物語というものは、往々として過去の話になる。
考えてみればそれは当たり前で、物語とは、なにか出来事があってそれが解決もしくは解決まではいかなくとも一段落し、そして生きている語り部がその出来事を話すもので、なるほど過去の話でなければ話せない。
僕が世界中の物語を知っているわけではないから、もしかすると例外的に現在形や、それこそもしかすると未来形の話もあるのかもしれないが、そもそも渦中にいる状態で語れる物語などそれはもはや物語とはいえないだろう。それは感想や予言の類に入る。
だからこそ、今から僕が話すものも、物語ではない。
それは感想や予言の類であり、つまりは愚痴である。話したところでなにが解決するわけでもないし、なにも解決しない。
そもそも問題がない。だからこそ、解決しない。これでもし、仮に、何か解決策が出たならば、今度はこの解決策はなんの解決策なんだろうというおかしなことになる。
問題はない。だから解決もない。
いつまでも、それこそ永遠に、死ぬまで――いや死んだ後もずっと。この話は未解決のままだ。
ではなぜ話すのか、という疑問が出るのはもっともだと思う。話したところで何にもならない、ならば話す理由もないし目的もない。
けれども、それを踏まえた上で、僕は話す。理解して欲しいとは思わない、同調して欲しいとも思わない。むしろ、理解も同調もして欲しくはない。
話す意味などない。聞く意味なんてもっとない。
自分の気持ちを理解して欲しいと思いながらも、理解されたらされたで、お前なんかに俺の気持ちがわかるかと怒鳴ってしまうような。そんな幼稚な愚痴。
今から僕が語るのは、そんな曖昧なもの。嫌気がさしたら、本を閉じるといい。僕自身、語り部自身、それを望んでいる。
七月の十日。春休みを苦痛で過ごした僕にとっては待望すべき夏休みももうすぐというこの日。
僕は、悪魔に騙された。
いや、『騙された』という表記では数多くの語弊が生まれる。というよりも、もはや誤記になる。
騙される、つまり嘘。
嘘というものは、騙されているから、本当だと思っているからこそ騙されているわけで、嘘に疑いを持った時点でそれは騙されてはいなく、嘘ではなくなる。
信じているから嘘。嘘ではないから嘘。
それならば、確かに、『騙された』と言うべきではない。
忍野の言葉を借りるなら、意味的には似ても似つかないけれど、対極であるとさえいえるけれど、
僕が勝手に騙されているだけ。そしてまた、僕が勝手に騙しているだけだ。
この、例外の中の例外ともいえる、もはや例外過ぎて別のものになっていそうな話をあえて物語と言わせてもらえるならば。感想でも予言でも、ましてや愚痴でもなく、物語と言わせてもらえるならば。
今から話す物語は、嘘の物語だ。
一般的には、嘘の物語。
いや、一般という言葉もいささか誤記かもしれない。一般人――ここで一般の定義について語りたくなるところではあるがひとまず置いて――以外にとっても嘘の物語だろう。
正義の逆は悪ではなく、また別の正義。そんな言葉がある。
それと同じように、真実の逆は、嘘ではなく、また別の真実であり、嘘の逆は、また別の嘘なのだ。自分にとっての真実が、相手にとっての真実と異なるならば、相手にとって自分は嘘であり、自分にとって相手は嘘となる。
けれども、気づいて欲しい。覚えておいて欲しい。
相手にとって嘘であろうとも、自分にとっては限りなく真実であるということを。自分にとって嘘であろうとも、相手にとっては限りなく真実であるということを。
僕が今から話す物語を聞いた人は、騙されているだけだと、これは嘘の物語だと、言うだろう。聞いた人の全てが、そう言うだろう。
けれども、たとえ全世界の人が嘘だとしても、僕にとっては、ただ一人、阿良々木暦にとっては、限りなく真実なのだ。
だからこそ、騙されているとも知らずに。