<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[28471] 【ネタ】名前のない怪物【人外オリジナルファンタジー】
Name: Jabberwock◆84e2b218 ID:570a6161
Date: 2011/07/17 09:51
 怪物にとって、自我の目覚めは唐突であった。
 初めてその両目に移った光景は、空から落ちてきそうなほど大きな大きな満月と、満々と水を湛える湖だった。
 怪物は暫くのあいだ月を睨み続けていた。
 そして、己は一体何なのか、どうしてこんな所にいるのか、そんな根源的な問いを抱いた時、ふとその視線は月の光を冷たく反射する湖へと落ちた。
 果たして、そこに写っていたのは異形である。
 身長は常人ならば見上げねばならぬほどに高く、その頭部からは赤錆色の長髪と捻くれた山羊の角が二本生えている。
 両目は月の光を受けて爛々と金色に光り、耳は長く細く肩に触れるほどに伸びている。
 両腕は地面につきそうなほど長く、その指はどう見ても片方8本ずつはあった。しかも、肘から先にかけてだんだんと太く固く黒ずんで、先端に至ってはまるで黒檀のような艶のある黒に染まっている。
 指先の爪は如何にも敵を引き裂くの適しているような鋭さを誇っていた。
 両脚も、膝の上辺りから同じように黒くなり、しかも地面に確りと根を下ろす両足は人間と猛禽と爬虫類を足して割ったような、異様に頑丈そうで恐ろしいものだ。
 そしてその尾てい骨からは細長く強靭な筋肉にしなる、黒く長い尾が生えている。
 全身には野生動物特有の、生きるために限界まで引き絞られた筋肉と、生存に有利な栄養を蓄える脂肪がほどよく付いている。具体的には、その両胸に。
 病的なほど生白い、能面のように青ざめた己の顔を呆然と暫く覗き込みながら、怪物は突如として己を襲った猛烈な激情に突き動かされ、月を仰いで咆哮を上げた。
 おお、とも、うああ、とも聞こえる、人のものとも、野獣のものとも思えぬその慟哭は、近隣の山村に住まう人間たちを恐れ慄かせ、遠くリンディアールを治める王都の人々の耳に入るほどであった。
 王国歴1389年、統一歴3450年、リンディアール王国の片隅、山を越えれば未開の原野が広がる辺境域にて、この日、一匹の怪物が産声を上げた。
 名前のない怪物は、両親も、名付け親も、世の理を教えるべき何者も得ずに、ただ、この世に生を受けた証を何者かに訴え、叫ぶように、ただひたすら泣いた。







――――――――――――――――――――――――――――――――







 怪物は心地良い微睡みから引き戻された。
 その原因は先程からざわざわとこちらへ歩いて来る足音の群れだった。
 足音の間隔からその正体を看破した怪物は、如何にも不機嫌そうな顔で寝床から起き上がった。
 足音の正体は、怪物の三分の一ほどしか大きさのない二足歩行の生き物で、髪の毛がないしわくちゃの頭部、尖った鷲鼻、いつも何かに飢えているような険しい顔つきをした生き物で、怪物はこの生き物を便宜的に「子鬼」と自分の中で名付けていた。
 小鬼どもは最初怪物を見るなり金切り声を上げて逃げていたのだが、怪物の方が子鬼に興味を持ってしまったのが互いの不幸の始まりであった。
 怪物にとって、子鬼たちはこの広大な原生林の中で初めて出会った「文明社会」であった。
 なにせ、彼らは粗末ではあるものの革鎧や布の服、あるいは青銅製の槍や弓矢といったもので武装していたのだ。
 泡を食って逃げ出した彼らをこっそり追いかけて、辿り着いた子鬼たちの集落に怪物が姿を現すと暫くの間この世の終わりのような混乱が巻き起こったが、怪物が身振り手振りで彼らの持っているような服が欲しいと伝えてから話はとんとんと進んだ。
 結局、子鬼たちは怪物に色々なものを提供する代わりに野獣やその他の危険なものから子鬼を守るということになった。
 当然、怪物は子鬼たちの言葉が理解出来ないし、子鬼たちも怪物の言葉を理解できなかった。
 だが、身振り手振りや絵を書いての説明で、何とか事なきを得たのだった。
 さてそうなると、先程からこちらに近づいてくる足音の調子からしてどうやら厄介ごとのようだ。
 怪物は己の寝床を彼らに教えていない。
 そこまで怪物は子鬼たちの事を信用していないし信頼もしていない。
 怪物は寝床に使っている苔むした石造りの廃墟から外に出ると、その驚異的な瞬発力を活かして大木の枝を渡りながら、まるで猿(マシラ)のように進んだ。
 やがてビクビクと怯えながら進む子鬼たちの一団に出くわすと、怪物はその背後にドスンと音を立てて飛び降りた。
 その音に飛び上がって、子鬼たちは相手が分かった途端に安堵の溜息と共に口々に何かを訴え始めた。
 訴え始めたが、なにせ子鬼の言葉は生憎と怪物にとって意味不明な雑音でしか無い。
 煩そうに近くの大木を殴りつけて黙らすと、リーダー格の一人が身振りと槍の石突で地面に書いた絵で状況を説明し始めた。
 どうやら、集落を襲う恐ろしい怪物? が現れてこちらに向かっている、何とかしてくれ、ということらしかった。
 子鬼のリーダーは如何にも恐ろしげな、牙と角が生えて子鬼たちを頭からバリバリと食べる怪物の絵をグルグルと丸で囲んで「のらにかなすちねもちまら! とらすちからこな! らすいかちかにのらすらとな!」と大声で叫んでいる。
 何故か、その怪物は熊手のようなものを片手に持っていて、その熊手を一振りするや何人もの子鬼がバラバラ死体になって飛び散っている。
 どうやらよほど危険な野獣らしい。
 今まで何度も野獣退治を頼まれてきたが、これほど切迫した状態は初めてだ。
 本来ならばこのまま素手で飛び出して敵をたたき殺すのがいつものやり方だったが、子鬼たちのただならぬ様子と、首筋にちりちりと這い回る嫌な感じに従って、怪物は武装を取りに一旦戻ることにした。
 その旨を地面にざっと殴り書きして、怪物は己の隠れ家に向かって飛び去った。
 地面に描かれたその絵は、とてもあの一瞬に殴り描かれたと思われぬほど精巧な筆致で、鎧を着込んで戦斧を振り回す怪物が、獅子と猪を足したような野獣を叩き殺す躍動感溢れるものだった。
 そして子鬼のリーダーは己の描いたそれと怪物の描いたそれをゆっくりと見比べてから、何とか怪物の絵を持って帰れぬものかと小一時間悪戦苦闘した。







――――――――――――――――――――――――――――――――







 そして、子鬼たち謹製の青銅製の鎧具足と長大な柄付き戦斧を担いだまま、大樹の枝葉に隠れて眼下を見下ろす怪物は「まさか、これが?」と首を傾げていた。
 生い茂る下生えに覆われた道無き道を進むのは、怪物が身につけるそれよりも明らかにレベルの高い鍛造技術の賜であろう鎧兜や武器を身につけた戦士たちだった。
 ギラギラと鈍色をした武器を構えながら、鋼鉄の戦士たちと数頭の馬が怪物の眼下を進んでいる。
 てっきり野獣だと思っていた相手は、どうやら知性ある生き物の様子である。
 怪物はその獣以上の性能を誇る耳を澄ませてみたが、初めて見るその生き物達の言葉は、やはり怪物には理解できなかった。
 暫くじっと戦士たちを観察していた怪物は、ふと一団の中に似つかわしくない姿を見出した。
 葦毛の馬にまたがったその黒い人影は、頭から爪先までフード付きのマントですっぽりと覆われている。
 そして、その両手には何故か武器ではなく箒が握られている。
 何故、箒? 
 掃除婦などという雰囲気ではない。
 物々しい戦士団は明らかにその馬上の人物を守るようにして配置されている。
 一体、何者であるのか。
 疑問を抱きながらじっと視線を投げ下ろしていると、ふと、何かの弾みに馬上の人は頭上を仰いだ。
 計らずも、その瞬間に怪物はそのフードに隠されたその素顔を見た。
 見た瞬間、怪物の全身が緊張に強ばる。
 今にも折れそうなほど細い首、つんと尖った鼻梁と桜色をした小さな口、そしてくるりと丸いその両目は、血のような赤色をしている。フードの影から、茜色をした髪の毛が覗いていた。
 こいつだ。
 子鬼たちが恐れた怪物は、こいつだ。
 果たして、怪物は怪物を知るのか。
 瞬時に全てを悟った怪物は全身に力を漲らせた。
 あの熊手に見えた絵は箒だったのだ。
 怪物は重力に引かれるように枝を飛び出し、それすら足りぬとばかりに枝を地面に向かって蹴る。
 そのまま群れの中心に飛び込むようなマネをするわけにはいかない。
 そんな事をすればどうなるか、火を見るより明らかだった。
 怪物は先頭を進んでいた鋼の戦士に飛びかかると、革鞘をつけたままの戦斧でその体をなぎ払い、近くにあった大岩に叩きつける。
 戦士たちがアッと警戒の声を上げる前、跳びかかる大蛇のようにしなった尻尾が一人の小柄な戦士を巻きとって、後ろで弓を構えていた軽装の戦士に向かって放り投げる。
 弓を引き絞っていた戦士は慌てて弓を捨てて、放り投げられた戦士を受け止めるが、勢いを殺しきることが出来ずにそのまま転倒した。
 更に戦斧を振り回し、左で盾を構えていた戦士を盾ごと粉砕して吹き飛ばし、右で槍を突き込んでいた戦士の槍を斧でへし折って、その胸元に前蹴りを叩き込んで蹴り飛ばす。
 肺の中に目一杯空気を貯めこんで、咆哮とともに吐き出す。
 があ、とも、うおお、ともつかぬ闘争の雄叫びに、鋼で武装した並み居る戦士たちが眼に見えて怯む。
 その様に、怪物はかっと頭に血が上る。
 怪物は戦斧を振り回して風を切ると、通じぬと分かりながら言葉を紡いだ。

「臆病者! 鋼で身体を鎧っても、心までは鎧えぬと気付かぬかッ。抜け! 戦え!」

 があ、と歯牙を剥き出して吠える。
 最初、怪物はそれが森に住まわる黒狼かと思った。
 それほど、その戦士の眼光は鋭く、餓狼のごとき剣呑さをその両目に湛えていた。
 馬上で目を見開き、小刻みに震える両手で箒を持つローブ姿をかばうように、その黒髪の戦士は怪物を睨みつけている。
 右手に剣、左手に盾を構えた黒狼の戦士は、彼女が眼を合わせた途端に何を思ったのか盾を捨てた。
 そして右手の剣を両手で構えると、「おお」と怪物に挑みかかるように唸り声を上げる。
 その姿に、怪物の心の臓が大きく高鳴るのが分かった。今までにないほどの、興奮。
 これは戦士だ、本物の、怪物が追い求める、死闘に相応しい戦士に相違ない。

「なれば、よし。眞劍にてお相手いたすッ!」

 怪物は戦斧に被せたままだった革鞘を打ち捨て、ギラリと鍛え抜かれた戦斧の刃を陽の光に晒した。
 それに答えたように、黒狼は怪物が瞠目するような踏み込みで神速の突きを放った。
 空気を切り裂くような鋭い突きを、戦斧を盾代わりにして弾くと、お返しとばかりに翻った戦斧の石突が黒狼の脇腹に吸い込まれる。
 それを呼んでいたようにひらりと身をかわし、またしても神速の薙払いが怪物の脇腹を狙う。
 本来ならば戦斧の柄を使って打ち払うべき一撃を、怪物はあえてその身に受けた。
 子鬼たちが丹精込めて打ち鍛えた青銅鎧は想像以上の頑強さを見せたが、それでも戦士の振るった鋼鉄の一撃を完全に受け止めることはできない。
 青銅がひしゃげ、冷たい刃が体に食い込む。
 怪物の血に濡れた刃に会心の笑みを浮かべる戦士。
 だが、大上段に振り上げられた戦斧が振り下ろされると、戦士の顔に驚愕が浮かんだ。
 まさに野獣の如き雄叫びを上げながら怪物が振り下ろした戦斧は、戦士が咄嗟に身を捩ったせいで頭ではなく肩の分厚い装甲とその下にある肩骨を砕くにとどまった。
 両者、痛み分け。
 否、規格外の体力を持つ怪物にとって、この程度の負傷はまだ戦闘続行に支障ない。
 が、はたして怪物と比べて華奢としか言いようのないこの生き物にとって、肩の骨を砕かれるという負傷が如何程の意味を持つのか?
 その問いの答えは、明らかに精細を欠いた体捌きによって明らかになった。
 右手一本で握られた剣は明らかに鋭さと力強さに欠け、最早優勢は明らか。
 殺す。
 その意志を両目に込め、戦斧を振りかぶった怪物は突然脳天から尻尾までを貫く直感に従って右手側に飛んだ。
 その直後、見えない斬撃が怪物の尻尾の先を切り飛ばし、その頬をざっくりと裂いて髪を切り飛ばした。
 見えない斬撃はそのまま背後の木々に向かい、まるで怒り狂った大熊が暴れ回ったような破壊の跡をそこに刻み付ける。
 突然のことに「ぐぅっ」と息を詰め、怪物はこの超常の暴力を巻き起こした下手人に当たりをつけた。
 フードを下ろして今や青ざめた顔貌を陽の下に晒し、恐怖に震える箒を持つ怪人が、驚愕の視線で怪物を見やっていた。
 怪物は己の馬鹿さ加減に舌打ちをしたい気分を何とか堪える。
 あの子鬼が必死に教えていたではないか。
 箒を持つ怪人は、その箒を一振りするだけで子鬼をバラバラにしてのけると!
 ぎぃ、と砕けるほどの力を込めて歯を噛み締めて、それでも怪物は痛みを激怒に変えて箒の怪人に向かって突撃した。
 青ざめて恐怖に震えながら、箒を振り上げて打ち下ろす。
 そうして襲い来る不可視の斬撃を、怪物は紙一重で躱しながら滑るように、地を這うような低姿勢で、その長い尻尾で体のバランスを保ちながら突撃する。
 みるみる迫る怪物の姿に、半狂乱になりながら振り回される箒が見えない刃の群を産み出していく。
 だが、怪物はその全てを致命傷を避けてかいくぐる。
 安々と鎧を裂いて体中に幾つもの傷が産まれる、だが命を落とすような傷には程遠い。
 鎧の隙間からボタボタと血潮を撒き散らせながら、怪物は己を殺しうるもう一人の怪物に向かって疾駆する。
 あと、もう一跨ぎ。
 馬上の怪人の、その睫毛まで数えられるほどの距離に肉薄した怪物は、肺に吸い込んだ呼気を噛み締めた歯牙の隙間から吐き出しながら戦斧を振りかぶった。
 その瞬間である。
 突然、まるで蜘蛛の巣に囚われた蝶のように、怪物の身体が何かに捕まえられた。
 空気に、捕まった。
 そんな益体もない妄想が電流のように怪物の脳裏を駆け巡り、恐怖で震える敵に後半歩の所まで迫りつつも、その歩みを強制的に止められた怪物の脇腹に鋼の持つ暴力的な冷たさが突き刺さった。
 ぐうっ、と呻き膝を付くと同時に己を捕らえていた空気の網が何処かに消える。
 戦斧を杖替わりにしてゼエゼエと血泡混じりの息を付きながら左を見ると、あの黒狼が片手で握った剣を体中で支えて怪物にぶつかっていた。
 左手を戦斧から離して、今しも自分に突き込まれている剣の刀身を握ってへし折ると、その傷でまだ動けるのかと瞠目する程の動きで黒狼は背後に飛びすさって小剣を抜く。
 それに追いすがろうとしても、身体に食い込んだ剣の冷たさは現実のものだった。
 もう一度、こんどは気合を込める意味もあって「ぐぅっ」と唸って何とか立ち上がろうとした時、今までその顔面を守っていた小鬼の戦仮面が外れて落ちた。
 見えない刃に、留め具を切り裂かれていたらしい。
 両手で戦斧を握って何とか両足で立って、己をここまで傷つけた本物の戦士を見る。
 黒狼は、怪物が面を上げた途端に驚愕の顔つきで息を飲んだ。
 その背後で震えているローブ姿の怪人も、同じように唖然とこちらを見つめる。
 どうやら、まだ立てることに驚いているらしいと怪物は推測し、怪物は久しく浮かべぬ笑みをその顔に漂わせた。

「見事。だが、努々忘れるな。怪物とはしぶといものだと決まっている」

 いつの間にか、二人の背後や周りに先ほど傷めつけた鋼の戦士たちがズラリと揃っていた。
 多勢に無勢。
 だが、それもいい。
 何故生まれたかも分からぬ。
 何から生まれたかも分からぬ。
 何故生きているのかも分からぬ。
 何をすればいいのかも分からぬ。
 何もかもが曖昧模糊として霧の中。
 生まれてこの方、誰も教えてなどくれぬ。
 ただ、この心臓が、血沸き肉踊る闘争を求めていることだけは、何故か分かったのだ。
 ならば、この名前のない怪物は、ただ闘争を求めるだけの怪物に過ぎない。
 そう、決めたのだ。

「ぐっ……さあ、構えられよ」

 喉までせり上がってきた血を飲み込んで。
 怪物は斧を構える。
 黒狼が狼狽した様子で何かを口に仕掛けた瞬間、飛来した矢の雨を先ほど怪物を捉えた空気の網が捕らえていた。

「のちもにとちもちてらかちとなのいすら! からかなきいのに! からかなきいのに!」
「んちてらくちみちかい! みにみみきいみみしらもらてらなかい!」
「なかい! なかなみみしち!」
「もちまらてらなかい!」
「んなもにくいに! なかにかなのなとい!」
「くにすなもなみち! みにみみきいみみしらもらてららにくちすちい!」

 ワッと鬨の声を上げながら、森の中、怪物の背後から子鬼たちが弓矢や槍で武装してぞろぞろと突撃してくる。
 形勢逆転。
 今や狩るべき獲物たちは徒党を組んで戦うべき敵となって立ちはだかった。
 だが、目と鼻の先にいる瀕死の怪物を殺すくらい、戦士たちに取っては朝飯前だろう。
 怪物は己を助けるために臆病な気性を押し殺して駆けつけてくれた子鬼たちに申し訳なく思いながらも、意外にあっさりと己の終わりを覚悟した。
 戦斧を構え、黒狼の戦士に相対する。
 だが、先程まで燃え滾るほどの苛烈な戦意に燃えていたはずの両目は困惑と衝撃に泳いでいた。
 そのふがいない様子に、またしても怪物の心臓が怒りに燃える。

「どうしたっ 構えろ!」

 叱咤の声に、黒狼の戦士はハッと夢から覚めたような目をして小剣を構えた。
 その瞳に戻った戦士の光に、怪物は嬉しそうに笑った。
 また、心臓が高鳴る。
 戦士もまた、かすかに微笑んだ。
 その時、ずっと背後で曰く言いたげな顔で黙っていた黒ローブが何かを鋭い調子で命令したかと思うと、一団の中で最も大柄な戦士が黒狼を脇に抱えて無理やり黒ローブと同じ馬に乗せ、負傷した戦士たちも次々と馬に相乗りをしてその場を欠け去っていった。
 あまりの早業に怪物が一瞬呆然とした隙をついて、鋼の戦士団は一陣の風のように戦場を離脱した。
 無念。
 決着は付かなかった。
 悔しげに歯噛みした怪物は、ふと己の足元に何かが落ちているのを見つけた。
 金色の鎖の先に小さな丸くて平べったい物がくっついている。
 これは一体何だと拾い上げた怪物の手の中で、ぱかりと開いた蓋の中身を見て、怪物はこれが時を計るための道具だと瞬時に理解してのけた。
 そして、それに染み付いた臭いこそ、あの黒狼と切り結んだ死闘の中で散々に嗅いだものと同じであると、怪物は高鳴る心臓と共に気がついた。
 怪物は子鬼の薬師が自分を治療するに任せながら、ただ呆けたような表情でじっと掌の中でチクタクと時を刻むそれを見つめるのだった。


















――――――――――――――――――――――――――――――――
人外デカ女とロリ魔法少女の心温まるハートフルストーリーのはずがどうしてこうなった。
気がついたら殺し合いを書いてしまう己の嗜好が恨めしい。
続くかどうか分からない。
子鬼の言葉は「かな入力」で解いてみてください。



[28471] 02
Name: Jabberwock◆a1bef726 ID:8fce89f0
Date: 2011/06/24 00:59
 傷ついた怪物がその失った血肉を手に入れるためには、まるまると太った鶏が8匹と堅焼きのパンが10個、名前を知らない色とりどりの野菜や果物が籠に一杯必要だった。
 全身を摺りこまれた薬草の臭いでプンプンさせ、包帯でぐるぐる巻きになったまま怪物は目の前に用意された料理を一心に掻き込んだ。
 この集落で貴重な動物性タンパク質である鶏を何匹も潰したわけであるが、子鬼たちは文句を言うどころか怪物がいらないというまで何匹でも潰して持ってきそうな雰囲気である。
 それだけ、子鬼たちに取ってあの戦士団を撃退したことが嬉しく、また思いがけないことだったようだ。
 実際、子鬼のリーダーから何度も感謝をされた…………もちろん言葉はわからぬが、こういった言葉は理解できなくとも何となく分かるものだ。
 さて、山と積まれた果物の皮すら剥かずにモリモリと口元に運びながら、怪物は一人考えていた。
 まず一つ、鎧と武器がだめになってしまったこと。
 鎧は言うまでもなく、あの死闘のせいでボロボロになってしまっていて、武器の長柄戦斧の方も怪物の膂力で散々に鋼鉄を叩いたものだから、刃が潰れてほとんど鈍器のようになってしまった。
 次に一つ、果たしてあの鋼に身を包んだ戦士たちは一体何者であるか。
 あの時には深く考えなかったが、どうやら子鬼たちとは住む世界からして根本から異なる種属のようである。何故、子鬼たちを殺そうとしたのか、彼らとは戦争状態なのか、それとも過去の遺恨か、はたまた宗教上の理由か。
 言葉も歴史もわからぬ怪物に、理解はできぬ。
 理解はできぬが、ただ一つ分かることがある。彼らは又来るだろう。
 ならば、悠長にただ待っているなど、怪物にはできない相談だった。
 さて、ならば一体どうするか?
 最後にひとつ残った血のように赤い果物をじっと見つめ、怪物はゆっくりとそれを齧った。
 ただ待つなど、性に合わぬ。





――――――――――――――――――――――――――――――――





 怪物は水袋の中に詰まった薬草水をぐいと呷ると、丁度良い高さに地面から頭を出した大岩の上に腰を下ろした。
 鎧はもう一度子鬼たちに打ち直してもらっている為、丈の長い麻布の服を着こみ、上から革製の胸鎧とマントを羽織っている。
 麻布の服は上下が一体になった服で、大きな脚が自由に動けるようにと腰のあたりから切れ込みが入っている。顔料なのか染料なのか、森の色に紛れるような濃緑色に染め抜かれていた。
 さて、腰を下ろした怪物は背負い袋から一枚の紙を広げると、同じように取り出したインク壺と羽ペンを使って今まで観てきた地形を事細かに書き込み始めた。
 川、森、岩場、崖、山、誰に学んだわけでもなく、怪物は測量士もかくやと言わんばかりに正確な地図を描きはじめる。
 やがて作業を終え、じっと地図を見ながら怪物はふと思い出したように首からかかった金の鎖を胸元から引っ張り出した。
 鎖の先には、あの時拾った例の落し物がある。
 時間を計るこの精巧な機械を、怪物は「時計」と名付けた。
 怪物は時計に残るあの戦士の香りを少しだけ楽しんだ後、ぱかりと蓋を開ける。
 怪物がこの時計を殊更気に入った理由の一つに、文字盤がガラスで覆われていて中の機構が丸見えになっているということだった。
 寸分の狂いもなく金色の歯車や振り子がカチコチと動くさまは、怪物に感心と畏敬の念を抱かせるに十分な脅威である。
 これ程に精巧で緻密なものを生み出すような種属がこの世にいる。
 たったそれだけで、怪物は世界の広さをまざまざと見せつけられた気分になるのだった。
 文字盤の意味は直ぐに理解できた。
 一日の間に一番太い針が2週、細長い針が24週、中心から下にずれたところにある小さい文字盤の小さな針は86400も一日に回る計算になる。
 時間を小刻みにして分けるということを一体誰が考え出したのか知らぬが、非常に有用なことだと怪物は感心した。
 怪物が地図を作り始めてから、丁度太い針が三つ進んでいた。
 日が登り切る前の薄闇から始めたこの作業も、すでに昼行性の動物たちが動き出すような時刻になっていた。
 怪物は地図の空白をじっと見つめると、やおら微笑を浮かべた。
 自分の世界はこんなに狭い。
 まだ知らない世界が、こんなにも広がっている。
 これから知るべき事が、想像もつかないほどたくさんあるのだ。
 それを考えるだけで、怪物はなんだか胸が高鳴ってくるのだった。
 子鬼からもらった真っ白い紙を丁寧に折りたたむと、防水用の革ケースに入れて背負い袋にしまい直してから、怪物は己の身長ほどもある柄付き草刈鎌を杖替わりにして立ち上がる。
 まだまだ、先は長い。





――――――――――――――――――――――――――――――――





 その音を怪物の耳が捉えた時、丁度怪物はそろそろ帰ろうかと思い始めていたところであった。
 金属同士がぶつかり合う、硬質な音。
 魂消るような悲鳴。
 戦士たちの雄叫び。
 怪物の体中にめぐる血潮が煮えたぎった。
 闘争だ、闘争の音だ!
 怪物は両手に長柄鎌を持ったまま風の様に疾駆した。
 行く手を遮る木々の中を、まるで無人の野を駆けるかのような速度で進む怪物の耳に、闘争の現場で響く音がだんだんと近づく。
 もう、殆ど目と鼻の先にまで近づいて、それでも怪物は立ち止まらない。
 先日の闘争はこちらの奇襲で始まったが、今は既に戦端が開かれている。
 こんな所をこっそり見てから襲うなど、そんな悠長な戦い方をする気分ではなかった。
 木々の切れ目を飛び出した怪物が眼にしたのは、5頭の馬と、それが引いている幌付きの車。そしてその周囲で傷つき、倒れながらもそれらを守ろうと戦っている男女。
 そしてその周囲で馬車をぐるりと囲んで弓を射かけ、槍を突き込む荒々しい風貌の男達。
 果たして、どちらに味方をすればいいか?
 そんな思考は刹那のうちに終わりを告げる。
 勝ち馬に乗るなど、そんな詰まらぬ真似は御免被る!

「助太刀仕る!!」

 百里先にも届くばかりの大音量でそう叫び、咆哮を上げながら長柄鎌を右から左に大きく薙ぎ払う。
 突然現れた怪物に驚きの声を上げる間もなく、三人の男が胴から両断されて地面に転がった。
 当然、その場にいた者は混乱し、狼狽した。
 特に今まで攻め手側だった包囲者の方の狼狽は際立っている。
 怪物に果敢にも立ち向かおうとした戦士たちは、一戟切り結ぶことすら難しく、風を切り裂く音が聞こえたかと思えば腕やら脚やら首が宙に舞っているという寸法だった。
 わらわらと80人ばかり集まっていた攻め手側の男達は、接近戦は分が悪いと悟ったのか、遠距離からの攻撃に切り替えた。
 矢羽が立てる特徴的な音と共に数十本の矢が飛んでくる。
 が、怪物はニヤリと挑発的な笑みを浮かべながら矢の雨の中に突撃した。

「ぬるいッ! この程度、見えない刃に比べれば!」

 あの怪人が放った不思議な斬撃を躱した時のように、地面を這うように戦場を駆ける。
 瞬きするように最高速度に達した的は更に小さくなり、弓手の戦士たちは狙いを迷う。
 一握りの熟練達はこちらに向いたままの怪物の顔に向かって次々と矢を放つが、ほんの少し怪物が頭を動かすだけでその堅牢な角が矢を弾いた。
 漸く他の物が同じように矢をつがえた時には、怪物の間合いである。
 異形の足が地面に蹴爪の痕を残しながら、人外の膂力と瞬発力によって振り回された長柄鎌が草の代わりに戦士たちの首を刈る。
 中空に驚愕の顔を貼り付けたまま、戦士たちの首が舞うと、リーダー格らしいの男が何かを叫んで笛を吹く。
 それを聞くや否や、まさに蜘蛛の子を散らすように攻め手側の男達は四方八方へ逃げ散っていく。
 それを見て、怪物は激怒した。

「待てッ! 戦え! 最後まで! 私と戦え! 臆病者共め、己等が始めた闘争だ、最後まで続けよ! 武器を取れ、腰抜け!」

 先日も同じように決着が付かずに逃げられて、怪物は消化不良の闘争心が爆発する。
 地面に捨て置かれていた槍を引っ掴むと、逃げる男たちの背中に向かって次々と投擲した。
 矢弾では絶対に立てられないような風斬音を立てて、地面とほぼ平行線を描くような美しい軌跡を描いた槍は男達を次々と串刺しにする。
 まるで吸い込まれるように飛来した投槍に背中から心臓を貫かれ、血塗れの死体が量産される。中には二人同時に身体を貫かれて絶命するものまでいた。
 だが、いくら開けた場所とはいってもここもまた森の中。
 取り逃がした男達は森の木々に隠れて何処かへ消えて行った。
 また、取り逃がした。
 怒りのあまり、怪物は地団駄を踏んで掴んでいた槍をへし折って投げ捨てる。
 まだ、敵はいないのか。
 地面に突き刺しておいた長柄鎌を引きぬいてぐるりと振り返った怪物が見たものは、まさに屍山血河と呼ばわれるような惨状。
 真っ二つになった死体から内臓が溢れ、緑の地面を赤く染めている。
 馬車の周りには恐怖と決死の視線で怪物を見る男女の群、そこまで見て怪物は漸く闘争が終わったことを実感した。
 全身に漲っていた怒りと緊張が弛緩し、怪物は腰に吊るしていた水袋からゴクリと中身を飲んだ。
 ちらりとその場に残った者たちを見て、ふと怪物は気がついた。
 先日己が戦ったあの戦士たちと、今戦った奴らは見た目が良く似ている。恐らく、同じ種属なのだろう。
 もしかすると、あれらの行方を知っているのかもしれぬと考え、そう言えば彼らの言葉は理解出来ないのだったと小さく溜息をつきながら怪物は馬車の方に向かって歩いた。
 恐怖に青ざめた顔で、鞠のように膨れた体格の男が一人、怪物の前に進み出た。
 男は震える声で何かを怪物に言ってから頭を下げる。たとえ言葉がわからずとも、さすがにこれは何の意味か分かった。
 怪物は煩そうに手を振って黙らせると、さてこれからどうしようかと右手で顎を指すって思案する。
 目の前の人々はどうみても怪物との闘争を満足させられるような手合いではない。
 うろうろと視線を左右させると、ふとその視線が一つの馬車で止まる。
 先程の戦いで流れ弾があたったのか、繋がれたまま馬が死んでいる。
 まだ何かを喋っている太った男を無視して怪物はその馬車にノシノシと歩み寄ると、死んだ馬を外して投げ捨てると、荷台からこぼれ落ちた荷物を放り入れた。
 そこで漸く怪物が何をしようとしているのか理解したのか、慌てた様子で男が怪物と馬車の間に割り込んで何かをまくし立てる。
 もし怪物が言葉を理解できたなら、少しは考えたかもしれなかったが、残念ながらただの雑音でしかなかった。

「命を助けてやったのだ、これくらいは代価として頂こう」

 そう言って怪物がゴトゴトと馬車を引っ張り出すと、今や血の気が完全に引いた顔で男が喚きながら怪物に食ってかかろうとするのを、筋骨隆々とした男と細身の男がその両脇を押さえて羽交い絞めにする。
 二人の男は緊張に強ばった顔で怪物をチラチラと見ながら、何とか太った男を落ち着かせようと何かを喋りかけているが、羽交い締めにされた方は今や半狂乱の体で喚き散らしている。
 どうやらよほど大事なものが乗っているらしいと考えながら、怪物は終いには「ウワァァァアァァ!!」と号泣し始めた男を尻目に森の中に消えた。







――――――――――――――――――――――――――――――――






 ガタゴトと森の中の獣道を進みながら、怪物はいい気分で歩みを進めた。
 風に木々が揺れる音、小鳥の囀り、小川のせせらぎ、それらすべてが渾然一体となって調和している。
 怪物はぼんやりとした思考で「まるで歌のような……」と考え、はたと気がついた。
 そう、歌。
 何か、自分は歌を知っていたはずだ。
 まるで心の中にゆっくりと沈み込むように、怪物は己が生まれた時から心の中に確かにあった「歌」を歌った。



  もし貴方があの国に辿り着いたなら もし貴方が私の故郷に辿り着いたなら
  どうか表通りの煉瓦の家に 金木犀の咲き乱れる煉瓦の家に
  どうか訪ねてくれないか 赤い髪の可憐な少女を
  もしも少女が「あの人は何処に」と尋ねたら どうか答えてくれないか
  「あいつは戦い、龍になった」と 答えてくれないか
  私の両腕は血で汚れ 貴女の綺麗な髪を汚してしまう
  私の両手は鋼を持つことしか知らず 貴女の両手の握りかたを忘れた
  私の両足は敵味方の屍を踏みしめ 貴女の家には踏み込めない
  私の喉は戦の雄叫びを上げ続け 愛を囁く言葉を失った
  戦の魔力に私は捕まった 私は戦い続ける 祖国のためでなく 貴女の為でなく
  私は戦い続ける 戦友のためでなく 大義のためでなく ただ己の戦を続けるために
  私は龍になった 私は龍になった 私は戦を貪る龍になった
  今日も私は戦場にいる 私が滅びるまで 戦は終わらない
  嗚呼 どうか誰か 私の故郷に辿り着いたなら
  嗚呼 どうか誰か 私の愛した少女に出会ったなら
  伝えてくれないか 私が龍になったと 私は帰らぬと
  伝えてくれないか 貴女の愛した人は 名前を失い 龍になったのだと



 そこまで歌いきり、思わず怪物は鉛を飲み込んだようになった。
 自分が歌った低音域にぴったりと合わせるように、誰かが高音域を歌っていた。
 まさか、妄想だ。
 そう切り捨てようとした、その時である。

「成立年代不明、作者不詳、『ドラゴンルーラーの悲哀』第一楽章、ミネアポリスの大図書館で埃を被る古歌を、しかも、今はもう失われた古アンギラール語で歌う、貴女は一体誰?」

 怪物の総身に電撃が走った。
 馬車の固定具を手放し、御者台の後ろに垂れている布を捲った。
 果たしてそこには、両手両足を鎖でつながれ、鈍色の鉄檻に囚われた小さい人影。
 褐色の肌と檻の中一面に広がる金色に近い栗毛、その両目は玻璃玉のように透き通った水色で、驚愕の視線を向ける怪物を水面のように写している。
 そして、その額から、細長い一本の角が天に向かって生えていた。

「お、お前は、一体……」
「それはこちらのセリフなのですが、まあいいです。私の名はレギオー。全言語交渉士です」
「なぜ、私の言葉が通じる」
「また質問ですか……。先程も言ったようにそれは私が全言語交渉士だからです。それが意味を持って発せられる言語である限り、私が理解出来ない言葉はない。さあ、今度は貴女が名乗る番です」
「私は怪物だ、名前はない」
「…………それだけですか?」
「ああ、語るべき歴史は、私にはない」
「はぁ……」

 若干の呆れを込めながら、レギオーは小さく溜息を付いた。
 そしてその透明な瞳に一瞬だけ狡猾な光が過ぎった。

「ところで、一つ提案があるのですが」
「なんだ」
「この戒めを解いて頂きたいのです。汚らしい蛆虫どもにこのような枷をかけられてしまって不自由極まりない」
「分かった」
「え………………」

 何故か唖然とした顔のレギオーを他所に、怪物は鉄格子を力任せにひん曲げると、へたりこんでいたレギオーの両脇に手を挿し込んですくい上げ、御者台に座らせてその両手足にはまっていた鎖と枷を引きちぎった。
 まるで紙か何かで出来ているかのように、怪物の手の中で引きちぎられた鎖は、突然白熱したかと思うとパッと一瞬だけ光って粉々になってしまった。
 怪物は驚いて鎖を離してしまったが、手から離れる一瞬に掌を熱で軽く焼かれて「あちち」と手を摺り合わせる。
 その様子を呆然と見守っていたレギオーは、震える声で恐る恐る怪物に声をかける。

「あ、ああ、あの、く、首輪、も、その」
「おお」

 そう答えて、その細い首を殆ど絞め殺すようにして嵌っていた黒くて頑丈そうな首輪に両手をかける。
 レギオーはそこで初めて怪物の両手の指が合わせて16本もあることに気がついて顔色を青ざめたが、その尖った爪を持つ指がぶちりと首輪を引き裂いて捨てると、その小さな瞳がこぼれ落ちるのではないかと心配になるほど目を見開いた。
 怪物は引きちぎった首輪をすぐさま投げ捨てると、案の定首輪は投げ捨てられた先で真っ黒な炎を上げて燃え尽きた。
 さっきの白い光と違い、あの炎はなにか嫌な感じがするな、と怪物は首輪が完全に燃え尽きるまでそれを見守ると、漸く視線をレギオーに戻してギョッと身を引いた。
 レギオーはその折れそうなほど華奢な両手で己の首元をさすっていた。
 その両目から、滂沱のごとく涙を溢れさせながら。

「な……い……首輪、首輪が……な、い…ッ。無くなった……ッ! 首輪が……、あ、ああぁ」
「い、いけなかったのか」
「ち、がいます……ちがう……ああ……ない…首輪が、外れた!!」
「外したほうが、良かったか」
「あ、あり……ありが、とう、ありがとう……、ああ……神様!」
「神じゃない。怪物だ」

 その言葉には答えがなかった。
 いや、もしかしたら答えたのかもしれなかったが、泣き声と一体になって聞き取れなかった。
 わんわんと子供のように泣きくれるレギオーを目の前に、途方に暮れた怪物はぎこちない手つきでその頭を撫でる。
 すると、レギオーはちょうど怪物のお腹の辺りに抱きついて、腹の中にたまった物をすべて吐き出すように泣き暮れた。
 額の一本角が、当たって少し痛い。
 だが、不思議と怪物は嫌な気分にはならなかった。









――――――――――――――――――――――――――――――――
狂言回しにして相棒登場



[28471] 03
Name: Jabberwock◆a1bef726 ID:883a854c
Date: 2011/06/24 00:58
 隻腕の大将軍ティメイアス・グラインワッドは戦場を眺めていた。
 遠眼鏡の中の限られた視界の中、敵右翼がクロスボウ中隊の一斉射によって壊乱する様が写り、隻腕の将軍は忌々しげに舌打ちをした。

「ええい、進歩のない奴らめ、歩兵に置き盾くらい持たせたらどうだ、歯応えのない。騎兵隊を突撃、踏みつぶして左翼に抜けろ」

 隣に控えていた伝令兵がすぐさま鏑矢を撃ち上げる。
 「びょう」という特徴的な飛翔音に応えて、戦場を迂回して森の中に潜んでいた第一騎兵中隊が突撃を敢行。
 突撃ラッパと共にランス騎兵が後退中の敵右翼を粉砕、そのまま中央の背後を走りぬけて敵左翼の背後に喰らいつく。
 その際ランス騎兵の後ろをついて行った弓騎兵隊が、行きがけの駄賃だと言わんばかりに敵中央に矢の雨を浴びせながらそれに続いた。
 無論、そんな指示は出していないし、事前の打ち合わせにもなかった。
 その様子に、ティメイアスの口に思わず苦笑が漏れる。

「ふん、ボルチャめ、俺への当て付けのつもりか。だから今回は貴様の出番は殆ど無いと言い含めたというのに」

 髪も髭も積み重ねた年月を用意に想像できる程の白髪で、短く刈り込んだそれを片腕で撫でさすりながら、リンディアール王国の宿将は戦場を見渡して「勝ったな」と呟いた。
 
「歩兵大隊突撃。追い散らせ」

 またしても、鏑矢が撃ち上げられる。
 鷺が泣くような甲高い「ピュー」という音が戦場に響き、出番を今か今かと待っていた歩兵大隊が雄叫びを上げながら敵陣中央に突撃する。
 既に士気崩壊を起こし始めていた敵軍は、ぎらりと光る凶器を掲げて迫り来る戦鬼の群に、明らかに尻込みした様子で、第一陣が敵にぶつかるや否や最後尾から我先に逃走を始めた。
 最前列のハルバード兵が振り下ろす一撃で、敵陣がまるでパイをカットするかのように切り裂かれていく。
 更に再装填を終えた重クロスボウ中隊のさらなる斉射を三時方向からまともに食らい、士気を完全に挫かれたのか、まさに算を乱すように逃げ始めた。
 
「なんと、あっけない。もう少し踏ん張るかと思ったが、所詮蛮族か」

 ごおごおと戦場の雑音が渾然一体となって、小高い丘から戦場を俯瞰するティメイアスの耳に入る。
 騎兵隊に再度指示を出そうとして、すでに弓騎兵隊が中心になって敵を追撃している様子が目に入った。

「ハハハ、ボルチャめ、ランス騎兵まで勝手に率いて……デグランが顔を真赤にしている姿が眼に浮かぶわ」

 ゲラゲラと面白そうに笑う将軍のそばに、緊張の面持ちで伝令がやってくる。
 その報告に耳を傾けた途端、将軍の顔に訝しげな表情と不愉快気なものが同時に浮かぶ。

「分かった、すぐに行く。デスピン!」
「ははっ」
「あとを任す。無用な損害を出すなよ」
「了解しました!」

 副官に指揮を引き継ぐと、ティメイアスは馬首を返した。
 果たして、戦場から離れた後方にあるテント群の中、野戦病院のテントの近くに彼らはいた。
 一目見て上等なものと分かる鋼鉄の鎧に身を包んだ騎士たち、そして彼らに肩を貸して治療所に運ぶ衛生兵たち。
 その場に集っていた兵士たちがティメイアスに気がついて敬礼をするが、煩そうに手を振ってそれをやめさせると彼は如何にも敗残の兵といった風情を醸し出す騎士たちの方へと馬を進めた。
 
「ははぁ、これはこれは、誉れ高きアルピナ王女殿下の騎士閣下ではないかね。このような所へ何用かな? 生憎と俺達は泥臭い戦争の真っ最中でね、諸君らの求めるような綺羅びやかな栄光とは無縁の場所であるが? ここには悪漢に拐われた美女も、古代王国の遺跡も、暴虐に浸る悪代官もおらん。どこかで道をお間違えか?」

 そう言って皮肉たっぷりに馬上から言葉を投げかけると、傷ついた騎士たちはこの侮辱に顔を青ざめながらも食ってかかるようなことはなかった。
 背後に王族が控えているとは言っても……いや、だからこそ、王国の軍部から圧倒的な支持をうけるティメイアスに迂闊なことは言えない。
 彼は面白くなさそうに鼻で笑うと、さすがにこれ以上は不味いと思い馬から降りた。
 まことに不愉快なことではあるが、兵卒達の前で堂々と将軍が騎士を軽んじるわけにも行かぬゆえ。
 役職の位階は彼の方が圧倒的に上だが、家の格やその他諸々の形にならない「貴族のあれこれ」が絡み付いている。
 面倒なことだと、ティメイアスは内心大きく溜息を付いた。
 彼の半生は目の前にいるような「騎士」などと名乗って無意味な戦争を繰り返す、「馬鹿」と同意語の無知蒙昧の輩を王国から駆逐するために費やして来たと言っても過言ではなかった。
 当然、貴族たちからは蛇蠍のごとく嫌われ、何度も暗殺されかかった。だが、ティメイアスは生き残り、騎士たちは今や叙事詩やお伽話で語られる過去の遺物へと変わろうとしている。
 だというのに、世間知らずの姫君のせいでまたしてもこういった輩が現れ始めたことを、ティメイアスは苦々しげに見ながらも積極的に排除しようとはしてこなかった。
 既に時流は平民出身の職業軍人で構成される軍部が圧倒的に主流だ。
 今さら彼らのようなカビの生えた時代の遺物を持ち出したところで、良くて妃殿下の手慰み程度の価値しか無い。
 ティメイアスは無駄を嫌う男だった。
 故に、騎士達の徹底した対抗心を完全に黙殺してきた。
 時代遅れも甚だしい中世時代の勇者めが、相手にするのも馬鹿馬鹿しい、とばかりに。
 皮肉にも、そうすることで余計に相手の敵愾心を煽ってしまったが……。
 そして、歳若い騎士に両脇を支えられながらこちらへ歩み寄る指揮官らしき騎士の前へと進む。
 一体何処で何と戦ってきたものか、騎士の鎧はまるで破城槌を正面から叩き込まれたようにへしゃげて使い物にならなくなっている。
 ティメイアスの前までやってきた騎士は蒼褪め、屈辱に歪んだ顔で敬礼をした。

「話を聞こうか」
「どうか、傷ついた部下たちを治療してやって欲しい。代価は、払う」

 まさに、血を吐くような口ぶり。
 背後に控えた二人の騎士も、屈辱に唇を噛んで震えている。
 冷徹な眼差しでそれを見ながらティメイアスは「これだよまた始まった」と呆れ返っていた。
 どうしてこいつらは、百年前から脳味噌の中身が変わらんのだ。
 どうせ今こいつの頭の中には名誉だの誇りだのといった、糞の役にも立たない言葉が踊り狂っているに違いない。そう考えて、中世からよくもまあこうも変わらずいられると、ティメイアスは重い溜息をついた。

「お前は馬鹿か」
「何……」

 ティメイアスは侮蔑の視線を相手に浴びせながら、口の中に湧いた苦いものを唾と一緒に地面に吐き捨てた。

「俺は王国の将軍だ、お前たちは王国の戦士だ、それらを助けるために何故代価など貰う必要がある? 俺達は王族のためではなく国家のために戦っているのだ。貴様ら貴族のおままごとと一緒にするな、馬鹿馬鹿しい。職業軍人は出自など気にせん。ブリストル! 来い!」

 衛生兵に混じってテキパキと治療の指示をしていた軍医を呼ぶ。
 呼ばれたブリストルは飛び上がって駆け寄った。

「は、はは、はい!」
「全員に滞り無く治療を行え。俺かそいつらがいらんというまで治療を続けろ。分かったな」
「は、はい、りょ、了解しました!」

 僧侶上がりの軍医ブリストルは吃音癖があるが、優秀だ。
 最高の頭脳と天才的な外科内科の心得があると言うのに、この吃音癖とチビでハゲでデブという見た目、更には孤児出身の僧侶という出自のせいで30になるまで僧院の図書館で冷や飯を食っていたのをティメイアスが引っ張ってきたのだ。
 
「俺はテントに戻る。後は任せたぞ」

 そう言って、それきりティメイアスは騎士達に興味を失った。
 現在のところ王国で最も忙しい将軍である彼にとって、傷つき現れた騎士達が一体何と戦っていたのかなどという事は、今日の晩飯を何にしようかということよりも重要度の低い些事であった。
 その認識を180度変えることなる契機は、騎士達の一行に彼が目に入れても痛くないと思っていた可愛い可愛い姪っ子が加わっていたと知った時である。
 隻腕の大将軍は怒髪天を衝く勢いで怒り狂い、アスピナ姫に対する不敬罪半歩手前……いや、すでに不敬罪に足を踏み入れた罵倒をがなり散らして、姪子とその幼なじみを自分のテントに引きずり込んだ。
 騎士たちが何人か阻止しようとやって来たが、ティメイアスに忠実な兵士たちに抑えつけられて救護テントに放り込まれた。
 ティメイアスは姪子をソファに座らせ、黒髪の青年を地面に放り捨ててから爆発する。

「このクソったれの大馬鹿者がっ! 俺はいつか言ったはずだ、イソラに傷一つでも付けてみろ、テメェの粗末な一物をちょんぎって口に捩じ込んでから叩き斬って、フェデネールの沼に捨ててやるとなッ! お前はあの時なんて答えた? ええ? 俺はお前を信じて任せたんだ! それなのに! この体たらくは何だぁええぇ!? ドアホの尻軽バカ姫の言葉にまんまと乗せられやがって、その首に乗っている御大層な物は西瓜か! そこに直れ、約束どおりにしてやる! そんなに英雄になりたきゃ今ここで英雄たちの碑文に加えてやらぁ!」

 そう言って長剣を引きぬいた彼の腰に、可愛い姪っ子がしがみつく。

「や、やめて伯父様! 私が悪いんですっ」
「イソラや、どきなさい、いま俺は男同士の約束も守れない卑劣な嘘つきを殺さないといけないんだ」
「違う、違うんです、私が悪いんです。お父さまが……あ……」

 しまった、というような顔でイソラが口を噤む。
 だがその一言でティメイアスの顔色は更に憤怒でどす黒くなった。

「ミュラーの阿呆が何だと? イソラ、言いなさい」
「…………」
「そうか、言いたくないなら仕方ない。おい、そこの詐欺師野郎、説明しやがれ」
「あ、ダメ! リーン!」

 必死の形相で止めるイソラと、今にも首を跳ねたくてうずうずしているティメイアスを見比べたあと、傷が熱を持ち始めたのかぼたぼたと汗をかきながらリーンは口を開いた。

「ミュラー様はアスピナ様に今度新しく始める事業に融資をして頂き、その見返りにイソラを騎士小隊付き魔女として派遣することを了承されました。俺はイソラの従士として既に組み込まれていて、四六時中監視がついてご報告できませんでした。お怒りご最も。如何様にも処罰は受けます。このリーンはティメイアス様との約束を破り、イソラを危険な目にあわせました」

 そう言い切って、左肩の骨が粉砕骨折を起こしているにも関わらず、リーンは片膝をついてティメイアスに臣従の礼をとった。
 見様によってはそれは、首を跳ねられる前の罪人のようにも見える。
 その執行者たるティメイアスは、先程の怒りが何処かにいったように凪の表情であった。
 が、リーンとイソラはその顔が恐ろしい。
 二人は知っていたからだ、ティメイアスが本当に激怒した時、その顔から表情というものが抜け落ちるということを。
 彼はゆっくりと剣を地面に突き刺して、石像が喋ったかのように無感情な声で話した。

「リーン」
「はい」

 ティメイアスは地面につばを吐いた。

「あのクソ馬鹿共に様付けなど勿体ねぇ。あいつらの呼び方なんざ「ビッチ」と「ヌケサク」で充分だ」
「……はい」
「イソラ」
「は……は、はい」

 ティメイアスは優しい手つきで腰元に抱きつく少女の柔らかい髪を櫛った。

「無事でよかった。俺はとうとうこの歳まで子供が出来なかった。お前のことを娘のように思っている。だから、どうか危ない真似はしないでおくれ。いいかい?」
「は……い……伯父様……わたし…ど、どうしたらいいか……わ、分からなくて……お手紙も、なんども送ったのです……で、でも……」

 泣き出したイソラを片腕で抱きしめながら、鷹のように鋭い目付きで跪く青年を彼は睨んだ。

「リーン」
「はっ」
「イソラをこうして無事に連れ帰ってくれた功を鑑みて、その首を落とすのは止めておく。俺も今回は考えが甘かった。まさかあの恥知らず共がここまでするとはな……。治療を受けろ。あの騎士たちとは別のテントで受けられるように手配してある。傷が癒えたら、話を聞きたい」
「仰せのままに」
「行け」
「はっ」

 気絶をするほどの激痛だろうに、黒髪の青年騎士は泣き言一つ漏らさずに身を翻してテントを去った。
 あんな気のいい青年が、大人同士のどろどろした争いに巻き込まれている。
 それを考えただけで、ティメイアスの胸を刺すような痛みが襲った。
 いつの間にか泣き疲れて眠ってしまった姪子を抱き上げてソファに寝かせ、その頬にキスをする。
 その場に跪き、ティメイアス・グラインワッドは握り拳を眉間に当てて、今はもうこの世にいない彼の妹……イソラの母に祈った。
 「取り替え子」と蔑まれ、魔女と恐れられ、それでも彼のことを「兄さん」と呼んで慕ってくれた妹を……。

「畜生め……政治なんてクソッタレだ。好き合った子供たちが利用される国を、俺は作りたかったんじゃない……こんな国…あんな指導者…畜生……畜生……アリステア、それでも俺は、この国を救う英雄だって云うのか……? 畜生……教えてくれよ……アリステア」

 不死身の隻腕将軍と巷で恐れられる男の、誰にも聞かれぬ泣き言は、ただ虚しくテントの中でかき消えて、あとには少女の安らかな寝息だけが残った。







――――――――――――――――――――――――――――――――






「と、そういう経緯で此れを手に入れた」

 そう言って締めくくりに怪物が例の金時計をさし出してみると、既に充分以上に顔色が悪くなっていたレギオーは「見せてもらっても?」と断ってから金時計を精査した。
 そして、酸欠の魚のように「あわあわ」と口をパクパクさせる。

「どうした」
「ぐ……ぐらいんわっどけのもんしょう」
「何だそれは」
「あ、はは、はははは、おわった、じゆうになって、もうおわった、あは、あははは、あはは。くる、ぜったいくる、せきわんのてぃめいあすが、ふくしゅうしにくる、かたうでのおにが、あははは、もりをやきはらいにくる」

 壊れたように笑い声を上げるレギオーを前に、怪物は首を傾げながら金時計をその手にとった。

「持ち主と決着が付かなかったのが心残りだ」
「殺してないんですか!!」
「うおっ、あ、ああ、あの程度で死にそうになかった」

 そう答えると、掴みかかったままレギオーはぐったりと脱力して怪物の胸の間に顔を埋めた。

「よ……かったぁ……」

 その言葉に、怪物はむっとする。

「良くない。あんなにドキドキする殺し合いは初めてだったのに」
「良かったんです! もし殺してたら、隻腕のティメイアスに森ごと焦土にされるところでしたよ!」
「何だって!?」
「ようやく理解して頂けましたか」
「なおさら惜しい! そんな奴が来なくなるなんて!」

 レギオーはこんどこそ完全に脱力し、怪物の胸の中でしくしくと泣きはじめた。
 自分が一体どんなまずい事を言ってしまったのかと、怪物はやはり首をかしげた。

「おい、角が当たって痛い」
「当ててんです」








――――――――――――――――――――――――――――――――
人間パートがくどい。
怪物のほうが頭からっぽで気楽だ。



[28471] 04
Name: Jabberwock◆a1bef726 ID:d84a8a1e
Date: 2011/07/03 00:52
 怪物は己の隠れ家にレギオーを通し、干し草に麻布をかぶせて作ったクッションに座らせると、自分はこの廃墟に最初からあった崩れかけの石の玉座に腰掛けた。ちなみにこちらにも子鬼たち謹製のクッションが乗っている。
 レギオーは興味深そうに辺りをキョロキョロと見ながら腰を下ろすと、大きな溜息をついた。
 その服装は鉄檻から助けだした時のまま、灰色の貫頭衣の上から黒地に赤く複雑な幾何学模様が織り込まれた外套を羽織っている。
 その足元は元々外を歩かせることを想定していないのか、実用性皆無の絹製の部屋履きであった。
 ぞろぞろと伸びていた髪の毛は自分で頭の後ろで一つに編みこんで、ボールのように纏めてしまっていて、その様子を見ていた怪物はいずれ自分もやってもらおうかと考えていた。

「思ったよりも小奇麗な場所ですね。驚きました」
「最初はひどかったな。そこら中に苔や黴やキノコやらが生えて、おまけに白骨がゴロゴロ転がって汚らしい有様だった」
「ご自分でここまで?」
「内装は自分で整えた。掃除は、目隠しして道が分からないようにしてから連れてきた小鬼どもにやらせた」
「子鬼?」

 訝しげな顔をするレギオーに、怪物はそう言えば子鬼たちの説明をしていなかったなと納得すると、石畳が剥がれて下の地面が露出している場所へ、16本の指を使って子鬼たちが槍を振り上げながら大騒ぎをしているさまを流れるように描いた。
 
「こんな奴らだ」
「す、凄い……」
「何だ、珍しい種属なのか?」
「あ、いえ、そっちではなくて……何処でこんな描き方を学んだんですか? 以前にブルカブルクの大聖堂で見たフレスコ画みたいです」

 その言葉に、怪物は笑った。

「私が偉い学校を出たように見えるか? だとしたらお前との付き合い方を考えないとな」

 そう言ってカラカラと笑う怪物の前で、レギオーは恥じ入ったように俯いた。
 肌の色のせいで分かりにくいが、どうやら耳の先まで真っ赤になっているようだ。
 一頻り笑ったあと、怪物は「さて」と一息ついてから己が描いた子鬼たちを指さす。

「で、どうだ。こいつらの本当の名前はなんて云う?」
「……リージェナーの奉仕種属に似ていますが、彼らはこんなに……その、なんというか、活発な質ではありません。創造性も皆無ですし、そもそも自分たちだけで集団生活を行うということが出来る生き物でもありません。……この生き物、他に特徴は?」
「それなりに大きな集落を作っているな。鉱山から鉱物も掘っているらしいし、家は日干し煉瓦と木造が半分ずつといった塩梅か。ああ、それと雄と雌で全然顔身体つきが違うな」

 レギオーがハッと何かに気がついたような顔をする。

「そう言えば、辺境域で……いや、でもそんなお伽話みたいな話が……?」
「見当がついたか?」
「リージェナーの奉仕種属という、支配層に売り買いされる奴隷種族がいるのですが、彼らは元々太古の昔、人間がこの大陸に来る前に大きな都市国家連合を形成していたと言われます。統一王国が打ち立てられたときにその殆どは捕らえられ、奴隷としての人生を運命づけられます。ただ、物の本によると辺境域に近い場所にあった少数の都市国家は統一王国がやってくる前に樹海へ逃げ、人跡未踏の奥地で今も生きているとか……。まあ、お伽話のたぐいです」
「ふむ。しかし信憑性は高いじゃいか? 現にいるぞ」
「そうなんですよね……しかも彼らの特徴は「男は小柄だが全身にみつしりと筋肉が詰まり、醜い顔立ちである。女は同じやうに小柄だが、男よりもよほど身体に丸みがあり、豊かな肉(シシ)置き、そして卵型の愛らしい顔つきをしている」と物の本にあります。男性は肉体労働の奴隷に、女性は……その、そういった趣味を持った男性の奴隷として今は流通しています。元はこういう一つの種族だったのが、今は長年の品種改良でそれぞれ別個の種属となってしまっています」
「……ほう」
「そ、そんな目で見ないでください。私が考えついたわけじゃありません」

 とは言うもののどこか恥じ入った様子で顔を伏せたレギオーを見て、怪物はそう言えばレギオーも奴隷のように鎖に繋がれていたことを思い出し、この話題は此れ以上触れないことにした。

「で、大昔のそいつらの名前はなんて云う?」
「……すみません、文献が散逸して、よくわかっていないんです。しかも残っているのは統一王国が残した一方的なもので、彼らは「小人族」と呼称していたようですが、それも数ある呼び名の一つだったようです。ちょうど私の種属が「一角人」とあだ名されるような、正式な名前ではなかったと思います」
「ふむ……では子鬼でいいか」

 そう、あっけらかんとした口調で言い切った怪物をじっと見つめた後、レギオーは「そうですね」と笑って頷いた。

「じゃあ、このクッションなんかも子鬼たちが作ったんですか?」
「ああ、なかなか手先が器用な奴らだ。絵心は残念ながらなかったが」

 レギオーはクスクスと笑った。

「察するに、こういったものを提供してもらう代わりに彼らを外敵から守るという事ですか?」
「まあ、そうだ。そうそう、そう言えばつい先日なんだが……」

 そう言って怪物が先日あった壮絶な死闘とその顛末を語って聞かせると、レギオーの顔色が加速度的に悪くなり、ご存知のような顛末となったのだった。




――――――――――――――――




 しばらくしてレギオーが落ち着いて、二人は子鬼たちの集落を訪ねてみる運びとなった。
 長い間囚われの身となっていたせいか、足腰の弱っているレギオーを怪物が抱き上げ、片腕と両足、そして尻尾を使って木々の間を飛ぶように進む。
 如何にも硬そうな枝葉がとんでもない速度で二人の周囲をカッ飛んでいく。
 その間レギオーは恐ろしい速度で通過する景色に顔色を無くし、まるで親にしがみつく幼子のように怪物身体に顔を押し付けて視線を伏せた。

「高いところは苦手か」
「そういう訳ではありません、が、この速度は少しスリルがありすぎます」
「いい経験だろう」
「ええ、一度で十分です」

 震える声でそう答えるのを他所に、怪物はレギオーを慮って今後この移動方法を自粛するか、あるいは相手に慣れてもらうほうがいいか頭の中で計り、最終的に後者を選んでいた。
 まあ、すぐに慣れるだろう、とあっさり片付けて怪物は子鬼たちの集落の直ぐそばで地面に降り立った。

「着いたぞ」
「お、下ろしてください」
「いいのか?」
「え?」
「立てそうにないが」

 笑いを含んだその言葉にムッとした顔でレギオーは視線を彼女の方に向けた。

「立てますッ」
「分かった」
「あっ、きゃっ」

 ひょいと予告なしに腕を離され、垂直に落ちたレギオーは地面に積み上げてあった干し草の山に落下して体中を干し草まみれにした。

「な、なにするんですか!」
「はは、は、ほら、立てると言ったろう、行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って下さい、今行きますから」

 ノシノシと先に歩き出す怪物に、レギオーは慌てて追いすがった。自分で言ったとおり、少なくとも腰が抜けて歩けぬということはないらしい。
 二人でそのまま先に進むと、丁度怪物の背丈と同じくらいの高さをした石壁が目の前に現れる。
 突然視界に現れたそれにぽかんと呆気にとられるレギオーを他所に、怪物が門扉に近づくと見張り塔に控えていた子鬼がけたたましい音を立てて鐘を鳴らし、樫製らしい頑丈そうな扉がガラガラと巻上機の音と共に跳ね上がっていく。
 完全に扉が開くや否や、一匹の子鬼が走り寄ってきて怪物に何かをまくし立てた。
 が、当然ながらその言葉を理解出来ない怪物は、丁度後ろに来ていたレギオーを振り返った。

「頼む」
「え、あ、はい」

 怪物の影からひょいと顔を覗かせたレギオーを見て、子鬼は仰天した。

「おぉ! お前誰! カミサマの友達?」
「か、神様? 彼女のことですか?」
「おお、言葉通じる! そう、俺達のカミサマ、黒い山羊のカミサマ、女の姿で、大きい、つよい、無貌のカミサマ、しゅーぶにっぐらうす」
「しゅ、しゅーぶ、なんですって?」
「おお! お前も角ある! 神話にある、カミサマのつがい、昨日と明日をみるカミサマ、全て知る者、よーぐそっとほうと?」
「……いえ、我々は神ではない」
「知ってる」
「えっ」

 思いも掛けない切り返しに唖然とするレギオーに、子鬼はしたり顔で頷いた。

「カミサマは自分でカミサマ言わない。神話にそうある。いつもいきなり現れて、いつの間にか去っていく」
「――はあ、じゃあ、そういう事で」
「そういうこと、そういうこと」

 うんうんと嬉しそうに頷く子鬼を前に、脱力したレギオーは適当に返事をした。いちいち相手をするのが面倒になったということもあるが、こういった扱いをされたことがなく、持て余したという面もある。
 
「こっち! こっち! カミサマの鎧できた! 武器も出来た! こっちこい!」
「行きましょう。あなたの鎧と武器が出来たそうです」
「おお、早いな」

 そう言ってノシノシと歩き始めた怪物と並走すると、怪物はちらりとレギオーを見て首をかしげた。

「不思議なものだな、お前の言葉は私の言葉に聞こえるのに、子鬼と会話をしていた」
「われわれ全言語交渉士の特徴です。その気になれば子鬼の言葉だけを話すことも、話している相手以外には戯言にしか聞こえないように会話することも可能です」
「ほう、そいつはまた後暗いやつばらには重宝される特技だ」

 如何にも不愉快そうに、怪物は鼻で笑って眉間にシワを寄せる。
 ひんやりと背筋に走る怒気に首を竦めながら、レギオーは気を紛らそうと周囲を見渡し、驚く。
 たしかに怪物は日干し煉瓦と木造の家屋が半分づつといったが、レギオーが想像していたそれらとは全く趣が違う。日干し煉瓦は石柱でしっかりと骨組みが作られ、眩しいほどに真っ白な漆喰で塗り固められている。
 木造の家屋は今までレギオーが幾多の書物、絵画、挿絵、或いはその目で見てきた建築様式と一つも合致しない。無理に当てはめるならば古代ピリティズム様式にどことなく似ていたが、それとこれを一緒の物だと抗弁はできなかった。
 これはもっと優雅で、実用的で、何よりも全体に足された緑が目に優しい。
 全体的に丸みを帯びた建て方で、どうやら半地下になった一階と植物の生い茂った二階部分で構成されているようだ。
 どう見ても現在には絶えてしまった、古代の建築物である。生まれて初めて触れる「失われた知識」を目の前に、レギオーは興奮していた。
 そしてふと、その視線が足元に落ちる。
 三人が進む道はスレート板に良く似た弾力のある謎の物質で舗装されており、部屋履きで歩いているレギオーはその滑らかな歩き心地に驚くとともに、怪物の鋭い蹴爪で引っかかれて傷一つない様子に更に驚いた。一体、如何なる製法でこのような物質が産まれるのか?
 レギオーは此処に来るまで、怪物が使う「集落」という言葉に騙されていた。
 いや、怪物に騙すつもりなど微塵もなかったろう。ただ単に彼女の貧弱な語彙能力がその言葉を選択しただけで、罪はない。
 ただ、レギオーは目の前に広がる望外の光景を見ながら、心の中で叫んでいた。
 頑丈で分厚い城壁。
 一定間隔で歩く警邏の兵士たち。
 等間隔に建てられた見張り塔。
 宗教建築と思しき、大理石造りの立派な建物。
 これは……集落というよりも……。
 どう見ても、都市国家である。





――――――――――――――――




「これ! これできた! カミサマの鎧!!」
「おおっ」
「わぁ」

 熱気と活気の渦巻く精錬所の直ぐ近く、ずらりと武器防具が並ぶ倉庫の中で見せられたそれに、怪物とレギオーは二人して唸った。
 怪物の大きさに作られた人形に着せられたその鎧は、甲殻類の装甲が瓦屋根のように重なりあうように、身体の可動域をなるべく制限しないように作られていた。
 レギオーが近づいて装甲同士の繋ぎ目を見てみると、生糸でも革でもない、何かよく分からない伸縮性の物質と細い鋼の糸によって繋ぎ合わされている。やはり、先ほどの床材と同じくさっぱり理解出来ない物質であった。
 
「おお? 青銅じゃないぞ。どうしたんだこれは」
「どうして青銅じゃないんですか?」
「魔女たち、荷物捨ててった! 中に鉄の鎧あった、鉄の武器も、溶かして叩いて、作り直した」

 何でもないように言い放つ子鬼を前に、レギオーは戦慄に震えた。
 彼らは青銅時代で文明が止まっているわけではないのだ。文明レベルは遥かに高い次元で完結している。が、それを活かすだけの物がここにはなく、そしてまた彼らもそれらを無理に手に入れて生活を向上させようなどと微塵も考えていない。
 もし彼らがもっと獰猛で野心的で、更には狡猾な種属であったなら、古代王国が滅んだ途端に人類は彼ら子鬼による壮絶な復讐戦を挑まれていたやもしれなかった。
 そして、もしそうなっていたら、人類は負けていただろうとレギオーは直感する。
 レギオーの学んだ歴史によれば、古代王国の崩壊と同時に大混乱に陥った人間諸国は、今でいう都市国家レベルまで細分化されていたらしいからだ。

「貴女の戦った騎士たちが落として行った荷物から鉄製品を回収して、溶かして打ち直したそうです」
「ほほう、なかなか乙なマネをする」

 そう言って怪物は鎮座する鎧をコツンと拳で叩いてからニヤリと笑って「いい塩梅だ、気に入った」と呟いた。

「か、カミサマなんて言った? 褒めたか? 嬉しいか?」
「気に入ったそうです」

 そう通訳すると、子鬼は歓声を上げて如何にも嬉しそうに踊り出すと、そのまま跳ねるような足つきで倉庫の奥に駆けて行く。

「ちょっとまて! いま武器もってくる! すぐもどる!」

 扉の向こうに消えた子鬼を他所に、怪物は早速用意された鎧を身につけようとしていた。
 が、鎧にいつもならある留め具やベルトが見当たらずに首をかしげた。

「レギオー、これ、どうすればいいと思う?」
「えっ、私に聞くんですか」
「お前なら知っているんじゃないかと思ってな」
「ちょ、ちょっとまってください」

 近くにおいてあった子鬼用の踏み台を使って鎧の隅々迄を眺め、レギオーは驚愕と感嘆の溜息をついた。

「とんでもない代物です。見ててください」

 そう言って鎧の首もと後ろにある突起を引っ張ると、重々しい金属音と共に鎧が背骨の線を中心にガバリと開いた。
 鎧の裏側には鎧下も兼ねるのか、これもまた弾力性のよく分からない物質で覆われている。
 これを見て、怪物もどうやって装着するのか理解したのか、目を輝かせた。

「どうやったんだ?」
「分かりません。全く理解不能の技術です」
「ははぁ、まあ、細かいことはどうでもいい。早速試着だな」

 言うが早いか怪物は服を脱ぎ捨てると、まるで顎を広げる様に鎮座する鎧の中に体を滑り込ませる。
 あっと声を上げる間もなく、再度口を閉じた鎧が怪物の体を覆う。
 閉じた瞬間に「うっ」と小さく呻いたものの、立ち上がった怪物は驚きの顔つきで身体を動かしている。
 鎧は怪物用に作ってあるために、人間からすればおかしな作りだった。
 まず、両腕の装甲は肘から先の半分ほどまでしかない。手首から指先までは丸出しだが、そもそも怪物の腕のその部分は黒く固く変質しており、装甲は必要ない。むしろあったほうが武器が握りにくくなり、しかも爪による攻撃が不可能になってしまうのである。
 両足の装甲はやはり膝までしかなく、その膝から下は人外の荒々しさを持ったそれがむき出しになっている。やはりこの足にまで装甲で覆ってしまえば、せっかくの利点が殺されてしまうのだろう。
 そして、人間には絶対に無い物。黒く強靭な尻尾のために穴が開けてある。

「こいつはいい。想像以上だ。まるでもう一つの肌になったみたいに感じる」
「すごく滑らかに動きますね。拡大したサメの肌みたいです」
「サメ?」
「鋭い牙を持った大きい人食いの魚です」
「人か、そう言えばまだ食ったことはないな」
「ふ、普通に返さないでください! 食べる予定があるんですか!?」
「ふふ、ふ、冗談だ、そう怯えるな」
「貴女が言うと冗談に聞こえません」

 そう言って二人でじゃれあっていると、ガラガラと台車を転がす音が近づいてくる。
 視線を向ければ、子鬼たちが10人がかりで長い台車を押してくるところであった。
 台車が二人のところまで到着すると、その中に据えられたそれを見て二人はハッと息を呑んだ。

「これ、カミサマの武器! 最高傑作! 斬る、突く、叩く、全部できる!」

 果たして、台車に載せられていたのは長い穂先に大戦斧の刃、そして如何にも重厚な戦槌の頭部が合わさった長柄武器。俗に斧槍(ハルバード)と呼ばれる武器であった。
 だが、その大きさが尋常ではない。
 槍の穂先はショートソード程も長く、戦斧の刃は1000年を経た大木でも切り倒すように肉厚で、戦槌はそれだけでバランスを狂わせるのではないかと疑うほど巨大で、その平面にはびっしりと肉たたきのようなスパイクが生えていた。
 余りにも巨大で、余りにも無骨。
 「武辺者」とでも銘打ちたいような、荒々しい武器である。
 呆気にとられるレギオーの横で、新しい玩具を与えられた子供のように怪物は喜んだ。

「こいつはいい! なにより頑丈そうなのが気に入った!」
「あーえー、カミサマはとてもそれがお気に召したそうです」

 わあわあと文字通り狂喜乱舞する子鬼たちの横で、うっとりした様子で斧槍を捧げ持つ怪物。
 そんな混沌とした空間のなか、子鬼の踏み台に腰掛けたレギオーは未だかつて抱いたことのない感情が胸の奥から沸き上がってくるのを実感していた。

「この怪物のつがいですか。まあ、性別的に間違ってはいませんけどね」

 苦笑いをしながらも、何やら嬉しそうにそう呟くレギオーであった。







――――――――――――――――――――――――――――――――
レギオーは男の娘



[28471] 05
Name: Jabberwock◆a1bef726 ID:86aa7b37
Date: 2011/07/11 00:30
 リーンは体中を包帯まみれにしながら、居心地の悪そうな表情を何とか押し殺して耐え忍んでいた。
 彼をそれほどまでにも困惑させる存在は、ベッドの横にある椅子に腰掛けた一人の人物である。
 仮にも戦場だと言うのに、真っ赤なロングフレアスカートにごてごてとフリルが大量に付いた喇叭袖の上着を身につけている美女だ。紅い色の長髪は緩くウェーブを描きながら腰のあたりまで伸びている。
 大胆に脚を組んで椅子の背もたれにもたれかかったまま、白皙の美貌を絵本に出てくる意地悪猫のようにニヤニヤ笑いで歪ませながら、その豊かな胸を強調するように腕を組む。

「手酷くやられちゃったわねぇ、リーンちゃぁん。だから言ったじゃない、困った時にはあたしに言いなさいって。すぐに飛んでいってあげたのに」
「……手紙は全て騎士たちに検閲されていました。申し訳ありません」
「あらぁ? そんな事言って、おねぇさんに借りを作りたくなかったってだけじゃなぁい? それに、敬語なんか使っちゃって可愛い。そんなに他人行儀にしなくてもいいのよ」
「いえ、今は立場上、軍団付き直護衛魔法使いであるシャリアン様のほうが階級は上です……騎士たちが勝手に付けた自分の階級がどれだけ有効か疑問なのですが、ね」
「もう、シャリアン様はヤメなさい! 昔みたいにシャイアおねぇちゃんでいいのよ」

 その言葉に、リーンは頬を軽く紅色に染めた。

「十年も昔の話です」
「魔法使いにとっては昨日の話よ。せめて、様付けはやめて頂戴。ね?」
「…………分かりました、シャイア…………さん」
「うーん……まあ、よしとしましょうか」

 そう言って、紅玉色の瞳を細く細く笑みの形に歪ませて、紅髪の美女はその指先でそっと青年の頬を撫ぜた。
 撫でられたところから痛みと熱が引いていく感覚に軽く驚きの表情をするリーンに、美女は軽く苦笑を漏らす。

「ふふ……これくらいの癒しの魔法はどんな魔法使いだって使えるわ。そんなにこの《赤の信奉者》が癒しの手を使うのが意外?」
「はい、意外です」

 バッサリとそう一言で言い切ったリーンに、美女――《赤の信奉者》ことシャリアンはその細めをギョッと見開いてから、如何にも可笑しいというふうに爆笑した。
 その笑いはそれまでの如何にも作り物じみた物ではなく、心底から湧き出る笑いであることは一目瞭然である。

「うふふ、ふふふふ、リーンちゃん、正直は美徳とは言うけど、魔法使い相手に馬鹿正直は悪手よ。覚えておきなさぁい、いいわね?」
「でも、シャイアさんが相手ですから」
「――――」

 シャリアンは言葉につまり、一瞬だけ呆然とした。

「分かって言ってる――わけないか。はぁ、まあ、そこがいいのだけれどもねぇ」

 呆れたような視線をベッド上の彼に向けながら、シャリアンは両手の指を相手に絡ませながら溜息をつく。
 一方、溜息をつかれた方は呆れの視線と自分の指に絡まる相手の其れに、またしても顔に血が上る。

「な、なんですか」
「いいえ、何でもないのよ。ただ、リーンちゃんは其れでこそ……という話よ。怪我、だいぶ治ったんじゃなくて?」
「はい? 肩骨を砕かれたんですよ、そんなに簡単に……」

 そこまで言って、リーンは違和感に顔をしかめた。
 ふと砕かれた方の肩を上げてみて、その顔は驚愕に彩られる。
 いつの間にか、怪我をする前の状態にすっかり治っている。

「え、こ、これは」
「言ったでしょ、魔法使いならこれくらいの癒しの魔法はだれでも使えるって」

 今度はリーンが言葉に詰まる番であった。
 誰にでも使えるとは言うが、彼の親友であり恋人でもあるイソラはこんなに高度な癒しの魔法は使えない。しかも目の前にいる魔法使いは《赤の信奉者》、今世紀最高峰の打撃力と才能を持った赤属性の魔法使い。
 つまり、たった一人で旅団規模の殲滅力を持った規格外の軍属攻勢魔法使いなのだ。
 彼自身も何度か彼女が魔法を使うところを見たことがあったが、神話級とも伝説級とも言われるその強力な魔法に度肝を抜かした。
 当然ながら、彼女が癒しの魔法を使うところなど見たことがなかった。

「うふふ……ダメよ、使った所を見たことがないからって、そのまま使えないと判断しちゃ。過大評価と過小評価は戦場では命取りよ、覚えておきなさぁい」
「はい、肝に銘じます」
「あら、またそんな堅苦しい……ま、いいわ。今日はこれくらいにしとかないと、あなたのお姫様が膨れちゃう」

 そう言って彼女はリーンの唇に軽くキスをすると「養生しなさぁい」とウィンクをしてから天幕の入り口に垂れ下がった布を払って外へ出て行った。するとそれと入れ違いに入ってきたのは、黒のローブを身に纏って箒を持った少女、イソラ・グラインワッドである。

「イソラ!」
「リーン!」

 呼びかけられたイソラはその顔をパッと歓喜に染めて走り寄るが、リーンが横たわる寝台の手前で何かを堪えるようにして「むっ」と難しい顔をして急停止した。
 訝しげに首を傾げる彼の前で、イソラはじっとりと湿った目付きで彼を睨みつける。

「…………シャイアさんと随分仲がよろしいんですね」
「あ、ああ、まあ、物心着いた頃からの知り合いだから。親兄弟もいなかったし、姉替わりかな……って、こんなこと知ってるだろ? どうしたんだいきなり?」
「……前から思ってたのよ。姉と弟の関係にしては距離が近すぎるんじゃないかって」
「何だって? 何を言ってるんだよ、家族だったら距離が近いのは当たり前じゃないか?」
「それにしちゃあ随分意識してるって言ってるの! 何よ、さっきだって顔赤くしちゃって、普通お姉さんにあんな顔する!?」
「な、の、覗いてたのかよっ」
「の、覗いてなんかいないわよ、人聞きの悪い! ただ、テントの中からシャイアさんの声がするから、ちょっと隙間から確かめただけよ!」
「それが覗いたって言うんだよっ」
「う、うるさい! な、なによ……人が心配して、伯父様の目を盗んでわざわざやって来てあげたのに……」

 そこまで言って、イソラは先程までシャイアが腰を下ろしていた椅子に崩れ落ちるように座ると、強ばった顔つきで自分の親指を曲げて第二関節を噛み始めた。それは、彼女が苛立ったときにする癖だ。

「違う……違うの、こんな憎まれ口を叩きに、やって来たんじゃない。ただ、私、その、リーンの怪我が、し、心配で、それで、あ、あの時、私、全然なにも、出来なくて、な、情けなくて……ッ」

 とうとう俯いて、言葉に詰まるイソラ。
 そんな彼女をそっと抱きしめて、リーンは泣き崩れる少女を落ち着かせるようにその背を撫でた。

「そんなの、こっちの台詞だよ。あの時、君に飛びかかっていったあの怪物。君が魔法で足止めしなかったらとてもじゃないけど間に合わなかった」

 その言葉に、イソラの体が強ばる。そして、抱きしめるリーンの身体も同じように強ばっていた。
 暫く、妙な緊張感を伴う沈黙が二人の間に漂う。
 やがて口火を切ったのは、リーンだった。

「あの怪物……あの、あの顔はまさか」
「違うっ」
「でも、イソラ。君も確り見ただろ? あの顔は、どう見ても――」
「違う違う違う! あ、あんな化け物が、お母様のはずがない!」

 しん……と、まるで空気が凍ったように静寂が周囲を包んだ。
 その特徴的な感覚に、リーンは彼女が魔法を使って「空気を固めた」と気がつく。たしかに、これからする話は聞かれてはまずい内容である。

「イソラ……でも、あの顔はアリステア様の顔だったよ」
「あ、アレは悪魔よ、お母様の顔をして動揺を誘いたかったんだわ。私たちの心を読んで、刃を向けられない相手を選んだのよ」
「じゃあ、どうして最初から顔を見せないんだ、あんな土壇場になってから見せるなんて意味が無いだろう。それに、変えるなら全身を変えないと、顔だけ変えたって……」
「い、命乞いをしてたんじゃないの? 死にそうになって、咄嗟に顔しか変えられなかったとか」
「いや、それは違う」

 不思議と、確信に彩られた返答である。
 イソラは恨めし気に彼の顔を見上げた。

「どうしてそんな事が分かるのよ。あんな言語、聞いたこともないのに」
「たしかに、意味なんて分からなかったよ。だけど、アレは命乞いなんてしていなかった。ただ、俺に向かって「闘え」と言い放っていたようにしか思えなかったんだ」

 またしても、妙に確信めいたその言葉に、イソラは困惑顔で唇を噛んだ。

「どうして……そんな事がわかるって言うの」
「勘だ、戦士としての」
「何よそれ……意味分かんない」

 消沈した様子で項垂れるイソラを抱きしめながら、リーンは未だかつて無いほど真剣な顔で何かを思い悩んでいる様子だった。

「ああ、全く……意味が分からないよな……」

 リーンは無意識のうちに、あの激戦で何処かに落としてしまった金時計を探していた。
 イソラの母から譲り受けた、形見の金時計を……。






――――――――――――――――――――――――――――――――






「あらら、聞こえなくなっちゃった。イソラちゃんもやるわねぇ、うふふ、声が聞こえちゃまずい事でもしてるのかしら……」
「何をしておるか、馬鹿者が」
「あら?」

 入り口から反対側の天幕の壁に耳を貼り付けて盗み聞きをしていたシャイアは、背後からの声に立ち上がる。
 そこにいたのは、背丈は彼女とそう変わらないものの、その全身には限界まで引き締まった筋肉がみっしりと張り付いて、灰色の髪は短く刈り込み、その顔面には歳経た者しか持ち得ぬ年輪の如きしわと威厳が張り付いている老年の男である。
 その身を包むのは肘と膝まである鎖帷子の上に革製の胴鎧とズボン、そしてその上からタバードと薄手のマントにターバンを纏い、その背中には己の身長ほどもある大サーベルを背負っている。
 如何にも威厳を漂わせるそれは、彼女の同僚であるイブン=アブドゥル・アルティメールであった。
 シャイアは立ち上がると、その見事な波打つ長髪を掻き上げながら「盗み聞き」と悪びれない様子で言い放つ。

「喝ッ、何を誇らしげに言うかっ! 馬鹿者め、他にすることがあろうが」
「ええー? だって今回は私たち魔法使いは出番全然なかったじゃなぁい。特にあたしなんて火力魔法の使い時がぜぇんぜんなくって暇で暇で……」
「ほう、ならばちょうどいい、仕事ができたぞ」
「えっ」
「ティメイアス将軍がお呼びだ、行くぞ」
「え、え、え、ちょっと! あたしをよんでるのぉ? 何かの間違いじゃなくて?」
「そうだ、呼ばれる覚えがあるか?」

 先に立って歩き始めるアブドゥルの後ろについて歩きながら、彼女は首を傾げる。

「うぅん……グリューネワルダーで谷底の砦ごと敵軍を溶岩に沈めちゃったことかしら? あの城って確か要所だから、残しとけって言ってたのよねぇ」
「アレは不可抗力だったと聞いている。まさか共和国の援軍がやって来ぬとは将軍も思わなんだのだろう」
「レゲーナ平原で麦畑を焼いちゃったこと? 農夫には悪いことしたわぁ……」
「あそこは王家直轄領で、アスピナ殿下の畑だった。将軍は大喜びであったな」
「ええーと……ヴェルカの攻城戦で地下水脈を爆発させちゃった件? だって、しょうがないじゃない、青属性の魔法使いじゃないんだから、そこまで分からないわよ」
「あれ以来、ヴェルカ近郊は温泉街として栄えているそうだ。将軍に礼状が届いている」
「え、そうなのぉ? なんで誰も教えてくれないのよぉ! あたしが作ったんだったら一番に入る権利があるでしょ!」
「教えたら仕事を放り出していってしまうであろうが。で、他には」
「もう……ルーノを攻めた時に、コルド共和国のゲオルギウス公の戦陣に間違って溶岩弾を打ち込んだことかしら」
「奇跡的に死者は出なかったが、あの後ゲオルギウス公から「殺す気か!!」と親書を頂いたな。お前も個人的に詫び状を送っておくが良かろう。だが、今の時点でわざわざ呼び出すものでもないな」
「うーん……なら、レイヴァンディを攻めた時に地下のガス溜りに火を付けちゃって、城ごと消滅しちゃった件かしらねぇ?」
「…………アレは、耳が馬鹿になるかと思った。二度とやるでないぞ。まあ、どうせあの城は打ち壊す予定だった、問題なかろう」
「そうねぇ……じゃあ、アレかしら、ウクスカルの外で待ちぼうけを食らわされて、いけ好かない貴族のお尻に火をつけてやったやつ」
「アレはお前か!」
「うん、そう」
「わははは、まあ、将軍も笑っておられたから、それではないだろうな」
「ええ? じゃあ一体なんなのよぉ」
「ふむ……まあ、直接聞いてみれば早かろう」
「ま、それもそうね」

 いつの間にか、二人はティメイアスのテントの前までやって来ていた。
 入口の両側に控えていた護衛兵は二人が近寄るや「きをぉーつけっ」の掛け声と共にハルバードを両手で抱いて捧げ持つ。
 それに対して片方は厳めしい顔つきで頷き、片方は笑顔で手を振るという対照的な反応を返しながら、直護衛魔法使い二人はテントの中へ入った。
 果たしてテントの中では、厳しい顔つきの隻腕将軍が急拵えの会議テーブルの上に大判の地図を乗せ、じっと睨みつけている姿があった。

「イブン=アブドゥル・アルティメール、参上致し申した!」
「シャリアンよ、お呼びに従い参上いたしましたわ」

 入室した二人をジロリと一瞥して、将軍は「かけろ」と一言。
 それに従って二人が腰掛けると、暫しじっと地図を睨みつけていたティメイアスは不意にその鋭い眼光を二人に向けた。

「シャリアン、アブドゥル、お前ら二人は別行動をとってもらう。リーンの怪我が治り次第、イソラとリーンを連れて辺境域に潜れ。行き先はあの二人が知っているはずだ。「辿り着いた」あとは俺も明確な指示を出せん。アブドゥル、お前を暫定的な指揮官に任命する」
「はっ! 如何なる任務でござりますか?」
「シャリアン」
「はいはい」

 赤の信奉者が人差し指をスイっと動かすと、三人の周囲に温度の違う空気の層が集まって伝わる音を変質させる。

「よし。今から言うことは極秘だ。絶対に外に漏らすな。これを知っていいのは、俺と、お前ら二人と、連れて行く二人と、「辿り着いた」先で出会った協力者だけだ。いいな」
「委細承知」
「あら、いつになく本気ね、ええ、分かっているわ」
「…………今から二週間後に、ハマール城の騎士隊駐屯地に現地視察と戦意高揚を目的としてアスピナ殿下を乗せた馬車が到着する。麾下の兵団は槍騎士隊300、弓騎士隊300、装甲騎士隊600の大所帯だ。どうやら辺境戦線で俺がちんたらやってるのを見て、自慢の騎士隊を使えば俺の鼻をあかせるとでも思っていやがるらしい。これがいつもなら、勝手にやってろと放置するが、今度ばかりはそうも行かねぇ。あのアバズレは「全騎士隊の戦力投入」を指示しやがった。分かるか? つまり、アスピナ麾下の兵団がハマールの駐屯地に着いたとき、俺のところにも騎士隊の派遣命令がやってくる。イソラと、リーンが、このままだとあのクソッタレの手駒として使われちまう。分かるか、ええ!」
「はっ、将軍閣下!」
「…………やっぱりさぁ、あん時焼いとけば良かったのよぉ。ティミーったら変なところで硬いんだから」
「うるせェ黙れ! 最高にクソッタレで腹立たしい事に、王族の発行した誓約書は絶対だ。それがあのアバズレの手にある限り、リーンとイソラは何処をどう捻っても騎士隊所属の騎士と魔女だ。俺は王国の将軍だ、これに逆らえば、軍法の秩序はないも同然だ。理解したか? 畜生めッ! クソがっ! つまり、俺のいいたいことが、分かるな、ええ? 魔法使い共、俺の言いたいことが、分かっているだろうなッ! どうだ!」

 目を血走らせ、まさに鬼気迫る勢いでそう怒鳴る隻腕の大将軍に、二人の魔法使いは不敵に笑いかけた。
 大刀を背負う異国の魔法使いは右手を心臓に当てて「御意のままに」と深く頭をたれ、紅髪の魔法使いは「あら、怖い怖い」と笑って獰猛に笑った。

「アブドゥル、シャリアン、両名をたった今から軍務から解放する。お前が治める領土は己の身体、守るべき法は魂の中、果たすべき誓いは心臓にある。領土を安堵し、法を遵守し、誓いを果たせ。タイムリミットは2週間。兵団が入城する前にかたをつけろ。手段は問わず、誓約書を見付け出して焼却しろ。殿下は殺すなよ、面倒になる」

 仮にも王族の生死を「面倒になる」の一言で切り捨てる将軍に、二人の魔法使いはただ笑う、哂う。
 この二人、ティメイアスという男がまだまだ地方貴族の三男坊として悪童の名をほしいままにしていた頃からの付き合いである。いまさら、この程度の無礼な口ぶりは何を言うまでもなかった。
 魔法使いが国に仕えることなど、あまりに少ない。
 それらが何人もいるなど、もっと少ないだろう。
 しかも、それらが軍属になると、まずありえないと異国の人々は声を合わせる。
 そして、その奇跡に奇跡を積み重ねたような幸運を、こうまであっさりと手放す男がいるなんて、何かの冗談だろうと人は言うだろう。

「あら、首になっちゃった。再就職先を見つけないといけないわぁ」
「フン、ようも今まで馘首されずにおられたものよ」
「ひどい言い草ね……。あ、そうだ、リーンちゃんに貰ってもらおうっと。永久就職出来ちゃうわねぇ」

 そう言ってクスクス笑う魔法使いに、ティメイアスはじろりと一瞥をやる。

「やめんか、あれはイソラを好いている。俺の後継だぞ。ちょっかいを出すな」
「あら、一番はイソラちゃんよ、当然じゃなぁい? あたしは二番目でいいの」

 悪びれないその言動に、流石の将軍も呆れの溜息を禁じ得ない様子で、溜まった気炎を吐き出すように溜息を付いて椅子に腰掛けた。

「よし……分かったのならすぐに行け。お前と話していると疲れてかなわん」
「御意……しかし、その前に一つお聞きしても」
「何だ?」
「例の「辿り着いた先」にいる協力者とは一体……?」

 首を傾げるアブドゥルに、将軍は鼻先にシワを寄せて如何にも「不機嫌です」と言わんばかりの顔つきのまま「行けば分かる」と言って貝のように口を閉ざした。
 シャイアは不満げな顔つきだったが、アブドゥルは信頼を下地にした物分りの良さを発揮して「承知致した」と返して席を立つと、まだなにか言いたげな彼女を引っ張ってテントを出て行った。
 一人残されたティメイアスは、地図上で空白のまま残されている「未開地帯」を眺めながら、ポツリと言葉を漏らしていた。

「これでいいんだな……アリステア」






――――――――――――――――――――――――――――――――
誤字修正と少し加筆



[28471] 06
Name: Jabberwock◆a1bef726 ID:e6fc3840
Date: 2011/07/11 00:41
 レギオーは子鬼用の椅子と机に座ったまま、机に広げた大量の巻物に齧り付いていた。
 幾星霜もの年月を経た紙が出す独特の匂いに囲まれて、銀縁のメガネをかけた彼は机の上に山と積まれた巻物を舐めるように読みふけっている。
 そんな横に、鎧を身につけて斧槍をボロ布で磨く怪物の姿があった。

「なあ」
「……」
「おい」
「……」
「おーい」
「……」
「聞いているか?」
「……何です?」
「ちょっと外出したいのだが」
「どうぞ、ご自由になさってください。私は今、一族の誰も触れることの出来なかったロストメモリーズに埋れているんです。ちょっと角が離せませんのでお一人でどうぞ」
「いや、お前がいないと困る」
「私が? 何をしに行かれるのですか」
「いや、ちょっと見回りと地図作りを、な。前みたいに他の生き物に出会った時に、通訳がいないと困る、いや、困らないかもしれないが、まあ、その、なんだ」
「……?」

 そこで漸く、レギオーは視線を移し、メガネを外して首に鎖で引っ掛けながら顔を上げた。
 そこにはどこかバツの悪そうな顔で頭をかく怪物が、床に胡坐をかいて座り込んでいる。

「どうしたんです? いったい」
「いや、なあ、うむ。アレだな、どんな生き物でも、一度楽を覚えてしまってはなかなか前の状態には戻れないものだ」
「はぁ……」
「あー、その、つまり、な、以前は丸っ切り誰とも話が通じんし、それが普通だった。だが、レギオー、お前が現れて、話が出来る相手が出来た。別に、今までずっと話しが通じん状態でやって来たんだ、早々不都合はない。ない、が、うむ、今更言葉が通じる相手がいるって言うのに、わざわざ一人でぶらつくのも、な、まあ、そういう事だ」

 最後にはその白い頬にうっすらと紅を載せて、まるで要領を得ない尻切れトンボである。
 が、その人生経験によって人一倍聡い性を持ったレギオーは、すぐさま怪物の真意を悟った。
 つまるところ、この恐ろしい怪物はレギオーがいないと寂しいと、遠回しにそう言っているのである。
 それに気がつくと、レギオーは優しい微笑みを浮かべ、今まで手にとっていた巻物を片付けた。

「そうですね……たしかに、そろそろ外の空気を吸いたいと思っていた所ですから、ちょうどいい気分転換になりそうです」
「おお、そうだろうそうだろう! 私もそう思っていたんだ。根を詰めすぎても良い成果は出ないぞ、適度に息を抜かないとな」
「ふふ……ええ、そうですね。すごく最もらしい言葉です」
「なに?」
「いえ、何でも。さあ、行きましょうか」
「ああ」

 外したメガネを革張りのしっかりとしたケースに仕舞って蓋を閉じると、それを腰元のポーチにしまう。そのポーチの中身はレギオーの数少ない私物であり、怪物が馬車ごと持って来てくれなければ紛失してしまっただろうものだ。
 娯楽といえば読み物くらいしかなかった彼にしてみれば、決して変化しない自分の遠視は悩みの種で、それを解決してくれる眼鏡は手放せない必需品である。
 椅子から立ち上がり、背もたれにかけていた外套を羽織る。
 日によっては汗ばむような陽気が訪れるようなもう春先近い季節とは言っても、ふと気を抜いた瞬間に走り抜ける冷気はまだまだ冬を感じさせるもので、彼からすれば上着なしではやはり、寒い。
 レギオーは嫌な意味での温室育ちであった。
 二人して図書館から外に出ると、屋内は暖房が効いていたせいもあってか、よけいに寒く感じてぶるりと震えが走った。 
 吐く息が、ほんのりと白い。
 気がつけば、時刻は空が白み始めるような薄靄である。
 明るくなり始めた東の空を見ながら、レギオーはそっとその右手を己の首もとへやる。
 そこに物心着いた頃から嵌っていた黒い戒めは、今はもう無い。

「どうした?」

 じっと空を見上げて固まったレギオーを見て、怪物が首を傾げている。
 一生解けぬと決めつけていた戒めを、この美しく恐ろしい怪物はあっさりと打ち壊した。
 それを、いったい彼がどれだけ感謝しているか。いったいどれだけ心の奥底を揺さぶったか。
 この怪物は知りもしないし、知ろうとも思わないだろう。
 それが、なんだか彼には歯痒くて仕方がなかった。
 万感の思いを込めて「ありがとう」と伝えても、この常識はずれの怪物はただ不思議そうに首を傾げて「何も難しい事をした覚えはないのだが」と答えるのだろう。
 そんな事では、伝わらない。
 そんな答えでは、満足できない。
 嗚呼、この、胸の奥底からこんこんと湧き出る感情の名前は一体?
 レギオーは怪物の声には答えず、じっと太陽が世界の果てから顔を出す様を見つめ続けた。
 怪物も、そっと彼の顔を覗き込んでから、何やら満足気な顔つきで同じように東の空を見上げる。
 美しい怪物と一角獣は、共に綺麗な微笑を浮かべながら、ただ黙って、今日一日の始まりを目撃するのだった。










――――――――――――――――










 一方そのころ、樹海の端で死闘が始まっていた。

「キィエエェェェェェェイイッィイ!!」

 左中段からの一刀は、迫り来るメガバグズを左から右に両断した。
 ビシャビシャと飛び散る汚らしい体液をそのままに、アブドゥルは大上段に構えたまま俊足の踏み込みで、一歩。

「イリャァアァ!」

 これぞ、脳天唐竹割り。
 おぞましい節足を蠢かせながら、見上げるほどに巨大なメガバグズが左右に分かれて絶命する。
 特注の大曲刀についた体液を振り払いながら、彼はすぐさま身を翻した。

「シャリアン! 小さいヤツ、次が来るぞッ」
「言われるまでも、ないわよっ!」

 背後にイソラを庇いながら、赤の信奉者は後ろで括った長髪を翻しながら両手を頭上で組む。
 その瞬間、体内のマナ・プールから赤の魔力が吸いだされ、掲げられた両手の中で急速に結晶化する。
 結晶化した力は小さい太陽のように閃光を時折放ちながら、不気味に脈動しつつ開放される瞬間を今か今かと待ち構えているように見える。
 見るものによっては狂笑とも取られかねないものを顔に貼り付け、赤の信奉者は両手で暴れ狂う赤の魔力に指向性を持たせて解き放った。

「燃ぉえぇちぃまぁええぇぇぇぇぇぇえええええッ」

 荒れ狂う赤の魔力が超高温の熱波となって薙ぎ払われる。
 人間など一瞬で炭化するヒートウェイブに襲われて、地面を埋め尽くす蟲の群れは業火の中で焼け死んだ。だがそれでも、次から次へと地面に空いた穴から現れる黒い甲虫の群れは留まることを知らないように襲いかかってきた。

「ちっ、糞虫共がぁ、この《赤の信奉者》とマジでやろうってぇわけ? いい度胸じゃないのよぉ! あんたらが死に絶えるか、あたしのマナ・プールが空になるか、どっちが先か試してあげるわよッ」

 舌なめずりをするシャイアと、イソラを挟んで反対側。
 こちらも襲い来る巨大なメガバグズを斬り殺すリーンが新たにキルマークを追加しながら声を張り上げる。

「シャイアさん、こいつらドローンだッ、クイーンが何処かにいる! このままじゃ押し切られちまうぞ!」

 切羽詰ったようなその言葉に、シャイアは戦闘者しか浮かべ得ない獣の微笑をその顔に浮かべた。

「なら、小生意気な売女を巣穴から引きずりだしてやるわ。アブドゥル、イソラちゃん! 5秒!」
「心得た!」
「は、はい!」

 イソラが自分とリーンを包む障壁を張り、その外に出たシャイアは全身を渦巻く炎で覆いながら蟲の群れを物ともせずに歩く。
 イソラの障壁を破ろうとメガバグズが20体、今までで最多の数を持って挑みかかるも、5体はシャイアの周囲に近づいただけで消し炭となり、残り15体。

「おおっ、拙者がお相手申す!!」

 アブドゥルの全身が膨張する。
 踏み込まれた地面が爆散し、天頂高く突き上げられた切っ先が雲を引く。
 一瞬で常人の数十倍にも至る筋力を引き出し、最早一端の剣客では残像を目で追うことすら難しい神速を持って刃が振り下ろされた。

「きぇっ!」

 音すら背後に置き去りにして、空気を切り裂いた一撃はその余波だけでメガバグズの一軍を蹴散らした。
 まるで子供が虫を石壁に叩きつけたように、全身をバラバラにしたメガバグズがやたら湿っぽい音を立ててぶちまけれる。白っぽい体液を周囲に飛び散らせ、熱せられた空気と地面に蒸発すると、それは胸の悪くなるような甘ったるい芳香を放った。
 障壁の強度を上げ、途切れぬようにマナを注ぎながらイソラは箒で身体を支えながら必死に吐き気を我慢する。
 熱せられた空気で視界が歪み、膨張した空気が荒れ狂う。
 死闘のただ中で、イソラは思った。
 ここは、地獄だ。

「うふふ、ふ、そぉんなくらぁいところに隠れてないでぇ、あたしと一緒に遊びましょ」

 赤の信奉者の瞳孔が散大する。
 外から、中から、溢れ出るマナの奔流が最も原始的で荒々しい、赤の魔力に変換される。
 炎の色は赤から青に、最後には直視することすら難しい白金に。
 世界の始まりにそこにあり、気の遠くなるほど年月が経ってなお燃え尽きない「星の火種」。
 これこそ、シャイアが今世紀最高峰の赤属性の魔法使いと呼ばれる所以であった。

「あたしを相手にしてぇ、地の底に隠れるなんてぇ……愚かなことを、したものねぇ!

 全身を渦巻く赤の魔力で覆いながら、白金の光の中尚もギラギラと光る獣の眼光。
 この目を見て、生き残った敵はない。
 荒れ狂う炎の奔流から守るように、リーンとイソラを覆う障壁の向こう側にアブドゥルが立ちはだかって叫んだ。

「イソラ、リーン、炎を見てはいかん! 目をつぶれ!」

 その言葉が届くや否やといった所で、想像するだに出来ない超高熱の火柱が視界を覆う。
 間違いなく一級と言って差し支えないイソラの障壁越しに、肌をジリジリと焼くような、正気を疑う赤の魔法。
 音すら遮断する障壁を貫いて、背筋が凍るような焦熱音が二人を包む。

「うっぬぅ! 馬鹿者が、威力を絞らぬか!」

 地面に突き立てた大剣に襲い来る熱波を魔力に変化しつつ注いで、アブドゥルは大声で悪態を付いた。もっとも、この炎の祭典の中にあって、その声が聞こえたかどうか疑問ではあった。
 やがて、変化が起こる。
 四人の周囲を縦横に地割れのような線が走ったかと思うと、裂けた地面から同じように炎の柱が吹き上がった。
 所々爆発するように太い柱が上がるのは、果たしてそこに隠れた巣穴の出入口があったのか。
 そのうちに一際大きな火柱が、80歩ほど離れた森の中で吹き上がると、全身を炎で焼かれてボロボロと炭化したメガバグズの女王が飛び出した。
 最早そこに世界最大の甲虫を統べる女王としての威厳はなく、ただただ狩られるものの恐怖と悲哀があるだけ。
 炎を吹き消し、赤の信奉者が叫んだ。

「アブドゥル!!」
「応!」

 焼けた地面を物ともせず、異国の魔道士は跳んだ。
 熱波で掻き乱される空気の層を文字通り切り裂いて、魔法使いの大剣は巨大な女王をまっぷたつに断ち割った。

「うぬらの負けよ!」
「あたしの勝ちよ!」

 二つの勝鬨が、焼け野原に高らかと響いた。







――――――――――――――――







 酷い有様となった森の中の空き地――いや、強制的に空き地となってしまったところへ腰を落ち着け、三人の魔法使いと一人の戦士が英気を養っている。
 水筒の中身を一口だけ飲み込んで、黒髪の戦士が大きな溜息をついた。

「……以前通った時はメガバグズの巣なんてなかったのに。どうなっているんだ」

 納得行かないふうに汗を拭う彼の隣でイソラも同じように首を傾げ、その拍子に母譲りの銀髪が汗に濡れ、顔や首筋に張り付いている。
 そんな様子を見るに見かねたリーンは取り出した手ぬぐいで少女の汗を拭い、解けてしまった銀髪をもう一度三つ編みに括り始めた。
 そんな二人を見て、ターバンを解いて汗を拭うアブドゥルが「やれやれ」と溜息を付く。

「愚か者。辺境樹海を甘く見よったな? 獣道すら三日と経たずに行方が知れぬ、何一つ信用できぬ魔の森よ。感じぬか、奥に進むほどに、まるで体中を突き刺すように濃密になるマナの奔流を」

 その言葉に、二人は顔を合わせる。
 今度はシャイアが溜息を付いた。

「ダメよ、アブドゥル。リーンはそう言うのは全く分からないし、イソラちゃんなんてあの魔女アリステアの娘なんだもの。むしろ森の中のほうがマナののりがいいんじゃなぁい? ねぇ?」
「あ、は、はい! なんだか、体が軽くて、殆ど式を組み立てずに魔法が使えます」
「ふん……相変わらずの常識はずれ共よ。こちらなど、注ぎ込まれる魔力のせいでマナ・プールを閉じねばならんほどだというのに」
「そうそう。あたしなんてあんまりマナが一杯あるせいで加減が出来な――いたぁい!」

 憤怒の顔つきで、アブドゥルがシャイアの頭にげんこつを落とした。

「糞戯けが! 加減が出来ぬのは毎度のことであろう! 樹海を言い訳に使うでない!」
「いっったぁああい! ちょっとぉ! 手加減してよぉ。アブドゥルの力で叩かれたら死んじゃうでしょぉ」
「喝ッ! お前と一緒にするな、手加減しておるわ!」

 ギャアギャアと口喧嘩をし始めた魔法使い二人を尻目に、激戦の緊張が解けたのかうつらうららかと船を漕ぎ始めたイソラ。
 リーンはそんな彼女をそっと横たえて膝枕をすると、盛大に自然破壊が行われた風景をなるべく視界に収めないように空を見上げた。

「もう、昼近くかなぁ……」

 その時、時刻は午前九時。
 死闘というべき激戦は、若き青年の胃袋を直撃していたのだった。










――――――――――――――――――――――――――――――――
誤字修正と加筆。



[28471] 07
Name: Jabberwock◆a1bef726 ID:fc037197
Date: 2011/07/18 01:48
「試し斬りですか」
「ああ、やはり実際に斬ってみないとな」

 そう言って怪物は陽光にかざした斧槍をうっとりと眺めた。
 時刻は午前六時、子鬼たちもチラホラと起きだして街路に現れ出す時間帯だ。
 レギオーと怪物の二人組は時折出会っては深く叩頭する子鬼たちの間を抜け、都市の一角に向かって歩いていた。

「巻藁でも斬るんでしょうか」
「いや、生き物を切らないと、こう言うのは駄目だ」
「はぁ……では野獣退治でも」
「ははは、まあ、見ていろ」

 そう言って笑う怪物についていくと、やがて二人はがっしりとした石造の建物にやってきた。
 入口横の守衛室らしきところには、青銅製の鎧と鎖帷子で全身を覆った子鬼が何人か詰めていて、二人の姿を見るなりそのなかの一人が飛び出てくる。
 子鬼は二人の前で敬礼すると、バシネットの目庇を跳ね上げた。

「カミサマ! ここ家畜小屋、何しに来た?」
「か、家畜小屋だと言ってますけど、ほんとにここですか?」
「ああ、三匹ほど潰してもいいかと聞いてくれ」
「ええと、三匹ほど家畜を潰してもいいかと……」

 そうレギオーが伝えると、番兵の子鬼は目庇の蝶番がカタカタというほどの勢いで首を縦に振ると「ちょうどいい、こっち!」と二人を案内する。
 子鬼いわく「家畜小屋」を進みながら、レギオーは首を傾げていた。
 どうにも、ただの家畜小屋にしては警備が物々しい。曲がり角ごとに歩哨が立ち、よくよく見れば通路の途中に一定間隔で落とし格子戸が天井に設置してある。
 家畜小屋の警備をここまで厳しくして何の意味があるのだろう?
 そんな考えは、案内された場所で見た「家畜」を見た瞬間に吹き飛んだ。

「さっき一匹つぶそうとしてたとこ! 飢えてる! 気をつけて!」
「おお、これは元気が良さそうだ」

 レギオーの顔面から血の気が引き、引きつった喉が言葉にならない言葉を吐き出す。

「こ、ここ、こ、こここ、こ……ッ!」
「コケコッコー!」
「うむ、にわとり」


 これを、鶏と、言い張るつもりか……ッ!?
 レギオーは戦慄に凍りつく。
 そこにいたのは、およそ一切の博物誌にも登場し得ない……いや、生物学者であろうとその描写を躊躇うような、名状しがたきおぞましい生物がそこに鎮座していた。
 全体の造形としてみれば、なるほど鳥に見えなくもない。
 だがしかし、レギオーは己の持つ全ての知識を総動員して「これが鳥のはずがない、いやさ、これが尋常の生き物のはずがあろうか」と必死に否定をしていた。
 その胸部はまるで夏場の海辺に放置された腐乱死体のように張り詰め、かと思えば下半身は蟻の腹部のような形で、三本の爪を持つ鷹の足に似た脚部がそこから生えている。
 両腕は人間のものに似ているが、やはりこちらもその指の数は三本で、恐ろしい鉤爪が生えている。
 頭部は鳥と人間と蝙蝠を合わせたような、吐き気を催す造形で、全体的に人間のような作りを仄かに残しているせいでそのおぞましさはいや増した。
 両肩からは蝙蝠の翼をもっと強靭にしたようなものが生えており、その薄い皮膜からは想像も出来ないほどの頑丈さを備えているようである。
 子鬼はこの生き物の鳴き声を「コケコッコー」と描写したが、レギオーがどう好意的に解釈してもその鳴き声は「ギヒィィ! ギピョルピィ!」としか聞こえなかった。聞いていると、頭がくらくらしてくる。

「こ、これの何処が、鶏かッ!!」

 レギオーは激怒した。
 必ずやこの無知蒙昧の輩共の蒙を開き、命名学の何たるかを教えねばならぬと決意した。

「どうしたカミサマ? ニワトリ気に入らなかったか? ヤギの方が良かったか?」
「何を憤っている? 庭で飼えるように改良した鳥だから「ニワトリ」なんだろう?」
「ご、語源はともかくとして、アレの何処が鳥に分類されると言うんです! それに、ええと、山羊もいるんですか?」
「いる! ヤギがいる! クロヤギのカミサマが俺達にくださった、くろいやぎ!」

 そう言って、子鬼は彼の傍らでそびえ立つ怪物を仰ぎ見た。
 レギオーの戦慄が加速する。
 この怪物に由来する、「ヤギ」……だと?
 たとえそれが彼らの勘違いだとしても、最早これ以上「にわとり(仮称)」に続いて「やぎ?(未識別)」のような宇宙的恐怖を感じさせる生物を見るのは耐えられなかった。
 いや、もしかすると彼が記憶するところの真っ当な山羊が出てくる可能性もある。ある、が、それはあまりに低い確率だと直感が囁いていた。
 彼の決意はあまりにもあっけなく雲散霧消する。

「い、いえ、それはまたの機会に……。あ、あの、本当にアレと戦うおつもりですか」

 意地でもその生物を鶏と呼びたくないのか、レギオーは個体名を呼ばずに「アレ」とだけ呼んだ。
 にわとりは今やその両足で立ち上がり、歯ぎしりをしながら威嚇をしている。
 その体長は怪物と同じか少し大きいほどもあり、巨大で、あまりにも凶暴な有様だ。
 だが、彼のそんな懸念を他所に、怪物は面白そうに凶暴な笑みを浮かべる。

「ああ、初戦の相手としてもちょうどいい。これの切れ味を確かめたいからな」
「……分かりました、ご武運を」
「ああ」

 そう短く答えて、怪物は首元のチンガード(顎と首を守る装甲板)をなにやらいじった。
 すると、まるで魔法のように現れた蛇腹状の装甲板がチンガードから飛び出すと、その顔面から後頭部にかけてを、目元のスリットだけ残して完全に覆った。
 驚き固まるレギオーに、恐らく怪物はニヤリと笑ったのだろう。「なかなか面白い作りをしているだろう?」と誇らしげに言い放って、子鬼が空けた厩舎の扉をくぐり抜けて檻の中へ踊りこんだ。

「キィィィィイイイッィィィイィ!」
「その意気や良し! さあ、かかってこい!」

 まるで円形闘技場のような檻の中、にわとりが四肢をついて威嚇の奇声を上げる。
 かみ合わさった牙の間からだらだらと涎を垂らしながら、その巨体からは想像もつかない俊敏な動きで真正面から怪物に飛びかかった。

「であぁ!」

 気合の声と共に、こちらもまっすぐに突き込まれた斧槍の穂先が怪物の胴体に突き刺さる。
 が、何の痛痒も感じないような勢いで更ににわとりが突っ込むと、怪物は穂先に相手が突き刺さったまま振り回して檻に叩きつけた。その勢いで、突き刺さっていた穂先がすっぽ抜ける。
 金属と石で補強された頑丈な檻が軋む。
 青色の血をまき散らしながら、にわとりが憤怒の声を上げて地面をひっかく。
 怪物はその手に持った斧槍を構えると、今度はこちらの番とばかりに地面を蹴った。
 遠心力を十分に生かした戦斧の振り下ろしは、咄嗟に飛びすさったニワトリの片腕を切り飛ばし、その勢いのままに地面に突き立った。
 それを好機と見たのか、残った片腕を振りかぶってニワトリが怪物に跳びかかる。

「甘い!」

 地面に突き立った斧槍と、その鋭い蹴爪でしっかりと身体を支え持つ右足を軸に、素早く繰り出された前蹴りがニワトリの胴体を蹴り飛ばす。
 息の詰まるような悲鳴を上げて、ニワトリはまたしても檻に叩きつけられた。
 全身から血を滴らせ、しかしそれでもニワトリは狂ったように金切り声を上げながら怪物に挑みかかる。
 それを真正面に迎えて、怪物が吠えた。

「おおっ!」

 厩舎全体が揺らぐかと思うほどの雄叫び。
 怪物の全身が膨張したかのような錯覚をレギオーは覚えた。
 常人には持ち上げることすら叶わぬほどの重量があるとは思えぬ速度で、斧槍の戦槌が「ぶうん」と重々しい音を立てながら振り下ろされる。
 巨人の肉叩きがニワトリの頭部を叩き潰し、ぐちゃりと飛び散った血潮と脳症が周囲に飛散する。
 首が胴体に完全に埋まった状態で、ニワトリはふらふらと二三歩進んだ後、どうと地面に倒れ伏して血の池を作った。
 最後の一撃はかなりの威力だったのか、倒れた瞬間に海綿状になった肌から血が溢れ出し、屠殺というよりも惨殺といった方がいいような情景が広がった。

「勝った! カミサマが勝った! 凄い! 一人で正面からニワトリを殺した!」
「ふぅ……もう少し振り回してみないとな。おい、レギオー、次を出すようにいってくれ」
「つ……つぎを……だしてください……」
「おお! 分かった! …………カミサマ、顔色悪い、ハラ減ったか?」

 青ざめた顔つきのレギオーに子鬼が心配そうに声をかける。
 鼻元にツンと突き刺す刺激臭は、まさか、このにわとりの血が匂っているのだろうか?
 一度だけ錬金術師の工房に入ったことがあったが、そこで嗅いだ覚えのある匂いで、つまりどう考えても身体に悪そうな劇物の匂いだった。
 必死に吐き気を抑えつつ「休憩したいんですけど」と子鬼に伝えると、どうやら次のにわとりを放つように伝声管で指示を出していた子鬼が振り返った。

「分かった、案内させる、付いて行って」
「はい、ありがとうございます」
「カミサマ、細い! もっと食うといい!」
「……」

 もしかして、あのにわとり(?)を食べさせられるというのか。
 戦慄と共に首を横に振りながら、現れた雌の子鬼に支えられながらふらふらとレギオーはその場を後にした。
 背中に、あの背筋が凍るようなにわとりの奇声と、怪物のウォークライが響いていたが、後2回もあれを見続ける度胸はなかった。

「かみさま、お茶用意してます、お気を確かに」

 雌の子鬼が浮かべる気遣いの微笑に慰められる。
 雄と何から何まで全く違う雌の子鬼に体を支えられながら、よろよろと通路を歩く。
 どうやら子鬼たちは雄は頭の天辺から爪先まで戦闘種族として、雌は高度な知能と手先の器用さを伸ばしてきたらしい。
 心なしか、雌のほうが雄よりも背が高い。雄は恐らく筋肉を詰め込みすぎて成長が阻害されているのだろう。
 最も、この場に限って言えば雌の高身長は有りがたかった。
 子鬼の雌とレギオーの身長はそう変わらないので、支えて歩いてもらう際にはこっちの方がいい。

「こちらにどうぞ。お茶をお持ちします」

 休憩室らしき部屋へ通され、椅子に座って一息つく。
 案内してくれた子鬼は恭しく一礼してから通路を奥の方へ入っていった。

「アレが、ニワトリ……」

 未だにショックから立ち直れず、レギオーは呆然と暫し窓の外を眺めていた。
 いつの間にか時間が立っていたのか、窓の外では中点に登り始めた太陽に照らされて、町並みと遥か遠くにそびえ立つイスカラルト大山脈が見えた。
 彼らが今いる、辛うじて人智の及ぶ辺境と、最早人類の手の届かぬ秘境との境に存在する大霊峰を眺めながら、今後ここで出される肉料理は口にすまいと心に誓う。
 と、その時お盆を両手に持った子鬼の雌が帰ってきた。
 雄と違ってその頭部にはちゃんと毛が生えており、顔の造形も整っている。灰色をした髪は眉の上と首筋でまっすぐ切り揃えられており、本当に人形のように可愛らしい。
 優雅な手つきで茶器の用意をする彼女を見ながら、やはり何処から見てもあれと同じ種属には見えないなとレギオーは小さく溜息をつく。
 すると、今まで流れるように動いていた子鬼の手つきが一瞬だけ止まる。
 直ぐに再開したものの、一体どうしたのかとその横顔をみると、クリーム色をしたその頬がほんのりと桜色に染まっていた。

「……準備が出来ました、ごゆっくり」

 そう言ってそそくさと退室しようとした子鬼の背中に、レギオーは「あ、ちょっと待って」と声をかけた。
 振り返った子鬼は、レギオーと視線を合わせないように眼差しを落として、お盆で口元を隠した。

「な、なんでしょうか」
「少しお話ししたいんだけど、時間はある?」
「え? え、と、そ、その、ええと……」

 焦った様子でキョロキョロと周囲を見回して、その視線が背後の通路の奥にチラリと向けられる。
 気にしない風を装ってレギオーもそちらにさっと視線をやると、数人の雌の子鬼が物陰からこちらを見ながらなにやら手振りで示している。
 レギオーにその意味は分からなかったが、目の前の子鬼は理解したのか、こちらに向き直ってコクリと一つ頷いた。

「あ、の、分かりました、わたしで、宜しければ」
「ああ、有難う。さあ、座って」
「はい」

 緊張のためか真っ赤になった子鬼と向き合って座りながら、さて一体何から聞こうかとレギオーは思案するのであった。







――――――――――――――――






 休憩室でレギオーが雌の子鬼を口説き落としているちょうどその頃、辺境で野戦陣地を構築している王国軍。それを率いる将軍ティメイアスのテントの中で二人の男が話し合っていた。
 一人は、このテントの主、ティメイアス。
 もう一人は、彼の副官であるデスピン。
 二人は地図上に敵の進行予想路や、斥候が報告してきた新しい拠点などを書き込みながら口を開く。

「ヴァルターリッジに敵が出城を築いているな。放置すると厄介だ」
「では、本隊への侵攻を遅らせて先に出城を始末しましょうか? 幸いにも森が直ぐ近くで材料には苦労しません。簡易弩砲と攻城塔を作らせれば直ぐでしょう」
「ナフサと松脂はまだ残っているか?」
「ええ、指示通り。あと5会戦分は準備してありますよ」
「上出来だ。…………ふん、こんな時、シャリアンがいれば、な、と思ってしまうな。いかん、知らずに楽を覚えてしまった」

 そう言って、苦笑いを浮かべながらその隻腕で、己の刈り込んだ髪を撫でる。
 それを見ながら、こちらも苦笑いでデスピンが答えた。

「いればいたで、どうにも粗さに目がつきますが、やはり居なくなるとどうにも寂しいものです」
「ふん……魔法使いなど、どいつもこいつも気まぐれ者よ。さあ、手元にない戦力を物欲し気にああだこうだ言うのは止めだ。とにかく現状、義務を果たす」
「了解です。ところで、例の騎士たちはどうするおつもりですか?」
「戦時特例447号」
「戦地徴用? しかしアレは民間人だけでは」
「騎士は軍法に乗っておらん。アレは民兵(ミリティア)扱いだ。正確には、俺が削除させた」
「……ははぁ……なるほど」

 デスピンが意地の悪い笑みを浮かべる。
 戦時特例で組み込まれた軍属は、現場の指揮官が了承するか、最高司令官の免状がないと解放されない。
 乱発すると非常に凶悪な法律なので、その使用には最新の注意とややこしい書類が必要になってくるが、そこはこの世界で数十年飯を食ってきた人間だ、いくらでも抜け穴は知っている。

「ああ、しかし戦時特例447号よりも王族発行の収集礼状のほうが効力は上だ。それを持って来られたらどうしようもない」
「なるほど、それで例の四人を哨戒任務に」
「デスピン、任務に出したのはあくまで二人だ。間違えるな」
「おっと、これはしまった。そうそう、公式には二人だけでしたな」

 魔法使い二人は不意に軍から抜けだして、脱走扱いにならないように将軍が退役申請を出した……と言うことになっている。
 魔法使いという生き物は生来一処に留まらない輩が多い。
 事情を知らない人間が聞いても特に不審がらないだろう。

「では、出城を攻略する部隊を抽出して――」

 そこまで言ってから、デスピンは将軍の視線が一瞬だけあらぬ方を見て緊張するのを感じた。
 彼は口を閉じ、「では、決まり次第……」とだけ呟いてテントを出た。
 あの様子の時の将軍が余人に立ち入れぬ思索を始めると、デスピンは信じていたからだ。
 一人テントの中に残されたティメイアスは、椅子にどっしりと腰を下ろしながら苦々し気に顔を歪めた。

「幻覚め、こんなタイミングで出ずともいいだろうに」

 そう呟いた彼の正面に、過日の美貌もそのままに、今は亡き彼の妹が現れていた。
 イソラとお揃いのローブ姿で、魔女アリステアは困ったように笑った。

「兄さん、私は幻覚じゃないのよ」
「俺以外に見れず触れず聞けず、気配も感じぬ存在が幻覚以外のなんだというのだ」
「違うんだってば」
「黙れ、俺はたしかにあの日以来狂ってしまっているが、それを自覚している限り正気を保ったように見せて、義務を果たさねばならんのだ。俺の邪魔をするのはやめろ」
「違うわ、兄さんは狂ってなんかいない」

 そう言って先程までデスピンが座っていた椅子に腰を下ろす幻覚に、ティメイアスは鼻で笑う。

「なるほど、世に溢れる狂人共はこうやって自己肯定しているわけか。貴重な体験だ」
「……はぁ、頑固者」
「ああ、そうとも。だが分かり切っていることをわざわざ言っても意味はないぞ。さあ、いつものように俺が自分でも気づいていないような事を知らせてくれ、俺の中の俺」
「…………もう、そういう事でいいわ、はいはい、それじゃあ昔みたいに作戦会議といきましょうか、兄さん」
「ああ。だが、本当にこんな辺境域に味方がいるのか?」

 そう言って、彼は疑わしげに辺境の森の中に緑色の旗を置いた。
 イソラ達を派遣する前にこうやって幻覚と話し合ったが、未だに彼は半信半疑であった。

「以前、兄さんにもいったでしょう? こういう時の保険はあるって」
「たしかに、以前どこかでこういう話をアリステアから聞いたことがあるような気がするが……一体何年前の話だ。ううむ、流石に思い出せん。ふん、こういう時は、幻覚も便利なものだ」
「はいはい、便利な幻覚さんですよーっと……ええと、今から10日後にここに到達して。全軍揃って、よ」

 そう言って指さされた場所は、騎士隊がハマール城に辿りつく途中の道で、西側を鬱蒼とした森林に覆われ、東側はすり鉢状のなだらかな斜面が続く場所であった。
 ティメイアスが思わず唸る。

「10日? ギリギリだな……ほんの少しタイミングがずれただけでハマールに駆け込まれるぞ」
「大丈夫、兄さんなら出来るわ」
「俺に言われても安心できんわ。だが……まあ、アリステアの信頼する救援なら、上首尾に終わらせているだろうな」
「そうそう、私を信じて!」
「だから、俺は俺が一番信じられんのだ」
「いや、そうじゃなくてああもう! とにかく! 出城がどうのこうのとかいうのは正規軍は最小限にして、とにかく移動の準備!」
「待て待て。斥候の報告では結構な規模だぞ。これを放置は出来んし、押さえにするにも最小限ではな」
「指揮官はフォン・ベックにして、傭兵を雇うのよ。工兵だけ連れて行って、簡易弩砲が二台もあれば落とせるわ」

 フォン・ベックは元々傭兵隊長から成り上がってきた男で、傭兵を率いらせればたしかにこれ以上の人材はない。だが、それでもティメイアスは首をかしげた。

「何を根拠に。かなり堅固な出城だぞ」
「見た目はね。中身はお寒い限りよ。あのフォン・ベックがやって来たと聞いたら二日と持たずに白旗が上がるんじゃないかしらね」

 ウルリッヒ・フォン・ベックはかの悪名高きマルデブルグの大虐殺に直接関わったと言われている。包囲戦の前には3万もいたと言われる住民がたったの3千人しか生き残らなかった言うのだから、その熾烈な戦いを思わせる。
 本人が特に否定もしなかったため、ウルリッヒ・フォン・ベックの名前は冷酷無比の傭兵隊長として知れ渡っていた。

「………………よし、それでいこう」
「傭兵隊は身軽にね。いざとなったら強力な後詰になるわ」
「そんな事はいちいち言わんでもよろしい」
「あら、ごめんなさい。でも兄さんのうっかり忘れを防止するのも私の役目だもの。いつだったか、うっかり私の旅行鞄を職場に持っていったことがあったでしょう? あの時私は着替えるものがなくって困ったわぁ……それに、兄さんが私の下着の入った袋を間違えて皆の前に出したって聞いた時には……」
「アリステアっ! 黙らんか!」

 真っ赤になってそう怒鳴ってから、ハッと我に帰ってティメイアスは咳払いを一つ。
 幻覚相手に怒っても何の意味もない。
 それに、これはアリステアではない
 彼にしか見えず、彼にしか聞こえず、彼にしか認識できない狂気の産物なのだ。

「用事は済んだろう? ほら、とっとと消えろ」

 シッシッと虫でも追い払うように手を払う彼に、苦笑を漏らしながら幻覚はそれでも消えない。
 いつもはこれで消えるのに、と訝しげな顔をした彼に妹の姿をした幻覚が話しかける。

「ねえ、兄さん」
「なんだ」
「私のこと、今でも怒っているの?」
「……」

 彼は押し黙り、しばしたってから口を開いた。

「わざわざ自分で自分に問いかけるか……俺も大概馬鹿野郎だな」
「……」
「俺は怒っちゃいないさ、ただ、残されたイソラが、あまりに不憫だ」
「兄さん……私……」
「ああ、やめろ、これ以上お寒い一人芝居をさせんでくれ。消えろ、幻覚。俺は可愛い姪後の幸せのために働かねばならん。残った片親がどう仕様も無い阿呆なのでな」
「……ミューズは、あれが本質というわけじゃないのよ、ただ、あの人は……」
「黙れ。アリステアが生きていた時と、状況が違うのだ。無意味な回顧に浸らせるのはやめろ」
「…………ごめんね、兄さん」

 そう呟いて、漸く幻覚は消えた。
 こんどこそ一人テントに残った将軍は、辺境に立った緑の旗を取り上げて、己の掌で転がした。
 妹は死んだ。
 神代の太古から転生を繰り返してきた魔女は、彼女の代で死んだ。
 永遠を生きるはずの魔女が、とうとう本当の死を迎えたのだ。
 その死で、全てが変わった、そう、全てが変わってしまったのだ。

「…………数千年の記憶は、重荷だったろう、捨てたくもなる。俺は怒っちゃいないさ。アリステア……」

 悲しげに、将軍はポツリと呟いて、フォン・ベックを呼ぶように従兵に伝えた。
 その目には、束の間浮かんだ悲哀の色は、もう見えない。












[28471] 08
Name: Jabberwock◆a1bef726 ID:10f94796
Date: 2011/08/04 21:14
「このへんでいいだろう、一旦小休止だ」

 そう言って、アブドゥルは大昔に築かれたと思わしき石舞台の上に腰をおろした。
 辺境樹海……リーベネタールの大森林は、かつて幾つもの国家が我が物にしようと足跡を残した。結果としてはそのどれもがこのように、消えかけた文明の残滓を細々と残すか、或いは辛うじて自給自足を続ける村落を幾つか残すのみ。
 いつしか、辺境にその身を横たえる長大な森林部とその向こうに広がる世界は、人の身の届かぬ魔境となったのだった。
 昼夜を問わぬ強行軍に、さしもの魔法使いと騎士も疲れた顔つきで同じように腰を落とした。
 動きやすい乗馬服に身を包んだシャリアンもそれは同じで、もしいつものような装飾過多な服装で森に入っていれば、その疲労は今の比ではなかっただろう。
 背嚢から取り出した水筒の中身を一口呷って、カラカラに乾いた喉を潤す。

「ふぅ……それにしても、足跡一つ残っていないっていうのに、よくもまあ全く同じ道が通れるわねぇ。ほんと、それ、誇るべきよ、リーンちゃん」

 額の汗を拭き取りながら、こちらも喉を鳴らしていたリーンが振り向く。

「俺の数少ない取り柄ですから。魔法も使えないし、この四人の中では一番足手まといだ」
「そ、そんな事無い! リーンは私なんかよりもっともっと凄いんだから!」
「ははは、有難う」

 仲睦まじく語らい会うリーンとイソラを見ながら、彼女は何やらもぞもぞと腰の座らぬ想いをしてそっと視線を外した。
 これは、溺愛する弟に彼女が出来た時の気持ちというのだろうか?
 小さく溜息を付いてごろりと横になると、その隣に長い付き合いになる老年の魔法使いが腰を下ろした。
 その口は黙して開かず、灰色をしたその両目だけが彼女に語りかけていた。
 その視線に、寝転びながら器用に肩を竦ませて、赤の信奉者はまたしても溜息を一つ。

「はいはい、そうね、頃合いね」

 そう言って上体を起こし、二人を呼び寄せた。
 しっかりとした作りの石舞台の上で四人は車座になって額を突き合わす。

「さぁて、それじゃあこれだけ離れれば余裕も出てきたし、そろそろこれからの話しをしましょうかぁ?」
「二人共、よく聞け。突然このような強行軍に連れ出され、訊きたいことも多々あったろうが、今から説明する。まず前提として、ティメイアス将軍の方針を説明する」

 そう言ってアブドゥルは地図を取り出した。
 それから彼はあの時に将軍から説明された概要を二人に説明する。

「つまり、我等四人は協力者の助けを得て、ハマールに向かう王女殿下の騎士隊を強襲。然る後に保管されているだろう契約書を焼却するという任務が下されている」
「で、その協力者っていうのが一体誰なのか、ティミーは教えてくれなかったのよねぇ……ただ行けば分かるって……ねぇ?」
「おぬしら二人が知っておるのだと、睨んでおるが?」

 そう言って、視線を向けられた魔女と騎士の二人は、困惑顔で顔を見合わせる。

「協力者……?」
「俺達がこの樹海に派遣されたのは、オーレイ帝国の遺跡を見つけるという任務でした。その過程で何度か見たことのない亜人の集団と交戦しましたが、アレが協力者になるとはとても……」
「ふぅん?」
「ふむ……」

 四人で首を傾げる。
 詳しくその話を聴きだしてみるも、最後には見上げるほどに大きく凶暴な亜人の戦士に叩きのめされてほうほうの体で逃げ出したということしか分からない。
 どうにも、その種属と人間の間には緊張関係はあれども協調関係など欠片もなさそうに思われた。

「可笑しいわねぇ……あの人がいい加減なことを言うわけもないし……。毎度のごとく、あたし等なんかには及びもつかない直感的思考ってやつかしらねぇ」
「ふん……あのティメイアスが「行けば分かる」と言ったのだ。行けばわかろうものよ」
「うーん……」

 とはいっても、さすがのシャリアンも釈然としない。
 別に疑ってかかっているわけではないが、いつになく唐突なやり方だと感じていた。いつもなら、ある程度のことはしっかりと説明するものだ。
 ちらりと横目で見ると、リーンの少年の面影を残した精悍な顔つきの中に、長年の付き合いでしか分からない微妙な引きつりを彼女は見て取った。
 ははぁ、これはなにか隠しているな。
 そう確信はしたものの、何やら根が深そうで、無理やり聞き出そうとしても面白く無い。
 なにより、無理やりというのは彼女の趣味ではなかった。

「そうねぇ……まあ、行けば、分かるのかしらねぇ」

 呟きながら、チラリとその視線をリーンの方に向ける。
 一瞬だけあった視線で、彼はどうやら彼女が疑っていることに気がついたようだが、その刹那に彼女がパチリとウインクをすると安堵の顔をした。
 一方、そうそうとは知らぬアブドゥルは忌々しげに眉根を寄せて腕を組んだ。

「はっ……それにしても、オーレイ帝国の遺跡だと? またぞろくだらん事に血道を上げよってからに、歴史と伝説の区別もつかぬか」
「あらぁ、オーレイがこの樹海を切り開こうとしたのは事実じゃなくって?」
「そう、そこまでは事実だ。だが、それを元に吟遊詩人共が創作したホラ話や、詐欺師や山師が資金集めの手口に使うような与太話まで信じるのは、およそいやしくも王家の生まれとして教育を受けた人間がやることではない。古代帝国の辺境都市? 失われた魔道帝国の隠し財宝? 辺境交易路で忽然と消えた一億デナリオン金貨? ハッ! 馬鹿馬鹿しい! そういう夢物語を信じていいのは物の分別もろくにつかん子供だけだ」
「あら、辛辣」
「少なくとも、地位も権力もある大人がしていい事ではない。やりたければ遺跡荒らしや冒険者にでもなって一人でやればよかろうが」

 そう言って一人気炎を吐くアブドゥルに、騎士と魔女は「また始まった」とばかりに顔を見合わす。その隣でシャリアンは「あらあら」と呆れの溜息を付いた。
 そんな様子に気がついたのか、アブドゥルは鉾をおさめて肩をすくめる。

「まあ、今はそんな事はどうでもよろしい。とにかく、此処から先は更に魑魅魍魎が跋扈する未開の地だ、簡単に方針を定めておく」
「今まで通り、あたしと貴方で前衛じゃあ駄目なのぉ?」
「いかん」

 即答である。
 思わず眉をひそめると、こちらは苦虫を噛み潰したような顔のアブドゥルが視線を向けた。

「……誠に情けないが、魔法使いがこれだけ集まって、高度な癒しを使える外法使いはお主しかおらぬ。イソラはまだまだ駆け出し、己に至っては手前の傷を治すのがようようやっとの白内法使い。ふんッ! 白二人、赤一人と揃って、癒しが使える外法使いがよりにもよって赤一人とはな! もしお前に何かあった時、この四人の継続戦闘力はガタガタだ。お前は後衛からの援護を行え」

 その言葉に一瞬呆けて、彼女は爆発した。

「ちょっと! 何なのそれ、もしかして、この私に後ろからチマチマ様子を伺っていろってわけ? 援護? 一体何の冗談かしら、この、赤の信奉者に、援護ですって?」
「そういきり立つな。少しは周りを見渡せ、馬鹿者が」
「周り? 周りを見たって糞ったれな緑しか見えやしないわ! 何処まで行っても緑、緑、緑、溢れかえるマナで息が詰まりそうよ!」
「そう、緑だ、そしてしかもこれから更にマナは濃くなるだろう。そんな所で、お前の全力を使わせるわけにはいかん」

 これはいけない、こんな言い争いをしている場合じゃない。
 そう必死に彼女の冷静な部分が警鐘を鳴らしている。だが、呼吸する大気にすら溢れかえる濃密なマナに、彼女の脳はじわじわと侵され始めていた。
 アブドゥルの眼光がぎらりと輝いて、こちらも彼女と同じく立ち上がった。

「何故分からん? お前は今、気化した油が充満する燃料庫の中で火遊びをしているに等しいのだぞ!」
「火遊び? 火遊びですって? この私の魔法が、火遊びですって?

 まずい、アブドゥルが己の失策を悟って臍を噛む。
 リーンはシャリアンの狂態というべき様子に完全に驚き固まり、イソラは怒れる赤の魔法使いから放たれる憤怒の波動に当てられ、よろよろと後じさった。
 今や、彼らの周囲にうずまくマナの大気は轟々と燃え上がる炉心にくべられる薪にすぎない。
 アブドゥルがマナ・プールを開いてその身に魔力を漲らせる。
 万が一に備えてのことであったが、それは完全に裏目に出た。
 憤怒に滾ったシャリアンの両目は、白の剣士を睨みつける。

「アァ、ア、アブドゥルッ……あ、あたしと、やるつもりッ! そうね!
「違う! 止めよ! お前はマナ酔いをしているのだ、プールを開け、マナを貯めるな!」
そ、そそ、そんな事を言って、ああ、あ、あたし、を騙す、つもり、でしょう、が! そのには乗らない……! ええ、ええ、乗るもんですかぁぁッ」
「シャリ――ヌゥっ 馬鹿が!」

 一瞬の攻防。
 抜き打ちで放たれた炎の閃光は、同じく抜き放たれた大刀に弾かれて石舞台に見難いギザギザの傷跡を残して飛び去った。
 石すら瞬時に焼ききる凄まじい温度の熱線である。
 人が受けては、生き残るすべはない。

「シャリアン!! 大馬鹿者が! こうも軽々しく正気を失い、それでヒューペルボレアの大導師に顔向け出来るか!」

 恐らく、この老練という字が生きているような大魔法使いにも、この濃密なマナの大気で気が緩んでいたのだろう。常ならば絶対にしないような、大失言であった。
 ヒューペルボレア。その名前を聞いた途端に、彼女の瞳に一欠片だけ残っていた正気の色が消えた。

「コッ、コ、コーモリオムの糞共が、な、なんですってぇぇ!!
「しまった!」

 すべての魔法の祖と呼ばれる大導師と、彼が創りだした魔法都市を、この赤の信奉者は心の底から毛嫌いしている。
 一瞬で憤怒以外のすべての感情が彼女の脳内から駆逐された。
 怒声と共に放たれた火球を、アブドゥルが剣の柄頭で素早く叩き壊すと、爆圧と爆風に乗って彼女は大きく間合いを外した。
 最早そこは、一足一刀の間合いを突き放した外法使い――マナを現象へと代えて世界に干渉する魔法使いの独壇場であった。
 このようなことをしている場合ではない、だがどうにもならぬ。
 アブドゥルは腹をくくって刀を構えた。
 一方、シャリアンは怒りに支配された思考のままにマナを練り上げる。
 一瞬で汲み上げられたマナは破壊的な赤の魔法に変換され、余人に曰く「世界を焼き滅ばせる」とまで言わしめた熱波の魔法が放たれる時を今か今かと待ち構える。
 
「ヒュ、ヒューペルボレア? あんな ふんぐるぅい 糞ったれの むぅぐるぅなふぅ 石頭の くっとぅぐぁ 権威主義で ふぉうまるはぅつ 人を見下し腐った ん・がぁ ぐぁあ 化石共がぁ!!」
「そ、その呪文はっ、いかん! ええいっ!」

 破滅の呪文を目の前に、白の魔剣士イブン=アブドゥル・アルティメールが跳ぶ。
 だが、刹那の一手でこちらが早い。
 狂笑を浮かべ、シャリアンは呪文の最後を口にした。

いあ! くっとぅへ?」

 思わず口を開いて、間抜け面を晒した。
 眼の前に現れた、これは何?
 思考は一瞬、その後に、信じられない激痛が腹部を走り抜けた。

「がっ! ぐぁっ!」

 内蔵が確実に幾つか逝かれた感触。胸骨が割れ、肋骨がへし折れる。
 樹齢数百年の大木に叩きつけられ、口から血反吐をぶちまけながら、何が起こったのか確認する間もなくその細首をがっちりと掴まれて釣り上げられた。

「双方動くなッ!!」

 凛と響く、銀鈴を打ち鳴らしたかのような声。
 力の入らぬ両手で、己の首を絞めるそれを外そうともがきながら目を開けると、目の前には己を叩き伏せて首を締める異形の巨人。
 蛇腹状の兜からは瞳孔が縦に裂けた金色の瞳と、勇ましい山岳ヤギの角が見えるばかり。
 なんだこれは、これは一体……!
 戦慄に打ち震える彼女の思考を、止めの一撃が見舞った。

「妙な真似はするなよ、魔法使い! 貴様らの仲間がバラバラに引き裂かれ、無様に死ぬさまを見たくなければな!」

 声の方に目をやって、そこに現れた小柄な人影にシャリアンは目を剥いた。
 ハークエニスコン属! しかも、首輪をしていない!
 彼女は全身から血の気が引いていく思いだった。
 中空にぶら下げられた状態で、その両目は油断なく大刀を構えるアブドゥルと、その後ろで瞬時に刃の呪文を唱えるイソラを捉えた。

「がっ……だ、……め……!」

 警告の言葉は、しかし潰れそうな喉からは到底響かず、瞬時に紡がれたイソラの魔法は放たれていた。
 迫り来る無色の刃を前に、小さなハークエニスコンは嘲笑を浮かべた。

「愚かな……」

 それはまるで、聖歌隊の詠歌のように。
 「ラ」と高く高く伸ばされたたった1音の歌声。
 その瞬間、今の今まで辺りに満ち満ちていたマナの流れは掻き乱され、寸断され、上空高く跳ね上がったかと思えば地の底に潜り込み、或いはまるで最初から存在しなかったように消失した。
 イソラの魔法はあっという間にかき消され、そよ風すらも到達しない。
 驚愕に目を見開くイソラと、侮蔑の視線を隠そうともしないハークエニスコンの少女。

「その程度の外法で、我々が永々と積み上げてきた唱歌を抜けると思うたか」

 最悪。
 それ以外の言葉が見つからなかった。
 ハークエニスコンは神話時代の終わりから、現代に到るまで延々魔法使いと戦争を続ける不倶戴天の敵である。
 外法使いは――イソラは完全に無効化されたも同じ。
 そして、唯一対抗の目があるアブドゥルは、己が無様にも吊り上げられたこの状況では無茶はできない。
 だが……だがしかし、たかが骨砕き臓腑を潰し、喉を締めたくらいでこの赤の信奉者は二の足を踏む魔法使いではない。
 シャリアンは己のマナ・プールに詰まったその残りを勢い良く炉心にくべようと集中した。
 それを敏感に感じ取ったのか、アブドゥルがその瞬間を見極めて踏み込む好機を伺う。
 次の瞬間、シャリアンは愕然と固まった。
 己の身中にあるはずの膨大なマナ。
 それがほとんど焚き火すら起こせぬほどに枯渇しかけている。
 いつの間にか、マナ・プールにポッカリと大穴が開き、そこの抜けた樽のようにザバザバと全てが外に抜け出ていた。
 巨人。黒檀の手足。捻くれた角。恐ろしい膂力。金色に光る瞳。マナの……枯渇……ッ!?。
 呪い砕き(カースブレーカー)!!
 極限まで加速した思考はたった一つの恐ろしい推測を組み立て、反抗が最早不可能になったことと、せめて仲間だけは助けようと決心する。
 死力を振り絞り、己の首を締める恐ろしい爪を少しだけこじ開け、彼女は声を張り上げた。

「ダメ! アブドゥル! こいつ、カースブレーカーよ! 貴方じゃ勝てないッ!」
「な、んだと……」

 踏み込む寸前で、アブドゥルが驚愕を顔面に貼りつけて踏み留まる。
 一瞬で、その顔色が変わった。
 百戦錬磨の魔法使いが周章狼狽する。
 それほどにも、その名前は魔法使いにとってタブーと言ってよかった。

「馬鹿な! 奴らは絶滅したはず!」
「ぐぅ……こいつ、この化物……こいつがそうなのよ! 逃げて! 早く!」
「ありえん! 二千年も前の話だ! シーカーが見つけぬ筈がない!」
「そ、んなこと、言ってる場合、じゃ……う、ぐ」
「シャリアン! おのれぇ!」

 馬鹿、どうして向かって来るよの!
 泣きそうになりながら、彼女は必死にその両足で目の前の悪魔じみた巨躯の鎧を蹴った。
 それを完全に無視して、巨人は彼女を振り回してアブドゥルの方にぶらりと向ける。
 たったそれだけで、老練の剣士が蹈鞴を踏んだ。
 耳を擽る、聞き覚えのない言葉。
 その直ぐ後に、不満たらたらといった顔でハークエニスコンの少女が言葉を紡ぐ。

「白の剣士よ、コイツの命が惜しければ、後ろの魔女の助けを借りずに私と切り合え。私に勝てば、こいつを放す。お前が負ければ、次は後ろの黒い剣士だ。どうだ、白い剣士」
「…………是非もなし」

 是非はある。早く逃げろ。
 その言葉を口にする間もなく、乱暴に投げ捨てられた彼女はどさりと下生えの茂った地面に倒れ込んだ。
 血泡混じりの咳を吐き出して、震える両腕で身体を支えながら面を上げると、そこには恐ろしく巨大な斧槍を構えたカースブレーカーと、隕鉄で鍛え上げた大刀を構えるアブドゥルの姿があった。
 思わず息を飲むほどの緊迫感。
 なんとか逃げろと叫ぼうとして、それも叶わず彼女は血塊をごぼりと吐き捨てた。
 そして、それが決闘の合図と化した。



「おおっ!」
「がぁっ!」



 薙ぎ払われた斧の一戟を、何の痛痒もない様子でアブドゥルが受け止める。
 鋼が噛み付き合う甲高い音を立てながら、斧槍を跳ね上げた大刀が瞬時に翻って斜めから振り下ろされ、跳ね上がった斧槍の頭の代わりにくるりと回った長柄がそれを受け止め、弾く。
 

「きえぇっ」
「むぅっ!」

 大刀が翻って薙ぎ払いから平突きに、瞬く暇もなく早変わりすれば、それに合わせるように突き出された斧槍の切っ先が絡みあう。
 右かと思えば左、そうかと思えば地を這うような下段から。
 達人級の凄まじい攻防が、そこにはあった。

「ちくしょう……ダメよ……アブドゥル……そいつは、カースブレーカーなのよ……」

 空っぽになったマナ・プールに、必死に樹海に満ちた魔力を注ぎ込もうと足掻く。
 が、ダメ。
 いくら水を注ぎ込んだ所で、そこの抜けた樽にそれが溜まる道理もなし。
 悔しさと絶望に歯軋りをしながら、シャリアンはただただ、その死闘を見守るしかなかった……。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.07192587852478