ポッケ村……いや、この世界よりはるかに東。人はそこを『東方』と呼ぶ。『侍』と呼ばれる人物が『刀』を常に持ち、その生涯を武士道に捧げる人々……と言われている。
だが、実のところ東方の世界の人々のことは言い伝えが少ない。何しろ絶対数が少ないのだ。言語が通じない、我々では計り知れないほど文明が発達している、肩をぶつけたら即決闘……所説いろいろあるが、多くの学者はこう結論付けている。
――鎖国。すなわち、他国との交流を禁じている国、と――
*** *** ***
ここは東方、白木の国。特産物とされる白木が多く産出されることから着いた名である。そして、美しいその白木をふんだんに使ったのが白木の国の象徴、白木城。その純真無垢な白はまるで祝いの席に着る純白の振袖――故に、同じ発音で『白姫城』とも呼ばれている。
《白木城――城下町》
「「「「『常、在、戦、場』ッ!! 『常、在、戦、場』ッ!! 『常、在、戦、場』ッ!! 『常、在、戦、場』ッ!!」」」」
稽古場から威勢のいい声が響く。床に敷き詰められた畳、綿素材でできた胴着を付けた人々が掛け声と共に木刀を振るっている。飛び散る汗がきらきらと輝き、太陽の光にあたって光の粒となってあたりに舞う。城下の真ん中に位置したこの道場は信楽十三(しがらきじゅうぞう)師範代が建てた道場であり、多くの門下生で賑わっている。
「やめいッ!!」
十三師範代の声が辺りを揺らす。今年で四十だというのに、その迫力は全く衰えることが無い。胴着を着ていてもわかる筋骨隆々なその体。黒の袴をはいているのは足捌きを相手に見られないため。数多の戦場を渡り歩いてきたその肉体は老いてもなお、健在である。豪胆な性格、決して屈しないその心はまさに武士道の体現者。百戦の戦に出て不敗。かつて『鬼の十三』と呼ばれ、各地の大名から恐れられた武人も今はその刀を納め、こうして弟子の育成に取り組んでいる。それを象徴するかのように道場の中心に据えられているのはかつて戦場をともに駆けた相棒である巨大な薙刀、名を『鬼薙刀』。嘘か真か、かつて暴虐の限りを尽くしていた鬼を打ち倒したお礼としてもらった宝刀だとも、実際に鬼を切り倒したとも言われるそんな逸話すら残る薙刀である。まさに生きる伝説。そんな彼を師と仰ぎ、入門するものも多くない。その豪放磊落(ごうほうらいらく)な性格は地元でも評判であり、『先生』の愛称で老若男女から慕われている。『常在戦場』は彼の座右の銘であり、この道場の合言葉でもある。
「「「「はい!!!」」」
「『常在戦場』、生きること、これすなわち戦いなり。『我、常に戦場に在り』。常日頃から戦いの場に身を投じていることを忘れるな!! 三度唱和!!」
「「「「『常、在、戦、場』ッ!! 『常、在、戦、場』ッ!! 『常、在、戦、場』ッ!!」」」」
「今日の稽古はこれまでとする!!」
「「「「ありがとうございました!!!」」」」
門下生が解散し、道場を一人、また一人と門下生が出て行く。一人の少女が道場を出た後、外の塀をぐるりと回り、てくてくと歩いてゆく。そこには、白く塗られた塀にもたれかかった一人の少女がいた。仏頂面の彼女は髪も手入れをしていないのか、ボサボサでありところどころにフケがついている。前髪は表情を隠すように瞳を完全に覆い隠し、後ろは腰まで垂れ下がる程伸び切っている。背丈は四尺三寸(約130cm)ほどだろうか。
「姉さま……」
そう彼女がつぶやくと、ぼさぼさの髪の少女はピクリとも動くことなく、淡々と言葉を吐き出す。
「『アヤ』――終わったのね。」
「ええ。また、待っててくれたんですか?」
しばらく押し黙った彼女だったが、ややあって口を開く。
「……違うわ。足元に綺麗な花が咲いていたから、それを踏み潰さないように守っていただけよ」
「ふふ……ねえさまは相変わらずお優しいのですね……」
「優しくなんかないわ。私は冷酷よ……」
「ご自分で冷酷というのもどうかと思いますけど……」
そう問いかけ、仏頂面に答える対称的な二人の姉妹。だが、対称的なのは性格だけではない。溌剌(はつらつ)とした元気の良い彼女はその容姿も活発で明るい。黒曜石のような黒い瞳に同じく黒い髪をうなじのあたりで結っている。
仏頂面で感情を表に出さず、滅多に口を開かない。だが、その奥に優しさを秘めた少女。名を『鈴原 妖(あや)』
溌剌としたその容姿とその明るい性格で多くのものから慕われる心優しき少女。名を『鈴原 彩(あや)』
全く同じ名を持つ二人だが、表面上の性格は恐ろしいほど正反対である。姉は妹のことを『アヤ』と。妹は姉のことを『ねえさま』と。物心ついたときはお互いを区別するときにそう呼ぶことが習慣になっていた。
*** *** ***
私は物心ついたころから世間の人間に疎まれていた。なぜだかは分からない。ただひとつ分かることは――私は、この世界に必要とされていない、ということだけだ。
「ねえさま……どうかしました??」
帰りの散歩道。『アヤ』と二人で夕暮れの茜空を見ながら歩くのが習慣となっていた。だが、私が帰るのは家ではない。
「……『アヤ』。あなたは先に帰りなさい。わたしは寄り道して、あとで『家』に戻るわ」
「……はい」
そういうと、『アヤ』は悲しそうな顔をする。なぜねえさまだけが、という顔。それはよく分かっている。だが、大切なのはそこではない。『私が疎まれている』ことが問題なのだ。そのことで『アヤ』が傷つきでもしたら――私も傷つくことになるからだ。だから、『アヤ』は先に帰らせる。
「……お夕飯、あとで届けますからね」
そういうと、一人だけ彼女は歩いていった。それを見送ると、私は横道にそれていく。家と家の隙間は光が差し込まず、そこだけ深い闇を形成している。前髪を垂らしているので周りの風景は髪の毛を通してしか判断できないが、別に困ることはない。ものが見れれば、それでいいのだから――
周りには多くの人間が歩いている。私の身長はそれほど高くない。ここでは私のようにフケだらけで襤褸切れだけの子供もそう……珍しくはない。だから、この横道に私が入り込むのも……それほど難しいことではない。テクテクテク、と土を蹴る音だけが私の耳を揺さぶる。周りの雑踏や人々の声などには興味がない。そちらに意識を向ければ、いつもの『アレ』が待っているから。
――ほら、またあの子よ……
――まったく、薄気味悪いわね……
――実はね……妖怪が人間に化けているらしい……って噂を聞いたことあるわ……
ほらやっぱり。私のことだ。珍しくはない人間のはずなのに、なぜだか私だけ『区別』される。私だけが。
――やーいやーい、もののけ~~
――ばけもの~~
――汚ねぇんだよ!! あっちいけよ!!
これもお決まりだ。子供は無邪気だ。大人というものをよく観察している。大人が私を区別する。だから子供も区別する。しかし、子供は善悪の判断が出来ない。だから……
――いくぞ~、『おにたいじ』だ~!!!
石を投げつけられ、追い回される。追いつけば殴られる。だからいつものように逃げるのだ。こんなことが毎日続けはイヤでも体力はついてくる。そこらの子供よりもずっと足は速いし、体力もある。目標のもの(食料)を確保すると、そのまま一目散に駆け抜ける。横道の横道を使い、人一人が通れるところの通路だけを選んで走る。たとえ目の前が真っ暗でも関係ない。この裏道は私の庭のようなものだ。たとえ暗闇の中でも、私には手に取るように分かる。
人の足音を音で聞く。
人の匂いを鼻で嗅ぐ。
人のいない道を眼で見る。
自分の呼吸を口で味わう。
賭ける足に伝わる感触と歩数で把握する。
人間に備わっている聴覚、嗅覚、視覚、味覚、触覚。五感の特徴を活かし、私は駆け抜ける。そして――
(――人の気配が途切れた。こっちの道をを使うか)
あらゆる気配を『感じる』第六感。私はあまり視覚に頼らない。空気を、人を、モノを、『感じる』ことで行動している。直感はいつだって正しい。
そして今日も……無事に家に帰ることが出来た。私にとっては家と呼ぶに相応しいものだが、『アヤ』にとってみれば“物置”という場所だそうだ。だがそんなことはどうでもいい。寝食が出来、雨露をしのげる場所が『家』というものだ。今日は汗もかいていない。雨も降っていない。雨が降っていたら大変だ。地面はぬかるみ、体は濡れる。ついでに家も濡れる。農家では『恵みの雨』ともいうようだが、私にとっては恵みどころか不幸の象徴だ。戸をガラリとあけて、すぐに閉める。木を組み合わせて屋根をつけただけの簡素な物置。もちろん、人間は私だけ。ここは本当に物置として使われている。私は人間として扱われたことなど一度もない。『飼う』といわれたことはある。つまりは犬猫と同じ扱い――『獣』ということだ。
――ただ、若干一名。私を『人間』として平等に扱う人がいる。
「……おかえりなさいませ」
『アヤ』だ。なぜかこの子は私と違って疎まれない。最初はその理不尽さに何度も抵抗を考えたが、その内止めた。何をどうしようが私の扱いが『アヤ』のそれと同じになることはなかった。『アヤ』の両親は『アヤ』にとても優しい。はたからみればとても良い家族だろう。――私、という異端を除けばだが。
「……ただいま」
一応、挨拶だけはしておく。『アヤ』はこうみえて人気がある。毎日道場での稽古を『聞いて』いるからよくわかる。彼女の明るい人望は人を惹きつけてやまない魅力がある。無論、私もその一人である。この世界で唯一、私を人間として扱ってくれる存在。稀有だと突き放すのは簡単だ。だが、彼女は以外にも頑固だった。自分がこう、と決めたらテコでも動かない。可愛いようにみえて、意志がやたらと強いのだ。やはりあの『先生』の存在が大きいのか、本人の性格か。
「夕飯をお持ちしました」
これもいつもの会話。
――以前、こうやって訪れた彼女に「夕飯なんていらない」と拒否したら笑顔でこう切り替えされた。
「だったら、おねえさまが食べ終わるまで私はこの部屋を出ません。私はあなたの妹ですから」
そういうや否や、彼女は地べたに正座をして恭しくお椀を差し出した。私は食べる気など端からなかった。どうせただの強がりだ、と私は高をくくっていたからだ。だが、彼女は待ち続けた。一時間、二時間……彼女は身じろぎ一つせず、動かなかった。私が逆に根負けしてお椀に手をつけるそのときまで。後で理由を問いただしたら、彼女は「鈴原家の家訓ですから、それにただ従っただけのことです」、とそう応えた。私は家訓など知らなかった。だから質問してみた。これが、私が自発的に質問した初めての会話だった。『アヤ』はとても嬉しかったのだろう。まるで歌うように自分の家の家訓を教えてくれた。
――疾(はや)きこと【風】の如く――
――徐(しず)かなること【林】の如く――
――侵(おか)し掠(かす)めること【火】の如く――
――動かざること【山】の如し――
その四文字をとって、『風林火山』という――それが鈴原家の家訓だと、『アヤ』は語っていた。家には風林火山の象徴として『蒼紅一対剣』なる宝剣が床の間に飾ってあるらしい。(らしい、というのは私は家に入った記憶がないからだ)
「動かざること【山】の如し、ですよ。お姉さま」
私はその意味がいまいちわからなかった。最初の三つは理解できる。風のように速く、林のように静かに、火が燃え盛るように熱く。だが、なぜ最後に『山のように動くな』というのか。動きを止めれば死んでしまうではないか。
「……わたしには、よくわからないわ」
「……だいじょうぶです、わたしも分かりませんから」
「……あっそ」
「ええ、でも今日は一つだけ家訓を守れました」
両親は『アヤ』がこの場所に来ることを良く思っていない。だから『アヤ』は勝手に家を抜け出し、この物置に自分の夕飯を隠して持ってきているのだ。
「…………それはいいのだけど。両親に感ずかれてない??」
「…………あ。」
訂正しよう。『アヤ』は意志が強く頑固だ。しかし、意外と向こう見ずでどこかが抜けている。
――まぁとにかく、夕飯は必ず食べるようになった。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした」
「……って『アヤ』が作ったわけじゃないでしょ」
「ええ、そうですよ」
「じゃぁ、用が済んだらさっさと帰りなさい。罰を受けるわよ」
「はいはい……」
ぶっきらぼうにそう答えるも、『アヤ』はただ苦笑するだけだ。私はいつものように立てかけてあったゴザをしくと、ゴロリと横になって目を閉じる。あちこちに物が置いてある(とは言っても猫車や錆びた鍬、壊れたツルハシなどそれほど多くのものは置いてはいない)が、足を少し折りたたんで横になるくらいの空間はある。ゴザをしかなければ体がじかに土に触れる。この物置には床が無いからだ。ゴザが物置にあったのは運が良かったといえる。これは合図。もう会話はしないから早く出て行けという無言の回答。『アヤ』はそれをみると素早く立ち上がり、自分の家へと戻ってゆく。武家屋敷ではない、どこにでもあるような百姓が住む家と同じ作りである。物置はその家から丁度真後ろの位置にあたる。直に接してはいないが、真後ろということと、簡素な作りだからよく音が漏れるのだ。
――家族の談笑する声が。
父と、母と、『アヤ』。一家団欒の食卓風景。今日は何があった、とか、先生の稽古の様子とか、今日の料理は何がおいしいか、とか、そんなごく普通の、たわいの無い話。そこに私は居ない。ただ……それを聞くのがイヤだから、私は目を閉じて意識を落とす。また明日も、明後日も、明々後日も、同じ日々が続くのだから。無駄な体力を使うことも無い。ただ、毎日が繰り返される。
――くるくる、くるくると。
*** *** ***
鈴原家は白木の国の中でも少し異質な経歴を持つ家系だ。普段は商売人としてさまざまなものを卸して販売する「よろず屋」のような仕事をしているが、それは表の顔だ。鈴原家の裏の顔は「暗殺業」。影で踊り、大名の敵となる人物や組織を人知れず排除する。それが鈴原家本来の生業だ。『鈴』の家紋はその一族代々伝わる伝統の家紋である。それを継承するということは大名に生涯の忠誠を近い、邪魔者を排除する任につく。十五になって元服し、一人前の大人としてみなされた時に継承をすませ、暗殺者としての道を進むことになるのだ。
そして、継承者は代々女性が受け継ぐものとされている。男尊女卑の傾向が強い東方の国では女性が長を務めることは非常に珍しい。だが、鈴原家は常に女性が頭首を務める。それはなぜか――『女』だからだ。男と違って生命を宿すことが出来るのは女性しかいない。世の中の男は常に女性を常に卑しい目で見る。その弱みに付け込み、色香で惑わせたり、愛人として近づいたり、遊郭などで己の体を売ることもある。艶事などをつかって既成事実を作ってしまえばかなりの情報を引き出すことも可能だ。鈴原家では嫁に行かず、婿を迎えいれて血を残すのが慣例となっている。この世界では政略結婚が大半だが、鈴原家はそのしきたりはない。自由に恋愛し、自分が見初めた男性と結婚する――それは自分の観察眼を鍛える面も含まれている。
白木の国では子を墜とすことは罪として問われない。しかし、男性はそうもいかない。世間体があるからだ。東方の国で世間体を失った人間の末路は悲惨だ。だから必死に守ろうとする。そういった文化を熟知しているからこそ、鈴原家は大名のお気に入りとしてこれまで何不自由なく過ごすことが出来た。
――現頭首である『鈴原 樹(いつき)』が双子の子を身篭らなければ。
鈴原家の掟の一つに『継承者は一子相伝』というものがある。二人のうち、一人しか継承することは許されない。本来ならば生まれた瞬間、片方の命は間引かれてこの世から消える。しかし、樹はその選択を取らなかった――というよりある人物の進言によって取れなかったのだ。苦渋の決断の末、どちらがより継承者に値するか、樹はその場で掟を作った。赤子である二人が継承に値するかどうかは頭首権限で決められる。そして、樹の下した決断はこうだった。
――赤子が泣き止み、再び泣き出すまでにより多くの時間がかかった子供を継承者とする。
結果、彼女達二人の運命は、生まれた瞬間から試されていた。そしてその試練に受かったのが『鈴原 彩』。妖の双子の妹である。樹は姉妹の順序などは物事の優劣に値しないと考えていた。年功序列の文化が根強い東方では、常に『先に生まれた』人間を尊重する傾向にある。だが、異端である鈴原家はその考えを真っ向から否定した。使える人間は活かし、使えない人間は潰す。これは大名も口出しできない鈴原家だけの掟である。樹の考えはそのまま教育方針に反映される。片方は愛情を注ぎ、もう片方は『家畜』としてしか扱わない。
《白木城・天守閣――大天守》
大天守。天守閣の中でも最も上位の部屋であり、通常は大名や皇族の者しか立ち入ることを許されない領域。六畳間の小さな小部屋だが、この部屋では白木の国の政を左右する大きな意思決定の場でもある。 だが、唯一平民でありながら大天守へ呼ばれる人間が二人いる。鈴原家正当継承者である鈴原樹、そして『鬼の十三』こと信楽十三だ。行灯に隠れた蝋燭の明かりだけが部屋を仄かに照らし、どこか荘厳な雰囲気すら漂わせている。
「今年も大名の下で御前試合が行われるそうですね」
「十三、今年の鈴原の様子はどうじゃ?」
「はっ。恐れながら申し上げます。鈴原彩の実力は相当な域におりまする。すでに子供では手に負えぬほどの腕前。彩には常に大人と戦わせ、『常在戦場』の名の下に鍛錬を積んでおります。真、末恐ろしい女子にございます。どこまで成長するやらこの十三、全く先が読めませぬ」
「……ありがたきお言葉。『先生』にお褒めの言葉を頂き、恐悦至極にございます。彩もきっと喜ぶことでしょう」
「ほほう……十三にここまで言わせるとは、樹の娘も大した実力のようじゃの」
現に彩は素晴らしい成長を見せている。何しろ『鬼の十三』の異名をとる信楽十三からも一目置かれる存在だ。母としてこの決断は間違っていなかったと確信できる。
「ことに樹。すでにあの娘には『教えて』いるのかね?」
「ええ……教えています。まるで真綿が水を吸い込むが如く、私の言ったことをすぐに体得する。まさに天恵の授かり者ですわ。すでに鉄弦を使った暗殺術も会得しております」
「なんと!? わずか十の少女がそこまでの技術を!?」
「艶事や色香はまだ早いですが、素養は十分に見受けられるものとお察ししますわ」
それはつまり、暗殺者としての第一歩を踏み出したということだ。十五の元服の前にこれだけの技術を会得できた人間は鈴原家の過去を紐解いてもほとんどいない。
「……鉄弦か。」
十三が苦苦そうに呟く。そう思うのも無理は無い。彼もまた、鉄弦の恐ろしさを体に刻み込まれた人物である。
『鉄弦』――鉄糸(てっし)とも呼ばれる暗器の一種である。通常は釣り糸など、光に透過されやすい物質を使うのが一般的だが、鈴原家では代々鉄をこよりのように細くより合わせ、糸のように加工した特殊な鉄糸を使う。まるで『弦』のようにしなやかに伸びることがその名の由来だ。鉄弦は相手に金属製の糸を巻きつけ、その圧力で相手の肉を切り裂く暗殺道具である。手首、首筋を狙えば血管が切り裂かれ、あっという間に死に至る。日中ではよく目立つ鉛色も、闇の中では目立たない。鈴原家が最も得意とし、多くの大名に恐れられているのがこの鉄弦を使った暗殺だ。釣り糸なら懐の小刀で簡単に切断できる。しかし、鉄弦では困難だ。金属製であることに加え、『弦』のようにしなやかに伸びる糸は力を分散させ、刃による切断は困難を極める。
また鉄弦は鈴原家代々の暗器であり、鈴原家以外の人間は触れることすら出来ない。闇に紛れ、人知れず命を奪う武器の代名詞。生産方法は一切不明。鈴原家の頭首とその継承者のみが扱うことが出来る武器である。これまでどれだけの人間がこの鉄弦で切り裂かれたことか。相手は自分が鉄弦に巻きつけたことすらわからない。気づいたときには既に遅し、四肢を封じられ、生殺与奪の権利は鈴原の名を持つ人間に奪われる。かつて十三も鉄弦に散々苦しめられた。闇に完全に溶け込んだ弦は見極めることはほぼ不可能。圧力がかかった瞬間の音を聞き、素早く切断することでかろうじて生き抜いてきた。急所こそ外れたものの、十三の体には幾度も鉄弦で体を切り裂かれた傷跡が残っている。傷は癒えても、暗殺される恐怖は時間が経っても決して消えることはない。
「なら決まりですわね。今年の頂点は我が鈴原家が頂きます。鉄弦などなくとも充分に戦えるでしょう」
鈴原家は強い。そして樹の娘である彩もその片鱗を覗かせている。あの年にしてすでに鉄弦を体得しているというのだから驚きだ。一歩間違えば自分自身すら切り裂いてしまう危険な武器だというのに、彼女の体には傷跡一つ見たことがない。影で練習しているのか、それとも天恵のなせる業か。脅威ではあるが、自分の愛弟子が成長するのはなによりの楽しみでもある。それは大名も同じだったようだ。
「ほほぉ、それは楽しみじゃの。御前試合は諸国からも多くの大名や武士が訪れるからの。そこで白木の国の力を十二分に見せ付ければ、そう簡単に手出しは出来まいて」
「承知仕りました。鈴原の名において、白木の国に泥を塗る真似はいたしませぬ。必ず勝利を我が主君に捧げましょう」
「頼むぞ……鈴原の名に恥じぬ戦いを期待しておるからの」
「承知」
「ふっ……そこまでの自信があるのであれば、崩したくなるのが侍というものよ」
十三がくつくつと笑いながら皮肉めいた台詞を吐く。冗談なのか――本気なのか、どちらともとれるような言い方だ。だが、相手もそんなことを言われて黙っているような性分ではない。
「あら先生、冗談は酒宴の席でなさって下さらない? これは他国に我々の強さを知らしめるための大事な試合ですのよ? それに、彩と先生では部門が違いますわ」
「そんなことは百も承知だ。だが、強い相手を間近で眺めながら仕合の一つでもできないとあっては蛇の生殺しと変わらぬわ」
「あらあら……先生は手合わせしないのでございますか?」
「大事な鈴原の娘に怪我をさせたとあっては樹殿に示しがつかないではないか」
嘘か、真か。報復を恐れているのか、文字通り、鈴原家のことを考えているのか。その真意は決して表に出そうとしない。十三もまた百戦錬磨の侍だ。
「ならこういうのはどうじゃ? 今回の親善試合、子供の部の優勝者には特別に信楽十三との仕合を命じさせるという条件はどうであろ??」
「おお、それは誠でございまするか!?」
「十三には白木の国として多大な貢献をいたしておる。こういった褒美なら文句はないであろ、十三」
「もったいなきお言葉。この老骨、久々に血が滾って参りましたわ」
「ふふ……大名様も随分と粋な計らいをお考えになるのですね。私もその案には賛成ですわ。我が子の成長をこの眼でみるいい機会でしょう。その時は手加減無用でお願いしますわ。先生と仕合える技量を持つ童子は鈴原家正当継承者、鈴原彩に置いて他にはいない」
「それは楽しみだ。久しぶりに薙刀が持てるとあっては儂も怠けてはおれんな……」
「伝家の宝刀、『鬼薙刀』を? ふふ……先生も意外と初心な部分があるのですね」
「樹殿……からかわないで頂きたい。『手加減無用』といったのはそちらだ。ならば儂とて同じことよ。戦場に大人も子供も関係ない。『常在戦場』、強きものだけが生き残るのがこの世界の摂理だ」
「それには賛同しますわ。ただ、それが正々堂々に行われるか、搦め手を使うか……違いはそこにしかないのですから」
そういいながら思わず笑いあう二人。……と、十三はふと何かを思い出したように真剣な顔になると佇まいを直し、樹と正面から向かい合う。
「……時に樹。」
「……なにかしら?」
樹も十三の変化に何かを感づいたのか、先程までの笑顔を消し、無表情な顔を作って低い声でそれに応える。
「貴殿にはもう一人の娘がいたはず。あちらはどうしている??」
その言葉を聞いた瞬間、樹の目から光が消えた。そほどその事に触れられるのが嫌なのか、淡々と言葉を吐き出す。
「……あのような『家畜』、生きていてなんの価値がありましょう。『先生』のご意向により私は手を下していませんが、その気になれば何時でも殺せます。なぜ生かすのですか?」
「必要だからだ。」
「必要? お言葉ですが先生、“なにが”必要なのですか? 鈴原の名を汚すだけの哀れな存在に私は何の価値も見出せませぬ。赤子のときに定められた我が鈴原の掟に唯一物言いをしたのは他でもない、十三先生でしょう。あの時は私もまだ継承してさほど間がなく、従うより他に方法がなかった――だが今は違う。鈴原の正当なる継承者である彩がいる以上、あの者は既に用済み。ならば伝承を漏らさぬよう、口封じをするのが上策かと思いますが?」
「……成程、樹の言い分も最もだ。ではこういうのは如何かな? 樹殿、貴殿はあの娘を『家畜』で『無価値』だと言った。餌付けをするだけの存在なら、すでに鈴原家には不要。なら、儂があの娘の体躯と命の全てを貰い受けるとしよう。貴殿には不必要、儂には必要。どちらにとっても不利益な話ではないと思うのだが、どうかね?」
「貴様!! こちらが下手に出ればべらべらと都合の良いことを!! 鈴原の名に泥を塗るあの愚かな物の怪をあまつさえ放置するか!! 災厄しか生まないあの忌み子はこの世から消え去るべきだ!! 先生……今やあなたは鈴原よりも格下の存在。私があの存在をどのように扱おうが私の自由。貴様に指図されるいわれはない!!」
余程十三の言葉が癇に障ったのか、それまで余裕だった笑みを崩し、激昂して机をバン! と叩きつける。ただの余所者に口出しをした挙句、今度は取引を持ちかけてきた。樹はそれが気に食わない。
「そうだ。儂はすでに鈴原に物言いできる立場でなくなった。だからあの娘をこの世から消し、『物の怪』に仕立て上げるのだよ」
「……なっ!?」
樹が思わず絶句する。自分では意識していなかった言葉だったが、十三の言い放った今の言葉に心臓を鷲掴みにされた気分になった。『物の怪に仕立て上げる』、なんとおぞましい言葉か。樹は一度も妖のことを名前で呼んだことはない。『物の怪』『忌み子』『家畜』など貶める言葉は散々吐いてきたが、『仕立て上げる』と言われてゾッっとした。妖怪、怪異などの話はごまんとあるが、そんな恐ろしいものを自分達で作る、と言ったのだ。目の前の男は。
「貴殿はあの娘を『人』として見ていない。故にあの娘には愛情がない。愛情をなくし、心をなくした人はただの人形。こちらの命令をただ実行するだけの傀儡(くぐつ)。儂はそれが欲しい。人が心を無くすためにはいくつかの条件が必要だ。一つ、環境。二つ、孤独。そして三つ――裏切り。すでに樹殿はあの娘に孤独を強いる環境を与えている。歳月がたてばいずれあやつの心は砕ける。だが儂は、あやつの心がある一線で止まっているとしか思えない。それは『人』である為の一線。傀儡になる寸前であの娘はひたすら耐えている。それが儂には面白くない。故に儂はこの御前試合を利用して、最後の一線を越えさせてあやつの心を『獣』へと堕とす。同じ読み方でもあちらは『妖』と書くそうだな? ならば儂らで仕立て上げようではないか……本物の『妖』を。己の手足となる人形がいれば、汚れ仕事は全て『妖』の名を持つ物の怪が背負ってくれる。そして、物の怪は人を殺めても罪に問われない。物の怪に殺されたものはこぞってこう言うのだよ――『神隠し』とな」
「――『神隠し』。成程、あの娘を傀儡にし、都合の悪い人間を『神隠し』させる。諸国は『神隠し』されることを恐れ、我々の外交条件に都合の良い言い分を突きつけてくる。結果、白木の国は栄え、ますます門下生が増える。貴様の老後も安心、そして己の技術も継承させようというわけか……喰えぬ『狸』め」
『信楽焼きの狸』は伝統工芸品として有名だ。本人も小さい頃それで散々からかわれてきたからよく知っている。だが、からかった相手は皆、自分よりも格下の存在だ。弱者の言うことになど耳を貸すつもりもない。……目の前の人間を除いては。
「『狸』――成程、上手いことを言う。だが、『家畜』とて存在価値はある。儂は己の手を汚す真似はしたくない。儂は前々から己の手足となって動く人形が欲しかった。だから鈴原家に双子が生まれたとき、儂はこうなるのを承知で貴殿に進言した。そこで権力が落ちようと儂にとっては瑣末なこと。大事なのは、どうやって今の環境を維持するかだ。『常在戦場』、常にこの世は戦だ。その為には綺麗事だけでは片付かない。戦場に出れば謀反や寝返り、暗殺など常に疑心暗鬼だ。その点において、信頼とは何よりも変えがたいもの。それは時として戦局すら覆すことを儂はよく知っている。兵が陣を敷くにあたって信頼できない武将に誰が命を好き好んで預ける? 『信頼』できるからこそ、兵は命を託すのだ。……それはそちらとて同じだろう、樹。貴殿は暗殺という汚れ仕事を引き受けるかわりに大名から全幅の信頼を受けている。それは儂にも断ち切ることは出来まい……だが、誰も好き好んで汚れ役を演じる必要はない。いつだってそういう役は誰かが裏で“糸を引き”、傀儡として利用する。利用価値がなくなれば舞台から引き摺り下ろし、人知れず消えてゆく。――いや、既に人ではないから『神隠し』にあった、といえばそれだけの事よ」
「……そこまで仰るのなら、既に『策』はあるんでしょうねぇ、先生?」
樹は十三の考えにみるみる引き込まれていった。それぐらい残酷で、妖しく、魅力的な提案。『家畜』としての存在価値など無くとも『傀儡』として捉えるならばそれは『駒』。己の判断で動かず、こちらの命令のみ従う人形は実に都合がいい。用が無くなれば闇に葬るのは鈴原家の十八番だ。まるで甘露のように愉快で、滑稽な話だった。大名の前では少々刺激的なことだが、鈴原の掟を知らない人間には今の話の真意を汲み取ることなど不可能だろう。よって、十三がこの場で提案したことも実に賢い――いや、狡猾というべきか。
「勿論。言われるまでもないわ。儂を誰だと思うておる? 儂は『鬼』ぞ。人を殺めるのに情けなど不要。だが、この策には『信頼』が必要だ。信頼を培うには『時間』がいる。その為にはどうしても欠かせない人物がおる」
――だから、気づかなかった。十三の『策』の巧妙さは、自分が思っていたよりも遥かに複雑で、慎重で、綿密だったことに。既に十三の策は始まっていたのだ。
「それは、一体……?」
「お主の可愛い娘にして儂の愛弟子――鈴原彩だ。そして、この『策』は今より五年後、鈴原彩の継承の儀とともに完成する。それまで精々、『妖』に生を謳歌させておけ。『彩』が何をしようと、今までのように軽く牽制するだけでいい――大事なのは、悟られないことだ。儂が言うのもなんだが、小娘といっても既に鉄弦すら扱える技量に達しておる。だがそれよりも恐ろしいのは『直感力』。愛弟子の勘の鋭さを甘く見ないことだ。あやつは常に『姉』に気を配っている。僅かでも樹がその態度を変えようものなら必ず疑うぞ? 鈴原家の家訓、『風林火山』の意味を完璧に理解している。言葉では分かってないが、直感的に理解しているのだ。あの娘の恐ろしいところはそこにある。【風】のように近づき、【林】のように静かに伺い、【火】のごとく攻め、一旦疑ったら【山】のように動かない。必ず貴様がボロを出すまであやつは【山】となって待ち続けるぞ? それがどれほど恐ろしいか、分からぬ貴殿ではなかろう?」
「…………!!」
十三の警告に寒気すら覚える。鈴原家の家訓を『完璧』に理解したというその事実、今の言い回し――間違いない。それは奴の眼が何よりの証明だ。鷹のように鋭く獰猛な瞳。間違いなく、本気だ。本気で私に警告している。母だからこそ油断が生じる――その甘さが命取りだ、といいたいのだ。この男は。修羅場の経験なら樹も決して負けはしない。だが、『常在戦場』として堂々と敵を倒してきた『鬼の十三』の一言はその重みが違う。
(……『鬼の十三』にここまで言わせるか……我が子ながら大したものだわ)
双子のあずかり知らぬところで『御前試合』の名とともに様々な思惑が渦巻く。
――大名はその試合を利用して近隣諸国との外交関係の取引に使う。
――樹は存在価値の無い『家畜』を排除するために自ら我が子を泳がせる。
――十三は彩を指導する傍ら、策の完成の為に時を待つ。
三者三様の想いが交差し――螺旋の如く絡み合い、廻る。くるくる、くるくると――