<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[27301] 隠形鬼―おんぎょうき― (完結・女性向け伝奇恋愛ファンタジー)
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2015/02/02 23:32
●あらすじ

教職を夢見る二十三歳のフリーター松永絢子は、稀に淫靡な夢を見る。ある日のバイトの帰り、見知らぬ男性らに拉致され街の外れの廃工場で目を覚ます。あわやというとき、自分を助けてくれたのは夢の中に出てきた男性だった……?
伝奇恋愛ファンタジーです。
※この話は歴史や伝説を基にしたフィクションです。


●キーワード

女性向け 残酷な描写あり 伝奇 シリアス 鬼 年の差 オカルト 学園 溺愛 生まれ変わり グロテスク


※この小説は『小説家になろう』でも投稿しております。

※R15相当の描写が含まれています(サブタイトル後の■マークはR15相当の描写であることを表すマークです)。

※「●」は残酷表現を含むという意味のマークです(これ以降このマークに関する前書きは省略します)。




隠形鬼―おんぎょうき―


姿を隠して種々の不可思議な力を現すという鬼。
「隠形鬼は形を隠してにはかに敵をとりひしく/太平記16」






[27301] 夜の出会い ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/20 05:58
 夢の中で、絢子は男に抱かれていた。

 彼女は両手を伸ばし彼の名を呼んだ。

「――」






「うんっ……ああ、またあの夢か」

 遮光カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた室内は、うすぼんやりと暗い。
 腕を額に当てながら絢子は目を覚ました。

「私ったら、欲求不満なのかなあ」

 絢子はベッドから起き上がると、キッチンへと足を運んだ。
 キッチンといっても大したことはない。
 三万四千円のアパートのキッチンなんて高が知れている。
 蛇口をひねり、コップに水をなみなみと入れると、彼女はそれをごくごくと飲み込んだ。

 朝食を作り、それをもしゃもしゃと食べる。
 身だしなみを整えると、彼女は茶色のバッグを肩に取り、玄関で靴を片方履いた。
「あ、通帳忘れてた」
 絢子はそうひとりごつと靴を片方履いたまま、けんけんをして部屋に戻る。
 がさごそと戸棚を漁り、目当てのものを見つけると、彼女は改めて部屋を出た。

 今日は月末、給料日なのだ。
 たかが十三万六千円と侮るなかれ。
 この時給八百五十円、八時間労働の対価は生活をしていくうえでの貴重な収入源なのだ。
 彼女は少しだけうきうきしながらバイト先へと向かう。

「おはようございます」
「早いねえ、松永さん」
 バックヤードに入ると店長が声をかけてきた。
 ここはデパートに入っているチェーン店の書店である。
 彼女はここでアルバイトをして生活している。

 大卒無職無い内定。
 この就職大氷河期で彼女は例に漏れず就職先が見つからなかった。
 だがそれだけではない。
 彼女にはある夢があったのだ。

 それは教師になるという夢。

 絢子にとって、それは小さいころからの夢であった。
 大学で中学校と高校の社会の免許を取得した彼女は、大学四年の去年と卒業後の今年に教員採用試験を受けたが、残念ながら去年も今年も一次試験で落ちてしまった。
「はあ、やっぱり予備校とかに通わなきゃ駄目なのかなあ。でもお金ないしなあ」
 実家にはまだ帰りたくない。両親とは三年という期限でこの東京で生活するという約束を取り付けてきたのだ。
 その両親からの仕送りはなく、自分のバイト代だけで生活していくにはこの仕事は割に合わないのかもしれない。
 それでも小さいころから本好きだった彼女にとってはこの仕事はそれほど苦ではなかった。
 想像と違い、結構な肉体労働であったことも、万引きに目を光らせなければいけないのも、彼女にとってはある意味張り合いのひとつとなっていた。

「来年こそは、受かってやるんだから」

 ぐっと両手を握り締め、意気込んだ彼女の横をはああと盛大なため息をつきながら通り過ぎる人がいた。
「あら? どうしたんですか田中さん」
 それは同期の田中であった。
 彼は憔悴しきった顔で絢子に話しかけてきた。
「聞いてくれる? 俺昨日さあ、バイクに乗った男に鞄ひったくられちゃったんだ。警察には一応被害届出したけど、多分絶望的だってさ」
「それは難儀な」
「幸い給料日前だったし、大したものは持っていなかったから良かったけれど、まじへこむわ。ああ、俺の財布が、俺の携帯が……」
「ですよねー……」
 そんな会話をしながら、彼女達は仕事場へと向かったのであった。

 レジ打ちはもう慣れた。
 最初のころはレジの前に立つのも嫌で、会計をするときには手が震えたものだ。
 人前に立つのは苦ではなかったが、自分がお金という自分の範囲の及ばないところで責任が発生するものを扱うということにちょっとびびっていたのだ。
 だが何事も慣れなのだ。
 最初はそうやってびびっていたが、回数をこなすごとに打ち間違いも減り、今ではようやく接客のほうにまで目を向けられるようになった。
 最近店長からも「松永さん、ようやく慣れてきたね」なんて言葉を頂いた。
 期限はあと二年。
 それまでには何とか結果を出していたい。
 そう思いながら家路に着いた。


 とっぷりと夜も更けたころ。
 絢子は帰宅する前に銀行のATMでお金を下ろした。

 下ろすお金はニ万円と決めている。
 バイトの給料から、家賃三万四千円、光熱費一万円、通信費一万四千円、国民年金一万五千円、食費ニ万円を引くと、手元には四万円程度しか残らない。
 そのうち二万円を毎月貯金しているので、使えるお金は二万円となってくるのだ。
 幸い服なら大学時代に買っておいたものがあるし(そのころは実家から月八万円の仕送りがあった)、基礎化粧品と僅かなメイク道具さえ買えれば絢子にはそれで十分だった。
 接客とは言っても華が必要な職場ではないのだ。
 その生命線とも言えるお金の入ったバッグを胸に抱きながら、彼女は薄暗い道路を歩いていた。
 と、後ろからブウーンという音が聞こえてくる。
 彼女は身構えた。
 今日聞いた田中さんの引ったくり話が頭をよぎる。
「今日はバッグに私の大切な二万円が入っているんです! どうか何にも起こりませんように!」
 バッグを道路と反対側に掛け直し、しっかりと握って夜道を歩いた。
 一本道の道路なので逃げ場はない。
 絢子はぎゅっと目をつぶった。

 しかし何も起こらない。

 バイクはそのまま彼方へと通り過ぎていった。
「はっ……私ったら、なに自意識過剰になってんのかしら。こんな辺鄙な場所で引ったくりなんか起きるはずないじゃない」
 そう言って胸を撫で下ろしたそのとき。
 後頭部にごつっと鈍い衝撃がきて、彼女はそのまま意識を失った。






「――う……痛ったあ」
 痛みに顔をしかめながら絢子は目を覚ました。
 ぼんやりとした目で周囲を見回す。
 大きな機械、ドラム缶、何かのチューブ……。
 どうやらそこはこの街の外れにある廃工場であるようだった。

「うわっ、頭痛い、絶対たんこぶになってるわこれ」
 絢子は頭をさすってギョッとした。手に血がついている。

「目が覚めたんだな」

 声がした。
 絢子は素早く辺りを見回した。
「誰ですか!?」
 精一杯の声を張り上げる。少し震えていたかも知れない。

 見ると、少し離れたところに若い男がひとり座っているのが見えた。

「ようやく見つけた、紀朝雄」
「きの、ともお? ……あの、私そんな名前じゃないし、まして男でもありません」

 さらによく見ると彼の周りの壁には三、四人の男が佇んでいた。
 どの男も手に鉄パイプを持っている。

「どういうことですか? これは」
「ほう、気丈な女だな。流石紀朝雄の生まれ変わりといったところか」
 若い男の隣に立っていた別の男が声を発する。
「なにをわけのわからないことを言っているんですか? 早くここから出してください、人違いですから」
「いいや、あんたは紀朝雄だ。あんたから微弱な力を感じる」
 その男はそういうと鉄パイプを構えた。

 この人達は頭がいかれてるんだ。絢子はそう思った。

 紀朝雄なんていうわけのわからない名前をいきなり出されても、こっちは何のことやらさっぱりわからないのだから対処の仕様がない。にもかかわらず、その男は話を続けた。

「俺達はね、遥か昔、紀朝雄に成敗された人間なんだ。もしお前が藤原千方様に近づけばまた歴史は繰り返されるかもしれない。それを防ぎに俺達はここにいるんだ」

「ふじわらのちかた? 何よその平安時代の人みたいな名前」
「やはり覚えていたのか!」
 男達が瞠目する。
 絢子は男達の何かの琴線に触れてしまったことを察した。
「なっ、何のことだかさっぱりわからないわよ! とにかく、人違いなんですから早く開放してください!」
「いや。この場でお前を殺す」

「殺……す?」

 私はその言葉にきょとんとした。あまりにも突然に放たれたその言葉の意味を受け入れるには時間がかかったのだ。
「悪く思うな。恨み言ならば自分の前世に言うんだな」
 そういうと男達はじりじりと距離をつめてきた。

「嫌! 来ないで! 誰か助けて!!」

 はっと我に帰った私はその場から後ずさりしながら必死に声を出した。
 だが、辺りはしんとしている。

 男たちに囲まれ、彼らが一斉に絢子の頭上に鉄パイプを振り上げたそのとき。


「待て!!」


 大音声ともいえる声が聞こえた。

 全員その声に気圧され、ビクッと固まる。
「誰だ!!」
 男達が叫ぶ。

「その人には指一本触れさせない」

 そう言って暗闇から気配なく現れたのはひとりの男だった。

 絢子は囲まれている男達の隙間からその男を見た。
 ジーンズに包まれた長い脚。身長は百八十センチぐらい、ぴったりとした黒いTシャツの上からでもしなやかな筋肉が見える。
 切れ長の瞳は油断のない飢えた野犬のようでもある。
 無精髭に覆われた唇は硬く引き結ばれ、目の前の光景が自分の意にそぐわないものであるのを示している。

 男のその顔を見たとき、私は息を呑んだ。

「あなたは……!!」

 それはたまに見る自分の夢に出てきた男にどこかに通っていたからだ。

 周囲の男達は身構えていたが、その男の顔を確認すると力を抜き、怪訝な顔をした。

「何だ、正臣さんじゃないですか」

「匠はそれを望んでいたのか?」
「え?」
「匠は、藤原千方は今お前達がやっていることを望んでいるのかと聞いているんだ」
 正臣と呼ばれた男の声は平坦であったが、その声はその場にいるものの背筋を凍らせるような響きがあった。

 と、次の瞬間正臣の気配が一気に変わった。

「ひいっ?!」

 その場にいたすべてのもの心臓を鷲づかみにするような気配だった。

「怪我を、させたな」

「あの、これはですね」
「後頭部から血が出ている」

 正臣がそういった直後、その姿が一瞬にして掻き消えた。

「え?」

「うわあ!」
「ぎゃあ!」
「ぐえっ!」
「ごふっ!」

 何が起こったのかわからなかった。気がつくと絢子の目の前には自分を取り囲んでいた男達が折り重なって倒れているところだったのだ。

「何、これ?」

 絢子がいぶかしむと急に目の前が暗くなった。
 と、腹に強烈な一撃が来た。

「すまない」

 耳元でその男の声を聞いたのを最後に、絢子の意識はそこで途切れた。



[27301] 顔合わせ
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/05/05 20:16
 チュン、チュンチュン。


 チュンチュン。


 瞼を、暖かい秋の日差しが優しく撫でる。


「ん……」

 絢子はゆっくりと目を開けた。
 まず目に入ってきたのは白い天井だった。
 見慣れたアパートの天井ではない。

「ここは、どこ?」

 記憶喪失者のような台詞を吐いたが、記憶はばっちりあった。

「確か昨日は変な人達に拉致されて、誰かが助けに入って……それからの記憶がないわね」

 そのときコンコンというノックの音がした。
 起き上がり顔をあげて返事をする。

 その時点で、自分は病院の個室のようなところにいるのだということがわかった。

 扉を開けて入ってきたのは白衣を着た若い男だった。

 すらっとした体躯、癖のある茶色い髪に茶色い瞳、にこっと笑う柔和そうな顔はまさに「お医者さん」といったような風情である。

「ああ、目が覚めたんだね? どこか痛むところはない?」

 私は手を後頭部にやった。
 そこには包帯が丁寧に巻かれていた。
「いいえ、どこも痛くはありません。ただ後頭部にちょっと違和感があるだけですけれど」
「それは良かった。心配しなくても頭の傷はほとんど塞がっているからね。今はまだ傷口はあるけれど、痕も残らず綺麗に治ると思うよ」
 男の左胸には「風祭」と書かれたネームプレートがあった。

「あの、ここはどこですか?」

 絢子はその風祭さんに聞いてみた。
「ここは藤原グループ系列の滋英病院というところだよ。ああ、心配しなくてもここの病院の費用なんかは君を襲った男達に請求が行くようになっているからね」
 そういうと風祭さんはふわりと笑った。

 ああ、この人は人を和ませる不思議な力を持っている、と絢子は思った。

 風祭さんはちょっとだけすまなそうな顔をした。
「ごめんね、君が寝ている間に一応脳の検査もさせてもらったんだ。けれど、どこにも異常は見つからなかったよ」
「いえ、大丈夫です」
 絢子がそういうと風祭さんはほっとしたような表情になった。
「優しいんだね、君は。そうだ、僕のことは颯太でいいよ」
「颯太さん、ですか」

 私が戸惑っていると、またドアをノックする音が聞こえた。

「はい、どうぞ」
 そこから入ってきたのは怜悧な雰囲気を漂わせる男性だった。

 髪の毛はオールバックにきちんと撫で付けている。ぴしっとした紺色のスーツに、紺色のネクタイ、銀のメタルフレームの眼鏡から覗く瞳は鋭さを湛えていた。

「取り込み中だったか?」
「いえ、大丈夫ですよ」

 どうやら風祭颯太とこの男性は知り合いであるようだった。

「お初にお目にかかる。私は瑞城直人という」
「みずしろ、なおとさんですね」

 絢子が復唱している間に瑞城直人は懐から名刺を取り出した。
「あなたの弁護士だ。あなたが受けた傷害事件のことは私が一任している」

 絢子はその名刺をまじまじと見つめたあと、顔をあげた。

「え、弁護士さん、ですか」
 絢子は不安そうな顔をした。だって、いくら傷害事件に巻き込まれたといっても、弁護士を雇うお金なんか、今の私には……

「ああ、そうだ、金のことならば心配は要らない。藤原匠という人物が一切を取り仕切っているからな」

「藤原匠(ふじわらたくみ)……?」

 匠という名前には聞き覚えがあった。
 昨日自分を助けた男が「匠」という名前を出していたことを思い出したのだ。

「匠はあなたに謝りたいといっていた。変な事件に君を巻き込んでしまって申し訳なかったと」
「そうですか」

 絢子はそのことで釈然とはしないまでも、その藤原匠という人は少なくとも悪い人では無さそうだなという印象を持ったのである。一介の市民に対してこの扱いだ。藤原匠という人物はそれなりの権力者であるに違いない。「長いものには巻かれろ」ではないが、絢子は、普段は権力には逆らわない質であったため、それを受け入れようと思ったのである。

「そうだ、私まだお二人に名乗っていませんでした。私は松永絢子(まつながあやこ)と言います」
 そう言って、絢子はぺこりと頭を下げた。
 顔をあげると二人はきょとんとしたような表情になっていた。

「絢子ちゃんは、豪胆なのか何なのか……僕達のことを素直に受け入れるんだね」
「え、何かおかしかったですか?」
 今度は彼女がきょとんとする番だった。
「どんな経緯かはわかりませんけれど、とりあえずこういう事態になったんですから、じたばたしてもしょうがないなと思いまして」
「君は我々がなぜここにいるのか聞かないのか?」
「なぜって、今話していただいたことが全てでしょう? それ以外に思いつくことがありませ……」

 ちょっとまて。
 何か忘れていやしないか。

 そもそも自分が拉致されたのは何が原因であったか。

「あの、紀朝雄(きのともお)って誰のことなんですか?」

 絢子がその質問をしたとき、二人はちょっとほっとしたような表情になったように見えた。
「良かった、覚えていたんだね」
「記憶に異常がなくて良かったな」
 風祭颯太(かざまつりそうた)と瑞城直人(みずしろなおと)がそう言ったとき、別のところから声が上がった。


「有体に言えば、口封じだな」


 その声はドアのほうから聞こえた。

 いつの間に入ってきていたのだろう。一切気配を立てず、その男はドアの前で両腕と脚をゆるく組んで絢子を見つめていた。

「こいつらはな、ああ、俺も含めてだが、昨日あった一切のことを穏便に処理しようとしているのさ」

「あなたは……?」

 男はジーンズに白いシャツという簡素な出で立ちでありながら、少し浅黒い肌にはそれが良く似合っていた。無精髭が何ともワイルドである。
「俺のこと覚えていない? 夢の中ではあんなに愛し合ったのに?」

「え?」

 絢子はその男が言ったことを認めるとたちまち赤面した。

「な、な、な!」

「喋れてねえぜ、絢子ちゃん?」
「どうして私の名前を?」
「だって、名乗ってただろう、さっき」
「さっきはあなたいませんでしたよ!」
「い・た・の」
 男はそう言うとしなやかな足取りで奥に立っている二人の男性の隣に来た。

「俺は蔭原正臣(かげはらまさおみ)。絢子ちゃんの護衛をするから。よろしくな」

 正臣はそう言って一歩前に進み出ると、絢子の手をすっと取りそこに柔らかく口付けた。

「!?」

 瞬間、絢子はまたぼっと赤くなった。
 だって、人がいるところで、てっ、手にちゅうとか!

 正臣はそんな口をパクパクさせている絢子を上目遣いで見た。

「俺のこと意識してくれた?」

「っ! いきなり何なんですか!!」

 絢子はその手を強引に払うとぶんとそっぽを向いた。

「駄目だよ正臣、絢子ちゃんは病み上がりなんだから」
 風祭颯太がたしなめる。
「私の話はまだ終わっていなかったのだがな」
 瑞城直人が少しばかり憮然とした表情になった。怜悧な人がそんな表情をとると、怖さがニ割り増しである。
「お前らの前で絢子ちゃんは俺のだって宣言しておかないと、お前ら手え出すだろ、いや出すね、絶対出すね」
 蔭原正臣は二人の前に両手で壁を作ると、絢子と二人の間に立ちはだかった。

「いつ喰った?」

 瑞城直人が先ほどの憮然とした表情のまま正臣に聞いてきた。

「さあね、これは俺と絢子ちゃんだけの秘・密」
 そういうと正臣は顔だけ絢子に振り向いてにやっと笑った。

 絢子は思わず眉間にしわを寄せた。

 と、あることに気付く。

「あ! バイト!!」

 絢子はいそいそとベッドから出ようとした。
「今何時ですか? ああどうしよう早く行かなくちゃ! じゃなくてその前に遅刻の連絡だわ! それにバッグ! あの中には私の全財産が!!」
 そんな絢子を正臣が両手で押し止める。
 思わずビクッとしたが、その手つきは想像していたよりもずっと優しかった。
「絢子ちゃん、絢子ちゃんのバイト先にはもう連絡がいっている。傷害事件に巻き込まれて、病院で安静にしているってことまでちゃんとだ。だから絢子ちゃんは何も心配せずにここでゆっくりと寝ていていい。それにバッグは俺が見つけて拾っておいた。中身も無事だ」
 そう言うと蔭原正臣は絢子の肩をきゅっと握った。

「絢子ちゃんの事は俺が生涯かけて幸せにしてやる。だから何も心配しなくていい」

 正臣は切なそうに微笑んだ。

「あ、あの……」

 絢子はしどろもどろになった。
 これはまるでプロポーズの言葉のようではないか。
 それにこの人は本当にあの夢の中の人なのだろうか。

 だとしたらなぜこんなに切なげに笑うのだろうか。
 絢子の胸は知らずきゅんとした。

「お取り込み中のところ悪いんだけれどね、僕は医師として絢子ちゃんのところに来ているんだ。診察させてもらえないかな?」
 絢子がはっと気付くと、そこには困った笑顔の颯太がいた。
「正臣、悪いんだけどそこ替わってくれるかな?」

 正臣は渋々といった表情で絢子の前からどいた。
 入れ替わりに颯太が絢子の前に膝をつく。
「絢子ちゃん、記憶に混乱はない? もしあるようならば、カウンセリングを受けることもできるけれど」
「いいえ、颯太さん、私大丈夫です」

「ほら、油断ならねえ、もう名前で呼ばせてる」

 絢子が目線をやると、そこには眉間にしわを寄せ、口をへの字にした正臣がいた。
 その様子が何だか捻くれた子供みたいで、絢子は思わず微笑んだ。

「変な顔」

 正臣は絢子のその顔を見ると、目を丸くした。
「絢子ちゃん……」


「「「……可愛い」」」


「え?」

 きょとんとする三人の男達と絢子。
 三人の男達は思わずといった風情であったようだ。

「ぷっ、あはは」

 期せずして三人が復唱したことに噴出してしまった絢子であった。






 ――豪華な庭園。

 庭には鯉が何匹も泳ぎ、枝振りのよい松、カラカラと回る水車、ししおどしなどがある。

 その庭の一角、大きな唐傘がさされた朱塗りの長椅子の上に座る影があった。
 それは着流しを着た流麗な若者であるようだった。

「とうとう見つかったのだね、私の朝雄が」

 若者が口を開いた。

 その声に返事を返したのは、若者の後ろに佇んでいた壮年の男性であった。

「はっ。聞くところによりますれば、東京郊外にある廃工場で傷害事件が起こったそうです。その当事者がかの紀朝雄の生まれ変わりであるとか」
「その子はどんな子かな?」
「はっ。年齢は二十三歳、現在書店でアルバイトをしており、将来は教職を目指していると……」
「私が聞いているのはそんなことじゃないよ」

 その声は聞くものによっては畏怖を呼び起こさせるものであった。

「はっ……。そのものは良く言えば質素な、女性であるそうです」
「女、ね」

 今度はその声は打って変わって楽しそうに響いた。

「私の朝雄が女であるとはな。面白い、今度は本当に愛でてやるとしよう」

「これでようやく藤原匠を排除することができますね」
 壮年の男性は抑えた歓喜をにじませる声で言った。

「ああ、早く来ないかな、私の朝雄」
 流麗な若者の声はよく響いた。

「私の朝雄、早く二人でこの世を眺めたいものだ」
「御意」

 壮年の男はそう言うと静かに姿を消したのであった。

 後に残るは流麗な若者。
 若者は目線を宙に飛ばした。

「待っているよ、朝雄」






 絢子が帰宅したのはその日の夕方だった。
 アパートの前の狭い道路に、黒塗りのハイヤーが止まる。

「あ、あの、すいません、こんなところまで送ってもらって」
 絢子が恐縮して言うと、同乗している正臣が声をかけた。
「絢子ちゃんが心配するようなことじゃない。さ、行こうか」

「へ? 行くって何ですか?」

「だから、絢子ちゃん家」

「……?」

「あれ? 俺、言っただろ? 絢子ちゃんの護衛だって」

「はい、そう聞きました、けど?」
「これからね、俺と絢子ちゃんは共同生活するの。初めての共同作業だね、ハニー?」

 その台詞を聞いた瞬間、私の頭の中はパニック状態になった。
「なっ……!! ななな?!」

「また喋れてないよ? 絢子ちゃん」

 そう言って蔭原正臣は車のトランクから大きめのキャリーケースを取り出した。

「俺の荷物はこれだけだから。絢子ちゃんは何にも買い足さなくていいからね」
「いやちょっとそういうことじゃなくって」
「あ、夜? 何だよ、言わせんなよ、ちゃんと良くしてやるから」
 そう言って正臣は意地悪そうな笑みを見せた。

「え? 良くって、何がですか?」

「毎日美味しく頂いてあげるから覚悟しなよ?」

「えええええーっ!?」


 ――こうして、松永絢子の波乱の日常は幕を開けたのであった。



[27301] 共同作業
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/19 23:56
「あ、あのですね」
「何?」

 今、松永絢子と蔭原正臣は六畳フローリングの床で正座をして向かい合っていた。
 片方は意地悪そうな笑みを浮かべ、もう片方は自分の部屋であるにもかかわらず居心地悪そうに頬を染めている。

 言うなれば、これが二人にとっての初めての共同作業であった。

 蔭原正臣の正座は武道をやっているもののそれであった。
 目の前で凛々しい正座をしている人間を前に、絢子はちょっと怖気づいていた。
 蔭原正臣はにやりと笑った。
「何だか初夜みたいだね」
「なっ! 何を言っているんですか!?」
「恥ずかしがらなくてもいいのに。あんなに求め合った仲じゃないか」
 絢子は正臣をぎっと睨んだ。
「そうじゃなくてっ! あの、まずは最初にこの家で生活するルールを話しておきます」
 そう言うと絢子は正臣の目の前で人差し指を一本立てた。
「まず始めに。私の許可なく襲わないでください」
 彼は少しばかり目を丸くしたあとひょいと片眉をあげた。
「ふうん『許可』ねえ。いいこと言うじゃない。了解了解」
「あっ、ちょっと! 何かあげ足取ってます?」
 ぷうと膨れたあと、気を取り直して絢子は続けた。
「料理は分担制にします」
「料理なら俺が担当しても良いけど」
「本当ですか?」
 絢子は目を丸くする。正臣は料理には無縁そうに見えたのだ。
「俺ね、こう見えて料理は結構得意なのよ」
 そう言うと正臣は愛嬌のある笑顔でことりと首をかしげた。
「そうだ、家事全般俺がやろうか」
「え?」
「そうしたら絢子ちゃんの負担が減るでしょ?」
「そっ、それはそうですけれど」
「あ、下着とかの洗濯物の心配はしなくて良いよ。俺そういう趣味ないから」
「してません!」
「じゃ決まり。家のことは俺がするから」
 絢子は正臣のその笑顔に気圧された。
「あ、はい……じゃあ次に、蔭原さんはどうやってお金を稼ぐんですか? 私の護衛って儲かるものなんですか?」
 絢子のこの質問に正臣は腕組みをした。
 シャツの上からでもわかるしなやかな筋肉に絢子は少しだけドキッとする。
「お金のことなら心配しなくていい。匠からそれ相応の額はもらっている」
「へえー、匠さんってお金持ちなんですね」
 絢子が感心すると、正臣は眉根を寄せた。
「絢子ちゃんは藤原グループって知らないの? ゼネコンから医療、教育、エコまで、幅広く事業を展開しているグループなんだけどね」
「あっ、そう言えば四季報で見たことあるような気が……」
「絢子ちゃん、就活あんまりしてなかったみたいだね」
 絢子はちょっとうなだれた。
「はい……大学四年のときは教育実習と教員採用試験、それに卒論で手一杯でしたから」
 手を抜いてきたつもりはないが、内定が取れなかったのも、自分の情報収集能力不足であったことを今の話でまざまざと思い知らされた気がしたのだ。
「絢子ちゃん、落ち込まないで」
 正臣が慰めるように言う。
「あの、じゃあ、これでこの家で生活するルールは、私からは以上です。あとはお互いがお互いのやりやすいように順次変えていきましょう」
 正臣は、他意はないというようにホールドアップした。
「OK。絢子ちゃんを不用意に襲わない、家事全般は俺がやるってことでいいんだね?」
「はい。私からはそれで十分です」
「それじゃあ俺からも少し」
「何ですか?」
「俺のことは正臣って呼ぶこと」
「え?」
「これからずっと一緒に生活するってのに、名字で呼ばれるのはちょっときついかな。あと敬語も駄目。距離が縮まらない」
 絢子は逡巡した。
 小さいころはともかく、生まれてこのかた男性を呼び捨てにした経験は皆無と言っていい。
「じゃあ、正臣さんでは駄目ですか?」
「だ・め。ちゃんと名前で呼んで。あと敬語ナシね」
「うん……正臣」
「よし、いい子だ」
 そう言うと正臣は絢子の頭に手を置いた。
 そのままニ・三度軽くぽんぽんと叩く。
「私子供じゃありません」
「俺からしたら十分子供だよ。絢子ちゃん二十三歳でしょ? 俺とちょうど十歳離れてるもん」
「正臣は三十三歳だったの?」
 ぎこちなくタメ語を使う絢子だったが、正臣のその告白には驚いた。

「正臣は年齢不詳って感じがするから、歳なんてわからなかったわ」
「そ、俺ね、それよく言われるんだ。……じゃあこれで話は終わりかな。なら早速夕飯作らせてもらうぜ」
 そう言うと正臣はすっと立ち上がった。絢子も慌てて立ち上がろうとする。
「あの食器は棚の上にあります……って、ああっ」
 ずっと正座していたため、絢子の足は痺れていた。
 立ち上がろうとして思わずよろけそうになる。
 その絢子を正臣が片腕でさっと抱きとめたのだ。
 絢子は正臣の腕の中に囚われた。

「ひゃっ」

「大丈夫か?」
「あ、足がびりびりしてっ……」
 絢子は正臣の胸に必死にすがりついた。
「慣れないことをするからだ。でも、そのけじめのつけ方は嫌いじゃない」
 絢子の耳元でふっと笑うと、正臣は彼女をそっと抱き上げベッドに座らせた。
「まだ痺れるか?」
「は、はい」
「じゃあ、そこで座ってな」
「はい、すみません」
 正臣は腕まくりをしながらキッチンへと歩いていった。
「絢子ちゃん、そういうときは、『すみません』じゃなくて『ありがとう』でしょ?」

「はい、ありがとう、正臣」

「合格♪」

 正臣はそう言うと冷蔵庫を漁り始めた。
 入っていた有り合わせの具材を使って、オムライスを作る。

 出来上がったオムライスは卵がとろとろで、まるで洋食屋のメニューからそのまま飛び出てきたのではないかと思わせるような出来であった。

「どおよ? 俺の料理の腕前は」

 絢子は一口食べて、その絶妙なハーモニーに舌鼓を打った。

「うん、すごく美味しい!」

 そう言って、絢子はにへっと笑った。

「……あー可愛いなあ絢子ちゃん」
 正臣は食べる手を止めてそう呟いたのであった。


 食事も終盤に差し掛かってきたころ。

 絢子はふと気付いたことがある。

「あれ、そう言えば正臣は私と同じペースでご飯食べてる」

 正臣の皿の中と、絢子の皿の中の量はほぼ一緒である。
「もしかして、私のペースに合わせてくれたのかなあ」

 些細なことかもしれないが、食べるのが人より遅い絢子にとって、そのことは感動するぐらい嬉しいことであったのである。

 いつも人を待たせてしまうから、友人と外食するときも食事中は基本無言である。
 時が経つにつれ、相槌だけでも苦にならない友人だけが綾子の周りには残った。
 それだけでもありがたいことであるが、絢子は思い切って目の前の男性に聞いてみた。

「あの、正臣、もしかして食べる速度、私に合わせてくれているの?」

 正臣は絢子に目をやると、何事もなかったように答えた。
「ああ。別に意識して合わせているわけじゃないけどな」
 その返答に私は心の奥底がぽわっと温かくなった。

「そう。私、正臣のそういう心配りは嬉しい、好き」
 思い切って言ってみた。

 正臣は絢子のその言葉を聞くと、一瞬目を丸くしたあとにやりと笑った。

「俺も絢子ちゃんのこと好きだよ? てかむしろど真ん中どストライク」
「……どのへんが?」

 絢子はちょっとどきどきした。今まで家族以外の異性から自分に関する褒め言葉など聞いたことがなかったからだ。
 正臣は指で四角い小窓を作り、そこから絢子を覗き込んだ。

「ん、乳と尻」
「サイテーですね」

 絢子は即答してじと目で睨んだ。
「あー、期待して損しました」
 正臣は、今度は両手をぐっと握ると体をくねらせた。
「あらっ、絢子ちゃん! それって重要なことなのよー!」
「何いきなりオカマ口調になってるんですか。その動作もものすごくきもいですよ」
「俺の丈夫な子供を生んでもらうためにはとっても重要なことよ!」
「はあ?」
 正臣は人差し指を顔の横にぴっと立てた。
「抜けるか抜けないか、男にとっては大切なことです」
「なんて下品な!」
 絢子が目くじらを立てるのを、正臣は面白そうに見つめた。

「絢子ちゃん、俺はいい物件だぜー? この冴え渡る美貌、見事な肢体、そしてこの相手に尽くす様!」
「自分で言ってちゃ世話ないですね。どこがですか。不精髭を生やしたむさい三十三のおっさんが今のあなたです」
「絢子ちゃんツッコミは敬語なんだね。それもまた萌えるな」

 絢子は残りのオムライスをかき込むと、ぐんと席を立った。
「もう付き合ってられません、ご馳走様でした。オムライス『は』美味しかったです。あと、やっぱり正臣とは敬語で話すことにしました。だってこれが私なんですもの」
「はいはい、譲歩します」
 正臣は片手をあげて降参の意を示した。

「俺のこと、名前で呼んでくれるだけで十分。あ、あとイクときにもちゃんと俺の名前呼んでね?」
「はい?」
 絢子は眉をピクリと引きつらせた。
「だから、こう、切なげに『正臣』って」
「実演しなくて結構です。てかそんなの、呼びません、絶対に」


「夢では呼んでたぜ? 俺の名前」


 いきなり場の空気が変わった。

 正臣の視線はまるで絢子を射る様であった。

「……!」


「……俺は、絢子のいいところ全部知ってる。何度肌を重ねたと思ってる?」


 そう言う正臣の声は、低く、官能的ですらあった。

「そっ、それは、私の夢の中の話でっ!」
「じゃあ、何で俺がそのこと知ってんの? 絢子ちゃん、だれにも話したことなさそうなのに?」

「それは……」

 絢子は黙った。
 言い知れぬ不安が襲ってくる。
 自分は本当にこの男と夢の中であれ肌を重ねたのだろうか。
 お互いがお互いの夢を見るなんてことが果たしてあるのだろうか。

「私、そんな、はしたない女じゃありません!」

 それだけ言うと、絢子は箪笥から強引に下着とパジャマを引っ張り出した。
「私、シャワー浴びてきますから!」

 そのままどすどすとした足取りでユニットバスへと向かった絢子であった。

「あーあ、怒らせちゃったかな」
 正臣はそう呟くと残りのオムライスを一口でかき込んだ。

「でも、これぐらいしないと絢子ちゃんは俺がどれだけ絢子ちゃんが欲しいかなんてなあんにも気付かなそうだからなあ」

 そうひとりごつ正臣であった。




 ――絢子がテレビを見ながら寛いでいると、交代で風呂に入った正臣がユニットバスから出てきた。

 正臣が出てくるまで、絢子は先ほどの態度のことをぐるぐると考えていた。

「さすがにさっきの態度は大人気なかったわよね」
 絢子はそう呟くと片手をぐっと握った。
「ちゃんと謝ろう。曲がりなりにも、これからしばらく生活を共にする相手なのだから」

 キシ、キシと板を踏む足音が聞こえる。

 絢子はすっと息を呑んで言葉を発した。
「あのね、私さっきはちょっと大人気なかったかなあと思っ……」

 そう言いながら振り向いた絢子は、正臣の姿を見てぽかんと口を開けた。


「どう? いい男がさらにいい男になったでしょ?」


 正臣は不精髭を剃ってさっぱりしていた。

 髭がないと、ますます夢の中の男の姿に似通っている。
 意志の強そうな瞳、すっと通った鼻梁、形の良い顎のライン。
 いや、似ているなんてものじゃない。瓜二つなのだ。


「あ……」

「どう、絢子ちゃん、欲情した?」

「しませんっ!」

 思わず大きな声をあげてしまいはっとする。

 壁の薄いアパートなので、いつ近所迷惑の苦情が来るとも限らない。

 絢子はそっと声を潜めた。
「とにかく、布団敷いておきましたから、今日はもう寝てください」
「はいはい、仰せのままに」

 そう言うと、二人はそれぞれの布団へと潜り込んだのであった。



[27301] 職場移動 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/19 23:57
 相手の心臓が、どくっ、どくっと脈打つのさえも手に取るようにわかるかのようだ。

 絢子は夢の中で蔭原正臣に組み敷かれていた。

 深い口付けをし、どちらの唾液かわからないものを飲み込み、絢子は少しむせた。
 顔を横に向けてこほこほと咳をしている間、正臣は絢子の両の胸を愛撫しにかかった。


 やがてじんわりと温かい海に浸かっている様な快感が呼び起こされる。

 そしてそのまま絢子は夢から覚醒した。






「っ……!」

 目を開けると見慣れた天井だった。

 なんて強烈な夢。
 自分が自分でなくなってしまったかのような、淫靡な夢。

 一昨日あったことも全て夢なのだろうか。
 だが頭に巻かれた包帯が、一昨日あったことは真実なのだと訴える。
 ふと横を見ると、そこには少しだけ窮屈そうに布団に収まる正臣の姿があった。
「さっきまで夢の中であんなことしておいて、どんな顔して会えばいいのよ」
 絢子は頭に手を置きため息をついた。

「痛むのか?」

 その声に目をやると、そこにはむくりと起き上がった正臣がいた。

「ううん。あ、お、おはよう」
「おはよう」

 とりあえず挨拶はできた。

 絢子は自分が赤面していないことを祈るばかりであったが、それは杞憂だったようだ。
 正臣は何事もなかったようにすっと立ち上がるとユニットバスへと向かった。

「何だ、昨日言っていた同じ夢を見てるっていうのはやっぱり嘘だったのかもしれない。だって正臣はあんなに平然としているんだもん」

 瞼の裏には、正臣が自分を見下ろす様子が未だ鮮明に移っている。

 彼の目は欲情に潤んでいたのだ。
 絢子のことが欲しいと、全身で訴えていたのだ。

 彼の屹立したその部分を想像して、絢子はついに赤面した。

「馬鹿、私ったら何考えているのよ! さ、サイテーだわ!」

 相手は三十三歳のおっさんなのだ。
 その年齢不詳の外見に騙されてはいけないのだ。
 髭がなくなってからは一気に二十代後半の容貌に見えるようになったのだから実に不思議である。
 だが、気を許してはいけない。
「セクハラ発言や下品な発言も平気で言うし、私の魅力は乳と尻ですって?! 何なのよ」

 絢子は少しばかりムカッとしながら手早く身だしなみを整えた。
 今日は何としても出勤するのだ。

 ユニットバスから出てきた正臣は心持ちすっきりしたような顔をしていた。
「いやあ、男の朝の生理現象を解消すると、賢人になった気分になるね」
「??」
「ああ、こっちのひとりごと。それと、今日は出勤するんだよね?」
「ええ、そのつもりですけど」

「俺、近くで見守っているから。だから心配しないでお仕事してらっしゃい」
 正臣はそう言うとおもむろに服を脱ぎ始めた。

 寝巻きのTシャツを脱いだ正臣の上半身は芸術といっても良いほどのものであった。
 引き締まった筋肉、割れた腹筋、少し浅黒い彫刻のように滑らかな肌。
 絢子はそれを瞬きするのも忘れて見入っていた。

「うわあ……」

 絢子が間抜け面をしてぽかんと口を開けっ放しにしていると、その視線に気付いた正臣はふっと苦笑したようだった。
「惚れ直した?」
 その言葉に我に返った絢子は口をぱっと閉じると、取り合えず首を傾げて見せた。
「うーん? どうかな? そもそも惚れてませんから」
 シャツを羽織ると、正臣は「何その微妙な反応は」と言って笑った。

 朝御飯はジャムトーストとコーヒーで済ませた。
「じゃあ、行こうか」
 正臣に促され、玄関を出る。

 ドアを空けた瞬間、秋のすがすがしい空気と、爽やかな朝日が飛び込んできた。
「いい天気!」
 嬉しくなってそのまま傍らにいる正臣に笑顔を送った。
 こういうときに同じものを共有できる人がいるのは喜ばしいことだと思う。
 正臣はちょっとまぶしそうな表情をしたあと、ごく自然に絢子の頬にキスを落としてきた。

「???」

 目をぱちくりとさせる絢子にお構いなく、正臣は絢子の手を引くと家の外へ出たのであった。




「おはようございます」
「おはよう松永さん」
 パックヤードに入り店長と挨拶する。

「いやあ、一昨日は災難だったね。暴漢に襲われたんだって? 頭の包帯が痛々しいね」
 心配そうな表情を向ける店長。
「で、結局犯人は捕まったの?」
「いや、何か示談になるっぽいというか、その辺のことはまだよくわからないんです」
「そうなんだ。つい先日は田中君も引ったくりにあったりして、皆災難続きだねえ」
「本当ですよね」
 そんなことを話しながら絢子は仕事に就いた。

 レジを担当しているときにお客さんからはぎょっとした目で見られたりもしたけれど、仕事に支障はないので気にしないことにした。
 この包帯はニ、三日したら取ってもいいと颯太さんが言っていたので、それらの視線も数日我慢すれば済むことだと思った。ただ、接客業なので頭が洗えないのはちょっとつらいかなと思った絢子であった。




 休憩中のこと。
 店長がちょっと焦ったように私を呼んだ。

「松永さん、今そこに松永さんの弁護士って人が来ているんだけれども」
「え?」
 絢子はきょとんとした。
「私の弁護士って言ったら、確かあの瑞城直人さんよね。直人さんがなぜこんなところに……」
 絢子は大いにいぶかしむと、店長に連れられて応接室のようなところに入った。

 そこには、昨日会ったばかりの怜悧な表情をした弁護士が座っていた。

 髪は今日もぴっちりとオールバックにしており、きっちりとしたグレーのスーツに水色のネクタイ、メタルフレームの眼鏡の奥の瞳は今日も鋭さを湛えていた。

「あ、直人さん」
 瑞城直人は立ち上がり絢子にひとつ頷くと、店長に向き直って懐から名刺を取り出した。

「私は弁護士会所属、藤原弁護士事務所に勤めております瑞城直人と申します」
 店長は直人のその折り目正しい対応に半ば恐縮しながら名刺を受け取っていた。
 直人は名刺を交換すると、用件を率直に話し始めた。
「私は彼女を担当している弁護士です。今日は絢子さんの安全確保のため、今日限りで職場を辞めて頂くようお願いに上がった次第です」
 絢子はいきなりの話に目を丸くした。
「え、私、そんなの聞いてないわ」
 しかしその言葉を口に出す前に、店長が直人に聞いた。
「それはどういうことなのでしょう? こちら側と致しましても、いきなり仕事を辞められると業務に支障が出てきてしまうのです。もしお辞めになられるのでしたら、せめて一月前にはご連絡頂きたいところなのですが」
 店長の話はもっともである。だが、直人はそれをばっさりと切り捨てた。
「私と致しましても、そのような道理は重々承知の上でお話させて頂いております。これは絢子さんの安全にも関わる話なのです」
 それを聞いた店長は少しばかり及び腰になったようだ。
「安全って……松永さんの相手はそんなに物騒な奴らなんですか?」
「ええ。ですから当方としても絢子さんの身を守るために止む無くこのような処置を取らせて頂いているのです。職場にご迷惑がかかるのは百も承知ですが、人命優先であると思って頂けるとありがたいです」
「人命優先」のその言葉にますます腰が引けている店長である。
 絢子はわけがわからず、その話を右へ左へと聞いていた。

 店長はしばらくうんうんと唸っていたあと、直人に向き直った。
「弁護士さんがわざわざご足労頂くほどの事態ですから、今回は特例として許可します」

 そしてその場で退社手続きを取って、絢子は無職の人となったのであった。


 バックヤードで帰り支度をしていると、店長がやってきた。
「いきなりのことでこちらとしてもびっくりしているけれど、松永さんはよく仕事をやってくれていたと思うよ。ひたむきに頑張っているのも、ちゃんと見ていたからね」
 店長からのその言葉に、絢子は思わず涙が出そうになった。
「あの、ありがとうございます店長。私としてもこんな形で辞めるのは不本意ですが、でも、この職場はとても働きやすい職場でした」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。田中君達にはあとで説明しておくから心配しないでね」
 簡素な別れを済ますと、私はバックヤードから廊下に出た。

 外に出ると、そこには瑞城直人と蔭原正臣のツーショットがあった。
 上背のある二人、しかもタイプは違えどイケメンの二人の立ち姿はなかなかに壮観であった。

 先に絢子に気付いたのは正臣だった。
「絢子ちゃん、こっちこっち。向こうに車が止まっているからね、そこまで歩くよ」
「はあ」
 二人のところまで来ると、絢子は両側からエスコートされるかのように歩き出した。
 百六十センチという日本人女性の平均身長である絢子の両隣を歩く、約百八十センチの長身モデル体型の男達。
 その光景は周囲の奇異の目線でもってなお一層引き立っていた。

「あの、目立っていませんか?」
 絢子はおずおずと二人に聞いた。
「私は別に気にならないが」
 直人が超然とした態度で言う。
「俺も別段構わないね」
 正臣もどこ吹く風といった風情である。

 と、絢子はふと気付いたことがある。
 両側の男性と絢子の歩く速度が一緒なのだ。
 単純に考えて、絢子と男性達の脚の長さは違う。にもかかわらず、二人はごく自然に絢子の歩く速度に合わせてくれているのだ。
 絢子はそれに気付いた途端、かあっと赤面した。
 今まで(昨日の正臣の態度を除けば)男性に気を遣ってもらったことなどほぼ皆無に等しい。
 思わず足がもつれる。
 その瞬間、両側から長い腕が伸び、ふわりと絢子を支えた。

「大丈夫か?」
 瑞城直人が僅かに心配そうに聞く。
「絢子さんは病み上がりなのだから、無理をすることはない」
「そうだよ絢子ちゃん。俺らは絢子ちゃんのためにいるんだから」
 正臣も絢子の腕を離しながら言う。
「正臣の言う通りだ。あなたを守るために我々がいるのだからどうか頼って欲しい」
 そういうと直人はふっと微笑んだ。
 その微笑を見た絢子は心臓がどきりと鳴るのを自覚した。
「直人さん、そんな顔するんですね」
 絢子がそう言うと、直人はいぶかしむような顔をした。
「変だろうか?」
「ううん! すっごく素敵です!」
 絢子が両手をぎゅっと握って力説すると、直人は一瞬目を丸くしたあと、今度は嫣然と微笑んだ。


「そうか、気に入ったか」


 その笑みは見るものに欲情を抱かせるようなどこか淫靡なものであった。

 え? だ、誰ですかこの人?! ストイックな印象の直人さんがいきなりフェロモン全開のお兄さんになっています!!
 直人はそのまま絢子の顎をすっと撫でると、何事もなかったかのように歩き始めた。
「直人? 絢子ちゃんは俺のだって言ってんだろ?」
 正臣が少しむっとしたように言う。
「絢子ちゃんのいいところは皆俺のもんなの。お前には味合わせてやらねえよ」
「単に体を繋げただけでは意味がない」
「かっ、体を、何ですって?」
 往来でともすればセクハラ紛いの単語を吐く二人に、間に挟まれた絢子はただおろおろするばかりであった。

 黒塗りのハイヤーに乗っても二人の発言はとどまるところを知らなかった。
 片や口八丁手八丁の護衛、片や理論武装はお手の物の弁護士である。
 事もあろうに正臣は夢の中での出来事を克明に話し始めた。
「絢子ちゃんは本当に敏感なんだぜ? 俺の手の中で、まるで魚のように跳ねるんだ。昨日なんか乳房の……」
 たまりかねて絢子は思わず大きな声を発した。


「私っ! 私全然いやらしい女じゃありません! それに私処女ですから!!」




 その場は一瞬しんとなった。

「……」

「……」


 言った本人は自分が何を発言したかに気付くと、盛大にゆでたこになった。
「あっ……あの、その」
 そして男性二人の止まっていた時が動き始めると、正臣が意地悪な笑みを浮かべた。

「なあ直人、絢子ちゃんはさ、処女なのに淫乱。最高だろう? 夢の中では俺にどろどろに抱かれているにもかかわらず、体は清いまま。垂涎ものだろう?」
 腕組みをしながら満足そうに言う正臣に対し、直人は眉間に皺を寄せている。メタルフレームの眼鏡の奥から覗く瞳が鋭さを増している。
「夢の中とはいえお前に抱かせておくのは大いに癪だ。しばらく手折らず愛でるべきか、今すぐ奪うべきか思案している最中だ」
「おっと、それはさせねえよ。俺は絢子ちゃんの護衛ですから。お前達の誰にも、指一本触れさせねえよ」
「過保護も過ぎると毒になるぞ」
「それをお前が言うかねえ? お前の手の中じゃあ、絢子ちゃん、きっと文字通り雁字搦めになるだろうよ……あ、でもやっぱりそれちょっと見てみたいかも」
「好き物が」
「お前も相当だろう?」
 男達は何かを共有しあったようである。
 恥ずかしさと置いてけぼりにされた感でいっぱいの絢子は、そんな二人を見てそっとため息をついたのであった。



[27301] 藤原匠との面会
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/05/05 20:17
 黒塗りのハイヤーが到着した場所は絢子の家の前ではなかった。
 絢子達を乗せた車は高速に乗り、都心へと進んだのである。
 そして閑静で瀟洒な住宅街の一角にたどり着くと、その車は止まった。

 そこは大邸宅と呼ぶにふさわしい場所であった。
 家は立派な門構えで白塗りの壁がどこまでも続いている。

「すごい、都心の一等地にこんなに大きな家が建っているなんて……」

 車から降りた絢子はそう呟くとぽかんと口をあけた。

「ね、ね、絢子ちゃん、そんなに無防備だとチューしちゃうよ?」
「!?」
 絢子の顔を覗き込んだ正臣が意地悪そうに言う。
 絢子ははっとしてぱくんと口を閉じた。

「かーわいい、絢子ちゃん」

 そう言って正臣が絢子の肩を抱く。
 正臣は腰を折り絢子の耳元に口を寄せた。
「ここに来たってことはさ、これから絢子ちゃんに会ってもらうのはねえ、俺達の雇い主、藤原匠なんだ」

「藤原匠……」

 自分がこのような事態に巻き込まれたそもそもの原因である藤原匠に、絢子はこれから会うことになったのだ。




 長い小道を辿り、ようやっと大邸宅の玄関にまでたどり着くと、図ったかのようにその玄関が音もなく開いた。

 そこから出て来たのは、風祭颯太と、もうひとり別の人物がいた。

 その人物はまるでルネサンス絵画の中から抜け出てきた天使のようであった。

 輝くようなふわふわの金髪、きらきらとした灰色の大きな瞳、可愛らしい鼻に少しアヒル口の艶めくピンク色の唇、卵形の輪郭がそれら全てを絶妙な位置に内包していた。

 その人物は颯太の隣からとっと小走りに絢子のところへ駆け寄り、変声期前のアルトの声で言葉を発した。

「良かったあ、あなたが匠に会う前に会えて。僕は鐘崎悠真(かねざきゆうま)って言います。十四歳です」
 そう言って鐘崎悠真は絢子に向かってぺこりとお辞儀をした。

「かねざき、ゆうま君ですね。私は松永絢子と言います。あの、男の子、ですよね?」
 絢子は恐る恐る不躾な質問を聞く。

「そうだよ? それ以外の何に見えるって言うの?」
 悠真はぷうと頬を膨らませると、絢子を軽くにらみつけた。
 ちょっとむくれるその姿も可愛らしい。
「ごめんね、悠真君」
 絢子は慌てて謝った。
 悠真はむくれた顔のまま、絢子に話しかけた。
「絢子、絢子は今僕に失礼なこと言ったよね? 本当に悪いと思ってる? 思ってるならお詫びが必要だよね?」
「?」

「あのね、僕のほっぺにキスしたら許してあげる」

「え?!」

「悪いと思ってるんでしょ?」
「あの……でも初対面でそんないきなり」

「早く、皆が待ってるよ?」

 急かされた絢子はごくりと唾を飲み込むと、えーい、もうどうとでもなれといった心境で悠真のつややかなほっぺたにチュッとキスをした。

 途端に機嫌が良くなる悠真。
「うん! これで仲直り!」
 悠真は絢子の腕に自分の腕を絡めると、ぐいぐいと奥へと引っ張っていった。

「こっちだよ絢子! 僕が匠のところまで案内してあげるね!」
「悠真、絢子ちゃんをしっかりエスコートするんだよ」
 風祭颯太が声をかける。
「はあい、ダイジョーブだよ颯太、僕に任せて」
 金髪灰眼の天使は、まるで恋人同士であるかのように絢子に腕を絡ませ、足並みを揃えた。
「紀朝雄の生まれかわりって言うからどんなに厳つい男かと想像していたけれど、絢子みたいな可愛い女性で良かったよ。守り甲斐がある」
 そう言って悠真は上目遣いで絢子を見たあとにこっと微笑んだ。
 途端に悠真の周りに花が咲き乱れたような気がした。

「なっ……なんて可愛らしいの!」

 悠真のその笑顔に思わず心の中で絶叫してしまった絢子であった。


「……それにしても『守り甲斐がある』って、どういうことかしら?」
 先ほどの悠真の言葉を反芻しながら、絢子は邸宅の中を歩いていた。
 自分の隣には鐘崎悠真がべったりと張り付き、きらきらとしたオーラを振りまいている。
「そういえば絢子は僕の雑誌見たことないの?」
「雑誌?」
「うん、僕が出ている雑誌」
「悠真君はモデルか何かだったんですか?」
「うん、そうだよ」
 驚いた絢子に、悠真は無邪気に言うと顔をぐいと近づけた。
 思わず仰け反る絢子。
 間近にきめの細かい肌と、ピンク色の唇が見える。
「僕ね、海外のアートシーンでセミヌードモデルやってるの」
「ぬ、ヌード?!」
「マルチェロ・ラッティオっていう有名なイタリアのフォトグラファーが僕をとっても気に入っていてね、その人の作品によく登場しているんだ。絢子にも今度見せてあげるね」
「は、はあ……」
 オーラに気圧されていると、横合いから正臣が声をかけた。
「俺もこいつが出ているマルチェロ・ラッティオの写真集は見たことがあるが、かなり際どいやつだぜ。何でも『中性的な美への挑戦』だとかいって、エロティックでほぼフルヌードみたいなもんもあるんだ。ま、俺が勃つのは絢子ちゃんだけだけどね」
「なっ! 子供の前で何を言っているんですか!」
 絢子が目くじらを立てると、それを横で聞いていた悠真は何でもないことのように言った。


「心配しなくても良いよ。僕、見た目よりも子供じゃないから」


 確かにこの歳からそんな現場で働いているのであれば嫌でも大人にならざるを得ないのかもしれない。
 何だか保護者のような気持ちになった絢子であった。

 そうこうしているうちに、絢子達はあるドアの前で足を止めた。
「着いたよ絢子」
 そう言うと悠真は絢子からするりと離れた。
 颯太がドアをコンコンとノックする。

「どうぞ」

 中から聞こえてきたのは、張りのある艶やかな声だった。

 颯太と悠真がその重そうなドアを両側からギイイと開ける。

 五人が中に足を踏み入れると、そこには大きな窓を背にして立つひとりの男性がいた。
 悠真が絢子に紹介する。


「この人が藤原匠だよ」


 年の頃は三十代後半から四十台前後か。
 見事な偉丈夫であった。
 漆黒の髪を綺麗に撫でつけ、三つ揃えのスーツをびしっと着こなし、舞でもひとさし舞わせたらさぞかし映えるだろうという男性的な美貌であった。
 人の上に立つものはこういう人なのだと思わせる何かがその藤原匠にはあったのだ。

 藤原匠は絢子の姿を認めると、柔らかく微笑んだ。
 その笑みは彼の持つ威厳を少しも損なうことなく、むしろ「この人についていきたい」と思わせるようなものであった。

「貴女が松永絢子さんですね。私は藤原グループ総裁の藤原匠というものです」
「は、はい」
「この度は私の監督不行き届きで、貴女に恐ろしい思いをさせてしまい、怪我までさせてしまったことを深くお詫び申し上げます」
 そういうと、藤原匠は絢子にすっと頭を下げた。
 思わず慌てる絢子。
「あっ、あの、頭をあげてください、この怪我は大したことはありませんから」

 その言葉に、ゆっくりと頭をあげる匠であった。
 そして、労わるように微笑んだ。

「貴女はお優しいのですね。私どもが犯した不始末を許すと言うのですか?」

 その言葉に、絢子ははっと気付いたことがあった。
 この人は、人の話をきちんと聞いてくれそうだ。ならば、もしかしたら自分がここに来るまでに抱えていたいくつかの疑問を解消してくれるかもしれないと、そう思ったのだ。

 絢子は胸の前でぐっと両手を握りしめると言葉を発した。
「過ぎたことに関してはとやかく言うつもりはありません。実際、命に別状はなかったのですから。ですが、貴方にお聞きしたいことがいくつかあります」

 絢子はすっと空気を飲み込んだ。
「まず、私が紀朝雄という人物の生まれ変わりであるという話です。これは一体なんなのでしょうか? それに、どうして私が職場を辞めなくてはいけなかったんでしょうか? 瑞城直人さんが『人命優先』とおっしゃっていましたが、その経緯を説明していただけますか?」

 匠は絢子のその質問に少しばかり目を見開くと、口を開いた。
「私は貴女への評価を正さねばなりませんね。先ほど見たときは可愛らしいお嬢さんだとばかり思っていたのだが、なかなかどうして、肝が据わっている。その質問を私に直接するとは」
 本当はなんやかんやで周囲にいる人物に聞く機会がなかったからなのだが、絢子はそれを言うのを止めておいた。
「私は当事者です。最初は聞こうか迷いましたが、やはり蚊帳の外にいるわけにはいきませんから」
 絢子のその言葉に、匠はすっと居住まいを正した。
「わかりました。貴女に信じてもらえるかはわかりませんが、今貴女にお話できる限りのことをお伝えしましょう」
 そうして藤原匠は絢子達を部屋にあるソファに誘導すると話し始めたのだった。




「貴女に起こったことをお話しする前に、私どもの歴史を少しお話させていただきます。私どもの祖先は古く飛鳥時代、天智天皇の御世にまで遡ります。そこで我が藤原家は伊賀と伊勢の境にて隆盛を極めていたのです。我が祖先は朝廷に、より高い地位を願い出ましたが聞き入れてもらえず、怒った祖先は金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼の四性の鬼を従えて反旗を翻したのです。その祖先こそが、藤原千方、つまり私であるわけです」

 絢子は途中まではふむふむと聞いていたが、藤原千方=藤原匠という言葉を聞いてきょとんとした。しかも、四性の鬼とは一体何なのであろうか。まさか鬼などいるはずがなかろう。だが、絢子は口を挟まずに先を促した。

「四鬼はそれぞれ、その名の如き恐るべき力を持っていましたが、千方自身も非常に強大な神通力を有し、変幻出没を繰り返し、都を悩ませ、鎮圧に来た朝廷軍も大いに苦しめました。大苦戦を強いられた朝廷軍は、時の右大将・紀朝雄を派遣するのです。馬に乗り、たったひとりで現れた朝雄に対し、四鬼がすぐさま襲いかかりますが、『草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の棲なるべき』という和歌を矢文として射、これを読んだ四鬼達は、ここは自分の棲むところではないと改心し、たちまち本物の鬼に化生して、奈落へと落ちるのです。四鬼を失っても反乱を止めなかった千方は、家城付近の雲出川の岸の岩場で酒宴を催しているところを、対岸から朝雄の放った矢によって射殺された、という説や、かつて自らの副将として共に戦ったことのある朝雄からの和議に快く応じ、その上で瀬戸ヶ淵にて朝雄と釣りを楽しみ、一心不乱に釣りを楽しむ千方の背後から近づいた朝雄に斬り殺された、という説があります」

 そこまで話すと、匠は一息入れた。

「そして、この話に出てくる時の右大将、紀朝雄の生まれ変わりが、絢子さん、貴女であるのです」

「え……?」

 絢子はしばらく話の内容が飲み込めなかった。

 今の歴史の話をどこか遠いところで起こったことか、御伽噺のようなものとして受け止めていたため、それが現実に、しかも自分に返ってこようとは思ってもいなかったのである。

「あの、生まれ変わりという話は正直俄かには信じられませんが、それと『人命優先』という話とはどのような繋がりがあるのでしょうか?」
 匠は声のトーンを少し落とした。
「我が藤原家には敵対している勢力があります。その勢力が紀朝雄の生まれ変わりである貴女を手に入れようと画策しているという情報を掴みました。私どもはそれを阻止し、貴女の身柄を生涯守り続けることを誓うために、わざわざ貴女にこちらへご足労願った次第なのです。その情報が、貴女を襲った男共は貴女を消すという風にどこかで曲解されたものと思われます。末端にまで配慮が行き届かなかったこちらの落ち度により、貴女に怪我を負わせることとなってしまったのです」
「それならば、その話は解決したことですし、別に仕事を辞めなくても良かったのでは? それに、相手方が私を手に入れたいと言っているのであれば、それほど無体な扱いはしなさそうなのですが……」
 それを聞いた匠は眉をひそめた。
「貴女はもし自分が洗脳された後でもその言葉を言う事ができるでしょうか?」
「え? そんなに物騒な相手なのですか?」
 ぎょっとする絢子である。しかし気を取り直して話を続ける。
「では貴方方はなぜ私を守ろうとするのですか? 貴方方にとってそれほどの危険人物をわざわざ手元において置く必要はないように思いますけれど。むしろ貴方方のほうが私をどうにかしても良さそうなものですけれど」
 それを聞いた匠は顔をほころばせた。
「貴女は聡い。しかし我々は昔の禍根には一切こだわっておりません。いや、むしろ私は貴女が四性の鬼を改心させたというところに興味を持っているのですよ」
 匠はすっと両手を広げた。

「ちなみにその四性の鬼の生まれ変わりとは、今ここにいる四人の男性のことなのです」



[27301] 四性の鬼の力
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/20 00:08
 絢子は自分の周りにいる男性達を見回した。

 蔭原正臣、風祭颯太、瑞城直人、そして鐘崎悠真。

「四人とも、四性の鬼である証拠を見せておあげなさい」

 匠のその言葉に従って、まず立ち上がったのが鐘崎悠真だった。
「見てて絢子」
 悠真はテーブルの上に置いてあったペーパーナイフを手に取ると、自身の左手をテーブルの上に置き、おもむろにその上に振り下ろした。

「きゃあっ!?」

 悲鳴をあげて口を押さえる絢子。
 そのままでは悠真の手にナイフが突き刺さってしまう。

 しかし次の瞬間驚くべきことが起こった。

 悠真の左手の甲の上で、勢いよく振り下ろされたペーパーナイフがぐにゃりと歪にひん曲がったのだ。

「……?」

 口を押さえながらもいぶかしむ絢子に悠真が説明する。
「防衛本能っていうのかな? 皮膚が危険や刺激を察知すると自然に硬質化しちゃうんだ。もちろん、自分の自由意志で変化させることもできるよ。僕は金鬼。『その身が堅固で、矢をもってしても射抜けない』と言われているんだ」

 絢子は驚いたままこくりとひとつ頷いた。

「悠真が驚かせてしまったね」
 その言葉を発したのは風祭颯太だった。

「お詫びにちょっとしたプレゼントをしよう」
 そういうと颯太はテーブルに置いてあったメモ帳を一枚切り取った。
 それを右手の上に置く。

「絢子ちゃん、見ててご覧」
 そう言うが早いか、颯太の手の上で、紙がひとりでに立ち上がった。
 そのままくるくると回りながら、その紙はぱらぱらと切られてゆく。
 あっという間に颯太の手の上には兎と雪ダルマと雪景色の紙細工が出来上がった。
「さらに」
 颯太がその紙細工にふうっと息を吹きかけると、紙細工は空中に浮かんだ。
 そして紙吹雪が舞う中、兎と雪ダルマがダンスを踊り始めたのだ。
「僕は風鬼。風鬼は『大風を吹かせて、敵の城さえ吹き破ってしまう』と言われているのだけれど、こんな風に風を使って物を切ったり、宙に浮かせたりすることもできるんだ」
 そう言って颯太は見るものがほっと安堵するような笑みを浮かべた。

 紙吹雪達はそのままふわふわと浮かんで瑞城直人の下へと向かった。
「絢子さん、私は水鬼。水鬼は『洪水を起こして、敵を陸地に溺れさせてしまう』と言われているが、水を使ってこのような事もできる」
 そういうと、直人はテーブルの上に置いてあった水差しからコップに水を注ぐと、そのコップの上に手をかざした。
 水がぼこぼこと泡立ち、まるで生き物のように動き出した。
 その水はコップの淵から這い出ると、テーブルの上で綺麗な蜘蛛の巣状の模様を作った。
「これは水紐。私が望まない限り決して切れることのない紐だ。それと、私も颯太と同じように水を思うがままに操ることができる」
 そう言うと、直人は銀のメタルフレーム眼鏡の奥ですっと笑みを浮かべた。

「最後は俺だな」
 蔭原正臣が立ち上がると、絢子の前まで来た。
「絢子ちゃん、俺の手を握っててくれ」
 言われるがままに絢子は正臣の手を握る。
 ごつごつした男らしい手は、絢子の夢の中で何度も何度も肌の上を往復したものと似通っていた。
 しっくりとするその感触に少しだけ赤面する絢子を見ると、正臣はにやりと笑った。
「絢子ちゃん、あとでな」

 何があとでなのかはわからなかったが、次の瞬間、目の前から手の感触ごと正臣が掻き消えた。

「えっ?!」

 絢子はきょろきょろと辺りを見回す。
 しかし正臣の姿はない。
 と、部屋の扉がギイイと開き、そこから正臣が出てきたのである。
「俺は隠形鬼。隠形鬼は『その身を隠し、密かに接近して敵を押し潰す』と言われているが、まあわかりやすく言えば、俺には瞬間移動の能力があるってことだな。もちろん、自分だけじゃなく、望めば人も運べるぜ」

 さらに、と正臣は続ける。


「俺は人の夢の中に入る能力も持っているんだ」


 その言葉に絢子ははっと息を呑んだ。

「じゃ、じゃあ、今まで私が見ていた夢は……」

「全て俺が干渉したものだな」
 あっさりと白状する正臣。
 いや、元から隠す気など正臣にはなかったようだ。

 ということは絢子が見ていたあの夢はやはり正臣と共有していたということになるのだ。そう、昨日だって……
 絢子は怒っていいのやら恥ずかしがっていいのやらわからずに赤面して下を向いてしまった。
「正臣、彼女に何か粗相をしたのではないだろうね?」
 匠がいぶかしむ。
「俺は絢子ちゃんの『全て』を全身全霊で守っていたつもりです。まあ、一昨日はちょっと抜かりましたけれど。でもこれからは二度とありませんよ」
 しれっという正臣である。
 匠はそんな正臣を少しだけにらみつけると、絢子に向き直った。
「このように、我々は数々の不思議な力を持っている。絢子さん、我々のことを信じてくれるだろうか」
 藤原匠が確認するように言う。
 絢子は少しばかり逡巡したあと口を開いた。

「あの、もしこれが仮に私を騙すためだけにやったことだとしても、あまりにも手が込みすぎているし、何より私は皆さんが明かしてくださった事を信じたいと思います。自分が先ほどのお話に出てきた紀朝雄であるという実感は全然ありませんが……でも、わかりました。私の運命を貴方方にお預けします」
 そう言うと、絢子はできるだけ自然に見えるように笑みを作った。

「わーい! ありがとう絢子!」

 そう言うが早いか、悠真が絢子にぎゅうっと抱きついてきた。
「きゃ! 悠真君、ちょっと苦しいよ」
「これで絢子も僕らの仲間だね! そしたら匠、次の話に移ってよ」
「次の話?」
 首をかしげる絢子に、匠が話しかけた。

「絢子さん、聞くところによると、貴女は中学校と高校の社会の教員免許を持っているそうですね。そこで、貴女から仕事を奪ってしまったお詫びに、私が経営する学園で臨時講師として採用させていただこうと思っているのですが、いかがでしょうか?」

「えっ?」

 突然の申し出に瞬きする絢子。

「良かったじゃねえか絢子ちゃん。念願の先生になれてよ」
 正臣が祝福の言葉をかける。

「えっ、でも、そんな……」
 絢子は考える。
「あの……お申し出は大変ありがたいのですが、生徒からしたら、未熟な教師に教えてもらうのなんて嫌でしょうし、それにこのような形での教員採用は申し訳ないのですがちょっと受け入れがたいのですが……」
 絢子がそう言うと、匠はふっと目を細めた。
「絢子さん、貴女は真っ直ぐで律儀な人なのですね。そのような方が紀朝雄の生まれ変わりで良かったと改めて思いましたよ。……そうですか、わかりました。では、代わりに学園での図書室事務の仕事ではどうでしょうか? 司書教諭は常駐していますが、何分ひとりなので手が足りていないとの事です。その助手になっていただくのはどうでしょうか?」
 絢子はぱっと顔を輝かせた。
「それならば、是非やらせていただきます」
「決まりですね」
 藤原匠は絢子にその綺麗に整った手を差し出した。
「では松永絢子さん、これからもよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
 絢子は匠の手をしっかりと握ったのであった。






 匠の部屋を辞したあとのことである。

「えー、絢子、もう帰っちゃうの?」
 悠真が絢子の腕に自分の腕を絡めながら甘えたように聞いてくる。
 その悠真を颯太がたしなめた。
「絢子ちゃんは今日たくさんのことを知ったんだ。早く家に帰って休ませてあげてもいいんじゃないかな?」
 そこへ正臣が来て、無言で絢子を悠真の腕からするりと引き抜いた。
「何だよ! 正臣ばっかりずるいよ! 僕だって絢子とたくさんお話したい!」
「餓鬼にゃ絢子ちゃんはまだ早えよ」
「正臣、喧嘩売ってる? 僕は子供じゃないんだけどな」
 いきなり険悪になる二人。
 そんな中、絢子は颯太のほうを見ておずおずと口を開いた。
「あの、お邪魔じゃなければ、私ちょっと颯太さんのカウンセリングを受けようかなあと思っているんですけれど」
 颯太はちょっと目を見開いたあと、にこりと微笑んだ。
「いいよ。幸い僕達はこの邸宅に出入り自由なんでね、空き部屋をひとつ使わせてもらうよ。あとの人達はそれぞれ自由解散ね」
 そう言って颯太は絢子の手を引いて開いている部屋の中に入った。

「それで、どうしたのかな絢子ちゃん」
 部屋のソファーに座ると、颯太は膝の上で両手を組んだ。
「わざわざお話を聞いていただいてすみません。あの、私ちょっと不安で」
「うん、そうだね、不安になるよね」
 颯太はそう言って見るものを和ませるような柔らかい笑みを浮かべた。
 絢子は颯太のその笑みを見た瞬間、なぜだかこみ上げてくるものがあった。
「私っ、私、変な人には襲われるし、部屋では知らない男性と同居する事になっちゃったし、仕事も辞めて無職になっちゃったし、変な夢は見続けるし、狙われているって言われるし、これからどうしていけば良いのかわからなくって……でも、新しい仕事場も決まったし、皆さんのような素敵な方々とお会いできたから、頑張らなくっちゃって思って……」

 それは今までこの事態を平然と受け止めていたかに見える絢子の初めての弱音だった。

「いきなりすみません、でも、どうしても不安になって……」
 颯太は絢子ににこりと優しげな笑みをひとつ与えた。
「絢子ちゃん、ひとりでよく頑張ったね。絢子ちゃんが頑張りやさんなのは僅かな間しか見ていなくてもちゃんとわかったよ。つらかったね、ひとりで抱え込んで。でももう大丈夫だよ。僕らが絢子ちゃんのことをずっと守っていくからね」
 絢子は涙に潤んだ瞳を見開いた。
「あ、ありがとうございます。でも、ずっとって、そんなことできるはずないじゃありませんか」
 思わず愚痴のような言葉が口をついて出る。
「皆さんにだってお仕事や生活があるだろうし、ずっとなんて無理です」
「それが俺にはできるんだな」
 その声に絢子がはっと振り向くと、そこにはいつの間にか正臣が現れていた。
「つれないねえ、絢子ちゃん、愚痴なら俺に話してくれても良いのに。俺なら、絢子ちゃんの全部を受け止められるぜ」
「今の私の話聞いていたんですか?」
「ああ、なんせ俺は隠形鬼なんでな。神出鬼没だと思ってくれればいい」
 その言葉に絢子はかっとなった。
「それじゃあ、私にはプライバシーはないんですか? 夢の中にまで入り込んで、好き勝手に蹂躙して、これって強姦じゃないんですか?!」
 絢子の剣幕にも正臣は怯まなかった。
「絢子ちゃん、夢の中に入ってあんたを抱いたのにはそれなりの理由があるんだ。絢子ちゃんが夢の中で敵方に囚われないように、隙を作らせないように、俺だけしか見えないようにしたんだ。それを責めるなら大いに結構。自分のしたことに後悔はまったくないね」
「そんな、いきなりそんなこと言われても……」
 絢子は下を向いて唇をかみ締めた。
「正臣、絢子ちゃんをあんまり追い詰めないでやって。彼女はこれまでの事柄を受け止めるので精一杯なんだ。絢子ちゃんのことを大切に思うのであればもう少し待ってあげてくれないかな」
 そう言いながら颯太は絢子の肩をそっと抱いた。
 その仕草はどこまでも労わりに満ちており、絢子はそのことに酷く安心した。
「颯太さん、すみません、私落ち着きました。もう大丈夫です」
「本当かな?」
 颯太はまるで子供をあやすように絢子の顔を覗き込んだ。
「は、はい……」
 間近で見る颯太の顔はとても整っていた。
 すっと引かれた眉、柔和な茶色い瞳にはどこまでも相手を安心させる雰囲気がある。癖のある茶色い髪の毛は触れたらとても柔らかそうだ。
「……あの、お心遣いありがとうございました」
 我知らず赤面しそうになる自分を必死で抑えて、絢子は颯太からそっと離れた。
「今日はもう帰ります。お話聞いてくださって嬉しかったです」
 そう言って絢子は微笑んだ。
「可愛いね、絢子ちゃん。正臣でなくとも手放したくなくなるのがわかるよ」
「颯太さん?」
「ああ、それじゃあまたね。正臣、絢子ちゃんのことよろしく頼むよ」
 その会話を残して、絢子と正臣は颯太がいる部屋をあとにしたのであった。



[27301] アパートで ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/20 00:10
 帰りのハイヤーの中では絢子も正臣も終始無言だった。

 家に近づいたとき、正臣が運転手に声をかける。
「この近くにスーパーがあるから、そこへ寄ってくれる?」
「かしこまりました」

 そうして、近所のスーパーには場違いの黒塗りのハイヤーが停まったのはつい先ほどのことであった。
 買い物に来た人達が奇異の視線を送ってくる。

「今日の夕飯買わなきゃな」

 正臣がそう言って絢子に声をかける。
 家路につく間、車中で無言だったおかげか、絢子は冷静な気持ちになることができていた。
「はい、そうしましょう」
 絢子が返事をすると、正臣はにっこりと微笑んだ。
「今日は何が良い? 何か記念になるようなものでも作ろっか」
「あの、普通の夕飯で結構です」
「ふーん、なら今日はハンバーグにしよう」
 何だかメニューが子供っぽくはないかしらなどと思ったのだが、それでも正臣が作るハンバーグはきっと美味しいのだろうと絢子は思った。
 長身モデル体型の正臣がカートを引き、籠の中に食材をひょいひょい入れてゆく。
 絢子はただそのあとにくっついていればよかった。
 二人でレジに並んで会計を待つ。
 そうすると、今更ながら自分はこの人と同棲することになったんだという思いがわきあがってくる。
 会計を済ませ、商品を正臣が袋に手際よく詰めるのを見届けると、絢子は正臣に声をかけた。
「あの、私何かすることないですか? 料理の手伝いとか、荷物持ちとか」

 正臣は「ん?」とこちらを見ると、にいと笑った。
「昨日家事全般は俺に任せるって話だったよね。絢子ちゃんは帰ったら先にシャワー浴びておいてよ。その間、俺が料理作っておくから」
「はい、……でも何だか自分の家なのにやってもらうのが心苦しいんです」
「そんなことを思う必要は全然ないよ。これはね、俺がやりたくてやってんの。俺は絢子ちゃんの喜ぶ顔が見たいだけなの」

 そう言うと、正臣は私の耳元にすっと口を寄せた。

「ありがとね」

 そっとその言葉を言って、荷物を軽々と持ち上げて歩き出す正臣。
 絢子は耳にかかった息がくすぐったくて、思わず首を縮めたのであった。




 正臣が作ったハンバーグはプロ並みの腕前だった。
 食べ終わり、寝る支度を整えると、絢子は自分のベッドの上にごろりと寝転んだ。
「何だか、今日一日はめまぐるしく過ぎていったわね。濃い一日だったわ」
 今日だけでも絢子の今までの人生では考えられないほど、ぎゅっと凝縮された日であった。

 ひとり今日の出来事を反芻していると、シャワーを浴びて出てきた正臣がまだ濡れた髪の毛をタオルで拭きながらこちらへやってきた。
 ジャージ姿ですら様になっているという何ともうらやましいモデル体型である。
「絢子ちゃん、ちょっと話があるんだけれど。隣いいかな?」
「はい」
 絢子は起き上がってベッドの端に寄った。
 正臣がそこに腰掛けるとパイプベッドがきしりと音を立てた。
 六畳フローリングは二人が入ると途端に狭くなる。
「匠の部屋で言ったことなんだけどね、絢子ちゃんの夢が狙われているって話」
「ええ」
「先に宣言しておく。これからも俺は絢子ちゃんの夢の中に入り続ける。危険がなくなったと判断できるまでね。これだけは何と言われようと止めるわけにはいかない。絢子ちゃんが向こう側に囚われてしまったら何かと厄介だからな」
「あの、でもそしたら私はこれからも毎晩、その、正臣と……」
 もごもごと口ごもった絢子に構わず、正臣は言葉を続ける。
「それが一番手っ取り早くて確実な方法だからだ。快楽に取り込まれているうちは奴らも手出しはできないはずだからな」
「他に手はないんですか? その、夢の中でお喋りするとか」
「そんな生ぬるいやり方じゃ、早晩絢子ちゃんは向こう側に捕まるだろうよ。絢子ちゃんの夢はとっても入りやすいんだ。それに夢の中では自分の過去のトラウマや、知られたくない過去なんかも引き出すことができる。絢子ちゃんはそういうのに耐えられる? 絢子ちゃんってさ、結構自罰的で抑圧されているでしょ? 夢の中ではそんなどろどろしたものを突きつけられる恐れがあるんだけれどね。それらを全てふっ飛ばすにはやはり快楽の力を使うしかないんだ」
 そう言われてしまっては、絢子は黙ることしかできなかった。
「絢子ちゃんは俺を憎んでくれたっていいんだよ。だって、颯太との話の中で絢子ちゃんが、自分が強姦されているって言ったの、嘘じゃないから。俺は絢子ちゃんを精神的に犯しているんだからね」
 そうは言うものの、どこまでも悪びれない。
「それに俺は、絢子ちゃんを手放す気はさらさらないから。俺が死ぬまで、絢子ちゃんを全身全霊で守っていくつもりだ。それに本当はあんたを他の誰にも、指一本触れさせたくない。触れていいのは俺だけだと思っている」
 それは束縛の言葉であった。
「そんな……」
「現実の絢子ちゃんには許可が出るまで手出しはしない。その代わり夢の中では容赦なく抱かせてもらう」
「酷いわ」
「そう、俺はね、酷い男なんだよ」
 そう言って、正臣は意地悪く笑った。
「今日も布団敷いておいてくれてありがとう。そうだ、近々引越しをしよう。絢子ちゃんの新しい職場の近くにいいマンションがあるんだ。費用はもちろん全部俺持ちだから、心配せずに引っ越そうか。じゃないとこの部屋じゃ綾子ちゃんの寝言とかが隣に聞こえちゃうよ?」
「えっ、私寝言言ってたんですか?」
「まだ言ってないだろうけれどね。でも万が一寝ぼけて喘ぎ声とか出しちゃったら気まずいんじゃない? てか、多分この会話も漏れ聞こえているはずだと思うよ。こういうアパートの壁って本当に薄いから」
 しれっと言う正臣である。
 自分達が今までどんなことを話していたかを振り返って、絢子は頭を抱えたくなった。
「じゃあ、おやすみ。いい夢を」
 正臣はそう言って絢子の敷いた布団に潜り込んだのであった。




 ――気がつくと夢の中だった。

 その場所は心地よいお湯に浸かっているような感じであった。
 絢子のうしろには正臣がおり、ぎゅっと抱きしめられている格好をしている。
 二人とも薄物を羽織っただけの姿である。
 自分の格好に気付いた絢子は羞恥に頬を染めた。
「これ、夢なの?」
「そうだよ。今これは絢子ちゃんが認識したから、夢と現実との記憶がつながった状態になっているんだ」
 そう言いながら正臣は絢子の首筋に唇を落とし始めた。
「やめて、こ、怖い」
 正臣の唇の柔らかさと、背筋がぞくぞくするような感覚に怯える絢子。
「怖いことも痛いこともしない。絢子ちゃんが気持ち良くなることだけをするから」
 正臣はそう言いながら絢子のうなじをつつっと舐めた。
「ひゃうっ」
「声、もっと聞きたいな」
「で、でも」
 そう言って拒む絢子に、正臣はくすっと笑った。
「知らなかった? 絢子ちゃんが認識するまではここであられもない声をあげていたのを」
「え?」
「可愛かったよ? 声が枯れるまで鳴かせて、何度も気をやらせて、楽しかったなあ」
「き、鬼畜」
「何とでも言って。ここは俺の領域だから」
「私を守るっていうのは嘘だったの?」
 絢子が涙目になってそう言うと、正臣はにやりと意地悪そうな顔をした。
「俺ね、絢子ちゃんの記憶が現実とつながった状態でこうやって抱きたかったんだ。そうすれば、俺のこともっと意識するでしょ? 夢の中で抱いた絢子ちゃんの体が最高に良かったから、絢子ちゃんの心も欲しくなっちゃってさ。欲張りなんだよね、俺は」
「酷い」
 絢子の瞳からついに涙がこぼれた。
「そうだよ? もう知っているでしょう? ああ、心配しないで。俺もう絢子ちゃんしか見れないから。浮気の心配は皆無だよ。あんた一筋だ。この騒動が終わって絢子ちゃんの許可が出たら、現実でもあんたを本気で抱こうと思ってる」
 正臣は絢子の涙に濡れた頬をぺろりと舐めた。
「そんな!」
「でないと他の鬼達が手を出しかねない。絢子ちゃん、鬼の執念を甘く見ないほうが良いよ。俺だけじゃなく、他の三人の鬼も絢子ちゃんに惹かれてるから」
「まさか、そんなことあるわけないじゃないですか」
 そう言う絢子の不安げな顔を、正臣はすっと撫でた。
「時間は関係ないよ? 絢子ちゃんが女性であったのが運の尽きだね。俺を含め、皆絢子ちゃんを手に入れたいと思っているはずだ」
「私はどうすればいいの?」
「俺を選べよ、絢子ちゃん。そうすれば、あんたを最高に幸せにしてやる。まあ、拒まれてもあんたを生涯守り通すことには変わりはないけれどね」
「どうしてそこまでするの?」
 絢子が首を巡らせて聞くと、正臣は絢子の頬を優しく掴んだ。
「絢子ちゃんが好きだって事以外に理由が必要かな? 欲しいならいくらでも言ってあげるよ」
 そうして正臣はそのまま絢子の唇を奪った。

 ……ああ、この唇は知っている。

 絢子は自分を貪る唇をどこか懐かしいもののように感じた。
 しっくりと自分の唇に馴染む正臣の唇に、絢子は自分が彼に何度も何度も抱かれてきたのだということを悟った。

 だって、私はこの唇を拒めないんだもの。

 先ほどの言葉とは裏腹に、その唇はどこまでも優しく、甘い。
 自分が大切に思われているのを絢子は感じた。

「ああ……」

 唇が離れると、絢子は思わずため息をついた。
 それほどに、正臣の口付けは心地良かったのだ。

「そう、いいよ絢子。もっと俺を感じて」
 満足そうに正臣は呟いた。
 いつの間にか、自分の背にはベッドが現れ、そのまま絢子はその場に横たえられた。
「何でベッドが?」
「だから、ここは俺の領域だから。何なら天蓋付のやつにでもしようか」
 そんなことを言いながら、正臣は絢子をあっという間に一糸まとわぬ姿にした。
 その手際の良さに絢子は少しばかり驚いた。
「私、いつもこうされていたの?」
 その疑問に正臣はふっと笑った。
「さあね。絢子ちゃんはいつもどの辺から記憶があった?」
 恥ずかしがりながらも絢子は答えた。
「私の場合はいつも事の最中しか記憶がなくって……」
「それだけ強烈に印象付けられていたってことか。光栄だね」
 そう言うと、正臣は絢子の上に覆い被さった。
「優しいのと激しいの、どっちがいい?」
「え?」
「どちらも痛くも怖くもないよ? 今日はどちらを選ぶ?」
「ほ、本当にするの?」
「ホラ早く。答えなければ、今日は激しいのにするね」
「や、優しいのにしてください!」
 泣きそうな顔をして言うと正臣は意地悪な笑みを浮かべた。
「わかった。思いっきりねっとり優しくするから覚悟して」
 そう言うと正臣は絢子に深い口付けをしたのだった。




「あう……もう許して」

 一体どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
 気持ち良過ぎてつらくなるぎりぎりの手前で正臣は絢子を速やかに昇らせるのだ。
 何度も昇らされ、絢子は息も絶え絶えだった。
 今、正臣は絢子の足の指を一本一本丁寧に舐めあげている。
「良かった?」
 音を立てて絢子の足先に口付けを落とす正臣に、絢子は荒い息の下から声をかけた。
「正臣、全然優しくないです、だって気持ち良過ぎて苦しいんだもの」
「良かったのならいいんだ。さあ、もうすぐ目覚めだよ」
 正臣がそう言うと、目の前がふわりと明るくなって、そして絢子は覚醒したのだった。



[27301] 学園へ
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/05/05 20:18
 目を開ける。

 遮光カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。

「っ……!」

 水面から出たときのような息をつく感覚がある。

 絢子は目覚めてすぐにぱちぱちと瞬きした。

「こ、こんなの、ずっと続けたらきっと気が変になっちゃう」

 両手で顔を覆う。
 頭は先ほどまでの情事をはっきりと覚えているようで、まだ官能の波が残っていた。
 しかし、心がついていかない。
 今までは単なる夢だとばかり思っていたものが、ある意味現実以上に身に迫って来たのだ。
「私まだ清い身なのに……こんなんじゃお嫁に行けなくなっちゃう」

「嫁になら俺がもらってやるぜ」

 はっとして横を見ると、音を一切立てずに布団からすっと身を起こした正臣がいた。
「おはよう絢子ちゃん」
「お、おはよう正臣」

 正臣は夢での出来事なんてなかったかのように平然としている。
 しかし彼は絢子の独り言を聞いていたようで、絢子に声をかけた。
「絢子ちゃん、俺、最初このアパートに来るときに言ったよね? 『毎日美味しく頂いてあげるから覚悟しな』って。あんたを壊すつもりは毛頭ない。だから夢の中でも気が変になる一歩手前で止めているだろ? あんたは狂わない。いいや、俺が狂わせない。だから安心して俺に抱かれてなよ」
「……正臣が気を配ってくれているのは感じます。でも、その、私苦しいんです」
 絢子がおずおずと言うと、正臣は「ん?」と言葉を促した。
「どんなところが?」
「だって、私ばっかり変な風になって、正臣は全然余裕なんだもの」
「絢子ちゃん、それは俺にも気持ちよくなって欲しいっていうこと?」
「えっ? あの、そういうわけじゃ……」
「嬉しいな、相思相愛じゃん。これは絢子ちゃんから許可が出る日もそう遠くはないかな?」
「そんな日は来ません!」
 思わず声を荒げる絢子。
 そんな絢子にはお構いなく正臣は起き上がった。
「今日は引越しの準備をするからね。大体一週間ぐらいで向こうに移ろう。マンションの手続きなんかは直人がやってくれるから」
 それを聞いた絢子はきょとんとした。
「そんなこと、いつ直人さんと話したんですか?」
「夢の中でね」
「直人さんの夢にも入ったんですか?」
「そのほうが手っ取り早く連絡をつけられるだろ」
 そう言うと正臣はにやりと笑った。

 それから一週間後、絢子と正臣は新しい職場の近くにあるマンションへと引越しをした。
 ちなみに絢子の怪我はこの一週間ですっかり良くなっており、綺麗に治っていた。

 夢では相変わらず狂う一歩手前の快楽を正臣から与えられている。だが、今まで抱かれ続けていた効果もあるのか、絢子は怖いという感情がだんだんと薄れてきた。
 まだ最初はしり込みする絢子である。自分が何だかはしたない女になってしまったようで、乱れるのを怖がるのだ。
 しかし正臣の絶妙な誘導により、程なくして心が解され、開放されていくのだ。
「このまま、万が一この快楽に溺れてしまったらどうしよう。そうしたら私は本当に正臣しか見られなくなってしまう」
 今度は別の心配をする絢子であった。

 2LDKの賃貸マンションは分譲だからか作りがしっかりしており、内装もお洒落だ。
 広いリビングにある家具は一週間で取り寄せたものとは思わないほど充実していた。観葉植物も飾られている。
 正臣に連れられてその部屋に入った絢子は驚いた。
「こんなに高そうなマンションだとは思わなかったわ。本当に私が住んでもいいのかしら? 家賃はいくらぐらいなの? 敷金礼金なんかの初期費用は?」
 思わず聞いてしまった。
 正臣は絢子と自分の荷物を両手に持ちながら部屋に入った。
「手続きなんかは大体直人がやってくれているから、何かあるのなら直人に聞いてもらえればいいよ。お金の出所は俺の給料。絢子ちゃんの荷物はもう運び込んであるからね、奥の部屋がそうだよ」
 リビングの横にあるドアを開けると、アパートと変わらない風景がそこにはあった。
 パイプベッド、こたつ机、箪笥、ハンガーラックなどなど。
 綺麗に配置されているその家具は真新しい部屋に何とか馴染んでいた。
「絢子ちゃんの家具をさ、一新しようかどうか迷ったんだけれど、使い慣れているもののほうがいいと思ってね。何にも手は加えていないよ」
「ありがとう、正臣」
 やっとそれだけ言うと、絢子は新たな生活の予感に少しだけ身震いしたのであった。






 ――今日は新しい職場への初出勤の日である。

 絢子は黒のスーツを着込み、新調したパンプスを履き、気合を入れて学園の門まで来た。

 事前に学園には訪問しており、担当の司書教諭とは打ち合わせをしていたので、実際には二度目の訪問なのだが、気持ちは学園の門を初めてくぐるときと同じであった。

 私立栗栖学園。

 藤原グループ系列の学園で、「自立・国際交流」をモットーとしているエスカレーター式の学園である。
 偏差値は上から数えたほうが早いせいか、生徒達の質は悪くない。
 絢子はこの学園の中等部と高等部が利用する図書室の事務を担当することになったのだ。

「本日より図書室の事務として配属されました松永絢子と申します。よろしくお願い致します」
 朝の打ち合わせの職員室で先生方に簡素な挨拶を済ませたあと、絢子は司書教諭の加藤妙子に連れられ、図書室へと入った。
 加藤妙子はひっつめの髪、黒縁眼鏡をかけた長身細身の女性で、生徒達からは「妙子女史」と呼ばれ慕われているらしい。
 妙子は黒縁眼鏡をくいっと持ち上げると、絢子を見た。
「松永さん、今日は図書の整理を手伝ってもらいます」
「はい。加藤さん、よろしくお願いします」
「これからは、私のことは妙子でいいわよ」
「はい、妙子さん。では私のことも絢子と呼んでください」
「わかったわ、絢子さん」
 そうして二人で微笑むと、早速絢子と妙子は図書整理に精を出したのであった。


 昼食は妙子と二人で、学食でとる事にした。
 ガラス張りの学食は開放感があり、生徒達はわいわいと列に並んでいた。
「今日のおすすめは日替わりA定食ね」
「わあ、メインは油淋鶏なんですね」
 二人でそれを頼むと、空いている席へとついた。

 そこで食事を取っていると、食堂の一角が突然ざわっとし始めた。
「何かしら?」
 絢子がそちらを見ると、人だかりができていた。
「ああ、あれね、この学園のアイドルよ」
「アイドル?」
 しかもその人だかりはひとつではなく、離れたところにももうひとつあった。
 取り巻いている年代層もばらばらだ。
 ひとつの人だかりには主に高等部と思われる女生徒達が集まり、もうひとつの人だかりには主に中等部と思われる女生徒達が集まっている。

「この学園にはね、アイドルが二人いるのよ」
 今の騒ぎを何でもないことのように言う妙子である。
「すごいですね、あれ、だれなんですか?」


「ああ、ひとりは鐘崎悠真、もうひとりは隠岐伊織(おきいおり)という生徒よ」


「鐘崎悠真?」

 まさかこの栗栖学園に鐘崎悠真が入学しているとは思ってもいなかった絢子である。
「あら、絢子さんは知っていたのね、じゃあ鐘崎悠真が海外で有名なモデルだってことも知っている?」
「はい、ちょっとだけですけれど」
 驚く絢子をよそに、妙子の解説は続く。
「鐘崎君は中等部のアイドル、隠岐君は高等部のアイドルなのよ。どちらもものすごい人気があって、学園内に親衛隊ができているぐらいなの。何だか漫画の中の世界みたいでしょ?」
 妙子はそう言ってにこっと微笑んだ。黒縁眼鏡の奥が面白そうにきらりと光っている。
 妙子女史はどうやら愛嬌のある人のようだ。
「そうですね、でも、鐘崎君のことを想像すると、そういう盛り上がりもあるような気がします」
「あら意外と冷静ね絢子さん」
 妙子は少しだけ目を丸くすると油淋鶏を頬張った。
「うーん、多分まだ身近に感じていないからだと思います」
「そうよね、私達みたいな教員側の人間はある意味蚊帳の外ですものね」
 そう言うと妙子は付け合せの味噌汁を飲み干したのであった。


 割と早めに食事をし終わった二人は席を立った。
 絢子は妙子に聞こうと思っていたことがあった。
「あの、私食べるの遅くなかったですか?」
「ううん、そんなことないわよ? どうして?」
 不思議そうに言う妙子に絢子が告白する。
「私いつも食べるのが遅くって友人を待たしてしまうんです。だから、妙子さんを待たせてしまったんじゃないかって思って」
 絢子がそう言うと妙子はふわっと微笑んだ。
「何だか絢子さんって私の親友に似てるわ。私の親友もね、ご飯食べるのが遅くって、いつも私にごめんねって謝るのよ。私は待たされるのなんて全然気にしていないのにね」
 そのとき、絢子の背後から声がかかった。


「絢子、会いたかったよ!」


 はっとして振り向く暇もなく、何かが絢子の背後から抱きついてきた。

「きゃあ!」

 背後から意外に強い力でぎゅうっと抱き締められた。

「僕、今日は絢子にいつ会えるかなあとわくわくしてたんだ! こんなところにいたんだね」

 まさか、と振り向くと、そこにいたのはルネサンス絵画から抜け出たような美貌の鐘崎悠真だった。
 ふわふわの金髪、きらきらとした灰色の瞳、小ぶりの鼻に、ピンク色の少しアヒル口の唇は女性的な魅力さえあった。
 周囲からざわめきが聞こえる。

「ゆ、悠真君! こんなところでどうしたの?」

 しどろもどろになる絢子にお構いなく、悠真はにこにこしている。
「昼休みにね、絢子に会いに図書室へ行こうと思っていたんだ。そしたらこんなところで会えちゃったよ。僕ってツイてる!」
 変声期前のアルトの声が弾んでいる。

「ねーえー、これからは僕とずーっと一緒にいようよー」

 そう言って悠真は絢子の腕に自分の腕を絡めた。
 また周囲から今度はどよめきが起こる。

 このとき絢子は正臣が言っていた「ほかの三人も絢子の事を手に入れたがっている」という話を思い出していた。
 でもまさかこんな可愛い美少年が自分のことを好きになるはずなんかなかろう。なにせ歳だって九歳も離れているのだから。
 きっと十四歳とは言えど、まだ甘えたい盛りなのだろう。
 そう思うとすとんと何かが納得できた。
 このまま甘やかそうか。
 だがそこで、教師を目指している絢子には大学で受けた教職課程の発達段階の授業内容が頭をよぎった。講師の先生は何と言っていただろうか。確か、今ここで単に甘やかしてもその子のためにはならない。特に中学生からは一大人として、対等に接しなければならない、ということを言っていなかっただろうか。
 それを思い出すと、絢子は悠真の腕の中から自分の腕を優しく取り戻した。

「悠真君、気持ちはありがたいのだけれども、ここは学校よ? もし悠真君が自分のことを子供じゃないと言うのならば、公の場では対等に接することもできるはずよね。私は、悠真君ならそれができると思うのだけれども」


 絢子の言葉を聞いた悠真はぽかんとした。

 しばらくそのままでいたあと、悠真は突如花が咲いたようににっこりと微笑んだ。

「僕のこと、ちゃんと一人前として扱ってくれたの、絢子が初めてだ。うん、わかった。絢子の言う通りにするよ」

 そう言って悠真は絢子の頬に素早くキスをした。
 周囲からは悲鳴にも似た歓声が上がる。

「今日はここで絢子に会えたからもう十分。初日のお仕事を邪魔しないようにするね。明日またここで会おうね!」

 そう言うと悠真は風のように去っていったのであった。


「絢子さん、これはどういうこと?」
 妙子女史が面白そうな顔をして聞いてくる。
「知らなかったわ、あなたが鐘崎君とそんなに親しい間柄だったなんて。水臭いわねえ」
「えっ、あの、これにはいろいろと事情がありまして……」
「その事情、仕事が終わったらあとで詳しく聞かせてもらうわよ」
「えーと……」

 そんな風に困惑している絢子の横を、すっと通り過ぎる影があった。

 その人物の身長は百七十五センチぐらいか。均整の取れた体、漆黒の艶やかな髪の毛、その瞳は気だるげな雰囲気を醸し出している。

 通り過ぎるとき、絢子はその瞳と目が合った。

 互いに認識したとき、相手の気だるげな目が一瞬驚いたように見開かれた。

 しかし相手はそれ以上の興味を示さず、何事もなかったかのように絢子の横を通り過ぎていった。

「絢子さん、今のが隠岐伊織よ」

「隠岐伊織、ですか」

「彼がもうひとりのアイドルよ。まさか彼のことも知っているって言うんじゃないでしょうね?」

「いえさすがにそれはないです」
 手をぶんぶんと振って全力で否定する絢子であった。



[27301] 絢子と妙子
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:019e9d6d
Date: 2011/04/20 05:51
 放課後。

 ここ、私立栗栖学園の図書室はかつてない盛り上がりを見せていた。

 いつもは資料を借りに来る生徒や、読書好きで穏やかな生徒が集う場所であったはずなのだが、今教室は人で溢れており、特にカウンターの周りに十数人が集まっていた。

「妙子女史ー、新しく来た事務の人に会わせてよ」
「ねえねえ、女史は新しく来た人が悠真君の知り合いだってことを知っていたの?」
「悠真君のあんな態度初めて見たわ! 新しく来た人と悠真君とはどういう関係なの?」

 妙子女史は質問攻めである。
 その妙子は群がる生徒達を見下ろすと、長身細身の体躯からは考えられないほどの威圧感を出した。
「ほら、あなた達、そんなに押しかけちゃ、図書室の本来の利用目的が達成できないでしょ? それに新しく来た松永絢子さんだって落ち着いて仕事ができないじゃないの。あなた達の興味はもっともだけれど、ここは神聖なる図書室よ? 私の目の黒いうちはここで騒がしくすることを禁止します」
 女史が腰に手を当ててふんと仁王立ちになる。
 黒縁眼鏡がきらりと光った。
「きゃあ! 女史に怒られちゃった♪」
 なぜかきゃっきゃと喜ぶ生徒達。
「うん、わかったー。妙子女史がそう言うなら仕方ないよね」
「名前、松永絢子さんって言うんだね。皆に教えてこよーっと」
「ごめんね妙子女史。次からは静かに利用するね」
 妙子の人気っぷりが窺える生徒達の発言である。

「さあ皆、ぱぱっと散りなさい」

 妙子が手で追い払う仕草をすると、生徒達は笑いながら図書室を出て行った。

「……妙子さん、すごいですねー、生徒達がとっても懐いているんですね」
 感心する絢子である。絢子は準備室で作業をしながらその様子を窺っていたのだ。
 騒ぎがひと段落してから、絢子は準備室から出てきたのであった。
 その絢子に妙子は声をかける。
「ああ、これは多分ね、私が成績と関係ない大人という立場であるから生徒達が懐いているんだと思うわ。それと、ここでは年に一回新学期に、図書室利用に関するレクリエーションを行うのだけれどね、それが結構生徒達に受けているのよ。そのせいじゃないかしら」
 何でもないことのようにさらりと言う妙子を、絢子はとても格好が良いと思った。
「妙子さん、司書教諭の鏡じゃないですか。私が学生の頃にも妙子さんみたいな人がいてくれたら良かったのになあってちょっと思っちゃいました」
「あら、褒めてくれてありがとうね。これは私が好きでやっていることだから、そう言われると素直に嬉しいわ」
 絢子と妙子はその後、生徒達の邪魔にならないように図書整理をしたり、カウンター業務やパソコン作業をしたりしたのであった。


 その日はあっという間に過ぎた。

「絢子さん、帰りはどっち方面? 良かったら一緒に帰らない?」
 準備室で帰り支度をしていた絢子と妙子である。
 絢子はその返事として四階の図書室から見える高層マンションを指差した。
「私、つい先日、学校から歩いて十五分ほどのところにあるマンションに引っ越したんです。ほら、あの建物です」
「まあ! あそこに住んでいるの? 結構高いんじゃないの?」
「はあ、いろいろと事情がありまして」
「事情ねえ……」
 妙子はそう言うとぽんと手を叩いた。
「あ、もし嫌じゃなかったら今日の帰りにちょっとだけお茶しない? この学園の近くなんだけれど、生徒がやってこない穴場の喫茶店があるのよ。そこのチーズケーキがとっても美味しくてね、よかったら食べていかない?」
「はい! ぜひご一緒させてください!」
 こうして絢子と妙子は穴場の喫茶店に行くことになったのだ。

 喫茶店で紅茶とチーズケーキを食べながら、絢子と妙子は取り留めのないことを話し合った。
 絢子は大学卒業以来、こんなに気軽に話したことがなかったというくらいに話をした。
 特に二人とも本好きということもあって、本の話題には事欠かなかった。

「絢子さんは上橋菜穂子の『獣の奏者』は読んだ事ある?」
「はい! あれとっても面白いですよね」
「そうそう。ファンタジーと政治がうまく融合しているし、YAの範疇では収まらない作品よね」
「YAなら私はガース・ニクスの『古王国記』シリーズとか、キャサリン・フィッシャーの『サソリの神』シリーズなんかが好きです」
「おおー、なかなか良いところついてくるわねー、私もあれは結構好きよ。あ、茅田砂胡の『デルフィニア戦記』シリーズは読んだ事ある?」
「はいっ! あれも面白いですよねー! じゃあ妙子さんは須賀しのぶの本は読んだ事ありますか?」
「もちろんよ。コバルトの『流血女神伝』は途中までしか読んでいないけれど、なかなか好きなテイストだったわ」
「クライヴ・バーカーの『アバラット』はどうですか?」
「あれもいいわよねー、割合グロテスクな描写なんだけれど、なぜか惹かれるのよね」
「じゃあこれはどうですか? 小野不由美の『十二国記』」
「鉄板よねー! これは私の中で中高生に読ませたい本ナンバーワンだわ。でも、当たり前だけれど司書教諭は自分の趣味を前面に出した選書をしちゃいけないので、それとこれとは別だけれどもね」
 妙子のその言葉を聞いて、絢子は少しだけぬるくなった紅茶に口をつけた。
「そうですよね……でも、私、妙子さんとこんなに本の趣味が合うとは思わなかったです。妙子さんは子供の本も大人の本も幅広く読んでらっしゃるんですか?」
「そうね。割といろいろ読むわ。最近は推理物をよく読んだりするかな。本好きが高じてこの仕事についたくらいだもの。それに子供も嫌いではなかったからね」
 妙子はチーズケーキを口に入れると話題を変えた。
「さてさて。話は変わりまして。これは私が聞きたかったことなのだけれどね、絢子さんは鐘崎悠真とどういった関係なのかしら? もし話したくなかったら全然構わないのだけれども、話してくれたら生徒達の対応をうまくやっておくわよ?」
 そう言って、妙子は黒縁眼鏡をきらりと光らせた。
 絢子はフォークを置いた。
「あの、あんまり詳しいことはお話できないんですけれど、悠真君とはある人とのつてで顔見知りになったんです。そのときになぜだかわからないのですけれど悠真君に気に入られたみたいで……すみません、私にもこれは何て説明していいかわからないことで」
「ふうん、何か複雑な事情がありそうね。この秋っていう中途半端な時期に絢子さんが配属されたことにも何か関係があるのかしら」
「そうですね、妙子さんはこれからお仕事仲間としてお付き合いする方ですからあんまりこういった隠し事とかはしたくないのですけれど、隠すって言うより、まだどうやって話したらいいかわからないって言うほうが大きいんです」
「渦中の人なのね、絢子さんは」
「はい、そうみたいです」
 絢子がそう答えると、妙子は残りのチーズケーキをぱくりと口に入れた。
「そう、そういうことなら仕方ないわね。生徒達に何か聞かれたら『ちょっとした知り合い』って感じに話しておくから。それでいいかしら?」
「はい、お手数おかけします」
 絢子は妙子にぺこりと頭を下げた。
 こうして絢子と妙子はその喫茶店をあとにしたのだった。


 妙子と別れて家路へとつく。
 オートロック指紋認証のマンションで、絢子は機械の前で手をかざす。
 強化ガラスのドアが左右に音もなく開いた。
 エレベーターを使って、絢子は五階に上がった。
 503号室が絢子と正臣の部屋であった。

 絢子がドアを開ける前に中からドアが開いて、黒いエプロン姿の正臣が出てきた。
「お帰り絢子ちゃん、今日はパスタにしたからね」
 部屋からはいい匂いが漂ってきている。自分の部屋に入り荷物を置き、手洗いうがいを済ませたあと、絢子はダイニングへと足を向けた。
 テーブルの上には一輪挿しのコスモスと、ワインが置いてあった。
「これは?」
「これは絢子ちゃんの初出勤のお祝い。二人で飲もう」
 そう言うと正臣は絢子をテーブルに座らせた。
 ワインの栓を抜き、グラスに注いだ正臣は、次に白い皿に綺麗に盛られたトマトパスタを絢子の前に置いた。
「うわあ! 美味しそう」
 絢子は目を輝かせた。
「さあ、食べようか絢子ちゃん」
 自分の皿を手に取り席につくと、正臣は絢子に笑顔を向けた。


 食事が終わり、シャワーを浴びた絢子はリビングでソファーに座りクッションを抱いてテレビを見ていた。
 薄型の黒い大きなテレビは広いリビングに違和感なく溶け込んでいた。
 テレビではお笑い番組がやっている。
 部屋着を着た正臣が絢子の隣に自然に座った。
 二人でテレビを見る。
 とても穏やかな時間だった。

 元々絢子はひとりの時間を愛する人だった。
 読書をしたり、パソコンを見たり、ごろごろしたりするのが絢子にとっては至福の時間であった。
 それが今、隣に男性がいて、一緒にテレビを見ている。
 自分の急激な環境の変化に、絢子は意外にもそれほど戸惑わずに順応していた。

 それは、隣にいる正臣がとても自然体で接してくるからだ。

 家族を除いて、自分の傍に自分以外の人がいることがこんなにも心地良いものだとは絢子自身思っても見なかったことであった。

 テレビではお笑い芸人が雛壇から全員で突っ込みを入れているところだった。

「ねえ絢子ちゃん、DVD見ていい? 一緒に見ようよ」
 正臣がおもむろに言った。
「いいですけど、何のDVDですか?」
「ん、『私の頭の中の消しゴム』」
 そう言って正臣はテレビ台の下からいくつかのDVDを取り出した。
「あ、それ見たいです! 前に見て感動してぼろ泣きした映画ですよ。チョン・ウソンが格好良くてもう……正臣が借りてきたんですか?」
「まあね、暇つぶしにと思っていくつかTSUTAYAでね。絢子ちゃんこういうの好きそうかなと思って」
「好きですよ! でもどうしてわかったんですか?」
 いぶかしみながら絢子が聞くと、正臣はふっと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「それはね、絢子ちゃんとの付き合いが深いからだよ」
「え?」
「絢子ちゃんの趣味とか、大体把握してるよ俺。好きな本、好きな映画、好きな食べ物なんかをね」
「それって何だかストーカーチックじゃないですか……?」
 眉をひそめる絢子である。
 だがそれにも構わず正臣は言葉を続けた。
「絢子ちゃんの好きな異性のタイプも知ってるよ。抑圧されている絢子ちゃんはね、自分の秘密を守りつつ、自分を解放してくれる人を望むんだ。だから絢子ちゃん、俺のこと拒めないでしょ?」
「……」
「俺はさ、怯える絢子ちゃんを見るとね、たまにぐちゃぐちゃに犯してやりたいって思うときがあるんだ。鬼の本性は残虐非道だからね。でも、今まで俺が夢の中で絢子ちゃんを無体に扱ったことがある?」
「……ないです」
「それはね、俺にとっては絢子ちゃんの事が、とても大切だからなんだよ。大切に守りたいっていう気持ちのほうが強いからなんだ。これは生涯変わらない。まあ、あんまり可愛いからちょっとだけ意地悪はしたくなっちゃうけれどね」
 そう言うと、正臣は何事もなかったかのようにDVDをセットし始めた。
「絢子ちゃん、俺を選べよ。俺が生涯大切に幸せにしてやる」
 さらりと告白めいたことを言う。
「で、でも……」
 しどろもどろになる絢子にはお構いなく、テレビ画面に映像が映り始めた。
 しばらく逡巡していた絢子であったが、何かにのめり込む性質の彼女は映画が始まるとすぐにそれに没頭し始めたのであった。

 その絢子の横顔を、正臣が頬杖をつきながら愛おしそうに見つめていたのにも気付かずに……。



[27301] 許可 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:019e9d6d
Date: 2011/04/20 05:53
 夢の中で、絢子はベッドの上で肌触りの良いシルクの太いリボンで後ろ手に縛られていた。

 さらには同じ素材のもので目隠しまでされている。

「正臣?」

 絢子は不安になって正臣の名を呼んだ。

「ここだよ」
 自分のすぐ横から正臣の声がした。
「これは何なの?」
 絢子は少しだけ声を震わせた。

 正臣は意地悪そうにふっと笑うと絢子の耳元に口を寄せた。
「今日はね、絢子ちゃんにもっと俺を感じてもらうためにこういう趣向にしたんだ。怖い?」
 絢子がこくりと頷くと、正臣は背後から絢子を抱きしめた。
 びくりと反応する絢子である。
「怯える絢子ちゃんはたまらなくそそるね。このまま骨も残さず喰らってしまいたくなる」
「い、嫌……」
 絢子は正臣の腕の中から逃れようとするが、それは叶わない。
 正臣は絢子の耳に口をつけたまま、低く官能的な声で囁いた。
「絢子ちゃんにはたくさんぞくぞくしてもらうからね?」
 そう言うと正臣は絢子の耳朶を柔らかく噛んだ。
「んっ」
「声、出していいんだよ。遠慮せずに」
 いつもよりも感覚が鋭敏になっている。
 絢子は歯を食いしばって官能の波を抑えようとした。
 だが、そうすればそうするほど、肌の感触が鮮やかに伝わってくるのである。
「あんっ、そんなの、嫌」
 首をふるふると振り、拒絶の意を示す絢子を正臣は宥めてゆく。
「絢子ちゃんはね、はしたない女なんかじゃ全然ないよ。とても綺麗だ。この桃色に色づく肌も、甘やかな吐息も、いじらしい声も全て愛おしい。だから、自分を解放して?」
「ああっ、あん」
「そうそう、良くなってきたでしょう? これからもっと高みへと連れて行ってあげるね」

 正臣はそう言って絢子をさらに優しく責め立てたのであった。






「はあっ」
 目覚めた絢子はパイプベッドの上で息をついた。

「昨日の正臣はいつもにも増していやらしかった……」
 そう呟いて赤面する絢子である。

 出勤の仕度を整えると、絢子はダイニングへと足を向けた。
 そこにはエプロンをつけた正臣がフライパンからパンケーキをひっくり返しているところだった。

「おはよう絢子ちゃん、朝食食べてくでしょ?」
「うん」
「今日の付け合せのリンゴジャムはね、俺の手作りなんだ」
 絢子はそのリンゴジャムをちょっぴり味見した。
「うん、美味しい! 正臣は本当に料理が上手なんですね」
「絢子ちゃんのお褒めに預かり光栄です」
 そう言って正臣はパンケーキを皿に移すと、テーブルに出した。
「はい、絢子ちゃんは、朝はあんまり食べないから小さめにしたよ」
「ありがとう、正臣」
 礼を言ってパンケーキにナイフを入れる。
 ふわふわのそれは、上に乗せたリンゴジャムの甘みとよく合っていた。

「あの、昨日は……」
「ん?」
 正臣は目の前の席でパンケーキを食べる手を止め、絢子を見た。
「正臣は何であんなことしたんですか?」
 少し恥らいながら絢子が聞くと、正臣はにこりと微笑んだ。

「嬉しいな、絢子ちゃんが自分から俺達の夜の営みのことについて話を振ってくるなんて」
「どうしてなの?」
 絢子が正臣を見ると、正臣はテーブルの上で両手を組んだ。
「それは俺が昨日のチョン・ウソンに嫉妬したから。だって絢子ちゃん、まるで恋する乙女のような瞳であいつを見てるんだもん。あまつさえぼろぼろ泣いちゃって可愛いったらありゃしない。そりゃ、絢子ちゃんを好きなものとしては嫉妬しないほうがおかしいよ」
 それを聞いた絢子は頬を染めた。
「そんな……」

「鬼はね、嫉妬深いんだよ」

「……でも、正臣は私には優しいです」
「うん、俺は大切なものを傷つけるほど馬鹿ではないからね。その点は心配しなくてもいいよ。もし絢子ちゃんがこれからほかの鬼を選んだとしても、俺は後悔しない。今、全身全霊で絢子ちゃんを愛してるから。絢子ちゃんと過ごす一瞬一瞬を俺は大切にしてるから」
 どうしてこの人はこう、告白めいたことをさらりと言うのだろう。
 もしかして、本当はそんなこと露ほども思っていないんじゃないだろうか。
 だって、鬼の本性は残虐非道。
 本心はどこにあるのだろう……。

「あ、絢子ちゃん、今俺のこと疑っているでしょう? じゃあ、そうさせないようにしてやる」

 正臣は意地悪そうな笑みを浮かべたあと、席を立って絢子の隣にやってきた。

「絢子ちゃん、俺のこと嫌い?」

「嫌い、じゃないです」
「じゃあ好き?」
「……わかりません」

「ふうん。まあ、今はそれでもいいや。ねえ、絢子ちゃん、いってらっしゃいのキスしてもいい?」
「?!」
 目を丸くする絢子である。
「そんなに驚くことじゃないでしょ? 夢の中ではそれ以上のことをやってるんだから」
「でも、夢と現実とは別物で……」
 下を向いて戸惑う絢子。
「絢子ちゃん、知ってる? 夢が現実に影響を及ぼすって話。現実の絢子ちゃんの体は清いままだけれど、脳の中では俺に抱かれているイメージがしっかりと認識されている。絢子ちゃん、起きるとき息が上がっていたり、顔が火照っていたりしない? これって現実に起こっていることだよね?」
「で、でも私起きたときには体の違和感はありません。ぬ、濡れたりしていませんし……」
 最後のほうはぼそぼそと尻すぼみになる絢子である。
「それはね、俺が後戯をその時々によって加減しているからだよ。絢子ちゃんの目覚めが不快でないように気を配っているんだ」
「そうだったんですか」
 絢子は頷いた。
「それでなんだけれど、絢子ちゃんに現実の俺にも慣れてもらおうと思ってさ」
「……あの、ほっぺたにキスぐらいなら私からします」
「おお、積極的じゃん、いい傾向だね。じゃあ、俺からのキスも許可ね?」
 そう言われて絢子は逡巡した。
 ここでキスを許可したら、この先は一体どうなってしまうのだろうか。
 でも、正臣にはいろいろと世話になっているし、ちょっとのキスぐらいは良いんじゃないか。昨日は悠真から不意打ちとは言えすでにほっぺたにキスされたのだし。
 そう思った絢子はこくりと頷いた。


「はい、キスを許可します」


 その瞬間、絢子と正臣の間で何かがぱちんと光った。

「えっ?!」

「ありがとう絢子ちゃん、許可を出してくれて」

 にいっと笑う正臣が、絢子に覆い被さってきた。

「?!」

 正臣は絢子の顎を優しく掴むと、絢子の唇を食み始めた。
 それは現実の正臣から初めてもたらされる快楽だった。

「んんっ!」

 絢子は目をぎゅっとつぶり、その波が過ぎるのを待つ。
 正臣から与えられる緩い快感は、絢子の心を解してゆく。
 初めてのキスの味はリンゴジャムの甘い味だった。


「唇へのキスはね、許可がないとできないんだ」


 唇を僅かに離しながらそう言う正臣の声を、絢子はどこか遠くで聞いていたのであった。






 ――正臣から柔らかいキスを受けたあと、絢子は出勤した。

 早く出勤しているせいか、通学路の生徒の姿はまばらである。

 絢子は秋風に少しばかり火照った頬を晒しながら、学園へと歩いていた。

 と、後ろからきゃっきゃきゃっきゃと声がする。
 どうやら女生徒の一団であるようだった。

「あ、ねえねえ見て! あそこにいる人、昨日悠真君からキスされていた人だよ!」

 その声に気付かないふりをして、絢子は歩き続けた。

 女生徒がひそひそと声を交わす。
「どんな人なんだろう?」
「何か結構地味な人だよね」
「何でこの学園に来たんだろ?」
「家が大金持ちとか?」
「それならこの学園の事務なんかやってないでしょ」
「あ、でも、あの人のこと悪く言ったりすると悠真君と妙子女史に嫌われちゃうって話だよ?」
「誰から聞いたのそれ?」
「昨日図書室に行った子達から」
「何かねー、妙子女史とも仲いいっぽいよ。昨日一緒に帰ってるところを部活の子が見たって」
「へえ、じゃあ、あの人うちらの仲間じゃん! 妙子女史のお友達ならうちらにとってもお友達だよね!」
「そういえば、昨日悠真君からキスされたとき、何か戸惑ってたって話だよ」
「じゃあ、あの人は悠真君のことを何とも思ってないんだ!」
「あの人本当は親戚の人か何かなんじゃないの? 知らない人にそういうところ見られると恥ずかしいよね。それに悠真君海外で生活もしているからそういうことはフランクなんじゃないの?」
「でもさー、私達には全然キスとかしてくれないよー?」
「馬鹿、だれかれ構わずキスしてたら悠真君が疲れちゃうじゃん!」
「知ってるー? あの人の名前ねー、松永絢子って言うんだって」
「じゃあ、絢子女史だね!」
「まだ今は絢子さんで良いんじゃないの? 仲良くなったら絢子女史って呼ぼうよ!」

 絢子はほっとした。
 昨日の悠真との一幕で女子を敵に回すと厄介だと思っていたところであったのだが、どうやらそれは杞憂であったようだ。
 まさに妙子女史効果である。
 絢子は心の中で妙子を拝み倒した。
「ありがとう妙子さん、あなたがいなかったら私、この学園で針のむしろになるところだったわ」
 そうして絢子は今日も栗栖学園の門をくぐったのであった。




 今日の日替わりA定食のメインはカキフライだった。
 妙子と食堂でそれを食べていると、またも食堂内がざわざわとした。
「今日は何だか人が多いわね」
 妙子がカキフライを一口で頬張りながら言う。

 絢子はその人だかりから視線を感じていた。

 いろいろな思惑が混ざった視線であるが、その大半は絢子に対する興味からくるものであった。

 あちらこちらでひそひそと言葉が交わされる。
 その内容は今朝の女生徒達のようなものだと絢子は踏んだ。

 すると、その人だかりの中から今日も悠真がやってきた。


「絢子! 今日も来ちゃったよ!」


 悠真はにこにこしている。

「悠真君、もうお昼は終わったの?」
「うん、もう食べ終わったよ」

 そう言った悠真は、絢子を見てふといぶかしむ顔をした。
「絢子、正臣に許可を出した?」

「え?」

「絢子のまとう雰囲気が違う。正臣のも混ざってる」

 そう言うと、悠真は今度は面白く無さそうにぷいと横を向いた。

「やっぱり正臣はずるいや。絢子を独り占めしてる。僕だって絢子といろんなことをしたいのに」

 しかし、悠真ははたと機嫌を直したようだった。

「でもいいもん! 学園の中は僕のテリトリーだから、ほかのやつらには絢子を触らせないんだ! 正臣もうかつに顔を出せないしね」
 そう言うと、悠真は絢子の手を取って、そこにちゅっと口を付けた。

「絢子は僕のお姫様だよ!」

 きらきらとしたオーラを放ちながら、金髪灰眼の美貌の主は言う。

「あ、ありがとう」

 しどろもどろになる絢子であったが、ふと視線を感じた。

「あ、この視線は……」
 その視線に悠真も気付いたようだ。

「隠岐伊織」

 そこには、漆黒の髪、気だるげな瞳を持つ隠岐伊織が立っていたのであった。



[27301] 口付け ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:44e433c7
Date: 2011/04/23 08:19
 隠岐伊織は長めの前髪から覗く気だるげな瞳を絢子に向けた。

「あんたに話がある」

 その声は、少しハスキーで色気があった。
 鐘崎悠真が中性的な天使のようであるとしたら、隠岐伊織は伸びやかな瑞々しい若木のようである。
 しなやかな体躯、長くて綺麗な指、誘うような唇は少しだけ開かれている。

 隠岐伊織の出現に周囲がざわざわとする。
 特に女子の視線がものすごい。
 驚愕の視線を送ってくるものもいれば、あからさまな嫉妬の視線を送ってくるものもいる。

「ひいい! どうしてこう次から次へとトラブルに巻き込まれなきゃならないのよ!」
 絢子は心の中で盛大な悲鳴をあげた。

 だが、気を取り直すと、絢子は隠岐伊織に向き直った。

「あの、どういった用件ですか?」

 隠岐伊織は豹のような隙のない立ち居振る舞いで絢子の傍へと寄った。

「葛城秀斎があんたを連れて来いと言っている」

「かつらぎ、しゅうさい、ですか……」

 全く心当たりのない名である。
 そのとき隣にいる悠真が絢子の袖をぎゅっと掴んだ。

「絢子、ちょっと向こうでお話しない? すぐ終わるから」
「えっ? う、うん」
「隠岐先輩、絢子を借りるね? ちょっとだけだから」
「ああ」

 悠真に引きずられるまま席を離れる絢子。
 絢子は席に座っている妙子に視線を投げた。
「あの、妙子さん、すぐ戻ってきますから」
「わかったわ、いってらっしゃい。席は私が見ておくからね」
 妙子の黒縁眼鏡がきらりと光った。

 悠真に袖を引かれながら絢子は隠岐伊織を振り返った。

 伊織は妙子の隣で腕を組んですっと立っている。
 その瞳は少し鋭さを増していた。


 悠真は絢子を人気のないところへ引っ張ってくると、絢子の両手をぎゅっと掴んだ。
 声を潜めながらも、悠真は焦ったように早口で喋った。

「大変だよ! 隠岐先輩が葛城秀斎に関係している人だったなんて!」

「悠真君、葛城秀斎って誰なの?」
 話が全然見えない絢子である。

「あっ、ごめんね、ちゃんと話していなかったね」

 悠真はしかし焦ったままである。


「あのね、葛城秀斎っていうのは匠の敵なんだよ」


「えっ?!」
 絢子は目を丸くした。
 葛城秀斎という人物が藤原匠の敵ということは、その葛城秀斎に関係している隠岐伊織もまた、藤原匠の敵ということになる。
「気をつけて絢子、葛城勢である隠岐先輩が声をかけてきたということは、向こうも動き始めたっていうことだよ! 隠岐先輩には絶対に気を許しちゃ駄目だからね!」

 悠真はぐっと顔を近づけた。
 間近にきらきらとした大きな灰色の瞳が絢子を映している。

「絢子は僕が守るから! 葛城勢なんかに絶対に渡さないから!」
 そう言うと悠真は絢子の頬に素早くキスをした。

「これ、葛城勢除けのおまじないね!」

 そうして悠真は絢子の手を引っ張って食堂へと戻ったのであった。


 食堂では妙子と隠岐伊織がくつろいでいた。

「隠岐君、君は絢子さんとどういった関係なのかな?」
 妙子が面白そうな表情をして聞く。
「別に、昨日見かけただけの存在だ」
 伊織はともすればぶっきらぼうに聞こえる返答をした。
 だがその返答さえも、見るものによっては色気を感じさせるものであった。

 そこへ絢子と悠真が小走りで戻ってきた。
 手をつないでいた二人は、伊織の前でそれを離した。
 と、悠真が絢子の前にすっと立ちはだかった。

 伊織と対峙する悠真。

「隠岐先輩、僕、鐘崎悠真って言います」
「知っている」
「これだけは言っておきます。絢子は僕の大切な人です。何かしたらただじゃおきません」
「俺はそこにいる人に危害を加えるつもりはない。ある人から連れて来いと言われただけだ」
「もし絢子を連れて行くとなったら、僕も一緒に連れて行って。隠岐先輩ならそれができるんじゃないの?」
「ああ、多分な」

 伊織はそう言うと、絢子に目を向けた。

「あんた、絢子と言うんだな」

 そして伊織はふっと相好を崩した。


「良い名前だ」


 伊織のその表情を見た絢子ははっと息を呑んだ。
 それほどまでにこの隠岐伊織という人物には高校生では考えられないほどの色気があったのだ。

「じゃあ、また来るから」
 元の気だるげな瞳に戻った伊織はその言葉を残すとそのまま食堂を去っていった。


「絢子、僕も行くね」
 悠真もそう言って絢子の元から去っていった。

 絢子は気もそぞろで席に座った。
 周囲の音が一気に聞こえてくる。
 それは今の光景を見て早速噂話に花を咲かせる生徒達の喧騒であった。
「あーあ、あの子達、自分達がこの学園でどういう存在かいまいち理解できていない様子ね? いや、それとも確信犯かしら?」
 妙子がそう推理する。
「絢子さん、あなた、もしかして、何かとんでもない者達と関わっていやしない?」
「当たらずとも遠からず、です」

 絢子が食べた残りのカキフライは全然味がしなかった。






 ――この数日間で、ここ栗栖学園には突飛な噂が広まっていた。

 曰く、鐘崎悠真と隠岐伊織という栗栖学園の二大アイドルが松永絢子というひとりの女性を巡って対立しているという噂である。

 話の筋はこうだ。
 元々悠真と絢子は幼馴染で、家が近かった関係もあってよく遊んでいた。
 悠真は優しい子だから幼い頃に遊んでもらった絢子のことを慕っており、久しぶりに会えた嬉しさから学校でも絢子に近づいている。
 そこへどうしてか絢子を見初めた伊織が近づき、悠真と恋の火花を散らしている、というものだ。

 また、こんな噂も出ていた。

 絢子は、本当はさるやんごとなき人で、花嫁修業のためにこの学園にやってきたのだ。悠真と知り合いなのも、そのやんごとなきつてがあるからである。
 また隠岐伊織というこれまたやんごとなき人ともつながりがあり、二人は絢子の花婿候補である、など。


「なかなか大きく出たわねー。でも絢子さん、その噂もあながち嘘ではなかったりして?」

 準備室でお茶を飲みながら妙子がにやにやと絢子に声をかけた。
 絢子は両手をぶんぶんと振って必死に抵抗する。
「そんなことありません! 私は至って平々凡々な一般市民です!」
「その一般市民にしては結構良いマンションに住んでるんじゃないの? しかも確か以前鐘崎君の話に出てきた『正臣』だっけ? その人と同棲でもしているのかしら? これは格好のゴシップね」
「妙子さぁん、あんまりいじめないでください」
 絢子が涙目になってそう言うと、妙子はははっと笑った。
「ごめんね絢子さん、絢子さんが可愛いからついいじめたくなっちゃってね」
 妙子はお茶をずずっとすすった。
「でも、気をつけたほうがいいわよ。子供だからと侮っていると、とんでもないところで足元を掬われることになるから。あの子達、パパラッチ紛いのことも平気でやり兼ねないからねえ」
 あの子達というのは親衛隊の子達のことであろう。
「これから帰るときは私と一緒に帰りましょう。生徒の噂除けにもなるだろうから」
「ありがとうございます妙子さん! 私、妙子さんがいなかったら今頃途方に暮れていたところです」
 絢子がうるうると目を輝かせながら言うと、妙子はホホホと笑った。
「そういうことはこの妙子さんに任せておきなさい! 大船に乗ったつもりでいるといいわ」
 そうして二人してくすりと笑うと、絢子と妙子はまた作業に戻ったのであった。




 家に帰りドアを開けると、玄関に男物の靴が四足並んでいた。

 ひとつは正臣のものであるとして、後の三足は……?

 絢子がリビングに行くと、そこには四性の鬼が揃っていた。


「絢子おかえり! お仕事お疲れ様!」


 悠真が席を立って小走りに近づき、絢子をぎゅっと抱きしめた。

「ただいま悠真君。今日はどうしたの?」
「うん、あのね、絢子の身を守る相談を皆としていたんだよ」

 そこには穏やかな表情をした風祭颯太、怜悧な雰囲気を漂わせた瑞城直人、そして野生的な魅力をまとった蔭原正臣がいた。

「絢子ちゃん、今日はね、絢子ちゃんにある『許可』をもらおうと思って皆がやってきたんだ」

 正臣は絢子をソファに座らせると話し始めた。

「鬼と人の間にはね、様々な制約があるんだ。そのひとつが『許可』。『許可』を受けた鬼はその人に対して自分の力を分け与えたり、共有したりすることができるというものなんだ。俺は今日絢子ちゃんから口付けの『許可』をもらったよね。あれは力の譲渡には欠かせないものなんだ。あとは血の交換でも力の譲渡はできる。そちらのほうがダイレクトに力の譲渡ができるけれど、口付けのほうが簡単に力を吹き込めるんだ」
「そうなんですか」
「そこでね、絢子ちゃんに護身術代わりに俺達の力を譲渡しておこうと思ったんだ」

「えっ?」

 驚く絢子に直人が声をかけた。
「絢子さん、私達の力を受ければ、万が一ひとりになったときでも逃げ切れる確率が高くなる。学園内には悠真がいるが、それだけでは足りない。私達の手の行き届かない場合もある。そんなときにあなたが自身を守る力を持っていたら幾分かは活路が開けるだろう」
 直人が真摯な瞳で言う。
 今度は颯太が申し訳無さそうに絢子を見つめた。
「絢子ちゃん、嫌かもしれないけれど、これも絢子ちゃんの身を守るためだと思ってちょっとだけ我慢してくれないかな?」
 その瞳は真実絢子のことを心配していた。

「う……」

「絢子、僕らとキスするの、嫌?」
 悠真がしゅんとした表情で聞いてくる。

「……嫌じゃないです」

 絢子は少しだけ顔を赤らめながら下を向いた。
「いいね絢子?」
 絢子はこくりと頷いた。

「じゃあ、最初は僕ね!」

 悠真がきらきらと瞳を輝かせながら絢子に抱きついた。
「絢子、こう言って。『力の譲渡と口付けを許可する』って。あ、この『許可』はね、お互い合意の上じゃないと成立しないんだ。僕達はもう承諾しているから、あとは絢子の許可を待つだけなんだ」


「……わかったわ。『力の譲渡と口付けを許可します』」


 そう言った瞬間、悠真と絢子の間でぱちんと光がはじけた。

「ありがと絢子!」

 悠真がにいっと笑うと猫のようにすっと伸び上がり、綾子の唇を食み始めた。
 ちゅちゅと、悠真が絢子の唇を吸う音がする。
 悠真は絢子の肩を両手で押さえつけ、逃げられないようにして執拗に唇を責めた。

「あ、あっ」

 絢子が口をあけると、そこにするりと悠真の舌が入る。
 その瞬間、絢子の体の中になにか得体の知れないものが流れ込んできた。
 思わず口を閉じようとするが、悠真に思いのほか強い力で顎を掴まれ、それは叶わなかった。

 何かが流れ込む感覚は程なくして収まった。
 それと同時に悠真が絢子の口から自分の舌を抜き取った。

「絢子、良かった?」

「ああっ……」

 絢子ははっと息をついた。

 悠真の口付けがまさかこんなに上手いとは思わなかったのだ。

 息つく暇もなく、絢子の前に今度は直人が跪いた。
 絢子の両手を柔らかく握り、普段の直人からは考えられないほどの艶めいた視線を送ってくる。

「絢子さん、私に『許可』を」

 絢子は熱に浮かされたかのようにこくりと頷いた。

「はい、『力の譲渡と口付けを許可します』」

 二人の間にぱちんと光がはじけ、銀のメタルフレームの奥の瞳が妖しく光った。
 直人はすっと近づくと絢子の唇をねっとりと舐り始めた。

「あん、あっ」

 堪らず声を出す絢子である。
 こんな大人のキスは夢の中以外では始めてだった。
 くちゅりと音がする。
 直人はなかなか舌を入れてこない。
 変わりに絢子の顎や下唇をゆっくりと食み、責めた。

「っ……! はっ」

 絢子の息が上がってきた。
 彼女はいつの間にか直人のスーツをきつく掴んでいた。

 そしてついに絢子の瞳から感極まったからか涙が溢れた。
 それを見た直人はくすりと笑うと、絢子のぼんやりと開いた桃色の艶やかな唇の中に舌をねじ込んだ。

 すぐに直人の力が流れ込んでくる。
 直人は絢子の口腔内を舌で蹂躙した。
 翻弄された絢子は貧血を起こしたかのように意識が遠のいていった。

 やがて力の流れが止まると、直人は絢子の口からゆっくりと舌を引き抜いた。

 仕上げに絢子の唇を丁寧に舐める。

「はあっ、はっ」

 荒い息をつく絢子を、直人は愛おしそうに見つめた。

「やはりじっくりと愛でるに値する花だな、あなたは」

 その絢子を、ソファの背後からそっと颯太が抱きしめた。
「ごめんね絢子ちゃん、二人が暴走して。僕は優しくするからね?」

「あ、はい……『力の譲渡と口付けを許可します』」

 颯太との間にもぱちんと光がはじけた。

 颯太は絢子を自分の腕の中に抱きこんだ。
 とくんとくんと颯太の鼓動を感じる。
「あ、颯太さん……」
「いいかな?」
「はい」

 絢子から承諾の返事をもらうと、颯太は絢子の顎をそっと押さえて、優しい口付けをした。
 それはどこまでも労わりの感じられるものであった。
 絢子が颯太を受け入れ、口をあけると、颯太の舌が入ってきた。
 すぐに力が流れ込んでくる。
 颯太の舌は絢子の口腔内を優しく撫でた。
 それは優しいはずなのに、どこか淫靡な口付けであった。

 やがて力の流れが止まり、絢子から離れると、颯太は見るものを和ませるような笑みを浮かべた。

「よく頑張ったね、絢子ちゃん」

 それを合図としたのか、悠真、直人、颯太の三人は席を立った。

「これで僕らの用事は済んだから退出するね。あとは正臣から力をもらえばおしまいだよ」
「絢子さん、あなたに夢で会えることを楽しみに待っている」
「とっても可愛かったよ絢子!」

 そうして三人は部屋を辞したのであった。



[27301] 渡り ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:44e433c7
Date: 2011/04/21 00:30
 三人が退出したあと、正臣が荒い息をつく絢子の元にやってきた。
「絢子ちゃん、平気?」
「あっ、はっ……」
 絢子は官能に潤んだ瞳を正臣に向けた。
 正臣はその顔を見るとにやりと笑った。

「現実の絢子ちゃんのそんな顔、初めて見た」

 正臣は絢子の前に膝をつくと、絢子をゆっくりと抱きしめた。
 力の入らなくなった絢子だが、それでも、正臣のシャツをきゅっと握った。
 しばらく正臣と絢子はそのままの姿勢でいた。
 絢子を抱きこみながら、正臣がぼそりと呟く。

「ずっと、絢子とこうしていたい」

 やがて絢子の息が落ち着いてくると、正臣は絢子に声をかけた。

「絢子ちゃん、俺に『許可』を」
「はい……『力の譲渡と口付けを許可します』」

 二人の間で光がぱちんとはじけた。

「絢子ちゃん、口を開けて?」
「あ、はい……」

 絢子が桃色の唇を開く。
 口の隙間からピンク色の舌と真珠のような歯が見える様は、男に欲情を喚起させるようなものだった。
 正臣はゆっくりと絢子に口付けをした。
 最初は鳥が啄ばむように、ちゅっと音を立てて。
 次第にそれは深いものへと変わってきた。

「んっ、ん」

 絢子が息をつく。
 正臣はそのタイミングでぬるりと舌を入れた。
 途端に正臣の力が流れ込んできた。
 正臣は舌を絡ませ、絢子の舌を自分の口の中に引き込もうとする。
 力の抜けていた絢子は、おずおずと自分から舌を動かし始めた。

 力の譲渡が終わっても、二人はしばらく口付けを続けていた。
 くちゅりと二人の間で音がする。
 やがて、どちらの唾液かわからないものが顎をつつっと伝う頃になって、ようやく二人は離れた。

「これで終わったよ」

 正臣が欲情にかすれた声でそう告げた。
 彼は絢子の顎を伝う銀の筋を舐め取り、頬に口付けを落とす。
 絢子はくたっとなって、正臣の胸板にそっと頭を預けた。
「はあ……」
 絢子は正臣の腕の中を心地よく感じていた。
 彼の全部が、自分のことを愛しいと言っている。
 この腕の中が一番安全なのだと、そう思えるような彼の抱擁だったのだ。






 ――今日の夢はいつもと違った。

 絢子はちゃんと服を着込んでおり、白くて何もない空間に佇んでいたのだ。

「正臣?」

 絢子は正臣を呼んだ。

「ここにいるよ」

 その声と共に、正臣が陽炎のように正面から現れた。

「ここはね絢子ちゃん、夢の中の鍛錬場だよ。絢子ちゃんが受け取った四性の鬼の力をこの場で試すんだ。いくら力を持っていても実戦で使えなくちゃ意味がないからね」
 それを聞いた絢子は話の内容を飲み込むとちょっとだけもじもじと恥らった。
「そうなんだ、じゃあ、今日はその、……しないの?」
 正臣はちょっと目を丸くすると意地悪そうに微笑んだ。
「ふうん? したいの? 光栄だなあ、絢子ちゃんが自分から俺を求めてくれるなんて」
「そうじゃなくって! 敵が侵入するという話は?」
「ああそれ。ここで絢子ちゃんが集中して練習すれば敵も付け入る隙がなくなるだろう」
 正臣は何事もなかったかのように言った。
「じゃあ、今までもそうしてくれれば!」
「以前の絢子ちゃんは敵の思念をはじく術をまだ持っていなかったんじゃない?」
「そうでした……」
 がっくりと頭を垂れる絢子である。
「その代わり、絢子ちゃんの集中が途切れたら容赦なく抱くからね」
「ひっ!」
「さあ、始めるよ」
 その言葉を合図として、模擬訓練が開始された。


 正臣は何もない空間からナイフと、紙と、水の入ったコップを取り出した。
「絢子ちゃん、こういうのはね、何事もイメージなんだ。頭の中で上手くイメージすることができたら大抵の術は難なくかけられる。あとはそのイメージをいかに持続することができるかにかかっているんだ」
「はい、やってみます」
 術のイメージならば、藤原匠の屋敷で見た四性の鬼の力がヒントになった。
「今日はこれを使ってあのときの状況を再現してみて。どれからでもいいよ」
 そう言われた絢子は、まず水の入ったコップを手に取った。
 コップの上に手をかざし、水が動くイメージ、蜘蛛の巣を張るイメージをとってみる。
 すると水がごぼごぼと沸き立ち、空中に浮かぶと、五角形と五芒星の面となって現れた。
「最初でこれだけできたら上出来だよ。さあ次だ」
 絢子は、今度は紙を手に取った。
 頭の中でイメージする。
 すると、紙は大きな兎の形に切り刻まれた。
 切った残りの紙は紙吹雪となって兎の周りをくるくると回った。
「絢子ちゃんは筋が良いんだね」
「ありがとうございます」
 次はナイフだった。
 絢子はそれを手に取ると、ごくりと唾を飲み込んだ。
「大丈夫だよ絢子ちゃん、あんたの体にはもう四性の鬼の力が宿っている。ちょっとやそっとじゃ傷つけられやしないさ」
 正臣の言葉に励まされ、絢子はナイフを持った手をもう片方の手に近づけた。
 ゆっくりと力を入れてゆく。
 ナイフを突き立てられたほうの手はびくともしなかった。
「これで三人の力の使い方がわかったね。あとは俺の力だ」
 正臣はそう言うと絢子に近づきその手を取った。
「次は瞬間移動と『渡り』を両方実践してもらおうか」
「はい」
 正臣は握った絢子の手を親指の腹で撫でるとにいっと笑った。

「それじゃあ絢子ちゃん、今日会った三人のうち、誰の夢に行きたい?」

「えっ?」
「選ぶのは絢子ちゃんだよ。三人とも、絢子ちゃんの来訪を心待ちにしている」
 絢子は逡巡した。
 誰を選ぼうか……。
 ふと去り際の言葉を思い出す。
「……じゃあ、直人さんの夢の中に行きます」
「決まったね。そうしたら、直人のことを強くイメージしてみて」
「はい」
 絢子は直人のことを脳裏に描いた。
 怜悧な表情、オールバックの髪、銀のメタルフレームの奥の鋭い瞳、ピシッと着こなされた高そうなスーツ。
 そして時折見せる艶やかな表情。
 絢子は少し顔を赤くした。今日の口付けが思い出されたのだ。
 その瞬間、体が引っ張られるような感覚がしたと思ったら、絢子は直人の夢の中に渡っていたのである。


 瑞城直人は絢子がイメージした通りの姿で佇んでいた。
「絢子さん、嬉しいな、私に一番初めに会いに来てくれるとは」
 そう言うと直人は絢子の手を取った。
 直人は跪き、その手の甲に口付けを落とし、そのまま自分の印を手の甲に刻んだ。
「あっ、直人さん」
 夢の中の直人は随分と積極的である。
 直人は上目遣いに絢子を見た。
 それは獲物を狙う大型肉食獣のようであった。

「絢子さん、これからも私の夢に来てくれると嬉しい。絢子さんが来るのをずっと待っている」

 絢子の背後から正臣が声をかけた。
「絢子ちゃん、上出来だよ。『渡り』も瞬間移動も両方成功したね。あとは現実でもそのイメージを忘れずにいれば大丈夫だよ」
 そう言うと正臣は絢子を直人からすっと引き離した。
「はい、直人との逢瀬はこれで終わり。あとは俺の時間ね」
 それを見た直人が憮然とした表情で言う。
「正臣、絢子さんを独り占めしているとは思わないのか? なぜ私にもその花を愛でさせてくれない?」
「そんなの決まってるだろ。絢子は俺のものだからだ」
「なっ! 何ですかその発言は! 私は誰のものでもありません!」
 絢子が大声で訂正する。
「絢子さん本人がそう言っているんだ。ということは、絢子さんはまだ私達の誰をも選んでいないということだな」
 絢子の言葉を聞いた直人がにいっと笑う。

「正臣、私が絢子さんを篭絡しても、悪く思うなよ?」

 銀のメタルフレームの眼鏡を中指でくいっとあげた直人は、正臣に宣戦布告した。
「はっ、それは俺がさせねえよ。お前の腕の中じゃ、絢子ちゃんは早晩望まずとも淫婦になっちまうからな。それは絢子ちゃん自身が望んでいないことだ。それに俺はお前を求めて自分から腰を振る絢子ちゃんなんて見たくないね」
「私はお前に無理矢理抱かれている絢子さんなど想像したくもないがな。それに私にとっての絢子さんはそういう対象ではない。じっくり愛でて、私以外のものを目に入れさせないようにするだけのことだ。絢子さん自身を壊そうなどとは露ほども思っていない」
「そっちのほうがもっとやばいね。絢子ちゃんがお前に囚われたら、それこそ目も当てられないほどのめり込んじまうだろうからな」
「お互い、どろどろに溶けるような快楽を求めて何が悪いというのだ?」
 直人はさも不思議そうに聞いた。
「そう仕込むお前が恐ろしいね」
 正臣はハンと鼻で笑った。
「私も鬼だからな。愛するものを骨までしゃぶり尽くしたいのは本性だ。それより、お前は随分と甘いじゃないか。いつものお前ならばとっくに抱き壊しているはずなのでは?」
 それを聞いた正臣は絢子を自分の腕の中に匿った。
「絢子ちゃんは特別なの。俺にとって絢子ちゃんはかけがえのない存在で、ただひとりの人なんだ。そんな人を壊そうだなんて思えるはずがない。お前と違って俺は絢子ちゃんの幸せを第一に考えてるの」
 絢子は正臣の腕の中から顔をあげて彼を見た。
「正臣……」
「絢子ちゃん、こいつは危険だ。でも絢子ちゃんを害するようなことはない。ただ、鬼の本性が一番強く出ているだけだ」
「鬼は、皆今の直人さんのようなんですか?」
「大体そんなもんだな。鬼に囚われたら、死んじまうほどの快楽に溺れて、その鬼以外は見られないほど虜になっちまう。絢子ちゃんはそれを望むかい?」
 絢子は首をふるふると振った。
「な? 直人。絢子ちゃんはそのままが良いんだとよ。だから鬼の性を自重しなよ」
「私に指図する気か?」
「絢子ちゃんのことが欲しいならそうすべきだね。絢子ちゃんを害したら、お前でも容赦はしない」
「私とて、愛するものをお前にむざむざ手折らせるわけにはいかない」
「お前には加減して抱けるのか? いつも対象を貪り尽くすお前が」
「いつも対象を善がり壊すお前にできて私にできないはずはない」
 正臣はふむ、と考えた。
「まあ、そうは言っても、お前の水紐で縛られる絢子ちゃんを一度見てみたかった、ってのも事実だからなあ」
「え?」
 正臣の腕の中で絢子はたじろいだ。
「私の手にかかれば、絢子さんの体を芸術品として仕上げることができるが、見るか?」
 直人も乗り気のようである。
「あ、私、そんなの絶対に嫌です!」
 少し怯えながら絢子は正臣の腕の中から逃れようとした。
 だが、正臣は腕を緩めようとはしない。
「絢子ちゃん、逃げたいなら俺の力を使いなよ。そのための力だ」
 絢子ははっとした。
 もしかしてこれは自分がこの状況から逃げられるか否かの試験のようなものなのではないか。
 絢子は自分の部屋を必死でイメージした。
 その瞬間、絢子の体が引っ張られるような感覚がして、絢子は覚醒した。

「ここは……?」

 見回すと自分の部屋である。

「まさか、まだ夢ってことはないわよね」
 時計を見ると、いつも起きる時間だった。
 ほっと息をつくと、絢子は出勤準備を始めたのだった。


 夢の中では、正臣と直人が話していた。

「絢子ちゃん、今日一日で随分と力を使えるようになったでしょ? これも絢子ちゃんの筋がいいのと、俺のおかげかな?」
「今のはどういうことだ? 絢子さんをわざと逃がしただろう」
「お、直人、本気で絢子ちゃんを縛るつもりだったのか? まあ、見たくないわけじゃなかったが、そろそろ目覚めの時間だったんでな」
「やはりお前は絢子さんには甘いのだな」
「おお、そりゃもう甘々よ。どっろどろに溶けるぐらい甘いですよ。何たって、絢子は俺のただひとりの人だから」
「紀朝雄の生まれ変わりか。そこまでお前が執着するとはな。やはりお前の心はあの和歌で改心したままなのか」
「どうだかね。俺は今、絢子ちゃんしか見ていないから」
 そう言って正臣は腕を組んだ。
「まあ、お前が護衛というのは適任だったな。匠の采配は確かだ」
 直人が正臣を見て頷いた。
「匠は絢子ちゃんをどうするんだろうねえ」
「悪いようにはしないだろう。ただ、葛城秀斎が動き出したということが気になる」
「ああ、何にせよこれからだな」
 そう言って、二人の鬼はそれぞれの思惑を胸に秘め、覚醒したのであった。



[27301] 葛城秀斎とは ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:44e433c7
Date: 2011/05/05 20:19
 ある閨でのこと。

 睦み合い、果てた男女の姿がそこにはあった。
「はあっ、あん……秀斎様から、お情けをいただけて、冴は幸せですわ」
 荒い息の下、女、望月冴(もちづきさえ)はそう言うと嫣然と微笑んだ。
 その笑みは並大抵の男が見たら、どんなに枯れていてももう一度彼女に挑みかかろうという思いを起こさせるほど淫猥な笑みであった。
 だがしかし、その笑みを向けられた男、葛城秀斎(かつらぎしゅうさい)は眉ひとつ動かさなかった。

 ――葛城秀斎。

 彼の少し長めの艶やかな黒髪は、絹のようにさらさらと頬を撫でている。ほの暗い部屋の中でぼうっと浮かび上がる白磁のような肌は、どこまでも滑らかで思わず触れたくなるほどだ。赤く色づく唇は見続けているとそのまま吸い込まれるかのようである。鼻筋は通り、その瞳は覗き込めば深淵を映しているかのようである。
 能の役者のような幽玄さを彼は体現していた。

「冴、首尾はどうだ」

 呼ばれた冴は先ほどまで男に抱かれていたとは思えないほど俊敏な動きで閨から降り、床に片膝をついた。冴の艶やかな長い黒髪がさらりと床に零れる。
「はっ、紀朝雄の生まれ変わりと隠岐伊織が接触いたしました。隠岐伊織は程なくして紀朝雄の生まれ変わりを秀斎様の元へ連れてくると思われます」
「紀朝雄の生まれ変わりは、名は何と言ったかな?」
「はっ、生まれ変わりの女は松永絢子と申すそうでございます」
 葛城秀斎は床の上に無造作に置かれていた藍色の長襦袢を直接羽織った。

「冴、早く絢子に会いたいものだね」
「御意……」
「絢子は私の腕の中でどんな風に鳴くのだろうね。今から楽しみで仕方がないよ」
「きっと、それは良い声で鳴きますわ」
 冴はそう言うと下を向き、そっと唇を噛み締めた。
 それに気付いているのかいないのか、秀斎は冴に近づいた。
 秀斎は冴の顎を長く美しい人差し指でついと持ち上げ、顔をこちらに向かせた。
「私の可愛い冴。伊織の手助けをするのだよ」
「御意、秀斎様」
 秀斎は冴を抱きしめながら、その耳元で甘く呟いた。
「さあ冴、仕事だよ? 伊織の助けとなり、絢子をここまで連れておいで」
「御意、秀斎様」
 夢見るような瞳で、冴はとろけるような声を出したのであった。




 冴が部屋を去ったあと、しんとなった部屋にひとり秀斎は佇んでいた。
 秀斎は虚空に向かって言葉を発した。

「治郎」

「はっ、ここに」

 秀斎の声に現れたのは黒いスーツを着込んだ壮年の男性だった。

「秀斎様、お戯れが過ぎますぞ」
 治郎と呼ばれた男は秀斎に苦言を呈した。
「あれは使える女だ。私の朝雄を無事にここまで運んでくるだろう」
 秀斎はそう言うと我関せずといった風情で窓辺に寄った。

 窓からは赤、緑、黄の紅葉がまるで額縁に切り取られたかのように浮かんでいた。
 はらはらと葉が落ちる様は、まるで天の国のようであった。
 ここが都心の一角にあるとは誰も思わないだろう。

「私の朝雄、早くおいで。骨が溶けるまで、私が可愛がってあげよう」

 葛城秀斎は窓辺の景色に目を細めると、そう呟いたのであった。






 ――絢子が図書室で本の整理をしていると、妙子が声をかけてきた。
「絢子さん、ちょっとこれ見てみない?」
 妙子が手にしているのはB4版の大きな雑誌だった。
「何ですか? これ」
 妙子に手渡された雑誌はズシリと重かった。
「この雑誌ね、グラビア誌なんだけれど、今月号の特集で鐘崎悠真がぶちぬき八ページで載っているのよ」
「えっ! 悠真君がですか?!」
「そうそう。彼が写真界でどんな人物か、これを見ると如実にわかるわよ」
 絢子は何気なくぱらぱらと雑誌をめくった。

 すると、雑誌の真ん中あたりにまるで天使と見まごうような美少年が半裸で載っていたのである。

「これ……、悠真君?」

 悠真は仰向けに横たわり、腕を自然に顔の横に置き、下半身に薄物の布を巻きつけただけの姿で何かを誘うような表情をして写真に写っていた。
 ふわふわの金髪は差し込む光に透けてきらきらと輝いており、灰色の瞳はうるうると潤んでいる。ぽてっとしたピンク色の唇はそれだけで甘い表情を引き立たせている。

「う、これはなかなか際どい写真ですね」
 そう言いながらも絢子はページをめくる。
 どのページにも、子供と大人の境にいる危うい美を持った中性的な少年の姿が写し出されていた。
「このバックショットなんか、もうちょっとで、お、お尻が見えちゃうじゃないですか」
 少しばかり赤面しながら、しかし絢子はページをめくり続けた。
 そうせずにはいられないほどそれらの写真に惹かれており、また、じっと見続けるのがどこか恥ずかしかったからである。
「この写真はね、マルチェロ・ラッティオっていうイタリアの写真家が撮ったのよ。ほら、この人」
 悠真の特集の最後のページに、「フォトグラファー、マルチェロ・ラッティオとの対談」と題された部分があった。
 写真に写っているマルチェロ・ラッティオは丸眼鏡に癖のある黒髪の青年で、ニヒルな表情はとてもこの写真を撮った人物とは思えなかった。
「彼の永遠のテーマとも呼べる『中性的な美への挑戦』に、この鐘崎悠真という少年は見事に合致したのね。ほらここ、ラッティオが言っているんだけれど、『彼に出会えたのはまさに僥倖。僕のテーマを希求するに値する逸材だ』ってね。このインタビューアー、もうちょっと突っ込んで聞いてくれてもよかったのだけれど、まあ、このレベルのグラビア誌じゃあ上出来なほうね」
 妙子の解説に絢子はふむふむと頷いた。
「悠真君が普段見せる表情とは全然違うから、びっくりしちゃいました」
「ほう、絢子さんが普段見ている鐘崎君の表情ってどんなものなのかしら?」
 妙子が黒縁眼鏡をきらりと光らせながら聞いてきた。
「私が見ている悠真君は、いつもきらきらしていて、無邪気で天真爛漫で元気な少年です」
 絢子の話を聞いた妙子はちょっとだけ目を丸くした。
「へえ、きらきらしているっていうのはわかるけれど、鐘崎君は、普段は十四歳ながら結構落ち着いているって話よ。きっと絢子さんの前だから天真爛漫な子供になるのかしらね」
「そうなんですか。私にはそちらのほうが驚きです」
 そんな会話をしていたところにチャイムが鳴り、話は一度中断された。
「鐘崎悠真とマルチェロ・ラッティオ。これからの写真界を引っ張っていく人材ね。鐘崎君もいずれは海外で活動するんじゃないかって話よ」
「すごいですね。この学園からそんな有名人が出るなんて」
 一旦会話が中断したあとも、ちょこちょこと話を続けながら、準備室へと戻った二人であった。




 今日の昼食。
 日替わりA定食のメインは豚のしょうが焼きだった。

 それを妙子と二人でトレーに乗せて席につくと、どこからともなくわらわらと女生徒達が二人の周りに集まってきたのである。
 その数総勢十数人。
 彼らは皆、殺気のような、鬼気迫る表情で絢子を見据えている。
「なあにあなた達? 私達これから食事をするのだけれど」
 妙子が周囲を見回すと、少しだけ険のある表情で言った。

「妙子女史、私達、ちょっと絢子さんにお話があって来たんです」

 それら女生徒達は真剣な表情で絢子を見つめている。
 ついに来たかと絢子は思った。
 今まで絢子を遠巻きにしていた生徒達であるが、好奇心旺盛な彼らは、いつか必ず絢子に接触を図ってくるだろうと思ったのだ。
 さしずめ、用件は悠真か伊織絡みだろうと絢子は踏んだ。
 きっと「私達のアイドルを取らないで!」などと盛大に訴えてくるに違いない。
 幸い、妙子と一緒のときで良かった、と絢子はほっとため息をついた。

「私に、どのような用件なのかしら?」

 努めて冷静に聞く。
 生徒達はごくりと唾を飲み込んだようだった。

「絢子さん」
「はい」
「私達に」
「はい」
「絢子さんを」
「はい」
「……」

 沈黙が場を支配した次の瞬間。




「「「お姉さまと呼ばせてください!!」」」




「「は?」」


 ぽかんとする絢子と妙子である。


 それからの女生徒達は機関銃のごとく喋った。
「だって絢子さんはやんごとなき方で、悠真君の幼馴染で、花嫁修業にこの学園にいらして、いいえ、そんなことはどうだっていいわ! 私達、絢子お姉さまから学園のアイドルを落とす方法を伝授していただこうと思って来ました!!」
「絢子お姉さまについて学べばどんな男性も絶対になびくって話を友達の友達が言っていたって誰かから聞いたから来ました!」
「絢子お姉さまはこの学園の女生徒達に男を落とす手練手管を教えるという崇高な使命を持って配属されたのだって通りすがりの誰かわからない人から聞きました!」
「絢子お姉さまの妹になれば、人生ウハウハだって誰かが言っていました!」
 胸の前で両手をぐっと握り、まさに爛々といった目線で絢子を凝視する十数人の女生徒達。


「絢子お姉さま!! 私達を、お姉さまの妹にしてください!!」


「えええええーっ!?」

 まさか、いきなり十数人の妹(候補)ができるとは思ってもいなかった絢子であった。


「何だか楽しそうだね、絢子!」

 はっと振り向くと、そこにはにこにことした顔の悠真がいた。
 悠真はすっと近づくと、ざわざわと興奮している女生徒達をよそに絢子にそっと耳打ちした。


「ふふ、僕がね、面白い噂流しちゃった♪」


「ゆ……!」
 何かを言いかけた絢子の口を悠真が柔らかい手でさっと塞いだ。
「これね、僕と絢子の秘密だよ♪」

 そういうと悠真は絢子の頬にちゅっとキスをした。
 悠真のキスを間近で見た女生徒達は途端に「きゃあ!」と黄色い悲鳴をあげる。
「やっぱりお姉さまは何かを持ってるわ!!」
「お姉さま! 是非私達にもその手練手管を教えてください!」
「ええ、そんなこと言われても……」
「皆、どうしたの? そんなに楽しそうにお話して」
 突然悠真に声をかけられた女生徒達は目をきらきらと輝かせた。
「きゃあ! 悠真君から声をかけられちゃった!」
「悠真君、私達これから絢子さんのことを絢子お姉さまと呼ぶことにしたの!」
「へえ、それは楽しそうだね。僕も混ぜてよ」
「きゃああ! 悠真君が話しかけてくれたあ!!」
「今まで遠巻きでしか見られなかった存在がこんなに近くに……私もう死んでもいい」
「駄目よ! 絢子お姉さまに技を伝授していただくまでは死んじゃ駄目よ!」
「そうね、早まるところだったわ!」


 ――こうして悠真のちょっとした策略により、栗栖学園での絢子の呼び名が「絢子さん」から「絢子お姉さま」へと変わったのであった。



[27301] 隠岐伊織
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:44e433c7
Date: 2011/04/22 01:41
 食堂での一幕はあっという間に学園中を駆け巡った。
 特に悠真と親しく話した女生徒達が得意げにそれらのことを吹聴して回ったからだ。
 それからというもの、絢子は今まで絢子を遠巻きに見ていた生徒達からも「ごきげんよう、絢子お姉さま」などと気軽に声をかけられるようになっていったのである。

 昼食時では、絢子の傍に十数人の妹(候補)達が集まり、お喋りに花を咲かせている。
 元々質の悪くない生徒達である。この「お姉さまと妹ごっこ」は、彼女達のお気に召したようで、絢子の周りにはどことなくハイソな雰囲気を漂わせる「お嬢様」達が続々と集まってきたのだ。果ては、その十数人の「お嬢様」が率先して絢子の親衛隊にでもなりそうな勢いである。


「絢子お姉さま! 私達、絢子お姉さまを見習って慎み深い女性になることにしました」
「やはり日本の男性は絢子お姉さまのように清楚で可憐な女性を好まれるのですね」
「あはは……」
 何だか背中がむず痒くなるような変な気持ちである。
 清楚で可憐なんて、とっくの昔に母親のお腹の中に置いてきてしまったと思っていた絢子であるが、女生徒達の何かを期待するような視線にギブアップせざるを得ない状況であった。
「ここはいつから百合の花咲く園になったのかしら」
 妙子がさも面白そうにいう。
「た、妙子さん、人事だと思って楽しそうにしないでください」
 絢子は生徒達のパワーにたじたじである。
「ええい、こうなりゃヤケだ! 生徒達の期待に応えるべく、頑張ってお姉さまを演じることにするわ! 千の仮面を被るのよ絢子!」
 そんなノリで女生徒達と対峙する絢子であった。


 事務の仕事にも慣れ、生徒達からも一定の信頼を得た絢子は格段に仕事がやりやすくなった。
 とは言っても、一部の生徒達からの羨望の視線や嫉妬の視線は相変わらずあり、万事が万事上手くいっているというわけではなかった。
 それでも、学園内には、悠真や妙子、妹(候補)達がいてくれて、そんな絢子のことをフォローしてくれていたので、絢子の学園内での生活は何とか平穏に保たれていた。

「そう言えば、あれから隠岐伊織は接触して来ないわね」
 絢子はひとり呟いた。
 この前の食堂での出会いから、隠岐伊織は特に目立った動きを見せていない。
 食堂では相変わらず人だかりに埋もれてしまい、姿をうかがうことができないというのもある。
「葛城秀斎の元へ連れて行く」と言っていたが、こんなに人の多い場所で、しかもある意味常に注目されている絢子をどうやって連れ出せると言うのだろうか。
 そう考えた絢子は、隠岐伊織からの言葉を半ば忘れかけて生活していたのである。


「絢子さん、私ちょっとこの資料、理事長室まで届けてくるわね」
「はい」
 妙子が分厚い紙袋を数袋持って「よっこいせ」と掛け声をかけている。
「あの、私も一緒に行きましょうか? 妙子さんひとりじゃ重いでしょう?」
 重そうな紙袋を胸に抱え込んだ長身細身の妙子はおほほと笑った。
「女性扱いとお気遣いありがとうね。でもこれを運んだあと、ちょっと理事長に来年度のレクリエーションの予算についてお話したいことがあるから、結構時間かかるわよ? それに図書室にだれかいてくれたほうが安心だわ」
「わかりました。気をつけて行って来てくださいね」
「ああ、待ってる人がいるってありがたいわー」
 そういうと妙子は図書室を出て行った。

 絢子は図書の整理をしたり、図書分類法の勉強をしたりなどして妙子が帰ってくるのを待った。
 カウンターで本を読みながらぼんやりと佇む。
 と、かたりと音がした。
「お帰りなさい妙子さん」
 そう言って顔をあげた絢子の前に立っていたのは、妙子ではなかった。

 そこに立っていたのは、気だるげな瞳を持った隠岐伊織だったのだ。

 絢子はちょっとだけ息を呑んだ。
「っ……隠岐君、どうしたの? 授業は?」
 やっとそれだけの言葉を取り繕うことができた。
 隠岐伊織は百七十五センチの長身から、百六十センチの絢子を見下ろした。
 伊織の、漆黒の長めの前髪からのぞく気だるげな瞳は真っ直ぐに絢子を捕らえていた。
「隠岐君、今は授業中でしょう? どうやって抜け出てきたかは知らないけれど、早く戻りなさい」
 虚勢を張って絢子は言った。
 と、突然、伊織が口を開いた。
「あんた、四性の鬼の力の使い手になったのか」
 少しハスキーで色気のある声が絢子の頭の上から降ってくる。
「え?」
「前に、俺はあんたを葛城秀斎の元に連れて行くって言ったよな」
「ええ」
「それはあんたがただの人だったときの話だ。あんたはすでに普通の人間じゃなくなっている。それなら話は別だ。抵抗すれば力ずくでも連れて行くことになる」
 そう言うと伊織は無造作に絢子の手首を掴んだ。
「ちょっと! 何するの!」
 次の瞬間、カウンター越しに、伊織が絢子を抱きこんだ。
「きゃ!」
 小さな悲鳴をあげるが、その悲鳴は伊織の胸板に吸い込まれた。
「は、離して隠岐君!」
「逃げないのか?」
「隠岐君!」
「あんた、隠形の力が使えるんだろう?」
 そう言うと伊織は絢子を抱く腕の力を強めた。
「お、隠岐君! 離してったら!」
 絢子がそう言うと、彼女の頭頂部にふわりと羽のような感覚がやってきた。

「……!」

 伊織が絢子の頭の上に口付けを落としたのだ。
 一瞬で固まる絢子。

 その反応に伊織は少しだけ驚いたようだった。

「あんた、あれだけの鬼に囲まれていて、何でそんな初心な反応なんだ?」

「何を言って、いるの?」

「秀斎はあんたのことを、きっと鬼の手によって淫乱な女に変えられているだろうと言っていた。だがあんた、清いままなのか?」
「清いって?」

「処女なのか?」

「……!」
 絢子は伊織の腕の中で真っ赤になった。
 彼女の体温が上がったのを見て肯定と捉えたのか、伊織は腕の力を緩め、絢子を見下ろした。
 伊織の腕の中には真っ赤になって俯く絢子がいる。

「あんた、絢子と言ったな」
「そうですが」


「決めた。絢子、俺の女にならない?」


「え?」
 絢子は顔をあげて伊織を見た。
 隠岐伊織の瞳は、今は真摯に絢子を見据えていた。

「秀斎はあんたを道具として扱うつもりだ。藤原千方の生まれ変わりの力を削ぎ、鬼を四散させるためにあんたの過去を必要としている。しかもあんたに四性の鬼の力が宿っているとなればなおさら重宝がられるだろう」
「それは一体……そのことと、私があなたの女になると言うこととはどういうつながりがあるんですか?」
「俺は秀斎とは一線を引く者であるからだ。甲賀・隠岐家は古く戦国時代から葛城家に力を貸してきた一族だ。だが、葛城家の配下ではない。俺ならば、あんたを鬼の手からも秀斎の手からも助け出すことができる」
「助け出すって……私、今囚われているなんてこれっぽっちも思っていません」
「相手は鬼だぞ? その鬼に囲われて生きていくつもりなのか?」
 そう問いただす伊織は長い指で絢子の頬をすっと撫でた。
「あんた、鬼の本当の恐ろしさをわかっちゃいない。俺の元に来なよ。あんたを助けてやるから」
 そう言うと、伊織はふっと明後日の方向を見た。
「また来る」
 次の瞬間、伊織は煙のように掻き消えた。

「お待たせ絢子さん」
 その声にはっと振り向くとそこにはドアを開けながら入ってくる妙子がいた。
「どうしたの絢子さん? 何だか物騒な顔をしているわよ」
「あ、ぶ、物騒ですか」
 絢子は自分の両頬に手を当てた。
 頬には先ほど伊織に撫でられた感触がまだ残っていたのであった。


 今日の日替わりA定食のメインは鶏肉のソテーだった。

 妙子と一緒にご飯を食べていると、向こうからざわざわとした人だかりと、黄色い声が上がった。
「もうこの人だかりと声援はこの栗栖学園の名物ね」
 妙子が我関せずといった様子で鶏肉のソテーを頬張る。
「私はまだ慣れません。何だかコンサート会場にでも行ったみたいな感じがして」
 絢子がソテーをつまんでいると、絢子の背後に影ができた。

 周囲のざわっとした気配が大きくなる。
「?」
 絢子はきょとんとした。
 目の前の妙子の視線が何だかおかしかったからだ。


「ここ、いい?」


 妙子がソテーを口に運びかけたままぽかんとしている。
 絢子は恐る恐る振り返った。
 声をかけてきたのは、トレーを片手に持った隠岐伊織だったのだ。

「隠岐君、一匹狼のあなたがどういう風の吹き回しかしら?」
 気を取り直した妙子が伊織に尋ねる。
「別に。ただこの人と一緒に飯食いたいと思っただけだから」

 そう言うと、伊織はごく自然な動作で絢子の隣の席に座った。

 その伊織の一挙手一投足をうかがう周囲の視線が絢子に突き刺さる。
 伊織の登場で、妹(候補)達は絢子を遠巻きに眺めているだけである。
 ガチガチに固まった絢子と、少しばかり度肝を抜かれた妙子の前で、伊織はぱくぱくと食事を平らげていった。

 程なくしてトレーの中身が空になると、伊織は席を立った。

 と、何かを思いついたかのように足を止める。
 そのまま伊織は固まったままでいる絢子の頬にさっと口付けをした。
「!?」

「デザートごちそうさま」

 しれっと言うと、伊織はトレーを片手に持ち、席を離れたのであった。

 伊織の口付けを見た周囲の女生徒達がきゃああと悲鳴をあげる。
「伊織様―!!」
「なんてことを!!」
「あんな伊織様初めて見たわ!」
 その声に我に返った妙子の目の前では絢子がゆでたこになっていた。
「な、ななな!」
 頬に手を当てて赤面しながらあわあわとする絢子であった。
「絢子さん、喋れてないわよ」

「絢子! 大丈夫!?」

 と、悠真が絢子の元に走り寄ってきた。
「さっきの、見ちゃった」
 そう言うと、悠真は天使のような顔をぷうと膨らませた。
「隠岐先輩ったら、本当に油断ならないんだから!」
「そ、そうね」
 悠真は「ん?」と首をかしげた。
「あれ? 絢子から、隠岐先輩の強い気配がする。絢子、さっき以外で隠岐先輩に何かされた?」
「何かって……」
 先ほどの抱擁のことを思い出す。
「あ……」
「やっぱりね!」
 悠真は眉を吊り上げた。
「僕のテリトリーで絢子に悪さするやつは、例え隠岐先輩でも許さないんだから!」
 両手をぐっと握って、伊織が去った方向を見つめる悠真。
 しばらくうぬぬぬと何かの念を送っていたあと、悠真はふんとこちらに顔を向けた。
「絢子、どっちのほっぺた?」
「え?」
「キスされたのはどっちだったっけ?」
「あ、左ですけど……」
 悠真は絢子の顔に手を添えると、左の頬を猫のようにぺろりと舐めた。

「消毒!」

「ゆ、悠真君!?」
 驚く絢子に、悠真はそっと耳打ちした。
「本当はね、さらにこの場で絢子を食べちゃいたいんだけど、人がいっぱいいるから我慢するね」
「た、食べ……?」
 悠真は絢子の耳から顔を離すと、にいっと笑った。

「やだなあ。僕、子供じゃないって言ったでしょ?」

 声は小さかったが、悠真は天使のような笑みで、悪魔のようなことを言い放った。


「絢子の処女は、僕がもらうからね」


「はいいい!?」
 十五歳の悠真が戯れに言ったにしては、その瞳には熱が宿っていた。

「絢子、僕のお姫様、僕だけの大切な宝物」
 悠真は歌うように言った。
「やっと見つけたこの気持ち。僕には絢子が必要だって。もう逃がさないし離さないよ。気づかせてくれたのは隠岐先輩だから、一応感謝しなくっちゃ」
 うんうんとひとり頷くと、悠真は「それじゃあね」と言って絢子の元を去った。

「絢子さん、大丈夫?」
「え、ええ、まあ」
 大丈夫どころではなかった。これで、正臣、直人、悠真から直接「抱く」宣言をされたことになるのだ。
「もう私の心のよりどころは颯太さんしかいないのかしら……」
 颯太の柔らかそうな茶色い髪と柔和そうな瞳を思い出してひとりたそがれる絢子であった。



[27301] 忍の話 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:44e433c7
Date: 2011/04/22 01:43
「ただいまぁ」

 憔悴した絢子が503号室の扉を開ける。
「お帰り絢子ちゃん」
 キッチンから正臣の声がする。
 そこから香る良い匂いに誘われて、絢子は足を進めた。
「正臣、何作ってるんですか?」
 正臣はお玉を片手に鍋の前に陣取っていた。
 彼は絢子の姿を認めると少しだけ眉をひそめた。だが、何事もなかったかのように話し始めた。
「よくぞ聞いてくれました。今日はブイヤーベースを作ってみたんだ。味見はさっきしたけどばっちりだったね。今日は少し遠出してきたんだけど、その近くのお店で良い白ワインとトマト缶を見つけたからこのメニューになりました」
「お仕事で出かけたんですか?」
 絢子がそう尋ねると、正臣は絢子に穏やかな視線を向けた。
「ん、ちょっと野暮用でね。あ、でも俺の第一の仕事は絢子ちゃんに幸せになってもらうことだから。そこんところ忘れないように」
 正臣は少し身をかがめると絢子の額に口付けをした。
「支度をしておいで。ご飯にしよう」
「はい」
 絢子はちょっとだけくすぐったそうに身をかがめると身支度を整えにいった。


 白身魚のムニエルとブイヤーベース、白ワインにロールパンとサラダというのが本日のディナーだった。
 それを正臣と二人でゆっくりと平らげる。
 特に会話は必要なく、かといって無言でもない心地よい時間が二人の間には流れていた。
「正臣、ブイヤーベースとっても美味しいです」
「ありがと。褒めてもらえると作り甲斐があるよ」
 そうして食べ終わり、シャワーも浴びてソファーでくつろいでいた絢子の元に正臣がやってきた。
「ねえ絢子ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい、何ですか?」
 正臣は絢子の隣にすっと座った。

「絢子ちゃんさ、今日学校で、男に抱きつかれたでしょう?」

「え?」
 びっくりする絢子である。
「絢子ちゃんからね、微弱ながら知らない男の気配がするんだ。悠真の気配もするけれど、それは今重要じゃない。絢子ちゃん、もしかして今日狙われた?」
「あ、あの……」
 絢子は今日の出来事を思い出していた。
「その相手、だれかわかる?」
「あの、高等部の隠岐伊織っていう生徒で」
「隠岐伊織か。この前悠真が話していた男だな」
「その人、私が四性の鬼の力を持っているって見破りました」
 それを聞いた正臣は顎に手を当てて考えた。
「ふうん……。隠岐、隠岐ね。隠岐家という名は甲賀衆に連なる一族だ。もしそいつが隠の世で生きる者ならば、絢子ちゃんが持っている力を見破るのもそう難しくはないと思われる」
 正臣の推測は当たっていた。
「それにしても、その隠岐伊織はなぜ栗栖学園に入学したのだろう」
「どういうことですか?」
 絢子がきょとんとする。
 正臣はその理由を説明した。
「絢子ちゃんは栗栖学園の由来を知っている? 栗のつく地名や名前と言うのは、伊賀者に関係することが多いんだ。それは隠語で毬栗の毬と伊賀者の伊賀をかけているからなんだけれどね。対して隠岐というのは甲賀、今の滋賀県の地名にもあるんだが、隠岐伊織は間違いなくその甲賀・隠岐家に関係するものだ」
「へえ、栗栖学園にそんな由来があるなんて知りませんでした。あ、今日、隠岐君は自分のことを甲賀・隠岐家の人間だってはっきりと言っていました」
「やはりな」
 正臣は絢子を見て頷いた。
「そういえば藤原千方は伊賀と伊勢の境で隆盛を極めていたとのことですけれど、匠さんや正臣達の祖先は伊賀の忍者とは近しいのですか?」
 絢子の疑問に正臣はにこりと笑って答えた。
「四性の鬼は忍の原型だと言われているからね。伊賀やもしくは甲賀の忍者の祖先と言う可能性も少なくはないと思う。しかし解せないな。隠岐伊織は甲賀のスパイと言うわけでもなさそうなのに、なぜわざわざ栗栖学園に入学したのだろうか」
「今度会ったら聞いておきましょうか?」
 絢子がそう言うと、正臣は首を振った。
「いいや、絢子ちゃんはそいつとはできるだけ関わらないほうがいい。相手は曲がりなりにも甲賀・隠岐家の人間だ。しかも絢子ちゃんが四性の鬼の力の使い手だと見破ったからにはなかなかの手練だと推測する。今の絢子ちゃんは下忍程度ならば撃退できるけれど、さすがにそいつには、たとえ四性の鬼の力を使ったとしても勝てないんじゃないかな。なぜなら絢子ちゃんは実戦経験がほぼ皆無なのと、絢子ちゃんが今持っている力はそれぞれ俺達の十分の一程度しかないからね」
「でも、隠岐家って、そんなにすごい家なんですか」
「まあね。俺もこれからはより一層絢子ちゃんの身辺に気を配ることにするよ」
 そう言うと、正臣はつと腕を伸ばして絢子の頬を撫でた。

「ところでさ、ねえ、絢子ちゃん」
「はい」
「今俺が絢子ちゃんのことが欲しいって言ったらどうする?」

「え……」

 正臣は絢子の頬をその大きな手でそっと包むと、こう話した。
「絢子ちゃんが持つ力を高める方法でね、こういうのがあるんだ。鬼と交わり、鬼と血を交換すれば、さらなる力を得ることができるというものだ。絢子ちゃんは力が欲しくない? 何者にも蹂躙されない強い力が」
「ま、交わるって」
「俺に抱かれるってことだよ」
「そ、そんな」
 絢子は赤くなりうつむいた。
 その絢子を正臣は優しく抱きしめた。
 正臣の腕の中で、絢子は正臣の心臓の音が少しだけ早くなっているのを聞いた。
「まあ、今の話はそんなに急ぎじゃないから考えておいて。……それより、ねえわかる? こうしているだけで俺の心臓がどくどくいっているのが。俺はね、絢子ちゃんのことが欲しいよ。夢の中だけじゃなく、ちゃんと、現実であんたを抱きたい」
 正臣は絢子の頭上にふわりと口付けを落とした。
「愛しい俺のただひとりの人。このままだれも知らない場所で、二人で暮らそうか。隠形鬼である俺にならば、あんたを世間から隠して、二人だけで幸せな時間を築くことなど造作もないことだ」
 そう言いながら正臣は絢子の体をまさぐり始めた。
「ちょっと、正臣」
 絢子が体をよじって逃げ出そうとするが、正臣の手は止まらない。
 正臣は絢子の首筋に顔を埋め、そこに自分の印を刻んだ。
「ああっ」
 正臣の吐息と舌の動きに思わず体が反応してしまう。
 とさり、と、絢子の背がソファーについた。
 正臣は絢子の耳朶を食んでいる。
 そのまま正臣は絢子の耳元で、低く官能的な声で話した。
「絢子ちゃんから感じる、男の気配を俺に消させて。あいつはあんたのどこに触った? それらすべてを、俺で埋め尽くしてやる」
「あ、正臣っ」
 確信犯なのだろう、正臣は伊織が触れたと思われる場所を的確に探し当て、そこに口付けの雨を降らせた。
 服の上からなのに、正臣の重みと唇を感じて、絢子は涙目になった。
「嫌、正臣、もう止めて」
「止めないよ? 言ったでしょう? 鬼の本性は残虐非道だって」
 でも正臣は絢子にどこまでも優しく触れる。
 こんな、甘い牢獄なんて絢子は知らない。
「うっ」
 ついに絢子の目尻から涙が零れ落ちた。
 正臣は顔をあげると、その涙の跡をつつっと舌で舐め取った。
「絢子ちゃんの甘い味がする」
「あ、甘くなんか……涙はしょっぱいものです」
「鬼にとってはね、愛しい者の体液は皆甘く感じるんだよ」
 宥めるように言うと、正臣は、今度は絢子の唇を貪った。
「あん、はっ」
 息をついた絢子だが、正臣はその期を逃さず自分の舌をするりと差し込んだ。
「んん!」
 もがく絢子を体全体で拘束して、正臣は絢子を追い詰めてゆく。
 絢子はいつしか正臣の背中のシャツをぎゅっと握っていた。
 お互いにぴったりと密着して、口付けを交わす。
 と、正臣は顔を離して絢子を見た。
「その顔、そそるよ絢子ちゃん。それに俺に抱きついちゃって、可愛い」
 絢子ははっと腕を放した。
 正臣からそう言われて羞恥に染まった綾子は涙を流し始めた。
「うっ、ひっ」
 そのままずっとしゃくりあげる絢子を見た正臣は、動きを止めて起き上がり、そんな彼女をしばらく眺めていたあと、前髪をくしゃっとかき上げてふうと長い息を吐き出した。
 正臣は絢子を抱き起こし、自分の腕の中に抱き込んだ。
「ごめんね絢子ちゃん、あんまり絢子ちゃんが可愛いもんだから、つい手を出しちゃった」
 絢子は正臣の腕の中で力なくぐったりとしながらしゃくりあげていた。
 正臣は絢子のその背中を優しくさすった。
 それに安心したのか、絢子はいつの間にかくたっと力を抜いて、正臣の腕の中ですうすうと可愛らしい寝息を立て始めた。
「……無防備だねえ絢子ちゃんは。襲われかけた男の腕の中で安心して寝入っちゃうなんて。そこがまた可愛いところなんだけどね」
 正臣はやれやれといった風情でため息をつくと、絢子を抱きかかえて寝室へと運んだのであった。




 絢子は夢の中でぎゅっと目をつぶり、颯太をイメージした。
 茶色い、触れたらきっと手触りのよさそうな髪、柔和な瞳はいつだって絢子のことを気遣ってくれる。
 その瞬間、体が引っ張られるような感覚がして、絢子は颯太の夢の中へと飛んでいったのだ。


 目の前の颯太は、初めて会ったときの姿で佇んでいた。
 長い白衣が颯太によく似合っている。
 颯太は絢子の姿を見ると目を丸くした。
「絢子ちゃん、その格好……」
 絢子ははっと自分の姿を見下ろした。
 彼女は服を着ておらず、隠すものも何も持っていなかったのだ。
「きゃあ! ご、ごめんなさい! いきなりこんな格好で」
 しかし颯太は絢子にさっと近づくと、自分が着ていた白衣をふわりと絢子に着せかけた。
 そのまま絢子を抱きしめる。
「正臣が何か無体なことをしたんだね? それで僕のところへ来たんだね。怖かったろう? もう安心していいんだよ? 今夜は僕が絢子ちゃんを守るからね」
 颯太はそう言うと子供をあやすように絢子の背中をさすった。
 二人はいつの間にか座り心地のよい大きなソファーに座っていた。
 抱きしめた絢子の背をゆっくりと撫でながら、耳元で颯太は絢子にささやく。
「絢子ちゃんが僕を頼ってきてくれたのは本当に嬉しいよ。僕はずっと絢子ちゃんの味方でいるからね。これからもほかの三人の鬼に何か嫌なことをされそうになったら、いつでも僕のところへ飛んできておいで。僕が匿ってあげるから」
 その言葉に絢子ははっと顔をあげた。
「颯太さんは、その、したくないんですか?」
 絢子の言葉を聞いた颯太は見るものを和ませるような笑みでもって答えた。
「君にはまだ逃げ場が必要だ。僕が君を抱きたくないかといえば嘘になる。絢子ちゃんは僕にとってもとても魅力的に映るし、今だって隙あらば抱いてしまいたいと思っているよ。さっきの登場の仕方だって僕にとっては十分に目の毒だったしね。でも僕は鬼であると共に医者だから、絢子ちゃんに対してそれなりの忍耐力は持っているつもりだ。そうだ、君が目覚めるまで、一緒に僕の力の使い方の鍛錬をしようか」
 その言葉を聞いた絢子は目を輝かせた。
「はい! ありがとうございます!」
 それから颯太と絢子は絢子の目覚めのときが来るまで二人で風の力の鍛錬をしたのであった。



[27301] 風の鍛錬
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:44e433c7
Date: 2011/04/22 01:44
「ううーん、よく寝たぁ」
 絢子はベッドの上でうーんと伸びをした。
 目覚めはすっきりとしている。
 先ほどまで夢の中で集中して風の力を使っていたためか、頭の中がとってもクリアである。
 絢子は起きぬけではあるが、試しに現実でも風の力を使ってみることにした。

 近くに落ちていた雑誌を風の力で浮かせようとする。

「イメージ、イメージ……来い」

 絢子が念じると、雑誌はふわりと浮いて絢子の手元までやってきた。
 その雑誌は目の前まで来ると、すとんと手元の中に落ちた。

「やったあ!」

 絢子は雑誌を抱きこむと、ふっと顔を綻ばせたのであった。


 身支度をしてリビングへと足を運ぶ。
「おはよう絢子ちゃん」
 正臣がキッチンで料理をしていた。
「あ、おはよう正臣」
 絢子は少しだけ居心地の悪さを感じた。
 なぜなら、昨日は正臣の腕の中から颯太の元へと逃げてしまったからだ。
 なかなか顔をあげられずにいると、正臣がくすりと笑ってこちらへ来る気配がした。

「昨日は上手く逃げたじゃない」

 はっと顔をあげる絢子。
 正臣は絢子を面白そうな顔で見つめていた。
「そうやって絢子ちゃんが力の使い方を覚えるのも悪くないと思うよ」
 そう言うと正臣はにいっと笑った。
「だってさ、もし実戦で組み敷かれたときにびびって動けなくなってしまったんじゃ、力を譲渡した意味がないからね」
「正臣は、怒ってないの?」
 絢子が恐る恐る聞いた。
 正臣はそんな絢子を見ると、ひょいと片眉をあげた。
「絢子ちゃんはさあ、本っ当に自罰的だねえ。俺に襲われかけたってのに、その相手の気持ちばかりを心配するんだもんな。ねえ、俺がもし怒ってるって言ったら、絢子ちゃんはどうするつもりなの?」
「え……、あの、謝ろうかと」
 絢子がおずおずと言うと、正臣ははあとため息をついた。
「絢子ちゃん、その態度はね、悪い男を付け上がらせるだけだよ。こんなんでよくまあ今まで絢子ちゃんが清い体でいたなあと思うねえ。俺にはそれが不思議でならないよ。前の俺だったらそんな子見つけたら早晩取って食ってるだろうからね」
「え……」
 絢子の顔がさっと青ざめた。
「あ、絢子ちゃん今俺の過去のこと心配した?」
「し、してませ……」
「う・そ。顔に出てるよ。ま、過去は変えることはできないから、今更釈明はしないけれどね。でも俺、絢子ちゃんに出会ってからは今までの俺が嘘みたいに絢子ちゃんにのめり込んでるから心配しないで」
「だっ、誰も心配なんかしてません!」
 絢子が少しばかり怒って言うと、正臣はふわりと笑った。
「そう、それでいいんだ。絢子ちゃんはもっと怒っていいし、もっと自分を開放しなよ。それで俺にいろんな絢子ちゃんを見せてよ」
 正臣は絢子の頭をぽんぽんと二、三度軽く叩いた。
「ん、絢子ちゃん、今日も可愛いね。さあ、朝ご飯食べようか」
 そう言って正臣はキッチンへと戻っていったのだった。




 出勤した絢子は、準備室で事務の仕事をしていた。
 図書室内の本のポップを作ったり、図書室のレイアウトを考えたりするのも絢子や妙子の仕事である。
 絢子は今新刊本のポップ作りに精を出していた。
 エクセル、ワード、フォトショップ。
 使える機能は何でも使って、生徒達が見やすく、興味を惹かれるようなポップ作りを研究する。
 もちろんそれだけが仕事ではないので、いろいろな雑務をこなしながらではあるが、絢子はこの仕事を楽しんでやっていた。
 絢子がそれらの作業をしていると、妙子が声をかけてきた。
「絢子さん、そう言えば今週の土曜日にね、一般公開の授業参観があるのよ。私は図書室にいるから、絢子さんはそのときに授業を観に行ってきたらどうかしら?」
「えっ? いいんですか?」
「ええ。だって絢子さん、教師を目指しているんでしょう? この学園の教師陣は結構教え方が上手いって評判なのよ。後学のために一度観に行ってもいいんじゃない?」
「うわあ! ありがとうございます!」
 妙子からお墨付きをもらった絢子はうきうきしながらその日が来るのを待ちわびたのであった。


 今日の昼食の時間には、悠真がトレーを持って絢子の隣にやってきた。
 悠真のふわふわの金髪がガラス張りの窓から差し込む光に透けてとても綺麗だ。
 灰色の瞳はうるうると潤んでいて、見つめれば見つめるほど、それに囚われてしまうかのようだ。
 悠真はその瞳を惜しげもなく絢子に向けながらこう言った。

「絢子! 今日から僕、絢子と一緒にご飯食べることにしたから」

 悠真は絢子の右隣にすとんと座った。
 絢子は困って妙子に目をやった。
 目の前にいる妙子は特に動じてはいない。
「いいんじゃない? 席がにぎやかになって」
 そう言った妙子は絢子の後ろに視線を向けた。
「あら、あともうひとり絢子さんにお客さんらしいわ」

「ここ、いい?」

 その少しハスキーで色気のある声に振り向くと、そこにはこれもまたトレーを持った隠岐伊織が立っていた。
「俺もここで食べるから」
 伊織も絢子の左隣にすっと座る。
 絢子はこの日から栗栖学園の二大アイドルに挟まれる形で昼食をとることとなったのだ。
 悠真と伊織の親衛隊はその光景を見てきいっと歯噛みをした。

 ほかの生徒達は遠巻きにものめずらしそうに絢子を見ている。
「ああ、絢子お姉さま、やはりお姉さまは学園の二大アイドルを手玉に取ってらっしゃったのね!」
「私達の絢子お姉さまはこうでなくては!」
 妹(候補)達がきらきらとした憧れの視線を絢子の元に送ってくる。

 絢子の目の前に座っている妙子はその光景にあきれを通り越して達観していた。
「あたしゃもうね、これぐらいのことではいちいち驚かないことにしているの。例え目の前に学園の二大アイドルに挟まれて居心地悪そうにしている女性がいたってね、その女性を見つめる妹達がいたってね、残念ながらもう何とも思わなくなっているのよ。そのうちこの光景も学園の名物風景のひとつとなるわね」
「妙子さぁん!」
 半ば涙目になって助けを求めている絢子を、黒縁眼鏡をきらりと光らせて「頑張れ♪」の一言とウィンク&サムズアップで片付けると、妙子は今日の日替わりA 定食のメインであるレバニラ炒めをぱくりと頬張ったのであった。




 絢子が家に帰ると、そこには颯太の姿があった。
 彼の、触れたら気持ちよさそうな癖のある茶色い髪、優しそうな瞳は現実でも健在であった。
「颯太さん! どうしたんですか?」
 颯太は小ぶりの花束を持って絢子を迎えた。
「絢子ちゃんにこれをプレゼントしようと思ってね」
「わあ! 私、男の人から花束なんてもらったことありません。嬉しいです」
 絢子はその花束をそっと胸に抱いた。
「よく似合っているよ、絢子ちゃん」
 颯太はそう言うと絢子の頬をふわりと撫でた。
 その手がとても優しくて、絢子は相好を崩した。
「ありがとうございます颯太さん、でも、この花束には何か意味があったりするんですか?」
 絢子がそう聞くと、颯太は柔和な茶色い瞳を絢子に向けた。
「これはね、絢子ちゃんが僕の夢に来てくれて、一緒に風の力の鍛錬をしたことの記念だよ。君の上達が早かったから、教えたものとしては嬉しくなってね。今日は非番だったから、この時間に絢子ちゃんのもとを訪れることにしたんだ」
「そうなんですか。あっ、颯太さん、見ててください! 私、現実でもちゃんと風の力を使えるようになりました」
 そう言うと、絢子は持っていた花束を床に置いた。
「来い」
 絢子がそう念じると、床に置いた花束はふわりと浮き上がって絢子の手元に納まった。
 颯太はぱちぱちと拍手をした。
「よくできたね絢子ちゃん、現実でもそれだけ使えれば上出来だよ」
 絢子は颯太に褒められて恥ずかしそうに頬を染めた。
「これも皆、颯太さんが丁寧に教えてくださったおかげです。颯太さんには本当に感謝しています」
「そうかい。じゃ、僕にも何かご褒美をくれないかな?」
「え?」
 絢子が颯太を見ると、颯太はいたずらを思いついた子供のような顔をしていた。
「技を伝授した先生への褒美としてはキスが妥当だと思っているんだけれど」
「わあ……」
 絢子はその場で少し逡巡した。
 だが意を決して爪先立ちになると、颯太の頬にちゅっと口付けをした。
 しかし、颯太は柔和な表情をしたまま、もうひとつ言葉を発した。
「今のも嬉しいけれど、どうせならちゃんとした口付けがいいなあ。ここにちょうだい?」
 そう言って、颯太は自分の唇をとんとんと指差した。
「あの……」
「駄目?」
「駄目じゃ、ないです」
 颯太が身をかがめて絢子の目線と合わせる。
 絢子は颯太の頬を両手で恐る恐る掴むと、そっと唇に自分の唇を寄せた。
 その瞬間、絢子は颯太から優しい拘束を受けた。
 両腕でふわりと抱きしめられ、絢子は少しびっくりとする。
 颯太はそのまま絢子を軽々と抱き上げると、口付けをしながらリビングのソファーへと足を運んだ。
 絢子を抱いたままソファーに座ると、颯太は小鳥が啄ばむような口付けを何度もした。
「あっ、颯太さ……」
 皆まで言わせず、颯太は絢子の開いた唇を自分のそれで塞いだ。
 颯太の口付けはどこまでも優しかったが、それでも絢子の息はだんだんと上がってきた。
「あん、あっ」
 そうして絢子の口から小さな喘ぎ声が出始めたところで、ソファーの向かい側から低く官能的な声がかかった。
「お二人さん、そこまでにしてくれないと、俺も混ざるよ?」
 はっと我に返った絢子である。
「ま、正臣」
 絢子が目線をずらすと、ソファーの向こうで腕組みをしながらにやにやと今の光景を眺めている正臣がいた。
「絢子ちゃん、帰ってきて早々、俺の目の前で大胆なことしちゃってさあ。颯太がうらやましいよ」
「正臣、僕と絢子ちゃんのスキンシップを邪魔しないでくれるかな」
 苦笑しながら颯太が言う。
「でもな、俺が止めなきゃいつまで経っても終わらないだろ? 夕食の支度ができたから、席についてくれるとありがたいんだけどな」
 颯太は渋々といった体で絢子を解放した。
「す、スキンシップですか……」
 絢子にとっては一大事でも、颯太にとってはごく自然なことなのだと感じた絢子はなぜだか胸がつきんと痛んだ。
「絢子ちゃん、この続きは今度あったときにでもしようか」
 そう言ってくすりと笑う颯太の顔はどこか淫靡さが漂っていた。


 今日の夕食はスモークサーモンのカルパッチョ、バジルの冷製パスタ、真鯛のグリエ、デザートは洋梨のシャーベットだった。

「正臣、今日も美味しいです!」
 絢子が料理に舌鼓を打つ。
「正臣の料理は一級品だからね。絢子ちゃんの御相伴に預かれて良かったよ」
 颯太も言うと、正臣がにこりと笑った。
「二人ともありがとな」
 夕食を食べ終わり、正臣が後片付けをしている間、絢子と颯太は風の力を使って鍛錬をしていた。
「絢子ちゃん、この紙を使って、部屋を飾ってみようか」
「はい」
 そうして二人はソファーに座り、猫、犬、兎、熊、鼠など、様々な動物の紙細工を作り、それを紙吹雪と共に空中へ浮かべて遊んだ。
「わああ! こうやって見るととっても素敵ですね」
 絢子が集中を途切れさせないようにしながらも感嘆する。
「絢子ちゃん、随分上達したね。もうこの程度のことならイメージ通りにできるんじゃない?」
 颯太が微笑ましいものを見るかのような表情で綾子に尋ねる。
「そうですね。でもやっぱり颯太さんは教え方が丁寧で上手です。見習います」
 尊敬する先輩を見るような目で颯太をうっとりと見つめる絢子であった。
「綺麗な紙細工だねえ、二人はそうやっているとまるで歳の離れた仲の良い兄妹みたいだね」
 タオルで手を拭きながら、正臣が二人の傍にやってきた。
「兄妹か……僕は恋人のほうがいいけれどね」
 言って、颯太は絢子の肩をふわりと抱く。
「きゃ! 颯太さん!?」
「ほらほら、絢子ちゃん、集中を途切れさせると紙細工が落ちてしまうよ?」
 そう言いながら颯太は絢子の頬に口付けを落とし始めた。
「颯太さ……くすぐったい、です」
 絢子の耳元で颯太は息を吹きかけるようにして淫靡な声で喋った。
「これも鍛錬のひとつだよ。僕が何をしても集中を途切れさせては駄目だよ?」
 颯太は絢子の首筋をつつっと舐める。
 途端に絢子の紙細工がぐらぐらとしだした。
「あっ」
「まだ早いよ絢子ちゃん、こんなことでぐらついていては敵に襲われたときに自制心を失ってしまうよ」
 颯太はふふっと笑うといたずらを仕掛ける。
 どうやら颯太は何かを教える立場に立ったときには容赦がないようだ。
 颯太は次に絢子の服の裾を弄り始めた。
「やっ、颯太さん、服が、脱げちゃいます」
 気にせず、颯太は絢子の服の裾からするりと手を差し込んだ。
 そのまま絢子の腹に手を置く。
「嫌、お腹、触らないでくださいっ」
「どうして? こんなにすべすべしていて触り心地が良いのに?」
「これ、鍛錬じゃないんですか?!」
「鍛錬だよ、さて、次は僕に対抗できるかな? できなければもっと手を進めるよ」
 その言葉に動揺した絢子が集中を途切れさせ、紙細工をばらばらと落とし、盛大に涙目になったそのとき。

「はい、そこまで」

 ふわっと絢子の体が何かに抱かれた。
 正臣が絢子を颯太の腕から救い出したのだ。
「ここは俺と絢子ちゃんの愛の巣なの。手を出すなら俺の目の届かない夢の中でやって。って言っても、俺は絢子ちゃんを渡す気はさらさらないけどね」
 正臣が腕の中の絢子をよしよしと撫でる。
「絢子ちゃん、よく我慢したね。今日は颯太お兄さんが無体をしたね。あとで俺が叱っておくからね」
 それを見た颯太はふっと苦笑した。
「直人も言っていたけれど、正臣、お前本当に変わったね。そこまで絢子ちゃんを大切に扱うとは」
「だって、絢子は俺の愛しいただひとりの人だから」
 そう言って、正臣は腕の中でぐったりとなった絢子に甘い口付けをしたのであった。



[27301] 鬼の性 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:fe0ae496
Date: 2011/04/23 08:21
 夢の中で、絢子は正臣を探していた。

「正臣、どこなの?」

 白くて何もない空間を当てもなくさまよう。
 と、その白い空間が奇妙にねじれ始めた。
 CGグラフィックでも見ているかのようなその光景に、絢子は少しばかり酔ったのか気分が悪くなった。

「正臣!!」

 不安になって大声を出す。

 そのねじれは急速に収まり。元の白くて何もない空間に変わった。

 何かがおかしい。
 絢子はいぶかしんだ。
 と、遠くの方から歩いて来る影がある。
 絢子はその影に向かって駆け出した。
 だがしかし目の前に来たその影は正臣ではなかった。
「あなたは……?」

 そこには体のラインに沿ったタイトな黒いドレスを着た妙齢の女性が立っていたのである。

 漆黒の艶やかな髪は背に垂らされており、その唇は紅を引いたように赤く、淫猥に歪んでいる。
 黒々とした瞳は何を考えているか読めなかったが、少なくとも絢子に好意的な目線ではなさそうだった。
 女が口を開いた。

「お初にお目にかかりますわ。わたくしは望月冴と申す者。甲賀五十三家筆頭である望月家の歩き巫女にして、葛城秀斎様の手の者にございます」

「もちづき、さえ、さん……」
 絢子が復唱する。
 しかしそれにしても、こんな妖艶な女性、絢子は初めて見た。
 胸ははち切れんばかりにたわわに実り、くびれた腰から尻にかけてのラインはたまらなく男を誘うものがある。
 スリットが入ったドレスからは真っ白な太ももがちらりと見え隠れする。

「今日はなぜか隠形鬼の結界が緩んだので、そのおかげでわたくしがこの領域まで入ってくることができたのですわ」
 そう言うと冴は絢子に近づいた。
 すっと絢子の頬を撫でる。
 絢子はまるで蛇に睨まれた蛙にでもなったかのように動くことができなかった。
「可愛らしい小鳥だこと。秀斎様の腕の中で、あなたはどんな風に鳴くのかしらね」
 何かの術でも使っているのだろうか、動けない絢子の頬を、それは愛おしいものでも愛でるかのように何度も往復する。
 と、その白魚のような手が、頬を伝ってつつっと下りてきた。
「な……にを、するんで、すか」
 やっと絞り出した声は大層頼りないものだった。
 冴はそんな絢子を見ると片眉をあげた。
「あら、初心な反応ね。珍しい。鬼達に毎夜貪られているわけではないのね。あなた、もしかして処女なのかしら?」
 絢子の顔がかあっと赤くなった。
「まあ、なんて初々しい。これは秀斎様にご報告せねば。優しくしてもらえるよう、わたくしから頼んであげてもよくってよ」
 冴は舌なめずりをすると、絢子の頬をぺろりと舐めた。
「ひっ!」
「怯えるその様も何て愛らしいのでしょう。でも、秀斎様に清いままお渡しするのが筋というものね。今日はこれぐらいにしておくわ。秀斎様からお声がかかったときは三人で楽しみましょうね」
 そう言うと、冴は絢子の頬に口付けをした。
 そのまま離れると、冴の姿は煙のように掻き消えたのであった。

 絢子は術が解けたのか、その場にがっくりと膝をついた。
 途端に戻ってくる全身の感覚に絢子は身震いした。

「うっく、えっ、正臣っ」

 絢子はその場でしゃくりあげた。

「絢子ちゃん!?」

 その声にはっと顔を上げると、そこには少しばかり慌てた様子の正臣がいた。
 正臣は何も言わずに絢子の前に跪くと絢子をぎゅっと抱きしめた。

「ふえぇん、正臣ぃ!」

 絢子は安堵したのか、正臣の腕の中で盛大に泣き始めた。

「ごめん、絢子ちゃん、今日はちょっと匠と四性の鬼たちのところを回っていた。こんな時に敵が来るなんて」
 絢子の首筋に顔を埋めて正臣が低く官能的な声で謝った。
「私っ、私、何もできなかった。逃げることも、戦うことも」
 絢子は自分のことを不甲斐なく思っていた。
 折角颯太や正臣と練習した力を、本番で発揮できなかったからだ。
「しょうがないよ、この気配は只者じゃない。絢子ちゃんが何もできなかったからといって気に病むことじゃない。俺が迂闊だったんだ」
 正臣はそう言って絢子を慰め、自身の唇をきつく噛んだ。
「あのね、相手の人、甲賀五十三家筆頭である望月家の歩き巫女って言っていた。望月冴って名乗ってた」
 絢子はともすればショックによって幼児退行しそうになる己の気持ちを精一杯叱咤して正臣に情報を伝えた。
「望月家の歩き巫女か。ありがとう絢子ちゃん、それはとても貴重な情報だよ」
 そう言ったあと、正臣は絢子をあやすようにゆっくりと背中をさすった。
「怖い思いをさせてすまなかった」
「うん」
「絢子ちゃんを守るって言ったのに、これじゃあ護衛失格かな」
「ううん! そんなことない、正臣は護衛失格なんかじゃない!」
 絢子が正臣の腕の中から涙に濡れた瞳で訴える。
 それを見た正臣はすっと息を呑んだ。
「……やっぱり、俺は護衛失格だよ、絢子ちゃん」
「え?」
 正臣は絢子を腕の中にきつく抱き込んだ。
「俺ね、今の絢子ちゃんにどうしようもなく欲情しちゃった」
「正臣……?」
「やはり鬼の本性はなくならないのかな。絢子ちゃんを大切にしようと思っても、時折こうやって気持ちが暴走することがあるんだ。今日は特に自分の不甲斐なさとほかの奴が俺のテリトリーで絢子ちゃんに触れたことによって気が立ってる」
 いつも余裕を見せている正臣が珍しく切羽詰った表情をしている。
「絢子ちゃん、俺から逃げて。どこへでもいい、夢の中で安全なのは颯太のところかな? とにかく、俺に強引に抱かれたくなかったら一刻も早く俺の腕の中から逃げて。じゃないと、俺はこのまま自分の好きなように絢子ちゃんを抱くよ?」
 口調とは裏腹に、正臣は絢子を離すまいと拘束を強めてゆく。
「さあ、早く、この前みたいに俺の前から消えるんだ。じゃないと今日は止まらないよ」
 そう言うと正臣は絢子の首筋にカプリと噛み付いた。
「ひゃあ!」
「いい声で鳴くね、絢子ちゃん」
 絢子は少しばかり怯えながら正臣の顔を見た。
 正臣から発せられる気が一気に濃厚なものへと変わった。
 それはまさに「鬼」の気をまとった姿であった。
 正臣は絢子を横たえると、絢子が着ていたシャツを一気にびりっと破いた。
「きゃあっ!!」
 急激な恐怖に息をつく絢子は、涙ながらに正臣を見た。
「その顔、そそるって言ったよね? 俺を誘ってるの? 淫乱だね、絢子ちゃんは」
「正臣、正臣……! ごめんなさい」
 絢子はそう言うと、両の目をぎゅっとつぶった。
 その瞬間、絢子は正臣の前から掻き消えたのであった。




「これはまた……、ひどくやられたね」
 絢子は今颯太の腕の中にいる。
 正臣の下から颯太のところに飛んだ絢子は、颯太の姿を見るとふっと倒れこんだ。
 すかさず絢子を腕の中に匿った颯太はその台詞を吐いたのであった。
「ううん、正臣は悪くないんです。夢の中で初めて敵に襲われて、でもそのとき正臣はいなくって……。正臣は先に忠告してくれたのに、私が中途半端に逃げなかったから、こうなったんです」
 絢子がそう言ってずっと鼻をすすると、颯太は相手を落ち着かせる声音で話した。
「絢子ちゃん、自分を責めるものじゃないよ。どんな形であれ、怯える女性を手篭めにするのは人道に反する行いだからね。絢子ちゃんが決心して僕のところに逃げてきてくれてよかったよ。それにそうなった鬼に身を任せようとする、自分の身を投げ出す行為は決して勇気ではないよ。鬼に蹂躙されるだけだからね」
 そう言うと颯太は絢子をしっかりと抱きしめた。
「僕達はね、それぞれ鬼の性を抱えて生きているんだ。どうしようもなく壊したいと思う破壊衝動や、対象を骨までしゃぶり尽くしたいと思う劣情なんかと常に戦っているんだ。正臣はそれを上手くコントロールできているように見えたけれど、それもこうやって自分のテリトリーを侵害されて、対象に触れられたせいで酷く乱れてしまったようだね。正臣を許してやってくれるかい?」
「はい、颯太さん」
 絢子はこくりと頷いた。
「いい子だね、絢子ちゃん。さて、それじゃあ今日も朝まで僕と一緒に風の力の鍛錬をしようか。ああ、心配しなくっても絢子ちゃんにはもう無体なことはしないよ。今日でいっぱい絢子ちゃんは傷ついたからね」
「ありがとうございます、颯太さん」
 絢子は少しだけ涙ぐむと、颯太と一緒に風の力の鍛錬に励んだのであった。






「秀斎様、松永絢子と夢の中での接触、叶いました」
 朱塗りの格子戸、分厚い御簾、何かの香が焚かれた淫靡な閨で。
 望月冴が閨の前に膝をついて葛城秀斎に報告する。
「ふうん、それで、私の朝雄はどんな子だったのかな?」
「はっ、それは可愛らしく、初心で、とっても従順な小鳥でございました」
「そう。私の朝雄は冴の気に入りにもなったのだね。愛い奴だ。私がたっぷりと愛でたあと、冴と二人で作り変えてしまうのも悪くはない」
「はっ、きっと秀斎様しか見られなくなるでしょう」
「冴も私のものしか見られないのだよね?」
 秀斎の言葉に、冴はぽっと頬を染めた。
「冴を翻弄するのは秀斎様だけですわ。冴はほかの雄ではもう物足りませんもの」
「こちらへおいで、冴。今日も可愛がってあげよう」
 冴は期待に満ちた目ですっと分厚い御簾をくぐった。
 自分の上に倒れこんできた冴を抱きとめると、秀斎は満足そうに息を吐いたのであった。
「可愛い冴。私の朝雄、絢子が来るのが楽しみだね」
「ええ、秀斎様」
 冴は夢見心地で秀斎の胸板に頬を寄せたのであった。



[27301] 脅迫状
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:fe0ae496
Date: 2011/04/23 08:22
 朝。

 絢子が身支度をしてキッチンへと向かうと、そこにはいつものように正臣が立っていた。
 正臣は絢子を見るとふわりと微笑んだ。
「おはよう、絢子ちゃん」
「あ、おはよう、正臣」
 それはまるで昨日夢の中で起こったことが嘘であるかのような穏やかなものであった。

 挽き立てのドリップコーヒーのいい香りがする。
 絢子が席につくと、正臣はカチャカチャと食器を置き、朝御飯の支度をした。
 目玉焼きにウィンナー、サラダに小さめのトーストが今日の朝御飯だった。
「いただきます」
 絢子が食べだすと、正臣が向かいの席について、コーヒーを片手に頬杖をつきながら愛おしそうに絢子を眺めていた。

 絢子はちょっとだけ気恥ずかしくなった。
「あの、何で私、見つめられているんですか?」
 食べる手を止めてそう尋ねると、正臣は機嫌がよさそうににこにことした。
「ん、愛しいなあと思ってね」
 正臣はそう言うとコーヒーを一口飲んだ。
「あの、正臣はもう鬼の性から立ち直ったんですか?」
 絢子がおずおずと聞くと、正臣は頷いた。
「昨日はすまなかったね。絢子ちゃんに無体な真似をして。でも、あの時絢子ちゃんが俺の前から逃げてくれたことで、自制心を取り戻すことが出来た。絢子ちゃんのおかげだよ」
 絢子が頷くと、正臣はふっと笑みを浮かべた。
「鬼になった俺を、それでもあのときの絢子ちゃんは受け入れようとしてくれたんだよね? 嬉しかったな。やはり絢子ちゃんは俺の愛しいただひとりの人なんだって思ったね。俺ね、あのときの絢子ちゃんが一瞬聖女か何かに見えちゃったよ」
「わ、私、そんな大層なものじゃないです」
 絢子はぶんぶんと両手を振った。
 そんな絢子を見た正臣はしかしはあとため息をついた。
「でも絢子ちゃんはきっとその情けをほかの鬼にも、あまつさえ敵にも等しく分け与えちゃうんだろうね。俺はそれが心配だな。自分で襲っておいて言うのも何だけれど、絢子ちゃんの懐は少し大きすぎなんじゃないかな? もっと相手を責めてもいいんだよ?」
「正臣は、責められたいんですか?」
 絢子がそう尋ねると、正臣はちょっと目を丸くしたあと、にやりと意地悪そうな顔をした。
「俺が、絢子ちゃんから? ふうん、そういう趣向も悪くはないね。でも途中で我慢できなくなっちゃいそうだな」
「あっ、正臣、今絶対違うことを想像したでしょう!」
 絢子が膨れっ面になると、正臣ははははと笑った。
「冗談はこのくらいにして、俺も朝御飯を食べるとするよ」
 そう言って正臣は席を立ったのであった。


 絢子が出勤するために玄関を開けると、正臣が近づいてきた。
 とんとんとつま先で地面をつついて靴を直し、外に出ようとしたとき、正臣に腕を柔く掴まれる。
「絢子ちゃん、いってらっしゃいのキスがまだだよ」
 そういうと正臣はふわりと絢子の唇に触れた。
「気をつけて」
「はい」
 絢子と正臣は微笑んだのであった。


 出勤して、教職員用の自分の名前が書かれた下駄箱の扉を開けると、そこには見慣れないものが入っていた。
 真っ白な封筒である。
 その封筒は何かが入っているらしく、少し厚く膨らんでいる。
 絢子はいぶかしみながらもその封筒に手を伸ばした。
 中には、十数枚の写真と、手紙が入っていた。
 写真には絢子と正臣が玄関でキスをする姿や、ソファーで正臣に押し倒されている姿が写っていた。
 そして手紙は新聞紙の文字を切り抜き貼り付けた不気味なものだった。

「同棲淫乱女、今日ノ放課後学園ノ裏庭マデ来イ。来ナケレバソノ写真ヲ学園中ニバラ撒ク」

 絢子は背筋がぞっと冷えた。
 こんな手の込んだ嫌がらせを受ける羽目になるとは。
 しかもこの正臣とキスをしている写真はついさっき撮られたもののようであった。
 そんな短時間で写真を焼いて封筒に入れた、つまり犯人がさっきまでこの封筒に触れていたということに絢子は気味の悪いものを感じた。
 しかし絢子はその封筒をそっと鞄にしまうと、何事もなかったかのように準備室へと足を運んだのであった。


 自分はいつも通り仕事をしていると思っていたが、勘の鋭い妙子にはそれは通用しなかったようだ。
「絢子さん、何か悩み事でもあるんじゃない? 今朝から少しおかしいわよ」
 妙子が黒縁眼鏡をきらりと光らせながら、絢子に尋ねた。
 絢子はしばらく逡巡していたが、意を決して妙子にあの封筒を見せることにした。
「今朝、こんなものが私の下駄箱の中に入っていたんです」
 妙子はその封筒を受け取ると中身を取り出し、手紙を読んだ。
「うわっ! 何これ、趣味悪いわねー。こんなことやっている暇があったら勉強しなさいって感じよ」
「勉強って……妙子さんはこの封筒を送りつけた犯人が学生だって言うんですか?」
 絢子は目を丸くした。
 妙子は人差し指をピンと立てて説明を始めた。
「ええ。その時間帯に学園内に入り、こんなものを置いていくなんてね、学生の可能性がかなり高いわよ。うちの教職員達はその時間帯にこんな手間のかかることをやっている暇はないでしょうし。この写真には今日撮られたものも入っているでしょう? これ、絢子さんの今日の服装だもの。室内の写真は望遠レンズか何かで撮られたもののようね」
 妙子が手に取った写真は、今朝のキス写真だった。
「さしずめ、鐘崎君か隠岐君の親衛隊の中での過激派が我慢ならなくてやってしまったってとこじゃないかしらね。淫乱女なんて言うからには相当鬱憤が堪っているんじゃないの?」
「そうですか……」
 絢子はうなだれた。やはり生徒達から反感を買っていたのだということに今更ながら思い当たったのだ。
「でもこれ、立派な脅迫よね。それにプライバシーの侵害もいいところだわ。いくら恨み骨髄に徹すからってここまでやっちゃあ犯罪よ」
「犯人の特定って出来るのでしょうか?」
 絢子は言ったが、妙子は首を振った。
「今のところは防犯カメラか、目撃者でもいない限り無理でしょうね。それに、単独犯ではなくて複数犯の可能性もあるわ。結託して証拠隠滅と隠蔽を図っているかもしれないわ」
 そう言うと妙子は眉をしかめた。
「まったく、モラルがなっちゃいないわね。ちょっと休憩しましょう。お茶入れてくるから」
 妙子は席を立ち、紅茶のティーバックを急須に入れ、ポットから熱いお湯を注いだ。
 程なくして紅茶のいい香りが部屋に広がった。
 小さめのマグカップ二つに出来立ての紅茶を注ぐと、妙子は片方を絢子に渡した。
 話題を変えるためか、妙子は努めて明るい声で話した。
「それにしても、この写真の人、確か『正臣』さんだっけ? なかなかいい男じゃない」
「た、妙子さん、記憶力いいですね」
「絢子さんも隅に置けないわねー。こんなイケメンと同棲して、あまつさえ押し倒されちゃったりなんかしてるんですから」
「こ、これは別にその、あの、違うっていうか、そういう関係じゃないというか」
「そういう関係じゃないのに押し倒されちゃってるの?」
「いや、やっぱりそういう関係っていうか、ああもう妙子さぁん! いじめないでください!」
 涙目になる絢子を見て妙子はホホホと笑った。
「家ではイケメンと同棲、学園では二大アイドルに気に入られ、これじゃあ周りの女子が怒るのも無理ないわね。あ、私のことは心配しないで。家に帰れば愛しのダーリンが待っているから」
「えっ!? 妙子さん、結婚していたんですか!?」
 驚く絢子である。
「そうよ。しかも学生結婚。私指輪はしない主義なの。佐藤は旦那の名字よ。子供は作ってないから、旦那と二人、のんびり悠々自適な生活を送っているわ」
「そうだったんですか」
 妙子の余裕はこういうところから来ているのだなと感心する絢子であった。
「うちの旦那ね、隆司って言うんだけど、研究職なのよ。今は研究がひと段落して在宅勤務に切り替えたので、家を守ってもらっているわけ。家事をやってくれる男性がいると本当に助かるわよねー」
「ええ、そうですよね」
 大いに実感が伴った二人の会話であった。
「で、絢子さんは今日の放課後裏庭に行くの?」
「ええ、例えどんな嫌がらせを受けたとしても、相手の顔を拝まないことには気が済みませんから」
「仕事の方は心配しないで。ちょっと抜けるぐらいだったら十分フォローできるから。でも、ひとりで行かせるのは心配だわ。私も一緒について行きたいぐらいよ」
「仕事をほっぽって犯人に会いに行くのですから、それを許していただけるだけでもありがたいです。トイレに行って帰ってきた程度の気分で行ってきます」
 絢子は胸を張った。

「私、こう見えてちょっとは強いんですよ」




 今日の日替わりA定食は八宝菜だった。
 絢子と妙子が席につくころを見計らったかのように、学園の二大アイドルがやってきた。

 彼らはそれぞれ絢子の右隣と左隣に座り、食事を開始した。

 絢子は放課後のことで頭がいっぱいだったので、右隣の悠真に声をかけられたときに反応が一瞬遅れた。
「でね、絢子、……絢子? 聞いてる?」
「あっ、ごめんね悠真君、ちょっとぼうっとしていたわ」
 はっとする絢子を気遣わしげな瞳で見つめる悠真である。
「大丈夫? 絢子から何だか張り詰めた空気を感じるよ?」
「え、ええ、まあ、大丈夫よ」
 そう言って悠真に曖昧に微笑んだ絢子を見た妙子ははあっとため息をついた。
「この二人になら言ってしまってもいいんじゃないの? 絢子さん、あなたに脅迫状が届いたって」
「えっ!?」
 驚く悠真と、気だるそうな瞳を少しだけ見開いた伊織である。
「絢子、どういうこと?! 絢子が狙われてるって」
 悠真はそう言うときっと伊織をにらんだ。
「隠岐先輩、何か知ってる?」
 険のある悠真の視線をすっとやり過ごした伊織は、顎に手を当てて思案したようだった。
「俺は何も知らない」
「じゃあ、何で絢子に脅迫状なんかが届くのさ」
「俺の範疇外だ」
 がるるると唸らんばかりの勢いの悠真であったが、伊織の言うことが嘘ではないと見て取ったからか、渋々その勢いを収めた。
「絢子さんはね、今日の放課後に学園の裏庭に呼び出されているのよ」
 妙子が二人に情報を与える。
「ちょっと、妙子さん、彼らにそんなこと言わなくとも……」
 慌てる絢子を制したのは左隣に座っている伊織だった。
「ありがとう妙子女史。それを知らなかったら、絢子を危険な目に合わせるところだった」
「隠岐先輩、絢子のことを呼び捨てにしていいのは僕だけだよっ!」
 悠真がぷうと膨れた。
 天使のような可愛らしい悠真に大いに癒された絢子は、改めて今回の犯人と向き合うことにした。
「悠真君と隠岐君は何も聞かなかったことにして。これは私と犯人との問題だから。だから大丈夫よ。多分口喧嘩でもしてちょっとだけ殴り合って帰ってくることになると思うから」
 そうして絢子は周囲を落ち着かせるようににこりと微笑んだ。
「絢子……」
 しゅんとなる悠真である。しかし伊織は違った。
 少しハスキーな色気のある声でこう言った。
「だがな、そう言われて『はいそうですか』って頷くほど俺はお人好しじゃないんでね。俺は俺の好きなようにさせてもらう」
 伊織は席を立った。
「あんた、自分の力を過信しすぎるなよ」
 それだけ言い残して伊織は去っていったのであった。
 悠真はその姿をぽかんと見つめたあと、ふと我に返った。
「ふん! 僕だって隠岐先輩に負けてられないもんね! 僕、絢子の事を陰で見守ってるから!」
 そう言うと悠真も席を立った。
「ごちそうさま! それじゃあ絢子、またね!」
 悠真はトレーを片手に軽々とした足取りで去っていった。
「あの、妙子さん、これって良かったんでしょうか?」
 絢子が恐る恐る聞く。
「良かったじゃない、大事な証人とナイトがいっぺんに二人もできて」
 しれっと言う妙子である。
「じゃ、トイレに行って帰ってくる程度で済ませてきてね♪」
 そう言って残りの八宝菜をかき込む妙子であった。



[27301] 念土 ●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:fe0ae496
Date: 2011/04/23 08:23
 放課後、絢子は自分の仕事を早めに切り上げると、栗栖学園の裏庭へと向かった。
 裏庭は、パリの南郊外にある「ライ・レ・ローズ」バラ園のようであった。
 手入れの行き届いた秋に咲く薔薇のアーチからは芳醇な香りが漂っている。
「綺麗ねえ、さすが私立なだけはあるわ」
 絢子はそう呟きながら植え込みのバラに手をかけ、その香りを嗅いだ。
 とろりとした甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 絢子は人気のないその裏庭を一通り回ってみたが、それらしき影は見当たらなかった。
「かつがれたのかしら?」
 いぶかしんだその時、かさりと人の気配がした。
「誰?」
 音のした方に振り向くと、そこにはひとりの男が立っていた。
 その男の姿を見て、絢子ははっと息を呑んだ。

「正臣?」

 その姿は確かに正臣だった。
 ジーンズに包まれた長い脚、少し浅黒い肌、男らしい手、しなやかな筋肉、切れ長の瞳。
 白いシャツから覗く肌は滑らかで、思わず触りたくなるかのようだ。

 正臣は何も言わずにその場に立っていた。
 絢子は正臣に駆け寄った。
「正臣、こんなところで何をしているの?」
 絢子が正臣に手を伸ばそうとしたその時。

「駄目だ絢子!!」

 その声にはっと振り向くと、そこには焦った顔をした悠真がいた。

「絢子、早くこっちへ! それは正臣じゃないよ!!」
 悠真のその声に反応したのか、背後の正臣の気配がゆらりと変わった。
 絢子は恐る恐る後ろを振り返った。
 そこには正臣だったものがいた。
 正臣の顔は沸騰したかのようにぼこぼこと歪んでいったのである。
「ア、ガガガ」
 歪な声を発しながら、正臣だったものは、姿を変えていった。
 絢子はじりじりと後ずさりをした。
 正臣だったものはいまや影も形もなくなっていた。
 そのものの顔は、例えるならば「ナウシカ」の腐りかけの巨神兵のようだった。
 口からは何本もの牙が生え、舌がでろりと垂れ下がり、瞳は死んだ魚のようである。
 体長は二メートルほどか。
 薄いピンク色の肌をぼこりぼこりと脈動させている。
「ひっ!」
 絢子は怖気を奮った。
 こんなに目の前でグロテスクなメタモルフォーゼを見せられたのだ。
 並の女性なら腰を抜かしているところである。
 絢子も例に漏れず腰を抜かす一歩手前だったが、何とか踏みとどまった。

「念土か」

 焦る悠真の隣にはいつの間にか伊織が立っていた。
「誰かが外法を使って作り出したな」
 念土、と伊織が呼んだものは一体だけではなかった。
 左右から意外に機敏な動きで二体の念土が飛び出してきたのである。
 計三体の念土が絢子の周りを取り囲むようにして立っていた。

「アアア、ガガ!!」

 三体の念土が耳障りな雄叫びをあげる。
 絢子は怖気づいた。
 人より少し大きい程度の人型をした怪物に囲まれてしまったからというのもある。
 だが、何より恐怖したのは、目の前の念土が正臣の姿をとって現れたということだった。
「絢子! 今助けるからね!」
 悠真がそう叫ぶや否や、絢子のほうに向かってざっと走り出した。
「うぉらあああ!!」
 気合と共に、悠真は手近にいた一体に飛び蹴りをかました。
 ごつっという鈍い音がして、念土は悠真と共に遠くへ吹っ飛んだ。
「悠真君!!」
 はっと我に返った絢子は目の前の念土をきっとにらむと、両手をかざした。

「切り裂け!!」

 その言葉を発した瞬間、絢子の手からごうっと風が巻き起こった。
 風は目の前の念土の肉体をびしびしと切り裂いていった。
 だが、決定的なダメージには至らない。
 首をぶるりと振った念土はガアと叫びながら絢子を羽交い絞めにした。
 ぎりぎりと絢子を締め付けていく。
「くっ!」
 しかし絢子の体はびくともしない。
 悠真の金鬼の力のおかげで骨や内臓はおろか、肉体にはかすり傷ひとつついてはいない。
 しかし、怪物に至近距離で抱きつかれているという生理的嫌悪で絢子は悲鳴をあげた。
「いやあああ!」

 絢子が涙目になったそのとき、怪物の背後から一陣の風が吹いた。
 その風は瞬間的な速さで怪物の首ごともぎ取っていった。
「絢子!!」
「悠真君!」
 悠真が怪物の背後から強烈な回し蹴りをお見舞いしたのだ。
 首のなくなった念土はしかし絢子を抱きしめる手を緩めようとはしない。

「離れろ、下種」

 悠真が普段からは想像できないほど低い声を出した。
 その瞬間、怪物の腹にぼこっと大きな穴が開いた。
 悠真が両手を念土の腹に差し入れたのだ。
 風穴が開いた念土はようやく絢子を抱く腕を緩めた。
 その腕の中から必死で逃げ出すと、絢子は衣服をかき合せて荒い息をついた。

 念土はどうと後ろに倒れると、地面についた瞬間細かな灰となって風に消えた。

「はあっ、はあっ」

 涙目になりながらもその灰が消えた方向をにらむ絢子を、悠真がそっと抱きしめた。
「絢子、絢子、もう大丈夫だからね、もう怖くないよ」
 悠真の温かい腕の中で絢子は知らずほっとため息をついた。
「あ、ありがとう悠真君」
 絢子は悠真の温もりをありがたく思ったのであった。

「茂みでこんな奴を見つけた。あんたらの知り合い?」

 その少しハスキーで色気のある声に二人が振り向くと、そこにはひとりの男の襟首を掴んで茂みから出てきた伊織がいた。
 伊織は念土一体を発勁で倒したあと、ほかの気配を探っていたのだ。
 伊織に連れられて出てきた男は、首に望遠レンズのついた一眼レフのデジタルカメラを下げていた。
「ひいっ! この餓鬼、離せ!!」
 男はじたばたとしながら、伊織の手から逃れようとしている。
 だがしかしそれが叶わないと分かると、その場にどっかと胡坐をかいた。
「あんたはなぜあそこにいた?」
 伊織が尋ねる。
 男はふてくされた様子で答えた。
「俺はそこの女の私生活を撮るよう依頼されたんだ。それで今日はまっ昼間からそこの女が男達に学園の裏庭で乱暴されるお宝映像が撮れるって聞いたから、この茂みで張ってたんだよ!」
「誰から聞いた?」
「言うわきゃねえだろ、契約なんだから。ああ、写真を撮ったら無修正サイトにばら撒く手筈だったのによお、がっぽり稼げるはずだったのに。男達もあんな変な怪物になっちまって、この写真どうすればいいんだよ」
 伊織は有無を言わさずカメラをひったくると、中に入っているデータを全て消し、メモリーカードも片手で粉々にした。
「あんたは何も見なかった。それでいいな」
 男は冷や汗をかきながらも「へっ」と下卑た笑いを吐き出した。
「あんた達、化け物だったんだな。そんな化け物にこれ以上関わるのは、こちらから願い下げだね。自宅にあるパソコンに保存してあるデータも全て消すぜ? そうしないと、あんたら、どうせ俺んとこへ来るんだろう?」
「察しがいいな」
 伊織がにやりと凶悪な笑みを浮かべる。
「好奇心は身を滅ぼすからな」
「餓鬼にゃ言われたかねえよ」
 男はそう言うと、よっこいしょと立ち上がってぱんぱんと体を払うと、そそくさと出て行ったのであった。


 男が去っていくその間、絢子はずっと悠真の腕の中にいた。
 悠真の心臓の音がとくとくと優しく刻まれている。
「あの、悠真君、もう大丈夫だから」
「うん? 本当?」
 抱きついた悠真は至近距離から絢子をじっと見つめた。
 うるうるとした灰色の瞳と、光を受けてきらきらと光る金髪が絢子の目にはどこかまぶしかった。
「悠真君は、意外に武闘派だったのね」
「僕、強かったでしょ? 絢子をちゃんと守ったでしょ?」
「うん、そうね。今も私の心を悠真君に守ってもらっているわ」
 絢子がそう言うと悠真はくすぐったそうにふふっと笑った。
「だって絢子は僕の大切な宝物だもの。大事に腕の中にしまっておきたいんだもん」
 その言葉を聞いた絢子はふわりと笑った。
「悠真君、これ、守ってくれたお礼ね」
 そう言うと絢子は悠真の頬にちゅっと口付けをした。
 悠真は瞬間ぽかんとすると、大輪の花が咲いたような笑みを浮かべた。
「うわあ! 絢子からの心の篭ったキス、すごく嬉しいよ!」
 悠真は絢子をぎゅっと抱きしめた。
「きゃ! 悠真君、ちょっと苦しいわ」
 悠真は絢子の首筋に顔を埋めると、そっとささやいた。
「絢子、今度は僕の夢の中に来て。一緒にいろんなことして遊ぼう」
「ええ、わかったわ」
 絢子はそう言って微笑んだのであった。

「絢子、俺にもお礼はないの?」
 絢子の傍に伊織が近づいてきた。
「隠岐先輩、一応、ありがとって言っておく。僕、心の広い男だもん」
 悠真が絢子を抱きしめながら言った。
「でも絢子からのお礼って何もらうの?」
「これ」
 伊織はすっと近づくと絢子の片側の頬にそっと口付けを落とした。
「!?」
「ごちそうさま」
 そう言って伊織はぺろりと舌なめずりをした。
「あっ! 隠岐先輩! 絢子に触らないで!」
 ぐるるると唸らんばかりの悠真と、どこ吹く風の伊織であった。

 場が一段楽したころ。
「結局、黒幕は見つからずじまいだったね」
 悠真が呟いた。
「絢子はこれからも嫌がらせを受け続けるのかなあ?」
「いや、そうでもないぜ」
 伊織が顎に手を当てて何事かを思案した。
 そして何を思いついたのか、にやりと笑った。
「俺達は念土を倒しただろう? それならば術が術者に返っているはずだ。相手はまさか念土が倒されるとは思ってもいなかっただろうから、身代わりになる憑代を用意していない可能性がある。明日どこかに怪我を負っている奴がいたら、そいつが黒幕である可能性が高い。たとえ憑代を用意してあったとしても、俺が力を過剰に返しておいたから、一体分のダメージは与えられているはずだ。これで少なくとも外法を使った相手を探し出すことが出来る」
「でも、そんな簡単に見つかるかしら? 相手が学校を休んだら? それか、別の部外者だったら?」
 絢子が不安そうに聞いた。
「そこまでは俺も保障できない。とにかく、明日を待つことだな」
 そう言って伊織はきびすを返したのだった。






 朝である。
 その豪奢な洋館の中では、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
「まあ! 優美さん! その手はどうなさったの!?」
 着物姿の中年の女性が、少女の周りでおろおろと叫んでいる。
 少女はぱつんと切りそろえられた前髪と、背中まで届く黒髪を揺らしながら歩き続ける。
「お母様、ご心配なさらないで。これはちょっと犬に噛まれただけなの」
 優美と呼ばれた少女は、何事もないかのように母親の横を通り過ぎた。
「優美さん! そんな犬、お母様が見つけ出して処分してあげるわ! どこで噛まれたのかお言いなさい!」
 ややヒステリックに叫ぶ母親を、優美はしかし鬱陶しそうな表情を片時も見せずに対応した。
「安心して、お母様。犬はもうどこかへ行ってしまったわ。この怪我も見た目ほど酷くはないのよ」
「でも、痕でも残ったら……」
「んもう、お母様の自慢の娘はそんなことぐらいじゃ汚れたりしませんわ」
 そういって優美はまるで恋人にでもするかのように母親の頬を両手でそっと包んだ。
「優美はお母様のお言いつけをちゃんと守って、伊織様と結婚するの。そうでしょう?」
「え、ええ、そうね、我が小川家が発展する道はそれしかないものね」
 優美にそういわれた母親は虚ろな瞳でそう呟いた。
「優美は、小川家のために、伊織様と結婚……」
 ぶつぶつと呪文のように呟く母親を尻目に、優美は食堂へと歩いた。

「いちいちうるせえんだよくそばばあ」

 そう吐き捨てた美しい少女の顔は次の瞬間悪鬼のように歪んだのであった。



[27301] 小川優美
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:c04fd204
Date: 2011/04/25 00:25
 今日の朝食は和食で、ご飯にアサリの味噌汁、鮭の切り身に沢庵、ホウレン草のお浸しである。

 テーブルに着き、それら朝食を食べている絢子の目の前に、正臣がすとんと座った。
 頬杖をつきながら、面白そうに絢子を見つめている。
 と、正臣が口を開いた。

「絢子ちゃん、昨日は悠真と楽しんだ?」

「へ?」
 鮭の切り身を口にしようとしていた絢子の手が止まった。
「あ、あの」
「悠真は優しくしてくれた? 絢子ちゃんは気持ち良くなれた?」
 そのままの体勢でどう答えたものか逡巡している絢子。
 そんな彼女に笑みを浮かべると、正臣は椅子に浅く腰掛け、両手をテーブルの上で組むと口を開いた。
「絢子ちゃんが気持ち良かったのならいいんだ」
 絢子は箸を置くと、正臣の方を見た。
「あの、どうしたんですか?」
 正臣はそのままの姿勢で話し始めた。
「俺はね、絢子ちゃんが四性の鬼の誰を選んでも文句は言わない。むしろ、絢子ちゃんには俺達のことをもっとよく知って欲しいとすら思っている。体を重ねることで理解が深まるのであればそれはそれでいいと思っているよ」
 そう言って正臣はふわりと微笑んだ。
「そうですか……でも、正臣は、その、嫌じゃないんですか?」
 絢子は少しばかりもじもじとしながら聞いた。
 なぜなら自分から「あんた私に気があるんでしょう?」というようなことを聞くのが恥ずかしかったからだ。
「ん? 絢子ちゃん、俺に焼いて欲しいの?」
「べっ、別にそういうことじゃありませんけれど」
「独占欲なら有り余るほどあるよ? 今だって、絢子ちゃんを監禁して、幾晩でも抱いていたいっていう黒い欲望ならすぐに出てくるくらいにね」
「か、監禁……」
「でもね、俺は絢子ちゃんの事が大切だから、そういう手段に出ることはまずないと思ってくれていいよ。それに今だって、四性の鬼の中で絢子ちゃんを独占している率が高いのは俺だしね。他の鬼のことも考えると、護衛としても、良い目を見てるよなあって思うよ」
「それは私の方こそ! 正臣には何から何までお世話になって、私、何か返せてるのかなあって心配で……」
 絢子が勢い込んで言うと、正臣は体を前に浮かせて腕を伸ばし、絢子の頭をぽんぽんと撫でた。
「もうさ、可愛すぎて今すぐ食べちゃいたいよ。そんなに必死になって俺のことを気遣ってくれる絢子ちゃんが愛しくて堪らない」
 絢子はぽっと赤面した。
「正臣は、何でそういう台詞をさらりと言えちゃうんですか?」
 絢子の疑問に正臣は何でもないことのように答えた。
「言わなきゃ伝わらない気持ちってあるでしょ? それに言っておくけれどね、俺の中にある気持ちは、こんな言葉だけじゃ全然足りないんだよ? 絢子ちゃんのことを目に入れても痛くないどころか、今すぐにでも溶け合ってひとつになりたいとすら思っているんだよ?」
 自分から引き出したとは言え、こう、朝から熱烈な愛の言葉を聞き続けては、さすがに絢子も頭を抱えざるを得なかった。
「そうですか……何ていうか、教えてくれてありがとうございます」
「うん、聞きたいならいつでも言ってあげるよ」
「もう胸がいっぱいになりました……」
「そう、それは嬉しいな」
 そう言って正臣は見るものを虜にするような笑みを浮かべたのであった。




 絢子が出勤し、準備室へ行くと、先に妙子が来ていた。
「おはよう絢子さん、昨日は良く眠れた?」
「ええ、まあ」
「それにしても昨日は残念だったわね。結局誰も来なかったのよね?」
「あ、はい」
 まさか妙子に昨日の出来事をそのまま伝えることは出来ないので、絢子は昨日準備室に戻ったときに一応の事実である「黒幕は来なかった」という部分を織り交ぜてぼかして話していたのだ。
「今日は下駄箱には何にも入っていなかったので、犯人もあれで鬱憤を晴らしたか何かしたんじゃないでしょうか?」
 絢子がそう言うと妙子はうーんと唸った。
「私はそうは思えないけどな。だって、そこまで手の込んだことをしておいて、絢子さんに何の危害も加えなかったというのが何だか引っかかるのよね」
「ええっ? 危害を加えられるって前提ですか!?」
「思春期の子供は突発的な衝動でとんでもないことをしでかすってことがあるけれど、絢子さんの犯人は用意周到、計画的で陰湿な感じがしてならないのよね。何だか、一筋縄ではいかないような感じがするのよ」
 妙子は黒縁眼鏡をきらりと光らせるとそう話した。
「私、妙子さんの勘と推測を信じます。これからも気を抜かずに行動したいと思います」
 絢子は妙子にそう約束した。
「あーあ、犯人も絢子さんと付き合ってみれば絢子さんの良さがわかるってものなのに」
「ありがとうございます、妙子さんに人柄を褒められると、得した気分になります」
 それを聞いた妙子はホホホと笑った。
「あら、わたくしでよければいつでも褒めて差し上げますわよ」
 絢子もつられて笑った。
「私、この職場に来て本当に良かったです。妙子さんみたいな素敵な人と出会えたことは私の財産です」
「まあ嬉しい! 絢子さん、それなら絢子さんを私の妹にしてあげてもよくってよ」
「ええ、それは私も嬉しいですわお姉さま」
 そう言うと、二人は顔を見合わせてぷっと吹き出したのであった。




 今日の日替わりA定食のメインはエビフライだった。
 タルタルソースのかかったそれをぱくついていると、絢子の右隣に座っている悠真が天使のような頬笑みで絢子にそっと耳打ちしてきた。
「絢子、昨日は楽しかったね。僕ね、あれから絢子のあの姿が目に焼きついて離れないんだ。朝起きたとき、僕の体、どうなってたと思う? 授業中でも、気を抜くと大変なんだ。金鬼の力のおかげで事なきを得てるけれど」
 絢子はむぐっと咽そうになった。
「ごほっ、ゆ、悠真君、今そんなことを言わなくとも」
「あんなに気持ちの良かった夢は初めてだよ。僕もう絢子の虜だよ」
 そう呟く悠真の頬は上気し、少しアヒル口の唇はぽってりとしてうるうると潤っている。
「絢子、今日も僕のところへ来てよ。また一緒に楽しもう」
 天使のような顔で、悠真はさらりと絢子を誘う。
「あの、悠真君、昨日みたいなのはもう、ちょっとご遠慮したいわ」
「ええー? 絢子はあんなに良い声を出していたのに? 僕、もしかして下手だった?」
「そんなことは……」
 下手どころか、あの美貌の天使の中身がこの目の前にいる愛らしい美少年であったことが信じられないぐらいの技術だった。
「そっかあ! じゃあ良かった。また来てね絢子! 絶対だよっ」
 口付けが出来るぐらいに絢子の耳元に口を寄せていた悠真は、絢子から離れるとそう言って喜んだのであった。

 絢子が悠真に翻弄されて目を白黒させていると、突然背後からガシャンという音と「きゃあっ」と言う悲鳴が聞こえた。
 振り向こうとした絢子の頭上に突然それはかかった。

「え?」

 ぽたぽたと、絢子の頭から水滴が垂れる。

「ごっ、ごめんなさい! 私ったら!」

 その声に降り向くと、そこには怯えた表情をしたひとりの可憐な少女が立っていたのである。

 その少女はぱつんと切りそろえられた前髪、背中まで垂れる手入れの行き届いた綺麗な黒髪、瑞々しく伸びやかな肢体の持ち主であった。
 大きな瞳は今、本当に申し訳なさそうに広げられている。
「あっ、大変失礼致しました、わたくしったら、うっかり手が滑ってトレーとコップの水を滑らせてしまって……」
 その少女の右手には包帯が痛々しく巻かれていた。

「あなたすごいね、僕と隠岐先輩には一滴もかかってないよ」
 悠真が感心する。
「そんな、偶然ですわ」
 そう言う姿はまるで怯えた子兎のようである。
「わたくし、伊織様の一年後輩の小川優美と申します。どんな償いでもさせていただきます」
「その手はどうした?」
 伊織が優美に向かって聞いた。
 優美ははっと驚いたような表情をしたあと、赤くなり顔を下げ、ぼそぼそと小さな声で言った。
「これは、昨日料理をしていて火傷してしまったんです」
「まあ、それは痛かったでしょうに」
 妙子が眉をしかめながら声をかけた。
「妙子女史、そんな心配するほどの怪我じゃありませんわ。お医者様が少し大げさに治療してくださったんです」
 そう言って優美は健気に微笑んだ。
「か、可愛らしい!!」
 優美のその儚げな表情に思わず撃沈する絢子であった。
「私のことは心配しないで、ただの水ですもの。放っとけばじきに乾くわよ」
 絢子はそう言ってにこっと笑った。
 優美は感極まったかのように瞳をうるうるとさせた。
「絢子さん、何てお優しいんでしょう! わたくし、こんなに優しくしていただいて感激しております!」
 そのまま掴みかからんばかりの勢いで絢子に詰め寄る。
「決めました! わたくし今日から絢子さんの、いいえ、絢子お姉さまの妹になります!」
「ええ!?」
 優美は伊織の隣の席にそっと座ると、伊織を挟んで絢子のほうにぐっと体を寄せた。
 その瞬間、伊織は何かに気付いたかのように眉根を寄せた。
 伊織の腕に自分の美乳が当たるのもお構いなく、優美は絢子のほうをきらきらとした目で見つめている。
「これからわたくし、絢子お姉さまについていろいろと学ばせていただきますわ! 明日もよろしくお願い致します!」
 そう言うとぽっと頬を染めながら、床に落ちていたままだった食器を手早く片付け、足取り軽く去っていったのであった。

「絢子さんは、なんと言うかまあ強烈な人に好かれるわねー」
 妙子が呟く。
「隠岐先輩、今の人……」
「ああ、気付いたか」
 悠真と伊織が目配せをする。
「どうしたの二人とも?」
 きょとんとする絢子である。
「あの子が昨日のアレを作った人だよ」
「まっさかあ」
 冗談止してよと言った風情の絢子である。
「アレって何かしら?」
 妙子が不思議そうに聞く。
「アレって言うのは昨日の……」
 そこまで言って絢子ははっとする。
 妙子に昨日の念土と優美の怪我のことを言うわけにはいかない。
「あの、白い封筒のことです」
「へえ、隠岐君と鐘崎君が言うからにはそれなりの根拠があるはずよね」
「ああ。手がかりを見つけたから」
 伊織が言う。
「俺は匂いで。あの女からは昨日のアレの匂いが強くした」
「僕は動きで。例え至近距離からだとは言っても、手を怪我していたにも関わらず、あの水は確実に絢子だけを狙っていた」
 絢子は信じられないといった顔をした。
 あんな可憐な和風美少女に昨日のような醜悪な真似ができるはずがないと思ったのだ。
 私生活を盗撮させたり、写真を撮らせようとしたりなどするのはどう考えてもえぐ過ぎる。
「あの女には気をつけるんだな」
「絢子、気を許しちゃ駄目だからね!」
 しかし絢子は二人に忠告されればされるほど釈然としない思いが募ってきた。
「まだあの子が犯人だと決まったわけじゃないわ。私はもう少し様子を見たいと思うの」
 絢子はそう言って残りのエビフライを口に入れたのだった。




「ちょっとあなた、私達の伊織様にあんなに近づいてどういうつもり!?」
「私達はあなたが絢子お姉さまの妹だなんて認めてないから!」
 昼休み。
 栗栖学園の暗がりでは、数人の女生徒が固まってひとりの少女を非難していた。
 非難を受けている少女、小川優美は、今にも泣き出さんばかりの表情だ。
「あの、私、そんなつもりじゃ……」
「じゃあどんなつもりだったのよ! 伊織様の腕にわざとらしく胸なんか押し付けちゃって! しらばっくれたってこっちはちゃんと見ていたんだからね!」
「何よ絢子お姉さまに強引に取り入ろうとして! そう言うのはまず私達妹に許可を取ってからすべきことなんじゃありませんの!?」
 優美はよよと顔を覆った。
「はん! 泣き真似なんかしたって駄目なんだからね! あんたの腹黒そうなところは全部お見通しよ!」
「そんな態度が取れるのなら先に『絢子お姉さまの妹になりたい』って私達に許可を取りに来ればよろしかったのに」
 上から目線で糾弾する女生徒と、呆れ顔で言う女生徒。
 と、顔を覆っていた優美が何事かを呟いた。

「え? 何? 聞こえませんわ」
「謝罪の言葉なら聞き入れて差し上げてもよろしくってよ」
 しかし次の瞬間、優美の口からは、彼女からは想像もつかないほど低い声が漏れた。


「ぎゃあぎゃあうるせえなあブス女どもが」


 それを聞いた女生徒達は一瞬驚愕に目を見開いたあと、顔を真っ赤にして怒り始めた。
「なっ! 何ですかその態度は!! 何様だと思っているの!?」
「あんたにそんな暴言を吐かれる筋合いはありませんわ!!」

「そんなんだからてめえらはもてねえんだよ」

 優美はふうと長いため息を吐き出すと、かっと目を見開いた。


「邪視!!」


 瞬間、そこにいた数人の女生徒達は優美の邪視に呪縛された。

「あああああ!?」
「きゃああああ!?」
 女生徒達は見えもしない影に怯え、その場から我先にと駆け出していった。


 女生徒達が去っていった方向を優美は見つめた。
「……んもう、邪魔をしないでくださる? わたくし、これから絢子お姉さまを羞恥と快楽の地獄に落として差し上げるところなのに」
 そう困ったように言った優美の顔は元の可憐な美少女に戻っていたのであった。



[27301] 優美の策略 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:c04fd204
Date: 2011/04/25 00:25
 放課後、絢子と妙子は図書整理に精を出していた。
 毎日、生徒が返却した沢山の本を元の場所に戻す作業があるのだ。
 片方がカウンター作業をしている間、もう片方が図書整理をする。
 本の背表紙に貼ってあるラベルの請求記号を照らし合わせながら本を本棚に返してゆくのだ。
 絢子が沢山の本が詰まれたカートを引きながら本棚の間を歩いていると、うしろから声がかかった。
「絢子お姉さま」
 絢子が振り向くと、そこにはおずおずとした表情の小川優美が立っていたのだ。
「優美ちゃん、どうしたの?」
 絢子はカートから返却予定の数冊の本を取り出し、しかし本を返そうとする手を止め優美を見た。
「今日はお姉さまにお話したいことがあって来たんです。私、お姉さまが誰かに脅迫されたこと、知っています。だって私、その現場を見たんですもの」
 絢子は驚いた。
「えっ! それ本当!?」
 声を潜めながらも絢子は優美に問うた。
「それって何時ごろだった? 相手はどんな人だった?」
 その絢子の質問には優美は答えなかった。
「お姉さま、ゆっくりお話したいので、お姉さまがお帰りの時間になるまでわたくし待っていますわ」
「えっ、でも、それは悪いわよ。ぱぱっと教えてくれたら、あとは自分で探すから」
 しかし優美は引かなかった。
「いいえ、……それに、これはわたくしの我侭ですけれど、その、わたくし絢子お姉さまともっと色々なお話がしたくって」
 そう言って優美は上目遣いで絢子をうるうると見上げた。
「ご迷惑でしたか?」
「うっ!」
 そのあまりの可愛らしさに早くも撃沈する絢子である。
「迷惑なんかじゃないわ。そうね、優美ちゃんとはまだ今日知り合ったばかりだし、色々と積もる話もあるものね」
 その返答を聞いた優美はきらきらと瞳を輝かせた。
「嬉しい! 絢子お姉さま! それではわたくし、三階の空き教室で待っていますわ」
「えっ? そんなところで?」
 しかし絢子が言い終わらない内に、優美はさっと身を翻した。
「ずっと待っていますわお姉さま」
 優美はそう言うと足早に図書室を去っていったのであった。
「あら、絢子さん、デートのお誘い?」
 妙子が腕組みをしながらにやにやと近寄ってきた。
「妙子さん、カウンターは?」
「今人があまり来ない時間帯だからちょっとぐらい抜けても平気よ」
 それにしても、と妙子は言った。
「絢子さん、脅迫犯である可能性のある少女の誘いにほいほいついていくなんて、何て絢子さんはお人好しなのでしょうね」
「でもまだあの子が犯人と決まったわけではないです……あんな可愛らしい子が脅迫紛いの真似をするなんて俄かには信じられません」
「あら、絢子さんは顔で犯人を選ぶのかしら?」
「そんなことはありませんけれど」
 絢子は少しむっとした。
 妙子はどうしてこうまで優美のことを犯人扱いしようとするのだろうか。
 顔で選ぶわけではないが、あの怯えた子兎のような少女に何が出来るというのであろう。
「もし彼女が犯人だったとしても、ちょっと口論になって、嫌味をぶつけられて、『あんたなんか嫌いよ!』で終わるはずだと思うんですけれど」
「その程度で済めば良いんだけどねえ。何せ犯人はわざわざ絢子さんに盗撮写真と脅迫状を送りつけてきた相手よ。キレたらどんな行動に出るかわかったもんじゃないわ。最悪、刺されるかもよ?」
「あっ、それは心配ないです」
「どうして?」
 首を傾げる妙子である。
「あの、私、ちょっと護身術って言うかそういうのを習っていたことがあって、それで刃物が飛んできても大丈夫な体なんです」
「ふうん、でも、そういうの隠岐君じゃないけれどあんまり過信し過ぎない方がいいわよ」
「はい、十分注意してあの子に会ってきます」
 そうして絢子は少しだけ釈然としない思いを抱えながら終業時間まで働いたのであった。


「じゃあ、お先に失礼します」
「気をつけてね」
 秋物のコートとバッグを手に取り、絢子は準備室を出た。
 少し早足になりながら三階の空き教室へと向かう。
 本来ならば、この教室は鍵がかかっていて開かないはずなのだが、今回はどういうわけか、中の電気がついていたのである。
「優美ちゃんたら、どうやってここの鍵を手に入れたのかしら? 何にせよ、生徒が勝手に鍵を開けるのは違反だからあとで注意しないと」
 そう思いながら絢子は教室のドアを開けた。
 しかし、中には誰もいない。
「もう帰っちゃったのかしら?」
 帰ろうとしたその時、絢子の背後から白い手がにゅっと伸びてきた。
「!?」
 その白い手にはハンカチが握られており、絢子の口と鼻を塞いだ、と思った瞬間、絢子の意識は闇に落ちたのであった。






「うん……」
 絢子は体に違和感を覚えながら目を覚ました。
「ここは……?」
 焦点の定まらない目を必死に開けて周囲の状況を確認する。
 すると、自分が両手を頭上で縛られて空き教室に転がされているのだということがわかった。
 電気はついておらず、周囲は夜も更けて真っ暗である。
 と、いきなり顔を懐中電灯で照らされた。
 強烈な光に絢子は思わず目をぎゅっと瞑った。
「うっ!」
「まあ、何て素敵な格好なのでしょう、絢子お姉さま」
「優美、ちゃん?」
 その懐中電灯を机の上に置くと、優美は絢子の傍に寄ってきた。
「これ、外からは光が見えない位置で照らしておりますの。絢子お姉さまの体が良く見えるように光を当てたのですわ」
 そう言うと優美は絢子の傍に膝をついた。
「絢子お姉さま、実はお姉さまにひとつ懺悔をしなければならないことがありますの」
「優美ちゃん、これはどういうこと? この縄を解いて!」
 眩しさに顔を背けながらも絢子は必死に叫んだ。
 しかし優美は絢子の言葉が聞こえなかったかのように話し続けた。
「昨日の脅迫状、あれはわたくしが書いてしまったものなのですの。あんな陳腐で餓鬼くさいことをやってしまった自分をとても恥じていますわ」
「お願い優美ちゃん、これは何かの間違いよね? 優美ちゃん、犯人に脅迫されてるのよね?」
 絢子がそう言うと優美は片眉をあげた。
「まあ、絢子お姉さまったら本当にお人がよろしいんですのね。わたくし、感動で涙がちょちょ切れそうですわ。自分がこんな姿になってもまだわたくしのことを信頼してくださるというの?」
「優美ちゃん!」
「わかりましたわ。わたくし、もっと激しくしようと思っていたのですけれど、お姉さまの人の良さに免じて少しだけ優しくすることにしましたわ」
「な、何のことを言っているの?」
 少しばかり怯える絢子を見て、優美はふふと笑った。
「もうそろそろ薬が効いてくるでしょう」
「薬?」
 ぼんやりとしていた絢子は、ふと体の芯に異変を感じた。
 突然、絢子の中がひくひくと痙攣し始めたのだ。
「あっ! なっ!?」
「始まったようですわね」
「優美ちゃん、これはなんなの?」
 体の変調に怯える絢子。
「ふふ、先ほど絢子お姉さまが寝ている間に、お姉さまの体の中に媚薬を投与致しましたの。遅効性の媚薬ですけれど、効果は長持ちするんですのよ」
「な、何でそんなものを」
「何故って、お姉さまを落とし、奴隷にするために決まっているじゃありませんか」
 絢子は驚愕に目を見開いた。
「どうして!?」
 優美ははあとため息をついたあと、事の真相を語り始めた。
「最初は、お姉さまを伊織様の傍から排除してしまおうと思いましたの。わたくしの伊織様に近づくものは何人たりとも許せませんもの。でも、お姉さまと伊織様の関係を見ている内に、わたくし考えを変えました。お姉さまを使って伊織様に取り入る方が自分から繋がりを作るよりも何倍も効率がよいことに気付いたのです。伊織様に信頼されているお姉さまを手中に収めれば、伊織様攻略も容易いと見て取ったのです」
「あなたは最初から私ではなく隠岐君が目当てだったのね」
「ええ。ですから、お姉さまにはわたくしから離れられないほど溺れていただこうと思いましたの。わたくしの性技で、お姉さまを骨抜きにして差し上げますわ」
「やめて優美ちゃん!」
「うふふ、怯えるお姉さまは何て美味しそうなのでしょう」
 優美はそう言うと、絢子に覆い被さり、口付けを始めた。
 くちゅくちゅと、優美は可愛らしい舌で絢子の唇を舐め回す。
 次に絢子の唇を強引に割り、舌を閉じた歯列に沿って這わす。
「んんっ」
「強情ね、お姉さま」
 そう言うと優美は絢子の服の上から胸の頂をきゅっといささか強く摘んだ。
「ひうっ!」
 驚きで口を開けた絢子の口内を優美は余すところなく蹂躙した。
 やがて優美が舌を引き抜くころには、上気した顔の絢子が出来上がっていた。
「素直に感じてくださって嬉しいわ」
 優美はふふと笑うと、絢子の胸を弄り始めた。
「ああっ、いやっ」
「ごめんなさいお姉さま、こんな場所でなく、もっと素敵な場所でこうしたかったのですけれど、善は急げと申しますでしょ? だから許してくださいね」
 そう言うと優美は少しだけむくれた顔をした。
「でも、どうせお姉さまは毎晩あの同棲している男に突かれてヒイヒイ鳴いているのでしょう? わたくしが良くしなくとも体は出来上がっているのでしょうから悔しいですわ。わたくしがお姉さまを仕込みたかったのに」
「ち、違っ……」
 絢子のその台詞を聞いた優美は「ん?」と首を傾げたあと、パッと顔を輝かせた。
「まあ! お姉さまはもしかしてまだ処女なんですの?! 嬉しい! 仕込み甲斐がありますわ!」
 そのとき、絢子は必死で助けを求めていた。
「お願い、誰でも良い、助けて、……助けて、助けて、助けて正臣!!」
 そうしてぎゅっと目を瞑った瞬間、絢子の体は正臣の下へと飛んでいったのであった。



[27301] 鬼の血 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:c04fd204
Date: 2011/04/25 00:25
 正臣はリビングのソファーに腰かけ、脚を組んで頬杖を突きながら文庫本を読んでいた。
 今日は絢子の帰りがいつもより遅い。
 一般公開の授業参観も近いとの事なので、図書室もいつもより念入りに手入れでもしているのだろうか。
 しかしそれにしても遅すぎる。
 と、正臣は突如空間に異変を感じた。
「この感覚は……」
 次の瞬間、正臣の目の前の床には両手を頭の上で縛られ、息も絶え絶えになっている絢子が現れたのだ。

「絢子ちゃん!!」

 正臣は文庫本を投げ出し、絢子の傍に跪く。
 一瞬でその状況を見て取った正臣は、躊躇うことなくキッチンへと向かい、果物ナイフを手にとって戻ると、絢子の腕に巻きつけてある縄を手早く切り裂いた。
「あ、……正臣、助、けて」
 途切れ途切れの息の下から、絢子が懇願する。

「正臣、助けて、体の奥が、熱くて、苦しいの」

 はあはあと息をつきながらそれだけ言うと、絢子は両の目から官能の涙をぽろぽろと零した。
「可哀想に、誰かに媚薬を盛られたんだね」
 そう言うと、正臣は果物ナイフで自分の左手の人差し指を傷つけた。
 そこからは玉のような血がぽろぽろと溢れ出る。
 正臣はその人差し指を絢子の口の中に差し入れた。
「絢子ちゃん、これを舐めて。鬼の血には解毒の効果もあるんだ」
 絢子は力の入らない舌を使って、必死に正臣の指から溢れる血を舐めた。
 だが、力尽きたのか、やがて絢子は目を閉じ、半開きの口のまま荒い息をついた。
「絢子ちゃん、それじゃ足りないよ」
「はあっ、はあっ」
 苦しげに顔を歪める絢子を見た正臣は何事かを決意したようだ。
「絢子ちゃん、今から絢子ちゃんの体の中に、俺の血を直接入れるね」
 そう言うと正臣は左手の中指と薬指にも傷をつけた。
 彼は指から流れる血を口に含むと、絢子の顎を掴んで、何度も何度も口移しで血を流し入れた。


 しばらくして絢子は正臣の腕の中でくたっと脱力した。
 先ほどまでのような辛い感覚は引いてきている。
 だんだんと鬼の血の効果が現れてきたのである。
「まさ、おみ、もう、へいき」
「良かった、またちゃんと喋れるようになったんだね、絢子ちゃん」
 正臣はそう言うと指を絢子の中から引き抜き、絢子の体を横抱きに抱きかかえた。
「どこへ、いくの?」
「バスルームだよ。絢子ちゃんの体を流してあげるよ」
「あ、はずか、しい」
 弱弱しく拒否をする絢子であったが、正臣はそんな絢子を軽々とバスルームへと運んだのであった。


 風呂から上がったあと、正臣に体を隅から隅まで丁寧に拭かれ、下着から何から全部正臣の手でつけさせられるというある意味ちょっとした羞恥プレイを行われた絢子はぐったりとリビングのソファーの上に寝そべった。
「絢子ちゃん、水飲む? 持って来ようか?」
「はい、お願いします」
 正臣がキッチンへ向かうと、絢子ははあと大きなため息をついた。
「はあ、ようやく落ち着いた。それにしても、明日はどんな顔して優美ちゃんに会えば良いのかしら」
 優美に行われた恥辱の数々を思い出して絢子は赤面した。
 さらにもしあの場で転移していなかったら、自分は確実に優美に乱暴されていたはずだ、と絢子は肝の冷える思いがした。
 あんな恐ろしい思いはもう二度としたくない。
 自分の意志に反して強制的に昇らされるというのは本当に怖かった。
 そんなことを考えていると正臣がミネラルウォーターの入ったコップを持ってやってきた。
 正臣は絢子の隣に座り、絢子の体を抱き起こすと、その手にコップを持たせた。
「あの、もう自分で出来ますから」
 絢子がそう言うと正臣はにこりと笑った。
「これはね、俺がやりたいからやってるの。絢子ちゃんの体にもっと触れさせて」
 背中には正臣の逞しくしなやかな腕がある。
 それに寄りかかると、絢子はミネラルウォーターをこくこくと飲んだ。
 全て飲み干し、コップを正臣に返す。
 しかし正臣は絢子の背中を抱いたまま動かない。
「正臣?」
 絢子が正臣にいぶかしげに聞く。
 すると正臣はにこにこと笑いながら絢子の耳元に口を寄せた。
「ねえ絢子ちゃん、今日はさ、俺の部屋で一緒に寝ようよ」
「え?」
「今日ぐらいは良いでしょう? 俺、今日の功労者だもん」
「で、でも……」
「駄目?」
「……駄目じゃ、ないです」
「よし! 決まりね!」
 そういうと正臣は絢子をひょいと抱きかかえ、自分の部屋へと運んだ。

 正臣の部屋はモノトーンで統一されたお洒落な部屋だった。
 セミダブルの黒いベッドの上に絢子をそっと横たえ、掛け布団をかけると、正臣は自分もその隣に横になった。
 枕元においてあるリモコンで照明を消す。
 暗くなった部屋のベッドの上で、絢子は正臣と二人きりになってしまった。
 絢子は、だんだんとドキドキしてきた。
 気分は「魔女の宅急便」の、だらだらと冷や汗を流す人形のふりをした黒猫ジジのようである。
「絢子ちゃん、緊張してる?」
「しっ、してませ……」
「う・そ。心臓の音がバクバク聞こえるよ」
「えっ!?」
「ははは、絢子ちゃんは信じやすいなあ」
 暗闇の中で交わされる二人の会話。
 最初は緊張していた絢子であったが、正臣の軽口でだんだんとこなれてきたのと、今日の疲労で睡魔が襲ってきたこともあり、会話が滑らかになってきた。
「正臣、あの、今日はありがとうございました」
「ん、気にしないで、役得だから」
「明日……また、美味しいご飯作ってください」
「仰せのままに、俺の姫君」
「はい、ありがとうございます……ぅ」
 そしていつの間にか絢子はすうすうと寝息を立てて寝入ってしまったのであった。



[27301] 夢の仕組み
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:c76e55c7
Date: 2011/04/25 00:22
 目覚めは一瞬で訪れた。
 絢子は正臣の部屋のベッドでぱちりと目を覚ました。
「うーん、よく寝たあ」
 頭も体もクリアで、すっきりとしている。
「そう言えば、昨日は全然夢を見なかったわ」
 絢子はひとり呟く。
 昨日は泥のように眠ったため、夢など一切見なかったのである。
 ふと寝返りを打つが、そこには正臣の姿はなかった。
「正臣、先に起きたんだ」
 そのことになぜだかわからないが寂しさを感じる。
 絢子はベッドからするりと抜け出して正臣の部屋をあとにした。

 キッチンにはいつも通り黒いエプロンをつけた正臣がおり、朝食を作っていた。
「正臣、おはよう」
「絢子ちゃんおはよう。昨日はよく眠っていたね」
「はい、夢も見ずにぐっすりと眠りました」
 絢子はそう言うと、ふと気付いたことを正臣に聞いた。
「あの、もしかして敵は私が夢を見ないと私の意識の中に入ってこられないんですか?」
 絢子のその質問に正臣は目を丸くしたあとふっと笑顔を浮かべた。
「御明察。人間にはレム睡眠とノンレム睡眠があるでしょう? 深い眠り、脳の眠りであるノンレム睡眠時には『渡り』や催眠が効かないんだ。泥のように眠ってしまえば、少なくとも自分の心の中には入ってこられないんだよ」
「そうなんですか」
 絢子はこくりと頷いた。
「でも、確か眠りってレム睡眠とノンレム睡眠が九十分ごとに交互に訪れるんじゃなかったでしたっけ? どんなに深く眠っていても、いずれはレム睡眠の状態になるのじゃありませんか?」
「よく知ってるね、絢子ちゃん。確かに人間の睡眠には交互に波があることが知られている。ただ、こういった普段の眠りには、疲れた脳が休みに入る自然の現象があるだけで、『渡り』の本質である『リラックスした状態での集中』が欠けているんだ。『渡り』がしやすいのはレム睡眠の状態だけれども、その状態と上手くリンクさせるのには相応の技術がいる。相手が必ずしも夢を見ているとは限らないからね。しかし、一度入り込めれば、あとは容易く相手を操ることが出来る厄介な技なんだ」
「それって夢遊病とは違うんですか?」
「夢遊病の場合は眠りに入ってから一~三時間の間、深いノンレム睡眠時に起こりやすいんだけど、それは脳がストレスを抱えたときなんかにそれを処理しようとして起こる現象なんだ。『渡り』はそこには影響しないんだよ。まあ、夢自体も本来は脳が記憶の整理をしている状態なのだけれどね」
「随分科学的に解明されているんですね」
 絢子がそう言うと正臣はにこりと笑った。
「だって絢子ちゃん、ここは平安時代ではなく現代だよ? 様々な事象が解明されてきているこの時代に、鬼や忍の技もまた理屈や科学で解明できるものが増えてきているんだ。とは言っても、敵がどうしてそんな遠隔から対象の夢に入り込めるのか、だとか、鬼の詳しい生態なんかはまだ解明されていないことが多いのだけれどね」
「鬼や忍は、一種の超能力者のようなものなんですか?」
「多分、そんなところなんじゃないかな。もしかしたら鬼は地球外生命体かもしれないよ?」
「えっ!? 正臣は宇宙人なんですか!?」
 絢子の驚いた顔を見た正臣はふと真面目な表情になった。
「絢子ちゃん、もし俺が宇宙人だったらどうする?」
 絢子は下を向いてうーんと考えた。
「ど、どうするって言われても」
 しばらく静寂が訪れる。
 やがて考えをまとめたのか絢子は口を開いた。
「正臣は正臣ですし……どうもこうもないです」
 その台詞にすっと息を呑む音がした。
 ふと頭の上に影が出来る。
 顔をあげると、そこには思いがけず切ない笑顔を浮かべた正臣が立っていた。
 正臣はそのまま絢子をぎゅっと抱きしめる。
「わっ! ちょっ! 正臣!?」
 正臣の腕の中でじたばたと暴れる絢子であったが、やがて観念して大人しくなった。
 それでもまだ正臣は絢子を離さない。
「正臣?」
「……ありがとう、絢子ちゃん。まさか今の話で絢子ちゃんのそんな言葉が聞けるとは思わなかった。実はさっきの質問をしたあと、俺が異形の者だと理解したら、絢子ちゃんは俺のことを拒絶するんじゃないかって少しだけ怖かったんだ」
 正臣の言葉に、絢子はほっと体の力を抜いた。
「理解なんてそんな、私は何だか、いつの間にか、正臣は正臣なんだなあって受け入れていましたよ。それに昨日は正臣が鬼だったから助けてもらえたのですし。……それにしても正臣にも怖いものなんてあるんですね」
 絢子は正臣の腕の中でふふっと笑った。
「ああ。今は、絢子ちゃんを失うのが何よりも怖いよ」
 正臣はそう言うと腕の中の絢子にそっと身を摺り寄せたのであった。


 今日の朝食はふわふわの半熟オムレツ、生ハムサラダ、コーンポタージュ、小さめのトーストである。
 それらを食べながら、絢子は昨日までに起こった出来事を正臣に正直に話した。
 正臣は絢子の食べる姿を、頬杖をつきながら笑顔で見つめている。
「……ふうん、じゃあ、絢子ちゃんはその小川優美って餓鬼から隠岐伊織を手に入れるために利用されようとしていたんだ。念土を使って絢子ちゃんを襲おうとしたのも、昨日のあの姿も全部その餓鬼の仕業だったんだ」
「餓鬼って……ええ。それにあの、優美ちゃんからは、どっ、奴隷にするって言われました」
「ん?」
 それを聞いた正臣は笑顔を崩さぬままふわりと殺気をまとった。
「俺の愛しいただひとりの人である絢子を奴隷に? ……ふうん、その餓鬼、仕置きが必要だね」
「あっ、正臣、相手はか弱い女の子なんですから、どうかお手柔らかに」
「か弱い? その餓鬼のどこが? 俺の絢子を嬲り者にしたのに? ……絢子ちゃん、絢子ちゃんは鬼の性をまだよくわかっていないらしいね。鬼は本来残虐非道、嫉妬深くて執念深いんだよ。それに自分の大切なものを傷つけられたら、鬼でなくとも報復したいと思うのは人情なんじゃない?」
「それは違いませんけれど……」
「鬼の大切なものに手を出したらどうなるか思い知らせてやらないと。俺の絢子を奴隷にするなんていう下種な考えを二度と起こさせないように、じっくり追い詰めてやる」
 それらのことを淡々と笑顔で言うものだから、絢子は底冷えのする思いがした。
「あの、正臣は優美ちゃんのことをどうするつもりなんですか?」
「どうって、俺の手で二度と人前には出られないほどの体にしてやってもいいし、精根尽き果て廃人になるまで犯してやってもいい。うーん、でもそれじゃあまだ生ぬるいな」
「正臣! 相手に危害を加えるのは止めてください! そんなことをしたら、私は正臣を嫌いになってしまいます!」
 絢子は必死の形相で正臣に懇願した。
 今にも泣き出さんばかりの表情の絢子を見た正臣はしかしふっと表情を改めた。
「……ごめんね絢子ちゃん、絢子ちゃんの意向はなるべく汲みたいけれど、こればっかりはしょうがないんだ。俺の中ではその餓鬼に何らかの報復を与えるってことはすでに決定事項だからね」
「そんな……」
「でも、うん、そうだね、俺の中で一番丸く収まる方法で解決しようと思うよ」
「そうですか、危害を加えたりはしませんか?」
「危害はね、多分加えることはないと思うよ」
「良かった……」
 ほっとため息をついた絢子は椅子の背に寄りかかった。
 安心したのか、絢子の目からはポロリと涙が零れた。
「泣かせちゃったね」
 正臣はそう言うと席を立って絢子の隣の椅子に座り、彼女をふわりと抱きしめた。
「うえっく、ひっく」
「……ああ、これだから絢子のことが愛しくて堪らないんだ」
 絢子の背を優しくさすると、正臣は低く官能的な声で、絢子の耳元で囁いた。
「俺の愛しいただひとりの人、絢子のためなら俺は何だってするよ」
「ひっく、ほ、本当?」
「絢子の笑顔を守るためならば、俺は何にだってなれる。鬼でも悪魔でも、天使でさえも」
 絢子を腕の中に閉じ込めながら誘惑するかのように正臣は言った。
 だが、絢子はその腕の中でふるふると首を振った。
「正臣はっ、正臣のままでいい」
 絢子はそう言うと正臣のシャツをぎゅっと掴んだ。
「そう言うと思ってた。それが絢子の本心だとわかるから、俺は絢子が愛しいんだ」
 正臣はそうして絢子が泣き止むまでずっと抱きしめていたのであった。






 出勤した絢子は準備室の自分の机の上に小ぶりのバッグをことんと置いた。
 昨日は自分だけ転移してきたので、コートとバッグはあの三階の空き教室に置きっぱなしだったのである。
 出勤するのに手ぶらでは周囲から奇異の目で見られるかなと思った絢子は、一応バッグを持って出てきたのだ。
 次に絢子は職員室に行き、三階の空き教室の鍵を借り、そこへと向かった。
 鍵を差込み、がらりとドアを開ける。
 そこには昨日の出来事など嘘であったかのように何の変哲もない教室があった。
 ただ、昨日の出来事が本当であったと確認できたのは、教室の端に転がっている自分のコートとバッグを見つけたときであった。
 それを取り、教室から出ようとしたところで突然うしろから声がかかった。


「絢子お姉さま」


 ビクッとして振り向くと、そこにはいつ来たものか、腕を後ろ手に組んだ小川優美が立っていたのである。
「ゆ、優美ちゃん」
 優美はその場から動かず、しかし絢子をにこにこと見つめた。
「昨日はいいところで中断してしまいましたわね。いけずですわお姉さま、ご自分だけ昇ってしまって、わたくしにはそのままでいろだなんて。ふふ、でもそんな焦らしプレイも楽しかったですわ。次に犯し甲斐がありますもの。それにしても、お姉さまは転移もおできになられたのね。すばらしいですわ! ああそうだ、昨日の夜はあの同棲男にいっぱい突かれたのですか?」
「え?」
「あの媚薬の効き目は如何でした? あの男もさぞ喜んだでしょうに。処女なのに淫乱なお姉さまを思う存分抱くことが出来て」
「そ、そんな、違うわ。私は抱かれてなんかいない」
 絢子がそう言うと優美は首を傾げた。
「あら、おかしいですわね。その男、解毒剤でも持っていたと言うのかしら? それともお姉さまが? まさかそんなはずはありませんわよね。あれは秘伝の薬。どうやって媚薬の毒から逃れたんですの?」
「ねえ優美ちゃん、こんなこと止めてちょうだい! 私を奴隷にしたって隠岐君の心は手に入らないわ!」
 絢子のその言葉を聞いた優美はぷうとむくれた。
「お姉さま、わたくしの質問には答えてくださらないのね」
「優美ちゃん……」
「まあよろしいですわ。絢子お姉さまが未だ処女であると言う嬉しい事実には変わりはありませんもの。それに昨日のお姉さまを見て、わたくしとっても欲情しましたの。伊織様はもちろんのこと、お姉さまも必ず手に入れて見せますわ。それでは、ごきげんよう」
 そう言って、優美は軽やかに身を翻し教室から出て行った。
 絢子はため息をつくと、自分のコートとバッグを拾って、その場をあとにしたのであった。


「おはよう絢子さん、昨日の小川さんとのデートはどうだった?」
 準備室に戻るや否や妙子が聞いてくる。
「どうって、やはりこの前の封筒の犯人は優美ちゃんでした」
「やっぱりね、で、殴り合いの喧嘩はしたの?」
「いえ、喧嘩はしませんでした」
 喧嘩どころかそれ以上の屈辱と恥辱を味合わされました、とは言えず、絢子は黙った。
「小川さんね、さっき準備室に来たのよ。『絢子お姉さまに伝えて欲しいことがある』って」
「何ですか?」
「『お姉さま、これからも優美と仲良くしてくださいね。愛してますわ』ですって。昨日、三階の空き教室で一体何があったの?」
 さらに厄介な出来事に発展してしまいました、とももちろん言えなかった。
「とりあえず、今後もう脅迫文を送られることがなくなったと言うのは確かです。あと、盗撮写真の件も然りです」
 そんなことをしなくとも、昨日の昼の出会いのおかげで、今後優美は積極的に伊織や絢子に接触してくるだろうと予想できる。
「それにしても、あの子、何か裏がありそうなのよねー。これは私の勘だけれども」
「鋭いですね、妙子さん」
「何? やっぱり昨日何かあったんでしょう?」
「あったというか、何と言うか……優美ちゃんは隠岐君のことが好きなんです。それで、最初は隠岐君と仲良くしている私のことを目の敵にしていたんですけれど、考えを変えたのか、今度は私を介して隠岐君に近づこうと思っているみたいなんです」
「そうなんだ。やっぱり一癖も二癖もある子みたいね。まあ、恋は盲目って言うけれど、小川さんって結構ぶっ飛んだ感じの子だったのね」
「ええ、私もびっくりしました」
 まさかあんなことまでされるとは。
 昨日の空き教室での出来事を再度思い出して背筋がぞっと冷えた絢子である。
「今日のお昼は一波乱起きそうね」
「ええ……そうですね」
 絢子はこれからの前途多難な行き先にあああと頭を抱えたのだった。



[27301] 妙子、女生徒を諭す
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:c76e55c7
Date: 2011/04/25 00:23
 絢子は今日の昼が来ないで欲しいと切に願ったが、悲しいかな、時間と言うものは無常なもので、時計の針は規則的に刻一刻と時を刻んでいった。
 やがて四時間目終了のチャイムが鳴り、廊下が騒がしくなった。
「ああ、これから憂鬱だわ」
「絢子さん、そんなに落ち込まなくても」
 妙子に慰められた絢子は重い足を引きずりながら、全面ガラス張りの食堂へと向かったのであった。

 今日の日替わりA定食のメインはハンバーグだった。
 妙子と二人で席につくと、いつものように悠真と伊織がやってきた。
 絢子の両隣に学園の二大アイドルが陣取ると言う光景は、早くも栗栖学園の名物風景となっていた。
「いやあ、しかしこうやって客観的に見てみると実に壮観よねー」
 妙子がハンバーグをつつきながらまじまじとその二名を見る。
 絢子の両隣には、片やきらきらとしたオーラが、片や色気のあるオーラが渦巻いているのである。
 悠真はふわふわの金髪をなびかせ、灰色の瞳を輝かし、少しアヒル口のぽってりとした唇でハンバーグを頬張っている。
 その姿はどこかエロティックであり、悠真の食べる瞬間を偶然見てしまった生徒は男女問わずごくりと唾を飲み込んで、あらぬ想像をするのであった。
 伊織は少し長めの漆黒の前髪から気だるげな瞳を覗かせ、淡々とハンバーグを口に入れ、咀嚼し、飲み込んでいる。
 だが、その男らしく喉仏の出ている淫靡な喉の動きを見た女生徒達は「ああっ」と気をやられるのであった。
「単なる食事と言う風景がこれだけ周囲をかき回すとは、あんた達末恐ろしいわね」
 妙子があきれたように言った。
 絢子は幸か不幸かその光景を目にすることはないので、一応落ち着いて食事を取ることができている。
 と、その現場に、新たな人物がやってきた。

「絢子お姉さま、妙子女史、お隣の席、良いかしら?」

 そう声をかけたのは、誰であろう、小川優美だった。
「妙子女史、ここに座ってもよろしいですかしら?」
「ええ、私は構わないわよ」
 優美は妙子の隣、伊織の前の席にトレーを置くと、楚々とした態度で椅子に座った。
 彼女はそれから極めて上品に、ナイフとフォークを使ってハンバーグを口に運ぶ。
 優美のぱつんと切りそろえられた前髪、背中まで垂れる手入れの行き届いた綺麗な黒髪は全く動きを見せず、それが返ってこの少女を人形のような儚げな様子に見せていた。
 瑞々しい肢体は、その食べる動きですら舞を舞っているかのように見せていた。
 そんな優美の姿を、遠巻きにきつい視線で見ている団体が幾つもあった。
 それに気付いた絢子が優美に話しかける。
「優美ちゃん、もしかして優美ちゃんは誰かに嫌がらせとか受けたりしていない?」
 それを聞いた優美ははっと顔をあげ、食べる手を止めナイフとフォークを置くと、絢子のほうをその兎のような大きな瞳でうるうると見つめた。
「絢子お姉さま、優美のことを心配してくださるのですね? わたくし、今とっても嬉しいですわ」
 感極まっている優美は絢子に掴みかからんばかりの勢いで見つめている。
 その勢いにちょっと引き気味の絢子は、しかし労いの言葉をかけた。
「ゆ、優美ちゃん、もし何か困ったことがあったら、いつでも相談してね」
 絢子のその言葉を聞いた優美は、ぱあっと花を咲かせんばかりの勢いで答えた。
「絢子お姉さま……! 優美は、優美は絢子お姉さまに今この愛をどうやって伝えようか困っていますわ!」
「ひいっ」
 思わず仰け反りそうになる絢子であった。

 そんな中、昼食を最初に食べ終わったのは伊織だった。
 伊織はトレーを持って席を立つ。
 すると、それを見た優美が伊織に声をかけた。
「あのっ、伊織様!」
 優美ははっと、自分でもどうしてそんな大きな声が出たのか不思議であると言った風情で俯いた。
「何?」
 伊織が少しハスキーな色気のある声で端的に聞く。
 優美は俯いたままもじもじとした。
「用がないんだったら俺行くけど」
 優美は頬を染めながらやっとのことで声を出した。
「あの、伊織様、明日も伊織様の御前でお昼をいただいてもよろしいですか?」
 か細く、消え入りそうな声で優美はそれだけ言った。

「別に」

 伊織はそう言うとトレーを持って去っていった。
 優美ははっと顔をあげ、瞳をうるうると輝かせ、頬を染めながら、伊織の背中をずっと見つめていた。
「小川さんは恋する乙女なのね」
 妙子がその姿を見て納得したように言う。
「はいっ! 恥ずかしながら、わたくし伊織様のことをお慕い申し上げておりますの」
 兎のような瞳をきらきらと輝かせながら優美は勢い込んで言った。
「もしかして、妙子女史はわたくしのことを応援してくださるのですか?」
「まあ、それなりにはね、応援するわよ」
「嬉しいですわ! 妙子女史にそう言っていただけるととっても心強いです!」
 優美は残りのメニューを素早く、しかし上品に食べ終わると、席を立ち、伊織が去っていった方向に足を向けた。
「それでは皆様、ごきげんよう」
 トレーを持って優美は楚々とした態度で消えていったのであった。
 しかしその優美を追う影があちこちからちらほらとあった。
「優美ちゃん、大丈夫かしら……」
「ああ、あの子ならきっと心配ないわよ」
 妙子が手を振りながら言う。
「どういうことですか?」
「あの子そんなに柔な子じゃないわよきっと。見た目はか弱い兎に見えて、その実獲物を狙う猛禽類のような身のこなしだもの。ちょっとやそっとじゃ折れないって」
「妙子女史は鋭いんだね」
 悠真が感心したように言う。
「絢子にもそれぐらいの危機感があればいいんだけどなあ」
「ちょっと、悠真君、それってどういうこと?」
「でも、考えようによってはそんな絢子を守るために僕らがいる、って考え方もあるわけだから、まあいいとしよう。じゃ、ごちそうさまでした」
 悠真はひとり納得すると、トレーを持って席を立ち、去っていったのであった。
 妙子は悠真の背中を見つめながら、ふと何かに気付いたように言った。
「あら? 鐘崎君は今『僕ら』って言っていたけれど、絢子さんの周りにはもしかしてまだナイトがいたりするのかしら?」
「ひい! 妙子さんは推理小説で勘を鍛えすぎですよ! 妙子さんには色々と駄々漏れな気がします」
 絢子はがっくりと肩を落とした。
 そんな絢子を慰めるように妙子は言う。
「あら、そうでもないわよ? 私の勘が特別鋭いってだけでもないんじゃないかしら。絢子さんの素直な反応でいろいろと情報がつかめるもの」
「ええー! 私自身が全部漏らしちゃっているんですか!?」
「でも、そうは言っても絢子さん、あなたまだ私に話していないことが沢山あるでしょう? 一番大事な部分はてこでも話さないのがきっと絢子さんなのよね」
 何やら色々と見抜かれている絢子であった。


 こうして昼食の時間は何とか無事に終わった。
 四階の図書室に戻った絢子と妙子はカウンター作業をしていた。
 昼休みに本を借りに来る生徒の対応をしていると、図書室に絢子の妹(候補)達がやってきた。
 その中の数人は怯えているようだ。
 妹達は絢子の姿を認めると、わっと泣き出さんばかりの表情で駆け寄ってきた。
「どうしたの皆?」
 尋常ではないと見て取った絢子はカウンターを出て、妹達の傍に寄った。
「あ、絢子お姉さま! 私達、とんでもない話を聞いてしまったんです!」
「とんでもない話って?」
「小川優美は恐ろしい化物です!」
「えっ!?」
 絢子はどきりとした。
 もしや優美がまた学校で念土を使ったのであろうか。
 絢子は女生徒達を空いている席に座らせると、話を聞く体勢に入った。
「あなた達は何を聞いたの?」
 妹達の中ではリーダー格の女生徒が口を開いた。
「私達の内の何人かが昨日、小川優美に注意しに言ったんです。絢子お姉さまの妹になるには許可が必要だって。そしたら、彼女の後ろに巨大な影が現れて、注意した子達に襲い掛かってこようとしたんです」
「巨大な影?」
「はい、昨日注意しに行って影を見たのがこの子達です。最初は嘘だと思っていました。だから今日は全員で小川優美の下へ行ったんです。そしたら先客がいて、小川優美をどついていました」
「それで?」
「そうしたら次の瞬間皆何かに怯えてこちらへ逃げてきました」
「あの子化物ですよ! お姉さまももう関わらないほうがいいですわ!」
「ちょっと、あなたはまだ黙ってて! それで、こちらに走り寄ってきた子達に話を聞いたんです。そしたらその子達もやっぱり影を見たって」
「どんな影を?」
「その影は見た人によってばらばらで、角の生えた怪物であったとか、自分の父親のようであったとか、口が耳まで裂けた女であったとか、色々なんです」
「私もう嫌! あんな子に関わりたくない!」
「だから、私達お姉さまにあの子には近づかないようにって皆でお話しに来たんでしょう?」
 リーダー格の女生徒が影を見たと言う女生徒を宥めている。
「話はわかったわ。あなた達はしばらく優美ちゃんに迂闊に近づかないほうがいいわね。私からも優美ちゃんに話を聞いてみるから」
「駄目です! お姉さまは優しいから、きっとあの小川優美にいいようにされるだけですわ!」
「うっ……」
 実際、絢子はその人の良さにつけ込まれ、優美にいいようにされたばかりなのだが、本人は今それを頭の隅に追いやっているようであった。
「まあまあ、あなた達が怯えるのは尤もだけれどね、その小川さんだって怖がっていたのかもしれないわよ」
 妙子が取り成す。
「その影のことは俄かには信じがたいけれど、あなた達の言っていることを信じるとするならば、その影はあなた達が小川さんを刺激したから出てきたんじゃないのかしら?」
「妙子女史は小川優美の味方をするんですか!?」
 激昂したひとりの女生徒が言う。
「味方ってわけじゃないけれどね、絢子さんは誰のものでもないわ。絢子さんの妹になりたいっていうことにあなた達の許可が本当に必要だったのかしら?」
「でも妙子女史、それじゃあ規律が……」
「あなた達が言う規律は、あなた達が作った言わばローカルルールよね? それを万人に適応させようとするのはどうなのかしら」
「じゃあ、小川優美の行動を見過ごせって言うんですか? もし小川優美が絢子お姉さまに迷惑をかけたとしても、私達はそれを、指を咥えて見ているだけしか出来ないんですか?」
「小川さんはそこまで空気が読めない子でもないと思うわ。そうだ、同じ思いを持つもの同士で話し合ったらいいじゃない」
「で、でも、話はしました!」
「いいえ、あなた達がしたのは注意と言う名のいちゃもんでしょう? しかも小川さんひとりに対して数人で。これはいじめにもつながるんじゃないの?」
「いじめだなんてそんな! 私達はただ、抜け駆けが許せなくって……」
「じゃあ、あなた達も今度からは私達の席で昼ご飯を食べれば良いんじゃないの?」
 片眉をあげて言う妙子の顔を見たその女性徒はくしゃっと顔を歪ませた。
「そんな……、それはそう言う行動を緊張せずにごく自然に出来る人達だけの特権です! 私達のようなしがない一般生徒には遠巻きに見ているだけしかできないんです。それに、一度に沢山の人数で押しかけたら、絢子お姉さまにご迷惑がかかると思って遠慮していたんです」
 そう言ってその女生徒は今にも泣き出さんばかりの表情で俯いた。
 妙子はふっと微笑んだ。
「私はね、あなた達のことを一度たりとも一般生徒と言うくくりで見たことはないわよ。皆それぞれに個性があって、ただひとりの人達ばかりなのだもの。そんな人達が『絢子さんが好き』という同じ気持ちを持って集うなんて、なんて素敵なことなのかしらと思っていたのよ。そう言う気持ちを共有できるあなた達ならば、ローカルルールなんかに縛られずに、自由に行動出来るのではないか、『絢子さんに迷惑がかかるのではないか』と言う配慮が出来るあなた達にはそれが出来るはずなのではないか、と、私は思うのだけれども」
 そう言うと妙子は俯いている女生徒の肩をぽんと優しく叩いた。
「絢子さんだって、そんなに一生懸命になってくれているあなた達のことを好きでないはずがないわ。そうでしょう? 絢子さん」
「ええ、妙子さん。私、皆のような素敵で可愛い妹達が出来て本当に嬉しかったんですよ」
 絢子のその言葉を聞いた女生徒達は目を潤ませた。
「絢子お姉さま……、妙子女史……、お二人の言うことはよくわかりました」
「影のことは納得できませんけれど、小川優美本人の行動は、良い悪いはともかく、私達には出来ないことだって、どこかで羨ましがっていたのかも知れません」
「私達はまだ小川優美を受け入れることは出来ません。でも妙子女史に言っていただいたように、歩み寄ることはしてみよう、少なくともこれからはちょっかいを出すことは止めにしようと思いました」
 そうリーダー格の女生徒が言うと、それを合図としたのか彼女達は席を立った。
「私達にも自分達が気付かなかった醜い部分があったのですね。今日はそれを絢子お姉さまと妙子女史に教えていただきました。ありがとうございました」
 そう言って彼女達は絢子と妙子にすっと頭を下げたのであった。


 女生徒達がいなくなると、絢子はほっとため息をついた。
「妙子さん、さっきのお話とっても格好良かったです。何だか眩しいです」
 絢子の賞賛をほほほと笑って受け止めた妙子はにこりと笑顔になって話した。
「司書教諭には『教諭』って言葉が入っているでしょう? 生徒達を教え諭す役目も担っているのよ。それにしてもこの学園の子達は物分りが良いわねー。手間がかからないのはありがたいけれどね。巷で聞く学級崩壊・学力低下なんて言葉が嘘みたいだわ。特にあの子達がそうなのかは知らないけれど、根が素直な誰かさんと似てるわね。やっぱり妹だけあるからかしら」
「もう、妙子さんたら」
 絢子がそう言い、二人は顔を見合わせ笑い合ったのであった。



[27301] 邪視
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:c76e55c7
Date: 2011/04/25 00:24
 放課後。

 校庭では部活動を行う生徒達がランニングをしたり、柔軟体操をしたりしている。
 室内では吹奏楽部や管弦楽団、文芸部や茶道部などといった部活の生徒が楽しそうに活動している。

 さて、この栗栖学園には、使われていない教室や倉庫というのがいくつかある。
 それら教室や倉庫は、大抵人通りの少ない場所にあり、普段は厳重に鍵がかけられ、使用するときがくるまで開くことはない。
 だがその中のひとつ、学園の外れの空き倉庫の中では異様な光景が広がっていた。


「ここは、どこ? 私達何でこんなところに来たのかしら?」
 それは昨日と今日の昼休みに、優美を罵ったりどついたりした伊織の親衛隊である女生徒達であった。
 たった今夢から覚めたかのような風情で辺りを見回す。
 自分達は今、帰り支度をして教室から出てきた、と思っていたら、いつの間にかこんな空き倉庫の中にいるのだ。
 と、そのとき倉庫の暗がりから少女達に声がかかった。

「ふふ、いらっしゃい、わたくしに跪く者達よ」

 声のするほうを見ると、そこには倉庫の棚の上に脚を組んで両手をそれぞれ体の横について座っている小川優美がいたのだ。
「あ、あんた、こんなところで何やっているの!?」
「何で私達がこんなところにいるのよ!?」
 その少女達は皆一様に怯えた表情で優美を見ていた。
 彼女達は皆、昼休みに巨大な影に襲われかけた生徒達であったのだ。
 しかし優美は笑顔のままで特には言葉を発しない。
 その異様な状況に耐えられなくなった少女達は我先に倉庫の扉へと向かう。
 しかしいくら扉を叩いても、押しても引いても扉は開かない。
 彼女達は必死の形相で扉をガンガンと叩いた。
「開けて!! 誰か助けて!!」
「閉じ込められています!! 誰か早く来て!!」
 そのとき彼女達のその背後で、ドンという一際大きな音があがった。


「べちゃくちゃうるせえな。わめくんじゃねえよ」


 どすの利いた低い声でそう言ったのは誰であろう、小川優美であった。
 その音と声にビクッと静まり、恐る恐る振り向く少女達。
 優美は酷薄そうな笑みを浮かべ、棚の上から彼女達を見下ろしている。

「これからてめえらを私の下僕にしてやる。ありがたく思いな」

 そう言うと優美は彼女達の目を見るとかっと自身の目を見開いた。

「邪視!!」

 瞬間、彼女達の目は虚ろになる。
 彼女達は肩にかけていた鞄をどさりと下ろした。

「さあ、今日はそのまま家にお帰りなさい。明日の放課後、またここに来るのです。今度はあなた方の親衛隊のご友人方を連れていらっしゃい」
「「「はい、優美様」」」
 少女達は返事をすると鞄を手に取り倉庫の扉に手をかけた。
 すると最初は開かなかったそれが今度は簡単に開いたのである。
 彼女達は周囲に気を配り、倉庫から出て行ったのであった。

 倉庫の中には優美がひとり佇んでいた。
 優美は少女達が出て行ったあともしばらく周囲の気配を探っていたが、誰もいないとわかると、さっと扉から出て、素早く鍵を閉め、何事もなかったかのように家路へとついたのであった。




 数日の内に、優美の周りには優美を慕う女性徒がわらわらと集まってきていた。
 どの女性徒もちょっと異様な目つきで優美を見つめている。
 それは崇拝していると言ってもよかった。
 たった数日の内に、優美は自分に敵対する女性徒のグループの主要メンバーを掌握したばかりか、意のままに操るようになったのである。
 幸か不幸か、そのグループの中には絢子の妹(候補)達はいなかった。
 妹達は優美の周りの豹変振りに首を傾げるばかりであったが、必要以上には関わろうとはしなかった。
 ただし、その違和感を絢子と妙子に伝えることだけはしていた。
 今日も図書室では絢子の妹達と絢子、妙子が話し合っている。
「ええ、確かにちょっと異常よね」
 妙子が先の女性徒達の話にふむふむと頷きながら言う。
「ここ数日で、小川さんの周りの視線ががらりと変わったもの。今までは険のあるものだったのが、ここ数日の内に、何ていうか、舐めるような視線に変わったわよね」
「ええ、それにその子達も何だかおかしいんです。どこかぼうっとしているような、夢見がちな感じで、小川さんの方をうっとりと見つめているんです。あと、隠岐君に対する視線も、何だか前よりもいやらしい感じになったと思います」
 リーダー格の少女が言うと周りの女性徒達もうんうんと頷いた。
「そうなんだ。優美ちゃんとお昼を一緒に食べるときは別段変わったところはないけれど……。でも皆が見ている優美ちゃんの周囲の人達がそんな風になっているなんて、何か裏がありそうね」
 絢子は考えながら言った。
「絢子お姉さま、妙子女史、私達どうすれば良いんでしょう? 迂闊に近づいて相手を刺激するようなことはしたくありませんけれど、このまま放っといてもいいものなのか……。何だか、これは考えすぎかもしれませんけれど、このまま小川優美に学園を乗っ取られそうな気がしてならないんです」
「それはさすがに大げさかもしれないけれど、でも今の状況を鑑みると、そうなる日も遠くはなさそうって勢いよね」
 妙子が言う。
「あなた達の話を聞く限り、今、小川さんは隠岐君の親衛隊の主要なメンバーをほぼ全て掌握していると言っていいわね。どうやったかは知らないけれど、これで争いがなくなるのであればまずは一安心なんじゃないかしら」
「そうですね、ただ、それだけで済めばいいんですけれど……」
 得体の知れない不安を拭い去れない図書室のメンバー達であった。



[27301] 授業参観
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:88ac9c92
Date: 2011/04/26 00:22
 今日は土曜日。
 絢子にとっては待ちに待った一般公開の授業参観日の当日である。
 準備室でいつも通り支度をしながら、絢子は誰が見てもわかるぐらいそわそわとしていた。
「絢子さん、気もそぞろって顔してるわよ」
「えっ、私、そんな顔してますか!?」
 両頬を押さえ、思わずムンクの「叫び」のような顔をする絢子である。
「あら、顔面思いっきり崩れてるわよ」
「ひいい!」
 あたふたする絢子を見た妙子はふっと笑うと言葉を発した。
「絢子さんのことだから、どうせ今日になって『仕事を放り出してしまって申し訳ない』と言うような罪悪感を持っているんじゃないの? もしそうならばそんなことは気にせず、堂々と観に行ってらっしゃいな。ご自分の夢に向かって一歩を踏み出して来たら良いわよ」
 あわあわとしていた絢子は、妙子のその言葉を聞いてはたと動きを止めた。
「うう、妙子さん、すみません」
「違うわよ、そういうときは『ありがとう』って言うのよ」
「あ、その台詞、前に正臣にも言われました」
 絢子がそう言うと妙子はにやにやとしながらふうんと頷いた。
「絢子さんの彼もなかなかいいこと言うじゃない」
「かっ、彼じゃありません!」
「同棲してるのに?」
「あうう、妙子さんのいけず」
 涙目になった絢子はしかしそのまま言葉を続けた。
「……私、やっぱり教師になりたいって夢を見ているだけで、本当は全然行動出来ていないんじゃないかって不安だったんです。去年と今年、二年連続一次落ちでしたし、今だって生活の変化にかまけて勉強には全然手をつけていないし……不甲斐ないなあって思っていたんです。そんな私がのこのこ授業参観に顔を出しても良いものか、って考えていたんです」
 絢子の告白を聞いた妙子は片眉をひょいとあげたあと微笑んだ。
「絢子さんって真面目なのねー。でもそれは決して悪いことじゃないわよ。相手や事象に対して真摯に向き合っていることの表れだもの。今日の授業参観はね、後学のためとでも思って気軽に行って来たら良いわよ。それに、何も全て教員採用試験のためだけに人生をつぎ込む必要なんてないと思うわ。今勉強していることが次にどんな役に立つかなんて誰にもわからないもの。多くのことを吸収して、少しでも豊かな人間になって来なさいな」
「妙子さぁん!!」
 うるうると瞳を輝かせながら、絢子は妙子の手を握らんばかりの勢いでぱあっと顔を明るくした。
「妙子さんは教師の鑑です! 私も妙子さんのような教師になりたいです!」
 妙子は手を振りながらあははと笑った。
「まあ、私の立場は厳密に『教師』と言って良いかちょっと曖昧な部分もあるのだけれど。私は一応中学と高校の理科の教員免許と司書資格も持っているのだけれど、それとこれとは話が別だからね」
「えっ!? そうだったんですか! 妙子さん、理科の教員免許を取得されていたんですか! 私は司書教諭の免許って教員免許と合わせて取るものだと思っていたから、妙子さんは何の免許を持っているのかなあって気にはなっていたんです。……でも何だか勿体ないですね。妙子さんの授業ならきっと面白いはずだと思うのに。それに妙子さんみたいな先生が学校にひとりでもいてくれたら、生徒達の気持ちはきっと安らぐと思います。現に妙子さん、この学園の生徒からとっても慕われているじゃありませんか」
 絢子は勢い込んでまくし立てた。
 それを妙子は笑顔で受け止めた。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。それとね、この栗栖学園では、司書教諭という仕事を名ばかりのものではなくてちゃんとした仕事として配置しているところに魅力を感じたから、私はこの学園の採用試験を受けたのよ。他の学校の司書教諭は大抵資格を持っている教員に対し、通常業務と兼務で発令されることが多いからね。司書教諭が図書の仕事に専念すると言うことは稀なことなのよ」
「そうだったんですか。私も一時期司書と司書教諭の免許を取ろうとしていたんですけれど、卒論と教職課程の授業と単位であまりにもテンパり過ぎちゃって途中で諦めてしまいました。だから、中高の理科と、司書と司書教諭の免許を持っている妙子さんはとってもすごいと思います」
 妙子の新たな一面を見て、とても眩しい気持ちになった絢子であった。




 妙子の話に後押しされた絢子は、意気揚々と教室を見て回った。
 確かに、この栗栖学園の教師陣はものを教えるのが上手い。
 プロジェクター、パワーポイント、DVDなど、生徒を引きつける様々な視覚資料や小道具を駆使し、そして卓越した話術を持っている。
 さすが私立と思うと共に、教育に情熱を持って携わっている教師陣のその姿勢に絢子は大いに刺激を受けたのであった。
 ある社会の授業では、中世日本の時代をRPG形式で体験するという試みがなされていた。
 教室内で班分けをして、各班で役柄を振り分け、貴族と武士、平民の生活の違いを、実際に当時を再現した服装・小道具でもって演ずるというものである。
 事前に下準備が出来ているためか、この日の生徒達は段取りもよく、役柄にもすんなりとはまっている。
 まるでちょっとした寸劇を観ているような面白さがあった。
 別の社会の授業では、「中世ヨーロッパの風俗をアトラクション感覚で体験する」と題して、プロジェクターを使い、教室の前面に置かれたスクリーンに中世ヨーロッパの主な地域を映し出した。
 ここでも班分けがなされ、生徒達はそのスクリーンを見ながら、教師が出すクイズに力を合わせて答えてゆくと言うものであった。
 これには見学者達も大いに乗り気で、それぞれああでもない、こうでもないと、自分の知識とスクリーンを照らし合わせていた。
 どの教師の授業も創意工夫がなされ、もし自分が学生であったらこの学園に通いたいと思わせるようなものばかりであった。
 絢子は夢中になりながら教室を回っていた。
 だが、全ての教室を回ろうと思うと各教室にはそれぞれ十分から二十分程度しかいられない。
 泣く泣く途中で諦めて出てきた授業もあった。
 しかし、大きな収穫はあった。
 絢子が目指す授業スタイルが、この学園の教師陣のようなものであるということに定まったのである。
「折角この栗栖学園で働いているのだから、教師の方々ともっと交流を持ってみてもよいのかもしれない」
 そんなことを考え、武者震いする絢子であった。


 昼食時に一旦図書室に戻り、そこから妙子と二人で食堂へ行く。
 歩きながら、絢子は今日観たことをまるで母親にでも話すかのように妙子に話した。
「妙子さん、この学園の授業ってとっても面白くって、とってもためになるんです。カリキュラムを見ると受験用の暗記・詰め込み型の授業もしてはいるそうですけれど、今回のような体験型の授業も取り入れられていて、授業内容にメリハリがついていました。私が学生だったら、この学園の教師陣に教えてもらいたいなんて思っちゃいましたよ!」
「あらあら、随分な入れ込みようねえ。絢子さんがそんなにお気に召したのであれば、学園としてもしてやったりってところなんじゃないかしら。保護者からの受けは良いのよね、この学園の教師陣は」
「えっ? 私、保護者目線でものを見てたって事なんですか?」
「保護者目線と言うか、この学園の教師陣は部外者がぽっと見学に来て、すぐに心をつかまれるような授業が出来ているってことが言いたかったのよ」
「そうなんです! 少しだけ見た限りでも、どの教師も生徒一人一人の動向に気を配っていましたし、授業内容もだれずに緊張感を持っていましたし、本当に尊敬します」
 瞳をきらきらと輝かせて話す絢子を、妙子はにこにこと見つめた。
「そう、楽しめたようね。それは良いことだわ。じゃあ今日はこのまま午後の部も観て来ていいわよ。放課後に図書室に来てくれれば良いから」
「えっ!? 良いんですか!?」
「絢子さんのそんな顔、今時の若者にはなかなかない顔よ。『知識を吸収したい!』って体全部で訴えているような人を図書室に縛り付けておくのは忍びないもの」
「わ、若者って……妙子さんも若者じゃありませんか」
「あら、私三十路はとっくの昔に超えてるわよ」
「ええっ!? そうだったんですか!?」
 オープンでいるように見えて謎の少なくない長身細身の加藤妙子の秘密がまたひとつ明らかになったのであった。


 二人が食堂に行くと、そこではいつもとちょっと違った光景が広がっていた。
 生徒達が遠巻きに何かを囲んで、ひそひそと話し合っているのである。
「あら、いつもの光景とはちょっと違うわね。どうしたのかしら」
 妙子が首を傾げる。
「とにかく、昼食にありつかなきゃだわ」
「ええ、そうですね」
 妙子と絢子は二人して生徒の人垣を掻き分けた。
 そして、最後の人垣を掻き分けた瞬間、絢子の目の前にはいつもならば有り得ない光景が飛び込んできたのである。


「ど、どうしてここに……?」


 その人垣の中心では、身長百八十センチ台の長身モデル体型の、整った美貌を持ったスーツ姿の男性が三人と、天使のような容貌をした十五歳の美少年がそこで談笑していた。
 ええ、そこにはなんと、四性の鬼達が揃い踏みをしていたのである。

 風祭颯太は触れたら柔らかそうな癖のある茶色の髪と、柔和な茶色い瞳で悠真を穏やかに包むように見つめている。
 瑞城直人は怜悧な表情を崩すことなく、銀のメタルフレームの眼鏡を左手の中指でくいっとあげ、悠真の話を聞いている。
 蔭原正臣は少しばかりスーツを着崩し、切れ長の瞳を悠真に向け、時々悠真の頭をその男らしい手で撫でている。
 その正臣の切れ長の瞳がふと絢子を捉えた。
 その瞬間、その瞳はふわりと笑みをたたえたのである。
 絢子はぽかんとしたまま、その場に立ち尽くした。
「絢子ちゃん、そんなところにいないで、こちらに来なよ」
 正臣が絢子に手を伸ばす。
 絢子は自分でも何かよくわからないまま、ふらふらと足を運び、正臣の手を握った。
 手をつないだ瞬間、正臣は絢子の手を力強く握った。
 その刺激ではっとした絢子は、ようやく、自分が人垣のど真ん中で正臣と手をつないでいるのだと言うことに気がついたのである。
「あ、あの、正臣、これは?」
 絢子がおずおずと聞くと、正臣は絢子の耳元まですっと身を屈めて、低く官能的な声で囁いた。
「今日は授業参観日だからね、悠真の近況を俺達が見に来たってわけ」
「ええと、それも聞きたかったことのひとつなんですけれど、今、なぜ私は正臣と手をつないでいるんでしょう?」
 状況がいまいち飲み込めていない絢子であるが、正臣はそれを楽しむかのようにくすりと笑った。
「うん、これはね、俺の愛しいただひとりの人である絢子を狙う不届き者がいるでしょう? その餓鬼と、あとは周囲を牽制してんの」
 そう言うと正臣はつないだ手を眼前に持ってきた。
 そうしてそのまま自分の唇にまで持ってきて、押し頂くように絢子の手の甲に口をつけた。
 その瞬間、人垣がざわりとする。
「い、今あの方絢子お姉さまにキスしましたわ!」
「絢子お姉さまとあのお方はどういうご関係ですの!?」
 ざわざわとする周囲にはお構いなく、正臣は何事もなかったかのように元の体勢に戻った。
 ただし、絢子と手はつないだままである。
 悠真と喋っていた二人も絢子に挨拶する。
「絢子さん、久しぶりに会えて嬉しい。あなたの顔が見られて本当に良かった」
「絢子ちゃん、仕事は順調かな? 何か困ったことや、体調が悪くなったりしたらいつでも連絡してね」
「は、はい、ありがとうございます」
 絢子は少しばかりもじもじしながら二人の挨拶を受けた。
「絢子、妙子女史! 皆で一緒にお昼食べようよ!」
 輪の中心にいた悠真が皆を誘って、昼食の席についたのであった。


 今日の日替わりA定食のメインはビーフシチューだった。
 いつもの席、いつもの食事が何だか豪勢に見える。
 絢子がどこに座ろうか迷っていると、いつ来たものか、隠岐伊織が絢子の隣に立っていた。
「こんにちは、君は悠真の友達かな?」
 颯太がにこやかな表情で聞く。
「ええ、そんなところです」
 伊織がクールに受け答えをする。
 伊織はその場所で三人の長身モデル体型の男性と対峙した。
 片や瑞々しい若木のような伸びやかな魅力と色気を持つ高校生の少年、片や大人の魅力を兼ね備えた三十過ぎの男性陣。
「ここまで美形が揃うと眩しさすら感じるわ」
 妙子がぼそりと呟く。
 伊織は当然のように絢子の左隣に座り、悠真も当然のように絢子の右隣に座った。
 三人の男性陣はそれぞれ適当な位置に席を取り、昼食をとっている。
 絢子の目の前には妙子がいるが、妙子の両隣にはそれぞれ颯太と直人がいる。
「いやあ、イケメンに囲まれるなんて、私達役得ね、絢子さん」
 妙子がにやにやしながら言う。
「ええ、そうですね」
 絢子はなにやら動悸が治まらず、何度も深呼吸していた。
 直人の隣には正臣が座っており、時折斜め前の伊織にちらりと目をやる。

「……おじさん、何か用?」

 食べる手を止めた伊織が、少しハスキーで色気のある声で正臣に聞く。
「君さ、名前何?」
 クールに振舞う伊織と、にやりと笑う正臣の視線が交錯する。
「こういうときってまず自分から名乗るのが筋じゃないの?」
「そうだね。俺は絢子ちゃんの同居人の蔭原正臣。あんた、もしかして隠岐伊織だろう? 絢子ちゃんから聞いてるよ」
「知っていたなら別に聞かなくてもよかったんじゃない?」
「君は絢子ちゃんに近しい生徒だからね。ちゃんと顔見せしとこうと思ってね」
「ふうん、そう。あとおじさん、ただの同居人の分際で絢子に馴れ馴れしすぎるんじゃないの? さっきも絢子の手にキスしてたでしょう。ああいうの、絢子が迷惑すると思わないの?」
 なんとも辛辣な意見である。
 伊織のその発言を聞いた正臣はしかし表情を崩さなかった。
「こういうのは最初が肝心でしょう? 絢子ちゃんとの仲を皆にわかってもらうためにはね」
 一触即発の雰囲気の中、現れた影があった。

「あの、伊織様、お隣よろしいですかしら」

 この場に、楚々とした態度で、小川優美がやってきたのである。



[27301] 体育館にて
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:88ac9c92
Date: 2011/04/26 00:23
 伊織は優美の姿を認めると、すぐに興味をなくしたように言った。
「別に」
「ありがとうございますわ」
 優美はぽっと頬を染め、いそいそと伊織の隣の席についた。
 背筋をきちっと伸ばし、ビーフシチューを上品に口に運ぶ。
 完璧なテーブルマナーでもって食事をしているその姿は、ここが一流レストランであるかのような錯覚さえ起こさせた。

 その優美の姿を、感情の読めない視線で見ているのは正臣だった。
 優美はふと気付いたかのように正臣に目を向ける。
 口元をナプキンでぬぐい、手を膝の上に置く。
「あの、目の前のお方、お名前を窺ってもよろしいですか? わたくし小川優美と申します」
 一応の礼儀であるといったように優美は名乗った。
「俺は絢子ちゃんの同居人の蔭原正臣。君が小川優美ちゃんなんだね。絢子ちゃんから話は聞いているよ」
「まあ! 絢子お姉さまからお話が通っているのですか! 嬉しいですわ。それと蔭原さん、絢子お姉さまとご一緒に暮らせるなんて何て羨ましいんでしょう。私が代わって欲しいくらいですわ」
 優美はさも羨んだ様子で正臣を見た。
「君は絢子ちゃんのことが随分と好きみたいだね」
 正臣がそう言うと、優美は笑顔を浮かべたあと少しばかり考える素振りを見せた。
「ええ、わたくし絢子お姉さまともっとお近づきになりたいと思っておりますの。それにしても、男性と女性が一つ屋根の下で暮らしているからには何か間違いがあってもおかしくなさそうなものなのに……蔭原さんには失礼でしょうけれど、わたくしお姉さまの身が少し心配ですわ」
 優美がちらりと正臣を見る。
 正臣は満面の笑顔を作った。
「心配しなくとも、俺の腕の中は一番安全だから。それに俺、いいもの色々持っているから絢子ちゃんをいろんな意味で満足させられるよ?」
 優美は合点したように言った。
「ええ、そうですわね。でも、どんなものでも、たとえいくらいいものを持っていても、肝心なときに使い物にならなくては意味がありませんからね、どうですの?」
 正臣はひょいと片眉をあげた。
「ふうん、そうだね、でも馬鹿の一つ覚えみたいにひとつのものしか使えないんじゃ相手が可哀想なんじゃない?」
「まあ、可哀想だなんて、むしろわたくしほっとしておりますのよ。いくらでもチャンスはありますもの」
 そう言うと二人はにっこりと笑顔を浮かべた。
「君、なかなか言うねえ」
「あら、蔭原さんこそ」
 そのまま二人は笑顔で食事を続けた。
 傍でその二人の会話を聞いていた絢子は笑顔を凍りつかせながら食事を続けていた。
「ひいい! 正臣ったらいきなりフルスロットルで優美ちゃんと対峙してるぅ! 今の意味深な会話も怖すぎるし、正臣は優美ちゃんをどうするつもりなのかしら……」
 こうして何かの罰ゲームであるかのような昼食の時間は一応の終息を向かえたのであった。


 遠巻きの人垣に囲まれながら、四性の鬼達と絢子は教室移動をしていた。
 途中で妙子が図書室に行くために抜け、伊織と優美もそれぞれ次の授業へ向かうために席を外している。
「絢子! 午後の部は観に来れる? 僕ね、体育館でバスケをするんだ! 皆で観に来てよ!」
 悠真が天真爛漫な表情で絢子達に声をかける。
「多分先生の計らいでラスト十分は保護者と生徒の対決になると思うから、絢子達も是非参加したらいいよ!」
「へえ、面白そうじゃん」
 正臣がにやりとする。
「そういう運動ってここのところご無沙汰だったからな。保護者の力の差というのを見せ付けてやろうじゃない」
「あっ! 正臣、僕負けないよ! 絢子の前だもん、格好良いところを見せたいもん!」
 悠真はそう言うと、はっと何かを思いついたような表情になった。
「そうだ、絢子! もし僕が勝ったら絢子のキスをちょうだい!」
「えっ!? ちょっと、悠真君!?」
「じゃ、また体育館でね!」
 そう言いながら悠真は着替えのために一旦教室へと戻った。
「悠真の奴、上手いこと約束を取り付けやがったな」
 正臣がにこにこしながら言うが、しかし目は笑っていない。
「あの、正臣?」
 何やら不安を感じる絢子であった。

 体育館へ行く道すがら、絢子はふと気になったことを聞いた。
「そういえば颯太さんと直人さんは、今日はお仕事休まれたんですか?」
 絢子が質問すると、颯太は柔和そうな瞳をさらにふわりと崩し、直人は怜悧な表情をふと和らげだ。
「そうだね、僕は悠真や絢子ちゃんの普段の生活が見てみたかったからシフトを変えてもらったんだ」
「私は担当している仕事が一段楽したところだったので、今日は休みを取って来たんだ」
「そうだったんですか。颯太さんも直人さんも立派なお仕事されているから、休みを取るのが大変だったんじゃないかなあと思っていたんです」
 絢子がそう言うと、二人はそれぞれふっと微笑んだ。
「絢子ちゃんは僕らにもちゃんと気を遣ってくれるんだね。そういうところ、僕は好きだよ」
「絢子さんはやはり愛でるべき存在だな」
 二人にそう言われ、絢子はちょっとくすぐったそうに首をさすったのであった。


 絢子はこの日初めて栗栖学園の体育館に足を踏み入れた。
 体育館には最新の設備が投入されており、バスケットゴールも勿論自動で動く仕組みになっていた。
 悠真達中学三年生は簡単な準備体操をしたあと、班分けをしてトーナメント戦を行った。
 その優勝者と保護者が対決するという仕組みである。

 悠真達のグループは順調に勝ち進み、ついに優勝者になった。
 それは悠真の力によるところが大きい。
 悠真は小柄な体型ながら、強靭なばねと瞬発力でいくつもゴールを決めているのだ。
 グループの仲間達も悠真のことを信頼しているようで、自然とボールが悠真に集まる。
 当然マークやプレッシャーも厳しくなっているはずなのだが、そこは悠真のテクニックと身体能力で十分にカバーできている。
 悠真は汗ひとつかかずに自分のグループを優勝にまで導いたのだ。
「悠真君、すごいですね! まるで天使が舞っているみたいです」
 絢子は目をきらきらと輝かせながら悠真を賞賛する。
 絢子の両隣でその光景を見ていた颯太と直人も感心したように言う。
「悠真はアタッカーだからね。こういう戦い方はお手の物なんだよ」
「私達の中でも、悠真の身体能力は群を抜いている。今でこそ子供だが、あれがあと五年もすれば完全に覚醒するだろうな」
 五年といえば悠真が二十歳になったときである。
 絢子はすでに夢の中で悠真の十年後の姿である二十五歳の姿を見ているので、その姿がたやすく想像できた。
 少しばかり頬を赤らめながら、絢子は颯太と直人に目をやった。
「あの、颯太さんと直人さんはゲームに参加しないんですか? 楽しそうなのに」
 それを聞いた颯太はにこりと微笑んだ。
「僕ら全員が出たら保護者の圧勝になっちゃうからね。まあ、正臣ひとりだけでも十分手ごわい存在だから、悠真といい勝負ってところかな」
 颯太がそう言ったときに、ピーッと笛の合図がした。
「それでは試合を開始します」
 選ばれた保護者と生徒のジャンパーがそれぞれ前に進み出る。
 正臣はそのジャンパーの後ろで、上着を脱いでネクタイを緩め、Yシャツを腕まくりした状態で両腕を組んで佇んでいる。
 その不遜な態度はどこかしら威圧感があり、ほかの保護者達が少しだけ遠巻きにしている。
「正臣、ガンガンにやる気だね」
「ああ。子供相手に大人気ないな。だが、絢子さんのキスがかかっているとなれば、我々もああならざるを得ないだろうな」
「それには同感だね」
「あの、お二人とも……?」
 二人の会話に挟まれてわたわたとする絢子である。

「試合開始!」

 そして、保護者対生徒の試合が開始されたのである。

 バシッとボールがはじかれ、そのボールを追って生徒と保護者が走り回る。
 中学生と言えど、さすがトーナメントを勝ち抜いてきただけあり、その動きは皆俊敏である。
 最初にボールを手にしたのは悠真だった。
 華麗な動きで保護者側のバスケットゴールに迫ると、あっという間にゴールを決める。
 悠真が小柄なせいか、背の高い大人達は彼からボールを奪うのに一苦労しているのである。
 次にゴールを決めたのは正臣だった。
 余裕の表情でドリブルしながらゴール目前まで来ると、さっとダンクシュートを決めた。
「お、大人気ない……」
 思わずそう呟いた絢子である。
 その仕草は中学生達の闘志に火をつけたようである。
「あのおじさんを徹底マークだ!」
 それは悠真のグループが一丸となった瞬間であった。
 おじさん呼ばわりされてもどこ吹く風の正臣は中学生から簡単にボールを奪うと、ほかの保護者にもパスを回した。
 その間に自分がゴール下まで走っていって、保護者が入れ損ねたボールをタップシュートで入れる。
 保護者と生徒達の点差はどんどんと開いていった。
「まさか正臣がここまでやるとは思わなかったな」
「それほど絢子さんのキスを渡すのが惜しいと見える。ここで独占欲という本性を遺憾なく発揮するのが正臣らしいところだがな」
 その正臣の活躍により、残り三分を切った段階で、点差は埋めがたいものとなっていた。
「まあ、ここまでやれば十分だろ? 悠真」
 正臣がにやりと笑う。
 その余裕の表情を見た悠真はぷうと天使のような頬を膨らませると地団駄を踏んだ。
「正臣はねえっ、いっつもいつも絢子を独り占めしてずるいんだよっ!」
 悠真はキッと自分の仲間達を見た。
「僕もう本気出すから! 皆、頼むよ!」
「「「おう!!」」」
 自分のグループに呼びかけると、悠真は試合を仕切りなおした。
「正臣にはもうボールを絶対に渡さないもん!」
 それはまるで金色の閃光のようであった。
 味方から投げられたボールをさっと受け取ると、悠真は矢のようにドリブルしながらスリーポイントの線まで来て、ぶんと片手でボールを放り投げた。
 そのボールは保護者側のバスケットゴールにガツンとぶつかり、すとんと籠の中に入った。
「す、すごいスリーポイントシュートだわ!!」
 その様子を、口をあんぐり開けて見守る絢子である。
「おおおおお!! さすが悠真!!」
「皆、俺達の悠真にボールを回せ!!」
 俄然やる気になった中学生達は、正臣に三人のガードをつけ、二人で保護者四人と対決し始めた。
 選りすぐりのその二人は、どんどんポイントを重ねてゆく。
 悠真のパートナーであるもうひとりの生徒も、華麗にスリーポイントシュートを決めている。
 逆転不可能であると思われた点差が、どんどん縮まってきた。
「凄い、これはもしかしたら並ぶぞ!」
 保護者席からはそんな興奮した声があがる。
 正臣を封じられた保護者のグループは善戦してはいるものの、やはり悠真に必ずパスカットをされ、点を入れられている。
「保護者形無しだな」
「あの腕まくりしたお兄さんが今まで得点源だったんだな」
 保護者席からは解説者のような声が聞こえる。
 残り三十秒で、ついに得点が並んだ。
「やった!!」
 思わず喜ぶ中学生達。
 彼らの連携したチームワークと卓越した技術は単なるゲームを超えて誇るべきものがあるだろう。
 しかし、喜んだのもつかの間、正臣がその時点で反撃を開始した。
「勝負は最後までわからないほうが面白いだろ?」
 三人のガードをするりと交わすと、悠真の前に立ちふさがった。

「俺かお前、どちらかが点を入れたら勝負は決まりだな」

 現在、ボールを持っているのは悠真である。
 だがしかし、正臣の鉄壁のガードの前になすすべがないといった風情だ。
 自分がボールを所持することができる十秒ぎりぎりのところで、悠真はやむなくもうひとりの仲間にパスを出した。
 それを見逃さなかったのが正臣である。
 そのボールをパスカットすると、相手ゴールへドリブルし出した。
 すかさずそれを追う悠真。
 悠真と正臣の一騎打ちである。
 残り五秒!
 正臣がダンクシュートを決めようとする。
 しかしそれを抜群の跳躍で悠真が叩き落とした。
 残り三秒!
 下に落ちたボールをすかさずもうひとりの生徒が取りにいく。
 残り二秒!
 その生徒は一縷の望みを込めて、保護者側のバスケットゴールに思いっきり投げる。
 残り一秒!
 ガンとぶつかったボールは円を描くように籠の上をくるくると回った。

「試合終了!!」

 その瞬間、ボールは運命に導かれたかのように保護者側の籠の中にぽすりと落ちたのであった。

「やったああああ!!」

 歓喜に沸く中学生達。
 保護者達も満足そうな顔をしている。
「最後までよく頑張ったな」
 保護者達は中学生達に労いの言葉をかける。
 これにて、保護者対中学生の試合は終わりを迎えたのであった。


 正臣が絢子達のところへ戻ってくる。
「いいところまでいったんだけどなあ、最後あの少年が上手いことやってくれたからな」
 そう言って正臣は今日の功労者として仲間達から胴上げをされている悠真ともうひとりの少年に目をやった。
「仲間の大切さってのが身に染みてよくわかったぜ」
 汗ひとつかかず、しかし充実した表情を見せる正臣である。
 終了の挨拶が終わると、悠真が絢子達の元へ駆けてきた。
「絢子! 僕ら勝ったよ! ちゃんと見てた?」
「ええ! 悠真君、とっても格好良かったわ!」
 絢子がそういって微笑むと、悠真は絢子にぐいと近づいた。
「絢子! 僕にご褒美ちょうだい!」
 悠真は目を閉じてぽってりした柔らかそうなピンク色のアヒル口をすっと差し出した。
 絢子は逡巡したあと、悠真のほっぺたにチュッと口付けをした。
 悠真は目を開けるとちょっと頬を膨らませた。
「絢子、何で唇にしてくれないの?」
「えっと……、それはその、悠真君と正臣が途中までは互角だったからよ」
 明後日の方向を見てあははと笑う絢子を見た悠真は何事かを考えた。
「ふうん、じゃあ、僕が正臣を超えれば、絢子はちゃんとキスしてくれるんだね?」
 そう言うと、悠真は天使の微笑みを浮かべた。
「今日から僕の最大のライバルは正臣ね! いつか絶対正臣を超えてやるんだから!」
 悠真は正臣にびしっと指を突き出した。
「正臣、覚悟しててね!」
 その悠真にスーツを着直した正臣はにやりと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「俺がライバルね、手強いよ? それに俺は現実の絢子ちゃんのことをほかの誰にも渡すつもりはないから。絢子は俺の愛しいただひとりの人だからね」
「僕だって、絢子は僕だけの大切な宝物だよっ!」
 にこにこと笑う正臣と悠真。
 しかし二人の間には見えない火花がバチバチと散っていたのであった。


「ねえ、直人、気付いてる?」
「ああ、颯太もか」
 そんな二人を尻目に、直人と颯太はある異変に気付いていた。
「この学園、何か変だ。あちこちで変な気が渦巻いている」
「まさかとは思うが、この学園には外法使いがいるんじゃないか?」
「一応、調べてみようか」
「次の授業のときにさり気なく教室内を回ろう。何かあったら私が印をつけておく」
 ――これにて、直人と颯太がついに始動することとなる。



[27301] 変化
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:88ac9c92
Date: 2011/04/26 00:24
「絢子さん、あなたは正臣と一緒に六時間目の授業を回るといい。私と颯太は気になることができたのでここからは別行動を取らせてもらう」
 直人が怜悧な表情を崩さぬまま絢子にそう伝える。
「えっ、直人さん達とは一緒に回れないんですか?」
 絢子は少しだけしょんぼりした。
 この二人とは会える時間が少ないため、なおさら今日は六時間目の授業も一緒に回れるとばかり思っていたのだ。
 しゅんとする絢子を見た二人は、思わず絢子の両肩にそれぞれ手を伸ばして触れた。
「私も絢子さんと一緒に回りたかったのだが、少しばかり放置できない気配を感じたものでね。すまないと思っている」
 そう言うと直人は銀のメタルフレームの眼鏡の奥から絢子を労わるように見つめた。
「絢子ちゃん、今日の授業参観が終わったら僕達は皆絢子ちゃんの家にお邪魔させてもらう手はずになっているんだ。だからそのときにでもゆっくり話をしよう」
 その颯太の言葉を聞いた絢子はパッと表情を輝かせた。
「本当ですか!? 今日は皆さん、家に遊びに来てくださるんですか! 嬉しいです」
 颯太と直人は絢子の肩から手を外すとそれぞれふわりと微笑んだ。
「絢子ちゃんは可愛いね」
「本当だ。やはり手元に置いておきたくなる」
 タイプの違う美貌二人の微笑みを見た絢子は少しばかり頬を赤らめた。
「あの、でも、放置できない気配って、何のことですか?」
 絢子が首を傾げながら聞く。
 そんな絢子を愛らしげに見つめると、まずは颯太が周囲に配慮した声で話し始めた。
「正臣から連絡がきていたのだけれどね、この学園には今現在甲賀者と外法使いが紛れ込んでいるとのことなんだ。甲賀者とは隠岐伊織。甲賀五十三家に連なる隠岐家の末裔だ。なぜ甲賀者である彼がこの伊賀者に関係する栗栖学園に入学したのかは定かではないけれど、葛城秀斎と関係のある彼は十分に注意すべき存在だ。彼はすでに僕らが四性の鬼であると言うことに勘付いているかもしれないからね。もうひとりは小川優美。彼女こそ外法使いであるに違いない。絢子ちゃんや悠真を襲った念土を作り出したのが彼女だからね」
 その颯太の言葉を引き継いで直人も話し始める。
「先ほど昼食を食べたときの彼女はごく自然に自分の気配をコントロールしていた。正臣から聞いていなければ、彼女が外法使いであるということを俄かには信じられなかったぐらいだ。最も、私達も気配をコントロールしていたので、小川優美には私達が鬼であるということを勘付かれはしなかっただろうがね。しかし解せないのがこの学園内に渦巻く異様な気配だ。この気配は先ほどの小川優美の気配とごく僅かではあるが似通っている。しかも広範囲にわたって拡散しているということに、何か不穏なものを感じてならない」
「そうなんですか……そう言えば最近隠岐君の親衛隊の女の子達の様子がどこかおかしかったんです。それと優美ちゃんが関係しているのかもしれないって思っていたところだったんですけれど、まさか本当に優美ちゃんが何かしていたなんて思いませんでした」
「それを確かめるためにも、僕らは別行動するからね」
 颯太が言い、絢子が頷いた。
「はい、わかりました。あの、お二人とも、気をつけてくださいね」
 心配そうに言う絢子を直人と颯太は眩しいものを見るかのような表情で見つめた。
「僕はこの歳になって、年下の女の子からこうも可愛らしく心配されるとは思わなかったよ。役得って奴だねえ」
「絢子さんが心配するようなことは何もない。私達で迅速・穏便に処理してこようと思う」
 二人はそういうと気配のするほうに向かってきびすを返したのであった。

 二人のスーツ姿の背中を見つめながら、絢子は正臣に話しかけた。
「お二人はこれから何をしにいくんでしょうか?」
「有体に言うと索敵と駆除だな」
「駆除って、まるで害虫みたいに……」
 絢子が眉を下げて言うと、正臣はにっこりと微笑みながら答えた。
「この気配の大元が害虫であることには変わりないからね」
「そ、そんな敵意むき出しに言わなくとも」
 絢子がわたわたしていると、正臣はすっと絢子の手を握った。
「さあ、俺達が一緒にいられる貴重な時間がどんどん過ぎてゆくよ? 絢子ちゃんが見たいところへ行こう。どの教室を見て回る?」
 正臣に引っ張られながら、絢子は授業参観の最後の時間にどの教室を見て回るか思案したのであった。






 直人と颯太はごく自然な様子で気配のする手近な教室へと入った。
 しかし突然現れた美貌の長身モデル体型の二人に保護者の奥様方がきゃあと色めき立つ。
「あれはどなたの保護者なのかしら?」
「ああ、確かさっき食堂で金髪の男の子と一緒にいたから、その子の保護者じゃないかしら」
「眼福だわ~」
 固まってひそひそと会話を交わしている奥様方に気付いた颯太は、愛想よくにこりと微笑んで会釈をした。
「まっ! なんて礼儀正しい方なのかしら!」
「さすが栗栖学園ね! 生徒の質もよければ保護者の質もいいわね」
「うちの子も栗栖学園に入学させたいわ。でも偏差値とお金がねえ……」
 颯太が保護者の視線を引きつけておく一方で、直人はその教室から僅かに感じる異様な気配を探っていた。
 と、ある女生徒が目に留まる。
 一見何の変哲もなさそうに見える女生徒だが、発する気配が何かおかしい。
 直人は無言でその女生徒に思念を送った。
 すると、その女生徒がはっと体を前に屈めたのだ。
 何かを堪えるような姿勢で、顔を少し青くしている。
 次にその女生徒はおずおずと片手をあげた。
「先生、私気分が悪いので保健室に行ってきてもいいですか?」
 女生徒に気付いた教師が許可を出す。
「わかった。顔が青いぞ、ひとりで大丈夫か?」
「はい、今はまだ大丈夫です」
 そう言うとその女生徒は席を立ち、教室の後ろから静かに退出していったのである。
 直人と颯太はまたもごく自然な様子で教室を出て、その女生徒のあとを追った。
 しかしその女生徒は保健室へは行かずに、人気のない女子トイレの中に入った。
 直人と颯太は顔を見合わせると、すぐに隣の男子トイレの中に入ったのである。
 ガタンと戸の閉まる音がする。
 直人と颯太は二人して頷いた。
「久々にあれをやるか」
「そうですね」
 二人はすっと気を集中した。


「「変化!」」


 そう言った瞬間、颯太と直人の姿が一瞬にして変わったのである。

 そこにはきりりとした十五歳ぐらいの少女と、柔和な雰囲気の十七歳ぐらいの少女が現れた。
 片方は制服をきちっと着込み、セミロングの髪の毛、銀のメタルフレームの眼鏡をかけ、理知的な表情をしている。
 もう片方は柔和な笑みをたたえた、背中まで垂れるふわふわとした茶色い髪が印象的な少女である。
「まあ、こんなものだろう」
 肩まであるセミロングの髪の毛をさっと払い、眼鏡女子、直人は言った。
「さて、行きますか」
 柔和な笑顔のまま、おしとやか女子、颯太は人気がないのを確認してから男子トイレのドアを開けた。
 そのまま二人は隣のドアを開け女子トイレへと入った。


「うええっ、うええええ」
 ドアを開けると、一番奥のトイレから何やら嘔吐する声がする。
 二人は素早く奥のトイレの前まで行った。
 颯太がそこですっと手を動かすと、風鬼の力が働き、かちゃりという音がしてトイレのドアが開いた。
 ゆっくりと開くそのドアの向こうには、先ほどの女生徒が激しく嘔吐していたのである。

 その女生徒を鬼の気で介抱する直人と颯太であった。

「うっ、うっ」
 泣き出す女生徒を颯太が慰める。
「もう大丈夫だからね、今のことは誰にも言わないよ」
 涙ながらに頷く女生徒の背中を颯太は優しく撫でた。
「怖い思いをしたね、でも、もう安心していいんだよ。これからはその小川優美に関わらないようにしないとね」
「はいっ、ありがとうございましたぁ」
 泣き崩れる女生徒であった。


 その女生徒を保健室まで送ると、颯太と直人は顔を見合わせた。
「これは、思ったよりも酷いね」
「その小川優美は一体何者なんだ? こんなことをして一体この学園をどうするつもりなんだ?」
「それを調べるのが僕達の役目だと思うね」
 思案しながら颯太が言った。
 直人は眉をしかめながら言葉を発する。
「それにしても数が多すぎる。今日のこの時間だけですべての女生徒を助けるのは到底無理だ」
「確かに。穏便に済まそうとすれば、さっきのように時間がかかってしまう」
「放課後、保護者が帰ったあと、私達も小川優美の元へ潜入してみよう」
「そうだね。それに今日は絢子ちゃんが僕らに会えるのを楽しみに待っているんだ。早いところ片付けて皆で美味しいワインでも飲もうじゃない」
 そう言うと二人は廊下を歩き、人気のない角を曲がると、何事もなかったかのように変化を解いたのであった。




 放課後。
 隠岐伊織は鞄を下げ、廊下をひとり歩いていた。
 伊織は自ら人気のないところに足を運んでいるようである。
 と、通路を曲がったそこにゆらりと揺れる影があった。
 その影は異質であった。
 光源とは全く関係なく、ゆらゆらとたゆたっているのである。

「望月冴」

 周囲の気配がないことを察して、伊織はその影に声をかけた。
「うふふ、よく気付いたわね」
 その影が声を発した。
「伊織、首尾は?」
「大事無い」
 伊織がそう言うと、影はふふっと笑ったようであった。
「大事無いですって? 馬鹿をお言いなさいな。ところで、伊織はわたくしと秀斎様の可愛い小鳥をいつ連れてくるのかしら?」
 その質問には伊織は答えなかった。
「伊織、まさかお前裏切るつもりじゃありませんわよね?」
「さあ、どうかな」
 少しハスキーな色気のある声で伊織が答える。
「ふふ、食えない子ですこと」
 しかし冴の影は満足げに笑った。
「それぐらいのはかりごとができなくては隠の世を渡ってはいけませんもの。それにしても、甲賀五十三家の端くれに過ぎない小川家の女天狗がようやりおるわ。奴がわたくしの小鳥に悪さをしていると聞き、今日はこのようなところにやってきたのですわ」
 影がゆらゆらと揺れ、ひとりの人間の姿を形作る。
 その影は、影であるにもかかわらず、妖艶さを放っていた。
 やがて影は実体となってそこに現れた。
 そこには黒のスーツを着、髪の毛をアップにした望月冴が立っていたのである。
「伊織、お前はなぜ小川優美を排除しないの? わたくしの小鳥がもう少しで汚されるところだったそうじゃないの」
「別に、興味なかったから」
 どこまでもクールに振舞う伊織である。
 冴は長い脚を颯爽と繰り出し、伊織の横を通り過ぎた。
「あんな下等な外法使いなどわたくしがひねり潰してあげますわ。伊織、お前の手など借りなくても結構」
 冴はそう言うと気配を探り始めた。
「あら好都合、女天狗とその下僕はまだ学園内にいるわね。わたくしの小鳥もいるわ……あら? まあまあ、面白いこと。鬼もいるではないの。それも四匹」
 冴はにいっと紅の刷いた唇を歪めた。
「わたくしの力でこの学園を封鎖しますわ。学園内で、楽しい楽しい鬼ごっこをいたしましょう」
 冴は楽しそうに歩き始めた。
「鬼さんこちら、手のなるほうへ」

 外は菫色の空へと移り変わってきていた。



[27301] 大結界 ●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:88ac9c92
Date: 2011/04/27 00:27
 ここは放課後の図書室である。
 ほかの保護者や生徒達は皆すでに帰っており、今図書室にいるのは絢子と妙子、そして正臣となっていた。
 今日は図書室も早めに閉めるため、絢子と妙子は帰り支度をしているところである。
 そんな中、妙子と正臣はそれぞれ名乗り合っていた。
「初めまして、私加藤妙子と言います。あなたが絢子さんの同居人の正臣さんですね?」
「ええ。先ほどはご挨拶できずに申し訳ありませんでした。俺は蔭原正臣です。加藤さん、絢子ちゃんから話を聞いていたんですか?」
「私のことは妙子でいいわよ、正臣さん。聞いたと言うより、漏れたというところかしら」
「ほう、妙子さんはなかなかの目を持っていらっしゃるとお見受けする」
「お褒めの言葉ありがとうございますわ。でも、それほどでもないんですよ」
 手際よく帰り支度をしながら、妙子が話す。
「絢子さんには色々と手伝ってもらって、とても助かっているんです。絢子さんはこの栗栖学園の図書室にはなくてはならない存在ですよ」
 その言葉を聞いていた絢子はぽっと頬を染めた。
 そんな絢子を愛おしそうに見つめながら、正臣はふと何かに気付いたかのように眉根を寄せた。
「妙子さん、妙子さんはこのあと学園内に留まったりしますか?」
「いいえ、これから直帰するのだけれど。何か?」
「いえ。妙子さんは寄り道でもするのかなあと思って聞いてみただけですよ」
 それを聞いた妙子はにこりと微笑んだ。
「心配しなくとも、絢子さんと正臣さんの邪魔はしないわ。お二人で、若しくは今日のあの方々で学園を見て回りながら帰るといいですよ。でももうそろそろ締め出されると思うから、早めに見て回ったほうがいいですけれどね」
「た、妙子さん、邪魔だなんてそんな!」
 絢子がそう言うが、妙子はにこにことしている。
「じゃ、私はこれで」
 妙子は二人を伴って図書室から出ると鍵をかけ、颯爽とした足取りで去っていったのであった。
「なかなか気風のいい人じゃない」
 正臣のその言に、絢子は目をきらきらと輝かせながらうんうんと頷いた。
「そうなんです! 妙子さんはとっても素敵で凄い人なんです!」
「絢子ちゃんにそこまで好かれる人か……、そんなに可愛い顔をしながら言われるとさすがに少し焼けるな」
 正臣はそう呟くと、一変して険しい顔になった。
「妙子さんは学園を出たか。さて、絢子ちゃん、今から絢子ちゃんにちょっとだけ気を送るよ」
 絢子はきょとんとした。
「気を送るって、何でですか?」
「絢子ちゃん、今ね、この学園で何が起こっていると思う? それを見せてあげるよ」
 人気のない図書室の前で、絢子の肩を抱きながら、正臣はさっと絢子の唇を奪った。
「んんっ!」
 突然のことに目を見開いて驚く絢子であったが、正臣に顎をぐっと掴まれて口を半開きにさせられているため、動きが取れない。
 合わさった唇のそこからは、正臣の舌と共に気が送られてきたのである。
 そして正臣が絢子の唇から離れた瞬間、絢子の視界が一変した。

「なっ、何ですか!? これは!?」

 なんと正臣に気を送られたそのあとから、CGグラフィックを見ているかのように、学園内が見渡せるようになったのだ。
 しかも、ご丁寧にその学園内に渦巻く得体の知れないオーラまで見えるようになっている。
「絢子ちゃんは俺達から四性の鬼の力を少しずつ受け継いでいるでしょう? 見ようと思えばこうやって相手の気配を探ることができるんだよ」
「し、知らなかったです。でも、これってどういう意味なんですか?」
 絢子はそれらのオーラの一角を指さす。
 はたから見れば何もない場所で指だけ指している状態に見えていることだろう。
「実はね、この学園に新たな気配が紛れ込んだんだ。絢子ちゃんが今指しているそれは多分望月冴だと思う」
「えっ! あの人が学園に!?」
「この学園内はね、今魑魅魍魎だらけだよ」
「どういうことですか?」
 絢子が尋ねると、正臣は一緒に指を指しながら説明し始めた。
「この気配は望月冴、その近くにいるのが隠岐伊織。彼らは甲賀五十三家の筆頭と有力者だ。次に、この学園の外れの倉庫にいるのが小川優美と、その気をまとった人間達。あの外法使いは倉庫の中で何をやっているのだろうね。少なくともこれは良い気ではないよ。あとは、悠真と、直人と颯太。直人と颯太は気配を変えて、今倉庫に近づいているところだな。悠真は何か先生に頼まれごとをされているみたいだ。この悠真の気配の隣にあるぼんやりとした気配が学校の誰か先生のものだよ」
 正臣が丁寧に教えてくれたので、絢子は程なくしてその気配達を掴むことができるようになった。
「絢子ちゃんには今のこの現状を把握しておいてもらったほうが良いと思ったんだ」
 正臣がそう言った瞬間。
 突然、地震のようなものが起こった。
「きゃあっ!?」
 絢子は思わず正臣に掴まった。
 正臣は絢子の肩をしっかりと抱きながら、その数十秒とも数分とも思われる地震に耐えた。
 しばらくすると、その地震はおさまった。
 ほっとして絢子が顔をあげると、そこにはいまだかつて見たことのない光景が広がっていた。

「ひいっ!?」

 これは絢子の目から見える光景である。
 まずこの学校の校庭に巨大な五角形とその中に五芒星のマークが出現していたのだ。
 赤く光る線は禍々しさをたたえているかのようである。
 そのマークの中心から、ぞろぞろと何かの気が溢れ出している。

「ちっ! 結界を張られたか!!」

 正臣がほぞを噛んだ。
「結界?」
 絢子が恐る恐る聞く。
「ああ。しかもこれは大結界といって空間を歪ませる作用のあるものだ。これほどのものを張れる術者は限られている。さしずめ、望月冴の仕業だろう」
 正臣は悔しそうに顔を歪めた。
「しかし厄介なことになったな。俺は危なくなる前に絢子ちゃんを先に転移させるつもりだったのに、この結界を張られては学園の外への転移術が使えなくなった」
「そんな!! どうしてですか?」
「今迂闊に転移すれば、あの五芒星の中心、逆五角形の部分から異界に引き込まれないとも限らないんだ。絢子ちゃん、今日はこれから少しばかりハードな体験をすることになると思うけれど、覚悟はいいかな?」
「ハードな体験って、一体どのようなことですか?」
「ん、多分ね、この栗栖学園で俺達鬼の、命を懸けた、ちょっとした戦いが始まるんだよ」

「……。えええええ!?」

 内容をよく飲み込んだ絢子は盛大な悲鳴をあげた。
「そ、そんな、もしかしてまたあの念土みたいなものに襲われたりするんですか!?」
「念土程度で済めばいいけどね。あの五芒星の中心、逆五角形の部分から溢れ出る気、あれは空間が歪んでいるために出来た異界との扉だよ。今はあそこから下等霊の気が溢れ出てきているけれど、あそこからは何が出てくるかわかったもんじゃない。気をつけなければ異界に引き込まれる」
「た、妙子さんは!?」
「ああ、幸い彼女なら結界が張られる前に外に出ているから大事無いはずだ。それとこの学校の職員達は気を当てられて眠りにつかされている。相手は完全に俺達だけをターゲットにしてきている」
「そうなんですか、ほかの人には危害を加えられないんですね……」
 ほっとする絢子であったが、正臣は険しい表情のまま絢子を見つめた。
「絢子ちゃん、人の心配をするのもいいけれどね、これからは自分の身の安全のことだけを考えて。俺が絢子ちゃんを全身全霊で守るけれど、万が一俺が駄目になったときは、絢子ちゃんはひとりで逃げるんだよ」
 正臣のその言葉に、絢子は思わず顔をあげた。
「えっ?」
「望月冴の結界は巨大で強大だ。これはあの女が俺達を全力で潰しに来ていると見て相違ない。あの女はあえて俺達鬼の力を最大限引き出して本当の鬼にしてから嬲り殺すつもりらしい」
「そんな!!」
 正臣はふと儚げな笑顔を作った。
「絢子ちゃん、俺がもし自分の力を抑えきれずに鬼になったら、俺はあの異界の扉に飛び込むつもりだ。もし誤って絢子ちゃんを手にかける可能性があるくらいならばそうしたほうがいいからね。絢子ちゃんの身は今のところ安全だろう。望月冴も隠岐伊織も、絢子ちゃんを害するつもりではなさそうだからね」
 消えてしまいそうな笑顔でそんなことを言う正臣を見た絢子は胸がぐっと詰まった。
「正臣? 何でそんな不安なことを言うんですか!? まっ、正臣は私の護衛でしょう? そんなこと言わずにちゃんと生きて、私を守ってください!」
 絢子は正臣にぎゅっとしがみついた。
「だって私、私、正臣がいないと……だっ……お、美味しいご飯が食べられなくなっちゃうじゃないですか!」
 自分の腕の中の絢子の言葉に正臣は一瞬目を丸くした。
 そのあとすとんと脱力したようだった。
 はあとため息をつくと、正臣は絢子を胸に抱きかかえた。
「絢子ちゃんは豪胆というか何と言うか、うん、そうだね、俺もちょっと不安になっていたみたいだ。俺は、俺の愛しいただひとりの人である絢子を手放せるはずなんてないのにね。こんなところとっとと出て、皆で美味しいご飯を食べようか」
 言って、正臣はふわりと微笑んだ。
 絢子はどきどきする心臓を抱えながら、心の中で呟いた。
「私、今何を考えていたんだろう? だって、さっき本当は思わず『正臣がいないと駄目になる』って言ってしまうところだったんだもの……」






 直人と颯太はまた女生徒の姿をとり、倉庫へと近づいていた。
 倉庫の近くには誰もおらず、そっと中を覗くのには好都合だった。
 だがしかし、倉庫に近づこうとした途端、地震が起きた。
「これは!?」
 二人は素早く「目」を切り替える。
「まさか、大結界か!?」
 二人もまた校庭に現れた巨大な結界を目にした。
「誰だこんなものを作ったのは」
「これほどの結界を張るとなれば、相当の使い手でなくてはならない。気配がする。この気配は……甲賀五十三家の筆頭か!」
 思い当たった二人は素早く臨戦態勢に入った。
 可憐な美少女達が、壮絶な気を放ちながら、迫りくる敵に備える。
 と、逆五角形の部分から溢れ出ていた気が一気に二人のほうへと押し寄せてきた。
「くっ!」
 顔の前で腕をクロスさせてその気をやり過ごす。
 やがて気がおさまったと見て目を開けた二人の前にいたのは、沢山の念土達であった。
 念土達は皆でろりと舌を垂れ下げ、死んだ魚のような目で直人と颯太を見つめている。
「下等霊に形を与えたか。しかしこれほど多くの念土に囲まれるとはな」
「相手は僕らの鬼の本性を完全に引き出すつもりだね」
「向こうがその気ならこちらとしても存分に相手をせねばなるまい」
 そう言うと、二人は一瞬にして元の姿に戻った。
 スーツ姿の長身モデル体型の二人が鬼気を発して並び立つさまはまさに壮観であった。
「行こうか」
「ああ」
 そう言うと二人はトンと跳躍した。
 念土が口をだらしなく開けながら二人の姿を目で追う。
「「破っ!!」」
 直人と颯太は裂帛の気合を込め、風と水の力を発した。
 颯太の手の中で「ぶうん」と空気が唸る。
 彼の手の中から発されて地面についた風は円形の疾風となって広がり、念土達を一気になぎ倒した。
 直人は空気中の水分を集めて水紐を作り、念土達を呪縛した。
「縛!」
 ぎりぎりと締め付けられる念土達。
「壊!」
 直人の掛け声で水紐がぎゅっと収縮し、捕らわれていた念土達は皆木端微塵になった。
 念土達の数が一気に半分ほどに減る。
 そのとき、倉庫の扉が開き、小川優美とその下僕達が悠々と出てきたのである。
「お前達! なぜ今出てきた?」
 直人の質問に、小川優美がにこりと笑顔でもって答える。
「あら、お兄様方は能力者だったのですわね。わたくし気付きませんでしたわ。絢子お姉さまのお知り合いには面白い方がたくさんいらっしゃいますのね。ええ、わたくし、今が丁度良い機会だと思って出てきましたの。わたくしの可愛い下僕達をもっと強くするために、筆頭がお作りになられた大結界を利用させていただこうと思いましたの」
 優美は手をすっとかざした。
「集まれ、下等霊共よ」
 優美の呼びかけに応えて、逆五角形の中心が鈍く光った。
 そこから大量の気が溢れる。
 倉庫から出てきた二十数人の女生徒達は皆口を大きく開いて気を待ち受ける。
 すると、その口の中に溢れ出てきた気がどんどんと吸い込まれていくではないか。
「がががが」
「あがあ」
 女生徒達は皆涙を流しながらその気を受け入れている。
「止めろ!! それ以上吸い込んだら器が壊れるぞ!!」
 颯太が止めに入ろうとするも、優美の気合にはじかれる。
 これ以上受け入れられないというところまでいって、優美はようやく手を下ろした。
 立ったままがっくりと首を垂れる女生徒達。
「優美さん、あなたは何の関係もない女生徒達を闇の世界に引きずり込むつもりか!」
 颯太が叫ぶが、優美はにっこりと笑った。
「わたくしには沢山の手駒が必要でしたの。小川家を再興し、甲賀五十三家の中で返り咲くためには沢山の力のある下僕が必要でしたの。伊織様もそう、あのお方を手に入れれば、あまつさえ婚姻を結べば、小川家の力はより一層強固なものとなるでしょう。嬉しい誤算だったのは絢子お姉さまですわ。転移術を持っていらっしゃったのですもの。あの方もわたくしの手駒として相応しい器だと判断したのです。まあ、あなた方に言っても何のことかはお解かりにはならないと思いますけれど」

「へえ、そうだったのね」

 突然、頭上から声がした。

 皆がはっとそちらを見ると、そこには巨大な奇獣に乗った望月冴がいた。
 奇獣は背中に翼の生えた虎のような姿をしている。
 その首の部分に跨り、望月冴は地上を睥睨した。

「お前、下等な外法使いの分際で、わたくしの可愛い小鳥に手を出したわね? 小川家など過去の遺産。そのまま時の流れに逆らわず、静かに消えてしまえばいいものを、小川家の鬼子、女天狗のお前がそのように悪あがきをするから、取り潰しという沙汰が下されるのですよ?」
「取り潰しになどさせませんわ! 筆頭! わたくし強くなりましたもの! あなたなどに負けませんわ!」
 それを聞いた冴はにいっと紅の刷いた唇を歪ませた。
「おお、面白いこと。久々に滾るわなあ? 勝ち目のない戦いに挑むその気概だけは褒めて差し上げましょう。だが、ここでその鬼らと諸共に始末してあげましょうね!」
 そう言って冴は右手をすっと降り下げた。
 その途端、ごおおおと地面が揺れた。
 優美と直人と颯太はそれぞれ逆五角形に目をやる。

 すると、その逆五角形からずずずずと巨大な影が立ち上がってきたのであった。



[27301] 悪縷 ●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:88ac9c92
Date: 2011/04/27 00:29
 巨大な影は大結界の中心からずぶずぶと泳ぎ出てきているようであった。
「アガアアア!!」
 咆哮が聞こえると共に、その全容が明らかになった。
 それは巨大な魚であるようだった。
 見た目は深海魚のように醜悪でグロテスクである。
 乱立する牙、光を感知しない小さな瞳、しかし鱗は鋼鉄のようである。
 そしてその魚の額には召喚獣の印である六角形の中に六芒星のマークが描かれているものが刻印されていた。
「あれは……悪縷!!」
「あくる? それは一体何ですの?」
 この場に似つかわしくないおっとりした声で優美が聞く。
 颯太は優美に目をやると説明し始めた。
「悪縷は日本神話に伝わる悪神で、吉備国、今の岡山県の穴海に住んでいた巨大魚なんだ。『日本書紀』に登場する『惡神』や『古事記』に登場する『宍戸神』のことであるという説もあるんだけれどね」
「そうなんですの。それで、その悪縷はどうやって倒せばよろしいんですの?」
「普通の魚と同じように切り刻めば死ぬよ。ただ、あの悪縷、どうしてか鱗が鋼鉄のようになっている。ちょっとやそっとの攻撃じゃ効かないと思うね」
「じゃあ、わたくし達、全員あの悪縷に食べられなくてはなりませんの?」
「私があの悪縷を干物にして見よう」
 直人がそう言うと、悪縷に向かってすいと右手を目の前にかざした。
「来い!!」
 直人の右手にぐぐぐと血管が浮き出る。
 と、その直人の手に向かって悪縷から体液が流れ出てきた。
 悪縷の口から、目から、どぶどぶと洪水でも起こったかのように水分が放出される。
 直人は左手で銀のメタルフレームの眼鏡をくいっとあげながら、片手間であるかのようにその作業を続けている。
 直人の手の前には集められた水分が巨大な球体となってふよふよと浮かんでいた。
「直人は悪縷の水分を吸引して干からびさせるつもりなんだね」
「あら、思ったよりも呆気なく終わりそうですわね」
 颯太と優美の二人が肩透かしを食らわされたと思ったその時、悪縷がぶるぶると震えだした。
「アガアアア!!」
 悪縷が咆哮したあと、なんとその体が無数に分かれたのだ。
 細切れのミンチのように、一瞬にして細胞分裂をしたかのような体になる。
 対象が分裂したことによって、直人の水分吸引が止まった。
「直人!? 何をしたんだい?」
「いや、これは私ではない」
 空中では、すぐに分かれた細胞同士がくっつき、小ぶりの悪縷が何千匹も現れた。
「ギャアギャア!!」
 ビーチボールほどの大きさの悪縷は、醜い鳴き声をあげながら尾をびちびちと振っており、それらの額には一匹残さず、召喚獣の印である六角形の中に六芒星のマークが描かれているものが刻印されていた。
「何と! この悪縷は小さな生命体の集合体であったのか!」
「数が多すぎる!」
 悪縷達はそれぞれ四方八方から直人、颯太、優美達の元へ飛びかかってきた。
「くっ!」
 颯太が風で防御壁を作り、全員を囲い込む。
「優美さん達は早く倉庫の中へ! 関係のない女生徒達に怪我を負わせるわけには行きません!」
 悪縷と共に、念土達もまた動きを再開し、防御壁に迫っては弾き飛ばされ、迫っては弾き飛ばされを繰り返している。
 颯太はじりじりと後退しながら、倉庫に近寄っていく。
「倉庫までの道を作りました! 早くこの中へ!」
 しかし優美達は一向に入る気配がない。
「優美さん!!」
 颯太が叫ぶが優美は動かない。
 そのまま優美は防壁から外を見据えた。
 瞬間、優美はかっと目を開いた。


「邪視!!」


 ぶううんと防壁の外に気が発せられた。
 一瞬で、手近にいた念土達と悪縷達の動きが止まる。
 優美のこめかみには青筋が幾本も走っている。
「これら全てのものを手中に収めたならば、わたくし、もっと強くなりますわよね?」
 優美はそう言ってこめかみに青筋を浮かべたままにやりと笑った。






 校舎の中では、命を懸けた鬼ごっこが始まっていた。
「グルアアア!!」
 奇獣共の咆哮が聞こえる。
 絢子と正臣は気配を探りながら、隠れたり、走ったりして、奇獣のあぎとから逃げていた。
「ちっ! これじゃあいつまでたっても埒があかない」
 正臣が顔を歪める。
 今正臣と絢子は四階の教室の一角に隠れていた。
「このまま朝を待つか、いや、それでは長すぎて絢子ちゃんの体力がもたない。打って出るか、しかし危険すぎる」
 唇を噛みながら逡巡する正臣の姿を見た絢子は自分にも何か出来ないかと必死で探した。
「正臣、あの獣達はどうやったら倒せるのですか?」
 正臣の思考の邪魔にならないようにそっと聞いてみる絢子であったが、正臣ははっと我に返ると絢子を見て笑みを浮かべた。
「絢子ちゃんは心配しないで。俺が絢子ちゃんを守るから」
「結界を壊せば獣達は消えてなくなったりしませんか?」
 絢子の質問に正臣は思案しながら答えた。
「そうだね、確かにあの大結界は奇獣達の通り道であり力の源だ。あれを壊せば全てがかき消え、元通りになる。但し、破壊の方法は結界を作った術者に何らかのダメージを負わせるか、結界を聖なるもので裂くこと、若しくは朝を待つかだね」
「朝になるとどうなるんですか?」
 その質問に、正臣は周囲の気配を探りながら説明し始めた。
「この大結界は人の思念が作り出したものだから、作り出した本人の心や、体調に大きく影響される。奇獣は暗闇を好む。今は術者も奇獣に同調しているから、朝日が昇ると術が解けてしまうんだよ。それに人体への影響という面を考慮しても、この太陽のエネルギーってのはなかなか馬鹿に出来ないんだ」
「どういうことですか?」
「ちょっと学術的な話になるけれどね、太陽光を浴びることによって、睡眠を促すホルモンであるメラトニンの分泌がストップされ、脳の覚醒を促すホルモンであるセロトニンの分泌が活発になる。逆に太陽光を浴びる時間が少なくなると、セロトニンが不足して感情や考えのコントロールが効きにくくなり、情緒・気分を不安定にしたり、うつ病の原因になったりすると考えられているんだ。よく『ご来光を拝む』って言うでしょう? 山に昇って朝日を見たりするあれね。世界各地にも山岳信仰や太陽信仰自体は沢山あるから、朝日をありがたがる人ってのは少なくはないんだけれど、朝日を浴びるのは体内時計を正常化させたり、気持ちをリセットしたりする効果があるのを先人は体感していたのだろうね。ちなみに日本の場合『ご来光を拝む』行為そのものは山岳信仰と太陽信仰が混ざった多神教の日本ならではの現象と言えるんだけれどね」
「そうなんですか。じゃあ、最悪、朝まで逃げ切れば術は解けるんですね」
「ああ。その通りだ。但し今は晩秋、夜は長い。術者にとっては好都合の条件だろうね」
 そこまでで話したとき、廊下が騒がしくなった。
「ギャアアアア!!」
「ゲエエエ!!」
 奇怪な鳴き声が響き渡る。
「来たか」
 正臣は絢子を胸にかき抱いた。
 そのまま絢子の耳元でぼそりと囁く。
「この学園内であれば、転移術は使える。これから俺は絢子ちゃんを連れて二階の職員室に飛ぶよ。多分そこに悠真もいるはずだ。三人になれば活路が見出せるかもしれない」
「はい、私、正臣についていきます」
 絢子は正臣の背中に腕を回した。
「いい子だ、絢子ちゃん」
 正臣も絢子の背中にきつく腕を回した。
「ギエエエエ!!」
「グアアアア!!」
 奇獣達がドアの前まで迫ってきたとき。

「飛ぶよ!」

 瞬間、絢子と正臣の姿は掻き消えたのであった。




 職員室にいた悠真は地震をすぐに察知した。
 そして地震がおさまり辺りを見回すと、職員室にいる自分以外の人間は皆ぐったりと眠りについていたのである。
「この気配は……ちょっとやばいかも?」
 悠真はそうひとりごつと、「目」を切り替えた。
 その瞬間、悠真もまた学園内で起こっている事態を知ることとなる。
「うわあ、こんな結界見たことないや。なんて禍々しいんだろう」
 嫌そうに顔をしかめた悠真であったが、結界の逆五角形の部分から下等霊や奇獣達が出てくるに従って、その顔はますます歪んでいった。
「うええ、なにあれ」
 さらに逆五角形の部分から悪縷が出てくるに至っては、はあとため息までつき始めた。
「B級パニック映画じゃないんだから、こんな大掛かりな仕掛けいらないよ」
 そう言いつつも、悠真は素早く辺りの状況を確認する。
「奇獣が数匹学園内に入ってきたか。絢子は……正臣と一緒だから今のところ安全、と。直人と颯太はあのでっかい魚と対峙しているけれど、近くに小川さんもいるから本気は出せなさそうだな」
 悠真はその場ですとんと座ると胡坐をかいた。
「じゃあ、僕はここで待っていれば絢子達がやってくるはずだから急がないっと」
 そう言うと悠真はすっと気配を消した。
 おりしも廊下に奇獣が足音を忍ばせてやってきているところであった。
「今日は早く帰って絢子と皆でパーティーを開く予定だったのになあ。隠岐先輩の気配の近くで変な気を発しているあの人が来なければ、楽しい土曜日の夜がやってくるはずだったのに。この怒り、どうしてくれようか」
 天使のような頬をぷうと膨らませながら悠真は考えた。
 外では職員室のドアの擦りガラスの向こうで巨大な奇獣が蠢いている。
「ちょっと暴れてやりたいけれど、絢子達が来るまで我慢我慢。制服も汚さないようにしないとね。買い換えるのやだもん」
 悠真はううんと唸るとふと首を傾げた。
「あれれ? この状況、もし僕が絢子のことを守りきったら、絢子は僕のことをもっと好きになってくれるかな? そうしたら嬉しいな。絢子、僕だけの大切な宝物。……宝物がより一層輝くのを見てみたくなっちゃった」
 天使のような笑顔を浮かべた悠真は床に音もなくごろりと寝転んだ。
「はーやく来ないかなあ? 絢子。そうしたら僕が絢子のことをずーっと守ってあげるのに」
 外にいる奇獣は何事もなかったかのように職員室前を通り過ぎていった。
「ふふ、これもまた、楽しい夜の始まりなのかもしれない」
 悠真はそのまま目を閉じたのであった。


 職員室に新たな気配が二つ現れた。


「悠真君!?」
 転移してきた絢子は寝ている悠真を見て酷く驚いた。
 正臣の腕の中から身をよじって抜け出すと悠真の元に駆け寄った。
 悠真の傍で膝をつく。
 顔を覗き込むと、意外にも安らかな寝顔であったのでほっと一息つく。
 その瞬間、悠真がぱちりと目を開ける。
 絢子の姿を目に入れると、悠真は天使のような微笑みを浮かべた。
「ああ、来たんだね、絢子! 待ってたよ!」
 そのまま絢子の顔に自分の手をそっと添えると、悠真は起き上がりざまに絢子の唇にチュッと口付けをした。
「ゆ、悠真君!?」
 突然の口付けに目を見開いて驚く絢子に構わず、悠真は絢子の首に両腕を絡めた。
 そのままぎゅっと絢子に抱きつく。
「絢子、絢子のことは僕が守るからね? ずーっと大切にするからね?」
「あの、悠真君?」
「だから僕のものになってよ」
 そう言った悠真の視線は、まっすぐに正臣を捕らえていた。
 正臣は腕組みをしながら悠真の視線を飄々と受け止めている。
 二人の視線での攻防が見えない絢子は、悠真の背中をそっと抱いた。
「もう、私、悠真君が傷つけられたんじゃないかと思って心配しちゃったじゃない」
 悠真は絢子の首筋に頬を摺り寄せる。
「ごめんね絢子、心配かけさせちゃったね。でも絢子が心配してくれて嬉しいよ!」
 悠真がそう言ったとき、窓ガラスにガンガンと何かがぶつかる音がした。
「何なの!?」
 はっとそちらに目をやると、そこには小ぶりの悪縷が何百匹も張り付き、中を覗いていたのである。
「ひいっ!!」
 絢子が息を呑むと、悪縷達はその気配を嗅ぎ付けて一斉に光を感知しない小さな瞳をぎょろりと向けた。
 と、怯える絢子の目の前に、すっと悠真がの顔が割り込んだ。
 至近距離で見る美少年の容貌に絢子は我を忘れてぽかんと見入った。
「あんなものを見るよりも、僕を見ててよ、絢子。僕だけを、ずっと見てて」
 口付けが出来そうなくらい近くによると、悠真は絢子の頬をぺろりと舐めた。
「ひうっ!?」
 今度は違う意味で息を呑む絢子であったが、間近でくくくという笑い声を聞いてはっと我に返った。
「ゆ、悠真君? もしかしてからかったの?」
 頬を赤く染める絢子を愛しげに見つめると、悠真はにっこりと微笑んだ。
「だって絢子があんまり可愛いから」
「酷いわ! 私は悠真君のことが心配で駆け寄ってきたのに!」
 悠真は絢子と一緒に立ち上がると、正臣のほうに歩き出した。
「僕と正臣がいれば、外の奇獣や魚達は何とか撃退できる。でも、このまま三人で出て行っても絢子はきっと心休まらないよね?」
「ええ。先生方や、優美ちゃん達を残して行ったのでは寝覚めが悪いわ」
「じゃあ、戦おう!」
 悠真は瞳をきらきらと輝かせた。
「絢子の中にはね、紀朝雄の力が宿っているんだ。今は眠っているけれど、こういうときだもの、きっと使えるようになれるよ!」
「悠真君、何を言って……」
 今まで二人の会話を黙って聞いていた正臣は、悠真のその言葉を聞いた瞬間、はっと何かに思い当たったような顔をした。
「よく言った悠真! あの結界を壊す方法を思いついたぞ!」
 絢子と悠真は二人して正臣を見た。
「ただ、それには準備が要る。部室棟と、理事長室に用があるな。それが出来たら、この事象、朝を待たずして一気に解決するかもしれないぜ」
 この混乱の中、一縷の希望が見えた瞬間であった。



[27301] 破魔矢 ●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:88ac9c92
Date: 2011/04/27 00:30
 正臣は絢子と悠真にこれからの段取りを説明した。
「絢子ちゃんと悠真はこの階の真ん中にある理事長室へ行って、あるものを取ってくるんだ。俺は部室棟に転移して目当てのものを取ってくる。落ち合うのは屋上だ」
「正臣、あるものって何ですか?」
 絢子が聞く。
 正臣はにやりと笑って言った。
「破魔矢だよ。俺は部室棟へ転移し、弓道部の部室から弓と矢を拝借してくる。破魔矢を大結界の中心に射れば、大結界は消滅するだろう」
「そうか! 聖なるもので結界を裂くんだね!」
 悠真が合点したように頷いた。
「だからそのためにも、ここからは少しだけ別行動をとることになる。理事長室には三人で転移するけれど、その先からは、絢子ちゃんのことは悠真に任せるよ」
「わかったよ正臣! 僕絢子を守りきって見せるから!」
 悠真は絢子の腕に自分の腕を絡めながら言う。
「絢子ちゃんは今のところひとりだけなら転移が出来るね。危なくなったら気配を探って転移するんだよ」
「はい、わかりました」
 絢子のその返事を聞いた正臣はふっと微笑むと絢子の頬に手を添えた。
「これが片付いたら、絢子ちゃんに沢山美味しいものをご馳走してあげるよ。だから、ちゃんと破魔矢を取ってくるんだよ」
 絢子はきょとんとしたあと、話の内容を飲み込んでううと唸った。
「あの、子供のお使いじゃないんですから、私にだって出来ます」
 ちょっと膨れた絢子の顔を見た正臣は、ははと笑うと、すっと身を屈めて絢子の額に口付けをした。
「これ、幸運のおまじないね」
 そう言うと正臣は二人の肩に手をかけた。
「準備はいいね?」
「うん」
「はい」

「じゃあ飛ぶよ!」

 次の瞬間、三人の姿は職員室から掻き消えたのであった。


 理事長室に行った三人はすぐに破魔矢を見つけた。
 ガラスケースに飾られたそれを絢子は取り出し、胸に押し頂いた。
「じゃあ、これからは別行動だね。皆、屋上で落ち合おう」
「気をつけて、正臣」
「絢子は僕が守るから心配せずに行って来て」
「ああ」
 その言葉を残して正臣の姿は消えた。
 正臣が消えたのを確認した悠真は腰に手を当てた。
「さて、これから僕達は屋上へ上るわけなんだけれど、絢子は屋上の扉の前に着いたら先に転移術を使って屋上に入ってて。僕はあとから開けて入るから」
「えっ、でもそうしたら悠真君は?」
 絢子が不安そうに聞くと、悠真はにっこりと笑った。
「僕は金鬼だよ? 化物のあぎとなんかにはそう簡単に屈したりしないよ。これはね、保険。敵が迫ってきたときの約束だよ」
「ええ、わかったわ。何にせよ、私が危なくなったら、自分の身を守るために転移することが大切なのね」
「その通り! じゃあ、絢子、これから鬼ごっこ開始だよ!」
 そういうと悠真は絢子の手を引いてそっと理事長室の扉を開けた。
 外には奇獣の姿はない。
 悠真と絢子は足音を忍ばせて屋上へつながる階段へと急いだ。
 無事階段まで到着すると、そこを一気に駆け上がる。
 タンタンタンタン。
 しんとした階段に絢子の足音が響き渡る。
 しかし二階から三階へ、そして三階から四階へと上る途中で、廊下の向こうから「ギャアアア」という奇怪な鳴き声が聞こえた。
「来たよ!!」
「ひいっ!」
 足をもつれさせながらも絢子は必死になって階段を上がる。
 普段四階まで上り下りしているとは言っても、何分鈍っている体だ、脚に乳酸が溜まってきた。
 膝をあげるのがおっくうだ。
 心臓がバクバクする。
 と、ようやく屋上へのドアが見えてきた。
「あと少し!」
 動かぬ体を叱咤し、絢子は最後の階段を一気に上り終えた。

 と思った瞬間。

 頭上に黒々とした影が覗いた。
 見ると、天井に擬態していたカメレオンのような奇獣が逆さからどすりと落ちてきたのだ。
「きゃああああ!!」
 ドアの前に立ちふさがる奇獣に怯えていると、悠真が大声をあげた。
「絢子! 早く転移を!!」
 カメレオンの目がぎょろりとこちらを向いた瞬間、絢子はぎゅっと目をつぶり、屋上へと転移したのであった。


 絢子がはっと目を開けると、そこは真っ暗な屋上であった。
「絢子ちゃん!!」
 声のするほうを見ると、そこには手に弓と十数本の矢を持った正臣がこちらに駆けて来るところであった。
「正臣! 悠真君がまだ中に!」
「絢子ちゃんはここで待ってて! 悠真を連れてくる!」
 正臣はそう言うと絢子に弓と矢を持たせて転移した。
「悠真君、無事でいて!」
 絢子はぎゅっと弓と矢、そして破魔矢を抱きしめて悠真の無事を祈った。
 そのときである。


「あんた、こんなところまで来たのか」


 屋上の向こう側から、少しハスキーで色気のある声がする。
 絢子がそちらに顔を向けると、そこには制服姿の隠岐伊織が佇んでいたのだ。
「隠岐君! どうしてここへ!?」
 驚く絢子であるが、伊織は何でもないと言うような風情で絢子を見た。
「別に。ただちょっと面白そうだと思ったから」
「隠岐君、ここは危ないわ! 早く非難して!」
 絢子が叫ぶと、隠岐伊織はきょとんとしたあと、長めの前髪から覗く気だるげな瞳を面白そうに揺らめかせた。
「あんた、面白いな。俺が誰だかわかっていて、声をかけてるの?」
「えっ?」
「俺が甲賀五十三家で第二位の実力があるとわかっていて、その台詞を吐くの?」
「お、隠岐君……?」
「やはりあんたは面白い。鬼なんか止めて、俺の女になりなよ」
 そういうと伊織は絢子のほうへと足を向けたのである。






 優美はこめかみに青筋を立てたままパンと拍手を打った。
「呪縛せよ!!」
 そう言った瞬間、防御壁の外にいる念土達と悪縷達はぎちぎちと歪に動き始めた。
「ア、 ガガガガ!」
「ギエエエエ!!」
 優美は彼らを邪視で呪縛し、行動の主導権を奪ったのである。
「念土よ、狩るがいい! 悪縷よ、噛み砕け!」
 優美は拍手を打ったままの状態で念土達と悪縷達にそう命令した。
「ギッ、ギエエエエ!!」
「アアア、ガガガ!!」
 彼らはぐるりと後ろを向き、優美の威力の及ばなかった範囲の念土と悪縷をそれぞれ攻撃し始めたのである。
 優美はひとりで自分の下僕の少女達と何百体もの化物を使役している。
 彼女の額からはいつの間にかつうと汗が幾筋も垂れていた。
「優美さん! 無理をしてはいけない! 元から少女達を呪縛している上に、あの望月冴から化物共の主導権を奪ったばかりか、それを何百体も同時に使役するなんて無茶だ!」
 颯太が必死で優美に声をかけるも、優美はそれを聞こえないかのように振舞う。
 直人は先ほど奪った悪縷の体液を使って水紐を作り、敵を撃破していっている。
「颯太、放っておけ。それで自滅するならばその程度の器であったということだ。我々は我々のすべきことをするだけだ」
「でも直人、状況が変わっているよ。今戦うべき相手は優美さんではなく望月冴だ」
 颯太がそう言ったとき、優美の背後で頭を垂れていた下僕の少女達がすっと顔をあげた。
 その瞳は赤。
 彼女達は優美に習ってか、拍手をパンと打った。
 すると、その音に反応して悪縷達や念土達が望月冴に反旗を翻す。
 二十数名の下僕の少女達は先ほど大量の下等霊を飲み込んだため、力が増したのである。
「優美様に続くのです!」
 元は隠岐伊織という人物を慕っていただけであった普通の少女達が、こうして優美に操られながら望まざる戦いの中に身を投じている。
「止めなさい! 君達が戦う必要なんてどこにもないんだ!」
 颯太が少女達に向かって叫ぶが、やはり少女達もまた聞こえないかのように振舞っている。
「くっ!」
 颯太は歯噛みをすると防御壁の威力を増した。
「僕は彼女達を傷つけるつもりはさらさらないよ。直人も彼女達を守ってやってはくれないか」
 直人は銀のメタルフレームの眼鏡を左手ですっとあげると、やれやれといった様子で颯太を見た。
「お前は人が良過ぎるぞ。実に鬼らしくない」
「直人が鬼らしすぎるんだよ。もう少し人に歩み寄って見てもいいんじゃないのかな?」
「私は私だ。誰にも変えることはできんよ」
 その言葉を聞いた颯太はふいと首を傾げた。
「誰にも、ね。本当にそうかな?」
「何が言いたい?」
「以前の直人であれば、こうやって敵に手を貸すこと自体なかったはずだ。それを変えたのは一体誰なんだろうね」
「どういうことだ」
「いや、ただふと思っただけだから。何にせよ、これが無事終われば絢子ちゃんの家で楽しいパーティーが待っているんだからね。頑張らないと」
 そう言うと、颯太はキッと前を向いた。
「あの魔方陣さえ破壊できれば何とかなるはずだ。多分それは正臣達が何かを考えてくれているだろう。どうやら僕達は今ここにいる敵を一体でも多く減らすことが任務のようだ」
「ああ。そうだな」
 そう言うと二人は攻撃を再開し始めたのであった。


 優美は颯太の防御壁に守られながら外にいる歩兵達に攻撃を仕掛けている。
 彼女の脳裏には十年前のある一幕がよみがえっていた。


「お父様、優美はどうして女天狗と呼ばれるの?」
 六歳の優美は父親の隣に座って絵本を読んでいた。
「それはね、優美が外法を使えるからだよ」
 彼女は絵本を閉じて隣に座っている父親を見上げた。
「お父様は外法が使える優美のことは嫌い?」
 優美の大きな瞳に見上げられた父親はにこりと微笑んだようだった。
「いいや、父さんはね、優美のことを誇りに思っているよ。優美は先祖返りなんだよ。今の優美は小川家が栄華を極めた時代、異能者を沢山輩出した時代の名残なんだよ」
「優美がもっともっと強くなったら、お父様は優美のことをもっともっと好きになる?」
「ああ、そうだね、でも、父さんは今の優美でも十分に大切だよ」
 そう言って父親は優美のことを抱きしめた。
「私は今が幸せだよ。優美と、母さんと三人で暮らしている今が一番幸せなんだよ」
「優美、聞いたの。隠岐伊織様が甲賀五十三家の中では筆頭の次に強くなるのでしょう? その子と結婚すれば、小川家は安泰だって」
 父親は眉をひそめた。
「そんな話を誰から聞いたんだい?」
「お母様が、この間来たお客様とお話ししていたの」
「優美、そんな話は忘れなさい」
「優美は来年から栗栖学園の初等部に通うことになるんですって。伊織様と同じ学園に通うことになるの」
「それも母さんが言っていたのかい?」
「うん」
「あの人は、妄執に憑かれているんだよ。この小川家が再興できると思っている。時代の流れには抗えないのにね」
「妄執?」
「優美、今の話は聞かなかったことにしてくれるかな? それに栗栖学園はいい学園だと聞いている。別に眉をひそめるようなことではないからね」
「優美、栗栖学園に通って、伊織様と結婚するの!」
「そうか、そうだね、それもひとつの流れなのかもしれないね」
 父親は優美の頭をそっと撫でたのであった。


 優美は額から汗を流しながら、過去に思いを馳せていた。
「わたくしは、強くならなければいけませんの。強くなって、お父様と、お母様と、伊織様と、ずっとずっと、幸せに暮らすのですわ!」
 優美はさらに力を増した。
「呪縛せよ!!」
 その言葉を吐いた瞬間、優美の両のこめかみがびしっと裂けた。
「くうっ!」
 だらだらと血を流しながらも、優美は両手を合わせたままの格好で念を送り続けている。
 その壮絶な立ち姿は、それでもどこか美しかった。

「無駄なことを」

 優美の頭上にまたも望月冴が現れた。
 翼の生えた虎の奇獣に乗って、優美の姿を見物している。
「ほほ、やりよるわ。小川家の女天狗は随分と力をつけてきたのだねえ。でも、所詮はこの程度で器が損なわれるだけの存在。下がって見ておればよいものを、そうやって出張るから無駄な力を使うことになる」
 優美は冴の挑発には乗らず、力をどんどん増し続けている。
 念土と悪縷の三分の一程度は掌握したかに見えた。
「だがそれも霞と同じ。わたくしの力の前ではいかな女天狗と呼ばれる存在であろうとも塵芥に等しいのよ」
 そう言って冴はすっと右手を払った。
 瞬間、凄まじい念波が校庭全体を襲う。
「きゃああああ!!」
 術を押し返された優美は遥か彼方へ吹っ飛ばされた。
 下僕の少女達も一様になぎ倒される。
 優美と少女達の体が防御壁へ触れそうになった瞬間、しゅるりと水紐が彼女らを捕らえた。
「今壁に触れたら木端微塵になるからな。肉塊塗れになるなど寝覚めが悪い」
 気を失っている優美と少女達を水紐で縛り地面に横たえたまま、直人は銀のメタルフレームの眼鏡を光らせた。
「さっきから話を聞いてれば、この女天狗とやらも随分と舐められたものじゃないか」
「ほほ、力の差というものは歴然としておるのよ。それをわたくし以外のだれが教えてやれるとうのでしょう? 手間のかかる僕ですこと」
「こいつはお前の僕になったつもりはないようだが」
「あら、お前は女天狗に情を移したとでも言うの? 鬼が、珍しいこと」
「情などではない。だが、お前のその言はどこか癪に障る」
「まあ楽しい、鬼が戦ってくれるとでも言うのかえ?」
 ほほほと笑いながら冴は直人を見つめた。
「わたくしを楽しませてちょうだい? 水鬼よ」
「お前を楽しませるつもりなど毛頭ない、だがひねり潰すに依存はない」
 直人のその言葉を聞いた冴はまたも右手を一振りした。
 すると、今まで散らばっていた悪縷達がまたひとつに寄り集まったのだ。
 あっという間に悪縷達は巨大な魚に変化する。
 冴は次に左手をぐっと握った。
 すると今度は念土達がぼこぼこと寄り集まりひとつの大きな塊となった。
 腐りかけの巨神兵のようなそれは「ギャアアア」と耳障りな叫び声をあげて天を向いた。
「水鬼と風鬼、戦うのに依存はないわ」
 両腕を傀儡子のように動かしながら、冴は颯太と直人と対峙したのである。



[27301] 射手 ●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:29c9fbaf
Date: 2011/04/28 00:16
「隠岐君……」
 絢子は弓と矢を抱いたまま我知らず後ずさりをした。
 伊織はここが何の変哲もない場所であるかのようにすたすたと歩いてくる。
 と、絢子の目の前に正臣と悠真が転移してきた。
「悠真君! 正臣!」
 後ろ姿しか見えない絢子であったが、二人に別条はないと見て取ってほっと胸をなでおろした。
 伊織は三人の二メートルほど手前で足を止める。
「あんた達、やはり鬼だったんだな」
「絢子ちゃんは鬼じゃないけれどね」
「それは知っている」
「隠岐先輩!」
 悠真が声を張り上げた。
「こんなこと止めさせてよ! 隠岐先輩ならそれが出来るんでしょう?」
 伊織は悠真に視線を一瞬やると、その少しハスキーな色気のある声で言った。
「別に。俺望月冴のやることには興味ないし」
「違うよ隠岐先輩!」
 悠真がすかざず叫ぶ。
「ノブレスオブリージュ、『高貴なるものの義務』だよ! 力のあるものはそれに見合った責任がついてくるんだよ! 隠岐先輩が興味のあるなしに関わらず、もうすでに先輩はこの件に関わっているでしょ? だったら、これを収めるのもまた隠岐先輩の義務なんじゃないの!?」
「煩いな、お前」
 伊織は少しばかり眉根を寄せた。
 長めの前髪から覗く気だるげな視線を悠真によこすと、伊織はすっと気を発した。
「くっ!」
 悠真は片腕を目の前に出して伊織の気をやり過ごす。
「絢子、正臣! 二人は大結界を壊して! 僕が隠岐先輩の相手をするからその間に!」
 言うが早いか、悠真は伊織の元へ向かっていった。
「うぉらあああ!!」
 ガンと気と気がぶつかる。
 悠真はそのまま伊織の懐に飛び込んだ。
「はあっ!!」
 悠真は強烈な右ストレートを伊織にお見舞いする。
 が、伊織はそれを片手でいなすともう片方の手で突きを繰り出した。
 悠真は重心を後方に移動させることによってその突きを交わす。
 伊織の気だるげな瞳が興味深げに見開かれた。
「いい動きをする。この前念土と戦ったときは実力の十分の一も出していなかったのか」
 褒められた悠真はぷうと頬を膨らませながら伊織と距離を取った。
「隠岐先輩だって、こんなに動けるんだったら普段からもそうしなよ!」
「嫌だね、面倒くさい」
「そんなこと言ってるとすぐお爺さんになっちゃうよ!」
「気を練れるからそう簡単には老いない」
「気持ちの問題だよっ!」
 悠真は地団駄を踏むと伊織に向かってびしっと指を突き出した。
「もう! 先輩の面倒くさがり! 僕がその根性叩き直してやる!」
「……お前、意外に武闘派なんだな」
「それ絢子にも言われた」
 そう言うと悠真は自身の両手に気を集めた。
 悠真の両手がぼうと青白く発光する。
「はああああっ!」
 その手を目の前で構える。
「言葉が通じないなら拳で訴える!!」
 そう言うと悠真は金色の閃光になったかのごとく伊織に突進していったのであった。


 正臣は絢子を抱きかかえると、トンと跳躍して屋上にある倉庫の平らな屋根の上に上った。
「ここからならば校庭の中心に出現している大結界を、何にも邪魔されずに射ることができる」
 眼下では金色と漆黒の閃光がひゅんひゅんと舞っている。
「凄い、隠岐君も悠真君もどちらも光みたいな速さで戦っている」
 絢子はその閃光を目で追いながらぎゅっと手を握った。
 正臣は絢子に声をかける。
「さあ絢子ちゃん、準備だ。まずは普通の矢を弓に番えてみるんだ」
「はい」
 絢子は胸に抱いていた矢を床に置くと、その中から一本取り出して弓に番えた。
 そのまま右手をきりきりと引き絞る。
「ううっ!?」
 しかし、矢を引く右手がぷるぷると震える。
「ま、正臣、これ固くてうまく引けない!」
「待ってて」
 正臣はそう言うと絢子の隣に立ち、体をぴったりと密着させると、両手をそれぞれ絢子の手に添えた。
「心配しないで絢子ちゃん、俺も一緒に引くから」
 そう言うと正臣はぐんと限界ぎりぎりまで弓を引いた。
 そのときである。
 校庭に二体の化物が現れた。
 一体は巨大な魚、もう一体は念土である。
「ひいっ!?」
 絢子は思わず縮こまると背中の正臣に寄り添った。
 正臣は弓を引くのを一旦中止し、怯える絢子の耳元に口を寄せると、そっと勇気付けるように呟いた。
「さあ、怖がらないで。これで化物共を闇に返そう」
 絢子ははっと正臣のほうを向いた。
 間近に漆黒の切れ長の瞳がある。
 その瞳はただひたすらに絢子のことを気遣っているかのように見えた。
「正臣……」
 絢子がそう呟くと、正臣はそのまま絢子の唇に口付けをした。
「んっ」
 正臣は絢子の唇を柔く食む。
 その口付けを受ける内に、絢子の体から余計な力が抜けてきた。
「んっ、はあっ」
 息をつく絢子を見た正臣は頃合良しと見て取ったか唇を離した。
「行けるね? 絢子ちゃん」
 耳元で、低く官能的な声で囁かれた絢子はこくりと頷いた。
「はい、もう大丈夫です」
 絢子は目の前の二体の化物をきっと見つめた。
 再度弓矢を握りなおす。
 絢子の呼吸に合わせて正臣が弓を引く。
 ぐぐぐぐと弓が限界まで引き絞られる。
「行きます!!」
 絢子はそう言うと正臣の手と共に自分の手を離した。

 ビュウウウン!!

 矢は唸りながら弧を描いて飛び、念土の額に命中した。
「ギャアアアア!!」
 念土が叫んだ。

 校庭ではその期を逃さず颯太が風鬼の力で巨大な鎌を作って念土の首を一刀両断に切り裂いた。
「ギエエエエ!!」
 ずるりと念土の首が落ちる。
 落ちた首は一瞬にして灰となった。
 しかし念土の体はまだ動いている。
 望月冴は左手をピアノでも弾くかのように動かし、念土の両腕を操り颯太達を捕まえようとしている。
 防御壁に念土の手が当たる。
 ばちばちと念土の肉塊がはじけ飛ぶが、颯太のほうにも負荷がかかっているようだ。
「くっ!」
 颯太のこめかみに青筋が浮かぶ。
 直人は水紐を巨大魚悪縷の体内に入れ、内臓を破壊しているようである。
 彼がぎゅっと手を握るたびに悪縷はびちびちと体をしならせ、口から泡を吹いている。
 その泡に血が混じってきたところで、冴が動いた。
 右手をさっと動かし、これもまた防御壁へと突進させる。
「ちっ!」
 直人は舌打ちすると、悪縷のえらから水紐を出してぐるぐると巻きつけた。
 そのままぎちぎちと外側から押しつぶそうとする。
「颯太、防御壁はもつか!?」
「くっ! まだしばらくなら行けるよ!」
「わかった!」
 直人は裂帛の気合を込めて両手を組んで印を結んだ。
「はああああ!!」
 直人の周囲で気の渦が巻き起こる。
「砕け散れええ!!」
「ギャアアア!!」
 ぎちぎちと悪縷の鋼鉄の鱗にひびが入る。
 しかし口から血の泡を吹いて悪縷が防御壁に体当たりをする。
「くあっ!」
 その衝撃に颯太が後ずさりをした。
「正臣! 絢子ちゃん、早く大結界を!!」


 屋上では絢子が破魔矢を番えていた。
「今度は大結界を狙います!」
「やれるね?」
「はい! 正臣と一緒なら出来ます!」
 絢子は正臣と一緒にぐんと弓を引き絞った。
 きりきりきりきりと弦が限界まで引き絞られる音がする。

「行きます!!」

 絢子がかっと目を見開いた瞬間、それは起こった。

 絢子の体が突如淡い光で発光しだしたのだ。
「何っ!?」
 自分の腕の中で発光する絢子に驚く正臣であったが、それでも弓を引く手は止めなかった。
 すうっと絢子の何かが変化していく感覚がある。
 絢子の口から声が発された。


『我は紀朝雄。今ここで力を貸そう』


 そう言った瞬間、絢子の弓を持つ姿勢が変わった。
 達人の如き気合と姿勢である。

『鬼よ、そなたの助けはもう不要。ここからは我ひとりで行う』

 その言葉を聞いた正臣はすっと絢子から離れ、しかしいつでも助けに入れるよう彼女を見守った。

 淡く発光する絢子の気を感じたのか、屋上で戦っていた悠真と伊織も一旦手を止めて倉庫の上を見た。
「あれは、絢子? ……凄いや! 僕だけの宝物がきらきら光ってる!」
「あれが紀朝雄の覚醒した姿であるというのか」

 絢子は不思議な気分だった。
 体全体が温泉にでも浸かっているかのような心地よい温かさがある。
 自分の中から、誰かが自分を支えてくれている感覚がする。
 正臣に言葉を発したとき、自分がどこか別のところでそれを聞いているような感覚があった。
 今、絢子の中からは温かい気が立ち上っている。
(行ける!)
 絢子はそう確信した。
 破魔矢には絢子の体から出てきた光が渦のように巻きついてゆく。
 発光する破魔矢をきりきりと引き絞りながら絢子は念じた。
「当たりますように、この大結界を壊せますように!」
 そして、絢子こと紀朝雄は渾身の力を込めて矢を放った。

 ビュウウウウン!!

 光る矢は美しく力強い弧を描きながら大結界、逆五角形の中心へと突き刺さった。

 その瞬間、大結界から凄まじい光が溢れ出る。

「グアアアア!!」
「ギエエエエ!!」
 膨大な光と共に、逆五角形の中心が渦を巻く。
 校舎内にいる奇獣達も、念土も悪縷も全ての化物達がその光の中に飲み込まれてゆく。

 ごおおおお!!

 冴が乗っている奇獣も例外なく渦の中に引きずり込まれてゆく。
 彼女は奇獣を捨てると飛び降りた。
「今日のところは紀朝雄の力に免じて引いて差し上げますわ。でも、次に会ったときはまた楽しい鬼ごっこをいたしましょうねえ」
 そう言うと冴は揺らめく影となってその場から消え去ったのである。

 矢を放った絢子からは光が消えた。
 その瞬間、絢子はがくりと膝を折った。
 すかさず正臣が腕を伸ばして絢子を受け止める。
「絢子ちゃん、よく頑張ったね」
「はい、正臣」
 絢子はふわりと微笑むと正臣の腕の中ですうっと気を失った。
 正臣は絢子を抱きしめると、そのままマンションへと一足先に転移したのであった。

「今日は引き分けだね、隠岐先輩!」
「まあ、そういうことにしておこうか」
 伊織はそう言うとこれもまた煙のように掻き消えたのであった。
 悠真は屋上から下を見た。
 そこには防御壁を解いた颯太と直人の姿が見えた。
「さてと、僕も荷物をまとめて早く校庭へ行こうっと」
 そう言うと悠真はぱんぱんと制服を払い何事もなかったかのように屋上をあとにしたのである。


 校庭、倉庫の前では、直人と颯太が下僕の少女達の体内に入っている優美の毒気を除去する作業を行っていた。
 全ての除去作業が終わると、直人は一旦水紐を解除した。
 優美を含めた少女達は起きる気配はない。
「余程の力を使ったか」
「この子達は……当分下等霊を体内に入れた後遺症に悩まされるでしょうね。体がだるくなったり、眠気が酷かったりするだろうけれど、あれだけ力を使って、さらに力をはじかれたんだ、下等霊の毒素も抜けているだろうね」
「直人―、颯太―!」
 二人が声のするほうを見ると悠真が絢子と自分の荷物を持って駆けてくるところだった。
「悠真、無事だったかい?」
「颯太! うん、僕大丈夫だったよ!」
 悠真は意識を失ったままの少女達を見つめた。
「この子達はどうするの?」
「朝になれば意識を取り戻すだろうが、一応校舎内に運んでおいてやるか」
 直人がそう言うと再度水紐で彼女達を持ち上げ、校舎へと足を運んでいった。
「うわあ、直人が自分から後処理をするなんて」
「直人も何か心境の変化があったんだろうね。悠真だってそうなんじゃない?」
「僕? 僕はね、絢子のことをもっと好きになっちゃったよ!」
 それを聞いた颯太はふっと苦笑した。
「そうか。そうだね。僕も絢子ちゃんのことはもっと好きになったよ」
「とっても綺麗だったよ! 紀朝雄が降りた絢子の姿は」
 悠真は瞳をきらきらと輝かせたのであった。


 校舎内に女生徒達を運んだ直人はふと気配を感じた。
 そこには転移してきた正臣が佇んでいたのだ。
「俺はそこに眠っている小川優美にちょっと用があるんでね」
 言うと、正臣はつかつかと近づき跪くと、小川優美の小振りの頭をその男らしい左手でがしっと掴んだ。
「正臣、何をするつもりだ?」
「ん、ちょっとこの子にお仕置きをしようと思ってね」
「意識のない相手へ仕置きをして楽しいか?」
 直人の言葉を聞いた正臣はひょいと片眉をあげた。
「どうした直人? いつものお前らしくない。この小川優美に情でも移したのか?」
 直人は銀のメタルフレームの眼鏡を左手でくいっとあげた。
「いや。そうではない。仕置きというものは意識のはっきりした相手へ恐怖と後悔を植えつけてこそのものではないかと思ったのだが?」
 その台詞を聞いた正臣はふっと笑った。
「ああ、やっぱりいつもの直人だ。ただこのお仕置きはね、意識がないほうが好都合なんだ」
 そう言うと正臣は手から気を発した。
 次に、正臣の左手がCGグラフィックのように、優美の頭の中にずぶずぶと埋め込まれた。
 しばらくそのままでいたあと、正臣はおもむろに手を引き抜いた。
「絢子ちゃんとね、この子を傷つけないって約束しちゃったんだ。だから俺からのお仕置きはこれに決めたんだ」
「何をした?」
 直人が眉をひそめる。
「ん、この子の脳内に少しばかり細工をしたんだよ。絢子ちゃんの害にならないようにってね。それと、俺からはちょっとしたプレゼントをあげたんだ」
「どんな?」
「憎悪だよ。隠岐伊織と望月冴を恨むという憎悪の気持ちをプレゼントしてあげたんだ。これで小川優美は俺達の手駒になったと言っても過言ではないよ。皮肉でしょ? 絢子ちゃんを駒にしようと思っていた自分が駒にされるなんてね」
「お前も大概鬼畜だな」
「だって鬼ですから」
 そう言うと正臣は意地悪くにやりと笑ったのであった。

 ――これにて、栗栖学園での劇は幕を閉じたのであった。



[27301] 日曜日
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:29c9fbaf
Date: 2011/04/28 00:17
「うん……」
 絢子はむくりと起き上がった。
「朝かあ」
 絢子は自分の姿を確認した。
 自分は上着を脱がされ、胸元のボタンを三つほど空けられた状態でベッドの中に寝かされていた。
「そっか、昨日は学園で冴さん達と戦ったんだっけ。それで私に紀朝雄が降臨して、それから気を失っちゃったんだわ」
 絢子はベッドから降りて部屋を出ると、バスルームへと向かった。
 そこでシャワーを使うと、絢子は頭にタオルを巻いて、バスローブを羽織ながらキッチンへと向かった。
 そこにはいつものように正臣が朝食を作っていた。
「おはよう、絢子ちゃん」
「おはよう、正臣」
 正臣は絢子の姿を見るとくすっと笑った。
「そんな姿をしていると、昨日俺達の間で何かあったみたいに錯角しちゃうな」
 絢子は一瞬きょとんとしたあと、盛大に顔を赤くした。
「なっ! ななな!!」
「そういう無防備な絢子ちゃんも好きだよ」
「い、今すぐ着替えてきます!」
 正臣はたたたと走り去る絢子の後ろ姿を見て笑顔を浮かべると、フライパンの中身をひょいとひっくり返したのであった。


 今日の朝食はスクランブルエッグ、ベーコン、野菜のクリームスープ、フレンチトースト、オレンジジュースだった。
 日曜日のゆったりとした時間の中、正臣と二人でそれらを食べる。
 二人の間には穏やかな沈黙が流れていた。
 正臣は食後のコーヒーを飲みながら絢子の食べる姿を愛おしそうに観察していた。
「絢子ちゃんは俺の作るご飯をいつも美味しそうに食べてくれるよね」
「だって、正臣が作るご飯はとっても美味しいんですもの」
 食べ終わりオレンジジュースを飲んでいる絢子はその手を止めて正臣に答えた。
「ねえ絢子ちゃん、これからも俺は、絢子ちゃんのためにご飯を作り続けようと思うんだけれど、いいかな?」
 そう言って正臣はにっこりと微笑んだ。
「はい。……?」
 返事はしたもののふと首を傾げる絢子である。
「今のって、どういう意味ですか?」
「ん、言葉通りの意味だよ。俺と結婚しようよ、絢子ちゃん」
「はい……って、ええ!?」
 絢子は口をパクパクさせながら目をぱちぱちと瞬いた。
「何で今そんなことをさらりと言うんですか!?」
「ん、いや、この時間が実に幸せだなあと思ってね。ずっと留めておきたいって思ったら自然に言葉がポロリと出てきちゃって。あ、勿論今俺絢子ちゃんを口説いてるよ?」
「あの、困ります」
 絢子は赤くなって俯いた。
「困っているその顔も可愛いから俺も困っちゃうんだよな」
 頬杖を突きながら、正臣は絢子のその姿をにこにこと見つめている。
 と、正臣は何かを思い出したかのように居住まいを正した。
「あ、そうだ、今日は三人の鬼達が家に遊びに来ることになっているんだった」
「え、そうなんですか?」
 絢子は目を丸くした。
「昨日は色々あって流れちゃったからね。今日の昼頃遊びに来るって」
 そう言うと正臣はコーヒーを口に含んだ。
「そうだ、直人さんと颯太さん、今日のお仕事はどうされたんでしょうか?」
 絢子のその疑問に正臣は笑顔で答えた。
「元々彼らは泊まりで来る予定だったから二日分休みを取っているって言っていたよ」
「そうだったんですか……って、泊まり!?」
「うん、そのつもりだったけれど、何か?」
「いや、確かに夜にパーティーを開くんですから、遅くに帰っていただくのも悪いんだろうなあとは思いますけれど、まさか昨日来ていたら泊まっていたなんて思いませんでした」
 絢子がそう言うと正臣は「ん?」と首を傾げたあと意地悪くにやりと笑った。
「うん? 絢子ちゃんは俺達の愛の巣に他人が泊まるのが嫌なの? それならそれで俺は全然構わないよ? 何なら今日の予定をキャンセルして、二人でじっくり朝まで愛し合おうか」
「ええと! そうじゃなくって!」
 わたわたと両手を振りながら絢子は言葉を探した。
「どこで寝てもらうつもりだったんですか?」
「リビングだよ。布団なら押入れに入ってるからそれで十分事足りるし、徹夜で遊んでもよかったからね」
「徹夜でって……」
「ああ、そういう時、絢子ちゃんは眠たくなったら自分の部屋に戻ってもらってもいいんだからね」
「ご配慮ありがとうございます、でも、そういう予定ならばこれからは私にも事前に言っていただけると嬉しいです」
 絢子が俯きながらそう言うと、正臣ははっと何かに気付き、ふっと息を吐いたあと申し訳なさそうに絢子を見た。
「ごめんね絢子ちゃん、これからはそういう予定があるっていうことは事前にちゃんと言うからね」
「はい」
 その返事を聞いた正臣は席を立つと食器を片付け始めた。
 絢子も席を立ち、気を取り直して食器を片付けるのを手伝ったのであった。


 昼。
 チャイムが鳴る。
 テレビドアホンを見ると、そこには三人の鬼達が映っていた。
 ロックを解除して上がってもらう。
 程なくして三人が玄関から入ってきた。
 三人とも私服である。
 颯太はグレーのジャケットに白いVネックTシャツ、ダメージ加工のデニムに革靴である。
 彼らしく清潔な装いである。
 直人は、今日はオールバックではなく髪を下ろし、無造作ヘアでサングラスをしている。
 彼はチャコールのボア付きライダースジャケットの下に黒いTシャツを着て、ドッグタグを首から下げ濃い色のデニムを合わせている。
 普段のスーツ姿からは想像出来ないラフさである。
 悠真はハンチングを被り、茶色いレザージャケットに白シャツ、チェックのパンツに短めのブーツの装いである。
 それはまるで英国の乗馬スタイルをアレンジしたかのようであった。
 ちなみに正臣はラフに、濃い色のデニムにグレーのTシャツ、赤いチェックの上着を羽織って袖を腕まくりしている。
 絢子はデニムにTシャツ、パーカーというラフな部屋着スタイルである。
「いらっしゃいませ!」
 絢子が三人をリビングへと案内する。
 三人はそれぞれ手土産を持ってきていた。
 颯太はワイン、直人はチーズ、悠真はケーキである。
「わあ、三人とも、手土産を持ってきていただいてありがとうございます!」
 絢子はそれを受け取ってキッチンのカウンターへと置いてゆく。
「ケーキとワインは冷やしてあとでいただきましょうね」
 絢子はうきうきしながらそれらの作業をした。
「わあ、いい匂い! 正臣何作ってるの?」
 悠真がキッチンへと足を運んだ。
「ん、今日はね、お前らが来るから特別に良い肉買ってきておいたんだ」
 そう言うと正臣は白い皿に肉を手早く盛り付けていく。
「このソースはね、ちょっと手間がかかっているんだ」
 まるでフレンチのように皿がソースで淡く彩られてゆく。
「ソースの中身は何?」
「企・業・秘・密」
「正臣のけーち!」
 笑い合いながら正臣と悠真は会話をしている。
「さ、出来たよ。絢子ちゃん、皿を出してくれるかな?」
「はいっ」
 カウンターに置かれた皿を絢子は取ってゆく。
 綺麗に盛り付けられた牛肉のステーキは目にも楽しかった。
 全ての皿をテーブルに並べたところで皆が席についた。
 今日のランチはメインが牛肉のステーキで、付けあわせがパンとサラダ、グレービーソースがけのマッシュポテトである。
「さあ、食べようか」
「いただきます」
 そうして皆は正臣の料理に舌鼓を打ったのであった。


 ランチを食べ終わったあとは、大人組三人はワインを空けながら談笑し、悠真と絢子はテレビゲームに没頭していた。
 いつの間にかテレビ台の下にあったのがWiiである。
 リモコンを握り締め、悠真とテニス対決をする。
 絢子は根っからの文系人間だったのだが、四性の鬼の力を受け入れているためか、反射神経は以前よりも格段に良くなっている。
 しかしそこは力の本来の持ち主との対決である。
 呆気なく負けてしまった。
「やっぱり悠真君には敵わないわ」
「でも絢子、とっても動きが良かったよ」
「次は何をしようかしら?」
「マリオカートしようよ!」
 そんな二人の会話を聞きながら大人組三人はチーズを肴に二本目のワインを開けていた。
「葛城秀斎の動きはどうだ?」
 直人がワインを傾けながら正臣に聞く。
「相変わらず絢子ちゃんの夢の中には干渉してきている。昨日も望月冴の気配はした。あいつは覚醒した絢子ちゃんを見ている。これから、ますます干渉は酷くなるだろうね」
「ああ、僕もそれは気になっていたんだ。絢子ちゃんがほんの少しとはいえ目覚めてしまったから、これから葛城秀斎の動きは活発になるはずだと危ぶんだんだよ」
 颯太が心配そうに言う。
「僕らが絢子ちゃんの生活を守らなくては、絢子ちゃんは葛城秀斎の道具として使われることとなってしまう」
「それに匠の敵というだけあって一筋縄ではいかないだろうからな」
 直人がチーズを摘みながら正臣に話を振る。
「望月冴は必ず『渡り』を強化してくるはずだ。正臣、守りきれるか?」
 直人に話を振られた正臣はにやりと笑った。
「俺が絢子ちゃんを敵の手に渡すはずがないだろう? 俺の腕の中にいる限り、絢子ちゃんは安全だよ。俺は絢子ちゃんに余所見なんかさせない。俺だけを刻んでいるつもりだよ」
「考えようによってはお前が一番きつい役どころなのかもしれないな」
 直人がテレビゲームで遊ぶ絢子の後ろ姿を見た。
「夢の中ではいくらでも抱けるのに、現実の彼女は手に入らない。私ならば早晩喰っている。正臣、お前はよくそこまでの忍耐を貫き通せるな」
 それを聞いた正臣は意地悪く笑った。
「違うよ直人。俺はね、もの凄い欲張りなんだ。俺は絢子ちゃんの全てが欲しいんだ。だからそれを手に入れるためならばいくらでも待てるんだよ」
「正臣、絢子ちゃんをあんまり泣かせちゃ駄目だよ?」
 颯太がたしなめる。
「彼女が普通の生活を送れるように見守るのが、匠から預かった僕らの役目だよ。それを忘れないようにね」
「まあ、正臣の場合はだんだんと手段が目的になっているところがあるからな」
 直人もそう言う。
「そうは言っても、護衛として適任なのはお前だからな。絢子さんをしっかりと守ってあげてくれ」
「言われずとも」
「それじゃあ、僕らの姫君に乾杯しようじゃないか」
 颯太が声をかけ、二人のグラスにワインを注いでゆく。
 そうして三人はグラスを傾けると、それぞれに絢子に対する思いを胸に秘めながら杯を空けたのであった。



[27301] 忘年会
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:29c9fbaf
Date: 2011/04/28 00:19
 ――今日は十二月二十四日、栗栖学園の終業式である。

 式自体は滞りなく終わり、生徒達は年末・冬休みの予定であれやこれやと沸き立っている。
 この不況の最中にもかかわらず、多くの生徒が海外で年を越すそうだ。
 絢子は終業式のこの日に行われる忘年会を楽しみにしていた。
 今まで接点がなかった教師陣と親しく会話が出来るかもしれないと思ったのである。
 準備室で作業をしながら、絢子はわくわくする気持ちを抱えていた。
「絢子さん、楽しそうね」
 パソコン作業をしながら妙子が黒縁眼鏡をきらりと光らせて声をかける。
「え、わかりますか?」
「だって、絢子さん体全体から『楽しい』って気配を醸し出しているわよ」
「わあ、なんだかそれってちょっと恥ずかしいですね」
 絢子が頬を染めると妙子はにこっと笑った。
「いいじゃない、素直で。絢子さんが今日の忘年会を楽しみにしているのを見ているとこっちまで楽しくなっちゃうわ」
 それを聞いた絢子は目を細めてふふっと笑みを漏らした。
「私、今日の忘年会で先生方にいろんなお話を伺いたいと思っているんです。授業参観のときには少しだけしか見学できなかった先生の授業もあったから、その先生方のお話を聞けるのを尚更楽しみにしているんです」
 絢子のその姿を見た妙子はふむふむと頷いた。
「そうね、私ら専ら事務系の人間が教師陣と関わるのってこういうときぐらいしかないものね。それにしても絢子さんは今時純粋よね。教育に対してそんなに情熱を持っている人、なかなかいないわよ」
 妙子がそう言うと、絢子は両手をぶんぶんと振った。
「そんな、私純粋なんかじゃ全然ないですよ! ここの教師陣と比べたってまだまだだと思います。それに私の場合は今まで出会ってきた先生方が尊敬できる方が多かったので、それで自然と刷り込みみたいに教師になりたいって思っている部分もありますもの。本当に情熱を傾けている人だったら、今頃必死になって勉強しているはずです。そういう人達と比べたら、私なんて夢や憧れで終わらせておいたほうがいいんです、きっと」
 最後のほうは少しばかり俯いて言うと、それを見た妙子は意外そうな顔をした。
「あら、絢子さん、随分とネガティブ思考ね。でも、自分の現状を把握した上で、自分が置かれた環境の中でどんなに小さくとも足掻こうとする絢子さんは、私から見たら向上心があるように映るわよ。夢を失わないように追いかけるって、けっこうしんどいことなのに、今それをどんな形であれ追いかけている絢子さんは十分素敵だと思うわ」
「うう、そんなこと言ってくれるのは妙子さんだけですよぅ」
 両手を胸の前で組んで拝むように妙子を見る絢子であった。


 この日のカウンター作業は実に盛況であった。
 冬休みに読む本を借りに来たり、絢子や妙子に冬休みの予定を話しに来たりする生徒達で、図書室は人が溢れていたのである。
「十二時になったら図書室を閉めるから、それまでならいてくれて大丈夫よ」
「はーい、わかりました」
 カウンターの周りには、本を借りに来る生徒の邪魔にならない程度に絢子の妹(候補)達が侍っていた。
「絢子お姉さまはこの冬休みにどこかに行かれますの?」
 話を振られた絢子はうーんと考えながら作業をする。
「今のところ特に予定はないわね。今年は実家にも帰らないって決めているし」
「絢子お姉さまのご実家ってどこなんですか?」
「埼玉よ」
「まあ、意外と近かったんですのね」
 少しばかり目を丸くする妹達である。
「あっ、でも埼玉って言ってもどっちかって言うと秩父寄りのほうだから、自然はいっぱいあるしとってもローカルな感じのするところなのよ。隣の家では畑をやっているしね」
「そうなんですか。のどかなところなんですね」
「皆はこの冬休みにはどこかへ行くの?」
 絢子は妹達に話を振った。
「私はハワイに」
「私はバリ島に」
「私はオーストラリアに」
 皆それぞれに海外へと脱出するようである。
「わあ、豪華ねえ」
 妙子が絢子達の話に入ってきた。
「私は質素に家で正月を迎えるわよ。それにしても結構南半球に行く人が多いのね。暖かそうで羨ましいわ」
「妙子女史と絢子お姉さまにはちゃんとお土産買ってきますわね」
 リーダー格の女生徒がそう言うと、周りの女生徒もうんうんと頷いた。
「妙子女史も絢子お姉さまも特には出かけられないとのことなので、せめてお土産で行った気分になってもらえるようなものを買ってきますわ」
 それを聞いた妙子は片眉をひょいとあげた。
「まあ嬉しいわ。ただし、ネタに走らないでちょうだいね? 大きなコアラの置物とかもらっても飾りようがないもの」
 妙子のその一言により、妹達の闘志に火がついたようだ。
「妙子女史、私達のセンスを舐めてもらっちゃ困りますわよ。免税店で素敵なお土産を見つけてきますから! 妙子女史を唸らせるようなものを探して来ますわよ!」
「あの、皆、そんなに気張らなくてもいいのよ? 私は皆の気持ちが篭っていれば十分なのだからね?」
 絢子がそう言うと、妹達は目をきらきらと輝かせた。
「さすがは絢子お姉さまですわ! その楚々とした態度。私達も見習わなくては!」
「やはりそんなお姉さまのためにうんと素敵なものを選んで来ますわね」
 そう言うと妹達はスカートを翻して図書室をあとにしたのだった。
「絢子お姉さま、妙子女史、よいお年を!」
 妙子は片手を腰に当て、もう片方の手をひらひらと振りながら女生徒達を見送った。
「た、妙子さん……」
「策士と呼んで」
「生徒相手にそんな策を弄さなくても」
「いや、でもああ言っておけば、でっかいコアラの置物を貰わずに済むでしょう?」
「昔貰ったことがあったんですか? コアラの置物」
「ふっ、人はね、年を重ねるごとにいろいろな経験を積んでゆくものなのよ。絢子さんもいずれはわかるようになるわ」
「何かうやむやに格好良くまとめられてしまった気がしますが」
「気のせい気のせい」
 妙子はほほほと笑うと、作業に戻ったのであった。




 夕方五時。
 忘年会の会場へ行くためのマイクロバスが学園の校門前に到着した。
 妙子の隣の席に座ると、後ろの席に座っていた先生方が話す声が聞こえた。
「今回は隠れ家的な料亭に行くんですって」
「まあ、それは素敵じゃない」
 絢子は聞くともなしに聞いていたが、隣の妙子に一応聞いてみることにした。
「妙子さん、今日行くところはどういうところだか知っていますか?」
「ええ、一応ね。何でも、京都の老舗料亭で腕を振るっていた料理人が暖簾分けをしてここ東京で店を構えたって話なんだそうよ。味は保障付ですって」
「へえ、それは楽しみです! 私生まれてこのかたそんな豪華な料亭に行ったことは一度もないので」
 絢子がそう言うと、妙子はにっこりと微笑んだ。
「この学園にいると、こういう豪華な特典がついてくるから、そこはお得なのよね。この忘年会の費用だって全部理事長のポケットマネーから出ているって話だし」
「えっ! そうなんですか? 理事長太っ腹ですね」
 そう言っていると、ふぉっふぉっという声が聞こえた。
「わたしは太っ腹じゃよ」
「えっ!?」
 声のするほうを見ると、一番前の席にちょこんと座っている好々爺がいた。
「理事長!! いつの間に?」
「ふぉっふぉ、妙子さんと絢子さん、今日の忘年会は楽しんでくだされよ」
 この丸くて小さな理事長は栗栖学園の生徒達のアイドルでもある。
 特に女生徒達からはマスコット扱いをされており、理事長の姿が見える度、「キャー! 理事長!」と黄色い声援が飛ぶほどである。
 その好々爺はふぉっふぉっと笑いながらまた一番前の席にちんまりと収まったのであった。
 程なくして仕事を片付けた教師陣がぞろぞろとバスに乗ってくる。
 全員が乗ったところで、バスのドアが閉まり、料亭に向かって出発したのであった。


 料亭についてから先は無礼講といわんばかりの盛り上がりであった。
 出し物もあり、歌、マジック、クイズ、楽器演奏と多彩である。
 絢子は料亭の料理を堪能しながら、それら出し物を楽しんでいた。
 酔いが程よく回ってきたころ、絢子に声がかかった。
「松永さん、この際だから改めてここで自己紹介と何か一発芸でも披露してくださいよ」
「えっ?」
「そうそう、私達普段は松永さんとあんまり接点がないものだから、こういうときじゃないとなかなかお話できないものね」
「い、一発芸ですか」
「ええ、よろしく頼むわ」
 その声をきっかけに「わー」と歓声が上がる。
 絢子はおずおずと立ち上がると、皆の前に進み出た。
「松永絢子と申します。この秋から皆さんと一緒に栗栖学園で勤務することとなりました。皆さんには、妙子さんを始めいろいろと教えていただき、大変勉強になっております。今後ともよろしくお願いいたします。では、ささやかではありますが、ちょっとしたマジックをご覧ください」
 絢子はそう言うと、ペーパーを何枚か取り出し、空中に浮かせた。
「おおお!」
 酔いが回っている教師陣は皆目を丸くする。
(颯太さん、ごめんなさい、風鬼の力をこんな形で使ってしまって……)
 絢子は次にそのペーパーを紙吹雪と兎の形にしてふわりと宙に浮かせた。
 はらはらと舞う紙吹雪と、ぴょんぴょんと跳ねる兎。
 周囲からは歓声と拍手が巻き起こった。
「以上です。お目汚し失礼いたしました」
 そう言うと絢子はそそくさと妙子の隣の席に戻った。
「絢子さん、可愛い一発芸だったわよ」
「そうですか、ありがとうございます」
 絢子が気付けに日本酒をお猪口に一杯煽っていると、絢子の席に近づいてきた人々がいた。
 それは理科の教師陣だった。
「松永さん、さっきのマジックの種はどうなっているんですか?」
「僕も気になります! どうやって空中に浮いているものを切り刻んだのか、どこかで真空状態でも作ったのでしょうか? それとも、あれは事前に用意しておいたものなのでしょうか?」
「紐もなく、重力も関係なく物を浮かすというのは面白い。磁石のようなものですか?」
「あ、えっと、それはですね……」
 質問攻めにあってたじたじの絢子に、妙子から助け舟が出た。
「あら、マジックは種がわからないからこそ面白いんじゃないんですか? 先生方も理科の教師ならご自分で新たなマジックを生み出してみてはいかがかしら?」
 妙子のその言葉に理科の教師陣はぐうと唸った。
「ふむ、確かにそれもそうですね」
「先ほどの種は実証あるのみですか」
「ちょっと調査して見ましょう」
 そう言うと、理科の教師陣は何やら考え込みながら絢子の席を離れていったのであった。
「さ、さすが妙子さんです」
「ありがとうね。で、さっきのマジックの種は?」
「ええ?」
 妙子は黒縁眼鏡をきらりと光らせた。
「私ぐらいにはちょっぴり教えてくれてもいいんじゃないかしら?」
「そ、そう言えば妙子さんも理系の人間でしたよね」
「ええ。さっきの教師陣の話を聞いたら私も興味が出てきちゃってね。一体どこで種を仕込んだのかしら」
「うう、すみません、種は秘密です」
 しょぼんとしながら絢子は言った。
 酔いに任せてとはいえ「これは風鬼の力なんです」などと言えるわけがなかろう。
「そうか、残念だわ」
 さして残念そうでもない表情で妙子は日本酒を手酌で注いでくいっと煽った。
「『わからない』を楽しむのも一興よね」
「ありがとうございます」
 絢子はほっと胸をなでおろしながら辺りを見回した。
 どの職員も程よく出来上がっている。
「妙子さん、あの、下っ端の私はやっぱりこういうときお酌しに行ったほうがいいんでしょうか?」
 料理に手をつけていた妙子は絢子の質問に笑って答えた。
「今日は大丈夫よ、無礼講だし。それに、ここの教師陣はそういうことに頓着する人はあんまりいないから、変に気張らなくっても平気よ」
「そうですか、ほっとしました」
「でも、もし仲良くなりたい先生がいたらその先生のところに行って話を聞くのもいいんじゃない?」
「そうですよね、じゃ、ちょっと行ってきます」
 絢子は席を立つと社会の教師陣のところへ足を運んだ。
 そこでは授業の情報交換が行われている最中だった。
「あの、お話中失礼します、先生方にご挨拶に伺いました」
 絢子がおずおずとちょっと離れた場所に正座すると、その中の教師のひとりがちょいちょいと手招きをした。
「松永さん、どうぞこちらへ。あなたの噂は聞いていますよ」
「えっ? どんな噂ですか?」
 びっくりする絢子である。
 どんな物騒な噂が広がっているのだろうか。
「ああ、授業参観のときに、一際食い入るように授業を見つめる女の子がいるって、教師陣の間で噂だったんですよ」
「それがこの秋に入ってきた図書室の事務の女の子だって言うもんだから、僕らは嬉しくなっちゃってね」
「きらきらした目が、まるで在りし日の自分を見ているようでこそばゆくもあったっていう声も出ているんだよ」
「聞けばその女の子は社会の教師を目指しているって言うじゃない。僕らでできることがあれば力になるよ」
 先生方からの温かい言葉を聞いて、絢子は思わず胸が一杯になった。
「はい、ありがとうございます!」
 それから絢子は社会の教師陣に混ざっていろいろと有益な情報を耳にしたのであった。




「ただいま」
 夜も更け、絢子は静かに玄関のドアを開けた。
 正臣はまだ起きているようで、リビングからテレビの音が聞こえる。
 手洗いうがいをしてリビングへと赴くと、そこにはソファーの肘掛けに頬杖をつきながら目を閉じている正臣がいた。
 彼を起こさないように足音を忍ばせていると、ふと正臣の目が開いた。
「絢子ちゃん、おかえり」
「ただいま、正臣」
 正臣はすっと身を起こした。
「そうだ、絢子ちゃんに連絡することがあったんだ。ちょっとこっちにおいで」
 彼は絢子を呼ぶと、両手を組んでソファーに座り直した。
 絢子は正臣の隣にちょんと腰を下ろした。
「絢子ちゃん、年末は実家に帰らずこっちで過ごすって言っていたよね?」
「はい、そうですけれど」
「実はね、匠からある誘いがあったんだ。この冬休みの期間を使って、年末に皆で旅行に行かないかっていう」
「え? 旅行ですか?」
「そう。場所は山梨県。匠が経営している温泉付高級ホテルだよ」
「わあ!それって素敵ですね! いつからですか?」
「三十日から三泊四日での予定だって。二日に帰ってくるとのことだよ」
「楽しみです。メンバーはどんな感じですか?」
「絢子ちゃんと俺達四性の鬼と、匠の家族、それにイタリアから来たマルチェロ・ラッティオも同行するってさ」
「えっ! あの有名な写真家も一緒なんですか?」
 絢子は目を丸くした。
 とんだ豪華メンバーである。
「じゃあ、用意しててね。これで俺からの連絡は終わり」
 正臣はおもむろに絢子の頭をよしよしと撫でた。
「ああそうだ、明日はクリスマスだから、今夜何かあるかもしれないよ?」
「何かって何ですか?」
 絢子がきょとんとした表情で聞くと、正臣は意地悪そうににやりと笑った。
「サンタが夜這いに来るかもね」
「よっ、夜這い!?」
「知ってる? ユダヤ暦ではクリスマスは二十四日の日没から始まり、二十五日の日没で終わるっていうの。世の若者達はこの時間帯に『聖なる夜』を謳歌しているけれど、それは一応合っていると俺は思うね」
「な、なんて下品な! 全然合ってません!」
「ねえ絢子ちゃん、俺達も祝おうよ、『聖なる夜』をさあ」
「祝えません! シャワー浴びてきます!」
「おっ、絢子ちゃんの艶姿楽しみにしてるよ」
「もう、正臣の馬鹿!」
 絢子はそう言って席を立つと足取りも荒くバスルームへと向かったのであった。
 その後姿を愛しげに見つめながら、正臣はふと表情を改めた。
「……さて、この旅行、どうなることやら」



[27301] 瑞城直人 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:f70aaa3e
Date: 2011/04/29 00:07
 夢の中で、絢子は羞恥のあまり小刻みに震えていた。

「正臣、こっ、これは、どういうことですか!?」

「ん、クリスマスにちなんでこういう趣向もありかなと♪」

 夢の中の絢子の格好は所謂「ミニスカサンタ」だったのである。
 しかもスカート丈は太ももが半分以上露出しており、肩はもろ出し、バックは腰の辺りまでスピンドルで、交差した紐の隙間から肌が露出しているという何とも大胆な衣装であった。
「正臣の変態! こんな服着ていられません! というより、着ていないも同然です!」
「えー、男のロマンなのにー。そのチラリズムがそそるんじゃない。それに、すぐに脱がすから心配しなくってもいいよ」
「脱が……!」
 がんと顎が外れそうになるぐらいあんぐりと口をあける絢子である。
「いいねぇ、絢子ちゃん、いつも新鮮な反応で。抱き甲斐がある」
「さ、サイテーです!!」
 正臣はにやりと意地悪そうに笑うと、絢子を自分の腕の中に閉じ込めた。
 抱きながら、絢子の後ろのスカートをはらりとめくる。
「きゃああ!」
「下着の結び目は紐にしておいたから、解くのが楽しみだなあ」
「正臣の意地悪!」
 絢子が涙目で訴えると、正臣はそれすらも楽しいといったように目を細めた。
「ああ、可愛いなあ絢子ちゃんは。さ、一緒に『聖なる夜』を楽しもうね」
 そう言って正臣が絢子に唇を近づけようとしたとき。
「わ、私、こんなの駄目ですっ!」
 正臣の腕の中から、絢子は転移したのであった。


「えっと、ここは……」
 何もない白い空間で、絢子は辺りをきょろきょろと見回した。
「私、確かあの時直人さんを思い出して転移したんだわ」
 直人ならば、こんなときでもきっとストイックに仕事をしているであろうと思って、とっさにその姿をイメージしたのだ。
「絢子さん……?」
 見るとそこには高価なスーツを着込み、オールバックで銀のメタルフレームの眼鏡をかけた直人が立っていたのである。
 直人は眼鏡の奥の瞳に少しばかり驚きの表情を浮かべながら佇んでいた。
「絢子さん、その服装は?」
「えっ?」
 絢子は改めて自分の服装を見直した。
 何という扇情的な格好なのだろう。
「きゃあ! あの、すみません、お邪魔しました! すぐに着替えます!」
「……いや、それでいい」
 そう言うと直人はすっと眼鏡を外した。
 胸ポケットに眼鏡をしまうと、直人は自分の前髪をくしゃりと掴んだ。
 はらはらといく筋かの髪が額にかかる。
 それだけで、目の前の男性からは例えようもない色気が溢れた。
 直人は数歩で絢子の傍まで寄ると、真上から絢子を見下ろした。
「何の幸運か、あなたが自ら私の夢にやってくるとは。これは私への褒美なのか」
「あの、直人さん?」
「今宵は私があなたを愛でよう」
 そう言うと直人は絢子の頬にすっと手を添えた。
「なお……」
 絢子のその口を塞ぐように直人の口付けが落ちた。
 直人はそのまま絢子の腰を抱き寄せ、角度を変えて何度も唇を奪った。
「んんっ」
 直人から与えられる柔らかい感覚に絢子は身を捩ろうとした。
 だが、腰に添えられている手がそれを許そうとはしない。
「あっ、はあっ」
 絢子が息継ぎをすると、見計らったかのように直人の舌が絢子の唇をなぞる。
 ぬるりとした温かいその感触に思わず背筋がぞくりとする。
 目をぎゅっと瞑ると、直人の手と、舌の感覚が鮮明に伝わってきた。
 背後の手は腰に沿って上へ上へと上がってきている。
 スピンドルの隙間から覗く肌に、直人の長くて綺麗な指が直に触れて、その度に体がざわりと粟立つ。
 やがて頬に到達したその綺麗な手は、もう片方の手とともに絢子の顔を包み込むように挟んだ。
「やあっ、直人さんっ」
 絢子のうるうると潤んだ瞳に、直人の顔が映る。
「絢子さん、あなたという人は……」
 直人はそう呟くと、それから突然噛み付くような激しい口付けを開始した。
 先ほどの紳士的なものではなく、貪るような激しさである。
 絢子の頬を拘束し、己を刻み付けるかのように喰らいつく。
「んんっ!」
 その激しさに腰が砕けそうになる絢子である。
 ふと気付くと、背中がベッドについていた。
 真下から直人の整った顔を見上げる。
 覆いかぶさった直人は絢子の腰を両膝で拘束し、上体を起こすとスーツをざっと脱いだ。
 次にネクタイを緩め、すっと外す。
「あの、直人さん、私直人さんに水鬼の力の使い方を教えてもらいたいのですけれど」
 Yシャツのボタンを外している直人は絢子を艶っぽい目で流し見た。
「私から水鬼の力を教わりたいと、絢子さんはそう言うのですね?」
「は、はい」
 無造作にYシャツを脱いだ直人の体は思わず触りたくなるほど整い、引き締まっていた。
「あの、ですから、服は着ていてもいいんじゃないかなあなんて思ったのですが」
「これからじっくりと教えて差し上げますよ」
 そう言うと、直人は絢子を水紐で雁字搦めに拘束した。
「なっ、何を……」
 その絢子を、直人はすうっと目を細めるとねっとりと貪り始めたのであった。
 怯える絢子が意識を手放すのはそう遅くはなかった。




「相変わらずだねえ」
 正臣の声がするほうに直人は顔をあげる。
「正臣、いつから見ていた」
「わりと前からね」
 直人は絢子の拘束を解いた。
 絢子の体は人形のようにぐにゃりと崩れ落ちた。
 元が水のため、絢子の体に痕は残っていない。
 肌は水紐の刺激の余韻で赤く色づいているのみである。
「正臣、なぜ絢子さんを取り戻さなかった?」
「絢子ちゃんも少しは懲りたでしょう、俺達鬼がどういう存在なのかをね」
 そう言うと正臣は絢子の体を直人の腕の中から掬い取った。
「じゃ、絢子ちゃんは連れて行くから」
「正臣」
 直人は正臣を呼び止めた。
「何?」
「あれは、そそるな」
「あれってどれ? 俺は絢子ちゃんの全部にそそられちゃうから探すのが大変で」
「絢子さんの泣き顔は見ているだけでもっと苛みたくなる」
 それを聞いた正臣はにやりと意地悪く笑った。
「俺もたまにそれが見たくなっちゃって、で、今日はわざと逃がしたの」
「鬼だな」
「鬼だね」
 二人はそう言うとそれぞれの空間をあとにしたのであった。




「ううん……」
 絢子は身じろぎをした。
 と、背中に異変を感じる。
 背中の壁がなぜか温かいのだ。
 絢子はぱちりと目を覚ました。
 そこには見慣れない、しかし見たことのある風景が目に入ってきた。
「この部屋は、それにこの腕は」
「おはよう、絢子ちゃん」
 背後の壁が喋った。
「ひゃああ!」
 背後の壁・正臣はうーんと言うと絢子をぎゅっと抱きしめた。
 絢子の耳元で、低く官能的な声でぼそぼそと呟く。
「昨日はさあ、絢子ちゃん直人のところに行っちゃったじゃない? だから俺、転移術で絢子ちゃんを隣の部屋から俺んとこへ連れて来ちゃったんだ。あ、心配しないで、現実の絢子ちゃんには眠っている間に何かするほど鬼畜じゃないから。ああ、俺にとってのクリスマスプレゼントは絢子ちゃんだったんだね♪」
「自分で運んでおいて何を言いますか! それに昨日は、私っ……」
 絢子は夢の中での直人とのことを思い出して身震いしたあと、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「ん? 絢子ちゃん、怖い思いでもしたんだね? まあ、直人にとってはこれ以上ないクリスマスプレゼントだったと思うよ。偉い偉い」
 しゃくりあげた絢子の頭をよしよしと撫でる正臣であった。
「絢子ちゃんは昨日のことで直人のことを嫌いになる?」
「いいえっ、いきなりあんな格好で来た私も悪かったですし、望月冴の気配もしましたし」
 絢子がそう言うと、正臣は「ああ、そうだった」と何かを思い出したように言った。
「忘れてたよ、絢子ちゃんの自罰思考。いいかい? こういうのは普通自制出来ない男も悪いんだからね? それと絢子ちゃんは俺達に抱かれることに罪悪感を持つことなんてないんだよ。俺達は絢子ちゃんを好きで抱いているし、基本的に絢子ちゃんの嫌がることはしないからね。それに絢子ちゃんは夢の中で俺達に抱かれることで四性の鬼の力も少しずつ受け継いでいるんだよ」
「そうなんですか?」
 泣き止んだ絢子はそっと正臣に聞いた。
「そうそう。でも、俺はこれからも夢の中で絢子ちゃんを抱くのだけは譲れないな」
「鍛錬じゃ駄目なんですか?」
「駄目だね。俺は夢の中で絢子ちゃんを抱いていることで現実の絢子ちゃんを抱けないストレスを発散しているんだよ」
「そういうストレス発散ならほかでやってください!」
「お、だんだんいつもの絢子ちゃんに戻ってきたね。何はともあれ、今日は一日中こうやってベッドの中でごろごろしていようよ」
「……。」
 それは今の絢子にとってちょっぴり魅力的な提案だった。
「じゃあ、少しだけなら、正臣のベッドを借ります」
「はい決定ね♪」
 そう言うと、正臣は絢子を離すまいとしっかりと抱きしめたのであった。



[27301] 山梨へ
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:f70aaa3e
Date: 2011/04/29 00:08
 今日は十二月三十日。
 三泊四日の山梨旅行の当日である。
 絢子はボストンバックに旅行用のあれこれが詰まっているのを確認した。
 まずはホテルのアメニティグッズ以外の、化粧品等の普段使いの身だしなみ用品。
 ディナーにフレンチがあると聞いて、ドレスコードを確認して用意したワンピースと、それに見合った鎖の取っ手のついた黒い横長のポーチ。
 あとは下着三日分と、着替えを二日分。
 着替えは嵩張らず着回しができるものを選んだのである。
 今日の絢子の服装は、黒のスタンドカラーコートに、薄桃色のニットワンピ、黒タイツにエナメル加工のパンプスというフェミニンな装いである。
 セミロングの髪はくちばしピンで留めてうしろでアップにしている。
 少しばかりそわそわしながら絢子はリビングへと足を運んだ。
 先にリビングにいた正臣も出発準備は出来ているようだ。
 今日の彼の服装はエンジ色のフードとファー付キルトジャケットに黒い無地の長袖Tシャツ、ダメージ加工のデニムに黒のショートブーツである。
 その正臣は絢子の格好を見るとすっと目を細めた。
「可愛いね、絢子ちゃん。そういう格好していると絢子ちゃんの可愛さが良く引き立つよ」
 絢子は少し頬を染めながら正臣を見た。
「正臣も、よく似合っていますよ」
「ありがとね」
 そんな会話を交わしているところでチャイムが鳴った。
 マンションの玄関先には黒塗りの立派なハイヤーが停まっていた。
 荷物をトランクに預け、二人で乗り込む。
 そうして絢子達を乗せた黒塗りのハイヤーは静かに発進したのであった。
「あの、正臣、こんなに至れり尽くせりでいいんでしょうか?」
 うしろの席にちょこんと所在なさげに座った絢子は隣の正臣に聞いた。
「ん、大丈夫だよ。俺達は匠の客なんだ。これぐらいの対応は当たり前と思っていていいんだよ」
「でも、私一般市民ですからなかなか慣れません」
「俺も一般市民だけれどね、んー、こういうのは場数かなあ」
 正臣はそう言うと席に深く腰かけた。
「旅は長いからね、絢子ちゃん。リラックスだよ」
 しかし絢子はすっと背筋を伸ばした。
「はい、でも私車酔いしやすくって。酔い止めは一応飲んでいるんですけれど、飴舐めたり緊張していたりしたほうがいいんです」
 絢子がそう言うと、正臣はひょいと片眉をあげた。
「ふうん、絢子ちゃん、それならむしろ現地に着くまで寝ていたら? 俺の肩貸すから。何なら膝でもいいよ?」
「えっと、今はまだ遠慮しておきます。薬が効いてどうしても眠くなったら借りることもあるかもしれません」
 絢子がそう言って一時間後。
「……すみません正臣、やっぱりちょっとだけ肩貸してください」
 酔い止めが効いてきたのか、少しばかりうとうとしてきた絢子は正臣に思い切って声をかけた。
「いいよ、おいで」
 低く官能的な声で囁いた正臣が右手を伸ばす。
 彼の片腕に抱かれて、その肩に頭を乗せた絢子はほうと小さなため息をついた。
「落ち着いた?」
「はい、ちょっと落ち着きました」
「そう、なら良かった」
 その体勢のまま、絢子は静かに目を閉じたのであった。


「絢子ちゃん、もうすぐ到着だって」
 頭の上から声がする。
「うん……」
 薄目を開けると、正臣がくすりと笑った気配がした。
「絢子ちゃん、俺の腕の中でよく寝ていたよ。そんなに気持ち良かった?」
「はい」
 寝起きなので、絢子は素直に答えた。
 それを聞いた正臣は絢子の頭上にふわりと口付けをした。
「正直に答えたのでご褒美です」
「そんな褒美いりません」
 ぱちりと目を覚ました絢子はいそいそと正臣から離れた。
 離れるとき、正臣の温もりが恋しいと一瞬思ってしまったが、それを振り切って背筋を伸ばした。
 そして脱いでいたコートに袖を通したところで、目の前に豪華な建物が見えてきたのである。
「うわあ! 何ですかこれは!?」
 絢子は窓にへばり付いてその城のような建物を食い入るように見つめた。
「ここが匠の経営する高級ホテルだよ」
「それにしたって大きいです!」
「今通ってきた道もね、全部このホテルの敷地内なんだよ」
「ええっ? そうだったんですか!」
 驚く絢子である。
「それにしても、こんなホテルどうやって維持しているんでしょう?」
 この不況の最中、このような高級ホテルはどうやって経営を成り立たせているのだろう。
「ああ、ここはね、各国のVIPや政財界の重鎮なんかをもてなすために作られた隠れ家的ホテルなんだ。今回のメンバーの中にイタリアから来たマルチェロ・ラッティオがいるでしょう? 彼をもてなすのも含めて、ここのホテルに泊まることに決まったんだそうだよ」
「へえー、そんな背景があったなんて知りませんでした」
 ぽかんと口を開けたままの絢子を乗せた黒塗りのハイヤーは、正面玄関へと到着した。
 中央の広場には大きな噴水があり、勢いよく水を噴出している。
 水のカーテンのようなそれに見とれていると、横合いから声がかかった。
「絢子! 正臣!」
 見ると、そこにはこちらに向かって駆けてくる悠真の姿があった。
 悠真はそのまま絢子にぎゅっと抱きついた。
「きゃあ! 悠真君!」
「会いたかったよ絢子! 僕、絢子がいつ来るかと待ち遠しかったんだ!」
「悠真、今来たばかりだろう?」
 うしろから声がかかる。
 振り向くとそこには直人と颯太がいた。
「直人さん、颯太さん!」
「確かに僕今来たばかりだけど、移動中、ずーっと絢子のことを考えていたよ」
 そんな三人の今日の服装もまた目に楽しい。
 悠真はグレーのPコートの下に青いフード付パーカーを着て、黒のサスペンダー付サルエルパンツに膝丈の編み上げブーツを合わせている。
 直人は黒い細身の、内側がグレーの総ファー使いのムートンコートの下に白シャツを着て、濃いグレーのダメージ加工のデニム、靴は黒のエンジニアブーツを履いている。
 颯太は黒いトレンチコートにボーダー柄の長袖Tシャツ、ベージュのチノパンをはいており、靴は革靴である。
 その三者三様の服装に絢子はほうと見とれた。
「何だか皆さん、雑誌のモデルみたいですね」
 そう言うと三人とも絢子を蕩かすような笑みでもって応えたのであった。

 エントランスを通りながら悠真が絢子達に説明する。
「チェックインはもう済んであるから、あとはカウンターで自分の名前を言って、それぞれの部屋の鍵を受け取ればいいんだって」
「そうなんだ、ありがとう悠真君」
 絢子がにこっと微笑むと、悠真は灰色の瞳をきらきらと輝かせて絢子の手をぎゅっと握った。
「絢子! 僕と一緒に沢山遊ぼうね!」
 そうして悠真と別れてカウンターまで行き、鍵を受け取っていると、直人が絢子の傍にやってきた。
 直人は今日も髪を下ろしており、服装も相まってその姿はどこのナンバーワンホストかと思わせるほど色気が漂っていた。
 絢子はこの間の夢のこともあってか、少し身構えて直人と対峙した。
 直人はそんな絢子を見ると、少しばかり申し訳なさそうな表情をした。
「絢子さん、この間はあなたを怖がらせてしまってすまなかった」
 その声音はとても真摯なものであった。
「あの、私、怒っていませんから。私も悪かったのですし」
 絢子がそう言って俯くと、直人は驚いたようだった。
「私を、許すというのですか?」
「許すというか、あれはきっと事故だったんです。私はそう思うことにしたんです」
 しかし絢子がそう言った途端、直人から発せられる気が鋭く変わった。
「私はあの日のことを事故になどしたくはない。あなたを怖がらせてしまったことは謝るが、あの日のことをあなたから忘れさせるつもりはない」
 そう言うと直人は絢子の頬をすっと撫でた。
「あなたは、あなたに囚われた鬼がどんな気持ちでいるのか想像できますか?」
「え?」
 顔をあげた絢子の目には壮絶な色気を発する直人の姿が映った。
「鬼の執念を甘く見ないほうがいい」
 直人はすっと絢子の耳元に唇をつけた。
「あれからずっと、私はあなたを抱きたくて堪らないんだ」
 そっと囁かれたその言葉は、絢子にとっては少々刺激が強すぎるものであった。
「なっ! ななな!?」
 顔を赤くして目を白黒させている絢子を見た直人は、ふっと甘く微笑んだ。
「……冗談です。あなたがあまりに普段通りなものだから、ちょっとからかいたくなっただけですよ。ただ、私の気持ちはいつもあなたにあることを忘れないで欲しかったのです」
 直人はそう言って絢子の元を離れたのであった。
「っはあ! びっくりした……」
 息をついて呼吸を整えている絢子の下に正臣がやってきた。
「絢子ちゃん、今直人に誘惑されていたでしょう?」
「ゆ、誘惑って」
 絢子がしどろもどろになると、正臣は直人が去っていった方向を見つめた。
「あんな楽しそうな直人久しぶりに見たよ。これも絢子ちゃんのおかげかな」
「私のおかげって、そんなことを言われても……何ていうか、貞操の危機を感じたのは気のせいなんでしょうか」
「ここで俺が気のせいって言ったら絢子ちゃんは安心する?」
「うう、安心できません」
 絢子がそう言うと正臣はにっこりと微笑んだ。
「そう、いつもそれぐらいの危機感を持って男性と接するんだよ。男は皆狼なんだからね」
「正臣も狼なんですか?」
 問われた正臣はにやりと意地悪そうに笑った。
「そう、しかも特別狡猾な狼だよ。絢子ちゃんの爪の先から髪の毛一本に至るまで、全てを喰らい尽くしたいと思っている、残忍で、凶悪な狼なんだから」
「わ、私、自分の部屋へ行きます!」
 絢子が顔を赤くして言うと、正臣は指に挟んだカードキーをちらりと見せた。
「絢子ちゃんの部屋ね、俺の隣だから。一緒に行こうね」
 そう言うと正臣は絢子の肩を優しく抱いて歩き始めたのだった。


 その部屋は二人用の部屋をひとりで使用するという豪華なものであった。
 割り当てられた部屋に入ると、テーブルの上に封筒が置いてあった。
 ボストンバッグを置いた絢子はそれを開いてみた。
 その中にはこの三泊四日の予定が大まかに記されていたのである。
 曰く、基本的に行動は自由であること。
 予約等は全て藤原匠の名前で取ってあるので、何かあったら匠の名前を出せばいいということ。
 夕食は七時にフレンチのレストランで取るということ。
 朝食・昼食は七時と十二時から行われるバイキングで取るということ。
 スイートルームを借りてあるから、そこで寛いでもらっても構わないし、バーでのお酒は飲み放題であるということ。
 温泉は朝五時から深夜一時まで営業しているということ。
 地下にある娯楽施設は立ち入り自由で、ダーツやビリヤード、カジノも楽しめるということ。
 そして今日は午後六時にスイートルームに集まるということ、が記されてあったのである。
 絢子はそれらの事柄に目を通すと、窓際のソファーにちょこんと腰かけた。
「何だか広すぎて落ち着かないわ。それにこんな豪華な部屋、今まで泊まったことのあるホテルの中で一番いいわね」
 自分のような一般市民にはやはり身に余る待遇だと思ったのである。
 絢子は時計を確認した。
 まだ時間がある。
 せっかくこんな豪華なところにきたのだ、部屋や周囲を探検してみるのもいいかもしれないと思ったのであった。
 手始めに絢子はバスルームへと足を運んだ。
「わあ! 素敵!」
 広いバスルームは、壁面は全て大理石で作られており、床暖房が完備されていた。
 大きな洗面台はこれも大理石で出来ており、高級アメニティグッズが綺麗に並べられてあった。
 タオルとバスローブはふかふかで、さすが藤原グループ系列のホテルだと思わせるものであった。
「うーん、今すぐにでも入りたいところだけれど、温泉っていう楽しみもあるし、まずは探検してこよっと」
 そう言うと絢子はボストンバッグから鎖の取っ手のついた黒い横長のポーチを取り出し、携帯と長財布とカードキーを入れて部屋を出たのであった。

 各階にはそれぞれ色とりどりの花が飾られ、目を楽しませてくれる。
 部屋のドアの反対側の壁には等間隔に花を挿すスペースが設けられている。
 絢子は時計を確認しながら、それらの花や廊下を携帯でパシャパシャと撮っていった。
 それから一旦スイートルームに足を運んでみる。
 まだ誰も来ていないため部屋は開いてはいなかったが、場所を確認したので、六時に間に合うように来るようにと努めた。
 そのままエントランスを抜けて、外へ出てみる。
 コート越しに感じる寒さに絢子は少しだけ身震いをした。
 と、そんな寒空の中、レザージャケットを羽織り、カメラを片手に一心不乱に何かを撮っている人物を発見した。
 何を撮っているのだろうと絢子が覗くと、そこには一匹の猫が丸くなっていたのだ。
 猫は人馴れしているようで、ときどきふわあと大あくびをする。
 その瞬間をその人物はパシャパシャと一眼レフで撮り溜めている。
 ふと猫が絢子に気付いた。
 猫は立ち上がると、尻尾をピンと立てながらとっとっとした足取りで近寄ってきた。
「んなぁ~」
 甘え声で絢子の脚にまとわりつく。
 絢子は思わず相好を崩して、しゃがみ込んだ。
「君は可愛いねえ。どこから来たの?」
 絢子の膝にすりすりと身を摺り寄せながら、猫は「んなぁ~」と鳴く。
 喉を撫でると、猫はごろごろと喉を鳴らした。
「ふふ、気持ち良い?」
 そうやって一通り戯れてやると、猫は満足したのか絢子の下から去っていった。
「じゃあね」
 絢子は立ち上がって猫の去っていったほうを見つめた。
 ふと気付くと、パシャパシャと音がする。
「え?」
 振り向くと、先ほどの人物が絢子のことを一眼レフで撮っていた。
「や、あ、あの、すいません、撮らないでいただけますか?」
 絢子が声をかけると、その人物はふと気付いたかのようにカメラを下ろした。
 その人物は黒髪黒目の彫りの深い顔立ちであった。
 身長は絢子よりも頭ひとつ分抜きん出ていた。
 彼は絢子の姿を肉眼で見て息を呑むと、鬼気迫る表情で絢子を射抜き声を発した。


「Qual e il suo nome?」


「え?」

「Venga con me!」

「ええと、Do you speak English?」

「Parli inglese?」

「あ、あの? わわっ、I don't speak English. 」

 絢子がわたわたしていると、その人物はずいっと近づいてきた。
「わああ! あの、私本当は英語全然喋れませんし、あなたの言葉も何語か全然わかりませんし、わーん、どうしよう!?」
 絢子が涙目になっていると、遠くのほうから声がかかった。


「マルチェロ!! 駄目だよ! ここは日本なんだから日本語で喋らないと!」


「その声は、悠真君!」

 胸の前で両手をあげた「お手上げ」の状態で涙目になりながら顔だけを声のするほうに向ける。
 悠真はたたっと走り寄ると、絢子とマルチェロと呼んだ人物の間にすっと身を割り込ませた。
 彼は腰に手を当てて、マルチェロの胸にびしっと指を突き付けた。
「ほら、絢子が怖がっているよ! 我を忘れて母国語でまくし立てても通じないんだよ!」
「あ……すまない」
 絢子はきょとんとした。
「あ、あの、日本語喋れるんですか……?」
「ああ、さっきは我を忘れてしまって……あなたがあまりに美しかったものだから」
「え?」
「マルチェロ! 絢子を口説いちゃ駄目だよ! 絢子は僕だけの大切な宝物なんだからね!」
 悠真がぷうと頬を膨らませる。
 絢子はがるるるとマルチェロを威嚇している悠真に声をかけた。
「あの、自己紹介をしたほうが、いいわよね?」
 それを聞いた悠真は気を取り直すとさっと手を両方に差し出した。
「あ、絢子。僕から紹介するね。この人はマルチェロ・ラッティオ。僕を被写体にしているイタリアの写真家だよ。マルチェロ、こちらは松永絢子さん。さっきも言ったけれど、絢子は僕だけの大切な宝物です。口説いたり、手を出したりしないように!」

 それが、絢子とマルチェロ・ラッティオとの出会いであった。



[27301] 一日目の夜
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:f70aaa3e
Date: 2011/04/29 00:08
 六時。
 豪華なスイートルームには今回匠に招待された客人が一堂に会していた。
 まずは藤原匠とその家族。
 四性の鬼達と松永絢子。
 そしてイタリアから来た写真家マルチェロ・ラッティオである。
 これら全員が揃ったところを見計らって、匠が話し出した。
「本日はお集まりいただきまことに感謝しております。皆さん、どうぞゆるりとお寛ぎください」
 匠は今日も漆黒の髪を綺麗に撫でつけ、三つ揃いのスーツをびしっと着こなしている。
 その男ぶりは大層なものであり、今のも簡単な言葉であるにもかかわらず、周囲のものがその美声に思わず聞き惚れてしまうほどであった。
 匠は次に今回の客人にそれぞれを紹介し始めた。
「まずは、彼がイタリアの写真家、マルチェロ・ラッティオ氏です。彼は今回、撮影旅行も兼ねて来日しております。皆さんを被写体にするかもしれませんが、どうぞお気を悪くなさらないようにお願いします。彼は日本への留学経験もあり、日本語も堪能なため、コミュニケーションに関する不自由はないかと思われます。多くのすばらしい作品を生み出している彼ですので、皆さんも協力していただけるとありがたいです」
 紹介されたマルチェロは胸に手を当ててすっとお辞儀をした。
「次にあちらにいるのが松永絢子さんです。彼女は私の事業に協力してくれています。また彼女の友人として、鐘崎悠真、瑞城直人、風祭颯太、そして蔭原正臣が同行しています」
 絢子も皆に向かってぺこりとお辞儀をした。
「最後に私の家族です。こちらが妻の珠希です。そしてこちらが息子の義晴、娘の詩乃です」
 珠希さんは和製グレース・ケリーと言ったようなはっきりとした顔立ちで、しかし穏やかな笑みをたたえている。
 義晴君と詩乃ちゃんは九歳と七歳だそうだが、どちらもお行儀よくお辞儀をしている。
「これで皆さんの顔合わせは済みましたね。あとは皆さんのお好きなようにお過ごしください。それでは、七時のディナーでお会いしましょう」
 匠のその言葉を合図に、めいめいが散らばったのであった。

 絢子は一旦自分の部屋に戻って軽くシャワーを浴びると、ドライヤーで乾かした髪の毛を、持参したヘアアイロンでくるくると巻いていった。
 巻き髪をスプレーで固めたあと、化粧を施し、ディナー用のワンピースに着替える。
 ワンピースは上半身が体のラインに沿ったエメラルドグリーンのサテン地のワンピースで、胸の下の部分に切り返しがあり、絢子の胸の形と括れたウエストを強調している。
 ふわりと広がるスカートの裾には黒いレースがあしらわれており、歩く度にひらひらと揺れる。
 上には黒のボレロを羽織り、三連のイミテーションパールのネックレスを付ける。
「よし、これでいいかな」
 ドレッサーの前で自分の姿を確認すると、絢子はポーチを持って外へと出た。
 と、廊下を数歩進んだところで、うしろから声がかかる。
「絢子ちゃん」
 くるりと振り向くと、そこにはミッドナイトブルーのダークスーツに身を包んだ正臣がいた。
 絢子はぽかんと口をあけて正臣を見た。
 正臣は髪の毛をうしろに撫で付けており、ネクタイは紺の柄物、胸ポケットには白いポケットチーフを入れ、シックにまとめていた。
 彼はその長い脚を繰り出すと、数歩で絢子の隣まで来た。
 そして、さっと腕を出す。
「俺に、絢子ちゃんをエスコートさせてくれないかな?」
 低く官能的な声でそう言うと、もう片方の手で絢子の手を取り、自分の肘の上にちょんと乗せた。
「え、えと、あの」
「こんなに可愛くなった絢子ちゃんをひとりで歩かせるわけにはいかないよ」
 そう言うと正臣はそっと前に出るのを促した。
 つられて絢子も足を出す。
 そうして二人はそのままレストランへと向かったのであった。

 正臣のエスコート付で入ったレストランは、オレンジ色の照明が目に優しく、間接照明が穏やかな空間を生み出していた。
「あ、これはエミール・ガレのランプじゃないでしょうか?」
 何気なく置かれているきのこ状のランプは、ガレの手によって幻想的な世界を表現していた。
「こんな芸術品が実際に調度品として使われているなんて、やっぱりここは高級ホテルなんですね」
 品良く置かれている調度品に目を奪われながら進んでいると、ウェイターがやってきてテーブルの一角に案内された。
 そこにはすでにほかの四性の鬼達が座っており、あとは絢子と正臣を待つばかりであった。
 三人とも、それぞれにダークスーツを着こなしており、髪の毛を撫で付けているため、いつもよりも華やかな雰囲気が漂っている。
 悠真は濃いグレーのストライプのスーツに、瞳の色に合わせた灰色のネクタイをしている。
 髪をあげている悠真は天使の美貌が際立っており、きらきらとしたオーラを放っている。
 直人はスーツ、Yシャツ、ネクタイと全身黒で統一している。
 彼は髪をオールバックにして銀のメタルフレームの眼鏡をかけているのだが、いつものストイックな印象とは違い、艶やかな色気をまとっている。
 颯太は光沢のある無地の灰色のスーツに、黒と灰色のストライプのネクタイをしている。
 髪をあげた颯太のその姿はまるで王子様のようであり、爽やかさと清潔さが際立っていた。
「うわあ、皆さん、びしっと決まっていますね!」
 絢子がそう言いながら席につくと、三人はそれぞれに絢子に声をかけた。
「絢子、とっても綺麗だよ!」
「絢子さん、花のように美しいな」
「絢子ちゃん、大人びたね、見違えたよ」
 絢子が恥ずかしそうに微笑むと、三人の鬼はそれぞれに相好を崩したのであった。


 ホテルのフレンチは一級品だった。
 まずアミューズブッシュは一口サイズの人参のスープである。
 オードブルはフォアグラとオマール海老のサラダ。
 魚料理はカニと舌平目のアンサンブル、海老のクリームソース。
 肉料理は牛フィレ肉のステーキ、赤ワインバター。
 グラニテは洋梨のシャーベット。
 プレデセールは葡萄のゼリーとシャンパンのソルベ。
 デザートは季節のフルーツを添えたアイスクリーム。
 最後に紅茶かコーヒーであった。
 それらをゆっくりと優雅にいただく。
 絢子はナイフとフォークの使い方を事前に調べておいたが、実際に食べるときは周囲の動きを見てからそれらのものを手に取ると言う感じであった。
 上手く食べられるか、上手にナイフとフォークを使えるか、といった不安はあったものの、四性の鬼達がリラックスして食事を取っていたので、絢子も次第に落ち着いて食事を取ることができるようになった。
 そうすると料理の味がだんだんとわかってくる。
「お、美味しい!」
 思わず呟いてしまうほど料理の味は絶品だったのであった。

 ふと周囲に気を配ると、近くの席ではマルチェロ・ラッティオと匠の家族が一緒に食事を取っていた。
 彼らはとても和やかな雰囲気で食事をしており、側から見ると一組の家族であるかのようであった。
 と、マルチェロが絢子の視線に気付いた。
 彼はにっこりと微笑むと絢子に向かって片手をひらひらと振った。
 絢子は日本人の性でとりあえずお辞儀をしておいた。
 マルチェロの笑みが深まる。
 絢子は自分から見つめていたものの、所在なさげにもう一度頭を下げると目を逸らした。
「絢子、どうしたの? マルチェロが何かしてきた?」
 悠真が食べる手を止めて聞いてくる。
「いえ、違うの。私が見ていただけで、マルチェロさんがその視線に気付いただけなの」
 そう言って絢子は目の前の料理に集中した。
 その絢子の姿を今度はマルチェロがじっと見つめていたとも知らずに。


 ディナーを食べ終わり、部屋に戻って服を着替える。
 元の薄桃色のニットワンピに着替えた絢子は、ポーチを持ってまた探検に出かることにした。
「温泉は深夜一時までやっているから、最後のほうに入りにいこう。今はこの大きなホテルに何があるのかを見ていこう」
 そう決めると、絢子はホテル内を歩き回った。
 ホテルには絢子達のほかにも何組か客がいた。
 人の良さそうな老夫婦。
 艶やかなお姉さま方。
 恰幅のよい紳士達。
 そしてその筋の方々と思われるようなちょっと厳つい人々など。
 外国から来た客の姿もあった。
 中東、欧米から来たと思われる人の姿である。
 絢子はおっかなびっくりしながらも、ホテルの探検を続けていた。
 そうしてホテルの売店へ行き、売られているアクセサリーなどを見て楽しんでいたところ、携帯のバイブが振動した。
 表示された名前は蔭原正臣だった。
「はい、もしもし」
「絢子ちゃん、今どこ?」
「今ホテルの売店ですけれど」
「ふうん、ねえ、もし暇なら地下に来ない? 一緒に遊ぼうよ」
「はい! 地下はまだ探検していなかったので行って見ます」
 電話を切ると、絢子は地下へと向かった。

 地下ではスーツ姿の四性の鬼達がダーツで遊んでいた。
 絢子の姿にいち早く気付いたのが悠真だった。
「絢子! こっちこっち!」
 悠真が絢子に走り寄り、抱きつきながら言う。
「ねえ絢子、僕らとダーツで勝負しようよ!」
「えっ? 皆と?」
 驚く絢子である。
「うん、駄目?」
「駄目じゃないけれど、私ダーツなんてやったことないから……」
「それなら心配いらないよ。僕らが絢子に教えてあげるから」
「そう、じゃ、やってみようかな」
「わあい! やったあ!」
 悠真は喜ぶと絢子の腕に自分の腕を絡ませて皆のところまで連れてきた。
「というわけで、僕らの姫君が仲間に加わりました!」
「よく来たねえ、絢子ちゃん」
 正臣がなにやら得体の知れない笑みを浮かべている。
「実はさあ絢子ちゃん、今俺達ね、絢子ちゃんを巡ってある賭けをしているんだ」
「どんな賭けですか?」
 絢子がきょとんとすると、正臣は意地悪くにやりと笑った。
「絢子ちゃんの夜のパートナーの権利をかけた戦いだよ」
「え?」
「今日のこのダーツ勝負で勝った者が、絢子ちゃんの今晩の夜のお相手をするんだよ」
「……えええええ!?」
 さらに悠真が天使の微笑みを浮かべて言った。
「それで、もし絢子が負けたら拒否権はないっていうルールなんだ」
「ええっ! 何ですかそのルールは!」
「絢子、ダーツで勝たないと、僕らの中の誰かと強制的に一夜を過ごすことになるんだよ」
「一夜って……あの、『渡り』で、ですか?」
 絢子が青ざめながら聞くと、今度は正臣が答えた。
「ううん、生身も」
「なっ! ななな!」
 だらだらと冷や汗をかいている絢子を見た颯太が助け舟を出した。
「絢子ちゃん、そんなに怖がらないで。もし僕が勝ったら、夢の中でも、現実でも、優しくするから。夢の中では一緒に鍛錬しようね」
「颯太さぁん!」
 絢子がうるうると涙目になりながら颯太のほうをすがるような目で見る。
「あっ! 颯太ずるいや! 自分だけ王子様ぶって! 僕だって絢子と一緒に遊びたいもん」
 悠真がぷうと頬を膨らませて言う。
「あの、それでしたら皆で思い切って朝まで遊ぶのはどうですか?」
 絢子の提案に正臣がにやりと笑って言う。
「それって5Pってこと?」
「なっ!? ええ!?」
 目を白黒させてわたわたする絢子を見た正臣はくくっと笑った。
「嘘・嘘。俺は絢子ちゃんと添い寝がしたいなー。この間も思ったんだけれど、絢子ちゃんって実にいい抱き枕になるんだよね。俺が勝ったら一緒に寝ようね♪」
「あっ! 正臣もずるい! 僕も絢子と一緒に寝たい!」
 悠真が正臣に食って掛かった。
「正臣はいっつもいい思いしてるんだからたまには僕にも絢子と遊ばせてよ」
「餓鬼はまだ知らなくていいの」
「僕餓鬼じゃないもん! 絢子を喜ばせてあげられるよ!」
 がるるると威嚇する悠真を見た正臣はひょいと片眉をあげた。
「へえ? お前、絢子ちゃんのいいところがどこか知ってるって言うの?」
「知ってるよ! 絢子はねえ、まず首筋が弱いんだ。あとは耳元で囁かれるのもぞくぞくするんだよ。あとはねえ……」
「悠真君!!」
 絢子は必死になって悠真の口を押さえる。
「駄目、それ以上言わないでぇ!」
 悠真が黙ったところで直人が口を開いた。
「絢子さん、私が勝ったら添い寝だけでは済まないことを先に詫びておく。私にあなたを前にしてそこまでの忍耐力を期待しないで欲しい」
「な、直人さん……」
「だが、最後まではしない。まだ『許可』は出ていないし、そこまでの節操なしではないからな」
「未遂でも十分節操なしだと俺は思うけどね」
 正臣が直人を見て面白そうに言う。
「でも、直人がそんなに執着するなんて久しぶりなんじゃない? 今までは一夜限りのお相手ばっかだったと記憶しているけれど。しかも皆抱き壊す一歩手前ぐらいまで貪っていたんじゃない?」
 それを聞いた直人はふっと笑うと絢子に向かって壮絶な色気を発した。
「絢子さんは私にとって愛でるべき存在だからな。善がり狂わせることはあっても壊すことはありえない。私の腕の中では必ず最高の快楽を与えて差し上げよう」
 絢子はその視線だけで思わず背中がぞくりとした。
「あっ、あの……」
「じゃあ絢子ちゃん、申し訳ないけれど、僕らの遊びに付き合ってくれるかな?」
 颯太が気遣わしげに言う。
「はい、颯太さん、私颯太さんに頑張ってもらいたいです!」
 絢子のエールを聞いた颯太はにっこりと微笑んだ。
「わかったよ。可愛い絢子ちゃんにそう言われたんじゃ頑張らないわけにはいかないからね」
 王子様の微笑みで絢子を見つめると、颯太は絢子の手を取った。
「その前に、絢子ちゃん、一緒にダーツの投げ方の練習をしようね」
 絢子を的の前に連れてゆくと、颯太は絢子の後ろから抱きしめるような格好でふわりと肩に手を置いた。
「初心者が簡単に投げられるやり方を説明するね。まず、ウルトラマンの光線の形って知っているかな? ああ、知らなくても良いよ、こういう形に腕を整えてみて。右手を前方水平に伸ばしたあと、九十度に曲げるでしょう? そうしたらその右肘の部分に左手の手の甲を当てて、左腕を自分の胸と平行になる角度まであげてみて」
「はい、できました」
「そうしたら、今度はその右肘を基点にして前方にダーツの矢を真っ直ぐに投げてみて」
「わかりました」
 そうして投げてみると、矢は真っ直ぐに飛んで的に刺さったのであった。
「うん、初めてにしては上出来だね。感覚がつかめたらその左手の補助なしで投げてみようか」
「はい、わかりました」
 何度か投げているうちにコツがつかめたようで、確実に的に当たるようになってきた。
「さて、ウォーミングアップはこれぐらいでいいかな? じゃあ、仕切り直して、これからダーツ勝負といきましょうか」
 そう言って颯太は皆を見て爽やかな微笑みを浮かべたのであった。



[27301] ダーツ勝負
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:a494dcdc
Date: 2011/04/30 00:12
 皆の視線を集めた颯太は、絢子から離れるとダーツボードの前に立ち、ボードを指差しながら絢子のために順を追って説明し始めた。
「僕らが今からするのはダーツのルールの中で最もシンプルで単純な『カウントアップ』と呼ばれるゲームだ。合計得点を競うゲームで、通常八ラウンドで二十四投する。ちなみに一ラウンドは三投だね。まずこのボードの中心にある二重の円はブルと言って、真ん中の小さいものをインナーブル、その周囲のものをアウターブルと呼んでいる。インナーブルは五十点、アウターブルは二十五点だよ。それから、ボードには一から二十の数字エリアが放射線状に配置されているでしょう? このピザのピースのような部分は、それぞれ中心から外側に向かって、シングル、トリプル、シングル、ダブルと四つのパートに分かれている。シングルはそのナンバーのエリアがそのまま得点となるけれど、ダブルは二倍、トリプルは三倍の得点になる。当然、得点が高いところの的は狭いよね。と言うことで絢子ちゃん、一投で一番得点が高いのはどこになるかわかるかな?」
「ええと、インナーブルは五十点ですけれど、良く考えてみると、二十のトリプルが二十の三倍の得点になるわけですから六十点になりますね」
「良く出来ました。もし二十のトリプルのみを狙うと理論上、カウントアップの最高得点は千四百四十点になるね。初心者の場合は、八ラウンドの平均点は五百点を目標にするといいよ。ちなみにダーツがボードの外に刺さったり、届かなかったりした場合も一投と数えられるので注意するように」
「はい、わかりました」
「これで僕からの簡単な説明は終わり。あとは実践あるのみだからね」
 そう言うと颯太は優雅にボードの前から身を引いた。
「投げる順番を決めようよ!」
 悠真が皆に手を差し出す。
「じゃんけんで決めよう!」
 五人でじゃんけんをする。
 程なくして順番が決まった。
 最初は悠真、次に正臣、直人、絢子、颯太の順である。
「じゃあ、ゲームスタート!」
 そう言って悠真がスローイングラインに立った。
 悠真はダーツボード、スローイングラインに対し、斜め四十五度ぐらいの位置に立つミドルスタンスである。
 そのまますっと投げられたダーツはインナーブルに吸い込まれるように刺さった。
「わあ! 悠真君凄い!」
 絢子が驚く。
 悠真はあとの二投ともインナーブルに刺し、得点が一気に百五十点となった。
 次は正臣である。
 正臣は体をダーツボード、スローイングラインに対し横に向けて投げるサイドスタンスである。
 この体勢は体の柔らかさを必要とするが、前足に重心をかけられるため、リリースポイントがボードに近くなり、肩とボードが垂直になるためコントロールがしやすいと言う特徴がある。
 正臣も三投ともインナーブルに当てて、百五十点とした。
 次は直人である。
 彼もサイドスタンスである。
 直人もインナーブルに三投当てて、百五十点とした。
「ダーツってこんなに簡単に中心の的に当てられるものなのでしょうか?」
 絢子は首を捻りながらもスローイングラインに立った。
 彼女はミドルスタンスで立ち、颯太に教えてもらった投げ方をイメージした。
 肘の位置をしっかりと固定して、逆向きの振り子のように腕を引く。
 そのままインナーブルに向かってリリースした。
「あれ?」
 ダーツはインナーブルではなく、少し離れたところに刺さった。
「わあ! 絢子凄いよ! 二十のトリプルに刺さってる!」
「えええ!?」
 よく見ると確かにダーツは二十のトリプルに刺さっている。
「こ、これ、ビギナーズラックです!」
 絢子は一気にドキドキしてきた。
「こんなことってあるのかしら」
 さらに今度はアウターブルに、その次は十のトリプルに刺さった。
「絢子ちゃん、初めてにしては随分と筋が良いねえ」
 正臣がひゅうと口笛を吹きながら言う。
 三投して、絢子は百十五点の得点を得たのであった。
 最後は颯太だった。
 彼もミドルスタンスで立ち、狙いを定めている。
 と、颯太は続けざまに三投した。
 何気なく投げたかのように見えるそのダーツは、全て二十のトリプルに刺さっていた。
「す、凄い……」
 あんぐりと口を開けて颯太のその技に見入る絢子である。
 投げ終わった颯太は爽やかな笑顔で絢子を見た。
「今日の勝負は絢子ちゃんの貞操がかかっているものね。負けるわけにはいかないよ」
「颯太さん! 格好良すぎです!! 王子様みたいです!」
 感動した絢子が瞳をうるうるとさせながら颯太を見る。
 その光景を見た正臣はひょいと片眉をあげた。
「ふうん、じゃあ俺達は王子様に守られているお姫様を掻っ攫う悪者ってわけだな」
 正臣はにやりと意地悪そうに笑った。
「さしずめ悠真は天使の顔した小悪魔、直人は鬼畜な黒衣の貴公子、俺は姫君を狙う盗賊ってとこかな」
「なな、何ですかその設定は!」
「だって、この図がそうだから」
 悠真、直人、正臣はそれぞれに得体の知れない笑みを浮かべている。
「絢子、僕ね、皆の中で身体能力が一番高いんだよ! 八ラウンド目が終わるころには絶対一番になって見せるからね!」
「絢子さん、私の本気を侮らないで欲しい。欲しいものはどんな手を使ってでも必ず手に入れてみせるから覚悟するように」
「絢子ちゃんの怯えるその姿、そそるねえ。俺が勝ったら、添い寝だけじゃ済まなくなって来そうだよ? 王子様の手から奪うっていうシチュエーションもぞくぞくするねえ」
「ひいっ!?」
 絢子は思わず後ずさりした。
 と、肩にぽんと手が置かれる。
 うしろを振り向くと、そこには爽やかな笑みを浮かべ、王子様然とした颯太が立っていた。
「絢子ちゃん、あんな野獣どもの手には絢子ちゃんを絶対に渡さないからね。僕が必ず勝つから。絢子ちゃんは心配せずにゲームを楽しんでおいで」
「はい! 颯太さん!」
 絢子はまるで夢見る乙女のような瞳で颯太を見つめた。
「さあ、ゲーム本番と行こうじゃないか」
 正臣が言って、ニラウンド目に突入したのであった。


 それから五人は順調に点を伸ばしていった。
 特に颯太の点は驚異的で、完璧なノーミスで二十のトリプルにダーツを刺している。
 最後の八ラウンド目になるにあたって、点差は決定的に開いていた。
 投げ終わった悠真がぷうと頬を膨らましながら言う。
「ずるいや! まさか颯太が最初から最高得点狙いだとは思わなかったな」
 こちらも投げ終わった正臣が頬杖を付きながら呟いた。
「最初の様子見で点差が開いたねえ。颯太が本気を出したらこうなるってこと、予想しておくべきだったな」
「残念ながら今晩の勝者は颯太に決定だな」
 サイドスタンスで華麗に二十のトリプルに三投決めた直人もそう言った。
 絢子はほっとしながら三投した。
 ダーツは最後に三投ともインナーブルに刺さって百五十点加算された。
 颯太はリラックスした様子で三投を二十のトリプルに決め、理論上の最高得点である千四百四十点をマークした。
 その瞬間、周囲から拍手が沸き起こった。
 気付くと、絢子達五人は観客に囲まれていたのだった。
「いやあ、いいものを見せてもらったよ!」
「すばらしい集中力と卓越した技術でしたわね」
「お嬢さんもよく頑張ったよ」
「素敵な男性に囲まれて羨ましいわ」
 口々に声を掛けられ、絢子は頬を染めてちょこんと佇んだ。
 その絢子の肩をふわりと颯太が抱く。
「じゃあ、僕は今日の戦利品である絢子ちゃんをもらっていくからね」
「あの、颯太さん?」
 絢子が颯太を見上げると颯太はにっこりと微笑んだ。
「これで絢子ちゃんの身の安全は保障したよ。これからどこへ行こうか? 一緒に温泉にでも行くかい?」
「あっ! いいなあ、僕も絢子と一緒に温泉に行く!」
 悠真が目をきらきらと輝かせながら言う。
「それなら俺達も行こうか」
「ああ、そうだな」
 こうして五人は連れ立って温泉に行くこととなったのである。


 ホテルの温泉、女湯はほぼ貸しきり状態であった。
「うわあ! 広い!」
 先に頭と体を洗い、濡れた髪の毛をくちばしピンでまとめると、絢子はそろそろと湯船まで行き、足をお湯につけた。
 肩までお湯に浸かると、壁に書かれている効能を読む。
「ええと、神経痛、冷え性、肩こり、疲労回復、美肌効果……へえ、いっぱいあるんだあ」
 お湯は滑らかで、じんわりと肌に染みこんで来るような感じであった。
 ガラス戸の外には露天風呂が隣接していた。
 滑らないようにと気をつけながらガラス戸を開けて外に出る。
 途端に外の厳しい寒さを体感したため、気持ち急ぎながら露天風呂に浸かった。
 外は満天の星空で、遠くには夜景も見える。
「確か朝にはここから富士山が見えるんだったわよね。贅沢だわ」
 絢子は湯船の縁に顎を預けて星空を堪能したのであった。

 湯船から出て、浴衣に着替えて化粧水と乳液をつけ、髪を乾かし外に出ると、奥まった通路の突き当たりのロビーに四性の鬼達とマルチェロ・ラッティオがいた。
 和風の間接照明と、室内にもかかわらず作られた日本庭園が撮影のセットのようで、鬼達の浴衣姿とマッチしている。
 マルチェロは一眼レフで鬼達を被写体にしている。
 絢子はそこに近づいてもいいものかどうしようか迷って、傍でそれらを見学していた。
 風呂上りの四性の鬼達は皆色っぽい。
 浴衣から覗く肌は滑らかで、頬を当てたらさぞ気持ちが良いであろうと思わせるものだった。
 興が乗ってきたのか、悠真が浴衣の胸元を少しだけ肌蹴させた。
 天使のような中性的な美貌を持った悠真が、ぽてっとしたピンク色の唇を少し開けて和風の長椅子に座っているさまはなんとも艶かしかった。
 どきどきしながらも食い入るように撮影を見つめていると、隣に気配がした。
 見ると、いつ並んだものか、正臣が立っていた。
「悠真はカメラを向けられると変わるよねえ」
「ええ、何ていうかとっても色っぽいです」
「絢子ちゃんも入ってきたら?」
 正臣がにこりと笑う。
「えっ? 私ですか? だっ、駄目ですよ! あんな美しい被写体の横に、ましてやすっぴんでなんか並べません!」
 わたわたと手を振ると、正臣はぐいと絢子の手を掴んだ。
「まあまあそう言わずに。記念写真だと思って撮ってきてもらいなよ」
「い、嫌です! 何度も言うようですが、すっぴんですから記録に残されたくありません」
 絢子が及び腰で言うと、正臣はしばらく思案したあと、にやりと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ふうん、顔が見えなきゃいいんだね」
 そう言うと、正臣は絢子をひょいと横抱きに抱きかかえた。
「きゃあ!?」
 絢子を抱きかかえたまま、正臣はつかつかと歩いていって長椅子にどかりと座る。
「悠真、被写体交代ね」
 そう言って自分の膝の上に絢子を乗せると、正臣はマルチェロからは見えない角度で絢子の頭を男らしい大きな手で支えた。
 絢子は正臣の腕の中に抱き込まれる形となった。
 彼は絢子の頭上に口付けを落とす。
 何度も何度も口付けを落としたあと、絢子の耳元に口を付けながら、正臣は低く官能的な声で絢子をあやすように言った。
「絢子ちゃん、俺の心臓の音を聞いて。呼吸をゆっくり、静かに保って。わかる? 俺の腕が絢子ちゃんの体に回っているのが。その腕の感触と、心臓の音を探してみて」
 絢子は仕方なく、ほかの感覚を出来るだけ遮断して、正臣のことだけを考えるように努めた。
 風呂上がりの正臣の腕の中は心地よく、密着している浴衣越しに体温が伝わってくる。
 力強く、しなやかな筋肉が脈動しているのを感じる。
 心臓の鼓動は穏やかで、その音を聞いている内に、絢子はだんだんと落ち着いてきた。
 ここはとっても安心できる場所だ。
 この腕の中では、何にも脅かされない。
 絢子の体の力が抜けたのがわかると、正臣は絢子の体を撫で始めた。
 正臣の手が、ゆっくりと体のラインに沿って上下する。
 ときどき緩く抱き締められ、頬に口付けを落とされる。
 絢子はその波間にたゆたうような愛撫に、だんだんとここがどこかも忘れて眠たくなってきた。
 自分から自然に寝やすい居場所を求めて正臣の胸に頬を摺り寄せる。
 その仕草をした絢子を、正臣は愛しさを込めて抱き締める。
 パシャパシャと一眼レフのシャッターを切る音を遠くに聞きながら、絢子は眠りに落ちていったのであった。




 ふと気付くと夢の中であった。
「絢子ちゃん、颯太のところに行かないの?」
 正臣が少しばかり苦笑しながら言う。
 夢の中で正臣と絢子は浴衣姿であった。
「あれ、私、いつの間に寝ちゃったんですか?」
「うん、撮影中にすやすや眠っちゃったものだから、頃合を見て俺が颯太の部屋まで連れて行ったんだ。今絢子ちゃんの実体は颯太の部屋にいるんだよ」
「あ、そうだったんですか」
 これはかなり恥ずかしい。
 あろうことか公衆の面前で、男性の腕の中ですやすやと眠ってしまったのだから。
「俺は嬉しかったよ? 絢子ちゃんが俺の腕の中で寛いでくれて」
「あの、私涎垂らしたりとかしていませんでしたか?」
 絢子が顔を赤くしながら聞くと、正臣はにこりと微笑んだ。
「大丈夫だったよ。それに絢子ちゃんのそんな無防備な顔、誰にも見せたくないし、垂れたら俺が舐め取るから心配しなくってもいいよ」
「なっ、舐めないでください!」
「嫌だね。絢子ちゃんの体液は甘いんだよ。それより、約束だから早く颯太のところに行きなよ。じゃないと俺が食べちゃうよ?」
 絢子ははっと気付くと、ぎゅっと目を瞑り颯太の姿を思い浮かべたのであった。

「渡り」で颯太のところへと飛ぶと、彼は浴衣姿であった。
「良かった、絢子ちゃんが来てくれて」
「ごめんなさい颯太さん、私撮影中に寝てしまって……」
 絢子がもじもじすると、颯太はふっと笑って絢子の頭を撫でた。
「絢子ちゃん、今日はいろいろあって疲れていたものね。寝ちゃうのも無理はないよ。あ、朝起きたら僕が隣に寝てるけれど、驚かないでね」
「はい……って、え?」
 絢子が顔をあげると、颯太は爽やかな微笑みで絢子を見た。
「絢子ちゃんの寝顔があんまり可愛いものだから、つい抱き枕にしちゃったよ」
「あの、そうですか」
 絢子はそれでもほっとした。
 もしこれが直人であったら今頃どうだっただろうと少しばかり怖気を奮った。
「私今日颯太さんが勝ってくれて本当に良かったです。颯太さん、とっても格好良かったですもの」
 絢子がそう言うと、颯太は柔和な茶色い瞳を細めた。
「最近の鬼達の動向を見聞きしてね、四性の鬼の中では、僕が絢子ちゃんの最後の砦になればいいと思うようになったんだ。何か無体なことをされたら、僕を頼っておいで。それこそ全身全霊で絢子ちゃんを守ってあげるから」
「でも、颯太さんはその、鬼の性は大丈夫なんですか?」
 絢子がおずおずと聞くと、颯太は見るものを安心させるような笑みを浮かべた。
「僕は正臣に次いで鬼の性をコントロールできるんだ。だが、正臣は絢子ちゃんを手に入れようとしているね。その気持ちは僕もよくわかる。僕だって出来ることなら絢子ちゃんをこの手に抱き締めたいと思うよ。でも、匠から預かった依頼は絢子ちゃんの生活を守ることだ。絢子ちゃんを手に入れることじゃない。そこを履き違えないように僕は絢子ちゃんを見守っていくつもりだよ。君の魅力に負けないよう、僕もさらに鍛錬しないとね」
 それを聞いた絢子は胸がいっぱいになった。
「あの、颯太さん、私何てお礼を言っていいのかわかりません」
 絢子が感極まると颯太は絢子の両肩に手を置いた。
「さあ、覚醒するまで一緒に鍛錬しようか」
 そうして颯太と絢子は目が覚めるまで鍛錬に集中したのであった。



[27301] 二日目
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:a494dcdc
Date: 2011/04/30 00:13
 朝である。
 目を瞑ったままの絢子は心地良いまどろみの中にいた。
 頬と手には何か温かくてすべすべしたものが当たっている。
 規則的に上下するそれがとても気持ち良くて、絢子はすりすりと頬を摺り寄せた。
 と、自分の体をそっと抱き寄せる腕がある。
「……?」
 絢子はぱちっと目を覚ました。
「おはよう、絢子ちゃん」
 頭上から声がする。
「え、ええ?」
 顔をあげると超至近距離に爽やかな笑顔を浮かべた颯太がいた。
「よく眠っていたね」
 自分の姿を再確認する。
 今絢子は、颯太の肌蹴た胸の上に乗り上げる格好で眠っていたのだ。
 道理で触り心地が良いはずである。
「あ、あの、いつからこうでした?」
 かちんと固まった絢子が恐る恐る聞く。
「えーと、随分前からかな。絢子ちゃんが寝ぼけて乗り上げて来たから、動くに動けなくなっちゃってね」
「ひゃあ、恥ずかしいです!」
 慌てて退こうとするが、意外に強い力でそれを阻まれる。
「あの、颯太さん?」
「動いちゃ駄目だよ絢子ちゃん。ああ、久しぶりに肌の触れ合いっていいものだなあと思ってしまったよ。実に気持ちがいい。僕のために、もう少しこのままでいさせてくれないかな?」
 昨日のダーツ勝負の勝者であり、絢子を守ってくれた王子様でもある颯太の頼みである。
 絢子は火照る頬とどきどきと鳴る胸を持て余しながらも、そっと颯太の胸板に顔を預けた。
「颯太さん……」
 すると、颯太が絢子の背中から腰までをゆっくりと撫で始めたのである。
 それはいやらしさをかけらも感じさせることのない柔らかな愛撫であった。
 颯太の胸に体を預けながら、もしも自分に兄がいたらこんな感じなのだろうかと、絢子はぼんやりと思った。
 だがこんなに整った顔で品行方正の兄がいたら、学生生活がさぞかし大変であったであろう。
 きっと兄宛のラブレターやらプレゼントやらを自分経由で手渡される羽目になるのだろうなと思い、絢子はくすっと笑った。
「どうしたの絢子ちゃん?」
 颯太が優しげな声で聞く。
「あの、今『もし颯太さんが私のお兄さんだったらどうなっていただろう』って想像してしまって。きっと颯太さん周りからもててもてて、妹だったら大変だろうなあって思って、思わず笑ったんです」
 絢子がそう言うと、颯太もくすりと笑った。
「絢子ちゃんが妹だったら僕も大変だろうなあと思うよ。こんなに可愛い妹を持ったら気の休まることはないと思うからね。特にその可愛い妹を狙う不届きな野獣が三匹もいたのでは尚更だよ」
 そう言ってお互いに顔を見合わせると、颯太と絢子は二人でくすくすと笑い合ったのであった。

 ひとしきりベッドの上で颯太とまどろんだ絢子は、自分の部屋へ戻ると着替えをした。
 今日の服装は黒い長袖Tシャツの上にグレーのカシミヤタッチニットパーカーを羽織り、黒地に白のボーダー柄のフリルミニスカートの下に黒のニーハイソックスを履き、靴はエナメルパンプスである。
 カジュアルな感じをイメージしたのと、パンプスに合わせた服装を考えてのことである。
 髪の毛をくちばしピンで留め、化粧を施すと、絢子はポーチを持って部屋を出た。


 朝食のバイキングは和洋中、サラダ、フルーツ、パン、デザート、ドリンクが豊富に取り揃えられていた。
 どの料理も手が込んでおり、バイキングと言っても侮れないと絢子は思ったのであった。
 皿にオムレツとローストビーフ、クリームパスタを取ると、絢子は四性の鬼が座っている席へと足を運んだ。
 今日の四人の服装はカジュアルである。
 悠真はアーガイル模様のカーディガンにコットン製の白シャツ、チェックシルエットのパンツを合わせて、ブラウンの革靴を履いている。
 直人はグレーのショールカラーセミロングカーデを羽織り、白地に、前面にプリントが入った丸首長袖シャツ、濃いグレーのデニムを合わせており、靴は黒の革靴である。
 颯太はブラウン×ナチュラルの粗杢使いニットカーディガンに黒いVネックの長袖シャツ、黒い細身のデニムを穿いており、靴はライトブラウンの革靴である。
 正臣は黒のプレッピーカーディガンを羽織り、白無地の丸首長袖シャツ、下には薄いグレーのデニムを穿き、靴は濃いブラウンの革靴である。
 空いている席は颯太と正臣の間だった。
 そこに一旦皿を置き、挨拶だけはする。
「おはようございます」
「おはよう絢子!」
「おはよう絢子さん」
「おはよ、絢子ちゃん」
 サラダやフォーク、ドリンクなどを取って席に戻り、ちょこんと座る。
 そうして料理をぱくぱくと食べ始めた絢子は、颯太以外の三人がにこにこしながらこちらを見つめていることに気が付いた。
「何ですか?」
 絢子がきょとんとすると、三人はそれぞれに笑みを浮かべている。
 最初に正臣が口を開いた。
「絢子ちゃん、昨日は颯太に守ってもらえて良かったね」
「は、はい……?」
「それで、昨日はどうだったの?」
「どうって、一緒に鍛錬して集中していました。おかげで昨日は風で巨大な手を作ることに成功したんですよ!」
 絢子が目をきらきらと輝かせて言うと、正臣は片眉をあげた。
「ふうん、絢子ちゃんは風鬼の力だけはどんどん上達しているみたいだね」
「はい、颯太さんの教え方もとっても上手なんです」
 絢子は颯太のほうを見た。
 颯太は穏やかな笑みをたたえている。
「颯太さんには本当に感謝しています」
「いいえ、どういたしまして。それと今日から僕は絢子ちゃんのいいお兄さんになることに決めたから。残りの日数も安心して遊んでおいで」
 そう言って颯太は絢子にウィンクした。
 絢子は思わず微笑んだ。
「嬉しいです、こんな素敵なお兄さんが出来て」
「じゃあ僕のこと『お兄さん』って呼んでご覧」
「はい、颯太お兄さん」
「可愛いね、絢子ちゃん」
 颯太と二人でにこにこしていると、そのほのぼのとした空気にあてられたのか、悠真がぷうと頬を膨らませた。
「いいなあ颯太、朝から絢子といちゃいちゃして。僕も絢子といちゃいちゃしたい!」
 その悠真を見た正臣が口を開いた。
「はん、その態度じゃ、良くて悠真は弟止まりだな」
 正臣からの軽口にぎろっと睨みを利かせた悠真は、正臣の皿の上に乗っていた海老シュウマイをさっと取り、ぱくりと口に放り込んだ。
「あっ! お前、よくやるなあ!」
「正臣がいけないんだよ!」
 しかし勝ち誇った顔をしていた悠真は、正臣にぐいっと両頬を引っ張られて変な顔になった。
「悠真、食べ物の恨みは恐ろしいって学校で習わなかったか? ん?」
「まひゃほみのばかあ!」
 片や笑顔で悠真の頬を引っ張る正臣、片や天使にあるまじき変顔で正臣を睨み付ける悠真。
「あの、正臣、そのぐらいで許してあげたらいいのでは……」
 おずおずと提案する絢子であるが、その彼らの横でフカヒレスープを優雅に飲んでいる直人が口を開いた。
「放っておけばいずれ収まる」
「な、直人さん……」
 困惑する絢子のことを、直人は銀のメタルフレームの眼鏡の奥から色っぽい流し目で見た。
「ときに絢子さん、私もあなたの兄になりたいのだが、どうすればいいかな?」
「えっ? 直人さんもですか? でも……もし今の直人さんがお兄さんになったら、気の休まるときがない気がします」
 考えながら言った絢子の言葉に、悠真への仕置きを終えた正臣が乗っかってきた。
「そうだよなあ、今のこいつが兄だったら早晩越えてはいけない一線を越えてるだろうな。あ、でもそんな血の繋がらない兄と妹のどろどろの展開もそそるかも。ちなみに俺は絢子ちゃんの彼氏がいいな♪ イケナイお兄様から絢子ちゃんを助ける役ね」
「あっ、じゃあ僕は助けられた絢子を慰めて絆す役がいい!」
 頬をふにふにと押さえていた悠真がざっと挙手した。
 あっという間に寸劇の配役が決まってしまったのである。
「えええ? 何ですかその配役は」
「これが今の俺達の関係性ってやつだよねえ」
 ひとりうんうんと頷きながら、正臣はコーヒーを口に含んだ。
「皆さん、ノリがいいですね」
 ふとうしろから声がかかる。
 絢子が振り向くと、そこには料理が盛られた皿を持ったマルチェロ・ラッティオがいた。
 マルチェロは絢子に視線を落とすと、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「おはよう絢子さん。昨日のあなたはとても愛らしかった。正臣さんの腕の中で、あなたは無垢な子供のようなオーラを出していた」
 それを聞いた絢子はぽっと赤く頬を染めた。
「あの、すいません、昨日はうっかり眠ってしまって」
「いえ、おかげでいい写真が撮れました。タイトルをつけるとするならば『守られる人』といったところですかね。それではまた」
 流暢な日本語でそう言うと、マルチェロはにこりと笑ってその場を去ったのであった。
「正臣と絢子、マルチェロに被写体として気に入られたみたいだね!」
 悠真が目をきらきらと輝かせながら言った。
「えっ? 本当?」
「うん。マルチェロがああいうタイトルをつけるときには必ずその被写体を気に入ってのことなんだよ。いつもは被写体の名前とナンバーだもの。もしかしたら、僕達皆で雑誌に載ることがあるかもしれないよ!」
「わあ! それは凄いわね」
 驚く絢子である。
 絢子はマルチェロに視線を送った。
 匠の家族と一緒に席についていた彼がその視線に気付いたのかこちらを見た。
 またも手を振られ、ぺこりとお辞儀をする絢子であった。


 朝食を食べ終わったあとは、散策である。
「そういえば今日は大晦日なのよねえ。いつもだったら実家でこたつに入ってごろごろしているところだけれど、こんな豪華なホテルで年越しをするなんて、今までの生活では考えられなかったわ」
 そんなことを呟きながら、絢子はホテルの庭に作られた植物園の中を歩いていた。
 植物園は温室になっており、南国のような暖かさで、絢子はパーカーを脱いで腕にかけた。
 すると、傍できゃっきゃとはしゃぐ声がする。
 見るとそこには匠の子供の義晴と詩乃がいた。
 植物園の中心に作られた螺旋階段で二人は鬼ごっこをしている。
 微笑ましげに見守ってた絢子であったが、ふと異変を感じた。
 二人の行く先には柵があるが、細身の二人ではきっと通り抜けられるであろう。
 案の定、二人は鬼ごっこの延長線上でその柵をくぐり始めた。
「義春君、詩乃ちゃん、危ないから降りてくるといいわよ」
 しかし絢子の声が聞こえなかったのか、遊びに集中しているのか、二人は柵をくぐっては出ることを繰り返している。
 そうしながらどんどん上に上っているのだ。
「二人とも! 降りてきなさい!」
 絢子は声を張り上げた。
 彼女の声に気づいたのは九歳の義晴だった。
 しかし彼はぷいとそっぽを向いた。
「やあ~だよ」
 そうして妹を追ってぐるぐると柵を出入りする。
 詩乃も捕まらないようにきゃっきゃと騒ぎながら柵を巡っている。
 そして、詩乃が次の柵に移ろうとした瞬間。

「きゃあっ!?」

 詩乃の足がずるりと滑ったのだ。
「詩乃ちゃん!!」
 一瞬落ちるかに見えた詩乃だが、辛うじて柵の縁に両手が引っかかった。
「詩乃!!」
 義晴が手を伸ばすが、柵が邪魔で上手く掴めない。
 じりじりと詩乃の手が縁から離れてゆく。
 ついに詩乃の手が縁から離れた。

 その瞬間、絢子は風鬼の力を使っていた。


「防げ!!」


 絢子がそう言うと、巨大な手で抱き込むように風が詩乃の全身を包んだ。
 まるで背中に羽が生えているかのように詩乃はふわふわと降りてきた。
 そうして絢子の腕の中にふわりと納まった詩乃は、ほっとしたのか、絢子の首に抱きついてわんわん泣き始めた。
「怖かったね、詩乃ちゃん、もう大丈夫だからね」
 絢子は詩乃をぎゅうと抱き締めて泣き止むまで背中を撫でてあげたのであった。


 気が付くと、傍に義晴が立っていた。
 彼は下を向いてもじもじしている。
「どうしたの? 義晴君」
 絢子が笑顔で聞くと、義晴はぐすっと鼻を啜ったあと、小さい声でぼそりと言った。
「お姉さんごめんなさい」
 泣き止んだ詩乃は、兄の殊勝な態度を見て何事かを思ったようだ。
「お姉さんごめんなさい」
 詩乃もぺこりと頭を下げて謝ったのである。
 絢子は詩乃を地面に下ろすと、膝をついて二人と目線を合わせた。
「いい? 今度からは危ないことはしちゃ駄目よ? それから、危ないって声を聞いたら、ちゃんとそれに従うこと。わかった?」
「「はい」」
 二人は声をそろえて返事をした。
 それを聞いた絢子はにこっと笑った。
「うん、二人とも良い子ね」
 よしよしと二人の頭を撫でていると、兄の服を掴んでいた詩乃がふと何かに気付いた。
「お姉さんは『マジックガール』なの?」
「え?」
 絢子はきょとんとした。
 詩乃は自分で言ったその言葉に、「おおお!」と驚いているようだった。
「お姉さんはもしかして魔法時計を持っている?」
「魔法時計?」
 確かに絢子は左手に腕時計をしている。
 しかしそれは何の変哲もないただの時計である。
 それを詩乃は食い入るように見つめた。
「やっぱり! お姉さんは『マジックガール』のアスミ先生に時計をもらったのね!」
「ええと、『マジックガール』って……」
 絢子は日曜日の朝八時半からやっている子供向けのテレビ番組を思い出した。
 詩乃は俄然勢いづき出した。
「私、このこと絶対に秘密にするから! お姉さんは『マジックガール』なんだってこと、誰にも言わないわ!」
 それを聞いた義晴も何かを合点したようであった。
「そうだ、悪い大人に正体がばれちゃうと力が使えなくなっちゃうんだよね」
 彼は先ほどの殊勝な態度に加え、絢子をヒーローか何かであるような熱い視線で見始めた。
「お姉さん、僕さっきちゃんと見たよ! お姉さんは魔法が使えたんだね!」
 二人の熱っぽい視線を見た絢子はちょっとばかり体を後ろに反らした。
「え、えーと、そ、そう、そうなの! 私は『マジックガール』なの! 二人とも、このことは内緒にしてくれるのね? それなら安心だわ」
 詩乃は瞳をきらきらと輝かせて絢子の手をぎゅっと握った。
「私を助けてくれた『マジックガール』のお姉さん! 本当にいたのね! 私、お姉さんのこと大好きになっちゃった!」
「僕も!」
「あはは……ありがとう」
 興奮した二人を宥めすかしながら、絢子はどうにかこうにか二人を見送った。
 と、絢子の背後で、がさりと動く影があった。
「えっ?」

「……Brava!!」

 背後の茂みから現れたのは一眼レフを手にしたマルチェロだった。
「きゃあ! マ、マルチェロさん、これはその、あの、ちょっとしたマジックで……」
 彼は絢子の弁解が聞こえなかったようで、驚きの表情で言葉を漏らした。
「Grande! Fantastico! L'aura è bello! Tu sei una dea!」
 わなわなと震えだすマルチェロは、一眼レフを落とさないようにぎゅっと胸にかき抱いた。
「Lei è una cosa molto sacra! La mia missione è quella di scattare foto di voi!」
「え、えーと?」
 イタリア語で呟かれる独り言がまったく聞き取れない絢子は、だらだらと冷や汗をかき、顔を引きつらせた。
 そんな絢子の傍にマルチェロは近づいてきた。
 しかし彼ははっと気付くと、その場で立ち止まり、絢子の前にすっと跪いた。
 頭を垂れたあと、顔をあげたマルチェロの瞳は真摯なものであった。

「あなたは素晴らしい! あなたを一目見たとき美しいオーラが見えた。あなたは神聖な女神です。あなたを撮ることが私の使命です!」

 そう言ってマルチェロは絢子の手をすっと取り、その手の甲に唇を押し付けたのである。



[27301] オーラリーダー
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:a494dcdc
Date: 2011/04/30 00:14
 光の差し込む植物園の中で、整った顔の黒髪黒目のイタリア人男性に跪かれて手の甲に口付けをされるという体験を、絢子はどこか遠いところで起こっていることであるかのように受け止めていた。
 マルチェロは絢子の手を押しいただくように持ち、自分の頬にそっと当てた。
 彼女の手の平の感触を楽しむかのように頬を当てる。
 その手の平に口付けを落とされる頃になって絢子はようやく自分の今の状況が掴めた。
「あ、あの、マルチェロさん?」
 手を引こうとするが、マルチェロの大きな手でそれを阻まれる。
 マルチェロは絢子の指の一本一本に繊細な口付けを落とし始めた。
 彼の顔は陶然としている。
「私の女神よ、どうぞ、私のことはマルチェロとお呼びください」
「えっと、マルチェロ……手を、手を離してください」
 絢子が恐る恐る言うと、マルチェロは悲しそうに瞳を揺らめかせたあと、ため息を付いた。
「それがあなたの望みならば」
 マルチェロは名残惜しそうにその手を離した。
 彼は絢子を仰ぎ見た。
 その目は、敬虔な信徒のようであった。
「あの、マルチェロ、大丈夫ですか?」
「大丈夫とは?」
「まずはどうぞ、立ち上がってください」
 絢子がそう言うと、マルチェロはその場ですっと立ち上がった。
 途端に、頭ひとつぶんぐらい抜きん出た彼が絢子を見下ろす形になる。
 光に照らされている彼の顔は真摯なものであった。
「何だか、マルチェロ、人が変わったみたいです」
「変わらせたのはあなたですよ、絢子さん」
 そう言うとマルチェロは絢子の傍から一歩下がった。
 そして絢子の全体を見たあと、ひとつ頷き、言葉を発した。
「私にあなたを撮らせてください、あなたの全てを」
「え?」
 内容がよく飲み込めない絢子にマルチェロは話した。
「あなたのそのオーラは芸術品と言ってもよい。五つの神々しいオーラが絶妙に混ざり合っている。私にはそれが見えるのです」
「ええ?」
 絢子が驚くと、マルチェロはふわりと笑みを浮かべた。

「私は写真家であると同時に『オーラリーダー』でもあるのです」

「『オーラリーダー』ですか?」
 絢子はことりと首を傾げる。
『オーラリーダー』などという言葉は絢子にとって馴染みのないものであったからだ。
「ええ。私の祖先にはローマで神父をしているものがおりました。私はそのものの資質を強く受け継いでいるようです。私には人が発する、そうですね、やはりオーラと言ったほうがしっくりきますね、そのようなものが見えるのです」
 絢子は「へえ」と驚いた。
「じゃあ、マルチェロはいろいろな人の、その、オーラを見ることができるのですね」
「はい。ちなみに誕生日も教えていただくと普通の占いも含めてより詳しく診断できますよ」
 そう言って彼はにこりと微笑んだ。
「そうなのですか、それってとっても不思議です。……じゃあ、もしよかったら昼食のときにでも皆の診断をやってもらうことって出来ますか?」
「お安い御用ですよ。それがあなたの望みならば」
 マルチェロは感情の読めない笑みを浮かべた。
「ただしひとつ条件があります。もしあなたのオーラリーディングが当たっていたら、私の被写体になることと引き換えでよければの話ですが。よろしいですか?」
 そう言われた絢子は逡巡した。
 しかし、実際にオーラを読むとはどういうことなのか興味があったので、結局は頷いた。
「はい、わかりました。それではお願いします、私の誕生日は九月十八日です」
 絢子がそう言うとマルチェロはすっと目を細めた。
「乙女座ですね。あなたの誕生日からわかるのは『謎に満ちた神秘の存在』です。ちなみに誕生石は『マンダリンガーネット』、宝石言葉は『裕福』です。あなたは『強い直感力を持つ優れた戦略家』ですね。あなたには先進的、直感的、勇気がある、意志が固い、効率的、人にアドバイスを与えることができるといった特性がありますね。オーラの通り、あなたは実に興味深い。あなたからは五つの神々しいオーラがたゆたうように見えています。どれもあなたを包み込むように取り巻いており、あなたはそれらのオーラに守られています。あなたは今環境の変化に必死に対応しようとしていますね。オーラの動きが活発なことからそれが伺えます。自分の力を精一杯使って、あなたは起こってきた事象を乗り切ろうとしています。最近、命の危険に遭ったこともあるでしょう?」
「わあ、当たってます……」
 絢子は今まで起こってきたことを反芻した。
「じゃあ、もっと詳しく見たらどうなるんですか?」
 その言葉に、マルチェロは少し考えたあと、ふと意地悪そうな表情を見せた。
「そうですね、見ようと思えばあなたの内に眠る潜在的な嗜好なども見えますよ。例えば、どの体位がお好きだとか」
「え?」
「あなたを喜ばすにはどうしたらいいか、というようなことが見えてくるのですよ。どこが感じる部位なのかも、オーラの集まり具合によってわかりますよ」
 一瞬きょとんとした絢子であったが、マルチェロが何を言っているのかを理解すると、盛大に頬を赤くした。
「なっ! ななな!?」
 口をぱくぱくとさせる絢子を見たマルチェロはニヒルな笑みを浮かべた。
「この力は悪用しようとすれば、いくらでも出来る力なのですよ。ですが、あなたが望まない限りは、そのようなことはしませんよ」
「そっ、そうしていただけると大変ありがたいです!」
 絢子はそう言うとばっと頭を下げた。
「あのっ、貴重なお力を使ってくださってありがとうございました! じゃあ私ホテルに戻ります!」
 くるりときびすを返し、ざっざっと歩き始めた絢子の背からマルチェロが声をかける。
「先ほど私が見たことは秘密にしておきますよ。あなたと秘密を共有するのも楽しいですから。では、約束通りあなたは私の被写体になってくれますか?」
 その言葉に絢子は足を止めた。
「えっと、わかりました。私、一般市民ですからそんな大層な被写体ではありませんけれど」
 顔だけ振り向きそれだけ言って、絢子は小走りで駆けていったのであった。
 絢子のそのうしろ姿をマルチェロは感情の読めない瞳で見つめていたのだった。




 昼食の時間である。
 絢子達が座っている席に、マルチェロが一緒に座っている。
「何でマルチェロがこっちの席に座っているのさ」
 悠真が首を傾げながら言う。
 マルチェロは何でもないといった風情で、皿の上の生ハムサラダを摘んだ。
「先ほど、私の女神からあなた方のオーラを見て欲しいと仰せつかったので、この席に座っているのです」
 そう言ってマルチェロは絢子に蕩けるような笑みを送った。
「あっ! マルチェロ! 絢子は僕だけの大切な宝物なんだから、そうやって口説くのはやめてよね!」
 悠真が眉根を寄せるが、マルチェロは意に介さない。
「私はすでに私の女神と契約を交わしています。私の被写体になることも了承済みですよ」
「あの、マルチェロ、その『私の女神』って呼び方、とても恥ずかしいです。普通に名前で呼んでください」
 絢子が小さくなって言う。
 マルチェロは絢子を見たあと、残念そうにため息を付いた。
「あなたにそう言われてしまっては仕方がない。これからは『絢子さん』に戻します」
 そう言ってマルチェロは四性の鬼を見た。
「さて、誰から見ましょうか」
「じゃあ僕から!」
 悠真がぴしりと手をあげる。
「何だかんだ言っても何か面白そうだしね! マルチェロの『オーラリーディング』って一度やってもらいたかったんだ」
 わくわくとした表情で言う悠真である。
「それでは悠真、あなたの誕生日を教えてください」
「僕は十二月三日生まれだよ」
 悠真がそう言うと、マルチェロはすっと目を細めた。
「射手座ですね。あなたの誕生日からわかるのは『不思議な実行力で突き進む人』です。誕生石は『ホワイト・ジェダイト』、宝石言葉は『浄化された魂』です。あなたは『快活でバイタリティあふれる性格』ですね。あなたにはユーモアのセンスがある、楽しい人、親しみやすい、成果を出す、創造力がある、芸術的なセンスがある、自由を愛する、文才があるといった特性がありますね。今オーラは活発に動いています。このままこの旅行を楽しむといいでしょう」
「へえ、なかなか面白そうじゃん」
 正臣が言った。
「俺は十一月十七日生まれだよ。どう? 何か見える?」
「蠍座ですね。あなたの誕生日からわかるのは『未来への橋渡しとなる人』です。誕生石は『グリーン・アベンチュリン・クォーツ』、宝石言葉は『機会を掴む』です。あなたは『生きるための強い本能を持つ』人ですね。あなたには思慮深い、専門知識を持っている、上手に計画を立てる、ビジネスセンスがある、独自の考えを持っている、労を惜しまない、正確、科学的という特性がありますね。今オーラは非常に安定しています。あなたは自分をコントロールすることがとても上手なようですね」
 正臣は微笑んでマルチェロを見た。
「そりゃどうも。当たらずとも遠からずってことにしておこうか」
「ええ。この『オーラリーディング』はあなた方の言葉で言う『当たるも八卦、当たらぬも八卦』ぐらいに考えておいたほうが気は休まりますものね。それでは颯太さん、直人さん、お二人のオーラも見させていただきますよ」
 まずは颯太が見てもらった。
「僕は一月六日生まれです」
「山羊座ですね。あなたの誕生日からわかるのは『偉大な力を信じる人』です。誕生石は『スター・ガーネット』、宝石言葉は『聖なる実行力』です。あなたは『理想を求めて努力を惜しまない博愛主義者』ですね。あなたには世俗的な欲望が強い、普遍的な人類愛を持っている、気さく、深い思いやりがある、頼りになる、人の気持ちを理解できる、理想主義者、落ち着いている、芸術を好む、情緒が安定しているといった特性がありますね。今オーラは正臣さんに次いで安定しています。これは、そうですね、職業柄培われたものでしょうか」
「確かにそういった面もあるかな」
 颯太はこくりと頷いた。
「最後に直人さんですね」
「私は十月二十二日生まれだ」
「天秤座ですね。あなたの誕生日からわかるのは『危険な誘惑者』です。誕生石は『ピラミッドダイヤモンド』、宝石言葉は『ラッキーな未来』です。あなたは『人間関係で豊かな表現力と説得力を発揮』しますね。あなたには博識、統率力がある、実用主義、実際家、手先が器用、計画を上手にまとめあげる、優れたオーガナイザー、現実的、問題を上手に解決する、目的を達成するといった特性がありますね。今オーラは少し揺らいでいますね。猜疑心、といったところでしょうか。ただ、ほかの三名の結果を聞いて迷っておられるとお見受けします」
「私も当たらずとも遠からず、と言っておこう」
 マルチェロはにこりと笑みを浮かべた。
「ええ、それで結構です」
「ねえねえ、絢子は?」
 悠真が絢子に話を振る。
「えっと、私は、誕生日は九月十八日なのだけれど、『謎に満ちた神秘の存在』なんですって。私は『強い直感力を持つ優れた戦略家』だそうよ。あとは、私からは五つの神々しいオーラが見えるんですって」
「へえ、なかなか面白いねえ」
 正臣が片眉をあげながら言う。
「でも、そんなものが見えるのなら、いろいろと悪用できたりしない?」
「ええ。確かに悪さを働こうとすればいくらでも出来ると思います。ですが、私はそのような悪事のためにこの力を使うことはありません」
「それはなぜですか?」
 颯太が聞く。
「私は教会とある契約をしているからです。この力を悪用しない代わりに市民権を得るという。知っていますか? イタリアでは悪魔崇拝が影で盛んであるということを。ある統計によると、二〇〇五年次にイタリアでこのカルトに属するのは約五千人、うち四分の三が十七~二十五歳の青年層だということがわかっています。それらのものと私の持つ力が一線を画するためにはそのような契約が必要であったのです」
「そうだったんですか。ではそのような力を持っているならば、逆に教会から神父にならないかという要請が来たのではありませんか?」
 颯太の言葉にマルチェロは頷いた。
「ええ。私が十八のときに神父にならないかという話はきました。ですが、そのときの私はすでに写真に情熱を傾けていたので、神父になるのをお断りしたのです。その代わりの契約なのですよ。これは私が芸術活動をするに当たっての対価なのです。私はジャーナリストでもエクソシストでもありません。芸術を追い求める写真家なのです」
 なるほどと頷く絢子達である。
 話し終わったマルチェロは絢子に視線をやった。
「ということで絢子さん、私の被写体として、食事が終わったあと、スイートルームに来てくださいませんか?」
「は、はい?」
「私にあなたを撮らせてください」
「はい、わかりました」
 絢子が頷くのを見たマルチェロは満足そうな表情をした。
「あなたの衣装は私が手配しておきます。あなたは部屋に足を運ぶだけでいいのです」
「そうなんですか」
 しかし、それを側で聞いていた悠真がはっと何かに気付いた。
「マルチェロ? もしかして絢子を脱がすつもり?」
 マルチェロは不思議そうな顔をした。
「私は絢子さんの全てを撮ると契約しました。服のあるなしなどほんの些細なことではないですか」
 それを聞いた悠真はわなわなと震えだした。
「やっぱり! 駄目だってば! どうせ思いっきりエロく撮るつもりなんでしょう?」
「エロスもまた芸術のひとつだと思いますが」
「この変態エロ写真家! たとえどんなに崇高な目的だったとしても、何をしてもいいってことは絶対にないんだよ! マルチェロの前で絢子をひとりにはさせないよ!」
 悠真はぐっと両手に拳を作った。
「僕も一緒に撮ってもらうから! というより、颯太、直人、正臣、一緒に来て! 絢子を守らなくちゃ!」
 しかし正臣と直人はそれぞれに得体の知れない笑みを浮かべた。
「俺は絢子ちゃんのあられもない姿、ちょっと見てみたいけれどね」
「私も被写体として絢子さんと一緒に写ろうと思うが、どうかな?」
「二人の馬鹿ぁ! もう頼みの綱は颯太しかいないよ」
 悠真に振られた颯太はうーんと困った笑みを浮かべた。
「確かに絢子ちゃんが撮られるのは釈然としない気持ちもあるけれど、匠からはマルチェロの芸術活動に協力するように言われているし、なかなかない機会だと思うから、シチュエーションを考慮してもらうということではどうかな、と思っているのだけれども」
 うぬぬぬと唸っている悠真を尻目に、颯太とマルチェロが交渉を始めた。
「ですから、被写体である絢子ちゃんの嫌がるようなことはしない、僕達が止めたらそこで撮影は終了という条件付では如何ですか?」
「私は絢子さんに無理強いするつもりはありませんが、興が乗ってきた場合の続行は許可していただけませんでしょうか?」
 大人二人の交渉は続いている。
 その傍で絢子は目の前に持ってきたスモークサーモンのマリネとチキンのグリルを食べるか否か迷っていた。
「これ食べたらお腹出ちゃうわよね……マリネだけにしておこうっと」
 あまりに現実感がなさ過ぎて、半ば人事のような絢子であった。



[27301] 写真撮影 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:b0155967
Date: 2011/05/01 00:10
 ホテルのスイートルームに、四性の鬼達と絢子、マルチェロが集まった。
 マルチェロは撮影に使う機材を手早く組み立てている。
 アンブレラ付のストロボ、被写体に陰影をつけるためのソフトボックス、大型レフ板などを各種スタンドと組み合わせている。
 写真を撮る場所はどうやら長めのソファーの前のようだ。
 マルチェロはソファーのうしろの壁にかかっていたミュシャの大きな絵を取り外した。
「あの、それ、取っちゃうんですか?」
 ミュシャの絵は好きなのに、と思う絢子であったが、マルチェロは何でもないことのように言った。
「あなたの本質を引き出すために、外界と隔絶した広い部屋とシンプルな空間が必要だったのですよ」
 マルチェロはそう言うとそのソファーの前に機材を立てていった。
 程なくしてセットが出来上がる。
 壁とソファーだけで作られたシンプルな空間。
 ただしソファーは一級品でセンスの良いものなので、それだけを撮っても様になっている。
「では絢子さん、バスルームでこの衣装に着替えてきてください。ちなみに、下着はつけないでくださいね。靴も脱いで裸足になってください」
 マルチェロから渡されたのは何やら軽くて肌触りのよい白い薄布だった。
「はい、わかりました」
 絢子はバスルームに行ってドアを閉めると、何気なくその衣装を広げた。
「えっ!? こ、これを着るの?」
 それはこのホテルの各部屋に置かれていた女性用のネグリジェだった。
 袖は手首まであり、裾も踝まではあるものの、何分レースのような薄布のため、肌の色がうっすらと透けて見える。
「マルチェロは下着つけちゃ駄目って言っていたわよね……」
 とりあえず一糸まとわぬ姿になったあと、そのネグリジェに袖を通す。
 着終わって鏡の前に立った絢子はごくりと唾を飲み込んだ。
「こんなスースーする格好で人前に出るのはとっても恥ずかしいわ」
 格好だけを言えばまるで御伽噺に出てくる妖精やエルフのようである。
 胸の下にはリボンがあり、それを引き絞って結ぶと絢子の女性らしい胸が強調される形となった。
 さらに絢子はくちばしピンで留めていた髪を下ろした。
 するとゆるゆるとパーマがかかったような髪型になる。
「うう、これでいいの、かな?」
 絢子はどきどきしながらバスルームから出た。
「あのお、着替え、終わりました」
 もじもじしながら皆の前に歩を進める。
 視線を床に落としながら歩く絢子である。
 ソファーの前に来て、ちらりと視線をあげると、四性の鬼達が一様にぽかんとしているのが見えた。
「え、あの? 変だったですか?」
 羞恥に頬を染めながら下を向く絢子であるが、一向に声がかからないので、不安になってもう一度鬼達に目をやった。
「あ、いや、変じゃないよ」
 最初に口を開いたのは颯太だった。
「絢子ちゃんの雰囲気があまりに変わったものだからびっくりしてしまって。何ていうか、大人の女性って感じになったよ」
「うん、絢子、とっても色っぽくなったよ」
 悠真が目を大きく見開きながら言う。
「何だか、今の絢子を見てるとどきどきしてくるよ」
「絢子さん、とても綺麗だ」
 感嘆したように直人が呟く。
「あなたの体の特徴がよく現れている」
「そうそう、絢子ちゃんの女性的なラインがよく見えるようになったよ。薄布が絢子ちゃんの体にまとわりついてとってもエロティックだよ」
 にやりと笑いながら正臣が言う。
「こんな姿で閨に侍られたら、俺自制できないかも。少なくとも直人は速攻で喰うだろ?」
「当然だ」
「なっ! 何言ってるんですか!?」
「それだけ絢子ちゃんが魅力的ってことだよ」
「そんな、嬉しくありません!」
 羞恥にわなわなと震える絢子を見た颯太が、さっとバスルームへと足を運んだ。
 程なくして戻ってきた颯太の腕にはふかふかのバスローブがかかっていた。
 彼は絢子の肩に持ってきたバスローブをふわりとかけた。
 そのまま絢子の両肩を抱いた颯太は絢子の耳元であやすように声をかけた。
「絢子ちゃん、恥ずかしい思いをさせてごめんね。沢山の男達にそんな格好を見られるのはいい気がしないよね。今はこのバスローブを羽織っておくといい。撮影が終わるまではその格好で我慢してもらうことになるけれど、大丈夫かな?」
 颯太の優しい気遣いに瞳をうるうるとさせる絢子である。
「はい! 私、颯太さんのためにもこの撮影頑張って取り組みます!」
「いい子だね、絢子ちゃん」
 颯太は穏やかな笑みを浮かべると、そのまま肩を抱き締めて絢子の額に口付けを落とした。
 思わず身を竦める絢子である。
「ふふ、くすぐったいです、颯太さん」
「絢子ちゃんが可愛いからいけないんだよ?」
 と、二人の世界に入りかけたところで、悠真が地団駄を踏んだ。
「そこ! いちゃいちゃしない! 颯太、そのポジション僕と代わって!」
 その悠真に目をやった颯太は爽やかな笑顔のまま言葉を発した。
「悠真にはまだ無理だよ」
 その笑顔のまま、颯太は絢子をソファーに誘導した。
「マルチェロ、準備はいいかな?」
「いつでも撮れますよ」
「それじゃあ、始めようか。絢子ちゃん、着てすぐだけれどバスローブを脱がすね」
「はい、颯太さん。マルチェロ、お願いします」
 絢子はマルチェロに向かってぺこりとお辞儀をした。
 マルチェロは驚いたように片眉をあげた。
「取らせて欲しいとお願いしたのはこちらの方なのに、挨拶をされるとは。絢子さんは大和撫子ですね」
 そう言うと、マルチェロが一眼レフを構えた。
 その瞬間、彼のまとう空気が変わった。
 先ほどまでのちょっと掴みどころのなかったマルチェロが、被写体を前にしてカメラを構えた瞬間、一流の写真家のそれに変わったのだ。
「絢子さん、視線をこちらに」
 ファインダー越しにマルチェロが声をかける。
「これからちょっと体勢を指示します。まず今の膝の向きと反対側に上半身を捻ってください。大体四十五度くらいに。そう。次に背筋を伸ばして胸を張って。いいですよ。今度は腕を前に、お腹を隠すように持ってきて、そのまま両手を腰の脇の部分で軽く握ってください」
「はい、でもこの体勢って結構きついですね」
「自然なラインを作るためにはときに不自然に体を曲げなければならないのですよ。雑誌のモデルが取っている綺麗な体勢も、実は結構きつい体勢が多いのをご存知でしたか?」
「いいえ、知りませんでした」
「絢子さんの今の体勢は、絢子さんの女性的な体のラインを良く見せるものです。いいと言うまでしばらくその姿勢を保ってください。視線はこちらに向けてくださいね」
 マルチェロはそう言いながら、体勢を保って座っている絢子をパシャパシャと撮ってゆく。
 絢子は所在なさげに視線をカメラに送る。
「あの、マルチェロ、私、笑顔とか浮かべたほうがいいんでしょうか?」
 絢子の質問に、マルチェロはファインダー越しに答えた。
「いいえ。私は絢子さんの自然な表情を撮りたいのです。その戸惑っている表情が今のあなたですね。それでいいのです。作り物の笑顔はいりません。笑顔を浮かべたいのならどうぞ浮かべてください。私はあなたの感情の襞、ひとつひとつを撮っていきますから」
 そう言うとマルチェロは撮影に戻った。
 絢子は戸惑いながらも、マルチェロの指示に従い視線をカメラに向けたのであった。

 どれほどの時間がたったのだろうか。
 絢子の体の節々が悲鳴をあげる一歩手前で、マルチェロは一旦撮影を終わらせた。
「ちょっと休憩を入れましょう」
 そう言ってマルチェロは絢子にミネラルウォーターの入ったペットボトルを渡した。
「水分摂取は少しだけにしておいた方がいいですが、あまり取らなさ過ぎるのも喉が渇きますので」
「はい、ありがとうございます」
 うーんと伸びをしながら絢子はペットボトルを受け取った。
 颯太が絢子にバスローブを着せかける。
「お疲れ様。普段と違う大人びた絢子ちゃんが見られてとても楽しいよ」
「そうですか。撮影中、皆さんをずっと待たせてばかりですから、皆さんは疲れていないかなあと心配していたんです」
「マルチェロの作り出した空間の中で、時間があっという間に過ぎていった気分だよ」
 颯太はそう言うと絢子を別のソファーに座らせた。
「絢子ちゃんはここで待っていてね。今マルチェロと撮影の方向性についてちょっと打ち合わせしてくるから」
 そう言って颯太はマルチェロの元へと足を運んだ。
 ソファーで寛いでいる絢子の元には三人の鬼がやってきていた。
「お疲れ絢子ちゃん。そのネグリジェ、そそるねえ。目に楽しいってこういうことを言うのかな? 願わくば、濡れて張り付いているともっといいんだけれどねえ」
「絢子の体の線はとっても女性的で綺麗なんだね! 僕思わず抱きつきたくなっちゃった!」
「絢子さん、その姿で、今宵私の元へと来ないか? 私がたっぷりと奉仕して差し上げよう」
 三者三様の言葉に、絢子は赤くなったり青くなったりしていた。
「あの、いろいろ遠慮しておきます!」
 絢子がわたわたしていると、話を終えた颯太とマルチェロがこちらに向かってきた。
「次は男女二人で撮ることにしました。絢子さんの相手役を務めてもいいと言う男性は挙手をお願いします」
 マルチェロがそう言うが早いか、悠真がざっと手をあげた。
「はいはい僕! 被写体に関しては絢子よりもベテランだから、一緒に撮ったらきっととってもいい写真が出来上がるよ!」
 灰色の目をきらきらと輝かせながら悠真がマルチェロに歩み寄った。
 しかし、そんな悠真をマルチェロは片手で押し止めた。
「ああ、そうだ、ひとつ条件を付け忘れていました。絢子さんの自然な姿を引き出せる男性が必要です」
「ええ~? 僕じゃ駄目だって言うの?」
 ぷうと頬を膨らませた悠真に対し、マルチェロは穏やかに言った。
「悠真は被写体としてはとても優秀ですし、私の永遠のテーマである『中性的な美への挑戦』に合致する稀有な存在です。しかし、今回の被写体は絢子さんです。私は絢子さんの発する神々しさを写真に収めようとしているのです」
 それを聞いた悠真はうーんと唸ると、はあとため息をついた。
「そっかあ、それって今の僕じゃあ力不足なんだね。でも、あと十年したらきっと絢子を守れるような男になっているはずだから、それまで我慢しようっと」
 潔く身を引く悠真である。
 残り三人の男性が顔を見合わせる。
 まず口を開いたのが直人だった。
「私も辞退しておこう。今の私は絢子さんをこの場で喰うだろうという自覚がある。カメラなど気にせず、彼女を貪ってしまうだろう」
「それならそれで面白い絵が撮れそうだけれどね」
 にやにやと正臣が言う。
「やっぱり適任なのは俺か颯太かな。でも颯太は昨日絢子ちゃんを独占したから、この被写体、俺に譲ってくれる? それに俺、絢子ちゃんと相性いいみたいだしね。昨日俺の腕の中で絢子ちゃんを寝かしつけたから」
「あの、私、颯太さんがいいです!」
 ばっと挙手しながら絢子は飛び入り参加をした。
「昨日は正臣と写真撮りましたし、今回は颯太さんと撮るというのはどうでしょう?」
 手をあげながら、絢子はマルチェロにも聞いてみた。
 彼は少しばかり考えたあと、首を縦に振った。
「わかりました。絢子さんの望みであれば、叶えましょう」
 そうしてマルチェロは颯太にカーディガンと靴を脱ぐように指示した。
 黒いVネックの長袖シャツと、黒い細身のデニムに裸足という姿となった颯太は、白いネグリジェ姿の絢子と好対照であった。
 二人でソファーに座ると、何やら時代がかった雰囲気が出た。
「それではこの回はクリムトの『接吻』をイメージしてみましょう」
 マルチェロが言い、二人に撮影のポーズを指示する。
 絢子は颯太の首に右手をかけ、左手は颯太の胸へ、そして体は颯太の胸の中にすっぽりと納まる形となった。
 そこから頭を上向きに支えられ、颯太が覆い被さる格好となる。
「絢子さん、目を閉じてください」
 マルチェロの指示により絢子は目を閉じた。


「それでは撮影を開始します」


 目を閉じると、視覚以外の五感が敏感になった。
 颯太の滑らかで力強い手が、絢子の後頭部と、顎から頬を支えている感覚、彼の胸に置いた手が呼吸とともに上下する感覚、彼の優しい息遣いが頬に当たる感覚、それらが一気に奔流となって絢子に押し寄せた。
 絢子は瞼を震わせながら、頬を赤く染めた。
「そ、颯太さん」
「何? 絢子ちゃん」
 超至近距離で颯太の柔らかな美声が聞こえる。
「あの、私とっても恥ずかしくって、挙動不審になりそうです」
 絢子が言うと、颯太がくすりと笑う気配がした。
「僕は今、このまま絢子ちゃんに口付けしようかどうしようか悩んでいるところだよ。駄目かな?」
「えっ、あの、駄目じゃ……ないです」
 絢子が吐息の中でそっと言うと、颯太はすっと唇を絢子の頬に付けた。
 それはとても穏やかで、慈愛に満ちた口付けだった。
 颯太の柔らかい唇が頬に触れたことによって、びくりと緊張した絢子であったが、何度も落とされるその柔らかな感触がだんだんと絢子の緊張を解していった。
 頭を支えてくれる颯太の力強い手に身を任せると、よく出来ましたと言わんばかりに颯太が少しずつ角度を変えて口付けを落としてくる。
 いつしか、絢子は颯太の腕の中に身を任せる形となった。
 力の抜けた絢子を、颯太は自身の胸板でしっかりと受け止める。
 颯太が絢子の耳元で囁く。
「好きだよ、絢子ちゃん。君がとても好きなんだ」
「颯太さ……」
「いいよ、無理に喋らなくて。これは僕の独白だからね。僕は絢子ちゃんに気持ち良くなってもらいたい。僕に絢子ちゃんを委ねて欲しい。その優しい瞳も、可愛らしい指も、たおやかな体も全部僕に預けて欲しい。僕の腕の中で安心して眠ってくれたら、これほど幸福なことはないと思うよ。だから安心して、僕の腕の中でお休み」
「はい、颯太さん」
 絢子が返事をすると、颯太はまたくすりと笑ったようだった。
「絢子ちゃんは律儀だね。そんなところも好きだよ」
 そう言って颯太は絢子の頬をぺろりと舐めた。
「ひゃうっ!」
 目を閉じているから、その感覚が鮮明に伝わってくる。
 颯太の温かい舌はしかしその一度だけでは済まなかった。
 口付けと頬を舐めるという柔らかな愛撫を不規則に施され、絢子はそれに翻弄された。
 すでに絢子の体からは力が抜けており、くたっと颯太に身を預ける形となっている。
「そ、颯太さん、これじゃあ、安心できません」
 吐息の中、途切れ途切れに絢子が言うと、颯太は絢子の耳元で柔らかい美声を聞かせた。
「絢子ちゃん、僕に囚われてしまいなさい。そうすれば、身も心も、全て守ってあげるから」
「そうた、さん」
「このまま君を奪ってしまいたいよ。とてももどかしい。君の温かさが僕に染みてくる。君の柔らかさが、僕の劣情を呼び起こす。このままそっと、君を攫ってしまいたくなる」
「あ……」
「でも僕は、君を守る忠実な騎士でいるからね。望むならばずっと君の良きお兄さんでいよう。その方が、僕にとっての幸せでもあるとわかっているから。だから、安心しなさい、可愛い妹。僕が、僕の全部で包んであげるから」
 睦言に等しいそれを呟かれ、絢子は唇を振るわせた。
「颯太さん、ずるいです、そんなこと言われたら、好きに、なっちゃうじゃないですか」
「なって、好きに。僕を好きになって」


「はい、ここまで」


 マルチェロの声がして、撮影は終了した。



[27301] カジノ
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:b0155967
Date: 2011/05/01 00:11
 ディナーの時間である。
 今日のメニューも一級品ぞろいだった。
 まずアミューズブッシュは一口サイズの野菜のポタージュである。
 オードブルはキジ肉とアーモンドのアンクルート、クリームマスタードソース。
 魚料理はアンコウの香草パン粉焼き、カボチャのピュレ添え、白ワインのソース。
 肉料理は甲州牛ロース肉のグリル、県産赤ワインのソース。
 グラニテは葡萄のシャーベット。
 プレデセールはショコラとマロンの"オモニエール"トンカ風味のアイスクリーム。
 デザートは特製ケーキ。
 最後に紅茶かコーヒーであった。

 食べ終わり、席を立とうとすると、義晴と詩乃がとことこと絢子の席に近づいてきた。
 二人は目をきらきらと輝かせながら絢子に何かカードのようなものを差し出している。
「はい、お姉さん、これ、お姉さんにプレゼントなの」
 絢子が二人からそのベージュ色のカードを受け取って開くと、中にメッセージとイラストが書かれていた。

「今日は僕らの秘密をお姉さんに教えます。義晴」
「お姉さんの秘密は私達の秘密です。安心してください。詩乃」

 イラストは『マジックガール』の主人公の女の子とその指導者であるアスミ先生、それと絢子の腕時計だった。
「二人ともありがとう。それで、この文章はどういう意味なのかな?」
 絢子が首を傾げると、義晴と詩乃はふんと胸を張った。
 二人は絢子を手招きすると、しゃがんだ絢子の両の耳元でそっと打ち明けた。
「僕らを助けてくれたお姉さんに感謝の気持ちを伝えたくて」
「だから今日はね、私達の秘密をお姉さんにだけ教えてあげるね」
 そう言うと、義晴と詩乃は目を見合わせてふふっと笑った。
「秘密って一体なあに?」
 絢子が小声で聞くと、二人は声を揃えた。
「「まだ秘密♪」」
「ねー」と顔を見合わせた二人はたたっと走り去っていった。
「絢子ちゃん、子供に懐かれてるねえ」
 今の光景を見ていた正臣が笑顔で言う。
「絢子ちゃんはきっと良いお母さんになれると思うなあ」
「ありがとうございます」
 絢子がお礼を言うと、正臣はその笑顔のまま言葉を紡いだ。
「俺ね、子供は最低でも三人は欲しいんだ。絢子ちゃん似の男の子と女の子がひとりずつと俺似の男の子がひとり。きっと良い家庭になると思うぜ? あ、でも今から娘が嫁に行くのを耐えられなさそうな気分。それなら絢子ちゃん似の女の子三人にしようかなあ? でもそれじゃあ悲しみも三倍だしなあ」
「正臣……勝手に言っててください」
 はあとため息をついた絢子である。

 部屋で寛ぎ、時間が来ると、絢子は地下のカジノへと足を向けた。
 今日の夜はカジノで遊ぼうという話を事前にしてあったのだ。
 ドレスコードは特になかったものの、絢子はディナーのときの服装のまま地下へと赴いた。
 今日のカジノは特に盛況であるようだった。
 大晦日のカウントダウンを祝う客や、その景気づけにひと勝負やりに来た客で賑わっている。
 やはり皆、ドレスコードはないものの、スーツとドレスが大半である。
 絢子はカジノの内部を見回りながらどんなゲームがあるのか確認していった。
 カジノゲームは大きく分けて三つに分類される。
 テーブルゲーム、ゲームマシン、ランダムゲームである。
 さらにテーブルゲームはトランプゲーム、ダイスゲーム、その他の三つに分けることが出来る。
 絢子はそのトランプゲームのゲーム台を一台ずつ見回っていった。
 そこでは、バカラ、ブラックジャック、レッドドッグ、ポーカーなどのゲームが行われており、決して少なくはない金額のチップがやり取りされていた。
 と、絢子に声がかかる。
「絢子! こっちこっち!」
 悠真が絢子を手招きした。
 彼はスロットの台の前に座っていた。
「ゆ、悠真君?」
 絢子は少しばかり戸惑っていた。
「そういえばカジノって年齢制限があるんじゃなかったかしら? ラスベガスなんかでは二十一歳にならないと入場できないはずじゃ……」
 絢子の戸惑いに悠真は笑顔で答えた。
「それが、この場所では許可されているんだよ。理由は金品や品物などの財物をかけていないから。ここの皆が使っているチップとメダルは中にICチップが埋め込まれていて、不正に持ち出したり、換金できなかったりする仕組みになっているんだ。だからいくら勝っても負けても、手元には何も残らないんだけれどね。こういうのって『雰囲気を楽しむ』って言うのかな。チップとメダルは向こうのカウンターにいる従業員にカードキーを見せれば一定の枚数がもらえるようになっているよ」
 そう言うと悠真は絢子の腕を取り、傍に引き寄せた。
「絢子、今から僕、スリーセブンを出してみるね」
「えっ? そんなことができるの?」
 驚く絢子であるが、悠真はにこにこしている。
「僕の動体視力と反射神経があればできなくはないよ」
 そう言うと悠真はメダルをマシンに投入した。
 ジャラララと回るスロットを悠真は真剣な表情で見つめている。

 ポン。

 ポン。

 悠真が軽快にボタンを押していく。
 その度に七という数字がガシャンと止まってゆく。

 ポン。

 最後の七の数字が出終わった瞬間、マシンが盛大に光り始めた。

「You are a winner!」

 マシンから掛け声がかかる。
 ジャラジャラとメダルがあふれ出してきた。
「わわ! 悠真君凄い!」
 絢子が手を叩いて喜ぶと、悠真は嬉しそうに首をすくめた。
 いつの間にか二人のうしろには従業員が待機しており、メダルを入れる籠をさっと悠真に手渡したのである。
 悠真は無造作にメダルを掴み、籠に全部入れると、その籠を従業員に差し出した。
「このメダル、預かっておいてもらえる?」
「はい、かしこまりました」
 身軽になった悠真は絢子の手を引いて歩き出した。
「次はルーレットを見に行こうよ」
「ええ」
 そうしてルーレットを見て、悠真が動体視力を使ってチップを賭けてぼろ儲けしたころ、その背後から声がかかった。
 振り向くとそこには一組の子供がいた。
 その姿を見て、絢子は目を丸くした。
「義晴君、詩乃ちゃん!」
 二人は腕を組んで、悠真と絢子を見上げている。
「お兄さん、お姉さん、僕達と遊ばない?」
 義晴が声をかけてきた。
「ええ、いいわよ」
「いいよ! 何して遊ぶ?」
 悠真は新たな遊び相手が出来たと喜んでいるようだ。
「そうだなあ、じゃあ……」
 義晴が思案する。
 そして何事かを思いついたのか、彼はにっこりと顔をあげた。
「バカラしようよ!」
「ええ!?」
 思わず驚く絢子である。
「義晴君、バカラのルール知ってるの?」
「うん、簡単に言うと、プレイヤーかバンカー、引き分けのどれかにチップを賭けるゲームでしょう?」
「ええ、そうだけれど」
「お兄さん、ちょっと待ってて」
 義晴は絢子を呼び寄せてしゃがませた。
 しゃがんだ絢子の耳元で、義晴はひそひそ話をする。
「このバカラで僕達の秘密を教えてあげるね」
 そう言うと九歳と七歳の一組の子供は手を繋ぎ、先立ってゲーム台のほうにたたっと向かった。
 悠真と絢子はいぶかしみながらもその二人のあとに続いてゲーム台のほうに歩み寄る。
 そこでは丁度ゲームが終わったところであった。
「次は僕達も参加するよ」
 そう言うと、義晴と詩乃は高めの椅子に足をかけ、ひょいと飛び乗った。
「あら、可愛らしいお坊ちゃんとお嬢ちゃんね」
「こんな子供がゲームに参加するのか」
 周囲の人々はわらわらと集まってきた。
 あっという間に場が埋まった。
 絢子と悠真も席につく。
 ディーラーは眉ひとつ動かさずにその場に佇んでいる。
「それではゲームを始めます」
 そのディーラーの一声でゲームがスタートした。

 このバカラというゲームは手札を使って賭けるゲームではない。
 プレイヤー側とバンカー側の二つの場があり、そこに出されるカードの勝ち負けを予想するゲームである。
 プレイヤー側とバンカー側にはそれぞれ少なくとも二枚ずつ、最大で三枚ずつカードが配られる。
 カードの数え方は、絵札と十は「〇」、エースは「一」、他のカードはすべてその数をそのままカウントする。
 それぞれの手のスコアは、カードの合計の下一桁の数字となる。
 勝ち負けは、手持ちカードの合計が九に近いほうが勝ちとなるゲームである。

「プレイヤーが勝つ」に賭けて勝った場合、賭け額と同額のチップが払われ、「バンカーが勝つ」に賭けて勝った場合は、五%がコミッションとして差し引かれて払われる。
 ちなみに「引き分け」に賭けていれば賭けたチップの八倍が払われる。
「引き分け」になった場合、「バンカーが勝つ」「プレイヤーが勝つ」に賭けたチップはそのまま戻される仕組みとなっている。

 プレイヤー達はそれぞれに「プレイヤー」か「バンカー」に賭けている。
 それがこのゲームの定石であるからだ。
 ちなみに初心者は五%のコミッションを差し引かれても「バンカー」に賭けているほうが有利である。
 それは還元率が「バンカーが勝つ」が98.83%、「プレイヤーが勝つ」が98.64%、「引き分け」が85.80%のためである。
 絢子と悠真も「バンカーが勝つ」に賭けている(ちなみに絢子はまだチップを取りにいっていないため、悠真のチップを使っている)。
 しかし義晴と詩乃はどちらもそれには賭けなかった。
 彼らは目を瞑り、すうっと気を整えると、かっと目を開いた。
「「引き分けに」」
 そう言うと二人は全額引き分けに賭けたのである。
 周囲の客からは失笑が漏れる。
「坊や、お嬢ちゃん、それじゃあいくら何でも勝てないよ」
「おばさんが良いこと教えてあげるわ。最初は『バンカー』に賭けておきなさいな」
「全額とはもったいない。君達はこのひと勝負でチップをすってしまうつもりかな?」
「いらないチップならばおじさんにくれないかな?」
 そんな声がかかるが、義晴と詩乃はにこにことしている。
「僕達もう決めたもの。これでいいんだよ」
 周囲の人々は子供の戯れだと思って放っておくことにした。
 場が整ったところで「No more bet」と宣言され、まずはプレイヤー側に二枚カードが配られた。
 カードの数字は五と三である。
 この時点でナチュラル(最初の二枚の時点ですでに八か九のスコア)になったため、プレイヤー側では三枚目のカードを引くことはなくなった。
 次はバンカー側に二枚のカードが配られた。
 カードの数字は十と十一とである。
 絵札と十はゼロのため、この時点でバンカー側ではもう一枚カードを引くこととなる。

 そして。

 引かれたカードを見た周囲の人々はざわりとしだした。
 カードの数字は八。
 八対八で引き分けである。
 周囲の人々は義晴と詩乃の手に大量のチップが渡っていくのを呆然と見ていた。
「坊や、お嬢ちゃん、運が強いねえ!」
「おばさんびっくりしちゃったわ!」
 周囲の人々の手にはチップが戻ってきているので、そこまで悪感情にはならない。
 二人はにこにことしながらやってきた従業員にチップを預かってもらい身軽になっている。
「僕達はもうこれで終わり。あとは皆さんで楽しんでください」
 そう言うと義晴と詩乃は高い椅子の上からぴょんと飛び降りたのであった。
「凄いわね、どうやって当てたの?」
 ディーラーに退席の旨を伝えて席を離れた絢子が聞くと、二人は人気のないところに絢子を引っ張っていった。
 また絢子をしゃがませ、耳元でぼそぼそと呟く。
「これね、僕達が持っている能力なんだ。うんと集中すると、少し先の未来が見えるの」
「えっ!」
 絢子が驚くと、義晴はにこっと笑った。
「お姉さんなら、きっと僕達のことわかってくれると思ったからこの力を使ったの」
「お姉さんが私達のことを助けるために力を使ってくれたから、私達もお姉さんにこの力を見せたの」
 そう言って義晴と詩乃は顔を見合わせて「ねー」と言った。
 その二人の姿を見た絢子は、思わず二人を抱き締めていた。
「「お姉さん?」」
 驚く二人に構わず、絢子は二人をぎゅうぎゅうと抱き締める。
「教えてくれてありがとう。私も二人のことが大好きになっちゃった!」
「うん!」
「私も!」
 そうして三人でぎゅうぎゅう抱き合っているところで、頭上からあきれたような声がかかった。
「あ~やこぉ?」
 はっと顔をあげると、ぷうと頬を膨らませた悠真がいた。
「絢子ったら、僕がいたことすっかり忘れてたでしょう?」
 絢子は二人を抱き締めたまま目線を泳がせた。
「えっ? あの、そんなことないわよ! 嫌だわ、悠真君のこと忘れるはずないじゃない」
 その挙動不審の絢子の姿を見た悠真ははあとため息をつくと、へにゃりと笑った。
「いいよ絢子。絢子がその子達のことを何だか大切に思っているの、伝わってきたから」
 腰に手を当ててそう言う悠真は少しだけ大人びて見えた。
 と、絢子のスカートをくいくいと引っ張る手がある。
 見てみると、そこには少しばかりもじもじした様子の詩乃がいた。
 詩乃はぼそりぼそりと小声で呟く。
「お姉さん、本当はあの人天使でしょう? ね、お兄ちゃん」
「うん、多分天使だよ」
 二人でうんうんと頷くと、義晴と詩乃はおずおずと悠真の前に進み出た。
「天使のお兄さん、どうか僕達のお姉さんを守ってください」
「天使のお兄さん、どうか私達のお姉さんを助けてあげてください」
 そう言って二人はぺこりとお辞儀をした。
「わあ! 君達可愛いね!」
 悠真も相好を崩して二人の頭をよしよしと撫でた。
 こうやって見ると、悠真がお兄さん的存在に見えてくるから不思議である。
 絢子は悠真の新たな一面を見て、眩しい思いを抱いたのだった。


 トランプゲーム、ポーカーの台では心理戦が行われていた。
 そこには鬼の大人組三人と、その筋と思われる方々が静かな攻防を繰り広げていたのだ。
 その近くではマルチェロがその様子を写真に収めている。
 周囲にぴりぴりとした緊張感が走る。
 勝負は佳境のようだった。
「ベット」
 その筋の方々のうちのひとりが大目の金額を出す。
 この人は自分の手札に自信があるようだ。
「レイズ」
 正臣が読めない表情で掛け金を上乗せする。
「コール」
 直人が正臣と同額のチップを賭ける。
「レイズ」
 颯太が柔和な笑顔で金額を吊り上げる。
 さらに一巡して、全員がチェックをすると、大詰めとなった。

「ショーダウン!」

 全員の手札が明らかにされた。

 その筋の方々で一番自信があると思われた人の手札はエースのフォーカードだった。
 ほかの人々はキングと十のフルハウス、二から六のストレートなどである。
 正臣、直人、颯太の手札は驚異的だった。
 まず、正臣がハートのストレートフラッシュ、直人がスペードのストレートフラッシュ、颯太に至ってはポーカーの最高の役であるロイヤルフラッシュが出来ていた。

「決まりだね」

 正臣がにやりと笑った。

「やるじゃん颯太。医者辞めてギャンブラーになったら?」
 話を振られた颯太は柔和な笑みを浮かべたまま柔らかな美声で言った。
「僕は人を助けることに喜びを感じるので、特別な理由がない限りギャンブルには手を出さないよ」
「勿体無い」
 そう言ったのはその筋の方々のうち、エースのフォーカードを出した人だった。
「それほどの腕と強運、私共の元にお迎えすることを真剣に考えていましたものを。しかし医者をされているのですか。もしかしたらいつかお世話になることがあるかもしれませんね」
 彼はそう言うと仲間を引き連れてカジノをあとにしたのだった。



[27301] 二日目の夜
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:b0155967
Date: 2011/05/01 00:12
「颯太さん凄いですね!」
 成り行きを見守っていた絢子が颯太に駆け寄った。
 颯太は柔和な笑みで絢子を迎え入れた。
「絢子ちゃんは楽しんでいるかな?」
「はい、さっきまで悠真君、義晴君、詩乃ちゃんと一緒にバカラをやっていました」
 颯太が目線を悠真のほうにやると、義晴と詩乃がそれぞれ悠真の手を握って近づいてきた。
 それを見た颯太は微笑むと椅子を降りて片膝をついた。
 目線を近づいてきた子供二人に合わせ、優しい美声で話しかける。
「君達、絢子ちゃんや悠真と一緒に遊んでくれてありがとうね。でも、もうそろそろ部屋に戻る時間じゃないのかな?」
 颯太にそう言われた二人は大人しくこくりと頷いた。
「いい子だ。さあ、僕らが出口まで送ってあげよう」
 そう言って颯太はゆっくりとした足取りで子供達を誘導した。
 悠真に手を引かれた二人は颯太の背中を見上げながらとことことついていっている。
 絢子はその光景をうしろから見ながらついていった。
 カジノの出口まで来ると、颯太はまたしゃがみ、目線を子供達に合わせた。
「お父さんによろしくね」
「はい、わかりました」
 義晴がきりっとお兄さんぶって受け答えをする。
「お姉さん!」
 詩乃が絢子に飛びついた。
「また遊ぼうね!」
「ええ、こちらこそ」
 その光景を見た義晴は颯太の手前か両手をぎゅっと握ってうずうずしている。
 颯太はふわりと微笑むと義晴の背中を軽く押した。
「行っておいで」
 義晴は目を真ん丸くさせながら颯太を見たあと、たたっと走って絢子に抱きついた。
「お姉さん!」
「義晴君!」
「お姉さん、明日も遊ぼうね!」
「そうね、そうしましょう」
 そして三人でにこーっと微笑んだあと、もう一度ぎゅっと抱き合ってからその場でお別れしたのだった。
「さて、お子様がいなくなったあとは大人の時間だな」
 いつの間にかうしろに来ていた正臣がにやりと笑って言う。
「今日の絢子ちゃんの夜の権利を賭けて、ひと勝負しない?」
「賛成だ」
 これも正臣と一緒に来ていた直人が、銀のメタルフレームの眼鏡の奥にある瞳を細めて答える。
「いいね! 僕乗った!」
 悠真が灰色の瞳を輝かせた。
「僕、今日こそ絢子と一緒に夜を過ごすんだ!」
「悠真君?」
 一抹の不安を感じる絢子である。
 しかし悠真は天使のような微笑みでこう言い放った。
「それで絢子のいいところをどんどん開発するの!」
「ええ!? か、開発って……」
 冷や汗を流し始めた絢子にお構いなく、悠真のその発言に正臣が乗っかってきた。
「新年初、ベッドの上で愛しい人の艶姿を鑑賞するなんて何とも贅沢だねえ。そのまま絢子ちゃんを抱く『許可』なんかもらっちゃったら、俺もう天に昇るね」
「私は今日の写真撮影のときの絢子さんの姿で愛でたい。『許可』は……出させる」
 直人が感慨深げに、そしてさり気なく強引な意見を言う。
「ひっ! 颯太さん! どうか助けてください!」
 絢子が颯太に駆け寄ると、颯太は絢子をふわりと抱きしめた。
「安心しなさい、可愛い妹。どんな手を使ってでも、必ず絢子ちゃんを守ってあげるから」
「颯太さぁん!」
 うるうると瞳を潤ませる絢子と、爽やかな笑みで絢子を抱き締める颯太である。
「あ~あ、そんなに可愛い絢子ちゃんを独り占めできる颯太が羨ましいよ」
 正臣がぼそりと呟く。
「でも俺は今のスタンスを変えるつもりはないけれどね。まあ、絢子ちゃんの全てを手に入れるためならば何だってするけれど」
「それは私も同感だ。しかし私の手の内に入ったならば、そのときは決して逃がしはしない。鬼の性を存分に発揮し、絢子さんを常に昇らせておこうか」
 直人が物騒な発言をする。
「直人、イキっぱなしじゃ絢子ちゃんが可哀想だぜ? 拉致監禁でもするつもりか?」
「私が仕事に行っている間も、水紐で緩い快楽を与え続ける。私が帰ってきたときに、すぐに体を開けるように仕込むつもりだが」
「鬼畜だねえ」
 正臣が片眉をあげる。
「お前の場合は俺と絢子ちゃんが『ご飯にする? お風呂にする? それとも私?』なんてまどろっこしいことをやっている間に速攻で喰ってるだろうな。しかも絢子ちゃんを気遣うとか何とか言って、風呂に入りながらとか、飯食わせながらとか、絶対やるね、決定だね」
「絢子さんを壊すつもりは毛頭ないが、もし万が一壊れたとしても、私が最後まで面倒を見るから心配しないで欲しい。頭の先から足指の先まで余すところなく丹念に愛でて差し上げよう」
「ひいっ! 全然安心できません!!」
 颯太にぎゅっと掴まりながらがくがくと震えだす絢子である。
 そんな絢子を颯太はよしよしとあやすと、直人に向かって言葉を発した。
「直人、あまり脅かすものでないよ。直人が絢子さん、いや、紀朝雄と出会ったことによって、鬼の性をだんだんとコントロールできるようになっているのを僕は知っているよ。昔の直人であればそういうことをしただろうけれどね、今のお前ではそこまでの無体はしないだろう?」
「さあ、どうだろうな」
 あくまでクールに装う直人であるが、颯太の言葉に何か思うところがあったようだ。
「絢子さん、あなたを怖がらせるつもりはありませんでした。ただ、私の気持ちを知っておいて欲しかっただけなのです」
 直人は銀のメタルフレームの眼鏡の奥の瞳を揺らせた。
「直人さん……」
 涙目になる絢子であったが、直人の真摯な表情を見て少しばかり落ち着いたようだ。
「直人さん、私は直人さんのその、気持ちを、受け止められるほど強くはないんです。でも、直人さんのことは好きですから、歩み寄っていきたいと思います」
「私もこれからは幾分か控えよう」
「うう、止めてはくれないんですね」
 絢子がしょぼんとすると、直人は苦笑したようだった。
「私にとって鬼の性というのは身に馴染んだものなのです。私の『水』という性質と、鬼の血はどうやらとても相性が良いようです。そのため、ほかの鬼達よりも鬼の性が強く出ているのです。しかし、颯太が言うように、あなたに出会ってから鬼の性をコントロールすることが前よりも容易くなっています。あなたを怖がらせないよう、優しくするよう努めようと思うのです」
「……そうですか。わかりました。私も、怖がらないように努力します」
 絢子が怯えながらも、しかし決然と言うと、直人は目を細めた。
「やはり、あなたは愛でるべき存在だ。腕に囲い、一生大切にして差し上げよう」
「直人さんの気持ちは水紐みたいです。切れなくて、雁字搦めに縛られる感じがします」
「おお、絢子ちゃん、いいこと言うねえ」
 正臣がひゅうと口笛を吹く。
「やっぱり体験しているから実感が伴っているねえ」
「あれ? 何それ?」
 悠真がきょとんとした表情で聞く。
「水紐を体験ってどういうこと?」
 無邪気な悠真の質問に、絢子は慌てて答えを遮る。
「きゃあ! 悠真君! 何でもないの! ちょっと鍛錬の一環で水紐に関わっただけなの!」
「そそ、鍛錬の一環でね。な、直人?」
 事情を知る正臣がにやにやしながら言う。
「ああ。特別丁寧に水紐の使い方を教えて差し上げただけだ」
 クールに答える直人である。
 悠真は純粋無垢な表情でことりと首を傾げると、何かを合点したのか天使の微笑みを浮かべた。
「うん、僕も夢の中で絢子に金鬼の力の使い方をもっと沢山教えてあげたいよ! やっぱり体験すると覚えが早くなるよね」
 悠真は「ねー」と無邪気に正臣と直人に同意を求めた。
「そうだよな、悠真。だんだんわかってきたじゃないか」
 正臣がにやりと意地悪そうな笑みを浮かべる。
「僕、絢子のことに関しては聡くなってるんだ」
 まかせて、と胸を張る悠真であるが、その内容は決して穏やかなものではないことを絢子は感じ取っていた。
「あぅ、悠真君が正臣達に毒されていっている……。やっぱり頼れるのは颯太さんだけだわ」
 がっくりと肩を落とす絢子であった。




 絢子の夜の権利を賭けた戦いはバカラで行われることとなった。
 絢子は自分のチップを受け取り、それを持って皆が待っているゲーム台へと向かった。
 彼女の席の両隣にはそれぞれスーツ姿の四人の鬼が座っている。
 端から、正臣、直人、絢子、悠真、颯太の順番である。
 その外側にほかのプレイヤーが座り、計七人でゲームを行うこととなったのである。
「勝負は三回。元手は三万円。その中で手元に残ったお金が一番多い人の勝ちだよ」
 悠真が絢子に言う。
 絢子が席につくと、ゲームが開始された。
 第一回目。
 絢子はバンカーに一万円賭けた。
 ほかの鬼達は、正臣と悠真、颯太がプレイヤーに一万円、直人がバンカーに一万円賭けている。

「No more bet」

 宣言がなされ、カードが配られる。
 プレイヤーは三と六で九。
 バンカーは四と四で八。
 第一回目はプレイヤー側が勝った。
 第二回目もプレイヤー側が勝ち、そちらに一万賭けていた絢子は元手を取り戻した。
 この時点で正臣、颯太の手元には八万、悠真が五万、直人が四万、絢子が三万となった。
 これで最後の回である。
 絢子は思い切って引き分けに全額賭けることにした。
 例え分が悪くても、一発逆転を狙ったのである。
 直人、悠真も引き分けに賭けている。
「あの二人に勝つためにはいくら部が悪くともこれしか手がないもんね」
 悠真が言ってあとの二人の手を見る。
 正臣と颯太はここで意見が分かれた。
 颯太がバンカーに、正臣がプレイヤーに賭けたのだ。
 折りしも、新年のカウントダウンが始まっていた。
 ディーラーはそれをわかっているのか、カウントダウンに合わせてカードを置いてゆく。
 プレイヤー側のカードがめくられる。
 カードは絵札二枚である。
 バンカー側のカードは二と七で九だった。
 最後に、プレイヤー側のカードが引かれる。
 めくられたカードは八だった。

「あーあ、颯太の勝ちかあ」

 悠真がそう言って、ゲームはお開きとなった。


「Happy New Year!」
 その声とともにカジノ全体が活気に溢れた。
 クラッカーを鳴らしたり、指笛を吹いたりして、新年を祝う宿泊客達。
 その中で、颯太が絢子の腰を抱いてエスコートする。
「絢子ちゃん、これからどうしようか?」
 しかし絢子は申し訳無さそうに俯いている。
「どうしたの? 絢子ちゃん」
 颯太が言うと、絢子は意を決して口を開いた。
「あの、颯太さん、せっかく勝っていただいたのですけれど、私からある頼みがあるんです」
「何かな? 絢子ちゃんの頼みだったら何でも聞いてあげるよ」
 そう言って颯太は見るものをほっとさせるような笑みを浮かべた。
 眉を下げていた絢子はその笑みに助けられて重い口を開いた。
「あの、私、今日は直人さんと夜を過ごそうかと思うんです。さっきの話の中で、直人さんが私といることによって変わるという話でしたけれど、直人さんが鬼の性をコントロールできるようになれる手助けが出来るなら、そうしたいと思ったんです。すみません、せっかく颯太さんが勝ったのに、それを無碍にするようなことをして」
 絢子は言って唇を咬んだ。
 颯太はそんな絢子をふわりと抱き締めた。
「そうか。わかったよ絢子ちゃん。今日は直人のところへ行くといい。でももし夢の中ででも、現実でも、無体なことをされそうになったらいつでも逃げておいで。僕の腕の中は絢子ちゃんのためにだけあるんだからね」
「ありがとうございますっ! 颯太さん大好きです!」
「僕も絢子ちゃんが大好きだよ」
 そう言って二人はぎゅっと抱き締め合った。

「こんなところでラブシーンを見せ付けないでくれないかなあ?」

 正臣があきれたように言う。
 颯太の腕の中から離れた絢子は、正臣の隣にいる直人を見つめた。
「あの、直人さん、今日は私、直人さんと一緒に過ごすことにしました。颯太さんの許可は取ってあります」
 直人は絢子からそれを聞くと、銀のメタルフレームの眼鏡の奥の瞳を揺らめかせた。
「絢子さん、私で、いいのですか? 本当に? あなたを無体に扱うかもしれませんよ?」
「大丈夫です、直人さんはそんなことしませんから。私の、紀朝雄の力が何らかの形で直人さんに影響を及ぼしているのならば、きっと大丈夫なんです」
 そう言って絢子はつと直人の前に歩み寄った。
「今日の夜、直人さんの部屋に伺います。それでは」
 絢子はくるりときびすを返すと、小走りに去っていった。
「……あなたは、私の心を揺さぶるのが上手い」
 そう言うと直人はくしゃりと髪を乱し、ため息をついた。
「絢子ちゃんってば、大胆だねえ。自ら虎穴に入っていくとは」
「でも彼女はきっと虎子を得て戻ってくると思うよ」
「確立は五分五分だな」
「いや、絢子ちゃんならきっとやるだろう」
 正臣と颯太が予想する。
 そんな二人を直人はやや憮然とした表情で見つめた。
「ここで絢子さんを喰わないという約束は出来ない。私の鬼の性が実際の獲物を前にしてどう反応するか、それは私にもわからない。ただ、彼女は私を信じてくれた。私も最善を尽くそうと思う」
 直人は言うと、長い脚を繰り出し、カジノをあとにしたのであった。
「いいなあ、直人。僕も絢子と新年を過ごしたかったなあ」
 悠真が頬を膨らませる。
「お前は俺達よりも絢子ちゃんと過ごす時間がたくさんあるだろう? それで我慢しときな」
「それは関係ないよ!」
 正臣の言に、悠真ははぐらかされたと思って立腹した。
「いいもん! 明日も絢子と子供達と遊ぶから」
 そう言って悠真もカジノを去った。


「颯太。大切な妹を獣の前に送り出した気分はどうだい?」
 にやりと笑って正臣が聞く。
「颯太の笑顔は俺でも読めないからねえ。腹ん中じゃ絢子ちゃんを取られて腸煮えくり返っていても気づけはしないだろうよ」
「僕はそれほど狭量ではないよ」
 読めない爽やかな笑顔のまま颯太が言う。
「絢子ちゃんが自分の立場を鑑みて行動したことを僕は評価するよ。彼女はただ守られるだけのお姫様じゃない。我々を救ってくれる救世主でもあるのだから」
「紀朝雄か。俺には過去の記憶なんざないが、今の絢子ちゃんを見ていると、当時もああやって俺達鬼が絆されていったんじゃないかなあと思うときがあるよ」
「相手は男だったけれどね」
「きっと今の絢子ちゃんみたいに可愛くて凛々しい男だったんだと思うよ。じゃなきゃ葛城秀斎が執心するはずはなかろうよ」
 正臣はそう言うと歩を進めた。
「さて、俺達は絢子ちゃんの受け皿になるべく、今日は大人しく休むとしましょうかねえ」
「そうしようか」
 二人の鬼はそう言ってカジノをあとにしたのであった。


 絢子は寝る支度を整えたあと、どきどきしながら直人の部屋のドアの前に立った。
 逡巡していると、勝手にドアが開いた。
「あ……」
 そこには、シャワーを浴びて髪を下ろした、浴衣姿の直人がいた。
「あの、失礼しま……」
 絢子が言い終わらないうちに、ぐいと腕を引かれて、絢子は直人の腕の中に納まった。
「きゃっ!」
 絢子の悲鳴は直人の胸板に吸い込まれた。
「絢子さん、こうなることがわかっていてもなお私の部屋に来たのですね? あなたは豪胆というか無謀というか」
 絢子の頭上で、直人がぼそりと呟く。
「無謀なんかじゃありません。私は今日、直人さんと一緒に寝るために来ました。それ以外の何でもありません」
「男の部屋に、ただ寝に来るというのですか? それは、男の性質をあまりにもわかっていなさ過ぎる。鬼でなくても、あなたの身は危険に晒されますよ?」
「でも、直人さんは直人さんです。いつもストイックで、クールで、怜悧な表情の直人さんがちゃんといることを私は知っています」
 絢子が震えながらそう言うと、その震えを腕の中で感じ取った直人はふっと苦笑した。
「怯えた兎のように、まるで食べて欲しいと言わんばかりにそんな台詞を吐かれても、私の劣情を煽るだけですよ」
 そう言うと直人は絢子を横抱きにした。
「きゃあ!」
 そのまま直人はつかつかと歩き、絢子をベッドに横たえると、自分は絢子の上に覆い被さった。
「な、直人さん……」
「今から何をされても、あなたに拒否権はないのですよ?」
 そう言うと直人は絢子の額に口付けを落としたのだった。



[27301] 三日目 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:13c7e301
Date: 2011/05/02 00:47
「やっ……」
 額に落ちた口付けのくすぐったさに、絢子は思わず目を閉じて首をすくめた。
 今度はその閉じた瞼に口付けが落ちる。
 頬に、顎に、首筋に、軽い口付けを施され、絢子は直人の腕の中で身動ぎした。
 しかし、そうすると直人の両腕の拘束は緩むどころかますます強くなっている。
 直人は絢子の首筋に顔を埋め、そこに所有の証を刻んだ。
「あっ」
 思わず目を開けると、直人に体全体で拘束された。
 背中と首には腕が回され、足は絡められている。
 彼は絢子の体にぴったりと密着している。
 絢子は自分の浴衣越しに直人の体温を感じた。
「直人、さん」
 絢子の心臓は早鐘のように鳴り、目尻には涙が溜まっている。
 間近で絢子のその顔を見た直人はすっと目を細めた。
「あなたの泣き顔はとてもそそる。このまま抱いてしまおうか」
「『許可』は、出しません」
 震えながらも決然と言う絢子を見た直人は獲物を狙う表情になった。
「そんな顔をして言われては、あなたに『許可』を出させて見せようと思ってしまうではないですか」
「私は、直人さんが鬼の性をコントロールできるようになる手助けをしたいと思って来たのです。抱かれに来たわけではありません」
「そういうつれない態度が男の加虐心を煽るということをわかっているのですか? 特に私の前でなど。あなたを屈服させようとすら思ってしまうではありませんか」
「私は、折れません。直人さんの力に干渉するまでは」
 絢子がそう言った瞬間、直人から噛み付くような深い口付けが来た。
 顎を掴まれ、口が閉じられないようにされたところで、強引に直人の舌が割って入ってきた。
「んーっ!」
 絢子はじたばたともがくが、もがけばもがくほど直人の口付けは深くなってゆく。
 目尻に溜まった涙がつうと伝ったとき、思いもよらないことが起こった。
 直人が気を送ってきたのだ。
 絢子の体の中に直人の気が入ってくる。
 しばらく気を送ったあと、直人は唇を離した。
「はあっ、はあっ」
 口を開けて荒い息をつく絢子の頬を直人は愛しそうに撫でた。
「なっ、何で気を送ったんですか?」
 呼吸を整えながら聞く絢子に、彼は嫣然と微笑みながら答えた。
「あなたを私の色に染めるためです。ああ、体も心も私の色で染めたら、あなたはどんなに美しく、淫らに咲くのでしょうね」
 しかし、直人のその表情を見た絢子は何かに気づいたあと、キッと表情を改めた。
「それじゃあ私は、直人さんを私色に染めます」
 絢子の強気な発言を聞いた直人はさらに笑顔を作った。
「ほう、面白い。あなたの性技がどれほどのものか、私で試して御覧なさい。私を止められたらあなたの勝ちです」
「口付けだけで、直人さんを変えて見せます」
「では私もその気概に免じて口付け以外のことはしません。ですがあなたが堕ちたら、『許可』を頂きますよ」
 何とも分が悪い賭けである。
 片や百戦錬磨の玄人、片やこの間まで異性との口付けも知らなかった初心者である。
 結果は見えているように思えた。
 ところが。
「ああ、このままの体勢ではいくらなんでも勝負が見えていますから、あなたを私の上に乗せましょう。そうすれば幾分かは面白くなるはずです」
 そう言うと直人は絢子を抱きかかえて起き上がり、そのままうしろにゆっくりと倒れた。
 絢子は直人の胸の上に乗っかる格好となった。
「さあ、早く私に覆い被さり、深く熱い口付けをして御覧なさい。それで私の身の内にあなたの気が入るのならば一興。入らなくとも私が楽しむだけのこと」
 絢子は直人の胸の上をずりずりと這い上がり、直人の顔面を両手で掴むと、意を決して直人の唇に自分のそれを合わせた。
 絢子はそのままぎゅっと目を瞑った。
 ここからは感覚だけを頼りに直人の唇を食んでゆく。
 ぴちゃぴちゃと絢子が直人の唇を舐める。
 その拙い舌技に直人はくすりと笑った。
「何と可愛らしい。男を知らないあなたが私に奉仕しているとは。そそりますよ、その行為」
 直人は自分から唇を開いた。
 誘うように舌を揺らめかせ、絢子の唇を舐める。
 絢子がそっと自分の舌を直人の口腔内に差し入れた。
 彼はその絢子の舌をねっとりと絡め取るように引き入れる。
 プロ対ビギナーの攻防が始まった。
 絢子は何か策があるようだ。
 彼女はその期を狙って一心不乱に直人に奉仕している。
「筋はいい。夢の中で正臣に仕込まれているからだろうか」
「んっ」
 絢子は直人の舌に自分の舌を絡ませ、少しでも直人に刺激を与えようとしている。
 それは戦術的に見れば男を煽る全くの逆効果であった。
 直人は絢子の頭を抱き寄せ、さらに深く口付けをする。
 今度は直人の舌が絢子の中に入ってきた。
 彼は絢子の小さな口の中を思う存分嬲ってゆく。
「んーっ!」
 絢子が頭を引こうとするが、彼女の後頭部は直人に掴まれてそれは叶わない。
 加虐心に誘われて、直人は逃げようとする絢子の舌を絡め取り、自分の中に引き込んだ。
 そのときである。
 絢子の体の内なる感覚が何かに反応した。
 彼女の目がかっと開いて、体全体が金色の気に包まれたのである。
「なっ!?」
 次の瞬間、直人の中に怒涛の気が流れ込んできた。
 金色とも七色とも表現できるような神々しい気が絢子の口を伝って直人の体に浸透してゆく。
 直人はしばらく呆然としてその気を受けていたが、はっと我に返るとその気を押し返しにかかった。
 絢子の舌を引き入れたまま、ありったけの気を送る。
「んんんっ!」
 絢子の体がびくりとしなる。
 やがてくたっと、絢子の体から力が失われた。
 直人は唇を離すと、絢子の体をしっかりと受け止める。
 絢子は直人の腕の中で気を失っている。
 その絢子を抱きながら、直人は自身の体内の変化に驚きを隠せないでいた。
「これは、これほどとは……」
 押し返したと思ったはずの気は、すでに直人の中に浸透していた。
 穏やかにたゆたうような安寧感が体内を満たしている。
「気が安定するというのはこういうことなのか」
 直人は知らず絢子を抱き締めていた。
「何と心地良いのだろう」
 そうしてそのまま、深い息を吐いた直人は絢子を抱えたまま眠りに落ちたのだった。






「うう……」
 絢子は身動ぎした。
 どうやら朝であるようだ。
「昨日は確か、直人さんに気を送って、それから思いっきり送り返されて、その勢いに翻弄されて夢も見ずに眠ってしまったんだわ」
 緩い拘束の中、絢子は間近で直人の寝顔を見つめる。
 その半端なく整った顔は眠っているようにも死んでいるようにも見えた。
 絢子はそっと頬に手を伸ばした。
 手を置いても起きる気配はない。
 絢子は何かに惹かれてそっと顔を近づけた。
 と、超至近距離で直人の唇が動いた。
「目覚めの口付けはしてくれないのですか?」
 思わず身を引こうとするが、直人の腕にぎゅっと体を掴まれた。
「きゃ!」
「きゃ、ではありませんよ。あなたに寝顔を見られるのを堪えていた私の気持ちにでもなって御覧なさい」
 目を閉じたまま、直人がそう言った。
「ひぇ……すみません……直人さん、目を開けてください」
 薄く目を開けた彼は怜悧な表情そのままに、言葉を紡いだ。
「おはよう絢子さん、私の愛でるべき存在」
「おはようございます、直人さん」
 そう言うと、どちらからともなく口付けをした。
 唇が離れたあとも、直人は手出しをしてこない。
「直人さん、気分はいかがですか?」
「ああ、こんなに穏やかな目覚めは未だかつてありませんでしたよ」
 それを聞いた絢子はほっと胸を撫で下ろした。
「よかったです。昨日は自分でも訳がわからなくなってしまって、自分が何をしたのかよくわかっていないんです」
「あなたという人は……私に馴染み、そして私を苛んでいた鬼の性を見事に中和してくれたみたいですよ」
 直人は、はあと深いため息をついた。
「それと、あなたの肌も、その重さも実に心地良い」
 そう言うと直人は上に乗っている絢子の背中や腰をまさぐり始めた。
「あの、直人さん?」
「こんなに抱き心地のよい抱き枕があって、触らないほうがおかしい」
「直人さん、鬼の性は? 中和されたはずでは?」
「今は落ち着いています。これは男の性です」
 そう言って直人はにこりと微笑んだ、
「私は、鬼の性をコントロール出来るようになっても、あなたに対する気持ちは変わっていません。いや、さらに深くなったと言っていい。あなたが身を挺して私の気を安定させてくれたことに心から感謝するとともに、あなたを一生幸せにしたいと思うようになりました。絢子さんは今の私を怖いと思いますか?」
 問われた絢子は直人の腕の中で思案した。
「今の直人さんは怖くありません。腕の中にいても、震えたりしませんもの。でも安心できるかと言われればそれは違うような気がします」
 その答えに直人は満足げに頷いた。
「それでいいのです。あなたには男に対する理解と免疫が少しばかりなさ過ぎる。こんなに無防備に、安心して腕の中でまどろんでいられたら、私のことを好きなのかと思ってしまいますよ」
「直人さんのことは好きです。怖くなくなったから余計に近しく感じるというのもあります」
「私が勘違いしてもいいのですか?」
「好きなことには変わりはありませんもの」
 それを聞いた直人は絢子にもう一度口付けをした。
 今度は深く、それでいて優しい口付けである。
 しばらくして唇を離すと、直人はふっと苦笑した。
「あなたの体液は何と甘いのだろう。私の中にある鬼の性を狂わせる媚薬だ。ああ、やはりあなたの顔はそそる。絢子さん、早くご自分の部屋にお戻りなさい。このまま無防備に私の部屋にい続けては早晩私が喰いますよ?」
 それを聞いた絢子は力の抜けた体を叱咤してよじよじと起き上がった。
「直人さんのいけず! もうちょっと休ませてくれたっていいのに。失礼しましたっ!」
 それだけ言って絢子は小走りに直人の部屋を出て行った。
 彼女が出て行く後姿を見て、直人は深いため息をついた。
「私が本気になれるのは、どうやら絢子さん、後にも先にもあなただけのようですよ」
 閉まるドアを見た直人はそう呟くとくしゃりと前髪を乱したのであった。




 部屋で着替えの終わった絢子は自分の姿を鏡で確認した。
 絢子の今日の服装は、グレーのカシミヤタッチニットパーカーの下に黒いハイネックのセーターとストライプ柄ジャンパースカートを着て、黒タイツを穿いている。
 黒いエナメルのパンプスを履いて、ポーチを持ち、絢子は朝食を食べに向かった。
 鬼達の今日の服装は、これもまたカジュアルである。
 正臣はカーキ色のナインワッペンオールインワンにVネックの白い長袖シャツを着て、腰にはベルトとウォレットチェーンをつけており、靴は黒のショートブーツである。
 直人はワンボタンのショート丈の黒ジャケットにグレーの丸首長袖シャツを合わせて、濃いグレーのデニム、靴は黒の革靴である。
 颯太はコットン素材の白シャツの上に黒のPジャケットを羽織り、ベージュのチノパンに靴はライトブラウンの革靴である。
 悠真はグレーのレイヤード風テーラードジャケットの下に細いボーダー柄の丸首長袖シャツを着て、濃紺の細身のデニムに膝丈の編み上げブーツを合わせている。

 絢子は海鮮入り茶碗蒸しを食べながら、直人をちらりと見た。
 今日の彼はいつもにも増して怜悧な雰囲気が漂っている。
 その、タラバガニと卵のトウチ炒めを口に運んでいる直人と、絢子は目が合った。
 すると直人はふっと表情を崩して絢子に笑いかけた。
 怜悧な人の美貌が笑顔によってさらに増したのである。
「うっ!」
 直人の気に当てられた絢子は目をしばたかせながら茶碗蒸しに視線を戻した。
「直人さん、何だか前よりも手強くなった気がする……」
 絢子がどきどきしながら茶碗蒸しを頬張っていると、正臣がにやにやしながら絢子に声をかけた。
「ねえねえ絢子ちゃん。絢子ちゃんから直人の気を濃く感じるんだけれど、昨日はもしかして最後までしたの?」
「はっ!? えっ!? 何ですか?」
「だから、絢子ちゃんは直人の手で女にされたのかなあと思ってさ。それなら俺ちょっとショックだなあ。絢子ちゃんの初めては俺がもらう予定だったのに」
「えっ! し、してません!」
 と、うしろから声がかかった。
「おや、絢子さん、昨日は直人さんのところに泊まったのですか?」
「マルチェロ!」
 振り向くと読めない笑顔のマルチェロが手に料理の皿を持って立っていた。
「何やら、熱い夜を過ごしたようで、私としては羨ましいですよ」
「なっ! ななな!?」
 絢子が口をぱくぱくさせていると、マルチェロはその笑顔のまま絢子の頬にちゅっと口付けを落とした。
「今度は私ともそのような夜を過ごしていただきたいものですね」
「え、え?」
「では皆さん、また」
 そう言ってマルチェロは藤原家の座るテーブルへと去っていった。
「マルチェロめ、油断も隙もない!」
 悠真が眉をしかめながら絢子の頬をナプキンで拭いている。
「おお、『熱い夜』ねえ。夢でも俺んとこに来なかったから、さぞや楽しんだのかと思ったけれど、でも絢子ちゃんの言葉を信じるとすると、どうやら絢子ちゃんはまだ清いままみたいだね」
「正臣ったら!」
 わなわなと震える絢子の機嫌を取り成すように悠真が声をかけた。
「絢子、今日は僕と一緒に遊ぼうね! 敷地内に温水プールがあるからそこに行こうよ!」
「ええ、丁度運動したいなあと思っていたところだったの。あ、でも私水着なんて持って来ていないわよ?」
「大丈夫だよ、水着は貸してくれるって」
「そう、じゃあ一緒に行こうかしら」
「やったあ!」
 そう言うと悠真は絢子の肩にこてっと頭を乗せた。
「僕、絢子ともっと触れ合いたいよ」
「そうね、プールで沢山遊びましょう」
 可愛いなあと思いながら絢子が答えると、その姿を見ていた正臣がにやりと微笑んだ。
「プールねえ。俺も体がなまるといけないから一緒に行こうかな」
「えっ? 正臣も来るんですか?」
「駄目?」
「駄目じゃないですけれど……」
 絢子が逡巡している間に、正臣はほかの二人にも話を振る。
「決まりね。颯太と直人はどうする?」
「じゃあ、僕も行こうかな」
「私も久しぶりに泳ぎに行こう」
「おお、悠真、絢子ちゃん、メンバーが増えてよかったじゃん」
「ええ、そうですね……」
 こうして絢子達一行は温水プールへと向かうこととなったのである。



[27301] 水の力
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:13c7e301
Date: 2011/05/02 00:48
 室内温水プールは絢子が思っていたよりも巨大な施設であった。
 ここのメインは波のプールである。
 水深は最高三メートルまであり、大抵の人は途中で頭まで温水に浸かることとなる。
 次に円形のジャグジー付きプール。
 壁面に沿って、至るところから泡が出ており、どの場所ででもマッサージができる。
 そのほかに、四レーンもある飛び込み台付の五十メートルプールがひとつ。
 水温の低い通常のプールがひとつである。
 どのプールも水質はとても良かった。
 あとはサウナも付いているという豪華っぷりである。

 絢子は更衣室で着替えをした。
 支給された水着はセパレートタイプのフィットネス水着である。
 上が紺色のタンクトップのような形で、前面にジッパーが付いており着脱がしやすくなっている。
 下は黒いスパッツのようなもので、お腹まで隠れるため、セパレート部分から肌が露出するというようなことはない。
 髪の毛をうしろで縛り、帽子とゴーグルを手に取ると、絢子はプールへと向かった。
 四性の鬼達はすでに準備が出来ていたようで、先にプールへと到着していた。
 その四人の姿を見た絢子は思わずぽかんと口を開けた。
 四人とも競泳選手のような黒いスパッツを穿いている。
 しかし驚くべきはその見事なプロポーションである。
 長身モデル体型の大人組三人は、その美しい体を惜しげもなく晒し、プールサイドで柔軟を行っている。
 その様子を、ほかの利用客が絢子と同じようにぽかんと見つめている。
 さらに目を見張るべきなのは悠真である。
 ルネサンス絵画から飛び出て来たような瑞々しい肢体は、見るものにそれが芸術作品であるかのような錯覚を起こさせた。
 悠真の中性的な色気は匂い立つようであり、その体を直接目にするのをためらわせるほどである。
 そこだけ別次元にでもなっているかのようにきらきらとしたオーラが放たれている。
「な、何て目の毒なのかしら」
 思わず呟いた絢子であった。
 と、絢子に気付いた悠真がこちらにやってきた。
「絢子! 柔軟手伝ってあげるよ!」
 きらきらとしたオーラそのままに悠真が天使の笑顔で言う。
「あっ! あの、ありがとう、でも自分で出来るから大丈夫よ!」
 いくら何でも天使に手伝わせるわけにはいかない。
 絢子は丁寧に断ると、そそくさと柔軟を終わらせたのであった。

 柔軟を終えた絢子は、まずはメインの波のプールに入ってみることにした。
 そろりそろりとプールに足をつける。
 小波が絢子の足をくすぐり、寄せては返してゆく。
 ばしゃばしゃと先へ進み、胸まで波に浸かる。
 水が温かいためか、それほど恐怖は感じない。
 そのまま絢子はゴーグルを引きおろして、うつ伏せに波間に浮かんでみることにした。
 ゆらゆらと揺れる自分の体の感覚に水中でにこりと笑うと、絢子は深いところへ向かって泳いでいった。
 周囲には誰もいない。
 絢子ひとりである。
 一旦息継ぎをした絢子は、そのまま深いところまで潜っていった。
 絢子はある遊びを考えたのだ。
 心の中で「囲め」と念じる。
 すると、絢子の体全体は大きな丸い球体にぽわりと取り囲まれたのだ。
 不可視の球体の中は空気が満たされており、絢子は息をつくことができた。
「昨日は直人さんの水鬼の力を沢山取り込んだから、これからはこういう遊びが簡単に出来るわけなのよね」
 その球体の中に入ったまま、絢子は一番深いところまで行ってみた。
 そこから天井を見上げる。
 高い天井は水の中から見るとゆらゆらと揺らめいていた。
 と、向こうから泳いでくる影がある。
 目をやるとそれは悠真だった。
 悠真は絢子を見つけると深くまで潜ってきた。
 球体の外に手を置いた悠真はつんつんと球体を指差した。
 絢子は「取り込め」と念じた。
 すると悠真の体が球体の中に取り込まれたのだ。
 水の中、二人だけの空間である。
「すごいね絢子! いつの間にこんなことが出来るようになったの?」
「ええ、昨日直人さんから成り行きで気をもらったのよ。今私の中は、水の力で溢れているわ」
 それを聞いた悠真は「ええー」と眉を下げた。
「何だ、絢子は昨日直人とキスしたんだぁ。僕も絢子とキスしたい!」
 そう言うと悠真はふわりと抱きついてきた。
「ゆ、悠真君?」
「今ここには僕と絢子しかいないよ」
 悠真は絢子の頬に唇をつけた。
 そのままちゅっちゅっと可愛らしく啄ばむと、絢子の耳に口をつける。
「ここでなら絢子を独り占め出来るね。絢子の水の力が増して良かったと思うことにするよ」
 そう言うと悠真は絢子の耳の中にするりと舌を入れた。
「あっ!?」
 球体が少しばかり揺らいだ気がした。
「これぐらいじゃ、今の絢子の力は揺らがないでしょう?」
 悠真は両手で絢子の両頬を挟むと、そっと唇を合わせた。
 彼は絢子の唇の形に添って舌を動かす。
 その艶めかしい舌の感覚に絢子は眩暈がしそうになった。
「駄目、悠真君、こんなところでこんなことしちゃ、いつ私の力が途切れるかわからないし、誰に見られるもわからないわ」
「でも、ここなら誰にも邪魔されずに絢子と遊ぶことが出来るでしょう?」
 そのまま悠真が舌を進めようとしたそのとき。
 球体がいきなりぐぐっと何かに掴まれるような感覚がして、二人は水面に浮き上がった。

「おいたは済んだか?」

 見ると直人が怜悧な表情で右手を差し出していたのだった。
「直人は昨日絢子といちゃいちゃしたんだから、僕にもいちゃいちゃさせてよね」
 不可視の球体の中で絢子にぴったりと抱きつきながらも、ぷうと頬を膨らませる悠真である。
 直人はそのまま手の平を上向きにあげ、人差し指を伸ばすと、くいと自分の方向に曲げた。
 すると不可視の球体の中に入った絢子と悠真はそのまま水面を滑るようにして直人の足元までやってきたのだった。
 直人がその不可視の球体に触れると、球体は解除された。
「しかし絢子さん、あなたは面白い発想をする。それに大胆だ。人に見られるかもしれないのにこのようなことをして。あなたはそういう趣向がお好きなのかな?」
「いえっ! 違います!」
 立ち上がり、ぶんぶんと手を振る絢子を見た直人は、ふっと苦笑すると彼女の頬をすっと撫でた。
「不思議だ。ことあなたに関しては誰にも見せたくないと思ってしまう」
 そう言うと直人は絢子の手を取った。
「向こうのプールで颯太と正臣が待っている。行こうか」
「は、はい」
 直人に手を引かれて歩く絢子である。
 二人のうしろからは悠真がすたすたとついてきている。
 やがて三人は五十メートルプールまでやってきた。

 サイドにずらりと置かれているビーチチェアーでは艶やかなお姉さま方がゆったりと寛いでいる。
「おっ、来たね絢子ちゃん」
 正臣が出迎える。
「昨日カジノで戦った人達と意気投合しちゃってさ、今からね、このプールで四対四のメドレーリレーをすることになったんだ。絢子ちゃん、見逃したらつまんなかったでしょ?」
「はい、そうですね」
 目を丸くしながら言う絢子である。
 この四性の鬼達には人を惹き付ける不思議な魅力がある。
 どんな人種でも、彼らが引き入れてしまうようだ。
 波のプールの周囲に人が少なかったのは、この五十メートルプールにいた鬼達が注目を集めていたからなのだと絢子は思い至ったのである。
「さて、誰が何を泳ぐ?」
 正臣の提案に悠真がさっと挙手をした。
「背泳ぎ・平泳ぎ・バタフライ・自由形の順番でしょう? じゃあ僕背泳ぎにする。先にハンデを解消しておいたほうがいいよね? まあ尤も僕、水泳も得意だけれどね」
 絢子は心の中で「金鬼なのに水泳が得意なんだ、てっきり金鎚なのかと思っていたわ」とちょっぴり失礼なことを思ってしまった。
「あ、今絢子、僕のこと金鎚かもって思ったでしょう?」
「えっ? あの、ちょっとだけ思ってしまいました」
 しどろもどろになる絢子を見た悠真はぷうと頬を膨らませたあと、天使にはあるまじき、にやりとした笑いを浮かべた。
「ふうん、絢子今僕のこと失礼な想像したお詫びに、僕が相手よりも早かったら絢子からのキスを頂戴。それで許してあげる」
「キスってあの……」
「絢子が気をあげるときのキスだよ」
「えっ!?」
 それはつまりディープキスをしろということであろう。
「絢子、悪いと思ってる?」
「思ってます」
「じゃ、決まりね!」
 そう言うと悠真はアップをし始めた。
「僕絶対勝つから。見ててね絢子!」
 ほかの三人がそれぞれ平泳ぎ:颯太、バタフライ:直人、自由形:正臣と決まったところで、相手側も準備が整ったのかそれぞれ位置に付いた。
 どうやら相手側が審判を努めるようだ。
 その筋の方々とは言っても、彫り物はしていないし、こうやって見ると普通の人と何ら変わりない。
「それでは位置について」
 悠真とその筋の方が水に入る。
 使うレーンは二レーンと三レーンだ。
 二人は各コースのスタート台の下にあるスタートバーを握り、足をその下方の壁につける。
 腕の力で身体をバーの方に引き寄せると、開始の合図を待つ。

「スタート!」

 二人は足で壁をキックしてスタートした。
 腕は耳の横で揃えるように、弓なりになって指先から水中に入って行く。
 五メートルほど潜水したところで、先にその筋の方が浮き上がってきた。
 悠真はまだ潜水している。
 十メートルほどのところで、悠真が浮き上がってきた。
 ざばりと体が出ると、そこから華麗に腕をかいて進んでいる。
 体格を差し引いても、互角の戦いである。
 しかしその筋の方はちょっとだけ斜めに進んでいるようだ。
 体が四レーン側に傾いている。
 悠真はそのまま真っ直ぐに泳いでいる。
 あと十メートルのところでようやくその筋の方の進路が戻った。
 しかしタイムロスは否めない。
 先にタッチしたのは悠真だった。
 それを見た颯太がすかさず飛び込み台からさぶりと飛び込んだ。
 若干遅れてその筋の方がタッチをする。
 次の人が飛び込んだとき、すでに差は十メートルほど開いていた。
 颯太はしなやかなストロークと蹴りでどんどん距離を伸ばしている。
 ひとかき、ひと蹴りがありえないほどの距離を稼ぐのだ。
 伸びやかに平泳ぎをする颯太の体はまるで水と馴染んでいるかのようだった。
 その颯太が壁にタッチしたのを見計らって今度は直人が飛び込んだ。
 水鬼である直人は、水中はお手の物である。
 まさに水を得た魚。
 ドルフィンキックで潜水すると、十五メートルを過ぎたところでざばりと水から浮き上がった。
 強靭な肩を使って、どんどん距離を稼いでゆく。
 五十メートルでは足りないくらい、あっという間に対岸へと付いた。
 最後は正臣である。
 ざぶんと飛び込むと、そのまま潜水して距離を稼ぐ。
 浮き上がったときにはすでに居並ぶものはおらず、正臣の独壇場であった。
 ビーチチェアーで侍っていたお姉さま方が体を起こしてその見事な泳ぎを見学する。
 流れるように、正臣は泳いでゆく。
 力強い肩、しなやかな筋肉の力が水の中でも遺憾なく発揮されている。
 そして、正臣がゴールしたときに、いつの間にか周りに集まっていた利用客達がわあと盛り上がったのであった。
 ざばっと顔をあげ、ゴーグルと帽子をむしり取った正臣は絢子を見るとにやりと笑った。
 知らず顔が赤くなる絢子である。
 その絢子の傍にはいつの間にか悠真が立っていた。
「絢子。約束だよ?」
「え、ええ。でも、あとでじゃ駄目かしら?」
 絢子が及び腰で言うと、悠真はうーんと考えたあとこくりと頷いた。
「いいよ。そうしてあげる。だって、相手の人がコースを少しだけ逸れなかったら僕が負けていたかもしれないものね。絢子には猶予をあげるよ」
 そう言って悠真は天使の微笑みを浮かべたのであった。

 水から上がり、タオルを持ってビーチチェアーに座った大人組三人を待ち受けていたのは、水辺で侍っていたお姉さま方からの熱烈なアプローチであった。
 積極的なお姉さま方は、それぞれに大人組を取り囲むと、彼らの割れた腹筋やらしなやかな腕の筋肉やらをさり気なく触っている。
「どこからいらしたの?」
「あなた方、昨日のカジノで大勝ちしていたんですってね。強い男って素敵」
「滞在はいつまでなの? 今夜は私達と遊ばない?」
「皆で楽しいことをしましょうよ」
 お姉さま方の積極的かつ妖艶なアプローチを受けて、しかし大人組は動じていない。
 颯太が穏やかな笑顔を浮かべて言った。
「美しい花であるあなた方を無闇に手折るわけには参りません。僕はそのお気持ちだけを受け取っておきます」
 颯太の周りに侍っていたお姉さま方は残念そうに身を引いた。
 正臣がストレートに言う。
「俺にはもう大切な人がいるから、その人にだけこの身を捧げることにしてんの。お姉さん方の魅力も相当だけれどね、俺の忍耐も舐めてもらっちゃ困るよ?」
 正臣の周りに侍っていたお姉さま方は悪い印象を持つことなく身を引いた。
 怜悧な表情を浮かべた直人が断りの言を入れる。
「以前の私ならばあなた方全員とでも相手をしていたでしょうが、今の私は何を、誰を大切にすべきなのかを身をもって知っているのです。あなた方もそのような人に出会えるといいですね」
 直人の周りに侍っていたお姉さま方は切なそうな表情をして身を引いたのであった。
「お兄さん方、女性に対する断り方もスマートなんだな」
 今度はその筋の方々が大人組の周りを取り囲む。
「あなた方は本当に私共の下に来る気はないですか? あなた方であれば部下も文句を言いますまい。主要ポストをお約束しましょう」
「あなた方とでしたら天下を取れる気がしてきましたよ」
 そう言う彼らを見た颯太はふわりと微笑むと言葉を発した。
「僕達は天下には興味ありませんよ。穏やかに、平穏に日々が過ぎてゆくのを何よりも大切にしているのです」
「そうそう、俺は、俺の愛しいただひとりの人と一生を過ごすことが出来るのであれば、ほかにはもう何もいらないね」
「私は自分の腕の中にその人がいればそれで幸せなのです」
 三人のその言を聞いたその筋の方々は残念そうに言った。
「あなた方が言う平穏と大切な人、それはどれも私共には提供することが出来ないものですね。大変名残惜しいですが諦めましょう」
 そう言って、その筋の方々はどこか晴れやかな表情で去っていったのであった。


 それから絢子達はプールでしばらく遊んだあと、昼食の時間に合わせてホテルに戻ってきた。
 程なくして昼食を食べ終わった絢子は温泉に行くことにした。
「明日は最終日で何かとばたばたするだろうし、美肌効果のある温泉なんだから、沢山入っておいたほうがいいわよね」
 ひとり頷くと、絢子は荷物を持って温泉へと足を運んだ。
 脱衣所で服を脱いで温泉のドアを開けると、そこには藤原匠の妻、珠希とその娘詩乃が湯船に浸かっていた。
「あ、お姉さん!」
 詩乃が湯船から上がり、とことこと近寄ってくる。
「詩乃ちゃん」
 詩乃は絢子にぎゅっと抱きついた。
「お姉さーん!」
「あはは、詩乃ちゃん、くすぐったいわ」
 絢子がくすくすと笑うと、温泉に浸かっていた珠希がざばりと立ち上がった。
 その肢体を目にした絢子はおおおと息を呑んだ。
 子供二人を産んだとは思えないほど、珠希のプロポーションは抜群に良かったのだ。
「詩乃、こちらへ来なさい。お姉さんが入ってこられないでしょう?」
 優しく、そして思わず従いたくなってしまうような声音で珠希は詩乃に声をかけた。
「はぁい、お母様」
 詩乃は大人しく温泉へと戻った。
「ごめんなさいね、お邪魔してしまって」
「い、いいえ、とんでもないです」
 そう言うと絢子は洗い場へと向かった。
 体を流したあと、温泉へと浸かる。
 すぐさま詩乃が絢子の傍に寄ってきた。
 詩乃が絢子に耳打ちする。
「お姉さん、お姉さんの力のこと、お母様に言ってもいい?」
「えっ?」
「お母様はね、私達の力のこととか、いろいろ知っているの。お姉さんの力のことも言ったら、きっとわかってくださるわ」
「ええ、詩乃ちゃんがそう言うなら、詩乃ちゃんを信じるわ」
 絢子がそう言うと詩乃はにっこり笑って母親のところへ行き、何事かを耳打ちした。
 詩乃から全ての話を聞き終わった珠希は絢子を見るとほっとさせるような笑みを浮かべた。
「あなたのことは匠から聞いて存じておりますわ。何もご心配なさらないように」
「そうなんですか」
 絢子は驚いた。
 まさかこの女性が自分の秘密のことを知っているとは思わなかったのだ。
 しかし絢子は気を取り直すと、ぺこりと頭を下げた。
「あの、ありがとうございます。私のことを知っていたにもかかわらず普通に接してくださって」
「いいえ、いいのよ。そうだ、今日の出来事は私達女だけの秘密にしましょうね? ね、詩乃?」
「はい、お母様」
 詩乃と珠希は二人でにこにこと微笑んだ。
 絢子もその笑顔に釣られて思わず微笑んだのであった。



[27301] 三日目の夜
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:13c7e301
Date: 2011/05/02 00:50
 温泉から出た絢子は部屋でひと寝入りすることにした。
「考えてみれば、自分の部屋で寝たことってまだなかったのよね」
 そうひとりごつと、絢子はディナーの際に着る服を枕元においた。
「あとは携帯のアラームセットしておかなきゃ。ディナーに遅れないようにしないと」
 そうして準備を整えた絢子はベッドに潜り込んだ。
「ふわぁ……」
 欠伸をした絢子は、取り合えず正臣のことを考えた。
「正臣、寝ているかしら? でも誰も寝ていなくとも私結構強くなったのだし、きっと夢の中で、ひとりで鍛錬をすることだって出来るはずよね」
 そんなことを考えながら、そのまますうすうと絢子は寝入ったのであった。


「絢子ちゃん」
「うん……」
「起きて、絢子ちゃん」
「……え?」
 ぱちりと目を開けると、そこにはベッドに腰かけ、絢子を上から見下ろしているスーツ姿の正臣の姿があった。
「えっ? な、何ですかこれは? 夢ですか?」
「絢子ちゃん、寝ぼけてる?」
「寝ぼけてません! 何で正臣がここにいるんですか?」
「なぜって、絢子ちゃん、俺を呼んだでしょう?」
「そう言えば……呼びましたけれど、これは現実ですか?」
「やっぱり寝ぼけてるでしょう。現実だよ。何なら王子のキスで夢から覚ましてあげようか」
「いりません! もう覚めてます!」
 がばっと起き上がると同時に正臣が身を引いたので、ベッドの上で向き合う形となった。
「ち、近いです、正臣」
 ずりずりと後ずさりする絢子である。
「俺は別にこれでもいいけどね。俺ね、絢子ちゃんに呼ばれてから絢子ちゃんの気配を探ってたんだけど、結局絢子ちゃんは夢を見なかったから俺の出番はなかったんだ。でもそれじゃあ何だか勿体無いからこうして部屋に忍んで来たってわけ」
「女性の許可なく部屋に入るなんて紳士にあるまじき行動です。転移術が使えるものとしてのモラルをきっちりとわきまえてください」
「おお、手厳しいね。それより絢子ちゃん、ディナーの準備が必要だよね?」
「はい、って、今何時ですか?」
「今六時半。あと三十分でディナーだよ」
「えっ!? 嘘!? アラーム一時間前にセットしたのに!」
 あわあわとベッドから降りる絢子を見た正臣がふっと微笑んだ。
「落ち着いて絢子ちゃん。俺が一緒に手伝ってあげるよ」
「ええ!? 正臣がですか?」
 わたわたと服を手に取った絢子が不安そうに正臣を見る。
「服はバスルームで着替えてきちゃいなよ。メイクは俺がやってあげる」
 逡巡している間にも時間は刻々と過ぎてゆく。
 絢子はもうやけだと思って衣装をがばっと掴むと、バスルームへと小走りに駆け込んだ。
 いそいそと服を着替えてバスルームから出てきた絢子は、ボストンバッグを漁って正臣にメイク道具が入った化粧ポーチを手渡した。
「ん、じゃ、絢子ちゃん、ベッドの上に腰かけて」
「はい」
 ちょこんとベッドの端に座る絢子である。
「目を瞑って」
「はい」
 目を瞑った絢子の顔に手早く下地が塗られてゆく。
 正臣は手馴れており、リキッドファンデーションを手にとって指でぽんぽんとつけて伸ばしてゆく作業や、アイライナーで瞼の上に目尻まで綺麗な線を引く作業を流れるようにやってのけている。
 それらの折に触れる正臣の手が気持ち良くて、絢子はいつの間にか体の力を自然に抜いていた。
「マスカラつけるから目を開けて」
 ぱちりと目を開けると、思ったよりも近くに正臣の顔があった。
「目線は真っ直ぐね」
 前を見つめると、正臣がマスカラを絢子の睫毛につけてゆく。
 最後に微調整をして、完成である。
「はい。どうかな?」
 絢子に鏡を渡す正臣である。
 受け取った鏡を覗き込んだ絢子は思わず息を呑んだ。
「これ、私ですか?」
 そこには艶やかな魅力をまとったひとりの女性がいたのだ。
「絢子ちゃんはパーツが整っているからポイントメイクでも十分に映えるんだよ。もう少し時間と材料があったら、もっと華やかに出来るんだけれどね」
「そうなんですか。今までちゃんとメイクしたことってなかったから、何だかびっくりです」
 正臣は驚いている絢子に肩を持つとくるりと後ろに向かせた。
「あと十分あるから髪の毛セットしようね」
「えっ? 十分でセットって出来るんですか?」
「それが俺には出来るんだな。絢子ちゃん、くちばしピン持っていたよね?」
「はい、持ってますけど」
「それで夜会巻き風にするから」
 正臣にくちばしピンとアメリカピン、スプレーを渡すと、絢子は待った。
 さらさらと、正臣が自分の髪を持ち上げる感覚がある。
 それがとても心地が良い。
 正臣は絢子の髪をねじって持ち上げていく。
 そして出来たロール(夜会巻きのねじれの部分)にくちばしピンの表の板を、地肌側に裏の板をそれぞれ縦にグッと挿し込む。
 ロールと地肌を挟みこむような感覚で留めて、毛先はねじったあとに折り込んでゆく。
 最後はアメリカピンとスプレーで形を整え、完成である。
「はい出来た。バスルーム借りるよ。手ぇ洗わせてね」
 正臣が手を洗っている間、絢子はポーチに携帯をしまったり、化粧ポーチをカバンにしまったりなどして身支度を整え外へ出た。
 正臣が部屋から出てくると、絢子の姿を上から下まですっと見た。
「ん、上出来だね」
 そう言うと正臣は絢子に腕を差し出した。
「さあ、行こうか俺の姫君」
 絢子はその腕を取り、二人でレストランへと向かったのであった。


 今日のディナーは元旦のためか、特別豪華であった。
 まずアミューズブッシュは一口サイズの人参のフランである。
 オードブルはキャビアと生ウニ、カリフラワーのムース、ポテトのブリニス添え。
 魚料理はホタテ貝のポワレ、ノワゼットバターの香り、カカオのパスタ、黒トリュフ風味。
 肉料理は牛フィレ肉のロティ「ヴェネゾン」冬野菜のココット焼きを添えて。
 グラニテは柚子のシャーベット。
 プレデセールはホワイトチョコレートのアイスクリームと葡萄のコンフィ。
 デザートはメレンゲとレモンクリームのタルト。
 最後に紅茶かコーヒーであった。

 それらを食べ終わると、絢子達一行は全員でスイートルームへと向かった。
 スイートルームの大きな窓からは遠くにきらきらとした夜景が見られる。
 部屋にはバーカウンターがあり、大人組三人とマルチェロ、藤原夫妻がそこでお酒を嗜んでいた。
 絢子と悠真、義晴と詩乃は部屋で「マジックガールごっこ」をして遊んでいる。
 時折その姿をマルチェロがカメラに収めている。
 穏やかな時間が流れていた。
 しばらくして義晴と詩乃は遊びに満足したのか、今度はテレビをつけて衛星放送のアニメチャンネルを見始めた。
 お役御免となった絢子と悠真は大人達がいるバーカウンターへと足を運んだ。
「絢子さん、悠真君、お疲れ様。家の子達と遊んでくれてどうもありがとうね」
 和製グレース・ケリーの珠希がにっこりと笑顔を送る。
「いえ、こちらこそ楽しませていただきました」
「僕も楽しかったです」
 二人はそう言って大人組三人の待つ席へとついた。
「はい、悠真はオレンジジュース。絢子ちゃんはどうする?」
 バーカウンターの中にいたのは正臣だった。
 スーツの上着を脱いで腕まくりしている正臣はシェーカーを片手に絢子に尋ねている。
「正臣、シェーカー振れるんですか?」
「ん、昔ね、バーでバーテンダーのバイトしていたんだ」
「へえ、何だか想像できます」
 絢子がそう言うと正臣はにやりと笑った。
「どんな想像?」
「綺麗なお姉さま方から言い寄られている当時の正臣が」
「絢子ちゃん、焼いてるの?」
「違います」
 つれなく言っては見たものの、どことなくもやもやとする気分である。
「じゃ、最初だから定番のものを作っておくね」
 そう言うと正臣は「ルジェ クレーム ド カシス」と「オレンジジュース」、「氷」を手に取った。
 手早くそれら材料を入れシェーカーを振る。
 今の正臣もその姿がよく似合っている。
 程なくして大きめのマティーニグラスに注がれたそれは、仄かなワイン色をしていた。
「はい。これは『カシスオレンジ マティーニ』だよ」
 すっとカウンターの上に差し出されたグラスを受け取ると。絢子はそれに口をつけた。
「あっ! 美味しい」
「アルコール度数は二十%だけれど、甘いリキュールを使っているから飲みやすいでしょ?」
「はい、とっても飲みやすいです」
「絢子ちゃん、お酒はいける口なのかな?」
 カクテルグラスを持った颯太が聞いてくる。
「強いわけではないと思うんですけれど、今まで人前でのお酒の席で酔って醜態を晒したことはありません」
「ほう、それは殊勝だね」
 颯太に褒められて頬を染める絢子である。
「絢子さんの酔った姿というのも見てみたいのだが」
 直人が片手にロックグラスを持ちながら言う。
「ええと、一度家でどれだけ飲めるか試したことがあったのですけれど、缶チューハイ二本とワイン一本開けたところで気持ち悪くなって大変でした。もうあんな酔い方はしたくないって強く思ったんです」
 絢子がそのときを思い出して眉をしかめていると、颯太がふわりと微笑んだ。
「急性アルコール中毒になるのは怖いけれどね、自分の限界を知っておくのは悪いことじゃないよ。だから絢子ちゃんはお酒の席で醜態を晒したことがなかったんだね」
「はい、飲んでも飲まれちゃいけないって思ったんです」
 颯太はよく出来ましたといったように絢子の頭をよしよしと撫でた。
 絢子はくすぐったそうに首をすくめた。
 そんな二人を見ながら、正臣が直人と颯太の持っているカクテルを紹介する。
「絢子ちゃん、今直人が持っているのは『ブラー・ミスト』って言うカクテルでね、アルコール度数が四十%の『カルバドス ブラー グランソラージュ』って言うお酒を使っているんだ。林檎を原料に作るブランデーの奥深い味わいが楽しめるよ。とっても飲みやすいんだけれど、アルコール度数が高いからすぐに酔っちゃうね。颯太が飲んでいるのは『ウォッカ・マティーニ』。このカクテルはいろいろな逸話があるぐらい有名なカクテルなんだ。これもアルコール度数は高いものだね」
「そうなんですか。ところで直人さんと颯太さんは酔ったりしないんですか?」
 絢子が聞くと、二人はそれぞれに笑みを浮かべた。
「私は浴びるほど飲んでも酔わない体質なのですよ」
「僕も特には酔わないかな」
「正臣はどうなんですか?」
「俺も酔わないね。だからよく酔った奴の介抱役をしていたよ」
 正臣はそう言うとオレンジジュースを飲んでいる悠真に向けて少しばかり意地悪な視線を投げた。
「悠真、お前、本当は少しぐらい飲んだことあるだろ」
 話を振られた悠真はきょとんとしたあとにっこりと微笑んだ。
「やだなあ正臣。僕まだ未成年だよ? お酒なんて飲むはずないじゃない」
「そうですよ! 悠真君が飲んだりするはずありません!」
 絢子がぐっと手を握り締めながら言う。
「悠真君、悪い大人や子供に引っかかってうっかりお酒なんか飲んじゃ駄目ですよ? 未成年の飲酒は、研究によると十五歳前に飲み始める人の約四十%が生活の中で、のちにアルコール依存症の基準を満たすことが確認されていたりするんですから」
「よく知っているね、絢子ちゃん」
 颯太が絢子の言葉を継いだ。
「未成年者の飲酒は成人に比べアルコール代謝機能が低く、心身ともに成長段階にあるため、成長障害や性腺機能障害、肝臓やすい臓などの臓器障害の危険性を伴うのに加え、未成年時から飲酒を始めることにより、絢子ちゃんの言うように早期にアルコール依存症になる可能性が高いと言われているんだ。だから子供にはお酒を飲ませちゃ駄目なんだよね」
「はい、そうです!」
 絢子はきらきらと瞳を輝かせながら颯太を見た。
 彼女の目の輝きを見た正臣はふっと苦笑すると言葉を発した。
「絢子ちゃん、痛い思いしてからいろいろと調べたみたいだね。まあ、酒は飲んでも飲まれるな、お酒は二十歳になってから楽しく飲みましょうってことだよな。心配しなくとも俺は未成年の少年に無理矢理飲ませるほど馬鹿じゃないからね」
「そうですよね、正臣はそういう人じゃないですよね」
 絢子はほっと胸を撫で下ろした。
「何だか言い方が悪くってごめんなさい」
「いいっていいって。じゃあ、次は絢子ちゃんに是非覚えておいて欲しいカクテルを作ってあげよう」
 そう言うと正臣はシェーカーに材料を入れてしゃかしゃかと振った。
 そして出来上がったものをカウンターに置く。
 綺麗な淡い紫色をしたカクテルがそこにあった。
「これは『ブルームーン』と言う名前がついているカクテルなんだ。元々この名前は極めて稀で珍しいことをさすときに使われているんだけれどね。カクテル『ブルームーン』に使われるこのスミレの香りのリキュール『パルフェタムール Parfait amour』はフランス語で『完全な愛』。これを使ったブルームーンは、めったに起こらない特別でラッキーな出来事に遭遇した時、そして幸せな瞬間という意味が込められているんだよ」
「へえ、カクテルっていろいろ由来があって面白いですね」
「そしてもうひとつ、『できない相談』と言う意味もこの言葉にはあるんだ。この場合のカクテルに隠された事実、めったにない出来事とは、愛の告白を受け入れられない! とか、そのお話はしたくない! ということなんだ。あなたとその相談(話)はできません、というところだろうね。もしバーに一緒に行く相手のオーダーが『ブルームーン』だったら、それはお断りのサインかもしれないよ」
「えっ! そんな意味まで……」
 驚く絢子に対し、正臣はにやっと笑った。
「だから絢子ちゃん、ほかの男と飲む機会があったら、是非これを頼みなよ」
「そんな、お断りします」
 絢子がそう言うと、颯太が目を丸くしたあとぷっと吹き出した。
「あれ、正臣、絢子ちゃんからちゃんとお断りされているよ?」
 それを聞いた正臣はきょとんとすると「うええ」と顔を歪めた。
「うわ、本当だ」
「良い返しでしたよ絢子さん」
 直人もくすくすと笑む。
「さすが絢子、正臣にぎゃふんと言わせたね!」
 オレンジジュースを飲み終わった悠真が「ははっ」と笑った。
「えっ? あの?」
「絢子ちゃんの天然な返しに俺はやられちゃったね」
 やれやれといった顔をする正臣とあれれと首を傾げる絢子であった。


「さて、今日の絢子ちゃんの夜の権利についてなんだけれど」
 正臣が仕切りなおした。
「今日は最終日だから絢子ちゃんに選んでもらうのはどうかな?」
「それはいいね」
「いいだろう」
「賛成!」
 ほかの三人の鬼達も同意した。
「さあ、絢子ちゃん、俺達の内、誰を選ぶ? それとも自分の部屋で夜を過ごす?」
 絢子を囲んで、四人の鬼達がそれぞれに微笑んでいる。
「あの……」
 絢子は逡巡した。
 今日の出来事がフラッシュバックする。
「私、今日は悠真君の部屋に行きます」
「やったあ!」
 悠真がぴょんと飛び上がって絢子に抱きついた。
「絢子は絶対僕のことを選んでくれるって思ってた!」
 そのまま絢子の首筋に頬を摺り寄せた悠真は超至近距離で絢子に囁いた。
「部屋に行ったら、約束ちゃあんと果たしてね♪」
「え、ええ」
 天使の美貌を間近に見て、その心臓にあまりよろしくない刺激を必死で誤魔化そうとする絢子であった。
「やるな悠真」
 正臣がにやりと笑う。
「その策士っぷりが末恐ろしいね」
「だって、今の僕が正臣達とまともにやり合ったら絶対負けちゃうもの。絢子を手に入れるためなら、僕、何だって出来るよ!」
 天使のような顔でとんでもないことを言い放つ悠真である。
「絢子、僕だけの大切な宝物! 今夜はいっぱい遊ぼうね!」
「そっ、そうね……」
 一抹の不安がよぎる絢子であった。



[27301] 戯れ ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:de2ce089
Date: 2011/05/03 00:07
 絢子は自分の部屋に戻って寝る支度のあれこれを整えた。
 さらに荷物の整理もした。
 全てを終えてやることがなくなった絢子は、重い腰をあげると、どきどきする胸を抱えながら悠真の部屋の前まで足を運んだ。
 ノックをすると、程なくしてホテルのパジャマ姿の悠真がドアを開けた。
「絢子! いらっしゃい!」
 きらきらとしたオーラを放ちながら悠真が出迎える。
 彼の部屋はすっきりとしており、荷物もきちんと整えられていた。
「こっちに来て、絢子」
 悠真は絢子の手を取り、ベッドへと向かう。
 ベッドの上にはトランプが広げられていた。
「スピードしようよ」
「……ええ」
 絢子はそれを見てちょっとばかり拍子抜けした。
 今日の悠真との約束を、部屋に入ってすぐに果たさなくてはいけないと思いつめていたからだ。
「何だか死刑執行時間が延びたみたいだわ」
 そんなことを思うと、絢子はベッドの上に上った。
 広いベッドは絢子と悠真が上ってもびくともせず、トランプをするには丁度いいスペースだった。
「はい、絢子は赤ね」
「ありがとう悠真君」
 首を傾げながらもトランプを手に持つ絢子である。
「じゃ、始めるよ!」
 そうして二人はトランプ遊びに興じたのであった。


 ゲームは意外にも盛り上がった。
 興じているのが無邪気な悠真と素直な絢子の二人だからである。
 鬼の力を身に受けている絢子は、彼女の親から「あんたはいっつもドンくさいわねえ」と言われていた人と同一人物とは思えないほど反射神経が格段に上がっていた。
 素早い手つきでトランプを捌いてゆく。
 回数をこなす内に、絢子の緊張も解れてきた。
「なかなかだね」
 そう言う悠真であるが、こちらは始めから肩の力を抜いてリラックスしているようである。
「悠真君には敵わないわよ」
 のめり込むタイプの絢子は、手元に集中しながら上の空でそう答えた。
 悠真はそんな絢子を見てくすりと笑うと、こちらも手早く手の内のトランプを捌き始めた。
 程なくして彼は先に全部のトランプを山積みすることに成功した。
「あー、悠真君の勝ちかぁ」
 ちょっぴり悔しそうに絢子が言う。
「さ、たっぷり遊んだことだし、そろそろ寝ようか」
「え?」
 悠真のその言葉に絢子はきょとんとした。
「あの、悠真君、今日の約束は……」
 しどろもどろになる絢子であるが、悠真は気にした様子もなくトランプを片付けている。
「絢子、先にベッドの中に入っていて」
「え、ええ」
 悠真に促されておずおずとベッドに入る。
 そのすぐあとに悠真がするりと絢子の隣に潜り込んで来た。
 悠真はごろりと絢子のほうを向くと、その綺麗な灰色の瞳を輝かせながら言った。
「絢子、くっついてもいい?」
「……いいわよ」
 絢子の許可をもらった悠真は猫のようにしゅるりと絢子に擦り寄ってきた。
 彼は顔を絢子の喉元に埋め、手を絢子の体へ回してぴったりとくっついた。
「絢子は温かくて柔らかいね。それにいい匂いがする」
 顔を埋めたままなので多少くぐもってはいるものの、その声ははっきりと聞こえた。
「悠真君だってホテルのソープのとってもいい匂いがするわよ? それと悠真君、何だかくすぐったいわ」
 喉元にかかる吐息がこそばゆくて、絢子は身を捩ろうとした。
 しかし、悠真の腕の拘束は緩まない。
 それどころかぎゅっと強くなったのである。
「悠真君?」
「ああ、……やっと現実の絢子を掴まえた」
 ため息と共に感慨深げに吐かれたその言葉に、絢子はどきりとした。
 それを紛らわすためか、絢子は言葉を発した。
「あの、今日の約束のことなんだけれどね」
「うん」
「今、してもいいかしら?」
「いいよ?」
 悠真が顔をあげた。
 その顔を見て、絢子はまた胸が高鳴った。
 悠真は余裕のない顔をしていた。
 灰色の瞳を潤ませ、頬は紅潮し、ぽってりとした少しアヒル口の唇は艶めいている。
「キスして、絢子。絢子の匂いを嗅いだら、僕もうどうしようもなくなっちゃって」
 絢子は恐る恐る悠真の頬を掴むと、その唇に自分のそれを合わせた。
 すぐに悠真が絢子の唇をちゅっちゅっと食む。
 そっと舌を差し入れると、すぐに悠真の舌が絡んできた。
 蜂蜜のような、蕩けるキスを何度も何度もする。
「あっ……」
 絢子の口から思わず声が漏れる。
 羞恥からもう終わりだと舌を引こうとする絢子を、逃がさないとでも言うように抱き締め、悠真はさらに舌を進めてきた。
 今度は十五歳とは思えないほど、情熱的なキスへと変わった。
 美貌の天使に唇を貪られ、口内を蹂躙されている。
 そのことが絢子に眩暈のするような感覚をもたらした。
「ふあっ……ゆ、悠真君、もういいでしょう?」
「まだだよ絢子、まだ全然足りないよ」
 悠真は絢子を上向きに寝かせ、自分はその上に跨った。
「もっともっと、絢子が欲しい」
 絢子の両手にそれぞれ指を絡めて拘束すると、悠真は本格的に愛撫をしにかかった。
 彼女の瞼に、額に、頬に口付けを浴びせる。
「あっ、くすぐったいわ」
 悠真は絢子の喉に舌を這わせると、彼女の浴衣を口に咥えて肌蹴させた。
 そのまま絢子の胸元に、悠真はちゅうと痕をつけてゆく。
「駄目よ悠真君、悠真君は大切な生徒で、こんなこと……」
 必死に止めようとする絢子であるが、悠真は顔をあげると潤んだ瞳で絢子を見下ろした。
「ここには僕と絢子しかいないんだよ? それに、好きな人を前にして、黙って見てろって言うの?」
 そう言った悠真のその目はいつの間にか獲物を狙う獣のそれに変わっていた。
「絢子、僕だけの大切な宝物。宝物は愛でるから輝くんだよ? もっともっと大切にさせてよ」
 そう言うと悠真はぐいっと口で絢子の左側の浴衣を剥いだ。
「駄目! 悠真君!」
 羞恥に頬を染めながらも眉をしかめる絢子を見た悠真は途端に眉を下げた。
「だって、絢子がそそる体をしているからいけないんだよ? 現実の絢子が、こんなに温かくて、こんなに柔らかくて、こんなに美味しいなんて知らなかったもの。今だってどきどきしているよ。ねえ絢子、『許可』を出してくれたら、僕、うんと優しくするから」
「でも、悠真君、これ以上は駄目。お互いのためにはならないわ。それに約束はキスだけだったはずでしょう? これで手を打って頂戴」
 絢子の懇願に悠真はがっくりと肩を落とした。
「……うん、僕、我慢する。絢子が優しいのをいいことにもう少しで取り返しのつかないことをするところだったよ。絢子の気持ちが一番大切だもの」
 その悠真のしょげた様子を見た絢子はふっと苦笑した。
「来て、悠真君。一緒に寝ましょう」
 その台詞を聞いた悠真は目を丸くしたあと、はあとため息をついた。
「もう、絢子は優しすぎだよ。僕に襲われかけたのに許すって言うの?」
「許すも何も、これは私も受け入れていたもの。おあいこよ。約束とは言え未成年の悠真君に手を出した私も悪い大人だもの」
 それを聞いた悠真は感極まったようだった。
「ああ絢子! これだから僕は絢子にメロメロになっちゃうんだよ。絢子はもっと自分を大切にしなくちゃ駄目だよ! だから僕がうんと大切にする!」
 しかし、はっと気を取り直した悠真はうーんと唸ったあと、きっと表情を改めた。
「でも、やっぱり僕は鬼で男だから、絢子の肌を直に感じていたい!」
 そう言うと悠真は上着をさっと脱ぎ捨てた。
 彼はそのまま絢子に覆い被さり、邪魔なブラジャーを手早く取り去った。
 絢子をぎゅっと抱き締め、その胸元に顔を埋める悠真である。
「とっても気持ちいい。やっぱりぷるぷるですべすべだあ」
「悠真君ったら。その言い方何だか正臣みたいよ? それと今日は温泉に浸かったから肌が潤っているだけよ」
「ね、『許可』は出さなくてもいいから、こうやって僕が絢子のことを大切にするのを許してくれる?」
 きらきらうるうるとした天使の灰色の瞳が絢子を見つめる。
「もう、しょうがないわね。今日だけですからね」
 そのままベッドの中で、眠りに囚われるまで半裸でいちゃつく悠真と絢子であった。






「ううん……」
 薄目を開けると、目の前にはふわふわの金髪があった。
「あれ、悠真君」
 ぱっちりと目を開けた絢子は自分の姿を確認した。
 自分はショーツ一枚で上半身裸の悠真と抱き合っている。
 悠真はぴったりと隙間なく絢子に抱きついている。
「悠真君、おはよう、起きて頂戴」
 そう言いながら悠真の腕の中から解放された絢子は手早くブラジャーをつけ、浴衣を着付けた。
「じゃあ、私は部屋に戻るから」
「うん、またね絢子」
 絢子が部屋を出ると、悠真はごろりと仰向けになった。
「……絢子の体、美味しかったなあ。これでますます絢子を僕だけの宝物にしたくなっちゃった。十年後が楽しみだなあ」
 そう言うと、悠真はふふっと笑んで、シャワーを浴びにバスルームへと足を運んだのだった。



[27301] 秘め始め ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:de2ce089
Date: 2011/05/03 00:10
 部屋に戻った絢子はシャワーを浴びたあと、身支度を整えた。
 今日の絢子の服装は一日目と同じ薄桃色のニットワンピと黒タイツである。
 朝食を食べに行くと、丁度四性の鬼達も集まってきたところだった。
 今日の鬼達の服装もまた一日目と同じである。
 絢子は大人組三人に朝の挨拶をした。
「おはようございます」
「おはよ、絢子ちゃん」
「絢子さん、おはよう」
「おはよう、絢子ちゃん」
 絢子は皿にかぼちゃサラダと、マカロニとポテトのクリームグラタン、スプーンとフォークを取ると席へとついた。
 食べ始めてしばらくすると、ふと視線を感じた。
 顔をあげると、正臣が読めない表情で絢子を見つめていた。
「正臣、どうしたんですか?」
 一旦手を止めて話を振る絢子である。
 正臣はにこっと微笑むと、口を開いた。
「今日の絢子ちゃんはどことなく色っぽいなあと思ってさ」
「え?」
「絢子ちゃん、昨日悠真に大切にされたでしょう? 絢子ちゃんから悠真の気を感じるよ」
 絢子は昨日の出来事を思い出して頬を染めた。
「えっと、ゆ、悠真君とは、何もない、わけじゃないですけれど、心配するようなことは起こってません、から……」
 最後は尻すぼみになる絢子である。
「本当?」
 正臣がにやりと笑い、今度は悠真に聞く。
「悠真は辛いよなあ。お前は未成年だから、絢子ちゃんに手を出したくても出せない。出したら絢子ちゃんを犯罪者にしてしまうからね」
 話を振られた悠真は澄ました顔で言った。
「僕は絢子を犯罪者にするほど馬鹿でも節操なしでもないよ。引くときはちゃんと引けるもの。僕は絢子を手に入れるためなら何だって出来るんだからね。それに正臣だって、絢子からの『許可』が出なきゃ、僕と立ち位置は一緒でしょ?」
 片や読めない笑みの狡猾な野獣、片や美貌の天使の顔をした小悪魔である。
 その二人の間には見えない火花がばちばちと散っている。
「ついに悠真が俺達のライバルとして顔を出し始めたなあと思ってね、わくわくしてるよ」
「正臣、僕の十年後を楽しみにしててよ。四性の鬼の中で誰よりもいい男になって見せるから」
「ほう、そりゃ面白いねえ。でも、四十代の大人の色気に勝てるかな?」
「わからないよ? 絢子は年下がいいって思うかもしれないもの」
 そうして二人はにっこりと微笑んだのであった。

 なにやら物騒な朝食が終わったあとは、しばらくの時間を置いたのち、帰り支度である。
 絢子はこの旅行のお土産を先の自由時間の間に買っておいたのだが、結局バッグに入りきらなくてビニール袋をいくつか手に持っているという状態となっている。
 それでも彼女はこの旅行に充実感を感じていた。
「ああ、濃い三泊四日だったわ」
 フロントにカードキーを返すと、絢子は皆が集まっているロビーへと向かった。
「お姉さーん!」
 絢子に気付いた義晴と詩乃がたたっと走って来て絢子に抱きついてくる。
「義晴君、詩乃ちゃん!」
 絢子は荷物を床へ置くとしゃがんで二人を抱き締めた。
「お姉さん、また遊ぼうね!」
「僕達のこと、忘れないでね!」
 うるうるとした瞳で絢子を見上げる二人の可愛らしい子供達に、絢子は撃沈した。
「ええ! 私、二人のこと、絶対に忘れないわ! 二人とも大好きよ!」
「「お姉さん!!」」
 そんな子供二人と感動の別れを済ませ、藤原夫妻、マルチェロ・ラッティオとも挨拶を交わすと、いよいよ出発である。
 エントランスへ行くと、大きな強化ガラスのドアの前には黒塗りのハイヤーが何台も停まっていた。
 その内の一台に正臣と共に乗り込む。
 ハイヤーが静かに発進した。
 これにて、この山梨の高級ホテルとはお別れである。
 絢子は振り返ってホテルの残像を目に焼き付けたのであった。




 帰りのハイヤーの中で、絢子は正臣の膝の上で寝ていた。
 その絢子の髪の毛を正臣がゆっくりと手櫛で梳いている。
 正臣は絢子の髪の手触りを楽しむように、撫でては梳くのを繰り返している。
 酔い止めの効果からか、絢子が起きる気配はない。
「う、ん……」
 絢子がこてんと仰向けに横たわった。
 艶やかな唇は少しだけ開いており、その姿は無垢なようにも、男を誘うようにも見えた。
 正臣はそんな絢子の姿を目にしたあと、ひょいと片眉をあげて思案し、ふと何かを思いついたのかにやりと笑った。
 彼は絢子の顔をそっと持つと、ゆっくりと覆い被さり、絢子の唇に自身のそれをつけた。
 絢子の下顎を持ち、少しばかり開かせると、その開いた口の間から舌を滑り込ませる。
 そうして絢子の口内をじっくりと味わうと、正臣は絢子に自分の気を少しばかり与えた。
 しばらくして顔をあげた正臣は絢子の唇をぺろりと舐めて、ことの後始末をする。
 そうして何事もなかったかのように絢子を撫でるのを再開したのであった。

「絢子ちゃん、もうすぐ家だよ」
「ううん……」
 正臣に起こされた絢子は起き上がるとうーんと伸びをした。
 心なしか、体と頭がすっきりとしている。
 普通、長時間の車での移動は体がだるくなったり頭がぼうっとしたりするもので、ましてや酔い止めを飲んでいるのだからそれは顕著になると思われるのだが、今は全くそんな気配はない。
 どうしてかしらと首を傾げる絢子であったが、そんな絢子に正臣が声をかけた。
「絢子ちゃん、今、体がすっきりしているでしょう?」
「はい、どうしてわかったんですか?」
 きょとんとする絢子を見た正臣は意地悪そうに微笑んだ。
「俺がね、絢子ちゃんが寝ている間に気を送っておいたからだよ。鬼の気で絢子ちゃんの体の不調を中和したんだ。以前絢子ちゃんが直人にしてあげたのと同じ方法でね」
「へえ、そうなんですか……って、正臣、それってあの……」
 寝ている間に何をされたのかということに思い至った絢子は目を見開いて口をぱくぱくと開けた。
「そんなにそそる唇をね、俺が放っておけるわけがないじゃない。美味しかったよ、ご馳走様」
「ま、正臣!」
「何?」
 にっこりと微笑む正臣に、しかし絢子はぐっとつまった。
 何やら釈然としない思いを抱えたままであるが、医療行為だと思って一応納得をしてしまったのである。
「くっ……。ありがとう、ございます」
「ああ、お礼なんていいのに。役得なのはこちらのほうだからね」
 笑顔の正臣とは対照的に、うーんと眉をしかめたまま、車を降り、荷物を持って部屋に入る絢子であった。

「絢子ちゃん、洗濯物は籠の中に出しておいてね。あと、全部終わったらソファーで待ってて」
「はい、わかりました」
 絢子は言われた通りそれらの作業をすると、ソファーにちょんと腰かけた。
 程なくして、洗濯機を回し始めた正臣がソファーへと足を運ぶ。
 正臣は絢子の隣にすとんと自然に座った。
 両手を組んで膝の上に置いた正臣はその体勢で大きく深呼吸をすると、体を捻り、絢子の瞳を正面から見つめた。
「絢子ちゃん」
「はい」
 なにやら真剣な話のようだ。
 ごくりと唾を飲み込む絢子である。
 正臣が口を開いた。

「秘め始めって知ってる?」

「はい?」

 絢子はぽかんとした。
「いや、だからさ、秘め始め。諸説あるんだけれど、一月二日に行う行事ね」
「あの、確かお正月に軟らかく炊いたご飯を食べ始める日ではなかったでしたっけ?」
 事態がよく飲み込めず、取り合えず答える絢子である。
「それはお姫様の姫の姫始め。そのご飯のことを姫飯(ひめいい)と言うからね。俺が言っているのは秘め事の字のほう。意味は知っている?」
「いいえ?」
 絢子は首を傾げた。
 一体、それがどうしたというのだろう。
「言葉の意味はね、その年になって始めて夫婦などが交合すること、なんだよ。一般的には大体こっちを指すかな」
「こ……!」
 絢子がぴしりと固まったのをさして気にせず正臣は続ける。
「俺と絢子ちゃんはさあ、もう夫婦みたいなもんじゃん。せっかく一年に一度しかやってこない日なんだから大切に過ごそうよ」
「た、大切に過ごすというのには同意しますけれど、いくらなんでも、そっ、そんな……」
 絢子はずりずりと後ずさりし始めた。
 それを見た正臣はにいっと意地悪そうな笑みを浮かべると、ずいっと絢子に迫ってきた。
「今日は絢子ちゃんとずーっと一緒に過ごしたいな。出来ることなら風呂も一緒に入りたいし、寝るのも一緒にしたい。んで、願わくば、『許可』も出してもらいたいね」
「『許可』は、出しませんっ!」
「でも昨日は悠真と楽しいことをしたんでしょう? 絢子ちゃんの初めてをもらった悠真が羨ましいよ」
「な、何だか語弊があります!」
「だから俺はね、現実の絢子ちゃんの初めてをもらおうと思ってさ」
「『だから』って、何でそうなるんですか!?」
 絢子がのけぞりながら言う。
 その絢子を正臣はついに押し倒した。
「ん、悠真にばっかりいい思いをさせておくのは癪だから?」
 覆い被さった正臣はそのまま絢子に口付けをした。
「んっ!」
 片方の手を絢子の頬にやりながら、もう片方の手を絢子の胸元に置く。
 そのまま、正臣は服の上から絢子の胸をゆっくりと揉みしだいた。
「んーっ!」
 絢子は身をよじろうとするが、それを正臣が体全体を使って防いでいる。
 息をつこうと口をあけた絢子の口内に正臣の舌がするりと入ってきた。
「あっ!」
 すかさず口を閉じようとする絢子の頬を、正臣は大きな手でがっちりと掴んで阻んでいる。
 深く舌を差し込まれ、口内を蹂躙されるが、不思議と苦しくはない。
 それは正臣が絢子の呼吸に合わせて絶妙に力加減を図っているからなのだが、それに気付く余裕は絢子にはなかった。
 追い上げられ、息も絶え絶えになった頃、ようやく正臣が口を離した。
 そこには、上気した顔で、涙ながらに官能的な色を瞳にたたえた絢子が出来上がっていた。
「はあっ、はあっ」
 息をつくその姿すらも愛らしく、男を誘うようである。
 自らの手で施したその姿を満足げに見やると、正臣は絢子を抱きかかえて起こし、自分の腕の中に閉じ込めた。
 力の抜けた絢子は、正臣の胸板にこてんと寄りかかる。
「そう、そうやって俺に全てを任せなよ。絢子ちゃんをもっと良くしてやるから」
「酷いです、正臣、こんな……」
 力の入らない体で、それでも抗議だけはする絢子である。
 正臣はにやりと笑った。
「そろそろ覚えておいてもらったほうがいいかもね、俺が酷い男なんだってことを」
「そんな酷い人には『許可』は出せません」
 正臣は絢子の背中を撫でながら、ほうと片眉をあげた。
「ふうん、じゃあ、俺が颯太みたいに優しい男になったら絢子ちゃんは『許可』を出してくれるのかな? それならお安い御用だよ? もうどろっどろに優しく、甘くしてあげるから」
「そういうことじゃ……」
 絢子が口ごもると正臣はふっと笑った。
「知ってるよ。絢子ちゃんが言いたいのはそういうことじゃないんだってこと。それに颯太には颯太の、俺には俺の優しさがあるからね」
 そう言うと正臣は絢子の頭上に口付けを落とし始めた。
 羽のようにふわりふわりと落ちるそれは、絢子に安心感をもたらした。
 正臣の体からは何やら仄かなムスク系の匂いがし、それがまた心地良い。
 絢子は半ば夢心地で正臣に聞いてみた。
「正臣、香水つけているんですか?」
「ん、つけてないけれど、どうして?」
「何だかいい匂いがします」
 それを聞いた正臣はにやりと笑った。
「それって俺のフェロモンじゃない?」
「え?」
「鬼はね、普段から異性を捕らえる匂いを微弱に発しているんだよ。特に今の俺は絢子ちゃんに対して欲情しているからその匂いが顕著に出ているんだと思うよ」
「じゃあ、この匂いを嗅ぎ続けたら、その、私は……」
「普通の女性だったら簡単に『許可』を出してくれるだろうね。ただ、絢子ちゃんの場合は、紀朝雄の力かどうかはわからないけれど、俺達の匂いに耐性があるみたいだ。そうでなくてはこんなに一緒にいて、何も起こらないほうがおかしいよ」
「何もって?」
「絢子ちゃんがなぜ俺達に『許可』を出してくれないのかが不思議でならないよ。こんなに落とせない女は初めてだ」
 そう言いながら正臣は絢子をぎゅっと抱き締め、絢子のこめかみに唇をつけた。
 そのまま耳元へと唇をずらすと、正臣は絢子の耳に直接囁きかけた。
「ねえ絢子、俺は必ずあんたを手に入れる。身も心も全て、俺のものにしてやる」
 言われた瞬間、絢子は背筋がぞくりと粟立った。
「あ……」
 正臣の低く官能的な声が直接脳に響くかのようだ。
 絢子は首元まで鳥肌が立ち、胸の奥がざわざわとしている。
「あんたが欲しい、今すぐにでも奪いたい」
「正臣……」
 ずんと腰に来るようなその声で、正臣はなおも絢子に語りかけた。
「『許可』を。絢子ちゃんの初めてを俺に頂戴?」
「……あのっ、まだ、駄目です」
 真っ赤になって俯く絢子を見た正臣はにいっと笑った。
「ふうん、『まだ』ってことは、見込みはあるってことだね」
 正臣はそのまま俯いた絢子の頭上に自分の顎をぽすりと乗せた。
「絢子、あんたが愛しくて堪らない」
 正臣の胸に抱かれた絢子は、頭上と胸部から響く低く官能的な声を同時に聞いた。
 そのサラウンド効果に眩暈を起こしそうになる。
「怖いんです、私」
 か細い声で絢子が言うと、正臣は絢子の背中をよしよしと撫でた。
「じゃあ、怖くないように練習しようか」
「え?」
 絢子が顔をあげる気配を察した正臣は、絢子の頭から顎を退けて絢子を見下ろした。
「絢子ちゃん、俺を練習台にしなよ。絢子ちゃんが怖くなくなるまで何度でも付き合うからさ」
「でも……」
「それに、決定権を握っているのは絢子ちゃんだよ? 人からの『許可』が出ない限り鬼は人と交合が出来ないんだから。絢子ちゃんがいいって言わない限り、俺は絢子ちゃんを抱けないから、安心しなよ」
「う……」
 絢子は逡巡した。
「あの、将来、誰かのお嫁さんになるときに、役に立ちますか?」
 おずおずと聞く絢子の姿を見た正臣はにっこりと微笑んだ。
「例え知識だけでも、体の開き方を知っていれば、本番になったときにも怖かったり辛かったりはすることは少ないと思うよ。まあ尤も、絢子ちゃんをほかの誰かに渡すなんて俺がさせないけれどね」
「正臣、じゃあ、その」
「いいね? 絢子ちゃん」
「……はい」
 ついに絢子がこくりと頷いた。
 その瞬間、正臣は絢子をぎゅーっと抱き締めた。
「嬉しいよ。これで一歩進んだんだって思うと感慨深いものがあるね」
「あの、本当に正臣は出来ないんですか?」
 絢子が聞くと正臣はふっと微笑んだ。
「出来ないよ。夢の中では違うけれどね、現実では『許可』が出ない限り勃たないようになっているんだ。ちなみに対象がいなくなれば別だけれどね。じゃないと男の生理現象を解消できないでしょう? でも入れるだけが愛を交わす方法じゃないからね。相手がイってくれるのを見るだけであっても、俺は満足できたりもするんだよ」
 だとすると、今まで正臣が性に関して忍耐強いと思ってきたのは、ひとえに『許可』のおかげであったのではないかといぶかしむ絢子である。
「あ、絢子ちゃん、今俺の忍耐を疑ったでしょう?」
「え、あの、だって疑うも何も、正臣はしょっちゅう手を出そうとしてきますし、やらしいことも平気で言いますし」
「でも、絢子ちゃんに本格的な無体は働いていないでしょう?」
「うっ……はい」
 渋々頷く絢子である。
 そのとき、風呂が沸いたことを知らせるアラームが鳴った。
「おお、丁度良いね。じゃあ絢子ちゃん、まずは先にお風呂に入ってきなよ。その間に俺が夕飯作っておくから。絢子ちゃんとの風呂を諦める代わりに、俺は絢子ちゃんとの夜の営みを取るからね」
「……わかりました」
 こうして正臣と絢子の艶やかな夜が始まったのである。



[27301] 愛の交わし方 1 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:de2ce089
Date: 2011/05/05 20:09
 絢子がお風呂から上がると、キッチンからは和風だしのいい匂いが漂っていた。
 部屋着に着替えを済ませた絢子は思わずつられて足を運んだ。
「今日の夕飯は何ですか?」
「今日はね、けんちん汁と焼き鮭、あとは卵焼きとほうれん草のお浸しだよ。ずっとフレンチだったから、今日は姫始めの意味も込めて和食にしてみました」
「わあ、ちょうど和食が食べたいと思っていたところなんです。でも魚なんて四日もどうやって取っておいたんですか?」
 絢子の質問に正臣はにこりと笑って答える。
「簡単だよ。冷凍しておいたのさ。このけんちん汁の具材もね、出発する前に下ごしらえをして冷凍しておいたんだよ」
「ああ、確かに冷凍しておけば日持ちしますし手早く作れますよね。そんな基本的なことを忘れていました」
 ぽんと手を打つ絢子である。
「私、花嫁修業だと思って、今度から正臣に料理を習おうかなあなんて思っちゃいました」
 絢子のその台詞を聞いた正臣は流し目で彼女を見やる。
「絢子ちゃん、さっきから俺以外の男の下へ嫁に行こうとしてるのはなぜ? もしかして実家からお見合いの話でも来ていたとか?」
 その視線を受けた絢子は慌てて言葉を継いだ。
「えっと、違います、心構えの問題です。だって正臣は至れり尽くせりで、私ろくに家事をやっていないじゃないですか。ひとり暮らしをしていたから、自分ひとりのことだったら何とかできますけれど、こんな役に立たない嫁、貰い手がいなくなっちゃうって思ったんです」
 絢子がそう言ってしょぼんとすると、正臣は少しばかり目を見開いたあとふっと笑った。
「なんだ、そうだったのか。これはね、俺がしたいからやっているの。絢子ちゃんが快適に暮らせれば、それで俺も満足するんだから、一挙両得でしょう? 何なら、今度一緒に料理でも作ろうか」
「はい、是非お願いします」
 そんな会話を交わしたのち、夕食の準備を整えた絢子と正臣は、二人でゆったりとそれらを食べたのであった。


 寝る支度を終えた絢子はリビングのソファーの上で横になり、クッションを抱きながらテレビを見ていた。
 テレビでは新年の特番がやっている。
 しかしその内容は絢子の頭を素通りしていた。
「な、流れとは言え、今日は私、正臣と一緒に寝ることになっちゃったんだ。何をするんだろう、どうしよう、怖いかも」
 不安でいっぱいの絢子である。
 と、正臣がお風呂から出たようだ。
 絢子は起き上がり、ソファーにちょこんと座った。
 こちらへ歩いてきた正臣は、絢子のちまっとした姿を目に入れるとぷっと吹き出した。
「絢子ちゃん、ガチガチに緊張してんじゃん。そんなに俺が怖い?」
 正臣が隣に座るのを感じた絢子は、クッションでガードしたままちらりと正臣に目をやった。
「う、正臣は怖くない、です。でも、これから何をするのか不安で、それで」
 絢子が黙ると、正臣は絢子に優しい視線を投げかけた。
「絢子ちゃん、ぎゅってしていい?」
「はい」
 正臣は絢子のクッションを取り去ると自分の腕の中に閉じ込めた。
 風呂上りの正臣からはボディーソープのいい匂いがする。
 それと、柔らかなムスク系の香りもする。
「私、正臣の匂い好きです」
 絢子が正臣の腕の中でほっと力を抜くと、正臣は絢子をさらに抱き締めた。
「俺もね、絢子ちゃんの匂いが大好きだよ。仄かに甘くて、思わず食べたくなる」
「私にも匂いがあるんですか?」
「あるよ。今もいい香りがする。絢子ちゃん自身の匂いだよ」
 正臣は絢子の髪をさらさらと梳き始めた。
「この髪の毛の手触りも好きだよ。細くて、ふわふわとして、手によく馴染む」
「癖っ毛なんです、私。全然良くなんかありません」
 絢子が恥らいながら言うと、正臣はひょいと片眉をあげた。
「絢子ちゃんはさあ、何で自分に自信がないようなことを言うんだろうね。絢子ちゃんの心も体も、俺にとっては垂涎ものであるというのに、本人がそれをいちいち否定するんだもんな。何かトラウマでもあるの?」
 正臣に聞かれた絢子は少しばかり体を震わせた。
「私、クラスではいっつも地味なほうでしたし、親や友人からはいっつもドンくさいだの愚図だの言われてきましたし、だから正臣が私のことを良く言ってくれるのがどうしても信じられなくって。夢なんじゃないかって思っちゃうんです」
 俯きながら絢子がそう言うと、正臣は彼女の髪を梳く手を止めた。
「ふうん、絢子ちゃんの自罰的なところは育った環境にも原因があったんだね。ああ、俺がもっと早くに絢子ちゃんと出会っていれば、そんな思いはさせなくて済んだのに。ずっと絢子ちゃんを大切にし続けたのに」
 正臣はそう言って悔しそうに唇を噛んだ。
「何の気なしに言われた言葉でも、深く傷つけられてしまうことってあるよね。それが家族や友人であれば尚更だよ。絢子ちゃんは真面目で素直で純粋だから、言われた言葉を真摯に受け止めちゃって、それで悩んだんだろうってことが想像できるよ。何か泣けてくる」
 正臣はそう言うと絢子をぎゅーっと抱き締めた。
「正臣?」
「もう、そんないじらしい絢子ちゃんが愛しくて堪らない。自分の不遇に気付づいているにもかかわらず、それでもこんなに真っ直ぐに育ってくれたんだもんな。俺は奇跡だと思うね」
「そんな、大げさな」
 しかし、絢子は胸の奥がじんわりと温かくなってきていた。
「正臣の子供時代はどうだったんですか?」
 絢子の質問に、正臣は昔を懐かしむように遠くを見つめた。
「ん、匠に出会う前は今よりももうちょっとやんちゃだったかな。俺は親から疎まれていたから、早く独り立ちするんだって焦っていたところもあったのかもしれない。昔は今よりももっと鬼の性に忠実だったよ。でも高校時代からいろんなバイトを経験して、いろんな人に出会って世の中を知っていくにつれて、角が取れてきた部分もあったと思う。大学時代にあるバイト先で匠に出会って、あいつのいろいろな仕事を手伝ううちに、さらに人間が丸くなったんだと思うね。そうして今の俺が出来上がっていったんだ。匠と出会ったのは偶然か必然かは分からないけれど、四性の鬼は藤原千方の下へ集まるようにできているんだと俺は思うんだ」
 さらに正臣は話を続けた。
「絢子ちゃんに出会う前の俺の仕事は『何でも屋』ってところかな。本当に何でもやったよ。重要人物のSPから、企業との折衝、個人パーティーの料理人なんてのもやったね。俺は隠形鬼だから、何にでもなることができるんだよ。自慢じゃないけれど、俺ね、必要に駆られて結構いろんな資格も取得してんのさ。調理師やソムリエなんかのフード系、IT・語学・ビジネス系の資格も結構持ってるね。あとは美容師とか、面白いところでは気象予報士なんてのもあるよ。それらの資格が必要な仕事って想像できる? ここに至るまで、俺は結構面白い人生を歩んできたと思うよ。そんな生活が板についてもう十年近くになるね。そんなときに、絢子ちゃんの護衛の話が来たんだ」
 初めて聞く正臣の過去に興味津々の絢子である。
 しかし正臣は一旦そこで話を中断した。
「そうだったんですか、それであの、続きは?」
 丸い瞳で正臣を見つめる絢子の額に、正臣は口付けを落とした。
「続きはベッドの中でしようね」
「はい」
 正臣に手を引かれ立ち上がると、絢子は正臣の部屋に入った。
 綺麗に整頓されている正臣の部屋は居心地が良さそうだった。
 黒いベッドの上に二人で横になる。
 ベッドの中で、二人はごく自然に抱き合った。
 ぬくもりを求めるかのように二人で擦り寄る。
 居心地のよい場所を探し、そこに落ち着くと、正臣は話を続けた。
「絢子ちゃんを最初見たときね、『こんな普通の女の子が紀朝雄の生まれ変わりだって? 信じられない』と思ったよ。今までいろんな修羅場を潜り抜けてきたけれど、このときほど拍子抜けしたことはなかったね。しかも、匠からの最初の依頼は護衛として絢子ちゃんを陰から見守るってことだったんだから。今までやってきた仕事に比べたらはるかに易しかったよ」
「あの、どれぐらい前から私のことを護衛してくれていたんですか?」
「絢子ちゃんが大学を卒業してあのアパートでひとり暮らしを始めたころには、もう手元には絢子ちゃんの情報が大体入って来ていたよ」
「えっ!? そんなに前からなんですか?」
 驚くとともに何やら顔が赤くなる絢子である。
「は、恥ずかしい……私の行動って全部筒抜けだったんですね。じゃあ、まさかバイトの帰りに家の近くのBOOK OFFでお気に入りの漫画を立ち読みしていたこととか、洗濯は週末にまとめてすることとか、水曜日と土曜日の深夜アニメを楽しみにしていたこととかも全部?」
「ああ、全部ね」
「うわあああ! 穴があったら入りたいいい!」
 絢子は顔を覆って丸くなった。
 正臣はそんな絢子を見るとくすくすと笑い出した。
「それがね、俺にはとっても新鮮だったんだ。今までそんな穏やかな人生に触れたことがなかったからね。それに絢子ちゃんの漫画の趣味、俺結構共感できるよ。ストーリー性があって、絵は程よく写実的。ロマンスやBL、グロもいけるけど、最終的には何かを学べたり、心を揺さぶられたりする話が好きなんだよね?」
「はい……そうです」
 顔を覆いながらも、ちらりと正臣を見上げる絢子である。
「別に恥ずかしいことじゃないじゃん。絢子ちゃんの知的好奇心の赴くままに本を探していった結果がそうなったんでしょ?」
「正臣は引かないんですか? もういい年なのに、漫画なんか読んで、って」
「もしかしてそれ、絢子ちゃんの親から言われたの?」
「はい」
 正臣ははあとため息をつくと、絢子の頭をよしよしと撫でた。
「絢子ちゃん、親の呪縛が結構強いみたいだね」
「呪縛、ですか。今までそんな風に思ったことがありませんでした。でも、私の親は大学まで出してくれましたし、大学卒業後もひとり暮らしを続けることや、フリーターをやることについても最終的には納得してくれましたし、話の分かる親だと思うんです」
「ああ、もちろんそう言う面もあるけれどね、俺が言いたかったのは、絢子ちゃん自身が親の言葉に囚われているってことなんだ」
「私がですか?」
「そう。絢子ちゃんはもちろん反抗期もあっただろうけれど、概ね真っ直ぐに育ってきているよ。だからなのか、親からの言葉を大切にしすぎるきらいがあるよね」
「それって悪いことなんですか?」
「一概に悪いとは言わないけれどね、でも絢子ちゃんはもっと自分を開放していいし、自分のことを大切にしていいんだよ」
「私、自分のことを大切にしていると思いますけれど」
 絢子が首を傾げると、正臣は絢子の頬にそっと手を置いた。
「だからなのかもしれない。絢子ちゃんが自身のことを大切にしない、気付かない分、俺達四性の鬼が絢子ちゃんのことを大切にするのは道理なのかもしれない」
 そう言うと正臣はふわりと自然に絢子の唇を奪った。
「ん……」
 絢子は抵抗せずに正臣を受け入れた。
 今までの話で緊張が解れていたのと、正臣のことを知ってさらに親近感が湧いて来ていたからである。
 おずおずと口をあけると、それを待っていたかのように正臣の舌が入ってくる。
 正臣は舌で絢子の口内を優しく撫でると、絢子の舌を自分に引き入れた。
 絢子は拙い舌技ながらも、正臣の舌に自分の舌を絡めていった。
 しばらくそうやって戯れている間に、正臣の手は絢子の背中に回り、シャツの裾から中に入り、背中を這い上がってくる。
 そうして絢子のブラジャーのホックまでたどり着くと、正臣は片手で器用にそれを外した。
 途端に胸の辺りがなんだか頼りなくなって、絢子は舌を引き抜いた。
「絢子ちゃん、怖くないからね。今から絢子ちゃんをうんと大事にするから」
 そう言うと正臣は彼女の服のボタンをひとつずつ外していった。
「綺麗だよ、絢子ちゃん、この前、絢子ちゃんに鬼の血をあげたときみたいだ」
「嫌、見ないでください、こ、怖いです」
 泣きそうな絢子を見た正臣は苦笑した。
「絢子ちゃん、怖がらずにゆっくり進もうね。それとあのときは医療行為とは言え、激しくしちゃってごめんね」
 その言葉を聞いた絢子はふるふると首を振った。
「いいえ、あのときは正臣がいたから助かったんです。感謝こそすれ、謝ってもらう必要はないんです」
 そう言った絢子の頬を、正臣は片手で優しく撫でる。
「俺のことを責めてもいいのに、絢子ちゃんはそうやって自分で抱え込もうとするんだね。だからこそ、俺が、絢子ちゃんを大切にするから」
 そうして正臣は絢子の頬にそっと口付けを落としたのだった。



[27301] 愛の交わし方 2 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2c25d397
Date: 2011/05/04 00:44
 正臣の愛撫は優しく丁寧だった。
 体がふわりと浮かび上がるような感覚を何度も得た絢子は、ふわふわとした思考の中、しかし正臣のことを思った。
「正臣、正臣はもう沢山してくれましたし、私ばっかりしてもらって、正臣はその……」
 絢子が逡巡すると、正臣はふわりと微笑んだ。
「俺のことなら全然気にしなくてもいいよ。俺はね、絢子ちゃんが気持ち良くなってくれる姿を見るだけで満足できたりもするんだからね」
「でも、体が」
 絢子が食い下がると、正臣は絢子の頬を優しく撫でた。
「絢子ちゃんは自分を喰おうとしている鬼にも優しいんだね。俺が今何をしているかわかってる? 絢子ちゃんを喰うために慣らしているんだよ?」
「そんなこと言ったって駄目です! 正臣は本当に良くしてくれました。あの、『許可』は、どうやって出せばいいんですか?」
 必死の表情で絢子が正臣を見つめると、正臣は眉をしかめた。
「そうやって流されてくれるのは嬉しいけれどね、俺の忍耐を舐めてもらっちゃ困るよ? 絢子ちゃんの体を十分に慣らした上で、俺はあんたを喰うんだから」
「流されてなんかっ……」
 そう言うと絢子の瞳からはぽろりと涙が零れた。
 それを見た正臣は目を見開くと絢子に覆い被さり、絢子をぎゅっと抱き締めた。
「泣かないで、絢子ちゃん、泣かせたいわけじゃないんだ。俺はね、絢子ちゃんを大切にしたいだけなんだよ」
「ま、正臣は、私のことが嫌いですか?」
「どうしてそういうことになるのさ」
「私、地味だし、愚図だしドンくさいし、いいところなんてひとっつもないです。そんな私でも、正臣はいいんですか?」
 絢子の訴えに、正臣は眉根を寄せるとはあとため息をついた。
 怒られると思い、びくっと身を固くする絢子である。
 しかし正臣の口から出てきたのは怒りの言葉ではなかった。
「……絢子ちゃんの呪縛は根深いね。そんな思考で、今までよく変な男に引っかからなかったと思うよ。本当に奇跡だ。俺に出会うまで、清い体のままでいてくれて良かったと心底思うよ。仮にもしそんな男が現れて、絢子ちゃんがそいつに引っかかってぼろぼろにされるぐらいなら、俺はその男を迷わず殺すね」
 怒られると思っていた絢子ははっと気付くと正臣にぎゅっと抱きついた。
「正臣、私のために人なんか殺さなくってもいいんです。わ、私が、正臣の言う呪縛からちゃんと開放されるように頑張ればいいんですから」
 それを聞いた正臣はくしゃっと顔を歪めた。
「もう、絢子ちゃんはさあ、その重荷を誰かにわけようとかってしないわけ? 俺、そんなに頼りない?」
「え?」
「絢子ちゃんは根本で、他人を信用せず、自分ひとりで何とかしようとするよね。自分は価値のない人間だと思っているから、他人の手を煩わせるのは忍びないっていう思考がありありと読み取れるよ」
「うっ……」
 図星を指されて言葉が詰まる絢子である。
 そんな絢子を見た正臣はふっと苦笑した。
「絢子ちゃん、鬼の執念を甘く見ないで欲しいな。とくに俺はね、一度手に入れようと思った獲物は必ず手に入れてきているの。俺はねえ、絢子ちゃんの心も体も全て欲しいんだ。だから今情けで情を交わすことはしたくない。絢子ちゃんが自分の全てを俺に開いてくれたそのときに、初めて喰らいたいと思っているんだよ。俺は美食家でもあるからね」
「今じゃ、駄目ですか?」
「駄目だね。絢子ちゃんはまだ全部開けていない。それどころか、深い呪縛を見つけてしまったよ。そんなんで絢子ちゃんを抱いても、絢子ちゃんの自尊心は何ら取り戻せないからね」
「私の、自尊心ですか?」
 正臣の重みを心地よく感じながら、絢子はきょとんとした。
「絢子ちゃんはさ、自尊感情がとても低いんだ。高けりゃいいってものでもないけれど、絢子ちゃんの場合は、自分のことを価値のない人間だと思っている節が大いにある。ありのままの自分を尊重し受け入れることが、今の絢子ちゃんには必要なんだよ。そうしたら、絢子ちゃんはもっともっと輝くよ。俺が保障する。絢子ちゃんの良さや、美しさを、俺がもっともっと引き出してやるから」
 絢子は今までそんなことを誰にも言われたことがなかった。
 絢子の瞳からはいつの間にかぽろぽろと涙が溢れていたのだった。
「あれ、私、何でかな? 涙が止まらなくて」
 そんな絢子を正臣はごろりと横になってさらに抱き締めた。
「泣いていいんだよ、絢子ちゃん。沢山泣いて、絢子ちゃんの心の中にある憂いを全部流してしまおうよ」
 正臣の腕の中にすっぽりと入った絢子は、そのまま彼の腕の中で泣き続けた。
 どれぐらいの時間がたっただろう。
 正臣の腕の中からは、泣き疲れてすやすやと眠る絢子の規則的な息遣いが聞こえてきたのであった。




 夢の中で、絢子は自分の過去を反芻していた。
 絢子は小さい頃からマイペースな子供であった。
 本が大好きで、空想的な話や冒険、ファンタジーなどをよく読んでは、その世界に浸っている子供であった。
 体の発育は早かったが、親はそれをよくは思ってはいないようであった。
 小学五年生のときに生理がやってきたとき、親は「少し早すぎるんじゃないのかしら」と心配したほどである。
 絢子はそんな自分を恥じながら、しかし親からの「絢子は愚図だけれど勉強は得意なのよね」という言葉に縋って勉強を続けた。
 中学生のときの成績はそれなりに良く、推薦は落ちたものの、その県内で有数の進学校に無事合格することが出来た。
 絢子は、そこで親から過度の期待をされた。
 真面目で素直な絢子は「この子は愚図だけれど、勉強だけが取り柄なのよ」と言われながらこつこつと勉強をしていたが、しかし高校での成績は平均的なものであった。
 塾にいけるほどの金はなく、勉強が自己流であったことも原因のひとつかもしれない。
 親からは当然大学も名門と呼ばれるところに受かるとばかり思われていたが、絢子は大学受験に失敗し、滑り止めの三流と言われる大学に通うこととなったのだ。
 そのころからだろうか。
 親が絢子に対してさほど関心を持たなくなったのは。
 幸い大学が遠いところにあったため、ひとり暮らしを余儀なくされた絢子は、親の干渉から離れ、自分の心を回復させながら熱心に勉強に取り組み、教員免許を取得することができた。
 そのときばかりは親も「良かったわねえ」と褒めてくれた。
 だがしかしそれだけである。
 絢子のことを尊重しているようで、親は絢子のことを見放しているかのような態度を取ったのである。
 絢子の心にぽっかりと開いた穴はそう簡単に埋められるようなものではなかった。
 就職活動のエントリーシートや、履歴書の自己PRの欄に、何を書けばいいのかわからなくなったのだ。
 教育実習のことを書いては見たものの、企業側から「ではあなたはなぜ教職につかないんですか?」と問われ、そこで答えに詰まる絢子は要領の得ない答えを出さざるを得なかった。
 結局企業の面接は全て最終面接で落とされてしまったのである。
 意気消沈した絢子が縋れるものは教職しかなかったといっていい。
 しかし、臨時講師の面接は未経験というハンデのために落とされ、塾講師のバイトでは食べていけるほど稼ぎは出ないことを、絢子は学生時代に行っていたバイト経験から学んでいた。
 そのため、選んだのが書店のアルバイトであったのだ。
 小さい頃から好きだった本に囲まれて生活したい、そんなささやかな願いをもって絢子はバイトの面接に行った。
 無事採用されたとき、その連絡があった携帯電話口で、絢子の手は安堵で震えていた。
「絢子ちゃん、そんな人生を送ってきたんだね」
 ふと周りを見るといつもの何もない白い空間であった。
 そこには私服姿の正臣が立っていた。
 彼は絢子に近づくと、迷わず彼女を抱き締めた。
 その力強い腕の中で絢子は泣いた。
「よく頑張ったね、絢子ちゃん」
「うえっ、まっ、正臣っ」
「そんないじらしくて、素直で、明るくて、純粋で素敵な絢子ちゃんが大好きだよ」
「ひっく、ひっく」
 絢子をしっかりと抱きながら、正臣は確信したように話し始めた。
「俺達はさあ、きっと出会うべくして出会ったんだよ。絢子ちゃんが、心の中で『助けて』ってSOSを発信していたから、絢子ちゃんの中に眠っていた紀朝雄が俺達に呼びかけたんだよ。壊れそうな絢子ちゃんの純粋な心を守るために、俺達四性の鬼が現れて、そして紀朝雄ではなく、絢子ちゃんのその綺麗な魂そのものに惹かれていったんだよ。少なくとも俺はそうだね。俺は絢子ちゃんが大切にしてきたその綺麗な魂が欲しい。それを手に入れるためだったら何だってするさ。俺は隠形鬼だからね、何にでもなれるんだよ。俺は絢子ちゃんを生涯、大切にしてやる。鬼の執念は恐ろしいんだよ? 一度そう決めたら絶対に折れないんだよ? ほかの三人の鬼もね、きっと絢子ちゃんのことをそう思っているはずだよ。絢子ちゃんも大変なものに好かれちゃったね」
「好きです、私、正臣が好きです」
「俺もだよ。俺も、絢子ちゃんが大好きだよ」
 そうして二人はそのまま深い口付けをしたのであった。



[27301] 愚弟 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2c25d397
Date: 2011/05/04 00:44
 光が差し込む部屋の中で、絢子は心地よいまどろみの時間を得ていた。
 目を開けずとも、自分が正臣の腕の中にいるのだということを感じている。
 昨日は夢を見ずにぐっすりと眠った。
 ふわりと覚醒したのは、正臣から発するムスク系の香りによるものだった。
 その甘い香りが自分を包んでいることに、絢子は例えようのない幸福感を抱いていた。
「ふぁ……」
 欠伸をすると、自分を包んでいた腕がぎゅっと締まるのを感じる。
 顔をあげる間もなく、額に正臣の口付けが落ちた。
「おはよう、絢子ちゃん」
 低く官能的な声が、朝のためか少しばかり掠れている。
 それがまたセクシーで、絢子は朝から頬を染めることとなったのであった。




 絢子と正臣が結ばれてから数日が経った。
 二人は家から一歩も出ずにこの数日を過ごした。
 することといったら食べるか、風呂に入るか、そして寝るかである。
 そんな二人の蜜月はある日のインターホンの音で遮られることとなる。


「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン……」


「あんっ、あうっ、正臣、あん、インターホン鳴ってます」
 その日も二人はベッドの中にいた。
 正臣は絢子の体を貪りながら、執拗に鳴るインターホンの音を無視していた。
「今、俺と絢子ちゃんがイイところだってのに、どこのどなたさんか知らないけれど、ふざけんなって話だよ」
 そう呟いてバスローブを羽織った正臣は渋々テレビドアホンへと向かった。
 しばらくして、正臣の部屋で待っていた絢子の元に正臣が足取りも荒くやってきた。
 その顔は今まで見たことがないほど忌々しい表情をしていた。
「絢子ちゃん。絢子ちゃんはこの部屋から一歩も出ないでね。ちょっと厄介な奴がやってきたから。玄関ですぐに追い返すけど、万が一怒鳴る声が聞こえても気にしないでね」
「はい」
 不安そうに見上げる絢子の額に口付けを落とすと、正臣は部屋を出た。
 しばらくしてガチャリと玄関が開く音がする。
 絢子は息を詰めてベッドの中でことの成り行きを見守っていた。
 漏れ聞こえる声が、相手は若い男性であることを教えていた。
「てめえ、何しにここへ来た」
 正臣のどすの聞いた声が響く。
「あれえ? つれないなあ兄さん。家族のことを心配しているからに決まっているじゃないか」
 その相手は軽薄そうな声である。
「家族? 笑わせんな。てめえらが俺を排除しようとしていたことは一度たりとも忘れてねえよ」
「やだなあ、昔の話じゃないか。今は上の兄さんが家を継いでいるから、本家は安泰しているし、退魔の仕事も順調だよ。今日はね、噂の彼女に会いたくてわざわざ来たんだよ」
 そう言うとその声の主はにやりと笑ったようだった。
「その様子だと、とっくに兄さんに喰われているみたいだけれどね」
「彼女のことを悪く言ったらてめえでも許さない」
「許すも許さないも、その彼女、今俺達のことを不安そうに窺っているよ」
 相手がそう言った瞬間、絢子の背筋にぞわりとした不快感が駆け抜けた。
 それはまるで視姦されているかのようで、絢子はベッドの中で思わず両肩を抱き締めた。
「てめえ、『視た』のか」
「だって、兄さんが会わせてくれそうにないから。随分と可愛らしい人なんだね。でも、出るところはちゃんと出てるね。ああいうのが兄さんの最近の趣味なの? それともあの人に篭絡されたとか? それにしてもあの人の気は美しいね。惚れ惚れしちゃうよ。さすが紀朝雄の生まれ変わりってところかな」
「帰れ、浩介。そして二度と俺達の前に姿を現すな」
 正臣の声は低く、抑えようもない怒りが篭っていた。
「ああ、やっぱり兄さんのほうが虜になったんだね。珍しいけどさもあらんて感じだよ。でもあんなに美味しそうな気を発する人、兄さんが放っておけるはずがないもんね」
「失せろ」
「ああ悪い、兄さん飄々としているくせに独占欲は人一倍強かったもんね。でももしあの人を捨てるときが来たら俺に譲ってよ。兄さんに仕込まれた女を味わうのも一興じゃない?」
「俺は失せろ、と言ったんだ」
 隣の部屋にいてもわかるほどの殺気を受け、しかし声の主は動じていない。
「はいはい、とっとと出て行きますよ。ここにはもう来ないよ。今日はご機嫌伺いに寄っただけだから」
 そうしてきびすを返そうとしたようだったが、声の主はふと思い出したように言った。
「ああそうだ、姪の里緒が栗栖学園に転入することになったから。そこの可愛い彼女によろしく伝えておいてね」
 そう言い残して、声の主は去っていったのであった。

 ガチャリと、ドアが閉まった音がする。
 正臣がふう、と長くため息をつくのを絢子は感じていた。
 彼はそのまま部屋には戻らず、リビングに足を向けたようだった。
 何やら立ち入ってはいけないような気がして、絢子は正臣が戻ってくるのを部屋でじっと待っていた。
 程なくして部屋のドアが開かれ、正臣がやってきた。
 彼の表情はいつもと変わらず、そのことに絢子はほっとした。
「ごめんね、待たせたね、絢子ちゃん」
「いいえ、あの、さっきの人は誰なのか聞いてもいいでしょうか?」
 絢子がおずおずとそう尋ねると、正臣はベッドに腰かけた。
「さっきのはね、俺の愚弟。一族とはもう縁を切ったつもりだったんだけれど、あいつがこのマンションを突き止めてやってきたらしい」
「一族、ですか」
 絢子がきょとんと首をかしげながらそう言うと、正臣は柔らかな笑みを浮かべた。
「絢子ちゃんにはちゃんと伝えるね。俺の一族はね、退魔の仕事を生業にしているんだ。陰陽師や退魔師、拝み屋、降魔術師なんてのもあるんだよ。最も今は副業でビジネスをやっていたりと、何かしら兼業していたりするんだけれどね」
「そうなんですか。この前正臣は家族から疎まれていると言っていましたけれど、それとその退魔の一族とは関係があるんでしょうか?」
「大有りだね」
 そう言って正臣は遠くを見つめるような目つきをした。
「退魔の一族、しかもその本家の次男が鬼の生まれ変わりなんてね。生まれてすぐに殺されなかったのは、ひとえに本家の当主、俺の親父が『これは鬼の実態を解明する手助けになる』と言ったからに過ぎないんだ。まあ、俺は思春期を迎えるまで見た目も内面も普通の人間とさして変わらなかったから、その頃まではあんまり役には立たなかっただろうけれどね」
 そこまで話すと、正臣は自嘲するような笑みを浮かべた。
「思春期に入ってからは大変だったよ。俺は鬼の性をコントロールする修行に明け暮れつつ、本家からは血も精も汗も、採れるものは全て採られて研究されたんだ。おかげで自分の体の仕組みを知ることが出来たけれど、あれは屈辱だったね。だから、高校に受かったときに、一族とは金銭的な援助以外の縁を切って家を飛び出したんだ。大学を卒業してからはもう一族とは一切関わっていないよ。何でいまさらこのときになって現れたんだか」
 初めて聞く正臣の詳しい過去である。
 以前正臣からちらりと家族とはうまくいっていないというような話を聞いてはいたが、このような事情があったとは知らなかった絢子であった。
「正臣、ベッドの中に来てください」
 絢子は手を伸ばして正臣の腕を掴んだ。
「ん? 誘ってるの?」
 そう言いながら正臣は絢子に言われた通りにベッドの中に入ってきた。
 横たわった正臣に、絢子はそっと抱きついた。
「どうしたの絢子ちゃん、積極的だねえ」
 茶化す正臣であるが、しかし絢子は体をずらして正臣の頭をきゅっと抱き締めた。
「過去のことを話してくれたとき、正臣が泣いている気がしたんです」
 絢子は正臣の頭を抱き締めながら、その頭をゆっくりと撫でていった。
「ああ、それ、落ち着くよ絢子ちゃん。それに絢子ちゃんの胸に挟まれて気持ちがいいね」
 正臣はうっとりと目を閉じ、絢子の体に手を回した。
「絢子ちゃんの匂いも落ち着く。苛立っていた心がすうっと収まってゆくよ」
「良かったです。正臣の役に立てて」
 そう言いながら絢子は正臣の頭上に口付けを落としてゆく。
「何だか今日の絢子ちゃんは聖母みたいだよ」
「そんな大層なものではありませんけれど、正臣が喜んでくれるのであれば、何だってします」
 絢子のその言葉を聞いた正臣は、絢子をぎゅっと抱き締めた。
「あんまり誘うようなことを言うとね、また猛っちゃうよ?」
「いいんです、私、正臣が気持ちよくなってくれるのが嬉しいんです」
 正臣はベッドの中で器用に着ていたバスローブを脱いだ。
「絢子を肌で感じたい」
 そう言うと正臣は絢子を抱き締めたままごろりと仰向けになった。
「絢子ちゃんの重みがとっても心地いいよ。このままくっついてひとつになっちゃいたいね」
「正臣の肌もとっても気持ちがいいです」
 絢子は正臣の首筋で頬ずりをした。
「くすぐったいよ、絢子ちゃん。絢子ちゃんがそう積極的だとね、俺もその気になるけど、いいの?」
「なって、ください」
 絢子は恥らいながらも言葉を継いだ。
「もっともっと、いっぱい、沢山、愛してください。私は正臣のものなんですから」
 その言葉を聞いた正臣は絢子の体をかき抱いた。
「絢子、あんたは俺にとっての最高の女だよ。あと少しでこの生活が終わるのだと思うと残念でしょうがないよ。絢子、仕事なんか辞めて、俺と一緒になろうよ。籍を入れよう。ずっと一緒に暮らそう。朝も夜も抱き合おうよ」
 そう言いながら絢子の頬に、額に、首筋に、口付けを施してゆく。
「正臣は、鬼ですけれど、鬼じゃありません。正臣は、正臣なんです。私はそんなあなたに惹かれました。ずっと一緒にいたいです。でも、仕事は辞めません。じゃないと私、正臣に溺れてしまいます」
 精一杯の絢子の言葉である。
「溺れているのは俺も同じだよ。俺はね、絢子がいてくれさえしたらそれでいいんだ。あんたを生涯幸せにしてやる。俺と幸せになる覚悟はある?」
 絢子の顔を覗き込んでいう正臣はどこか切なげな表情をしていた。
「はい、私、正臣のことが大好きですから」
 絢子がそう言うと、正臣は絢子に気を送る深い口付けを施したのであった。



[27301] 蔭原里緒
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2c25d397
Date: 2011/05/04 00:45
 今日は栗栖学園の始業式である。
 絢子はピシッとしたグレーのストライプの入ったスーツに着替えて、身だしなみもきちんと整えた。
 玄関を出るときに正臣がやってきて、絢子の姿を上から下まで検分した。
「ん、よく似合ってるよ、絢子ちゃん」
「ありがとうございます。行ってきます、正臣」
 正臣は絢子に近づくと、彼女の顎をくいと指であげて、その唇に口付けを落とした。
 唇を啄ばむようなそれは、すぐに終わるかと思いきや、だんだんと官能の色を帯びてきた。
「あんっ! 正臣、もう仕事に、行かなくちゃ」
 口付けの合間に途切れ途切れに訴える絢子である。
「まだ時間あるでしょ? 今までずっと一緒だったから、絢子ちゃんと離れるのがこんなに辛いものだとは思わなかったよ」
 低く官能的な声でそう呟いた正臣は、さらに二、三度絢子の唇を啄ばむと、やっと彼女を解放した。
「俺、栗栖学園の事務員にでもなろうかな? そうしたら絢子ちゃんともっと一緒にいられるでしょ?」
 しかしそれを聞いた絢子は少しばかり頬を染めながら眉をしかめた。
「そんな公私混同はやめてください! それに正臣がいたら気になってしまって、はかどる仕事もはかどりません」
 絢子のその言葉を聞いた正臣は面白そうににやりと笑った。
「そうだね、やっぱり止めた。近くにいるのに手が出せないほうがもっと辛いからね」
「もう、正臣ったら」
「行ってらっしゃい、俺の姫君」
 そう言って絢子の頬に口付けを落とすと、正臣は絢子を今度はちゃんと送り出したのであった。




「絢子さん、新年明けましておめでとう」
「わあ! 妙子さん! 明けましておめでとうございます!」
 準備室で絢子は久しぶりに妙子と対面した。
 妙子は今日もひっつめの髪と特徴的な黒縁眼鏡をかけ、長身細身の体型をスーツで決めている。
 その彼女は笑みを浮かべながら単刀直入に言った。
「絢子さん、綺麗になったわね。さては同居人の正臣さんと何かあったわね?」
「えっ? ええっ!?」
 目を白黒させながらわたわたとする絢子を見た妙子はほほほと笑った。
「あー、その反応。やっぱり絢子さんは面白いわねえ。そして素直ねえ」
「妙子さんのいけず! 新年早々からかわないでください!」
 顔を真っ赤にして涙目になる絢子を見た妙子はふわりと微笑んだ。
「でも、綺麗になったって言うのは本当よ。何ていうか、内側から輝いている感じね」
「褒めて頂けて嬉しいですけれど、何だか恥ずかしいです」
 両頬を手で押さえ、しょぼんと下を向く絢子であった。


 始業式は滞りなく終わり、生徒達はそれぞれ自分の教室で担任が来るまでの時間を過ごしていた。
 小川優美は、自分の席につきながら文庫本を静かに読んでいた。
 その姿はこの美少女に似つかわしいものであった。
 ぱつんと切りそろえられた前髪、背中に流れる手入れの行き届いた黒髪はそれだけで彼女の魅力を表していた。
 彼女の様子をちらちらと窺う数人の男子は、優美についてこう評価していた。
「はあ、俺、優美ちゃんと同じクラスで本当に良かった」
「優美ちゃんは薄幸の美少女って感じがいいんだよな」
「あの美乳とすらっとした手足が堪らないよね」
「優美様とお呼びしたくなるぐらいの気品が溢れ出ているにもかかわらず、それをひけらかさないのが彼女だよな」
「その孤高の優美様は、図書室の事務の絢子さんのことが好きらしいんだって」
「おお、年上のお姉さんと薄幸の美少女の淡い恋……萌える」
「や、やっぱりシチュエーションは大事だよな! 誰もいない図書室でこうくんずほぐれつ……」
 一部萌えを熱く語り始めた生徒の頭を両側からパコ-ンと平手で叩き、その男子達は改めて優美を見た。
「でも、優美ちゃんは変わったよな。以前に比べると険が取れたって言うか、優しくなった気がする」
「これも絢子さんのおかげかも知れないな」
「だ、だから俺達の知らないところで二人は愛を交し合って……」
 またも華麗に頭を叩かれたその生徒はしかし、めげずにぐいっと身を乗り出した。
「話し変わるけどさあ、俺、転校生の話知ってるよ」
 それを聞いた周囲の男子が色めき立つ。
「何っ!? 男か? 女か?」
「女だってさ」
「うおおおお!!」
 両の手でガッツポーズを決める男子達である。
「で、それでその子はどのクラスに入るんだよ?」
「ふふふ……なぜこの教室に机と椅子が余分に配置されていると思う?」
 その生徒が溜めて溜めて、いざ話そうとした瞬間、無常にもチャイムが鳴った。
「あー席につかなくちゃ。てか今の振りで大体わかった」
「えっ、ちょっ、待って」
 ぞろぞろとその生徒から離れるほかの生徒達である。
 すぐにガラリとドアが開き、担任が教室に入ってきた。
「起立」
「礼」
「着席」
 生徒達が席に着くと、担任はぐるりと彼らを見渡した。
「皆、新年明けましておめでとう。ということで、今回、うちのクラスに転入生を迎え入れることとなりました。入りなさい」
 ガラガラと引き戸が開く。
 生徒達は固唾を呑んで見守った。

 現れたのは、背筋をピンと伸ばし、セーラー服を着て颯爽と脚を繰り出す、背の高いショートカットの美少女であった。

「蔭原さん、自己紹介をお願いします」

 教師に紹介されたその美少女はすっと教室全体に目をやった。

「蔭原里緒です。あたしはここに来るまで親の都合で日本中をあちこち転々としてきました。多分ここもそんなに長くはいないと思います。短い間ですけれど、よろしくお願いします」
 そう言って、蔭原里緒はすっと頭を下げた。
 そのボーイッシュな美少女は活発そうな印象を与えた。
 きりっとした目つきは見るものを射るようである。
 スカートから覗く脚はすらっとしており、陸上選手のようだ。
「蔭原さんはご両親のお仕事の都合でこの学園に来ることとなりました。皆、仲良くするように。蔭原さんはあそこの空いている席に座ってください」
「はい」
 そう言って里緒はつかつかと教室を縦断した。
 ほかの生徒は自然と視線を里緒に送る。
 不思議と引き付けられるような魅力が里緒にはあった。
 途中、優美の席の近くを通るとき、二人の視線がちらりと交錯した。
 だがそれはわずかな時間のことで、里緒は空いている席にすとんと座り、鞄を机の横のフックにかけた。
「それではHRを始める」
 担任の声で場の視線は里緒から担任へと戻ったのであった。


「ねえねえ! 蔭原さん、ここに来る以前はどこにいらしたの?」
 休み時間になると、女子達からの早速の質問攻めである。
 ボーイッシュで背も高い里緒は、美少女でありながら登場した当初から女子の視線を鷲掴みしていた。
 まるで宝塚の男役を見るような目つきで女子達が群がってくる。
 本人もそれをわかっているのか、時々流すような視線で女子を見る。
 相手は同じ女だとわかってはいても、視線に当てられてどきっとする女子達である。
「この前は神奈川、その前は青森、あとは三重や香川、山口や鹿児島にいたこともあるよ」
「へえー! 本当に各地を転々としているのね。差し支えなければご両親はどんなお仕事をなさっているの?」
「旅行関係の仕事で、各地を飛び回っているんだ」
 人の視線や、そんな群がる人達を捌くのは慣れたものなのか、にこりと笑みを浮かべると、里緒は視線をある場所に向けた。
「あたしちょっとあそこの席に座ってる人に興味があるんだ。あの子は誰?」
「ああ、彼女ね。小川優美さんって言うの。このクラスの中では割合落ち着いている人よ」
「へえ。その子と喋れない?」
「いいわよ! 蔭原さんがそう言うのなら」
 女子達はもうすっかり里緒の虜である。
「優美さん、ちょっとこちらに来てもらってもいいかしら?」
 しばらく交渉したのち、優美が席を立ち楚々とした態度で里緒の前にやってくる。
 片や女子を侍らせているボーイッシュな美少女、片や淑やかな風情を漂わせる孤高の美少女である。
 その二人の対峙は、何やら只事ではない予感を周囲に持たせた。
 優美は一人で女子の輪の中に入った。
 これでは里緒がセーラー服を着ていなかったらどちらが新参者なのかわからないくらいだ。
「わたくしに何か用ですの?」
 優美が始めに口を開いた。
「ええ。小川さん、優美ちゃんって呼んでもいいかな?」
「構いませんわ」
「あたしさあ、優美ちゃんにこの学校のことをいろいろと教えてもらいたくなっちゃったんだよね。それ、頼めるかなあ?」
「わたくしに頼まずとも、そこにいらっしゃる女子達に頼めばよろしいのではありませんの?」
 表情を崩さずに、優美は断りの言を入れる。
 周囲の女子達はその二人のやり取りをじっと見つめていた。
 その言葉に全く動じた様子もなく、里緒は言葉を継ぐ。
「何ていうの? 一目惚れってやつ? あたしの隣に立ってもらうのはあんたが良いって思っちゃったんだよね」
 そう言って里緒はにやりと笑った。
「きゃあ!」と周囲の女子が興奮した悲鳴を上げる。
「惚れた弱みでさ、無理強いはしないけれど、あたしはあんたがいいな」
「優美さん、是非承諾してあげるべきですわ!」
「私達のことならお気になさらず! 眼福……じゃなくてせっかく乞われているのですから、学園のことを知ってもらうためにもちょうどよい機会なんじゃございませんの?」
 周囲の女子達が里緒の援護をする。
「……わかりましたわ。いつまでいらっしゃるのかはわかりませんけれど、出来ることはして差し上げますわ」
 優美がそう言うと、里緒は破願した。
「良かった! ありがとう優美ちゃん!」
 すたっと席を立った里緒はそのまま優美にぎゅっと抱きついた。
 周囲の生徒達がざわめきだす。
「きゃあ! なんて美味しい絵なのかしら!」
「うおおお! これが噂の百合! 俺生で初めて見た!」
「蔭原さんはそんじょそこらの男よりも優美様の隣に立つのが似合っている!」
 その、生徒達がざわめいている中で。
 里緒が優美の耳元でぼそりと呟いた。


「あんた、外法使いだね?」


「あなたは、退魔師ね?」


 お互いがお互いの本性を見破った瞬間であった。




 今日の日替わりA定食のメインは若鶏の唐揚げだった。
 絢子と妙子はいつもの席に座ってそれら定食を口に入れていた。

 すると、ざわざわとした熱気が一角から近づいてきた。
「あれまあ、今日はまた一段と騒がしいわね」
 唐揚げをぱくりと頬張りながら妙子が言う。
 絢子の両隣に座っている悠真と伊織は我関せずと言った体で昼食を食べている。
「絢子お姉さま! お会いしたかったですわ!」
 絢子の後ろから声がかかる。
 振り向くと、そこにはセーラー服を着た背の高いボーイッシュな美少女を連れた優美が立っていたのであった。
 どうやら熱気はこの二人の取り巻きによるものであると、絢子と妙子は察した。
「優美ちゃん、明けましておめでとう! あの、そちらの女の子は?」
 絢子が首を傾げると、優美はその美少女を紹介した。
「こちらは今日転入してきた蔭原里緒さんと言いますの。これからわたくし、里緒さんと行動を共にすることになったのですけれど、今後もまたお昼ご一緒してもよろしいですかしら?」
「ええ! どうぞどうぞ!」
 絢子は笑顔で二人を受け入れた。
 一旦その場を引いた二人であったが、程なくしてトレーを持ってやってきた。
 そして妙子を挟んで両隣に座ると、二人も昼食を食べ始めたのである。
「あの、でも『蔭原』って……」
 絢子が里緒を見る。
 彼女は絢子をまじまじと見つめると、にいと笑った。
「絢子お姉さん、初めまして。あたしは蔭原里緒。正臣おじさんの姪です。お姉さんのことはこないだ浩介おじさんからいろいろと聞いて知っていますよ」
 しかし絢子はその笑顔にどこかしら不気味さを感じて、背筋がぞわりと粟立った。
「ああ、そんなに警戒しなくっても。でもお姉さんもあたしのタイプだから隙あらば掻っ攫っちゃうかもしれませんね」
 そう言った里緒を優美がきっと睨んだ。
「お姉さまに手を出そうなど、十年早いですわ。お姉さまはわたくしの大切な方なのです。おいたは許しませんわよ」
 それを聞いた里緒はホールドアップした。
「はいはい、わかりましたよあたしの姫君」
「何だか、蔭原さんって正臣に似てるわね」
 絢子がそう呟くと、その声を聞きつけた里緒がにこりと笑った。
「そうですか? あ、あたしのことは里緒で良いですよ。将来あたしのおばさんになるかもしれない人だもの。早いうちから仲良くなっていたほうが良いですよね」
「どういうことかしら?」
「もしかしたらお姉さんが浩介おじさんと一緒になる可能性もあるってことですよ」
「え?」
 正臣ではなく、あの浩介と?
「正臣おじさんのことは知っていますよね?」
 公衆の面前ではあるものの、何を聞かれているのか察した絢子はこくりと頷いた。
「あたし達の仕事のことも聞いていますよね?」
「ええ」
「いつか、そう遠くない内にお姉さんは正臣おじさんと永遠に別れることになるんじゃないかと思います」
「え……」
「せいぜい、今のうちに楽しんでおくと良いですよ」
 そう言うと、得体の知れない笑みを浮かべて里緒は何事もなかったかのように唐揚げを口にしたのであった。


 放課後である。
 図書室は絢子の妹(候補)達で溢れかえっていた。

「「「絢子お姉さま! 妙子女史! 約束のお土産です!」」」

 そう言って差し出されたのは免税店で見繕ってきたのであろう、趣味の良い小ぶりのアクセサリーや、現地で買ったのであろう色とりどりのお土産であった。
「わあ! 皆ありがとう! 私からは山梨に行ったお土産のクッキーなのだけれど、こんなものでごめんね」
 絢子が申し訳なさそうにクッキーを差し出すと、妹達はきゃっきゃとはしゃいだ。
「いいえ! お姉さまが私達のことをちゃんと覚えておいてくださっただけでも嬉しいですわ!」
「ええ、こういう素朴なもの、私達はあんまり買わないですもの。だから逆に新鮮ですわ」
 クッキーの対価としては幾分不相応ではないかしらと思う絢子であったが、妹達の嬉しそうな表情にほっと心を和ませるのであった。

 妹達が図書室を出て行き、またいつも通りの静かな図書室に戻る。
 カウンターで作業をしていると、ふっと気配を感じた。
 顔を上げると、そこには隠岐伊織が立っていたのである。
「今、暇?」
 少しハスキーで色気のある声。
 長めの前髪から覗く気だるげな瞳は絢子をじっと見つめていた。
「ええ、生徒もいないし、暇と言えば暇だけれど」
 こうやって伊織と面と向かって話すのも久々である。
「あんた、鬼の女になったんだな。残念。俺の女にする予定だったのに。体は大丈夫なのか?」
「どういうこと?」
「鬼の気に当てられたりしなかった? それとももう孕んだ?」
「彼はそんなことはしないわ」
 絢子が少しばかりむっとして言うと、伊織は珍しくふっと微笑んだようだった。
「驚いたよ。あんたが綺麗になっていたから。鬼の気を身に受けると女はより美しくなるって言うのは本当だったんだな」
「お世辞はいらないわ」
「世辞じゃない。それにあんたは変わったよ。前は何かに囚われていたようだったけれど、今は何だかすっきりとしている。あんたのそれは鬼の影響なのかな?」
 そう言うと伊織は目線を絢子の唇へと持っていった。
「キスしたくなる唇」
 伊織はすっと体を屈めて絢子の唇に口付けを落とした。
 身を引こうとした絢子の頬を、伊織は長く綺麗な指でつつっと触れた。
「もう。油断も隙もないんだから。でも、隠岐君はだるそうにしているけれど、見るものはちゃんと見えているのね」
「俺を何だと思っているの? 甲賀五十三家の二位だよ? でも力と俺のスタンスとは関係ないけどね」
「うーん、確かにしゃきっとしたら隠岐君じゃなくなる感じがして複雑だわ」
 絢子はしゃきしゃきと機敏に動く伊織の姿を想像してぷっと吹き出した。
「やっぱりあんたは変わったな。前は俺の前でそんな笑みを浮かべなかった。もしかして、余裕?」
「さあ、どうかしら」
 首を傾げる絢子であるが、悪い気はしなかった。
 そんな絢子を見た伊織が口を開いた。
「葛城秀斎が退魔の一族を雇った。秀斎は大規模な鬼狩りをする予定だそうだ」
 絢子はきょとんと目を見開くと、伊織の気だるげな瞳をじっと見つめた。
「いつも思うのだけれど、隠岐君はそういう重大な情報をさらりと私なんかに流してしまってもいいの?」
「俺は奴らとは距離を置いているから。そもそも現筆頭が葛城秀斎に入れ込んでいるだけのこと、俺には関係ないね。筆頭が潰れてくれれば、俺が次の筆頭になるだけの話だから。誰かにやってもらえればそれだけ楽できるでしょう?」
「隠岐君はほんっとうに怠惰なのね」
「策士と呼んでくれないかな」
 しかしである。
 今聞いた話は只事ではないものだった。
「もしかして退魔の一族って……」
「蔭原家だよ。あんたの愛しの男の一族だ。また、葛城家と藤原家の対立も始まる。歴史は繰り返すんだ」
「鬼狩り……」
 絢子は黙った。
 身の内で、何かが警鐘を鳴らしていた。



[27301] 二つの夜 1 ●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/05 20:07
 夕暮れ時。
 栗栖学園の生徒達が帰路についているころ。
 通学路の外れにある、奥まったとある公園の一角に人影があった。
 その人物は、すらりと背が高く、紺色のセーラー服から覗く長い脚で地面をざっと踏みしめていた。

 周囲にはその人物以外の人影はない。

 と、その公園にもう一人の人物が現れた。
 こちらはぱつんと切りそろえられた前髪と、背中に垂れる手入れの行き届いた黒髪をしゃらりと揺らしながら、セーラー服の人物に対峙した。

「やあ、来てくれて嬉しいよ」
 セーラー服の人物、蔭原里緒が口を開いた。
「やはりデートのお誘いではありませんのね」
 美しい黒髪の人物、小川優美がそう返す。


 この二人が公園にて逢引をするに至ったのは、今日の帰り際、里緒から優美に声をかけたからである。
「優美ちゃん、今日、空いてる?」
「どうなさったの?」
「今日さあ、優美ちゃんとデートしたいなあと思ってね。通学路の外れにある公園で待ってるから、来てくれたら嬉しいんだけどな」
「それは学園を案内する役目の延長と言うことかしら」
「そう取ってもらっても構わないよ。あたしは優美ちゃんと二人だけでゆっくりお話がしたいんだ。じゃ、待ってるから」
 そういい残して里緒は一足先に教室を出たのであった。


 里緒は俊敏な獣のような身のこなしで優美に近づいた。
「それにしても今日は驚いたよ。転校した矢先に、あんたみたいな人と巡り合うなんてね」
「わたくしも驚きましたわ。あなたのような人物がやってきたことに」
 二メートルほどの距離を置いて、二人は向かい合った。
「あたしが何であんたを呼んだか、大体察しがついていると思うけれど」
「ええ。今日のあなたの白々しい演技に、わたくし吐き気を催すところでしたわ」
「言うねえ。でも、あんたに一目惚れしたってのは本当だよ」
「『獲物』を見つけた、と素直におっしゃいなさい」
 里緒の言葉をばっさりと切り捨てる優美である。
「ああ、あんたのそういう気位が高そうな物言い、ぞくぞくするねえ」
「変態に好かれても困りますわ」
「あんたも相当な変態だと思うけれどね。お姉さんのこと、抱きたいんでしょう?」
「あなたには関係ありませんわ」
 にべもない返しにも、里緒は一向にめげない。
「あたしが手伝ってやろうか。お姉さん、いずれ一人になっちゃうから。あたし達でお姉さんを慰めるのも良いんじゃない?」
「誰かと共有するなど、お姉さまに失礼ですわ」
「じゃあ、あたしはお姉さんを抱いてるあんたを抱こうか。それもまた一興」
 にやりと笑う里緒を見た優美はすっと目を細めた。
「戯言はこれぐらいになさったら? 今日はそんな無粋な話をしに来たのではないのでしょう?」
 あくまで冷静な優美を見た里緒はふっと肩を竦めた。
「はいはい、本題に行きますよ。あたしはさ、あんたみたいな外法使いを野放しにしておくわけにはいかないんだよね。多分あんたはあたしの仕事の邪魔になる。排除させてもらうよ」
「できるものなら」
 そういうとざっと二人は距離をとった。
「ここにはあたしが簡易結界を張ったから人目を気にせずに思う存分暴れることができるよ」
「配慮ご苦労様ですわ。仕事が早い人は嫌いじゃないわ」
「おお、優美ちゃんに気に入られて嬉しいよ」
 そう言うと里緒は腰に片手をやった。
 右手にぼうっと光る玉を浮かせて、いつでも臨戦態勢に入れるようにしている。
「出でよ念土!」
 優美が拍手を打つ。
 すると地面がぼこぼこと波打ち、奇怪な声を上げながら一体の念土が現れた。
「可愛い顔してんのに、使う式はエグいんだねえ」
 ひゅうと口笛を吹いた里緒は右手に現れた光る玉をすうっと縦に伸ばした。
 光の中から現れたのは里緒の背丈ほどもある槍である。
「あなた槍使いだったのですのね。この現代に不便じゃありませんこと?」
「いいや、そうでもないよ」
 言うと、里緒はすっと槍を構えた。

 念土対槍使い。

 その戦いが今始まった。
「グギエエエ!」
 念土が叫んで里緒に突進していった。
 里緒は槍を構えすっと体を低くした。
 そのまま念土の両足をなぎ払う。
「ギエエ!!」
 念土が短い悲鳴を上げてどうと倒れた。

「はっ!」

 里緒が念土の胴体めがけて槍を真上から突き刺す。
 それで勝負は呆気なく決したかに見えた。

「何っ!?」

 里緒は自分の足が何かによって拘束されているのを感じた。
 はっと下を見ると、切り落とした念土の足が手となり、里緒の足をがっちりとつかんでいたのだ。
 里緒の下にいた念土はぐぐぐと槍ごと自身の体を持ち上げ始めた。
「はあああ!」
 ここからは念土と里緒の力勝負である。
 メキメキと念土の体が歪に鳴る。
 槍を体内に入れたまま、念土が少しずつ立ち上がってくる。
 そうしてそのまま念土は里緒の体を抱きしめた。
 里緒は槍を念土の体内でくるりと返すと、そのまま下へ向かって一気に振り下ろした。
 すぶぶぶと念土の体が下半身から真っ二つに裂けてゆく。
 しかし裂けた体は手となり、里緒の下半身をぎゅっと抱きしめた。
 体全体を拘束された里緒の姿を見た優美は片眉を上げた。
「だから槍は不便ではないかと聞いたのですよ?」
「いいや、それがそうでもないんだな」
 言うと、里緒は気合を込めた。

「はあっ!!」

 その瞬間、槍がぼうっと光り、蛇のようにしなった。
 それは念土の裂けた部分から体内へと侵入した。

「呪縛!」

 里緒がそう言うと、念土の動きがぴたりと止まった。
 次の瞬間、だらりと念土の四本の腕が地面に垂れた。
「行け」
 里緒の掛け声に、体内に槍を入れた念土が優美に向かって突進してきた。
「はあっ!」
 優美がまた拍手を打つ。
 すると目の前に新たな念土が生まれ、乗っ取られた念土の突進を阻んだ。
「あたしの槍はね、アンテナの役目も果たすんだ」
 そう言うと里緒は優美と同じようにパンと拍手を打った。
 里緒の足を拘束していた念土の手はすでになく、里緒は完全に自由となっている。
「同じ属性同士、戦うのは純粋に力勝負だね。あんたとあたし、どっちが強いか決めようじゃない」
 バキバキとがっぷり四つに組んだ念土の体が悲鳴を上げる。
 優美も里緒もお互い一歩も引かない。
 念土を中心として気と気がぶつかり合う。
 そこから発生する風に煽られ、二人の髪がびゅうびゅうと舞う。

「「はああああ!!」」

 お互いが裂帛の気合を込めて念土を押し合う。
 先に崩れてきたのは里緒の念土であった。
 体にひびが入り、ぼろぼろと崩れてゆく。
「ちっ、やっぱり傷があると壊れるのも早いな」
 そう呟くと里緒はさらに気を送った。
 里緒からの気に耐えられなくなった念土が木っ端微塵に砕け散る。
 その勢いで優美の念土もばりんと砕け散った。
「この程度の念土ではこれが限界ですのね」
 そう言うと優美はさらに拍手を打とうとした。
 その時である。


「お嬢さん方、お戯れはそこまでにしておきなさい」


 声がしたと思ったら、二人の気が何かに吸い取られているような気配がした。
 優美はすばやく気を閉じ、里緒もまたそのようにした。
「ほう、いい反応ですね」
 そう言って暗がりから現れたのは、黒いスーツを着た壮年の男性であった。
「治郎様、どうしてこのようなところに?」
 優美が思わずその男性に声をかける。
 治郎。
 彼こそは葛城秀斎の一の僕であった。
「治郎さん、なんであたしの戦いを邪魔するのさ。鬼を滅するために退魔の一族を雇ったんじゃなかったの?」
 里緒が憮然とした表情で聞く。
 治郎はすっと里緒を見やると、静かに口を開いた。
「そうです。鬼を滅するためです。ですが里緒さん、この方は鬼ではありませんよ? 曲がりなりにも甲賀五十三家の一員です。いくら外法使いであるからと言っても粗相のないように。猛るのも結構ですが、標的を見誤らないようにして欲しいものですね」
 その言い方は幾分双方に侮蔑を含んでいるように聞こえなくもなかったが、優美と里緒は無言でお互いに引いた。
「今日のお遊びはお咎めなしといたしましょう。ですが、次に粗相を起こすのであれば容赦なく潰させていただきます」
「ちっ、わかったよ」
「心得ましたわ。それにしても、鬼を滅するとはどういうことですの?」
 優美が可愛らしく首を傾げる。
「ああ、優美さんはまだご存じなかったですね。我が主はこの関東の鬼を一掃すべく大規模な鬼狩りを行うことにしたのです。この退魔の一族を雇ったのもそのためです」
「そうでしたの。鬼狩り、ね」
 優美はそれだけ言うと口を噤んだ。
「優美ちゃんは、力があるにもかかわらず所詮末端なんだねえ。そういう情報も伝わってこないとは」
 半ば哀れむように里緒が言う。
 その侮辱にも優美は顔色を変えなかった。
「あなたこそ。学園にわたくしがいるという情報を知らされていなかったのではありませんの?」
「別に、知っていようがいまいが私には関係のなかった話だからね。でも連絡係の浩介おじさんって人がさあ、ちょっと意地悪なんだよ。あれはあたしが困るのを知っててわざと伝えなかったんだね」
「それはあなたも所詮末端であると言うだけのことではありませんの?」
「うわあ、きっついねえ優美ちゃん。でもその言い方、ぞくぞくしちゃうよ」
 にやりと笑った里緒である。
 そんな二人を見ていた治郎はふうとひとつため息をつくと、懐から一枚の札を出した。
「この札には低級の鬼を呼ぶ呪が込められています。今日の粗相のついでに、雑魚どもをいくらか片付けておきなさい」
 そう言って札を地面に置くや否や、治郎は煙のように掻き消えたのであった。
「ったく、治郎さんから宿題出されちゃったよ」
「仕様がありませんわね。わたくしとしてはとばっちりもいいところなのですけれど」

 おおおん、おおおん。

 早くも、遠くから怪しげな鳴き声が聞こえて来る。
 二人は迫りくる鬼を迎え撃つため、自然と背中合わせになった。
「まさか早くも優美ちゃんと共闘するとはね」
「あら、わたくし一緒に戦うとは一言も言っていませんわよ?」
「何それ? もしかして優美ちゃん、あたしを見捨てる気?」
 しかし優美は首を振った。
「いいえ。この近くには、そう遠くないところにお姉さまが住んでいるのです。万が一お姉さまに危害が加えられるようなことがあっては立つ瀬がありませんわ。ここで食い止めます」
「優美ちゃん……泣けるねえ。あんた本当にお姉さんのことが好きなんだねえ。そういう一途なところ、ますます気に入っちゃったね」
「あなたに気に入られても一片の得にもなりませんわ」
 そう言っている間にも、不穏な気配は近づいてくる。
 片や槍を構え、片や念土を出現させ、二人は迫る気配を迎え撃った。






「正臣、これはどこに置けばいいんですか?」
 ワインを片手に持った絢子がカウンターの中にいる正臣に聞く。
「ん、それはまだ冷蔵庫の中でいいよ。あとでワインクーラー出しておくから」
「ふふ、颯太さんの誕生日を皆で祝うの、楽しみですね」
 絢子は楽しそうに言った。
「颯太さん、急な誘いだったのに『深夜でも良いかな?』って言ってくれた時には思わず顔がにやけちゃいました。直人さんも、それに悠真君ももうすぐ来るとのことですし、楽しみです。今日は皆が家に泊まって、次の日は家から出勤・通学するんですよね。誕生日自体はもう過ぎてしまいましたけれど、颯太さんが喜んでくれて良かったです」
「ああ。それにしても、絢子ちゃんは『颯太お兄様』が来るのがそんなに嬉しい?」
 にこりと笑いながら正臣は絢子を大事そうに見やる。
 絢子は頬を染めながら正臣を見た。
「はい。私達のこと、颯太さんに一番に知ってもらいたくて。だから今日悠真君に会っても何も言わずに我慢しちゃいました」
「あー、悠真は俺達のことを知ったら場所に関係なくまずは盛大に叫ぶだろうからねえ。あいつの悔しそうな顔が目に浮かぶようだよ。このマンションが防音仕様で本当に良かったよ」
 そう言うと正臣はくくっと笑った。
「悠真君と正臣は何だか年の離れたライバルって感じですものね。直人さんとは悪友って感じですけれど」
「おお、よくわかってるじゃない。あ、でも今だから言うけどさ、絢子ちゃんが直人の気を中和したのを知ったとき、俺結構嫉妬してたんだよ?」
「そうだったんですか? 全然そんな風には見えませんでしたけれど」
 目を丸くする絢子を見た正臣は、彼女の傍に寄り、自分の腕の中にふわりと抱き込んだ。
「そこは忍耐とコントロールのなせる業よ。俺が大切に思っているのは後にも先にも絢子ちゃんだけだから」
「はい……」
 正臣が絢子の額に口付けを落とす。
 絢子は自分の体を正臣にそっと預けた。
「ねえ、絢子ちゃん。やっぱり皆に来てもらうの明日にしようか?」
「え? どうしてですか?」
「俺ね、今すぐ絢子ちゃんを喰らいたくなっちゃった」
「えっ!? だ、駄目ですよ! 今日は颯太さんの誕生日を祝うんですから」
 ぎゅーっと腕を突っ張り正臣の腕の中から出ようとする絢子であるが、案の定、正臣の腕の拘束は緩まない。
 諦めてぐたっと自分の胸板に頭を預けた絢子を見た正臣は、低く官能的な声で呟いた。
「俺さ、自分が結構心の狭い男だったんだなあって驚いているところなんだよ。本当は絢子ちゃんを誰にも見せたくないし、誰にも触らせたくない。俺だけのものにしていたいんだ」
「正臣……」
「まあ、けじめだから、三人の鬼には一応きちんと報告はするけれどね。ったく、三十三にもなってこんなにままならない感情があるとは思わなかったね」
「正臣でもてこずることがあるんですね」
 顔を上げた絢子に、正臣はちゅっと口付けをした。
「ああ。この腕の中にいる存在にね、俺はてこずらされちゃっているんだよ」
「私、そんなにじゃじゃ馬ですか?」
 不安そうに聞く絢子であるが、正臣はふっと笑みを浮かべると絢子を抱きかかえてソファーへと座った。
 自分の膝の上に絢子を乗せ、自身の胸に顔を埋めさせる。
「絢子はそんなんじゃないよ。絢子はねえ、俺を翻弄する、聖母で魔性の女だよ。俺がいかれちゃうのはいつだって絢子そのものに対してなんだよ」
 正臣の心臓の音を心地よく聞いていた絢子であるが、正臣の自分を触る手つきに官能的なものを感じ、思わずびくりと反応する。
「あの、今日は駄目です。皆が来ますし、私も連日連夜でその……」
「絢子ちゃんには俺の気を与えているから疲れないはずだけれど?」
「気持ちの問題です! だって、正臣に抱かれるたび、どんどん溺れていく自分がいるんです。このままじゃ、本当にままならなくなっちゃうのは私のほうですから」
「溺れてよ、俺に」
 低く官能的な声が、耳に直接入ってくる。
「もっともっと溺れて、どろどろに溶けて、ひとつになってしまおうよ。鬼が人を喰らいたいって気持ちもね、そういう意味があるんだよ。愛しいものを喰らいたいのは、ひとつになりたいからなんだよ。俺は絢子と体をつなげたい。今すぐにでもね」
「し、心臓に悪いです!」
「たくさんどきどきして欲しいな。もっと俺を意識してよ。絢子ちゃんの心にも、体にも、俺を沢山刻みたいんだ」
「もういっぱい刻まれてます!」
「まだだよ、こんなんじゃまだ足りない。ねえ、俺が絢子ちゃんに手加減してるってこと知ってて言っているの? 腰が立たなくなるまで、いや、深い眠りから覚めなくなるほどに愛してあげても良いんだよ?」
「あぅ……」
 たじたじになる絢子であったが、ちょうど良いときにテレビドアホンが鳴った。
「あっ! お客さんが来ました! 悠真君かもしれません! ドアホンに出ましょう!」
 そう言って正臣の腕の中から逃れる絢子である。
 今度は拘束されなかったと思ってほっとしながらテレビドアホンを見る。
 そこに写っていたのは、にこにこと笑顔を浮かべる悠真と、怜悧な表情の直人だった。
「二人とも、いらっしゃい!」
 迎え入れる絢子である。
 程なくして玄関に現れた二人は、絢子の顔を見るなり、こう言った。

「絢子さん、この正臣の濃い気は何だ?」
「絢子、今日会った時も思ったけれど、もしかして正臣に喰われた?」

「えっ!?」
 ぎくりとした絢子はくるりときびすを返すとリビングへ行こうとした。
 その肩を、靴を脱いで上がってきた二人ががしっと止める。
 右肩には天使の顔をした小悪魔が、左肩には鬼畜な魔王がそれぞれに手を置き、得体の知れない笑みを浮かべている。
「絢子、正直に言ったほうが身のためだよ?」
「絢子さん、私が今考えていることは、わかるね?」
「ひいっ! ま、正臣、ちょっと来て下さい!」
 必死でソファーにいる正臣に助けを求める絢子である。
 軽い足取りでやってきた正臣は、二人に捕まっている絢子を見るとひょいと片眉をあげた。
「絢子ちゃん、何ていうかその格好、捕らわれた蝶々みたいだねえ」
「正臣、どうしたらいいんでしょう?」
 後ろを振り向くのが怖すぎてできなくなっている絢子に代わって、正臣ががちがちに固まっている彼女を二人の魔手から救い出した。
「二人とも、絢子ちゃんが自分で言い出すまで知らない振りをしてくれない?」
「サイテーだよ正臣! 抜け駆け反対!!」
 ぶうとほっぺたを膨らませる悠真である。
「見た瞬間、一目でわかった。絢子さんがますます美しくなっているということに。そして、それが何の意味を持つのかも。私が気を注いでここまでにしたかったのに、残念だ」
「絢子ちゃんの美しさはこんなもんじゃないね。俺がもっともっと綺麗にしてやるんだ」
 絢子を腕に囲いながら、正臣は火に油を注ぐようなことを言う。
「俺が? 僕も絢子を綺麗にしたい!」
 地団駄を踏む悠真であるが、辛うじて叫びだすのは堪えているようだ。
「こんなところで立ち話も何だから、リビングに行こうか」
 勝者の余裕で正臣は二人をリビングへと誘導する。
 ソファーを見た悠真がぼそりと一言。
「正臣、今ここで絢子を襲いかけたでしょう?」
「ひっ!?」
 またもびくりとする絢子である。
「見ればわかるよ。正臣のこんなに濃厚な気が残ってるんだもん。それに正臣の欲情したときの匂いもね」
「あぅ、ゆ、悠真君……」
 申し訳なさそうにしょぼんとする絢子であるが、そんな絢子を見た悠真はふうとため息をつくと両手を腰に当てて眉を下げた。
「僕は絢子のそんな顔が見たくて言ったんじゃないよ。僕が責めたのは正臣だよ。颯太が来るまでおめでとうは言わないけれどね、僕大人だもん。絢子と正臣のことを祝福するよ」
「ありがとう悠真君!」
 ぱあっと顔を輝かせた絢子は悠真に抱きついた。
 それを見た直人が流し目でさらに一言。
「あとで私にも同じことをしてもらってもいいだろうか?」
「えっ!?」
 あまりにも対照的な夜はそれぞれに更けてゆくのであった。



[27301] 二つの夜 2 ■●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/05 20:08
 おおおん、おおおん。
 街灯から外れると途端に真っ暗になる公園の中で、里緒と優美は互いに気を張った。
 鬼はすぐ近くに来ている。
 低級の鬼とは言っても、相手の実力を慮れる程度には力があるらしい。
 暗がりに潜む鬼はこちらの出方を窺っているようだ。
「早く片付けてさっさと家に帰りたいんだけれどねえ。お腹も空いたし」
「わたくしだってそうですわよ。ここがお姉さまの家の近くでなかったら、あなたなどとっくに見捨てて帰っているところですのよ」
「さいですか。そんならお姉さん様々だね」
 軽口を叩きつつも、索敵は怠らない二人である。
「簡易結界はまだ有効だから、あたし達の姿を一般人に見られることはないけれど、何にせよ、敵が結界を張ってある公園の中に入って来てくれなきゃ話は始まらないからねえ」
「敵はその用心深さで生き延びてきたようですわね」
 と、そんな話をしている二人の足元にぼん、ぼんとボールのようなものが転がってきた。
 アルマジロのようなそれは、三、四個ほどがぶつかりながらやってくる。
 ぐるり、と、空中でボールが反転した。
 現れたのは、中型犬程度の大きさの餓鬼であった。
 額は小さく、腹は出て、目はぎょろりとしている。

「ギッ、ギエエエエ!!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ出すそれは、二人の気に阻まれて一定距離以上は近づけないようである。
「まあ可愛らしい」
 優美が顔を綻ばせる。
「げっ、あんたどういう趣味してんの」
 いかにも嫌そうな顔で里緒がそれら餓鬼をしっしっと追い払う仕草をする。
 餓鬼達は二人の気にぶつかっては弾き飛ばされるのを繰り返している。
「こんなんであたしらの気を逸らそうとしたって無駄なんだけれどな」
 やれやれといった体で里緒が肩を竦める。
 するとそれを合図とでもしたのか、公園の一角にゆらりと人影が現れた。
 人影は二体である。
「あら、親玉が出てきたようですわよ」
 二人が視線をその人影に向ける。
 二体の鬼は男女一人ずつであった。
 どちらもそれなりに整った顔をしているのだが、今は一様にぎらぎらとした目つきで優美と里緒を見ている。
「あー、治郎さんったら、厄介な札で鬼を呼んだねえ。鬼が欲に取り付かれているよ。今んとこ、気配でわかるのは性欲だね」
「彼らからは、食欲は全く感じないですわ。わたくし達を手篭めにしようとしているのね? これは治郎様の配慮かしら。わたくし達に命の危険が及ばないようにという」
「うええ、そんな配慮は真っ平御免だね」
「ギギャアアア!」
 鬼達は口から涎を垂らし、欲情したときに発せられる匂いを振りまいている。
「うーん、匂いは悪くないから、香水の原料にでもすれば売れるんじゃないのかなあ」
「そうしたら、フェロモン香水として馬鹿売れしますわね」
「優美ちゃんは体に影響ない?」
「わたくし、曲がりなりにも外法使いですの。媚薬関係には耐性がありますのよ。里緒さんは?」
「あたしはそうでもないから、早いとこ終わらせたいんだ。じゃないと優美ちゃんを襲いたくなっちゃうかも」
「それじゃあ、とっととけりをつけましょうね」
「優美ちゃんのいけずー!」
 目を爛々と輝かせた鬼達は一定の間合いを取って二人に近づいてくる。
 鬼達の衝動を理解した優美はルビーのような唇を舌でぺろりと舐めた。
「甚振り甲斐のある鬼達ですこと」
 ほほほと目を細める優美である。
「あんた、あの鬼達と楽しむつもり? 趣味悪いねえ。本当は耐性ないんじゃないの?」
「あら、里緒さんは快楽と言うものを知らないの? 楽しみ方はいろいろあるでしょう?」
 優美は女鬼のほうに向き合った。
 二人の気にぶつかることを止めた餓鬼達が、物欲しそうな目で二人を見ながら耳障りな雄叫びを上げる。
 その餓鬼の合唱は黒板を引っかくようなギイギイとした騒音へと変わった。
 その瞬間、優美の口から言葉が飛び出た。


「ぎゃあぎゃあわめくんじゃねえよくそがきどもが」


 その殺気に圧された餓鬼達は皆一様にびくりと固まった。
 餓鬼達を睥睨した優美は、次にその四体の餓鬼にざっと視線をやると、花のような笑みを浮かべた。

「偉い子」

 その瞬間、餓鬼達はへにゃりと崩れ落ち、腹を出して仰向けになった。
「おお、女王様ですかあんたは」
 優美の呪縛の力に驚きつつも、槍を持って男鬼と対峙する里緒である。
「しかしお兄さん、あんた、割とイケメンなのにそんなにギラギラしてたらただの変態さんだよ」
 涎を垂らしている鬼に、里緒は気の毒そうな視線をやった。
「依頼がなけりゃ、あんたと関わることなんざなかったんだけれどね。可愛そうだけれど、何分、仕事ですから。きっちりとこなさせていただきますよ。ああ、あんたがいなくなっても、あんたの身辺整理は葛城秀斎の手のものがどうとでもするだろうから、心配せずにあたしに倒されて頂戴」
 自然と男鬼は里緒が、女鬼は優美が退治する流れとなった。
 里緒の殺気を感じた鬼は、欲情の色を瞳にたたえて里緒を舐め回すように見ている。
「それじゃあいきますか」
 そう呟くと、里緒はざっと跳躍した。
「はああああ!!」
 男鬼のいる場所に向かって、里緒が槍を振り下ろす。
 しかし男鬼はその場から跳躍して、街灯の上にすとんと降り立った。
 里緒は、今度はその鬼に向かって槍を投擲する。
 びゅうんと風を裂いて飛ぶ槍はしかし男鬼に当たることはなかった。
 男鬼はそのまま飛び降りると、里緒の下へ一直線に降り立った。
 里緒はその場からざっと横っ飛びに飛び去る。
 男鬼が里緒に迫る。
 自身の目の前に男鬼が来た瞬間、里緒はくいっと手を招く仕草をした。
「来い!」
 その掛け声とともに、男鬼の胴体から、ぐさりと一本の槍が突き出した。
 男鬼は動きを止め、自分の胴体を不思議そうに見やる。
 そのまま男鬼はどうと倒れた。
 地面に着くや否や、男鬼の体は粉のようになり、夜風に乗って掻き消えたのであった。
「ま、低級の鬼だからこんなもんか」
 そう言って里緒は優美のほうを見やる。
「げっ、あいつ何やってんの」
 そう呟いた里緒の視線の先にいたのは、四匹の餓鬼に女鬼を嬲らせている優美の姿であった。
 彼女は公園の柵に腰掛け、目を細めて見ている。
「あんた、顔は可愛いのに趣味はすんごく悪いんだねえ。しかも女王様タイプときた。こりゃ、ちょっと救えないわ」
 ため息をついた里緒は、その女鬼に向かって槍をびゅんと投げた。
 里緒が放った槍は今にも昇らんとしていた女鬼の背中を一突きにした。
 女鬼はそのまま粉になり、風となって消え去っていった。
「あら、無粋なことをいたしますのね。冥土の土産にイかせて差し上げていましたのに」
「そんな手間暇かけんでもいいの! それにあたしが男鬼を仕留め損なっていたら、あんたどうするつもりだったの?」
 その台詞を聞いた優美はにっこりと笑った。
「簡単ですわ、皆呪縛して、快楽の虜にして差し上げたうえで滅するつもりでしたの。わたくし、慈悲深いでしょう?」
「うーん、何だか次元の違う会話をしている気分だわ」
 唸って頭を抑えた里緒であった。
「さあ、鬼も片付けたことだし、家に帰りましょうかねえ。でもその前に」
 ぎろりと優美を睨む里緒である。
「あんた、その餓鬼達どうするつもりよ?」
 優美の足元に侍っている四体の餓鬼を見ながら、里緒はじと目で優美に視線をやった。
「あら、こんな可愛い子達、わたくしのペットにするに決まっているじゃありませんの」
「駄目です! 今すぐ滅しなさい!」
「あら里緒さん、いけずですのね」
 そう言って肩を竦めた優美はぱちんと指を鳴らした。
 その瞬間、餓鬼達はばりんと破裂して粉となり、風に消えた。
「よし、これで治郎さんからの宿題はすべて完了っと」
 清々した表情で里緒がスカートをパンパンと払った。
「さっ、早いとこ家に帰って夕飯にありつかないと」
 そう言って自分の鞄を拾った里緒は、最後に優美へ視線をやった。
「あんたとは、これからも長い付き合いになるような気がするわ」
「あら奇遇ね。わたくしもそう思っていたところでしたの。それではご機嫌よう」
 そう言って別れると、お互いがお互いの帰路へとついたのであった。






「颯太さん! いらっしゃい!」
 玄関に、ぱあっと顔を輝かせた絢子が駆け寄る。
 靴を脱いであがってきた颯太は、そのまま絢子をしっかりと抱きとめた。
 颯太の首にぎゅっと腕を絡ませ、首元に頬擦りする絢子である。
「会いたかったです、颯太さん」
「僕もだよ、絢子ちゃん」
 そんな二人のラブシーンを背後からそれぞれ眺める三人の鬼達である。
「あの二人、どんどん関係が親密になっていくよね」
 悠真がじーっと目を細めながら羨ましそうに言う。
「私もあのように抱きついてもらいたかったのだがな」
 いささか残念そうに直人が言う。
「俺の最大のライバルは、もしかして颯太?」
 眉をしかめながら正臣が危惧する。
「最初電話をしたときに、まさか来て下さるなんて思わなかったです。颯太さん、お忙しくなかったですか?」
「絢子ちゃんのためならば、僕はいつだって飛んでゆくよ。それよりもこんな深夜に来ることになってしまって、迷惑ではなかったかな?」
「そんな! 颯太さんに来てもらえるのでしたら何時だって起きています!」
「嬉しいな、僕の可愛い妹」
「はい、颯太お兄さん」
 そんなきらきらと眩しいオーラを振り撒く二人の世界に、しかし果敢にも挑んだのは悠真だった。
「絢子、颯太、リビングに来なよ! 早く颯太の誕生日を祝おうよ!」
 その声に我に返った絢子は申し訳なさそうに身を竦めた。
「あっ、御免なさい、私、あまりにも嬉しくってつい……」
「さあ、行こうか絢子ちゃん」
 絢子を優雅にエスコートしながら颯太がリビングにやってきた。
「じゃあ、皆席に着いて。颯太の誕生日会を始めよう」
 正臣の掛け声で皆席に着く。
 誕生日席に颯太が座り、絢子と正臣、悠真と直人の振り分けである。
 目の前のテーブルには、散らし寿司、茶碗蒸し、豚の角煮、お浸し、お吸い物が並んでいた。
 絢子と大人組三人は日本酒で、悠真はオレンジジュースである。
「ワインとチーズはあとで出すけれどね、今日は深夜でももたれなさそうな和食にして見ました。では、颯太の誕生日を祝って、乾杯」
 そうして乾杯後、四性の鬼達と絢子は、談笑しながらそのメニューを平らげていった。
 テーブルの上が片付くと、ワインとともにデザートの苺がたっぷり乗ったタルトが出てきた。
 それを切り分け、配り、ワイングラスにワインを注ぐと、準備完了である。
「それじゃあ、絢子ちゃん、皆に発表することがあるんだよね」
 正臣が絢子を促した。
「はい、私から、皆さんにお話しすることがあります」
 絢子はごくりと唾を飲み込んだ。
 四人の鬼達を順々に見つめる。
 皆、絢子の次の言葉を待っていた。
 意を決して、絢子は口を開いた。
「私はこのたび、正臣の恋人になることになりました。それで、今日は皆さんに、この場をお借りして、祝福していただければと思ったんです」
 そう言って頬を染める絢子である。
 その姿を見た颯太がまず始めに口を開いた。
「おめでとう絢子ちゃん。僕はこれからも変わらず絢子ちゃんを見守っているよ。何か困ったことがあったらいつでも頼ってくれていいんだからね。可愛い妹、僕は君の頼れるお兄さんでありたいと思っているよ」
「はい、ありがとうございます、颯太さん。とっても心強いです」
 次に直人が絢子に向き合う。
「私もあなたと正臣のことを祝福しよう。しかし、もし今後別れる、と言うことになった場合、いつでも私に相談しに来て欲しい。私が最良の選択をして差し上げよう。それと、私はあなたのパートナーになる用意は出来ている。正臣に飽きたら私のところへ来るように」
 色っぽい流し目付きで言われ、絢子はたじたじである。
「あぅ……ありがとう、ございます……」
 最後は悠真である。
「おめでとう絢子。僕大人だから、例え絢子がほかの誰かの人妻になっても全然気にしないよ! 最短で五年後、最長でも十年後には必ず絢子を手に入れて見せるからね! そのときは僕、誰よりもいい男になっているはずだから、きっと絢子も気に入ると思うんだ」
「あの、今でも十分素敵よ、悠真君は」
「正臣からは何か言うことはないのかな?」
 颯太が正臣に振る。
 正臣は居住まいを正すと、三人の鬼達に向き合った。
「俺は護衛としても、絢子ちゃんのパートナーとしても、生涯彼女を守り抜くつもりだ。その気持ちは揺らぐことはないが、そのことを今、この場で誓おう。俺に宿る鬼の血と魂にかけてね」
 その誓いの言葉を聞いた三人の鬼達は満足そうにこくりと頷いた。
 こうして絢子と正臣のお披露目は幕を閉じたのであった。


 リビングに布団を敷いて、皆が順番にシャワーを浴びる。
 シャワーを浴びてさっぱりした絢子はこれもシャワーを浴びてパジャマに着替えた悠真の隣にすとんと座り込んだ。
 布団の上で寝そべり頬杖を付きながら、悠真が絢子に視線をやった。
「絢子、何だかお泊り会みたいだね!」
 足を上下に動かしながら悠真が笑顔で言った。
「ふふ、楽しいわね。こういうのって何だかわくわくするわ。それにしても悠真君のご両親はよくこんな深夜に泊まりに出るのを許してくれたわね」
 絢子の疑問に、悠真は何でもないことのように答えた。
「僕ね、両親とは離れて暮らしているの」
「そうだったの。お仕事か何かで?」
 絢子が首を傾げると、悠真はにっこりと笑顔で言った。
「僕の昔話、ちょっとだけ聞いてくれる?」
「ええ、いいわよ」
 絢子が頷く姿を見ると、悠真は話し始めた。
「僕の両親はね、生まれたときの僕の容姿を見て飛び上がるほど驚いたんだって。自分達と全く似ていない子供が生まれたって、一時は離婚の危機にまで発展したんだよ。小さい頃、僕は人目から隠れるようにして生きてきたんだ。思春期が訪れて僕が匠とマルチェロに見出されると、両親は嬉々として僕を手放した。彼らは匠から沢山のお金をもらって、今は海外で悠々自適の生活を送っているよ。でも、僕を匠に売ったようなものだから罪悪感もあるのかな? 今でも手紙は欠かさず送ってきてくれるんだ。この間ね、僕に弟が生まれたんだって。写真を見たけれど、両親によく似た可愛い子だったよ。今の家は匠の配慮でお手伝いさんが来てくれるから、家事には困っていないんだ。マルチェロとの仕事の関係で家を空けることが多いし、点々とするのは慣れてるよ」
「そうだったの……」
 初めて聞く悠真の生い立ちと私生活である。
 しゅんとなった絢子を見た悠真は、両手をぶんぶんと振った。
「あっ、絢子、そんなに心配しないで! 僕これでも楽しく生活しているんだから。学校では絢子と会えるし、家では自由に出来るしね」
 そう言って天使の微笑みを浮かべる悠真を見た絢子は胸がぎゅっと詰まった。
「悠真君、私でよかったら何でも相談に乗るからね! 私のこと、お姉さんだと思っていつでも甘えてくれていいのよ」
 それを聞いた悠真は灰色の瞳を輝かせた。
「嬉しい! 絢子、じゃあ今ぎゅってしてもいい?」
「いいわよ」
「わーい!」
 そう言うと悠真はしゅっと起き上がって絢子に抱きついた。
「きゃあ!」
 そのまま絢子を押し倒した悠真は布団の上で、体全体を使って絢子を拘束した。
「つーかまえたっ」
「えっ? 悠真君?」
「ああ、久々だよ、絢子の匂いと肌の感触。僕こうしているだけでくらくらと気持ちよくなっちゃうよ」
 しかし先ほどの話を聞いたばかりである、絢子は悠真の頭を優しく撫でた。
「私で気持ちよくなるんだったらいつでもこうしてくれていいわよ」
「絢子大好きだよっ!」
 ごろごろと猫科の獣のように擦り寄る悠真である。
 その二人を、シャワーから出てきたばかりであろう、髪を下ろし、石鹸のいい匂いをまとった直人が見下ろした。
「悠真、面白そうなことをしているじゃないか」
「今僕、充電中なの。引っぺがさないでよ?」
 そうして絢子にぎゅっと抱きつく悠真である。
「剥がさずとも、やりようはいろいろある」
 そう言うと直人は絢子の体の下にすっと手をやり、二人を抱き起こして座らせた。
 そのまま直人は絢子の背後に脚を開いて座ると彼女をぎゅっと抱き締める。
「絢子さんの肌の感触が忘れられないのは私も同じなのだが、絢子さんはこの劣情、どうすればいいと思うかな?」
 耳元で囁かれるフェロモン全開の妖しい声音に絢子はぞくりと鳥肌が立った。
「はぅ……」
「ふふ、正臣にじっくりと体を開かれているからか、快楽には従順なのですね」
 そう言うと直人は絢子の首筋に顔を埋めて、所有の証をちゅうと刻んだ。
「あっ……」
「ああ、直人ずるい! 僕も絢子にキスする!」
 そう言うと悠真はすいと体を伸ばして、絢子の反対側の首筋に顔を埋めた。
 そこをぺろりと舐め始める。
「やぁん! 直人さ……悠真、君」
 体を動かそうにも前後から拘束されて何も出来ない。
 その間にも、二人は絢子に愛撫を施してゆく。
 悠真は絢子の首筋に口付けを落としながら、絢子のパジャマのボタンをひとつひとつ外していった。
 打ち合わせているわけでもないのに、うしろにいる直人が絢子のパジャマをすっと脱がせてゆく。
 あっという間に、絢子の上半身は下着姿となった。
「やっ! 駄目です二人とも」
 羞恥で胸を隠そうとする絢子の腕を悠真が拘束する。
 そのまま悠真は絢子の唇を奪った。
「んんっ!」
 悠真が絢子に気を送ってきた。
 彼の気が絢子の体内をゆっくりと満たしてゆく。
 絢子は脱力し、くたりと背中を直人の胸板に預けた。
「絢子さん、私達は良かったですか?」
 耳元で、誘うような声で直人が呟く。
 悠真は満足そうに絢子から唇を離すと、仕上げに絢子の唇をぺろりと舐めた。
「僕らの指や舌はね、僕らのものの代わりなんだよ。受け入れてくれる絢子がとっても愛しいよ」
 そう言うと絢子の胸の感触を楽しむかのように悠真が抱きついてきた。
「絢子の顔、とっても可愛かったよ」
「あぅ……」
 上気した顔で、悠真をとろんとした目で見つめる絢子である。
「もう、そんな顔されちゃうと、もっともっとって思っちゃうよ」
「それはどの顔かな?」
 そう言って直人が絢子の顎を持ち、自分のほうに向かせて口付けを落とす。
「あんっ、直人さん、駄目です」
 息も絶え絶えの絢子は直人に懇願する。
「そう言われては仕方がない」
 名残惜しそうに絢子から唇を離す直人である。
「あなたの体液はとても美味だ。あなたのそのイった顔もとても美しい。もっと味わせて欲しい」
 そう言って直人が再度絢子の体に手を這わせようとしたそのとき。
「直人、悠真、それぐらいで止めておきなさい。絢子ちゃんが気をやりかけているよ」
 シャワーを浴び終わった颯太がやんわりと止めに入った。
「絢子ちゃんの心のことも考えてあげなさい」
 颯太お兄様からのお小言である。
「じゃあ、今日は僕達絢子と一緒に寝るから。それで我慢しようっと」
 そう言うと悠真はいそいそと布団をかけた。
「二人とも、あんまりおいたはしないようにね」
「はあい、颯太お兄さん」
 悠真が片手を上げてそう答える。
「直人は?」
 促された直人は渋々といった体で頷いた。
「絢子さんを大切に思う気持ちは変わらない。今日はこのぐらいにしておこう」
 こうして絢子にとってはぎりぎりの夜が過ぎていったのであった。



[27301] 誕生日会後の朝 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/08 19:37
「う……」
 カーテンから差し込む光を感じ、絢子はうっすらと目を開けた。
 目の前にはふわふわとした金色の髪の毛がある。
 そして背中には逞しい胸板が当たっており、お腹を背後からしっかりと抱きとめられている。
「わ、私?」
 絢子はもぞりと体を動かした。
「うーん、絢子、起きたの?」
 悠真が片手で目をこすりながら体を猫科の獣のようにぎゅーっと伸ばした。
 しかし彼は起きるのではなく、そのまま絢子の胸元に抱きついた。
「僕まだ寝るぅ……」
 ぐりぐりと顔を絢子の胸に押し付ける悠真である。
「おはよう、絢子さん」
 と、耳元でいささか心臓に悪い艶のある声が響く。
「ひいっ! 直人さん、おはようございます」
 直人は絢子の下半身を自分の元へ引き寄せた。
「こうやってあなたと朝をともにすることが出来て嬉しいですよ。……願わくば、私との二人だけの夜も所望しますがね。いつにしますか? 私としては今宵でも結構ですが」
「あの、ちょっと考えさせてください」
 後ろを振り向けず、声だけの会話であるが、だからこそ、直人の色気が直に伝わってくる。
「ふふ、あなたは優しい。嫌とは言わないのですね」
「は、はい……」
 恥ずかしそうにこくりと頷く絢子を感じた直人は、頬杖を付いて頭を起こした。
「あなたに気をもらってからと言うもの、私の中の鬼の性は凪いだ海のように安定している。しかし私の中で、あなたの存在はどんどん大きく膨れ上がっている。この劣情を抱えたまま、あなたに会うのはいささか辛くもありました。あなたは終ぞ手に入らない存在であると思っていたからです。ですが、あなたは昨日、私の体を難なく受け入れてくれました。それがどれだけ嬉しかったかわかりますか? 数多の経験を重ねてきたはずの私が、あなたに受け入れられ、あなたとともに添い寝をするだけで、まるで子供のように歓喜したことに、自分でも驚いているのですよ」
「直人さんが、ですか?」
 絢子の驚いた声を聞いた直人はふっと苦笑した。
「私を何だと思っているのです? 愛する女性の前では、私とて、ただの男になってしまうのですよ?」
「それにしては昨日の直人さんはとっても余裕でした」
「ああ、それは経験の差と言うものですよ。心と技は別です」
 事も無げに言う直人である。
「しかし、私が本気になれるのは、後にも先にも、あなただけです」
 そう言うと直人は絢子の後頭部に羽のような口付けを落とした。
「私の姫君、私はいつだってあなたが堕ちて来るのを待ち続けていますよ。いや、待つだけではなく、あなたが私の前で隙を見せればいつだって捕らえるつもりでいます。私に『許可』を出してくださるのであれば、正臣とは違った快楽をあなたに差し上げることが出来るのですがね」
 そう言いながら、直人は絢子の下半身へすっと手を伸ばした。
 絢子の服の裾から手を入れると、下着の上から、彼女の尻を長い綺麗な指でゆっくりと揉みしだき始めたのである。
「ひゃう! 直人さんっ、『おいたは駄目』って颯太さんに止められたとき、ちゃんと返事をしてくれていましたよね!?」
「今日はこのぐらいにしておこう、と言ったのですよ? 寝て起きた今は、すでに昨日のことですから」
「そう言うのを詭弁って言うんじゃないんですか?」
 動こうにも、前面には悠真がぎゅっと抱きついているのでそれもままならない。
「ふふ、さしずめ絢子さんの今の状況は『前門の虎、後門の狼』と言ったところですかね」
「ごっ、ご自分のことを災難だと自覚してくださっている辺りはありがたいのですけれど、直人さんは狼なんて可愛らしいものじゃないです!」
「さあ、どうでしょうね。それと、状況を有利に利用するのも策のひとつかと」
 そんな直人からの愛撫に、朝から翻弄される絢子であった。


 身だしなみを整え、正臣が作った朝食を食べる。
 ただそれだけのことなのに、この四性の鬼達は四人揃うと圧倒的なきらきらとしたオーラを放つ。
 爽やかな朝の風景が何やら途端に豪華になったようで、絢子はどぎまぎしながら目の前にある野菜スープを口に含んだ。
 食べ終わり、支度を整えたところで、部屋から出ようとしていた颯太がふと思い出したように言った。
「そう言えば、僕の可愛い妹に、朝から手出しした不届きな獣がいたね」
「あっ……」
 絢子がかあっと頬を染めて下を向くが、颯太はその絢子に近づくとふわりと自身の腕の中に囲った。
 颯太はそのまま視線を今日絢子においたをした直人に向ける。
「絢子ちゃんと一緒に泊まれて嬉しいのはわかるけれど、この子の意思もちゃんと尊重してやるのだよ」
 口調は穏やかではあるが、彼のまとう気は厳しいものである。
「颯太の言っていることは良くわかる。しかし颯太は愛しいものを前にして指を咥えて見ていろと言うのか?」
 やや憮然とした表情ながらも、だが一応颯太の言は酌む直人である。
「颯太さん、私、その、今日直人さんの腕の中にいるの、そこまで嫌じゃなかったんです。私のこと、節操なしだって軽蔑しますか?」
 絢子が振り向きながら不安そうに言うが、その姿を見た颯太はすっと目を見開くと柔らかな笑みを浮かべた。
「絢子ちゃんはね、そこにいるだけで僕達四性の鬼を魅了する存在なんだ。手を出したくなる衝動は僕にも良くわかるよ。でも鬼に過剰に可愛がられている絢子ちゃんを心配こそすれ、軽蔑するなんてことは僕にはありえないよ。それとも、絢子ちゃんは彼らに可愛がられて、自分が穢れてしまった、と思うかな?」
 颯太の言葉を聞いた絢子はふるふると首を振った。
「私、皆さんに本当に良くしてもらっています。その恩返しとして私の体が皆さんのお役に立てるのであれば、それでもいいって思っているんです」
 しかしそれを聞いた颯太はふっと表情をしかめた。
「体で返すなど……絢子ちゃんは決して自分のことを娼婦か何かだと勘違いしてはいけないよ。僕らにとっての絢子ちゃんはかけがえのない愛しい存在なんだ。それに君を手に入れたいと思うのは僕らの男の性のなせる業だから、絢子ちゃんはそのことに翻弄されなくてもいいんだよ。だから安心おし、可愛い妹。君は君のままで僕らの傍にいてくれればいいんだ」
 そう言って穏やかに微笑む颯太を見た絢子はしかしぎゅっと手を握って食い下がった。
「私、颯太さんに何も返せてません。颯太さんは私の体をもらってはくれないんですか?」
「僕のことを誘っているのかな? いけない妹だね。でも、もしもこの先必要なときが来たら、そのときは遠慮なく抱かせてもらうよ。でも今はまだそのときではない。僕の役目はほかの鬼達が自分の劣情を十分にコントロールすることが出来るまで見守っていることだと思っているからね。それに、抱くことだけが親愛の意思表示ではないんだということを絢子ちゃんには知っておいてもらいたいな。抱き締めるだけでも、愛情は伝わると僕は思っているのだけれど、違うかな?」
 それを聞いた絢子はうるうると目を潤ませた。
「颯太さん、颯太さんはやっぱり素敵なお兄様です。私、颯太さんのことが大好きです!」
 そう言ってくるりと向きを変えてぎゅっと抱きついてきた絢子を、颯太はしっかりと抱きとめた。
「そう、これでいいんだよ。今の僕には絢子ちゃんのその気持ちとスキンシップがあればそれだけで十分満たされるのだからね」
 絢子は自分から颯太の頬にちゅっと可愛らしい口付けをした。
「ああそうだ、僕からも気を送っていいかな?」
「もちろんです!」
 そう言うと二人は自然に唇を合わせた。
 それはどこまでも親愛の情の延長線上にある口付けであるように思えた。
 絢子は自分から口を開き、颯太の口内で舌を探し出すとつんつんと突いた。
 それに応えるように、颯太が自分の舌を絢子に絡ませる。
 それとともに颯太は絢子の体内に大量の気を送った。
「んっ……」
 充足感に包まれた絢子はくたりと颯太の胸板に身を預けた。
 やがて二人の唇が離れる頃には、上気した顔の絢子が出来上がっていたのであった。
「出勤前のキスにしてはとびきり濃厚だったねえ」
 正臣が壁に寄りかかりながら、やれやれといった様子で二人を見やる。
「朝からこんな熱いキスをする兄と妹、そうそういないやい!」
 悠真がぶうと頬を膨らませる。
「絢子さんは颯太に対しては自然体で甘えることができるのですね」
 二人の光景を見て眩しそうに目を細める直人である。
 こうして、颯太の誕生日会はいささか濃厚に幕を閉じたのであった。



[27301] 方相氏
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/06 00:08
 朱塗りの格子戸から覗く手は白く滑らかで、その長い指はどこか幽玄な風情を漂わせていた。
 しみひとつないその手はそのままつとあがって、しどけなく着崩された紺色の質の良い着物の胸元に滑り込む。
 ぐっと着物を下に下げ、腕を収めると、その人物、葛城秀斎は寄りかかっていた壁から体を離した。

「治郎」

「はっ、こちらに」
 呼ばれた治郎は廊下で静かに控えていた。
「退魔の一族の首尾は?」
「今年の追儺式に備え粛々と準備を整えている模様でございます」
「それは上々」
 ふ、と微笑むと、秀斎はそのしどけない姿のまますうと廊下に出た。
 横に控えている治郎のほうには一切視線をやらぬまま、彼はおもむろにこう言った。

「私は、この追儺式で方相氏をやることにしたよ」

「秀斎様が、ですか?」
 少しばかり治朗が驚いたように返事を返す。
「そのような役目、伊織や冴にやらせればよいものを」
 思わずといった様子で、普段は寡黙に佇んでいる治郎が言葉を発した。
 それが珍しかったのか、秀斎は彼のほうに視線を向けた。
 秀斎は目を細めながら治郎の膝をつく姿を見やっている。
「こちらが機会を窺っている間に、私の朝雄は鬼のものになってしまった。手をこまねいていた自らに対するこの怒り、どうしてくれようかと思っていたのだよ」
 すっと秀斎は一歩前に出た。
 その足運びは能の役者のように揺るぎのないものであった。
 彼が前に進んだ瞬間、彼の姿が一瞬にして変わった。
 少し長めの艶やかな黒髪は総白髪となり、その頭からは一本の角が生えている。
 四つ目の瞳の色は金色。
 黒衣に朱の裳を着け、雄雄しく立っている姿は、とても先ほどの流麗な青年と同一人物であるとは思えなかった。
「鬼狩りにはこちらの姿のほうが相応しかろう」
「ですが、方相氏は鬼神、古く平安の世では忌避された呪術師、秀斎様が自らおなりになるほどのものでは……」
「治郎、私はね、私の朝雄を篭絡した鬼を我が手で滅すためにこの姿をとることにしたのだよ。今も鬼に嬲られているであろう朝雄を思うと、胸がかきむしられるようだよ。冴も歯噛みしているであろう」
 秀斎は目を伏せて憂えた。
 その姿は見た目の雄雄しさを裏切り、見るものに痛切な悲哀の情を思い起こさせた。
「秀斎様、甲賀五十三家の筆頭の手をもってしても、鬼の守りは堅かったと、そうお慈悲をいただくには及びません。これは彼らの無策と同じこと。何らかの処罰を」
 治郎の言に、しかし秀斎はゆるりと流し目をくれた。
「伊織は様子見を続け、冴は鬼の隙のない守りに手も足も出ず、そうして私の朝雄は篭絡されてしまった。これは、私自身の失策と同じこと」
「ですが秀斎様、あなた様がお出にならずとも、この治郎に一言申し伝えてくだされば、娘一人、難なく秀斎様の御前にお引き立てするというもの、なぜそれをなさらないのです?」
 秀斎は金色の四つ目をすべて治郎に向けた。
 そして、ふわりと微笑んだ。
「それでは面白くなかろう。お前には児戯にも等しいことでも、それに楽しみを見出すものもいるのだということだ。じっくりと手に入れるのも楽しかろう」
「は、失礼いたしました」
 治郎が頭を下げた。
「それでは、秀斎様自らがお立ちになるのであれば、退魔の一族を雇い関東一帯の鬼狩りをするにあたった真意は」
「ひとえに余計なものに邪魔されないように、ということだよ。本懐である藤原匠を排斥するにはそれぐらいの手間がかかる。それと、私が朝雄を手に入れるにあたって、朝雄の憂いを全て払っておくためだよ。鬼がいなくなればあの子の鬼を滅するという本来の役目の負担も幾分かは減るだろう?」
「秀斎様のかようなお心遣い、それを知ればいくら紀朝雄とて絆されましょう」
 それを聞いた秀斎は、ふ、と息を吐いた。
「私が朝雄を手に入れた暁には、治郎、祝福してくれるね?」
「仰せの通りに」
「私の朝雄は鬼に磨かれてどれだけ美しくなっているのだろうね。その鬼を滅されて、朝雄の瞳に移るのは、怒りか絶望か。何にせよ、私の朝雄を美しく飾るに違いない」
「はっ」
 秀斎は方相氏の姿のまま廊下を歩いた。
 その後ろから治郎が音もなくついてくる。
 やがてある障子の前まで来ると、秀斎はそれをからりと開けた。
 その部屋の中、中心にあったのは、見るも鮮やかな錦の内掛けであった。
「治郎、絢子はこれを気に入ってくれるだろうか?」
「はい、秀斎様が自らお選びになったものです、気に入られないはずはありません」
 力強く言う治郎である。

「冴」

「はっ」
 呼ばれた冴はこちらも黒いスーツを着て、髪を高く結い上げていた。
「将を射んと欲すればまずは馬を射よ」
「御意」
「四性の鬼を崩せば、藤原匠も、そして私の絢子も手に入る。冴は隠形鬼をこの数ヶ月見てどう思った? 付け入る隙はあったか?」
「気の張り方、索敵、夢の中でも現実でも、どれをとっても隙がございませんでした。ただし、ある一点を除いては」
 秀斎の四つ目が興味深そうに揺らめいた。
「ほう、それは?」
「隠形鬼は、自分の一族に対し、根深い確執と埋めがたい溝を抱いております。そこを突けば、あるいは隙が出来るやもしれません」
「退魔の一族を雇ったのは、限りなく吉と出たか」
「はっ」
 金色の四つ目を細めた秀斎は、跪く冴の前に片膝をつくと、頭を垂れている冴の顎を美しい人差し指でくいっと持ち上げた。
「私の可愛い冴、では、私のために鬼を壊して連れてきておくれ」
「御意」
 しかし顔を上げさせられた冴は何かを期待するかのように頬を染め、瞳を潤ませている。
 秀斎はそのまま冴の頬をついと撫でた。
「ふふ、冴、そのような目で私を見るでないよ。冴が欲しているものが手に取るようにわかってしまう」
「あん……、秀斎様、冴が欲しいものはいつでもただひとつだけですのに」
 瞼を伏せた冴の額に、秀斎は唇を付けた。
「どれでもよい、鬼を首尾良く連れて戻ってきたらそのときは、わかるね、冴」
「ああ、秀斎様、冴は嬉しゅうございますわ」
 そう言うと冴は影のように掻き消えたのであった。
 冴がいなくなった廊下で、秀斎はすっと元の姿に戻った。
 しどけなく着崩された紺色の着物から覗く胸元は白磁のように滑らかで、老若男女問わず思わず触れたくなるようなものであった。
 しかし、治郎はそんな秀斎を見て苦言を呈した。
「秀斎様、ご自分のお体をそのように無体に扱うのではありません。あなた様のお体はかけがえのないもの、冴などにやすやすと与えてよいものではありません」
「私は自分の体を無体になど扱ってはいないのだが」
 すると治郎はどこからともなくふわりと鼠色の羽織を取り出し、それを秀斎に着せ掛けた。
「お体を冷やされませんように」
 秀斎はそのまま傍に控える治郎を見て微笑んだ。
「治郎はまるで私の母親のようだね」
「秀斎様を大切に思う気持ちは何にも代え難いものですので」
 そう言って治郎は僅かばかり笑ったようであった。
「二月の追儺式まで一月あまり。それまでには、鬼を滅する準備を整えておきましょう」
「頼んだよ、治郎」
「はっ」


 治郎がその場から消え去ると、秀斎はまたもとの部屋に戻るべく足を向けようとした。
 すると、そこにひとつの影が煙のように現れた。
「秀斎さん」
 秀斎が振り向くと、そこには気だるい瞳の隠岐伊織が立っていた。
「伊織か」
「秀斎さんに聞きたいことがある」
「ほう、それは?」
 秀斎は肩にかけていた鼠色の羽織にばさりと両袖を通した。
「何で俺を罰しない? 筆頭や治郎が俺を不審がっていることは知っている。それなのになぜ俺の行動は咎められない?」
「咎めてほしいのかな?」
 ふ、と笑って秀斎は伊織に目をやった。
「あんたが俺を野放しにするのならば、俺は俺で好き勝手やらせてもらう。だが、基本的には大抵のことが俺にとっては面倒くさいことばかりだから、あんたの邪魔になるようなことはないと思うけれど」
「伊織、かまってやれなくてすまないね。今私は絢子を手に入れたくて久々に滾っているのだよ。あの子を私の手の内に入れたならば、伊織とももう少し遊んであげられると思うのだけれど」
 その言葉を聞いた伊織は片眉を上げると、腕組みをした。
「俺はもう子供じゃない。あんたに相手してもらわずとも、一人で楽しむ術は心得ている。それにしても、体は大丈夫なのか? ……あんたの体の内に巣食う瘴気、もうそろそろ限界なんだろう?」
 秀斎は微笑を浮かべたまま柔く伊織を諌めた。
「伊織、誰が聞いているかもわからない場所で、そのようなことを言うものではないよ」
 名を呼ばれた伊織はしかし食い下がった。
「ここには今俺とあんたの気配しかしない。それにあんた、そのことを筆頭や治郎に隠しているだろう。治郎はあんたの体の異変に僅かに気づいているようだけれどね。なぜだ」
 伊織はどうやら独自の力で秀斎の異変を感じ取ったようであった。
「私にも矜持というものがあるのだよ。しかしいつから気付いていたのかは知らないが、お前にこの時期に悟られてしまったのはやや想定外であった。全てを隠したまま、ことをなすつもりであったのに。まあ、聡いお前のことだ、いずれはどこかで気付くと思っていたがね」
 まるでいたずらを見つかった子供のような表情をし、肩を竦める秀斎である。
 伊織はそんな彼にずいと身を寄せた。
「退魔の一族を雇ったのは、あんたの体内に巣食う膨大な瘴気をどうにかするため、鬼の力を研究したという奴らのその情報を欲したからなんだろう? 雑魚は一族に狩らせて、上級の鬼を引きずり出し、その鬼が持つ生命力を取り込む手筈なんだろ。絢子を迎えるのだって、絢子の紀朝雄の気を体内に取り入れ、その瘴気を浄化するためなんだろう? じゃないと、今のあんたは藤原匠とはおろか、下級の鬼とだってまともに戦える体じゃないんだ。こんなところに出て来ていないで、さっさと部屋に戻れよ」
「伊織も治郎みたいなことを言うのだね。ああ、なぜばれたのだろうね。どうやらお前の前では、少々気が緩んでしまっていたようだよ」
 柔らかく笑った秀斎を見た伊織は、彼には似合わない歯噛みをぎりっとした。
「あんたはもっと自分の体を労わるべきだ。鬼なら俺が手に入れてきてやる。絢子は、あんたにならきっと心を開くだろう。あいつは絆されやすい女だから」
「伊織は絢子を自分のものにするのではないかと思っていたのだけれどね。私と伊織は趣味が良く似ているから」
「あんたの体のことを知ったあとじゃ、あんたが優先だ」
「良い子だね。だが、配慮は無用。お前はお前の好きなようにするといい。今までのように私達と距離をとるのもいい、お前にはそれをするだけの実力が備わっているのだから。将来の甲賀五十三家を背負って立つだろう若いお前まで私の些事に巻き込まれることはないのだよ」
 しかしそれを言われた伊織は、長めの前髪から見える眉根をぎゅっと寄せたようであった。
「自分のことを些事なんて言うな。それに俺は少なくともあんな筆頭にはならない。あんたに忠誠を捧げる代わりに、あんたの体を対価に欲するようなやつにはね」
「冴は私の体を対価に欲しているのではないよ。哀れなあれは私の虜なのだよ」
「あんたの体を癒せもしないやつが、あんたに触れるのは虫唾が走る」
「では、絢子ならば良いと言うのかな?」
「ああ。絢子はあんたの瘴気を中和し、あんたを楽にすることが出来る。そういう女を侍らせるべきだ。それに紀朝雄は元々あんたの手に入るはずの人物だった」
「今日は良く喋るね。私の死期でも見えたのかな?」
「話を逸らすなよ、秀斎さん」
 伊織は、彼にしては珍しく僅かに焦ったようだった。
「追儺式にはまだ日がある。そのときは俺が方相氏をやるから、あんたはどこか温かいところでゆったり座ってそれを見ててよ」
「伊織は優しい子だね。私の身の内に巣食う瘴気がもうそれほど猶予はないことを理解しているのだね? そのことで藤原匠が、私が瘴気を世に放つ前に私を滅しようとしているということも、お前は掴んでいるのだろう? 遥か昔とは逆の立場だね、私が、藤原千方に滅される日が来るなどと」
「だからこそ、秀斎さんは俺達に囲われてでもいいから黙って成り行きを見ているべきだ」
 こちらに歩を進めた伊織に背を向け、秀斎はすいと歩き出した。
 伊織は当然のようにそれに続く。
 秀斎は自分の部屋へと戻った。
 彼の部屋には香が焚かれていた。
 その香は秀斎が自身の瘴気の気配を抑えるために、自らの手で特殊な調合をなしているものであった。
「伊織、私はね、この部屋に、そしてこの屋敷にいるのに飽いてしまったのだよ。ままならず、女を抱くことしか出来ないこの体をね。だがしかし私は愛おしく思ってもいるのだよ。この体のおかげで見えぬものも良く見えるようになった」
「まるで儚くなるようなことを言うなよ。秀斎さん、あんたが元気になってくれなきゃ張り合いがない」
「ふ、また昔のように術の力比べでもするつもりかな? ああ、しかし楽しかったね。伊織と遊ぶのは」
「俺が連れてくるから。鬼も絢子も。だからあんたはここで休んでろよ」
「伊織は、私の話し相手にはなってくれないのかい? 首尾は冴と治郎に任せて、私とともに遊んではくれないのかな?」
 そう言われた伊織ははあ、と軽いため息をついた。
「秀斎さんがそう言うのなら。ただし、あんたの体が異変を来たす前に鬼と絢子を必ず連れてくる」
「伊織、二兎追うものは一兎をも得ずだよ」
「はいはい、だから筆頭が鬼を捕らえに行っているだろう? 俺は絢子をあんたの元に連れてくることにするよ」
 秀斎は少しばかり眉根を下げた。
「絢子は驚くのではないかな? 今まで味方のように接していたであろうお前が急に手の平を返したような態度に出ることに」
「そうは思わないよ。絢子は心の中ではちゃんと区別をつけているはずだ」
「だといいのだがね」
 困ったように笑う秀斎を見た伊織は、部屋を横切り、閨に入ると、寝台の上にすとんと腰を下ろした。
「来いよ、秀斎さん。俺が見ててやるから。ゆっくり休みな」
「なぜ私の周りの人物は私に対して母親のように接するのであろうね」
「皆あんたが大切だからだよ」
 秀斎は寝台へ足を運ぶと、しどけなく寝そべった。
 やがて横たわった彼から安らかな呼吸が聞こえてくるようになるまで、伊織は彼を見守っていたのであった。






「浩介おじさん、それ、どういうこと?」
「どうもこうもないさ。俺達は、ただ機会を待って鬼を討つんだ」
 蔭原里緒は、憮然とした表情で仁王立ちになって腕組みをしていた。
「上級の鬼を倒すのは追儺式まで待てってのはわかるけれど、それと正臣おじさんを討つのとどう関係があるのさ」
「それはこの別嬪さんに聞いてくれよ」
 話を振った浩介の傍に佇んでいるのは、黒いスーツを着て、艶やかな黒髪を高く結い上げた望月冴であった。
「わたくし、追儺式の前に自ら隠形鬼を捕らえる手筈ですの。あなた方に余計な邪魔をしてほしくはありませんので、わざわざ伺ったのですよ。あなた方こそ、身内を手にかけるという悲劇を招かずに済んで良かったのではないの?」
「いいや、あたしはやるなら自分の手でって思ってるよ。きっちりけじめはつけたい主義なんでね。冴さん、あんたこそどういう風の吹き回し? 自ら出張るなんて」
 眉根を寄せた里緒を見た冴はほほほと笑った。
「まあ、勇ましく凛々しい子ですこと。うちの優美とも仲良くしてくれているようで、筆頭としては礼を言っておかなければならないわね」
「話を逸らさないでほしいね。子供だと思って侮っていると、痛い目見ますよ?」
「ほほ、そういうところも優美とは対照的なのね」
「優美ちゃんは結構気の強い子だと思いますけれど。まあ、それはいいとして、なぜ正臣おじさんを先に捕まえるんですか?」
 聞かれた冴はにやっと赤い唇を歪めた。
「それはあなたが知らなくてもいいことよ。大切なのは、あなた方がわたくしの狩りを邪魔しないということ。それさえ出来れば、好きにしていいわ」
「わざわざ自ら伝えに来るってことは、それなりの重要事項だってことを吐露しているようなもんですよね」
「どんな阿呆にもわかるようにわたくしが出てきたのです」
「うちの一族に阿呆はいないよ。浩介おじさんは別だけど」
 話を振られた浩介はへらりと笑った。
「ひどいなあ里緒、俺だって立派に蔭原家の一員だよ? あ、もしかしてこないだ優美ちゃんのことを伝えなかったのを根に持ってる?」
 へらへらと軽薄そうに笑う浩介を横目で見やると、里緒は冴に向き直った。
「仕事ですから従いますけれど。その代わり、追儺式には容赦なくほかの鬼を滅させてもらいますから」
「それで十分だわ。では里緒さん、学校に行ってらっしゃい」
「言われずとも」
 そうして里緒が去っていくと、冴は浩介に嫣然と微笑んだ。
「これから、お暇?」
 浩介はにやりと笑った。
「別嬪さんに暇かと聞かれて、仕事があるとは言えないねえ」
「では、わたくしの滾りを静める手伝いをなさってくれます?」
 そう言うと冴は浩介の頬をつつっと撫でた。
 浩介は目を細めながら冴の手を自分の手で覆った。
「甲賀五十三家筆頭、歩き巫女の技を直に堪能することが出来るとは光栄ですよ」
「ふふ、あなた、自分の利益のためには容赦なく一族を売れるのね。嫌いじゃないわ、そういうの。でも仕事よりもわたくしを取るの?」
「俺はいつだって美人の味方なんですよ」
 そう言ってへらへらと笑う浩介は、冴の手を取り自分の腕に絡ませた。
「こんな僥倖、逃す手はありませんから。さあ、行きましょうか」
 そうして腕を組んだ二人はそのままどこかへと消え去ったのであった。



[27301]
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/06 00:09
 薄暗い夕暮れの中、絢子はひとりとぼとぼと歩いていた。
 家までの十五分ほどの道のりを、なるべく長引かせるかのようにゆっくりと歩く。
 いつもの通学路、いつもの帰り道。
 そんな風景が、今はなんだか恨めしかった。

 絢子はここ二週間ほどずっと悩んでいた。
 それはこの前正臣が夢の中で言った「ほかの鬼にも交合の『許可』を出してあげて欲しい」ということについてである。
 正臣からはそれ以後そのことに対して言及するようなことは特になく、ほかの鬼達からも、あれから催促めいたことは一切ない。
 それは絢子の気持ちを気遣ってくれているからなのだ、と言うことはわかっているのだが、そうやって自然に時を過ごさせてもらっている間も、絢子は迷っていた。
 鬼達から与えられる快楽は絢子にとってどこまでも心地良いものであったが、彼女はそう感じる自分に少しばかり恐れを抱いていた。
 それはこの間直人と悠真に愛でられたときに、それを嫌悪する気持ちが湧いてこなかったからである。
「もしかしたら、自分はただ単に快楽に流されているだけなのかもしれない」
 四性の鬼達のことは嫌いではなく、むしろ胸が詰まるほどに惹かれている自分がいる。
 だが彼女の特性である「素直さ」は、こと今回の件に関しては危うい橋を渡っているかのような感覚を彼女に与えていた。
 ともすれば複数の男達に可愛がられるなどと言うアブノーマルな行為を、絢子は首を振って思考の外に追いやった。
「四性の鬼の皆によって私の気が磨かれると言うのはわかるのだけれど、やっぱり私には、自分から正臣以外の人とキス以上のことをするのはとっても勇気がいるわ」
 絢子は誕生日会後の朝、颯太に思わず「私の体をもらってはくれないんですか?」と聞いた自分を恥じていた。
「あのときはどうかしていたんだわ。颯太さんに返すものがなかったとは言え、節操のないことを聞いてしまって」
 元々、本来の自分は他人と気軽に行為に及べるような、あっけらかんとした性格ではないのだ。
 快楽の中にあっては素直に応える絢子も、素面に戻ると未だに正臣以外には貞操観念の強い引っ込み思案な女子に戻ってしまうのだ。
 それに、今の絢子の心の中は正臣一色なのである。
 特に正臣と愛を交わしたあとからその気持ちは一層強くなっていたが、正臣に操を立てたいと思っても、当の本人からあのように言われてしまっては、一体自分はどうすればいいのかと思ってしまう絢子である。
 しかし、自分を惑わすようなことを言った正臣や、自分を求めるほかの鬼達を責めるという思考を絢子は持っていなかった。
 理不尽だと、変だ、おかしいと言う気持ちは、四性の鬼達の情熱によってすっかり溶かされてしまっていたのである。
 彼らにはそれぞれに魅力があり、立場や場所、接する時間が違っていたら、もしかしたら正臣ではなく別の人と恋人になっていたのかもしれないと思うことさえあった。
 しかし、「今」を変えることは絢子には出来なかった。
 それほどまでに、正臣の存在は絢子の内面にまで深く入り込んでおり、自分もまた正臣の中に深く入り込んでいる自覚があった。
「今の正臣には私という存在が必要だと言うこと、これは自惚れじゃなく、そう思う。彼と私はもうすでに切り離せない関係になっている。だから私は正臣の気持ちにできるだけ応えたい」
 絢子の脳裏に「操を破って操を立てる」と言う言葉が浮かんだ。
「私はほかの皆に対しても親愛の情を持っている。気を磨くためにはほかの皆とも交わったほうがいいこともわかっている。でも正臣のことも大切。私はどうすればいいのかしら」
 そう思いながら今日も悩みつつひとり帰り道を歩いていたところ。

「絢子」

 呼ばれて振り返るとそこには隠岐伊織が気だるげな表情をして立っていた。
 絢子は我に返り、きょとんと伊織を見つめる。
「隠岐君、通学路こっちだったの?」
「いや」
 そう答えると、伊織はつかつかと絢子の元に歩いてきた。
「絢子、あんたに頼みがある」
 少しハスキーな色気のある声を絢子の頭上に落とすと、伊織は絢子の肩に手をやった。
「俺と一緒に葛城秀斎の元へ来て欲しい」
「えっ?」
 絢子が思わず目を見開くと、伊織は長めの前髪から覗く瞳を彼女にしっかりと向けた。
「あんたの力が必要なんだ」
「いきなりそんなこと言われても、どうして?」
「それを今ここで話す余裕はない。俺と一緒に来るか、それとも力ずくで拉致されるか、どちらを選ぶ?」
 口をぽかんと開ける絢子であったが、伊織の真剣な表情を見てやっと言葉を紡ぎ出した。
「あの、それって、いつ帰ってこられるのかしら? 私の仕事に差し障りのない範囲の話ならば何とか受け入れられるけれど」
 伊織はふっと笑ったようだった。
「そうか、それでいい。猶予がないんだ。なるべくあんたの合意の下に連れて行きたいと思っていたからその返事が聞けて嬉しい」
 そう言うが早いか、二人の姿は煙のように掻き消えたのであった。




 伊織に連れてこられたのは、和風の広い一室だった。
 部屋の中には色鮮やかな生け花、盆栽、金魚鉢が置いてあり、部屋の中を彩っている。
 格子と御簾に区切られた向こうはどうやら閨であるようだった。
 分厚い御簾の向こうを窺い知ることは出来なかったが、ゆらゆらと揺らめく香の香りが何やら怪しい雰囲気を醸し出していた。

「静かね」
「ああ。今やっと落ち着いたところだからな」
 だれが、とは聞かなかった。
 この御簾の向こうにいるのはあの葛城秀斎その人なのであろう。
 絢子はごくりと唾を飲み込んだ。
 こんな形で、敵の首魁である葛城秀斎その人と合間見えることになろうとは思いもよらなかった絢子であった。
 伊織は気配を消すかのような足取りでついと御簾の近くに寄った。
「秀斎さん、連れてきたよ」
 そう声をかける伊織の瞳には堪らないほどの色気が滲んでいた。
「絢子、こっちへ来て欲しい」
 その瞳のまま絢子を見る伊織である。
 相手が高校生とは思えないほどの堂に入った態度と、彼から発する色気に絢子は思わず押されたが、ぐっと手を握ると、御簾の傍へ近づいた。
 伊織に手を引かれて御簾をくぐると、そこにはこの世のものとは思えないほど美麗な青年が寝台の上に横たわっていたのである。
 長めの艶やかな黒髪は枕に広がり、高い鼻梁、すっと刷いたような眉、閉じられた瞳は神の造詣と言っても過言ではなかった。
 僅かに開いた唇は見るものを誘うかのようで、老若男女問わず、思わず触れて見たくなるような形をしていた。
 胸の上で組まれている両手は白く滑らかで、それは規則的な呼吸で僅かに上下していた。
「この人が、葛城秀斎……」
「ああ。俺の仕えている人だ」
 伊織はそう言うと絢子を寝台の隣の椅子に座らせた。
「絢子、この人が起きるまで、手を握っていて欲しい」
「えっ?」
 絢子は拍子抜けした。
 敵の首魁と会うのだから、それなりの身の危険を想定していたのだが、伊織から頼まれたのが「手を握る」ということであったので思わず首を捻ったのだ。
 伊織は絢子を見ると苦笑した。
「あんたは豪胆なのか抜けているのか、よく俺の頼みを断らなかったものだと思うよ」
「だって、隠岐君は私を傷つけないもの」
 それを聞いた伊織は目を丸くしたあと、困ったように笑った。
「あんた、鬼に磨かれたね。その台詞って、男が聞いたらその女に信頼されてるって自惚れる台詞だよ」
「えっ、私は思ったことをそのまま言っただけなのだけれど」
「じゃ、天然の魔性だ」
「ええ!? 私そんな人じゃありませんから!」
 声を潜めつつも盛大に両手をぶんぶんと振る絢子である。
「それに魔性って言ったら隠岐君のほうだと私は思うわ。高校生とは思えないぐらいの色気があるもの」
 しかしそれを聞いた伊織は眉根を寄せたあとにやりと笑った。
「やっぱり、絢子は俺の女にしておくべきだったな」
 そう言って伊織は絢子の頬に素早く口付けを落とした。
「この人が起きたら、唇にキスでもしてやって。俺は傍で見守っているから」
 その言葉を最後に伊織は絢子の前から姿を消した。
「ええっ!? 隠岐君? ど、どうしよう……」

 閨の中で、絢子は眠っている葛城秀斎と二人きりになってしまったのである。




「絢子ちゃん……?」
 正臣は絢子の気配が揺らいだことを察した。
 だが、その気配は一瞬で元に戻った。
 いつも通り、絢子の気配は家に向かってきている。
 夕飯の支度を整えると、正臣はソファーに座り、絢子の帰りを待った。
 と、テレビドアホンが鳴る。
 正臣は腰を上げて画面に映る絢子の姿を確認した。
 別段異常は見受けられない。
 そのまま絢子を招き入れる。

「ただいま、正臣」

 絢子が玄関で靴を脱いでいる間、正臣はカウンターの上に夕飯を盛った皿を並べていった。
「絢子ちゃん、今日は随分ゆっくり帰ってきたね。どこかで寄り道でもしてきたの?」
 しかし、その言葉に返ってくる声はなかった。
 正臣がいぶかしんでキッチンから出ようとすると、そこに切なげな表情をした絢子が立っていたのであった。
「どうしたの? 絢子ちゃん」
「正臣……」
「何?」
「今すぐ私を抱いてください」
 胸の前でぎゅっと手を握って、頬を染め、うるうると正臣を見上げる絢子は、正臣の次の言葉を怯えながら待っているように見えた。
 正臣は絢子に近づくと、ふわりと腕の中に抱き込んだ。
「いいよ。おいで」
 彼は絢子の額に優しくキスをすると、絢子の両手を後ろ手に拘束した。
 しゅるりとどこからともなく赤い紐が現れ、絢子の腕を縛る。
「正臣?」
「こういう趣向もいいでしょう?」
 さらに紐は絢子の体をぐるぐると何重にも縛った。
「やあっ! どうしてですか? こんなこと」
「絢子ちゃんが可愛いからだよ?」
 正臣はその格好のまま絢子を優しくリビングまでエスコートする。
 そして絢子をソファーに座らせると、正臣はふうと大きなため息をついた。


「それで、俺の絢子ちゃんは今どこにいるんだい? 望月冴」


 正臣を不安そうに見つめていた絢子の口角が歪に歪んだ。
「ほほほ、さすが隠形鬼。いとも簡単に見破るとは思わなんだわ」
 絢子の姿をして、絢子の声で喋るそれは、今や完全に望月冴そのものであった。
 しかし縛られ、監視されているにもかかわらず、冴は余裕の表情である。
「わたくしの可愛い小鳥は今伊織とともに秀斎様の元へ行っているはずよ。ほほ、秀斎様に愛でられ、可愛い小鳥はさぞや良い声で鳴くのでしょうね」
「冴、そろそろ元の姿に戻ってくれないかな? じゃないとあんたをくびり殺しそうだ」
「まあ怖い、短気だこと。今の台詞、わたくしの可愛い小鳥に聞かせてあげたかったわ。それに鬼の悋気は恐ろしいとあの子にも学習してもらわねば」
「で、どういう用件なんだ? わざわざ絢子に化けて出るぐらいだ、俺と話がしたかったんだろう?」
 冷たい視線で見下ろす正臣を見上げ、冴は絢子の姿でぺろりと唇を舐めた。
「察しのいいこと。そうよ、わたくしはあなたに用があって来たのよ」
 そう言うと冴は変化を解いた。
 現れたのは黒いスーツに身を包み、艶やかな長い黒髪を高く結い上げた妖艶な女であった。
 黒いスーツに赤い紐がぎりぎりと巻きついている様は、見るものにどこかいかがわしい印象を起こさせた。
 胸を強調させるかのようにぐいと突き出すと、冴はにやりと笑った。

「『退魔の一族・蔭原家の恥さらし』とな。弟はよう喋ってくれたわ」

 正臣は表情を変えることはなかったが、まとう殺気は底冷えするかのようであった。
「お前の過去がどれだけ醜悪で、惨めで、屈辱的であったのかを、あの男はべらべらと、それは楽しそうに喋りおったわ。聞いているこちらが哀れに思うほど、お前は一族から疎まれていたのだねえ」
「黙れ」
「わたくしの可愛い小鳥は、お前の醜い姿を知ったらどう思うのかねえ。家畜のように扱われたお前には本当はこんなマンションよりも家畜小屋のほうがお似合いなのではないの? 強力な媚薬を盛られ、精も血も何もかもを搾り取られ、診察台の上でひいひい鳴いていたお前のことを知ったらあの子はどう思うかねえ。器具を体内に入れられ、喘ぎ善がるお前は浅ましい豚以下の家畜だわ」
「俺を揺さぶっても何も出ないが、何をしに来た? 俺の過去を知った程度で俺の首を取れると思ったら全くのお門違いだ」
「さて、お前の愛しい小鳥は今何をしているのか知りたくはないかえ?」
 そう言うと冴は目の前に影を出現させた。
 その影の中から、ぼうっと映像が立ち上がってくる。
 そこには、心配そうに秀斎の手を握る絢子の姿が映っていた。
「これがどうした」
「ほほ、よく見りゃれ」
 映像が動き、絢子の背後を映す。
 何と、その背後には天井に逆さまにぶら下がっている奇獣の姿があったのだ。
 その奇獣はナマケモノのような姿をしているが、右手だけが異常に大きく、手の内側には巨大な鎌がついていた。
「これもまやかしか? どちらにせよ、お前は絢子を殺せない。秀斎の閨を血で汚すわけにも行かず、ましてや秀斎が執着している絢子を手にかけたとあってはお前の首も飛びかねないはずだ」
「殺すのではないよ。これはねえ、可愛い小鳥を捕らえ、秀斎様の御前に淫らな姿で差し出すためのものなのだよ」
 その声が聞こえたのか否か、ナマケモノの腕から生えていた鎌は腕の中に収納された。
 代わりに出てきたのは、ナマケモノの長い舌であった。
 でろりと卑猥に垂れ下がったそれは、するすると伸びて、御簾を越えて絢子の背後、首筋に先端を定めるとぴたっと止まった。
「この舌先にはのう、強力な媚薬が埋め込まれていての、刺されたものはイくまで善がり狂うことになるのよ。ましてや目の前には極上の雄がいる。この状況、果たして可愛い小鳥はどう切り抜けるかのう?」
 にやにやと笑うと、冴はすっと目を細めた。

「やれ」

 その言葉を合図としたのか、ナマケモノの舌先はつぷりと絢子の首筋に刺さったのである。




「痛っ」
 秀斎の手を握っていた絢子は首筋にちくりとした痛みを感じた。
 その痛みはすぐに快感となり、全身へと広がった。
「えっ? 何? 何なの、これ……」
 急に目の前がぼうっと揺らぎ、絢子は寝台の脇に突っ伏した。
 心臓がばくばくと早鐘を打ち、じんわりと汗が出てくる。
「あっ……体が、熱い!」
 口をパクパクと開け、空気を取り込もうとするが、それもままならない。
 そのうちに、絢子の女が熱を持ち、じんじんと疼いてくるのを感じた。
「嫌っ! 隠岐君、これどういうことなの!?」
 秀斎の手をぎゅっと握り、絞り出した声はしかし僅かであった。
 歯を食いしばりながら漏れるその声は、気を抜くと喘ぎ声が出てしまいそうであったからだ。
 冷や汗をだらだらとかきながら、絢子は秀斎の手を離そうとした。
 ところがである。


「そんなにきつく握られては、眠るものも起きてしまうよ? 絢子」


 はっとして霞む視線を向けると、そこには目を開けて絢子の窮状を見つめる葛城秀斎の姿があった。
「あ、か……」
 慌てて手を離そうとするが、それは意外に強い力で止められた。

「伊織、解毒剤を」
「はっ」
 そう声がすると、伊織が解毒剤を持って現れた。
 伊織は絢子の口の中に何かの丸薬のようなものを水とともに流し込んだ。
 絢子はむせながらそれを飲み込む。
 ぎゅっと秀斎の手を握ったまま、伊織の胸にもたれかかり、荒い息をつく絢子である。




「冴、お前この茶番は何だ?」
 正臣は静かに怒りの炎を燃やしていた。
 しかし冴はほほと嫣然と笑った。
「肝心なのは、秀斎様が小鳥を抱くと言うこと。それが成されればよいのよ。助けに行くかえ? 隠形鬼よ」
「当たり前だ。俺の絢子を取り返す」
 そうして正臣が転移の術を使ったそのとき。

「かかった!!」

 冴がにやりと笑んだ。
「何っ!?」
 正臣の体はびゅうと現れた幾多の影にぐるぐると捕らわれたのである。
「くっ! しまった、結界を張られていたか!」
「ほほほ! 小鳥に目が眩んだ鬼は必ず転移すると思うていたわ。体を千地に引き裂かれずに済んでよかったとお思いなさいな」
「くそっ! 俺をどうするつもりだ!」
 その正臣の怒号を心地よさげに聞いた冴は、体を縛っていた紐をはらりと落とした。
「お前にはまたあの屈辱の日々に戻ってもらうことにしたのよ。お前は秀斎様の血肉となり、そこで生き続けるのよ。ほほ、秀斎様の体の中で、絢子を愛でられることが出来てよろしいのではないの?」
「冴えええ!!」
 その叫び声とともに、マンションの一室から二人は掻き消えたのであった。



[27301] 毒と薬 ■●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/06 00:10
「くうっ……」
 絢子は唇を噛んで官能の波に耐えていた。
 背中に当たる伊織の胸板の温かさや、ぎゅっと握られている秀斎の手の感触が、絢子を追い詰める。
 絢子の瞳からは快感によりぽろぽろと涙が零れてきていた。
 それを見た秀斎は体を起こし、絢子の顔に自分の顔を寄せた。
 流れ落ちる絢子の涙を、秀斎は舌で丁寧に拭ってゆく。
「ああ、絢子、お前の気が混じった体液は私の瘴気を浄化する。お前はそこにいるだけで私の助けとなるのだよ」
 秀斎は絢子の顎に手をやると、彼女の唇を美味しそうに舐め始めた。
 その舌の動きが、絢子にとっては官能を引き出す手助けにしかならないのだということを秀斎はよくわかった上で、執拗に舐め、しゃぶっている。
「はあっ、ああん」
 絢子が口を開けると、秀斎が深く口付けをしてきた。
 秀斎の舌は絢子の口内を撫で回し、絢子の口に唾液を集める。
 そうして秀斎は彼女の頭を傾け、舌を深く差し入れて彼女の口から流れ出る唾液をこくこくと飲み込んだ。
 口の端からはしたなく涎を垂らしながら、絢子はがくがくと震えた。
 その絢子の口に、今度は伊織が口付けを落としてきた。
「こんな淫乱な姿を見せられちゃ、食べないわけにはいかないね」
 唾液を丹念に舐め取られ、深く舌を差し込まれ、絢子は文字通り善がり狂った。
「あん! いやああ!」
 ぐちゃぐちゃ、ぺちゃぺちゃといういやらしい水音と、絢子の善がり声が閨の中に響く。
「ひゃあああ!」
 絢子はぐったりと伊織の胸板にもたれて気を失ったのであった。






「冴、ここはどこだ!」
 正臣は声を張り上げた。
 そこは薄暗い無機質な空間であった。
「ここは秀斎様の屋敷の地下室よ」
 ぱちんと電気がつけられる。
 暗闇に慣れていた目を細めた正臣は、自分がこの広い倉庫のような部屋の一段高いところで、十字架に磔られるように拘束されていることを知った。
 すかさず転移しようとするがそれもままならない。
 冴は近寄ると、正臣の体をじっくりと検分した。
「ほう、近くで見るとなかなか良い体をしておる。惜しむらくは、お前のものが『許可』なしでは勃たないと言うところだの」
 そう言いながら、冴は正臣の体に舌を這わせ始めた。
 冴の舌は首筋を辿り、服の上から、正臣の胸の突起を探し当ててちろちろと舐める。
「俺を弄んで楽しいか」
 磔にされたままであるが、冷静さを失っていない正臣である。
「お前を、というより、鬼を弄ぶことが楽しいねえ」
 冴はしかしふいとつまらなそうに口を離した。
「お前はわたくしの可愛い小鳥につく虫、潰してやってもよいのだけれど、それでは秀斎様のお役には立たない。ジレンマよのう」
 そう言うと冴は何もない空間から、小ぶりの使い捨て注射器を取り出した。
 中に透明な液体の入っているそれを、冴はおもむろに正臣の首筋に突き立て、中身を注入した。
「くっ! 何の真似だ」
「ほほほ、これはのう、退魔の一族がお前の体液から作り出した神経毒じゃ。そうそう、お前がその昔、媚薬に惑わされて交合の『許可』を出したという一族の女がのう、こう言うておったそうじゃ。『あんな汚らわしい豚に、操を汚されたわ』とな」
「俺はその女を抱いていない」
「ふふ、哀れよのう、お前は思春期に精を搾り取られるためだけに、尋常でないほどの強力な媚薬を盛られ、欲に負け、その女に交合の『許可』を出すことになったのであろう? 『許可』は双方の合意の元に成立するものじゃからのう。その女はと言えば、お前を好いた男と思わされるように術をかけられておったそうではないの。可愛そうなことよ。しかし強い鬼であるはずのお前が、退魔の一族の玩具にされておったとは、愉快愉快」
 ほほほと笑う冴である。
 しかし、毒を注入されたはずの正臣の体には何の変化も起こらない。
「どういうことかえ?」
 冴はいぶかしんだ。
「選んだ毒が悪かったな。俺の体は絢子の気と体液ですでに体質が変化しているんだよ。それに、鬼の血には解毒作用があるって、あいつらに教わらなかったか? ん?」
 それを聞いた冴はピクリと眉根を寄せた。
「はっ、それならば変化したお前の体液を採取し、新たな毒を作ればよいだけのこと」
 そう言うと冴は手にナイフを持ち出し、腕を振り、正臣の頬に一筋の赤い線を作った。
 つうと流れるそれを、冴は舌を伸ばしてべろりと舐め取る。
 だが口の中に広がる正臣の血の味に眉をしかめた冴はその場でべっと唾を吐いた。
「鬼の血は不味いのう。しかし鬼の血も人と同じく赤く金気臭い味がするわ。なれば、時が来るまでこの場に放置してやろう。どこへも行けず、そこで糞尿を垂れ流し、無様な思いを味わうと良い」
 そうして高らかに笑う冴を見て、正臣は言葉を発した。
「さあ、そこまで長くかかるかな? 何せ俺の仲間は皆優秀なんでね」
「舐め腐りおって、この下種な鬼めが!」
 そう言うと冴は持っていたナイフを正臣の腹部めがけてぶんと突き刺した。
「ぐっ!」
 正臣は思わず苦悶の表情を浮かべる。
「ほほ、わたくしはその顔が見たかったのよ」
 冴はぐりぐりとナイフを動かし、正臣の表情を確かめるかのように嬲ってゆく。
「うあっ!」
 歯を食いしばり、苦痛に耐える正臣である。
 血がとろとろと溢れ、彼の服を濡らしてゆく。
 そうしてしばらく彼を嬲ると、冴は手を離してうしろへ飛び退き、正臣の姿を確認した。
「お前にはこの場所がお似合いよ。そのまま干からびてしまえばいいのだが、残念だのう。そうだ、湯を使わねば。鬼の臭いを落とさねばのう。わたくしの可愛い小鳥と秀斎様の御前に侍るのに、穢れを落とさねばなるまい。ああ、心配せずとも、この部屋には誰も来やしないよ。その拘束具には結界を張ってあるから転移も無駄じゃ。せいぜい苦痛を楽しむがよい」
 そしてそのことに気を良くした冴は、そのまま部屋を出て行ったのであった。

 ひとり取り残された正臣は、ぐっと苦しげに眉根を寄せたあと、ひょいと片眉を上げた。
「さて、困ったねえ。転移の術を封じられたんじゃ、少しばかり分が悪いねえ。その前に、このナイフをどうにかしないと」
 正臣は目を閉じた。
 気を集め、練る。
 かっと開いた正臣の瞳は、瞳孔が縦に伸び、虹彩が金色に光っていた。
「はああああ!」
 ぼこぼこと、ナイフに刺された皮膚が盛り上がる。
 次の瞬間、正臣の体からガシャンとナイフが落ちた。
 穴の開いた服からは元通りの綺麗な肌が見えている。
「ふう、これで余計な血を失わずに済んだ。さて、次はここから出る方法だな」
 そう言うと正臣は体力温存のため、また瞳を閉じたのであった。






 絢子は心地よさに揺られてぱちりと目を覚ました。
 自分は誰かの胸に抱かれ、温かなお湯に浸かっている。
「絢子、起きたのだね」
「え……」
 とろんとした目で辺りを見回すと、自分は裸で、浴槽に誰かとともに入っていたのである。
「お前のことを何度も愛してやったのだ、体が疲れているはずであろう、少し休みなさい」
 しかしかっと目を見開いた絢子は、かちんと固まりだらだらと冷や汗をかき始めた。
「あ、あなたは」
 絢子のうしろにおり、彼女の腹に両手を回している人物はふっと苦笑したようであった。
「もう気付いただろうね? ここは私の浴室だよ」
「葛城、秀斎……」
 絢子はそれだけ言うとぎゅっと目を瞑った。
「正臣、正臣、正臣……!」
 しかし、いくら念じても自分の体が転移する気配はない。
「どうして!?」
 思わず声に出して言った絢子であるが、秀斎が絢子の耳元にそっと唇を寄せた。
「やっと捕まえたよ、私の可愛い小鳥。小鳥が飛んで逃げないように、私の部屋一帯に結界を張ったのだよ」
「そんな……!」
 絢子はあることに気がついた。
 先ほど秀斎は自分を「愛した」と言っていなかったか。
 それが何を意味するのかを思い至った絢子はざあっと血の気が引く思いであった。
 がくがくと小刻みに震えだした絢子の内面を察した秀斎はにこりと微笑んだ。
「ああ、心配せずともまだ繋がってはいないよ。意識がないのに繋がっては気を受け取ることが出来ないからね。だが絢子の愛液は私にとっての秘薬だから、先ほどまでたっぷりと飲ませてもらっていたがね」
 そう言うと秀斎は絢子の首筋に舌を這わせた。
「ひっ! や、やぁ」
「ふふ、可愛いのだね、絢子の鳴き声は。しばし休んだのちに、今度は絢子を最後まで愛せると思うと胸が高鳴るようだよ。ああ、このような気持ち、久しく感じなかったものだ」
 そう言うと秀斎はぎゅっと絢子を背後から抱きしめた。
 絢子は何か話題を変えようと必死になって探した。
「ど、どうして二人で一緒にお風呂に入っているんですか?」
「ああ、これはね、絢子の体液と体を余すところなく堪能するためだよ。私にとっては絢子とともに風呂に入るのは薬湯に浸かっているのと同じことなのだよ。それに絢子の体は抱き心地がとてもよい。これを一度味わってしまってはもはや鬼になどやれるはずもない」
 秀斎は絢子の首筋で頬ずりをした。
「ふぁ、ひゃんっ!」
 くすぐったさと、予想外の心地よさに絢子は慄いた。
 また自分は快楽に流されてしまうのではないだろうか。
 葛城秀斎からは自分を害するような気配を一切感じられないと言うのも一役買っていた。
 温かなお湯に浸かり、優しく丁寧に扱われ、絢子は混乱していた。
 もっと無体に扱われれば、秀斎を憎む気持ちも湧いてこようものなのに。
 またも絢子の気持ちを察したのであろう、秀斎が口を開いた。
「私は絢子を愛でこそすれ、害するつもりは一切ないよ。絢子は私の可愛い小鳥なのだから。私の命が尽きるまで、傍において離さないつもりだよ。ああ、でも逃げようなどと思わないほうがいい。そうすると、絢子の心を縛ることになってしまうから」
「心を、縛る?」
「葛城家に伝わる縛心術だよ。絢子にはなるべくこれを使いたくはないのだけれどね。使うと興が削がれてしまうから」
 そう言うと秀斎は「治郎」と声を発した。
「はっ」
 現れた治郎は背後に二人の人物を連れてきていた。
 その人物の姿を見た絢子は思わず「あ」と声を漏らした。
 治郎はその二人の人物を紹介する。
「絢子様、これから追儺式まであなたをお守りする蔭原里緒と、あなたの侍女の小川優美でございます」
 里緒と優美はすっと頭を下げた。
「絢子、先に出て私の部屋で休んでいなさい。私はもう少し湯に浸かってから出るとしよう。優美、絢子を頼んだよ」
「御意」
 優美に誘われて、絢子は浴室から出た。
 恥じらい遠慮する絢子を優しく押し止め、優美は絢子の体をタオルで丁寧に拭いてゆく。
「わたくし、お姉さまの侍女になることが出来て心から喜んでおりますのよ。お姉さまと接する機会が沢山増えたのですもの」
 優美は絢子に肌触りの良い裾除けと肌襦袢、薄桃色の長襦袢を着せると、その上に梅の花があしらわれているクリーム色の袢纏を着せかけた。
「お姉さま、夜着がよくお似合いですわ」
 そう言って優美はふんわりと微笑んだのであった。

 優美に案内されて、絢子は秀斎の部屋へと足を運んだ。
 椅子に腰掛け、優美が淹れてくれたお茶を飲む。
「私、こんなところで何やっているんだろう……」
 絢子は心の中でそう呟いた。
 のこのこと伊織についてきてしまい、あっさりと敵の手中に捕らわれている。
 これでは何のために正臣達に守ってもらっていたのかわからない。
 夢の中まで大切に守ってもらっていたのに、この体たらくだ。
「私、このところどうかしっぱなしだわ」
 不甲斐なさに思わず泣きそうになる自分を叱咤し、きっと顔を上げる。
「優美ちゃん、私、帰らなくちゃ。正臣が待ってるから」
 しかし優美はふるふると首を振った。
「いいえ、今お姉さまをこの部屋から出すことは出来ません」
「優美ちゃん!」
「お姉さま、ここで秀斎様に可愛がられることは、お姉さまにとって何の不服がございましょう? ここで女としての喜びを与えられ、お姉さまはさらに輝くのです。今後のお姉さまの身の振り方についてですが、お仕事はしばらく病欠とし、のちに正式に辞表を提出していただくとのことです。それからまもなく秀斎様との婚礼の儀が執り行われ、お姉さまは正式な夫婦となられるのです」
「何それ……でも、私、帰らなきゃ」
「正臣おじさんはマンションにはいないよ」
「えっ?」
 それまで黙っていた里緒が口を開いた。
「正臣おじさんはこの屋敷のどこかに囚われているそうだよ。浩介おじさんからの話だから、一応信憑性はある」
 そう言うと里緒はつかつかと絢子の前に歩いてきて、絢子の目の前で立ち止まるとすっと腕組みをした。
 里緒のその瞳は冷たく光っていた。
「お姉さん、あなたさあ、危機感なさすぎでしょ? なんでこうあっさり捕らわれてるのさ」
「あっ……」
「正臣おじさんが捕まったのだってね、多分あなたが原因だよ。あの狡賢いおじさんがそう簡単に捕まるはずないもの」
 年下の女子に説教され思わずぐっと詰まる絢子であったが、全くその通りなので何も言い返すことが出来なかった。
「里緒さん、お姉さまを甚振るのは止めていただけます? お姉さまだって、今回のことを悔いているはずですわ。それにわたくし達側であるはずのあなたが敵側に沿うようなことを言って良いとお思い?」
 優美の叱責にも里緒は怯まない。
「あたしはただ雇われているだけだから、契約が切れたらお姉さんやあんた達とは何の関係もなくなる。あたしはね、ちょっとがっかりしているんだ。お姉さんが紀朝雄の生まれ変わりだって言うからそれなりに期待していたのに、どんな力を秘めているのかと思いきや、このお姉さんときたら力を持っているにもかかわらず大切なものを何一つ守れないただのぼんくらだったんだからね」
「里緒さん、それ以上言うと潰しますわよ?」
「おお、出来るもんならやってちょうだい。あんたとあたし、力は互角。それにこんなところで力比べは出来ないでしょ?」
 絢子は穴があったら入りたいと思っていた。
 自分には、今ここにいることは確実に自身に降りかかっていることなのに、どこか他人事のように思えていたのだ。
 そのぼんやりとした気分を里緒に指摘されて、絢子はがつんと横っ面を引っ叩かれたような気がしていた。
 年下の女子でさえわかるようなことに、どうして自分は気付かなかったのだろう。
 それに自分はただ守られるだけの存在ではないのだ。
 いつぞやの大結界を破壊したときだって、直人の鬼の性を安定させたのだって、自分の力もとい自分の中に眠る紀朝雄の力を使ったからではないか。
 鬼達の温かく心地よい腕の中にいて、自分はそのことをすっかり失念していたのである。
「里緒ちゃん」
「何ですか?」
 絢子は里緒の瞳を真正面から見つめた。
「ありがとう。里緒ちゃんのおかげで目が覚めたわ」
 それだけを言うと絢子は席を立った。
「お姉さま、どこへ行くおつもりですか?」
 優美が慌てて絢子の前に出る。
 両手を広げて立ち塞がる優美は必死の形相だ。
 しかしその優美の目を見た瞬間である。
 何と絢子の頭の中に彼女の思考が流れ込んできたのだ。

『お姉さま、今はまだ動いてはいけません、機を待つのです』

 絢子はびっくりして目を見開いた。
「ゆ……」

『何も仰らぬように! わたくしは筆頭と隠岐伊織に反旗を翻しております。お姉さまの味方です!』

 それを聴いた瞬間、絢子の両の瞳からは一気に涙が溢れ出た。
 絢子は知らないであろう、この優美の密かな造反は以前正臣が優美の思考に細工をしておいた結果であった。

「……わかったわ優美ちゃん」

 そう言った絢子をほっとした表情の優美が抱きしめる。
「お姉さま、泣かないでくださいまし。さあ、席について。お茶を淹れて差し上げます」
 絢子を席に着かせると、優美は良い香りのするお茶を丁寧に淹れ始めた。
「このお茶は気持ちを安定させる効果があるんですのよ。今のお姉さまにぴったりですわ」
 両手で涙を拭っている絢子の傍に里緒がやってきた。
「お姉さん、さっきのあなたの言葉、ちゃんと伝わりましたから」
「え?」
 絢子はきょとんと里緒を見た。
 その頬に、苦笑しながら里緒は手をやった。
「ああ、こんな可愛いお姉さんをあたしが放っとけるはずがないじゃない。さっきはねえ、お姉さんに自覚がないもんだから、ちょっと起こしてやっただけだよ。それにしても、まさかこんなに素直な反応が返ってくるとは思わなかったね。本っ当に愛で甲斐のあるお姉さんだよ。正臣おじさんがいかれちゃうのもよくわかるね」
「りっ、里緒ちゃんは、正臣のこと、嫌じゃないの?」
 じわじわと涙が盛り上がり、ぐすっと鼻を啜った絢子を見て、里緒は思わず絢子をぎゅーっと抱き締めた。
「んもう可愛い~! お姉さん、抱き枕にしたくなっちゃうよ」
「里緒さん、お姉さまから離れてくださいませ」
 優美の苦言にも里緒はどこ吹く風である。
 彼女はそのまま絢子の耳元で話し始めた。
「一族のほかの人間は正臣おじさんを蛇蝎のごとく嫌っている人もいるけれどね、あたしは別に何とも思っちゃいないよ。単なる異能者程度にしか思っていないのさ。あたしの仕事に支障が出なければ、あたしはおじさんが何であろうが構わないね」
 里緒が顔を上げた絢子に向かって笑顔を向ける。
「お姉さん、あなたがどう思おうが、あたしは今『あなたの護衛』だ。その意味、わかるね?」
 そう言うと里緒はお茶目にウィンクをした。
 また絢子の瞳には涙が盛り上がる。
「里緒ちゃん……」
「里緒さん、いけずですのね。そういうおつもりなら最初からそうと仰っていただければよろしかったのに」
「それはあんたも一緒でしょ? まあ、誰に聞かれているかわからないところで話すのも何だけれどね」
 にやにやと笑う里緒を見た優美が眉をひそめながらため息をついた。
「仕方がありませんわ。今回はあなたにも特別にわたくしのお茶を振舞って差し上げます。里緒さん、高くつきますわよ」
「はいはい、わかりましたよ」
 そうして絢子、優美、里緒の三人は絢子を囲んでひと時の休息を得たのであった。



[27301] 葛城家
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/07 00:08
 絢子は、敵陣の真っ只中にいる今こそ自分をしっかり持とうと決意した。
 自己憐憫に浸るのはあとでも出来るし、過ぎてしまった過去に囚われ前に進めなくなるのも今だけは何としても止めようと思った。
 自分の性格は自分が一番よくわかっている。
 今ここで犯した過去に囚われたら、自罰的な自分は自己嫌悪に呑まれて二度と立ち直れなくなるかもしれない。
 それこそ敵側の思う壺であり、自己嫌悪で自ら潰れた自分は、快楽という餌を与えられて敵の思うさまに動く、意思のない操り人形になってしまうだろう。
 四性の鬼達に心の中で「ごめんなさい」と謝り、自己憐憫と自己嫌悪の涙を流しながら葛城秀斎や望月冴から与えられる果てのない快楽に溺れて、彼らに傾倒し二度と浮上できなくなる事態だけは絶対に避けたかった。
 だからこそ、今はとにかく過去を割り切って客観視し、今起こっている事態の中で何を改善すべきなのかということ、目をしっかりと開いて前に進むことを第一に考えようと思ったのだ。
 幸いなことに、優美がくれたお茶と里緒の言葉で、絢子の頭はこれ以上ないほど冷静かつクリアになっていた。
 その中で絢子は先の失敗から、次に何が生かせるかを考えたのである。
 自分は紀朝雄の力に関してはまだ思い通りに使える訳ではないが、四性の鬼の力ならばすでにある程度掌握しているはずであった。
 しかし、それを肝心なときに使いこなせなかったのだと絢子は反省した。
 先ほど媚薬を打たれたときだって、金鬼の力を常時張り巡らせていれば防げた事態であったはずなのに、自分は敵陣にあって何の対策もしていなかったことが敗因に繋がったのだと絢子は気付いたのだ。
 自分は今まで何と無防備で愚かであったのだろう。
 きっと今までの自分は「力を持っている」というそのことだけで満足していたのだ。
「力を持っている」ということと、「力を使える」ということは違うのだということを、絢子は今回のことで身をもって実感したのであった。
 もしかしたらこれからも何かしら失敗するかもしれない。
 でも、もう今の自分は失敗に怯まず、それをカバーしようとする姿勢を持っている。
 少なくとも、自分の行動に責任を持ち、失敗から学ぶことによって同じ轍を踏まないようにする慎重さを、絢子は思い出して、そして身につけたのであった。
「同じ過ちは二度と犯さない。今の自分には何が出来るのか、それをひとつずつ探してやっていこう」
 絢子はそう念じると、まずは身の内に宿る金鬼の力を使った。
 以前プールの中で巨大な水球を作ったときの事を思い出し、それを気に例えて自分の周りに貼り付けるようにイメージする。
 程なくして全身が薄い膜に覆われたかのような感覚があり、それが気をまとうことなのだと絢子は感じた。
「お姉さま、気の揺らぎが変わりましたわね」
 優美が少しばかり目を丸くしながら言う。
「ふうん、やるじゃんお姉さん。意識して均一な気をまとうってのは結構骨の折れる技だよ」
 里緒がにやりと笑う。
 悠真のように危険や刺激を察知すると無意識に体が反応するようになるまではまだ鍛錬が必要であるが、こうやって常時意識して気をまとっておくぐらいならば絢子にでもできる。
 次に絢子は「目」を切り替えた。
 するとCGグラフィックを見ているかのように屋敷全体が見渡せ、そこにいる敵の数が把握できたのだ。
 これは以前大結界を見るときに正臣から気をもらってやり方を教えてもらったものである。
 絢子が予想していたよりも敵の数は少なかったが、それぞれが発している気は並以上だ。
 例えその中のひとりを撃破出来たとしても、騒ぎを起こせば敵は集まり、容易く捕まってしまうであろうことが予想できた。
 もし何かことを起こすのであれば、俊敏かつ迅速に行わなければいけないと感じた。
 さらに絢子はそのまま脱衣所にいる葛城秀斎の気を見て、思わずぞっとした。
 秀斎がいる場所からは禍々しいうねった瘴気が、秀斎の体を取り囲むようにして蠢いていたのである。
 一緒にいるときは気付かなかったが、秀斎が風呂から出た瞬間、瘴気は少しずつ外側へと溢れ出ていたのであった。
「葛城秀斎は私の気が薬になると言っていたわ。でももう手遅れなんじゃないかしら」
 それこそ、絢子を喰らわない限りは抑えきれないような質量を持った瘴気であった。
 これで少しは抑えられたのだと言うのであれば、普段の葛城秀斎はどれだけ重い気をまとっていたのだろうかと少しばかり彼に対して哀れみの念を抱いた絢子であった。
 と、絢子はこの屋敷の地下室に正臣の気があるのを発見した。
 思わず立ち上がろうとする自分を制し、ふうと長い息を吐き出して落ち着こうと努める。
「今の自分には何が出来るのかを探すこと。今、私は厳重な警備の元に軟禁されている。正臣の元へ行きたいのは山々だけれど、それは今じゃない。出来ることから始めよう」
 絢子は自分の服装を確認した。
 和服ではいささか動き辛い。
「優美ちゃん、私に動きやすい服を頂戴」
 声をかけられた優美はふわりと微笑んだ。
「かしこまりました」
 そう言って優美が席を外すと、里緒が絢子の目の前に椅子を引っ張ってきてすとんと座った。
 里緒はにっと笑みを作った。
「お姉さん、今のお姉さんは格好良いよ。さっきまでとは別人みたいだ。自分に何が出来るのかをちゃんとわかってる。あたしはそういうお姉さんが見たかったんだ」
「ありがとう里緒ちゃん、これも里緒ちゃんや優美ちゃんのおかげよ」
 絢子がそう言って微笑むと、里緒はふるふると首を振った。
「でも、それを決めたのはお姉さん自身だよ。そこんとこ忘れないように。それにそういう覚悟を決めた人を守るのにあたしは異存ないね。あたしは仕事として請け負ったならばどんな仕事でもきっちりこなすっていう矜持はあるけれどね、やっぱり守る対象が今のお姉さんみたいであればやりやすいや」
「里緒ちゃんはプロなのね」
「ええ。そう認めてくださって光栄ですよ」
 話が一段楽したころに優美が着替え一式を持ってやってきた。
「どうぞ閨の向こうでお着替えくださいませ」
 絢子が着替えを受け取り閨へ行くと優美が声をかけた。
「わたくし達はお姉さまの行くところへどこへでもついて参ります。着替えがお済になったのちは、この屋敷でも一周して見ましょうか」
「でも、部屋からは出られないんじゃないの? 私が迂闊に動いたら優美ちゃんや里緒ちゃんにお咎めが行くんじゃないのかしら?」
 手早く着替えながら、絢子は御簾の向こうから話しかけた。
「只今秀斎様に確認を取って参ります」

「その必要はないよ、優美」

 はっと後ろを振り向いた優美は、しどけなく紺色の着物を着た葛城秀斎が部屋の手前に立っているのを目にした。
「これは、秀斎様」
 すっと控える優美と里緒である。
 着替えを済ませて閨から出てきた絢子は部屋の真ん中で秀斎と対峙した。
 絢子の目には今も秀斎から溢れ出る瘴気が「見えて」いる。
 秀斎は絢子の前では瘴気を隠そうともしていないようであった。
 彼はほうと目を見開くと、絢子の姿を上から下までじっくりと検分した。
「絢子のまとう気が変わった。凛々しく清冽だ。絢子は私の気が見えるようになったのだね?」
「はい」
「私が怖くはないのか?」
 秀斎は穏やかな表情で聞いた。
「いいえ、今のあなたを怖いと思う気持ちはありません」
 絢子は努めて冷静に秀斎に話しかけた。
「秀斎さん、あなたにお話しがあります」
「何かな? 立ち話も何だからまずは椅子にでも座ろうではないか」
 秀斎に勧められて絢子は椅子に腰掛けた。
 絢子は秀斎に目をやったあと逡巡した。
 自分は腹芸が出来ない。
 ここで秀斎と渡り合うことなど到底無理だ。
 だが、自分の意見はちゃんと伝えておこうと思ったのである。
「先ほど優美ちゃんから聞きました。私はまもなくあなたと結婚するそうですね」
「ああ、聞いたのか。そうだよ絢子、私達は夫婦になるのだよ」
 秀斎は顔を綻ばせ、嬉しそうに微笑んだ。
「ならば正式な夫婦になるまで、私はあなたに抱かれるつもりはありません」
 絢子の言葉を聞いた秀斎はすっと目を細めた。
「絢子は自分の体を鬼には抱かせても、私には否と言うのか」
「否とは言っていません。あくまで、結婚するまで抱かれる気はないということです」
 秀斎は少しばかり思案したようであった。
「よろしい。絢子がそう言うのであれば待とうではないか。ただし私からもひとつ条件がある」
「何ですか?」
「絢子から気をもらうために口付けをすることを許して欲しい」
「……わかりました」
 絢子は秀斎を憎んではいない。
 むしろ、何の因果か身の内に瘴気を溜め込み、それを放出しないように常時気を張っていなければならない秀斎に対し憐憫の情を抱いていた。
 自分の前で穏やかな表情でいる秀斎は、絢子の気を受け、幾分かは安らいでいるようであった。
 そのことに絢子は我知らずほっとしていた。
 例え敵であっても、害意のない者を嫌う道理は絢子にはなかったのだ。
「もうひとつ聞きたいことがあります」
「何かな?」
「あなたの気は禍々しい。それがあなたを蝕んでいることを私は感じ取りました。なのになぜ薬である私をひと思いに喰らわないのですか? そうしたらあなたはその瘴気を浄化することが出来るのではありませんか?」
 絢子の質問に、秀斎は慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
「ああ絢子、私の体を心配してくれるのかい? お前は何と優しい女なのだろうね。私は身の内に瘴気を抱えながら、そんなお前とともに生きる道を選んだのだよ。私にとってこの瘴気は身に馴染んだ感覚であり、一生付き合っていくべきものだと思っているのだよ。これが世に溢れ出たら、疫病、飢饉、その他の災厄が蔓延するであろうね。私が死ぬ前に、この瘴気を少しでも薄めることが出来ればと思うているのだよ」
「どうしてあなたはそのような瘴気を身の内に宿すことになったのですか?」
 その質問に秀斎は少しばかり遠くを見るように視線をやった。
「我が葛城家は代々穢れを祓う家系であった。しかしいつしかその穢れを祓うだけでなく自ら身の内に溜めてしまうようになったのだよ。清廉潔白なものほど染まりやすいと言うからね。いつの時代でもこの世というものは穢れている。とみに近世はそれが顕著であった。私は今この世の穢れを一身に集める依巫(よりまし)として機能しているのだよ。穢れを祓う術は二つある。次代の子を成すか、私が聖なるもので滅されるかだ。私が子を成すことによって次代へとこの瘴気を受け継ぐとともに、永遠の循環がおこる。陰陽はそのようにして成り立っているのだよ。絢子には私の子を産んでもらうつもりだ。お前の胎内ならば、この身に宿る瘴気も浄化され、生まれてくる子も死ぬまで人並みの人生を送れるであろうね。生まれた私の子も絢子のような嫁か婿を見つけるといい。そうすれば瘴気は絶えず浄化され続けるのだから。だが例え私が聖なるもので滅されたとしても、瘴気はどこかで新たな依巫を選ぶであろうよ。それが世の理だから。誰かが一身に集めるか、分散して吸収されるかの違いなのだよ」
「でも、気を持った人間が瘴気を浄化することが出来るのであれば、今までもそうやって浄化してゆけばよかったのに」
「そうだね。それは我が葛城家がやってこなかったと思うかな? 絢子の思う通り、我が先祖はそのようにして瘴気を薄めてきた。だが時代が明治に入ってのち、なぜだか瘴気を受け入れられるほど強い人間が急速に減っていったのだ。それとともに時代は移り変わってゆく。近世はどのような時代であったか学校で勉強しているね? その時代の変遷と、強い気を持った人間の消失が私という化け物を生み出したというわけだ。私の母も私を産むとともに亡くなったよ。ただ、唯一の救いであったのが、私という器が、膨大な瘴気を受け入れるに足る器であったということだ。それに私は絢子を得た。これも僥倖であると思っている。一度誰かがどこかで強力に浄化しなければ、我が家系のこの循環は続いてゆくのだよ。絢子、どうか私に力を貸して欲しい」
 秀斎の瞳は諦めているようにも、渇望しているようにも見えた。
 しかしその得体の知れない瞳を見続けている内に、絢子は何だか全てのことがどうでもよくなってきた。
 頭がぼうっとして、ふわふわとする。
 自分はこの葛城秀斎の伴侶として一生を終えるのも悪くないと感じるようになってきたのだ。
 秀斎は優しいし、素敵だし、自分を慈しんでくれる。
 彼の過去も聞いて、大いに胸を打たれた。
 彼になびかない女性なんていないに違いない。
 だって彼は、こんなに悲しく切ない、素晴らしい人なのだもの。
 秀斎の目を見続けてはいけない、とどこかで警鐘を鳴らすもうひとりの自分がいる。
 それを自分は煩く感じた。
 何で秀斎さんのことを悪く言うの?
 秀斎さんはひとりでこの世の瘴気を身の内に宿し、それに耐えている可哀想な人なのよ?
 部下に迷惑をかけまいと普段は瘴気を隠して、そのことにも力を使って、ようやく私を手に入れて、私を愛して、そう、ずっと愛してくれるただひとりの人なのよ?
 絢子の瞳からはぽろぽろと涙が溢れ出た。
 私はこの人のことが愛おしい。
 秀斎さんと一生を添い遂げたい。
 ほかの全てのものなんかどうでもいい。
 ああ、私さっき何て馬鹿なお願いしちゃったんだろう。
 結婚するまで抱かれたくないだなんて。
 今すぐこの人の前に私という肉体を捧げたい。
 どろどろに溶け合って、喰われるのじゃないかというぐらい貪られたい。
 そうしてこの人の子供を身に宿し、死ぬまでこの人に愛されたい。

「しゅうさいさん、いますぐ、わたしを、だいて、ください」

 秀斎は微笑みを浮かべたまま、泣き続ける絢子の肩をふんわりと抱きとめた。
 絢子はぽすりと体を秀斎に預けた。
 その瞬間、秀斎の視線が外れ、絢子の脳の片隅で響いていた警鐘はより大きくなった。


『絢子、囚われるな!』


 絢子は秀斎の腕の中ではっと我に返った。
「今、もしかして私縛心術をかけられるところだったの!?」
 絢子は秀斎の腕からぐいっと身をよじって逃げ出した。
 秀斎は自身の腕の中から逃れ、距離をとる絢子を不思議そうに見やった。
 絢子は、今度は秀斎の瞳を直視しないように慎重に視線を持っていく。
 その動きを見た秀斎は「ああ」と合点した。
「絢子、お前は『私』から逃れたのだね」
 その台詞を聞いた絢子はぎゅっと奥歯を噛み締めた。
「あなたという人は、そうやって人の心を誑かすのですか!?」
 秀斎の話は哀れに思う。
 だがそれと自分を術にかけようとしたことは別だ。
 絢子はむかむかと腹の底から怒りが湧き上がってきた。
「あなたを一瞬でもいい人なんじゃないかと思った自分を恥じます」
 しかしどうあってもこの人のことを嫌いになれないと思った自分が悔しかった。
 これは術のせいではなく、絢子自身の心の動きである。
 そのことがやるせなくて、絢子は唇を噛んだ。
 怒りなのか、憐憫なのか、訳のわからない情に突き動かされて、絢子は再度涙を零した。
「あなたは、そんな卑怯な手を使ってまで私を縛ろうとするのですか? 私が気付かないうちに少しずつ縛心術で縛り、逃げられないようにするために!」
「だが絢子、それでも私のために泣いてくれるのだね。ますますお前が愛おしくなったよ。ああ、決してお前を鬼になどやらないよ。私のために絢子は生まれてきたのだから。お前を手放せるはずがなかろう。私の子を産み、私とともに一生を歩んで欲しい」
 それは睦言にも等しかった。
 しかし、絢子にとっては単なる束縛の言葉にしか聞こえなかった。
 気の遠くなるような業を背負い、粛々と耐え忍び、術で縛ろうとするほど浄化を渇望する哀れな化け物、それが今の葛城秀斎の姿であった。
「私の自由な意思を奪い、捕らえようとした人の言いなりにはなりません!」
 絢子は目を閉じ、しかし「目」は開いたままにした。
 もう通常の視力は必要ない。
 自分は正臣からもらった気の力で周囲の気の揺らぎを「見る」ことが出来るのだから。
 部屋の四隅に転移を封じる術が込められた石が置かれているのを「見た」絢子は、目を閉じたまま膨大な風の気を四隅に送った。
「転移が出来なければ、それを壊すまで!」
 部屋中のものが荒れ狂う風に乗ってびゅうびゅうと吹き飛ぶ。
 秀斎は結界を張ってその風を防いでおり、優美と里緒はそれぞれ柱の影に避難している。
 随分乱暴なやり方だとは思うが、今の絢子が思いつくのはそれしかなかった。
「はああああ!!」
 拍手を打って力を部屋中に充満させる。
 四隅の結界は絢子の力によってそれぞれがびしりとひび割れた。
「正臣!!」
 絢子はその瞬間、正臣を思って地下室へと転移したのだった。


 あとに残された秀斎、優美、里緒はそれぞれの行動をとった。
 優美と里緒は絢子を追うべく地下へと足を運び、秀斎は何事かと部屋に駆けつけてきた部下達をいなしていた。
「秀斎様! どうなさったのですか!?」
 秀斎は辛うじて無事だった寝台の名残に腰をかけるとくすくすと可笑しそうに笑い始めた。
「ああ、絢子、お前は小鳥などではなかったね。見るも見事な大鳳
 たいほう
 であったか。それではこのような狭い鳥籠など易々と壊してしまえるだろう」
「し、秀斎様……」
「今日のところは絢子、お前の好きにさせてやろう。お前からたっぷりと愛液を受け、今この身は充実し、永らえているよ。追儺式が楽しみだ」
 そう言うと、秀斎は久しくしてなかった腹の底から笑うという行為をした。
「おお、秀斎様が笑っておられる! これは吉兆であるに違いない!」
 周囲に侍る部下達は、その秀斎の笑い声に目を見開き歓喜していたのであった。


 地下にいた正臣は突然目の前に絢子が転移してきたことに心底驚いた。
「絢子!!」
 絢子は正臣の近くに寄ろうとしてがくりと膝をついた。
 先ほど秀斎の術から逃れたのと、膨大な風の力を使ったことによって、思ったよりも気力を消耗していたのだ。
「正臣、今助けるから!」
 ぎゅっと拳を作ってぐぐっと立ち上がった絢子は、正臣を拘束している器具に術がかけられているのを「見る」と、それに取り付いた。
「私の気で術を相殺します!」
 絢子は息を整えると、ぎゅっと目を瞑り、次にかっと目を見開いた。
「はあっ!!」
 正臣の片手の拘束具にぴしりとひびが入る。
 その瞬間、正臣を捕らえていた術が跡形もなく消え去った。
 それと同時に扉がどんどんと叩かれ、中に人がなだれ込んできた。
「ありがとう、絢子ちゃん!」
 正臣はにっと笑うと、気力を使い果たしてすうっと気を失いかける絢子を抱いたまま藤原匠の屋敷へと転移したのであった。


「動くな!!」
 地下室に入った全員の動きが、事態を察して影のように現れた冴の一言でがくんと止まった。
 冴はさっと全体に目をやると拳を握り締め、ぶるぶると震えながら正臣が転移した残滓を追った。
「鬼めが! わたくしの小鳥に連れられて逃げ延びたか!」
「冴、あれは小鳥ではなく大鳳だったよ」
「秀斎様!」
 その声に振り向くと、部下を引き連れた秀斎が部屋に入ってきた。
「申し訳ありません、秀斎様、せっかくの鬼をあっさりと逃がしてしまって」
「冴、案ずるでないよ。隠形鬼は置き土産を残していった」
 そう言って秀斎はつかつかと拘束具に寄ると、そこに残っていた正臣の血をべろりと舐めとった。
「この血を使って、四性の鬼を捕らえる薬を調合するのだ」
「はっ!」
「それに、私には退魔の一族が捕らえた中級の鬼がいる。それを喰らって追儺式までに備えるとするよ」
「御意」
 頷いた冴は、今度は優美と里緒を見やると、壮絶な夜叉の顔になった。
「お前達は一体何をしておったのじゃ? 秀斎様をお守りすることもせず、のこのこと小鳥についていきおって!」
 それを見た秀斎はふわりと冴の肩を抱いた。
「冴、冴からの咎めはなしだよ? この子達は私の指示に従って行動したのだから」
 にこりと笑う秀斎は、冴の気に当てられじりじりと後退する優美と里緒を見やった。
「この子らは絢子付きの侍女達だよ? 絢子が帰ってきたときにいなくなっていては可哀想であろう?」
「ですが秀斎様……!」
 悔しげに顔を歪ませる冴を見た秀斎は冴を自分に向かせるとおもむろにその唇を奪った。
「んっ!」
 角度を変えながら、秀斎は冴の唇を何度も啄ばむ。
 秀斎は口付けの合間に甘やかな声でこう告げた。
「冴、今ここで隠形鬼を連れてきた褒美をくれてやろう」
 怒り心頭に発していた冴はその言葉を聞くとすぐに切り替わり、今度は秀斎の唇を陶然と貪り始めた。
「ああ、秀斎様ぁ」
 そのまま秀斎は目を閉じて彼の唇を堪能している冴を見ると、次に優美と里緒に流し目をくれた。

『さあ、出てお行きなさい』

 秀斎からそう指示をもらった二人と部下達はさあっと潮が引くように地下室をあとにした。
 部屋に残ったのは秀斎と冴の二人だけ。
 程なくして地下室からは冴の善がる声が聞こえてきたのであった。



[27301] 記憶へ ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/08 19:40
 藤原邸。
 使われていない部屋の一室に転移した正臣は、その場に膝をつくと、そこで気を失った絢子をぎゅっと抱き締めた。
「絢子、絢子、目を開けて」
 正臣は頬と頬をぴったりと合わせ、耳元で囁く。
 次にうっすら開いた絢子の唇に自分のそれを重ね合わせると、気付けの気を送り込む。
 その気に導かれ、絢子ははっと息をついて目覚めた。
 彼女は正臣の顔を認識するや否や、彼に掴みかからんばかりの勢いで質問した。
「正臣!? 大丈夫!? 血が出ていました!」
「ああ、それならもう止まっているよ。内臓の損傷も修復済みだ」
「本当に?」
「俺は大丈夫だよ。それとここは匠の屋敷だ。もう心配ない」
 絢子は正臣の頬に両手を置き、彼の顔をじっと見つめる。
 彼女に見つめられた彼の瞳はゆらゆらと揺らめいていた。
「正臣、私……」
「絢子が無事で良かった」
 そう言うと正臣は絢子を再度きつく抱き締めた。
 絢子は目を見開いた。
 正臣のその性急な抱擁は、それだけ絢子のことを心配していた表れであったからだ。
 自分も危機に陥っていたというのに、正臣はどこまでも絢子のことだけを心配していたのである。
 その温かい腕の中で、絢子は今まで張り詰めていた緊張が解けたのかぼろぼろと泣き出した。
「うっ……、正臣っ、ごめんなさい」
 しゃくりあげながらそれだけを言って、絢子も正臣にしがみつく。
 二人の間ではただそれだけで良かった。
 言葉はなくとも、お互いの気持ちを触れ合った皮膚から、体温から、声から感じ取っていたのだ。
 そして今このときだけは、絢子も正臣もひとりの人として互いの無事を喜び合ったのであった。




 ――藤原匠の屋敷に四性の鬼が集められた。

 絢子は幸か不幸か葛城家の手のものから職場に病欠を届け出されていたので、仕事を大っぴらに休むことが出来ている。
 悠真も学校を休んできており、直人、颯太は匠の口添えと、各々の有給を無理矢理前借して来ている。
 広い応接室には、絢子、正臣、颯太、直人、悠真が集まっていた。
 悠真が真剣な表情で大人達を見回す。
「これは好機だよ。今こそ葛城秀斎を討つべきだと僕は思う」
 その、今にも飛び出しそうな悠真を颯太が押し止めた。
「逸る気持ちはわかるけれどね、なぜ僕らがここに来たのかを忘れてはいけないよ」
 颯太に止められた悠真はぶうと頬を膨らませたが、しかし一歩引いた。
「うん、それは僕だってわかってるよ。今、やることがあるんでしょう?」
 その言葉とともに応接室のドアが開いた。
 そこに現れたのは藤原匠とその妻珠希であった。
「今日は珠希さんに未来を見てもらうために集まったんだよね」
 悠真は匠の傍に控えている珠希に目をやった。
「珠希さん、お願いです、どうか力を貸してください」
 彼の目を見た珠希はにこりと微笑むと、その場で両手を祈りの形に組み、目を閉じた。
 その彼女の周囲からは靄のような気がゆるゆると渦を巻き始めた。
 それを見た絢子は目を丸くする。
「珠希さんって能力者だったの?」
 絢子のその心の呟きを聞き取ったかのように匠が答えた。
「私の妻は先見の力を持つものなのです。その力は私の子供達にも受け継がれていますよ」
 だから匠と珠希の子供である義晴と詩乃にも未来を見る力があったのかと絢子は合点した。
 しばらくして渦が治まると、珠希はふうと長いため息をついた。
「今、これから起こり得るであろう未来を見てきましたわ。見えたのは、どこか深い山の中で葛城勢が追儺式を行っているということ、そして、今のまま彼らと相対したのであれば我々は必ず負けるということです。我々は彼らに喰らい尽くされ、絢子さんは葛城秀斎の伴侶として添うことになるでしょう」
 それを聞いた一同は一様に険しい表情になった。
 直人が腕組みをしながら言う。
「追儺式か。葛城秀斎はその追儺式に合わせてこちらに仕掛けてくるのだろう。私は悠真の言うように準備が整っていない今、討って出るべきだと思うのだが」
 それを聞いた匠はしばし皆を見回した。
「追儺式まで待つ」
「どうしてさ!?」
 悠真が驚いた表情で匠に聞く。
「今向こうは追儺式の準備や、正臣の血から取った毒の生成に明け暮れているよ? この混乱に乗じて一気に叩くほうが、都合が良いんじゃないの?」
 首を捻りながらいう悠真に、匠は厳かな声で言った。
「確かに今ならば葛城秀斎に深手を与えることが出来るだろう。だが、彼を根絶するには至らない。今の我々には欠けているあるものがあるからだ」
 そう言うと匠は絢子をじっと見つめた。
 絢子は彼のその視線に怯まず、しっかりと受けた。
「勝てない原因、欠けている要因は私ですね? 私はまだ紀朝雄の力を十分に使えるわけではありません。戦いでのここぞというとき、私の力が足りないということで我々は負けると、珠希さんが見た未来はそういうことなのですね?」
「貴女はやはり察しがいい」
 そう言って、匠はふっと笑みを浮かべた。
「貴女にはこれから正臣の力を借りて夢の中、記憶の奥深くに潜ってもらいます。そうして藤原千方と四性の鬼を倒したときの、和歌の力の源にある言霊(ことだま)を見つけて来てもらうことになります。それが私達を勝利へと導く鍵となるのです」
「はい、わかりました」
 きっと目を開き、しっかりと背筋を伸ばして地面に立つ絢子である。
 その立ち姿は、自分の運命を受け入れている人のそれであった。
 そんな絢子を正臣はいくらか眩しそうに見やった。
「匠、そういうことならば、俺達は早速支度に取り掛かることにするよ」
「ああ。正臣、絢子さんを頼んだよ。ほかの者は追儺式までに各々の準備を整えておくように」
 そうしてその場は解散となったのである。




 ――時はしばし進んでゆく。

 東京の西部には未だに深い森林が残っている。
 普段はほとんど人が訪れることのないその森林の一角で、まるで巨大な能の舞台を作っているかのような工事が行われていた。
 そして、その工事はつい先ほど完成したようである。
 粛々と片づけが行われている最中、その場に見学者のごとく佇んでいる二つの影があった。
「追儺式まであと二日ですねえ。工事も間に合って良かったですね、いろいろと順調に進んでいるじゃないですか」
 そこにいたのはにやにやと笑みを浮かべた蔭原浩介と、寡黙な表情で控える治郎であった。
「あなたをここに呼んだのは、退魔の一族の仕掛けをこの周囲に張ってもらうためです」
「はいはい、呑気に物見遊山に来たわけじゃないことぐらいわかっていますよ」
 そう言うと、浩介はにやりとした笑みを崩さぬまま懐から何かの呪符の束を取り出した。
 それを右手の人差し指と中指で挟むと、そこにふうっと息を吹きかけた。
 すると、呪符はむくむくと形を変え、三十六匹の生き物へと変化した。
 その大小様々な生き物は浩介の号令で能の舞台を取り囲むように散っていく。
 治郎が、彼には珍しくほうと眉を上げる。
「それが噂に聞く『三十六禽』ですか。退魔の一族が使役する式とのことですが、見事な具現化ですね」
 浩介はぱんっと拍手を打つと、その生き物達を置物に変化させた。
「ええ。ああそうだ、治郎さんはご存知でしょうがね、この式・式神ってのは陰陽道で陰陽師が使役する鬼神のことで、識神(しきじん)とも言うんです。俺が今使った『三十六禽』ってのは大集経の十二獣から派生した精霊で、人間を混乱させる魔物のことです。時間帯によって出現する獣が決まっているので時媚鬼(じびき)とも呼ばれるんですがね。まあでも、俺の力はこの程度ですよ。『三十六禽』を掌握するので、俺の力の大半を使っちゃってますから」
 とは言いつつも、浩介は余裕の表情である。
「お、そうこうしている内に美人の登場だ」
 浩介は能の舞台の中心へと目をやった。
 そこにはスーツ姿の望月冴が影とともにゆらりと現れたのだ。
 冴は舞台一帯に巨大な結界を張った。
 静かに、早く、結界が完成してゆく。
 それは一度まるで大文字焼きのように煌々と光ったあとその姿を消した。
 冴はまた現れたときのようにゆらりと去っていった。
「おー、あれが甲賀五十三家現筆頭の張る大結界ですか。結界も本人に似てとても綺麗なんですねえ。隙がない」
「ええ。この大結界を張る力は現筆頭ならではのものです。あなたと冴とで二重に結界を張っておけば、四性の鬼を捕らえるのも可能でしょうね」
 その治郎を見た浩介はにやにやとした笑いを収めることなく話し始めた。
「さて、あとは依頼されていた四性の鬼を倒す毒ですがね、順調ですよ。試作品を捕らえた中級の鬼に使ってみましたが、一撃でしたね。ただ、この毒なんですが、残念ながら四性の鬼を倒すまでにはいかないと思いますよ。彼らの血は紀朝雄の気と混ざったことにより、鬼ではなく、別の聖なるものへと変化しつつあるんです。魔を退けるものは作れても、聖なるものを退けるものは、我らはまだ作ったことがないんですよ」
 そう言うと浩介は何でもない風を装って言葉を継いだ。
「むしろこの毒、あなたのボスにこそ効くんじゃないですかねえ?」
 しかし浩介がその台詞を吐いた瞬間、隣にいた治郎から発される気が殺気へと変わった。
「私の主を侮辱する発言は許しませんよ?」
「うわ、冗談ですよ、冗談。今の俺はあなた方と戦う気はさらさらありませんから」
 浩介は「それじゃあ俺はこれで」と言うと、そそくさとその場を去った。
 その去り際、「でもねえ」と浩介は心の中でぼやいた。

「あれは、もう人間じゃねえよ」






 秀斎の閨にて。
 そこにいたのは秀斎と冴であった。
「冴、ときに聞くが、このまま私を連れて絢子の夢の中に入れるかな?」
「ええ、それならば可能ですわ。秀斎様、冴と正面で抱き合ってくださいまし」
 冴は手早く自身の服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になると、秀斎の着物もこれまた手際よく脱がせた。
 寝台の上で仰向けになった冴は秀斎を呼び込んだ。
「さあ、秀斎様、いらしてください」
 秀斎は冴に覆い被さった。
「冴を抱いてくださいませ! 気をやるほどの法悦に至ったとき、二人で夢に飛ぶことができるのですわ」
 そして果てを見た秀斎と冴は二人で絢子の夢の中へと飛んでいったのである。




 ――藤原匠の屋敷にて。
 二台並んだベッドの上で、絢子と正臣は夢の中へと入っていった。
 絢子は眠れなかったので睡眠薬をもらい、それを飲んだので、正臣はしばらく絢子の深い眠りから浮上してくるまで夢の中に入ることができなかった。
 だが、やがて絢子の睡眠が安定してくると、頃合良しと見た正臣は絢子の夢の中に入ったのである。
 夢の中で、絢子は普段の服装で佇んでいた。
 辺りを見回すと正臣がこれも普段と変わらぬ風情で立っていた。
「正臣、これからどうすればいいの?」
「俺が絢子ちゃんと一緒に前世の記憶があるところまで送るよ。ゆっくり過去を遡ろう」
 そう言うと正臣は絢子を背後から抱きしめた。
「さあ、紀朝雄に会いに行こう」
 すると周囲の空間が一気に後ろへと流れ出した。
 正面から強い風が吹いてきて、絢子は思わず目を瞑った。
 しばらくしてその風が治まったので、絢子は恐る恐る目を開けた。
 目の前には宇宙空間にいるかのような暗闇と、ちかちかと瞬く何かが光っている。
「ここは?」
 絢子に問われた正臣は微笑みながら答えた。
「絢子ちゃんの記憶の狭間だよ。ここから紀朝雄の記憶を見つけ出すんだ」
「この膨大な光ひとつひとつが私の記憶なの?」
 驚く絢子を見た正臣はくすりと笑った。
「何せ約四十六億年前に地球が出来て、最初の生命が誕生したときからの、約四十億年分の記憶だからね。数が多いのはそのためだよ」
「どうやって見つけるの?」
「それは絢子ちゃん次第だよ。ものの五分で見つかるときもあれば、一年かけても見つからないときだってあるよ。ただ、心配しないで。この記憶の中では時間の流れが違うんだ。膨大な時間を費やしたと思っても、目覚めるときは一瞬で、一夜の夢と同じぐらいの長さしか経っていないはずだから。眠り姫にはならないよ」
 それを聞いた絢子はほっとした。
「良かった、追儺式には間に合うのね」
 彼女は目を閉じて気を落ち着けた。
 自分の後ろには正臣がいて、自分をぎゅっと抱いていてくれる。
 背中の温かさに安心すると、絢子は気を飛ばして記憶を探していった。
 そんな中、正臣がごく自然にすっと絢子の背後から離れた。
 目を閉じて自分の記憶探しに集中していた絢子は、正臣が自分の周りに結界を張ったのにも気付くことはなく、正臣がなぜ自分から離れたのかにも気を回すことはなかった。

「へえ、あんたが葛城秀斎か」

 その結界の外では、正臣が葛城秀斎と望月冴と対峙していた。

「お前が隠形鬼か」

 冴の腰を抱いた葛城秀斎は紺色の仕立ての良い着物を着ており、冴はタイトな黒いロングドレスを着て秀斎にしな垂れかかってた。
「あんた、禍々しいね」
「お前は浄化が進んでいるな。羨ましくもある」
 そう言うと秀斎はその視線を愛しい伴侶になるはずのものへと向けた。
「私の絢子は紀朝雄の記憶を探しているのだね? なんと凛々しく、清冽な気であろうか」
 その秀斎の瞳は、愛しいものを手に入れることを切実に希う色を帯びていた。
 しかしその秀斎の視線を、正臣は煩わしそうに一蹴した。
「絢子ちゃんは今集中してんの。邪魔しないでもらえるかなあ? それに、絢子ちゃんはあんたのじゃない。俺・の・だ」
「ほう、私の絢子の体を弄んだ鬼が伴侶気取りか。可笑しいね」
「あんたこそ、一度絢子ちゃんの体に触れたぐらいででかい面してんじゃねえよ」
「煩いな、お前は」
「あんたこそ」
 それはお互いがお互いを敵と認めた瞬間であった。
 だが、臨戦態勢に入っている秀斎の前に冴がすっと出てきた。
「秀斎様、今は落ち着いてくださいませ。今までの鬼の気を受け、秀斎様の思考も鬼に同調してきているのではありませんか? このように逸っては倒すものも倒せなくなってしまいます」
「冴、私の邪魔をするのかな?」
 そう言うと秀斎は冴に向かって壮絶な殺気を放った。
「ほら、見てごらん、私の絢子は目の前にいるのだよ? 私は絢子を早く連れ帰って、その体を心ゆくまで貪りたいのだよ」
 びくりと怯む冴を捨て置き、秀斎の瞳が妖しく揺らめいた。
 その瞳は、今度は正臣をも捕まえようとしていたのである。

「見つけた!」
 絢子ははっと目を開けた。
 その瞬間、絢子の目に飛び込んできたのは葛城秀斎とそれに対峙する正臣であった。
 秀斎の妖しく光る双眸は正臣を捕らえようとしていたが、彼は秀斎の瞳を直視はしておらず、何とか難を逃れている。
「!?」
 絢子の体がびくりと止まった。
 秀斎の姿を見た途端、解けたと思っていたはずの術が発動し始めたのだ。
 心の中に秀斎を愛しいと、欲しいと思う気持ちが一気に湧き上がってきた。
「何で!? あのとき、術から逃れたはずじゃなかったの!?」
 殺気を放っていた秀斎はそんな絢子に気付いたのか、そちらを向くとふわりと笑みを浮かべた。
「ああ、絢子、私に気付いたのだね?」
「どうして、術は解けたはずでは!?」
 瞳を見ないようにしながら問う絢子に対し、秀斎は先ほどとは打って変わって穏やかな表情になり、丁寧に答えた。
「これは葛城家に伝わる相手の心を縛る術だよ。ほかの術師が一般的に使う『呪縛』と違って、対象の心の中に深く入り込んで、自律的に相手を支配する術なのだよ。一度術にかかったものはそう簡単には逃れられない。それこそ、生涯をかけて私の術と対峙しなくてはならないのだ」
 だが、と秀斎はその言葉を継いだ。
「私の縛心術を解いたものがいる。それは紀朝雄。絢子、お前の前世だよ」
「絢子ちゃん、紀朝雄の記憶に転移して! 俺がこの二人を外に追い出すから!」
「わかりました!」
 そう言うと絢子は先ほど見つけた紀朝雄の記憶に向かって転移したのである。
 紀朝雄の記憶のすぐ近くに転移した絢子は、その記憶をそっと胸に抱いた。
「お願い、前世の私、あなたの力が必要なの! どうか私を受け入れて!」
 そう願った瞬間、絢子の体は眩い光に包まれ、一瞬ののちに消え去ったのであった。


「絢子ちゃんは無事に紀朝雄の記憶に飛んでいったよ。あんたら、もうここには用はないはずだろ?」
 そう言うや否や、正臣は彼らの周囲に結界を張った。
「心配せずとも、俺がここであんたらを滅してやるから」
 その結界の上にすぐさま冴が巨大な結界を張る。
「ほほ、隠形鬼よ、秀斎様とわたくしを滅そうなどと、どの口がほざいているのかえ? このような結界などわたくしが一捻りに潰してやるわ!」
 しかし二人の争いを止めたのは意外にも秀斎であった。
「冴、ここは引こう。私の姿を絢子に見せたことで、術が発動した。それに、絢子が私に気付いたときに、その清浄な気を受けて私の思考も晴れた。これは賭けなのだよ。絢子が私を選ぶのか、それとも私の術を破って鬼を選ぶのか」
 秀斎はふっと笑うと正臣を見た。
「お前は私の絢子の心を繋いだと思っているのだろうが、果たして絢子は私の術に勝てるかな?」
 それを聞いた正臣はにやりと笑った。
「絢子ちゃんと俺の愛は永遠なの。あんたのだせえ術はきっと俺達の愛で解かれることになるよ」
「ほう、本当にお前の愛とやらで術が解けるのかな? これは見ものだ」
 それを聞いた正臣は結界を発動させた。

「失せな、葛城秀斎」

 その瞬間、二人の姿は一瞬にして消え去ったのであった。

 しかしである。
 二人が消え去ったと同時に、正臣もまた夢から覚めていた。
 一瞬呆然となった正臣はすぐに気を取り直した。
「これは……、絢子ちゃんが心を閉じたから俺も弾き飛ばされたのか」
 正臣はすぐに絢子の夢の中に入ろうとしたが、それは叶わなかった。
「これでは、絢子ちゃんは夢の中で、ひとりで葛城秀斎の術と戦わなくちゃいけなくなる」
 そう呟くと、正臣は起き上がってほかの鬼達に連絡を取り始めたのであった。



[27301] 過去へ(上)
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/07 00:37
「きゃああああ!!」

 絢子はものすごいスピードで天空から落下していた。
 それはまるで奈落の底にダイブしているかのような感覚であった。
 冷たい雲の中を何度もすり抜け、最後に分厚い雲の層を抜けると、一気に目の前に三百六十度、大パノラマの景色が広がった。
 果てしなく広がる深い緑の山々。
 白い鳥の群れがV字型に連なって遠くへと飛んでいる。
 眼下には巨大な湖が見え、その周囲には美しい山々が聳えている。
 その湖の近くには都であろう、きっちりと区画された都市が見えた。
 その都市から遠く離れたある場所へと、絢子は導かれるように落下していった。
「これは、空を飛んでいると言うより落ちていると言ったほうが正しいわね」
 びゅうびゅうと耳元で風がうなる。
 と、目の前に開けた大地が現れ、そこに沢山の豆粒のような何かが見えた。
「あれは、人?」
 その地には確かに多くの人が集まっていた。
 人の黒い塊はそれぞれ東西に分かれており、西側からは五つの黒い豆粒のように見える人影がその塊の前線に出ていた。
 そして今、東側の塊の中から人が一人進み出てきたところであった。

 どうやら自分はその前線のど真ん中に落下しているのだと言うことがわかった。
 地面に近づくにつれ、絢子は慄いた。
「このままじゃぶつかる!」
 彼女ははっと気付くとそこで風鬼・金鬼の力を発動した。
 体を金鬼の気で覆い、風鬼の力で地面に向かって思いっきり気を発する。
 どおおん! と、ものすごい音が広がる。
 あたり一面に広がる土煙。
 絢子の下にあった地面は丸く抉れたようになった。
 衝撃と風圧で、下にいた人達は一様に顔を覆ったようである。
 その土煙の中で、自身の周囲を轟々と吹く風に守られて、絢子は地面に降り立った。
 すとん、と地面に足がつく。
 あれだけの落下をしても、不思議なことに靴は脱げていなかった。
 がくがくと膝が笑っている。
「こ、怖かった……」
 ふと周囲を見回すと、吹き飛ばした地面、土煙の壁の向こうから何やらざわざわと気配がする。
 絢子は周囲を刺激しないようにと、動かず「目」を切り替えて状況を探った。
 その途端、突然大風が吹いた。
 絢子はまたも自身を風鬼の力で守る。
 風が土煙を一気に吹き飛ばした。

 雲間から見える青空。
 その光が差す地面の上で、絢子は驚愕した。
 現れたのは、よく見知った顔立ちであった。

「四性の鬼達、それに匠さん!?」

 目の前には臨戦態勢をとった四性の鬼達と、誰であろう、藤原匠に良く似た人物が立っていたのである。
 絢子は、ついに紀朝雄の記憶の中に来てしまったのだ。


 ここは絢子の歴史的記憶が間違っていなければ飛鳥時代のそれも後期であろう。
 中大兄皇子、のちの天智天皇がいた時代ということであるから、646年の「大化の改新」の、班田収授法や公地公民制、租庸調などが記された改新の詔(みことのり)や、663年の「白村江の戦い」での倭国・百済遺民連合軍の大敗が思い浮かんだ。
「確か天智天皇は661年に前天皇である斉明天皇が崩御したあと、長い間皇太子として皇位に即かずに称制(しょうせい・即位せずに政務を執ること)していた珍しい天皇なのよね。663年に白村江の戦で大敗を喫したあと、667年に近江大津宮へ遷都し、翌668年にようやく即位したんだったわね」
 そんなことを考えながら改めて四性の鬼と千方を見やる。
 しかし皆この時代の人物にしては何とも豪華な格好をしていた。
 四性の鬼は四人ともそれぞれに豪奢な文様の入った長袍を着ており、長紐を腰に巻き、表袴(うえのはかま)を穿き、和沓(わぐつ)を履いている。
 正臣に似た鬼は黒、直人に似た鬼は青、颯太に似た鬼は赤、悠真に似た鬼は白の長袍である。
 それをそれぞれに着崩している様はここが貴族の遊び場であるかのようである。
 そして、匠こと千方はまるで平安時代の陰陽師が着るような狩衣(かりぎぬ)をまとい、悠然と立っていたのである。
 鬼達と千方は突然現れた絢子に鋭い視線を向けている。
 彼らと、しっかりと目が合う。
 絢子はそのことに気付いて身震いした。

「私の存在が認識されている!?」

 絢子の想像では、自身は精神体のまま彼らの運命を傍観者のごとく見るのだろうと思っていたからだ。
 彼らは、突然現れた絢子を警戒しているが、しかし何者なのかがわからないため迂闊に手出しできないと言った様子である。

 と、絢子のうしろからふわりと包み込むような気が届いてきた。
 思わず振り向いた絢子の目に映ったのは、ひとりの男性であった。
 年は二十代前半であろうか。
 古代の戦装束に身を包み、髪をきちっと結い、すらりとしなやかな体躯、そして凛々しい面立ちはしかし女々しさは一切なくどこまでも雄雄しさを感じさせるものであった。
 その男性が口を開いた。

「ようこそ、我らが地へ」

 存外に心の芯に響く、良い声であった。
「現代語!?」
 絢子は驚きながらもその男性をじっと見つめていた。
「目」で見たところ、この人のまとう気は尋常ではないことが伺える。
 だが、自分に対して害意があるようには見えなかった。
 その絢子の瞳をじっと見つめていた男性は、何かに気付いたように少しばかり驚いた表情をすると、澄んだ黒い瞳をきらりと光らせ、面白そうににやりと笑った。

「戦女神よ、ようやくおいでなされたか」

 そう言われた絢子はきょとんとした。
「え?」
 次の瞬間、その男性はその場ですっと膝をつき、頭を垂れた。
 そうして男性は周囲に聞こえるような大音声で口上を述べた。
「ああ、我らに吉兆をもたらす戦女神よ! どうか我らにそのご加護を!」
 すると、男性の遠く背後にいた多くの人達も一様にざっと膝をついた。
 絢子はその行動に面食らった。
「あ……あの」
 綺麗に礼をとっている目の前の男性とそのうしろの人々。
「えっと、か、顔を上げてください!」
 言葉が通じるかもわからず、絢子はその突然の行動に恐縮して言葉を発する。
 と、しばらく経ってから顔だけを上げた男性は口の端をにっと上げ、真っ直ぐに絢子の目を見た。
「では戦女神よ、どうか小さき我々にその御名を教えてはいただけないでしょうか」
 絢子は心の中で驚いた。
「あっ! 言葉も通じている!」
 しかしそれは無理もなかろう、ここは絢子の中にある記憶でもあるからだ。
 古代語が現代語に翻訳されることぐらい、わけはないのかもしれない。
 それにしても、まさか記憶の中の人物と意思の疎通が出来るのだとは思っていなかった絢子であった。
 絢子はこの男性の言葉に一瞬警戒したが、自分の名を言わないとこの目の前の男性はこの場で一刻でも同じ体勢を取っているであろうということがなぜだか想像出来た。

「私は、松永絢子です」

 絢子が恐る恐る言うと、男性は笑顔を浮かべてこう言った。

「気高き戦女神である絢子姫、私の名は紀朝雄(きのともお)と申します。以後お見知り置きを」

「わあ……」
 その台詞は絢子にとって衝撃だった。
 紀朝雄、彼こそは絢子が最も会いたかった人物、それが、たった今目の前に跪いていたのである。
 絢子はぽかんと目を丸くした。
「あなたが、紀朝雄……」
 彼女が驚いている間に紀朝雄が立ち上がると、背後に控えていた人達もざっと立ち上がった。
 よくよく見てみると、それらは戦装束に身を包んだ朝廷の兵士達であった。

「話は済んだか?」

 絢子は振り向いた。
 すると、片手を腰に当てた千方と、一様にぽかんとした表情の鬼達が佇んでいた。
「戦女神だと? あれが? どう見ても人だろう」
 肩口までざんばらな髪を伸ばした正臣に似た鬼、隠形鬼が片眉を上げながら呟く。
「不思議ですね、私には彼女から自分と近しい気を感じます」
 長い黒髪を頭の後ろで高く結って背中に垂らした直人に似た鬼、水鬼がそう言う。
「僕には彼女から、目の前の紀朝雄と同じ気も感じるのだけれどね」
 癖のある髪の毛を右側にひとつ結びをして垂らしている颯太に似た鬼、風鬼はにこりと微笑んだ。
「でもあの人やっぱり僕らと同じ気を発しているよ」
 この時代では二十歳前後のような容貌をしている悠真に似た鬼、金鬼は、ぴょんとうしろで結わえたふわふわの髪を揺らしながら思案した。
「御主は戦女神なのか?」
 千方が眉をしかめながら絢子を検分する。
「紀朝雄に名を名乗ったところからすると、どうやらいずこかの国で名のある女神とお見受けする。が、なぜ今ここに現れた?」
「それは私が呼んだからだ」
 絢子のすぐ傍に、いつ来たのであろう、紀朝雄が立っていた。
 しれっと言う紀朝雄は、絢子の傍でにやりと笑うと四性の鬼と千方を見た。
「神仙のご加護を得た我らは今や無敵。さて各々方、今ここで、剣を合わせるのは愚の骨頂ではないかな?」
「やってみなくばわからないだろうが」
 千方はそう言うが、突然現れた絢子への警戒はまだ怠っていないようだ。
 しかし、そんな状況にも怯まず佇む絢子を見ていた四性の鬼達は何やら首を傾げ始めた。
「……俺さあ、なんかやばい。もしかしたら、運命の人に出会っちゃったかも?」
「私のこの胸の内に宿る感情は何だ? ざわめきが止まらない」
「僕にとって、目の前の女性はどのような意味を持つと言うのだろうか?」
「なぜだろう、僕、この人にどこかで出会ったことがある気がする。でも何で?」
 悠真に似た鬼、金鬼がふらりと一歩進み出た。
「ねえ、お姉さん、僕達、前にどこかで出会ったことない?」
 その金鬼を止めるものはいなかった。
 と、身構える絢子の肩に手を置くものがいた。
 それは紀朝雄であった。
 さらに肩に手を置かれた瞬間、紀朝雄の思考がどわっと流れ込んできた。
「絢子さん、私の来世よ。動かないでくださいね。申し訳ないのですが協力してもらえますか?」
「……。え?」
「そのまま大人しく向こうに捕まってもらえます?」
 絢子は前を向いたまま目を丸くした。
「あなたが私の来世だってことは目を見たときにわかりましたよ。私の力を送りますから、ここはひとつ、さくっと捕まっちゃってください。あなたなら、この私の意思をきっと理解できますから」
「えええええ!?」
 その途端、肩からものすごい量の気が送られてきた。
 絢子は全身でそれを受け止めた。
 その間も金鬼はゆっくりと近づいてきている。
 気を送られた絢子は瞬時に決意すると、警戒しながらも金鬼に目を向ける。
 紀朝雄は絢子の背後からさっと離れて距離を取った。
 そうやって、絢子と金鬼の距離は少しずつ縮まっていった。
 紀朝雄も、ほかの四性の鬼と千方もその動向をじっと見守っている。
 ついに触れ合えるほどの距離まで近づいてきた。
 すると、金鬼はおもむろに手を伸ばし、絢子の頬をすっと撫でた。
 そのまま、金鬼は絢子の頬を優しく撫で続ける。
「お姉さん、逃げないの?」
 絢子は未だ、紀朝雄の力を完全に使えるわけではないし、無防備なときに伊織に連れ去られた前科がある。
 だが、今は違う。
「目」で見る金鬼の気は穏やかで、しかしどこか不思議そうに揺れている。
 紀朝雄に言われたせいもあるが、相手が自分を害する気がないのだと言うことを絢子は確認した上で、その場に佇んでいたのだ。
 そんな絢子から何かを感じたのであろうか。
 やがて、金鬼は絢子をふわりと抱きしめた。
 周囲からぎょっとする気配を感じる。
 しかし、それでも絢子はじっと金鬼のなすがままになっている。
「こうやっても、逃げないのはなぜ? 僕、金鬼だよ? あなたを抱き潰しちゃうかもしれないよ?」
「あなたはそれをしない。なぜなら、あなたには私に対する敵意がないから」
 絢子は冷静に答えた。
「ふふ、お姉さん、僕がお姉さんと戦うつもりがないことを良くわかったね。でも、敵意がなくたって、遊びで人は殺せるんだよ。それでも僕から逃げないのは何で? やっぱり僕達、どこかで会っているんでしょう?」
「それは秘密にしておくわ」
「そんなこと言うと、離してやらない」
 そう言うと、金鬼はにやっと笑い、ぎゅっと絢子を抱きしめた。
 絶妙な力加減で金物のように絢子を閉じ込める金鬼の腕は、僅かも緩むことがないように見えた。
「僕の腕の中からは絶対に逃れられないよ」
 金鬼は絢子を腕に囲いながらくるりとうしろを振り向いた。
「僕決めた。このお姉さん、僕のものにするから! いいよね千方!」
 金鬼はきらきらとした瞳を千方に向ける。
「好きにするがいい。だが、何やらあっけなかったな。紀朝雄よ、呼び出した女神とやらがこのように簡単に捕まり、お前も拍子抜けしていることだろう」
「さあて、どうかな?」
 そう言うと紀朝雄はくるりときびすを向けた。
「皆のもの、一時撤退だ!」
 困惑する兵士達をよそに、紀朝雄は悠々と去っていく。
 絢子を腕の中に抱えた金鬼はいたくご機嫌である。
「うわあ、今日はとってもいい日だねえ! 紀朝雄を退けたばかりか、こんな戦利品まで手に入っちゃうんだから」
 金鬼は絢子を横抱きにすると、陣へと戻っていったのであった。






 絢子は困惑していた。
 まさか自分が前世の四性の鬼達と出会うことになろうとは。
 絢子は紀朝雄がどうやって縛心術を解いたのか、どうやって力を使いこなしているのかをただ知れればそれで良かったのだが、現実(と言ってもいいのだろうか)はそう簡単にはいかなかった。
 気付けば絢子は金鬼に捕らわれ、藤原千方の屋敷へと連れ去られているではないか。
 それでも、以前の絢子と違うのは、これは自らしっかりと判断して敵陣へと飛び込んでいるということであった。
 その証拠に「目」で絶えず周囲の状況を探り、金鬼の気をまとい、いつでも隠形鬼の転移の術を使う心積もりをしている。
 やがて千方一行は、大きな屋敷へと辿り着いたのであった。
 ここへ来る間、絢子は一般人の生活を僅かながら垣間見た。
 集落では、藁葺きの竪穴式住居の家々が立ち並び、米をためる高床式倉庫があり、田畑では農民が農作業に精を出している。
 どこからか煙が立ちのぼり、煮炊きをしているようである。
 一般人の生活は、弥生時代からそう大きく変わっているわけではなかった。
 着ているものも、一枚布を頭から被り、紐で腰の辺りを結んでいるという簡素なもので、女性はやや長めのワンピースのような形の一枚布を着ており、これもまた紐で腰の辺りを結んでいるというものであった。
 対して、豪族・藤原千方の屋敷に近づくにつれ、その様相は様変わりする。
 塀に囲まれた飛鳥様式の建物が立ち並び、それら全てが千方のものであるという。
 複雑な柱の組み合わせからできた建物が連なっており、建物によって、台所、馬屋、主人の住む正殿(せいでん)、従者の住む家などとその役割が違っているようである。
 広さにして、東西120m、南北103mほどのほぼ正方形の広い敷地である。
 中で暮らすもの達は、たっぷりとした生地を使い、特に侍女のような人達は袖から足先まで覆うような服を着ている。
 まるで天と地ほどの差があるように見受けられるが、一般人の生活は形こそ粗末であるものの、活気に満ち溢れていた。
 食料も豊富にあるようで、集落で遊ぶ子供達の血色は良かった。
 それを見た絢子は、この地を治める千方の手腕に密かに感心したのであった。
「一般人を飢えさせないということが上に立つものの務めだわ。千方はそれをどんな形であれ行っている。彼は高い位を願い出て、それが受け入れられなくて朝廷に反旗を翻した人とのことだけれど、国司としての手腕があるのはよくわかったわ。いいえ、それとも、これは四性の鬼達の力なのかしら」
 そんなことを考えていると、絢子は金鬼にとある部屋に連れて行かれた。
 座敷牢のような部屋は、しかし明るく清潔で罪人を閉じ込めておくような部屋には見えなかった。
「ここで待っててね。お姉さんには今日の夕餉の余興として出てもらうことになるから」
 そう言って金鬼は去っていった。
 あとから入ってきたのは三人の女性であった。
 下働きの女性であろう彼女達は、絢子の身だしなみを整えさせ、着替えさせると、すぐさま部屋を出て行った。
 絢子が着せられたのは色鮮やかな袖の長い短袍であった。
 下半身には床に引きずるような裳を二枚穿いており、襪(しとうず)という指の分かれていない足袋のような靴下も履いている。
 髪はうしろでまとめられ、絢子のセミロングの髪は当世風の頭のてっぺんにふくらみを持たせる形にしてある。
「何これ、まるっきり賓客の扱いじゃない」
 絢子は歴史を紐解いていた。
「この衣装も、この髪型も、高貴な身分の女性がするものよね。まさか、私が女神だなんって信じたわけではないでしょうけれど、何だってこんなに手間をかけるのかしら」
 夕餉まではまだ時間がある。
「目」でこの屋敷の中のことは把握しているが、如何せん、紀朝雄の真意がまだわからない。
 やることがなくなった絢子は「目」で屋敷全体を探りながら、先ほど考えていたことの続きを頭の中に浮かべ始めた。
「豪族の千方がなぜ朝廷に反旗を翻せるほどの力を持っていたのかってのは疑問よね。それに、藤原千方の四鬼が和歌によって改心すると言うことだけれど、調べて見るとこの『和歌によって改心』と言うくだりは何か別の意味が隠されているように思えてならなかったのよね。だって単純に考えて、いくら古代の歌が呪術的な力を持っていたと仮定しても、あの千方に従う四性の鬼がそう簡単に改心して紀朝雄になびくはずないもの。それには伝説そのものを歴史・地理的観点から見直してみる必要があるんじゃないかしら」
 絢子は自分の中から湧き上がってくる知識と考えを組み合わせていった。
「まず、当時の古代伊賀国四郡〔伊賀郡・山田郡・阿拝(あえ)郡・名張郡〕という地区分けに見られる四と言う数字と、その地域で起こった四鬼の伝説とが偶然にも符合するのよね。四鬼とはそれぞれ金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼だけれども、金鬼の『どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ』という鉄や鉱物に関係するくだりから考えるに、この四郡に住んでいたのはもしかしたら製鉄技術を持った技能集団だったのではないかしら。阿拝郡には敢国神社・須智荒木神社など金山系の神社があるので、そこが金鬼の郡なのではないかと考えられるわ。それと風鬼・風も考えようによっては製鉄に関係するわね。『もののけ姫』の製鉄所なんかを想像すると、釜の火を熾(おこ)すには大量の風が必要だもの」
 絢子は「では金鬼・風鬼は製鉄技術を象徴したものと考えると、残りの鬼は何に当てはまるのかしら」と考えた。
「水鬼を治水技術、もしくは大きな川と考えると、当てはまるのは名張郡ってところかしら。名張郡には名張川という、木津川水系の支流で今の奈良県・三重県・京都府の県境付近を流れる一級河川があるもの。それに名張川上流には水を司る宇流富志弥神社や名居神社があるし。とは言っても『水を司る神社』と言うだけならば全国各地にあるから決定的な証拠にはならないのだけれどね。そして隠形鬼はそれら四郡にいる技能集団をまとめる連絡係のような存在、後世の忍者に通じる隠形の術を持った集団と考えると、強引だけれども何とか辻褄を合わせることができるわ」
 絢子はあくまで今自分に起こっている事象を脇において、歴史的観点から考察し始めた。
「そしてこの時代に製鉄・製銅技術を持ち、それによって富を得ていた集団と言うことから考えると、その集団とは百済系の移民かしら。彼らは先進的な知識・技術を持っていたから、もしかしたらってこともありうるかもしれないわ。それにこの時代の日本は百済と交流があり、扶余豊璋(ふよほうしょう)という、日本と百済の同盟を担保する人質という名目で朝廷に滞在していた百済王子がいたり、日本に帰化する技能者も少なくはなかったりしたって言うからねえ。それに天智天皇亡き後も、朝廷側から見た未開地を、朝鮮半島から来た人々の先進的知識・技術で開拓したいという朝廷の思いが、要衝に渡来人を集め、群を配置したと言われているという話も聞くし。でも、果たしてそれらの地域に百済系の移民が住んでいたのかはまだ調べていないから、これは単なる私の推察に過ぎないのだけれど」
 考えを煮詰めていくとこのような考察に至った。
「もしかしたら藤原千方の四鬼の伝説に登場する『四鬼』とは、歴史的に考えると当時の古代伊賀国四郡と、その郡司のことをさすのではないかしら。豪族である千方が強力な力を持てたのは、優れた技術を持っていた四郡を支配し、さらに伊賀全土を治めていた国司のような存在だったからではないかと考えられるわね。そして千方は彼らをまとめる手腕があったから、富と力を得られたのではないかしら」
 絢子はそこから和歌について話を戻した。
「先ほどの和歌についてだけれど、紀朝雄が藤原千方を倒す際に重要となってくるのは、四鬼が改心したと言うところだったわ。それでは『和歌』という方法に暗示されるものとは一体何かしら」
 ううんと絢子は頭を捻った。
「まず紀朝雄が矢文で撃ったという『草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の棲なるべき』という歌の意味である『ここは天皇の住む土地だから鬼の棲むところではない』からは特に改心できるような内容を読み解くことが出来ないわ。私だったら『棲む』と言う文字からわかるように動物呼ばわりされたら良い気分はしないわよ。ただ、なぜ四性の鬼達はこの和歌を見ただけで改心したのかしら」
 しばらく考えたあと、絢子はひとつの考えに至った。
「なぜ改心したのかは今もって謎のままだけれど、この言葉に至る過程に何かあったのではないかしら。例えば、裏取引とか。最初は武力で制圧しようとしていた朝廷軍だけれど、千方があまりにも強かったからやり方を切り替えたのね。そしてそれが四性の鬼達にとって利益があったから、鬼達は千方の元を離れたのではないかしら。それが何かは今のところわからないけれど。この圧倒的な武力ではなく、裏工作を使って豪族の力を削ぐのは、日本神話に登場する人物で日本の初代天皇である神武天皇が、宇陀や磯城の豪族を攻略していくような方法に似ているのよね。四鬼が紀朝雄の和歌によって改心する、つまり様々な政治的工作によって千方の支配下から離れると、千方はそのことによって力を失って討伐されるに至ったのではないかしら」
 そこまで考えると、丁度機を見計らったかのように座敷に人が入ってきた。
「お迎えにございます」
 それを聞いた絢子はすっと立ち上がった。
「でもあんまり歴史的に考えても、今起こっているこの不思議な現象に対する説明はつかないのよね。ここはひとつ、社会科の教師を志すものとして古代にタイムスリップできてラッキーぐらいに考えておくほうが身のためよね」
 そう心の中で呟くと、絢子は迎えの人について歩き始めたのであった。




 ※今回記述した歴史・地理的考察はあくまでフィクションです。
 史実も踏まえてありますが、未だわかっていない部分も多くあるため、正確な考察というわけではありません。
 そこのところをご理解頂いた上で楽しんで頂けると幸いです。



[27301] 過去へ(下) ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/08 19:14
 絢子が連れてこられたのは大広間であった。
 板張りの廊下を歩いている間、進行方向にある明かりのともった広間からはやいのやいのと喧騒が聞こえてくる。
 そして、部屋にたどり着き、広間を目にした絢子は口をあんぐりと開けた。
 床に散らばる沢山の食事。
 広間のそこかしこで絡み合う半裸の男女。
 あちらこちらで酒が入っているのであろう、気分がよくなって踊りだしている男達。
「これが、夕餉の余興ですって?」
 そこはまるで酒池肉林の図であった。
 絢子がやってきたことに気づいたのは千方だった。
 彼は両手に諸肌脱いだ美女を侍らせ、酒を注がせている。
「おお、今宵の客が現れたぞ! 皆のもの、この方は戦女神である、拍手でお迎えせよ!」
 ぱらぱらと拍手の音がする。
 あちらこちらでへべれけになっている男達は、絢子の姿にでれっとしたり、ぽかんとしたりした表情で見つめている。
「このお方、女神だとよ! 胸でっけえなあ!」
「女神ってことは俺達を天にも昇る気持ちにしてくれるってことだよな? な?」
「おい、女神さん! アメノウズメのように俺達の目を楽しませてくれよ!」
 絢子はそんな野次に怯まず、真っ直ぐに広間の中心に足を運んだ。
 千方は時折傍に侍る美女の胸やら尻やらを揉んで、彼女らに嬌声をあげさせている。
 それは四性の鬼達も同様で、それぞれ気に入った女を膝の上に抱えて、着物の裾から手を差し入れたり、首筋に顔を埋めたりしている。
 その彼らの仕草を、目を逸らさずに見つめる絢子はこう思った。
「匠さんや皆の顔をしていても、この目の前の人達は別人。来世ではあんなに素敵な人達になるのだから、ここは我慢するのよ」
 そんな、目の前の痴態を眉一つ動かさず見つめている絢子を見た千方は、面白くなさそうに眉根を寄せた。
 よく響く声で広間にいる男達に問う。
「女神はこの余興がお気に召さないらしい。さて、皆のもの、どうしようか」
「ここはひとつ、女神様に脱いでもらうってのはどうですか? 俺達と一緒になれば、女神様も気持ちよくなるでしょうよ!」
「おお、それいいなあ!」
「脱げ! 脱げ!」
 手拍子とともにその声はだんだんと大きくなる。
「「脱げ! 脱げ!」」
 わあわあと声を出す男達。
 絢子はその中ですうっと息を吸うと、両手を胸の前にゆっくりと持ってきた。
 そして、思いっきりぱんと拍手を打った。
 その瞬間、部屋の中は轟々と荒れ狂う風に呑まれた。
「うわあああ!?」
「ひええええ!?」
 烈風が、しかしそれは部屋自体を壊すことはなく、部屋の中にいたすべてのものをぐわあっと持ち上げ、振り回す。
 そんな中で千方と四性の鬼達はそれぞれに気を張り自らを守っている。
 やがて風が治まったあと、部屋の中には気を失った女達とがくがくと震える男達がいた。
「め、女神様、申し訳ございませんでしたああ!」
「祟らないでくだされー!」
 跪き、頭の上で両手を合わせてがくがく震えているものもいる。
 その場は一気に緊張した。
 女と戯れていたはずの千方と四性の鬼は、自身を守るついでに守っていた気を失った女を放り出すと、絢子を取り囲んだ。
「御主、それほどの力を持ちながらなぜ我々に大人しく捕まったのだ? やはり紀朝雄が呼んだだけはあると言うことか」
 絢子はそう問われるのを聞きながら内心で驚いていた。
 紀朝雄から気をもらったことにより、今までにないほど力が使いやすくなったのである。
 さらに一度気を放出したことによって、絢子の中に眠っていた紀朝雄の気が、箍が外れたかのように一気に溢れ出して来たのだ。
 猛る気の放出そのままに、絢子は四性の鬼達に目をやった。
 彼らは緊張していたが、なにやら様子がおかしい。
「何だ? この女の気にあてられたのか? 体の奥が、熱いっ!」
 隠形鬼が自分の胸を押さえて蹲った。
「ああ、私の目に映るあなたは何と美しいのだろうか」
 水鬼が恍惚とした表情で絢子を見る。
「今わかった。僕の役目はこの女神を手に入れることだったのですね」
 風鬼が感極まった様子で瞳を潤ませる。
「お姉さん、僕だけの、大切な宝物……」
 金鬼が頬を紅潮させながら絢子に近づいた。
 そうして今にもごろごろと喉を鳴らしそうな金鬼に抱きしめられたとき、絢子は自分の役割をはっきりと悟った。
「まさか……。紀朝雄は力の解放と引き換えに、私に四性の鬼達を篭絡しろと言っているの!? 私に『和歌』の役割をしろと!」
 絢子は「目」で自分の体を見た。
 紀朝雄からもらった気が、より本来の自分の気を強くしている。
 金鬼が心地よさそうに絢子に頬をすりすりと擦り付ける。
「わ、私、マタタビじゃないのよ!」
 一瞬途方に暮れそうになったが、すぐに気を取り直し、絢子は素早く考えを巡らせた。
 現世の絢子は四性の鬼達とそれぞれに口付けの『許可』を出している。
 その『許可』によって、絢子の気が四性の鬼達の体内に取り込まれ、鬼の気が浄化されていたのだ。
 しかしこの時代、まだその制約が彼らにかかっていないかも知れない。
「私の力でその制約をかけ、四性の鬼の気、残虐性を中和することができたら」
 ぐっと両手を握ると、絢子は金鬼の顔に手を添えた。
「一か八か、やってみるしかないわね……」
 金鬼の瞳をしっかりと見つめると、絢子は唱えた。

「金鬼よ『力の譲渡と口付けを許可します』」

 その瞬間、金鬼と絢子の間にぱちんと光がはじけるような感覚があった。
「やった! かかった!」
 しかし絢子が喜んだのもつかの間、千方が声を上げた。
「御主、何をした!?」
 千方が素早く印を組んで臨戦態勢を取る。
 その千方に暴れられては困ると思った絢子は、紀朝雄の気を使って呪縛の術をかけてみることにした。

「縛!」

 その瞬間、千方の動きが封じられる。
「よし!」
 だがこの術も妖術師である千方が解くにはそう長くはかからないだろう。
 もがく千方を尻目に絢子は限られた時間の中で最善を尽くすことにした。
 すっと背伸びをすると、背の高い金鬼に口付けをした。
 とろんとした表情の金鬼は唇を開き、絢子を受け入れる。
 絢子はすぐさま体から溢れ出ている自らの気を送った。
 そのまま、絢子は金鬼を優しく抱きしめた。
 金鬼が少しばかり驚いたように目を開ける。
 しかし、それはすぐに治まり、代わりに目からぽろぽろと涙を流し始めた。
 唇を離した金鬼は泣きながら絢子にぎゅっとしがみついた。
「何だろう、この感情、心の中から溢れてくる……。僕……、僕、誰かにこんなに愛されたことって、ないよ」
 今まで、金鬼は人を人とも思わずに簡単に手にかけてきたのであろう。
 それが、絢子の気に触れることによって、どんな形でかはわからないが愛を知ったのだ。
 絢子の耳元で金鬼は小さく呟いた。
「そう、あなたは愛が何か知らなかったから、遊びで人を殺すことが出来たのね。私の気で、それが少しでも理解できるのであればいいわね」
 ずっと金鬼の腕の中にいるわけにも行かず、絢子は金鬼に離すように促した。
 しかし金鬼は絢子を離そうとしない。
 困った絢子であったが、おあつらえ向きに、風鬼が絢子に近づいてきた。
「あなたの困った顔を見ていると、なぜだかどうしても放っては置けません」
 これ幸いと絢子はくるりと向きを変え、風鬼に向かって腕を伸ばした。
 金鬼に背後から抱きつかれながら、絢子は風鬼の瞳をじっと見つめた。
 風鬼は自分がなぜ絢子に惹かれるのか戸惑いながらも、それでも金鬼の腕の中から絢子を助け出そうとしている。
 絢子は金鬼を抱きつかせたまま、風鬼に相対した。

「風鬼よ『力の譲渡と口付けを許可します』」

 またも絢子と風鬼の間でぱちんと光がはじけた。
 誘われるように風鬼が絢子に口付けを落とす。
 絢子が口を開くと風鬼が舌を差し入れてきた。
 くちゅくちゅとお互いがお互いを慰めながら、しかし絢子は機を見て風鬼に気を送り込む。
 風鬼は瞬きをしたあと、何かを得心したように絢子から唇を離した。
「僕の愛しい人。僕はあなたに出会うために、今ここに生まれてきたのですね」
 そう言うと絢子の頬に口付けを落とした。
「二人とも、私も混ぜてはくれないかな?」
 壮絶な色気を放ちながら水鬼が絢子の下へ近寄ってきた。
「来て」
 絢子がそっと呼ぶと、水鬼は風鬼と場所を変わった。
「あなたの唇は本当に美味しそうだ」
 そう言うと水鬼は絢子に何も言わせず、すぐさまその唇をねっとりと貪り始めた。
「しまった……!」
 絢子は心の中で歯噛みした。
 これでは気を送ることができない。
「はぁんっ」
 しかも水鬼は巧みに絢子を追い上げていく。
 口付けだけで腰が砕けそうになる。
 水鬼は体をぴったりと密着させると、後ろにいる金鬼を壁代わりにして絢子の全身を弄ってゆく。
 金鬼の気で体を守っているにも拘らず、たったそれだけで体の奥がじんとしてくる。
 もう駄目かと思ったとき、突然背後にいた金鬼が絢子をべりっと引き剥がした。
「お姉さんは僕のだよ!」
 がるるるとうなり声を上げそうなぐらいの勢いで、金鬼は水鬼を睨み付けた。
「よくやった金鬼!」
 心の中でガッツポーズを取ると、絢子は気を奮い立たせて水鬼の目をしっかりと見つめた。

「水鬼よ『力の譲渡と口付けを許可します』」

 絢子と水鬼の間でぱちんと光がはじける。
「お願い金鬼、この腕を放して。私、あの人ともう一度口付けをしなくちゃいけないの」
「駄目だよ! そんなことさせない!」
 金鬼さらに絢子をきつく抱きしめる。
 少し痛いぐらいのその腕の中から、絢子は転移の術で水鬼のほうへと向かった。
 突然絢子が腕の中からいなくなったことで、金鬼は驚いたあと、眼に涙をいっぱい貯めて絢子を見た。
「お姉さん、僕のこと、嫌いになったの?」
 その姿を見た絢子は心動かされそうになったが、ぐっと己を律した。
「違うの金鬼。私を信じて」
 そう言いながら絢子はぎゅっと水鬼に抱きつき、その唇を奪った。
「女から積極的に来られるのも、自分が積極的に行くのにも慣れてはいますが、これは新鮮ですね」
 そう言いながら水鬼は絢子に深く口付けをした。
 その瞬間、絢子は水鬼に気を送る。
 長い口付けが終わり、二人の唇が離れたあと、絢子は息も絶え絶えであった。
 腰ががくっと抜けそうになるが、それを強引に無視して未だ跪く隠形鬼の元へと転移する。
 絢子は隠形鬼の前に膝を着くと、そのままくず折れた。
 今までかなりの気を送っているのと、水鬼の性技によって腰が砕けそうになっていたのだ。
 ぐっと両手を強く握って、隠形鬼の顔を自分のほうに引き寄せると、その目を見つめる。
 隠形鬼の目には未だ反抗的な光が宿っていたが、絢子の目を見つめる内、それはいつしか何かを渇望するものへと変わっていった。

「隠形鬼よ『力の譲渡と口付けを許可します』」

 その瞬間、二人の間でぱちんと光がはじけた。
「くっ、お前、俺に何をした」
「お願い隠形鬼、私を受け入れて」
 そういうと、固く閉じられている唇に口付けを落とした。
 絢子は隠形鬼の唇を何度も何度も啄ばむ。
 最初は頑なに絢子を拒んでいた隠形鬼であるが、絢子の唇の柔らかさと、絢子から発される気にあてられたのか、いつしか絢子を固く抱きしめ、自ら進んで絢子を貪っていた。
 絢子は隠形鬼の開いた唇から精一杯の気を送り込む。
 やがて力尽きた絢子は隠形鬼の腕に自分の背中を預け、はあはあと荒い息をついた。
 その反らした首筋に、隠形鬼が甘く口付けを落とす。
「あんっ、もう、いいのに」
「どうしてだ? お前から誘って来たのに」
 しかし、その口付けはどこまでも優しい。
 絢子を床に寝かせると、隠形鬼はまた甘く口付けるのを再開した。
「ああっ、これ以上は、もう気力がもたない」
 慄いた絢子であるが、意外なことが起こった。
 隠形鬼が気を送ってきたのだ。
 柔らかで温かいその気に包まれ、絢子はいくらか体力を回復した。
 口が離れた絢子はぱちぱちと瞬きをした。
「なぜ気を送ったの……?」
「俺の気で染めたいと思ったから」
 そう言うと隠形鬼はにやりと笑った。
 その笑い顔はどこか正臣を思い起こさせ、絢子は強烈に現世が懐かしくなった。
 ポロリと一筋涙を零した絢子であるが、隠形鬼がそれを優しく舐め取る。
「俺以外のものを想って泣いたのだろう? それぐらいわかる。お前に想われているものが心底羨ましい」
 それはあなたの来世ですよとは終ぞ言えず、絢子は隠形鬼からもらった気を振り絞って、そのまま紀朝雄の下へと転移したのであった。






「ご苦労様でした~♪」
 転移後、床にへばってぜいぜいと荒い息をつく絢子を見た紀朝雄は開口一番そう言い放った。
「こっ、この鬼畜前世! 人使いが荒すぎるわよ!」
「あっはは! 絢子さんは面白いことを言いますねえ」
 からからと笑う紀朝雄は絢子の傍にしゃがみこむと、絢子の肩に手を置いた。
「気を補給しておきますからね~。それに習うより慣れろって言いますでしょ?」
 肩から大量の気が送られ、絢子は気力を取り戻した。
 よじよじと立ち上がると、絢子は紀朝雄を改めて見た。
 飄々とした掴みどころのなさそうな紀朝雄であるが、その実彼の中には膨大な気が渦巻いているのがわかる。
「そうだ、絢子さん、あなた葛城家のものから縛心術をかけられているでしょう?」
 そうだった。
 絢子は自身のもうひとつの目的である縛心術を解く方法を教えてもらいにここに来たのだ。
「ええ。それを解く方法を教えてもらいに来ました」
 しかしそれを聞いた紀朝雄は腕組みをしてううんと眉をしかめた。
「それがですねえ……。大変申し上げにくいことなのですが」
「何ですか? 言ってください」
「縛心術そのものを解く術ってのはないんですよ」
「……えええええ!?」
 絢子はあごが外れんばかりに驚いた。
 だって、紀朝雄は過去、縛心術を解いているはずである。
 それが本人の口から「できません」と言われてしまってはどうしようもないではないか。
 あの葛城秀斎の話は嘘であったのだろうか。
「それじゃあ、この術とは一生付き合っていかなくちゃいけないのですか?」
「残念ながら、そういうことになりますねえ」
 絢子はがっくりと頭を垂れて膝を折った。
「そんな、じゃあ、私、現世に戻ったら葛城秀斎の伴侶にならなくちゃいけないの? いいえ、そんなことよりも、大切な人達を失わなくちゃいけないの?」
 がくがくと震えだした絢子を哀れんだのか否か。
 紀朝雄はふわりと笑った。
「ただし。どんなものにも『抜け道』って言うのがあるんですよ」
「え?」
 顔を上げた絢子を見た紀朝雄は面白そうに笑った。
「絢子さん、あのですね『等価交換』って知っていますか?」
「ええ、よく知っています。……某鋼の錬金術師の漫画でですけれど」
「はい?」
「いいえ、こちらの話です」
 紀朝雄はそんな絢子を見ながら、にっこりと微笑んで言う。
「実はですね、私も今現在かけられちゃっているんですよ、縛心術」
「はい……って、えええ!?」
 そんな、あっさりと言うかよ普通!
「どうしてですか!?」
 紀朝雄は頭をかきながら答えた。
「いやあ、私ね、時の権力者からの寵愛がものすごくって。中大兄皇子の諱(いみな)、実名って何か知っています? 葛城って言うんですよ。その方から絶大な信頼を受けているんです。そしてその権力者側の術師、ああ、これも葛城って言うんですけれどね、偶然でしょ? それはいいとして、その穢れを祓う一族である葛城家の当主が私を取り込もうと思って術をかけたのですよ。あ、いや、取り込もうって言うか、何て言うか私、その人にも、ものすごく愛されちゃいまして。愛の深い女性なんですよ。戦地に行く私を案じて、かけてくれたみたいです。ちゃんと帰ってこられるようにという意味も込めてね。いやあ、愛され過ぎるのも困り者ですよねえ」
「そんな話はどうでもいいです!」
「あれ、絢子さん、いけずですね」
「それよりも何よりも、あなたはどうしてその術を交わすことが出来たんですか?」
「交わせてませんよー。思いっきりかかっちゃいましたよ」
「ですから、後の世に伝わったように、なぜその相手はあなたが術を交わしたと思っていたのですか?」
 憤慨しかけている絢子を見た紀朝雄はにやありと笑った。
「ですから、ここで『等価交換』の話が出てくるんです」
 そう言うと紀朝雄は話し始めた。
「誰にも破ることの出来ない縛心術ですが、ただひとつ、抜け道があることを発見しました。それは一度術にかかったら二度と同じ術にはかからないというものです。そこで私は考えました。術そのものをそっくりそのまま交換することによって、お互いがお互いの術を肩代わりするのはどうなのか、ということです。まあ所謂相互扶助ってやつですよ。穢れや呪いを寄り代に肩代わりしてもらう方法は一般的ですが、これは術同士の交換なのでそれとは少し違います。しかし、それには自分と同じ術をかけられている人間が必要でした。そこで白羽の矢が立ったのが絢子さん、あなたです。占術で見たところ、来世のあなたにも術がかかっていることがわかりました。そして、あなたがこの現世にやってくるということも占術の結果に出ました。これは好機だと思いましたね。術を交換するにしても、あなたは私でもあるのですから。相性は抜群でしょう?」
「確かに、相性はいいのではないかしら。でも、術を交換したらどうなるのですか? やはりその術を一生背負っていかなくてはならないのですよね?」
「ええ、そうです。しかし、術を身の内に宿す負担は雲泥の差だと思いますよ。何せ、かけた張本人がいなくなるも同然なのですから。ないものとして振舞うことが出来る上に、厄介な術には金輪際かからない。お得でしょう?」
 紀朝雄はお茶目にウィンクする。
「お得って……」
 そんなんでいいのだろうか。
 なんだか脱力してしまった絢子であるが、紀朝雄はこれ幸いと、いそいそと準備を始めた。
「あなたが夢から覚めるときに、葛城家の縛心術の残滓は始動するでしょう。私の理論が間違っていなければ、そのときに私が施した術が効果を発揮します。そして、あなたが無事現世に戻ったとき、私の術は完成するでしょう」
「術を交換するだけでは駄目なんですか?」
「ええ、何といいますか。抗体とでも言いましょうか。術を交換したあと、違う術に一度出会わなければ駄目なのですよ。私もあなたと術を交換したあと、自分の中の葛城家の残滓と戦う予定です」
「戦うって、そんなにハードなんですか?」
「ええ。そうなんですよ。術ってのはいろいろと厄介ですよねー。ま、何はともあれ、術の交換を始めましょうか」
 そう言うと紀朝雄は懐から懐剣を取り出した。
「絢子さん、金鬼の力を解いてください。ちょっとちくっとしますよー」
 絢子の手を取った紀朝雄はその親指につぷりと刃物を突き立てた。
「いっ」
 眉をしかめる絢子であるが、紀朝雄は自分の左手の親指にも同じ傷をつけると、それを絢子の親指と合わせた。
 そうして右手で印を結んだ紀朝雄は、絢子の手と己の手にその手で触れながら呪文を唱えた。
「一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむななやここのたり)、布留部(ふるべ) 由良由良止(ゆらゆらと) 布留部(ふるべ)」
 紀朝雄がその呪文を唱えた瞬間、絢子の体の中から何かが引っ張られるような感覚がし、次に、何かが入ってくるような感覚がした。
 唱え終わった紀朝雄はすっと指を離した。
「はい、これで終わりですよ」
「これだけなんですか?……その呪文は何ですか?」
 紀朝雄は片眉を上げると目を細めた。
「ああ、これは布瑠(ふる)の言(こと)です。『ひふみ祓詞(はらえことば)』・『ひふみ神言』とも言いまして、病み患いの類、痛み苦しみは全て直り、死んだ人も甦ると言い伝えられている言霊なんですよ。あとは物部氏の祖神である邇藝速日命(にぎはやひのみこと)が伝えたとされる十種の神宝の名前を唱えることによっても同じ効果を発揮するんですがね」
 紀朝雄は絢子の傷を自身の気で治すと、自らの傷もあっさりと治した。
「有体に言えば、この呪文によって、私達は一度死んで、もう一度生まれ変わった、と言う、まあそんな感じですね」
 全然死んだという感じはなかった。
 むしろどこか変わったのだろうか、と首を捻るほどあっけないものだった。
「そうそう、あなたにとってはこれからが本番ですから。無事、現世に戻れるか否か。ああ、何だかわくわくしてきますねー!」
「私の受難を楽しまないでください」
 ぶすっとした表情になる絢子であるが、それでもこの紀朝雄と言う人物を憎む気持ちは湧いてこなかった。




 次の日、昨日と同じ場所に、紀朝雄率いる朝廷軍と、藤原千方率いる豪族勢が相対した。
 紀朝雄は絢子を傍に連れ、悠々と前に進み出た。
 そうして、弓矢で千方と四性の鬼達に向かって矢文を放った。
 矢文にはこう書いてあった。
「ここは天皇の住む土地だから鬼の棲むところではない。それと四性の鬼達よ、もし千方の元を離れるのであれば、『許可』という制約と引き換えにこちらにいる戦女神に来世で会えるように計らってやろう」
 それを見た四性の鬼達はそれぞれに考えたあと、千方の下をひとり、またひとりと離れていったのであった。
「お前達! 私の元を離れるというのか!?」
 焦る千方に金鬼は言った。
「だって僕、あの人から愛って気持ちを教えてもらったんだもの。その気持ち、千方は教えてくれなかったよ」
 風鬼が口を開く。
「僕はあそこにおわす女神を手に入れ、支えたい。たとえ何百・何千年かかろうとも、それをすべきなのだということを知ったのです」
 水鬼が振り返りながら答えた。
「私はあんな女、ほかに見たことがなかった。体の芯から欲しいと思う女に出会えたのはきっと後にも先にもこの一度だけであると思う。もうほかの女をどれだけ貪ろうとも、あの女以外の極上の女は私の前には現れないだろう」
 最後に隠形鬼が言った。
「あの女の心の中には愛しいものがいるらしい。それに嫉妬をしたのも嘘じゃない。だから俺は来世で必ずあの女の全てを手に入れる。ほかの誰にも余所見をさせないぐらい、どろどろに溶け合うまで貪ってやる。そう決めたんだ」
 そうして四性の鬼達は藤原千方の下を離れたのであった。

 ――このあと、四性の鬼を失った千方は紀朝雄に討たれることとなる。



[27301] 追儺式前日 ●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/08 19:17
 藤原邸の長い廊下を、悠真は一心不乱に駆けていた。
 夢から覚めた正臣から連絡をもらったのち、悠真は取るものも取り合えず、急いで部屋へと向かったのだ。
 その邸宅の一室に絢子が寝ているのを「目」で確認するや否や、ノックもせずに勢いよく入った。
「絢子!!」
「来たな、悠真」
 部屋にはすでに大人組三人が揃っていた。
 絢子は今深い眠りの中にあるようであった。
「絢子は、大丈夫なの!?」
 縋るように正臣に聞く悠真である。
「ああ。ただ今の絢子ちゃんはね……」
 正臣にしては珍しく言葉を濁した。
「どうしたの?」
「絢子ちゃんの心が閉じているんだ。再度夢の中に入ろうとしたが、出来ないんだ」
 悠真は眉をしかめた。
「何で? 話は聞いたよ? 葛城秀斎と望月冴は退けたはずなんでしょう?」
 彼の疑問に答えたのは颯太だった。
「きっとそれは葛城秀斎の縛心術の影響だと思うよ」
「縛心術?」
 颯太は眠る絢子を見つめながら言った。
「葛城家の縛心術の効果は伊達じゃない。絢子ちゃんは一度葛城秀斎の縛心術にかかっていたようだ。きっと無意識のうちに自己防衛本能によってそれに邪魔されないように心を閉じているんだと思うよ。そこに弊害があるんだ」
 颯太は絢子に近づくと、彼女の腕を取り、脈を計った。
「脈拍は安定している。今のところ彼女に異常は見受けられない。だがこのままだと、絢子ちゃんは夢から覚めるときにひとりで葛城秀斎のかけた術の残滓と戦わなくちゃいけないことになる」
 悠真はぎゅっと両手を握った。
「そんな! でも絢子はっ……、絢子は大丈夫だよ! 普段正臣から沢山気をもらっているし、きっと葛城秀斎の術を破って、言霊を授かって目覚めてくれるよ!」
 そう言いながら悠真は絢子の傍に近づいて、ベッドの脇に膝をついた。
 絢子の手を取り、自分の頬に当てる。
「絢子、わかる? 悠真だよ。僕絢子の目が覚めるのを心から待っているから。絢子は僕だけの大切な宝物なんだよ! 縛心術なんかに囚われないで」
 瞳を揺らしながら絢子の寝顔を見る悠真に、正臣が声をかけた。
「絢子ちゃんを信じるしかないね。でも、きっと絢子ちゃんは術を破って目覚めてくれるよ」
 正臣を見た悠真は、今度は顔を絢子に向けると、そのまま彼女の手の平に唇をつけた。
「絢子には絢子の戦いが、僕らには僕らの戦いがあるんだね。僕は絢子の力を信じているよ」
 そう言うと悠真はすっと立ち上がった。
 未だ眠る絢子をその透き通った灰色の瞳でじっと見つめると、彼はぎゅっと拳を作った。
「絢子、僕、頑張るから。だから絢子も負けないで」

 ――追儺式まで、あと一日。






 ここは都心の高層ビル街の一角。
 見晴らしのよく広い会議室には今、甲賀五十三家の当主達が集結していた。
 その一同は、自分達をこの場に招集したもの、甲賀五十三家筆頭が発した言葉に耳を疑った。
「筆頭! それはどういうことですか!?」
「今、この時期に筆頭の座を降りるですと!?」
 彼らは各々が思わず席を立ったり、現筆頭・望月冴に詰め寄ったりしている。
 その中にあって、冴は水を打ったように静寂を保っていた。
 一通りざわめきが治まると、冴は一同に目をやった。
「ええ。わたくしは今日を以て、甲賀五十三家の筆頭の座を降り、葛城家の家令として仕える所存です。そして、次期筆頭は隠岐伊織。この決定に異論は認めません」
 そう言葉を発した冴の顔は晴れやかであった。
「前代未聞です! 甲賀五十三家の筆頭ともあろうお方が、いち華族の家令に納まるなどと!」
「それに筆頭交代の儀はどうするのですか? 伊織はまだ若すぎるのでは?」
 詰め寄る当主達を軽くいなすと、冴はすっと手を目の前にかざした。
「伊織は、実力に関して言えばすでにわたくしを凌ぐほどの力を持っています。何でしたら、伊織をここに呼びましょうか。皆は彼の実力はすでにご存知でしょうが、この場でわたくしと術比べをして、伊織の実力を再確認するという手もございますのよ」
 冴は「……それに」と続けた。
「秀斎様のことを『いち華族』などと呼ばわるのは過去の恩をあまりにも忘れた振る舞いではないかえ?」
 それを聞いた当主の面々はぐうと黙った。
 彼らは伊織と秀斎の実力を知っていた。
 いや、知っていたと言うべきか、過去すでに体験していたのである。




 それは伊織がまだ六歳のときであった。
 甲賀五十三家の隠岐家に現れた麒麟児「隠岐伊織」という、その名は広く知れ渡っていた。
 しかし伊織はその力が暴走することが度々あった。
 彼はまだ自分の力をコントロールする術を見出せていなかったのである。
 厳しい修行を行ったにも拘らず、伊織の力の暴走は一向に収まることはなかった。
 そして甲賀五十三家の子供が六歳になると行われる力比べの際、それは起こった。

「それでは、試合開始!」
 合図とともに両者は見合った。
 伊織に相対するのは、異例中の異例、当時将来有望と言われていた十六歳の少年であった。
 少年の名は望月遼夜と言った。
 彼は現筆頭・望月冴の弟である。
 普通、力比べとは同じ年のもの同士が行うものである。
 しかし伊織の場合、当時の六歳児の中では、すでに伊織に敵うものがいなかったのだ。
 その中でこの十六歳の彼は、力のコントロールに長け、たとえ伊織の力が暴走したとしても上手くいなせるであろうという希望の下、わざわざ特別に伊織と組むことになったのだ。
「僕は君が幾つであっても手加減しないよ」
 そう言うと遼夜は素早く印を組んで結界を張った。
 伊織も負けじと結界を張る。
 遼夜はその結界の中から、巨大な豺(やまいぬ)を召喚した。
 ガアアと咆哮すると、その耳と四肢の短い豺は伊織に向かって一直線に駆け出した。
 伊織は自陣の中から巨大な鷹を召喚すると、その豺に向けてけしかけた。
 場の中央でその巨大な豺と鷹は激しく絡み合う。
 どちらも一歩も引かず、その術合戦は熾烈を極めた。
「これは、大人の術比べにも匹敵するのう!」
「このような見応えのある力比べは初めてじゃ!」
 見学していた大人達は、驚きながらも麒麟児の底知れぬ才能と、将来有望な十六歳の少年の鮮やかな技に膝を打ったのであった。
 しかしである。
 どこで歯車が狂ったのだろうか。

「ぐっ……」

 豺が鷹に圧されている。
「ガアアアア!」
 豺が悲痛な咆哮をあげるとがくりと膝を突いた。
 その隙を逃さず、鷹が上空から一気に急降下する。
 これで勝敗は決したかに見えた。
 しかし遼夜はそのことに焦ったのであろう、自陣からもう一匹式を召喚してしまった。
 この力比べでは式は一体のみ、その式が倒されたほうが負けという仕組みになっている。
 だが、遼夜はそれを破ってしまった。
 召喚したのは巨大な虎であった。
 その虎は今しも豺の肉を食い千切ろうとしていた鷹に横合いからがぶりと噛み付いた。
「!?」
 驚いたのはその場にいた全員であった。
 そしてそれは伊織も例外ではなかった。
「何だよ、それ」
 あんぐりと口を開けた伊織はしかし、ぎっと相手を睨み付けると、その怒りのまま、すぐさま自陣からもう一匹の式を召喚した。
 召喚したそれは天まで届くかのような巨大な竜であった。
 伊織は相手の巨大な虎に目をやると、ざっと指をさした。

「行け!!」

 その掛け声とともに、巨大な竜が巨大な虎に向かってゆく。
 竜虎相まって、その場は混然とした。
 天から舞い降りた竜は虎をその巨体でぐるぐると巻き付けると、ぎりぎりと締め付けていった。
「ギャアアアア!!」
 虎が断末魔を上げたのち、一瞬にして肉塊と化した。
 勝敗は呆気なく決した。
 伊織が勝ったのだ。

 相手・遼夜は呆然と竜を見ている。
 伊織は竜を召喚陣に戻そうとした。
 しかし、そのとき体の奥底からとてつもない力が溢れ出てきてしまったのだ。
 それを抑えようと自らに意識を向けた途端、竜と伊織の意識が離れてしまった。
「しまった!!」
 伊織は焦った。
 式との意識のつながりを解いてしまったら、式は主の命に背き暴走を始めてしまうのだ。
 まだ幼い伊織は意識を保っておく術を磨けていなかったのである。
 竜は目の前で動かず自分を見つめている遼夜を見ると、目を細めギュルルと一声鳴いた。

「いけない!! 遼夜が竜に食われる!!」

 誰もが遼夜の最期を予感した。
 その瞬間。
 竜と遼夜の間に飛び出したものがいた。
 仕立ての良い紺色の着物を着たその青年は、素早く術式を展開した。

「はああああ!!」

 竜が勢い良く二人を飲み込もうとしたところで、術式が完成した。
 ごおおお!! と爆風が吹き荒れる。
 竜の口のど真ん中に、膨大な気が一気に叩き込まれたのであった。
 それを飲み込まざるを得なかった竜は、口の端からめりめりと裂けてゆく。
 だが、ある一定のところまで裂けると、それは唐突に修復されていった。
「なぜ!?」
 周囲が驚く中、その青年は冷静だった。
 青年は竜が再生し続ける原因は伊織にあることがわかっていたのだ。
 伊織は力の暴走を止められず、本来なら式であるはずの竜に強制的に力を取られ、再生の手伝いをさせられている。
 竜は口の端が半分以上裂けているが、しかしそれ以上は伊織の力を吸い取っているため裂けることがないのであった。
 その竜が、再度開いた口で青年と遼夜をぐぐっと飲み込もうとする。
 青年はすっと人差し指と中指を揃えて立てた印を組むと、その上にふうっと息を吹きかけた。
 その途端、竜の口の前に式が現れた。
 それは巨大な美しい両手であった。
 その両手は、竜の口を上下に掴むと、ものすごい勢いでメリメリと裂いていった。
 それとともに、陣の中からその手の持ち主が現れてくる。
 それは巨大な美しい裸体の女神であった。
 長い髪を胸の前に垂らした巨大な女神は、微笑を浮かべながら、巨大な竜を両手で裂いてゆく。
 やがて女神の全容が現れるころには、竜はすっかり上下に裂かれていたのであった。
 しかし、竜はまだ伊織の力を吸い取っている。
 それに気づいた青年は、女神に指示を出した。
 女神は微笑んで頷くと、おもむろに両手に持っていた竜の切れ端を口に入れた。
 くちゃくちゃと、響く咀嚼音。

「ひいっ!? 女神が、竜を喰っとる!!」

 女神は恍惚とした表情で手に持つ竜をどんどん咀嚼してゆく。
 あっという間に、竜の体は全て女神の腹の中に納まった。
 その女神の腹は、まるで子を宿したかのように膨らんでいる。
 満足そうに腹をさすると、女神は元来た陣の中へと帰っていった。

 やがて、その場は何事もなかったかのような静寂に包まれた。
 誰もがその場を動けなかった。
 その中で、青年はつかつかと伊織の下に足を運んだ。
 伊織の力の暴走は止まっており、膝をついているものの、何とか意識だけは保っているようである。
「君が隠岐伊織君だね?」
 そう声をかけたのは涼やかな目元をした背の高い青年であった。
 伊織は彼の顔をじっと見つめる。
「あんた、誰?」
 六歳にしては、ずいぶんと傲岸不遜な態度である。
 しかし、その伊織を見た青年は可笑しそうに笑った。
 それがその子供の精一杯の虚勢であることに気づいていたのだ。
「私は葛城秀斎というものだよ。現筆頭から、今日の力比べを見学に来ないかって誘われてね。君は隠岐家に現れた麒麟児と言われているね」
「うん。そうだよ。俺は今に誰にも負けない力を持って、甲賀五十三家の筆頭になるんだ」
「そう」
 青年、葛城秀斎に怒られると思っている伊織はぐっと体を固くした。
 しかし、次に起こったことに伊織は目を丸くする。
 秀斎は伊織を抱き上げ、高い高いをしたのだ。
 その場にいた誰もが秀斎のその行動にぽかんと目を丸くする。

 秀斎は朗らかに笑っていた。

 彼は伊織を自分の腕に抱くとこう言った。
「伊織、君との力比べは実に楽しかったよ。そうだ、私の下に遊びにおいで、さっきのように自分の式に力を吸い取られるような真似は嫌だろう? また、私と遊ぼう。力比べをしようじゃないか」
 伊織はその秀斎の顔をしばらく驚いたような表情で見つめていたが、そのあと何ともいえない表情で顔をくしゃりと歪めた。
「うん、俺、あんたのところに行くよ。必ず行くから、絶対待っててよ」
「ああ、いつまでも、君を待っているから」
 これが隠岐伊織と葛城秀斎の出会いであった。

 相手の将来有望な少年、望月遼夜に大怪我を負わすことなく、伊織本人の力も体も無事で、その場は何とか一件落着に収まった。
 しかし、この伊織と秀斎の邂逅が、のちに秀斎の聖の力を削ぐことになろうとは。
 それを秀斎以外の誰もが予想し得なかったのはまた別の話である。

 五十三家の当主達はこの失態ののち、伊織を密かに抹殺する計画を立てていた。
 伊織の両親はそれを察し、彼を甲賀五十三家とは縁遠い伊賀系の学園である栗栖学園に入学させることにしたのである。
 少しでも甲賀五十三家との接触を避け、伊織が狙われないようにと配慮したのだ。
 そのため、甲賀五十三家の次期筆頭と言わしめるほどの実力を持った隠岐伊織が、甲賀とは全く関係のない伊賀系の学園に入学するに至ったのである。


 過去を反芻していた甲賀五十三家の当主達の意識を、冴は拍手ひとつで戻した。
「さて。過去を振り返る時間は終わりじゃ」
 冴は先ほど言ったことを繰り返し、宣言の内容を新たに確認した。
「皆のもの、よろしいか。わたくしは秀斎様の下で、一生を捧げるつもりじゃ。それはわたくしの代でのみ終わるものであり、望月家とも何の関係もない。そして先ほど言ったように、次期筆頭は隠岐伊織、彼に任せる。このことに望月家の当主はすでに納得しておるよ」
 ほかの当主達は皆、望月家の現当主である望月遼夜を見た。
 彼は思慮深い表情をし、姉であり、筆頭でもある冴の決断を静かに見守っている。
 しかしそのことを良く思わないものがいた。
「いいや、だが、今のままで伊織についていくものなどおるまい! わざわざ伊賀の学園に逃げ、そこで怠惰な生活を送っているものになど、誰がついていくというのか!」
 そう激昂した当主のひとりを、遼夜は湖水のような瞳で見つめ、そして口を開いた。
「僕は、筆頭の考えを支持します。そして、次期筆頭となる隠岐伊織殿のことを全身全霊で支えてゆくつもりです」
 実力のある望月家の当主が伊織の支持に回った。
 そのことが当主達の間に困惑を広めた。
 ざわざわと周囲と話し合う中で、その煮え切らない態度に業を煮やしたのであろう、冴が一喝した。
「今の甲賀五十三家の中で、秀斎様が手塩にかけて育てた伊織に敵うものがいると思うのかえ? 何なら殺って見るが良い。自らの力も図れない愚図など、潰れたほうがましよ。それとも今の当主は、愚図の集まりなのかえ?」
 冴に凄まれた当主達は一様に黙った。
 この隠(なばり)の世では実力が全て。
 筆頭を叩くほどの実力は自らにはなく、それはすなわち筆頭を凌ぐ力を持つ伊織にも敵うはずがないと、そういうことであった。
 当主皆で筆頭に反旗を翻せばあるいは勝てるかもしれない。
 だがそれを行ったら、血で血を洗う群雄割拠の時代へと逆戻りすることとなり、もし筆頭に勝てなかった場合、家の取り潰しでは済まない粛清を受けることは目に見えていた。
 その中で、すっとひとりの当主が手を上げた。
「我が小川家は望月家、並びに次期筆頭に加勢いたします」
 それは小川優美の父、小川家の当主であった。
 周囲からは失笑が浮かぶ。
「ふっ、小川家が加わったところで果たしていかほどのものよ」
「御主、筆頭と望月家、伊織の実力に怯えたのか?」
「そうそう、家の取り潰しが怖くて挙手をしたのではあるまいな」
 そんな野次の中、小川家の当主は静かに佇んでいる。
 しかし。
「そういえば小川家には、確か女天狗がいたよの」
 誰かが言った。
「女天狗か、あるいは新たな力のひとつになるやも知れんな」
 人間とは現金なもので、力が集まるところには我も我もと集まるものである。
 それを切欠に、今まで悩んでいたり賛成し兼ねたりと迷っていたもの達が我先にと賛成の意を表し始めた。
 今まで格下だと思っていた小川家に先を越されたという気持ちもあったのかもしれない。
「我が家も、次期筆頭を支持しまする」
「我が家も」
「我が家も」
「我が家も」
 あっという間に、その会議室にいた五十三家の大半が隠岐伊織支持に回った。
 傍観・反対派は数の力で圧されることとなった。
 それを見た冴は満足そうに頷くと、会議の閉幕を宣言した。
「これでわたくしは、自らの生きたいように生きることが出来る。秀斎様のためだけの生を歩むことが出来るのよ」
 望月冴は明日の追儺式に自らの夢を見たのであった。






 追儺式の舞台の上では、煙のようにゆらりと現れた隠岐伊織が一人佇んでいた。

 彼は冴と浩介が張ったそれぞれの結界を肌で感じ取っていた。
「ふうん、なかなかやるじゃない。筆頭の大結界は相変わらず隙がないし、もうひとつの結界、たしか『三十六禽(さんじゅうろっきん)』だったかな? それも、いつでも始動できるようになっている」
 一通り舞台を見渡した伊織は、無造作に舞台の端まで歩くと、そこに腰を下ろした。
 伊織が今思うのは異形の者と化しつつある秀斎のことだった。


 過去、伊織の力をつけるために、秀斎は自身の力を惜しげもなく使った。
 それはすなわち、瘴気を抑える力を使うということであった。
 伊織がそのことに気付いたのは、秀斎の瘴気と聖の気とのパワーバランスが逆転したときである。
 何かがおかしい、そう伊織が感付いたのは、秀斎が自室にこもることが多くなり、得体の知れない香を調合して絶えずその中に身を置いているということであった。
 秀斎は巧みにそれを隠していたが、やがて秀斎の隠していた秘密に気付くに至ったとき、伊織は何ともいえない敗北感に打ちのめされた。
「秀斎さん、水臭すぎるよ。俺は傍にいながら、何で今まで気付いてやれなかったんだ」
 歯噛みしたところで、秀斎の瘴気は取り返しのつかないところまで増幅していた。
 そこに現れたのが松永絢子だった。
 秀斎からは彼女を連れてくるようにと言われていたのだが、伊織は気乗りしなかった。
「よりにもよって女かよ、紀朝雄の生まれ変わりか何かは知らないが、そんなものを連れて来て、一体何になるというのだ」と、そう思った。
 だがしかし、初めて学園の食堂で彼女を見かけたとき、驚くのを止められなかった。
 この現世に、何と清浄な気を発している人間がいるのだろうと。
 その気は僅かであったが、伊織にはそれで十分だった。
 次に感じたのが「この女、欲しい」と言う気持ちであった。
 そう感じた自分に驚きながら、伊織は絢子のことを思った。
 秀斎が前に言っていた。
「私と伊織は趣味が似ている」と。
 そうなのかもしれない。
 同じようにままならない膨大な気を抱え、それを浄化・正常化してくれるであろう存在に強く惹かれるのは道理なのかもしれない。
 伊織はしかし、最終的には絢子ではなく秀斎を取った。
 自分の気は皮肉にも秀斎が自らの気を使って鍛錬を施してくれたおかげで、ある程度コントロールすることが出来ている。
 次は秀斎の番だ。
 彼にこそ幸せになってもらう権利がある。
 どんな形でも良い、穏やかな生を手に入れて、その中で、幸せな一生を送って欲しい。
 秀斎は、自分の恩人であるのだから。

「あら、秀斎様はわたくしの恩人でもあるのよ」

 そう声がするほうに振り向くと、そこには影のようにゆらりと現れた冴がいた。
「秀斎様はわたくしの弟、遼夜を助けてくださった。それだけでわたくしは十分、あの方についていこうと決めたのよ」
「筆頭、終わったのか」
「ええ。代替わりの話はつけてきたわ。これであなたも明日から甲賀五十三家の筆頭ね。どう? 人の上に立つ気分は」
「別に何も。ただひたすら面倒臭いね」
 冴はほほほと笑った。
「小さい頃は『自分が次期筆頭だ』と息巻いておった子供がこうも大きくなりよったか。時が経つのは早いのう」
 ふわりと笑う冴をちらと見た伊織はふっとため息をついた。
「婆臭い台詞吐いてんじゃねえよ。あんたはこれから秀斎さんを陰から支えるんだろう?」
 その言葉を聞いた冴は彼女にしては珍しく片眉を上げる仕草をした。
「おや? お前は私が秀斎様のお傍に侍ることを蛇蝎のごとく嫌っていると思ったのだが」
「嫌だよ。今でも虫唾が走る。浄化も出来ないあんたが秀斎さんの傍に侍るなんてね。でも、仕方がない。秀斎さんを支えるのはあんたしかいなくなりそうだからさ。絢子は鬼の下へ行っちまったし、追儺式が終わって、絢子が手に入っても、秀斎さんの面倒を見るのはやっぱりあんたの役目になるだろうから」
「治郎もいるであろう?」
「女のあんたにしか出来ないこともあるだろう? 秀斎さんは絢子を際限なく貪るだろうから、それを止める役目だとか、いろいろさ」
「ほほ、わかっておるではないの。お前も大人になったということかねえ」
「だから、婆臭いんだよそれ」
 それはまるで年の離れた姉弟のような会話であった。
「なあ、遼夜は望月家で上手くやってんだろ? あんたが秀斎さんの下に侍るって聞いたとき、あいつは止めなかったのか?」
「あの子は一も二もなく賛成してくれたよ。そうだ、遼夜はお前のよき参謀となるだろう。怠惰を装っているお前に代わって実務をこなしてくれるであろうよ」
「それはありがたいね。あとこれ、装っているんじゃないから」
 そう言う伊織を見た冴はふふっと笑った。
「そういうことにしておいてやろう。それと、小川家の取り潰しはなくなったわ。小川家は望月家の次にお前の支持をした家であるからにして、格が上がったのよ。流石女天狗の父親よ。ようやりおるわ」
「ふうん、そうなんだ。ま、別にどうでもいいけど」
 興味なさそうに答える伊織である。
「ほんに、明日が楽しみであるのう」
 そうしてお互いがお互いの思いに沈み込みながら明日を待ったのであった。

 明日、いよいよ追儺式である。



[27301] 追儺式(上)
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/08 19:22
 東京西部の森林。
 その奥深い山の中で、今宵、とある催しが行われる。
 そこに集まるのは主に政財界の重鎮や、各界の著名人である。
 彼らは皆、その催しを今か今かと待ち望んでいた。
 その催しとは、華族・葛城家が行う「追儺式」である。
 彼らはこの追儺式に参加することによって、それぞれの厄を祓ったり、他の業界人とのつながりを作ったりするのである。
 そして、知られざる目的がもうひとつあった。
 この追儺式に参加するものは、葛城家当主の力で病魔を退け、災厄を肩代わりしてもらうことができるというものであった。
 それは長寿祈願にも似ていた。
 特に政財界の重鎮はこぞってこの葛城家の執り行う追儺式に参加したがった。
 この国の今の経済を動かしているのが藤原家のもの達であるとしたら、今の政治を動かしているのが葛城家のもの達であると言ってもよかった。
 その中で。
「いやあ、こりゃ壮観ですねえ。テレビでよく見る顔ぶれがずらりと集まってるじゃないですか」
 額に手をかざしてそう言うのは蔭原浩介である。
「葛城家ってのは、毎年こんなことしてるんですか?」
「ええ、これが葛城家の役目でもありますから」
 そう治郎が答える。
 その彼を横目で見やると、浩介はまた視線を集まった人達に向けた。
「でも、何だか面白いですねえ。葛城家の当主は、彼らの業や欲を引き受ける代わりに、いち華族であるにも拘らず強大な権力を得ているだなんて。でも俺は皮肉を感じちゃいますねえ。方相氏も、元は穢れを祓う呪術師であったのが、いつの間にか穢れそのものとして扱われているんですから、まあそれと遠からずってところなんでしょうけれど、今の秀斎さんもそういう存在になりつつあるんでしょう?」
「それは我が主のことを侮辱しているのですか?」
 すうっと隣の温度が下がったのを見越した浩介はえへへと笑った。
「まったまたあ、そう怖いオーラ出してると、寿命縮まりますよぉ?」
「主のために寿命が縮まるのであれば本望ですが」
 それを聞いた浩介はへえっと眉を下げた。
「前から思ってたんですけれど、葛城秀斎って人はそんなに尽くすに値する人ですか? 彼の周りの人達は皆目にハートでも浮かべちゃってるように見えるんですけれどね。ああ、はいはい、ところで治郎さんは、何で秀斎さんのことがそんなに好きなんでしょーか?」
 子供のように挙手をしながら聞く浩介を煩そうに見やった治郎はしかし律儀に答えた。
「私の家は代々葛城家に仕え、当主を支える立場におりました。あの方は近年稀に見る力と器、器量を持ったお方です。あの方は美しく、力がある、そのお方について行きたくなるのは葛城家のものでなくとも当然の心理であると思うのですが」
「……さいですか」
 あー、こりゃ駄目だわ、と浩介は思った。
「本当いかれてるねえ」
 でもまあ、俺も人のこと言えないけれど、と彼は呟いた。
「何せ、俺は世の中の全ての美女の味方なんですから」
 それを聞いたのか聞いていないのか、治郎が口を開いた。
「ときに、退魔の一族が生成した『あれ』はこの場に持ってきているのでしょうね?」
「そこは抜かりありませんよ」
 そう言うと浩介は無造作に胸ポケットから携帯銃のようなものをちらりと取り出した。
「もし今回の追儺式で、でっかい鬼が現れたとしても、『これ』で一撃でしょうね。何てったって、素晴らしき我が兄上の血が使われているんですから。それに我が一族はこの舞台のあちらこちらにおります。何かあればすぐに対処できるようにしてありますので、要人らに被害が及ぶことはないでしょう。我らがあの重鎮達を迅速に避難させるので、秀斎さん達は安心して追儺式の続きを行うことができるってもんです」
 ぐいと胸を張る浩介を見た治郎は何の感情も見せずにその場を離れた。
「あっ、治郎さん、どこ行くんですかあ?」
「もうすぐ追儺式が始まりますので、主の下へ」
「そうですか。ではまた今度ぉ!」
 両手を振ってへらへらと笑う浩介は、治郎がいなくなったことを確認するとすっと表情を引き締めた。
「治郎さんには悪いけど、我々退魔の一族はやらなくちゃいけないことがもうひとつあるんですよねえ」
 そう言うと浩介は胸ポケットの携帯銃をそっと握り締めたのであった。




「優美ちゃん、これはここでいいの?」
「ええ、里緒さん、その呪符はそこにおられる丑寅の方角にいる方々で結構ですのよ」
 舞台の外では、優美と里緒が要人達の合間を縫ってさり気なく彼らに不可視の呪符を貼っていく作業を行っていた。
 彼女ら二人はスーツを着ており、警備のものにうまく紛れている。
「しっかしさあ、望月冴の大結界と、浩介おじさんの三十六禽がいるんだから、今更こんなちゃちい呪符なんぞ貼らなくてもよさそうなものなのにねえ」
 里緒が適当にべしっと呪符を貼り付けているのに対し、優美はすばやく正確にそれを貼っている。
「舞台の二つの結界は、呼び出した鬼を封じ込めるためのもの。これは要人達のための呪符なのですわ。彼らに被害が及ばないように、そして、万一の事態に彼らの記憶を封じるためのものなのですよ。ちゃちくなんかはありませんわ」
「こんな呪符、舞台が完成したときにでもそこら一体にぶわーっと張ることはできなかったのかねえ? 何で今、こんな人垣を縫っていちいち貼りに行かなきゃならんのよ」
 ぶうたれる里緒であるが、優美は淡々と作業を執り行っている。
「これは人の波動を感知する種類の呪符です。当日でなくては駄目なのです。それにほかのもの達はそれぞれの準備に追われているので、私達がこれを貼る役目となったのですわ。前筆頭からの仕置きに比べれば、この仕事、容易いものですわ」
「その前筆頭と言えば、あの舞台の傍にある御簾が垂れている部屋の中に、葛城秀斎とともにいるんだろう? ちょっとばかし手伝ってくれてもいいのに」
 里緒は御簾を見やった。
「ときに里緒さん、手がお留守ですわよ?」
「へいへい、大丈夫ですよ」
 そう言うと里緒はばばっと呪符をばら撒いた。
 その呪符は正確に要人達の背中に貼り付く。
「早いところこの作業を終わらせて、隠岐伊織が呼び出す鬼ってのを見てみたいものだよ」
 それを聞いた優美は彼女にしては珍しくはあとため息をついた。
「わたくしはあの方が現筆頭になったことによって、何の因果かその側近になってしまいましたの。あの方を見るだけで虫唾が走る、この感情を何と言えばいいのでしょう?」
「そりゃあ、『大嫌い』ってことだよ」
 里緒が素早く手を動かしながら片眉を上げた。
「それにしても何か意外だね。優美ちゃん、ああいうのタイプっぽいのに」
「わたくしもそれが解せないのですわ。本来ならば好きになっているような気がいたしますのに、どうしてか好きになれないんですの」
「まあ、そういうこともあるわな」
 うんうんと頷く里緒はやがて自分が担当する全ての要人達に札を貼り終えると、一歩引いて全体を見渡した。
「うーん、我ながらいい仕事したなあって思うわ。でもこんな短時間で一般人に呪符を貼りまくるなんて仕事、あとにも先にもこの一回で十分だわ」
「ええ、わたくしもこの一回で十分ですわ」
 そう言うと二人は並び立った。
「それで、四性の鬼達は見つかりました?」
「いいや、あたしは見なかったね。どこに潜んでいるんだか」
「鬼を探す作業も含まれておりましたけれど、残念ながら見つけることは叶わなかったですわ。まあ、仕方ありません、重要なのは、この追儺式を無事終わらせるということなのですから」
「そうだね。それにしても絢子お姉さん、大丈夫かなあ? 今頃何してんだろ?」
「そうですわね」
 そう言うと、二人は遠く離れた絢子に思いを馳せたのであった。




 隠岐伊織は舞台裏で方相氏の姿をとった。
 彼の黒髪は総白髪となり、その頭からは一本の角が生えている。
 四つ目の瞳の色は金色。
 黒衣に朱の裳を着けた姿は、在りし日の秀斎のようであった。
 舞台の向こうでは観客達が始まりを今か今かと待っている。
 その熱気が、いや、どろどろとした欲望渦巻く気が、伊織の待つ場所まで伝わってくる。
「うぜえんだよ、あんたら。あんたらのそのどす黒い欲望を、穢れを、秀斎さんは全て引き受けなきゃならないんだ。本当なら、俺があんたらを全員殺ってやりたいところだ」
 しかし、そう呟いたものの、伊織は表情を消すと、盾と矛を持ち、舞台へと上がった。
 薪の、オレンジ色の光で、舞台の上は幻想的な風景を作り出している。
 沢山の梅の花が咲いているのであろう、どこからか、はらはらと白い花弁が舞っている。
 それは雪のようにも、夜桜のようにも見えた。
 舞台の上に登場した伊織のその姿を見た観客達がおおおと声をあげる。
 それほど、伊織がなった方相氏の姿は雄雄しく、よく似合っており、そしてどこか侵してはいけない雰囲気を醸し出していた。
 彼は今日から甲賀五十三家の筆頭でもある。
 その威厳を、彼は舞台の上で惜しげもなく晒した。
 そんな中、伊織は心の中で呟いた。
「見ててよ、秀斎さん。俺は必ず鬼を引きずり出し、それをあんたの糧としてやるから。鬼を滅し、鬼の生命力をあんたにくれてやる。だから、まだ死ぬなよ。瘴気に潰されるな。俺が、あんたを助けてやる」
 伊織は舞台の中央へと一歩足を踏み出した。


「間に合ったな」
 そう言ったのは正臣であった。
 彼の周りには、颯太、直人、悠真、そして匠がいる。
 正臣の転移の術で彼ら五人は一気に追儺式の現場へと飛んできたのである。
 舞台の上ではまるで神楽舞でも舞っているような伊織の姿があった。
 観客達は伊織のその力強く、時に繊細な舞に目を奪われている。
 しかし。
「このどす黒い気は何だ?」
 直人がうっと眉をしかめながら言う。
 彼はこの場に渦巻く気に反応して、こめかみに血管を浮き立たせている。
「これは、これが人間の欲望だと言うのでしょうか?」
 颯太が苦しげな表情で眉根を寄せる。
「嫌な気だなあ、人間って、こんなに汚い気を発していたんだ」
 悠真がうええと舌を出しながら顔をくしゃっと歪める。
「そう感じるのは、お前達が鬼でありながら絢子さんの気によって浄化されつつあるということだぞ」
 そう匠が声をかけた。
 直人が自身の気で体を覆いながら答える。
「私達は絢子さんと出会えたから良かったが、ここにいるもの達はそういう浄化してくれる対象を見つけることが出来なかったもの達ばかりなのだろう。だから、その穢れを葛城秀斎というその人に一身に肩代わりしてもらおうと集まっているのだな」
「そういうことだ。だが、それも今日限りだ。我々は葛城秀斎をこの場で滅す。そうしなければ、あのはち切れんばかりの瘴気がこの場に溢れ、それを身に受けた人間は、あるいは死に至り、あるいは鬼と化すであろう」
 それを聞いた正臣が表情を改めた。
「最悪だね、俺達があいつを倒さなくちゃ、ここにいる人間達が死んだり鬼になったりするのか。しかもこの場に集まっているのは国の主要人物が大半。そんなやつらが鬼と化したら、この国はたちまち滅ぶだろうね」
 正臣の言葉に皆が頷く。
 悠真が、その澄んだ灰色の瞳で真っ直ぐに舞台を見た。
「それを防ぐために、僕達は今ここにいるんだね」
「ええ。それに僕らがここで食い止めなければ、絢子ちゃんはいずれ秀斎の伴侶になるだろうしね。僕はそれを断固拒否したい」
 颯太が力強く言う。
「それは私も嫌だな。私も全力をもって拒否する」
「俺も嫌だね」
「僕も嫌だ!」
 四性の鬼の意見が一致した。
「ではお前達、行こうか、未来を変えるために」
 匠のそのかけ声とともに、四性の鬼達はざっとそれぞれに散らばったのであった。


 舞台の一角、特別に作られた部屋の前には御簾がかけられていた。
 その部屋の中央、朱塗りの長椅子の上には、寝心地が良いように弾力のある敷物が敷き詰められている。
 その上にまるで涅槃(ねはん)のように寝そべる葛城秀斎の姿がそこにはあった。
 彼は体から溢れる瘴気を最早隠そうともせず、御簾の内側から追儺式が行われている舞台を悠々と見やっている。
 彼の傍には、治郎と望月冴がそれぞれに侍っている。
 周囲でいくつもの薪が炊かれた舞台の上では、方相氏となった隠岐伊織が激しい動きをとりながら舞を舞っており、それはさながら鬼神のようだ。
 盾と矛を手に持つ彼は、それを時折打ち鳴らし、鬼を呼んでいる。
 追儺式は本来ならば「鬼やらい」の神事であるにも拘らず、その内情は鬼を呼ぶ儀式へと変わっている。
 しかしそれを咎めるものはここにはいない。
 ここに集まる全てのものは、それぞれの思惑を持ってこの追儺式に臨んでいるのであった。

 伊織が「オーオー」と大声を発し、盾を打つ。
 いつの間にか彼の後ろには、彼の式のひとつであろう、侲子(しんし)という方相氏のうしろについて回る童子達が現れている。
 方相氏と侲子は、それぞれに舞台の上をぐるりと一巡し、やがて舞台の中央に来ると、盾を三度打ち鳴らした。
 それとともに。
 舞台の正面に広がる巨大な空間から。


「オオオオオ」


 ずいと、何かが現れた。

 それは、頭のようであった。

「な、何だ!?」
「何かが現れるぞ!」
 観客達が目の前の光景に息を呑む。

 ズ、ズズズズズ……。

 それは巨大な子供の姿であった。
 十歳ぐらいの、真っ白な着物を着た童が、暗闇の中からずぶずぶと現れてきたのだ。

 御簾の内では、三人がそれぞれに表情を変えていた。
「来たか!」
 治郎が身を乗り出す。
 彼はその禍々しい気に当てられ、ぶわりと脂汗をかいているようであった。
「あれは、疫鬼(えきき)ですわ!」
 冴が恐怖と恍惚からであろう、身を震わせる。
 こちらは元甲賀五十三家筆頭、そう簡単に潰れることはないが、それでも伊織が呼び出した鬼に慄いている。
 疫鬼とはその名の通り、疫病を流行らせる悪神である。
「えやみのかみ」とも言うが、疫病神(やくびょうがみ)という名前のほうが一般的には知られているであろう。
 それは過去「我巳疫鬼に魂を奪はれ」と、「太平記」にも記されている。
 疫病神と聞いて思い浮かべるのは、ぼろをまとったみすぼらしい神であるが、今ここに現れたのは、純粋に鬼の側面を持った神そのものであった。
 童の姿をとった疫鬼は体全体を現すと、ぐるりと周囲を見渡した。
 自分がなぜここに来たのかわからないといった表情で、不安そうに辺りを見回している。
「伊織はまたとんでもないものをこちらに寄越してくれたのう、ほほ、この先が楽しみじゃ」
 冴はぞっとしながらも、その先に待つ秀斎の生命力向上に沸いている。
「疫鬼か、私の命の糧となるに相応しい、大いなる穢れの象徴よ」
 秀斎が、身を起こして御簾の内から疫鬼をぐっと見やった。
 疫鬼はふと秀斎がいる御簾のほうに目を向けた。
 そして、笑った。
 花がほころぶように、疫鬼は笑ったのだ。


「ミツケタヨ、ボクノ、ゴハン」


 ――その儀式、大舎人(おおとねり)黄金四つ目の仮面を被り玄衣朱裳(げんいしゅしょう)を着装し盾矛をとりて方相氏となり侲子といへる小童多数を従え、陰陽師祭文を奏し終れば方相氏大声を発し盾を打つこと三度、群臣呼応して舞殿を一巡。最後に上卿以下殿上人が桃弓で葦矢を放ち、疫鬼を追い払う。――


 これにて、追儺式の舞台は整った。






「ここは……」
 目を開けた絢子は、自分がまだ現実世界に戻っていないということを察した。
 絢子が立っていたのは、薄暗く、広く長い板張りの廊下であった。
 衣装や髪型は現代のものに戻っている。
 ここは一体どこなのだろう。
 しんとする廊下は地平線まで果てなく続いており、等間隔に立っている太い柱は良く磨かれ、鈍い飴色の光沢を放っていた。
 どこからか白檀の香りがする。
 寺か、神社か。
 そのような場所に自分はいるのだと何となく感じた。
 絢子はすぐさま「目」で周囲の状況を探ったが、奇妙なことに目で見る風景と「目」で見る風景とは何の変わりもなかったのだ。
 そのときである。

「絢子、ようやく見つけたよ」

 声のするほうに振り向くと、二メートルぐらい向こうに、仕立てのよい紺色の着物を着た葛城秀斎が立っていた。
「葛城秀斎……」
「彼」が縛心術の残滓、秀斎の力の一端が具現化したものなのであろう。
 本物と何一つ変わらない秀斎の姿は、しかし彼が身の内に抱えている瘴気までは再現していなかった。
 どこまでも清浄な気をまとう秀斎は、絢子に向かって優しく微笑んだ。
 目を直接見ていないはずなのに、絢子はまるで呪縛されたかのようにその場から動くことができなかった。
 秀斎は長い脚を繰り出してつかつかと絢子に近づくと、彼女をふわりと抱きとめた。
 彼の体からは、梅の花のような優しく甘い香りがする。
「ああ絢子、会いたかったよ。私が今までどれだけ心配したと思う?」
「秀斎さん……」
 絢子の口からは思わず彼の名前が漏れた。
 秀斎は絢子の顔をついと上向かせると、その唇に口付けを落とした。
 彼の目を見ないようにと思わず目を閉じた絢子は、必然的に彼の口付けを受け入れる形となる。
 ちゅく、と、唇で音が鳴る。
 一端唇を離した秀斎が、今度は舌で絢子の唇を艶かしくなぞってゆく。
 その間も、腰に回された手は妖しく彼女の体を這っている。
「はぅ……」
 その秀斎の優しい愛撫に思わずため息を漏らす絢子である。
 僅かに開いた彼女の唇を、秀斎が自身のそれで塞いだ。
 秀斎の口付けはとても気持ちがいい。
 体の芯がぞくぞくとし、余計な力が抜けてゆく。
 やがて深くつながり合った二人は、そのまま床にくず折れた。
 秀斎は絢子を床に縫いとめると、息継ぎをしようと思った絢子の口の中に自身の舌を深く差し込んだ。
「んんっ!」
 その刺激に、思わず絢子が両目を開けた。
 その瞬間、秀斎の両の瞳とまともにかち合ってしまった。
 秀斎の瞳は鮮やかな黒で、艶々と光り、その奥には欲情の炎をちらちらと覗かせていた。
「彼」の瞳を見た直後、絢子の目から直接秀斎の力が入り込んできた。
 視線が逸らせない。
 深遠を覗き込むような彼の瞳の中で溺れてしまいそうだ。
 目で犯されるとはこういうことを言うのかと、絢子はぼんやりとした思考でそんなことを考えた。
 しかし。
 その中で絢子が溺れることは終ぞなかった。
 彼女の体が突然びくんと跳ね上がる。
 秀斎は訝しげに絢子を見ると、その唇を離した。
「どうした、絢子?」
「あっ……、かはっ……!?」
 苦しげに呼吸をする絢子を秀斎は抱きしめた。
 絢子はぶるぶると震えながら秀斎の着物をぎゅっと掴んで体を丸く縮ませている。
「絢子?」
「ああっ! くっ!」
 ぎりぎりと歯を噛んで、必死に何かと戦う絢子を見た秀斎はしばらくしたあと、ああと合点した。
「そうか絢子、お前の体の中では、私の術に対する抗体ができているのか。そうやって私の術を全身で拒絶し始めているのだね」
 秀斎は絢子を抱きかかえ、膝の上に乗せると、自分の胸にもたせかけるようにした。
 がたがたと震える絢子を腕の中に囲うと、秀斎は絢子の額にそっと唇をつける。
「お前にはもう私の術が効かなくなってしまったのか。それならばこれ以上術でお前を苦しめるのは本意ではないよ。しかしその苦しみを分かつ術を私は知らない。だから、お前をこうして抱いていよう。お前の力が安定するまで」
 そう言うと秀斎は自身の周りに結界を張った。
 ぼんやりと青白く光る結界の中、そこだけ切り取られたかのように二人が浮かび上がる。
 やがて周囲の風景がどこかの建物内から、真っ白な空間へと変わった。
「ぐっ、がはあっ!」
 絢子は吐血した。
 秀斎の着物の胸元が、絢子の血を受けてくすんだ色に変化する。
 絢子の顔面は蒼白で、額からはだらだらと脂汗を滲ませており、こめかみには血管が浮き出ている。
「うああああっ!」
 絢子はそう叫ぶと、秀斎の着物を引き千切らんばかりに握った。
 それを秀斎は眉根を寄せて心配そうに見やる。
「あああっ! ぐっ、あああああ!」
 叫ばずにはいられないのであろう、絢子は全身の血管を波打たせながら、術の残滓と戦っている。
 自らの力が絢子を苦しめているのだと理解している秀斎は、一端瞳を閉じたあと、すっと開け、絢子を見た。
「絢子、私はお前を死なせはしないよ」
 そう呟くと、秀斎は絢子の体を自身の清浄な気で覆い始めた。
 青白い粒子が絢子と秀斎の周りを取り囲む。
「あああああ!」
 苦しげに叫ぶ絢子をひしと抱き、秀斎は自らの清浄な気を放った。
「このようなところで、私の絢子を死なせはしない」
 秀斎は気を絢子の周りだけに送り続ける。
 それはまさに秀斎の分身である「彼」の命を削る行為そのものであった。
「はあっ、はあっ」
 絢子は涙を流しながら、必死で息を整えようとしている。
 と、秀斎の指の先が、青白い粒子となって消え去った。
 それは指の先から手の甲、手首へと、じんわりと上ってきている。
「くっ、この体、消滅するというのか」
 しかし秀斎は絢子に気を送るのを止めようとはしない。
 やがて「彼」の体の半分以上が粒子となって消え去った。
 そのころになると、絢子の体の中の術と抗体との戦いがようやく治まり始めたようである。
 未だ荒い息をつく絢子であるが、その瞳ははっきりと秀斎を見据えていた。
「秀斎、さん……、なぜ、私に力を分けてくれたの?」
 息をつく合間にそう問う絢子であるが、梅の優しい香とともに儚く消えようとする秀斎はふわりと笑った。
「絢子、お前は私の大切な人なのだよ? 力を授けることぐらい、わけはないのだよ」
 絢子は彼の顔に震える手を伸ばそうとした。
 その瞬間、秀斎は淡く光る粒子となって消え去ったのであった。
「ああ……!!」
 絢子は叫び、そしてくず折れた。
「秀斎さんっ、あああっ!」


 絢子はその場で両手をぎゅっと握り、未だ残る痛みと苦しみに耐えた。
 やがて、それらがすべて治まると、絢子はゆっくりと立ち上がった。
 口から胸には吐血の跡があり、着衣は乱れ、顔は涙でぐしゃぐしゃである。
 それでも絢子は立ち上がった。
 絢子は周囲を見回した。
 誰もいない。
 正臣も、望月冴も、葛城秀斎の気配すらもなくなっている。
 この、夢の世界で、絢子は初めてひとりになったのだ。
 その中で絢子は考える。
「私ひとりでは、きっと葛城秀斎の術を耐えることが出来なかった。『彼』のおかげで、私は何とか耐えられたのだわ。私に術をかけたのも秀斎さんならば、それを解く手助けをしてくれたのもまた秀斎さんだった」
 人はひとりでは生きられないとは誰が言ったか。
 絢子は敵であり、そしてもしかしたら伴侶になっていたかもしれない人物に命を助けられたのである。
「これが葛城秀斎という人の本質、自己犠牲・献身の精神を持った人物であったというわけなのね」
 そう納得すると、絢子は覚醒の準備に入った。
 彼女は自分の周りを紀朝雄の気で覆う。
 それはまるで七色の羽のように、絢子の周囲を抱き込むように取り囲んだ。
「覚醒するわ。大切な人達を助けに行くために、そして、私が救える全てのもの達を救うために」
 絢子はふわりと浮上した。
 その瞬間、絢子の周囲を強烈な光が覆う。
 絢子は目をぎゅっと瞑った。

 そして。






 目を覚ましたのは、ベッドの上だった。
 絢子は起き上がり、自分の体を「目」で確認する。
 どこにも異常はない。
 絢子はベッドから降りると、靴を履き、転移の術の準備をした。
「皆、待ってて、今すぐ行くから」
 そう呟くと、絢子は追儺式の場へと転移したのであった。



[27301] 追儺式(下) ●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/09 23:43
「おお我は是、春の疫癘(えきれい)、夏の瘧病(ぎゃくびょう)、秋の血腹(ちはら)に冬の咳病(がいびょう)、一切の病を司る大疫神とは我が事なり」
―神楽舞「鍾馗」―






 暗闇から現れた巨大な童の姿をした疫鬼は、周囲を大風で覆いながらゆっくりと秀斎のいる御簾のほうに近づいた。

「ゴハン、ゴハン」

 笑いながら、さも楽しいとでも言わんばかりにはしゃぐ姿は、しかしそれがいたいけな童であることを差し引くと途端に不気味に映った。
 ぎゃぎゃ、と声がする。
 童の声ではない。
 よく見ると、疫鬼が出てきた暗闇の中から、大小様々な餓鬼がびょんびょんと飛び出してきたのである。
「まあ素敵!」
「げっ、優美ちゃん、この期に及んで!」
 目をきらきらと輝かせて沢山の餓鬼をうっとりと見つめる優美を、ちょっと引いた目線で見やる里緒であった。
「おお、この鬼を倒せば我々の長寿祈願は達成するのだな!」
 ざわざわと観客がざわめく。
 彼らはまるでアトラクションでも見ているかのような現実感の無さで、呑気に声援を送っている。
 その中で、方相氏の姿をとった伊織が御簾と童の間にすっと躍り出た。
 伊織ははしゃぐ疫鬼を黄金の四つ目でぎろりと睨んだ。
「疫鬼よ、この先には俺の主がいるんだよ。お前に蹂躙はさせない」
 式を侍らせ、盾と矛を構え、巨大な疫鬼と対峙する伊織である。
 と、秀斎のいる御簾に向かっていた疫鬼はつと足を止めた。
 突然進行方向から瘴気を感じることができなくなったのだ。
「?」
 御簾の内側では、治郎が自らの血で結界を作っていた。
「これで、しばらくは疫鬼の目をくらますことが出来るでしょう。伊織が疫鬼を舞台の中心におびき出し、そこで冴の大結界によって疫鬼を縛り、そうして秀斎様のお力で疫鬼の生命力を取り込むのです」
 冴はいつでも大結界を発動する準備を整えている。
「行けー! 殺ってしまえー!」
 観客から声援が飛ぶ。
 それを全く無視して、伊織は背後に控えていた式を放った。
 式はそれぞれに餓鬼を倒すべく四方八方に散らばった。
 その中で伊織は盾と矛を自身の気で補強すると、そのまま地面をとんと蹴って跳躍した。

「うおおおお!」

 唸り声とともに伊織が矛を疫鬼の眉間めがけて繰り出す。
 矛は金色に光りながら真っ直ぐに疫鬼の眉間へと吸い込まれていった。

「ぎゃああ!?」

 眉間に深々と刺さる金色に光る矛。
 突然の痛みに疫鬼は驚いた。
 その場で呆然と立ち尽くす疫鬼は、次の瞬間、火のついたように泣き出した。

「ぎええええ!!」

 疫鬼は矛を取ろうとがむしゃらに顔を爪でがりがりと掻き毟る。
「イタイ、イタイイタイイタイイタイ!!!!」
 ぼろぼろと、疫鬼の童の顔面の皮膚が剥がれてゆく。
「ひいっ!? あ、あれは何だ!?」
 観客が怖気を奮った。
「アアアアア!!」
 可愛らしい童の顔の下から出てきたのは見るもおぞましい肉塊であった。
 目玉は垂れ落ち、鼻は削げ、歯はばらばらと落下し、赤黒い肉がぼとぼとと落ちてゆく。
 地面に落ちた童の体の一部は、これもまた皆汚らしい肉塊へと変化する。
 辺りには何とも言えない腐臭が漂ってきた。
 掻き毟られた肉はすぐにまた再生するが、再生した肉は外気に触れるや否やすぐに腐り落ちてゆく。
 どこから溢れてくるのであろう、その肉はぼろぼろ、ぼとぼとと尽きることなく地面に落ちているのだ。
「げええ、グロい……」
 里緒が思わずといった様子で呟いた。
 観客の中にはその光景に思わず戻しそうになるものもいる。
 その肉の塊はぼこぼこと蠢きながら、巨大な体全体を全て覆い尽くした。
 額であった部分には未だ金色に輝く矛が突き刺さっている。
 その肉塊は、今度は周囲のものを飲み込もうとし始めた。
「来い、疫鬼、こっちだ!」
 伊織が声を張り上げて、舞台の中心に誘導する。
 彼は自分の周りを膨大な気で覆い、疫鬼にその存在を誇示している。
 疫鬼は伊織の気に惹かれてぐるりと方向転換をした。
 周囲のものをなぎ倒し、飲み込み、舞台へと上がってきたのである。
 伊織はそこでダンと舞台を踏みしめると、ぎっと疫鬼を見た。
「お前を呼んだのはこの俺だ。その俺の命に従うのは道理だろう? 大人しく、秀斎さんの力となれよ」
 そういうと伊織は結界の外に素早く跳躍した。
 その瞬間、冴が大結界を発動する。

「結界発動!!」

 疾風が舞った。
 薪の火を吹き飛ばし、辺りが一瞬漆黒に包まれる。
 その中から、ごおおおと言う地響きとともに赤色に光る巨大な結界が現れた。

「見よ! これが望月家の実力者、望月冴の大結界である!」

 観客が興奮に沸く。
 大文字焼きのような煌々と明るい結界は薪の変わりに周囲を明るく照らした。
 その結界の中、疫鬼は光の紐で雁字搦めに縛られ、ぶるぶると震えている。
「やった! 鬼を捕まえたぞ!」
 観客が声援を送る。
 そこに、満を持してであろう、秀斎が御簾の中から現れた。
 物凄い瘴気を垂れ流しながら、ゆっくりとその疫鬼に近づいてゆく。
 秀斎は舞台に上がると、疫鬼と間近で対峙した。
 疫鬼は腐っては再生し、腐っては再生しを繰り返している。
「ギャギャ、ギャギャギャ!!」
 餓鬼達が秀斎の瘴気に惹かれてわらわらと集まってくる。
 おぞましい疫鬼に対峙し、周囲に餓鬼を侍らせ、瘴気を垂れ流している秀斎の姿はまさに鬼そのものと言っても差し支えなかった。
 秀斎は疫鬼をむしろ愛おしそうに見つめ、そのおぞましい化け物をかき抱くように両手を広げた。
「お前のその生命力、今、私がもらい受けようぞ!」
 そのときである。

「そうはさせない!」

 現れたのは藤原匠と四性の鬼達だった。
 四性の鬼達は大結界の外側で四方に配置しており、秀斎と対峙しているのは匠であった。
 匠は厳しい表情で秀斎を見据えると、ぐっと両手で印を作りながら言葉を発した。
「葛城秀斎よ、今の状態で疫鬼を受け入れれば、お前の体は確実に疫鬼に支配されるだろう。それでなくとも、瘴気を留めておく力は限界近くまで削られているのだろう? そのまま我々に滅されるが良い!」
 秀斎は匠のその言に嫣然と微笑んだ。
「それは出来ない相談だ。私は必ず疫鬼を我が物とする。葛城家の祓いの力は連綿と受け継がれてきているのだということを今、この場で証明して見せようではないか」
 治郎がすかさず匠の前に立ち塞がる。
「藤原匠よ、この治郎、謹んでお相手願う」
 印を結び、自らの血を媒介として戦う治郎は秀斎に声をかけた。
「では秀斎様、お早く!」
「頼んだよ、治郎」
 そう言うと秀斎はその白く美しい手をおもむろに疫鬼の肉塊にずぶりと埋めた。
 すぐに秀斎の手は手首まで赤黒い痣が浮かび上がる。
 その痣は着物の中を伝って、あっという間に体全体に回っているようである。
 秀斎の美麗な顔にまでその痣は広がった。
 斑模様の痣が秀斎の顔をグロテスクに彩る。
 それは見ようによっては壮大な刺青のようであった。
 秀斎は疫鬼の体の中に直接、膨大な気を送った。
 疫鬼の体全体がぼわっと真っ白に光る。
 そのあとすぐに、気の逆流現象が起こった。
 秀斎の髪が気の爆風によって派手に後ろになびく。
 彼の周囲にいた餓鬼達は、その風に煽られて皆周囲に吹っ飛んだ。

「ぐっ、おおおおお!!」

 秀斎はかっと目を見開き、体の中に流れてくる膨大な疫鬼の生命力を取り込んでいる。
 その間、匠と治郎、そして、四性の鬼達と伊織・冴がそれぞれに戦っていた。
 匠と治郎はお互いに素早く印を結び、気の競り合いを行っている。
 伊織と冴は式を放ち、四性の鬼達にけしかけていた。
 冴は翼の生えた虎を二頭繰り出して直人と正臣にぶつけており、伊織は巨大な蛇を二匹出現させ、悠真と颯太に当てている。
「ほほほ、秀斎様の邪魔をする下種な鬼どもよ、この望月冴、全力を持って潰してやろうぞえ!」
 冴は鬼を嬲るのが心底楽しくて仕方ないと言った風情だ。
「俺の主の邪魔をするものは、誰であろうと打ち倒す!」
 伊織は力強く宣言すると、手に持つ盾を捨て、再度印を結んだ。
「隠岐先輩! 僕だって、手加減は一切しないよ!」
 悠真が自身の気を最大限に発揮する。
 辺りが白色の鮮やかな気で覆われた。
「はああああ!」
 悠真が拳を作って伊織が放った巨大な蛇を右ストレートでぶち抜く。
 その衝撃で蛇の首と胴体がもげ、肉塊と化したあと霧散した。
 悠真の背後にもう一匹の蛇が迫る。
 返す体で、悠真は瞬間的な速さで回し蹴りを食らわした。
 ぶうんという音が聞こえたと思ったら、その二匹目の蛇も胴を一刀両断に裂かれ、霧散した。
「なかなかやるな」
 久々に全力を出せる相手と出会えたのであろう、伊織はどこか嬉しそうに笑っている。
 伊織は次に、巨大な鷹と竜を繰り出した。
 鷹は悠真が、竜は颯太が相手をする。
 颯太は膨大な風の壁で竜を囲い込み、その中で押しつぶそうとしている。
 それを察した竜は上空に逃げようとするが。

「逃がさないよ」

 そう言うと、颯太は両手をパンと合わせて風の壁をぐぐっと閉めた。
 その瞬間、上空に逃げようとしていた竜は伸ばされた押し花のようにぐしゃりと潰れて霧散した。
 悠真はと見ると、鷹相手に苦戦しているようである。
 金鬼の力で外傷はないが、ひたすら防御一方である。
 颯太はふわりと微笑むと、気流を操作した。
 彼は顔の前で人差し指と中指を二本立てる印を組んで気流を操ると、鷹の周囲に真空状態を作ったのである。
 びしびしと、鷹の翼がもげてゆく。
 空に留まっていられなくなった鷹はひゅるひゅると地面に落下してきた。
 颯太は地面につく前にその鷹を竜巻で覆った。
 ばりばりと骨と肉が砕ける音がする。
「ギャアアアア!!」
 鷹が断末魔の声を上げる。
 そうしてミンチにされた鷹はこれもまた霧散した。
「あんたら、やっぱりただの鬼じゃないね。さすが四性の鬼なだけある。やり方も容赦ない」
 伊織はそう呟くと、今度はぐぐっと印を素早く結び直し、最初に放っていた式を全部呼び戻した。
 餓鬼と戦っていた式が消え去る。
 力を集めると伊織は、今度は一体の巨大な怪物を呼び出した。
 その怪物とは、檮杌(とうこつ)。
 中国神話に登場する怪物、四凶のひとつで、虎に似た体に人の頭を持っており、猪のような長い牙と、長い尻尾を持っている。
 尊大かつ頑固な性格で、荒野の中を好き勝手に暴れ回り、戦う時は退却することを知らずに死ぬまで戦うというものである。
 現れた怪物はぶるると荒い息を吐き出すと、颯太と悠真を見下ろした。
「さあて、どこまで耐えられるかな?」
 にいっと、甲賀五十三家現筆頭は笑った。




「ほほ、ぬるいのう、四性の鬼とは、その程度のものじゃったか」
 こちらは冴対直人と正臣である。
 冴は怪物・窮奇(きゅうき)を繰り出し、二人の鬼を悩ませている。
 窮奇とはこれも中国神話の四凶のひとつで、「海内北経」では人食いの翼をもった虎で、人間を頭から食べると説明している。
 また「山海経」にならって書かれた前漢初期の「神異経」では、前述の「海内北経」と同様に有翼の虎で、人語を理解し、人が喧嘩していると正しいことを言っている方を食べ、誠実な人がいるとその人の鼻を食べ、悪人がいると獣を捕まえてその者に贈るとしている。
 その怪物を二頭も操る冴は、やはり甲賀五十三家の筆頭であっただけある。
 彼女は怪物を二頭も操っているほか、大結界をも維持していた。
 しかしそれだけの荒業、対価がないわけではない。
 冴は自らの寿命を削り、そこまでの大仕掛けを維持しているのであった。
「これぐらいやらないと、張り合いがないからのう」
 そう呟いた冴は怪物をまともに二人に当てた。

「ぐっ!」

 眉をしかめる正臣である。
 怪物はなかなか隙がない。
 正臣とその怪物はお見合い状態である。
 反対に、直人と怪物は激戦を繰り広げていた。

「うおおおお!」

 直人が両手から水紐を繰り出す。
 それを飛んで避けた怪物は、直人に向かって一直線に降下する。
 彼は自身を水の球体で瞬時に守ると、その中から上に向かって水の竜巻を作り出した。
 降下している中でその竜巻にぶつかった怪物は、一瞬洗濯槽の中の洗濯物のようにぎゅるぎゅるとしぼられたかに見えた。
 しかし間一髪でそれを抜け出すと、怪物は憤慨しつつ上空から直人を眺めた。
 直人はその怪物になおも水の竜巻で追い縋る。
 と、怪物は口をばかっと大きく開いた。
 きゅきゅきゅきゅと、何かが集まる音がする。
 怪物の口から気の波動が発射された。
 直人の放った水流と怪物の放った波動がまともにぶつかり合う。
 その設置面は派手に広がった。
 辺り一帯は波動によって粉砕された水の粒子で、ぱらぱらと小雨が降っているような状態になった。

「水鬼よ、やりおるのう」

 冴は微笑むと、ぐっと印を結んだ。
「行きや!」
 冴は怪物に発破をかけた。
 冴から気を送られた怪物はごおおと咆哮すると、直人に向かって突進していった。
 直人は怪物に向かってありったけの気、水の竜巻を送り込んだ。
 ぎゅるるると気と気がぶつかり合う。

「失せろおおおお!」

 直人がそう叫んだ。
 その裂帛の気合に一瞬だけ怪物が圧された。
 その隙を見逃さなかった直人は竜巻を竜の顎
あぎと
に変化させて怪物を飲み込んだ。
「ギャアアアア!!」
 怪物があっという間に直人の放つ水の竜巻の中に飲み込まれる。
 ぼこぼこと水の中でもがく怪物は、水圧でぐしゃりと押しつぶされ、その中で霧散した。


 正臣ともう一頭の怪物はまだ睨み合っていた。
 どちらも相手の実力を一瞬で推し量り、次の一手が勝負だと言うことがわかっていたからである。
 彼らの周りだけは、しんとした静寂に包まれていた。
 正臣の額からつうと汗が一筋滴り落ちる。
 顎を伝って、汗がぽとりと落ちた。
 それを合図としたかのようにお互いが動いた。
 怪物が今の今まで溜めていた気の波動を口から発射する。
 彼は転移術で怪物の背後に回ると、その背中に手をついた。

「転移!」

 そう言うと、怪物の下半身のみが一気に転移された。

「ギャアア!?」

 自分の体に起こった変化に、怪物はついていけていないようであった。
 仕留めたと思っていたはずの獲物が自分の背後に回りこんでいたばかりか、次の瞬間には自分の下半身が根こそぎもぎ取られていたのである。
 立っていられなくてどうと横倒しに倒れる怪物の胴体に正臣は手を置いてこう言った。

「さよなら」

 その瞬間、その胴体もまた転移されたのであった。

「ほほほ、隠形鬼よ、悪知恵が働くのう」

 冴が笑いながら言った。
「望月冴、お前もこれまでだな」
 そう正臣が言うのを、冴は可笑しそうに聞いた。
「ほほ、楽しかったわ。じゃが、遊びはもうお終い。わたくしの役目はこれで果たされたようじゃ」
「何!?」
「見やれ。秀斎様の新しいお姿じゃ」
 その言葉に、直人と正臣は秀斎のほうを見た。


 目線の先には、黒々とした気をまとったひとりの世にも美麗な青年が立っていた。


 その肌の色は飴色、その目と瞳孔は真っ黒であり、虹彩は金色であった。
 額からは三本の鋭い角を生やし、爪は金色、唇は紅を刷いたように紅く、薄く微笑んでいるその姿は夜叉ともつかぬ妖艶ささえ感じられた。

 秀斎に気を吸い取られた疫鬼の肉塊は今や灰と化し、ぼろぼろと夜風に飛んでいる。
 それはまるで巨大な蛹のようであった。
 その蛹から生まれ出で大きな翅(はね)を広げる蝶、それが今の秀斎の姿であるように見えた。
 葛城秀斎、彼からは圧倒的な気の圧力を感じる。
 その場にいるものは皆、平伏したくなるほどの気持ちにさえなっていた。
 実際に、秀斎の姿を見た政財界の重鎮達が次々に膝を折り、両手を合わせ、拝み始めているではないか。
「おお、あれが葛城家当主のお姿! 何と神々しい!」
 中には感極まって涙を流しているものさえいる。
 治郎と匠も、戦いを一旦中断し、秀斎の姿を見やった。
「おお、秀斎様! 何と美しい!」
 治郎がそう呟いて目を潤ませる。
 伊織は自ら放った怪物を一旦止めさせると、秀斎の新しい姿を目にした。
「秀斎さん、うまく融合できた、のか?」
 いぶかしむ伊織である。
 秀斎はたった今起きたかのような表情をした。

 そうして、彼の口から漏れ出てきた言葉は。


「ああ、生き返ったようだ」


 うおおおおと言う歓声に周囲は飲み込まれた。
「秀斎様―! 私の厄を祓ってくだされー!」
「私が先だ!」
「いいや俺が!」
 観客は我先にと秀斎の下に駆け寄ろうとする。
 しかしそれを止めたのが里緒と優美であった。
「ちょっと、あんた達、こんな物騒な場所で勝手に歩き回るんじゃないよ!」
 そう言いながら里緒が針ほどの小さい槍をざっとばら撒く。
 それが刺さった観客はぐぐっと不自然に動きを止めた。
「呪縛!」
 優美が残りの観客をまとめて呪縛する。
 そうして二人に囚われた観客はその場を動かずに大人しく事態を見守ることとなった。
 さらに優美に呪縛され、ぼうっとした表情の観客は、彼女のほうを見て恍惚とした表情を浮かべた。
「優美様ー!」
「ちょっとやりすぎましたわ」
 優美が眉をしかめながらしっしっと寄ってきた観客を追い払う仕草をする。
 彼女が反応を返してくれた、ただそれだけでも嬉しいのか、また感極まって泣き出すものもいた。
「秀斎様の気に当てられて、普段よりも感覚が鋭敏になっているのですわ。だからわたくしの呪縛もよく効いたのですわね」
 そうひとり呟く優美である。
 里緒は自らの術が効いている人達を連れて避難し始めた。
「最後まで見られないのはつまんないけれど、この人達は曲がりなりにもこの国を動かしている人達だからさ、ここで壊れてもらっちゃ困るんだよね」
 それを見た優美も自らの下僕となった重鎮達を連れて退避する。
「わたくしも残念ですが里緒さんとともに退場するしかありませんわね。でも、これからいらっしゃるであろうお姉さまのことが心配ですので、この人達を安全な場所に避難させたらすぐに戻って参る所存ですわ」
「それはあたしだって同じだよ。早いとこ、この人達を片付けちゃおう!」
「ええ、そうですわね」
 そう言うと、二人は素早く退避行動をとったのであった。




 秀斎はすうっと能の役者のように歩き始めた。
 彼が向かうは治郎と匠がいる場所である。
 匠は秀斎が近づいてくるのを見るや、その場からざっと飛び退った。
 いつの間にか、その匠の周囲には四性の鬼達が集合しており、治郎の傍には伊織と冴が戻ってきていた。
 治郎は、傍に寄って来た秀斎の前に膝を着いた。
 それに続いて、伊織と冴も膝を折る。
「お帰り、お待ちしておりました」
「ご苦労だったね、治郎」
「いえ、このようなこと、些事の内にも入りません」
 秀斎は次に冴に目を向けた。
「冴、顔を上げて私を見ておくれ」
 冴はそっと顔を上げ、今の秀斎の姿を目の内にしっかりと入れた。
 秀斎は冴に問う。
「私の姿はこのように異形のものとなってしまったが、それでも受け入れてくれるかな?」
 冴は瞳を潤ませながら、秀斎の足元に縋り付いた。
「ああ、秀斎様! 冴が秀斎様のことを受け入れないはずがありましょうか! 冴は秀斎様のためならばこの命、いくらでも差し上げますのに」
 最後に秀斎は伊織に目をやった。
「待たせたね、伊織。また力比べをすることが出来るようになったよ。さあ、遊ぼうか」
「秀斎さん……」
 しかし、伊織の表情は晴れない。
 何か気にかかることがあるようである。
 秀斎は首をことりと傾げる。
「どうしたのかな? 伊織」
 伊織は、彼にしては珍しく逡巡したあと言葉を発した。
「秀斎さん、こう言っちゃ何だけれど、今の秀斎さんからは、昔のような聖なる気は一切感じられない。秀斎さん、あんたは、本当に秀斎さんなのか?」
 それを聞いた秀斎は困ったように眉を下げた。
「伊織は不思議なことを言うね。私が、私でないと? ふふ、可笑しいね。私の体は今、こんなにも充実している。形こそ異形のものになってしまったが、私の中身は前とは一切変わっていないのだよ? 何も心配することはない。さあ、伊織、こちらにおいで」
 ゆらり、と、秀斎の飴色の手が上がる。
 伊織は眉をしかめていたが、それでもすっと立ち上がってその場から秀斎の下へと近寄ろうとした。

 そのときである。


「はいはい皆様ぁ、ごっ苦労さんでしたあ!」


 その場にそぐわない、全く場違いな声がした。
 登場したのは蔭原浩介であった。
 彼はにやにやとした笑いを浮かべながら、ぱちぱちと拍手をして一同の元へ近寄った。
「いやあ、実に良い追儺式でした! 疫鬼を呼び出し、それを取り込んだ美しき青年、そして感動的な対面、俺は涙がちょちょ切れそうだったね。うんうん、これぞ麗しき主従の関係! 今の世にはなかなかない忠義っぷりで、見ていて悪寒が走りそうでしたよ」
 そう毒を吐きながら、浩介は無造作に近寄ってくる。
 一同はそれぞれに警戒態勢を取った。
「ああ、いまさら警戒しても無駄ですよ。この場は俺の結界の中ですから。迂闊に動きますと、三十六禽があなた方を喰い千切りますからね」
 そう言いながら彼らと一定の距離を置いて立ち止まった浩介は、険しい表情をしている伊織に目をやった。
「伊織君、でしたっけ? 今日が君の甲賀五十三家筆頭としての初仕事なんでしたよね? 流石筆頭になっただけはある。君の疑念の通り、その秀斎さんはね、失敗作だよ」
「何だと?」
 伊織が壮絶な殺気を放って凄んだ。
 その殺気をへらへらとした笑みで交わすと、浩介は説明を始めた。
「君が危ぶんだ通り、その葛城秀斎は最早聖なる力を持ってはいない。彼の聖なる力の残滓は、疫鬼を取り込んだときに相殺されてしまったのだろうね。彼は浄化されたわけではないのだよ。でも、内面は変わっていないと本人は言う。それもそのはず、彼の内面には、元から大量の瘴気が内包されていたのだから。そして、浄化の力を失った葛城秀斎は何になったと思う?」
「何だと言うんだ」
 浩介はにいっと楽しそうに笑った。
「妖怪だよ。それも近年稀に見る大妖怪だ。彼が瘴気に侵されない訳を教えてあげようか。彼は今や瘴気をこそ力としているからなのだよ。まあ、そう考えたら融合は成功だった、と言うことかな? 悪神・疫鬼の穢れの力を取り込んで、弱き聖なるものから強き邪なものへ変化したのだから。大妖怪ともなると、瘴気に影響されて狂うことはないからね。ただし、残念なことに彼はもう他者の穢れを祓うことは出来なくなった。穢れを吸い取り、己の力とすることは出来ても、相手の災厄を回避させることは出来なくなったんだよ。だから『穢れを祓う葛城家』は彼の代で終わりだね。今度からは、『穢れを吸い取る葛城家の大妖怪』って名乗ったほうが良いんじゃない?」
 それを聞いていた治郎が有無を言わさず暗器を放った。
 それを軽くいなすと、浩介は治郎をやれやれと言った表情で見つめた。
「治郎さーん? そんなにヒートアップすると血圧上がっちゃいますよー?」
「あ、そうだ」と浩介は思いついたように言った。
「我が蔭原家は鬼の研究をしていましてね、その鬼の毒は万能の薬にもなり得るってんで、早くから目をつけていたんですよね。で、今回、葛城秀斎という大妖怪が誕生したことを記念して、退魔の一族を代表して俺から素敵なプレゼントを差し上げまぁす!」
 そう言うと浩介は懐から携帯銃を取り出した。
 それをすっと構えると、浩介は表情を改めた。
「この毒は、妖怪になってしまったあなたにこそ相応しい。我らは退魔の一族、謹んで、滅させていただく!」
 今まで浩介の台詞を聞いていた冴がゆらりと立ち上がった。
「……ほほ、浩介よ、退魔の一族はそのような目論見でわが主に手を貸しておったか」
 そのこめかみは、怒りからなのか、ぴくぴくと痙攣している。
「その減らず口を、今すぐ捻り潰してやりたいところじゃ」
「おっと、俺はいつだって美女の味方なんです、あまり手荒なことはさせないでくださいよ?」
「どの口がそうほざいているのじゃ? 誰に向かって口を聞いておる? わたくしは甲賀五十三家の前筆頭であるぞ」
「ですがねえ」
 浩介は残念そうに言った。
「冴さん、疫鬼を留めておくために大結界で大半の力を使い、その上に上級の怪物を二頭も召喚しちゃったでしょう? 俺と戦うほどの力はもう残ってはいないんじゃない? だからそれ以上気張っちゃうと、あっという間に余命幾許もなくなっちゃって、秀斎さんに添えなくなっちゃうよ?」
「黙りゃ!!」
 冴が凄んだ。
 しかし、図星であったのであろう、冴はぎゅっと歯噛みをしている。
「あれ、なんか俺、悪役みたい? でもさあ、魔を滅するのが俺の仕事であり、一族の総意なんだよね。俺ってば一族思いだから、里緒じゃないけれど仕事はきっちりこなす派なもんで、遂行させていただきますよ」
 そう言うと浩介はおもむろに携帯銃を発射した。

 周囲の反応がわずかに遅れた。
 結界を展開しようとする冴、体ごと盾になろうとする治郎、秀斎を引き倒そうと手を伸ばす伊織、その三人の動きは、僅かに遅かった。

 どすっ。

 秀斎は自分の胸にゆっくりと目を下ろす。
 そこには、浩介の携帯銃から放たれた、鬼の毒が刺さっていたのだ。

 ぞくり。

 震える。

 瘧(おこり)にでも罹(かか)ったように、秀斎が小刻みに震えだした。
「秀斎さん!?」
「秀斎様!?」
 伊織と冴が秀斎に寄り添う。
 その二人を乱暴に押しやると、秀斎は出来るだけ皆から離れるようにした。

「ア、亞、アアアアア」

 口から苦悶の声を上げて、秀斎はその場に蹲った。

「ぐっ、おおおおお!」

 目をかっと見開き、口の端からだらだらと涎を垂らしながら、それでも尚美しさを損なわないのは、本来持っていた聖なる気故か。
 その秀斎の背中から、着物を突き破って一対のどす黒い色をした巨大な羽がばさりと生えた。
 はらはらと羽を撒き散らすと、秀斎はぐっと地面を握った。
 彼の意思とは関係なく、生えたばかりの勇壮な羽はばさりばさりと羽ばたきを始めた。
 黒い羽が辺りに舞う。
 白い梅の花びらと、黒い羽は好対照で、夜空を彩った。
 そして、顔を上げた秀斎の表情は狂気の美しさに染まっていた。
 彼が言葉を発する。


「効かぬわ、これしきの毒など。我を誰と思うておる? 大いなる穢れの象徴、疫鬼ぞ?」


 その言葉を聞いた冴が浩介を怒鳴りつけた。
「浩介!! 貴様、主に毒を盛るのみならず、疫鬼の人格を出現させてしまったではないか!」
 浩介は目を見開きながらだらりと冷や汗をかき始めた。
「……あれえ? 我が兄上の毒で、華麗に秀斎を滅することが出来るはずだったんだけどな? 何で効かないんだろう?」
 その呟きを聞きつけた匠が補足する。
「効かなかったのではない。鬼の毒は十分に効いている。だからこそ秀斎の内に眠る疫鬼の人格が現れたのだ、いや、もしかしたらその毒で秀斎と融合した疫鬼の人格が新たに作り出されたのかもしれん」
「本当!?」
 悠真が慄いた。
「僕、あんな禍々しい生き物見たことがないよ! さっきの葛城秀斎のほうがまだぜんぜんいい人だったじゃない!」
「そうだな、俺の愚弟が余計なことをしなけりゃ、何とか話は収まったかもしれないのに」
 正臣が眉間に皺を寄せながら牙をむいた。
 秀斎の様子を観察していた颯太が考察する。
「今葛城秀斎の中では、鬼の毒に反応して、新たな人格のほうが強くなっているようだ。そしてこのままその人格を保ち続ければ、いずれさっきの人格は意識の内に沈んでしまうだろうね」
「えっ!? そうなの?」
 悠真が驚く。
「このままあの人格の奴を野放しにしてしまっては、いずれこの日本は災厄に見舞われるだろうな」
 直人が銀のメタルフレームの眼鏡をくっと上げながら呟いた。
「それに、絢子さんは間違いなくあの疫鬼となった秀斎に貪られるだろう」
 それを聞いた悠真が秀斎を睨み付けた。
「僕の絢子にそんなことさせないよ! お前なんかに負けない! 絢子は僕らのものだから!」
 がるるると威嚇する悠真を、しかし誰も止めはしなかった。
 四性の鬼は、皆思いはひとつであった。

「絢子のために、そして僕達の未来のために、葛城秀斎を滅する!!」

 そのときである。




 空のある一点が、煌々と光り始めた。

「この気はまさか!」

 皆、空を見上げる。

 その光の中から現れたのは、夢から目覚めた絢子であった。



[27301] 最終話 終焉、そして ■●
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:2938219e
Date: 2011/05/09 23:49
 金色とも七色ともつかぬ眩い気に囲まれた絢子は、気で出来た美しい翼をはためかせると、藤原勢と葛城勢の陣の真ん中にふわりと降り立った。
 その姿はまるで戦女神のようで、未だ蹲っている秀斎を除く全員が絢子の姿にしばし見とれていた。
 絢子は葛城秀斎の変わり果てた姿を目にすると、思わずといった様子で眉をひそめた。
「これは、どういうことなの?」
 絢子の気を感じたのであろう、蹲っていた秀斎がむくりと立ち上がった。
「あなたは秀斎さんよね、その姿は……」
 顔を上げ、その絢子の姿を目にした秀斎は驚きに目を見開いた。
「これは、何と美しい気であろうか……我の伴侶に相応しい」
 そう言うと、秀斎はべろりと舌なめずりをする。
 その姿は以前の秀斎からは考えられないほど淫猥に歪んでいた。
「絢子! 目覚めたんだね!」
 悠真が駆け寄って来て、絢子の前に立ち塞がった。
 彼は絢子を自分の背で守ると、目の前の葛城勢に向かってびしっと指さした。
「葛城秀斎、いや、疫鬼! 絢子は絶対に渡さないよ!」
 正臣の力によって絢子の前に転移してきた大人組三人も、同じように絢子をそれぞれの背で守る。
「貴様に私の絢子さんをくれてやるわけには行かない。無論、論外だ」
「この子は僕の可愛い『妹』なんだ。『兄』の面子にかけて渡すわけには行かないよ」
「俺の絢子を澱んだ嫌らしい目で見るんじゃねえよ。その目、俺が潰してやる」
 秀斎もとい疫鬼はその四性の鬼達を煩(うるさ)そうに見やると、絢子にだけ真っ直ぐに視線をやった。
 しかし絢子は疫鬼の視線を受けてもまったく動じる様子はない。
 それに気付いた彼はほうと片眉を上げた。
「そなた、絢子と言うのか。我の目を見ても囚われないというのは稀有な力の持ち主よ。益々欲しくなった」
 絢子は四性の鬼達の背の間から疫鬼をぎっと睨んだ。
「秀斎さんはどこ!? あなたは違う! 元の秀斎さんを出しなさい!」
 絢子の必死な呼びかけに、疫鬼はつとこめかみを抑えた。
 眉をしかめ、一瞬だけ苦しそうな表情をする。
「ふむ、まだ我の中で全ての記憶が統合されてはいないようだ。もうひとりの我が足掻いておるせいか。何と煩(わずら)わしいことよ」
 そう言うと、疫鬼は治郎、冴、伊織に声をかけた。
「そなた達、我の僕であろう? 僕ならば僕らしく、はようあの邪魔な鬼どもを退け、絢子を我が元に持ってくるのだ」
 しかし、返事が聞こえない。
 疫鬼はいぶかしんだ。
「男、それに女と小僧よ、そなたらは何故返事をせぬのじゃ? 口が利けなくなったか?」
「……あんたは、俺の秀斎さんじゃない」
 ゆらりと、伊織が一歩下がった。
「何と?」
「あんたは、いや、てめえはやはり疫鬼だ」
 方相氏の姿をとったままの伊織が、金色の四つ目でぎろっと疫鬼を睨んだ。
「俺の秀斎さんを返せよ」
 その言葉に続き、冴も疫鬼から離れた。
「わたくしは疫鬼に忠誠を誓ったのではありませんわ。わたくしの主は秀斎様ただひとりです。お前など、秀斎様の足元にも及ばないわ」
 治郎が残念そうな表情をする。
「私の主も秀斎様ただおひとりです。決してあなたではありませんよ。何より、あなたの心根は全く美しくない」
 それらを聞いた疫鬼は、顔を般若の面のように歪めた。
「我を愚弄するか!」
「今のてめえからは何の魅力も感じないね」
「早く元の秀斎様を取り戻さねば」
「浩介にも手伝わせよう」
 そう言う三人を見た疫鬼はぎりりと拳を作った。
「何と使えない僕であるか。こうなれば我一人でここにいる全てのものを滅そう」
 疫鬼は黒い翼をばさばさと羽ばたかせて上空に浮かんだ。
 空からそこにいる皆を睥睨すると、彼は素早く印を結んだ。
 すぐさま巨大な結界が展開される。
 この秀斎の体を使っている疫鬼はにやにやと笑い始めた。
「ははは、この体は何と使いやすいのか。以前の体は動きづらくてかなわなかったわ。浩介とやら、礼を言うぞ。我をこの世に顕現させてくれたのだからな」
 その場にぼうっと突っ立っていた浩介ははっと気づくと冷や汗をかきながらへらへらと笑った。
「い、いやあ、お安い御用ですよぉ」
 しかしその返答に冴がぎんと目を剥いた。
「浩介! 貴様、先ほどまでの退魔の一族としての矜持はどこへ行った!?」
 冴が思わずといった様子で怒鳴りつける。
「さっさと三十六禽を現すのじゃ!」
「うわあ! 了解いたしました!」
 言うが否や、浩介は素早く印を組んでふうっと息を吹きかけた。

「三十六禽・解!!」

 その掛け声とともに、円陣の置物であった三十六禽が一斉にその姿を現した。
 大小様々な生き物達はそれぞれに天に向かって気を発した。
 ぶううん、と、仄暗い光を放った巨大なドームが出来る。
 疫鬼は黒い翼をはためかせながら上空を飛び回った。
「これは、我を捕らえようとしているのか?」
「この結界の中は俺の領域なんですよ。おいそれと外に出られると思ったら大間違いですよお?」
 浩介が現したその結界は中々にして彼が只者でないことを窺わせる。
 その証拠に、ドームの天を突き破ろうとした疫鬼がその結界にバチバチと弾かれる。
 疫鬼は次に小手先の瘴気をぶつけたがびくともしない。
「浩介とやら、小賢しい手を使いおって!」
 冷や汗を垂らしながらも、浩介は汚名返上すべく結界にさらに力を注いでいる。
「はは、すんませんねえ、これでも俺、一応実力者なんですよ。この中ならば、いくら暴れてもらっても結構ですよ」
 そう言ってにやっと笑う浩介を見下ろした疫鬼は、一瞬の間を置いたあと、口が裂けんばかりの笑みを浮かべた。
「では、ここから出るにはいの一番にお前を滅すればいいのだな」
「げえっ!?」
 自分が疫鬼のターゲットにされたことによって、縮み上がった浩介はぐるりと周囲を見回した。
「だ、誰かは助けてくれますよねえ?」
 しかし一同は白い目で浩介を見ている。
「てめえが余計なことをしなけりゃ、秀斎さんはあんな糞みてえな人格を現さずに済んだのによう?」
 伊織が怪物・檮杌(とうこつ)を呼んだ。
 巨大な怪物はぶるると鼻息も荒く、浩介をねめつけている。
「ひいっ! 俺が倒れたらあの化け物はこの日本に解き放たれるんだぞ!? ちょっとは俺を大切にしろよ!」
 今にも涙を流さんばかりの浩介であるが、それを察したわけではなかろうが、正臣が声を上げた。
「残念ながら、俺の愚弟の処罰はもう少し先になりそうだぜ。皆、奴を見ろ!」
 正臣が全員の注意を空へと促す。
 それはちょうど疫鬼が結界から巨大な女神を無理矢理出現させようとしているところであった。
 女神は自らを呼び出したものが本来の秀斎ではないことを察しているのか、なかなか陣から出てこようとはしない。
「ほう、お主も我が命に逆らうというのか。だがそれはさせぬ!」
 疫鬼は瘴気で女神を絞め上げた。
 女神の顔が黒々と瘴気に染まってゆく。
 ぐっと眉をしかめた女神は、陣から巨大な瘴気の渦によって無理矢理引きずり出されたのだ。
 そして一度陣から出てきた女神はそれまでの反抗的態度はどこへやら、従順に疫鬼に従おうとしている。
「さあ、こやつと戦うのはそなたらの内の誰であるか?」
「俺がやろう」
 伊織が怪物を伴ってずいと前に進み出た。
 それを見た疫鬼はふっと顔を綻ばせた。
「……ああ、伊織、また力比べが出来るね。さあ、遊ぼうか」
 しかし疫鬼の台詞を聞いた伊織は、こめかみの血管を浮き立たせて、壮絶な殺気を放つ。
「下種が。秀斎さんを騙るんじゃねえよ」
 その勢いのまま伊織が怪物をけしかけた。
「行け!」
 疫鬼の女神と、伊織の怪物が派手に激突した。
 怪物は自身の牙で女神を突き刺そうとし、女神はその怪物の首をへし折ろうとしている。
 そうして伊織が自身の怪物と女神を戦わせている中、ほかの人物達はそれぞれに疫鬼と向き合っていた。
 まず颯太が風の壁で疫鬼の周囲を封じる。
「ぐっ! 何だこれは!?」
 そこここに大量の旋風(つむじかぜ)を放ち、疫鬼の羽や体をカマイタチ現象によってびしびしと裂いてゆく。
 次にボール状の風で覆い、真空状態にする。
 普通の人間であれば、この環境におかれたら血液中に含まれている窒素などが気化して気泡となり、その気泡が毛細血管に詰まって体の各器官が壊死(酸欠、チアノーゼ)を起こして、そのまま死に至る。
 所謂「潜水病」や「減圧症」と言われるものである。
 疫鬼の動きが鈍くなってきた。
 颯太は真空のボールをすうっと地面に下ろした。
 疫鬼が地面にくず折れる。
 が、しかし。

「ぐおおおお!!」

 疫鬼は大量の瘴気の風でボール状の風を内側から押し返そうとする。
「くっ! 頼んだよ、直人!」
 ボール状の風が相殺されるのと同時に、直人が水紐を繰り出し、疫鬼を雁字搦めにした。
 直人はみしみしと、疫鬼を水紐で締め上げてゆく。

「砕けろおおお!!」

 直人が気合を込める。
 がしかし、それも疫鬼の膨大な瘴気によって内側から押し返されてゆく。
 ここからは直人と疫鬼の気力勝負だ。
「ぐうううう!」
 疫鬼が膝をつく。
 一度は疫鬼を抑えたかに見えた。
 だがゆっくりと、再び疫鬼が立ち上がってくる。
 まさか直人が力負けするとは。
 疫鬼はゆらありと立ち上がると、ぐぐっと手を前に突き出した。
「邪魔な鬼どもよ、消えてしまえ!」
 その手から何かが発射された。
 四性の鬼達はすかさず各々の能力を発揮してその飛んできたものを全て弾き返す。
 地面に落ちたのは、先ほど浩介が放った携帯銃の中身とそっくりだった。
「まさか、疫鬼は自分の体の中で鬼の毒を生成したというのか!?」
 それを見た匠が驚き呟く。
「我を誰と思うておる? 大いなる穢れの象徴・疫鬼ぞ? 鬼の毒を作ることなど容易いわ」
 はんと鼻で笑った疫鬼は直人の水紐で縛られたまま、ずり、ずりと前に進んできた。
 その間も膨大な瘴気を垂れ流しており、その瘴気は一同の元にどんよりと漂ってくる。
 はっと、何かに気づいたのは匠だった。
「いかん! 皆、この瘴気を吸い込むな! 毒に侵されるぞ!!」
 しかし気付いたときにはすでに遅し。
 結界の中は瘴気で充満していた。
「ぐっ!」
「うああ!」
「げえっ!」
 それぞれが順々に地面へとくず折れてゆく。
 やがてこの場で立っているのは、水紐を弾いて自由の身になった疫鬼と絢子の二人だけになった。
 浩介は毒に侵されながらも、必死で結界を保っている。
「は、早く、疫鬼をぶっ倒してくれ……」
 声を絞り出しながら、浩介は絢子に訴える。
「ええ。私、秀斎さんを取り戻してきます」
 絢子はそう言うと、きっと疫鬼を見やった。
「ほう、やはり我の伴侶に値する器よ。器量も悪くない。何より美味そうなのはその気じゃ。早く我のものでそなたを穿ってやりたいぞ?」
 にやついた笑いを浮かべる疫鬼の下に、絢子はしっかりとした歩調で近づいていった。
「ぐっ、絢子ちゃん、行くな!」
 正臣が声をかけるが、絢子は動じない。
「正臣、あなた達は私に浄化されてきたとは言え、その本質は鬼、鬼の毒の混じった瘴気に侵されては太刀打ちできないでしょう? お願い正臣、私を信じてください」
 そう言うと、絢子はふわりと笑った。
 その笑みを見た正臣ははっと驚いたような表情をする。
 そのあと、彼はくしゃりと顔を歪めた。
「絢子ちゃん、もしあんたが奴に捕まったら、俺が必ず助け出すから」
「はい、そのときは待ってます、正臣のこと。だから、正臣も私を待っていてください」
 絢子はまた歩き出した。
 そうして疫鬼の前まで来ると、絢子は両手を広げた。
「疫鬼、私と、力比べをしましょう。どちらの気が強いか、勝負してください」
 疫鬼は絢子を見下ろし、べろりと舌なめずりをした。
「ほう、では、我が勝ったらそなたの体は我のものだ。我の命に従順に従い、いつ何時でも股を開けるよう用意をするのじゃぞ? 我にその体隅々までよく見せ、我に奉仕し、我を楽しませよ。さもなくば、我は瘴気を垂れ流し、毎日千人の命を奪おうぞ」
「わかりました。では私が勝ったら秀斎さんを返してもらいます」
「承知した」
「本当ですね?」
 念を押した絢子を、疫鬼は眉を寄せながら見やった。
「我は神ぞ? 約定は違えぬ」
 その台詞を聞いた絢子はかっと両目で秀斎の瞳孔を真っ直ぐに見た。
「あなたが神というのならば、この制約が効くか試して見ます! 疫鬼よ『力の譲渡と口付けを許可します』」
 その瞬間、絢子と疫鬼の間でぱちんと光がはじけた。
「そなた、何をした?」
「あなたは最早神ではない。この術が効いたということは、あなたは神ではなくただの鬼なのです。これで私の勝ちです」
 それを聞いた疫鬼はぐわっと顔を歪めた。
「小娘がああ! 小賢しい真似をしおって!」
 その怒りのまま、疫鬼は絢子を抱き締めるとその首すじに牙を突き立てた。
 しかし。
 絢子は金鬼の力で身を守っているため、その牙が通ることはない。
 傍から見ると、その光景は疫鬼が絢子の首筋に口付けを施しているかのようであった。
「さあ、疫鬼よ、私と勝負しましょう!」
 怒りに燃える疫鬼は、絢子の顎を強引に掴むと、その唇を貪り始めた。
「我の瘴気でそなたを破壊してやるわ! 我のことだけしか考えられぬ、我だけの玩具にしてやるわい!」
 絢子はその強引な口付けに応えた。
 深く繋がった瞬間、絢子は紀朝雄の気を一気に送り込んだ。
「!?」
 疫鬼が目を見開く。
「こ、これは!」
 驚く疫鬼、それもそのはず、絢子の気は想像以上に心地良かったのだ。
 彼女は自身の気で、ふわりと疫鬼を包み込んだ。
 それは金色とも七色ともつかぬ翼が、疫鬼の黒い翼ごと抱き込んでいるかのようであった。
 絢子の気に惹かれ、疫鬼の体が自然と反応する。
「この女、欲しい! 壊すのは止めじゃ! やはり我の伴侶にこそ相応しい! この女とともにおれば、我は世界の中心に君臨することが出来るであろう!」
 今度は、疫鬼はねっとりと絢子の内側を貪り始めた。
「んんっ!」
 絢子が微かに反応する。
 それに気を良くした疫鬼は、絢子の尻を掴み、両の手でゆっくりと揉みながら、絢子とさらに深く繋がった。
「んはあっ!」
 息継ぎをする間も惜しいほど、疫鬼は絢子を離そうとはしない。
 絢子は必死で気を送り続ける。
 いつの間にか、二人の体は隙間がないほどぴったりと重なり合い、それはまるで仲睦まじい一組の恋人のようであった。
 苦しいのか、絢子の両の瞳からはぽろぽろと涙が溢れ出る。
 疫鬼はそれを両手で優しく拭った。
「絢子、なぜ泣いている?」
 いつの間にか、疫鬼の両手の色が、飴色から元の秀斎の美しい白磁の色へと変わってきた。
 さらに、絢子の涙に触れるたび、疫鬼はどんどん浄化されてきているようである。
 しかし。
 絢子の膝ががくんと抜けた。
 一度に大量の気を送ったのだ、貧血を起こしたかのように、絢子の体は制御が利かなくなっているようである。
 それを疫鬼はふわりと抱きとめる。
「これで終わりか? ふむ、我の勝ちだな」
 唇を離した絢子は泣きながらはあはあと荒い息をつく。
 疫鬼は絢子を地面に横たえると、絢子のブラウスのボタンを手際よく外し始めた。
「な、何を……」
「決まっているであろう? ここでそなたと繋がるのだ。そなたを一刻も早く我の伴侶とするために、我も形振り構ってはいられぬのだよ」
 手首までは、秀斎の色を取り戻すことが出来たのに!
 内面までは変えられなかったのであろうか?
「い、嫌っ!」
 秀斎の手が、優しく絢子の体を這い回る。
 その間も、疫鬼は絢子に口付けをしている。
 長い舌を喉の奥まで指し込み、絢子が苦しむ姿を見ては目を細めている。
「んんんっ!」
 それでも絢子は耐えながら、唇が繋がっている限りは必死で気を送り続ける。
 秀斎の腕が、肘まで戻ってきた。
「女を抱くのはいつ振りであろう? もう久しく抱いては来なかったからのう。体の内が猛るようじゃ」
 だが疫鬼が絢子の体に照準を定めようとしたとき。


「失せな、疫鬼」


 疫鬼の頭を後ろからがっと掴む大きな手があった。
 ぐいっと顔を上げさせたその手は、正臣のものであった。

「転移!」

 その瞬間、疫鬼の首が吹っ飛んだ。

 どうと、絢子の上に疫鬼が倒れてくる。

「ま、正臣……」
「俺の絢子が喰われそうになってるってのに、放っておけるかよ」
 疫鬼をその長い脚で容赦なく遠くに蹴り飛ばすと、正臣は絢子を腕の中にかき抱いた。
「無茶はするな。俺の寿命が縮むでしょ?」
「正臣、まだ、希望はあります! 秀斎さんに戻すことが出来るかもしれません!」
「俺はもう嫌だね。絢子をあんな奴に渡したくない」
 そう言う正臣の虹彩はいつの間にか金色になっていた。
「正臣……?」
「俺の、俺だけの女だ」
 瞬間、正臣は絢子に口付けた。
「んっ!」
 すぐに大量の正臣の気が流れ込んでくる。
 その気は、腰が浮いてしまうほど気持ちが良かった。
 絢子の腰を掴むと、正臣は離すまいと気を送り続けた。
「あん、正臣、駄目、気持ち良いっ!」
「イイんでしょ? もっと溺れなよ」
「そんな、まだ秀斎さんが……」
「ほかの男のことなんか考えるな。俺だけを見てろよ」
「駄目、正臣!」
 絢子がぐっと腕を突っ張っても、いくら胸を叩いても、正臣はびくともしない。
 それどころか、低く官能的な声で絢子の耳元で囁く。
「疫鬼の瘴気に感謝しなくちゃな。今の俺は鬼の性が全開に出ているんだよ? だから絢子を抱きたい、誰にも渡したくないっていう純粋な衝動で動けるようになったんだ。鬼が嫉妬深くて良かったね?」
「正臣、嬉しいですけど、今は駄目です!」
「でも、よく見なよ、疫鬼はもう動いてないぜ」
 はっと絢子が視線をそちらにやると、首を失い、動かなくなった疫鬼が横たわっていた。
「ひいっ!」
「ああ御免、絢子ちゃんには刺激が強すぎたかな?」
「お、鬼の本性は残虐非道でもあるんでしたよね」
「おお、よく覚えてるじゃない。ご褒美にイかせてあげるよ」
 そう言うと、正臣は絢子の首筋に甘く口付けを落とした。
「あう……」
「ふふ、従順な体だね。俺が開いた、俺だけの体だ」
 しかし。
 絢子は機を見て正臣の瞳をしっかりと見つめた。

「縛!」

 その瞬間、正臣の体が動かなくなる。
「何!?」
「いくら正臣でも、邪魔する人は容赦しません! 今鬼の性を封じることは出来ないので呪縛させてもらいました」
 すっと立ち上がった絢子を悔しそうに見つめる正臣である。
「やるな、絢子ちゃん、記憶の世界から帰ってきて、一層強くなったじゃない」
「私の中には、紀朝雄もいるんです。彼の力は私の力でもあります。今それを使わずしていつ使うんですか?」
 そう言うと絢子はつかつかと首のない疫鬼の下へ歩み寄った。
 疫鬼は仰向けに横たわっており、肘から下の両手は秀斎のものである。
 その傍に膝をつくと、絢子は風鬼の力でカマイタチを作り、自分の手に傷をつけた。
 血がぽろぽろと溢れ出る。
 その手で疫鬼の切断面に触れると、絢子は過去、紀朝雄が唱えた言霊を発した。


「一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむななやここのたり)、布留部(ふるべ)、由良由良止(ゆらゆらと)、布留部(ふるべ)」


 その瞬間、絢子と疫鬼の周りを膨大な光が取り囲む。
 彼の体が浄化され始めた。
 背中に生えていたどす黒い翼は跡形もなくなり、飴色だった肌は元の美しい白磁の色に変わった。
 絢子が触れている場所からは、これは疫鬼の再生能力であろう、新しい体組織がぼこぼこと現れている。
 絢子の手を押し、それは人の頭の形になった。
 物凄いスピードで、人の頭が再生されてゆく。
 さらさらと流れる長めの黒髪、すっと通った鼻梁、紅を刷いたような赤い唇。
 あっという間に、そこには美麗な葛城秀斎の顔が出来上がった。
 絢子は彼に覆い被さりその口を開けさせると、自分の血を口に含み、それとともに気を送った。
 深く口付ける。
 秀斎の口の中で自分の血の味も感じながら、絢子はありったけの力を込めて秀斎の内側に気を送った。
「起きて、秀斎さん、私の声に応えて!!」

 秀斎の体が、心臓が、どくりと脈打つ。

 彼の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。


「……絢子?」


「秀斎さん!」
 その光景に目に涙を溜める絢子である。

「私は……ああ、何やら、夢を見ていたようだよ」
「良かった、秀斎さん!」
 絢子は思わず秀斎をかき抱いた。
 秀斎はしばらくぼうっとしていたあと、手をすっと上げて絢子を軽く抱き締めた。
 ぽんぽんと、子供をあやすように絢子を宥める。
「絢子、すまないが、まだやることがあるのだよ。私を起こしてくれないかな?」
「はい」
 秀斎の体を起こすと、彼は彼方を見つめた。
 彼の目に映っているのは、今しも伊織が出した怪物をひねり殺そうとしている女神であった。
「絢子、お前の力を貸してくれるかな?」
「ええ」
 そうすると、秀斎は片手をぐっと前に出した。

「我が式、我が僕、陣へと戻れ」

 静かな声であったが、その声を聞いた女神ははっと怪物をくびり殺そうとする手を止めた。
 そのまま女神はおとなしく陣へ戻るかに見えた。
 だが。
 今しも陣に帰ろうとしていた女神の顔が、般若のように歪んだ。

「我ハ疫鬼ナリ」

 女神の口からおぞましい声が出た。

「ほほ、この体も悪くはないのう、こやつを引きずり出すときに我の体の一部が入ったのじゃ」
「何と往生際の悪い」
 秀斎が、やれやれといった様子で絢子の肩を借りて立ち上がった。
「お前は穢れ、私の身の内に最もよく馴染んだもの。また私の中に返るか?」
「おお、そなたの体ならばやぶさかではない! はよう、その体を明け渡すのじゃ」

 ずずずと、女神もとい疫鬼が近づいてきた。

「絢子、いいね?」
「はい!」
 絢子と秀斎はすっと両手を女神に向かって伸ばした。
 その絢子の横に正臣が転移してきた。
「やっと術が解けたよ。俺も力を貸すぜ」
 三人で、ぐっと手を伸ばす。
 女神がきゅきゅきゅきゅと口に気を集め始めた。
 そして、女神が口から気を放ったのと、三人が気を放ったのは同時であった。
 ばあん! と衝撃がと疾風が走る。
 秀斎と絢子、正臣はお互いをしっかりと掴んでその風に耐えている。
 と、秀斎がふらりとよろけそうになった。
「くっ!?」
 しかしそれを支えたものがいる。
 それは、瘴気に侵され苦しんでいるはずの望月冴だった。
「今のわたくしにはこれしか出来ませぬゆえ、お許しくださいませ」
「ああ冴、助かるよ」
「俺も秀斎さんの助けになるよ」
 その冴ごと秀斎を支えたのが伊織だった。
「今の俺もこれしか出来ないけれど。式は死にそうになってるし、体は瘴気に侵されているし、散々だね」
 そう言いながらも、伊織の顔はどこか晴れやかだった。
 しかし、彼らの力をもってしても疫鬼が発する瘴気と、気の波動に圧されている。
「まだまだ! 僕らを忘れないでよ!」
 そこに現れたのが悠真、颯太、直人だった。
 悠真は絢子の背に手を置き、気を練り、直接彼女に渡している。
 颯太と直人は正臣の隣に立ち、疫鬼に向かって片手を差し出し、気を送っている。
「我々は浩介の結界を守りましょう」
「そうだな、この結界あってこその戦いだからな」
 治郎と匠は、そう言いながら浩介に力を与えている。
「俺あっての戦い……そうだ、俺って役に立ってる!」
 浩介が何やら感極まっている。
 やがて夜が明けてきた。

「闇から出で、闇に返るものよ、大人しく、闇へと戻るがいい!!」

 秀斎がそう声を上げた。
 青白い空に、オレンジ色の光が差し込んでゆく。
 その光は、やがて結界の内部にも到達した。

「ギャアア!!」

 光に触れた疫鬼の体がぶすぶすと火ぶくれを起こす。
 しかしそこは神でもあった疫鬼、太陽の光だけではおいそれとは滅されない。
 それを見た冴が声を張り上げる。
「疫鬼よ、異界にこそ己が身は相応しい!! この望月冴が直々に送り返してやろうぞ!」
 そう言うと冴が大結界の逆五角形の部分にありったけの力を送った。
「冴!!」
「ほほ、秀斎様、わたくしの寿命、ここで使うがきっと定めであったのでしょう。秀斎様と過ごした日々は、楽しかったですわ」
 冴がすっと彼らの前に出た。
「さあ、疫鬼よ、わたくしと一緒に異界へ参ろうぞ!」
「ギャアア! 嫌じゃ! 嫌じゃあ!!」
 身をよじって逃げようとする疫鬼を背後から捕まえたのは伊織の怪物であった。
 そうして、怪物と、女神と、冴は、逆五角形の中に吸い込まれていったのであった。
 主がいなくなったことで、冴の張った大結界はぶわりと崩壊した。
 それとともに瘴気も霧散する。
 辺り一面が真っ白な光に包まれた。


「――!!」











 ……。




 ピチチ、ピチチ。




 鳥の鳴き声である。




 太陽が、煌々と辺りを照らし始めた。


 日常が、戻ってきたのだ。


 皆その場でしばらく呆然としていた。
 壊れた舞台、疾風で薙ぎ倒された木々、しかし、死者は冴以外出なかった。
 やがて皆の意識が戻ってくると、安堵の溜息がそこかしこから聞こえたのであった。


 つと、絢子の隣に立っていた秀斎がこちらを向くとすっと居住まいを正した。
「絢子、この度は、絢子がいなかったら私は今この場に立っていなかった。礼を言いたい」
 そう言うと秀斎は深々と頭を下げた。
「いいえ、礼なんてそんな……私は出来ることをしたまでですから」
 首を振る絢子に対し、体を上げ、それを片手でやんわりと制する秀斎である。
「冴さんは……」
 絢子が呟いた。
「冴の魂はあれしきのことでは死なぬよ。もしくは、私にとっての忠実な式として異界より戻ってくるであろうね」
 そう秀斎が声をかける。
「治郎」
「はっ」
 その治郎が手品のように取り出したそれは眩く輝く錦の内掛けであった。
「絢子、このようなときだが、受け取ってくれるかな? 本当は婚礼用にと思い作らせたのだがね、助けてくれた恩返しのために絢子を娶ることを諦めよう」
「こんな高価そうなもの、いただくわけには……」
「私の気持ちだ。どうか受け取って欲しい」
「はい」
 恐る恐るそれを受け取り羽織ると、治郎がにこりと微笑んだ。
「絢子様、ようお似合いでございます」
 滅多に微笑まないであろう治郎の笑みを見て驚く絢子である。
 どこからか風が吹いてきた。
 梅の香が、ふわりと香ってくる。
 風とともに、大量の花びらが舞った。
 そのひらひらと降る花びらを朝日の中で受け、錦の内掛けをまとう絢子は、やはり女神のようであった。


「冴さん……」
 遠くからその一部始終を眺めていたのは優美と里緒であった。
「あの方は、最後まで秀斎様のためだけに生きておられましたわ。女の生き方としてはそれもまたありなのかもしれませんわね。さ、わたくし達も参りましょうか」
 そう呟くと、優美と里緒は光に抱かれる絢子の元へと駆け出していった。


「絢子、綺麗だよ!」
 悠真が駆け寄ってきて、ぎゅっと絢子に抱きついた。
「悠真君!」
「良かった、絢子が無事で! 僕、ずっと心配していたんだよ!」
「心配かけてごめんね」
 そう言うと、悠真が絢子の唇にちゅっと口付けをした。
「これ、僕自身へのご褒美! いいよね?」
 その可愛らしい仕草に何とも和まされる絢子である。
「絢子さん、私にも口付けを」
 いつの間にか傍に寄って来ていた直人が妖艶な笑みで絢子を見やる。
「やだよ、直人になんか絢子をやるもんか!」
 絢子に抱きつき、がるるると威嚇する悠真の頭をがしっと掴んでぐいと脇にやると、直人はぽかんとする絢子の唇をそれは美味しそうに貪った。
「はんっ!? ああん!」
 直人からの濃厚な口付けの合間に息継ぎをするのだが、どうも艶っぽい声が漏れ出てしまう。
「直人? それぐらいにしておかないと、僕が怒るよ?」
 絢子と直人の間にすっと手を差し入れたのは颯太であった。
「絢子ちゃん、僕の妹、僕にも親愛の口付けを頂戴?」
「はい、颯太お兄様」
 とろんとした瞳のまま、絢子は颯太に自分から口付けをした。
 くちゅりと二人の間で水音が鳴る。
「んっ、ああっ」
 絢子の唇を丁寧に愛撫する颯太は、いつの間にか絢子の腰をしっかりと抱き、自分にもたせ掛けるような体勢にしている。
「だから、そんな濃厚な口付けをする兄妹なんていないやい!」
 悠真がぶうたれた。
「全くだね、見ているこっちが焼けちゃうよ」
 そう言ったのは、腰に片手を当てて、少しばかり呆れた表情で二人を見る正臣であった。
「でも、俺達が絢子ちゃんを欲しがるのは鬼の性なんだから、しょうがないよね」
 正臣はそのまま空を見上げた。
「今日は快晴だな」


 ―これにて、追儺式は真の終幕を迎えたのであった。






 春、桜舞う季節。


「さあ、今年も面白い一年が始まるわよー」
 図書室で本を整理しながら妙子が絢子に声をかけた。
「ええ、そうですね」
 本を本棚に戻しながら、絢子はふわりと笑った。
「妙子さん、年末か来年に、産休取るんですってね」
「ええ、隆司と相談したんだけれど、自分達の間にもひとりぐらい子供がいたらいいんじゃないかっていう話になって。そうしたら運よく子供を授かることができたってわけなのよ」
 そう言うと、妙子は自分のお腹を愛おしそうに撫でた。
「妙子さんがいなくなると寂しくなりますよ」
「あら、私としては自分が戻ったときに絢子さんがいないかもしれないってほうが堪えるわよ。受験、するんでしょう?」
「はい、今年は無理だとしても、来年は必ず受験しようと思います」
「じゃあ、今年はうんと素敵な年にしましょうね」
「はい」
 そう言って、二人はにっこりと笑い合ったのであった。




 ここは羽田空港である。
「里緒さん」
「ああ、優美ちゃん、お別れはいいって言ったのに」
 空港の一角で、優美と里緒は向かい合っていた。
 里緒達退魔の一族の役目は終わった。
 しかし、彼らの元に舞い込む依頼は尽きない。
 そのため、里緒はまた転校をするに至ったのだ。
 背中まである長い黒髪と、ぱつんと切り揃えられた前髪を揺らしながら優美は小首を傾げた。
「わたくし達、お友達でしょう?」
「へいへい、お友達ですねえ」
「はい、これ、別れのお土産ですわ」
 優美が里緒に小さな箱を渡す。
「何これ?」
「開けてみてのお楽しみですわ」
 そう言って優美は嫣然と微笑んだ。
「じゃ、楽しみにしておきますよ」
 そう言うと里緒はため息をつきながら肩を竦めた。
「そう言えばねえ、あれから浩介おじさんが張り切っちゃってさあ、もううちの一族ってば馬鹿なのかねえ? 今回の一件で『浩介派』ってのが出来ちゃってさ、大変だよもう。おじさんはおじさんで何か別人みたいになっちゃってるし、これからちょっと大変そう」
「里緒さん、あなたが出ればよろしいんじゃありませんの?」
「やだよ、面倒臭い」
 ふいと顔を背けた里緒であるが、眉をへにゃりと下げると、もう一度優美を見直した。
「そういえばそっちも大変なんでしょう? 現筆頭は極度の怠惰で、側近の遼夜さんと優美ちゃんが奔走しているんだってね」
「そうですわ、筆頭は人使いが荒いんですの。わたくし何度もキレそうになりましたのよ? 今はまだ我慢していますけれど、折を見て筆頭に鉄槌をかます予定でおりますの」
「おお、容赦ないねえ。それでこそ優美ちゃんだ」
 にやにやと笑う里緒はふと時計を見ると真顔になった。
「それじゃ、あたし行くわ」
「ええ、それでは御機嫌よう」
「じゃあまたね」
 そう言うとくるりときびすを返し、振り返らず、右手だけをふるふると振る里緒であった。
 その姿を見送った優美はこちらも振り返らずにすっと歩き始めた。

 この二人、これからも同じ道に交わるかもしれないし、交わらないかもしれない。
 それはまた別の話である。






 *** エピローグ ***


「絢子ー!」
「悠真君!」
 ここは桜の花が満開の、藤原家が所有する個人庭園である。
 今日は四性の鬼達と絢子の五人でお花見をすることになっていたのだ。
 出会い頭に二人はぎゅっと抱き合った。
「絢子、待った?」
「ううん、正臣の転移術で今来たところよ。それにしても悠真君、背が伸びたんじゃない?」
「そうなの! 僕ね、ここ最近で成長期がやってきたみたいで、ぐんぐん体が成長しているんだよ。だって僕、もう高校生だよ? このまま伸びれば、一年後には隠岐先輩みたいになっちゃうかもね」
 くすりと笑う悠真を見た絢子は、悠真の両頬を押さえながら声をかけた。
「本当? でも隠岐君みたいに怠惰になっちゃ駄目よ」
「うん! 僕、颯太みたいな信用ある大人になるから! だから絢子、安心して僕が成長するのを待っててよ!」
「ええ、悠真君が大人になるのが楽しみだわ」
 にっこりと微笑む絢子と悠真である。
「そうだ、これ! マルチェロから絢子に贈り物だって」
 悠真がバッグから取り出したそれを見て絢子は驚いた。
「これ、写真集じゃない!」
 それはB4版の写真集で、表紙に「La luce」と書かれてあった。
「どういう意味なのかしら?」
「『光』って意味だよ」
 その写真集をぱらぱらとめくった絢子は息を呑んだ。
「私だわ……!」
 その写真には、旅行のときに撮られた絢子の写真が何枚も収められていたのである。
「何だか懐かしいわね、でも、これまさか発売しているの?」
「一般には出回らないよ。それにほらこれ」
 悠真があるページを開く。
 そこには体のラインが透けて見える白いネグリジェを着たエロティックな姿の絢子と、黒い服の颯太が艶めかしく絡んでいるあの写真が何枚も載っていた。
「うわ……」
 顔から火が出そうになる絢子であるが、悠真は頬を紅潮させながら言った。
「この絢子とっても綺麗だよね! でもこの写真は誰にも見せたくないもん。僕、マルチェロとたっくさん交渉して、やっとこれを一般には出回らないようにしたんだよ」
「そうだったの、一般販売されなくて本当に良かったわ」
 ほっと胸を撫で下ろす絢子であった。
「何を見ているのかな?」
 声がするほうに振り向くと、直人と颯太が連れ立ってやってきた。
「今ね、絢子の写真見てたの!」
「それは私にも是非見せてもらいたいな」
「いいよ! でもこれ絢子のだから、見終わったらちゃんと返してね」
 直人に写真集が渡される。
 彼はぱらぱらと捲っていたが、あるページで手を止めた。
「ほう、これは……」
 直人が手を止めたのは、やはりあの写真のページであった。
「な、直人さん! 早く次のページを捲ってください!」
 まるで自分の裸を見られているような羞恥心を感じた絢子が直人に縋り付く。
 ふと、直人が絢子に視線をやった。
 彼は妖艶に微笑むとこう言った。
「写真のあなたも素敵だが、現実のあなたのほうがもっといい。何せこうやって触れることが出来るのだから」
 そう言いながら直人は絢子の頬にその長く綺麗な指を這わせた。
 絢子の背筋に得体の知れない感覚がぞわりと駆け抜ける。
「はぅ……」
「直人! ここで欲情してどうするのさ! これからお花見なんだよ!」
「ああ、そうだったな」
 しれっと言い、何事もなかったかのようにすっと指を離す直人である。
「さあ、絢子ちゃん、僕の腕の中においで、不届きな野獣から守ってあげるからね」
「はい! 颯太お兄様」
 ぎゅっと絢子を後ろから抱き締めた颯太は、その二人羽織の格好でこれもまた直人から受け取った写真集を捲り始めた。
「ほら、見てごらん、僕達が写っているよ」
「ああ……颯太さんやっぱり恥ずかしいです」
「どうして? こんなに綺麗なのに」
「颯太もお兄ちゃんなら意地悪しちゃ駄目! 絢子が困ってるよ!」
 ぶうとぽっぺたを膨らませた悠真が颯太の腕を離そうとぐいぐい引っ張る。
「おお、皆揃っているようだねえ」
 呑気な声で現れたのは正臣であった。
「向こうに準備ができたから、皆早く行こう」
 皆を誘導する正臣はふと足を止めて直人の肩に腕を乗せた。
「直人、あとで一緒にじっくり写真集見ようぜ」
「そうだな」
 何やら不穏な空気を発する二人である。
「もうっ! 僕、あんな大人にはならないもん! 絢子を守る立派な紳士になるからね!」
「ええ! 期待して待ってるわ!」
 うるうると目を輝かせて、絢子と悠真は両の手を恋人繋ぎにして頷き合った。


 そうして宴もたけなわになってきたころ。


 絢子は大きな桜の木の下でぼんやりと空を見上げていた。
「何見てんの?」
 手早く後片付けを終え、バッグを抱えた正臣が絢子の傍にやってきた。
 桜が舞い散る中、絢子の姿をどこか眩しそうに見る正臣である。
 絢子の頭にふわりと落ちた桜の花びらを、正臣は羽のような手つきでそっと取り去った。
「ちょっと考え事していたんです」
「へえ、どんな?」
 そう言いながら正臣はふわりと絢子を抱き締める。
「私達も、いつかは死んでゆくのですよね」
「ああ」
「冴さんは、幸せだったんでしょうか」
「多分ね。あいつは秀斎に仕えることが生きがいだったようだから」
 絢子は正臣の胸に額をことんと当てた。
「それでも、もしまた、私達が来世で出会うことがあるとしたら、そのときはまたよろしくお願いします」
 それを聞いた正臣は柔らかく微笑んだ。
「過去でも、未来でも、今でも、俺は絢子ちゃんのことをずっと想い続けているから」
「はい」
 正臣の腕の中で、絢子は正臣の服をきゅっと握った。
「ところで絢子ちゃん、とっても重要な話なんだけれど」
「何ですか?」
 きょとんとした表情の絢子を見た正臣は、さも嬉しいと言わんばかりの表情でこう言った。
「ねえ、子供はいつ作る? 俺としては早めに作って、老後を二人で楽しむ方向にしようと思っているんだけれど」
「はい?」
 いきなりの提案に絢子はぽかんとする。
「ああ、でも絢子ちゃん来年も受験やら何やらで忙しいか……それならいっそ、今年作ろう!」
「ええ?」
「何なら絢子ちゃん、今の仕事辞めて子育てに専念してから三十代ぐらいで受験するのもありなんじゃない?」
「そ、そんな、いきなり何ですか!? それに私の人生プランが……」
「そうと決まれば早速家に帰ろう。さ、転移しよっか!」
「えええええ!?」
 わたわたする絢子を見た正臣は、意地悪そうににやりと笑った。
「鬼の性は健在ですから。それが嫌なら絢子ちゃんにまた浄化してもらわないとねえ」
「だからって何で今欲情してるんですか!? 正臣の馬鹿ぁ!」
「おー、馬鹿で結構。俺は絢子ちゃんの前だと、ただの馬鹿な男になっちゃうんだよ」
 そうして慌てふためく絢子をぎゅっと腕に抱えて、正臣は絢子に口付けを落としながら、彼女を連れて一足先に愛しの我が家へと転移したのであった。


 それぞれの思いを胸に抱き、物語は続いてゆく。


 ――これにて、隠形鬼、閉幕である。






【了】



[27301] 番外編:隠形鬼パロディー 「桃太郎……?」
Name: かわ ひらこ◆d1952e8c ID:4571c00c
Date: 2015/02/02 23:24
 昔々あるところに。
 加藤さんという家に妙子さんと隆司さんいう一組の夫婦がおりました。
 この夫婦は、学生時代に結婚してから十五年以上も子供を作りませんでした。
 二人の時間を大切にしたかったのと、それぞれの仕事が忙しかったからです。
 隆司さんは都で薬の研究を行っており、妙子さんは学び舎(や)で子供達が読む本を整理する仕事についていました。
 ある聖なる夜のこと。
「ねえ、最近、仕事もひと段落してきたことだし、そろそろ私達の間にもひとりぐらい子供がいてもいいんじゃないかしら?」
「妙子はいいの? 僕は妙子の子供だったらいつでも大歓迎だけれど」
「隆司の子供だから欲しいのよ」
「じゃあ、今日は思いっきり妙子を愛することができるね」
「やあねえ、いつも沢山愛してくれるじゃない」
 おお、何だかいい雰囲気です。
 そしてこのまま二人は愛欲の世界へとなだれ込みました。

 そして十月十日経った頃。

 二人の間に、とても可愛らしい赤ん坊が誕生しました。
 二人はその子に「絢子」と名づけました。
 しかし。
 生まれてきた女の子があまりにも可愛らしかったので、二人は鬼に攫われないようにその女の子のことを男の子として育てることにしました。

 ……鬼?

 ええ、鬼です。
 美しい女を攫う鬼が、この世にはいるのです。

 絢子が十六歳になった頃、都ではある恐ろしい事件が起こっておりました。
 都に鬼が現れたのです。
 鬼は美しい女性ならばなり振り構わずかどわかし、そしてかどわかされた女性はいまだかつて一人も帰ってこないというのです。
 人々は言いました。
「女達は鬼に喰われたのじゃ。おお、攫われた女達を救ってくれる勇気あるものはおらんものかのう」
 そのことを聞いた絢子は立ち上がりました。
「無理やり女性を攫うなんて許せない! 僕が、その女性達を助けに行ってくる!」
 妙子さんと隆司さんは最初反対しました。
「今までお前を男の子として育ててきたのは、決してこのような事態を見越してそうしたわけではないのだよ」
「男として育てたとはいえ、お前の体は非力な女、一人で行くのは危ないわ」
 しかし、絢子は二人を説得しました。
「お供を連れて行きます! それもとびきり強いお供です」
「そのお供とは?」
「隠(なばり)の世に住む友人・伊織君と、その主・秀斎さんです」
 それを聞いた二人はようやく納得しました。
「その二人ならば大丈夫だろう。しかし、気をつけなさい、敵は味方にもいるということを」
「はい!」
 元気よく返事をした絢子は早速お供の伊織と秀斎を連れて鬼退治に出かけました。

 道すがら、二人のお供を連れた絢子は女性達から「なんて素敵な三人の殿方なんでしょう!」と秋波を送られることが度々ありました。
 その度に、二人のお供は決まって絢子の両の頬に口付けをしてこう言うのです。
「私はこの子に愛を捧げているものでね、どうか私から奪わないで欲しいな」
「俺のものにちょっかい出さないでくれる?」
 それを聞いた女性達は頬を染めてきゃあきゃあと喜んだのでした。
 絢子は憤慨しながら二人をぺしっと叩きます。
「僕は二人のものになったわけじゃないよ! 鬼退治のためについて来てもらっているだけなんだからね!」
 絢子の膨れっ面を愛おしそうに見る秀斎と、目を細めながらいつか喰らってやろうと見下ろす伊織でした。

 そうこうしている内に、三人は鬼の住む島に到着しました。
 船を使い、堂々と島へ上陸します。
 鬼の住む巨大な寝殿は、何とも美しく、煌びやかで清潔そうでした。
 と、そこで働く侍女が浜辺を歩いてきた三人に気付きました。
「あなた方、こんなところでどうなさったのですか?」
 背中まである長い黒髪と、ぱつんと切り揃えられた前髪を揺らしながらその侍女は聞いてきます。
「僕達はこの島に攫われた女性達を助けに来たのです」
 それを聞いたその侍女はこくりと頷くと、すうっと薄い笑みを浮かべながら絢子達を手引きしました。
「それは殊勝なこと。ただし、鬼の皆様と戦う前に現状をご覧になって見てくださいませ」
 侍女は絢子達を寝殿の中に案内しました。
 そこには嬉々とした表情で働いている多くの女性達がいました。
 彼女たちは皆、楽しそうに作業を行っています。
 侍女はそのまま絢子達をとある大舞台に案内しました。
「この舞台の前にいてくださいませ、まもなく鬼の皆様がやってきます」
 絢子達はその舞台の前で待ちました。
 待っている間、秀斎がおもむろに話しかけてきました。
「絢子、鬼退治をしたらそのあとどうするのかな?」
「秀斎さん、急にどうしたんですか?」
「私は絢子に求婚しようと思っているのだよ」
「えっ?」
「絢子、お前の色香は最早隠し通せるものではない。それならばいっそ我がものにしてしまい、誰の目にも触れないところで愛でていようと思うのだ」
「そ、そんな、急に言われても……」
 絢子は困惑しました。
「そのときは俺も混ぜてよ。三人で楽しもう」
 伊織が会話に割って入ってきました。
「ええっ!?」
 絢子はあわてて二人から離れました。
「こ、困ります! 僕は男です!」
 そのときです。

「いいや、あんた、女だろう?」

 絢子の後ろから声がしました。
 振り向くと、いつ来たのでしょう、すぐ近くに四人の鬼が立っていたのでした。
 絢子はその姿を見てぽかんと口を開けました。
 だって、その姿はあまりにも美しかったのです。

 金色の髪に、灰色の瞳を持った子供の鬼、金鬼は絢子を見るとその澄んだ灰色の瞳をきらきらと輝かせました。
「うわあ! 僕、こんなに可愛い人、今まで見たことないよ!」
「私もだ。このような美味しそうな気を発する女を目にしたことがない」
 そう言ったのは怜悧な表情をしたオールバックの髪型の大人の鬼、水鬼でした。
「僕はあの子を抱きしめたいね。きっととても柔らかいのだろう」
 茶色い癖毛の背の高い鬼、風鬼が柔和な笑みで絢子を見やりました。
「俺はあいつを今すぐ押し倒したいね。首に牙を立て、あいつの体の最奥を俺のもので穿ってやりたい」
 少し浅黒い肌の、しなやかな筋肉を持った鬼、隠形鬼が、意地悪そうな笑みを浮かべながらそう言いました。
 秀斎がぎろりと、特に最後に発言した鬼のほうを見て凄みます。
「私の絢子に手を出そうとする不届きな鬼どもが」
「あんたらが俺のものを見ることも、触れることも虫唾が走るね」
 伊織が結界を素早く張り巡らせました。
「絢子、下がっていなさい、私達二人が、あっという間に片付けてしまうからね。そうしたら三人でとても気持ちのよいことをしようじゃないか」
「なっ……!」
 赤面する絢子を残して二人のお供と四人の鬼は戦いを繰り広げ始めました。
 伊織は結界から三匹の怪物を呼び出します。
 それに相対したのは金鬼と水鬼でした。
 秀斎も結界から沢山の怪物を呼び出します。
 風鬼と隠形鬼がそれに当たります。
 ごうごうと風が吹き荒れ、水が舞い、その場は混然としました。
 しかし。
 三日三晩続くかと思われたその戦いをとめたのは驚くことに寝殿から出てきた沢山の女性達でした。
「皆様方、お止めください! 住処が壊れてしまいます!」
「これ以上争っても無益なだけです!」
 女性の中の何人かが絢子に気付きました。
「私達はここに連れてこられてからというもの、鬼の皆様から女としての喜びを与えられ、蝶よ花よと大切に扱われているのです。その恩返しに、ここがより良いものになるように、私達は皆で協力し、率先して働いているのですわ」
「ええっ!?」
 絢子は困惑しました。
 助けに来たはずなのに、これでは侵略者と同じではないかと。
「ああ、この事態、どうすればいいのでしょう?」
 絢子は神様に祈りました。
 すると空が明るくなり、そこから一人の男性が降りてきました。
「絢子さん、私を呼びましたぁ?」
 明るい声でそう言い放ったのは紀朝雄という神様でした。
「うわー、結構ひどい有様ですねえ」
 舞台の惨状を見た紀朝雄はそう一言漏らしました。
「絢子さん、あなたが来たことによってこの事態は引き起こされたのです。あなたでなかったらもっと被害は小規模で済んでいたでしょうね」
「ええ。そのようですね。それに女性達はこの寝殿で幸せそうに暮らしていました。僕がやろうとしていたことは間違っていたのでしょうか?」
「それを間違いにするか否かは、次の自分の行動が決めるのですよ」
 そう言うと、紀朝雄は何もせずに去っていきました。
 絢子は考えました。
 いつの間にか戦いは収まり、皆が絢子の決定を待ち望んでいます。
「決めた! 僕、都に行ってもうここには手出ししないようにって言ってくる」
「絢子が決めたのなら私はそれに従うよ」
「俺もだ」
 秀斎と伊織は渋々矛を収めました。
 こうして鬼は退治されることなく、女性達は幸せに暮らしましたとさ。

 絢子はと言えば。

「なっ、何で?」

 男の姿のままでいるにも拘らず、沢山の男性に求婚されるようになりました。
 その求婚者の中に鬼が含まれていた、というのはまた別の話でございます。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.60380911827087