛のように追い回す中年男を眺めて、黒髪の女剣士が呟くと半エルフは憮然とした表情になった。


 降り続いた長雨に街道の状態は悪かったものの、荒れてない場所の上を歩いて、四半刻(30分)ほどで昨日の決闘の場所へと辿り着いた。
女剣士は、まず盗賊達の死体を捨てた溝へと歩いていった。屈みこんで匂いを嗅ぎ、ついで衣服を改めて舌打ちした。
冬だから死臭はそれほどでもないが、血糊が乾いてしまっている。
乞食たちは汚いし、頭目の衣服は比較的、上物だが血糊がべったりでとても着れない。
「どうしたものか。昨日、直ぐに剥げばよかったな」
ぶつぶつ云いながら、血に染まった巾着や指輪などを奪い取っていく。
まさか、いい服があったら自分に着せる心算ではなかろうか。
「幾らなんでも、死人から奪った服を着る気はないよ」
疑念に襲われたエリスが念の為に告げると、アリアはため息を漏らした。
「贅沢な娘だな。服は服だぞ」
抗議しなければ、その心算だったらしい。

 次いで、アリアは頭目のはいている上等な革靴に目をつけた。
革袋に木製の靴底をつけたもので中々に良さそうな靴だった。
「よっと。此れなんか履けそうだぞ。持っていなよ」
エリスは靴を掲げてしげしげと眺めた。
頭目の足はオグルかトロルと見紛うばかりの大きさだ。
「足のサイズが合わないよ」
「後で詰め物するなり、濡らして炙るなりで合わせればいい。
 最悪、売るなり交換するなりすればいいではないか」

少し迷ったエリスだが、結局は靴も戦利品として貰う事にする。
「うわ、臭いなあ。こいつ足臭いよ。目に染みる」
「洗えばいい。大丈夫」
とりあえず紐で結んで肩に担いだ。
巾着や金目の物を抜け目なく奪ってから、もう用はなかったので道に戻った。


 五つの巾着を入れた為に、アリアの財布はかなり膨らんでいた。
真鍮や青銅の指輪に腕輪、ピアスや耳輪、首飾りなど安物の装飾品類も鞄に入ってる。
人族の娘は草叢に座り込むと財布の中身を広げて、貨幣を種類別に分け始めた。
選り分けた鉛銭を地面に落としていく。
「すっ、捨てるの?」
エリスが動揺して訊ねると、アリアは平然と肯定した。
「重いからね」
例えば少額貨幣であるミヴ鉛貨などは、近隣の町で鋳造された私鋳銭である。
鋳造元のローナでは鉱石や毛皮、穀類や家畜など様々な物産と交換できるが故、近隣の村々では其れなりの価値を保って流通しているものの、河を渡ってしまえば貨幣価値はそれだけで三分の一にも、五分の一にも落ちてしまう。
裕福らしい女剣士にとって狭い地域でしか通用せず、重たいだけで価値の低い鉛銭は、河を越えても持ち歩く価値はないのだろう。

「りょ、両替すればいいじゃない」
「この辺りの村に、両替商なんているかね?」
「……勿体無い」
「重いし、鞄が傷む。大体六十枚で銅貨一枚分くらいしか価値がない」
「捨てるなんてとんでもない。私が両替する」
くれとは云わなかったのがエリスの矜持かも知れない。
黒髪の女剣士は翠髪のエルフをしげしげと眺めると、頷いた。
百枚近い鉛銭と錫銭を全部纏めて銅貨一枚でいいと告げる。
捨てようとした癖にくれはしないが、エリスも依存したくないので其のレートで妥協した。
道端で交換し、錫や鉛の貨幣で一杯になった財布を幾つか鞄につめる。
「もう、元の財布いらないかな」
ほくほく顔をしているエリスに、アリアは断固とした口調で告げた。
「君が行かないなら、私一人で行くぞ」
「確かめたい事とやら、か。実は私も気になるよ」
二人の娘は何とはなしに顔を見合わせた。

 踵を返したアリアとエリスは、昨日の足跡を辿りながら丘陵地帯へと踏み込んでいく。
丘陵の隙間を縫うように、昨日通った道を三度歩いていく。
黙々と、だが、悪くない雰囲気だった。
道でもない道の為に幾度か迷うも、昨日なので鮮明な記憶のうちに探るのは容易だった。

 やがて見覚えのある丘陵が現れ、頂に辿り着くも、其処には在るべき物が一つなかった。
頭蓋を砕かれた小男の死骸はあったが、女の死体がない。
「赤毛の死体が見当たらないな。七箇所も切り刻んでやったのだが」
「……あの怪我で生きていた?まさか」
アリアはじっと地面を見つめて呟き、エリスは少し恐れを含んだ眼差しで周囲を見回していた。
「……まあいいさ」
黒髪の女剣士は気を取り直したのだろう、旅の連れに手を振った。
「兎に角、昨日、此方の方角から君は来た。行ってみよう」

灌木や茨の生い茂った丘陵少し歩くと、比較的すぐにエリスのマントが見つかった。
「私のマントだ」
半エルフの娘が弾んだ声で歩み寄る。
マントは岩の上で雨ざらしになっていたが、半日なのでさほど痛んではいない。
すぐ近くで財布も見つかった。傍にある大き目の草叢の泥濘の底に転がっていた。
ベルト代わりの布と、繋がっている財布に水筒も見つけた時は、エリスははち切れんばかりの笑顔を見せた。
「……後は棍棒か」
立ち上がると憂鬱そうにエリスは呟きを洩らした。
少し覚悟してその方角を見つめてから、翠髪のエルフはやや陰鬱な顔をしてゆっくりと歩き出した。黒髪の女剣士が無言で隣を歩く。


 丘陵の傾斜を降りると、エリスは少し歩き回ってから愛用の棍棒を見つけて拾い、周囲を見回した。
盲目の賊は何処かに彷徨い出たのか。姿を見せなかった。
「あいつが脱いだ服もない。
 なんか妙だね。まるで誰かが連れ去ったみたいだ」
妙とは口にしながらも、半ば予想していたのだろう。エリスの声に動揺の揺れはない。

「死んだも同然と言ったな。
 だが、随分としっかりした足取りで歩いているようだぞ?」
黒髪の女剣士の揶揄するような呟きに、翠髪のエルフは冷静な声で反論した。
「そんな筈はない。私はあいつの目を潰したのだから。
 アイパッチで塞いだもう片方の目が実は見えていたとか。
 さもなければ、誰かが手助けしたのだろうね。赤毛の女と同様に」

 盗賊の足跡を見つけた黒髪の女剣士は、しゃがみ込んで地面をじっと観察していた。
足跡はよろめきながらも真っ直ぐと一つの方角へと歩いている。
そして傍らには子供のように小さな足跡がもう一つ刻まれていた。
よろめく体重を支えるように、時折、不規則に深く泥中へ沈みこんでいる。
野生の狼のようにしなやかな動きで立ち上がると、前髪をかき上げてアリアは呟いた。
「盲目か……ホビットめ」
怒りに頬を微かに痙攣させ、厳しい顔つきで足跡の消え去った丘陵の果てを睨んでいた黒髪の女剣士に、半エルフが声を掛けた。
「行こうよ。もう、此処には用はない」




[28849] 17羽 北の村 03     2011/09/27
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:1f041ee4
Date: 2013/06/10 00:33
 戦場を検分し終わったアリアは、暫しの間、顎に指を当てながら厳しい表情で考え込んでいた。
短い付き合いでも誇り高さは見て取れたから、してやられたという想いに耐えているのだろうとエリスは推測する。
岩に腰掛けながら、話し掛けるでもなく連れが答えを出すのを待ち続けた。

 漸くに自分がペテン師に出し抜かれたのだという事実を咀嚼し終わったのだろう。
少し浮かない表情の人族の娘は、やがて顔を上げて口元に苦い笑みを浮かべながら、
「……腑に落ちぬな。奴はあの時、殺そうと思えば容易に私たちを殺せたものを」
 赤毛のホビットは、信じられないような剣技と速さの持ち主であった。
恐らくは、アリアをも上回る手練に相違なかった。
エリスは少し考えてから、
「賊の一味ではなく、連中と顔見知り程度だったのかも知れない」
「仇を取ろうとは思わないが、助けられるから助けていったと?」
アリアの問いかけにエリスは曖昧に頷いた。
想像だけなら幾らでも出来るのだから、明確な答えなど出る筈もない。

 何とはなしに浮かない顔を見合わせてから、二人は南へ向かって歩きだした。
幾分か緩やかな歩調ではあったのは、脳裏に考えを纏める時間が欲しかった為かも知れない。

 アリアが口を開いたのは、歩き始めて暫らくしてからの事だった。
「……やられたな。賊を皆殺しにした心算がむざむざと逃がしていたか」
ホビットではなく、盗賊について考えていたらしい。
黒髪の女剣士は秀麗な容貌につまらなそうな表情を浮かべると、咄と小さく舌打ちした。
「復讐をたくらむかも知れないと?」
「あの手の悪党に限って、毒蛇のように執念深いものだ」
俯いて呟いた危惧を肯定されて、エリスも渋い薬草茶を一気飲みしたように苦い表情を浮かべた。
「……他に仲間がいるかな?」
半エルフの娘は地面に視線を彷徨わせながら、呟くような口調で話し続ける。
「分からん。だが、他に賊がいれば、我ら……主に私の姿形も伝わったであろう。
 つまらぬ事になったものよ。だが、復讐の標的になるとしたら私の方だな」
アリアは、意味ありげにエリスの蒼い瞳と視線を合わせた。
「……一緒に行くよ。ティレーまではね」
あっさり答えると、エリスはやや強張ってた表情に笑みを浮かべる。
「それに多分、他に仲間はいない。いても極僅かだと思う」
論拠はあるのか疑問に思ったアリアが微かに眉を顰めると、無言の問い掛けを読み取ってエリスが目元で笑った。
「……根拠というほどでもないけど、十人以上の賊がいたらもっと派手に活動しただろうし、
 なれ多少の噂くらいにはなっている筈だと思う。違うかな?」
「ふむ、なるほど……まあ、いい。
 盗賊共とて、此方がとっとと地元を離れてしまえば仕返ししたくても出来まい」
少なくとも一人は無力化してるし、もう一人も、命が助かるか如何かも危うい手負いの筈。
余り心配する事でもないと告げてから割り切った。
「出てきたらその時はその時だ」
覚悟を決めて言葉にすれば、エリスもその言葉に頷き、気持ちも楽になると、後は黙々と街道を目指した。

 道すがら黒髪の女剣士は鼻歌を奏で、翠髪のエルフの娘は、時折、立ち止まっては冬に実がなる種のベリーやコケモモなどを採取する。
そんな訳で二人が丘陵を抜けた頃には、太陽はかなり中天に迫りつつあった。

 街道に出るとアリアは初冬の青空を見上げて、まぶしそうに蒼い目を細めた。
長雨が終わったからか。先日までは分厚い雲の狭間で弱々しい光を放っていた太陽は、打って変わって初冬にしてはかなり強い日差しを地上へと投げかけていた。
道端の葦やすすきを揺らして吹き抜ける風も心なしか暖かく、穏やかである。
 今朝は泥濘んでいた街道も、乾燥して大分、歩きやすくなっていた。
長靴も毛皮のマントも持たない旅人になると、天候の具合で道行きを大きく左右されやすい。
此のままの陽気が続いてくれれば文句はないのだがと、エリスが小さい声で愚痴った。

「渡し場に行って艀を見てこよう。あと何か腹に入れようよ。
腹が空いてると碌な考えが浮かばないし、ついでに水浴びもしたい」
エリスが足元に着いた泥を棍棒で払い落としながら、アリアに提案する。
「そうだな。腹も減ったし、モアレ……だったか。北の村の位置も聞けるならそれに越した事はない」

 川辺の小村落に近づいていくと、半エルフのエリスは兎のように尖った耳を小さく痙攣させた。
「川の流れの音が、昨日に比べて大分小さくて穏やかになっている」
「そうか?」
「うん、昨日はもうここら辺から川音がしていたからね」
 寂れた村に入ってすぐに、人族のアリアも河の流れが大分穏やかになっている事に気が付いた。
確かに昨日は強く轟いていた川音が殆ど聞こえてこない。
渡し場の半ば朽ち果てかけたような木造の小屋へ入っていくと、鶏がらのように痩せた老婆に話しかける。
「んにゃ、明日には艀は出るよ」
歯の無い口元をもごもとさせながら背の丸い老婆が長身の女剣士を見上げた。
「今日出しても別にいいんだけどね。まだちょっと水の流れが強いからね。
 念のためだよ。でも、明日の朝には出せるね」
「ほう。朗報だな」
「ああ」
嬉しそうに微笑んだエリスの横顔には確かに他者の目を惹きつける華があって、同性のアリアですら一瞬、見惚れたほどだった。
「……なるほどね。一人旅だと厄介ごとに巻き込まれる訳だ」

「何か云った?」
怪訝そうな半エルフの声に応えずに黒髪の女剣士が明後日の方向を向くと、婆さんと目があった。
「そうだ、婆さん。モアレ村の場所を知ってるか?」
渡し場の老婆は落ち窪んだ目を瞬かせて、首を傾げた。
「……モアレ?知らないねえ。
南に半日歩くとソーンって村があるが、そっちではねえのか?」
「……ふむ?」
「知らないのか。他の人にも聞いてみよう」

 外に出ると次いで村人の二、三人にそれとなく聞いて回ったが、皆、愛想よく対応する者の誰もモアレの名を知らない様子で、エリスは少し途方に暮れ始めていた。
「……行商人たちなら知ってるかな?」
旅人の小屋へ入るが、すぐに首を振って出てくる。
「……参ったな」
「知らんのでは仕方あるまいよ」
肩を落とすエリスにアリアは慰めの言葉を掛ける。
「此処では布は買えんのか?」
「小さい村だし、他人に売れるだけの布はないって」
そう云ったエリスは手に何か抱えていた。
村人から場所を尋ねるついで、蕎麦粉で出来た薄焼きのパンを購ったそうだ。
「蕎麦パンは好きではないんだがな。折角、金が在るなら黒パンを買えばいいのに」
「まあ、待ってよ」
 折角買って来た食べ物に文句を付けるアリアにも朗らかに対応しながら、エリスは器用な手先で蕎麦粉のパンにベリーやコケモモ、爽やかな香草や甘蔓を挟んで見たこともない料理を作り、怪訝そうな旅の連れに差し出した。
「まあ、食べてみてよ。いらないなら、私が二つ食べるから」
蕎麦粉パンは彩りは鮮やかで、見た目にも美味しそうだった。
受け取って一口齧る。口の中に甘味が溢れた。
パンの味が強くない分、香草の爽やかな味と果実の味がそのままに舌先に広がった。
「……悪くない」
まじまじと見つめる。見たこともない料理だった。
「良かった。気に入ってくれた」
軽い昼食としては悪くない。
如何やらエリスは食事を考えたり、工夫を凝らす事が好きな性質らしい。
「本来は小麦の薄焼きパンに蜂蜜や糖で甘くした生クリームで味付けするらしいけどね。
 暖かくて果物の多い南方で工夫された料理なんだって、本に書いてあった」
「字を読めるのか?」
少しだけ驚いたアリアが上擦った声を出した。
「え、うん。基礎の単語と料理関係の言葉を幾つかね。書けないけど」
「いや、読めるだけで凄いぞ」
アリアの珍しい賞賛に、エリスは照れながらも笑って嗜めた。
「大袈裟だよ、もう」
反応からすると、アリアはそれほど読み書きが出来ないのかも知れない。

 軽い昼食を終えると、川辺の草叢で口を濯いだ。
小枝を器用に使って歯ブラシを終えると、エルフの娘は服を脱ぎ始めた。
嬉しそうに川の浅い所に入っていくと、鼻歌を歌いながら水を浴び始める。
またすぐ汚れるだろうに、全裸になって足や躰を洗っている。
黒髪の女剣士は口を指で濯ぎ、顔だけ洗うと草原に寝転がった。
「ねえ、水浴びしなよ」
「やだよ。水が冷たい。今は冬だ」
冬の肌寒い日に水浴びしようなどと誘われても、気は進まない。
「今日はいい天気だよ。
 川の流れも穏やかで水は綺麗だし、日差しも暖かい」
エリスは執拗に水浴びに誘ってくる。
「次に水浴びできる機会が、何時巡って来るか分からない。洗うだけでもしておきなよ」
「昨日、宿で拭いたではないか?」
アリアは面倒くさそうに拒否するが、エリスは中々諦めない。
「年頃の娘がそんなんじゃ駄目だって。ほら」

 アリアは僅かに首を傾げていたが、突然に頷いた。
「思い出したぞ!君のその口の聞き方。国元の婆やに似ているのだ」
懐かしむようにしみじみとした口調で呟かれて、まだ若い半エルフの娘はぎょっとする。
「えっ、誰ですって?」
「国元の婆やだ。よく考えれば年を聞いてなかったしな。つい同じ位の年齢だと思ってしまった。
 年長者の言葉には従うべきだな」
「なに、その言い方。わたしはまだ数えで十八歳だよ!」
「うむ、気持ちは分かる。若い娘と一緒になって、ついはしゃいでしまったのだな。
 だがエリスよ。もう正体は割れてしまったのだから無理はするな。
 昔から年寄りに冷や水は毒だというからな」
エリスが完全に膨れてそっぽを向いたので、アリアは笑いながら服を脱ぎ始めた。


 周囲を見回したアリアは、背の高い草に囲まれた場所を嫌って見通しのいい場所で水を浴びようとする。
「誰かに見られるよ」
「……接近を察知できないではないか」
エリスは眉を顰めて、疑問を口にした。
「村人に襲われるとでも思ってるの?」
「村人とは限らないがな」
「此処は街道筋の村だよ。巣食っていた盗賊も退治したじゃない。心配しすぎだよ」
心配性を窘めると、最終的にはアリアもエリスの意見に同意して、水浴びをし始めた。
常に剣と短剣をすぐ手の届く場所に置いているのには気づいたが、半エルフの娘も何も云わなかった。

 軽く胸の上を手で擦りながら、アリアが溜息を洩らした。
「北の村の位置が分からんではな」
「モアレという名前だったと思うが、聞き間違えたかな」
エリスは聞いた名前の正しさにやや自信が無くなってきているようだ。

 首を傾げたアリアが、少し考えてから言葉を紡いだ。
「……意外と遠いのかも知れん。大抵の村人は、自分の住む村から、一日で往復できる距離より先の土地については何も知らないものだ」
「小屋に行商人たちがいれば、聞けたんだけど……」
「いなかったのか?」
エリスは力なく頷いた。村人の話では、今朝方、連れ立って南へと向かってしまったらしい。
何時までも待っている訳にも行かなかったのだろう。
旅人の小屋には、「太った怠け者のドウォーフが鼾を立てて寝ているだけだった。あとウッドインプ」だけだったそうだ。

 アリアは、引き締まった均整の取れた肢体を惜しげもなく晒していた。
エリスは、水辺の岩に腰掛けながら黒髪の女剣士の体つきを観察する。
引き締まった筋肉の上にうっすらと脂肪がついた身体には、数多の傷が刻まれていた。
数箇所の切り傷や刺し傷が右腕から左腕、脇腹や胸の上、太股にもあった。
どれほどの戦いを経てきたのだろうか。

「旅籠に戻ったら、親父か娘に場所を聞いてみようと思うんだ」
半エルフの娘の言葉に、それとなく岸を警戒している黒髪の女剣士が気もそぞろに頷いた。
年齢のことでからかわれ、まだ留飲の下がらないエリスは、不意に悪戯っぽくにやりと笑った。
水を両手にいっぱい掬い上げて、アリアの注意が自分から逸れた瞬間に投げつけた。
飛び散った水飛沫が瑞々しい肌に弾いて散った。



[28849] 18羽 北の村 04     2011/10/01
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:1f041ee4
Date: 2013/06/10 00:32
 アリアは顔から水滴を滴らせながら、瞬きしてエリスを見つめていた。
「あはは、心配性な人だなあ。大丈夫だって。水浴びを楽しみなよ」
「……なるほど」
直撃した水を拭いながら、可笑しくてたまらない様子で陽気にケラケラ笑っている翠髪のエルフの位置を見定めると、顔目掛けて思い切り水を蹴り上げた。
「……うぴ!」
半エルフの笑顔に水の飛沫が直撃したところに、黒髪の女剣士はさらに水を掬って追撃を浴びせ掛けた。
「あはははははは!うん、此れは楽しいな」
 今度は愉快そうに腹筋を震わせて笑う人族の娘を前に、自分の投げた量の倍する水を被って頭の先から濡れ鼠のようになった半エルフは、翠色の前髪を指先で弄って水滴が滴り落ちるのを確かめると陰気に呟いた。
「……髪まで濡れた。こっちは顔だけだったのに。二回もした」
「先にやったのは君だしな。此れでお相子だな。お終いにしよう」
しれっとして調子のいい事を告げるアリアをエリスはじっと見詰めると、無言で川面にしゃがみ込んだ。
予想していたので、アリアは素早い動きでジグザグに後退しながら反撃の体勢を整える。
二人の娘の叫びの入り混じった笑い声が、初冬の空の下の川面に響いた。



 太陽は中天にあり、穏やかな日差しを川辺の村落の田舎道へと降り注いでいる。
翠の髪をした色白のエルフと、背の高い黒髪の娘が、全身から水滴を滴らせながら、裸に近い格好で川辺の村落の田舎道を足早に歩いていた。
 二人とも顔色は白く、唇は紫色で歯をガチガチと震わせている。身震いし、周囲を見回しながら、
「……誰もいないよね」

 胸着と腰布だけ纏った綺麗なエルフの娘が水滴を滴らせながら旅人の泊まる粗末な藁葺き小屋に飛び込むと、暖炉で魚を焼いていたウッドインプが大きく目を瞠った。
「火種、火種」
口ずさみながら頬に傷跡のあるウッドインプの隣にしゃがみ込んで、枯れ枝を纏めた即席の松明を暖炉に突っ込むと、
 火種を取ってまたすぐに小屋を飛び出していく。
布からはみ出た丸みのある白い尻を瞼に焼きつけたウッドインプは、手元の魚が焦げつつあるのにも関わらず、エルフ娘が出ていく時まで石像のように固まっていた。


「……髪の毛まで濡らす心算はなかったのに。早く乾かさないと」
河原に集めておいた枯れ枝と枯葉の山に火種を突っ込むと、火は徐々に大きくなっていく。
焚き火の傍らにしゃがみ込んで躰を暖めながら、襤褸布で水分を拭い去っていく。
今はまだ真昼の暖かな日差しが地を照らしているが、すぐに初冬の冷気が周囲を包むに違いないのだ。
「こっちは顔だけ狙ったのに」
エリスがぼやきながら、髪の毛を布で拭いていた。
「大笑いするからだ。それにそっちもすぐに髪までかけて来た。
 私の方が髪が長いから、乾くのに時間が掛かるのに……」
アリアが濡れた前髪を拭いた布を絞りながら、文句を云う。
「私だけやられっぱなしだと癪じゃない」
「……胸も小さいと気持ちも小さくなるのだなあ」
何か言い返そうとしたエリスが大きくくしゃみをした。

 土手の上から、なにやらドウォーフの野太い声とウッドインプのキイキイした声で言い争う声が聞こえてきた。
「何か喧嘩している」
呟きながらエリスは頭をごしごしと布で擦り、毛先の具合を確かめる。
「んん、大分、乾いたかな」
女剣士は空を見上げる。太陽の位置は中天よりやや西にあった。
「正午過ぎたくらいか。で、如何する?これから」
「宿屋の親父に、モアレの場所を尋ねてみようと思う。
 親父も知らなかったらティレーで古着を買う心算だけど」
 エリスは今のところ、人族の娘の余分の上着を借りてはいたが、何時までも頼っているのも気持ちがよくなかった。自前の服が手に入るなら、それに越した事はない。


 昼時を少し過ぎた頃、街道筋の古びた旅籠、竜の誉れ亭は盛況を呈していた。
泊り客や近場の常連客だけでなく、通りかかった行商人や自由労働者、巡礼などの旅人が昼飯を食おうと立ち寄ってきて十数人の客で賑わっている。
農民や市民は大半が一日二食で済ませるが、旅人のうちには食べられる時に食べる習慣の者も少なくない。明日にはゴート河の艀が再開すると聞き、旅籠に屯する旅人達の顔色も明るい。
安宿とは言え、宿代が重なれば馬鹿にならないのだ。

 奥の暖炉に掛けられた鍋の底には、残った粥がまだ湯気を立てていた。
大麦の黒パンですら、庶民にはそれなりに値の張る食べ物で、貧しい旅人は雑穀の粥やパン、野菜を煮たスープなどの食事で胃を満たすのが普通である。
近隣に住む老ゴブリンや農夫などは雑穀の粥に舌鼓を打っていたが、客のうちには身なりのいい者もいて、そうした者たちには旅籠の供する食事は不評のようであった。
裕福な商人らしい武装した南方人の五人組などは、数ヶ月も泊まり客のいなかった大部屋を五日ほど借り切っていた。
「ここの不味い粥ともお別れだな」
「ん、如何だ?此れでお別れと思うと名残惜しく思えるんじゃないのか?ライカン」
「止してくれ。清々するよ」
「全く!二度と喰いたくないものだ!」
囃し立てるような笑い声にバウム親父は額に青筋を浮かべていたが、鈍感なのか、図太いのか、南方人たちは気にした様子もなく汚い宿屋だ、もう見納めさ、などと続けていた。
旅籠の娘ジナも、南方人たちを嫌な人たちだと不満げに睨みつける。
父親の料理が褒められたものではないのは事実だが、態々、大きな声で言い募る必要はないと思っていた。
 扉が開いた。二人組の女性が宿屋に踏み込んでくる。
一人は美しい刺繍が為された高価な服を纏った人族の女剣士。
もう一人は、みすぼらしい腰布に不調和な綺麗な上着を着込んだ半エルフ。
この黒髪の女剣士も上客だった。
優雅な身のこなしで室内を見回すと、旅籠の主へと歩み寄っていった。
「ああ、親父。丁度よかった。ちと訊ねたい事があったのだ。……えっと」
連れの翠髪の女エルフが女剣士の耳元でなにやら耳打ちする。
「モアレだ。モアレという村を知っているか?」
女剣士が問答する一方で、エルフ娘は後ろに立って大人しく会話を聞いていた。
一昨日に出会ってから、此の二人はあっという間に仲良くなったようだ。
それが少し羨ましく思える少女は、父親と女剣士の会話の様子を傍らで窺った。

 黒髪の女剣士は金払いがいい上客だし、剣で武装しているからだろう。
肥満した親父は椅子から立ち上がって、獰猛そうな顔に精一杯の愛想を浮かべたが、見ているだけで酸っぱい牛乳を飲んだように気分を良くしてくれる素敵な笑顔だった。
「モアレですかい?」
旅籠の親父も出来る限り丁寧に対応する心算だったが、質問は予想外だったようで困ったように視線を宙へ彷徨わせた。
「……はて、何年前だったかな。何回か行った事は在りますが」
本人だけは愛想笑いだと思ってる精一杯の笑顔を浮かべたまま、太鼓腹に手を当てだみ声で困惑した様子で呟いた。

「あんな辺鄙なところにある村に何の御用で?」
隠すほどの事でもないので女剣士のアリアは正直に答える。
「連れが服を仕立てようと考えていてな。
 いい布が手に入ると聞いたから、寄り道も悪くないと思ったのだよ」
バウム親父は合点がいったように頷いた。
「はぁ、なるほど。確かにあそこの布はいいですよ。
 思い出した。わしも娘の服を仕立てるのに、春先にわざわざ……」
長くなりそうなので、それとなく遮った。
「……娘想いな事だ。で、モアレの距離と場所だが。主人、分かるか?」
「へえ、あれは女房の忘れ形見だもんでねえ」
 バウム親父はオグル鬼のような獰猛な顔に涙を浮かべてると、太鼓腹を揺らして鼻を啜った。
よく見ると、髪には白いものが混じっており、主人が意外と年配である事に気づいたが、腕はまだ太くて逞しい。娘のジナに恋人が出来れば、きっと一悶着在るだろう。
「モアレ村でしたね。ええっと、あそこは、そうですね。朝に行けば、夕方にはかえってこれまさぁ」
「道を教えてもらえるか?」
「それなら此処を出てすぐ東にある北国街道を行けばいいんでさぁ。
 街道沿いですから、真っ直ぐ行けばそのままで辿り着けます」

「ふむ。で途中、道がただの草っぱらになってる所などもあるか?」
バウム親父は少し考えてから頷いた。
「ああ、ありますな」
「では、道から逸れないようにすることが肝心か」
「ええ、そうでさ。道から逸れないのが肝心でさ」
親父は如何にも考え深そうに頷きながら、自分で考えたかのような口調で女剣士の言葉を繰り返した。
「では、目印になりそうな目立つ木とか岩とか、道標になりそうものはあるか?」
「北への道を行けば、そのままつけますから……そうだ。途中に双子の岩がありますぜ」
エリスとアリアは顔を見合わせる。所在無げにしていた半エルフの娘が口を挟んだ。
「ご主人はサンダルだけど、モアレまで行った時も、サンダルでした?」
「……えっと、いいや。遠出の時でしたから取って置きの革靴を履きましたぜ」
旅の連れの質問の意図を悟って、アリアが質問を引き継いだ。
「モアレまで歩いて一刻くらいか?其れとも二刻は掛かるかね?」
(※一刻 2時間)
「……そうですな。ええっと」
バウム親父はうんうん唸り出すが、中々思い出せないようだ。
「大体でいいのだよ」
美しい旋律の優しい呼びかけに、旅籠の親父も落ち着きを取り戻して記憶を蘇らせたようだ。
「昼前に出て、向こうの昼時についたことがありやす。一刻か二刻かと訊ねられたら、一刻半でさ」
「なるほど……如何思うね?
 この親父さんの体格で革靴を履いていれば、一刻に4リーグは進めそうだが?」
(※時速3キロ)
「一刻半なら、大まかに計算しておおよそで北へ6リーグ」
エリスが俯きながら、計算した。
「君はサンダルで、一刻に進める距離は3リーグほど。(※時速2キロ強)
 小雨とは言え長雨の直後だから、道の状態も幾らか悪いだろうし、もう少し時間が掛かると見ていい」
「往復で四刻?」
「布を探す時間も含めれば、一日掛かり。泊まりになるかも知れんな」
世の大半の農民や市民が文盲であるのに、貴族でもないエリスが普通に計算できるのは、アリアにとってちょっとした驚きだった。

「ところで、親父殿。モアレは、どのくらいの大きさの村かね?」
バウム親父も大分、アリアのする質問の意図が飲み込めてきた。
「川辺の村よりはずっと大きいですね。ソーンくらいです」
知らない村の名前を上げられても困る。
「家の数は分かるかね?」
問うてみると、バウム親父は困った顔をする。アリアは助け船に具体的な数を示した。
「十軒か、二十軒か。それとももっと多いかね」
「ええと、二十軒はありやす」
「うむ、手間を取らせた」
 旅籠の主人に喋らせていても埒が明かないので聞きたい事だけを質問したが、それで年長の親父に反発を覚えさせなかったのも、高い身分の者が自然と纏う風格かもしれない。
アリアは、真鍮銭を親父に渡すとエリスと話し合う。
「それだけ大きな村なら、見逃すこともないんじゃないかな?」
「うむ、夕飯を入れてから出発しよう。向こうに宿があるとも限らぬしな」
「さっき食べたばかりだけど……」
「肉があっただろう?体も冷えてしまったし何か腹に入れたいな。焼いてくれ」

 エリスは、兎の香草焼きを革袋から取り出すと暖炉で暖め始めた。固焼きパンも取り出して、一緒に焼き始める。
香ばしい匂いが室内に広がっていくと、部屋の隅にいた巡礼だろうか。
貧しげな灰色服の中年女に連れられた十歳くらいの小柄な痩せた少年が、母親の手をぐっと引いた。
「かあちゃん。腹減ったよ」
「後でなんか探してくるからね。其れまで待ってな」
「おいら、肉喰いたい」
 母親が困ったように微笑むと、少年は振り切って暖炉の傍へと走り寄ってきた。
薄汚れた少年が腹を鳴らして肉を見つめていると、翠髪のエルフ娘は困惑を隠せずにいたが、黒髪の女剣士の方はあからさまに不快そうな顔となった。
「なんだ、小僧。そう云えば貴様、今朝も我々に……」
「こら!」
 野太い声の怒号が室内に響き渡って、小僧を咎めていたアリアを驚かせた。
大枚を払ってくれる貴族の客の機嫌を損ねては溜まらないと、見咎めたバウム親父がどすどすと歩み寄ってきたのだ。小僧の耳を掴むと、もう片手に棒を掴んだ怒れる旅籠の主人の重い体重に床が軋んだ。
「すいません。お嬢さん。直ぐに追い払うんで」
黒髪の女剣士に頭を下げながら、バウム親父が小僧を怒鳴りつける。
「この小僧めが!優しくしてやれば付け上がりやがって!
 お客さんに迷惑を掛けるとは何事だ!鞭を喰らいたいか!」
棒を振り回して、怒鳴り散らした。
中年女が慌てて走り寄ってくると、親父は小僧を押し付ける。
「乞食女めが!働くからというから泊めてやったのに、恩を仇で返しやがって!
 さっさと小僧を連れて薪でも集めてこい!」
「すっ、すみません!」
バウム親父は鼻を鳴らすと、女剣士にはぺこぺこすり手をしながら頭を下げた。
猛獣に笑いかけられているみたいで、アリアは気分が悪くなってくる。
「……もうよい」
御座なりに手を振って、バウム親父を下がらせる。

「……なんだ。あの親父。随分と乱暴な奴だねえ」
エリスが呟くと、アリアはつまらなそうに鼻を鳴らして口を開いた。
「以前、何処かの町で……クレスだったかな。
些細な理由で立派な騎士が貧しい旅人を切り殺した光景を見たことがある」
翠髪のエルフ娘は戸惑っていたが、黒髪の女剣士は言葉を続けた。
「衆人環視の中であったが、騎士は衛兵に幾ばくかの金を払っただけで、後はお咎めなしだった。
 まるで罰金というよりは、死体を片付けさせる為の手間賃と言った感じであったな。
 もしかしたら、私が小僧を殺すとでも思って、親父は庇ったのかも知れん」
前髪を弄くりながら呟くと、エリスから肉とパンを受け取ってアリアは苦笑を浮かべた。


 二人組の女性客は、肉料理を食べ終わると直ぐに旅籠を出て行ったが、後で七人だか、十人だかの盗賊を切り倒した剣士とその連れだと聞かされて母親は青ざめた。
「……母ちゃん。ご免。でも、おいら」
炊事場の隅で少年は母親に頬を強く叩かれた。それから抱きしめられる。
「あとで何か探してきてやるから……我慢してな」
旅籠の娘のジナが歩み寄ってきて、湯気の立った粥を二皿差し出す。
「……残り物だから」
少年と母親に見つめられると、ジナはフッと視線を逸らした。
「其れを食べたら、さっさと薪を取りに行ってね。その後は井戸から水を汲んできて」

「余計なことを」
ぶつぶつ云いながらも、肥満したバウム親父は娘を咎めなかった。
小さな椅子に座ってパイプを吸っていた老ゴブリンが、ニヤニヤしながら
「いい子だ。母親に似てきたじゃないか」


 そろそろ金色の太陽が西の山脈の稜線に差し掛かろうとしていた。
夕陽の照らし出す草原を貫いて北へ伸びた街道を、二人の旅人が道を急いでいた。
「見えてきた。あれが双子岩だね」
人の背丈よりかなり大きめの堆積岩が二つ。道端に並ぶようにして佇んでいる。
「随分と終点に近い場所にあるのだな。何度か、道を外れたか、見過ごしたかと不安になった」
水筒の水を飲みながら、灰色の双子岩に寄りかかるとアリアも微かに汗ばんでいる額を拭った。
夕方が近づいて気温は下がってきている。
周囲は緩やかな丘陵や潅木に囲まれて、風を遮るものはない。
「二刻くらい歩いたかな」
アリアが太陽の位置から、今の時間を割り出した。
「あと少しの筈だね。そろそろ見えてきても……」
云いながら双子岩に登った翠髪のエルフ娘が、不信そうに目を細めた。
「あれは……煙?」
見て確かめると、旅の連れに少し緊張した声で告げた。
「アリア、黒煙が上がっている」
女剣士も岩へとよじ登って目を凝らした。
「烽火……違うな。何か大量の物を一箇所で燃やしている。まるで焼き討ちのようだ」

二人の娘がほぼ同時に動きを止めた。
「今の音は……聞こえた?」
「……これって」
緊張した様子で顔を見合わせ、互いの顔色に同じものを読み取ると、エリスは何かを喋ろうとするが、アリアは岩を飛び降りると必死の勢いで駆け出していた。
凄い勢いで丘陵を駆け上がり、少し窪んだ草叢の後ろへ滑り込んで振り返ると、突っ立ったままの連れに苛立ちも露わな様子で激しく手招きするので、半エルフの娘も慌てて彼女の伏せた草叢へと飛び込んだ。

 アリアは洋袴が汚れるのも構わず地面にうつ伏せとなっているので、エリスも其れに倣った。
緊張しながら、待ち続けていると、やがて前方で甲高い叫びや大勢の大地を踏みしめる地響きのような音が近づいてきた。

草叢へと伏せたまま、二人の娘は前方を緊張した様子で睨み続けている。
「……何処の軍隊だろう?」
「さて……」
話し合う声は既に囁きのように小さかった。

 二人して姿勢を低く保ち、一言も喋らずに息を潜めること三百を数えるほどであろうか。
いよいよ前方から足音が近づいてきた。雑多な五十とも百ともつかないざわめき。
やがて北方への街道の彼方から、夥しい数の戦士の隊列が姿を見せ始める。
甲高い破裂音の多い耳に不愉快な言語を喋りながら、不潔な灰色や薄汚い緑の肌をした亜人が大集団で街道を進んでくる。

「オークだ」
食い縛った歯の間から、女剣士が囁くような低い声で呻いた。



[28849] 19羽 北の村 05     2011/10/04
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:1f041ee4
Date: 2013/06/10 00:34
 オーク共の無秩序な縦隊が、騒がしい音を立てながら丘陵地帯の狭間を通り抜けていく。

 エルフの娘は緩やかに傾斜した丘の草叢から、そっと麓を進む隊列を観察してみた。
街道から少しだけ離れている上に、青い草叢に覗く翠の頭髪はいい保護色となったのか。オーク達に気づく様子はまるでない。

 亜人共の無秩序なだらだらとした行進は、軍勢というよりは獣の群れの移動を連想させた。
細長い隊伍には、やせ細った驢馬や大足鳥などが牽引する幾つもの荷車が連なり、粗末な短槍や抜き身の短剣、手斧などを手にしたオークの兵士達が周囲を守っている。
オーク共の中には雌オークや小柄な年少のオークもおり、大抵が厚手の服や革服など着込んでいたが、中には金属製の輪っかや鋲を縫い付けた革鎧を着込んだ奴もいた。

 荷車には、戦利品であろう。麦や雑穀の麻袋に麦酒の入った素焼きの壷、腸詰や燻製肉、塩の壷、鶏を閉じ込めた木箱、まだ土のついた野菜の山、箪笥に椅子や机、タペストリーなど使い出のある家具に金属製の農具や鍋、フライパン。乱雑に折り畳まれた布など略奪された財貨が山積みとなっていた。
幾つかの荷車には、殺された豚や山羊、そして人間が藁のように積まれており、その傍らを革の鞭で打たれ、牛馬のようにすすり泣きながら連行されていく十数人の若い女や少女たち。
縄で後ろ手に縛られ、数珠繋ぎに歩かされる幾人かの少年や若い男たちもいた。

 オークたちは槍の穂先に髪の毛で結んだ人族の中年や老人、子供、老若男女の首を掲げていた。
「……酷い」
今朝までは素朴な村人であったのだろう彼らは、今は首だけとなって虚ろな眼差しで宙を睨み付けていた。
息を吸って呟いたエルフ娘が顔色を蒼白にしているのを横目で見ると
「あまり見ない方がいい。目をつぶれ」
此方は繁みの下部の隙間から覗いていた女剣士が、些か厳しい表情で忠告してきた。
「深呼吸しろ。音を立ててくれるなよ、エリス。見つかれば私たちもオークの雌奴隷だぞ?」
少し上擦った掠れ声に微笑みを浮かべると、女剣士は再び眼下の敵の偵察に戻った。

 目に映るオーク共はなにやら昂ぶっており、口々に喚き立て、吼え声を上げては、興奮した様子で早口になにやら喋っていた。騒音が大軍と錯覚させたのであろうか。当初、考えたより軍勢は少なく、しかしそれでも百は下らぬ数である。

 古の時代より、炉辺で語り継がれてきた英雄譚に敵役として欠かせず登場するオーク族ではあるが、
生憎とオークがやられ役なのは吟遊詩人の詩歌の中だけの話である。
実際のオーク族は、勇気と智恵は劣るものの狡猾さと残酷さでは人族を上回っているし、
膂力と体躯は人間に伍し、地道な努力を嫌うが頭だってそう悪くはない。
鉄や鋼の武具で武装した彼らは、けっして侮れない相手である。
オークと同数の兵士や冒険者が激突すれば、勝敗はどちらに転ぶか分からないし、勝った方もけして無事ではすまない。物語と違って数に勝るオークと戦って勝てる勇士は、そう多くいないのだ。


 穴鼠のように縮こまって草叢の影に隠れている二人の娘の直ぐ目と鼻の先、街道を南下していくオークの武装集団は、如何見ても百を大きく上回る数に見えた。
アリアが如何に手練の剣士と云えども、あれだけの数のオークを相手にしては一溜まりもない。
もし見つかってしまえば忽ちに取り囲まれ、幾人かは倒すことが出来ても、やがては取り押さえられ、運が悪ければそのまま貪り食われ、運が良くとも眼下の奴隷女の列に加わる運命が待っている。


 エルフの娘はじっと目を瞑って、オークの軍勢が通り過ぎるのを森の祖霊神に祈っていた。
森エルフ族はオーク族の宿敵で、オーク族は森エルフ族の宿敵である。
そしてエリスは、森エルフの血を色濃く引いていると分かる鮮やかな翠の髪をしていた。
生きた心地もしなかった。吹き出た冷や汗が背中をじっとりと濡らす。
息を潜めて隠れている半エルフの娘の僅か百歩ほど先の街道に無数のオークがだらだらと歩いていく。
荷車の軋む音、山羊や牛、大足鳥といった畜獣の嘶き、酒と勝利に酔ったオーク共のけたたましい雄叫びや喚き声に入り混じって、時折、若い女たちの咽び泣くような悲痛な叫びが風に乗って聞こえてくる。
「七十二……七十七……八十二……八十四、五……」
傍らの女戦士は、聞き取れないほどに小さな蚊の鳴くような声でオークを数え上げていた。


 地面に顔を埋め、目を閉じて、恐怖に脂汗を流しながら必死に耐える。
爽やかな香りのする葉っぱを腰の革袋より取り出すと、噛んで気分を誤魔化す。
エリスの心が恐怖でどうにかなりそうになった時に、アリアが手を握ってきた。
暖かく力強いその手に縋りつくように強く握り返す。時折、抑えきれない躰の震えが伝わったに違いない。どれくらいの時間が経っただろうか。気がついたら風の吹く音だけがしていた。
「……行ったぞ」
女剣士の声に顔を上げる。

「通り過ぎた……が、まだ街道には出るな。
 後続の隊や斥候、或いは隊伍から遅れている者がいるかもしれないからな」
エリスは地面に仰向けに寝転がると躰を伸ばし、胸を動かして大きく喘いだ。

 さらに四半刻近く隠れていたかも知れない。
「もう、いいだろう」
様子を窺っていたアリアが頷いた。
「……用心深いね」
「オーク共が斥候を立ててなくてよかった。
 訓練を受けた正規の軍勢ではあるまい。恐らく、何処かの部族だろうよ」


「……女の声も混じっていた」
「武装した雌オークもいたが、若い人族の女たちが数人、縄で縛られて連行されていた」
云ってからアリアの秀麗な容貌に暗い翳りがさした。
「……戦利品だろうな」
そう呟いてから、人族の娘はオーク達の去っていた南の方角を切れ長の瞳で鋭く睨んだ。
「奴ら、どこかで一戦してきたに違いない。
 手負いや返り血を浴びてるものがかなりいた。それも小競り合いではない」
人差し指を頤に当てながら、黒髪の女剣士は若干俯いて考え込んだ。
「驢馬や大足鳥なんぞに大量の布や食料、機織り機まで積んでいた。
 戦利品の量から、何処ぞの大きな村か荘園への襲撃を成功させたに違いない」
翠髪のエルフは苛立ちを隠せず、思わず棘々しい言い方をしてしまう。
「どこか?この先にある大きな村はモアレだよ」
「では、我らは無駄足を踏んだな」

 少し取り乱しているエリスを冷やかに一瞥してアリアはなにかを考え込んでいる。
「……行ってみるか」
「……危なくない?」
エリスの危惧に対してアリアは肩を竦める。
「どの道、モアレで一泊する心算だったし、戻れぬだろう?
 奴らは南下したのだ。北に抜けるしか在るまい」
半エルフの娘も考え込んだ。明後日の方角に視線を彷徨わせながら難しい顔で言った。
「他のオークと遭遇しないかな」
「何とも云えん。だが、連中の向かった南に戻るほうが危険だろう。
 それとも、地図や食料も無いのに丘陵を抜けて東の曠野に彷徨い出るかね?」
西への道はゴート河の流れが遮っている。
他に妙案がある訳でもなく、それでエリスも折れた。


 黒煙を目印として半刻ほど歩き、モアレ村に到着して初めに目に入ったのは、黒く焼け焦げて骨組みのみとなった家屋の残骸だった。何時、亜人や賊に襲われるか分からぬ辺境の自治村ゆえに備えは万全であったのだろう。村の柵も大きく頑丈に作られ、彼方此方に石垣や柵逆茂木などが設置されている。
村人の激しい抵抗も為されたようで木製の鍬や殻竿、棍棒などを手にした村人の男たち、稀に女の亡骸に加えて、やや少ない程度の数のオークの死骸が其処此処に転がっているのが目に入った。

「奇襲であっただろうに、村人は激しく抵抗したようだな」
見回したアリアの言葉にエリスも頷いた。
村中に激しい戦闘の痕跡が残っていた。オーク達が大きな代償を支払わされたのは間違いない。

 モアレは、かなり広い村だった。畑と畑、そして木々の生い茂る林の間を結ぶように小さな細い道が繋がれ、そして質素な農家であったのだろう焼け焦げた廃屋が点在していた。
見回すと北に家屋が集中して建っている柵に囲まれた一角があって、まだ黒煙が濛々と立ち上っていた。
「生き残りがいるかも知れんな。探してみるか?」
アリアが言うと少し迷ってからエリスも頷き、抜き身の剣と棍棒を片手に、二人は慎重に廃村の中を探索し始めた。


「誰もいない。なにもない」
家々を廻って四軒目。エリスはポツリと呟いた。
建物は焼かれ、柵は破壊され、完全な焼失や破壊を免れた農家に少し踏み込めば、家畜は勿論、家具という家具、農具という農具、壷や皿、鍋から釜までありとあらゆるものが持ち去られているのが分かる。
 人族の女剣士が天を仰いだ。流血に慣れているにも拘らず、この惨状に些かうんざりしているようだ。
半エルフの方は逆に余りの衝撃に感覚が麻痺したのだろうか。恐怖も何も感じていないように見えた。
「部族のオークはそれほど冶金や工芸に優れておらんし、金属製品は重宝するだろう」
「……でも、オークでも、この規模の村を襲うのは珍しいよ」
「口減らしと略奪をかねているんだろう。きっとな。今年は冷夏で作物の出来も不作だったからな」
畑にさえ何もない。焼かれるか、さもなくば剥き出しの土となるほど荒らされている。
オークたちは、まだ育ちきっていない畑の野菜や穀類まで収穫していったようだった。

 半エルフのエリスがすんと鼻を鳴らした。
大気の匂いを嗅ぎ、周囲を見回しながら形のいい尖った耳を動かした。
「こっち、物音がした。肉を焼くような匂いもする」

 アリアは陰気に黙り込んでいる。
「行こう」
「……待て」
歩き出した翠髪のエルフ娘を女剣士が押し止めた。
「……慎重にな。我らの手に負えない数のオークや、或いはオグルなどがいるかも知れない」
緊張した面持ちでエリスも頷いた。

 離れにある木造の納屋の近くまでそっと忍び足で歩み寄っていく。
「……この先」
「用心しろよ」
翠髪のエルフ娘は古い納屋の角からそっと覗いてみた。

 村人たちの死骸の傍に、緑の肌をしたオークが二匹。そして焚き火。
革の鎧をつけて片方は小剣を腰から吊るし、もう片方は錆びた短槍で武装していた。
オークたちは肩に金属製の鍋や布などを背負っており、焚き火の側に座って何かを焼いていた。
「……何か食べてるみたい」
エリスが小さい声で囁き、アリアも覗いてみた。

「グ・ズーズ!早くくれよ!我慢ならない!」
「大声出すな、チョ・ヤル!この馬鹿が!図々しいウスノロ共にたかられてえのか!
見つけたのは俺が先だからな。最初に喰うのは俺よ」

「あいつら、なにを食べるって?」
翠髪のエルフ娘が呟き、人族の娘は嫌な予感に背中を震わせた。
エリスに目を逸らすように忠告しようかと、数瞬迷って口を開きかけた時、
「焼けたぜ。美味そうよ。猿共は小娘の味が最高よ!」
焚き火から取り出したこんがり焼けた人間の掌を咀嚼し始める。

 エリスの胃が痙攣した。静寂の立ち込めている村の中に誤魔化しようのないいような音を立ててしまう。
「……なんだあ、この音?」
もう一匹のオークが納屋へと振り向いた。口元には焼けた人間の足を喰らっていた。

 口を抑えながら崩れ落ちると、翠髪のエルフ娘は吐瀉し始めてしまった。
酸っぱい匂いが地面へ広がった。
黒髪の女剣士は剣を構えながら、片手でエルフ娘の手を引き、無理矢理に立ち上がらせようとする。
「エリス!棍棒を取れ!来るぞ!」

「へっへっへっ、まだ隠れていた女がいたぜ。ねらいどおりだ」
「おうおう!グ・ズーズ様のあだまのいいごどよ」
口々に自画自賛しながら二匹のオークは武器を構えつつ納屋へと歩みよって来る。
「ででごい!毛なし猿のチビ奴隷共が!大オークの一撃を味合わせてやるぞ!」

 オーク共が近づいてくるのに、エリスは納屋の壁に手をついてしゃがみ込んだままだ。
苦しげに表情を歪め、涎と涙で顔を汚しながら荒い呼吸を繰り返している。
よろめきながら立ち上がろうとするが、吐き気と震えで思うように動けないらしい。
顔色を蒼白にした半エルフ娘のが使い物にならないと見て舌打ちし、彼女を物影に置いたまま黒髪の女剣士は物陰から進み出た。
 先日の盗賊共と違って、オーク共は革鎧を纏って短槍と小剣で武装している。
その上、エリスを庇う位置にいる為にアリアは不利を承知で二対一で戦わざるをえない。

「へへへ、雌猿め。このチョ・ヤルとやる気らしいぜ」
「ぐはははー!最強のグ・ズーズさまの剣捌きを見ておそれいろ!チビにんげんが!」
オークというのは、誰も彼も自惚れが凄まじく、自分達を世界最高の種族であり、己を最高の使い手だと信じているものだ。
大半は怠惰な怠け者で口ほどにもないのだが、中にはそれなりに鍛錬を積む者もいる。
如何にも武器を使い慣れた様子から、二匹は恐らく後者の類であろう。
口々に威嚇の叫びを上げながら、武器を振り回して黒髪の女剣士に猛然と迫ってくる。
どうやら、楽はさせてくれそうもないな。
唇の端を赤い舌でちろりと舐めると、アリアは狼のようにオーク共に踊りかかった。




[28849] 20羽 北の村 06     2011/10/06
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:1f041ee4
Date: 2013/06/10 00:36
 猛々しい雄叫び、剣戟の音、地面に長靴を擦る音、血飛沫の地面に滴る音、悪罵と呻き声。
口元の吐瀉物をがしがしと拭うと、エリスはよろめきながらも気力を振り絞って立ち上がった。
「……足手纏いになる訳にはいかないね」

 オーク達は中々の使い手であったけれども、過去にはウルク・ハイや大オークすら悉く倒してきていたアリアは数段、上手をいっていた。オークの振り下ろした短槍を弾き躱すと、跳ね上げた刃で剥き出しの腕を切り裂いた。
切り返しに敵の武器を持つ手首を切り裂くのが黒髪の女剣士の得手とする技で、体躯や膂力に勝る敵手をこの戦術で幾十人となく屠ってきたのだ。
いぼのある醜い顔を歪めて絶叫するオークを他所に、もう一匹が突き出した小剣を避けると、その革鎧を貫通してオークの腹に剣先を叩き込む。
 磨き上げられた技に俊敏さを兼ね備えた女剣士は、防具の不利を物ともせずに危なげない戦い振りでオーク共を追い詰めていくが、グ・ズーズには根性があった。
深く腹を貫かれた自分がもう助からないと悟るや、傷が深くなるのも構わずに両腕を広げるやアリアにはっしと抱きついたのだ。
「チョ・ヤル!やれぇ!」
 潰れたような低い鼻と乱杭歯の口から鮮血を吹き出しながら、必死の表情を浮かべて叫ぶ。
アリアは動きを拘束されながらも、自由な左手で素早く腰の短剣を引き抜いた。
冷静沈着な動きで喚いているオークの首筋を切り裂いて絶命させるも、躰を引き離すよりも早く、短槍を持ったオークが思い切り突っ込んできた。
 躱せない。黒髪の女剣士は背筋に冷たい死の息吹を感じるも、紙一重で通り過ぎていった。
横合いから翠髪のエルフ娘が猛烈な勢いで突っ込んできてオークの腕に棍棒を叩きつけた。
オークは僅かによろめき、軌道の逸れた短槍をアリアは躰を捻って躱すも、脇腹を灼熱の苦痛が走りぬけた。
 脇腹は三寸ほども切り裂かれ、赤味の肉が覗いた傷口に見る見る血が滲んでいく。漸く拘束を解き、腹を抉られた怒りに雄叫びを上げながら振るった長剣の反撃は、オークの腕を切断した。
灰色の醜い顔を恐怖と苦痛に歪めてオークが絶叫する。
返す一撃でオークの腹を深々と切り裂いて絶命させるも、人族の女剣士も直後に膝から地面に崩れ落ちた。

「終わったな」
荒い息で立ち上がったアリアが納屋の壁に寄りかかると告げた。
掌で傷口を押さえ付け、出血を防いでいた。額には玉の汗が浮かんでいる。
歩み寄ってくるエリスを見て、苦みばしった笑みを浮かべた。
「……腹をやられてしまった」

「……すまない。私がもっと早く」
人食いの光景に衝撃を受けたのは分かるが、言い訳にはならない。
「モアレに来るといったのは私だ。辛気臭い顔をするな」
しかし、黒髪の女剣士は手を振って、翠髪のエルフ娘の謝罪の言葉を遮った。

 エリスも気を取り直すと、壁に寄り掛かるアリアの傍らにしゃがみ込んだ。
「傷を見せてくれるか?」
人族の娘は掌をどけた。出血が止まらない。
傷は浅いが大きかった。だが、貫通している訳でもない。
「助かるか、死ぬか。このくらいの傷なら、多分助かるだろうよ。
 死んだとしても、まあ、その程度で在ったという事だろう」
達観しているのか。或いは虚無に捕らわれているのか。
他人事のように呟く態度に戸惑いを隠せないエリスを眺めながら、アリアは呟いた。
「人間、いずれは死ぬものだ」
「いさぎがよすぎる。アリア」
半エルフの娘の声は震えていた。
「……いや。半分、冗談の心算だったんだが」
「笑えないよ」
アリアは落胆する。彼女が口にする冗談は、何時も人の顔を強張らせるのだ。


 エリスは、指の汚れを水で洗い流してからアリアの傷口にそっと触れてみる。
「……ッ!」
女剣士が小さく息を吐いた。秀麗な顔を苦痛に歪めるも、呻き一つ洩らさない。
内臓はやられてない。脂肪と若干の筋肉だけだ。
「……臓物には届いてない。大丈夫。掠り傷だよ」
実際には半エルフ娘の言うほど軽くはない。
傷口はかなり深々と裂かれており、相当な苦痛の筈だが、アリアは平然としていた。
「そうか。助かるといいな」
 やはり他人事のように呟くと、壁から離れてしっかりとした歩調で歩き出した。
倒れているオークの喉元に剣を突き刺し、確実に止めを刺してから短槍を拾い上げた。
穂先が錆びているのを見て、アリアは眉を顰める。
「毒素が恐いな」
汚れや錆びは、往々にして破傷風の原因となる。
明確な知識とは成っておらずとも、アルコールが多少の殺菌になるとは経験則で知られていた。
「勿体無いが仕方ないな」
ボヤキながらワインの入った水袋を取り出して傷口を洗い出した。

「手当てをさせてくれる?」
半エルフの娘は自分の腰の革袋をごそごそと弄くって、何かを探し始めた。
「……手当て?包帯でも巻いてくれるか?」
「縫ってみる」
鉄製の針と糸を見つけ出し、焚き火に近づいていく。
オークの持つ鍋を拾い上げ、ためつすがめつ確かめる。
「……縫う?なにを縫うのだ?」
怪訝そうに問うアリアに、エリスは手真似しながら
「こう、針と糸で傷口を……」
「縫うだと!私の躰を縫う!ハンケチみたいに!?君は気でも違ったか!?」
 叫んだ途端、痛みが走ったらしい。アリアは躰を海老のように曲げた。
普段は硬性の強い光を宿した黄玉の双眸に、理解と恐怖の色が浮かんだ。
「森ではそうやって直したよ。私も猪の牙にやられた時に姉にそう縫って貰った」
ほら、と服を捲って太股の上方を見せ付けると、確かに古い傷跡があった。
「嫌だ。傷を縫うなど、エルフは狂ってるに違いない」
黒髪の娘は、断固とした姿勢で拒否する。
「助かるものなら助かるし、死ぬ時はどうやったって死ぬものだ。人はいずれ皆死ぬ」
云っている事は歴戦の勇士だが、腰が引けているのでまるで格好がつかない。
「……死を覚悟しているなら、平気でしょう」
「死んだ方がましだ。針で縫われるなど……」
エリスが歩み寄るも、呻き声に近い声で首を振りながらアリアはじりじりと後退した。
周囲に転がる村人の死体に足を阻まれると、今度は横に逃げ出す。
「槍で刺されても平気なのに、針が恐いの? 」
呆れたといった調子で半エルフ娘が肩を竦めた。
「……意外と臆病なのね」
「なんだと!」
「だって、そうじゃない。こんな指の先みたいな針なのに……
 エルフの子供だって平気なのに、立派な剣士が泣き言なんてね」
針を振りながら、翠髪のエルフ娘がにんまりと笑った。
「……きっ、貴様!」
頬を朱に染めて喚くような声だった。
「針で刺される事を嫌がって死んだ剣士。此処に眠るってお墓に書かれるよ?」
云ってからエリスは声の調子を切り替えた。懇願するように呟く。
「……助けるから、信じてよ」
アリアが根負けしたようについと視線を逸らした。
「……好きにしろ」


 湯を沸かし始めると、糸とオークから奪った布を切り裂いて鍋へと放り込む。
熱が毒素を殺してくれるのだとエリスは説明するがアリアは聞いてない。
青ざめた顔で迷信が如何とか、エルフのまじないとか、野蛮な風習の哀れな犠牲者にとか、ブツブツ呟いている。
「迷信でもまじないでもないって」
エリスは一回針を火で炙ってから、お湯につけて冷やした。
黒髪の女剣士は恐怖も露わな瞳で針を見つめていたが、目をギュッと閉じる。
「よし、やれ」
針が肉に刺さると、切なげに溜息を一度だけ洩らしたものの、もう逆らわなかった。
エルフ娘は傷口を洗い流してから、肉と脂肪の切れ目に糸を通し、少しずつ塞いでいく。
 アリアは歯にハンケチを噛みながら、石のように不動だった。
傷口を縫ってる間も一言も洩らさず、縫い終わってからエリスの取り出した膏薬を見る。
「……其れは?」
「タンポポとガマの穂に毒消しの効を持つ苔を混ぜた軟膏」
「……苔?」
怪しげに呟いたが抵抗しない。
「毒消しと血止めの効果が在ります」
云った半エルフの娘が軟膏を塗りつけてから、煮沸した麻布をよく絞って包帯として巻いていく。

「……少し休みたい。些か疲れた」
黒髪の娘が珍しく弱々しい口調で呟いた。無理もないと翠髪のエルフ娘も頷いた。
二日続けて連戦の上に歩きっぱなしである。疲労も溜まっているのだろう。
「納屋の中の方がいい。隠れられる」
「……そうだな」
元気なく応えて納屋へと入り、藁の上に転がる。

 目を閉じて躰を休めているアリアを見つめてから、エリスは踵を返した。
「……食べ物を探してくる」
納屋の外へ行こうとして、止められる。
「村には他にもオークが残っているかも知れぬ。見つかったら厄介だぞ」
「でも、食べ物も大してない。何か……」
「外のオーク共が何か持っているかも知れん」
「オークの食べ物?ぞっとしないね」
仮に肉類を持っていてもエリスは食べる気はしない。が、アリアは譲らなかった。
村人から奪った穀類なり麺麭を持っているかも知れないと云う。
 エリスは舌打ちすると、仕方なく納屋の裏庭へと出て行き、オークの懐を探るが彼らの間で流通する僅かな鉛の小銭の入った巾着に鉛の指輪など、碌なものを持ってない。
蕎麦の団子らしきものが見つかったが、独特の匂いを嗅いだエルフは嫌そうな顔でほうり捨てた。
「……うえ、腐ってる」

暫らくすると黒髪の女剣士も表に出てきた。少し休んだだけで顔色は随分と良くなっていた。
「休んでいなよ」
「久しぶりの痛みだ。このくらいなら生きている証さ。寧ろ心地いい」
歩き出したアリアを心配そうに見つめるも、秀麗な顔に脂汗と笑みを同時に浮かべている。
生来タフなのもあるのだろうが、強がっているのか、本気なのか。
如何も今ひとつ分からない処があるとエリスは肩を竦めた。

 オークの食いかけの小さな掌が足元に落ちている。
大きさから見て、それほど年端も行かぬ子供の手首であろう。
やはり注意力が散漫としているのか。踏みかけて眉を顰めた女剣士は、村人達の死体を見回した。
埋めるにも焼くにも人手がない。
放置しておけば、疫病を恐れて人も寄り付かなくなるが、住民の殆どが死に絶えてはどの道、廃村は決定的だろう。
いずれ風化するまで、時の流れに任せるしか無さそうだった。

「この娘の腕か」
手首から先を切られた栗毛の少女を見つけて歩み寄り、何気なく呟いてから首を傾げた。
死者にしては顔色が随分といい。
少しずつ食べる心算だったのだろうか。
左手の傷口を焼いて、縛ってあるが、其処からじわじわと血が滲んでいた。

「ふむ、もしや……」
水筒の綺麗な湧水は勿体無いので、オークの腰から水筒を取って濁った水を顔にかける。
地面に投げ捨てられた年端もいかない村の少女は、苦しげな呻き声を上げて咳き込んだ。
「うっ ぷぺっ」
確認してから周囲を調べている半エルフの娘の背中に声を掛けた。
「これはしたり!エリス……この娘、まだ生きてるぞ」




[28849] 21羽 北の村 07     2011/10/09
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:4d438691
Date: 2013/06/10 00:37
 村人達と似たり寄ったりの粗末な布服を纏った少女は、服装から見ても、モアレに住む農民の子に違いないであろう。古びた納屋の裏庭で死んだように横たわって、か細い呼吸を苦しげに繰り返して胸を上下させている少女の左腕は、手首から先が切断され傷口は焼かれて黒く炭化していた。
「……なんて惨い仕打ちを」
義憤に耐えかねたように歯を食い縛っているエリスが怒りを露わにするのとは裏腹に、アリアの方は奇妙に冷めた眼差しで少女を見つめていた。
「兎に角、此の侭に放置しておく訳にもいかぬだろうよ」
云って少女をそっと抱き上げると、アリアは納屋へと歩き出した。
先に納屋に駆け込んだ半エルフの娘は、隅に山と詰まれた藁を使って急ぎ寝床を整えていく。
藁の寝床に慎重に降ろすと、黒髪の女剣士は村人の付けていたマントを持ってきて少女に掛けてやった。


 納屋の隅に詰まれている小枝や藁を積んで薪とし、火を付けた。
山積みされた藁を螺子っては、焚き付けに放り込んでいく。納屋にいる二人の娘は焚き火の傍で顔をつき合わせ、浮かない顔で対話する。アリアはやはり藁の上に寝転び、エリスは憂鬱な表情で土壁に寄り掛かっていた。
「まだ村にはオークがうろついているに違いないね」
連れの呟きにもアリアは反応を返さずに、難しい顔付きをして炎を見つめていた。
気にした様子もなくエリスは戸口から覗く蒼天を仰いで再び呟いた。
「夕暮れには、まだ幾らか時間があるけど……」
「オークの中には夜目が効く連中も混じっている。移動するなら早いうちだぞ」
アリアが炎を眺めながら独りごちるように呟いた。
人族の娘の言葉に頷いてから、エルフの娘は視線を転じて藁の寝床に眠る村娘を見つめた。
焼かれた腕は、今は膏薬と包帯で丁寧に止血されている。

「具合は如何だ?」
「分からない。……傷の毒素が全身に廻らなければ、多分、助かりそう」
出血が少ないのが幸いしたか。エリスの見立てでは十中八九命は助かりそうだった。
身内を全て失い、不具となった状況で一命を取り留めるのが果たして幸せなことかどうか確信できぬまま、エルフの娘は少女に手当てを施している。
 油でも在れば、惨く焼かれた傷口に塗って痛みも幾らかは軽減できたかも知れない。泣きたくなるような気持ちを抑えて、エリスは俯いていた。憂鬱な気持ちに沈んでいる翠髪のエルフの娘を少しだけ優しげな眼差しで眺めた後、アリアは話題を転じた。
「水と食料はどの位在る?」
「三日分」
エリスは即答し、アリアは眉を顰めて瞑目している。
「節約して?」
「節約して」
暫しの沈思の後、アリアは云いにくい事をきっぱりと口にした。
「連れてはいけないぞ」
「……分かってる」
二人の娘は顔を見合わせた。
焚き火がぱちんと音を立てて爆ぜた。
「……仕方のないことだ。見ず知らずの娘だし」
自分自身の言動に唾を吐き捨てたい気持ちになりながら、翠髪のエルフの娘は言葉を続ける。
「うん、足手纏いになる。せめて目覚めてくれればね」

アリアにしてからが、さすがに背負って連れて行くほどの体力の余裕はない。
気のいい半エルフの娘にとっては、仕方がないと思いつつも辛い判断なのだろう。
切れ長の蒼い瞳に切なげで沈痛な光が宿っていた。
黒髪の女剣士はほろ苦い自嘲の笑みを浮かべてから、話題を再び変更した。

「私はモアレから北……と言うより此の辺りの地理には詳しくない。東国の人間だからな」
翠髪のエルフの娘は、顔を上げて東国人の女剣士をじっと見つめた。
「君は如何だ?」
「私は南。レイジーヌ近くにあるエリオン森の生まれ、といっても知らないよね」
「うむ。レイジーヌもエリオンも知らぬな」
「結構、大きな港町だと思うんだけどね」
エリスは少し強張った微笑を浮かべてから、肩を竦めた。
「南の街道は何度か通り抜けた事が在るけど、其処から外れた土地となると……」
「分からぬか」
アリアは声を落とし、前髪を苛立たしげにかき上げる。
「……北への道は、丘陵を縫うようにして続いているとだけ聞いたことがある」

「……北へ抜けるか。南へ戻るか」
エリスが歌うように呟いて、アリアを意味深に見つめた。
「南は問題外だ」
「そうかな。本隊さえ何とか避けることが出来れば……川を渡ってしまえば」
エリスの案にも一理あるので、アリアは頭を振った。
「では、難しいと言い換えよう」
言い直して、黒髪の女剣士は手近な枯れ枝を手に取った。
無造作にへし折ると焚き火に放り込む。揺らめく炎が二人の娘の顔を照らしていた。
「とは言え、奴らが南下してきた部族だとすれば、北にある道中の村々や農園も荒されているであろうし、落伍した者や逸れたオークの兵がうろうろしているやも知れぬな」
「大規模な侵攻の先触れかな」
「なら、なお悪いぞ?」
翠髪のエルフ娘は訝しげな瞳を女剣士に向けて、無言で問いかける。
「きっと要所要所に少なからぬ兵が駐屯しておろう」
遥か北方の曠野や高山地方に勢力を誇るトロル王や配下のオグル、オークの首長たちは度々軍勢を起こしては南下して、ヴェルニアの人族やエルフ族の諸国家を脅かしている。

「まさか。北方の王たちやその騎士団がそう容易く破られるとも思えんが……」
憂鬱そうに呟いたアリアは顔色が悪かった。
出血の為というよりは、想像の翼が悪い方向に働きかけたのだろう。
「……十年か前。城砦群を迂回したオークの大規模な別働隊が中部地方を荒らしまわった事がなかった?」
 如何にも嫌そうな翠髪のエルフの娘の言葉に、黒髪の女剣士は頤に指を当て頷いた。
出身地から遠く離れた中原での話とは言え、当時のオーク族の侵攻で引き起こされた災禍は凄まじく、その伝聞は彼女達の郷土まで伝わっている。
往時の記憶は未だヴェルニアの人々にとって生々しく鮮明であり、今も娘達に幾らかの不安を覚えさせていた。

 その時、少女が苦しげな呻き声を上げた。
立ち上がったエリスが、水筒の水を木の椀に注ぐと少女の唇へと持っていく。

左腕から全身に伸びた嫌な熱の縄で身動きできなかった。奇妙な熱と寒気が同時に躰を苛んでいる。
身体中が乾燥していた。芯までからからに乾いてしまっている。血が蒸発してしまったかのようにも感じられた。
苦しくて溜まらずに呻き声を上げた時、ふと唇に湿り気を感じた。濡れた布で優しく額を拭かれる。

「姉……さん?」
「あっ、目を覚ましたよ」
少女が目を醒ますと、煙るような美しい蒼の瞳の驚くほどに綺麗な若い女性が覗き込んでいた。
尖った耳から、きっと噂に聞くエルフなのだろう。
「ほう、目を覚ましたのか」
 欠伸を噛み殺しながら、狼の毛皮のマントをつけたもう一人の女性がしなやかな動作で藁から起き上がる。
此方も艶やかな黒髪に整った顔立ちの美貌だったが、残念ながら絶世というには些か目付きが鋭すぎた。

「大丈夫か?」
問いかけに少女は夢でも見てるかのようなぼんやりとした眼差しで、二人の娘の顔を見回した。
「……おねえちゃ……貴女たちは?」
「旅人だよ」
「旅人だ。其れと余り大きな声を出すなよ。まだ周囲にオークがいるかも知れない」
釘を刺してから、この様ではとても大声は出せまいとアリアは思った。
少女の顔色は酷く悪く、まるで半死人のように蒼白だったからだ。
「……旅人」
村の少女はポツリと呟いて、気づいたようにハッと息を飲んだ。
「……そうだ。オークが」
「君を襲った奴らなら、外で死んでいる」
黒髪の女剣士の言葉に外に目をやり、自分を襲った恐ろしいオーク達が死んでいるのを目にして、安堵だろうか。すっと涙を零した。
「……あ、貴女達が?」
「まだ起き上らない方がいいね。其処で休んでなさい。それとも火の傍がいい?」
翠髪のエルフが優しい声を出して、動こうとする少女を留めた。

「何があったか。話してくれないか?」
黒髪の女剣士が尋ねてきた。
「……オークが襲ってきて、お父さんも、お母さんも、皆……」
少女の瞳に涙が滲む。
「他には?彼らの数や武装とか、何時、何処から、どんな風に襲ってきたか。
 オークについて村の大人たちは何か口に出してなかったか?何でもいい。思い出してくれ」
 やや非難めいた眼差しでエルフ娘が見つめてくるが、黒髪の娘は大事な事だと思って性急に訊ねる。
少女は水を飲みながら、ポツリポツリと昨日の出来事から語り始めた。
「オークが襲ってきたのは、昨日の昼頃でした。隣の小父さんが扉を叩いて……」
「昨日か。……いや、続けてくれ」
黒髪の娘が興味深げに考え込みながら、少女に先を促がした。
「大人たちは武器を持って立ち向かいました。でも、オークは物凄い数だったから」
エルフ娘は首を振った。また気分が悪くなってきたようだった。
死体から目を逸らして、辛そうな顔をしている。
「……オーク達が南から攻めてきたって。女子供は村長の家に批難しろって……」

 村中心の広場に面した村長の家は、大きく頑丈だったそうだ。村外れの農家の一、二軒が襲われたくらいの小規模な襲撃ならば、女子供を尤も大きな家屋に避難させるのはけして悪くない判断だったのだろう。
夕方が近づき、冷たい風が大地を吹き抜けていく。納屋では、少女が水を飲みながら、途切れ途切れに経緯を語り続けていた。
「……でも、姉さんは、オークの数は普通じゃない。
 何時もと違うから、村長の家は却って危険だからって。
 村の外れにある小山に二人で行きました。後で他にも逃げてきた人たちもいたんだけど」
「賢いお姉さんだな。続けてくれ」

「皆で一晩、隠れて……次の日の昼になったらオーク達は引き返していくのが見えたから……皆、戻ろうって」
其処まで語ってから少女が力なく俯いた。
「姉さん。姉さんはまだ早いって云ったのに……
 あだじ、あだじがどうざんどがあざんがじんばいだってがっでに……」
暫らくすすり泣いて、
「村に戻ったのだけれど……村には、まだ沢山のオークがいたんです」

 姉は再び少女の手を引いて、いち早く逃げ出したそうだ。数人の大人が武器を持って戦うもすぐに追い詰められ、残りは村長の家に立て篭もったが、すぐにオークが押し入ってきた。

「姉さんたちと一緒に此処まで来て……残った皆で戦ったけど、あの恐ろしい二匹のオークが、皆を次々と殺して……」
語り疲れた様子を見せていたものの、村の少女は最後まで語った。
「藁に隠れたけど……姉さんは抱きかかえられて、連れて行かれて……あの二匹が戻ってきて……」
語り終わると、村の少女は息を吐いて目を閉じた。

「……南から攻めてきたといったな」
「……はい」
「南と言ったか?確かに南だったのだね」
黒髪の女剣士は執拗に念を押した。
「……ええ、南です。南のオークはしょっちゅう襲ってきて」
「ふむ。やつらは北のオークではない。
 いや、即断は早いが。巣が南だとしたら……」
黒髪の女剣士が深々と一人で頷いている。エルフ娘は眉を顰めた。
「……つまり?」
「つまりだ。奴らは北方を荒らしながら南下してきた大規模な部族の先遣隊や別動隊などではなく、単に南の丘陵地域の何処かに巣窟を構える部族で、手近な人族の村を襲っただけの事かも知れないと云うことだ」

 翠髪のエルフは首を傾げて女剣士の言葉が意味することを考えるが、よく分からない。
「……なら北に位置する村々も無事という事?」
「うん。それに南の根拠地へそのまま帰還したとしたら?」
エルフ娘も気がついた。
「あ、宿屋や艀の渡し場が襲われなかった可能性もあるのか」
「南へ戻ってもいいかも知れない。
 まぁ、鉢合わせしないように慎重に見定める必要はあるがね」
エルフ娘は軍隊の行動についてはよく知らないので、指針を立てようがない。
が、疑問に思う点がない訳でもない。
「……おかしいよ?奴らと遭遇するまで街道はそこまで荒れていなかった。
 百人の軍勢が通れば、幾らなんでも分かる筈だ」
「南への道は……街道と丘陵地帯を通る二つの道があるんです」
村の少女の言葉にエルフ娘も顔を明るくした。
女剣士と顔を見合わせてなにやら頷き合うと、二人の旅人は熱心に話し始めた。

 少女は武装した村人たちをあっさりと屠った二匹のオークの死骸をじっと見つめた。
それからその二匹を殺害した女剣士に視線を移し、懇願するような光を瞳に浮かべる。
「……確かめてみる必要はあるだろうが……」
「その後に……南を襲った可能性もあるけれども……」
「…………あの」
おずおずと声を掛けるも、二人の娘の耳には入らない様子だ。
「いや……丘陵地帯の何処かに巣を構えるオークならば」
「多分……帰還した可能性も……」
「……剣士さま」
「南へ戻る道が……なら」
「剣士さま!」
「……なんだ?」
興味を無くした様子で無愛想に訊ね返してくる女剣士の鋼のような瞳に怯みながらも、茶髪の少女は勇気を奮って懇願した。
「あの剣士さま。姉を……姉さんを助けてもらえないでしょうか?」
「先ほどの話では、オークは二十も三十もいるのだろう」
黒髪の女剣士に願い出てみるも、首を振って話にならないと一蹴される。

「一緒に来ない?」
翠髪のエルフの言葉は優しげだったが、がっくりきた少女は虚ろな眼差しで見上げたまま首を横に振った。
「此の侭、此処にいてもどうにもならんぞ。例え、オークに見つからないで済んでも……」

 少女が首を縦に振らないので、黒髪の女剣士は肩を竦めると其れきり関心を示さず、オークの短槍を拾い上げてバランスを測り、穂先の鋭さを調べる。短槍は粗末な造りだが頑丈で、使い勝手は良さそうだった。
「ふむ……持ってろよ。エリス」
「……森にいた頃、兎を取るのに使っていたけど……」
差し出された半エルフは、首を傾げて短槍を眺めた。
「棍棒よりはましだろう。それにこの先、其れが必要になるかも知れんぞ」
「……確かに」
少し考えてから、翠髪のエルフ娘は短槍を受け取った。
構えたり、投げる姿勢を取って自分でもバランスを確かめていた。

 二匹のオークの死骸を村人たちの死体の下へと隠して、裏庭の炎は念の為に消しておくと、
「では、私たちは行くぞ」
「本当について来ないの?」
少女は頷き、二人の旅人は顔を見合わせると肩を竦めた。
エルフ娘の方は心残りと言った様子だったが女剣士が引っ張ると、やがて足音が遠くなっていく。
立ち去ったようだ。

 しょんぼりと肩を落としたまま、農民の少女は長く地面を俯いていた。
願いは聞き届けられなかった。他力本願なのは分かっていたが、非力な少女に他になにが出来る訳でもない。酷く心細かった。ついていくべきだったかもしれない。
オークがいなくなるまで隠れていても、その後にこの腕で暮らしていけるか如何かも分からない。
まだ腕は酷く痛んだ。泣きたい気持ちに耐え切れなくなって、再び涙が溢れ出た。
 ほんの一日前までは、昨日と同じ今日。今日の続きの明日。
代わり映えしない、少し退屈だけど平穏な毎日がずっと続くと思っていたのに。
膝を抱えて少女が静かに啜り泣いていると、不意に近くで物音がした。
もしかして気まぐれで戻ってきたのかと眼を上げて、入り口に黒い影がさした瞬間、少女は顔を強張らせた。
 不快な緑色の肌をした瘤や爛れのある小柄な亜人が四、五人。厭らしい嘲笑を浮かべて、少女を見下ろしていたからだ。
「おっほっほう、こんなところに猿の餓鬼が一匹隠れてやがったぜ」
「パ・ルンクの鼻は確かなのよ」
にやけた笑みを浮かべたオークが大股に近寄ってくる。
「全く狡賢い連中よ。猿共は。だが、オークを出し抜こうなんて百年早いのよ」
少女は脅え後退ったが、直ぐに背中は土壁に阻まれた。
緑色の太い腕が伸びてきて、少女の焦げ茶色をした毛髪を強く握り締めた。

 絹を引き裂くような悲鳴が後方の納屋から聞こえてきた。
村の田舎道を歩いていた二人の娘は立ち止まり、互いの視線を交差させる。
翠髪のエルフの娘は天を仰ぎ、黒髪の女剣士は地を俯いてため息を漏らした。




[28849] 22羽 北の村 08     2011/10/17
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:4d438691
Date: 2013/06/10 00:38
 原生の自然が色濃く残るモアレの村には、彼方此方に小高い丘や草叢、木々や繁みが点在している。
見通しは悪かったが、その分、隠れる場所にも不自由しない。
農家の離れの納屋もまた、起伏のある土手に周囲を囲まれていた。

 エリスとアリアは手近な樹木に身を隠すと、遠目にそっと様子を窺った。
絶え間なく悲鳴の響いてくる木造の納屋を小柄なオークが取り巻いているのが見える。
表の見えるところでも五匹。
二匹は長柄の武器を持ち、まだ泥濘の残る田舎道をちょこちょこと歩き回っていた。
残りは納屋の土壁に寄りかかったり、座り込んで屯している。
納屋の入り口がある裏手の様子は見えなかったが、他にもまだいるのは確実だった。

 納屋から、再び悲鳴が聞こえてきた。と同時に、それを圧する複数の醜い哄笑も響いてくる。
オークは総じて弱い者虐めが好きな種族である。まして相手は、彼らが憎む人族のか弱い娘。
これ以上に嗜虐心を満足させる相手などそうはいない。虐め殺すまで、甚振り続けるに違いない。

「……くッ」
半エルフの娘が木の幹を拳で叩きながら悔しげな声を洩らした。
「馬鹿な真似はするなよ?相手は最低五匹で全員武装してる。恐らく他にもいるぞ」
肩を掴んでの女剣士の囁き。
「分かっている」
エリスは木の幹に額を寄せて、暫らく悔しげに肩を震わせていた。
やがて大きく溜息を洩らすと顔を起こして、「……行こう」と力無く呟いた。

 田舎道には時折、単身や少人数の人影が見えたが、人族に対する戦勝がよほど嬉しかったのだろうか。
オークたちは例外なく騒がしく喚き立てていたから、遠目にも迂回するのは容易だった。
緊張感など欠片もないようで、村には歩哨も見張りも見当たらず、二人の娘は、オークとの遭遇を慎重に避けながら、村道を南へと歩いていく。

 エリスは、如何にも元気の無い様子だった。
肩を落とし、地面を見つめてトボトボと歩いている姿は、見ているだけで気の毒に思えるほどで、時折、溜息を洩らしたり、表情を歪めて苦しげな顔をしていた。
 アリアは半エルフの娘の優しさに共感を覚えないでもなかったが、こんな状況では自分の命を優先するべきだと思った。
何とか慰めたいと思いつつ、村の出口に近づいてきた時、エリスが怪訝な顔をしてふと立ち止まり、形よく尖った耳を猫のように動かした。
「どうした?」
アリアが訊ねると、首を振って当惑したように連れを見つめた。
「……この先。相当な人数がいる」


 村の出口に近づくに連れ、やがて人族の娘の耳にもその騒音が届いてきた。
坂道の上にある小さな小屋の物陰から、二人の娘はそっと様子を窺った。村の出口には、開けた空き地となってる場所がある。広場となっている大きな家屋の前。夥しい数のオークが、来た時には誰もいなかった広場を埋め尽くしていた。
 五十から六十匹もいるに違いない。盛んに歩き回り、或いは笑い転げる土に汚れた子供や雌のオークの姿も見かけられる。雄のオークはどいつもこいつも酔っているのだろう。足取りもふらついているが、肌も露わな人族の女に挑み掛かって、汚い尻を振って励んでいる奴もいた。

 北部地方に多い赤毛の若い女を、一匹の若いオークが後ろから抱え込んで大声で叫んでいた。
「おう!おう!」
鼻息も荒く身体中を汗だくにし、小麦色の肌をした若い娘に伸し掛かって腰を振っている茶色のオーク。
「がはは!頑張れ!オ・アッゾ!」
周囲のオーク達が盛んに囃し立てている。
「どうだ?いいか?お前ら猿の雌は逞しいオークの男に抱かれるのが夢なんだろ!?
 ええ!分かってるんだぜ。淫乱な雌がよ!夢だったんだろう!オークに抱かれるのがよ!」
オークは舌を伸ばして、涎を村娘の身体に塗りたくる。
「如何だ?神聖なオーク様の子種を卑しい猿にお恵みください。オーク様っていえよ!!」
女は答えない。オ・アッゾは拳を振り下ろして女の顔を殴りつけた。二発、三発。
「いえ!云ってみろ!」
狂乱したように猛り狂うオーク。
「猿にオーク様の子種をください。オーク様」
娘の声は冷たく平坦だった。それでも満足したのだろう。
若いオークは哄笑を上げて、広場の片隅に転がる死体を指差した。
「へっへっへっ。見ろよ。悔しそうに見ているぜ。
 雄の猿がよ。お前を守ろうとして死んだ猿だ。どうだ?どんな気分だ」
赤毛の娘が顔を背けた。
「どっちがいい?おい!死んだ猿と俺とどっちがいいかって聞いてるんだよ!」
激昂した茶色い肌のオークが叫んだ。
「答えろ!また餓鬼を殺すぞ!」
ピクリと女が肩を動かした。
「オーク様です」
感情のない声を受けてオークは吼え、猛り狂っていた。
「お前ら猿共は下等生物よ!俺達偉大なるオークに奉仕するべき奴隷種族なのよ!
 それを罪深いエルフの地兎共やお前ら生意気な猿が俺達オークからでかい綺麗な町を盗んで、美味いものを食ってやがる!
 許せねえ!おお、許せねえよなあ!間違ってるぜ。だから正してやるのよ!」

 聞いているだけで気分が悪くなってくるような、他種族への激しい憎悪と深い劣等感に満ちた醜悪な物言いであった。
「あれ……如何思う?」
眉を顰めたエリスが囁くように小さな声で、隣で伏せているアリアの耳元で訊ねた。
「そうだな」
黒髪の女剣士は、暫らく広場にいるオークたちを黄玉を思わせる鋭い眼差しで観察してから口を開いた。
「見えている所で六十人。だが、小屋に呼び掛けている様子からまだ何人かいるだろう。
 かなり酔っている様に見える。
 体つきからして、到底、鍛えているようには見えぬし、武器も粗末なものだ。
 いずれも雑兵の類であろうよ」
 エリスは村娘たちの事について訊ねたのだが、アリアはオークたちについて答えた。だが、雑兵の類とは言え、あれだけの数になれば手練の女剣士にも到底、手に負えない。

 良質な布の産地として、それなりに名を知られたモアレの村である。半ば焼け落ちている大きな家屋は、恐らくは近隣でも名の通った富農の家だったのだろう。辺境の村落にしては立派な佇まいが、廃墟となった今も隅々に見て取れた。
 広場の中心で盛んにかがり火を焚いて、其処には二十匹近いオークの姿が見えた。近くには驢馬や馬が引いている数台の荷車や幌馬車が連なっており、オーク達とは違う黒い体色をした細い人影が働いていた。
 広場の隅には裸に剥かれ、大股開きで息も絶え絶えに転がっている十数人の裸の娘たち。身体中にオーク達の体液がこびり付いているようで、うち数人は絡み合うように隅で積み重ねられている。


 不潔なオーク共は大声で喚き立て、怒鳴り声で吠え立てていた。半壊した家屋から箪笥や椅子、卓など使い古された調度を持ち出しては、叩き壊して焚き付けにしている。
「あんなものでもオークにとっては貴重な財貨になる筈だが……
 連中が後先考えんのは、いつもの事か」
ぼやいたアリアの視線の先で広場の中心に在る巨大なかがり火へオーク共は次々と薪を放り込んでいた。
「ラ・ペ・ズールはいい頭領よ。俺達にまたこんないい村をくれたからよ!」
「ズ・イムに猿の肉を食わせてくれたしな!たらふく猿共の肉をよ!」
 かがり火の周囲にいる成人した雄のオークたちが特に威勢がいいようだ。
鮮血に濡れた刃を宙に振り回しては、甲高い叫び声を上げて自慢話を繰り返している。
「毛なし猿共、泣き喚いてやがった。情けない奴らよ。偉大なオーク族に勝てると思ったのかよ!へっ!」
「ラ・ペ・ズールは偉大な酋長よ!ついていけばえばり腐った豚共を千匹だって殺せるぜ!」
彼らのなめした革鎧や革服、厚手の布服などは、返り血に赤く染まっており、オークには手負いや不具の者も見えたが、いずれもまだ吠え立てる元気はあるようだった。
「俺たち、オークがヴェルニア全土を征服するのさ!」
「ほぅほぅ!あの女は猿にしてはいい味だったぜ。牝穴も、太股の肉もよ!」
気が大きくなっているようで、聞いてる者が不愉快になりそうな大言壮語を繰り返している。

 半エルフの娘は、野蛮人としか言いようのないオークの行状に絶句していたが、女剣士の声で我に返った。
「……さて、此処にいるので全員かな?」
「分からない。宴の様だから大半は集まっているとも思えるけど」
数匹の小柄なオークが、木材を積み上げ、自分たちの手で半壊させた門を直している。
オーク達の大半は見るからに弛緩しきっていた空気の中で、だらけ切っていた。裸か半裸の者もいれば、酒を飲んでる者もいる。鶏や山羊、豚が解体されて、焚き火の周囲でオークに貪られていた。
 転がっている壷は村人の作った酒だろうか。大鼾を掻いて眠っている者も多い。糞尿や反吐を所構わずぶちまけており、饐えた悪臭が坂の頂きにいる二人の所にまで漂ってきそうだった。
「ふん、他人の創った酒と他人の育てた家畜で、鱈腹飲んで鱈腹喰って、女を抱いてお楽しみか。
 まことに結構なことだ」
 戦争とは得てしてそんなものだと知っていながらも、同じヴェルニアの人族が異種族に好き放題やられてる光景を見るのは、やはり腹立たしいのか。冷ややかな声で女剣士が呟いた。
 一方で半エルフの娘は、門を修復しているのが気になった。
「……奴ら。此の侭、村に居座る心算かな?」
「中々、いい土地だからな。そう考えても不思議ではないが……
 普通、こんな大人数が屯する事はあまり無い。其の心算かもな」
 身体中をオークの涎や精液、小便で汚されて倒れ伏している村娘たちや、一角に集められてうなだれている数少ない村の若衆を眺めて、アリアは黄玉の瞳を細めてポツリと呟いた。
「いずれ半オークの居留地になるかも知れんな」
「で、如何する?あすこからは出られそうに無いけど」
翠髪のエルフの娘が問いかける。
「門に拘る必要はない。
柵の破れているところから出て、村を迂回しながら回り込めば街道に出られる」
「面倒くさいな。仕方ないけど」
丘陵を越える必要があるので、時間が余分に掛かる。
「深夜になれば、寝静まる。待ってから、門近くの柵を越えて街道に出る手もあるが……些か人数が多い。柵の破れたところから出たほうがよかろう」
「オークは夜行性じゃないの?」
半エルフの娘は訝しげな口調で疑問を投げかけた。
「俗説だよ。実際には、洞窟住まいの連中が幾らか夜目が聞くから、そんな噂が出来たのだが、そいつらでも夜には休む」
「どちらでもいいけど、万が一見つかって騒がれたら如何する?」
冷たく微笑んで、黒髪の女剣士は腰の剣を軽く叩いた。
半エルフの娘も軽く頷いてから、再び広場に目を転じた。そして一点を指差す。
「あ……見て。ほら、あの太った奴」

 色取り取りのひらひらした服を着込んだ太ったオークが、気取った様子で歩いていた。直ぐ後ろには、数匹のオークが付き従っている。他のオークが汚れた灰色や汚い襤褸布、粗末な毛皮や革服を着ているのに対し、一人だけ派手に染めた原色の布を纏っている。
 黒い人影たちに近づくと、尊大な態度を取りながらなにやら挨拶を交わし始めた。
「多分、あいつが族長だ。そして相手は……あれは黒エルフだね」
 数人の痩せた男女がオーク達と何やら商談しているようだ。身振り手振りで馬車に乗せた品物を指し示している。人数は七、八人か。全員、弓や槍、細身の剣などで武装している。
黒エルフだろう女の一人は、何を考えているのか。黒革で出来た鞭を丸めて、肩に巻きつけていた。
全員、皮膚は黒檀を思わせる漆黒。月無き夜を思わせる黒髪を持ち、耳は翠髪のエルフと同様に先端がやや長く尖っていた。やはり黒の装束や黒く染めた鋲付きの革鎧を着込んでいる。
「君らの宿敵だったか?」
「え?」
女剣士の言葉に、半エルフの娘は意外そうな反応を見せた。
「あれ、違うのか?」
「闇エルフは、森エルフに嫌われてるとか聞いたけど、よく分からない」
半エルフの娘は如何でもよさそうに言ってから、小屋の壁に音も無く寄りかかった。

「行商人か。オーク共と何かの取引を……」
若い男女が縄に縛られて、黒エルフ達に数人、引き渡された。
代わりに黒エルフ達から、膨らんだ革袋や酒の入った壷がオークたちに渡されていく。

奴隷として売買される村人たちを見た翠髪のエルフの娘が、また深い溜息を洩らした。
「何を気にしている?」
少し沈んでいる様子のエリスにアリアは敢えて訊ねた。
「先刻の少女の事か?」
「あ、うん」
頷いてから、半エルフの娘は途方に暮れたように顔を俯けた。
「……助ける事ができたのにね。連れてくるか、直ぐ戻れば救えたかもしれない」
名前も知らない少女を助けられなかった事を悔やんでいる。
「あまり浮かない顔をするな」
「……でも」
「私たちは英雄譚の主人公ではないからな、出来ることなど多寡が知れている」
アリアはエリスの肩を抱き寄せて、暫らく考えるように沈黙してから言葉を続けた。
「それでも、人は誰しも己に出来る事をするしかないのだと思う、エリス」
尖った耳元で告げられた女剣士の言葉は厳しい口調だったが、しかし同時に、意外なほど優しい響きを含んでいた。

「……出来る事?」
エリスの淡い蒼の眼差しを、アリアは黄玉の鋭い瞳で真っ直ぐ見つめ返した。
「南に戻り、偵察した事と村の現状を伝える。
 それで、少なくとも他の旅人が虎口に飛び込むことを避けられる」
厳しく叱り付ける様な言い方ではなく、諭すように淡々とした口調だった。
「或いは、近隣の郷士豪族らに此処で偵察した現状を伝えれば、
 彼らが兵を集めて、村のオークを掃討するかも知れぬ。
 そうなれば、あの娘や他に捕まっている者らも幾人かは救える。違うか?」
半エルフの娘は考え込むように微かに俯いた。
アリアは広場に視線を走らせて、捕らわれている村娘達を瞳に映した。
「少なくともあの娘達が、今、直ぐに殺されることはない」
「……うん」
 希望的感想では在ったが、見込みはそれなりにあった。豪族たちが己が領地の近隣にオークの前哨が出来るのを許容するとは思えなかったし、オークといえども、一通り欲望を発散した後は、財産でも在る奴隷を意味なく殺したりはしない筈だ。
 心理的再建を果たしたとは云えないまでも、気持ちが建設的な方に向かったのだろう。
アリアに目を向けてエリスは深々と頷いた。空色の瞳も、心なしか色を取り戻したように見えた。
やや闊達さが戻ってきた様子で壁から背を離し、ゆっくりと歩き出した。
「……貴女は強いな」
エリスのふと洩らした呟きに共に歩き出したアリアが何か答えようとした時、背後からオークたちの怒声が上がった。
「女だ!女が逃げるぞ!捕まえろ!」
「雌猿めが!待ちやがれ!」




[28849] 23羽 北の村 09     2011/10/18
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:4d438691
Date: 2013/06/10 00:39
 広場より響いてくる荒々しく甲高い怒号に、二人の娘は一瞬だけ躰を硬く強張らせたものの、すぐに自分達が見つかった訳ではないと理解した。素早い動きで身を伏せた姿勢のままに、焼け焦げた家屋の物陰からそっと広場の様子を窺うと、オーク共が喚きながら武器を手に駆け回っていた。
地面には茶肌のオークが血を流してうつ伏しており、数匹のオークが口々に怒りの叫びを上げながら、短剣を手にして走り回っている裸の娘を追い掛け回している。
 赤毛の村娘は中々に足が速く、機敏な動きでオークの伸ばした手を悉く掻い潜ると、広場に面した木々の狭間へと飛び込んでいった。
仲間の仇を取らんと、娘を追いかけるオーク共も次々と薄暗い林へと駆け込んでいく。

「勇敢な娘ではあるが……無謀な」
アリアが首を振っていると、傍らのエリスはやや不安そうな表情を見せた。
「ねえ、はやく離れたほうが良さそうだよ」
 戸惑いながらも囁きあう村人たちの声と、不機嫌に苛立っているオーク達の嘲笑や怒りの呟きが混じり合って、広場は不穏なざわつきに覆われていた。
黒エルフ達だけは我関せずと、空き地の隅に一箇所で固まって何やら耳打ちしあっていた。
「確かに……離れたほうが賢明だな」
緊張した面持ちで女剣士がすぐ同意すると、二人は身を屈めつつ、小走りで坂の頂から離脱した。

 二人の娘は広場から距離を取ると、一路村の東側を目指して足早に進んだ。
空の色は奇妙に明るいが、冷たい風が吹き始めていた。
太陽はだいぶ西に傾いてきていた。もうじき夕刻になる。
二人の影が地面に長く伸び始めていた。

 先程までとは違い、村は物々しい響きに包まれている。
彼方此方から誰かが走り回っているような物音や話し声、気配が絶え間なく感じられる。
「またオークだ。近づいてくるよ」
「走っているな」
 エルフ娘が警告を発した。娘たちが手近な繁みに身を潜めていると、数匹のオークが泥濘の残る田舎道を走ってきた。
「おめえはそっちを探せ!」
図体の大きな一匹のオークが、引き連れた部下に怒鳴り声で指図していた。
「おい、デ・グム!おめえたち此処に立ってろ!怪しい奴を見かけたら通すんじゃねえぞ!」
「ここら辺にいるはずだ!探せ!」
面倒くさそうな様子のオークたちが槍で繁みを突いたり、道の周囲に散らばっていく。

 怠惰なオーク達の気配が目の前から遠ざかってから、女剣士が小声でくつくつと笑い始めた。
「怪しい奴って誰かね?」
こんな時に楽しげに笑っている友人を睨みつけたエリスが、アリアの耳元に口を近づけた。
「先刻、逃げだした娘か。それとも、私たちを探している?」
「……殺したのがばれたかな?」
笑いの発作がおさまると、アリアは強引に突破するべきかどうかを考える。
少し離れた場所をうろついている連中は些か数が多いが、動きが鈍く小柄な奴も混じっている。
彼女にとっては手に負えない相手でもない。
「にしても、仲間一人殺された程度でこんなに執念深くなるものなの?」
ほんの二十歩ほど先の田舎道をオークが通り過ぎるのを見て、エリスが疑問を口に出す。
「確かに、些か執拗に過ぎるな」
地面に伏せたまま、アリアが些か腑に落ちないと云った口調でつぶやいた。
起き上がりながら
「……地位が高いオークでも殺されたのかも知れん。厄介な話だ」
「厄介?」
「頭目が殺されたオークは、下手人を少々しつこく追い回すのだよ」
「ふぅん」
翠髪のエルフの娘は周囲の気配を探りつつ頷いた。
それから茂みの奥を見つめて女剣士の袖を引っ張った。
「……こっちは誰もいない。音もしない。大丈夫」

 オークを避けるようにして蛇行しながら進んでいるうち、二人の娘は何時しか村の中央部まで辿りついていた。エリスとアリアは茨や灌木の多い小高い丘陵の頂に昇ると、木々の繁みに身を潜めながら村を一望する。
「……さて、どうしたものかな」
西方山脈の稜線へ徐々に落ちていく太陽を見つめながら、大胆不敵な女剣士も僅かだが途方に暮れていた。
図らずも自分から虎口に飛び込んだ形となってしまい、エリスには済まないとも思う。
些か考えが足りなかったかとも自省するも、オークがこれほどの数で攻め落とした村に屯する事など滅多にないのも事実である。
丘陵の頂から見れば、見張りは辻や三叉路と云った箇所に配置されているのが分かる。
「中々、どうして……馬鹿ではないか」
呟いて、逃げだせそうな経路を視線で探してみる。
「あちらの右手を行けば、四匹……いや、五匹かな。
 一匹ずつなら或いは……だが、手強いのが組んで掛かってきたら……駄目か」
遠目には、村の畑や田舎道をオークたちが蟻の如くうろつき回っている光景が見渡せた。
うんざりし、また考えるのに飽きたので、遠目に見えるオークの姿を指の先で挟んでみる。
 巨人にでもなった心算で眼の錯覚でオークを指先で潰して遊んでいると、エルフ娘が軽快な足取りで音も無く歩み寄ってきた。
「なにしてるの?」
無邪気そうなエリスの問いかけに、まさか遊んでいたとは云えず、慌てて指の先を白い洋袴に擦り付けて誤魔化した。
「なんでもない」
エリスは不思議そうな顔で赤面するアリアを眺めていたが、すぐに弾んだ声で告げる。
「ね。目前の林、村を横切るように続いているよ。中を通って柵の近くまでいけるかも」
女剣士はオークの数と配置、動きを観察していて脱出路を考えていたが、エルフの娘は主に村の景色や地形を見ていた。
森をじっと見てから、殆ど途切れなく村の端まで続いているのを確かめて、アリアも顔を綻ばせた。
「いけそうだな」

 オークは手に入れたばかりの村の地形を、まだ把握しきっていないようだった。
邪悪な亜人が村を彼方此方と駆け回っているのを横目に、二人の娘は悠々と目先の林を伝いながら村の東端へ少しずつ迫っていった。
半刻(一時間)ほど掛けて身を屈め、周囲の様子を窺いながら慎重に歩き進んでいく。
エルフ娘は、オークが近くを通り過ぎるだけで掌に汗が吹き出し、心臓が胸のうちで跳ね上がるのを感じたが、落ち着いている様子の女剣士と一緒にいることで随分と安心できた。

 暗い林を平然と進むエリスの後ろを付いてくるアリアが口を開いた。
「君と一緒で助かったぞ」
どうやら、向こうの方も似たような感想をエリスに対して抱いていたようだ。
「そう?なら、後でワインでも奢ってくれても構わないよ」
木の幹に躰を隠し、或いは繁みに身を潜めて進みながら、囁くような小声で会話を交し合う。
「よし、褒めてつかわす」
「うわ、それは褒めてる心算なの?」
途切れ途切れの会話だが、軽口は、不安を押し殺す効果も在るようだ。
「知己の口癖を真似てみたのだ」
「随分と偉そうに褒めるね」
「全くだ。一応、お姫様なんだが貧しい家でな。小麦の焼き菓子を土産にするだけで酷く喜んで、今の言葉を……お、付いたぞ」
小声で如何でもいい事を話しながら、二人の娘は柵の目の前まで辿り着いた。
「……さて。見たところ破れた柵は見当たらないな」
 ぐるりと村を囲い込むように。削り出した木材をそのままに組み立てて頑丈に造られた木製の柵。
小動物は兎も角、人や亜人の通れる隙間など空いていなかった。
造るのには十年単位の時間が掛かっただろう村を取り囲むように造られている柵は、人の背丈よりもやや高めに、そして頑強に造られているのが見て取れた。
塀の反対側には空堀が掘られ、彼方に小高い丘陵が連なっているのが見て取れた。
「綺麗なものだな」
自然の景色ではなく柵の状態だ。
村が攻め落とされたとは思えないほどに、傷一つ無く聳え立っている。

 女剣士は年輪を重ねた太い古木にもたれかかっていた。
肌は上気し、額には汗が軽く吹き出している。起伏のある林を歩き通した為、かなり疲労したようだ。
林の中は闇が濃くなっていた為にかなり神経も使った様子で、疲れているのを隠そうともせずに目を閉じて身を休めている。
 逆に森生まれのエルフ娘は木立を歩き慣れていた為、まるで疲れた様子を見せてなかった。
傾斜した坂道を仰ぐと傷一つ見当たらない柵を見渡して、暗鬱そうに呟いた。
「オークが攻め込んだのは西南だったのかな」
ようやく目を見開いたアリアも音高く舌打ちした。
「乗り越えるのには少し手間取りそうだな」
林は柵の大分手前で途切れており、丘陵地帯に面した畑と田舎道が通っている。
「……厄介な」
云ったのは、柵と林の隙間に畑と家屋、そして緩やかな傾斜が広がり、其処に数匹のオークがうろうろと彷徨っている姿が見かけられただろう。
「三匹か。手早く片付けられるかな。手間取って応援が来ると面倒だが」
翠髪のエルフ娘は、呟いている黒髪の娘をじっと見つめた。
「でも、此処を渡ってしまえば、直ぐに村の外だよ」
「行くか?それとも夜まで待つか?」
「もう少し様子を窺おうよ」

 囁きながら再び木立の向こう側を覗き見た時、微かに葉っぱを掻き分ける音がした。
葉ずれの音、地面をそっと踏む音、エリスは尖った耳を震わせて小さく叫んだ。
「……その木陰に誰かいる!」
女剣士が振り返ると同時に、木陰から息を飲む気配がした。
ついで何者かが飛び掛ってきた。
 だが、話しながらもアリアは殆ど気は抜いてなかった。
突き出された短剣を躰を捻じってあっさり躱すと、相手の手首を掴んで足を引っ掛ける。
人影が派手に転んだ。
そのまま鮮やかな動きで腕を捩じ上げると、体重を掛けて動きを封じる。
手にした短剣が地面へ落ちて
「……いたた、いたああ」
襲撃者は、灰色の布を腰に巻いた裸の娘だった。
毛髪は此の地方に多いくすんだ赤毛、身体中に乾燥した汚い体液をこびり付かせて生臭い異臭がした。
「……雌のオークじゃないね」
エルフ娘の淡々とした言葉に、地に組み敷かれた娘も顔を動かして二人を見上げる。
 娘の表情は恐怖に硬く強張り、頬には殴られたように腫れた痣と血の跡が飛び散っていた。
気の強そうな凛々しい顔立ちだが、女剣士に刃のように鋭い眼差しで射竦められると怯んだように首を竦めた。
「あ、貴女達もオークではないね」
それでも意外と心胆があるのか。叩いた減らず口は、しかし声の震えを完全には隠し切れなかった。
「この美人を捉まえて無礼な平民だ」
辺りの木々の狭間に複数の蠢く人影を見て取った女剣士は、腕を捩じ上げた姿勢のまま、素早く鋭い視線を走らせる。
周囲の木立の向こう側から、あからさまに動揺の気配が伝わってきた。
エリスが転がった短剣を拾い上げると、刃には血痕がべったりとついていた。
「どうやら、この娘を探していたみたいだよ」
「……の、ようだな」
二人がオークではないと分かって、周囲から恐る恐る姿を現してきた粗末な衣服の村人たちを見回すと、女剣士は表情も変えずに不機嫌そうに呟いた。




[28849] 24羽 北の村 10     2011/10/20
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:4d438691
Date: 2013/06/11 21:21
「おい、後ろから見てる奴。妙な真似はするなよ?」
 背後も見ずに言い放ったアリアの一言にぎくりと動きを止めたのは、彼女の死角から仲間を助けようと一歩を踏み出した大柄な青年だった。近づこうとした瞬間に牽制の言葉を浴びせられて、喉の奥で唸りながらその場に足を止める。
 傍らで手斧を持つ屈強そうな青年と、二人の背後にへっぴり腰で簡素な槍を構えている身なりのいい青年も、瞳に幾ばくかの恐れと警戒の色を浮かべて女剣士の様子を窺っている。

「そっちも出て来たら?」
 エリスが短槍を構えながら右手の木陰を凝視していると、蛙に似た顔をした中年の女と野良犬のように痩せた若い男が姿を現した。二人とも手にのし棒と殻竿を持ち、憎々しげに女剣士を見つめ、それからエルフ娘の顔を見て、目を見開いた。痩せた男は口を半開きにして顔を赤面させ、蛙似の中年女はますますにきつい目付きとなる。

 一団は取りあえずは皆が暖かそうな衣服を纏い、敵意の有無は別にして顔には戸惑ったような色が見え隠れしていた。質素では在るが粗末ではない服装で、目の細かい厚手の布地を使っているのが見て取れる。

「……村人か?」
アリアは取り押さえている半裸の娘に囁くように問いかけた。
「……あのね、あたしは。周りに沢山オークがいてね。だからあんたたちも……」
「質問に答えろ」
 腕を微妙な角度まで捩じ上げる。村人が徒手格闘術の関節技を知る訳もなく、娘は自分が何をされているかも良く分からない。ただ経験もない未知の痛みに混乱し、叫びそうになる。思わず声が上擦った。
「……いっ、痛い。折れるぅ!そうだよ。村人だよ!ずっと此処に住んでるんだ」
「……離してもいいが、妙な事は考えるなよ」
 冷たい響きを含んだ警告の言葉には妙な迫力があって、娘はこくこくと頷いた。
女剣士が手を離して距離を取ると、赤毛の娘は立ち上がって涙目で腕を廻した。
「折れるかと思ったよ」
文句っぽく呟くが、アリアの冷たい瞳の色を見て減らず口を叩くのを止めておく。
「……貴女達は旅人だよね」
恐る恐るといった様子で訊ねてきた。

「旅人だよ」
「見て分からんか?」
 エリスは穏やかな言い方で、アリアは辛辣な口調でぶっきら棒に答える。貴族風の娘は扱いづらいと感じたのか、赤毛の村娘は優しそうな翠髪のエルフ娘の方を向いた。
「……こんな時に訪れるなんて、ついてないね。普段なら歓迎するんだけど」
赤毛娘の言葉には、北部地方に似た訛りがあって少し聞き取りづらいが、云ってる内容が分からない程でもない。
「どうも余所者は歓迎して貰える空気でもないからね。南へ戻るところだよ」
「はっ、どうやって戻る心算だよ。門のある処は、全部オークたちが頑張ってるんだぜ」
周囲にいる誰かが吐き捨てるように言った。

「何とかするさ。なんとでもなる」
 事も無げに断言する女剣士の方を、赤毛の村娘はじっと観察するように眺めた。
エルフの方は良く分からない。普通の娘にも見えるが、女剣士の方は強そうには見えた。
均整の取れたしなやかな体つき。手首を掴む力は万力とはいかないまでも力強かった。
何をされたかよく分からないうちに、地面に転がされて押さえつけられていた。
ただ単純に力が強いだけでなく、きっと戦士としてよく訓練されているのだろう。
「あ、う……えっと、他にも見つかってない村人がいるんだけど、会って貰えるかな?」
口ごもりながらの赤毛の村娘の言葉に二人の旅人は顔を見合わせてから、頷いた。


 鬱蒼とした木々に囲まれた薄暗い空き地には、暗鬱な雰囲気が漂っている。
林の中。外縁から少し歩いた開けた場所に、逃げ延びた村人達が肩を寄せあっていた。
風も大きな広葉樹に阻まれて殆ど感じないが、初冬の冷たい大気までは防げない。
小さな焚き火の周囲に子供達が集まっていたが、夜には見つからぬように消すという。

 女剣士は空き地に集まった村人達を素早く一瞥して、嘆息を洩らした。
それはまあ、此れだけ大きな村だから、全員が捕まる訳も無いだろうが、若い男女は数えるほどしかいない。殆どが女子供と僅かな老人たち。若い娘が数人。
不安そうに隅で手を取り合っている若い男と女は夫婦だろうか、恋人だろうか。
男の方は大柄な青年と顔がよく似ており、彼が歩み寄ると顔を綻ばせた。

 遠巻きにして周囲から見ている子供たちは、顔や身体に土埃や塵がついて、いずれも目に疲れきった虚ろな色を浮かべていた。不似合いに大きな長槍を手にした白髪の老人が、奥で切り株に腰を降ろしており、村人に連れられてきた旅人たちを見て僅かに瞠目する。

 空き地を隅から隅まで見回してから、半エルフの娘は溜息を洩らした。
「四、五十人もいて反攻の策でも練ってるのかと思ったら、本当に僅かな生き残りだったか」
生き残り云々が気に障ったのか、屈強な若者が翠髪のエルフ娘をじっと見つめてきた。
「……いあ、私が勝手に勘違いしただけ」
「他にも隠れている人はいると思うんだがな」
若者はそれだけ告げると奥へさっさと歩いていった。

 地べたに座り込んだ恰幅のいい中年男が苛立たしげに口を開いた。他の村人達に比べて一際、仕立てのよい服装も今は煤と土ぼこりに汚れ、汗でよれよれになっていた。薄い毛髪が額にべったりと張り付き、目はどこか血走っている。
「誰だ。そいつらは?」
「旅人です。ドレルさん」
身なりのいい青年がのんびりとした口調で告げる。
「こんな時に足手纏いの旅人なんか連れてきやがって」
苛立たしげな中年男はどうやら村の顔役らしく、場を仕切っているように見えた。

「……あのね、相談事があるんだけど」
半裸の娘はおずおずと微笑を浮かべて、女剣士に用件を切り出した。
「その前に何か食べ物をくれ。腹が減った」
「……え?食べ物?食べ物ね、うん」
面食らった赤毛の娘だが、頷きながら繁みの奥へと駆け込んでいった。
暫らくして革袋を持ってくると、中から乳酪や黒パン、豆、木の実などを取り出す。
「あの……食べながらでもいいんだけど、聞いてくれる?」
「云ってみるがいい」
 アリアは遠慮無しに手を伸ばして食べ始めた。冷えていて美味くもないが粗末な食事だが、この際、贅沢は言わない。エリスも黒パンを手に取った。しげしげと眺める。違和感はない。
一口千切って口に含んでも変な味も感じない。ゆっくりと食べ始める。

「おい、残り少ない食べ物を遠慮無しに喰ってくれるな」
殻竿を手にした痩せた男が文句をつけるが、半裸の娘は立ち上がって抗議した。
「あたしの食べ物をあたしが如何しようが勝手でしょう?」
 痩せた男は好色そうな下卑た視線を娘の胸に注いでニヤニヤ笑いながら、鼻を鳴らした。
怯むでもなく赤毛の娘は、痩せた男を睨みつけていた。微かに困惑したエリスがアリアに視線を送ると、さして興味も無さそうに食べながら眺めている。
中年女が汚いものを見るような嘲りを孕んだ目で、半裸の赤毛娘を眺めているのを見れば、生き残った村人は全員が仲が良い訳でもなさそうだと推測する。
それとも追い詰められて、不和が表面に出てきたのだろうか。

 中年男はまだ、ぶつぶつとケチをつけていた。
「やつ等がいなくなるまで、此処に隠れていりゃいいんだよ。
人数が増えれば、見つかり易くなるだろうが……!」

 エリスは在る程度食べて手を休めると、後はアリアの食べっぷりを惚れ惚れと見つめる。
「よく食べるねえ」
「空腹では戦う事も出来ぬ。君は小食だな」
女剣士は半エルフの三倍程度の食事を短時間で平らげると、ハンケチで口を拭った。
「……あ」
客が予想以上に食べたからだろう。
睨み合いが終わって、此方に向き直った赤毛の娘の顔が微妙に引き攣っていた。
「で、話とはなんだ?」
それでもまだ腹六分目で、動作の鈍らない程度の食事量に収めていたアリアが、朗らかに話を切り出した。
質は兎も角、それなりの量の食事を取ったことで機嫌はよさそうだった。
微笑すら浮かべている。

 気を取り直す為に咳払いしつつ、赤毛の娘は視線を宙に彷徨わせていた。
どうやって話を切り出したものか、迷っているように見えた。
「頼みがあるんだけど……あんたが強い剣士だってのは、私にも分かる」
言い難そうに、しかし言葉に必死の響きが込められていた。
「あのさ……守ってくれないかな」
「守る?」
怪訝そうに呟くアリアに、縋りつくような光を瞳に浮かべて娘は懇願した。
「そう、此処は女子供や老人しかいないだろう?だから……」
「何時まで守る心算だ?」
「やつ等がいなくなるまで」
赤毛の村娘の返答に黒髪の女剣士は鼻で笑った。
「無理だな。あいつら、此の侭村に居座る心算だからな」
「うッ、嘘だ!」
娘の憤慨したような叫びを冷たい響きの言葉で跳ね返す。
「そう思うのなら、思っておけ」
エリスが言いにくそうに頭をかいて口を挟んだ。
「その……奴らは門を修理していたよ。意味は分かるだろう?」

「それにオークだって馬鹿ではないぞ。
 いずれ人数が生き残っていると気づけば、林や丘を虱潰しに探し始める。何人生き残れるかな」
 村人達がざわつき、不安そうに顔を見合わせ始めた。啜り泣き出す少女もいた。若い夫婦だか恋人だかは、不安そうに肩を寄せ合った。
エリスは理不尽だと思ったが、村人のうちの幾人かは悪い知らせはもたらした旅人の責任だとでも言いたげに、顔が真っ赤にしたり、険悪な雰囲気で睨みつけてくる。アリアは険悪な空気を感じてないのか、或いは村人が激発しても問題ないと思っているかのように平然としている。
「逃げられるうちにとっとと脱出するべきだな」

「此の村で生まれて、育って、七十年も過ごして、こんな日がこようとはの」
奥にいた老人が立ち上がった。
周囲ですすり泣く子供や悔し涙を浮かべる大人を見回してから、黒髪の女剣士に話しかける。
「何とかならんか?旅のお人」
「女子供を?全員、逃がす?無理だな」
数名の子持ちの村人は絶望に目が眩みそうになるが、アリアは言葉を続けた。
「それよりは余力のあるうちに、近くの村なり町なりに応援を求めた方がよかろう。
 今なら、まだオーク達も守りを固めていない」
重い絶望に耐えながら、白髪の老人は女剣士をじっと見つめた。
「町の執政官なり、豪族も、前哨を作られることをみすみす見逃しはしないと思う」
「援軍を出してくれるかのう?」
「多分な。するかも知れんし、しないかも知れん」
肩を竦めている旅人にとっては、村の破滅も所詮は他人事なのだ。
責任もとれないし、きっとどちらでもいいのだろう。
「だが、そうなれば、此処にいる者も助かる」

「貴様はなんと言う名前だったかな?」
頬杖をついたアリアは、地面を俯いて顔を歪めている半裸の娘に話しかけた。
「……ジナです」
「一緒に来るかね?食べ物の礼だ。付いてくるなら、お前一人は守ろう」
身なりの良い青年がおっとりした口調で疑問を呈した。
「……どうやって?村の出入り口は何処もオークが見張ってる」

「先刻の場所から柵を越える。
 中央の小山から見たとき、一番、此処が脱出し易そうに見えた」
太陽は見えないが、空が赤く染まり始めている。夕刻が近づいてきたのだろう。
黒髪の女剣士は冷然とした態度で村人たちを見回した。
「御主達もこんな場所に留まっているのだから、似たような事は考えていたのだろう?」
途方に暮れている村人たちの間からは嘆くような声と不満げな呟きが上がった。
「……無理だ。逃げられっこないぜ」
「それに村を捨てることはできない。俺たちの村だ」

「どの道、我らは逃げる心算だ。付いてくるなら早く決めろ」
「待て、お前らが飛び出せば、此処を怪しむだろう。行かせる訳にはいかんぞ」
険悪な表情になった中年男に、翠髪のエルフの娘が口を開いた。
「つまらないケチをつけてないで、それなら何か良い手を考えなよ」
「なんだと」
村では地位や権力があるのかもしれないが、旅のエルフ娘には関係ないし、巻き込まれて出発を邪魔されても困る。
敢えて論点をずらして言い返すと、わざらしい冷笑を浮かべて馬鹿にした様子で肩を竦めた。
「お、おまえ」
 顔を真っ赤にした村の顔役が一歩進み出ると、アリアがエリスを庇う位置に立った。
野生の狼にも似た冷たい黄玉の瞳でじっと見つめる。
恰幅の良い中年男は冷水でも浴びせられたかのように背筋に悪寒を覚えて、思わず立ち止まった。
後退った自分に気づいて不機嫌そうに舌打ちするとそのまま踵を返したが、まだ微かに体を震わせている。

眉を顰めて今のやり取りを見ていた老人が、溜息を洩らしてから女剣士に視線を向けた。
「相談する時間をもらえんかの?」
「やるなら早い方がいいがな。好きにしろ。だが、そうそう長くは待たんぞ」
村人達が顔を寄せ合ってボソボソと話し始めるのを横目で見ながら、エリスはアリアに耳打ちする。
「纏りそうかな」
「その方が望みがあるが、私の考えも間違えかも知れん」
「え?」
翠髪のエルフ娘はまじまじと女剣士の顔を見つめる。
「どうなるかはやってみるまで分からんよ。だが、連中に責任を負わされても面白くない。向こうで待とう」
云ったアリアが歩き始めると、エリスも立ち上がった。
「ま、待て!まだ話し合いは終わってないぞ」
中年男が慌てて後をついてきた。
ごちゃごちゃ威圧的な声で喚き立てるが、剣が恐いのか。手は出してこない。
「何とかしろ!」
屈強な若者に怒鳴りつけるが、彼は肩を竦めただけだった。

 林の外縁部まで来て、二人で身を潜めながら待っていると暫らくして赤毛の娘と若夫婦。
他に数人の村の若者や大人が、ぞろぞろと近づいてきた。
「話は決まったか?」
「あの、ね」
黒髪の女剣士に赤毛のジナが何か言いかけた時だった。
「わしが待てっていってただろう!どうして言うことを聞かんのだ!」
場を弁えずに癇癪を起こして喚いた中年男の声を聞き咎めたのか。
柵の立っている土手の手前。斜面にいた数匹のオークが訝しげに、何事か呟きながら動き出したので、「黙れ」と睨みつける。
確信はないようで、じろじろと見ている。
 見過ごしてくれればいいと思うものの、そう都合よくいかない。
頭らしいオークが此方を指差して何か云うと、革鎧を着た一匹が武器を構えて近寄ってくる。

「不味いな。気づかれた」
咄と舌打ちしたアリアは、優美な動作でそっと鋼の長剣を引き抜いた。
「……如何する?」
半エルフが短槍を強く握り締めながら、女剣士の横顔を見る。
「応援を呼ばれる前に片づけるしか在るまい」
古木の幹の影に隠れて様子を窺いながら、突撃の時期を見計らう。
気付かれたと思った瞬間には、既に今すぐ脱出すると即断即決している。

「もう駄目だ。わしらは殺されちまう。馬鹿な旅人の責だ。畜生」
中年男が傍目も気にせず嘆いていた。
「人数は四匹」
「……行くなら今のうち?」
「よし、私が足止めする。エリス。君は先に行け」
「そんな事云って俺たちを囮にする心算だろ!」
旅の連れに話しかけたのに、痩せた男の口を挟んでくる意味が分からない。
阿呆な事を喚いている痩せた男を貴種らしい冷然とした態度で無視して、時期を計る。
「黙ってて、ユード」
赤毛のジナが痩せた男を叱り付けてから、若い夫婦を側に呼んだ。
「あ、あの……この二人も一緒に連れて行ってくれませんか?」
女剣士はもう聞いてないようで石像のように動かずに、短槍を構えて少しずつ近づいてくるオークのみをじっと凝視している。
翠髪のエルフ娘は小首を傾げて、赤毛の村娘に訊ねた。
「貴女はどうするの?」
「私は村に残……」

「よし!エリス。ついて来い!」
飛び出す機を窺っていたアリアが、一気に木陰から飛び出した。
田舎道を横切って丘陵を昇って行けば、当然ながらオーク達の目を惹きつける。
一斉に叫びながら、武器を構えて動き始めた。
林に近づいていたオークも女剣士を認めて走り出す。
吼えながら突き出された槍を掻い潜ると、アリアは低い姿勢から跳ね上がるように深々と敵の腹部を薙いだ。

「あいつ死んだな。たった一人でよ」
痩せた男は馬鹿にしたように呟き、
「あんたは、俺が守ってやろうか。エ、エリスさん」
上擦った声を美貌の半エルフは聞き流していた。
蛙に似た顔つきの中年の女が憎悪に近い眼差しで睨みつけるのにも気づかずに、
「行こう!話は後で!」
話を打ち切ると、なにやら躊躇している赤毛の娘の手を強引に引っ張って、エルフ娘は走り出した。



[28849] 25羽 北の村 11     2011/10/22
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:4d438691
Date: 2013/06/14 20:16
 深々と切り裂かれた下腹部を掌で抑えながら、オークはゆっくりと地に膝をついた。
苦しげに呻いているオークの胸に止めの刃を深々と突き刺すと、痙攣する死体を足蹴にアリアは剣を引き抜いた。

 革鎧を着込んだオークが二匹、怒りの咆哮を迸らせながら、短剣を引き抜いて走り寄ってくる。
だが黒髪の娘には、さらに背後から冷たい眼差しを向けてくる黒いオークの方が気になった。
なめし革の鎧は他のオークとは違って遠目にも光沢を放つほどに磨かれており、よく手入れされているのが分かる。腕の筋肉はよく鍛え上げられており、手首は青銅の腕輪の下に何重にも包帯を巻いて、容易には血管や筋を狙えない。身動き一つせずに女剣士をじっと眺めている姿からは、敵手の力量を冷静に測ろうとしている様子が窺えた。
 アリアはくつくつと嬉しそうに笑いながら長剣を構え直して、鋭い叫び声を上げながら報復の念に燃えるオークに襲い掛かった。怒り狂ったオークが短剣を振るうのを素早い動きであっさりと躱すと、伸びきった腕へと剣を薙ぐ。
 銀色の光が跳ねた。
速く鋭い横薙ぎの一閃を受け損ねて、オークは利き腕を骨が覗くほどに深々と斬られた。
相棒の上げた激しい苦痛の悲鳴に僅かに動揺を見せながらも、もう一匹は唸り声を上げつつ突きかかってくる。
アリアは巧みに間合いを読んでぎりぎりで躱すと、お返しとばかりに緑肌のオークに渾身の力で切り込んだ。オークは素早く仰け反ったので、袈裟掛けは革鎧を幾らか削っただけで空振りに終わった。
 苦痛に呻きながらも、なおも戦意に瞳をギラギラと燃え立たせて、腕を切られたオークが立ち上がった。短剣を左手に持ち替えて、押されている仲間を助けようと必死の形相で再び襲い掛かってくる。
「はっ!」
アリアはジグザグに素早く後退しながら、牽制の横薙ぎを放った。
剣で横っ面をこっ酷く叩かれたオークが受けた打撃に思わず後退った。
長剣を己が身体の一部のように自由自在に操りながら、女剣士は二匹のオークを翻弄し続ける。

 戦っている一人と二匹の背後にいる黒い肌のオークは、柵に近い位置に佇んだまま、じっと戦闘の経緯を眺めていた。
参戦すれば、すぐにも苦戦している仲間の助けになるだろうにも拘らず、よく手入れされた腰の小剣に手を掛けたまま石のように動こうとしない。
精悍な顔に古強者特有の厳しい表情を浮かべて、雀蜂のように素早く、機械のように正確な動きの女剣士が、二匹の仲間をじりじりと追い詰めていく様子をじっと眺めていた。

 烈しく剣戟を交えている二匹のオークと女剣士を横手に、半エルフの娘は赤毛の村娘の手を引っ張りながら傾斜した地面を昇りきって、村の境界線に延びている柵の手前まで来た。
僅かに乱れた呼吸が平静に戻ると、感心したように木製の柵を見上げる。
村と曠野とを隔てる長大な柵は削り出した丸太を杭に使っている。
生垣をそのまま大きくしたものに見えたが、杭と杭の間隔は狭かった。
鼠くらいならば兎も角、人族や亜人は子供でも通れないだろう。
近くで見るとかなり高さがある。人の背丈よりもさらに頭の二つ分は高そうだ。
 村人たちは、一体何十年の歳月を掛けて此れだけの防備を備えたのか。
柵の向こう側には半ば枯れた草が広がる原っぱがあり、彼方には丘陵が連なっていた。
周囲を見回したエリスは、昇り易そうに茶色い土が盛り上がった場所を見つけると村娘の手を引っ張った。
「はやく昇って!」
「わ、私は行けないよ!」
 この期に及んで赤毛の村娘は何やら躊躇を見せていた。
曠野や街道を行くのに、半裸に近い格好だからか。
マントや上着だって貸す心算だし、それで半日耐えて村まで逃げ込めれば服だって入手できるだろう。
グズグズして昇ろうとしない赤毛のジナに、エリスが苛立ちを隠せなくなってきた。
「何を云って……」
「妹を探さないといけないの!」
切羽詰った叫びに翠髪のエルフ娘は思わず口を閉じ、戸惑った眼差しで赤毛の村娘を見つめた。
「逸れちゃったの……妹がまだ村の中にいるの」
二人の間に長々とした重苦しい沈黙が舞い降りた。

 色褪せた草が点々と茂るなだらかに傾斜した地面の中腹で、片方のオークが長剣に顔面を割られた。
血も凍るような断末魔の叫び声と共に、地に伏して絶命する。
「助けろ!ガッゾ・ロー!たすけでぐれ!」
追い詰められたもう一匹が背後に必死に助けを求める声を上げるが、黒オークは動かなかった。
寧ろ追い詰められた仲間から、じりじりと距離を取って下がっていく。
「悪いな。それほどの手練は相手できん。三人掛かりでも遅かれ早かれやられてしまうだろうよ」
言葉の割には余裕のある冷静な態度のままに呟くと、黒オークはすっと踵を返した。

「たった一人の妹なの。置いてはいけない。もう、あの娘だけが私の身内なのよ」
胸の前で手を組み合わせている赤毛の村娘は、苦しげな表情で目を瞑った。
暫らく絶句していたエリスは、一瞬だけ後ろめたそうに目を伏せてから、ぽつりと口を開いた。
「妹さんは焦げ茶色の髪を持った女の子?」
「あ、会ったの?」
縋りつくように視線を向けてきた村娘に、翠髪のエルフ娘はややぎこちない態度で肯定した。
「仲良いんだ。姉妹で同じ事を言うのね。
 林に来る途中であったよ。村外れの納屋に潜んでいた」
「ぶ……無事だった?」
恐る恐るそう訊ねてきた妹想いの赤毛の娘に、一瞬だけ躊躇してからエリスは答えた。
「……私たちと別れた時には……姉さんを探すといってた」
躊躇はほんの一瞬だったから、赤毛の娘は気づかなかった。
「ああ、良かった。女神さま、感謝します。本当に良かった」
嬉しさに噎び泣きながら、村娘は地面へと屈み込んだ。
「……あの娘ったら、叱られた時とか、何時もあそこに隠れるの」
ジナは優しい微笑を浮かべて、エリスを見上げる。


 二匹目のオークが恐怖と苦痛に凄まじい絶叫を上げた。
鋼の長剣の強烈な一撃に腕を完全に切り落とされ、もう勝てないと観念するや、背中を向けて逃げ出した。女剣士が追いかけるが、オークもまた死に物狂いだった。
「死にたくない!死にたくねえ!」
 斬り付けるが、叫びながらも全力で逃げ回ってるオークにはどうしても浅い。
追い掛け回しているうちに、エリス達と大分離れた場所までアリアは遠ざかっていく。
黒い肌のオークが何時の間にか居なくなっている事には、気づかなかった。

「……ねえ、聞いて」
 顔は、上手く平静を保っているだろうか。言葉は、それらしく聞こえているだろうか。
自分の演技力を危惧しながら、エリスは口を開いた。
「妹さんを助ける為にも、出来るだけ早く助けを呼んでこないといけないと思う」
「……それなら他の人たちか、貴女達が助けを呼んでくれれば」
戸惑う赤毛の娘に、翠髪のエルフ娘は言葉を選びながら説得を続けた。
「私たちは余所者だよ。いきなり豪族の所へ行って信用されるかは分からない。
やはり村の人が行くべきだけど、他の人たちは乗り気じゃない」
「あの二人も付いてくるけど……」
黒髪の女剣士がオークを相手に優勢に戦いを進めているのを見て林から出てきたものの、なおも躊躇ったように立ち尽くしている若夫婦を見て、エルフ娘は首を振った。


 夥しく出血しながらも、必死に走り回っていた三匹目のオークが石に足を取られて転倒した。
アリアが剣を振り上げると、恐怖に顔を歪めながら這い回って逃げようとする。
背中から斬りつけて、苦痛に転がりまわる所を漸くに仕留めると、黒髪の女剣士は額の汗を拭った。
もう行ったかと思って視線を転じると、エリスと村娘まで柵の手前で愚図愚図していた。
「何をしている」

 女剣士がオークたちを倒すと、林の中で見守っていた村人達からは明るい笑い声が上がった。
数人が安堵の溜息を洩らしながら、ぞろぞろと林から出てくる。
蛙に似た中年女が手近なオークの死体に駆け寄ると、つけている装飾品を奪い取った。
「これはもともと村のものだからね、返してもらうよ」
身なりの良い男がその後を昇ってきて、オークの着込んだ服を剥いでいく。
「此れは丁度いい大きさだね」

 若い夫婦は、なおも気持ちの踏ん切りがつかないのか、途方に暮れたように道の途中の小屋の前で立ち止まっていた。それ以上は柵に近づいてくる訳でもなく、小屋の前で大柄な青年と話し込んでいる。
「案外と大した事が無いな。こいつら」
大柄な若者が死んだオークの頭を蹴飛ばした。その後、短剣を拾い上げる。
刃に錆びの浮き出た、簡素な短剣だったが、それを二、三度振ると鋭い風きり音が発した。
「へっ」
得意げな顔で笑い、腰のベルトへ挟んだ。
夫婦の若者の方が、大柄な青年に話しかけた。
「兄さん」
「安心しろよ。剣を手にすれば、もうこんなオークなんかにやられはしない。大丈夫だ」
笑いながら大きな手を若夫婦の肩へと置いた。若夫婦は涙ぐんでいる。
「お前も、ミナも、気をつけてな」
「……兄さんも」

 身なりの良い青年が坂を昇ってきた。
「これを……そんな格好じゃ辛いだろう?それに目の毒だからね」
穏やかに云いながら、友人のジナにオークから剥いだ服を差し出した。
元は村で産された布地で作った村人の着ていた服だ。
地味で質素だが、布地は二重に裏打ちされており暖かくて動き易そうだった。
「ありがとう、ジャン」
 エリスに説得された赤毛の村娘は、素直に頷いて服を着込み始めた。
服からは離れてるエルフ娘のところまで少し異臭が漂ってきたが、赤毛の娘自体が身体から饐えた臭いを発しているから気にならないのだろうか。礼を言われて、照れくさそうに青年は笑った。
「無事を祈ってるよ。早く戻って来てくれよ」
「必ず助けを呼んで戻ってくるね。それまで……そっちも無事で」


 柵へと足早に向かう黒髪の女剣士に、屈強な青年が駆け寄った。
「一人でオークを三匹倒すとは。いや、大した腕だ!」
「……お前達は一体、何をしてる」
アリアは歩きながらも、こんな場所でのんびりと別れを告げている村人たちの危機感のなさに苛立っていた。気づいてみれば、黒オークがいない。応援を呼びに行ったのだろう。
「……一匹逃がした」
「逃がしたのは一匹だろう?何が出来るんだ?」
傍らで肩を竦める青年の血の巡りの悪さに思わず舌打ちしながら、黒髪の娘は足を速める。
空模様は高く晴れているのに、急に風が肌寒くなったように感じて、ぶるりと躰を震わせた。
何処となしに空気が重く粘りつくようで、アリアは嫌な感覚に軽く眉を顰めた。


 兄弟は小屋の前で別れを告げていた。
「……じゃあ、そろそろ此処で。オークに見つからないように」
「ふん。来るなら来ればいいさ」
 弟の言葉に、大柄な青年が自信有りげに腕を折り曲げて力瘤を作った瞬間、すぐ近くから角笛の音が鳴り響いた。同時に、大人数が吠え立てるような鬨の声が林の傍で上がる。
振り向くと、多数のオークが武器を振り回しながら林の向こう側の田舎道から姿を現した。
少なくない数だった。十数匹はいる。
 林を挟んで反対側の街道からも、角笛を聞きつけたのか。
此方は三匹のオークが、女剣士と村人たちを分断するような位置へと真っ直ぐと走ってくる。
三人は目を大きく見開くと、恐怖に喘ぎながら歪な石像の如く固まった。

 アリアと青年の所からは、さらに遠方から幾つかの黒い影が……恐らくは、より恐るべき黒エルフであろう。田舎道を駆けてくる姿が見えた。
オークの素早い展開に女剣士は舌打ちし、村人は呆然としていた。
すぐ近くに大人数が控えていたらしい。
 網を張っていたのか。
逃亡者の居そうな場所を数箇所に絞って、目星を付けた各々に哨戒の網を広く薄く配置し、残りの人数は移動しやすい個所に纏めて待機させていたのだとアリアは推測する。
「……中々、どうして。楽はさせてくれないか」
総計すれば二十匹近いオークが駆け寄ってくるのを目の当たりにして、屈強そうな青年も浅黒い顔から完全に血の気が引いていた。
「なんて……数だ」
慄いている青年の背中を叩いて隠れてろと告げたら、慌てて手近な岩陰へと飛んでいった。
「行け!エリス!行くのだ!」
走り始めたアリアの叫びは切羽詰っていた。

「あああ。大変だよ!すぐに、にげなきゃ」
 なだらかな坂の中腹でオークの死体を漁っていた中年女が、恐怖の叫び声を上げた。
かなり昇ってきていた為、林に逃げ込むのは如何考えても間に合わない。
林の中で見守っていた村人達は、既に奥へと逃げ込んでいた。
逃げている村人たちが目撃されてなければいいと思いながら、エルフ娘は柵を見上げた。
脅えた若い夫婦と大柄な青年は、近くの小屋へと逃げ込んだようだ。

友人のジャン青年が慌てて林に戻ろうとしたので赤毛のジナは引き止めていた。
「馬鹿。オークを案内する気。それにもう間に合わない!」
「ああ、どうしよう」
柔らかな茶色の毛髪を両手でかき回しながら、ジャン青年は泣きそうな顔と声で嘆いた。
「二人とも柵を昇って。此処から逃げるしかない」
エリスはつとめて冷静な声を保ちながら柵を指差した。
「でも、私……」
「いいから!」
 絶望に蹲ったジャンの尻を蹴飛ばして叫んだエルフ娘の迫力に、赤毛のジナは飛び上がった。
意外に運動神経が良いのか。一番手のジャン青年はあっさりと柵を昇ると、外へ飛び降りた。
柵の外の堀はかなり深いようだが、慎重に降りれば怪我をする高さではない。
次いで赤毛のジナの尻を持ち上げて手伝い、彼女が柵の外に降りた時には、中年の女もこっちへと駆けてきた。

 最後に自分の短槍と重たい財布を取り出して布にくるむと、力を込めて柵の反対側に投げつける。
蛙似の年増女の目が半エルフの腰につけている大きな巾着を見て、ずるそうに光った。
荷物を反対側に放り投げてから、翠髪のエルフ娘も跳躍した。
「……よっと」
柵の頂点に掴まり、よじ登ろうとした所で、中年女が横からいきなりエリスを思い切り突き飛ばした。
「きゃう!」
不意を突かれたエリスは小さく悲鳴を上げ、転倒するとそのまま丘陵を転がっていく。
「マーサ!なにを!」
赤毛のジナが叫んだ。ジャンも驚愕に固まっている。
「その荷物を頂くんだよぉ!此れから先の人生、無一文じゃ生きていけないからね!」
「助けてくれたのに!」

 文句を鼻で笑いながら中年女は柵に飛びついて登ろうとするが、太った身体は中々に登れない。
漸くあと少しで乗り越えられそうな所で、怒り狂ったエリスが猛烈な勢いで丘を駆け上がってきた。
怒れるエルフ娘が年増女に背中から飛びついた。足を掴んで引っ張り降ろすと、髪の毛を引っ張り、殴りかかる。
「うわ!邪魔するんじゃないよ!」
「……よくも!」
「はなしな!そんなことしてる場合じゃ!」
横目にオークの大群が迫ってくるのを見て、中年女は太い足でエリスを蹴飛ばしながら必死で柵にしがみつくが、二人分の体重を支える事は出来ずに落下してしまう。
「オ、オークが迫って……」
「五月蝿い!」
エルフ娘は拳を振るって中年女の鼻面に叩き込んだ。
「ひい!悪かったよ!放しておくれ!」
「調子のいいこと言うな!」
エリスの力はさして強くないが、中年女が退けられるほどに弱くもない。

 オークの集団が揉み合っている二人がいる柵へと駆け寄ってきた。
先頭は派手な原色の装束を着込んだ太ったオーク。
一部のエルフ族だけに特有の翠髪を確認すると眼を見張り、ついで太い舌で舌舐めづりしていた。
迫る足音にエリスは柵を登るのを諦めた。
「槍を!こっちへ早く!」
エリスの切羽詰まった叫び声に、慌てながらも赤毛のジナは柵の間から槍を通した。
短槍を受け取ると、エリスは中年女から離れてオークの来る方向とは反対側を目指して逃げ出した。
「猿共を逃がすなよ!」
「かだほうはエルブだ!」
オークが口々に叫びを上げる。
「エルブだ!兎耳野郎がいるぞ!」

「づがまえろ!わしの四番目の妻にするのだ!だが捕まえたやつは一度だけ味合わせてやる!」
 先頭にいた族長が吼えると、逃げようとした中年女を目掛けて凄まじい力で槍を投げつけた。
蛙似の中年女は背中に槍を受け、呻きながら大地へと転倒した。
激痛に七転八倒しながら必死に這いずって離れようとするも、走ってきたオークたちに四方に囲まれた。
「ひいっ!まって、待っておくれよ!あたしゃ……」
オーク達が棍棒を、小剣を、槍を、手斧を、いっせいに振り下ろす。
凄まじい絶叫が林まで届いた。


 翠髪のエルフ娘は女剣士と合流しようと試みたが、行く手に数匹のオークが立ちはだかっているのを見て取ると、素早く方針を変更した。
舌打ちしながら方向転換し、今度は田舎道の方へと若駒のように軽快な走りで駆け降りていく。
「エルブをどらえろ!あっぢはかだづけろ!」
族長の号令と共に何匹かのオークが女剣士を葬るべくわっと走り出した。
残ったオークの殆どは、逃げ回るエリスを兎を追う猟犬の如く一斉に追いかけ始める。


 オークたちは、連携もなくばらばらにアリアに近寄ってきていた。
相手がたった一人と見て舐めてかかっているに違いない。にやにやと余裕の嘲笑を浮かべている者さえいる。此れだけの人数であれば、剣士一人片付けることなど児戯も同然なのだろう。

 先頭のオークが、からかうように小槍を突き出してきた。
先陣を切っただけあって、かなり素早い足取りをしている。
軽快に動きながら、棒に穂先を付けただけの粗末な短槍を繰り出してくる。
「ほう!ほう!」
 女剣士は穂先を躱しながらなんとか間合いを詰めようとするが、オークも敵の狙いは分かっているようで、甲高い声で笑いながら後ろに下がり、再び素早い突きを放った。
黒髪の剣士の右の上腕が浅く抉られる。オークが笑う。が、直ぐに笑顔が凍りついた。
苦痛を無視したアリアは槍を引くより早く踏み込むや、狙い済ました一撃で槍を両断。
敢えて致命にならない場所に槍を受けたのだと悟って、一瞬だけオークは自失した。
我に返ってただの棒になった槍を投げ捨てるよりも早く、アリアがさらに間合いを詰めた。
オークの顔が恐怖に歪んだ。懐に飛び込まれて強かな袈裟掛けに斬られ、悲鳴を上げて横転する。


倒れたオークを強かに切りつけて、女剣士は小さく息を吐いた。
「ふっ」
仲間を殺されたにも関らず、相変わらずオークたちは余裕を見せて笑っていた。
 二匹目が掛かってきた。こいつは弱かった。
少なくとも先刻のオークや納屋で戦った二匹に比べれば、てんで大した使い手ではなかった。
突き出された小剣を躱すと、右からの袈裟掛け。苦痛に歪むのをさらに逆袈裟で仕留める。
金切り声を上げている二匹目の仲間が殺されると、さすがに残ったオークたちの表情から笑いが消えた。
顔を見合わせると頷きあい、三匹揃ってアリアにじりじりと歩み寄ってくる。
黒髪の娘が僅かに乱れた呼吸を整えながら長剣を正眼に構えると、三匹のオークは同時に掛かってきた。

 アリアが絶えず動き回っているのに対して、オークは元気一杯だった。
連携とまではいかないまでも、各々が結構いい動きをしている。
打ち払い、凌ぎ、躱し、堅く防御しながら後退すると、さらに調子に乗って嵩に掛かって攻め寄せる。
女剣士の額から、じっとりと汗が吹き出てきた。
激しく動き続けているからだろう、脇腹の傷が強く痛み始めていた。

 雑木林の前にも複数のオークが待ち構えていた。
エルフの娘は林に逃げ込むのを諦めると、兎に角にも走り回った。
オークたちの大半は動きもバラバラで統率も取れていないが、それでもその数は脅威だった。
幸いなのは包囲しようとはせずに、連携も無くばらばらに捕まえようとしているところか。
 時折、追いついてきたオークを槍を振り回して牽制しつつ、逃げ道を探そうと四方に目を配るが、映るのは欲望を剥き出しにして迫ってくる醜悪な亜人ばかりだった。
遠目には、黒髪の娘がオークに追い詰められている姿が映って心がすっと冷える。
冷たい風が頬を切った。村人なんか放って置いて、さっさと二人で逃げればよかったか。
一瞬、嫌な考えが浮かぶが振り払って走る事に専念する。
今は逃げる事だけに集中しよう。こういう時に雑念に心を捕らわれると、ろくな事がない。

「来る……なッ!」
 エリスは必死で木や合間を走りぬけたり、岩の上から跳んだりして逃げ回るが、徐々に包囲の輪が縮んでいく。
手を広げたり、喚いたりと、オークたちは、必死な様相のエルフ娘を追い詰めるのを楽しんでいる様子だった。
「おらの嫁になれよ。かわいいエルフっ娘よう」
「いいや、俺の嫁になれ。可愛がってやるで」
「みんなの嫁でいいじゃねえか」
一斉にげたげたと笑う。

「おい、俺達も早くこいつを片付けて、向こうにいこうや!」
「おう!」
 止めを意識してか、それまで絶え間なく攻めかかってきていたオークたちの攻撃が大雑把な大振りになった。
瞬間、溜めていた力を爆発させたように、急激にアリアの剣が速度を増した。
静から動へ。一瞬で変化した太刀筋と速度に目が付いていけず、中央のオークの手首が切り裂かれた。
斬撃は更に加速。
左のオークの喉を深々と切り裂くと、返す一撃で右のオークの胸に刃を深々と突き立てた。
二匹がほぼ同時に地面に崩れ落ちる。

 黒髪の娘は息をつきながら、汗で額に張り付いた前髪をかき上げた。
残ったオークは武器を取り落とし、出血する手首を抑えている。
急変した状況を掴めず呆然としていたから、女剣士の攻撃を殆ど防ぐことも出来なかった。
棒立ちの所を肩を深々と切られて苦痛に呻き、ついで腹を薙がれて即死した。

 激しい動きに傷が裂けたのか。アリアの衣服の脇腹の箇所は、薄く朱に染まっていた。
オークの一団に目をやって、エリスとの追いかけっこを冷めた目付きで眺める。
差し向けた部下が全滅したことに気づいたのだろう、派手な原色の装束を纏ったオークの酋長が女剣士を指さして何事かを喚き立てていた。
なだらかに傾斜する草地の彼方から、新手のオークたちが気勢を上げつつアリア目掛けて殺到してくるのが見えた。
「……つまらん事になった」
 乱れた呼吸を漸くに収めてから、愚痴るような口調で気だるげに呟くと、女剣士はたった一人、攻め寄せてくるオークたちを迎え撃つべく歩きだした。




[28849] 26羽 北の村 12     2011/10/26
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:b03aa02f
Date: 2013/06/11 21:23
 殺到してくるオークは六、七匹はいた。少なくない数だ。アリアが如何に手練といえども些か手に余るかも知れぬ。茶色や灰色のマントを翻し、枯れ草を蹴散らしながら威嚇の叫び声を上げている。
 ざっと見たところ、それほど大した腕の持ち主は見当たらない。武器は簡素な小剣や粗末な短槍、棍棒などありきたりで粗雑なものばかり。足取りは遅く、身体の動きも鈍重。いずれも大半が雑兵の類であろう。なによりも全体の動きに統率が取れておらず、ばらばらに攻め寄せてくる。
足でかき回せば、切り崩すのはそれほど難しくないようにも思えるが、
「たった一人を相手に大仰な奴らよ」
黒髪の女剣士は苦い笑みを浮かべ、気息を整えながらその瞬間を待ち受けた。
 アリアは今日一日で既に十匹ものオークと戦い、此れを屠っていた。代償として浅手とは言え右肩と脇腹にて傷を負い、疲労も少なからず蓄積していた。だが、足からはまだ機敏さは失われていない。オーク二、三匹はまだ相手できるだろう。だが、その後はどうなるだろう。

 ふうっと一つ深呼吸してから、遠くで逃げ回っている翠髪のエルフ娘を一瞥し、改めて剣を構える。
それでも逃げる訳にもいかない。
最初のオークが切りかかってきた。
恐ろしい雄叫びと共に、小剣が勢いよく振り下ろされた。黒髪の女剣士は身を逸らして躱すと、革鎧に守られていないオークの腕へ長剣を叩き付けた。オークは苦痛に身を仰け反らせただけで、再び切り込んできた。横薙ぎの一閃で牽制するも、アリアの顔は晴れない。
さしもの愛剣も血糊に切れ味が鈍ってきているようだった。
 別のオークが短剣を振りかざし、切り込んでくると女剣士は剣で防いで、股間を思い切り蹴り上げた。
急所を痛打されたオークが絶叫して蹲った。此の隙に大きく後退し、剣を構え直すと最初のオーク目掛けて突っ込んだ。振られた小剣を掻い潜ると、思い切り腹部に長剣を突きたてた。
刃の切れ味が鈍ろうとも、突きの殺傷能力は落ちてはいない。
絶叫の呻きと血飛沫を浴びながら跳び退って、横合いから流れた短槍を躱した。
地面を転がりながら、オークの膝に思い切り剣を叩き付けた。


 エリスを追い掛け回しているオークは七匹か、八匹はいるだろう。足の速さはそれほどではないから直ぐに捕まるような事はないが、人数が人数だけに逃げ切るのも困難だった。
追い立てられているエルフ娘が殆ど絶え間なく走り回っているのに比べて、オークたちは追いかける役を休み休みしながら、交替で駆けっこの鬼を務めている。
輪の中にエリスを閉じ込めて袋の口を絞るようにしながら、少しずつ確実に追い詰めていく。
(……此の侭では捕まるな)
 空の色は明るく、雲ひとつない。
西の空が僅かに赤く染まっているが、夕刻まではまだ随分と時間がある。
荒い息を吐き、唇を舌で湿らせながらエルフ娘は周囲を見回した。
追いかけてくるオークたちは本気ではなく、鬼ごっこを楽しんでいるように見えた。

 下衆というのはどいつもこいつも似通った性格をしているな。全く嫌になる。
草原の向こう側で、黒髪の女剣士が夥しいオークと切り結んでいる姿が窺えた。
数に勝るオークを相手に廻しながら、素早く動き続けることで全く包囲を許さずに、いまだ勇猛な戦いぶりを披露している。
 また一匹のオークが血飛沫に全身を赤く染めて地へと崩れ落ちていく。
見ているだけで心臓が高鳴るほどの全く見事な武者振りだった。
翠髪のエルフが見つめていると気のせいだろうか。
一瞬だけ黄玉の瞳も此方を見つめて双方の視線が合ったような気がした。
 アリア一人なら簡単に包囲を突破できるだろうに、何故逃げないのか。
エリスを見捨ててないからだろう。
まだ知り合ったばかりの相手だ。置いて逃げればいいのに。と思いつつも、女剣士の行動がエルフの娘にはこの上なく嬉しく、そしてどうしようもなく哀しかった。
じりじりと迫ってくるオークを他所に、エリスはアリアが自分を見捨てて逃げればいいと願っていた。

(二人目……!!)
喉笛から鮮血を噴出しながら、白目を剥いたオークが地面へと崩れ落ちていく。
「動きが鈍ってきたぞ!」「足を止めろ!」
何か言ってるオーク達の甲高い叫びが五月蝿い。酷く耳障りで勘に触った。
汗だくになりながらオークの首筋を貫いた剣を引き抜くと、振り向き様に横薙ぎに太刀を振るったが小剣で受け止められる。
別のオークの突き出した槍の穂先が、アリアの太股を切り裂いた。舌打ちするが、まだ掠り傷だ。動きに支障はない。横っ飛びで一気に間合いを詰め、横顔に思い切り剣を叩き付けた。
さしもの剣も切れ味を失い、既にただの鈍器と化しているが、使い手が優れた技量を持つ硬さと重量を兼ね備えた鈍器だった。即頭部に直撃した剣は、頭骨を破砕して眼窩までめり込んだ。

 激痛に絶叫するオークを放置して、右手のオークの牽制の一撃を放って包囲を突破し、再び集団と相対する位置を取る。背後に廻られたらお終いだったから、兎に角、死角を晒さないように動き回り続けていた。彼我の位置関係を巧みに把握する能力と位置取りの上手さが、黒髪の剣士をして単騎で多勢のオークに対して拮抗させている最大の要因であった。
しかし、切りかかってきたオークの太刀を受け損ねて、アリアは無様に転倒した。
歓声を上げるオークたちが殺到してくる前に、地べたを転がりながら横薙ぎに一閃。
オークの膝を叩き割って距離を取りながら素早く起き上がるが、明らかに息を切らしていた。
女剣士は疲れていた。頭のキレが鈍ってきて、段々と敵の位置を掴めなくなってきている。
というよりも、把握する余裕がなくなってきていた。
足も時折、勝手に痙攣し、使い慣れた筈の愛剣が手に酷く重く感じた。

 オークたちがざわめき、猛り狂う。
疲れている。油断するな。そんな叫びが耳を通り過ぎていく。
残った四匹のオーク達も全てが手負いであり、また死に物狂いであった。
もはや外見を取り繕う余裕もなくなって、アリアは荒い呼吸を繰り返しながらオーク達の攻撃に備えた。
俊敏だった足は次第に止まりつつあり、鍛え抜いた剣の技だけを頼りにオークの攻撃を防ぎ続けていた。
身体の其処此処に浅い傷を負って出血しているが、よく鍛錬された守りの技で致命傷だけは避けて、不屈の闘志で戦い続けている。
(……これは死ぬな)
悲壮とも恐怖とも無縁の冷静な心持で淡々と予想した。
如何見ても死ぬ。勝機も、脱出口も、とうの昔に閉ざされている。
アリアは闘争に楽観も悲観も挟まないし、何の希望的観測も抱かない。
彼我の戦力を一目で正確に把握して、こういう時に見誤った事は殆どない。
降伏は論外だった。降参するのは死ぬより嫌いだった。
それに逃亡も出来なかった。此処でエルフを見捨てて逃げたら、もう二度と会えない。
後で助け出すなんて考えも浮かんだが、言い訳だと一蹴して頭の片隅に放り込んでいた。
守ると誓約したのだ。約束を破るのも、女剣士はナスと同程度に嫌いだった。
それに何より、逃げる事も出来たのに友情と誇りに殉じて討ち死にするのは、そう悪くない死に様だと思えた。

「あいつ、強いなあ」
呑気な口調で感想を洩らしたのは、農家に隠れて外の様子を窺っていた若夫婦と大柄な青年だった。
「そこだ、やっちまえ!よし!また一人倒した。此れで残り四人だ」
離れた家屋の中から窓を覗いては、展開されている戦闘の様相に興奮の色を隠さずに笑っていた。
対称的に、若い妻の方は部屋の隅で怯えを隠さず、息を飲んで見つめている。
「いっそ、全員倒してくれないかな。それにしても本当に強いな」
女剣士の奮戦を見世物のように楽しんでいる色さえ窺える若者の口調。
「……剣があるからな」
大柄な青年が吐き捨てるように云うと、若者が意外そうに兄を見上げる。
「兄さん、オークだって剣を持ってるぜ?」
青年は憤懣やるかたないといった目つきで、オークを睨みつけている。
「あいつら、てんで大した事ないじゃねえか。俺はあんな程度の奴らにびびっていたのか」


 遂にオークが距離を詰めて、四方八方から翠髪のエルフの娘に手を伸ばしてきた。
槍を押さえられ、抵抗するエリスの躰をあっけなく地面に押さえつけられた。
複数の哄笑が頭上で響くと、目前に派手な装束を着込んだオーク。恐らく族長だろうが、立たせろと命令した。
 捕らえたエルフ娘の顔を上げさせて、派手な原色の衣装を纏うオークの酋長は息を飲んだ。
こんな美しい娘は初めて目にした。
「……美しいな」
まだ己が手に落ちたのが信じられずに酋長は太い指で繊細な硝子細工に触るようにエリスの頬を撫でた。
 翠髪のエルフ娘は、嫌悪でも、怒りでもなく、ただ哀しげな色だけを瞳に浮かべていた。
周囲を七、八人ものオークに囲まれていては逃げようもない。
そっと顔を伏せたエリスは、周囲の誰にも諦めたように見えた。

 エルフの娘が横目で一瞬だけ見ると、黒髪の娘はなおも剣を奮って勇戦しており、その足元と背後には十余を数えるオークが物言わぬ亡骸となって地に伏していた。
これほどの武勇の持ち主は、ヴェルニア広しと言えども、そうはいないに違いない。
けれども、そんな彼女の鍛え抜かれた剣技を持ってしても、数の差はいかんともし難いようで、激しい圧力をその身に受けていた。
 当初の勢いは遂に衰えて、もはや防戦一方に追い込まれている。
閃く鋼の刃からも、劣勢を覆い返すだけの力は失われて、敗れ去るのも時間の問題に見えた。
剣を杖に立ち上がるその姿を見て、彼女は死ぬまで戦い続けるだろう。
エリスは理由もなく、そう悟った。
自身への情けなさだろうか。友達を失う事への恐怖だろうか。
哀愁にも似た胸を締め付けるような強い気持ちが湧いてきて、溜まらなく苦しく感じ、煙る蒼の瞳から透明な涙が零れ落ちた。


 初冬の夕刻前という肌寒さを感じても不思議ではない気温でありながら、滝のような汗がアリアの頬を流れて、地面へと滴り落ちていく。
足元の枯れ草が流血に赤く染まっていた。周囲にはオーク達の夥しい屍が積み重ねられている。
鬼気迫る戦いぶりで粘り続けて、遂に残り三匹まで減っていた。
恐怖に顔を歪めたオークが、支離滅裂な叫び声と共に槍を突き出してきた。
身を捻じるも、腕を僅かに抉られた。
大した傷ではない。血飛沫を散らしながら、苦痛を無視してそのまま前進。
勢いよく剣を薙いで、オークの顔面に思い切り叩き付けた。
骨を砕く素晴らしい感触が素手に確かに伝わってきた。
苦痛に呻いてよろめき、後退りするオークを追撃。
凶暴な笑みを貼り付けながら、剣を思い切り肋骨の間へと突き刺した。
心地いい絶叫を耳にしながら、血塗れの美貌に凄惨な笑顔を貼り付ける。
「あっは」
 既に五、六ヶ所も目立つ裂傷を負ってるが、アリアはまるで痛みなど感じていないかのように振る舞い、戦い続けていた。
打撲や小さな切り傷などは数え切れないが、致命傷は巧みに回避しているのだ。
「こいつ、不死身か!」「化け物め!」
 残り二匹となったオークたちが、遂に死に物狂いの攻勢に出てきた。
互いに相手を斃すしか、生き残る道は見出せない。
女剣士は、血糊に切れ味の鈍った剣を迫るオークに叩きつける。
「……あっ!」
 オークが猛烈な勢いで押し返し、女剣士は長剣をついに取り落としたように見えた。
オークの視線が『捨てた』長剣へ逸れた一瞬、抱きつくようにアリアは懐へと飛び込んだ。
短剣を引き抜きながら掴みかかって、首筋を深々と切り裂く。
振り向き様にその短剣を投擲しつつ、転倒したが、刃は灰色マントのオークの構えた小剣に弾かれた。
「油断のならねえ、全く恐ろしい奴よ」
オークも息を切らし、全身から血を流しながら、近寄ってくる。
無手となった人族の娘は尻餅をついたまま、草叢の近くまで後退る。
「だが、此れで終いだ!」
 灰色マントのオークが剣を振りかざした瞬間、女剣士の右手に手品のように短槍が現れた。
わざと転倒した先、転がっていたオークの武器を掴んで突き出した。
胸を刺され、苦痛に顔を歪めながらも灰色マントのオークが剣を振り下ろした。
肩から切り裂かれて、アリアが仰向けに倒れた。
目を瞑って最後の時を待つが、止めはこない。
オークはそのまま地面にうつ伏せに倒れ、息絶えていた。
 生き残った。今だけは。
起き上がろうとしても疲労困憊した身体は言うことを聞かない。
仕方なく草地に寝転んだ姿勢で空を見上げたまま、黒髪の娘はただ荒い呼吸を繰り返した。





[28849] 27羽 北の村 13     2011/10/27
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:b03aa02f
Date: 2013/06/11 21:24
「……お、長。やられた。みんな、やられちまった」
 遠目から戦闘の一部始終を窺っていたオークが恐怖に喘ぎながら酋長に報告した時、ラ・ペ・ズールは、信じなかった。脅えの色を隠せないでいる目前のオークをじろりと冷たくねめつけると、太い腕を振るって訳の分からない事を口走っているオークの頬を思い切りに張り飛ばした。
「わしは糞つまらねえ冗談なんぞ聞きたくねえのよ、リ・アッグ」
 十余名のオークがただ一人の剣士に敗れたなどと聞いて、誰が信じるだろうか。事実をありのままに告げたにも拘らず、地面に伸されてしまった不幸なオークを見下ろしたが、他にも仲間達が全滅する光景を目にしていた者は幾人かいた。オークたちは顔を見合わせて恐怖と困惑の入り混じった囁きを交し合う。

周囲を取り巻くオークたちの忙しない囁きが耳に入っても、エリスはじっと俯いて足もとの地面を見つめていた。酋長は舌打ち一つすると、ずっと隣に控えていた大柄なオークを呼びつけた。
「ゴ・グム!あの猿を片付けろ!目障りだ!」
 七尺(二メートル十センチ)は優にある槍を肩に担いだ大柄なオークの顔が引き攣った。他のオークよりも大柄で筋肉質。如何にも強そうな外見を持っていたが、気の弱そうな顔をしていた。明らかに気が進まない様子でぶつぶつと文句を呟いている。
「さっさとしねえか!この図体ばかりのうすのろが!」
 酋長にもう一度怒鳴りつけられ、命令には逆らわなかったが、単独では不安だったのだろう。もう一匹オークを引き連れると、渋々と言った様子で歩き出した。


「見ろ。また手下共がいなくなった」
 いまや目の前で族長を守っているオークは五匹まで減っていた。大柄な青年には、千載一遇の好機に思える。村を救う光景を想像したのか、にやりと笑みを浮かべた。女剣士一人に次々と倒される光景を見てオークを侮ったのか、相手が多勢で在っても勝てると踏んでいた。
「ようし、見てろよ!」
 青年が雄叫びと共に戸口から飛び出した。勢いよく走りながら剣を振り上げて、纏っているオークへと突進する。自慢の力で小剣を振り下ろすと、雄叫びに気づいて振り返ったオークが顔を切りつけられ、よろめいた。

 腕を拘束していたオークの力が緩んだ。奇襲に混乱しながら、オークはエリスを連れて後ろへ下がろうとしている。
「あッ!」
 エルフの娘は転んだように装って、足元にある石を掴んだ。暴れまわる青年に気を取られているのか、オークは気付かない。手元の石を隠して起き上がると、タイミングを見計らって拘束役のオークの顔へと叩き付ける。
さして効かないが幾らか怯んだオークの手を素早く振り払うと、一目散に逃げ出した。
「エルフが逃げ出したぞ!捕まえろ!ぬお!」
叫んだオークに大柄な青年が小剣で切りかかり、慌てて小剣を掲げて防ぐ。
「にいさん、やるなあ」
「アジャンさん。頑張って」
オークへと切りかかった青年を、農家から見守る弟夫婦が応援する。
「エルフを逃がすんじゃねえ!愚図の愚か者共が!」
族長が怒りの叫び声を上げた。


「おら!おら!おらぁ!」
 大柄な青年は威勢よく叫びながら小剣で幾度もオークに切り掛かるが、元々錆びて切れ味もよくない粗悪な品だ。青年の予備動作は見え見えでわかり易かったし、オークは革鎧を着込んでいた。
そこそこに力は在るが、村で随一というほどの巨躯でも膂力でもないから、粗雑な太刀筋など脅威になり得ない。
あっさりと見切り始めて、怒りの声を上げながらオークがすぐに反撃し始めた。
「うお!」
 動物と人で明確に異なる点がある。武器を使いこなす技を持っている事だ。
オークは意外なほど素早く、連続で斬りつけてくる。アジャンの肌が忽ちに切り裂かれた。
大柄な青年は、苦痛に顔を歪めて忽ち後退に追い込まれる。
思うようにならない。
オークは顔や躰を切られても倒れずに、猛り狂って反撃してくる。
女の細腕に斬られて、あんなにあっさりと倒れた連中がどうしてこんなにしぶといんだ。
こんな筈はない。自惚れているアジャンには中々に現実が認められない。
アジャンの足の動きが切羽詰ったと見るや、オークは大振りで仕留めに来た。
「ひっ」
 情けない悲鳴を上げて、アジャンは防ぐように短剣を突き出した。
オークの剣が、上から右へ軌道が変化した。
腕を斬られたアジャンはぎゃ!と叫んで武器を取り落としてしまう。
稚拙なフェイントであったが、面白いように引っ掛かった。
オークが残忍な笑みを浮かべる。
「兄さん!武器を落としたぞ!拾え!」
「頑張って!アジャンさん!」
 声出してないで、助けに来い。
呑気に声援を送り、分かりきってる事を指摘する弟夫婦に、怒鳴りつけたい程の苛立ちを感じながら、だが、大柄な青年は声を出す余裕もない。


 エリスは、野兎のように大地を駆けた。
途中ですれ違った二匹のオークの手を避けると、死体や転がる武具を飛び越えて、息を急ききってアリアの元へ辿り着き、力なくぐったりと地面に横たわっている姿に息を飲んだ。
「……酷い」
 黒髪の女剣士は身体中に切り傷や刺し傷を負っていた。出血の為か、顔色も蒼白になっている。
跪くと、取り合えず怪我の具合を調べ始め、すぐに見た目ほどは酷くない事を見抜いた。
いや、上手く急所を避けている。
太股から胸、腕、肩に掛けて全身を数箇所も切り裂かれ、服の布地は赤く染まっている。
腹部は無事なのが不幸中の幸いか。
傷はどれもそれほど深くないが、それでも出血は多い。
止血しないと、命に関るだろう。だが、オークがすぐ近くまで迫ってきている。
悠長に手当てをしている時間もないのは明白で、如何すればいいのか分からない。
「ああ……無事かね、よかった」
 薄っすらと目を開けて、アリアは白い顔に微笑を浮かべ、柵を指差した。
普段の何処とない胡散臭さや力強さのない透明な表情だった。
「……はやく……行け……」
「喋らないで」
エリスの背中に近づいてくるオーク二匹の姿を認めると、アリアは黄玉の瞳を細めた。
「……剣を取ってくれ。そこらへんに転がっている筈だ」
「…………」
 半エルフは頷き、周囲を見回してから地面に転がる剣を拾い上げた。
手渡したものの、女剣士は起き上がろうとしない。もう、立ち上がることさえ出来ないようだ。
エリスは近くのオークに突き刺さっていた使い易そうな槍を手に取る。
近寄ってくるオークに向き直り、唇を舌で湿らせながら槍を構えた。

 オークのゴ・グムは、まだ酔いが抜けきっていなかった。
村で略奪した戦利品のエールをしこたまにきこしめて寝入りかけた所を叩き起こされ、此処まで走ってきたのだ。
 周囲に転がる仲間たちの死体の数には寒気さえ覚えるが、ただではやられなかったらしい。
人族の女剣士も躰をズタズタに切り裂かれ、剣を手に握ったまま、ピクリとも動かずに地に倒れ伏している。
死んでいるかもしれない。
目の前のエルフ娘は、まるで生まれたての小鹿のように震えながら、女剣士の傍らで槍を構えてオークたちを睨みつけていた。
だが、構えは隙だらけで、素人なのは一目瞭然だった。
大柄なオークは、肩を竦めて隣のオークと顔を見合わせる。
「おいおい、お嬢さん。そんなものは捨ててしまえよ」
 エルフ娘は聞く耳持たない。凶暴な顔つきになって、何やら唸りながら槍を振り回している。
「仕方ねえな」
 舌打ちしたゴ・グムは自慢の槍を構えると、一気に振り下ろしてエルフの槍を叩き落した。
手元の武器を一瞬で失い、呆然としているエルフ娘に相方のオークが手を伸ばして歩み寄った瞬間、死んだように転がっていた女剣士が突然、跳ね起きた。
蛇のように伸びた剣先が、避ける間もなくオークを襲っていた。
一撃放っただけの女剣士が、そのまま転倒して地に崩れ落ちる。
一瞬、オークは無傷のように見えたが、喉から僅かに血が流れていた。
「……あ?」
暫らく棒のようにぐらぐらと身体を揺らしていたが、やがて喉から大量の血を流しながら横へと倒れる。
「ほっ」
 険しい目になったゴ・グムは槍を構えるが、女剣士は浅い呼吸を苦しげに繰り返して地面に倒れたまま動こうとしない。如何やら演技ではなく、本当に最後の力を振り絞っただけのようだった。
しかし、今の一瞬の早業は目に焼き付いている。大柄なオークにとっても近づくのは恐かった。
じりじり近づき、離れた位置から槍で止めを刺そうとすると、エルフの娘が庇うように半死半生の女剣士の躰に覆いかぶさって、大柄なオークをきっと睨みつけた。
「其処をどきな、お嬢ちゃん」
 ゴ・グムは体格の割に些か臆病な所がある。
女剣士は殺すと決めていた。余りにも危険すぎる。
何時自分がやられるか分からない。
美しいエルフ娘は捕まえた方がいいのだろうが、邪魔するなら殺すだけだ。
族長が渋い顔しようが知った事か。文句があるなら自分で捕まえればいいのだ。
ゴ・グムがエルフ娘の身体ごと女剣士を殺そうと槍を振りかぶった時、背後から大きな足音がする。
他のオークが寄って来たのだろう。
手柄を取られても面白くねえが……
舌打ちしつつ振り向いたオークの顔面に、振り下ろされた手斧がめり込んだ。


 闖入者は図体もでかくて力は強いが動きは鈍い。
武器を使い慣れている訳でもないとオークたちは直ぐに悟った。
急所も知らなければ、痛みにも弱い。いい鴨だった。
アジャンは奮戦していたが、他のオークも寄って来た。
オーク達は卑怯にも背中や横から切りつけてくる。まるで思うようにならない。
農作業とは使う筋肉が違うのか。
少し動いただけなのに、大柄な青年の息は切れ始めていた。
 アジャンの目に、再び立ち上がった女剣士がオークを一撃で打ち倒した光景が写った。
遠方を眺めていたオークは緊張した様子で睨みつけ、隣のオークと言葉を言い交わした。
残りのオークは、つまらないものを見るような目で農夫の青年を眺めている。
アジャンは逃げ出そうと左右に視線を走らせるが、完全に囲まれている。
こんなはずじゃなかった。
俺は思っていたより弱かったのか?それともオークが強かったのか?
漸くに現実を認識した彼は汗だくになり、狼狽した目で周囲を見回すも、もう取り返しはつかない。

 棒立ちになってる大柄な農夫の青年を、オークは隙を逃がさず手斧で切りつけてきた。
胸を深々と切り裂かれた。
身体がぶちぶちと聞いたこともないような嫌な音を立てる。
灼熱の棒を差し込まれたように感じてアジャンは苦痛に絶叫した。
嫌だ!死にたくない!
こんなところで!こんな風に!俺が死ぬ筈ない!
槍を突き出して来る。棍棒が側頭部に当たった。
「いっでえ!」
 喉からはもはや意味のない濁った叫びしか出てこない。
一発一発が目も眩むような衝撃だった。
アジャンがゴロゴロと地面を転がると、オーク達が嘲笑を発していた。
視界の端で、屈強な青年が先程向かった最後のオークと切り結んでいる姿が映った。
立ち上がったエルフが短槍でオークを背中から突き刺した。オークが身悶えしながら、体勢を崩す。
ああ、早く助けに来てくれ!俺はまだ死ねない!こんな処で!
喉からぜいぜいと恐怖の悲鳴が迸った。
屈強な青年とエルフ娘が最後のオークを切り倒す光景が目に入った。
見ていたオークたちは動揺したようだ。
酋長が喉から怒りの混じった呻き声を迸らせた。
失禁し、傷口から間欠泉のように出血しながら、青年は血まみれの手を伸ばした。
ああ、頼む。剣士さま。お願いだ。助けて……
酋長がその手を踏みつけた。見下ろす瞳には激しい憤怒が窺える。
手にした戦斧を大柄な青年の首へと思い切り振り下ろした。
「行くぞ!エルフを捕まえるのだ!」

 アリアは胸を大きく上下させて、喘ぐように速い呼吸を繰り返していた。
エリスの手を借りて起き上がったものの、再び地面に膝を付きそうになる。
もはや疲労困憊と出血で歩くことは愚か、立つ事もままならぬ様子であった。
剣を杖に、億劫そうに足を動かす。全身がまるで丸太のように重く感じられた。
「……そいつの槍を……貸してくれ」
エルフの娘は、呻き混じりの言葉に戸惑いを隠せない。
「何いってるの?奴らがこっちに来る前に、さっさと逃げよう」
「……槍を寄越せ……信じろ……」
 女剣士は頑固に言い張る。休んだからか、黄玉の瞳には力が戻ってきていた。
屈強な青年とエリスは顔を見合わせた。
青年が屈みこんで槍を拾い上げ、座ったままのアリアに手渡した。
重量が相当にある。
「……ふ、ふふ、良い槍だ……これはいい槍だ……」
 しげしげと眺めてから満足したように凄絶な笑みを浮かべて、女剣士は槍を握り締めた。
全身に汗をかいて息も乱れている。或いは錯乱しているのかも知れないが、最後まで付き合う心算になってるエリスは、周囲に転がるオークから灰色のマントを拾った。
元々は、村の誰かの持ち物だろう。不潔な習慣を好むオークの持ち物にしては、清潔な代物だった。
小刀で切り裂いて即席の包帯にすると、女剣士の傷口を強く縛って止血していく。
「後でちゃんと手当てしないと」
「人はいずれ死ぬ。早いか、遅いかは問題ではない」
オークたちが近づいて来たのを見ると、アリアは水筒を投げ捨てて立ち上がった。


 部下を引き連れて三人の前に立った原色の衣服のオークは、周囲に転がる部下の亡骸にもさして感慨を覚えたようではなかった。
大柄なオークが死んでるのを見ても鼻を鳴らしただけで、つまらなそうに女剣士を見つめている。
だが、他のオークは、喉を鳴らして落ち着かない様子を見せている。
黒髪の娘はすっと槍を構えると、静かに気息を整えていた。
脂汗が浮かんでいるにも拘らず、黄玉の瞳には奇妙な光が宿り、爛々と輝いてオークたちを射抜くように見据えている。
 エルフの娘は短槍、農夫の青年は手斧を構えたまま、緊張した面持ちでオークたちを睨みつけていた。
恐らく対決に乗り気ではないのだろう。二匹のオークは、女剣士の冷たい瞳を見て背筋を震わせている。
「猿は殺せ。エルフを引っ張って来い」
 族長の命令に唸り声と共に進み出たオークを見て、女剣士が軽く目を細めた。
小さく息を吐き、狙い済ました初撃を放つ。
瞬間、雷光のような一閃がオークの眼窩を貫通して脳にまで達していた。
「……え?」
 黒髪の娘が槍を戻すと同時に、即死していたオークの身体が力なく崩れ落ちた。
オーク達が大きくざわめき、ラ・ペ・ズールは大きく目を瞠った。
二匹が微かに後退った。顔を見合わせて、なにやら頷きあう。
女剣士の呼吸は、しかし、今の一撃で大きく乱れていた。再び包帯に血が滲んでいく。
「……どうやら死ぬのはお前達のようだな」
苦しげな笑みを浮かべている黒髪の娘は、なのに強気な姿勢を崩さずに進み出る。
「死に損ないめがッ!……何やってる!わっちを守れ!」
「だ、旦那さま!お逃げくだせえ!」
 喚き立てる族長を庇うように前に出た老いた小柄なオークが、槍で顔面を叩かれる。
忠実な召使がもんどりうって倒れると、残った二匹は踵を返して一目散に走り出した。
「助け!助けてええ!」
もう一匹、悲鳴を上げている小柄なオークには半エルフと青年が飛び掛っていた。
「お……臆病者ッ!う、裏切り者がぁあ!」
激昂しながら叫んだ族長の利き腕を、勢いよく振り下ろされた槍の柄が叩いた。
「ギャッ!」
返しの一撃で足払いが、戦斧を取り落とした太ったオークの太股を強かに切り裂いた。
「この野郎!」
 小オークを半エルフに任せて、横転した族長に屈強な青年が駆け寄ると手斧を振り下ろした。
頬に一撃を喰らい、苦痛の呻き声を上げる族長。
再び手斧を振り下ろそうとして、
「……殺すな!殺すと厄介なことになる」
女剣士の制止に渋々ながら手斧を納めて頷いたので、槍を突きつけながら族長に迫った。
「……降伏しろ……命だけは助けてやる」
 黒髪の娘は肩で息をしている。汗だくで所々から出血していたが、
鋭い黄玉の瞳だけは、殺気じみた硬質の光を放っていた。
拒否すれば、殺されるだろう。
丘陵に転がる十余もの配下の死体を眺めた。それから女剣士を見つめて、族長は喉の奥から唸り声を上げた。
「……分かった。お前に降伏する」




[28849] 28羽 北の村 14     2011/10/31
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:b03aa02f
Date: 2013/06/14 20:18
 丘陵地帯のモアレ村には、近隣に出没するオークや盗賊の侵入を遮る為に、外周に沿って分厚い柵が建てられていた。
 樫や楢などの材木を用いた柵には、その外側に深い空堀が設けられている。
村の内側から柵を越えるのはそれほど難しい事ではなかったが、堀の底から柵をよじ登って村に入るのは甚だ困難で、先だって村から逃げ出した二人の村人は柵にしがみ付くようにして、逃げ遅れた二人の旅人や村の仲間たちの様子をずっと窺っていた。
「凄い!……あの人、みんなやっつけちゃったわ!」
柵と柵の隙間から、旅の女剣士がオークを相手に孤軍奮闘する姿を見ていた村娘のジナが歓声を上げた。
「信じられん。此処からはよく見えない。ちょっと変わってくれよ」
隣でジャンが何か喋っているが、赤毛の村娘は耳に入らない様子で歓んでいる。
「嘘!もうっ本当に凄いわ!」
「俺にも見せてくれってば」

 二人の村人が快哉を叫んでいる、その目と鼻の先。
柵の内側へ二百歩ほどの小屋の手前から、若い農民夫婦の片割れが呆然とした表情で草地に転がる兄の亡骸へとふらふらと歩み寄っていった。
「兄さん。兄さんが……」
 大柄な青年は全身をずたずたに切り刻まれ、恐怖に歪んだ凄まじい表情で息絶えていた。
早くに親を無くした幼い弟のクームを此処まで育てたのは、些か粗暴な面もあるが面倒のいいこの兄アジャンだった。
村がオークに襲われた際も、農具を振り回してオークたちを寄せ付けず、弟夫婦を守りきった頼れる兄だったから、あっさりと死んでしまったのが青年には悪い夢のようにも思えてまだ信じられなかった。
「……畜生、畜生」
アジャンの亡骸の隣に跪いて啜り泣き続ける青年を、妻は憂いを帯びた痛ましそうな瞳でじっと見つめていた。



 エリスはアリアの傍らに駆け寄った。
「……傷の手当をしないと」
「いい。それより、そいつを縛り上げろ」
油断のない目つきでオークの酋長に槍を突きつけた姿勢のまま、黒髪の女剣士が屈強な若者に告げた。
「縛るって……なんで?」
「布でも縄でもいいから。そいつの身体に巻いてるひらひらを使うといい。
 そこら辺で死んでる奴のベルトや、服でも千切ってもいい。
 手を後ろに廻して、厳重に……早くしろ」
女剣士をじっと見つめていたオークの酋長が口を開いた。
「暴れるような真似はせん。約束はまもる。破ればサルとおなじになるからな」
「小癪な物言いを……」
それだけ言うと喋るのも億劫そうにアリアは口を閉じた。
あまり顔色は良くない。苦しげに息を乱しているのを見れば、立っているだけでも相当に辛いのだろう。
「後ろに手を廻せ」
屈強な青年が言われた通りに縛っていると、オークの酋長は黒髪のアリアを値踏みするように見回した。
「お前は強いな。わしは強い女が大好きだ。
 如何だ、わしの五番目の妻にならんか?きっと強い子を生むだろう」
図々しい奴だと思い、屈強な青年は腹立ち紛れにオークの酋長の後ろ手を強く縛り上げる。
「四人もいれば充分だろ。雌のオークで満足してろよ」
「三人だ。小僧。それに今の妻たちは、お前など手も触れられぬ美しい人族の娘ばかりよ」
露骨に見下した目付きで青年を見ると、オークの酋長はにやりと笑みを浮かべた。
「それに四人目は決まっておる」
翠髪のエルフの娘にチラリと好色な流し目をくれる酋長。
「こっ、この!ふてぶてしい野郎だ!」

 アリアは、槍をオークの首魁に突きつけた姿勢のまま身じろぎ一つしなかったが、屈強な青年が捕虜を完全に縛り上げたのを見届けると、槍を杖にしながら、ゆっくりと枯れ草の地面へと座り込んだ。
全身の傷が鋭い痛みを発したが、歯を食い縛って、呻き一つ洩らさなかった。
 槍を抱きしめて疲れきった表情で溜息を長々と洩らしてから、黒髪の女剣士は周辺の様子を見回してみる。
先程逃げた三匹のオークが淡い緑と茶のベールに覆われた草原の向こう側から、遠目に此方の様子を窺っていた。
 如何やら酋長はそれなりに慕われているようで、オークたちは遠巻きに見守っていたが、アリアが恐いのだろう。近づいてこようとはしないが、同時に離れる素振りも見せない。
今は無勢だが、いずれ他所からも増援が来るかも知れない。


 見初められたエリスだったが、オークの酋長が身動き出来ないほどに縛られると、ホッとした様子で立ち上がり、周囲を歩き始める。
 アリアの体調が心配で、出来るだけ早く休ませたいと横目に見るが、草原の彼方に数匹のオークや、近づいてきている黒エルフの姿も見え隠れしていて、エルフ娘の気は休まらない。
女剣士の背負い袋や腰に付けていた細々した荷が無いことに気づいて訊ねると、戦うのに邪魔になったから捨てたとの答えが返ってきた。
そこらへんに転がっているだろうと、如何でも良さそうに答える。
思い切りはいいのだろうが、普通、巾着を捨てるだろうか。
思わず狼狽しながら、周囲を見回してみるものも見当たらない。
「此れからどうなるんだろう」
落ち着かない様子で呟きながら、野原に女剣士の荷物を探し回り、ついでにオーク達から包帯などに成りそうな布を集めていく。
翠髪のエルフ娘がオークの死骸から使えそうなマントから剥いでると、その背後で倒れていたオークがもぞりと動いた。


「どうしてこんな奴を生かしておくんだ?」
屈強な青年は、憎々しげにオークの酋長を睨みつける。
「生きている人質は、死んだ人質よりも色々と役に立つのだ。
 そいつの人望にもよるが、オークを村から退かせる事が出来るかも知れぬ」
青年の問いにアリアが笑い返した。
「或いは条件次第で、南へ離脱する際に追っ手を封じたり、村人全員を連れて退去も出来よう。
 最悪でも豪族共に引き渡せば尋問して色々と聞きだせるであろう?」
「なるほどなぁ。分かった」
青年の愚鈍そうな顔に、理解の色が広がった。
頭が良くない事を自覚しているので、偉い奴か頭のいい奴に従うのが習い性となっているようだ。
「それに殺すと厄介な事になる」
アリアの呟いた言葉を聞き咎めて、今度はエリスが横合いから問いかけた。
「厄介な事って?生かしておいた方が、取り返そうと追ってくるのでは?」
半エルフの娘の非情な言葉に抗議するように縛られた酋長が唸り声を上げた。
「さっき云っただろう」
「なにが?」
喋り続けていた黒髪の女剣士が疲れたように目を閉じた。
「……ねえ、そちらの小屋にでも入って休んだ方がいいんじゃないかな?」
「……いや、今、話しておいた方がいい。
 オークは頭目を殺されると、相手を追跡してしつこく復讐するのだ」
エリスは目を瞬いた。考え深そうに探るような眼で酋長と配下のオークたちを見比べる。
「……忠誠心に溢れた話ね」
「なに。大抵は、仇を討った者が酋長の地位を引き継ぐのさ。力の掟だ」
「力の掟?」
屈強な青年が聞きなれない言葉に聞き返した。
「オークには力の掟というものがあってな。聞いたことはないか?」
怪訝そうな顔に二人とも聞覚えがなさそうなので、アリアは言葉を続けた。
「地位のあるオークが何某かに殺された場合、その相手を殺したものが地位を引き継ぐのさ。
 強い者がより正しいという理屈でな。それで群れの長や高い地位には以前より強い者が付く。
 強い者を打ち倒した敵はより強く、その敵を殺した者はさらに強いという理屈だ。
 そしてオーク族は無限に強くなっていくそうだ」
「はあ?」
呆れたような様子のエリスの反応。
「確かに色々と馬鹿馬鹿しい。
 だが、問題は頭目を殺されたオークは、殺した相手をしつこく追跡して、復讐するという事実にある」
「そう云う事。で、如何する?」
酋長とオークを見比べて、難しい顔でエリスが此れからを口にする。
云うべきことを説明し終わったアリアは、疲れた溜息を洩らした。
「……其れを今、考えている」
色々とややこしい事になってきている。如何したものか。
女剣士の睨みつけた草原の向こう側。此方を窺うオークの数が五匹まで増えていた。


「畜生。どうすりゃいい。ラ・ペ・ズールが捕まってるんじゃよ。身動きとれねえぜ」
「たった一匹のサルによ。オークが二十人も……」
女剣士を睨みつけながら、オークたちは悔しげに歯噛みする。
「サルにしては手強いぜ。糞ッ」
「全身から血を流してる。弱ってる筈だ」
「返り血かも知れないぜ」
 槍を抱えて、平然と岩に腰掛けている女剣士の姿からは弱った様子は窺えない。
酋長を奪還する為とはいえ、オーク二十匹を一人で倒してしまうような豪勇の剣士に、自分が先鋒として挑みかかるのはどのオークにも躊躇われた。
オークたちにとっては認めがたく、また腹立たしいことながら、族長を虜にしている女剣士は手強い相手だ。
 最初の二、三人は確実に死ぬだろう。或いは、もっと死傷者が出るかも知れない。
二の足を踏みながら、幾匹かのまだ息があるオークたちを見つけては手当てする事で水を濁しながら、オークたちは対峙を続けていた。
「仕掛けるにしても、もっと人数が増えてからの方がいいだろうよ」
「糞ッ、グ・ズーズやガッゾ・ローがいれば、心強いのによ。何処に行ったんだ」
「グ・ズーズの大食いは、多分、チョ・ヤルの野郎といっしょだぜ。
 また二人だけで美味いもんを独り占めして食ってやがるに違いねえ」
「呼んで来いよ」
「やだよ。あの二人は恐えからな。特に食事の邪魔するとよ、おっかねえんだ」
オークたちはじりじりとしながら、他所からの増援を待ちわびていた。

「数は五匹……仕掛けてこないのは幸いだが」
黒髪の女剣士は坂の下で屯っているオークたちを見下ろしながら、冷静な口調で呟いた。
「そりゃ、そうだろう。あんた一人でオークを二十人も斬ってのけたんだ」
愉快げに笑い出した屈強な青年に、アリアは鋭い視線を投げかけた。
「今の私に期待するな。もう腕を上げる力さえ残ってない」
「え?ああ、おう。あんたは充分やってくれた。凄いぜ。本当に」
能天気な返答に眉を顰めながらアリアが再びオーク達の気配を探り始めた時、押し殺した小さな悲鳴が背後で上がった。


「降参するのよ!」
気絶から醒めた小柄なオークは、他のオークが皆逃げるか、やられてしまったのを見回してから、手にした棍棒を放り出してエリスの足元に跪いた。
「うわ!な、なに」
瘤だらけの醜い笑顔に精一杯の愛想を作って上目遣いに短槍を突きつけているエルフ娘を見上げる。
「これから、あなたに仕えるよ?だから、殺さないでね?」
「如何しよう。そんなこと言われたって……」
戸惑いを隠せないエルフの娘に女剣士が忠告する。
「オークなんか信用したら駄目だぞ」
だが、命乞いしてくる相手を殺すのは、エリスには躊躇われた。
戸惑いながらオークを眺めていると、命乞いの好機に思ったのか。
小柄なオークは長広舌を振るい始めた。

「リ・モルはいいオークよ?高貴なオークだけど下等なエルフやサルの味方よ?
 お前らエルフみたいな邪悪な兎野郎でも、きちんと反省すれば見下したりしないのよ?
 だから善良なリ・モルにひどいことしちゃだめよ?」
エリスは困惑した眼差しでオークを見つめた。
「どうしよう……言葉は通じるのに、意味が分からない」
黒髪の女剣士が思わず吹き出した。
傷口を押さえながら、おかしそうにぶるぶると躰を震わせている。

「お前、神様信じてるよね?森の神様。オークの神様よりずっと下等な奴だけど。
 きっと森の神様も云ってるよ?リ・モルはいい子だから殺しちゃ駄目って。
 森の神様に怒られたくないでしょ?嫌われたくないでしょ?
 リ・モルには親切にしないと駄目なのよ?オークを殺すと罰が当たるよ?
 オークの神様はお前の神様よりずっと偉いのよ?お前の神なんて奴隷よ!
 そのオークの神様が森の神様に命令してるの!リ・モルを傷つけちゃ駄目って!
 お前より偉い森の神様の命令なのよ?善良なリ・モルを殺すと地獄に落ちるよ?
 そもそも、お前らサルや兎は、本来、高貴なるオーク族に奉仕しないと駄目なのよ?」
エリスの頬が怒りに痙攣した。目付きが据わったものに変わる。
「へぇ……もう少し囀ってみなよ」

「なによりリ・モルはね、優しいからエルフが兎耳でも見下さないであげてるのよ?
 だから、リ・モルに酷いことしたら駄目よ?
 そんな事したら、オークに酷いことする邪悪な猿共と同じになっちゃうのよ?」
「なにこいつ」
エリスの冷えた眼差しとは対照的に、当のオークは得意満面でにやにやと厭らしい笑みを浮かべていた。
もしかして雄弁を気取っているのか。或いは、痛いところを突いた心算なのも知れない。
聞いてるだけで半エルフの娘は胸糞が悪くなってきた。
何より、エリスを恐ろしく愚かに見縊っているのが丸分かりな言動だった。
「殺してしまえ、殺してしまえ。
 どうせ、我らの事など言葉を喋るサルくらいにしか考えていないのだ。
 オークを一人殺せばその分、世の中が綺麗になる」
女剣士が不愉快そうな表情で嗾けながら面倒臭そうに手を振ると、オークも必死になった。
「あんな猿の事を聞いたら駄目よ?
 なにもしてないオークを殺したら、野蛮な猿や他の兎耳と同じになっちゃうのよ?
 何より、光の子であるオークを傷つける事は罪なのよ?
 此処でリ・モルを解放すれば、悪の下僕であるエルフに生まれた罪深いお前が許されて、救われるチャンスなのよ?」
 そもそも議論の前提となる認識や常識が違いすぎる上、其れを強引に押し付けてくる。
というか、此方に押し付けているという意識すらなく勝手に自論を展開してるので、聞かされている身としては非情に不快感が強かった。
エルフ娘は無言で槍を突き刺した。オークは慌てて身を捻ったが、腕に深々と突き刺さった。
「ぎゃ!……うぎゃあああ!リ・モルの腕がぁア!
 どうじで!降参してるでしょ?ごんなひどいごどしちゃだめだよぉ!」
 絶叫を上げながら、小柄なオークは尻餅をついて後退りする。
寸前まで本気で助かると信じていたから、何故、こうなったかを理解できない。
「……酷い?お前達が村人にしたことを……」
エリスの呟きをオークの耳障りに泣き喚く声がかき消した。
「リ・モルはほんとうは例え相手が下等なサル共でもね、あんなことしたくなかったのよ?
 とめたのよ?でも、あいつらが勝手にやったのよ?悪いのはあいつらよ!リ・モルだけはいいオークなのよ!
 たとえ相手が下等なちびの奴隷共でもね。優しいリ・モルはあんな事したくなかったのよ!」
「もういい。お前は喋るな」
狙い済ました渾身の一撃が、必死に捲し立てるオークの肋骨の隙間を縫って心臓まで突き刺さった。
「……ああ、胸糞悪い」
殺人よりも、オークとの会話の余韻が強い不快感をエリスに与えていた。
槍を引き抜いて、地面に唾を吐きすてる。胸が酷くムカムカとした。
「……オークなんかとまともに話そうとするからだ」
自業自得だと言いたげに告げてから、翠髪のエルフを眺めて女剣士は微笑を浮かべた。
「大分、慣れてきたではないか?」
 エリスも、元々は狩りで地を駆る兎を仕留められる程度の腕前は持つから、その気にさえなれば、無抵抗の相手を殺す位は容易い。
嬉しそうな顔で褒められたが、エルフの娘は微妙な顔をする。
「……そんなのを褒められてもな。なんで嬉しそうなの?」
「ふふっ、何故かな?」
「……変なの」
エリスは呟いてから、オークの死体を嫌悪感たっぷりに眺めて、さらに蹴飛ばした。
「……この生き物。物凄い不愉快な奴だったな」
胡散臭い笑みをけすと、アリアは冷めた眼差しになって肩を竦めた。
「良くある事だ。特に異民族や異教徒との戦争だと珍しくもない。
 野蛮人にしか見えない相手も、我等ヴェルニア人を同じように思っていたりな。
 私だってオークは別格にしても、野蛮なダーナの山岳民とか下劣なキリキア人の海賊連中とか大嫌いだからなぁ」
 女剣士の故郷である東ヴェルニアはシレディアの民が、ダーナの山岳民からは狡猾な侵略者と罵られ、またキリキア人からは冷酷な殺し屋と忌み嫌われている事を棚に上げてぼやいた。


「ああ、酷い!無抵抗な優しいリ・モルを殺すなんて。本当に兎耳は罪深い種族よ!」
 オークたちがまた騒いでいた。さらに数が増えている上に、黒エルフも合流したようだ。
エルフ娘は黒髪の女剣士の傍らに座って傷口を縫い、その後に集めてきた精々、清潔そうな布を包帯にしてもう一度血止めを行っていた。
血を流しすぎたのだろう。
 アリアの口調はしっかりしているが、顔色は悪く、時々、強い眠気にも襲われているようだ。
早く休ませたいと思いながら、しかし、此の状況で頼れるのも女剣士だけである。
「小屋に立て篭もるか、いや、駄目だな。……林にとって返して村人と合流し、全員で村を出るか」
「……人望はあるみたいだから、酋長を人質に時間を稼いでいる間に何人かが応援を呼びに行くのは?」
手当てしながらのエリスの言葉に、眠そうにウトウトしかけていたアリアが頷いた。
「其れが一番かな。奴らとて統率をかいているだろうし、此処で二十匹を失っている。
 酋長を抑えられていれば、早々、軽挙妄動は……」
結論を出しかけた時に、向こうから若夫婦が歩いてくるのが見えた。
黒髪の娘は欠伸を噛み殺し、エルフ娘は友達の容態を気にしていた。
屈強な青年だけが顔をほころばせると手を上げて、村の仲間に挨拶を送った。
「おう、クーム!生きていたか!」
若者は顔を強張らせたまま、屈強な青年の前を通り過ぎると酋長の前に立った。
怪訝そうに若者を見上げた酋長の表情が、手に握られた小剣に気づいた瞬間に強張った。
「兄さんの敵だ!」
若者の叫びと共に突き出された小剣が、オークの酋長の喉を深々と抉った。





[28849] 29羽 北の村 15     2011/11/02
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:b03aa02f
Date: 2013/06/14 20:18
 オークの酋長が喉笛から血飛沫を撒き散らしながら、前のめりに崩れ落ちた。
「皆の仇だ!」
村の若者は叫びながら、痙攣する酋長の背中にさらに小剣を突き立てる。
刃が肉を断つ不気味な鈍い音にエリスは小さく息を呑んだ。
「……なんて真似を」
 聞きつけた若者は、翠髪のエルフ娘に険悪な表情を向けると、噛み付くように刺々しい口調で言葉を放った。
「こいつ……こいつらには当然の報いだ!」
 荒い息で肩を上下させながら若者が酋長の死体へ唾を吐き捨てるのと、静まり返っていたオークの群れが凄まじい怒りの叫びを上げたのは殆ど同時だった。
「行こう。ミナ!」
青年はオークたちを睨みつけてから、伴侶の手を掴むと走り出した。

 やはり疲労で頭の働きが鈍っていたのだろう。アリアは、珍しく数秒を自失していた。
激変する状況の中で凍りついたように固まっていたが、エリスに腕を掴まれると我に返って頭を振った。
「アリア、逃げよう」
 緊張してはいるが落ち着いている翠髪のエルフ娘の言葉に頷きを返してから、殺到してくるオークたちへ黄玉の瞳で鋭い視線を送ると、黒髪の女剣士は苦い表情で力なく呟いた。
「……愚か者が」

 醜い瘤だらけの顔に凄まじい怒りの形相を浮かべたオークたちは、武器を振り上げて喉も裂けんばかりの雄叫びを上げながら一同へと突進してくる。
 渋々戦っていた先程までとは、まるで勢いが違った。
咄と小さく舌打ちしながら立ち上がろうとするも、アリアは膝から力なく崩れ落ちてしまった。
渋い顔をして黙り込んだ黒髪の女剣士が実は立ち上がれないほど疲労していると見て取ると、エルフ娘は直ぐに屈みこんで腕を掴んだ。
「手伝って!」
 屈強な青年を見て鋭い声で叫ぶ。
迫ってくるオークたちに青年は戦うか、逃げるか行動を迷っていたが、エリスの言葉に頷いて屈み込んだ。
アリアは、邪魔になる長い槍を躊躇なく捨てる。
いい武器ではあったが重量があって嵩張り、敗走の場合には不都合だった。
二人で肩を貸して女剣士を立ち上がらせると
「……私の剣を」
周囲を見回して呟いたが、直ぐに諦めた。
そのままの姿勢で三人は足早に柵へと向かう。


 若者は走りながら、誇らしさに胸を震わせた。
やった。兄の仇を取った。
オークたちが怒り狂ったのは意外だった。
あんな奴らでも仲間が殺されれば、悔しいらしい。
兄を殺された自分から見れば、到底、吊り合いが取れるものではないが、オーク共の悔しがりようは少しは若者の溜飲を下げてくれた。
走りながら、にやっと笑みを浮かべる。
それにあれほどの剣士。
他力本願ではあるが、僅かなオークが追いかけてきても片付けてくれるだろう。
剣士たちが食い止めてくれてる合間に、自分達は安全な林に逃げ込めばいい。

 初冬は日暮れは早い。
西の空では茜色の夕焼けが丘陵の連なる彼方に広がりつつあった。
此の侭、夜になるまで逃げ切ればいい。
後は夜陰に乗じて村から逃げてもいいし、村の何処かに潜んでもいい。
小剣を手にして走っている若者の背後。妻がひっと小さく悲鳴を洩らした。
「ク、クーム、追いかけてくる」
 切羽詰った声に振り返った若者は、追ってくるオークの四匹が四匹とも、明らかに自分達を目当てにして走っているのに気づいて顔をさっと強張らせていた。
オークの四人くらいなら片付けてくれると勝手に頼りにしていた旅の剣士たちは、だが戦うでもなく、柵へと向かって離れていく。
オーク達も逃げていく三人を完全に無視し、若夫婦を目掛けて追ってきている。
「何故、こっちを追いかけてくる!」
オークの習性なんて知る筈もなく、思いもかけぬ理不尽な状況に若者が叫んだ。


 黒髪の女剣士は一歩進むごとに痛みに顔を歪めて、苦しげな吐息を洩らしていた。
歩みは遅々として進まない。
此の侭の歩みでは到底、オークたちから逃げ切れない。
 蛞蝓の這うような速度に苛立ちを隠せずに、屈強な青年はつい乱暴に引っ張るも、うめきと共に女剣士は崩れ落ちそうになる。
「逃げたいなら先に行きなさい」
 慌てて支えたエルフ娘の冷たい言葉に怯んで、決まり悪そうになにやら呟きながら速度を落とす。
肉体的な疲労よりも、精神的な恐怖によるものか。屈強な青年は額に冷や汗が吹き出ていた。
歯を食い縛っている半エルフの娘も、かなり疲労しているようで息を切らしていた。

 アリアは懸命に足を動かした。薄い痺れと冷たい感覚に全身が覆われている。
何時もなら軽快な剣舞を軽々とこなす両脚は、鉛の如く重くてまるで力が入らない。
黒髪の女剣士が力なく黄玉の瞳を上げると、翠髪のエルフの娘の蒼い瞳と視線が合った。
「……いざとなったら置いていけ。君だけでも逃げろ」
「嫌だ!」
 エリスは即答。
アリアは自嘲とも苦笑ともつかない曖昧なほろ苦い笑みを浮かべた。
鮮やかな血の跡が点々と草原に続いている。

 なだらかな坂道を昇ったところで、背後で叫び声が上がった。
追いつかれるか。エリスが焦りながらそう思って振り返るも、意外にもオーク達の大半はいまだ逃げる若夫婦を追い掛け回しており、黒エルフたちは動いていなかった。
「……た……助かりそうだな」
屈強な青年が一息ついた。

 柵に近い坂の頂からは、緩やかに傾斜する初冬の草原を俯瞰できた。
エルフの娘の鋭い視力は、視界の端に黒髪の女剣士の捨てた荷物を捉えていた。
オークたちは遠く離れた位置にいる。
一瞬だけ立ち止まり、直ぐに柵へと足を進めて、三人は手近な柵へと辿り着いていた。
柵へとより掛かった黒髪の娘が手を伸ばすも、だが届かない。
「糞ッ……とどきそうもない」
苦しげに喘いでいるアリアは、跳躍する力もないほどに弱っているようだった。
「早く……はやくしろよ」
 屈強な青年は露骨に焦っているも、それでも自分だけ逃げようとはしない。
エリスは周囲を見回した。
だが、柵の手前は何処も似たり寄ったりで、村人二人が逃げた最初の場所のように土が盛り上がっていて越え易そうな箇所はない。
「手を貸して!」
エリスが壁に手をついた。
「私を踏み台に、急いで!」
アリアはのろのろとした動きで背中に昇るも、腕に力が入らずに昇れない様子だった。
一回降ろすと、もう一度、半エルフは今度はさらに低い姿勢を取った。
「私の肩に足を乗せて、早く!」
黒髪の女剣士が戸惑いながらも昇る。
「ふんぬ」
全身を震わせながら、翠髪のエルフは死に物狂いの力を振り絞った。
アリアも手を伸ばして、必死に這い上がろうとする。
漸く柵の頂に捕まったのを強引に下から足を押し上げて、胸の位置までアリアが這い上がったのを確かめると押した。
「うわっ!」
向こうへ転がり落ちたのを心配しながらも、呻き声が聞こえてくるので大丈夫かとエリスは立ち上がった。
「体が重そうだし、次は貴方。先に行ってて」
「え?あ……あんたは」
答えずにエリスは蹲った。
屈強な青年が戸惑いながら肩に乗ると、エルフの娘は重い体重に呻いた。
軽く跳躍して頂きに手を掛けると、後はエリスの助けも受けて頂きに昇る。
乗っかった姿勢のまま青年はエルフの娘に手を伸ばした。
「昇ってきなよ」
「大丈夫だから、先に逃げて」
心配そうに顔を歪めた青年だがそのまま柵の向こうに消えると、エリスは改めて草地に転がるアリアの剣を目指して走り始めた。
長剣の落ちている場所は、オークたちよりエルフの娘の方が距離が近かった。


 オークたちは若夫婦を。正確には酋長を殺した若者をひたすらに追いかけている。
罵詈雑言を吐くでもなく、無言で獲物を追う肉食獣のように追い詰めていく。
酔いの影響か、多少、足は遅いもののスタミナには恵まれているようで速度は落ちない。
漆黒の林の手前には黒エルフ達が不吉な影のように立ちはだかっており、逃げ込む事も出来そうにない。
狩りのように追われる事など初めての夫婦は、神経をすり減らしていく。
苦しげに喘いだ妻を叱咤して、汗だくの若者は小屋に飛び込んだ。
「……もっ、走れない」
「頑張れ、頑張るんだッ!」
此の侭では逃げ切れないと四方を見回した時、屈強な青年が柵から逃げる光景を目にした。
「柵から逃げよう。考えてみれば、最初からその心算だったんだ」
「で、でも……」
オーク達の入ってきた入り口とは別の窓から飛び出すと、夫婦は柵へと向かって走り出した。

 翠髪のエルフの娘は、オーク達の亡骸の中に転がっていた女剣士の長剣を拾い上げた。
鋼の刀身は、多量の血糊に赤く染まっていた。
エルフ娘では持て余しそうなずしりとした重みに、女の細腕でよくこんな物を振りまわせると思わず感心する。
 布を取り出して柄に結びつけながら、今度は、女剣士の荷の落ちてる場所を見つめる。
一瞬、躊躇ったように立ち竦んでいたが、横目で見た黒エルフたちに動く様子が見えない。
寧ろ、夫婦とオーク達の追いかけっこを絶好の見世物として楽しんでさえいるようで、朗らかな笑い声が聞こえてくる程だった。
黒エルフたちの傍らにいる黒いオークも、佇んで動く様子は見えなかった。
周囲のオークが夫婦を追っているのを確かめると、唇を舌でしめらせてからエリスは再び走り出した。


 窓を閉め切った小屋の中は薄暗い。
オークたちは目晦ましに騙されて、小屋の中を立ち止まって探しているようだが、長くは騙せないだろう。
上手くオークたちを出し抜いた若夫婦は、剣を抱きかかえたエルフの娘とすれ違った。
途中で薄暗い木立を真っ直ぐに突き抜けると、息を切らして手近な柵へと辿り着くが、昇ろうにも手が届かなかった。
「……そっ、そんな!ジャンたちは此処を越えていったのに!」
愕然とする若者は飛んだり跳ねたりするが、どうやっても柵の頂きに手が届かない。
「ほっ、他の場所を……」
 伴侶の言葉も、焦りの色を隠せない若者の耳には届かなかった。
絶望に目が眩みそうになりながらもう一度飛ぶが指先しか届かない。
後方でオークたちが窓から飛び出してきたのが見えた。
周囲を見回してから、若者たちを指差して何か叫んでいる。
オーク達の復仇に燃える憤怒の眼差しを見て、若者の背筋に冷たいものが走った。
乗り越えられそうな場所を探して、今度は柵に沿って走り始める。
「糞ッ……どうしてこんな事に……」
毒づくも、容易に昇れそうな場所は中々に見つからない。
村の仲間たちが脱出できた場所は、ずっと遠い。あそこまで駆けるべきだろうか。
だが、息を切らしている妻を見てから、とても逃げ切れないと首を振った。

 若者の遠目に翠髪のエルフ娘が走っている姿が見えた。
距離を保っているとは言え、大胆にも柵の方向へと向かっているオークとすれ違った。
オークたちは一瞬、翠髪のエルフ娘に気を取られる様子を見せるも、追いかけはしなかった。
エルフ娘は草叢に立ち止まると何かを拾い上げ、肩へと担いで再び柵へと向かってくる。
「どうして!なんで!……来るな。来ないでくれよッ!」
若者は焦燥に顔を歪めて髪を掻き毟りながら、狂ったように跳躍したり、周囲を見回した。
オークが唸り声を上げて迫ってくる。
「先に行け!」
漸くに閃いた若者は、妻を抱え上げて柵へと押し上げた。
「頑張れ!」
必死に踏ん張って声を掛ける夫の肩の上で妻は手を伸ばし、だが高い柵を登れないでいる。
「……此処は無理よ!」

 友達の荷物を回収したエリスは、再び柵へと向かっていた。
足取りはそれほど速くないが、オークたちは逃げ惑う若夫婦に気を取られている。
柵へと辿りつくと、女剣士の重たい荷物を次々と柵の向こう側へ放り投げていく。
替えの衣服の入った背嚢や馬鹿みたいに重たい財布も、跳躍の後に両手で力まかせに向こう側へと投げる。
 あらかた荷物を投げると、今度は手近な柵を見繕い、良さそうな場所の土に剣を差し込んで、柵に立て掛けてしっかりと固定した。
刃が痛むが仕方ない。慎重に柄に足を掛けた時に
「助けてくれ!」
切羽詰った叫びをチラリと一瞥すると、若夫婦がオークに追い詰めつつあるのが見えた。
翠髪のエルフ娘は如何するか数瞬迷ってから、短槍を手にして踵を返した。


 オークたちが目前に迫ってきた。足の速い二匹。
若者の妻が逃げようとするも、足を斬りつけられた。
「きゃ!」
倒れる妻を見て青年も突っ込むが、武装した相手に歯が立つ訳もない。
「うわあああ、ミナ!ミナァ!」
青年目掛けて手斧を振り上げたオークの背中に、何処からか飛んできた短槍が突き刺さった。
オークが絶叫し、慌てたもう一匹が振り返ると、エルフの娘がオークたちを馬鹿にするようににこやかに手を振っていた。
「早く逃げてねー!」
それだけ叫ぶと、踵を返して脱兎の如く素早く逃げ出した。
「待てッ!待ってくれッ!」
拘束を振り払った若者は、妻の手を引っ張り、何故か半エルフの娘の後を追いかけ始めた。
傷つき、怒り狂ったオークはよろよろと立ち上がり、やはり若夫婦とエルフ娘を追いかけ始める。


 エリスは立てかけた剣の前で立ち止まる。
何で此方へ向かってくるのか分からずに困惑の視線を向けると、
一瞬だけ近寄ってくる若者の必死な目と視線が合った。
若者の瞳に追い詰められた危険な光を感じて、半エルフの背筋に訳もなく悪寒が走った。
「少し待ってくれ!」
待つ理由などない。若者の叫びに何か嫌な感じを覚えたエリスは、一瞬の遅滞もなく素早い動きで剣の柄に昇ると跳躍して、そのまま柵をじりじりとよじ登っていく。

「おいっ!待てって言ってるだろう!手伝って……」
怒鳴りながら駆けてきた若者が、エリスの足を掴んだ。
「ぎゃう!」
先程、村人の女に引き摺り下ろされ、少し人間不信気味のエルフ娘は恐慌状態に陥った。
また引き摺り下ろされるのではないかと、切羽詰った恐怖に水に放り込まれた猫のような叫びを上げて、容赦なく若者の顔を思い切り蹴り付けた。
目の眩むような一撃を鼻っ柱に喰らって若者が転倒する。
「……な、なんで」
蹴られた理由も分からずに、鼻血の溢れる顔を抑えて苦痛に呻いている。
或いは鼻の骨が折れたのかもしれない。
「なっ、なんで!……どうして!」
若い女性に非難の眼差しと言葉を浴びせられて、エルフ娘は怯んだ。
「……あ」
「……ミナ!先にいへ」
鼻を押さえながら、青年が柵を指差した。
「……ご、御免。あんまり驚いて」
 柵の頂の横木である丸太の上から手を差しのばすも、若い女性は取らずにエリスを睨みつけながら剣を足がかりに自力で登り始めた。
 女性が昇りきると、青年がフラフラしながらも立ち上がり昇り始めるが、ふたたびオークたちが迫って来る。
登っている青年目掛けて手斧を投げつける。
足をざっくりと切られて苦痛の叫び声と共に青年が崩れ落ちそうになるも、エルフの娘と女性が手を伸ばして引っ張り上げる。
だが、追いついてきたオークが青年の足へ飛びついた。
「逃さねえぞ!酋長の仇だ!」
引き摺り下ろそうとする。
青年は痛みに苦悶するも、添木の丸太に跨った不安定な姿勢では、彼の伴侶もエルフ娘も力が出せない。
「もう駄目だ……逃げてくれ!」
うめく青年を見降ろす位置で、女性はエリスの腰に揺れる棍棒をじっと見つめた。
「貸して!」
言いながら返答を待たずに強引に棍棒を奪い取ると、柵から飛び降りる。
棍棒を振り回しながら夫の足を引っ張るオークの背中に飛び掛かった。
汗だくで呻いていた青年が丸太の上へと昇りきるも、直ぐに振り返った。
「……な、なんで」
エルフの娘は溜息を洩らすと、剣から伸ばした紐を思い切り引っ張った。
「まっ、待て!それがないとミナが昇れないだろ!」
 青年を黙殺したままに即席の梯子代わりにした長剣を回収すると、エリスは外堀へと降りはじめた。
堀の底へ降り立つとエルフ娘は青年を一瞬、一瞬だけ見つめたが、直ぐに視線を外して周囲に散らばった相棒の荷物を取り纏め始める。
「なあ、助けて……助けてくれよ!ミナが殺されちまう!」
「降りてごい!腰抜けのサルが!女房を殺されてえか!」
丸太の上で青年が叫んでいる。壁の向こう側では、オークたちが甲高い憤怒の叫びを上げていた。
荷物を手にしたエリスはなおも喚き続ける青年に背中を向けると、友人のアリアを探しながら柵に沿って足早に歩き始めた。


 林の前に佇んでいた十人ほどの黒エルフの集団は、興奮した囁きを交し合っていた。
「……エルフは逃げ延びたか」
「賭けは俺の勝ちだぞ」
放浪の黒エルフの隊商にとって、中々に楽しめる見世物だった。
彼らにとってオーク部族は同盟者でもなければ、主人でもない。
数ある取引相手の一つに過ぎないから、酋長が殺されたとて如何ほどの事もなかった。
互いの顔を見合わせて肩を竦めたり、笑ったりしている中にあって、黒エルフの女が隣に立つ黒い肌のオークを眺めた。
「追わないの?」
鍛えた身体に革鎧を纏った黒オークは、不思議そうに褐色肌のエルフの剣士を見つめた。
「何故だ?」
「ガーズ・ローは酋長になりたくないの?」
「……つまらん」
女エルフは納得しないようなので、黒オークのガーズ・ローは問い返した。
「お前、黒エルフの族長になりたいか?」
「ああ、つまらないね」
納得したように褐色の肌をした女エルフは灰色の髪をかき上げた。
「それよりもだ。此の始末を如何するかだ」
ガーズ・ローが夕焼けに照らされた草原の中に倒れる夥しい数のオークの死骸を見て、ぶるりと背筋を震わせた。
「戦士を二十人も失った……お前、単騎でそんな真似できるか?」
歩き出した黒いオークは、隣に立っている褐色の肌の女エルフがこの上なく上機嫌な笑みを浮かべている事に気づいて口を閉じた。
「いんや……まったく、世の中広いねえ」
褐色の肌の女エルフは楽しくてならないといった様子で躰を震わせていた。
「……やれやれ、ボ・ナーグまでやられたか」
眠るように死んでいる友達の亡骸を見て、口調とは裏腹に一瞬だけ顔を歪めた。
「彼、弱くなかったよね?」
「……興味が出たか?よせよせ、死ぬぞ」
黒エルフが鋭い眼差しを黒いオークへと向けた。見つめ返す黒エルフの女剣士の目付きは険しい。
「そう思う?」
瑪瑙を思わせる暗藍色の瞳を上機嫌な山猫のようにキュッと細めると、黒エルフの女剣士は体を曲げてオークの顔を下から覗き込んだ。
黒オークは眉を顰めて口を開いた。
「分かってないな」
「分かってるさ」
「怒るなよ。……あの人族の女は、多分お前よりも強い」
「だろうね」
 戦士ならば認めにくい事を褐色の肌をした女エルフはあっさりと肯定し、呆気にとられる黒オークの目の前で闊達そうに微笑んだ。
嬉しげで、楽しげで、人によっては優しげにさえ見えたかもしれない笑みは、しかし黒オークには精々が危険な笑みにしか見えなかった。
「だから面白いんだよ」
褐色の肌の女エルフは旧知の黒オークを眺めると、楽しげにそう嘯いた。



[28849] 30羽 追跡 01     2011/11/07
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:b03aa02f
Date: 2013/06/27 03:16
 村を脱出したエリスは、改めて周囲の様子を窺いながら深い外堀に沿って足早に歩き始めた。
柵の内側での騒乱が嘘のように、深く静かな沈黙が一帯を支配している。
 栗鼠やら小鳥やらの微かな気配や鳴き声すらしないのは、先刻まで繰り広げられていた戦闘に恐れをなして小動物の類やら何やらがいずこかへと逃げ去ったからに違いない。
程なく半エルフは、女剣士が降り立ったであろう場所にて人のいた痕跡を見出したものの友の姿は影も形も無い。
 他に場所の心当たりがある訳でもなく、微かに狼狽して浅緑と赤茶に覆われつつある丘陵を見回しているうちに、やがて地表にある微かな足跡と血痕をその煙る蒼の瞳が捉える。
屈み込んで地面に残された痕跡を詳細に調べながら、さてはオークの追撃を恐れて丘陵地帯へと入り込んだのかと見当をつけて背を丸めながら一人頷き、今度は地面に残された痕跡を消し去りながらゆっくりと追跡を始めた。


 耳元で数名の人間がなにやら言い争っていた。
不快な響きに眉を顰めて身動ぎしたと同時に、暗い闇の底に沈んでいた意識が急速に覚醒へと向った。
篭った熱を伴った苦痛が全身に纏わりついているので、直ぐに身体を動かすより少し待った方がいいと本能的に悟り、アリアは薄く目を見開いて辺りの様子を窺った。
薄暗い木造の小屋の片隅に己が横たわっているのに気づき、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
 元の住人がいなくなってから一体何十年を経たのだろうか。
所々が崩れ落ちた茶色い漆喰の壁を矮樹の枝が突き破っている朽ち果てる寸前の小屋であった。
床の片隅に身を横たえている黒髪の娘の傍らに、三人の村人が陰気な顔を寄せ合ってこれからの方針を話し合っていた。

 連れのエルフ娘の姿が見当たらない。心配になって黄玉の瞳を細めた。
村人達はなにやら会話に没頭しており、彼女が起きた事にも気づかない様子なので、黒髪の女剣士は暫し横たわったままに耳を欹ててみる事にした。

「南への街道は、勿論、北もオークたちに塞がれている。
 のこのこ歩いていったら、殺してくださいというようなものだよ」
どうやら身なりのいい若い男が議論を引っ張っているように見えた。
「……だったら如何すればいい?
水も食い物も少ない。此の侭、ずっと此処に隠れている訳にもいかない」
「東に進めばいい。早ければ一日でローナの町に着けるだろう」
「東の曠野を抜ける心算?」
「だってお前……あそこは……」
不安そうに躊躇いの顔色を見せた屈強な青年と赤毛の娘を、身なりのいい青年は熱心な口調で説得し続ける。
「大丈夫だ。家族で何度か行ってローナまで抜ける道は分かっている」
「襲撃の後、暫らくの間は街道は危険だ。オークが出没するに違いない」
「いつもの事ね」
苦々しい思いと共に、嫌そうな顔をして赤毛の娘は頭を振った。
それから女剣士に憂いを帯びた視線を向けた。
「行くとして、彼女は如何するの?」
「置いていくしかない」
「この人を置いていく心算か?ジャン」
身なりのいい青年の判断に、屈強な青年が気の進まない様子で訊ねる。
「幾らこの御人が剣の達人でも、元気なら兎も角、今の有様では足手纏い以外のなんでもないよ。
 それに彼女の荷物も助けになるだろう」
苦しげな咳が女剣士の口から漏れた。
「……足手纏いはその通りだな。だが、荷物はやれんよ」
喘ぎながら穏やかな口調で言葉を発した。喉が渇いている。
全身で水分が足りない気がした。無性に水が飲みたい。
「……起きていたのか」
決まり悪そうに眼を逸らして、身なりのいい青年が呟いた。
「エリス……私の連れは……どうなった?」
 聞きながら上半身を起こそうとして、鋭く走った痛みに思わず躰を折り曲げると、再び咳き込んだ。
身体が思うように動かない。

 疲労と出血、そして負傷にかなり弱っているようだと自己判断を下して、今度は慎重に躰を動かしながら、上半身で壁に寄りかかった。
 苦しげに呼吸をしているうちに、身体のだるさは取れなかったものの、黄玉色の瞳に再び強い活力の光が戻ってきていた。
「あ、ああ。彼女は、村に……」
「……無事だと思うよ。多分ね。それよりもだ……」
 じっと覗き込んできた屈強な青年が口ごもるも、ジャン青年に邪険な調子でそれきり話を打ち切られた。
何があったか、あれからどれ位の時間が経ったのか、此処は何処か。
色々と聞きたい事があったかが、三人の村人は自分のことで一杯一杯でとても余所者の怪我人などに構っている暇はないのだろう。

 首を傾げて穴の空いた天井から空の色を見つめた。
外の明るさからすると、柵を越えてから四半刻も経っていないと思えた。
身なりのいい青年が、赤毛の村娘を熱心に口説いていた。
「……当てはあるんだ。ローナに親戚が店を持ってるし、東の抜け道はオークたちも知らない筈だ」
「……それは、でも」
「行くなら今すぐ出発するべきだ。ジナ、一緒に来なよ」
村娘は俯いて、考え込む素振りを見せていた。
傍目にも迷っている様子だったので、アリアは声を掛けた。
「……当てがあるのなら、行くのも一つの手だ」
赤毛の村娘は頷いたので、身なりのいい青年は朗らかな笑顔を浮かべながら今度は屈強な若者を見つめる。
「仕事とか生活とか世話してやれると思う。お前も来るだろう?」
 口調は柔らかながらも押しの強い言葉に対し、特に自分にいい考えがある訳でもなく、手負いの女剣士を気に掛けながらも屈強な青年も頷いた。
赤毛のジナが女剣士の傍に屈みこんだ。
勝気そうな茶色の瞳に、不安そうな光が揺れている。
「……町についたら、助けを連れて戻ってきます」

 大抵の人間は、何か行動を起こす前には、ああしよう、こうしようと色々と考えるものだ。
だが実際に町に着けば、彼女とて直ぐに自分の新しい生活だけで手一杯になるに違いない。
或いは、葛藤の末に再び妹を助けに戻ってくるかも知れないが、余所者の女剣士の面倒まで見るという事は有り得ないだろう。
全く期待をせずに黒髪の女剣士は億劫そうに頷いた。
「では、達者でな。私は連れを待つとしよう」
エリスなら、此処までわたしを探しに来るだろうという予感があった。
「……で、此処は何処だ?」
 どうせ村の近くではあろうが、此れだけは聞いておかなければならない。
赤毛のジナは身なりのいい青年と顔を見合わせてから、説明を始めた。
「柵の外の……この辺りは元は村の一部だったんです。村は昔、もっと広がっていたんですけど、大きな地震の後に井戸が枯れて……
 亜人が増えている事もあって、その頃は、まだ柵はなかったけど、元の住民は守り易い村の内側に引っ越しました」
「では、村のすぐ近くなのだな?」
確認を取ると、身なりのいい青年が赤毛の村娘の後を引き継いで説明する。
「そうだ。オーク達の集落は村を挟んで反対側だから、此処側には滅多に廻らないし、周囲の地形にも詳しくないと思うが、出来るだけ早く発った方がいいよ」


「ふむ……無事を祈ってる」
「そちらも」
 言いつつ黒髪の女剣士は目を閉じて、楽な姿勢で壁に寄り掛かって黙考し始めた。
村人たちの気配が留まっているが、構わずに己が思案に没頭する。

 エリスは捕まらずに村から無事脱出できただろうか。
脱出できたとしても、私を探すか。
その上で、さらに此処を探し出せるだろうか。
考えた末に六割方大丈夫だろうと結論を抱く程度には、エルフの娘の機転と人格を信頼していた。
出会ったばかりの相手であるから、生き別れになろうとも互いにまた一人旅に戻るだけだ。
最悪、オークに捕まりさえしなければ構わない。

 翠髪のエルフ娘の身を案じながら黙考しているが、目前から村人たちの立ち去る気配がしない。
不信に思いアリアが再び目を開くと、身なりの良い青年がなお目前に留まって決まり悪そうにしていた。
何をしているのかと訝しげな眼で見つめると、少し言い難そうにしながら口を開いた。
「あー。ところで、食べ物を幾らかでも分けて貰えないだろうか。
 急に村を出たので大して持ってこなかったんだ。
 東の曠野は抜けるのに一日は掛かる。そちらは半日で南へ付くし、数日分を持っていると思うんだが……」


 ジャン青年の背後から怒りの混じった尖った声が掛けられた。
「それはそちらの事情……荷物は置いていってもらわないと困るな」
 村人たちは驚きながら小屋の入り口へと振り返った。
扉もない戸口に、長剣を手にして小柄な人影が立っている。
翠髪のエルフ娘は疲れている様相で戸口の梁に寄りかかっていたが、見たところ傷もなかった。
サンダルを履いた足をだるそうに引き摺りつつ、その癖、猫のように足音もたてずに小屋へ踏み込んでくると、しげしげと室内を見回して、埃っぽさに眉根を寄せて不愉快そうに細い眉根を寄せた。
 それから黒髪の女剣士の傍らに歩み寄って屈みこむと、ぎゅっと手を握る。
アリアは乾燥した唇に笑みを浮かべると、遅れてきた連れに声を掛けた。
「どうやら無事なようだな……よかった」
「それは此方の……いや、私は無事だよ」
エリスはハンケチを取り出すと、アリアの額の汗を拭った。

「随分と遅かったな。気を揉んだぞ?」
屈みこんだエルフの娘の前髪を、女剣士は指先を伸ばして弄くりながら問いかけた。
「御免。剣と荷物を持ってきたから遅れた」
「……何をしてるのかと思えば」
顔を覗き込むエリスと彼女の手にした荷物や剣を交互に見比べながら、アリアは微かに苦笑を浮かべた。
「どうせなら、槍を持ってくればよかったのに……」
「お、お金は大事でしょうが……」
「でも、ありがとう。良かった。爺さんから貰った剣なんだ。
 業物だから失くすには惜しいと思ってた」
 抜き身のそれを嬉しそうに抱き寄せて、アリアは刀身にべっとりと張り付いた血糊や体液、骨髄を眺める。
鋼の冷たい匂いに、鉄錆びたような血と臓物の臭いが入り混じって鼻腔を微かに刺激した。
「……此の侭では錆びてしまうな」
呟き、エルフ娘を見上げた。
「血糊を洗いたい。水を貰えないか?」
「……水ね。でも、貴女の飲む分が先ね」
 エリスに強請ったが、柔らかに拒否された。
手当てやら何やらと綺麗な水は何かと必要になるので、剣は後回しだと告げる。
村で幾らか使ったので、残りの水は二人合わせて水筒二個と半分程度しかない。
後で水を探してこないといけないと思いながら、エリスは立ち上がり、村人達に向き直る。

「なにか、よからぬことを相談していたみたいだけど……」
エリスは、三人の村人達からは思いも寄らぬ鋭い視線を向けてきた。
「誤解しないで欲しい。僕は……」
 エルフの娘の物言いには、隠しようもなく刺々しさが混じっていた。
身動き取れない友人から荷を奪う算段だったのではと、警戒しているのだろう。
 居心地悪そうに身動ぎしながらも、そんな心算ではなかったジャンは釈明しようと口を開いた。
たじろいでいる身なりの良い青年の言葉を遮って、少し好戦的になっている半エルフが唸るような声で噛み付いた。
「そう、誤解か。なら、互いにこれ以上の誤解の生まれないうちに、さっさと出発するといいよ」
「いや、分けてやろう」
アリアが口を開くと、エリスは怪訝そうに首を傾げて蒼い瞳をじっと友人の顔を覗き込んだ。
「……いいの?」
「構わぬ。わたしを此処まで運んでくれた訳だしな。
 それほど多くはやれぬが、少しでも有ると無いでは大分違うからな」
 取り成すような穏やかな言葉にエリスは渋々頷くと、革の背負い袋を開けて幾らかの食料を取り出し始めた。
 木の実の固焼きパンや雑穀のビスケット、木の実、干し豆などの手渡された食料を鞄へと仕舞いこみながら、身なりの良い青年たちは礼を述べる。
「すまんな。ありがとう」
アリアは鷹揚に手を上げて応えた。
互いの無事を祈ってから、村人たちはそのまま小屋の戸口から出ていく。
見送りに外まで付き添ったエリスは、出発する赤毛のジナとすれ違う際につい呼び止めて話しかけた。
「妹さんだけど……」
「うん?」
「いや、無事に見つかるといいな」
言ってから、半エルフは言葉を迷ったように視線を宙に彷徨わせた。
「東の町に向かうにしても、南にも一人は村の窮状を告げる為の使者を出した方がいいと思うよ。
 まあ、東の町についてから知らせてもいいけどね」
気をつけてと別れを告げると、エリスは踵を返して藁葺き小屋へと疲れた足取りで戻っていった。




[28849] 31羽 追跡 02     2011/11/11
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:a1da1aa5
Date: 2013/06/27 03:18
 身内を亡くした雌のオークや子供のオーク達の悲痛な甲高い叫び声が、幾十と連なって草原に木霊していた。
連れ合いや息子、或いは父親を亡くしたオークたちが、その亡骸に縋りついて身も蓋もなく泣き叫んでいた。
のた打ち回ったり、狂ったように叫び続けている雌のオークもいた。
他方には、父親の一部を切り取って口に入れるオークの子供もいる。
それで父の強き血と肉が子へと受け継がれ、子供はより強く成長すると信じられていた。
その風習自体がかつて矛を交えた戦士種族の模倣ではあるが、今は力を求めるオーク達の間で深く根付いていた。

 何処からか朗々とした詩吟の声が響いてきて、ガーズ・ローの耳を打った
見てみれば、老いたオークの吟遊詩人が坂の上にたたずみ、死者に向かって両手を伸ばしながら朗魂送りの詩吟を唱えていた。
 比べれば拙い歌声ながらも、詩人を取り囲んだ弟子らしき数人の若いオークが唱和している。
種族や信仰する神を問わず、弔いの夕べに魂渡りの詩吟を諳んじるのは、北の高地地方において広く行われている風習だった。
此れを行わないと死者は安んじて冥界の門を潜る事が出来ず、最悪、不死となる恐れもある。

 神聖な儀式でもある魂送りの儀式を横目で見ながら、黒オークのガーズ・ローは、部族の有力なオーク達が話し合ってる農家へと歩み寄っていく。
次期族長と目され、部族でも高い地位についているオーク達は、だが有力では在るがさして有能な訳でもない。
 顔を寄せ集めて先刻から埒もなく話し合いを続けているが、一向に何らかの結論が出てくる様子もなかった。
突然の族長の死と損害の大きさに動揺を隠せない様子で、常態の怒鳴りあいやいがみ合いも鳴りを顰め、
不景気な顔で互いに睨み合いつつも、普段とは打って変わってむっつりと陰気に黙り込んでいた。

 黒オークが顔を見せると、オーク達の誰もがホッとしたように顔を上げた。
「おう、ガーズ・ロー」
「一体、なにがどうなっている?説明してくれ」
口々に説明を求めてくる幹部達に、ガーズ・ローはつっけんどんな口調で言った。
「ラ・ペ・ズールが殺された。殺したのは村人の一人だ」
「村人?村人共が此れをやったのか?」
まずは言うべき事を云う為に、黒オークは手を上げて、更なる質問を牽制する。
「一から説明すると、族長の甥であるオ・アッゾが宴の席でサルの雌奴隷に殺されたのが始まりだ。
 奴隷はその場を逃げ出し、族長は手勢を連れて追跡に出た」
「其処までは知ってる。さっさと要点を言え」
 若いオークがせっかちに先を促がした。嘲りを孕んだ尊大な口調。
己を有能かつ偉大そうに見せようと肩肘を張っている。
「……早々に族長気取りか?偉そうに」
 オークの部族社会では、舐めた口調をされて放っておくと、それだけで軽んじられ、生きづらくなる社会なのだ。
 ガーズ・ローは心の底から馬鹿馬鹿しいと思いながらも、面子を守る為に沈黙し、睨みつけると若いオークは口篭った。
「他の奴から聞くがいい」
云って、黒オークが踵を返した。
「ガーズ・ロー。此の馬鹿は放っておいて話を続けてくれ」
 血の気の失せた顔で立ち尽くしている若いオークを、他の有力者がにやにやと眺める。
次期族長として権威と権力を示そうとして、逆に衆目の中で面子を失った。
こんな簡単なことでもう族長の目はなくなる。
 一方で、他のオークたちはガーズ・ローを侮りをそのままにしない男と見做し、黒オークはさらに一目置かれるだろう。
まるで子供の意地の張り合いだ。
駆け引きを心底から馬鹿馬鹿しいと思いつつ、黒オークは状況の説明を再開した。
「村に迷い込んでいたらしいサルの剣士とエルフの娘だ。剣士は恐ろしい手練だった。
 或いは、腕長のガル・グや騎士討ちガンハッグに匹敵するかも知れん。」
「馬鹿な。何を云ってる」
 幹部の一人が喚くように云った。
片や、トロルの戦士を決闘で倒したオークの勇者、片や人族の騎士団長を討ち取り、戦場でのオーク族の勝利に大きく貢献した北のオークの英雄の名に困惑する。
「俺の知る限り、単独で二十もの戦士を屠れそうなのは奴らくらいだ」
 北にいた頃のガーズ・ローは、それらオークの高名な戦士たちと交友を持っていたから話には説得力が在った。
云いながらも内心では、その豪傑たちでさえ単独では到底こんな真似は出来ないと考えていた。
 オーク二十匹は勿論、その半分さえ相手取れるか怪しいものだと思っていたが、無論、表情には億尾にも出さない。
「一人。此れを一人でやったというのか!」
悲鳴を上げるように、目をひん剥いて恐れの表情を浮かべていた。
「なにかの間違いではないのか?!」
「だが、酋長を……酋長の仇を取らなければ、我らタータズム族の名は地に落ちるぞ」
騒いでいる幹部オークたちを落ち着けるように、黒オークは敢えて冷静な口調で話を続ける。
「話は最後まで聞け。此の虐殺を為したのと、ラ・ペ・ズールを殺したのは、別の者だといっているだろう?」
「殺したのは誰だ?」
「ただの村人よ。見ていた者たちの言うところでは、大族長ラ・ペ・ズールが剣士と和平を結んだ所を騙まし討ちにされたらしい」

 いずれ尊いオークの血を流した彼奴らサル共には、その百倍の血で購わせねばならん。
だがその前に、まずは卑劣にも酋長を騙まし討ちしたその村人を血祭りに上げ、ラ・ペ・ズールの無念を晴らさねばなるまい。
それがタータズム族の有力者達がだした結論だった。


 嬉々とした様子で抵抗も出来ない女子供を血祭りに上げる様を計画しているオークの有力者たちを前に、湧き上がってくる蔑みを鉄面皮で隠してガーズ・ローは佇んでいた。
戦場で殺された戦士達の倍の人族の戦士を屠ってオーク戦士たちの魂を慰めるのだとか、勝手気ままに放言している。
 黒オークのガーズ・ローにしてからが、裏切りと陰謀が常の人族や、高慢にして冷酷なエルフ族を嫌ってはいるが、だからと言って無力な女子供を殺して悦に入るようなやり方を好んでいる訳でもない。
肩に伸し掛かってくる徒労感に、ガーズ・ローは顔を顰める。
「……で、追跡はどうする?」
「追って捕らえよ!八つ裂きにするのだ!」
「南北の街道には、既に追っ手と哨戒を出した。が、網を張るには人数が足りん。
 俺達は此の辺りの地理に詳しくはない。
 対して村人、そして恐らくは旅の者も周辺の抜け道や間道を周知しているだろう」
黒オークに対して、オークの有力者達が激昂する。
「取り逃がしてはならぬぞ!ガーズ・ロー!」
「言い訳は許さぬ!取り逃がせば、お前もただでは済まぬ!」
ガーズ・ローは、剣の柄を分厚い掌で撫でながら、冷たい無情な瞳で脅してきたオークを見つめた。
「ほう?なにがどう、ただではすまんのだ?」
脅し文句を口にしたオークが黒オークの鋭い視線に凝視されてうっと息を飲む。
「俺に命令するな。お前らは族長ではない。今は、まだな」
ガーズ・ローは考え込むように顎を指で撫でた。
「それとも手勢を連れて自分で出るか?
 その場合、捕まえられなかったらそいつにも責任は負ってもらうがな」
 実際には誰かを責める際には居丈高になるが、自分が責任を負わされるのは御免な奴ばかりのようで、オークたちはいっせいに黒オークから視線を伏せたり逸らしたりする。
まるで出来の悪い喜劇だな。
馬鹿馬鹿しいが一々言質を取っておかないと、後で責任を追及されたりもする。
情けない光景に忸怩たる想いを抱きながら、ガーズ・ローは言葉の矛を収めた。
「俺は誰が族長になろうと文句はないし、自分が族長になる気もない。
 族長の仇を討ちたいのは、皆、一緒だろう?それに、手がない訳でもない」
「……では、どうしろというのだ?」
ガーズ・ローへの認識も変わったようだ。
口先で脅せば走狗に出来る男ではないらしいと、有力者たちが話を聞き始めていた。
漸くに意見を纏めたと見てから、黒オークは提案する。
「黒エルフは……奴らは曠野の生活においての狩りと追跡の名手でもあるから、雇い入れるのだ」
 ガーズ・ローはチラリと横目で窓の外にいる取引相手の黒エルフたちを窺った。
荷車の周りで何やら忙しく立ち働いている彼らの大半は黒檀の如き肌をしていたが、数名は褐色の肌を持っている。
どんな視力をしているのか、放浪のエルフの一人が見られている事に気づいたらしい。
或いは、鋭い聴力によって話を聞いてさえいたのかも知れない。
楽しんでいるような笑顔を浮かべて、黒オークに手を振っていた。
「黒エルフは貪欲な商人だ。既に沢山の物をわしらからだまし取ってる」
オークたちはあからさまに渋い顔をした。
「我ら、高貴なオーク族が卑しい黒エルフの行商人共に力を借りるのか」
 不貞腐れたり、苛立たしげに舌打ちするオークもいた。
舌打ちしたいのは此方だと思いながら、ガーズ・ローは説得を続けた。
面倒臭いと思う。本来、交渉など彼の得意とする領分ではないのだ。
「力を借りなければ、逃がす恐れがあるぞ。
 俺たちは既にして、もう危険なほどに遅れているのだ」


「移動すべきだな」
物憂げに呟いた黒髪の女剣士を凝視してから、エルフの娘は頭を振った。
「無理だ。少なくとも一晩は休まないと」
 手当てをする前に、傷口の洗浄だけはしておくべきだった。
血に染まって切り裂かれたアリアの上着の服を脱がせると、形のいい双丘が露わになったが、
美しい小麦色の肌にものたうつ赤い蛇のような傷がはっきりと刻まれており、翠髪のエルフ娘は微かに息を呑んだ。
四箇所か、或いは五箇所か。全身に切り傷や刺し傷を刻まれながら、幸運にもその全てが急所を全て避けていた。
出血の割りに傷も浅い。いや、恐らく幸運の賜物ではないのだろう。
大人数を相手に幾度となく疵を負いながらも、深手を受ける事は避けていたのだ。
 自分だったら間違いなく膾にされている。戦士の技とは凄いものだと思いながらも、傍目にもアリアが疲労困憊しているのは明らかだった。
今も青い顔をして、少し喋っただけでだるそうにしている。

「今日は休んで、明日移動しよう」
 せめて一晩は休ませたかった。
懸念していた出血も思ったよりは少なく、危険なまでの量を失った訳ではないから、
一晩をじっくり休ませれば幾ばくか体力も回復する筈であった。
エリスの提案に、アリアは鋭い眼差しを伏せるようにして沈思していた。
残り少ない水を飲ませてから、全身の傷口をよく洗っていく。
 アリアは痛みに目を瞑り、歯を食い縛って耐えているが、額には脂汗が吹き出して、時折、辛そうな呻きを洩らしていた。
肩や太股、脇腹や胸など大小の目に付いた傷を全て洗ってから、油脂にタンポポやガマの穂に混ぜた血止めと毒消しの膏薬を塗り、最後に清潔な布で包帯を締め始めた。
本当は布も煮沸したかったし、薬も古いものだから効き目は薄いだろう。
くどくどと言い訳しながら、エリスは止血を優先した巻き方で傷口を塞いでいく。
包帯の上から改めて別の布でややきつめに縛り、兎に角、アリアの手当てを終えてから、
顔をそっと覗きこむ。
「本当は縫いたいんだけど……此処だとしっかりした手当てはできないし」
 呟いた半エルフだが、手当てするには綺麗な水が必要不可欠で、しかし残りは少ない。
黒髪の女剣士は全身から脂汗が吹き出していたが、出血は殆ど収まってきた。
「……躰を洗いたいな。べとべとする」
乱れた黒い前髪をかき上げながら、全身を朱に染めたアリアは脱力して、溜息を洩らした。

 ずたずたに切り裂かれたお気に入りの上着を手にとって凝視してから、アリアは悲しげに鼻を鳴らすと襤褸布と化したそれを床へと投げ捨てた。
「直ぐに移動したほうがいいと思うがな」
予備の衣服を着込みながら、明晰さを回復した口調でエリスに話しかける。
「だけど、もう夕方でじきに日も暮れる」
破れた天井から覗く空の色は徐々に茜色に染まりつつあった。
「だが、オークなら兎も角、黒エルフ共に追跡されたら不味かろう」
懸念を口に出されるとエリスも内心、不安になったが、アリアはつい先程まで気絶していたのだ。
距離を稼いだ方がいい選択なのは重々承知していたが、今、動くのはどう見ても無理が在った。
「在るかな?族長を殺されても連中は動かなかった。それに水が足りない」
躰を拭ったり剣を磨くのは愚か、手当てにするにも移動するにも、綺麗な水が足りない事を告げた。
「……集めてこないと」
やや強引に話を打ち切ってから、空の水筒を五つぶら下げて立ち上がった。
「今は此れを飲んでいて」
最後の水筒を泥だらけの床に横たわった黒髪の女剣士に渡すと、屈みこんで顔を近づけた。
「もし綺麗な水が見つからないと、それだけで一晩、持たせないといけないから。
飲む時は少しずつ、ゆっくりとね」
「分かってるさ」
 耳元で口煩いのに苦笑して、アリアは頷いた。
心配しているのは分かるから、小言も嫌な気持ちにはならない。
頷いて立ち上がったエルフ娘だが、やはり疲れているのだろう。
 何時もに比べてやや重い足取りで外に出ていくのを見送ってから、黒髪の娘は水を一口だけ含んで喉を潤おした。
愛剣が血糊に汚れているのが気になったが、どれ程水が大切かも重々承知している。
「……砥石も掛けられんな」
 廃屋に漂う空虚な静寂にどうにも落ち着かなかったが、エリスの云うとおりに、少しでも体力の消耗を抑えようと、横たわって目を閉じた。
恐らく時間が経てば、今は麻痺している傷の痛みが猛烈に全身を襲うに違いない。
苦痛は嫌いではなかった。少なくとも生きている証に思える。
やがて目を閉じてるうち、疲労したアリアの意識は緩やかに闇へと落ちていった。


 丘陵と丘陵の谷間である麓には、幾つかの粘土壁の廃屋がまばらに点在している。
昔は此の辺りまでモアレ村の一部だったのかも知れない。
水の手が枯れたとか、亜人が増えたとか、何らかの理由で破棄されたのだろう。
「……人が暮らしていたなら井戸もある筈」
 独り言を呟きつつ廃村を見回しながら、翠髪のエルフ娘は助けになりそうなものを探して歩いた。
家屋の中心に近い位置に向かうものの、だが其処にある古い井戸は枯れていた。
舌打ちすると、今度は自然豊かな丘陵の斜面へと向かった。

 指先で地面に触れると土は微かに湿っている。雨をたっぷりと吸い込んでいるようだ。
植物が茂っているのだから、水の手は在るだろうとエリスは推測する。
薪になりそうな枯れ枝を集めたり、水気のある紫色のベリーなんかを詰んだりしつつ歩いているうち、やがて目当ての植物を見つけて足早に駆け寄った。
 緑の蔦に絡まっている捻れた白っぽい巨木であった。
見上げてから、水を貰うねと謝意を呟くとエルフの娘は木々に絡んでいる蔦を小刀で千切った。
空の水筒を木の枝に縄で縛り付けて固定すると、蔦の先端部を水筒の口へと差し込む。
やがて蔦の先端に水滴が生まれ、滴り落ち始めた。
こうしていると一晩で一口か二口の綺麗な水が溜まるのだ。
勿論、足りる量ではないが、かといって有ると無いではだいぶ違う。
他の水筒も、蔦や蔓を千切って同じように水を溜める仕組みにする。

 全ての水筒を彼方此方に設置し終わると、エリスは溜息を洩らして高い空を見上げた。
夕暮れの茜色が徐々に大空を覆いつつあった。
もうじき日が暮れる。その前にしておく事はないだろうか?
傷は洗った。縫うには水が足りないが取りあえずの手当てはした。
一番大切なのは、夜の間に怪我人の体温を保つ事。
一晩中、火を焚けるだけの薪を確保しておかなければならない。
それから兎に角、水を飲ませる事。
幸い、辺りには水気を豊富に含んだベリー類が散見している。
 自分が水を飲まず、水筒の水と木々から貰った分を廻してぎりぎりか。
考えながら歩きまわっているうちに、窪んだ地面に水が溜まっているのを見つけた。
飲んだり、体を洗うには不向きだが、剣を洗うにはいいかも知れない。
取りあえず、集めた薪だけでも小屋において、剣を持ってこよう。
枯れ枝を両腕一杯に抱えたエリスは、踵を返してアリアのいる小屋へと歩いていった。


 辛くも村から脱出した三人の村人は、モアレ東部の丘陵地帯を南に大きく迂回する形で間道を進んでいた。
 丘陵と丘陵の狭間を縫うようにしながら、時に木立と根が生い茂り、時に起伏が激しい間道を慎重に進んでいくのには訳がある。
人口密度は低いながらも、丘陵地帯の深い処にも僅かだが人が暮らしている。
 丘巨人を筆頭として、人族やホビット族の追放者、半オーク、洞窟オーク、ゴブリン、どぶドウォーフなど雑多な住人たちが思い思いに丘陵の彼方此方に住み着いているのだ。
 彼ら丘の民は基本的に閉鎖的で排他的であり、村人に会っても非友好的な反応を示すのが殆どだった。
流石に村人とは多少の交流はあったものの、縄張りに入ってくる余所者に対してはけしていい顔をせず、 旅人に対して追剥になったり、村人からすればまれに家畜を盗まれたり、畑を荒されるなどあまり愉快ではない隣人たちであったから、彼らの縄張りは避けて然るべきであった。
 彼らは誰に対しても不愉快で排他的な存在であったから、例えオーク部族が追ってきて丘の洞窟オークや半オークたちと遭遇しても、ひと悶着ある事は間違いなかった。
まして人族やホビット、丘巨人なら尚更であった。
とは言え、部族のオーク達が踏み込んでくるなら大人数であろうし、人数の少ない丘陵の民は、
 恐らく大人数の武装集団と戦うよりは隠れてやり過ごす事を選ぶだろうから、足止めを期待するのは虫が良すぎるというものだった。


 三人の村人は丘陵の高い位置に昇って、岩に腰掛けながら休憩を取った。
「ここら辺は皆の共有地だ。逆に云えば誰の縄張りでもない。
 此の岩からは、街道を往来する旅人や近づいてくる者が一目で見渡せるのさ。
 しかも、向こうからは頂が影になって見えないんだ」
ジャンが口を開いて説明すると、屈強な青年は露骨に感心した様子を見せた。
「よく知ってるなぁ」
「僕の家は丘の民と長年、商いをしていたからねぇ。
 連中に布や服を売ってやって、毛皮や薬草なんかと交換する。
 餓鬼の頃から十余年も付き合いがあればさ、多少は気心も知れる」
それでも迂闊に縄張りに入るべきではないよと云いながら、身なりのいい青年は干し豆を口に運んだ。
「友達もいるんでしょう?通してもらえないの?」
 赤毛のジナの当然の問いかけに、ジャンは曖昧にほろ苦い笑みを浮かべた。
丘の民は、他所で散々に痛めつけられて最後にどうしようもなくなって此処に逃げ込んできた奴らの集まりだ。
だから連中自身にも、己の中にある他人を恐れ、疑う気持ちはどうにもならないのさ。
 長年付き合った末、ほんの少しだけ丘陵の民の胸のうちを理解できたような気がしたジャン青年は、しかし何も言わなかった。
云っても分かるまいし、軽々しく口にするべきでもないと思ったからだ。
「残念だけどね、どうにもならないんだよ」
少し暗い声で呟いて、代わりに周囲に視線を配った。
今のところ、オークの追っ手は影も形もない。何とか自分と、友達二人だけは救えそうだった。
丘陵の稜線や狭間にも、近くに人影は見当たらなかった。
だが、その更に向こう側。丘の麓に、遠目にふらついている人影に気づくと、さっと顔を強張らせた。
「誰か近づいてくるぞ!」
仲間たちに警告を発しながら稜線に身を伏せて、青年は目を細めて様子を窺う。
「……何者だろう?オークかな」
赤毛の村娘が呟きながら目を凝らした時、屈強な青年が大音声で呼ばわった。
「いや、あれはクームではないか!」
顔見知りと気づいた屈強な青年が立ち上がろうとするのを、身なりのいい青年が慌てて腕を掴んで押し留めた。
「待て!声を出すな!」
「な、なんでだ!」
戸惑う屈強な青年を制止しながら、身なりのいい青年は低く囁いた。
「オークを引き連れているかも知れない」
追っ手が近くにいるのではとの危惧は的中し、逃げる村人の背後からさらに二つの人影が姿を現した。
何やら喚きながら追われる村人に迫る二匹のオークを目にして、大柄な青年は鼻息も荒く手斧の柄を握りしめた。
「たった二人だ!不意を突けば!」
「他にもいるかも知れないと何で考えられない!」
 飛び出そうとする屈強な青年を抑えながら、だが、ジャンも悔しげに歯噛みしている。
追いかけられている若い青年は、起伏の多い丘陵の斜面を必死に昇っているが、中々、オークを振りきれない。
息をのんで見守る中、ついにオークの武器が追われる青年を捉えた。
背中を切られて横転し、丘陵の傾斜を転がり落ちていく若い青年をオークは執拗に追いかけ続ける。

 屈強な青年が喉の奥から唸り声を発しながら、勢いよく立ち上がった。
「もう我慢ならん!」
制止する間もあらば、追い詰められた仲間目掛けて猛然と走り始める。
オークは必死にはいずり回り、逃げ惑う青年に気を取られている様子で、突進してくる新手の敵手に気づく様子はなかった。
「うおおおお!」
が、屈強な青年は雄たけびを上げた為に、不意打ちにはならなかった。
オーク達は素早く向き直ると、粗末な小剣を手に構えを取った。
「……止むを得んか」
ジャンも立ち上がった。
「わしらの丘を侵す余所者めが!」
杖を振りまわし、訳の分からない叫びを上げながら丘陵を駆け下りていく。

 その叫びを耳にしたオーク達は顔を見合わせた。
何度も目前に追い詰めた若い青年と駆け寄ってくる正体不明の二人組を見比べていたが、
さらに新手の三人目が丘陵の陰から飛び出して駆け寄ってくるのを目にして、未練たらしく獲物を睨みつけながら背中を見せて遁走に移った。

「はっはっ、臆病な奴らだ!」
「お、大きな声を出すな」
丘の民を恐れるジャンが制止するも、屈強な青年に耳に入った様子もない。
屈強な青年が走り寄ると、よろめき近づいてくるくすんだ青年はまさしく村人の一人であるクームだった。
「無事だったの!クーム」
赤毛の村娘が話しかけると、くすんだ赤毛の青年クームはどこか虚ろな目で地面を俯きながら呻き声を上げた。
「ミナは?」
屈強な青年が訊ねるが答えない。連れ合いの一緒にいないことから察していた身なりの良い青年が気まずそうに屈強な青年を肘で付いた。
「兎に角、此処を離れよう。オークが二人だけとは限らんからな。
 仲間を連れて戻ってくるかも知れない」
年下の友人であるクームの腕を掴んで立たせながら、ジャンは丘陵の彼方へと視線を走らせる。
荒れた坂道をとぼとぼと歩きながら、クームが口を開いた。
「……あいつら、しつこく追いかけてきて……ずっと走りっぱなしで……何度も撒いたのに」
「でも、よく無事だったな。あいつら、お前を捕まえようと必死だからな」
ジャンが屈強な青年の言葉に怪訝そうに顔を上げた。
「族長の仇だもんな」
身なりのいい青年がぎょっとした様子で村の仲間を凝視した。
「……クーム、君は族長を殺したのか?」
緊張した口調で訊ねると、悪気のない口調で屈強な青年がうんうんと頷き、質問を肯定した。
「そりゃあ連中も必死だよな。クームを捕まえれば次の族長だもんな」
険しい顔で見つめられ、事情の飲み込めない年下の青年は苛立った口調で云い返した。
「……如何いう事だよ?俺がなんだって?」


「君を東には連れて行けない、一緒だと此方が危険だからな」
苦い口調でジャンが宣告する。
「如何いう事だ?なんでだ!」
唖然とした様子で立ち竦んでいたクームに渋い顔をしながら、
「族長を殺した君はオークに狙われてるからな」
「何だよ、そりゃ!?村の仲間だろうが!」
いきり立って反論する年下の青年クームと厳しい口調のジャンを見比べて、残った二人は戸惑いを隠せなかった。
訳が分からないといった様子の屈強な青年が首を捻りながら怪訝そうに呟いた。
「一緒に連れていけばいいじゃないか」
「大勢のオークがクームの後を追ってくるぞ、それでもいいのか?」
「あ、そっか。……悪いな。おめぇを連れてったら俺達まで危ないや」
「ふっ、ふざけるな!どうして皆の仇を討った俺がこんな目に合わなくちゃいけないんだ!
 感謝してもいいくらいだろ!自分だけ助かりゃそれでいいのか!」
ジンは歯がみしながら抗議するも、ジャンは頑として譲らなかった。
屈強な青年も申し訳なさそうな顔をしながら、しかし身なりのいい青年の意見に同調していた。
「もういいさ!お前たちなんかに頼まねえ!」
赤毛の青年は険しい目で三人の村人をにらみ回した。
激高したまま踵を返した赤毛の青年に村娘が声を掛けた。
「クーム!昔の村の場所……あそこに剣士さまとエルフさんがいる」
聞いているのかいないのか返答もせずに足早に去っていく青年の背中に言葉を続けた。
「もしかしたら助けて貰えるかもしれない」
呼び掛けの声も耳に入る様子もなく歩み去っていくクームの背中を見送りながら、
見捨てた当の本人であるジャンが、ポツリと小声で呟いた。
「ミナ……いい子だったのに。辛いだろうな」
「俺も、母ちゃんがいなくなるなんて想像もしたくないぜ。早く助けを呼んで戻らんと」
 屈強な青年の呟きに、村娘は暫らく俯いて何かを考えていたが、やがて視線を転じて身なりのいい青年の顔をじっと見つめた。
「……ねえ。ジャン。ローナの執政官は、本当に援軍を出してくれると思う?」
 真剣な眼差しで赤毛のジナに見つめられ、ジャンは顔を曇らせる。
暫し待って、村娘が溜息を洩らしながら俯いた時に返答が返ってきた。
「……分からない。だが、他に手はないだろう」
丘陵の彼方に遠ざかっていく友人の背中を見つめながら、身なりのいい青年は擦れた声で呟いた。





[28849] 32羽 追跡 03     2011/11/17
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:a1da1aa5
Date: 2013/06/27 03:18
 リズミカルな摩擦音が暗い室内に響いていた。
火起こし弓が生み出す灰は、時間と共に少しずつ成長し、中に灼熱を孕んだ小さな塊となって周囲に微かな熱を放っていた。
 灰の塊を乗せた木の板を囲炉裏の中心に移動させると、エリスはおが屑や藁を振りかけた。
様子を見ながら小さく息を吹きかけていると、おが屑の山の中心に弱々しい種火が生じる。
枯れ枝や枯葉、枯れ草などを注ぎ足していくと、やがて炎は盛んに燃え上がり始めた。
後は薪さえあれば、放っておいても焚き火は燃え続けるだろう。
 窓の外にある剥き出しの土の地面では、炎に合わせて家壁の影が揺れていた。
やがて夕闇が迫ってくれば、夜目に焚き火は目立ってしまうだろう。
だが、多量に出血した人間を夜の冷気に放置すれば、朝には冷たくなっていたなどと成りかねない。
それに廃屋は丘陵と丘陵の狭間にあった。
 朽ちかけているとは言え、屋根も壁も焚き火の炎を遠目から遮ってくれるだろう。
迷いながらも、軽い息を吐いて仕方ないと割り切った。
 部屋の片隅に横たわっているアリアは、今は安らかな寝息を立てていた。
平気そうに振舞っていても、やはり相当に疲れていたようだ。
人族の娘の青白い憔悴した顔を見つめて、無理もないと半エルフは目を瞑った。
昨日今日とずっと戦っているか、歩き詰めだったのだ。
傷の痛みで目を覚ますまでは、ゆっくりと眠らせておこう。
 額の汗を拭ってから、エリスは血糊に濡れたアリアの長剣を抱え上げた。
やはり重い。短剣や小剣なんかとは、根本的に違う武器だとその重さが躰に理解させる。
岩場に囲まれた地面の窪みに、多目の雨水が溜まっているのを見つけていた。
飲んだり、躰を洗うには適してないが、剣を洗うくらいには丁度いいだろう。
「洗っておくね」
寝ているアリアにそう声を掛けると、長剣を腕に抱かかえたエリスは戸口へと向かった。


「わしらの身内には、確かに追跡を得手とする者がおるよ。腕は確かじゃ」
 黒エルフの長は、一見では好々爺の印象を与える痩せた小さな老人であった。
しかし、その細い目が、油断なさそうな狡猾な光を浮かべている事に注意深い者なら気づいただろう。
黒エルフの老人を農家へと呼び出したオーク氏族の有力者たちは、高圧的に振舞いつつ追跡するのに人員を貸すように言い渡したが、老人は怯んだ様子もなくオークたち足元に付け込んできた。
「報酬は……そうさな。タレー銅貨で三百枚は貰いたいの」
老エルフの口にした値段を耳にしてオークたちは唖然とし、次いで額に青筋を浮かせた。
「タレー銅貨で三百枚!三百枚だと!馬鹿馬鹿しい!!」
オークたちは歯を剥きだして怒り狂っていた。値切る為の演技ではない。
オークの有力者たちから見れば、老人の要求した金額は法外以外の何物でもなかった。
「ふざけるな!たかだか四、五人のエルフを雇うのに誰がそんな金を払うものか!」
「腕利きの傭兵十人を一ヶ月雇える金額だぞ!話にならん」
 漆黒の肌をした黒エルフの老人は、オーク達の上げる罵声や怒声にも怯んだ様子もなくニコニコと無害そうな笑顔を浮かべていた。
「だが、族長の仇は取らねばなるまい」
船乗りの飼う猿のように小首を傾げながら、老人は細々とした声で反論した。
「タータズム族の誇りに比べれば、はした金じゃろう?」
黒エルフ老人の言葉に、忌々しげに睨みつけたり、舌打ちしながらも氏族のオークたちは黙り込んだ。
「見知らぬ丘陵や曠野は誰にとっても危険な土地。それは博識なおぬしらならようっく承知な筈」
 長い指を擦り合わせながら、老エルフは追従を織り交ぜてそう囁いた。
暫らく苦虫を噛み潰していたオークたちが顔を見合わせると、頃合を計ったように座の中心にいた恰幅のいいオークが口を開いた。
「に、しても銅貨で300枚は吹っかけすぎだな。精々20枚がいいところだ」
オークの言葉に衝撃を受けたように、驚愕の表情を浮かべた黒エルフの老人は細い眼を瞠った。
「欲しいのはタレー銅貨じゃよ。そこら辺の町の銅貨なら倍は貰いたいの」
数匹のオークが立ち上がりかけるのを恰幅のよいオークが手を伸ばして牽制しながら、流石に険悪な顔になって身をずいっと乗り出した。
「爺さん、欲を掻きすぎると、早死にすることになるぞ」
座のオークの一人が頷くと、恰幅のいいオークは喉から搾り出すような低い声で告げた。
「……銅貨で五十枚だ。エルフ二、三匹の日雇い仕事にしては、それでも払いすぎだがな」
殺気だったオークたちの脅し文句と険悪な視線に何も感じていないのか、黒エルフの老人は邪気のない好々爺の笑みを浮かべてニコニコしていた。
「大切な仲間を、そうそう捨て値で危ない目に合わせるわけにもいかんでのう」



 引き締まった体躯の浅黒い肌をしたオークが、焚き火の傍らで所在無げに佇んだり、地べたに座り込んでいる四、五匹の武装したオーク達の目の前に立った。
「もうじき追跡を開始する。全員、五日分の水と食料は持ったか?」
「持ったぜ。だがよ。五日は少し多すぎるような気もするぜ。三日で充分じゃねえか?」
黒オークの呼び掛けに、真ん中に座っていた大柄なオークが答えた。篭ったような潰れた声だった。
「念の為だ。東の曠野にでも逃げ込まれたら、何日追うことになるか分からんからな」
黒オークの言葉を聞いたオークたちは、明らかに長期間の任務に気が進まない様子で、顔を嫌そうに歪めたり、不満そうにぶつぶつと呟きを洩らしていた。
「躰をようく暖めておけよ。暫らく、暖かな寝床とはお別れだからな」

 踵を返した黒オークは、林の方から黒エルフが近寄ってくるのに気づいた。
黒檀の肌をした男は華奢な者が多いエルフ族にしては珍しい屈強な逞しい体格で、いかにも精悍そうな印象を見るものに与えていた。
「……話が付いた頃か」
 黒エルフの戦士が口を開き、黒オークは農家を眺めて無言で頷いた。
黒エルフは、黒オークに鋭い眼光を向けて疑問を口にした。
「だが、俺たちを雇う必要があるかな。追っ手は放ったんだろう?ガーズ・ローよ」
「網は張った。有力者共が手勢を出して、街道を中心に周囲の丘陵に四、五人ずつが待ち構えている。
が、如何せん不慣れな土地だからな。人数も足りんし、すり抜けられるのが落ちだ」
黒エルフは顎を掌で撫でながら、脳裏に地図を描いて眉を顰めた。
「……となると、南へ行けば半日で人族の領土だ。正直、捕らえるのは難しいぞ」
「奴らには手負いがいる。街道を封じれば、そうそう真っ直ぐには逃げられん」
ガーズ・ローの言葉には、多分に希望的観測が含まれている気もしたが、かといって全く望みがない訳でもない。
黒エルフは頷きながら、オークの死体に目をやってから気になってる事柄を訊ねた。
「例の剣士はどうする?ガーズ・ロー」
「如何な手練とは言え、二十人のオークを相手にしては無傷ではすまん」
黒オークは事も無げに勝算はあると呟いた。
黒エルフは頷きながら、マフラーを首筋に寄せた。
「そう思いたいものだ」
夕刻が近づき、空に黄昏の茜色が広がりつつあった。
辺りは大分、冷え込んできている。
草原に舞い降りた鴉たちが、甲高いしわがれ声で鳴きながら、鋭い嘴で草原の彼方此方に転がっているオーク達の死体を突いていた。
黒エルフが微かに背筋を震わせたのは、冷気の為だろうか。
「死体を改めた。半数は急所を一突きか二突きでやられている。
 口で出して言うのは易いが、そうそうできる事ではない」
口にする黒エルフにしてからが熟達した剣士である。
それが些かしつこいほどに念を押してくる。
「油断はせんよ。手負いの獣は得てして手強い。
 だが、正直言えば、あの女と族長の仇とが別行動していてくれた方が有りがたい」
「それを聞いて安心した。強敵と戦えて嬉しいなんてほざく奴は、きっと頭の中に馬糞でも詰まっているに違いないからな」
ガーズ・ローは、黒エルフの言葉に唇の端を苦笑の形に吊り上げた。
「……聞かれたら事だぞ」
呟いた時に大きな農家の扉が内から開かれて、二人は同時に振り向いた。
二人の姿に気づいた小柄な黒エルフの翁は、満面の笑みを浮かべてひょこひょこと歩み寄ってくる。
「折り合いが付きましたか?」
黒エルフの戦士が丁寧な口調で訊ねると、隊商の長は破顔した。
「銅貨二百枚分の品物か貨幣。前金で百、後で百じゃ」
小規模の隊商の臨時収入としては、多くもないが悪くもない金額だった。
黒エルフは口笛を吹いた。黒オークは肩を竦める。
「よくもまあ吹っかけたものだな。爺さん」
「粘ろうと思えばもう少し粘れたがのう。オーク共の血管が破れても気の毒じゃったからな」
歯の無い黒エルフの翁は愉快そうに顔をくしゃりと歪めると、ひっひっと笑った。



 風が吹いていた。
冷たい北風が丘陵と丘陵の狭間を吹きぬけていく。
もとは村道であったのだろう、草木のない赤茶けた土に砂埃が舞った。
褐色の肌を持つ黒エルフの女は思わず目を閉じた。
風はなんとも嫌な、湿った香りを孕んでいた。
 鼻に残していった嗅ぎなれぬ匂いに黒エルフの女は眉を潜めて、鼻を鳴らした。
今だけ我慢すればいい。
柵の外にある丘陵地帯の麓。目を閉じたまま地面にしゃがみ込んでいる女エルフに、背後から微かに足音が近づいてくる。
一つは重い。
土と砂の鳴き声から足音の主が一歩一歩大地をしっかりと踏みしめているのが分かる。
 がっしりとした体躯の持ち主で、淀みのない一定の歩調からはよく鍛えられている頑強な肉体の持ち主である事を黒エルフは察知した。
もう一つの足音の主は、殆ど音をたてていない。
音を立てない歩き方を普段から習慣づけているのだろう。
乱れぬ歩調からやはりよく鍛えているが、此方は機敏で動き易い筋肉の付け方をしていることも聞き取れる。
足音のリズムからして二人とも中肉中背で、込められた音の響きから殆ど疲労していない。
砂と土を踏みしめて近づいてくる小さな足音に、黒エルフの女はしゃがみ込んで地面に指を這わせた姿勢のまま、背後に声を掛けた。
「ガーズ・ロー、ヴィレウス」
距離は背中に五十歩ほど、二つの足音が戸惑ったように急に立ち止まった。
「ほう、足音だけで誰か分かるものか?」
「何となくね」
呟きながら黒エルフの女は立ち上がる。
「話が付いたぞ。お前を借りる」
 黒エルフの女はしなやかな足取りで歩き回り、鋭い眼で丹念に地面を調べて廻っている。
聞こえているだろうが、反応しない。
黒オークは気を悪くした様子もなく、しゃがみ込んでいる女の傍らに歩み寄った。
「足跡か。此処で途切れているように見えるが……」
「ううん。結構、上手く痕跡を消しているけど残念。血の跡は誤魔化し切れてない。
やったのは多分、森エルフかな。面白い連中だね。」
黒エルフの女は再び立ち上がると、地面に刻まれた別の足跡を指し示した。
「こちらは南東に向かってる。足跡が大きくて深いから多分、若い男。単独行動している。
足跡が残りにくい草原に踏み込んでいるのが厄介だけど、追えないほどではない」
黒エルフの女は黒オークを見上げて
「本命は此方」
「自信があるようだな、ジル」
ガーズ・ローの問いかけに対して、黒エルフの女はキュッと唇の端を吊り上げた。
「私は奴の背丈と歩き方、そして村に残された足跡も此の目で見た」
 地面に残された足跡からは様々な事が読み取れる。
足跡の深みや歩幅から体重、歩幅から体格と骨格は割り出せた。
ふらついているか、真っ直ぐか、向きを見れば運動神経や疲労の程度も推測できる。
「信じられないなら両方追えばいい。私としては、エルフと剣士の二人組の方に興味があるけどね」
断言する褐色の肌の女エルフを鋭い目でじっと見つめてから、黒オークは頷いた。
「いいだろう。では、狩りを始めるとしようか」


 人気の無い廃村にも、夕刻の冷たい風が吹き始めていた。
昼から夜へと移り変わる時間帯に特有の、内陸から沿岸に向かって吹く風に似ている。
海からは遠い筈なのに、時折、潮の匂いを孕んだ奇妙な風が吹く事があった。
 エリスは躰をぶるりと震わせた。
血糊を洗い流した長剣から布で水気を拭い去り、傍らの樹に立てかけると、次に見つけたベリーやナッツの類を革袋から取り出して、食べ易いように小さな袋へと分類し始める。
一通りやるべき事が終わったので、溜息を洩らしつつ大空を見上げると、遠い夕雲が南方の彼方へと流れていくのが見えた。
 落日の地平線に広がり揺れる茜色は、不吉な鮮血の兆候に思えてエルフ娘の小さな胸に不安を湧き起こした。
「嫌な夕陽……血の色みたい」
ポツリと呟いてから頭を振って、気を取り直してそろそろ小屋へ戻ろうと立ち上がった時に、丘陵の影から人影が姿を現し、近づいてくるのに気づいた。
「……あれは」
「……見つけた」
呟きの癖に奇妙に大きく響いた虚ろな声に、何故かエルフ娘の背筋に冷たいものが走った。
「……あ、貴方、無事だったのか」
 やがて目の前に立った村の青年は、じっとエリスを見つめてくる。
濁ったような、その癖奇妙に据わった目付きだった。
如何という訳ではないが、何故か危険な感じを嗅ぎ取って、エリスは無意識のうちに腰に手が伸びた。
だが其処に棍棒はなく、無手であることを思い出して内心で舌打ちする。
「……どうしてだ?」
言葉の意味が分からずに問い返すが、青年は瘧のように躰を震わせていた。
「え?」
「……なんでミナが死ななくちゃいけなかったんだ」
 据わった目付きで半エルフの娘を睨みつけていた青年の目には、明白な害意が渦巻いているように思えた。
困ったように肩を竦めてから、青年の横を通り過ぎようとしてエリスは腕を掴まれた。
「……なんでだ?」
「放して」
「……なんで。彼女を。見捨てた」
言葉を区切るように、掴んだ腕に力が入ってくるのが分かった。
「彼女が死んだ理由ね。教えてあげる。貴方の力不足よ。もっと早く逃げ出せば二人とも生きていた」
正論を言うよりは、逃げるなり、話をあわせるなりした方がいいかも知れないが、やる気にはなれない。
「何だその言い方は……謝れば許してやろうと思っていたのに」
あまりの身勝手さに馬鹿馬鹿しくなって、エリスは溜息を洩らした。
「そもそも、貴方は自分の出来る事をしたの?」
「……五月蝿い」
「あの状況で族長を殺せば、オークたちが怒り狂うのは当たり前で……」
「……五月蝿い!黙れ!」
 村人の青年の拳が振り上げられた。
半ば予期していた拳は、しかし避けられなかった。
エリスの顔に衝撃が走った。
訓練を受けたアリアのように格好良くはいかない。
頭の奥がくらくらする。躰が恐怖と衝撃に震えた。
強烈な一撃だった。口の中が切れている。
「お前の責だ」
 言いながら、再び、拳を振り上げて近寄ってくる。
倒れたエリスの手が地面の土を掴み取った。目潰しにパッと投げかける。
拳が空振った。目を押さえながら青年が憤怒の咆哮を上げる。
「八つ当たりはみっともないな。守れなかったのが自分とは思わないか?」
 距離を取りながら正論を吐くが、耳に届く筈もない。
青年は躰を屈みこませると、エルフ娘の声のする方向へと我武者羅に突っ込んできた。
慌てて躱したものの転倒したエリスに、伸し掛かる村人の青年。
「……穴兎が!」
「言ったな!地虫!」
 侮蔑の言葉にエリスの顔にカッと血が上った。
互いにエルフ族と農夫を軽蔑する言葉を掛け合って、エリスの足が飛んだ。
地面を踏み抜くような勢いで、転んだ姿勢から思い切りに顔を蹴りぬいた。
青年の鼻の付け根に蹴りが直撃する。
悲鳴を上げつつ、再び鼻血を撒き散らした。
「ごろじでやる」
 青年の目は灼熱の怒りに赤く歪んでいた。
血走った目付きに恐怖を感じたが、半エルフの娘は竦み上がる事はなかった。
盗賊やオークの方がよっぽど恐い。再び土を掴んで投げつける。
怯んだところを追撃の蹴りを食らわせた後、素早く立ち上がって走り始めた。
木陰に隠した長剣に走り寄るが、流石に必殺の武器を振るうのは躊躇する。
 その瞬間、農夫の青年は猛烈な勢いで迫ってきて、エリスの腰へと飛びついてきた。
悲鳴を上げながら慌てて剣を突き出したが、肩に当たるも浅い。
エリスは地面へと押し倒され、その手にあった剣は遠くへ跳ね飛ばされた。

 農夫の青年の逞しい腕が猛烈な力で翠髪のエルフの細い喉首をぐいぐいと締め上げる。
全身で暴れて必死に抵抗するも、顔を爪で引っ掻かれようが憤怒している青年にはまるで通じない。
「……やめ……て」
 エリスが腕を叩く力が急激に弱まり始めるが、懇願の言葉にも農夫の青年は首を締め上げるのを止めない。
やがて白目を剥き、舌を突き出した凄まじい形相のままにエリスの宙を掻いていた腕が力なくくたりと地面に崩れ落ちた。
 全身から力が抜けると同時に、エルフ娘の弛緩した下半身から漏れた小水が地面を黒く濡らしていく。
農夫の青年は肩で息をしながらのろのろと立ち上がり、息絶えた翠髪のエルフから顔をそむけるようにして蹲ると、恋人の名を呟きながら低い声ですすり泣き始めた。






[28849] 33羽 追跡 04     2011/11/20 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:a1da1aa5
Date: 2013/06/27 03:19
 戦いの後は何時も夢を見る。


 懐かしい故郷の平野に、アリアは立っていた。
色も形もまさしく見慣れたシレディアの大地。
身に纏うは、神殿の巫女を思わせる肌も露わな古めかしい漆黒の戦装束。
空は恐ろしく暗い。まるで形ある暗黒が舞い降りたように嵐の夜よりもなお深い闇が天空に滞っている。
 まるで地獄のような光景。暗黒に包まれた世界に佇んでいる女剣士は心地よさげに躰を伸ばした。
びょうびょうと吹きぬけていく強い風を、全身で受け止めながら気持ち良さそうに目を細めていると、
荒涼とした大地の向こう側。武器を連ねた何匹ものオークが近づいてくるのが眼に映った。
 どこかで見たような連中だと思いながら、何時ものように長剣を引き抜こうとするも、何故か見当たらない。
仕方がないので、黒髪の女剣士は両の手に短剣を引き抜いて構えた。
長剣ほど得意ではないが訓練を欠かしたことはない。

 オーク共は喉笛を切り裂かれ、手首を切り落とされ、或いは首や腕の無い姿のもいた。
全身から血を流しながら、虚ろな濁った眼球でアリアを睨みつけ、ただただ真っ直ぐに近づいてくる。
オークが近づいてくる。空虚な眼には、しかし地獄の悪鬼もかくやの燠火の如き眼光が揺れていた。
顔を識別できるほどの距離に近づいてきてから、女剣士は愉快そうに歪んだ笑みを浮かべた。
ああ、今日はお前たちか。
声を出すも、灰色の世界は常に無音。
既に夢だと知覚している。幾度となくこの夢を見てきた。
 敵に見覚えのあるのは当然だった。
先刻の村での戦闘で彼女が戦い、殺した者たちだ。
致命傷となった傷跡から黒い濁った血を流しながら、オークたちが襲い掛かってくる。
オーク共の足首には漆黒の足枷が付けられている。
地の果てまでも伸びている暗い鎖が、死者たちの魂を縛り付けている。
何時もの夢。手に掛けた死者たちが彼女の夢に出てきては、かつて死を与えられた時と同様に死闘を繰り返す。

 漆黒の戦装束を翻し、アリアは愉快そうに音なき笑い声を上げた。
原始的な荒々しい衝動に駆りたてられるまま素早い動きでオークに切りかかる。
「ベレスの名に掛けて!その苦悶と絶望を我が神に捧げるがいい!」
もはや信仰するものとて殆どいない故郷の古き神の名を叫びながら剣を振り下ろし、大柄なオークを切り裂いた。
 アリアの甲高い叫び声が、音の無い世界で在りながら雷鳴のように大地に鳴り響いた。
現実世界の再現のままに、憤怒と苦悶の胸糞悪くなるような声なき叫びを木霊させながら夢の世界のオーク達は切り裂かれていく。
死者たちが憎悪に身を焦がしながら突撃してくる。
常人であれば恐怖に発狂するような夢の世界。
闘争の喜びに身を委ねて敵を切り刻みながら、黒髪の娘はただ無心に戦いに没頭し続ける。

 夢の世界とは言え、オークも反撃してくる。
アリアも無傷ではすまない。傷を負い、躰が疲れていくのを覚えていた。
そろそろか。
此処で突き出された槍を躱し損ねて太股を切られた。
如何すればよかった?思い切って飛び込んでみるか!
此処で初めて記憶の再現と夢が変わった。
飛び込んだままに躱しながら、オークの喉をもう一度切り裂いた。
だが、そのまま周囲のオークが殺到してきて武器を振り下ろした。
躱しながら、防ぎながら、だが躰を切り裂かれて、現実で受けたよりも余計に深い傷を負っていた。
ああ、駄目か。やはり多数のオークを相手にしてしまった時点で詰んでいたのだろうか。
普通なら、あれだけの数を相手にすればどうやっても切り抜けらる筈もなかった。
生き残れたのは、本当に幸運だったのだ。
夢の中では、勝つ事もあれば負ける時もあった。
殺到してくるオークたちに切り刻まれながら、微笑を浮かべ、なお戦おうとアリアが剣を振り上げた瞬間、夢の場面が唐突に切り替わった。

 静謐な森の中。
楡やトネリコの木々が穏やかな日差しを受けながら揺れる暖かな色の在る夢。
「……ありゃれ?」
なんか何時もの夢と違うぞ。戸惑いながら黒髪の女剣士が呟くと自然と声が響いた。
「音と色のある夢は久しぶりだ……」
だが、夢の中だと言うのは分かる。
頭を振りながら森の小道を歩き続けると、やがて石の庵が目の前に出現した。
中に入ると、暗い石室のひんやりした空気が肌を刺激する。

 やけに鮮明な夢だ。
思いながら奥へ進むと、薄絹のフードを被ったエルフの女性が佇んでおり、
見知らぬ薄絹の女エルフの手前、祭壇のような大きな石櫃に友人のエリスが横たわっていた。
フードの女性の翠色の静かな瞳には、だが深い英知の光が宿っていて、
見つめられたアリアを妙に落ち着かない気分にさせた。

 目を逸らして灰色の石の祭壇に横たえられたエリスをじっと見つめてみる。
胸の上で手を組んでいる彼女は、穏やかに眠っているようにも、死んでいるようにも見えた。
だが、顔は血の気が失せており、真横に立てば息をしてないのが分かる。
アリアは哀しく思ったが、驚きはしない。人は誰でも死ぬ。仕方のないことだ。
思いながら近づいてくと、まだ霊魂が肉体を離れていないように感じられた。
体が自然と動いた。
胸の上に組んだ手が抑えている若葉を取り上げて、眠っているエリスの口元に持っていく。


 其処で女剣士の目が覚めた。頭の奥がずきずきと痛んだ。
「………………」
 黒髪の女剣士は半身を起こしながら、今見た夢について押し黙ったままに考えた。
陽炎のように酷く曖昧で、今にも薄れて消えそうな夢の記憶ではあるが、霊的な啓示というのが馬鹿に出来ないものであると女剣士は知っていた。
自分の都合のいい妄想や願望の夢と、神々からの霊感や啓示の夢は違う。
全く理性的でも論理的でもないが、それで危地を救われた事が幾度かあった。
或いは、表面上は危険の兆候を見落としていた意識の深いところからの警告かもしれない。
何より心臓が異様に高鳴っていた。胸の奥がざわざわする。
こういう時は何かしら行動をすべきであった。

 問題は、その何かしらが必ずしも分かるとは限らない事だが、後になって直感の警告の意味が分かる事も多々在る。
あばら小屋を見回して長剣が無いのに気づくと、水筒と短剣を持って立ち上がる。
エリスを探しに行こう。
長靴を履くと立ち上がって、アリアは何かに憑かれたように足早に小屋の戸口へと歩いていった。

「俺はただ……とんでもない事を……」
針葉樹の根元で農夫の青年が頭を抱え、蹲っていると背中の方でがさっと葉擦れの音が響いた。
「何をしてるの?」
掛けられた声にハッと若い青年は顔を上げて、村の知己が小道に佇んでいるのにやっと気づいた。
「……ど、どうして此処に」
戸惑った青年の口にした質問には答えず、赤毛の村娘は樹の根元で壊れた人形のように横たわっている翠髪のエルフと村の知り合いを幾度も見比べた。
「なにこれ……どういうこと?」
呆然と呟いた村娘に、慌てて弁解する。
「ち、違うんだ。俺はこんな事をする心算じゃなかったんだ!」
「あ……あんたがやったの?なんで?!助けてくれたのに!」
青年が立ち上がっただけでひっと息を呑んだ村娘の瞳には、明白な恐怖の色が浮かび上がっている。
「そ、そいつが悪いんだ。俺を馬鹿にするから」
弁解しながら青年が歩み寄ると、慌てて後退りしながら村娘は喚き出した。
「よっ、寄らないで!……あんたおかしいわ!」
踵を返した村娘が慌てて逃げようとするのを追い掛け、その腕を掴む。
「聞いてくれ!頼むよ!ジナ!」
「ぎゃああ!ころ、ころされる!」
恐慌状態に陥った娘が叫び声を上げたのに焦って、人がいる訳でもないのに口を掌で塞ごうとする。
「違う!君を殺したりはしない!あれは、あのエルフは……言い訳ばかりするから!」
「むっ!むう!」
村娘は口を抑えた掌に思い切り噛み付き、青年が怯んだ隙に振り払って駆け出した。
「うあ……まっ、待て!」
苦痛に顔を歪めた青年は、手を抑えながら追おうとして村娘が立ち竦んでいるのに気づいた。
前方に黒髪の女剣士が無言で佇んでいった。

 固まっている二人を無視して倒れているエリスをじっと黙視すると、アリアが歩き始めた。
怪我人とも思えない着実な足取りで茶色の大地を踏みしめて、だが黄玉の瞳には何の感情も浮かんでいない。
殺される!
直感した青年は恐怖に大きく目を瞠った。慌てて長剣を拾い上げると、近寄ってくるアリアへと突きつけた。
「……よッ、寄るな!」
 黒髪の女剣士が手首に嵌めている青銅の腕輪を拳の位置まで落とした。
ギュッと握り締めると、右手の拳で剣の腹を外側から弾いた。
青年の腕が内側に泳いだ瞬間、女剣士は彼の目前まで飛び込んでいた。
 はっとした青年が右腕を動かそうとするのを、左手で上から抑える。
まるで動かない。
そのままアリアの右手の指が蛇のように素早く動いて青年の顔を這うと、眼窩へぬるりと侵入した。
「きあああああ!」
 青年が凄絶な痛みに怪鳥のような叫びを喉から迸らせた。
ぶちぶちと頭の中で異様な音を立てて、眼球が抉り出される。
そのまま糸のような視神経を引き千切って無造作に地面に投げ捨てると同時に足払いを掛けて、青年を地面へと押し倒した。拳を振り下ろす。
肩。鎖骨を打った。青年の腕が痺れ剣を取り落とした。
そのまま無造作に連続して骨が軋む程の打撃を繰り返した。
鼻の下や腹部の胃の腑、耳朶の裏側などに容赦なく拳の雨で乱打を与え続けた。
アリアからすれば、人間は急所の塊だった。
青年が腕を上げて庇う度に、別の急所や腕自体の急所を狙い打って痛めつける。

 すぐに半死半生の青年が生きてはいるが動かなくなる状態に陥ると、興味を無くしたように立ち上がり、今度は倒れているエリスを凝視する。
脅えて立ち竦んでいる村娘を無視して近寄り、友人のエルフの傍に屈み込んだ。
何時の間に手にしていたのか。エルフ娘は腰の袋から出したのだろう革袋を握っていた。
アリアは、死んだ友人をじっと見つめながら、夢の通りにやってみた。
薬草を革袋から取り出して、エリスの口元に持っていく。
匂いでは起きないようだ。

 自分で咀嚼すると、酷く苦い。信じられない味に口が麻痺しそうだった。
我慢しながら口に水を含むと、口づけして唇から口移しに薬草をエリスに流し込んだ。
だが、目覚める兆候もない。
肩を揺すったり、頬を叩いたりするが、生き返らない。
「あの……死んでるよ。如何見ても」
見ていられなくなった村娘が、おずおずと近寄って声を掛けても、女剣士はエルフ娘の傍から離れようとしなかった。




[28849] 34羽 追跡 05     2011/11/26 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:48d8e335
Date: 2013/06/27 03:20
 大きく見開かれた蒼い目をそっと閉じさせてやると、アリアはエリスの傍らに座り込んだ。
赤毛の村娘は、所在無げに後ろで二人を見つめている。
長い間、黒髪の娘は地に倒れた半エルフをじっと見つめていたように思えたが、実際には四半刻程度だろう。
 周囲に冷たい風が吹き始めて傷ついた躰を冷やし始めてると、漸く諦めたのだろう。
「また守れなかったか。そして君も、私を残して逝ってしまうのだな」
陰鬱な溜息を洩らしながら女剣士は立ち上がり、それでもやはり離れがたいのか。
針葉樹の前で亡骸に淡々とした口調で話しかける。
「なあ、エリス。私と知り合わなかったらまだ生きていたか?それとも……
 どっちが良かったんだろうな。エリス・メルヒナ・レヴィエス」


 エリオンの森の片隅に、老いたエルフが小さな庵を編んで暮らしていた。
簡素な骨組みに藁葺きの庵で、薬草や鉱石、本、得体の知れない動物の骨などが一見、乱雑に床の上に転がっている。
 老エルフは薬草師であった。腕は確かであるが、偏屈な人間嫌いで通っていた。
村の薬草師の手に負えない病人が出た時を覗けば、半エルフ族の集落からも離れた此の庵を訪れるのは、集落の読書好きで好奇心旺盛な少女くらいのものだった。

 春先であった筈だ。解き掛けた雪から地面が顔を出していたのを覚えている。
時刻は夕時で外には夕闇が迫りつつあったが、囲炉裏に炎が踊っていたから寒くは無かった。

「……黄泉の眠り」
 エルフの少女は聞き慣れぬ言葉を舌の上で転がしてから、棒で鉢に入れた薬草を磨り潰している薬草師へと訊ねかけた。
「なにそれ?」
手元の作業を休まずに老いたエルフ薬草師は、翠髪の少女の問いかけに答える。
「心の臓が止まり、一見、死んだようになった人間の事じゃよ」
読んでいた薬草学の本から顔を上げて、少女は眉間に皺を寄せながら言った。
「それは死んでいるのとは違うの?お婆」
 磨り潰した薬草に何やら怪しげな鉱物の粉を足しながら、老婆は手をひらひらと動かしている。
節くれ立った老エルフの指は、宙に複雑な紋様を描いていくのだが、少女にはただ指を動かしているようにか見えなかった。
焚き火の炎が壁に奇怪な影絵を浮かび上がらせている。
「違う。死んだ者はけして生き返らぬ。また、黄泉返ってもならぬのじゃ。それが自然の摂理というもの」
 老婆の返答に、年若きエルフの少女は形のいい耳をピクリと動かしながら疑問を抱いた。
何故、死者が甦ってはならないのか。
親しい者が生き返るのならば、それは喜ばしい事ではないのか?
エルフの少女には納得のいかぬ言葉であったが、今は黄泉の眠りについて聞くのが先だろう。
「しかし時折、生と死の曖昧な境目に立つ者がいる。それが黄泉の眠りじゃ。
 そして今から、黄泉の眠りに陥る為の薬草と、覚醒の為の調合を教える」
少女が頷くと、薬草師の老エルフは射抜くように鋭い視線を少女の瞳に向けた。
「念の為に言っておくが努々悪用してはならぬぞ。イリス」
「……私はエリスだよぅ」
双子の妹とも間違われて、エルフの娘はぶすっとして口を尖らせる。
老婆が暫し沈黙した。気まずげな空気が舞い降りる。
「……済まぬ」
「……別にいい」
 親でも見分けが付かないのだ。
おかげで、しょっちゅう妹の悪戯のとばっちりを受けさせられていた。
「お主ならまず安心じゃな」
 エルフ少女の機嫌をとるように老婆が言葉を続けた。
それまで読んでいた本を床に置くと、エルフの少女は訝しげに首を微かに傾けた。
「……悪用されるのが。
 というより、それ程に危険なものなら、別に教える必要はないと思うよ。お婆。
 私は未熟だし、イリスは悪戯者だもの」
立ち上がりながら少女がスカートの塵を叩くと、老婆は驚くほどに強い声音を出した。
「ならぬ。御主は否が応でも習熟せねばならぬのだ。
 いずれは、薬草無しでも黄泉の眠りに陥れるようになる必要がある」
偏屈とは言え、普段の老エルフとは似合わぬ厳しい口調に対して、少女は戸惑いを隠せない。
「何故……理由が在るのね?」
「此れは本来、光エルフや森のエルフが、忌まわしき闇の者共に捕らえられた際、長く苦痛に満ちた死を逃れる為、そして魂を奪われ、より恐ろしい運命に陥るのを避ける為に作り出された調合じゃ」
 突然に聞かされた話の、だが恐ろしさよりは現実感の乏しさにエルフの少女は微かに首をかしげた。
エリオンは基本的に平穏な森である。
閉じているが故に外国人の盗賊やオークも滅多に出ない土地柄で、荒事といえば精々が木を切ろうとする近隣の村の人族や、水場を巡っての森ゴブリンとの小競り合いくらい等である。
闇の者などといわれても、エルフの少女には御伽噺に出てくる悪役くらいの存在感しかない。
少女の困惑に気づかないのか、老婆は言葉を続ける。
「じゃが、生と死の狭間で人の魂は無防備となる。
 故に暗示を掛けるなど、悪用しようと思えば恐ろしい力を持つのじゃ」
暫し押し黙ったままに囲炉裏に踊る炎をじっと眺めてから、少女は沈黙を破った。
「だけど、私は森エルフではないよ」
「それが良いことなのか、悪いことなのかは分からぬが、おぬしたち姉妹には生まれつき古き森の子等の血が色濃く出ておる」
言われて少女は、春の新緑にも似た自身の翠の髪先を撫でた。
「いずれ、闇の者共と対峙せねばならぬ時が来るやも知れぬ」
闇エルフか。本当にいるのかな。
老婆の重々しい言葉とは裏腹に少女は危機感のない様子で返答した。
「大丈夫だよ、婆ちゃ。だって、私はずっとエリオンで暮らす心算だもの。
 森を出なければ、そうそう闇の者に出会うこともないしね」
老婆は苦く微笑みを浮かべながら、少女の頬を撫でた。
差し出された老婆の皺だらけだが暖かな掌に頬を当てて、少女は心地良さそうに目を閉じる。
「本当にそうなればよいのう」
悲しげに目を伏せながら、ぽつりと呟いた老婆の声が奇妙に大きく少女の耳に響いた。


 冷たい。痺れる。体が動く。動かない。
そんな感覚さえ何一つ無かった。何も感じない。
虚無だ。
自分が起きているのか、横たわっているのか。
そもそも躰があるのかも分からない。
考えてみれば、随分と分の悪い賭けであった。
相手が間抜けでなく、容赦なく止めを刺してきたらそれでお終い。
五分五分で生き返れば無いでも、やはりお終い。
目覚めるのに余り長い時間が掛かっても、まずい。
動物なり蟲に喰われるなり、障害を負うかも知れない。
しくじったのだろうか。そもそも死んだ振りに使うものではないから。
此処は冥府だろうか。本当に死んでしまった。
いや、考えられるなら、私は生きてるのか。
でも、何も思い浮かばない。
思い出せない。自分の名前も思い出せない。
名前とはなんだ。自分とは。
闇に解け往く小さな意志に、何処からか遠い呼びかけが聞こえてきた。
「…………ス……」
そんな名前だったか?
果てから響いてきた憂いを帯びた綺麗な声が、意志を急速に呼び上がらせていく。
視野に急速に色が甦り、音が光を伴って弾け


 微かに躰を揺らしている。
始めは目の錯覚かと思った。
だが、確かに唇から意味を持たない呻き声が漏れているのを耳にした。
指先が痙攣し、目が引き攣ったようにエリスの蒼い目がゆっくりと見開かれる。
痙攣が大きくなっていく一方で、アリアは喜色を顕すでもなく、しなやかな動きで立ち上がると冷静に距離を取った。

 生き返ったのか、それとも……
足元に転がった長剣を拾い上げる。血糊が綺麗に流されていた。
磨いてくれていたのだろう。此れを洗う為にやってきて襲われたに違いない。
祖父の思い出の品とは言え、生きている友人に比べれば比べ物にならないものを……
唇を噛みながら、動き出したエルフの娘をじっと見つめる。
「わっ!わっ!生き返った!」
「そう思うか?」
 傍らで五月蠅く騒ぐ村娘を一瞥しながら、動き出した友人をじっと見つめる。
エリスの顔色は土気色のまま、口元から緑色の液を吐きながら、ぎくしゃくとした動きでゆっくりと上半身を起こしている。
アリアの喉元が痙攣し、一瞬だけ苦しげに顔を歪めてから冷たい顔つきとなる。
 前にも合ったのだ。
戦場で死んだと思えた友人が起き上がって、息を吹き返したかと糠喜びしたら不死となっていた。
あたら剛勇の騎士であった為に、迂闊に近づいた兵士が腕を引きちぎられたほどの怪物となっていた。

 エリスも、激しい怨嗟を抱いて死んだに違いない。
そしてエルフ族の血肉は精霊に近い種族とも言われている。
たかがゾンビとは言え、その不死はどれほどの力を持っているだろうか。
短い付き合いとは言え、友人であったのだ。
もし彼女が不死となっているならば、地上を彷徨うよりは此の手で始末するべきであろう。
危惧しながらも切りかかる心算になれずに話しかける。

「最初に出会った時には、こんな終わりを迎えるとは思わなかったぞ、エリス」
黒髪の娘の声に翠髪のエルフは再び瞬きをして、話掛けた女剣士をじっと見つめる。
助けを求めるように手を伸ばしながら苦しげに喘いで、目を閉じると再び仰向けに倒れた。
「……エ……リ……」
 口元から意味のある言葉。自らの名前を呟きに洩らしているように女剣士には聞こえた。
踏ん切りがつかないまま、アリアは迷っていた。
生きてるのか。それとも耳の錯覚だろうか。
ええい、侭よ。黒髪の娘はゾンビに襲われても構わぬと踏み込んだ。
「エリス。分かるか?エリス・メルヒナ・レヴィエス」
話し掛けながら慎重に歩み寄り、倒れているエルフ娘の傍らに跪いた。
「……エリ……」
エルフ娘は閉じていた蒼い瞳を真っ直ぐに見上げて、女剣士を見つめる。
「……エリス・メルヒナ・レヴィエス……思い出した……私の名前だ……」
黒い痣の刻まれた喉元を蠕動させて、エリスは酷く潰れた老婆のように醜くしわがれた声であったが、はっきりと呟いた。
「……アリア……貴女が呼び戻してくれた……アリアテート」
 苦しげに呻いている翠髪のエルフの土気色だった顔に、幾ばくかの血の気が戻りつつあった。
もう間違いなかった。蘇生したのだ。
黒髪の女剣士が頬を撫でると、翠髪のエルフは薄い微笑みを浮かべながら心地良さそうに目を閉じた。




[28849] 35羽 追跡 06     2011/12/03 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:8b306407
Date: 2013/06/27 03:21
 夕暮れに染まる丘陵の頂で、黒髪の女剣士は地に横たわったエルフの娘を膝枕しながら、彼女の新緑に似た翠色の髪を撫で付けていた。
「……また助けられた」
「……気にするな。お互い様だ」
 はにかんだような微笑を浮かべて、エリスはアリアの膝に顔を埋めた。
西日に照らされている頬には血の気が戻っていた。夕陽の茜色による錯覚だけではない。つい先程まで死 体のように冷たくなっていた肌に宿る暖かさと顔色に、
もう大丈夫だろうと判断すると、アリアは億劫そうに立ち上がった。
指先の離れたのを感じ取ったエリスが、擦れたと息を洩らしながら不満そうに見上げた。
「気持ちいい……もう少し撫でて」
 甘える声は些か潰れていたが、そっと見上げてきたエルフ娘の可愛らしい媚態に動かされずに、女剣士はクシャリと友人の頭を乱暴に撫で付けてから
「南に戻れたら幾らでも」
 言って、倒れている青年と村娘を鋭い眼差しで見つめた。
遥かな西方の山脈の黒い稜線の上空では、黄昏の紫と茜色が入り混じっていた。
日の沈む前に片付けなければならないことが在る。

 長剣を肩に担ぎ、まずは赤毛の村娘へ向き直って問いかける。
「さて……お前はローナへと向かったと思ったが、如何して此処にいる?」
些かの疑念の入り混じった眼差しを向けられ、娘は眉を潜めながらも淀みなく説明した。
「……村人の誰か一人は、南へ向かうべきだったから。
 見ず知らずの旅人が知らせるよりは、村人から告げられた方が豪族も動くと思うし。
 なので、貴女達と一緒に行かせて貰おうと思って追いかけてきた」
「ふぅん。まあ、別に同行は藪かさでもない。元よりその心算であったしな」
 自ずから訊ねた癖にさして興味もないといった様子で、アリアは鼻を鳴らして会話を打ち切った。
問答の最中、視界の隅でエリスがふらつきながら立ち上がっているのが見えた。
「立てるかね?」
翠髪のエルフは差し伸ばされた腕に掴まって立ち上がったが、だるそうな様子を隠せずに手近な針葉樹の幹に寄り掛かって、女剣士が腰帯に差した短剣を指差した。
「……ねえ、それを貸してもらえるかな?」
もう一つの用件を自分で片付ける気なのか。
女剣士は鞘ごと短剣を引き抜いて、エルフ娘に手渡した。
「いや、やるよ。君も一つは得物を持っていたほうがいいだろうからな」
「ありがとう」
受け取った翠髪のエルフ娘は、優しげな容貌には似合わないどこか獰猛な笑みを浮かべて、倒れている青年へと歩み寄っていった。

 何処を如何痛めつけたらこうなるのか。
打撲による内出血や裂傷によって、農夫の青年の顔や体の皮膚は赤と青と紫の痣でまだらに変色している。
関節を砕かれたのかも知れない。左腕は肘から変な方向に曲がっていた。
大男と真正面から殴り合っても、普通はこうはならないのではないか。
青年の連れ合いは姿が見えない。
やはり、あの後オークに殺されてしまったのであろう。
蚊の鳴くような声で繰り返し恋人の名を囁きながら、青年は地に伏せて啜り泣いていた。

 普段なら哀れみを催すであろう青年の姿も、殺されかけた今のエリスにはいい気味だとしか思わない。
視界にエルフ娘が入ると、青年は驚愕に目を見開いて顔を青ざめさせた。
「死んだと思った?」
 エリスは拉げた声で尋ねる。己の喉から出たとは思えない冷たい響きの声音。
エルフ娘の手にした短剣が夕陽を受けて鈍く輝き、農夫の青年が緊張に喉を鳴らした。
先程まで農夫の青年に宿っていた狂気に近い憤怒も、破れかぶれの勇気も、女剣士に散々に叩きのめされた事で何処かへ消えうせてしまったようで、彼本来の大人しそうな顔つきに露骨に脅えを張り付けて、動かない身体で後退ろうと弱々しく地べたでもがいていた。
「まるで虫けらだね」
何故か、笑いの衝動がこみ上げてきた。
「……な、何をする気だ?」
「分からない?」
 憎々しげに睨み付けてくるエリス。
傍らに立つ女剣士は、青年が反攻に転じた際の用心に備えてその一挙一動に注視していた。

 立ち尽くしていた赤毛の村娘が、恐る恐ると話しかけてきたのはその時だった。
緊張を和らげようとそっと唇を舐めて湿らせると、おずおずと口を開いて半エルフに語りかける。
「……こ、殺す心算?」
村娘は訊ねたが、愚問だろう。
「さて、どうしようか?」
エリスはクスクスと笑いながら、己の首、黒い痣の残る首を撫で廻してしゃがれ声で呟いた。
「……凄く苦しかったし、凄く恐かった」
言葉を区切ってから、村娘を切れ長の蒼い瞳でじっと見つめる。
「生かしておくと思う?」
普段は温和な性情をしているエルフ娘が、さすがに怒りを隠そうともせずにその頬が昂ぶった感情に痙攣している。
 救いを求めるように村娘は周囲を見回したが、勿論、黒髪の女剣士には止める気などない。
逆に邪魔する気なら容赦はしないぞとの意志を込めて、村娘を睨みつけた。
アリアの鋭い視線に射竦められて、思わず怖気を震いながらも赤毛のジナは退かなかった。
「……ま、待ってほしい」
庇うように青年の前に立ちはだかり、跪いてエリスを見上げると必死に命乞いした。
「あ、貴女が怒るのはもっともだ。
 こいつが、この馬鹿がした事は殺されても文句が言えないことだと思う」
「……そう思うならいい加減、其処を退いて欲しいな。喉も痛いし、休みたいんだ」
エリスが苛立たしげにつめたい言葉を吐き捨てる。
村で見せたような優しげな様子はかなぐり捨てていた。
「だ、だけど、それを重々承知の上でどうかお願いします。
 何卒、許していただけないでしょうか?」
両手を汲んで頭を下げつつ懇願するも当然に黙視される。
「……どうしたものかな?」
苦笑したエルフ娘が困ったように横を向くと、友人の視線を受け取った女剣士が前に出てきた。
「……そこをどけ」
野生の狼を思わせる鋭い眼光に貫かれて、恐怖に竦みながらも村娘のジナは退かなかった。
「お、お願いします。ど、どうか。どうか、お慈悲を……」
「もう一度だけ言ってやる。そこを退け」
 退こうとはしない。
ジナの再度の懇願にアリアの狼を思わせる黄玉の瞳が硬質の光を放った。
勇敢だが、愚かな娘だ。女剣士が剣を引き抜いた。
村娘の瞳に涙が浮かぶ。目をギュッと閉じて、青年に覆いかぶさった。
青年が絶望の呻き声を上げる。
長剣を握る腕に力を行き渡らせて、刃を振り上げようとした時、小さく吐息を洩らしてエルフ娘が制止した。
「……待って」
さすがにアリアは歩を止めたものの、黄玉の瞳に意外そうな光を宿してエリスを鋭く一瞥した。
「……まさか許す気ではあるまいな?」
陰気そうに苦い顔をしたエルフ娘は肩を竦めると、赤毛の娘の傍らにしゃがみ込んだ。
「……彼は貴女の想い人なの?」
「いいえ」
即答に小首を傾げて、エリスは赤毛の村娘をじっと見つめた。
「では、何故?」
「……これも、これの兄も、連れ合いも、みんな顔見知りなんです。
 同じ村で生まれて、同じ村で子供の頃から一緒に育ちました」
涙目で震えながら、赤毛のジナは鼻声で偽らない心情をエリスに吐露した。
「……大勢が死にました。とても大勢が。
 だから、もう。これ以上、誰にも死んで欲しくない」
「……大勢が死んだ、か」

 意外な言葉だったのだろうか。
呆けたように呟いてから、エリスはその眼差しを倒れている青年へと向けた。
「私は逆恨みで殺されかけた。その意味では、彼を裁く権利がある」
青年は怯えと恐怖の入り混じった眼差しで、アリアとエリスを見つめていた。
じっと見つめてから、翠髪のエルフ娘は口を開いた。
「……何を勘違いしているのか知らないけれども、貴女の連れ合いが死んだのは私の責ではない」
愛妻の死に言及されて、農夫の青年がエリスの双眸を睨みつける。
「彼女がオークたちを抑えていたのに、族長を殺したから」
エリスの口から出たのは酷くしわがれた声だった。或いは声帯が潰れたのだろうか。
麻痺している感覚があるにも拘らず、ズキズキと喉が酷く痛んでいた。
本当は喋らないほうがいいに違いない。きっと、後で激しく痛み始めるだろう。
「嘘だと思う?他の種族に比しても、オークには頭目の仇を討とうとする風習がある。
 力の掟といって、族長を殺した者を討ち取ったオークが次の族長になるの」
 話しながら、今後はずっと此の潰れた声と付き合うことになるかも知れないとエリスは思った。
生きていただけで幸運だと思えた。
剣を持っていた。身を守ろうと思えば守れたのに躊躇した。
しわがれた声を耳にする度に自分の愚かさを思い知らされるだろう。
膝を曲げて屈み込み、青年の茶の双眸を覗きながらエリスは言葉を続けた。
「信じられないなら、後で古老なり戦士なり知ってそうな人に聞いてみればいい」
青年の瞳が動揺したように微かに泳いだ。理解していると見て、言葉を続ける。
「オークたちが貴方たちを追い掛け回したのは、貴方が族長の仇だから。
 彼女はそのとばっちりを受けたの。自業自得なのよ」
青年が大きく目を瞠った。自分の言葉の効果を確かめて、微かに目を細める。
「貴方がオークの酋長を殺さなければ、死なずにすんだの」
大きく喘いでいる青年の顔から血の気が引いていった。
「貴方が彼女を殺した」
それだけ告げると、エリスは立ち上がった。

 黒髪の女剣士はムスッとした様子を隠そうともせずに、隣に歩み寄ってきた翠髪のエルフを見つめた。
「……まさか許す心算かね?」
不機嫌そうな口調で問われて、不思議そうにエリスは首を傾げた。
「いけないかな?」
黒髪の女剣士は頷いて断言した。
「君の考えが分からん……逆恨みするような輩だ。また襲ってこないとも限らぬ」
「かもしれないね」
擦れた低い声で呟いてから、エリスは肯いた。
「……甘いな。殺すべきだ」
「分かってる」
吐き捨てたアリアを、エリスは揺れる蒼の瞳でじっと見つめた。
ため息を洩らしながら、黒髪の女剣士は肩を竦めた。
「心配してくれているのは分かる。我儘かも知れないが……済まない」
エルフ娘の言葉に、微かに視線を逸らしながら女剣士は頷いた。
「いや……好きにするがいい」
黒髪の女剣士の視線を合わさない態度に、翠髪のエルフ娘は唇を噛んだ。
「怒ってるか?」
己の小振りな胸に手を当てながら、エリスが問いかける声はおずおずとして小さい。
アリアは首を振って否定した。
「怒ってはいない」
 短いぶっきらぼうな返答に、エルフがますます俯きがちになった。
嫌われたのかと蒼い瞳が気落ちしたように沈んでいるのを見て、人族の娘は頭を掻きながらボヤくように言葉を続けた。
「どちらが正しい訳でも、間違っている訳でもなかろうよ」
溜息を洩らしながら、やや背の低いエリスの頭に手を伸ばして、髪をかき乱した。
「だけど、あの有様では普通に殺してやった方が慈悲やも知れぬな」
「……自分の愚かさを抱きしめて生きるに耐えられぬなら、いずれは自裁するでしょう」
エルフ娘の言葉に女剣士は小首を傾げながら、瞳を細めた。
「存外、残酷なのだな。君も。まあ、いいさ」
別口で逃げてくれるなら、仮にオークが追ってきても囮になるかも知れんしな。
これは口に出さずに結論付けるとアリアは肩を竦めると、青年を放置したままに背を向けて歩き出した。
少し背の低いエリスはふらついていたので、腕を貸すとぎゅっとしがみ付いてきた。
「もしあいつがまた襲ってきたら……今度こそ私が守るよ」
「……うん」

「で、どうする?豪族に急を知らせねばならんのだろう?
 南に一緒に来るかね?それとも彼をつれて南を目指すか?」
 赤毛の村娘に対しては蟠りはないのか。アリアは、佇んでいる赤毛のジナに声を掛けた。
仰向けで地面に倒れたまま、虚ろな表情で空を見上げている青年が気になる様子だったが、村の為にも応援を呼んでこなければならない。
結局は赤毛のジナも、小走りで二人の旅人の背後を追いかけて歩きだした。

 丘陵を進みながら、村娘は苦しげに歪んだ表情で呟いた。
「……なんでだろう」
深刻で重々しい響きにエリスが物問いげに首を向けると、ジナは目じりから涙を零していた。
苦い微笑を口元に浮かべて、
「御免なさい……マーサも、クームも、そんなに悪い人ではなかったのよ。
 マーサも物持ちでも無いのに他の人が困った時は食べ物を持ってきてくれたり、クームも迷子になった子供を捜して危ない森に入ったり……どうして、こんな事になっちゃったんだろう」
目尻を拭いながら俯いて歩き続ける村娘に、
「なら、君が覚えておいてやるといい」
意外な人物の意外な言葉に、ジナは顔を上げて黒髪の女剣士の横顔を盗み見た。
だがアリアはそれきり喋るでもなく、前を向いたまま黙々と傾斜を進んでいく。
村娘は足を止め、何かを迷った様子で立ち尽くしたままに天を仰いだ。

 狭い渓谷は完全に夕陽の照らす朱色に染まっている。
歩き続ける二人の娘の足元には、長い影が伸びていた。
やがて廃屋が見えてくる位置まで来ると、アリアが急に立ち止まり、腕にしがみ付いていたエリスが何事かと顔を見上げた。
 真剣な表情でじっと見つめると、戸惑った様子で立ち尽くしているエリスをぎゅっと抱擁して、その形のいい尖った耳元でそっと低く囁いた。
「……よかった」
抱きしめられて目を白黒させていたエリスも安堵の想いの込められた呟きを聞くとゆっくりと目を細めた。
「……えへへ」
そのまま、嬉しそうな微笑を浮かべて黒髪の女剣士の肩に静かに顔を埋めた。


……お前が殺した。
倒れている農夫の青年の脳裏にエルフ娘のしわがれた声が鮮明に甦った。
「……俺が殺した」
虚ろな声が唇から洩れるが、すぐに吹きつける風の音に呑まれて消えていった。

 自分が逃げた時の妻の表情を思い起こす。満面の笑顔だった。
見捨てた夫が逃げるのを望んでいた。
愚かしいほどに一途で、自分には勿体無いほどの娘だった。
彼の中では、兄と妻が世界の殆ど全てだった。
二人のいなくなった世界で生きる事を考えるだけで、絶望と後悔に狂おしく胸が締め付けられる。
だから、自分の直ぐ傍で足音がした時も、青年は逃げようとは思わなかった。

 顔を覗き込んでいるのは、見慣れた容貌だった。強気そうな瞳をした赤毛の美人。
戻ってきたのだった。
赤毛のジナは、何か言いたげな様子で何も言わずにじっと青年を見下ろしていた。
虚ろな目付きのまま、青年も、娘をじっと見つめ返した。
「……とりあえず、立てる?」
 先程まで丘陵を吹き抜けていた北風も今は収まっているが、もうじき日も暮れる。
やがて丘陵の狭間に夜風が吹き始めれば、冷たい外気は容赦なく体温を奪っていくだろう。
赤毛のジナは、青年を無理矢理立たせると、近くに在る草地まで引っ張っていった。
柔らかい草が濃く生えており、風を遮れる盆地となっている。
死んだように無抵抗な青年に憐憫の眼差しを向けて、赤毛の娘は溜息を洩らした。

 幼馴染のクームの行動は、一言でいえば滅茶苦茶だった。
だが、無理もないともジナは思う。
昨日と今日で見知った顔の大半が死んでしまった。
言わば世界が壊れてしまったのだ。
赤毛のジナが曲がりなりにも正気を保っていられるのは、
妹を救う為助けを呼んで来なければならないと心に思い定めているからかも知れない。
 もし自分が天涯孤独となったり、或いは妹が死んでしまっていたら、今と同じように正気を保っていられただろうか。
そう思うと、幼友達でもある農夫の青年を旅人達と同じ視線で断罪する気にはなれなかった。
「あんたは馬鹿だよ」
 赤毛のジナの厳しい言葉にクームはびくりと躰を震わせた。
それ以上、声を掛けるでなくジナは青年の額に手を当てて、動かないままに見つめている。
やがて青年の強張っていた表情が割れて、その瞳に涙が溢れ始めた。
幼友達の膝に額を押し当てると、青年は呻きを上げて低く慟哭し始めた。





[28849] 36羽 追跡 07     2011/12/16
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:8b306407
Date: 2013/06/27 03:22
 丘陵を抜けてから渓谷へと降りて、二人の娘は人気の失せた廃村へと舞い戻った。
住人たちが去ってから、如何ほどの歳月が流れたのだろうか。
うらぶれた廃屋に踏み込んだ頃には、既に周囲は夕闇に包まれつつあった。
朽ち果てかけた粗末な農家は、所々で壁や屋根が崩れ掛けており、夜気の侵入を完全に遮る訳では無かったが、それでも露天での野営に比べれば随分とましだろう。
 床に転がる漆喰を踏みしめながら、幾らか気持ちに余裕の出た黒髪の娘はそんな感慨に耽っていた。
エリスが枯れ枝をへし折って、土間の真ん中で揺れる焚き火へと放り込む。
盛んに燃え盛る炎は、冷え切った躰をよく暖めてくれた。
廃屋の壁にしどけなく寄りかかりながら、エリスはそのまま焚き火を眺めていた。
「冷えてきた」
「……そうだね」
 炎を眺めている半エルフの人肌は、子猫のように体温が高かった。
人心地ついた女剣士が、体温の低下を防ごうと躰を寄り添わせているうち、つい心地よさの余りに抱き寄せてしまうと向こうからも懐っこく擦り寄ってきた。
どうやら遠慮は無用らしい。
「……ん、暖かいな」
 先程まで冷たかったとは思えない熱が伝わってきて、アリアの眠気を誘引する。
息を吹き返した人間というのは、体の動きが鈍くぎこちなかったり、或いは呼吸が苦しげであったりと、時に身体に不具合の見られる事もあった。
懸念してエリスを眺めるが、今のところは後遺症が残っている徴候は見えなかった。
森の子は、人の子と躰の作りが違うのかも知れぬ。
そう割り切ると、アリアは毛皮のマントに包まりながらうとうととまどろみ始める。
「来ないね」
エリスが呟いた。此方も眠たげに身体が揺れている。
「……別にいいさ。如何でもいい。君が無事ならそれで……」
少し嬉しそうな複雑な顔つきでエリスが曖昧な笑みを浮かべた。
「明朝、夜明けと共に発とう」
「……でも」
傷は大丈夫なのか、視線でアリアに問いかける。
「はっきり言ってよくないな。今もかなり痛んでる。泣きそうだよ」
くつくつと笑いながら、返答した。
「だが、此処で愚図愚図している訳にもいくまい」
 頷いたエルフの身体から伝わってくる体温が心地よかった。
身体の芯まで疲労しているのが幾らか癒される感じだった。
身体が暖まって来ると傷も痛み始めるが、眠気の方がなお強かった。
心地いい沈黙に浸りながら、しかし、傍らのエリスが憂鬱な顔をしているのに気づくと、眠たげな眼差しを向けて問いかけてみた。
「……どうした何を気にしている」
 強い隙間風が吹いた。焚き火が大きく揺れて、二人の娘の陰影が壁に蠢いた。
やや俯き加減に地面に目を伏せていたエリスが顔を上げる。
並外れて整っている美貌も、やはり憔悴は隠し切れずに疲労が色濃く滲み出ていた。
「……オーク。オークは追いかけてくるだろうか」
 ポツリと呟いたエルフ娘の肌が、炎を照り返して闇に白く浮かび上がっていた。
黒髪の娘は黄玉の瞳を細めると、視線を宙に彷徨わせた。
それが考え込む時の癖なのか、頤に指を当てながら脳裏の考えを説明し始める。
「村人の言が正しいと前提するなら、此処はオークにとっても不慣れな土地の筈だ。
 私の見たところ、オークの数は百から百五十。多くても二百は越えてない。
 しかも、多数の女子供を含んでいた」
エリスは小首を傾げながら、アリアの説明に形のいい尖った耳を傾けた。
「追撃に出せる数は、だから多くても二十から三十。
 我らが距離を稼げば、その分奴らは探索しなければならない領域も増える。
 見知らぬ丘陵。それも広大で起伏に富んだ地形で、たった二人を捕まえられるかな」
 アリアの自信有りげな言葉の内容には説得力が在るように思え、傍らのエリスは頷いた。
少し考えてから、黒髪の女剣士は言葉を続けた。
「昔、敵味方が千人単位の大きな会戦に参加したことがある。
 攻め込んできた高地地方の軍勢を地元の貴族豪族の連合が迎え撃ったのだがね」
何を言い出すのだろうと、怪訝そうな顔でエリスはアリアをじっと見つめた。
「戦自体は味方の勝利に終わったのだが、敵の王は逃げ出した。
 千人からの戦士や農民が勝手知ったる地元で、土地に不慣れな他所者を追い掛け回したにも拘らず、たった数人を取り逃がしてしまった」
皮肉げな口調で苦々しく告げると、アリアは一転して微笑を浮かべた。
「まあ、斯様に追跡とは難しいものなのだ。
 まして、十かそこらのオークが、不案内な土地で我らを追跡できよう筈が無い。
 じきに日も暮れる。明るいうちに来なかったのだ。まず逃げ切れよう」
「……なるほどね」
アリアが得々と結論を告げると、不安を感じていたエリスもしきりに感心して頷いた。
「それと日が沈んだら火を消した方がいい。目印にして近づいてくるやも知れぬ」
女剣士の指摘に少し考え込んでから、エルフ娘は首を振って反論した。
「大丈夫だと思うよ。幸いにも、辺りは起伏に富んで捻じ曲がった地形をしている。
少し離れれば、建物の中で焚く火は丘陵が遮ってまず目に付かないしね」
「夜中に奇襲は難しかろうが、用心するに越した事はないぞ」
アリアは懸念を吐露するが、エリスは涼しい顔で首を横に振った。
「貴女は出血で身体が冷えてる。朝まで身体は暖めておくべきだ。
 火は絶やさない方がよいと思う」
「……だがな」
唐突にアリアがくしゃみをした。ハンケチで鼻水を拭くと頷いた。
「……確かに今のうちに躰を暖めておかないと不味いか」
少し震えている女剣士の背中や腕をエルフ娘は手を伸ばして擦ってやった。
「……他には、話しておく事は無いかな」
「逸れた場合は、竜の誉れ亭で合流。互いに何日か泊まれるだけの金はあるだろう」
言われてエリスは片目を瞑った。少し嫌そうに顔を顰め、悪い未来を予想する。
「最悪、竜の誉れ亭がオークに焼かれていた場合は」
エリスの質問に意表を突かれたようにアリアはちょっと眼を見開いて、其れから目を閉じて優しく笑う。
「そこまで考え……いや、そうだね。その時は、別々にティレーに向かおう。
 私は西門近くの跳ね兎亭という旅籠に泊まる予定だ。ティレーで冬を過ごすなら、会いに来てくれ」
「うん。西門の跳ね兎ね」
 物の見方や思考回路に似通ったものがあるからだろう。会話は打てば響いた。
エリスは皮紙を取り出すと、炭で左を向いた矢印と城門、そして跳ねてる兎の絵を書き付けた。
「寧ろ、恐いのはオーク共が地元の丘陵の民を雇うことだが、ああしたはぐれ連中は大概、余所者を嫌っている。
 今までに繋がりもないなら、雇われるのも考えがたいな」
経験に裏打ちされた自信と共に断言してから、女剣士は欠伸を噛み殺しつつ横に転がった。
「まず逃げ切ることを考えよう。だが、日のあるうちに追いつかれなかったのだ。
 出てしまえば、もう大丈夫だと思うぞ」
「分かった……おやすみ」
 エリスも全く不安が解消されて微笑みを浮かべ、床に敷いた薄い毛布の上に横になった。
揺れる炎の傍らでアリアがなおも寒さに震えていると、寒さを防ぐ為か。エルフの娘が毛皮のマントへと潜り込んで抱きついてきた。
黒髪の女剣士は苦笑するとそのまま目を閉じて、やがて廃屋に二人分の穏やかな寝息が流れ始めた。


 黄金と紫が入り混じった冬空に、黄昏を照り返した細長い真紅の雲が浮かんでいた。
幼馴染の青年の傍に跪きながら、赤毛のジナは空を見上げながら語りかけた。
「あんたは、まだ生きてるんだから……
 ミナや無駄にしない為にも、自棄になってはいけないよ」
 低く擦れた囁きは重苦しい響きで、或いは、自分に言って聞かせる為の言葉でも在ったかも知れない。
農夫の青年は、本来の自分を取り戻したのだろう。
憑き物が落ちたかのように穏やかな顔つきで頷いた。
性根はけして悪い人間ではないと、同じ村で育った赤毛の村娘はそう思っている。

 周囲には、夕闇が迫りつつあった。
北風が木々や繁みの間を吹きぬけていくと、周囲から葉擦れの音が鳴り響いてくる。
二人の潜む窪みは出っ張りが北風を遮ってくれるが、流れ込む冷気ばかりはどうしようもない。
何時までも此処にいる訳にもいかないかった。
夜になる前に手近な廃屋にでも潜り込むべきだろう。
怒らせてしまった二人の旅人の傍らに行くのは、闊達な赤毛のジナにしても気が重かった。
何とか、自分達だけで丘陵を抜ける算段を立てたほうがいいかも知れない。
 オークに乱暴された体は今も節々が痛むが、いい加減に動かなければならない。
赤毛の村娘が溜息を洩らしつつ立ち上がろうとした時、奇妙な物音が耳に飛び込んできて、思わずうなじを総毛立たせた。
「しっ、誰か近づいてきている」
ハッとして躰を伏せながら驚いている青年の耳元で低く囁き、声を立てさせないように注意を促した。
なにやら複数の人間の話している声が近づいてきていた。
「間違いねえ足跡が続いているぜ」
一つは野太い粗野な男のがらがら声。旅人たちではあるまい。
丘陵民だろうか。或いはオークか。
二人の村人の顔が緊張に強張った。
怒りと恐怖に身悶えする青年の上。覆いかぶさった村娘の額に汗が吹き出た。


 オーク四名と黒エルフ一名、フードを目深に被った正体不明が一名よりなる追跡者の一行は、小高い丘陵の空き地にて手がかりと思しき痕跡を見出して、足を止めた。
追跡者たちは後方を進む本隊より分離しての少人数での先行であったから、勢い行動も慎重なものとなっていた。
 主に丘陵地帯の住民との余計な摩擦を避ける為である。
潅木と繁みが疎らな丘陵は、所々の岩陰と起伏によって見通しはさして良くない。
まして時刻は夕方。
太陽が遥かな西方山脈の黒い稜線に沈み込むまで、それほどの間は無いだろう。
 冬の薄暗い光の中、褐色の肌に灰色の髪をした黒エルフの女が何かを探すように蜥蜴の如く地面の上を這って動き回り、時にしゃがみ込んではじっと薄暗い土を凝視している。
「どうした?何か見つかったか?」
痺れを切らしたのか。黒い肌に革鎧を纏ったオークがやや性急な口調で問いかける。
「血の跡が無いのが気になるが……」
褐色の肌を持つ女エルフは、独り言のように呟いて首を振りつつ立ち上がった。
「……此処で何かがあったのは確かだ。複数の足跡が混じりあっているからな」
「逃げ出した村人が丘陵民に襲われたか?」
 戸惑った様子の別のオークが目を細めると、首を傾げつつなんとも付かない呻き声を上げる。
寒さに耐えるようにマントを首筋にまで上げて、
「……さて。足跡から見る限り、襲撃者も受けた側も少人数なのは違いないが……村人同士の仲間割れって線も在るけど、少し考えにくいな」
「何故だ」
黒エルフの娘は、拾い上げた眼球を訊ねたオークに見せた。
「落ちてた。喧嘩にしては残酷だろ?」

 一行のうちで、フードを被った何者かは、背を曲げて地面すれすれで鼻を蠢かせていた。
その様子は、猟犬が獲物を追い詰める際に、匂いを鼻に覚えこませようとするのにも似ていた。
「となると、片方は多分丘陵民だな。放っておいた方がいい」
黒オークが告げた時、地面の匂いを嗅いでいたフードの正体不明が立ち上がる。
フードを首の後ろに脱ぐと、黒檀のような見事な黒い肌が露わとなる。
此方も黒エルフ。細い葦のようなひょろりとした肢体が印象的な痩せた女であった。
長い白髪を背中に垂らして編みこんでおり、細い切れ長の瞳に喜悦を浮かべて微笑んでいる。
「一組はこの先に向かっている。多分、若い女が二人」
「……分かるか?」
「足跡から歩き方が。歩き方から骨格が割り出せる。女だ」
痩せた黒エルフは目を細めて、うっとりと鼻を蠢かしていた。
「間違いなく二人とも美人ね。いい匂いも残ってる」
「匂い?匂いが分かる?
 野外でどうして分かるものか。室内でも無いのに」
自分たちの技を印象付ける為のハッタリと受け取ったオークの一匹が、歯を剥き出して嘲笑していると痩せた黒エルフはずいっと顔を近づけた。
「あんたが昼に喰ったのは焼いた肉とベリー。それにエールも呑んだ。今朝は塩漬け肉の燻製のスープだ」
 驚愕して表情を凍りつかせたオークを放置して、鼻をすんすんと鳴らして痩せた黒エルフは猟犬のように周囲を歩き回っている。
「空気が動いているよ。人の気配の残滓が感じられる。つい先程までいたね」
空気中の匂いを嗅ぎ終わると、再びフードを目深に被りながら囁くように告げる。
「疑う訳ではないが、何故分かる?」
「臭いが死んでない。歩き回ったように拡がっている。
 時間が経つともう少し沈んでいるからねえ」

 それほど鼻の効かない黒オークのガーズ・ローには、嘘か真か見当も付かぬ。
ただ頷いて言葉を頭の片隅に入れておく。
「売り込む為の当てずっぽうと思ったかい?」
フードの下で痩せた黒エルフがくもぐった笑い声を洩らした。
「少しな。今はもう疑ってない」
外気の冷えが強まってきていた。正直に告げてから、黒いオークはマントをかき寄せた。
「となると外れか。追ってるのは男だ」
ガーズ・ローがつまらぬといった様子で舌打ちすると、灰色の髪の黒エルフ娘が俯いて考え込む。
「ヴィアの鼻は頼りになる。女だとしたらエルフの娘と女剣士の方か。
 丘陵民に襲われ、反撃して追い払った?」
「……多分そんなところだろう」
重々しく頷いたガーズ・ローを灰色髪の黒エルフ娘がじっと見つめてから囁きかけた。
「……大分、差を詰めたと思うけどね。幾ら手練でも疲れてるだろうね」
「今のうちに場所だけでも突き止めておいて、夜襲を掛けるか?」
此処で別のオークが口を挟んだ。
「おい、ガーズさん。狙いは族長をやった村の男だろうよ。女共の首を獲ってもよ。
 お偉方の覚えはよくならねえ。手柄にはならんぜ」
三人目のオークも顔を見合わせてから頷いて賛意を示した。
「確かに一文にもならん相手をやり合ってよ、手負いを出してもつまらねえよ」
「何を言ってやがる。剣士は仲間たちの仇だぜ。ぶっ殺してやるよ」
槍を背負ったオークだけが文句を付けるが、周囲のオークたちは乗り気ではない様子だ。

 オークたちが騒々しく騒ぎ立てているのを眺めていた二人の黒エルフだが、灰色の髪をした娘が突然に尖った耳を動かすと、鋭い眼で繁みの方角へと素早く振り返った。
「今、何か聞こえなかったか?」

 見つかっていない。見つからない。
今までそう思い、やり過ごそうと身を縮めて、そっと息を潜めていた赤毛のジナは、黒エルフの言葉に動揺して僅かに身動ぎした。
下に組み敷く形となった青年は、観念しているのか。或いは成り行きに任せたのか。
手を組み、目を閉じたまま殆ど身動きせずにじっと下生えに伏せていた。
「……臭いな。匂う。洗ってない雑巾みたいな匂いがするぞ」
フードの黒エルフが発した擦れた囁き声に全身からじわっと汗が出る。
オークから奪い返した衣類を着ていたのが原因だろうか。
恐らく違う。
陵辱を受けた際に肌にこびりついた体液も乾燥して、あからさまな異臭を放っている。
己の心臓の鼓動が耳のうちで大きく響いて、酷く耳障りに思えた。

「……止まれ。静かに」
灰色髪の黒エルフ娘は、手を上げて一行を制止すると聞こえる程度に囁き続けた。
「気配がある。近くにいる」
「……丘陵民か?」
ガーズ・ローの言葉に、一行は周囲を見回しながら、警戒した顔つきになると、武器を引き抜きながら、自然と互いを背中合わせにして奇襲に備える構えを取った。
「残り香ではないのか?よしんば潜んでいるとしても村人とも思えん」
囁きあいながら一行は短い槍や剣を構え、フードの黒エルフは背中から弓を構えると、何時でも撃てるよう矢を番えた。
「……さて」
灰色髪の黒エルフ娘は、唇を舌で湿らせてると、優美な曲線を描いた二本の短刀を引き抜いた。

 赤毛の村娘は項垂れた姿勢のまま、歪な石像の様に固まっていた。
次から次と吹き出してくる冷たい汗が、頬や胸の谷間を流れ落ちていく。
顎の先から滴り落ちた水滴が掌に落ちて初めて、自分が汗をかいていたことに気づかされる。
震える掌でそっと頬を拭った。
掌も濡れているから余り意味がないが、そんな仕草で幾らか気持ちは落ち着いた。
オーク達の言葉が絶えていた。それがまた恐ろしい。
逃げるべきか。だが、逃げる気配がしたら彼らは直ぐに追ってくるだろう。
オーク達がすぐに踏み込んでこないのは、此方を人数の丘陵の民ではないかと警戒しているからに過ぎない。
祈るような気持ちで赤毛のジナは震えながら、繁みの反対にある窪みに潜み続けるしか出来なかった。

 概してエルフ族は、人族やオーク族に比べればかなり優れた聴力を持っている。
黒エルフのうちでは特に秀でている訳ではないにしても、追跡者たちの鋭い聴力は確かに聞き分けていた。
張り詰めた空気の中、繁みで微かな物音がした。
何かが動いたと察知して、フードの黒エルフは当たると確信して矢を放った。悲鳴が上がった。

 黒い影がそろそろと繁みを出た瞬間、躰に衝撃が走った。
目の前に黒い影が迫ったと思ったら、矢が突き刺さっていた。
鋭い鏃は肉を切り裂き、神経を傷つけ、骨を砕き、臓腑を貫いて、躰の反対側まで達した。
痛みと衝撃で標的の肉体に致命傷を与えた。
飛び出しかけた悲鳴を、村娘は口を抑えて必死に押し殺した。
「……当たりか」
黒オークのガーズ・ローが訊ねる。
「いいや。外れ」
灰色の髪を持つ黒エルフの娘は近寄って地に横たわり痙攣する標的を片手で拾い上げる。
「穴兎だ」
フードの痩せた女エルフが、弓を片手に舌打ちした。
オーク達も武器を下ろして、苦笑を浮かべ、顔を見合わせた。
「なんでえ、脅かしやがって」
「……人の気配を感じたと思ったけどな。私の勘も鈍ったか」
空気が弛緩した。
兎を手にしたまま、黒エルフの娘は肩を竦めて、追跡隊のリーダーに訊ねた。
「如何する?足跡は少ない。跡は辿れるけどもうじき日が暮れるよ」
「先行しすぎたな。見知らぬ土地で深追いは避けるべきだろう。
 何が起きるかも分からん。一旦、戻って隊と合流しよう」
ガーズ・ローの言葉に部下達は頷き、一行は来た道を引き返していった。

 物音がしなくなって、どれ程、時間が経っただろうか。
オークたちが遠ざかっても、赤毛の村娘はまだ暫らく動けなかった。
村で目にしたオーク達の狡猾な『狩猟』のやり方は、それほどに強く脳裏に焼きついていた。
 やがて殆ど日が暮れて、黄昏の僅かな残滓がほの暗く差し込み、周囲の殆どが闇に包まれた頃。
確かに立ち去ったと確信してから、彼女は青年の手を引いて立ち上がり、転がるように旅人達のいる谷を目指して急勾配を駆け降りていった。

 二百歩も離れた距離から、近づいてくるのが感じ取れていた。
入り口から人影が転がり込んできた瞬間、アリアは枕元に置いていた短剣を投げ放った。
人影の耳を掠めて、壁に短剣が突き刺さった。
「ああ、外したか。投擲用ではないしな」
ぶつぶつ言いながら据わった目付きで跳ね起きると、長剣を抜き放って硬直している闖入者の喉元に素早く突きつけた。
「ひあッ!」
見ると、小さく悲鳴を漏らした侵入者は赤毛のジナであった。
「……なんだ、見た顔だと思ったら貴様か」
言うと、顔を真っ青にしてへたり込んでいる村娘を放置し、目を擦りつつ起き上がったエルフ娘の処へと踵を返して戻っていく。
 再び床に寝転ぶと、狼の毛皮のマントを身体に掛けながら半エルフを抱きしめる。
毛皮の中で、エリスはアリアの形のいい胸に顔を埋めてきた。
「……あったかい。柔らかい」
呟いているエリスの頭を撫でながら、可愛いので抱きしめてみる。
「お、お邪魔したみたいで……」
赤毛娘が気まずそうにおずおずと呟いているので、
「今さら踏み込んできて一体、何のつもりだ?」
「オー、オークが近くに来てたんです。姿を見かけました」
聞き捨てならない報告を耳にして、さすがに寝ている訳にはいかなくなった。
黒髪の女剣士は鋭い視線を赤毛のジナに向けると、
「何時?何処で?」
「丘陵の頂で!ひ、日暮れの前」
「つけられてないか?」
言ってから質問の無意味さにアリアは舌打ちした。赤毛の娘は息を切らしている。
此処まで走ってきた。足跡は地面にくっきりと刻まれているだろうか?
「……オーク達は引き返していきました」
「日暮れだったからか。分かった」
生欠伸をしていたエリスが、微かに不安そうな表情を浮かべて唇を舐める。
「夜のうちに逃げる?」
 エリスの問いかけに、アリアは首を傾げて考え込んだ。
その表情は静かで、見る者にも内心を窺わせない。
「眠気と疲労を押してか?方角も分からないのに、見知らぬ丘陵を突っ切るのか」
 距離を稼ぐだけなら無理ではないが、難題ではある。
一方で、オーク達にとっても丘陵地帯は見知らぬ土地だ。
夜の間に探索の手を伸ばすとは考えがたいが、兎に角、念の為に離れるべきかも知れぬ。
星明りを頼りにしても距離を稼ぐべきか。
黙考の末、首を振って結論を出した。
「いや、今は休もう。体力が回復しないと話にならない」
出血で身体の回復力も低下しているのを感じ取っていた。
一方で、夜を徹してオーク達が迫ってきたら、その時も一巻のお終いである。
逃げ切れるかどうかは分からないが、運を天に任せるしかない時もある。

 二人の娘が毛皮の中で抱き合ってぬくぬくしていると、赤毛の村娘は困ったような顔をしてから、小さくなった炎に薪を放り込みつつ訊ねてきた。
「二人は知り合って長いの?」
「……三日」
「三日だな」
冗談だと捉えたらしい。
肩を落として溜息を洩らしながら、入り口のほうにちらちらと視線を送る。
扉の外に気配が感じられる。独眼となった青年だろう。
恐らく、入りづらくて扉の外に佇んでいるのだ。
そういえば、眼を抉ったな。寝込みを教われないようにしよう。
用心を肝に銘じながら、アリアは問い返してみた。
「何故、そんなことを聞く?」
「……いあ。十と七年かな。村で暮らしてきた。
 それが随分と簡単に壊れるものだと思って」
弁解しながら、生娘でも無いのに頬を紅潮させて村娘は手を振った。
「御免なさい。ああっ、もう。二人の邪魔する気じゃなかったの」
アリアは何か誤解されてるような気もしたが、エリスが腕を廻して抱きついてくるので気にしない事にした。
そのまま躰を擦り付けて体温を貰う。
くすぐったそうに悶えるエルフの肌はとても心地よかった。
互いに洩らしたと息が至近で混ざり合うと、その気のない筈のアリアまで変な気持ちになりそうだ。
「明朝、夜明けと共に出立する。
 一緒に来るならな、貴様らもそれまで身体を休めておけ。お休み」





[28849] 37羽 追跡 08     2011/12/24
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:8b306407
Date: 2013/06/27 03:23
 夜更けと夜明けの狭間の頃合に、エリスは薄く目を見開いた。
眼前の至近には、抱き合った姿勢のままに人族の娘が穏やかな寝息を立てていた。
 数瞬の間、翠髪のエルフは人族の娘の整った顔立ちを名残惜しそうに見つめていたが、やがてぬばたまの黒髪に軽く触れてから、素早く己を抱きしめている腕から脱出した。
立ち上がり、切れ長の蒼い瞳で扉の外へと視線を向けると、一見、外の大地は未だ夜のベールに覆われているように見えるが、森の子の鋭い五感は、黎明が近づいた大気の匂いの変化を敏感に嗅ぎ取っていた。
「う……ん」
寒そうに身じろいでいるアリアに毛皮をかけ直すと、エリスは大きく息を吸い込んだ。
冷え込んだ空気に含まれた僅かな湿気と気流の変化が、森の娘に夜明けの近いことを教えてくれるのだ。

 土間の真ん中では焚き火が弱々しく揺れており、廃屋の片隅には赤毛の村娘ジナが躰を丸めて寝転んでいた。
独眼の青年の姿は見当たらない。
昨晩は二人分の足音を聞き取っていたから、恐らく近隣にある廃屋のいずれかに身を潜めているのだろう。

 衰えていた焚き火の火勢に集めておいた枯れ枝を薪として注ぎ足すと、エルフの娘は大股に歩いて扉の外へと踏み出した。
 天頂と地平の中ほどにある半月が淡い幽かな月光を大地へと投げかけていた。
エルフの娘は、月の光を頼りに丘陵の勾配を歩き出した。
 昨日の夕方に木々に縛り付けた水筒を見つけると、僅かに水分を増やしたそれを手に持って回収していく。
 遠い獣の咆哮が闇の彼方から響いてきた。狼の遠吠えだろうか。
エリスは聞こえた方向にハッと振り返り、緊張した面持ちで腰に吊るした短剣に手を伸ばしたが、遠吠えが二度聞こえてくる事は無かった。
溜息を洩らしたエリスが踵を返して足早に廃屋へと戻っていく頃、東の空では僅かな黄金色の煌めきが地平線から天空を彩る紫のベールを侵食しつつあった。


 寒さに耐えかねたアリアが目を覚ました頃、陽光に照らされた地面から霧が発していた。
「……これは」
地形的に霧が発生し易い土地であるのか。
起き上がった黒髪の女剣士は、一瞬、何が起こったのか分からずに当惑した様子で呟いた。
無言のまま、足早に戸口から外に出て辺りを見回したが、一面、乳白色の霞に包まれている。
朝靄と称するにしては余りに濃密な乳白色のベールが視界を遮り、向こう側の景色はおぼろげに霞んで見えなかった。
 霧の向こう側に由来で浮かび上がる巨大な丘陵の影は、まるで伝説の氷の国の城門に聳え立つ巨人族にも思える。
 頤に指を当てて難しい顔をしているアリアに、エリスが近づいてくると水筒を差し出した。
「霧が出てきたね」
落ち着いた口調のエルフ娘を横目で見つめると、気を取り直したのか微笑を浮かべる。
「さて……吉と出るか、凶と出るか」
言いながら、水筒を受け取って口をつけた。
追っ手は追いにくいだろうが、逃げる際に道を踏み外したり、見失う恐れもあるのだ。
寝ている間、傷が発熱した身体は水分を欲していたのだろう。
喉を滑り落ちる一口の水が、格別に美味かった。
「きっと僥倖に違いないよ。何時まで続くか分からないけど」
 エリスが楽観的な見通しを述べる傍らで、アリアは靄を孕んだ早朝の澄んだ空気を吸い込んだ。
傷ついた身体は色々と痛むが、手傷を負ったのは今回が初めてという訳でもない。
痛みを押して動き続ける事が出来る程度には、苦痛には慣れている。
「僥倖か。うん、そうあって欲しいものだな」
胸のうちには幾らかの不安を覚えていたが、同時に好機であるとも感じていた。

 うつらうつらとしていた村娘の尻が軽く蹴られた。
「一緒に来る心算ならば、そろそろ起きろ」
乱暴な起こし方に不満の呻き声を上げながら目を見開いた時には、二人の旅人は食事の用意を済ませていた。
 エルフ娘が鉄櫛に固焼きのパンを刺して、火で軽く炙っている。
「堅いな、これ。余計に堅くなったのではないか?」
「寒いから暖かい方が美味しい」
固焼きパンを受け取った女剣士は、赤毛の村娘を無視して不味そうに齧っている。
眠そうに欠伸を噛み殺しつつ、赤毛のジナは半身を起こした。
昨夜は、オークに追われた恐怖と衝撃による不安で殆ど眠れなかったのだ。
霧の中に人影を認めたエリスは、戸口の外に視線を送って不快げに眉を顰めたが、村娘に近寄ると湯気を立てているパンを差し出した。
「あ、ありがとう」
 エリスは、余ったもう一つのパンを抱えて戸口から出ると、其処には独眼になった青年が所在無げに立ち尽くしていた。
脅えた表情を浮かべて、また気まずそうに俯き加減になっている。
 嫌悪感を隠そうともせずに冷たい表情で青年を眺めると、エリスはそっけない言葉でぶっきら棒にそれでも食べ物を差し出した。
「ほら」
 大きく眼を瞠った青年がおずおずとパンを受け取ると、エリスは直ぐに踵を返した。
青年が啜り泣き始めるのを聞いて、扉の外に立っているアリアはうんざりした様子で侮蔑の眼差しで一瞥した。
エルフの娘が隣に戻ってくると、女剣士は眉を潜めて話しかける。
「奇特な人だな……君も」
エリスは無言のまま陰気に黙り込んでいるので、それ以上は何も言わずに肩を竦めた。
「食べたら、もう行くぞ。オーク共に追ってこれるかどうか分からんが、霧の出ている間に出来るだけ距離を稼いでおきたい」
 最後のパンの欠片を口に放り込んで水筒の水で流し込むと、枯れた茶色の草を踏みしめながら大股に歩き出した。


 三人の人族と一人のエルフが去ってから程なく、足跡を追って廃屋を突き止めてきた黒オークと一党が踏み込んできた。
 ほっそりした黒い人影が土間にしゃがみ込み、消えた焚き火の灰に指で触れている。
「灰がまだ暖かい」
冬の冷たい大気の中に在って、灰はまだ仄かに熱を保っていた。
立ち去った者たちはまだそれほど遠くにいってない。
「どれ程前だと思う?」
黒オークのガーズ・ローが擦れた声で問いかける。
「……半刻(一時間)か、それくらいだろうね。
 火が消えて、さほどの時間は経ってはいない」
「夜が明けて直ぐに発ったか。此の霧では追いつくのは難しいか」
忌々しげに舌打ちするガーズ・ローを見上げながら黒エルフの娘が口角を吊り上げる。
「そうでもない。外の足跡は四人分だけど、うち二人は浅からぬ手傷を負っている。
 それほど速くは進めないはずだ」
廃屋を後にしながら、自信有りげに言った黒エルフを黒オークのガーズ・ローは横目で眺めた。
「分かるのか?」
「足取りを見れば。よろめいたり、歩幅が乱れている」
 黒エルフが告げた時、朝靄から複数の人影の輪郭が浮かび上がった。
武装したオークよりなる一隊が、手持ち無沙汰に地べたにしゃがみ込んでいたが、近づいてきた黒オークの姿をみとめると不満げにぶつぶつ呟きながらも立ち上がっていく。
「忌々しい霧だな。今、追ってるのが丘の民ってオチはないだろうな?」
「連中は南へと向かっている。人族の豪族どもの勢力圏に逃げ込む気だね」
黒エルフの娘を一瞥すると、黒オークは霧の向こう側に揺れる彼方の黒々とした稜線を鋭い視線で射抜いた。
「ならば、よし。村人に違いあるまい」


 出発して少しすると、アリアの顔色から血の気が引き始めた。
弱音一つ吐かないものの、負傷を押しての移動はやはり相当な苦痛なのだろう。
体力の消耗も激しいようで、汗を流しては息を切らしており、時折よろけた所などをエリスが肩を貸して歩を進めていた。
 付かず離れずの距離で後ろをついてくる独眼の青年のほうも遠近感がないようで、偶に足を滑らしては赤毛のジナが甲斐甲斐しく助けに戻っていた。
道程の消化も、思ったよりも難航した。
 天蓋に浮かぶ円盤の放つ光と熱も、薄暗い影の横たわる丘陵の狭間においては分厚い霧のベールを通して薄ぼんやりとしか感じ取れず、弱々しい陽光に方角すらも定かではない。
大地の裂け目や聳え立つ土石の壁など、所々に進めない箇所があり、一行は幾度か遠回りや今やって来た道の後戻りを強いられた。
かといって丘陵まで昇れば、太陽の位置から方角は割り出せたものの、余計な時間と体力の消耗を避けられなかった。
 どの程度の道行きをこなしたかも分からずに一行はただ進み続けたが、霧のようやく引き始めた昼時。
小高い丘陵の頂きで休憩を取った頃には、皆が相当に体力を消耗していた。
 風に流れいく朝靄と頂きを覗かせている丘陵は、まるで乳白色の海に浮かぶ黒い島のように美しく見えた。
雑穀のビスケットと水での簡素な食事を取り終わった後、アリアは雑木に寄りかかってぐったりとして休んでいる。隣ではエリスが険しい顔となって北の方角を眺めていた。
何が気になるのか。
それまでも幾度となく後方を振り返っていたが、やがて木に登り始めると枝に縋りついたまま、歩いてきた方角に忙しく視線を配っていた。
 やがて何かを見つけたのだろう。
ハッとした顔つきで乗り出すようにして彼方に眼を凝らしていたが、やがて舌打ち一つすると木からするすると下りてきた。
「追っ手。数は二十人以上いる」
アリアが黄玉色の瞳をすっと細めた。
エリスの緊迫した顔つきからして洒落や冗談では無さそうだ。
「だが、どうやってつけてきている」
「分からない。だけど足は速い。
 三つ向こう、私たちが半刻くらい前に通った丘にいるのが見えた」
立ち上がって眼を凝らすが、余りに遠く、霧も在ってよく見えなかった。
「何も見えんよ?」
「……あそこ。ほら、分かる?」
女剣士の傍らにしゃがみ込むと、半エルフは指差して追手を示した。
「あの大き目のけやきから左へ少し行った、なだらかな場所」
「何処だ……あそこか!」
やがて丘陵の頂きに複数の黒い点が動き回っているのに気づいて、女剣士は息を呑む。
「確かに二十はいるな。しかも此方へと向かってきている」
二人の旅人が緊迫した様子で話し合っているのを見て、近くで休んでいた赤毛の娘と青年も顔を見合わせた。
「逃げの一手しかない」
頷くとすぐに歩き始めながら、だが黒髪の女剣士は微かに首を傾げた。
「だが、奴ら。此の不慣れな丘陵地帯でどうやって我らの後をついてきているのだ?」

 追跡は、大して難しくなかった。
険しい地形であれば自然と通れるルートは限定される上、一番近い人族の居留地は南にある。
対象の向かう方角まで分かるのならば、踏みしめた草や折れた枝など僅かな痕跡でも見分けることの出来る熟練の狩人たちにとっては充分であった。
後は相手より早く動く事が出来れば、自然と追いつけるであろう。
「ふふっ、時折、後戻りして足跡を消したり、別行動したりしてる」
 地面の足跡を眺めながら、フードを被った黒エルフの女の呟きに、隣を歩く黒エルフの青年が獰猛な笑みを浮かべて応えた。
「エルフの技だな。此方を誤魔化す心算だろうが、稚拙だ。時間稼ぎにもならん」
 雇われた狩人である黒エルフたちの足取りは速いが、オーク達も汗をかきながらもついていっていた。
あらかじめ追跡隊には、スタミナのあるオークを選んであった。
ペースについていけない者は、容赦なく途中に置いていく。脱落したら後日、合流すればいい。
「此の侭のペースで進めば、恐らく夕方になる前に追いつける」
褐色の肌の黒エルフ娘は、不敵な笑みを浮かべて呟いた。
「エルフがいるなら、あの女剣士もいっしょだろうね」
薄い灰色の瞳は熾き火のように爛々と煌めいていて、黒いオークに頼もしさを感じさせた。
「くっく。それほど待ち遠しいか?ジル」
「ブーツの足跡が乱れてきている。かなりの傷を負ってるし、焦ってもいるようだ。
 残念だけど、それほど楽しめる戦いにはなりそうもないけどね」


 朝方に漂っていた濃密な霧は、魔法のように消え去っていた。
エリスは幾度か追跡者を惑わそうと仕掛けを試みたが、目に見えた効果は上がらなかった。
近づいてくるオークの気配を感じ取った訳ではなかろうが、二人の村人も只ならぬ様子に緊張した面持ちで無言でついて来ていた。
「……オークめ」
 アリアは苦しげに喘いでから、後方に視線をやって忌々しげに舌打ちした。
この年に至るまでの戦歴で、黒髪の女剣士は殆ど戦に負けた事がなかった。
豪族同士の境界争いであろうと、海賊や山岳民相手の戦であろうと、殆ど勝ち続けてきたし、
幾つかの負け戦の時も、素早く撤退して傷の小さいうちに領地に逃げ帰っていた。
 それだけの手腕と勘を有している。だから、泥に塗れる惨めな敗走など知らない。
積み重ねられてきた勝利の記憶が、今は悪い方向へと作用していた。
敗北の経験が無く、耐え忍ぶべき状況に置いての耐性が低い。
土地勘のない場所で、手負いとなり、狐のように追い掛け回される体験など想定もした事すらない。
全くの未体験である惨めで苦しい敗走に、激しく神経を消耗していた。
恐怖と消耗に瘧のように全身が震えていた。
「まだ場所まで掴まれたわけではないだろうけど、四半刻まで迫られている」
エルフ娘も、苦しげに呼吸を乱していた。
此方は、敵に追い掛け回された経験があったが、さすがに強行軍に息切れしていた。
「此の侭では追いつかれる。一か八か、街道に向かって進路を変更するか?」
エリスの提案に、アリアは掌を上げて憎々しげに呟いた。
「いざとなれば迎え撃つさ」
言った途端に、苦しげに二、三度咳き込む。
「何時もの貴女なら兎も角、今のざまでは死ぬだけだな」
呼吸を整えながら自嘲の笑みを浮かべて、彼方をじっと見つめる。
「……追われる立場とは、嫌な気分になるものだな」
「初めてか。私は何度か追われたことがある」
訝しげに見つめられて、翠髪のエルフは肩を竦めた。
「戦に出た訳ではないよ。故郷の森で森ゴブリンとか、近隣の村人とかにね。
 何しろ、弱い氏族だったからよく小競り合いで負けてね」
苦笑を浮かべるエルフ娘に、女剣士は顎に指を当てて首を傾げると呟いた。
「ならば、君は一人なら逃げ切れそうだな。だが、私はもう歩けそうに無い」
「諦めないでよ」
エリスの励ましに首を横に振って、アリアは立ち尽くしている。
全身が汗で濡れており、また傷口の布地が出血に滲んでいる。
「西へ向かおう。街道に出れば、目があるかも」
「無理だ」
即答されて口を紡んで沈黙し、しかし何か手はないかとエリスは必死に考え続ける。
「行きなよ。エリス」
「諦めが早いな。アリア」
エルフの娘は周囲に視線を配った。村人たちも大岩に持たれかかり、肩で息をしていた。
オーク達は指呼の距離まで迫ってきている。
「……奴ら、多分、足跡を追ってきているんだ。
 オークに出来る芸当じゃないと思っていた」
握った拳を震わせて、俯いたエルフが悔しげに呟いた。
「……追っ手には黒エルフもいるから」
瞬間、赤毛の娘の何気ない一言に目を瞠ったエリスが息を呑んで動作を止めていた。
「初めて聞いた。糞ッ」
らしくなく口汚く罵り、半エルフは地団太を踏んだ。
「いっ、言ってなかった?」
「聞いてない!」
歯噛みしそうな顔つきで吼えるエリスの剣幕に、赤毛の村娘はひっとすくみ上がる。
「もう駄目か。行けよ。君だけでも」
アリアの言葉にエリスは片目を閉じた。暫し黙考してそれから苦しげに表情を歪めて提案した。
「二手に分かれよう。そうなれば、どちらかは助かるかも知れない。
 生き残るには、もうこれしかない」


「……足跡が別れたな」
十余名の追跡隊は立ち止まっていた。当惑したように周囲に視線を彷徨わせる。
どちらの道も薄暗い影が差しているが、それでも黒エルフの狩人ならば痕跡を見出すのは難しくない。
「ブーツの足跡が右に行ってる。恐らくはエルフも一緒だ」
「という事は左が本命か」
黒エルフと黒オークが視線を合わせる。
「一応、二手に分かれるとしよう」


「大切なのは足跡を残さないこと」
 四つんばいで土の上を這いながら、岩と土だらけの稜線を横断していく。
時に下生えを掻い潜り、或いは倒木の上を歩いて木々の間を通り、岩を乗り越えて進んでいく。
三百歩か、五百歩か。千歩か。
見当はつかないものの、幾らかの距離を足跡を残さずに移動してから、エルフ娘が立ち上がった。
「さすがに、もうついてこれないと思う。方向転換してジグザグに南西に向かっている訳だし」
オークが狙っているのは、向こうだしな。と、アリアは心の中で呟いた。
正確には酋長を殺害した独眼の青年である。
エリスは、しかし、無言の言葉を聞き取ってしまったらしい。
或いは、懸念しているのだろうか。
「……どっちがいるか分からないからね。こっちを追ってくるのも何人かいると思う。
 でも、言う通りにしてくれれば、私たちだけは絶対に逃げ切れる」
目を閉じてから、苦しげな表情となってエリスは己の人指し指を噛んだ。
「君は助ける……助けてみせるから」
女剣士は忸怩たる想いを抱えているエルフ娘を抱き寄せた。
「分かってる。ありがとう」
 頭を抱くと耳元に囁いてから、エリスの手を引いて歩き出した。
翠髪のエルフは唇を噛んで別れた村人たちを置いてきた方向を眺めていたが、
手を引っ張られると、アリアの後を追って歩き出した。


 旅人達に切り捨てられた。ジナにそれを恨めしく思う気持ちは無かった。
兎も角、オークは直ぐ傍らにまで迫ってきていた。
丘陵の中腹をゆっくりと踏みしめて昇ってくるのが、隠れている窪地からもよく見えたからだ。
 数は六人。裾野に立つ痩せた黒い人影が、まさしく隠れている場所を指差すと、オーク達は軽快な動きで勾配を昇ってくる。
とてつもなく恐い。
単騎で二十ものオークを打ち倒したあの女剣士が、途方もない凄腕なのだと改めて実感できる。
「仕方ないね。やれるだけの事はやったもの」
赤毛の村娘は、震えている幼馴染の手を握って微笑みかけてやる。
「すまねえ。俺が足手纏いにならなければ……」
「いいからさ」
抱きしめてやると、大人しくなった。異性の体温が優しく伝わる。
「楽に死にたいなあ。また乱暴されるのはやだし。あーあ、恋をした事もないのに」
思わず愚痴ってからジナは淡く笑う。
「ルウも助けたかったな。無事かな。私は如何なってもいいから、あの子だけでも助かればいい」
「……如何なってもいいから、助かればいいか。そうだな」
妹の身を案じる村娘の傍らで、青年は切羽詰った表情で言葉を繰り返した。
「ルウはきっと無事だ。きっと豪族達が助けてくれる」
呟いたクームは、果たして誰の顔を思い浮かべていたのか。
赤毛のジナは夢見るように遠い目付きで空の彼方を見つめた。
「そうだね。あの娘はきっと無事に違いないよ」
クームの震えが急に収まった。
残った眼をジナに向けると、静かで穏やかな顔つきで言葉を掛ける。
「お前は反対に逃げろ。いいな」
「え?」
呆気にとられた村娘を残して、クーム青年はいきなり窪地を飛び出すと走り出した。
大声で叫び、腕を振り回しながら稜線をオークが昇ってくるのとは反対の裾野へと駆け下りていく。
「うわああああ!来るな!来るな!糞野郎!近寄るな」
中腹に居たオーク達が吼え声を上げた。一斉に青年を追いかけ始める。
「俺は悪くない。お前らの酋長みたいに殺してやるぞ!近づくんじゃねえ!」
 支離滅裂に叫んでいるクームに狼が群がるように武器を振りかざして追い掛け回し、四方八方から追い詰めていく。
 ジナは呆然と口に両の掌を当てて一部始終を見つめていたが、ハッと気づくと最初は身を伏せて、次いで急いで反対側に駆け出した。
 やがて死の具象化した幾つもの鉄の刃が青年の身体へ追いつき、飲み込まれていった。
惨たらしい断末魔の叫びが耳に届いても、涙を零しながら村娘は彼方へ向かって足を止めずに走り続けた。






[28849] 38羽 土豪 01
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:5347b8ff
Date: 2012/06/18 20:04
街道沿いの旅籠『竜の誉れ』亭の一室。親父曰く、街道筋では一番の部屋だそうだ。
壁の割れ目やひびの上に漆喰が塗りたくられ、何度か補修を繰り返したのが見て取れるが、
滲み出てくる黄ばみや煤を完全には隠しきれていなかった。
だが、控えめに言っても、確かに悪い部屋ではなかった。
掃除はされているようで、床には余計な塵なども落ちておらず、鎧戸は頑丈で継ぎ目も目立たない。
締め切れば、夜気の侵入を殆ど完全に防ぐことが出来た。

暖炉では、盛んに炎が焚かれている。
薪も只ではないが、身体が冷え切っていた。金を惜しんでいる場合でもない。
明かりに照らされて、寝台にしどけなく横たわる人族の娘の裸体が闇に白く浮かび上がっていた。
均整の取れた美しい肢体が瞼に焼き付くと、エルフ娘は胸のうちに微かに欲情を覚えて喉を鳴らした。
身を乗り出すようにして黒髪の娘のしなやかな身体の上に屈み込むと、身体に刻まれた傷に指を這わせていく。

蛆虫が欲しかった。
傷跡に這わせておけば、腐った肉を食べてくれるし、その唾液には細胞組織の再生を促進する働きがあって、
治療に用いるには随分と役に立つ虫なのだ。
だが、初冬の季節に何処を探しても見つかる筈もない。
結局は口をよく濯いでから、唇で血と膿を吸い出すことにした。
単独で両手両足の指を合わせたほどの数のオークを屠った黒髪の女剣士であるが、その返礼として全身に数箇所の裂傷や打撲を負っていた。
太股の付け根の直ぐ真下にある裂傷など、あと少し外れていれば大腿動脈を切り裂かれていただろう。
オークたちが刃に毒を塗っていなかったのが、不幸中の幸いか。
桃色に盛り上がっている傷口に赤い舌を這わせると、肌は微かに汗臭く、甘酸っぱい匂いが鼻腔をついた。
若い同性の仄かに甘い体臭は、エルフ娘にとって嫌いな匂いではない。
「んっ……ふぅっ」
何かを堪えるように擦れた声が、エルフ娘の耳朶には蠱惑的に聞こえてならない。
何時からだろうか。
多分、息を吹き返した時から、エルフには人族の娘の所作の一つ一つが妙に気になり始めていた。
しかし、今は治療の方が先だ。妄念を抑えて傷の手当に専念する。
吐息を荒げながら躰をもぞもぞと動かしている人族の娘の下半身を押さえると、エルフの娘は傷口に唇を当てて、
膿を吸い出しては床に吐き捨てていく。
傷口をお湯で洗浄して湯煎した針と糸で縫ってから、彼方此方と野山を回って蓄えてきた薬草と苔を混ぜた膏薬を塗り、湿布と包帯に布を巻きつけた。


丘陵地帯を横断し、街道を何時間もぶっ通しで歩いて、二人の娘がようやく見慣れた旅籠に辿り着いたのは、その日のほぼ真夜中であった。
うらぶれた旅籠の壁には、血の跡と焼け焦げた放火の痕跡が刻みつけられているのが、
扉の前に燃え盛る篝火によって闇夜にも鮮明に浮かび上がっていた。
斧を手にした傭兵が、所々、血に汚れた上着で、力なく入り口近くの切り株に腰掛けていた。
確か二人組の片割れであった筈だが、相棒の姿は見当たらない。
如何やら襲撃を受けたようで、道端にオークと人族の死骸が片付けられないままに転がっていた。
オークの切り裂かれた腹部からは臓物と糞が地面に零れ落ちて、冬の夜にも明白な悪臭が漂っていた。
「……北からオークが」
扉にいた傭兵はそれだけを茫然と呟いてから顔を上げ、二人の娘の顔を思い出すように目を瞬いた。
「無事だったか」
扉を開けて旅籠にはいると鉄の鍋を兜代わりに被った宿屋の主人が恰幅のよい、肥満した肉体を揺るがしながら、歩み寄ってきた。
手には棍棒。よく見れば、先日の盗賊の首魁が愛用していた武器に良く似ている。
「おおう、これはお嬢さま方。良くご無事で!」
飛び出してきて喚いた親父は、血と泥に塗れた二人の旅人の姿を見るや、直ぐに燃え盛る暖炉の所へと案内してくれた。
女剣士などは内心、弱った所に付け込まれる懸念を覚えてないでもなかったが、人の情けは案外と捨てたものではなかったらしく、
直ぐに暖かい雑穀の粥が振舞われ、幾ばくかの硬貨を払うことで、暖めたエールを啜る事も出来た。
親父や客たちの説明によれば、やはり旅籠。というか、一帯の民家や農園がオーク族に襲撃を受けたらしい。
宿屋に居た客の何人かは死に、或いは女は浚われ、川辺の村でも相当な被害が出たらしく、艀が壊れたとか、生き残った村人たちや近郊の農民が殻竿や棍棒、六尺棒など粗末な武具を手に手に旅籠に集ってきては、噂を囁きあっていた。
「……ですが、あの小僧の母親まで浚われてねえ。いえ、うちの娘は無事で……」
その後は、自分がいかに慈悲深い親方で、損を覚悟で小僧を面倒見てやってるかと、娘を守る為にオークと勇敢に戦ったか。知り合いの農民が心配だと。
旅籠の親父は延々と、愚痴と自慢話と顔見知りを案じる世間話が入り混じった言葉の奔流を口から垂れ流し続けた。
親父の話の幾らかは参考になったので、エルフの娘は適当に聞き流し、相槌を打っていたが、やがて同じ内容の繰り返しになってきたので、会話を打ち切って部屋を用意してもらった。

銅貨二枚は、街道筋の安宿の相場を大幅に上回る金額で、親父との交渉の結果すぐに一番上等な部屋を貸しきる事が出来た。
下働き、或いは奴隷だろうか。今まで見なかった痩せた娘に先導されて旅籠の奥にある個室に案内されると、部屋はそれなりに広かった。
二つ並んだ寝台は、オグル鬼でも眠れそうな幅広く頑丈な作りである。
毛布も意外と清潔で、日に良く当てているのだろう。よい匂いがする。
黒髪の娘は、精も根も尽き果てている様子で寝台へと倒れこんだ。
一方、エルフの娘は下働きの痩せた娘に小銭を渡して薪を持ってくるように頼むと、台所で鉄鍋を借りて大量の湯を用意しながら、針と糸を湯煎し、彼女の傷口を洗い、本格的な治療を始めた。

化膿止めや止血の効果のある苔を塗り込みながら観察すると、傷口は幾らか化膿を見せているものの、周囲の肌は健康的な桃色が盛り上がっていた。
きっと、元からの生命力も相当に強いのだ。後は薬が効いてくれればいい。
此れなら、大地の毒素が入り込まなければ大丈夫だろう。
翠髪のエルフがそう安堵のため息を漏らしていると、黒髪の娘が手を握ってきた。
「……もう駄目かと思った」
眉根を寄せて物憂げに呟くと、何やら物思いに耽っている様子で暖炉の炎に魅入っていた。
「もう休みなよ」
エルフ娘の言葉に頷くと眼を閉じた黒髪の娘だったが、やがて暫くすると苦しげな様子で魘され始めた。
「くっ……ううむっ……」
歴戦の戦士にしても無防備な状態で長時間、敵に追い回されるというのは心理的な負担が大きかったのか。
自分も寝ようとしていたエルフの娘は少し意外そうに見つめていたが、やがて毛布を抱えて魘される女剣士と同じ寝台に潜り込んだ。
背中から身体を密着させると、抱きしめるように腹部に腕を廻して手を握り締める。
「大丈夫だ……大丈夫」
低い囁きをエルフ娘が繰り返すうちに、やがて黒髪の娘も安心したのか。
穏やかな寝息を取り戻した横顔に、今度はエルフがじっと魅入っていた。
「……好きになってしまったかも知れない」
口の中でもごもごと呟いたエルフの娘であるが、とはいえ、女剣士は人族で東国の出でもある。
彼の地の習俗や女剣士の嗜好についてエリスは何も知らなかった。
育った土地の常識によっては、女性に好かれたとて拒まれないとも限らないのだ。
静かに俯いて不安を押し殺しながら、暫しの間女剣士の横顔をじっと見つめていたが、
やがて毛布を肩まで被さってから人族の娘に抱きつくとエルフは静かに眼を閉じた。



初冬の痩せた大地を踏みしめながら、天を見上げた騎鳥武者が目を細めた。
夕刻の高い空に鳶が弧を描いている。
点在する丘陵を背景として、武装した兵の一団が西を目指して草原を進んでいた。
一帯を東西を貫いている北の街道と呼ばれる行路に踏み込んでからは、大足鳥に騎乗した小柄な武者を中心に一行は円陣を組みつつ移動し始める。
明らかに何者かからの襲撃に備えての陣形であった。
武装しているとはいえ、兵の過半は豪族がその領内より呼集した農民兵である。
身に纏うのは、革の上着や厚手の布服。
殻竿、六尺棒や粗末な槍、錆びの浮かんだ短剣など雑多な武具を手に、慣れぬ様子で陣形を乱しながら、時折、通り過ぎる他所の土地の農園や旅籠を物珍しそうに眺めたり、歩き続ける事に愚痴を洩らしていた。
一行の中には二、三名の専門の戦士もいる。
鋲の付いた革鎧を着込み、或いは盾を背中に吊るした一握りの傭兵らしき男女も、それほどに緊張した様子は見せずに気楽な様子で雑談などをしていた。
恐らくは一行を率いる立場なのであろう、大足鳥と呼ばれる人が乗れる程の大型の鳥類に跨った若武者はというと、青銅製の胸当てが夕陽を反射して淡く煌めき、真鍮製の籠手、革製の脛宛を纏い、腰からは中剣を吊るしている。
退化した羽根の代わりに異様に発達した二足で歩行する大足鳥は、灰色の羽毛も艶やかで、よく手入れされているのだろう、乗りやすいように鞍と革製の鐙も付けられていた。
目も彩な戦装束を纏いながら、若武者はしかし俯いた表情に憂鬱さを隠そうともせず、何やら深く思案に沈みこんでいた。
周囲に夕闇が迫ってくる頃、一行は丘陵が迫っている狭隘な地形に差し掛かった。
先頭を行く数名の兵の手には松明が掲げられて、淡い光が宵闇の草原に幻想的に揺れていた。
敵の襲撃を恐れなければならないとしたら此処であろう。
丘陵の狭間を縫うようにして一行が進む中、いよいよ東西の街道は狭まっていく。
「オーク共は見当たらねえですな」
松明を掲げている雀斑の残る若い農民兵が云うと、別の農民兵が呑気な口調で相槌を打った。
「見あたらねえ方がいいさ。見回りも少しは役に立ってるってことだろうよ」
「街道筋じゃもう何軒も民家や農園が襲われたって話だったが……」
首を振りながら、中年の兵士が槍を担ぎ直しつつ呟くと、隣にいた傭兵が吐き捨てた。
「女が何人もかどわかされたって話だぜ。竜の誉れ亭まで襲われたと」
傭兵は顔を歪めながら、言葉を続けた。
「……気の毒によ。子供の目の前で母親が浚われたって話だ」
「糞ッ!オーク共が」
雀斑の農民兵が憤慨したように言葉を吐き捨てる。
「……よくある話さ」
醒めた口調の顔に傷のある傭兵に、前を行く老人がしわがれた声で語りかける。
「いや、此処何年かはこんな立て続けにオークに襲われるなんてのはてんで無かったことよ。
何かが起こる前触れかも知れねえ」
「不吉なことを言うなよ。とっつぁん」
低い声で不機嫌そうに返す傭兵だが、老人は執拗だった。
「いや、これはお館さまのお考えよ。
でかい侵攻が在るかも知れねえってお考えだ。わしに、そう打ち明けてくださった」
「……だからか。村を守るだけにしては、やけに兵の数も多いと思ったぜ」
「盗賊も増えてるしな。怪しげな奴を見かけたら、連行するのも俺らの仕事の一つさ」
槍を抱えた若い戦士が思いついたように呟いた。
「盗賊って言えば、あの手長がついに掴まったそうだぜ」
「手長ってあの手長か?」
後ろを歩いていた農民兵や傭兵達が話題に食いついた。
「おう、その手長さ。もう、首だけになってこの先の街道で晒されてるぜ」
「あはは。そいつはいい話だね。さすがの手長もついに年貢の納め時か」
くすんだ金髪をした女戦士が陽気な笑みを浮かべ、
「俺も聞いたで。なんでも凄腕の剣士に襲い掛かって、手下と一緒に返り討ちにあったってな」
凶賊の非道さと罪業について一頻り話してから、今度は手長を斃した人物について話題が移った。
「一人で四人だか、五人だかを切ったとよ」
「俺は七人だって聞いたがな。しかもやったのは女だとか」
「雌のオグル鬼とかじゃないだろうな?」
「話半分としても、世の中には凄いのがいるな」
馬上で沈み込んでいた鳥武者も、その話題には関心を示したようで耳を傾けていた。
「あの手長が死んだのか」
溜息を洩らしてから、首を振ってポツリと呟いた。
「そんな凄腕の剣士がいるなら、我らに力を貸してくれれば心強いんだが」
涼やかな声音は、だが暗く沈んでいた。
戦士の一人。中年の男が一行を率いる鳥騎兵を見上げて、慰めるように笑いかけた。
「いや。パリス様の剣の腕だって結構、捨てたものじゃないですぜ」

「そういや。大旦那がローナの町の鍛冶職人に武具を注文したって話だけど」
若い農兵が騎鳥の人物を窺うようにしながら、
「そうなりゃ、俺にも剣を貸してくれるかもしれねえっすね」
「ん、そうなるかも知れぬな」
頭目の何気ない相槌に、若い農民はパッと顔を明るくした。
「手柄を立てりゃあ、俺も士分に取り立てられてよ。へへ」
剣への憧れを隠さずに興奮していたかと思うと、今度は何を考えたのかにやけ面を見せる若者に、周囲から呆れたまなざしが注がれた。
富裕な豪族が武具を発注しても、一度に十本も二十本も作れる訳でも無ければ、買える訳ではない。
そもそも鍛冶職人とその徒弟が町にもそう多くはいない辺境である上、金属製品自体が貴重な代物である。
だから、土地の豪族が武器を集めようと思うのなら、一度に剣を二本、三本。
盾を二つ、三つと、何年も掛けて少しずつ武具を備蓄していくのが普通であった。
古い、かつ鈍らな粗悪品ならともかく、出来立ての剣や槍などまず未熟な若者まで回る筈無い。
「小僧っこが、仮に噂が本当だとしても、お前にはその殻竿でお釣りが来るぜ」
「全くだ。生意気な奴が」
音高く舌打ちした若い傭兵や雀斑の農民兵が、一斉に若者を嘲り笑った。
夢見がちな若者の愚かさを笑うのが半分、夜の旅程の不安を解消する面が半分であった。
笑い者にされた若者は、羞恥に耳朶を真っ赤に染めて悔しげな表情を見せながら黙り込んだ。

それまで寡黙に松明を掲げて先頭を歩いていた男が、沈黙を破って主に問いかけた。
「武器を蓄え、兵を雇い……旦那さまは、戦が近いとお考えなんですかい?」
後ろを歩いていたがっしりした中年の戦士が、軋むような声で応える。
「俺達が考えることじゃねえ。いずれにしても、なにか旦那には深いお考えあっての事だろうよ」
「……だがな」
騎鳥の人物が戸惑ったように声を上げた。
「父がなにを考えているかは、私にも分からん。或いは……」
鳥騎兵がその先に何を言おうとしていたにしても、その言葉は鋭い警告の叫びに遮られた。
先頭を歩いていた松明の男が急に立ち止まって、なにやら指し示していた。
「あれを!」
闇に包まれた街道の彼方であったが、若武者にははっきりとそれが浮かび上がって見えた。
丘陵の窪みから立ち上がった何者かが勾配を降りると街道上へと進み出てきた。
「敵かァッ!!」
「……なんだ、あいつは?!」
「慌てるなあ!全員、武器を構えろ。固まって陣形を崩すな!」
武器を引き抜き、或いは身構えつつ、数名が逸って飛び出そうとするのを中年の戦士が怒鳴って抑える。
此方へとふらふら進んできた人影が、途中で力尽きたように地面へと倒れこんだ。
「だが、よろめいている。本当に敵なのか?」
「落ち着いてください、パリス殿。農民や丘の民かも。まだ分かりません!」
鳥騎兵の若者が疑念を呈し、中年の戦士が剣を抜きつつ、松明を掲げて進み出ようとした。
「わたしが見てきます。此処で待っててください!」
「いや、わたしも一緒に行こう」
若者の双眸を数瞬見つめると、中年男は厳しい表情で頷いた。
「……分かりました。用心なさってください」

弱々しい光源をかざしながら進んでいくと、地面へ倒れているのは若い娘であった。
「若い娘だな。大丈夫か?」
罠ではあるまい。そう判断して戦士はしゃがみ込むと娘を助け起こした。
薄汚れた粗末な衣服を纏っているが、苦しげな呻きを上げた娘は中々に美しい容貌の持ち主であった。
意思の強そうな口元は固く結ばれ、整った目鼻立ちには凛々しさが湛えられている。
「……綺麗な娘だな。何者だろう」
「行き倒れでしょうか?」
娘の顔立ちを見てから、一瞬、ハッと息を呑んだ若者は手を伸ばしてそっと頬を撫でた。
「泥だらけだ。オークに襲われて逃げてきたのか?」
娘の穿いている革のサンダルは擦り切れる寸前の古い代物で、中年の戦士が口元を歪めた。
「酷いなりです。どこぞの農園から逃げ出した奴隷かもしれませんぜ?」
「……逃亡奴隷か」
若者は一瞬、動きを止めた。眉を顰めると少し考え込む。

社会一般に財産として認知されている奴隷であるが、その扱いは主人の人格や経済的事情、そして各々の奴隷の価値や技能によって千差万別であった。
自作農の小農園にて幼い時から主人一家と家族同然に育てられ、同じ食卓で食事を取る奴隷もいれば、大きな農園で朝から晩まで馬車馬のように働かされ、武装した監督に鞭打たれたり、反抗的ならば酷い時には家畜のように焼印を押される者もいた。
近隣に住む農民などが返しきれぬ借金を背負った果てに、民会の調停で債務を返すまで奴隷身分に転落させられる場合もあるし、戦争の結果や渡来の商船によって見知らぬ外国より連れてこられる異民族の奴隷もいる。
上記の債務奴隷や同郷の奴隷などの場合は、奴隷とは言っても身分と権利がある程度は慣習法によって守られ、主人とて無闇に打つことも出来ないが、一方で文化や風習、言葉さえも異なる異民族や異種族の奴隷なれば、立場は極めて弱く、時に家畜より過酷な扱いを受ける例も多々あった。
いずれにせよ、ヴェルニア世界においては、最下級の奴隷は主人の財産に過ぎず、法の庇護も全く期待出来ない。
そんな彼らが過酷な扱いを受け続けるよりは、自由を求めて一か八か、残忍な主の元より脱走するのは、ままある事例であった。
一方、ヴェルニア世界の法秩序では奴隷が逃亡を図るのは重大な罪であり、逃亡奴隷は無法者の一種と見做されて、追っ手に殺されても文句の言えない立場であった。
自由民が逃亡奴隷と遭遇したら、出来るならば最低でも持ち主に通報するのが良識であり、また捕らえたのならば引き渡すのが責務でもあった。
「ちょうど、女手が欲しかったところだ。連れて帰ろう」
だから、中年の戦士が雇い主の結論に異を唱えたのは、面倒ごとを嫌っての事だろう。
「逃亡奴隷かもしれませんぜ?」
それがさも重要な事であるかのように同じ言葉を二度繰り返した。
逃げたのが見つかれば殺されかねない奴隷が、それでも敢えて逃げ出すような主人だ。
残忍な性格であったとしても不思議ではない。
余計な軋轢は避けるべきだと訴える。
「……よしんば逃亡奴隷だとしても、此の侭に放置は出来まい。
 それに恐らく、彼女は自由民だ。赤毛だからな、モアレ辺りの北方人に違いない」
近隣では、赤毛は幾らか珍しい毛色である。
兵達が物珍しそうに赤毛の娘をじろじろと様子を窺っている。
「乗せろ。二人は無理だから、私が歩こう」
「しかし……分かりました」
娘を肩に担いだ中年の戦士は、大足鳥のところまで戻ると娘を鞍へと乗せながらため息をついた。
「竜の誉れ亭で一杯やりたかったんですがね」
兵達が顔を見合わせ、ざわめいてる中、ぼやく傭兵に苦笑を浮かべた後、
「……北の方で何かあったかも知れんな」
若者は丘陵の彼方に視線を送って低く一人ごちた。



[28849] 39羽 土豪 02
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:837fed99
Date: 2012/03/19 20:53
腰ほどの高さの柵を左手に見ながら小道を進み続けると、やがて木々の生い茂った農園の門へと着いた。
農園の中庭には、数戸の民家や家畜小屋、納屋が立ち並んでおり、果樹の木々の狭間からは農園の持ち主である郷士ベーリオウルのやや古びた邸宅が窺えた。
中庭で木材を運んでいた数人の農奴や小作人が立ち止まり、見慣れぬ余所者へ訝しげな眼差しを向けてくる。
「ベーリオウル殿!ベーリオウル殿はおられるか!」
栗毛の若者は、しかし堂々とした態度で中庭へと騎鳥の歩を進めると大音声で主を呼ばわった。
黄麻色の毛並みの大足鳥に跨り、上等な拵えの厚手の布服に身を包んでいる。
恐らくは土地の有力な豪族の子弟であろう。
「おう、誰かと思ったら、クーディウスの倅じゃねえか」
得物を手にして胡散臭そうに闖入者を眺めている男達を掻き分けて、馬小屋から出てきた一際背の高い半裸の男が前へ進み出てきた。
年齢は、壮年から初老であろうか。後ろに纏めた長い金髪は微かにくすんでおり、目尻には皺が寄っているが、堂々とした屈強な肉体は古代帝国の建築家が精魂込めて造った石像の如くに逞しかった。
若い頃は戦場を駆け回ったのであろうか。
なお壮健な体躯には無数の刀槍の傷が刻まれており、獰猛そうな野獣の笑みを浮かべた顔にも額から顎に掛けて深い裂傷が刻まれていた。
後ろの馬小屋の入り口では、豊満な裸体を惜しげもなくさらした栗毛の娘が、不満そうに頬を膨らませてお楽しみの邪魔をした若者を睨みつけていた。
「お楽しみの最中に邪魔をしたんだ。つまらん話だったら叩ききるぜ?」
からかうような物言いの壮年の男だが、眼光は刺すように鋭く険しい。若者が気圧されたように喉を鳴らした。
「ベーリオウル殿。その様子では、此処は無事なようだな」
「何のことだ?」
壮年の郷士が眉を顰めると、
「オークだ」
言ってから若者が咳払いした。
周囲を囲んできた男たちの間を、緊張とざわめきが走りぬけた。
幾人かは、まるで若者が知らせてきたから、此処にもオークがやってくるとでも言いたげな態度で悪い知らせの使者をじろりと睨みつけている。
使用人や農奴たちは緊張した面持ちで低く囁きながら互いの顔を見合わせているが、壮年の郷士は一向に緊張に伝染した様子を見せなかった。
「悪いが飲み物をくれんか?此処まで走りづめだったのだ」
「水を飲ませてやれ」
使用人が近寄って手綱を取ると、農婦が愛想笑いを浮かべてワインの壷を差し出した。
「ありがたい」
大足鳥から降りると、壷のワインを呷って若者はもう一度、咳き込んだ。落ち着いてから、
「それも十や二十ではないぞ。街道から北の農家や旅籠などが襲われている」
「確かか?手長辺りの盗賊が手下を率いて暴れてるんじゃねえのか」
くすんだ金髪をかきながら、壮年の郷士は胡散臭そうに鼻を鳴らした。
「違う。我が館に少なくない数の農民が駆け込んできた。
 如何やら彼奴ら、此処二、三日は散発的に襲撃を繰り返しているらしい」
苛立たしげに舌打ちしてから、長身の郷士は獰猛な笑顔を浮かべる。
「丘にすっこんでいればいいものを。態々、人間様に殺されに来たかよ」
郷士の笑顔には暗い陰惨な翳りが濃密に滲み出ており、直視した若者の顔に怯えが走った。
「で、数は?」
「皆目、見当もつかん」
鋭い目付きに睨まれて身震いし、若者は慌てて付け加える。
「だが、農園も襲われている。尋常な数ではないだろう。カルルク老人のところなど完全に焼き払われた」
「ほう、カルルクのところが。西の丘に近い分、相当な構えを備えていた筈だが……」
初めて郷士が幾らか考え込む素振りを見せた。
西の丘陵地帯がオーク族の巣食っている領域である。危険な土地なので、近づく者は滅多にいない。
踏み込むのは、向こう見ずな行商人か、安酒を飲みすぎて頭の螺子の外れた冒険者くらいだろう。
オークの領域の近くに棲まう豪胆なカルルク老人の農園は、よく防備が整えられていた。
農園の土壁は高く頑丈で、老人の三人の息子はいずれも屈強な青年であり、
配下の武装農民も含めれば、十やそこらのオークが襲撃してきても撃退できる位の備えも在った。
「あちらこちらに散っているが少なく見積もっても五十以上。もっとかも知れん。
下手をすると大挙して侵攻してくる前触れではないかと親父殿は危惧している」
若者がいかにも重々しく告げた意見を、郷士は鼻で笑って一蹴した。
「それは有るまい。北方諸国では騎士団が優勢に戦いを進めているからな」
血も肉もある亜人である、地の底から湧いてくる訳でもない。
大規模に遠征してくるならば必ずある種の前触れは在るものだ。
北方の勇猛な騎士団相手に苦戦しているオークが、南方に兵を向ける余裕などある筈が無い。
郷士にとっては自明の理であるが、父親の意見を一言で斬って捨てられたのが気に入らないのか。
若者は不快そうな表情で、頬を微かに引き攣らせている。
如何やら父親の存在は相当に大きいらしい。
嘲笑を口元に張り付かせた郷士に、若者はやや居心地悪そうに身じろぎした。
「兎に角、一大事というので、農園や荘園を廻って郷士豪族の諸氏に知らせている。
それでベーリオウル殿にも是非知らせなければならんと父の命でやってきたのだ」
「なるほどな。お使いご苦労だった」
「後で館に来てくれ。此れから、少し遠いところも廻らねばならんからな」
若者の父親は壮年の郷士にとって古い知己であり、また一帯の有力な豪族の一人であった。
息子を使いに直に招きが来ては、行かない訳にもいかない。
壮年の郷士が鷹揚に用件を了解し、若者が再び鳥上の人になろうとした時、農園の入り口の方から甲高い家畜の鳴き声が響いてきた。
姿を見せたのは、山羊の群れを引き連れ、杖を後ろ手に持った毛皮の服を纏う若い女性。
背中には、やや短い中剣を鞘を革紐で結んで背負っている。
背は高く、鮮やかな金髪を背中に長く編みこんでいた。
「……リヴィエラ殿」
豪族の息子の呟きに、女性は微かに首を傾げた。
久しぶりに合った幼馴染にゆっくりと歩み寄っていく女性の傍らを、十数匹の山羊が中庭の奥にある水場目指して走り抜けていく。
目の前に立つ年長の女性が微笑みかけると、顔を赤らめつつ若者は口篭りながら挨拶した。
「リヴィエラ殿も、無事だったか」
返答はせず、ただ微かに目礼してから、女性は父親に問いかけた。
「何事です?」
「オークだ。小僧が知らせに来た」
つまらなそうな壮年の郷士に一部始終を聞いてから、女性が頷いた。
若者に向き直って激励の言葉を贈る。
「無理をしないで、気をつけてね」
「心配してくれるのか?」
「ええ、心配よ」
嬉しそうに顔を崩した若者だが、女性の次の言葉に嫌そうな顔となった。
「君はあまり強くないのだから」
壮年の郷士が爆笑するが、女性は真顔で本当に心配しているように見えた。
怒鳴り返す訳にもいかず、若者は歯噛みしながら
「俺はこれでもクーディウス家の跡取りとして恥ずかしくないだけの鍛錬は積んでいる」
怒りを抑えて顔を赤くして言い張る青年に、口元に手を当てた金髪の女性が悪戯っぽく微笑んだ。
「あれ?去年の村祭りの余興でパリスにコテンパンにのされていたのは誰だったかな?」
「あれは偶々だ。今年こそ勝つさ」
金髪の女性は、人の良さそうな笑顔でこらえ切れないように吹き出しながら
「あまりパリスを虐めちゃ駄目だよ。君と違って色々と思いつめる性質だから」
「……おっ、俺は」
「冗談。さ、他にも廻るところがあるのでしょう?此れを持っていって」
詰まった若者を翻弄するのにも飽きたのか、女性は持っていた布袋を押し付ける。
「胡桃のパンとチーズが入ってるから」
「ありがたい」
熱意を込めて礼を言った青年はまだ何かを伝えたい様子だったが、
娘が手を振って頑張ってねと告げると、幾度か振り返りながら農園から去っていった。
客が農園から立ち去ると壮年の郷士は面白そうに娘を鋭い目で見下ろした。
「あんな小僧がお前の趣味か?」
「……まさか。それより」
金髪の女性は厳しい顔つきになる、と弛緩したような気配が一変して父親に良く似た鋭い雰囲気を漂わせた。
血に塗れた短剣を懐から取り出して地面に放り投げる。
「オークか?」
「三人。大した奴らじゃなかったけど……」
然したる事でもないかのように言ってから、一度言葉を切って女性は軽く首を振った。
「その時は逸れかと思って、さっさと始末した。斥候だったとしたら失敗した」
「じゃじゃ馬が。生かして捕らえるべきだったぞ」
楽しげに獰猛な笑みを浮かべている父親を見て、軽く頬を膨らませると金髪の娘はもう一度肩を竦めた。
「まあ、いい。明日からクーディウスの館に行く。お前も来い」
「分かった。泊まりになるね。用意しとくよ」
「待て、リヴィエラ」
踵を返した娘の背中に、長身の郷士は呼びかける。
「お前は近隣では一番の器量良しだな」
立ち止まった娘の顎に手を掛けて値踏みするように顔をじろじろと見定める
「そうだね」
誇らしげに胸を張る娘を見てから、父親はにいっと笑った。
「小僧はお前に惚れてるようだ。
 精々、機嫌を取っておけば、クーディウスの奥方様に納まれるかも知れんぞ?」
大笑いしながら踵を返した郷士の背中をむっとして睨みつけていた若い娘が、
何を思いついたのか。急ににやりと笑って言い返した。
「父さんはあんな息子を持ちたいのか。趣味が悪いね」
憮然とした父親の表情を見て、笑いながら金髪の娘は軽やかに家へと走っていった。


オークの追撃を振り切って街道まで逃げ延び、竜の誉れ亭に転がり込んだエルフ娘と女剣士であったが、気が抜けたのか。
或いは、傷口から毒素が入り込んだのやも知れない。
満身創痍の女剣士は、その日より全身に高熱を発して寝込んでしまった。
エルフ娘のエリスは、財布から硬貨をばら撒くようにしてひなびた旅籠のは一番よい個室を貸しきると、その日より付きっ切りで看病に入った。

蛆がいればよかったのだが、寒さの厳しい初冬のヴェルニアには見つからなかった。
なので口を注いでから、傷口に唇をつけては膿を吸出し、吐き捨てた。
傷を洗い、煮沸した糸と針で縫い、薬草を取ってきては湿布を作って巻きつけた。
薪を絶やさずに炎を燃やし続けて部屋を暖め、解熱の効果のある薬湯を作り、発汗が激しいので、
湧き水で汲んで来た水を、乾いて割れた朱色の唇に口移しに飲ませた。
深夜には、痛みと高熱の苦悶にもがき、のた打ち回る躰に肌を密着させて、女剣士が朦朧としていた意識をはっきりと取り戻したのは丸二日を経てからであった。

旅籠に辿り着いてから、三日目である。
黒髪の女剣士は、全身に纏わり付いていた重たい苦痛がふっと抜けたのを感じとって、うっすらと目を見開いた。
まず薄暗い部屋が目に入った。それなりに広い奥行き。
分厚く重たい扉が左手に位置し、右手には閉め切ったくすんだ色の鎧戸がある。
半エルフの姿が見当たらないのが気になったが、寝台の傍には彼女たちの剣と荷物がすべて置いてあったので、何処かに行ってるだけだろう。
奥の暖炉では弱い炎が音を立てて燃えている。
間近な鎧戸の隙間からは微かな燐光が差し込んでいた。
陽光だろうか。それにしては光が淡く優しい。月光かも知れない。
朦朧としていた頭の中の記憶を整理しつつ起き上がろうとし、汗だくの身体に濡れた肌着が張り付いている不快な感触に眉を顰めた。
と、廊下に微かに人の気配が近づいてくるのに気づいて、視線を転じた直後、扉が開いて翠髪をしたエルフの娘が部屋に入ってきた。
手には、縄で縛った空の土器を吊り下げている。
女剣士の姿を認めると、切れ長の蒼い瞳を細めて美麗な口元を綻ばせた。
排泄物の入っていた素焼きの壷を部屋の隅において木板で蓋すると、エルフは足音もなく女剣士の寝ている寝台へと歩み寄ってきた。
「……私は何日寝ていた?」
「丸二日、今は三日目の夜更け」
投げ掛けられた質問に低く擦れた声で応えてから、囁くように告げた。
「もうじき夜が明ける」
意識は朦朧としていても、看病を受けた記憶は女剣士の脳裏に刻まれている。
「何か欲しいものはある?」
エルフ娘に問われて、考え込むように俯いた。

アリアテート・トゥル・カスケード。
カスケード女伯子・アリアテートは、故郷のシレディア郡において頑迷孤高な人柄の持ち主として知られていた。
戦場においては勇猛で苛烈、幾らかは冷酷にして傲慢。幾人もの名の知れた強者を討ち取ったこの若い女剣士は、
向背常ならぬシレディアの郷士豪族勢にとっては、時に頼りに出来る味方であり、時に恐るべき敵であった。
勇気や公正など、欠点を相殺して余る幾つかの美点に恵まれている為、けして嫌われている訳ではなく、
寧ろその人格には一定の敬意を払う者さえいたものの、一方で他者を容易に寄せ付けない人柄は、
戦場で見せる恐るべき勇猛さと苛烈さも合い間って、気安い友人関係を構築するには些か難のある人物と見られていた。
彼女は己が欠点を自覚せぬ訳ではなかったが、無理をして矯正したり、猫を被るよりは、
あるがままの性格を持って親しく出来る少数の人間を大切にしようとの考えの持ち主だった。
豪族や貴族としては余りよい傾向ではないだろう。
当然の帰結として、整った容貌や少なくない財産、秀でた家柄の持ち主にも拘らず、親しくしようとする者は異性、同性を問わず少なく、女剣士は人に好かれた事、親切にされた経験が余り多くなかった。
だから、エルフの娘が最後まで自分を見捨てずに救ってくれたこと、熱心に介抱してくれたことには、戸惑いながらも強い印象を覚え、感謝していた。
誰であろうと、他者を助ける事、他者の為に何かをなすのは大変な事であろう。
だからといって完全に心を許すほど素朴な性格でも、愛情に弱い訳でもなかったが、嬉しいことには変わりはない。

「……腹が空いたし、喉も渇いた。
水と食べ物。それに躰を洗う湯が欲しいな」
「分かった。台所に行って何か貰ってくるよ。お粥でいいかな?」
要望を伝えると頷き、踵を返したエルフの手を何故か女剣士は掴んでいた。
自身の行動に戸惑い、何かを言おうとして、だが、思いつかない。
「……どうしたの?」
しゃがみ込み、笑いながら問いかけてきたエルフの娘。
「助かったのは君のお陰だろう」
女剣士は半エルフの双眸を見つめながら、淡々とした口調で言葉を続けた。
「……シレディアでは、カスケードは多少は名の知られた一族だ。
私に対して何か望むものはあるか?叶えられるものなら、何でもする心算だ」
その言葉に、エルフの表情が微かに曇ったように見えた。
「……なんでも?気前がいいね。望みを言うがいいということかな」
エルフの低く擦れた力の無い声には、不思議と落胆しているようにも聞こえた。
「私に出来ることなら、なんでもしよう」
本気で繰り返した言葉に、エルフの娘はどこか失望したように溜息を洩らした。
「ないよ。なにもない。貴女が助かった。それだけで良かった」
言って何故か怒ったように立ち上がった。理由の分からない不機嫌さが透けて見える。
「……何か怒らせるようなことを言ったか?」
らしくもなく少し焦って問いかけるが、エルフからはけんもほろろの反応が返される。
「なんでもない」
「待て、エリス!」
踵を返して扉へと向かったエルフを追おうとして動いた時に、気分の悪さが襲ってきた。
女剣士は躰を海老のように曲げて、床の上に手をつき軽く咳きこんだ。
再び寝台に横たわって苦しげに喘いでいると、瞼の上に冷たい手が差し伸べられた。
「ただ、礼をしたい、と……わたしは」
少し躊躇すると、エルフ娘は唇を舐めてから口を開いた。
「友達が助かっただけで私は嬉しかった。
無償での助けに、値段をつけないと安心できない?」
見つめてくる蒼の双眸に戸惑い、困惑して黒髪の女剣士は問い返した。
「それは……捻くれてないか?」
「そうですね、カスケード卿。私は貧しい放浪の半エルフですから」
これ以上、突っ込むと拗れそうな予感がした。
気は合っても、出会ってからの時間は短いのだ。
関係を修復できなくなるのも恐かったので、無言になって機嫌を取ろうとエルフ娘を不意に抱き寄せた。
「……はうっ」
不意打ちに小さく悲鳴を上げて、年下のエルフの娘が固まった。
長命の種族では、同性同士の契りは常命の種族より多く見られる傾向だと耳にした事があった。
一緒に寝ている時、エルフ娘は肉体的な接触を悦ぶ様子を見せていたから、
肌と肌を密着させながら、エリスは女が好きなのかも知れないな、などと密かに考えていた。
「拗ねないでくれ。感謝してるのだ」
折れるのも嫌だが嫌われたくもないので、怒りを逸らして懐柔することにしてみる。
優しいながらも力強く抱きしめながら、女剣士はエルフの尖った耳元でそっと優しく囁き続けてみる。
「もう駄目かと思った。命を助けられた。私を嫌わないで欲しい」
そうやっているとエルフ娘が白い頬を桜色に染めていた。
やはり私に惚れているな。そして恋愛は、常に惚れたほうが弱みを持つのだ。
惚れた弱みに付け込んでのご機嫌取りは上手くいったらしい。女剣士は微かに口の端を吊り上げた。
だが、上手く行き過ぎたかもしれない。
「……分かってる」
吐息が触れ合う距離でエルフの娘は潤んだ瞳で見つめ返してきた。
「……ん?」
陶然とした表情のまま、獲物を捕らえた蜘蛛のようにしなやかに足を絡めてくる。
何時の間にか女剣士はエルフ娘に押し倒されていた。
鍛えた男性並みに膂力が強く、体術の達者な筈の女剣士だから、抵抗しようと思えば抵抗できたが、蒼い瞳に呑まれたように寝台の端に押し込まれてしまう。
覆いかぶさるようにして身を乗り出してきたエルフ娘が、女剣士の胸の上に手を置き、指先をすっと臍の方へと動かした。
「……はっ」
それだけでむずむずするような感覚が広がっていく。
女剣士が熱いと息を洩らして身動ぎすると、傷が痛んだが同時に何か気持ちがいい。
森の娘の蒼い瞳の奥底には妖しい光が揺れていて、魂を吸い込むように深く煌めいていた。
魅入られたように黒髪の娘は身動きを止めていた。
覆いかぶさるような体勢で四肢を絡めてきたエルフの手が、それだけ別の生き物のように蠢いて、円を描くように巧みに傷の上をなぞっていく。
繊細で柔らかく、優しく、時に強弱をつけ、身体が触れ合っているだけなのに寝ている時に抱き合うのとはまるで違う、奇妙な肌触りのよさと熱っぽさが、まるで蛞蝓が肌の上を張っているかのようにさえ感じられた。
思わず背筋をそらせた女剣士の躰の中心を、毛を逆立てるようなぞくっとした感覚が走り抜けた。
「……はあっ……う」
下の世話までされてしまったので、もう恥ずかしい事などない筈だったが、羞恥に頬が上気し、ぞくぞくとくすぐったいような快感が背筋を走り抜けていく。
本当に嫌なら突き飛ばせばいいが、嫌いでない相手であってそれも出来ない。何を如何すればいいのか。
迷い戸惑っているのに乗じて、エルフは女剣士の頬をゆっくりと舐め上げていく。
胸のうちで心臓の鼓動が恐ろしく速く脈打っていた。頬も微かに朱に染まる。
「お互いさまだよ。助け合って、出来れば此れからも支えあう関係でいたい」
熱っぽく囁きながら乗り出してくるエルフ娘の膝が股に押し付けられて、女剣士の息が少し乱れ、思わず苦しげに紅の唇が開いた。
物欲しげに半開きになった人族の娘の形のいい唇をじっと見つめていた。
「……駄目だ」
慄きの混じった女剣士の制止に一度は動きを止めたものの、黄玉の瞳を覗きこみ、嫌がってないのを読み取ってから、
翠髪のエルフ娘は顔を傾け、桃色の舌を僅かに覗かせた可憐な唇を近づけて
何か言いかけた女剣士の唇を塞いだ。
エルフの舌が女剣士の口腔に侵入して蛇のようになぞり味わっていく。
うっとりと眼を細めているエルフ娘には、黒髪の娘の体液がまるで甘露のように感じられるのか。
執拗に貪り、唾液を交換して、喉を鳴らして嚥下していく。
湿った水音が室内に響き渡っているうち、女剣士の鋭い眼差しがやがてとろんと潤み始めて、徐々に力が抜けていく。
人族の娘がくたりと崩れ落ちた。
離れた二つの唇の間を、銀色の唾液の糸が結んでいる。
「アリア……私は……」
頬を染めたエルフの娘が、黒髪の娘の頬に手を添えて真剣な面持ちのままに口を開き、何かを言いかけた時、

鐘を打つようなけたたましい金属音の響きが二人の耳を打った。
「さあ、皆様方!朝食の時間ですぜ!竜の誉れ亭の自慢の粥だ!」
廊下の先から親父のどら声が響いてきた。
旅籠の親父が客に食事時間を知らせる為に、鍋だか銅鑼だかを叩いているのだろう。
「……朝食の時間だね」
いったい何時、体勢を変えたのだろうか。
何時の間にやら横合いに座り直していたエルフ娘が、我に返った様子でフッと躰を離した。
先程までの妖しい気配を完全に消して立ち上がる。
「……私は貴女に会えてよかったと思ってるよ」
翠髪のエルフの娘は、低い声でそれだけ言うと扉から逃げるように部屋を出ていった。
部屋に一人残された女剣士が、安堵と心残りの入り混じった表情で身を起こした。
寝台に座ったまま、暫し身動きせずに視線だけをくすんだ色の天井に彷徨わせる。
寄る辺のない若者に対して、二人きりの状態で想い人が思わせぶりに振舞えば、暴走するのは当たり前だったかも知れない。
思慕の情に付け込んで思わせぶりな態度など取るべきではなかったと反省する。
「ある意味自業自得か……」
高鳴った動悸を抑えながら、指先で触れた唇にはまだ火傷したような熱い痺れが残っていた。
危なかったような、惜しかったような。
しかし、嫌ではなかった。
「受け入れるにしろ、拒むにしろ……身体を癒してからの話だが」
気持ちを整理しながら、黒髪の娘は天井を見上げて少しだけ困ったような口調で呟いた。
「さて……どうしたものかな」



[28849] 40羽 土豪 03 改訂
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:837fed99
Date: 2012/01/31 22:27
遥かな北方の彼方。大地の果てには無垢なる万年雪を戴くネルヴァ大山系が位置している。
雪解けの時期にはしばしば氾濫を起こすものの、ネルヴァより流れ出る豊富な地下水は無数の支流からレテ河へと流れ込み、やがて大河となって人々を潤おしてきた。
水に恵まれた北方においては、古来より文明が発達して人々は富み栄えてきた。
東部から南部に掛けても、沿岸部は比較的に豊かな降水量に恵まれ、大地を鬱蒼とした原生林が覆っている。
北方からの開拓者や対岸よりヘスティア海を渡来してきた移民などが入植して、人族やエルフ族の小国家を群立させているが、その歴史も古く八世紀前まで遡ることが出来た。
それに対して、辺境と称される内陸においては記されている歴史は未だに浅い。
人が生きるには水が必要であるが、内陸奥深くの辺土においては水源は乏しい。
故に辺土では人も疎らであり、少ない井戸や泉を巡って度々、争いが巻き起こっている。
古くから内陸奥深くで細々と生き続けている土着の民を除けば、開拓者たちが内陸目指して移り住み始めたのは、此処二、三世紀ほどであろうか。
勿論、それ以前にも少数や家族単位で辺境に移り住んでいた者たちはいたが、そうした者たちは大概が沿岸部や北方などの文明圏から僅かに外れた土地に居留地を構築し、辺境の産物を本国と取引をして暮らすか、或いは土着の民と交流しているうちに雑婚し、混じりあって消えていくのが大半であった。
北方諸国で広く普及しているネルヴァ暦にて718年。
東部沿岸の王国テスティアの暦で217年の現在。
人口が希薄で広大なヴェルニア内陸部の辺境においては北部諸国からの移民、或いは東部、南部など沿岸諸国からの入植者、そして土着の民が混在するでもなくモザイクの如くに住み分けて暮らしている。


先程から誰かの弱々しく咳き込む音が、絶え間なく響いていた。
何度も何度も繰り返される魘されるような呻きや叫び声が耳を打つ。
何かの気配が近づいてくる。微かに床の軋む音がした。
何故、床が軋むのだろう?自分は旅人たちと共に丘陵にいた筈だ。
あれは夢だったのか。
それとも本当の自分は未だオークに捕らわれており、逃げ出す夢でも見たというのか?。
「夢だというのならば、オークの襲来が夢ならばよかったのに」
呟いた心算が、不明瞭な呻き声にしかならなかった。
一瞬、立ち止まった気配が再び動いた。胸元に手が延びて来た。
双丘の膨らみに触れてから服の内側に侵入すると、素肌を這い回り懐をまさぐる気配がした。
意識の覚醒と共に身体の節々が痛んだ。
無理矢理にでも身動ぎすると、舌打ちと共に懐をまさぐっていた手が止まった。
そのまま気配が離れて遠ざかっていく。
弱々しく咳き込みながら、溺れた犬のようにもがき躰を動かし続ける。
どうやら躰を乱暴するのが目当てでは無かったらしい。
咳と共に躰を丸めながら服に隠れた腕輪に触れて、村から出る時に持ち出した銀貨がまだ裏側に在るのを指先の感触だけで確認する。
ゆっくりと目を開けるとそこは薄暗い建物の一角だった。
鎧戸の向こう側では強い風が吹いているのだろう。閉じた雨戸がギシギシと揺れていた。
触れてみると目の前は重厚な樫の壁が塞いでいる。
部屋の入り口の向こう側から差し込む僅かな明かりだけが室内を微かに照らしている。
地面に映し出された影が揺れているのを見たところ、位置から壁に掛けられた松明らしいと見当をつける。
少しずつ手足を動かして身体を馴らしながら、赤毛の娘は注目を浴びないようにあまり躰を動かさず、入り口から洩れる松明と思しき微かな明かりを頼りにして室内を観察してみた。
床には黒い人影が幾つも寝転び、投げ掛けられた弱々しい明かりが、亡霊のように室内の彼方此方に佇んでいる人影をおぼろげに照らし出していた。
農民と思しきいでたちをした人々は、ある老人は床に躰を横たえて身を休めており、また別の中年女は怪我した子供を抱きしめて何やら言い聞かせていた。
再びオーク族に捕まってしまったのだろうか。
だが、オークの虜囚にしては室内の人々は血色がいいし、身形も汚れていない。
危惧を抱きながら無言でそっと身を起こし、周囲を見回して、己が見慣れぬ薄暗い大部屋に寝ていたのに気がついた。
薄暗い広間の四方の壁には、松明を付ける為の金属の輪が取り付けてあるが今は松明はない。
絶望に叫びたくなるが、暗闇に目が慣れてくるに従い、室内の人々がオークの虜囚にしては血色がよく、虚脱や悲しみに近い愁嘆の空気は感じられても、恐怖や絶望に切羽詰った雰囲気はないのに気づいた。
そろそろと半身を起こすと、少し離れて隣にいる中年の女に話しかけてみる。
「あの……此処は?」
喉から出た声は弱々しく掠れていた。
女は胡散臭そうに刺々しい眼差しで見つめ返してきただけで、何も返答は得られなかった。
仕方なく立ち上がり、部屋の入り口がある方向へ向かうと、横合いから聞き慣れぬ言葉が投げかけられた。
痩せた老人である。
単語の意味が分からず、途方に暮れて首を振ると同じ言葉を繰り返し、呼びかけてきた。
どうやら喋る言葉が違うようだ。
聞き覚えのある北部語でもなければ、幾らか分かる東部語でもない。彼女の知らない言葉。
「分からない」
首を振ってそう告げて扉を潜ると、長大な廊下に出た。
室内にいる人間は、誰も邪魔しない。
どうやら、彼女がいるのは巨大な石造の館の一角のようだった。
外の廊下は、武装した男女が何人も忙しなく行き交っていた。
農民兵だろうか。武器は持ちなれていない感じでは在るが、オークではなく、人族の姿に安心する。
奴隷商人の私兵とも思い難い。
「ここ……は?何処ですか?」
通りかかった男に話しかける。
『邪魔だ。娘』
だが相手にされず、突き飛ばすようにして跳ね除けられた。
「……あう」
弱った身体は一溜まりも無く、崩れ落ちてしまう。
誰か、偉い人間に急を知らせるよう、取り次いでもらわないといけない。
使命感が再び躰を立ち上がさせ、廊下をふらふらしながら二、三歩を進むが、息を切らして壁により掛かった。
廊下で今にも崩れ落ちそうな様子のみすぼらしい身なりの娘を見咎めたのか。
農民兵の一人が話しかけてきた。
『こんな処で何をしている?』
だが、訳の分からない言葉だった。
「此処は、此処は何処ですか?私は、北のモアレの村のものです」
村娘が口に出した言葉の意味が分からない様子で、男はポカンとしている
村が襲われて、助けを必要としている。必死で繰り返すが、
男は戸惑ったようで周囲に視線を配り、幾人かの人間を呼び止めた。
『こんなところにきちゃいかんぜ』
『何言ってるんだ?』
『物狂いなのか?』
『でも、可愛い顔立ちしてるぜ』
『赤毛だし、北方人の言葉か?』
『北方人?』
口々に喋りながら、男達が近づいてくる。
『いずれにしろ、避難して来た連中の一人だろ。
邪魔にならんように、部屋に寝かしておけ』
貧しい身なりを見て判断し、一人が腕を掴んだ。
「……離して!私は!」
『いいから、来いよ』
腕を引っ張り、大部屋の方へと連れて行かれる。
「お願い。モアレが大変なの。わたしの×○が襲われて……」
赤毛の娘が必死で訴えるも、もはや男たちは相手にしない。
『分かってるよ。家族を失ったのはお前だけじゃねないんだ。
今は休んでろ。旦那がいいようにしてくれるさ』
『なんだ。喚くな』
『あっ、暴れるなよ』
見咎めたのか。戦士らしいいでたちをした人族の若い男が大股で歩み寄ってくる。
『何を騒いでいる?お前ら、娘を手篭めにでもする気か?』
舌打ちする。
『とんでもない』
『ほら、立て!こっちに来るなといってるだろ』
『大部屋に戻れ。後で食い物を……』
何か言ってる男たちの手を振り払って、偉そうな若い男に詰め寄った。
「私はモアレの村人で……!」
頭目格らしい。
「モアレがオークに襲われました!南の豪族に知らせないといけないのです!お願いです!取次ぎを」
『……何かを言ってるな』
『街道筋に倒れていたんで、パリス様が連れて来たんです』
『パリスが?』
呟いた若い男は、急に嫌悪感の溢れる目で女を見出した。
『ふん、乞食女を拾ってきて慰み者にでもする心算か。母親に似て淫蕩な血は争えんと見える』
目の前の男たちは、気まずそうに顔を見合わせた。
最初に足を止めた農民兵が、念の為に聞いてみる。
『だが、何か必死だ。北方語かも知れん。分かる者を連れてきて聞いてみないか?』
『必要ない!』
やはり彼女の分からない言葉だ。
若い男は詰問するような喋り方で何かを言うと赤毛の娘の腕を取り、部屋へと押し戻した。
オークから逃げ出して、奴隷商人に捕まってしまったのだろうか。
すっかり途方に暮れた赤毛の村娘は、壁に寄りかかると目を閉じた。
今は兎に角、躰を休めよう。
朝になれば、どんな状況にいるのかも幾らかは分かる筈だ。
全てはそれからだろう。


旅籠の部屋の暖かさとエルフ娘の看護によって、黒髪の娘はめきめきと健康を回復させていった。
元々、強靭な生命力の持ち主である。
目覚めたその日のうちには立って歩き廻り、数日も経つと殆ど元の元気を取り戻したようにも見える。
一昨日までは激しい運動は避けていたが、昨日からは少しずつ躰を動かし始めていた。
部屋で腕立て伏せをしたり、荒地を散歩するなどの軽い運動だが、やはり体力は衰えており、宿屋の近くにある丘陵の頂までやって来ただけで息を切らしていた。
軽い坂道を登りつめた程度なのに、人族の娘は真夏の犬のように息を乱して辛そうに俯いていた。
「……鈍ってる」
鴉の濡れ羽色の黒髪をかき上げながら、女剣士は目を閉じて乱れた呼吸を整えていた。
鈍った身体のキレを取り戻すには、相当に時間が掛かりそうだと憂鬱そうに表情を歪めた。
「まあ、おいおい調子を取り戻していけばいいよ」
傍らに立つエルフの娘はやけに気楽そうだが、此方は全く息を乱していない。
先日は凄絶な色気を見せて迫った癖に、今は忘れたかのように接する態度に変化もない。
思い煩った女剣士にとってはその方が気楽ではあるが、少し戸惑いを隠せなかった。
「うむ」
何となく釈然としないものを感じたが、八つ当たりしても仕方ない。
女剣士はやや渋い顔で頷くと、休憩を切り上げて勾配を下り始めた。
旅籠へと戻る道すがらの丘陵の勾配からは、街道筋を往来している人々の姿が胡麻粒のように見下ろせる。
珍しく暖かな日差しの冬の早朝。身体の具合も随分と良くなった。
澄んだ空気を胸に吸い込みながら、機嫌の良くなった女剣士は鼻歌などを唄っていた。
と、旅籠の近くまで来た時、エルフ娘が立ち止まった。楽しまぬ顔つきで街道の方をじっと眺めている。
何事かと女剣士が目を凝らすと、街道を歩いていた最中の農民が街道沿いの木陰で身を休めていた六、七人の集団に絡まれていた。
集団は家族連れらしく女子供も連れた多勢であり、疲れた表情で道端に転がっていたのが、通りかかった農民を取り囲んで何やら騒いでいる。
二人の娘が泊まっている旅籠に近づいていくにつれて、騒いでいる声も耳に届き始めた。
……ッ!
これは宿に届けなくちゃならねえんだよ!
俺達に飢えて死ねって言うのか!
昨日だって幾らかやっただろう!
子供が腹を空かしてるんだよ!
こっちだって、そんなに余裕はないんだ!何をする!止め……ッ!

「なんの騒ぎか興味はあるが、巻き込まれるのは御免だな」
女剣士の呟きに同意して、エルフ娘が頷いた。
野次馬根性を発揮した二人の娘は、木陰からそっと覗きこむと、農民を取り囲んだ集団が如何やら持ち物を奪おうとしている様子だった。
農民は棍棒を振り回して抵抗していたが、一人ではどうしようもない。
あっという間に叩き伏せられ、持っていた籠から魚や野菜を無理矢理に奪われている。
暴徒は食料を根こそぎ奪い去ると、今度は倒れた農民の懐まで探っていたが何もなかったのだろう。
地面に唾を吐いて、立ち去っていった。
暴徒がいなくなったのを見計らって物陰から出ると、二人は地面に突っ伏して呻いている農民を助けてやろうと近づいていった。
「……大丈夫?」
エルフが訊ねると、呻き声を返してきた。
服は破れ、引き裂かれ、顔の彼方此方が腫れあがり、引っ掻き傷もあり、如何見ても大丈夫ではないが、意識はあるようだ。
よく見れば此処数日、旅籠に野菜やら魚を時々、売りに来る川辺の村の若い男で一応の顔見知りであった。
助け起こすと、口の中で何やら罵り続けている。
「いちゃい……ひくしょう……あいひゅら。おんしらじゅめ」
呟いた村人の歯が、真っ赤に染まっていた。口からぽとぽとと血が流れた。
「手酷くやられたねえ」
エルフ娘が言ってはいるが、命に関るほどの怪我でもない。
ふらふらしている村人に肩を貸しながら、取りあえずは旅籠へと向かった。

旅籠『竜の誉れ亭』は、近隣の人々の交流の場である酒場も兼ねている。
叩きのめされた若い青年の姿に親父は目を丸くして近寄ってきた。
エルフ娘が小銭を出して、エールを三つ注文する。
「ほら、呑むといいよ」
「しゅまねえ……」
「あいつらは何者なのだ?」
女剣士には、襲った連中の正体が薄々見当がついていたが、敢えて訊ねてみる。
恐らくは、オークから命辛々逃げてきた近隣の農民だろうと当たりをつけて、何か言いたげにしているエルフ娘に何やら目配せして黙らせてから、
杯を受け取った若い村人の男が、傷に染みるエールをちびちびと飲みながら事の次第を語り始めたところに寄れば、やはり近隣の見知った農民の一家だったそうで、数日前にオークに家を焼け出されて行くあてもないままに街道を彷徨っているらしい。
僅かに幾ばくかの野菜や穀類は袋に持っていた物の、しかし持ち出せたのはそれだけで、程なく家族全員が飢えて路頭に迷うのは目に見えていた。
「だから奴ら、哀れにおもっちぇ、食い扶持減らしてまで助けてたのに、鴨だと思ったのか奪い取りやがった。いてて」
喋り方の呂律が大分廻り始めていた若い男だが、舌先で頬内の傷を確認したのだろう。
表情を歪めて変な顔をしている。
「そいつらなら、知っていますぜ」
厚切りにした酢漬けの蕪を卓に置いた親父が、不機嫌そうに歯軋りした。
「うちの旅籠の近くで人を襲うたぁ。只で泊めてやった恩を仇で返しやがって」
ぶつぶつ言いながら厨房に戻る太った親父の顔は怒りに赤く染まり、額には血管が浮き出してトロルみたいな迫力があった。
暫し沈思していた女剣士が、陰気に俯いてるエルフの娘に語りかける。
「飢えて破れかぶれになっている事も多いので、暫らくは用心が必要だな」
半エルフは無言で頷いた。
見ず知らずのか弱い女など、襲うにはまさしく絶好の獲物だろう。
「自分たちを助けた顔見知りに襲い掛かるほどに困窮している。
 女の二人連れでは、嵩に掛かって荷物を奪おうとするかも知れない」
告げて、やや陰気な表情でエールを啜りながら女剣士は再び沈思黙考する。

内陸の辺境地帯。特にその日その日を生きるのがやっとの貧しい土地では、
人が助けあう余裕などそうそうはないだろう。
元より地の果ての吹きだまりと言う側面がある内陸部の辺境地帯。
都落ちした者、或いは追放者の子孫も少なくない。
言葉や慣習、奉じる神も見た目も異なる人種と種族の寄せ集められた土地ならば、
互いに見ず知らずの間で信頼を培うのも難しく、
いざ事あれば、追い詰められた者は容易く獣となるだろう。

まして辺境には、法を敷き秩序を司る王家や君主などの強力な支配者がいる訳でもなく、
長い歳月をかけて醸成された強い共同体意識も無い。
弱肉強食の掟がまかり通るのも、止むに止まれぬ事例なのかも知れない。

己が領地に帰ったら、有事に領民同士が助け合う為の仕組みを作っておくのも良いかも知れぬな。
頭の片隅で色々と考えている女剣士の傍ら
「ふぅい。行くあてもないまま、か。」
苦い声で呟いてからエールを呷ったエルフの娘が、頬を染めて切なそうに独りごちた。
蕪を摘まんで口に運んでいた女剣士が、ピクルスを飲み込んで何か口を開こうとした時、
「も、もし行くところがないなら、お、おいらのいえに、き、来ても……いいんだぜ」
美貌のエルフ娘の溜息に見とれていた若い村人が唐突に素っ頓狂な口説きを始めて、同じ内容の言葉を掛けようかと一瞬考えていた人族の娘は思わず音高く舌打ちしてしまう。
「遠慮しておく」
即答されてへこんでいる農民を尻目に、想い人が見せた嫉妬にエルフが何処となく嬉しそうな顔をした。
思い思いにエールを啜っている三人の背後で、親父が怒鳴り声を上げていた。
「小僧。川辺の村は分かるな!?」
やや元気の無い様子の小僧が頷くと
「ロドゴンの兄弟を探して、ロドゴンが怪我をしたから迎えに来いと伝えてこい!」
「親父さん、其処までして貰うほどじゃあない」
若い村人が反論するも、怒り狂った親父は憮然とした様子で喚いた。
「ほっとけるか。奴ら見つけたら只じゃおかねえ」

二人の娘は我関せずの態度でエールを啜りながら、蕪のピクルスを摘まんでいる。
安い割には意外といい味だった。


北の農家や農園、荘園が、散発的にオーク族による襲撃を受けている。
そんな噂が街道筋を駆け巡っているのは耳にしていた。だから、村の長老にして郷士であるカイ老人も用心してはいたのだ。
だが老人に出来たのは、精々が配下の武装農民共に街道の見回りを命じて警戒を密にする事くらいであったし、此の二十年来、一度たりとて亜人や異民族の襲撃を受けたことの無い辺鄙な村の民人たちは、日々の仕事の増えることに嫌気が差して不平たらたらであった。
街道からも外れた丘陵の麓。
張り巡らされた狭い柵の内側、井戸を中心にして十戸もない小屋や納屋が点在するだけの小さな村である。
全般的に怠惰な雰囲気が漂う村人たちのうちで、幾らかでも張り切った様子を見せていたのは単調な日々に退屈を感じていた若者たちくらいだろう。
見回りを命じた老人でさえ、懸念はしつつも実際、オークが襲撃してこようとは考えていなかったのだ。

凄まじい轟音が響いてきたのは、深夜の帳に包まれた村の何処かであった。
明け方未明か、夜更けなのか。
それすら分からぬままに、眠りを破られた老人は寝台から跳ね起きる。
何の音であろうか。轟音は一度ではなかった。二度、三度と立て続けに響いてくる。
家の外から響いてくるのは喚き声。そして悲鳴。大勢の人間が駆け回るような足音。
まさか!オークが本当に襲撃してくるとは!
事態を甘く見ていたことへの痛烈な後悔と恐怖が、老人の背筋を落雷のように貫いていた。
嫌な冷や汗が吹き出すと共に全身に粘りつくような恐怖が、数瞬の間、老人を歪な石像のように凍りつかせた。
しかし、長年連れ添った老妻の脅える姿を目にして、老郷士は無理矢理に正気づく。
意志の力を振り絞って勇気を鼓舞すると、隣にいる妻に大丈夫だと慰めを掛けながら鎧戸から顔を出して外の様子を窺う。
星明りだけが夜の帳の舞い降りた村を照らしていた。
闇夜の大地を跳ね回るようにして蠢く邪悪な影を老人の目は確かに捉えた。
五人か、それとも六人か。
老人に見えるところでは、それほどの数は確認できない。
耳にした噂では、オークはしばしば二十、三十の大人数で行動すると聞いていたから、その点では、襲撃の規模が小さいのは幸運であっただろう。
されども仮に十人程度であるとしても、この小さな村落には充分な脅威であった。

星明りを頼りに、壁に掛けてあったやや小振りな剣を手に取ると、
「此処にいなさい。アン。私が声を掛けるまで外に出てはいけないよ、いいね」
脅えている老妻を抱きしめて優しく声を掛けてから、鍵を掛けるように言い含めて、老人は慎重に家の外へと進み出た。

確認できるオークの人数は四人。他にもいた筈だが、村の裏手へと廻ったのか?
村人たちの姿が見えぬ。
慌てふためき、或いは脅えて家の中に閉じこもっているのだろうか。
物陰に身を潜めた老人は、そっと様子を窺いながら耳を澄ませてみた。
オーク達は家に押し入ろうともせず、村道の真ん中に立ち止まってなにやら話し合っている。
豚も山羊もいねえ!
猿共、脅えて出てきやがらねえな。
小さな村よ。女でも捜すか?!
どうやらあれが一番、ましな猿の小屋よ。何かあるかも知れねえ。
それより猿共が起きてくる前にさっさと退いたほうがいいぜ。北の村へとよ。
へっ、猿がおっかねえのかよ?グ・ズル。
兄貴がいる限りは負けはしねえが、猿に追われるのも面倒くさいぜ。

唾を飲み込んで強く剣を握り締めた老人の腕が武者震いに小さく震える。
オーク共が喚いているのは南方語であった。やはり丘陵より来たオーク共に違いない。
革服や布服に、村人たちとさして変わらぬ粗末な武具を手にしていた。
これなら何とかなるかもしれぬ。
此処は家の中で混乱しているであろう村人たちに、明確な指示を与えて、行動の指針を示さなければなるまい。
決断するや「皆の者!出会え!敵襲ぞ!オークが攻めてきおったぞ!」
老人は村中に聞こえるほどの塩辛声を張り上げながら、村道で小剣を振り回した。
直ぐに村人、特に若衆たちが六尺棒や殻竿、鎌などの得物を手に手に家から飛び出してくる。


オーク共が怒りの咆哮を上げて一斉に反撃に出た。
十余人の村人たちと四人のオークたちが入り混じって激しい乱戦となる。
怒声と絶叫が飛び交い、収集の付かない乱戦に陥った。
裏手の納屋の方から足音が聞こえてくる。
老人が振り向くと同時に新手のオークが二人駆け込んできた。
劣勢に陥っている仲間を見ると、武器を抜いて乱戦に飛び込んでいく。
老人は剣を振り上げてオークのうちの一人に立ち向かう。
「カイ・ボズウェルの剣を受けよ!」
「邪悪なオークもどきの猿!くたばれ!」
オークの振り下ろした短剣と老人の小剣が激しい勢いで噛み合った。
「ふぬぬ!ふん!」
オークの刃を逸らすと、老人は再び切りかかった。
腕から血を流してオークが飛び退った。
浅い。
怒りの声と共にオークの短剣が闇にきらめいた。
此方は老人の胸を僅かに切り裂いた。
痛みに歯を食い縛りつつ、老いた郷士は剣を構え直す。
オークは若くて力も強く、元気一杯であった。
老人は起き抜けであり、まだ身体の反応が鈍い。
じりじりと押されて壁際にまで追い詰められる。
刃をかみ合わせたまま、若いオークが思い切って拳を振るった。
老人の額が強打に揺れた。
「……ううむ」
目に火花が散って、老人はくらくらとふらついた。
さらに拳が降り注いで、苦痛で呼吸が苦しくなり老人は口を開いて大きく喘いだ。
此処で死ぬのか。
無念に歯噛みした時、劣勢に陥った長老の様子を見て、若衆たちが駆けつけてきた。
「ッじい様、無事か!」
怒りの声と共に振り下ろされた棍棒がオークの背中を襲い、苦痛の叫びが上がった。
逃れようと身を捩ったところに二撃目が頬を砕いてオークが崩れ落ち、それを皮切りに村人達が数人掛かりで袋叩きにする。
「……おっ、御主ら。他のオークは……」
喘ぎながら壁により掛かった老人に、棒を担いだ若者が事情を説明した。
「こいつ以外のオークは、もう逃げ出したぜ」
「そっ……そうか」
視線を転じると地面の上に動かなくなったオークが二人、体を捻じって転がっていた。
疲労感がどっと押し寄せてきた老人は、そのままずるずると地面にへたり込んだ。
「それで奴らの逃げ出した裏手の方だがな……柵がぶち破られていた」

怪訝そうな若者の言葉も、老人の耳には右から左で素通りで届かなかった。
肩を竦めた青年を疲れきった目でよぼよぼと眺めてから、老郷士は溜息を洩らして地面に俯いた。
疲れていた。兎に角、休みたかったのだ。

袋叩きに合っていた若いオークは、苦痛の叫びを上げながら頭を抱えて必死にもがいていた。
「ぐあ、うお」
地面を四つん這いで這いながら何とか包囲を抜けだすと、そのまま村の外を目指して走りだす。
「まてこらぁあ」
怒り狂って追いかけてくる村人から逃げようと若いオークは死に物狂いで走るが、どこかで挫いたのか、びっこになっている。
「ひい!兄貴!助けてくれ!兄貴!」
「死ねや!オーク!」
逃げながら叫んでいるオークに追いついた農夫の一人が、手にした棍棒を振り下ろそうとして

人が跳んだ。
地面と水平に十五歩ほどの距離を飛んでから、隣家の壁に叩きつけられた。
何故、誰も気づかなかったのだろうか。
オークの真横の民家の壁には、大穴が空いていた。
そしてその大穴から、巨大な棍棒を手にした人影がゆらりと姿を現す。
村人たちは、誰もが遠巻きにしながらぽかんと口を開けて人影を見る。
喜色満面のオークが涙を流しながら、拝むように人影の足元に跪いた。
闇夜に巨大な影は、毛皮を纏っている。
ヴェルニアにおける庶民の平均身長が五尺少し(150~160cm)の時代。
背丈が優に六尺以上の巨漢を前にして、村人たちは天を衝くような巨人が出現したような錯覚を覚えた。
腕や太股の太さ、身体の厚みとなると倍もあったかも知れない。
手にしているのは、信じられないほど巨大な棍棒。
到底、まともに振るえるとは思えない其れを右手だけで握っている。
あんなものに殴られたら、どんな頑丈な大男も一溜まりもあるまいと思えた。
左の肩には子どもと親ほども体格が違う村人の娘を、荷物のように担いでいる。
娘は全裸であった。失神しているのか、ぐったりとしていた。
人影は村道まで出てくると、一瞬だけ村人たちのほうへ一瞥をくれた。
星明りが巨大な人影の顔を照らし出す。
邪悪さの滲み出た醜悪で恐ろしい異形の容貌、口からは猪のような大きな牙が上向きに突き出していた。
それだけで老郷士も村の若衆も震え上がってしまい、戦おうなどとは考える事も出来なかった。
ぐったりとした若い娘を肩に担いで、巨大な影は柵の破れた処から悠々と闇の中へ消えていった。
びっこをひいたオークが、その後を追っていく。
誰も後を追わなかった。
「なんだ、あれは」
若い農夫の一人が喘ぐように呟く。
「オークではない」
荒い息をつきながら、老人がその言葉を繰り返していた。
「あれはけしてオークなどではない」
若い農夫が目をやると、胡麻塩頭の老人は血の気の失せた青白い顔で呟いた。




[28849] 41羽 土豪 04
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:62047aa8
Date: 2012/12/03 20:33
鍋で沸騰している湯に塩と雑穀を入れた。
雑穀をかき混ぜながら、頃合を見て小刀で食べ易い大きさに刻んだ蕪を入れる。
よく煮込んだお粥を鍋から木皿によそい、切り刻んだ玉葱をオリーブ油と塩で金色になるまでよく炒めたのを加える。
女剣士は強い塩味が好みなので、湯気を立てている粥に香り付けと味付けとして香草と一つまみの塩をもう一度振りかけて出来上がり。

『竜の誉れ』亭の一番上等な個室の暖炉の傍らで、二人の娘が昼食を取っていた。
塩で味付けした温かい粥には、切り刻んだ野菜と香草が浮かんでいる。
主食は団栗を灰汁抜きしてから石で砕いて粉末にし、雑穀を繋ぎにして焼いたパンである。
これを粥のスープにつけて食べると、それほど不味くない筈であったが、どうやら黒髪の女剣士にはお気に召さなかったようだ。
「……肉が食べたい」
膿んでいた傷も順調に癒えている。女剣士はもはや高熱を出す事もなくなり、旺盛な食欲が戻るにつれて、しかし食べ物の好き嫌いが露骨に激しくなっていた。
エルフの娘が溜息を洩らして小声で言った。
「この人は……また贅沢な事を」
「血が足りない。肉を食べたいと身体が求めているのだよ」
呆れたような半エルフの言葉に、黒髪の娘は匙を振りながら断固として反論した。
雑穀の粥ばかりでは力がでない。
そうほざいた連れの為に態々、旅籠の台所を借りてエルフ娘が作ったお粥だった。
流石に腹立たしさを抑えかねた様子で、翠髪のエルフは頬を微かに痙攣させながら、鍋で煮立っているお粥を一瞥した。
「私は貴女の使用人ではないよ。お気に召さなかったなら、食べなければいい」
「いや、君の料理は美味しいぞ。素晴らしい。ただ、血が足りないのだ」
料理に文句を付けた癖にあっという間に粥を平らげておかわりをよそっていると、女剣士の図々しさに呆れたのか。馬鹿馬鹿しくなったのか。
女剣士に少し疑わしげな視線を向けながら、エルフ娘は渋々と矛を収めた。
「……アリア、意外と性格が悪いな」
嘆息混じりのエルフの言葉に気を悪くした様子もなく、女剣士は真っ直ぐな視線で見つめると笑顔を浮かべて切り返した。
「そうかも知れぬ。だが、君はいい奴だな」
素直に受け取れば、人柄を称賛しているとも取れるし、
「お人好しと言いたいのかな?」
どちらとも取れる言葉に、エルフ娘は何処か疑わしげな視線を返した。
女剣士は苦笑すると手を伸ばしてエルフの手に掌を重ねた。
そのまま軽く握りしめると、指と指を絡め合って握り合う。
頬を染めたエルフ娘が照れたり、俯いたりして食事の手を止めている合間に、
女剣士は五人前は在る鍋のお粥を何度もおかわりして一人で平らげてしまった。

廊下から重たい足音が近づいてくる。
扉から入ってきたのは旅籠の親父であった。
手のお盆には、ワインの入った素焼きの壷と真鍮の杯を二つ乗せている。
此の時代の飲み方は、甘さの残るワインをお湯で割って暖めたのが主流である。
「ご注文のワインでさぁ」
女剣士が優雅な足取りで近寄ると、ワインを受け取りながら
「水で薄めてないだろうね?」
心外そうに目を見開いて、肥満した親父は両手を広げた。
「勿論でさ。此のバウム親父は……」
「正直で知られているんだろう。さあ、代金だ」
ワインを卓に置くと数枚の錫銭と鉛銭を手渡してから、ふと思いついたように言い渡す。
「親父、夜は肉料理を出してくれぬか?」
「肉ですかい?ですが……そりゃあ」
バウム親父は渋った顔を見せて視線を彷徨わせている。
「無いという心算か?在るだろう?此の手の旅籠には、こう取って置きの肉が。
腸詰とか、塩漬け肉とか、干し肉とか、仕舞ってある筈だ。
知ってるのだぞ。さあ、出せ。勿論、只でとは言わぬ」
女剣士は、大振りの銅貨を財布から取り出した。
フェレー貨と呼ばれる南大陸で鋳造された価値の高い貨幣である。
先程、払った小銭とは比較にならない価値を持つ。
金払いのいい上客を相手に、旅籠に肉が無い筈もないのに親父は妙に渋っている。
「まさか足りぬという心算か?」
流石に女剣士の声が剣呑さを帯びると、じっと睨まれた親父は困ったように弁解を始める。
「それがですね。お嬢さまにお出ししたいのは山々ですがね。
つい先日まで南方人の商人の一行が泊まってまして、全部、喰っちまったんですよ
で、実は近くの農園から肉を仕入れていたんですが、どうもオークに襲われたらしくて……」
額に汗を浮かべている親父を前に、
「……そうか」
粘るかと思いきや、溜息を洩らして女剣士は寝台に突っ伏した。
親父が退室すると、エルフの娘は暖めたワインを啜りながら女剣士に歩み寄った。
「諦めなよ。魚なら何とか河沿いの村で仕入れてくるからさ」
つまらなそうにしている顔を覗き込んで言うと、下から見上げていた女剣士が名案が浮かんだかのように朗らかな笑顔を浮かべていた。
「然り!無いなら仕入れてくればいいのだ」

川辺の村落から若い農民の兄弟と連れが旅籠にやって来たのは、丁度、昼頃になる。
宿の娘に北の農園の位置を聞いたエルフ娘と女剣士が、出掛ける寸前であった。
旅籠の玄関に面する食堂を兼ねた玄関広間に、五、六人の若者が集って何やら話している。
兄弟にしては多いから、友人知己も混じっているのだろう。
六尺棒や棍棒、鎌などの得物を手に手に、顔に青痣や擦り傷を拵えた若い村人を取り囲んでは、心配する者もおり、殺気立った様子で猛っている者もいた。
「奴ら、ぶっ殺してやる」
物騒な言葉を口走っている青年と襲われた友人を見比べて、痩せた農民が言った。
「落ち着けよ。しかし、酷い目に合ったなあ」
「物騒だ。暫らくは一緒に行動した方がよかろうよ」

エルフの娘が傍らを通り過ぎる際にちらと視線を向ければ、気勢を上げている村人たちには何かしらの怪我をしている者も多かった。衣服は何処かしらが破れ、或いは血に滲んでいる。
恐らくは、先日のオークの襲撃で手傷を負わされ、気が立っているのだろう。

外に出ると風が砂埃を巻き上げていたが、太陽は中天にあってよく晴れている。
大気は冷たく澄んでおり、旅立ちには良さそうな日に思えた。
エルフの娘は旅籠の外で立ち止まると、友人に目を向けた。
「まだ、危ないのではないかな」
気が進まない様子のエルフ娘に、女剣士が快活そうに笑いかけた。
「今度は近くだ。様子を見て危険そうで在ったら直ぐに引き返せよう」
「最近、ここら辺は危ないよ。もう、ティレーまでさっさと行った方が良くないかな?」
「心配するな。あんな大勢のオークとの遭遇が、二度も立て続けにある筈ないだろう」
黒髪の娘が気楽に請け負う傍らで、エルフ娘は尚もぶつぶつ言って渋っていたが、鼻歌を唄いながら黒髪の娘が歩き出すとその背中を追いかけ始めた。

この時代のヴェルニアにはよくある話ではあるが、行き倒れているところを拾われた者が助けた相手に対して奴隷や召使となって仕えるというのは、さして珍しい事ではない。

基本的には助けた側の人格に拠るところが大きいが、行き倒れているのは大抵が寄る辺もなく地を彷徨う浮浪者や貧しい旅人であったし、
一方でわざわざ他人を助ける余裕を持っている者となれば、他者を養えるだけの財産を持つ富農や郷士、豪族が多かったからである。

勿論、行き倒れを見つければ、己が貧しくても介抱する善良な人間も少なくなかったし、
また、行き倒れている者のうちには、目的地に行く途上に偶々道に迷うか、運悪く病で躰を壊してしまった旅人、
誰かに仕えて安定した生活を送るよりも、貧しくとも自由な漂白の旅を好む物好きな放浪者もいた。
本人に些かの心の満足を残して無償での人助けとなる事もあれば、助けられた者が代価に幾ばくかの銭や食料を手渡すなり、しばし労働で奉仕するなりして、恩人に報いようとする事も多かった。

一方で、世の中には善良な人間が少なからずいるのと同時に邪な輩が絶えることもない。
性質の悪い富農などのうちには、財産を増やす為に気分を悪くして道端で休んでいただけの近隣の農民を強引に浚ってきて、無理矢理に恩を被せて奴隷とし、庇護者である別の豪族と争いになるような輩もいた。

しかし、元より大半の人々の生活に余裕が存在しない時代と場所である。
蓄えも少なく、ちょっとした飢饉や旱魃で貧しい人々は容易く飢えに陥った。
オークの襲来に住処を追われた人々は、近隣の豪族の土地へ転がり込んでいく。
たとえそれが自由民からの転落を意味するとしても、人々は藁にも縋りつく思いで差し出された手に縋りついていた。
生活の面倒を見てくれる人間に拾われるのならば、そのまま飢えて死ぬよりは奴隷となるのもそれほど悪い話では無かったのだ。

辺境南部の有力豪族の一人、クーディウス氏に『仕える』奴隷。
数日を屋敷で過ごすうちに察したところでは、どうやらそれが赤毛の娘の今の立場であるらしい。
元より土地の言葉も喋れない、みすぼらしい身なりの異民族の娘。
訳の分からない言葉で何かを訴えているとて、一体、誰がまともに話を聞くだろうか。

クーディウス氏の奴隷の扱いは、過酷でもなければ寛大でもない。
少なくとも奴隷の生活には責任を持っていたし、一方で拾われた者が奴隷として扱われるのが嫌なら出て行く自由もあるのだ。
例え、それが野垂れ死と同義であるとしても。

大きな屋敷だった。
裕福なことで知られているモアレの村にも、これほど大きな屋敷を構えている者など居はしない。
村の中心にある屋敷には、使用人も含めて恐らく三十人以上の人間が暮らしている。
奴隷はその半分ほどの人数だろう。
裕福な事で知られていたモアレの村にも、これほど大きな建築物は存在しない。
堀と塀に囲まれた広大な敷地と草葺屋根の横長な屋敷は、一見、まるで砦のよう。
家畜小屋や大足鳥や馬がいる厩舎、納屋など複数の建物が並んでおり、隅には粗末な奴隷たちの小屋がぽつねんと建っている。
門は何時でも開いており、助けられた者が奴隷となることを嫌った場合、二、三日中なら出て行く事も出きた。
赤毛の奴隷娘と同時期に拾われたある農民一家も、奴隷になる事を嫌って立ち去った。
立ち去る時には幾ばくかの食料を与えられたものの、田畑も蓄えも失った状況である。
三日後、食料を食い潰した一家が、再び助けを求めて戻ってきたが今度は門に入る事を拒まれた。
飢えた妻と乳飲み子たちを傍らに、切羽詰った父親は最後には奴隷として使ってくれるよう懇願し、家族丸ごと頑丈な革の首輪を嵌められて下級の奴隷に落とされた。
こうなると彼らは豪族の『所有』する財産であり、もはや土地を自由に行来する権利も失われるが、それでも飢えて死ぬよりはましなのだろうか。
生きていく当てもない。かといって奴隷にもなりたくない。
そう考えてクーディウス氏の村から食料を盗んだ別の男は、捕まって牛馬のように焼印を押され、最下級の奴隷へと落とされた。

一口に奴隷といっても、その内訳は千差万別。様々な立場がある。
便宜上に自由民奴隷、財産奴隷、家畜奴隷とでも名付ければ、赤毛の娘の身分は、使用人に近い自由民奴隷の最下層だろうか。
使用人たちや代々の農奴、他の自由民奴隷たちから見下されているが、首輪もつけていなければ、焼印も押されていない。
普通、言葉の通じぬ異民族が奴隷となれば、よくて財産奴隷。悪ければ家畜奴隷の扱いであるから、
クーディウス氏の無関心と紙一重の寛大な扱いには、皮肉ではなく感謝するべきだろう。
出自も分からぬ異民族の娘など、もっと悪い立場に落とされることもありえたのだ。


兎にも角にも屋敷から出て行かない以上、奴隷として扱われることに同意したと見做されるのが慣習法である。
薪拾いや穴掘り、排泄物の処理、荷運び、家畜の世話、柵の修繕、草葺屋根の材料集めと補修、縄作り、洗濯。
奴隷頭の監督の下、赤毛の娘は毎日を忙しく立ち働いている。
仕事はそこそこに厳しいが、それほど長時間を働く訳ではない。
労働の報酬に与えられるのは、屋根のある寝床と家畜の餌のような味付けも殆どない雑穀の粥であった。
到底、足りないので、奴隷たちは外働きの時や自由時間に胡桃や木の実を拾って来る事で飢えを癒していた。
仕事は辛かったが、今の時点で屋敷を出て行く訳にはいかない。
生活の為ではない。何とかして主人である豪族に接触し、北方で起こった危急の事態を伝えて、救援の軍勢を出してもらわなければならないのだ。
辺境の村人にしては比較的、教養もあり、柔軟で想像力に恵まれた赤毛の娘は、此処までは状況の激変を冷静に観察し、曲がりなりに対応して生き残ることが出来た。
とは言え、逆に言うと生き残っただけであり状況は行き詰っている。
クーディウス氏の土地では、大勢の奴隷を所有する豪族と奴隷の差は絶対的なものであり、どうやら一介の奴隷では主人と自発的に接触する事さえ許されないようなのだ。
自由民が多く、買われてきた奴隷もあまり主人と変わらない生活を送っていたモアレの村人である、人が家畜に準じる扱いを受けるのを実際に目の当たりにしてかなりの衝撃を受けた。
前もって旅人から聞いた噂話や風土記でそういう土地も在ると読んでなかったら、さすがに赤毛の娘も目の前の光景の意味を理解できずに挫けてしまったかも知れない。

屋敷には大勢の奴隷がいるが、身分によって立ち入れる場所は厳しく制限されている。
なので、まずは言葉を覚えなくてはならなかった。
幸いにして北方語も南方語も、原ヴェルニア語を元に成立した同系統の言語である。
文法も、接続詞も、語尾の変化形も殆ど共通。
文字は周囲の人間が読めないので、通じるかどうかは分からない。
辛うじて知っている幾つかの単語を地面に書くことで意思疎通を図ったが、面妖なまじないだと思われて奴隷頭に殴られた。


厩の片づけを終えてから水を汲んでいると、太った中年の女が寄って来て、山と詰まれた汚れた服を指差した。
「……セ……」
「はい、洗濯ですね」
北方語で元気よく返事すると、籠に服を詰めて他の女達と一緒に井戸へと向かう。
冬の井戸水は恐ろしく冷たい。
「ツメタイ!」
此の数日で覚えた南方語で叫ぶと、周囲の女達が一斉に笑った。
吐息は白い輪を形作り、次の瞬間には大気に溶けていった。
手を悴ませながら、柔らかく揉み洗いする。
周りの女が何か喋って、笑い返してくる。大分、打ち解ける事が出来たようだ。
赤毛の村娘は、何かの機会がある度に熱心に話しかけて、言葉を覚えようとしていた。
笑顔を絶やさずに兎に角よく働き、話しかける。単語を覚えては、繰り返した。
言葉も碌に喋れない馬鹿扱いだが、気にせずに微笑みながら頷いて、単語の意味と発音を脳裏に刻む。
どうやら自分が南の土地の豪族に拾われたらしいと最初の日に察し、今はクーディウス氏の屋敷にいる事、一族が周辺一帯でも有力な豪族の一人である事を理解していた。

最初は、訳の分からない言葉を話す気違いではないかと思われていた節もある。
赤毛の娘は名前を知らせる為に、己を指差して「ジナ」そう繰り返した。
そして北のほうを指差して「モアレの村」と告げた。
それでどうやら北方人らしいと分かってくれたようだ。

狭い村だけを世界として生まれ育った者のうちには、異なる言葉の存在さえ想像付かない人間もいる。
そうした人間からは、全く違う言葉を話す人間などが時として未知の怪物に見える事も間々あった。

異民族への恐怖は、あながち偏見ではない。
絶え間ない異民族の脅威に脅かされている土地。
例えば悪名高きシレディア人の襲来と略奪に晒されているアーネイなどでは、人々は異民族をすべからず悪鬼の如き存在だと思い込んでおり、異民族と見るや凄まじい敵意を見せると、パシティウス著の『風土記』、各地の風土を纏めた本で読んだことがあった。
だから馬鹿の方がいい。赤毛の娘はそう思う。
少なくとも、胡散臭い余所者や侵略者の一党と見做されてリンチに掛けられたりしないからだ。

赤毛の娘の生まれたモアレ村は、北方系の移民の子孫である。
此処はきっと南方系の移住者の子孫なのだろうと彼女は推測していた。
南方人と北方人では、同じヴェルニア文明圏といっても話し言葉がかなり違う。
勿論、ヴェルニア圏外と比べれば、所詮は方言レベルの差異であるが、単語やイントネーションが違えば意志の疎通は中々に困難である。
先日に出会った女剣士は東方人で、東方語は南方語と北方語の丁度、ちゃんぽんのような言葉であったから意志の疎通は充分に出来た。
ただ、閉鎖的な土地と開放的な土地などでは、同じ言葉もまた変化し易さが違う。
南方人と南方人、北方人と北方人でも、場合によっては方言が違いすぎて会話が通じない。
人の交流の途絶えがちな辺鄙な場所など、村ごとに孤立してる土地では、隣村とで話し言葉が異なる事も珍しくない。

まずは北方語を喋れる人を探したいが、連日、休みなく働かされておりその隙もない。
余った時間はつい休息と食べ物集めに使ってしまい、村の内部も碌々見て廻る事さえ出来ないが、働いている屋敷の主が相当に有力な豪族であるのが分かっただけでも今は収穫であった。
村で助けを待っている妹が無事か如何かさえも分からない。
時に胸に吹き出す焦燥に叫びたくなる時もあるが、せめてそう思いたかった。

誰かが喚きながら女たちの洗濯している中庭にやってきた。
中年の貧相な男が周囲を見回すと、偉そうに母屋を指しながらいきなり怒鳴り始めた。
うんざりしたようすで太った女が何か言い返してきたが、貧相な男が何かを言うと渋々頷いた。
中年女の指示で、女達は洗濯物を持って立ち上がると裏庭へと歩いていく。
赤毛の娘が同じように洗濯物を籠に入れて歩き出そうとしたとき、中庭に大足鳥に乗った若者に率いられた数人の兵士が入ってきた。
誰も彼も酷く疲れきった表情を浮かべて、足を引き摺るようにして入ってきた一行は、そのまま中庭に散ると力なく木材に腰掛けたり、地べたにしゃがみ込んで俯いている。

気にはなったが、現時点で意志の疎通が出来ないのであれば、接触しても無駄かも知れない。
疲れた様子の兵士達が井戸に群がって我先に水を飲み始めたので、好都合だと邪魔にならない程度の位置で人影に移動した。
万が一、見咎められて奴隷頭の鞭を喰らいたくはないので、指示の言葉が聞こえなかった振りをして洗い物を続けながら、そっと耳を欹てて様子を観察するに止める。

毛織物の暖かそうな服を纏っている栗毛の娘が屋敷から出てきた。
騎鳥から降りた若い金髪の青年に話しかける。
「お帰りなさい、弟くん」
南方語の『おかえりなさい』は、北方語でも「おかえりなさい」の意味だった。
『弟くん』は、青年の名前だろうか?それとも無事でよかったの意味?
赤毛の娘が注視している最中、娘はおっとりとした優しげな顔つきで、心配そうな表情を浮かべて若者に何やら語りかけている。
「ただいま、姉さん」
「弟くんは疲れた顔をしているね。無理をしてはいけないわ」
二度繰り返したところから、恐らくは名前だと赤毛の娘は推測する。
弟くん。重要人物らしい。じっと見つめて容姿と名前を脳裏に刻む。
クーディウス一族の子息だろうか。
「酷いものだ。オークの襲撃で何人も……」
青年の笑みは強張っている。
確かに聞いたオークという単語に、赤毛の娘の心臓が高鳴った。
息を飲んで耳を済ませる。
恐らくはオークの襲撃された土地を見て廻ったのか、それとも小競り合い。どちらだろうか。
土器に入った洗濯物を掴んで手を機械的に動かしながら、会話を聞き取ろうとする。
貧相な中年男が残っている赤毛の娘の姿を見咎めたが、青年をちらちら見ながらも真面目に仕事をしている様子を目に留めると、馬鹿にしたような、少し生暖かい笑顔を浮かべてから屋敷のほうへと歩いていった。

顰め面を浮かべていた青年が、ふと中庭を見回した拍子に姉弟を凝視していた赤毛の娘と視線が交差した。
疲労で強張っていた表情にぎこちない笑顔を形作ると、青年は井戸の傍にまで歩み寄ってきてから、自分が拾った赤毛の娘に涼しげな声で語りかけた。
「元気そうだな。此処には馴れたか?」
栗毛の女性は、少しだけ不思議そうに兄と親しげにしている奴隷娘を眺めていた。
何を言われているか理解できない赤毛娘は、立ち上がりながら首を傾げている。
「調子は如何だ?」
調子を尋ねているらしい。或いは、この人が助けてくれたのだろうか。
窺うような赤毛娘の用心深い視線と、青年の疲れたような眼差しが交差した。
話しかけてくる処を見るとそうかもしれない。悪い人ではなさそうだ。
「『弟くん』様。助けていただいてありがとう御座いました」
偉そうな人たちだ。
北方語交じりの拙い南方語で言葉を紡ぎながら、己の胸の上に掌を添えて、恭しげに丁寧な礼をする。
此処で良い印象づける事ができたら、豪族の首領まで話が持っていけるかもしれない。
「……君は」
「……此の娘」
二人とも、あれっという困惑したような顔を浮かべた。
「弟くん様に拾っていただけなければ、私は死んでいたでしょう」
男女は沈黙して聞いている。もしかして北方語が分かるのだろうか。
「もしや、北方語がお分かりになりますか?あの……私の村。モアレの村がオークに……」
思わず北方語で訊ねると、返って来たのは意味の分からない南方語だった。
「何を言ってるんだか、分からんよ」
「にっ、弟くん様だって。おかしいっ。此の娘、弟を名前だと思ってるのよ!」
二人が可笑しくてならないという様子で腹を抱えて笑っている。
赤毛の娘は期待が萎んで、がっくりして肩を落とした。
急に泣きたい気持ちが沸いてきたが、此処ではまずい。
笑顔を浮かべてもう一度一礼すると、洗濯物の入った籠と土器を抱えて、裏庭に駆けていく。
「あ……ちょっとま……」
呼び止められていたようだが、もう駄目だった。涙腺が崩壊した。
張り詰めていた気持ちが弾けて、誰もいないところまで走って納屋の壁に寄りかかると、赤毛の娘は掌で顔を覆ってぼろぼろと涙を零した。
みっともない……自分は何をしているのだろうか?
こんな処で奴隷になって、のんびり言葉を覚えてから訴えかけようなんて正気なのだろうか。
やはり、ローナに行くべきだったのではないか?
いいや。強力なことで知られる南の土地の豪族たちだ。
急を知らせて協力を仰ぐのは、けして悪い考えではない。
他の北方系の町や村は遠すぎるし、南の豪族たちとはずっと前に助け合ったことが合った。
だから、頼りにするのは間違いではない。
事態は刻一刻を争う。今さら他の手を模索している暇もない。
でも、それを言うなら初めから南方語を喋れる村人が知らせに来れば……
私に使命をこなせるのだろうか。
啜り泣いている赤毛の娘には、村の何処かに残してきた妹のことやら、様々な可能性やらがぐるぐると渦を巻いて頭のうちを廻っていた。

しゃがみ込んで静かに嗚咽しているうちに、ふっと影が差した。
赤毛の娘が気づいて顔を上げた時には、数人の男が周囲を取り囲んでいた。
粗暴で粗野な雰囲気を纏わせて、口元には歪んだ笑みを浮かべた他の奴隷たちだ。
「そんなに若旦那がいいか?」
「よう、振られたな」
「俺達が慰めてやるよ」
殆どが若いが、中年や老人も混ざっていた。口々に北方語で何か言ってる。
半ばしか聞き取れないものの、何を望んでいるかは一目瞭然だった。
迂闊と思う。胡乱な視線には薄々気づいて用心していたのに、隙を見せてしまった。
困惑と微かな恐怖。おぼろげにしか言葉の意味が分からないのが一層の恐怖を誘う。
赤毛の娘は、瞬時に逃げだそうと判断して走り出した。
地面すれすれで足元を抜きかけるも、素早く伸びてきた手に腕を掴まれ、あっという間に納屋に引きずり込まれる。
藁を積んだ納屋の地面に押し倒された瞬間、埃っぽい塵が空中に舞った。
「女ってのは金と顔に媚びやがる」
赤毛の娘の躰を押さえつけながら、奴隷の一人が勝手な事をほざきはじめた。
「若旦那にゃ相手にされねえよ。より取り見取りだからな。おまえも俺たちと仲良くしろよ」
赤毛の娘の顔を撫でながら、大柄な若い奴隷が口元を邪まに歪ませる。
「此の顔だ。そのうち使用人の誰かとくっつくに違いないぜ。その前によ」
「いつもいつも、あいつらに女を取られてたまるかよ」
笑った奴隷が驚いたように手を離した。
赤毛の娘は滅茶苦茶に暴れて、手がつけられない。
思い切り息を吸い込んでから悲鳴を上げる。頬を張られた。だが、怯まない。
オークに殺されかけた。目の前で両親と友人が殺された。こんな程度で怯む筈が無い。
何に怒っているのか。何に抗っているのか。
自分でもよく分からないままに怒ったように、抗うように叫び続ける。
「誰か口になんか突っ込め!」
声を出せなくなったらお終いだった。
頬を叩かれても怯まずに、目の前で拳を滅茶苦茶に振って叫びながら抵抗する。
この。振り下ろされた奴隷の拳が娘の顔に入った。娘が蹴り返した。
こんな処で食い物にされる立場に陥る訳にはいかない。妹を助けられなくなる。
黙っていた大柄な奴隷が思い切り腹を殴りつけた。息が詰まって、声がでなくなる。
二発、三発。遠慮呵責の無い繰り返しの打撃に身体が赤毛の娘の海老のように跳ねた。
「……お、おい」
脅えたように奴隷の一人が言うも、大柄な奴隷は鼻を鳴らして笑う。
「静かになったぜ。口に布を詰めろ」
赤毛の娘はひゅーひゅーと荒い息をして弛緩した躰をぐったりと地面に横たえている。

……畜生。またか。
赤毛の娘が諦めかけたその時、納屋の入り口から声が掛けられた。
「何をしている」
声の主を直視して、振り返った奴隷たちの間にあからさまな動揺が走った。
「……わ、若」
「これはッ」
奴隷の大男がのっそりと立ち上がった。
「お楽しみでさあ。奴隷にもそれくらいは許されるでしょうが」
一人、入ってきた若者を介さない様子で真正面で相対し、険悪に睨みあう。
「それとも横取りですかい?」
下卑た笑みを浮かべて、
「いい女だからってそりゃないでしょうよ」
若者がチラリと床の赤毛娘を見てきた。迷わず救いを求める。
「……たっ、たすけて。たすけてぇ」
「下衆が。とっとと失せろ。ギーズ」
青年の言葉に大柄な奴隷の額に青筋が浮かんだ。
拳を握り締めて血走った目で栗毛の青年を見下ろした。
とばっちりを恐れたのか。一人の奴隷が卑屈に頭を下げてこそこそと出て行く。
「すみません。」
それを皮切りに他の奴隷も立ち去り始めた。
残っているのは娘と若者。そして大柄な奴隷の三人だけであったが、主人の息子を睨みつける屈強の奴隷の視線には、怒りと不満がありありと現れていた。
栗毛の若者は闘争に備えて何時でも動けるよう、肉食獣のように腰を落として大柄な奴隷を油断なく睨みつけている。
二人の若者の間には緊張が張り詰めていたが、やがて奴隷の青年は肩を竦めて、大股に歩き出した。
すれ違い様に赤毛の娘の腕を掴み、
「おい、妾になんざなってもいいことなんざねえ。どうせ使い捨てだ。
夢見るのは勝手だがな、奴隷は奴隷同士が幸せだ。覚えておけ」
怒りに燃える瞳で睨みつける赤毛娘に囁くように告げてから、納屋を立ち去った。

溜息を吐きつつ、栗毛の若者は緊張を解くと、床に転がって鼻血を流している娘を眺めた。
「大丈夫か?」
訊ねてから何かに気づいて、不快そうに眉を顰めた。
「……お前は、さっきの中庭にいた奴隷女か」
赤毛の娘は気持ちを立て直すと、起き上がりながらもごもごと礼を言う。
「奴隷同士とは思わなかった。大声で騒いでいたから見に来ただけだ。
普通、ギーズに逆らう奴隷は余りいないがな」
如何でも良さそうに言ってから、若者が問いかけてきた。
「……そんなにパリスがいいか? それほど魅力的に見えるのか?」
赤毛の娘が質問の意味が掴めずに困惑の眼差しを返すと、如何受け取ったのか。
「なんでもない」
それだけ言い残して、足早に納屋を立ち去ろうとするので袖を掴んだ。
「パリス、ありがと。パリス」
北方訛りの入り混じった拙い南方語で精一杯の感謝の言葉を伝える。
「……なんだ、お前。言葉も分からんのか」
栗毛の青年はやや鬱屈の晴れた顔で、淡い灰色の瞳に微笑を浮かべた。
「馬鹿、俺はパリスじゃない」
言って袖を払ってから、若者は小さな布切れを渡してきた。
「顔を拭け。今日はもう休んでいい」
受け取った布で顔を拭きながら、赤毛の娘は起き上がる。
もう大丈夫だと見たのだろう。納屋から立ち去る青年は後も振り返らなかった。
とりあえず人目のある所へと行こうと考えて納屋から出ると、服から奇妙な音がした。
見下ろして服の状態に気づく。彼方此方引っ張られて布地が伸びて傷んでしまった。
腰布と褌を除けば、唯一の着物である。
「……これ一着しかないのに」
おまけに嫌な奴に目を付けられてしまったらしい。
次々と沸き立つ悩みが心に圧し掛かって、赤毛娘は難しそうに眉根を寄せていた。
若い娘が抱え込むには重たい悩みであったかもしれないが、やがて気を取り直して顔を上げる。
彼女の行動には、モアレの村人たちの命運が掛かっている。
小さな事でくよくよ悩んでいる暇などなかった。



「食べ物の為に危険を侵すなんて正気じゃないよ」
「肉を食べんと如何も力が出ないのだ」
曲がりくねった細道や獣道を進みながら、二人の娘は話に聞いた農園を目指していた。
街道付近から遠ざかるにつれてのどかな田園風景は消え去り、変わって雑木林や潅木の生えた丘陵や荒地が増えていく。
オーク達が住まうと噂される丘陵地帯に近づく事がエルフ娘には気に入らない様子であったが、女剣士が構わずに進むので一人で行かせる訳にも行かずについていく。
半刻ほどのんびりと歩いて丘陵の勾配を登りきると、降ったところにある雑木林が途切れた先に建築物が在るのが目に入った。
坂道から遠めに窺う草葺の建築物の周囲には、野菜や穀類の畑が広がり、柵と濠が張り巡らされている。
「見えてきたぞ。あそこであろうよ。行ってみよう」
凄く嫌そうな顔をしてエルフの娘が頭を振った。
「……オークが出るかも」
「大丈夫、オークの縄張りに近いといっても、人族の勢力圏内だ。
先日のモアレと違い、小さな農園。落としたからといって留まるだけの価値もない」
自信満々な黒髪の女剣士に切れ長の深い蒼の瞳を思わしげに向けて、エルフは考え込んだ。
「……でも」
「境界ぎりぎりで人族の領域だぞ。何時、豪族の兵が奪回に現れるかも知れない。
立て篭もれるだけの防備もない小さな農園で、目ぼしいものは略奪したのだ。
もっと価値のある拠点なら兎も角、オーク共が何時までも利用価値のない廃墟に拘泥して愚図愚図している筈はなかろう?」
女剣士にそう説明されてみれば、筋道は立っているように思えてくるのが不思議でもある。
頷きつつも、歩きながらエルフ娘は反論してみた。
「手に負えないほどのオークがいたら?」
「何の為に?」
「例えば……そう、豪族の郎党を誘き寄せて待ち伏せする罠とか」
ふっと鼻で笑われた。
「何時、何人来るかも分からん敵を相手に、ずっと兵を張り付かせるのか?」
軍隊の動きや行動原理なんて分かる筈もない。
エルフの娘がちょっと悔しげにして舌打ちすると
「だが、いい線だ。境界沿いの兵の動きを見張る為に、幾匹かいるかも知れぬ」
褒めてるのか貶しているのか、頤に指を当てて女剣士も考え込んだ。
「無論、万が一という事もあるから慎重に様子を窺うさ。
なに、心配するな。街道のすぐ近くだ。気配が在ったら逃げればいい」


念の為に長剣を抜きながら女剣士だけが慎重に農園に近づいてみると、建築物の半ばが焼け落ちているのに気づいた。
柵のところまで近づくと、地面には農民とオークの死骸が転がっているのが窺えた。
襲撃とそれに続く戦闘の痕跡は残っているものの、やはり生きてるものの動く気配は全く感じられない。
もう大丈夫だと見て取って、後方にいるエルフ娘を手招きしてから、女剣士は大股に歩き出した。
濠は近くの池から水を引いているらしい。
澱んだ水をなみなみと湛えた濠の水面が、吹きつけた風に僅かに揺れて漣を形作った。
「汚い水だ。飲めそうに無いな」
一瞬だけ濠を覗きこんで何気なく呟いてから、黒髪の娘はふと首を傾げる。
「何を考えて濠なんぞ造ったのだろう?此の浅さでは敵を防ぐ事もできぬだろうに。
到底、労力に見合うものでも無かろう。畑の水路代わりか?」
翠髪のエルフが目を細めてしゃがみ込んだ。
濠の形と切り出した石が敷き詰められた水路に視線を走らせてから、呟いた。
「多分、クレフェナ王国の遺跡だと思う。昔は水路だったのかも」
「……クレフェナ?」
女剣士にも聞き覚えがあったので、口の中で単語を転がしてから思い出して頷いた。
「ヴェルニアの先住民族の滅んだ王国か?」
エルフ娘も頷いて説明する。
「うん。古王国の荘園跡に住んで、そのまま古い施設を利用していたのかも。
 前に南で働いていた荘園がやはり古王国の土台を利用した形式だった」
そういった事柄が好きなのか、興味深げな淀みない口調だ。
「なるほどね。我らが父祖に追い詰められた連中は、各地に隠れ里をつくり隠れ住んだといわれてるが……ならば、此の一帯に他の遺跡があっても不思議ではないな」
女剣士は友人の説明に軽く頷きながら、農場を取り囲むように聳える丘陵に視線を走らせた
「丘陵地帯のオーク共も、クレフェナの城砦跡などに住んでいるかも知れぬな」
肩を竦めると、それきり女剣士は興味を失ったのだろう。
濠を見ることもなく、柵を乗り越えて農園内へと踏み込んでいった。
興味深そうにしゃがみこんでいたエルフ娘も、感慨深そうに濠をもう一度眺めてから、立ち上がって友人の後を追いかけていった。
二人の娘が立ち去った後、水を湛えた濠の水面は再び静けさを取り戻した。




[28849] 42羽 土豪 05
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:470093ea
Date: 2012/02/09 02:43
北からの冷たい風が狭隘な丘陵の狭間を吹きぬけて潅木の枯れ枝を揺らし、土埃を舞い上げた。
細い雲の彼方から太陽が淡い冬の陽光を、生々しい破壊の痕跡が残る廃墟へと投げかけていた。

オークに攻め滅ぼされたとは言え、農園は人族の勢力圏に位置していた。
万に一つオークが残っているとしても、大勢であれば気づくであろうし、少人数であればなんとでもなる。
荒れ果てた農園を探索中に不意打ちを受けるのは御免だったので、二人の娘はまずは農園を一回りして様子を見て廻ることにした。
崩れかけた建物の内部を窓からそっと覗き見たが、血糊の飛び散った薄暗い床には人族かオーク族の死体が転がっているだけで、遠目から見た通りに生きている者はもう誰一人見当たらなかった。
道の途中で頭蓋を砕かれ死んでいる茶色い番犬に目を留めてから、黒髪の女剣士が前髪をかき上げた。
「犬も死んでいるか。住民は一人残らず鏖殺されたのであろうかな」

一番大きな母屋の間口に廻った途端、半エルフが蒼い瞳を見開いた。
「キャベツだ!沢山ある!」
好物の発見に目を輝かせると、エルフ娘は畝を乗り越えてキャベツ畑へと乗り込んだ。
小振りなキャベツを小刀を使って根を千切りながら回収し、土を軽く払い落として次から次へと肩から下げた鞄へと入れていく。

整った容貌をふっと微笑の形に綻ばせながら、人族の娘は再び建物とその周辺の探索に戻った。
長靴で赤土を踏みしめ、抜き身の長剣を手に握りながら、人気の失せた農園を見て廻った。
人の気配は、その残滓すら建築物に感じられない。
農園の裏手は、小高い丘陵が崩れたのか。聳え立つ崖に面していた。
裏庭の外れにある井戸の近くで、農婦と犬が寄り添うようにして死んでいるのが見えた。
家畜小屋だろう別棟の小さな建物には、数頭の豚を飼っていたらしい。
微かに家畜の餌である木の実や雑穀が散らばり、地面には糞尿の痕跡が残っていたが、無数の足跡からしてオーク達が豚を連れ去ったようだ。
どうやら生存者はいなさそうだった。それに家畜も残っていないと結論付ける。
糞の臭いが漂っている家畜小屋を後にして、母屋の戸口の前に差し掛かると、
足元には粗末な布服を着込んだ農民が二人。死体となって壁際と地面に転がっていた。
頭を砕かれた農民は、ぞっとするような断末魔の形相で宙を睨みつけていた。

何が気になったのだろうか。
戸口の前の敷石を踏みしめながら立ち止まった女剣士は、扉へと向き直ると、黄玉の瞳に鋭い光を浮かべた。
「……ふむ」
壊れた扉をじっと見つめてから、傍らで倒れている農民に目をやり、再び叩き割られた木製の扉をまじまじと眺める。
やがて鋭い目を剣呑に細めると、まるで頑丈さでも確かめるかのように指を伸ばして扉に触れていく。

「大漁だった」
弾んだ声に女剣士が振り返ると、詰められるだけのキャベツを鞄に詰めたエルフ娘が近寄ってきていた。
嬉しげな顔をしているエルフの鞄から溢れんばかりのキャベツを見ると、呆れた様子で
「何だね、それは?キャベツなんか放って置いて肉を探したまえよ。肉を」
「これでいいのさ。それより、そっちはお肉は在った?」
問いに肩を竦めると、女剣士は無言で扉を指し示した。
「……これが?」
呟いたエルフの表情は、意味を掴みかねてやや困惑しているようであった。
「如何思う?」
平坦な口調の問いかけに、半エルフは南の海の色にも似た切れ長の眸を女剣士に向ける。
貧しい家では扉を手当てできずに、安い布を垂幕として入口を塞ぐことで防寒対策とするから、
そういう意味合いでは、分厚い頑丈な扉を据え付けられるのは大したものだと思えた。
「壊れているけど、分厚い扉だね。」
「そうだ。そしてどうやって壊したのだろうな?」
呟いた女剣士の声は深刻な憂いを孕んでいるように聞こえたので、エルフは気持ちを引き締めた。
樫製の頑丈な扉は、斧で断ち割った薪のように真っ二つに割れていた。
まるで凄まじい剛力の持ち主に力任せで引き裂かれたかのようだ。
「襲撃者の仕業であろうな」
前髪をかき上げながら女剣士は呟き、今度は地面の死体に視線を転じた。
倒れている農民は、頭頂部がぐしゃぐしゃに粉砕されていた。
割れた頭骨からは、白いゼリー状の脳漿が僅かに飛び出しており、
得物であったのだろう。死んだ男が手にしている錆びた中剣は、中ほどから刀身がへし折られていた。
もう一人。壁に叩きつけられて息絶えている若い女性の方は、肩口から胸板まで引き裂かれていた。
黄色い脂肪と赤い肉の入り混じった胸の中身は長時間の外気に晒されて幾らか黒く変色しており、四肢は壊れた人形のように捻じ曲がっている。
臭いはそれほどしない。冬以外の季節であれば、きっと蛆が湧いていたに違いない。
死後二、三日は経過しているだろう農夫たちの無惨な死体は、見る者に奇妙に生々しい印象を与えて、
少しだけ気分が悪くなったエルフの娘は二、三歩を下がってから小さく深呼吸した。

破壊された扉と農民たちの亡骸を見比べてから、エルフ娘は死者たちの冥福を願い、祈りを捧げた。
祈り終わった半エルフの瞳が、女剣士に向けられる。
黒髪の娘は、血や臓器の臭気にもまるで動揺した様子は見せずに、ただ深刻な表情を浮かべたまま、
地面にしゃがみ込んだ姿勢で時折、鋭い視線を走らせては入念に亡骸を調べていた。
恐らくは死体を通して此の惨劇をなした者に迫ろうとしているのだろう。
「貴女が気にしているのは、此の破壊を成し遂げた襲撃者の正体か?」
エルフのややしわがれた低い声での問いかけに、女剣士は肩をすぼめながら立ち上がった。
「正体よりも寧ろ力量だな。オークに加わっているのならば、何時、我らと邂逅しないとも限らない」
小首を傾げると、エルフ娘は躊躇いがちに尋ねる。
「……オークではないと?」
微かに緊張を帯びた黄玉色の瞳で、女剣士は友人をじっと見つめた。
その眼差しは射抜くように鋭い。
「一撃で殺害されている。凄まじい力だ。見たまえ。頭が身体にめり込んでいる程だぞ」
死体を指しての冷静な指摘に、しかし、エルフの娘は嫌そうに明後日の方向に目を反らせた。
次に破壊された扉に触れて目を眇めつつ、黒髪の女剣士は緊張に固く唇を引き締めた。
「分厚い扉も、力任せに破壊している。オークに出来る仕業ではない。
 大オークは勿論、ウルク・ハイにも到底不可能だ。連中が束になっても、こんな芸当はできっこない」
其処まで聞いたエルフ娘は大きく溜息を洩らし、囁くようにして結論をそっと呟いた。
「勿論、非力な黒エルフという線もない。だが、襲撃したのは間違いなくオーク。
 何か尋常ではない怪物。恐らくは、大型の亜人がオークの軍勢に加わっている」
然りと女剣士が肯定する。
「……恐らくは、オグル鬼。いやさ、或いはトロル種かも知れぬが、どちらにしても近隣の民草にとっては難儀な事だな」
黒髪をかき上げながら女剣士が重々しく吐き出した溜息に、エルフの娘はふと思い立って訊ねてみた。
「貴女でも手に負えないか?」
「オグルにしろ、トロルにしろ、人族とは比較にならぬ巨躯と膂力を有している。
 少々、鍛錬を積んだとて、尋常の人間に敵う相手ではない」
黒髪の女剣士は、知る範囲で最高の剣技の持ち主であったから、半エルフは微妙に強張った顔で俯いた。

エルフの娘は、彼方に広がる雑木林や周辺の小高い丘陵に視線を走らせていたが、女剣士は落ち着かない様子の友人を置き去りにして母屋へと踏み込んだ。
鋭い抜き身を片手に各部屋を順に見て廻るが、徹底的な略奪を受けたに違いない。
台所は荒らされており、卓上に半分解けたような腐った粥が悪臭を放っている他は食べ物も見当たらず、恐怖に顔を歪めた農夫の亡骸が大部屋の隅、箪笥に隠れるように転がっている以外は、特に目ぼしい物もなかった。
切り刻まれて死んでいる老農夫は、黄麻の上着を着込み革の洋袴を皮の紐で結んでいた。
裕福そうな身なりから農場の主と見た女剣士は、悪びれもせずに懐を探ってみるが金目の物など何も出てこない。
老人の指が切られて落ちているのは、大方、嵌めた指輪を奪う為であろう。
服には乾いた血の跡がべっとりと染み付いており、身包みを剥ぐ意味もなさそうだ。
「時化ているな。外れか」
呟いて立ち上がった時に、エルフの娘が遅れて大部屋の入り口に姿を現した。
何やら鉄製の鍵を掌で弄んでいる。
「一番いい寝台がある部屋で、壁に掛かっていたのを見つけた」
「どうせ玄関の鍵であろうよ。丁度、鍵穴と同じ位の大きさだからな」
つまらなそうに鼻を鳴らした女剣士が言っても、エルフ娘は何かが気になるようで捨てなかった。
玩具を見せびらかす子供のように手で重たい鍵を振ってみせる。
「共用かも」
「とんだ期待外れだ。肉も見つからんし財布もない。骨折り損だったな」
端正な顔立ちを歪めると、女剣士は苛立たしげに音高く舌打ちした。
「結構、家畜を飼っていたみたいだけど、冬の前に腸詰や干し肉を作ってないのかね」
「家畜小屋も台所も略奪されていた。何一つ残っとらんよ」
口の中でオークを罵っている女剣士の傍らで、半エルフは何かを探すように家の中に視線を走らせた。
「これだけ立派な農場なら、貯蓄用の室(むろ)とか在っても不思議ではないけど」
「裏手も廻ったが見当たらなかったな」
掌の鍵を眺めながら、エルフ娘は言い張った。
「兎に角、私は見てないから一度、裏手を廻ってくるよ」
「まあ、好きにしたまえ」
女剣士は如何でも良さそうに呟くと、もう屋内には用もないのでエルフ娘の後ろから付いていく。

母屋の裏手に廻った二人だが、裏庭には何も無かった。
正確に言えば、聳え立った崖際に幾らかの潅木と繁みが生い茂っており、犬と女の死体が蓋をされた井戸の傍らに転がっている。
「ほら、何も無いぞ」
肩を竦める女剣士の傍らで、半エルフは母屋の壁に手をつきながら暫し佇んでいた。
注意深く裏庭を見回していたが、やがて片眉を跳ね上げると裏庭を足早に横切り、切り立った崖へと真っ直ぐに向かう。
エルフが潅木と繁みを掻き分けて生垣の向こう側へと姿を消した後、直ぐに女剣士を呼ぶ声が聞こえてきた。
黒髪の女剣士も踏み込んでいくと、一見、何も無いように見えた場所には、生い茂る植物に隠れるようにして崖に小さな洞穴が開いているのが分かった。

洞窟の入り口には、小さな木製の扉が設置されている。
「他所の家の人間がやってきても、ここなら見つからないね。オークも気づかなかったんだ」
女剣士が軽く眼を瞠っていると、エルフ娘が少し得意げな顔を向けてきたので素直に賞賛する。
「よく気づけたな」
「これでも、一応はエルフの端くれだからね。
 自然に隠されたものを見つけるのは得意です」
言いながら、エルフが扉に鍵を差し込むと錠前の開く音がした。

洞窟の中は、狭い隧道がやや傾斜して地下へと向かっていた。
入り口から差す陽の光が、仄かに照らし出したが奥までは届かない
「暗い。明かりを」
女剣士が隧道の途中にしゃがみ込んで、エルフ娘は火起こし弓とおが屑を取り出した。
「少し待ってて」
入って直ぐの場所に松明が置いて在ったので、起こした種火を移して隧道を照らし出す。
改めてみると、隧道はさして奥行きがある訳ではない。
少し歩いたところの突き当たりで、洞窟は小部屋程度の広がりを見せた。
貯蔵室になっているのだろう。
ひんやりした空気の中、低い天井近くに張られた縄には茶色い革袋に入った腸詰やら燻製肉やらが吊るされている。
「ほう」
喜色を明らかにしながら、女剣士は貯蔵室に足を進めた。
手前に吊るされている腸詰に腕を伸ばすと、手に取って臭いを嗅いでみる。
「何時の物だろう?あまり古いと不安だが」
「此処は良く冷えているし、焼けば大丈夫だと思うよ」
女剣士はエルフの声に頷くと、次々と豚の腸詰や燻製肉、塩漬け肉、山羊の乳酪や干し肉などを手に取り、片端から背嚢へと入れていく。

「こっちの壷はカラス麦かな。こっちは粟。それに黍か」
呟きながらエルフ娘が見て廻る部屋の隅には、穀類の満ちた素焼きの壷の他に、玉葱や人参など保存し易い野菜も袋詰めで置かれていた。
「野菜も……」
「いらん」
偏食家に一言で切って捨てられた。
「仕方がないなあ」
翠髪のエルフ娘は小さく首を振ると、幾つかの玉葱と人参の袋を手に取った。

「さあ、戻ろう」
朗らかに言った女剣士は、戦利品で重たくなった背嚢を背負い、両手にも肉類の詰まった革袋を幾つかぶら下げていた。
傍目に見れば優に6貫目はある(貫は約3.7キロ)。下手したら十貫近く在るだろう。
「そんなに欲張って持って、食べ……られるか」
重い荷物が怪我に響かないのかとか、料理するのは自分の役目なのだろうなとか、色々と思うところはあるものの、エルフ娘は何も言わずに小さい溜息を一つ洩らして立ち上がった。

二人が隧道から出た頃には、太陽は中天より幾らか低くなっていた。
松明を隧道の脇に捨て、扉を閉めてから鍵を掛けると、エルフ娘は懐に鉄製の鍵を仕舞いこむ。
エルフの行動に、女剣士が首を傾げた。
「どうして鍵なんか掛ける?また此処に取りにくる気か?」
「此の侭、新しい住人が来なかったら……何時か住めたら、なんて駄目かな?」
自信なさそうにぽつぽつと呟いた。
「ふむ。辺境の法や取引が如何な仕組みかは詳しくは知らぬが……
 金なり家畜なり相当の対価を示して民会に話をつけねばなるまいよ」
「やっぱりそうか」
エルフが露骨に肩を落とす。
「そこらの小屋なら兎も角、これだけの農園となればなあ。
 勝手に住み着いてそのまま済し崩しにするには、よっぽど力が無ければ難しかろう。
 何れは近隣の郷士なり、富農なりから、親戚筋が名乗り出てくるに違いない」
「虫のいい話か」
好きで放浪の旅を続けている訳ではなさそうだ。
寄る辺ない放浪を続けるよりは、やはりどこかで安定した生活を送りたいに違いない。

俯き加減になったエルフ娘の横顔は、翳りを帯びていた。
家臣になるように請うてみようかと女剣士は数瞬を迷ってから、結局、口には出さなかった。
互いに友達だと思っていても先日の捻くれ具合から察するに、エルフの娘にとって主従関係と友情は同時に成立し難いものかも知れぬ。
説得すれば家臣に出来るかも知れないが、今とは違う関係になりそうな予感もした。
主従で親友。或いは恋人でも、成立すると思うのだけど。
思いながら、育った環境が違えば考え方が違うのも、仕方ないのだろうとも思う。
彼女が友情に夢を見ているのか、自分が汚れているのか。女剣士にはよく分からない。
兎にも角にも、一緒にいるのは不快ではなかったから、今はまだ此の関係でいいだろう。
急いで答えを出す必要がある訳でも無し。時が何らかの答えを出してくれるかも知れぬ。
機が熟すのを待とう。そう結論付けて、女剣士はゆっくりとエルフ娘の隣で歩き出した。

井戸の傍らを通り掛かった時だ。突然、動物の吼え声が響き渡った。
「なんだ」
女剣士は荷物を捨てて跳び退りながら、一瞬で腰に吊るしていた長剣を抜き放っている。
エルフはびっくりしてただ周囲を見回していた。
二人が警戒していると、それまで死んだと思っていた茶色い犬が弱々しく動いていた。
よろよろと躰を起こし、つぶらな黒い瞳で二人の娘をじっと見つめると鼻を鳴らした。
それから踵を返して井戸に鼻を擦りつけながら哀しげに二、三度鼻を鳴らし、再び、何かを訴えるように二人を見つめて、そのままずるずると地面へと崩れ落ちてしまう。
「……なんなんだ?水でも飲みたかったのかな?」
慎重に歩み寄ってみると、犬はやはり傷を負っていた。
大きくはないが深い傷であり、ぜえぜえと荒い息を繰り返していた。
死んでいないのが不思議なくらいの深手に、寧ろ今まで良く持ったと思う。
近くで死んでいる中年女には、頬に血のついた舌で舐めたような跡が残っていた。
主人だろうか。死してもなお、整った顔立ちから見るに、生前は相当な美人に違いない。
「何が言いたいの、お前?」
視線を合わせてエルフが訊ねる。
茶色い犬が何かを必死に訴えかけているのは分かるが、それが何かは分からない。
井戸をじっと見つめている犬は、長くはないように見えた。
「水が飲みたいの?」
最後の願いを叶えてやろうと木板の蓋を退かし、
井戸の中へ縄の付いた壷をゆっくりと下ろしていくと硬い音が響いた。
「枯れ井戸みたい」
何気なく覗き込んで、エルフの娘は息を飲んだ。
陽光が微かに照らした薄暗い井戸の底。小柄な白い人影が蹲っているのが見えたからだ。



[28849] 43羽 土豪 06 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ffbef484
Date: 2012/02/24 04:22
何気なく井戸を覗き込んだエルフの娘が息を呑むと共にぎょっとして後退った様子を見て、女剣士は怪訝そうに眉を顰めた。
「どうした?」
「……井戸の底に誰かがいるようなんだが」
「……どれ」
如何にも歯切れの悪い半エルフの言葉を受けて、黒髪の娘も同様に枯れ井戸を覗き込んでみれば、確かに陽射しも碌に届かぬ穴底に隠れるようにして蹲っているのは、性別も年齢も定かでない子供であった。
黒髪の女剣士は首を傾げながら、半エルフと顔を合わせた。
恐らくはオークの襲撃から生き延びる為に、農園の住民が井戸の底へと隠れたのだろう。
「……人族の子供のようだが、小柄な亜人かも」
「子供だよ」
女剣士には見分けられない薄闇の中の人影も、エルフ娘の鋭い瞳には充分に識別できるらしく断言した。
「……して、生きてるかな」
「分からない。おーい!大丈夫か!おーい!」
地上から呼び掛ける半エルフの低い声がわんわんと井戸の中に反響したが、地の底に蹲る人影はピクリとも動こうともしない。
「動かん。もう死んでいるのではないか?
オークの襲撃が幾日前かは知らぬが、水も食べ物もなくずっと井戸の底に隠れていたとしたら……今は冬だしなあ」
頤に曲げた人差し指を当てながら黒髪の女剣士が懸念を洩らしたが、翠髪のエルフは首を振った。
「かも知れないが、生きてるとしたら此処で見捨てるのも寝覚めが悪い」
エルフ娘はどうにも井戸の底にいる者を助けたいらしい。
憂いを帯びた美麗な横顔から視線を逸らした女剣士は、井戸の底までの距離を目測で測ってみた。
深井戸の類ではない。それでも人の背丈の優に三、四倍はあると見えた。
人一人を抱えて登ってくるのは中々に難事業には違いない。
「ふむ……無駄骨かも知れんぞ」
黒髪の娘は呟いたが、エルフ娘は井戸の傍らに目を閉じて息絶えている茶毛の犬をじっと見つめた。
「……此の犬は。主か、友かは分からないが、井戸の底の人を助けたかったんだ」
例え、犬が相手でも死に逝く者の頼みは断れないという事か。
女剣士は少し俯き加減の姿勢のままに、足元の赤茶けた地面を長靴の先で擦ってみた。
井戸の周りの灰色の縁石をじっと眺めてから、家畜小屋の壁に丸めて吊られていた縄があったのを思い出して
「分かった。納屋……家畜小屋か。壁に縄が掛かっていたな。持ってくるから待ってろ」
「いや、わたしが持ってこよう。あそこだね」
云ってエルフが走り去ったので、近くにある樹木に寄りかかって井戸を眺めながら口角を吊り上げた。
「運のいい小僧だな。いや、まだ助かるとは限らんか」

「在った」
縄を肩に掛けて、エルフが家畜小屋から駆け戻ってきた。
樹木の幹にロープの端をしっかりと結びつける。
「ロープの長さは足りるかな……ん、これでよし。と」
縄の長さには随分と余裕があったので、二重に束ねてから数箇所を結わく事で簡単に切れないようにすると、女と子供。二人分の体重を支えるには充分であるように思えた。
女剣士は頷いてから
「頑丈そうなロープだ。これなら何とかなろう」
「では、行くよ」
降りようと身を乗り出した半エルフを、何を考えたのか女剣士が肩を掴んで押し止める。
「待て、私が降りよう」
切れ長の瞳の半エルフは、怪訝そうな眼差しを女剣士に向ける。
「なぜ?私の方が身軽だ」
「君は子供一人背負って登れるか?」
それと、と女剣士は抱いた懸念を付け加える。
「滅多にある話ではないが。不死ではないだろうな?君では対処できまい」
エルフは表情を微かに曇らせた。
確かに滅多にない話ではないが、偶にはある話だ。
女剣士は眠る時には、必ず片手で届く場所に長剣を置き、枕の下に短剣を忍ばせている。
大胆な性格と同時に、慎重で用心深い性質が同居しているのも不思議にも思える。
「……用心深いね。分かった。では、お願いする」
「うむ、行ってくる」
女剣士のみならず、争いの絶えない東国の人々の間では同時に霊や不死への恐れも極めて強い。
早々は居ないが、巷のうちには殺された者が新たな眷属となる高位の不死もいる。
いや、噛み付くだけで死の呪いを伝染させる恐ろしいゾンビーさえいるのだ。
そんな訳で、不用意に近づいて不死に噛み付かれるのは御免蒙りたかったので、用心して片方の腕にはぐるぐると布を巻きつけた。
荷物を置いて、念の為に短剣を口に咥えると、女剣士は縄を伝って井戸を降りていく。
降りる際には長靴が岩肌を削る音も発したが、人影は全く動こうともしない。
地底に下りてからは、息を殺して慎重に人影に近寄っていく。

「少年か」
声を立てずに唇の動きだけで呟くと、女剣士はそっと足首に触れた。
十歳にも満たないように見える少年の身体は、ぐったりとはしていたもののまだ体温を感じられた。
ついで首筋に手を当てて脈を測ると、弱々しいながらも僅かに脈があった。
「生きてるな。大丈夫か?」
意識が混濁しているのか、呼び掛けてもぐったりとしたままに全く返答が無い。
ぐったりとしている少年を背負うと布で身体に縛りつき、しっかりと縄を掴んで登り始める。
「ふ。ぬ」
余り成長していない子供の身体とはいえ、病み上がりの人間が人一人背負って縄をよじ登るのは結構な重労働であった。
少ない息継ぎで一気に頂上付近まで登ると、エルフの伸ばしてきた手を借りて縁石を乗り越え、地面へと少年を降ろした。
「……生きてるぞ。ふぅ、重たかった」
息を切らして縁石に寄り掛かった女剣士を労うでもなく、エルフの娘は少年を受け取ると肌の冷たさに息を飲み、直ぐに地面に横たわらせた。
少年の身体は冷え切っている。顔は蒼白で唇も紫色に近い。
切れ長の瞳に憂慮の色を浮かべたエルフに、女剣士が難しい顔をして声を掛けた。
「……旅籠まで持つかな?」
「火を起こして暖めないと」
翠髪のエルフは少年を抱き上げると、足早に母屋へと歩き出した。
溜息を洩らした女剣士も、荷物を拾い上げるとエルフの背中に続いた。


屋敷で尤も間取りの大きな部屋に少年を抱えて二人の娘が入ると、床板がぎしぎしと軋んだ。
恐らくは農園主の居室であったのだろう。
頑丈な寝台に敷かれた布は肌触りもよく、綺麗な毛皮なども部屋の隅に転がっていた。
母屋に入って少年を寝台に寝かせると、水筒から水を飲ませる。
「冷え切ってる……暖めないと。火を焚くから、毛布を掛けて躰を擦ってやって」
「分かった。大丈夫か?」
少しだけ顔色が生気を取り戻したのを見てから、エルフは火起こし弓を取り出すと、種火を起こし始めた。
女剣士は荷物から毛布を取り出し、部屋の毛皮などもありったけ掛けて、声を掛けながら四肢を擦ってやるが、少年は呼びかけにも殆ど反応はない。
「……服も湿っているな」
此の侭では埒が明かない。
女剣士は周囲を見回して、寝台の下に置かれたかなり大きめの櫃に気づくと引っ張り出してみた。
蓋を開ければ、中身は思った通りに衣装箱である。
毛織物の毛布や毛皮の他。布で裏打ちされた毛皮の防寒着や、幾重にも布地を重ねた上着のような、お誂え向きの暖かな衣服が幾枚も入れられて、きちんと燻してあるようで虫食いも殆ど見られない。
女剣士は微笑を浮かべてエルフに声を掛けたが、火を起こすのに夢中になっているようで振り向きもしなかった。
仕方ないので何枚か適当に見繕ってから、少年を脱がせ始める。
種火と藁屑で炉に炎が燃え上がるとエルフが立ち上がったので、女剣士は手伝いを求める。
「おい、此の子を脱がせるのを手伝ってくれ。服が湿ってるから着替えさせるんだ」
炉の炎に小さな枝を放り込んでいたエルフ娘は、一瞥してから頷いた。
「着せるのは大変だし、だけど濡れた服を着せておくよりは裸のままでいいよ。
 私がやっておくから、アリアは裏にあった薪を持ってきてくれる。
 炉に置いてある分量では、足りそうにない」

女剣士が裏口から薪を抱えて戻ってくると、ぶつぶつ呟いているエルフ娘が入れ代わりに部屋から出て行く。
「確か台所に」
足早に広間に向かうと、冷え切った暖炉に置かれている鉄鍋を取り上げた。
中には腐ったシチューが浮かんでいるが、エルフ娘は外に出ると中身を地面に放り捨てた。
表の井戸の水で鉄鍋を洗い流すと、今度は水を入れて部屋に戻ってきて扉を閉める。
「何処へ行ってたんだ?」
炉では炎が大きく踊っていた。薪をくべながら女剣士が文句を云った。
「お湯を沸かしにね」
炉の上に鉄鍋を置くと、エルフ娘は子供へと歩み寄って様子を見た。
歯を食い縛って、酷く震え続けていた。
翠髪のエルフは秀麗な顔を伏して一瞬だけ考えると、すぐに躊躇無く服を脱ぎ捨てた。
肌着姿で毛布に潜り込むと、四肢まで冷え切った少年の身体に肌を押し付けて抱きしめる。
「……仕方ないな」
少し迷ってから女剣士も上着を脱ぎ捨てると、毛布に潜り込んだ。
炉に大きく炎が燃え上がり、閉め切った室内を明るく照らして暖めていく。
湯が沸くとエルフは寝台から抜け出し、余分な布を浸しては絞り、少年の四肢を包んで、冷えては取り替えた。
また熱くなった布で、少年の躰を丁寧に拭いていく。
懸命に手当てをするうちに苦しげであった少年の呼吸も整い、顔色も段々と良くなっていった。

部屋が暖まってくるにつれて、毛皮の中に包まっている黒髪の女剣士に眠気が押し寄せてきていた。
女剣士は生欠伸を噛み殺しつつ、見知らぬ子供を懸命に手当てするエルフの姿を眺める。
感心すると共に、視線には冷ややかな感情も入り混じっていた。
案外と人がいいな。だがそれも過ぎれば毒になる。
それに……なんだ。誰にでも優しいのか。つまらない。
友人が善良な人格だと確信すると同時に、命懸けで助けてくれたのも自分が大切だったからではないのだろうか、と疑念を抱いてしまう。
軽侮する程に恩知らずな訳ではないが、どこか面白くない。
勝手に期待して勝手に幻滅しただけなので流石に口には出さないが、やや興ざめした想いを抱いていると、エルフの娘が毛布にもぐりこんできて手を握ってきた。
「ふふ」
裸体を晒した女剣士と毛布の中で向き合った薄着のエルフ娘は、美貌を崩して嬉しそうに微笑んでいた。
私を好きなことに代わりはないか。
「君も人がいいな」
少し機嫌を直して呟いた。
醒めた気持ちと憂慮が半ば混じりあった言葉に何かを感じたのか、エルフの娘は顔を引き締めると、女剣士に深く沈んだ蒼の瞳を向けてきた。
「……誰にでも優しい心算ではないよ」
気持ちを正確に察してきた鋭さに、女剣士は内心で舌を巻いた。
心でも読めるのかな?それとも前に誰かにそう云われた事でもあったのか。
軽く狼狽しながらも表には現さずに、女剣士は何を云ってるのか分からないとでも言いたげに微かに首を傾げてみせた。
少し迷ってからエルフ娘は訥々と昔語りを始めた。
「ええと……子供の頃から、人を助けたり、物を分け与える行為を行うと、人物を安く見積もられるのが不思議だった。
病人を拾って助けたら、最初は感謝していたのに段々と当たり前に奉仕する事を求められたりね」
気持ちだけで行動する人間には、先の事を考えられない類の人物も多いから、同一視されたのだろうと女剣士は推測する。
確かにお人よしだったかも知れない。共同体の規範に従うだけの、智恵の足りない人間の処世術という側面で捉えられたのかも知れないね。
長い睫毛を伏せつつ、そんな風に過去を吐露してから美貌のエルフは言葉を続けた。
「だから、今は助ける人間は選んでいる。誰でもというわけでは無いし、時間にも物にも余裕がある時だけ。
それに命と引き換えにしても助けたいと思うのは、やはり特別な人だけだ」
訥々と言い繕うエルフの訴えたい事は、何となく通じてきた。
女剣士の胸中で、自分が軽んじられそうな気配を敏感に感じ取ったのだろう。
先手を打って己のうちの行動理念や優先順位を明かしてくるのには、以前に似たような状況で知己と喧嘩別れでもした経験でもあるのだろうか。
「……信じてくれないかなあ?」
苦しげに洩らした吐息のような言葉と共に、心細げに握った手から微かに震えが伝わってきた。
拒否されるのが恐いほどに自分に惚れたらしいと知って、女剣士の胸もずくんと疼いた。
そこまで私に委ねるのか。きちんと物を考えられる人間なのに。
演技半ばだとしても愛い奴。
嫌われたくなくて一途な風のエルフを見てるうちに、心は確かに揺れていた。
エルフの弁解がある程度は己の気持ちを満足させたのに気づき、保護欲にしろ独占欲にしろ、エルフの技で巧みに煽られたのか、それとも天然なのか。
女剣士は胸の奥から微かに熱くなったと息を洩らすと、初めて自ずからから顔を近づけて唇を合わせる。口づけはほんのりと甘かった。
段々と心に踏み込まれてきているのを自覚して、此の侭ではなし崩しになってしまうな。
それも悪くはないかも知れないが。頭の片隅で考えつつ、目を閉じて口づけに応えるエルフ娘の髪を優しく撫でた。


壁際の暖炉では、時折、揺れる炎がパチパチと音を立てて爆ぜている。
闇の中で馥郁たる甘い香りが鼻腔をくすぐった。
幼い少年の知らなかった女の体臭が、本能を強く刺激して目覚めを誘う。
身動ぎすると柔肌の感触に包まれているのを感じ取った。
「……かあさん」
未だ母親の恋しい年齢である。少年が呟きながら薄く目を見開くと、見知らぬ女性が顔を覗き込んでいた。
尖った耳は、話に聞くエルフ族だろうか。それにしても信じられないくらい美しい女性だった。
喉を鳴らしてから、少年はまるで女神に魅入られたようにぼんやりと顔を見上げた。
「だ、だれ?」
慄きの入り混じった戸惑った幼い声に、エルフの女性が無言のうちに寝台で上半身を起こすと彼女の肩掛けていた毛布がはらりと板敷きの床に落ちる。
優美な曲線を描いた白い肢体が薄明に浮かび上がった。
身体はだるさが残り、節々が痛む癖に下半身にある一物が、期せずして痛いほどに勃起した。
「もう大丈夫だね」
自然の摂理を気にした様子もなくエルフ娘は微笑みを浮かべ、愛撫するように少年の頬を指先で優しくなぞった。
頬の熱さを自覚した少年が当惑を隠せずに赤面していると、背中から手が廻される。
力強い腕に後ろに引き寄せられて、背中に柔らかな二つの感触が触れた。
「こやつめ。それくらい元気なら、もう問題あるまい」
耳元で囁かれた笑いを含んだ声は、此方もやはり女性のものであった。
首を廻してみれば、背後にも黒髪の美しい女性。
恥ずかしげもなく裸身を晒し、起き上がった。
均整の取れたしなやかな裸体には、だが筋肉がうっすらと盛り上がっており、肌に刻まれた幾つもの古傷が尋常ではない生を送っているのが一目瞭然だった。
一瞬、無法者や傭兵の仲間だろうかと少年は勘繰ったが、しかし、やはり整った女の容貌には、どこか侵すべからざる厳粛な雰囲気を漂わせていて、瞳には理性の色も浮かんでおり、何とはなしに悪漢の類とも思わなかった。
寧ろ性別も年齢も異なりながら、何故か一家の長である厳格な祖父を思い出させて、嫌悪感は覚えずとも苦手に感じられたので、黒髪の女が手放してくれると少年はおずおずと優しげなエルフの方へと身を寄せた。

天国なのか。地獄なのか。
少年がただ戸惑い、困惑の眼差しを彷徨わせていると二人の娘から説明があった。
「我らは農園を訪れた旅人だ。井戸の底でお前を見つけた」
二人の美女は、少年を挟んで裸で暖めてくれたらしい。
どうやら生きては助かったらしい。
欲情を抱くにはまだ幼い年齢ではあるが、気恥ずかしさを覚えて少年は顔を伏せた。
「何があった?覚えている事を聞かせて欲しい」
「あ……影……巨大な……影が……」
女剣士に問われて口走った言葉に少年は蒼い顔をして震えだす。
幼い茶色の瞳には生々しい恐怖の色が張り付いている。
エルフが背中から毛布を掛けたが、長時間、小柄な身体はがたがたと恐怖に震え続けていた。
「役に立たぬ奴だな」
黒髪の女剣士の露骨な言葉に、思わず涙を零した。
役立たずには違いない。母親と愛犬が庇ってくれなければ、間違いなく死んでいた。
先の見えない不安。苛む恐怖と後悔が少年の心を打ち砕く。
「……此の子はまだ十歳くらいだよ」
怒った様子のエルフの抗議に、上着を着込みながら女剣士が鼻を鳴らした。
「シレディアなら、十歳の女の子でもオークの首を跳ねるぞ」
「それは言いすぎ」
眉を潜めるエルフ娘に、女剣士は口の端を吊り上げた笑みを向ける。
「私は十歳。妹は八歳の時だった」
「……八歳?」
唖然として聞き返すが、どうやら本当らしい。
「うむ。誘拐した盗賊を殺して、自力で帰ってきた」
「獰猛だなぁ。一緒にしては駄目だよ」
「勇猛と言いたまえ。兎に角、人の上に立つべき郷士の子息が容易く涙を見せるな。男なれば、なおさらであろう」
言われて、少年は涙をぐっと我慢した。
「偉いね」
エルフは優しげな笑みを浮かべながら、少年の頭を撫でる。
「私はエリス。そっちのおっかないのがアリア。君の名前はなに?」

「ケイルです。僕はケイル。あの……母さんは……」
先の見えない不安に苛まれながらもおずおずと少年が問いかけると、顔を見合わせた。
裏の枯れ井戸の近くで亡くなっている女性がいた。
多分、母親だろうと見当をつけながら、エルフ娘は口を開いた。
「さあ、私たちには分からないな。見つけたのは君だけだから」
「そう……ですか」
沈み込んだ少年を見下ろしながら、黒髪の女剣士がおとがいに指を当てて考え込む。
「此処に子供一人を置いておく訳にもいくまい。取りあえず街道筋に在る旅籠につれて行く心算だ」
少年が見上げると、女剣士は改めて少年の顔を見つめてきた。
「其処まで行けば君の親戚筋の誰かに連絡もつこう。ケイルよ。親戚の名前は覚えてるか?」
黄玉の鋭い眼差しと目が合った少年は無言で頷いた。
「では、それでいいか?」
再び、頷いた。
厳しい態度だが蔑ろにされてる訳ではないと感じて、多少の安堵を覚えつつも、やはりエルフ娘の方が好きだった。何より、いい匂いがする。
「さて、お腹も空いただろうし、何か作るね」
翠髪のエルフが、そう云って立ち上がった。


人参や玉葱、キャベツを井戸で水洗いしている間に、鉄鍋に入れた水を沸騰させる。
沸騰したお湯に岩塩と干し肉を放り込んで出汁を取り、さらに雑穀を入れて蓋を閉めると煮込んでいく。
時折は蓋を開けて適度にかき混ぜながら、乾燥豆や砕いた胡桃も頃合を見て順に投入。
「……また粥か」
不満げな女剣士を無視してエルフ娘が料理していると、気を取り直してきたのか。
「……何か、手伝います」
言って立ち上がった少年の、しかし、足元が覚束ないのを見てエルフ娘は押し止めた。
「無理はしないでいいよ。今は休んでなさい」
「そうだ。ゆっくりと休むがいい」
何か言いたげな半エルフの視線を無視して、女剣士は寝台の上でしどけなく寝転んでいた。
「でも……少し動きたいんです」
「……いい子だね。それでは此の皿を拭いてくれる?」
少年が大きな木製の鉢や小皿を抱えて布で拭きはじめると、やがて粥が完成した。
木製の鉢に湯気を立てている粥を移してから、香草を散らし、再び鉄鍋に水を汲んできてお湯を沸かし始める。
「先に食べてていいよ」
言いながら沸騰した湯に干し肉と岩塩を放り込み、切り刻んだ玉葱や人参を煮込み始める。
キャベツの葉を切り刻んで投げ入れてから、料理が完成したのは夕刻に近づいた頃だった。
「さあ、食べるが良い。まあ、元々は君の家の食料だがな」
なに一つ手伝ってない女剣士が偉そうに述べた。
湯気を立てている雑穀のお粥と、人参とレタス、玉葱の浮かんだスープ。
共に塩味の粥とスープであるが、ヴェルニアでは南方の一部都市を除いては香辛料は殆ど流通しておらず、塩と香草類が唯一の調味料に近い。
岩塩ですら、高価で貴重な調味料なのだ。
火加減。具の茹で具合と割合が絶妙の域に達しているエルフ娘の料理は、暖かさも在ってそれでも冬の夜に素晴らしいご馳走だった。
丸太椅子に座り、卓について湯気を立てる粥に匙を入れた。
口の中に暖かい味が広がると、確かに生きている実感が湧いてきて、それだけで少年の目には涙が滲んでくる。
「何日も食べていなかったのだから、ゆっくりと食べなよ」
「は……はい」
エルフはやっぱり優しかった。少年は母親の事を思い出す。
「エールは造ってなかったのか?」
女剣士が物足りない様子で訊ねてくる。
「……た、多分、オークが持っていったんだと」
「それもそうか」
頷きながら、スープに手を伸ばした。

少年は十歳ほどにも見えたが、こうしてみるともう少し年上にも見える。
いずれにしても、子供と呼んでいい年齢だった。
子供好きなのか。エルフの娘は目を細めて食事する姿を見つめていた。
「……子供は可愛いね」
エルフ族は百年に一人くらいしか生まれない。
人に近い半エルフ種族ですら、十年から二十年に一人しか赤子を産まなかった。
「涎が垂れてるぞ」
女剣士の言葉に驚いて口の端を袖で拭った。
「……嘘!」
「嘘」
からかった女剣士は笑いながら、睨みつけてくるエルフの娘に問いかける。
「欲しいのか?子供?」
「……アリアの子供なら産んでもいいけど」
「どうやってだ」
少年が不思議そうな顔をしているので
「気にするな。エルフだからな。時々、訳の分からん事を言い出すのだ」

食事の終わった頃には、時刻はとうに夕刻を過ぎていた。
壁の向こう側では冷たい風がびょうびょうと音を立てて吹きすさんでいる。
「……夕方だね。如何する?」
寝台に腰掛けたエルフ娘が女剣士の顔を覗き込む。
「此処で泊まるのは、気が進まぬ。オーク領に近すぎる。危ういぞ?」
「だけど、出発するとして歩ける?」
「……あ、はい」
口では肯定したものの少年の顔色はまだ悪く、具合もよく無さそうだとエルフは見て取った。
「……無理だね。もう夜も近い。今日は此処に泊まって明日の早朝に戻ろう?」
「仕方ないな」
エルフの言葉に頷いた女剣士は、寝台の端に取り置いておいた暖かな衣服をエルフ娘に投げ渡した。
「冷えてきた。着るがいい」
「……此れは?」
見覚えのない衣服を渡されて怪訝そうに訊ねるエルフ娘。
「寝台の下に衣服の入った櫃が残されてた。小さな櫃だったから、見逃したんだろう」
革の裏打ちされた毛皮服を嬉しそうにエルフは羽織った。
「わあ、暖かい。ちょっと大きいかな。でも、仕立て直せば……」
エルフ娘は声を弾ませて立ち上がると、チェスト(櫃)を漁って小さめの毛織服と毛皮のマントを取り出した。
「これ着てなよ」
「……これはお祖父さんの服だ。怒られちゃうよ」
手渡された少年は恐れ戦いて拒んだが、女剣士に鼻で笑われてしまう。
「……気の毒だが、君の言うおじいさまはもう死んでいる」
助けてくれたのは確かだったが、同時に火事場泥棒を悪びれた様子もなく行う二人組を少年は不思議そうに眺めた。
「来るがいい。美人二人が添い寝するこんな機会はそうそうないぞ?」
手招きする女剣士と微笑を浮かべているエルフの娘。
幼い少年には、良い人間かも悪い人間かも見当がつかなかったが、当面は此の二人組に頼る以外に手は無さそうであった。





[28849] 44羽 土豪 07 改訂
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ffbef484
Date: 2012/12/03 20:36
 何処からか土壁を越えて侵入してきた隙間風が翠色の髪を揺らした。
早朝の冷気が心地よく肌を刺激して、エルフ娘の目覚めを誘う。
暖炉に揺れる弱々しい炎が、薄暗い部屋の中を仄かに照らしていた。
閉めきった鎧戸から差し込む暁の冷え冷えとした曙光に、埃が空中を泳いでいるのが見えた。
 目を擦りつつ半身を起こして、見覚えの無い部屋を寝ぼけ眼で見回しているうちに、今いるのが北にある農園の母屋だと思い出して半エルフは頭を掻いた。
暫らく泊まっていた旅籠の個室に慣れすぎて、軽い違和感を覚えたようだ。
エルフの娘はそのまま寝台から抜け出して、猫のようにゆっくりと躰を伸ばした。
「んっ。ふぅ……」
 気持ちよさそうに目を閉じて伸びをすると、全身の関節が軽い音を立てて鳴った。
厚手の服に毛皮を着込んでいたので、起き立てにも関らずに身体の中心は火が灯っているように暖かく感じられた。
 寒さの厳しい冬の朝には、初めての経験だった。
暖かい服を持っている人はいいなあ。私も何時か物持ちになりたいものだ。
ささやかな希望を抱きながら寝台を振り返ると、女剣士に毛布を奪われていた。
女剣士は意外と寝相が悪く、寝台の中央を占拠している。
寝台の隅に追い詰められた少年は、苦しそうに唸っていた。
軽く微笑んで床に落ちている毛布を一枚拾い上げ、少年に掛けてやる。

 壁際の暖炉では、炎は大分小さくなっている。
燃え尽きた薪は、白い灰となって手前に堆く(うずたかく)積もっていた。
火が消えかけているのに気づいて、エルフ娘は小枝から薪を注ぎ足していく。
金属製の火箸なんて上等なものはないから、手で丁度いい位置に放り込んでやると、やがて再び勢いよく炎が燃え出した。
灰は洗剤などにも使える。
 何気なく積もった灰を、暖炉の傍らにある灰塗れの素焼き壷に入れてから、もはや無人と化した農園では誰が必要とする訳でもないと気づいて苦笑して手を止めた。

 食堂にある調理用の炉に火種を移して、夕食の残りの粥が乗った土鍋を乗せる。
適当な石で組み上げただけに見える簡素な調理用の炉は、見た目よりしっかりしていた。
暖炉の上に置かれた飲料水用の素焼きの壷を持って、鼻歌を歌いながら外へと出る。
「……寒ッ」
 ぶるっと躰を震わせてから空を仰ぐと、東の地平では太陽が今まさに天空へと昇ろうとしていた。
朱の入り混じった金色の光が天蓋に蟠る夜を打ち払い、闇を西の果てへと追い散らそうとしている。
暫し、日の出に見入ってから、エルフ娘は井戸に歩み寄った。
地下から汲み上げた水は手が痺れるほどに冷たい。
掌に掬って口だけゆすいでから、水を素焼きの壷に入れて母屋へと踵を返した。

 黒髪の娘はまだ寝ていた。
気持ち良さそうな寝息を立てながら、唇の端からは涎が垂れている。
手を伸ばして何気なく拭き取ってやってから、指先をじっと見つめる。
喉が鳴った。変態みたいだと思いながらも、エルフ娘は指先をそっと舐め取った。

 嫌われていない。
寧ろ脈があるのだから変な行動をするべきではないと思いながら、エルフ娘は止むに止まれない。
寝顔を覗き込んで、間近に想い人の寝顔を見ているだけで胸の底から幸福感に包まれる。
女剣士の肌には、まだ生々しい傷跡が残っていた。
 見知っただけのエルフなど見捨てて逃げても不思議ではなかった状況で、傷つきながらも攻め寄せるオークから助けてくれた。
狂った村人に激昂されて命を落としそうになった時も、意識を取り戻せたのは半ばくらい此の友人のお陰でもある。

 命を救われたからか。優しくされたからか。
或いは、心の隙間を埋めてくれそうな気がしたからかも知れない。
十六の生誕日に故郷を出て以来、エルフの娘はエリオンの森には帰っていない。
近くまで戻った事はあったが、何とはなしに帰ることが出来なかった。
時折、旅先で出会う同郷や近郷の者たちから、故郷や知人の消息を聞くのを唯一の楽しみに半エルフは生きてきた。
「安いな……私も」
 洩らした呟きに人間として安さを自覚しながらも、エルフ娘は膨れ上がった気持ちを抑えようもなかった。
なんで異種族なんだろ。彼女がエルフなら。私が人族なら。
いいや、せめて異性ならな。女同士は東国の文化でどの程度に許容されてるのだろう。
尚武の気風がある厳しい土地とは聞いているけれども。
「中々、上手くいかないな」
低い擦れた声で呟いてから、エルフ娘は蒼い目を憂鬱に煙らせて嘆息した。
だけど、それでも望みがない訳でもない分、ましなのだろう。
例え役不足だとしても人は誰でも手持ちの札で頑張るしかないのだ。

※ 力量が状況に通用するか否か。
※ 札遊びに例えれば、役不足という言葉の使い方はおかしくないと個人的には思います。


 黒髪の娘が欠伸をしながら目を醒ました時には、鉄鍋にお湯が沸いていた。
エルフは小さな素焼きの椀にお湯を入れて差し出してくる。
「白湯だよ。身体が温まる」
 薪の取れない土地では、ただの白湯でもそれなりに贅沢な代物である。
手間隙を考えれば、朝から白湯は薪の豊かな南方の森で生まれ育った者故の発想かも知れない。
いずれにしても、冬の朝には、水よりも身体にいいだろう。
確かに胃の腑の辺りから身体が温まるのを感じる。
「ありがとう。これはいいな」
手渡された時に、微かにエルフ娘の匂いが女剣士の鼻腔をくすぐった。
人族の体臭とは全然違う、春の花を連想させる優しい香りが微かに女剣士を酔わせる。
白湯を受け取って啜りながら、朝食の事を訊ねる。
「粥は?」
「今、暖めてる。もう食べられるよ」
 粥の残りを入れた土鍋を調理用の炉に掛けていると告げて、エルフ娘は台所へと向かった。
準備は万端に整っているようだ。
 半エルフの立ち去った方向を見つめてから、黒髪の娘は静かに溜息を洩らして目を瞑った。
美人で気立てがよく、料理が上手い。
そこそこ世間知に長けているのに、あまり擦れてないのもいい。
大抵の男なら、あんな娘を嫁にしたがるに違いない。
黒髪の女剣士にも、それなりに貞操観念はある。
好意を抱いた相手だからといって誰でもいい訳ではないが、エルフの娘になら応えてもいいかなと思わないでもない。
エルフ族の愛人は間々ある話であったし、女同士にしても東国では珍しくない。
「……信じていいのかな」
 黒髪の娘は小さく擦れた声で呟いた。
信じた相手に裏切られるのは御免だった。
いや、裏切りという言葉は正確ではないだろう。
十余の小王国が乱立し、数多の小領主や大小の豪族が割拠する東国では、小競り合いは日常茶飯事であり、顔見知りが敵味方に別れて戦場で殺しあう光景もまた珍しくもない。
黒髪の女剣士も、また過去に親しい友人や縁戚が敵に廻った経験を持っていた。
 好きな人間や愛した人間と戦場で切り結びのは、控えめに云っても楽しい経験ではない。
誰もが自分の思うように生きらない戦乱の地の非情さを考えれば、東国とは全く関係ないところで恋人を見つけるのは悪くない考えに思えるし、何よりエルフ娘の一途さに対してひどく心惹かれるものを感じ取ってもいた。
信じたいと思う。
短い付き合いとは言え、今日まで目にしたエルフ娘の行状と言動を鑑みれば、その人柄は充分に信頼を抱かせるものであったし、契りを結ぶのに不足ない人格を有しているように思えた。
「……後は私の気持ち一つか」
 エリスは既に自分の気持ちをはっきりと伝えてきている。
エルフは比較的に気の長い種族とは言え、女剣士が答えを出すのを何時までも都合よく待っていてくれるとも限らない。
ましてあの美貌である。保護者役の女剣士と同行してからは隠す事もしていない。

「……おはようございます」
 少年が起き上がってきたので、女剣士は思索を打ち切った。
腑抜けていた表情を引き締めると腰掛けていた寝台より立ち上がる。
「おはよう。朝食を食べたら直ぐに出発するよ。今のうちに荷物を纏めておき給え」
「はい」
頷いた少年のお腹が、ぐうっと大きく音を立てて鳴った。
「食堂でお粥を温めているそうだが……お皿にスープが残ってるな」
女剣士は小さな卓に手を伸ばして木皿を取った。
焼き締めた雑穀のパンを少年に渡すと、スープに浸して食べ始めた。
「ゆっくり食べなさい」
優しい声に農園の生き残りは頷いてから、顔色を窺うように恐る恐る話を切り出してきた。
「……あの」
「気の毒だが、私たちに埋葬するだけの余裕はないよ、たった二人で道具もない」
言葉を遮って、冷たい輝きを孕んだ黄玉の瞳を立ち竦む少年へと向けた。
そう告げると、図星だったらしい。
力なく俯きながら、か細く小さな声で呟くように
「……爺ちゃん……かあ……ちゃ」
泣きそうな顔で目尻には涙が浮かんでいたが、それでも泣こうとはしなかった。
暫らくの間、黒髪の女剣士は少年をじっと見つめていたが、少年の頭に手を伸ばして溜息を洩らすように呟いた。
「せめて家の中に入れてやろう。このまま朽ち果てさせるのだけは余りに酷いからな……それ位なら手伝うよ」


 村から連れて来た兵士たちは、旅籠の裏手にある井戸の傍らで水を飲みながら身を休めている。
人数分の早めの昼食を旅籠の親父に頼んでから、猥雑な雰囲気の漂う旅籠の食堂で座れそうな場所を探した。
 入り口に面した酒場兼食堂は、旅籠で一番安い雑魚寝の為の大部屋も兼ねている。
漆喰の剥がれかけた壁際に寝転がる貧しげな人族やゴブリンのうちには、身形の整った女連れの青年に胡乱な目を向けた者たちも居たが、腰に吊るした剣を目に留めるとさりげなく顔を逸らすか、興味をなくした様子でまた元のように寝転んだ。
「やあ、フィオナ!パリスも!此処だよ!」
 食堂の反対側から自分たちを呼ばわる声を耳にしてクーディウス家の姉弟は顔を上げた。
隅のテーブルについて、ワインを啜っていた三人組のうちの一人。
鮮やかな金髪をした娘が粗末な椅子に腰を掛けて、二人の方へと手を振っている。
茶色のフードを羽織った彼女もまた背中に中剣を背負っている。
 同席していた赤ら顔のドウォーフと暗緑色の服を着たウッドインプが、卓上の小袋を懐に収めると腰を上げて立ち去るところだった。
「リヴィエラ!」
 旧知の郷士の娘に出会い、顔を綻ばせた。
歩み寄る途中に立ち去る亜人の二人組とすれ違う際、顔に傷のあるウッドインプが鋭い視線で己と姉を一瞥したのに青年は気づいていた。
「久しぶり、パリス」
 挨拶をしてきた郷士の娘は、旅籠の主人に上等なワインを二杯注文する。
旧交を暖めあうように挨拶を交えてから、旅籠から出て行く二人の亜人の背中に視線を送った。
「今の連中は?」
「冒険者だよ。オークの動きに少し気になる事が在ってね。ちょっとした仕事を頼んだんだ」
「……冒険者か」
金髪の青年は、侮蔑と好奇心の入り混じった呟きを洩らした。

 冒険者とは、村や町を流浪しながら危険な仕事を好んで引き受ける人種である。
仕事の内容は千差万別で、主に隊商や旅人の護衛を引き受ける者。
盗賊や凶暴な亜人の追跡を行う者。一攫千金を望んで遺跡や洞窟に赴く者。
或いは人跡未踏の地の探索に命を賭ける者。黒豹や犬歯虎などの毛皮を狙う狩人や、
危険な森で貴重な果実や薬草などを取ってくる薬師など様々な種族や技能の持ち主がいる。
 身分も元は騎士や貴族の者もいれば、敗残兵や傭兵、村を飛び出してきた農村の子弟、僧院や神殿で修行を積んだ神官や僧。鍛冶屋や行商人もいれば、乞食同然の者もいる。
総じて冒険で生活の糧を得ている者たちの呼称ではあるが、勿論、四六時中を冒険している訳でもなければ、殆どの冒険者が冒険の報酬だけで生活できる訳でもない。
 普段は町や市に屯して人夫仕事や穴掘り、石積みなどで口を糊する者もいれば、町から町へ売れそうな物資を行商して歩く者もいる。
 傭兵となる者もいるし、都市で盗賊家業を行う者、山賊や海賊となる者もいた。
 稀にオグル鬼やトロルを討つような英雄的冒険者が実在しない訳ではないが、大半は生きる為に仕方なく危険な仕事を選んだ、厄介なごく潰し。
 武装した流れ者や傭兵以上の者ではなく、定住している者たちからは余り良い印象はもたれていない。
「不審者に見えるかもしれないが、見かけた時は見逃してくれるとありがたい」
からからと笑いながら身を乗り出す金髪の娘に、一帯の警邏を行っている豪族の息子は苦笑を浮かべて頼みを引き受けた。

 豪族の娘フィオナが、椅子に腰掛けてから友人に疑問をぶつけると、手を振って郷士の娘が説明する。
「ところでリヴィエラは何故ここに?ベーリオウル殿は?」
「親父さまは、近くの民家や農園を廻ってるよ。手勢を集めがてら近隣への警告を兼ねてね。
 そちらに顔を出せるのは明後日くらいになるかな。
クーディウス様には、手勢を集めてから顔を出すと伝えておいて欲しいと」
顔を見合わせてから、クーディウス家の姉弟は頷いた。
「父上は、ベーリオウル殿の顔を見たがっていたわ」
 豪族の娘の言葉に、ベーリオウルのリヴィエラは肩を竦めて頷いた。
「なんだかんだ云っても、長い付き合いだしね」
「いや。寄り合いには、他の郷士豪族も大勢、顔を出す。中には親父殿と不仲な者もいるらしくてな。
 恐らく会議の前に一人でも味方が欲しいのだろう」
豪族の息子の言葉に、金髪のリヴィエラは眉を顰める。
「そんなに?」
「ああ。大きな話し合いになる。そして難しい話し合いにもなるだろう。
オークの数も襲撃の回数も尋常ではない。
ここ数年来はこんな襲撃は無かった。農園が三つも焼き払われた。
豪族たちは、近くに出先の砦か何かを築いたんだろうと見ている。
それを突き止めて叩かないと、延々と襲撃に晒されるのではないかと不安に見舞われているようだ」
クーディウス家の息子の言葉に、郷士の娘リヴィエラは唇を舐めた。
「……と、なると丘陵地帯に赴いて決戦か。大戦になりそうだね」

 武者震いに躰を震わせてから、リヴィエラは気づいたように掌を打ち合わせた。
「そう云えば、ボズウェル爺さんの村が襲われたのは知ってた?」
「いや。初耳だな」
「爺さんの話だと、襲撃者の中には巨人族まで混じってるそうだ。爺さん、完全に震え上がっていたよ」
豪族の息子パリスは、掌で顔を覆った。姉のフィオナは溜息を洩らして力なく笑う。
「巨人族ねぇ」
「話半分としてもオグルを呼び寄せたのか」
 姉弟とも辺境にある有力豪族の子女として、異民族や異種族と戦う覚悟は出来ている。
いざという時は己で己の身を守れるように、女子でも心構えくらいは叩き込まれていた。
豪族の姉弟の憂鬱そうな様子を眺めながら、郷士の娘リヴィエラは楽しげに笑う。
「連中、本気で攻め寄せてきたのかな?」
「分からないけど、覚悟は決めておいたがいいね。貴方も、私たちも」
フィオナがポツリを呟くと、旅籠の親父がワインを運んでくるまで三人の間に陰気な沈黙が舞い降りた。

「ま、とりあえず深刻な話は此処まで。
わたしは、明日の昼までに顔を出せといわれてるから。今はゆっくり出来るんだ。
旧交を温めようよ。二、三年碌に顔を合わせてなかったし」
ワインの杯を掲げながら、暗くなった雰囲気を払おうと郷士の娘が務めて明るい声を出した。
「それはいいな」
豪族の息子が顔を綻ばせると、誘惑するような笑みを耳元にまで寄せて囁いた。
「ふふん、両手に花だね。そろそろ私も旦那様を探さないといけない年齢なのだけど、
なんなら一緒の部屋に泊まっていくかい?パリス?」
「馬鹿」
「いけずめ」
 意外と本気だったのか。冗談だったのか。郷士の娘は舌打ちした。
いずれにしても一言で返されたリヴィエラは、卓の傍らを通りかかった旅籠の親父に目を転じた。
「そうだ。親父さん。一番、いい部屋を用意して貰える?」
肥えた体格の旅籠の親父が、問われて口ごもった。
「それがですね。お嬢。泊まってるお客様がおりまして……
此れがそこらの旅商人や農民なら兎も角、その御方は東国人の貴族様で……しかもシレディア人だとか」
郷士の娘も豪族の息子も、親父の言葉に顔を見合わせた。
「あー、それは怒らせると恐いね」
「東国……ネメティスの貴族か。それでは無理を言う訳にもいかんな」
シレディア人について諸々の噂を耳にしたことの無い豪族の娘フィオナだけが、二人の納得した様子を不思議そうに見つめている。
「大部屋なら一つ開いてますが。お嬢の貸切ということで」
親父の言葉に鷹揚そうに頷きながら、郷士の娘は注文をつけた。
「では、そこで頼むよ。それと肉とワインも」
「それが肉が切れちまって。北の農園で仕入れてるってのはご存知でしょう?
あそこが襲われて、もうどうしようもないんで」
「おいおい、バウム親父。長い付き合いのわたしは誤魔化せないよ。
あるだろう?こう、年始の祝いの為に取っておきのやつとかさ」
郷士の娘は、旅籠の親父の言葉を本気に受け取らない。
親父は、トロルみたいな顔を歪めながら渋々と頷いた。
「豚の塩漬け肉なら在るんですが……」
「なにが塩漬け肉だい。用心深い貴方がそれを持ってない筈ないよ?」
「まさかでさ。あっしは正直だけが取り得の男ですぜ」
「北の農園……スウェルスのところが襲われたのかな。
兎に角、そうなれば新しい仕入先が必要だろう?」
郷士の娘リヴィエラは身を乗り出して、親父へ話しかけた。
「うちは山羊も豚も沢山飼ってる。仕入れるなら安くしておくよ。
何なら年始には新鮮な豚肉……いや、子豚一頭持ってこさせてもいい。
さあ。正直になりたまえ」
「へっへ。取って置きの豚の腸詰をお出ししますぜ。塩と香草のうんと効いた奴です」
旅籠の親父は頭を掻きながら、新鮮な牛乳も酸っぱくなりそうな愛想笑いを浮かべた。
「やっぱり隠していたな。こいつめ」
「お嬢にはかなわねえや。焼いてきますぜ」
「うん、上等のワインも、もう一杯ずつ付けてくれ」

「随分と、なんだろ。慣れているんだね」
 近隣の人間にとって交流の場である酒場だが、豪族の娘であるフィオナ・クーディウスは、盛り場などに出入りした経験などまるで無かった。
少し羨ましそうに友人の顔を見つめる。
「子供の頃から、見知った顔だからね」
ワインを啜った郷士の娘が言葉を続けようとした時、戸口の外から恐ろしい断末魔の絶叫が届いた。


 農園の人々の亡骸を大部屋に丁寧に並べてから、女剣士とエルフの娘、農園の少年は懇ろに冥府への魂渡りの無事を願う祈りを捧げた。
 裏の枯れ井戸の傍らに倒れていた女性はやはり少年の母親であった。
死者には祖父と兄たちも含まれていて、涙ぐむ少年をエルフの娘はそっと抱き寄せた。
朝の澄んだ大気の中、簡素な弔いの儀式を済ませてから、農園を発った三人は街道を目指して一路、南へと進んだ。
 女剣士とエルフの娘に挟まれるようにして、農園の少年は時折、よろめきながらも足を止めなかった。
「歩けるか?」
額に汗を吹き出しながらも、少年は女剣士の問いかけに頷いた。
「うん……はい」
「よろしい。ただし、苦しくなったら何時でも云いなさい」
 植物も疎らな小高い丘陵に囲まれている盆地の農園を後に、曲がりくねった獣道や間道を半刻も進めば、直ぐに街道へと到着するだろう。
翠髪のエルフは時折、甘葛や香草の類を見つけては足を止めて摘んでいた。
少年も温い水の入った革の水筒で幾度か喉を潤しつつ、額の汗を拭いながら呼吸を整える。
「それだけ野菜が在るのに、まだ足らんのか?」
「味付けに必要なんだよ」
 街道が目に窺える小高い丘陵の頂きまで登った所で、女剣士が少年の顔色を見て小休止を取った。
岩陰にある草叢に荒い息の少年を休ませながら、二人の娘は少し離れた位置で街道の様子を眺めている。
「暖かいね。風が冷たいのに」
厚手の布に毛皮で裏打ちした質素だが上等な衣服を着込んで、エルフ娘は声を弾ませている。
「余りはしゃぐな。その服は少年にとっては身内の形見なのだからな」
横目で草叢に寝込んで休ませている少年を見ながら、女剣士が注意を促がした。
「……あ」
 ぬくぬくとした感触に顔を綻ばせていたエルフが、迂闊な行動を取った自分に気づいて口元を押さえる。
余りに気まずそうにエルフ娘が俯いたので、女剣士は肩を引き寄せて抱きしめる。
小さく息を飲んで腕の中に納まったエルフの尖った耳元で、小さく囁いた。
「寒いな……今年の冬は。一人では凍えそうだ」
「……うん」
 その姿勢のまま暫らくじっとしていると、やがて二人の背後で少年の起き上がる気配がした。
まだ調子は万全とは言いがたい様子ではあったが、大分顔色は良くなっていた。
旅籠はもう四半刻も歩けば到着する距離にあった。
 風の吹きすさぶ寒空で休ませるよりは、旅籠について休ませた方がいいだろうと判断し、再び一行は歩き始めた。
「……僕は、どうなるんでしょうか?」
街道まで降りて直ぐ、誰に向けてという訳でもなく少年がぼそっと呟いた。
「私は東国の人間だから、辺境の慣習には詳しい訳ではないが……」
前置きしてから、女剣士は見下ろした少年と視線を交わした。
「まずは、信頼出来そうな親戚筋などから後見人が付くことになるだろうな。
 だが、オーク領に近い農場。誰も名乗りを上げない恐れもある。
 その場合は恐らく、君は親戚の誰かに引き取られる事になるだろう」
其処まで云ってから、何かに気づいたように眉を顰めた。
「待て。君の一族は、此の土地に根付いて何年くらいだ?」
「え?御免なさい。分りません」
唐突な質問に面食らっている少年を、女剣士が見つめた。
「ふむん、例えば、君のお爺さんは此の地で生まれ育ったのかね?
 それとも二、三十年前に、南方なり西国なりから移民してきたのか?」
女剣士に凡そでよいと告げられてから、少年が思い出したように口を開いた。
「お祖父さんが子供の頃の傷が建物にありました。だから……」
「この地に根付いているのなら問題ないな。
 親戚がまるでいないという事もまずないだろう」
頤に指を当てて首を傾げた女剣士が、少し考えてから
「一族で誰か信頼出来そうな者はいるかね?近くなら送り届けるのもやぶかさでは……」
「アリア。前に誰かいる」
 人間世界の慣習法には全然詳しくないので、それまで口を挟まずに大人しく耳を傾けていたエルフ娘が押し殺した警告の声を発した。
女剣士が鋭い眼差しを向けると街道の前方。何者であろうか。
十を越える人影が街道筋の樹木の周囲に屯っている様子が窺えた。





[28849] 45羽 土豪 08
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ffbef484
Date: 2012/03/10 22:58
ヴェルニア内陸部の辺境地帯を東西百里(四百キロ)に渡って貫くその街道は、俗に『辺境行路』と呼ばれていた。
街道とは見做されているものの、別に道が石やレンガで舗装されている訳ではない。
それどころか道とも云えない荒地や草原も『辺境行路』には含まれている。
正確には街道というより、ヴェルニアの東西を結ぶ経路と呼ぶべきであろう。
実態としては、起点から終点まで一本線の道が結んでいる訳ではなく、都市間の交通網や各々の町と町、村と村とを結ぶ諸々の小さな街道を総称して
『辺境行路』と呼称しているに過ぎない。
『辺境行路』が世人に周知されるようになったのは此処、半世紀ほどであろうか。
行き交う旅人たちが、誰という事もなく自然と呼び始めた名称が自然と定着したものである。
ヴェルニア内陸にある辺土の開拓と探険が進み、内陸を突っ切って東西を行き来する旅人や旅商人が増えるにつれて、幾つもの新たな道が大地に刻まれていった。
やがて、最初から東部ヴェルニア・西部ヴェルニア間の陸路横断を目指す隊商なども増え始め、それに伴って徐々に『辺境行路』の名は広がっていった。
その意味では、比較的に新しい街道と言えるだろう。
今、女剣士たちが旅をしているティレー・ローナ間の街道筋などは、人の往来が盛んな土地であり、長年、旅人の足によって土が踏み固められ、その分、道行きも快適ではあるが、中には当然、道とも呼べぬ道も少なくない。
場所によっては、精々二人が並んで歩くのがやっとの狭隘で険しい間道であったり、逆に何もないようなだだっ広い平原を頼りにならない一里塚だけを目印に進まなければならないような箇所もある。
時に、豪族や領主など地元の有力者が勝手に関を築いて通行料を取っている事例も少なくない。
ティレー・ローナ間の街道とて、実態は、雨が降れば容易く泥濘と化す地面剥き出しの簡素な田舎道に過ぎない。
とは言え、旅する者にとって道と目印が有ると無いでは大違いである。
公平に云って北国街道が比較的、安全で長い街道である事に違いはなく、人や物が盛んに往来する辺境地域の動脈として近年は旅人や行商人、巡礼、傭兵などに重宝されていた。
街道の場所に拠っては、四、五日歩いても人っ子一人出会わない時もあるが、大抵の土地では半日も歩けば二度か三度は行きかう旅人や農夫とすれ違い、また休息を取っている旅人たちと出会う事も少なくない。


故に、旅籠からすぐ目と鼻の先にある街道筋の木陰に複数の人影が屯しているのも、それだけであれば、さほど警戒するべき事柄でもなかった。
路傍で休息を取る隊商、或いは農民の集団など別に珍しい話でもないのだ。
街道沿いに生えている柳やブナの根元に屯している人影は、ざっと見ても十五、六人はくだらないだろう。
一見、休息を取っているだけにも見える。
が、何故か気に入らないといった様子で、エルフ娘は渋い顔で立ち止まっていた。
険しい顔立ちになって耳を蠢かせている様子は、確かに野生の兎にも似ている。
微かな違和感を覚えた女剣士も足を止まる。
黒髪の娘の嗅覚も、また危険の匂いを嗅ぎ取っていた。
「やばいね」
微かに緊張している気配のエルフが囁いたが、女剣士は何がとは問い返さなかった。
静かに頷くと、訳が分からない様子の少年の手を引っ張って見つからないうちに路傍の木陰に隠れ、顔だけ出して前方の様子をそっと窺う。
一見すると路傍で休息している農夫たちの集団にしか見えなかったが、本能の警告に気づいて足を止めてから注意深く観察してみれば、理性で考えてもおかしな点が目についた。
力なく地面に項垂れている数人の男女に怪我人が混ざっているのは?
地面に寝転んでいる老人は、泥に塗れた子供を抱きかかえている。
血の痕も生々しい襤褸布を着込んだ者もいれば、杖をついている者もいる。
「成人が十人近い。女子供も入れれば十七、八人いるな」
黄玉の瞳を鋭く細めた女剣士の囁きに、遅れて草叢に身を潜めた翠髪のエルフも打てば響くように低い声で呟いた。
「……着の身着のままだね。
放浪民や旅人にしては荷物が少ないし、近隣の農夫にしてはやたらと疲れた表情だ」
「いい所に目を付けるな。エリス。流れ者なら犬を連れている事も多いが……」
言われて薄着に気づき、鋭いなと思いながら女剣士はちょっと笑った。
「十中八九、オークに襲われて焼きだされた農民だと思うよ」
エルフ娘の意見に女剣士も同感で、二人の娘は顔を見合わせる。
少年はよく分かっていないようだが、賢明にも口を閉じていた。
女剣士は、それが癖なのか。頤に人差し指を当てて、陰気そうに呟いた。
「つまり困窮している」
二人とも黙りこくって、暫らく前方の集団を見つめる。
彼らは焚き火を中心に円を描いており、何かを焼いているようだった。
乞食やならず者の集団、或いは怠け者の流れ者たちがよくそうしているように、大人は男も女も寝転んでいるか、力なく地べたに座っており、子供たちだけが落ち着かない犬のようにうろうろと集団の周囲を歩き回っていた。

野菜がいっぱいに詰まった自分の鞄を見てから、エルフの娘は女剣士を見つめた。
「お金に困っているし、それにお腹も空かしているだろうね」
女剣士が頷いて、少年の頭に掌を乗せる。
「さて、そんなところに子供連れの女二人が通り掛かる」
沈んだ嫌そうな口調でエルフ娘が続けた。
「見たところ旅人。よそ者で奪い取ってもさほど良心の呵責は覚えないで済む」
女剣士が口角を吊り上げて言葉を返した。
「つい先日にも、街道で農民が襲われていたな。
旅籠の近くに屯っているからには別の連中かも知れぬが、窮状は同じだろう」
エルフ娘は相棒の凶暴な微笑みを見て、何かを懸念したように眉を顰めた。
食料を持った女子供の三人組。客観視すれば無力な鴨だろう。
「それほどに困窮している人間が襲わない理由が?」
オークに住処を追われた村人たちが暴徒となって、近隣の農夫から食料を奪っている光景をつい前日も目撃したばかりである。
「迂回しよう」
女剣士が結論を告げる。エルフ娘は奇妙にホッとした様子だった。
農夫たちを見た瞬間には互いに同じ結論に達していた。
態々、軽口を叩いたのは、少年に状況を説明するのも兼ねていたのだろう。

掛け合いを終えると、進路について二、三を打ち合わせてから、二人の娘は街道を逸れて歩きにくい北側の草叢へと踏み込んだ。
「……迂回?」
腑に落ちない様子ながらも大人しくついて来る少年を連れて、凹凸のある地面を足元を注意しながら少しずつ進んでいく。
地面は泥濘となっていた。鬱蒼とした草叢では、小さな穴や段差に気づきにくい。
初冬だけあって、羽虫や蛇は見当たらなかった。
亀の歩みであるが北側の丘陵の麓まで辿り着くと、それから先は緩やかな傾斜を昇っていくだけだった。
「……アリア」
エルフの娘が坂道を昇りながら、口を開いた。
「ん、なに?臆病と思うか?」
「いや、わたしも同じことを言い出そうと思っていたから」
呟いてから、少しだけ云い難そうに
「寧ろ……」
「私を猪武者だと思っていたか?
だとしても、余計な危険は回避するに越した事はないであろうよ」
軽い笑いを含んだ言葉。エルフは首を傾げてから言葉を紡いだ。
「猪武者とは思ってないよ。ただ、ほら、オークを二十も一人でやっつけちゃうでしょう。
貴女にとっては、さして……」
女剣士が立ち止まった。
何事かと思って振り向くと、睨むように強い女剣士の眼差しがエルフ娘を射抜いた。
「あれは僥倖だった」
半エルフの言葉を遮って、珍しく烈しい声で断言した。
そのあまりに強い口調と眼に呆気に取られたエルフ娘が目を瞬いていると、女剣士が再び歩き出しながら、ぽつぽつと言葉を続けた。

二十のオークを相手に廻して勝利できたのは、幸運の賜物というしかない。
薄氷の勝利という言葉でも足りない、奇跡に近い僥倖であった。
同じことを十度やれば十度死ぬ。百度やって一度上手くいくかどうか。
二度とすまい。あれを実力だと思い込めば、遠からず死ぬことになる。

オーク達は敵を娘一人と侮っていた。
奴らは酔っていたし、疲労もしていた。その上に劣った装備で殆どが雑兵であった。
対する女剣士は、足の速さと体力に優っており、一度に相手にするオークが少人数で済んだ。

幾つもの幸運な要因が手助けして、辛うじて勝利の女神は微笑んでくれた。
勿論、そうした状況を見て取っていたからこそ戦ったのだが、本来の自身の実力は、オーク二、三匹を同時に相手にするのが精々だと女剣士は口にする。
それにしたって相当なものであるとエルフには思えたが、相手が五匹、六匹となったり、手練が揃えばまず勝てないとも告げられた。
「長槍を持てば、話は別だがな」
そう嘯きながらも、手練の剣士であっても彼我の力量を見誤れば容易く死は訪れると、自戒するような口調で女剣士は語り終えた。
鋭い視線に貫かれて速くなった動悸もおさまり、翠髪のエルフは重々しく頷いた。
戦いの技には疎いエルフ娘にとって、友人の力量を正確に把握する事は困難であったから、半死半生とはいえ武装したオーク二十人を倒してのけた女剣士なら、六、七人は軽いだろうなどと何となく思い込んでいた節は自覚していた。
確かに今の今まで過大評価していたのは否めない。
「だから同じ真似は期待するな」
勝利を誇らしく思いながらも、黒髪の娘は浮き立つ気持ちを戒めていたらしい。
「うん。危険を避けるに越したことはないからね」
「然り」
女剣士は、己が力量について見栄を張らなかった。
草も疎らな軽い勾配を昇りながら、丘陵一つ分を遠回りして旅籠へと向かう途中で、エルフの娘は思っていたよりも友人が好戦的ではないのに安心し、後で役に立つか否かは分からないが、友人の力量と出来ること、出来ないことを概ね正確に把握したのだった。

丘陵を抜けてから、ゆっくりと勾配を降り始める。
それでも四半刻もしないうちに、三人は旅籠のすぐ傍らの脇道から街道へと抜けた。
木陰で休んでいた恐らくは難民であろう農夫たちは、近くで見れば本当に着の身着のままで、妊婦や老人、老婆に赤子を抱えた女までいた。
毛布や家畜は愚か、身の回りの品や食糧さえ殆ど持たないようで、草叢を掻き分けて現れた三人に気づいてざわつき、ついで二人の娘が持っている荷物に気づいたのか。
数人の大人達が何か叫びながら、ゆっくりと立ち上がった。
食い物だとでも云ってるのだろうか。
目が爛々と輝いているのは、離れた場所からでも分かる。
切羽詰った強い視線が、二人の娘が持つ食料に釘付けとなっているのは嫌でも気づく。
錯覚かも知れないが、物騒で剣呑な雰囲気を漂わせているのが、エルフ娘には肌で感じ取れた。
三人が歩き始めると、難民たちも此方へ向かって歩き始めた。
緊張に喉を鳴らしたエルフ娘が、桃色の舌で唇を湿らせた。
「……荷物も食べ物と分らないようにしておいた方がよかったかな」
「今さらだな。次があれば気をつけよう」
此方へ向かってふらふらと後ろを歩き始める辺境人の難民たち。幼子を抱えた若い女や老婆も混じっている。
徐々に早足になり始める辺境人の集団。
三人から旅籠までの距離は二百歩もないが、難民たちとの距離も五、六十歩程度だろう。
「恐いよ、アリア」
「後ろを振り向くな。歩け。なるべく早足で。ただし、私が良いと言うまでは走るな」
迫ってくる足音がエルフ娘の尖った耳に嫌に大きく響いた。
いざという時は、荷物を捨てて走ろうと考えていた。
「……あの人達。お腹が空いてるんですか?」
少年が問いかけるが、緊張した様子の女剣士が黄玉の瞳で睨みつけられた。
「黙れ」
静かで低いが、どすの効いた烈しい声での警告に少年は思わず躰を竦ませた。
「……食い物。食い物だ」
低いざわめきがすぐ背後から聞こえてくる。さらに早足となる。
が、かなり迫られたものの結局、三人が旅籠まで追いつかれる事は無かった。
武装していたからか、複数だからか。難民たちも襲う踏ん切りがつかなかったようだ。
「……あっ」
旅籠に入る瞬間、背後を振り返った少年が目を見開いて、何かを云おうとした。
が、そのままエルフ娘に強く手を引っ張られて、旅籠に辿り着いた。

三人はそのまま食堂を抜け、廊下を歩いて借りている個室まで戻ってから、エルフの娘は大きな溜息を洩らした。
「ふぅ、ある意味、オークと同じくらい恐かったよ」
緊張が解けたのか。冷や汗をかいていたエルフ娘が荷物を置くとそのまま寝台へと倒れこんだ。

農園の生き残りの少年は何かを言いたげに躰を震わせていた。
脅え、躊躇っている様子でちらちらと女剣士を見ていたが、目を閉じたまま脱力して寛いでいる様子のエルフ娘の方へと話しかけた。
「あの……顔見知りがいました」
エルフ娘が寝転んだまま、薄く目を見開いて少年を見つめた。
「近くに住んでいる農婦の人で……ミースおばさんって」
エルフ娘は沈黙を続けたまま、軽く首を傾げた。
如何解釈したのか、勇気付けられた様子で少年は言葉を続ける。
「何か上げられませんか?いい人なんです」
「駄目だ。近づくな」
荷物を寝台の横に置いた女剣士が、少年を見もせずに一言で切って捨てた。
不満なのか。生き残りの少年が上目遣いで女剣士を睨んだ。
彼をあからさまに軽侮している女剣士の仕草や動作の一々が少年を傷つけたし、物言いは厳しいを通り越して冷たく聞こえて、到底、この女剣士を好きになれそうになかった。
子供の拗ねた様子を気にするでもなく、女剣士は念を刺すように問いただす。
「顔見知りは一人だけか。他の者には?」
「分りません」
ぷいっと少年は明後日を向いた。
「ならばよい。兎に角、駄目だからな」
「……も、元々は僕の家の食べ物でしょう!」
理不尽に思えて抗議するが、寝台に腰を掛けた女剣士は五月蝿そうに手を振っただけだ。
「物惜しみで云ってるのではない」
それだけ呟くと、エルフと同じように寝台に寝転んでもう相手にしようとしなかった。
話は終わってない。
悔しさを抱えながら少年がなおも掛け合おうとした時、背後から低い声が掛けられた。
「ああ、君は本当に飢えた事ないんだね」
エルフ娘の声からは、感情の色や揺れが抜け落ちていた。
笑みを浮かべて少年を見つめていたが、今までの暖かく優しげな微笑と違って、何処か冷たく恐さを感じられた。切れ長の蒼い瞳が眠たそうに薄く開いたままに、なのに鋭く少年を射抜いていた。
「餓えた人間は恐いよ。何をするか分からない。まして子供連れ。
親。特に母親には、子供の為なら何でもする女も少なくない。良い意味でも、悪い意味でもね」
エルフの言葉を引き継いで、黒髪の女剣士が面倒くさそうに続けた。
「飢えは容易く人を獣にする。追い詰められた人間は、。何をするか本当に分らない
私も、もしかしたらエリスとても、そうならないとは言いきれない」
可憐なエルフもあっさりと頷いた。
厳しい冷酷な印象の女剣士は兎も角、少年からすれば女神みたいに綺麗で優しいエルフが獣と云われても想像もつきそうもなかった。
事の成り行きは意外で、エルフの態度の急変は少年には裏切りのようにも感じられる。
まるで自分が悪いみたいに言われて納得できず、だけど反論も出来ずに力なく呟いた。
「……そ、んなこと」

「兎に角、君は此処にいろ。面倒を掛けさせるな」
肩を落とした少年は、女剣士が云って聞かせる言葉に返事もしない。
「退屈かも知れんが外には出るなよ。夜になれば旅籠の親父も暇になるだろうからな。
君の処遇について相談できるかも知れん」
そう云った時の女剣士の口調は穏やかだったが、表情は冷酷で断固としたものであり、これ以上、取り付く暇がないのはひを見るよりも明らかであった。

幾らか厳しくしようが命を助け、しかも生活の手配をしてくれているのだ。
見ず知らずの他人の面倒を見てくれることは、大変な親切であろう。
大人なら衣食住の世話してくれる有り難さに涙を零しただろうが、相手はお子様である。
性格は悪くはなかったが、辺鄙な土地で甘いところが残った裕福な農園の息子。
要は世間知らずであった。
此の時、女剣士とエルフの娘も、また少年の頑固さと行動力を甘く見ていたのだろう。
多分に理よりも情で動く生物である子供に、道理を言って聞かせればそれで済むと思い込んでいた女剣士たちも、迂闊であった。
エルフ娘も、女剣士も、二人共に必要なら感情を抑えて理性で動く傾向を持つ人間であったから、尚更に少年を見誤ったのかも知れない。

宿屋の個室で、怠惰な猫のようにごろごろと寝転んでいた二人の娘であったが、やがて女剣士がむくりと寝台から起き上がった。
「さて、もうじき昼飯の時刻だな」
「ん~、何が食べたい?」
翠髪のエルフも、欠伸をしながら半身を起こした。
昨晩、泊まったのはオークに襲われたばかりの農園であり、やはりよく眠れなかったのだ。
「君が作るなら、何でもいいさ。でも、今度は肉を焼いてくれよ?」
どこか甘さの入り混じった声と目付きをして、肩肘をついた女剣士がエルフ娘を覗き込んでくる。
「手伝って欲しいけど……」
「私は君の命の恩人だし、怪我人なのだぞ」
先刻までと打って変わって、女剣士は甘えたような声を洩らして強請ってくる。
云ってから、黒髪の娘は微かに瞳を揺らした。自分の出した甘え声に驚いたのかも知れない。

初めて聞いた女剣士の柔らかな声に、エルフ娘の背筋をぞくぞくと快感が走り抜けた。
気持ちを許し始めているのだろうか。
「……お互い様では無かったの?」
「……ぅん」
甘く鼻を鳴らしての返答に、脳髄が痺れるような嬉しさでエルフの相好が崩れそうになる。
なんと言っているのかは分らなかったが、半エルフは陥落する事にした。
「はいはい。でも、怪我が治ったら手伝ってよね」
惚れた弱味とは言え、あまり言いなりになると都合のよい女にされてしまうし、それはそれで後で困る。
適当に言い返しながら立ち上がるが、相好を崩しているのでまるで説得力は無かった。
互いに支えあう関係の方が健全であろうし、人生に得るものも多いであろうから、エルフ娘の好みであった。建設的な関係を築けそうだから女剣士に惹かれたという側面も在るかも知れない。
でも、今くらいは動かされてもいいだろう。
失望したように、白けた表情を隠しもせずに部屋の片隅に佇んでいる少年も、浮かれているエルフ娘には気にならなかった。
気の毒な少年の抱いた淡い恋心に気づいていない訳でもないが、己の恋の成就に手が届きそうな時に他人に気配りする余裕は、流石に親切なエルフ娘といえどもなかった。

旅籠の台所を借りようと、肉と野菜を抱えたエルフ娘が廊下に出ると少年もついてくる。
手伝ってくれるのかな、などと軽く考えて黙認し、食堂へと向かった。

食堂では、少なくない人数の農民が集り、飯を食い、酒を飲み賑やかに歓談していた。
近くの農園で下働きをしているゴブリン達が安酒に酔っ払って床に寝転がり、
部屋の片隅では、流れの鍛冶師が豚飼いに短刀を売りつけようとしていた。
奥の卓では、身なりの良い三人組の若者が顔を寄せあわせて、ワインを啜っている。
台所では、粥を煮ている大きな素焼きの壷が湯気を出して暖まっていた。
エルフは薪代も込みで払っており、一々、断らずとも台所を使っていいと親父に了承を受けている。
奥の炉を借りると、農園で見つけた鉄鍋を暖めながら料理の下拵えを始める。
幾らかは保存の効く塩漬け肉よりも、腸詰を先に食べた方がいいだろう。
最初に野菜を洗うのと水汲みで水場のある裏庭に行くと、十人近い兵士達が屯していた。
玉葱を齧り、雑穀の粥をかき込みながら、思い思いに雑談している。
粗末な武具と厚手の布鎧や革服などの装備から、農兵であろうと推測する。
何処かの豪族がオークと戦う心算かな?
裏庭に入ってきたエルフ娘の姿に気づいた兵士たちの口笛や軽口を無視して、軽く水洗いを済ませる。
台所に戻って野菜を切り刻み、腸詰をオリーブ油で炒めながら鼻歌を歌っているうち、浮かれていた半エルフは、ふと少年がいなくなっているのに気づいた。
「……あれ?あの子は?」
夕食用に使おうと思って置いておいた人参と玉葱も無くなっている。
誰かが盗んだのかも知れないが、少年が見張っていてくれたはずだ。
「もしかして……」
鍋を炉から外すと、エルフ娘は緊迫した表情で旅籠の表へと向かった。


「……お肉」



[28849] 46羽 土豪 09
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/04/11 02:39
人は日々、物を食べる。一日二食とみても年に730食。
穀類に換算すれば、最低でも年に30貫(一貫目は約3.7kg、凡そ100kg)にもなるだろうか。
昨年、一昨年、一昨々年と、辺境では三年来の不作が続いていた。
今年は、オークの襲撃で冬の種蒔きすら出来なかった所もある。
飢饉に至るほどの凶作ではないが、市や町では麦や雑穀はかなり値上がりし、街道には賊徒が跳梁するようになっていた。
オーク族による襲撃はあまりにも迅速で激しいもので、村人たちは乏しい備蓄すら持ち出すことが叶わなかった。
来年の収穫も当てにできず、人々には他人に縋るか、奪うかしか手は残されていない。
だが、辺境の村々には余裕がない。
精々が親戚や親しい顔見知りを二人、三人受け入れるのがやっとであった。


では、喰えなくなった者は如何すればいいのか。
僅かに足りない程度であれば、野山を巡って食べられる山菜や雑穀を採ることで飢えを凌ぐか、近隣の富農なり、
郷士豪族なりに不足した分の食料を借り受けるのが一般であろう。
利息は通常、一年後の倍返しであるが、中には秤を誤魔化して三倍、四倍の利息をとろうとする者もいる。
いずれにしても返せなければ農民たちは土地を奪われて小作人となり、それでも不足分の食べ物を借り受ける者の半数ほどは小作人に転落する。
畑から取れる収穫は、もはや一家だけの物ではなくなるが、それでも生きていく事は出来る。

町へと出稼ぎに向かう者もいる。此れは大抵、壮健な男か、若い夫婦であった。
石積み、壁作り、荷運び、穴掘り、溝作り、ごみ捨てに排泄物の処理。
町へ行けば、仕事は何時でも幾らでもあるが、必ずしも雇用主が食べていけるだけの報酬を支払ってくれるか否かは別問題だ。
この時代に、賃金の相場はあって無いようなもの。
豊作の時期はよい。食べ物は安く、都市へやってくる農民も少ない為に、仕事はより取り見取りで、
人手が足りない為に雇う側も常より多い賃金を弾まざるを得ない。
農村部にはない娯楽や食べ物を楽しみながら、ちょっとした小金を貯められるだろう。
中には、節約しながら数年を働いて小さな家と土地を買える者さえいる。

此れが不作となると一変して話が変わる。
此の時期、都市にはまず食えなくなった近隣の農村地帯から人が流れ込む。
だが、都市それ自体に食料を生産する能力は低いのが普通であった。
近郊に広がる畑の収穫は、殆どは元々の都市の人口を辛うじて養えるか、足りない程度でしかない。
近郊の農村部でも、まずは自分たちの食い扶持を確保してから余剰分を売り払う。
農村が自分たちの食べる分すら確保できない凶作などの時期は、下手をすれば都市に流れ込んでいた食料の供給が全く停止する事もあった。
当然、都市内部での食料の価格は従来の倍から十倍にも高騰し、一方で仕事を求める放浪者や難民が大勢流れ込む為に、
当然に都市での労働人口は余る事となる。
主人は口を糊するのもやっとの安い賃金で雇われ人を扱き使いながら、しかし、都市での食料の値段は例年の倍以上にも上がっている。

餓えは常に貧困層を直撃する。
食べ物が廻るのは第一に裕福な市民。第二に職人や商人。
確実に食えるのは此処までだろう。
市の執政官や顔役、役人たちが良心的であったり、有能であれば第三に下層の庶民。
第四に、元から都市に住まう貧困層、さらには貧民まで配給が廻る事もあろう。
しかし、市の為政者たちがよそ者。特に市に最近やってきた貧しい食い詰め者の面倒を見ることなど絶対にありえない。
異邦人が市に流れ込めば流れ込むほど、食料の供給を圧迫し、犯罪は増加する。
元から住んでいた市の民草が被害を受けるのだから、歓迎される筈もない。
大人数で連れ立って都市に入ろうとすれば、豊作、平作の時期でもいい顔はされない。
ましてそれが不作の時期ともなれば、警戒され、城門にて追い払われるのが常であった。

他に本当に最後の手段として、自らを奴隷として豪族に売り込むという方法もあった。
とは言え、よほどに切羽詰った貧農か怠け者であっても好き好んで奴隷となる者などいない。
しかも、惨めな境遇に陥るのが確実とあって、幾ら解放される目があるとは言っても、此れを選ぶのはよほどの愚か者だけであるとも言われている。
凶作、飢饉の発生時に限れば、農民が地縁を頼りに土豪の奴隷になるのは、富裕な者が貧しい者の面倒を見るという救済の側面を兼ねてはいるとは言え、
やはり最悪に近い手段であることに違いは無かった。



何時の間にか、少年の姿が見当たらない。
僅かに呆然としつつもエルフ娘が鋭い視線で食堂を見回していると、狼狽している様子を見かねたのか。
「メルヒナさん」と旅籠の一人娘であるジナが、エルフ娘を氏で呼び掛けてきた。
「子供を見なかった?」
渡りに船と問いかけるエルフ娘に対して、若い娘が頷いた。
「食べ物を抱えた坊やですか?表へ」
若い娘の話によれば、肉と野菜を抱えて旅籠の外へと急ぐ少年の姿を見咎めたそうだ、声を掛ける間もなく飛び出して行ったらしい。
「……やっぱり」
下唇を強く噛んで、半エルフは溜息と共に美しい表情を歪めた。
念の為にアリアに告げておいたほうがいいだろうか。
だが、行ったばかりなら直ぐに追いかけた方がいいようにも思える。
「あ、表はいまオークに追われたよそ者がうろついていて危ないですよ」
忠告に数瞬を躊躇しながら、結局は足早に旅籠の外へと向かうエルフ娘の背中を眺めて、旅籠の娘は首を微かに傾げて自問する。
「カスケード卿にお知らせした方がいいかな?」
エルフ娘は悪い人間ではないようだし、東国人の女剣士には幾らかの心づけも貰っている。
念の為に教えておくくらいはした方がいいかも知れない。



冬の空に天高く雲が流れ、辺りには早朝の冷たい空気がピンと張り詰めている。
旅籠の戸口の前にある街道に、薄汚れた人族や亜人の一団が集っていた。
着の身着のままに粗末な布服や襤褸の毛布を躰に巻きつけただけの十余人の老若男女が、疲労困憊した様子で地面に座り込んで旅籠の壁を見上げ、
或いは足を引き摺るようにして扉へと入っていった。
一行には寒さに歯を鳴らしている幼い子供や、疲れきった様子の腹の膨れた妊婦の姿も在った。
虚ろな視線を彷徨わせている貧相な老人に年増女の胸に抱かれている幼子もいれば、戸口近くにへたり込んで膝小僧を抱えている若い娘も含まれていた。
頭目らしい白髪の老人が、旅籠の使用人になにやら必死に頼み込んでいる。
「……何か貰えないかな?」
「気の毒だが、うちだって他所様に施しするほどの余裕はないんだよ」
旅籠で下働きをしている痩せた女が、けんもほろろに物乞いたちを追い払っていた。
「……厚かましい乞食が」
扉前の粗末な椅子に腰掛けていた傭兵が、錆びた短剣を片手に弄びながら険悪な顔をして睨みを効かせている。

怯んだように顔を強張らせている老人に、朝飯を食らっていた旅籠の客のうちの誰かがぼそっと呟いた。
「……乞食共が、とっとと失せやがれ。酒が不味くなるぜ」
難民の一人でオークとの混血だろう。小さい牙のある青年の顔が屈辱にさっと顔が蒼ざめた。
「こ、乞食だと!俺たちは!」
「お前らが乞食以外のなんだって云うんだ!」
今度は奥の方から別人の声が上がった。
旅籠の食堂には、十人以上の客がいた。
誰も彼もが疑惑と警戒を色濃く漂わせている眼差しを向けてくるばかりで、どうやら難民たちは露骨に歓迎されてないらしい。
不安そうに顔を見合わせる物乞いの一団は、オークの襲撃に焼け出された農民たちだった。
丘陵近くに住んでいた農民たちは、街道筋の住民たちとは殆ど面識が薄く、交流も途絶えがちであり、今日までの折り合いは良くも悪くもなかった。

食堂の奥の卓。
長い金髪を背中に編みこんだ娘と屈強のドウォーフ、向こう傷のウッドインプが朝っぱらから顔をつき合わせて安いエールを啜っていた。
不穏な空気を感じ取ったのか、三人ともに微かに旅籠の入り口へと視線を走らせる。
器量のいい金髪の娘が、放浪者たちをためつすがめつ眺めてからその正体を推測する。
「多分、丘向こうの連中だね。街道筋の農民よりずっと貧しいんだ」
郷士の娘に楽しげな口調と眼差しで告げられた二人の亜人は、陰気な表情で顔を見合わせながら杯を傾ける。


「丘の連中は言葉も違うって話だが、ちゃんと人間の言葉も喋れるんだな」
不穏な空気が漂い始める中、奥にいた農夫の一団が嘲りを込めてさらに言葉を続けた。
「ゴブリン語を話すと聞いたぜ」
酒場にいたゴブリンが怒ったのか。唸りながら放言した男を睨みつけた。
「オーク語じゃなかったのか」
「オークが混じってるじゃねえか。そいつが奴らの襲撃の手引きしたんじゃねえのか?」
半オークの青年の顔が憤怒で真っ赤に染まっているが、禿頭の男がいきり立つ仲間を必死に抑える。
「もう一度、云ってみろ!」
「やめろ、やめるんだ。あんたらもやめてくれ!」
「なんか、文句があるのか!オークよぉ!」

「やめとけよ」
そう声を掛けたのは農夫の一団の中心に座る青年で、傍らに置いてある壷に手を掛けている。
立ち上がると前に進み出てきて腕を広げつつ、難民たちに話しかける。
「食い物が欲しいってんなら、此処にある。値段次第で売ってやってもいいぜ」
壷には雑穀が入っていた。行商人と取引しようと川沿いの村から運んできた蕎麦である。
「それは売り物かい」
「ああ、銭や塩と交換しようと村から運んできたんだけどな……
オークが出るってんで行商人たちは皆、南の方に行っちまった。で、処分に困っていたのさ」
青痣で顔を腫らした青年の言葉に、村人たちは顔を見合わせた。
子供も大人達も、皆、腹を空かせている。
旅籠の粥で食事など頼んでいては、あっという間に手持ちの金など尽きてしまうだろうが、
火を貸して貰って自分たちで料理すれば人数分の粥くらいなら用意できそうだと考える。
「売ってもらえるんなら、有りがたいね」
進み出た老人をじっと見つめてから、青年がいやらしく口元を歪めつつ頷いた。
「いいだろう」
「助かったよ。銭が幾らか持ち出せたからね」
老人は、数枚の磨り減った小銭を大切そうに懐から取り出すと、青年に手渡した。
農夫の青年は、重みを確かめるように手にした銭を弄んでから懐に仕舞う。
「……そっちの袋を出しな」
木の椀で雑穀を掬い上げると、麻袋へと入れていく。
一杯、二杯、三杯。
さして大きいとはいえない袋の三分の一程度まで入れてから、青年は手を止めた。
「これだけだ」
焼け出された丘陵近くの村人たちは呆然とし、ついで抗議した。
「そ、そんな馬鹿な。あれだけあれば、袋一杯分くらいは買える筈だぞ!」
幾ら欠けた貨幣とは言え、青年は雑穀程度には明らかに不当な値段をつけていた。
「欠けてたからな。あれじゃ、半分の価値しかない。それに不作で食い物は値上がりしているのさ」
そう嘯く農夫の青年の論法に、老人が呆然と戸惑い、驚愕した様子で口ごもった。
「……そ、そんな法外な話があるものかね!ちょっと欠けてるからって」
「だからなんだ。嫌なら、他で買えよ」
悪意剥き出しに言い放った青年の仲間だろう。
街道筋の農夫達が進み出てくると青年を守るように囲んで、難民たちを睨みつけた。
皆、手には棍棒や六尺棒、殻竿などを手にしていた。

「あっ、足元を見やがって!こっちには飢えている子供がいるんだよ!」
「そうだ!お前ら、それでも血の通った人間か!」
抗議する中年の農夫と半オークに、青年はわざとらしくそっぽを向いた。
「はっ、お前らなんかに恵んでやるものは蕎麦一粒ないね。
何故か怒りと嫌悪を剥き出しにしてぶつけてくる青年の態度に、難民たちの雰囲気が剣呑さを増していく。
双方とも頭に血が昇りつつあった。
「そ、そんな真似をして恥ずかしくないのか!」
「五月蝿え!俺たちは正直な農民だ!恥ずかしいことなんて一つもねえ!」

難民には、壮健な男たちが十人ほどいるように見えたが、雑穀を売った農夫側も同数程度のいきり立っている若者がいた。
旅籠にいる近隣の住民からすれば、元々が顔見知りでもなければ言葉も少し違うのだ。
他の客も人族、亜人問わず若い男の何人かは難民たちを睨みつけながら、農夫側に加勢しそうな姿勢を見せている。

食堂の片隅。胡瓜と人参のピクルスを注文されて、旅籠の娘は三人組の卓に料理を運んだ。
「殺気立ってるぜ。グレムよ」
囁きながら小柄なウッドインプが椅子を少し退いて中腰になった。
喧嘩が始まったら、巻き込まれないように部屋の隅へ行く心算らしい。
「不味いな。これは」
膨らみ続ける酒場の緊張は、頂点に達した瞬間に破裂するだろう。
その後に来るのは、どうしようもない混乱に違いなかった。
「あの男は態と喧嘩を売ってるね。殺し合いかね?」
酒の肴を摘まみながら何故か目を輝かせている郷士の娘を横目にして、この人は何を考えているんだろうと旅籠の娘は微かに眉を顰めた。
「血の気の多いお嬢さんだな」
言いながらドウォーフも楽しげにくつくつと笑っている。


他の客も多くが遠ざかろうとしている中、数人は顔見知りの街道筋の農夫たちに加勢する気配を見せている。
旅人の往来の多い街道筋とは言え、貧しいよそ者たちは流石に気に食わないのだ。
血の雨が降るのは避けられそうに無いと誰もが思った瞬間、
「止めろ!!馬鹿野郎共が!うちの宿で揉め事はゆるさねえ!」
肥えた身体に太い腕をした旅籠の親父が、奥の厨房から姿を見せる。
巨大なのし棒を手にしている巨漢の吼え声は、双方を萎縮させるのに充分な迫力を有していた。
「やるんなら、表に出てやれ」
槍と短剣で武装している用心棒の傭兵に並んで、猪みたいな親父が押し殺した声で睨みを利かせると、静まり返った食堂にさすがにそれでも暴れようという命知らずな者はいなかった。
やがて農夫たちが、決まり悪そうに一人二人と食堂の奥へと戻っていった。
憤懣やるかたないといった様子であった難民たちも、力なく顔を見合わせてから僅かな雑穀の入った袋を大事そうに胸に抱いて旅籠から出て行った。


それが今朝の出来事。何をしでかすか分らないよそ者たちに対する嫌悪と警戒は当然あるが、一行には女子供も混ざっていた。
財産と頼りがいを持ち合わせた父親に感謝と安堵を抱きつつも、旅籠の娘は難民たちに対する同情を禁じえず、しかし、それでも何かを恵もうとは考えなかった。
一人、二人なら助けてもいい。
しかし十人、二十人の寄る辺ない難民と、哀れみだけで関りを持つのは危険すぎる。
乗じた大人数が徒党を組んで暴徒と化せば、今度は自分達が奪われるかも知れない。
庇を貸して母屋を取られるという諺のように、下手に情けを掛ければ全てを失いかねないのだ。
だから、よそ者を追い出す農夫たちの排他的な対応さえも、あくどいとは思いながらも咎めようとは思わない。
残念だけれども、世の中には差別が身を守るという側面もまた在るのだ。
「……本当に世知辛いなあ」
そうボヤキながら、ジナは旅籠の奥に続く廊下へと足を向けた。
上客用の一番上等な個室。其処にエルフ娘の連れである女剣士もいる筈だった。


街道から外れた岩と茨が転がる赤土の曠野。
木と木の狭間に散らばるようにして難民たちは幾つかの焚き火を囲んでいた。
「糞ッ、畜生!あいつら。あいつらめ」
半オークの青年が地面を叩いて、吼えていた。
恰幅のいい年増女が近寄って、厳しい口調で声を掛けた。
「ギネ。自分を哀れむような真似は止めるんだよ。何にもなりゃしない」
半オークは俯いたままに悔しげに声と体を震わせていた。
「だけど、おばさん。だって、俺は……俺たちは」
「ギネ。私たちはずっと正直にやってきた。恥かしいことを何一つしてないよ。真っ当に生きてきたんだ」
歯噛みしながらも、半オークは顔を上げる。
「家を失った哀れな人間を蔑んで楽しいってんなら、蔑ませておけばいいんだ」
じっと見つめてくる半オークに説いて聞かせるように頷きながら、年増女が言葉を続ける。
「神さまは見ているよ。あんたがきちんと生きてきた事も、あいつらのした事も……」
神々の助けを当て込んでいるというより、そうした論法で幾らかでも心慰めてやりたいと思っての言葉なのだろう。
励まそうとの気持ちを感じ取ったのか、半オークの青年は頷くと顔を掻きながら立ち上がった。
「あんたは男の子だ。頼りにしているんだからしっかりしてくれよ」
「……頼りか」
年増女の言葉に気を取り直した半オークが苦く笑いながら、一行の顔ぶれを見回した。
「だけど……どうすればいいって云うんだ」

火の傍に横たわりながら、止まない咳を続ける身重の娘と寄り添っている青年。
一枚の毛布に二人で包まり、暗い顔で火を眺めている若い夫婦。
空腹にぐったりしている幼いわが子を抱いて、一心に撫でている中年女。
栄養不足から疥癬に陥ったのだろう。
ぶなの木により掛かり、躰をぼりぼりと掻いている痩せた子供が力の無い眼差しで見上げてきた。
二十人近い難民のうち、半オークに直接の顔見知りは五、六人に過ぎない。
残りは、知人の知人か。或いは、途中で合流してきた見知らぬ他人。
いずれの素性もオーク族に襲撃されて、住処を追われた農民たちとしか分からない。
出会った当初、幾人かの難民は猜疑に満ちた視線を半オークの青年に向けていたものだが、
今はそんな元気もなくなった様子で毛布に包まって咳き込んだり、或いは地面にへたり込んで、力なく空に視線を彷徨わせている。
暗い顔で座り込み、落ち窪んだ目を光らせている男女の中には、何をしでかすか分からない者たちもいる。
先ほども、何の心算か。数人が通りかかった旅人たちを追いかけていた。
追い詰められれば、盗賊の真似事を始める者が出ないとも限らない。
半オークの青年も、心のうちの何かが麻痺してきているような感覚を覚えていた。
自分は賊にならないと言いきれるだけの自信は、今の半オークには無かった。

「食べ物はどの位ある」
禿頭の男に話しかけられた白髪の老人が、渋い顔で首を横に振った。
先ほどの旅籠で幾らかの雑穀が手に入ったが、粥にしても今日明日を凌ぐのがやっとだろう。
食料の蓄えも残り僅かで、手持ちの金も乏しくなってきていた。
一行のうちには、見ず知らずの人間も増えている。
飢えと寒さ。何より希望の見えないことが一行を苛み、苦しめている。


火の傍でぐったりとして苦しげに寝そべっている身重の娘と寄り添っている恋人の若い男。
やがて若い男は立ち上がると、隣に腰掛けていた痩せた男に近寄ってじっと押し黙った。
戸惑いながら、痩せた男が傍らに佇んでいる男に声を掛けた。
「……奥さんの様子は如何だ?」
「咳が止まらない。もっと暖かくしないと」
呟いた男が、痩せた男に親しげに話しかける。
「なあ、毛布を貸してくれないか?」
「……駄目だ。こっちも寒いくらいだ」

また別の焚き火では、暗い顔をつき合わせてやや年嵩の夫婦が相談を重ねていた。
「……これからどうなるんだろ」
やはり身重の女。大きな腹を抱えて、揺れる炎を眺めながら不安そうに呟いている。
二人の子供たちは背後で力なく毛布に包まっている。
「守ってみせるさ。俺はお前たちの為なら何でもする」
だが、その言葉にも身重の女は深刻そうに押し黙っている。
夫が小枝をへし折って、焚き火に放り込んだ。
「町にでようと思っている」
「……冬に?」
「子供を養うには、仕方ない。二人で一緒に行こう」
妻の方は町に出るのは気が進まない様子らしく、無言で首を横に振った。
「……働き口を探さないと」
「行った事が無い」
怖気づいた口調で夫に嫌だと訴える。
小さな村落の純朴な農民にとっては、大きな村や町などは人の悪意が渦巻いている場所にも思えるのだ。
町に出た無学な農民が妙な契約を結ばされて、売り飛ばされたり、拘束されたなどの話は幾らでも転がっている。
食い物にしようとする奴は、何処にでも幾らでもいたが、夫はそれでもと訴える。
「一緒に行けば、何とか……」
「それよりも何処かの豪族を頼れないかな」
「十何人も養う余裕がある豪族なんて……それに家族を食べさせれば、その分も借金を負わさる」
妻はふと顔を上げた。
「クーディウスとかなら、五、六年働けば解放してくれるかも」
名案が思い浮かんだとでもいいたげな様子で旦那に訊ねかける。
「それは……働ける奴が一人で奉公した場合の話だろう?
 子供たちを養えば、その分も借り入れはどんどん増える」
豪族のところに転がり込んだとしても、結局は借金を背負わされて、最後には奴隷になるしかないと言う。
蓄えも持ち出せなかった。いい手はないかと、頭を絞って必死に模索するも何も浮かばない。
「如何する。町にいくか?それとも……」
「町にいって如何するの?」
夫の低い声での呟きに、妻が哀しげに呟いた。
ひどく生活に疲れた様子で、女の目尻には深く皺が刻まれていた。
それでも妻は若く、美しかった。美しかったが、それだけだ。
頭もさして良くない、何かの技を持つ訳ではない。それを自覚している。
不作の時期に町に行っても、まともな働き口など無い。
出来るのは精々が春をひさぐ事くらいか。
豪族の館に奉公しても、慰み者にされないとも限らない。
それは嫌だと思った。思っていた。
追い詰められれば、いずれ奴隷でも、娼婦でも、生きる為なら仕方ないと割り切るに違いない。
しかし、手遅れになる前に決断できるだろうか。
町や豪族の土地に辿り着く力さえ残っているかどうかも分らない。
大半が生まれてこの方、村から半日以上も離れた経験の無い人間たちである。
町の場所などおぼろげにしか知らない。
焼け出されてすぐに目指したとしても辿り着けたか如何か分らないのに、
肩を寄せ合って集り、途方に暮れているうちに残されていた僅かな猶予が失われていったのにも気づいていなかった。
もはや移動しても弱った女子供の一部が脱落するのは間違いなく、仮に辿り着いても、入れてもらえるかすら定かでは無かった。
奴隷や娼婦になるのさえ運はいる。
運が足りない者は、野垂れ死んで曠野に屍を晒す事になるだろう。

それでも、町へ向かった者たちもいた。
自らもそうするべきだったのかは、難民たちには分らない。
もっとも幸運な数名の者たちは、縁戚のいる近隣の村へ世話になった。
近隣の農園や郷士豪族の館へ転がり込んだ者達もいたが、その席は既に埋まっているし、働けない者。身重や老人。子供などは引き取るのを拒否された。
二人や三人なら兎も角、十名、二十名の人間を養う余裕はどの豪族にもなかったらしい。

遠い町を目指すか。近隣の村に向かうか。郷士や豪族に世話になるか。
どれも出来ない者に加えて、また足手纏いになる身内を見捨てるに忍びない者たちも此処に残されていた。

若い男が、咳き込んでいる恋人の為に毛布を借りようと、深刻な顔で話し込んでいた夫婦に近づいた。
「……なあ、毛布を」
「ねえっていってるだろ!」
夫は、苛々した様子で若い男に怒鳴り返し、そのまま噛み付いた。
「さっきから五月蝿え!うっとおしいんだよ!手前は!」

険しい顔をした大人たちが怒鳴り合う姿を目にして、繁みの背後に隠れ潜んでいた少年は躰を竦ませていた。
頭の片隅で、ちりちりと鈴の音に似た音が鳴っている。
進むな。すぐに戻れ。引き返せと、音は少年に警告していた。
それは奇しくも少年を見つけて保護した旅人たちと同じ論法で、頭の中では間違っているという思考と今すぐ逃げるべきだという感情がぶつかり合って、身動きが取れなくなっていた。
恩人たちが美人で優しそうだっただけに冷淡な言動には落胆し、腹立たしかった。
綺麗なら、心も綺麗であって欲しいなどとおぼろげに期待していたのかもしれない。
だから、少し意固地になっていた少年は、荒涼とした現実を目の当たりにして頭が真っ白だった。
目の前では男たちが叫びながら揉みあい、女が金切り声を上げている。
「殺してやる!」
「はなぜ!こんぢぎしょうが!」
なんだろう。これは。
恐い。足が震えている。繁みの後ろに隠れたまま、引き返してしまいたくなる。
食料を抱きかかえて立ち尽くしている少年の背後に、何時の間にか年増の女が佇んでいた。

腕を掴まれれて難民たちの中に引き出されると、周囲が一斉に鎮まり返った。
強い視線が集るのを感じる。嫌な感じの視線も混ざっていた。
落ち窪んだ眼には、怒りと苛立ちに溢れた餓えた光が宿っている。
少年の背を、どっと吹き出した冷や汗が濡らした。
胃の下の辺りが嫌な風にキュッと縮まり、緊張に口の中がからからに乾燥して舌の根が張り付いた。
「その子は誰だ?こんな処で何をしている」
目の前に人影が立った。
低い鼻梁に窪んだ瞳と分厚い瞼。それに小さな牙を持つ醜い容貌の亜人だった。
数日前のオークが襲撃してきた光景が、生々しく少年の脳裏に蘇った。
「……あ……あ」
恐怖の喘ぎを洩らし、少年の漏らした小水が足を伝って地面を濡らした。


何があったのかは分からない。
エルフが見つけた時には、少年は泣きながら必死に駆けていた。
そのすぐ背後の茂みから幾人もの男女が飛び出してくるのを目の当たりにして、
エルフ娘は一瞬、少年を見捨てようかと本気で思案した。
目の前で痩せた男が少年に追いつき、何か不明瞭な叫び声を上げながら少年の髪を掴んだ。
殴られたのか、鼻腔から血を垂らしている少年が、嫌々と首を振るのを嗜虐に満ちた嫌な笑みを浮かべて、腕を捻じり上げると
「その子から手を放せッ!」
棍棒を引き抜いて、エルフ娘は横合いから暴漢に跳び掛かっていた。
躊躇無く即頭部に棍棒を叩きつけると、近づいてきている難民たちが怒りの叫びを上げた。
一声も無くぶっ倒れた男を放置して、地にしゃがみ込んですすり泣いているを無理矢理に立ち上がらせると走り出した。
「立ちなさい!立って逃げるの!」
厳しい声音に指示された少年は愚図りながら走り出した。

身体は半分勝手に動いていたが、脳裏では逃げ切れるとも判断していた。
旅籠はすぐ傍である。逃げ込めれば、女剣士も、親父や用心棒の傭兵もいる。
追ってくる難民たちも手は出せない。
跳ぶように地を駆ける半エルフの足は中々の俊足で難民たちは追いつけそうもない。
もう大丈夫か。
エルフ娘がそう思って気を緩めた瞬間、街道脇の茂みが揺れて黒い影が飛び出してきた。
歯を剥きだした怒りの表情で飛びかかってきた男がエルフ娘の細い体を突き倒した。
振り払おうと必死に揉み合っているうちに難民たちが追いついてくる。
蹴りが飛んできた。
「このアマ!」
「こいつもいい服着てやがるぜ!たっぷりと持っているに違いねえ!」
押し倒されたままに乱打が降り注ぎ、同時に乱暴な手が躰を弄って持ち物を探った。
或いは制止する心算か。
ほんの数人だけが、押し止めようとでもしているかのように他の難民にしがみ付いている。
「止めろ!止めるんだ!」
半オークが声を枯らして叫ぶものの、嘲りの声が返ってくるだけだった。
「綺麗事を言うでねえぜ!オーク野郎が!」
「父親の言うことが聞けんのか!御主まで何の心算じゃ」
杖を振り回している老人が中年の男を叱り付けるが、横にいる別の男に凄まれている。
「爺さんも邪魔するって言うなら、ただじゃすまねえぞ!」
少年の方も所詮は子供の足。すぐに難民に捕まったようで泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

拳と蹴りの雨を、エルフの娘は躰を捻じって必死に躱していたが、いいのが一撃鼻に入った。
目の前に星が散った。頬を切ったのか。鼻血なのか。
粘着質の液体が喉に流れ込んで、エルフ娘は不明瞭な呻き声を漏らした。
間抜けだな。やっぱり甘さがわたしの命取りになった。
血の泡を吹きつつ、半エルフは死を覚悟した。
腹と頭部を庇いながら、躰を丸めて暴行の衝撃を出来るだけ逃しているエルフの胸元に手を突っ込んで、若い難民の一人が巾着を奪い取った。
「ひひっ、すげえ!たんまり持ってやがる」
財布を開いて、中に詰まっている硬貨に音程の外れたような笑い声をあげる。
「おう、これでたっぷりと飯が……」
隣から覗きこんでいた中年の難民が、いきなりくもぐった唸り声を上げた。
己の胸から生えた白銀の剣先を不思議そうに眺めてから、すうっと顔から血の気が引いていく。
何事かを呻きながら、背後に首を廻そうとして剣が引き抜かれた。
同時に、白目を剥くとそのまま糸の切れた操り人形のように大地に崩れ落ちる。
「な、なんだ!てめえは」
若い難民が焦りながら振り返ると、其処には黄玉の瞳に冷たい炎を揺らめかせ、鮮血に濡れた抜き身を手にした黒髪の女剣士が佇んでいた。




[28849] 47羽 土豪 10 心の値段
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/03/19 03:33
「うお!ノス!ノスを殺しやがった!」
「こっ、此の野郎!」
「お前!お前、こっちを向け!! ただで済むと」
仲間が倒れると同時に、何が起きたのかようやく理解したのだろうか。
殺気立ち、口々に怒りの叫びを上げている難民を前に薄く笑うと、女剣士は剣を横薙ぎに振りぬいた。
左にいた男の喉を切っ先だけで切断し、そのまま円を描くように蒼く煌めく鋼の剣を反転させると、後ろから詰め寄っていた難民の肋骨の隙間に吸い込まれるようにして刃が心臓を貫いた。
小さく息を吐きながら引き抜くと同時に、地面に飛び込むように転がりながら、飛び掛ってきた農民の脛を長剣で叩きおる。
絶叫を上げている農民を放置し、心臓を突かれて崩れ落ちた亡骸を飛び越えて、目の前にいた難民の女と青年を殆ど瞬時に連続した袈裟懸けで切り倒した。
あっという間に五人が殺されて、難民たちが凍りついた。
次の瞬間、冷えた空気は瞬時に沸騰し、十人近い難民たちが武器を振り上げ、女剣士目指して殺到してきた。


厚手の布服を着た体格のいい男が激昂した様子で棍棒を振り下ろすが、黒髪の女剣士に素早く躱された。
すれ違い様に腹部に重たい一撃を喰らって、舌打ちして振り返ると同時に、ぼとぼとという音と共に地面にぬるぬるした赤黒い蛇のような物体がぶちまけられていた。
「うおわああおおっーー!!おっ、俺の腸!腸が飛び出ちまっているぅ!」
理解した瞬間、眼球が飛び出しそうなほどに眼を見張り、喉も張り裂けんと絶叫しながら地面を掻き毟り、己の臓腑をかき集めて戻そうとするが、その真上を剣風が通り過ぎる。

「うおおおお!」
唸りを上げる長剣が、やはり棒を振り回していた男の顔面を破砕する。
長剣は普通に分厚い鉄の鈍器。
前歯を砕かれて仰け反った男の太股に、ずどんと刃が突き刺さって骨まで砕いた。
激痛に絶叫し、雷に打たれたように硬直した姿勢でぴょんと飛び跳ねてから、難民は残った足一本で着地しそこなって横転した。

「やってしまった。歯に当てるなんて。腕が鈍ってる」
呟きながら横に跳んだ女剣士の、直前まで頭があった位置を棍棒が通り抜けていった。
雄叫びを上げながら、浅黒い肌の男が自棄糞気味に突っ込んできた。
棒切れを振り下ろしてくる腕の小手先を長剣で跳ね上げる。
血しぶきと共に、棒を持った拳が宙を舞った。
「手首。俺の手がッ、取れちまった。うあああ」
叫んでいるところに首を薙がれて、血潮を撒き散らしながら男は即死する。

女剣士の動きは流水の如くとらえどころなく、そしてまた恐ろしく素早かった。
縦横無尽に俊足で跳ね回り、難民たちの振り下ろす棍棒は、その影すらもまるで捉えきれない。
半数を殺された頃には流石に難民たちも熱気が醒め始め、徐々に恐慌と取って代わり始める。
禿頭の男が棍棒を持った腕を滅茶苦茶に振り回しながら、近づけまいと恐怖に叫んでいる。
あっという間に間合いを詰めると、女剣士は狙い済ました一撃で腋窩動脈を切り裂いた。
蹲ったところを背後から刃先を突っ込んで、喉まで到達した刃が禿頭の男の頚椎を切断した。

歩み寄られた一人の若者が、ついに棒を放りなげて叫びながら逃げ出した。
発狂したように喚いて逃げるのを、女剣士は狼のように猛烈に追いかける。
俊足の女剣士にあっという間に追いつかれると、体当たりするような勢いで背中から猛然と切りつけられた。
絶叫を上げて地面を転がるのを、長靴で踏みながら動きを制して止めを刺される。

十人を殺されたところで、遠巻きに様子を窺っていた難民の幾人かが逃げ始めた。
それを横目で見ながら、エルフ娘はのろのろと身を起こして立ち上がる。
背後の樹木により掛かって痛む唇を押さえると、どうやら殴られた時に割れていたらしく鉄錆の味が舌に染みた。
女剣士が足を止めると、向き直ってきた。
なお敵意に溢れる視線を向けてくる難民たちを完全に無視して、エルフの下へと歩み寄ってくる。
「酷い様だ」
指を伸ばして痣の出来ている頬を撫でてから、
「……やったな。やってくれたな」
小さく低い声で呟いて、いきなり唇を近づけてきた。
「……ひあっ」
叫んでいるエルフの頬の血と涙を舐め始めながら、尖った耳元に訊ねる。
「自分の身は守れるな?」
頷いているエルフに微笑みかけてから、じりじりと近寄ってきた難民たちに振り返って、剣を構えた。

息子を殺された老人が怒りの叫びを上げながら、臓物を地面へとぶちまける。
痩せた男と中年の女は、怯んだところを下腹部を薙がれて切り倒された。
若い娘が、横から飛び込んできた刃に脾腹を刺されて絶叫する。
屈強のドウォーフが膝頭を割られて、絶叫しつつ横転した。
少年が頭蓋を叩き割られて、地面に脳漿が飛び散った。

絶望に目が眩みそうになりながら、背の高い男が背後に庇っている女に囁いた。
「……逃げろ」
興ざめした様子で間合いを詰めてくる女剣士が、鼻を鳴らして
「まるで此方が悪者のような物言いだな。賊の分際で気に入らぬ」
「うおおお!」
ひゅごっと言う音と共に、太股の内側が深々と切り裂かれていた。
横転し、傷口に掌で抑えようとして背後の女が切り倒される姿が目に入った。
絶望と怒りの叫びを上げて、我武者羅に立ち上がろうとしたところで鋼の刃が喉に食い込んだ。

それで糸がぷつんと切れたように闘志が消え去った。
難民たちはもう戦えなかった。
略奪と戦闘に慣れたオーク族が、三人掛かりでも敵わない手練の剣士である。
碌に武器を握った事も無かった農民たちが、幾人いようと案山子の山も同然だった。

倒れた男の亡骸を抱いていた老人が立ち上がり、よろよろと前に出てきた。
「や、やめてくれ!降参する。わしらが……」
涙を流しながら、何かを言い掛けて、口を開きかけた細首が一瞬に跳ね飛ばされる。

脅えた表情で逃げ惑う女も、黒髪の女剣士は容赦なく切り倒した。
目に絶望の色を浮かべて跪いて命乞いをしていた栗毛の娘は、肋骨の隙間を縫うように、胸の上から刃を刺されて殺された。

凄まじい殺戮劇に呆然と立ち尽くしていた少年の下に男が駆けつけてくる。
「ぼ、坊ちゃん。坊ちゃん。命は、命だけは助けでください!」
膝に縋りついている男を突き飛ばして、今度は巨体の女が少年の喉下に小刀を突きつけた。
「どきな!剣を捨てな!此の坊やを殺すよ」
女剣士に向かって怒鳴りつける。
「好きにしろ。拾っただけの他人だ」
短剣を取り出しながら女剣士は艶然と笑った。
一息に投げた短剣は、怯んだ女の眼窩に突き刺さって脳髄にまで達していた。
ついで腰を抜かしていた男も、地べたに縫い付けられる虫のように剣を突き刺されて殺された。

「……何てことだ、どうしてこんな」
半オークの青年は二、三歩下がってから、背後に腰を抜かしている中年女と二人の幼い子供が、目に涙を浮かべて震えているのに気づいた。
凍ったように冷たい感覚を背中に覚えながら、子供たちに微笑みかけると、震える躰を叱咤して、周囲に落ちている棒切れを拾い上げた。

「……ひっ、来るな!こないでくださぁい!」
若い男が後ずさりし、珍妙な懇願の言葉を口にしながら棍棒を振り回した。
想像を超える凄まじい殺戮劇の展開に、女剣士がまるで悪鬼羅刹の類としか思えない。
女剣士が容赦なく踏み込んで、激しい一撃を見舞った。
切り飛ばされた男の腕が地面に落ちる。
「ああアッ!おあああああ!」
棒立ちになっているところを、さらにふとももを切り裂かれた。
灼熱の苦痛と衝撃に男の腰が抜けた。這い蹲って恐怖にすすり泣く。

「……大分、勘を取り戻せた」
呟きながら、女剣士は満足そうに長い溜息を洩らした。
それから小首を傾げて、若者の顔を表情の見えない冷たい面差しでじっと見つめる。
「……ああ、お前。やはり、お前だ」
何時の間にか、旅籠からも数人の人が出て来て遠巻きに様子を窺っていた。
周囲には、死体と身動きも出来なくなった難民たちが血の海に転がっている。
ほんの数人は逃げ去ったようだが、木陰では腰を抜かしている中年女と子供たちを守るように半オークが此方を睨みつけていた。
「へう?」
怪訝そうな声を上げる若者に、女剣士が感情の窺えない冷たい黄玉の瞳を向けた。
「エリスの頬を叩いていただろう?可哀想に、腫れているではないか。
 あんないい娘なのに、酷いことをする。そうは思わないか?ん?」
「ちが……ちが」
言い訳しているように上げている左腕の、今度は手首から先を切りとばした
「おああああ!いっひぃいいい!いぃー!いいい!」
歯を食い縛った口の端から泡を吹いて、若者が苦痛にのた打ち回った。
余りに無惨で酷い光景に、エルフ娘は思わず顔を逸らした。
少年は、殆ど気を失いかけている。

「や、やめぇええ」
街道横の木立に隠れていたのだろう。
半狂乱の若い女が横合いから駆け込んで来て、後退った若者に覆いかぶさった。
「とうちゃ!かあちゃ!」
子供が繁みに立ち尽くしている。
「此れ、返す!返すから!」
若い女が若者の懐を弄って、財布を掴んでいた。
「違う。違うんだ」
「お願いだから、もうやめて!」
「……どうか……どうかぁ……」
顔をクシャクシャにして、涙声で啜り泣いている。
「助け、助けてぇ。出来心なの。お願い」
「助けてください。家族だけは……」
命乞いの心算らしい。いやいやと首を振っている一家を冷たい眼差しで眺め、女剣士が剣を構え直したところで

「……アリア。もういいよ」
横合いからの突然のエルフ娘の制止に、黒髪の女剣士は動きを止めた。
二人の難民に反撃されないだけの距離を取ってから、エルフ娘をじっと見つめる。
「もういい。その人たちは、もう何も出来ない」
露骨に不愉快そうに見つめてくるのに、やや怯みながらエルフは言葉を繰り返した。
女剣士の視線が険しさを増した。
地面に唾を吐き捨てて、睨むように強い眼差しで友人の筈のエルフ娘を見つめる。
鋭い視線には誰に向けたものだろうか。敵意に近い怒りが込められているように見えた。

街道は、血に装飾されていた。
其処此処で無惨な亡骸が樹木に寄りかかり、或いは地面に転がっている。
致命傷を負いながら死に切れない負傷者の苦悶の呻き声が上がり、僅かに生き残っている難民が地べたにへたり込んで木陰で震えていた。

暫らくして、女剣士は思い出したように溜息を漏らした。
「なるほど、君は穏やかな南方の森で育ったのだったな」
黒髪を指でかき上げながら低い声で呟いて、エルフ娘を改めて見つめる。
瞳には奇妙な光が宿っていて、見つめられるエルフの娘を落ち着かない気分にさせたが、しかしそれでも視線は逸らさずに見つめ返していると
「エリス。私を好きか?」
唐突に黒髪の女剣士が訊ねてきた。

「私は君が好きだ。気立ての優しい処も、芯の強い処も好ましいと思っている」
女剣士が内心を吐露してきた。
「……こんな時に愛の告白?嬉しいけど」
戸惑いながらも、エルフ娘は女剣士の様子を窺う。
黄玉の瞳からは既に怒りの徴候は消えうせていたが、幾らか不安そうに瞳も揺れている。
質問の意図が分からずにエルフ娘の胸には不安が湧いてくる。
「こんな時だからだ。この様を見て、まだ私が好きか?返事を聞きたい」
「勿論、私も好きだよ。愛している」
エルフ娘は、本音で応える。

返り血に身を赤く染めた女剣士が、感情を表さずに微笑んだ。
「うん。私もだ。その答えを聞いてとても嬉しい」
半オークや傷ついた難民の夫婦は、場違いな問答の醸し出す異様な空気に飲まれたかのようにしわぶき一つ立てなかった。
「勿論、私にもそれなりの貞操観念がある。
 誰でもいい訳ではないが、君に応えてもいいと思っている」
軽く目を細めて、エルフの娘をじっと見つめた。
「君の物になら、なっても良い。ただし一つだけ条件がある」

「君の物になる、か。案外、乙女なんだね。アリアも。
 私の物になれとかいうかと思った」
条件について、エルフ娘は直接は問い返さなかった。
頭を働かせる為の時間を稼ぐ為か、軽くまぜっかえしてくる。
「そちらがいいなら、そうしよう」
女剣士が頷いて、どちらでもよさげに唇に指を当てている。
「で、条件とは?」

「私には敵が多い。今日まで少なくない怨みを買っている」
だろうとはエルフ娘も思う。殺戮の場を見回すまでもない。
今も致命傷を負いながらも、死に切れないで泣き喚いている者、呻いている者が大勢いる。
「中には性格が悪くて、おまけに執念深い奴も幾らかはいる。連中は、平気で身内を狙うだろう」
胸に手を当てて女剣士はエルフに歩み寄ると、顔を覗き込んできた。
「友ならば兎も角、恋人となれば必ず狙われる。
 君の優しさは好ましいが、過ぎれば毒となる。
 情に足を取られる人間を恋人として傍らに置く訳にはいかない」

「私を貴女の物にしたいと思うのなら……或いは私のものになりたいのなら……」
黒髪の女剣士が軽く唇を舐めて、指先で自分の胸から臍までなぞってみせる。
武人に思えた想い人にこんな表情ができるのかと、エルフは胸にざわざわした欲情を抱きながら、同時に、背中に冷や汗の浮き出るような嫌な感覚を覚えた。
黒髪の娘が唇の端をキュッと吊り上げた。
蠱惑的な笑みを浮かべて、命乞いする家族を指差した。

「彼らを殺せ。それで私は君のものになる。
それで、この身も心も全て、わたしは君のものだ」
佇んでいるエルフ娘の横合いで泣き叫ぶような悲鳴が上がった。
蒼い瞳でじっと女剣士の黄玉の瞳を見つめてから、エルフ娘は唇を小さく舐めた。
「……女子供も?」
「女子供を」
女剣士の揺るがない要求を聞いたエルフ娘は、呼吸も乱さなかった。
ただ僅かに顔を伏せて、そう、と呟いて一瞬だけ目を瞑った。
エルフ娘が外見に反して案外、肝が太いことを女剣士は知っている。

「命乞いをしている人間を殺せと?いや、だからこそか」
甘さを捨てろ。自分の傍にいたいなら非情になれると証明してみせろ。
要求の意味を、エルフ娘はきちんと咀嚼しているようだった。
頭の出来は、女剣士より上かもしれない。そんなところも好ましいと女剣士は思う。

どこか呆然とした表情でエルフの娘が呟いた。
「断ったら、旅もおしまいかな?楽しかったけれど……」
「恋人には出来ないが、友情が終わる訳ではないだろう?それとも割り切れぬか?」
黄玉の瞳に宿る硬質の光を見、妥協はないと翠髪のエルフは悟らされた。
戦乱の地である東国(ネメティス)に生まれ育った女剣士による要求に、エルフの娘は力なく微笑んだ。
「それは……嬉しいね」



[28849] 48羽 土豪 11 獣の時代
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/04/22 15:58
エルフの娘は、そろりと頭を廻して脅えている家族に視線を注いだ。
すすり泣いている人間たちを美しい蒼の瞳でじっと見つめると、再び、黒髪の女剣士へと視線を戻した。
友人を見つめるエルフの眼差しは射抜くように鋭いが、女剣士に怯む様子は見えず、静かな口調で淡々と言葉を紡いだ。
「足手纏いは困るし、君自身の足をすくわないとも限らない」
二つに一つという訳らしい。
黒髪の娘に選択を迫られながらも、エルフ娘は気が進まなかった。
たとえどれだけの慕情を抱いていても、今までの己の生き方までも裏切る心算はないし、
子供まで殺せという女剣士の要求は、彼女にはあまりに残酷にも思えた。
翻意させられないか、半エルフは言葉を返して探ってみる。
「殺すべき相手なら、殺すよ。それは知っているでしょう?」
懸命さの込められた言葉を掛けるも、女剣士の黄玉の瞳に妥協の色は窺えない。
「君の優しさは好ましいと思うよ。だが、それでも常に一瞬の躊躇がある。
 その躊躇いは、いつか君自身の命を奪い取るかもしれない」
渋い顔で頷きながら、エルフ娘は己の思うところを訥々と語ってみた。
「善には意味が在る。人を救うこと、許すことには、それ相応の価値が在ると私は思う」
女剣士はエルフの言葉に耳を傾け、それから顔を上げると頷いた。
「……立派だな。そしてきっと一つの真実でもあろう」
しかし優しい口調とは裏腹に、女剣士の瞳は何処までも冷え冷えと醒めていた。
どうやらエルフ娘に求めているのは世界のもう一つの側面。暗い真実の方らしい。

「……私には出来ない」
「そうか。残念だ」
呟くようなエルフ娘の返答を聞いた女剣士は、口で言うほどには残念そうな口調ではなかった。
きっと予想していたのだろう。
エルフの出身地である南方は、比較的に温暖で自然の恵みも豊かな土地だと聞く。
モラルの形も、人の命の重さも、法秩序の在り方も、赦しを許容できる社会の余裕も、
きっと何もかもが女剣士が生まれ育った東国とは違うのだろう。
葛藤くらいして欲しいな。ま、君らしいか。
寧ろ穏やかと言える口調で、淡々と呟いてから

「……お、お願いです。どうか」
震えている若い男と庇うように抱きしめている連れ合いを諸共に串刺しにして、背中を踏みつけながら剣を抜いた。
二人の体を貫き、背中まで血糊に濡れた刃が出ていた。
血に酔った様子でもなく、黒パンでも毟るように無造作に命を奪ってから、女剣士は子供に視線を向ける。
死んだ両親の腕に抱きしめられている少女が目を見開いていた。
歯の根も合わないほどに震えながら涙目で見上げてくる少女の頬を優しく撫でて
「ついてなかったな」
「……あ」
女剣士は耳元で穏やかに囁きながら、少女の頚骨をへし折った。

「……子供をッ」
息を呑んだエルフの娘が、子供の亡骸を地に横たえる黒髪の女剣士を睨みつける。
「君が見逃したからといって、私が許す理由もあるまい」
黒髪の娘はやはり淡々とした口調を崩さずに、子供の目を閉じさせてから立ち上がった。
或いはエルフの娘が幻滅して、女剣士を見限って立ち去るかも知れない。
それでも、彼女は行動を改めようとは考えない。
「……何故?……もう戦えなかった。それに子供まで殺す必要があったの?」

黒髪の娘の鋭い眼差しが、硬質の烈しい光を帯びた。
「見逃す理由が在るかな?彼らは既に一線を越えていた」
問いかける友人に向き直った黄玉の瞳の、野生の狼を思わせる鋭さに、
エルフの娘は唇を噛んで分からないと言うように首を振った。
「……一線?」
「温暖な南方ならいざ知らず、東国や辺境では農民にも余裕はない。
 生きるに余裕の無い者たちが乏しい財貨を奪われたら如何なる?
 真面目に働いた者が今度は飢えて死ぬのだ。君が知らない筈もあるまい」
厳しい表情を保ったまま、暗い瞳で沈黙する半エルフ。
緊迫した雰囲気が、立ち尽くす二人の娘の間に張り詰めた。
「皆が貧しい辺土で盗賊が一人いれば、盗まれた者が死ぬ事になりかねないのだ。
 そうなれば奪われた者に対して、咎人を見逃した者もまた罪を背負う事となるだろう」

女剣士の述べる理屈は、エルフ娘にも分かる。
皆が苦しい時期に、盗人を放置すれば示しがつかなくなる。
それだけで法と秩序が成り立たなくなるだろう。
相互不信と猜疑が蔓延すれば、脆弱で不安定な辺境の社会を崩壊させかねない。
それは恐るべき事態だ。
社会が無秩序と混乱に陥れば、さらに弱い者が犠牲となる。
だから殺すのだと、そう淡々と女剣士は語り続ける。

「或いは、他に手があるのかもしれないが……わたしには思いつかない」
ずっと静かな口調で乱れなく語り続けている友人を、エルフは悲しげに見つめる。
「彼らは奪った。力で奪う事を覚えた。
 一度、味を占めた者の大半は際限なく堕落し続け、奪い続ける。
 それでも、私に賊となった者たちを見逃せと云うのか?」
蒼い瞳を煙らせて、憂鬱に長い睫毛を揺らしているエルフ娘の賊に殴られた頬がズキズキと痛んだ。

「でも……子供は」
エルフは言い掛けて、言葉に詰まった。
何を云えばいいのか。脳裏が真っ白になって喋ろうとした言葉が出てこない。
空気が重くなったように感じる。
纏わりつく粘つく空気に喘ぎながら、反論しようとするが何故か、息苦しい。
「豪族に拾ってもらえると思うか?こんな痩せた女と子供だ。労働力にもならぬ。
 いずれは飢えて苦しむよりは一思いにしてやった方が情けというもの。
 君が養える訳ではあるまい?」
揺るがない女剣士に、エルフ娘は躰を震わせた。
恐い。理解できるから恐いと思う。
その冷徹な理論が己の心を侵食して、飲み込みそうに思えるのが、何よりもエルフの娘には恐ろしかった。
自分の信じて歩んできた足元が崩壊しそうな錯覚を覚えて、頭を振るう。
己が考えを朗々と述べるだけ述べて、女剣士は言葉を打ち切った。

鋭い眼差しの視線を移した先には、中年の女と二人の幼い少女。
二人の幼女は泣きそうな顔で年増女の服の裾にギュッとしがみついている。
そして彼らを守るように二本の足で、地面を踏みしめた革服を着た半オーク。
固い決意を瞳に宿らせて、女剣士を睨みつけている。

女剣士が軽妙な歩調で生き残っている難民たちへと向かって歩き出した。
途中、剣を宙に二、三度薙ぐと、多量の血糊が地べたへと飛び散った。
地面にへたり込んで脅えていた少年が眼を見張った。
瞳が飛び出しそうなほどに蒼い顔をして汗を流していた癖に、歯を食い縛って立ち上がると、街道へ向かってふらふらと歩き始める。
生き残った四人の難民と女剣士を結ぶ直線上に立ちはだかって、手を広げた。
歯の根も合わないほどに震えながら、黒髪の女剣士を見上げて
「……だ、駄目です」
「其処をどけ。少年」
数秒待ってから、女剣士は頬を平手で張り飛ばした。
目を廻したようだが、少年はよろめきながら必死に起き上がると声を上げた。
「あ、あの人達は僕を助けてくれました」
「……賊の一味ではないと?」
もう一人、女剣士の前に立ちはだかる。
「駄目だよ。それは駄目だ。アリア」
エルフは泣いていた。涙が頬を零れ落ちたが、強い目で女剣士を見つめている。
女剣士が苦い笑みを浮かべると、エルフも一瞬だけ目を閉じてから棍棒を構える。

女剣士の苦笑が深くなった。
「……勘違いするな。私とて、好きで殺している訳ではない。
 賊ではないというのなら、害する理由など無いよ」
少年とエルフの背後に固まっていた半オークと年増女の躰から力が抜けた。
溜息を長々と漏らしながら、二人揃って赤茶けた地面へとへたり込んだ。
「……ぼっちゃん、助かりましたよ」
少年と顔見知りだったのだろう。年増女が口走った。

少年が倒れそうになるのを、エルフ娘が背後から優しく支えた。
「……で、どうやって彼らを生かす?」
女剣士は一旦、言葉を切ると、瞳を細めてエルフ娘を問いかけた。
「今は冬だ。野山に食べ物も少ない。
 男手もなくなってしまった。まあ、無くしたのは私だが。
 男一人だけと、女子供だけで生きていけると思うか?
 彼らが盗みをしないという保証はないぞ?」

エルフの娘は、暫らく俯いて何事か考え込んでいた。
それから腰を曲げてしゃがみ込むと、少年の耳元で何かを囁いた。
「……いいよね?」
何かに確認を取り、少年が頷くと己の胸を探って紐に吊るした鉄の鍵を取り出した。
それから難民たちのところへと向かい、鍵を差し出した。
「……北にある農園の……場所は分かる?
 そう、そして裏庭。繁みを掻き分けたところ……貯蔵庫が崖に。
 此の鍵で扉を……一冬分は充分に」
難民、半オークの青年と年増女が頷きながら、鉄製の大きな鍵を受け取った。
周囲を見回し、岩陰や木陰に隠れて生き残っていた僅かな女子供を呼び集めると、北の農園の事を説明し始める。
オークの領域に近い農園が必ずしも安全とは限らないが、それでも当て所もなく地を彷徨うよりはマシかも知れない。
少年は、年増女の傍らにくっついて、難民たちの中に入り混じっていた。
どうやら、此の侭難民たちについていく心算のようだ。
年増女や半オークが信用できるとも限った訳ではないが、一緒にいるよりはましなのだろう。
年増女の腰に両手でしがみつきながら、一瞬だけ女剣士に向けた眼差しには恐怖と嫌悪の感情が色濃く張り付いていた。
嫌われたものだと苦笑を浮かべた。
だからと言って、女剣士は何か感慨を覚えるような人間でもない。

「元気でね」
エルフ娘が少年の頭を撫でた。
「……君は善良だな」
女剣士は肩を竦めながら寧ろ哀しげに呟くと、エルフが振り返ってじっと見つめた。
怒りと微かな恐怖、哀しげな光の入り混じった表情と瞳で女剣士に何か言いたげにしていた。
幾度か口を開きかけてから、エルフ娘が躊躇いがちに口に出したのは問いかけだった。
「偽善に思うか?」
「いいや、寧ろ好ましい」
女剣士はあっさりした口調で答えてから、付け加えた。
「君を好きだよ」
エルフ娘も頷いた。女剣士を見る瞳には何の色も窺えなかった。
恋の炎は醒めたのだろうか。
見つめあう二人の間に流れる微妙な空気を察したのか。
農園の少年はためらいがちにエルフの娘の裾を引っ張った。
「エリス。一緒に来てくれない?」
おずおずとした呼びかけにエルフが振り返ると
「ついていってもいいんだぞ。君に懐いているし、或いは終の住処を得られるかも知れぬ」
女剣士の言葉にエルフが身体を震わせた。
固まったように、其処に立ち尽くしているエルフを其処に残し、
後ろも振り返らずに女剣士が旅籠へと戻っていくと、道を塞いでいた数人の観衆が慌てて道を明けた。

通り過ぎた女剣士の背中を見ながら、聴衆は口々に勝手な事を囁きあった。
「……もっともだぜ。あの剣士さまは正しい」
顔に痣を持つ若い農夫が呟くが、隣にいた年嵩の農夫が顔を歪める。
「だけど、子供をよ。俺は好きになれねえ。やりすぎよ」
「だからといって、おめえは人一人引き取れるか?」

渋い顔をする者もいれば頷く者もいたが、後半の一部始終を聞いていた野次馬には、
金髪を背中に編んだ郷士の娘も含まれていた。
微かに首を傾げて女剣士を眺めながら、緊張に目を細めた。
手にはじっとりと汗を掻いている。
恐ろしい使い手だな。
相手が戦慣れしていない農夫とはいえ、武装した集団をまるで藁人形のように無造作に切り捨てた。
十人以上いる集団を一人一人切り崩していく様は、郷士の娘を慄然とさせた。
兎に角、立ち位置の確保が抜群に上手い。
一度に複数人を相手にしないで済むように、常に絶妙な位置を確保していた。
それに背後から殴りかかられたのを、まるで背中に目が在るように見事にかわしている。
信じられないような反応だった。
……あれは影か。地面の影を見て背後からの攻撃を察していたのだな。
そして、あの鋭い太刀筋。
剣先がまるで生き物のように敵の急所に吸い込まれていった。
冷たい汗を灰色の外套の袖で拭うと、郷士の娘はため息を漏らした。
自分より明白に腕の立つ女戦士を見たのは、郷士の娘にとって初めてである。
うちの親父殿とどちらが強いだろうか。ううむ、ちょっと分からないな。

近寄ってくる女剣士を眺めながら、郷士の娘は隣に立っている豪族の姉弟に語りかける。
「おっかない奴だね。しかし、凄い使い手だ」
他人事のように呟いていると、急に友人の豪族の子息が前に進み出た。
抜き身を手にしている黒髪の娘の前に進み出て、強い眼差しで睨みつける。
「……パリス?」
姉と友人、そして連れて来た配下の兵士たちが慌ててやってくるのもお構い無しに、
豪族の子息は正面を遮るように東国人の女剣士の前に立ちはだかった。
「お見事な手際。しかし、やりようが些か酷すぎるのではないかな?」
非難を孕んだ皮肉な物言いが、先日に鼻をへし折ってくれた赤毛の小人族を思い出させ、
女剣士は眉を顰めて話しかけてきた見知らぬ青年を胡散臭そうな眼差しで眺めた。
身なりはよい、裕福そうで取り巻きが多い事から、土豪の子女の類であろうと当たりをつけて、肩を竦めた。
「彼らは、他者から奪う事で生き延びる術を覚えていた。
 一度、奪う事を覚えた者は、誰かが止めない限り永遠に奪い続ける。
 それは殺されるまで変わる事はない」
血臭を纏った黒髪の女剣士は、静かな眼差しで豪族の息子を見つめてから問いかける。
「で……カスケードの後継にして、ギル・ドナヒュー・エイオンの嫡孫アリアテートに
 意見する貴殿は何者かな?」


「パリスと云う。パリス・オルディナス」
素性を尋ねられた時、何故か一瞬だけ鼻白んだ様子を見せてから、見知らぬ青年は名乗りを上げた。
「私はフィオナ・クーディウス。
 パリトーを統べる豪族クーディウスの長女です」
言いながら進み出てきたやはり年若い娘が、青年を庇うように横に立った。
黒髪の女剣士を見つめながら、豪族の娘は隣に立つ若い男に視線を送った。
二人とも整った鼻梁や彫りの深い顔立ち、意志の強そうな瞳がよく似ていた。
年の近い縁戚だろうか。或いは妾腹の兄弟なのかも知れない。
緊張と警戒も露わに話しかけてくる青年の物腰は、幾らかは腕も立ちそうな気配を漂わせている。
「カスケード卿だ。私を呼ぶときは卿をつけろ」
女剣士はやや傲慢な物言いと態度を取って豪族の子らに相対していた。

取り合えず関わる気のない郷士の娘リヴィエラは、我関せずと姉弟の背後に佇んでいた。
黒髪の娘の名乗った姓名には何となく聞き覚えが在ったような気がしたものの、
何処で聞いたかはとんと思いだせない。

しかし黒髪の娘は、豪族の姉弟よりも、寧ろ傍らで小首を傾げている金髪の娘の方が気になったようで、鋭い視線で露骨に注視してきていた。
さすがに無視できなくなった郷士の娘は、頭を掻きながら前に進み出ると女剣士へと向き直った。
郷士の娘のゆったりした服装の下には、しかし、幾つかの武器の膨らみが隠されているのを女剣士の瞳は見逃さなかった。
既に身体に染みついているのだろう。まるで体重を感じさせない軽妙な歩き方は、猫のように足音を立てないもので、黄玉の瞳はさらに警戒の色を深める。
「リヴィエラ。ベーリオウルのリヴィエラです。その二人の友人」
自己紹介した郷士の娘の名を聞いて、何やら納得がいったのか。女剣士は微かに瞳を細めた。

「ベーリオウルか……なるほど、な。道理で」
呟きつつ均整の取れた身体に視線を走らせて、女剣士は重々しい口調で訊ねかけてくる。
「ところで何故、女のようななりをしている?」
「私は女だよ」
不思議そうな顔つきでの問いかけにさすがに自尊心を傷つけられ、
郷士の娘は渋い顔で訂正した。
ひらひらしたマントと衣装の下に隠されたリヴィエラの肉体は、
確かに連日の山歩きに鍛えられて、同年代の女性より余程がっしりとしている。
服の下を一目で見抜いたのは慧眼かも知れないが、同時に酷い節穴だった。

「……そうか。よく鍛えているからか。綺麗な顔をしているのに勘違いした。許せ」
頷きながら黒髪の娘は、如何でもよさそうに呟いた。
同等以上に鍛えている癖に、優雅な体格と骨格を維持しているのが分かる女剣士の躰が少しだけ癪に触り、郷士の娘は軽く舌打ちしつつも思い出したように付け足した。
「ついでに言うなら、二人の父クーディウスは、一帯でもっとも有力な豪族ですよ。
 勿論、東国の貴族さまと比べられるようなものではありませんけど」
郷士の娘の言葉を耳にして、黒髪の娘は肯きながら豪族の子息パリスに向き直った。
先ほど名乗りを上げる時、青年は僅かだが気後れした気配を感じさせた。
なるほど、妾腹である事に幾ばくの劣等感を抱いているらしい。
「その口ぶりよりすれば、此の地の法を司る者かな?」
東国貴族の鋭い視線に怯まずに、豪族の子は頷いた。
「父クーディウスが布告する法が、取りあえずは此の地の法として施行されてはいる」

「で、一部始終を見ていた貴殿は、此れを防衛の為の正当な戦いと認めてくれるのかな?」
女剣士の問いかけを受けて、豪族の息子の頬が朱色に染まった。
「如何な土地の如何なる法であろうと、貴殿の戦いを防衛の為の正当なものと認めるだろう。
 誰も貴方を咎めはすまい」
押し殺すように言葉を紡ぎながら、豪族の子は女剣士を睨みつける。
「だけど、女子供までも殺す必要は無かった」
最後の言葉を一息に言い切ると、檄したように躰を震わせた。
「貴殿の理は正しい。だが、正しいだけだ。人として大切なものが欠けている」
危険な空気を感じたのか、姉が年若い弟を庇える位置に立ったまま、そっと剣の柄に手を伸ばした。
女剣士はそれに気づいて、微かに立ち位置を変える。
頬を痙攣させて激情を露わにしている豪族の息子とは裏腹に、女剣士は怒りの色は見せなかった。
寧ろ興味深げにじっと見つめる視線には、どこか柔和な色さえ宿している。

「では、此の地の弱きもの、貧しきものを保護するは、貴殿らクーディウス一族の責務ではないのか?」
「……なっ!」
絶句して肩を震わせた豪族の息子に、黒髪の女剣士はそのまま言葉を投げかける。
「なれば、貴殿らこそあの者たちと相対するべきであっただろう。
 私は、貴殿らの尻拭いをさせられたという事になるな」
歯噛みしている豪族の息子は、観衆たちには何時暴発するか分からないようにも見えた。
数名の兵士達が顔を見合わせながら、ざわついている中、郷士の娘が嫌そうな顔をしながら友人を守れる横の位置へとそっと移動する。

「彼らはもはや獣であった。一度獣となれば、二度と人には戻れぬ。
 獣として奪おうとし、そして敗れ、獣として殺された」
渋い顔をしながらも、豪族の息子の鳶色の瞳は強い光を失わずに、真っ直ぐに女剣士を見ている。
「自業自得を否定はしない。だが、受難の時期が終わりを告げれば、彼らもまた再び、人として生きたかも知れぬ」
「己が犯した悪も罪も忘れさってか?」
返答に豪族の息子が口篭った一方で、女剣士は淡々とした口調で言葉を続ける。
「罪は忘れても、消えぬ。それに……」
云ってから、口を閉じた。苦い笑みを浮かべて頭を振る。
「それに?」
「……いや、なんでもない。案外、受難の時代が終われば、良民に戻れたかも知れぬが、
 私にはあれ以外に彼らを処する法を思いつかなかった」

東国貴族の若い女は、疲れたように溜息を漏らした。
土豪の息子は、自分の怒りが筋違いに感じられて無力感に苛まれる。
「彼らを獣というが、貴女は如何なのだ。命乞いをする人間も、女子供もまるで虫のように殺した。
 それが人のする事か?」
「然り。私も獣かも知れぬな」
女剣士はあっさり認めると、自嘲の想いを込めた苦い笑みを浮かべた。
「だが、獣でもなければ生きていけぬ。その意味では、獣の時代とでも言うべきかな」
どうやら、自分の正しさを完全に確信している訳ではないらしい。
豪族の姉弟や郷士の娘が見つめる中、肩を竦めて言葉を切った。
「裁かれて然るべき罪であるならば、いずれは相応の報いがあるだろう。
 何者が報いをもたらすかまでは、分らぬが……
 一帯を統べる豪族であるならば、貴殿もまた責を負うべきであろうよ」
それだけ言い捨てると、女剣士は旅籠へと戻っていった。
もう呼び止める事はせずに、豪族の娘は肩を震わせて地面を見つめていた。
「パリス……生きた心地もなかった」
姉の呼びかけに小さく頷いて、

「嫌な女!何様ですか!あいつは」
女兵士の一人がぶちぶちといってるのを年長の傭兵が嗜めた。
「だから、東国の貴族の子弟だろ」
「偉そうな口を聞く筈だ」
髭面の傭兵が肩を竦めているのを、狭い世界しか知らない女兵士は首を傾げて訊ねる。
「東国の貴族ってそんなに凄いんですか?」
「そりゃ、お前。辺境の豪族たちとは領地も兵の数も全然、違うわな」
辺境地帯の郷士豪族が、精々五人十人の武装農民を配下に抱えている規模なのに対して、
東国の貴族や豪族は五十人、百人の戦士階級を動員できる者がざらにいた。
「俺でも知ってるくらいだぞ。辺境の豪族衆と東国貴族じゃ毛並みが全然違う」
近隣では随一の有力者であるクーディウス一族の信奉者である女兵士は、膨れっ面で頬を膨らませた。
「クーディウス様にあんな口の聞き方を出来るほどじゃないでしょ」
「お前の脳味噌は本当に平和だな」

陰気に黙っている豪族の息子の傍らで、郷士の娘リヴィエラは、少しだけ面白がるように両目を細めて旅籠に視線を送っていたが、豪族の娘フィオナの訝しげな視線に気づくと、表情を正して話しかけた。
「何者だと思う?パリス、フィオナ」
「いずれにしても只者ではないのだろうが。今はかかわっている暇はない」
死体を眺めてから、豪族の息子は気を取り直したように顔を上げて云った。
姉も弟に頷きかけながら言葉を続ける。
「それに、こうした事がなくなるよう一刻も早くオークを撃退せねばならない。
 そしてそれは、私たちにしか出来ないことでしょうね」
それも、いい答えでは在るけれど
口の中で呟いてから、リヴィエラは興味深げにもう一度、旅籠の奥へ視線を走らせた。
「カスケード伯子ね」
小さく呟いた彼女の緑掛かった瞳には、僅かに好奇心を孕んだ光が煌めいていた。



[28849] 49羽 土豪 12
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/04/04 21:13
旅籠『竜の誉れ』亭の裏手には、雨水を溜める古い水桶が設置してある。
あまり清潔ではない水なら、隣接する丘陵の頂にある井戸まで歩く必要もなく、そこで手に入るのだ。
裏庭にある水桶で顔を洗ってから、女剣士は愛剣にへばり付いた血糊をある程度、洗い流した。
手桶に水を汲んで部屋に持ち帰る為に旅籠に入ると、彼女を見止めた客たちの会話が途切れて、食堂が水を打ったように静まり返った。
みすぼらしい服装を着た下層の連中、見るからに性質の悪そうな乞食や放浪者たちすらも、強張った顔で目を背けるのが女剣士には滑稽であり、またほろ苦くも思えた。
私を人食いの怪物とでも思ってるのか?まるで腫れ物に触るような扱いだな。
誰も彼もが女剣士と視線が合うのを恐れているかのようにあらぬほうを向いている。
途中ですれ違った中年の男。装束からして放浪の剣士だろうが、好奇と畏怖の入り混じった視線を投げかけてきたものの、東国人の女剣士は何一つ気に止める様子もなく廊下を進んで個室に戻った。
壁に組み込まれた暖炉ではまだ火が揺れていたが、広い部屋の中は一人だけだと妙に寒々と感じられる。
返り血のついた衣服をもそもそと脱ぐと、予備の服を着込むでもなく、上着と下帯のはしたない格好のままで小さな桶で血のついた衣服を洗い始める。
旅籠の召使に心づけを与えて任せてもよかったのだが、着ていた服は気に入っていたし、旅の最中では替えの服も少ない。自分でやる方が手っ取り早い。
洗濯を終えると、今更になって何処に干そうかと迷い、濡れた服を片手に落ち着かない熊のように部屋の中をうろうろ歩き回った。
結局、両面の壁についてる松明用の環に縄を通して洗濯物を干すと、そのまま寝台に力なく座り込んだ。
下着姿で寝台に腰掛けたまま、床板へと滴り落ちる水滴を視線で追い続ける。

やがて瞼を閉じると、降りてきた闇の彼方にエルフの面影と恐怖の入り混じった瞳を思い起こした。
食い詰めた農民といえど、数が十余人ともなれば女剣士でも必ずしも勝てるとは限らない相手である。
一つ間違えば、袋叩きにあって殺されたかもしれない。
切り込む時には、死を覚悟した。
やるか、やられるかの場面で相手のことを考える余裕など無かったのだ。

にも拘らず、文字通りに命掛けで守った相手から恐怖の眼差しを向けられてしまっては割に合わぬ。
少なからぬ好意を抱いている相手でもある。流石に女剣士もへこんでいた。
しょんぼりとした様子で悄然と肩を落としたまま、足をぶらぶらと宙に遊ばせた。
他人の目の在る場所ではけして見せないが、一人きりでは子供っぽい動作をする癖があった。
誤解を受けても仕方ない振る舞いであることは分かってる。
分かっているが、変えようとは考えない自分には救いが無いのであろうか?
頑迷固陋で不器用な己の有り様を、稀には呪わしく思う時もあった。

一つ嘆息してから頭を切り替えると、次に手に掛けた難民たちを思い返す。
彼女は別に鏖殺を後悔はしていない。後悔など微塵も無い。
百度同じ状況に遭遇すれば、女剣士は百度でも同じことをするだろう。
後悔はしてないのだが、他にもっとマシな手段は無かったのかは模索するべきだろうと考えてもいる。
心楽しめない戦いの後など、時間が許せば女剣士はこうして思索に耽ったりもする。
次に似たような状況が起きた時、殺さずに済むような方法はないか。
偽善でも何でもいい。出来ることはやっておきたい。
エルフ娘への慕情すら脇へやって、真剣に模索する。
或いは将来、己の領地で同じような事が起きないとも限らない。
だが、何も思いつかない。女剣士の智恵と知識では、都合の良い方法など降ってこない。
思いつく手はどれも此れも現実味が薄いか、即効性を欠いている。
そもそも簡単に思いつく程度の策なら、土地の豪族もやってるだろう。
いや、あの若者たちが後継者では期待薄かも知れないが。
唇の端を皮肉な笑みに吊り上げて、叩きつけられた言葉を脳裏に蘇らせる。
「……人として欠けてる、か」
青臭い奴だと思った。
馬鹿馬鹿しい言い掛かりだが、やはり気分は良くない。
豪族の若者の言い分は、彼女に子供の時分を思い出させた。
葛藤し、思索もした果てに善悪の彼岸を乗り越え、為すべき責務を為すようになった今は思い起こす事もなくなっていた。
知り合った下層民を殺した異腹の姉や家臣に、似たような言葉を吐いて食って掛かった覚えがある。
実際には、その下層民の少女は仲間に命じられてカスケードの嫡子を攫う為に近づいてきたのだが。
あの時のじいも、やるせない気持ちだったに違いないな。帰ったら謝っておこう。
あの女には……あいつはいいや。謝る必要ない。
誰でも一度は見かけの優しさに目が眩まされるのだろう。
多分、麻疹のようなものだ。

辺境でのオークの襲撃とその要因。
数年来の辺境の不作が根底にあることは間違いなかろう。
飢えは侵攻の理由としては十分に過ぎるが、
オーク達が最終的にどの程度の目的を目指しているのかが気になる。
農家や農園を略奪して、一時的に食料を補えばそれで満足なのか。
或いは、幾つかの村を恒久的に支配して勢力圏を拡大したいのか。
それによって、これからも襲撃が続くのか。
難民はさらに増加するのかも変化するだろう。
辺境の情勢に大規模な変動が起これば、その影響は東国にも波及する。
シレディアとて無関係ではいられないだろう。
他にも旅の本来の目的を忘れるべきではないし、エルフ娘との出会いと関係。
考慮すべき複数の事柄が、女剣士の脳裏にひしめき合っている。
だが、どうすればよかったのか。どの問題も容易には答えが出そうにない。

「……爺さまの言ってた通りか。私もまだまだ甘い」
君主にとって、問題の先送りはけしていい結果をもたらさない。
その意味で、君主は逃げてはならない。けして逃げる事を許されない。
だが、同時に必ずしも迅速な解決が最良の手段という訳ではない。
物事には、相応しい時期というものがある。
解決するには、常にそれに相応しい時期を見計らう事が必要だ。
今は理解できずともいい、覚えておきなさい。

幼い時分、当代のカスケード伯である祖父に聞かされた言葉の意味が漸くに分かった。
一見、矛盾していたように思えていた言葉が、なるほど。煩悶する女剣士の頭の中で、かちりと合わさった。
「時が解決してくれるという事もあるのだな」
エルフ娘の件に限れば、性急に過ぎたかも知れない。
あんなに急ぐ必要は無かった。
近しい者が狙われるのは確かではあるが、今すぐという訳でもないのだと後悔した。
「愚かだな……くだらぬ」
手遅れの上に、振られた。いや、自分で振ったのだから救いようが無い。
今頃、農園に向かっている最中であろうか。
ほろ苦い溜息と共に小さく吐き捨てると、未練を捨てて気持ちを切り替えようと寝台から立ち上がった時、
「……何がくだらないの?」
ややしわがれた低い女の声が、部屋の扉の方から女剣士へと掛けられた。

入り口に手を掛けて、エルフの娘が様子を窺うように顔だけが部屋を覗き込んでいた。
「……エリス」
思わず呼び掛けた女剣士の言葉に、ピクリと尖った耳を震わせると、とととっと軽い足音を立てて小走りに歩み寄ってきた。
「呼んだ?」
寝台の横に歩み寄ってきたエルフ娘を見上げると、困惑しつつ女剣士は訊ねかける。
「何時からそこに、いや、戻って……」
「ティレーまで連れて行ってくれるのでは無かったのかな?」
「君は……冬を越える為にティレーに行くのだろう?」
俯いている半エルフの顔は、暖炉を背後に影になっていて女剣士からはよく見えない。
「冬越えなら、あの農園でも……」
曖昧に言葉を濁し、手を伸ばせば届く距離に佇んでいるエルフを眺めている。

「行き先は、自分で決めてきた。これからも自分で決める」
エルフ娘は、女剣士の隣に腰掛けてきた。
ぶっきら棒な口調で告げると、それきり沈黙したまま床に視線を彷徨わせているエルフの綺麗な横顔をじっと見つめているうち、妙な緊張感が女剣士の胸郭を締め上げて、動悸が速くなるのを感じる。
不快ではないのに、酷く居心地が悪い。
颯爽としていた姿も、竹で割ったように明快な物言いも消えうせて、おずおずと躊躇いがちに見ている己の姿に気づき、女剣士は平常心を取り戻そうと呼気を整え始めた。
いなくなると勝手に決め付けて、戻ってきた相手に勝手に不意打ちされている。
初心な未通娘でも在るまいに、相手の態度に一喜一憂してどうも馬鹿馬鹿しい振る舞いを見せそうになってしまう。
何時の間に私の方が惚れていたらしい。気持ちというのは不思議なものだな。

率直に己の気持ちを認めると、エルフの娘の言葉に耳を傾けた。
「迷惑なら……嫌だというのなら、別れるよ」
冷静に立ち戻った女剣士は、淡々として素直に告げる。
「いや……嫌ではない。凄く嬉しいぞ」
「よかった」
翠髪のエルフが微笑むを見ただけで、女剣士の胸に穏やかで暖かな熱が生じて広がった。
「……でも、どうして?」
「恋人にはなれなくても、一緒に旅は続けたいって云った」
蒼い瞳に微かに憂いを帯びながらも、エルフ娘の眼差しには強い何かが宿っていた。
咎めるような険しさでもなく恐怖に澱んだ影でもない、柔和な深い瞳を真っ直ぐに。
表情には蔭がさしていたが、それでも笑みを湛えて女剣士を見つめてくる。

廊下の先にある食堂の方からは、楽しげなざわめきや笑い声が響いてくる。
豪族の私兵たちが騒いでいるようだ。
女剣士の凛々しい容貌に見とれながら、エルフの娘はおずおずと腕を伸ばした。
掌を重ねると、黒髪の女剣士も拒否せずにそっと握り返してくる。
微笑みながら大きい掌だと思う。エルフの娘よりもごつくて骨太く、遥かに力強い。
東国人……特にシレディア人の戦場における凄まじさは、エルフ娘さえ耳にしていた。
曰く悪鬼羅刹の如く、曰く一人で他国の兵三人に匹敵する。
しかし知識で知っているのと、実際に見ると聞くでは大違いであった。
己とさして年齢の変わらない若い娘が、虫を潰すみたいに人を虐殺しておきながら、まるで動じていない。
女剣士から見れば、他者から物を奪おうとした時点で難民たちは女子供も含めて、既にオーク族や盗賊の手長と同類でしかないのだろう。
それは人々の気質が穏やかな南方の森に育った若いエルフにとっては、重たい驚きであったけれど、同時に責めるのは筋違いなことも翠髪のエルフには分かっていた。
女剣士はそのように育ったのだから、共に在りたいのなら受け入れるしかない。
俯きながら、半エルフは己の桃色の唇を軽く噛んだ。
ある意味、私も勝手な人間だ。
見ず知らずの女子供の命よりも、アリアの方がずっと大事なのだから。
「……震えている。寒いのか?」
女剣士が心配そうに訊ねてくるので、煩悶していたエルフの娘は口を濁して曖昧に呟いてから
「そっちこそ、服を着たほうがいいよ」
下着姿の黒髪の娘が苦笑して頷くと、予備の服が入った荷物を取り寄せた。
荷物を漁り、予備の服を探している女剣士の背中を見ながら、エルフ娘の瞳は不安に揺れていた。
気持ちを悟られたくない。好きであると同時に、本当は幾らか恐いのだ。
アリアは、自分では気づいていないのだろうか。
難民を殺していた時の彼女の口元には、楽しげな薄い笑みが張り付いていたのを。


冷たい木枯らしが渓谷を吹き抜けていくと、赤髭のドウォーフが羽織っている茶色のマントが、鳥の羽音に似た音を立てて風に靡いた。
薄いマントには、幾度も補修を繰り返したのだろう。継ぎ接ぎと当て布だらけ無様なモザイク模様となっており、隅の方は擦り切れている。
そろそろ布を張って、本格的に修繕したかった。
今度の仕事で金が入ったら、布を買えるだろう。
何処の布を買うか。此の辺りなら、モアレの村がいいな。
あそこの布は、値段の割りに糸の質が良く強靭で仕上げがいい。
そんなことを考えながら、腰のベルトに手斧を吊るしたドウォーフが革靴で大地を踏みしめていく。
赤い曠野を越えて小高い丘が連なる丘陵地帯に踏み込んでからは、土が黒く変わっていた。
「風が強いな。埃っぽい空気だぜ」
前を歩くウッドインプが、鼻を鳴らしながら毒づいて空を見上げた。
小柄な体躯にひょろ長い手足のウッドインプは、何とはなしに蜘蛛を思わせる。
暗緑色の目立たない衣服を纏い、腰の縄にはちゃちな作りのナイフと筒状の棒がさしてある。
普通は森の奥深くで暮らしている事が多い種族だが、中には他種族の領域に出かけていく好奇心旺盛な者も少なくない。探究心の強さなどは、ホビット族にも似ているだろう。

遠く蒼穹の高みでは、白い雲がゆっくり流れていくのが窺える。
周囲は既にオーク族の縄張りで、奥になるほど警戒は厳しくなっていく筈である。
だからという訳ではないが、進めば進むほどに周囲の切り立った崖が次第に迫ってくるようにドウォーフには感じられた。
「大軍が素早く通れる地形じゃないな」
ぼさぼさした黒髪を掻きながら洩らしたウッドインプの言葉に、屈強なドウォーフが赤ひげを撫でながら渋い顔で同意の頷きを返した。
だから、辺りに出城なり、トンネルなりがあってもおかしくない。
雇い主の郷士親子は、そう睨んでいた。
見つければ大手柄だが、喜ばしい報告という訳でもない。約束以上の金は出ないだろう。
みすぼらしい装束を纏った二人組の冒険者たちは、大岩の転がる渓谷を探索しながら、しっかりとした足取りで慎重に歩いていた。
オーク族の領域である丘陵地帯に侵入して、既に半刻(一時間)が経過している。
曲がりくねった渓谷は、益々、狭くなっていくように思える。
時折、立ち止まっては、二人の亜人は高い岩に昇って辺りの様子を見回したり、大地を這い回ってオークの軍勢の痕跡を探したりしている。
時折、見かけるオーク族の歩哨や巡回の兵士をやり過ごし、或いは迂回して、二人は丘陵地帯を進んでいった。
太陽の光も切り立った崖に阻まれて届いておらず、周囲は薄暗いが元々、地底暮らしに適応したドウォーフ族も、鬱蒼とした森の深部で暮らす事の多いウッドインプも、人族よりはずっと夜目が効くので問題はなかった。

最近は街道筋にもオーク族が頻繁に出没していた。
斥候であろうか、或いは小遣い稼ぎなのか。
二人から五人程度の少人数で、道行く旅人や農夫を襲っては持ち物を巻き上げたり、家畜や女を浚っていく。
オークの出没する経路を逆に辿り、突き詰める。出来るならば、オークの出城を発見する。
それが二人の依頼された仕事であったが、探索はしかし、熟練の冒険者であるドウォーフたちにしても一筋縄ではいくものではなかった。
渓谷は時折、他の渓谷と連結しており、或いは行き止まり、冒険者たちの行く手を阻んでいた。
あたかも迷路のような複雑な地形を見せて広がっている通路に、疲労したウッドインプが岩に座り込んで額の汗を拭った。
「よお、これは……ちょっと簡単に行き来できないんでねえの?」
愚痴るように腰に吊るした山羊の胃袋の水筒を煽ってから、ドウォーフに投げ渡した。
宙で水筒を受け取ったドウォーフも、一口だけ嚥下して返した。
中身のエール酒が、冷え切った躰を僅かに暖めてくれた。
袖口で乱暴に顎に流れた酒を拭うと、ドウォーフは顎鬚を撫でながら陰気な表情で考え込んだ。
ドウォーフが沈黙しているので、ウッドインプが言葉を続ける。
「此処を越えたらオークの領土なんだろうが、そう簡単に往来できる距離じゃないぜ」
「小競り合いの決着がつかない筈だな。下手すりゃ長引きそうな仕事だ」
ドウォーフが呟く。前金は貰った。それとは別に毎日食い物も支給されているし、鉛銭で小銭も三日ごとに貰えるが、成功報酬のほうが遥かに魅力的だった。
レムス銅貨は、海を隔てた南方の商業都市で鋳造された渡来の貨幣である。
ヴェルニア南方から辺境、東国に掛けての広大な地域で流通している。
三十レムスあれば、つつましい庶民なら半年は楽に暮らせる。
それほどの価値を持つ貨幣だった。
雑穀の粥だけで暮らすなら、二年は喰える。もっとも酒も肉も口に出来ない暮らしなど、ドウォーフのグレムには死んでも御免であったが。
どれだけの大金が懐に転がり込んで来ようが、結局は酒と博打であっという間に使い切ってしまうには違いないが、それでも放浪の冒険者二人にとって三十レムスという金額は、取りあえずは安い命を張るのに充分な報酬だった。

「兎に角、此の侭じゃ埒があかねえ」
渋い顔してのウッドインプの言葉をドウォーフも苛立たしく認めた。
「お嬢も旦那も結構、焦れていたからな。そろそろ、なんか成果ださんと首切られるぜ」
気楽なただ酒がお終いになるのは、やるせない。
岩に座っていたウッドインプが、身を乗り出して予てからの腹案を口に出してみた。
「へへ、おいらにゃいい考えがあるのよ?お嬢も納得、俺達もお得ってやつがあ」
「一応、聞くだけ聞いてやるから、云ってみろよ。ザグド」
きいきいした甲高い声で説明するのを聞いたドウォーフも感嘆して、賛成の声を上げる。
「なるほどな。そりゃいいな」
監視の目を避けながら、こそこそとオーク族の動向を探る地味で退屈な斥候仕事には飽き飽きしていたのだ。
ウッドインプが頷くと、さらに踏み込んだ点を二、三述べた。
出来れば単独行動している奴が望ましいが、間抜けなオークでもさすがに一人でうろついている馬鹿はいないだろう。
「理想は二人までだが、三人までなら何とかなる」
赤髭のドウォーフが口を開いた。
ドウォーフ族らしい自信に満ちた物言いだが、あながち自信過剰でもない。
赤髭のドウォーフは幾多の亜人や怪物と戦いながらも、今日まで生き残ってきた。
冒険者としての己の技量と判断には、それだけの自信と自負を抱いている。
「それじゃ、一回戻ってよ。お嬢に報告だ。街道で待ち伏せしようぜ」
吹いてくる冷たい木枯らしに軽く身震いしながら、ウッドインプが立ち上がった。


旅籠で昼飯を済ませたクーディウス一行が再び街道の警邏に戻っていったのは、正午を一刻ほど過ぎた頃であった。
クーディウスの後継者に好かれていない女剣士と、酔った兵士たちが顔を併せれば不測の事態が起こらないとも限らない。
揉め事を避ける為、二人の娘が部屋を出たのは豪族の兵士たちが居なくなってからであり、広い食堂には客も少なく閑散としていた。
豪族の郎党たちは旅籠の亭主の好意で一杯ずつエールを振舞われたらしく、出発する時には陽気に騒いでいたが、オーク族の襲撃に脅かされている近隣の農夫たちには、騒々しさが却って力強い印象を与えていたようだ。
残っていた農民たちは、どこか明るい雰囲気を漂わせて談笑していた。

足元に散らばる藁や食べ物の滓を蹴飛ばしながら、エルフの娘が台所に入ってみれば、焼いた腸詰も炒めた野菜も、どうやら誰かが食べてしまったようで影も形もない。
部屋の片隅にいたゴブリンたちが、慌てて口を抑えたのは果たして何故だろうか。
兎に角、エルフ娘は台所を借りると、小さな小刀を巧みに操り、再び料理を造りはじめた。
使えそうな調味料は、岩塩と酢、オリーブ油、香草、ワイン。
旅籠の親父や農夫たちから買い取れる食材は、卵、山羊のチーズ、バター、黒パン。
一般的にワインは甘さが強く残っており、お湯で割って飲むのも楽しみ方の一つである。
首を捻ってから「スープだな。うん」
お湯に豚の塩漬け肉を放り込んで出汁を取りながら、玉葱を切り刻んでいく。
「ブイヨンがあればいいのだけれど」
呟きながら、手際よく切り刻んだ玉葱をオリーブ油で炒め続けて、黄金色になったら出汁を取っていたお湯を足し、炒めた人参とキャベツを入れた。
少しでも食べ易くなるように、買った黒パンを吊るして湯気を当てながら、腸詰を焼き、人参、キャベツをオリーブ油で炒める。
切り刻んだ香草の葉を散らし、腸詰には炙ったチーズを乗せた。
少し掬い取って味見をしてから、慎重に塩とワインを適量だけ入れ、炙った山羊のチーズ、豚の腸詰と塩漬け肉を適当に具として追加する。
ちなみに、スープの具で食べる腸詰とチーズと、皿に乗せるチーズと腸詰は取り分けてある。
後は、卵で目玉焼きを作りながら、黒パンとチーズ、腸詰を皿に乗せて出来上がりである。

その間、女剣士は何を手伝うでもなく、食堂の隅の席で湯で割って暖めたワインを楽しみながら、料理の出来るのを待っていた。
エルフ娘の料理する手元を、時折、旅籠の親父がかなり真剣な顔つきで覗き込んでいたのが、女剣士にはまた意外であった。
親父は、その度に手元の羊皮紙になにやら書き込んでいるが、どうやら料理のレシピを模倣しているようだと当たりをつけた。
真似られるのが嫌なら、エルフ娘も断るだろうから承諾済みなのだろう。

「外見に合わず、なんとも……」
思わぬ親父の勉強熱心に口元に小さく笑みを浮かべてると、次に鋭い視線を走らせて、食堂の反対側の席でやはりエールを啜っている外套姿の女を密かに注視した。
先刻、囲まれた際に観察した折では、田舎豪族の私兵には目立った使い手はいなかった。
武器からしても、練度からしても、オークの雑兵たちとどっこいどっこいの腕だろう。
まあ、あの人数で行動しているなら、オークにも容易く負けはすまい。
女剣士なら同時に二、三人を相手にしても負けない自信があるが、あの娘だけはどうも気になった。
女剣士の鋭敏な感覚が、外套を纏った娘の周囲に漂う濃密な血の匂いを嗅ぎ取っていた。
両手両足で足りない程度の数はこなしているに違いない。
その証に、他の連中とは瞳の色がまるで違う。
霧の掛かったように感情を見せない、透明な膜が覆っている殺人者の瞳。
会話をしながらも、瞳だけは全く揺れずに冷静に此方を観察していた。
あの瞳。歴戦の傭兵か、本物の騎士。或いは卓越した斥候などの持つそれのようだ。
技量云々はおいておくにしても、ああした目を持つ戦士は得てしてかなり粘り強い。
さて……敵に廻せば、厄介なことだが。
暗緑色の装束を纏ったウッドインプが、旅籠の入り口に姿を見せた。
長い金髪を編みこんで背中に揺らしている外套の女が顔を上げると、ウッドインプが駆け寄ると、二人は顔を寄せ合い、何やら熱心に話し始めた。

ベーリオウルと言っていたな。
密かに金髪の娘を観察している女剣士には、その名に聞き覚えがあった。
東国や辺境、南王国の地域に掛けて綺羅星の如く散らばる勇士豪傑のうちでも、特に名だたる数名や一族と何らかの因縁のある者たちについては、女剣士も名前くらいは記憶している。
ベーリオウルは、その一人だった。

あのベーリオウルの娘なら、うら若い娘が戦いの技をよく仕込まれていても不思議ではない。
木製の杯を卓上に置くと、女剣士は荒涼とした冬の光景が広がる窓の外を眺めた。
本格的な冬が訪れ始めたヴェルニアの街道を、木枯らしが吹き抜けていく。
本来であれば、当にティレーについている予定であったのだが、遅れている代わりに色々と面白い体験をしている。

エルフの娘が台所から出てきたのを視界の隅で確認すると、女剣士は思索を打ち切って笑顔を向けた。
何時の間にやら、酒場の片隅にいた外套を羽織った女が消えていた。
食堂の隅の席で、頬肘を付きながらちびちびワインを啜っている女剣士のところに、湯気の立っている卵焼きと黒パン、チーズ、腸詰。そして野菜スープが運ばれてくる。
「チーズと玉葱があったし、腸詰も混ぜて簡単なオムレツにしても良かったのだけど」
「では、夜はオムレツが食べたいな」
ついでに先ほどの親父の謎めいた行動を聞いてみると、やはり羊皮紙には、文字が書けないなりのレシピ。
玉葱やキャベツらしい下手糞な絵が細々と書き込まれているらしい。
いずれは、旅籠の料理にレパートリーが増えるかも知れない。
女剣士が考えているうちに卓の上に料理を乗せると、エルフの娘は手を合わせてエルフ語で貰った命への感謝の祈りを捧げ始める。
幾らかマシになったとは言え、傷ついた喉の影響で未だに低いしわがれた声しか出せないエルフ娘だが、ハスキーな音楽的な声音での歌うような祈りはそれでも聞く者の気持ちを穏やかにさせる美しい旋律を伴っており、室内に解けゆく詩は女剣士の耳にも心地よく響いた。




[28849] 50羽 土豪 13 改訂
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/04/20 18:14
太陽が揺らめきながら西方山脈の黒々とした稜線へと沈み込もうとしていた。
きいきいした甲高い声を上げながら、街道沿いの草叢からウッドインプが顔を出して仲間たちへと告げる。
「見つけたぜ、兄弟。新しい足跡が残っている。お誂え向きに二人組だ」
丸い瞳に溶鉱炉の炎のように好戦的な光を滾らせて、ドウォーフが歯を剥いた。
「二人か。丁度いいな。間違いないか?」
「間違いない。おいらの目は確かだぜ」
自信満々のウッドインプの態度に、重々しくドウォーフも頷いた。
「よし、待ち伏せするぜ」
既に黄昏時。時間の余裕はさしてない。
濃紺色の天蓋には、星が瞬き、周囲も薄暗くなってきている。
あと半刻も経てば、大地は完全に暗い夜の帳に覆われるだろう。
街道上には、まるで人気がなかった。
家路を急ぐ近隣の農夫や山羊を連れた牧夫の姿も見かけられず、大地に長い影を伸ばした彼らの他には人影もない。
街道上の宿場町やローナ、ティレーと云った城市にも、オーク族の頻繁な出没の噂は既に出回っており、旅人達も避けているのだろう。
埃っぽい風が荒涼とした大地を吹きぬけた。
ウッドインプが噎せるように咳き込んでから、唾を吐き捨てる。

ドウォーフとウッドインプが岩陰に隠れて暫らくすると、街道の向こう側から荒々しい叫びと共に近づいてくるオーク族の姿が目に入った。
悲鳴を上げて逃げ惑う人族の若い女を、三匹のオーク達が喚き声を上げながら追い掛け回していた。
みすぼらしい皮の腰巻や襤褸の布切れを身に纏い、手にしているのは粗末な棍棒や錆びた短剣。
一見して下っ端と分かる連中に落胆しつつ、赤髭のドウォーフがぼやくような調子で文句をいった。
「何が確かな目だ。三人いるじゃねえか」
「手に負えない数じゃないだろ」
軽く受け流しながらも、ウッドインプは革の鞄から細長い鉄製の針を取り出した。
ドウォーフも、また場数を踏んだ冒険者である。
予定外の出来事にも動じたりはせずに、ぼやきながらも大胆に行動を開始する。
ウッドインプの手にした針の後ろには、木製の奇妙な重しがついている。
指先で摘まむと、鞄から取り出した壷の中身、服と同じ暗緑色の粘りのある液体を針につける。
漂ってくる薬品の刺激臭に、赤髭のドウォーフが顔を顰めて大きな鼻を摘まむ。
ウッドエルフは、筒状の棒の先端に長い針のようなものを詰める。
「さあ、やるぜ。そろそろ、なんかの成果を見せないとお役御免だからな」
「ぐふっ。やってやろうじゃねえか」
獰猛な笑みを浮かべて赤髭のドウォーフが、手斧の背をごつい掌で撫で回した。

悲鳴を上げて逃げ惑う獲物に追いつきそうになると、しかし、女が力を振り絞って距離を引き離していた。
そんな繰り替えしに、オーク達は完全に焦れているのか。
追い詰められた娘が街道沿いの岩陰でついに立ち止まった時には、欲望を抑え切れないよう口元から涎を垂らして、女へと飛び掛った。
瞬間、女がフードを跳ね上げた。
手にしっかりと握られた剣の刃が跳ね上がって、真っ先に飛び掛ったオークの顔をしたたかに切り裂いた。
同時に岩陰からドウォーフが、手斧を構えて猛然と飛び出した。
獲物を追いつめて注意力散漫になっていたオーク達は、心の間隙を縫うような後背からの完全な奇襲を受けた。
足音に気づいて振り向いたオークの顔面に、ドウォーフの振り下ろした手斧が突き刺さった。
ウッドインプは岩陰に残っている。
筒を咥えたまま頬を膨らませて、慎重に狙いを定めて一息に吹いた。
目前の娘の思わぬ抵抗とドウォーフに襲われた仲間の断末魔で思考停止に陥り、顔を驚愕に染めて棒立ちになっていた真ん中のオークの右目にウッドインプの吹き矢が突き刺さった。
叫びを上げて目を押さえながら仰け反ったオークに、最後尾のオークをドウォーフが斧を捨てて踊りかかる。
木槌のように堅くて頑丈な拳に思い切り叩きのめされ、ふらついているオークの剥き出しの二の腕に、再びウッドインプの吹き矢が突き刺さった。

追われていた女が猛然と反撃を開始していた。
フードを跳ね上げ、両の手に握った二本の剣が鮮やかな軌跡を描きながら、対峙しているオークへと襲い掛かった。
背中で編みこんだ女の金髪を舞わせながら、蛇のように敏捷な動きで素早い斬撃を送り込んでくる女は間違いなく手練の剣士であり、間違いなく待ち伏せの一巻であった。
哀れな獲物を追う狩人から、いまや罠に掛かった獲物へとオーク達の立場は転落していた。
それと悟った先頭のオークも、腕を切り裂かれた怒りと恐怖に雄叫びを上げながら、棍棒を振り回し、死に物狂いで反撃していた。

「……き、気分が悪い」
ウッドインプの放った五本目の吹き矢が太股に突き刺さると、ドウォーフと殴り合っていた真ん中のオークは、血の気の引いた表情で蹲りながら苦しげに喘いだ。
仲間が倒れるのを見て、最後に残ったオークは明らかに怯み、闘志が萎えていた。
「うぉおおおお!」
雄叫びを上げながらドウォーフが敵手を殴り倒した頃には、郷士の娘リヴィエラが最後のオークの腹部に中剣の刃を食い込ませて、切り倒していた。

弱々しく命乞いの呟きを洩らしているオークに手早く止めを刺すと、郷士の娘は額の汗を拭ってドウォーフたちの首尾を確認する。
一匹だけ生き残ったオークは、意識を失ったまま、地べたに倒れ伏していた。
涎を垂らして鼾を掻いている捕虜を縄で厳重に縛り上げる途中、オークをぶち殺せて上機嫌のドウォーフが笑い声を上げた。
「幸先いいぜ。何時もこんな風に仕事が上手くいくといいんだがな」
げらげらと笑いながら、ウッドインプが郷士の娘を賞賛して手を振った。
「お嬢が囮をやるって言い出したときはどうなるかと思ったぜ」
「間抜けなオークだぜ」
ドウォーフが嘲りの言葉を掛けると、ウッドインプもオークの尻を蹴飛ばした。
「お嬢は美人だからな。鼻の下を伸ばしてやがった」
「オークの雌に比べたら、女トロルだって絶世の美女だな」
「違いねえ」
郷士の娘の言葉に、三人は腹を抱えて笑った。
オークの新手が来ないか、周囲を見回しつつ、ぐったりしたオークを驢馬に乗せる。
「さあ、お嬢。お待ちかねの花婿ですぜ」
準備万端整った時にウッドインプがおどけて一礼すると、まだ一行はわっと笑い声を上げた。

郷士の娘と二人組の冒険者は、捕虜を引き連れて、日没前には旅籠に帰りついた。
依頼主である郷士の娘は、旅籠の親父に頼んで裏庭の奥にある使ってない小屋を借りる。
柱に縛り付けられたオークは、その頃には薬の効果も切れて覚醒しており、脅えた表情を浮かべ、小さな目できょろきょろと納屋の中を見回していた。
目の前には血塗れの屈強なドウォーフが獰猛な笑顔を浮かべ、壁際にウッドインプが拷問にも使えそうな凶悪な針などを布で磨きながら鼻歌を歌っている。
横合いで揺れている焚き火には、何に使う心算なのか。
先端が真っ赤に焼けた鉄の串が、何本も突っ込まれている。
目の前で椅子に座りながら鼻歌交じりに短剣を研いでいたのは、長い金髪を編みこんで背中にたらしている人族の娘で、オークが正気づいたのに気づくと場違いな笑顔を向ける。
「ああ、お目覚めかね。良かった。薬が効きすぎたのかと思った」
「此処は?何処だ?おいらは……なんで」
目覚めたばかりのオークの呟きは切れ切れで、まだ意識は朦朧としている様子だった。
「良い気持ちで寝ていたようだから、邪魔しては悪いと思ってね」
「なに……何を言ってる?」
「覚えてないかい?君は掴まったんだよ。我々の捕虜としてね」
小柄なオークの髪を掴んで、金髪の娘が顔を近づけてきた時、笑顔を浮かべている娘の鳶色の瞳がまるで笑っていない事に気づいた。
「さて、知ってる事を洗い浚い吐いてもらおうか?なに、時間はたっぷりとある」
炎に照らされた娘の横顔に陰影が揺れて、その口元を残酷な笑みが彩った。


表口と調理場に面した旅籠の食堂は、貧しい客層の為の雑魚寝用の大部屋も兼ねていた。
冬の到来と共に寒さも厳しくなる此の時節。街道筋の旅籠では、夜通しで暖炉に炎が焚かれることも珍しくはない。
竜の誉れ亭でも、赤々と炎の揺れる暖炉の周囲には、少しでも暖を取ろうとして貧しい旅人や放浪者、乞食、巡礼などがひしめき合っていた。
台所で忙しく立ち働いているエルフ娘の元にも、咳き込む音や衣擦れ、呻き声が、その尖った耳に嫌でも入ってきて彼女はふと不安を抱いた。
技能も知識もない自由労働者の旅は、辛く厳しいものだった。
半エルフは同族の中でも頭抜けた美貌の持ち主であるから、或いは身体を売れば安楽な生活を送れたかもしれない。
目を付けた富裕な農場主や町の女衒に誘われた事が幾度もあったが、その度に断ってきた。
生きる為に身体を売る生活が悪いとは思わない。だけど、エルフの娘には何となく嫌だったのだ。
女剣士と出会うまでは、エルフの娘ももっとも貧しい放浪者のうちの一人だった。
今は貴人の道連れとして少なくない恩恵を受けているものの、いずれは再び社会の最下層に戻るのだろう。
別れの日も、それほど遠くないに違いない。
貧困は辛いが、かつては耐えられた。
ささやかな誇りと共に、生活に満足していたからだ。
しかし、今のエルフの娘は、随分と安楽な生活の味を知ってしまった。
けして贅沢ではないが、安楽で快適な生活。それがずっと続くとしたら。
手を止めて、一瞬だけ考える。
女剣士は、再び訪れたエルフの娘を拒否はしなかった。
拒否はしなかったが、微妙に距離が開いたのを感じ取ってもいた。
生きている世界が違う、か。
恐怖に脅えて、顔を見上げていた難民の女子供の姿は今も目に焼きついている。
あの人たちを殺せば、よかったのか。
それで愛も得られ、安楽な生活を得られたとしても……私は……
割り切れたら、楽だろう。でも、出来ない。エルフの娘には割り切れない。
何を考えている。わたしは
スープを温めながら、首を振って埒もない考えを切り捨てる。
「……ティリアは元気かな」
手元を忙しく動かしながら、翠髪のエルフは小さく呟いた。
同郷の半エルフの名前である。
男の子のように元気で溌剌としていた娘で、かつては共に旅をしていた。
二、三年ほど前になるか。
ふとした切っ掛けで南方人の貴族と知り合ったエルフの娘たちは、安楽な生活と報酬を提示されて彼が経営する高級娼館に誘われた。
美貌は財産の一つ。有効に利用すればいいだけだと、口説かれてエルフの娘は断ったけれども、一緒に旅をしていた友達は誘いに乗ってしまった。
別れ際、放浪に飽いたのだと、疲れたように呟いていたのを覚えている。
あの伊達男なら、きっと契約を守るだろう。身を守り、報酬も与えてくれるに違いない。
だからこそ恐かった。
自分の意志で身を売りそうになるのがエルフの娘には何よりも恐ろしかったし、耐えられなかった。
あの時は断った。断れた。だけど、今の私が誘惑を退けられるだろうか。
エルフの娘は、一瞬だけ目を閉じて考えた。
魂も疲労するのだろうか。
アリアと別れた後に再び、苦しい放浪生活に戻れるだろうか。
だけどわたしは、あの頃より弱くなっている。
かつて程、心の強さに対して確信を持てないでいる自分を感じ取って、玉葱を切り刻んでいた手を止めるとエルフの娘は深々と溜息を洩らした。

玉葱と豚肉のハムをよく切り刻んで、これまた細かく刻んだニンニクを入れたオリーブオイルで軽く炒める。
それが終わると、木の椀に入れた卵を兎に角、粟立つまで良くかき混ぜた。
バターを溶かし込んだ鉄板に卵を流し込むと、円を描くようにパテで生地の形を整え、軽く焦げ目がついたら裏返して、玉葱と燻製肉を真ん中に投入。
包み込むようにしてオムレツの出来上がり。
後は、昼のスープの残りと湯気に当てて柔らかくした黒パン。
ベリーを磨り潰しただけの即席のジャムと、暖めたエールが二人の娘の夕飯となる。

既に日は沈み掛けて、冬の空は夕闇に閉ざされていた。
料理を盆に乗せて調理場から個室へ戻ると、エルフの娘は冷たい外気を締め出すように鎧戸に閂を掛けた。
窓を閉める際、空気が微かに湿気を帯びているのを嗅ぎ取って、明日は雨になるかもと小さく呟く。
卓に並べられたオムレツは、色と形まで美味しそうに仕上がっていたので、見掛けた泊り客が親父に同じものを注文しようとした位だ。
「今まで私が食べてきたオムレツは、オムレツでは無かったのだな」
玉葱と豚肉のハムで作ったオムレツは、此れまで食べたオムレツのうちでも紛れもなく最高の味で、湯気の立つ卵料理を口に運んだ女剣士は絶妙な味わいに思わず硬直し、暫らくしてからしみじみと呟いた。
よく分からないが、手放しの賞賛なのだろう。
半エルフは照れながらも嬉しそうに微笑んでいる。

原生の自然がなお色濃く息づいている辺境世界では、一部の城市や町を除けば薪はただでも手に入る。
街道筋の旅籠で個室に泊まるだけの懐に余裕のある客ならば、絶える事ない炎の恩恵を受けることが出来た。
健啖家の女剣士は、優雅に食べながらも食事が早かった。
暖炉に揺れる炎を照り受けて艶々輝くオムレツのうち、早くも二つが胃の腑に消えて、今は三つ目に取り掛かっていた。
「よく噛んでゆっくり食べてね。その方が味わえるし、身体にもいいから」
他者が幸せそうに食事する姿を見るのも好きなので、蒼の瞳を細めて楽しそうに女剣士を眺めているエルフだが、自身の食はさほど進んでいない。

女剣士の健啖振りを眺めながら、エルフ娘は人族の娘の内心に想いを馳せてみる。
己が女剣士を想うほどには、相手にとって己が重要ではないのは理解している。
恋慕の情に多寡が存在するのは当たり前の話で、うじうじ思い悩んだり、傷ついたりするよりは、
相手の気持ちを己に振り向けようと努力する方が建設的であるし、エルフ娘の好みに合っていた。
遠ざけようとした理由だが、恐らくはアリアの素性に関る要因なのだろう。
農園に行くように云ったのは、わたしを思っての事でもある。と、いいな。
好きだと云ってくれたし、嫌われてはない筈だが、
しかし、私は事情をよく知らない。
さて……問題は好きの程度だけれど、どうなのだろうか?
人情の機微にけして疎い訳ではないとは言え、所詮は、翠髪のエルフも人生経験の浅いうら若い娘である。
大方は正確に洞察しつつも、いま少し女剣士の気持ちを確信しきれないでいた。

恋人にはなれない、か。
少しだけつまらない想いを抱きながらも、だが、己の料理を食べている女剣士を見ているだけでエルフ娘は胸のうちが暖かくなってくるのを感じていた。
いいや。こうして一緒にいられるだけで今は充分に幸せだ。それ以上は望むまい。

辺境行路からやや外れた南に位置するその村パリトーは、豪族クーディウス氏の治める本貫地として知られていた。
村内には四つの井戸が存在している。
豊かな水源を有している為、一年を通して渇水する事のない村の人口はおよそ三百人。
小高い丘を中心にしてなだらかな裾野まで家屋の広がったパリトーは、およそ七十戸の民家を内包した近隣では随一の規模の大集落であった。
村内には、畑や農家、納屋の他にも豚や山羊を飼う家畜小屋、道行く旅人の為の酒場兼宿屋に加え、皮革職人の工房や鍛冶屋までいた。
周囲を鬱蒼とした森林に囲まれた村である。
内と外の境界線には低い石壁と柵が張り巡らされて、外敵への警戒は村の男衆によって怠りなく行われている。
村の中心に位置している丘陵の頂にクーディウス氏の館が在った。
辺境の大地に夜の帳が舞い降り、青白い月と瞬く星々だけがささやかな優しい光を冬の大地に振らせている中、木造の館の一室からは窓の光が漏れていた。

館の片隅に与えられた薄暗い部屋で、豪族の息子パリスは楽しまぬ思いで暖炉に揺れる炎を眺めていた。
与えられた部屋は正妻の子である姉と弟に比べればさすがに狭い間取りで在ったが、其れでも充分に生活できるだけのものを父親から与えられていた。
公平にいえば、父親は亡き母とその忘れ形見である息子である自分に充分以上の愛情を注いでくれていた。
だから、彼に不満などない。
冬とは云え、部屋に備え付けに暖炉があり、一人で暖を取る事を楽しめるほどに扱いはいいのだ。
妾腹の子の扱いは、郷士豪族によって様々である。
正妻の子と同等に扱われる者もいれば、使用人や家臣として扱われる者もいる。
酷い物になれば、奴隷として扱われている者さえいるのだ。
それと比べてみれば、彼の環境は下にも置かない扱いといってよい。
なにしろ、成人の際には若い頃の父が使っていた剣まで授けてくれた。
南王国(セスティナ)と東国(ネメティス)が激しく争った海道戦役の際、父が仕えた南王国の貴族から直々に頂いたものらしい。
この剣を持つに、恥じない男となれ。
苦しい時、辛い時、その言葉を思い出すたびに青年の心には力が湧き上がってきた。
父の言葉を胸に青年は今日まで生きてきた。

だが今は、唇を引き結んで固く強張った表情で、暖炉の炎を眺めながら青年は手元のエールを煽っている。
額には苦悩の皺が深く刻まれて、答えの出ない問題が脳裏に居座り続けていた。

部屋の入口。背後から衣擦れの音と人の気配がした。
「眠れないの?弟くん」
からかうような響きに苦笑しつつ、労わりを孕んだ優しい声音に、だが、今は振り向く気になれず無言で肯いた。
肩に毛糸織りのケープを掛けた姉が、よいしょ、と年寄り臭く呟きながら、青年の隣に座り込んできた。
姉が部屋を訪れてきたのは、何年ぶりだろうか。
子供の頃はよく互いの部屋を訪れては一緒に過ごしていた。
お気に入りの淡い青の女服を纏っており、鈍く輝く銀製の腕輪を嵌めている。
着物はリネン(亜麻)の布地を貝の染料で染めた女物で、
娘を溺愛する父親が態々、南方の都市国家から買い付けた高価な品だった。

姉は何を話すでもなく、一緒に炎を見つめている。
暫し時間が経ってから、ため息をついて灰色の横髪をかきあげつつ呟いた。
「昼間の事でしょう」
悩んでいる弟を睨みつつ、やや咎めるような口調で言った。
「迂闊だったよ」
問題は、事の理非に対する見方だけではない。
東国人は兎角、血の気が多いというのが、辺境や南王国における人々の共通した認識である。
あの東国人貴族は勇猛かつ手練の剣士であり、刺激するような事を云うべきではなかった。
相手が相応に見識を持った人物であったようだから、揉め事にはならなかったものの、
まかり間違ってあそこで斬り合いになっていれば、手勢の半数は死んでいただろうなと豪族の娘は思っていたし、
その死者の中に己や弟も含まれていないとは限らないのだ。
「反省している」
弟が呟くと、その手からエールの杯を取り上げて姉は一息に煽った。
「フィオナ、姉さん……俺は甘いか」
「甘い」
一言で切って捨てられて、青年は唇を噛んだ。
「けど、まぁ、その甘さが嫌いではないけどね」
寄りかかって息の触れそうな距離に顔を近づけると、笑いを含んだ声で囁いた。
「多分、正解は一つではないと思うよ。弟くん」
其れだけ云うと、生欠伸を噛み殺しつつ豪族の娘は立ち上がった。
「もう寝なさい。明日には豪族たちの会合が始まる。君も挨拶をしなければならないんだからね」




[28849] 読まないでもいい魔法についての裏設定とか 種族についてとか
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/04/04 21:59
★魔法に関する質問が来たので、感想欄から転載しました

物語世界に魔法は存在しますが、
殆どの人は眉唾か非常に恐れているかのどちらかです
しかも、その人たちはまず魔法を見た事はありません
まず文字を読める者がそうはおらず、魔法を使える者はさらに滅多にいません
エルフ娘の部族は、人に近い下位エルフ種ですが、魔法を使える者は一人もいませんでした。
精々、矢の当り易くなる呪いや雨乞いの儀式くらいで、
時折効果を発揮しますが、偶然ではないかと疑っている者や完全に信じていない者もいます
見た目にも分かる魔法など、百年生きた長老も一度も見た事ありません。
女剣士も、エルフ娘も、賢い私はそんな迷信なんかに騙されないぜ。とか思っています。

大きな王国には数人仕えている事もありますが、彼らは主に知恵を提供します
本物のエルフには魔法を使える者も一部いますが、そう人数は多くありません。
ゲーム的な言い方をすると、ゴブリンの平均的な体力点が5だとしたら
世の魔法使いの殆どは、1~3の体力点を奪う魔法の矢や火の球を何回か使える水準か、下手すれば一回かそれ以下です。
鳥と話す魔法や物探し、幻覚を使えても攻撃魔法など使えない者もいます。
しかも魔力回復は、新月か満月の夜が来る度にやっとmpが1回復する程度
ガンダルフが魔法の火花で数匹のゴブリンを打ち倒したように、
滅多にいない凄腕の魔法使いにはwizでいうメリト級の呪文を使える者もいますが
複数の敵を攻撃できる呪文を使える者は本当に一握りで
そんな彼らでも魔力の回復に数日から数週間は掛かります。

富と栄光を求めて流離う腕の立つ冒険者の集団には
秘匿された知識を求める魔法使いが加わっていることもありますが、
魔法は早々連発できるものではなく、通常は魔法使いにとってギリギリの切り札です
使いきれば魔法力が全快するまで数か月から一年は掛かります。
ですから、魔法使いは呪文を使っての派手な攻撃では無く
簡単な魔法や知識を生かしての行動指針、古代文字の解読などが主な役割となります
また冒険も疾病への対策、気候に合わせた衣服、現地の習俗、風俗の調査、地図や古文書の調査など
入念な準備が必要です

基本的に魔法の力は魂の力です。
善悪いずれにしても、深い思索や瞑想の結果として漸くに身につくもので、
バルサス・ダイアやアナランドの英雄、白子のエルリック、ザルトータンのような優れた魔法使いはいても、
落ち着きのない未熟者がゲームみたいにぽこぽこ使える事はまず絶対に在りません
或いは、混沌の神々の悪戯で妙な力が未熟者に与えられる。
強力な魔法具が偶々、愚か者の手に入るなどという例外はあるかも知れませんが

魔法使いにとって呪文は切り札でもありますが、創造にしろ、破壊にしろ、
もっと有効な手段がある場合は通常、そちらを用いる事を好みます
なにしろ魔法の行使は、大変な集中力と精神力の消耗を必要としますから
また魔法の手軽な乱用は、世の摂理や理を乱すとも考えられていますから、
ますます魔法は隠匿されたものとなっています

例え大魔法使いがいて、手を振るだけで城を建てたり、竜を倒せても、
今はまだ一握りの人間しか到達できない魔法の力が大手を振るう事など
世の中の大半の者の進歩の邪魔、害になると考えてそうそうは姿を見せないでしょう。


★種族の設定


人族は全ての敵ではありませんし、全ての中心でも在りません。
繁栄している一勢力、一種族に過ぎません。
繁殖力と知能、能力の高さから人族は尤も栄えている種族のうちの一つですが、
逆にいえば、それだけでしか在りません。
大雑把にいうと、全ての種族にその種族にとっての現時点での敵と味方がいる訳です。
例えばエルフやドウォーフ、オークから見れば、自分たちが人間で、人族が亜人の一種となる訳です。
ここら辺は、人種や民族の違いより大きいですが、変わった外人のような感覚だと思ってください。
リザートマンや蛇人、ケンタウロス位に外見が乖離すると
怪物と見做す人族もいますが、向こうにも人族を怪物と見做す者がいます。
それでも人族は主要なキープレイヤーの一つです。頭がよくて文化も高いですから。

辺土のオーク達は、文明人が恐れ、忌み嫌う悪夢に出てくる蛮族です。
曠野を越えて攻め込んできては野蛮な振る舞いを行う侵略者ではありますが、
実は人族の軍隊も、此処まで酷くないにしても大方は似たようものです。
エルフの軍隊も、同族や人間、ホビットなどに対しては紳士的に振る舞っても、
オークやドウォーフの土地を占領すると、司令官によっては虐殺する事もあります。

逆に、全く別の土地の別のオークは、意外と友好的に振る舞うかも知れません。

下位のオグルやトロルに匹敵、或いは凌駕するようなハイ・オーク種族。
或いは独自の文化と戒律を持つ戦闘部族のオーク。
差別と偏見に苦しみながら、己の有り様を探し求める半オークもいるかも知れません。

物語世界には、沢山の種族が存在していますが、
棲み分けている土地もあれば、混在している土地もあります。
街道筋は出会いと別れの場ですから、混在している傾向が強いですね
出来るならば、大きな町やアジールなどで様々な民族種族が交わる情景を描いてみたいものです

あと人間はドラゴンに歯が立ちませんが、ドラゴンは人間だけを餌食にしている訳では在りません。
実際には、繁殖力が強く、強い者に対しては意気地がないオークなどが狙われる事が多いです。
竜は敵と云うよりは、災害のようなものと見做されています。
ごく稀に下等な竜を軍隊や英雄的な剣士、魔法使いなどが倒しますが、これは相当な偉業となります。



[28849] 51羽 土豪 14 改訂 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/05/27 06:56
女剣士の肉体は、未だ完全に癒えてはいない。
オーク共の振りかざすぎざぎざ刃の短剣によって肌に刻まれた幾多の裂傷は、
夜毎に痛みと熱を発しては彼女の心と躰を責め苛んで安らかな眠りに落ちるのを妨害していた。
今も、夜半にくもぐった声を洩しながら目を醒ました。
貸切である旅籠の個室には、薄暗い闇が蟠っている。
暖炉には熾き火が燻って仄かに漆喰の壁を照らしていたが、薪を足すのも面倒くさく、
女剣士は冬にも拘らず汗に濡れた額を拭うと、卓の上に置いてある木杯を一息に煽った。
夕刻に湧き水から汲んで来た清水は、既に大分ぬるまっているも、寝汗に乾いた身体には染み渡るように感じられて心地よい味わいであった。
再び寝台に寝転ぶと、硬質の輝きを孕んだ黄玉の瞳で天井に視線を彷徨わせた。
幾ら群れ成していたとはいえ、雑兵相手に死に掛けた。
なんたる無様な。
悔しさに軽く歯噛みしながら、女剣士は強くなりたいと心底、願った。
が、同時に己の体に大した伸び代がないのも彼女は理解している。
どんなに鍛え上げた人族の身体も、肉体的な点ではトロル族やオグル族に及ばない。
まして持って生まれた女の身体。膂力や体格の点では人族の男にすら敵わない。
誰に向けるでもない、やるせない憤懣と滾る憎悪に胸を焦がし、力への渇望に悶えながら、身を苛む苦痛に黒髪の女剣士は小さくうめきを漏らした。
膂力や体格には伸び代は少ない。出来るとすれば、技を磨く以外にはあるまい。
時刻は深夜。旅籠の他の客も完全に寝入っているのだろう。
周囲は、水を打ったような静けさが支配している。
夜気に身を軽く震わせてから、女剣士は毛布を肩まで引き上げた。
傷自体は順調に快方に向かっているものの、今宵も苦痛で幾度か目を醒ましていた。
突き刺すような痛みで突然に夢の世界から呼び戻されるのは、やはり愉快な経験とは云えない。
今もじくじくと背中の傷が、痛みを発している。
全身あらゆる角度から切り刻まれている為に、どのような体勢になって寝転がろうとも何処かしらが痛んだ。
苦しげに息を乱しながら眠ろうと目を閉じていると、背後より人の気配が迫ってきた。
隣で寝ていたエルフの娘が静かな衣擦れの音を立てて毛布に忍んできたらしい。
寝台が軋む。人族の娘の肌をエルフの細指が蜘蛛のように這った。
背中にあった膿んだ傷口を探し当てると、舌を伸ばしてきた。
唇を当てて膿を吸い取っては、口に入れたそれをハンケチに含んで吐き捨てる。
背筋を駆け抜ける軽い愉悦と共に痛みが退いていく。
消えた訳ではないが、何とはなしに幾らか身体が楽になる。
それから、女剣士の汗ばんだ身体にそっと抱きついてきた。
何時の間にか同衾が常になっている事に危機感を覚えないでもないが、肌を併せていると、皮膚の内側に篭った嫌な熱がエルフ娘に吸い取られるような感覚を覚える。
新春の甘い花の香りを思わせる体臭が、ささくれ立った気持ちをやわらげてくれた。
女剣士の思考も肉体も、エルフ娘に抱かれているうちに徐々に弛緩し、寛いでいく。
緊張感がとき解れて女剣士の方でもエルフ娘に体重を委ねてみると、背中から伸ばされた腕がおずおずと女剣士の下腹と胸肉へと廻された。
「んっ……くっ」
エルフの手の動きに反応して、黒髪の女剣士は身動ぎしつつ小さく声を洩らした。
しかし、それ以上何かを求めてくる訳でもなく、背後から抱きついたままエルフは動こうとしなかった。
やがて眠たくなったのか。その身体から力が抜けていくのが分かる。
残された女剣士は、己の胸に廻された腕を握り締めながら、熱くなったと息を洩らした。
少女を手に掛けた時に見せた表情からして、半エルフはきっと己と袂を分かつに違いないと女剣士は決め付けていた。
しかし、エルフ娘は女剣士から離れようとはしなかった。
背中に抱きついてるエルフ娘に身体を廻して向き直ると、女剣士は闇に朧と浮かぶ翠髪を軽くかき回しながら、唇を軽く舐めた。
一緒にいることで、随分と救われている。
エリスは私の身体が欲しいのだろうな。
だけど、肉欲だけでもない。拒んだとしても、きっとこいつは親身なままだろう。
エルフは安らかな表情で眠りについていた。
安心しきっている顔に、思わず微笑を洩らして頬をそっと撫でた。
私を抱きたいのか。私に抱かれたいのか。どちらでもいいか。
友人を抱きしめて、いい匂いのする翠髪に顔を埋めて耳元で囁いた。
「私とて木石ではないのだぞ」
毎日のように優しくされていれば心だって揺れるし、エルフ娘のやや過剰なスキンシップも女剣士の官能を刺激してきている。
やがて再び眠気が押し寄せてきたので、欠伸を噛み殺しながらそっと目を瞑った。
人生で積み重ねてきた時間と為してきた行いが、その人間の魂を鍛え、形づくる。
なれば躰を重ねる相手は選ぶべきだし、操も大切にするべきだろう。
それが女剣士が二十年の人生で己なりに築いた信条で、当然の帰結として彼女は貞操観念が強い方であった。
頑迷固陋な性情の持ち主であるから、気に食わない相手と褥を共にしたりはしない。
それでも、これほど一途に思われていると悪い気はしない。
一度くらい褥を共にしてもいいかな、とも思った。
勿論、エルフの娘がそれを望むならばの話ではあるけれども。
世には一度抱くと急に態度の変わる者もいると聞くが、
まあ、全ては身体が癒えてからのことか。
先のことをつらつらと考えているうち、身体の奥底から疲労の泡が浮き上がってくるのを感じて、
女剣士は生欠伸を噛み殺しつつ目を閉じた。
やがて安らかな眠りへと落ちると、静謐な室内に二つの穏やかな寝息だけが重なりながら何時までも木霊していた。


早朝の大地に漂う朝靄を掻き分けながら、武装した一団が街道上に姿を見せた。
先頭に立つのは、大足鳥や騎馬に跨った壮年から老齢の男たちが五人。
鋲を打った革鎧や青銅の胸当てに身を固め、手には槍や剣などを携え、毛皮や布のマントを羽織っている。
無骨な戦装束を纏った騎兵たちの背後では、思い思いの武装をした二十人ほどの雑兵たちが徒歩で黙々と付き従っていた。
武装した集団に襲撃を掛けてくる無謀なオークや盗賊がいるとも思わなかったが、一行は警戒を怠らずに朝靄の街道を進んでいる。
先頭を進んでいるのは、いずれも相応の武具を自前で揃えた豪族や郷士階級の男であり、残りはその身内や郎党、そして傘下の独立した武装農民たちである。
武装農民や郎党の武装は粗末でみすぼらしい。
よくて革の上着や厚手の布服を纏い、殻竿や六尺棒を携え、或いは錆の浮いた短剣や穂先だけ付けた槍を携えている者もいた。
士気も高そうには見えない。
大半は場慣れしていないのだろう。周囲を不安げに見回している若者もいた。


大足鳥に騎乗していた筋骨逞しい男が、急に手綱を引いて足を止める。
「……止まれ!」
周囲の当惑を他所に、右手を振りつつ鋭い声で集団に号令をくだした。
年齢は壮年から初老に差し掛かった所か。
だが、体躯はよく引き締まって、一片の贅肉も見かけられない。
茶色に染めた厚手の麻服の上によく手入れされた鋲つきの革鎧を纏い、くすんだ金髪を背中に束ねている。
二、三度、鼻を鳴らしてから鋭い眼光を朝靄の彼方に走らせると、男は気に入らないといった様子で表情を歪めた。
「……どうした。ベーリオウル」
痩せた老人が馬を寄せると、くすんだ金髪の壮年男に話しかける。
老人は戸数二十ほどの農村を治める豪族であり、一方で金髪の男は農園持ちの郷士に過ぎない。
にも拘らず、老人や他の男たちの態度からは金髪の郷士に一目置いている様子がありありと窺えた。
或いは、近郷においてはそれと知られた豪の者なのかも知れぬ。
筋骨逞しい郷士の鋭い声での警告に、他の者たちも周囲を警戒した様子を見せながら集ってきた。
「気づかんか、フィリウのとっつぁん……血の匂いがするぜ」
其の声に馬上のやさ男が鼻を鳴らして空気を嗅ぎ、靄の中にもやはり異臭に気づいたのだろう。
不快そうに瞳を細めてから、郎党たちを振り返った。
「三名、見に行け」
朝靄を掻き分けながら、農民兵たちが駆け出していくと、程なく一人が直ぐに戻ってきた。
「道の脇に死体が捨てられてます。男が大半ですが女もいます。兎に角、大勢です!」
強張った表情の郎党の報告に、豪族たちは顔を見合わせた。
馬や大足鳥から降りて、脇へと見にいく事にする。
「これは……何があった?」
と、赤茶けた大地には十体以上の亡骸が無造作に打ち捨てられており、やさ男が呆然と呟いた。
「……全員、切り殺されているな」
金髪の郷士が視線を走らせていると、死体から発する匂いを嗅ぎながら中年の郷士が頬を撫でた。

「古いものじゃない」
「穴が掘られている。近隣の連中が埋めようとしたのか。奴らの仕業か?」
動揺を隠せないやさ男に、金髪の郷士が指摘した。
「違うぜ。オイス。見ろ。凄い切り口だ。殆どの奴が急所を一太刀で殺されてる」
中年の郷士はやや緊張した顔で周囲を見回し、老豪族は難しい顔で亡骸を改めていた。
「農民同士の小競り合いではないの」
老人がポツリと呟くと、金髪の郷士が鋭い視線を向けた。
「違いない。東国や北方の騎士だとて、こんな芸当をできる奴はそうはいるまいよ」
「御主がいうのであれば、であろうな」
老人は嘆息しつつ、濃密な靄の中で踵を返した。
それ以上見ていても、何がどうなる訳でもない。
一同は警戒しつつ、街道の先を急ぐ事にした。
「オークにやられたのか」
「だとしたら、連中のうちにはそれだけの使い手がいると?」
「……厄介だな」
人口が希薄な辺土における争いでは、それだけ個の武勇が与える影響も大きい。
百人単位の争いでは、時にたった一人の人間の働きが戦況を左右する事例もある。
さすがに不安と苛立ちを隠せずに囁きあう郷士たちに、壮年の郷士が請け負った。
「いいさ。その時は俺が相手をする。
それに竜の誉れ亭が直ぐだ。親父から事情も聞けるかも知れん」
筋骨逞しい郷士の言葉に力強さを感じたのだろう。
気を取り直した一行が立ち去ると、何処からともなく乳白色の霧が流れてきて、凄惨な光景を静かに覆い隠していった。


辺境を東西を行き交う旅人が足を休める旅籠『竜の誉れ亭』から、それほど遠くない場所に南北を貫く道が街道と交差している十字路が存在している。
それと知らない地元の者以外では言われねば気づけぬような小道ではあるが、十字路を南へと向かえばクーディウス氏の館があるパリトー村へと通じていた。
一行は、休息と情報交換も兼ねて、竜の誉れ亭で遅めの朝食、或いは早めの昼食を取っていた。

石臼で挽いた穀類を窯で焼き上げて作るパンは手間隙の分だけ粥より高価な食い物である。
大麦の黒パンは勿論、酸っぱいライ麦パン、もそもそした食感の雑穀パンすら、庶民や貧民にとっては滅多に口に出来ない馳走である。
腰から剣を吊るした郷士豪族たちでも、辺境の貧しい食事事情に変わりはない。
旅籠の食堂の中心にある円卓を囲み、五人の男がやはり石のように堅い黒パンをスープに浸しては口に運んでいたが、料理は彼らを満足させていたようである。
久々に顔を合わせた知己たちと噂話に興じながら、手持ちの情報を交換していた。

「……すると、オーク共め。相当な数だな」
やさ男が呟きながら首を振ると、中年の郷士も難しい顔で首を捻る。
「二十や三十ではないぞ。下手をすれば五十。或いは、もっと多い」
「噂では、オークの軍勢のうちには、オグルまで混じっているというぞ」
老いた郷士が白髭を撫でながら呟くと、中年の郷士が苦々しい表情となった。
「厄介なことよ。焼き討ちされた農園や村落も二つや三つでは効かぬと耳にした」
「我らも他人事ではないな、オークの多勢に一人では対抗できぬ」
「此の際だ。クーディウスの指揮下に入るのも止むを得まい」
不機嫌そうな老郷士の言葉に中年の郷士が不承不承の表情で頷くのを斜めに眺めながら、金髪の郷士は微かな嘲笑を浮かべた。
老豪族を除いた四人の男たちは、街道からやや北に外れた土地に住まう農園主や小村落の長である。
有力な土豪クーディウス氏の招集に応じるべく、近隣の者同士で語らってパリトーにあるその館へ赴く最中であった。
オーク族が近隣を見境なしに襲撃している折である。
招集の理由についても概ね見当はつけてはいるようだが、頭ごなしに命令されて郷士たちは面白くないようだ。
止むを得まい、か。
腹の中で一人せせら笑いつつ、金髪の郷士は酒盃を煽った。
彼、ベーリオウルの農園を除けば、此の中でオークの襲撃を退けられる者など一人もおるまい。
武器の蓄えも、手勢の数や強さでも話にならないお粗末さだった。
粗末な槍や棍棒に皮服を纏った武装農民の若衆を三、四人も連れてくれば、上等な方である。
中には、棍棒を持った若僧二人を伴っただけで合流してきた者もいた。
村落や農園をがら空きにする訳にも行かないのは分かるが、連れて来たのが小僧二人ではあまりにも酷すぎた。
連れて来た連中の武具と人数を見れば、残してきた連中の顔ぶれもおのずと想像が付く。
纏ったオークに攻められたら一溜りも無いだろう。
持ち堪えられるとしたら、辛うじて老豪族くらいのものであろうか。
それとて、外の財貨を全て見捨てて強固な館に一族郎党で閉じこもればの話であるし、倍する人数で攻められれば危ういものだった。
己と身内を守れるだけの力も持たない癖に、自尊心だけは一人前か。
辺境の郷士なんてのは、そんなものだろうがな。
郷士たちのもったいぶった会話の中身が何ともおかしくてならず、金髪の郷士はくっくと低い声で笑った。
「どうされた。ベーリオウル殿?」
酒臭い息を吐いておかしそうに笑うのを見咎めたのか、郷士の一人が怪訝そうな顔となって話しかけてきた。
「なに……少し飲みすぎただけだ」
老豪族だけが気忙しげに視線を送ってきているのは、長い付き合いでそんな気持ちを察知したからだろうか。
歓談する郷士たちの卓に、旅籠の主人が旦那衆に挨拶しようと歩み寄ってきた。


旅籠の裏手にある物置小屋の床で、金髪の若い娘が灰色の外套に包まって寝息を立てていた。
地面を踏む微かな足音と人の気配を感じとって、欠伸しながらも素早く剣を手元に引き寄せて薄く目を見開くと、踏み込んできたのは旅籠の奴隷女だった。
柱に縛り付けられた虜囚オークの血塗れで息も絶え絶えの姿を目にした為か、小さく悲鳴を洩らしながら小屋の入り口で立ち尽くしている。
辺境の女とは言え、さすがに拷問の光景を見たのは初めてなのだろう。
脅えた顔には血の気が引いていた。
実際には血止めもしてあり、生死に関るような怪我は負っていないが、傍目には今にも死にそうな様に見えるかも知れない。
「で……何の用?」
眠たげに目を擦りながらの郷士の娘の問いかけに、奴隷女は我に返ったのだろう。
嫌そうな顔をしてオークを避けつつも、気を取り直して金髪の娘に頭を下げた。
「……お、お嬢さん。お父上が……ベーリオウル様がお出でになられました」
恐る恐る顔を合わせないようにしている奴隷女の態度を気にした様子もなく
「やっと着いたか」
軽く伸びをしながらやや疲れた表情で笑みを浮かべると、ウッドインプに語りかけた。
「うちの父さんが着いたらしいよ。
あたしは一緒にクーディウスの館まで行くけど、ザグ。あんたたちは此の後、如何する?」
捕虜の件でそれなりの報酬は貰えるように掛け合うけど、ここら辺で探索続けるか、或いは館にまで着いてくるか。
「ああ、ちっと待ってくれますか?相棒と相談しますから」
問われたウッドインプが欠伸をしつつ、鼾をかいているドウォーフを蹴飛ばした。
「起きろ、グレム。朝だ」
「ん、むおおお。腹が減ったぜ」
唸りを上げてドウォーフが跳ね起きる。
虜囚のオークは苦痛に強張った顔をしながら、不明瞭なうめきを上げていた。
「あたしは親父……父さんに顔を見せてくる。
その間、こいつらに何か食べさせてやってくれる?」
埃を払ってから外套を着込みつつそう言い渡すと、郷士の娘は奴隷女の返答も待たずにさっさと歩き出した。

旅籠の裏手では、二十人近くの農兵達が地べたに座り込み、或いは岩に腰掛けて屯っていた。
外套を羽織った金髪の娘が姿を見せると、何人かの農兵たちが口笛を吹いて異性の注意を引こうとしたり、近づいてくる気配を見せてきたが、父親の郎党たちや顔見知りの武装農民が、割って入ってくれたので、ちょっかいは出されずに済んだ。
郷士の娘に挨拶を送る武装農民や郎党を見て、他の連中もそれと素性を知ったらしい。
クーディウスは一帯で知られた豪の者であり、配下には辺境でも腕の立つ荒くれ者が揃っている。
流石に手を出してくる大胆な者はいなかったものの、牽制している手下を遠巻きに囲みつつも、何人かの若者は未練がましく器量の良い娘の様子をちらちらと窺っていた。
「父さんは?」
雨樋で顔と血塗れの手を洗い流してから、郷士の娘は郎党の一人に問いかけた。
「旦那ぁ。食堂で紳士方と朝飯を取ってます。フィリウさんもいますぜ」
陽の光を受けて輝く金髪を揺らしながら郷士の娘は頷くと、旅籠の食堂へと向かった。

「こいつは如何も。ベーリオウルの旦那」
肥満した旅籠の親父は、恐れ以上に緊張の色を見せて郷士たちと対峙していた。
筋骨逞しい郷士が不敵な眼差しを向けてくると、まるで蛇に睨まれた蛙になったような気がしてくる。
金髪の郷士の額から顎に掛けては、巨大な刀瘡が刻まれていた。
元は端正な顔立ちなだけに、余計に向こう傷の無惨さが目立つのだ。
飲んでるワインが酸っぱくなりそうな悪相に精一杯の愛想笑いを浮かべた親父が、旦那衆に挨拶しようと近寄ってきたので郷士の一人が思い出したように訊ねかけてみた。
「そう云えば親父。街道に亡骸の転がっているのを見たぞ」
郷士に街道に転がっていた死体の事を尋ねられると、蒼ざめた親父は舌を滑らかに回転させて知ってる限りの事を喋った。
「東国人の貴族だそうで、偉く腕が立つんですよ。
フィトー一味を返り討ちにした上に、オークを何匹も仕留めたとか、へい」
話半分でも並々ならぬ腕の持ち主である。金髪の郷士も正直、興味をそそられていた。
泊まっているのなら、是非、会ってみたい。
畏敬の色も露わにしている親父から謎の剣士の身の上について知ってる限りを聞き出すと、
老豪族は楽しげな笑みを浮かべながら円卓を囲んでいる郷士豪族たちの顔を見回した。
「あのフィトーをか。そりゃ久しぶりにいい話を聞いたのう」
親父が全くですと相槌を打ちながら、昨日の話しをした。
「昨日も難民に襲われてですね。返り討ちにしたんです」
「東国人の戦士階級だろうな。シレディア人でも不思議とは思わんぜ」
やさ男の郷士が気難しげに頷いたところで、裏口から外套を翻して若い娘が旅籠へと駆け込んできた。


食堂内を見回してから豪族たちのいる円卓に気づいて視線を止めると、軽やかな足取りで金髪の郷士へ歩み寄りながら呼び掛けてきた。
「父さん!」
何やら退屈そうに頬杖を着いていた父親が、すぐに気がついて顔を上げた。
「おう、リヴィエラ」
編みこんだ長い金髪を背中に垂らした若い娘は、屈強な金髪の郷士に鋭い眼差しがやや似ているものの、それ以外は、厳つい顔と器量のよい卵形の顔で似ても似つかない。
娘に気づいた中年の郷士とやさ男が同時に顔を向けた。
中年が何か言い掛けるのに先んじて、やさ男がお世辞を送った。
「おう、リヴィエラ殿!相変わらずもお美しい」
親の贔屓目で見ても、器量のいい娘である。
適齢期をやや過ぎつつあるも、近隣の若者や独身の男たちからはなお人気が高い。
郷士豪族たちに軽く目礼しながら、歩み寄って父親の肩に手を掛けると報告する。
「これから寄り合い?親父様が持っていくのに良い土産を取ってきたのだけれど」
「土産?」
鋭い眼差しを向けてくる父親に頷きを返しながら、悪戯っぽく笑う。
「裏庭の奥の納屋にね」
外套の娘は父親にそっと何事かを耳打ちした。
「オークを生け捕ったか。でかしたぞ」
「ほう、流石にベーリオウルが娘。勇敢なことよ」
知己のフィリウ老人が、目尻に皺を作りながら褒め称える。
「一人だけです。でも、いい土産になるでしょう?」
やや得意げに父親に手柄を報告する娘に、知己である老豪族も傍らで目を細めている。
「それは手柄じゃな。リヴィエラ」
「おう。俺の餓鬼じゃ、こいつが一番腕が立つ」
父親と老豪族が頷きながら賞賛されるのは、娘にとっても満更でもない気分だった。
「雇った冒険者たちには、報酬を弾んでくれる?」
郷士が鷹揚に頷いていると、上目遣いとなった娘が何やら躊躇いがちに切り出してきた。
「それと……捕虜のオークが少し気になることを囀っていたんだ。
 後ででいいから、少し時間を取れないかな?」
「ふむ」
訊かれて金髪の郷士は顎を撫でて考え込む様子を見せた。
まだ些かの時間は在るものの、のんびり過ごせるほど暇でもない。
此処で娘の用件に付き合えば、旅の剣士に対して割ける時間はなくなるだろう。
今はオークの侵攻を優先するべきだろう。
仕方ないかと呟くと、金髪の郷士は娘に頷きかけながら椅子から立ち上がる。
「気になることか。言ってみろよ」
件の剣士とやらがどんな奴なのか。
話してみたくも在ったが今のところ郷士との縁はないようだった。



[28849] 52羽 土豪 15 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/12/03 20:41
翠髪のエルフ少女は、夕暮れの小道を姉と手を繋ぎながら歩いていた。
振り向いた姉の優しげな顔で、夢を見ているのだと気づいてしまう。
ああ、夢だ。だって姉さんは、もう居ないのだから。
鼻歌を歌いながら先を歩いていた姉がふと立ち止まった。
「エリス。あの恐ろしい闇エルフたちは、元は私たちと同じご先祖から枝分かれしたエルフ種族だったと言うわ。
今でも欲望のままに振舞うエルフは、邪神に魅入られて闇エルフになってしまうことがあるそうよ」
そういえば、遠い昔、確かにこんな話を姉とした覚えがあった。
夢とは言え大好きな姉に会えたのは嬉しい。
裏表のない笑顔を向けて安心させるように約束する。
「私は大丈夫だよ。姉さん」
「果たしてそうかな?」
何故かしわがれた声を喉から発した。
ぎくりとして姉の顔を見るがシルエットになっていて見えない。
「貴女、ゴブリンから兎を取り上げたでしょう」
「な、何故、それを……!」
思わず動揺したエルフ娘に向かって、姉は壊れた人形のようにギギギと首を動かした。
振り返った姉の顔は木製の入れ歯をした小柄な亜人。ゴブリンの老人のそれへと変貌していた。
「……ひっ!!」
「わしの兎をかえしぇえええ!」
恐怖と混乱に立ち竦んだエルフ娘に向かって、老ゴブリンが大口開けて叫んだ瞬間、入れ歯がすぽんと勢いよく飛び出してきた。
ゴブリンの木製入れ歯がエルフの形のいい尖った耳に噛み付いた。そのままコリコリと耳朶を味わい続ける。
「……ひっ、いや」
棒立ちして慌てるエルフ娘を見ている姉は、何時の間にか元の顔に戻っていたが、夢とはいえあんまりにも傍若無人な振る舞いだった。
「……闇……闇エルフはいや……ううん……入れ歯が……返す……兎返すから……」
「返す必要はない。駄目になってしまった兎の代わりにお前の可愛い耳にダークサイドに堕ちてもらう」
冷静な口調のまま、今度は訳の分からないことを言いながら夢の姉が近づいてくる。
「食べちゃったからかえせないよぅ……食べないで……耳は駄目だってばぁ……」
意味不明な恐怖に魘されるエルフ娘は、意志の力を振り絞ってようやく目を覚ました。
冬にも拘らず、上着が寝汗に濡れている。
まるで甘噛みでもされていたように、耳朶がジンジンと熱く火照っていた。
支離滅裂な夢に溜息を洩らしつつ、エルフ娘は自慢の形のいい耳に触れた。
指先に微かな湿りを感じたのは、きっと寝汗を掻いたからだろう。
「意味が分からない。途中までいい夢だったのに」
呟きながら、身を軽く起こして窓から外を覗いた。

時刻は昼くらいか。
窓から遠い空を窺い見れば、灰色の分厚い雲が曇天を四方の果てまで埋め尽くしている。
降り出しそうで降らない天候に、今日は一日部屋で寝て過ごそうと決めていた。
偶には怠惰に過ごす日が在ってもいいだろう。
寝台に再び寝転ぶと、同衾していた女剣士の顔が至近の距離にあった。
穏やかな寝息を立てている黒髪の剣士は、相変わらず整った顔立ちではあるが、眠っていれば鋭すぎる眼光も目立たない。
こうしていると年相応の普通の娘さんに見えるんだけどな。
安らかな寝顔を覗き込んでいた半エルフに、女剣士が腕を伸ばして抱きついてきた。
やたらと力強い腕に強引に抱きしめられたが、嫌ではない。寧ろ望むところだ。
想い人の腕と胸の感触を堪能しながら、エルフがほうっと熱いと息を洩らしていると、なんと女剣士は眠りながら耳を甘噛みしてきた。
「うあ……此れかッ!」
唇だけで優しく食みながら、舌先でチロチロと弄ってくる。
「……ひぅう」
小さく悲鳴を上げた。耳朶は弱い。
「起きてッ!起きてってば!」
エルフがもがいているにも拘らず、女剣士は目を開けない。
本当は起きてるのではなかろうか。
そんな疑問を半エルフが抱いた頃に、漸くに女剣士が薄く目を見開いた。
やっと起きたとホッとしていたら、眠たげな瞳を擦りながら半身を起こしてエルフ娘をじっと見つめた。
「その耳は私のものだから……ベレルに懸けて他の誰にも舐めさせてはいけない」
訳の分からない宣告を、厳かとさえ言える口調で一方的に告げてきた。
「何、突然。私の耳は私のものだよ!そもそもベレルって邪神じゃないか!」
「そうか……残念」
「……寝ぼけているの?」
「……うん。寝ぼけている」
女剣士は自己完結すると、エルフ娘の胸に頭を預けてきた。
「もう少しだけ此の侭で」
呟いて、そのままずるずると臍まで崩れ落ちると穏やかな寝息を立て始める。
嬉しいのか、哀しいのか。喜べばいいのか、怒ればいいのか。
戸惑い、途方にくれた面持ちでエルフは膝枕の上で眠る女剣士を眺める。
女剣士に、どんな心境の変化があったのかは分からない。
何があったにせよ、随分と心を許し始めているのは確かだろうけれど。
暫らくして、考えるのが面倒くさくなったエルフ娘は欠伸を噛み殺した。
此処まで無防備な姿をさらしてきたのは、流石に初めてである。
多分、心の奥底では一途に尽くす私の健気さが通じ始めているに違いない、といいなあ。
都合のいい結論を勝手に結んでから苦笑して、女剣士の頭を揺らさないようにそっと寝台へと運んだ。
それから己も横になり、人族の娘の整った顔を覗き込んで、小鳥が啄ばむように少しだけ口づけした。


ヴェルニア文明圏……特に、原生の自然が色濃く残る辺境(メレヴ)では、広大な森林は獣と亜人、そして無法の民が潜んでいる闇と頽廃を孕んだ異界であり、もう一つの世界であった。
森の住人である森小人やホビットに性悪のゴブリンやコボルド、盗賊、凶暴なオグル鬼。
原始的な生活を送る採取部族もいれば、町や村で追放された者たちもいる森の民。
ラミアやアラクネ、ニュクス、ニュムペーなどの妖精や妖魔の類。
熊や狼、猪、大山猫に火狐などの危険な獣も数多く生息している。
謎めいた生活習慣を持つ不可思議な種族、森エルフ族や好色なサテュロスたち。
友好的な者、敵対的な者、脅威、謎めいた存在。
様々な人々が隠れ棲まう奥深い森は、隣り合って暮らす辺境の村人たちにとって、文明の境界の向こう側に位置する巨大な脅威であると同時に、生活に必要なほぼ全ての糧を与えてくれる無くてはならない恵みの地でもあった。
寧ろ、森こそが本当の辺境であるのかも知れない。


豪族クーディウスの奴隷として働いている赤毛の娘は、集めてきた薪を館の裏庭に積み上げた。
本来は、年端もいかない子供の仕事である薪集めだが、何やら薪が大量に必要となったらしく、奴隷たちは朝から手分けして森へと入っていた。
早朝から休みなく森を歩き回って、赤毛娘もそうとうに疲労困憊していた。
パリトー村を囲む森は恐ろしく広大で奥深く、足を踏み入れると、肌を刺すような緊張感がひしひしと感じられる。
深遠な森の奥には、亜人や獣、時には魔獣や妖魔までが彷徨っている。
強勢を誇るクーディウスの家人に表立って手を出すほど気が狂ってる者は少ないものの、それでも時々、森に入り込んだ奴隷や村人が行方不明になるらしい。
妖魔か大蜘蛛に浚われたのか。行方知れずとなった狩人がその日の午後には枯れ果てた木乃伊となって見つかった事もあれば、熊か、魔獣に襲われたのか、集団から一瞬で消えた女奴隷が下腹を食い破られた無惨な姿で見つかったこともある。
鬱蒼とした奥深い森は、村とは空気の匂いがまるで違った。
明確に異界の空気が漂っている。
迂闊に足を踏み入れれば、二度も戻って来れないのではないかと思わせるような闇が木立の先に蟠っていたり、じめじめとした起伏在る地面には陥穽が大きく口を開けてるような気配が時に傍らで感じられた。
勿論、豪族の奴隷たちは集団で行動し、一定の場所より先に踏み込んだりしないが、それでもウッドインプやゴブリンは勿論、他のもっと穏やかな種族だって縄張りに踏み込まれれば、いい顔をしないだろうし、オークやオグル、盗賊の類に出会ってしまえば一巻の終わりであった。
自然、薪を集めるのは、森の外周部での事となるが、それでも枯れ枝は豊富にあって、集めるのにそれほどの苦労はしなかった。

薪を抱えてパリトー村に帰ってくれば、村は随分と騒々しかった。
何やら催し物でもあるのだろうか。
慌ただしく動き回る召使いや家人たちを眺めてから、奴隷の小屋に戻れば、他の奴隷たちは既に昼飯を腹に掻き込んでいる。
屑野菜が浮いたスープが椀に一杯だが、食べると食べないでは腹の持ち具合はまるで違う。
見回すが自分の分がない。少し遅れただけで誰かに横取りされてしまったようだ。
何かないかと急いで台所に廻ってみると、土鍋では大量の大麦粥が作られていた。
大きな土鍋に大麦がぶち込まれ、ぐつぐつと煮立っている。
厨房の向こう側では豚の肉が焼かれたり、茹でられていた。
庭の隅では下働きの女が締めた鴨や鶏の首を切りとって、血抜きをしている。
綺麗に毛を毟った鳥の腸を取り出すと、料理人が果実や香草を詰め込んで丸焼きにしていた。
なんと牛まで屠られている。随分と豪勢だった。何かの祝い事だろうか。
茹でた豚肉や焼き豚の香ばしい匂いが赤毛娘の鼻腔を刺激して涎を呑み込む。
美味しそうなご馳走を目の前にして、せめて粥のお零れに預かれないかと料理人に頼み込んでみるが、けんもほろろの対応であった。
「ああん?飯がない!そんなのはさっさと喰いに来ないからだろ!」
今日は朝から忙しい。苛々した料理人に怒鳴り散らされて、厨房を追い出された。
夜まで待てるだろうか。
今朝の食事は茹でた豆を磨り潰してペーストした物が椀に一杯である。
到底、足りない。
疲れた身体を引き摺って、赤毛娘は仕事場に戻っていった。
裏庭にある、契約して奴隷となった女たちの小屋の片隅で、他の奴隷に混じって空腹を抱えながら蹲った。
慣れない仕事も十日を越えている。今日の仕事は特にきつかった。
そろそろ身体中の筋肉が悲鳴を上げている。
村を出てから何日経っただろうか。多分、二週間は経っている。
妹は無事だろうか。狂おしい焦燥に駆られて赤毛娘は拳を握り締める。

目の前に暗い影がさした。
赤毛娘が見上げると大柄な奴隷が見下ろしていた。目を細めて厭らしく笑っている。
「くっく、昼飯を喰いそびれたな」
襲われたのを思い出して後退りする赤毛娘に向かって、雑穀の硬パンを差出した。
「ほら、喰えよ」
「……あ、ありがとう」
戸惑いながらおずおずと伸ばした手首を握られた。
痛みに小さく悲鳴を上げるが、お構い無しに壁際に押さえつけられて身動きが取れなくなる。
「……俺の女になれ」
胸を弄りながら、低い声で耳元に囁いた。
「……んんっ」
首を横に振ると秘裂に無骨な太い指が差し込まれてきた。身悶えする娘の奥をなぞりあげる。
「いっ……いやっ」
息を荒げて身を捩る姿を見て、口角を吊り上げて低く笑い声を上げた。
大柄な奴隷は、そのまま赤毛娘を犯そうとはしなかった。
もう手中にあるも同然だと笑っているのだろう。
無力な獲物の抵抗を楽しむように暫らく手で弄んでから、ふっと身体を離した。
息を荒げて胸を押さえ、赤毛娘がよろよろ立ち上がるが、他の奴隷は助けてくれない。
見てみぬ振りをしているのは、大柄な奴隷を恐れているのか。
或いは、面倒くさくて関り合いになるまいとしているのか。
笑いながら去っていく大柄な奴隷の背中を睨みつけながら、赤毛娘は歯を食い縛って涙を零しつつ、地面をどんどんと拳で叩いて嗚咽した。


「立て!怠け者共!偉い方々の為に道を掃除しに行け!」
奴隷の監督官がやってきた。
此の年配の男も先ほどの男に負けず劣らずの偉丈夫だった。
顔はさらに厳つく、目は細くて底意地が悪そうで、大音声で呼ばわりながら柳の鞭を振り回している。
他の奴隷達が立ち上がる中、骨身に疲労が染み付いている赤毛娘はよろめきながら、ゆっくりと起き上がった。
妹を案じる気持ちだけが、辛うじて日々の厳しい生活に耐える気力を与えている。

だが、どうすればいいのか。
人は外見で判断するものだ。言葉も通じなければなおさらだった。
襤褸布を纏った若い娘が、モアレの村から助けを求めてやってきた使者だとは、誰も受け取ってくれない。
今は奴隷の身であるから、豪族に近づく事は許されない。
館の余り深くにも立ち入れない。
言葉は幾らか分かるようになったが、まず接する機会が来ないのだ。
おまけに嫌な奴に目を付けられてしまったようで、陰惨な目をしてつけ狙っている。
頭が痛い。歯噛みしつつも、赤毛娘は歩き出した。

彼女は、村では誰よりも機織りが早くて上手だった。
読み書きや計算も出来たし、針と糸で村で綺麗な刺繍を縫えたし、繕うのも上手だった。
染料に関する知識や技術もある。布になる各種の植物や亜麻の育て方も知っていた。
だけど、布を産する村の裕福な自由民の娘として身につけた教養や教育の全てが、奴隷の立場では何の役に立たなかった。

赤毛娘が自由民であった頃は、己の裁量で必要なだけ働き、疲れたら休んでいた。
今は働けば働くほど、頑張れば頑張るほど仕事を廻される。
手の抜き方が分からずに、やり損なえば怠けていると柳の鞭で打たれた。
今は慣れたが、当初は鞭を喰らいながら他人の倍も働かされていたものだ。
連日、慣れぬ仕事が終われば疲労して泥のように眠っている。
特に此処数日は、考える力ががりがりと削られているような気がしてならない。

大分、馴染んではきていたが、奴隷としての境遇を甘く見すぎていたか。
村を出た時に履いていた皮靴は、何時の間にか誰かに盗まれていた。
履いていた奴隷女を見つけて取り戻そうとして、その旦那に拳骨を喰らって顔に青痣を作っている。
今は布と藁、縄で自作したサンダルを履いていた。
きつい。奴隷としての境遇がこれほど辛いとは思っていなかった。
何の役にも立たない。無力感に苛まされる。
或いは、ローナに行った方がよかったか。

考えながら歩いている最中、赤毛娘は突然に立ち眩みに襲われた。
冷や汗が吹き出て足元がふら付き、小屋の壁に寄り掛かるが眩暈は治まらない。
寧ろ酷くなる一方で、不規則な呼吸を繰り返して喘ぎながら地面へとへたり込む。
「おい?」
庭の中央で何やら差配していた男が見咎めたのか、歩み寄ってきた。
「……随分と顔色が悪いな。きちんと食べているのか?」
赤毛娘は言葉も出てこない。何も言えずにただ見上げて苦しげに喘いでいる。
引っ張られた。手を引かれて、近くにある屋根の下に連れて行かれる。
「少し待っていろ」
言い残して、青年が踵を返した。
厨房のほうへと向かうのだけ見てから、赤毛娘は目を閉じる。
多少でも目を閉じて身体を休めていると、それだけでも大分気分は良くなった。
「おい、起きろ」
声を掛けられて、再び目を見開くと目の前に食べ物を置いていく。
チーズと黒パン。そして腸詰。
「食べろ。朝から働きづめなのは分かっている。
その様では、昼も何も食べていないだろう」
戸惑って見上げていると、青年は顔を背けてぶっきら棒な物言いをした。

奴隷の監督官が渋い顔をして見ていたが、雇い主の息子に文句を言うこともなかった。
若い女だからな。それに顔立ちも中々、美しい。坊ちゃんは妾にするかも知れん。
坊ちゃんも若いし、女も性格は悪くなさそうだ。いい組み合わせかも知れんな。
少し好色な笑みを浮かべると、道路の清掃作業を監督する為に鞭で肩を叩きながら立ち去った。

震える手を伸ばして、赤毛娘は食べ物を掴み取った。
パンは焼きたてだろう。湯気が立っている。
暖かい。涙がじんわりと目の端に浮かびでた。
チーズをパンに挟んで噛む。深い味が舌に染みた。頬が落ちそうだった。
ついで腸詰を口に運ぶ。腸詰もいい物に違いない。血の味がする。
保存用の塩辛い腸詰ではない。早めに食べる美味い奴だ。
その後は、もう貪るように食べる。
水袋を差し出されて、此れもひったくるようにして受け取るとエールであった。
後から考えれば無礼だったかもしれないが、気にした様子もなく青年は赤毛娘が食事する姿を見ていた。
喉を鳴らして嚥下する。至れり尽くせりの食事に人心地付いて満足げに溜息を洩らした。
明晰な思考力が大分、戻ってきた。
全てを胃の腑に修めるとまず礼を述べる。
「ありがとう。『パリスじゃない』」
「パリスじゃない……か」
青年が己の顔を指差して、呟いた。
「ラウルだ」
「ラウルダ?」
真剣な顔で問うた赤毛娘に、青年が繰り返した。
「そう。俺の名前。ラウル」
「……ラウル」
呟いた赤毛娘は、己を指差して名を明かした。
「……ジナ。ジナ・エルヘンドリス」
奴隷が苗字付きであることに少し驚いたように目を見開きつつ、青年は赤毛娘の名を舌に乗せた。
「そうか。ジナか」


此の青年は、相当に偉い立場にあるようだった。
着ている衣服も、青く染色された目の細かい厚手布の高価な代物。
豪族の身内であるのは間違いない。だとしたら、今は千載一遇の好機なのかも知れない。
赤毛の娘は勇を振るって、北方語と数日で覚えた南方語のちゃんぽんで訴えかける。
「あの、村がオークに襲われたの。北の村に。今も村人たちは、隠れて逃げています。
私は助けを求めて、南へとやってきました。出来れば助けて欲しいと思って」
通じているのか。赤毛娘の言葉を聞いた青年は苦く微笑んだ。
「まだ、きっと村人たちは生きています。今も、助けを待っているのです。
私の妹や友人達が、村には隠れています。どうか手遅れになる前に。村を救ってください。
あなた達だけが頼りなのです。お願いします」
言い切ってから頭を深々と下げて一礼した。
「救出の暁には、モアレの村を上げて出来る限りの謝礼を差し上げますから」
「お前の村もオークに襲われたのか。気の毒にな」
通じたのだ。
赤毛娘が顔を輝かせてぶんぶんと縦に頷くと、青年は頷きながら赤毛娘を悲痛な眼差しでじっと見つめた。
「安心しろ。やつらは俺たちがやっつけてやる。
それが慰めになるかどうかは分からんが。お前の村の仇はとってやろう」
頭を撫でられた。通じたようで通じない。
今、今って単語は南方語でなんと言うのだろう。捕まったも分からない。
分からない単語が多すぎる。幾ら必死になっても語彙を覚える機会が少なすぎた。
ああ、南方語の今も、という単語が分からない。
南方語で『まだ生きている』は、なんと言えばいいのだろうか。
使者という言葉も通じていないだろう。
諦めずに粘り続けるという選択肢もあったのだが、今の赤毛娘には思いつかなかった。
ガッカリしてしまって、もう駄目だと思い込んでしまったのだろう。
脱力したように力なく俯いている彼女に、何を誤解したのか青年は優しく語りかける。
「……元気を出せ。もし今の仕事が辛いようなら、家内向けの仕事に廻してやっても」
言いかけたところで、歩み寄ってくる人物に気づいて言葉を止めた。
「やあ」
茶色の外套を纏い、金髪を背中に編みこんだ若く美しい女性が、朗らかな笑顔を浮かべて青年に手を振った。
「リヴィエラ殿」
嬉しそうに上擦った声を上げる青年に流し目をくれて、ふふっと微笑んだ。
「案外、優しい所があるじゃないか?」
他の女に優しくしていたにも拘らず、郷士の娘はなぜか青年に好感を抱いたようだ。
「貴女も、来てたのか」
「親父殿のお供でね。親父殿は宴席に入っているけど、私は粉掛けてくる人たちをあしらうのが面倒で」
悪戯っぽく笑ってから、何処からかせしめてきたらしい腸詰を齧っている。
「今回のオークとの戦、厳しいものになるね」
郷士の娘が何気なく言った言葉に反応して、青年は厳しい顔つきになる。
「何故そう思う?」
「連中は相当に餓えている」
郷士の娘は鳶色の瞳で北の空を鋭く睨みつけた。
「何処でそんな話を?」
興味深そうに問いかけた青年に、郷士の娘は手をひらひらさせながら自慢げに応えた。
「一人捕まえたから」

「ところで、面白そうな話をしていたみたいだけれど」
郷士の娘は話を転じ、傍らで落ち着かない様子で佇んでいる赤毛娘に視線をくれた。
歯が全部揃っている。肉付きもいい。
顔つきと赤毛。疲れ切った表情ではあるが、此の子……。
じっと見つめた後、怪訝そうに口を開いた。
「此の娘……」
何かを言い掛けて口篭ったのを気にした様子もなく、青年は頷きかけた。
「気の毒な娘だ。村がオークに滅ぼされたそうだ」
「ふうん」
気の乗らない返事を返してから、郷士の娘は首を捻る。
「此の子は……北方人かな?でも、だとしたら……」

考え込んでいる郷士の娘と青年。そして赤毛娘の三人の所に、彼らを探して豪族の姉弟が近づいてきた。
「リヴィエラ!」
「パリス!フィオナ!」
声を掛けてきた友人たちの顔を見て、リヴィエラがあからさまに顔を輝かせた。
「ん、君はあの時の娘か。元気だったか?」
己の恩人を覚えてはいたようだ。
立ち止まった豪族の息子パリスに声を掛けられて、恭しく礼をする赤毛娘の姿は堂に入っていた。
豪族の娘フィオナが少し感心して、改めて奴隷の赤毛娘を観察した。
さりげなく礼儀に適った儀礼をこなすところなど、元はそれなりに裕福な家の娘だったのかも知れない。
青年の目の前で、郷士の娘リヴィエラは柔らかな笑顔を浮かべている。
視線の先には豪族の息子パリスがいて、意中の女性と腹違いの兄の仲睦まじさを見るのが辛く、青年は苦しげに表情を歪めて思わず顔を背けた。
「リヴィエラ。父が話を聞きたいそうだ。来てくれるか?」
「分かった」
豪族の息子パリスが呼びかけ、郷士の娘が直ぐに頷いた。
我慢しきれずに、青年も話に割って入る。
「俺も行こう」
ぴしゃりと姉のフィオナが遮った。
「貴方は呼ばれていない」
「フィオナ!なっ、なぜ。パリスだけが……」
腹違いの兄パリスと郷士の娘が連れ立って歩いていくのを眺めてから、青年は苦い想いを振り払うように首を振った。
姉のフィオナは何かを言いたいのか、その場に立ち止まっている。
気落ちしている青年は、気忙しげに赤毛の娘が何か話しかけてきたのを邪険に振り払った。
「調子に乗るな。とっとと仕事に戻れ」
青年の厳しい口調に赤毛娘は後退り、しゅんとして肩を落とした。
「女の子には優しくするものだよ」
「奴隷の娘に?」
姉の注意を鼻で笑う青年は、だが表情は強張り、無理して悪ぶっているようにも見えた。
哀しげな瞳をして何か言いたげにしながら、だが豪族の娘は結局フィオナは口を閉じた。
再び口を開いた時に出た言葉は冷たい響きを孕んでおり、弟の心をなお一層に傷つける。
「それと兄さんに向かってあの態度はいただけない。
 リヴィエラと言葉も話せない奴隷娘の前だからいいけど、
 使用人やお客たちの前ではあのような態度は許さない。胆に命じておきなさい」
青年は呻き声を上げて苦しげな表情で姉を睨みつけて反論する。
「……あいつは兄貴じゃない。俺の身内は父さんと姉さんだけだ」

無表情で黙っている姉に対して、想いを吐露する。
「あの女の責で母さんがどれ程、苦しんだか。姉さんだって覚えているだろ?」
「苦しんだのは母さんだけではないよ。それに誰か一人だけが悪い訳ではない。
 貴方の年齢で分からない筈はないでしょう」
「何でそんな事を言うんだよ。
 姉さんまでそんな風に思ってたら、母さんがあんまりにも報われないだろ」
豪族の娘フィオナは首を振りながら、哀しげに同腹の弟を見つめる。
「兎に角、お客の郷士豪族達に一度、顔を見せてきなさいな。
 私たちと父さんは、もう一緒に挨拶してきたから」
宥めすかして機嫌を取るように、豪族の娘の声は最後に少しだけ優しくなった。
「年頃の娘がいる人も多いんだし」
「姉さんが後継で、予備はパリス。俺はおまけか」
「そうやって子供みたいに拗ねている限りはね。リヴィエラにも相手されないよ?」
「フィオナは……リヴィエラは関係ない!」
顔を真っ赤にして何かを言いかけ、それから怒りも露わに荒々しい歩調で立ち去った青年の後姿を眺めながら、豪族の娘は溜息を洩らした。
何か言いたげにしている赤毛娘に一瞥をくれると
「何でもないわ。貴女も仕事に戻りなさい」
頷いて踵を返した赤毛娘の背中を見送ってから、豪族の娘は小さく呟いた。
「大分、話せるようになってきたみたいね」
それから、ふと思い出したように首を傾げる。
「そういえば北方語なら、リヴィエラが話せたか」

館の最も大きな部屋で開かれたクーディウス氏主催の民会には、
近在の郷士豪族の大半が顔を見せていた。
人数は三、四十人ほどか。集まりは良くも悪くもない。
普段は不仲な者たちのうちでも、数名は姿を見せている。
それだけオークが脅威だということなのだろう。
それほど仲の悪くない者の病などで欠席や、息子なり弟なり、一族の誰かを代理として出席させてる者たちもいた。
招待したものの全てが顔を出したわけではないが、それでも招いたうちの三分の二は顔を見せている。
まずは満足するべき状況だろう。
自分の権威を確かめられて、豪族は満足げに頷いた。
オークを脅威に感じていない筈の、南の川向こうのホビットたちもやってきている。
これも大きな収穫だった。
些か慎重さに欠けるきらいがある物の、勇敢ですばしっこいホビット族はよい斥候となる。
いざとなれば彼らの助力をあてに出来るのは大きい。
オークへの対処について民会で話す間、主導権をとられるのを嫌ったのだろう。
不機嫌そうに苦虫を噛み潰していた郷士や豪族たちもいたが、大半は好意的に意見に賛成してくれた。
何故、御主らの領土を守る為に兵を出さねばならん?
北の連中は、自力で降りかかる火の粉も払えんのか?
街道筋から遠い南の村々の郷士や豪族たちの反応は冷淡であったが、これは最初から予想していた事でもある。
彼らの態度は兵を出す心算はないとはっきり告げていたが、それでも交渉の結果、糧食や飼い葉の一部を負担してくれるとの言質を取れた。
何でも言ってみるものだとほくそ笑んでいる。

「カディウス!よく来てくれた!それにフィリウ爺さんも」
肝胆てらして話し合える古い知己たちには、豪族は歩み寄って肩を叩いて席に案内した。
笑いながら歩み寄ってくるベーリオウルは、農園主の郷士に過ぎないものの豪族の古い知り合いであり、性格も能力も頼りになる男だった。
若い頃には、共に南王国の旗の下で肩を並べて戦っていた時期もある。
「御主の郎党には、警備を頼みたい。勿論、馳走は後で振舞わせてもらおう。
何分、手が足らんでな」
民会での話合いは常になく長時間に及んだが、オークに奪われた村落や農園の奪還に、治安の回復。
各々の土地の巡回を徹底し、オークのこれ以上の浸透を防ぐことが議決された。
一通り議題を消化してからは、皆の衆の親交を深めようとささやかながら宴席を用意したと、大広間に客たちを案内した。


クーディウスの富裕はただ事ではなかった。
豊かな財力を誇示するように、しろめや青銅の皿には、豚肉や牛、鳥や山羊の茹で肉や香草焼き、塩焼き、パテ、パイなどが並んでいた。
大抵は木皿であり、食卓に皮を敷いたりそのまま机に載せて食べるのが普通である。
部屋には吟遊詩人がいて竪琴を鳴らしながら唄を諳んじ、また道化師が球を巧みに操って客を魅了していた。
どうやらクーディウスには、南王国の貴族たちと繋がりがあるとの話も、満更法螺でも無さそうである。
当の本人である初老の豪族は、毛皮を敷いた一際、豪奢な椅子に腰掛けて満足そうに微笑んでいる。
一段高い所に在る頑丈な樫製の椅子は、一見して玉座のようにも見えた。
権威と財力を印象付ける為に、宴の演出は事前に綿密に計算されていたのかも知れない。
何人かは、王を連想したのだろう。
料理に舌鼓を打ちながら、しかし、招きに応じた者たちの一部は、苦々しい顔をしていた。
オークへの対処の主導権を握られた事と言い、財力の誇示と言い、同輩の一人が権威を高めていくのは面白くない。
豚の腹に香草や果実を詰めて丸焼きにしたもの。鵞鳥のロースト。鴨のパテ。林檎のパイなど、しかし、料理は絶品であった。
新鮮な肉料理は、豪族たちや郷士たちでも、早々口に出来るものではない。
鱈腹腹にご馳走を詰め込んで、満足そうにゲップをしながらホビットの郷士が叫んだ。
「辺境の王様!クーディウスばんざぁい!」
仕込みではない追従に上機嫌で腕を振って豪族は応じる。
辺境の王か、それも悪くないな。
熊の毛皮を肩から纏った豪族の重々しい振る舞いに、一部の郷士豪族の機嫌は底無しに悪くなっているようだ。
「……自分が王様になりたいんだろうよ」
意地悪く囁いて不満げな顔をしている者たちの顔と名前を脳裏に刻み込みながら、しかし、クーディウスは客の大半が宴席を楽しんでいるのを目にして、満足げに頷いた。

やがて請願者たちが列を作って、宴席の主催者と一人一人面談し始めた。
笑いながら、鷹揚に対応していく初老の豪族。
一握りの郷士などは、戦装束も裕福な武装農民とさして変わらない姿である。
擦り切れた革の上着や厚手の服を纏い、錆びた剣を腰に吊るし、
棒切れを持って襤褸を纏う若衆を一人、二人連れただけの貧しい郷士もいた。
酷い有様ではあるが、辺土の弱小の郷士などそんなものでもある。
それでも数は数だ。
不仲な競争者のうちには、今なおクーディウスに匹敵する勢力を誇る豪族もいる。
彼らに競り勝つには、或いは戦わずに勝つには、出来るだけ手元に兵を集めておきたかった。
考えながら対応している豪族の視界の端で、古い知己ベーリオウルの娘が宴会場に入ってきたのが見えた。
「皆の衆、暫し席を外しますぞ」
知己の娘の傍に立つ我が子に小さく頷きかけてから、手にした酒盃を干してからゆっくりと立ち上がる。
大物はけして急がないものだ。

クーディウスと長男であるパリス、そして旧知のベーリオウル親子は廊下を通って館の奥にある一室へと移動した。
其処にはクーディウスの長女フィオナと、やはり信頼できる友人の老豪族フィリウ卿が待ち受けている。
一同の顔を見回すと、初老の豪族は重々しく頷いた。
旧知の郷士ベーリオウルが首をしゃくって、己の娘であるリヴィエラに視線を送った。
「お前の口から、クーディウス殿に説明しろ」
金髪の娘は頷くと、咳払いしてから己の掴んだ情報を一から説明し始めた。
「オーク共は餓えています。それも相当に……彼らも飯が喰えていない」
連年の不作には、水にも恵まれ、耕作地が広がっている平地の民さえ苦しんでいる。
増してやオーク族が棲まうのは、耕作に不向きな丘陵地帯。
飢えの苦しみは、筆舌にし難い物があるに違いない。
昨夜のうちにオークを拷問して聞き出した情報を、郷士の娘は淡々とした口調で一堂に詳しく説明していく。
口減らしと奴隷、食料の確保を兼ねての侵攻だと告げると、腕組みして壁に寄りかかっていた父親が腑に落ちない様子で視線を彷徨わせた。
「喰い物が足らんので攻めてきたのだろう?連中に、浚った奴隷を養えるのか?」
「私も気になって、其処を聞いてみた」
其の質問は想定していたので、浮かない表情で金髪の娘は反問に応えた。
「自分たちで使うんじゃない。曠野から来た黒エルフの隊商の一隊に売り飛ばしていると」
筋骨逞しい郷士は苛立ちを隠そうともせず険しい顔つきになると、音高く舌打ちした。
「黒エルフ共に売られたとなると……取り返すのも難しいな」
「うむ、よく分かった」
豪族も厳しい表情で頷きながら、郷士の意見に相槌を打った。
「まだ、色々分からないことがある。所詮は下っ端だったから。
他に二、三人捕虜を捕まえてみれば、もっと詳しく分かると思うけど」
金髪のリヴィエラの言葉に、豪族の息子パリスが頷きかけた。
「その役目は俺が引き受けよう」

壁に寄り掛かって指を顎に当てて考え込んでいた豪族の娘フィオナが、顔を上げた。
「今のところ、持ち回りで警戒を強化する以外に打てる手はないわね」
娘の言に頷きつつも、クーディウスが息子パリスに視線を転じる。
「パリスよ。わしの兵は何人動かせる?」
「村の守りを最低限残して四十。時間があれば六十か七十は揃えられます」
思っていたよりは少ないものの、豪族はかかっと笑い声を上げた。
「オークの領域に侵攻して村の一つ、二つ焼くには充分な人数だな」
「博打だぞ」
金髪の郷士が難しい顔で口を挟んできた。
金髪の郷士ベーリオウルと初老の豪族クーディウスは、若い頃からの付き合いである。
連れ立って南王国に旅に出た事もあり、いまだに気安い関係を維持していた。
豪族たちがその力を併せれば、オークの撃退はそれほど難しくない。
元より人族やホビット、ゴブリン、ドウォーフなどの方が人数が多いのだ。
「だが、どいつもこいつも、己の事しか考えておらん」
不満げに洩らした豪族に、郷士が見通しは暗いと言葉を掛けた。
「持ち回りは引き受けても、攻め込むとなるとな。誰も彼も二の足を踏むだろう」
「……お互いにもう若くない」
豪族はほろ苦く笑って、首を振った。

「しかし、父上。此の侭ではきりがない」
娘の言葉に豪族は難しい顔になって考え込んだ。
「わしの兵だけでは埒が明かん。出来れば力を借りたいが」
付近の街道一帯でそれなりの勢力は誇っているものの、危険を侵して力を貸してくれる者の心当たりとなると意外と少ない。
「俺と爺さん以外だと、ルタン。それにソレスは当てに出来るだろう」
金髪の郷士が少し考えてから、力を貸してくれそうな豪族の名前を上げる。
「ふむ、ルタンはオーク領に近い故に必死だろう。乗ってくるに違いない。
 だが、ソレスか?」
怪訝そうな顔をして訊ねかけた豪族に、今度は老豪族が肯き掛けた。
「あれは硬骨漢じゃ。好き嫌いは置いといて、こういう時は力を貸してくれる筈じゃろう」
豪族が頷いた。
実はフィリウ老人やベーリオウルの考えとは大方で一致していたが、念のために敢えて異論を口にしていた。
信頼出来そうな者たちの兵力を頭に思い浮かべながら、彼らを頼るしかないと思いつつも、一方では出来るなら温存したくもある。
「他には、余り当てにできそうな者はおらんな」
老豪族が溜息を洩らすと、金髪の郷士がはき捨てた。
「略奪するだけすれば、オークの矛もいずれは収まる。そう考えているのだろうよ」
豪族クーディウスはその甘い見通しに舌打ちしてから
「まあ、よい。ルタンとソレスも当てにできれば、百二、三十には届くだろう。
オークなどなんとでもなるだろう」
豪族が結論を出すと一同は肯いた。
後はルタンとソレスに各々協力を求める事を決めてから、一同は密談を終えた。
部屋を後にしようとする旧知の郷士に、豪族が声を掛ける。
「おい、カディウス。久しぶりに顔を見せたのだ。今日は泊まっていけ。
 積もる話もある。御主の娘やわしの息子たちの事も決めておきたいしな。
いいワインがあるのだ。南王国のジベールにある荘園で作られたものだぞ」
金髪の郷士はにやりと笑みを浮かべると、豪族の肩を叩いて歩き出した。

話し合っていた一同は、しかし此の時、普段から小競り合いの絶えない丘陵地帯のオーク族だけを主敵と見定めていた。
北のモアレ村が陥落してより既に十日近くが経過していたが、街道筋の郷士や豪族たちは誰一人として北方からも脅かされていることを察知していない。
本格的な冬の季節に北方からの旅人が訪れないのも、珍しいことではない。
幾らかの犠牲は出るだろうが、最終的には勝てるだろうと未だ楽観的に捉えていたのだ。



[28849] 53羽 土豪 16 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/11/22 04:52
天高く白い雲が流れている。
昨日とは打って変わっての突き抜けるような青空が彼方まで広がっていた。
朝の澄んだ空気が漂う辺境の街道を二人の娘は散策していた。
二人の足元には背の低い青々とした草花が、此の季節でも疎らに生い茂っている。
ガマの穂やオトギリソウなど、薬草に使える草花の多くは春から夏、秋に掛けて咲くもので、此の季節には入手を期待できない。
冬には中々、良い薬草は見つからないが、辺土に生えるナズナやタンポポ、アブラナの一種などは、一年を通して道端に見かけられた。
街道を歩いているエルフ娘は、それらの薬草を見つけては立ち止まって、丁寧に摘んで腰の袋へと仕舞いこんでいくのだった。
「それが君の生業か?」
傍らで草笛を吹きながら歩いていた女剣士が、立ち止まって問いかけてみた。
「それもある。町とかで薬師に売ると、割合いいお金になるんだ」
半エルフにとっては大切な収入源の一つらしい。
「君自身も薬師だろう?
君くらいの腕がある薬師ならば、何処でも食べていけるのではないか?」
黒髪の女剣士が、少し意外に思って翠髪のエルフに訊ねかける。
見つけた冬タンポポを嬉しそうに布に包み込んでいるエルフ娘だったが、
その質問で急に憂鬱そうに表情を曇らせると溜息を洩らした。
「世の中、そう上手くはいかないよ。薬師の仕事だけでは食べてはいけないんだ」
金についての問題が心中をよぎったのか。
翳りのある表情で口にするエルフの横顔を見ながら、女剣士は疑問をぶつけてみた。
「……腕のいい薬師なら大きな町に定住すれば喰うに困らないだろう?」
実際に女剣士自身が、己の肉体でエルフの医師としての腕を確かめている。
傷がまるで化膿していない上、縫われた箇所の治りは異様に早い。
数箇所も切り刻まれたのに、経過は順調そのもので恐いほどだった。
鎮痛や解熱についての薬草の知識も豊富で、出来るなら故郷へと連れ帰りたいくらいの腕をしていた。
エリスが己の価値を理解しているのか否かは分からないが、見る目のある者にとっては貴重な技と知識を持つ術者の筈だった。
「……エルフと言っても若い女の薬師だよ?君なら信用する?」
やや不可解に思ったが、考えてみれば年配の医師と若い女を並べれば、女剣士とて何となく前者を信用するだろうと思い直した。
女剣士自身も、外科手術は力ある男の医師の仕事だとも何となく思い込んでいた節がある。
薬草師はその殆どが女性ではあるものの、大半は年老いた老婆の印象であるし、若い女が凄腕の薬師といわれても違和感を覚えるに違いない。
「では、普段は何をして生活の糧としているのだ?」
話してくれるか否かは分からなかったが、友人の事がもっと知りたくなったので女剣士は何気なく聞いてみた。
「例年なら、冬の今頃は南方にある顔見知りの農園とかで過ごしていたんだけどね」
半エルフの娘は、愚痴る口調で今の時期に辺土を彷徨っている事情をぽつぽつと話し始めた。

農園や果樹園などで初夏から秋口まで働いた自由労働者が、見返りとして冬越えの面倒を見てもらう契約を結ぶのは、よくある話である。
大抵の自由労働者がそうであるように、エルフ娘もまた、南方と辺土の境にある農場で春から秋まで働いていたそうだ。
勿論、過ごす場所はよく吟味して選んでいたし、実際、農園主である老人の人柄もあって、
農園の使用人には良い人間が多く、穏やかな雰囲気に包まれて過ごしやすかったらしい。
其れが一転、事情が変わったのは、農園主の老人が急な病に倒れたからである。
エルフ娘も人を見る目は在る心算であったが、流行り病の流行までは見通せなかった。
町や村、農園などが疎らに点在し、人口密度の薄い辺土と違って、南方では一旦、流行り病が起きると大流行に至ることがあった。
余り大した病気ではなかったが、体力の衰えた老人には酷であったらしい。
エルフ娘の看病も虚しく老人は儚くなり、変わって農園の跡を継いだのは町からやってきた老人の息子である。
此れが老人とは似ても似つかない駄目男であったそうで、大変に女癖が悪く、農園の女に次々と手を出した挙句にエルフ娘も無理矢理に愛人にさせられそうになった。
身の危険を感じて働いた給金も貰わずに逃げ出す破目に陥るとは思ってもいなかったと締めくくった。
「……荷物も幾らかは置いて来ざるを得なかったんだよ。服とか、服とかさ……ああ、もうっ!」
嫌そうな顔に身振り手振りで説明していたエルフ娘が、悔しそうにぶんぶんと拳を振っている。
「冬になると野山に食べ物も無くなるし、なので町に行けば……ほら、冬でも仕事があるからね。
ここら辺で一番、大きな町だとティレーだから。ローナでも良かったんだけど」

幼い頃より厳しい訓練を受けながら、成人してよりは十を越える戦に参加して若年にして古参兵となっている女剣士だが、一方で額に汗して働いた経験は少なかった。
「……なるほど。美人は大変だな」
好奇と同情が相半ばする心境で黒髪の女剣士が呟くと、しかし、翠髪のエルフは首を横に振った。
「ううん。今になってみれば、良かった気もする」
言ってふいっと彼方の丘陵へと視線を逸らした美貌のエルフ娘に、女剣士は首を傾げる。
「……何故だ?」
訊ねられれば、応えなければなるまい。
「結果としてみればね、アリアさんと出会えましたから!」
勢いで宣言してから照れたのだろう。エルフ娘の頬が見る見る桜色に染まった。
照れているエルフ娘に見つめられ、数瞬遅れて女剣士も頬を紅潮させながら柔らかく微笑んだ。
「……そうですか。嬉しい。うん、嬉しいよ」
「そ……それに手持ちも増えたからね。働かないでもいけそうだよ」
袋の上から盗賊からの戦利品の財布を叩いて、半エルフは女剣士に微笑みかけた。
まだ頬は幾らか赤いのを互いに確認して、少し胸が暖かくなりながらも照れくさい。
「冬の仕事はきついから、出来るならやりたくなかったんだ」
エルフの話では、冬の仕事で躰を壊してしまう自由労働者などは存外に多いと言う。
「此れだけあれば、雑穀粥くらいなら食べていける。
適当な廃屋に潜り込めば、何とか暮らしていけるし」
先に貧民や放浪者が巣食っている事も多いとエルフは愚痴るのだが、女剣士には想像の付かない世界であった。
「名目上の持ち主は別に居るのに、争うのか。
 ふむ。要するに王国内での豪族の縄張り争いのようなものだな」
己の知らなかった民草の暮らし、それも下層の庶民や放浪者の生活についてエルフが語る薀蓄の内容は興味深いもので、女剣士は興味津々な態度を見せてながら真剣な顔つきで一々、頷いていた。
耳を傾けているうち、幾つか抱いた疑問をぶつけてみるが、
エルフ娘は嫌な顔もせずに説明してくれるので、女剣士はいよいよ感心する。
それなりの識見と穏やかな人格を有する上に気が合うなど、此れは得がたい友かも知れない。

一方で、会話を通じてエルフの方も女剣士の内面を推察していく。
女剣士にとって豊かな生活は、当然過ぎて当たり前のものらしい。
彼女が雑穀粥を啜る時があるとしても、其れは戦争を遂行する上での不便の為であって、貧しさに強いられたからではない。
恐らく女剣士にとっては、貧困は恐怖や嫌悪の象徴ではなく、好奇心の対象であるのだ。
ここら辺は完全な貴種である女剣士と、貧しい放浪の旅エルフとの価値観の違いなのだろう。
女剣士の母方エイオン一族は、青銅器時代の高名な英雄テュルフィング以来、五百年続いている由緒正しい家系だそうだ。
何処まで本当か眉唾だと女剣士は笑っていたが、話半分としても相当なものではある。
かといって、王侯ほどに庶民の事情や暮らしから浮世離れしている訳でもない。
正真の高貴な出であるが、多くの成り上がりなどとは違って己の富裕を鼻に掛けたり、
他者を居丈高に見下したりする点がないので、エルフ娘は逆に結構、語らい易かった。
エルフの説明が要点を抑えて分かり易いのも合ったが、女剣士もそれなりに頭の回転が速く、放浪生活について抱いていた疑念に対しての説明を直ぐに呑み込んだ。
エルフ娘もまた、女剣士の素性や生活について知りたいと思っていた。
最後には普段から疑問に思っていた貴族や豪族の生活についてや徴税の仕組みなどに対しても質問は飛び、
互いの視野や視点に刺激を受けつつ新たな知識も得られたので、二人にとっては中々に実りある時間となった。

ゴートの川辺にある名もない小村落に辿り着くと、二人の娘は渡し場の小屋に住む鶏がらのように痩せた老婆に、幾度目かの同じ問いかけをした。
「……艀はまだ直らんのかね?」
オークの襲撃で傷ついた艀は、今も対岸で大工によって修理されているとのことだが、一体、何時になったら交通が再開するのかが分からない。
苛立たしげに髪をかき上げている黒髪の娘を落ち窪んだ目で見上げると、痩せた老婆はもごもごと口を動かして質問に応える。
「そんにゃあ、言われてもわからんにゃねよ。
痛んでる縄を交換ちするいうてたからね。もうちっと掛かると思うよ」
訛り混じりの言葉で告げた老婆の方もいい加減にうんざりしたような顔をしているのは、きっと他の旅人たちからも同じ質問なり苦情なりを幾度も受けたからに違いない。

小屋の周囲に視線を走らせれば、途方に暮れた様子の旅人たちが頭を寄せ合って相談している姿などが、ちらほらと見かけられた。
艀の渡し場の直ぐ傍では、流れの職工らしきドウォーフの老人が、パイプを揺らしながら傭兵らしい男女の二人組と暇そうにカードで遊んでいた。
オーク族との小競り合いの噂を耳にして、他の街道へと廻った者もいるだろうから、常時よりは旅人の数は減っている筈であるが、それでも慣れや時間的余裕などの理由から、迂回しない旅人も少なくないのだろう。
村道や旅人の小屋では、旅装の巡礼や行商人、傭兵などが所在無げに村に屯している姿が見掛けられた。
艀が壊れた為に足止めされている旅人たちは、オークの出没もあってかどこか殺伐とした雰囲気を纏っており、
村の中は、普段よりもピリピリとした雰囲気に包まれている。
小屋を後にした二人の娘は、連れだって川筋に沿った歩道を歩き始めた。


川原に立ってみれば、ゴート川の対岸にも焚き火が焚かれており、此方を窺っている人影がちらちらと見受けられた。
巡礼や自由労働者、傭兵らしき姿からして、やはり足止めを食ってる旅人なのだろう。
やがて業を煮やしたのだろうか。
対岸をうろついていた旅人の一人が、いきなり服を脱ぎ始めた。
衣服を袋に詰めると素っ裸でいきなりざばざばと川へと入っていく。
ゴートの川幅は、どう見積もっても五十歩幅(約十五メートル)から七十歩幅くらいはあった。
此の季節は、水も冷たい。二人の娘が水浴びした頃より、ずっと気温は低下している。
ゴート河は、意外と川底も深く、水流も強く激しかった。
泳いでる途中で、早くも流されそうになっている。
「……うわ、馬鹿な真似を」
エルフが思わず呟くと、女剣士も首を傾げる。
「まさか泳いで渡る心算か。相当に水泳に自信が在るのか?」
踏ん張りながら渡っていたが、中央くらいで水流の強さに進めなくなったのだろう。
途中の岩にしがみ付いて、身動きが取れなくなってしまう。
頑張っているが、やがて無情にも男の荷物が流された。
川の両岸で爆笑が巻き起こる。
誰かが縄を持ってきた。先に石を結んで分銅とし、振り回して投げつける。
何度か試して、男のところまで届いた。
男が縄を掴むと、投げた男とその周囲にいる数人が引っ張り始めた。
男は何度か流されかけたが、ついに渡りきった。唇は完全に紫色だ。
手荷物を失い、濡れ鼠になりながら真冬の川を渡りきった素っ裸の男に対して、群集は惜しみなく喝采を送るが、後に続くものは居なかった。
焚き火に近寄る。
「面白いものを見れた。世の中には突拍子もない奴がいるものだな」
充分に突発的な見世物を楽しんだのだろう。
女剣士が笑いすぎて目の端に浮かんだ涙を拭いていると、エルフが肩を竦めて声を掛けた。
「さて、もう旅籠に戻ろうよ」

帰りの道の最中、村外れの小屋では腰を降ろした旅人が五人見かけられた。
寛ぎながら情報を交換し合っているので、少しだけ足を止めて小屋に入ってみた。
値踏みする視線を向けてきたが友好的な笑顔を浮かべると、美しい女性の二人組である。
直ぐに旅人たちに受け入れられたので、それとなく水を向けて会話に混じってみる。
「……昨日も、オークと兵士たちがやり合ったそうだ」
「双方が六、七人死傷して……何時になったら収まるのか」
「南の方の道に行ってみるか?」
「だけど、橋の通行料は高いだろ。艀の方が……」
挨拶してから二人は小屋を後にすると、仕入れた噂を吟味しつつ再び道を歩き始めた。

「気になった話はあるかね?」
女剣士が声を掛けて来たので、エルフ娘は唇を舐めてから頷いた。
「オークとの小競り合いが増えているのとか、あとは兵士たちに通行料を取られたとか」
「村から出る道は一つではないけど、そのうち私たちも会うかもな」
兵士が小遣い稼ぎに、通り掛った旅人や農夫から通行料を徴集する。
それ自体は、取り立てて珍しい話ではない。
「小銭で済むのなら払ってもいいとも思っているが……」
女剣士の窺うような視線にエルフ娘も嫌そうにその見方を首肯する。
「もっと大切なものを要求されないとも限らないね」
浮かない口調で呟いてから空を見上げる。
「……ゴート東岸も、随分と治安が悪くなってきたものだ。
 傷が治るまでと思っていたが、艀が直ったら早めに川向こうに渡った方がいいかも知れんな」
前髪をかき上げながら女剣士が押し殺した声で呟くと、半エルフも同意して頷いた。
戦時下の兵士というのは気が立っているものだ。
女の二人連れ、それも旅人の立場で出会いたい相手ではない。
風が吹いて埃っぽい田舎道から赤い塵を巻き上げる。
丘陵が連なる彼方に向かって二人の娘は街道を歩いていった。

「力を貸しなよ。ガーズ・ロー」
黒オークのガーズ・ローは、目の前に座っているオークに胡乱な視線を向けた。
灰色の肌をした屈強な身体には、戦傷が目立つ。
上背は同じ程度だが、体重はガーズ・ローよりも幾らか大きいだろう。
贅肉ではない。筋肉だ。太い腕には血管が浮かんでいる。
「……取引は済んだはずだぞ」
黒オークの声は重々しく、濫りに言い返すことを躊躇わせる力が在った。
「俺たちタータズム族と丘陵の部族が合力してモアレ村を落とす。
 戦利品はそちらのもの、俺たちは村を得る。
 それで話はついたはずだ」
北方から流れてきたタータズム族と丘陵のオーク部族が協力し、人族からモアレ村を奪ったのは半月ほど前に遡っての出来事だった。
北方で人族との勢力争いに敗れて放浪していたタータズム族は、安住の地を得る。
年来の不作に餓え、不満も溜まっていた丘陵のオーク部族は、奴隷と家畜、そして戦利品を獲得する。
タータズム族に安住の地を与えるべく、ガーズ・ローも丘陵部族に話を持ちかけ、後には折衝に駆け回った一人だった。
今、黒オークが住んでいるのも、修繕が住んだばかりの村の家の一軒である。
いい村だ。それだけに与えたのが惜しくなったと考えてもおかしくないと警戒していた。
「ああ、違うんだよ。誤解させたね」
笑うと意外と愛嬌のある顔立ちで、目の前の灰色肌のオークは言葉を続けた。
丘陵地帯でも有力なオーク部族の長の三人の子供の一人。
言ってみれば『王女』さまだろうか。
「あたしが欲しいのは、あんたなんだよ。名高い傭兵のガーズさね。
 勿論、タータズム族の協力だって、出来るなら欲しいけどね。
 そっちはそっちは族長に掛け合ってみるさ」
言いながら手をひらひらと振って、喰えそうにない愛想笑いを浮かべながら小さい目で黒オークの反応を窺う。
「あんたのことは何度か耳にした。
 しぶとい戦い方をするいい戦士だって、グルゴスが褒めていたよ。
 頭も切れて色々と頼りになる男だってね」
「……そいつは光栄だ」
己の感情を悟らせないように、黒オークは用心深い声で無表情に返答した。

黒オークは、かつて北のオーク族の勇士グルゴスの友人であり、腹心の部下でも在った。
北方で高名なフェルメアの騎士団を罠に掛けて殲滅した逸話から、グルゴスは騎士殺しの二つ名で若いオーク族には憧れと共に、人族の間には憎悪を持って知られている。
しかし、かつての友の名を耳にしても、黒オークの胸中に蘇るのは懐かしさではなく苦い思いだけだった。
騎士団をせん滅する作戦に、黒オーク自身は最後まで反対していた。
手柄に執着するグルゴスに懇願され、仕方なしに渓谷に誘い込んで追い詰める策を提案したものの、窮鼠と化した騎士団との血みどろの戦いでは昔からの仲間の過半が死んでいる。
名声を得る為の代償として、グルゴスは鍛え抜いた子飼いの戦士の半数を失っているのだ。
グルゴスの身内の大半や黒オークの弟も、その戦いで戦死している。
新たな名声を得たグルゴスの元には、各地からオークの戦士が集まってきたが、
黒オークは友人のやり方には付いていけなくなって袂を分かち、以来会ってはいない。

それからは、タータズム族の族長であるラ・ペ・ズールに拾われるまで、雇い兵として黒オークは様々な土地を渡り歩いていた。
時に人族やホビット、エルフなど他種族の領主の旗の下で戦ったこともあれば、前歴や出自を問わない傭兵部隊に入った時期もあった。
戦った相手も人族やホビット、ゴブリン、ドウォーフ、そしてオークと様々であった。
胸糞の悪い扱いを受けたこともあれば、種族や宗教を越えて友情を育んだ相手もいた。

「あんたとグルゴスとの間に、昔、何があったかは聞いてる」
丘陵部族のオークの言葉で、ガーズ・ローの顔に険しい表情が浮かんだ。
「詮索されるのは好かんな。それに他人にとっては如何でもいい事だろう」
「そうだね。悪かった。あたしも他人の事情に深入りする心算はないよ」
掌で顔を叩いて、気さくそうな態度で謝罪する丘陵部族のオーク。
ぶすっとして答えながらも、黒オークは目の前の女に少しだけ興味を持った。
グルゴスがそう易々と言いふらす男とは思わなかった。
或いは此の女にグルゴスに口を開かせるだけの何かがあるということだろうか。

「ただね。人族共から平地を取り戻すには、一人でも腕の立つ戦士がいるんだ。
 腕が立って、信頼できて、出来るなら頭も切れるなら云う事はない。
 最初はグルゴスに頼みにいったんだけどね。断られたよ。だけど、其処であんたの名前が出たのさ」
オークの王女が前に身を乗り出すと、木の椅子がみしみしと軋んだ。
黒オークが村長の家で見つけた椅子。
壊れないだろうな。戦利品の中では一番、気に入っていたんだがと心配になる。

「人族から平地を取り戻すか」
黒オークが呟いた。
辺境では、古くから複数の種族がモザイクのように割拠していたと黒オークは聞いていた。
どちらが先に辺土の住人になったのか。
人族は当然に辺境を自分たちの土地だと思っており、オークは人を駆逐して取り戻そうと考えている。

「言うは易しだ。だが、人族の方がずっと多いぞ?」
人物を計る意味も含めて、黒オークは馬鹿にするように鼻を鳴らして目の前の女オークの反応を窺ってみた。
「大した戦力ではないが、森小人やホビット共とて、やつらに組するだろう。到底、勝ち目があるとも思えんな」
嘲るような黒オークの言葉に、灰色オークは歯を食い縛りながら渋々と頷いた。
己を偉そうに見せる為の虚栄心や、盲目的な敵愾心で大言壮語しているわけではなく、ある程度、現実を踏まえてはいるらしい。

住み易い土地を占めているのだから、人族が数の優位に立つのは当たり前だった。
小規模な襲撃を繰り返しているようだが、それだけで勝てる筈もない。
やがては人族の備えも厳重になり、じきに反撃が来る筈だ。
オーク族の領域へ帰還する際に便利な場所を占めているとはいえ、
いい加減に襲撃帰りの兵がモアレ村に逃げ込んでくるのも止めてもらいたいものだ。
人族とて勘働きの鋭い者は幾人もいよう。
村の防備が固まる前に、オークの手に落ちたと人族に悟られないとも限らないと、黒オークは懸念していた。

「あいつらはモアレがこっちの手に落ちているとは知らないね。それがこっちの強みさ。
 今、丘陵の他の部族や近隣の穴オーク、森の連中にも使いを出してる」
黒オークが沈黙を守っていると、丘陵の王女は言葉を続ける。
「ならず者や悪党の洞窟ゴブリンたちなんかにもね。
 春を待って大きな戦力を集結させてたら、南下して一気に叩くんだよ」
言いながら、灰色オークは懐から丸めた羊皮紙を取り出した。
「地図もね。作ってるのさ。
 今行っている襲撃には、連中の兵力や備えを調べる狙いもあるんだよ」
どうやら、この王女様は考え無しという訳でも無いようだ。
黒オークは、ほんの少しだけ丘陵部族の王女に対する評価を上方修正する。
「ほう、見ていいか?」
「ああ、あんたに見て貰うために持ってきたんだ」
手書きの地図を手渡しで受け取り、黒オークは鋭い視線を走らせた。
もとより正確な測量の技術など存在もしなければ、必要もされていない世界だ。
地図は大まかな位置関係と意味が分かれば、それでよい。

世には地図の読み方すらも分からない人間もいれば、東西南北すらない地図もある。
悪い出来ではなかった。黒オークも地図の読み方を知っている。
顔の在る太陽が描かれているのが、陽が昇る方角。すなわち東であった。
川や丘、目立つ大岩や大木なども目印として描かれている。
大体の地形と主な村の位置、村の横に記された棒の数は、人族の戦士の数だろうか。
「此れ一本で大体十人だよ」
灰色の肌をした逞しい女オークの注釈に頷きながら、黒オークは机に広げた地図を読み解いていった。
「こっから、大軍でこう攻めてね」
丘陵オークが地図上を太い指でなぞっていくと、モアレの真っ直ぐ南の幾つかの村を指差した。
「街道の辺りを占領したら、段々と領土を広げていくんだ」
ずっと暖めていた策らしい。
地図を目にしているうちに、黒オークは久方ぶりに胸の奥で血が騒ぐのを感じていた。
「どうだい?あたしの作戦は」
伏せていた顔を上げると得意げに豊満な胸を張った灰色オークに、黒オークは頷きかけた。
「悪くない」
満足げに頷いている丘陵の王女に、しかし、黒オークは地図の一点を指差した。
「だが、もしやるなら、でかい村を一番最初に叩くべきだな」
「何故だい?」
丘陵地帯の王女さまが首を捻った際に、首筋にも巨大な傷があるのが見えた。
白兵戦で受けたものだろう。戦では先陣を切る性格なのか。
「油断しているのを叩けるのは、二、三度だけだ。
 もっと云えば、確実なのは最初の一度だけだな」
其れでもなお不信そうな灰色の女オークに、黒オークは説明を続けた。
「頭が取られれば、誰だって混乱するだろう?
 人族を一致団結させないように、軸になりそうな奴を叩くんだ」
腑に落ちたのか、王女が頷いた。
「その後、連中の混乱が収まらないうちに、出来るだけ一気に領土を広げるんだ。
 此処まで領土を広げれば……」
黒オークが地図の上に指で輪を描くと、王女は目を丸くして首を横に振った。
「無理だよ。大軍って言っても、精々五百かそこらだ。そんな兵力はない」
「村を全部攻めたり、焼く必要はない」
黒オークは指摘にも揺るがずに、自論を披瀝し続ける。
「重要なところだけを充分な戦力で占領してしまうんだ。
 奇襲は最初しか効果がないからな」
頭の中で言葉を噛み砕いているのだろう。表情を歪めながら王女が頷いている。
「で、此のクイス、フォーナ、パリトー。三つのでかい村を占領して
 見ろ。一帯の東は川。南は森、西は丘陵だ。
 外から軍がやってきても少数で防げる。
 で、後は環の中に閉じ込めた村を料理すれば……」
地図の上で指を動かしていた黒オークが言葉を切ると、
発想の転換を強いられたオークの王女は険しい表情で暫し唸り続けた。
「凄い!」
やがて部屋を震わせるほどの大音声で叫んだ女オークが目を輝かせた。
「いい!あんた最高だよ!ガーズ・ロー!大した軍師だね!
 ああ、やっぱあたしは間違っちゃいなかった!あんたに頼みに来て正解だったよ!」
王女は興奮した様子で黒オークに抱きついて、その頬に接吻してくる。
「おいおい。あくまで全部が上手くいけばの話だ。
 此れから村々の守りを調べねばならん。それに……」
呆れて諭すも、丘陵の王女さまは聞いてない様子である。
「こうしちゃ居られないね。みんなに紹介するからさ。来ておくれよ」
手を掴むと玄関へと引っ張っていこうとするのを、黒オークは強い口調で遮った。
「カーラ。俺はまだ力を貸すと決めた訳じゃない」
呆気にとられた様子でオークが目を瞬いている王女に、黒オークは頭を振った。
「なんでだい?つれないね。ここまで来て」
「前の族長には恩義がある。俺は村と氏族を守らなければならん」
やがて丘陵の王女は肩を大きく竦めてから息を吐くと、人懐っこい笑顔を向ける。
喰えない笑みだと思いながらも、黒オークは苦笑して頷いた。
「地図は残していくよ。ガーズ・ロー。力になってくれると信じているからね」
それだけ言い残すと、大きな背中を揺らしながら扉から悠々と出て行った。
真剣な表情を浮かべたまま、残された黒オークは何時までも食い入るように手元の地図に見入っていた。




[28849] 54羽 土豪 17 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/12/03 20:44
 夕暮れの太陽が西方山脈の黒々とした稜線に沈む頃には、パリトーの村で丸二日続いたクーディウス主催の民会もようやく幕を閉じた。民会に参加した地元有力者たちの大半は、昼頃から既に帰途に付き始めていた。歓待を受けた大方の郷士や豪族たちは、満足した表情を見せて上機嫌で帰っていったが、幾人かは露骨に苦虫を噛み潰していた。クーディウスの富強を目の当たりにして、恐らくは民会の主催者が既に彼らの競争者に成り得ないほど強力になりつつあると悟ったのだろう。
 引き攣った顔に笑顔を浮かべながら別れの挨拶を交わし、肩を落として悄然と立ち去っていった彼らの後姿を思い出すと、今も初老の豪族は腹が捩れそうなほどおかしくなる。未だ残っているのは一握りの特に初老の豪族と親しい者たちと、彼が名指しして残るように頼んだ郷士、或いは豪族たちである。

「冷えてきたな」
仮設の天幕も撤去されて、がらんとした中庭をゆっくりと歩きながら、パリトーの領主は冬の空を見上げて白い息を吐いた。壮年から中年に掛けての十人ほどの郷士豪族たちと連れ立っているが、いずれも気心が知れた者が多い。他の者も義侠心に恵まれ、或いは己の好悪よりも責務を優先する性情の主であり、いずれも信頼に値するとクーディウスが見込んだ人物である。周囲を取り巻く郷士豪族たちに態々、残ってもらったのは大切な用件があるからだった。
 中庭に並べた長卓に座ると、よい赤身の肉の料理とワインを並べさせ、ゆっくりとした時間と空間を演出して寛いでもらう。背後では赤い服を来た吟遊詩人たちが竪琴をかき鳴らし、葦笛を吹いている。
列席者は中年以上の男が殆どで歳の入った女も三人混じっている。皆、恰幅があって身なりもよく整っていた。
初めは、主人自らがナイフを振るって肉を切り落とし、客人たちの皿に供していく。豊潤な味わいとはいかぬが、良いワインを真鍮や青銅の杯に注いで乾杯を取り、改めて一同を見回した。

「オーク共は何とかせねばならぬ」
此の時代は、ワインの発酵もまだ不完全で、大幅に甘味の残っているものを水や湯で割るのが一般的な飲み方である。酸味の強い果実酒を好んで飲む者もいて、朝からも含めれば既にかなりの量を胃に収めている中年男が酒臭いと息を吐きながら、卓上に身を乗り出した。
「それは同感だ。此の侭、やられっぱなしという訳にはいかん」
対面で肉を貪っていた肥満の男が肉汁のついた指を舐めながら、首を振るう。
「だが、一戦するにしても、オーク連中が何処に攻めてくるか分からんではな」
中庭の四方には大きな篝火が焚かれており、時々、奴隷が薪を注ぎ足していく。炎が瞑目している初老の豪族の横顔を照らしてていた。
「クーディウス殿には、何か考えがお在りか?」
古風な言い方をする白髪白髭の老人が、尋ねかけてきた。
「ある」
険しい顔で列席者一人一人の顔を見回すと、初老の豪族は大きく息を吸い込む。
「我らの縁者郎党で軍団を編成して彼奴らの領土奥深くに攻め込み、村々を劫略して、その心胆から震え上がらせるのだ」

 数人は呆気に取られたようすで初老の郷士を見つめ、残りは目を鋭く光らせた。
「いやっ……だが!」
慌てて叫ぶように何かを言い掛けた数人が、顔を見合わせる。
やがて代表して中年男の一人が質問の口火を切った。
「遠征か。だが兵の食い物は如何する?武具も集めなければならぬし、準備が……」
「糧食はわしが半分受け持つ。兵と武具は諸君らの自前だが、戦利品は切り取り次第」
肥満した豪族が息を吸い込むと、口笛のような音がした。
白髪白髭の老人が鋭い目を初老の豪族に向けて、単刀直入に問いかける。
「……いい話だな。狙いは何だ?」
「決まっている。オークの戦闘部隊を誘き出して一戦し、叩くつもりだろう」
筋骨隆々の郷士が笑って手元の杯を呷り、隣にいた痩せた老人が首を傾げる。
「うむ。だが、損害は馬鹿にならんぞ」
禿頭の豪族が勢い込んで身を乗り出してきた。
「しかし、此の侭では延々とやられるだけだ。どこかで反撃に移らねばならん」
喚くように云った彼の土地はオークの領域に近い。既に話に乗り気になっている。
首肯した白髪白髭の老人が宴の主催者である初老の豪族に問いかける。
「然り。では出兵は何時になる?春先か?」
「いや、此の冬の間だ。春になるまで叩かれっぱなしという訳にもいかぬ。
此の遠征を機に、少なくとも丘陵地帯の南部からは連中を追い払うべきだ」

 初老の豪族の言葉はある種の衝撃を食卓にいる一同に与えたらしい。
暫しの間、列席者たちは沈黙した。思い思いに思索を凝らしているのだろう。
彼ら彼女らは、不安と興奮の入り混じった眼差しで隣の者と目配せしたり、囁きあっていた。
「……勝算はあるのか?」
白髪白髭の老人が鋭い眼差しを針のように細めて、初老の豪族に迫るように低い声で問うた。
「オーク共も冬の間にわしらを攻めてきている」
白髪の老人の強い視線は、初老の豪族に圧力さえ感じさせたが目は逸らさなかった。
肥満した男が弛んだ頬を撫でながら、小さい目を細めて呟いた。
「確かに遠征といっても目と鼻の先。冬に動けん事もない」
白髪白髭の老人は初老の豪族をじっと睨んだまま、酷く静かな声で淡々と言葉を続ける。
「丘陵が邪魔だ。それに我らは丘陵の地理をさほど知らん」
「連中は自分達が攻められるとは思ってない。冬の間に連中の出鼻を挫いておくのだ」
初老の豪族はそれだけ告げて、口をへの字に閉じた。
沈黙したまま、真正面から睨み合ってどれほどか。
やがて列席者のうちに、ざわざわと賛意を示す呟きが広がっていく。
「いや、いい手かも知れん。確かに奴らは守りに入ると弱い」
肥満した男が弛んだ顎を撫でながら呟くと、向かいの中年男も賛同する。
「成功の見込みは充分にある」
「相当、餓えているとは聞いている。やつらも必死でしょうね」
やや不安げに痩せぎすの年増女が口にするが、反対意見とまではいかなかった。
「武器を蓄え、数を揃えて入念な準備を整えれば……」
大きく息を吐いて白髪白髭の男が椅子に座った。眼を閉じると深々と肯いている。
「よかろう。クーディウスを我らの指揮官として軍団を編成しよう。
調子に乗っているオーク共に手痛い一撃食らわせてやろうではないか」

 パリトー村にあるクーディウス氏の館の厩には、見慣れぬ数騎の馬や鳥が繋がれていた。
先ほど中庭で館の主と会食していた十数人の男女の所有物である。
会食の客は、殆どが壮年から老齢の男女であった。
大抵は誂えのよい装束を纏って、剣などを腰から吊り下げている。
一同の後列には、武装した徒歩が付き従っていた。
大半が乗用の馬や鳥に乗ってやってきた事から、恐らく街道筋の有力者たちに違いない。
そう推測しつつも、奴隷となった赤毛の娘は途方に暮れていた。
会食を終えた客たちは順に帰途に付きつつあった。
彼らの従者であろう、幾らか質素ではあるが、きちんとした服装を纏った十数人の男女が、後にばらばらな隊列で付き従いながら門扉を潜って姿を消していく。
中庭にいた村人や農奴達は、通り過ぎる客に頭を下げている。
母屋では侍女や使用人の幾人かが、物見高く来客に好奇心の目を向けていた。
郷士豪族とそのお供であろうか。彼らは何かを話し合っているようだった。
 これだけいれば、北方語を喋れる人物が一人くらいはいたかも知れない。
モアレの危機を訴えれば、一人くらいは耳を傾けてくれたかも知れない。
だが、千載一遇の好機は過ぎつつあった。豪族たちは帰っていく。
宴席に近づこうとする度に、赤毛娘は奴隷の監督官や使用人たちに激しく鞭打たれて犬のように追い払われている。

 最後には業を煮やした召使いにぶっ倒れるほどに激しく殴られて、髪を引っ張られて引き摺られ、手荒く庭の隅に打ち捨てられていた。
先ほど気絶から醒めて、人目を忍んで再び中庭へとやってきたばかりだが、身を低くして物影に隠れて様子を窺えば、来客はその殆どが姿を消していた。
 狂おしい焦燥と切羽詰った想いで赤毛の娘は周囲を見回すと、最後の来客を見送ろうとしている豪族の姿が見えた。目の前には、丁度、人いきれが切れて真っ直ぐに道が開けていたが、赤毛娘は思わず足が竦んだ。
 赤毛娘は奴隷の立場である。南方人の村は、故郷のモアレでは想像も付かないほどに身分差の隔たりが大きかった。客や住居に近づいただけで召使いたちに殴られる。
此れが主人への無礼を働けば、どれ程厳しい罰を受けるか分かったものではない。
或いは殺されるかもしれない。
 躊躇は一瞬だった。
故郷であるモアレ村の窮状を訴える。妹を救う。それが出来れば死んでもいい。
大勢の命が掛かっている。自分一人の命などどれほどのことがあろうか。やりとげるのだ。
今度こそ、間違わない。
神様!ベール神様!どうか、貴女の下僕にお力をッ……
主に織物の神として崇拝されている蜘蛛の神に祈りを捧げながら、赤毛娘は豪族たち目掛けて裸足で駆け出した。

 恰幅のよい豪族と、背の高い郷士が門扉に向かって馬を進めながら会話していた。
その背後には彼らの子息である四人の男女が続いている。
「オーク共め、厄介なことだ。ソレスに睨みつけられた時には冷や汗が出たぞ」
「だが、上手くいった。此れで何とか反撃の目途もついた。いよいよだぞ」
先刻までは、オークの襲撃に対抗すべく議論を重ねていたが一応の合意を見て合議も終わり、今は土産物を持たせて客人たちを見送った所である。
両者の年齢は共に壮年から初老の域に差し掛かっているが、動作はきびきびとして若々しい印象を与える。

 旧知の郷士が引き連れてきた手勢が、門前に整列して主人を待っている。
郎党のうちの若い女が主人に艶やかな微笑を向けているのに目敏く気づいて、初老の豪族は呵呵と笑った。
「相変わらず盛んだな。カディウス。羨ましい限りだ」
「いや、俺も年を取った。そろそろ孫の顔を見たい程度にはな」
金髪の郷士ベーリオウルは旧友の言葉に苦い笑みを浮かべてから、娘のリヴィエラを何気なく眺めた。
傍らにいる金髪の娘リヴィエラの鳶色の瞳は、豪族の上の息子パリスにやや熱の篭った視線を向けていたが、父親の視線に気づくと苦笑を浮かべて踵を返した。
郷士は肩をすくめると、友人の豪族クーディウスに手を振って別れを告げた。
「では、さらばだ。次は戦支度を済ませてから会おうぞ」

 殆どの招待客を見送った白髪のクーディウスが、家人たちを引き連れて友人と最後の挨拶を交わしていると、中庭から何かを喚きながら、みすぼらしい赤毛の娘が走り寄って来た。
僅かに残っている郷士や豪族たちが訝しげな視線を向ける中、赤毛の娘は初老の豪族クーディウスの傍らまでやってくると、屋敷の主人を見上げて何か訳の分からない言葉を必死に捲し立ててきた。
当惑しつつも、悠然とした態度を保ったまま初老の豪族は、赤毛娘を見下ろして背後から駆けてくる召使いたちに不快そうな一瞥をくれた。
「何をしている?これは一体、何の騒ぎだ?」
「申し訳ありません。殿様」
慌てて駆けて来た召使いの一人が棒切れを振り下ろして赤毛娘を引っ叩いたが、彼女は怯まずに豪族に向かって何かを訴えかけている。
 白髪の豪族が当惑し、眉を顰めていると、召使いが再び棒切れを振りかぶった。
「こいつ……訳の分からん事を」
制裁を加えようとする召使いたちと赤毛娘の間に、下の息子ラウルが割って入った。
「待てッ!やめぬか!乱暴は止せ!」
さすがに当惑を隠せぬ初老の豪族が、下の息子にやや険しい疑念の入り混じった視線を向けた。
「何だ、此の娘は……?」
「父上。申し訳ありません。この奴隷娘は、村をオークに滅ぼされて、少し参っているのです」
父親の不快そうに痙攣した頬に気づいて、青年は取り繕うように訴える。
「ですが、狂っているというほどではありません。何時もは普通に働いて……」
だが、案の定、白髪の豪族は露骨に不機嫌な顔を見せた。
白髪の豪族の瞳に、底冷えするような光が宿り始めていた。
使用人は大勢いる。たかが奴隷のことなど一々顔など見もしない。
「ラウル!物狂いなど家において如何する気だ?
 美しい娘だから庇っているのか?とっとと追い出せ」
父親の厳しい言葉に、鞭で打たれたように青年は躰を震わせて俯いた。

 召使いの頭である太った年増女が近寄ってきて取り成すように頭を下げている。
「すみません。何時もは骨惜しみせずよく働いていたんで。何でこんな事を……」
使用人頭の貧相な男が、赤毛の娘の腕を掴むと外に向かって引っ張り始める。
「ほら、慈悲深い旦那さまがお許しくださったんだ!とっとと出て行け!」
赤毛の娘は泣き喚くように腕を振りほどくと、初老の豪族の服の裾に縋りついて涙交じりで何かを必死に伝えようとしている。
流れるような言葉には切れ切れに単語が入り混じっていたが、早くて聞き取れない。
半分は訳の分からない外国語だった。
「馬鹿者が。客人の前で恥をかかせおって……ええい、五月蝿い女だ!」
邪険に足蹴にされて吹っ飛んだ娘は、しかし怯まずに立ち上がった。
「さがれ!さがらんか!えらい殿様方の前だぞ!場を弁えんか!」
貧相な男の腕を振り払って、今度は他の豪族や郷士たちに向かって、身振り手振り交じりで何かを訴え続けている。
皆が困惑している最中、諦める様子のない娘の立ち振る舞いに違和感を覚えて、初老の豪族は眉を顰めて立ち止まった。
「ううむ、この必死さは……本当に物狂いのものか?」

「ええい!この!」
ごうを煮やした召使頭が柳の枝の鞭を振りかぶった時。
背の高い金髪の豪族が、剣の鞘で男の手にした鞭を弾き飛ばしていた。
周囲の人間が唖然としている中、そのまま厳しい眼差しで赤毛の娘を見下ろした。
『もっとゆっくり、言葉を区切って喋れ。気が急くのは分かるがそれでは誰も聞き取れん』
流暢とは言いがたい発音で、だが、郷士の発した言葉に娘の顔にパッと理解と喜びの色が広がった。
赤毛の娘は安堵の涙を零しながら、顔に傷のあるくすんだ金髪の郷士を見上げて、何やら会話を続けた。
周囲に分かるように態々ゆっくりとした南方語混じりの北方語で会話を続ける二人であったが、何を言われたのか。
娘の言葉を理解するにつれて、郷士は険しい顔に緊張の色を露わにして歯を食い縛る。
豪胆で近隣一帯に名を知られた男の尋常ならざる様子に、中庭に残っていた郷士豪族たちは戸惑いを隠せずに顔を見合わせた。

 気が緩んだのか。最後に何かを言って倒れた娘を抱きかかえながら、郷士は食い縛った歯の間から唸り声を上げていた。
「カディウス!どうした?そいつは何を伝えようとしていたのだ!」
昔馴染みの緊張した態度に狼狽し、幾らか昔の口調に戻って詰問する白髪の豪族であった
「ルードよ。オークの襲来でモアレの村が滅んだそうだ」
皮肉っぽく呟いた金髪の郷士の返答に、初老の豪族は数瞬固まり、理解して今度は驚きに顔を歪めた。
良質の布の産地として有名な北方の大きな村であり、初老の豪族とは定期的に取引もあった。
ざわついている郷士豪族の面々を眺めて、金髪の郷士は口元を歪める。
「事実ならば、容易ならぬ事態だな」
衝撃から立ち直り、大きく溜息を洩らした初老の豪族は、当初とは打って変わって同情した視線を郷士の腕の中にいる赤毛の娘へと向けた。
「では、この娘はモアレの村の……」
「生き残りだ。夥しい数のオークだったそうだ。村はオークの手に落ちた。
 この娘は、窮状を訴え、助けを求める為に此処までやってきた」
金髪の郷士の言葉に、初老の豪族は良心の疼きを覚えて苦い顔となる。
「それであんなに必死だったか。」
改めて赤毛の娘の躰をじっと見つめる。
痩せて細くなった身体、四肢は傷だらけであった。
知らなかったとは言え、随分と酷に扱ってしまった。
「たった一人でオークの目を掻い潜り、丘陵を抜けて……勇気には報いてやりたくなった
 償う意味でも話くらいはきいてやらねばなるまい」
赤毛娘の心がけへの感心とモアレ救援の兵を出すか否かは別の問題であるが、初老の豪族にとって、モアレは長年付き合いのある、浅からぬ関係のある村であった。
取りあえずは情報を知らせてくれた礼の意味も込めて、当面の面倒は見てやろう。
痛ましい顔つきで娘の頬を撫でてから、初老の豪族は娘のフィオナを呼ぶと娘の面倒を見てやるように言いつけた。


 またの名を穴オーク、或いはオーク小人とも呼ばれている洞窟オークは、文字通りに洞窟に棲息しているオーク族の一種族である。
地上世界の人里離れた洞窟や地下の空洞、或いは地下世界で見かけられる灰色や緑の肌をした洞窟オーク族は、怠惰で臆病な種族であり、狩りや畑仕事で生計を立てているものの概して貧しい暮らしを送っていることが多い。
遠い過去の時代に共通の祖先から枝分かれしたのであろう。
オーク族の遠い親戚である洞窟オーク族は、だが大元に当たるオーク族とは異なる幾つかの身体的特徴を備えていた。
 まず第一に、洞窟オーク族はオーク族に比して小柄な体躯を持つ事が上げられるだろう。
膨れた下腹に加えて痩せてひょろ長い腕をした矮躯は、スタミナには恵まれているものの見た目通りに非力であり、ドウォーフや穴居人など他の地底に暮らす種族と真正面から戦えば、容易く打ち負かされてしまうだろう。
辛うじて穴小人やコボルドには勝るものの、それらの種族が持つ夥しい数の力に対しては抗すべき術を持たず、結果、洞窟オークは常に他種族に押され、餌食となる境遇に位置づけられていた。
 第二に知られているのは、その歩き方であろう。
長い航海を終えて地上に上がったばかりの水夫のように身体を揺らして、蟹股でひょこひょこ歩くその奇怪な足取りは、他の種族から見れば滑稽であり、笑いを誘うものがある。
地下世界で暮らすようになったための進化か、オークと血が混じった何らかの種族の遺伝的特徴が表に出たのか。
 いずれにしても、ひょろ長い腕を揺らしてバランスを取りながら蟹股で短い足を動かす洞窟オーク特有のひょこひょこした歩き方は、早足にしろ、駆け足にしろ、鈍くて遅く俊敏さにも欠けており、彼らが地上や地下世界の怪物の餌食となりやすい由縁であったが、狩りの時には集団で獲物を囲いこむ方法を好む洞窟オークにとっては、案外、利点もあるのかも知れない。
 そして最後に、此れが尤も重要なのだが、洞窟オークは夜目が効いた。
一握りの不死や妖魔、そして魔界の生物のように真の闇も見通すような魔眼ではない。
他の種族に比べてやや鮮明に物の形や色、距離が分かる程度の夜目であり、闇夜では他の種族同様の盲に陥ってしまうものの、月明かりや星の光の下、昼日中のように行動するには充分な肉体からの贈り物であった。
 そして此れこそ、非力で動きの鈍い洞窟オークをして、彼らよりも強力な種族に対抗させている唯一にして最大の武器でもあった。


 辺境にある人族の農村トリスから、南に向かって半刻ほど歩いた場所にある渓谷地帯に洞窟オーク達が棲まう洞窟が幾つか点在していた。
畑仕事には向いていない洞窟オークたちの胃袋を支えているのは近くの森での採取と野山での狩りであるが、貧しい暮らしである。
 森に踏み込めば、森に棲まうコボルドや森小人、森の民との小競り合いなども日常茶飯事で、野山には野良ゴブリンや他のオークたちも彷徨っている。
時折、取れた鹿や兎、狐の毛皮も以前ほどには大量の穀類と交換できなくなっていた。
此処数年来の不作は、もともと余裕の無い洞窟オークたちをさらに追い詰めている。
 集落には三歳以下の子供オークの姿は殆どない。
少年といえる年齢のオークは地べたに座り込み、虚ろな眼差しで宙を見上げていた。
目は落ち窪み、頬は痩せこけている。飢えが彼らを追い詰めていた。
洞窟オークの中には、餓えに耐えかねてゴブリンや人族、ホビットの集落などに忍び込み、畑荒しや家畜泥棒を行なって食料を持ち帰る者もいたが、当然、見つかればただではすまない。
棒切れで袋叩きにされるのはまだマシな方で、酷い時にはそのまま村外れの木に吊るされてしまう事もあった。


 余りにも強い日差しの下では目が眩んで弱体化してしまうのが、洞窟オークの弱点であるが、
穏やかな日差しの下で過ごし易いのは、やはり他の種族と同じである。
よほどに切羽詰ってない限り、多少の夜目が聞くとはいえ夜間の行動は避けたいものだ。

 その日の朝。まだ、夜明けの光が僅かに東方の空を染めつつある時刻・
渓谷の穴オークの首領であるグ・ルムは、小高い丘から人族の農村であるトリスを遠くに睥睨しつつ、胸のうちで使者が告げた言葉を幾度も反芻していた。

 丘陵のオーク氏族から使者が訪問してきたのは、つい先日のことである。
屈強のオークの戦士たちを大勢引き連れたその癖、吹けば飛ぶような痩せた小男だった。
いかにも弱そうなオークだったが、言っていた事だけはグ・ルムの琴線に触れている。
オークの時代がやってくる。辺境をオークが支配する時がやってきた。
長広舌を振るって協力を求めてきたズ・ナンと名乗ったオークは、延々と主人の凄さと計画の中身について喋り続けたものだ。
偉大なオークの女首領カーラが、今、戦力を集めている最中だ。
渓谷の穴オークたちも、是非、此の征服事業に馳せ参じて欲しい。
しかるべき地位を用意すると約束しよう。

しかるべき地位、か。
吹き抜けた風がグ・ルムの頬を撫でていった。にやりと笑う洞窟オークの酋長。
小柄な体躯ゆえに、オーク族や人族からオーク小人と揶揄される洞窟オーク族である。
グ・ルムにしても、洞窟オークにしては頭抜けて大きい背丈を持つ精々が平均的なオークをやや上回る程度でしかない。
洞窟オークのうちでは優れた戦士として評される酋長も、だが争いを好んではいない。
厚手の布鎧さえ持ち合わせず、碌な武器も満足に蓄えていないオーク小人の二十や三十が戦に馳せ参じたとて、果たして如何ほどの役に立つか怪しいものだった。
精々、数合わせの雑兵や使い捨ての盾として扱われるのがいいところだろう。
豪族の手勢とぶつかり合えば、一撃にして蹴散らされるのは目に見えている。
征服事業とやらに参加する心算はない。顎で使われて部族の貴重な戦士をすり減らすなど愚の骨頂であると考えている。
オークからも、人族からも見下されて、惨めな生活を送っている穴オークである。
オーク族に対する不信と怒りも、人族に対するそれに負けず劣らず深く根深いものであった。

 だが、それにしても、渓谷の洞窟オークたちとトリスの村人たちは、特別に仲が悪い訳でもなかった。狩りで取れた毛皮や肉を持っていけば、塩や穀類、青銅の穂先なんかとも交換できた。
幾らか蔑みや嫌悪の視線を向けられたからとて、ゴブリンたちのように悪戯半分で石を投げつけられるわけでもなく、ホビットたちのように村に立ち入れない訳でもない。
 そう、けして仲が悪かったわけではない。
だから、村人の数も、家の位置も、どの程度の備えをしているかまで知っていた。
考えながら、洞窟オークの酋長は、眼下の平野部に点景となっている農村をじっと一望した。
だからこそ、村人たちも油断している。今なら……むしろ、今しかない。
暁の光に照らされた農村では、既に二、三の人影が動き出しているのが遠目にも窺える。
女だろう。人族の女たちは兎角、よく働くのだ。


 興奮を抑えきれないような、それでいて苦虫を噛み潰したような複雑な顔をしている洞窟オークの酋長の傍らに、弟のグ・ルンが傍らに歩み寄ってきてきた。
「兄貴、戦士たちを集めたぞ」
首長が黙っているので、グ・ルンは言葉を続けてみる。
「丘陵の王女さまのところへ向かうのか?」
此の弟は丘陵オーク族の提案に乗り気なようである。
窺うように酋長を見るが、首を横に振るう。
大人しくカーラとやらの傘下に入る心算は、グ・ルムには無かった。
「……では、何故集めた?」
奇妙な表情を浮かべてから酋長は、しげしげと弟を眺めて口を開いた。
「賭けてみようかと思ってな」
征服事業とやらに参加するかどうかとは別に、洞窟オークの首長には腹案が合った。

 今が決断の時だ。落ちつかなげな動作で不安そうに頬を撫でながら、そう穴オークの長は考えている。
大規模なオーク族の戦争に、穴オークが動員される事は珍しいことではない。
弱い穴オークでも、逃げられないように後ろで高圧的に監督していれば、取り合えず戦争の頭数として数えられない事もない。どうせ使い捨てにする心算に違いないのだ。
だが、それが分かっていても話に乗る連中もいるはずだ。
飢えはもはや耐え難いところまで来ている。
伸るか反るか。追い詰められた彼らは乾坤一擲の賭けに出るのは違いない。
少なくない洞窟オークや野良のオークたちが、カーラの元へ集うだろう。
恐らくは一帯の其処彼処で、豪族たちとの小競り合いが頻発するに違いない。
此れに元からあった丘陵オークの勢力を合わせれば、もしかすればもしかして人族の優位をひっくり返せるかも知れない。

 ふぅぅっと溜息を洩らした。細く長いため息。だが、どちらが勝っても洞窟オークの地位などさして変わる訳もない。
トリスは貧しい村だ。何処の豪族に贈り物を送っている訳でもない。庇護下にある訳でもない。
孤立したちっぽけな村だ。だが、それでも貧しい洞窟オークから見れば、村の畑や家畜、そして人の造った美味い食べ物や酒、布などは非常に魅力的な財貨であった。

 丘陵の頂きに立っていた洞窟オークの長がさっと手を振り下ろすと、丘の稜線に沿って数十の影が立ち上がり、手に手に武器を振りかざしながら、ほうほうと叫びつつ村を目指して一斉に丘陵を駆け下りていった。

 村の連中に怨みがある訳ではない。盗みに入った仲間を殺されたが、当たり前の話である。
ゴブリンの方が見下した扱いをしてくれていたし、ぶち殺してやりたいと思っている。
機会をくれたことには感謝してやるさ。カーラさま。
人族を掃討して村を手に入れる絶好の機会だった。
何かを感じているのだろう。普段は集らない筈の他の部族に加えて、野山を流離う野良の洞窟オークたちまでが幾人も顔を見せていた。
野山の洞窟に寝起きし、人やホビットの町や村で残飯や塵を漁り、つまらないものを売りつけては小銭を稼いで、時々、人間の造るエールやパンと交換してもらう。
村人たちの露骨な蔑みの眼差しには心中に怒りを覚えながらも、諦念の入り混じった歪で鬱屈した野良オークたちの心は、こんな日を待ち受けていたのかも知れない。
乞食や盗みで糧を得る、卑屈な日々にはもううんざりしていたのだ。


 グ・ルムの下に結集したのは、棍棒や青銅のナイフを手にした洞窟オークの成人が七、八十人ほどである。洞窟オークとしてはちょっとした軍勢だった。
丘陵オーク部族の首長たちの元にはせ参じれば、確かに喜ばれるに違いない。
そして二言、三言、お褒めの言葉を頂戴したら、先鋒に立たされる。
そんなのは御免だった。それよりも……
ひょろ長い腕を擦りあわせて、不安を押し殺そうと拳を握り締めた。

 村を手に入れたら、如何する?
畑仕事をする者もいるだろう。家畜の世話をすると言っていた者もいた。
羊を飼うんだ。羊毛を刈って金持ちになるのだと。織物を町に売りに行こう。人並みの生活を手に入れるのさ。
沢山、働く。女たちは子供を産み、育てる。もう餓えない。沢山の子供だ。豊かになれば、行商人だって来るようになる。
そしたら、今まで馬鹿にしてきた連中とは取引しない。頭を下げてくる奴とだけ、取引してやろう。
トリスの女子供だけは生かして置いてやってもいいな。
血が混じれば、人族の町や村にも行けるようになるかも知れない。
鉄の武具を買えば、ゴブリンたちにだってでかい面はさせない。
 鬱屈していた日々を送っていた分、洞窟オークたちの夢は何処までも飛んでいく。
日頃の慎重さも失せて、グ・ルムも浮き立つ心でそんな想像に浸っていたが直ぐに埒もないと妄想を振り捨てた。
酋長には考えることがある。問題は村を手に入れた後だ。人族の村一つ奪ったのだ。
こんな時だから放置してくれると思うが、豪族が怒り狂って攻めてくるかもしれない。
巨大で力の強い人族が青銅や鉄の武具を振るって襲ってきたら、俺たちは一溜まりもない。
震える手を抑えた。決断した以上、もう後戻りはできない。

 兎に角、今は村を手に入れる。それからカーラとか云う奴に会いに行く。
ご機嫌取りに、数人の戦士を連れて行くのも悪くない。全員は駄目だ。
勝てるようだったら、兵士を減らさない程度に協力しよう。
もし、カーラの勝ち目が薄いようだったら、人族の豪族たちに何とか連絡を取ってみよう。
庇護を貰えそうだったら、協力してカーラと戦ってもいい。
いや、先を考えすぎだ。今は村を落とすことだ。
どちらの連中に肩入れするかどうか決めるのも、全てはそれからだ。




[28849] 55羽 襲撃 01 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/08/02 21:11
 村の片隅にある今にも崩れそうな泥作りの小屋で、両親と娘の一家三人が藁を敷いた寝床で安らかにまどろんでいると、突然、扉が激しく叩かれた。
扉が壊れてしまうのではないか。否、壊す心算で叩いているのか?
そう思うほどに尋常ではない切羽詰った叩き方で、まどろんでいた父親も妻に躰を揺すられるまでもなく不快そうに目を覚ましていた。
「なんだ。扉が壊れるぞ」
ぶつぶつと文句を言いながら、欠伸をしながら父親はくたびれた上着を被って起き上がった。
扉が壊れてしまうというのは、冗談ごとでも何でもない。
蝶番も、錠前も、精巧な金属製品というのは押し並べて高価な辺境である。皮や布の垂れ幕を扉代わりとしている家も多かった。
歪な形をしている家の扉とて、玄関だけを木材で整えて祖父の代から使用している古い代物である。
錆びた蝶番は脂を塗ろうが常に軋んだ音を立てるし、木材も相当に老朽化している。
力加減を間違えれば、本当に壊れてしまうに違いない。
それでも祖父から受け継いだ自慢の扉である。壊されてはたまらないと扉を開けると、隣の家に住む男が外に立っていた。

 父親は文句を云おうとして、いつもは穏やかな笑みを浮かべている小太りの隣人の衣服に血痕がべったりとついているのに気づいた。
怪我でもしたのか。切羽詰った顔で荒い呼吸を繰り返している隣人の様子は、誰がどう見ても尋常では無かった。手には、血に塗れた青銅製の手斧を握り締めている。
妻と娘を庇うように背中に隠しながら、隣人を怒鳴りつける。
「なんだ。何のようだ!」
血走った目で父親を睨みつけると、小太りの隣人が喚いた。
「何の用だと!あの音が聞こえんのか!」

 切羽詰った隣人の指摘に騒音に気づいて、漸く父親の顔色が変わった。
村の西では喚声が鳴り響きながら、徐々に我が家に近づいてきている。
呆然としている父親に向かって、扉の前に崩れ落ちながらも、隣人は狂乱したように喚き続けている。
「穴オークだ!連中が……!」
「穴オーク?畑泥棒でも捕まえたのか?」
南の渓谷に棲まう洞窟オークや野良の洞窟オークたちは、時々、村に入っては盗みを行なう。
不器用なので大抵は捕まり、私刑で激しく鞭打たれる。そのまま死んでしまう者もいる。
「そんなんじゃない!襲って来ている。凄い数だ!」
隣人の怒鳴り声に息を飲む父親。
洞窟オークは臆病な種族である。数人の集団で盗みを行なうことはあっても、体躯の勝る人族を相手に正面切って攻めてくるとは思ってなかったが、切羽詰った隣人の様相を見れば嘘とも思えない。
「……何人だ?」
「分からん。二十か!その倍か!」
二十以上の数を、父親も隣人も知らない。
村の内では、二十が数え切れないを形容する最大限の数である。
それで兎に角、途方もない数だと理解して、顔色を変えながら父親は抱き合っている妻子を見つめた。
途方に暮れたような表情で口を半開きにしている父親に、娘はきゅっと強く母親に抱きついた。
「南の方から、もうゲールの家のところまで入り込んできている。
どこからか武器も持っていて……!」
なおも小太りの隣人が喚いている所に、家の横の路地を駆け抜けて小柄なオークが姿を現した。
咆哮しながら隣人に飛び掛ってくる洞窟オークを、小太りの男は拳を振り上げて迎え撃った。

 父親は顔を振ると、家の奥へ行って穂先の錆びた粗末な槍を持ち出してきた。
普段は狩りに使っているその短槍は、どこぞの戦に行った祖父さんが持ち帰ったらしい形見の品であった。隣人と揉み合っている洞窟オークの横っ腹をいきなり突き刺してから、父親は恐怖に震えている妻子に振り返って、厳しい口調で言い渡した。
「お前……ニーナを連れて部屋の奥に行ってろ」
妻が頷くと、絶叫を上げている洞窟オークに止めを刺してから、死骸をどかして隣人を助けこす。
「直ぐに戻ってくる。隠れていろ」
小太りの隣人が棍棒を拾い上げると、男たちは頷きあって村の西へと駆け出した。

 直ぐに戻ると言い残して駆けていった父親は、四半刻もしないうちに本当に直ぐに戻ってきた。
「……と、父さん?」
恐い表情をした父に脅えた声で呼びかけながら、娘がきょろきょろと周囲を見回すが隣人の姿は見えない。
 父親の手にした槍は半ばからへし折れ、ただの棒切れとなっていた。額から血を流し、服は引き裂かれ、引き攣った強張った表情で夫は妻子を眺めている。
「……あんた?どうなってるの?」
妻の言葉には応えずに、父親は妻子を引っ張って表へと出る。それから振り向いて
「……ニーナ、お母さんと一緒に村の外へ逃げなさい」
「……ねえ、あんたったら!」
叫んだ妻の声に呼応したかのように、道の正面に数匹のオークが現れた。父親は、狂ったように棒切れとかした獲物を振り回しながら、突っ込んでいく。
「早くしろ!早く!」
 これほど大きな声で父親に怒鳴られた事はかつて無かった。立ち竦む娘の手を引っ張って、飛び上がった妻は我武者羅に走り出した。こけつまろびつ走り去る娘が後ろを見ると、倒れた父親に、石をどかした影の蟲みたいに小柄な穴オークたちがうじゃうじゃと群がっていた。

「いっ、いひっぃぁああ!」
外れた声で恐怖に腰が抜けたようにへたり込む娘を叱咤し、無理矢理に立ち上がらせて母親は走り続けた。村の何処を見ても、何処からこれほどと思うほど夥しいオークが駆け回っている
僅かな村人が逃げ惑っている最中、捕まった女が服を引き毟られている横を駆け抜けて村の外を目指した。
余りに強く引っ張られて、腕が抜けてしまうのではないか。そう思うほどの苦痛に娘は甲高い悲鳴を上げていたが、母は一切構わなかった。兎に角、オーク達の大勢いるのとは反対方向にひたすら逃げる。
一度、途中で襲われたが、村の猟師が割って入って助けてくれた。
「行け!早く行け!」
オークを突き飛ばして叫んだ猟師の口の端には、血の泡が吹き出ていた。震える手で腕を押さえていた母親が立ち上がると、礼も云わずに再び逃げ始めるが、洞窟オーク達は一人も村人を逃がす心算がないのか。
背後から、オーク達の喚き声が何処までも母娘を追いかけてきた。




 のんびりとした歩調で、二人の娘たちは丘陵地帯に伸びる街道を進んでいた。
空は蒼く、何処までも広い。原野の彼方には一筋の白い雲が浮かんでいる。
早朝の太陽は、春の日差しにも似た穏やかな恵みを大地に投げかけており、時折、そよ風が潅木の枝や足元の枯れ草を揺らしながら街道を吹き抜けていった。
小春日和のようにも感じられる穏やかな気候を全身で楽しみながら、二人の娘は良い気分で街道を進んでいる。
 澱んだ小池を望む小高い路に差し掛かった時であった。
過ごし易い天候に時折、立ち止まっては野の草花を摘んだり、鼻歌を唄ったりとのんびりとしていた二人の前方で、葦の繁みを掻き分けながら子供連れの女が街道によろよろと進み出てきた。
服装から見たところ、平凡な農村の貧しい農婦であろうか。
子供と共に二、三歩をよろめき歩いてから、其処で気力が途切れたのか。女はがっくりと道の中央で崩れ落ちて動かなくなった。
「……行き倒れかな」
首を傾げるエルフ娘に、女剣士は前髪を弄りながら呟いた。
「今のご時勢、そう珍しいことでもあるまい」
どちらからともなく視線を合わせてから、歩み寄ってくる二人の娘を目にして、精根尽き果てた様子で喘いでいた農婦が目を見開いた。
子供も真っ青な顔で喘ぎつつ、地面に倒れこんでいた。
水筒を取り出して渡してやると、貪るように飲んでから咳き込んで口を開いた。
「……逃げ……逃げないと……来る……」
「……来る?何が来るというのだ?」
いぶかしむように女剣士が眉を顰めた直後である、彼女たちを追いかけるように数匹の小柄な亜人が喚きながら繁みから姿を現した。

十匹か。十五匹か。相当な数である。
亜人たちは周囲を見回し、疲れて倒れ伏している農婦と子供、そして二人の娘を見咎めた途端に吼え声を上げた。
「いたぞ!猿共だ!」
「人とエルフだ。征服の前祝いに血祭りにしてやれ!」
「殺せ!猿共を殺せ!」
四人を見咎めた途端に、憎々しげに叫んでいきなり襲ってきたのは全く突然の出来事であった。
油断していたと言うのは、やや酷に過ぎるかも知れない。
オークによく似た、だが幾分か小柄な亜人たちに不意打ちされた時、歴戦の女剣士にしてからが何とか鋼の剣を引き抜いて戦う姿勢を整えるのがやっとであったから、エルフの娘の脳裏が真っ白になって立ち竦んでしまったとしても無理は在るまい。
「……オーク?」
「違う……いや、分からん!!」
棒立ちになってるエルフ娘を庇うように、小さな青銅のナイフで斬りかかった小柄な亜人を切り裂いて女剣士が叫んだ。
「兎に角、逃げろ!エリス!走れ!」
「でっ……でも!」
「手に負える数ではない!行け!」
躊躇うエルフ娘に切羽詰った激しい口調で命じながら、女剣士は長剣を振り回し、棍棒や短剣、石斧に先を尖らせた木製の槍を振りかざして襲ってくる小柄なオークたちを必死に牽制する。
逃走を指示されたエルフの娘はなおも僅かに躊躇を見せていたが、戦う力を持たない彼女が残っても足手纏いにしかならないと悟る。
 小柄な亜人が迫ってくると友人を心配しつつも未練を振り切り、丘陵の麓に広がる林へと向かって走り出した。女剣士も、敵の動きを牽制しながら後を追って離脱を図る。
親子であろうか。視界の隅で、子供連れの農婦が追い掛け回されている姿が映るが、友人を逃がすのと、己が身を守るのだけで精一杯である。此処で戦い続ければ、数の不利から何時かは引き摺り倒されてしまうだろう。二、三匹の亜人が吼え声を上げながら、エルフの背中を追いかけようとするのを剣を振るって牽制してから、女剣士も素早く身を翻すと逃走へと移った。

 突然に襲ってきた上、果たして何匹いるかも分からぬ正体不明な小柄な亜人たちではあるが、幸い、好戦的な割には、女剣士から見てそれほど大した腕前は持ていなかった。
エルフを逃がした代わりに踏みとどまっていた女剣士を取り囲んで、七、八匹の小柄な亜人が威嚇するように喚き散らしているが、足取りは重く、動きは鈍重で動揺しなければ何とか対処しきれそうだった。真正面に立った小柄な亜人を、振り下ろした渾身の一撃で切り倒すとそのまま包囲を切り抜けて、友人の逃げたと思しき雑木林の方向へと走り出した。


 潅木の狭間を飛ぶように駆けながら、エルフ娘は逃げ続けていた。追っ手の小柄なオークたちの足は遅い。蟹股で身体を揺らすようにして走る。健脚のエルフ娘なら、さほど苦労せずに振り切れるのだろう。雑木林へと逃げ込んでいったエルフ娘を木立の狭間に見失った小柄な亜人たちは、舌打ちながら慌てて辺りを見回した。
 鬱蒼とした雑木林の中は、僅かな木漏れ日が刺してるものの、奥に行けば薄暗くて酷く見通しが悪い。穴居種族である亜人たちはそれなりに夜目が効いたが、見知らぬ森に踏み込むのは流石にためらいを覚えた。
 三匹の亜人たちは、小声でぼそぼそ囁きあって相談する。
仲間の下へ戻ろうか、そう結論を出しかけた時、近くの木立から音がした。
木々の影からエルフ娘が、顔だけ出して此方を覗き込んでいた。
「……きゃうっ!」
見つかったというように表情を驚愕に染めると、小さく悲鳴を上げて慌てて背を翻して駆け去っていく。
「こっ……来ないでよ!」
無様に転んだエルフ娘が慌てながら立ち上がって走り出すのを見て、小柄な亜人たちは誘い込まれるように再び追跡を開始した。

 小柄な亜人たちの一匹一匹は大した使い手ではなかったが、兎に角、数が多かった。
まともに戦っては手に負えないと見るや、女剣士はひたすら逃げの一手に徹している。
雑木林の木立は乱雑で地面の起伏も大きく、女剣士が逃げ惑いながらも時折、立ち止まっては戦い、また戦いながら逃げ惑っているうちに亜人の幾人かは振り切れたらしい。
諦めたのか、此方の姿を見失ったのか。明白に追いかけてくる数が減っている。いまや亜人たちは隊列も乱れ、纏りを失って二、三匹ごとの小集団でバラバラに追いかけてきている。
 ちょっとした空き地を見つけた女剣士は立ち止まり、呼吸を整えながら地面に鋭い視線を走らせては起伏の有無や根っ子の位置をそれとなく頭に入れていく。此処なら長剣を振り回し、四方八方に飛び回っても思い切り戦える。
 己の有利な戦場で待ち受けている女剣士の前に、やがて二匹の小柄な亜人が姿を見せた。
「ベレルに掛けて!」
逃げるのを止めた獲物を見て、戸惑うように顔を見合わせてからじりじりと近づいてくる亜人たちに向かって、女剣士は長剣を振りかざすと猛然と突撃を掛けた。

 小柄な亜人たちがきょろきょろと視線を走らせて何かを探している姿を、樹上から枝に寄りかかってエルフの娘は眺めていた。どうやら、彼らは木に昇るという発想自体に疎いらしい。
 目の前の樹木の陰で消えたエルフ娘が、頭上の枝葉に隠れているとは全く気づかずに、不思議そうに首を捻っている。亜人たちの足は遅いから、逃げようと思えば逃げ切れなくもないだろうと踏んでいるが、走れるだけ走って試すよりは、出来れば諦めてくれる方がありがたい。
此の侭、居なくなってくれるといいのだけれど。枝の上に座りながら呑気に構えているエルフの真下で、亜人たちはやたらとしつこく粘ってくれている。鼻を鳴らして地面を嗅ぎまわり、途切れた足跡の先を執拗に探し廻り、周囲を歩き回っては戻ってきて不思議そうに首を捻っている。
 どうやら相当に執念深い性質らしい。或いは、離れない心算だろうか。
……何者なんだろう。アリアは無事かしらん。
考えているエルフの耳元に、木立の彼方から剣戟を交わすような物音が響いてきた。
ハッとして顔を向けると、唸り声や悲鳴、断末魔の叫びまでもが聞こえてくる。
亜人たちに追い詰められたのか、エルフを探しにやってきたのか。友人が一戦し始めたらしい。
眼下の小柄な亜人たちは不明瞭な唸り声を二、三交わすと頷きあった。どうやら応援に向かうらしい。
こんな動きの鈍い連中に友人が負けるとは思わないものの、負担を増やすのは良くないだろう。
「……よっと」
エルフは、小柄の亜人たちの目の鼻の先に飛び降りた。
顔を合わせていた亜人たちが、ギョッとして振り返る。
こいつ、何処から現れた!?とでも言いたげに驚愕に表情を固めた亜人たちに手を振りかけると、エルフ娘は再び逃げ出した。


 腹を切り裂かれた六匹目の亜人が、臓腑を撒き散らしつつ絶叫した。目の前の亜人を蹴り飛ばして横転させると、横合いからナイフを振りかざして飛び込んできた別の亜人に横薙ぎに振るった一閃をぶち当てて顔面を破砕、仰け反ったところに狙い済ました一撃で頚動脈を切り裂き、吹き出した鮮血を浴びながら呟いた。
「……七匹」
 女剣士の息はやや乱れている。八匹目の小柄な亜人が憎々しげに此方を睨みつけている。
思い切り踏み込んで棍棒を振り下ろすよりも早く腕に一撃を加え、悲鳴を上げた所を横隔膜の辺りに剣先を叩き込んだ。地面に倒れてのた打ち回る亜人を足で抑えると、喉元を切り裂いて止めを刺す。
「九……いや、八か」
ちょっと疲れている。鉄錆に似た鮮血の匂いが女剣士の鼻腔を刺激していた。
病み上がりの身体に加えて、亜人たちは当初、女剣士が想定していたよりもずっと執拗な相手だった。
目の前で少なくない仲間が倒されたというのに、後から後から湧いてきては襲い掛かってくる。まるで、此方が親の仇ででもあるかのような士気の高さである。
お蔭で休む間もない。
 額の汗と返り血を拭っている女剣士の目前で、再び、木立から二匹の亜人が姿を現した。女剣士は呼吸を整えて、再び長剣を正眼に構える。


 薄暗い森に聳え立つ大木の根元で、槍を片手に小柄な亜人は不可解だと首を捻った。
物音のした方向に近寄ってみれば、仲間たちが血を流して倒れていた。
しゃがみ込んで触ってみると、二人とも確実に死んでいるのが一目で理解できた。目と鼻から血を吹き出し、片一方など鈍器か何かの衝撃で目玉が飛び出ている。
 触ってみると、凄い力で叩き潰されたかのように頭蓋が割られていた。
あのエルフ娘はそんな凄まじい膂力の持ち主には到底、見えなかった。
或いは、探索の最中に運悪く腹を空かせたオグル鬼とでも遭遇したのだろうか。だとしたら、何故死体を持っていかないのか。
 立ち上がった亜人が少し脅えて辺りの木立に視線を走らせていると、木漏れ日を受けて地面に何かが輝いた。歩み寄って拾い上げてみると、輝く色の銅貨だった。驚き、溜息を洩らしている小柄な亜人の頭上でかさりと小さな葉擦れの音がした。
「……ゃ!」
何気なく顔を上げた小柄な亜人の視界に一杯に、鬼気迫る表情で棍棒を手に落下してくるエルフ娘の姿が広がった。


 十二匹目の小柄な亜人を切り倒してから、女剣士は後退しつつ大きく喘いだ。
雑木林の小さな空き地は、流れ出た亜人たちの血と臓物と亡骸で足の踏み場もなく舗装されている。距離を取っている亜人たちは、漸くに怯みを見せていた。
後続が現れる気配も途絶えている。残りは五匹。
他にもいるかも知れないが、近くにはいないのだろう。
 戦うでもなく、逃げるでもなく、躊躇いがちに睨みながらも歯噛みしている亜人たち。
やや背丈の高い大柄な亜人、一番後ろで偉そうに控えていた奴が険しい瞳で女剣士を睨みながら、怨嗟の入り混じった呪詛を洩らした。
「辺境征服の為の大切な兵を……よくも、ぎざま……」
憎々しげな呟きは、およそ聞き捨てならない内容であった。
誇大妄想狂の気でもあるのか。にしては異様に真の籠った口調に聞こえていた。
「辺境の征服……お前、何者だ?何を企んでいる?」
黒髪の女剣士の問いかけに答えるでもなく、じりじりと後退った頭目格の亜人が口を開いた。
「……退くぞ。ごふっ」
「……あ」
 横合いの繁みから飛び出したエルフ娘が、木の槍を頭目格の横っ腹に突き刺していた。他の亜人たちも驚愕に固まっている。エルフは槍を引き抜くと、身を翻して素早く再び繁みの奥に逃げ出していった。
 亜人たちが露骨に動揺しているので、此の機に乗じて女剣士が咆哮を上げながら吶喊した。棒立ちの一匹を切り倒すと、残った三匹は武器を捨てて逃げ出した。背中を見せたところを女剣士がさらに一匹突き倒し、再びエルフが繁みから飛び出してきて槍を突き出して一匹の太股を突き刺した。走り去る最後の一匹に、太股を刺された奴が悲鳴を上げて助けを求めていたが、エルフ娘の振り下ろした棍棒で甲高い鳴き声も途絶えた。

 雑木林の広場に再び静寂が舞い戻ってきた。
「役に立った?」
褒めて欲しそうにエルフ娘が得意げな顔をしている。
「よい不意打ちだったよ。私も想像していなかった」
一瞬だけ苦い表情を浮かべたが、争い事を苦手とする筈のエルフ娘が、態々助太刀しに戻ってきてくれたのである。
 微笑んでからエルフに首肯すると、女剣士は膝を付いている頭目格の元へと歩み寄った。
いい所を突き刺したらしい。腹を押さえている小柄な亜人は、虚ろな目をして空を見上げ、ひゅーひゅおと苦しげな呼吸を繰り返している。
「血止めをしてやる故、武器を捨てろ」
見上げた小柄な亜人は、憎々しげに表情を歪めながら血の混じった唾を吐いた。
「……なんのつもりだ」
「二、三聞きたいことがある故にな……お前の口にしていた辺境征服とか。
 どうもただの戯言にも思えぬ」
「……云うと思うかよ」
苦しげに咳きこんだ小柄な亜人が、嘲りの言葉と共に獰猛な笑みを浮かべた。

 次の瞬間、手元のナイフを振りかざすと、己の喉元に一気に突き立てた。息を呑んで駆け寄った女剣士だが、倒れた亜人は小刻みに痙攣しながら急速に死へと向かっていった。
「何とかならぬか?」
戸惑っているエルフ娘に呼び掛けるが、一目見て黄泉路に旅立ちつつある亜人を呼び留める手段がない事を悟り、首を横に振った。
「……これは無理だよ」
理由は分からずに、だが肩を竦めたエルフ娘の言葉に、女剣士は音高く舌打ちした。



[28849] 56羽 襲撃 02 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/12/03 20:47
 雑木林に開いた空間は、本来の平穏な静けさを取り戻していた。襲ってきた亜人の大半は討ち取ったか、散り散りに逃げ去ったらしく、周囲からは気配は失せていた。
周囲に転がった十余の小柄な亜人たちは、いずれも急所を切り裂かれるか、大きな傷を受けて息絶えている。

「信じられぬ……こやつ、口を割らない為に自害しおった」
頭目格の骸を前にして呆然と呟いた女剣士の姿は返り血に真っ赤に染まっており、エルフ娘は、相も変わらず凄まじい手際だと恐れと感嘆が入り混じったと息を洩らした。視線を転じて、足元に転がっている襤褸を着込んだ亜人たちの亡骸へしゃがみ込む。灰色の肌をした小柄な身体。奇妙に細長い腕とずんぐりした足。一見、顔立ちなどはオークに似ているが、よく見れば違う種族である。
「……こいつら、何者かな」
エルフ娘の呟きに愛剣の血糊を取ろうと悪戦苦闘していた女剣士が、水筒の水と布を取り出しながら如何でも良さそうに応えた。
「さてな……オークの一派かも知れんな。最近、小競り合いが増えているとも聞くし。
或いは賊かも知れぬが」
翠髪のエルフ娘は、どうも腑に落ちないといった口調で考え込んでいる。
「……盗賊でも、オークでもさ。普通、あんな大勢で農婦一人を襲う?」
「何故?」
端的な言葉が女剣士から返されて、首を捻りながら答えを探した。
「割に合わなくないかな。家族連れを襲っていたとしても、二十人で……
それに、そこまで頻繁に行商人や隊商でも通り掛かる道でも無いのに……」
「普段は畑を耕しながら、旅人の通り掛かった時だけ盗賊になる輩もいる」
「あ、そっか。賊だけで暮らす必要はないものね」
 小人たちの肌からは垢と埃の入り混じった異臭が漂う。指を鳴らしてから、匂いが移りそうな気がしてエルフ娘は慌てて立ち上がった。臓腑の匂いと混じりあうと、もう耐え難いほどの悪臭である。
「でも、だとしたら追っ手だけで二十人?本隊は何人になる?」
「何を気にしている?まあ、確かに奇妙な連中であったな」

 剣を洗い終わった女剣士が、半月で三十人以上を屠った刃を確かめて表情を曇らせる。尋常ならざる頻度で連戦している。些か酷使し過ぎかも知れぬと憂慮していた。如何にパティスの名工の手による逸品とは云え、近いうちに本格的な研ぎに出しておきたい。
優雅な動作で愛剣を鞘に納めてから、女剣士は死んだ小人を爪先で突いて首を捻った。
「普通は半分も死ねば怯むであろうに……こやつら、私がまるで親の仇でもあるかのように最後まで襲ってきたし、妙な事を口走ってもいた」
「……妙な事?」
エルフの問いかけに女剣士が頷いた。
「うむ。辺境を征服するとか、なんとか」

 雑木林を出口に向かって二人の娘が歩いている。
「……疲れたねぇ」
徒労の混じったエルフの声にただ頷いて、女剣士は溜息を洩らした。
暫らくしてから、枝葉の先に僅かに覗く空を見上げてポツリと呟いた。
「一体、なんだったのだろうな」
粗末な襤褸を着込んでいる小人たちからは、碌に戦利品も期待できそうにない。
悪臭を我慢して頭目格の死体だけ調べてみたが、身元の分かりそうな装飾品や刺青、地図に書簡など手がかりになりそうなものは何一つ持っていなかった。
夥しい死体を後に残し、二人の娘は疲れた足を引き摺りながらぼそぼそと陰気に愚痴っている。
「棍棒が割れてしまったよ……また、新しいのを見繕わないと」

 鬱蒼とした薄暗い雑木林は見通しも悪く、何処に亜人の生き残りが潜んでいるとも限らない。
不意に襲われないように辺りの気配を探りつつ歩いていたエルフ娘が、木々も疎らになったところで突然に立ち止まった。
「……何か物音がした」
足早に傍らに立った相棒に意味ありげな目配せされて、女剣士もそれと悟ると警戒を新たにする。
尖った耳を小刻みに動かしながら辺りに視線を走らせて、やがて二十歩ほど離れた位置にある大きめな繁みを半エルフは蒼い瞳でじっと見つめる。
「そこの繁み」
エルフ娘の囁きに頷いて女剣士が剣を構えると、
「……ま、まって」
繁みを掻き分けてよろよろと進み出てきたのは、若い貧しげな農婦とその裾に縋りついている幼い少女であった。
憔悴した様子の農婦は濡れた地面に跪くと、二人の娘に向かって両手を突き出して懇願した。
「……怪しい者ではないです。どうか、どうか剣をお引きくだせい」

 顔を見合わせたエルフ娘と女剣士がぼそぼそと囁きあうと、会話の内容が聞こえないからだろうか。
娘を抱きしめながら、目前の農婦は不安そうな面持ちでじっと娘たちを眺めている。
「さて……さっきの連中は、此の二人を追っていたようだな」
女剣士が耳打ちすると、農婦の人品や衣装を品定めしながらエルフ娘も頷いた。
「……私たちは巻き込まれた訳か……如何見ても平凡な農民だけど」

 二人組の娘の不審な視線を浴びて、農婦は子供を強く抱きしめて俯いた。
武器を持っているようにも見えない。近寄りながら、エルフ娘が尋ねかける。
「普通の農民に見えるけれども……貴方、何者?」
巻き込まれた立場の二人の娘としては、厄介ごとを持ってきた農婦に対して好意的になる理由もなく自然、問いただす声は詰問の色を帯びた。
「ノアです。ト、トリスのノア」
答える声も脅えに震えている。
「トゥトリスのノア」
名前を呟いてから、今度は女剣士の鋭い眼差しが農婦を射抜いた。
「で、さっきの連中は誰だ?どうして貴女達を追っていた?」
「……分かりません。分からないんです」
身を捩って子供と抱きしめながら、農婦はたださめざめと涙するばかりである。

 身体を小刻みに震わせているのを見て、うんざりしたのと流石に気の毒になったので、エルフ娘が首を振った。すすり泣いている憐れな姿は、如何見てもただの農婦にしか見えない。
女剣士が頷いているので、取りあえずは質問を打ち切って此れからの行動を話し合う。
「取りあえずは旅籠へ戻ろうよ。話はそれからにしない?」
エルフの言葉に女剣士が懸念の色を示した。
「旅籠か……だが、連中。街道にまだうろついていないかね?」
「ん……分からない」
エルフ娘が木陰から目を眇めて窺うも、街道上の様子を見て取る事は出来ない。
一見、道行く者の絶えているようにも見えるが、道脇の繁みなど隠れる場所は幾らでもある。
待ち伏せがいるとしても、離れた場所から見て取るのは至難の技であった。
「一度、渡し場へ戻ろう。街道に出ないでも戻れるはずだしな」
少し考えてから女剣士はエルフ娘にそう告げて、放置されている間に大分落ち着きを取り戻した様子の農婦に鋭い視線をくれた。
「我らは此れより渡し場の村落に向かうのだが、一緒に来るか?」
「いいえ、わたしどもは……」
農婦は言い澱んで、それから途方に暮れたように地面に視線を彷徨わせている。
どうすればいいのか分からないでいるのだろう。
「……川辺の村には、無料で休める旅人の小屋があるよ」
身なりを見れば、恐らく金は持っていないだろう。
二、三日なら旅人の小屋に泊まれる。
その後は町に行って仕事を探すなり、村の裕福な家に使って貰うなり好きにすればいい。
「村まで送ろう。或いは、旅籠の方がいいか?」
迷いを見せていた農婦だが、特に此れと言った意見もないのだろう。
結局、村まで一緒に付いてくることになった。
「ええ、出来れば……村へ一緒に……」
歩き始めると子供が足を引き摺っているので、農婦はしゃがみ込んでおぶさった。
「親子?」
「……はい」
エルフ娘の言葉に言葉少なに答えると、農婦は黙々と村までの道のりを進んでいった。


 赤毛娘が目を醒ますと、柔らかな寝台に寝転がっている己に気づいた。
生家で使っていたものと同じ寝心地よい寝台に、再び目を閉じるとごろごろと転がりながら伸びをする。
家に帰って来れたんだ。良かった。
……久しぶりだな。此の感触。冬は仕事も少ないから、もう少し寝てよう。
いつもの癖で藁屑の詰まった枕を抱きしめて顔を埋めながら、目を閉じかけて違和感を覚える。
違う……なんだ此れ。
押し寄せてくる眠気に負けまいと目を見開こうと頑張る。
わたしは奴隷になった筈だけど、悪い夢を見ていた?
それとも此れが悪い夢か?

「凄い寝相してるわね、此の人」

「目を醒ました?」
「……あ」
赤毛の娘が目覚めてみれば、そこは見覚えのない広い部屋である。
壁には、繁栄する都市を描いた精巧なタペストリーが飾られ、機織り機には造りかけの麻布。
小さな円卓には青銅製の燭台が置かれ、壁際の寝椅子には豪華な毛皮が敷かれている。
寝台の横。見覚えのある二人の若い女が長椅子に腰掛けていた。
落ち着きのある挙措からやや年上だと見ていたが、間近でよく見てみれば年の頃は赤毛の娘と同じ程度であろうか。
金髪を背中に編みこんだ器量の良い娘が話しかけてくる。
「話は大体、聞いたよ。詳しいところを聞くために後で皆がやってくるから、今は休んでなさい」
もう一人、栗色の髪をした美貌の娘が椅子から立ち上がった。
瞳を向けられて赤毛娘は息を飲んだ。
一見して吸い込まれるような、澄んだ綺麗な眼差しをしている。
ゆっくりとしたぎこちない北方語で
「私は、フィオナ・クーディウス。そちらは友人のリヴィエラ・ベーリオウル。
貴女の訴えは、我が父はルード・クーディウスに届いた。よく頑張った」
「……あ」
顔に覚えはあっても、今まで何者かは知らなかった。
ついにやり遂げたのだと、涙を流して俯いている北方系の赤毛娘を見やってから、
「父を呼んでこよう」
言い残して豪族の娘フィオナは扉から出て行った。


 赤毛娘の体調を考慮しての事だろうか。
村娘を呼び出すのではなく、十人ほどの男女が部屋を訪れてくる。
若い青年や女性もいれば、壮年や初老の男女もいた。毛皮や黄麻の服装、或いは目の細かい布地からすれば、恐らくは有力な豪族たちなのだろうと、赤毛娘は当たりを付ける。
 幾度か話した青年ラウルも部屋の片隅に立っているのが見かけられた。
最後に入ってきて、中央の椅子座った初老の痩せた男がクーディウスと名乗った時には、赤毛の娘は目を瞬いてじっと見てしまった。
百人もの武装農民を配下に持つとも噂され、辺土(メレヴ)でも有数の有力者の一人が、平凡な初老の男であることに意外の感に打たれて、しかし、気を引き締めて頭を下げた。

 初老の豪族が頷いてから、赤毛娘はモアレ村に起こった出来事を一つ、一つ淡々とした口調で話しはじめた。
オークが攻めてきたこと、その数の凄まじさとよく整った武器、統制の取れたオーク族の動き、村人が立ち向かったことと村の中を逃げ惑った事、追い詰められた事、迷い込んだ二人組の旅人と出会った事、村からの脱出、順を追って話していく。
二十人近いオークを単独で切り倒していた女剣士について話した時には、数人の男女が胡散臭そうに鼻を鳴らしたり、顔を見合わせていた。
「二十人……一人で?」
「どんな怪物だ?その女は実は南王国の近衛騎士だったりするのか?」
露骨に馬鹿にした言葉を浴びせられ、赤毛娘は悔しげに顔を伏せる。
「……確かに、数も数えられない無知な娘が大袈裟に言い立てていると、考えても無理はないでしょう。……で、ですが、私はその目で見ました」

 剥きになって思わず言い返してから、聴衆の胡散臭げな反応に赤毛の娘は失敗したと後悔する。
信憑性の無い話をしてしまえば、他の話についての信頼も落ちてしまう。
数字を間違えたといえばよかったかも知れない。如何すればいい。拘泥して言い張れば、益々、嘘つきだと思われるかも。
不安で歯噛みする赤毛娘に助け舟を出したのは、それまで黙って聞いていた三人の若者たちだった。
「……いや、信じるよ」
端正な顔立ちをした豪族の長兄パリスが言うと、フィオナも頷いた。
「多分、その人を知ってる。黒髪をしたシレディア人の女剣士」
「フィトーを討ち取った、例のあれか」
筋骨隆々の壮年の男が面白そうに口の端を歪めると、数人の豪族たちが囁きあう。
「二十人を一人で……いかにシレディア人とは言え……」
「だが、確かにシレディア人なら、それくらい出来る奴がいてもおかしくない」
「馬鹿な……だが……」

 東国はシレディア人戦士階級の勇猛さは、干戈を交えた南王国は勿論、辺境の地にまで響き渡っていた。クーディウスが咳払し、豪族たちに向き直った。
「落ち着け。話の途中だ」
部屋が静まってから、娘に続けてくれと促がしてくる。
 後はそれほど話すことは無かった。
オークの追撃を受けたこと、一行に闇エルフも含まれていたこと、友達が犠牲になり、霧に乗じてからくも逃げ延びた事、全てを話し終わってから、赤毛の娘は長々と溜息を洩らした。
「モアレよりの使者。大義であったな」
初老の豪族は優しい声で、労わるように赤毛娘の手を握り締めた。暖かくて力強い掌であった。
「……では」
初めて明るい顔色になった赤毛娘がじっと見つめると、豪族は大きく頷いた。
「御主の事は、悪いようにはせぬ」
約束の声には誠実な響きがあって、赤毛の娘はようやくに肩の荷が下りたのを感じ取って、ほっと安堵の涙を流した。気が抜けたのか、寝台にゆっくりと横になる。

「さあ、皆の衆。この娘をゆっくりと休ませてやりましょうぞ。
なにしろ、大変な任務を果たしたのじゃからな」
豪族の一人だろう老人が声を出すと、豪族諸氏やその他の人物たちは興奮した様子で顔を見合わせたり、何事か呟きながら、ぞろぞろと部屋の外へと出始めた。
 最後に残ったのは、クーディウスとその長女のフィオナ、友人のベーリオウル親子。そして豪族の次男ラウルであった。
安堵の想いに身を委ねてぼうっとして天井を見上げている赤毛娘の傍らで、だが、豪族と娘が分からぬ早口の南方語言葉で喋り始めた。
「……父さま」
「……可哀想だが、それは出来ん」
南王国語。辺土で使われるの南方語とはまた違う南王国で使用される南方語は、赤毛娘の知るそれとは違いすぎて、耳にしても殆ど意味が分からなかった。
「取られた村や農園を奪還し、オークを攻めるための武具であり、兵でもある。
己が土地や仲間を守る為ならば兎も角、さほど関りの無い北方人の村を守る為に、豪族共が兵を出す筈もなければ、彼らを動かすほどの力もわしにはない」

 娘の眼差しから視線を逸らして、初老の豪族は辛そうに呟いた。
「それをやれば、わしは権力をうしなってしまうだろう」
娘の方は予期していたのかもしれない。目を瞑って表情に苦渋の色を濃くする。
父親の言葉に顔色を変えたのは息子の方であった。
「……それをあの娘に告げるのですか?」
父親は応えずに額を撫でると、深く溜息を洩らした。
苦悩の色と同情の色は瞳に浮かんでいたが、沈黙が答えだった。
娘は軽く頷いて、父親に告げる。
「ならば、父上の言葉でそれを告げるべきでしょう。期待を持たせるのは、寧ろ酷でしょうから」
初老の豪族は益々、苦しげに表情を歪めた。
「この娘は、たった一人で此処まで……その希望を打ち砕くのか」
苦い口調で呟いた。だが、辛い事実を告げなければならない。
訥々とした、だが心情の篭った嘆願に心動かされなかったといえば、嘘になる。

「……では、わたしが」
娘フィオナの言葉に、初老の豪族クーディウスは首を振った。
「いや、わしが告げよう。わしの役目であろうからな」
先ほどからの話し合いに剣呑な空気を感じ取っていたのか。
 何処となく不安そうに此方を見つめている赤毛の娘に向き直って、初老の豪族は事情を説明し始めた。リヴィエラが言葉を翻訳し続ける。
「……気の毒だがな。それだけの力はない。
さして交流のない北方人の村の為に、豪族たちの軍勢に動かすのはわしとて難しいのだ」
一通りの言葉を聴き終わった赤毛娘は、一切表情を変えなかった。
理解できなかったのだろうか。不安に駆られた時、赤毛娘は口を開いた。
「……クーディウスの殿は、辺りで一番偉い力のある方だと聞いていました」
拙い南方語に責めるような響きはなく、しかし、初老の豪族は言い訳がましく口を開いた。
「それを否定はせぬ。しかし……」
「そのお方に叶わぬのであれば、もはや何者にもモアレを救うことは出来ないのでしょう」
全てを理解した表情で痛々しい微笑を浮かべながら、頭を下げる。
「わたしは……わたしは……どうも……無理なお願いをしたようです」
何ともいえぬ居心地の悪さと胸の苦しさを覚えて、初老の豪族は怯んでいた。
「……怨んでも構わん。しかし、わしらにも守らねばならぬものがあるのだ」
「自分の土地と家族を優先するのは誰にとっても当然の事です。お怨みすることなどありません」
云ってから溢れた涙が頬を伝って零れ落ち、赤毛の娘は俯いた。
「もうしわけ……ありませ……ひとり……ひとりに……」
頷き、人々は立ち上がって足早に部屋から出て行った。
心残りな様子を見せるラウル青年が立ち止まっていたものの、姉に腕を取られて引っ張り出されると扉が閉じた。
 途端、扉の向こう側から悲痛な切り裂かれるような叫びが上がり、ついで嗚咽と拳で硬い何かを叩くような鈍い音が響いてくる。
郷士の娘リヴィエラは、友人のフィオナを見て何かを言いたげにしてから、しかし口を閉じた。
初老の豪族は、しばし虚ろな視線を天井に彷徨わせてから、ふと傍らに立つ娘を見つめた。
「フィオナ。あの娘の面倒を見てやってくれるな」
「はい」
部屋の中からは、赤毛娘の慟哭する響きが伝わってくる。
初老の豪族は肩を竦めてから歩き出した。娘は部屋の前に立って扉を眺めていた。
「出来るだけのことをしてやりたいと思っています」
背中に掛けられた愛娘の声に立ち止まると、初老の豪族は苦い表情で大きく溜息を洩らした。


 トリス村を攻め落とした洞窟オーク達は、大変な馬鹿騒ぎに興じていた。
文明人が見れば、野蛮と眉を顰めるかも知れない。
火を盛んに焚いては、仕舞い込まれた人族の美味い酒を飲み、取って置きの肉を喰らう。
山羊や鶏を屠り、焼き上げては齧り付いている者もいれば、色取り取りの布をまとう女の洞窟オークもいる。
 若い洞窟オークの中には村人の女を抱いている者もいれば、生け捕りにした村人をいたぶって楽しんでいる奴もいたが、同時に知己の村人を庇う者もいた。
 幾人かはなおも暴れていたが、村の女たちの大半は、諦めたように抵抗を見せなかった。
生き残った僅かな村人たちは一箇所に集められ、悔しげに洞窟オークたちの狂態を眺めていた。
 これから先、洞窟オークの奴隷として惨めな生活が待ち受けているのだと思うと村人たちは暗い表情にならざるを得なかった。
村の彼方此方で洞窟オークたちが気勢を上げては、声を張り上げ歌い、踊っており、お祭り騒ぎの最中、冷静なものは殆どいなかった。
 洞窟オークの酋長グ・ルムは、仲間たちを見て廻りながら、行き過ぎた騒ぎを見つけては諌めて回っているが、一人の若い洞窟オークが話しかけてきた。
「グ・ルム……連中を止めてくれ。家畜を全部、食い尽くしちまうつもりだ」
首を振っている若者に酋長が問いかけた。
「村を落とした祝いの日だ。今日くらいは多目に見てやろう」
「全部喰っちまったら、増やすこともできねえよ!あいつら止めてもとまんねえんだ!」
グ・ルムの取り巻きである洞窟オークの一匹が不安げな若者の肩を叩いた。
「なあに、野暮はいいっこなしだ。若いの。向こうは向こうで楽しんでいるのだろうよ。
洞窟オークの記念すべき勝利の日だ。羽目を外しても無理はない。おめえも楽しめ」
「そうよ!悩むのは明日からでも出来るぜ!」
若者が気色ばんで取り巻きを睨む。
「訳の分からん事を云ってんなよ。酔っ払いが……全部、喰っちまったら増やしようがないだろうが!」
「なんだあ、その言い方。若僧が」
怒りを見せる酔っ払いと睨み合う若者。
肩を竦める酋長に、別の取り巻きが笑いかけた。
頷いている酋長の耳へ、転がり込むように村へと駆け込んできた洞窟オークの喚き声が届いてきた。
「あいつらは……逃げた村人を追っていった連中か」
一瞥した取り巻きが顔を歪めて呟いた。
酋長の弟のグ・ルンがつれて、早朝のうちに逃げ出した女子供を追いかけて村を出た一団。
とうに戻ってきてもおかしくない時刻を過ぎていた。
「やっと戻ってきたのか……御馳走もだいぶ減ってるぞ」
笑いながら労を労おうと手を挙げた酋長だが、
「大変です。グ・ルム!大変です!」
指導者の姿を見かけるや、一直線に駆け込んでくる数匹の洞窟オークのただならぬ様子に、殴り合っていた若者と酔っ払いまで何事かと手を止めて向き直った。
「落ち着け、何があった」
鷹揚に問いかける酋長の足元に倒れこんで、村に飛び込んできた洞窟オークの一匹が喘ぎながら言葉を発した。
「グ・ルンが!おお!グ・ルンが!」
弟に何かあったのか、顔色を変えた酋長に生き残った洞窟オークは一部始終を話し始めた。


 凄まじい血臭が漂っている雑木林の空き地に、夥しい数の洞窟オークの骸が転がっていた。
誰も彼もが涙していた。勇敢な戦士であるグ・ルンは、皆から慕われていたのだ。
「そいつらは川の方へと向かいました。
殺したのはエルフ娘です。翠の髪をした。薄汚いエルフ」
歯を剥き出して悔しげに喋っている生き残りの洞窟オークに、茫然とたたずんでいた酋長は深く頷いた。
辺境では珍しい森エルフの女。直ぐに見つけ出すことが出来るだろう。
弟を殺されて内心は怒りに荒れ狂っている洞窟オークの酋長は、しかし、感情は面に出さずに生き残った洞窟オークを奇妙な眼差しで眺めた。
「……それでお前は俺の弟を置いて、むざむざと逃げてきた訳だ」
酋長の言いたいことを悟って、生き残った洞窟オークたちはさっと顔色が悪くなった。
「ま、待って!恐ろしい使い手だった!俺にはどうしようもなく!」
必死に言い訳している洞窟オークの肩を長く強い腕で掴むと、グ・ルムは手にした短剣でその喉を切り裂いた。
ごぽごぽと傷口から血を噴出してもがいている卑怯者を地面に投げ捨てると、洞窟オークの酋長は蒼白になって静まり返っている手勢を見回してから、追跡の得意な洞窟オークを呼び寄せた。
「……奴らは?」
部下を始末した酋長に対して、やや脅えた様子を見せながら答える。
「……血塗れの足跡が川辺の村へと向かっていた。血の跡が残っている」
「川辺の村。分かるか?」
酋長は、今度は街道の付近に詳しい野良の洞窟オークに向かって訊ねる。
「……ち、小さな村だ。五十人もいない」
震えながら答えた洞窟オークに頷きながら、酋長はぎらぎらと光る黄色い瞳を雑木林の彼方へと向けた。
「よし、弟の仇を討つ。鏖殺だ。一人も逃がすな」




[28849] 57羽 襲撃 03 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/08/02 21:13
 娘を負ぶった農婦だが、時が経つに息は乱れ、もつれよろめく足取りも重くなっていた。
「お前の母は疲れているようだ。親を思うのなら、立って歩きなさい」
湿った土の上を行く二人の娘は、しばしば足を止めて遅れがちな農婦を待っていたが、ついに女剣士が立ち止まると、母親の背中にいる娘に向かって言い放った。
「……この子は具合がよくないんですよ」
十に近い子供の体重はやはり負担に違いなく、農婦が荒い息をつきながら呻くように呟いたが、おぶられた娘が親の耳元で低く囁きかける。
「母ちゃん……おろして」
「でも、お前。身体の具合、良くないだろう」
心配するような母親の声にはいたわりが色濃く滲んでいるも、娘は言葉を繰り返した。
「いい、自分で歩くよ」
しかし、降ろした途端、身体の何処かしらが痛むのだろう。少女は顔を歪める。歩きながらも辛そうにしている娘を、農婦は付き添いながら心配そうに見やっていた。
黒髪の女剣士も何か気になったようで、少女が傍に来るまで佇んで待っていた。

「ん……少し見せなさい」
少女を呼び寄せると、女剣士は指先で少しずつ身体に触れていく。
肩に触れられた少女が、痛んだのかぶるぶると身体を震わせた。
「痛いのか?痺れる?それとも熱く感じるかね?」
痛みの種類を訊ねながら、女剣士は少女に服を脱ぐように命じた。
困惑している農婦の前で娘の服を脱がせると、その肩が熱を持って腫れあがっていた。
「肩が外れているな」
黒髪の女剣士の見立てにエルフ娘も同意して肯いた。
「脱臼だね」
しばし、不安そうな眼差しで見上げてくる少女の顔を眺めてから、女剣士が深く肯いた。
「エリス。この子を抑えて置いてくれ」
エルフが言われた通りに少女を抱きしめる。不安そうながらも、少女は抵抗しなかった。
「な、なにをする気で!」
狼狽する母親を、冷静な眼差しで見やって淡々とした口調で告げる。
「肩が外れている。今、治しておかねば、一生涯不具となるぞ?」
息を呑んだ農婦が顔を青ざめて沈黙したのを治療の同意と受け取ったのか、それから少女の方を見つめる。
「直すと痛むが如何する?」
少女は沈黙を保ったまま、強く肯いた。
「咥えていろ」
ハンカチを差し出すと噛んだのを見てから、力強い手で少女の肘と肩を掴んで位置を慎重に見定める。
それから、一気に嵌め込んだ。少女は、ハンカチを強く噛み締めた。
身体を軽く震わせて、零れた涙がポロポロと頬を伝って地面に落ちる。
「よし」
女剣士が放した途端、農民の少女は右腕を抑えて地面に蹲った。
「ニーナ!」
駆け寄った農婦に抱きしめられながら、少女が立ち上がる。
「よく頑張ったな。偉いぞ」
「えへへ」
女剣士に撫でられて褒められたのが嬉しいのか、笑みを浮かべる少女。
エルフ娘が薬草で手早く鎮痛と炎症を抑える軟膏を作り、湿布にして布の包帯で巻きつけていく。
「お金なんて払えませんよ!」
「金はいらないよ」
エルフ娘が薬師と知って、農婦は懐の巾着を押さえながら叫ぶように治療代の件を切り出したが、
只だと告げられると、異種族の美貌の娘を胡散臭そうに眺めてから渋々と肯いた。

 同じ人族の貴族と異種族の薬師に対して農婦の態度が変わるのも分からないでもない。
分からないでもないが、此処まであからさまだとエルフ娘としても余り面白くない。
「……感謝を求めている訳ではないけど、子供に何かしてやろうと言う人間に対してその態度はあんまりではないかな?」
我慢できずに窘めるが、農婦は半エルフが何故怒ったのか分からない様子で、戸惑った様子できょとんとしていた。
「あ……ありがとう。お姉さん」
手当てし終わった娘が、深々と頭を下げて丁寧に礼を言ってきたのが救いだろうか。
「そう怒るな。君の腕はわたしが知っている。気にするな」
女剣士も取り成すように話し掛けて来たので、エルフ娘は深々と溜息を洩らして、もう気にしてないよと肯いた。森を離れて人族の世界である平野を旅していれば、異種族の旅人に対する不審や偏見の目で見られる経験も珍しくない。
以前は気にならなかった農婦の猜疑の眼差しが、酷く勘に触った事にエルフ娘自身が驚いていた。
常に一緒の女剣士から対等の友人に扱われているうち、こらえ性が低くなってしまったのだろうか。

 少女の気丈な態度が気に入ったらしい女剣士は、その後も何くれとなく子犬のように懐いてくる農民の子供を励まし、見守りながら歩いていたが、農婦に無下に扱われたエルフ娘は、己の心の動きに戸惑い、少し釈然としないまま「……解せぬ」「……何ゆえ」ぶつぶつと呟きながら、後ろをついていった。


 河辺の小村落には、領主がいなかった。
元々は、近在の郷士が村の領主として渡し場を所有し、艀の料金を取り立てていたが、十数年前に疫病で一族が絶えてからは、艀の渡し場は村の共有物として管理されている。
近隣の農夫や流れ者、羊飼いや豚飼い、巡礼に放浪者が艀の主たる利用者であって、半日歩いた南には橋梁もあり、他にも数箇所に渡って目敏い土地者が渡し場を設けていることから、渡河賃はそれほど高いものではなかった。
 布や塩、食べ物が通貨として物々交換に大いに利用される時代と土地であるから、精々が鉛銭の一、二枚。或いは一握りの燕麦やライ麦、雑穀、僅かな野菜に干し果実一つなどで事足りる。
河の流れや天候不順で度々、不通となる艀であるが、それでも小さな村落に落とされる利用料は、村人たちを幾らかは潤わせていた。
三年続きの不作にも関らず、辺境の他の村に比べれば、子供の姿は随分と目立っている。

 晴天の蒼い空の下、街道沿いの野原で村の子らが歓声を上げて遊び耽っていた。
多少は年嵩の子も見かけられたが、十に成るや成らぬやの幼い子供が多い。近隣の農園や農民の子供たちも混じっている。オークが出没している時期、しかし、村に面している北の野原ならば大人の目も届き易く、子供にとっても絶好の遊び場であった。
 花を摘んでいる少女がいれば、野原の隅にある繁みの傍らでは男の子たちが追いかけっこに興じたり、棒切れでちゃんばら遊びに没頭していた。
もう少し年を重ねれば、子供でも労働力と見做されて、大人に混じって日々の仕事が少しずつ増えていく。仕事も少ない冬の時期。子供たちにとって今が人生で一番楽しい頃合であろう。

 岩に天辺に立った少年が剣に見立てた棒切れを掲げて見得を切っていた。
「おいらこそ辺境の勇士『強者』ベーリオウル!シレディアの黒騎士、此処であったが百年目!姫を返してもらうぞ!」
小さな子が少年を見上げて文句をつける。
「あんちゃん!また、ベーリオウルかよ!おいらも偶にはベーリオウルやりたい!
いつもおいらが黒騎士じゃないかよ!」
「俺はお前のあんちゃんじゃない。ベーリオウルだ!黒騎士、覚悟しろい!」
雄叫びを上げて岩から飛び降りた少年だが、時宜を見計らった年下の子供の狙いすました一撃に脛を打たれて地面にひっくり返った。
「いってえ!ベーリオウルをやっつけてどうするんだよ!大人しくやられろよ!」
転がりながら涙目で怒る少年に、年下の子供が文句を言う。
「あんちゃん、偶にはベーリオウルとかアテムをやらせてよ!黒騎士はもうやだよ!」
「五月蝿えな!文句言ってるとお前、人食い鬼のグーゾの役にするぞ!」


 野原の隅の方で言い争っている少年たちに、幼い少女が歩み寄ってきた。
「お兄ちゃんたち、危ないよう。あんまり村から離れたらオークや人食い鬼が出るって」
鼻水を垂らしながら、こまっしゃくれた口調で男の子たちに注意する。
「へん、人食い鬼なんぞおいらが退治してやるぜ」
年嵩の少年が棒を掲げて強がった途端、背後に生い茂った繁みが、がさりと揺れた。
子供たちが文字通りに飛び上がると、再び、目の前の繁みが揺れた。
少年少女が後退りしながら、背の高い繁みを注視する。
「ま、まさか、オークが……」
「……人食い鬼かも」
息を呑んで目を瞠った子供たちの目の前で、年嵩の少年が進み出て棒切れを構えた。
「……ッきやがれ!おいらが返り討ちに……」
言った瞬間に、繁みを掻き分けて血塗れの女がぬっと姿を見せた。
おっかない父親よりも遥かに上背ある威圧感漂う長身、手には陽光を受けて煌めく長剣。
黄玉色の鋭い瞳で視線で一瞥されると、少年のなけなしの勇気も吹っ飛んだ。
「きゃああ!おかあちゃあん!」
少年が女の子みたいな悲鳴を上げて棒を放り投げると、残りの子も恐怖に叫んで村へと駆け出した。
「でたあぁ!」
「人食い鬼だ!」
「お、おいらを置いてくなぁ!」
腰を抜かしていた年長の少年が慌てて起き上がり、転がりつつ村へと走り去っていく背中を眺めて、億劫そうに女剣士が重いため息を洩らした。


「……糞餓鬼め」
女剣士に引き続いて、半エルフと娘を背負った農婦も繁みを掻き分けて姿を現した。
女剣士は徒労感に襲われているのか、どこか疲れた表情で舌打ちする。
「……黒騎士を勝手に悪役にしおって」
どうやら人食い鬼に間違われたことは如何でもいいらしい。
愚痴るような口調を耳にして、エルフ娘は苦笑と共に面白そうに友人を見やった。
「あ、そっちに怒ってるんだ。アリアは東国……シレディア人だものね」
不明瞭な唸り声で面白がっているエルフに応じると、女剣士は己の姿を見下ろして眉を顰める。
「……さて、どうするかな。返り血を浴びた姿で此の侭、村に入るのは流石に不味かろうな」
子供たちに泣き叫ばれた血塗れ姿を村人が見たら、少し騒ぎになるかもしれない。
呟いてから直ぐに結論を出したのだろう、女剣士は川辺に向かって歩き出した。
「先に河原に行こう。顔だけでも洗っておきたい」
ずっと沈黙していた農婦の背中でおぶさっている子供がどこか痛むのか。
小さく呻いて身を捩っている。
農婦は何か言いたげにしていたが、結局は黙って二人の娘の後を付いて歩き始めた。
 
 南方の吟遊詩人の間では主に悪役、敵役として高い人気を誇っているシレディアの黒騎士だが、女剣士はシレディア出身で在るから、郷土の軍事的英雄を悪役にされるのは、子供の遊びとは言え気分は良くないに違いない。
「ここら辺は辺境でも南方に近いから、王国寄りなのかも」
南王国の吟遊詩人や噂が出回れば、おのずと物の見方もそちら寄りとなるだろう。
推測しつつ呟いたエルフ娘が、首を傾げて友人の顔を覗き込んだ。
「やっぱり尊敬しているの?黒騎士」
「……母方の祖父だからな」
一瞬だけ口篭ってから、何気なく衝撃の事実を口にした女剣士にエルフ娘が頷いた。
「ふうん、そうなんだ……ええッ!」
軽く聞き流したエルフ娘だが、少し経ってから驚きに目を瞠って素っ頓狂な声を洩らす。
 シレディアの黒騎士といえば、英雄譚や戦記にさしたる興味を持たぬ者でさえ幾度かは耳にした事のある高名な人物である。
二十年ほど前に、沿岸部の港湾都市を廻って南王国(セスティナ)と東国諸侯(ネメティス)が激しく衝突したリュティスの戦役では、東国諸侯連合の誇る十二騎士の一人として大いに活躍し、南王国の戦士貴顕を幾人も討ち取っている。
最初の戦いで名のある王国騎士三人を次々と屠り、王の首を上げる一歩寸前までいった、
最後の戦いでは迫る王国軍の包囲を鮮やかに切り抜け、高らかに哄笑しながら戦場から駆け去ったなど、好んで纏った漆黒の鎧と残された数々の逸話から、紅蓮の騎士や竜槍姫などと並んで敵役として人気の高い黒騎士である。
特に王国最高の勇士の一人である聖騎士との一騎打ちは、今尚、王国の吟遊詩人たちが好んで取り上げる演目であった。

 黒髪の娘は眉を顰めると、不審そうな眼差しで奇声を上げたエルフをまじまじと見つめる。
「なんだ、その反応は?わたしだって人の子だ。親もいれば、祖父母もいるぞ」
「……いや、そうではなくて」
言い淀んだ半エルフは、口元に当てていた掌を降ろして軽く肩を竦めてみせた。
「シレディアの黒騎士とか、わたしでも知ってるような人の孫なのが驚いた。
道理で、腕が立つというか。うん、なんか色々と納得がいきました」
「云っておくが、わたしが黒騎士の孫なのではない。黒騎士がわたしの祖父なのだ」
大言壮語というべきか。よく分からない女剣士の言葉に翠髪のエルフ娘が思わず吹き出した。
「なに、それ」
気宇や気概というよりは、稚気と称すべき類ではなかろうか。
意外と子供っぽい性格を見せた友人にエルフ娘がくすくすと笑い始めると、ムッとした様子で女剣士が軽く睨んできた。
「何がおかしいものかね」
「だって……でも」
しばし憮然とした表情でエルフ娘を眺めていた女剣士だが、ふいっと正面に向き直った。
今は、祖父を知る誰もが女剣士を黒騎士の孫として見ている。
何時の日か、彼女自身の武名が祖父に並ぶ日が来るのだろうか。
真っ直ぐと真剣な表情で西方山脈の黒い稜線に見入っていたかと思うと、ゆっくりと口を開いた。
「今は皆そうやって笑う。だが、いずれはそうなる。そうしてみせる」
まるで山の精霊たちに対して誓約するかのように拳を心の臓の真上に当てると、女剣士は傲然として言い切った。
「なるほどね。うん、御免なさい。笑うことでは無かった」
柔らかい微笑を浮かべたまま今度は笑い出すこともなくエルフ娘が謝ると、女剣士は謝罪を受け入れたのか、鋭い眼差しをやや柔らかくして肯いた。
 少し足早になって女剣士の傍らに並ぶと、半エルフは長身の友人の横顔をじっと見上げた。
詩吟でも歌われるような高名な勇士の孫が目の前にいるのは、何か不思議な気もする。
東国でも名高い騎士の一人である祖父を越えることが、女剣士の目標なのだろうか。
それにしても……東国十二騎士か。
エルフ娘は歩きながら、疑問に小さく首を傾げた。
アリアと同じか、それ以上に強い人が十二人もいたりするのだろうか。


 村の柵が見えてきたところで二人の娘は足を止める。
民家ともいえない土と木でできた粗末な小屋が数軒、点在しているだけの川辺の小村落を前にして、農婦の方に振り返った。
「村に着いたよ」
「……す、すみません」
エルフの呼びかけに震え声で囁くと、憔悴していた農婦は涙を拭った。
「送っていただいて、申し訳も……」
頭を下げると、十歳ほどの少女も礼を言った。
「……おねえちゃんたち、ありがと」
まだ、痛むのか。
少女はふらついていたが左腕で母親の手を握ると、俯きながらも歩き出した。
冬にしては日差しが強いからか。
踏みしめる度に微かな土埃の舞う乾燥した黒土の上をゆっくりと村へと向かう農婦と少女の背中を、エルフ娘は気の毒そうに見送った。
「まだ、気が動転しているんだろうね」
「うむ」
道を歩いていて小柄な亜人と出会ってしまったのか、或いは家ごと襲われて逃げてきたのか。農婦の事情はよく知らない。
憐憫の情の入り混じった眼差しで村へ入っていく母子を眺めてから、二人の娘は河原へと歩き始めた。

 河原につくと、女剣士は直ぐに顔を洗い始めた。
次いで剣を取り出して血糊を一通り拭い取り、それから服を脱いで水洗いし始める。
革製の上着は、返り血が所々へばり付いて、どす黒く変色していた。
休んで人心地ついたのも束の間、直ぐに村の方から数人の武装した大人達が駆けつけてくる。
「人食い鬼はどこじゃ!」
どうやら、逃げ去った子供達は派手に騒ぎ立てたらしい。
村人たちは、棍棒や銅製の小さな鎌、殻竿などを手にしていたが、中には冒険者風の装いをした革服の若い男女や鉄製の槌を構えたドウォーフも混じっていた。
質素な鞘に小ぶりな剣を吊るして、冒険者たちは此方の様子を険しい顔をして窺っている。
エルフ娘は慌てて友人を振り返るものの、黒髪の女剣士は我関せずと背中を見せて再び顔を洗い続けている。
「……ああ、もう」

 仕方ないので、エルフ娘は殺気立っている村人を前に慌てながらも説得と弁解を始めた。
私たちは旅人です。此処何日か、顔を見せていたので覚えもあるでしょう。
賊に襲われてやっと村にたどり着いた哀れな村人を襲うつもりですか。
これは先ほど、道で亜人の賊に襲われていた農婦がいたので助けた時の返り血です。
血相を変えて飛んで来た村人たちを相手にエルフ娘が必死に釈明しているのに、女剣士は一言の弁解もなく、今度はただ四肢や武具を洗い続けていた。
しかし、不安と猜疑に満ちていた村人たちの眼差しも、見目麗しいエルフ娘に一から懇々と事情を説明されて次第に軟化していく。
若い女の二人連れ。しかも、最近は村でよく見るエルフと女剣士なので、直ぐに勘違いに気が付いたようだった。
ようやく誤解が解けた頃に、血糊の付いた革製の上着を濡らした布で磨いていた女剣士が立ち上がった。
「そう云う訳だ。怪しい者ではない。
疑うなら森の方に賊の死体がある。見てくればよかろう」
エルフの娘が少し拗ねたように軽く睨んだのは、女剣士が友人に説明を丸投げして何もしなかったからか。

 村人の代表らしい年増の女が村人たちの中から進み出てきて二人をじろじろと眺めた。
「いいや、それには及ばないよ。でも、誤解されるような真似は謹んで欲しいもんだね」
どうやら不審者ではないらしいと、村人たちは安堵の色を見せて村へと引き返していく。
ドウォーフが肩を竦め、革服の若い男女が顔を見合わせる中、川辺に残っていた年増女が二人の娘に話しかけてきた。
「一緒に来てくれないかい?今、村に入ってきたそのよそ者の農婦を呼びにやったから」
旅人たちの用心深そうな眼差しに気づくと、手を振って宥めるように年増女が笑みを浮かべた。
「ああ、もう疑ってる訳じゃないよ。ただ村の近くで襲われたっていうなら、是非に詳しい話も聞かせて欲しいんだよ」
「……面倒だな」
疲れた表情で女剣士が呟いていたが、大した手間隙でもなさそうである。
村長らしい立場の年増女の家へと、二人の娘は大人しく付いていく事にした。



[28849] 58羽 襲撃 04 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/08/02 21:14
 村の中央に在るうらぶれた小屋が、二人の娘の案内された村長の住処であった。
他の民家と同様、今にも崩れそうな外見をした粗末な土造りの小屋で、中に入れば質素な椅子と皿や薬草などの置かれた棚、板状の石臼とのし棒、
煮炊き用の小さな石組みの囲炉裏と藁の寝床以外には特に何もない。
「どうだい?いい家だろう」
しかし、川辺の小村落の村長は我が家を誇っているらしい。
自慢げに振り返った年増女にエルフ娘は曖昧に微笑み、女剣士は眠たげに目を細めていた。
「そこら辺に適当に腰掛けておくれ」
年増女の言葉に促がされて踏み込むと、風を遮るからか、囲炉裏に火を焚いているからか。
確かに屋内は意外と快適な温度で、掃除を小まめにしているのか床の上には殆ど塵も落ちておらず、村道で感じられた埃っぽさもまるでない。
エルフ娘が何処に座るか室内を見回していると、女剣士が腕を引きながら藁の上に腰を降ろした。
そのままエルフ娘を強引に抱き寄せると、村長を眺めて単刀直入に用件に入る。
「で、私たちに聞きたいこととは?」

「えっと、ちょっと待っておくれよ。もう来ると思うけどね」
女剣士の問いかけに言葉を濁した年増女は「遅いねえ」などと呟いていたが、暫らくすると足音が近づいてきた。
「ああ、やっと来たよ」
年増女が言った途端に、小さい影が家に飛び込んでくる。
「おかあちゃん、腹減った!ご飯!」
鼻水を垂らした少女が年増女に抱きついた。
「メイ、ちょっと待ちな」
「これ、お土産!」
勢いよく母親に差し出された少女の掌には、団栗など灰汁抜きすれば食べられる木の実や鶏の餌になる草などが握られている。
「ああ、鶏にやっといで。それと……」
「うん!やってくる」
元気よく頷くと、後はもう母親の言葉など聞かず、鼻水を垂らしながら少女は風のように家を飛び出して行った。

 落ち着きない娘の行状に渋い表情をした村長が待たせている客人の様子を窺うと、藁の床に腰掛けていた女剣士は眠気が押し寄せてきたのか、その友人に寄りかかって目を閉じていた。
肩に寄りかかられているエルフ娘は、別に不快なようには見えなかった。少し重そうにしながらも、しかし幸せそうに口元を緩めてる。首を振って年増女が外を見ると、再び近づいてきた足音が家の前で止まり、二人の村人に連れられた農婦の親子も姿を現した。

「ああ、やっと来た。待たせてすまなかったね」
村長に話しかけられたエルフ娘がそっと肩を揺らすと、女剣士が目を見開きながら生欠伸をした。
目を擦りながら戸口に立つ農婦親子を見やり、それから伸びをして身体の骨をポキポキと鳴らした。


 小屋の間取りはさして広くはない。二人の娘が藁の寝床に座り、農婦と娘は囲炉裏の傍に、二人の村人も話を聞く為に壁際に腰を降ろすと、部屋はもう一杯になった。
相当に眠たいのか、女剣士は先ほどから幾度か、生欠伸を噛み殺している。
「そっちのお嬢さんは、何やらお疲れみたいだね」
皮肉っぽい口調で豊満な体つきの年増女が注意すると、女剣士はにやりと笑い、目の前で藁の寝床に横になった。
物臭な挙措でありながら、それとない上品さが漂っているのは不思議であった。傲岸不遜な態度ではあるが、相手は貴族なのであろう。僅かに苛立った様子を見せた年増女だが、諦めたように首を振ると、改めて質問をしてみた。
「で、一体、何があったんだい?」
女剣士は眠たそうな顔をしたまま、年増女を見上げて口を開いた。
「聞きたいのは此方のほうだ。いきなり襲われたでな。で、その前にお主は誰だ?」
年増女は首を傾げた。自己紹介してないことに気づいて頭を掻く。
「ああ、あたしはリネルさ。一応は、川辺の村の長だよ」
村長が自己紹介すると、女剣士は自分は名乗りもせずに考え込むように目を伏せた。
「ふむ、よかろう。しかし、リネルとやら。
我らもその親子が亜人どもに襲われているところに出くわしただけでな。
よく分からん亜人に襲われた。見たこともない連中であったな」
同意を求めるように旅の連れを見上げると、エルフ娘も難しい顔で頷いた。
「オークでもないし、ゴブリンでもない。
みすぼらしい姿をした子供よりやや大きな背丈の亜人で、数は二十から三十もいた」
エルフの言葉に頷いて、女剣士は肩を竦める。
「一応、助ける形にはなったものの、詳しい事柄は何も知らぬのだ」
言うと、村長と二人の村人、二人の娘の視線が農婦に集中した。


 視線を集中的に浴びた農婦が口篭って何か言い掛けると、小屋に村長の娘が飛び込んできた。
「母ちゃん!鶏に飯やった!今度はあたいの飯を頂戴!」
駆け込んできた少女は、部屋に大勢の人間がいるのを見て立ち止まり、女剣士とエルフ娘、そして農婦の親子を順に見回した。
「母ちゃん、なんか知らない人達がいるね!誰!?」
「メイ……えっと、今、大人の大切な話をしてるんだ。暫らく外でこの子と遊んでやっておくれな」
年増女が苦く微笑んで、肩に包帯を巻いている少女をそっと押しやる。
「いいだろう?」
言ってから、了解を求められた農婦も頷いた。
「……お母ちゃん。だけど、あたし」
心細そうに母親の袖を引っ張る農婦の娘だが、村長の娘は無頓着に、年上であろう農婦の娘に話しかけた。
「あたい、メイ!あんたは!」
新しい友だちに目はキラキラと輝いている。
救いを求めるように母親を見るが、言ってきなと言われると、頷いて一緒に外に出て行く。
「……あたしはニ、ニーナ」
「行こう!ニーナ!」
子供たちの背中に年増女が気楽な口調で声を掛けた。
「大丈夫だよ。いい子だから」


「さて、で、何があったか聞かせてもらえるかい?村の傍のことだからね」
改めて村長が農婦へと向き直って、強い口調で問いかける。
「巻き込まれたものとしても、何があったかは気になるな」
やや眠たげな黒髪の娘も、鋭い眼差しで農婦を見つめた。

「……分からないんです。突然、洞窟オークが襲って来て……」
両の掌で双眸を覆った農婦は、啜り泣きながら掠れ声で答えて首を振った。
「……あいつらは洞窟オークであったか」
黒髪の娘の呟きに、エルフ娘は顔を覗き込んだ。
「知ってるの?アリア」
「穴オーク。オーク小人とも云う。怠惰な種族でな。非力で鈍い。聞いたとおりであった。大した敵ではないよ」
くつくつと笑ってから、エルフの顔を見上げて言葉を続ける。
「ゴブリンなどと違って鍛錬を詰む者も滅多にいないから、手練の戦士ならまずは負けない。
だが、あいつらは怠惰で……臆病だったと思ったが……」
 話しているうちに眠気が押し寄せてきているのか。
瞳を眠たげに細めて、手を伸ばして藁の寝床を探るが、枕がない。
女剣士はエルフをじっと見てから、その膝に頭を横たえた。
エルフ娘は少しびっくりしたものの、そのままにさせておく。
「あれほどの数の穴オークに追われるとは尋常ではないな。奴らの巣にでも火をつけたか?」
膝枕で欠伸をしながら、涙目の女剣士が農婦に訊ねかけた。
エルフ娘は話を聞いているのか、いないのか、女剣士の額を掌で撫でている。


「実は村が洞窟オークたちに襲われまして……」
壁際でそれまで黙って話を聞いていた二人の村人が、顔色を青ざめさせて顔を見合わせた。
「あらあら、まあまあ、大変だったねえ」
村長の顔も強張ったが、口に出しては呑気そうにそう云っただけだった。

 何処かの村が襲われたのだとしたら、旅人としては避ける意味合いでも知っておきたいので、エルフ娘は記憶を呼び覚まそうとした。
「確か、ティティリスだったかな」
農婦はムッとしたように、村名を間違えたエルフ娘を睨んだ。
「トリスです」
女同士でやたらにべたべたしている旅人たちの姿は、平凡な農婦には忌避感を誘うものがあったのかも知れない。
やや嫌悪の感情を露わにして眺めていたが、二人の娘はまるで気にする様子もなかった。
「妙だな。だが、奴ら、確か臆病な種族だ。村を襲うなぞ……」
どうもしっくり来ない女剣士が、違和感を口にする。
「辺境の征服で手始めとか……頭目格が、確かそんなことをほざいていた」
半エルフは気にした様子もなく、女剣士に笑いかける。
「誇大妄想じゃない?よくオーク族も世界征服とか口にしているし」
女剣士は片目を瞑って、己が何に違和感を覚えているのか、再確認していく。
頭目格は、意志の宿った強い瞳をしていた。奴は自裁した。誇大妄想は大抵、肥大した自我を伴う。
何らかの理想、或いは計画に殉じるように自裁した姿と、どうも一致しない。
或いは何者かに唆されたか、或いは他のオーク族の動きと連動しているのか。
とはいえ、他者の心理を完璧に推測するなど不可能なので、曖昧な顔で首を振った。
洞窟オーク達は彼女の敵ではないし、辺境の村々は彼女の領地でもない。
「まあ、よい」
小さく呟いて考えるのを止めた黒髪の女剣士は、強い眠気に襲われて欠伸をした。

「そう、臆病な種族だからね。人を襲うのは少し信じがたい」
口にして村人たちや旅人たちを見廻した村長も、洞窟オークの性質は幾らか知っているらしい。
「雑木林の奥に死体があります。何か手がかりがあるかも」
云ったエルフ娘の膝の上で相当に疲れていたらしい。女剣士が寝息を立て始めていた。
エルフ娘が起こそうとするのを、年増女が手を振って止めた。
「ああ、休んでておくれな。本当に疲れているみたいだし、礼もあるしね。出来れば、昼飯も用意するよ」
にこやかに笑っている年増女をしばし見て、エルフ娘は礼を受け取る意味で頭を下げた。
「……感謝します、ではお言葉に甘えて」

 農婦は村人の一人に連れられて、村長の家から出て行った。
村長と残った村人も、家の外で何やら話し合っている。
「……無用心だな」
村長の家を見廻しながら呟いたエルフ娘だが、多分、裕福そうな此方の身なりに対する信用なども含めて、盗まれるような物もないと判断したのだろうと考えた。
寝ている想い人の体温を感じながら、エルフ娘は、しばし女剣士の黒髪を指先で弄んでいた。
昼ごはんも用意してくれるというのなら、今はやるべき事もない。
壁に寄り掛かったまま、さしてくる日差しを浴びてぼんやりしているうちに、穏やかな陽気に誘われたのか、己も頭をうとうとと揺らし始めるうちに藁の寝床に倒れこんで抱き合って眠りに落ちていった。


 昼前には、現場を見に行った二人の冒険者たちが戻ってきた。
態々、同行してきた村のお調子者が『山ほど沢山のオークの死骸』があると青い顔をして戻ってきた事から、農婦の話は真実なのだろう。
村長の家の入り口で、村長と二人組の若い冒険者は藁の寝床に寝ている女剣士に視線を向けた。
「そんなにかい?」
年増女が尋ねると、少年と青年の狭間にいるような茶髪の若い男が強張った顔で頷いている。
「沢山の小さな足跡が残っていたよ。凄い数だった。
 森の奥には二十近い洞窟オークの死骸がごろごろと転がっていた」
やや年嵩の赤味掛かった茶髪の女も、低い声で呻くように告げた。
「……あんな光景は見たことない。怒らせないほうがいいと思う。姐さん」
「そんな心算は最初からないよ。だけど、偉そうなのは態度だけじゃなかったんだねえ」
頭を掻いた年増女は、首を振りながら藁の寝床に眠る二人の娘を眺めて溜息を洩らした。
「で……オーク連中の狙いとか、手掛かりになりそうな何かあったかね?」
「いんや、それらしいのは全然。
 ただ、追手にあれだけの数を割けるなら、洞窟オークは相当な数じゃないかな」
冒険者の若い娘の方が首を振りながら、考えを述べる。
「頭目らしいでかい奴も、何も持っていなかったよ」
難しい表情の青年が視線を向けると、村長は深々と溜息を洩らした。
「トリスの事といい、頭が痛いねえ」
「でも、二十も頭数を失ったんだ。
 連中、何を企んででいるとしても少しはおとなしくなるんじゃないかな」
若い男が元気づけるように言ってから、真剣な表情で藁の寝床を覗き込んだ。
「にしても、信じられないな。あんな綺麗な人が……抱き合って……眠ってる?」
若い娘が言いにくそうに呟いてから、視線を逸らした。
「……エルフとかにはよくあることらしいよ。その……同性で」
「勿体無いな。二人ともあんな美人なのに」
ぼやくように青年が肩をすくめた。


 腹が空いた。そう感じて女剣士は起き上がった。
太陽の位置からして、時刻は昼頃。傍らでエルフも寝ていた。
手持ちの荷物も剣も全て揃っている。
周囲を見回してみるが、エルフ娘と村長の家に二人きりである。
「無用心なことだ」
首を振って呟いてから、女剣士は長剣を手にとって引き抜いた。
細かい刃毀れが幾つか生じていた。
水筒の水を使い研ぎ石を当ててみるが、苛立ち、舌打ちして直ぐにしまい込んだ。
「近いうちに研ぎに出さねばならぬな」
不機嫌そうに呟いてから、村人の押し寄せてきた河原での光景を思い起こし、立ち上がった。
「そういえば、ドウォーフがいたな……槌を持っていた」
頤に指を当てて考え込み、それから友人を起こそうとする。
「エリス。起きろ。エリス」
「……うぅん」
肩を揺するが、中々、目を醒まさない。
寝ているエルフ娘を一人にして大丈夫だろうか。
少し悩んだが、村人に害されたり、何かを盗まれるとは余り考えがたい。
多分だが、大丈夫だろう。
そう結論付けて、エルフ娘の尖った耳元で
「私は少し出かけてくる。戻るまで此処で待っていてくれ」
「……うん」
眠気交じりに肯いたエルフ娘を少し疑わしげに見つめてから、女剣士は剣を片手に家を出た。

 村の道をぶらついていると、程なくして目当てのドウォーフの姿も見つかった。
草叢に座り込んで、何をするでもなく青空をのんびりと眺めている。
横には革製の大きな背嚢が置いてある。
がっしりとした筋肉質の短躯に太い腕、腰には鉄の槌を二つ括り付け、編みこんだ見事な白髭を膝まで垂らしている。
革服から飛び出した赤銅色の逞しい太腕には、火傷の痕跡が幾つも残っている。
これは十中八九、鍛冶師に違いあるまいと思いながら、女剣士は声を掛けた。
「御主、鍛冶師か?」
女剣士を見上げると、ドウォーフは無言で肯いた。
「製品を見せてくれぬか?」
腕を知りたいのだなと目星をつけて、当たり障りのない鎌やナイフなどを広げた。
「求めているものがあったかな、お嬢さん」
女剣士は、暫らく商品を真剣な目で見つめていたが、やがて己の長剣を取り出した。
「研げるか?」
鞘から引きぬき、白髭のドウォーフは低い鼻の曲がりそうな血臭の凄まじさに顔を歪める。
「……おぬし。これは……」
何人斬ったらこうなるのか。
「……今朝、洞窟オークに襲われた。半月前には訪ねたモアレがオークに占領されていたし、
その前の日には盗賊のフィトーに襲われた」
小さな眼をぐりぐり動かして、ドウォーフは黒髪の女剣士を見上げる。
「フィトーを討ったのはあんたか、いや、待て、モアレが襲われたって?!」
「うむ。オークに占領されて、村人は散り散りだろう。知らなかったのか」
「本当か?」
ドウォーフが疑い深そうに訊ねてくるのを、女剣士は肩を竦めて如何でも良さそうに答える。
「此の目でみた。それより研ぎを頼めるか?」
長剣を手に取ったドウォーフは、首を傾げてじっと刀身を眺めて吟味していた。
「……ちょっと預かるぜ」
「うむ」
肯いた女剣士を連れて河原に向かうと、ドウォーフは荷物を広げる。

「……あれ、アリア?何処いったんだろ」
エルフ娘が目を醒ますと、相棒の女剣士の姿が見当たらない。
寝起きが悪いのか。
眼を擦りながら周囲を見回していると、小腹が空いたのが腹が鳴った。
「昼ご飯を馳走してくれるといったけれども……」
 外は晴天の空が広がっている。
旅をしていれば、太陽の位置から時刻は正確に測れるようになる。
正午の少し前くらい。ふらふらと外に出る。
昼飯の前に、軽くでも何か食べるものでもないかと、村を歩き始めた。
ゴブリン爺さんの露店に通り掛かる。相変わらず、木の実や干した魚やらが並んでいた。
エルフ娘をみとめた老ゴブリンが嫌そうな顔をしたので、愛想笑いを浮かべて近づくが、威嚇するように歯を剥き出されて慌てて逃げ出した。

「お腹空いた……朝は軽く済ませたのにいきなり走り回ったから」
ゴブリンに食べ物を売って貰えなかったので、腹の音を響かせながら翠髪のエルフ娘は村の反対側へと向かうと、ちょっとした空き地に子供同士で遊んでいる姿が目に入った。
農婦とその娘もいたので近寄ってみる。
「やあ」
「……あ、朝のエルフさん」
農婦の娘に話しかけると、まだ少しぎこちないながらも大分、険の取れた顔で挨拶してきた。
「エリスだよ」
「あたし、ニーナです」
会話を交わしていると、農婦が立ちはだかるように間に立った。
びっくりして農婦を見ると、胡散臭そうにエルフ娘を眺めている。
「うちの娘になんぞ用?」
「気になったから、来ただけだが……」
嫌悪感を剥き出しにして農婦はエルフに言い放った。
「……女同士で手を握ったりして。あんまり娘に近づかないで欲しいんだけどね」
「……失礼な人だね、貴女は。
 私たちが洞窟オークを蹴散らさなければ、死んでいたに違いあるまい。
 仮にも恩人に向かってそれはないのではないだろう」
窘めるようにぴしゃりとエルフ娘に言われて、農婦は鼻白んだ様子だった。
性情は陰険ではないのか。強気に出られると弱くなるのか。
云われてみればその通りであると反省した。
「すんません。助けていただいたのに……」
急に弱気になった農婦にエルフ娘は眉を顰めていたが、無礼は水に流す事にしたのか。
咳払いして改めて問いかけた。
「……で、此れからどうするんだね?村は襲われてしまったそうだけど」
聞いてくるエルフの娘に好奇心の色は見えない。声音からは労わりが聞き取れた。
性的嗜好は兎も角として、どうやら親切な性質らしいと思い、農婦が頷きながら
「一応、畑の手伝いで、春までは居ていいそうで。それから大きな村か町へ向かってみようかと……」
農婦が其処まで云ったところで、急にエルフが明後日の方向へと向き直った。
「なんだろ?村の入り口の方」
呟いているエルフに戸惑い、口篭っている農婦の耳にも、やがて喚声が響いてきてその顔が恐怖に激しく強張った。
「こ、これは……あいつらだよ。洞窟オークが来たんだぁ!」
聞き覚えのある甲高い叫び声が、生々しい恐怖の記憶を呼び覚ます。
恐怖に絶叫している農婦の目の前で、幼い少女が顔面を蒼白にして立ち竦んでいた。


 白髭のドウォーフは太く短い腕に長剣をかざすと、惚れぼれと眺めていた。
「良い鉄を使っているな」
対面の石に腰掛ける女剣士が肯いた。
「パティスの刀工による逸品だ」
「なるほど、パティスか」
納得言ったようにドウォーフも、また肯いた。
 パティスは流れの鍛冶集団の一つで、値は張るが中々に良い武具を造ることで知られていた。
大きな砥石を全体的に水で塗らし、長剣の刃を磨くように滑らして研いでいく。
女剣士も研ぐ為の一応の技能は習得しているが、本職の仕事には及ばない。
邪魔をするわけではなく、ただ楽しげに職人の仕事ぶりを見ている女剣士に、仕事も終わりに差し掛かった頃、ドウォーフが何気なく訊ねかけた。
「……何人斬りなさったね?」
女剣士は微かに目を細めた。質問に不快を覚えた訳ではないが、微かに心の奥底に漣が広がった。
「さて、覚えてないな。此の半月では三十か四十ほどだと思う」
ドウォーフは絶句して、首を振る。
「お前さま、辺境(メレヴ)の人口を半減させる心算かね?」
面白い冗談を耳にしたかのように、女剣士はくつくつと笑った。
それから苦い微笑を口元に浮かべて、白髭のドウォーフをじっと見つめた。
「大半は、生きていても仕方のない屑だったよ。幾人かは善良な人間もいたかも知れぬ」
鍛冶職人は背筋を震わせてから、長々と溜息を洩らした。
「……若い娘がなぁ」
「わたしもそう思う。だが、今さら他の生き方は出来ない。
それに戦うのも嫌いではないしな」
ドウォーフの低い呟きに、女剣士は淡々とした口調で応じた。
「戦うことは生きること。生きることは戦うことだろう」
言い切る様でもなく、自然とその言葉を口にしてから女剣士は黙ってドウォーフの仕事を眺めていた。
「出来たよ。だが、もう少し優しく扱ったほうがいいな」
差し出された長剣を日にかざし、ためつすがめつしてから女剣士は嬉しそうに破顔一笑する。
「ん、見事だ。で、幾ら払えばいい?」
「そうさな……フェレ銅貨五枚」
女剣士の裕福そうな身なりを見てから、白髭のドウォーフが値を告げた。
「少し吹っかけ過ぎだな」
女剣士はくつくつと笑っている。
ドウォーフは自分でもそう思っているので、何がおかしいのか自分でも良く分からぬままかっかっと笑った。
「だが、お主はいい仕事をしてくれた」
立ち上がった女剣士は巾着を取り出すと、フェレ銅貨を七枚を手に取ってドウォーフに払い、それから短剣を手渡した。
「此方の短剣も頼めるか?」
受け取ったドウォーフは、短剣を値踏みするように眺めてから眉を顰める。
「こっちは……余り良い品でもないな」
「うん。だが、悪くもない」
ドウォーフは女剣士をじろりと睨むと、しかし肩を竦めて研ぎに掛け始めた。
女剣士は腕組みしながらドウォーフの仕事を楽しそうに眺めていたが、雷に打たれでもしたかのように急に背後を振り返った。
村の入り口の方角、土埃が上がっているのが見える。
「……ふむ。済まぬが、短剣を此方に返してくれ」
「……おい、まだ仕事の最中だぞ」
眉を顰めて不機嫌そうな声で文句をつけたドウォーフが腰を浮かした瞬間、繁みが揺れて、河原に三匹の小柄な亜人が飛び出してきた。
「こいつらは……オーク共か!」
「ドウォーフ!ちびの屑野郎!」
叫びながら飛び上がったドウォーフに亜人たちが向き直り、憎々しげな喚き声を上げて突進してくる。
「こやつらは洞窟オークだ!恐らくはトリスを襲った連中と同じであろうな!」
愛剣を引き抜いた女剣士が白髭のドウォーフを庇うようにその傍らに立った。
ドウォーフが腰から鉄の槌を取り出すのと同時に、長剣を煌めかせて女剣士は駆け出した。



[28849] 59羽 襲撃 05 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/12/03 20:57
「男は武器を持って集れッ!女たちは子供たちを連れて奥に!」
「川辺まで避難しろ!急げッ!」

 村の入り口で発せられた洞窟オークの襲来を告げる警告の叫びが、鋭くエルフ娘の耳を突いた。
周囲で慌ただしく人が走り始めた。なにやら叫んでいる者もいる。恐慌を起こしている若い娘もいれば、歯を食い縛って家から棍棒を持ち出してきた農夫もいる。
 急な襲来に戸惑っているエルフ娘が辺りを見回せば、同じように何事か理解できずに棒立ちしている旅人や村人も少なくなかった。
目の前で、恐怖に顔を引き攣らせた農婦が子供の腕を引っ張って走り始める。何処へ向かおうというのか、河原はそっちではない。止めようと手を伸ばしたエルフ娘は、背中から誰かに突き飛ばされた。
 転んで地面に手をつき、冷たい土を触って漸く頭が回転し始めた。
洞窟オーク族が攻めてきた。村から逃げなければ……いや、その前に。
……荷物ッ!
脳裏に閃くと同時にエリスは立ち上がって、村長の家へと駆け出した。
食料などは鍵を掛けた旅籠の部屋に置いてきてあるが、嵩張る服や鉄鍋など幾らかの荷物が置きっぱなしである。
着物や下着、薬草などの入っている革鞄は、捨てるには余りに惜しかった。
貧しい旅人にとっては、命と同じくらい大切な価値が在る。
出来るなら、女剣士の荷物も回収しておきたい。

 途中で棍棒や六尺棒、錆びた鎌や短剣、青銅の槍を手にした村人たちとすれ違った。
「細い道まで下がれ!下がれ!」
何かをエルフに言い放って、駆け去っていく。
人の流れに逆行して村の中央に在る小屋に駆け戻れば、辺りでは慌ただしく、人が駆け回っている。いや一方向に駆けていくようだ。
「数が多いぜ!糞ッ!」
「丘のところで食い止めるぞ!狭くなってるから防ぎ易い!」
村のもっと奥にある防ぎ易い位置まで下がって洞窟オークたちを迎え撃つのか。
「……急がないと」
村長の家に入るとエルフ娘は直ぐに自分の鞄を抱え、女剣士の荷物も背負って戸口へ振り返る。と、外を武器を手にした複数の小柄な影が駆けていった。
背筋に冷たい物が走ったのを自覚しながら、素早く隅に隠れる。
「エルフだ!エルフを探せ!」
「グ・ルンの仇だ!」
半エルフの顔から、今度こそ血の気が引いた。唇を噛んで首を振ると、じっと気配を殺して外の様子を窺う。一定数が通り過ぎて言った後は、やや静けさを取り戻していた。
今かな。
躊躇しつつも外に出ようとして、エルフ娘は何かを思いついたのか立ち止まった。
革鞄を急いで漁り、布を被って頭巾とする。此れで目立ち易い翠色の髪は隠せただろう。
一見、他の農婦と区別は付かなくなる筈。少なくとも遠目に直ぐには分かるまい。
緊張に乱れた呼吸を整えると、エルフの娘は村長の家を出ることにする。
まずは、落ちついて行動しないと。見つからないように逃げる事。
洞窟オークは余り足は早くないが見つかるのは上手くない。いざという時は荷物を捨てよう。
そんなことを考えながら戸口に振り返り、ギョッとして立ち竦んだ。
洞窟オークが一匹、戸口に佇んでエルフ娘を睨んでいる。
半エルフが腰の棍棒を構えた瞬間、小柄なオークは喚声を上げて思い切り体当たりしてきた。



 好戦的な喚声を上げて三匹の洞窟オークが女剣士と白髭のドウォーフに吶喊してくる。
振り上げた灰色の腕には、粗末な手製の槍やら、ちゃちな棍棒、玩具のようなナイフが握られている。
洞窟オーク達は、その身に襤褸を纏っているだけで盾も鎧も冑もない。
皮肉な笑みを口元に浮かべながら女剣士は、パティスの刀工が鍛えた鋼の長剣を構えて洞窟オークたちを迎え撃った。
 幼少から厳しい訓練を積んできた黒髪の娘は、若年にして既に手練の剣士である。人族の女性としては恵まれた体躯と膂力から繰り出される鋼の刃の一撃には、小柄な洞窟オークなど容易く絶命させる威力が宿っている。小柄で動きの鈍い洞窟オークたちにとって、長身の癖に恐ろしく俊敏で身動きの速い女剣士は相性が最悪に近い天敵であっただろう。
 真正面から振り下ろした鋼の刃の一撃は、先頭の小柄な亜人の肩から腹部まで強かに切り裂いた。
絶叫する槍のオークを横に、跳ね上がった剣先はナイフのオークの手首を跳ね飛ばした。
金属製の腕輪と言わずとも、せめて布でも巻いておけば幾らか刃の鋭さを防げたものの、粗末な衣服に急所を素肌のままにさらしている洞窟オークたちでは、威力と速度を兼ね備えた鋼の斬撃に抗する術もない。
 左足を軸に回転しながら、女剣士が一気に剣を突き出すと、最後のオークは喉笛を切り裂かれて派手に血を撒き散らして河原へと崩れ落ちる。
呼吸を止めていた女剣士は、小さくヒュッと息を吐きながら剣を引き抜いて振り返ると、手首を失って地面にへたり込んでいたオークに止めを刺した。
 洞窟オーク三匹を相手にしながら、殆ど何もさせずに一方的に殺戮した女剣士の手際を目の当たりにして、白髭の職人ドウォーフが愉快そうに笑い声を上げる。
「やるのう。だが、手並みが鮮やか過ぎてわしの出番が無かったぞ」
長剣を宙に薙いで血糊を払った女剣士だが、背後の繁みに気配を感じて険しい表情で振り返った。
「賞賛するほどの相手でもあるまい。それに……それっ!新手がまだ来るぞ!」
同時に二人の目の前で葦の繁みを掻き分け、さらに数匹の洞窟オークが姿を現した。
仲間たちが倒れているのを見つけると、怒りの声を上げながら二人に襲い掛かってくる。



 エルフ娘の振り下ろした棍棒が肩を痛打するが、洞窟オークは怯みを見せなかった。
そのまま突っ込んできた小柄な亜人は細身のエルフ娘を壁まで叩きつける。
「グ・ルンの仇よ!」
鈍く輝く青銅製のナイフを振り上げて迫ってくる洞窟オークに、肺の空気を洩らして呻いていたエルフ娘が逆襲に転じた。
女剣士を真似して思い切り手首に棍棒を叩き付ける。
「……ぎゃッ!」
痛烈な一撃を手首に喰らって洞窟オークがナイフを取り落とすと、
好機に乗じたエルフ娘は今度は鎖骨を狙って棍棒を叩きつけた。
小柄な亜人は身を捩って腕で棍棒を受けると、苦痛に唸り声を上げながら猛烈な勢いで遮二無二突っ込んできた。
エルフ娘の懐に飛び込むや、口をかっと開いて小さな牙で喉笛に喰らいつこうとする。
小さく悲鳴を上げたエルフ娘だが至近で揉み在っていては棍棒は使えないし、かといって素手で洞窟オークを押しのけられるほどの膂力も持たない。
「こ、この……」
ガチガチとなる歯を手で必死に抑えながら、叫んで左拳で洞窟オークを何度も殴打するが、効いた様子もない。
苛立ったのか、エルフの急所に噛み付こうとしていた洞窟オークが首を諦めて肩へと喰らいついた。
肩に小さな牙が食い込んでくる。エルフ娘が甲高い悲痛な叫び声を上げた。
服の布地が食い破られたのか、洞窟オーク牙はますますエルフの柔肉に食い込んだ。
洞窟オークの荒い鼻息を耳に入れて、エルフ娘の顔から貧血のように血の気が引いた。
 肩に痺れが走り、激痛に動きが鈍ったエルフ娘が、震える左腕で洞窟オークの顔をがつがつと叩くが、鼻血が散るも大して効いた様子はない。
牙で噛まれているところから熱さが広がっていく。
小さな牙に皮膚を食い破られた。ぶちっと云う音を尖った耳が聞いたような気がした。
肉と骨が軋んだ音を立てた。鮮血が服に滲む。

 エルフ娘は絶叫しながら、爪で洞窟オークの顔を掻き毟った。眼球を掻き毟られるのを恐れた洞窟オークが仰け反って離れると、エルフ娘は床に崩れ落ちて呻いている。
棍棒を拾おうとするが、痛みに腕が麻痺して上手く動かない。
凶暴な呻き声を上げた洞窟オークがナイフを拾い上げた。
エルフ娘は、息を整えながらよろよろと立ち上がってオークを睨みつけた。
肩が酷く痛んだ。
女剣士に短剣を渡されていた事を思い出して、背中から引き抜いてぎこちなく構える。
突っ込んできた洞窟オークを何とか躱して、短剣で切りつけた。
脇腹を斬られた洞窟オークが、怒りの叫び声を上げて飛び掛ってくる。
「……痛ッ」
腕を斬られたエルフは、呻きを洩らしながら再び突いたが跳び退って躱された。
再びオークが切りかかってくる。
「うあ」
今度は辛うじて避けるが、休まず斬り付けた洞窟オークのナイフが二の腕に当たり、服を切り裂いた。
浅手にも拘らず、灼熱感が走り抜けた。
距離を取って乱れる呼吸を整えながら睨み合うエルフ娘の脳裏に、女剣士の呟きが蘇った。
……大した相手ではないよ。
大した相手ではない?
あくまでアリアから見ればの話だろう。
手練の剣士や、よく訓練された兵士ならば、引けは取らないというのも分かる。
だけど、一般人のエルフ娘にとって洞窟オークは洒落にならない相手であった。
こうして対峙しているだけで活力が磨り減るようだ。
しかも、戸口の前に立ち塞がっているから、逃げることも間々ならない。

 突然、目の前の洞窟オークが目を見開いて大きく痙攣した。
その下腹からは大きく槍の穂先が飛び出してる。
洞窟オークの背後から年増女が青銅製の槍を突き刺していた。
槍を引き抜くと、洞窟オークがぎこちない動きで振り返った。
再び突き刺された槍を胸に受けると、小柄な亜人は床に崩れ落ちて動かなくなる。

年増女が顔の血を拭うとエルフ娘を眺めた。
「こいつら、あんたを探していたみたいね」
「……朝にやっつけた中に、地位の高いオークがいたみたい」
オークは頭目を殺した者をつけ狙う習性を持つ。
「……力の掟かい」
苦い表情で頷いた年増女の眼差しはやや非友好的で、或いは村が襲われたのはエルフ娘の責もあると思っているのかも知れない。
その背後には、武装した村人たちや二人組の冒険者の姿が見える。
年増女は村人たちに指示を出し始める。
「男は纏って防ぐよ。女たちは奥に行きな。
あんたたちは、女子供を捜して奥へと避難させておくれな」
年増女の言葉に若い冒険者たちが頷いた。
「あんたも逃げな」
エルフを一瞥してから言い捨てると、年増女たちは足早に小屋を出て行った。
臆病な野生の兎のように尖った耳を動かし、エルフ娘は周囲を窺いながら洞窟オークを避けて田舎道を歩き出した。



 村の南側にある河原の草や石は、洞窟オーク達の鮮血で赤く染まっていた。
「おい、村の近くじゃぞ!」
白髭のドウォーフが喚きながら、飛びかかってきた洞窟オークの一匹へと槌で殴りかかった。
洞窟オークが悲鳴を上げつつもナイフでドウォーフに切りかかったが、金属板を仕込んだ革の上着に青銅の刃は滑って服を切り裂いただけで終わった。
「襲撃なのだろうよ!」
叫んだ女剣士が、洞窟オークの腹部に横合いから長剣の一撃を叩き込んだ。
乱戦での戦闘は女剣士の得意とするところで、新たに現れた五匹の洞窟オークのうち既に二匹が地に伏して息絶えていた。
ドウォーフが怒りの叫び声と共に一匹の頭を叩き潰すのと、女剣士が三匹目を突き倒すのは殆ど同時で、最後に残った洞窟オークは悲鳴を上げて逃げ出した。
白髭のドウォーフが雄叫びを上げてオークを追いかけようとするのを、女剣士が押し止める。
「なぜ止める!逃がせばまた人を襲うぞ!」
顔を真っ赤にして猛っているドウォーフを宥めながら、女剣士は村を指差して説得する。
逃げたオークも、仲間たちと合流したら気力と活力を回復させてまた手強くなる。
だが、女剣士は逃げ惑う一匹を追い掛け回して時間を取られるよりは、村人を助けに向かうべきだと訴えた。
その方が、結局はより大勢の村人を助けられるに違いない。
「逃げる者を追い掛け回して無駄な体力を使うよりは、村人を助けに行こうはないか!
 わたしの友人もまだ村にいると思う。手を貸してくれ」
「うむう。友人ってのはあのエルフか」
伝統的にエルフ嫌いではあるドウォーフ族ではあるものの、オーク族に対しては嫌いを通り越して怨敵に近い関係である。
女剣士の投げかけた言葉に冷静に立ち返って考え込んでいる白髭のドウォーフは、
幸いにして好悪の念で動く人物ではないようだ。
しばしの逡巡の後、提案にも一理あると肯くと二人で喧騒渦巻いている村へと向かって走り出した。



 川辺の村からの脱出を試みたエルフ娘だが、目に付く田舎道には幾人もの洞窟オークが蟹股で走り回っている。
目の前を小柄な影が横切り、慌ててエルフ娘は傍らの茂みに身を隠した。
気付いた様子もなく、足音は目の前を駆け抜けていった。
木立や大きな岩、盛り上がった土など、幸い隠れられる場所には不自由しない。
洞窟オークの牙に噛まれた肩が、まだジンジンと熱を発して痛んでいた。
布地は破れていないが、皮膚が裂けたのか、微かに血が滲んでいる。
非力なエルフの娘にとっては、洞窟オークは例え一匹でも充分に危険な相手だった。

 背の高い繁みなどに身を伏せつつ道が無いかと窺ってみるが、小柄なオークたちの数は余りに多く、迂闊な動きをすれば直ぐに見つかって捕まってしまうと思われた。
少し数が減るまでは、身動きも取れないや。
離脱を断念せざるを得ないエルフは、取りあえずは次善の策として喧騒から少しでも遠ざかっておこうと判断する。
 細い道を目立たぬように歩いていると、納屋に差し掛かったところで曲がり角の向こう側から複数の甲高い叫び声が聞こえてきた。
破裂音を多く含む威圧的な発音は、意味は分からずともオーク語とは直ぐに分かる。
やばい。
後退って別の道を行こうとするが、背後からも幾つもの駆け足と争うような物音が近づいてくる。
慌てて田舎道を見回すが、間の悪いことにちょっとした空き地となっている。
空き地を横切ろうなどとせずに、ゆっくりとでもいいから焦らずに、遮蔽物のある地形だけを選んで進めばよかった。
今さら悔いても仕方のない考えが、エルフの頭の中でぐるぐると廻っていた。
物音と叫び声は、どんどんと近づいてくる。
納屋の傍に在る壊れた壷や木箱に隠れる?
駄目。蓋もなく、隠れても直ぐに見つかってしまう。
空き地を横切って、繁みに隠れる?
周囲を囲まれた状況でちらとで見られたら、完全に詰む。それに連中、結構、繁みを探している。
切羽詰った表情で必死に視線を配っているエルフ娘だが、足音は着実に近づいてくる。
やがて、灰色の肌をした洞窟オークたちが曲がり角からひょいと顔を出してきた。



 三匹の洞窟オークが村道で悲鳴を上げて逃げ惑う女子供を追い掛け回していた。
「たす……おたすけ……!」
喘いでいる子供に手が届きかけた洞窟オークが、横合いからの凄まじい一太刀で首を跳ね飛ばされる。
驚き慌てふためいた別の洞窟オークが、強烈な槌の一撃を叩きつけられて地面に伸びてしまう。
「ペイガンの灼熱のハンマーに掛けて、くたばれ!」
悲鳴を上げて命乞いする洞窟オークに、ドウォーフが馬乗りになって槌を振りかざした。
白髭のドウォーフが倒れた洞窟オークに止めを刺した時には、最後の洞窟オークも女剣士によって倒されていた。
礼を言う女子供にさっさと逃げろと手を振って合図すると、女剣士は息を整えながらドウォーフに黄玉色の瞳を向けた。
「……意外とやるではないか」
「御主には負ける」
一瞬だけ笑ってから、女剣士はドウォーフに対して名乗ることにした。
「アリアテート・トゥル・カスケード。東国はシレディアの民、カスケード家の嫡子」
「ボルンの子、グルンソム。モスカーンのゴラン氏族」
互いに名乗りを上げつつも、二人は緊張を緩めてはいない。
 周囲の小屋や田舎道を見回した女剣士だが、憂鬱そうな表情で愚痴るように呟いた。
「……数が多いな」
女剣士と白髭のドウォーフの通り過ぎた村道には、洞窟オークの亡骸が死屍累々と残されている。
女剣士はよく訓練された手練の剣士であったが、白髭のドウォーフも相当な腕の持ち主であった。
鈍重な体躯ではあるが強靭な膂力と意外に巧みな技で、出会った洞窟オークを次々と屠っているし、二人ともいまだに無傷でもある。
村に入ってから二人は既に十匹以上の洞窟オークを倒していたが、しかし、それでも侵入者は一向に減る気配を見せず、田舎道や小屋、納屋、穴倉などを盛んに出入りして村中を跳梁跋扈していた。
村を進む二人を見かけるや間断なく襲ってくるか、興味を持たずに戦利品を漁り続けている。
 今も小屋から大量の布を抱えて飛び出してきた洞窟オークが、二人の目の前で道を駆け去っていった。
「……どうやら血を見たくて襲ってきた連中と、戦利品目当ての連中がいるようだな」
乱れた呼吸に胸を上下させつつ女剣士が小屋を覗き込むと、散らばった野菜を床にへたり込んで齧っていた洞窟オークが敵に気づいて咆哮を上げ、ナイフを振り上げ飛び掛ってきた。
舌打ちして剣を振るうと、間合いの長い長剣の強烈な一撃に洞窟オークはあっさり打ち倒された。
横合いから襲ってきた洞窟オークも、白髭ドウォーフの槌を喰らって地面へ倒れこみ、動かなくなる。
「これは限がないぞ……戦うだけ戦った後はとんずらしたほうがよさそうじゃ」
溜息を洩らして視線を向けてきたドウォーフに、黒髪の女剣士も舌打ちしつつ同意した。
「……或いは、敵の親玉でも見つけるかだな」
早朝にも雑木林で駆け回って乱戦を行なった女剣士であったが、短時間の休息でかなりの活力を回復させていた。
盗賊やオークたちに比べれば洞窟オークは余りにも歯応えのない相手であり、まるで体力を消耗していない。
ろくな防具を纏わず、小柄で動きも鈍い洞窟オークは、殆どが一太刀か二太刀で切り倒され、女剣士を相手に三合と持ち堪えた者は一匹もいなかった。
しかし、それでも数の差というものは大変なもので、圧倒的に多数の敵が彷徨う村の中をたった二人で突き進むという気持ち的に気圧される状況では、百戦錬磨の剣士と古強者の戦士であっても神経を削られるのは避けられない。
「エリス……何処にいるんだい?」
それなりに機転が効く性格の友人である。
上手く逃れているとは思いたいものの、女剣士も一抹の不安は隠せない。
額に汗で張り付いた前髪をかき上げながら村を見廻すと、女剣士は気がかりな様相で呟きを洩らした。


 洞窟オークは六、七匹もいた。見つかったら、一巻の終わりだ。
エルフ娘は恐怖を含んだ瞳ですぐ目の前にある細道をなにやら喚きながら駆けていく洞窟オークの集団を見下ろし、緊張に唇を舐めてからゆっくりと息を洩らした。
恐怖も緊張も、今のところ集中力を高めてくれる程度に抑制できている。
今隠れているのは、納屋の屋根の上である。
木箱に木箱を積み上げて踏み台にし、エルフ娘は飛び上がるようにして屋根に身を隠していた。
殆ど間一髪だった。
 藁ぶきの屋根の上で寝転びながら、激しく強張った表情を解きほぐして村を見廻してみる。
安全な方角は何処だろう。
アリアは無事だろうか。兎に角、友人と合流したかった。
アリアなら例え五匹や六匹の洞窟オークに襲われても、易々と負けはしないだろうが……
洞窟オークの数は余りにも多い。
まるで地の底から湧いてでもいるかのように、時間と共にますます増えてきている。
屋根の上だって安全とは言いきれない。
一匹でも見上げれば、危ない。遠目から見れば、ばれるかも知れない。
隠れていても、いずれは見つかりそうだ。
やはり、早めに捨てて脱出した方がいいかもしれない。
いや、夜まで隠れていれば……
待て、夜目が効くとか云ってなかったかな?
違うか。あれは洞窟ゴブリンだ。
でも、洞窟オークって言うのなら、夜目は効くのか?

 納屋の目の前にある空き地では、洞窟オークに挟み撃ちされた傭兵風の装いをした旅人と農夫が洞窟オークに囲まれて追い詰められていた。
旅人も農夫も屈強そうな男性だったが、多勢に無勢な上に周囲を囲まれてはどうしようもない。
棒切れや中剣を振り回して二、三匹の洞窟オークに手傷を負わせていたが、やがて隙を疲れて背中から飛びかかられると、あっという間に群がられ、地面に引き摺り倒されてしまう。
屋根から覗いたエルフ娘は、血塗れの傭兵と目が合ってしまい、直ぐに目を背ける。
死ぬ間際の傭兵は何かを言いたげに口を開き、助けを求めるように手を伸ばしていたが、直ぐに無数のナイフや石の槍、石斧、棍棒が振り下ろされて断末魔の悲鳴を上げる。
田舎道に残されたのはズタズタに切り裂かれた血肉だけで、服の残骸で傷に包帯を巻いたり、戦利品を漁った洞窟オーク達は、勝ち鬨を上げると再び駆け去っていった。
人気がなくなったのを見計らうと、エルフ娘は猫のように音も無く屋根から下りる。
村の入り口からは、今も大勢の洞窟オークがなだれ込んできていた。
取りあえずは、反対側にいくしかなさそうだね。
女剣士と合流するか、逃げ道を見つけよう。
唇を舐めたエルフ娘は、細心の注意を払いながら素早く空き地を横切って村の奥へと進んでいった。



[28849] 60羽 襲撃 06 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/08/02 21:26
 世の中は何が起こるか分からないとエルフの娘は思っている。大きな町や村が数十人、数百人という大規模な山賊団や海賊団に襲撃されて根こそぎ略奪された。時に灰燼と化すほどの被害を受けたなどという話も、辺境を旅していれば年に一度は耳に挟んだりする。
だから、滞在している村がオークや盗賊に襲われることもけして有り得ない話ではないだろう。

 暇を持て余していたここ数日、エルフの娘は散歩ついでに村の地形や建物の位置などを大まかに把握しておいた。念の為、逃走路になりそうな路などを決めておけば、いざという時も迷わずに済むし、
多少なりとも有事の際の生存率を上げてくれる筈であった。或いは、無駄なことをしているのかも知れないと思いながらも、半ば惰性で行っていた日頃の習慣が、今、確かにエルフ娘の身を救ってくれていた。

 村内には、手の入っていない生のままの自然が豊富に残っていたので、身を隠す場所には不自由しない。
凸凹した道も、俊敏な身のこなしのエルフ娘が鈍重な洞窟オークから逃げ回るには都合がよかった。
時に木立や岩陰、盛り上がった土手などに身を潜めて賊共をやり過ごし、時にはでこぼこした道を大胆に小走りしながら、エルフ娘はあっさりと村外れまで辿り着いていた。
一度だけ遠目に見つかってしまったのか。後を追いかけられたが、幸いに洞窟オークはそれほど足は早くない。持ち前の素早い身のこなしで、エルフ娘はあっさりと追跡者を振り切る事が出来た。

 先ほどから、村の中心部の方よりひっきりなしに干戈を交える音と喚声が響いてきている。
エリスは、巻き上がっている激しい砂煙に蒼い瞳を向けて憂鬱そうにつぶやいた。
「激しくやりあってるみたいだな」
村人と洞窟オークのどちらが勝つにしろ、巻き込まれないようにさっさと距離を取って正解だった。
人の背丈ほどの高い繁みに身を潜めながらエルフ娘は慎重に辺りの田舎道を窺っていたが、やがて不審そうに首を傾げて考え込んだ。
村内を駆け回っている洞窟オークたちが、此処に来て随分と数を減らしたように思えてならない。
相変わらず多いといえば多いが、盛んに駆け回っていた小集団がふと姿を消しているのだ。
半エルフが村外れにまで辿り着いたからだろうか。数瞬考えるが、違う気もする。
村内を行き交っている洞窟オークが目に見えて減らなければ、これほど容易には村外れまでやってこれなかっただろう。先ほども血相を変えて喚きながら道を逃げていく一匹を見かけたから、戦は村人たちが優勢なのだろうか。
案外、アリアが奮戦して片端から洞窟オークを倒しているのかもしれない。
ふと思い浮かんでから、さすがに都合よすぎる考えに思えて、エリスは苦笑して首を振るった。

 如何にアリアが腕が立つと言っても、並み外れた膂力や屈強の肉体に恵まれている訳でもない。
こんな状況では、よっぽどの豪傑でもない限り、単騎の剣士に出来ることなど限られている。
今はただ、無事で居てくれればそれでよい。
友人の無事を祈りながら、エリスは先に村を脱出しようと注意深く進み始めた。


 村内のやや狭い田舎道で数十人の村人と洞窟オーク達が固まってぶつかり合っていた。
一匹の洞窟オークが喚声を上げて棍棒を振り下ろした。
激しい一撃を六尺棒で受け止めた農夫が、跳び退さるや今度は歯を食い縛って己が武器を洞窟オークへと叩きつける。
村人たちと洞窟オークの集団戦は拮抗していた。
入れ代わり立ち代わり、数人が前列でひしめき合い、押し合っている。
乱戦は別にしても、こうした集団同士のぶつかり合い。
特に装備や人数の拮抗する争いでは、序盤は殆ど死人や深手は出ないものだ。
戦死者が出始めるのは、片一方の体力が底を尽き、士気が挫けて、敗走を始めてからが多い。

 洞窟オークの酋長であるグ・ルムは苛立たしげに歯噛みしていた。
野山を彷徨う野良の洞窟オークたちや、部族に属さない家族単位の小さな群れにも声を掛けて人数を集めたものの、所詮は烏合の衆。人数ほどの力は発揮できずにいた。
それに思ったよりも、村人たちが粘り強い。
二方向から攻めたてた当初は洞窟オークが優勢に押していたものの、
時間が経つと共に、村人たちも半包囲された衝撃から立ち直ってきたのか。
指揮官らしい年増女や中年男の張り上げる声に鼓舞されて、明らかに持ち直して来ていた。
こうなると武具や体躯に劣る分、徐々に洞窟オークの方が不利になる。

 洞窟オークの一人がグ・ルムの目前で目前で横転した。
洞窟オークの酋長は前に進み出ると、味方を庇うように小剣を振り回して村人を牽制する。
その隙に横転した洞窟オークが立ち上がったのを見届けてから、グ・ルムは、再び後ろに下がって声を張り上げる。
だが、味方の洞窟オークたちはいずれも相当に疲れてきている様子なのが見て取れた。
数では優っているが、今一つ村人を押し切れないでいる。
殻竿や棍棒が叩きつけられる度に洞窟オークたちは怯みを覚え、呻きをあげて後退ってしまう。
そろそろ、南に廻した兵が姿を見せてもおかしくない筈だが……
酋長のグ・ルムは南へ続く田舎道に視線を走らせたが、一向に味方の現れる気配が無い。
所詮は、烏合の衆。略奪に夢中になっているのだろうか。それにしても遅すぎる。
纏って来る事も期待していないが、殆ど姿を見せていないのはどう云う事か。
その為に、今彼の大切な子飼いの兵が危地に陥っている。

馬鹿共!大きなものの見えん愚か者共め!
僅かな家具や農具、食べ物に執着して、村一つを得るか否かの戦いを危うくするとは。
なんと言う愚か者たちだろうか。
猛り狂う気持ちを抑えた洞窟オークの長は、小剣を振るって味方を鼓舞する。
命令に従わない愚か者共を、なぶり殺しにすらしてやりたい。
連中を当てにしすぎたか、洞窟オークの酋長の胸中を暗い予感が過ぎっていた。

此の時点で洞窟オークの長であるグ・ルムには、幾つかの誤算があった。

 一つ目の誤算は、思っていたよりも川辺の村の人々がずっと早く反攻に転じて来たこと。
予期していなかった早朝の奇襲を受けたトリス村と違って、川辺の渡し場の村人は直ぐに武器を取って向かってきた。
主だった村人たちはトリス村が襲われた事を耳にして警戒してもいたし、街道筋ゆえに普段からオークの跳梁を耳にして、或いはこの事あるを予期して備えてもいたのだろう。
トリス村とは、抗う力が段違いであった。
村には武具の蓄えも幾つか在ったし、艀の不通によって足止めを受けていた旅人たちも少なからず滞在していた。
旅人の多くは武装しており、村人たちと一緒になって激しく洞窟オークに抵抗してきている。

 二つ目の誤解は、味方の士気の低下だった。
グ・ルムの手勢は八十を上回る。だが、その半数近くが放浪の洞窟オークや家族単位の小部族。云わば他所者たちであった。
 彼らは所詮、略奪と奴隷を目当てに軍勢に加わってきた者たちであり、トリス村での勝利でとりあえずの欲望を満たした後、随分と士気が下がっている。
先ほどからいくら叱り付けても、一向に戦列に戻ろうとせず後方をうろついており、こんな生き死にの戦いでは当てになりそうな連中では無かった。
彼らが逃げないのは、ただ単に勝った時にいち早く略奪に加わる為に過ぎないのだろう。
酋長が鞭で叩き、怒鳴り声で戦列に戻るよう指示すると、渋々、前へ進んでいくが、直ぐに後ろに戻ってくるのだ。
 腹立たしいが、しかし、切り捨ててしまえば、野良の洞窟オークたちは逃げ散って二度と彼らの協力は当てにできなくなるだろう。
よそ者の兵は、逃げないだけ上等というべきか。
 だが、グ・ルムには解せなかったものの、子飼いの兵も落としたトリス村で鱈腹飲み食いした為に動きは鈍っていたし、朝の勝利と略奪でかなり気も緩んでいた。
連戦で疲れてもいる為に、切羽詰ってトリス村を攻め落とした時に比べて明らかに弱くなっていたのだ。

 三つ目の誤算は、三方向から攻めて村人を河へと追い詰める筈だった包囲網が、最初から成立しなかったこと。
まさか、現時点で南に廻した兵の殆どが、女剣士とドウォーフ。手練とは言え、たった二人の戦士を相手に討ち死にしているなど予想外もいい所だった。
「南に廻った連中は何をしているんだ……まだ、来ないのか」
兵力の三分の一が失われ、包囲網が食い破られている事に気づかないで、グ・ルムは苛立たしげに愚痴を洩らしていた。

 四つ目の誤算、これは人里離れた渓谷に棲まうグ・ルムの視野の外にあることだったが、
川辺の渡し場は、別にトリスのような孤立した農村ではない。
街道筋にあって周辺には農園や民家も散らばっている。
洞窟オークが攻め寄せた際、助けを求めに逃げ散った村人も幾人かいた。
時間が経てば、近隣の郷士や武装農民が援軍としてやって来るだろうことも、村人たちの士気を支える一因となっていた。

 もう既に一番近くの農家からやってきた農夫たちが、殻竿や棍棒を手に村の近くをうろついていた。
今はまだ踏み込んでくる決断は付いていないものの、後からやってきた者たちと合流して纏まった人数となったら、いずれは村に踏み込んでくるだろう。

 グ・ルムの目の前でまた一人洞窟オークが打ち倒された。
今度は助ける隙もなく、村人に突き出された槍を受けた洞窟オークが断末魔の悲鳴を上げる。
或いは、当初の思惑通り、トリス村を手に入れた時点で満足していれば良かったのか。
弟の仇を取ることに執着し過ぎたとでもいうのか。
 徐々に洞窟オーク達の旗色が悪くなっていく中、それでもグ・ルムは咆哮して味方を鼓舞し続けている。まるでそうすることが、傾きかけた自らの部族の運命を切り開く為の唯一の手段だとでも信じているかのように、洞窟オークの首長は勇を振るって奮戦し続けていた。



 女剣士の鋼の長剣が閃き、ドウォーフの鉄製の槌が唸りを上げるたびに、洞窟オーク達は血飛沫を上げて倒れていく。
「……どれくらい倒したかの」
息を乱しながら白髭のドウォーフが訊ねると、肩で息をしながら女剣士が応えた。
「さあ、二十はとうに越えている筈だが……」
旅人や村人たちを助けながら、女剣士とドウォーフは進んでいた。
遭遇した洞窟オークは悉く絶命しているが、代償として女剣士と白髭のドウォーフも少なくない気力と体力を消耗していた。
「余力のあるうちに一度、退かぬか?」
洞窟オークの総数も分からず、何時、何処に出没して襲ってくるか、気も抜けない。
白髭のドウォーフが離脱を提案するが、女剣士は首を横に振った。
倒れ伏した洞窟オークたちの亡骸を一瞥してから、女剣士は三叉路で困ったように首を振った。
どっちに行こうか、女剣士は迷いながら北側へ向かう道へと足を踏み出した。
「貴殿だけで逃げてくれ。グルンソム。私はもう少し友人を探してみる」
「……それほどに大切な友人なのか?」
白髭のドウォーフが乱れた革の帽子を被り直しながら訊ねてくる。
「うむ。己の命を危険を晒す程度にはな。だが、他人を付き合わせるわけにもいかぬ」
言い切った女剣士の横顔をじっと見つめてから、老ドウォーフは再び訊ねかけた。
「恋人か?」
整った美貌を朱に染めて女剣士が言い澱んだのを目にし、愉快そうに髭を揺らしてドウォーフが笑った。
「ほっ、構わん。付き合おう」
黒髪の女剣士は黄玉の瞳をドウォーフに向けて、
「だが……いいのか?」
老ドウォーフは、口をへの字に結んで深々と頷いた。
「感謝する」
云って歩き出した女剣士に物陰や木陰に視線を走らせながら、ドウォーフは軽口を叩いた。
「にしても、御主のような女に其処まで愛されてあの坊主も男冥利に尽きるの」
友人の性別を間違えられた黒髪の娘は微妙な顔をする。
「……エリスは女だよ」
白髭のドウォーフが怪訝そうな表情で首を捻った。
「むぉ?……しかし」
ドウォーフ族には樽のような体型の女性が多く、其処までいかなくても一般にやや豊満な女性が美しいとされている。
決まり悪そうに口ごもった白髭のドウォーフに、女剣士は真面目くさった顔で念を押した。
「エリスは、確かに胸が控えめかも知れぬ。だが、本人には言わないでやってくれよ」



 田舎道を進んでいたエルフ娘の尖った耳に、子供の泣き叫ぶような甲高い悲鳴が届いた。
半エルフは素早く手近な岩陰に身を潜めると、はて何ごとだろうかと、顔だけ覗かせて辺りの様子を窺ってみる。
「……どうしたものかな」
軽く目を見開いて息を呑むと、エルフ娘は参ったように呟いた。
村からの脱出を目前として目と鼻の先にある田舎道で、今朝助けた農婦が再び洞窟オークに追い詰められつつあった。
どうやら河原まで逃げる途中に、洞窟オークの雑兵と遭遇してしまったらしい。
問題は、農婦の背中に脅えて泣き叫ぶ数人の子供が匿われていることだ。
何故か、鼻水を垂らした村長の娘までいる。
戦利品を求めて村を彷徨う二匹の洞窟オークにとって、通り掛かった農婦と子供たちは手頃な獲物に見えたのだろう。
性悪な森ゴブリンなどに召使として売り飛ばして小遣いにするのもよし。或いは、奴隷にするのもよし。
洞窟オークたちにとっては、手頃な憂さ晴らしであると同時に一稼ぎする好機であった。
 小さな石斧と短槍を振りかざした二匹の洞窟オークに追いかけられた農婦は、子供と共に田舎道を必死に逃げ回っていたが、やがて土手に挟まれた窪みへと追い詰められてしまった。
「そこは駄目だ」
繁みに隠れながら、手に汗握って一部始終を見ていたエルフが思わず小声を洩らした。
正面のエルフからは見通せても、恐らく農婦の位置からは逃げ道に見えたのだろう。
農婦の入り込んだ狭い窪みは、道でも何でもなくただの行き止まりである。
若干の薪が詰まれている以外には何も置いていない。
自分から死地へと飛び込んでしまった農婦は、さっと顔を青ざめさせた。
愕然とした表情で辺りを見廻してから後戻りしようとしたが、その目の前に厭らしい笑みを浮かべた洞窟オークたちが立ちはだかった。


 その頃、老ドウォーフと女剣士は、村の中央近くにある空き地に差し掛かっていた。
「六……七……十近い。ちょっと厄介だな」
数人の村人と旅人たちが、洞窟オークたちに囲まれて追い詰められている。
互いを背にして防いでいるものの防戦一方な様相で、致命傷は負ってないがやられるのも時間の問題だろう。
荒い息で必死に抗っているのを見て、助けるべきか、迂回するべきか。
相手がオーク小人とは言え、十という人数は歴戦の彼らにしても少し手に余るかも知れない。
白髭のドウォーフは数瞬、迷ってから女剣士に告げた。
「行こう、見殺しには出来ぬ」
前に進み出た白髭のドウォーフを女剣士が押し止めて、耳元にそっと囁いた。
「待て、私にちょっとした策略がある。そのまま行くよりかは幾分、マシだと思うが……聞くか?」


 村人たちと切り結んでいる洞窟オーク達の背後から、女剣士が飛び掛ってきたのは突然であった。
猛然と切りかかってきた女剣士は、後ろから次々と洞窟オークを切り崩していく。
一撃で頚椎を切り裂き、背中に叩き付け、ついで横っ飛びしてから跳ね上げた剣先が、腹部を薙いだ。
ぞぶりという音と共に叫び声を上げて三匹目の洞窟オークが倒れるよりも早く、女剣士は四匹目を思い切り突き倒した。
心臓まで達した致死の一撃に、四匹目のオークは即死する。
洞窟オークの胸を蹴り倒して剣を引き抜くと、女剣士は五匹目に切りかかろうとして、しかし、突然に動きを止めて舌打ちした。
まだ生きていた洞窟オークが、必死の形相で右足に抱きついていた。
横合いから槍を構えて洞窟オークが突っ込んでくるのを、女剣士は冷静に剣を振り上げると、投げつけた。
宙を飛んだ長剣は閃光のように槍の洞窟オークの腹に突き刺さり、横転させた。
 掴んでいるオークの首に短剣を突き刺し、残った洞窟オークが女剣士に向き直って周囲を囲もうとした時に、横合いから更にドウォーフが雄叫びを上げて吶喊してきた。
女剣士に注意を払っていたオーク達だが、さらに新手の出現に集中力を乱される。
洞窟オークの一匹が忽ちドウォーフに打ち倒され、さらに一匹が押され始めると、村人たちも此処を先途と猛烈に戦い始めた。
足を振りほどいた女剣士は、槍を拾い上げて洞窟オークの一匹に投げつけた。
見事に胸を貫いて横転すると、洞窟オーク達ももう駄目だった。
士気も崩壊して逃げ始めるのを、たちまち打ち崩されて逃げ散っていく。
女剣士は愛剣を回収すると、村人たちへと向き直った。
「……獲物を投げるかね」
呆れたようなドウォーフに笑って応えると、
「どの道、乾坤一擲であったか」
なにやら己の脇腹にある古傷を撫でた後、感慨深げに呟いていた。

 生き残っていた村人たちに歩み寄って、黒髪の娘が話しかける。
「生きてるか?」
「ああ……凄いな、あんたたち。助かったよ」
村人たちが畏怖の目を向けつつ述べた謝意に頷いてから、女剣士が問いかける。
「ところでエルフの娘を見なかったか?新緑のような翠色の髪を……」
「あいつじゃ!アリア殿!やつが頭目に違いないぞ!」
興奮した白髭のドウォーフに女剣士の言葉は遮られた。

 ドウォーフの指差した先、村人たちと洞窟オークたちが纏ってぶつかっている場所からやや離れたあばら屋の前。数人の護衛に守られて、大柄な洞窟オークが声を張り上げている。
確かに指揮官のようだ。思わず女剣士の口元から笑みがこぼれた。
「ふふ……がら空きだな。絶好の好機だな」
「連中には、士気の低い兵も相当数が混ざっているようだ。首魁を倒せば、村を救えるかも知れぬ」
ドウォーフの提案に頷いて、黒髪の娘は村人たちを見廻し、力強い口調で説得した。
「諸君!もう一戦できるか!
オークの首魁が目と鼻の先にいる。洞窟オーク共を追い返す好機だぞ!」
どうやら目の前の村人は、戦う意志と力をまだ持っているらしい。
顔を合わせて頷き合い、武器を振りかざして、合意の証に頷いてくる。
やる気になった村人を見廻してまず満足げに頷くと、女剣士は同様に武者震いして鉄製の槌を構えている白髭のドウォーフに歩み寄った。
「グルンソム。敵の首魁は生かして捕らえたい」
訝しげな視線を返してくるドウォーフに、女剣士は鋭い視線を敵の首魁に向けつつ
「幾つか、気になる事があるのだ。出来るか?無理にとは云わぬが……」
ドウォーフは少し考えてから、頼もしげににやっと笑い頷いた。
「貴殿よりは、わしの方がその任に向いてるじゃろうな。引き受けよう」
「頼む。では、わたしが周辺の雑魚を引き受けよう……行くぞ!」
鋭く敵の首魁を睨みつけると、自然と指揮を取る立場を引き受けた女剣士は愛剣を振り上げて味方に号令を下すと、鮮血に濡れた長剣は陽光を受けて眩しく煌めいた。



[28849] 61羽 襲撃 07 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/12/03 20:52
 辺境を南北に貫くように蛇行して南の沿岸地方へと流れるゴート河の岸辺。
艀をもやっているうらぶれた渡し場と隣接する川辺の村では、今も、洞窟オークと村人たちが血で血を洗う闘争を続けていた。
元々、川辺の村は戸数十にも満たないささやかな小村落であり、村外れに住むホビットやゴブリンたちを含めても、まともに戦える村人の数は三十にも満たなかった。
納屋に寝泊りしている雇われ者や悪天候に足止めされた旅人たちが加勢することで、村人たちは辛うじて数に勝る寄せ手相手に拮抗していたが、もしこれらの助勢がなかったら、村はとうに洞窟オークたちが制するところになっていただろう。


 村の片隅にある土壁の傍で、背後に子供たちを庇いながら、トリス村の農婦ノアは目の前に立ちはだかっている洞窟オークたちを睨みつけていた。
 固く強張った表情のノアとは対象的に、二匹の洞窟オークは余裕綽々の態度を取っている。
にやにやと厭らしい笑みを浮かべて追い詰められた獲物たちを眺めていた。
「さて……どう料理してやるよ?オ・アッゾ」
「女は楽しめそうだが、猿共の餓鬼はいらねえだろ。ゴ・ウル」
槍と石斧を手にした二匹の洞窟オークは、嘲弄する態度を隠そうともせずにまるで値踏みでもするかのように農婦とその背後に隠れて脅えている子供たちを見比べていた。
「森のゴブリン共に売りとばせば、餓鬼共も小遣い程度にはなるぜ?」
「おめえは頭がいいな、ゴ・ウル。決まりだな」
洞窟オークたちが口元に嘲弄するような笑みを貼り付けて、ノアと子供たちに迫ってきた。
オーク語は理解できないものの洞窟オークたちの態度から、ニュアンスは充分に伝わってきた。
後ろは土壁、行く手は洞窟オークに完全に塞がれている中、蒼白な強張った表情で唇を噛んだノアは覚悟を決めた。
傍らに落ちていた棒切れを拾い上げると、小柄な洞窟オークたちを睨みつける。

「ほうっほうっ!戦う気だぜ。こいつ」
「いいぞ、掛かって来い!猿の女め!」
小柄な亜人たちは甲高い笑いながら、一匹が退くと一匹が進み、一匹が進めば一匹が退いて、楽しむように、弄るように槍と石斧でノアを少しずつ疲れさせていく。
強張った顔で叫びながらぶんぶんと振り回している農婦だが、狩りもしたことも無ければ、棒切れでちゃんばらごっこさえした経験さえなかった。
ついに洞窟オークの石斧を受けて、痛みによろめき、絶望に喘いだ。
「……ああっ、コルさま、お救いくだせえッ!」
収穫を司る農業の神の名前を叫んでから、農婦は最後の力を振り絞ってオークたちに飛び掛かった。
「……お逃げえッ!」
子供たちに向かって叫んだ瞬間、足音も殆ど立てずに横合いから疾風のように走ってきたエルフ娘が、笑っていた洞窟オークの即頭部にいきなり棍棒を叩き付けた。
奇襲を受けた洞窟オークの片割れは、一撃で横転すると奇妙に痙攣し始める。
完全に伸びている洞窟オークを前にして、何が起こったか理解できないでいるのだろう。
洞窟オークも、農婦も、急に飛び込んでいたエルフを呆然として見つめていた。
「……また、やってしまった」
エルフ娘は、何故か苦い表情を浮かべて何ごとかを呟いていたが、農婦を見つめると頷いて腕を振った。
ハッとして農婦は子供たちに叫んだ。
「皆!逃げるよ!」
蜘蛛の子を散らすように子供たちが四方八方に逃げ散っていく中で、
突如、洞窟オークが顔を真っ赤にして濁声で咆哮を上げる。
「てめぇ!エリフィ!グ・ルン!おらぁ!此の穴兎が!ぶっころぉお!」
興奮しすぎたのか、洞窟オークの叫び声は所々、呂律が回らずに意味不明の言葉になっている。
オークや盗賊に比べれば迫力に欠ける叫び声ではあるが、本物の殺意を向けられるのは、やはり気持ちのいいものではない。
岩陰に置いてきた荷物が、誰かに取られたりしないといいな。
そんなことを考えながら、とっとと田舎道を逃げ出したエルフ娘の背中を、槍を振り回す洞窟オークの叫び声がどこまでも追いかけてきた。


 洞窟オークの長グ・ルムの胸に宿った疑念と不安は、徐々に恐怖と絶望へとその姿を変えつつあった。村人たちの倍近い人数を集めた筈が相手方を突き崩せないどころか、味方の洞窟オーク達は消耗して押され始めている。
なまじ、狩りや戦いの場数を重ねてきたからだろうか。
どうにも味方の分が悪いのが、グ・ルクの目にははっきりと見て取れる。
川辺の村人たちが新鮮な活力に満グ・ルムちて動き回っているのに対して、味方は動きが鈍く、声も出なくなってきている。
 よくない徴候だった。トリス村を攻めた時の疲れが今になって出てきたというのか。
今は辛うじて持ち堪えている洞窟オークたちだが、今や崩壊寸前の戦列を支えているのは一重に気力だけである。
その気力の糸がぷつりと切れた時、体格と武具で村人たちに劣るグ・ルムの手勢は、一気に人族によって蹂躙されてしまうに違いない。
今のままではその気力が底をつくのも、そう遠くない先のように思える。

それを薄々と悟っているのか、時折、縋るような目付きで戦っている兵が酋長をを見つめてくる。
何とかしてくれ、グ・ルム!トリス村の時のように勝利をもたらしてくれ、と。

だが、近隣の洞窟オークでは一の使い手である筈のグ・ルムが前に出て奮戦しても、村人に僅かな手傷を負わせただけに留まって、戦局は殆ど揺るがなかった。
結局、体力を無駄に浪費したグ・ルムは、今は後ろに下がって指揮を取るのに専念している。

まるで悪い夢を見ているようだった。足から力が抜けそうになるのを歯を食い縛って持ち堪えて、グ・ルクは必死で考える。
わしらの力はこんなものか。奇襲でなければ、人族の農夫にすら通用せんのか。
何か逆転の手はないのか。此の侭では、味方は敗北してしまうやも知れぬ。

グ・ルムが取り乱さないのは、長が狂乱した姿を見せればその瞬間に洞窟オークたちの士気と戦列が崩壊すると悟っていたからに他ならない。
一重に長としての責任だけで持ち堪えていたものの、グ・ルムが胸に秘めたる焦燥と恐怖は、いまや彼を押し潰す寸前にまで圧力を高めていた。

所詮は烏合の衆なのか。
洞窟オークの酋長は、逃げ腰になっている流れ者の洞窟オークたちを横目で見て苦しげに表情を歪めている。
よそ者など入れるべきではなかった。
今から逃げ出したら、間違いなく壊走に陥るだろう。
纏って退くことなど絶対に出来ん。人族共に散々に追い討ちを掛けられるに違いない。

そうしたら、どうなる?
グ・ルムは、部族の若衆や働き盛りの中年、壮年のオークを軒並み渓谷から連れて来ていた。
後に残してきたのは女子供と僅かな老オーク、若干の不具の者たちだけである。
彼らが戦死したら、誰が残された者たちの面倒を見るのか。
性悪の洞窟ゴブリン共や野人、穴居人、穴小人どもの餌食になってしまうに違いない。
戦を甘く見ていた。此の侭では、弟の仇を討つどころか群れが崩壊する。
初戦を余りにも容易い勝利で飾ってしまった為に、人族を侮る気持ちが生じていたのかも知れない。
二進も三進もいかなくなった洞窟オークの族長が冷たい汗で背中を濡らしながら、声を枯らして味方を鼓舞していると、突然、横合いで鬨の声が上がった。
村人も洞窟オークも一瞬だけ手を止めて、何ごとかと視線を向けてみれば、横道から飛び出してきた十人ほどの人族とドウォーフの一団が、喚声を上げて洞窟オークの集団へと突っ込んでくるところであった。

 村人方の増援のようだ。先頭に立っているのは黒髪の女。手には血塗れの長い剣を持っている。
今度は此方が挟まれたか。
洞窟オークの酋長は、苦い表情となって周辺に散らばっている洞窟オークたちに迎え撃てと号令した。
族長の横合いで、殆ど同数の洞窟オークと新手の村人たちが衝突した瞬間、女と干戈を交えた先頭の洞窟オークが一撃で打ち倒された。

 黒髪の女剣士が猛然と突撃を繰り返し、手にした長剣が乱舞する度に、一撃で洞窟オーク一人が切り倒されて二度と起き上がらない。
その横のドウォーフも凄い。
振り下ろした鉄の槌は、受けた杖や棍棒ごと洞窟オークを薙ぎ倒してしまう。

戦っていた洞窟オークたちが、目に見えて怯んだ。
逆に村人たちが歓声を上げ、一層、嵩に掛かって攻め立て始める。
まるで悪夢だった。
足元の地面が崩れていくような錯覚を覚えて、グ・ルムは胸焼けするような吐き気を催した。
弟の仇に執着したのが間違いだったのか。
部族が滅びる。トリスを手に入れただけで満足しておけばよかった。
頭のうちで不吉な想念がぐるぐると廻ってグ・ルムの理性的な思考を侵していく中、目まぐるしく戦場を跳び回っていた女剣士が、ついに洞窟オークの壁を突破した。
野生のダイア狼のように獰猛な笑みを浮かべた女剣士が近寄ってくるのを、グ・ルムはどこか虚ろな光を湛えた瞳で眺めていた。


 黒髪の女剣士を先頭にして村人の一団が突撃を敢行するも、洞窟オークたちは一瞬だけ見せた動揺から即座に立ち直ったように見える。
可愛くないな。女剣士は鼻を鳴らすと、先頭を切って吶喊する。
あばら屋の前に陣取る洞窟オークの指揮官を指呼の距離に捉えつつ、向かってきた十匹ほどの洞窟オークと新手の村人たちが衝突した。
此処で力を出し切ってしまっても構わない心算で、女剣士は乱戦の中を飛び回っていた。
パティエの刀工が鍛えた鋼の刃が舞う度に、洞窟オークが悲鳴をあげて倒れていく。
女剣士が三匹、ドウォーフが二匹を屠って、忽ち、洞窟オークの壁を打ち崩して突破すると、指揮官の傍らに侍っていた複数の洞窟オークたちが顔を見合わせてから向かってきた。

 護衛なのだろうか。指揮官の周囲にいた洞窟オークは六匹。全員、襤褸のマントを羽織っている。
二匹は背後に族長を庇って動かず、四匹が女剣士とドウォーフへと向かってきた。
守られながら、毛皮のマントを纏った洞窟オークの指揮官は呆けたような表情で此方を見ていた。
威嚇の声を上げる洞窟オークの護衛たちと、女剣士たちは二対一で戦闘に入る。

 打ちかかって来る洞窟オークの棍棒をあっさりと躱すと、女剣士は流れるような動作で反撃に移り、横合いに長剣を薙いだ。
下から跳ね上がる鋼の剣閃を、洞窟オークにしては意外と素早い反応を見せて、護衛の戦士が辛うじて躱した。
完全に躱しきれずに脇腹を切り裂かれつつも、身を捩って致命傷は避けた洞窟オークは、苦痛に表情を歪めながらも反撃してくる。
さらにもう一匹は、邪魔にならない位置から廻り込んで槍を突きこんできた。
 同時にドウォーフが何やら叫び声を上げたが、其方に注意を向ける余裕は無かった。
今までのようにバラバラに掛かってくるのではなく、素早く役割を分担して連携してきた。
場数を踏んでいる?それに、思ったより出来る。こいつら結構、手強い。
女剣士は軽く唇を舐めると、後ろに飛び跳ねて距離を取り、仕切りなおすことにした。
相手は二匹。それでも優勢に戦いを進めているが、今までのように容易くはいかなそうだ。

「させるかよ!人族の豚野郎!グ・ルムには指一本触れさせねえ!」
得物を振りかざして女剣士に向かってくる洞窟オークたちは必死の勢いで、守っているのが重要人物だと自分たちから教えてくれる。
やはり護衛というわけか。指揮官はさしずめ部族の戦頭であろう。族長かも知れぬ。
自分が雑魚を引き受けて、その間に族長をドウォーフが抑える。
その予定が、護衛が案外手強かった為に、早くも女剣士の目算が崩れていた。
まあ、いい。戦で意外の出来事が起こるのは当たり前か。
このままこいつらを打ち倒して、わたしが確保するのもよい。
手加減は苦手であるが、死んだら死んだで仕方ない。
瞬時に思考を切り替えて、一転、洞窟オークの護衛たちを猛然と攻め立てる。


 切り結んでいた護衛たちは、常の洞窟オークたちより幾分かマシであったが、それでも女剣士を梃子摺らせるには程遠い。
必死の勢いで僅かに時間を稼いだが、奮戦も其処まで。
女剣士が冷静に立ち返って攻めかかると、忽ち二匹ともに切り倒されてしまった。
ドウォーフも一匹を倒して、もう一匹を猛然と追い込んでいる。
護衛の一匹が小剣を構えて前に進み出る一方で、最後の護衛は族長に何かを言っていた。
「逃げろ!おめえは死んじゃならねえ」
なおも躊躇している族長の腕を掴むと、護衛はあばら家へと引っ張っていった。

立て篭もる心算だろうか。無駄なことを……
思いながらも、だが、其処から先は女剣士も敵の様子を窺う余裕は無かった。
三匹目の護衛戦士は、文字通りに死に物狂いの戦いぶりで女剣士に食い下がってくる。
腹を薙がれて致命傷を負いながらもなおも切りかかってきた洞窟オークは、戦乱の東国(ネメティス)でも名の知れた戦士であるアリアを、ほんの少しだけ感心させたが、所詮、技量と体躯の差は気迫だけで埋められるものではなかった。
反応の速さも、敏捷さも段違いの女剣士が、流れるような動作で剣を受け流し、そのまま一瞬に反撃に転じて首筋を薙ぐと、洞窟オークは血飛沫を撒き散らして地面へと倒れ伏した。
結局、三匹目の洞窟オークも二十を数える間に討ち死にしたが、しかし、貴重な時間を稼ぎ出すことには成功していた。
同時に白髭のドウォーフも、護衛の最後の一匹を突き倒していた。

 二人が視線を交えて頷きあい、頭目格の立て篭もったあばら家へと足を向けると、窓から襤褸を着た洞窟オークが逃げ出すのが見えた。
何となく臭いと感じた女剣士が後を追おうと足を早めた時、あばら家の入り口から毛皮のマントを付けた洞窟オークが飛び出てきて目の前に立ちはだかった。
「俺が族長のグ・ルムだ!掛かって来い!人族の豚ど……」
次の瞬間、パティスの刀工に鍛えられた鋼の剣が恐ろしい速さで楕円の軌道を描いた。
隙だらけの洞窟オークの首を一瞬で跳ね飛ばした女剣士は、何故か不機嫌そうに舌打ちしてから、落ちてきた首のお下げを宙で掴み取って高く掲げる。
「族長は討ちとったぞ!貴様らの負けだ!」
毛皮マントを纏った洞窟オークの族長の身体が、ぐらりと揺れてから大地に崩れ落ちた。
強く烈しい女剣士の声に戦場は一瞬静まり返り、ついで一気に拮抗が崩れた。
武器を投げ捨て、悲鳴を上げて逃げ惑う洞窟オークの侵略者たちを、村の人族やホビットの農夫、そして僅かなゴブリンなどが怒り狂って追い掛け回し、容赦なく鋤や鍬、棍棒、槍などを振り下ろしていく。

 集団戦からあっという間に乱戦へ、そして追撃しての掃討戦に移行する最中、女剣士は行く手に立ちはだかった数匹の洞窟オークを切り倒しつつ、やや離れた土手を目指して戦場からの離脱を図った。
軽い勾配を登っていく最中、横合いから飛びかかってきた洞窟オークを一撃で切り倒して土手の頂きに辿り着くと、黄玉色の鋭い瞳で道を見下ろした。
趨勢は完全に定まった。洞窟オークは誰も彼も逃げ腰で、村人たちから逃げ回っている。
今日は、朝から随分と戦った。もう休んでもいいだろう。
女剣士は手頃な岩に腰を降ろしてから、疲れた表情で大きく息を吐き出した。





[28849] 62羽 襲撃 08 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/12/03 20:54
「グ・ルンだ!グ・ルンを殺したエルフ野郎だ!誰か、捕まえてくれぇ!」
追跡者が張り上げる声が村道に響き渡ると、エルフ娘の行く手にある洞窟や繁みから数匹の洞窟オークたちが顔を出した。
ぎょっとしたエルフ娘の胸のうちで、心臓の動悸が跳ね上がった。
行く手を阻まれたか。いや、動きが鈍い。うん、今なら突破できる。
一瞬だけ目を瞠ったエルフ娘は、だが、瞬時に決断するや、さらに一層足を早めて村道を駆け抜けたが、追跡者の思惑に反して周辺に散って略奪に励んでいた数匹の洞窟オークたちは顔を見合わせただけで、誰一人エルフを捕まえようとする者はいなかった。
「こっ。此の野郎共!あいつはグ・ルンの仇なんだぞ!」
追跡していた汗だくの洞窟オークに詰問されて、歯の欠けた洞窟オークが鼻でせせら笑う。
「ああ、そうかよ。頑張って捕まえてくれ」
眼帯の洞窟オークが洞窟にあった柳の枝で作った篭を拾い上げ、眺めてから満足そうに手にしたずた袋へと仕舞いこむ。
「……知ったこっちゃねえよ。
俺たちゃ、美味い食い物や戦利品が期待できるってんで参加しただけよ。
大体、エルフの娘っ子なんざにやられちまうような奴だろ、
どのみち戦で死んでいただろうぜ」
一匹が吐き捨てると、他の洞窟オークも嘲笑してから再び略奪に励み始めた。
怒り狂った追跡者の洞窟オークが槍を構えると、他の洞窟オークたちが一斉に小さな牙を剥きだして武器を構え、追跡者を威嚇する。
「部族の戦士さまよ。勘違いすんなよ?ここにはお偉いグ・ルンの一党は一人もいねえ。
皆、何にも属していねえ自由の民よ!お前ら、飼い犬と違う誇り高い狼の兄弟たちよ!」
「……野良犬共がよ!畜生。俺だけでもグ・ルンの仇だけでも取るぜ」
「けっ……好きにしな。グ・ルムも旗色が悪そうだしよ。俺たちはそろそろとんずらするぜ」
放浪の洞窟オークたちの嘲笑を背中に受けると、悔しげに唸りを上げながら洞窟オークは再びエルフ娘の姿を追いかけて走り始めた。
今の問答で随分と引き離されている。これ以上離されたら姿を見失ってしまうかも知れない。
悲壮な表情を浮かべた洞窟オークは、心臓が割れても構わない心算で死に物狂いで足を動かした。


 丘陵と沼地に面した村の一角へと逃げ込んだエルフ娘だが、件の洞窟オークがなおもしつこく追いかけてくる姿は遠目からも窺い見ることができた。
「そう上手くは振り切れないか。ああ、それにしてもしつこい奴だな」
軽く呼吸を整えてながら、エルフの娘はうんざりした口調で呟いた。
数箇所で上手く隠れた、或いは引き離したと思ったのに、執拗な性格なのか。仲間思いなのか。
洞窟オークは、やたらと執念深く追いかけてくるのだ。
朝から動き回っているエリスも、実は結構、疲れている。足も痛いし、喉も渇いていた。
水筒の水で口を潤おしてから、袖口で口元を拭って
「……あいつだって、喉が渇いただろうに」
角を曲がって姿を見せた洞窟オークを睨んでから、エルフ娘は逃走を再開した。

 沼地に面した草地でエルフ娘を見失った洞窟オークは、途方に暮れた様子で周囲の背の高い繁みに視線を凝らしていた。
森エルフ族に隠れられたら、とてもみつからねえ。
だけど、探すんだ。グ・ルンの仇は絶対に取ってやらねえと。
暫らく周囲の繁みに槍を突き入れたり、払ったりしていた洞窟オークだが、足跡が村道のあばら屋へと向かっているのに目を止めると、意気込んで後を追って走り始めた。
「向こうに隠れやがったか!」

 粗末なあばら家へと辿り着いた洞窟オークは、恐る恐る室内へと踏み込んだ。
乱戦の痕跡が残されたあばら家には、床に血痕と足跡、そして壊れた杖を手にした洞窟オークの死骸が転がっている。
ギョッとして後退りした洞窟オークは、仲間の死骸に恐怖を覚えたのか、落ち着かない様子で室内を見廻していた。
考えてみれば、単独行動している最中、他の手強い人族やホビットに遭遇しないとも限らないのだ。
急にこみ上げてきた恐怖に唇を舐めると、洞窟オークは自分に言い聞かせるように囁き声で呟いた。
「大丈夫だ……落ち着けよ、俺……エルフを探すんだ。此の辺りにいるはずだ」
きょろきょろと見廻すも、何処にもエルフ娘の姿は見当たらない。
あの足跡はエルフのじゃなかったのか?
不安に駆られて額の汗を拭った洞窟オークの目に、水の入った大きな壷が目に入った。
蓋が外されて、中には並々と水が満たされていた。繁みの直ぐ前に置かれている。
洞窟オークは壷に歩み寄ると、屈みこんで掌に水を掬い、喉を潤おした。
甘露の味わいに目を細める。
もう一口と気を緩めた洞窟オークが再び壷に手を伸ばしたまさにその瞬間に、横合いの繁みに潜んでいたエルフ娘が、まるで真横の位置に立つのを予期していたかのように飛び出してきて鮮やかな一撃を見舞ってきた。
思い切り叩きつけられた棍棒の強打に、洞窟オークの鎖骨が鈍い音を立ててへし折れた。
「ギャッ!」
激痛に飛び上がった洞窟オークに、エルフ娘は容赦を見せなかった。
さらに棍棒の第二撃を振り下ろすと、首の付け根を思い切り強打された洞窟オークはしゃっくりのような間抜けな音を洩らして地べたに伸びてしまった。
「あれだけ走り回ったんだもの……喉は渇くよねえ」
エルフの娘は、掌で水壷から水を掬い取ると口を潤おして笑った。


 白髭のドウォーフの周囲では、逃げ惑う洞窟オークが怒り狂った人族やホビット、ゴブリンの農夫たちに追い掛け回されている。
今は死力を尽くして村人に抵抗している小柄な亜人たちだが、抵抗が尽きるのも時間の問題であろう。
毛皮のマントをつけた族長の首なし死体を一瞥したドウォーフの老戦士は、用心深く乱戦から距離を取りながら土手の上で休んでいる女剣士へと視線を向けた。
生かして捕まえたいとは言っていたが、難しかったのだろうか。
白髭のドウォーフは、土手の頂で億劫そうに岩に腰掛けている女剣士に歩み寄った。
「まずは、勝ったな」
嬉しそうに声を掛けてきたドウォーフほどには、勝利を素直に祝う気持ちになれずに女剣士は怜悧な顔立ちに何とも煮え切らない表情を浮かべて溜息を洩らした。
「討ち取った奴は影だよ。最後の護衛だろう。
族長であろう頭目を逃がす為に、マントを交換したのだ」
「……なんと」
絶句するドウォーフに鋭い一瞥を向けて頷いてから、女剣士は俯いて思案を凝らした。
族長を討ち取ったのと叫んだのは戦の趨勢を有利に傾ける為であり、詐術に誤魔化されてはいなかった。

「……敵ながら天晴れな奴よ」
黒髪の女剣士は忌々しげに賞賛しつつも辺りを見回すが、四方八方へ逃げ惑い散って行く洞窟オークのうち、誰が頭目格なのか。もはや見分けもつかない。
「洞窟オークにしては、大した忠誠心だな。名のある戦士でもおかしくない」
ドウォーフの言葉に頷きつつ、女剣士は何気なく呟いた。
「或いは腹心だったかも知れぬが……しまった!」
自分の口にした言葉に掌で顔を抑えて、黒髪の女剣士は呻き声を上げる。
「側近なら内幕を知っていたとしてもおかしくない。
腹立ち紛れに首を取ったが、生かしておいたほうが役に立ったかも知れぬ」
自身の言葉で自身の迂闊さに気づいて、苛立たしげに音高く舌打ちした。

 集団戦から追撃戦に移行して、陣頭指揮を取る必要がなくなったからであろう。
それまで村人たちの指揮を取っていた村長が、乱戦の渦から抜け出して女剣士とドウォーフたちに駆け寄ってきた。
「た……助けられたねえ」
開口一番、喜色満面の表情で礼を言うが、女剣士とドウォーフは浮かない顔をしていた。
「ううむ。だが、族長を逃がしてしまったかも知れぬのだ」
白髭のドウォーフが女剣士の推論を打ち明けると、村長の顔も曇った。
「雑兵に紛れ込まれては、洞窟オークの区別など……」
首を振って呟いた女剣士に、しかし、村長が異議を唱える。
「いや、ずっと目の前にいたから分かるが、頭目格は他の奴よりもずいぶんと大柄な体躯をしていたよ。面魂も他の連中とは一味違ったし」
村長の言葉に気を取り直した様子で、白髭のドウォーフが鉄の槌を握りなおした。
「おう、それなら区別がつきそうだな。面魂も他の者とは違うのならば、今からでも追ってみぬか?」
ドウォーフは族長を探してみる心算らしい。
女剣士も頷きつつ、岩から立ち上がって愛剣の血糊を払った。
「そうだな。駄目で元々、やってみる価値はあるかもしれない。私も行くとしよう」
今だ喧騒に包まれている村内を見廻して、女剣士が歩き始めるとドウォーフが背中に声を掛けた。
「二手に別れた方がよかろうな。後で会おう、アリア殿」
「グルンソル、出来るだけ生け捕りでな」
「わかっておるわい」
言葉を交わして東西に足を向けたドウォーフと女剣士に村長が声を掛けた。
「ああ、あんたたち。後でお礼をさせておくれよ」
村長の言葉に頷きながら、ドウォーフと女剣士は二手に別れて田舎道を歩き出した。



 何十人もの人間が一斉に叫んだような大歓声が、村の中央部の方から響いてきた。
びっくりしたエリスが立ち竦んでいると、目の前の村道を数匹の洞窟オークが必死に駆けてくる。
「やられた!グ・ルムがやられたぁ!」
「うわああ!追ってくる。お助け!」
駆けてきた洞窟オークたちが口々に叫んでいるその後方からは、鍬や棍棒を振りかざしている村人たちの姿が急速に迫ってきていた。
周辺を徘徊していたオークたちも、流石に動揺したのか。布や穀類の袋を抱えたまま右往左往し始めたり、略奪品を放り出して出鱈目に走り出したりしていた。
「旦那!ご慈悲を!仕えます!お仕えしますから!」
転んだ洞窟オークが怒り狂ってる村人に囲まれた。
跪いて慈悲を乞うが、村人たちは棍棒の打撃を雨あられと降り注いで、容赦なく殺してしまう。

「あっ……勝ったんだ」
ホッと溜息を洩らしてから、エリスは額の汗を掌でゆっくりと拭って地べたに座り込んだ。
今日は今朝から色々あって、流石に疲れていた。
意味もなく枯れ草や野花に視線を彷徨わせていたが、ふと隣で気絶している洞窟オークに視線を止めた。

 殺しておくべきだろうか。
しばし思案を巡らせてから、溜息ひとつを洩らすとエルフ娘は踵を返した。
見逃すのは良くないかも知れないが、正味な話、エリスは殺生を好んではいなかった。
他の村人が殺すかもしれないが、其処までは責任をもてない。
旅人なのでいずれ此の土地を離れる予定であるから、怨まれても別に問題はない。
見逃した洞窟オークは、傷が癒えてから人を襲うだろうか。
できれば、後生は大人しく暮らして欲しいと思いながら、エルフ娘は草地を立ち去った。


 エルフの娘は、疲れ切った足取りで村の片隅へと戻ってきた。
土壁の前に倒れている洞窟オークの横を通り過ぎ、繁みを掻き分けて荷物を隠した岩陰へ歩いていく。
「ああ、良かった。ちゃんとあった」
幸い、荷物は置いた時のままに放置されていた。
誰にも持ち去られる事もなく、荒らされた様子もないので、エリスはほうっと息を洩らして革鞄の紐を肩に掛けた。
「……」
その場を立ち去ろうとして、ふと何かに違和感を覚えたエリスは立ち止まった。
辺りに視線を走らせてみる。
特に異常はないように思えるが、何かが引っ掛かった。
よく考えてみれば、先ほどの道にぶん殴って倒れていたオークがいなかった。
意識を取り戻したのだろうか。だとすると……
訝しげな表情で考え込んでいたエリスは、幾らか注意力が散漫になっていたのか。
今度は自分が奇襲を受ける破目に陥った。
雄叫びと共に何者かが飛び掛ってきて腰の辺りに体当たりすると、華奢なエルフの娘はそのまま地面に押し倒された。
上に乗りかかったのは、倒れていた洞窟オーク。即頭部は腫れあがり、殺気の籠もった血走った目でエルフの娘を睨みつけてくる。
「死ね。しねええ!」
髪を振り乱し、食い縛った口の端から泡に似た涎を垂らして喚きながら、洞窟オークが石斧を勢いよく振り下ろしてきた。
大事な荷物といえども、命には代えられない。
エリスは咄嗟に革の鞄を盾にして防いだが、洞窟オークは、狂ったように幾度も幾度も石斧を叩き付けて来る。
もがいているものの逃げられない。
まるで氷塊が滑り落ちたかのように半エルフの背筋を冷たい感覚が走り抜けた。
「誰か!誰か、助けてええ!」
小柄な洞窟オークとは思えない恐ろしい力に叫び声を上げて助けを求めるが、誰もくる気配はない。
なんとかしないと……
洞窟オークは頭に血が昇っていたのか。
片手で鞄を盾にしながら、もう片手が蜘蛛のように地面を這いまわった。
砂粒、小石!何でもいいから。
目潰しになりそうな量を掴み取ると、不意を突いて洞窟オークの目に投げつけた。
不用意に投げつけた砂粒は、しかし、エルフ自身の瞳にも入り込んでしまう。
……しまった!ありえない!
視界を潰してしまいさすがに慌てながら、今度はむやみやたらと手を伸ばして闇の中で何かを掴んだ。
洞窟オークが唸り声を上げて、乱暴に何かを動かそうとする。
腕か!腕を掴んでいる。離したら殺される!
息も荒く必死に腕を掴んでいるが、洞窟オークも必死であった。
口を開くと二の腕に思い切り、噛み付いてくる。
「ぎっ……ァ!」
悪戦苦闘しながら揉みあっていると、横合いから誰かが駆け寄ってくる。
「大丈夫かい!」
横から洞窟オークに棍棒を叩き付けたのは、今朝方、助けた農婦であった。

 必死の農婦に棍棒で乱打され、流石にたまらず洞窟オークは悲鳴を上げて口を離した。
農婦はそれでも攻撃の手を緩めずに滅茶苦茶に洞窟オークを叩き続ける。
洞窟オークは腕を伸ばして必死に身体を庇っていたが、やがて鈍い音と共に頭部に打撃を受けるとついに崩れ落ちてしまう。
「どうだい!がつんとやってやったよ!」
エルフ娘が安堵の溜息を洩らしていると、胸を張った農婦が手を差し伸ばしてきた。
「……助かったよ」
謝意を述べると闊達に農婦は笑った。
「命の恩人だからね。あんたには、助けられたから……
それに、今朝のことも謝ってなかったし」
云って照れくさそうに頬を掻いた。
エルフ娘も笑うと荷物を拾い上げ、二人は安全であるだろう河原へと向かって歩き始めた。



[28849] 63羽 襲撃 09 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/12/03 20:56
 その日は、よく晴れた冬の空だったが、百人近い人数が埃っぽい地面を駆け回ったが故だろう。今は村全体が砂塵に覆われていた。
立ちこめる濃い砂煙で視界は悪く、わずか十間(二十メートル)も離れれば、相手の顔立ちすら定かではない。
田舎道を歩いていた女剣士が、ふと顔を上げた。今いる道は、特に見通しが悪い。

 右手の奥の方で、何かが打ち合うような物音と共に、激しく言い争うような声が聞こえたような気がしたのだ。鋭い視線を向けて足早に物音の聞こえた場所に向かってみれば、村人と洞窟オークが藪の中で激しく争っている。
 女剣士は黄玉の瞳をキュッと細めると、抜き身の長剣を片手に藪中へと踏み込んでいった。
ヒュッと息を吐くと同時に、背後から叩き込んだ袈裟掛けの斬撃が一撃で洞窟オークの命を奪い取る。
血飛沫を撒き散らして地べたに倒れた洞窟オークをもはや一瞥もせず、驚愕して立ち尽くしている村人をその場に残して、女剣士は再び田舎道を歩き出した。
 時折、立ち止まっては何かを探すように視線を村の其処此処へと走らせているが、族長と思しき洞窟オークの姿は何処にも見当たらなかった。

 女剣士は、苛立ちを隠しきれない様子で舌打ちした。オーク小人など幾ら集ろうが、体格差からも技量からも女剣士に抗しえる力は持たない。
 だが、友人のエリスは非力な半エルフである。こんな連中でも脅威になるに違いない。此処は、見かけたオーク小人を一人でも二人でも片付けておくべきだろうか。それとも、エリスの捜索を優先するべきだろうか。
「……無事だといいが」
 万が一を考えると、女剣士の背筋は不快にざわつく感覚に襲われる。暫し考えてから、虱潰しにしながら捜索しようと結論を出した。
 エリス。腕はないが、あれであれでそれなりに用心深い性格をしているし、機転も回る。恐らく、どこかに隠れてやり過ごしているに違いない。戦には勝ったし、あとはオークを虱潰しにすればするほどエリスも安全になる筈だ。もう手遅れだった場合は……今は、考えまい。


 族長を討ち取られて一敗地に塗れた洞窟オークたちは、逃げ道を求めて村内を逃げ回っていたが、漸く辿り着いた村の入り口にも、近隣からやってきた郷士や棍棒や殻竿、青銅の鎌を携えた農民が何十人と待ち構えていた。
「あ……新手かよッ!」
「……そんな!」
 口々に悲鳴を上げて立ち止まった洞窟オークたちに、怒りに燃えた近隣の農民たちが喚声を上げて一斉に襲いかかって来た。元気一杯の郷士や農民たちに対して、長時間を戦い続けた挙句に敗れ去った洞窟オークたちは士気はどん底の上に疲労困憊している。疲れ切った洞窟オークたちでは、もはや、農民たちの勢いに抗すべくもなかった。
 仲間たちが次々と打ち倒されていく中、大柄な洞窟オークが隣の洞窟オークに腕を引っ張られた。
「ここは駄目だ、南から逃げるぞ!」
「グ・ルム。こっちです!」
「……ああ」
 数匹の手勢に囲まれた大柄な洞窟オークは、犠牲を払いつつもなんとか包囲網を抜けて、村の反対側へと逃げ出していった。

 エルフ娘と農婦が河原へと逃げ延びると、そこには先に避難していた人々が集っている。
「……お母ちゃん!」
農婦の娘が母親の姿を見つけて、泣きそうな表情で胸へと飛び込んできた。
「大丈夫だよ。大丈夫」
娘を安心させようと、農婦は優しく言って聞かせる。
 河原を見渡してみれば、集ってるのはかなりの人数で、こんな小さな村にこれほどの人がいたのかと、エルフ娘は戸惑いを隠せなかった。女子供に加えて、戦うには年を取りすぎているだろう老人、四肢に欠損があり戦力に数える事のできぬ村人、他には所在無げにうろついている旅人の姿も混じっている。
過去に受けた戦傷であろうか、左足の脹脛から下がない老人が杖を持って岩に腰掛けている姿を見て、エルフ娘は表情を曇らせた。
恐らくは、今日の戦で指や手足を失ってしまった村人もいるに違いない。
 旅人の中には腰から剣を吊るした強そうな髭の男もいた。
村人からちらちらと視線を向けられていたが、気にした様子もなく手近な岩に腰掛けて何やら仲間と談笑していた。
 エルフ娘たちからやや遅れて、灰色の服を着たホビットの農夫が河原へと飛び込んできた。
「勝ったぞ!勝った!」
河原の人々が顔を明るくして一斉に喚声を上げるが、ホビットは喚くように言葉を続けた。
「だけど、女子供はもう少し此処にいろ!オーク小人たちは村中にいるんだ!あいつらを追い出すまでは戻っちゃ駄目だ!」
腰に縋りついてきている娘の頭を撫でながら、農婦が笑顔でエルフ娘に頷きかけた。
「もう安心だねえ」
用心深そうな眼差しで村の方へと視線を走らせていたエリスも、農婦に頷き返した。
「そうだね……助かったみたいだ」

「……ッ!!……ッ!……めだッ!」
 泣き喚く声や破れかぶれに叫んでいるような不快な声が耳に入ってきて、洞窟オークのゴ・ウルは目を醒ました。
「エルフ野郎は、いやがらねえ……」
エルフは、止めを刺さずに行ってしまったらしい。
「ちくしょう……舐めやがって」
立ち上がろうと身動ぎして、洞窟オークは凄まじい激痛に襲われて身体を丸めた。何をされたのだろうか。左肩に激痛が走っている。腕も動かない。凄まじい痛みは吐き気を催すほどで、全身から冷や汗が噴出してくる。汗だくで息を吸い込みながら、洞窟オークのゴ・ウルが休み休み身を起こして辺りを見廻すと、仲間たちが何やら叫びながら田舎道を駆け回っているのが見えた。
「もうあっちも駄目だぜ。反対から逃げよう!」
「どこからだよ!どっちにいっても、囲まれてるぜ!」
 洞窟オークのゴ・ウルはよろめきつつ道まで出ると、何やら言い争ったり、泣き叫んでは右往左往している連中に近寄って話しかけた。
「グ・ルンの……グ・ルンの仇を見つけたんだ。手を貸してくれ、お前ら!」
「な、なんだ!お前!?」
びっくりしている洞窟オークを怒鳴りつける。
「聞こえないのかよ!グ・ルンの仇がそこにいるんだぞ!手を貸してくれ!」
「はあ?」
洞窟オークのゴ・ウルに怒鳴られた方は、怪訝そうな顔でぽかんとしていた。
「グ・ルンの仇をとるんだよ!」
「だって、お前。さっきからグ・ルムが討たれたってのに、何言ってんだよ!」
言い返されて、洞窟オークは絶句している、と他の洞窟オークたちは首を振った。
「仇討ちよりも何とか逃げねえとよ。邪悪な人族共に皆殺しにされちまう」
吐き捨てるように言ってから、洞窟オークたちは立ち去っていった。
「……嘘だろ」
洞窟オークのゴ・ウルは、暫らく途方に暮れた様子で立ち尽くしていたが、やがて複数名の叫び声が近づいてくるのに気づくとハッと顔を上げてから、慌てて近くへある葦の繁みへと身を潜めた。


 仲間と合流しながら、暫らく村内を逃げ回っていた洞窟オークの族長グ・ルムだが、ついに足を止めると弱音を洩らした。
「だめだ。村の入り口にも人族の者共がどんどん増えている。もはや逃げ切れない」
「諦めんでくれ!グ・ルム!」
 手下が叱咤していると、横から叫び声を上げて近づいてくる影が見えた。
一斉に武器を構えた洞窟オークたちだが、聞こえてきたのがオーク語の言葉なので警戒を解いた。
「おお!グ・ルム。流れ者共が討ち死にしたと話していたのを聞いて、このゴ・ウルめはてっきり……」
砂煙の向こうから、よたよたと駆け寄ってきた小柄な影は、同じ部族の洞窟オークであった。
「……ゴ・ウルか」
 顔見知りが生き残っていたと知って、洞窟オークの長もホッと相好を崩してぎこちない笑みを浮かべる。生きておられたか!
「それにしても、よくご無事で!」
「……ジグ・ナがわしの身代わりとなって逃がしてくれたのよ」
 沈痛な面持ちの洞窟オークの長に、忠実なゴ・ウルは絶句してから話題を変えた。
「それは……出口はまだありますぞ。まだ何人かの味方が南の方に逃れたのを見ました!
このゴ・ウルめが案内を」
「いや、皆が死んでしまった。わしの責だ。愚かなわしが、グ・ルンの仇を討つことに執着したから……今さらなんの面目があって帰れるだろう」
 自棄になっているのか、それとも責任を感じているのか。大柄な洞窟オークの長は悔し涙を流しながら歯噛みしていたが、改めて生き残りの洞窟オークに訊ねかけた。
「だが、お主は何故逃げん?」
「グ・ルンの仇のエルフめを見つけてやっつけようと……ですが、此の様です」
 顔を痛みに歪めながら折られた鎖骨を見せると、じっと見つめてから洞窟オークの長は、若い洞窟オークを呼んで、今すぐに村の南から逃げるように言い含めた。
「部族を頼んだぞ」と反論を封じてから、大きく頷いて獅子吼する。
「ようし、もはや夢は潰えた!帰っても皆に合わせる顔もない!
せめてそのエルフの首だけでも取って、弟の霊の慰めにしてやろう!」


 他所から助けに来た農民たちや武装した村人が灰色の石くれが転がる河原を歩き回っていた。
未だに何匹かの洞窟オークが村の中を逃げ回っている故、女子供を守る為にも取りあえず屯っているのだが、勝敗が決した為か。洞窟オークの襲撃を警戒している筈の彼らのうちには、しかし、弛緩した雰囲気が漂っている。勝利に沸いている大勢の村人たちが、興奮冷めやらぬ様相で囁きを交わしていた。
「凄かったなぁ、あの姉さん」
「おいらも助けてもらったぞ」
「すげえよ。一人で何十匹も洞窟オークを切り倒してよ!」
 黒髪の女剣士を褒め称える噂話を聞いて、満面の笑顔でニヤついているエルフ娘を不思議そうに眺めると、農婦は肩を竦めた。
「仲がいいんだねえ」
「無事でいてくれたからね、嬉しいとも」
上機嫌で頷いたエルフ娘は、我が事のように喜んでいる。

 農婦は傍らの娘の頬を優しく撫でながら、頷いた。
「まあ、分からないでもないさ。あたしも……」
 何かを言い掛けた農婦が、突然、口から血を吐いた。鮮血が、地面の灰色の石を赤く濡らした。何処からか飛んできた槍が、農婦の背中に突き刺さっている。
「……え?なんだ……これ」
「……おかあちゃん?」
「ノ、ノア?」
 農婦が地面へと倒れかかるのを慌てて支えながら、エルフ娘は声を掛けたが、青銅製の槍の穂先は腹腔まで貫通している。一目見て致命傷だと思った。助けようがない。農婦は信じられないといった顔で、自分の胸から顔を出した槍を眺めると、泣きそうに表情をくしゃくしゃに歪めて娘に手を伸ばした。
「……ニーナ!」

「……外れたか!」
 何やらオーク語で言いながら河原へ姿を現したのは、一匹の大柄な洞窟オークだった。傍らには、鎖骨の折れた洞窟オークが、エルフ娘を指差して喚いている。
「あいつです!グ・ルム!あいつです!」

「あ、あいつは……ッ!」
 見逃した洞窟オークが仲間を引き連れて現れたことに、エルフ娘は驚愕し、ついで臍を噛んで己が甘さを悔やんだ。
ノアが死ぬ。私の責か?私があいつを見逃したから……
私の責で人が死ぬ。
 強烈な恐怖と後悔がエルフ娘の胸の内に湧き上がり、心の柔らかい襞《ひだ》を鑢《やすり》のように切り裂いた。
 二匹の後に続いて、洞窟オークたちが続々と葦の繁みを掻き分けて姿を見せてきた。葦の繁みから河原へと乱入してきたのは、つい先刻までは村人に追いかけまわされ逃げ惑っていた筈の一団の洞窟オークたち。
「女子供は、奥へ行け!」
「なんだ!何ごとだ!」
 突然の乱入に、女たちから悲鳴が上がり、武装した村人たち。男衆や、女でも武装した者などは、慌てて武器を構えた。
 一団の先頭には、大柄な灰色の肌をした洞窟オークが立ちはだかった。
小さい黄色い瞳に湛えたぎらぎらした殺気が、エルフ娘を真っ直ぐに貫いた。
私を憎んでいる?でも、何故?分からない。
だが、凄まじい負の感情が込められた憎悪の視線は、間違いなく彼女を射抜いていた。
エリスは息を呑んだ。かつてない恐怖に足が震える。
守られ易い中央にいながら、此処に留まっていては殺されると直感して素早く立ち上がった。
 傍らには、石だらけの河原にへたり込んで荒い息をついている農婦がいる。助けを求めるよう、縋りつくような視線を向けてくる農民の母娘の存在に、エルフ娘は動きを止めた。
置いて逃げたら、彼女たちはどうなるだろう?
だけど、此処にいたら、私は確実に殺される。
エルフ娘の躊躇は、強制的に打ち切られた。葛藤している数秒の合い間に洞窟オークたちが吶喊してくる。大柄なオークと中心の数匹は、間違いなくエリスを目指して押し寄せてきている。
残党狩りの農民兵や村人が武器を構えると、喚声を上げて洞窟オークたちの一群に真正面から打ち掛かった。一瞬だけ目を瞑ってから、小さく悲鳴を洩らした母娘を見捨ててエリスは身を翻した。
助け合った顔見知りを見捨てることに忸怩たる想いを抱きながら、エルフの娘は助けを求めてる農婦ノアとニーナの母娘もその場に置き去りにして、一目散に逃げ出した。

 大柄な洞窟オークは強かった。
その上、周囲にいる洞窟オークたちが必死の勢いで村人たちに襲い掛かり、血路を切り開いていく。
切りかかってきた旅の剣士や棍棒を振りかざしたゴブリンを突き飛ばして、大柄な洞窟オークは村人たちの列を突破した。
「追ってくだせえ!」
傍らにいた洞窟オークが、農民兵に切りつけながら大柄な洞窟オークへと叫んだ。
「おう!」
叫びながら追って来る洞窟オークに、後ろが気になって振り返ったエルフ娘は目を丸くする。
「……嘘!なんなの、あいつら!」
 幸いにも農民の母子は乱戦に巻き込まれていないようだったが、数人を足止めに残して、大半の洞窟オークがエルフ娘だけを狙って追ってきていた。
 特に大柄な洞窟オークは、人族やゴブリンに囲まれながら相手ともせずに突破している。体躯に劣る洞窟オークとしては、規格外な強さだろう。
何故、私を狙うのかは分からないが、捕まっては一溜まりもあるまい。
エリスは胸に罪悪感と焦燥を覚えながらも、田舎道を必死で逃げ去っていった。



[28849] 64羽 襲撃 10 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/11/02 06:59
 蟹股で揺れるように走る洞窟オークたちの重たい足音が、田舎道を走るエルフの娘の背中をいつまでも追いかけてくる。
「……しつこい」
 間違いなく狙われていると確信して、エリスは元気の無い口調で呟いた。異様に執念深い洞窟オークの追跡に、いい加減うんざりしながら村の中央を目指している。追っ手の人数は七、八人もいるだろうか。脚力に任せて、引きずり回してやる方策は取れない。
普段は軽やかなエルフ娘の足取りからは、しかし、疲労によって常の俊敏さが失われていたし、鈍重な洞窟オークとはいえ、それだけの人数がいれば、分散して行く手行く手に廻り込んで来る策も使えるであろう。

 まったく厄介な事になったと思いながらも、しかし、エリスは一時の混乱から立ち直って生来の冷静さを取り戻していた。
村には、まだ其処此処に乱戦の気配が漂っている。少し迷ったものの、より人気の多いほうへと逃げたほうがいいだろうとエルフは結論した。
村の中心部には、まだ戦の余韻冷めやらぬ村人たちが大勢いるに違いない。他の洞窟オークに襲われるかも知れないが、他の人に助けてもらえる見込みも大きい。
他力本願ではあるが、彼らに助けてもらおう。
実際、村の中央に近づけば近づくほどに、村人の姿は増えてきている。
その中で、エルフを追い掛け廻している洞窟オークたちの姿は、相当目立つ筈だった。

 エルフ娘が田舎道を駆け抜けている姿を見ても、村人たちは誰も気にしなかった。勝利に興奮して駆け回っているように見えたのは、別に彼女だけでは無かったからだ。次いで追跡者たちが突入してくると、これは流石に目を瞠って迎え撃とうとしたものの、一塊になって勢いがついている洞窟オークの一団を止めることは誰にも出来なかった。
 中には呆然とした表情で横を駆け抜けていく洞窟オークの集団を見送った農民もいた。思ったように村人たちが当てにならず、汗だくのエルフ娘は喘ぎながら重い足を必死に動かしている。
頭が痒い、沐浴したい。前に沐浴したのは何時だったか。
死の危険に晒されているのに、そんな変な事ばかりが頭の中をぐるぐると浮かんでは消えていった。
村人たちに紛れ込もうにも、頭巾はもう取ってしまっているし、今さら変装する時間も余裕もない。
疲れが彼女の足をさらに重くしていた。追いかけてくる洞窟オークたちとの距離が、少しずつ少しずつ詰まってくる。
荷物を捨てようか。いや、そんな暇さえないだろう。
 洞窟オークたちには意外とスタミナがあるようで、恐ろしい気迫を保ったまま勢いよく追いかけてくる。手間取っている間に追いつかれてしまう。追いつかれたらおしまいだ。
たった一人の半エルフでは、碌に抵抗も出来ないまま嬲り殺されてしまうに違いない。
自分が敵うとか、戦うとか、そんな思考は欠片もエルフの脳内には思い浮かばなかった。


 前方から、武装した農民兵たちの一隊が歩いてくる。兎に角、大勢。十数人もいる。
ついに目当てのものを見つけたエルフ娘の顔が、パッと明るくなった。
着衣に乱れも汚れもないのは不思議だと思いつつ、これ幸いと駆け拠った。
「……た、助けてッ!!」
喘ぎながら助けを求めてきた美女に戸惑いながら、農民兵たちが顔を見合わせた。
「どうしたんだ?エルフの姉ちゃん」

 走りすぎたのか。エルフ娘の太股は、立ち止まった瞬間から軽く痙攣を起こしていた。
不安そうな面持ちで振り向いたエルフの娘は、喚声を上げて追いかけてくる洞窟オークの一団を指差した。
「洞窟オークたちが襲って来て……」
近隣から助けに来た農民兵の一団は、顔を見合わせてから棍棒や六尺棒、青銅の穂先の槍などを揃えて洞窟オークたちへと向かっていった。
人数では倍近く勝っている筈の農民兵たちだったが、果たしてあの気迫に抗せるだろうか。
足止めにしかならない気もする。エルフ娘は足を止めずに距離を稼ぐことにした。
「先に行け!グ・ルム!」
「すまん! 」
案の定、大柄なオークは足止めに徹した一部の部下たちを残してなおも追いかけてくる。
「そう上手くはいかないか」
呟いたエルフ娘だったが、多数の敵を前にして大半の洞窟オークは脱落していた。

 洞窟オークたちが妨害を突破するまでに、エルフ娘はかなりの距離を稼いでいたし、
村の中央に入るにつれて段々と村人の姿も増えてきている。
倒れている洞窟オークたちの亡骸が其処此処に転がり、勝ち鬨を上げている村人たちの中には、生きている洞窟オークたちを見かけて、獲物を手に追いかけ始める者も少なくない。
此れなら、時間切れまで逃げ回っていれば……
苦しい息の下で、エルフの娘は何とか村の広場にある村長の家まで辿り着いた。
合流を期待していた女剣士の姿はなかったが、代わりに、あばら屋に屯って談笑している五人組の男女の姿が映った。
 郷士、或いは富農なのか。小剣や中剣、槍を携えて、厚手の布服や革服を纏った彼らは、見た目、かなり強そうであった。
「なにかあったのか?エルフさん」
エルフ娘の只ならぬ様子に若い郷士の一人が話しかけてくる。
「オークの一団が此方に向かってきています」
自分が追われていると云わなかったのは、少しずるかったかも知れない。

 頷きあった五人組が、洞窟オークの一団を迎え撃とうと剣を引き抜いて待ち構える。
異変に気づいた村人たちも獲物を手にどんどん集ってきていた。
此れなら流石にもう大丈夫だろう。
洞窟オークたちが、村の広場に姿を見せた。
 待ち構えている大勢の村人を前に一瞬、躊躇した洞窟オークたちだが、しかし、エルフ娘を目にした先頭の洞窟オークが吼え声を上げると正面から吶喊してきた。
剣を振りかざした郷士に、短剣や粗末な槍を振りかざした農民兵たちが、次々と洞窟オークたちに群がっていく。乱戦を眺めながらエルフ娘が足を休めていると、大柄な洞窟オークが乱戦を突破して、こっちへと駆けてくる姿が目に映った。
「……嘘」
途中で立ちはだかった村人を大柄な洞窟オークが投げ飛ばしたのを見て、エルフ娘は驚愕に目を瞠った。
呆気に取られて呟いたエルフ娘は数歩を後退ってから、慌てて逃げ出した。逃げるエルフ娘の背後で、時折、村人の喚き声が聞こえるが、追って来る洞窟オークの吼え声はなおも消えない。

 ありえない。なんなんだ、あいつ!
それにどうしてそこまで私を追いかけてくる?
流石に此処まで追いかけてきているのは僅かな数だったが、エルフ娘の恐怖心は大きく膨れ上がっていた。
「グ・ルンの仇!逃さぬぞ!」
 呪うような響きのオーク語の叫び声が背中から聞こえてきて、意味は分からぬながらも、ひぅっと悲鳴を洩らして首を竦める。
蟹股で揺れるように走る洞窟オークだが、疲れ切ったエルフ娘よりは幾分か早かった。
喘ぎながら、足をもつれさせているエルフ娘に段々と喚声が迫ってくる。

 此の侭では追いつかれる。村人の姿は少なくなるが、仕方ない。見通しのいい村の中央から脇道へと逸れて、エリスは隠れられる場所が多い村の北へと逃げ込んだ。手近な繁みに隠れてやり過ごそう。
素早く葦の繁みに隠れて逃げ始めるが、後ろで叫び声と足音がする。
「グ・ルンの霊よ!祖霊たちよ!力を貸してくれい!
 地底を統べる闇の王バゾンガよ!我に猟犬の鼻を与えたまえ!」
意味は分からずともオーク語の朗々とした叫びに振り返れば、繁みが揺れている。
洞窟オークが追ってきているのだ。
「ええ!?嘘でしょう!」
エリスは小声で毒づいた。
見通しの悪い葦の繁みの中でどうしてこうも正確に後を追ってこれるのか。訳が分からない。
曲がりくねって逃げ惑うが、まだ確実に後を追いかけてくる。
舌打ちするやエリスは葦の繁みから飛び出して、村外れへと向かった。
それでも此の侭逃げ続けていれば、安全を確保できる筈だった。

 道々に佇む村人たちは、敗残兵の洞窟オークを追い詰めている者もいれば、道端で休んでいる者もいるが、不思議と追いかけてくる大柄な洞窟オークだけが目に入らないかのようにすれ違ってしまうし、洞窟オークも彼らには襲い掛からなかった。洞窟オークの狙いはただ一人、エリスだけらしい。
どれ程、村の中を逃げ回っただろうか。そう大きな村ではない筈なのに、やけに広く感じられる。
ぜえぜえと息を乱して、エルフ娘はふらつく足取りで田舎道を歩いていた。
……捕まる……もう駄目だ。
執念深く追跡されて弱気になったエルフ娘が足を止めてしまう。
これ以上、足が動かない。
喘ぎながら立ち止まったエルフ娘は、大分、薄まってきた砂煙の向こうに近づいてくる影を睨みつける。
やられてたまるか。
エルフ娘は諦めが悪かった。
歯噛みしながら、追跡者を迎え撃とうとエリスは頭を絞った。
棍棒では少し辛い。何か武器になるものは落ちてないだろうか?
槍でも弓でも……落ち着こう。
そんないい物が落ちてるはずもない。村の中央で拾っておけばよかった。
武器、相手の注意を一瞬でも逸らせる。
目潰しとか、作っておけば良かった。駄目だ、考えが廻らない。
よろめいたエルフ娘は、岩陰に隠れて腰を降ろした。
何時まで持つだろうか。少し休もう。

「何処へ……行ったァ!」
岩陰に隠れていると、何やら争う物音が響いてきた。
そっと顔を出して様子を窺うと、足を止めてエルフ娘を探して叫んでいた洞窟オークに、二人組の若い男女の傭兵が剣を振りかざして切りかかっていた。
近くにいた村人も棍棒を振りかざして傭兵たちに加勢する。
しかし、大柄な洞窟オークの気迫は凄まじいもので、三対一でも負けていない。
遠目に駆けてくる洞窟オークたちの姿が見えた。
手下まで追いついてきたら、村人たちはやられてしまうかも知れない。

 距離を稼いでおこう。立ち上がろうとして、足が痙攣した。
少し休んだ為か、急に疲れが押し寄せてきた。
蓄積した疲労と恐怖に足がもつれる。もう走れない。
……こ、殺される。
エルフ娘が脅えていると、横合いの繁みががさがさと鳴った。
エリスが脅えた表情を向けると同時に、幼い少女が繁みから顔を出した。
「こっち!こっちだよ!」
駆け寄ってきたのは、さっき逃がした村長の娘である。
真剣な顔で手招きしているので、ふらふらと近寄ると、小さな暖かい手に引っ張られる。
「走って!あと、ちょっと」
途中にいた傭兵や村人たちを蹴散らした洞窟オークたちは、三匹まで数を減らしながら尚もしつこく追いかけてくる。


「お爺さん!助けて!お爺さん!」
 村長の子供に手を引かれて飛び込んだのは、老ゴブリンの住んでいる小さな家だった。
奥は穴倉になっているが、ゴブリンの翁の住処は人気がなくシンと静寂が支配している。
「お爺さん。いないの!」
少女は泣きそうな顔で焦りながら、部屋の中を見回している。
「……いない」
「後ろに下がってて!早く!」
子供に言いながら、入り口を睨んでエルフ娘は軽く唇を舐めた。
どの道、もう此れ以上は走れそうもない。
目潰しでも何でも用意して置けばよかったな。
部屋の奥に行って震え始めた少女を横目で見ながら、追い詰められたエルフ娘は沈痛な面持ちで棍棒を構え、覚悟を決めた。
 やがて小屋の入り口に小さな影が三つ、逃げ道を塞ぐように並んで姿を見せた。
先ほどエルフ娘が骨の一本を折ってやった洞窟オークがせせら笑いを浮かべている。
大柄な洞窟オークの方は、感情の窺えない静かな瞳でエルフ娘を凝視していた。
小さな鎌を手にした三人目は、顔を真っ赤にしてエルフ娘を睨みつけている。
「……これは、グ・ルンから貰った短剣よ。此れでお前の皮を剥いでやる」
歯を剥きだしてせせら笑っている洞窟オークの背後から、さらに小さな影が一つ、猛烈に駆け寄ってきた。

「子供になにしちゃるかぁッ!」
 飛び出してきた老ゴブリンが、一番後ろにいた洞窟オークを槍でぶっ刺した。
「きゃっ!」
不意打ちを受けた洞窟オークが、思わぬ深手に甲高い悲鳴を上げて飛び跳ねた。
苦しげに呻きながら振り返った洞窟オークの腹に、ゴブリンはさらに槍を突きこむ。
反撃しようとして小さな鎌を振り上げ、だが脱力して崩れ落ちた洞窟オークを飛び越えると、老ゴブリンは槍を振りかざして大柄な洞窟オークに挑み掛かった。

 同時に、最後の力を振り絞ったエルフ娘が、油断剥き出しにせせら笑っていた洞窟オークに飛び掛り、顔に棍棒を叩きこむ。
へし折れた歯の欠片がパラパラと地面に撒き散らされ、洞窟オークが悲鳴を上げて仰け反った。

 飛び掛った老ゴブリンは意外と素早い動きで洞窟オークに槍を突きこんだが、頭目は身を捩って躱すと穂先は分厚い肩に突き刺さった。
唸りを上げたゴブリンが槍をぐりぐりと突き回すが、洞窟オークの頭目は苦痛に顔を歪めながらも怯まない。
「ぬう!」
 大柄な洞窟オークが槍の柄を掴んで力を込めると、老ゴブリンの槍は戦闘用の頑丈なそれではない。
柄が細い狩猟用の槍は、中ほどから軋むような音を立ててへし折れてしまう。
槍を失った老ゴブリンが小さな短剣を出して構えるのと同時に、大柄な洞窟オークが飛び掛って揉み合いとなる。

 口元を血で濡らした二匹目の洞窟オークが、力なく床へ崩れ落ちた。
「あいつは私を狙っている。反対側に逃げて」
額の汗を拭いながらエルフ娘が少女が告げた時、入り口から重たい鈍い音が響いた。
洞窟オークが老ゴブリンの身体を抱え上げて、壁へと投げ飛ばしたのだ。
「ぎゃ!」
真っ直ぐに宙を飛ぶと壁に叩きつけられて、老ゴブリンは伸びてしまう。

 最後の障害を倒した大柄な洞窟オークが向き直ると、エルフ娘は地面に蹲って脅えているように見えたが、やはり最後まで見苦しく足掻く心算らしい、立ち上がり逃げ道を探るように壁際を這い回る。
「大人しく死ね」
「御免だね」
嘯いたエルフ娘に、横合いから気絶していたように見えた洞窟オークが飛び上がって掴みかかった。
「……今だ!仇を!」
「は、離せッ!」
喚いたエルフ娘が折れた鎖骨に棍棒を振り下ろすと、叫んでいた洞窟オークは白目を剥いて崩れ落ちる。今度こそ気を失ったようだ。

 大柄な洞窟オークが唸りを上げながら突進すると、何時の間に手に握っていたのか。
エルフ娘は小石と砂を目潰しに投げかけた。
視界が潰れたのか、大柄な洞窟オークは涙を零しながら石斧を振るうが、暗闇に包まれた視界の横でエルフ娘の駆け抜けていく足音が聞こえてしまった。

 どんなに逃げようが、何処までも追いかけて必ず捕まえてやる。憤怒に顔を赤く染めた大柄な洞窟オークが家から出ると、エルフ娘が木に昇っていく姿が見えた。
 到底、洞窟オークに昇れそうもない大きな高い樹木に、猿のように器用に登りながら、洞窟オークのほうを見て笑顔を浮かべた。
「降りて来い!」
「いやだよ!」
頭上へ向けて洞窟オークは怒鳴るが、エルフ娘は手の届きそうのない枝に腰掛けながら、相手にしなかった。
「……しつこいな、諦めなよ!」
大柄な洞窟オークは、エルフ娘の嘲弄するような態度に憤怒に目が眩みそうになる。
こんな事があっていいのか。
仲間たちの犠牲を払って目前まで追い詰めながら、逃がしてしまうのか。
此の侭では、何れ村人たちが集ってきて討ち取られてしまう。
こんな事はあってはならない。

 洞窟オークの頭目は、暫らく恐い顔をして樹上のエルフ娘を睨みつけていたが、踵を返して歩き出した。
諦めたのかな。
そう思って追跡者を眺めていた半エルフは、思わず息を呑んだ。
ゴブリンの小屋へと入っていた洞窟オークは、出てきた時には村長の娘の腕を掴んでいた。
泣いている少女の喉元に小さなナイフを当てて、洞窟オークは静かな表情でエルフ娘を見上げた。
「……卑怯者」
搾り出すように呟いたエルフ娘に、子供を人質にとった洞窟オークが語りかける。
「……降りて来い」
黙って睨みつけてくるエリスに見せ付けるように、大柄な洞窟オークは幼い少女の首に手を掛けた。
「此の子が死んだら、お前の責だ。見捨てられるか?」
暫らく首を傾げて沈思していたエルフ娘は、洞窟オークに問いかけた。
「私が降りていけば……その子を離すと約束するか?」
「……いいだろう」
本気かどうかは分からない。
いずれにしても、こいつの手下はもういないし、時間を稼いでいるうちに村人たちが駆け込んでくれば逆転の芽もある。
エルフ娘は頷いてから、洞窟オークに告げる。
「……今から降りる」


 地面に降りたエルフ娘は、蒼い瞳に昏い光を湛えて洞窟オークをじっと見つめた。
「……その子を離せ」
啜り泣いている幼い少女の掴んだまま、洞窟オークは牙を剥きだして薄い笑みを浮かべる。
「もっと近寄れ」
今から行なうのは、喧嘩ではなく命を賭けた決闘であるがやる事は変わらない筈だ。

 最後の対決を前にして、喉を鳴らして唾を飲み込むと、エリスは大柄な洞窟オークの傷だらけの全身に視線を走らせて、おおよその強さを推し測ってみる。
腕は太くて長い。力も強そうだ。身長は低いけど、目方は向こうの方があるかも知れない。
全体的にがっしりとして重心が低そうだ。
肩にゴブリンの槍が刺さっているままなのに平気な顔をしている。
全身の彼方此方に細かい切り傷や刺し傷が出来ている。
それはそうだ。途中であれだけの人やホビットにぶち当たって、無傷で済む筈がない。
だけど、不死身の怪物に思えて、思わず震えてから思い直した。
違う。こいつだって疲れている。体力に限界はあるはずだ。

 エルフ娘が近寄ると、洞窟オークはその腕を掴んでから少女を突き飛ばした。
と同時に、エルフ娘は拳を固めて洞窟オークに躍りかかった。
いきなり肩を思い切り殴りつける。
 が、洞窟オークは応えた様子もない。
趣向が気に入ったのか。ナイフを投げ捨てると、せせら笑って殴り返してきた。
腕を上げて防いだものの、エルフの華奢な身体が後ろへ数歩揺らいだ。
左手でエルフの右腕を掴んだまま、洞窟オークは何発も殴りつけてくる。
 一方的な殴り合いになった。
拳の雨を降らされながら、何とか身体を揺らして凌ぎ続けるが、長くは持つ筈もない。
強烈な打撃を喰らってくらくらしながらエリスが倒れると、洞窟オークの族長が伸し掛かってきた。
「しね……あばずれが」
洞窟オークの方が体重も力もあったが、エルフ娘も死に物狂いになっていた。
腕を伸ばして洞窟オークの肩に刺さっている槍の穂先を掴み取ると、もう一度、同じ傷口に振り下ろした。
絶叫した洞窟オークを何度も突き刺した。吹き出した返り血がエルフの秀麗な美貌を赤く濡らす。
洞窟オークが力強い腕を振って払い除けると、槍の穂先は遠くへ跳ね飛ばされた。
しかし、流石のグ・ルムも、もはや右腕は効きそうになかった。激しい揉み合いとなる。
互いに主導権を握ろうと、相手を掴んだまま地面の上を転がりまわり、拳を振り回して、相手に叩きつける。

 エリスは振り回されがちだが闘志は充分で、洞窟オークの傷を狙って殴りかかるが、グ・ルムはそれを予期していた。
「卑怯者が……傷ばかり狙いおって」
拳を掻い潜るとエルフの腹に重たい一発をお見舞いする。
強烈な拳を腹に打ち込まれて、エリスの口に胃液が逆流してくる。
動きが止まったエルフ娘に、洞窟オークがここぞと拳をたたきつける。
腕で防ぎながら、しかし、何発も拳が振ってくる。
偶のエリスの反撃は洞窟オークに効いたように見えず、徐々にエルフ娘の反抗する力が弱っていく。
「……あう」
いいのを喰らって呻いたエルフ娘に止めを刺そうと、洞窟オークが大きく拳を振り上げて、何者かに掴まれた。
「……勇敢なお嬢さんじゃな」
白髭のドウォーフが赤銅色の腕で洞窟オークの腕を掴んでいた。

「は……はなせッ!ちびの地虫がぁ!」
 洞窟オークの罵りに軽く目を細めると、白髭のドウォーフは固く握った拳でその頬桁を張り飛ばした。
仰け反った洞窟オークはよろよろと立ち上がると、血の唾を吐き捨てた。
人を殺せそうな凄まじい視線でドウォーフを睨みつけると、叫びながら殴りかかる。
殴られたドウォーフは鼻血を吹き出しながら肩を竦めると、鉄槌のような拳を洞窟オークにお見舞いした。

 胸に重たい打撃を受けた洞窟オークが呻いた。信じられないといった様子で目を見開いてドウォーフを見つめる。
さらにドウォーフが拳を降らせると、その度に足元をふらつかせて洞窟オークはなす術もなく後退していく。執念深い怪物のような洞窟オークが、まるで子供扱いされていた。
「……ぐうう」
呻いた洞窟オークの腕を掴むと、白髭のドウォーフは軽々と地面へ投げ飛ばしてしまう。
背中を強打した洞窟オークは、唸りながら立ち上がって殴りかかるが、ドウォーフは赤銅色の太い腕でもう一度捕まえるとさらに投げ飛ばした。
「糞ぉ!」
 洞窟オークは、地面に捨てたナイフへ駆け寄ると拾い上げ、ドウォーフに切りかかった。
白髭のドウォーフが万力のような腕で、振り下ろされた洞窟オークの腕をはっしと掴んだ。
洞窟オークとドウォーフの額に血管が浮かび上がり、力比べに二本の腕がぶるぶると震える。
そのまま腕を捻じりあげているうちに、洞窟オークの腕から鈍い音が響いてありえない角度へと曲がってしまう。
 腕が折れた洞窟オークが絶叫していると、ドウォーフの強烈な打撃が振ってくる。
胃の腑を打たれ身体をくの字に折り曲げた洞窟オークが、血を吐きながらドウォーフに告げる。
「……殺せ」
白髭のドウォーフは無言でさらに殴りつけた。
洞窟オークは顎に強か強烈な打撃を喰らい、白目を剥いて崩れ落ちた。
それきりピクリともしない。
「うむ?これはいかん。死んじまったか?」
首を傾げているドウォーフに、漸く立ち上がったエルフ娘が怪訝そうな視線を向けた。
「それの何が問題なの?」
「剣士殿は色々聞きだすために生かしておいたほうが云いと……」
言いながら、白髭のドウォーフは肩を竦める。
「まあ、死んだものは仕方ないの」
エルフ娘は洞窟オークの胸が軽く上下しているのに気づいて、ドウォーフに告げた。
「生きてるよ」

 白髭のドウォーフが縄を取り出して生け捕りにした洞窟オークの首魁を縛り上げていると、何処からか村長の娘が駆け拠ってきて、エルフの娘を見上げてきた。
「その娘が助けを呼びに来たんじゃよ」
ドウォーフの言葉に頷きながら幼い娘の頭を撫でると、エリスはもう一匹の洞窟オークへと冷たい視線を向けた。


 水が顔にかけられた。
「ぶっ……ぶばっ!」
洞窟オークのゴ・ウルが目を醒ますと、目の前にはエルフの娘が立っていた。
「目が醒めた?」
呼びかけてくる声はこれ以上なく冷たい。蒼い瞳は冷え冷えとした光を湛えている。
「……何のつもりだ」
呻き声を上げて身を起こそうとした洞窟オークは、そこで初めて後ろ手に縛られている事に気づいた。
「けじめかな。ノアの事とか、色々と……」
冷たい瞳で洞窟オークを眺めていたエルフ娘は、手に短剣を弄んでいる。
洞窟オークの顔色が変わった。
尊敬する友人から貰った大事な短剣を、よりにもよって当の仇が弄んでいる。
それが洞窟オークには許せなかった。
「……返せ!」
喚いた洞窟オークにエリスは優しく微笑みかけた。
「返してあげる」
そのまましゃがみ込むと短剣を洞窟オークの懐、心の臓へと突き立てた。
痙攣しながら倒れた洞窟オークを塵を見るような目で眺めてから、エルフ娘は首を振った。
「……甘かった……悪党に改心するかもとか、馬鹿ばかしい」
ふっと力が抜けたように、エリスは酷く疲れた表情で呟いた。




[28849] 65羽 襲撃 11 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/11/22 04:54
 女剣士の足元。誰の者とも知れぬずんぐりした指に赤い甲冑を纏った蟻が群がっていた。
川辺の渡し場に攻め寄せてきた洞窟オーク達も、今やその殆どが息絶えて大地に無惨な屍を晒していた。
 道端を歩いているゴブリン小人が、地面に散らばった武具の類を拾い集めていた。その向こう側では、頭から血を出して路傍に蹲っている人族の青年の傍らを村人の亡骸を運んでいる数人のホビットたちが通り過ぎていった。年端もいかない子供が、泣き叫びながら田舎道を横切って走り去っていったかと思えば、夫や子供の安否を問いながら彷徨い歩いている農婦の姿も在った。
疲れ切った表情を顔に張りつけて、歩くことも叶わぬ怪我人を肩で支えて歩いている男たち。
 ところどころにある血溜まりを避けながら、少し視線を走らせれば、路傍の奥や繁みの影など、そこかしこに物言わぬ屍が転がっている。大地に横たわる屍の殆どは洞窟オークのものではあるが、それでも村人の犠牲が皆無な訳もない。
 暴力の痕跡が色濃く残る風景を、女剣士は眉毛一筋動かさずに見ていた。不具になった者もいるであろうし、傷を負い静養を必要とする者もいるだろう。それでも、百近い数の洞窟オークが攻め寄せてきた事を鑑みれば、犠牲者の数は驚くほど少ない。襲撃の規模に比せば、被害は極めて小さいといっていいだろう。兎に角は勝った。そして生き残ったのだ。


 北の彼方より吹き付ける冷たい風が、女剣士の頬を打った。先ほどまで視界を遮っていた黄色い砂塵も、大分、収まってきているように感じられて、女剣士は薄く笑みを浮かべた。
 常にない喧騒に包まれている川辺の渡し場の田舎道には、ざわついた雰囲気が漂っている。他所から応援にやってきた農兵や兵士たちが歩きまわる姿も見られた。
 興奮冷めやらぬ大勢の人々が行き交う小道を進みつつ友人のエルフ娘を探し続けているうち、道端で数珠繋ぎに縄打たれて連行されている洞窟オークの捕虜の姿が目に入った。
「慈悲を、人族の旦那方……どうか、お慈悲をぉ」
 僅かに生き残った洞窟オークたちだが、泣き叫んで村人たちに慈悲を乞うている。その末路はけして明るいものではなく、恐らくは内陸の曠野なり、或いは北方からやってくる奴隷商に二束三文で引き渡されるのだろう。その後は、鉱山に売り飛ばされるか、巨大な石臼の挽き手として鞭打たれ、酷使される日々が待っているに違いない。
脆弱な洞窟オークたちであれば、過酷な労働に三ヶ月から半年でも寿命が持てば上等だろう。

 俘虜たちが連行されていく光景を眺めていた女剣士だが、ふと怪訝そうに片方の眉を跳ね上げる。
そう、洞窟オークは脆弱な種族だ。単独では人族と争う事など考えられないほどに。オークとは云っても、連中は意気地の無い臆病な種族。だけど、雑木林で追い詰めた洞窟オークの最後を思い起こす度に、女剣士の胸のうちにはどうにも嫌な感覚が蠢くのだ。
 やはり引っ掛かるな。私は何かを見落としてはいないだろうか?
 誰かに扇動でもされたか。或いは、裏で糸を引いているものがいる?
死んだオークの捨て台詞が気にはなるものの、首を振って懸念を打ち消した。
「……まさかな」
 我意の強いオーク連中が、部族の境を越えて連携するなどそうそうに在ることではない。人里離れた洞窟に隠れ住む無知な愚か者共が、他のオーク族の略奪を耳にして我も我もと調子付いただけの話であろう。
 心の奥底で不快にざわつくものを感じているものの、勘だけでは根拠に成り得ない。具体的な物証がある訳でもないのだ。
頤に指を当てて悩む女剣士だが、過去の経験からオーク族を我欲に満ちて愚かな種族、協力など出来ない種族だと見做していた。
たとえ目先の欲望によってオークたちが手を結んだとしても、其れは一時の事。
その紐帯は弱く、脆いものであり、要所要所では己の欲望を大義に優先させるオーク族には、多大な犠牲を払ってまで戦い抜くことはできぬだろうとたかを括っている。
実際、それも全くの偏見という訳では無かったから、オークの動きに幾らかの疑念は抱いていたものの、僅かな手がかりから真実へと辿りつくことは此の時のアリアには出来なかった。
服の布地についた細かい砂を払い落とすと、女剣士は思索を打ち切った。
軽く鼻を鳴らして、大股の歩調で起伏の多い田舎道を歩き始める。
 無意識のうちにオークを侮りながら、アリアは己が驕慢に気づいてはいなかった。
オーク族の思惑が何であろうと、もうじき女剣士はエルフ娘と連れ立ち、ティレー市へと向かう予定だった。
一端、此の地を離れてしまえば、その後に辺境の片隅で何が起ころうが、自分たちとは何の関りも無くなるのだ。その筈だった。



 川辺の村の村外れには、葦の繁みが生い茂る沼沢地が広がっている。北の沼沢地に面した小高い丘と原っぱは、普段は村の子供たちにとって絶好の遊び場だったが、今ははしゃいでいる子供の影一つ見当たらない。
 灰色の石が緩やかな斜面に転がる小高い丘の手頃な岩に腰掛けたエリスは、虚脱した表情のままあらぬ方を眺めていた。
 傍らの地面には、後ろ手に縛られた洞窟オークが苦悶に表情を歪めたままに死んでいる。彼方へとゴート河の流れていくさまを一望できる小高い丘からは、村の喧騒がほぼ鎮まったのが見て取れた。
蟻のように忙しなく動き回る村人たちの様子からも、まず勝ったと見て間違いない。

「……気分が悪い」
 呟いたエリスは深々と息を吐いてから、河辺の村から視線を逸らした。
洞窟オークに殴られた頬は嫌な熱を持って疼いていたし、覚えも無いのに首も痛んだ。何処かで捻ったか、引っ掻かれたかしたらしい。そして何より、酷く気分が悪かった。
悪党一人殺しただけなのに、先ほどから胸のむかつきが収まらないのだ。
今までも数度あったことなのに、何故だろうか。
今日に限ってひどい胸糞の悪さが続いている。
幾度か深呼吸してみたが、胸の奥にわだかまった気持ちの悪さは収まるどころか、いまや吐き気を催すほどに強くなっていた。

 何時までも、此処で無為に時間を潰している訳にはいかない。
置いて逃げてきた農婦の母子が無事か、河原に戻って確かめねばならないし、友人のアリアも心配である。
腕の立つ剣士ではあるから十中八九無事であろうが、此方を探しているだろう。
なのにエルフの娘は、動く気になれなかった。
いっそ此の侭、逃げてしまおうか。
頭の片隅でそんな卑劣な考えさえ思い浮かんだ。
「んや……逃げても何の解決にもならないか」
どれほどの時間をそうしていただろうか。遠く西方山脈の黒々した稜線を呆けたように眺めていたエルフは、村の方から丘陵を目指して近づいてくる人影にも気づかなかった。

 聞き込みながらエルフを探し当てた女剣士が軽い勾配を登ってきたが、エルフ娘は下草を踏みしめる足音が近づいてきても身動ぎ一つしなかった。
女剣士が目の前に立つと、やっとのろのろと顔を向けてきたが、その表情は酷く憔悴している。
接近を気にしなかったのではなく、気づかなかったのだろう。
誰かが傍に来たと知って狼狽した様子で腰を浮かせたが、女剣士だと気づくと躊躇いがちに踏み止まり、小動物のような眼差しでおずおずと見つめた。

 エルフの娘の白皙のかんばせは返り血を浴びて真っ赤に染まり、強張った表情で御守りのように青銅製の小さな短剣を懐に強く握り締めていた。
女剣士が戸惑いながらも観察すれば、エリスの忙しなく動く蒼の瞳には、脅えたような色と共に濁った光が宿っていた。
エリスの蒼い瞳に宿った暗い光は、女剣士のよく知る人種の其れと酷似していた。
「……なんて様かね」
殺人者の眼をした友人と視線を合わせたアリアは、一瞬、見間違いかと改めて見つめてから、エルフ娘の痛々しさに微かに息を呑んで目を伏せた。
一瞬、何故か逃げる気配を見せたエルフの娘を穏やかな眼差しで見つめてると、傍らに転がる洞窟オークの後ろ手に縛られた死骸を一瞥し、再びエルフ娘に視線を戻した。
「……無事だったんだね、よかった」
エルフ娘がか細い声で呟いたので、女剣士も応じて頷いた。
「君もな」


「アリア……わたしは……」
 戸惑いを隠せずに呟いているエルフ娘は、激情に駆られたのか、よほどに赦せぬ理由が在ったのか。
瞳に宿る澱んだ影を見間違いとも思ったが、なるほど敵を冷酷なやり方で処刑したらしい。
「……似合わぬ真似をしたな」
ぽつりと呟いた言葉がそのまま女剣士の率直な想いであったが、勘に触ったのだろう。
中腰に立ち上がったエルフの娘が、挑むようなきつい目付きで女剣士を睨んだ。
「なにが……ッ!?何も知らない癖に!」
身体を震わせて思わず叫んでから、ハッとしたように口を閉じて、エリスは力なく腰を降ろした。
「怒る元気はあるようだな」
歯を食い縛って地面に視線を彷徨わせているエルフ娘に、女剣士は穏やかな視線で見つめていたが、やがて友人の頭にぽんと手を乗せると、クシャリと翠の髪を撫でた。

 対面の岩に腰掛けると、女剣士はエルフの娘の翳りを帯びたかんばせに、いたわりの混じった視線を向けた。
泣きそうな顔をしている。だが、涙も出ないのだろう。
犯した罪に対する良心の呵責にか、或いは己のうちなる悪に気づいての恐れゆえか。
強張った美貌を苦悩に歪めているエルフの娘は、何を言うでもなく節目がちに俯きながら陰気な沈黙に閉じ篭っていた。
 最初は、後ろ暗そうにきょときょとと視線を逸らしていたエリスであるが、女剣士は何も言わずに、ただ凪いだ水面のように静かな眼差しを向けるのみだった。
時折、頬を神経質に痙攣させていたエルフの娘であったが、そうしているうちに、沈黙のうちにも労わる気持ちが伝わったのか。
落ち窪んだ眼窩の底で暗い影が差していた蒼い瞳も、漸く落ち着いて女剣士を見つめ返してきた。


 エリスの気持ちが落ち着いてきたのを見計らって、女剣士は水筒と亜麻のハンケチを取り出した。
高価な亜麻製のハンケチを水で濡らすと、手を伸ばして返り血に染まったエルフ娘の顔を丁寧に拭い始める。
「いっ……痛い」
 何者かに殴られたのか。エルフの頬は、赤く腫れあがっていた。
僅かに身動ぎしたエルフの娘は何かを言いたげにしていたが、しかし、されるがままに無言で優しい扱いを受けているうちに、やがて人心地を取り戻したのだろう。
伏した瞳から熱い涙が溢れ出ると一滴、二滴と頬を零れ落ちていった。
すすり泣いているエルフの娘は、握り締めていた青銅の短剣を厭わしげに投げ捨てた。
女剣士が水筒を傾けてくれたので、エルフは手を動かしてごしごしと顔を洗った。
掌にべったりと浴びた返り血が綺麗に洗い流されていくにつれ、蒼い瞳には理知的な光が舞い戻ってくるのが見て取れた。

 女剣士は何を言うでもなく、鼻を啜らせてるエルフの肩に手を伸ばすと、穏やかに身体を引き寄せた。
ただ抱きしめられているうちに彫像のように強張った表情にようやくに赤味が戻ってからも、エリスはアリアの胸に体重を委ね続けた。
千を数えるほども、そうしていただろうか。
大分、落ち着いたのだろう。涙を拭い去ったエルフの娘が長々と溜息をついた。
心細い時に慰めを受けて、一度、蒼い瞳に刻まれた翳りが消えはしなかったけれども、常の明晰さを取り戻しつつあるのがその表情からも女剣士には見て取れた。
 エリスとて、初心な箱入り娘ではない。
無法の曠野を放浪するうちに、他者の命を奪った経験も二度や三度はある。
自力でも、いずれは混乱と衝撃から立ち直ったに違いない。
正気を取り戻したと見て女剣士が抱きしめていたのを放してやると、エルフは名残惜しそうに熱いと息を洩らした。

 エリスは瞬きしてからまじまじと女剣士を見つめて何かを囁いたが、何を言ったのかは聞き取れなかった。
「……ん?」
訊ね返すも、エルフの娘は誤魔化すように首を振ってから謎めいた微笑を浮かべる。
「何でもないよ。河原にノアを置いて逃げてきてしまった。行かないと」


 連れ合いを探していた中年の女性が、草原の片隅で変わり果てた夫を見つけて泣き叫んでいた。
小さな村である。村人たちの皆が顔見知りだ。女性を慰めつつ家まで送ってから、村長のリネルは疲れた表情で天を仰いだ。今は勝利に興奮の色を隠せずにはしゃいでいる村人たちだが、
怪我人の手当て、死体の埋葬、壊された家や家具の修理や整理、片付けるべき問題は山積しているが、余りに多すぎて何処から手をつければいいのかも分からなかった。
娘のメイは無事だろうか。大事な旦那の忘れ形見である。探しにいかないと。
疲れた表情で家に戻れば、忌々しいオーク小人たちに略奪を受けたらしく、やはり散々に荒らされている。
「……ちくしょう」
 足元に転がる割れた壷の破片を蹴飛ばしてから、年増女は頭を掻き毟った。
それから力なく地面へとへたり込んで呻いていると、入り口から中年の男が姿を現した。
質素な布服を纏い、手には血に濡れた青銅の剣をぶら下げている男は、村の顔役の一人だった。
「無事だったか、リネル」
 やはり疲労の滲んだ表情で室内を見回してから、座り込んでいる村長に呼びかける。
年増女の背中は酷く小さく頼りなく見えたが、それでも働いてもらわないといけない。
彼も含めた無知な農民のうちでは村で一番、頼りがいのある人間なのだ。
「で、此れからどうする?」
 年増女はぼんやりとした表情で顔を上げると、もつれた髪のまま暫らく口を聞かなかった。
「……死体を片付けないとね。兎に角、腐る前にやらないと」
「そうだな」
 顔を顰めてから、中年男が陰気な溜息を洩らして
「どうしようもない。他所の連中も人手は貸してくれるっていったけど、穴を掘る道具がない」
 村にある農具で墓穴掘りに使えそうなのは、木製の鍬とシャベルだけだ。
青銅製の鍬が一つだけあるにはあるが、それとて大変な貴重品でもある。
突然、年増女がひっひっと異様な笑い声を上げたので、中年男はギョッとして後退った。
狂ったかと思ったのだ。
「墓穴一つを掘るのに半刻掛かるもの。百人も死んでいるのに。どうするよ?ねえ?」
 大袈裟な数だが、やけくそ気味の年増女は数える気にもなれなかった。家の傍らにある繁みにも血を流した洞窟オークたちが転がっている。村人や旅人の墓穴を掘るのだって、どれだけ掛かるか分からない。冬だから今すぐ腐ると言う恐れがないのだけは、救いであった。
「曠野に捨ててくるか、雑木林まで持っていくか。
 野獣が始末をつけてくれるか。それだって大変だけど……」
自分で喋っているうちに、それでもいいかと思えてきたので村長は頷いた。
死体の始末については目途がついたが、村の働き手が幾人も怪我を負っている。
畑も荒らされたし、村人は財貨を失っている。
元より攻めてきた洞窟オークを撃退する為の戦であった。
勝ったからといって何かを得た訳でもない。
「それで……なくなった旅人だが……持ち物とか」
 中年男が何かを言いかけた時に、甲高い叫び声と共に子供が家に飛び込んできた。
「おかあちゃん!」
 胸へと飛び込んでくる娘の屈託のない笑顔に、村長も笑顔を浮かべる事ができた。
「ああ、無事だったかい。メイ」
「うん、グルンソムがたっけてくれた!」
 少女の声で田舎道に視線を向ければ、彼方から樽の如き体型をした白髭の老ドウォーフが歩み寄ってくるのが見えた。
何を考えているのか。肩には縄で簀巻きにした洞窟オークが担がれている。
地面に投げ出された洞窟オークは気を失っているようであり、当惑した村長は旧知の老ドウォーフに訊ねかける。
「なんの手土産だい、そりゃ?」
 問われた老ドウォーフが億劫そうに地面に腰を降ろした。
「……剣士殿が来てからの説明するでな」


 エルフ娘と女剣士がついた頃には、河原には人影も少なく閑散としていた。
戦闘の痕跡だろう。河原の石の上のところどころに新しい血痕が散っている。
土手をうろついていた村人に聞いてみれば、怪我人は近くの小屋に運び込まれたとのことなので行ってみると、農婦はまだ生きていた。
泥と木で出来た粗末な小屋に在る粗末な藁の寝床の上に、他の怪我人たちと一緒に横たわっている。
小屋の片隅では、血の滲んだ包帯を額に巻いた女傭兵が力なく蹲っており、相方の若い傭兵が慰めていた。
 乱戦に巻き込まれたらしい中年男の巡礼が、布の巻かれた足を押さえて呻いている。
包帯の状態も、巻き方も、乱暴だが、それでも手当てしないよりはマシなのか。
農婦は、腹を強く縛られていた。
傍には娘が不安げに母親を見つめながら手を握っていた。
小屋に入ってきた翠髪のエルフ娘を見とめて、汗だらけの顔にふっと微笑を浮かべた。
「ああ、無事だったかい。よかった。死なれたら、助けた甲斐もなかったからね」
 逃げた事を責めるでもなく無事を喜んでくれる農婦に、エルフの娘は苦い微笑を返して顔を覗き込んだ。
「……傷の具合は?」
「大分、楽になったよ。」
 痛みには襲われているようだが、表情は悪くない。
一見、このまま助かるのではないかと思えそうな顔色だった。
エルフは包帯の上から傷口をじっと観察する。
農婦は、青銅の槍に脇腹を貫かれていた。
エルフの持つ治癒術では、内臓が破れていた時点で手の施しようがない。
だけど傷が内臓を傷つけていなければ、何とか持ち直すかもしれない。
「ちょっと御免ね」
 身を乗り出したエルフ娘は腹部の傷口に鼻を近づけて匂いを嗅いだ。それから僅かに首を傾げて、身を引いた。姿勢を正したエリスは藁の寝床に横たわっている農婦をじっと見つめる。
「……痛みを和らげる薬草とか、必要かな?それくらいなら出来るけど」
「ありがたいね……ニーナのためにも早く治さないと」
 農婦の言葉に、エルフ娘は穏やかな微笑と共に頷いた。
「そうだね」
女剣士は小屋の入り口の壁に腕を組んで無言で寄りかかっていた。
「母ちゃん、本当によかった」
「……大丈夫だよ。誰があんたを一人にするものかい」
 何かを堪えて縋るように手を握ってくる少女に、農婦は微笑みかけた。
「また、来るよ」
 笑顔のままエルフの娘は別れを告げて立ち上がった。彼女の後ろについて女剣士は、一度だけ農婦の母子に振り返って黄玉の瞳を微かに細めた。小屋を出て数歩歩いてから、エルフの被っていた笑顔の仮面がひび割れた。沈痛な表情で空を仰いでから、憂鬱そうにエリスは深い溜息を洩らした。




[28849] 66羽 襲撃 12 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/08/02 21:32
川辺の小集落に迫るように緩やかな丘陵が連なった地勢が南北に何処までも続いていた。
冬の訪れと共に寒々しい冷気を孕んだ大気が北方から押し寄せてきても、丘の麓に繁茂する下草は色褪せずに緑を帯びていたが、頂きに近づくにつれて荒々しい赤土の地肌がむき出しになり、黒々とした潅木の影や色褪せた繁みは冷たい風にそよいでいる。
ざんばら髪に腰まで裸になった男が、ぐったりしている老婆を背負って田舎道を歩いていた。
涙を流しながら、時折、労わるように何かを話しかけているが、老婆はどう見ても死んでいる。
道を譲った二人の娘の目の前を、凶兆のように通り過ぎていった男を見送ってから、不安に駆られたのか。
エルフの娘はそっと身を寄り添ってきた。
「……憐れな」
女剣士の呟きは、北風の中にかき消された。

怪我人たちの休んでいるあばら小屋を出てから、二人の娘は互いに何が在ったのかを簡単に説明しあった。
二、三の言葉を交わしてから、戦いに疲れ切った重たい足取りで二人の娘は村長の家へと足を向けた。
さっさと旅籠に戻って休みたかったが、その前に顔くらいは出しておくべきだろうと、やや陰気な沈黙に支配されながら、連れ立って田舎道を黙々と歩いていく。

この土地の情勢をもう少し見聞するか。それともさっさと離れるべきか。
思案を巡らせていた女剣士は、ふと隣を歩いているエルフ娘に視線を転じた。
隣を歩いているエルフの娘も、心此処にあらずといった風情で、俯きがちに何かに思い耽っている。
大方、今朝に知り合った農婦の容態のことでも考えているのだろう。
女剣士には女剣士で、別に考えるべきことがあった。

異民族や異種族の侵攻というものは、山崩れや津波のような災厄によく似ている。
多少、剣の腕が立ったところで個人では抗いようがない。
もし、今回の襲撃者がオーク小人と揶揄される非力な洞窟オークなどではなく、正真のオーク族であったなら、如何に剣の達者とは言えアリアに出来ることなど殆どなかっただろう。
精々、尻尾を巻いて逃げるしか手は無かったに違いないし、それとて運が良ければ逃げ切れたかどうか程度の話である。
傷を癒す為にずるずると旅籠での滞留を延ばしていたが、危機感が足りなかったかな。

大規模な侵攻には大抵、前触れとしての小さな略奪や侵攻が付き物である。
落石と同じか。小さな徴候を見逃さずに、さっさと立ち去るべきだった。
最初に小さな石が落ちてきた時点で、死に物狂いでその場から離れるべきなのだ。
後から、幾つもの大岩が転がり落ちてきたら、もう逃がれようがないのだから。

二人の娘が三叉路になっている空き地を横切ると、前方に村長の小さな家が見えてきた。
辺境では珍しくない泥と木材で出来たあばら屋の前に、年増女とドウォーフの職人が顔を揃えて女剣士を待ち受けていた。
「アリア殿、無事でなによりじゃ」
「おう、捕らえたか。グルンソム殿。
此れで彼奴らの企みについて幾ばくかの手がかりも掴めよう」
戸口にもたれていた白髭の老ドウォーフは手を上げて挨拶し、女剣士は慇懃に応じた。
戸惑ったような表情の村長は、手にしていた壊れた木材を地面に放り捨てながら首を振って訊ねてくる。
「なんだい?こいつは」
「連中の主だった者の一人。部族の長。或いは戦頭か。私の見たところしかるべき地位にあるのは間違いない。
色々と聞きたいことがあってな」
空き地の反対側では縄で繋がれた数人の洞窟オークが、槍を手にした村のゴブリンたちに小突かれて甲高い悲鳴を上げていた。
「……長ねえ」
疑わしげに呟いた村長が五月蝿そうに睨みつけても、しかし、仕返しの虐めに夢中になっているゴブリンたちは気づかない。
損害の穴埋めに奴隷として売り飛ばす予定だった洞窟オークの俘虜たちだが、此の侭では一人二人は虐め殺されてしまうかも知れない。
ゴブリン達も村を守る為に勇敢に戦ったし、仲間を失ってもいる。
仕方がない。気が済むようにやらせてやるか。
村長のリネルはひとつ溜息を吐いてから、旅人の女剣士と向き直った。
「生贄を求める気持ちはあるかも知れぬが、雑魚で満足して欲しいものだ。
 こやつには色々、聞きたいことがある故にな」
女剣士の言葉に頷きつつも、気絶している洞窟オークの顔を覗き込んで村長は首を傾げた。
「なんか間抜けな顔だね……疑う訳じゃないが、こいつは本当に連中の首魁なのかい?」
「ふむ、何者かはすぐに分かる」
応じた女剣士が冷え冷えした瞳で地べたに横たわっている洞窟オークをちらりと一瞥する。
「起きろ」
頭を蹴飛ばして起きないと見るや、近くの潅木まで歩いて手頃な枝をへし折った。
失神している洞窟オークの掌の指の間に挟みこむと、いきなり踵で踏みつけた。
「ぐあああ!」
枯れ枝のへし折れるような音と共に、大柄な洞窟オークが雷に打たれたかのように身体を跳ねさせた。
エルフ娘は眉を顰めて彼方を向き、年増女も嫌そうな顔をしているが口は挟まなかった。

「やあ、おはよう。オーク殿。目覚めの気分は如何かな?」
女剣士の口調とは裏腹に黄玉の瞳に映る冷酷さに村長が思わずたじろいで曖昧に何かを呟いた時、道の反対側から甲高い叫びが上がった。
生き残った洞窟オークたちは村長の家からさほど遠くない空き地に集められていたのだが、俘虜の一人が簀巻きにされた族長に気づいて激しく暴れ始めたのだった。
「ああ!う!グ・ナル!お、長ッ!」
立ち上がって叫びながら女剣士と村長たちの側まで走ってこようとするが、見張っていた猛り狂ったゴブリン小人が怒鳴りつけながら、縄で編んだ鞭でピシリと打った。
「てめえ!大人しくしてろ!」
「ぎゃ!」
叫んだ洞窟オークを何発も鞭打つと、腫れあがった皮膚がついに裂けて血が流れ始める。
ざわついていた周囲の洞窟オークも静かにすすり泣いたり、悔しげに俯き唸ったりしていたが、ゴブリンの見せしめを見たためか、もう暴れるものはいなかった。

海老のように背を折り曲げて地面に這い蹲り、身体を震わせている洞窟オークに当惑した眼差しを向けてから、村長が訊ねかけた。
「……で、こいつをどうする心算だい?」
洞窟オークたちの嘆きと叫びの一部始終を見れば、確かに族長のようだ。
今の騒ぎは目立ったものの直ぐに収まった為に、村人や他所からやってきた農兵たちなどで注目しているものは案外と少なかった。
幾人かは興味深そうに視線を向けてきたが、顰め面した老ドウォーフと長身の女剣士が揃っているのを見て、それでも敢えて近づいてくる好奇心旺盛な者はいなかった。
「取り合えず……家の前でこれ以上、拷問はしないでおくれ」
気分が悪そうな村長の言葉に、女剣士は肩を竦めながら問いかけた。
「……尋問だよ。ふむん、どこか場所を借りられぬか?」
「納屋にでも放り込んでおくかい。裏手にあるよ」

老ドウォーフは洞窟オークを引っ担いで、家の裏手にある納屋までやってきた。
女剣士と村長も付いて来ているが、エルフ娘は尋問に興味がないのか。
娘の相手をしながら家に残っていた。
納屋の土間に乱暴に放り込まれて洞窟オークは呻き声を上げた。
強く縛られているし、指も折られている。
それに此の怪物のようなドウォーフととんでもない使い手の女剣士がいては、暴れても万に一つも勝ち目は無さそうである。
「ふふ、惨めだな」
投げかけられた女剣士の言葉に、痛みと緊張で脂汗を掻きながら洞窟オークが睨みつけた。
人族の東国語だが、南方の人語やオーク語とも文法は同じで共通の単語は多い。
通じるらしい。
「征服のための大切な兵力が失われてしまったな」
洞窟オークはギクリと身体を震わせた。
それを見てほんの僅かに女剣士の黄玉の瞳が細められた。
「仲間たちにどう言い開きする心算だ?貴様一人の計画でも無いのに」
「まだ潰えた訳ではない」
洞窟オークがしわがれ声で言い返してくる。
表情には薄い笑みを浮かべながら、しかし、女剣士は内心で舌打ちしたい気分になっていた。
どうやら当たって欲しくない予想が当たっていたらしい。
他所のオークたちと連携しているか、さもなくば黒幕がいるのか。
だが、今は事前に企みを感知できたことをこそ、よしとするべきであろう。
「いいや、終わりだ。すべては終わったのさ。お前一人の愚かな先走りでな」
女剣士は嘲りの口調で挑発し、洞窟オークを激怒させて口を滑らせようと試みる。
「……終わってなどいない!始まりだ!始まったのだ!
わしが!わしらが敗れても!必ず辺境のオーク族が辺境の征服を成し遂げるのだ!」
「出来るとでも思うか?貴様らの貧弱な兵力がどうやって……」
まったく内心を見せずに、仲間の事を吐かせようと言葉の応酬を繰り返すアリアであったが、問答の内容に焦った村長が余計な口を挟んできた。
「ちょっと待った!へ、辺境征服ってなんだい?!」
切羽詰った村長の叫びに、カッと目を見開いた洞窟オークの長は何かに気づいて口を閉じた
そうだ、こいつは何故、秘密の計画を知っている?
わしに喋らせる心算だ。かまかけか。迂闊であったわ。
わしはどれだけ喋った。
冷や汗を掻きながら、洞窟オークの長は女剣士を睨みつけて宣言する。
「……もう、何も喋らんぞ」
洞窟オークの長グ・ルムは食い縛った歯の間から言葉を洩らすと、それきり亀の甲羅のように沈黙に閉じ篭ってしまった。
「……お馬鹿め」
言われて、自分の失態に気づいたのだろう。
音高く舌打ちした女剣士に睨まれて、村長が決まり悪そうに口ごもって呻いた。
いや、わたしも注意しておくべきだったか。
尋問の素人を立ち合わせるなら、事前に留意するべき事柄を伝えておくべきだった。
やってしまった事は仕方ないと、女剣士は瞬時に思考を切り替える。
最低限の事は聞けた。
洞窟オークの長は拷問を受けることを覚悟していたが、女剣士は踵を返してそれ以上、何もせずに納屋から出て行った。
老ドウォーフと村長もその後を追いかける。
「拷問はせんのか?」
裏道を歩きながら、気は進まないといった様子で白髭の老ドウォーフが訊ねると、女剣士は頭を振った。
「無駄だよ」
怪訝そうな顔つきの白髭の老ドウォーフと村長に、女剣士は肩を竦めて言葉を続ける。
「見れば分かる。強情な奴だ」
「まあな」
老ドウォーフは渋々、頷いたので、女剣士は内心で少し安堵した。
有効な手段だとは思いつつも拷問は好きではない。戦士のやることではないと思っている。
拷問吏の役割を引き受けるのは気が進まない。
「あとは、豪族なり何なりに引き渡せばよかろう」
罰の悪そうな顔の村長が、何か言いたげに咳払いしていた。
喋らせる心算だったのだと今さらに悟ったらしい。
邪魔してしまったのを気に病んでいるのか。
女剣士も口を開いた。
「邪魔してくれたな、村長殿」
辛辣な口調ではないが思わず絶句した村長に、淡々と言葉を続ける。
「此方も注意しておくべきだった。知らなければ、口を挟んでも仕方ない。
辺境の征服計画なんてものがあると分かっただけで収穫であろうな」
それでお終いだと言葉を区切ってから、女剣士は付け足す事を思いついた。
「それと、尋問の内容。力のある豪族なり、大きな町の執政官なりに知らせておくべきであろうな。
どの程度、本気に取るかは分からぬが、警告だけはしておくべきだろう」
年下の女に気圧されたことを怒ったような、貴族の不興を買わずに助かったような微妙な顔つきをして村長が頷いた。
「ああ、分かったよ。それにしても、あんたの言う事は一々、もっともだねえ」
村長の感嘆交じりの口調にも、やや皮肉の棘が混ざってしまったかも知れない。


家の表口へ戻ると、音楽が聞こえてきた。
何やら女の子と遊んでいたエルフの娘が草笛を吹いていたらしい。
戻ってきた三人組を見て立ち上がると、
「先ほどはどうも……お礼も言ってなかった」
ドウォーフに頭を下げてから、女剣士に向き直る。
「疲れたよ。旅籠に戻ろう」
「そうだな……興味深い話も幾つか聞けたしな」
後でエルフの娘にも、尋問の内容を伝えておこうと女剣士は考えた。

「ああ、待っておくれ。夕餉は食べていってくれないかね」
帰ると聞いた村長が、慌てて声を上げた。
「あんたたちには随分と助けられた。娘も助けてもらったみたいだし」
勝利の祝宴を兼ねて、村を助けてくれた者たちへ宴の席を設けるらしい。
ささやかな礼と言う訳なのだろう。
「どうする?」
エリスが首を傾げて訊ねてきたので、女剣士は鷹揚な物腰で頷いた。
「では、相伴にあずかるとしよう」



洞窟オークのレ・メムは、耳をつんざく苦悶の叫び声に眼を覚ました。
身動ぎしつつ辺りを見れば、仲間たちの亡骸が転がっている。
ぬるりとした感触に頭に触れると、痛みと共に赤い血が指を濡らした。
どうやら繁みの中で気を失っていたらしい。
気を失っていたのを死んだと思われて、放置されていたのだろう。
そっと茂みの外を窺えば、敬愛する部族の長グ・ルムが人族の女に痛めつけられていた。
「気分は如何かな?」
洞窟オークから見れば劣等種族に過ぎない人族の女が、嘲りの言葉を掛けて偉大な酋長グ・ルムをいいように甚振っている野を目にして、小さな洞窟オークは血が沸騰する想いで歯軋りした。
「……あいつ……あいつめ」
睨みつけると如何やら人族共とドウォーフは、グ・ルムを連れて何処かへ移動する心算らしい。
オーク小人のうちでもさらに小柄で、故に臆病で慎重なレ・メムは、距離を取ってそっと後を尾けてみた。
幸いにも気づかれる事なく、酋長が納屋へと連れ込まれるのを突き止めることが出来た。
中で何やら激しく言い争っている声が聞こえたかと思うと、すぐに敵の三人が出てきた。
「豪族」とか「拷問」とか、何か物騒な人族の言葉で早口に喋りながら、通り過ぎていった。

兎に角、今が好機である。
レ・メムは納屋へと忍び込めば、剥き出しの土の上で酋長が縛られて転がされていた。
「ひどいやつらめ!……ああ、ひどいやつらだ!」
オーク小人は、憤慨しながら部族の長に駆け寄った。
「……誰だ?」
オーク語の呟きを聞きつけたのだろう。
うつ伏せに倒れて蹲ったまま、洞窟オークの長が呻き声で尋ねてくる。
「長、レ・メムです!忠実なレ・メムです」
「……おお」
呻いたグ・ルムが身動ぎして、血に塗れた顔を上げた。
縄で厳重に縛られていて、身動きが取れない様子だった。
「長、今助けます」
レ・メムは縄に齧りついたが、オーク小人の牙は弱く、縄は硬くて噛みきれない。
「外へ……わしを引っ張ってくれ」
長の声に頷いて、オーク小人はグ・ルムを外へ出そうと大きな身体を引き摺り始めた。
ふうふう言いながら入り口まで引っ張ったところで、物影に足音が響いてきた。
表口の方で声が聞こえてくる。一つは女の声、二つは甲高い子供のような声。
「お前たち、見張りを引き受けてくれるかい?」
「いいっすよ!」
「まかしちくれな」
さあっと顔が青ざめたレ・メムを酋長のグ・ルムは小声で厳しい声を掛けた。
「何をしている!さあ、わしを引っ張るのだ。急げ。猶予はないぞ」
「ああ、駄目です。旦那様!とっても逃げ切れたものじゃありません。おしまいだ」
血の気が引いて及び腰になったオーク小人に、グ・ルムは諦めるなと叱咤する。
「弱気になるな、さあ、引っ張ってくれ!」
村人たちの声は納屋の陰で立ち止まったまま、何やら話しつづけている。
「あとで酒と焼いた肉を持ってくるからね。しっかりと見張っておくれよ」
「あいさ!姐さん!」
「おいらたちに任してくれれば、ぜったい安心だベ!」
此処までか。グ・ルムは歯噛みして目を閉じてから、小人に囁きかけた。
「レ・メム逃げろ。そして丘のオークたちに伝えろ。人族共に計画が洩れたと」
「……そんな。おいてなんて……」
「行け!早くしろ!レ・メム!いかねば尻を蹴飛ばすぞ!」
主の命令にすすり泣きながらレ・メムが繁みに隠れるのと、棍棒を手にした二人のゴブリンが物陰から姿を見せるのはほぼ同時だった。
慌てて駆け寄ってくるゴブリンたちに、一瞬、下僕を見られたかとグ・ルムも肝を冷やしたが、
「こいつ、逃げようとしてるべ!」
「ふてえ奴だ!」
罵るゴブリンたちに蹴り飛ばされるだけで済んだのは僥倖だろう。
「頼むぞ。レ・メムよ。伝えてくれ」
身体を丸めて暴行に耐えながら、洞窟オークの長は祈るようにつぶやいた。

すすり泣きながら、後ろを振り返り、振り返り、任務を託された洞窟オークのレ・メムは繁みを這って納屋から遠ざかっていった。
「待っててください、旦那様。このレ・メムめが必ず『大きいもの』たちの助けを呼んできますだ。だから、どうかご無事で」




[28849] 読まなくていい暦 時間単位 天文についての設定とか
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/06/13 18:29
物語世界の時間単位は、地域によって違いますが、
大体の地域では一日を16時間、24時間、32時間に区切る時間単位が採用されています

時間の概念はある程度発達し、日時計なども既に発明されています。
古代欧州の大きな町の中央広場などには、時々でかい石柱などがありますが、
あれが日時計です。

土地によって大抵は8時間単位、16時間単位が採用されています。
日時計などの着想から一日を円で描いた時、二の倍数が分割しやすかったからでしょう。
しかし、8時間ではおおざっぱであり、16時間ではやや中途半端と考えて、
12時間を採用している土地もあります。
一方で都市部では32時間単位を採用しているところもありますし、
32では細分化しすぎなので24時間単位を採用しているところもあります。
身体尺などと同様に、全土の共通規格は存在していません。
東国では12時間単位を採用しています。一時間単位は一刻として表されます。
時間に関する文章中の供述も、現実と同じ時間単位を採用する東国の単位に準じます。

一年の概念はほぼ全世界で共通していますが、一部には常夏や常冬の土地も存在しています。
結果、暦がほとんど発達していない地域も存在し、
そのような土地の住人たちは、時間の概念の欠乏からやや計画性に乏しい嫌いがあるでしょう。

一年を四か月、あるいは三つの季節に分けている土地もあれば、12か月の土地もあります。
大抵の土地では、月の満ち欠けが一周する期間を一カ月とし、十二か月を採用しています。
ヴェルニアでも、種族問わず文明圏ではほぼ全土で12か月が採用されています。
一か月を四等分したものとして週の概念も存在しています。

古代の暦の成立と天文学は深く結び付いています。
古代の地球と同じように、物語世界でも同太陽系内に肉眼で確認出来る七つの主要な天体を基に一週間が成立しました。

社会が複雑化し、約束事や時間の割り振りが重要化するにつれて、
より正確な暦を求めて共通規格を取り入れる土地も増えてきているようですが、
一方で衰退した土地では、暦を司る神官や学者が死に絶え、伝承が途絶えてしまうこともあるようです。



地軸の角度が大きければ、夏冬の差も大きくなり、小さければ少なくなるでしょう。
公転軌道が楕円など歪であれば、一年の間に気性は激しく変化し、円に近ければ変化は穏やかでしょう。
暫定の設定としては、公転軌道は、おおよそ三百六十五回の自転をする間に一度、太陽の周りを周回されます。
惑星の大きさとか、地軸の角度とか、
明言はされませんが地球と同じであります。地球モデルです。

此れから少しずつ暦の成立や世界の秘密について解き明かされていく文明の黎明期で、
地球と異なる数字を採用してしまうと、設定外の計算を求められたときに、
作者の知性では、破綻してしまうからです。

惑星の水の量、大陸の移動方向やマントルの流れで地形や気候は変化します。
また気象も、海流の流れ、山脈の位置などに拠っても変わりますし、
大地のプレートが衝突する場所では地震の規模と頻度は他の地域より大きいはずですし、
また自転の速さや惑星の鉄や岩石などの成分の構成比率は
各地でとれる金属資源や育つ植物の分布に違いを与える筈です。

地球の長い歴史のうちには地磁気の強さや重力の緩やかな変化なども起こりますが、
残念ながら作者はそれらの影響を描くことも想像することも難しいです。
またそれらが生態系や文化の発展に如何な変化を与えうるかに付いても、
本来、仮説はSFのみならず創作の醍醐味ですけど、あっても触り程度になります。
物語を面白くさせる為に、敢えて科学的には突っ込みどころのある設定を採用するかも知れません。
口から火を吹く巨大生物なんて、既にトンデモかもしれませんしね。

月の満ち欠けや、日の出、日没など、時間の概念の成立は、
天体の運行に密接な関わりがあることは先に触れました。
世界を律する何らかの法則、秩序の存在を認識するには、
月の満ち欠けや日の出日の入りを目にする必要があるからで、
なので地底世界の住民たちのうちには、
時間の概念が極めて未発達な段階で留まっている種族も存在するでしょう。

七曜、即ち一週間は、少なくとも古代バビロニアの頃には誕生していた概念であります。
肉眼で確認できる太陽系の七つの惑星と衛星、
太陽、水星、金星、月、火星、木星、土星にちなんで名付けられました。
今でも月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜、日曜日というのは、その名残です。
もし太陽系で肉眼で確認できる星が多ければ、
例えば、アステロイド帯にバルカンなどがあれば八曜が成立していたかも知れませんね。

その場合、キリスト教などで、神が八日間で世界を創造した事になるのかもしれません。
バイブルを編纂したユダヤ人たちは、世に言うバビロン捕囚の間に最新の天文学を学んだのでしょう。
実際には、バビロンでの生活はそれほど悪くなかったようで、大半のユダヤ人たちは現地に留まり、
一方で、バビロニアに同化せずに戒律中心の生活を創り上げ、民族意識を高めていた、いわば先鋭化した一部集団が
バビロンの滅亡と共に離脱してパレスチナに戻り、其処にユダヤ王国を建国します。
彼らが後に聖書を編纂して、一週間は神が世界を創造した期間とするわけです。

有名なゼロの使い魔などでは、一週間は八日間ですが、
おそらく肉眼で確認できる惑星が八つあるのでしょう。
皇国の守護者などで13か月なのは、惑星の公転周期に月が13回満ち欠けするからでしょう。
一日が26時間なのは、色々考えられますね。
或いは惑星の自転が徐々に遅くなっていったのかも知れません。


数学の発展ですが、人族は十進法を採用しています。
両の掌の指の数が五指二腕の種族である為に、十を基幹としました。
此れが三指、四指の種族であれば、六進法、八進法を採用していますし、
力強い六指の種族であれば十二進法となります。
多腕族。例えば五指六腕の種族であれば、三十進法となり、
三桁の最初の数字は、十進法に換算すれば九百となります。
沢山の触手を有する種族などがいれば、
高等な数学概念を持つかもしれませんし、
まったく発展していない可能性もあります。



[28849] 67羽 土豪 18 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2012/12/03 21:00
 大きな機織り機であった。向き合っているのは、赤毛を後ろに纏めた若い娘だ。
機に張られている糸は青く染めた極上の麻糸で、大きな機織り機の真ん中では折り目の細かい布が半ばまで丁寧に織り上がっている。しっかりと織り上げられていく美しい布は、完成の暁には素晴らしい出来栄えとなるのは間違いなかった。

 豪族の娘であるフィオナも思わず嘆息したほどに、赤毛の娘ジナの機織りの技量は卓越していた。
一心不乱に機に向かうその手元は流れるような動作で魔法のように早く動いており、その正確さは見るものにある種の感動を与える熟練した技能の美しささえ伴っていた。
普通、機織り機というものは高価な機械で相当に裕福な家でなければ所持していない。
海を隔てたキリキア地方の最新型にも拘らず、赤毛の娘はあっという間に使い方を覚えてしまった。
高価な機織り機を完全に使いこなすだけの職能を有する赤毛の娘は、元が自由民で在るなら、恐らくは裕福なモアレ村でも地位の高い家の出だったに違いない。

 クーディウス氏の屋敷に勤めている数十もの使用人のうちにも、赤毛の娘のように上手く布を織り上げられるものはいない。土地の有力な豪族の娘であるフィオナの侍女たちは、大半が近隣の郷士や裕福な自作の娘たちから選ばれた気立てのいい娘たちである。
行儀見習いを兼ねてクーディウスの館へと上がり、年上の女たちに礼儀作法や刺繍や裁縫を習う彼女たちは、指示に従ううちに自らでも家内の取り仕切り方などを覚えていく。
同じようにクーディウスに奉公し、あるいは訪問してくる郷士や自作農の息子たちと知り合うのも、侍女たちの目的の一つであるから、
当然に良き妻、良き母となる事を期待され、家内の主として恥ずかしくないだけの作法や家事を叩き込まれた働き者の娘たちではあるが、
こんなにも上手く機織りを使いこなせる人間などいない。
布の出来を見ても、作業の早さを見ても、同世代の娘たちなどとは比較にならない。
長年、機織りを担ってきた老女も館にはいるが、彼女さえもジナの早さと布の出来には舌を巻いていた。老女の熟練の技にも勝るとも劣らない。いや、もしかしたら、赤毛の娘の方が上手かも知れない。

「よく働きますね、彼女。まるでアルスラ様の化身みたい」
 もう二刻も前から、リズミカルな音が寸分の乱れなく繰り返されている。
赤毛の娘を眺めているフィオナに暖かな香草の茶を差し出しながら云ったのは、フィオナの侍女の一人であるリルだった。
アルスラとは南方で信仰される女神の一柱で、織物を司る職能の神でもある。
香草の茶を受け取って啜りながら、椅子に座ったままフィオナは同感だと頷いた。
侍女のリルは土地の富農の娘で、此れまでは若い娘のうちでは一番機織りが上手かった。
当初はジナの腕に嫉妬する様子を幾らか見せていたが、境遇を伝えてからは、一転して何くれとなく親身になって話しかけている。
 十年来の付き合いで人好きのする性格と知っているので、フィオナは此の侍女に赤毛の娘と友人になって欲しいと願っていた。

 出来る仕事はないか?
赤毛の娘にそう聞かれて、働く必要はないというも引き下がらない。
根負けして何が出来るのか問い返してみれば、糸紡ぎと機織りが得意だと答えてくる。
試しにやらせてみれば、人の何倍もの早さで布を織り上げていく。
いい拾い物をしたと思うべきかしら。
 一心不乱に機織りを続けている赤毛の娘を眺めつつ、胸中に僅かにそんな感慨を覚えてから、フィオナは僅かに自己嫌悪を覚えるも、だが、それもまた豪族の娘にとっては偽ざる実感でもある。
だけど相手は、そこら辺で拾い上げた旅人や雇い入れた自由労働者とは訳が違う。
故郷をオーク族に襲われて、寄る辺を失った哀れな自由民であり、冒険の果てに敵の襲撃を伝えてくれた勇敢な娘でもある。
 その境遇を考えれば、拾い物という言葉は口に出していい単語ではないだろう。

 フィオナは、興味深そうに機織りを続けている赤毛の娘を見つめていた。
お湯で身体を洗い、髪を梳かした赤毛の娘は別人のように美しくなっていた。
今、赤毛娘の纏っている厚手の衣装は暖かく動き易い上等な女物の冬服で、こうして見れば、凛々しい顔立ちに理性的な瞳も相俟って如何にも良家の娘にも見えてくる。
いや、実際に良家の子女なのだろう。
 此れほどの職能を持つ自由民の娘が、最下級の奴隷として潰えるところだった。
見つけることが出来て本当によかったとも、よくぞ諦めないで生き残ってくれたとも思う。
本人の望みどおりに援軍が送られるかは望み薄いにしても、兎も角も、運命を切り開いた意志と行動力には、フィオナは敬意を払わざるを得ない。
人の世というものは、何が起こるか分からない。
長い歴史のうちでは、時に貴種でさえ転落することが間々有りえる。
同じ境遇に陥った時に、自らにそれだけのことが出来るだろうか。
「……大した子よね」
運命の流転に空恐ろしさを覚えながら、フィオナはそう独りごちた。


「そろそろ休まない?ジナ」
 フィオナの呼びかけにも、聞こえてないのか、聞いていないのか。
赤毛の娘は手を休めようとせず、機織りを続けている。
「ジナさん」
怪訝そうに侍女が話しかけるのを、フィオナは手をあげて押し止めた。
「いいよ。好きにさせてやりましょう」
疲労と緊張に倒れたばかりの身を気遣っての言葉だったが、余計な世話だったようだと、無視された事に腹を立てた風情もなく、豪族の娘は苦笑を浮かべた。
根を詰めすぎにも思うが、心のうちに荒れ狂う不安や悲しみ、絶望。
そういった負の感情に抗い、発散する手段の一つが赤毛の娘にとっては機織りなのだろうか。

 赤毛の娘を出来るだけよく遇してやりたいが、故郷を喪失した人間にとって、それが何の慰めになるというのか。赤毛の村娘を眺めつつ、心の片隅には取りとめもなく陰鬱な考えが浮かんでくる。

 同じ境遇の娘は、探せばきっと幾人もいる。
偽善かも知れない、そう思いながらもフィオナは鳶色の瞳を伏せて、時が癒してくれる事を願うばかりであった。
だが、偽善だとしても、無為よりはマシな筈だ。
(ならば、弱き者を救うのはクーディウスの責務であろう)
先日、邂逅した東国人剣士の言葉が耳の奥に蘇った瞬間、粟立つ感覚を胸に覚えて、フィオナは軽く目を閉じると手を組んだ。
握り締めた拳がかすかに震えている。
嘲弄や蔑みで口にしたのではない。
目の前の女は思ったままを口にしているのだと、そう悟った瞬間に豪族の娘が感じたのは、強烈な屈辱であった。
何も知らない余所者が、好き勝手に言ってくれる。
弟に掛けられた女剣士の言葉は、寧ろ姉であるフィオナの誇りを鋭い刃で切り裂いていった。
言われてから数日はろくに眠れなかった。
時間が経って冷静には立ち返ったものの、今もなお、思い出す度にフィオナは屈辱と羞恥に苛まされている。
敵愾心でもない。単純な憎悪や怒りでもない。
オークを打ち倒す。民草を救う。やってみせるとも。
そしていずれは、カスケード伯子アリアテート。今に見ているがいい。
辺境に我らが名を刻みつけてみせる。
クーディウスの名をお前たちのいる東国にまで響かせてやるから。
何故、自分でも此れほどに悔しいのか分からないながらも、フィオナは身震いと共に決意した。

 言うは易しであろう。
眠れない間、延々と如何すればいいかを真剣に考え続けていた。
連年の不作に暮らせなくなって土地を離れた農民。人買いや盗賊の跳梁跋扈。
丘陵民とて、隙あらば平地人の土地に押し入って畑を荒し、家畜を盗み、女をかどわかす。
そして極めつけはオーク族の侵攻。
辺土は、年々、少しずつ暮らしにくくなってきている。
恐らく、辺境は受難の時節にあるのだ。
にも拘らず、近隣の有力な豪族たちやローナやティレーと云った市の商人たちは、小競り合いを繰り返し、好きあらばクーディウス氏の豊かな領地を切り崩そうと虎視眈々と付け狙っていた。
南王国との交易。木材や布の販売に岩塩の関税で財力を蓄えつつあるクーディウス氏であるが、周囲はいまだ敵に囲まれており、前途は多難であった。

「……なに、その方がやりがいがあるもの」
 目を瞑って機織りの音に耳を澄ませながら、己に言い聞かせるように呟いた令嬢にたいして、侍女が不思議そうな表情で尋ねてきた。
「何か仰いましたか?」
「いえ、なんでもないよ」
フィオナは誤魔化すように笑って、数年来の付き合いの侍女の顔を覗き込むと、指先を伸ばして茶色の毛髪を指に絡め取った。
「それよりも、貴女もそろそろ年頃ね」
「え、あの……はい。でも、お嬢さまが結婚なさるまでは私は結婚しませんよ」
頬を赤らめながら、力強く断言する召使いに手を振って悪戯っぽく言葉を返した。
「私はいいのよ。それより、想い人がいるなら、早めに想いを伝えておきなさい。
いつ何時、何が起こるか分からないのだから」
「お嬢さま」
断言したフィオナは、廊下の方に鋭い一瞥をくれてから椅子から素早く立ち上がった。
寝台に立てかけてある中剣を手に取り、腰のベルトに巻きつけた直後、部屋の入り口に弟のパリスが姿を見せた。
金髪の青年の顔色は悪く、表情は緊張に激しく強張っている。
「姉さん。艀の渡し場が襲われたぞ」
室内に響いていた機織りの音は、何時の間にか止まっていた。


 豪族の姉弟が父親の待ち受ける大部屋に入ると、もう一人の弟であるラウルも既に来ており、姉と視線が合うと気まずそうに目を逸らした。
最近、姉弟仲が少し良くないが、互いに喧嘩したい訳ではないのは分かっている。
近いうちに和解しないと。だけど、今は用件を片付けるのが先だろう。
部屋の隅で息も絶え絶えに椅子に座り、ぐったりとして身体を休めている若い農夫。
恐らくは彼が使者だろうと当たりをつけてから、フィオナは父親に会釈して状況を尋ねかけた。
「何があったのです?父上」
「おお、フィオナ」
難しそうな顔で唸っていた初老の豪族が、娘の顔を見て一転表情を明るくした。
「うむ、もう少ししたら皆、揃うゆえにそれまで待て」
余裕を取り戻した様子で顎鬚を撫でながら、椅子に座って皆が揃うのを待ち受ける。
次に姿を見せたのは、先日から館に滞在しているベーリオウル家のリヴィエラだった。
早足で部屋に入ってくると、幼馴染のフィオナに歩み寄ってきて
「聞いた?川辺の渡し場がオークに襲われたそうだけど……」
「私も今聞いたばかり」
暫らく雑談しているうち、幾人かの男たちが慌てた様子で部屋に入ってきた。
郎党や傭兵の主だった者などが顔を揃えるのを待って、話し合いが始まった。
豪族のクーディウスがざわついている一同の顔を見回してから咳払いした。
「皆も聞いたと思うが、川辺の渡し場がオークたちに襲われたそうだ」
疲れ切った表情の農夫が、クーディウス一族を見回して頭を下げた。
「北の農園から使者が辿り着いた。途中の農園で大足鳥を乗り継いで、此処までやってきたそうだ」
馬に比べて速度でも耐久力でも劣る大足鳥ではあるが、その分、粗食に耐えるし、育成が簡単な為に辺境では広く使われている。
南王国や東国などでも、馬を持てるのは富裕な騎士や郷士だけである。
貧しい騎士などは、驢馬や大足鳥を騎馬の代用品とすることも多い事例であった。
妾腹の息子であるパリスが口火を切った。
「近くの村が襲われたのなら、すぐにでも助けに行くべきでしょう」
どこか翳のある美貌の為か、少なくない女たちに魅力的に映るパリスだが、信義を大切にする人柄からか、意外と村の男たちからも一定の信望を集めている。
「……気持ちは分からんでもないが、川辺の村はさして付き合いはない。
小さな村を救う為に大切な武具と兵を費やす訳にはいかん。敵の数も分からんのだぜ」
正妻の息子である次男のラウルが兄の意見に口を挟んだ。
兄を嫌っているとは言え、感情的な反論でもなさそうだ。
「だが、村人を見捨てるわけにはいくまい」
「簡単に言うがな。聞いた話じゃオークの数は相当だ。オークの本拠に攻め込むための大切な兵を……」
「この期に及んで協力せずにどうする心算だ。オークたちが力を合わせて……」
「持ち堪えているなら兎も角、あの小さな村だ。
今頃、落ちてないとも限らんし、そうなれば援軍も無駄になる」
弟たちの言い争う声を他所に、長女のフィオナはじっと目を閉じていた。

「フィオナは、どう思う?」
息子たちの論議を聞いていた初老の豪族が、ふと娘の方を見てたずねてきた。
考えを纏めたのだろう。フィオナがやっと目を見開いた。
壁に寄りかかって腕を組んでいたリヴィエラは、微かに目を細めて幼馴染を眺めた。
言い争っていた兄弟も口を閉じて、沈黙していた金髪の長女に自然と視線を向ける。
「川辺の村には、艀があります。
他にも艀や橋はありますが、ティレー市に行くにはあそこが一番、使いやすい。
いずれにしても、他所を通れば余計な時間を食われます」
「ふむん」
一見、関係のない話に首を傾げながらも、初老の豪族は意見を聞いている。

 喋りながら脳裏で言葉を整理しているのだろう。
豪族の娘はところどころ説明を区切りながら、淡々とした口調で意見を述べ続ける。
「渡し場を奪われたら、我らはティレーで武具を買い付けたり、傭兵を雇うことも出来なくなる。
西の村々からの連絡と応援も遮断され、その代わりに連中は西の土地の野良オークやならず者とも連絡を取れるようになる訳です」
部屋にいた傭兵や郎党たちが顔色を変えた。川から遠いパリトーを拠点とするクーディウスの一党では、誰も渡し場の重要性を指摘されるまで気付いていなかったらしい。
指摘されて、改めて表情を顰めたり、露骨に舌打ちしたりする。
不眠症に掛かる前、先日までのフィオナであれば、同じように気付かなかっただろう。
頭に掛かっていた霞が晴れたかのように、今まで漠然としか見えなかった物事の繋がりが理解できるようになっていた。
「オークたちは、艀を手に入れたことで一帯の道を抑えられるし、此方の連絡を遮断しながら、最悪の場合、河の向こう側から武器を運んできたり、西の悪漢共も彼らに助勢しようと渡ってくることも考えられます」
部屋にいる誰もが真剣な表情でフィオナの様子を窺うのに、部外者のリヴィエラは僅かに驚きを覚えながらも、内心、舌を巻いていた。
友人のフィオナは、若い女でありながら家内では相当に重んじられているらしい。
確かに子供の頃から戦の詩吟とか軍記物の巻物が好きな変な娘だったけれども、それなりの人物に育ったようだ。此れならクーディウスは安泰だろう。

 理路整然と述べた娘の意見に影響されたのか、父親はやや青ざめた顔で歯噛みする。
「直ぐに出陣するぞ。よしんば落ちているなら取り返す」
老クーディウスの宣言に、我が意を得たりと長男のパリスも大きく頷いた。
「落ちていたとしても、村人が抵抗していれば、オークも疲労しています。
回復する前に連戦に持ち込んで叩くべきでしょう。今すぐに兵を整えて……」

「お待ちください。父上」
フィオナが制止してから、休んでいた農夫に歩み寄った。
若い農夫は、豪族の娘を見上げて眩しそうに瞬きした。
「村が襲われたのは昼時ですか?」
「へえい。多分、そうだと……」
気後れしているのか。もじもじとしながら喋った農夫の言葉は小声で聞き取り辛かった。
「……多分とは?」
「あっしは村人ではなく、近くの農家のもんで……」
答えを聞いた豪族の長女は、頤に指を当てながら考え込んだ。
「今は夕方。今から人数を出せば、向こうに付くのは夜になりますね。ここは夜襲を掛けるべきか」

 郷士の娘リヴィエラも農夫の傍によって質問を投げかけた。
「襲ってきたのはどんな連中だった?」
傍らの壮年の傭兵も、口火を切る。
「オグル鬼はいたか?」
「いいえ、ちっせえ連中です。ちっせえ穴すまいのオークが沢山……」
聞いた途端に、壮年の傭兵が顔を歪めた。頭をかきながら、音高くした打ちする。
「穴オーク。拙いな。連中だとしたら夜目が効きます。夜襲は有り得んですよ。フィオナ様」
夜の闇の中では、普通のオークよりもさらに手強い相手となる。
一瞬、絶句したフィオナだったが、数瞬をさらに考え込んでから首を振った。
「では、村人には気の毒ですけれど、援軍が着くのは明日になりますね。
ならば出発は明日の黎明」
初老の豪族が頷きながら立ち上がった。
「聞いたな。皆の衆。出発は明日の黎明!今宵のうちに戦支度を整えておけ!」

 頷いた傭兵や郎党たちが部屋から出て行く中、何か考え込んでいた豪族の娘が父親へと振り返った。
「父上。敵の人数が分からないのは拙いです。
本隊は明日の早朝に立つとしても、今のうちに斥候を送っておくべきかと」
初老の豪族は、愛娘の成長振りを眩しそうに見ながら上機嫌で頷いた。
「では、そうしよう」
「信頼のできる騎馬に乗れる者……斥候は、私が務めましょう。パリスとラウルは……」
「いかんぞ!フィオナ!それはいかん。他の者を送れ!」
初老の豪族が大音声で反対して言葉を遮るが、娘はなだめるように言って聞かせる。
「父上、大切な任です。危険と見たらすぐに引き返しますし、目が良くて見るべき点を見れるものしか勤まりません」
「だがな。しかし……」
渋っている父親を前に、フィオナは辛抱強く言葉を重ねた。
「斥候として先行します。どうか許可を」
「……ううむ」
唸っている父親を暫く見てから、返答しないと見ると勝手にきびすを返して部屋から立ち去ろうとする。
「私も付き合うよ。鳥にも馬にも乗れるし」
隣を歩き出したリヴィエラが声をかけると、豪族の娘は思わず微笑を浮かべて頷きかけた。
「期待していた。心強いよ」
言ってから、まだ唸っている初老の豪族に会釈して部屋を後にする。
「では、父上。兵を三名連れて行きます」

「姉さん。俺も行こう」厩に向かう途中の廊下。
後ろから駆けてきた次男が声をかけたが、フィオナは首を横に振った。
「ラウルは残って兵を整えて……それも大切な仕事ですよ」
姉の言葉に含まれていた諭すような穏やかな響きは、弟に反発を覚えさせないで肯かせた。
戻っていく豪族の次男を見送ってから、郷士の娘リヴィエラが歩きながらぼやきを洩らした。
「に、しても……こう立て続けに続くとね。
曠野(エルゴ)では蛮族共も暴れているって言うし……どうなるのかね。辺境は」
金髪の娘フィオナは、幼馴染を一瞥して苦く微笑みを浮かべ、戸口を潜った。
「恐らく辺境は、悪い時代に差し掛かろうとしているのよ」
冬の日暮れは早く、東の空の地平には既に紫紺の幕が広がって星々が煌いているのが見て取れた。
肌寒さに思わず震えてから、郷士の娘リヴィエラがため息を洩らした。
「……長い夜になるかな?」


 広場では、酔っ払ったゴブリンが耳障りな声で歌をがなっている。
その隣では、ホビットたちが大騒ぎしながら輪になって踊っていた。
其処此処で篝火が焚かれている。
高揚した村人たちや近隣の農家、農園から駆けつけてきた農民たちは所かまわず騒ぎ、
歌い、踊り、わめき散らし、村中が大変な乱痴気騒ぎに包まれていた。
夕刻に始まった戦勝を喜ぶ為の祝宴は、陽が暮れても続いていた。
川辺の村落での宴には、黒髪の女剣士と老ドウォーフも主役として引っ張り出されている。
老ドウォーフは先ほどからひっきりなしに酒盃を薦められて、美髯の先まで酒に濡らしながら、尚も杯を重ねていた。
女剣士の元にも命を救われた村人やら、噂を聞きつけた近隣の郷士やら豪族やらが引っ切り無しに挨拶しに来る。
疲れているだろうにも関わらず、鷹揚な態度を崩さずに対応しているのは、意外と人馴れしているのだろうか。
隣に腰掛けて、もそもそ茹で野菜のお粥を食べていたエルフ娘の方は、心此処にあらずといった様子で、あらぬ方を眺めていた。
「是非、我が家の客人に……」
「貴方を雇いたい」
エルフ娘は、食事を取りながら器用にも客に対応をしている女剣士を眺めていたが、ふっと立ち上がって席を離れようとする。
「うん、何処にいくのだ。エリス?」
「……野暮用」
見咎めた女剣士の問いに言葉を返すと、そのまま村道の闇の先へと消えていった。

 戦と祭りで生存本能を刺激されたのか。物陰や草叢で半裸の男女が絡み合っている。
一人歩きの女と見て声を掛けてくる酔っ払いもいたが、フードを被ったエルフの娘が足早に躱すと強引に追いかけてくる者はいなかった。
闇に紛れてエルフ娘が訪れたのは、河原の傍に建つ小さな小屋であった。
小屋の床には知り合った農婦がかすかな寝息を立てて横たわっていた。
寝床の傍らに座り込んで母親を見つめていた少女が、エルフに気づいて振り返った。
「……具合は?」
エルフの問いかけで、少女がおずおずと肯きかけた。
「悪くないみたい。さっきまで起きていたんだけど、疲れたみたいで寝ちゃった」
「そう」
少し迷ってから、エルフ娘は懐から小さな布の包みを取り出した。
「これは痛み止め……もしお母さんの傷が痛むようなら、少しずつ与えてあげて」
黒い種のようにも見える、芥子の実から作った鎮痛剤を手渡した。
用量によっては習慣性を持ち、幻覚作用もあるが、痛み止めとしては優れている。
「強い薬だから少しずつね。
痛まなかったら、古くなったら効き目も弱るからそのまま捨ててしまっていいから」
「分かった」
少女は肯いて、大切そうに薬を胸元で握り締めた。
「何か食べた?」
エルフが袋から大きなパンを取り出して差し出したが、少女は食欲がないのか。首を横に振った。
「身体が参ってしまうよ?食べなさい。
お母さんを看病する為にも、貴方が倒れる訳にもいかないでしょう?」
言われて肯くと、少女は、エルフが差し出した大きなパンを受け取った。
口にすれば、やはりお腹が空いていたのだろう。
これも渡された水筒の水を飲みながら、固いパンを勢いよく噛み千切っては飲み込んでいく。
「食べたら休みなさい。横になっているだけでも違うものだから」
云ったが、少女は休みはしないだろう。
農民の少女はパンを三分の一ほど食べると、己のずた袋へと仕舞い込んだ。
きっと、残りのパンは母親に食べさせる心算なのだろう。
「……お母さんには、パンを上げては駄目よ。スープにしておきなさい」
「え?」
翠髪のエルフ娘の言葉に、少女は目を瞬いて見返してくる。
「もしかしたら、内臓が傷ついているかもしれない。
だから、直るまではスープでね。ノアにも伝えてね」
「あ、うん」
色々と言い含めてから、エルフ娘は小屋を後にした。
歩き出そうとした瞬間、背中から声を掛けられる。
「ありがとう」
応えずに田舎道を歩き出すと、すぐ目と鼻の先の岩に黒髪の女剣士が腰掛けていた。
宴を抜け出してきたらしい。少し驚いて目を見張った。
「……何しているの?アリア」
「優しいことだな、エリス」
アリアは立ち上がると傍まで歩み寄ってきて、黄玉の瞳でエリスの顔をじっと見つめてきた。
「あの農婦。もう助からんのではないか?」
「……分からないよ」
憂鬱そうに暗い表情で答えた友人を見つめると、女剣士はそっと手を伸ばしてエルフの翠色の髪に指を絡めた。
「疲れただろう……旅籠に戻って休もう」



[28849] 68羽 土豪 19 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e34ca4b1
Date: 2012/08/02 21:42
消沈しているエルフ娘を引き連れた女剣士が広場に戻ると、村人たちはまだ宴を楽しんでいた。
かがり火が盛んに燃やされ、その周囲を幾つもの人影が箍が外れたように歌い叫び、踊り狂っていた。
大地に影法師を投げかけながら、狂乱の一歩手前の踊り手には冬にも関わらず立ち込めている熱気のうちに半裸の男や乳房を剥き出しにした女が混じっている。
酒の匂いをプンプンさせて路傍でひっくり返っている少年たちを跨いで、村長に歩み寄った。
宴の主賓である女剣士が席を抜け出していたのには、気づいていたらしい。
眉を上げて怪訝そうに見つめてきた村長に暇乞いを告げると、なにやら面食らったような顔をした。
「もう陽も落ちている。今日は泊まっていきなよ」
恩人である女剣士には礼もしたいからと盛んに引き止めようとしてくるが、傍らのエルフ娘は疲労困憊した様子で俯いている。
友人を休ませてやりたいが、今の河辺の集落には見知らぬ者らが見かけられた。
若い女が戦の興奮冷めやらぬ若衆の彷徨う集落で眠るのは躊躇われると告げると、村長も納得したのだろう。苦笑して肯いた。
別れを惜しむ村人たちの誘いを断って、二人の娘は帰路についた。
村の外に出ると辺りは濃密な闇のベールに包まれていたが、やがて歩いているうちに夜道を歩くには困らない程度に目も慣れてきた。

群雲に浮かぶ半月が煌々と夜道を照らしている。
時折、吹き抜ける夜風に草だけが静かに靡いていた。
風に乗って賑やかな歌声がエルフ娘の耳に届いた。
ふと振り返ってみれば、河辺の集落が闇の彼方に朧に浮かび上がっている。
本当は、夜道を歩くのは気が進まなかった。
蟠る闇に自分の位置を見失う恐れは常にある。
慣れない土地で夜道を行く旅人は、余り賢いとは云えない。
それでも河辺の集落と竜の誉れ亭を結ぶ道は、二人の娘にとって何度となく往来した経路であった。
道を見失って曠野へと踏み込むのを恐れて慎重に歩を進めている。
目印となる地形もまた、夜の世界では陽の光のもととは異なる姿を見せていた。
記憶のうちで見慣れたはずの丘陵や雑木林も、彼方で蟠る黒々とした陰でしかなかったが、幸いに二人の足元には往来する旅人の足に踏み固められた道が続いている。
用心深い女剣士は、時々、立ち止まっては行く手を再確認していたが、エルフは酷く疲れている様子で始終一貫して沈黙を保っていた。
林や丘のほうから時折、狼の遠吠えが聞こえてきたものの、娘たちがハッとして周囲を見回しても獣の迫る気配も姿もなく、狼たちは恐らくは遠いところに獲物を追っていると思われた。
左右に連なる丘陵地帯に迷い込むことも、道を見失うこともなく、二人の娘たちは静かな道を青白い月の光に導かれて進んでいった。

村を出て半刻程度も歩いていただろうか。
エルフ娘は夜目が効く性質らしく、その時まで迷いのない歩調で先頭に立って歩き続けていたが、旅籠が見えてくる辺りの場所で何やら躊躇いがちに急に立ち止まった。
「……どうした?」
夜空に瞬く星々を見上げつつ、何やら憂鬱そうに思い悩んでいたが、女剣士の問う声に首を振って微笑んだ。
「……なんでもない。行こう」

旅籠の間口まで行くと、新しい用心棒だろうか。
短く髪を刈り込んだ、やや人間には似ているが見慣れぬ種族の亜人が斧を持って扉の横の椅子に頑張っていた。
やや人相の悪いずんぐりした亜人を見て、女剣士が珍しそうにしげしげと見てから、
「ホブゴブリンか」
背丈は人よりやや低い程度であろう。茶色い肌のホブゴブリンは女の二人組を値踏みするようにじろじろと見ていたが、別に呼び止めることも無く、すんなりと入り口を通してくれた。

薄汚い雑魚寝の客が大勢転がっている土間を抜けてから、廊下を通って借りてる部屋へと戻った。
エルフ娘が懐から鉄の鍵を取り出して扉を開けると、部屋は真っ暗だった。
二人の息遣いと白い息だけが、静寂の漂う黒い闇を彩っている。
エルフの娘が寝台へふらふらと近寄って倒れこんだ。
相当に疲れていたに違いない。
枕に顔を埋めて深々と溜息を洩らしてから一声だけ呻くと、エルフの娘はそれっきり動かなくなる。
廊下の隅にある水壷で僅かに口を濯いでから、黒髪の女剣士も寝台へと潜り込もうとしていたが、友人が不気味な唸り声を上げたので思わず静止した。
「寝苦しそうな姿勢だな」
魘されているらしいエルフ娘に呟いてから毛布を掛けてやると、女剣士も寝床へとゆっくりと横たわった。
エリスが悩みを抱えているのは分かるが、さてどうしたものだろう。
己が殺人者になったのを苦悩しているのか、なんとやら言う洞窟オークに追われていた農婦が怪我をしたことを気に病んでいるのか。
まあ、精々悩めばいい。悩むのは若者の特権だと、頬杖をつきながら女剣士は魘されているエルフ娘を眺めてつらつら考えていた。
他人事だと思って突き放している訳ではない。
友人に対して心配はしている。
だけど同時に、己一人で解決するしかない種類の悩みの世にはあるのだと女剣士は思っている。
「どんな答えを出すにしても、よく考えておき給えよ。
ある意味で此れから先の君が進むべき道を決するのだろうからな」
エリスの苦しみが己の在り方を決める為の苦悩だとすれば、出来るだけ自分一人で決めるべきだと思っていた。
女剣士自身は、人を殺すことに対して躊躇も呵責も殆ど覚えない種の人間である。
長い伝統を持つ戦士の訓練と文化が作り出した精密な殺人機械の一つであり、冷酷さは彼もしくは彼女たちシレディア人戦士貴族階級の第二の天性になっていた。
命には美しく価値が在ると知りながら、パンを毟るように人の命を奪える。
他者との共存は意味が在ると思いながら、必要ならば蟲を潰したほどにも後悔しない。
彼女のうちには、なんら矛盾はない。
殺すべき時、殺すべき相手に慈悲をかけてはならない。
だけど、そんなアリアであっても、己の在りようについて些かの葛藤を覚えていた時期もあった。
他者の命を奪う、そこに至るまで呵責や葛藤は在って然るべきだろうとも思う。
己なりの答えが見つかるまで、好きなだけ苦悩すればいいのだ。
エリスの事は好いている。もし潰れそうなら、私なりの助言はしよう。
うつ伏せになって呻いているエルフ娘を冷たい眼差しで見ていたが、やがて欠伸一つするとゆっくりと目を閉じた。
女剣士が横になると、すぐに躰の奥底から心地よい疲労が泡のように浮き上がってきた。
今日は沢山、殺したな……死体の山を積み上げた。よく眠れそう。
微笑みを浮かべたシレディア人の娘の意識が心地よい闇に落ちる間際、エルフの娘が洩らした苦しげな呻きが耳に残った。

クーディウス一族のフィオナ率いる斥候たちが河辺の小集落に辿り着いたのは、夜半であった。
殆ど休む事無く馬を飛ばして先行していたリヴィエラが、丁度、村を見下ろせる坂道の頂きで待ち受けているのを見とめると豪族の娘フィオナは馬を止めた。
「……リヴィエラ?」
フィオナの呼びかけに応えて馬を寄せてきた幼馴染の表情からは、夜の闇を通しても、はっきりと困惑している様子が窺えた。
「……フィオナ、襲われたのは本当に河辺の村なのだろうか?」
奥歯に物が挟まったような物言いは此の幼馴染にしては珍しいもので、豪族の娘は不審そうに眉を顰めてから事情を尋ねてみた。
「どういうこと?」
「見れば分かるよ」
郷士の娘リヴィエラが指差した先にある河辺の集落では、何やら宴が開かれているのが見て取れた。
篝火の周囲で人族やホビット、ゴブリンなどが騒ぎ、歌い、踊り狂っている。
その陽気な歌声は風に乗って此処まで届いてきた。オークの姿など影も形もない。
一瞬、豪族の娘フィオナの胸のうちに言いようのない不安が押し寄せてきた。
もしかして自分は途方もない勘違いをしたのではないか。
偽の使者に騙されたか。或いは、別の村に勘違いしたか。
息を整えて気持ちを落ち着けてから、いや、其れはないと考え直した。
救援を求めてきた農夫は一応の顔見知りであるし、確かに河辺の村と告げていた。
多少の戸惑いを見せながらも、フィオナは部下たちと顔を見合わせた。
夕刻にパリトーを発った少数の斥候隊は、騎馬が二騎と騎鳥が三騎の編成である。
騎鳥に乗った他三名は気心の知れた者らを選んでいるが、彼らもまた困惑した表情を見せていた。
「撃退したのでしょうか?」
斥候隊では一番、若年のルドが予想外だといいたげな声を出した。
「やはり、そうかな。うん。どうもそのようだね。
村の中では、大勢の人間が祝っているようだし……自力で撃退したのではないかな」
肩を竦めて話すリヴィエラに、フィオナは内心で安堵の気持ちを覚えた。
河辺の村落は小規模な集落だと記憶していたから、十中八九はオーク族の手に落ちているものとフィオナは覚悟していた。
敵地への偵察とあってやはり緊張していたのが、自然と肩から力が抜けた。
「どうされますかい?お嬢。……いやさ、フィオナさま」
もう一人の従者である壮年の傭兵ヘイスに問われ、豪族の娘は数瞬を思案に耽っていたものの、直ぐに気を取り直した。
「撃退できたのならば目出度いことね。兎に角、行ってみましょう。事情も知りたい」
顔を見合わせてから部下たちも直ぐに肯いた。


村に近づていく途中、郷士の娘リヴィエラが鼻をすんすんと鳴らしてから顔を歪めた。
「なんか臭いな」
「そうか?」
首を傾げた壮年の傭兵も、だが、直ぐに臭いに気づいた様子だった。
近づくにつれて、不快な饐えたような臭気が強くなっていく。
村に入って直ぐの空き地のところに人の背丈を越えた小高い小山が見える。
そこから臭気は漂ってくるようだった。
五人とも、最初は其れが何か分からなかった。
村の境界の柵に差し掛かったところで、ようやく正体が分かって五人は立ち止まって息を呑んだ。
村の入り口には夥しい屍が積み上げられていた。

夜道に騎馬を飛ばすというのは極めて危険な行為である。
当然、随員に選ばれたのは勇気にも技にも欠けるもののない者たちの筈だが、想像を越える光景に絶句していた。
「……これは、一体」
騎鳥が脅えたようにぎゃあぎゃあと耳障りな叫び声を上げて勝手に後退った。
「どう!落ち着け!……どう!」
落ち着かせようと手綱を強く引っ張るものの、馬や鳥の興奮は収まらない。
埒が開かないと見て一端、村の入り口から離れてから、地面に降りると手綱を取って徒歩で歩き始めた。
少なく見積もっても五、六十体。
いや、下手をすれば八十体を越える屍が無造作に積み上げられている。
口を半開きにして死者の山を眺めているフィオナも、不意に受けた精神的衝撃に完全に凝固して絶句していた。
「全て洞窟オークの屍のように見えるのだけれど」
近寄って興味深そうにまじまじと見つめている郷士の娘リヴィエラだけが、一行では唯一冷静を保っているように思えた。
「……撃退したのではなく、返り討ちにしたようだね」
友人に云われて、豪族の娘はようやっと口を聞くだけの気力を取り戻した。
冬にもかかわらず、額には冷たい汗がどっと吹き出す。
ルドは吐きそうな顔で胃の腑の辺りを掌で抑えていたし、日頃は豪胆な性格を見せるヘイスも強張った表情で何やら呟いているだけだった。
年若い女子のメリムに至っては、失神寸前で腰を抜かしていた。
肩を竦めたリヴィエラが振り返って、血の気の引いているフィオナに問いかけてきた。
「で、どうする?村の中にいってみる?」
並外れて豪胆さなのか、或いは無神経なのか。
酸鼻極まる光景を前にして、郷士の娘は平然としているように見えた。
友人の肝の太さを少し羨ましく思いながら豪族の娘フィオナは気丈に肯いた。
「メリム。貴方はパリトーに引き返して、援軍の必要はないと父に報告なさい」
使い物になりそうに無い郎党に伝令を兼ねた帰還を命じてから、フィオナは気の進まない様子で死体の山をまじまじと眺めた。
「やはり、事情を聞いてみるべきでしょうね」


豪族の娘フィオナ率いる三騎の斥候が村に入ると、すれ違った人々は何事かと驚いた顔をして見上げてきたが、中にはほろ酔い気分で千鳥足で歩いているもの、歌っているものも見かけられた。
「妙ですな。村人の手負いが妙に少ない」
すれ違った村人たちの格好をさりげなく注視しながら、壮年の傭兵が独り言のように呟いた。
その言葉に肯いたリヴィエラも、群集の姿形に鋭い視線を走らせている。
辺りの農夫や村人たちは其れほど貧しくも豊かでも無い。
概して平凡な布服を纏った普通の民草であった。
戦闘の痕跡か。薄汚れた姿をした者が多かったが、みすぼらしい格好をしている者は意外と少ない。
そして何より、オークとやりあったにしては大きな傷を負った者が殆どいなかった。
どこかに隔離されて静養しているとも考えられるが、どこか腑に落ちない。
村の中心を目指して広場に入り、篝火に照らされてみれば、目にも彩な戦装束を美々しく纏った豪族の娘が身分ある者だと人々にも直ぐに分かったのだろう。
腰には錬鉄の小剣を吊るし、手首には蛇の彫刻が象嵌された青銅製の長腕輪。
青銅の胸当てに市松模様のマントを翻している姿に人々は自然と道を明けていく。
広場で踊っていた男女が動きを止めた。
歌っていた人々も沈黙して、広場がしんと静まり返った。
武装した騎馬の一行を怪訝そうな視線で見つめてくるもの、恐れと警戒の眼差しを向けてくるもの。反応は様々であったが、充分に注目を集めたのを承知してからフィオナは朗々と声を張り上げた。
「私はクーディウスのフィオナ。村長はいますか?」
クーディウス。クーディウスだとよ。偉い殿様じゃねえか。ここら辺だと一番だよ。
物々しい闖入者の正体が分かったからだろう。
人々の纏った警戒と敵意の雰囲気が心なしか緩んだようにフィオナには思えた。
ざわついている人々の中には、ホッとしたように笑顔となる老人や歓迎するように声を上げた若者などもいたが、そうした人波を掻き分けて地味な年増の女が一行の前に進み出てきた。
「あたしが村長でさ」
物々しい一向の意図を測りかねたのだろうか。
歓迎しているとは言いがたい用心深そうな眼差しで上下に値踏みしながら、
「クーディウスのお嬢さまが、こんな辺鄙な村に一体、何のご用件でしょうか?」

取りあえずと一行が案内されたのは、かがり火が焚かれる広場に面する小さなあばら家であった。
ルド青年を馬の見張りに残して、三人は村長の住まいだというあばら家の扉を潜った。
部屋の隅にある藁の寝床では、鼻水を垂らした少女が安らかな寝息を立てて眠っている。
「リネルと申します……クーディウスの殿様の威勢については常々、窺っております」
言葉遣いは慇懃であったが、どうにも言葉の端々に警戒している風がフィオナには感じ取れた。
「オークに襲撃を受けたとの報を聞きつけ、急ぎ駆けつけた次第です」
「はぁい」
何とも締まらない声で返してきた目の前の年増女だが、茫洋とした表情を湛えながらも狡猾そうに瞳を光らせて豪族の娘の出方を窺っている。
碌に返事を返してこない村長に眉を顰めながらも、豪族の娘は言葉を続けてみる。
「敵は多勢だったと聞きました。よくぞ撃退されましたね」
「……はぁ」
云われてから村長はゆっくりと肯くと、ぽかんと口を半開きにしたまま豪族の娘を見つめ返してきた。
典型的な鈍い農民の反応であるが、荒らされたように見える部屋の半分は既に綺麗に整頓されている。
薬草などが使いやすいように並べてあり、使える家具と壊れた家具が分けられている。
仮にも村長なのだから、頭が悪いとは思えない。
恐らく韜晦して言質を取らせないことに徹しているのだと推測した。
しかし、警戒される理由がフィオナには分からない。
微かに戸惑いを覚えながらも、豪族の娘は投げかけた反応を待った。
「……それは、でも、何とかなりましたで」
何やら聞き取り辛い発音でぼそぼそと言葉を返してくる年増の村長。
全く歓迎されていない。こうまで露骨な姿勢だと、流石に気分は良くない。
「百体近い死体の山だ。此れでは近隣の洞窟オークの戦える者は根こそぎだろう。
一体、どんな手妻を使って追い返した。いや、討ち滅ぼしたのです?」
此の侭、問答を続けていても埒が明きそうにない。フィオナは単刀直入に訊ねてみた。
「此の村には、其れほどの武具の備えも戦士もいるように思えぬが」
壁に寄り掛かっている壮年の傭兵も、鋭い声音で村長に問いかけた。
「偶々、村にねぇ。ええっと。旅の剣士さまとドウォーフが滞在なさっていてね。
その方達が当たるを幸い……」
其処まで云ってから年増女の村長は口ごもって、首を横へと振った。
オーク族との戦が近づいている最中、腕の立つ連中についての噂話には豪族の娘も興味を覚えた。
「その剣士とドウォーフの姿かたちについて詳しい事をお聞かせ願えませんか」
「あたしゃ、よく知らないんですけどね。へえ。
あの……村の連中が見てたんじゃないかね?聞いてみたら、如何かねえ」
間延びした愚鈍な話し方はどこか胡散臭く、聞いている者たちを苛立たせた。
「……食料や、薬など、なにか必要なものは?」
「いいえぇ、なんとか、なりますで。ほんとに……昔から、辺りで助け合ってきたで……よそ様から貰っても、礼も出来ませんですから……」
頭を下げながら、村長はフィオナと目線をあわせようともしない。
聞きたかった事は取りあえずは聞き出せたので、不快な会話は打ち切って豪族の娘フィオナは立ち上がった。

別れを告げて家の外に出てから、豪族の娘は軽く歯軋りする。
丁重な態度を取られている筈なのに、何故か相手にされてないような気がした。
あいつは愚鈍を装っている。だけど、何故だ?
戸惑っていた豪族の娘を見かねたのだろう。それまで無言のまま一部始終を聞いていた幼馴染のリヴィエラがそっと耳打ちしてきた。
「多分ね。弱小の郷士だから、傘下に取り込まれるのを警戒しているんだよ。
クーディウスの勢力下に入ったら、幾らかは税を取り立てられるでしょう」
「ああ、なるほど」
云われて、ようやく合点がいった。フィオナは思わず舌打ちしそうになった。
強勢を誇る豪族が、他所の村を勢力下に取り込んで税を取り立てるようになる。
それ自体はよく聞く話ではある。されど、組み込むのも良し悪しなのだ。
支配した領主には、同時に飢饉の時には領民を救い、また盗賊やオークなどから領内を守る責務も生じるからだ。
パリトー近隣の村々なら兎も角、根幹地から半日の距離にあるこんな小さな村など態々、自勢力に組み込もうなどとはクーディウスは考えていない。
「分かっていたなら、もっと早く忠告してくれてばよかった」
周囲から敬われ、丁重に扱われる経験が多い豪族の娘である。
村長との話し合いに感情も昂ぶっていた。
つい苛立ちを抑えかねたフィオナが文句をつけると、幼馴染は傷ついた表情を見せてから何かを言い掛け、しかし口を閉じた。
リヴィエラも会話の途中で気づいて、友人に忠告したのだ。
それをまるで間違いをおかした召使いに対するような口調で叱り飛ばされて、馬鹿馬鹿しくて言い訳する気にもなれなかった。
豪族の娘フィオナは普段は人当たりもよくて冷静なのに、幼馴染のリヴィエラに対してだけは短慮で意地が悪くなる時が在った。そこがまた郷士の娘には腹立たしい。
フィオナの奴、私にだけ辛く当たるときがある。なんなのだ、こいつ。
郷士の娘は多少、興ざめした眼差しで友人を一瞥して、視線が合ったのでふいっと顔を背ける。

友だちだと思って、つい甘えが出たのかも知れない。
友人の怒りの気配が、無言のうちにひしひしと伝わってくる。
怒って言い返される方がずっとマシに思えた。
嫌な気配に背中を冷や汗に濡らしながら、豪族の娘フィオナも唇を噛んだ。
偶には口の滑ることもある。八つ当たりしたのは悪かったけれども、長い付き合いなのだ。
リヴィエラも分かってくれてもいいのに。
互いにまだ若く感じ易い年齢でもある。二人の間に、やや気まずい空気が漂った。
豪族の娘が謝ろうと口を開いた時、場を取り成すように壮年の傭兵が先に口を開いた。
「その剣士とドウォーフとやらを探してみませんか?
腕の立つ者が一人でも二人でも欲しい時期です。
それほどの使い手なら、知り合っておいて損はありません」
「ああ、うん……そうだね。詳しい事情も聞けるかも知れぬ。会ってみよう」
ぎこちない表情で肯いてから、豪族の娘は村長の家へと振り返った。
あばら屋の戸口に佇んで、三人を見送っていた年増女に言葉を投げかける。
「誤解しないで欲しい、リネル殿。
オークに攻められたと聞いて様子を見に参っただけです。恩に着せる心算は毛頭ない」
他意はないのだと、一応、云うだけは云ってみる。
鈍そうな表情で耳を傾けている年増女の村長も聞くだけは聞いているが、信じてはいないようだった。特には反応を見せようともしない。
「オーク族は、辺境に住まう全ての民にとって共通の脅威のはず。
こうした時節に郷士や豪族衆が不和反目していれば、犠牲になるのは民草でしょう」
豪族の娘の説得は、しかし、村長の警戒を解けなかったようで、首を横に振った年増女は暗い顔をして何かを曖昧に呟いたがフィオナには聞き取れなかった。
云うべきことを云ってから、豪族の娘は部下たちと友人を促がして歩き出した。
「……難しいな」
閑散とし始めた広場を横切りながらぼやきを洩らした豪族の娘に、壮年の傭兵が真面目腐った顔で話しかけた。
「一度、試みて駄目だったからといって、諦めるのは早いですよ」
「そう……そうね」

フィオナが幼馴染に謝る時節を逸しているうちに、外で待たせていた若い従者が三人に駆け寄ってきた。
顔に雀斑の残る郎党のルドは、得意満面の手柄顔になって胸を張って主人の娘に報告する。
「フィオナさま。村人に話を聞いたのですが、オークを撃退したドウォーフと剣士がいるそうです!」
「で?」
豪族の娘が歓ぶと思いきや、思いもかけない冷淡な反応を見せられて、気の小さい若者はおどおどし始めた。
「……そのドウォーフは、まだ村に滞在しているそうです」
「剣士……か。あのシレディア人か、それとも別の使い手か。
兎に角、ドウォーフの方には会ってみよう」
旅の途中でもあるし、相手にも相手の都合があるだろう。
試みる価値はあるだろうと、不機嫌そうだったフィオナも気を取り直して従者たちに笑いかけた。

ドウォーフを探しつつ、二手に別れて村人たちに話を聞いてみることにした。
と言っても、態々、細かく質問してみる必要は無かった。
フィオナとルドが最初に近づいた村人の方から、訊ねられる前から恐ろしく強い女剣士の噂や敵の首魁を叩きのめしたドウォーフの活躍について得意満面で自慢げに喋り始めたからだ。
村人が言うところでは、女剣士が斬った敵の人数は三十とも五十とも知れないそうだった。
「そうなんだよ……此の後、もっと詳しく聞きたいかい?なあ、二人きりになれる場所でじっくり聞かせてもいいんだぜ」
興味深そうに聞いているフィオナに喋りながらにじり寄っていく村人の若者だが、折悪しく壮年の傭兵が豪族の娘のところに戻ってきた。
強面の男が睨みを利かせると、村人も酔いも醒めた様子で舌打ちして立ち去っていった。
「大袈裟な馬鹿者が」
離れていく若者の背中を睨みつけながら、壮年の傭兵も舌打ちする。
相手が惰弱な穴オークであろうと、そんな人数を一人で切れる女などいる筈もない。
精々が五、六人。よほどの強者でも十人がいいところだと、頭を振るった。
「……強ち出鱈目でもなさそうですよ」
噂話を聞きながら目を輝かせていた年少の従者が、不服そうに噛み付いた。
「噂とは、兎角、尾ひれがつきやすいものです」
壮年の傭兵が恐い目で年下の従者を睨みつけながら、窘めるように云った。
「だが、話半分として二十は斬っていることになる」
俯いて考え込みながら、豪族の娘が言葉を発すると、傭兵が顔を顰めた。
「雇えないかと話しかけた郷士や農園主もいたそうですが、どこぞの貴族らしくて無理だったと」
「……あの人かな」
陰気に呟いたリヴィエラは、顎に指を当てて何かを考え込んでいた。
「では、もう一人のドウォーフは?」
豪族の娘フィオナの問いかけに、壮年の傭兵が広場の片隅に視線を向けた。

篝火の近くで酒盃を煽っていた白髭のドウォーフは、樽のような身体の厚みを持っていた。
腕は太く赤銅色に焼け、血管が浮かんでまるで鋼のように見える。
整った顎鬚は縄のように形よく編まれて腹まで届いていた。
着ている服も上等な革の上着で、外見からは名のある戦士にも腕のある職工にも思えた。
「うむ。なんだね?あんたらは?」
空になった酒壷が幾つか地面に転がっているにも拘らず、酔った様子も見せずに明瞭な言葉遣いで訊ねてくる。
「始めまして、ドウォーフ殿。わたしはクーディウスのフィオナと申します」
自己紹介した豪族の娘は、伝え聞いたドウォーフの武勇を称えてから、昼間の事について訊ねてみた。
グルンソムと名乗ったドウォーフは、重々しく肯きながら視線を瞬く星空へと投げかけた。
「では、攻めてきた洞窟オークは殆どが討ち滅ぼされたのですね」
「うむ……殆ど逃げることも出来なかったはずじゃ」
「なるほど、しかし、よく戦われた。見事な戦いぶりだったとお聞きしました」
「わしは職人だよ。兵士ではない。が……いささかの係わり合いがある人々が襲われているのを放って置くわけにもいかんかった」
「ありがとう。参考になりました。グルンソム」
「なんの……しかし、んん、何か忘れているような気がするわい」
はしばみ色の瞳で焚き火を眺めていた白髭のドウォーフが、目を瞬いてから一行の背に視線を走らせた。
豪族の娘が振り返ってみれば、松明を片手に掲げた村長が歩み寄ってくる姿が目に映った。
「ああ、まだ居たんだね。よかった。フィオナお嬢さま。
話してなかった事があったんだ。昼間の戦でね、捕まえた奴がいるんだよ」
「そうだ。捕虜がおるんじゃった!」
思い出したというように白髭を蓄えたドウォーフの老人も飛び跳ねて叫んだ。
「捕虜?」
「こっちだよ」
少し驚きながらも怪訝そうに顔を見合わせるクーディウスの偵察隊だが、踵を返した村長について歩き始めた。

「剣士さまが尋問していたのを横で聞いていたんですけどね。
ちょっと気になる事を話してまして。オーク族の計画は何処まで進んだのかとか……」
「……計画とは」
豪族の娘フィオナが尋ねると、年増の村長は不器用に肩を竦めてみせた。
「へい。なんでも剣士殿が言うには、連中は辺境を征服する計画を企んでいるそうです」
「辺境を征服?」
フィオナが如何にも胡散臭そうな言葉に眉を顰めたが当然だろう。
一口に辺境と言っても、人跡未踏の地も含めれば、辺境(メレブ)は、東西百里以上の広大な領域である。
(※一里は四キロメートル)
横では失笑した者もいた。
笑わなかったのは郷士の娘リヴィエラだけで、瞳を微かに細めると表情を引き締めた。
辺境は、東西に掛けて文化や言葉、習慣の異なる幾つもの地方を内包している。
更に地方ごとに幾人もの有力な土豪が割拠し、城市が点在しているのだ。
辺境の征服など、万の兵を率いる将軍であっても不可能であろう。
広大無辺な曠野に呑み込まれてお終いである。
到底、正気の構想ではない。まして口にすれば誇大妄想の類と判断されるであろう。
現実感のない言葉をそう断じて鼻で笑ったフィオナの横で、郷士の娘は沈思していた。
小競り合いに幾度となく参加し、時に捕虜の尋問を担ってきた郷士の娘リヴィエラは、今回のオークの動きに釈然としないものを感じていた。
「うちの納屋に納屋に閉じ込めてあるんですよ」
見張りだろう。鼾を掻いて地べたで眠りこけている二匹のゴブリンたちの横を通り過ぎて納屋に入ると、隅の方に黒い影が芋虫のように蹲っていた。
松明の光で照らせば、後ろ手に縛られて足も結わかれている洞窟オークが土間に転がされている。
光に目を醒ましたのか。
もぞもぞと動いて松明に眩しそうに目を細めて呻きながら、洞窟オークは周りを囲んだ人影に敵意の籠もった強い視線を投げかけてくる。
「こいつは寄せ手の大将だそうで……よければ引き渡しますよ」
村長の言葉に面倒くさそうに首をかしげた豪族の娘フィオナの傍らで、リヴィエラが肯いた。
「連れ帰ろう」
強い口調でそう提案すると、フィオナは意外そうに目を瞬いた。
「貴女がそう云うのなら構わないけれど……連れ帰るのも大変そうよ?」
「私がなんとでもするよ。縛ったままのこいつを馬に乗せて、私は歩いても構わない」
言い切った郷士の娘は、床に転がって睨み返してくる洞窟オークの長グ・ルムをじっと凝視する。
辺境の征服計画……それだけ聞けば痴者の夢の類ではあるが、何故だろうか、酷く気になった。
さて、果たしてこいつは何か知ってるのだろうか。



[28849] 69羽 土豪 20 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e34ca4b1
Date: 2012/06/16 19:29
背後の闇の彼方から狼の遠吠えが響いてきた。
それがひどく近くに感じられて、オーク小人のレ・メムは、背筋を総毛立たせながら曠野を必死に駆けている。
岩陰に滑り込むと、薄い唇を舌で舐めてから、周囲の疎らな潅木や岩肌を脅えた目付きで見回した。
狼は影も形も見当たらない。
丘陵地帯を彷徨う野犬か、或いは狼か。
先刻から、段々と近づいてきているかのように思えるのは、気の責だといいが。
不安そうに額の汗を拭ってから腰の水筒から一口を飲むと、ようやく一息ついた身体の震えも収まった。
動きが鈍重で体躯も小柄な洞窟オーク族にとっては、狼は天敵に近しい猛獣であった。
丘陵地帯を彷徨う狼は、森に比せば小型の類だが、時に大型の黒狼や段違いに大きな悪魔の狼・ダイアウルフが群れに混じっている事もある。
オーク小人を一呑みにするほどの巨躯を誇るダイアウルフは、武装した戦士の一団さえ蹴散らしもする。
ゴブリンの一部部族には狼を飼い馴らしてその背に乗る技能を持つ狼騎手もいるが、連中でさえダイアウルフを恐れ敬っていると言う。
内陸奥深くのゴブリン部族では、狼の牙の首飾りが貨幣として使われているが、ダイアウルフの牙となると黄金より価値が在ると見做されて、付けている者は英雄として扱われる。
そうゴブリンについての講釈をレ・メムに語ってくれたのは、部族に立ち寄ったオークの吟遊詩人だった。
五年ほども昔の話だ。旅の吟遊詩人は、オークの強力な部族が丘陵地帯で力を蓄えているとも言っていた。
部族の『おっきなオーク』たちに助けを求めるのだ。
そして力を併せて悪い人族共や生意気なゴブリン、嫌な連中のホビットをやっつけて、辺境を俺たちオークの手に取り戻さないと。
託された使命の大きさに胸を震わせれば、疲れ切ったオーク小人の蟹股の足にも再び力が戻ってくるように感じられた。
休憩を打ち切ったオーク小人は、再び立ち上がって丘陵の狭間にある隘路を歩き始めた。

それにしても、もう随分と歩いている。
そろそろ『おっきいの』の土地に入っていても不思議ではないはずだが……
不安を覚えながらも、歩を止めなかったオーク小人の目の前で、唐突に隘路が終わりを告げた。
丘陵の狭間を抜けると、目の前にはなだらかな盆地が広がっている。
彼方の丘陵の麓に柵を張り巡らせた木造の建築物が、次の隘路の入り口に鎮座しているのをオーク小人の夜目は捉えていた。
きっとオーク族の前哨だろう。砦らしき建物の手前には泥だらけの小さな小川が流れている。
オーク小人は、腕を開いて大きく息を吸った。
枯れた曠野ではあるが、狭間の澱んでいた空気とははっきりと味が違った。
深夜にも関わらず『おっきいの』の土地に入ったのが分かった。
彼方に見える小さな砦の胸壁には、オーク族が信仰する偉大なる闘いの神ゾンバの漆黒に青き炎の旗が翻っている。
「おおう!おおう!」
こみ上げてくる喜びがレ・メムを駆り立てた。
興奮したオーク小人は、拳を振り回して歓声を上げて緩やかな岩場を駆け下りていく。
丘陵地帯を抜ければ、オークの村や砦が幾つもある
此処まで来れば、目的地はもう目と鼻の先だった。



刹那、オーク小人の間近で夜の闇を引き裂いて狼の遠吠えが響き渡り、同時に目前の岩陰から黒い影をした幾つもの影が這い出てきた。
レ・メムは急激に立ち止まった。冷や汗が全身からどっと吹き出した。
狼の群れは、闇夜にも鈍い光を発している黄玉にも似た瞳をオーク小人に向けて、低く唸りながら近づいてくる。
餓えているのか。肉は痩せ細り、うっすらと肋骨が浮き出ている。
「……うそ」
慌てて屈みこんで石を拾い上げ、一番近い狼へと投げつける。
簡単に躱した狼は、牙の間から涎を垂れ流しながら黄金色の眼光も鋭くオークを射抜いた。
狼の遠吠えが再度、響き渡った。一斉に狼の群れが動き出した。
「レ・メムは、美味しくないぞ。あっちに行け!こないで!」
叫んで身を翻したオーク小人は、慌てて斜面を駆け上り始めた。
いまや狼たちは明確にオーク小人を獲物と見定めたようだった。
「ひっ……ひい」
追われているオークの背後から激しい息遣いが耳障りに響いてきた。
夜の闇が恐怖を助長する。
飛び掛ってきた灰色の毛皮をした狼をオーク小人は襤褸のマントを払って退けた。
布に噛み付いた狼はそのままマントをズタズタに裂いてしまう。
食い千切られるマントを見て、恐怖に目を見開きながらオーク小人は駆けた。
先ほどの岩場だ。逃げ込めそうな間隙があいた大岩があった。
必死に動かす足は、がくがくと震えている。
「はあっ、はっ」
行く手に狼が姿を見せて、オーク小人に飛び掛ってきた。
小さな槍を握り締めて近づけまいと振るうオーク小人のその腕に深々と黄ばんだ牙が食い込んだ。
「うあああ!こ、こいつ!」
痛みと恐怖に発狂寸前の状態に陥りながら、リ・モルは喚いて槍を突き出した。
肉を幾らか食い千切りながら、狼が素早く離れて威嚇するように吼え猛った。
激痛が腕を走りぬいた。
反対側から別の痩せた狼が飛び掛ってきた。太股に喰らい付く。
「ぎゃッ……!」
目盲滅法に振り回した槍の青銅の穂先が狼の腹に突き刺さった。
ぎゃんと甲高く鳴いた狼を振り切って、レ・メムは大きな岩と岩の狭間へと逃げ込んだ。
行き止まりにはなっているが、入り口は狭くて一方通行。背中を守る必要はない。
後ろから狼が追ってくるが、レ・メムは入り口に向かって槍を振りかざして近づけまいと威嚇する。
動き回っているからか、呼吸は乱れて出血も激しい。
用心深く槍を構えながら、千切れたマントの切れ端を口に咥ええるとレ・メムは傷口を結わいた。
狼がまた入ってこようとする。槍を振りかざす。その繰り返しだった。

冷たい夜気にオーク小人の小さな身体は、何時しか冷え切っていた。
降ってきた水滴がレ・メムの鼻に当たる。
雨は降らなかったが、川から上がる水分が結露して岩肌を濡らしていたのだろう。
やがて朝日。丘陵地帯に特有の朝靄が漂っていた。
睡眠不足と疲労でふらふらになりながら、オーク小人が槍を振るって狼を追い払っていると、狼の群れの後ろで佇んでいた一際、大きな一匹が急に彼方へと振り返った。
そのまま、大きく吼えると駆け去っていく。
なんだ?
逃げていく狼の無念そうな鳴き声の中、霧にも似た白い幕の彼方から声が近づいてくる。
オークの言葉?
オーク小人がずるずると地面にへたり込むのと、数名の武装したオークたちが朝靄の中から姿を見せるのはほぼ同時だった。

それは、オーク族の砦からやって来た斥候たちだった。
「昨夜は狼共が騒いでいたからな」
「おい、なんだ?ありゃ」
「『ちいさいの』が一人、怪我しているようだぜ」
一際、魁偉な体格のオークを中心に茶色い革服を着込んだオークの一隊が、傷つき、地面に崩れ落ちたレ・メムが横たわっているのを発見して、声を張り上げて狼を遠ざけながら、駆け寄ってくる。
「やっぱりだ!見ろ、旅のオークが襲われていたらしい」
倒れているレ・メムを取り囲んで跪くと、手を差し伸べる。
「鹿でも追ってるのかと思ったが……よく頑張ったぜ」

「おうい、大丈夫かよ」
「安心しろ、ちいさいの。もう大丈夫だぜ。しっかりしろ」
飾り気の無い革服のオークたちは、オーク小人を抱きかかえると肩を叩いたり、水を飲ませて口々に元気付けようと言葉を掛けた。
だが、夥しい出血はレ・メムの小さな身体に秘められた活力を殆ど全て奪っており、蒼白な顔色には明白な死相が浮かんでいた。
「あ、あんたたちは……」
「俺たちはルッゴ・ゾムさまの一団だぜ」
オークの戦士の返答を耳にして、レ・メムの口元にぎこちない笑みが浮かんだ。
最後の力を振り絞って、忠実なオーク小人は託された任務を果たそうとする。
「おいらたちの……部族は……人族と……争って……」
何かを言い残そうとしていると悟って、抱きかかえている顔に傷のあるオークも肯いた。
「追われてきたのか。安心しろ。猿共は、此処には入ってこれねえ」
「……おいらの酋長の。えらいグ・ルムさまが捕まった。たすけ……助けてくれ……」
顔に傷のあるオークの顔が緊張に引き締まった。黙ってオーク小人の言葉に耳を傾ける。
「河辺の村に今も虜に……お願い……助けて……グ・ルムさまを」
言葉を区切って、オーク小人は力なく崩れ落ちた。
「おい、しっかりしろ!」
オークが肩を揺するが、レ・メムは既に事切れていた。
顔を見合わせてから、難しい表情をしつつ顔に向こう傷のあるオークが立ち上がった。
「如何やら、丘の向こう側で一戦あっただな」
考え込んでいる向こう傷のオークに魁偉な体格の隊長が唸りながら相槌を打った。
「多分、大負けだろうな」
「……で、如何するんです?ゾム」
呼びかけられた巨躯のオークは、向こう傷の問いかけに直接は応えなかった。
「こいつぁ、最後まで主人の事を心配していたな、大した忠誠心だ。
連れ帰って、戦士の墓に丁重に葬ってやろう」
驚くべき怪力で死体を片手で抱き上げると、残った片手でポリポリと頬を掻いて苦く笑った。
「とんでもなく厄介なことを託されちまったなぁ」


薄暗い旅籠の個室でエルフの娘が目を醒ました。
時刻は真夜中をとうに過ぎているだろう。
闇の中では、同室の女剣士の安らかな寝息だけが響いていた。
もうじき夜明けでもおかしくないと、エルフの感覚が告げている。
嫌に寝汗をかいていた。今宵はどうにも寝苦しくてならない。
エルフの娘は枕元を探って水筒を探し出すと、ぬるい水を口に含んだ。
水筒を仕舞い、切なげな溜息を洩らして天井を仰いだ時、隣から声が掛かった。
「眠れないのか?」
びくりと身体を震わせて視線を向ければ、何時の間にやら友人の女剣士が起きていた。
黄金の輝きにも似た黄玉の瞳に深い光を湛えて、じっと見つめてきている。
「……うん、少しね」
エルフ娘が苦笑して告げると、少し考えてから己の寝床の上をとんとんと掌で叩いた。
「此方においでよ、エリス」



二枚の毛布を重ねると、その中で潜り込んで向き合った姿勢で横になる。
女剣士がエルフを見つめる眼差しは、とても優しく、そして柔らかな瞳だった。
敵とは言え、何十という人の命を奪った猛々しい戦士のものとは思えない。
吸い込まれそうに静かで穏やかだった。
穏やかさと荒々しさの同居している人格はとても不思議に思えて、エリスは見つめているうちにふと口を開いた。
「何故、平気で人を殺せる?」
云ってから、訊ねるようなことではないと気づいて目を瞬き、焦るエルフだが、この瞬間の女剣士はある意味では失礼な質問を許容する気持ちになっていたのだろう。
「平気なように見えるのか」
微笑んでから、考え込むように少し首を傾げつつ、言葉を続けた。
「ふむ。だけど、君と私は違う人間だから、聞いても参考にならんと思うよ」
「あ……ごめん……変なことを聞いた」
気まずそうに口を濁すエルフの娘をやはり静かな眼差しで見つめると、女剣士は穏やかな口調で語りかけた。
「君の心を悩ませている亡霊について聞きたいな」
「……亡霊って」
戸惑うエルフ娘に、黒髪の女剣士は重ねて問いかける。
「どんな奴だったのだ?」
口ごもっていたエルフ娘は、しかし、ぽつぽつと心の襞に引っ掛かっていた冷たい塊の事を語り始めた。

「……見逃した。しかし、それが仇になった」
心に引っ掛かっていたオークとの一部始終を話してから、顔を醜く歪めてエルフ娘は吐き捨てた。
重苦しい気持ちは、しかし、全てを語ってもエリスを楽にはしてくれなかった。
「死んで当然の奴だった」
エルフの敵意に満ちた言葉は女剣士の気に入らなかったようだ。
微かに眉を顰めて何やら考え込んでいたが、
「それは誰が決める?君か?」
危うい話をしている。その言葉にエリスの瞳は怒りに燃えている。
もしかしたら、友情が決裂するかも知れない。
女剣士は、唐突にエルフの華奢な身体をギュッと抱き寄せた。
「えい」
「わ」
抱きしめられて狼狽するエルフ娘ではあるが、しかし、嫌ではないので少し微笑んで肩に顔を埋めた。
「君にとって殺すだけの正当な理由が在るのと、死んで当然の人間かどうかは別の話だ」
小さく低いが真剣な響きの声だった。
アリアの言葉にエリスは再び顔を歪めたが、女剣士の見るところ、蒼い瞳には脅えの色が混じっていた。良心の呵責に苛まれているのだろう。
女剣士なら肯定してくれる。少なくとも慰めてくれると思っていたから、エルフ娘はかす
かに驚いて、途方に暮れる。
「思うに、殺した誰かが別の誰かにとってよい父親で会ったり、恋人であったり、誰かにとっての大切な人間である可能性が君の心を悩ませているのではないか?」
びっくりしたように目を瞬いてから、女剣士を見つめ直し、それから視線を逸らした。
「そんなことも考えずに殺していると思っていたか」
「考えたら殺せない……と」
エルフの言葉に女剣士は口元にだけ笑みを浮かべながら、しかし、瞳は哀しげな光を湛えていた。
「それでも殺せる人種もいる。だから君には分からないと云ったし、分かる必要もないとも思う」
暫しの沈黙が二人の間に立ち込めた。
「一度、血に穢れた手はもう拭えない。殺人の矩(のり)を踰えたのだな。エリス」
ぽつんと呟いた女剣士にエルフが挑むように訊ねかけた。
「……貴方はどうなの?」
やや好戦的な口調、互いに嫌い合いたくないのに嫌な緊張が二人の間に走っていた。
「そうだよ。私も殺人者。君と同じ殺人者だ」
「わたしは……」
エルフの娘が脅えたように絶句して、言葉につまった。
「違わない。君は殺人の矩を踰えた
それを直視しろ。受け止めて歩いていくしかない」
少し考えてから、エルフ娘は女剣士の腕から逃れると途方に暮れた顔で俯いた。
「そうだよ。私はそれが恐ろしい」
女剣士は、ずいと身を乗り出した。エルフの娘を力の強い腕でしっかりと抱きしめる。
女剣士の体温が伝わってくる。今までは辛い時、苦しい時、慰められると力湧いてくる熱だったが、今のエリスには心慰める力にはならなかった。
「思うに戦場で相手を斃すのと、抵抗できない相手を処刑するのは違うのだ」
エルフの髪を撫でながら女剣士は呟いた。
「前者は讃えられるべき勲で、後者は恥ずべき行い所業なのだろうよ。
どんなに正当化した理由をつけようが、多分、人は心の奥底でそれを知っている。
誰も自分の良心からは逃げられぬ」
「私は咎を負ったと?」
エルフの手は何時の間にか震えていた。アリアがエリスの手を優しく強く握り締めた。
「身を守る為に殺すのは罪ではない。だが、それ以外の殺人は……
苦しんでいることが答えだろう。君自身の心が、答えをすでに出している」
「罪を犯したのが恐ろしいか?」
女剣士の問いかけに、エルフは答えられなかった。答えなくなかったのかも知れない。
真面目な問答よりも、本当はただ心の慰めが欲しかったのだ。
「なにか、嬉しそうだね。アリア」
「……嬉しいかも知れない。同じだから。私は殺人者だったけれども、君も同類になった。
そう、それを少し歓んでいるかも知れない」
「私はッ……」
「うん、君は殺人者になった。私と同じく殺人の矩を踰えた。
少し嬉しい。君の気持ちは嬉しかったが、私のような血塗られた人間と結ばれていいのかと気後れを抱いていた。今なら愛してもいい。慰めようか?」
呆気に取られてから、エルフの娘は冗談だと受け取って溜息を洩らした。
「最低の口説き文句だよ」
怒るよりも虚脱したエルフを見て女剣士はくつくつ笑ってから、急に疲れた表情で溜息を洩らした。
エルフの娘は蒼い瞳を不可解そうに細めて、何か言いたげにしている。
「冗談は兎も角として、人は簡単に死ぬのだ。
己が人を殺せることを知ってしまった。君はそれに戸惑っているだけだ。
大丈夫だ。いずれは慣れる。何とも思わなくなる」
女剣士の言葉に、エリスは落胆を隠せなかった。
「……それはそれで嫌だよ」
アリアは余りにも厳しい人間だと思う。己の罪を受け止めろ。強くなれ。
云ってる事は尤もではあるけれども、現実に苦しい今、エリスはそんな言葉が欲しいのでは無かった。慰めて欲しかったのだ。
「だからと言って開き直る必要も、必要以上にびくびくする必要もない」
「君がなるたけなら他者を傷つけたくないと思っていることも、善良な人間であることも私がよく知っている。
君は変わらん。私が保証する。
君が仮に君を許せなくても、私が君を許すよ。私は君を信じる。それでは足りないか?」
多分、共感と慰めがエルフ娘の求めていた言葉なのだろう。
砂漠の砂に水が染み入るように、女剣士の言葉はエルフ娘の心に響いた。
最初からその言葉だけを掛けられていたら、エルフの心は女剣士に依存していたかも知れない。
涙が頬を零れ落ちる。
袖口でぐしぐしと拭いてから、エリスは深々と息をついた。
「それを聞きたかったのです。ありがとう……すこし落ち着いた」
「夜明けまでには、まだ少し時間がある。寝ているといい」
言いながら、女剣士は掌でエルフの翠の頭髪をクシャリと撫でてくる。
日向にまどろんでいる猫のように、エリスは蒼い瞳を細めた。
「うん」
期待した答えはくれなかったが、真摯に対応してくれたし、思いやってくれているとは示してくれたので、満足する。
女剣士の方は、実際には結構、本気で慰める為に受け入れてもいいと思っていたが、エリスは、アリアが横にいることに安心したのか。
胸に顔を埋めて時折、僅かに身動ぎしていたが、やがて、すぅすぅと穏やかな寝息を立てて夢の世界へと旅立っていった。

女剣士は暫らくエルフの娘を眺めていたが、やがて身体を起こすと漆喰の壁に背を預けた。
「それにしても……」
東国の歴戦の戦士達すら恐れた冷たい微笑を口元に貼り付けて、黄玉の瞳を愉悦に細めた。
「無垢なものが穢れていく姿というのは……どうしてこうも美しく儚いのだろうな」
エルフ娘の蒼い瞳には、それまで窺えなかった翳りが宿っていた。
女剣士は朱色の舌先で血のように紅い形のいい唇をちろりと舐める。
短刀を取り出すと自身の指の先を僅かに切り裂いた。
エリスの唇に指を這わせて血化粧をすると
「君に血の祝福を」
そっと口づけして身を起こすと、それから片膝に腕を乗せた姿勢で壁に寄り掛かったまま、陽の光が差し始めてエルフが起きてくるまで、刃のように鋭い眼差しで延々と闇を見つめ続けていたのだった。


クーディウスの斥候である四騎がパリトーに帰還した頃には、東の空はとうに明るくなっていた。
厩番に騎鳥と騎馬を渡すと、郎党の二人は疲れ果てた様子で己の住居へと戻っていく。
「ふぅ、疲れた」
「一杯やってから、さっさと寝るか」
別れた部下たちの背中を羨ましそうに見つめる豪族の娘フィオナも疲労困憊していたが、まずは父親に首尾を報告せねばならない。
生欠伸しつつ母屋へと向かっている途中、郷士の娘リヴィエラが捕虜のオークを納屋へと引っ張っていく姿を目にした。
「さっそく尋問?熱心だね」
フィオナの疲れ切った表情に、リヴィエラは頷きを返してから、通りかかった召使いに捕虜の縄を預けた。
「待って、フィオナ。オーク連中の企みについてなのだけど……」
「うん?」
怪訝そうな豪族の娘フィオナに郷士の娘リヴィエラは小声で話しかけた。
「思うのだけど、辺境と言う言葉に騙されてないかな。
全域の征服ではなくて、此の一帯を征服する予定で辺境征服って言葉を使っているとか」
「ふうむ」
肯いた豪族の娘フィオナ。彼女自身もオークの動きには些か、思うところが無いでもないのだった。
「そう云えば村長の云っていた例の女剣士。何か知ってるのか。彼女も気になるな」
フィオナの何気ない呟きにリヴィエラが反応した。
「竜の誉れ亭だったかな……旅籠に泊まっているらしいね。
聞きに云ったら。何かを掴んでいるのなら教えてもらおうよ」
「……だけど、会いたくない」
豪族の娘は、酸っぱい牛乳でも口にしたかのような顔で首を横に振った。
闊達な性格にしては珍しく、どうやら件の女剣士に苦手意識を覚えているらしい。
郷士の娘リヴィエラが肩を竦めて、
「なら、私が聞きにいこう。何時までいるか分からないし」
何故か慌ててフィオナが口を挟んだ。
「いや、必要ないよ。必要ない」
理由も無いのに、何故か郷士の娘と例の女剣士にこれ以上、会って欲しくなかった。
全くの勘で根拠もないのだが、何か嫌な予感がするのだ。
「必要ないよ。それよりも尋問をお願いします」
何故か焦っているフィオナに、リヴィエラは戸惑いながらも肯いた。
「三度も云わなくても、分かったよ。
さて、尋問しますか。何か分かったら直ぐ報告するよ。そちらもオークが大規模な攻撃を企んでいるかも知れないことをお父上に伝えていてね」
「うーん。さて、どうやって説明したものか。一緒に父さんに報告してくれると助かるのだけど……手伝え」
唸った豪族の娘は命令調の語尾を付け加えて幼馴染の腕を掴んだものの、きっぱりと拒否される。
「駄目、自分でやりなよ。跡取りなんだから」
「……いけずめ」
ぶちぶち言いながら父親のもとへと向かう豪族の娘フィオナを見送ってから、リヴィエラは納屋の一つへと向かった。

猿轡を噛まされていた穴オークの頭領グ・ルムは、納屋に入った瞬間、目を大きく見開いた。
納屋の土床や土壁には血痕が飛び散り、はっきりと残っていた。
「初めに言って置くけど、私は優しくない。知ってる事があるのなら、今のうちに喋ってほしい。
他に幾人もの捕虜が居る。裏は取れるんだ」
穴オークの酋長は汗を掻きながらも、強い目つきで金髪を背中に編みこんだ人族の娘を睨みつけた。


「ふむん、自分は喋らないと確信している。違うかな?」
頑丈な椅子にグ・ルムを坐らせ、手際よく手足を縛り付けながら、リヴィエラは言葉を続けた。
「残念ながらも、どんな人間にも折れる限界はある。
だけど素人は、ただ心の折れる境界線と命の消える境界線の区別もついていない。
痛めつければいいと思っている素人は直ぐ死なせてしまう。私は違う。
其処を見定める事ができるのが玄人だと思っている」
完全に拘束してから、そう云って郷士の娘リヴィエラは立ち上がった。
縄の締めは痛くないのにまるで動く事ができない。
グ・ルムは内心で不安を覚えながらも、嘯いている若い娘を鼻で笑った。
「女子供を浚った盗賊や奴隷商人、オーク、ゴブリン。
悪党は大抵、奪った人質や財貨の隠し場所をそう易々と吐こうとはしない。最初は慣れなかったよ。
大勢のろくでなし共と付き合ってきたけれども、皆、最後には話してくれた。
一人として沈黙を守りきった子はいない」
リヴィエラは、目の前を横切って、箱から奇怪な形状の刃物や細い錐。鋸。留め金などを出し始める。いずれもどす黒い血痕がこびりついていた。
「お前は……まあ、蛮族だけど、悪党ではない。
私たちと同じく、お前もまた、自分たちの仲間と女子供の為に戦っているのだろうと思う。
だから、出来るだけ苦しめたくはない。己から喋る気はないか?」
猿轡を取られたグ・ルムの口元に、舌を噛めないように金属製の奇怪な口枷を無理矢理に嵌めていく。
此れで穴オークの酋長は喋る事は出来ても、自殺は出来なくなった。
「糞ったれめ……地獄に落ちるがいい!」
悪し様に罵られても郷士の娘は顔色一つ変えなかった。
肩を竦めた金髪の娘に、激昂したグ・ルムが顔に唾を吐きかけた。
唾を指で拭い取ると焼けた石を火箸に挟んで近寄って来た。
「気が変わったら早めに降参してくれよ?私も余り気が進まないんだから」
そう嘯きながら、長い金髪を背中に編みこんだ娘は、身を乗り出してきた。
焼けた石が腹の上に乗せられた瞬間、穴オークの酋長はひゅおっと大きく息を吸い込んだ。
次の瞬間、劈く絶叫がのどかな館の早朝の静寂を鋭く切り裂いた。



[28849] 70羽 土豪 21 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e34ca4b1
Date: 2012/11/02 02:17
 早朝の草木が放つ瑞々しく新鮮な香りが甘く鼻腔を刺激した。
黎明の空気の変化を敏感に嗅ぎ取ったエルフの娘が薄く目を見開くと、閉め切った窓の隙間から淡い陽光が差し込んできていた。
「んん」
 久しぶりに気持ちのよい目覚めを迎えられた早朝であった。
清清しい朝の気配にエルフの娘が身体を起こして伸びをすると、背骨が軽い音を立てて鳴った。身体の奥底にこびり付いていた澱が取れたかのように心地よく感じられる。
 同じ寝台で傍らに寝ていた女剣士が、もぞもぞと身動ぎしながら呻きを洩らした。
夜更かししたのだろうか。腫れぼったい瞼で、まだ幾分か眠そうに生欠伸を噛み殺している。
「おはよう」
「……おはよう」
半身を起こした女剣士は意外と寝起きが悪く、掠れた声で鸚鵡のように返してきた。
朗らかな声で挨拶したエリスは、アリアの前髪に埃のようなものがついているのに気づいた。
「……どうした?」
「塵がついているよ。じっとしてて、取ってあげる」
指を伸ばして塵を取り除くと
「うむ、すまぬな」
謝意を述べた頃には、ぼうっとしていた女剣士も漸く頭も働き始めたのか。
顔立ちを急速に引き締めると、これからの行動についてエルフに訊ねてきた。
「で……これからどうする?」
「これからとは?」
困惑を隠せない翠髪のエルフに問い返されて、女剣士は少し困ったように言葉に詰まった。
 寝台の上で胡坐をかくと、エルフの娘に真正面に向き直って身を乗り出してくる。
「ふむ……辺りも物騒になってきているからね。
私としては、早めに出発するに越したことはなかろう。
だが、君は留まりたいのではないか?」
エリスのとばっちりで深手を負ってしまった農婦ノアについて言ってるらしい。
確かにエルフにとっては心残りでは在るが、一帯は物騒になってきていた。
旅籠に飲みに来る農民たちの噂では、見慣れぬ者の姿も増えているらしい。
洞窟オークたちが引き起こした昨日の争乱とて、一つ間違えていたらエリスも襲撃のうちで命を落としていたとも限らない。
蒼い瞳を少し伏せて組んだ掌に視線を落としつつ、エルフの娘は考え深そうに肯いた。
「……そうだね。うん、そうだ。わたしはノアの容態を見取ってやりたい。
だけど、アリアに付き合って貰うのは申し訳ないな」
「今さら気兼ねするな。多少の時間の余裕は在る」
「我侭に付きあわせる。いいのかな?」
表情に蔭りを帯びたエルフの娘だが、女剣士は今さらだろうと鷹揚に肯き返した。
「事情は知っているし、気持ちを無碍に扱う心算はない。好きにしたらいい」
返ってきた女剣士の言葉からは、言外に農婦が長くは持たないと見ていることが窺えて、エルフ娘は陰気な表情で力なく俯いた。
「……アリアもそう思うか」
「ふむ、埒もないことを云ったな」
女剣士は手を振って、エルフ娘の言葉の先を遮った。
「先ほども云ったが、近隣一帯が物騒になってきているのは確実だ。
此れは、なにもオーク相手に限った話ではないぞ。
物騒な土地は、得てしてある種の人間を引き寄せるからな」
「ある種の人間とは?」
怪訝そうな口ぶりで訊ねたエルフの娘に、女剣士は厳しい表情で重々しく頷きかけた。
「土地に戦の匂いが漂い始めれば、何処からともなくそれを嗅ぎつけた傭兵や盗賊、野伏せりの類が現われるものだ。
この一帯は、辺境(メレヴ)にしてはかなり豊かな土地だからな。争乱の噂が伝われば、いずれは無頼の輩や略奪者共が入り込んでくるようになろう」
女剣士の声音からは緊張した響きが伝わってくる。
友人の言葉に一瞬だけ絶句したが、同時に納得もいったのでエルフは渋い顔になった。
「何時頃にそうなると見ている?」
「一週間先か、一ヶ月先かは分からぬな。まだその徴候は見えていないが、小競り合いが収まらねば、遠からずそうなろう。時間の問題であろう」
美貌を曇らせたエルフ娘を見て、女剣士は慰めるようにその肩を叩いた。
「色々と用心する必要はあろうが、昨日の今日でオーク族の襲撃はなかろうよ」
口にした女剣士であったが、小競り合いが続くようであれば、思っていたよりも大事かも知れないなどと些かの憂慮を覚えてもいる。
街道筋の辺り一帯は既にそれなりに人の往来が盛んな土地で、近隣には辺境有数の交通の要衝であるティレー市もある。
オーク族の活動が活発となれば、辺境の物流のかなりに影響が波及しかねない。

 考え込んでいる女剣士に対して、大きく溜息を洩らしたエルフの娘が何気なく呟きを洩らした。
「……アリアと一緒にいられてよかった。色々と。」
何気ない、しかし想いが込められた言葉を耳にして、女剣士は照れ臭そうに何かを呟きながら、しかし真顔で切り返した。
「ん、私も君と一緒でよかったぞ」
「そっか、嬉しいな」
嬉しそうに笑ったエルフの娘ではあったが、何処とはなしに寂しげな蔭が感じられた。
「私は本気で云っているのだがな」
女剣士はエルフの頤を力強い指で軽く掴むと、やや強引に己の方に顔を向かせた。
「ア……アリア?」
「君とは、此れから先もずっと付き合いたい。
互いに足りない所を補い合い、支えあえる関係になれたらいいと思ってる」
やや言葉に詰まりながらも、想いのうちを吐露していく。
訥々と言葉にするうち、女剣士の頬が微かに朱に染まった。
言葉の響きから、黒髪の女剣士の真情が充分にエルフに伝わってきた。
「それは……」
半エルフ族のエリス・メルヒナ・レヴィエスは、貧しい放浪者であり、孤独な境遇に生きている。
だから、カスケード伯子アリアテートが示してきた思いやりと言葉に、唐突にもうどうしようもなく我慢できなくなったとしても無理はなかった。

 女剣士の貌を真正面に望みながら、エルフの娘は無意識に唇を舐めていた。
前触れもなく、何故とはなしに顔を見ているうちにふっとアリアに唇を近づけてみた。
と、女剣士は当惑の色を黄玉の瞳に浮かべながらも拒みはしなかった。
(……アリアは嫌がってない)
拒まれる恐れもあったけれども、危険を侵せる者が勝利を収めるのも、また真理である。
 友人への慕情が抑えきれなくなったエルフ娘が、拒む気配を見せぬ女剣士の態度に勇気付けられ、より大胆になって唇を求めると、アリアは微かに首を傾けて目を閉じながら受け入れた。
鼻腔で息を吸い込むと、女剣士の甘ったるい香りのいい体臭が漂ってエルフ娘の慕情を刺激した。
最初から嫌がっていたわけではなかったが、いまや拒んでもいなかった。
濃厚な口づけの感触を楽しんでから、名残惜しそうに唇を離すと、涎の糸が二人の唇と舌の間に掛かっていた。
エルフ娘は僅かに俯きながら、何を言うでもなく照れ臭そうにはにかんで笑い、女剣士に掌を重ねてみる。
女剣士も穏やかに微笑を浮かべて、掌を握り返してきた。

 女剣士の頬は桜色に染まり、普段は鋭い眼差しは和らいで微かに濡れていた。
許容の色を潤んだ瞳から見て取ったエルフ娘は、身体を傾けて黒髪の女剣士の肩に頭を預けてみた。
女剣士は腕をエルフ娘の腰に廻しつつ、残った左手でエリスの翠色の髪を撫でてきた。
身体は昂ぶりながらも、エリスの気持ちは同時にとても落ち着いていた。
愛情と慰めを欲していた孤独な心は、伝わってくるぬくもりで歓びに満たされ、甘酸っぱい香りが幸せな予感で胸を満たしてくれる。
微笑みを浮かべて子猫のように甘えていると、女剣士が耳元に囁いてきた。
「……私を好きだといったな」
エルフ娘は聞いているが答えなかった。
またたびを嗅いだ猫のように瞳を陶然と酔わせて、抱きついて肯いている。
「……人を惚れさせておいて裏切ったら酷いぞ」
独り言のようにポツリと呟いた女剣士の囁きに、しかしエルフ娘は反応した。
穏やかな陶酔に身を委ねながら、静かな口調で言葉を洩らした。
「裏切ったら殺してもいいよ」
「其処までは、言ってない」
エルフ娘の言葉は本気であったが、重さにやや怯んだのか。
女剣士は鼻白んだように戸惑いを露わにしてエルフを見つめていた。
「まだ知り合って間もないのに……私を其処まで信じていいのか?」
「最初は誰だって他人だよ」
暫し、沈黙を守っていた女剣士がゆっくりとエルフ娘を抱きしめ返してきた。
「……人を信じるのが恐い?」
「恋人となれば……少しな」
想い人の言葉に込められたほんの僅かなほろ苦さを察し、エリスは微かに動揺した。
殆ど一瞬ではあったが、女剣士の瞳には微かに哀しげな色が浮かんでいたのを、エルフの娘は確かに目にしていた。
以前に恋人がいたとしても、不思議ではない。
吐いた言葉に漂う苦さからは、或いは裏切りに在ったのかも知れない。
男だろうか。女だろうか。人族だろうか、エルフ族だろうか。
しがみついた腕にほんの少しだけ力を込めながら、心中に渦巻いた黒い感情を押し殺しつつエルフ娘は呟いた。
「前なんて如何でもいいよ。わたしは裏切らないよ」
囁きながら、エルフ娘は目を閉じて体重を委ねていた。
そう、誰とも知らない前の恋人など如何でもいい。
アリアは私のものに。そして、私はアリアのものになるのだから。
そう思い込もうとしながらも、しかし、心の奥底では昏い不安が蠢きながら囁きかけてくる。
アリアは裕福な貴族階級の娘で、望めば、幾らでも恋人は出来る。私とは、根底からして身分が違う。
惚れた相手が応えようとしているというのに、心底に秘めた恐れにエルフは心がささくれ立つのを感じていた。
心の弱さを情けなく思いながら、身体を震わせてエリスは歯噛みした。
大丈夫だ。冷徹な箇所もあるが、アリアは心を弄ぶような人物ではない。
そう信じようと務めるエルフの心中に潜む畏れを、或いは深刻な瞳の色から読み取ったのか。
己の肩に額を埋めて低く呻いている森の娘の手を優しく取ると、女剣士は己の胸の上へと導いた。
「……私の心の臓の音が聞こえるかい?」
人族の娘の形いい乳房はとても柔らかく、その癖、張りが合った。そしてとても暖かい。
くもぐった声で返答するエルフ娘の尖った耳元に、女剣士は形のいい唇を近づけて囁いた。
「君を感じる。分かるか?期待と不安で鼓動がこんなにも高鳴っている」
言いようのない不安に襲われていたエルフ娘だが、しかし、伝わってくる女剣士の動悸の暖かさに自信を取り戻していった。

 暗夜に不安を抱いた幼子が親にそうするように、エルフ娘は女剣士に強く抱きついた。
女剣士の方もエルフに対して何かしらの暖かな気持ちを抱いているようで、穏やかな微笑を浮かべながら、時折、小さくクスクスと笑っていた。
恋慕しているのはエルフ娘の方だが、女剣士も満更ではないのだろう。
気持ちは間違いなく互いに通じていると、エリスにはそう思えた。

 アリアが身動ぎした。改めてエルフの娘と向き直る。と、首を傾げた。
翠髪のエルフの頬を大粒の涙がポロポロと零れ落ちていたからだ。
「何故、泣いてる?」
解せない表情で訊ねる女剣士に、感極まっている様子のエルフの娘は鼻声で応えた。
「……いや、嬉しくて。つい」
「それほど私に惚れたか」
「うん。愛してる」

「愛い奴」
言いながら、女剣士はエルフを抱きしめて、今度は自分から軽く口づけした。
エルフの娘の蒼く濡れた双眸が心持ち潤みながら、己より高い位置にある女剣士の貌を見上げていた。
東国(ネメティス)の戦士貴族階級のうちに生まれ育った女剣士には、同性愛に対する忌避感は薄く、期待を込めて身体を擦り寄せてくるエルフ娘を憎からず思ってもいた。
「今は駄目だ……夜になったら」
エリスの貌がパッと明るくなった。期待を込めて同じ言葉を囁き返した。
「うん。夜になったら」


 連なる丘陵に囲まれた盆地を照らすように冬の太陽が中天に座している。
背の高い山の切り立った崖から吹き降ろす湿った北風が、小さな丘の頂を駆け抜けていった。
穴オークの遺体は、オーク族の居留地に隣接する小高い丘に懇ろに葬られようとしていた。
本来は部族の為に戦って死んだ者たちの為の墓地であったが、オーク小人の見せた勇気と忠誠は戦士の墓標に葬るに値するようにオークの頭目ルッゴ・ゾムには思えたのだ。
巨躯のオークが下した判断に反対する者は、部下たちのうちにはいなかった。
幾人かの戦士は、小人の雄雄しい魂に敬意を払い、己が血肉の一部となる事を願って亡骸の肉を一口ずつ切り取って口にすることさえした。
頭目であるルッゴ・ゾムにも、勇気が宿ると伝承される心臓の一部が渡された。
歌い手が黄泉渡りの詩句を唱え終わり、いよいよ洞窟オークの弔いが終わろうとしていた。
並外れた巨躯を誇るオークの頭目は、昏い瞳で地中深く掘った墓穴にゆっくりと下ろされる洞窟オークの亡骸を見下ろしていた。
お前は、何の為に生まれてきた。小さいの。
そして、一体何の為に死んでいったのだ。
最後の瞬間に、お前の胸に去来したのはなんだったのだ。
任務を果たした誇らしさか。それとも友への思いか。
なあ、お前は満足して逝けたのか?

 オーク族の砦を見下ろす位置にある丘陵の頂で簡素な弔いの儀式を終えると、オークの頭であるルッゴ・ゾムは手勢を連れて居留地への長い道を戻り始めた。
流石に女たちの弔いの歌までは用意できなかったけれども、厳粛な雰囲気のうちに死者を悼むよい弔いだった。
切り立った山肌を見上げ、そして盆地の光景に視線を走らせてから、巨漢のオークは不満げな唸り声を洩らしていた。
作物の出来は今年もよくない。
水は濁り、陽の光は少なく、働いても働いても、喰っていくことさえ侭ならぬ。
同じような盆地の居留地が丘陵地帯に幾つか点在しているが、いずれも痩せた貧しい土地であった。

 小さい勇敢な洞窟オークの心臓の肉の欠片を口に放り込んで咀嚼し、一息に嚥下する。
此れで俺も少しは勇敢になれるだろうか。
お前のように、為すべきことを迷わず為せる男に近づけただろうか。
心中語りかけながら、オークの頭目は緩やかに曲がりくねった勾配を砦へと歩いていった。
己は心底では臆病である。オークの頭目は、自身をそう評価していた。
大勢の手下に囲まれているにも拘らず、時折、突然に己がただ一人で不毛の曠野に佇んでいるような気持ちに襲われることがあるのだ。

 頭目の隣を歩いていた向こう傷のオークが思わしげにルッゴ・ゾムに視線を向けた。
この頭目が、本当は同族の肉を喰らうのは好かないのを知っていた。が、今日は珍しく望んだのだ。
「ボロ、戦士に呼集を掛けておけ」
向こう傷のオークが太い腕で頬を撫でながら、おうと肯いた。
「やるのかい?」
「取りあえずは集めるだけだ」
それきり寡黙になった頭目を大股歩きで追いかけながら、向こう傷のオークは念の為に聞いておく。
「村々を廻って、兵を募っとくか?」
陰気な沈黙に沈み込んでいた大柄なオークは頭を振った。
「無駄だ。今から声を掛けても、もう粗方は、カーラのほうにいっている」
「いや、残っている連中も結構いるぜ」
「そうか。だが、取りあえずは砦の戦士たちだけでいい」
野太い声で云ってから、ルッゴ・ゾムは思いついたように言葉を付け加えた。
「それと物見を出しておいてくれ」
何処へとは聞かないでも分かったので、向こう傷は肯いただけだった。


 オークの頭目は、丘陵地帯を統べる大族長の十数人もいる子供の一人であった。
凶悪で魁偉な外見に似合わず、ルッゴ・ゾムは周到で思慮深い性質を持っている。
情に厚く、部下を大切にし、一介の戦士として戦わせても屈強のオークたちに頭抜けた力量を誇っていた彼は、今までの戦いでは不敗を誇っている。
よく恵まれた体躯に加え、欠かさない鍛錬が彼を部族最高の戦士に鍛え上げ、奢らない性格が部族の戦士たちに支持されて、後ろ盾となる血族を持たぬルッゴ・ゾムをして、尤も有力な後継候補の一人に押し上げていた。
生まれもって膂力と体格に恵まれた分厚い筋肉の塊のような巨躯のオークでさえ、しかし、武器と数で勝る人族を相手に真正面で戦うことには躊躇いを覚えていた。

 確かに此の侭では、オークに未来はない。だが、カーラの計画は余りにも杜撰に思える。
俺は不仲である妹に嫉妬しているのか、或いは臆病なのか。それとも……
此処で乾坤一擲の勝負に出るべきだろうか。
オーク族が閉じ込められた貧しい丘陵の盆地を勾配より眺めながら、巨躯のオークは日に一度は物思いに耽っていた。
俺たちは何の為に生まれて、何の為に死んでいくのか。
他のオーク連中が、人族に対する勝利を夢見るのも分かる。
其れが腹違いの妹であるカーラが若い連中の支持を取り付ける理由でも在る。
勝利は全てを塗り替えるだろう。だが、人族の勢力は強大だ。
人数も武具の蓄えもオークに優り、村々の備えも整っている。
其れがオーク族の為ならば、妹に力を貸すのはやぶかさではない。
問題は、力を貸して勝てるか否かだ。大敗をすれば取り返しが付かぬ。
本当に勝てるのか。そして戦う以外に手はないのか。
音に聞こえた『強者』クーディウスを初めとして、ソレスやボーンなど、人族のうちにも優れた戦士は多くいる。そして彼の生まれた村を焼き払った名も知らぬ戦士。
古い記憶を脳裏に思い出して、巨躯のオークは、ぶるりと身体を大きく震わせた。

 村人や友人、幼馴染の少女。そして母と三人の弟妹たちが燃え盛る地獄の業火の中に、悲鳴を上げながら踊り狂っていた。
大勢の戦士を率いて村を焼き払った男の姿は今も覚えている。
瞼に思い浮かべる度に恐怖か、憤怒か、今も全身に激しい震えが走るのだ。
強かった兄を一太刀で切り倒した人族の指揮官。
見事な金髪をした筋骨隆々の大男の恐ろしい哄笑が響き渡る中、恐怖に脅えて物影に隠れていた屈辱の子供時代の記憶にルッゴ・ゾムは苛まれる。
俺は本当に強くなったのか。そして、邪悪で容赦のないあの男に勝てるのか。

 十五年近くも昔の話である。人族の軍勢に村を焼き払われ、家族の殆どを失ったルッゴ・ゾムは、父親に引き取られた。
父なし子であると信じていた己が族長の血筋であり、漠然と寡婦であろうと思っていた母が、当時は部族の王子であった父親の大勢の愛人の一人であったと、その時、初めて知らされた。
苦い表情で砦への歩いていた巨躯のオークの前方、杖をついた女オークが道の半ばまで迎えに来ている姿が目に入った。
ルッゴ・ゾムが怪異な容貌に似合わぬ笑顔を浮かべると、半身を火傷したオークの女がニカリと笑った。
ルッゴ・ゾムが背を見せてしゃがみ込むと、ひょいと背中に飛び乗ってきた。
声帯を焼かれた為か、ルッゴ・ゾムの妻ジジは喋れない。
巨躯のオークは妻を背負って居留地の中庭へと入ると、砦内にある己の部屋ではなく、隅に建つ薬草師の小屋へと向かった。
不思議そうな顔をする女オークに笑いかける。
「火傷に効くという油薬が手に入ったのだ。黒エルフ共から買ったのでな」
肯いた女オークを連れて小屋に入ると、生憎、薬師は不在のようであったが構わない。
がらんとした寒々しい部屋の棚に近寄って、巨躯のオークは厳重に蓋された壷を取り出した。
ぎこちなく動きながら、オークの女がローブを床に落とした。
壷に入った薬を指につけると、ルッゴ・ゾムは妻の背中に残る引き攣れたケロイドに塗りこんでいく。此れは誰にも任せない、巨躯のオークだけの仕事だった。

 丘陵の部族に限らず、オーク族のうちでは、不具の者たちの地位や扱いは極めて低いのが普通だった
妻が己一人で暮らすには侭ならぬ身体であったからだろうか。
巨漢のオークは己が采配する砦に不具の者たちや身寄りのない子らを集めて、彼らでも出来る簡単な仕事を与えながら、生活の面倒を見ている。

 身体だけ大きくなっても、俺は餓鬼のままだ。母や弟妹が殺され、ジジがこんな目にあわされても、俺はまだ人族と戦う以外に手はないのかなどとぐじぐじと悩んでいる。
「俺は親不孝者かも知れん」
思わず洩らした苦々しい呟きは誰の耳にも届かずに部屋を満たす冷たい空気に溶けて消えていった。
ルッゴ・ゾムの迷いは何時までも晴れなかった。
苦々しい表情をした巨躯のオークを、小柄な女オークが不思議そうに見上げた。


 喉も張り裂けんばかりの凄まじい絶叫が、藁の寝床に横たわる母の口から迸っていた。
少女は泣きながらも歯を食い縛って、悶え苦しむ母親の傷に手を当てた。
神様!女神さま!わたしは如何なってもいいです。
だから、母さんを助けてください。
無垢な子供ゆえの必死の祈りを神々に捧げる。
無力な少女には他に出来ることなどないからだ。
だが、少女の祈りは届かなかったのか。或いは地獄にいる苦痛を司る魔神に魅入られたのか。
病床の母親は苦悶と苦痛に身体を突っ張らせて、獣のような叫び声を発していた。
表情は、苦悶と苦痛に激しく引き攣り、歪み、もがいた手が宙を掻き、時折、到底、人のものとは思えぬ叫び声が小屋を圧して響き渡っていた。
今、母子がいるのは、当初、与えられていた比較的に清潔な小屋ではない。
怪我人たちに貸し与えられた小屋は、早々に追い出された。
他の重症の者たちが、母親の呻き声が五月蝿いと文句をつけたのだ。
今は薄汚い納屋の隅を借りて、少女が母親の面倒を見ていた。

 苦しみ、のたうち回る母親の姿を前に、何かをしたいのに何も出来ず、絶望に打ちひしがれてた少女が呆然と佇んでいると背中から足音が近づいてきた。
納屋の入り口に姿を見せた翠髪をしたエルフは、苦しみ、のた打ち回っている農婦を目にすると切れ長の瞳に強い光を帯びて素早く歩み寄り、懐の革袋から丸薬を取り出した。
水筒を口に当てて、無理矢理に飲み込ませる。
と、暫らくすると暴れていた母親が大人しくなった。
瞳は霞が掛かったようにぼんやりとしながらも、落ち着いた様子で横たわっている。
母が獣から人へと戻った。少女にはまるでそう思えた。
母親は、やや呆けたような顔つきで室内を見回し、初めて気づいたようにエルフを眺めた。
「ああ、あんたかい。少し楽になったよ」
痛みはある。だが、耐えられる程度に落ち着いていた。

 母親とエルフの薬師は二、三の問答を交えていた。
黒髪の女剣士も戸口に姿を見せていたが、薄汚れた納屋の内部に視線を走らせると、眉を顰めた。
腕を組んで外で立っている剣士は、どうやら不潔な環境の納屋には入る気にもなれないらしい。
「……上げた薬は?」
鋭い声と目付きでエルフの女薬師が少女を詰問してきた。
切れ長の蒼い瞳は険しく細められており、内心、後ろ暗さを覚えている少女を思わず竦ませた。
「……盗まれたの」
誰に取られたかも分からない。気づいたら無かったのだ。
少女の脅えた声を聞いてエルフ娘はキュッと目を閉じた。
「ろくでなしめ……君の事ではないよ」
沈痛な面持ちをしたまま、舌打ちし、口汚く罵った。
少女は、母の痛みを聞くのが辛かった。
別人のように髪を振り乱し、泣き叫んでいる姿を見るのが辛い。心が切り裂かれるようであった。
あの薬があれば、母は苦しまないで済んだに違いない。
「……折角貰ったのに、御免なさい」
しゃくり上げながら少女が謝罪するも、翠髪のエルフは苛立たしげに首を横に振った。
「いいや、あんな怪我人の大勢いる人前で渡すべきではなかった。
もう、余り予備もない」
如何したものかと首を傾げるエルフの薬師の横で、少女は涙を堪えるのに必死になっていた。
「私が……薬を盗まれなかったら、お母さんは……」
自分が盗まれた責で悪化したと考えているのか。
エルフの女は首を振ってそれは違うと慰めた。
「あの薬は……どの道、鎮痛の効果しかない。
お母さんが悪くなっても、貴女の責ではない。それは覚えておいて」
しかし、エルフの言葉は届かなかったのか。少女は思いつめた表情でじっと俯いていた。



[28849] 71羽 土豪 22 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e34ca4b1
Date: 2012/11/22 04:57
藁の床に力なく横たわる農婦に手製の薬を与えてから、エルフの娘は悔しげに唇を噛み締めた。
黒い丸薬は、実のところはよく効く鎮痛剤に過ぎず、同時に与えた化膿止めの薬草も何処まで効くか分からない気休めでしかなかった。
それでも、安らかになった母親の様子を見た少女は、心底、安堵を覚えたのだろう。
エルフの娘の掌を強く握って深々と頭を垂れてきた。
何もかもがやりきれなく思えたエルフの娘は、咄嗟に顔を背けかけたものの、しかし、少女を突き放すべきでもないと考え直した。
多分、幾らかの慰めを与えられただけでよしとするべきなのだ。
結局は、強張った表情のまま少女の頭を撫でると、二、三の励ましの言葉を与えて、今にも崩れそうな泥造りの小屋を逃げるように後にしたのだった。

小道をとぼとぼと歩いて村道まで戻る途中、表情を曇らせたエルフは何気なく呟いた。
「……森に帰りたいなあ」
揺籃の地であった穏やかな南の森へ帰れたら、どれ程に楽しいだろう。
やがて小道の入り口が近づいてくると、はしばみの樹の茂った傍らに女剣士が腰掛けて休んでいる姿が目に入った。
エルフ娘を見とめて手を振りながら立ち上がった女剣士だが、何やら樹上が気になるようでチラチラと見上げている。
「流石に此の季節にはないか」
「好きなの?ヘーゼルナッツ」
訪ねられた女剣士は、友人の横に立って歩きながら肯いた。
「曽祖父の荘園の庭に、はしばみやさんざしがはえていてな。
子供の頃には、腹が減るたびに摘まんではよく奴隷頭に叱られたものだ」
過去への郷愁が女剣士の黄玉を思わせる瞳に浮かんでいた。
女剣士を叱れる奴隷がいたらしい事実のほうが、エルフ娘には驚きであった。
「曽祖父自身は、見るだけで何も生らぬが美しい草花を好んでいた。
今思うと心の無聊を慰めていたのかな。荘園の庭をよく手入れしていた後姿を覚えている」
「庭園?」
興味をそそられたのか、首を傾げたエルフ娘を見つめて女剣士は言葉を続ける。
「うん、春から夏にかけて色とりどりの花が咲いてな。
満開の時期はそれは綺麗だぞ。君にも何時か見せたいな」
「それは……見たいな」
不器用ではあるが慰めの気持ちが伝わってきて、エルフの娘は胸が暖かくなった。
庭園の美しさに想いを馳せつつ、想い人の故郷に招かれたことをエリスは歓んだ。
二重の意味で顔を輝かせたエルフの娘の嬉しそうな様子に、女剣士も口元を綻ばせて肯いた時
「おい!」
突然に二人の娘の背後から若い男の声が浴びせられた。

不躾に浴びせられた威圧的な響きの呼び声に、エリスは僅かに緊張した。
何事かと素早く振り返ってみれば、茶色い髪をした若い男が駆け寄ってくる。
動き易そうな革の旅装に身を包み、手首には鉄製の腕輪を嵌めていた。
「あ、あんたを探していたんだ!
相棒が怪我をして……薬師なんだろ!是非に見てもらいたいんだ!」
どこかで見た顔だが、誰だったかは思い出せない。エルフ娘は首を傾げつつ訊ねてみた。
「……怪我人がいるのか?」
「相棒だ。昨日の穴オーク相手の戦で酷い怪我を負った。助けてほしい」
唖然としているエルフ娘の前で、目の前に躍り出た茶髪の青年は必死に息を整えながら矢継ぎ早に事情を話し始めた。
話が真実なら、目の前で必死に話している冒険者の相棒は結構な重症を負っているらしい。
「来てくれ!」
「ちょっと!」
じれったくなったのか。
話を打ち切った男が些か乱暴に手を引っ張ったので、エルフは小さく悲鳴を上げた。
強引な行動に、女剣士が素早く間に割って入った。
露骨に不快そうな眼差しを焦っている茶髪の男に注ぎながら、女剣士は眉根を顰めている。
警戒の眼差しに怯んだのか。自分の態度が、人を呼ぶには些か礼を逸したものだと、今さらながらに気づいたのか。
「悪かったよ。急いでいたんだ」
性急な言い訳のように呟いてから、取り繕うように腰の脇に在る袋へと手をやった。
「金はある。なあ、頼むよ」
冒険者のレオと名乗った男は必死の形相に見えた。
翠髪のエルフは、眉の下から蒼い瞳でじっと男を見ていた。
嘘をついてる様子ではないと判断したエルフの娘は、溜息を漏らしてから肯いた。
「……取りあえず、怪我人を見てからね」
パッと顔を綻ばせた冒険者のレオは、喜色満面で肯きながら先に立って歩き始めると、手招きをした。
「ああ、こっちだ」
冒険者の若者が向かう先からは、静かに川音が響いてきた。

河から程近い野原に、傷病人の為に提供されているあばら小屋がぽつねんと建っていた。
河辺の村の家屋の例に漏れず、葦で葺かれた屋根と泥造りの壁。
扉などというものはなく、地面は剥き出しの土間でひんやりと冷えていた。

エルフの娘が小屋の中に入ると、入り口近くで身を休めていた男が訝しげに顔を上げた。
狭い小屋だが、見回してみれば薄暗い室内に四人の男女が力なく寝転んでいた。
「こっちだ。姐さん」
何時の間にやら親しげな姐さん呼ばわりに辟易したエルフの娘だが、肩を竦めながらも手招きするレオに歩み寄ってみれば、片隅にある毛布の上に明るい茶髪をした女性が寝かされていた。
女性を一瞥して、微かにエリスは息を飲んだ。
駆け寄ったレオは手を握って励ましているが、なるほど確かに容態はよくなさそうだった。
戦傷だろう、裂傷や打撲が何箇所も女の躰の目立つ箇所に刻まれている。
厳しい顔つきになったエリスの目の前。
「リース。薬師を連れて来たぜ」
得意げに青年が報告すると、女が億劫そうに唸りながら半身を起こした。
薬師と聞きつけたからか。周辺の怪我人たちが様子を窺うように視線を向けてきた。
救いを見出したかのような貧しげな彼らの顔つきに、内心、警戒を覚えたものの、億尾にも出さずにエリスは女性の傍らに屈み込んだ。
傷の具合を確かめてみる。女冒険者の身体には、膏薬が塗られ包帯が巻かれている。雑ではあるが、一応の手当てはしてあるようであった。
「傷の手当は誰が?」
「……村の婆さんが」
磨り潰したガマの穂と恐らくは植物油を混ぜたのであろう膏薬が湿布にしてあった。
それに恐らくはオトギリソウ。主に化膿止めの効果があるといわれている夏の薬草だが、季節外れゆえに効果は薄いかも知れない。
そうしたことを説明しながら、エルフの娘は包帯を紐解いて傷の具合を確かめた。
「あんたは腕のいい薬師だって旅籠の親父が云ってた。普通なら死ぬような傷を癒したって」
レオの言葉に肯いたエルフの娘は、傍らに立っている女剣士と意味ありげな視線を交差させた。
「頼む。リースを助けてやってくれ!」
冒険者の若者の必死の言葉に男女の関係かともエルフは推測したが、よく見れば怪我人と顔立ちがどことなく似ている。
或いは、姉弟なのかな。首を傾げたエルフの娘だが、関係ないし、興味もない。
怪我の容態を一通り診察した半エルフは、難しい顔をしてなにやら躊躇っていたが、やがて渋々といった様子で呟いた。

「……助かるとは限らないけど手は尽くすよ。其れでもいいなら引き受けてもいい」
「ほ、本当か?」
明るい顔つきになった青年に、エルフは重々しく肯きかけた。
第一印象が良くなかった為にやや構えて見ていたが、よく見ればまだ若さの残る顔つきだった。素直な物言いもあいまって、エリスよりも二、三歳ほど年下に見える。
「傷を縫う必要がある。それでも分からないけれど、体力があれば……」
「ぬ、縫う?」
エルフの言葉に素っ頓狂な声を上げたレオ青年だが、今までの沈黙を破って傷病のリースがか細い声を上げた。
「レオ」
相棒の名を呼んだ女冒険者は、横たわった姿勢から指を伸ばして青年の茶色い髪に触れ、宥めるように言葉を続けた。
「昔、森の民から聞いたことがある。エルフたちはそうやって傷を治すのだと……普通の人々では手の施しようもない傷も治せる癒しの技を持っているそうだよ」
「だけど……いいのか?」
躊躇いがちなレオ青年に青ざめた表情となったリースが肯きかける。
「信じてみよう……どの道、此のままでは私は」
云ってから疲れたように溜息を洩らした女冒険者を見て、冒険者の青年が肯いた。
エルフは己の技を疑われるのには慣れていたので、気にした様子は見せなかった。
「やってくれ」
折り曲げた人差し指を形のいい唇に当てて、エルフ娘が瞳をキュッと細めた。
「その前に代金の話を。癒しの術を施すなら其れなりの治療費は貰うよ。
手間隙も掛かるから貴方にも手伝ってもらうし」
はっきり云ったエルフの薬師に、冒険者は肯きかけた。
「金なら、在る」
レオが腰の財布から大切そうに取り出したのは、小振りな打刻銅貨が三枚。
差し出された掌の上を凝視したエルフの娘は、切れ長の瞳を困惑したように伏せた。
報酬を差し出した冒険者は、だが、沈黙しているエルフの娘に不安そうな表情を見せ始める。
「……足りないか」
「……大した金額だね」
平坦な声でやっとエリスは呟いた。絶句していたのは、思っていたよりもずっと高い報酬を提示されたからだ。
旅籠の親父の言葉には、それだけの重みと信用があるのだろうか。
常のような怪しげな小娘の薬師ではなく、辺りの顔役が太鼓判を押す腕利きの薬師と見られているのだと気づいて評価の差に苦笑を浮かべた。
今まで見たこともない金額に引き受けようと肯きかけた時、急に傍らの女剣士がエルフ娘の袖を引っ張った。
真剣な顔つきでそのまま小屋の隅の方まで引っ張っていくと、小声で耳打ちしてくる。
「君、引き受ける前にもう少し粘ってみたまえよ」
「だけど……」
エルフ娘は露骨に躊躇を見せる。其れが女剣士にはどうにも歯痒い。
弁は立つし、頭も悪くないのに人が良過ぎる。
いや、逆か。頭がいいから、此れまでお人好しな部分があっても生きてこられたのだ。
「正当な対価を求めるのはけして悪いことではない」
苛立ったように女剣士に凄まれて、エルフが気おされたように瞳を伏せた。
「……それは」
「どんな関係であれ、私と長く付き合うのであれば……君を軽んじたくはない。言ってることは分かるだろう?」
アリアはアリアなりに、エリスのことを考えての意見なのだろう。
射抜くように鋭い眼差しでじっと見つめてくる。


しばし、隅の方で話し合っていた二人の娘だが、やがてエルフが戻ってくると報酬の上乗せを要求してきた。
報酬について話し始めたレオとエリスだが、エルフの方が立場も強かったので強気の交渉が出来たし、弁も立った。
外科を施す医者の診療費は総じて高いのが相場で、エルフの要求もかなり厳しいものだったが、幸いにしてレオの懐は若い冒険者にしてはかなり暖かった。二、三のやり取りの後、最終的には指先ほどのベルバ銅貨と平たいテュカ真鍮銭を五枚ずつ、ノーズ地方で採れた北方産の欠けた瑪瑙、柔らかな上等の兎革を四枚、それに漆黒の自然石のビーズで手を打った。
前払いで報酬を受け取った時、エルフの手は緊張に少し震えたかも知れない。
暴力を匂わされて値切られることも、踏み倒されることもなかったのも珍しいが、仮に高額な報酬に腹を立てたとしても、レオは暴力に訴えかける徴候は見せなかった。
相棒の命がそれほどに大切だったのかも知れないし、女剣士の介入を警戒したのかも知れない。
冒険者の若者は相当な対価を支払ったが、此れは貧しい旅人たちには到底、払える金額ではなく、小屋にいた怪我人たちは諦めて俯いたり、首を振ってぶつぶつ呟いていた。

負傷して横たわっている女冒険者の傍らにエルフの娘が座り込んだ。
「エルフにしては吝いのだな。貴方は……」
やや苦しげな息の下からリースが皮肉っぽい微笑みを浮かべて揶揄すると、エルフは苦笑を返した。
「王都(ティレオン)にあっては王国の民(ティリウス)が如くに振舞えというからね。世知辛いのは人の世界だよ」
くすくすと笑ってから、リースは咳き込んだ。
「では、頼む。助けてくれ」
真面目な表情となった薬師が肯いて、革の水筒を差し出した。
「……此れを飲んで。痛みを和らげるから」
芥子入りのワインを患者に飲ませてから、エルフはてきぱきと準備を始めた。
針と糸を取り出し、粉になった薬草の袋を地面に敷いた毛皮の上に並べていく。
「では、レオ君。水を汲んできて。出来れば綺麗な湧き水、ないなら井戸水。
それと薪を集めてきてくれる?」
エルフの指示を受けた青年が外に出て行くと、女剣士は友人にそっと耳打ちした。
「妥当な報酬ではないか」
使用する新品の糸や針など諸々を煮沸する手間隙、施術の難度を鑑みれば、確かに妥当な対価に思えなくもないが、放浪者にとっては、やはり馬鹿にならない金額だろう。
機嫌良さそうに口を滑らせた女剣士を、ちょっと後ろ暗そうな表情でエルフは見つめ返した。
「……そうかな」
「もっと安く引き受けるかと危惧したよ」
「あー、うん……そうしようかとも思っていたんだけど」
何気ない一言だったが、居心地悪そうなエルフ娘は曖昧に肯いた。
「昨日までだったら、そうしていたような気がする」
友人に唆されたとはいえ、結局、吹っかけたのもエルフ自身の判断であった。
森を出たころのエリスだったら、馬鹿みたいな安値で引き受けていた。
人の命が掛ってると見れば値段の交渉などせず、小屋にいた怪我人たちにも治療を施していたかも知れない。へとへとになるまで己を磨耗させて、挙句、助からなかった時に罵声を浴びられても、じっと耐えているのが常だった。
だけど、深刻そうな顔で唸っていたエルフ娘は、急にそんな生き方が嫌になっていた。
急激な心境の変化を己でも不可解に思いながら、女剣士にやや戸惑ったように蒼い瞳を向けた。
「……いいのかな?」
何を訊ねたかったのか、自分で分からなくなってエリスは口を噤んだ。
平地は人の世界で、人の法秩序が罷り通っている。
皆が顔見知りの森で、誰もが助け合うエルフの世界のようには生きられない。
五年以上も大地を彷徨って、漸くその程度のことが理解できたのだろうか。
或いは、本当はもうずっと前から分かっていて、目を逸らしていただけだったのかも知れない。
限界が来ていて、変貌する切っ掛けを探していたのだろうか。
どちらにしろ、エリスとて幸せになりたかったのだ。

冒険者のレオ青年が戻ってくるのと入れ違いに、女剣士はひとり小屋を後にした。
いても手伝える事はないし、狭い小屋の中に余り大勢いても邪魔になるからだ。
「朱に交われば赤くなるというけれども、私の責だろうか。
善良なエルフを堕落させてしまったのかな」
地平線に鎮座する西方山脈の黒い稜線を彼方に望みながら、黒髪の女剣士は河原で独りごちている。
エリスは結構、真剣に悩んでいるように見えた。
代価を取るのは当たり前の行為だよ。悩むことはないと伝えたが、多分、もっと根幹の生き方について考えているのだろう。
年を喰ってから今までの生き方を後悔するよりは、若いうちに現実に適応する方がまだいいと、アリアには思えたのだ。
善良なだけでは生きていけない。エリスのような性格なら、清濁併せ呑むのが次善に違いないし、若いうちなら落とし所とて見つけ易い筈だ。
「それにしても……あんなに悩んで、可愛い生物だな、もう」
これからも割り切れないで悩んだりするのだろうか。
エルフの事を考えると女剣士の胸のうちに暖かい想いが湧いてくる。
古典に記されていた萌えるという感覚だろうか。
エリスに対して保護欲のような感情はそそられるし、好意も覚えている。
しかし、其れが愛かと問われれば女剣士は違うと答えるだろう。
エルフ娘が向けてくる情愛を受け入れることには未だ戸惑いは残っていたが、古来より愛すより愛される方が幸せだとも言われている。
一緒に時を重ねていくうちに、どちらかが心変わりするかもしれないし、愛するようになるかも知れない。
いいさ、今はエリスと一緒にいることにしよう。
そう結論づけて、鼻歌交じりで河原の真ん中までやってくると、女剣士は鋼の刃を引き抜いてゆっくりと中段に構えた。
鋭い視線の先に架空の敵を想像して、均整の取れた肢体に均等に力を漲らせ、軽く息を吐くと共に柔軟運動を兼ねた素振りを始めた。
鈍った身体を鍛えなおすために、アリアテートは、暇を見ては日々、鍛錬を繰り返している。
基本の型を数十回と反復し、繰り返しているうちに、心は内へと入り込み、余計な想念が消え失せていく。
過去に戦った強敵とこれから殺すべき男女の姿を脳裏に思い浮かべ、彼女は荒々しく身体を動かし始めた。
速く、鋭く、時に威力を乗せ、時に正確に、延々と剣を相手に殺戮の踊りを舞い続ける。
素早く土手を走り回り、飛び跳ね、時に飛び出し、地面擦れ擦れに這い回り、猫のように奇妙な足取りで横に駆けては剣を打ち下ろし、突き、薙ぎ、振り払い、一通りの鍛錬が終わった頃には、正午はとうに過ぎていた。
ようやっと運動を止めると、吹き出た汗が上気した肌から湯気のように上がった。
呼吸を整えながら手頃な岩に座り込み、水筒を口につけて喉に潤していると、身体の調子も戻ってきたように感じられた。
引き攣れたような感覚は未だ僅かに四肢に残っていたが、あれだけの怪我を負ったのに後遺症は殆ど感じられない。
エリスは、いい腕をしている。
程よく疲れた身体に水分が染み渡っていくのを感じながら、女剣士が満足げに溜息を漏らしていると、土手の方からエルフの娘が近づいて来るのが目に入った。
患者の傷を縫合し終わったエルフの娘は、集中力を使い切ったのか。ぐったりと疲れきった顔色をして、足を引き摺るようにして歩いていた。
傍らで何やら云ってる冒険者の若僧が、其れでも笑顔でエルフ娘の肩を叩いた所を見ると、上手くいったのだろう。

汗だくの女剣士を見て目をぱちくりとさせてから、エルフ娘は手にした革袋から何やら包みを取り出した。
「食べた?」
首を横に振るうと、粗末な食べ物の入った包みを手渡してくる。
「買ってきたよ」
不味い昼食をモソモソと口にするエルフの表情は精彩を欠いていた。
軽い昼飯を酸っぱいライ麦パンと焼いた川魚で済ませた二人は、土手に腰掛けたまま、何を云うでもなくゴート河の灰色の流れを眺めていた。

疲労困憊したエルフは、口を半開きにして彼方へと流れていく白い雲を眺めている。
「お疲れ」
女剣士の言葉に不思議そうに目を瞬いてから、よっこらしょと老人のような掛け声を上げて億劫そうに立ち上がった。
「痛み止めの薬草を使い切った。少し集めてこないと……」
「また明日にしたまえよ」
手を振っての女剣士の面倒くさそうな言葉に、少し考えてから首を振るう。
「いいや。此れだけは今やっておかないと。明日も晴れるとは限らないし」
言いながら草叢に屈みこんで薬草を採取し始めたので、女剣士は友人を待つ間に軽く水浴びをしながら時間を潰すことにした。

必要としていた薬草をエリスが集め終わった頃には、時刻はもう夕方に近かった。
エルフ娘は慌てて河の水で軽く沐浴を済ませる。濡れた布で身体を拭いてる合い間に、太陽はもう地平線に沈みかけていた。今から旅籠に帰る頃には夜になっているに違いない。

二人の娘は、河辺の村を後にした。黄昏の西日が大地を照らし出している。
足元では、細長い影法師が歩調に合わせて揺れていた。
エルフの娘は、ぼんやりとしながら歩を進めていたが、唐突に傍らの女剣士が立ち止まった。
険のある鋭い眼差しに警戒の光を灯らせて、女剣士は村に面した北の丘陵をじっと睨んでいた。
不思議そうな友人の視線に気づくと、不機嫌そうにはき捨てた。
「今、何やら影が見えた。狼か、あるいは野生の動物かも知れないが……いやな動きだ。村を窺っているみたいに見えた」
常日頃から警戒を怠らない女剣士が発した警告にも、しかし、疲れてきっているエルフの反応は鈍かった。
「うん、そうなんだ」
如何でもよさそうに云った途端、大きな生欠伸をして掌で涙を拭っている。
子供っぽい動作に苦笑した女剣士が手を握ると、億劫そうだったエルフ娘は一転して機嫌良さそうに笑顔を浮かべる。
女剣士も苦笑すると、踵を返して旅籠への道を歩き始めた。
まあ、いいか。オークの斥候かとも思ったが、まさかな。
あれだけの損害を出して昨日の今日で攻めてくる訳もあるまいよ。




二人の娘が旅籠に戻った頃には、陽は完全に地平線の彼方に沈み込んでいた。
夜の帳が急速に辺りに舞い降りる中、松明を掲げたホブゴブリンが旅籠の扉を守っていた。
広刃の斧で武装した用心棒の姿は、泊り客には心強く感じられるのだろう。
今宵も相応の人数の泊まり客が、竜の誉れ亭に一夜の寝床を求めてやって来たようだった。
個室に戻ってから、女剣士は服を脱いだ。
寝台の横にある卓へと上着を掛けると、唐突にエルフの娘が含み笑いを発した。
「ふっふっ、やっと二人きりになれたんだね」
夜食代わりにワインを呷ったエルフは、上気した笑顔を浮かべて女剣士に歩み寄ってきた。
「顔色がよくないぞ。休んだら?」
「何を云ってるの?夜はこれからにゃのよ」
疲れた身体に酒を呷って、急激な酔いが廻ったのか。エルフの娘は呂律が廻ってなかった。
頬は紅く染まり足取りも覚束ないのに、猫じゃらしを追ってる猫みたいに身を乗り出して女剣士に迫ってくる。
エルフの蒼い瞳には不安そうな色が窺えて、女剣士は苦笑を浮かべると手招きした。
「おいでよ、エリス」
「ああ、アリア」
顔を輝かせたエルフの娘が倒れこむように女剣士の胸に飛び込んできたが、そこで精魂尽き果てたのか、力尽きたように脱力するとずるずるとへたり込んでしまった。
「……エリス?」
呼びかけてみると、穏やかな寝息の返答が返ってくる。
女剣士は暫らくエルフ娘の寝顔を眺めていたが、やがてサンダルを紐解いてから寝台に寝かせてやると毛布を掛けてやった。
「お休み」
それから自分も毛布に入り、額に口づけしてから目を閉じたのだった。



[28849] 72羽 土豪 23 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e34ca4b1
Date: 2012/07/16 19:35

夜気の冷たさに、ふと、目が醒めた。
毛布の中でぎこちなく身体を動かしながら、エリスは高い天井を見上げてみる。時刻は何時頃だろうか。真夜中か。それとも夜更けか。いずれにしても、夜明け前には違いない。
閉じきった鎧窓から弱々しい星明りの欠片が差し込んできている。濃密な闇をも見通すエルフ族の瞳は、直ぐに薄明の室内に順応した。目が慣れてくると、配置された家具の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。
上半身を起こしたエルフの娘の傍らで、人族の娘が穏やかな寝息を立てていた。
熟睡している友人の姿に一瞬だけ微笑みかけてから、急に何かを思い起こしたのか。
秀麗な容貌を真剣な表情に改めたエルフの娘は、掌で口元を覆って眼を瞠った。
昨晩の記憶を振り返るうちに、その顔色はどんどん青ざめていく。
やがて大きく天を仰ぐと、無念の呻き声を途切れ途切れに漏らした。
「……そんな、こんなことが……馬鹿な……あってはならない」
恋慕の相手から一夜を共にする誘いを貰ったその晩に、事に至る前に疲れて寝てしまった。泣きそう表情で瞳を潤ませてから、エリスは無念の想いで大きくかぶりを振った。
数年の歳月を掛けて熟成させた貴腐ワインを床に零して台無しにしてしまった人間のように、時が巻き戻る事などないと知りながらも、エリスも神々に奇跡を懇願して虚しい祈りを捧げてみる。
「うう、わたしは酷い愚か者だ……世界よ、今すぐ滅びろ」
がっくりと肩を落としたエリスは、憂鬱さの余り、思わず物騒な事を呟いてしまうが、幸いにも神々が彼女の祈りを聞き届ける事はなかった。
狼狽した哀れなエルフの娘が世界を呪っているうちに、しかし、唐突にアリアは友人の下半身に抱きついてきた。押し付けられた胸の柔らかさに、エリスの頬が上気した桜色に染まる。女剣士の唇から洩れる穏やかな吐息の暖かさが産毛を柔らかく刺激して、情欲を覚えたエルフの娘は唇を舐めた。
闇夜に青白く映える人族の女の肌からは、心臓の鼓動が確かに伝わってくる。
「まだ……駄目になった訳ではないよね」
一瞬、自暴自棄に成りかけた気持ちを前向きに立て直してから、エルフの娘は独りごちた。
一緒に行動しているうち、気心も知れてきている。疲れて寝てしまったからといって、怒るアリアではないと思い返した。
まだ好機はあるに違いない。いや、あって欲しい。
寝ているアリアの頬をそっと指先で撫でてから、エルフの娘は寝台を抜け出した。
皮の上着を羽織って、僅かな星明りを頼りに部屋から抜け出る。
廊下に出て重たい扉に鍵を掛けようとして、思い直した。
予備の鍵は持ってない。樫で出来た頑丈な扉に鍵を掛けてから、エリスが鍵を持って出かけてしまえば、アリアは部屋に閉じ込められてしまう。
少し考えてから鍵は掛けずに個室の卓に鍵を残し、大部屋を兼ねた旅籠の食堂へと歩いていった。
旅籠の主人は寝ている様子だったが、起きていた女奴隷に散歩をすると伝えて予備の鍵を借りると、個室に戻って錠前を掛けてから旅籠を後にした。
辺土の夜は物騒であり、女一人で出掛けるものは珍しい。旅籠の用心棒をしている茶色いホブゴブリンが、怪訝そうな顔をしつつも道を開けた。
僅かな星明りが夜道を照らしている。夜陰に包まれている地平の向こうには、雑木林や丘陵の黒々とした影が踊っている。辺り一帯は濃密な闇が広がっているが、エルフの血筋なので夜目は効いた。
他の種族には敵意を抱いて拒絶するように感じられる夜の世界も、しかし、エリスにとっては馴染み深い環境でしかなく、彼女は枯れ草と茨を踏み越えて曠野に踏み込んでいった。
人族では命取りになるような夜の森での移動も、森エルフの旅人には珍しくもない。
彼の種族は木々に囲まれていると、まるで植物が教えてくれるかのように何とはなしに方向感覚が鋭くなるのだ。
エリスは森エルフの血を色濃く残している。懐には獣避けの匂い袋を掴んでいた。
襲われた際に投げつけて逃げ出す時間を稼ぐ為の道具で、強烈な薬草の香りは、吸い込んだ獣の鼻を麻痺させて完全に馬鹿にしてしまう。
流れる空気は澄んでいる。夜と朝の狭間では、不思議と空気に流れが感じ取れることが多い。或いは、昼夜の寒暖の差から生まれるのだろうか。
もうじき夜明けになる。空気の流れから感じ取って肯くと、エリスは道の向こう側、鬱蒼と生い茂る雑木林を目指して音もなく優雅な足取りで歩き出した。


拷問は一昼夜に渡って続いた。虜囚となったオークたちの呻き声や絶叫が夜の闇を切り裂くたび、眠りを破られた奴隷たちは不安そうに顔を見合わせて、身体を震わせた。
郷士の娘リヴィエラは、捕虜とした洞窟オークの指を捻じり上げ、生爪を剥がし、焼けた石を押し付け、傷口に塩を擦り込み、天上に吊るして棒切れで滅多打ちにした。
彼より屈強な大男でも音を上げただろう苛烈な拷問を受けながら、しかし、族長のグ・ルムは、一言も喋らなかった。
強い眼差しに強固な意志を湛えて、歯を食い縛ってただ耐え続けた。
屈強の奴隷たちや雇った冒険者を助手に、休みなく洞窟オークを責め立てては、情報を取り出そうと企んでいた郷士の娘だが、洞窟オークの頑固さに遂に音を上げると、拷問を中断し、信じられないといった様子でかぶりを振った。
「しぶとい奴だな」
屈強の盗賊や人食いのオグル鬼でさえ、泣き喚いて許しを請うたほどの拷問を此処まで耐え切ったのは、目の前の洞窟オークが始めてであった。陰惨な表情をして罵詈を浴びせていたウッドインプや、サディスティックな嗜好の赤毛のドウォーフも、冬にも関わらず冷や汗を浮かべながら、己らより背丈の低い虜囚の亜人に感嘆の入り混じった驚愕の眼差しを向けていた。

虜囚に食事を与え、手当てするように奴隷に命じてから、リヴィエラは納屋を後にした。
郷士の娘は重たい足取りで重厚な石造りの母屋へと向かうが、徒労感もあって冴えない表情をしている。
虜囚の隠している秘密はなんとしても取り出さなくてはならない。死なれては元も子もないのだ。
しかし、此の侭では其れも難しそうだ。もっと激しい拷問を施せば、洞窟オークを殺してしまう。
そして死ぬほどの苦痛を与えても、今のままでは到底喋るとは思えなかった。
手強い奴だ。さて、どうしたものか。
思索しながら、生欠伸を洩らすリヴィエラ。幾度か休息は取っているものの、拷問が行なう側にとっても気力や体力を消耗する重労働であることに違いはない。
瞼を擦りながら、ささくれ立った気分のリヴィエラが母屋への小径を歩いていると、背後から呼び声が掛かった。
「リヴィエラ」
やや悪相になっている郷士の娘は、険しい目付きで呼びかけてきた方向に首を向けた。それから相手の顔を見て露骨な溜息を洩らした。
「人の顔を見て、溜息を吐かないで欲しいものだね」
傍らには弟のパリスと数人の郎党を引き連れて歩み寄ってきた豪族の長女フィオナが、不満げに渋い顔をする。
パリスは拷問を好かない性質らしく、リヴィエラの動き易い装束に付いた返り血を見て、僅かに首を振ったのを郷士の娘は確かに捉えていた。
「……疲れているんだ」
どうやら失恋したらしい。苦い想いで呟いたリヴィエラの表情は、確かに生気を欠いている。
「例の捕虜は何か吐いた?」
幼馴染の疲労困憊した様子を見て、フィオナはマントの中をまさぐって革袋を取り出した。
飲み物を受け取ったリヴィエラが口に含むと、フィオナの好きなベリーの絞り汁だった。
冷たい甘味は、確かに疲れた頭と身体に心地よく感じられた。普段から智恵を絞る仕事の多いフィオナが、酒精の類よりジュースを好んでいる理由も分かるような気がする。
「……一言も」
首を振ってから、リヴィエラは虜囚たちを閉じ込めている屋敷の一角を睨みつける。
「一筋縄ではいかない奴だよ。あんなしぶといのは初めてだ」
郷士の娘の洩らした言葉には、忌々しさと共に賞賛するような響きがあった。
口元を掌で覆いながら再び欠伸するリヴィエラを眺め、やや表情を改めたフィオナも深刻な口調で最近の噂を告げる。
「オーク共……少人数だけど、北へと向かう姿があちこちで目撃されている。何を考えているのやら」
豪族勢の攻撃に備えて人数を集めているのか、はたまた攻勢を掛ける為に戦える者を招集しているのか。未だ見当もつかない。
浮かない顔をしている豪族の娘フィオナを見てから、リヴィエラは私案を告げる。
「やはりあの人に話を聞きに行こうと考えている。何か知っているのは違いないのだから」
「屍の山を築き上げるような剣士を相手にあなたと交渉させるのは、気が進まないね」
「……それほどの腕だったか」
フィオナの嫌そうな呟きに、難しい表情のパリスが口を挟む訳でもなく声を洩らすと、中年の郎党が肯きながら補足した。
「街道筋では、結構な噂になっています」

不機嫌そうに渋い顔で地面に視線を彷徨わせている豪族の長女は、突然、年相応の若い娘にしか見える。幼馴染の変化に戸惑いながら、リヴィエラは問いかけた。
「フィオナ、あの人を嫌ってるのか?」
東国人の剣士アリアが嫌いというよりは、根拠もなく幼馴染のリヴィエラに近づいて欲しくないと感じただけだ。取られそうな気がしたなんて言い出せるはずもない。
リヴィエラの意外そうな声に、豪族の長女フィオナは感情を抑えて首を振った
「別にそう云う訳ではない。確かに腕は立つのだろうが……ん、何か分かるといいね」
どうも普段の明快で理路整然とした友人とは違う。釈然としない面持ちでフィオナを眺めていたリヴィエラだが、気を取り直して、もう一人の幼馴染に訊ねかけた。
「パリス、今日の見回りの順路は?」
「変更するさ。まだいるかどうか分からないが、竜の誉れ亭の方に行こう」
肩を竦めた豪族の息子パリスに肯いてから、リヴィエラは押し寄せてきた眠気に瞼を揉んだ。
「えっと……出発は?」
「昼の少し前だ。何故?」
怪訝そうに訊ねてきたパリスの前で、リヴィエラは大きく欠伸してから涙目を拭った。
「それまで少し寝るとしよう。出発する時に起こしてよ」




黎明の陽光が地平線から差し込んできた頃、薄明の木立で目当てのものを見つけたエリスは、足早に帰途に付いた。
そろそろ雑木林に棲まう獣たちも動き出す頃だろう。冬の弱々しい日差しが木々の狭間を照らし出している。行きと帰りでは周囲の光景は一変していた。
雑魚寝の大部屋を通り抜ける際に見てみれば、客の殆どは暖炉の炎の傍らで未だに眠っている様子であった。
往来を一刻のうちに済ませ、しかし、それでも少し遅くなったとエリスは独りごちた。
早朝の散歩を終えたエリスが漆喰と石組みの旅籠に戻ると、同室の女剣士は既に起床しており、姿を消していたエルフの娘を待ち受けていた。
丁度、汲んで来た水で顔を洗い終わったところらしく、乾いた布切れで顔を拭きながら部屋に戻ってきたエルフ娘を軽く睨みつける。
「……何処に行っていた?」
不機嫌さを隠そうともしていない女剣士の声は、やや硬質さを帯びていた。
「散歩を……」
「随分と長い散歩だったな」
咎めるような口調を耳にして、エリスは僅かに瞳を細めた。どうやら、機嫌を損ねてしまったらしい。
「ちょっと雑木林まで……此の間、珍しい薬草を見かけてね。ほら、洞窟オークに追われた時。その時は持ってくる余裕もなかったんだけど、で、離れる前に採って来ようと……」
口ごもったエリスが摂取してきたばかりの薬が入った革袋を見せながら言い訳していると、アリアはふいっと彼方を向いた。
「もうよい。ただ、次からは、散歩に行くなら一言告げてからにして欲しいものだな」
「……心配してくれたの?」
エリスは首を傾げて問いかけると、渋い表情で肯いた。
「寝ていたから起こすのも悪いかと思って……ごめんね、次からはそうするよ」
身を寄せてきたエルフの娘は、何時の間にか吐息が触れ合うほどに顔を近づけて潤んだ瞳で長身の女剣士の容貌を覗き込んでくる。
「そんなに怒ってる訳では……エリス?」
言いかけた女剣士の鼻の頭に背伸びをしたエルフの鼻梁が接触した。ついで唇が微かに触れ合う。
「少し嬉しかった……心配してくれる人なんてもう何年もいなかったから」
至近でじっと見つめてきたエルフの熱っぽい眼差しが、戸惑っているような女剣士の視線と交差した。
「……まっ、また、君はッ!」
狼狽したような小さな悲鳴が上がったような気もしたが、エルフは無視する。
拒んでない。そう見て取ったエルフの娘の舌が蛇のように素早く女剣士の唇を割って侵入し、口腔内で蠢いた。
急な接吻に目を瞠った女剣士だが、やがて目を閉じると思わぬ情熱を見せたエルフの求愛に応え始めた。
歯茎や舌の上、根元を弄りながら、エルフは桃色の舌を絡ませてくる。腰骨を女剣士の股間に素早く押し当てて腰をくねらせて焦らすように巧妙に刺激を与えてくる。
「ん……ああっ!」
すぐに耐え切れなくなった黒髪の娘が、翠髪のエルフの身体を強引に引き離した。
黄玉の瞳を陶然とした色に染め、目元を桜色に上気させながら、しかし、アリアは胸を抑えて乱れた呼吸を整えていた。
「もう怒ってない……からッ」
二、三度、耐えかねたかのように背筋を慄かせながら、女剣士はなお迫ろうとするエルフの恋人を腕力で強引に押し止める。
情熱的な接吻を堪能したエリスは感じ入ったように深々と熱いと息を洩らしてから、なおも続きを渇望するように蒼い瞳を濡らして間近からアリアをじっと見つめていたが、
「エリス」
腰砕けになりつつも女剣士が叱り飛ばすと、エルフの娘は意外とあっさりと引き下がった。
女剣士も機嫌を直してくれたらしい。アリアは吐息までいい匂いがするのだ、と、エリスはうっとりとしながら上機嫌で動き出した。
「お腹が空いたでしょう?ご飯を作ってくるね」
キャベツと腸詰を抱え込み、楽しげに鼻歌を歌いながら廊下へと向かうエルフの背中を見送ってから、アリアは濡れた瞳を静かに伏せるとそっと己の身体を抱きしめた。
官能の余韻に浸るように太股を擦りあわせていた女剣士だが、やがて昂ぶった躰も鎮まったのだろう、再び瞳を見開いた時には常の怜悧な雰囲気を取り戻していた。
「……油断も隙もない」
苦笑を浮かべて呟いたアリアだが、実は彼女も満更ではない。
美しい唇に残った涎の糸を指先で拭い取ってから、鋭い視線を卓の上に転がる革袋へと向ける。
「珍しい薬草ね」
云いながら手に取った革袋の中身を何気なく覗き込んだ女剣士は、軽く息を呑んだ。
捻じれ節くれだった古木の根元より採取してきた黄色い苔は、アリアにも見覚えのある植物だった。
「カコトリス※……なぜ、こんなものを」
※物語世界の架空の植物。湿気が多い森の古木の根元を好む黄色い苔、毒性がある。
見つめる眼差しは、常よりもやや険しさを増していたかも知れない。
その苔は人の肉体に強烈に作用する猛毒として、一部の貴族の間には悪名高く恐れられている。具体的には酩酊したように意識を朦朧とさせ、筋肉を弛緩させる。
傷口に塗りつけるだけで躰は麻痺し、経口から多量に摂取すれば死に至る事も有り得る代物である。
殆ど無味無臭であり、かつ水溶性なので、食べ物や飲み物に容易に混ぜる事が可能で、熱しても無害化しない。自然死に似た症状を装える為に、古来より暗殺に用いられる事も多い毒物だった。エリスも薬師ではあるから扱っても不思議ではないが、革袋を掌で弄びながら女剣士は不快そうに鼻を鳴らした。

鳥肉と蕪、キャベツ、玉葱、豆、人参が浮かんだコンソメスープには、出汁としたブイヨンがよく効いており、深みのある塩味となっていた。
鳥肉も新鮮なものをよく煮込んだお陰で、脂がスープの表層に浮かんでいる。
湯気を立てている壷から、エルフは大麦のお粥を手早く木皿によそっていく。
炙った腸詰と玉葱に蕩けたチーズを絡めて僅かな魚醤で味付けた料理に、玉葱や人参、胡瓜の酢漬け、そして目玉焼きが食卓に並ぶ。
「魚醤がね。厨房に入ってたんだよ。南方からの行商人から壷で買ったんだって。
今は冬だから、内陸まで持ってこれるって。で、分けてもらって」
料理の内容を説明しているエルフの娘を眺めながら、女剣士は静かにエールを啜っていた。
「はい」
エリスに手渡されたスープの椀を眺めてから、アリアは微かに眉根をよせた。
勇猛果敢な武人と称されるカスケード伯アリアテートも、身内同士で争う事が珍しくない東国貴族として、一面では病的に猜疑心の強い側面を持っている。
疑い深さは時にアリアを罠から救いもするが、時に人格上の欠点としても作用することもあった。
今も理性では有り得ないと分かっているのに、友人に対して無用の疑念を抱いてしまう。
エリスが私を毒殺することはない。彼女は命の恩人だ。貧しいが誠実な人間に思えるし、動機もない。仮に私を殺して金を奪う悪党なら、他にも幾らでも機会はあった。
暖かいスープで木の匙で掬い取り、女剣士は胃袋を暖めた。美味い。当然に毒など入っていない。
それに彼女は、私に友情と一方ならぬ好意を抱いてもいる。
そしてどうやら、私も彼女に好意を抱いてきたらしい。
胡瓜のピクルスを摘まんだ後、アリアは指をナプキンで拭いながらそれを認めた。
キスは悪くなかった。背筋には、まだ痺れるような快楽の余韻が漂っている。
分析しながらも、心の奥底から血塗られた追憶が絶えず昏い声で囁きかけてくるのだ。
本当にそう云い切れるか?女は分からない。お前は彼女の事を何も知らない。
親友や血族、恋人とさえ、しがらみと因縁に縛られて互いに刃を向け合ったのだ。
何故、知り合ったばかりの他人を信じられる。
粟立つ疑念を鎮めるために、女剣士は対面に坐るエリスの蒼い瞳をじっと見つめた。
「どうしたの?」
真正面から見つめ返してくる穏やかな眼差しに安堵の念を覚えると、アリアは口元に柔らかな笑みを浮かべた。
私はどこかで他者の裏切りを恐れている。まるで影に脅える臆病な子供のように。
恋人になれば、互いにもっと踏み込んだ間柄になるだろう。
肉体関係を結べば、私の身も心もエリスに対してある程度、無防備になる。
その気になれば、彼女は毒を使って簡単に私を害せる訳だ。
猜疑心の強さを自覚つつも、其れを抑制する術もアリアは一応、身につけている。
気持ち的に信じたいのか、本能と理性の両方で信じられると結論したのか。
兎に角、女剣士が心中で抱いた友人に対する疑念の霧は薄れて払われつつあった。
構わない。エリスは大丈夫だ。信じてもいいだろう。
もし害されたなら、その時はその時だ。
見る目の無さを、冥府で待っているかつての敵たちに嘲笑されるであろうな。
まあ、喧嘩をした時には注意が必要か。
エールを一息に傾けた女剣士は、杯を置くと手を組んで皮肉っぽい笑みを浮かべた。
誰も彼も疑って。東国貴族とは難儀な人種だ。神々から見れば、きっと滑稽に違いない。



[28849] 73羽 土豪 24 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e34ca4b1
Date: 2012/08/02 21:47
 ぜいぜいという苦しげな呼吸が耳を打って、うとうとしていたニーナは慌てて身を起こした。
何時の間にか、眠っていたらしい。気づけば、藁の寝床に横たわる母のノアが苦しげに咳き込んでいた。
 血痰の入り混じった咳をする度に、母の急激に痩せ細った身体から生命の雫が抜け落ちていくように思えて、娘のニーナは心を痛めていた。
傷が疼くのだろう。此処数日で見る影もなく衰えた母は、呼吸をするのも苦しそうだった。
それでもニーナには母親の背中を擦ってやる行為すら出来ない。
触れればそれだけで痛みが発するらしく、ノアは酷く苦しがった。
母が苦痛に呻いていても、少女に出来ることは何一つなかった。
残されたただ一人の身内に迫る死の影が、少女の幼い心を絶望と無力感で蝕んでいた。
 連日、訪れるエルフの薬師エリスが処方する薬だけが、僅かな時間の間、母を苦痛から解き放ってくれる。
 多分、そのエルフの薬師ですら、本当は手の施しようがない傷なのだと薄々感じ取りながらも、エリスの来訪を待ちかねる。
 小屋の隅で背を丸めて、ひたすらにその時を待ち侘びているニーナの虚ろな視界の隅に、扉の向こう側から近づいてくる影が映った。
ハッとして顔を上げた少女の耳に、藁葺き小屋に近寄ってくる軽い足音が聞こえる。

 やって来たのがエルフの薬師ではないと気づいて、ニーナは不快そうに眉を顰めた。
思い返してみれば、エルフの娘は歩くときに殆ど足音らしい足音を立てない。
案の定、小屋に飛び込んできたのは、鼻水を垂らしたニーナと同じ年頃の少女。
寒さを感じないのか、冬にも拘らず薄い襤褸を纏っただけの半裸の少女は、ニーナを見るや、手を差し伸べてくる。
「ご飯出来た!ニーナ!」
村長の娘であるメイは、何時も食事を一緒に食べようと誘いに来るのだ。
悩みのなさそうな屈託のない顔を、ニーナは僅かに煩わしそうに見つめた。

 世話になっている身で文句は言えないが、ニーナは出来るだけ長く母親と一緒にいたい。
始めのうちは、与えられる雑穀の粥を小屋まで持ち帰って母の傍で食していた。
既に農婦の身体は、薄い粥すら受け付けなくなっている。
母が食べられないのに自分だけ食べる気にもなれずに、少女は一時、食事も断ちがちになった。

 食事だけは取るようになったのも、村長に怪我人を看護するにはしっかりと食べないといけないと指摘したのと、娘を心配した母のノアが青ざめた表情ながらも、食事を取るように厳しい声音で諭したからだった。
「ご飯だよ!ご飯!」
 村長の娘であるメイが手を掴んだ。メイに悪気はない。優しい性根の持ち主なのだろう。
それでも、その親切は今のニーナにとって煩わしいだけだった。
もし母がいなくなりただ一人残されたら。
ニーナにとっては想像するのも恐ろしい事態だった。
そうなれば、生きていたいとは思わない。だが、そんな言葉を口にするのも拒否するのも面倒くさくて、取りあえずは村長の娘に手を引っ張られるまま、逆らわずに外へと連れ出された。

 戸口の外に一歩出れば、冷たい北風が容赦なく丘陵の彼方から吹き降ろしてきた。
それが母の怪我にとって、いいのか悪いのか、少女には分からなかった。
畦道に通じる小径の向こうから、大人の人影が近づいてくるのがニーナの目に入った。
エルフの薬師エリスと、連れらしい女剣士の二人組だった。今日も見舞いにやって来てくれたらしい。
ニーナはほっと胸を撫で下ろした。
深手を負った農婦のノアにとって、エリスの見舞いは大きな助けになっている。
彼女が芥子から作った鎮痛薬を処方すると、ノアは暫らくは穏やかに過ごせるのだ。
 夢見るような目付きで、ニーナに対して子供の頃や村にいた頃の楽しかった想い出話や今になれば笑えるような昔話を延々と続ける。
 苦悶から解き放たれて本来の穏やかな性格に戻った母と会えるその瞬間だけが、日々、喪失の恐怖に脅えている少女の希望かつ心の支えとなっている。

 翠髪をしたエルフが小屋に入った。長身をした女剣士は続かずに外側の壁に寄り掛かって腕を組んだ。
ニーナがエルフに続いて小屋に戻ろうとすると、女剣士が手を伸ばして遮った。
「待ちなさい。今、エリスとノアは二人きりで話をしている。大切な話だから、邪魔してはならない」
意外と穏やかな声で止められ、戸惑いながら少女は耳をそっと欹てた。

 きちんと話すべきだろう。
寝台の傍らに屈みこんだエルフの娘は、舌で唇を湿らせてから、腰の革袋から小さな丸薬を取り出した。
「もし耐え切れなくなったら、この薬を呑みなさい。ノア」
僅かな躊躇いをかいま見せてから、真剣な表情を浮かべて怪我人の顔を覗き込む。
「これ以上、痛みを味わないですむ。眠るように全てを終わらせてくれる」
「あたしは……助からないんだね」
恐ろしいほどの真剣な眼差しで農婦に凝視され、エルフの娘は彫刻のように固まって見つめ返していたが、やがてこくりと肯いた。
エリスから視線を外すと、横たわったノアは天井をじっと眺めた。
「それはまだ、もっておいておくれ」
エルフの薬師は、沈黙を守っている。ただ蒼い瞳だけが深い光に揺れていた。
「正直言うと、今すぐに終わらせて欲しい。……でも、もう少しだけ頑張ってみるよ」
「……そう」
静かに肯いたエリスは、丸薬を袋へと仕舞い込んだ。
「一緒にいたい。生きたいんだ。あたしは……あの子と一緒に生きたい。少しでも長く一緒にいてやりたい」
力なく横たわったノアは、無念さと諦念の入り混じった言葉を淡々と呟いていた。
「心残りは……あの娘のことだけさ。あの子はどうなるんだろうねえ。まだ子供なのに……たった一人で残されて……」
誰に語りかける訳でもないその言葉を、エリスは瞼を閉じて静かに聴いていた。

 戸口の前で立ち尽くしながら、聞き耳を欹てていたニーナの目が熱くなった。
言葉は途切れ途切れにしか伝わってこなかったが、母親の気持ちは全て届いた。
聞かないほうがいいような気もしたが、聞いてよかったような気もする。
土壁に寄りかかって静かに嗚咽する少女を眺めていた女剣士が、地平線を流れる雲に視線を転じた。
遠い眼差しで彼方を眺めていた少女が言葉もなく立ち竦んでいると、女剣士に声を掛けられた。
「君は此れから如何する?」
「……お母さんが治るまでは、此処にいます。それから何か仕事を」
 前髪をかき上げてから肯いた女剣士は、何かを考え込むように瞼を伏せた。
「私たちは君ら親子を助けたが、話によればエリスも君の母親に窮地を助けられたそうだな。
 私は東国に荘園を持っている。もし、よければ本国に戻る際一緒に来ぬか?
 勿論、母親が治ってからで構わぬ」
「……ありがとう。村長さんからも、面倒をみてくれると。その時になるまでは……」
ふるふると首を振ったニーナを眺めて、黒髪のアリアは苦い笑みを返した。
「……そうか。いずれにしても何か困った事があったら言うがよい。
カスケード伯子アリアテートに出来ることであれば、叶えてやろう」
裕福そうな女貴族の言葉に、少女は始めて顔を上げた。一言。
「母さんを治せない?」
困惑気味に瞳を細めたアリアに、縋るような声と顔で懇願した。
「貴族の貴方なら腕のいい医者を呼び寄せることも出来ませんか?」
場に重い空気が流れた。女剣士は沈黙を纏って、じっとニーナを見つめている。
それから暫らくして、口元だけを小さく歪めた。
「すまぬな。その願いは私の力を越えている。それに、エリス以上に腕のいい医者を私は知らない」


 何時もより短時間で診察を打ち切ったエリスが藁葺き小屋から出てきた。
「行こうか」
アリアが声を掛けると、陰鬱そうな表情で肯いてから一緒に歩き始める。
小屋の前にある畦に腰掛けていた村長の娘が、足を遊ばせながら目の前を通り過ぎる二人を眺めていた。
「もって、後……二日か、三日」
口元を歪めたエリスの呟きに声には出さずに肯くと、アリアは狼の毛皮のマントを首元に引き寄せながら曇り空を見上げた。
「今日は冷えるな」
「相当、苦しい筈なんだけど、子供の事が気がかりみたい」
「村長が面倒を見てくれるそうだ。その点では恵まれているのかな」
潅木と岩だらけのあぜ道を抜けると、旅人の小屋に面した空き地が見えてきた。
突風が吹いた。吹き付けてくる砂埃に手を翳しながら、エリスは口を開いた。
「もう一人、患者がいるかな。寄って行っていい?」
面倒見のいい奴だななどと思いながら、アリアは肯いた。
「勿論だ」

 エリスが旅人の小屋へと入っていったのを見届けてから、手持ち無沙汰になったアリアは空き地を見回してみた。
空き地の真ん中で焚き火が揺れていた。身体を丸めた人影が集って、寒い、寒いと呟きながら身体を暖めている。
川魚も焼かれているようで、香ばしい匂いが漂ってくる。
鼻を蠢かせてから、アリアは焚き火に歩み寄った。

「具合は如何?」
エリスの問いかけに、横たわっていた女冒険者は穏やかな表情を浮かべて微笑んだ。
「あんたは大した腕をしている」
一時期は己の命が消えるのではないかと予感させた悪寒が、今は完全に女冒険者から消え去っていた。
相棒のレオも、大分、明るい顔つきになって会話を聞いていた。
「大分、楽になったよ」
エルフの腕を賞賛してから、女冒険者のリースはふと訊ねてみる。
「左腕の湿布が猛烈に痒いんだけど。取っちゃ駄目かな?」
「我慢なさい」
要求をにべもなく跳ね除けられて、女冒険者は苦しげに身体を揺り動かした。
「掻き毟りたいくらい痒いんだよ。大丈夫なんだろうね?」
やや不安そうに重ねて尋ねると、嘆息を洩らしてからエリスはきっと睨んだ。
「……大切な商売道具を片方なくしても構わないのなら、とってもいいけれども?」
息を呑んだリースは、恐怖を浮かべた眼差しでエルフの薬師を見上げる。
「……まさか」
「最低でもあと二日は取らないように。本当は毎日、膏薬を取り替えるのが良いんだけれどね」
云ったエルフの娘だが、手持ちの薬にそれほどの余裕はなかった。
「でも、痒いんだよ」
言い募るリースにエリスも考え直した。
女冒険者の左腕は、確かに深手を受けた箇所である。渋々ながらも包帯を解いてみると、冬でありながら傷口は膿んでいた。エリスが傷口に触れると、指先に痺れを感じてリースが呻いた。
不安そうな顔つきで身を乗り出してきたレオを、エリスがじっと見つめた。
「……レオさん。すまないけれども綺麗な水を汲んできてくれるかな」


 村人からすれば、村を救ってくれた英雄であるから、アリアが焚き火に近づくと村人は快く場所を譲ってくれたし、枝に刺した焼き魚も振舞ってくれた。
小さな広場の真ん中で焼き魚を頬張っている女剣士の耳に、喚き声が聞こえてきた。
振り返ってみれば、何やら騒ぎが起こっているようだった。
旅人らしい装束の男が、棍棒を手にした村のゴブリンたちに小突き回されている。
「なんだあ?」
女剣士の傍らにいたホビットの一人が声を上げる。
丁度、騒いでいる一団が広場に差し掛かったところで、アリアは手にした枝を投げ捨ててから喧騒の輪に近づいてみた。

「なんの騒ぎだ?」
通りかかったアリアが集っている村人に尋ねると、事情を説明してくれた。
「オークの手先が入り込んでいたんでさ」
云われて見てみれば、旅人の男が必死に叫んでいた。
「俺はただの旅人だ!」
「こいつ、怪しい!オークの仲間」
意地悪そうな顔をして旅人の尻を槍でちくちくと突いているゴブリンたちの言い分を纏めれば、捕虜たちの閉じ込めた洞窟をこそこそ窺っていた!密偵に違いない!らしい。
ゴブリンに小突かれる度、貧しげな旅人の男はやや大袈裟に悲鳴を上げていた。
「……半オークか」
襤褸のマントを纏った一見自由労働者風の旅人は、混血の種族であった。
 人族とオーク族の合いの子である人オーク、或いは半オークは、オークからは価値のない奴隷として侮蔑され、人族からは忌まわしいオークの一員と見做され、大抵はどちらに所属することも出来ず、単独で放浪しているか、或いは人里離れた土地にある半オークだけの小さな共同体で隠れ住んでいることが多い。
時に人族やオーク族よりも優れた戦士を輩出することもある半オークだが、大抵は自分たちを排斥する他の種族に脅えて孤独に隠れ暮らしている。
「止めろ、俺はただ……散歩していただけだ。そんなのは知らなかったんだ。止めてくれ」
旅人がすすり泣いているが根が疑い深いゴブリンたちは、捕虜の情けない様子に益々、興奮した様子で調子に乗って半オークを殴りつけていた。


 汲んで来た綺麗な水で傷口を洗い清めてから、エリスは綺麗な布でリースの傷口から大量の黄色い膿を拭き取っていった。
途中からは、口を濯いだレオが慎重に膿を吸い取っては床に吐き出していく。
膿が出る度にリースの左腕から圧迫するような痛みと痺れが取れて、代わりに爽快感が広がっていく。
最後にアブラナとガマの穂を主体にした膏薬を塗ってから、エリスは患部に包帯を巻いた。
「楽になったよ」
汗もひいたリースが身を起こして左腕を動かしながら、満足げに笑った。
身体が暖かくなってきている。間違いなく快方へ向かっていると、力を込められる左腕から実感できていた。
「今日の診療はおまけしておくよ」
エルフの薬師が言いながら、余った薬を腰の袋へと仕舞いこんでいく。
「ありがたいね。こっちはもう素寒貧だから、後は婆さんに見てもらうしかなかった」
床で呻いている他の怪我人を一瞥してから、エルフの娘が唇を動かした
「彼らを手当てした人だね、酷いやぶだよ」
何気ない言葉であったが、寝ていた怪我人の一人が反応して苦々しく言った。
「婆さんを悪く言わないでくれ。金が無くても俺たちを看てくれたんだからな」
灰色の服を纏った貧しげな怪我人に怒りの籠もった視線に睨まれて、暖かな装束を羽織ったエルフの薬師は目に見えて怯んだようだ。
些か決まり悪そうに身動ぎしたエルフの娘は、口の中で悪気はないだの何やら言い訳しながらそそくさと立ち上がった。
「では……お大事に」
見送ろうと冒険者のレオも立ち上がった。と、何やら殺伐とした怒鳴り声や叫び声が小屋の中まで聞こえてきた。
何事かと、エリスは扉から用心深く小屋に面した空き地の様子を窺ってみた。
「……外で何か騒いでいる」
「ん、ああ。何でもオークの密偵が捕まったとか、何とか云ってたな」
騒ぎの輪に混じっている黒髪の娘を見てから、エリスは肯いて外へと歩いていった。


 十を越える村人たちは徐々に興奮している様子で潮が満ちるように唸り声が高まってきていた。
無用心な奴だ。此の侭では私刑に掛けられるだろうなあ、とアリアは他人事のように見ていると、ホビットの農婦が村長の年増女を連れて来るのが見えた。
年増女のリネルが、村人の一人一人を不躾な眼差しで見回すと周囲を囲んでいた群集は目に見えて怯んだ様子を見せる。
それから村長が、半オークに視線を転じた。
殴る蹴るなど軽く暴行を受けた半オークの旅人は、すすり泣きながら言い訳していた。
「助けて、俺は……ただ、傍を通りかかっただけだ。知らなかったんだよぉ」
必死の懇願に眉根を寄せてから、村長のリネルが強い口調で旅人を詰問し始めた。
「何で此の村にやってきたんだい?」
「旅の途中なんだ。仕事を探しながら、彼方ら此方らで働いている。
村には旅の途中で立ち寄っただけなんだ」
リネルは肯いた。半オークの言葉には、確かに彼方此方の訛りが混じっていた。
旅をしやすい装束、縄を巻いた皮の長靴、埃に汚れた顔、至って普通の旅人に見えた。
「見ない顔だね。故郷は?」
村長の質問に、半オークの旅人は必死に応えている。
「西部のウェンって村だ。ティレーのさらに西さ。餓鬼の頃に村を出てからずっと放浪していた」
「長!こいつ、密偵!怪しい!間違いない!逃がすの間違い!吊るす!」
興奮したゴブリンが喚きながら言い募るが、疑い深そうな眼差しには誰も彼も怪しく見えるのではないか。そうリネルには思えた。

 喚いている半オークの周囲を、苛立ち、口々に責め立てる村人たちが取り囲んでいる。
「そんなの分かる訳ない!普通に歩いていただけだ。助けてくれよ!」
「怪しいぜ!」
女剣士が興味深げに状況を眺めている最中、背後からエリスがやってきて隣で足を止めた。
「何事?」
状況が呑みこめないのか。友人が怪訝そうに訊ねてきたので女剣士は端的に説明する。
「半オークの旅人が……確かに怪しい奴だが。
こやつ、捕虜の小屋のあたりをウロウロしていたらしい。
で、見張りのゴブリンたちに捕まった。本人は旅人で散歩していただけだと言っている。
ゴブリンたちは怪しい。密偵に違いないと……」
小さく肩を竦めてから、アリアに囁きかける。
「密偵なのかな。如何思う?アリア」
女剣士はおとがいに指を当てると、半オークを見据えて答えた。
「こうした時期は、皆、疑心暗鬼になる。とりあえずよそ者で怪しいからと吊るされる者もいる。
もう少し慎重に振舞うべきだったろうな。気の毒な事だが……」
云ってから、黄玉に似た硬質の瞳を不快そうに細めた。
「いや……どうも匂うな。吊るした方がよさそうだぞ」
「……匂う?」
エルフの怪訝そうな言葉に肯いて、滔々と説明を始めた。
「腰の小剣を見ろ。貧しい自由労働者にしては、随分と立派な武器と皮の鞘だな。
柄はよく使い込まれている。
それに鹿革の革靴か。動き易くて逃げるにも偵察にも都合良さそうだ」
「ああ、なるほど」
流石に騎士は見るところが違うと、エルフの娘は無邪気に感心する。
確かに、旅人が持つには不自然な道具を二つも持っているのはおかしい。
普通の自由労働者は、もっと貧しくみすぼらしい格好をしているものだ。
「それに此の時期だ。他所の土地にも小競り合いの噂は流れ始めている。
元からの顔見知りか、前から足止めされている我らのような事情でもないかぎり、他所から入ってくるのはおかしいと思わぬか?」
「……云われてみれば」

「皆、止めな!」
呟いた女剣士の考えとは裏腹に、叫んだ村長は異なる結論に至ったようだった。
「済まなかったね。旅人さん。色々あってね。今の時期は皆、よそ者に神経質になっているんだよ。
だから、大目に見てくれって訳でもないけど……余りうろつかないで欲しいね」
「ああ、分かった。だけど……」
「とっとと村を立ち去る事だね」
ふらつきながら立ち上がった半オークの顔は、青痣で腫れ上がっている。

「……待て、リネル」
アリアが進み出た。凛々しくも厳しい貴族の声音には、聞く者を従わせるような力が在る。
「如何にも怪しげな奴ではないか。このような時期に旅人だと?」
判断に意を唱える女剣士を眺めて、村長はやや不快そうに眉根を寄せた。
「結構、いるじゃあないか?」
村人たちがざわついている。興味深そうに成り行きを見ている他の旅人もいた。
衆目の前で意を唱えるのは良くなかったか。村長に挑戦するようなものだ。
失策を悟った女剣士は、村長に歩み寄ると囁く程度の声に抑えて改めて話しかけた。
「今の時期に入ってくるか?小競り合いが始まってから、およそ二十日間だ。
近隣にも知れ渡っていよう。旅人なら物騒な土地なら迂回するものだ」
女剣士の態度が変わった為、村長もやや丁重な態度に戻って考え込む。
「何言ってるんだい?何人かは今もやってきてるだろう」
「地元の者でもなければ、顔見知りでもないのに?
足止めされてるか、我らとて事情がなければ立ち去っている」
アリアは言葉を続ける。半オークを睨む目は冷たく、鋭い。
「しかも、半オーク。怪しいぞ。貧しい旅人にしては、かなり良い武器を持っている。
履物も良い鹿革の長靴。吊るしておくべきだ」
リネルは、視線を宙に彷徨わせた。
云われてみれば確かに一理あるようにも思えた。
しかし、元より赦免する心算の相手だったし、皆の前で意を翻すのも拙いように思える。
それに何より、ただの旅人だとしたら、吊るしてしまえば寝覚めが悪い。
「もう決めたことだよ」
村長の言葉は頑なではなかったが、女剣士も敢えて重ねて主張するほどに己の意見に拘泥している訳ではない。
所詮、河辺の村はアリアの故郷でもなければ、領地でもないのだ。
「なら、好きにするがいいさ」
二人の会話を息を飲んで伺う半オークを一瞥してから、アリアは首を横に振った。
素早く踵を返した女剣士をエルフの娘が追いかける。
空き地の外へと向う二人の娘を眺めていたリネルだが、やがて溜息をついてから半オークの旅人へ向き直った。
「俺は……その」
何か言いかけた半オークの旅人の胃が大きな音を立てて鳴った。
蓮っ葉な笑い声を上げた村長は、半オークの前に立って歩き始めた。
「ついてきな。迷惑を掛けたんだ。飯くらい食わせてやるよ。
それと誰か、マール婆さんを呼んできてくれ!」
年増女の怒鳴り声に、村人の一人が慌てて薬師の婆さんを呼びに走っていった。



[28849] 74羽 土豪 25 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e34ca4b1
Date: 2012/08/23 20:34
 郷士の娘リヴィエラの一行が街道沿いの旅籠『竜の誉れ亭』に姿を見せたのは、正午を少し廻った後。太陽が中天から西の空にやや傾き始めた頃だった。

 巡察の一隊に先行して竜の誉れ亭に辿り着いたリヴィエラとパリス、そして護衛の二人は、乾燥した冬の季節に馬を駆ってきただけに汗まみれで装束は砂埃に塗れている。
 徒歩の手勢は、長年クーディウス家に勤める傭兵が指揮して後からゆっくりと追いついてくる手筈であった。今頃は、中途にある農園で休息を取っている頃だろう。
 裏口にある厩に廻ると、リヴィエラは小僧を呼びつけて騎馬の手綱を預けた。
それから、やや横柄な態度で旅籠の親父に用があるとぼさぼさ頭の小僧に言伝する。
小僧が飛び出していくと、裏口にある厩から出て冷たい風が吹く裏庭を母屋へと向かった。

 旅籠の食堂に入ると、暖炉では大きく炎が揺れていた。
すぐにオグル鬼のような獰猛な容貌に肥満した巨躯の親父が姿を見せる。
パリスに何度咎められても、下品な言葉で通りかかった奴隷女をからかうのを止めなかった二人の傭兵 ヴィゼーとゲールが、親父を見てやや怯んだ様子を見せた。
元は南方貴族の軍勢で騎兵を務めていたという触れ込みを雇った二人組だが、運を試そうと辺境に流れてきた連中の例に漏れず、余り後先を考えない性質の持ち主だった。
 澱んだ瞳の傭兵二人を横目で見ながら、やるせなさを感じたリヴィエラはうんざりして微かに嘆息を洩らした。本音を云えば、もっと頼りになる護衛が欲しかった。
 しかし、パリスの郎党で馬を駆れるのは、徒歩の手勢を指揮する隊長を除けば、此の二人しかいなかったのだ。
 先日のヘイスやルド、メリムは、本来はフィオナ付きの郎党で、今も他の仕事をしているか、馬を休ませている為に借りることは出来なかった。

 近づいてきたバウム親父に改めて親しげな態度で挨拶すると、リヴィエラは件の女剣士の所在について尋ねてみた。
「朝方に出かけました。戻ってくるのは、そうですね。何時もは夕刻ですから、もう時期かと……」
「待たせてもらうよ」
親父に告げると、大部屋の隅にあるテーブルにパリスと二人で坐った。
護衛の二人は、床に坐って何やらサイコロで遊び始めた。
 親父がナッツの入った椀を運んでくる。湯気を立てた白湯を啜りながら、リヴィエラは用心深く椅子に浅く腰掛けて、室内に視線を走らせた。
大部屋には普段、雑魚寝の貧しい旅人が屯っているが、オークとの小競り合いの為か。先日に比べて客足は随分と減っているように見えた。
 農夫や巡礼、行商人、自由労働者などは大半が姿を消し、代わりに人族とも亜人とも付かぬ薄汚れ、垢染みた格好の戦士や傭兵たちの姿が増えている。
 彼ら、そして僅かな彼女らは不愉快かつ露骨な目付きで他人を値踏みしながら、何やら低い声でぶつぶつと耳打ちしたり、卑しい笑いを浮かべていた。
立て続けの襲撃や小競り合いに、戦の匂いを嗅ぎつけた悪漢達が流れてきているのか。
顔面に恐ろしい青色の刺青を彫り込んだ男たちや、黒い毛皮を羽織った見知らぬ痩せた亜人たちもいる。
時折、此方を窺う剣呑な視線を感じたものの、流石に武装した四人組の男女に難癖をつける者はいなかった。

 低いざわめきが囁かれている室内を眺めながら、来客を待ち侘びる無為の時間。
リヴィエラは椅子に坐って身を休めていたが、パリスは室内の荒んだ雰囲気に馴染めないのか、落ち着かない様子だった。
「……あの女に会って如何する、リヴィエラ」
パリスがあの女と口に出した時、掠れた声にやや非友好的な響きが含まれているのにリヴィエラは気づいた。
此れから交渉するのに、嫌悪感をあからさまにされては明らかに拙い。というか、話にならない。
余り人に対する好悪の念をあからさまにする人ではないのだけれど、先日の一件はまだ尾を引いているのだろうか。
やや戸惑ったリヴィエラは、これは自分一人で交渉したほうがいいかなと思案しながら、豪族の息子パリスに考えを説明し始めた。

「……幾つか考えはあるんだけど。
オークの企みについて、彼女から何か聞けないか期待しているのが、まずひとつ。
渡し場の村長から聞いた話だと、カスケード卿はオーク連中の企みについて何かを掴んでいるようだ。
ジナの話に寄れば、彼女はモアレでもオーク族と一戦交えたとらしいからね」
頬杖を付きながら、パリスが首を肯いた。肯き返してリヴィエラは言葉を続けた。
「もうひとつ。一人で十人分の働きが出来る剣士は、滅多にいない。是非、力を貸して欲しい」
郷士の娘リヴィエラの言葉を聞いた瞬間、豪族の息子パリスの眉が急角度に跳ね上がった。
「気が進まないな」
吐き捨てるように不機嫌そうに呟くパリスを眺めて、リヴィエラはひょいと肩をすくめた。
「フィオナは賛成した。正直、今の時期には腕の立つ者が一人でも多く欲しい」
旅籠の埃っぽい大部屋の椅子に坐っていたパリスは、視線を彷徨わせながら物思いに耽っているようだったが、やはり我慢ならなかったらしい。
苛立ちを隠せない様子ではっきりと断言する。
「俺は、あの女を好かない」
食い縛った歯の間から、息を洩らすように言葉を口に出した。
貴公子然としているパリスが、此処まで感情を露わにするのは珍しいことだった。
ナッツを指に摘まんだリヴィエラは、次に出す言葉を考えながら、問いかける眼差しで幼馴染をじっと見つめていた。
「何が気に入らないで、いらついているの?相手が東国の貴族なので気後れを覚える?」
少しからかいを含んだ言葉に、幼馴染は本気で不機嫌そうな眼差しを返してきた。
「違う」
僅かに躊躇いを見せてから、パリスは青白く強張った表情で本音を吐露した。
「如何な理由があろうとも、女子供をその手に掛けるような人物が信用するに値するとは思わない」
すっと体温が低下する感覚を覚えて、リヴィエラは動揺を隠そうと目を閉じた。
整った顔立ちを苦しげに歪めて、頬に弱々しく指先で触れている。
何かを思い起こすように瞼を閉じたまま、呼吸は微かに乱れていた。
表情が醜く歪んだのはほんの一瞬だけのことで、次の瞬間には、もう何時も通りの器量の良い若い娘に戻っていたから、パリスも何かの見間違いかと錯覚するほどであった。

 重苦しい雰囲気に戸惑ったように、護衛の二人がサイコロ賭博の手を止めて様子を窺ってきている。
微かに表情を曇らせたまま、唇を舌で湿らせてからリヴィエラは反論する。
「オークの死体の山を積み上げたのも、私は此の目で見たよ。
難民を虐殺したのと同じ剣が、また村人を救いもした」
低く抑えられた声は周囲の喧騒に紛れており、他の者たちに会話の内容を聞き取る事は出来なかった。
一瞬だけ乱れた心も、すぐに平静を取り戻しているように見える。
パリスの射抜くように強い眼差しに、リヴィエラは怯まなかった。
「女であれほどの剣士は見たこともない。殆ど、うちの親父殿にも匹敵する腕前だ」
「……東国の貴族たちは気位が高いと聞いている。辺境の豪族風情の風下に立つかな」
考え込んだ豪族の息子の呈した疑問に、郷士の娘は首を横に振った。
辺境豪族の妾の子が爵位持ちの称号に怯むのは、如何にも奇妙に思える。
或いは、劣等感を刺激されたのかな。リヴィエラは、はしばみ色の瞳を面白そうに細める。
「貴族といっても、所詮は遠来の土地の出。よそ者だよ、気を楽にしなよ」
貴族が全員、富裕な訳でもない。
寧ろ、土地や財産を持たずに金に困っている騎士や貴族の末裔も珍しくないし、満足できる報酬が用意されずとも、義侠心や冒険心で戦に参加する人もいる。
そうした事例も上げながら、互いの得になる取引を出来ればいいとリヴィエラは言葉を結んだ。
「最初から当てにするのは間違ってるけど、やってみなければ何も分からないじゃないか。
 腕が立つのは確かなんだから、味方にできれば傷つく者は確実に減らせる。
 頭を下げて皆が幸せになるなら、試す価値はあるんじゃないかな?」
説得してみるも、なおも煮え切らない様子を見せる豪族の息子パリスの態度に、リヴィエラの口調にも段々と辛辣なものが混じってきた。
「領民たちには義務として兵役を要求できるのに、貴族には気後れしているの?」
押しが強く物怖じしない幼馴染の性格を、パリスはやや苦手としていた。
反対に、リヴィエラの方は、悪い意味で貴公子なのかしらと考えている。
互いにやや醒めた視線を向け合っているうちに、馬鹿らしくなって溜息を洩らした。
「パリスみたいな気位の高い人に、対等や下の立場から交渉するのは難しいかもしれないけれども……」
リヴィエラの言葉には、少し馬鹿にしたような響きが出てしまったのかも知れない。
拙いと思った郷士の娘は、取り繕うように言葉を続けた。
「こういうと言い方は悪く聞こえるかも知れないけれども、上手く利用するんだって考えればいいんだよ。
話を聞いてもらって、もし報酬次第では取引できるなら……」
黙って聞いていた豪族の息子だが、侮辱に気づいたのだろう。眉を顰めた。
考え込んでいたパリスが、沈黙を破って傷つける為の言葉を投げかけてきた。
「君も、俺や姉さんに対してそう考えているのか?上手く利用していると……」
思わぬ言葉を掛けられたリヴィエラは、一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
次の瞬間、小麦色の頬が怒りの朱に染まった。
人間の関係とは単純に割り切れるものでもないし、口にしてはならない言葉もある筈だ。
利害関係で結ばれた一面もあるが、同時に損得を越えた部分でも繋がった大切な友人だとも思っていた。
「そんな風に考えていたんだ」
云った声からは、感情の色が抜け落ちていた。
関係に修復不可能な亀裂の走った音を、郷士の娘は確かに耳にした。
無用心な一言をパリスは後悔したのだろう。苦い顔で首を振った。
「……すまない。思ってもいない言葉を吐いた」
硬く強張った表情でリヴィエラはパリスをじっと見つめていた。
怒りに頬が僅かに痙攣していたが、嘆息して謝罪を受け入れる。
「私に当たらないで欲しいな。貴方が頭を下げたくないなら、私が交渉するから」
やや恨みがましい視線を向けたリヴィエラが、浮かない口調で告げた時、旅籠の親父が大声で怒鳴った。
「お待ちかねのお人が戻ってきましたぜ!お連れと一緒に裏庭に廻ってまさ」
素早く立ち上がったリヴィエラは、後ろを見ることもなく裏口へ向かって足早に向かった。
明らかに怒っている幼馴染の背中を視線で見送ってから、パリスは右の掌で顔を覆うと低く呻いた。


 リヴィエラ・ベーリオウルの初陣は、今から四年前。彼女が十四歳の時であった。
辺境で長い不作が始まる前の年、辺境北西部の曠野で飢饉が起こった。
内陸から蝗のように村々を食い潰してやってきた蛮族の軍勢は、辺境外縁部に侵入してきた時点で二千人近くにまで膨れ上がっていた。

 後手に廻った近隣の豪族と市町の長たちは、死に物狂いで兵士を掻き集め、名うての戦士として知られている父カディウス・ベーリオウルも、知己であるティレーの執政官に指揮官の一人として招かれた。
防衛の為の軍隊が編成されたのは、蛮族が辺土の要衝に到達する三日前。
辺境最大の都市ティレーへの襲来を直前にして、辛うじて迎撃は間に合った。
 各地から招集した豪族たちの郎党、農民兵、民兵や傭兵が集結した連合軍は、辺境外縁部のタルス・メソの谷で北方から襲来した蛮族と衝突。
餓えた蛮族の勢いは凄まじく、装備と練度で勝る筈の辺境軍を幾度となく押し返したものの、丸一昼夜にも及ぶ激戦の末、侵入してきた蛮族は壊滅した。
若年から壮年の武装した壮健な戦士たち(二割ほどは女だった)からなる蛮族の前衛を突破し、柵に囲まれた後方の野営地に踏み込んだ時、粗末な天幕から姿を見せたのは、戦えない老人や女子供であった。
 蛮族の長い戦列の後方に残されていた女子供が、敵意の籠もった視線で睨みながら、棍棒や小刀を振り上げて襲ってくる。
今でもその虐殺を思い返すたびに、酷い戦だったとリヴィエラは思う。

 戦が始まる前には豪族たちの見目も彩かな戦装束、磨かれた青銅や鉄の武具に目を奪われていた覚えはあるが、血みどろの戦のことも含めて今は途切れ途切れにしか思い出せない。
共に従者として参加して討ち死にした友人についても、何時死んだかさえ定かではない。
気づけば、戦は終わって、彼女は死体に覆われた大地に佇んでいた。
彼方に眺める血のように赤い落日の情景だけが、今も生々しく瞼の裏に焼きついている。

 渓谷を駆け抜けている風の音が、甲高い笛の音にも、不気味な死霊の叫びにも聞こえて、酷く印象的だったのを覚えていた。
強い風が吹く夜に目を閉じれば、今もタルス・メソの戦場跡に佇んでいるような気がしてならない。
本当のリヴィエラ・ベーリオウルは今も戦場で戦っていて、今此処にいるリヴィエラは天幕で寝ている十四歳の自分の夢なのではないか。
時々は、そんな妄想を思い浮かべる。
或いは、魂の一部をあの戦場に置き去りにしてきてしまったのかも知れない。

 その後も、蛮族の残党は長らく辺境の外縁を災厄のように荒らしまわった。
女子供と思って家屋敷に泊めたが為に、襲撃を手引きされて悲惨な最期を遂げた富農もいる。
父と共に神出鬼没の蛮族の群盗を追跡し、仕留める日々が半年続いた。
父親には無理を承知で随行を懇願した。一度だけ帰還を促されたが、リヴィエラは歯を食いしばって拒否した。
それでも、辺境を蛮族より防衛する軍勢の一員となったことを誇らしく思えたのは当初だけであった。
やがて父の軍勢は曠野へと逆侵攻し、ティレーに近い蛮族の領地を疾風のように荒らしまわり、村々を焼き払い、老若男女を問わず殺し、財貨を略奪した。
最後には何の為に戦っているのかさえ、分からなくなった。
それでも父親に従ったのは、それが一番マシな方法だとリヴィエラにも思えてしまったからだった。
無邪気な少女として出陣したリヴィエラが、故郷の農園に帰ったのは一年以上も経ってからだ。
しかし、そんな血で血を洗う一連の攻防も、殆どが曠野に近い辺境外縁部での出来事で、北方で蛮族の侵攻をほぼ食い止めたが為に、辺境でも南に近い土地では四年前の蛮族の侵攻はさして話題とはならなかった。

 リヴィエラは追憶を打ち切った。
郷士の娘は、パリスを無責任とも思わない。
相手は曠野の蛮族ではなく、同じ辺土の農民。
オークの襲来さえなければ、民草として恙なく暮らしてきただろう人々。
彼の言い分は、気持ちとして充分に理解できた。
一方で、やらなければやられる場面、手を穢さなければならない時があることをリヴィエラは知っている。
まして、カスケード卿は、生まれついての戦士貴族。深淵を眺めてきた人間の判断を、どうしてリヴィエラ・ベーリオウルのような辺境生まれの郷士の娘が己の基準で責められるだろう。

 勇敢で同時に思慮深く、少なくとも公正に振舞おうと努力している。
幼馴染のそうした性質に、リヴィエラ・ベーリオウルは好感を抱いている。
思慮は臆病に、勇敢さは短慮に。得てして繋がるものだ。
若くして相反する美質を兼ね備えている人間は、貴重であろう。
慈悲深く、出来るかぎり公正に振舞おうとしているならば、尚更だった。
フィオナ・クーディウスは、賢明だけれどもやや怜悧に過ぎる傾向がある。
いずれパリスは、姉であるフィオナに足りないものを補う良い補佐になるだろう。
今は少し甘い性質が残っているが、まだ若い。
時が賢明さと果断さをパリスに与えてくれればいいと思う。
いずれ、甘さを克服したその時、幼馴染が広い視野と調和の取れた人格を兼ね備えた人物となる日を、リヴィエラは楽しみにしていた。
パリス・オルディナスはきっと、リヴィエラ自身がけしてなれないような存在になれる資質を持っている。
ずっと努力を続ける幼馴染の姿を見てきた郷士の娘は、そう感じていた。

 私も女子供を殺した。
此の手が血塗られていると知ったら、貴方は嫌悪するかな。パリス。
リヴィエラには分からない。
恋に破れた疼痛を胸の奥に感じながら、もうその事は考えまいと気持ちを切り替える。
嫌われたとしても、卑屈になることはない。
例え想いは届かずとも、私は私に出来ることをすればいい。
うじうじ悩むのは、彼女の気質に合わない。
胸に秘めた思春期の淡い慕情と決別して、次の瞬間、郷士の娘は厳しい表情を浮かべて真正面を向いていた。

 裏庭へと廻っていく廊下を大股に進んで、旅籠の裏口を出たところでリヴィエラは、丁度、目当ての人物と顔を合わせた。
裏庭にある水桶の前。屈みこんで冷たい水で顔を洗っていたカスケード伯子アリアテートが顔を上げた。
「リヴィエラ・ベーリオウルか」
濡れた黒髪の下に黄玉の瞳。警戒するように鋭い視線で一瞥するや、前髪をかき上げながら何用かと厳しい声で訊ねてきた。
「カスケード卿」
立ち止まって会釈しながら、リヴィエラは、目の前の女剣士も戦場の悪夢に魘されることがあるのだろうか、ふと疑問を覚えた。
それとも、生まれついての戦士ならば、葦を刈るように人を殺して、そのまままるで揺らがないのだろうか。

「先日、河辺の村を襲った洞窟オークたちの件で貴殿に話があってやってきたのですが、時間は取れますか?」
如何でもいい疑問を振り払い、改めて郷士の娘が問いかけると、東国人の女剣士はおとがいに指を当てて考え込んだ。
一歩、二歩と近づいてくると、リヴィエラの剣の間合いの外で立ち止まる。
と、同時にリヴィエラは、己が外套の下で剣の柄を撫でていた事に気づいた。
どうやら、無意識の緊張していたらしい。
敵意はないと示す為、リヴィエラが軽く両手を挙げて会釈すると、女剣士は厳しい顔つきながらも肯いてきた。
「話か……よかろう。何の話か分からぬが、聞くだけは聞こう」


 リヴィエラが手短に説明すると、女剣士は暫らく難しそうな顔で唸っていた。
「私も、それほど多くの事を知っているわけではない。
何やらオークの隊長格が言い残した言葉を頼りにカマを掛けただけなのだ」
不快になるような出来事でもあったのか。女剣士は妙に不機嫌な様子であったが、リヴィエラに対しては敵意を見せずに、知ってるかぎりの一部始終に推測を交えて話し始める。
「……で、街道でトリスの農民の母子と出会ったのだ。
追われていた理由は知らぬ。トリス村の南の渓谷に洞窟オークが住み付いているとも云っていたな」
此れでいいかと、女剣士は不機嫌そうな眼差しで問いかけてくる。
どうやら、交渉するには不向きな日のようだ。
それでも、最低限の聞きたかった情報は聞くことが出来た。
「ありがとう。参考になりました」
頭の中で聞いた内容を整理しながら、東国人に礼を云ってリヴィエラは踵を返した。

 旅籠の大部屋に戻って再びパリスと合流すると、聞きだした内容について噛み砕いて伝え始める。
二人の間には、先刻のぎくしゃくした雰囲気が残っていたが、パリスもリヴィエラも私情を挟んで為すべきことを蔑ろにするのは好まぬ性質であった。

 冬の空は曇り、外は薄暗くなってきていた。
火鉢や暖炉では盛んに炎が燃え盛っているにも拘らず、大部屋には冷たい空気がしんと張り詰めている。
「ずっと疑問だったんだよ。洞窟オークたちは弱くて臆病な種族だ。
村を襲うという話は、余り聞いたことがなかった」
暖かい飲み物を運んできた旅籠の親父が、話題に好奇心を刺激されたのか。
立ち止まって、興味深そうな顔をして聞き耳を立てている。
特に咎めるでもなく、白湯を啜りながら、リヴィエラははしばみ色の瞳でパリスをじっと眺めた。
「それまで大人しくしていた連中が襲ってきた理由はなんだと思う?」
「最近の不穏な空気に当てられたかな。それとも他のオークと繋がっているか」
自分で口にしてから気づいたのだろう。豪族の息子パリスは、不快そうに瞳を細めた。
「君が言いたいのは……つまり」
「もし、洞窟オークたちを焚きつけた者がいるならば、他にも暴れる連中がいるかも知れない」
肯いたリヴィエラの深刻そうな言葉に、パリスは俯き加減に目を閉じて沈黙に沈み込んだ。
暫らくして見開いた瞳には憂慮の光が漂っている。
「その確証を得たかったのか」
豪族たちを憎みながら山野に潜む野良オークや野伏せりの類は、けして少なくない。
それに原野を彷徨うオークの小氏族までが野合すれば、侮れない数になる。
「で、もし影に隠れて扇動している者たちがいるとしたら、何者かな?」
「パリスは誰だと思っている?」
挑発的なリヴィエラの言葉に、二人の視線が静かに空中で交差した。
「恐らくは、北の丘陵に棲まうオーク部族のうちでももっとも強力な者たちだろうな」
「十中八九、例によってゾム族」
互いの意見の一致に嬉しくなさそうな表情となる。
豪胆な筈の旅籠の親父が顔色を悪くして、額の汗を拭った。

「連中がどの程度、本気なのか」
パリスは固く厳しい表情を浮かべ、郷士の娘リヴィエラは口に半月の笑みを形作った。
「でも、来て良かった。色々と手掛かりになったよ。そして襲撃者が何処から来たのかも、分かった」
パリスは瞳を細めて、無言のうちに問いかけてくる。
「思った通り、あいつらは丘陵地帯の部族とは違う。南に棲まう洞窟オークの群れで、河辺の渡し場の前に先にまずトリス村を襲った」
「……トリス?」
聞きなれぬ地名に、豪族の息子パリスは戸惑ったようだった。
脳裏の記憶を探るように考え込んでから首を振った。
「そう、洞窟オークに追われた親子が、確か其処から逃れてきたと云っていたそうだよ」
豪族の息子パリスは、何かしらの想いを馳せるように暖炉の炎を眺めていた。
やはり綺麗な顔立ちをしていると横顔に見とれながら、リヴィエラは幼馴染に訊ねる。
「聞き覚えは?」
「……ないな。残念だが」
考え込んだリヴィエラは、旅籠の親父に尋ねてみると場所は簡単に割れた。
「トリスの連中なら、時々、見ました。布や塩を交換する為に、豆やライ麦なんかを持ってきますな」
パリスとリヴィエラは、顔を見合わせた。
「街道から南に一刻ほどですかね。丘陵の狭間にある小さな村でさぁ」
艀の渡し場からそう遠くない場所にある小村落の名前だと告げてから、巨体の親父は陰気に黙り込んだ。

 気づけば、大部屋は奇妙に静まり返っていた。
何時の間にか、屯する人間の多くが自分たちの会話に聞き耳を立てていたことに気づいて、リヴィエラは小さく舌打ちする。
聞かれたからといってどうとなる訳でもないが、内容が内容だけに噂になるかも知れない。
もう少し気をつけるべきだったかな。
どのみち、もう手遅れかと、気を取り直してパリスとの会話に戻った。
「トリスから程近い渓谷に、洞窟オークたちが住み着いている」
「そのトリスは今も穴オークに占拠されているのかな」
憂鬱そうに云ったパリスが息を深く吸い込んだ。
「行ってみようよ」
「危うくないか?」
リヴィエラの提案に豪族の息子は気の進まない様子で考え込む。
「戦える男の殆どは、先日の河辺の村の戦で討ち死にしたはずだよ」
片目を瞑ったパリスがふむうと肯いた。
「巡察隊と合流して、足りなければ近隣の郷士から人手を借りよう」
リヴィエラの言葉に肯きつつ、立ち上がる豪族の息子。
「案内が欲しいな」
「この辺りの者なら、トリスまで行ったことのある者もいるでしょう。
親父の言葉に肯くと、パリスは懐から小粒銀を取り出した。
部屋にいる者に見えるように高く掲げながら、案内人を募る。
「トリスまで我々を案内してくれるものはいないか?」
言葉に応えて、大部屋の隅からよろよろと老齢の行商人が進み出てきた。
「若さま、ビーズや指輪なんかを売りにトリスにはいったことがあります」
パリスが投げた小粒銀を胸元で受け取り、行商人が暗い瞳を豪族の息子へ向けた。
「……いい村でした」

 パリスとリヴィエラ、二人の護衛に案内人が旅籠を出ようとすると、粗いマントを羽織った数人の男女が立ち上がって扉の前に立ちはだかった。
「何の心算?其処をどきなさい」
リヴィエラが声を出すが、目の前の一団は退く様子を見せない。
面食らいつつも、剣の柄に手を伸ばす一行。
旅籠の用心棒である傭兵たちも、すわ揉め事かと緊張した面持ちを見せている。
目の前で邪魔をしている一団には、顔に青い刺青を入れてる男や痩せた亜人たちも混ざっていた。
一団の頭目と思しき男は、黒い毛皮のマントを羽織り、動き易そうな皮服に身を包んでいた。
日焼けした逞しい腕には、狐に似た四足獣を象嵌した青銅製の腕輪を嵌めている。
上背は人並みであるが、がっしりした四肢には力が満ちていた。
腰のベルトには、毛皮の鞘に納められた三日月刀を吊るしている。
リヴィエラが眉を顰めたのは、剣呑な気配を纏う男の衣服や装飾品に何とはなしに見覚えがあったからだろう。
脳裏の深い箇所に眠る遠い記憶を刺激され、改めて男の衣装を目に留める。
「……蛮族」
緊張した面持ちで唇を動かし、微かな呟きを漏らした。
男は腰に幅広の中剣をぶら下げており、薄汚れた顔はかなり精悍そうで、戦いになればかなり手強そうに感じられた。
「兄さん方。オークとやり合っているらしいな」
「……だとしたらなんだ」
パリスが尋ねると、腰の剣を掌で叩いた刺青の男は、獰猛そうに口の端を吊り上げて笑った。
「俺たちは傭兵でね。仕事を探して南からやって来た。そこの二人よりは役に立つと思うぜ」
何か云いたげな護衛たちを腕で制すると、リヴィエラは男の思惑を推し測ろうとするかのようにじっと見つめて呟いた。
「……曠野の民が、敵と見做してきた辺土の民の為に働こうとはね」



[28849] 75羽 土豪 26 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:e34ca4b1
Date: 2012/09/11 03:08
「……曠野の民が、敵と見做してきた辺土の民の為に働こうとはね」
郷士の娘が掛けた言葉に、目の前に立つ髭面の蛮族は獰猛な笑みを深めた。
鷹のように鋭く冷酷な眼差しに油断のならない痩せた顔立ちをしているが、それほど野卑な感は受けない。
髭の覆われた口元と目尻に刻まれた皺から中年だろうと踏んでいた傭兵隊長は、だが、見せた笑顔から意外と若いことにパリスとリヴィエラは気づかされた。
後ろに控えるがっしりした白髪の老兵が、低く潰れた擦れ声で笑いながら云った。
「わっしらは傭兵だ。金さえ貰えれば誰にでも雇われる」
耳障りに響いた乾いた笑い声に片目を瞑ると、リヴィエラは胡散臭そうに首を振った。
「誰にでも……ね」
どうせ雇うならば、同じ傭兵にしても南方や西国のような文明地の者か、せめて同じ辺境の出の方がいいとリヴィエラは思っている。
郷士の娘リヴィエラが危惧したのは、目の前の毛皮を纏った男が密偵ではないかと言うことだ。
将来の戦に備えて、目端の鋭い利け者を敵の懐へと飛び込ませるのは聞かない話でもない。
辺境の民の防備を探る為、炎狐族なり、土蛇族など有力な蛮族の何れかに使われている間者の類かも知れぬ。
そう懸念してリヴィエラは鋭い視線を、曠野風の衣装を纏う傭兵に向けた。
過去の蛮族との戦で行なった所行から、報復されるのではないか。
そうした脅えも抱えている郷士の娘は、必要以上に疑念と警戒が入り混じった眼差しで売り込んできた傭兵たちを見据えていた。
胡乱な目付きを隠そうともしない郷士の娘とは裏腹に、豪族の息子パリスは目の前に立つ黒い毛皮のマントの男を値踏みするように眺めていた。
「例え相手がオークであれ、金を出すなら雇われるという事か?」
黒髪の男は愉快そうに笑い声を上げた。それから、にやりと笑みを浮かべた。
「……パリス?何を考えているの?」
郷士の娘リヴィエラは、蛮族出の傭兵に向ける疑惑の目を隠そうともしていない。
油断ない表情で睨みながら、曠野の蛮族などは信用に値せぬと幼馴染に耳打ちした。
しかし、豪族の息子パリスは鋭い目付きを傭兵の一団に注ぎながら、なにやら考え込んでいる。
「だがね、リヴィエラ。俺たちが雇わなければ、彼らはオークに売り込むかもしれないぞ」
それに中々に腕も立ちそうだと、漂わせる雰囲気からパリスはまず評価している。
「勝手にさせればいいよ。蛮族なんて信用ならない」
偏見と共に吐き捨てたリヴィエラを、しかしパリスは思いもしなかった静かな目付きで一瞥すると、交渉を持ちかけてきた傭兵の頭に向き直った。
「辺境の豪族とは云え、我が家に仕官を望む輩は少なくない。
売り込んでくるからには腕には自信があるのだろうな」
意中を測ろうと、豪族の息子は強い眼差しを傭兵の頭目に向けた。
「まずはどれだけ働けるか、見せてもらえるかな」
パリスの言葉に、傭兵の頭目がにっこりと笑った。
強かそうな顔立ちに、意外と人懐こい表情が浮かぶ。
「そいつは報酬次第だな」
「大した自信だ。口で言う実力の半分もあるのなら、此方から願いたい程だが」
幼馴染が曠野(コルヴ)から来た傭兵たちの雇用に乗り気なように見えて、リヴィエラは不安を覚える。
「反対だな。彼らは、見ず知らずのよそ者……
まして、辺境の民を獲物と見做す曠野(コルヴ)の蛮族。
到底、信用できるものではない」
内陸から来た蛮族たちを雇用する事に、リヴィエラはどうしても気が進まなかった。
二人の護衛も、郷士の娘に同調するように露骨に険悪な眼差しを傭兵団に向けている。
「若さま。こいつらは信用なりませんぜ」
「そうでさぁ」
「止めておこう。パリス。
少数でも、手勢は信頼できる者たちで固めておいた方がよい」
些か執拗な程に反対する金髪の娘リヴィエラの言葉を受けると、育ちがいいだけにパリスは流石に躊躇いを見せ始めた。
傭兵隊長は苦笑いを浮かべる。
「確かに俺は曠野の出だがね。雇い主には従うぜ。
そして、雇い主を途中で裏切ったことは一度もない」
頭目の言葉にも、リヴィエラの嫌悪と疑念の眼差しは、変わらなかった。
「……お嬢さんには信用ならんか」
豪族の子弟らしい目の前の若い男女を見つけて売り込んでみたが、どうにも見込みはなさそうだった。
男の方は乗り気なようだが、他の三人には露骨に警戒されている。
珍しい反応でもない。
傭兵団の頭目は、苦い笑みを浮かべつつ不器用に肩を竦めた。
辺土の民。特に曠野と接する外縁部の住民たちは、オークに対する以上に、蛮族の侵入に悩まされてきた歴史がある。
「まあ、無理にとは言わんさ。他にも雇い主はいるしな」
此れはどうも見込みが薄そうだと見て取ると、交渉を打ち切ることにした。
踵を返す蛮族たちの背中を見ながら、リヴィエラは豪族の息子を促がした。
「さあ、パリス。行こう。部下達もそろそろ出ている筈だ」
だが、パリスは旅籠の壁際へと戻っていく傭兵の背中に声を掛けた。
「あんたの名前を聞いておいていいか?」
蛮族の傭兵は立ち止まった。振り返ると、意外そうに瞳を細めてから再び笑った。
「旦那、俺はレクスという。
気が変わったなら、また来てくれ。暫らくはここら辺に滞在しているんでな」
ひらひらと手を振ると、傭兵たちの頭は元いた壁際の椅子へと腰を掛けた。

肯いた若者とお供の三人、そして案内に雇われた行商人が旅籠から出て行くのを見送ってから、椅子に腰掛けた傭兵の傍に手下達が歩み寄ってきた。
「どうします。しゃあないから、オークに売り込んでみますかい?」
最初に口を聞いたのは痩せた亜人。ついでやはり曠野出らしい老傭兵が尋ねる。
「それとも曠野(コルヴ)地方に行くか?」
「もう冬に入ってるし……寒さが厳しくなる前に決めないとね」
若い女傭兵が口を開くと、老傭兵が肯きつつにやりと笑った。
「曠野に行くなら、春先に辺境(ネレヴ)への略奪部隊に加わる手もある」
「そういや、曠野はあんたの故郷だったね。曠野に行くかい?」
女傭兵が首を傾げてから訊ねてきたのを、暫し黙考してから傭兵は答えを出した。
「いや、もう暫らくここら辺に留まる」
レクスの言葉に、痩せた亜人と老いた傭兵が顔を見合わせた。
「どれくらいです?」
「女たちや餓鬼共も、そろそろ休ませてやりたい」
部下たちを横目で見てから、何か期するものがあるのか。
重々しい口調で顎鬚を撫でながら、傭兵隊長は断言する。
「そう長くはないはずだ。」
「だけど……向こうは名前も告げなかった」
不満げに呟いた女傭兵を、傭兵のレクスは灰色の眼差しで無言で眺めた。
けして険しくはないが強く鋭い視線に、女傭兵は自然と口を閉じた。
「冬を越えるに不安を覚えない程度の蓄えは在る」
いいながら、黒い毛皮を纏った傭兵隊長は豪族の息子が出て行った扉に視線をくれた。
髭の生えた口元には、薄い笑みを張り付けている。
「多分、数日内にもう一度来るだろうよ」


旅籠の裏手へと続く埃っぽい小径を歩きながら、リヴィエラは陰気な表情で沈黙に閉じ籠もっていた。
二人の護衛と案内に雇った老行商も、所々、凹凸が浮かび上がった剥き出しの地面を黙々と後ろからついて来ている。
草生す小径を踏みしめながらやがて厩の前までやってくると、そこでは旅籠の下男が馬と鳥に水と飼い葉を与え終わっていた。
薄暗い厩に入る。冬なので藁の匂いは薄かった。それだけに馬糞の臭気が鼻腔をついた。
馬の首筋を撫でてから優しく声を掛ける。
その後に背後にゆっくりと用心深く廻ると、丸々とした馬糞が転がっている。
馬の体調はいいようだ。
元気を回復した様子の栗毛の馬の前に立って、数瞬を躊躇ってからリヴィエラは隣で藁を抱えたパリスに声を掛ける。
「……何を考えている?」
パリスは黙殺した。鞍として尻に引く毛皮の下に、忙しく新しい藁を入れている。
自分でも藁を抱えたリヴィエラは、怯みそうになりながらもう一度声を掛けた。
「蛮族は信用できない。懐に招き入れるのは危険すぎる」
豪族の息子パリスが作業を止めて、立ち止まった。
「あいつは大丈夫だ」
幼馴染の平坦な言葉に、根拠はあるのだろうかとリヴィエラは眉を顰めた。
「それに疑っていたら何も出来ない」
思わず耳を疑ったリヴィエラは、きつい眼差しをパリスに向けた。
人を信じるのは美質だが、行き過ぎれば弱点になる。
実は馬鹿だったのか、危惧を抱いて幼馴染を凝視してみる。
「あれはッ……」
リヴィエラの劇的な反応に、パリスは苦笑を浮かべた。
鞍代わりの毛皮を平坦に均しながら、葦毛の馬の首を撫でている。
「……悪党だろうな。殺しも略奪も何とも思っていない。それくらいは分かる」
分かってない訳では無いらしい。
「では、何故?危険な奴だよ」
郷士の娘リヴィエラの意見も、半分は身を案じての懸念から発したものらしい。
それと感じ取ったのか、パリスも幾分か態度を軟化させた。
「其処まで分かっていて、どうして?」
再び質問をぶつけてくるリヴィエラに、考え込んでいたパリスも肯き返した。
「君も、一兵でも欲しいと言っていただろう」
「それは……だけど」
戸惑いを隠せない様子のリヴィエラを残し、パリスは馬を引きながら厩を出た。
「それに悪党ではあるが、俺たちの身包みを剥ぐ程度のつまらん真似はしない。
悪事をするなら、村の襲撃なり、家畜の略奪なり、もっとでかい事をするに違いない。
割の合う機会が巡ってくるまでは、虎視眈々と待つだろう」
馬の背中に跨りながら、パリスはじっと厩に佇むリヴィエラを見つめた。
「金を払っている間は、払った報酬分の働きは見せてくれるさ」
レクスは悪党ではあるが、彼なりに筋のようなものを持っている。
短い問答で、パリスはそう感じ取っていたのかも知れない。
豪族の息子の言葉は、しかし、猜疑心が強くて、目の前にある物しか信じないリヴィエラには、理解できないものだった。
渋々と肯きながらも、合点がいかないリヴィエラは微かに首を捻った。
あのように下劣な悪漢たちを雇うのが平気ならば、何故、カスケード卿に助力を求めるのをあれほどに嫌がったのだろう。
曠野出の蛮族の傭兵なんかよりは、人品共に遥かに上等であろう人物だというのに。
「……使いこなせる自信があるの?」
馬上のリヴィエラの質問を受けたパリスは、暫し沈黙していた。
「さあな。見込み違いかもしれない。何となくそう感じただけだからなぁ」
それから、手を差し伸ばして老行商を馬の背中へと乗せると、なんとも無責任な返答を呟いたのだった。

淡い太陽は、中天よりやや西よりに差し掛かっていた。
空には、冬の澄んだ冷たい空気が張り詰めている。
何処までも遠い地平線の彼方から吹きつけた風が乾燥した丘陵を抜けていった。
赤茶けた盆地にうずくまるようにして、寂れた小村落トリスがあった。
土と泥のあばら家が点在した散村を取り囲んだ冬の丘陵を、小さな影が四つ、ひょこひょこと連れ立って歩いていた。
「……親父たちが戻って来ないや。何やってるんだろうな」
先頭に立つグ・スウがぼやくように云うと、野生の果実を齧っていたジグ・ルがペッと種を吐き出した。
「まだ三日目だ。戦ってのは、続く時には長く掛かるものだぜ」
グ・スウが、物知り顔に賢そうなことを言ったジグ・ルを睨んでいると、痩せた男の子のウィ・ジャがどもりながら相槌を打った。
「そ、そうだよ。北の街道までなら、大人数だと往復だけで一日は掛かる」
最後を歩いている大人しい女の子のスー・スは、手に素焼きの笛を大切そうに抱えながら無言で後をついてきている。
四人の足元には、灰色を呈した枯れ草が広がっていた。
枯れ草もまだらな剥き出しの丘陵を散歩する四人は、洞窟オークの少年少女たちであった。

トリスを攻め落とした洞窟オークたちだが、休む間もなく族長以下の男たちは次の村を攻め落とさんと遠征に出ている。
虜囚の村人たちを大人しくさせる為に残した数人の戦士たちを除けば、村に残されたのは戦う力を持たぬ老人と女、前の戦で深く傷ついた傷病者。
そして今、野原を歩いている四人のような、未だ一人前とは見做されぬ少年たちであった。
彼らより年少の幼子や赤子は、殆どいない。
過酷な飢饉によって多くが命を落としている。
彼らより年上の戦える若年の洞窟オークも、大人たちに付き従って戦場へと赴いていた。

「心細いのかよ?」
洞窟オークにしては上背の在るジグ・ルが、面白がるような調子でグ・スウをからかった。
「ちがわい!」
グ・スウは歯を剥き出し、躍起になって否定した。
「……お袋が不安がっているんだ」
「あ、あんな大勢の戦士が集った光景みたことないよ
人間たちなんかやっつけてやってるさ。負けっこない。負けっこないよ!」
ウィ・ジャが興奮したように同じ言葉を繰り返した。
「それでもさ。使いの一人くらい寄越せばいいのに」
ジグ・ルがぶつぶつ言ってると、スー・スが近寄って微笑んだ。
「優しいんだ」
頬を染めながらグ・スウが今度は弱々しく否定した。
「そ……そんなんじゃない」
「戦の間は余裕なんかない。皆、必死だし夢中なんだ。
戦ってのは、そういうもんだ。特に大戦だしな」
ジグ・ルが空を見上げながら呟くと、痩せたウィ・ジャが小声で首を捻った。
「だ、だけど……そ、そろそろ帰ってきてもおかしくない」
「もしかしたら、もう戦は終わって略奪に夢中になってるのかもしれないぜ」
ジグ・ルが楽天的な意見を述べると、グ・スウは腰の小刀を叩いた。
「そしたら、こんな玩具じゃなくて、もっと立派な武器を貰いたいなあ」
「お、お前の親父は、族長じゃないか。き、きっとくれるさ。立派な剣を」
痩せたウィ・ジャの言葉に幾分、得意げな態度になってグ・スウは威張って云った。
「へへ。それと、お袋の世話をさせるのに、奴隷がもう一人欲しいな」
戦へと赴いた大人たちに代わって、村の留守を守るのは自分たちだ。
そんな小さな誇りを胸にグ・スウは腰に吊るした小刀をぐっと握り締めていた。
やがて小さな洞窟オーク族の小さな少年少女たちは、野山を歩きながらぺちゃくちゃと陽気にお喋りを続けているうちに、目当ての小高い丘陵の中腹に辿り着いた。
中腹は、程よく広い空き地になっている。
持ってきたぼろい板切れを潅木に立てかけてると、大人しいスー・スを除いた子供たちは、それを人族の兵士に見立てて戦ごっこをし始めた。

石を投げつけたり、棒切れで叩いたりしながら、誰かが上手く的に当てた時は、やんやと喝采し、練達の弓使いになりきり、棒切れで叩いた時には勇戦士になりきった。
そしてスー・スは、岩に腰掛けながら、楽しそうにそれを眺めているのだった。
「やあ、やっつけてやる。悪漢の人族も、ちびのホビットや狡賢いドウォーフ、高慢ちきなエルフだって」
若い三匹の洞窟オークが次々と湧き出る人族の大軍をやっつけているうち、何時の間にか、太陽が西方に傾いていた。
強くなってきた夕日に眩しそうに目を細めてから、疲れた三人と一人は、冒険を打ち切った。
基本、暗いところで暮らす種族である洞窟オークは、強い日差しに弱いのだ。


四人の洞窟オークの子供たちが、気持ちのいい風がそよぐ丘に寝転んで空を眺めていると、突然、怒鳴り声が響いてきた。
「こりゃ!何している!」
グ・スウとジグ・ルがびっくりして跳ね起きながら振り返ると、若い戦士二人を連れた洞窟オークの老人が杖を振り回しながら、四人へと向かってきていた。
「この悪餓鬼どもめ!村から離れてふらふらしおって!」
「ちがわい!人族と戦うために鍛錬してんだ!」
グ・スウが叫ぶと、老人は鼻で笑った。
「はっ、尻の青いひよっこ共が戦に出るなど十年早いわい!」
ジグ・ルも立ち上がると、真面目な顔で老人に懇願した。
「次の戦には、俺も加わりたい。爺さんから族長に話してくれよ」
「かっー!尻の青いひよっこが!御主にはまだまだ早いわい!」
叱り飛ばされ、特に気弱そうなウィ・ジャとスー・スは身体を震わせた。
だが、悪態をつきながら、言葉とは裏腹に洞窟オークの老人の顔には微笑が浮かんでいる。
どうやら最初から本気で怒っていた訳でもないらしい。

「爺さんこそ、昼寝するんなら村でしろよ」
ジグ・ルがぼやくように云うと、老人は再び杖を振り回した。
「かっー!馬鹿者!見張りじゃ!村に怪しい奴が近寄らんようにするんじゃ。
ここにおれば、ほれ、通りかかる者がおったら一目瞭然じゃからな」
スー・スが目尻に指を当ててすんすんと泣き出した。
怒鳴り声にびくびくして涙目になっている優しい顔立ちの少女を見ると、老人も厳しい顔つきに後悔の色を滲ませ、少しだけ優しい口調になって云った。
「さあ、もうじき日が沈む。村に帰れ。子供たち。
そして母親の手伝いをするのだ。夜の守りは大人たちに任せるんじゃ」
老いの衰えから戦士として一線を退いたものの、それまでは幾度となく激しい戦いに参加して、ゴブリンや穴小人から氏族を守ってきた老人の言である。
族長から一目置かれている人物を相手にしては、流石に反骨精神旺盛なジグ・ルも、ぐうの音も出ずに引き下がった。

トリス村の東には、辺境を南北に走る小さな田舎道が在った。
近隣の農夫や豚飼いなんかが行き交うだけの所々が草に埋もれた田舎道だが、トリスを訪ねるには、此の道をやってくる必要があった。
苔生した石の塚を目印に西の脇道に逸れ、丘陵の狭間を縫って細い道を進むとトリスへと辿り着くのだ。
子供たちを追い払ってから、老人は枯れ草の上にゆっくりと腰を降ろした。
トリスへと繋がる唯一の通り道を見張るには、絶好の地形であった。
道をやってくる者がいれば一目で分かるし、丘陵を越えてくるにしても、街道の方角から近づいてくるならば此処を避けては通れない。
用心のし過ぎかと思わないでもないが、オークの吟遊詩人や旅人から聞いた噂話では、最近では街道を人族の警備隊が彷徨しており、オークを見つけ次第に捕らえているとも耳にしていた。
万が一を思えば、老いたオークの心も自然と引き締まる。
老兵と二人の戦士は、思い思いの場所で村の見張りについた。

若い洞窟オークの戦士が、腰掛けていた岩の下に陶器の笛が転がっているのに気づいたのは、見張りを始めて直ぐだった。
見覚えのある笛だ。子供たちの居た場所に転がっていた事もあり、直ぐに小さな少女のお気に入りだと気づく。
「あいつめ。忘れ物をしたな」
持って行ってやるか、と笛を拾い上げると、老人に告げてから若い洞窟オークは小走りに後を追いだした。

小道を行く子供たちを追い駆けてすぐの箇所だ。洞窟オークが小走りに急いでいると突然に道端の繁みが音を立てて揺れた。
何の前触れもなく、唐突に揺れた繁みにびっくりして飛び跳ねた後、洞窟オークは慌てて木製の槍を構えながら様子を窺った。
「……なっ、なんだ!」
目を見開いて観察するも、やはり何事もなく茂みは揺れ続けていた。
「誰だ!出て来い!」
脅えを含んだ声に応えているのか、繁みは幾度も揺れている。
洞窟オークは、そっと槍で繁みを突いてみる。と、何の反応もなく繁みは揺れ続けていた。
「……むぅ」
小動物か、それとも何らかの怪しげな植物なのか。
怪訝に思い、じりじりと近づいた洞窟オークは、用心しながら恐る恐る繁みの裏手を覗き込んだ。
繁みの根元に細い縄が結ばれ、揺らされていた。
なんだ、これ?
洞窟オークが怪訝そうな顔を浮かべた瞬間、横合いの地面の窪みから黒い影が飛び掛ってきた。
獲物に飛び掛る蛇のように二本の腕が素早く伸びて洞窟オークの喉に絡みつくと、そのまま恐ろしい力で締め上げる。
喉を圧迫され、陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクと開閉しながら、洞窟オークはもがいた。
何とか仲間に警告を出そうとするも、そのまま力強い腕によって体がぐんと地面から浮かび上がる。
肺の中の空気が洩れて耳の奥で轟々となっていた。目の前が真っ赤になる。
実際には、呻き声も出ない。声帯がぎりぎりと押し潰される。
頚骨のへし折れる軽い音と共に、白目を剥いた洞窟オークの四肢が弛緩した。
脱力した肉体が失禁すると、素手で敵手を殺した襲撃者は、僅かに微笑を浮かべながら、ぐにゃりとした身体を地面へと投げ捨てる。


「ナ・グムめ。遅いのう」
「あいつはうすのろだから、悪餓鬼共にからかわれているのかも知れませんぜ」
老オークのぼやきに笑っていた洞窟オークの戦士は、傍に迫る死の気配を感じ取る事は出来なかった。
背後にある木立から音もなく襲撃者が歩み寄ってくるのにも気づかずに、殆ど一瞬で寄り掛かっていた木陰に引っ張り込まれた。
編みこんだ金髪を背に垂らした外套の美しい人族だったが、若い女とは到底、思えない凄まじい腕力の持ち主だった。
厚手の皮手袋をした大きな掌が洞窟オークの口元を塞ぐと同時に、喉元を鋭い短剣が抉った。
友人と同様、二匹目の洞窟オークも声も上げられずに絶命した。

何時の間にか、目に映る場所にいた見張りの若者が消えていた。
小便かとでも思ったが、幾度も戦に出た老オークの勘が違うと告げた。
自然と手元にある青銅製の小剣を引き寄せながら、老オークは叫んだ。
「何者じゃあ!」
鋭く一喝した時、潅木の影からぬっと影法師が立ち上がった。
金髪をした人族の外套の女だった。
目の前にいるのに、気配が殆ど感じられない。凄まじい違和感を覚える。
老オークの背中に汗がどっと吹き出した。まるで影法師とでも対峙しているかのようだった。
異様な気配を纏う敵に相対しているだけで、老オークの気力が枯渇しそうになる。
舌で唇を湿らせた瞬間、外套の下から閃いた刃が老戦士の肺腑を抉った。
そのまま捻りが加えられる。
「……くっか」
肺に空気が入った。血反吐を吐きながら、老オークが崩れ落ちると、止めの一撃が首を薙いだ。
一合も刃を合わせることも出来ず、老いたオークは命を刈り取られた。
「……こいつで最後かな」
恐怖に表情を強張らせた洞窟オークの亡骸を見下ろしながら、リヴィエラは小さく呟いた。
喉元に手を当てて確実な死を確認すると、洞窟オークの亡骸の足を掴んだ。
手馴れた様子で見つかりにくい窪みへと放り込むと、軽く頭を振ってぼやいた。
「もう一つも片付けておくかな……それにしても鈍った」
得意の隠形術も、全盛期には野生の草原狼にすら気配を悟らせずに背後を取れた。
それが、こんな老いた穴オークに勘付かれるほどに鈍っていた。
身体が成長した代償だとしても、子供の時分より技に劣るというのは、リヴィエラにとって些か面白くなかった。


老人に窘められた洞窟オークの子供たちは、そのまま草道を村へと向かっていた。
「あ……笛!」
突然の叫びとともにスー・スが立ち止まった。
「忘れたのか?」
グ・スウ少年の問いかけにスー・スは俯き加減に肯いた。
「間抜けのスー・スめ。自分だけで取って来いよ」
長身のジグ・ルが面倒くさそうに少女を罵った。
スー・スは、ますます目を伏せると悲しげに下唇を噛み締めた。
「一緒に戻るか?」
グ・スウが問いかけるも、穴オークの少女は首を振った。
「ううん……取って来る。待っててくれる?」


「あっ……あった」
走って戻ったスー・スだが、何故かそれほど戻ることもなく道の途中で笛を見つけた。
「でも……どうして」
地面に転がっている笛を拾い上げて、血がついているのに気がついた。
驚いて目を見張り、不安そうに周囲を見回して気がついてしまった。
死んでいた。
繁みの直ぐ傍に、見張りの洞窟オークの若者が何者かに殺害されたのだろう。
首の骨が異様な角度に曲がって、無残な亡骸となっていた。
スー・スの足が竦んだ。
逃げよう。直ぐに村に知らせないと。
そう思っているのに足が動かない。
と、肩に手を掛けられた。
心臓が口から飛び出すかと思うほどに驚愕した。
冷や汗が洞窟オークの幼い少女の全身から吹き出て、動けなくなる。
『手』の持ち主が、ゆっくりとスー・スを背後へと振り返らせた。
何時の間に、立っていたのだろう。
背後には、灰色の外套を着た器量のいい人族の女性が佇んでいた。、
優しげな顔立ちで、じっとスー・スの顔を見下ろしている。
「また、子供か……そういう星の巡りなのかな」
何か疲れたように呟いてから、一転して酷く酷薄な表情を形作った。
恐怖がスー・スの小さな心を襲い、背筋を総毛立たせた。
「……あ……う」
肩に置かれた掌の力が段々と強くなっていく。少女の身体が竦んだ。
冷酷な目付きが妖しい光を発しているように思えて、蛇に睨まれた蛙のようにスー・スは動けない。
涙が溢れ出た。自分がここで死ぬと洞窟オークの少女は直感した。
死にたくない。そう思うが声も出ない。
涙目で見上げていると、
「スー・ス!」
背中から声が聞こえた。
「グ・スウ!来ないでぇ!」
振り返った瞬間、背中を灼熱の痛みが貫いた。
「……あうっ!」
血塗られた刃先は胸まで貫通していた。
スー・スの小さな軽い身体が転倒し、陶器の笛が地面へと転がった。
「女の子か」
スー・スの髪を飾る赤い色の紐を見て、血塗られた剣を手に人族の女は僅かに表情を曇らせた。



[28849] 76羽 土豪 27 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:fbbe41b8
Date: 2012/11/02 21:22
身を引き裂かれんばかりの怒りに支配された洞窟オークの子供たちが三人、甲高い叫びを上げながら坂道を転がるように駆け降りてくるのがリヴィエラには見えた。
洞窟オークの娘の躰から刃を引き抜いたリヴィエラは、外套の端で血糊を拭いながら空を仰いで小さく嘆息し、それから口元に指を運んで甲高い口笛を吹いた。
鳥の鳴き声に似た音が草原に響き渡る、同時にリヴィエラが拳を握ってぐるぐると頭上で振った。
と、後方の丘陵から十名ほどの人族と亜人が混じった兵士の一団が姿を現した。
横合いの稜線からも同じく十名ほどの武装した男女が駆け下りてくる。

戸惑い、足を止めた子供たちは、素早く動いた兵士の一団に不意を突かれ、あっという間に囲まれ、退路を断たれた子供たちは茫然と立ち尽くした。
槍や小剣、棍棒などを構え、皮鎧や厚手の布服を着込んだ一団が何を目的としてやってきたのか。
さすがに彼らにも理解できた。
包囲の輪を縮めてくる恐ろしげな兵士たちを凝視しながら、洞窟オークの子供たちは背中合わせに蒼白な顔色で立ち尽くす。

「な、なんだよ……こいつら。何なんだよ!」
恐慌を起こしている痩せた洞窟オークの子供ウィ・ジャに、上背のある(といっても洞窟オークの子供にしてはだが)ジグ・ルが背中合わせに囁いた。
「……落ち着け」
「落ち着けだって!」
叫んでいる痩せた子供に肯きかけながら、勝気なジグ・ルは歯を食い縛りながら、鋭い視線で周囲を睨みつけた。
「爺さんたちが近くにいる。騒ぎに気づいてくれる筈だ」

「鮮やかなもんだぜ」
「さすがにお嬢だ」
郎党たちの賞賛の声に、だが何故か煩わしげに眉を顰めるとリヴィエラは地面に落ちた陶器の笛を拾い上げた。
「……スー・ス!」
洞窟オークの少年グ・スウはただ一人、兵士の包囲の輪を素早く駆け抜けて少女の元へと駆け寄っていた。
地面に倒れたスー・スを少年が抱きかかえてみれば、苦しげに表情を歪めている。
震えながら少年を見上げると少女は何かを伝えようとして口を開き、しかし、咳き込んだ口から大量の真っ赤な鮮血を吐いた。
零れ落ちた涙が頬を伝って地面へぽろぽろと落ちていく。

やがて、洞窟オークの少女の目から生気の光が消えた。
「ああああああ!」
喉も張り裂けんばかりに絶叫した小僧が小刀を手に踊りかかってくるのを、半ば予期していたのだろう。
手練の戦士であるリヴィエラはあっさりと躱すと、二本の力強い腕が信じられないほどに素早く動いて少年の腕を外側から掴んだ。
ただ掴まれた。それだけなのに、鉄のやっとこに強い力で締め上げるように小僧の腕の骨はぎしぎしと軋んだ音を立てる。
苦痛の叫びを上げる洞窟オークの小僧を片手で掴み上げると、リヴィエラは低く囁いた。
「子供は殺したくない……大人しくしていろ」
「スー・スを殺しておいて!」
「村に知らされる訳には、いかなかったからね」
無表情に独りごちてから、リヴィエラの右足が跳ね上がった。
女とは思えない力に腹部を蹴り飛ばされた少年は、宙を浮いた。
小さな身体は二間も吹っ飛されてから地面へ叩きつけられ、そのまま地面をごろごろと転がった。
それまで血の気の引いた強張った表情で兵士たちを睨みつけていた背の高い子供ジグ・ルが叫び声を上げて駆け寄ろうとし、しかし、武装した人族に素早く行く手を阻まれた。
リヴィエラの郎党の髭の大男が、後ろからジグ・ルを抱きしめる。
「おお?こいつ、娘っ子だぜ!」
アイパッチが相槌を打った。小振りな胸に手を伸ばして撫で回し、頬をべろりと舐める。
「へっへ。オークにしちゃ、可愛い顔をしてるじゃねえかぁ」
「はっ、放せッ!」
狼狽し、悲鳴を上げるジグ・ルに、蹴り飛ばされたグ・スウが友達を助けようと思うが、しかし、身体は強い衝撃に痙攣し、激痛にすぐには動くことも出来ない。
リヴィエラは、涙を零しながら苦しげに咳き込み、吐瀉している洞窟オークの少年を路傍の石のように無視すると、パリスや郎党たちに向き直った。
「見張りは片付けた。此れからが本番。気を引き締めて」

悲鳴を上げる洞窟オークの少女を抱きかかえ、下卑た笑い声を上げるリヴィエラの手勢を一瞥して、パリスの眼差しに激しい憤怒が走った。
「やめないか!」
若き武者の鋭い一喝に流石に向き直ったものの、しかし、髭と独眼は薄ら笑いを浮かべたまま、少女を放そうとはしなかった。
「へっへ、こっちは命を賭けてるんですぜ。若旦那」
「ちょいとしたお楽しみがなければ、やっていけないですぜ」
古参兵たちは、若僧の制止など歯牙にも掛けず、少女を嬲り続けている。
リヴィエラは同調する様子もなければ、部下を庇いもしない。
ただ淡々とした無表情のままじっとパリスを眺めていた。
ベーリオウル家の郎党には、荒んだ雰囲気を纏っている荒くれ者たちが少なからずいる。
何れも性悪の猟犬のように獰猛で、獲物を捕らえたら最後、ズタズタに八つ裂きにするような気性の激しい荒くれ者たちだ。
幾人かは手練の戦士もいるようであるが、彼らは『強者』カディウスとその娘リヴィエラ以外には、従う様子を見せなかった。
郎党たちは、一応、パリスに対しては尊重する姿勢を見せていたが、それも主人の同盟者だからに過ぎない。
今いるリヴィエラの手勢は、四人。
人数は少ないが、いずれも猛々しい雰囲気を纏った精悍な男たちであり、パリスとその部下が掣肘しようとすれば、事態がどう転ぶかは分からなかった。

緊張しているのはパリス一人だけに見えた。
クーディウス家の郎党たちは突然の内輪揉めに戸惑いを隠せずざわついており、ベーリオウルの手勢は薄ら笑いを浮かべてパリスを眺めていた。
「止めろといっている」
「嫌だねぇ」
凄みのある若者の制止に、しかし、郎党は馬鹿にしたように鼻を鳴らして応えた。
緊張感が取り返しがつかないほど高まる直前に、リヴィエラがさっと両者の間に割って入った。
洞窟オークにしては、見目のいい娘だ。
水浴びもしているのか。異臭もせず、肌も綺麗だ。
オークの少女を一瞥してから、パリスへと向き直ると、嫌われても構わない心算で忠告してみる。
「パリス……彼らは味方だ。
そして、部下たちにちょっとしたご褒美と気晴らしを与えるのも、また指揮官の務めではないかな」
だが、結局のところ、パリスからすれば、リヴィエラの忠告も勝手な理屈に過ぎなかった。パリス・オルディナスは沈黙を保ったまま、リヴィエラ・ベーリオウルをじっと見つめた。厳粛な目の色を向けられて、リヴィエラは内心、怯みを覚えた。
パリスは鼻の付け根に皺を寄せると、まるで、目の前にいるのが本当に彼の知っている幼馴染本人なのだろうかとでも言いたそうに、疑わしそうな眼差しで郷士の娘を貫いてから
「……何時からそんな人間になった?リヴィエラ・ベーリオウル」
「……ッ」
まるで見えない一撃を受けたかのように、郷士の娘リヴィエラが表情を歪めた。
此れはこたえた。単に嫌われるよりも失望される方が何倍も効いた。
不覚にも泣きそうになった。
自分でも自覚する急所を突かれたからか。
苦痛でも感じたかのように呼吸を乱しながら、リヴィエラは友人を悲しげな瞳で見た。
その傷ついた表情は、リヴィエラが自分より年下のまだ若い娘だという事をパリスに思い出させた。
ハッと小さく息を呑み込んだのは、豪族の息子も後悔を覚えたからだろうか。
だが、リヴィエラの傷ついた表情を見た瞬間、今までは我関せずの態度で傍観に廻っていた残り二人のベーリオウルの郎党が猛烈な怒気を発した。
一瞬にして凶暴な顔つきに変貌すると、パリスを睨みながら武器に手を掛けようとしたのを、横目で捉えたリヴィエラが先んじて鋭い叫びを発した。
「放してやれ!モラ!」
髭面の郎党は、不満げな顔を郷士の娘リヴィエラに向けた。
「ですが、お嬢」
「すまんな。残念だけど、どうやらパリス殿は曠野風のやり方はお気に召さないらしい」
リヴィエラの口調は強いものが込められていて、しかし、その頬が悔しさか、悲しさかに痙攣しているのを見、それで郎党も、渋々とだが命令を聞き入れた。
パリスを睨みながら、未練たらたらに小娘の胸から手を放して、腕を掴むだけに留める。
肯いたパリスが踵を返し、部下たちに号令するのを見ながら、だが結局は同じことだと、リヴィエラは幼馴染の背中を睨みながら強く唇を噛んだ。
捕虜にした娘は、どの道、後で戦利品として分配される。
リヴィエラ自身は、部下たちに其の小娘を与える心算だった。
餓えた狼のように獰猛な部下たちだ。力量を示し、飴と鞭を与える事でようやく統御しているが、彼らが内心どれだけ服従しているかは、リヴィエラにも分からない。
郎党たちを完全に従えることが出来るのは、父のカディウスだけだろう。
そうなることを恐れてはいないし、けして恐れを表に出しはしないが、或いは、リヴィエラ自身が彼らの欲望の対象にならないとも限らない。
「……甘いよ、パリス」
部下たちを宥めつつ、リヴィエラは苦い表情で深く息をついた。
子供の頃には、あれほど好意を抱いていたパリス・オルディナスを、今、リヴィエラ・ベーリオウルは憎み始めていた。
軋轢以上に、時折、パリスが露わにするリヴィエラの考え方への嫌悪の眼差しが彼女の心に苦いものを味あわせるのだ。
考え方が固まり、互いに譲れないものが出来てきた。此れが大人になるということかな。
一瞬だけ、憎悪に身を任せそうになったものの、リヴィエラは頭を振って考え直した。
いや。白か、黒かだけで考える方こそ、子供というものだな。
本当の大人なら、好きな部分もあれば、憎い部分もあって当然だろう。
己の気持ちを整理したリヴィエラだが、パリスの背中を見てやや危惧を覚えた。
危険な戦になればなるほど、兵士たちは代償を求めるものだ。
それは敵の血であったり、戦利品や奴隷であったり、敵の女の嘆きや悲鳴であったり様々だが、戦った兵士たちの神聖な権利でもある。
リヴィエラ自身でさえ、戦って殺した戦士からその武具を奪うのは、えもいわれぬ快感だったことを覚えている。
よほどに強力な司令官でない限り、兵士たちに略奪を禁ずることはできない。
まして、見目も、奉ずる神々も、文化も異なる異種族相手の戦なんだ。
それで命がけの戦利品を取り上げられれば、兵卒は不満を抱く。
他の郷士豪族の手勢や、特に傭兵たちは、略奪を禁じれば、きっと君を憎む。
この先、きっと大きな戦になる。背中に気をつけることだね、パリス。
君を好いている人も多いけれども、何時も周囲に味方がいるとは限らない。


道案内に同行してきた老行商に兵士の一人が声を掛けた。
「下がっていろ、爺さん、下がっていろ。これから戦が始まるからな」

豪族の息子パリスは、部下を二人引き連れて、トリス村を一望できる高い場所へと勾配を昇っていく。
憂鬱な表情をした豪族の息子が、時折、洩らす嘆息に苛立つ気持ちを隠しきれないのは明白で、結局の所、けして幼馴染のリヴィエラを嫌っている訳ではないのだろう。
パリスの後ろを歩きながら、栗色の髪をした女兵士のケスはそう推測してほろ苦い笑顔を浮かべた。

高台に立つと地平線の彼方、南東の方角にはパリトーを抱く鬱蒼としたフィアドの森が見え、北方には丘陵地帯の波打つ稜線が広がっているのが見えた。
夕刻も近く、太陽が橙色の光を大地に投げかけている。
窪地にある眼下のトリス村では、小さな人影が盛んに動き回っていた。
後方にいる子供たちにリヴィエラが話しかけているのを見ながら、女兵士のケスが訊ねかけた。
「で、子供たちはどうしますか?」
「……そうだな」
心ここにあらずといった様子で物思いに耽っていたパリスが、問われると首を傾げた。
「逃がす訳にもいかない。誰か見張りをつけて、後ろの方に置いておこう」
「よければ、わしが見てますよ」
後をついてきた老行商が言い出した。
「一人でも戦える兵士は必要でしょう」
ケスの目には、老人の目のうちにきらりと怪しげな光が走ったような気がした。
パリスは如何でも良さそうに肯きかけたがケスが遮った。
「私が見てます。縛っておけば、一人でも大丈夫でしょう」
信用しない訳ではなかったが、老人の欲深そうな顔に捕虜を任せるには不安を覚えた。
案の定、面食らった様子の老人は、一瞬だけ険悪そうな悪相をケスに見せた。
奴隷として連れ去る心算だったのか。
或いは、知り合いの村人の復讐に痛い目に合わせる心算だったのかも知れない。
「では、任せよう。頼むぞ、ケス」
敬愛する主筋の青年の言葉に女兵士が深々と頷いた時、老人はかすれた声で呟いた。
「しかし、運のよい小僧共だ」

「やれやれ。一時は、どうなるかと思ったよ。
なにしろ、お前さまの家の部下はおっかないのが多いからね」
クーディウスの郎党で、やはり子供の時代からリヴィエラの顔を知っている中年男がぼやいた。
「戦では頼りになる連中だよ」
剣を吊るした革帯の位置を直しながら、リヴィエラは苦々しく呟いた。
「ああ、分かってる。わしら、農兵とは、なんか根本的に違う感じがするからなぁ」
とぼけた調子で一通りボヤいてから、中年の郎党は離れていった。
大きな声で喋っていた為か、周囲の者たちも聞き耳を立てていたし、ぼやきに先刻のいやな緊張感も薄れたのだろう。
ぎこちなさは残るものの、再び一体感を取り戻した一行の、各々が動き始めた。

「……さて」
昔馴染みの郎党の背中を見送ってから、リヴィエラは改めて虜にしたオークの子供たちに向き直った。
その頃には、郷士の娘に蹴り飛ばされたオークのグ・スウ少年も、苦痛と衝撃から立ち直っていた。
ベーリオウルの郎党に腕を掴まれ、強引に立たされて苦痛に悶えながらも、なお怒りを湛えて熾き火の如く燃える瞳でリヴィエラを鋭く睨みつける。
「よくもスー・スを!殺してやる!」
勝気そうな顔のオークの少女も一緒になって叫んでいる。
「畜生!このオークでなし!猿!勝負しろ!てめえェ!聞いてんのか!」
暴れる娘を抑えながら、ベーリオウルの兵士が呆れたようなうんざりしたような声を洩らした。
「やれやれ、口の悪い小娘だなぁ」
「猿轡をかましとけ」
「穴オークにしちゃ、いい顔立ちしてるぜ。勿体無えや」
涎を垂らしながら、髭面の兵士が未練たらしく娘の身体を抱きしめて首筋の匂いを嗅いでいた。
鼻が低いのを我慢すれば、オークにしては確かに顔立ちは整っていた。
「村に、見目のいい洞窟オークの雌もいればいいな」
リヴィエラは最後に臆病そうな少年を一瞥する。
彼だけは一言も喋らずに、血の気の引いた強張った顔で震え続けている。
三人を観察し終わると、剥き出しの敵意を浴びながらも、リヴィエラはどこか面白がるような表情を浮かべた。
郷士の娘は若さに似合わぬ歴戦の勇で、洞窟オークの子供たちは憎しみを知ったばかりの雛鳥に過ぎない。
オークの少年らがどれほどの敵意を漲らせようが、両者には、闘争の技量に置いて隔絶の差があった。
彼女を害するのには、何もかもが足りなかった。
逆に云えば、だから態々、殺す必要もない子供たちだった。
或いは、遠い未来。歳月に鍛え上げられた彼らがリヴィエラの目の前に立つ日が訪れるかも知れない。だが、その時はその時だ。
「押さえろ。縛り上げておけ」
少年たち一人一人の顔を見比べながら部下たちに命じると、こう独りごちた。
「それにしても……運のいい子供たちだな」
何気なく呟いた言葉に激昂したのは、やはりグ・スウ少年だった。
「運だと!運がいいだと!……よくもッ……よくもぉッ!」
雛鳥の鳴き声など、若き狼にとっては恐ろしくもなんともない。
少年の血を吐くような叫び声に、いっそ朗らかとでも云うべきふてぶてしい笑顔を郷士の娘は向ける。
「村のオークの子供だろう?」
いいや、君らは運がいい。何故か、分かるか?
頬を撫でながら、目を細めて優しげな笑みを形作った。
だが、目はまるで笑っていない。

「村に逃げ帰っていたら、他の者と命運を共にしただろう」
外套の女の言葉は、痩せた少年の耳には特に酷く不吉に響いた。
「命運って……なんだ。何のことを云ってる?」
顔を覗き込んだリヴィエラは、鼻腔を蠢かせて呟いている少年から覚えのある匂いを嗅ぎ取った。
曠野の戦で、度々、馴染んでいた懐かしい匂い。恐怖の匂い。
「ど、どういうことだよ。お前ら、なんなんだ!」
呆然と立ち尽くし、或いは激昂して叫んでいる洞窟オークの子供たちを、嘲弄と憐憫の入り混じった眼差しで見ながら、この時、リヴィエラは、尋問相手にも分かり易いようにオーク語で喋っている。
辺りのオークの話し言葉は、北方のオーク語の単語が幾らか入り混じっているだけで、基本的には辺境の人族と文法も単語もほぼ共通である。
故に分かり易い。逆もまた真で、オーク達もまた人語を解した。
「……分からないか?」
リヴィエラの囁きと兵士たちがせせら笑う声に、三人の子供たちが息を呑んだ。
少年の恐怖と絶望に竦んだ表情に、リヴィエラはヘイゼルの瞳を楽しげに細めた。
他人から見れば捕虜の恐怖を楽しんでいるように見えただろう。
父のカディウスは、敵に酷く恐れられた。そして、常に敵の恐怖を楽しんでいた。
冷たい嘲笑を向けられて、魂が潰れそうなほどの苦悶が痩せた少年を苛んでいるのが分かった。
恐怖と絶望がその全身から濃密に香り立つようだった。
父がよく同じ微笑を浮かべて蛮族を尋問していた。
上手く、恐ろしげな人間を装えているだろうか。
「そ……そんなことをしてみろ。グ・ルムさまがお前をただじゃおかないぞ」
切羽詰った叫びに勇気付けられたのか、子供たちの顔が明るくなった。
「そうだ!大人たちが帰ってくれば、お前らなんか……」
「気の毒だけど、お前たちの軍勢は敗れ去った」
「嘘つけ!糞野郎!」
渡し場で洞窟オークの死体の山を調べた際、リヴィエラは価値のない血塗れの装飾品を幾つか回収しておいた。
血に塗れた鉛の指輪や木製の耳飾が地面に落され、それを見て三人のオークの少年は一斉に息を呑んだ。
「見覚えあるかな?」
嬉しそうに囁いてから、絶望の昏い表情を浮かべた顔をじっと覗き込む。
はしばみ色(ヘイゼル)の瞳に残酷な光が揺れて踊っていた。
「これから村を焼く。女も、子供も、生きてる者は皆殺しにしてやる」
無表情のまま、オークの子供の尖った耳元で淡々とリヴィエラは宣告した。
「一人も残さない。皆殺しだ」
「……嘘、止めて、かあさんが」
痩せた少年が俯いたまま、ぼそぼそと呟いた。
「……止めろよ。止めて、御免なさい。お願いだから、止めて、お願い……そんなことしないで」
オークの少年ウィ・ジャは、涙目で慈悲を乞い始めた。
「か……母ちゃんがいるんです。病気なんだ。お願いだから」
必死に続ける彼の懇願は、しかし、リヴィエラをこれっぽっちも動かす事は出来なかった。
「そうか……それは気の毒に」
ベーリオウルの郎党たちは哄笑を上げ、一人が唾を地面に吐きながら言い捨てた。
「坊主、母親の運がいい事を祈っておくんだな」



[28849] 77羽 土豪 28
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2012/09/17 21:06
暫しの間、リヴィエラはすすり泣いている少年を無情な冷たい目付きで眺めていたが、やがて一転して声に多少の暖かみを含ませながら穏やかな口調で訊ねた。
「少年……名前は?」
痩せたオークの子供は、啜り泣きながら、おそるおそると襲撃者の頭目格の一人であろう人族の女を見上げた。
「……ウィ・ジャ」
「ウィ・ジャ。お前たちも村人を皆殺しにしただろう?
なのに、自分たちばかりは命乞いするのかね?それは些か都合が良すぎるだろう」
顔を上げたウィ・ジャは、人族の娘の言葉にぎょっとしたように叫ぶと必死に弁解を始めた。
「ち、違う!生きている。村人は……お、俺たち、女子供には手を出してないよ!」
「へえ、何人くらい生きている?」
初めてリヴィエラが興味をそそられた様子を見せた。ウィ・ジャは甲高いきんきん声で叫ぶ。
「たくさん……たくさんだよ」
オークの少年は、数を知らないらしい。
僅かに落胆しつつも表情には出さず、リヴィエラは首を傾げて言葉を続けた。
「ふむ……ウィ・ジャ。
村人が本当に生きているなら、お前と母親だけは、助けてやらない事もない。
ただし、お前が正直に私の質問に応えてくれたらだ。いいね?」
「ほ……本当か!?だ、だけど、他の奴は……」
恐怖に激しく強張っていた顔を微かに明るくしたオークの少年に、しかし、リヴィエラは釘を刺すのを忘れない。
「ただし、よく考えて答えろよ。
嘘をついてもすぐに分かる。そうなれば、取引はご破算だ」
喪失への激しい恐怖に脅えながらも、一縷の希望に縋りつくようにウィ・ジャは肯いた。
懸命な気持ちも、叫んだ言葉も、だけど目の前の女に巧みに誘導されてるとは素朴な洞窟オークの少年は遂に気づけなかった。
残り二匹のオークの子供は、郎党たちに押さえつけられていた。
人が壁になってろくに聞こえないだろう。ちらりと一瞥してから、リヴィエラは質問を始める。
「村人は、誰が生き残っている?」
「スーとか、アンとか……」
素っ頓狂な子供の答えに、リヴィエラは形のいい眉を跳ね上げた。
「……女子供の名だな。大人の男は生きていないのか?」
「……お、男も抵抗しなかった奴と捕まえたのは生きてるよ」
質問は続いた。何人生き残っているのか。見張りは付けているのか。
「……か、数は」
どうも大きな数をよく知らないらしい。
此の時代は、町の人間でも識字率は低く、読み書き計算の出来ない文盲が大半である。
まして辺境の穴居部族の子供である。三以上の数を知らなくても不思議ではなかった。
「両手の指くらい?その倍?」
具体的な数を示されて、オークの少年は懸命な表情で己の指を眺めた。
「両手の指の倍……くらいだと思う」自信なさげに答えると付け加えた。
「み、見張りはつけてるよ」

淡々とした口調ながら、郷士の娘は痩せた少年から根掘り葉掘り村の情報を聞き出していった。
「見張っているのは戦士か?」
「……せ、戦士じゃない」
首を振ったオークの少年に、リヴィエラは顔を顰めながら聞いた。
「酷い事をしてないだろうな」
洞窟オークの子供は、慌てた様子で弁解する。
「む、村人たちは大人しくしている。酷いことはしてないよ。
俺たち、同じものを喰ってるんだ」
意外な言に、リヴィエラは微かにはしばみ色の瞳を細めた。
それが本当なら、確かに扱いはそれほど酷くないかも知れない。

「村人には、何人くらいの見張りが付いている?」
次の質問の意味がよく飲み込めず、痩せたオークの少年は戸惑いを見せる。
「えっ……えっと、片手の指くらいだよ」
「二十人を五人で見張っているのか」
独り言のように呟いてから、郷士の娘はやや厳しい声音になって訊ねてきた。
「村人は暴れなかったか?見張っているのは戦士のオークか?それとも普通の部族民か?」
人族の女の訊ねてくるのは、オークの少年にとっては、まるで意図の分からない質問が多かった。
口ごもった少年を見下ろしながら、リヴィエラは何故か不機嫌そうな顔を見せ始める。
内心とは別に表情を操作していただけなのだが、何かで機嫌を損ねたのだろうか、と焦ったオークの少年は、質問の意図も意味も分からないながらも答えようと必死に頭を絞る。
「……み、見張りは……」
答えないうちに、リヴィエラは重ねて質問をぶつけてきた。
「戦士たちは他の仕事をしているのか?」
考える余裕もなく、混乱しかけているオークの少年は必死に思い出そうとする。
「……う、うん」
「では、何をしているの?」
郷士の娘のその問いかけに、腕を押さえられて項垂れていたオークの少女が何かに気づいたようにハッと顔を上げた。猿轡の下からくもぐった叫び声を洩らす。
「ひゃ(や)めろ!ら(だ)まれ!フィ・ファ!」
すぐに郎党の一人が、でかい掌で喚いているオークの少女の口を塞いだ。
「静かにしてろ」
「んっー!」
暴れている少女を戸惑ったように一瞥してから、痩せたオークの少年はすぐに尋問者に向き直った。

「……せ、戦士たちは、交代で村に来る道を見張っているんだ」
痩せた少年の言葉を聞いて、リヴィエラは独りごちた。
「交代で……では、やはり、戦士は殆ど残っていないのだな」
村に残っているのは女子供ばかりで、その数もさして多くはない。
リヴィエラ達も推測はしていたが、今、その確証がひとつ取れた。
郷士の娘は、郎党たちと顔を見合わせてから愉快そうに笑みを浮かべた。

リヴィエラは、曠野の蛮族を相手にしてそれなりに尋問のやり方を学んでいた。
オークの少年ウィ・ジャが性根のところで臆病であり、しかも大切なものを守る為に必死で、嘘をつく余裕などないこともすぐに見抜けた。
一つ一つの質問には意味がないように思えても、回答を繋ぎ合わせることで全体的な情報を読み取ることは難しくなかった。
簡単なテクニックと田舎芝居のような演技であっても、狭い世界で育った無知な幼い子供を誘導し、情報を聞き出すのは、リヴィエラにとって掌で転がすようなものだったに違いない。

「やはり戦士は殆どいないようですね」
話しかけてきた郎党に、郷士の娘は上機嫌そうに肯き返していた。
「この小僧が本当の事を喋っていればの話だけれどね」
急に尋問者たちの雰囲気が変わったことに心細さを感じながらも、痩せたオークの少年はぽつんと立ち尽くしていたが、
「カマを掛けられたんだ。この間抜け!」
暴れて猿轡をずらしたオークの少女が、再び苛立たしげに痩せた少年を叱り飛ばした。
「村を攻めるのに、守りを知りたかったんだよ!」
実際に、ウィ・ジャがしでかしたのは、リヴィエラの推測に補強する材料を与えただけである。
どの道、人族の一党が村を攻めるに決まっていたのだが、云ってはならない事を云った自覚を兎も角もウィ・ジャは持ち合わせていた。
痩せた身体が徐々に細かく震え始めると、相貌からは血の気が引いていく。
「ごめ、御免よ。だけど、おいら……母ちゃんが……」
言うべきでない言葉を吐いた少年は、罪の意識で潰れそうになりながら、青ざめた顔でうわごとのように呟きつつ身体を震わせていた。
「まだ、聞きたいことが幾つかあるよ、ウィ・ジャ」
穏やかな口調のリヴィエラに顔を覗き込まれて、オークの少年は涙目で尋問者に向き直った。
「遠征の指揮を取ったのはお前たちの酋長?それとも戦頭かい?」
嘘をついても他のオークに聞かれれば分かってしまうのだ。
嘘を見抜かれるのも恐かったし、この狡賢い人族の女がどういう意味で聞いているのかも少年にはまるで分からない。
「……ぞ、族長だよ」
リヴィエラに冷たい瞳を向けられて、痩せた少年は悔しさと恐ろしさに身を震わせて正直に答えつつも、悔しさに拳を握り締めた。
「そう。それで……族長の家族は何処にいるの?」
「云うな!ハッタリだ。何も答えるな!」
再び少女が叫ぶが、傍らにいた郎党が大きな掌で頬を激しく張り飛ばした。
「恐れる必要はない。お前たちの酋長は捕らえてある。もう何も出来はしない」
リヴィエラの脅かすような言葉に、痩せた少年は哀れなほどに縮こまり、ますます緊張で顔を青ざめさせた。


村の様子を偵察しているパリスの背後から、下草を踏みつけながらリヴィエラとその手勢が近づいてくる。
六人の兵士と共に丘陵の稜線に身を潜めながら、合流した二人は襲撃の段取りについて手早く手筈を整えていく。
窺える丘陵の稜線から覗き込みながら、リヴィエラはパリスに囁きかける。
「やはりトリスは制圧されているようね」
リヴィエラを一瞥してから、パリスは村に鋭い視線を注ぎながら難しい顔をした。
「小さい村だが、人数が意外と多い……侮れないぞ」
「いいえ。実際には、女子供が多い。
村人もかなりの人数が生き残っているようだし、楽な戦いだよ」
怪訝そうな視線を向けられて、リヴィエラは不敵な笑みを浮かべながら応えた。
四半刻(30分)のさらに四分の一もしない尋問だったが、村の守りについて脅えるオークの小僧が知りうる全てをリヴィエラは言葉巧みに洗い浚い聞き出していた。
「もう夕刻になる。連中は明るい日差しに弱い。
夕刻直前に西に廻り込んで、夕陽を背景に攻め込めば優位に戦える」
少し考え込んでから、パリスは沈黙を保ったまま視線で言葉の先をリヴィエラに促がした。
「私たちが先陣を切る。もし敵が多勢なら、一端引いて味方と合流し、戦いやすい場所で迎え撃つ」
郷士の娘は言葉を続ける。
指先で村の地形を示しながら、脳裏に描いた作戦を説明していった。
「敵の数が少ないようなら、あの広場かな。想定外にあまりに多いようなら、あの路地で食い止めつつ、パリス達の半分が路地を横切ってから敵の背後に回りこむ」
リヴィエラの観察眼は正確で、素早く降した采配も妥当に思えた。
周囲の者たちも自然と納得しているようだった。
「どうかな?」
訊ねられたパリスは、少しの間、何か言いたげにしていたが、リヴィエラの案に特に穴は見つからなかった。
「よし、それで行こう」
咄嗟に考えたにしては、中々の作戦だと思えて、結局は承諾する。

「曠野を思い出しますな」
「へっへっ、オーク共、腰を抜かすだろうぜ」
陽気で凶暴な笑顔を浮かべた郎党たちに囲まれ、僅か五名で先陣を切ろうというリヴィエラにはまるで緊張した様子が見えない。
不敵な笑みを浮かべて、じっと泥作りのあばら屋が点在する散村トリスを鋭い眼差しで観察しているが、横合いからのパリスの視線に気づいて不思議そうに首を傾げると見つめ返した。
「なに?」
「気をつけろよ、リヴィエラ」
僅かに苦い想いを抱きつつパリスが見せた気遣いに、リヴィエラは一瞬、呆気に取られた様子を見せていたが、すぐに苦笑を返してきた。
「ふふ」
口元だけで笑い、手を振ってみせると、踵を返して小走りに村へと走っていった。
豪族の息子パリスが見たところ、戦に関してリヴィエラは卓越した手腕と見識を誇っていた。
辺境の名族の若者たちは勿論、戦上手と噂される老兵の豪族たちに比べても、引けを取らないのではないか。
パリスは幼馴染の女性の力量の高さに感嘆を抱きつつも、同時に哀れに思わずにはいられない。
まるで幾年も戦場暮らしをしてきた古強者のように考え、振舞っているリヴィエラだが、一体、何処でそのような采配を身につけたのか。
些か活発すぎる所はあったが、かつては明るい普通の娘だった。
それが再会した時には、鮮やかな手際で音もなく敵を始末する練達の剣士になっていた。
冷静で大胆な戦士となり、オークの巣食う村に先陣きって切り込もうとしている。
随分と変わった。疎遠になっていた数年に何があったのだろうか。
パリスの気忙しげな瞳は、身を隠しながら村へと近づいていく外套の娘の背中を追いかける。
厳しい辺境で生き抜く為には、けして悪い変わり方ではないのだろうが……
友人の変貌にやりきれない想いを抱きつつも、パリスは頭を振って気を取り直した。
考えるのは後だ。今は目の前のことに集中しよう。
相手が洞窟オークとは言え、侮れれば痛い目に合うとも限らないのだからな。
ひとつ武者震いしてから、パリスは大地を大股に踏みしめてトリス村へと歩き出した。

トリスは、何分にも貧しい寒村であった。
他の村人の家に比べれば些かましではあるとはいえ、村長の家でも見栄えのしない泥作りの壁に葦で葺いた屋根の家屋であった。
洞窟オークに攻められた際に村長は殺されており、今、その家は村を占領した洞窟オークの族長とその家族、そして召使いたちの住まいとなっていた。
「あの子たち……遅いねぇ」
あばら家の裏庭で土壷に入れた麦粥を煮ながら、族長の連れ合いである洞窟オークの女がぼやいていた。
木皿を布切れで拭きながら、痩せぎすの身体をした召使いの年増女が相槌を打った。
「折角のご馳走なのにね……どこへいったのやら」
枯れ枝や粗朶を運んできた老オークが、薪を埃っぽい裏庭の片隅に置きながら
「なあに……きっと丘のほうに遊びに行ってるに違いねえ。
そろそろ子供らも戻ってくる頃だて。心配することはねえですよ」
「それもそうだけど……ねぇ」
手元のスープをかき混ぜながら、洞窟オークの女はなおも心配そうに呟きを洩らした。
見上げた空には、藍色の濃密なベールが舞い降りつつあった。
東の地平に広がる夜の闇と対比して、西の空に広がる茜色が何とはなしに血のように見えて、女オークは不吉な予感に意味もなく背筋をぶるっと震わせた。
もうじき日が沈む。洞窟オークが夜目が効くとは言え、夜の荒野には夜行性の怪物や狼が彷徨しているのだ。
族長の連れ合いの浮かない顔色を見て、召使いの老オークが腰を上げた。
「分かりやした。あっしが探しに行って来ましょう」
「すまないねぇ。あの子たちったら、あたしが幾ら言っても聞きやしないんだ」
「グ・ルムが帰ってきたら叱ってもらわないといけませんぜ」
文句を洩らしつつも探しに行く老オークに礼を云った長の連れ合いを見て、召使いの痩せた女オークが苦笑した。

トリスを攻め落とし、豊富とは云えずとも綺麗な水源と風雨を凌げる家を手に入れて、洞窟オークたちの生活は一変していた。
寒い夜にも、もう凍える必要はない。
薪で暖を取り、井戸の綺麗な水を使って身体を洗い、人らしい生活を送っていた。
小村落とは言え、水に乏しい渓谷に掘った縦穴式住居よりずっと住み易いのは間違いない。
かつては半裸の襤褸切れを身体に巻きつけていた族長夫人は、質素ではあるが良く洗った清潔な衣服を身に纏っていた。
召使いたちも、粗末ではあるが暖かい毛皮や厚手の服に身を包んでいる。

貧窮していた生活から一転して、人並みの生活を手に入れた洞窟オークたちだが、人心地ついたら、次はより良い生活を欲するのは人の常だろう。
留守を守っているのは、族長の夫人と召使いたちであったが、後先考えないのはオーク族の悪しき習性だった。
目の前にある食料を食べられるだけ食べようとする欲の皮の張った愚か者、奴隷に暴力を振るう乱暴者、冬の備蓄まで手を出そうとする盗人までいて、留守を守る者たちは部族の者らを抑えるのに砕身していた。

「どうも、みんな落ち着かないみたいだからね。早くグ・ルムに帰ってきて欲しいよ」
召使いの女オークが浮かない顔で愚痴っている女主人に慰めの言葉を掛けた。
「大丈夫ですよ。生活が変わって、皆、不安を覚えているだけですよぉ」
女召使いが続いて言葉を掛けようとしたその時、通りの方から凄まじい断末魔の叫び声が響いてきた。
一瞬にして石像と化したように身体を凝固させた三人の洞窟オークは、ゆっくりと顔を見合わせた。
「今の……なんだい」
囁くように訊ねた声が、しんと静まり返った裏庭に響き渡った。
「これは……」
不安そうに囁きあっている召使いの老婆と中年女をその場に残して、夫人は息を飲んで通りの方を小さな眼で凝視していた。
やがて、建物の影から小さな人影が現れた。
血塗れになった洞窟オークの老人がよろよろと覚束ない足取りで歩み寄ってくる。
「奥さま、逃げてくだせえ。人間共が……」
息を吐くように最後の言葉を囁いた老オークが崩れ落ちると、地面にゆっくりと鮮血が広がっていった。



[28849] 78羽 土豪 29 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2012/09/18 19:48
大半が人族からなる正体不明の戦士たちは、恐ろしく静かで信じられないほど素早かった。
村の外れに出ていた洞窟オークたちを音もなく殺害すると、そのまま村の中心近くまで一気に突き進み、物音に慌てて出てきた者たちを片端から殺戮していく。
混乱した洞窟オークたちは、連携を取ることも纏ることも出来ずに分断されたまま、村の各所で次々と討ち取られていった。
戦の詰めに至り、漸く生き残った十名弱の洞窟オークたちが合流したものの時は遅し。
その頃には、戦の状況は覆せないところまで劣勢になっており、もはや手の尽くしようがなかった。

村で唯一の頑丈な倉庫の一角に陣取り、塩辛声を張り上げて仲間に纏るように呼びかけていた老オークが、叫ぶのに疲れたのか。声を休めて背後にいる仲間たちを振り返った。
「中々、手強い連中みたいだな」
嘯いている恰幅のいい老オークの額には、真冬にも関わらず、びっしょりと珠のような汗が吹きだしていた。
寄せ手の短弓や投石器の石が、身を潜めた倉庫の土壁に当たってパラパラと音を立てる。
恰幅のいい老オークは苛立たしげに眉を顰めると、先ほど倉庫に駆け込んできた新参者を、倉庫の片隅にへたり込んでいる年若のオークたちを数えていた別の老オークに怒鳴った。
「そっちは何人だ!」
怒鳴り声が返ってくる。
「八人!」
「八人か」
老オークは暗澹とした貌つきとなって悄然と呟いた。
老人や若年者も含めれば、男手だけでも、トリスにはまだ四十近くも洞窟オークがいた筈だ。
過半は討たれたのだろうか。
物影に隠れながら、そっと怒号と喧騒の渦巻く外の様子を覗き見る。
奴らは、いい武装を持っているし、満を持して攻め込んできおった。
おまけに飛び道具まで持っている。
断じて野盗なんかじゃねえ。どこぞの豪族の兵士なのは間違いねえな。
土壁に飛び道具が当たる音を聞いて、倉庫に隠れている幼女の洞窟オークがすすり泣いた。
「当たりゃしねえよ!こっちは小さいからな」
安心づけようとしたのか、誰かが下手な冗談を口にした。
「そりゃ、違う。やつらがでかいのさ!」
せめて軽口でも叩かないとやってられない。

敵は多勢だ。此方は老いたオークか、さもなきゃ若僧ばかりだった。
恰幅のあるオークは、身体中に傷跡が残っていた。
かつては他のオーク族の為に傭兵として働いた事もある古強者だ。
先ほどまでは目の前に現われた敵に果敢に打ちかかっていたが、どうにも分が悪いとみて、生き残りを纏めながら、村の中央へと退いてきたのだ。
次々と薙ぎ倒されていく洞窟オークたちは怯み、しかし壊乱には陥らずにいたのは、老オークの指揮と鼓舞の賜物だろう。
先ほどからは、まともに挑むのではなく、矮躯を活かした一撃離脱の戦い方に転換した。
建物の影や物影に潜んで、敵を襲ってはすぐに隠れる事で、せめて女子供が逃げる時間だけでも稼ごうと考えたのだ。

流石のリヴィエラが手を焼いていた。
一撃で決められる目算を抱いていたが、人里離れた渓谷に棲まう洞窟オークの分際で存外にも戦馴れしているのか。中々に崩れなかった。
音高く舌打ちしながら、素早く方針を転換して、味方の待ち構えている後方に下がるように指示を下した。
「一端、退けい!見通しの開けた所で迎え撃つ!出来るだけ派手に逃げろ!」
「おう!」
人族やホビット、ゴブリンなどからなる戦士達が波が引くように退いていく。
「一端退いたぞ」
「やった!追い駆けろ!」
押されっぱなしだった若者達が、逃げていくようにも見える敵を見て誘われるように追い駆け始める。
「追うな!」
老オークが声を枯らして留めようとするが、よそ者の老オークや若衆も多かったのだ。
烏合の衆の悲しさで誰も云う事を聞かず、流れはどうしようもなかった。
「せめて、女子供を逃がさんと……」
「駄目だ。反対側にも人影がちらほらと見える。槍を連ねてるぞ。此方を一人も逃がさん構えだ」
「それに村人も幾人かは向こうに合流しておる」
「糞ッ!こうなりゃ、敵の大将を討ち取るしかないわッ!」
誘い込まれるように開けた広場へとなだれ込んだ洞窟オークたち。
そこで攻め手の兵士たちは、西日を背中にして陣取っていた。
誘われるように敵を追い、誘い出されたオークたちだが、開けた広場で徐々に強くなっていく強烈な西日を目前にして流石に怯みを見せた。
暗い所で暮らす彼ら洞窟オークは、強い日差しが大の苦手なのだ。
足を止めて顔を見合わせるが、今度は豪族の兵士達が喊声を上げて吶喊してきた。
目を晦ませながらも打ちかかるが、盾や槍などを連ねた長身の人族の兵を相手に不利は否めない。
ゴブリンやホビットも、厚手の防具や鋭い刃などで武装しており、かなり戦い慣れている風情だった。
元々、襲撃者の方が武具や体躯でも、戦える人数でも、ずっと勝っているのだ。
場慣れした兵士たちによる奇襲であり、おまけに集団の戦いにも慣れていた。
衆寡黙さず洞窟オークたちは次々と倒れていく。
彼らから見れば、巨躯を誇る人族が振り下ろす巨大な武具は、まともに喰らえばその衝撃だけでも命取りだ。
剣戟と怒号の入り乱れる広場に踏み込んで、古強者の老オークは覚悟を決めた。
敵の首魁を見つけて、せめて刺し違えてくれようと目ぼしい敵のうちで見回していた。
「あいつが頭目か」
意外にも女。両手に各々剣を持っており、少し下がった箇所から攻め手を鼓舞していた。
「やつを倒せば……」
呟いた老オークは、剣を握り締めると叫びながら一直線へ敵将へ向かって走り始めた。

一匹のオークが己を目指して突っ込んでくるのを見て、リヴィエラは嫌そうに眉を顰めた。
剣を構えながら、突っ込んできたオークへと斬りかかる。
意外にも受け止められた。強い打ち込みに、郷士の娘は眉を顰めた。
互角か。意外と強い。思いながら、改めて向き直る。
相手が酷く老いているのにリヴィエラが気づいたのは、その時だった。
手にも足にも全身に深い傷が刻まれている。顔など片目が潰れていた。
にも拘らず、もうひとつの目には凄まじい気迫が宿っていて、リヴィエラをしっかと睨みつけていた。
こいつは手強いな、と舌打ちすると、次は自分から動いた。
低い姿勢で矢継ぎ早に打ち込んでいくが、洞窟オークに後退しつついなされてしまう。
洞窟オークが反撃に転じた。おう!裂帛の気合を叫びながら、死力を尽くして打ち込んでくる。
剣をまともに受けた瞬間、その威力に腰が砕けそうになり、リヴィエラの瞳が驚愕に大きく瞠られた。
リヴィエラは、膂力に優れているものの、剣士としての修練はそれほど積んでいない。
気配を消しての不意打ちが得意技なだけに、けれんに頼る分、真っ当な打ち合いになれば、正当な剣を磨いていない弱味が技に出る。
けして弱い訳ではないが、強敵が相手だとまともな戦いを避ける傾向があった。
そしてこの時、リヴィエラにとって強敵になろう筈がない老オークの必死の気迫が、膂力の差を打ち消した。

周囲では味方が優勢な中、老オークの死に物狂いの猛攻にリヴィエラは独り追い込まれていく。
老いた洞窟オークは、気迫といい、太刀の鋭さといい、洒落にならない強敵だった。
振るわれる一太刀一太刀が相打ちに持ち込もうとでも云うのか、必殺の気迫を孕んでいた。
「糞ッ!」
左の小剣でオークの剣を懸命に防ぐものの、敵の威力の強さにリヴィエラの剣が泳いだ。
体軸が揺らいで隙が生まれた。
老オークが裂帛の気合と共に一気に踏み込んで剣を突いてくる。
素早く飛び退ったものの、刃先に浅く腹部を薙がれていた。
リヴィエラの高価な革鎧が裂けている。
いやな顔をしてから、ひゅっと息を吐くと素早い動きで反撃に移る。
剣による突きは一撃必殺の威力を誇るが、躱された時の隙が大きい。
リヴィエラの剣が強かに洞窟オークの肩を切り裂いた。
血飛沫が飛び散って、だが、切り裂かれながらも、洞窟オークは丸まって突っ込んでくる。
こいつ!命を捨ててるのか!
据わった眼を見た瞬間、郷士の娘の背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。
老オークの瞳は、何も移していない。ただ鏡のようにリヴィエラのみを捉えている。
突っ込んできた洞窟オークにとっては、矮躯がいい方に作用した。
背を縮めれば、長身の相手が剣を振り下ろそうとも浅くしか切られない。
「があっ」
左手の短剣で凌ぎながら、リヴィエラは必死で右手の中剣を振るう。
青白い火花を散らして刃が噛みあった。
死神の息吹を耳元に感じながら、郷士の娘は辛うじて持ち堪える。
リヴィエラとて、百戦錬磨の剣士である。
死兵と化した相手と戦ったのも、一度や二度ではない。
命を捨てて掛かってくる危険な敵を相手に廻して、粘り強く持ち堪えながら、今も冷静に勝機を探っていた。
何より、リヴィエラは若く、生命力に満ちており、対する老オークが全盛期の体力を誇っていたのは何十年も昔であった。
如何に古強者とは言え、年には勝てない。老オークの息が上がってきた。
それを見逃すリヴィエラではない。
横っ飛びに洞窟オークの剣先を躱すと、外套の中から目潰しの砂を取り出して投げつけた。
独眼に入ったか。目元を一瞬だけ押さえた老オークが歯軋りし、憤怒の叫びを上げながら突っ込んでくる。
だが、リヴィエラはすでに横合いに跳ね飛んでいた。
「死ね!老いぼれ!」
必殺の剣が今度こそ老オークの横っ腹を布地ごとに切り裂いた。
荒い息を吐きながら、リヴィエラはきりきり舞いして倒れる老オークを見つめていた。
「やった……か?」
呟いた瞬間、老オークががばりと起き上がった。
「ぐああああおい!」
凄まじい叫びと共に飛び掛ってくる。恐るべき執念だった。
流石に肝が冷えたが、郷士の娘は油断していなかった。
後ろに仰け反りながら突き出した刃が老オークの貌を強かに切り裂いて、臓物を撒き散らしたにも拘らず、老オークはなおもたたらを踏んで立っていた。

「いい加減に……倒れろッ!」
背中に冷たいものを感じながらリヴィエラが叫んだ瞬間、横合いから突き出された槍の穂先が老オークの胸元に沈み込んだ。
がぶっと血を吐きながら、流石の老オークも地面へと崩れ落ちた。
「……パリス」
汗だくのリヴィエラが見ると、幼馴染のパリスが横合いから槍で老オークを突き刺していた。
「危なかったか?リヴィエラ」
問われたリヴィエラは、地面の老オークをじっと見つめた。
その形相の凄まじさ、目はカッと見開き、口元は歯を剥き出しの恐ろしい断末魔の表情に苦い表情を浮かべる。
「……いや、一人でもなんとかなったよ。でも、手強い敵だった」
一対一で倒したかった気もしたが、危険を侵す必要もなかった。
深々と溜息を洩らすと、リヴィエラは身を屈めて老オークの手にしていた小剣を拾い上げた。
よく手入れされていたのだろう。中々に切れ味が鋭いので戦利品として貰っておくことにした。
「うん……助かったかな」

老オークが死んだとは思うものの近づいて確かめる気になれず、リヴィエラはパリスの槍を借りて念のために離れた場所から止めを刺してみた。
穂先が沈み込んでも、ピクリとも動かない。やはり死んでいる。
荒い息を整えながらリヴィエラが改めて周囲を見回してみれば、大勢は決したようで、大半の洞窟オークが打ち倒されていた。

「やったな……見事な勝利だった。大したものだ」
淡々とした口調ながらも、パリスはリヴィエラを惜しみなく賞賛した。
郷士の娘も疲れた表情ではあったが、少しだけ嬉しそうに唇の端を歪めた。
顔を撫でて左右に視線を走らせてから、パリスは空を仰いで嘆息した。
「確かに女子供と老人が大半だったが……梃子摺らされたなぁ」
地面に転がっているのは洞窟オークばかりだが、寄せ手の兵士達も身体の彼方此方を朱に染めているのは、返り血ばかりではないだろう。
味方の手負いに下がるように指示しながら、リヴィエラも相槌を打った。
「最初から負けっこない戦だったけど、思ったよりも手強かったね」
手負いは出たが、それでも味方に深手を負った者や死人は一人もいなかった。


制圧したトリス村の中を忙しげに幾人もの兵士たちが歩き回っていた。
解放されて歓ぶかと思いきや、虜となっていた村人たちの表情はどうにも鈍かった。
奴隷にされていたとは言え、さほど過酷な扱いを受けていたわけではないようだ。
オークは大概、異種族や異民族、時には同じオークであっても、奴隷を手酷く扱う事例が多かったから、此れはパリスやリヴィエラたちには意外だった。
いまだに叫び声や悲鳴が村の彼方此方から聞こえてくるのは、勝者となったクーディウスの兵士たちが逃げ惑い、或いは隠れている洞窟オークの女子供を表へと引きずり出しているからだ。
十戸少しの小屋が点在しているだけの小村落に、逃げ隠れできる場所がそれほどある訳でもない。
戦の間に逃げなかった以上、見つかるのも時間の問題だろう。


リヴィエラの背後から、髭面とアイパッチの郎党二人が駆け寄ってきた。
耳打ちされたリヴィエラは、そっと顔を上げると離れた場所にいるパリスを窺った。
豪族の息子は、生き残った村人の代表者たちとなにやら話しこんでいた。
「生き残ってるのは、餓鬼が十匹くらいですね」
「あとは女が十四、五に男が五匹か、六匹」
部下たちの報告を吟味したリヴィエラは、怪訝そうな表情を浮かべて形のいい眉を上げた。
「……子供が少ないな」
「まだ隠れてる奴もいるでしょうから、探せばもう少しいるでしょうが……村人も一緒になって探せば、すぐ捕まえられますよ。
餓鬼が少ないのは、ここ何年かは不作が続いてましたからね」
「ああ」
合点がいったというように呟いてから、部下の問いかけに鋭い眼差しを向けた。
「で、こいつらはどうします?」
「パリトーは近くだし、半日で戻れる。
出来るだけ生かして捕まえたら、奴隷に売りさばこう」
部下たちは顔を見合わせる。
「穴野郎共じゃ高くは売れんでしょうよ」
「ティレーの市に立たせりゃ、小遣い銭くらいにはなるだろ」
「連れて行くのも手間隙かかるぜ」
部下たちの言い合いに暫らく耳を傾けていたリヴィエラだが、やがて危険な笑みを浮かべた。
「全員、連れて纏めて売れば、それなりの額にはなるだろう。
お前たちにも、ちょっとした小遣いをやることが出来る」
リヴィエラの言に、部下たちは顔を明らめて肯いた。
と、其処に部下の報告を受けたパリスが、リヴィエラのほうに歩み寄ってくるのが見えた。
「期待出来るとは思わんが、綺麗どころがいたら好きにして構わないよ。
ただし、パリスに見つからんところでね」
二人の郎党を一瞥してから囁き声で告げると、リヴィエラはパリスに向かって歩き出した。
「流石に話が分かるぜ、お嬢」
アイパッチがにやけながら云うと、髭面も陰気な表情に餓えたような瞳で捕虜の少女をねめつけた。
「後で連れ帰ってから、楽しめばいいさ。幾らでも機会はあるしな」
リヴィエラも、その部下たちも、争いとは無縁でいられる土地の住民から見れば、その考え方や習慣は忌むべきものに思えるかもしれない。
辺境の基準で見ても、彼らは冷酷で悪辣な人種の類ではあったが、しかし、其れでもベーリオウルの郎党たちからすれば、リヴィエラは餓鬼の頃から見知った信頼も信用も出来る彼らのお姫さまだった。


戦いの始まった頃に斬りつけたものの、逃がしてしまったみすぼらしい老オークのものだろう。
地面に残された血の跡と引き摺ったような足跡をリヴィエラとパリスは追い駆けていた。
その後ろを数名の郎党たちが付き従っている。
村の中央に建っている他の小屋より少しだけ佇まいの立派な家屋へと血痕は続いていた。
血の跡に導かれて、その裏手へと廻ると老いた亜人が倒れていた。そして
「見つけた」
郷士の娘が呟いた。
夕刻の日差しに照らされたあばら家の裏庭。隅のほうに積み重ねられた薪の向こう側に子供と大人の丁度、中間くらいの背丈の小さな生物が息を潜めて隠れているのが丸分かりだった。
「逃げなかったのか」
訝しげにパリスが挟んだ疑問に、リヴィエラは小さく笑って肩をすくめた。
「逃げられなかったのさ。わたしたちが村の中央で戦っていたから。
周囲でいきなり戦が始まって、どうするか迷っているうちに時期を逸したんだ」
すぐに逃げ出す決断を下されていたら、きっと逃がしていただろう、と付け加える。
襲撃を幾度もこなして来ただけに、襲われた側の行動や心理について詳しかった。
物思いに耽りながら、パリスはオーク小人たちの隠れている薪の影へと声を掛けた。
「いるのは分かってる。大人しくしていれば手荒には扱わん。出て来い。」
暫しの沈黙の後、薪の陰から小さな人影が三つ、立ち上がると恐る恐る進み出てきた。
老いたオークと年増のオークに守られるように中央に立っている女オークを眺めて、パリスは考え深げに肯いた。
「こいつは他の洞窟オークたちより、ちょっと立派な服装をしているな」
「ふふん、当たりかな」
得意そうに鼻を鳴らしたリヴィエラを、少しだけ微笑ましそうに一瞥してから
「なんか偉そうだ。まず間違いない」
パリスの言に肯きながら、リヴィエラは微笑んだ。
背後に控えている数人の郎党たちになにやら合図を送ろうとして、
「逃げてくだせえ!奥方さま!」
いきなりそう叫んだ老婆が懐から小さな刃物を引き抜いた。
枯れ枝のように細い手で振り回しながら、小娘と侮ったのか。
リヴィエラへと飛び掛ってくる。
「……えい」
相手にもならない。鞘に入った剣にそのまま頭を張り飛ばされ、小さな身体ごと吹っ飛んだ老婆のオークは、壁に叩きつけられるとそのまま動かなくなってしまった。

「ナ……ナス!」
召使いのオークが恐怖の叫びを上げ、族長夫人が前へ進み出てきた。
「他の者に手出しするのは、お止め!用があるのはあたしにだろう!」
オーク小人如きとは言え、族長の伴侶となればさすがにそれなりの貫禄を持っているようだった。
「逃げも隠れもしないか。今さら、逃げ隠れできる場所がある訳でもないが」
パリスは、堂々とした女オークの態度に多少の好感を抱いたが、しかし、リヴィエラはせせら笑いを浮かべていた。

「ガーズ、小僧たちを連れてきて」
「へい!」
郎党に声を掛ける。
すぐに表の方から茶髪の女兵士に連れられて、洞窟オークの少年たちが裏庭へと連れて来られた。
裏庭で顔を見合わせた五匹の洞窟オークたちは、虜になった互いの姿を見て息を呑む。
「ウィ・ジャ!」
入ってきた痩せた少年を見つめて、召使いの女オークが駆け寄ろうとした。
「母ちゃん!」
痩せた少年も一目散に母親の所へ行こうとするが、リヴィエラに肩を掴まれる。
「……まだだ」
「な、なんで……云われた通りにしただろう!」
蔑みと憐憫の入り混じった光がはリヴィエラのヘイゼルの瞳に走った。
「確かに一番、立派な家にいたな。
小僧。よくやった。約束どおりに母親とお前の命は助けてやろう」
馬鹿な餓鬼だと言いたげに痩せた少年の耳元に囁くと、リヴィエラは肩を掴んで母親のほうへと押しやった。

だが、会話を聞いていた召使いの女オークは、強張った顔つきで立ち止まっていた。
「お前……なんてことを!
お前が案内したのかい、まさか、お前が!」
色々と限界になっていたのか。険しい顔つきで母親に凝視され、激しく詰問されて、痩せた少年はあっさりと白状してしまう。
「御免、母ちゃん。
だ、だけど、あいつら。言う事聞かないと、母ちゃんを、こ、殺すって」
言い訳は、だが、耳に入っているのか。
慙愧の念に苛まされる痩せたオークの少年は、救いを求めるように母親に駆け寄ろうとして、しかし、息を飲むと目を大きく瞠って立ち止まった。
「ぁ……かあちゃ……」
だけど母親は、まるで忌まわしい者から遠ざかろうとするかのように後退りをすると、ただ息子に嫌悪と侮蔑の入り混じった瞳を向けていた。
母親の小さな瞳に浮かぶ強烈な拒絶の昏い眼差しが、痩せたオークの少年に胸に突き刺さって、その足を石のように重く動かなくさせたのだった。



[28849] 79羽 土豪 30     2012/09/24
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/01/08 20:03
土壁の前に頭から血を流して横たわるオークに近寄ると、ベーリオウルの郎党は乱暴に足蹴にした。
鈍い音がしたものの、老いた召使いは襤褸切れのように地面に蹲ったまま、ぴくりとも動きだす気配を見せなかった。
「売り物にするんだ。あまり乱暴に扱うなよ」
リヴィエラに窘められた禿頭の郎党は、笑いながら肩を竦めた。
「いや、死んでる。売り物にするなら、手加減しねえといかんぜ」
混ぜっ返された郷士の娘は、肩を竦めると拗ねたように唇を窄めた。
「オークの婆さんなんか、誰が買うんだね?」
「つい、今さっきとで言ってることが違いまさぁ」
兵士たちの中には、主に怪我を負わされた兵士だが、執拗に抵抗した洞窟オークを切り刻みたがっているものもいて、リヴィエラがちょっとした小遣いにもなる事を思い出させてやらなければ、彼らの命運もそれまでだっただろう。
勿論、売られるオーク達が、郷士の娘の『親切』に感謝することなどない。

幼馴染のリヴィエラが奴隷の値段について楽しげに会話を交わすのを耳にして、パリスは反吐を吐きたいほどに胸糞が悪くなり、地面に唾を吐き捨てた。
冬の夕暮れに、盆地の散村に冷気が忍び込んできた。
肌寒さを避けるようにあばら家に踏み込むと、パリスは手近にある粗末な丸太椅子に腰を降ろした。
薄暗い茜色の光の中、彼の目前で捕虜となった洞窟オークたちの列が連行されていた。
衝撃に虚脱した洞窟オークたちは、泥と血糊に塗れた全く哀れな姿であった。
ベーリオウル一党の捕虜の扱いが優しいとは勿論、云えなかったが、しかし、それでもオーク族が他の種族を虜囚とした時の扱いはさらに過酷であるし、曠野(ネレヴ)に棲む蛮族でも特に凶暴な部族となると、そもそも捕虜を殆ど取らない。
ヴェルニアでも辺鄙な地に隠れ棲まう先住種族のうちでも尤も凶暴で原始的な一握りの種族は、もっと酷かった。
原始人たちは、恐らく、町や村に住む文明人に憎しみを覚えているのだろう。
町では卑屈に振る舞い、その癖、盗みを行い、女を犯し、住人によって唾を吐きかけられ、私刑に合うことも度々で、その憤懣を晴らすように、己の縄張りに踏み込んだ者は、相手がオークであろうと、人であろうと、はたまた荒野の蛮族であろうと、縄を打って蓄獣のように四つん這いに歩かせたり、散々弄りながら痛めつけ、最後には生皮を剥いで殺すのだ。
女の腹を断ち割りって歓ぶ輩もいるとの噂も耳にしていた。恐らく事実だろう。
辺境に棲まう人族勢力とオーク族勢力、両者が訪れる前より辺境に棲まっていた先住民、そして荒野の蛮族たち。
辺境と曠野の数ある勢力は他者を憎み、恐れ、定期的に血で血を洗う抗争を繰り返していた。
恐怖を表情に浮かべ、足を引き摺りながら埃っぽい道を歩いていく洞窟オークたちの列の上に視線を走らせたパリスの物静かな薄い茶色の瞳と、連行される一匹の洞窟オークの視線が合った。
洞窟オークの小さな黄色い眼から、如何な感情を読み取ったのだろうか。
豪族の息子パリスは、怯んだように僅かに表情を強張らせてから、誰に聞こえるでもない嘆きの言葉を口の中で呟いた。
憎悪だ。互いへの恐ろしい憎悪と蔑みが更なる憎しみを呼んで連鎖している。
この憎悪は、辺境に棲まう全ての民の血と嘆きを飲み込んで貪欲な豚のように際限もなく肥え太り続け、だが、いつかは己の体重を支えきれずに辺境に棲む俺たち自身の頭の上に崩れ落ちてくるに違いない。
そしてその時は、辺境の誰も彼もがその重さに押し潰され、破滅してしまうだろう。
そのことをパリスは恐れていた。
過去、数十年に渡って幾度となく繰り返されてきた人とオークの争いが、飽きもせずにまた始まろうとしていた。
その戦が如何な形に終わろうと、これから先も形を変えて繰り返されるに違いない。
お前たちは何の為に生まれ、死んでいった。そして、俺は……姉さんやリヴィエラは。
腹を切り裂かれて地面に転がる洞窟オークを眺め、独りごちてから、パリスは一瞬だけ僅かに背を丸めると背中を慄かせた。
勇敢な青年でありながら、同時に善良な心根の持ち主であるパリス・オルディナスは、繰り返される争いにやりきれなさを覚えながら、それでも大勢の者を見捨て、自分一人戦いから遠ざかって安全な場所にいる事は出来ないのだった。


オークの少年たちの目の前で死体を蹴り飛ばし、或いは捕虜を畜生の如く乱暴に扱う人族の戦士たちは、気の弱い人間なら気死しかねないほど濃密で威圧的な暴力の気配を全身から発散していた。
殺伐とした雰囲気を纏った彼らは、虜となっている三人のオークの子供たちにとって、話しかけるのも躊躇われるほどに恐怖の対象であったけれども、しかし、耳に挟んだ会話はけして聞き過ごすことの出来ない内容で、長の子供であるグ・スウは敢えて口を開いた。
「……売り物ってどういう事だ?皆殺しにするんじゃなかったのか?」
洞窟オークの小僧如きに対等な口の聞き方をされて、郎党の一人は機嫌を損ねたのだろう。
グ・スウに近寄ってくると、凶暴な眼を見開いてまじまじと少年を見つめてきた。
僅かな怯みも見て取れないと見るや、無言のまま、硬い拳で小僧の腹を強烈に殴りつけてきた。
「ぐふぅ」
蹲った彼の髪を掴んで引き摺り立たせると、さらに二、三発殴りつけてから、地面に倒れた小僧の顔に唾を吐きかけた。
「ん、ああ」
捕虜の人数を数え、売り飛ばす際の値踏みをしていたリヴィエラが戻ってきた。
商品の吟味は大切な仕事で、一段落ついた彼女は上機嫌な様子を見せていた。
「あれは嘘だよ。殺しても金にはならんだろう。まあ、抵抗した奴は殺したがね」


「君ら、洞窟オークでは大した金にはならんだろうが、ティレーでも、ゼオニスでも、でかい町に連れて行けば小遣い銭くらいにはなる」
郷士の娘は、荒縄で数珠繋ぎに手を縛られた洞窟オークの列を見回して、器量の良い顔立ちに御満悦の表情を浮かべて囁いた。
パリトーの村に戻ってしまえば、奴隷たちの処分はきっと自分に任されるのは違いない。
かなりの収穫だったので、興奮して鼻腔を膨らませている。
パリスなどは奴隷にも同情するかも知れないが、それならそれで、売り払うまでは精々、慈悲深く扱ってやってもよい。

東のティレー市にしろ、南王国のゼオニス市にしろ、千人規模の人口を抱える大きな町になると、小さな村とは違って、よそ者に賃金を払ってでも働き手が求められてくる。
特に壁作り、石切りや溝掘りなどの重労働や、糞尿の処理など穢い仕事の働き手は常に求められているが、手が足りる事は滅多にない。
自由労働者や出稼ぎの農夫であっても、辛い仕事を好き好んでする者はけして多くないし、雇うのであれば対価を弾まなければならない。
そこに奴隷の出番がある。
大きな城市では、奴隷は常に一定の需要を持っていた。
そうした町の店舗が集る大通りの一角には、大抵、奴隷を扱う商家もあって、近隣一帯から農園主などが奴隷を求めて訪れることもある。
また、そうした大きな町の奴隷商人たちとベーリオウル家は、些少の付き合いがあった。
例え洞窟オークとは言え、数十人も纏めて売れば幾らかは色もつくだろう。
北から商品を求めてやってくる奴隷商人などなら、鉱山などに売る為に纏め買いすることもあるだろうし、或いは、直接に取引の機会して大きく儲けられるかも知れない。

時折は、リヴィエラ・ベーリオウルも、無慈悲な行動に己で反吐が出そうになる。
オーク族は、人族を憎んでいる。殺さなければ、殺される。
一人でも二人でも多くのオーク族を殺すことが、民草や仲間を救うことに繋がる。
それがリヴィエラ・ベーリオウルが学んできた、どうしようもなく動かしようのない此の世の現実であって、だから彼女は、自分に出来る精一杯のことをしていた。

二人の少年。特に少女の方は、怒りに燃える瞳でリヴィエラを睨んでいたが、猿轡を嵌められている為にその罵り声は不明瞭な呻きにしか聞こえなかった。
リヴィエラは、痩せた少年に笑顔を向けると、馴れ馴れしく頭を撫でて親しげな口調で宣告した。
「君と母親は一緒に売ってやろう」
洞窟オークの族長の息子は、離れた場所から、じっと此のやり取りの一部始終を目に焼き付けていた。
どうして、人族は、こんな酷い事をしながらそんな顔が出来るのか。
まるで善行を積んでいるかのように、金髪の娘は楽しげに笑っていた。

痩せたオークの少年が呆気に取られた様子で、郷士の娘リヴィエラを見つめた。
呆然とした様子のウィ・ジャは、のろのろと言葉を紡ぎ、弱々しく抗議した。
「……か、母ちゃんは逃がしてくれるって」
オークの子供の擦れた声を耳にした郷士の娘は、ふてぶてしい笑顔を立ち尽くすだけの哀れな少年に向けた。
「殺しはしないとは云ったが、逃がすとは云ってないぞ?」
「だ、騙したな!」
激昂する少年を面白そうに眺めてから、リヴィエラは冷淡に指摘する。
「人聞きが悪いな。勝手に勘違いしたのに」
「最初からその心算で……こッ、この野郎」
唾を散らして喚いている少年を見つめながら、リヴィエラは頬に指を当てて少しだけ考える素振りをした。
「だけど、うん。族長の子供も抑えておきたいな。
何処にいるか教えてくれれば、母親を期待どおりに助けてやるよ」
身を屈めたリヴィエラの囁きに、痩せたオークの少年は一瞬だけ目を瞠った。
一緒に捕まった残り二人の友人の方に視線を走らせてから、或いは何もかもを諦めたのか、貝のように口を結んで沈黙に閉じ篭った。

族長夫人は、やはり石のように沈黙して、郷士の娘を睨みつけていた。
「貴方と貴方のお母さんだけは命を助けてあげると約束したな。
それだけではない。望み通りに、逃がしてやってもいいぞ」
痩せた少年に対するリヴィエラの誘惑は続いた。
「奴隷頭の地位に付けてあげてもいいし、奴隷に売り払わないで解放してあげてもいい。
約束は守るよ。大切なんでしょう?お母さん」
地面を俯き、涙を零している痩せた少年の耳元で優しく美しい声で囁いた。

「んー!んっ、んんっ、んんんんー!」
猿轡を今度こそ厳重に掛けられているオークの少女が身を捩った。
「何か云いたいことがあるの?」
激しい唸り声が気になったのか、リヴィエラは外してやるように郎党に命じた。
途端、罵声が飛び出してくる。
「てめえ!死ね!糞女!猿!オークでなし!人め!人族野郎!」
「人に人って云って悪口になると思ってるのか。ま、いい。黙らせなさい」
郎党が容赦なく頬を張り飛ばた。汚い布の塊を口に入れて猿轡を厳重に嵌めようとする。
「ま、待って!」
必死に顔を振りながら、オークの少女が叫んだ。
「あたしだ!あたしが族長の娘だ!」

「……お前が?」
一瞬だけ呆気に取られ、馬鹿にするように鼻を鳴らしたリヴィエラ・ベーリオウルに禿頭の郎党が近づいて囁いた。
「……お嬢」
「分かってる。ハッタリかも知れない。だが……」
南方語で小さく囁きあいながら、疑わしそうに少女を眺めてリヴィエラは思案を凝らす。
確かに小娘は、そして黙り込んでいる小僧も、他の洞窟オークの子供らより仕立てのいい服を着ている。
両者とも肉付きがいいのは、親の地位が高かった証に違いない。
族長の娘だとしたら、モラには気の毒だが、後でくれてやるわけにもいかないが……さて、どうだろう。

「……頭領の餓鬼は男だと聞いていたけれど?」
郷士の娘は、さりげなくカマを掛けてみた。反応は芳しくない。
「はあ?あたしが男に見えるかよ」
オークの少女は素早く頭を回転させて、敢えて勘違いしたような受け答えを返した。
この時は、子供の命懸けの覚悟と演技力がリヴィエラの観察眼を上回った。
判断に迷いつつ、郷士の娘は痩せた子供を見つめて訊ねた。
「あれは、本当に族長の子供なの?」
痩せた少年は、数瞬、迷いを見せてから、震える指を上げてすっと指差した。
「そうだよ。あいつが……族長の娘だ。だから、母ちゃんと俺は逃がしてくれよ」
痩せた少年とあわせる様に、オークの少女も懇願し、隣にいる少年を一瞥した。
「あたしも人質になる。だから、ウィ・ジャたちとこいつは逃がしてやってくれ」
少し考えてから、リヴィエラは痩せた少年の背中を母親の方へと押しやった。
「……ウィ・ジャ」
何か言いたげに呟いたオークの少女に駆け寄ると、痩せたオークの少年は、堪えるように身体を震わせつつ小声で謝罪した。
「御免……ジグ・ル。でも、俺……」
少女は無言で肯いてから踵を返した。

リヴィエラはしばみ色の目に皮肉な光を走らせながら、お涙頂戴の三文芝居を眺めていたが、
「族長の子には縄を後ろ手に縛って。母親も抑えておこう」
命令を受けた男たちが動き出し、二人の子供を引き離した。
親子だと言い張った女オークの方へと乱暴に突き飛ばされた少女は、おずおずと族長の夫人に近づいてから、躊躇しつつ、そっと呼びかけた。
「……か、母ちゃん。ぞくちょ……親父も捕まっているって。
あたし達は、きっと親父への人質に使われるんだと思う。
きっと、何か云う事を聞かせたいことがあるんだ」
族長の夫人は、息子を一瞥してから身代わりとなった少女を抱きしめて、その耳元で小さな声で優しく囁いた。
「……そうだね。でも、ありがとう」
だけど、豪族の娘リヴィエラ・ベーリオウルは、気の強いオークの少女が考えていたよりは、ずっと狡猾で用心深かったのだ。


「……母ちゃん」
痩せた少年も、召使いの女オークに駆け寄り、しかし、仲間を裏切った彼に母親は優しくなかった。
心が張り裂けそうになりながらも、ようようと母親に近づこうとしたウィ・ジャは、力強い腕に思い切り突き飛ばされた。
地面に尻餅を付き、困惑し、泣きそうな顔で母親を見上げると縋りつくように救いの声を洩らした。
「かあちゃ……」
息子の懇願するような呼びかけに返答する母親の声音は、氷点下の冷たさを思わせた。
「あんたは……あたしの子供じゃない
あたしは、仲間を裏切るようなやつを……産んだ覚えはない」
散村の風景が夕刻の茜色の日差しに染まっていく中、母親に拒絶された少年は蒼白な顔でただ立ち尽くしていた。


腕組みしながら此の後の算段を色々と立てているリヴィエラに、郎党の一人が歩み寄った。
「小僧のほうはどうするね?こいつも、いい服を着ている」
部下の云いたい事を理解して、郷士の娘は用心深そうに肯きながら指示を下した。
「小僧は逃がさない。小娘の騙りかも知れんし。
族長に言うことを聞かせるには小娘が必要だが、小娘を動かすには小僧が必要かも知れん。
だから、念の為に両方、押さえておこう」
郎党が満足そうに同意するのと同時に、オークの少女が絶句していた。
「……なッ!」
族長の本当の子供であるグ・スウだけでも逃がそうと考えていたのに、台無しだった。
痩せた少年の意味ありげな視線を、リヴィエラの注意深く鋭い瞳は捉えていたらしい。
浅知恵と三文芝居には騙されなかったらしい。

強張っている少女の額を流れる汗を眺め、瞳を細く眇めてから、リヴィエラは痩せた少年に話しかけた。
「そう言う訳だ、少年。
君は約束どおり見逃してやる。母親と共に、何処へなりとも……」
獣のように凶暴な唸りを喉から発していたウィ・ジャには、リヴィエラの言葉は聞こえていなかった。
痩せた少年の体内で自分たちを踏みにじる人族への憤怒が荒れ狂い、心のうちにあった何かが切れた。
老オークの落した得物が怒りに猛る少年の目に入った。
素早く小刀を拾い上げると、痩せた少年は怒りを雄叫びを上げて郷士の娘へと飛び掛った。
しかし、文字通りに百戦錬磨であるリヴィエラには、まるで通用しなかった。
不意を突かれたにも拘らず、郷士の娘の身体は反射的に動いた。
あっさりと飛び退って躱すと、その拍子に後ろに纏めたくすんだ金髪が鞭のように宙に舞い、夕日に煌めいた。

「うああああ!」
二度、三度と切りかかられるも、リヴィエラは余裕で身を躱しながら嘲笑を浮かべた。
「おいおい、止めておけ。そんなもの振り回して危ないぞ」
窘められた少年は侮辱に顔を真っ赤にし、なおも喚きながら狂犬のように飛び掛ってくる。
さすがにリヴィエラが嫌な顔になる。
「いい加減にしろよ、餓鬼が」
息子が斬られると思ったのか、此の光景を目にした召使いの女オークが顔色を変えた。
瞳に残忍な怒りを走らせて素早い動作で中剣を抜き放つと、郷士の娘は中腰から素早い一撃を繰り出した。
少年の手から武器を叩き落す心算であった一撃は、だが、女召使いが間に飛び込んできたことで致命的な一撃へと変わってしまった。
良質な鉄剣の刃先は、熱したナイフがバターをきるように易々と女オークの腹部を断ち割った。
強烈な一撃を子供の身代わりに受けた小柄な女オークが、悲鳴を上げて切り倒された。
郷士の娘は一瞬だけ硬直し、思わず舌打ちした。
だが、小僧の方も隙に付け入る余裕はなく、呆然として立ち止まっていた。
「……あちゃん」
柳の木の根元。よろよろと倒れている母親に縋りついた少年を見て、リヴィエラは決まり悪そうな顔をして佇んでいた。
咄と郷士の娘の舌打ちを耳にして、やるべき事を思い出したのか。
母親を見取った少年が立ち上がった。
凄まじい憤怒に形相を引き攣らせ、ぎらぎらと光る白眼で母の仇を睨みつける。
「止めておけ」
無駄だろうなと思いながら忠告してみるが、痩せた少年の目には決意の光が宿っていた。

「小僧。あの世で母親と仲良く暮らせ」
突然、背後から振り下ろされた斧が頭を強打して、痩せた小僧は呆気なく崩れ落ちた。
オークの小僧を不意打ちした郎党は、飄々とした様子で主人の娘と視線を合わせた。
「……そんな事は命じてないぞ。モラ?」
淡々とした口調でありながら、郷士の娘の声音は、やや危険なものを含んでいた。
髭面は怯んだ様子もなく、肩を竦めてにやりと笑みを浮かべた。。
「禍根は断っておくべきですぜ。お嬢」
傍で一部始終を目にしていた他の郎党たちも髭面の仲間に同調した。
「そうでさぁ。餓鬼でも、いずれは大人になる」
「どうせ許してやる心算だったんでしょうが」
まだ甘いと言いたげに揶揄されて、リヴィエラは肌寒い冬の空を仰ぎながら嘆息した。
日はもう沈みかけていて、天の半ばまでを藍色のベールが覆い尽くしている。
「恨んでもいいけど、こうする心算じゃなかったんだよ」
倒れた小僧を一瞥して淡々と呟くと、過ぎた事は仕方ないと割り切って、首を振りながら素早く気持ちを切り替える。

「改めて云っておくけど、小僧も小娘と仲が良さそうだから連れて行こう。
小娘に言うことを聞かせるためにもね」
郎党たちに言いつけてから、リヴィエラは族長の連れ合いへ近づいていった。
露骨な嫌悪の眼差しを女オークに向けられながら、血に濡れた刃をちらつかせて恫喝の言葉を吐く。
「子供や仲間を死なせたくはないだろう?
子供が大切なら、隠れている連中に出てくるように云え」
女オークの眉が軽蔑の感情に跳ね上がったのを見て、リヴィエラは族長夫人の頬を強烈に張り飛ばし、泥の中へと倒れこませた。
「人質が二人いる意味が分かるか?一人は見せしめに使える」
立場を教える言葉に、女オークは肩を震わせた。
のろのろと立ち上がった洞窟オークの族長夫人の表情に、諦念と不承不承ながらの服従を読み取ってリヴィエラは肯いた。

あばら小屋の中に、疲れた表情を浮かべて休んでいたパリスを見つけた。
傍らでは暖かな火が踊り、茶髪の女兵士が甲斐甲斐しく世話を焼いている。
いかにも優しげな風貌の女兵士と楽しげに会話しているのを目にして、このような女性がパリスの好みなのかと邪推しつつ、リヴィエラは指揮官に提案した。
「パリス。準備が整い次第、出発しよう」
「村に泊まらないのか?」
顔を上げたパリスは怪訝そうな顔で問い返してきた。
肩を竦めたリヴィエラは、手を振って村を示した。
「まだ隠れている奴がいるだろう。それに此処は、守りに弱すぎる」
百にひとつもないだろうが、オークの新手や援軍が来る事を恐れている。
「クェスの農園なら近場だし、此方の人数も増える」
リヴィエラの提案に膝を指で軽く叩きながら、パリスは首を傾げた。
「夜道を行くより……」
「松明を多目に用意すればいい。半刻少しも歩けば……あそこなら守りも堅い」

捕虜たちの輪へと入れられた洞窟オークの族長夫人は、二人の少年を抱きしめていた。
其処此処に得物を手にした(洞窟オークから見れば)巨漢の人族の兵が佇んで、会話する者を殴り飛ばしたり、逃げ出そうとする者がいないか見張っていた。
灰色の外套を着込んだ人族の女頭目が歩み寄ってきて、見張りたちに告げる。
「これから長く歩く。松明を用意させて腹に何か入れておけ、捕虜たちにも一応、何か食わせておこう」
「……つれていく。何処へ」
殴られるかも知れないと危惧し、二人の少年を庇うように背中に廻してから族長夫人が尋ねてみると、リヴィエラは鋭い視線を返してきたものの、意外とあっさりと教えてくれた。
「パリトー。クーディウスの村だ」



[28849] 80羽 土豪 31     2012/10/02
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/06 22:34
 辺境は、ゴート河以東の土地においては、古くから人族とオーク族が勢力を争ってきている。
利便性に長けたなだらかな平野部の大半は、人族の住まう土地であり、対して不便な丘陵地帯がオーク族の主だった生息地であった。
地が痩せ、水も乏しい土地柄と、恐らくは人族に対して抱いている敵愾心や侮蔑も要因なのだろう。
オーク族は、財貨や食料を求めて定期的に人族の領域に入り込んでは、旅人を襲い、農園を荒し、何年かに一度は村を襲撃して略奪を行なった。

 オークは、人(というよりオーク以外の全ての種族)を下等な種族と見做し、拐かした人々を奴隷として酷使し、時に遊びで嬲り殺しもする。
それに対する人族の報復もまた苛烈なもので、オークの領域に攻め込んでは度々、村を焼き払い、時に女子供に至るまで殺戮した。

 オーク側領域の出入り口に当たる丘陵部の狭隘な渓谷には、オーク族の村々を守る為に強固な砦が築かれていた。
そしてオーク族の生存領域を守る為の門番として砦を任されているのは、衆目が一致するところで丘陵地帯のオーク族で当代最高の戦士と目されている巨漢の戦士ルッゴ・ゾムだった。
砦の本丸と城門を結ぶ細い通路を、六名の武装したオークの戦士が通り過ぎていった。
丘陵オーク族の王子ルッゴ・ゾムが支配する砦の中庭では、黒エルフやゴブリンの商人にドウォーフの鍛冶職人や皮革職人、そして見たこともない亜人や刺青を入れた蛮族の傭兵たちや娼婦が道を行き交っては、荒々しく罵り声を上げたり、取引を行なっていた。
人族やホビットでありながら、略奪目当てにオークの配下に加わろうとやってきた雑多なならず者も幾人かは混じっている。
丘陵地帯の伝説的な戦士であるルッゴ・ゾムが、人族と戦うために手勢を集めている。
点在するオーク族の集落に噂が出回って、ほんの数日。
ルッゴ・ゾムの母体であるゾッグ族は愚か、丘陵の様々な氏族の村から大勢の兵士が集ってきていた。
列を為した戦士達が引っ切り無しに砦にやってきては主に面会を求め、鉄や青銅製の武具を貸し与えられて傘下に加わり、ルッゴ・ゾムの兵団は大きく膨れ上がっていく。

オーク族の民衆に対する夫の信望の高さが窺えると同時に、大きな戦への予感を感じさせるその光景を目にして、空恐ろしさを感じた女オークのジジは僅かに唇を噛んだ。
先刻から盛んに行き交う人並みを眺めながら、夫の剛勇への信頼と、戦への恐れ。相反する二つの気持ちにジジは物憂げに瞳を揺らしていた。
砦のバルコニーに佇んでいたジジが物音に気づいて振り返ると、砦の司令官で夫のルッゴ・ゾムがその巨体を揺らしながら近づいてくるところだった。
「……風が冷たくなってきた」
火傷の傷跡の残る妻の髪を優しく整えてから、中に入ってるように告げたがジジは首を横に振った。
砦の司令官は、後ろに二人の部下を引き連れていた。
副官を務める屈強の戦士ボロが、ジジに会釈してから詰まらなそうに吐き捨てた。
「フウめが、戻ってきた」
後ろからやや遅れて歩いてくるのが、人族の領土から戻ってきたばかりの半オークのフウ。
出会う度に何時も異なる変装を行なっているが、今のフウの格好は遍歴の自由労働者にしか見えなかった。
ルッゴ・ゾムは、ジジの傍らに控えてる人族の奴隷女に毛布を持ってくるように命じる。
見目麗しい奴隷女の背中を好色な目付きで見送ってから、密偵を務める半オークの青年フウが口を開いた。
「渡し場の村には、確かに少なくないオーク小人たちが虜になっている」
副官の灰色オークが鼻を鳴らした。
「確かなのか?」
「おう、この目で見たぜ」
肯いてから、真剣な表情となってルッゴ・ゾムに訴えかけた。
「でかい町の奴隷商人が護衛つきで引き取りに来るって噂も耳にした。
もし助けるんだったら、出来るだけいそがにゃならんぜ、旦那」
重々しく肯きながら、ルッゴ・ゾムが訊ねかける。
「捕まっている場所は?」
「見つけた。奥にある村の古い共同倉庫だ。
 土山に挟まれてちょっとばかし分かり辛い場所にあったが、俺が案内する」
肯いたルッゴ・ゾムは頬を撫でながら、腹心の戦士ボロへと問いかけた。
「ふむ。ボロ、動かせる兵は?」
「使い物になる連中に絞っても、志願兵は三十を越えている。
 もともとの手勢と併せれば五十二、三か」
顔に向こう傷を走らせたオークのボロは、醜悪な笑みを浮かべながら兵数を諳んじた。
最後に一言、付け加えるのを忘れない。
「ちっぽけな村一つ攻め落とすには、充分すぎる兵だ」

「ご苦労だったな。下がって休んでいるがいい」
労を労いながら、ルッゴ・ゾムは密偵のフウに革製の財布を投げ与えた。
「へへ」
宙で素早く掴み取った半オークのフウは、報酬をその場で確かめると、司令官のルッゴ・ゾムに慇懃に一礼してから踵を返した。
財布の中には、オークやゴブリンの間で流通している鉛製の打刻貨幣がぎっしりと詰まっていた。
貨幣としての価値は低い鉛貨だが、物価も安い丘陵の村々で寝食を済ませるなら一ヶ月程度は喰えるだろう。
「ボロ、兵は何時でも出られるようにしておけ」
「おう」
重みを楽しむように財布を弄びつつ、階段へ向かうフウが、女奴隷とすれ違い様に尻を撫でた。
怒ったように睨み付ける人族の女奴隷にウィンクしてから、階下に消えていく半オークの密偵フウを、ボロは胡散臭げな視線で眺めていた。
胡散臭げな半オークの若者フウは確かに密偵としてはなかなかに有能で、司令官からは信頼を勝ち得ているものの、他の有力なオークからも金を受け取っているのではないかとボロは密かに疑っている。
密偵としてのフウの有用さは認めているものの、ボロはどこか信用できない臭いを感じていた。
ふざけた野郎だと心中で罵倒しつつ、気持ちを切り替えてルッゴ・ゾムに訊ねかけた。
「本当に、洞窟オークを助けたらすぐに引き返すのか?」
ルッゴ・ゾムは眉を顰めてボロを見るが、副官は遠慮なしに言葉を続けた。
「略奪を期待している奴も多い」
「仲間を助けると、勇敢なちびに約束しちまったからなぁ」
ルッゴ・ゾムは溜息を洩らしつつ、太い指で頭を掻いた。
「其処は行く連中に念を押しておけ。一番の目的は小さい連中を助けることだ。
略奪は、手早く済ませろってな」

足早に戻ってきた奴隷女がジジに毛布を手渡した。
幼い頃の火傷の後遺症が原因で、ジジはびっこを引いている。何かを言いたげにルッゴ・ゾムとボロを見つめていたが、やがて女奴隷に付き添われて杖を付きながら暖かい屋内へと戻っていった。

砦の司令官であるルッゴ・ゾムの言葉に露骨に不機嫌そうな表情を見せていたボロだが、やがて肩を竦めると肯いた。
「……少し待てば、もっと増えるぜ。村の一つ二つで終わらせるよりもよ。
 もっと大きな獲物を狙ったらどうだ。ルッゴ・ゾムよ」
声を潜め、周囲を見回してから、ボロは熱心な口調で身を乗り出した。
最初から五、六人と連れ立ってやってくる者たちも多いが、単独や二、三人でやってくる者も多かった。
手勢を引き連れた郷士層にも、下層の農民兵にも、ルッゴ・ゾムの人望は広く届いている証だとボロは解釈している。
唆すようなボロの言葉に、だが、ルッゴ・ゾムは首を横に振った。
「俺があからさまに兵を集めれば、カーラやバグを刺激することになる。
万が一ってこともあるしな。今の時期に身内同士で争うほど、馬鹿馬鹿しいことはない」
ボロは俯き、押し黙った。
ルッゴ・ゾムは僅かに躊躇いを見せてから、重々しい口調で腹を割って話しはじめる。
「それにこれ以上、兵を集めれば、皆、俺に先頭に立って人族と戦うように求めるだろうな」
「おいおい、自信がないのか?俺は何時か、あんたが人族を蹴散らす時が来るって思ってるんだぜ」
おどけたように笑ったボロだが、ルッゴ・ゾムは険しい表情のまま副官のボロを見返していた。
「気が進まないのか?」
ボロの問いかけに、巨躯を揺るがすとルッゴ・ゾムは重たい声で返答する。
「いい勝負は出来るだろうな」
「……だったら」
「いい勝負じゃ足りない」
ルッゴ・ゾムの口調は真剣で重々しく、ボロも生半な気持ちでは口を挟めなかった。
「丘陵は貧しい土地で、おまけに氏族たちはばらばらだ。
 一度負けたら、兵を集めるにも、育つにも時間が掛かる」
腕を組み、唸り声を上げながら、ルッゴ・ゾムは眉根を寄せて深刻そうに言葉を続けた。
「分かるか?建て直しが効かないのさ」
「……だが、よ」
「此方が十人育てる間に向こうは倍を育てる。
 その上、その気になれば、他所のでかい町から傭兵を百人だって連れてこれる」
どうやらボロには見えてないものが、目前のルッゴ・ゾムには見えていたようだ。
幾度となく人族と干戈を交え、卓越した戦士として幾人もの敵を倒しながら、結局は押し切れずに虚しく兵を死なせたルッゴ・ゾムが、昼夜を問わず考え続けて漸くに達した結論が其れだった。
「聞いてると、まるで勝ち目がないみたいだな」
憤怒に顔を歪めて絶句していたボロは、暫らくしてから漸く肩を竦めると、ルッゴ・ゾムを眺めて訊ねた。
「……俺たちは勝てんのか?」
「分からん。だが、無闇に挑みかかって、虚しく力を費やしてはならん」
慎重に考えながらルッゴ・ゾムは、腹心の問いかけに答えを導いていった。
「今のオーク族は、各々が好き勝手に人族と戦い、或いは和睦を結んでいる。
 此れをまず一つに纏めなければならないが、まず其れが困難だ。
近隣のオークたちは、人族の居留地で分断されているからな」
切りつけるように強い眼差しのボロの視線に、ルッゴ・ゾムも強い眼で見返していた。
「だが、オーク族に戦う力はあるのだ。
種族は、雄々しい魂を持っている。時を待つのだ」
ルッゴ・ゾムの言葉に、ボロが歯軋りするほど強く奥歯を噛み締めた。
「……何時までだ?」
「敵が弱まり、割れる時。その時を待って、結集したオークの力を叩きつけ、完膚なきまでに打ち倒してしまわねばならない。必ずその時が来る筈だ」
夕焼けを眺めながら呟きを繰り返すと、ルッゴ・ゾムは陰気に黙り込んだ。


夜が訪れた。
骨身に染み入るような冷たい夜気に背筋を震わせてから、農夫の男は畦道に足を止めた。
「……空耳か?」
何か聞こえたような気がしたが、気のせいだったかも知れない。
何しろ今日は大変な一日だったから。
酒臭い息を吐きながら、農夫は群青色の夜空に散りばめられた星の煌めきを仰いだ。
洞窟オークたちが攻めてきて、村を乗っ取った。
二日前の事だ。いや、昨日だったような気もするし、三日前のような気もする。
記憶も混乱していたし、農夫はあまり頭が良くなかったので、正確な日付は既に曖昧になっていた。
だが、まあ覚えてないのは、どうでもいい事だからだろう。
昨日だろうと、三日前だろうと、人生に大した違いはないのだ。
忘却は救いだ。家がぶち壊れたことも、こうやって酒を飲んでいる間は忘れられる。
女房が死んだ時も、農夫はそうやって悲しみをやり過ごしてきた。
つい先ほど、奇特にも何処かの豪族の兵士達がやってきて連中を追い払ってくれた。
村人があまりにも情けない顔をしていたからだろうか。
兵士たちの指揮官が、幾らかの食べ物を置いていってくれた。
若い癖にやたら深刻そうな顔をした変な男だった。
何かに悩んでいるのか、ずっと眉間に縦皺が入っていた。
あれは将来、禿るな、などと農夫は思う。
ずっと緊張感を漂わせていた若い女もいた。
こっちは恐かったので、農夫は遠巻きにしていた。
置いていった食い物はその場にいた連中が独り占めにしてしまったが、農夫も蕎麦と麦酒を一袋せしめることが出来た。
それを食い尽くしたら、どうなるかは考えないようにしている。
戦は嵐のように村を荒れ狂い、旋風のように村から去っていった。
村人には身内や知己を失って途方に暮れたように嘆き悲しんでいる者もいれば、自棄糞に酒を飲んでくだを巻いている者、虚脱したように俯いたり、呆けている者もいた。
だが、大方は家に帰って寝ているようだ。
村の道端や空き地には、いまも洞窟オークの死骸が転がっている。
農夫が何気なく頭を振るった時、また呻き声が聞こえてきた。
今度は錯覚じゃない。誰かがいるらしい。
久方ぶりに酒を飲んで親切な気分になっていた農夫は、助けてやろうと、音が聞こえたと思しき家屋へと足を踏み入れた。
「村長の家かぁ」
月と星々の光だけが照らす夜の村は、所々、濃密な闇を持って人が立ち入る事を拒んでいたが、しかし酔っ払い、大胆になっている農夫にとっては馴染みの土地という事もあって、警戒心が薄れていた。
裏庭の片隅、倒れている人影が呻いているのを見つけて無遠慮に近づき、覗き込むと
「おい、生きてるかぁ」
それは頭から血を流して横たわった洞窟オークの少年であった。


日は沈んだばかりだが、外では早くも冷たい夜風が吹き荒れている。
しかし、旅籠の一室では盛んに火を焚いており、冬の寒さとは縁遠い暖かさに満ちていた。
「夜になりました」
告げた声はあからさまに上擦っていて、きっと興奮を隠しきれていないのを悟ったのだろう。
寝台に腰かけた女剣士が、秀麗な容貌に面白そうな表情をたたえながら微笑を浮かべた。
「はい」
友人を真っ直ぐに見つめて、何気ない返事が返ってきた。
何の衒いもない黄玉色の瞳に見つめ返され、エリスは微かに怯みを覚えて言いよどんだ。
「その……」
アリアは、くつくつと笑った。嫌味のない笑いだった。
「分かってるよ」
云いながら、猫科の獣のようにしなやかな動きで立ち上がると上着を脱ぎ始めた。
魅入られたように立ち尽くしながら、エリスはただその光景に見とれていた。
衣擦れの音、次いで洋袴も床に落とし、晒と下帯も躊躇なく取って寝台の横に置いた。
均整の取れた見事な肢体が、暖炉の炎を照りうけて黄金のように輝いているように見えた。
張りのある形よい乳房、しなやかに筋肉の付いている四肢と腹筋、引き締まった臀部、股の付け根にある黒い翳り。
胸を弾ませるエルフの娘を真っ直ぐに見つめると、黒髪の女剣士はすっと手を指し伸ばしてきた。
「エリス」
名を呼ばれた翠髪のエルフの娘は、ほうっと溜息を洩らした。
「綺麗……とても」
思わず飲み込んだ生唾に喉を鳴らしながら、エリスは慄きに震えた。
素朴な褒め言葉を耳にして、アリアが微笑み、エリスは赤面する。
服を着たままアリアに歩み寄って抱きつくと、首筋に鼻腔を埋めて匂いを嗅いでみる。
「いい匂い」
「くっ……ふ」
くすぐったそうに身動ぎして甘い呻きを洩らすアリアの香りを堪能しつつ、陶然とした笑みを見せたエリスも服を脱ぎ始める。
アリアの肌は、仄かに汗ばんでいる。真冬にも拘らず、部屋は暖かい。
暖炉の炎が大きく燃え上がった。
アリアは、連日、薪を欠かしたことがないが、今日は、特に命じて、旅籠の召使いにかなりの薪を運ばせておいた。
薪の代金もそれなりの金額となっていたが、アリアは頓着する様子をみせていない。
いずれにしても、春先には入念に煙突の煤掃除をする必要があるに違いない。と、エリスは思っていた。

エリスの背丈は低く、アリアは長身で、エルフの額が長身の女剣士の鼻頭の位置してる。
だから、背伸びしても、キスするには少し足りない。
「……んっ」
身長の差からアリアの方がやや前かがみになって口づけに応える。
肉食だからだろうか。人族のアリアの体臭と唾液の味は、エリスの知るエルフの女の子たちよりも、少し癖が強かった。
いい香り。美味しい。気に入った。脳裏で幸せに浸りながら、最初はゆっくりと、次いで情熱的に口づけを交わしつつ、エリスは蒼い瞳を細めて想い人を見つめた。

「……まだ、出会って一ヶ月してないのにな」
エリスを惚れっぽいと云いたいのか。それとも自嘲の言葉なのか。
唇に触れながら黒髪の女剣士が、苦笑を浮かべてそっと呟いた。
寝台へとゆっくり倒れこむ。軋んだ樫の寝台には、古い狐の毛皮が敷かれている。
二人とも、昼の間に沐浴を済ませておいた。
アリアが、エリスを見つめる瞳は優しくて穏やかではあったが、其処には余裕の色が浮かんでいるのが見て取れた。
狂おしい熱も愛しさもアリアの黄玉の瞳には見出せない。
野生の狼のように鋭く冷静な眼差しが、今も面白がるように微かに細められている。
好きあっているとは思う。
だけど、私がアリアを愛するようには、アリアは私を愛していない。
エリスは、それをはっきりと感じ取っていた。
勿論、好意はある。さもなければ、こうして身体を交えたりはしないだろう。
だけど、愛と言うよりは、多分にエリスへの好意とその孤独への同情。
そして看病に対する感謝の念の発露なのだろう。
それでもいいさ。
一抹の寂しさを感じながら、エリスは微かに歯を食い縛って笑みを浮かべる。
それなら、それで構わない。遠慮なく存分に甘えさせてもらおう。

アリアの肌には、至るところに戦傷が残されていた。
幾つかの真新しい傷跡は、今も生々しい桃色に盛り上がっている。
「……私を庇った為の傷だね」
エリスがおずおずと呟いた。
「……あの時、私を見捨てて逃げてもよかったのに」
さりげなく発したエリスの言葉に、アリアは少し皮肉っぽく口の端を吊り上げた。

友人を庇ってオーク族と戦い、身に受けた痕跡は傍目にも深く刻まれていた。
エリスは、それを心苦しく思っているのか。
アリアにとっても、エリスと一緒にいるのは何となく楽しい。
気持ちも落ち着くし、何より心安らぐ。だから、受け入れた。
だけど、他の腕の立つ剣士なり、誰が助けていても、エリスは惚れていただろうか。
そんな詰らないことを考えていると、身を乗り出したエリスが胸を押し付けてきた。
前髪をかき上げたアリアは、瞳を閉じて心地よい愉悦に少しずつ耽溺していった。
半開きにした口の端から、甘い喘ぎを洩らしつつ、愉悦に思わず下半身を慄かせている。
「……気持ちいいな」
エリスは、思っていたよりも上手かった。女同士の情交に手馴れている風情すらある。
もしかして、遊び人に上手く口説かれたのではないかな。
アリアがふと疑念を抱いた時、
「愛しています」
翠髪のエルフの娘は、改めて黒髪の女剣士に告白した。
「なんだい、改まって」
アリアは苦笑を浮かべたが、想いを蒼い瞳に乗せたエリスは真剣な表情を崩さなかった。
「どれ程に貴女を愛しているか。結ばれて嬉しく思っているか。
口にしたところで、言葉に過ぎないけれども……
いま、凄く幸せだということは覚えておいて欲しい」
エリスの真っ直ぐな眼差しに貫かれたアリアは、僅かに怯みを覚えた。
他者を信じ、心身の一部を委ねることへの躊躇に襲われたのかも知れない。
だが、同時にエリスは信じていいかもしれないとも感じていた。
アリアテートは、乱世の地に住まう諸侯の跡継ぎである。
エリスの告白は、彼女が精神の根底に持つ根強い不信と猜疑の城壁を越えられはしなかったけど、確かに揺るがした。
アリアはゆっくりと手を伸ばしてエリスの頬に添えた。
恋人と敵味方に分かれて剣を交えた苦い記憶を思い返しながら、ふっと微笑を浮かべた。
「かつて私の愛した人は、私を抱きしめたその腕で私に刃を向けてきた。
 運命の女神は無情で、君が心変わりしない保証も、私がそうならない保証もない。
 だけど、今だけは君を愛するよ」
其れが今のアリアの真情であり、口に出来る精一杯の真実であったけれども、しかし、妥協の言葉はエリスの心を満足させなかった。
「私は、ずっと貴女を愛する」
裸体を絡ませながら、エリスは確信を込めて恋人に断言した。
数年ぶりに胸の奥に暖かいものを感じながら、しかし不安を覚えたアリアは躊躇いがちに瞳を伏せた。
愚か者でもなければ、幸せでもないのに、如何してエリスはこんなにも強く他人を信じられるのだろうか。
いや、他者ではないな。私を……私だけは信じているのか。
アリアは、エリスの真っ直ぐな心根に怯みはしなかったが、確かに畏れを抱いた。
と同時に、出来るならエリスを裏切るような事はしたくないとも思う。
「永久の愛が存在すると?」
アリアの問いかけに、エリスは頬を寄せた。
明日の天気の話でもするかのようにさり気ない口調で、だけれど絶対の確信を込めて耳元に囁くように
「この瞬間は永遠だよ」



[28849] 81羽 土豪 32     2012/10/16
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/06 22:15
 毛布の中で身動ぎしてから、カスケード伯子アリアテートは目を醒ました。
しっとりと汗ばんだ肌の下では、まだ昨夜の行為の余韻が火照りとして色濃く後を引いていた。
火を盛んに燃やしていたからか。
冬にも関わらず、室温は快適に保たれており、肌寒さは感じない。
 閉ざされた鎧戸からは、微かな光が差し込んできている。
気だるげに半身を起こすと、アリアは張り付いた前髪をかき上げて、室内を見渡した。
「……朝か」
「お昼です」
 誰にともなく呟いた傍らで、寝転がっていたエルフの娘がくすくす笑いながら応えた。
どうやら、エリスは先に起きていたらしい。
「何をしてた?」
「寝顔を見てた」
 肌を重ねた間柄に特有の、馴れ馴れしくあけっぴろげな微笑を浮かべると
「……可愛かった」
 まじまじと見つめてから、恥ずかしげもなく真顔でそんな言葉を掛けてくる。
そんな風にアリアを表現した人間は始めてであったから、戸惑った後に苦笑を浮かべる。

 乱れた黒髪を整えながら起き上がろうとして、卓上にある朝食に気づいた。
湯気を立てている黒パン、ベリーを潰した簡素なジャム。玉葱や人参、蕪の入ったコンソメスープ、蕩けたチーズと焼いたベーコン、塩を振った目玉焼き。刻んだ腸詰入りの暖めたエールが、湯気を立てている。
「昨日のうちに用意しておいた。そろそろ起きると思って」
 相変わらず、食事に関する手際がいい。ただ、少し釈然としなかった。
かつての恋人とは、互いに止むを得ない理由で袂を分かち、以降、アリアは誰とも肌を重ねてこなかった。

 恋人がいたのも数年前の話になる。互いに愛し合い、ぎこちなく情愛を交わしたものの、蒼い果実であった肉体からは悦びを充分に引き出すことは出来なかった。
今、アリアの肉体は成熟していたし、新しい恋人のエリスは自分と相手の肉体を制御し、生理的な反応を引き出す術に長けていた。
忘我の境地に誘ってくれた手練手管は悪くはないが、しかし、物事には限度というものがある。
それとも、あんなものなのだろうか。

 その他、諸々にやけに手馴れているのが少し気に喰わない。
恋人は一人でいいし、恋人にとっても己一人を見て貰う関係が望ましいとアリアは思っている。
が、世の中には、異なる哲学の持ち主も少なからずいることも承知していた。

 一途に思えるが、同時に手練手管に妙に隙がなさ過ぎた。
不覚を取って、百戦錬磨の遊び人に情人の一人にされたのではないか。
由緒正しい戦士の家柄であるアリアにとって、誇りや自尊心の比重は他者に想像付かないほど重く大きい。

 一族相食む戦乱の地の、代々の諸侯の後継である為、基本的に他者を疑って掛かる傾向を持っていた。
生まれ育った環境が環境であるだけに猜疑心が強くて偏執狂の気も幾らかある。
血と教育によって根付いた現状や他人に対する疑心暗鬼は、根本の性質になっている。
昨夜から脳裏を掠めるそんな疑念が再燃しかけた時に、エリスが呟いた。
「……幸せ」
 数年を孤独に生きてきたエリスだから、思慕が叶ったことが単純に嬉しくてならない。
そっと手を添えて、しっとりと汗ばんだ胸に体重を預けてきた。
恋人の内心も露知らず、ひたすらに愛しそうな眼差しを向けてくるエリスの誠意を疑うのは、流石のアリアにしても些か気がひける。

 そもそも、色恋の経験は薄い。二十年近くを生きて肌を合わせたのが二人目だ。
エリスの人格を疑うのは見当違いだと思い直すも、半エルフの娘は放浪の身。
肉体の遍歴を重ねてきたのだろうかと邪推し、悶々と曇ってしまう。
昔の男だか女だかに対しても、甲斐甲斐しく世話したのだろうか。
胸のうちに生じた微かな苛立ちに気づいて、アリアは僅かに眉根を寄せた。
おや。どうやら、私は嫉妬しているらしい。此れが嫉妬という奴か。
数秒を葛藤していたが、恋人の過去について想いを馳せるのは打ち切って、空腹なので食事を貰うことにする。
過去は過去だ。もう止めよう。
素焼きの壷を手に取った。
水差しを傾けて口を濯いでから、窓の外に吐き捨てて食卓に着いた。
下水など殆ど存在しないヴェルニア世界では、清潔を保つ為の一般的な風習である。

 温かいお湯と布で互いの身体を拭きあってから、炎が燻る石造りの暖炉の前に腰を降ろし、二人で食事に手を伸ばした。
エリスが口を開いた。
「で、どうするの?」
質問に首を傾げるアリア。
パンを毟り、口に運ぶ女剣士は上着を羽織っただけの格好で、エリスの目には酷く扇情的に映っていた。
会話しつつも、エリスは幸せ過ぎて殆ど現実感がなかった。
胸の奥底は、今も甘酸っぱい幸福感が仄かな熱を放っているが、しかし、何とか冷静さは保っている。
「そうだな……ここら辺も、物騒になってきただろう」
「うん、それが?」
アリアは喋りながら食べているので、黒パンにつけたジャムが掌の上に垂れた。
「傷も癒えたし、もうそろそろ旅立つ頃合だ」
ジャムの付いた指をしゃぶりながら、アリアは脳裏に地図を広げて地名を思い起こす。
「川向こうには小さな草原が広がっている」
「フィンの草原だね」
相槌を打つエリスは鼠を狙う猫のような眼差しで、アリアの指と朱色の唇を眺めている。
「例に拠って、旅人を狙う賊が跋扈しているそうだ。
まあ、物騒な土地だが、越えてしまえばその先では複数の街道が合流している」
アリアは肩を竦めた。
「ティレーは、辺境でも随一の要衝で、近郊の街道筋には旅人相手の旅籠も増えてくる。
宿場町というかな。中には、遠来からの隊商が泊まれるくらいの大きな旅籠もあるそうだ。
道も歩き易いそうで、旅も楽になるだろうよ」
其処まで説明してから、何故か瞳を潤ませているエルフ娘に気づいて問いかける。
「聞いてる?」
「聞いてるよぉ」
 相槌を打ちながらも、夢見るように蒼い瞳を蕩かせて笑みを浮かべるエルフの娘は、奇妙に上機嫌で、傍目から見ると少し不気味な位だった。
それでも、この時、アリアはエリスの内心を殆ど正確に読み取れた。
そんなに私が好きか。少し安堵を覚えていた。
常なら、色呆けに幾らか危惧を覚えたかも知れない。が、悪い気はしない。
他者に愛されるよりは恐れられる方を好む厳しい人物であるが、しかし、アリアは、愛情を惰弱と見做すまでには苛烈な人格でもないし捻じれてもなかった。
混じりっけなしの穏やかな愛情は、確かに心地いい。
そう感じられる真っ当な感性も有しているので、手を伸ばして卓上で指を絡めあう。
相手が相手なので、愛情を素直に顕すのにアリアも躊躇はしなかった。
「愛いやつ」
熱っぽく囁いてみると、エリスはびくりと身体を震わせて指を握り返してきた。
手を放すと名残惜しそうに「……あ」と熱いと息を洩らす半エルフの娘の横顔を見つめると、
長く付き合える関係になりそうだ。漠然とそんな予感を覚えながら、アリアはくつくつと笑った。


薄暗い室内で、低い声と共に鈍い衝撃がグ・ルムの身体を揺らした。
「……起きろ」
蹴りでも喰らったらしい。
喘ぎながら意識が覚醒させる、其処は広い納屋の一角だった。
咳き込みながら喘ぐと、肺腑を苛む苦悶が少しずつ薄れていく。
闇に包まれた室内も、洞窟オークの視力に掛かれば見通すことが出来た。
土間の片隅には木製、青銅製の農具が山と積まれ、床には縄や薪が転がっている。
相も変わらず後ろ手に縛られている。
全身は彼方此方が痺れ、意識が明瞭になると共に酷い苦痛が襲って来て、洞窟オークの族長グ・ルムは、苦しげに貌を歪めた。
特に火傷は、長く、しつこく苦痛がもたらされる。
苦痛に耐えるように、短く浅く呼吸を繰り返し吐いているうちに、漸く耐えられる程度に収まってきたのか、脂汗を流しながらも身体を起こした。

 ぼさぼさした黒髪のウッドインプが、卑しい笑みを浮かべていた。
「お嬢のお帰りだ。良かったな、またたっぷりと可愛がってもらえるぜ」
ドウォーフがにやにやと邪な笑顔で笑いかけてくる。
「羨ましい奴だ。あんな美人に楽しませてもらえるんだからな」
「……代わってやろうか?お前らなら性悪女とお似合いだ」
グ・ルムの皮肉に笑いながら、亜人の二人組は納屋へと入ってきた女に道を開けた。
乱暴な扱いに抗議するように呻きながら、歩み寄ってくる外套の女を睨みつける。

 洞窟オークの族長は、全身に細かい傷が刻まれていた。
爪は剥がされ、皮膚に焼けた石を押し付けられ、幾つかの指は粉々に砕かれている。
二度とまともには動かんだろうな。
グ・ルムは淡々と思う。諦めた訳でもない。
受け入れて、なお、心のうちには不屈の炎が燃え盛っている。
自分の身体が其れほどまでに我慢強く出来ているとは、グ・ルム自身も知らなかった。

「喋る気になったかな?」
ヘイゼルの瞳で冷然と見下ろしてきた人族の小娘は、確かに、心と肉体の仕組みについて忌々しいほど熟知していた。
その尋問と拷問は恐ろしく効率的で、かつ洗練されており、信じがたい苦痛をグ・ルムに与えていたのだ。
一体、何人。いや、何十人の人間から、そうして秘めたる言葉を引き出してきたのか。
それでもグ・ルムは、一言も洩らさなかった。
拷問に耐えられたのは奇跡のように思える。
眼を抉られても、歯を食い縛って耐えていた洞窟オークは、しかし、実のところ、あと少しの力で心身ともに破滅させられていた。
喪失への恐怖は凄まじかった。
目隠しをされ、暗闇に包まれた中、突然に焼けた石を皮膚に押し付けられた時、洞窟オークの心は、もう一歩で折れる寸前だったのだ。
あと一歩で、洗い浚い吐かせる事ができたとは、拷問者も悟っていなかっただろう。
吐けば楽になる。だが、未だに尋問者は、グ・ルムからなんら実りある言葉を引き出していなかった。

(……頑強で強情な奴……なんとも骨だな)
長時間の騎行と拷問の実施に次いで、さらに一昼夜の強行軍の後である。
さすがに疲労の色を見せながらも、郷士の娘リヴィエラの器量のいい、しかし冷酷な表情と冷淡な眼差しは、冷え冷えと冴え渡っていた。
眼の色を見る者が見れば、諦める様子がないのは一目瞭然だった。
リヴィエラは、足元に蓑虫のように転がる洞窟オークの族長をじっと観察してみる。
こうした奴は時々いる。仲間を売るくらいなら死を選ぶような、強い人間。
そしてその弱点も、リヴィエラはよく知っている。
(お前のような人間は、得てして己の肉体の苦痛には耐えられても、他者のそれには弱い)
その手段を取る事を、しかし、胸のうちでリヴィエラは躊躇っていた。
さすがに女子供を出汁にした事は、まだ無かったのだ。
此処まで来て、何を躊躇しているのか。私の手は、もう血で穢れきっているのに。
苦笑を浮かべつつも、胸の奥底に蠢く闇は、リヴィエラを虚無に引き摺り下ろそうとする。
だけど……こいつを吐かせても、吐かせなくても、変わらないのではないか?
私の行いに意味はあるのだろうかと、一瞬、弱気になりながらも歯を噛み締めた。
いいさ。どの道、誰かが手を穢さなければならない。なら、私がやるさ。
何時か、誰かに惨たらしく殺されても不思議ではない。
また一歩、後戻りできない道へと踏み込むなと思いながら、リヴィエラは口を開いた。

「お前は、何か重要な事を隠している」
低く冷たい声音で囁きかけながら、洞窟オークの小さな瞳を覗き込んだ。
「匂いで分かる」
事実、リヴィエラは鼻が効いた。隠し事や嘘の匂いを巧みに嗅ぎ分ける。
裏にいて示唆した者にも、当たりをつけている。恐らくはゾム氏族だ。
だが、この小さなオークが何を隠しているのかまでは、リヴィエラにも分からなかった。屈みこんだ郷士の娘は、洞窟オークの顔を背後から覗き込みつつ、脅しかける。
「……お前を唆した者の名前を言え。吐けば楽にしてやるぞ」
洞窟オークの族長は沈黙しつつも、その小さな瞳に燃えるような憎悪を滾らせて睨み返してきた。
ここまで痛めつけてしまえば、放免は出来ない。復讐者を解き放つようなものだ。
自然、殺してしまうしかない。

「耐えるのは、家族の為か?」
何とか感情を激発させて言葉を引き出させようと、リヴィエラは嘲りを込めて囁きかけ続ける。
「秘密を守れば、何時かオーク族が究極の勝利を収めるとでも妄想を抱いている?
相変わらずオークは愚かな種族だな」
グ・ルムはじっと黙り込みながら、異様に輝く小さな瞳でリヴィエラを見上げている。
「お前がこれほど強情ではな。仕方がないか。連れて来い」
リヴィエラが立ち上がり、納屋の外へと声を掛けた。
と、数人の屈強な男たちが踏み込んできた。
郎党たちによって外から連れられてこられたのは、縄で縛られたオーク族の女子供。
グ・ルムの小さな瞳が大きく見開かれ、息を飲んだ。
ふらついている洞窟オークの女は、グ・ルムの妻であり、そして傍に寄り添うのは……ああ!彼を守って死んだ親友の妹ではないか!
「お前の身内だ」
リヴィエラの低く冷たい言葉を嘲るように、洞窟オークの小娘は得意げに叫んだ。
「馬鹿なババアだ!その人は例えあたしが殺されたって、仲間を売ったりしないよ!」
「……さて、どうかな?」
妙に確信があるように、リヴィエラは薄笑いを浮かべてグ・ルムに一瞥をくれた。
「お前が話さなければ、あの子達に聞くことになる。
私としてもしたくないが、必要ならどのような手段を取るにも躊躇わない」


 空の眼窩が睨みつけてきたようにリヴィエラには感じられた。
常人なら畏れを抱くであろう空虚な眼差しに微笑を返して、リヴィエラ・ベーリオウルは洞窟オークの耳元で低く囁いた。
「人は皆、いずれ死ぬ。だが、あの子達はまだ若い。
 子供らが今すぐ恐怖と苦痛に満ちた惨い最期を迎えるか、この先の運命を切り開く機会を与えるかも、すべてはお前の胸先一寸に掛かってる。族長殿」
地に倒れた姿勢のままグ・ルムは精一杯に首を伸ばして、郷士の娘リヴィエラを見上げた。
「……悪魔め」
呟きに込められた感情には、沸騰寸前の溶岩を思わせた呪詛が込められていた。
「違うね。『人間』だよ。私こそ正しく『人間』だ。そして、此れこそ『人間』の業だ」
平然と、楽しそうに洞窟オークの族長に微笑を返すリヴィエラ・ベーリオウル。
彼女は死に行くものとの最後の会話を酷く好んでいる。
一方で、自分も何時か惨たらしく殺されるだろうことを信じて疑っていない。
「貴様ら、人族に特有の邪悪さと偽善には反吐が出る。貴様のような奴が『人間』であって溜まるか」
憤怒と悲嘆の込められたグ・ルムの罵りは、しかし、リヴィエラの心に漣一つ起こせない。
「ふっっ、ふっふ。オークは人を捕らえても、甚振らないとでも云うの?
 人も、オークも、なにも変わらない。
 大切なのは、勝つか、負けるか。そして貴殿は敗北した」
器量のよい貌に仮面を思わせる冷たい笑顔を浮かべて、洞窟オークの族長に問いかける。
「さあ、返答を聞こう」

 洞窟オークの族長グ・ルムは、部屋の隅に立たされている彼の身内をじっと見つめた。
それから天を仰ぐように納屋の薄暗い天井を眺めると、口を結んだまま目を閉じる。
「わしが話せば、その子等を助けるのか?」
「大抵の約束は守る。あいつらは助けてやる。殺す価値もないからな」
リヴィエラの即答に、しかし、何を感じ取ったのか。グ・ルムは、強い眼差しで郷士の娘を睨みつける。
リヴィエラの視線を冷たく、細められたヘイゼル色の瞳は微塵も揺るがない。
「お前、どの道わしらを皆殺しにする心算だろう?」
グ・ルムの問いかけにリヴィエラは唇を舐めた。
「さて?」
グ・ルムの恐怖に関する想像力を刺激する為、リヴィエラは酷薄な微笑を浮かべたまま、敢えて曖昧に言葉を濁した。
「確実なのは、お前が喋らなければ、全員が死ぬということだ。お前の責でな」
この脅しは応えた。肩を落とした洞窟オークの族長は、力なく崩れ落ちたように見えた。
「……二人きりで話がしたい」

 暫し黙考した後、郷士の娘は肯いて手下たちに振り返った。
「皆、下がれ」
「……だけど、お嬢」
「構わないよ、大丈夫だ」
縄で縛られた洞窟オーク一匹、如何に暴れようが己を害せるとはリヴィエラは微塵も考えていなかった。
「……何が聞きたい」
グ・ルムの独眼が力なく見つめてくる。
やっと、オーク族の蠢動に対する手掛かりを掴んだ。此れで奴らの手のうちを暴ける。
気が急いた様子を隠そうともせずに、リヴィエラは口の端を吊り上げる。
「全て……全てだ」
郷士の娘は、熱っぽく囁きながら身を乗り出した。

「……モアレだ。そこから南下して……」
洞窟オークの族長グ・ルムが語ったオーク族の陰謀は、衝撃的なものだった。
「油断している村々を抜き、勢力を塗り替える、か」
呟いたリヴィエラは、楽しげな微笑を浮かべて冷静さを装っていたが、内心は激しく動揺している。
「やはりな。小競り合いではなく、十数年ぶりの本格的な侵攻」
其処まではリヴィエラやクーディウス姉弟も薄々、推測していたが、内実はそれ以上のものが在ったようだ。
同盟者を募る為、カーラは此れと見込んだ相手に限って、その構想の一端を明かしていた。
個別の事象だと考えていたモアレの陥落も、各地でのオークの小氏族や小集団の蠢動や小競り合いも、本当に全てが一つに繋がっていた。
そう耳にした時には、見かけによらず豪胆な郷士の娘すら、迂闊にも小さく悲鳴を上げそうになった程だ。
北部人の勢力圏から迂回して攻めてくるとはね……何故、気づかなかった。
此の計画ひとつとっても、辺境の人族にとっては相当な打撃になりかねない。
確かに、豪族たちの北国街道への守りは薄い。
武威を誇る北方諸国とは、辺境との交流は少ないものの友好的な関係で安心しきっていた。
盲点といっていい。今の時点で掴めたことは僥倖だろう。

 だが、と、リヴィエラは困惑を隠しきれなかった。
己が拷問で引き出した情報にも拘らず、郷士の娘には捕虜の話が少し信じられない。
あまりにもスケールが大きすぎて、途方がなさ過ぎる。
第一、どうやって様々な氏族や部族の枠組みを乗り越えて協力させているのか。
はったりで私を混乱させ、恐れさせようとしているのではないか。
リヴィエラの勘は、洞窟オークの話が真実だと告げていたが、彼女の感情と理性の側面が信じられぬ、信じたくないと訴えていた。
それに私が此れを報告したとして、他の人を納得させられるだろうか。
確証といっても、オークの虜囚一人の証言に過ぎない。
しかし、モアレの村が落ちたのは先月。
にも拘らず、あんな南の端の洞窟オークがこんな話をでっち上げられるだろうか。
僅かに貌を強張らせたリヴィエラのヘイゼルの瞳が揺れる傍らで、無表情になった捕虜の洞窟オークはさらに何か重要な手掛かりを囁き始めていた。

「すべてはあの人の計画だ……王女が……」
「なに?」
オーク族を影で動かしている実力者の正体まで知っているのか。
だが、体力を消耗したグ・ルムはぜいぜいと呼吸が乱れていた。
それでも何かに憑かれたように、ぼそぼそとか細い声で何かを喋っている。

 縛られている洞窟オークの言葉を聞き取ろうと、リヴィエラは常の冷静さと用心を忘れて身を乗り出した。
と、その瞬間、力を溜めていたグ・ルムがカッと喰らいついた。
リヴィエラの耳朶を、凄まじい軋みと激痛が襲う。
「が……ああっ」
悲鳴を上げながら郷士の娘はグ・ルムの顎を掴んだ。
歯と歯の間に鋼鉄のような指を挟んだ。
洞窟オークの族長の噛筋力を、しかし、リヴィエラの力強い指が上回った。ぎりぎりと口を開いていく。

 リヴィエラが右の耳を抑えつつ、喘ぎながら後退すると、グ・ルムが血塗れの肉片を床へ吐き出した。
藁の散らばる土間へと転がった赤い肉片は、引き千切られた耳朶だろう。
激痛によろめき、喘いでいるリヴィエラの指に、ぬらりとした感触が触れていた。
衝撃に声帯が麻痺したのか、声も出ない。
猫のような、不明瞭な唸り声しか出せなかった。

「がっかっ、はははっ、似合ってるじゃねえか。その耳」
憤怒に顔を歪め、しかし、口元には笑みを貼り付けながら、グ・ルムが眼で嘲っていた。
りぃぃんと、鈴の音のような耳鳴りがリヴィエラの耳の奥で響いていた。
獰猛に笑っていた洞窟オークの族長の野太い声が、ひどく勘に触った。
部下達が入ってくる気配はない。

 手元で出血を抑えながら、涙目のリヴィエラもくすくすと笑った。
幾たびもの戦を越えながら、一度たりとも傷つけられなかった身体に油断から傷を負った。
其れが自分でも何かおかしかった。
楽しそうにくすくすと笑いながら、手を伸ばしてグ・ルムの口に両の指を入れると剛力で口を引き裂いた。
顎を外されて、グ・ルムが激痛に絶叫を上げた。

 近くに立てかけてあった棍棒を手に取ると、振り返り、無抵抗の相手に容赦なく振り下ろした。
頭蓋が割れて崩れ落ちても、なおも数発殴りつけてから、手元についた脳漿を目にして郷士の娘の激情が一瞬で醒めた。
顔を押さえながら、しまったと忌々しげに舌打ちする。
死人は喋らない。オークの侵攻計画の全貌を知る証人を自分の手で消してしまった。
冷静さを取り戻したが、手遅れだった。
「愚か者……リヴィエラめ。どうする?」
己を罵りながら、顔を歪めて床へとへたり込んだ。
友人のフィオナなら聞く耳を持つだろうが、実権を握っている……兵を動かせるのは、当主である老クーディウスだった。
フィオナは父親に信頼されている。その線から動かせればいいのだが、親戚筋の叔父やら、従兄弟やらが数人いて、婿の座や党首の座を狙ってもいる。
フィオナの後継者としての地位はかなり安定しているが、絶対に磐石という訳ではない。
友人として、出来るなら失策は犯させたくないし、いまだ大勢の兵を動かせる立場でもないのだ。

 じんじんと痛む耳朶がリヴィエラの思考をかき乱した。
「兎に角……先に傷の手当か」
床で痙攣する死にゆく亜人を放置して、あぶら汗を流し、よろめきつつ、リヴィエラは踵を返して納屋から立ち去った。
後に残された洞窟オークの虚ろな眼差しが、力なく納屋の天井を見上げていた。




[28849] 82羽 土豪 33     2012/11/07
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/06 21:47
 クーディウスの本拠であるパリトー村を、冷たい乾いた風が吹き抜けていった。
洞窟オークに対する拷問を行なっていた納屋から出ると、リヴィエラは気持ちを切り替えようとして、息を小さく吐きながら灰色の空を見上げた。
嫌な熱を帯びた耳の怪我が冬の風に冷やされる。と、その苦痛は凍てつくような痺れへと変化した。
掌で左耳の怪我を抑えながら、しっかりとした足取りで歩き出したリヴィエラだが、周囲を行きかう屋敷の洗濯女や彼女自身の郎党が、郷士の娘の血塗れの姿を目に入れて慌てて集ってきた。
「お嬢!」「何があったんですかい!」
ざわめきながら遠巻きにしている者は兎も角、主の娘の傷に動揺した手の者たちがひどく五月蝿い。
耳の奥に鳴り響いてくる。
「あまり騒がないで……耳鳴りがする」
郎党たちの野太い怒鳴り声や、女たちの金切り声は、今のリヴィエラにとって耐え難い不協和音に感じられた。

 立ちくらみを起こした郷士の娘リヴィエラが顔を顰めていると、程なくして騒ぎを聞きつけたのか。
クーディウス家の娘である栗毛のフィオナが裏庭の反対側から姿を現した。
「どいて……退きなさい!」
屋敷の方から足早に近づいてきたフィオナは、人波をかき分けると幼馴染の傍らへ駆け寄った。
「リヴィエラ……その顔。血だらけじゃないか!」
「……怒鳴らないで……頭に響く」
よりにもよって耳元で叫んでくれた。嫌そうな顔のリヴィエラが呻くのも構わずに、焦った様子のフィオナは召使いに向かって叫び続ける。
「誰か、包帯と薬草、それと水を持ってきなさい!急いで!」
「大丈夫……大したことはない。それより大切な話がある。遂にオークの計画を掴めた」
大切な事を伝えようとする友人に、しかし、珍しく動揺しているらしいフィオナは聞く耳を持たなかった。
「何が大丈夫なものなの!兎に角手当てを!」
「……大事な話がある。手当ては後でも出来る」
「手当てが先よ!来なさい!」
滅多に見せぬ激しい剣幕に、根負けしたリヴィエラは苦々しい顔で言葉を飲み込んだ。
心配しているのが少し嬉しくもあり、しかし、面倒な事になったとも思う。
フィオナは、何やら小言でも言い出しそうな雰囲気を纏っているのだ。

 薬草と包帯を入れた木製の桶を抱えて、赤毛のジナが駆けてきた。
屋敷には、マリーという名の中年の女薬師がいるはずだった。
怪訝に思ったリヴィエラの視線に気づいたのだろう。
「マリーさんは、森の方に薬草を摘みに行っていて留守です」
既に流暢な南方語を喋りつつあるジナは、機織りだけでなく薬草の扱いも手馴れていた。
その境遇への同情と働き振りから、急速に屋敷での地歩を固めつつあるように見え、少し感心させる。
井戸の傍の丸太に座り込んだリヴィエラの傍らで、赤毛のジナが屈みこんで傷の手当を始めた。
座り込んで大人しく傷の手当を受けながら、リヴィエラはフィオナに意味ありげな視線を送った。
幼馴染の視線を如何に解釈したのか、豪族の娘フィオナが肯きながら口を開いた。
「それで……大切な話って。オークの企みが分かったそうだけど」
折が悪い。モアレ村の生き残りであるジナに一瞬だけ視線を走らせてから、リヴィエラは聞かせたくないと判断した。
「……二人きりで話したい」
「ジナなら大丈夫」
だが、性格や信用できるか否かの問題ではないのだ。
豪族の娘フィオナの即答に、眉を顰めたリヴィエラは困ったように首を振るうが
「しっかりしているし、口も堅い」
はっきりしないリヴィエラの態度に対して、フィオナはぴしゃりと言葉を続ける。
此の数日で、随分と信頼を得ているようだな。
それでも止めておいた方がいいと考えるリヴィエラだったが、微妙な雰囲気を読んだのか。
赤毛のジナが口を挟んだ。
「私が聞かない方がいい話なら、傷の手当が終わったらすぐに下がります」
「構わない。話して」
顎をしゃくった豪族の娘フィオナが、リヴィエラの方へと身を乗り出してくる。
溜息を漏らしたリヴィエラは、渋々だがグ・ルムを絞って聞き出したオークの計画について語り出した。
「オークは兵を集めている。その狙いも、何時ものような農園や丘陵近くの小村落での略奪とは訳が違う」

「……彼らが兵力を結集させつつあるのはモアレ。北から攻め寄せる心算なんだ」
手短にだが、オークの狙いの一部始終を話し終えたリヴィエラ。
案の定と言うべきか。聞き終わったフィオナは絶句していた。
やはり、草原地帯に接する北の方から攻められることは想定していなかったのだろう。
無意識のうちに抱いていた固定概念をひっくり返されて、脳裏でオークの戦略を咀嚼するのに時間が掛かっている。
苛立たしげに己の髪の毛を握り締めたフィオナからは、常日頃、浮かべている余裕の笑みが完全に消え失せていた。
「百も兵がいれば、間違いなく抜かれる。警告を送るべきか。いや、いざという時、援軍を送る手配……駄目だ。それじゃ間に合わない」
オークの襲撃も滅多に受けない北の村々だ。襲撃の備えも心構えもないに等しいとは云わないまでも、丘陵周辺の村々に比べてどうしようもなく手薄に違いない。
北の村々をどうやって守るか。守れるのか。
一気に切り裂かれたら、最悪、人族とオークの勢力バランスが逆転するかも知れない。
併せて、政治的な効果も考える。
だけど、間違っていたら……それだけで父さまが、クーディウスが信望を落としてしまう。

 深刻な事態に頭を痛めるフィオナは、取り乱した姿を取り繕うことも忘れていた。
当然に傍らに立つモアレからの逃亡者に対して気配りの余裕も失せていたが、やがて改めてジナの尋常でない様子に気づいた。
故郷に無数のオークが集ってきていると知ったジナは、蒼白な顔つきで佇んでいる。
気まずそうな視線を送って何か言いたげにするフィオナだが、リヴィエラの説明の途中から俯いて震えていたジナはさっと立ち上がると、一礼して駆け出していってしまった。
黙々と行なっていた手当ては、途中から包帯の巻きがやや雑に成っているものの上手く終わっている。
「此のことはまだ口外しないように!」
駆けていく赤毛のジナにリヴィエラが声を掛けるも、聞こえたのかどうか。
冷静さを幾ばくか取り戻したフィオナが、膨れた様子で包帯の位置を調節している幼馴染のリヴィエラを攻め立てた。
「馬鹿。どうしてジナに聞かせるのよ」
「馬鹿とはなんだ。最初に躊躇ったのに、貴女が構わないって」
リヴィエラの反論に、ますます眉を上げながらフィオナが口調も荒く言い返した。
「揚げ足を……オークの企みだって云ったじゃない。普通は、滅ぼされた故郷の話なんてするとは思わないでしょう!」
「フィオナは何時もそうだ!気まずくなると人を責めて!自分の間違いを認めないんだ」
二人は互いに軽く睨み合い、それからさも相手が悪いのだとでも言いたげに首を振ったり、はぁっ、とか、ふぅっとか溜息を漏らしてみせる。
深刻な仲違いではない。
子供の頃より稀に行う、二人にとっては様式化された儀式だったし、こんな軽口のやり取りがフィオナに常の冷静さをある程度、取り戻させる効果もあった。

 井戸の傍に腰掛けながら、ぶちぶちと嫌味っぽく言い争う二人の娘だったが、大声でリヴィエラの名を呼ばわりながら駆け寄ってくる青年の姿を目にして口論を中断した。
「……リヴィエラ!」
嫌そうな視線を闖入者のラウルに向けたフィオナだったが、互いに軽めの嫌味を言い合って気が済んだのだろう。弟の前で幼馴染との言い争いを続ける心算はないようだった。
息を弾ませながら駆け寄ってきたラウルは、想いを寄せる女性の顔が包帯まみれな事に息を飲み込んだ。
「……怪我をしたと聞いた」
「どじを踏んで耳を齧られてしまったよ。迂闊だったけど命に別条はない」
金髪のお下げを弄りながら小さく舌を出した郷士の娘リヴィエラを、ラウルは暫し真剣な眼差しで見つめていた。
「……あの」
熱っぽい視線に込められた意味を理解して、僅かに戸惑いを見せて呟いたリヴィエラだが、やがてほろ苦い顔をして肯いた。
「大丈夫だよ……私は」
険しい顔をしたまま、ラウルは彼女を見守っていた。
「そうか……せめてもの幸いなのかな」
訥々と話してからすっと手を伸ばして、何気なくリヴィエラの頬に指先で触れる。
親しい仲とは言え、此れは未婚で地位の高い女性に対しては、些か礼儀として適っていなかった。
微かに鳶色の瞳を細めるリヴィエラに、ラウルは己の行為に驚いたように赤面して手を引っ込めた。
「すっ……すまない」
「いや……少し驚いたけど」
何事もなかったかのように肩を竦めたリヴィエラは、フィオナの方へと向いた。
「そ、それでさっきの話、出来るだけ早くお父上に伝えてくれる?」
考え深そうになにやら沈思していたフィオナだが、リヴィエラの声が微かに上擦っているのに気づいた。
パリスに惚れているようだけど、ラウルの方でも満更でもないのかな。
フィオナの父親はパリスとラウル。二人の息子のうち、どちらかとリヴィエラ・ベーリオウルを縁組させる事をリヴィエラの父カディウスと話し合っていた。
フィオナも、その件では、父から相談を持ちかけられていた。
リヴィエラが妹か。勿論、幸せにはなって欲しいが……さて、愛するのと、愛されるのでは、どちらが幸せなのかな。
幼馴染の表情を鋭く観察していたフィオナは、やがて弟へと鳶色の瞳を転じた。
「ラウル。父上は?」
「ああ、書斎にいた」
物思いに沈んでいたフィオナは、丸太から立ち上がりながら
「では、パリスが帰ってきたら知らせて頂戴。
 皆の揃ったところで説明してもらう。貴方も顔を出して。ラウル」
肯くラウルに手を振ると、幼馴染を気遣ってその肩を優しく叩いた。
「リヴィエラは、それまで休んでるといい」
「そうさせてもらうよ。正直、少しきつい」
肯いたリヴィエラも立ち上がったが、館へと向かう歩調はややふらつき、乱れていたが、誰の手も借りることを断って一人で歩いていった。

 冷たい風に乱れた茶色の髪を整えながら、フィオナは憂鬱そうに溜息を漏らした。
「幸先悪いな……にしても、カディウスさん、怒るかな」
「ベーリオウル殿は、恐いからな」
姉の言葉に相槌を打ったラウルに、フィオナが怪訝そうな顔を向けた。
「何を他人事みたいに云ってるの?貴方が知らせに行くのよ」
ラウル・クーディウスは、まるで陸に打ち上げられた魚みたいに口を開くが言葉が出てこない。
「パリスには巡回があるし、私は武具の買い入れに飼い葉や糧食を集めるのと、家内の采配もあるもの。
下手な郎党を出したらたたっ斬られかねないけど、貴方なら曲がりなりにもクーディウスの嫡流だし……」
物思わしげに弟を眺めながら言葉を続ける姉に対して、ラウルは手を振って抗議した。
「いや、止めてくれよ。冗談だろう。俺だって忙しいんだぜ。
 これから、馬や鳥たちを水場に連れて行かないと……」
「それは貴方しか出来ない仕事なの?」
首を傾けて訊ねてきたフィオナに、ラウルは懇願するように重ねて言い募った。
「勘弁してくれ、姉さん。頼むよ」
「……分かったわ。なら、パリスに行って貰う」
ほっとしたようなラウルに、しかし、フィオナはどこか謎めいた口調で問いかけた。
「だけど……本当にそれでいいのね?」
姉の声に込められた口調が妙に気になったが、ラウルにはフィオナの内心を窺う事はできなかった。
昔から、そうなのだ。ラウルにとっては何を考えているのか分からない女であり、姉の思惑など考えるだけ無駄だとも思っていた。
それでもやけ気になったので、一応は訊ねてみる。
「……なんだよ、含みのある物言いだな」
「気のせいよ」
鼻を鳴らしたフィオナは、冷たく言い放った。



 金属の輪を縫いつけた皮革の鎧を纏い、背中には巨大な戦斧を背負っている巨躯のオークが、風そよぐ野原に仁王立ちしたまま、朝の空気を吸い込もうと腕を一杯に広げていた。
「空気が美味いな」
魁偉な容貌には似合わぬ穏やかな声。抜けるような濃い青空を見上げると、まるで雲でも掴もうとするかのように彼方へと掌を伸ばして拳を握る。
「いい土地だ。そうは思わんか、ボロ?」
副官へと呟いたルッゴ・ゾムの背後には、四十とも、五十ともつかぬ精悍なオーク族の戦士達が控えていた。
大半が体力の絶頂期にあるだろう、青年期から中年のオーク族の戦士たちだった。
数名混じる老齢の戦士たちも貌や腕に無数の古傷が刻まれ、古強者の風格を漂わせている。
「美味い?空気が?」
額に向こう傷のあるオークが、奇妙な言葉に面食らったように瞬きしながら問い返した。
「ああ、渓谷とは空気の味が違う。そんなことも忘れていた」
低い鼻を蠢かせながら、ルッゴ・ゾムは大きな肺一杯に空気を吸い込んだ。
オーク族の棲まう丘陵の盆地の南側には、所々、嫌な匂いのする沼地が点在している。
糞尿を手近な沼地に投げ捨てるオークの不潔な悪臭や、生息する動植物の違いも在るのだろう。
盆地の奥に行けば行くほど、悪臭は強くなり、年中、じめじめと湿った風に、澱んだ空気が漂っている。
春から夏に掛けては、時に砦の方まで鼻の曲がりそうな悪臭が漂ってくることもある。
ルッゴ・ゾムは、その臭いが嫌でならなかった。
同じ湿地帯にしても大地を吹き抜けていく風が肌に感じられるならばこうも違うのかと、新鮮な驚きを覚えずにはいられなかった。

 ルッゴ・ゾムの生まれた村は、元々、人族の領域に近い盆地の外縁に位置していた。
オーク族以外にも、僅かだが人やホビットなどの異種族も住まう小さな集落で、側溝を掘り、汚物は遠出して森まで捨てに行き、衛生には結構、気を使っていた。
子供の頃にはよそ者の人族やエルフ族、ホビット族などとも交流もあって、ルッゴ・ゾムが他のオークに比して清潔を好み、他種族への侮蔑や敵愾心が薄いのは、そうした育ちも幾らかは影響しているのかも知れない。
餓鬼の頃に遊んだ他所の連中とも、今、出会えば殺し合うしかねえんだろうな。
そんな殺伐とした感慨を抱きながら、ルッゴ・ゾムは野原の隅にある小さな石搭へと視線を向けた。
人の背丈の半分ほどの高さまで石が積まれたその祠は、豪族の軍勢に襲撃を受けて此の地で亡くなった村人たちへの弔いの墓標だった。
「……親父、お袋、兄貴、ムーシ」
幼い日のルッゴ・ゾムが一人素手で作り上げた墓標の下には、巨漢の戦士の父母と兄妹も眠っている。


 他のオークの戦頭が攻め込む戦いを好むに対して、ルッゴ・ゾムの戦いは守りが多かった。
敵は人の豪族だけではない。近隣の丘陵民や野盗、ゴブリンに蛮族、危険な敵を相手に廻して駆け回るルッゴ・ゾムへの、助けられたオークからの信望は厚くなる一方で、しかし、自然と人族の勢力圏に関する土地勘は働かなくなる。
にも拘らず、大勢で動き回るのは危険なほどに、部隊は人族の勢力圏の只中に踏み込んでいた。
既に、武装農民が屯している守りの堅い農園を幾つも通り過ぎてきている。
近隣の農園や農場を荒らしまわることの多いオーク族でも、此処より遠出する事は滅多にあるまい。

 此処から先は、大半のオークの戦士にとっても初めて踏み込む土地だった。
さすがに未知の土地、踏み込むのに緊張しているのか?
ボロが身動ぎしない主君の背中を訝しげに見た時、無言で墓標を見つめていたルッゴ・ゾムが動いた。
南の彼方へと向き直ると、鋭い瞳で睨みながら大きく息を吸い込み、突然に吼えた。
大地に足を踏みしめ、太い腕に血管を浮き上がらせ、獅子のように空気をびりびりと震わせて、長く力強い雄叫びを肺腑から搾り出した。
朗々と響く雄叫びには、熱い何かが宿っていた。
怒りでも、憎悪でもなく、聞くものの心を猛々しく駆り立てる原初の雄叫びとしか言いようのない炎のような何か。
ボロには、訳もなく血潮が熱いと感じられた。
ぶるりと背筋を震わせて、彼もまた吼え始める。
やがて伝染したかのように、次々と部下のオークたちが狼の群れの如くに吼え立て始めた。
一人、雇われの斥候である半オークのフウだけが空気に飲まれず、或いは気持ちを解せずに、どこか怯んだような眼差しでルッゴ・ゾムとその配下たちを見つめていた。
まるでまだ見ぬ敵への宣戦布告するかのように、幾つもの雄叫びが連なった鬨の声が大気を震わせながら、丘陵の彼方へと吸い込まれていった。

「さて、行くか。道案内を頼むぞ」
吼え終わった巨漢のオークは、何事もなかったかのように力強い大きな掌でフウの背中を叩くと、咳き込む密偵の横を笑いながら通り過ぎて、気負いなく人族の縄張りを歩き出した。


「……吼えているな」
旅籠の大きな寝台に腰掛けたまま、長靴の紐を結んでいたアリアが突然に呟いた。
「野良犬共めが」
微かに陰惨な響きを滲ませた凄味のある声に、背後にいてアリアの黒髪を弄っていたエリスはにわかに張り詰めた女剣士の様子に戸惑いを見せた。
「え?何も聞こえなかったよ」
エリスには、それらしい獣の遠吠えなどまるで聞こえなかった。
実際、耳の鋭さには自信があったから困惑を隠せないでいる。
簡素な木製の櫛でアリアの髪を梳りながら、空耳だろうと告げる半エルフの娘にも、しかし、己の勘働きに強固な自信を抱いている女剣士は瞳を細めながら断言した。
「では、君には聞こえなかったのだろうな」
云いながらも、アリアの黄玉の瞳はエリスを視ていなかった。
奇妙に謎めいた、それは確信に満ちた物言いで、エリスの戸惑いを他所に、アリアは沈思するように旅籠の壁の木目に視線を彷徨わせている。

 何かに感応でもしたかのように、アリアの猛禽のように鋭い視線は見つめる先の漆喰の壁を貫き、その先にある曠野をも越えて、彼方の何かを捉えているようにエリスには思えた。
楽しそうに微笑んでいた表情からは感情の色が抜け落ち、呟いた声と眼差しは遠くて、結ばれた筈の恋人が目前にいながらも、同時に自分にはけして辿り着けない遥かな場所に立っているような錯覚さえエリスは覚えた。
自分には永久に理解できず、また他者の触れることの出来ない領域をアリアは持っているのだ。
突然に目の前の恋人の嬉しくない真実を理解して、やや消沈したエリスの耳が弱々しく痙攣する。
しかし、濡れた蒼い瞳をそっと閉じて淡い笑みを浮かべると、エリスは恋人の髪を静かに梳り続ける。
広い世界に生れ落ちた人間が、偶々巡り合って結ばれ、共にあると云ってくれた。
これ以上、何を望むこともない。欲張れば罰が当たるだろう。


 女剣士の髪を弄るエルフの娘は、暖かな雰囲気を纏っていた。
穏やかで心底、嬉しそうな笑みを浮かべた綺麗な相貌は、見ているだけで楽しげな気持ちが伝染しそうなほどに陽気な雰囲気で楽しげに鼻歌などを歌っている。
その姿を見ているうちにエリスの持つ雰囲気に当てられたのか、アリアの胸の奥までじんわりと暖かくなってくる。
目の前にいるエルフの娘が幻みたいに思えて、不安を覚えた女剣士は、恋人の頬にそっと触れてみた。
「どうしたの?」
不思議そうに訊ねてくるエリスは、当然、消えたりはしなかった。
親しい友人や肉親が時に裏切り、或いは最後まで絆に結ばれていても戦や病で突然に姿を消す東国の世界観が、骨の髄まで染みこんだ筈のアリアが、この時、たとえ一刻であっても世界の残酷な側面を忘れるのが悪くないように感じられてしまった。
なんだろう、この可愛い生物。
その美貌以上に纏っている穏やかで優しい春の日差しのような雰囲気が、この時、アリアの心を惹きつけて離さない。
エリスは、まるで森の妖精のようにも思える。
こんな血塗れの己に対して欲情もする血の通った人間なのが、心底、不思議にアリアには感じられた。
エルフは精霊の血を引く高貴な種族と云われているが、むしろ妖精のようにも思えた。
過去のヴェルニアでは、少なからぬ人数の君主や諸侯がエルフの愛人に入れ込んでお家騒動を起こしている。
今までは鼻で笑っていたそれら貴顕の訓話を、しかし、全く笑えなくなっている自分にアリアは気づいた。
共にいると心身を穏やかに癒してくれる。不愉快な気分を拭い去り、前向きな気持ちが湧いてくるのだ。
ずっといると、私は弱くなるかも知れない。
心の何処かでそんな危惧を抱きながらも、しかし、出会ってよりまだ短い期間にも関わらず、エリスを捨てる事は出来ないかも知れないと感じ、むしろ、それでいいとも思い始めていた。
無論、全く表には出さない。
内心を明かされたエリスが調子に乗るほど馬鹿とは思わなかったが、いい気にさせたり、優位に立たせる心算はなかったし、始めのうちは、互いの内面に多少の謎は合った方が関係は長続きするものだ。

 何とはなしに沈黙の舞い降りた室内で、窓が風に軋む音だけが響いていた。
外では、今日も冷たい風が木立を揺らしながら、街道を吹き抜けている。
冬の夕暮れは早い。時刻は、もう正午を過ぎている。
アリアが再び、口を開いた。
「此れから如何する?」
「日が暮れる前にノアの様子を見ておきたい」
農婦の容態はいよいよ悪化してきていた。
エリスの物憂げな顔色を見て、アリアは無言で掌を重ねた。
「……あの子……ニーナのことは如何しようか」
半エルフの薬師の言葉にアリアが思案しながら口を開いた。
「気がかりなようだな。ティレーの知人に些か当てがある。
 僅かな縁もあるし、あの子一人くらいなら引き取れよう」
エリスは暫し考えたが、ノアにしてやれる事と言ったら、残される娘の面倒を見ることくらいだった。
或いは、渡し場の村長であるリネルが引き取って面倒を見る心算かも知れない。
彼女なら、多分悪くはしないだろう。だが、先の事など誰にも分からないのだ。
兎に角、やれることをやろう。
アリアが見守っていると、エリスは淡い笑顔を浮かべながらも立ち上がった。
「ん、では、出かけるとしますか」




[28849] 83羽 土豪 34     2012/11/14
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/06 21:44
 一般に冒険者と称される者たちの社会的な地位や立場は、かなり低いのが実情である。
 しかし、中には僻地へと赴いては稀少な銀製品や工芸品、或いは塩や砂糖などの香辛料、瑪瑙、琥珀などの宝石、絨毯や蜻蛉玉のような奢侈品を仕入れて他所へと売りに行き、少なからぬ利潤を得る商才の持ち主たちもいる。
 普通は商人の仕事であるが、危険を伴う土地を旅して小規模に商う者のうちには、誇らしげに冒険商人と自称する者たちがいた。
 さらには、そうした商人の護衛として雇われる戦士や秘境にて大蜥蜴や黒貂、銀狐など稀少で高価な毛皮を追い求める狩人のうちにも冒険者と名乗る者たちがいる。
 だが、普通は冒険者は傭兵であり、傭兵は盗賊であり、然るに冒険者は盗賊と見做す者も世には少なからずいたし、それは半分は事実でもあった。
 豪族や諸侯に雇われて、領土を荒らす盗賊団や近隣の有力者の私兵と戦う者。そうした傭兵のうちには、解雇された期間には冒険者として振舞う者もいれば、盗賊となる輩もいる。
 一口に冒険者と言っても、その内実は渾然とし、また千差万別であって、富む者、力ある者が尊重されるのは、貧しく、力ない者が、忌避されるのは如何な時代、如何な社会でも変わらない。
 一握りの高名な英雄を除けば、冒険者の大半は、傭兵や盗賊、浮浪者や乞食の同類であり、民草から猜疑され、忌み嫌われているのが実情であった。

 レオとリースの二人は、南王国出身の二人組で、セスティナの北辺から辺境に掛けてを活動の舞台とする放浪の冒険者であった。
 彼らの主な仕事は行商人や旅人の護衛であるが、時には豪族や諸侯の雇われ兵になることもある。稀に好機に恵まれた時には、辺境で採れる漆黒の自然石や瑪瑙などを安値で仕入れ、南王国で売り捌きもしたし、畑を荒らすゴブリンやコボルドを追い払い、人喰いのオークの群れに浚われた子供を喰われる寸前に助けだす勲を上げもした。
 喰う為に様々な仕事をしてきた二人だが、盗賊の真似事だけはしてこなかった。
腕が立つか立たぬかは余人の判断に任せるとして、冒険者としての評判はまずまずのものがある。
長い歳月を掛けて培った評判は中々のものであり、辺境の幾つかの村では、顔見知りの村人が家に招き入れて、食事を振舞ってくれる程度には信用を勝ち得ている。
様々な生業で口を糊している放浪者のうちでは、比較的に恵まれていると言って良いだろう。

 洞窟オークの襲撃から、三日が経っていた。
薄暗い小屋の中、藁の寝台に横になって静養している栗色の髪の女性にレオは声を掛けた。
「リース。何か、欲しいものはあるか?」
寝ているかとも思ったが、暫らくして毛布の下からくもぐった声が返って来た。
「喉が渇いた」
肯きながら、縄に結ばれた素焼きの壷をぶら下げて立ち上がるレオ。
 河辺の村を襲ってきた洞窟オークと剣を交えた際、浅からぬ傷を負ったリースであったが、大枚払って手当てを受けたエルフの薬師の腕は悪くなかったようで、傍目にも快方へ向かっている。
相棒のレオとしては一安心と言うところで、僅かに顔を綻ばせていたが、小屋を出る際、深手を負って寝込んでいる旅の男とその傍らに侍る子供の哀しげな眼に視線が合った。
何か悪いことをした訳でもないが、僅かに後ろ暗い感情を覚えてレオは視線を逸らした。
怪我人たちが寝泊りをしているあばら家には、今も苦しげな呻きが響いており、リースは陰気な寝床を出たがっていた。
 もう少し容態が良くなったら……いや、今日にでも、顔見知りの村人に家の隅でも間借りさせて貰えないか頼んでみるか。

 小屋を出て冒険者の青年は歩き始めた。と、珍しく南風が吹いていた。
遠く海の香りを運んできたのか。冷たい風の中には、微かに潮の匂いが含まれている。
 井戸へと歩いていく途中、冷たい風に身体を震わせると、レオ青年は擦り切れた薄いマントを首筋へと寄り合わせて震えた。
 空模様は晴れ渡っているが、南の地平には鈍い灰色の雲が広がっている。
降るかな。今日も、肌寒い一日になりそうだ。
憂鬱そうな表情をして足早に通り過ぎる田舎道も、雨が降れば一帯が泥濘と化す。
そうなれば、出歩くことも侭ならず、火を囲みながら狭い小屋の奥で縮こまって過ごすしかない。

 井戸の見える広場を前にして、衝撃を受けたようにレオは思わず足を止めた。
自分の行動が理解できずに瞬きしながら、改めて広場に視線をやり、息を飲んで傍らの岩陰へと身を隠した。
 前方に影が蠢いていた。数十もの革鎧や厚手の布鎧を着込んだ黒い影が、素早い動きで広場を走り抜けていく。
……オーク。それも鍛えた戦士だ。
 腸の底が緊張にきゅっと引き締まる感覚が腹を貫いた。文字通りに胆が縮んだ。
ガチガチと歯の根を鳴らしながら、レオは身を伏せたまま少しずつ後戻りしていく。
見つからなかっただろうか。
気配が全然違う。此の間の洞窟オークとは、動きも気配も別物だった。
何よりあれほどの人数がいて、誰も吼えていないのが異様な雰囲気を醸し出している。
耳元に感じた濃厚な死の気配に、レオは糞尿を漏らしそうなほど脅えていた。

 這いずりながら見えない距離まで後戻りすると、そこから身を翻して可能な限りに地を駆ける。
短時間で血の気は失せ、足は震えていた。
如何する?オーク。戦う?村人に知らせる?無駄だ。どうしようもない。
兎に角、リースを連れて逃げる。それしかない。
先日の洞窟オークとは訳が違う。見た瞬間にレオは理解していた。
村人なんかが対抗できるような連中ではない。
一人一人がかなりの場数を踏んだ戦士達の集まりだ。
誰を取ってもレオやリースと互角か、もしかしたら強いだろう。
見つかれば、間違いなく殺される。

 まだ無事な村人に伝えようとも考えなかったし、声も出なかった。
声を出せば見つかりそうな気がしてならない。冒険者の青年は心底、震え上がっていた。
 怪我人たちの集められた小屋が見えてきた。が、あばら小屋の周囲に幾つもの黒い影が蠢いているのを目にして、レオの心臓は再び跳ね上がった。

 小屋のある少路に、倒れた村人とそれを取り囲むようにして数匹のオークがうろついている。
慌てて雑木の影に隠れ、そっと様子を窺うレオの背中を冷たい汗が流れ落ちていった。
小屋から出てきたオークが、毛皮で縁取りされたマントを得意げに仲間に見せつけている。
見覚えのあるマントだ。旅人の一人が持ち物としていた代物に間違いない。
歯軋りしつつ顔を背けたレオだが、リースの安否を確認せねば心休まらぬと再び視線を小屋へと戻した。
気は急くものの、レオ一人では数の勝るオークたちに対して手のうちようがない。
のこのこ出て行っても、剣の錆になるのが関の山だろう。

 焦慮に胸を焼き焦がしながら逡巡しているレオの耳に、微かに泣き叫ぶ女の声が届いた。
瞬間、決断する。勝ち目が薄かろうがやるしかない。蛮勇も止むを得ない。
飛び込めば、相棒に逃げる機会くらいは作ってやれるかもしれない。
相棒の危機に、此処が先途と飛び出そうとしたレオの背にこつんと小石が当たった。
仰天して振り返る。と、其処では近くの葦の草叢から強張った顔つきのリースがレオを見ていた。
 窄めた唇に人差し指を当て、それからゆっくりと肯いた。
無事だった。固くなっていたレオの全身から安堵で力が抜けた。
泊まっていたあばら小屋に脅えを含んだ視線を送りながら、リースがレオを手招きした。
「無事だったか」
慎重に駆け寄ったレオの囁きに肯きつつ、リースは緊張を隠さずに小声を事情を説明した。
「間一髪ね……外が騒がしかったから、窓から飛び出した」
決断の早さは、流石に冒険者と言うべきか。
闘争の能力は騎士や熟練の剣士に劣るとしても、危地に瀕してのしぶとさは伊達ではなかった。
「広場の方にもな、何十人もオークがいた」
抑えながら囁いたレオの声もまた震えていたが、馬鹿にする様子もなくリースは肯いた。
「村の中央が抑えられたか、リネル姐さんは……」
言いかけたリースだが、あばら家からは相も変わらず叫び声や荒々しい怒鳴り声が聞こえてきた。
残念だが他人の心配をできる余裕はなさそうだ。リースは思考を切り替えた。
「人の心配している場合じゃないね……如何する?レオ」
「逃げるしかない」
 この様子では、村から逃げ出すのも生易しいことでは無さそうだった。
しかし、自分たちの無事だけを計るなら、辛うじて見込みもあるだろう。
レオの意見に俯いた冒険者の女性は、暫らく考え込んでいたが小声で考えを告げた。
「助けを呼んでこれないかな」
竜の誉れ亭なら、豪族の巡察隊が来ているかも知れない。
しかし、レオは暗い顔で首を横に振るう。

 冒険者といっても、統率の取れた武装集団を前にして何が出来る筈もない。
逃げ出す方が安全だろうか、それとも此の侭、近隣から人族の応援が来るまで隠れていれば助かるだろうか。
思案を凝らす二人組の冒険者だが、答えが出ようはずもない。
取り敢えずは見つからぬように行動しようと、木立に隠れながら脅えた鼠のようにそっと移動を始めた。


 枯れ草の生い茂る街道をのんびりと歩きつつ、エリスは数年前に南方に赴いた際の体験談を友人に披露していた。
「で、その町の執政官さまは流行り病を収める為に、薬師たちを集めてね。
治った時には、ご馳走を振舞ってくれたの。凄いお祭り騒ぎだったよ」
隣を歩いているアリアは、朝食の残りの腸詰を齧りながら適当に相槌を打っていた。
「特に羊のもつを揚げて香辛料を振った料理が美味しかった」
「羊のもつ?」
口元の脂を拭いながら首を傾げたアリアに、エリスは肯きかける。
「美味しいよ、特に揚げたて」
「……油で揚げるのか?揚げ物をそんなに振舞うほど大量に作れば、油だって馬鹿になるまい」
東国では油はそれなりに値の張る品物だから、アリアは不思議そうに訊ねる。
「揚げ物も、作るのにはいい油が必要だから、残念だけど辺境だと難しいかな。
ミュートスはセスティナのさらにずっと南だから、暖かくてオリーブ油が安いんだよ。
土地に拠ってはワインやエールよりも安いくらい。葡萄を作ってない土地もあるんだけど、そうした土地は代わりに蜂蜜を使ったお酒が多くなるの」
「ふむん」
興が乗ったのか。アリアは興味深そうに耳を傾けている。
女剣士の様子を見て取って、エリスは身振り手振りまで交えて南方での見聞録を語り続けた。
「特にギーネ地方の沿岸に在る荘園はね。オリーブの樹が、こう見渡す限りに広がっていた。
収穫の時期には、人手が足りなくなるからよそ者の亜人でも雇ってくれたね」
「そんな揚げ物が安く売られるほど油が大量に作れるのか」
恋人のハスキーな声に耳を傾けながら、当初は半信半疑であったアリアだが、やがて顎に指を当てて考え込む。
「交易船を仕立てれば儲けられそうだが……駄目だな。セスティナの軍船に邪魔立てされるであろう」
南方との交易路を開拓しようにも、間違いなく横槍を入れてくるであろう強力なライバルの存在に思い当たり、東国諸侯の一人であるカスケード伯子は腹立たしそうに眉を顰めた。

 東国諸侯と南王国は犬猿の仲であるが、その競争は海の上でも行なわれている。
過去に幾度と無く衝突した南王国だが、陸戦では兎も角、海戦では分が悪いとアリアは見ていた。
同輩の豪族諸侯のうちにはセスティナ海軍何するものぞと侮っている者も少なくないが、カスケード伯子アリアテートは意見を異にしている。
船員の練度は兎も角、船の数においては、恐らく南王国海軍は東国諸侯の艦隊に対して互角か、優越しているだろうと見積もっている。

 まして件の土地は、王国軍の軍船が徘徊する南西海域のさらに先に位置している。
碌に地理も知らず、航路も確立されておらず、水先案内人もいない状況で未知の海に乗り出したとて、到底、うまく事が運ぶとは思えない。一か八かの勝負になるだろう。
下手をすれば、船員ごと拿捕されてお終いである。
「南方との交易は、業突く張りのセスティナ人共に独占されているが故……」
結論付けたアリアが不満げに唸ると、エリスは他人事の気楽さで呑気に呟いた。
「南王国(セスティナ)と東国諸侯(ネメティス)は仲悪いものねえ」

 苦い顔つきで天を仰いでいるアリアを眺めながら、エリスは話題を転じた。
「揚げたといえば、新鮮な海老を油で揚げて塩を振った料理があってね。此れも美味し……」
あっけらかんとしたエリスが中断していた食べ物談義を続けたとき、強い南風が吹き付けて草木を揺らした。
「……寒ッ」
エルフの娘が暖かい毛皮の服に亀のように首を埋めるのを見て、くつくつと笑った女剣士は故郷に想いを馳せる。
「海老の揚げ物か。そのうち食べてみたいな。東国の海では鮭や鱒、そして蟹なんかが取れる。どれも美味い。特に北の海で採れる冬の蟹は、身が引き締まっていてな」
「蟹かぁ、南でも食べたけど」
エリスの口には合わなかったのだろうか。あんなに美味しいのに。
アリアは不思議そうに目を瞬いてから、
「蟹は海の深い処にいて捕まえるのは中々難しい。蟹取りの名人は、特に大きい奴を一人で捕まえた者は皆に尊敬され、その甲羅は武具の材料として高値で取引される。
 大きな蟹を一匹倒せば、一年は遊んで暮らせるだろう」
「蟹だよね?」
「蟹だ」
 エリスが過去に食べた事のある南国の蟹は、精々が掌大の大きさであった。
対してアリアの思い浮かべている北海の蟹は、一尺半から二尺(60cm)。
中には牛や馬よりも巨大、且つ人を捕食する奴もいるが、不思議そうに首を傾げる二人は齟齬に気づいていない。


 南方に視線を走らせたエリスは、地平の彼方に灰色の雲が蟠っているのを見て、驟雨が来そうだなと呟いた。
「……今日は何が食べたい?アリア」
「君の作るものは何でも美味いからな。何でもいい」
「魚醤のスープを作ろうと思っているのだけれど……」
料理担当のエリスが肯きながら思案を凝らしたとき、唐突にアリアが足を止めた。
「……気のせいかな」
怪訝そうな顔つきで前方を眺めながら、アリアはなにやら逡巡を見せていた。
が、やがて周囲を見回すと、エリスの腕を掴んで見繕った草叢の影へと歩き出した。
「なに、こんな野原で……そんな……」
頬を朱色に染めるエリスに、アリアは呆れながら
「馬鹿、気づかないか?」
友人の緊張感が薄れているようにも見えたので、危惧を抱いた女剣士が嗜める。
「冗談だよ。此方に向かってくるね」
西方山脈の黒い稜線が見渡せる方角へと、真っ直ぐに視線を投げかけたエリスが肯いた。
「気づいていたか?」
「うんや、今気づいた」
やや緊張しているのか。人差し指の関節を噛んでから、エリスも草叢の後ろへと隠れた。
アリアは、確かに油断も隙も見せない。
その用心深さが、エリスには旅の連れとして心強く感じられる。
頼もしそうにアリアを見てから、エリスは耳を澄ませたが、すぐに蒼い瞳に緊張の色を走らせた。
「かなりの人数だよ、荒々しく叫んだり喚いたりしている」
「どうにも物騒な感じだ。やり過ごすぞ」
言われるまでもない。危険を避けるのに越したことはないのだ。
最近の辺境はどうにも物騒だとぼやきながら、エリスも肯いて同意を示した。
生い茂る草叢の後ろに姿を伏せながら、アリアはエリスの尖った耳元に口を寄せた。
「そうだ。君の『耳』で詳しくは分からないか?」
「やってみる」
尖った耳を兎のように動かしながら、エルフの娘は目を瞑って神経を集中した。
「十人……はいないな。七、八人か」
真剣な顔つきで気配を探りながらの報告に、アリアは厳しい顔をしながら繁みの後ろに身を伏せた。
「……走って近づいてくるね」
耳を澄ませるまでもなく、荒々しい叫び声がアリアにも聞こえてきた。
「気をつけてね」
用心を促す半エルフの声。十中八九、オークだろうなと予想しつつ女剣士が繁みからそっと顔を出すと思いも寄らぬ光景が目に入った。
目の前でオークの集団に追われているのは、泣き喚いている小さな一匹のゴブリンだった。




[28849] 84羽 土豪 35     2012/11/14
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/06 21:44
 息を潜めて繁みに伏せていた二人の娘の目前に、足音の主たちが姿を現した。
きいきいと甲高い声で鳴き叫びながら必死に逃げ惑う一匹のゴブリンを、怒り狂ったオークの集団が剣や棍棒を片手に追い掛け回している。

 草叢の後ろから用心深い老猫のようにそっと顔を覗かせたエリスが、再び顔を引っ込めて言うには
「あれは河辺の村のゴブリンだね」
「確かか?」
振り向いたアリアが念を押して訊ねるも、エリスは間違いないと云う。
「見覚えがあるよ。村外れでうろついるのを何度か見た」

 散策でもしている最中に、オークの斥候隊と出くわしたのだろうか。
だとしたら運のないゴブリンだと女剣士は哀れんだ。
「……変なところで追われてるものだな」
 アリアの言葉に、瞬きしたエリスは怪訝そうに首を傾げてから再びゴブリンを眺める。
「……捕まっちゃいそうだね、逃げ切れるといいけど」
 喚き声を撒き散らしながら逃げるゴブリンとそれを追う数人のオークの逃走劇を見つめながら、女剣士は思案に耽った。
 見知らぬゴブリンとは言え、見捨てるのは些かの寝覚めは悪い。
とはいえ……と、オークたちの所作や装備、体格を見定めながら、難しい顔で呟いた。
「少し厳しいな」
「そう?」
 低く伏せた姿勢のまま、オークたちへと視線を走らせてから、エリスはアリアの傍に身を寄せた。
「……いや、かなり出来るぞ。あのオーク共」
 雑兵にしては動きに遅滞がない。走る姿勢も安定している。
手練とまでは言わないが、それなりに鍛錬を積んでいる者たちだと女剣士は見定めた。
 二人の目と鼻の先の街道でオーク共は剣を振り回しながらゴブリンへと飛び掛るが、小人も必死に掻い潜っていた。
「旅籠まで逃げ切れればいいのに」
エリスが呟くが、アリアは厳しい顔つきのまま応えなかった。
竜の誉れ亭はあれで中々、堅固な造りを備えている。武装した用心棒もいるし、建物も頑丈で、賊徒に追われた者が逃げ込むには適しているのだ。
だが、街道の行く手を塞がれたゴブリンは、道から逸れて赤茶けた大地を逃げ惑っている。
 やがて口を開いて、一言だけ呟いた。
「もう駄目かな……あれは」
ゴブリンは中々のはしっこさを見せて伸ばされるオークの腕を掻い潜っているが、オークは兎に角、数が多いし、連携も取れている。
鼻水まで垂らし、醜い顔をくしゃくしゃに歪めて泣き顔で逃げ惑うゴブリン小人は、しかし、疲労で鈍ってきたのだろう。苦しそうに喘ぎ、足がもつれて捕まるのも時間の問題に見えた。

「五人か。灰色オーク。それに黒オークもいるな」
普通のオークより体格的に勝る、少しばかり手強い連中だった。
 金属片を縫い付けた布鎧や革服、小さな盾を背負っているオークもいる。
青銅の穂先の槍や手斧、鉄製の中剣に小剣など、かなりいい装備をしており雑兵には見えなかった。
「見つからないように此の侭、隠れていよう」
 判断を下したアリアは、見ず知らずのゴブリンの為に危険を侵す心算にはなれなかった。
エリスにしても同感で、憐憫を孕んだ視線の先で遂にゴブリンが追いつかれた。
「たすけて!誰か!死にたくない!おっかちゃん!」
断末魔の叫び声が上がるだろうと耳を塞いだエリスだったが、しかし、オークたちには梃子摺らせてくれた獲物を簡単に楽にしてやるような優しさはなかった。

 殴打するような鈍い音、泣き叫ぶ声と啜り泣き、許しを請う惨めな呻き声、枯れ枝の折れるような軽い音と、そして恐怖に満ちた絶叫。
 オークたちは、ゴブリンを痛めつけ、弄り始めていた。
ゴブリンの悲鳴にげたげたと笑う者、さらに怒り狂う者、無表情になる者。
「許してぇ!」
泣き叫んでいるゴブリンを前に、無表情になった灰オークが首を横に振るう。
「……あまり弄るな。さっさと殺してやれよ」
慈悲を掛けるように言われて、しかし、一際大きなオークが怒りの唸り声を洩らした。
「駄目だ。こいつは、俺の顔に糞をぶつけやがった」
ゴブリンの腕を踏みつけて体重をかける。悲鳴を上げる小人の顔を蹴り飛ばした。
「散々に痛めつけてから殺してやるぞ。糞ゴブリンが!」
慈悲を掛けるようにいった灰オークが鼻を鳴らしてから、唾を吐き捨てた。
「……付き合いきれないぜ」

 やがて一匹のオークがゴブリンの髪を掴んで無理矢理立たせると、槍で串刺しにした。
惨たらしい断末魔の叫び声を耳にして、エリスは表情を歪めながら目を逸らした。
 オークは五人もいた。繁みの後ろから慎重に様子を窺うエリスの目算では、距離は七十歩幅から百歩幅(30m)か。
 街道上のかなり離れた場所で屯っているオークたちは、アリアの言葉通りにかなり用心深そうな振る舞いを見せていた。
暴行に加わらずにいたオークのうちには、木立に寄り掛かりながらも周囲を見回している灰色オークもいた。
と、その灰色オークの視線が、エルフ娘の隠れている位置でふっと止まったのが見えた。
まずい。と、本能的に見つかったと感じて、エリスは反射的にさっと頭を引っ込めた。
動いた瞬間、自分の間違いに気づいて唇を噛んだ。
人の目は素早い動きをするものに引きつけられるものだ。
こうした時は、ゆっくりと動いて隠れるべきだった。
経験則でそれを知っていながら、脅えたエリスは、無意識に仕出かしてしまった。

 案の上、視界の隅に素早い動きを見咎めたのか。
此方を見ていた灰色オークが、寄りかかっていた木立から離れた。
嫌な予感がエリスの背筋を走り抜ける。
灰色オークは、隣のオークの肩を叩いて此方を指差していた。

 額を押さえたエルフの娘は、動揺を押し殺すように一瞬、強く目を閉じた。
「ごめん……見つかったかも」
「多分な」
アリアはエリスの迂闊さを責めるでもなく、淡々とした声で指示を出した。
「走って逃げる準備をしておけ。エリス。くれぐれも戦おうとは考えるな」
 オークのうちの二人が歩み寄ってくる。
近づいてくるオークに注視しながら、中腰になったエリスはじっと動かずに逃げる時期を見計らっていた。
 歩み寄ってくる二匹のオークは革服を着込んでおり、かなり強そうに見えた。
瞳を細めたアリアが静かに剣を引き抜いた直後、オークの集団から声が飛んで二匹を呼び止めた。
 二匹はオーク語でなにやら言い返していたが、やがて肩を竦めると引き返していった。

 暫らくの間、二人の娘は息を飲んでオークたちを観察していたが、やがて踵を返した彼らが街道の向こう側へと立ち去っていく姿を見送ると、大きく溜息を洩らした。
「見つかったかと思った、胆が冷えたよ」
額の冷や汗を拭っているエリスの傍らで、僅かに立ち上がったアリアはじっと街道の先に見入っていた。
オークの集団が完全に見えなくなったのを確かめてから、首を振るう。
「連中、かなり戦い慣れているに違いない。一体、何者であろうか」

「連中は、村の方からやってきたな。あのゴブリンが散策中にオークの斥候と出くわしたのなら、普通は村へと逃げ帰るだろう」
黒髪の女剣士の何気ない言葉に、翠髪のエルフ娘は怪訝そうに訊ねた。
「まさか、村に何かあった?」
「分からん……が、今の辺境は、まるで魔女の婆さんの窯のように煮詰まっている。
何が起こってもまったく不思議ではないからな」
肩を竦めたアリアに対して肯いてから、エリスはゴブリンの元へと歩み寄ったが、哀れな小人は完全に息絶えていた為、何を聞きだすことも出来なかった。
「……もしかしたら、村が襲われたのかな」
だとしたら、旅籠に戻って知らせるべきだった。
折悪しく豪族の巡回の兵士は訪れていないものの守りは堅いし、ひいては近隣の住民にも警告を発することにもなる。戻るのが一番だろう。

 暫し無言で考え込んでいたアリアだが、エリスに鋭い視線を向けた。
「エリス、君は旅籠の親父に知らせに行け」
「アリアは?」
「村に行って、何か起こってないか確かめてくる」
「危険だよ」
真っ直ぐと見つめて引き止めてくるエリスに、アリアは首を振るう。
「自分の目で確かめなければ、何が起こったのか分からん」
「……豪族の兵隊に任せなよ」
エリスからすれば、何故、女剣士が態々危険な行為を行なうのか、理解できない。
「……時間が掛かる。或いは、目と鼻の先にオークの部隊が陣取っているのかも知れん。
 その場合、何も知らずに旅籠に戻った方が、先々ではもっと危険な事態を招くだろう」
「ああ、そっか。旅籠も危ないか。でも……渡し場が使えなくなったら……」
指を噛んで惑うエリスを眺めつつ、微かに瞳を細めたアリアが穏やかな口調で告げる。
「いっそ、引き返すのも有りだと思うがね。東国へ一緒に来ないか?歓迎する」
何を躊躇しているのか、エリスは俯いた。
「ああ、うん……悪くないね。
 でも、村には、ノアとニーナがいる。もし村が襲われてるとしたら……」
困ったような嬉しいような態度で、エリスは言い辛そうに知人の安否を気に掛ける。
「状況に拠るな。だが、ノアはいずれにしても時間の問題だ。ニーナは……哀れだが自分で何とかするしかない」
場合によっては見捨てると、アリアは言外に告げた。
「悪いが其処まで面倒は見切れぬ。わたしはまず君と己の安全を優先する。他人を助けるとしても、余力があればの話だ」
云ってからアリアはやや厳しい顔つきに改まって、エリスを鋭い眼差しで見据えた。
「言っておくが、こんな状況では己の身を守れれば儲け物であろうよ」
厳しい口調と言葉で念を押されて、エリスは歯噛みしながら天を仰いだ。
「……分かってる」

 沈痛な表情を浮かべたエリスをやや慰めるように、アリアは肩を軽く叩いた。
「だが……まだ、村がどうこうしたとも決まった訳ではない……なに、危険な気配を感じたらすぐに引き返すさ」
今度はエリスがやや厳しい顔つきでアリアを見つめながら、意見を述べた。
「反対だよ……態々、行く必要はあるの?」
「万事、自分の目で確かめるのが、一番いいのだ。村には入らん。
近くまで行ったら、手近な丘陵に昇って遠目に様子を窺う」
それでもエリスの懸念は晴れない様子だった。
「ここら辺のオーク共が鳥騎兵や騎兵を使っていると耳にしたことはなかろう?」
アリアの言葉に、エリスは首を振るった。
反対しても無駄なようだから、せめて自分に出来る限りで手伝うしかないと心に決めた。
「幾ら足が速くても、大勢いる中に飛び込んでしまったり、飛び道具だって在るよ。
わたしも一緒に行く。わたしの耳は役に立つ」




[28849] 85羽 土豪 36     2012/11/18
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/06 21:43
 ゴート河畔にある小さな集落のあばら家の裏手から細長い炊煙が空へと吸い込まれていく。
丘の彼方で揺れる白い煙を目にして、母親が食事の支度を整えているのだと気づいたメイは、
原っぱで遊んでいた村の子供たちに別れを告げると、満面の笑みを浮かべて走り出した。

 夕餉には少し早い時間であったが、冬の落日は段々と早くなってきている。
周辺の農家には、日の沈む前に食事の支度を済ませておく習慣が珍しくない。
 小さな村だ。村道を飛ぶように駆け抜けた少女は、すぐに家へと辿り着いた。
「母ちゃん!ただいま!」
青っ洟を垂らしつつ駆け込んできた我が子を見て、リネルは僅かに顔を綻ばせた。
「いい時間に帰ってきたね。そろそろ飯時だ。メイ、ニーナを呼んできな」
「分かった」
 母の言いつけに肯いた娘は、其の侭脱兎の勢いで戸口から飛び出していった。
素焼きの鍋で温めている雑穀粥に僅かな塩を入れながら、リネルは
洞窟オークに追われて転がり込んできた農民の子供ニーナの顔を思い浮かべた。
気丈で優しい性根の娘だと思う。
メイとも気が合うようで、母親にもしもの事があれば引き取って面倒を見てもいいと年増女は考えていた。
川辺の集落が取り立てて豊かな訳ではないがリネルは村長であり、その亡父は村で一番の物持ちであった。
旅人たちから徴収する艀の使用料もあって、近隣の農民に比べれば些かの余裕もあった。
村長のリネルなら、身寄りのない子供一人くらいなら衣食を負担できるだろう。


「それにしても……世の中、どうなっちまったのかねぇ」
粥をかき混ぜながら年増女が暗鬱に漏らした呟きは、近隣に住まう者たちが心に斉しく抱いている不安でもあった。
徘徊する盗賊たちやオークの襲撃に対しては、有力な郷士や豪族の助けもさほど期待出来ない。
 そもそも河辺の村はどの豪族の領地ではない。
支配を受けていないと言うことは、同時に保護も期待できない。
時折、豪族の手勢が村近くを巡回している光景を目にするも、豪族たちの兵にも限りがあり、また常に動かせる訳でもない。
対する賊徒やオーク共は、狙った獲物に不定期に好きな場所で襲い掛かる事が出来るのだ。
自然、豪族たちは後手に廻らざるを得ない。
最近は、村の近くにも見回りの兵を見かけるものの、しかし、滅多に怪しい者を捕まえるでもなく、
税を余計に取り立てられている豪族傘下の村々では不満が溜まっているとの噂も耳にしている。
中には、無駄飯ぐらいと罵っている農民もいるそうだが、けして豪族たちが手を抜いている訳ではないと村長であるリネルは思っていた。
村人たちも役に立たぬと見做していたが、もし、豪族の手勢が見回って牽制しなければ、
賊がより大胆不敵になって街道筋を跳梁跋扈する事、火を見るよりも明らかだろう。
だけど、豪族の巡察隊に食べ物の供出を求められる農民たちにしてみれば、溜まったものではない。
しかし、豪族に頼れない自治村の農民は、自分で武器を持って賊やオークから自衛するしかないのだ。

「……豪族の誰かに身を寄せるべきかねえ。そうすれば助けてもらえるんだけど」
生活に疲れた年増女のリネルは、天を仰ぎつつ溜息を重ねていたが、やがて苦い笑みを浮かべて粥を一匙、味見で口に含んだ。
悪くない味だった。季節によって蕪や人参などの野菜の酢漬け、野の果実、魚、稀に肉が食卓を飾るが、辺境の農民の食事は概して貧しいのが普通だ。
豪族の傘下に収まれば、税を納めねばならない。貧しい食事はさらに乏しくなるだろう。
「まあ、なるようにしからないかね」
吐き捨てるようにも、諦めたようにも洩らしたリネルの掠れ声が、薄暗い部屋に吸い込まれて解けた時、あばら家の戸口で物音がした。

砂を踏むような足音に気づいて振り返ると、家の入り口を塞ぐようにして大柄な人影が佇んでいた。
戸口の頂上に頭が届いていることから、並外れた巨躯の持ち主なのが分かる。
あばら家には、戸口の他に小さな窓が二つあるだけだ。
冬の弱々しい太陽の下、扉代わりのボロ布を背後にし、陽光を遮る薄暗い室内で来客の人相はよく見えなかった。
見慣れぬ人影だ。旅人だろうか。或いは盗みを働こうと考えたよそ者かも知れない。
困惑したリネルは、壁に立てかけた棍棒を一瞥してから低い声で問いかけた。
「誰だい、あんた?此処は私のうちだよ」
返事はない。僅かに身動ぎしただけである。
不快そうに眉を顰めた村長の再びの誰何の声が非友好的な響きを帯びていたとしても無理はないだろう。
「耳がないのかい?人を呼ぶよ」
一歩、二歩と用心しながら歩み寄った村長が、来客の顔を見て立ち止まり、小さく息を呑んだ。
差し込んだ僅かな陽光が照らし出したその貌は、巨大な傷跡を持つオーク族の男。
金属の環を縫いこんだ革鎧を着込み、分厚い筋肉に覆われたオークの鋭い眼差しが、年増女をしっかと見据えていた。
オーク!何故、こんなところに!
愕然とするリネル。村長の家は村の中央に位置している。
大勢の襲撃なら村人が気づかない筈はなく、少数なら易々と侵入できる筈もない。
有り得ざる事にも拘らず、しかし、言に年増女の目の前には獰猛なオークが無言で佇んでいた。
棍棒を!
女の細腕が棍棒を握ったところで、こんな怪物相手にどうにかなるとも思えなかったが、怯ませて逃げるくらいは出来るかもしれない。
瞬時の混乱の後、身を翻したリネルが壁の棍棒に手を伸ばすのと、踏み込んできたオークが女村長に飛び掛かるのとはほぼ同時であった。


 彼方の雑木林の上を夕方の蝙蝠が飛んでいるのが見えた。
冬の晴れ渡った空の下、時折、吹き付ける南風が足元に砂埃を舞い上げる。
女剣士のアリアは、翠髪のエルフ娘のエリスと一緒に枯れ野を横断する街道を歩いている。
「見えてきた」
河辺の村落からやや離れた木立の傍で立ち止まった二人は、村の様子をそっと窺った。
村の入り口には小さな柵が並び、少し奥には泥と木で捏ねて作ったような小屋が建っているのが見える。
「如何なのかな。特に変わった様子は感じられないけど」
エリスの言葉に、しかしアリアは何かを感じたように黄玉色の瞳に鋭い眼差しを浮かべて村をじっと眺めている。
「……妙な感じだ。静か過ぎる」
「行ってみる?」
エリスの提案に、アリアは立ち止まったまま気が進まない様子で首を振った。
「……踏み込みたくないな」
僅かに戸惑いを浮かべたエリスに目もくれず、アリアは何やら考え込んでいた。
アリアは、過去に幾度か己の勘働きで命を拾ったことがある。
今回も特に理由もないのに、村に踏み込むのが躊躇われた。
首の後ろの毛がチリチリと逆立っている。危険な徴候に思えた。
「人影一つ見当たらんな。村外れに、ゴブリンかホビットの一人位はいそうなものだが」
「ん、確かに……だけど考えすぎでは?」
「用心が空回りしても笑い話ですむが、危険な場所に踏み込めば最悪、命を失う」
其処まで言うのなら此処はアリアに判断を委ねてみるかと、エリスは口を閉じて村を眺めた。
しばし、無言で周囲の地形を見回していたアリアだが、やがて北に連なる丘陵に視線を留めた。
「そうだな、あそこなら村もよく見えるだろう。昇ってみよう」
言って女剣士が歩き出した。随分と遠回りになる。やや不満そうに肩を竦めてからエルフの娘も後を追いかけた。

 仮に村に何かが在ったとしても、此れほど慎重に行動しているなら確かに見つかる筈もない。
丘を昇る最中、遠目に見える村の遠景には、しかし特に奇妙な様子は窺えなかった。
「……どうやら思い過ごしていたようだね」
安心し、ホッと息をついたエリスが、微かに笑顔を浮かべて言うが、
妙に頑固な態度のアリアは、登ることに拘った。
土手や雑木が邪魔でまだ全景が見えた訳ではないと言い張るのだ。

 丘陵に強い風が吹いて、潅木の枝を大きく揺らした。
分厚い暗雲が南から急速に近づいてくるのが見えた。と風も冷たくなってきている。
吐く息も白い。潅木やヒースの生い茂る丘陵を昇って頂きに近づいた時、アリアは立ち止まって舌打ちした。
何事かと、顔を上げたエリスも息を呑む。
丘陵の頂から灰色の肌をした革服のオークが姿を現していた。
燃えるような険しい眼差しで二人の娘を見下ろしている灰オークの背後には、さらに二匹のオークが武器を携えて控えていた。


 どうやらオークの斥候と鉢合わせをしたらしい。
偶々選んだ丘陵での遭遇戦に運の悪さを嘆きつつ、女剣士はエルフの娘を庇うように身構えた。
「すまん、エリス」
用心深さが裏目に出たようだと判断の誤りを謝するアリアに、エリスは肩を竦めつつ苦笑を浮かべた。
「ついてないね、で如何する?」
後ろでやや逃げ腰になったまま、女剣士に訊ねかける。
相手は三人。手練のアリアなら戦っても負けないだろうが、足手纏いのエリスがいる。
だが、今すぐ踵を返せば逃げ切るのは難しくないだろう。
「逃げるとしよう」
丘陵の中腹で立ち止まり、だが、どこか余裕のある態度で見上げる二人の娘を見下ろしながら、息を吸い込んだ灰色のオークが手にしていた角笛を高らかと鳴らした。

 灰オークの鳴らした角笛の響きが冷めやらぬうちに、丘陵の左右から狼の遠吠えのような吼え声が返ってきた。
右手の窪みから二匹。そして左手の繁みの影から三匹。
いずれもアリアとエリスからは見通せない位置に隠れていたオークの伏兵が、挟み撃つようにして姿を現して丘陵の勾配を猟犬のように駆け寄ってくる。
完全な待ち伏せに立ち竦んだエリスは、慌てた様子でアリアを振り返った。
 しかし、頼りの女剣士も微かに瞳を見開いて呆然と呟いていた。
「……まさか、読まれていた?馬鹿な、ありえない。」
偶々、目に付いて選んだ丘陵で魔法のように現われた伏兵に奇襲を受けた。
考えられることではない。だが、現実に奇襲を受けている。
偶然にしては出来すぎていた。伏兵を置いていたからには、明らかな待ち伏せだった。
まるで性質の悪い詐術に掛かったように、この時のアリアは珍しく動揺を隠し切れていなかった。
「アリア!」
エルフの娘に強く名前を叫ばれて、女剣士は瞳を強く閉じると深々と深呼吸した。
一瞬後、瞳を見開いたアリアからは困惑の態は消え去り、鋭い眼差しには普段の力強い光が蘇っていた。
それ以上、二人に立ち直る猶予を与えようとせず、頂きに佇む灰オークが吼えながら手を振り下ろす。
と同時に、吼え猛りながら三方から七人のオーク族の戦士が殺到してくる。
いずれの身のこなしも素早く、動きも機敏であり、各々の獰猛な面構えからは並々ならぬ力量が窺えた。
如何にアリアが手練の剣士だとしても、相手取るには分が悪いだろうと戦いに疎いエリスにさえはっきりと感じとれた。
「……罠に嵌った?」
身を震わせて茫然と呟いたエリスの傍らで、瞳に硬質の光を宿したアリアが剣を抜き放った。




[28849] 86羽 土豪 37     2012/11/21
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/06 21:42
 逃げ道はふさがれつつあった。
左手の茂みから現われたオークが三匹、アリアとエリスが昇ってきた勾配を塞ぐように後方に廻り込みつつあった。
前方から勢いよく駆け下りてくるのが二匹。その後方にいる灰色オークは、此方を完全に包囲する心算なのだろう。
手薄な逃げ道を塞ぐように仲間とやや離れた地面を走っていた。
右手の窪みに潜んでいた残り二匹は、此れも潅木や繁みの隙間を縫うように機敏な動きで走り寄ってくる。
 立ち竦んでいたエリスは、左右に視線を走らせて舌打ちした。如何やら逃がす心算はないらしい。
二人の娘を中心にして円を描くようにオークは現れていた。どちらへ逃げようとも行く手に立ちはだかってくる。
かといって相手が八人もいては、さしものアリアでも勝ち目は薄いように思える。
 アリアは、冷静に敵の位置を見定めていた。オークの配置は、獲物が何処を逃げようとしてもいずれかに捕まるものだったが、
しかし、その分だけ相互の距離はそれなりに離れている。
街道へのくだりを塞いだ三匹。やや離れた木立の傍らに此方へと走り寄ってくる二匹。戴きから降りてくる二匹と一匹。
比較的に手近、かつ手薄に見える木立の二人組に狙いをつけると、アリアは駆け出した。
「右手へ走れ」
囁いた女剣士と共に走りながら、しかし、エルフ娘の背筋を激しい恐怖が撫で付けていた。
突如、現われたオークたちは、手際よく二人の娘の退路を断っていた。
逃げ切れない。エリスの瞳が恐怖に曇った。
小走りしているエリスの傍らで、剣を片手に走りながら左右を見回したアリアが淡々と結論付けた。
「……此れは逃げ切れんな」
こんな状況で、まるで他人事のように言うのだなと思いながら、エリスは如何するのか目で訊ねた。
「斬り抜けるしかあるまい」
「……相手は……八人……それにこいつら……」
「二人と三人。それに三人だ。まだ八人ではない」
苦しげな息の下で腕が立ちそうだと告げようとしたエリスの言葉を、呼吸も乱さずに遮って訂正するとアリアが立ち止まった。
二人の娘と二匹のオークは、かなり近くまで迫ってきていた。
アリアは、冷たい微笑みを浮かべてエリスの頬に指で触れた。
不思議そうに見つめてくるエルフの娘の蒼い瞳を見つめ、真面目な顔で尖った耳元に囁く。
「連中は私が足止めする。君は何とか旅籠まで逃げろよ」
二人の娘のやって来た街道は南に位置しており、北の方角にはうずたかい丘陵が連なっている。気は進まないが、他に逃げ込めそうな箇所はなかった。
「一緒に……」
戸惑い、引き止めるエリスを前に
「勝つのは難しい、が、無理に倒す必要もない。相手は少人数だし、要は旅籠まで逃げ切れればいいのだ」
足で掻き回して牽制すれば、旅籠まで戦いながら退くのも難しくないとアリアは踏んでいた。
辛そうにアリアを見つめるエリスだが、ただの若い娘でしかない彼女が踏みとどまっても足手纏いにしかならない。
肯いたエリスは、未練がましく振り返りつつもアリアを残して走り去っていった。

 前方から駆け寄ってくる二人の娘に気づくのとほぼ同時に、二匹のオークは足を止めて素早く武器を構えていた。
「はッ!」
逃げていくエルフとは裏腹に距離を詰めてきた女剣士が横薙ぎを先制で放つも、思い切り飛び退った緑肌のオークは紙一重で躱した。
(……躱されたかッ!)
真正面からの大振りだったとは言え、先制の一撃をあっさりと躱されたアリアは、敵の戦力評価をさらに上方修正しながら勢いよく襲い掛かった。
が、打ち込んだ横薙ぎも、中剣の黒オークは剣の横腹で受け止めていた。
「こいつら……手強い!」
予想以上の強さに動揺は見せなかったが、手早く二人を制圧する目算は狂っていた。
「ほお!早い!」
目前での目まぐるしい攻防に、両の手に手斧を持った緑肌のオークが感嘆の叫びを上げた。

 激しく争う一人と二匹の傍を素早く駆け抜けたエリスは、しかし、徐々に足を遅くしていった。
ついに立ち止まると、我慢できなくなったのか振り返り、しかし、戻ろうとはしない。
私にアリアを助けられるだけの力が在ればいいのに
エリスの強く噛んだ唇がぶつっと切れて、血の味が口内に広がった。
目の前でアリアと争う二人のオークだが、動きが俊敏だった。
目まぐるしく立ち位置を入れ替えながら、女剣士とオークたちは激しく刃を交えている。
此処で二匹、さらに反対側の道から駆けてくる三匹。下からも三匹昇ってくる。
早く片をつけられないと、多勢に無勢でやられてしまうだろう。
食い入るように攻防を見つめていたエリスの瞳には、迷いの色が浮かんでいた。
強く目を閉じたエリスは、深々と深呼吸をしてから肩掛け鞄を下ろして中身を探り始める。
鞄から二つの革製の小袋を取り出すと、細心の注意を払いながら各々の中身の黄色い粉末と黒い粉を小さな麻袋へと移し変え、金属の棒で混ぜ合わせ始める。

 小さな斧を両手に持った緑肌のオークは、後退しながら、アリアの刃を凌いでいた。
二匹のオークは無秩序な動きではなく、連携して小刻みに歩調を合わせながら戦う為、寸断して一気に押し込むのも、引き離して個々に相手取るのも難しかった。
正攻法でも、しかし、カスケード伯アリアテートは、高い力量を有している。
虚実を巧みに織り交ぜた小刻みな突きと払い、そして素早い前進と後退に二対一にも拘らずオークたちは翻弄され、見る間に手傷が増えていく。
だが、浅い。アリアも中々、決定的な一打を放てないでいる。
腕を血で濡らしながら、オークたちは言葉を交し合っていた。
「こいつ!強いぞ!」
女剣士の振るう鋼の刃は速く鋭かった。鋳鉄の剣が、見る見る刃毀れしていく。
 オークたちも腕に自信が無いわけではないが、正直、一対一では、あっという間に殺されていたに違いない。
目の前のアリアは兎に角、異様に素早いのだ。おまけに足捌きが抜群に上手い。
太刀筋は鋭い殺気を発しており、少しでも油断したら命を取られそうだった。
二匹のオークは、全身を冷たい汗に濡らしながら死に物狂いになっていた。
二匹とも革製の腹巻をしているが、鋼の剣を前にそんな防具では気休めにもならない。
こんな使い手の剣を喰らったら、下手をすれば諸共に臓腑を断ち割られてしまう。
「オズ・ムー!ババモ!助けてくれい!」
一瞬の躊躇を見せていたものの、押され始めたオークたちは直ぐに仲間に助けを求めた。

「はっ、女一人に総掛かりか?」
剣を振りながら、無駄口を聞く余裕がアリアにはあった。だが、黒オークと緑オークは単純な挑発に乗ったりはしない。
正直、二対一で歯が立たないのは屈辱であったが、オークたちは身を焼く怒りに耐えていた。
時間を稼いでいるだけでいい。それで目の前の女剣士を挟み撃ちできるのだ。
歯を食い縛りながら、真剣な表情でアリアの長剣を凌いでいる。
太股を刺され、脇腹に切り傷を負いながら、苦痛にも拘らず、必死の気迫で持ち堪えて動きの鈍る様子を見せなかった。
顔を合わせて駆け足となった三匹のオークが、すぐ背中まで迫ってきたのが足音で分かった。

 恵まれた体躯と優れた才能に加えて、幾度となく死地を潜り抜けてきたアリアは、尋常ではない使い手だった。
けして弱くないオークの戦士二匹を相手取りながら圧しているが、しかし、一気に押し込もうとしてもオークたちも粘り強く持ち堪えていた。
剣の達者であるカスケード伯子を相手に、たった二人で持ち堪えるオークの身体に次々と傷は刻まれ、出血は増えている。
 今のままでも勝てるだろうと、アリアは踏んでいた。例え、三対一でも負けはしない。
だが、四対一、五対一になると。そろそろ思い切って逃げるかな。
エリスも逃げ切った筈だ。
足の速さには自信も在る。今なら、余裕を持って撤退できるだろう。

 そろそろ退き時かとアリアを思案した時だ。視界の端で布袋が勢いよく宙を飛んでいった。
よく見計らって狙ったのだろう。楕円軌道を描いた小さな布袋が、近づいてくる援軍のうちの一匹にぶつかる。
見事にぶつかった袋の中身の粉が、顔に茶色いまだらな痣のあるオークにかかった。
目が眩み、思わず腰から崩れ落ちたオークが、不快そうに唸りながら首を振った。
「なんだ」
飛んできた方角を見ると、逃げたと思ったエルフがスリングを片手に木陰に立っていた。
「……飛び道具か……長耳め」
起き上ったオークは額から僅かに出血していた。
中には石でも入っていたのか。
地面に落ちた布袋は意外な硬さを持っていて、オークは忌々しげに蹴り飛ばした。
額の傷に触れた指先に奇妙に痺れを覚えてオークはすぐに身体の違和感に気づいた。
顔を歪め、顔を押さえて呻いてから異様な咆哮をあげて跳躍した。
奇異の瞳を向けてくる仲間のオークに構わず、凄まじい絶叫し始める。
「うお!いってええ!顔が!燃えるッ!」
顔を掻き毟りながらの仲間の狂態に、女剣士の目前のオークたちが動揺したのか動きが鈍った。
一瞬の隙を見逃すアリアではない。
加速を付けて飛び込み、鋭い突きを放った。反射的にオークが剣を横に払った。
弾かれる。
弾かれることを予期していたアリアは、そのまま身体を捻ると一瞬で軌道を修正し、そのまま下から上へと刃を跳ね上げた。
中剣を持った黒オークの武器を持たぬ左腕が寸断されて、宙に舞った。
「おお!」
体勢が崩れて、喘ぎながら後退する黒オークの喉が次の瞬間、切り裂いていた。
焦ったもう一匹のオークが雄叫びと共に斧を振るうが、アリアは見事に見切って紙一重で躱した。
秀麗な美貌を間近で捉え、その黄玉の瞳が冷たい光を放つのを目にして緑肌のオークは背筋に死神の息吹を感じた。
顔に怯えが走る。俊敏な敵を捕らえきれず、必死のオークは次に横合いの薙ぎを放つも、此れもアリアに躱された。
一気に踏み込んでくるアリアを前に、絶叫した手斧の緑オークの下腹が長剣に切り裂かれた。

 目の前で仲間二人が屠られると、残った二人のオークは動揺したようにたたらを踏んだ。
アリアは、息もつかずに勢いのままに襲い掛かる。
残り二人は、幸いにも最初の二人ほどの使い手ではなかった。
加えて、勢いが違った。
二人は怯んでいたし、先ほどの二人は持ち堪えれば、助けが来ると知って死力を尽くしていた。
飛び込んできたアリアに反応して、迂闊にも大振りした小剣が、返しの太刀で切り裂かれた手首と共に地面に落ちた。
もう一人は、棍棒を振り下ろしたが、地面を這うように横っ飛びしたアリアに太股を切り裂かれていた。
動きが鈍り、武器を取り落とした二匹のオークは、もう駄目だった。
恐怖に歪んだ表情のまま、喉笛を切り裂かれ、切り落とした刃に心臓を貫かれて大地へと崩れ落ちる。

 四匹目のオークを倒して、一息ついたアリアが苦い顔をしてエリスに視線をやった時、背後から驚きの叫び声が上がった。
三匹のオークが顔を見合わせながら、呆然とした様子で街道に立ち尽くしている。
「……おいおい、これ。どうなってるのよ」

「アリア!新手!」
エリスの叫びに言われるまでもない。
身を翻したアリアは、距離を取りながらオークたちと睨み合いつつ息を整える。
目の前には人族の無傷の女剣士。仲間五人が倒されて、地面に転がっている。
たった二人の女を襲って返り討ちにあうなど誰に予想できる筈もない。
四人は刃物で急所を切り裂かれて、絶命していた。
傷の大半が身体の前面についているのは、信じたくはないが、恐らく真正面から戦って敗れた証左だろう。
恐ろしいほどの手練と言えた。
一人は今も苦しそうにもがきながら、今も地面で身体を不気味に痙攣させている。
白目で喉元を掻き毟りながら、口の端から泡を吹いていた。
「エルフの方は毒を使うぞ……気をつけろ」
一瞥した灰オークが仲間に発した言葉を耳にして、何故かエルフ自身が後ろめたそうな表情となる。

 驚愕に固まっていたオークたちだが、改めて気を引き締めながら武器を構える。
改めてアリアを睨みつけているうち、大柄な灰オークがやがて何かに気づいたように目を細めた。
「……モアレで暴れまわった奴を聞いているか?ザジ」
オーク族の間にも、世間話のやり取りはある。何処からか噂を耳にしていたのだろう。短槍を構えた小柄な灰オークが、警戒心も露わに睨みつけながら、隣の仲間にオーク語で返答した。
「二十人を殺したってあれか」
もう一匹のオークが歯を食い縛る。
「……黒髪の女剣士だったそうだな」
三匹のオークは慎重に距離取りながら、アリアと睨みあっていた。
刹那、呼気を整えていた人族の女剣士が、矢のように恐ろしい速さで飛び込んできた。
切りかかるアリアの剣を、辛うじて中剣で受け止めたのはオークにとっての僥倖であった。
尋常ではない技量に加えて、アリアの太刀筋は速く、鋭く、威力を伴っていた。
下手をすれば、今の一撃で手首なり腕なりを飛ばされていた。
どっと冷や汗をかきながら、アリアの剣を受け止めた灰オークの腕に、重たい痺れが走っていた。
女の癖になんて膂力だ。体型からして敏捷さを得手とする剣士とオークは推測していたが、その癖、一撃の重さまでもそこらへんの戦士を上回っていた。
それでも三対一なら勝てない相手ではない。
歯を食い縛りつつ判断するが、まだ毒を使うエルフもいる。油断はできない。
「よくぞ防いだな」
女剣士の嘲弄混じりの賞賛に、僅かな東国訛りを聞き取り、オークの脳裏に閃くものが合った。
そうか……こいつ。
「シレディア人だな!」
相手の正体を看破したオークの叫びを理解したのか。舌打ちした女剣士は、灰オークの振るった斧の一撃よりも素早く飛び退って、再び距離を取っていた。
「下郎め、我が血族の名を何処で耳にした?」
嫌悪と蔑みの対象であるオークが故郷の名を口にしたことを、不快に感じたのか。
或いは、まったく別の意味で逆鱗に触れたのか。
アリアの纏う気配が、より剣呑で研ぎ澄まされた危険な雰囲気へと変貌していく。
「いいや、構わぬ。その名を戦場で口にしてただで済むと思うなよ」
アリアの放つ危険な気配を敏感に察知して、武器を構えたオークたちが一瞬、息を呑んだ。
「なにやら、怒らせたみたいだぜ」
「故郷の悪口を言われたとでも思ったんじゃないのか?」
「美人が怒ると恐いね、凄い迫力だ」
軽口を叩きながらも、オークたちは相対している女剣士と彼女の手にする鋼の長剣を油断のない目つきで鋭く睨みつけていた。



[28849] 87羽 土豪 38     2012/12/11
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/05 23:33
 魁偉な容貌とは裏腹に、ルッゴ・ゾムは物事を為すにあたって周到な下準備と調査を重ねることを欠かさない。
人族の勢力圏に侵入するに当たり、オークの王子が予め密偵に命じた調査は二つ。
村の地形と家々の位置を調べ上げることと、近隣の農場や郷士、豪族の村々への距離である。
密偵の報告からルッゴ・ゾムが割り出した時間は、恐らく最小で一刻(二時間)

 それがルッゴ・ゾムとその手勢が村を襲撃してから、何処かに捕えられた洞窟オークの虜囚の一団を救い出し、撤退するまでに与えられた猶予であった。
救出部隊のオーク戦士は五十。精兵に絞ってある。
近隣の村落の農民兵や郷士、土豪の兵であれば、例え妨害に出てきても蹴散らして砦に帰還するに充分な筈の兵力であった。

 しかし、戦に予期せぬ出来事は常に付き物である。
緊張の高まっている辺境である。偶々、近隣に有力な豪族の警備隊が巡回していることは充分に有り得るし、二十、三十もの豪族勢に地元の者らが加われば、これは侮れぬ兵力となる。
 足の遅い洞窟オークを連れていれば、突破するに梃子摺って、負けないまでも手痛い打撃を蒙らないとも限らない。
村への滞在が一刻、長くとも一刻半を越えれば、有力な豪族が兵を出し、ルッゴ・ゾムの手に負えない数の兵が押し寄せてくる恐れもあった。

 他のオークと違い、ルッゴ・ゾムはけして人族を侮ってはいない。
オーク族と同等か、それ以上に智恵の回る種族だと見做していた。
故に急ぐ。この際、時間は黄金のように貴重であった。
村への滞在が長引けば長引くほどに、危険は大きくなるのだ。
如何に手際よく村を制圧し、恐らくは弱っているだろう洞窟オークたちを連れ出すか。
其処に全てが掛かっていた。


 なにも辺境に限った話でもないが、その頃のヴェルニアは、農村が自衛する力を備えているのが当たり前の時代であった。
何しろ、物騒なご時勢である。
特に辺境は統一権力が存在しない空白の土地でもあったから、定住する農民と小規模なオーク、ゴブリン、群盗の襲撃に丘陵の民との間での縄張り争いは日常茶飯事であった。
 男であれば誰でも二度や三度の小競り合いは経験しているものであったし、村人の中には、女でありながら戦に出る者も少なからずいた。
家々には棍棒や六尺棒、投石器、短弓、青銅製のナイフ、小剣や短槍など武具も蓄えられているのが普通であり、故に小村落であっても制圧するのは容易なことではなかった。

 それを考えれば、ルッゴ・ゾム配下のオーク戦士団による河辺の村への襲撃は実に手際よく行なわれたと言っていいだろう。
 村人の誰も気づかないうちに村境にある北側の柵を乗り越えると、其の侭、少人数の隊に分かれて村中へ散って行き、前もって密偵に下調べさせてあった家々を順々に襲撃していく。
洞窟オークなどとは違い、士気を上げる為に鬨の声を張り上げるような真似もしない。
各々がやるべきことを頭に叩き込んでいるから、行動に迷いがなく、村の其処此処で農家に押し入っては住民に武器を突きつけ、手早く縛り上げて、家々を制圧していく。

 河辺の集落は、村を取り囲む低い柵の内側に畑と農家の点在する散村で、家々は離れて建っている。
季節は冬。夕暮れも近くなれば、大半の村人は家の中で過ごしている。
僅かな村人たちも野良仕事を終えて家に帰るだろう時刻を見計らい、ルッゴ・ゾムは配下の兵たちに命令を下していた。
目的は、村の中心部を制圧し、洞窟オークたちを奪還する事。
 その為の命令は、三つ。
物音を立てずに行動し、見つけた者は逃がすな。
村人を捕らえたら、村の中央にある広場へと連行してこい。
そして、歯向かうようなら殺せ。



 銀閃が唸りを上げて冬の大気を切り裂いた。躱し損ねれば容易く首を刈るであろう威力を秘めた恐るべき鋼の刃を、斜めにした剣で受け流しながら灰オークは腕に伝わる痺れに戦慄を覚えていた。
 致死の一撃を辛うじて凌いだ灰オークの戦士だが、しかし、刃こぼれして飛び散った愛剣の小さな破片が頬を僅かに切り裂いていた。
 灰オークが仲間を鼓舞せんと雄叫びと共にアリアへと切り込んだ。
同時に真横からオークの戦士が横薙ぎに斧の刃を振るうが、俊足を活かしたアリアは連携を見せたオークたちに対してなんと踏み込んできた。
横合いからの強打をぎりぎりで潜り抜けながら、左手で短剣を抜くとすれ違い様に振り抜いた。
 強かに切り裂いた感触を覚えながら、そのままオークたちの背後に廻り、間合いの外から素早く振り返る。


 此方も身を翻して眼前の敵手を鋭い眼差しで睨み付ける灰オークの頬を、一筋の血が流れ落ちた。
血と脂肪に濡れた短剣の刃を一瞥して地面に投げ捨てると、アリアは不敵な笑みを浮かべて長剣を構え直した。

 危険な敵手を相手に命がけの舞踏を舞い続けるオークの戦士たちだが、形勢はなんとも芳しくない。
アリアの素早い動きを捉えきれずに翻弄され、オーク達も激しい動きの連続に息が上がっている。

 三人のオーク族の戦士は、そして倒されてしまったオーク達もけして弱くない。
人族や賊徒、そして丘陵の民や他のオーク部族を相手にして、幾度もの戦いを生き残ってきた歴戦の古参兵である。
鍛えたオーク戦士が三対一で人族の女に敗れるなど凡そ考えられることではなかった。
 にも拘らず、信じられない事に三人掛かりで一人を攻めきれない。
灰オークは舌打ちを禁じえなかった。

 黒髪の女剣士は尋常ならざる使い手だった。
俊敏さと粘り強さを兼ね備えた強敵で、明らかに多勢を相手にしての戦いに慣れている。
 同族の血と命をたっぷりと吸った筈の長剣も、些かなりとも威力を減じさせた様子が見えない。
 暗鬱な灰色の雲が空に広がって陽光を遮っていた。辺りは薄暗く、肌寒いくらいに気温は低下している。
 五人の仲間が倒され、当初は頭に血が昇りかけたオークたちであったが、冷たい空気が危険なまでに高まりかけた怒りを醒まして彼らの思考を冷静に保たせてくれた。
 強い。と白い息を吐きつつ、灰オークは敵味方の様子を一瞥しつつ考え込んだ。
息を乱しているのは多勢で攻めているはずのオークたちであり、アリアはいまだ壮健なまま、今も囲まれないように素早い動きで間合いを保ち続けている。
日頃から余程の鍛錬を積んでいると見えて、動きからは未だに体力の余裕が窺えた。
 常人離れしたタフネスだと悔しげに顔を歪める。
「手強いな」
不安に襲われた訳でもないが、灰オークのふと洩らした呟きに、頭に鉄製の環を嵌めたオークが同意した。
「ああ、手強い奴だ」
忌々しげに吐き捨てられた言葉は、賞賛と言うよりは、多分に苛立ちの現れであったかも知れない。
 連携することで辛うじて女剣士に拮抗しているオークたちだが、手傷を負うのは彼らばかりであった。
恐らく一人倒されれば、此の均衡もあっという間に崩れて、残る二人も忽ちにやられてしまうに違いない。
そう目算する灰オーク自身、幾度か命の危うい場面が在った。
それが分かるだけに迂闊に攻める事が出来ず、だが、またアリアの知らない事ながらも、彼らには退くことも侭ならない理由もあった。
 本隊が襲撃している村への来訪者。その悉くを排除するか、さもなければ虜囚とするのがオークたちに与えられた役割であって、此処で見張りの任を放棄してアリアを見逃してしまえば、半刻もしないうちに近隣の郷士の手勢や武装農民が押し寄せてくるに違いないのだ。
「……こんな奴がいるとは、世の中も広いな」
思わず洩らした感慨を聞きつけて、中背の灰オークが苦々しい口調で吐き捨てた。
「……怖気づいたか、兄貴」
弟分の言葉を鼻で笑うと、大柄な灰オークは改めて眼前の女剣士の力量に値踏みの眼差しを向けた。
 女二人と侮り、当初は生け捕りを目論んだオークたちだが、罠に掛かった獲物は無力な兎どころか、途方もなく凶暴な狼であった。
罠は食い破られ、いまや狩人たちが生きて帰れるかすら危うい。

 オーク達は攻めの手を休めて立ち止まった。
各個撃破されぬように固まりながら、息が整うのを待つ。
アリアも逆に攻めるでもなく、やはり呼吸を整えつつ、オークたちが迫ってくるのをじっと待ち受けていた。
「気づいたか?」
鉄環のオークが手強い敵手から視線を逸らさずに仲間たちに囁いた。
「なんだ?」
「エルフが消えた」
鉄環のオークの苦々しい声に、大柄な灰オークも思わず舌打ちを洩らした。
木立から此方を窺っていた筈のエルフ娘の姿が消えていることに改めて気づくも、目前の強敵に牽制されて後を追うことも侭ならなかった。
任務の失敗を悟って、灰オークの戦士は覚悟を決めた。
「……仕方ないか。お前ら、村に戻って大将に警戒網を破られたとご注進してこい」
「兄貴は?」
中背の灰オークが聞き返してくる。
「俺はこいつを足止めするよ」
「……弱気になるなよ。幾ら使うっても、女一人相手に尻尾巻いて逃げるのは気がすすまねえ。
 よりは、一か八かで全員で攻め立てた方がいいぜ」
 確かにアリアは優れた技巧を持ち、その上、巧みに戦いを進める手腕に長けている。
 手強い相手だが、別に超人的な膂力や体躯の持ち主ではない。
速度と駆け引きに長けている為、掻き回されて連携を乱されたが、刺し違えてでも倒す気で掛かれば、けして届かない相手ではないと中背のオークは見做していた。
強引な攻めは隙も大きくなる。或いは、三人のうちで一人か二人が死ぬかも知れない。
それでも、おめおめと逃げ帰る気にはなれない。余りに大勢の仲間が殺されていた。
激しく湧き上がる憤怒の情動に支配され、中背の灰色オークはやれるだけやってやろうではないかという気持ちになっていた。
出来ることなら、目前の女剣士を引き毟って辱めてすらやりたい程だ。
憎悪に駆られ、刺し違えてでも戦い続けようと提案する中背の灰オークだが、大柄な同族は首を縦には振らなかった。

 灰オークの戦士は己の脇腹に触れる。と、指先に生温かいぬるりとした感触を覚えた。
「さっき、脇を斬られた。臓腑には届いとらんが深い。
此れ以上やりあっても、三人ともやられるだけだ」
段々と激しく疼いてきた苦痛を堪えながら、大柄な灰色オークはどこか穏やかな声で喋り続けた。
「それに、エルフを逃がした。豪族共の手勢が押し寄せてくる前に本隊退かせないと拙い事になる」
顔を強張らせた二人のオークが喉の奥から悔しげな唸りを発した。
「万が一にも、此処で三人とも返り討ちに合う訳にはいかねえ。
 見張り全員やられて、本隊が気づかないうちに豪族に囲まれたら如何なる?」
 低く抑えたオーク語でぼそぼそと喋っているうちに、少しずつ動いたアリアが抜け目なく高い位置に陣取ったのに灰色オークは気づいた。
 強かな野郎だ。此れほど腕が立つのに油断もしねえし抜け目もない。
仲間たちとは今生の別れになるか。仲間の顔を見たかったが、そんな余裕を許してくれるような生易しい敵ではなかった。
「行け。大将に知らせろ」
大柄なオーク戦士は、アリアを睨みつけながら悔しげに唸る二人の仲間に命令した。
「……分かったよぅ、兄貴」
渋々と従う二人のオークに灰色のオークは淡々と別れを告げた。
「元気でな」


 二人の仲間の離れていく足音を背中に聞きながら大柄な灰オークが敵と相対していると、何を考えたのか。人族の女剣士の方から話しかけてきた。
「別れは済んだのか?」
「待っててくれたのか、悪かったな」
「死に逝く者への最後の慈悲ゆえにな。僅かな時間くらいくれてやるさ」
自らの勝利を欠片も疑わずに淡々と述べたアリアの言に、一瞬だけ天を仰いだ灰オークの戦士は愉快そうに笑い声を洩らし、
「舐めるなよ!人間!掛かって来い!!」
憤激の雄叫びが轟いた丘陵に、二つの刃が鋭く風を裂く音が響き渡った。




[28849] 88羽 土豪 39     2012/12/20
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/05 23:27
 藁を敷いた寝台に寝転がりながら、農夫は部屋の真ん中で焚かれる火を眺めていた。
赤子を抱いた女房や娘も海底の貝のようにむっつりと黙り込んでいた。
家に閉じ込められる冬の日々には、誰しも陰気で不機嫌になりがちである。
陰鬱な空気が漂う小屋とは裏腹に、外では腕白小僧が子犬と元気に走り回っていた。

 家には扉もなく、古くなった薄い襤褸布を戸口に垂らしているだけだが、そんな代物でも冬の寒さを若干だが防いでくれた。
床は剥き出しの土で、触れるだけで体温を奪われそうなほど冷え込んでいる。
先年亡くなった老父は、寒さの厳しい季節になると節々が痛むと愚痴っていた。

 壁に立てかけてある木製の鍬を静かに眺めながら、農夫は無言で考え込んでいた。
三年続きの不作だった。
原因は冷害だけだろうか。或いは、畑の地力も衰えてきたのではないか。
以前からその徴候はあった。年々、収穫が落ちてきている。
今年も作物の出来はあまり良くない。食べていくだけの蕎麦や燕麦は確保できたが、来年はどうなるのか。
為に畑を広げようと連日、石を拾い、雑草を抜き、土を耕していた。
来年には新しい畑で作業し、それで収穫が見込めるようなら古い畑を数年休ませようと考えていた。
畑を広げるのは重労働だ。見えない疲労が農夫の肩にずっしりと腰を降ろしていた。
青銅製の鍬や鎌を欲していたが、金属製の農具は辺境では高価であり、とても手が出ない。

 農夫は娘を見た。そろそろ年頃だ。
女房が、着物の一着も拵えてやりたいなどと言い出している。
そんな金が何処にあると聞けば、ならば、首飾りの一つも買ってやれとなどとほざく。
年頃の娘は、飾り物の一つくらい持っているだと。へっ、と農夫は鼻を鳴らした。
仮に古着であっても、服もまた高価な代物だ。着物の一張羅を見繕えるのは金のある富農だけで、村でも貧しい方の農夫は今着ている服を修繕する代価にさえ事欠いている。
譲ってやりたいと思っていた亡母のお古は、壊れた鍬を治す代価として手放してしまっていた。

 農夫は懐にある財布の重さを量ってみた。
町で穀類や玉葱、蕪と交換して手に入れたなけなしの鉛貨や真鍮の小銭が入っている。
洞窟オークの襲撃を思い起こす。村人が幾人か怪我をしていた。死んだ者もいる。
明日にもどうなるか分からない日々で、少しずつ蓄えた貴重な貨幣だけが命綱だ。
それでも、くたびれきって古女房そっくりになってきている娘を見ていれば、農夫にも僅かに気の毒に思う気持ちが湧いてこないでもない。
確かに考えてみれば、俺がこれくらいの餓鬼だった頃には些かの楽しみもあった。
娘だった女房に贈り物をした覚えも在った。
希望のない灰色の日々に、若い娘なら心の慰めがあってもいいかとも思えてくる。
此の間、町の市にいった時に見かけた赤いリボンはまだ売っているだろうか。
宝貝や青銅の首飾りや指輪みたいな、飾り物でもいいかも知れねえ。
「そろそろおめえも年頃だ。今度、町にいったら……」
農夫が口を開いて娘が顔を上げた時、外で子犬の甲高い叫びが上がった。
と、すぐに小僧が泣き叫びながら小屋へと飛び込んできた。
「小僧!おめえ、犬っころに悪戯しやがったのか!」
そう怒鳴った親父のもとへと真っ直ぐに駆け寄ってきた小僧の顔色は尋常ではなく蒼白だった。
「父ちゃん!オークだよぅ!」
喚き散らしている小僧に誘われたかのように屈強なオーク達が小屋に踏み込んできたのと、父親が立ち上がるのはほぼ同時だった。狭い小屋に女たちの甲高い悲鳴が響き渡った。


 小屋の外では強い風が吹き始めていた。
吹きすさぶ風の音に混じって、彼方から遠い叫び声が微かに響いてきたように思えた。
薄暗い小屋の片隅に、病床の母に付き添いながらうとうとしかけていたニーナは、ハッとして顔を上げると辺りを見回した。
時刻は正午をかなり過ぎている。
薄い毛布に包まりながら、母のノアは穏やかな寝息を立てている。
聞こえたように思えたあの断末魔の叫びは夢に過ぎなかったのだろうか。
ニーナは脅えの色を瞳に浮かべて暫し固まっていたが、やがてホッと息を洩らした。
空気の肌寒さにも関わらず、全身がいやな汗にびっしょりと濡れていた。
生まれ故郷トリスを襲った悲劇をまどろみの夢に見ていたような気もする。
目の前で父親や友人、村人が次々と洞窟オークの手に掛かり、帰らぬ人となっていく。
故郷の滅亡する光景は、少女の心に癒えない傷を刻み込んでいた。
ニーナの心の支えは、最後の身内である母だけで、しかし、その母ノアの体がもう持たないところまで来ていることを薄々、心の奥底では察しながらもニナは認めたくなかった。

 母さん……私を一人にしないで。
心張りが裂けそうな悲しみに包まれながら、やせ衰えたノアの服をきゅっと握り締めたニーナは、ただひたすら母親に生きて欲しいと願った。
しかし同時に、苦痛に悶える母のその姿を見るたび、少女の心は苛まれる。
もう痛みに苦しまないよう安らかに休んでもいいのではないか。
ふつふつと湧いてくるそんな想いに惑いながら、ニーナは辛い日々を過ごしていた。
薄い毛布に包まった母親の傍らで俯き、祈るように手を合わせたまま、ノアの痩せた枯れ枝のような腕にそっと触れて涙を溢れさせる。
ほんの少しでも温もりを共にしたいと願う最中、風に乗って再び人の叫びが小屋まで届いた。
今度は空耳ではない。ニーナは慌てて立ち上がった。
聞き間違えではない。聞き間違えようもない。
恐怖と絶望の入り混じったその叫びの意味を、ニーナは誰よりも理解していた。
彼女に限って誤ることはない。
誰かが『何か』に襲われている。襲ってきた。村を?
脳裏に悪夢の光景が蘇って、ニーナが身体を竦ませていたのも僅かな時間だった。
己の身体を抱きしめて小さく震えながらも、浅く息を吐いて落ち着きを取り戻していく。
叫びは、村道の方から聞こえた。
短いが深刻な葛藤の後、村の様子を見てこようとニーナは立ち上がる。
悪夢は未だに少女を苛んでいた。
しかし、危機が迫っているならば、母を守る為にも確かめなければならない。
母親を見つめていたニーナは、意を決したようにそっと立ち上がると、小屋を後にしてそろそろと出て行ったのだった。


 灰オークの戦士は死に物狂いで剣を振るっていたが、眼前の女剣士にはまるで通用しない。
意図も技巧も見抜かれて、柳に風と受け流される。
こうなれば、と追い詰められつつあるオーク戦士は切り札を見せた。左右に打ち込み、意識が逸れたところで正面から唐竹割りに頭蓋を砕く。
今まで幾人もの敵手を葬ってきた必殺の手法を、しかし、思惑を見抜いていたのか。
オークの左の打ち込みをいなし、右の打ち込みを弾いた瞬間、女剣士が踏み込んできた。
思わぬ動きに動揺したオーク戦士が、些か無用心に剣を振るった瞬間。
「消えた!」
アリアの姿を見失い、驚愕の喘ぎがオークの喉から思わず洩れていた。
地面に倒れこむような姿勢から、アリアは長剣を跳ね上げる。
どれほどの修練を積んでいるのか。
一見、不安定な姿勢ながらも充分に威力の乗った刃が、革服を貫いてオークの下腹を深々と切り裂いていた。
「ぐお!」
苦しみながら振るった二の太刀も躱されると、アリアの退きながらの牽制の剣がオークの左腕の肉を深々と削いでいた。
切断はされていないものの骨がのぞくほどの深い傷を受け、苦痛に呻きながら、オークは歯軋りして後退する。

 オークは腹部を押さえていた。
臓物が零れ落ちほどの深手からは、内臓が冬の大気に触れて白い湯気が立っていた。
凄まじい激痛に襲われているはずである。もう戦えないと見て、
「口ほどにもなかったなぁ、オークよ。
 お前の腕が、せめてその舌の半分も廻ればもう少し善戦できただろうに」
勇敢さを見せた相手に対して向けるには、あまりに侮辱的な台詞であったに違いないが、アリアは傲岸な言葉を吐いていた。
一つには、不退転の決意を見せたオークとの戦いが心躍る死闘になるのではないかと期待していたが為でもある。
あっさりと決まった勝負に肩透かしを受けたような気分で、落胆を覚えずにはいられなかった。
だが、灰色肌のオークはけして弱い戦士ではなかった。むしろ相手が悪かったのだろう。
尚武の気風色濃いシレディアの地でさえ、一対一でアリアに勝てる者はそう多くないのだ。
その上、女剣士がいまやオークたちの使う剣術や体捌きに慣れてきたのもある。

 額には玉のような脂汗がびっしりと浮かび、苦しげな息を吐きながらも、オーク戦士は仁王立ちして敵を睨みつけている。
アリアの露骨な侮蔑に顔を歪めながら、
「女め、その程度の腕でいい気になるなよ。部族には俺など及びもつかぬ強者が幾人もいるのだ」
「ほう?」
「その程度の腕で、これから先も我らの邪魔をするというなら……確実に死ぬ事になるぞ」
はて……こやつめ、何ゆえに斯様な言を口にするのだ?
息を切らせながらのオークの言葉に、一瞬だけ相手の思惑を計りかねたアリアだが、悔し紛れに口にしたのではないかと当て推量しつつも、オークの台詞にむしろ興味をそそられたのか。
「ふっ、くくっ、面白いな」
何故か嬉しそうにくつくつ笑いながら黄玉(トパーズ)色の瞳を細めた女剣士は、オークを乗せる為に挑発し返してみせた。
「いいだろう。お前の思惑に乗ってやろう。そいつらの名を教えるがいい。我が勲の礎にしてやろう」
傲慢な物言いをする女剣士を睨みつけていた灰色オークだが、暫しの沈黙の後にゆっくりと名を上げた。
「無敵の勇戦士ルッゴ・ゾム……その副将のボロ。
 お前の剣ではボロにも勝てん。ましてルッゴ・ゾムには遠く及ばんわ」
灰色オークと会話しながら、アリアは微かな違和感を感じ取った。
口だけを見る事無く敵手の全身を捉えてみると、オークの身体は何か時期を窺うように僅かに緊張している。
脳裏に警報が走る。瞬間、灰色オークが吼えた。
抑えていた傷口から溢れ出て溜めた血を掌に乗せると、目潰しに投げつける。
瞳に掛かれば視界を塞ぐ粘性の液体が宙を待った。
「があッ!」
同時に灰オーク戦士は踏み込んだ。不意打ちに生涯最高の渾身の力で剣を振り下ろす。
乾坤一擲の賭けに、しかし、アリアは僅かな腕の動きから事前に察知して、オークの動作の直前に横合いに躱すと、其の侭、疾風の如き速度で長剣を薙いでいた。
交差した二つの影の片方から鮮血が吹き出して、そのまま朽木のように大地へと崩れ落ちた。
「最後の一太刀は悪くなかったぞ、オークよ」
剣を宙に薙いで地べたへ血糊を撒き捨てながら、アリアは傲然とした態度のまま賛辞を送った。




[28849] 89羽 土豪 40     2012/12/28
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/05 21:31
 物言わぬ骸となって転がるオークの戦士を暫し眺めていた女剣士のアリアだが、やがて興味が失せたのか。視線を逸らした時、冷たい雨滴が頬に当たって弾けた。
目を細めて天を見上げてみれば、何時の間にか地平の彼方までを暗鬱な鈍色の雲が覆いつくしている。
分厚い雨雲が陽光を遮ったのに加えて、南方から吹き付ける冷たい風。
気温は見る見るうちに急速に冷え込み、肌寒さを覚えるほどに低下している。
天より零れ落ちてきた雨滴は一粒だけであったが、見上げてみれば何とも怪しい雲行きに見えてならない。

 この空模様では土砂降りになっておかしくないぞ。予想したアリアは音高く舌打ちして足早に歩き出した。
丘陵一帯に視線を走らせるも、残りのオーク二匹は影も形も無い。
どうやら完全に逃げに掛かったようだ。
食い縛った歯の間から洩れた僅かな呼気が、身を刺すような冬の冷気に反応して白い湯気となり天に吸い込まれていく。
「常ならば雑魚の二匹など見逃しても構うまいが……」
近くで悶える最後のオークへ向かって足早に歩きつつ、アリアは考え込む。
逃げた二匹のオークの向かった方角が問題だった。
奴らの縄張りである北ではなく、河辺の村の方を目指していたのだ。
村のゴブリンも追われていた。
併せて考えれば、河辺の村がオークの手に落ちた恐れもあるとアリアは見ている。
まだ断定は出来ぬ。出来ぬが、最悪の事を考えておいた方がよさそうだ、と女剣士は顔を緊張に強張らせる。
奴らめ、仲間と合流する心算だろうか。
だとして、村を襲ったオークの兵団は如何ほどの規模になるだろう。
それなりの村を襲うのだ、五人や十人の少数ということは在るまい。
少なく見積もって二十。おそらく三十は堅い。

 冷めた空気を肺一杯に吸い込むうち、連戦に昂ぶっていた肉体も急速に鎮まっていくのがアリアにも実感できて、思考にも幾ばくかの冷静さが戻ってきた。
「……さて、新手が来るとしたら厄介だ。此処は逃げの一手かな」
呟いたアリアの目前。エルフ娘のエリスが放った礫弾を喰らって倒れたオークは、先刻まで地面を転がって煩悶していたが、今は何とか立ち上がれるまでには回復して潅木に背を預けていた。
未だに涙目のまま、近づいてくる女剣士を睨みつけると、荒い息で剣を構えたが、戦う力は戻っていなかったのだろう。
どこか動きの覚束ないオークの胸郭をあっさり長剣で貫くと、アリアはオークの息の根を止めてしまった。
ごぼごぼと口から赤い血を吹き出して死んでいくオークに目もくれず、傍に転がる飛礫に視線を転じるとアリアは触れずに観察する。
「面白い工夫だな」
威力からすれば、鉱物性の毒かも知れぬと推測する。
地面に転がる礫は、手頃な丸石を青っぽい粉末を塗した布で包んだものだった。
なるほど、当たれば毒を撒き散らすに違いないが、投げる際にも粉を撒き散らしそうなものだ。
それに厚手の服や盾、鎧を身につけた相手には通じ難い上、効果的に毒の威力を発揮するには、顔や剥き出しの肌を狙わねばならず、全般的にもう少し洗練する必要があるだろう。
毒を武器にしている訳でもないのに、エリスは辺りのオークたちに目を付けられた。
戦場で刃に毒を塗る者は少なくないが、得てして敵からは嫌われる傾向にある。
捕まればただでは済まない。

 余計な真似をしたな。思いつつ、アリアは少し遠くにある楡の木を睨み付けた。
「エリス」
呼ばわると、楡の木陰からひょこっと翠髪の頭が覗いた。隠れていたエルフの娘は、決まり悪そうな顔で女剣士を見つめてくる。
「私は逃げろといったな」
あっさりと見つかって、無言で肯くエリス。
気配を察するに関して、相変わらず卓越した勘働きを発揮するアリアだが、普段は頼もしく思えるそれが今だけは少し恨めしくエリスにも思える。
「もし、君が捕まって人質に捕られたら、私は如何するべきかな?」
そう本人に訊ねるアリアは、中々に意地が悪いかも知れない。
投げかけられた質問の少し冷たい声音に気づいて、かなり怒っていると察したエリスは僅かに顔を曇らせる。
だが、エリスにも一応の言い分はあるのだ。
どこか困ったようにアリアを見つめながら、エリスの蒼い瞳は静かな光を帯びている。
何かを言いかけ、しかし躊躇するように口を閉ざしてしまう翠髪のエルフの、どこか困惑したような態度にアリアも違和感を覚えて微かに片眉の角度を上げた。
「何か言い分があるのならば、言葉にせねば伝わらぬよ?」
「貴女が心配だった」
エリスの回答にアリアは困惑した。
「心配?私が?」
意表を突かれたように言葉を繰り返すアリアに、どこか拗ねたような眼差しで肯きながら、エリスは言葉を続けた。
「三人を相手にするのが精々だと、五、六人も相手にすればまず勝てない。そう聞いていた」
アリアは沈黙している。記憶を探ってみれば、確かに先日、散歩の際に似たような言葉を吐いた覚えがある。
オークに囲まれていた状況でも、顔を強張らせながらも取り乱す姿は見せなかったエリスが、今は綺麗な容貌をやや哀しげに曇らせながらアリアを見つめてきていた。
「……アリアを失うのが恐かった。だから、私に出来ることなら何をしてでも助けようと思ったんです。死んでもいいから一緒に戦おうと思った」
女剣士は黙ってエルフの娘の言い分に耳を傾けていた。
「だけど、実際にはアリアは苦もなく十人近いオークを蹴散らしていた。
私は、まるで必要なかったみたい。いや、なかったのか」
そう言ったエリスの空色の瞳は、今は落胆したように力無く沈んでいる。
「ごめん……確かに足手纏いになるところだった」
そう云ってエリスは、静かに小さく息を洩らした。
「ただ、わたしは……どう言っていいか……前にも貴女の剣は見たからこうなる気もしていたし……だけど、やはり貴女を失うのは恐かった」

 カスケード伯子アリアテートは女性ながら東国でも優れた技量を誇る戦士であり、その身も鍛え抜いているが、しかし、天性の才能や衆に優れた膂力、隔絶した身体能力に恵まれている訳ではない。
肉体的に見れば尋常の人間の域を出ておらず、瞬発力や持久力に優れているが、反面、膂力や体躯は鍛えている男性に対してやっと拮抗できる水準であった。

 故郷の山野を日々駆け回って培った強靭な足腰は、如何な姿勢においても体軸を揺るがせず、俊足はオークたちに分散しての戦闘を強いさせた。
俊足を活かした徹底した各個撃破と有利な交戦地点を瞬時に選定してのける戦術眼の鋭さ、そして有利な地歩を巧みに維持する駆け引きの妙が、敵の多勢による利点を封じ込めて、女剣士の不敗を支えている礎であって、足疾きアリアテートにとって勾配のきつい丘陵の斜面は正しく絶好の戦場で在り、オークたちにとっての死地であった。
もし仮に平野部で戦っていれば、負けないにしても易々と勝利を得ることは難しかったに違いないのだが、其れをどうやって友人に説明すればいいのか。

 とまれ、エリスの言を耳にしたアリアには既に友人の行動を責める気は無くなっていた。
「確かに私の言にも、誤解を招く物言いがあったかも知れぬな」
それが素直に謝れないアリアなりの謝意であり、過ちを認める和解の言葉であった。
元よりすれ違いはアリアにとっても本意ではないし、エリスと仲違いはしたくない。
「地の利を得ていた故、勝算は大きいと踏んでいたのだ」
「地の利?」
聞き返してきたエルフ娘は、文字は読めても戦記物などには興味が無いのか、『地の利』という語句も知らぬらしい。
戦に興味の無い自由労働者にとっては、聞いたことすらない語句もあるのだろう。
さすがに一から説明する暇はなく、棚上げにする事にした。
歩み寄ると、アリアは肩を寄せながらそっと告げる。
「君が敵への侮りや愚かさから軽挙したのではないこと、理解した」
指示の無視を不問に処す代わりにエリスの無言の問いかけも封じて、取り合えず有耶無耶なままに仲直りしてくれないかと微笑みかけてみる。
どうやら、和解を受け入れてくれたらしい。
やや強張った表情のエリスの瞳から、憂いや戸惑いが薄れて消えてきた。
「戻ってきたのだな、私が心配で、うむ……私が心配か。あはは」
歓喜の念を隠さず、アリアは素直に笑う。
肯いたエリスは喪失の恐怖に脅えていたのだろう。目尻に涙を浮かべたまま身体を震わせて、女剣士の肩に頭を預けてきた。
「……恐かった。アリアを一人残して戦わせていると思うと、もう溜まらなかったんだ」
女剣士が親指と人差し指でエルフ娘の顔をくいと上げさせると、蒼い瞳から一筋の透明な涙が零れていた。
宥めるように慰めるように指で拭い去ってやりながら、アリアは心を打たれていた。

 憂いを帯びた切なげな眼差しで、何かを訴えかけるようにエリスはじっとアリアを見つめてくる。
「そんな目で見るな」
落ち着かない気分になったアリアは呟きつつも、こうまで一途に思われれば満更でもない。
命を投げ出しても救いたいと愛されながら、なお疑うほどにはアリアは擦れてなかった。
エリスの愛情を疑う気持ちは薄れてきたが、
しかし、同時に愛にも厄介な側面があるのだと薄々気づきつつあった。
利益で動くもの、理屈を重視するもの。世の中には様々な種類の人間がいる。
どうやらエリスは、情念で動く傾向を持っているらしい。
となれば、時に有利不利や損得を度外視して動き、予想できない行動を取ることもあるだろう。
「二度はないぞ」
警告するも、エリスはほろ苦く微笑んで首を傾げた。
表面上は柔らかいが、芯に頑固な部分を持ってることは何となくアリアも感じ取っている。
聞く気はないのだろうな。死なせたくないのに。
苛立ちを覚えるも、しかし、自分もまた利益を度外視して心配したことに気づいて、アリアは溜息交じりに首を振った。
どうやら、人の気持ちとは簡単に割り切れるものではないらしい。

小動物が様子を窺うような仕草を見せながら、エリスはアリアの顔を覗き込んできた。
「許してくれるのかな?」
「ああ、許すさ。許さいでか」
手を振りながら応じたアリアの肩に、歩み寄ってきたエリスが頭を預けてきた。
「……御免。それとありがとう」
ふ、と僅かに苦笑した女剣士も、軽く腕を廻してエルフの娘の肩を指で叩いた。

 数瞬の抱擁の後、アリアは抱きついているエリスを引き剥がした。
「さて、あまり愚図愚図している暇はない。名残惜しいがオークたちの援軍が来るかも知れぬしな」
名残惜しそうに見つめてくるエリスだが、事の軽重は弁えているのだろう。意義は唱えなかった。
踵を返したアリアは、オークたちの逃げた方角へと少し歩くと、村を望める丘陵の高所へと立った。
片膝に肘を置きながら、下の大地を覗き込むようにして河辺の村へと鋭い眼差しを走らせる。

「ああ、なるほど。此処からだと街道がよく見える」
呟いてから村を注視して、アリアは僅かに鋭い眼差しをさらに細めた。
「村も見渡せる。目端の効く者なら、此の丘陵に目を付けても不思議ではない。
そして私たちが昇ってくるのも見えただろう」
アリアたちからすれば手際のよい襲撃を受けたように感じられたが、事実は逆。
街道から村へとやってくる者を見張るに都合がいい丘に陣取っていたオークの懐に、間抜けな鴨がのこのこ飛び込んで来たに過ぎなかった。
疑問が氷解したアリアは、ほろ苦い笑みを浮かべながら前髪をかき上げた。
「何のことはない。別に魔法のように待ち伏せしていた訳ではなく、見張りのオークが陣取っている中に自分から飛び込んでしまった訳か。間抜けな話だ」

「たまにはアリアの勘も外れるみたいだね。あんなに自信満々だったのに危ないところだったよ?」
鳴いた烏がもう笑うかのように、からかうような文句を言いながらエリスがアリアの傍らへと歩み寄っていくが、冷ややかな眼差しを大地に注いでいた女剣士は静かに首を振るった。
「いや、もし、あのまま村へと飛び込んでいたら、我ら二人。それこそ一溜まりも無かったであろうよ」
意味が分からずに立ち止まって首を傾げる翠髪のエルフを見て、アリアは苦い笑みを浮かべ
「見るがいい」
言いながらアリアの指差した先では、幾十人もの武装したオーク達が黒蟻の如く河辺の村の広場を歩き廻っている光景が窺えた。
頬を緊張に引き攣らせて、絶句したエリスは息を呑んだ。傍らのアリアは、さも不快そうに鼻を鳴らす。
「村はオークに制圧されているようだな、さて如何したものか」




[28849] 90羽 土豪 41     2013/01/08
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/05 21:19
 緊張に喉を鳴らしてから、エリスは呆然と呟いた。
「……オーク……村が襲われてる」
自失の態を見せる傍らの友人とは裏腹に、アリアは至極、落ち着いた態度を保ちながら村に鋭い視線を注いでいた。
 丘陵の高みからは、村中で動き回るオーク勢の動きが俯瞰できる。
なだらかな丘陵に挟まれた村で蠢く幾十もの黒い影を観察して、アリアは微かに眉を顰める。
「見たまえよ、エリス。連中、実に手際よく村人を狩り出している」
どこか感嘆の響きさえ含んだアリアの指摘に、改めて河辺の村を眺めたエリスは、視界の先で村人がオークに切り倒される光景を目にして気分が悪くなる。
それでも確かに、オーク兵団の連携が手際よいこと、エリスのような素人にさえ一目瞭然であった。
「……凄い。まるで蟻みたいだ」
「分かるか?よほどによく訓練された兵団でなければ、そう、あのように昆虫めいた動きはできぬ。普通はもっと無秩序に動いているものだ」
溜息を洩らしてのアリアの言葉は、微かに強張っていたかも知れない。
手練のアリアの黄玉の瞳にも緊張した光が見て取れて、エリスも乾いた唇を舌で湿らせた。
「集団としてみれば、モアレでやりあった連中より数段上であろうな」
鋭い目付きで村を見つつ、アリアは澱みない口調でオーク兵団の練度を分析していた。
「先刻、始末した見張りの連中とて弱くはなかった。一人一人が中々に良い武具を着けて、結構強い。なによりも統制が取れているのが恐い」
エリスの横顔を眺めてから、再び村へと視線を転じた女剣士は冷静な口調のまま訊ねかける。
「ノアとニナを助けに行きたいか?」
一瞬だけ口ごもったエリスに射抜くような鋭い眼差しを向けるとアリアは首を振って宣告した。
「ならんよ。あの中に飛び込んでいくのは、勇気を通り越して無謀でしかない」
俯いたエリスは、喉の奥で無念そうに唸り声を洩らした。
「……あの村に飛び込むのは些か気が進まぬなぁ」
悔しそうなエリスに対して、見知った程度の知人に過ぎないからか。アリアは動じた様子を見せず、まるっきり他人事の口調で呟いている。

 暗い影がエリスの表情をよぎった。翠色の髪を右手で押さえてエルフの娘は小さく呻いている。
「何か……何か、手はないかな」
丘陵の斜面に佇む二人の人間など、村からは胡麻粒のようにしか見えないだろう。
見つかるのを恐れた訳でもないが、しゃがんだ姿勢で大きな岩陰からそっと村を覗き込んでいたエリスは、思わず手元の青っぽい草を毟ってしまった。
静かに首を振ったアリアは、どこか哀れむような眼差しを友人に向けた。
「あそこに飛び込んで見つかってしまったら、死ぬな」
あまりに淡々とアリアが呟いた為に、エリスは危うくその言葉を聞き流しそうになった。
「二人では何も出来ん。老いた野良犬のように呆気なく殺されるのが落ちだろう」
懇願するように見つめてくるエリスの蒼い瞳に、再び首を振って無謀だよと諌めてアリアは踵を返した。
地面に転がるオークたちの亡骸へと近づきながら、
「あの連中相手に掻き回して誰かを救い出す心算なら、シレディア騎兵の五、六騎はいるな」
「何もできない?」
曲げた指を噛みながら、エリスは悔しげに尋ねる。
アリアはエリスに背中を向けたまま、屈みこんでオークの亡骸を改め、戦利品を見繕っている。
「村人に対して、今、私たちに出来ることはないな」
冷静なのか、突き放しているのか。冷淡なアリアの態度に一瞬、行き場のない怒りを覚えたエリスだが、それは筋違いな責任転嫁に過ぎないと唇を噛み締めた。
苛立ちを覚えているのは、何も出来ない私自身への無力さだ。
エリスは天を仰ぐが、やはりいい考えは浮かんでこない。
オークの武具の幾つかを戦利品として奪ったアリアが立ち上がった。
手斧を革のベルトに差込み、中剣を鞘ごと背負い、槍を片手に持ち、オークの懐を探って奪った財布や腕輪、指輪などを袋に入れながら応える。
「ここらは丘陵地帯だからな、起伏も多い。村には丘や土手など隠れる場所もあろうし、後は村人たち自身の機転と幸運を期待するしかあるまい」
額に皺を寄せて沈思黙考しているエリスを元気付けるように、アリアは友人の肩を軽く叩いた。
「ノアは重傷者だが、療養している小屋は奥まったところにある。芽はあるよ」
見つかれば、まず逃げ切れぬであろうなと、薄々思いつつ、アリアは前向きな言葉を掛ける。
「さあ、ここにじっとしていても、何にもならん。新手の敵が来ないうちにとっとと退こうではないか」
オークから奪った短槍をエリスに差し出しながら、アリアは戦場を離れようと促がす。
「さっきの連中が仲間を連れて戻ってくると?」
短槍を受け取ったエリスが、顔に緊張を強張らせる。
肯いたアリアが踵を返すと、先に立って歩き始めた。エリスも慌てて背中を追いかける。
街道に向かって一緒に勾配を降り始めながら、エリスは悔しげに顔を歪めて唸り続けていた。
「ここは退くべきであろうよ。旅籠の親父は街道筋では顔役の様子。
知らせに戻れば何らかの手を打ってくれるだろうし、そちらの方が村人の為にもなろう」
アリアの態度は冷淡に思えるが、危地に取るべき行動としては一理あるのだろう。
知己のノア母娘が気に掛かるエリスではあるが、しかし、出来ることは何もなかった。
暗鬱な灰色の雲の下、二人の娘は街道へと降りた。
暗く色の失われていく世界の中、街道を駆けながら、エリスは後ろ髪を引かれる思いで一度だけ背後を振り向いた。
遠目に臨む河辺の集落からは、立ち上る炊煙が北へとたなびいており、エリスの蒼い瞳には常と変わらぬ風情で静かに丘陵の狭間に佇んでいるように見えた。


 ゴート河の流域に位置している集落の多くは、各々の民家が隣家に対して一定の距離を保っている散村形式を採っている。
十数年に一度の間隔で引き起こされる河川の氾濫に備えての伝統的な智恵であるが、こと外敵の侵入を防ぐという一点に絞れば、散村は集村のそれに対して劣るやも知れない。
家々の距離が離れている為、孤立した一軒家で何が起こっていようとも隣家の者が中々、それに気付かないのだ。

 河辺の村に点在する家屋に踏み込むやいなや、オークの戦士たちが素早く槍や剣を突きつけた為に住人たちは全く抵抗を封じ込めてしまった。
何が起こったのかさえ分からないまま、屈強な男であってもあっという間に手を縛り上げられ、驚愕を顔に張り付けたままの村人たちが広場へと連れてこられた。
戦闘らしい戦闘も殆ど起きなかった。武器を取って抗おうと試みた村人も僅かながらにいたものの、オークの戦士たちは油断も隙も見せておらず、反撃を試みた者たちはあっという間に息の根を止められてしまう。
目の前で見せ付けられた手際のよい殺戮は、村人たちを震え上がらせ、彼らに対する強烈な見せしめとなってその反抗心を萎えさせた。
生き残った者たちは抵抗する気力も奪われ、されるがままに大人しく広場へと集められていく。
呆然とした顔つきのホビットの親子の後ろにすすり泣いているゴブリンがいれば、諦めたように俯いている若い女の傍らには、殴られたのか。顔に大きな青痣をつけた農夫の青年が、穀物の袋を担いで家から出てきた得意げな顔のオークを悔しげな顔で睨みつけていた。
村人たちが気がついた時には、村はオークに制圧されていたのだ。

 河辺の集落では家々は点在しており、村外れのなだらかな丘陵の麓にはホビットやゴブリンにとって住み易い洞穴も開いていた。
まるで村の地理を熟知しているかのようなオークたちの動きであった。
侵略者たちが余りにも静かに、そして恐ろしく速やかに村の中央を占領しまった為、主だった家屋が制圧されたにも関わらず、村外れでは何も気づかずにのんびりと過ごしていた村人たちもいたほどであったし、一方ではそれほどの幸運に恵まれず、出歩いていてオークに遭遇してしまった者たちや、抵抗した為に一家皆殺しの憂き目にあった者たちもいた。

 オークの戦士たちがその家屋に踏み込んだ時、家の者たちは既に何らかの形で警告を受けていたのだろう。
驚き慌てふためく様子を見せながらも、一家の主らしい農夫が棍棒を振り回して激しく立ち向かってきた。
 財貨を捨てて逃げるより戦うことを選んだ農夫の行動は、それがこそ泥が相手であれば、けして間違いではなかっただろう。
 もし少数の亜人が相手ならば、短時間のうちに他の村人が駆けつけてくることも充分ありえたし、村人に捕まるのを危惧した亜人たちが窃盗を諦めて逃げ出すこともしばしばあったからだ。
 激昂した賊の手に掛かって家人が殺されることも珍しくないが、乏しい財貨を奪われれば、どのみち生活は立ち行かない。この場合、無抵抗こそが愚か者の所業であった。
相手が単独、或いは二、三匹の放浪のオークやこそ泥の類であれば、父親の選択もけして悪手ではなかった。
 しかし一家に襲い掛かったのは、そこら辺を放浪するオークや賊ではなく、濃密な血と暴力の気配を纏ったオークの戦士たちだった。


 戸口の影に潜んで不意打ちをかけようと棍棒を握り締めていた農夫だったが、最初に踏み込んできたオークは、微かに違和感を感じ取って用心していた。
 今まで踏み込んだ民家からは喧騒とは言わぬまでも人の気配がしていたのに、このあばら家からは、先ほどまで喚いていた癖、奇妙に押し殺した雰囲気が僅かに漂うだけだ。
待ち受けていやがるな。
オークが一歩、戸口の中に踏み込んだ瞬間、横合いで微かに砂を踏むような音が響いた。
咄嗟に身を捻ったオークの頭上を振り下ろされた棍棒が掠めていった。
オークは唸りながら素早い動きで手にした刃を横合いに突き出した。
不意打ちを掛ける心算が逆撃を喰らい、腹を刺された農夫が呻きながら後退った。
夫の危機に、木製の鍬で武装した逞しい農婦が喚きながらオークに襲いかかってくるが、強烈な前蹴りを喰らって壁に叩きつけられる。
怯んだ夫婦の目前に、戸口から後続のオークの戦士達がなだれ込んできた。

 争いは長くは続かなかった。凄まじい罵りや叫び声、鈍い打撃の音、甲高い悲鳴。そして断末魔の絶叫。何者かが倒れるような音。
 小さな家の片隅に、震えて縮こまっている年頃の娘と少年の目前で、オークたちに取り押さえられた父親が屠殺される豚のように泣き喚きながら、次々と刃を刺された。
母親は棍棒で頭を叩き割られ、頭蓋から湯気を立てながら朽木のように地べたへと倒れる。
泥と土でできた狭いあばら家には、子供二人が隠れる場所も逃げられる場所もなかった。
「……二匹とも殺しちまった」
禿頭のオークが唾を床に吐き捨てながら、忌々しげに呟いた。
「いや、餓鬼がまだいるぜ」
両親の血に塗れた腹が突き出たオークの声に、オーク語は分からずとも子供たちはびくりと身体を震わせた。
オーク達が顔を向けると、鋭い視線に射抜かれた少年は恐怖に絶叫し、泣き叫びたいのを我慢して姉が強く弟を抱きしめる。
「……女か」
腹の出たオークが下卑た笑みを浮かべて踏み込もうとするのを、軽蔑の念を現しながら禿頭のオークが肩を掴んで諌めた。
「おい。大将はいい顔しねえぞ。特に今日の仕事は急ぐように念を押されてんだからな」
「ここが最後の家だろ。仕事は済んだじゃねえか」
背後にいた別のオークも腹の出たオークに同調して、禿頭のオークに意味ありげな視線を送る。
「なあ、頼むぜ。兄い。大将にだって言わなきゃ分からねえだろ?」
女子供を嬲るのを好かない気質としても、別に異種族の娘をそこまでして庇う心算にはなれなかったのだろう。禿頭のオークは舌打ちして踵を返した。
「ちっ、勝手にしろ。ただし、集合には遅れんなよ」
言い捨てて離れていく禿頭のオークを見送ってから、腹の出たオークが舌なめずりする。
「へへっ、済まねえな」

 地面に落ちた棒切れを素早く拾い上げ、震えながら構える農民の少女を見て、周囲を取り囲んだ三匹のオークたちは面白そうに下卑た笑いを浮かべた。
「おうおう、おっかねえなぁ」
笑った次の瞬間、オークの一人が一気に踏み込んで娘の腕を掴みあげる。
「手早く済ませるぞ」
「ああ」
薄い襤褸布の服を引き毟ると、藁の寝床の上へと突き飛ばした。
蹲って震えている少年を見ながら、オークの一人が顔を歪めた。
「男の餓鬼はどうするかな」
「騒がれても煩えし、そりゃあ始末するしか」
笑いながら、恐ろしげな刃を構えたオークの腕にむしゃぶりかかって姉が叫んだ。
「……にげ、逃げなさい!逃げてぇええ!」
瞬間、その言葉に背中を突き飛ばされたかのように、蹲っていた少年が跳ね起きると、オークの隙間を縫って小屋を飛び出した。

 槍を手にして田舎道を歩いていた長身のオークが、背後の足音に気づいて振り返った。
あばら家を挟んで反対方向の田舎道を一目散に駆けていく少年の背中を目にして、険しい顔となった。
「馬鹿共が……逃がしたな」
手にしていた槍を構えて狙いを見定めると、走っている少年目掛けて投げつけた。


 木陰の繁みに蹲って、メイは震えていた。
目の前の恐ろしい光景に、金縛りになったかのように喘ぎながら震えている。
逃げたくも逃げられない。恐怖が見えない鎖となって彼女の足を縛り付けていた。
村の共有井戸の傍らで、槍に腹部を貫かれた少年が手足をもがれた昆虫のように弱々しくもがいている。
村の子供、メイの友だちのキッシュだ。
脅えた少女の喉の奥から僅かな掠れ声が洩れて、少年は気づいたのだろうか。
口から真っ赤な血を吹き出しながら顔を上げると、苦しそうな表情で見つめながら手を指し伸ばしてきた。
「……いたいよ、ねえちゃん……おねえちゃぁん……」
メイの頭が真っ白になる。膀胱が痙攣する感覚を覚えて、喘ぎながら下腹部に力を込める。
全く理不尽に違いないが、その瞬間のメイは凶暴なオーク族の戦士よりも寧ろ友人の少年の視線の方に脅えていた。
「……こっち見ないで」
涙目になりながらの弱々しい声は、メイ自身の耳に思いの他に大きく響いた。
声を出したら、まずい。そう思いつつ、メイは友達の心配など欠片もしてない自分に気づいて愕然としながら、泣きそうになる。
聞こえたのか、キッシュ少年は目を見開いて涙を零した。

 友だちが酷い目にあってるのに、メイには保身の為の考えばかり浮かんでくる。
涙を零しつつも、近づいてくるオークに気づいて、メイは臆病な猫のように素早く繁みの奥に隠れた。
行って。どっかにいっちゃえ、オーク
声に出さずに必死に念じながら、繁みの奥で息を殺してオークを観察する。
オークは少年を足蹴にして、槍を引き抜いた。
それから腰の短剣を引き抜くと、僅かな陽光に反射して刃が鈍く煌めいた。
「苦しいか。今、楽にしてやる」
奇妙な響きの声、残酷さと慈悲の入り混じった囁きを洩らして少年の喉を掻き切った。
洞窟オークとは違う。メイははっきりとそれを感じ取っていた。
メイが腰から吊るしたちっぽけな青銅のナイフ。洞窟オークの襲撃の際には、握りしめればお守りのように力強く感じられたそれが、今はちっぽけな玩具にしか感じられず、勇気も与えてくれない。
恐ろしげなオークたちの放つ凄まじい殺戮の気配は、幼い少女のなけなしの勇気も覚悟も吹き飛ばして、洞窟オークの時みたいに勇敢に振舞う事を許さなかった。

 オークが踵を返した。
息を抜いたメイが僅かに身動ぎした瞬間、足元でペキリと音が鳴った。
枝を踏んでしまったらしい。
「……ん」
少女の必死の願いも虚しく、オークが気づいたのか。
立ち止まってメイの隠れている繁みを見つめてくる。少女の心臓が跳ね上がった。
「おい、そこを動くな。動くなよ」
それでメイは動けなくなった。足音が近づいてくる。
恐怖に声も出ない。殺されるのか。脅えながらメイはギュッと目を閉じた。
ざっざっと土を踏む音だけが響く。と、その時、後ろで繁みががさがさと鳴り、誰かの声が響いた。
「……待ってください。今、出て行きます」
驚いたメイが目を見開くと、ゆっくりと近づいてくるオークが繁みの横を通り過ぎていく。
口を半開きに振り返り、オークの歩いていく先を見ると、田舎道に蒼白の顔色で立ち尽くしている少女はニーナだった。




[28849] 91羽 土豪 42     2013/02/17
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:dbd9eb29
Date: 2013/06/05 21:11
 丘陵から鳴り響いてきた角笛の音は、先刻、一度耳にしたきりで途絶えていた。
吹き手にもよるが、風に乗れば十里四方に響き渡る大山羊の角笛。
聞き逃す事は絶対にありえない。その筈だ。
(※一里=四キロ)
オークの頭領ルッゴ・ゾムは、掌に打ち付けた拳を強く握り締める。
それが迷いを抱いている時の巨漢のオークの癖だった。

 角笛の音は、斥候と取り決めた合図だ。
近づいてくるのが少数の旅人であれば、角笛を一度だけ小さく鳴らす。
始末したら間を置かず、もう一度だけ小さく吹き鳴らす。
斥候の手には負えぬ程度の人数で迫ってくるならば、連続して三度吹き鳴らす。
大軍が迫れば全力で角笛を吹き鳴らし続けて、村にいる本隊に知らせる手筈になっていた。
如何にルッゴ・ゾムと配下の兵団が選りすぐりであっても、敵地奥深くで人族の豪族勢に不意を襲われては抗すべくもない。
それ故、斥候に出したのはルッゴ・ゾムが手ずから選んだ利け者のオークたちだった。
腕も立ち、役目をさぼるような真似もしない。
だが胸の奥に僅かな不安を覚えて、ルッゴ・ゾムは傍らに侍る戦士の一人に聞いてみた。
「……角笛が鳴らぬな。何かあったか?」
「聞こえましたか?あっしの耳には何も……」
オークの戦士は怪訝そうな顔をして、頭領の言葉を聞き返してくる。
「そうか。俺の聞き間違いかも知れん」
戦闘の最中、聞き間違いや勘違いはよくある事である。
らしくもなく緊張しているのか。俺が。敵地に踏み込む戦は久方振りだからな。

 思考を切り替えたルッゴ・ゾムは、田舎道を通り抜けて村の広場へと姿を見せた。
空き地の中心には、オーク戦士たちによって囚われの身となった村人たちが集められていた。
オークの棒切れや拳で追い立てられてきた村人たちは、着の身着のままの惨めな姿で寒風に震えており、中にはすすり泣いている女子供の姿もあった。
見張りをしているオークの戦士へ重々しく肯くと、ルッゴ・ゾムは集められた捕虜たちの前に立ち、ゆっくりと見回した。
村人たちの怨嗟と恐怖の混じり合った視線がルッゴ・ゾムに一斉に集中するも、胆力の在る巨躯のオークは怯む様子を見せることもなく、腰の斧の柄頭に手を添えたまま傍らのオークへと訊ねる。
「村人はこれで全員か?」
分厚い声のルッゴ・ゾムの問いかけに、手下のオークが緊張した様子で応える。
オークの戦士たちは己が頭領のルッゴ・ゾムを無敵の勇戦士と崇拝し、懐の深い頭として慕ってもいる。
が、同時に恐さも在るのだ。
任務を怠けた際の怒鳴り声と巨大な鉄拳の迫力は、歴戦のオークをも震え上がらせる。
「は、はい……いいえ。まだ奥の方は」
「村の奥の方はいい。村長は抑えたか」
洞窟オークたちを救い出すには、それが重要だった。
何故、戦うのか。何が目的なのか。
戦の前、ルッゴ・ゾムは部下たちに根気よく説明する。その点、彼はけして手間隙を惜しまない。
部下の物分りが悪くともけして威圧したりせず、暴力も滅多に振るわない。
一人一人が作戦を飲み込むまで粘り強く、分からない点を尋ね、分かり易く噛み砕いて説明してみせる。
だから、訪ねられたオークも肯いた。
村長を抑える理由が洞窟オークたちの所在を知る為だと理解している。
「村長はまだでさ。ですが、村の顔役だって男を抑えやした。洞窟オークたちを閉じ込めてる穴倉を知ってるそうで」
「よし、案内しろ」
肯いたルッゴ・ゾムの視線の先で、オークの槍に小突かれながら痩せた中年男がよろよろと立ち上がった。
 微かに強張っていた表情に飄々とした笑みを蘇らせると、ルッゴ・ゾムは斥候を派遣した小高い丘陵の辺りをじっと眺める。
斥候たちも手筈を勘違いしたかも知れん。
あいつらなら、少数の旅人を始末するくらい問題なくこなすだろう。
梃子摺るほどの人数が向かってくるなら、此方に伝令を出すはずだ。
村の顔役に洞窟オークたちの捕まってる穴倉までの道案内をさせながら、巨漢のオークは大股に歩き出した。
此処までは万事順調。大半の村人を殺すか、捕らえるかした。
後は村の奥で捕まっている洞窟オークたちを救い出し、豪族勢が押し寄せてくる前にとんずらするだけだ。


 灰色の雲が恐ろしい速さで北方へと流れされていく。
田舎道を時折、冷たく、強い風が吹きすさんでいくが、今、この瞬間、周囲はしんといた静寂に包まれていた。
心臓の鼓動が耳障りなほど、村長の娘メイには大きく響いているように聞こえた。
鬱蒼とした繁みの奥で息を潜みながら、メイは奥の繁みから姿を現した年上の少女ニーナを凝視する。
音を立てたのは、あたしだった。なのに、どうして?
ニーナも隠れていて、オークの呼びかけに自分が見つかったと諦めたのだろうか?
繁みの中で震えながら、咄嗟の出来事に混乱しているメイの視線の先で、ニーナもまた酷く震えていた。
脳裏に暮らしていた村が洞窟オークに襲われた時の記憶が蘇っているのか。
立ち尽くすニーナの顔色からは血の気が完全に引いて蒼白に近く、脅えきった眼差しで目前の佇む恐ろしげな禿頭のオークを凝視している。
疑問を抱きつつ、それでも村長の娘は心のどこかで自分が見つからなかった事に安堵を覚えていた。
ニーナが見つかっちゃった。だけど、これであたいは助かるかも。
一瞬、己の卑劣さな心の働きに気づいたメイは衝撃を受けた。
そして心疚しく思いつつも、涙目で己に言い聞かせる。
でも、違う。ニーナが不注意だったから仕方ないんだ。あたいの責じゃない。

 禿頭のオークが立ち尽くしているニーナに一歩、また一歩とゆっくりと歩み寄っていく。
土を踏む音、鍛えられた太い腕と太股、土埃に汚れた革鎧と毛皮、肌に刻まれた傷跡。
恐ろしげなオークは、縮こまって息を潜めているメイの目と鼻の前を通り過ぎていった。
オークはニーナの前に立つと、値踏みするように冷たい目付きで顔から足まで見回した。
「餓鬼か」
どこか気の進まない様子で溜息を洩らすと、腕を伸ばしたオークがみすぼらしい農民の少女の細い腕を掴んで力任せに引っ張った。
「……痛ッ」
大の大人に手加減もせずに引っ張られた為か、ニーナは苦痛に顔を歪めて悶えていた。
「来い」
オークは低い掠れ声の人語で告げると、痩せた少女の背中を押すようにして田舎道を歩き始めた。
ニーナが連れて行かれちゃう。
焦りながらも、メイは震えている。
助けたい。だけど、無理だよぅ。
心底、脅えながら繁みの隙間から一部始終を見ていたメイの目と鼻の前、オークに背中を押されて虜囚となったニーナが通り過ぎていく。
(助かる……助かった、神さま、ああ、神さま)
と、メイの横をすれ違い際、村長の娘の隠れている繁みへと一瞬だけニーナが顔を向けた。
その時、疲れきった顔つきをしていたニーナが確かに僅かに微笑んだ。
恐怖に青ざめ、強張った表情のまま、しかし、メイと目線を合わせると誇らしげに微笑んで再び、前を向いた。

 その瞬間、自分を助ける為にニーナは敢えて捕まったのだとメイは理解した。
メイは呆然となり、次の瞬間に腹立たしくなるやら、情けなくなるやらで涙が頬を零れ落ちる。
(何を考えているのよ。もう。あたいだったら、見つかっても逃げられたかも。
あたいの責でニーナが連れて行かれちゃう。キッシュみたいに殺されちゃう。恐いよう。やだよぅ、死にたくないよう。だけど……神さま)
メイは十歳と少々の農村の子供だ。正直言えば、歯の根も合わないほどに震えている。
オークが恐い。だが、ニーナも助けたい。
二律背反する想いに混乱し、縋るような気持ちで神々に祈りながら、少女の伸ばした指先は腰につけた御守りの小さなナイフに触れた。
村長の娘は考えてみる。このナイフを構えて突っ込んでみようか。
駄目だ。そんな甘い相手じゃない。吹っ飛ばされる未来しか見えてこなかった。
あのオークの太股ときたら、鹿みたいに強そうだ。足も早そう。
自分みたいな小娘が蹴られたら死んじゃうんじゃないか。
助けたい。助けられない。ニーナが捕まったのは、あたいの責だ。
神々に祈るような気持ちで見つめていたメイの背後の田舎道で、強い風が吹いて茶色い砂埃を巻き上げていた。

 力強い腕に乱暴に小突かれながらニーナが田舎道を歩き出そうとした時、禿頭のオークが舌打ちして立ち止まった。
どうやら、風に舞った砂埃が目に入ったらしい。文句を呟きながら、オークは顔を歪めて眼を擦る。
瞬間、ニーナの真横で突然に奇声が上がった。
「びゃああ!」
やたらにすばしこい猿みたいな動きで、涙目で突っ込んできた少女がオークの太股に思い切り体当たりしていた。
小さなナイフが太股に深々と突き刺さり、オークが怒りの唸り声を上げた。
恐ろしい形相で小さなメイを睨みつける。
「こっち!」
切羽詰った叫びを上げつつ、村長の娘メイが棒立ちになってるニーナの手を引っ張って走り出した。
思わぬ奇襲を受けたオークも瞬時に動いたが、太股の痛みと目に入った砂埃がその反応を一瞬だけ遅らせた。素早く手を伸ばすも僅かに少女二人に届かない。
正しく間一髪でオークの手を掻い潜ると、人族の少女たちは子供特有の異様に素早い走り方で勝手しったる藪の繁みへと飛び込んでいった。
一瞬後、凄まじい憤怒の叫び声を上げると、オークはまるで苦痛を感じていないように子供二人を追い駆け始めた。


 河辺の村で生まれて以来、メイは十年近くを村で過ごしてきた。
母親に連れられて近場の農園を訪れたのが精々の遠出である。
メイはこの村しか知らない。この小さな村がメイにとって世界の全てであり、しかし、代わりに村の中だけならば誰にも負けない。繁みから木の配置、歩きやすい道から隠れ易い場所まで知り抜いている。

 メイの懸念通りに禿頭のオークは足が速かった。背後から恐ろしい叫び声が迫ってくる。
「……ひっくっ、おかあちゃあん」
しゃくり上げそうになるのを我慢して、メイとニーナは岩陰に飛び込んだ。
と、追っ手のオークは二人の隠れる岩の前を通り抜けていった。
すぐに岩陰を飛び出すと、脇道に反れながら奥へ奥へと進んでいく。
「駄目!この先には、お母さんがいる!オークが追ってきたら!お願い!メイ!」
顔色を変えたニーナが喘ぎながら小声で囁いた。メイも考えていないわけではない。
「こっち!」
横道にある脇の繁みへと飛び込んだ。
一杯食わされたとすぐに気づいたのだろう。
背後より響いてくるオークの恐ろしい吼え声が、少女たちの背筋を震わせる。
オークは怒り狂っている。捕まったらどうなるか、想像もしたくなかった
振り返るのも恐かい。二人の少女は苔むした小高い土手へと向かった。
「この向こう」
メイの指差した土手を見上げてニーナは躊躇した。メイの肩を掴んで押し止めてくる。
「目立つよ!越えてたらすぐに見つかっちゃう!」


 土手をよじ登る二人の少女の小さな背中を目にして、禿頭のオークは鋭く目を光らせた。
猿みたいな子供が、よじ登った土壁の上から遅れている子供に手を差し伸ばしている光景を目にして口の端を歪める。
狡猾だと思ったが、所詮は餓鬼か。あんな場所に逃げるとはな。
それとも登ったところに罠でも用意しているか?
オークが太股に受けた傷も掠り傷で、走るに支障もない。土手も大人の体格ならすぐに登れる。すぐに追いつくだろう。
つい頭に血を昇らせていたが、今はオークの怒りも大分醒めてきている。
餓鬼の二匹くらい、普段の彼なら放っておく相手だった。
だが、今に限っては逃がす訳にも行かない。
村を襲っている最中に、近場の農園にでも知らせに走られたら厄介だ。
餓鬼の足だ。すぐに辿り着けるとも思わん。見逃しても構わん気もするが。
いや、そうもいかないか。
「いやな仕事だぜ」
ぼやくように呟きながら、人族の子供たち目掛けて急いで走っていく。

 迫るオークの姿に気づいたのだろう。慌てたように子供たちが土手の反対側へと転がり落ちていく。
だが、十も数える間に土手へ辿り着いたオークは、一息に土手を昇りきり、その反対側へと飛び降りて、
「何処へ行った!」
子供二人は、魔法のように消えていた。
地中に潜ったか。空を飛んだか。影も形もない。
「先の方へ逃げたか?」
少し走りかけて、しかし、開けた草地を目にして立ち止まった。
周囲に視線を走らせるも、一目で見渡せるなだらかな平地に人の気配は全くなかった。
土手の傍へと戻ったオークは、足跡の傍にしゃがみ込んで鋭い視線を周囲に走らせた。
……見失ったのはこの辺だが、何処へ行きやがった。


 オークが砂地を踏んでさかんに歩き廻る足音が二人の少女の耳に届いていた。
苛立っているのだろう。
足早に行ったり来たり、或いは立ち止まって低い声でぶつぶつと呟いたりする声が響いてきたが、離れる気配はなかった。
湿った土の匂いだけが漂う冷え冷えとした暗闇の中で、ニーナとメイは息を潜めている。
二人はうつ伏せの姿勢になって、地面すれすれに開いた土手の横穴に隠れていた。
兎の穴だろうか。子供は難なく隠れられ、上から見たのではまず分からない。
低い入り口は草叢に隠れ、子供にしても二人が潜むにはぎりぎりの大きさの横穴に身を潜めながら、メイとニーナは息を飲んで出入り口の光を見つめている。
ここに隠れていたら絶対に見つからないよ、と
メイはそう思いながら、しかし声に出すのも恐かったので、伝わる筈もないがニーナの手を握った。
今にも立ち止まったオークが、其処から顔を覗かせるのではないか。
そんな想像に脅えながら小さな身体を震わせたメイの掌を、ニーナはきゅっと握り返してきた。
暫らく唸り声を上げながらうろついていたオークだが、やがて諦めたのか。足音が小さくなっていく。
「……いなくなったかなぁ」
突如、響いたメイの小さな囁きが、恐怖に死にそうになっているニーナの心臓の鼓動を跳ね上げた。
「かくれんぼしていたときに見っけた。今まで誰にも見つかったことはないよ」
どこか焦ったような声で、メイが早口に説明する。
落ち着きをなくしたニーナは、恐怖に強張った表情で声を出すなと首を振るう。
だが、通じてないのか。メイは自分に言い聞かせるような口調で喋り続ける。
「……まだ、駄目。静かに」
静かだが強い口調に囁かれ、喘ぐように口を動かしたメイはやっと黙り込んだ。

 うつ伏せの姿勢のまま、どの位、待ち続けていただろうか。
薄暗い其処では、村を吹きすさぶ風の音が不気味な唸り声にも聞こえてきた。
もう、行ったのかも知れない。逃げた方がいいのか。
迷いながらニーナが動こうとした時、外から再び足音が聞こえた。
オークがずっと待っていたのか。或いは戻ってきたのか。
いずれにしても、迂闊に横穴を出ていたらうろついているオークに見つかっていただろう。

 どちらがということも無く、脅えた二人の少女は歯の根も合わないほどに震えだした。
歯のカチカチなる音だけが暗い闇に響いてくる中、苛立たしげなオークの唸り声が去っていく。
……行ったのかな?
しばし躊躇していたニーナだが、やがて横穴からそっと顔をだした。
周囲の草叢の様子を窺えば空は漆黒の雲に覆われており、あたりはすっかりと薄暗く、風が吼えるように村中を吹き抜けて潅木の枝を揺らしていた。
陽光は弱々しく薄れ、横穴に差し掛かった傍らの木の幹の影は、薄暗い曇天に今は地面と見分けもつかなかった。
誰もいない。今なら母さんのところへ戻れる。
再び横穴に潜ったニーナは、しばし脱力したように目を閉じていたが、それからメイを見つめて促がした。
「行ったよ。助かった」
ニーナの傍でじっと地面を見つめていたメイだが、ぶるぶる震えた後に涙を零してしゃくり上げ始めた。
「……おかあちゃ……おかあちゃあん」
決壊した涙腺に、それでも声を抑えながらメイは母を呼び続けた。
ああ、この子も恐かったんだな。
気づいた瞬間、不思議にもニーナの心はすっと落ち着いた。
自分も泣きたい気持ちである。それを何とか抑えると黙ってメイの頭に手を伸ばした。
「大丈夫、大丈夫だよ」
内心はオークの姿に脅え、また途方に暮れているニーナは、それでも年下の少女を元気付けるように穏やかな声で暗闇の中で囁きを繰り返したのだった。



[28849] 92羽 土豪 43     2013/02/17
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:dbd9eb29
Date: 2013/06/05 21:05
 薄暗い穴の底に小さな人型の影たちが蠢いていた。
時折、身体を揺すって、小山のように身を寄せ合っているのは、寒さを凌ぐ為だろう。
這い寄る冷気に身体を震わせながら、か細い呻きを洩らしているのは、河辺の村へと攻め寄せていまや敗残の身の洞窟オークたちだった。
一敗地に塗れ、さらに逃げ遅れた洞窟オークたちは、いまや村人の虜囚となっていた。
村中央にある小高い土山に開いた隧道に放り込まれている彼らだが、元は村の共有物置として使われていた穴倉は奇妙にじめじめとしている。
出入り口は分厚い頑丈な木戸が備え付けられており、非力な洞窟オークたちには逃げようも無い。
「……寒い。寒い」
そう呟きながら、身体を震わせるばかりである。
「糞ッ!今日は特に冷え込んでやがる」
牢の片隅で固まっている洞窟オークの誰かが吐き捨てた。
応じるように別の誰かがぼそぼそとか細い声を洩らした。
「火にあたりてえな。あったけえ、火によ。舌を火傷するくらい熱いスープも」
「飯はまだかよ」
食事は一日に二度、扉が開いてライ麦や雑穀の混ざった酸っぱい粥が一杯だけ与えられる。
碌な手当ても受けてない怪我人は、傷が悪化するままに放置されていた。
寒さと飢えに衰弱して、死ぬ洞窟オークもいる。
そうなれば、牢番のゴブリンたちが文句を言いながら何処かへと運び出していくのだ。

 残してきた女子供たちに思いを馳せる者がいたにしろ、虜の身では家族が人族の豪族に捕らわれていると知る由もない。
部族としてはもはや滅びたも同然の洞窟オークたちは、だが、幸か不幸かそのことを知らずにいる。
そもそもが飢えに追い詰められて他種族の村へ攻め込んだ身であった。
村人たちからの慈悲を到底、期待できる立場でもなく、大半の洞窟オークが一様に暗い表情をしたまま身動きもせずに無気力に土床に寝そべっていた。

 ふと、入り口近くにいた洞窟オークが身動ぎした。
身を起こしながら、僅かな日の光が洩れてくる土牢の頑丈な扉を見やる。
「……何かあったか?」
言った声には、まだ張りが残されていた。
「ん?なにがだ?」
隣にいた洞窟オークが怪訝そうに眉を顰めると、最初に身を起こした洞窟オークに尋ねる。
幾ら夜目が効く洞窟オークでも、この暗闇の中では隣にいる者の表情すら見分けるのも難しかった。
闇にぼんやりと浮かぶ影法師に話しかけているようなものだ。
「……外から何やら喚き声が聞こえたような気がした」
出入り口をじっと見つめる洞窟オーク。隣の洞窟オークは肩を竦めて力なく俯いた。
「……飯にはまだ早い。奴隷商人でも来たかな」
奴隷商人。その言葉に微かなざわめきが牢内に広がった。

 つい先日、屈強そうな剣士を二人護衛につけた小男が穴倉を訪れた。
松明を掲げた村人に案内され、洞窟オークの間を歩き回った狡猾そうな目付きの小男は、元気そうな者や怪我を負ってない者を指し示しめして外へと連れ出した。
外で村人と話し合っていたのは、代価の交渉であろう。
値が折り合ったのか。連れ出された洞窟オークたちが、数珠繋ぎに縄に縛られたところで扉は閉められた。
敗者の末路とは言え、仲間たちが奴隷として何処とも知れぬ土地へと売られていく光景を目の当たりにするのは、神経を削るものがあった。
すすり泣く者、歯軋りする者。自然、誰もが気持ちは滅入ってくる。
洞窟オークのうちには不安に苛まれて正気を失う者もいたし、自棄になって喧嘩っ早くなっている者もいる。
比較的に気持ちを強く保っている者も、その表情は絶望に彩られていた。

 「奴隷」という言葉を耳にして、今さらながらに己が今置かれている現状が身に染みたのだろう。
身体を震わせた洞窟オークが憂鬱そうな声で嘆いた。
「俺たち、どうなる」
「よくて石臼引きの奴隷。悪けりゃ最悪、北の鉱山送りだ」
その答えを耳にした洞窟オークが、聞くんじゃなかったと吐き捨てつつ身を震わせたのも、牢獄の冷気ばかりが原因ではなかっただろう。

 探鉱や採鉱が未熟な時代、当時の技術で採掘できる数少ない鉱山は極めて貴重であり、また人命が軽かった背景もあるだろう。

 この頃、鉱山には人の体に悪影響を与える有害な放射能があると人々は信じていた。
蒸し暑い中での長時間の労働は、空気の悪い地底の劣悪な環境も相まって過酷な作業に従事する鉱夫たちを酷く消耗させ、その健康を蝕んだ。
粉塵が舞う坑道での作業は、働く者たちの健康を損ね、その肺を蝕み、血痰混じりの咳をするようになる。
鉱山で働く者に特有の原因不明の肺病でやせ衰えていく鉱夫たちを見て、当時の人々は、地下の放射能が人の健康を害する原因だと考えたのだ。

 故にこの時代のヴェルニアでは、大概の鉱山は極めて劣悪な労働環境であり、人命を浪費するように経営されているのが普通であった。
しかし、それでも王侯は金属を求める。金属が稀少な時代。所持する金銀、銅が富の量であり、鉄や青銅で作られた武具がすなわち力を現していたからだ。

 しかし、病の原因や予防さえ人々には不明な時代である。ドウォーフ族以外の種族で鉱夫を生業とする者がいても、長生きする者は稀で、年季奉公であれ、強制労働であれ、鉱山における人手は慢性的に不足している。
人族とエルフ族の諸王国とオーク族やトロル族の部族連合が激しく争っている北ヴェルニアにおいては、人手不足は特に顕著であり奴隷の需要が大きかった。
戦争で敵国の民を連れ去り、奴隷を買い集め、蛮族の村を襲って人狩りを行い不足を補おうとする君主もいれば、道行く農民や旅人などを浚い、或いは自由労働者を口先で騙し、鉱山へと送り込む口入れ屋や奴隷商人も珍しくない。
人を浚うオーク。オークを狩る人。人を餌食とする人。オークを襲撃するオーク。
中原の人族の諸侯が浚われた領民の返還を求めて、北の王の一人と干戈を交えたという事例すらある程だった。
件の諸侯がトロルの上王と手を結ぶ気配まで見せ始めた為に、流石に王国も慌てて領民を返還したのだが、浚われた時は百人近くいた村人が一年後には僅かに三十人しか生き残っていなかったという話までまことしやかに囁かれていた。
兎にも角にも、奴隷に落ちた者や戦争捕虜となった者たちにとって考えうる最悪の事態が北方の鉱山へと売り飛ばされることである。

 暫らくの間、物問いげな眼で出入り口の分厚い樫の扉をぼんやり眺めていた洞窟オークだったが、やがて物音が錯覚だと結論したのだろう。
肩を落としてから、隣の洞窟オークを見やった。
「……おとついも奴隷商人が来たな」
「痩せた小男だろ」
「違う、その前のドウォーフだ」
少し小首を傾げてから、隣の洞窟オークは思い出したようにようようと首を振るう。
「ああ、いたな。金色の指輪つけて丸々太った樽みたいなドウォーフの爺。
爺の癖に厚化粧して着飾っていた。不気味な奴だった」
人族やエルフ族が民族によって肌や髪、瞳の色が異なり、身長、造形も違うようにドウォーフという種族も千差万別である。中には他の種族が一見しても雌雄の区別がつけがたい容姿の部族も少なくないのだが、洞窟オークはそのような知識など知らないし、観察眼も持たぬので判別が付く筈もない。
「あれも、ローナの奴隷商か?」
隣の洞窟オークが脅えたような苦しいような顔で言ったのを聞いてから考え込む。
「多分、もっと北だ。沢山の毛皮を纏っていたからな。鉱山で使う奴隷を見繕っていたのかもしれねえ」
「鉱山……糞。畜生。グ・ルムの糞野郎。口車になんか乗るんじゃなかった」
隣で嘆く声を耳にしても、洞窟オークは何も言わなかった。
「そうか。俺は、夢を見れただけよかった」
ただ闇をじっと見つめてから、独り言のように言った。

 洞窟オークたちの糞尿は、牢の隅に置かれた桶に溜められていた。
一日に一度、数匹のゴブリンの見張りの下で首に縄をつけられた奴隷オークが始末している。
扉の外から、何やら甲高い叫び声や鳴き声が聞こえてきた時、洞窟オークは糞尿の処理化と思ったが、ゴブリンたちは叫んでいるばかりで入ってこない。
なので、すぐに鈍い音を響かせながら重たい扉が開き始めると、洞窟オークは意地の悪いゴブリンがなにやら新しい悪戯を思いついてやってきたのだろうと身構えた。
外から光が差し込んだ。
と、眩しそうに手を翳して眼を細めている洞窟オーク達の目に、入り口からゆっくりと牢に入り込んでくる人影が移った。
「奴隷商に……」
警戒しながら呟きかけた洞窟オークが人影を目にして途中で絶句した。
立ち止まったのは、牢の天井にも頭が届きそうな信じ難いほどにオークの巨漢だった。
大木のように長く節くれだった逞しい腕は、巨大な戦斧を軽々と扱っている。
金属製の環を縫いこんだ牛皮の革鎧を纏った分厚い胸板からは、全身これ筋肉の塊とでも言うべき、恐ろしい力が窺えた。
穏やかな、その癖、妙に深みを感じさせる眼差しで洞窟オークを見下ろすと鷹揚そうな笑みを浮かべる。
「助けに来たぞ。こんなところはさっさと出ろ」
信じられない思いの洞窟オークは言葉も出ずに、隣の洞窟オークと顔を見合わせた。
分厚い雲に遮られて、冬の弱々しい陽光も、しかし、数日振りに牢の外に出た洞窟オークたちによっては、生き返るような心地にしてくれるこの上ない天の恵みだった。
外では数匹のゴブリンや人間が血を流して地面に倒れていた。
残りのゴブリンたちは、脅えた様子を隠しもせず頭を抱えて崖傍にうずくまっていた。
眩しそうに手で庇いながら外へと踏み出した矮躯の洞窟オークたちは、不思議そうな眼差しで外を歩き回ったり、警戒している大勢のオークの戦士たちを見上げていた。



 河辺の村の其処(そこ)彼処(かしこ)で血生臭い殺戮や略奪が起こっている最中、村長であるリネル親子のささやかな住まいからも静寂を破って物の割れるような音が鳴り響いてきた。
壁に立てかけた棍棒にリネルの手が届くよりも速く、踏み込んできたオークの手が素早い蛇のように動いて女の腕を掴んだ。
そのまま凄まじい腕力に任せて年増女の腕を締め上げる。
「あがっ、あああ!誰か!誰かぁ!」
苦痛に顔を歪めたリネルは声にならない悲鳴を上げつつ、助けを呼ぼうと叫んで暴れた。
「大人しくしろ」
顔に傷のあるオーク族の巨漢が苛立った様子を見せて女の頬桁を張り飛ばした。
平手の一撃に壁まで吹っ飛び、打ち付けられた激しい衝撃に白目を剥いて崩れ落ちるリネル。粥を入れた鍋がひっくり返る。
「おいおい、ボロ!何してくれてるんだ!」
戸口の外から声が呼びかけられ、巨漢のオークも焦った様子で舌打ちする。
「糞ッ、やりすぎたか?」

 なにやら声を掛けられながら、二度、三度と顔を軽くはたかれる。
ようやく正気を取り戻したリネルの顔を、鼻梁から顎に掛けて無残な向こう傷の残る巨漢のオークが覗き込んでいた。後ろの壁際では、頭巾を深く被ったオークがしゃがみ込んで土鍋に残った粥を舐め取っていた。
向こう傷のオークの凶相に小さく悲鳴を上げたリネルは、一度張り飛ばされたにも関わらずもがき始めた。
「誰か……誰か!来ておくれ!オークだよ!誰かぁ!」
口の中に血の味がした。舌を動かすだけで年増女のぐらぐらと揺れている奥歯が痛む。
喉から声を張り上げるも、誰一人来る気配もない。
隣家まで距離もあるから仕方ないとしても、闖入者のオークが動揺する気配さえ見せないのは何故だろうか。

 疑問が氷解したのは、向こう傷のオークが嘲るような笑い声を喉の奥から響かせた時である。
「無駄だ。近場の家は押さえた。歩いていた奴も片付けた。助けは来ない」
年増女の背筋を氷塊が滑り落ちたかのように冷たい戦慄が走りぬけた。
「……まさか……そんな」
よほどの衝撃を受けたのか。向こう傷のオークの嘲るような眼差しに真実を直感してリネルの顔が青ざめていく。
「……だって」
意味をなさない単語の羅列を口走りながら、立ち上がったリネルがよろよろと田舎道へと進み出て視線を走らせれば、視界の先に大地に倒れている農夫の姿が目に入った。
いびつな姿勢で天の一角を見つめ続ける死者の虚ろな眼差しに、足から力が抜けたようにリネルはへたり込んだ。

 向こう傷のオークが傍らへと歩み寄ってくると、リネルの肩をぐいっと引っ張った。
「止めておくれよ」
弱々しくリネルは呟いた。
「あたしみたいな貧しい農婦を虐めても、何にもでないよ。旦那」
宥めるような下手に出た口調で媚を売りつつ、リネルが誤魔化せるように話しかけると、零れた雑穀粥を指先で舐めとっていたオークが立ち上がって頭巾を外した。
「へへっ、無駄だよ。姐さん。あんたが村長だってのはボロも知ってるんだ」
見覚えのある顔にリネルが大きく目を見開いた。
数日前に村のゴブリンが密偵だと騒ぎ立てていた自称旅人の半オークの青年を村長は覚えていた。
暫らく震えていたリネルだが、やがて肩を落とすと力なく首を振るった。
「……あんた、密偵だったのかい」
一瞬だけ苦味を顔に翳らせた半オークのフウだが、
「悪いな、姉さん。俺を吊るしておくべきだったのさ」
次の瞬間、ふてぶてしい笑みを浮かべて嘯いていた。



[28849] 93羽 土豪 44     2013/04/08
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:21387349
Date: 2013/06/05 21:02
「それは影のようでありました。また風のようでありました。
大勢の武装した人影が強い足でひょいひょいと大地を踏みしめながら、風の吹きすさぶ中を飛ぶように南へと向かっていくのは、とても恐ろしい光景でした」
原野に目撃した光景を取りとめもなくこう語る農夫は、身も蓋もなく震えていた。
血の気が引いた農夫の言葉に耳を傾けながら、豪族のルタンは一帯の地理を脳裏に思い描いていた。

「オーク共。この真冬にも関わらず忙しないことよ」
言葉面だけは感心したような皮肉っぽい響きで呟きを洩らしたルタンは、銀髪を後ろに撫で付けた痩せた三十男だった。
後ろに連れている二人の逞しい奴隷に槍と胸鎧を背負わせている。
背には狐のマントを羽織り、首には北方の森林で取れた黒貂の毛皮のマフラーを巻いている。額の秀でた痩せた長身の男で、田舎豪族にも関わらず、都の貴族がつけていそうな高級な品が不思議と良く似合っていた。

 冬の戦は避けるのが常道である。
寒さに指先は悴み、熱を失った身体は思うようには動かない。
冷え切った身体は余計に食べ物を欲し、冷え切った食事を温めるにも薪が必要となる。
 攻める方は物資ばかり嵩み、建物に篭って守る側のほうが冬の戦ではずっと有利なのだ。
にも拘らず、オーク勢は盛んに動き回っている。
それだけ切羽詰っているのか、よっぽどの理由が在るのか。
こう打ち続くからには、或いはオークたちの内部に何らかの異変が起きているのかも知れぬと沈思するルタンは、辺境中西部・オーメルの一帯では少しは知られている豪族であった。

 なだらかな丘の連なりは、オークたちの縄張りである丘陵地帯と河辺の村を結ぶ線上の中間に位置していた。
一年の大半を通して穏やかな風が吹き抜けていく丘陵の裾野には、春から夏に掛けて新緑と色鮮やかな花々が咲き誇って道行く者の目を楽しませてくれる。
季節が違えば、散策するのも悪くないが、しかし、冷たい風がますます強く吹き荒れている真冬の最中、薄着で馬鹿みたいに突っ立っているのはいかにも苦痛であった。
ルタンの後ろを付いてくる男たちは、いずれも不満げに唸ったり、ぶつぶつと文句を呟いていたが、銀髪の豪族は気にしなかった。

 治める土地と影響力の及ぼせる付近一帯に、ルタンはあらかじめ触れを出しておいた。
見慣れぬ者、見ず知らずの者、怪しい者がいれば直ちに知らせるように。
今回、その網に十中八九はオークであろう兵団が掛かった。
恐れ戦く農民を宥め賺し、褒賞として大麦の袋を与えてから、ルタンは奴隷たちと視線を交わした。
脳裏で描いた地図に正体不明の兵団の動きを当て嵌め、その狙いを割り出そうとする。
「何が狙いだ……河辺へと向かっている。村のどれかを襲う気か」
悩むように低い呟きを洩らしながら、ルタンは踵を返した。武装した二人の奴隷がその二歩後に続いて歩き始める。
豪族の向かう先の野原には、大勢の武装した農民たちが無秩序な固まりとなってざわめきを発している。

 遠目に見える丘の狭間では、ルタンの盟友であるクーディウス家の派遣してきた男が何やら地面を調べていた。
先ほどまで丘陵地帯を熱心に歩き回っていたかと思うと、何かを見つけたのか。急にしゃがみ込んで辺りを這い回ったりもする。
武装した奴隷の片割れが、寒さに歯を鳴らしながら主人にぼやいた。
「何時まで待つんですか?そもそも奴はなにをやっているんです?」
振り返った主人の鋭い眼光にも怯んだ様子もなく、肩を竦めながら寒さに耐えるように身体を前後に揺らしている。
主人と奴隷の関係ではあるが、ルタンと護衛の二人は互いに物心ついた時分よりの付き合いである。
二十年以上を主人に仕えており、食事や寝床なども家内で主一家の次に良い物を与えられている二人は、ルタンにとって奴隷でありながら、身内も同然の信頼できる兄弟分でもあった。
「……奇妙な真似をする男だな」
もう一人の奴隷も、合点がいかない様子で鼻を鳴らしていた。


 ルタンは二人の奴隷のぼやきを聞き流すと、己の元へと集ってきた兵士たちへと視線を走らせた。
血相を変えた農夫が駆け込んできて直ぐ、ルタンは戦える者を総動員する使いを近隣に走らせている。
ルタンの影響力にクーディウスの権威が合わさった成果もあって、伝令が届いてより僅か一刻。今も続々と、近隣の農園や小村落から武装した農民が集ってきていた。
村々が独自に雇い入れていた雇い兵たちや、働き次第では褒美や自由を約束した奴隷、近隣から馳せ参じてきた郷士豪族とその郎党たちもいる。
人数は既に百では効かぬ。武装農民の姿だけではない。槍や中剣に革鎧を持った流れの傭兵らしい戦装束の男女や、薄汚れた布を纏い、棍棒や石を手にした乞食と見まがわんばかりの丘の民らしき一団の姿も見て取れる。

 ルタンの村の方に馳せ参じてきた者たちと合流すれば、さらに人数は膨れ上がるだろう。
増え続ける兵を頼もしげに目にしながら、細い顎を撫でた銀髪の豪族は自信有り気に深い笑みを浮かべた。
オークの狙いがどうあろうが、やることは一つだ。
今から追跡し、追い詰めて徹底的に叩き潰してやる。

「……ルタン殿」
地面を調べまわっていたクーディウスの家臣ヘイスがようやくに立ち上がり、ルタンの方へと歩み寄ってきた。
「何事かな。ヘイス殿」
盟友である大豪族クーディウスから派遣されてきた使者を相手に、ルタンもやや慇懃に言葉を返した。
 ルタンの一族は、本拠となる村の他に橋や幾つかの街道を所有している。
関を設け、通行料を取って富を得ている、言ってみれば『街道の領主』である。
富裕な一族ではあるが、その武力は一介の豪族の域を出ておらず、単独では百の兵を集めることは出来ない。
以前より武具や資金、糧食を融通し、傭兵との伝手を用意し、策を用意してくれたのはクーディウスである。
 ヘイスというクーディウスの家臣は、家中でも相応に重んじられているに違いない。
高価な青銅の胸当てを身につけ、体躯は鋭く引き締まっている。
如何にも効け者といった雰囲気を漂わせているヘイスという男は、主人からも信頼されているのが他のクーディウスの郎党の態度からも窺えた。
あまり無碍に扱う訳にもいかない。
体に泥をつけたまま、身を乗り出してきたヘイスの顔が、やや緊張に強張っているのにルタンは目敏く気づいた。
「……どうされた?」
「足跡を調べていた」
ヘイスは低く呻くように言葉を吐き捨てた。
しゃがみ込んで何を熱心に調べているのかと思えば、どうやら足跡を調べていたらしい。
「連中は、ここら辺の地理をかなり知ってるぞ」
「ふむ……どうしてそう思う?」
「数百歩に渡って、まるで立ち止まってない。それに足跡に乱れがない。
少なくとも斥候なり、案内人なりは、目指す目標までの道を熟知している」
「ふむ」
「人数は四、五十人。或いはもっといるかも知れない。全員が、真っ直ぐに一定の歩幅で歩いている。よく鍛えられている証だ」

 報告を耳にして、流石にルタンも難しい顔となった。
武装した五十は、人口の薄く広がる辺境(メレヴ)ではかなりの脅威だ。
守りの手薄な村くらいなら、容易く落せる。
「ふむ。そうなると連中の狙い。村なり、大きな農園の襲撃かな」
如何にも苦々しげな所作で推測を吐き捨てたルタンが、言葉を続けた。
「此方は倍の数だ。領地に逃げ帰る所を襲えば、オーク共も一溜まりもあるまいよ」
ヘイスは眉根を寄せて、ルタンを眺める。
「オークを追跡しないのか?何処かの村が襲われているかも知れん」
「今からでは、救うには遅すぎる。それよりは待ち伏せの方が良かろう」
事も無げに言うルタンを一瞬、訝しげな眼差しで見てから、ヘイスは口を閉じて難しい顔となった。
あっさりと村を見捨てたルタンの判断に、或いは不快感を覚えたのかも知れないがそれを表には出そうとしなかった。
「……帰り道もここを通ってくれればいいが、そう上手くいくかな」
呟くように言ってから、鋭い視線でルタンを見やる。
「むしろ、此処を通ってくれればいい、か?」

「確かに奇妙な動きだ。何処を襲ったにせよ、連中は普段よりもずっと南へ入り込んできている」
ルタン自身も、オークの動きの奇妙さに幾分か気になるところはあったが、取り敢えずは横に置いた。
「兎に角、連中が普段どおりに動くとしたら、まず境界近くのオークの砦へ帰還するはずだ。
村を襲った連中が領内に引き返そうとのこのこ戻ってきた所に奇襲をし掛けるとしてよう」

「追跡すれば、確実に連中を捕捉できると思うが……」
「真正面からぶつかるのは上手くない。此方の犠牲も多くなるでな」
クーディウスの家臣ヘイスの提案を、地元の豪族ルタンは一言で切って捨てる。
クーディウスからすれば遠来の土地でも、ルタンにとっては郷土である。
男手の五人、十人も怪我をすればかなりの負担となる。辺りの農民の困窮は他人事ではない。
ルタンや一帯の豪族たちからすれば、男手を余りに損なうと勝利しても引き合わないのだ。


「ふむ。であれば、連中がこの道を引き返してくれば御の字か。
しかし、全く別の道を通ってやり過ごされる恐れもないだろうか?」
ヘイスが疑問をぶつけてくるが、オークの動きや習性については普段から領地がオーク族と接しているルタンの方が詳しい。
「いいや。十中八九、引き返してくる時に捕まえられるさ」
その点については自信有りげに断言した。
「此方も斥候を出している。此処に陣取っていれば、近隣のどの道を通ろうが見逃すことはまず有り得ん。それに……」

 ルタンの意味ありげな視線の先を追って、黒尽くめの集団に行き着いたヘイスも深々と肯いた。
「その為の傭兵と丘の民か」
「うむ」
不作で困窮している丘の民を雇い兵として組み入れるようにとの策をルタンに提案したのは、クーディウスであった。
一見、線が細くて神経質そうに見えるルタンであるが、一帯の地主であり殿様として敬われるほどであるから、それなりの人物である。肝も据わっており、今も陣頭で指揮を取っている。
丘の民を斥候として重用すれば、オークの動きを把握し易いはずとの視点に舌を巻きつつ、ルタンはさらに一歩踏み込んだ。
さらに使い捨ての先鋒としてぶつけることを考えている。村々の畑を荒らし、家畜を盗む丘の民と、敵であるオークを減らせる一石二鳥の良策となるだろう。


「それにしてもクーディウス殿は見事な知恵者よ」
上機嫌で褒め称えるルタンを前にして、ヘイスは曖昧な笑みを浮かべたまま相槌を打っていた。
真実が必ずしも人を幸せにするとは限らない。実はフィオナさまのお考えだ。とは、口にしなかった。
クーディウスに盟友と見込まれるだけあってルタンは中々に頭も切れ、直ぐに策の利点にも気づいた。それだけに年若い女の考えた作戦通りに動くのは、切れ者の中年の男にとっては不快であろう。故に沈黙を守れと腹心に言い含めたのもこれまたフィオナである。
クーディウスの長女フィオナは、並行して幾つもの手を矢継ぎ早に打っている。
その一つ一つがヘイスには驚くような発想と思考の産物であり、クーディウスを有利にし、オークを追い詰める有効な仕掛けとなって状況を創り上げつつあった。
まさしく深謀遠慮の御方だ。傭兵であった時代にも、あれほど先を見通せる目を持っていた雇い主は一人としていなかった。全く敵であるオーク族には同情するぜ。
娘といってもいいほど年若い豪族の娘を信頼し、強い忠誠心を抱いているヘイスは、主に命じられたもう一つの任務を誰にも気づかれずに今果たしていた。

「ついでに、それとなくルタン殿の動かせる兵と武具の質を調べ上げておくように」
フィオナ・クーディウスは、その為に、尤も信頼する腹心を送り込んで、督戦の任に付けていた。
確かに、短時間にこれほどの兵を招集出来たのは、ルタンの手腕が並々ならぬものだからだな。
既に村に半ばを集結させていたからでもあるが、準備の周到さと手際のよさは大したものだ。
ヘイスは密かに肯いてから、主人の同盟者である豪族ルタンの機嫌良さそうな横顔を眺めた。
同盟を組むに足る相手か否か調べるつもりか。或いは、オークを倒した後の事を考えているのか。
まあ、いい。フィオナさまが何をお考えにしろ、一介の戦士である俺は忠実に従うだけよ。


 オーク族の侵攻に併せて、クーディウスも反攻のための兵を集めていた。
本格的な反攻はいま少し先になるとしても、村の一つ、二つを焼き払い、砦を落してでもおけば、有利になるだろう。
そう考えて、ルタンの領地より別働隊を編成し、偵察を兼ねて侵攻する筈であったが、予定が僅かばかり前倒しに繰り上がった。
本格的な衝突の前に、まずは敵の小部隊を血祭りに上げてやろう。

 もはや勝利を確信しているのか。椅子に坐ったルタンは、自信満々の態度で敵を待ち受けている。
「ルタン殿、油断召されるなよ。あまりにも敵を侮るのは危険だぞ」
忠告してくるクーディウス家臣ヘイスを横目で見てから、
「油断はしておらん。だが、敵は精々五十。此方の半数にも満たぬ」
ルタンの手勢は既に百人を越え、百五十に近づいている。
予想以上の戦士の集りに上機嫌のルタンだが、ヘイスは渋い顔をする。
彼は主人であるフィオナから、ルタンが油断しないよう、そして深追いしないよう、諌めるように念を押して釘を刺されていた。
なるほど、調子に乗りやすい男だと言ってたが、どうやらフィオナ様の観察眼は正しいらしい。
ヘイスは、任務に忠実な男でもある。もう一度だけ忠告することにする。
「だが、連中。そのなりからすると多分、南の境界を守るオークの精兵だ。
狙いは読めぬが、少数で此処まで人族の領域深くに入り込むとは豪胆な連中。
それに最近、オグルまで加わっているとの噂だぞ」

「大オークだろうが、オグルだろうがな」
くっくっと銀髪の豪族ルタンは冷たい笑みを浮かべる。
彼の自信の根拠は、けして故なきことではない。敵の三倍の兵力に加えて切り札もあるのだ。
後方に屯している薄汚い男たちの一群。
ぎらぎらと鋭い目つきの丘の民の一団。
その中央にうずくまっている一際、巨大な人影をルタンは眺めた。
焼いた野豚の肉を貪っている男の、地の底から響いてくるような野太い唸り声。
座り込んでいるにも関わらず、その背丈は男たちの頭より高かった。
「なに『巨人族』と戦っては一溜まりも在るまいよ」


 窓の外では、びょうびょうと吹き荒ぶ風の音が響いている。
目の前では悪鬼のような巨大なオークが立ちはだかり、家捜しするでもなく目をせばめてリネルを睨み付けていた。
首項垂れたまま床に蹲っている年増女からしてみれば、悪夢としか思えない光景だった。
「畜生……」
忌々しげに顔を歪めてオークたちを睨みつけていた年増女のリネルだが、やがて諦めたのか。
顔を伏せながら悔しげに呻き声を洩らした。
「分かったよ。家にある物は何でも持っていきな。でも、あまり乱暴はしないでおくれよ」
情けなさそうな顔で言う村長を胡散臭そうな眼差しで眺めてから、向こう傷のオークはリネルの腕を掴んで立ち上がらせた。
「それはお前の態度次第だな」
訳も分からず、虚脱した様子で顔を上げるリネルを捕まえたまま、巨躯のオークは冷たい声音でついてこいと言い放った。

 引っ張られたリネルが背中を押されながら村の広場へと辿り着くと、そこでは村長にとって見たくない光景が広がっていた。
村人たちが空き地の中央へ集められ、その周囲をオーク達が取り巻いている。
先日の洞窟オークの襲撃の時とでは、立場の裏腹な光景を目の当たりにし、流石に苦い表情を隠しきれずにリネルは思わず顔を伏せた。
しかし、よく見てみれば、村人に痛めつけられた痕跡が見えるとは言え、意外にもオーク達が荒々しく振舞っている様子はない。
オークは一般的に弱い者虐めが好きな種族と認識されている。
にも拘らず、現状では特に意味もなく暴力を振るうものもおらず、また虐殺の不気味な前兆も感じられないので、リネルは少しだけ胸を撫で下ろした。
まだ、いかに転ぶか分からないにせよ、異種族に占拠された村として起こりうる最悪の予想は、ましな方向へと外れてくれていた。
あたしゃ、淡い期待をしているのかね。
忸怩たる想いを抱き、不安に苛まれつつ、左右をオークに挟まれて連れて来られた村長のリネルを目にして、村人の幾人かが嗚咽や嘆きの声を洩らした。

 リネルが村人の中に入れられてから暫らくして、広場に面する田舎道から、人のざわめくような声が聞こえてきた。
年増女がそちらに首を向けてみると、よろめき、ふらつきながら小柄な隊列が近づいてくるのが遠目に見える。
解放された洞窟オークたちの姿だと直ぐに理解する。
(まさか……あいつらを助けに村に攻めてきたって言うのかい。
オークが仲間を助けに危険を侵すって?そんな話は聞いたことないよ)
呆然としているリネルの視線の先、オークに助けられて進んでいる洞窟オークの雑多な隊列には、体力が落ちているのか、気力が萎えているのか、道端にしゃがみ込んで喘いでいる小柄なオークの姿も少なくない。

「ルッゴ・ゾム。洞窟オーク共は、十日も村の倉庫に閉じ込められていました。
どいつもこいつも大分、弱っている様子で……これは歩かせるのは難渋しますよ」
洞窟オークの疎らな隊列の傍らを歩きながら、隻眼のオーク戦士が隊長らしき巨躯の戦士に矢継ぎ早に報告する。
「それに……族長のグ・ルムが見当たりません。別の場所に閉じ込められているかもしれませんが」
隻眼の戦士の言葉を引き継いで、頬に傷のあるオークが言葉を続ける。
「見張りのゴブリン共を締め上げましたが、連中も何も知らん様子です」
数珠繋ぎにされて連行されている捕虜のゴブリンたちは、オークに睨まれただけで緑の相貌から血の気を引かせて震え上がりながら必死に喚いた。
「おらたちゃ、なにも……なにもしんないっす!」
ルッゴ・ゾムは小さく唸りを上げてから、部下たちに告げた。
「此処にいない以上、諦めるしかあるまいよ」
「ですが……団長」
隻眼のオークと頬傷のオークは顔を見合わせてから、何やら言いよどんでいる。
どうやら、少なからぬ部下たちが洞窟オークの境遇に同情を寄せているらしい。
「洞窟オークたちを救い、戦利品を適当に漁ったら引き返す。
当初からその予定だ。あまり長居するのも危ないからな」
溜息を洩らしたルッゴ・ゾムの言葉に渋々肯く頬傷。
しかし、隻眼はどうしても割り切れないのか。なおも言い募ってくる。
「ルッゴ・ゾム。いいんですかい?」
じろっと睨まれて身体を竦ませたがそれでも粘るように訴えてくる。
「まだ時間は在るでしょう。もう少し探してみませんか?村の他の場所に……」
「ならん。引き返すのにも時間は掛かる。こっちは足の遅い洞窟オークを連れて逃げにゃいかんのだ。まだ余裕があるうちに退きべきだろうよ」
「分かりました」
偶にはオークであっても英雄的行動を取るのも悪くはない。
だが、手下たちとて敵地に留まる危うさは理解している。
刻一刻と危険が増しているのも事実である。と、それまで村人を見張りながら、頭領たちの会話を立ち聞きしていたオークの兵卒が口を挟んだ。
「村長を捕まえましたが、何か知ってるかも知れませんぜ」




[28849] 94羽 土豪 45     2013/05/23
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:21387349
Date: 2013/06/05 00:25
 一際に巨大な体躯を誇るオークが、村を占領した獰猛なオーク族の隊列をかき分けながら姿をあらわした時、村人たちの誰もが緊張に息を飲んだ。
リネルを捕まえた向こう傷のオークもオグル鬼を思わせるような並外れた巨漢だったが、そいつはさらに一回り大きい。
他のオークよりも優に頭一つは優っていた。まるで二足歩行する熊のようである。

 辺境の大方の人族やオーク族の男たちが五尺(150cm)から五尺四寸(160cm)ほどの背丈で留まっている事を考えれば、六尺(180cm)を遥かに越える長身が正対するものにどれほどの威圧感を与えるかは想像に難くない。
 オークの戦士団を率いる巨漢は優に六尺五寸(195cm)は有ろうか。下手をすれば七尺近くあるかも知れない。
 異種族の巨漢が金属製の環を縫い付けた革鎧を纏い、巨大な戦斧を手にしているのだ。尚更に恐ろしく見えても無理はない。

 環鎧(リング・メイル)を纏った巨躯のオークは、ゆっくりと前に進み出てきた。
虜囚となった村人の塊が自然と真っ二つに割れて、武威を放つオークが真ん中を歩くだけで人々の間に水上の波紋のように静けさが広がっていく。
 しんと静まり返った緊迫した雰囲気の中、集められた村人たちが不安そうに顔を見合わせていると、巨漢のオークは虜囚たちの並んだ顔に視線を一巡させてから低い声で囁いた。
「村長は?」

 雇い主であるルッゴ・ゾムの呼びかけに、半オークの密偵フウが素早く応える。
オークのなかから躍り出ると、恨めしそうに自分を睨んでいるリネルの傍らへと駆け寄って指し示した。
「この人だよ、旦那」
「……畜生、あんたなんかに情けを掛けるんじゃなかったよ」
忌々しげなリネルの捨て台詞を耳にして、フウは薄笑いを浮かべつつ言葉を返した。
「姐さんも人を見る眼がないねぇ」
「……この!」
カッと頭に血が昇ったリネルが手を振り上げた。パンと甲高い破裂音が空き地に響き渡る。
「おお、いてえ」
頬を張られた半オークの密偵フウは、仲間たちからあまり好かれていないのか。
情けない姿を目の当たりにした他のオーク達が、どっと囃し立てるように嘲笑を上げた。
もう一発叩こうとして手を振り上げたリネルの腕を、素早く向こう傷のオークが掴んだ。
「そこまでだ。こっちへ来い」
小さい悲鳴を上げて巨漢の頭目の前に引き出されていく年増女の背中を見送ったフウは、ほろ苦い笑みを浮かべつつ、おどけるような仕草で頬を擦っていた。

「ルッゴ。村長だ」
向こう傷のオークに突き飛ばされ、よろめくようにしてリネルは巨漢オークの前へと押し出された。
巨漢のオークは気の効く手下の一人が何処からか調達してきた椅子に腰掛けて、しかし、それでも立っているリネルと目線の位置が一致していた。
「……ふむ、女か」
呼びかけに思わず喉を鳴らしたリネルは、こいつが襲撃者たちの頭目だと、言葉にせずとも悟った。
間違えようもない。身なりや体格以前に、纏っている雰囲気が凡百のオークたちとはまるで違った。
向こう傷のオークも巨漢だが、目の前のオークに比べれば逞しい大人と線の細い少年ほども違うように見える。

 辺境の小村落とは言え、長年、街道筋の村長を務めていれば、それなりに人を見る目も育つ。
斥候を見誤ったばかりで幾らか自信がは揺らいでいるものの、少なくとも節穴ではないつもりだ。
辺境(メレヴ)で勇士、豪傑と讃えられる戦士の幾人かと顔を合わせた経験もあるし、先日、知り合ったばかりの東国の女武者からも、どこか尋常ではない凄みを嗅ぎ取っていた。
しかし、目の前のオークから感じ取れる圧倒的な存在感はどうだろう。
敵だから覚えた恐怖もあるかも知れないが、はっきり言って、今まで目にしたどんな豪傑よりも強い印象を覚える。

 手長と呼ばれる強力無双の盗賊を目にした時のことを、リネルは思い出していた。
眼前のオークのよく発達した腕の筋肉は、手長にも負けず劣らずの力強さで、まるで丸太のようだ。
しかも『手長』は、通称が示すように特に腕が肥大していたのに対して、目前のオークからは四肢全体から力強さが見て取れる。
広い肩幅に分厚い胸板ではあるが、巨人族やトロル族のようなどこか歪さを感じる巨躯とは違う。均整の取れた四肢はよく鍛えられ、引き締まっている。
分からないけど……兎に角、只者じゃない。
巨漢のオークを見上げつつ緊張に喉を鳴らした村長の背は、何時の間にか冷たい汗でびっしょりと濡れていた。

「お前が村長か?女」
巨漢のオークが身を乗り出すと、それだけで腰掛けている椅子がみしみしと音を立てて軋んだ。
「は、はい。お偉いオークの大将さま」
平伏したリネルは、声を震わせながら顔を上下に揺り動かした。
「聞きたいことがある。正直に応えることだ。そうすれば命までは取らん」
巨漢のオークの低い声は意外と穏やかであったが、見据えてくる目には偽りや虚勢を許さない強い威圧を宿して、リネルは震え上がった。
「なんでもお答えします。命ばかりはお助けを」
脈打つ心臓が喉から飛び出そうなほどに脅えている年増女に顔を近づけると、巨漢のオークはたくましい声で一言。
「グ・ルムはどこだ」

 洞窟オークの頭目の安否を尋ねるルッゴ・ゾムだが、村長は予想外の反応を見せた。
「グ・ルム……でございますか?」
聞き覚えがない名前なのか。ルッゴ・ゾムの問いかけに、リネルはぽかんとした顔で聞かれた名前を繰り返す。
不機嫌そうに眉根を寄せるルッゴ・ゾムの様子に、リネルは慌てた様子を見せた。
「そ、そのグ・ルムとは、な、何者でしょうか?大将さま!」
「この村に攻め寄せた洞窟オークの頭。お前らの捕らえた洞窟オークの族長だ」
返答を耳にしたリネルが顔を強張らせるのを見て、ルッゴ・ゾムは微かに瞳を細めた。
何かを知っているのは間違いない。
「族長は何処にいる?」
再度の問いかけにも、リネルは答えない。答えられない。
ご要望の人物は豪族たちに売り飛ばしました。なんて言ったらどうなるだろう。
悪い方向に想像力を刺激されて、リネルは顔色を変えつつ必死で首を横に振るう。
「し、知りません」
「本当か?」
「……し、知りません。誰で、何のことだか。さっぱりで」
分厚い身体のオークの恐ろしい形相を目の当たりにした年増の村長は、グ・ルムを引き渡したこと以外は正直に話そうとあれこれと弁解を捕捉する。
「豪族や奴隷商人に何人かの洞窟オークは渡しました。でも、どいつが洞窟オークの頭かさえ、私たちには分からんです。大将さま」
「ふむう」
命がけの緊迫感も伴った取り繕う言葉の必死さは、ある種の説得力をリネル村長の弁解に与えて、ルッゴ・ゾムも一時は信じかけた。

 と、その時、突然に二人の後方で叫びが上がった。
「……嘘だッ!」
助け出された洞窟オークたちのうちから一匹が立ち上がって、声も限りに叫んでいた。
「そいつは嘘をついている!」
よろよろと立ち上がってあらん限りの掠れた声で叫んでいるのは、痩せ衰えた洞窟オーク。
「そいつがグ・ルムを引き出して、引き渡しているのをこの目で見たんだ」
グ・ルムを豪族たちに引き渡した際、広場の隅にずっと縄で縛り付けられ、ゴブリンにいたぶられていた洞窟オークだった。
リネルの顔色から、鮮やかなほどにさあっと血の気が引いていく。
「グ・ルムを豪族たちに引き渡す時……その女は、こう言った」
咳き込みながら、洞窟オークは言葉を続ける。
「……こいつは洞窟オークの大将だ。グ・ルムがオークたちの計画を知ってるから、拷問して吐かせるべきだって豪族たちに言ってた!」
喉が枯れ、声が低く掠れていて聞き取り辛くとも、その叫びに宿った真情は誰にも見紛いようがない。
「確かです。大きなオークの大将さま!信じてください!」

「女ァ!!!」
向こう傷のオークが魂消るような大音声を張り上げると、リネルは文字通りに飛び上がった。
「知らないよぉ!そんな奴!知らない!」
「俺は……本当の事を言えと言った」
射抜くような視線を注いでいたルッゴ・ゾムが戦斧を手に取ってのっそりと立ち上がると、必死に言い訳していたリネルは恐怖に青ざめながら後退った。
背中が近くにあった楡の木に当たると、いよいよ切羽詰ったリネルは、遂にへたり込んでしまった。
「あたしみたいな貧しい農民が、殿様のクーディウス家に逆らえる筈ないんだよぉ!後はそれっきりだよ!何も知らない!勘弁しておくれぇ!」

 恐怖に心折れてヒステリーを起こしたのか。
破れかぶれにわめき散らしていたリネルは、やがて顔をくしゃくしゃにし、楡の木に縋りついたまま地面へと崩れ落ちる。
どう考えても、こんな状況で嘘をつけるほど女村長の肝は据わっていないだろう。
リネルの半狂乱の態を見下ろしていた向こう傷のオークが、忌々しげに舌打ちしてから頭目に指示を仰いだ。
「どうする?」
「連れて行ったのはクーディウス家か」
クーディウスの名を耳にして、ルッゴ・ゾムの表情が流石に険しさを増していた。
近隣では最大最強の武力財力を誇る豪族たちの代表格であり、幾度となく干戈を交えてはオーク族に苦汁を舐めさせている彼の一族は、ルッゴ・ゾムにとっても容易ならぬ相手であり、また彼の属する丘陵のオーク氏族にとっても積年の宿敵であった。
「グ・ルムとやらの知っている計画というのは、まずはカーラの企みだろう」
彼方のモアレ村を思い浮かべ、そこで盛んに動き回っている妹カーラが、宿敵である豪族クーディウス家に動きを察知されたことにルッゴ・ゾムは危惧を抱いた。
ルッゴ・ゾムにとって、カーラは族長の後継を争う競争相手ではあると同時に、残り少ない身内でもあった。
漆黒の暗雲がたちこめる北の空を見やりながら、ルッゴ・ゾムの呟く声は僅かに苦味を帯びていた。
「それを人族共が嗅ぎ付けた。拙いことになったのか……それとも」


 泥だらけになった二人の子供が、とぼとぼと土手にはさまれた隘路を歩いていた。
冷たい風の吹き荒ぶ中を、鼻水を垂らしているメイも、ガチガチと歯を鳴らしているニーナも一言も喋らなかった。
母の待つ奥まったあばら小屋へ向かって重い足取りで進みながら、しかし、戻ってからどうするべきか。ニーナには、まるで思い浮かばなかった。
病身の母ノアを、どうにかしてオーク族の徘徊する村から連れ出さないとならない。
だけど、どうすればいいのか。
痩せた非力な少女であるニーナには、到底、母親を負ぶさる事など出来ない。
考えている合い間にも、土と泥で出来た崩れかけているあばら家が見えてくる。

「……どうしよう」
陰気に呟いて、途方に暮れたようにニーナは立ち止まった。
それとも此の侭、小屋から動かないほうがいいだろうか。
息を潜めて隠れ続けていれば、オークたちが見逃してくれる可能性もある。
迂闊に動き回るよりも、奥まった場所にある小屋の不便な立ち位置に一縷の望みを賭けるべきかも知れない。

「ねえ、メイ……このまま小屋に隠れていようか?そうしたらオークに見つからないかも」
躊躇いがちな痩せた少女に話しかけられ、メイは泥だらけの顔にぎこちなく笑みを浮かべた。
「あのね、隠れるのがいいよ。あたい、隠れられそうな場所をいくつか知って……」
喋りながらメイがあばら家に踏み込もうとした時、小屋の入り口に禿頭のオークが姿を現した。
いきなり飛び出してきた禿頭のオークは、そのままの勢いでメイを容赦なく蹴り飛ばした。
小柄なメイは悲鳴さえ上げられずに吹っ飛んで、地面へと叩きつけられる。
「メ……メイ」
掠れた声で呼びかけても、倒れているメイは微動だにしない。
そのまま禿頭のオークは、立ち竦んでいるニーナの腕を掴みあげた。
「舐めてくれたな。小娘共」
禿頭のオークの淡々とした冷静な口調は、怒りも露わに怒鳴られるよりも恐ろしかった。

「兄貴の読みどおりだったな」
母親のいる筈の小屋からさらにもう一人、別のオークが姿を現すに至ってニーナの脳裏は絶望に真っ白になった。足が震えだし、呼吸も苦しい。
「足跡を辿ればな。やってきたのと逃げた先が同じ方向だから、何かあると思ったのさ。のこのこと戻ってきたが」
禿頭のオークは、そんなニーナの腕と髪の毛を掴んで強引に小屋へと引き摺っていく。
「にしても、こんな小娘共にしてやられたのかい?」
もう一人のオークは、短剣を弄びながら笑っている。
「ああ、そっちの糞餓鬼は足を刺してくれた。油断のならんチビだよ」

「……やめて。許して」
必死に抗う痩せた少女を小屋へと引きずり込んでから、禿頭のオークは力任せに壁の方へと突き飛ばした。
「ニーナ」
壁に叩きつけられて呻いたニーナに呼びかけられる苦しげな母親の声。
寝床にいる母、ノアは恐ろしく血色が悪くもはや顔色は土気色に近かった。
精神的衝撃を受けたのか。それとも何か乱暴を受けたのか。
力なく血の入り混じった咳をするノアのまるで瀕死と見紛わんばかりの様相に、犬のように四肢で母親の元に這いよったニーナは絶句し、それから手を握り締めた。
「母さん。かあさ……」

「餓鬼と女が一人か……にしても怪我人の女じゃなあ」
ぼやいて首を傾げるオークたちの耳に、遠く吹き鳴らされる角笛の音が響いてきた。
「角笛の音だ……予定より早いが何かあったか?」
禿頭のオークが行くぞ、と促がし、もう一人のオークは肩を竦めた。
「で、どうする?餓鬼だけでも連れて行くとして。女は」
手早く片付けるつもりか。
鼻を僅かに鳴らすと禿頭のオークは、槍を片手に無造作に母子に近づいていく。
「……お願い、お願いです。母さんは」
前に出て母を庇おうとしたニーナを、怪我人とは思えない動きでノアが抱きしめた。
「この子、この子だけは……お願い」
「母さん。お母さん!」

「泣かせるねぇ」
寸劇じみたやり取りはオークたちにさしたる感傷を与えた訳でもなかったが、気紛れを起こす程度には同情を買ったらしい。
音高く舌打ちして足を止めたオークは、腕を振って
「ま、いいさ。此処にいろ。明日の朝になるまで動くなよ」
「おいおい、何言ってるんですか?兄貴。
村人は捕まえるか、始末しろって言われてるだろ。それに戦利品も無しかよ」
もう一人のオークが文句を言いながらあばら家を見回したが、農家なら多少の戦利品はあると思いきや、この家には彼の目に止まる戦利品になりそうな金目の物は何もなかった。
禿頭のオークは不機嫌そうに肩を竦め、死人のような顔色の母親に視線を移してからもう一度舌打ちした。
「その女は死に掛けだ。動けるような躰じゃない。放って置け」
「……なら、せめて餓鬼だけでも」
戦利品を見込んで乗り込んできたものの、完全に当てが外れたオークたちは穏やかに言い合う。
「こんな餓鬼じゃ召使いや売り物にもならんだろ」
「だけど、ちょっとは見れた面してるぜ?化粧すりゃ……」
「それまで何年掛かる?」
「だけどよぉ」
未練有りげにニーナを眺めるオークを、禿頭のオークが促がした。
「それとも牝の餓鬼を殺すか?いくら人族相手でも気が進まん」
メイを蹴っ飛ばしておいて何を言うのか。そう思いつつも、痩せた少女は恐くて口に出来なかった。

「しようがねえ、兄貴も甘いなぁ」
ぼやきながらオークが外に出た瞬間、横殴りにされた鉄槌が横っ腹に突き刺さった。
衝撃にオーク戦士の息が詰まる。
崩れ落ちそうになりながらも、戸口に手を掛けて辛うじて倒れかけた体を支える。
「……てめ」
声が出ない。
苦しげに顔を歪めて短剣を引き抜きかけながらも、頭蓋に止めの一撃を喰らってオークは倒れた。
樽のような体型のドウォーフが、あばら家の中へと突っ込んでくる。
猛獣のように低い唸りを上げながら襲い掛かってきたのは、ドウォーフ族の鍛冶グルンソムであった。
憤怒の表情で禿頭のオークに鉄槌を叩きつけようとするが、横にした槍の柄に防がれる。
と、屋内の槍は不利だと瞬時に判断した禿頭のオークは、大胆にも獲物を捨てるや素早くドウォーフの腕を掴んだ。
二人はそのまま激しい揉み合いを始める。
怒り狂っている老ドウォーフのグルンソムは、しかし、此処に来るまでにオークと遭遇していたに違いない。
皮の服は数箇所も切り裂かれて血が滲み、素肌には裂傷や打撲の痕跡が痛々しく刻まれている。

 オークとドウォーフは、互いに必死に近距離で腕を掴み、顔を引っ掻き、殴り、相手を組み敷こうとする。
本来、屈強のオーク戦士であっても、筋骨隆々のドウォーフ族を相手にしては分が悪かっただろうが、しかし、疲労と消耗が老ドウォーフの活力を奪い、弱らせていた。
活力に勝る禿頭のオークが遂に老いたグルンソムの腕を捩じ上げるのに成功した。そのまま敵手の太い首に力強い指を伸ばし、締め上げる。
徐々にグルンソムは押され、苦しげな呻きがその喉から洩れてくる。

 呆然と眺めている痩せた少女の視界の先に、死んだオークが握り締めている短剣が映った。
震える手で短剣を握り締めると、

 グルンソムが震える手を伸ばして禿頭のオークの指を掴むと、ぐっと逆ねじを食わせた。
たまらずに距離を取った禿頭のオークだが、苦しげに息を吐く老ドウォーフは明らかに動きが鈍っていた。
村はオークの戦士団が制圧している。
禿頭のオークを逃がして仲間を呼ばれたら、いかなグルンソムでも一巻の終わりである。
幾ら手練のドウォーフでも、複数のオーク戦士を相手にしては一溜まりもない。
だが、それ以前に、もはや老ドウォーフには戦う力が残されていないのか。
拳を構えるグルンソムは、ぜいぜいと苦しげに喘いでおり、真っ赤な顔に吹き出した大粒の汗がぼたぼたと床へと流れ落ちている。

 禿頭のオークは拳を握り締め、間合いを詰めると、グルンソムの体に力強く拳の雨を降らせていった。
くもぐった叫びを洩らして老ドウォーフが左右に身体を揺らし、いよいよ崩れ落ちようとした時、ニーナは叫びながら禿頭のオークの背中へと体当たりした。

 叫び声を上げて硬直する禿頭のオーク。脇腹には痩せた少女の握り締めていた短剣が深々と突き刺さっている。
苦痛に仰け反ったところにドウォーフが突っ込んできた。
あばら家の土壁へと叩きつけると、一塊となったグルンソムとオークはそのまま脆い壁を突き破った。
地面へと叩きつけられ、人事不省に陥った禿頭のオークが頭を振りながら、立ち上がろうとした時、グルンソムが再び突っ込んできた。
オークを地面に突き倒し、馬乗りになったグルンソムの振り上げられた手には、何時の間にか、愛用の鉄槌が握られている。
「まっ……待て!」
制止の叫びを上げる禿頭のオークを体重を生かして上から押さえ込むと、グルンソムは無言で槌を振り下ろした。

 肉の潰れるような鈍い音が鳴り響いた。
思わず顔を背けたニーナの耳に掠れた声が聞こえてきた。
「メイ……メイよ。目を開けておくれい、メイ」
声のする方角に目をやって見れば、小屋の前で痩せた小柄なゴブリンがメイを抱きしめて何やら囁きかけている。
と、メイは弱々しく、だがしっかりと身動ぎして呻き声を上げた。
「よかった。よかったわい」
痛そうにお腹を押さえながら、メイはよろよろと立ち上がった。

「メイは……よかった」
ホッと息をついたニーナの元に激戦を制した老ドウォーフがしっかりとした足取りで歩み寄ってきた。
「お嬢さん、無事だったかな?」
無言で肯くと、老ドウォーフは大きく頭を振ってから自己紹介する。
「わしはグルンソム。そっちの小さなゴブリンはオル。二人ともメイの友人じゃよ」

 畦道の方角に一瞥をくれてから老ドウォーフが言葉を続けて言う分には、村はオークに占領されており、もはや逃げるしかないとの事だった。
「オークが村をうろついておる。もうここを離れんといかん」
避難を促がされたニーナは、しかし、明白な躊躇をみせた。
「待って……でも、かあさんを置いてはいけない」
「むう……しかしのう。お嬢さん……」
老ドウォーフのグルンソムは困った顔をして白い顎髭を撫でるが、そこに声が掛けられた。
「お願いします……その娘を連れて行ってください、ドウォーフの旦那さん。」
「……かあさん?」
呆然とニーナが見つめる先、真っ青な顔をしたノアが戸口に縋るようにして佇んでいた。
「おいで、ニーナ」
力なく地面に座り込む母親の姿に、ニーナは慌てて駆け寄った。
「む……無理をしたら駄目だよ」
微笑を浮かべて駆け寄ってきた娘をじっと見つめてから、ノアは懐から小さな布の財布と紐に結ばれた石を取り出した。
「これは御守りだよ。あたしがあたしのお母さんから。
母さんの母さんはそのまたお母さんから貰ったものだ。
これを付けていれば、コル女神さまがお前を守ってくれるからね。
あたしと思って。何時までも見守っているよ」
「……かあさ」
今生の別れのような言い方に少女は脅えたように身体を震わせた。
「それと、お財布。お金は大事に使うんだよ。身体を大事にね。長生きしてね」
言いたい言葉が次から次へと溢れてくる。
なのにニーナは喉に詰まって言葉が出てこない。感極まって涙が零れ落ちる。
「い、一緒に……」
「行けないよ。分かっているだろう?」
娘にそっと手を触れる。
真冬の冷たさにも関わらず、暖かな頬に目を細めてから、農婦は優しく微笑んだ。
「生きて。生きてね。お願いだよ。身体を大事にね」
ニーナは嫌々するように手を握り締める。
「いかない……ここに一緒にいる」

 握っていた手をそっと離す母親の無言の所作に、これが今生の別れになると感じてニーナは抱きついた。
「やだ、あたしもここにいるもん!母さん!お母さん!」
繰り返す娘の強く押し付けてきた頭を何度も撫でてから、傍らのドウォーフを見て肯いた。
「お願いしますよ。ドウォーフのだんなさん」
「母さん」
娘の抗議の叫びを無視してひょいと掲げ上げると、樽のような体型のドウォーフは、見た目に合わぬ素早い動きで歩き出した。

と、横合いの土手の上に昇っていた老ゴブリンのオルが、慌てふためきながら降りてきた。
「オークが仲間を探しに来たよ。もうここにやってくる」
「逃げ道はあるのか?オルよ」
「こっちよ!でかいオークには見つかりにくい村の外へ続く溝があるのよ!急いで!」
ゴブリンのオルを先頭にふらつきながらもゴブリンに支えられたメイ、ニーナを担いだ老ドウォーフが歩き出した。
蒼白な顔で壁に寄り掛かったノアは、力ない微笑を浮かべて、あばら小屋の裏手から遠ざかっていく四人の後ろ姿を何時までも見送っていた。



[28849] 95羽 土豪 46     2013/05/24
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:21387349
Date: 2013/06/05 00:14
「グ・ルムはここにはいない。さて……どうするか」
独り言を言うように低く掠れた声で呟いたルッゴ・ゾムを見て、配下のオーク戦士たちは顔を見合わせた。
「洞窟オーク共の話では、どうも他にも姿の見当たらん仲間たちがいるそうですぜ」
「と……なると、村の他の場所に閉じ込められているか、或いは売られたのか」
「もう少し、村を探しまわってみませんかい?」
幾人かのオークは洞窟オークを探す為に手間隙を割こうと訴えるが、残りの連中は気が進まない様子である。一人のオークが地面に唾を吐き捨てた。
「もう充分、戦利品も奪ったぜ」
「人族共の縄張りで愚図愚図しているのは気がすすまねえなぁ」
口々に考えを言う手下たちを前に、オークの大将ルッゴ・ゾムは渋面になって目を閉じていた。
オークとしては珍しい資質だが、この大将は目下の者の意見に耳を傾けることが出来る指揮官だった。しかし、この時はすでに結論を出している。
洞窟オークの大半は奪還した。すでに大目的は達している。
探索にもう一度兵を散らしてしまえば、再び結集させるにも、引き上げるにも時間が掛かる。
いわんや敵地なのだ。村の捜索にさらに時を費やせば、見つかる危険もそれだけ増す。
副官のボロが肯きながら口を挟んだ。
「これ以上留まるのは危ういぜ。そろそろ……」
「ああ、村を制圧してよりすでに一刻近く過ぎている。潮時だな」

 ルッゴ・ゾムが口にしたその時、大音声を張り上げながら二つの影が村の田舎道を一目散に駆けて来た。
「……大将!大将ぉッ!」
村人や大小のオークの列を強引にかき分け、何やら慌てふためいた様子で駆け寄ってくるのは手下のオークであった。

「何事だぁッ!」
苛立たしげにボロが怒鳴りつける傍らで、ルッゴ・ゾムは眉を微妙な角度に上げた。
駆け寄ってくるのは、頭に鉄環を嵌めたオークと中背の灰オーク。
共に、斥候を任せた腕利きの部下である。恐れを知らぬ筈のオーク戦士が、これほど焦燥を露わに駆け込んでくるとは只事ではないだろう。
「……やられた。ルッゴ・ゾム。やられました」
ルッゴ・ゾムの目の前に辿り着いた二名のオークは、汗だくであった。
「何があった?」
嫌な予感を覚えて眉を顰めた大将の問いかけに、鉄環のオークと灰オークは喘ぎ、息を切らせながら報告する。
「女が、二人組の旅人が……」
「俺たちは捕らえようと……しかし、恐ろしい使い手で」
「残りの仲間たちは……返り討ちに」
汗だくで喘ぎつつ語る二人の言葉は切れ切れで、初めは要領も得なかったが、やがて理解するとオーク戦士たちの顔が衝撃と怒りに激しく歪んだ。
米神に太い血管を浮かべたボロが唸り声を上げながら前に出た。
ルッゴ・ゾムには及ばないものの、ボロも相当な巨漢である。
歯軋りするボロの凄まじい憤怒の形相に二人のオークは脅えたように後退りした。
「たった一人の……それも女に斬られて逃げてきたってのか?」
殺気染みた眼光を放つボロに対して、弁解する二人のオーク。
「五人斬られ……シレディア人。例のモアレで暴れたシレディア人だ」
「噂通りの強さで……逃げるのがやっとだった」
ボロが無造作に両手を伸ばした。
「この腰抜け共が」
弁解する鉄環のオークと灰オークの首を太い腕で掴みあげると、そのまま宙に持ち上げる。
喉を締め上げられる二人の顔が見る見る土気色に変わっていく。とボロの腕をルッゴ・ゾムが握り締めた。
「放せ、ボロ」
「何故だ!こいつらは、精鋭の戦闘部隊に泥を塗りやがった!」
怒鳴るボロに、ルッゴ・ゾムは諭すように静かに語りかけた。
「……相手が悪い。単騎でタータズム族の兵二十を斬って捨てた剣士だ」
「はっ、聞いたこともねえ弱小氏族の雑兵を蹴散らしたところでどれほどのことがある」
口汚く罵るボロをルッゴ・ゾムはじっと見つめ、腕に力を込めながらもう一度だけ命令した。
「放してやれ。ボロ」
舌打ちして副官は、逃げてきた二人を地面へと突き飛ばした。
「お前ら、二度はねえぞ。次に腑抜けた真似をしやがったら分かってるだろうな?」
咳き込みながら、だが、鉄環のオークは挑戦的な目付きで副官を睨み付けた。
「だが……ボロ。あの女、あんたでもやばいかも知れねえぜ」
「おい。止めろ」
相棒の灰オークが止めるのも構わずに、言葉を続ける。
「……確実に勝てる奴がいるとしたら、うちの大将くらいだろうよ」
「へっ、面白いじゃねえか」
ボロは怒りはせず、寧ろ愉快そうに獰猛な笑みを浮かべており、ルッゴ・ゾムは僅かに苦い表情を見せて何やら考え込んでいる。

 仲間の売り言葉に怒りを覚えたのか、まだ見ぬ敵に敵愾心を掻き立てられたのか。
肩を揺らして愉快そうに笑っているボロを横目に、ルッゴ・ゾムはオーク戦士に命令した。
「撤収の角笛を鳴らせ」
「だがよ、大将。まだ、見つかっとらん捕虜たちが……」
渋る部下に言ってルッゴ・ゾムは聞かせる。
「仕方あるまいよ。これ以上留まっていれば此方が危険だ」
肯いた隻眼のオークは、丁度、村に響き渡る程度に加減して角笛を吹き鳴らした。
と撤収の合図を耳にして、村中に散っていたオークたちが姿を見せて空き地へと駆け寄ってくる。

 敵対する豪族や部族の村人などを捕らえた際には、連れ帰って農奴にするのは、辺境の何処でも見ることの出来る一般的な慣習であった。
しかし、あまり大勢を連れて歩けば足を引っ張る上、オークたちは略奪した戦利品も抱えている。
顎を撫でてから、ルッゴ・ゾムは低い声で告げる。
「健康そうな若い男と女だけを……そうだな。五人ずつ連れて帰るぞ」
肯いたオークたちが、並んだ村人たちを一人一人縄で数珠繋ぎに縛っていく。
「大人たちを並ばせろ……子供は向こうだ」

「ゴブリン共や老人、女子供はどうしますか、大将?」
頬に傷のあるオーク戦士が歩き廻りながら、大声で訊ねてきた。
「そうだな、残りは念入りに手足を縛って……」
「いいんですかい?生かしておいたら、知らされますぜ」
牙を剥きだした黒オークが、目に残酷そうな光を宿して村人たちを乱暴に突き飛ばしながら確認を取るが、ルッゴ・ゾムは掌をひらひらと振った。
「もう、ばれているさ」
連れ帰るには足手纏いだが、かといって殺すのはオークの大将には気が進まなかった。
武器も持たぬ女子供と相対するよりは、戦場で殺意に満ちた敵と戦う方が気が楽なルッゴ・ゾムである。
そこまで言ってから、悪戯を思いついたようににやりと笑った。
「牢屋に閉じ込めておけ。洞窟オークたちがいた、あの狭くて臭い牢屋にな」
「へっへっ」
これは人間嫌いな黒オークも気に入ったようで、楽しそうに笑いながら、村人たちの尻を蹴り上げつつ家畜を誘導するように土牢へと連行していった。


 楡の木の根元にへたり込んでいるリネルの元へ、ボロが歩み寄ってきた。
「お前は、どうやら他にも色々と知ってそうだな」
村人たちが連行される光景を目の当たりにして、口を半開きにして放心している年増女のリネルをくだらなそうに見下ろしてから、オークの副官はしゃがみ込んだ。
「ついてきてもらうぜ」
後退りするリネルを捕まえると、ひょいと肩に担ぎ上げる。

「あ……娘が、娘がいるんだよ。あたしがいなくなったら、あの娘は一人になっちまう……だからッ!」
喚きながら、じたばた足掻くリネルの尻をつるんと撫でてボロはにやりと笑った。
「へっへっ、そうかい。そうかい」
大笑いしたボロはまだ肉のついているリネルの感触を楽しみながらのしのしと歩き出し、半オークの密偵フウが溜息を吐きつつその後につき従った。


 灰色の枯れ草が疎らに散っている丘陵地帯は、荒涼とした雰囲気を漂う冬の気配に支配されていた。
ルタンの目前では二百人近い兵士達が屯している。そのほぼ全てが彼の命令に従う兵である。
投石器や鋭い石を埋め込んだ棍棒、木製の投槍を持ち、襤褸に包まれた丘の民。
革鎧や革服を着込み、思い思いに武具を磨いている傭兵たち。
厚手の布服を纏い、粗末な槍や棍棒、投石器を振り回したり、落ちつかなげに歩き廻っている農民兵。
青銅や鉄製の中剣や短剣、槍を手にし、上等な革鎧を着込んだ近在の郷士たち。
雑多な寄せ集めとは言え、二百を越える兵が集まっている光景は壮観であった。
「悪くない。癖になりそうだ」
火に当たりながら、満悦な表情を浮かべているルタンの傍らには、二人の信頼する奴隷が侍っている。

足元の土は凍っているように固く、大岩を背にして冷たい風から身を守りながら、ルタンはその報告を待っていた。
「ルタンさま……斥候たちが戻ってきました」
奴隷が指し示した先。丘陵の稜線を越えて幾つかの小柄な影が戻ってくるのが遠目に見えた。
腹心の奴隷の報告に、ルタンは皮肉な笑いを浮かべて肯いた。
斥候は、ホビット族である。クーディウスの郎党ヘイスが連れて来た斥候たちは近隣の住民ではなく、クーディウス家の伝手で借り受けた南部の豪族の手勢とのことだった。
足は遅いが視力に優れて見つかりにくいホビット族は、足音を殆ど立てないこともあって、各地の戦で優秀な斥候として重用されている。

 冷たく吹き荒ぶ冬の風のしたを走り回ってきたホビットたちは、まずはヘイスの元へと駆け寄って何やら早口に報告している。
本来であれば、直接、報告を耳に入れたいルタンだが、このホビットたちは南王国(セスティナ)訛りがいささか強い為に、ヘイスの翻訳を経ないと聞き取り辛いのだ。
ルタンが足早に近づくと、ヘイスは僅かに緊張した様子を見せながら銀髪の豪族に向き直った。
「連中を捉えたぞ。ルタン殿」
ルタンは毛皮のマントの襟を緩めながら、ホビットたちを覗き込んだ。
「間違いないかね?おちびさんたち?」
からかうような口調にホビットたちが抗議の叫びを上げると、遮るようにヘイスが割って入った。
「うむ、数はおよそ六十。うち二十はオーク小人だそうだ。ゴート河の岸から真っ直ぐ北に向かってきておる」
膨れっ面をするホビットたちだが口を挟んだ。
「此方へ向けてゆっくりと進んできまっす。間違いなくオークっす」
「今は双子岩のところを通りかかっていました。隊伍はしっかり固まっていますが、足は遅いです」
脳裏に地図を描いたルタンは、指を鳴らして肯いた。
「狙い通りだな。双子岩……となると、おおよそ半刻で此処までやって来るぞ」
鋭い目でルタンに肯いたヘイスは、如何にも歴戦の強者と言った風情で頼りになりそうだった。
「ご苦労だった。おちびさんたち。向こうの火に山羊の肉と乳酪が取ってある。エールもあるぞ。休んでくるといい」
富裕な豪族であるルタンが気前のいいところを見せると、たっぷりの食べ物に機嫌を直したホビットたちは口々に感謝の言葉を口にして火の傍へと駆けていった。

 兵たちに戦闘準備を整えさせながら、ルタンとヘイスが戦の手筈について詰めていると、ホビットの一人が言い忘れた事があると慌てて駆け戻ってきた。
「村人が幾人か捕まっている様子っす、縄を掛けられていたっすよ」
銀髪の豪族は狼狽することもなく、微かに片方の眉を上げた。
「ふむ、人狩りか」
丘陵の連なる彼方へと視線を走らせて、ヘイスが頭を振った。
「戦に巻き込まれるとしたら、哀れなことだな」
「だが、我らがオークたちを打ち倒せば救い出せるものもいよう」

「さて、手筈はどうする?ルタン殿」
ヘイスが改めて訊ねると、ルタンは咳払いをする。
「連中は予想通り、こちらに向かってきている。
まずはかねての手筈通りに丘の民と傭兵たちをぶつけよう」
前衛は傭兵たちに任せ、捨て駒で消耗させてから本隊で決戦を挑む方策であった。
戦術を耳にしたクーディウスの郎党ヘイスは、起伏の激しい丘陵の谷間をじっと見下ろした。
身体を屈めて、数刻前にオークが通り抜けた例の場所を見つめている。
「……連中、このままなら丘陵のそこの狭間を通るだろうな」
奴隷を引き連れた銀髪の豪族ルタンも、ヘイスが見つめている両側の勾配が険しい抜け道に視線を転じた。
「うむ?何か考えがあるのか?」

「こちらは二百だ。挟み撃ちは出来んかな?」
地勢を展望しながらルタンはヘイスの言葉に耳を傾けている。
「この一帯は何処もそうだが、伏兵をおくには絶好の地形だろう」
「ふむ、いい手かも知れんな」
ルタンは、計画変更に賛意を示した。新しい指示を出して兵団を二つに分ける。
「よし。では、ヘイス殿は傭兵たちを率いてくれ。此方の前衛は丘の民に任せよう」
手筈が決まり、戦闘準備を整えているうち、いよいよオークの隊列が近づいてくるとの報告が斥候の二番手からもたらされた。
「オークたちも斥候は出していますが、それほど動き回っていません」
「ふん、行きに通った路だからか。油断しているな」
オークとの決戦までおよそ四半刻を切っている。嘲笑を浮かべたルタンは、戦を前に味方の士気を上げようと、農民や丘の民に集るよう命じた。

 集った兵士たちを前に、大岩に乗ったルタンは一堂を見回してから、張りのある声で語りかける。
「聞け!者共!辺境王がお前たちに褒賞を確約してくださったぞ!」
見上げてくる一団を前に身振り手振りを交えつつ、危険な笑みを浮かべて兵士たちの欲望を煽る言葉を放った。
「オークの首を取ったものには、クーディウス殿がひとつ当たりフェレ銅貨10枚下さるとのお達しだ!オーク小人にも銅貨三枚。手柄を立てよ!」
激励というよりは扇動の類の内容であったが、効果は確かに在った。
「おお!」
武装農民や丘の民、傭兵たち。中でも特に貧しい者たちが興奮したようにざわつき、顔を見合わせていた。
フェレ銅貨は、辺境最大の都市ティレーで作られた打刻貨幣である。
海を隔てた南方の商業都市鋳造の大振りなレムス銅貨や、南王国謹製の優美なタレー銅貨に比べれば、流通している範囲も狭くて粗雑な作りではあるものの、辺境では相当の価値を保っている。
十フェレあれば子豚や数羽の雌鶏なども買えるし、三ヶ月程度を食いつなぐ事も出来る。
辺境の民にとっては確かに魅力的な褒賞であるから、貧しい者の心情をよく理解していると言えるだろう。
クーディウスからそれなりの資金を融通されていたルタンだが、使い道はここぞとばかりに大盤振る舞いを約束する。
「だが、こちらの人数は二百。敵は僅か五十!四人に一人にしか、栄達は手に入れられん。
早い者勝ちだ。金が欲しくば励めよ!者共!」
勝利は確実さと兵士たちを安心させながら、同時に欲望を呷るように演説を進めるルタンには、ヘイスも思わず感心する。
丘の民や傭兵、武装農民の欲望を煽ろうとした銀髪の豪族の試みは上手くいったようだった。
兵士たちの瞳には貪欲な欲望の炎が燃え上がり、当初の戸惑いのざわめきはすぐに大きな賛同の呟きとなって兵団に広がっていった。




[28849] 96羽 死闘 01     2013/05/25
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:21387349
Date: 2013/06/05 00:07
 辺境(メレヴ)において農民たちやオークなどから『丘の民』と呼ばれる一党は、確かに丘陵地帯を根城にして小さな集団を構成しているものの、他の土地で見られるような昔から丘陵に暮らしていた原住民などとは些か毛色の違う存在である。
彼らの正確な起源は不明だが、恐らくは社会から爪弾きにされた者たちが肩を寄せ合って寄せ集めの共同体を形作った、いわゆる『無法の民』のなれの果てであろうと言われていた。

 こうした『無法の民』の共同体や集団は、ヴェルニア各地の人里離れた辺鄙な土地に点在している。
元は町や村などで慣習法(コモンロー)を破ったが為、属する共同体から追放処分を受けた放浪者であったり、殺人など重い罪を犯したために追われる罪人や主人の酷使に耐えかねた逃亡奴隷、或いは敗残兵など様々な境遇の者の集まりであり、故郷に戻る事も出来ない彼らに唯一つ共通するのは、法と社会の埒外に存在する『無法者』(アウトロー)であるということだけである。

 王侯や豪族のような如何な権力の統治下にもなく、誰の支配も受けない彼らは、同時に何者からも保護を受けることが出来ないまつろわぬ民であった。
主に貧しさから盗みを行なう彼らは、それ故、良民から蛮族とも賊徒とも付かない化外の民の一種と見做されて、侮蔑と嫌悪の対象となっている。
長い漂白の果てに丘陵に辿り着き、水に乏しく土の痩せたこの土地にへばりつくようにして暮らしている『丘の民』を、豪族の領民も、オークたちも侮りと蔑みの目で見ている。

「本当にやるのかい?とっつぁんよ」
からからに乾いた喉を緊張に鳴らしながら垢染みた襤褸布を纏う男が、やはり灰色の襤褸布を羽織った鶏がらのように痩せている老人に語りかけた。
「ルタンからの手付けは必要だ」
言葉を返した老人の声は意外と張りがあった。辛苦に満ちた丘陵の生活が、実年齢以上に老人の外見を老け込ませたのかも知れない。
「だがよ……相手はあのルッゴ・ゾムだぜ」
なおも躊躇うように地面に腰を降ろしている男が、隣に坐る老人に囁き続ける。
ホビットの斥候に聞けば、オークの頭目は戦斧を手にした一際、巨躯を誇る戦士との話である。
近隣で思い当たる相手は一人しかいない。
ルッゴ・ゾムの武勇伝は、社会から孤立し、噂話には疎いはずの丘の民の耳にさえ届いていた。
曰く、たった二人で盗賊団を蹴散らした。豪族の大軍に囲まれた砦を寡兵で支えた。
他所のオークが攻めてきた際、剛勇で知られた寄せ手の大将を一撃で斬って捨てた。
岩の肉体に炎の魂を持つ勇士などと伝え聞けば、襲うのに恐怖と躊躇を覚えるのも無理はなかった。
「……なぁ、使っちまったわけじゃないだろ、返してばっくれちまおう」
聞かれるのを恐れるように左右を見回しながら、小声で囁くように男は言葉を続ける。
「俺たちは捨て駒だぜ。どう見てもよ」
オークの勇者ルッゴ・ゾムを相手に先陣を切らされると聞き、若い男が怖気づいているのが一目瞭然だったが老人は咎めようとは思わなかった。
オークの戦闘集団と事を構えれば、ただでは済まないだろう。報復を受ける恐れもある。
戦で組したからといって豪族が守ってくれる保証がある訳でもない。
男の怖気を奮う理由も充分に理解しながらも、しかし、老人にも引けない理由が在った。
「……餓鬼共を食わせなきゃならねえ。やるしかあるめえよ」
それを言われてしまえば、男も黙るしかない。
例年の不作でただでさえ収穫の乏しい丘陵では、食糧の備蓄が底を付いてしまった。
元々、人が棲み易い土地ではない。後は他所から盗むか、奪うか、出稼ぎで稼いでくるか。いずれにしてもある所から持ってくるしかない。
「……せめてグガンダが後ろに回されなければよ」
丘の民で最強の戦士である丘の巨人の名を呟いて首を振るう。
渋面を作った男が忌々しげな視線を向けた先では、巨人グガンダは雇い主である豪族ルタンの近くで郎党や傭兵など本陣を守る集団に加わっていた。
「畜生、ルタンの野郎。てめえは安全な場所にいる癖にまだ不安なのかよ」
毒づきながら、男が粗末な鋳鉄の刃に黒い液体を塗りつけた時、後方で灰色の戦旗が大きく振られた。
いよいよ敵が近づいてきたのだ。伝令のホビットたちが各隊の間を盛んに走り回り、兵達は誰もが口を閉じてじっとその時を待ち構える。
一帯にしんと静寂が広がり、時折、誰かのしわぶきや足踏みの音などが聞こえてくる。
静かだった。風の音が奇妙に大きく耳に残った。
男ももう不満は洩らさず、ただ合図だけを待ちながら身を伏せ続けていた。


 暗雲立ち込める冬の空の下、連なる丘陵と丘陵の隙間を縫うようにしてオークたちの隊列がゆっくりと進んでいた。
村一つの素早い占領と略奪に満足しているのか、戦利品の青銅の耳飾や蜻蛉玉の首飾りを自慢げに仲間に見せるもの、肉の塊を担いで機嫌良さそうに鼻歌を歌うもの、村人の若い女に物欲しげな目を向けているものなど様々であった。
暗い土牢から久々に解放された洞窟オーク達も、遅れがちであったが顔色は明るかった。
オークたちが油断していると責めるのは酷であっただろう。
どうやら手強い敵に遭遇した気の毒な見張りを除けば、村を攻め落す際にさしたる犠牲も出なかった。
手負いが数名。後はドウォーフにやられたらしいオークが三名で、戦利品は悪くない量があったし、洞窟オーク達も見事救い出せた。
誰しも家への帰還は安心するし、戦の勝利は喜ばしいものだ。
砦に近づくにつれて彼らが安堵を覚えるのは無理もなかったし、一方で大小の丘陵が連なるこの一帯で敵と遭遇する事など、およそ考えられる事態ではなかったのだ。

 浮かれたオークたちの間には弛緩した空気が流れ、隊伍にも乱れが見えていたが、指揮官も敢えて咎めはしなかった。
大将のルッゴ・ゾムにしてからも、戦は終わったものと思い込んでいた。
異変を感じ取ったのは、ルッゴ・ゾムの傍らにいたボロだけだった。
とは言え、明確に敵襲を察知した訳でもない。ただ、胸のうちで何かが騒いだだけだ。
オークの副官は唐突に足を止めると、匂いを嗅ぐようにすんすんと鼻を鳴らした。
それから、空気の匂いが気に入らないとでも言うように胡散臭げに顔を顰める。
「ルッゴ!おい、ルッゴ!」
副官の急な呼びかけにオークの大将が振り返った。
「どうした?」
「どうも妙だ。匂うぞ」
百戦錬磨の戦士であるボロは鼻が効く。特にこうした局面の嫌な予感は不思議と当たると、ルッゴ・ゾムは経験からよく知っていた。
急速に口元に険しさを増しながら、腹心のオークに訊ねる。
「……敵か?」
連なる丘陵の稜線や聳え立つ頂きに視線を走らせながら、ボロは頭を振った。
「分からん」
「斥候からは何も報告はないが……」
いまだ呑気に世間話に興じながら歩いているオーク戦士たちを見回してから、不審そうにルッゴ・ゾムは呟いた。
一行は、すでにオーク族の領域にかなり近い土地にまで足を踏み入れていた。
仮に豪族の哨戒部隊が丘陵を彷徨っているとしても、これほどの規模のオークの戦闘集団を目にして尚も襲撃してくるとも思えなかった。
幾度か放った斥候も、丘陵の麓の隘路を何事もなく抜けて、そのまま戻ってきている。
念の為に斥候を呼んで、異常はなかったか訊ねてみることにする。
「異常はないぜ。大将」
仕事ぶりを疑われたからか。
斥候を任されていた黒オークは、面白くなさそうな顔で断言した。
ルッゴ・ゾムは一瞬、考え込んでから断を下した。
「隊伍が乱れているな。一端、隊列を整えるとしよう」
近づいたとは言え、未だオーク族の領域に入った訳ではない。
少し不満げな斥候頭の黒オークを見て、ルッゴ・ゾムは笑いかけた。
「なに、念の為だ。お前が見落としたとは思わんが、用心するに越したことはあるまい」
「何もないと思いますがねぇ」
ボロを眺めての、黒オークの嫌味っぽい口調にも闊達に笑う。
「ならば、それに越したことはないな」

「全員、足を止めてそのまま聞け!」
ルッゴ・ゾムが大音声を張り上げた。
「隊列を整える。ベグー、カ・ザヴ、デ・グールは、左手につけ!ギ・ゴールは右手だ」
盾を持っているうちでも腕利きの戦士たちを左右両側に配置し、洞窟オークたちを真ん中に保護する。
「……奇襲に備えた隊列だな」
足を止めたオークたちの雰囲気が、大将の指示を受けて急速に変わっていく。
「前衛はボロの指示に従え。俺は右手につく!」
警戒するように左右に視線を配りながら、オークの集団は丘陵と丘陵の狭間にある隘路へと足を踏み入れていった。


 丘陵の稜線に身を潜めて、近づいてくる敵勢の様子を窺っていたヘイスが低く呟いた。
「隊列を変えたな……オーク共め、こちらに勘付いたか?」
ヘイスの傭兵時代の旧友であるギースが、傍らに身を伏せながら頭を振った。
「いや、気づいたなら、立ち止まって別の道を行く筈だ」
眼下のオークたちは、警戒した動きは見せているものの気づいた様子はなかった。
「連中はのこのこ罠に飛び込んでくる。用心深いが罠には気づいていないな」
にやりと笑ってギースは囁いた。
「仕掛けるなら今だぞ。ヘイス」
「……もう少しだ。もう少し待て」
傭兵の一人がオークたちの動きを見て、詰まらなそうに鼻を鳴らした。
「しかし、連中。ちょっと手強いかも知れませんね」
二十余の傭兵とほぼ同数の武装農民がヘイスに与えられた手持ちの兵力だった。
一見して分かる。眼下を進むオーク族戦闘集団の練度と武装はかなりのもので、ヘイスたちだけでは返り討ちにあうかも知れない。
「よし、連中が予定の位置を通り過ぎた」
ヘイスが言って突撃の合図を出そうとした時、オークの集団を挟んで向かい側の丘陵の稜線に何十という黒い影が立ち上がった。
「おおおっ!」
「オーク共を殺せ!」
棍棒や石を振り回し、口々に叫びながら、丘の民がオークの隊列目掛けて勾配を駆け下りていく。

「手筈と違うぜ」
ぼやくように言うギースに、せせら笑いを浮かべてヘイスは返した。
「どうやら、連中。堪え切れなかったようだな」
武者震いをするヘイス。久しぶりの戦に血潮が騒いでいた。
「まあ、いい。こちらも仕掛けるぞ」
「おう」
ギースが立ち上がり、腕を振り下ろすと、身を伏せていた傭兵たちが一斉に立ち上がった。
「突撃だ!野郎共!行くぞ!」
その出自も出身もばらばらな、雑多な種族の傭兵たちが雄叫びを上げながら、オーク目掛けて突撃すると、武装農民の一団も少し遅れて丘陵を駆け下りていった。


 薄汚れた襤褸を纏った男女の一団が粗末な武器を振りかざし、金切り声を上げてオークの一団へと突っ込んでくる。
「襲撃だ!右手!」
オークたちは素早く反応し、武器を引き抜いて待ち受ける。
「丘の民か」
ルッゴ・ゾムも巨大な戦斧を構えながら、敵を目にして不審げに呟いた。

「奴ら、気でも違ったのか?」
「俺たち、オークの精鋭と真正面から戦うつもりかよ、へっ」
「ふざけやがって。汚らしい『無法の民』(アウト・ロー)の分際でよ」
一人のオークが憤ったように食い縛った歯の間から低い唸りを洩らした。
残りのオーク戦士たちも賛同の呟きを洩らして、歯をかちかちと鳴らしている。
真っ当な部族に属している者からすれば、部族からの追放者というのは大抵が軽蔑の対象であり、さらにオーク族からすれば『丘の民』というのは、ゴブリンやどぶドウォーフと同程度のこそ泥の集まりで、真っ当なオーク戦士が戦う相手ではけしてなかった。
オークは自惚れが強く、自尊心や虚栄心の激しい種族である。
それ故に真正面から『丘の民』如きが挑んできたというだけで、彼らを侮っている多くのオークたちが怒りに駆られ、頭に血を昇らせて些か冷静さを失っていた。
「舐めてやがる。ぶっ殺してやる」
オークたちが口々に叫びを上げて走り出そうとしたところで、ルッゴ・ゾムが凄まじい怒声を放った。
「落ち着け!隊列を崩すなぁッ!」

「敵は四十ほどだ!待ち構えて、一気に揉み潰せ!」
敵は少数だと一瞬で看過したルッゴ・ゾムは、陣形を整えさせながらも、しかし、少々合点がいかなかった。
数で勝り、装備も優れているオーク戦士団なら問題なく一蹴できる相手だと見て取り、しかし、それ故に違和感を覚える。
「妙だな」
丘の民がやることといえば、精々がけちな畑荒しや家畜泥棒が精一杯のはずだ。
けちなこそ泥、鼠賊の類というのがオーク族の『丘の民』への認識であって、人数も少なく、武具も粗末な彼らは、か弱い女を浚い、少人数の農民や旅人相手の強盗をすることはあっても、村や農園を襲うような大それた真似は出来ようはずもなかった。
ましてオーク族の戦闘集団に真正面から挑んでくるなど、正気の沙汰ではない。

 がりがりに痩せ細り、眼ばかりをギラギラと鋭く光らせている丘の民の姿を見つめながら、ルッゴ・ゾムは太い首を傾げた。
丘の民が不作に苦しんでいるとは知っていた。食べ物でも奪うつもりか?
だが、武装したオークの一団に襲いかかってくるとは、自殺行為だ。
普通なら到底、考えられることではない。自暴自棄にでもなったか。

 なにかが妙だ。ルッゴ・ゾムは胸のうちにもやもやとした違和感を覚えていた。
性質の悪い詐術に引っ掛かっているような、そんな気味の悪さだった。
『丘の民』も馬鹿ではない。連中の盗みは、大抵が生きる為のものだ。
普段は臆病に振舞っているが、それは力の差を認識しているからである。
臆病者ならば、尚更に勝ち目のない戦を嫌う筈であった。

 何故、粗末な武具しか持たない丘の民が、真正面から強力な武装集団に襲撃を仕掛けてくる。
何か罠が在るのではないか?それとも俺の考えすぎか?
不審に思いつつも、ルッゴ・ゾムは矢継ぎ早に指示を出す。
「盾を持つ者は前に出ろ!洞窟オークたちを後ろに下げ……」
「大将!後ろからもだ!」
忌々しげな部下の叫び声に、素早く背後を振り向いたルッゴ・ゾムは息を飲んだ。
土煙を上げながら丘陵の勾配を駆け下りてくるのは、雑多だがかなり武装の整っている一団。
傭兵だろうか。二、三十人はいる。
いや、その後ろからも、やや遅れてさらに二十ほど雑兵たちが姿を見せていた。
「挟撃か!」
歯軋りしながらボロが叫んだ。
「伏兵を仕掛けられたか。本命は向こう。丘の民は囮か」
淡々と呟いてから、ルッゴ・ゾムは敢えて馬鹿にしたように鼻で笑った。
紛うことなき窮地であった。
後背の敵勢だけで、五十近い人数だ。
武具も整っており、動きを見れば相当に手強いことも見て取れる。
洞窟オークたちなどは、ざわめきながら不安に縮こまっている。
「人族の豪族か。丘の民を手懐けたという事か?」
言いながら、奇妙な違和感が付き纏う。どうにも正体が分からない。
心中では戸惑いながら、しかし、こうなっては死力を尽くして戦うのみだと心定めて、ルッゴ・ゾムは部下たちの前で堂々と振舞う。
「罠に嵌ったぞ!ルッゴ!どうする!」
背中でボロが叫んでいた。ルッゴ・ゾムも兵に聞こえるように大恩情を張り上げた。
「食い破る!後背の兵団を抑えろ!俺は前面の丘の民を迎え撃つ!」
「おう!」
装備の優れた敵を受け持たせるのことになるが、陣形を崩して配置を替える時間はない。
こうなれば眼前の丘の民を手早く片付けて、後背の傭兵と戦うボロたちの救援に向かうしかない。
雄叫びを上げて突っ込んできた丘の民の槍を受けなしてから、ルッゴ・ゾムは咆哮と共に戦斧を振り下ろした。

 例え片方が粗末な武器しか持たぬ丘の民であり、片方が武装農民と傭兵の寄せ集めであっても、ほぼ同数の敵に同時に左右から挟撃されるというは、大変な圧力である。
流石に精鋭のオーク戦士団といえども、苦しい戦いを強いられる事となった。

 当初、ルッゴ・ゾムは前面の丘の民を手早く蹴散らしてから、後背で傭兵団を相手に戦うボロたちの救援に向かう予定であった。
先鋒の四、五人も血祭りに上げれば、元々臆病な丘の民である。
直ぐに逃げだすだろう。
そう考えて戦斧を振るうが、しかし、オークの勇士の予想に反して、丘の民は凄まじい勢いで襲い掛かってきていた。
後がない窮状と大金への欲望が切羽詰まった丘の民の闘争心に油を注ぎ、死に物狂いの勢いを与えていたのだ。

「ルッゴ・ゾムだ!首を取れ!」
丘の民の頭目らしき老人が叫びを上げて、巨躯のオークを指し示すと、金切り声を上げて丘の民の女が黒曜石の槍で突っかかってきた。
黒曜石とは言え、鋭い穂先は侮れない。まともに当たれば、皮鎧くらい簡単に貫通するのだ。
ルッゴ・ゾムは迫る槍の穂先を斧の柄で跳ね上げる。と、そのまま敵の懐にすっと飛び込むと拳で顎を打ち抜き、失神させた。
女に暴力を振るって嫌な気分になりながらも、横合いから青銅の手斧を振りかざして突っ込んできた人族の男に戦斧を叩きつけて胸を切り裂く。
悲鳴を上げて崩れ落ちる男を途中で掴んで、さらに突っ込んでくる新手に対して突き飛ばすと、視線を遮った刹那に、地を這うように踏み込んで間合いを詰める。
「こ、こいつ!」
驚愕した三人目の敵は、皮肉にも同じオーク族。
短剣の横薙ぎをいなし、同族の顔面に包帯を幾重にも巻いた拳を叩きつける。
頬桁を砕かれた半オークが黄色い歯を撒き散らしながら吹っ飛んで地面でのた打ち回るが、ルッゴ・ゾムは舞うように巨体を反転させながら、背中から斧で切りかかってきた敵の刃に巧みに戦斧を絡め、膂力に任せて敵の武器を空へと跳ね上げた。
武具を失った四人目の敵の顎を殴りつけて砕くと、悲鳴を上げて崩れ落ちるよりも早く新しい敵へと向かった。

 ルッゴ・ゾムは丘の民に止めを刺すことに拘泥はしていない。
どうせ小金で雇われているだけの丘の民だ。
戦闘力を奪い、怖気をふるって逃げてくれればそれでいい。
どぶドウォーフと人族が左右から二人同時に切りかかってくるのを素早く後退して躱すと、姿勢が泳いだ所を踏み込んで一気に薙ぎ払い、二人を一度に切り倒した。

 七人目の敵である痩せた亜人が横合いから不意を突くように槍を突き出してきたが、身を捻りながら躱すと亜人の槍を肘で払いながら、大地を踏んで亜人に一気に詰め寄った。

密着するほどの距離。完全に槍の間合いを封じられて驚愕に顔を凍りつかせる亜人。
恐慌に落ちった亜人は支離滅裂な叫びを上げて槍を振り回そうとするが、
その首に太い腕を絡め、一気に体重を移動させて投げ飛ばす。
地面に叩きつけられた痩せた亜人が息の詰まったところの胸板を踵で踏み抜いた。
肋骨の砕けるいやな感触が足に伝わる。
ルッゴ・ゾムが僅かに気を抜いた瞬間、風斬り音が背後から襲ってきた。
慌てて身体を捻るが間に合わず、脇腹に衝撃が走った。
金属の環を縫いつけた革鎧と厚手の布服は、幾らか衝撃を和らげてくれたが、さしものルッゴ・ゾムも、棍棒の一撃は効いた。
肉が潰れ、骨の軋む苦痛にうめきながらも、斜め前に跳んで新手との距離を取って向き直る。
八人目の敵はかなりがっしりしたまだ若いホブゴブリンだった。涎を垂らし、棍棒を振りかざしながら猛烈な勢いで突っ込んでくる。
苦痛から立ち直りきれぬルッゴ・ゾムだったが、さらに横顔に棍棒の打撃を喰らってしまう。
だが、常人なら一撃で昏倒するほどの打撃を受けながらも、巨躯のオークは崩れ落ちる事もなく、三度、踊りかかってきたホブゴブリンの一撃を戦斧の柄で受け止め、身体を捻るようにして敵の体勢を泳がせてから、拳を低い鼻に叩き込んだ。

 ホブゴブリンが鼻血を吹き出して怯んだ隙に戦斧で連続した斬撃を繰り出し、敵が小刻みな攻撃に巨大な棍棒で対応しきれなくなった瞬間、踏み込んで二の腕を強かに切り裂いた。
絶叫した強敵の頭蓋に柄を叩き込んで打ち倒してから、息を荒げつつルッゴ・ゾムは味方の多い場所へと一端、下がってみる。
余裕の出来た状況で改めて周囲を見回してみれば、二倍の敵に不意打ちを受け、挟撃されている割に、今のところオークの戦士たちはよく戦っていた。
左右両面から強い圧力を受け、苦しい戦いを強いられながらも崩れる様子を見せず、よく統制を保って戦列を維持している。
互いを庇い合える位置に纏っているからか、一人で複数の敵を相手取る破目に陥っている者も殆どいなかった。
一瞬だけ視線を走らせれば、後背のボロは棍棒を振り回して複数人の敵兵相手に奮戦している。
「乱戦状態に陥っていたら、危ういところだったろうが……」
勝ち目が増してきた。血の混じった唾を吐き捨てると、ルッゴ・ゾムは新たな敵を求めて再び丘の民へと向かっていった。


「だらしない連中だ」
オーク勢を挟んで反対側にいる丘の民の戦いぶりを目にした時、ヘイスは呆れたような口調で溜息を洩らした。
たった一人に崩されている。
不甲斐ないと思いつつよくよく見てみれば、オグル鬼よりもでかいオークがいた。
一見すると何かの冗談か、目の錯覚かと思うくらいにでかい。
オグルか、トロルの眷族とでも言われた方が信用できそうだ。
だが、顔つきは確かにオークのものである。
そいつが並みの戦士であれば両手で扱うような厚刃の戦斧を片手で軽々と振り回し、縦横無尽に暴れまわっている。
或いは、あの恐るべき種族ハイオークの一人だとしても不思議ではないと思えた。

そのオークは大きく、そして強かった。
「拙いな。あいつは強いぞ」
ギースが食い縛った歯の間から罵り声を洩らしつつ評したように、巨躯のオークは単純な身体の大きさや膂力の強さもさることながら、ただならぬ技量の主であった。
膂力の強さに目を奪われがちだが、一体、どれ程の死線を潜り抜ければ身につくのか。
巨漢のオークは、相手の動きを見切り、最小限の動きで間合いを詰めて次々と倒していく。
いくら一山いくらの雑兵相手とは言え、ふざけるにも程があるとヘイスは思う。
敵の動きを先読みして、あっさりと打ち倒すその様は、いっそ見事だと評したくなるほどであった。
「あれほどの体格と膂力に加えて、戦い慣れているか。厄介な奴がいやがる」
忌々しげなギースの言葉に、ヘイスは冷静な態度を保って肯いた。
「確かに……図体だけのうすのろではないようだ」
正直言えば、ヘイスもあのオークと正面からやりあうのは御免蒙りたかった。
まともにやり合えば、討ち取るまでにどれほどの犠牲が出るか分からない。
とはいえ、幾ら卓越した技量を誇る勇士であろうと、戦場であっさりと討ち取れる例も多い。
槍衾か飛び道具。ヘイスの脳裏にそんな言葉が思い浮かんだものの、多対多の乱戦の中で一人の敵に的を絞って集めた兵を叩きつけるのは、予め準備でもしてない限りは至難の業だった。
丘の民の士気が崩れかけていると素早く見て取るも、ヘイスにも救援を送るだけの余裕はなかった。

そもそも眼前で干戈を交えているオーク族の戦列さえ、中々に切り崩せないでいるのだ。
「こいつらも手強いな」
ギースが振るった中剣に脇腹から出血しながらも、目の前ではオークが怯んだ様子もみせずに、粘り強く戦い続けていた。
このオークたちは一人一人が粘り強く戦う。不利な状況にも関わらず、浮き足立たった様子も見せない。
厄介な勇敵は、他にもいる。
戦斧のオークほどではないにしろ、オグルと見紛わんばかりの巨躯を誇るオークが棍棒を振り回して、当たるを幸いに薙ぎ払おうと暴れている。
「槍持ちが三人一組で対応しろ!」
ヘイスの指示に、巧みに距離を取った傭兵たちが三人掛かりで連携し、やっと互角の鍔迫り合いに持ち込んだ。
ヘイスの手勢とオークたちと、いまだどちらにも死者は出ていない。
一気に攻めようと号令を下しても、命大事の傭兵たちは命令に従わないだろう。
互いの神経と持久力を削りあうように刃を奮い、大小の盾をぶつけ合っている。
じりじりと消耗しながらの持久力の勝負だ。
「これは拙いかも知んねえな」
剣を奮いながらぼやくようなギースの呟きに、ヘイスは額の汗を拭いながら応えた。
「いや。ルタンなら、そろそろ何か手を打つはずだ」

 銀髪の豪族の演説に欲望を煽られ、狂熱に駆られてオークの戦列に襲い掛かった丘の民であるが、しかし、ルッゴ・ゾムたった一人に十人近くを倒された挙句、戦意を冷やされて早くも逃げ腰になっていた。 岩に登って戦場に目を凝らしていた奴隷が、嘲るような口調で主人に報告する。
「丘の連中が圧されているようです。どうしますか、旦那」
「オーク共、やるではないか」
味方の窮地にも拘らず、ルタンは寧ろ感心したかのように呟いた。
冷たい風に毛皮のマントの襟元を締めてから、呆れたように嘆息する。
「にしても、ヘイスも案外だらしないな。あれだけの数がいて押し切れぬか」
「クーディウス殿の郎党とは言え、我らほどにはオークとやりあう経験は積んでおらぬようのだろう」
重々しい声で口を挟んだのは、やや痩せてはいるもの矍鑠としている白髪の老人である。
オークと接する土地で長年、小競り合いを繰り返してきた地元の住民。郷士たちの代表格を勤める古老であり、その言葉はそれなりの説得力を伴っていた。
「此の侭ヘイス殿が押し切れぬようであれば、わしらの出番かな」
古老の言葉に肯きつつ、ルタンは不意に笑い声を上げた。
「よし、新手を出すとするか」
「いや、まだだ。カルーン殿は、もう少し待機していてくれ」
革鎧を纏った顔に傷のある老人に首を振ってから、ルタンは腹心の奴隷を呼び寄せる。
「増援を出す。傭兵たちを投入しろ」
肯いて走っていく奴隷とのやり取りを横目にしながら、老郷士は口元を曲げて抗議する。
「おい、わしらの獲物がなくなっちまうぞ。ルタン殿」
「貴殿らの出番は最後の詰めだ。それまで身体を暖めておいてくれ」
ルタンも、交友ある地元の郷士たちとその兵は出来る限り温存するつもりであった。

 もう幾人めとも知れない丘の民を打ち倒して、ルッゴ・ゾムは戦場へと視線を走らせた。
味方は丘の民相手に優勢に戦を進めている。
すでに丘の民は過半が打ち倒され、敵の姿も半減している。
少なからぬ屍が転がり、生きている者も立ち上がれずに苦痛の呻き声を上げていた。
殲滅も時間の問題だろう。
何しろ丘の民は、革服や冑といったまともな防具は勿論、厚手の服すら事欠いている有様だ。
オークの戦士団とまともに戦えば、こうなるのは目に見えていたにも拘らず、なぜ襲ってきたのか。
視線を転じてみれば、ボロたちもかなり激しく遣り合っているようだが、まだ数に勝る敵に対して危なげなく持ち堪えていた。

 少なからぬ死人、手負いを出しながら、だが丘の民はなおも退く気配を見せない。
目の前にいた丘の民を打ち倒してから、ルッゴ・ゾムは不快そうに顔を歪めた。
「聞けい!丘の民よ!もはやお前たちに勝ち目はない!」
ルッゴ・ゾムの宣告に襲撃者たちは怯んだように立ち止まり、顔を見合わせる丘の民の襲撃者たち。
「どうする?」
「……勝ち目はねえよ」
「だけど、このままじゃ金が手にはいらねえぞ」
丘の民もオーク達も、ルッゴ・ゾムに注目している。
ざわめき、動揺している襲撃者は明らかに迷っていた。普通であれば、もう敵には成り得まい。
「命を粗末にするな!まだ息のある仲間を連れて、すぐに立ち去れい!」
ルッゴ・ゾムが駄目押しで再度、宣告した時だ。突然に大きな鬨の声が起こった。
同時に、丘陵の稜線から姿を現した三十ほどの人影が、勢いよく駆け下りてくる光景が目に映る。
「……新手か」
ルッゴ・ゾムの見たところ、勢いよく駆けて来る新手の兵団は中々の武具を纏っていた。
革鎧や革服、最低でも厚手の布服。盾を持っている者や長柄の槍、先端には長剣を掲げている者もいた。
武具の質からして、まず農民兵ではない。
新鮮な活力に満ちた三十名の兵が寄せ手に加われば、消耗しているオークたちは一気に不利になる。
どうやら自分たちは、見事に罠に嵌ったのだとルッゴ・ゾムも悟らざるを得ない。
「……本命は新手の兵団。丘の民は端から俺たちを消耗させるための捨て駒か」
この一連の絵図面を描いているのは、相当に狡猾で嫌らしい奴に違いないだろう。
「くそったれめ」
この時、吐き捨てながらルッゴ・ゾムは死を覚悟した。




[28849] 97羽 死闘 02     2013/06/03
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:21387349
Date: 2013/07/10 02:22
 冬の風が冷たく吹き荒ぶ丘陵の狭間で、追い詰められたオークたちはいまや死に物狂いで戦っていた。
人質を抑えていたオーク戦士は勿論、解放されたばかりの洞窟オークたちも戦闘に参加し始めていたが、しかし、左右からの挟撃という劣勢を覆しえるには届かない。

 捕らわれの村人たちには、地べたに蹲っている者もいれば、機を見ていち早く逃げ出した者もいた。オークたちにも、もはや彼らに構っている余裕はない。
殺戮の巷と化した戦場にありながら、半オークの密偵フウは残った村人に紛れ込むことで、いち早く安全な場所を確保していた。
密偵は、顔を出してそっと戦場の様子を窺ってみる。
狭隘な丘陵の狭間。身動きならない峠道で伏兵に襲われた上、敵のほうが数も多い。
さらに言えば、丘陵の頂きから豪族の斥候が鵜の目鷹の目でこちらを見下ろしている。
離脱して、取り敢えずは近くの窪みにでも身を潜めようかと考えるも、逃げ出す先も隠れる場所も見つかりそうになかった。
「こりゃ、ルッゴ・ゾムもやばいかね」
声に出さずに口のなかでもごもごと呟いてから、フウは傍らで背を丸めて縮こまっているリネルに目をやる。
「何処の軍かわからねえが、このまま連中が勝ったら姐さんも晴れて自由の身だな」
「……どうせなら今、逃がしておくれよ」
黙り込んでいたリネルだが、しばらくしてから押し殺すように陰気な声でぼやいた。
「そりゃ出来ない相談だ。見張ってろって雇い主直々に釘をさされたからなぁ。
オークが勝った時に姐さん逃がしていたら、ボロに殺されちまう」
頭を振ってへらへら笑うフウを、リネルはきつい目付きで睨み付けた。
「豪族の兵士が勝ったら、あんたは縛り首だね。」
嫌味たっぷりに言ったリネルの頭上を、鋭い音を立てながら打ち込まれた投石が掠めていった。
「……ひっ」
「だろうなぁ……逃げ道も塞がれてるし、丘の頂にゃ見張りがいる。これじゃとんずらも難しいや」
小さく悲鳴を洩らして、首を竦めたリネルをもはや省みる事なく、何がおかしいのだろうか。フウは苦笑を浮かべたまま、戦場を眺め続けていた。


 ルッゴ・ゾムの太い腕に握られた戦斧は、恐るべき威力を秘めている。
風を切り裂いて振り下ろされた戦斧の刃は、まるで雷光のようであった。
まともに剣の横腹で受ければ、刃諸共、受けた者の頭蓋を西瓜のように打ち砕う。
新手の敵兵を三人まで続けざまに切って捨てたルッゴ・ゾムの前に、長剣を片手にふらりとその剣士が立ちはだかった。

 並みの使い手であれば三合と持ち堪えるのも難しい剛勇のルッゴ・ゾムと単独で相対しながら、しかし、ひしゃげた鼻をした中年の男は眠そうな眼を微かに見開きながら上手く凌いでいる。
振り下ろされる戦斧の一撃に横から微妙な力を加えて巧みに逸らし、或いは素早い体捌きで刃を躱し続け、ルッゴ・ゾムの前進が停止した瞬間、鋭い太刀を切り返しに打ち込んできた。
巨躯のオークが斧で受け止めた瞬間、ひしゃげた鼻の中年男が狡猾そうに嫌な笑みを浮かべた。
嫌な予感がルッゴ・ゾムの背筋を走り抜ける。と同時に、人ごみを縫って飛び上がった小さな影がオークの大将の背中から襲い掛かった。

 小柄なホビットの兵士がすれ違い様に太股を切り裂いて、灼熱の痛みがルッゴ・ゾムを襲うが、不意を付かれながらもオークの大将は崩れなかった。
僅かに足をずらして、浅手で躱していた。
ひひっと不気味な笑い声を残しながら、再び仲間の後ろに逃げ込もうとしたホビットも、しかし、ただでは済まなかった。

 横から頬に傷のあるオークが雄叫びを上げながら吶喊し、ホビットに斬り掛かる。
突き出したオークの刃に脇腹を刺され、ホビットは無様に大地へ転倒した。
その頬傷のオークも、すぐに別の兵士の反撃を受ける。赤毛の女が振るった鋭い剣戟が、オークの顔を浅からず切り裂いた。肉片が宙を舞う。
傷口を押さえるも、少なからぬ血が吹き出して頬傷のオークが片膝を崩した。

「バ・グー!」
部下の名を叫びながら、中年男を無視してルッゴ・ゾムは敵中へと踊り込んだ。
強力な斧の一撃を避け損ね、胸を断ち割られた赤毛の女剣士が悲鳴を上げて崩れ落ちる。
「姉御が!」
「アゼル!」
周囲の兵士たち達が怒りの叫びを上げて、飛び込んできたルッゴ・ゾムに一斉に切りかかる。

 身体中に打撃や刃を受けながらも、憤怒が苦痛を忘れさせたのか。
ルッゴ・ゾムは、その巨躯を活かして敵兵を次々と吹き飛ばし、よろめいた所に恐るべき膂力に支えられた斧を叩きつけていく。
戦斧が縦横無尽に空間を舞い狂い、剣や短槍が激しく交差する。
時間にしては短い狭間に、どれほどの攻防が交わされたのか。
けして弱くはない正体不明の兵士たちを相手に忽ち四人を冥府へと送り出して、しかし、代償はけして小さくなかった。

 ルッゴ・ゾムの太い腕や足には浅くない傷が数箇所も刻まれ、鮮血が手足に巻いた布を朱色染めていた。
横腹には、中ほどからへし折れた槍の穂先が突き刺さり、環鎧も数ヶ所が破損している。
内臓までは届いていない、と無造作に穂先を引き抜いて投げ捨てた。
満身創痍のルッゴ・ゾムの傍らで頬傷のオークがよろよろと起き上がった。
「大丈夫か」
オーク戦士のバ・グーは苦痛に喘ぎながらも、大将の問いかけに無言で肯いた。

 至近距離で、無秩序な乱戦に巻き込まれるのを嫌ったらしく、距離を取っていた中年の剣士が薄い頭髪を後ろに撫で付けると、再び長剣を構え直した。

 ルッゴ・ゾムも油断ならない強敵に改めて向き直り、戦斧を握り締める。
仲間を蹴散らされたにも拘らず、ひしゃげた鼻の剣士はなおも余裕の態度を崩していない。
愉快そうに目を見開き、口笛をひとつ吹くと、一気に間合いを詰めてきた。
瞬発力に恵まれた変則的な動きに翻弄され、刃を躱しきれずにルッゴ・ゾムの腕が僅かに切り裂かれていた。

 素早くて駆け引きに長けた中年の剣士と、膂力に恵まれた百戦錬磨のルッゴ・ゾム。
本来なら、両者の技量には殆ど差はなかった。むしろ条件が同じであれば、体格と膂力の差でルッゴ・ゾムの方が優位に立ったであろうが、疲労が微かにオークの動きと反応を鈍らせ、その僅かの差が明暗を分けた。

 ルッゴ・ゾムの腕が僅かに切り裂かれる。巨躯のオークは猛りながら咆哮を上げて間合いを詰め、中年の傭兵は不敵な笑みを口元に張りつけながら迎え撃った。
二つの刃が激しく噛み合う。ルッゴ・ゾムは、剣士の顔を覗き込んだ。
「先刻から、他所の訛りがある言葉を喋っている。
 土地のものではない……貴様ら、何者だ」
南王国の言葉で訊ねてくる巨躯のオークの、見た目によらぬ教養に少し感心したのか。ほう、と中年男が目を細めた。
「傭兵さ」
「傭兵だと!金の為に刃を振るう野良犬めがッ!」
後退しながら叩き込まれる剣士の刃を戦斧で薙ぎ払いながら、巨躯のオークが吼えた。
「雇い主はクーディウス!それともローナの執政官か!」
「さあなぁ、当ててみろよ!オーク!」
傭兵剣士が嘲笑を浮かべながら剣を横薙ぎに振るった。戦斧で弾いたルッゴ・ゾムが憤怒の咆哮と共に刃を叩き付ける。


「頼りにならん傭兵共だ」
頬杖を突きながら、他人事のように眼下の戦いをそう評したルタンに傍らの奴隷が相槌を打った。
「大きな口を叩いていたが、所詮、金目当てのならず者です」
もう一人の奴隷が首を振りながら、取り成すように意見を口にした。
「いや、旦那。連中は奮戦しているが、相手が悪すぎるのだ」
形のいい岩に腰掛けているルタンと腹心の奴隷たちが口々に勝手なことを言い合っていると、革鎧を纏ったカルーン老人が他の郷士や郎党たちを引き連れて指揮官に詰め寄ってきた。
「ルタン殿、このままでは犠牲が増えるばかりだぞ」
「うん?」
カルーン老は、丘陵民や傭兵の生死を気に病むようなお人ではなかったと思ったが。
意外さにルタンが僅かに眉をしかめると、痩せた老郷士は貪欲そうに目を光らせて言葉を続ける。
「それに、あのルッゴ・ゾムの首。傭兵ごときにくれてやるには、いささか勿体無い」
なるほど、そちらがカルーン老の本音か。
にやりと小さく笑ってから、ルタンは考えこんだ。
一山幾らの傭兵など失っても惜しくはないが、まだオーク領での戦も残っている。
あまりに消耗しすぎるのも問題だろう。ルタンは決断し、肯いた。
「よし、本隊を前進させろ。一気に踏み潰してやる」
「おお!」
農民兵や郷士、郎党たちが一斉に雄叫びを上げ、温存されていた本隊が前進を始める。
ルタンは、投石器や短弓、投槍を抱えた十名ほどの郎党たちに命令を下した。
「それと矢を惜しむなよ」

 右手の丘陵から一際大きな鬨の声が東の空に響き渡った。
強敵と退治しながら、丘陵の頂へ僅かに視線を走らせたルッゴ・ゾムは、目にした光景に表情を苦く歪めた。
最悪の予想が当たっていた。地面に血の混じった苦い唾を吐き捨てる。
丘陵の稜線に姿を見せた新手の敵勢が、勢いよく駆け下りてくる。
五十。いや、それ以上。百近い兵士が、狭隘な谷間へと殺到してきた。
あれだけの数がこの戦場に閉じ込められれば、これはもう秩序だった戦いなど望むべくもない。
そして乱戦になれば、数に劣るオーク勢の敗北は必至だった。
一瞬、心が挫けそうになるが、溜息を洩らすとルッゴ・ゾムは気持ちを立て直した。
俺がくじけそうならば、部下たちも同様だ。鼓舞せねばなるまい。

「どうした?オーク。顔色が悪いぜ」
嘲りの言葉と共にひしゃげた鼻の剣士が突きを放とうとした瞬間、力を爆発させたようにルッゴ・ゾムが咆哮した。
筋肉が大きく盛り上がり、両腕に凄まじい瘤が浮き出る。
叩きつけられる戦斧。矛先を逸らそうと長剣で薙いだ瞬間、傭兵剣士の腕に痛みにも近い激しい痺れが走った。

 傭兵剣士の顔が驚愕に凍りついた。余裕の笑みなど一瞬で消し飛んだ。
先刻までとは、一撃の重さが段違いに増していた。
ルッゴ・ゾムが無造作に前進し、戦斧を叩きつけ、薙ぎ、払う、その一撃一撃が恐ろしく重く必殺の威力を秘めていた。

 どういうことか。本気になったという事か?
混乱しながらも傭兵剣士は巧みに凌ぎつつ仕切りなおしを図るが、攻撃の激しさに後退を試みる事すらも侭ならない。
拙い。これは拙い。先刻までと別物としか思えん!
受け損ねれば死ぬ。恐ろしい迫力と凄みを伴って迫ってくるルッゴ・ゾムの瞳が据わっているのに気づき、傭兵剣士は目を剥いた。
激しい攻撃を行なうのだ。ルッゴ・ゾムにも当然、隙は生まれている。
だが、その隙に打ち込めない。打ち込めば傭兵剣士は確実に死ぬ。
それを予感して傭兵剣士は顔を歪めた。ルッゴ・ゾムは戦い方を変えたのだ。
捨て身。相打ち狙いか!否、違う。
俺の一撃は奴を殺せないが、奴の一撃は確実に俺を狩る。
腕の一本と引き換えに、俺の命となら割に合うと見たか。
死に物狂いでルッゴ・ゾムの致死の打撃をいなしながら、焦燥感に駆られた傭兵剣士は兎に角、距離を取ろうとするも、迂闊に下がれば両断されかねない。

 周囲ではオークとの激戦が続いており、他の傭兵たちからの救援も期待できそうになかった。
振り下ろされる一撃一撃に、傭兵剣士の剣が大きく不気味に震えて金切り声を上げる。
ロガムのドウォーフが打った名剣が砕けちまう。
小手先の技ではどうにもならない、根源的な膂力に押されて、狡猾な手管を持つ傭兵剣士がずるずると押されて、体勢を崩していく。
こいつ、一息つく必要もないのか。
そう思うほどにルッゴ・ゾムの猛攻は凄まじく、また長く続いた。
巨躯のオークが振るう雷光の如き戦斧の一撃を必死にいなす傭兵剣士だが、恐怖と緊張にいまや全身が汗でびっしょりと濡れている。
何処にこれほどの力が、いや……全力を出したのか。
何者であっても、これほどの膂力の持ち主を相手に回しては長くは抗し得ないに違いない。
傭兵剣士も腕に自信はあったが、眼前のオークは土台が違った。
もし、これで万全の体調であったらと思うと、背筋に冷たいものが走る。

アドセアの闘技場で、チャンピオンになれるかも知れんほどの強さだぜ。
暴風の如き暴力に忽ち追い込まれつつある傭兵剣士だが、いかな剛勇の士であっても体力の限界はある。
それに味方が駆けつけてくれば、多勢に無勢。逆転の目はあるぜ。
神経を削られるような苦しい戦いを強いられながらも、一時期の劣勢を凌ぎきれば勝てると、傭兵剣士は信じた。そう信じる他はなかった傭兵剣士がいよいよ切羽詰って、後一撃を持ち堪えられないと観念しそうになった瞬間、ようやく待ち望んでいた好機がやってきた。
味方の危機だと見て取った近場の傭兵たちが、新手に浮き足立ったオークを倒して間に入ってきたのだ。

 救援に来た傭兵達がルッゴ・ゾムに切りかかると同時に、傭兵剣士は素早く背中を見せるや否や、脱兎の如き勢いで一目に逃げ出した。
傭兵たちは、中年の剣士と肩を並べてルッゴ・ゾムと戦うつもりであったから、この行動には仰天した。
いきなり傭兵剣士が踵を返して走り出したことに僅かに動揺を見せる。
「お、おい」
声を掛ける間もあらば、巨躯のオークは咆哮と共に戦斧を一閃させた。
受け損ねた兵士が地に落ちた柘榴のように頭を割られ、怯んだもう一人は革鎧ごと胸を割られて即死。
最後の一人は恐怖に絶叫して逃げ出そうとするも、背中から容赦ない一撃を喰らって絶命した。

 額に僅かに汗を浮かべたルッゴ・ゾムは、大きく息を吐くと遠ざかっていく傭兵剣士の背中を睨み付けた。
一騎打ちに拘泥している場合でもないし、今から追いかけるには遠すぎた。
なにより巨躯のオークは、部下の指揮を取らねばならない。
疲れてきているものの、若きルッゴ・ゾム自身はまだまだ戦える。
だが、部下たちは目立って疲労と消耗に弱ってきていた。
まだ犠牲は少ないが、見たところ手傷を負った者は加速度的に増えてきている。
「世には腕の立つ奴がいるものだ。これだけの手数で倒せなかったのは、ボロ以外では初めてか」
忌々しげに賞賛の言葉を吐き捨てると、ルッゴ・ゾムは踵を返して部下たちが戦っている場所へと走り出した。


 オークと切り結んでいた傭兵が、横合いからの戦斧の一撃に慌てて仰け反った。
「躱すか」
褒めながら、オークの戦列に入り込んだルッゴ・ゾムは部下たちと肩を並べて戦い始める。
地盤が柔いのか。地面が微かに揺れていた。
百人近くが一斉に走りだせば、地響きもするものか。
ルッゴ・ゾムが強張った笑みを浮かべると、笑顔の大将を見てオークたちは勇気付けられたかのように力を取り戻した。
「集れ!円陣だ!円陣を組むんだ!」
狭間に陣取っているオーク勢は、両側の丘陵に挟まれて身動きが取れず、いまや多数の敵に完全に包囲されている。
退きながら戦うことも難しい絶体絶命の危地で、オークたちは此処が先途と武器を強く握り締めた。
戦いながら陣形を組むことは至難の技であったが、歴戦のオーク戦士たちはやり遂げた。
一つには、円陣が彼らにとって慣れた陣形だった事もあったかも知れない。
素早い動きで隊列を組みながら、しかし、円陣は守りに強い陣形であるものの、組んだまま移動するには不向きな陣形でもあった。
もはや勝つ為ではなく、敵に出血を強いる為、時間稼ぎの為の陣であると誰もが悟りながら、歯を食い縛ってその瞬間を待ち受けている。

 円陣が組みあがると同時に、傭兵たちは波が引くように退いていった。
すでに馬鹿にならない損害を受けていたし、殺到してくる味方に巻き込まれるのを指揮官が避けたのだろう。
機と見るや、巧みに退却を図るタイミングと統制の取れた動きの見事さは、ただの農民兵とは到底思えなかったし、また為しえないものだった。
確かに、闘争を生業としている者たちに違いない。
重い溜息を洩らしたルッゴ・ゾムも、今はこれが豪族の総力を挙げての待ち伏せだと悟っていた。
十重二十重の包囲を見回して、呑気そうな口調で一言洩らした。
「どうやらここが死に場所になりそうだなぁ」
まさか諦めたのか、とボロが目を剥いた。
「何言ってやがる!馬鹿野郎!」
ルッゴ・ゾムの肩を掴んで、副官のボロは怒鳴りつける。
「お前は死んじゃならねえ。俺がなんとしてでも砦までの道を切り開いてやる」
「おい、ボロ」
唾を飛ばして喚き散らすボロの鼻面を、ルッゴ・ゾムは太い腕で軽く殴った。
副官のオークが鼻血を吹き出した。
「ルッゴ。なにしやがる!」
呆気に取られ、次いで怒り狂う副官に淡々と大将は告げた。
「死ぬ時は一緒だ。兄弟」
ボロが黙り込むと、ルッゴ・ゾムは肩を竦めながら快活そうに笑った。
「最後の戦いだ。華々しく散ってやろう」
「へっ……へへっ」
頭を冷ましたボロは、一転、照れ臭そうにしながらも嬉しそうに笑った。
「いいぜ、一匹でも多く豪族の犬共を地獄への道連れにしてやろうぜ」

 ルッゴ・ゾムは、改めて周囲に集ってきた部下たちを見回した。
受けた裂傷や返り血も生々しい、戦塵に汚れた男たちの顔、顔、顔。
見知った顔が少なからず欠けている。戦とはそうしたものだ。
オークも、黒オークも、灰オークも、洞窟オークさえも、今は唇を結んで敵の殺到を待ち受けていた。
「皆、よく戦った。息子たちの戦いぶりを大地の奥底でゾンバの神も誇りに思うに違いない」
脳裏に刻むように一人一人の顔を見詰めながら、ルッゴ・ゾムが戦斧を握り締めて口を開いた。
部下たちがじっと巨躯のオークに注目する。
「俺たちは、今日、ここで死ぬかも知れん」
内心、動揺した者がいたとしても、素直に表に出した者はいなかった。
勿論、絶望に僅かに顔を歪めている者もいたし、猛り狂っている者もいた。
静かに闘志を燃やしているように見える者もいて、ルッゴ・ゾムは頼もしく感じる。
醜いと言われることが多いオーク族だが、覚悟を決めた戦士はどんな種族であってもいい顔をしていると、こんな時にも関わらずそんなことを考える。

「友よ、オークの血の同胞(はらから)たちよ。共に死のう!戦って死のう!」
ルッゴ・ゾムの張り上げた声は、巌の大きさと燃える炎の烈しさを秘めていた。
空気を震わせるような朗々とした大声で、オークの大将は高らかと胸のうちを語った。
「そしてこれから詩人たちが百年の先も歌い上げるような戦振りを見せてやろう。
オーク戦士の命を購うには、代償としてどれ程の血を流さねばならないか、勝ち誇る人族共に教えてやろう!
百の人族の村の女子供が、夜の訪れる度、失った父親や息子を思って噎び泣くほどの死を与えてやろう!」
大将の胸のうちに燃え盛る闘志の炎が伝染したかのように、オークたちの間に賛同を示す低い唸り声がさざめきのように広がっていく。
誰かが己の士気を鼓舞するように、武器と木製の盾を打ち鳴らし始めた。
それを見た隣のオークが、手斧と盾で同じように打ち鳴らし始める。
直ぐに皆が同じように武器を鳴らしたり、盾を持たない者は足踏みしたりしながら、雄叫びを上げていく。
「人間共に恐怖を刻み込んでやれ!」
狼の群れが咆哮するように、オークの兵団は腹の底から調和した雄叫びを迸らせながら、殺到してくる豪族の兵団を迎え撃った。




[28849] 98羽 死闘 03     2013/06/05
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:21387349
Date: 2013/06/11 20:46
 辛うじてルッゴ・ゾムの戦斧から逃れた傭兵剣士ではあるが、命辛々に味方の隊列の後ろまで転がり込んできた時には、疾走で体力を使い果たして息も絶え絶えの有様であった。
見た目を取り繕う余裕もないのか、剣を投げ捨てるや、息も荒くそのまま地面にへたり込んでしまう。
傭兵隊の指揮を取っていたヘイスが傭兵剣士を見止めて、傍らまで歩み寄ってきた。
「命を拾ったな。ギース」
面目を失った上に息も絶え絶えであるギースは、胸を弾ませて苦しげに呼吸を繰り返すだけでろくな返答も出来ずにいる。

 返答は期待していなかったのだろう。
「ルタン殿が、本隊を動かしたか」
地響きのする方角を見やってから鼻を鳴らしたヘイスは、どこか皮肉げな眼差しをオーク勢の組みつつある円陣へと向けた。
「強固な陣だな。あれを食い破るにはこちらも相当な被害を覚悟せねばならん」
どこか冷淡な口調で呟いてから、腕を大きく振って部下たちに号令を下した。
「集結だ!味方を一端、退かせて集結させろ」
「よろしいんですか?」
傭兵たちがオークの周囲から引き始めるのを目にして、直属の兵の一人が訝しげに尋ねてくるも、一瞥したヘイスは無言で肯いただけであった。
クーディウス家の兵士たちが口々に集結の号令を飛ばし、それを聞きつけた傭兵たちが周囲に再集結しつつある中で、ヘイスは口元を歪めて死傷した兵の数を数えていた。

 クーディウスの郎党ヘイスが揮下の傭兵隊を退かせたのは、なにも動き出した本隊の邪魔になるからだけではない。これ以上、戦力の消耗を避けたいというのも、大きな理由であった。
クーディウス一族の富裕を鑑みれば傭兵の十人、二十人雇うのも難しくはないが、緒戦であまりに大勢の兵を失っては、先行きの計画にも支障が出ると言うものだ。
傭兵とは言え、金や財貨をばら撒いて声を掛ければ直ぐに集まってくる訳でもない。
特に人口の希薄な辺境(メレヴ)となれば、求める人数が増えれば、それに応じて何かと手間隙も掛かる。

 腕利きの傭兵を十人、二十人と集めるには、それなりの長い時間が掛かる。
戦いはこれからも続くのだ。
クーディウスの郎党としては、出来るだけ戦力の損耗は避けたいのが正直な心中である。
これ以上、手配した傭兵たちを無為に失いたくはない。

 それにしてもギースがルッゴ・ゾムを討ってくれれば、大将を失ったオークの兵団も、今頃は見る影もなく瓦解していただろうものを。
僅かにいらつきを隠しきれぬヘイスだが、苛立たしげに周囲を歩き廻っているうちに、己の足音に驚いたのか。近くの藪から出てきた灰色の鼠を見て足を止めた。

 相手がルッゴ・ゾムとはいえ、村への襲撃と連戦で少なからず疲労している。
少なからず消耗している今なら、剣の達者であるギースを当てれば、或いは。
そう考えていたものの、どうやら見通しは甘かったようだ。

 旧友が命を拾ったことをよしとしつつも、同時に舌打ちを禁じざるを得ない気持ちはあった。
地面に寝転がって、苦しげに浅い呼吸を繰り返していた傭兵剣士のギースがようやっと半身を起こした。
「俺も、もう歳だ」
傭兵は友人の失望を感じ取ったのか。
額を撫でてから、ギースは気まずそうにそれだけを口にした。
「……だな」
苦笑を浮かべたヘイスは、腰につけていた革製の水袋を旧友へと手渡した。
エールの入ったそれを掴み取ると、ギースは零れるのも構わずに貪るよう飲み干す。
考えてみれば、ギースがあのオークの勇士を相手取っていなかったら、味方にもっと犠牲が増えていたかも知れん。
とは言え、敵将がルッゴ・ゾムとヘイスが気づいたのは、つい先刻。
その戦斧によって部下の傭兵が十人も打ち倒されてからであった。
ヘイスは、辺境南部を拠点とするクーディウス家の郎党であったから、南部地方の手練のは敵味方ともあらかた知っているものの、北の街道付近や丘陵地帯の人物については些か疎かった。
或いは、初めからルッゴ・ゾムと分かっていれば、もっと他に手の打ちようがあったかも知れないが。
どうにも連携が取れていないようだ。これでは、ギースばかりも責められない。

 東の丘の少し上に灰色の雲が漂っていた。冷たい雨滴がヘイスの頬を打つ。
「振り出したか……さて、この雨がどう転ぶか」
頬の雨滴を指先で拭って、ヘイスは低く吐き捨てた。
あのオークたちが相当な手練であるのは間違いないが、集落への襲撃の帰りに奇襲を受けたのだ。
疲労した状態で数に勝る豪族軍が真正面からぶつかれば、さしものオークたちも一溜まりもない筈だ。
だが、勝利は変わらずとも悪天候の上、強固な円陣を組んだ敵兵相手だ。
乱戦に巻き込まれては、最終的にどれほどの兵を失うかも分からない。
「こちらは充分以上に役目を果たしたぞ、ルタン殿。次は貴殿の番だ」
そう低く独りごちたヘイスの視線の先。遂に殺到してきたルタン隊が、丘を下ってきた勢いそのままにオークの円陣と衝突した。


 漆黒の暗雲を切り裂いて、天空に白い稲光が走った。
戦場に降り注ぐ灰色の雨が、容赦なく戦士たちの身体から熱を奪っていく。
狭隘な峠道。斜面と絶壁に囲まれた逃げ場のない戦場で、オーク族と豪族の軍勢が死闘を繰り広げている。
雨は冷たかった。白い息が交差するほどの距離で、兵士たちは顔をつき合せてひたすらに武器を振う。
狂ったように罵声が飛び交い、血飛沫が舞い上がり、武器を叩きつける鈍い音と共に断末魔の悲鳴が響き渡る。
肘から先を切り落とされた人族の農民兵が何事か呟きながら、失われた腕を探し求めて歩き廻り、ゴブリン兵に群がられたオークの戦士が目を抉り出されて絶叫を上げる。
武器を力任せに振るい、盾や得物で叩きつけられる刃を防ぎ、踏み込み、跳び退り、力尽きた者から崩れ落ちていく。

 後背に集結した傭兵たちの圧力をボロが率いる僅か十名で支えながら、オーク勢は残った三十と洞窟オークたちの戦列で、百を越える傭兵と武装した農民の攻勢を凌いでいた。
幸いなのは、後背の傭兵隊にさしたるやる気が見えないところだろうか。
不可解ではあるが、敵の凄まじい勢いを前にあれこれと思い悩む暇はオーク勢にはなかった。

 飛んで来る矢や投石に意識を取られ、突き出される槍を躱し損ねてオークが転倒した。
膝を負傷して倒れた敵兵に、農民たちが殺到して武器を振り下ろす。
味方が助けに入る間も在らば、絶叫したオークは忽ちに肉塊と化し、農民たちは切り取った首を取り合う。
「銅貨十枚!いただきぃ!」
「ふざけるな!この首は俺のだ!」
部下を殺されたルッゴ・ゾムが大きく踏み込み、憤怒のままに左右に戦斧を閃かせた。
「おお!のけい!人共!」
胸と首に深手を受けて吹き飛ばされた二人の武装農民が、うめきと共に崩れ落ちる。
だが、地面を転がったオークの首は、豪族のゴブリン兵が素早く拾い上げるや、抱え込んで逃げ出している。
どの道、拾えるだけ余裕などない。
一目見た部下は、顎が破壊されてベロンと舌を突き出し、貌までがズタズタに切り裂かれていた。
ルッゴ・ゾムの後背を守っていたオークが、石飛礫に額を割られて崩れ落ちる。
「銅貨十枚!」
そう叫んで背後から襲い掛かってきた農民兵の頭蓋を、振り向きざまに戦斧で唐竹割りに砕きながら、ルッゴ・ゾムは口中で呟いた。
「賞金を掛けているのか。いやな戦い方をしてくれる」


「狂気の沙汰だな」
部下を纏めつつ、距離を取って俯瞰したヘイスが顔を顰めて呟いた。
二つの丘陵に挟まれている狭隘な空間に、二百近い人数が一度に放り込まれたのだ。
両軍の兵士たちは、もはや退くことも進むことも侭ならない。
猛り狂うオークたちを相手に、武装した農民たちも狂ったように襲い掛かっていく。
「だが、この状況でも崩れんか」
オーク族の粘り強さにを見たヘイスの声は、僅かに驚嘆と苛立ちをはらんでいた。
彼らの長い戦歴で合い間見えてきた如何なオークの兵団であっても、これほどの攻撃に長く耐え抜いた覚えはない。
戦闘を注視しながら、ギースは用心深い声を出した。
「あいつら、ただのオークの雑兵ではないぜ」
「ああ。だが、こうなれば時間の問題……」
「惜しいな」
呟いたギースは、自分の手でルッゴ・ゾムを倒したかったのかも知れない。
戦士の矜持とやらか。くだらんとは思わんが……
軽く肩を竦めてから、ヘイスは軽く顎を引いて考え込んだ。
ルタンの手勢は、オークの集団を釘付けにしている。
今、ヘイスが傭兵たちに全力で攻めさせれば、目の前の敵を殲滅できよう。
しかし、ヘイスはオーク勢の手薄な後背を嵩に掛かって攻めようとはしなかった。
まだ元気を残している傭兵たちに「無理をせぬよう」命じて、戦わせている。

「おい」
呼びかけにヘイスが視線を移すと、ギースが指差している先。
横合いから、小さな人影が一つだけやってくるのに気づいた。
戦場をかなり迂回してヘイスの元へとやって来たのだろう。
どしゃ降りの雨と泥の塊に濡れたその青年はまだ顔に幼さを残していた。
確か、何とか言う近在の郷士の子息だった筈だが、生憎とヘイスは名前までは記憶してなかった。
「ヘイス殿!ルタン様から攻勢に出るようにとの命令だ」
開口一番。上から命じるような若僧の居丈高な物言いがヘイスの勘に触った。
「命令だと?ルタン殿が、クーディウスの家臣の俺に命令と言ったのか?」
わざとらしい驚きの口調と迫力のある視線にねめつけられて、若い郷士は狼狽したように言い直した。
「あ、いや。だが、そういう指示をくだされたのだ。攻めてくれ」

「わしの隊の動きは、わしの判断で進退を決めるよ」
それだけ言って、ヘイスは視線を逸らした。
横で若い郷士が何か言い募っているが、冷然と聞き流している。
オーク勢の死に物狂いの戦いぶりを目にして、ヘイスは僅かに恐怖を覚えていた。
無論、怖気づいた訳ではない。ヘイスは元々、臆病や怯惰からは縁遠い男である。
しかし、オークたちの戦いぶりには、豪胆な元傭兵を慎重にさせるだけの勇猛さがあった。
「もう少し疲れさせてからだな」
戦況を見定めてのギースの見立てに、ヘイスが賛同の呟きを洩らした。
豪族勢に完全に周囲を取り囲まれ、身動きの取れぬオークたちに丘陵の傾斜から石飛礫や矢が打ち込まれていく。
オークたちは神経を削りとられ、確実に傷つき、体力を消耗している。
そう長くは持ち堪えられない。それがヘイスとギースの一致した見立てであった。
どの道、最後には追い詰められたオークの方から陣を解き、挑んでくるであろう。
だが、今はまだ、オークには活力が残っている。
今、嵩に掛かって攻め寄せれば戦列を崩せるかも知れないが、代わりに甚大な被害を受ける恐れが高い。最終局面で乱戦に陥るのは避けたかった。
下手をすれば、主人のフィオナから預けられた傭兵の過半を失いかねない。
それでは、勝利に意味が無くなってしまう。
兵力を温存するのは、ヘイスにとって小競り合いで勝利を収めるのと同等以上に大切な責務だ。
こんな処で、オークの遠征隊一つ潰す手柄と傭兵隊を引き換えには出来ない。


 阿鼻叫喚の地獄絵図に、ルッゴ・ゾムも戦場の狂気に身を委ねていた。
肉を断ち、骨を砕き、臓腑を割り、一匹の獣と化して、ただひたすらに戦斧を振るう巨躯のオークを目掛けて豪族の手勢が殺到してくる。
「奴の首に銅貨三十枚!いや五十枚をくれてやるぞ!」
革鎧を来た痩せた老人が青銅製の中剣を振りかざし、塩辛声を張り上げていた。
「それが貴様らの命を張る値段か……安い命だな」
身体に突き刺さった槍の穂先や鏃も其の侭に、ルッゴ・ゾムが雄叫びを上げて吶喊する。
目の前に次々と現われる豪族の手勢を戦斧を振るって破砕し、退け、蹴散らして、武装農民たちが怯みを見せて後退った一瞬に革鎧の老人のところまで走りぬけた。
老人の表情が恐怖に醜く引き攣ったのが目に映った。
口を開いて何か言う隙もあらば、ルッゴ・ゾムの凪いだ戦斧は枯れ枝を折るように容易く老郷士の細首を刈り取って、驚愕に目を瞠ったままの頭が楕円を描いて宙を飛んだ。
豪族の兵士たちが一斉に恐怖と狼狽の叫びを喉から洩らし、後退っていく。
獅子奮迅の戦いぶりを見せる巨躯のオークに怯みながらも、狭隘な峠道には後ろに下がる空間もない。
「糞ったれがぁあ!」
逃げ場もなく、自棄になって突っ込んでくる農民兵たち。
槍を手にした先頭の兵士の、食い縛った歯の片隅からは涎が垂れている。
恐怖に歪んだ表情のまま、ゴブリンが臓腑をぶちまけ、ホビットが白い骨が覗くほどに手足を断ち割られて大地を転がり、頭蓋を割られた人族がのた打ち回って苦悶の叫び声を上げていく。

 無論、巨躯のオークがいかに勇戦しようが、多勢に無勢は否めない。
投石や矢玉とて、思いもつかぬ方角から不意に飛んでくる。
高みに位置した丘陵の勾配から、引っ切り無しに狙い定めた矢玉が降り注いでいるのだ。
オーク勢にも手傷を負った者たちが目立って増えてきていた。
ルッゴ・ゾムの戦装束も返り血以外の朱色に染まり始め、オーク族の戦列が崩れるのも時間の問題。その筈であった。

 恐怖に腰砕けとなった農民兵たちが、巨躯を恐れて僅かに遠巻きにするが、距離を取ればルッゴ・ゾムの巨体は石飛礫などの格好の好餌となる。
殻竿を片手にルッゴ・ゾムに飛び掛ってきた恐いもの知らずの若い農民が、味方の投石を肩に受けて骨を砕かれ、横転しながら喚いている。
迂闊に歩み寄ることも出来なくなった豪族の兵士たちが離れようとするも、今度はルッゴ・ゾムの方から踊りこんで戦斧を振るった。
血と脂で切れ味は鈍っているものの、巨躯のオークが握る戦斧が巨大な鉄の鈍器であることに代わりはない。
ルッゴ・ゾムの豪腕に握られたそれが、強かに武装農民たちを打ちのめしていく。
豪雨に泥濘と化した足元から、跳ね上がった土がルッゴ・ゾムの逞しい太股にこびり付いていた。
乾く間もなく頬に浴びた血飛沫が一瞬の熱さを感じさせたもの、冬の風に熱を奪われ、不快な感触へと変わる。

「おおお!」
戦斧が縦横無尽に跳ね上がり、叩きつけられ、薙ぎ払らわれ、振り下ろされる。
恐怖に顔を歪めた豪族の兵士が腕を失い、腹を裂かれ、絶叫を上げて崩れ落ちていく。
だが、ルッゴ・ゾムが此れほどまでに奮戦しようとも、豪族勢は崩れなかった。
逆に、剛勇が容易ならざる敵を惹きつけたのだろう。
次第に、装備も優れた郷士たちが二人、三人と連れ立って、ルッゴ・ゾムの目の前に立ちはだかってきた。

 暴れまわる巨躯のオークを取り囲んだ数名の勇敢な郷士たちは、無言のうちに自然と連携を取り始める。
ルッゴ・ゾムの攻撃を槍や盾で凌ぎながら、獣を狩るように死角から傷つけようとする戦術だ。
ここに来るまでに少なからず手傷を負い、また疲労に動きの鈍ったルッゴ・ゾムに、攻撃を躱し切ることは難しかった。
首を狙った槍を、辛うじて上げた腕で防いだ。
深々と突き刺さった上腕に力を込めると、槍が抜けなくなる。
槍を奪い取り、其の侭に郷士との間合いを一気に詰めて、戦斧を振り下ろした。
危うく躱した郷士に追撃を掛けようとするも、別の郷士が庇うように剣を振った。
攻撃の気配を見せたもう一人の郷士を牽制する為、左に戦斧を薙ぐと、振り返って切り立った岩壁を背中にする。

 息を整えながら、ルッゴ・ゾムは周囲を取り囲んだ郷士たちを睨み付けながら、力量を推し測った。
七人……いや、八人か。一人一人が結構、腕が立つな。連携も上手い。
一対一なら敵ではないが、此れだけ揃うと厄介だった。
それに、味方から離れてしまったな。
円陣を見れば、何時の間にか中心でボロが声を張り上げつつ、指揮を取っていた。
ルッゴ・ゾムの方が指揮は上手いが、今は指揮官としてよりも一人の戦士としての彼の力量が必要とされていた。
この多勢に無勢の局面で、並外れた武勇を誇るルッゴ・ゾムに戦わないという選択はなかった。
その個人的武勇がなかったら、オーク勢はとっくに崩れていただろう。
だが、ルッゴ・ゾムの剛勇も、もはや尽きようとしていた。
深手を負ったにも関わらず、無頓着に戦斧を振るうルッゴ・ゾムの姿に、恐れ戦いたように戦慄している郷士たちだが、オークの大将も過去になく手にした戦斧を重く感じていた。
鉛の重りが全身にへばり付いたかのように、身体の動きが鈍ってきている。

 雨が激しくなってきた。
降り注ぐ雨滴を浴びて、後方にいた豪族のルタンは煩わしげに銀髪をかき上げている。
先陣を切っていたカルーン卿が無造作に首を跳ね飛ばされるの目にし、忌々しげに舌打ちをする。
「……カ、カルーン卿が!」
恐怖に喘いでいる腹心の奴隷たちを横目に、ルタンは表面上の平静を装いながら、しかし、内心は煮えくり返っていた。
「化け物めが」
圧倒的優勢な状況に持ち込んだにも関わらず、たかが一人のオークの為に味方が恐ろしい損害を受けていた。
手負いが増えすぎていた。
「これでは割りに合わんぞ」
戦況を眺めながら、ルタンは思わず歯軋りする。
腕自慢の郷士たちが取り囲んだものの、どうにも攻めあぐねている様子であった。

「さて……どうしたものか」
額に手を当てて考え込むものの、そうそう妙案など浮かばない。
今のままでも、時間が経てば勝利は転がり込んでくるだろう。
だが、しかし、ルタンの目には、戦場で倒れていくのは豪族の兵ばかりにも思える。
ルッゴ・ゾムの事を除いても、前列ではオークと兵士たちが顔をつき合わせて烈しく干戈を交えている。
打ち下ろされる矢玉は、オークの流血を刻一刻と増大させているが、敵を取り囲んでいる事もあって豪族の兵士たちにも当たっている。
辺境の弓の精度は悪く、射手の練度も低い為に味方を少なからず傷つけているのだ。
たとえ自分の領民でなくとも、出来るだけ農民たちの被害を減らしておきたい。
そう考えるルタンの目には、金の掛かる割りに効果が薄いように思えてならなかった。
物資を集め、人を使うのに優れた手腕を有している豪族ではものの、ルタンは生来、戦士でもなければ軍人でもない。
勝利が見えたこの瞬間、勝つ為に全力を尽くして来たルタンが金を惜しんで弓手たちを下がらせた。
「旦那。本気か?」
腹心の奴隷が驚いたように尋ねてくる。
「鏃は高い。飛び道具は高くつく」
やや上擦っているルタンの声に、奴隷は首を振るって反対する。
「矢を惜しんで味方を死なせるのか」
「先刻から味方にも当たっているのだ」
奴隷はルッゴ・ゾムを指差して、再度、意見を口にした。
「せめて、あの怪物だけでも弓で仕留めればいい」
「駄目だ。すでに郷士たちが取り囲んでいる。
 まかり間違って地元の顔連中を殺してしまったら、取り返しがつかん」
「……間違いだよ。旦那」
奴隷はぶつぶつ言いながらも、弓兵のところに攻撃中止の命令を伝えに向かった。
奴隷を見送ったルタンは、頬杖を突きながらルッゴ・ゾムに鋭い視線を送った。
これまでに経験した戦といえば、近隣の豪族との境界争いや雑兵のオークとの小競り合いが精々である。
優勢とはいえオーク族の戦士団。それも死に物狂いの精兵相手に戦うのは初めてであり、圧倒的に不利な状況にも拘らず崩れない敵の粘り強さと味方の不甲斐なさが銀髪の豪族にはどうにも歯痒くてならない。
ルッゴ・ゾムを眺めつつ暫く考え込んでいたルタンだが、遂に最後の切り札を切ることにした。
「……巨人を呼べ。出番だとな」
雨に濡れたマントを手で払うと、もう一人の奴隷に伝令を命じた。




[28849] 99羽 死闘 04     2013/06/11
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:21387349
Date: 2013/06/14 05:08
「道を開けろ!皆、道を開けるんだ」
ルタンの従士である若い青年が声を張り上げて、近くにいる味方に注意を促がしている。
巨人がのそのそと前列に進んでいくに従い、左右に割れた味方の兵が攻める手を休めて引き下がってしまう。
「巨人族……か」
冷ややかな眼差しで巨人を眺めた傭兵剣士のギースは、何か言いたげに旧友のヘイスに視線を向ける。
「……何をしているのだ?」
攻める手を休めて後ろに下がっていく兵士たちを目にすると、呆然と呟いたヘイスの表情が今度こそ怒りに赤黒く変色した。
「馬鹿な……何をやっているのだ。このまま攻め続ければ勝てるものを」
「同感だが……おい!何処へ行く気だ?」
相槌を打ったギースの隣で、怒気も露わに叫んだヘイスが歯軋りしながら大股に歩き出した。

 ギースは慌てて友人の背中を追い掛ける。
「本陣だ!矢玉を惜しんでよい相手ではない」
断言するクーディウス家の郎党に、傭兵剣士は水を差した。
「……だが、こっちの話を聞くかね?」
「どういう意味だ?」
ヘイスが訝しげな表情で振り返った。
「こっちも人死にを嫌って無理な攻めを控えている。
そこを責められたら、薮蛇になるかも知れんぜ」
「……ふむ」
疲労したルッゴ・ゾムに巨人を当てて、大将首を取る事で連中の士気を挫き、打ち破るつもりなのだな。
「気に入らんが、確かにいけるかも知れん」
考え込んだヘイスが迷っている最中にも、ルタンの本陣では高らかと角笛が吹き鳴らされている。
「ウドの大木じゃなきゃいいがねぇ」
眠たげな眼をさらに細めながら、ギースは淡々と言葉を続ける。
「まあ、仕方あるまいよ」
供廻りの兵士たちが号令を受けて集結していた。
温存していた最後の兵を投入するつもりか。
取り敢えずは見定めてやろう、迷った末にヘイスは静観の構えを取った。

「ギース……貴様、獲物を横から掻っ攫われて構わんのか?」
ヘイス自身は手柄に執着していないが、ギースには個人的な武勇に執着する面があった。
己を打ち負かした戦士が数の暴力に晒された挙句、止めを刺されるのはいい気分ではないだろう。出来るなら、自分で倒したかったのではないか。
クーディウス郎党であるヘイスにそう問いかけられて、傭兵剣士は軽く誤魔化すように口笛を吹いた。それから旧友に胡散臭そうな笑みを向ける。
「どうだ?ここは一つ任せてみるのは?」


 豪族勢とオーク勢が死力を尽くして争っている戦場に、角笛の音が響き渡った。
狭隘な峠道の隅々まで響き渡った角笛の音を耳にして、ルッゴ・ゾムは丘陵の高みに陣取る豪族勢の小集団にチラリと視線を走らせた。
高らかと吹き鳴らされる角笛の音色は、確かに其処から聞こえてくる。
彼方にあるゴート河河畔にまで響き渡ったかもしれない角笛の、吹き手の属する一団からは、灰色の軍旗を風に棚引かせ、伝令が出ているのも目に入った。
間違いなく本陣だろう。これまで丘陵の稜線に隠れていたルタンが、それと意図せずオークたちの目の前に己の場所を明らかにしていた。
「……あれが本陣か」
確信を込めて呟きを洩らしたルッゴ・ゾムだが、彼自身は周囲を郷士たちに取り囲まれており、どうにも身動きが取れそうもない。
今のところ、オークの大将の豪勇を警戒して遠巻きにしているが、万が一でも迂闊な動きを見せれば、目前の郷士たちは一斉に飛び掛ってくるに違いない。
「おうおう!味方の影に隠れて後ろでお山の大将気取ってやがる。気にいらねえな!」
ルッゴ・ゾム以外のオークも気づいたのだろう。離れた味方の円陣では、喚いているボロが本陣を睨み付けながら地面に唾を吐き捨てている。

 だが、仮にルタンがオーク勢に居場所を気づかれたことを知ったとしても、危惧は抱かなかったに違いない。
今のところ、辛うじて豪族の兵団の攻撃に持ちこたえているオークの戦士たちではあるが、元々、数で大きく劣っている。
その上、疲労困憊しており、豪族勢が攻めの手を緩めたにも拘らず、追撃もせずに距離を取って息を整えるのに必死であった。
ルタンだけでなく、豪族勢の過半がこの時点で、勝利は揺るぎないものだと捉えていた。

「皆、下がれ!道を開けろお!」
伝令らしい人族の若党が、声を張り上げながら戦場を走り回り、豪族勢の戦列を左右に分けていく。
先刻までオーク勢と干戈を交えていた豪族の兵士たちは、不満そうに顔を見合わせたり、怪訝そうな顔を見せながらも指示に従って左右に割れていった。

 やがて前線で戦っている兵士たちも、豪族勢の戦列の後方で徐々にざわめきが広がっているのに気づきだした。
次いで、人の波を掻き分けて近づいてくる人影の大きさに、オークたちが驚きの声を洩らす。
「なんだ、あいつは!」
息を呑んでいる仲間たちの中で、ボロは汗の吹き出た額を掌で撫でて呻いていた。
「丘巨人(ヒルジャイアント)だと……まさか」

「ゾダンガ!おお!ゾダンガ!」
戦場に僅かに残っていた襤褸をまとう丘陵民たちが、興奮も露わに昂ぶった叫びを上げて得物を振り回してた。

 丘巨人族は、紛れもない巨人族の一員ではある。
とは言え、巨人と呼称される数多の種族のうちでは、もっとも非力で小柄な種族に分類されていた。
雲の巨人や炎の巨人といった恐るべき力を持つ高位巨人族は勿論、山の巨人や草原の巨人といった取り立てて取り得のない普通の巨人族と比較しても、非力で頭が悪く、文明度でも劣っていると見做されている。
だが、それはあくまでも巨人族の中で見ればの話である。
他の殆どの種族から見れば、丘の巨人は、正しく恐るべき脅威以外の何物でもなかった。
例えば、ハイオークやトロル。オグルといった恐るべき種族でさえ、巨人に掛かれば子供のようなものだ。
巨人と素手で戦えば、為す術もなく四肢を砕かれてしまう。
殆どの人族やオークからすれば、怒れる丘巨人との遭遇は、すなわち確実な死を意味している。

「巨人だ!巨人が出るぞ!皆、下がれ!オークの大将は巨人に任せろ!」
ルッゴ・ゾムを取り囲んでいた勇敢な郷士たちも、その言葉にむしろ安堵の表情を見せて、包囲を解き、じりじりと後方へと下がっていった。
巨躯のオークは並外れた豪勇の持ち主であるから、郷士たちが勝てたとしても犠牲が皆無というわけにはいかない。
戦って仕留めたとしても死人手負いが出るのは避けられず、或いは死ぬのは己かも知れない。
そう考えた時、出来るならば危険な役目は他人にやってもらいたいと思うのは人情だった。
ましてそれが雇われの巨人であれば、能力的にも人格的にも気兼ねなく押し付けられるというものであった。

 のしのしと大地を踏みしめる丘の巨人の傍らを小走りに進みながら、ルタンはルッゴ・ゾム指差して声を張り上げていた。
「村が冬を越せるだけの食料と毛皮、薪を与えてやる。後はお前の働き次第だ」
黒髪を振り乱した丘の巨人は、毛皮を纏った銀髪の豪族を大きな眼でじろりと睨んだ。
「約束は守れよぉ、小さいのぉ。さもないとゾダンガはおめぇの村をぶっつぶすからなぁ」
これ見よがしに棍棒……というより、材木を振るった巨人が唸り声を発するが、ルタンは微塵も動じた様子を見せずに嘲笑を返した。
「ふん、褒美をくれてやるとしても、それは貴様があのルッゴ・ゾムを倒してからの話だ。
さあ、妻子を養いたくば、みごとオーク共を蹴散らしてみせい!」

 困窮する丘の民を食い物で釣って、尖兵に仕立てあげたか。
なるほど。誰が考えたか知らんが、上手い手だな。
ルッゴ・ゾムは、疲労に重たくなった身体を支えてしっかと立ち上がった。
丘の民単独では街道の村々を襲うだけの力はない。
かといってオーク族と手を組めるかといえば、否だろう。
俺たちは丘の民を見下し、時に襲撃している。
鉄の斧を握り締めて瞑目すると、深々と深呼吸をする。
踊らされている相手と分かっていても、連中と付き合わざるを得ないか。

 巨人が咆哮を上げると、戦場の空気が一変した。
仮にも人類のものとは思えぬ凄まじい大音声が喉から迸ると、びりびりと空気が震えた。
唸りを上げて前に出てきた巨人の腰には、縄に結ばれた幾つかの頭蓋骨や生首がぶら下がっていた。
……人喰いか?
例え人喰いの習性があるオーク族であっても、他種族に喰われるのは嫌なものだ。
思わず息を飲んだルッゴ・ゾムだが、腐りかけた顔の大半が、凶悪そうな面構えのオークや屈強の人族の男であるのに気づいて認識を改める。
恐らくは賊徒を相手にしての、丘の民の間で巨人の武勇を証明する品なのだろう。

 丘の巨人とルッゴ・ゾムが、峠道の只中で相対した。
オーク勢と豪族の兵士たちが打ち合うのを止めた。両軍は、自然と距離を取って離れていき、死した者や重症を負って地面に蹲っている者のみが、冷たい雨に晒されながら大地に残された。
しかし、なんと言う巨体であろうか。
六尺半ばもある均整の取れたルッゴ・ゾムの肉体でさえ、巨人族を前にしては子供のように頼りなく見える。
見上げるルッゴ・ゾムのさらに五割増しの背丈の巨人は、余裕の表れなのか。
乱杭歯を剥き出しにして、いやらしくにたにたと笑っていた。
獣の毛のような黒い剛毛は、背筋まで垂れ下がっており、垢に塗れた分厚い毛皮を纏っていた。防具代わりか、腹や胸には木の板が縛り付けられている。
巨人の手にした棍棒も、恐らく七尺(2m10cm)はあるだろう。
でかい。さて、勝てるか。
迫る巨人を目前にして、流石にルッゴ・ゾムの額から冷や汗が吹き出た。

「よう、チビ助ぇ。強いつもりかぁ?」
間延びしたその癖、異様に野太い唸りを乱杭歯の間からしゅーしゅーと洩らしながら、巨人がルッゴ・ゾムに話しかけてきた。
「おめぇがあのルッゴ・ゾムなんだってな。へへ、こんなチビ助がよぉ」
笑顔の巨人の、しかし、黒い眼にはやり場のない憤怒と闘争心が渦巻いており、巨躯のオークの背筋をゾッと寒気が走りぬけた。
「挨拶代わりだ。くたばれぇ」
にいっと笑った丘の巨人は、いきなり棍棒を振り下ろした。

 巨人が肩に担いでいた棍棒が唸りを上げて振り下ろされる。
口調を裏切る速度に反応できたのは、あらかじめ巨人の動作を観察して、おこりを察知したが故の幸運だろう。
反射的に横っ飛びで躱すも、体側をぎりぎり棍棒が掠るだけで恐ろしい風圧が巻き起こった。
さすがのルッゴ・ゾムも胆が縮まった。辛うじて体勢を立て直すも、巨躯のオークが懐に飛び込むよりも早く、巨人は腕力だけで棍棒を斬り返した。
棍棒の先端が唸りを上げて迫ってくる。
これも大きく仰け反り、地面を転がって距離を辛うじて距離を取る。
僅かに二合を凌いだだけで、ルッゴ・ゾムは大きく息を乱していた。
でかい。そして間合いが遠い。戦斧で仕留められるか。

 丘の巨人は、それほど技巧に優れているわけではない。むしろ体の大きさからすればやや鈍い。
それでも七尺を越えるような棍棒を自在に操る膂力はいかほどであろうか。
何の変哲もないただ大きいだけの棒切れが、しかし、巨人の手に握られた瞬間に途方もない脅威と化していることに、ルッゴ・ゾムは戦慄を覚えざるを得ない。

 巨人の間合いは遠く、そして一撃は重かった。
無造作に振り下ろされる棍棒の一撃が地面を打つと、それだけで鈍い音が響いた。
振り回される棍棒を掻い潜り、必死に巨人に斬り付けても、蚊にでも刺されたかのように煩わしげに身体を揺するだけだった。
巨人の急所を狙おうにも首には背伸びしても届かない。
心臓は木の板と分厚い胸板に阻まれている。

 巨人は醜悪な顔に嗜虐的な笑いを貼り付けながら、棍棒を振り回している。
オークの大将は、無理をせずに後退した。いや、力負けして押し込まれ、その分だけ巨人はさらに踏み込んでくる。
糞。でかい。
躱し続けるだけで、ルッゴ・ゾムの体力と気力が大きく削られていく。
と、横薙ぎされた棍棒を、横合いにいたオーク戦士が躱し損ね、吹き飛ばされた。
巻き込まれたオーク戦士は身体を折り曲げ、不気味な痙攣を繰り返している。
オーク勢は絶句し、豪族の兵士たちは一斉に歓声を上げた。

 手詰まりだった。
ルッゴ・ゾムの体躯であっても、不安定な体勢からの一撃では巨人の巨体には効かない。
思い切って踏み込まなければ届かないが、しかし、棍棒による間合いが長すぎて簡単には近寄れない。
棍棒のあの恐ろしい威力。不用意に喰らえば、ルッゴ・ゾムとて一撃で昏倒しかねない。

 雨滴を切り裂きながら振り下ろされる棍棒は、早く、そして兎に角、重かった。
間合いを見切って躱したルッゴ・ゾムは、息を吸い込むや大きく踏み込んで飛び込んだ。
巨人が棍棒を切り返して叩き付けて来るのを、斧の刃を横にして、遠心力の弱い内側で受け止め、棍棒の横薙ぎに耐える。
「おお!」
それでも巨躯のオークの全身の筋肉が音を立てて軋んだ。
「よく受け止めたなぁ、ちっちゃいの」
嘲るように乱杭歯から不気味な笑い声を洩らす巨人に歯軋りで応えると
「ぬお」
ルッゴ・ゾムは気合と共に棍棒を受け流して、斧を振りぬいた。
「ちい」
巨人が慌てて腕を引いた。戦斧の刃は、確かに巨人の腕を切り裂いたが、傷は浅かった。

 巨人が舌打ちした。
「くそがぁあ!」
落ち窪んだ瞳には憎悪と憤怒が激しく渦巻き、怒りに任せて巨大な棍棒を振りおろす。
棍棒の間合いを見切ったルッゴ・ゾムは、何とかこれを凌ぎながら、隙を窺うがどうにも攻める機会が見えてこない。
斧では無理だ。届かんし、これ以上打ち合わせたら壊れかねん。
何とか戦える力が残っているうちに、巨人への勝機を見つけないとならんが……
横っ飛びに倒れこみ、或いは棍棒を掻い潜って地面を転がり、全身を泥で汚しながら、ルッゴ・ゾムは僅かな隙を見て四方に視線を走らせる。
と、巨躯のオークの視線が、戦場に転がる味方のオーク戦士の骸の上に止まった。
……あれは。
胸から槍を生やして息絶えている味方の姿に顔を歪めたルッゴ・ゾムが、僅かに停止した瞬間、棍棒が振り下ろされた。
反射的に動いたルッゴ・ゾムの不用意に受けた戦斧の峰の部分に棍棒が叩きつけられる。
其の侭、オークの太い腕からもぎ取られた戦斧が遠く弾き飛ばされた。


「ルッゴ・ゾム!」
「頭領が!」
大将の一騎打ちを見守っていたオークたちが口々にどよめきを洩らした。
「糞ッ!」
叫んで飛び出した気配を背中を見ずに感じ取ったルッゴ・ゾムが、吼える。
「来るな!こいつは俺一人で充分だ!」
歯軋りしたボロが、手を伸ばして飛び出しそうな部下たちを制止させる。

 腕を斬りつけても効かず、急所を狙う事も出きず、いまや逃げ惑うばかりに見えるルッゴ・ゾムの言葉に、巨人が身体を揺らして笑った。
残酷な光を目に宿した巨人が嗜虐的な笑みを深くして迫ってくるのを見て、オークの大将はむしろ気持ちを落ち着けた。
舐められているな。だが、そうだ。もっと油断しろ。
流石のルッゴ・ゾムも、体躯と膂力に遥かに勝る巨人に一方的に攻撃され、凌ぎ続けるだけの展開に激しく消耗し、息が切れ掛けてきている。
泥まみれになって地べたに無様に転がり、泥中で足掻くように這いつくばりながら巨人から距離を取ろうとする。

 味方である巨人の強大さに心強さと安心感を抱き、気が大きくなっているのだろう。
豪勇を振るった恐るべきオークの勇士を子ども扱いする巨人の姿に、農民兵や豪族兵がどっと囃し立てるように沸いて嘲笑を浴びせかけていた。
「どうした、逃げ回るだけか、オーク!」
「まともに戦え!」

 息絶えた配下のオーク戦士の傍で、呼吸を乱したルッゴ・ゾムは足を止めた。
仲間の屍に跪くと、カッと見開いた目を閉じさせてからなおも巨人を睨み付ける。
「そろそろ、とどめだぁ。チビ助ぇ」
巨人が大股に間合いを詰めてくる。
その姿を大地に片膝をついた姿勢でルッゴ・ゾムは眺めていた。
子供の頃を思い出すな。
自分よりもずっと大きな大人や兄に稽古をつけてもらった時、俺はどうしたっけか。
歯が立つわけがないのに、何とか工夫を重ねて勝とうとしてた。
地面に半ば埋もれたそれを握り締めて、オークの大将は笑った。
なに。よく考えれば、あの頃ほどの差があるわけじゃない。


「何を笑ってやがる。そろそろ、しねぇ」
不敵に笑っているルッゴ・ゾムの頭に、踏み込んだ巨人が棍棒を振り下ろした。
「自分よりでかい奴との戦い方を思い出した」
瞬間を見計らっていたルッゴ・ゾムが、引き絞られた弓から放たれた矢のように踏み込んだ。
頭を掠めてぎりぎりに棍棒を躱した直後。
棍棒を振り下ろして腕の伸びきった巨人の掌を、ルッゴ・ゾムが手にしていた短槍の穂先が完全に貫いていた。
「ぐ……がぁッ!」
灼熱の苦痛に咆哮を上げた巨人が、棍棒を振り落とした。

 屈みこんだルッゴ・ゾムが、素早く棍棒を抱え込んだ。
素早く立ち上がる。
「くそがぁ!捻りつぶしてやるぞぉ。チビ助ぇ!」
耳元で巨人の発した怒声が、びりびりとルッゴ・ゾムの鼓膜を振るわせた。
無論、巨躯のオークとは言え腕力だけで七尺の棍棒を自在には振るえない。
「むん」
戦士が長物を使う要領で、抱え込んだ棍棒もろともに体軸を移動させて、勢いよく吼えている巨人の脛に叩きつける。

 肉の潰れる音か、骨の軋んだ音か。めしいと重たい音が確かに聞こえた。
再度、絶叫した巨人が脛を抱えて崩れ落ちた。
立っているルッゴ・ゾムと体勢の崩れた巨人の顔が丁度、同じ位置まで落ちてきて、二つの視線が交差した。
間違いなく強い筈の自分がどうして追い込まれているのか、丘の巨人には分からない。
信じられないと言った表情で、落ち窪んだ暗い瞳を大きく見開いてルッゴ・ゾムを見つめている。
己を鼓舞するように三度、喉から咆哮を迸らせた巨人の瞳には、しかし、明確に脅えの色が混じっていた。
八つ裂きにしようというのか。鉤爪めいた鋭い爪が生えた巨大な両手が、懐に迫るルッゴ・ゾムへと掴みかかってきた。
肩が軋んだ。類人猿にさえ対抗できるかも知れない巨人の途方もない膂力が、オークの肉体を分解しようと凄まじい圧力を掛けてくる。
と、腰を据えて、身体を捻った巨躯のオークの鉄拳が巨人の米神に叩きつけられ、その目を晦ませた。

 顔を庇うように手を前に突き出し、苦痛に悲鳴を上げて後退った巨人を前に、ルッゴ・ゾムは再び棍棒を抱え上げた。
「いい間合いだ」
餓鬼の時分に、ルッゴ・ゾムは兄に稽古をつけてもらった。
その頃には、自分よりでかい相手と戦う為の工夫を散々に凝らしたものだった。

 兄貴には通用しなかった手だが、こいつは体格の割には動きも頭も鈍い。
「兄貴ほどの強さじゃないね」
ルッゴ・ゾムが力を振り絞ると、全身の筋肉が大きく盛り上がった。
思い切り踏ん張ると巨人の咆哮を圧するような戦の雄叫びと共に、抱えた棍棒を逆袈裟に跳ね上げるや、勢いのついた先端が狙いあたわず見事に巨人の顎を打ち抜いた。
白目を剥いた丘の巨人の両手が力なく地面に落ちた。
ぐらりと、巨人が、揺れて、地響きを立てて崩れ落ちた。



[28849] 人名や地名といった物語のメモ 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:956b3d88
Date: 2013/06/14 20:20
人名や地名に関する物語のメモです

内容についてはおいおい追加する予定です

★★★地名 

※ヴェルニア 
 
 物語の舞台となるべき土地ですが、ヴェルニアがどれ程の地域を指しているかは詳細には不明です。
 或いは、支那やインド、かつてのペルシアが如き広大無辺の面積を誇って、一つの世界と呼べるかも知れませんし、
 或いは、日本列島や英国、フランス、北欧のように一つの文化、文明として成立しうる地域なのかも知れません。
 さすがにユーラシアやアフリカのような大陸で在ったり、ロシア帝国、モンゴル・ウルスのような大きさはないでしょう。

 ヴェルニア世界、或いはヴェルニア文化圏と呼称されることから、
 異なる言語、或いは神話、生活様式を土台に持つ世界観が違う人々、異人たちと接触している事は確実です。
 世には外なる世界に想像の翼を馳せる人物もいますが、今のところアリアやエリスにとってはヴェルニアが世界の全てです。


※エリオンの森 

 エリスの故郷です。人に近い下位の半エルフや森ゴブリンが棲んでいるらしいです。
 南王国が領有を宣言している土地に含まれていますが、実際には未統治の土地です。
 実質的な支配云々以前に、そもそも一帯の人間は南王国に領有宣言されていることすら知りません。
 古代王朝の後継を自任する南王国ですが、その領域は古王国の三分の一(最盛期の七分の一)にも届きません。
 エリスの談によれば、森の近くにはレイジーヌという港町が在って大勢の人族が住んでいるそうです。

※辺境(メレヴ) 

 ヴェルニア内陸部の一部です。クーディウスやベーリオウル、オークのゾム族が暮らしている土地です。
 ちなみに文明国から辺境や辺土呼ばわりされる土地は他にもあります。
 メレヴは南王国と東国諸侯の勢力に挟まれた土地で、いずれは二つの強力な勢力の角逐の場となるかも知れません。

※曠野(コルヴ) 

 辺境(メレヴ)から北東部にある曠野です。
 排他的な土地の住民は、やはり他の土地の住民を見下し、弱虫と見做しています。
 彼らが他所者を捕まえたら、殺すか、奴隷とするでしょう。
 粗野な振る舞いと荒々しい風習から蛮族と呼ばれて忌み嫌われています。
 
※ティレーの町 

 辺境航路の要衝です。エリスとアリアの当面の目的地でもあります。

※ゴート川

 辺境を南北に蛇行して貫く河川です。数か所に渡って艀や橋が掛かっています。

※ゴート東岸 ゴート以東
 
 物語の舞台となっている辺境の一地方。何か名称考えないと

※クレイン城砦 

 遥か北方でオーク諸部族の人類領への侵攻を食い止めている巨大な城砦です。
 オークから人族を守る為、博愛や情熱に駆られた勇士が城砦へと旅立つことがありますが、彼らの十人に一人は北方に骨を埋めることになります。

※モアレ

 北方系の人々が切り開いた辺境の村です。
 丈夫で質のいい布作りを辺境ではそれと知られていましたが、オーク族によって攻め落とされました。
 モアレの村人たちは、殆ど全員が北方人からの移民の末裔であり、
 東国や南国からの移民と土着の民の混血である近隣の辺境の人々とは、
 使用している言葉が多少異なりますが、意志の疎通が不可能な程ではありません。

※東国 ネメティス

(大きさ的には関東平野か、その二、三倍を想定しています。まだ未定。
 東ヴェルニア自体は遥かに広大な土地で、東国はその一部に過ぎません)

※テスティア王国

 東国の一部領域を支配している数多ある王国の一つです。
 土着の民の王や他の入植者が打ち立てた王国と交渉するに、王がいないのは
 不利だと考えた豪族諸侯らが、最初の入植者に連なる八家族のうちで、
 比較的穏健、かつ弱小勢力で在ったソレド家を王家として擁立しました。
 その経緯から、王家は豪族の代表でしかない為、権威はきわめて弱いです。
 始祖八家族は勿論、後発の大貴族や武力、財力のある貴族も、
 王家を寄り合いの議長くらいにしか見ておらず、始終、起きている揉め事の裁定もままなりません。
 また王が権力を打ち立てようとすれば、普段は不仲な諸侯はこの時だけは一致して王を排除し、新たな王を立てるでしょう。
 カスケードの領土も大部分がテスティア王国に含まれていますが、他の諸侯の例に漏れず、
 カスケード伯子アリアテートも己の領土においては完全な専制君主として振る舞っており、
 王の権威に対して欠片も敬意を払っていません。
 ちなみに物語はテスティア暦で217年頃の話になります。

※シレディア 

 東国の一地方です。シレディア人は、黒髪を持つ西方からの移民の末裔です。
 シレディア人が住んでいる土地とシレディア地方は大体重なっています。
 ネメティス人は、(例えばガスコーニュ人のように)勇敢でけんかっ早い人々と
 見做されていますが、
 シレディア人は(スパルタ人の如く)特に好戦的で戦闘に長けた
 恐るべき人種と見做されています。

※ネルヴァの大山系(⇒土豪03

 遥か北方の彼方に存在する万年雪を戴く大山系です。
 雪解けの時期は、山麓の北方諸国やオーク諸部族はもとより、辺境に至って人々を潤しています。

※オーメル

 辺境中西部。東国と辺境最大の城市ティレーを結ぶ線上に位置する一帯です。
 辺境航路の中継地点であり、竜の誉れ亭という旅籠があります。

※辺境行路(⇒土豪08

 ヴェルニア内陸部の辺境地帯を東西百里(四百キロ)に渡って貫く街道です。
 実態としては、起点から終点まで一本線の道が結んでいる訳ではなく、
 都市間の交通網や各々の町と町、村と村とを結ぶ諸々の小さな街道を総称して
『辺境行路』と呼称しているに過ぎません。


★★★神々 

※ベレス
 恐怖と絶望を啜り、憎悪と悲嘆を喰らう神です。
 一般的に邪神と見做されがちですが、やっぱり邪神です。

※イース 
 天候を司る女神 一般に信仰されています。

※イーシス 
 地方で信仰される森の神様です。
 エリスが一応、信仰していますが、彼女は困った時以外に真剣に祈ったことがありません。

※アルスラ
 南方人に信仰される織物の女神です。美しい乙女の姿をしています。

※ベール
 北方人に信仰されるやはり織物の神ですが、此方は巨大な蜘蛛の姿だと言い伝えられています。

※コル
 収穫を司る農業の神です。
 幅広く信仰されており、彼方此方の村に小さな祠や石像が存在しています。

★オークの神々
 オーク族の神々は、人族の神々とは神話体系が異なります。

※ゾンバ
 オークの神話の闘いの神です。激しい性格である一方、公明正大な振る舞いや堂々とした行動を好むといわれています。
 主にオークが奉じていますが、全てのオークが信じている訳ではありません。
 一方でオグルやトロル、オークに近しい他種族の一部の戦士や傭兵も信仰しています。

※バゾンガ
 オークの神話で地底を統べる闇の王とされています。

★★★人物 
※アリアテート・トゥル・カスケード・ソル・エイオン・テュルフィング

長剣使用時

 攻勢の構え 攻撃 8 防御 7
 守勢の構え 攻撃 6 防御 8
 体力 6 打撃点 2 

槍使用時 

 攻勢の構え 攻撃 10 防御 9
 守勢の構え 攻撃 8 防御 10
 体力 8(間合い+2) 打撃点 2 

 烏の濡れ羽色の髪、狼を思わせる切れ長な黄玉の瞳。均整の取れた肢体。
 エイオン一族の荘園及びカスケード伯領の継承権を持つ女性です。
 うら若い女性でありながら、見た目に反して恐るべき力量を持つ戦士であり、
 特に槍を持たせれば、故郷シレディアでも屈指の腕前を誇ります。

 戦争の英雄である東国十二騎士の一人、黒騎士を祖父に持つ
 東国でも武門の名門の嫡流ですが、人格には頑迷固陋な成分があり、
 厳しい気性もあって、人となりにはやや難があると見做されています。
 戦闘に関しては鋭い観察眼と勘働きを持つ一方で、
 世事に関してはやや疎い面を持ちます。

※エリス・メルヒナ・レヴィエス

愛用の棍棒使用時

 攻撃 3 防御 4
 体力 4 打撃点 1 

 エリオンの森の出である半エルフの女性です。髪は翠色です。
 長い名前ですが別に有力な一族とかではなく、氏族の慣習に過ぎません。
 レヴィエス氏のメルヒナ一族のエリスです。
 ちなみに片親がエルフ、片親が人族と言う訳ではなく、
 彼女の氏族が長い歳月を掛けて少しずつ人族と血が入り混じって来た結果、
 エリオンの森に住まうエルフはその大半が半エルフになっています。
 なのでエリス個人が特に迫害を受けた訳ではありませんが、
 半エルフは戦闘力がエルフよりも遥かに低い為、
 氏族は周辺勢力との軋轢に色々と苦心しています。

 美人の多いエルフ族の平均と比しても、なお整った美貌の持ち主で、
 形のいい鼻梁と美しい切れ長の蒼い瞳を持ちます。
 薬草の調合や料理が得意で、ある程度の世間智を持ち合わせていますが、
 薬草学は森出身のエルフとしてはそれほど珍しい特技ではありません。

 彼女は見た目通りの若い娘です。
 健康で体力に恵まれていますが、戦闘に関しての訓練は受けておらず、
 全くの素人に近いです。
 しかし、自分の力量を踏まえ、用心深くて機転が利くので、
 同行している際は、足手纏いにならないよう注意深く振る舞うでしょう。
 アリアに比せば、弱い為に逃げることを躊躇しませんし、
 逃走の術や追手の撹乱については、アリアより遥かに卓越しています。 

 よく整理された知性の持ち主で、かなり穏やかな性格をしています。
 比較的に善良な性格をしていますが、優先順位はきちんとつけられる人物です。
 性的嗜好としては同じ女性を好みますが、これはエルフにはさほど珍しくありません。

※バウム親父 
 街道筋の旅籠『竜の誉れ亭』の主人です
 肥満した巨躯に獰猛な顔つきですが、料理の腕には自信を持っています。
 娘のジナを溺愛しています。

※旅籠の娘のジナ
 バウム親父の愛娘です。

※オル
 ゴート川の渡し場に住む老ゴブリンです
 バウム親父とは顔見知りです。
 旅人に詰まらない小間物や食べ物を物々交換や貨幣と引き換えで売ってます。

※キスカ・ロレンツォ 
 アリア以上の剣の腕を持つ、謎めいたホビットの女剣士です。
 炎を想わせる見事な赤の巻き毛を後ろで無造作に紐で束ねています。

※ガーズ・ロー
 タータズム族に雇われた傭兵の黒オークです。
 豊富な戦闘の経験を持つ百戦錬磨の戦士です。

※ラ・ペ・ズール
 北から流れてきたオーク部族タータズムの族長です。

※クーム 
 モアレ村の青年です。
 兄アジャンの仇ラ・ペ・ズールをその手に掛けましたが
 配下のオークたちの復讐の刃に倒れました。

※ヴィレウス
 タータズム族と取引している黒エルフ隊商の戦士の一人です。
 黒檀の肌をした彼は、華奢な者が多いエルフ族にしては珍しい屈強な体格をしています。

※ジル 
 褐色の肌を持つ黒エルフ族の女戦士です。
 銀に近い灰色の髪、瑪瑙を思わせる暗藍色の瞳、均整の取れた肉体を持ちます。
 敏捷さに優れてはいるものの、鍛えた男性に比べれば膂力は幾らか劣ります。
 追跡を得意とし、自然の中から足跡や移動の痕跡を見つける術に優れています。
 かなり好戦的な性格をしていますが、別に考えなしに挑む訳ではありません。

※黒エルフの氏族長 
 強かな性格をした守銭奴の老人です。
 タータズム族と付き合いのある、モアレに滞在している黒エルフ隊商の長です。

※ジナ・エルヘンドリス 
 エリスとアリアに助けられたモアレ村の住人です。
 布作りに優れた村の生まれで、機織りが得意な赤毛の娘です。
 ルウという妹もいますが、村がオークに攻められた折、離れ離れになっています。
 妹思いの彼女はその事を非常に気に掛けています。

※ケイル
 オークに襲撃された荘園の生き残りの少年です。

※ギネ
 人族の農村で暮らしていた半オークの青年です。
 善良な性格をしています。
 村を焼け出され、隣人のミースおばさんと共に途方に暮れています。

※グレム
 ザグドと共にリヴィエラ・べーリオウルに雇われた赤毛のドウォーフの冒険者です。
 手斧を好んでいます。

※ザグド
 相棒のグレムと共にリヴィエラに雇われたウッドインプの冒険者です。
 薬物を塗った吹き矢を武器としています。

※ティリア
 過去にエリスと共に旅をしていた半エルフの娘です。
 エリスの同郷で親しい友人でしたが、伊達男の貴族に籠絡されてしまい、
 南王国で高級娼婦となりました。

※リヴィエラ・ベーリオウル
 辺境の郷士カディウス・ベーリオウルの次女。
 フィオナ・クーディウスと親しい友人で、
 パリス・オルディナスに対して仄かな好意を抱いています。
 目鼻立ちの整った器量のよい娘で、辺境の民に多い鳶色の瞳。
 編み込んだ金髪を背中に下げています。
 捕虜のオークに喰い破られて右の耳朶が欠損しています。
 野外でも、屋内でも、目立たない色の外套を好んで着込んでいます。
 素手での格闘に長けています。
 隠形にも卓越した技量を誇り、奇襲を得意とします。
 二刀を使う剣士ですが、突出した力量は持ちません。

(上に兄と姉が一人ずついますが、兄妹仲は余り良くありません。
 兄と姉は南王国の騎士団に出仕していますが、リヴィエラは都に行った際、
 高慢な貴族に田舎者扱いされた経験から南王国を好いていません)

※カディウス・ベーリオウル
 筋骨逞しい壮年の男性。くすんだ金髪。
 辺境ではそれと知れた豪傑の一人であり、リヴィエラの父親。
 かつて東国諸侯と南王国が沿岸部を巡って争った海道戦役で活躍し、
 王国十勇士の一人として名を馳せていました。
(アリアの祖父の黒騎士と剣を交えた事があります。
 顔の傷はその時のものですが物語には絡まない予定です)





※グ・スウ ※ジグ・ル ※ウィ・ジャ ※スー・ス 
 洞窟オークの子供たち。四人ひと組で行動することが多い。

※グーズ べーリオウル一族の郎党

※ルタン 辺境中西部:オーメル地方の北部の富裕な豪族。
 切れ者として知られ、痩せた中年の男で見る者に鋭い印象を与える。
 クーディウス家との交友がある。

※ギース 南王国を彷徨う腕利きの傭兵
 クーディウス家の郎党ヘイスの旧友
 ヘイスが伝手で、オークと戦う為に呼び寄せた。

★★★ 
槍アリア  9.5 戦乱のシレディア地方でも屈指の使い手です。
べーリオウル8  辺境で名の知れた豪傑です。オグル鬼と真正面から戦えます
アリア   7.5 手練の剣士 優れた剣士です
リヴィエラ 6.5 最初の不意打ちは9 
並みの戦士 6  鍛錬を積んでいる剣士です
弱い戦士  5  
エリス   3.5 一般人です。ゴブリンの盗賊を追い払えます。

数字が3離れていたら、まず太刀打ちできません。




[28849] 履歴 
Name: 猫弾正◆b099bedb ID:ddb3806b
Date: 2013/06/11 21:19
2013/06/11 99話up


2013/06/05 98話up
2013/06/03 97話up
2013/05/25 96話up
2013/05/24 95話up
2013/05/23 94話UP 
少し体調を崩していました
2013/04/08 93話up
2013/02/17 91、92話up
2013/01/08 90話up

2012/12/28 89話up
物語が全然進展していないだって?
逆に考えるんだ、jojo
此の作者は細部まで拘ってじっくりと描いているんだと思えばいいのさ

2012/12/20 88話up
2012/12/11 87話up

2012/11/23 85、86話の内容を一部修正
2012/11/22 
 人名や地名を纏めているうちにエリスの氏と似ている事に気づいたので
 名称を変更 レヴィナス河⇒ゴート河
2012/11/21 86話up
2012/11/18 85話up 今回はちょっと短かった
2012/11/14 83、84話up
2012/11/07 82話up
2012/11/03 人名と地名のメモを追加
2012/10/16 81話up
2012/10/02 80話up
2012/09/24 79話up
2012/09/18 78話up
2012/09/17 77話up 
2012/09/11 76話up 
2012/08/23 75話 今回は難産でした
2012/08/02 73話74話up やっと繋がった
2012/07/16 72話up
2012/07/06 71話up
2012/06/26 70話up
2012/06/16 69話up 
2012/06/15 
二重投稿は余り良くないかもしれませんが、
小説家になろうにも投稿することにしました
やはり書き手としては、多くの人に読んでもらいたいと同時に
感想が欲しいと思う次第であります
理想郷での投稿も続けますので宜しくお願いします

2012/06/13 68話up
登場人物は、愚かに思える行動や思考をするかも知れません。

しかしキャラクターが手に入る情報には常にタイムラグが存在しますし、
情報が正しいか、間違っているかも、彼らには分かりません。
他の人物が今、どんな行動をしているのか。
例えば戦場であれば、敵が何処にいるのか。
人数は、装備は、力量は、目的は、どのような意図を持っているのか。
常に不明な、いわば戦場の霧がかかっている状態中を主人公たちは
推測に推測を重ね、戦場の霧の中を手さぐりで歩いている状態ですのです。
時には間違いを犯すこともあるでしょう。
ですが痛い目に遭いながらも、生き残ることが出来れば学習します。
計画を素早く最適に修正できる能力を得たり、予め予防線や予備の案を周知させたり、
二重三重に考えられるようになります。
しかし、同時にそれは主人公以外の登場人物も言えることであります。

2012/06/04 67話up 
ファンタジー世界の暦 時間 天文についての考察とか

舞さんが結婚されたそうです
おめでとうございます

2012/05/26 66話up

55話から66話までの副題を土豪から襲撃へと変更

2012/05/24 65話少し手直し 
今回と次回は繋ぎの話です

2012/05/23 65話up

後から面白いと思える展開を思いついては、よく書き直します。
拙作を読んだ他人がどんな感想を抱いたのか知りたい気持ちは常にありますが、
こう改訂が多くては読者も感想をつけるのが面倒かもしれませぬ。
最初から、面白いのを書ければいいんですけどね。

自分が読みたい作品を好き勝手に書いていたんですけど、
よそ様に公開したからには、手直しとか改定の頻度について
もう少し考えないといけないんでしょうね


2012/05/15 63話64話up
2012/05/13 61話62話up
2012/05/09 60話改訂
2012/05/08 60話up
2012/05/06 59話up
2012/05/05 57話58話up

2012/04/28 56話up

2012/04/28 

54羽を改訂
洞窟オークの酋長を気宇壮大な身の程知らずから、足元を固める性格に変更。

55羽 ver.c up
暴力と性は、共に生存本能に強く結び付いています。
ハードボイルド物では例えば西村寿行などの作風だと、
女性主人公でも容赦なく悲惨な境遇に突き落とされ凌辱されたりします。
老若男女、強きも弱きも、賢も愚も、富も貧しきも、宗教国籍種族民族問わず、
敗北で全てを奪われる結末を迎えた人物は枚挙に暇を問いません

剥き出しの性と暴力が荒れ狂う世界で、
迫る危地に対して、冷静さを保って機知と機転を持って切り抜ける。
或いは、凌辱されても、揺らがず、或いは芯の強さを発揮して立ち上がる。

各々のヒロインでも各々の良さがありますので、
どちらの面を前に出す作風がいいか悩みましたが、
取り合えず女剣士は前者にする予定です。
この後、増えたりした仲間を後者型にするとか、
別のエピソードで後者型主人公を描くとか、
世界観を描写するにも幾らでも方法もありますしね。

最大の主人公である女剣士の冒険譚の形が、物語全体の色と形をある程度決めます。
ですから、読んでいて爽快感を与えてくれる型の主人公にしようと思いました。

2012/04/26 55話のb.verをup
どちらが良いのか迷ってます。
次回までにどちらにするか決めておきます



53話を少しだけ改訂

登場人物の誰であろうと、心には善悪や美醜の二律背反する特性があるとして
物語を書いていましたが、
読んでいる人に楽しんでもらう小説としての側面で考えれば、
読者にとって主人公は幾らか投影の対象でもありますね。
主人公や主要な登場人物の場合、嫌悪や憎悪は勿論、
嫉妬や蔑視などの暗い感情はなるべく抱かず、
抱くとしても超克や昇華の対象とする方が読んでいて健全でしょう。

負の感情を行動の主要な動機にする、
或いは、そのままに己の暗黒面に動かされる人物というのは、
そのままでは悪役や敵役、脇役、背景人物にしかなりえません。
単純な善悪で区切る心算はないものの、
やはり主人公ならば見ていてすっきりする、ある種の爽快感や徳性、
さもなくば首尾一貫した行動原理が必要でしょう。

他人に見せることを意識するならば、そうした側面も考慮すべきかも知れません

2012/04/25 55話改訂
人の心の揺らぎや多面性、二律背反とか描きたいんですけど、
文章力が足りませぬ
拘って、物語としてつまらなくなったら意味もありませんし。

2012/04/24 54話 55話
人は時によって首尾一貫した行動を取ることもあれば、
日ごろの行動原理を翻すこともあります。
後者の場合、矛盾を矛盾のままに描く事が一番いい方法のような気がします

2012/04/22
通して読んだ時にちょっと冗長だったので5話を前後に分けました

2012/04/20 53話
南王国(セスティナ)も東国諸候(ネメティス)も、
ヴェルニアで屈指の強大な権力ですが、
統治が及ぶのは、ヴァルニア南部と東部の精々一部地域でしかありません。
また支配領域のうちでも権力の通じない箇所が虫食いの様に点在しています。

エルフ娘の故郷であるエリオンの森なども、
実は南王国が領有を宣言している領域に含まれている土地なのですが、
森のエルフ達は独立独歩の小勢力であり、
税を納めている訳でもなければ南王国の役人との面識すらありません。
森に住む者たちから見ると、そもそも自分たちの森を、
どこかの知らない誰かが遠いところで勝手に領有宣言しているだけです。
そうした無主の領域は東国、西国、北方諸王国、南王国を問わず多々存在しており、
エルフ娘にも、己が南王国の出身であるという認識も、
南王国に属する民であるという帰属意識も全く存在しません。

エルフ娘が出身を問われれば、己はエリオンの森の娘であると答えるでしょう。
誰かにお前は南王国の民なんだぞ、などと言われれば、怒るかも知れません。


2012/04/18 
プロットの組みなおしに伴って51話、52話を全面改訂いたしました
履歴を追加

改訂が多い事に対しての作者の言い訳

長編を書くのは、思っていたより大変でした。
特にオリジナルですと世界観、ストーリー、キャラクター、モチーフなど、
全て一から創造する必要がありましたから。

ドラゴンテイルを書きはじめた時、作者にはプロットが存在していましたが、
それは物語の大まかなあらすじ、つまり長期的なプロットであり、
中期的、短期的なプロットには欠けていました。

当初、それでも上手くいっていたのですが、物語が長期化するにつれて、
どうしても各所に矛盾が生じ始めてしまいました。

その場その場で修正する事は出来ましたが、当然、小手先の修復に過ぎず、
何故、矛盾が発生し続けるのか、作者にも理解できませんでした。

その場の閃きも、長期的な視野も、物語を創作する上では、
両方とも大切な要素である考えていたのですが、
其れが作者の中で上手く噛みあわなくなっていったのです。

長編を書くのが初めてだったので、
短期的なプロットの必要性に気づくのが遅れてしまいました。

物語が長編になれば、全体のプロットと同時に、
物語内の物語である短い話の為のプロットもまた必要になる。
つまり二重構造、三重構造にして細部を詰めればよかったのです。

なので、現在、短期的なプロットも組みなおしております。


長期的プロット 物語全体
↑     (集約)         ↑  
短期的プロット(オークと豪族の話) 別の話(盗賊の話)





2012/04/18 
プロットの組みなおしに伴って51話、52話を全面改訂いたしました

2012/04/09 52話 
物語世界の貴族は、平均すると庶民層よりも美形が多いですが、
此れには理由が存在します。
何故なら市民、庶民に生まれた美人は、貴族や豪族、裕福な商人に見染められ、
庶民や農民、そして下層民、貧民の美人は富農や郷士、市民、商人に見染められるからです。
他にも富裕層の娘ほど、きちんと二食三食、栄養を取っているので
栄養状態がよくて、歯も揃っているなどの理由も在ります。
奴隷や農奴、放浪者の美人は、庶民や農民とくっつきます。
なので下の階層ほど結婚できない男は増えます。
庶民や下層民。貧民や農奴までは何とか血を繋げますが、
奴隷などに転落すると、実は子孫を残せない事も多いので
代々の奴隷や放浪者などは、余りいません。
例外として奴隷を手厚く扱う一族もいますし、
手際よく放浪する一族も存在しますから、必ずと云う訳ではありませんが、

そして勿論、モテない男は富裕層でも持てないのです……orz

2012/04/08 
設定 貨幣について ※物価について追記

2012/04/03 51話 
49話のべーリオウル一族に関する女剣士の独白に少し文章を追加
魔法についての裏設定追加
同じ名前の物語が沢山ありますので、副題をつけてみました。

2012/03/28 50話 後半部を改訂
微エロシーンを削り、別の場面を挿入しました。

二十代前半の女性なら精神的比重も三十代より大きい傾向があるでしょうし、
もう葛藤や不安を抱いてから段階を経て結ばれる方が物語的にもよいと
思えるので書き直しました。

2012/03/28 50話 過去話改訂
物語の内容を一部変更しました。
クーディウスの子パリスを弟に、フィオナを姉にしました。
48話でアリアに突っかかったのを、フィオナからパリスに変更。

2012/03/24 49話

2012/03/18 48話 獣の時代
現代と中世のモラルが違うように、
古代と中世のそれもまた違うと思います。

女剣士はあれです。
歴史上の人物で言ったら、韓非子とか読んで感動して
「この作者と一晩話す事が出来たら死んでもいい!」
とかいいつつ、実際に招いたら処刑しちゃうようなタイプ

2012/03/18 47話 心の値段
2012/03/16 46話

2012/03/09 45話
街道について
ヴェルニアには、幾つかの主要な街道が存在します。
とは言っても、別に欧州のローマ街道や江戸時代の東海道のように、
巨大な街道が延々と続いている訳では在りません。
経路間に切れ切れに存在する無数の道を総称して、街道と称しているだけの話です。

道は常に諸刃の剣です。整備すれば確かに流通や移動に便利になりますが、
同時に異民族や異種族、外国などに攻め込まれた時に弱味ともなります。

故に諸候は道を作るのに慎重になります。
また技術的にも、マンパワーにおいても、
物語時点のヴェルニア諸勢力にとって、
街道の敷設や整備などは手に余る困難な大事業でしょう。

都市近郊のよく整備されている水準の街道でも、
剥き出しの地面であり、精々一里塚や道標が設置されているだけです。
セメントや石畳で整備された街道などは、
辺境は勿論、ヴェルニア全土を探し回っても存在していないでしょう。

ヴェルニアを旅するという事は、地球の古代世界を旅するのと殆ど同じです。

2012/03/05 44話改訂
自分で読んでいて微妙に思えたので44話を改訂しました。
改訂前を読んでくださった人は申し訳ありません。

2012/03/04 44話
2012/02/23 43話

2012/02/08 42話

オグル鬼

攻撃8 防御8 体力8 打撃点2 
膂力8~
膂力10以上で技術力10以上
さらにそれに相応しい大型武器を使いこなせるものは打撃点に+1の修正

オグルは、巨大な体躯を有する亜人種です。
野蛮で好戦的な種族であり、知能は低く大抵は不潔な環境に暮らしています。
大抵は猛悪な性格をしており、人食いの習性をもつ者も多く、
他種族を襲って女性や食糧、財産を奪う生活を送っている者も多く、
人里離れた荒地などの村人や旅人には非常に恐れられています。

頑強な体躯に秘めた生命力は、大抵の人族を遥かに凌駕していますし、
凄まじい膂力で振り回される棍棒は、まともに当たればいとも簡単に人体を破壊します。
同じ位の背丈のある巨漢の人間でも、まずオグルの力には太刀打ちできないでしょう。
ちなみに技量8は相当に優れた戦士です。
より優れた者がいるとしても、そうそう出会いません。
一対一でオグルと遭遇したら、普通の人間にはまず勝ち目がありません。

ただし、彼らはその愚かさから、人間や黒エルフ、オーク(!)など
彼らより狡猾で賢い種族に(と言うより彼らより愚かな種族の方が稀ですが)
食糧や金品で雇われ、戦場などでいいように使われる事も多いです。

主人公
女剣士の戦闘能力・愛剣使用時です。

攻勢 攻撃8 防御7 体力6 打撃点2
守勢 攻撃6 防御8 体力6 打撃点2
膂力6  長剣を使いこなせるだけの筋力があります
女剣士は戦い方を切り替えできます。

エルフ娘の戦闘力 棍棒使用時
攻撃4 防御4 体力4 打撃点1
膂力4

2012/02/04 41話
A 表意文字と表音文字の混合 現代日本語 
B 複数意の表意文字でありながら表音文字 現代に近い漢字 訓読み、音読み 
C 楔形文字で上記     (ヒエログリフ)物語世界では南大陸で使用されている
D 表音文字         アルファベット カタカナ、平仮名 
E 表音文字になった表意文字 フェニキア・アルファベット

素人の勝手な分類ですが、大雑把に分類するとヴェルニア文化圏の文字はE
表音文字に発達した直後の表意文字ですが、
地域によっては、漢字のような象形文字から発達した表音文字が存在します

日本語が膠着語ですから、登場人物も膠着語という設定にしました。
単語が違うだけで、殆どそのままの語順や口調で喋っていると思ってください。

2012/01/31 40話改訂
後半部を書き直し

2012/01/22 40話
2012/01/17 39話

2012/01/09 38話 
あけましておめでとうございます
去年は大変な一年でした
今年が日本と皆さんにとって良い年で有りますように

2011/12/24 37話
なんで三次元にはエルフおらんの?

2011/12/16 36話
2011/12/12 35話 書き直し

2011/12/03 35話

奴隷について
奴隷制の描写って難しいですね。
そもそも日本だと馴染みの薄いものですから。
供給源とか、社会での位置づけ、メリットとデメリットなど、
一口に奴隷と言っても、土地や状況によって異なります。

地元民の奴隷。近隣国の奴隷。言葉が通じる同文化圏の奴隷。
同じ宗教の奴隷。全くの異民族の奴隷。で扱いは異なりますしね。

奴隷に転落した要因でも違うでしょう。
債務奴隷。戦争捕虜。軍隊による大規模な略奪。合法的な人買い。
食べる為に自分から、良さそうな主人に売り込む者もいれば、
或いは、幼少のうちに富裕な土豪に一家で所有される者もいるでしょう。
盗賊による誘拐、悪質な奴隷商人による拉致。蛮族に対する奴隷狩りなど、
様々な要因があります。

例えば、近所の兄ちゃん姉ちゃんが借金を払えず、債務奴隷になった場合、
これは大抵、一時的なものです。
殆ど使用人や小作人と同じ扱いをされますし、年季が明ければ自由になります。
土地の王や議会、民会などが定めた一、二年から十年程度の年季が多いです。
共同体意識と順法意識の強い土地であったり、
慈悲深い主人、或いはもともと知己であった。等の場合
迂闊に打擲はしないでしょうし、まかり間違って主人が殺してしまえば、
持ち主には、自由民に対する殺人者とに近い重たい罰が与えられます。
主人の一家と同じ食卓で同じものを食べる事さえあり得るのです。
近隣諸国や豪族との戦争の場合だと、戦争の後で身内が探しに来て
一定のルール内での捕虜交換や身代金で解放も在ります。

対して、捕まった海賊や盗賊、蛮族やオーク、オグル鬼などが奴隷となった場合、
慈悲は殆ど期待できません。
特に大勢捕まった場合、管理も面倒だし、反乱も恐れるので、
僅かな粥で朝から晩まで鉱山やガレーの漕ぎ手でばたばた死なせます。
死ぬのが前提の消耗品です。
数千の捕虜が、三年後には生き残ったのは半分以下になんて日常茶飯事です。

奴隷の扱いは、種族によっても違います。
一般にエルフは大切にされますし、ドウォーフも高値です。
ホビットも人族より高値を付ける事が多く、ゴブリンは安いです。
オークは、酷い扱いをされます。

2011/11/26 34話
2011/11/20 33話 
2011/11/17 32話
2011/11/14 31話改訂

2011/11/11 31話掲載
風邪引きました。もう治りましたが
秋と冬の変わり目は特に風邪の流行る季節ですので、
皆さんもお気を付けください

2011/11/07 30話掲載 
後2、3話は地味な逃避行が続くでしょう

2011/11/02 29話掲載

2011/10/31 28話掲載 
今でも価値観や常識の違いで噛みあわないのは良くある事です
互いの文化や文明の違いをある程度知っている現代と違い、
昔の人にとって、見知らぬ異国での交渉や接触は本当に大変でした。
時には命がけだったでしょう。

個人にしろ、企業にしろ、国家にしろ、
皆が自分に有利なルールや常識を相手に押し付け合うのは、今も昔も変わりませんね

2011/10/27 27話掲載 
26話がどうも少し雑に思えたので、
切りのいい箇所で切った旧26話の後半部に、加筆したものを27話にしました。

2011/10/26 26話掲載
2011/10/22 25話掲載

2011/10/20 24話掲載
宿屋の娘と村娘が同じ名前ですね
同じ土地で名前が被るのは良くある事で、
赤毛の~~、農園の娘の~~、~~の子供~~、みたいに
名前の区別をつけます。

2011/10/18 23話掲載

2011/10/17 22話掲載
今回はやや生々しい表現があります
相手の文明や文化、善悪、相互の関係や蓄積されてきた憎悪、互いの思い描く正当性にも拠りますが、
敵対する異民族とか異種族の支配下に置かれた村とかは、大抵、悲惨なものでしょう。

2011/10/11 21話掲載
戦場の霧

敵の戦力の多寡によって、取りうる行動指針が変化するけど、
組み合わせた情報の断片が正しいとは限らない。
手に入る情報は常に古く、報告するものの予断が入ってねじ曲がっている。
憶測と予測、願望と予想は常に入り混じって見分けがたい。
誰もが、常に自分の組み立てた仮定を元に行動せざるを得ない。

博打の強い軍人は戦争も強いと云われています。
昔は納得いきませんでしたが、今は少しだけ理解できました。

2011/10/09 序章あらすじ掲載
2011/10/06 20話掲載

2011/10/04 19話掲載
子供の時分、よく見ていたアニメの監督の訃報を耳にしました。
好きな作品を見た時、その創作者がもういないというのは奇妙な感覚です。
御冥福をお祈りします。

2011/10/01 18話掲載
オークは豚さんにしようか迷いましたが、古典派の指輪系にしました。

2011/09/27 17話掲載 チラ裏からオリジナルへ移行 
平凡な村人の地理観も、人々の衛生概念も、中世や古代に近いファンタジーだとあんなもの

作中のクレープの情報伝達

発祥地は温暖な南方の土地 もともとは民間で蕎麦粉を使用する料理
⇒宮廷料理として採用時に小麦粉の生地に変化
⇒料理書や伝聞で北方に伝わる
⇒小麦粉がないので蕎麦粉で代用 奇しくも原型に近づく

2011/09/23 16話掲載 
2011/09/20 15話掲載 1章開始
2011/09/16 14話掲載 序章が完結
2011/09/10 13話掲載
2011/09/06 12話掲載

2011/08/30 11話掲載 
何分にも素人のチラ裏ですので、構成力に不安が在ります。
誤字脱字だけではなく、物語の構成として11話までに幾度か手直ししてきましたし、
此れからも改訂する事が在ると思いますが、読者の皆様には何卒長い目で見て頂きたいと存じます

2011/08/26 10話を更新
一般的に社会に優しさの成分が少なく、統治が公正から遠ざかるほど
アウトサイダーや無法者が反社会的な性格を帯びる傾向が在ります
ゴロン夫妻のアンジェリクなどでは、近世フランスを舞台にしていますが、
(夫妻は執筆に当たって、当時の資料に当たりながら歴史考証を行っています)
無法者がパリの一角に根城を形成し、強い勢力を保っていた様子が描かれており、
乞食や無宿者が裏社会の一部を形成しています。
乞食の組合などは日本でも存在しましたが、欧州では古来より遥かに裏社会に近い存在だったようです。
オデュッセウスの時代には、放浪者や外国人が人攫いや盗みをするのではないかと、
警戒されていたようですし、それが今ほど道徳的に悪とも見做されてなかったようです

11年8月23日 09話を更新
戦闘時の罵倒、挑発、雄叫びや名乗りについて。
人一人を簡単に仕留められる銃火器が大量に運用されるようになった中世後半から近世以降の戦場においては、
戦闘時に声を張り上げるのは、一見、己の位置を敵に教えるだけの無意味な行為にも思えますが、
それ以前の弓や投石の達者も少なく、近接戦が戦場で一定の役割を担っていた時代や場所においては、
自己の闘争心を鼓舞し、敵の頭に血を昇らせる、或いは威圧する為の技術として有効な手段の一つでした。
現代からの視点では一見、愚の骨頂に思えても、当時としては理に適った行動の一例でしょう。
故郷の名前を叫ぶのも、味方の一体感を強め、士気を高めるのに有効な手法でした
ウィンターフェル!シャイア!キャリスターロック!ゴンドール!

11年8月21日 08話を更新
ヴェルニアは、古代や中世の日本より遥かに貧しくて残酷な大地です
民が困窮しているからと云って六年も無税にしてくれる帝はいません
階級の流動性の低さも一因ですが、主に生産力の乏しさなどから、%


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