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[27284] 習作でARIA
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/04/21 03:48
こんにちわでこんばんわでおはようございます。
はじめまして、お久しぶりと様々な挨拶をば。
かつてマブラヴオルタ板でヤルダバオトのあつーい話を書いていた者です。
完結させたとはいえ……少々、いやかなり自分的にも微妙に終わってしまったのが残念。
しかしそんなことはどうでもいい。
そう、もはや過ぎた事を気にしてはならないのです!

さて前置きは流していただきまして。
皆さま、ご存知でしょうか。
ヒーリングストーリーと呼ばれるARIAという漫画を。
今回はそれを未熟者ながらに小説として書いてみました。
賛否両論。こんなんARIAじゃない!
と言われるかもしれませんが、書いてしまったのです。
書いた物はどうしようと悩み、結局こちらへ投稿させていただこうと思いました。
見苦しいかもしれませんがどうぞ、暇潰しにでもなればと。
面白くなければブラウザのバックをクリックしてくださいませ。

突っ込みどころ満載かもしれませんが、どうか生温かい、もしくは白い目で見て行ってくださいませ。



感想掲示板で「その他に移動して」と言われたので「その他」に移動してみましたw
まさか隠れるように投稿したのにこんなに見つかるとは……。
驚きと同時に、とてもありがたい。
ただ、邪魔でしたら再び「チラシの裏」に逃げますのでご安心を。
……板の移動初めてなので、ドキドキしますね(ぁ



[27284] ARIA
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/04/19 00:23

ARIA


 氷の職人さんが居る。彼らは四角い氷の塊から様々な物を作り出すことができる。例えば氷からペンギンを掘ったり、例えば花瓶とそこに咲く花を掘ることすらできる。
 そんな氷の職人たちが、この冬、ネオ・ヴェネツィアにやって来る事になった。
 そのニュースを、水無灯里は既にドキドキのワクワクで見つめていた。
「氷職人さん達は凄いですね、アリシアさん」
「そうね。こんな大きな氷を掘るなんて、大変でしょうに」
 地球<マンホーム>の中でも、特に特殊な部類に入るだろう人々。ハイテクな技術に囲まれた地球の合理性や効率化により美化されてしまった世界。そんな中でも、やはりある程度のレトロを楽しむ人間は少なくはない。そのレトロな技術の一つが、氷職人だ。
 ニュースには、そんな氷職人達の芸術を、このネオ・ヴェネツィアで披露するというもの。
「凄い楽しみです」
「うふふ。そうね、凄い楽しみだわ」
 場所はサン・マルコ広場。このネオ・ヴェネツィアで最も大きな広場で、一日か二日かけて掘り出すらしい。とても辛い作業だろうが、完成した時の達成感がたまらないと職人の一人がインタビューに答えていた。
 使う工具は様々だが、基本はノミとハンマー。特定の場所だけに使う工具もあるらしい。
「わあ、この人凄い。氷でにゃんこさんが三匹遊んでるように掘ってますよ」
「まあ。とても奇抜な発想をする人らしいわね」
「そうですねー」
 雑誌などほとんど見ない二人だが、今日は散歩の最中に偶然見つけた氷の雑誌。その拍子が綺麗な氷細工の写真だったのが運の尽き。灯里が購入し、会社に持ち帰り、アリア社長と見ているところへアリシアが帰宅し、現在に至るのだが、二人は気付いていなかった。後方の影に。
「灯里、何度も呼んでるんですけど?」
「アリシアさんも気付いてください」
「あ、藍華ちゃん、アリスちゃん、何時の間に」
「あら?」
 どんっと灯里の両肩に力強く両手が乗せられたのはその瞬間だった。ビクゥと肩を震わせて、灯里は後ろを見る。そこには何時もの面子とも言える二人が立っていた。
 アリシアも本当に気付いていなかったらしく、ごめんねと小さく謝る。それに対して、アリスは気にしていませんと答えておいた。
「さあ練習の時間よ! 行くわよ灯里!」
「わわわ、藍華ちゃん待って待って!」
 両肩に置いた手をそのままに引っ張って連れて行こうというのか、藍華は灯里を強引に引っ張る。椅子に座っている灯里はその瞬間に梃子の原理で何もできずに両手両足が宙に浮く。慌ててテーブルにしがみ付こうとするが、時既に遅し。
「のわぁ!?」
「うきゃぁ!」
 藍華は自分で引っ張って置いて止められずに、灯里の下敷きとなる。同時に灯里は後頭部を打ち、痛みに耐えながら床をゴロゴロ転がる。
 そんな二人を何をしているのかと冷めた目で見つめるアリス。あらあらといつもの調子でアリシアは藍華の上に乗った椅子を取り、灯里の後頭部を摩る。
「大丈夫?」
「は、はひ……痛い」
「ごめん灯里……引っ張りすぎた」
 お互いに痛い思いをした藍華と灯里は、あははと笑う。基本的に藍華が悪いのだが、既に二人の中ではお互いさまということになっているらしい。
 喧嘩などほとんどしない彼女らは、そんな仲である。
「さあ先輩方、練習に行きましょう」
「ちょ、ちょっとまって後輩ちゃん」
「も、もうちょっと待ってアリスちゃん」
 結構痛いのか、足を抱えたまま動けない藍華と後頭部を抑えたまま動けない灯里。二人とも涙目でアリスに訴えるような目を向ける。そんな二人を見て、さすがにアリスとて鬼ではない。小さくため息を吐いてから、仕方ないというように痛みが引くのを待つことにする。
 ふとテーブルの上に視線が行き、氷職人達の渾身の力作の載っているページをペラペラ捲る。すると、捲る度にアリスの瞳が僅かに開かれていく。
「あ、アリスちゃんも氷職人さんの作品にくぎ付けだー」
「でっかい綺麗です」
「あらあら」
 痛みに耐えながらも、アリスが自分と同じ物に興味を持ってくれたことが嬉しいのか、灯里が幾分か元気のある声を出す。それに対して短く返して、アリスは雑誌から目を離さない。
 そんなアリスの持つ雑誌に、ようやく痛みが治まって来た藍華が立ち上がる。そしてアリスの後ろから見て、おーっと声を上げる。
「綺麗。今度の休みにネオ・ヴェネツィアで大会を開催――なるほどね」
「灯里先輩の耳に、私達の声が入るわけがなかったみたいですね」
 サン・マルコ広場で数日間の大会を開催すると書かれた大きな見開き。なるほど灯里がワクワクドキドキしてこのことしか考えられなくなり、他の事が頭に入らなかったということだろう。それを理解して、藍華とアリスはこれでは仕方が無いというように、溜息を吐いた。
 少しでも素敵や綺麗な物、可愛い物から変な物までなんでも興味を持てば進んでがっつき、楽しむ女の子。それが水無灯里という少女であり、そう言う物が絡むとほぼ何も聞かないし聞いていないのが彼女だ。
「エヘヘ。ついつい楽しみになっちゃって」
「妄想が凄かったのだと思います」
「そうね、きっとそうね」
「あらあら」
 呆れたような、いつものことだというような、そんな感じで藍華はアリスの言葉に答える。そんな二人に照れながらえへへーと笑う灯里を、アリシアは何時も通りアリア社長を抱き上げながら灯里の隣で微笑む。
「すみませーん」
「あら、お客様」
 そんな午後のまったりタイムも終りのように、ARIAカンパニーに声が響く。その声に反応するのはアリシアで、素早く仕事モードへ。
「それじゃあ灯里ちゃん、練習がんばって」
「はい。アリシアさんも頑張ってください」
 痛みが治まった灯里は元気良く答えて、アリア社長と一緒に手を振る。
「では、私たちも行きましょう」
「そうね。じゃあ今日は灯里から」
「うん、まかせてー」
「ぷいぷいー!」
 雑誌をテーブルの上に置き、三人と一匹も行動を開始する。
 何時もの合同練習。場所はネオ・ヴェネツィアの水路。いつもの日常だが、なんだか今日は素敵な出会いがありそうだと、灯里はニコニコ笑顔でゴンドラへ向かう。
 水の惑星AQUAで、果たして氷の芸術はいかなる素敵を運んで来てくれるのか。それが、彼女はもうたまらなくワクワクで、待ちきれないらしい。しかし大会開催まであと一日だ。藍華もアリスも、些か灯里のことだけを言う事は出来ない。やはり、二人もドキドキしているからだ。
「いざ、今日の出会いへ!」
「違うでしょ!?」
「灯里先輩、でっかいハイテンションです」
「ぷいにゅー!」
 灯里の見当違い、もとい目的の違いに思わず全力で突っ込みを入れる藍華。しかしそんな事はお構い無しに灯里とアリア社長はゴンドラの上でどこか判らない方向に指を指す。
 そしてゆっくりと、本日の合同練習が始まった。



「ほくほく~」
「で、なんで早速さぼってるわけ?」
「美味しいですね~」
「ぷいにゅ~」
 始まった合同練習は、あまりの寒さに即悲鳴を上げ始めた灯里に対し、アリスがとある提案したために開始15分ほどで休憩タイムに突入していた。
 そこは街の中でもゴンドラでなければ少々遠回りをしなければ辿り着けない、じゃがバター屋である。大きなジャガイモにバターを乗せただけの至極単純な食べ物。しかし熱々のジャガイモに溶けるバターを絡めて食べるその単純な食べ物はとても美味しいので、三人のお気に入りである。勿論、アリア社長も良く食べる。
 問題は、ただあまりにも早い休憩だということ。
「午後2時といえば日中でも気温が高いはずなのに~」
「今日は寒いですね……」
「……今日くらいペアに……」
「灯里、プライドを捨てない」
 あまりの寒さにか、アリスの両手袋<ペア>を見て、自分の手を見てから問題発言をする灯里。すかさず止めるように言う藍華だが、気持ちはわからないでもないので強くは言えない。
 ホクホクとじゃがバターを食べながら、しばしのあったまりタイムをして、水筒に入れておいたホットティーを出して暖まる。ほふーと身体の中から感じる暖かい感覚に、少しこそばゆいと灯里が呟いた。三人と一匹のティータイム。いつもの休憩。
「さあ、そろそろ行きましょうか」
「うん」
 じゃがバターを食べ終えた藍華が提案すると、残りの二人も食べ終えてやる気を復活させる。
 後片付けをしてからゴンドラの方へと戻り、再び灯里がオールを持った。
「今日はネオ・ヴェネツィアの水路で良いよね」
 ゴンドラを漕ぎだして、同時に藍華に問う。すると藍華は膨れたお腹を他人から見えないようにしながら摩りながら答える。
「そうねー」
 結構、ゆるい返事だった。
「アリア社長……でっかいヌクヌクですね」
「ぷい!」
 ぎゅーっとアリスはさきほどまで一緒にじゃがバターを食べていたアリア社長を抱き締めている。猫はやはり暖かい毛皮を持っているので暖かいようだ。
 灯里はそんな一人と一匹を見て微笑むと、サン・マルコ広場の方面へと動きはじめる。氷の芸術大会の明日の準備をしているはずなので、もしかしたら大きな氷があるかもしれないと思ったからだ。滅多に見られないだろうそれを、少しくらいなら見ても良いよねと思うのは至極当然というものだ。
 しかし、提案はしない。驚かせてやりたいからだ。
「灯里、どこ向かってる?」
「……」
 藍華の問いの、灯里は答えない。返事が無い事に視線を灯里に向けると、素敵タイムに入っている灯里の様子を見て藍華も、アリスも、アリア社長すらも理解した。明日の氷の芸術を考えているなと。
「……サン・マルコ広場に向かうのは良いけど、あまり近づいちゃ駄目よ」
「え!? 藍華ちゃんなんで判ったの!?」
「むしろ判らないのは灯里先輩だけです」
「ぷいにゅ」
 なぜっ!? と灯里が謎を突きとめようと考えようとするが、不意に大型の船がゴンドラの前方を通るのを見つける。灯里はオールを動かしてブレーキをかけ、同時にゴンドラの向きを少し斜めにする。
「あ」
 大型の船などあまり通らないネオ・ヴェネツィア付近の海。そこを通るとなれば当然理由が必要なのだが、灯里はその船の上に乗っている巨大な、そう、とても巨大な氷がいくつもあるのを見つける。
 四角い氷、細長い氷、縦に長い氷。形は様々だが、その大きさは灯里達の乗るゴンドラほどに大きい。
『――――』
 息を呑む三人。氷は、太陽の光を屈折させて様々な色を出していた。時に曲がり、時に動き、まるで生きているように光が動く。いくつもの氷の中で何度も屈折しているせいか、船の上の氷はキラキラと輝いていた。
 ボォーっと、船が汽笛を鳴らす。大型の船ならではの音に、灯里はうわーっと声を上げた。それは驚きの声でも、怖いから出る声でもない。初めて見た大きな氷と、その氷から出る綺麗な輝き、そして船から鳴る汽笛に、灯里は嬉しくて声を上げたのだ。
「まるで、これから起きる芸術大会の前に、船の上の氷と光がワルツを踊ってるみたい」
 揺られる船の上。氷の中で光がクルクルクルクル、確かにワルツを踊っているように見える。藍華もいつもの台詞を忘れて見入っていた。
 そして灯里達のゴンドラの前を通り過ぎ、サン・マルコ広場への方向に向かう船。
 こうなっては、もう行かないわけにはいかない。しかしこれからあの氷を降ろす作業があるはずなので、邪魔にならないだろうかと灯里は思う。
「明日の大会をでっかいワクワクで見るために、今日は我慢しませんか?」
「――それだ!」
 アリスの提案に、灯里はビシッとアリスを指差して叫ぶ。それに対してビクッと震えるアリスだが、灯里にはアリスの気持ちが伝わったようだ。
 今を我慢して、明日を全力で楽しむ。
「それに、今行ったら邪魔になりそうだしね」
「うん。それじゃあサン・マルコ広場は止めとこう」
「じゃあ、今日は水路を適当に動きまわりましょう」
『賛成』
「ぷいにゅ~」
 灯里達はサン・マルコ広場を諦めて、いつもの水上練習区間を動きまわることにする。
今は我慢と、灯里は心の中で自分の好奇心を全力で抑えるという、彼女にとってはとても大変な事をしていたりする。



「なあ、そこの水先案内人<ウンディーネ>さん!」
「はひ?」
 水上をスイーッと走り、小さな橋の下を潜ろうとした時、上から声をかけられて灯里は頭に?マークを浮かべながら見上げた。
 そこには20代後半くらいだろう若い男性がおり、見た目寒そうなツナギの上にジャンパーを着た男性が立っていた。
「この辺で革製の袋を見なかったか!?」
「?」
 男性の問いに、灯里は藍華を、アリスを見る。お互いに視線を合わせてアイコンタクトするが、全員が首を横に振るう。
「すみません、見ていません」
「そうか……申し訳ない、邪魔をした」
「いえ」
 そうだよなー、ないよなーと呟きながら項垂れる男性。何か相当重要な物でも入っているのか、大切な物でも入っているのか、その落胆ぶりに灯里は思わずうんっと一度頷いてから問い掛ける。
「あの、どんな革袋ですか?」
「ん? ああ、かなり長い間使ってるからな……そうだな、特徴と言えば袋の端っこに俺の血の染みが付いてるってことくらいで、なんの変哲もない革袋だ」
「血って……職人さん?」
 袋に血が付くってことは、手に怪我をしたために付いた物だと思いながら、藍華は灯里より先に問い掛ける。すると男性はコクリと頷いた。
「ああ、明日の氷大会でどうしても必要なんだ。あの中には、俺の大事な工具が入ってる」
「ということは、結構大きいんですよね?」
 男性の言葉にピクリと反応したアリスが更に問い掛ける。その言葉に、再び男性は頷いた。
「そうだな、大きさは……そこの猫と同じくらいかな」
「アリア社長くらいの大きさ……それなら判りそうなもんね」
「……大きさ的には無くすようなものではないように見えますが」
「うっかりしてたんだよ。まさかアクアに来て氷を掘れるなんて思わなくて、年甲斐も無くはしゃいじまったんだ。そしたら気付いたら袋が無くてな」
 三人が、結構天然さんなのかと心の中で思いながらも、顔を見合わせてニコッと笑みを浮かべる。
「アクアは、気に入っていただけましたか?」
「勿論だ。一度は来たいと思っていたし、付くと同時に制作意欲を突かれてな。もっと楽しみたいんだが……いかんせん、工具を無くしたのはまずい」
 誰かに持っていかれたのか、もしくは捨てられたのかなと男性がキョロキョロしながら呟く。しかし男性の言葉から推測するに明らかに今日、それもさきほど辿り着いた感じだ。ネオ・ヴェネツィアに来た人は出鱈目に動くと必ず迷ってしまうほどに複雑な街だ。となれば、ここは灯里達の出番だろう。
「私たちも、ご一緒にお探しします」
「職人、工具、そして明日の大会ってことは」
「氷職人さんでまちがいないと思います」
 灯里の言葉に、藍華とアリスは推測を立てる。となれば、彼の工具がなければ一つの氷細工が作られないということになってしまう。それだけはなんとしても避けたい。
 二人も真剣な眼差しで、男性を見つめる。灯里に至ってはもう決定事項のようだ。
「ホントか? 申し訳ないが……正直ここがどこだかもわからん。ウンディーネさんに手助けしてもらえるなら心強いよ」
「藍華ちゃん、お兄さんを乗せちゃって良いと思う?」
「……半人前である以上乗せることは難しいわね……」
「では、友達ということで」
「おお、俺たちはもう友達だ!」
 何時の間にやら橋の上から移動し、横の岸に移動していた男性が叫ぶ。偶然にも船着き場がある橋の上だったので、運良くその場で乗れる位置に居た。
 三人は再び顔を見合わせて、うんと頷く。
「じゃあどうぞ」
「ありがとう。うおっと」
 灯里がゴンドラをギリギリまで寄せて、手を出して男性をゴンドラの上に誘う。男性はゆっくりと乗り込み、やはり少し不安定な上に驚く。
 灯里は差し出した手の平に、男性の職人の手と思われる手の平を触って、そのゴツゴツとした手に驚いた。間違いなく、職人の手だ。ならば今からやることはただ一つ。
「革袋を探して、レッツゴー!」
 おーっと声の上がるゴンドラ。再びスイーッと動きだしてから、藍華は男性に問い掛ける。
「それで、どの辺りに行ったか憶えてる?」
「それがな、全然わからんのだ」
「走り回るとどこがどこだか判りませんからね、この街」
 地元民ですら時々判らなくなる街だ。地球から来た人にとっては判る判らないの問題以前に、場所を把握しきれないはずだ。地図を片手に歩いても判らないことも多々ある。
「じゃあ、聞き込み調査だね」
「……もしかしたら、悪戯で捨てられたかな」
 うーっと少し暗くなりながら、男性が呟く。だがその男性の心配だけは、おそらくはない。
『それは無いです』
 だから、三人は声を合わせてまで、その男性の考えを否定した。男性はどういう意味かと顔を上げると、そこには三人の笑顔がある。
「この街の人達は、優しい人ばかりです」
「落ちてる物は勝手に持ち運んだりしません」
「ほぼ確実に警察の手に届きます」
 どこかに本当に消えることは、むしろ稀ですと三人は強調する。この街が好きで、この街の人々を信じて疑わない少女達三人。そんな三人に、男性は釣られて笑みを浮かべた。
「そっか……じゃ、頼むぜお嬢さんたち」
「ぷいにゅ」
「お、変な鳴き方するんだなお前」
 ヒョコヒョコと男性の膝の上に移動するアリア社長。そんな火星猫の鳴き声を聞いて、男性はクックックと笑いながらその腹を撫でる。おお、と小さな声が出た。
 そんな男性を見て、灯里はあっと声を上げた。
「あの、私水無灯里って言います」
「私は藍華・S・グランチェスタ」
「アリス・キャロルです」
「そういえば自己紹介して無かったな。俺は荒井だ。須藤荒井。よろしく」
『よろしく』
「で、こっちの猫は?」
「アリア社長です」
「ほほう。そうか、お前社長か。水色の瞳ってわけだな」
 アリア社長の両手を掴んでヒョイッと持ち上げる荒井。ぷいっと声が上がるアリア社長。面白いなこいつと、荒井の瞳が光る。
「うりゃうりゃ」
「ぷぷぷいにゅ~!」
 膝の上に降ろして、その軟らかい腹をグリングリンと動かし始める。アリア社長が逃げようとするが、そう簡単には逃がさない。荒井はおもしれーと言いながらお腹で遊ぶ。
 そんな彼をクスクスと笑いながら見てる三人。そこに声がかかる。
「灯里ちゃーん、こんな寒い中お疲れ様だね。どうだい暖かい紅茶でも?」
「あ、おばさーん。ごめんなさい、今日はちょっと。ところで一つ聞いても良いですか?」
「ん? なんだい?」
「この辺りで革製の袋を見かけませんでした? 赤い染みが付いてるらしいんですが」
 道を行くおばちゃんに声をかけらえて、灯里はまるで昔ながらの友達のように話をする。しかし、アリスも藍華も見た事が無いおばちゃんである。もちろん荒井は知るわけも無い。
 誰にでも聞いてみようというのか、灯里の問いに、しかしおばちゃんは首を横に振った。
「ごめんね、見てないね」
「そうですか、ありがとうございます。今度紅茶飲ませてください」
「あいよ~、いつでも来てね」
「はひ!」
 細い水路の短い陸地の上からのおばちゃんでした。普通に通りすがりだというのに、かなりの会話の量である。
 そしてそのまま水路を進んでいくと、
「灯里ちゃーん、今日は男の人とお出かけかい」
「はーい。あ、おじさんおっきな荷物ですねー」
「おー、今日は明日の大会があるからな、今準備してるんだ」
「明日の大会に使う備品なんですね」
「おうとも」
「重そうですねー……あ、ところでおじさん。革製の袋を見ませんでした?」
「ん? 革製の袋?」
「はい、赤い染みが付いてるんですけど」
「んにゃ、見てないねぇ」
「そうですか、ありがとうございます。準備頑張ってください」
「おうさ。おじさん頑張るから、灯里ちゃんは明日見に来てね」
「勿論!」
 手を振ってお互いに去って行く。まるでそれが極普通のように灯里は再びゴンドラを漕ぎ始める。
 それから角を曲がる度に声をかけられ、真っ直ぐに長い道の上でも声をかけられ、果てには藍華、アリスが知らないオレンジぷらねっと、姫屋の人にまで声をかけられる始末。
 呆然と、藍華、アリス、荒井は見ていることしかできない。灯里が居ればどんなものでも見つかるのではないか、そう思えてならない。
しかしやはり目撃例はない。
「灯里……あんた更に知り合い増えてない?」
「まさかオレンジぷらねっとや姫屋の人にまで知り合いが居るとは思いませんでした」
「街中全員知り合いか……」
「エヘヘー。この街が大好きですから」
 満面の笑顔。それは灯里の心からの本当の笑顔だ。一点の曇りも無いその笑顔に、この場に居る誰一人として何かを言う者はいない。ただ、見ている側が呆れるほどの笑みというのは、そうそう見れる物ではないだろう。
「凄いな灯里ちゃん。俺地球でもここまで街中に知り合いいないぞ」
「私も地球では多分、普通ですよ。でもこの街は素敵な物が多すぎて……思わず声をかけたりしちゃうんです」
 灯里の言葉に、藍華達は苦笑するしかない。
「そうか……声をかける達人か、君は」
「人から教えて貰う素敵も沢山ありますので」
「あんたはなんでも素敵でしょうが」
 藍華の短い突っ込みもなんのその。灯里はエヘヘーと微笑む。



 しかし、驚くのはここからだった。灯里が様々な人に話しかけ、話しかけられ、広がった輪。それはいつしか色々な人に話が流れ、現在灯里が工具の入った革製の袋を探しているという話が一定の人々に流れていた。
 それを勿論知らない灯里達は、それでも尚道行く人に問い掛ける。
 時刻は午後5時。少し小腹も空いてきたところで、藍華が少し休憩をしようと提案する。勿論それは賛成なので、灯里達は視界の端に入った喫茶店に入る事にする。もちろん、新しい出会いがあるかもしれないという灯里の提案である。
 そんな彼女の純粋すぎる希望に、誰も逆らえない。
「こんにちわー」
 お店の中に入り、灯里は元気良く挨拶する。その後ろで、残りの三人と一匹も挨拶をする。
「おや灯里ちゃん。いらっしゃい」
「あれ? おばさんここの人だったんですかー!?」
 それは、さきほど声をかけて来た人の一人のおばさん。エプロン姿でトレイを持ち、カップとケーキが乗せてある。おばさんはちょっと待ってねと言って一つのテーブルへ。
 二つを置いて戻ってくると、おばさんはとりあえず空いてるテーブルに案内してくれる。
「それじゃあ、注文は後で取りに来るからね」
「はい。あ、オススメとかあります?」
「当店オススメはちょっと甘いカフェモカとちょっと苦味のあるケーキだよ」
「へー、普通と逆なんですね」
「ええ、そこがウチの売りなのよ。普通じゃつまらないからって」
 また不思議なお店である。普通ならば甘いケーキに対して少し苦いコーヒーだろう。しかしそこを少し捻り、わざわざ甘めのコーヒーであるカフェモカと、少し苦めのケーキ。とはいえコーヒーである以上、カフェモカとて少しは苦味がある。
 はたしてどんな味なのか、灯里はドキドキしながらオススメの品を頼む。勿論、藍華とアリスも一緒のモノで、荒井もそうだ。
 しばし、注文をしてから待つと、運ばれて来たのはビターチョコレートのケーキとカフェモカである。カフェモカにもチョコレートソースのようなものが掛けられ、実に美味しそうだ。
「はいどうぞ」
「わぁー」
 どちらもチョコレートで甘いはずなのに、苦い部類にされる食べ物。その矛盾した摩訶不思議な食べ物に、灯里は感嘆の声を漏らす。
 そして早速一口ケーキを食べる三人。
「苦いけど……」
「スポンジが甘くて……」
「絶妙です……」
 そっちで味を調整するのかと、三人は衝撃を受ける。そしてカフェモカのチョコレートを溶かすように掻き混ぜて、泡とチョコが混じった色になったところで一口。口の中に最初に甘い味が広がり、後味のように苦味が来る。苦味と甘味の絶妙な味付けだった。
『美味しい!』
「気に入ってくれたかい?」
「最高です!」
 街の素敵を一つ発見したような、そんな気分。灯里は落ち着いた喫茶店を見渡して、綺麗な内装とのんびりしているお客さんを見てから、再び視線を自分のケーキとカフェモカに向ける。
 時々、灯里はまったりモード全開で居られる場所を探す。その一つに、この喫茶店も入るようだ。
「うむ、すげぇ美味い」
『はふー』
「ぷいにゅー」
 ケーキとカフェモカを一気に喰い尽くした荒井が最後に一言。そして三人の綻ぶ顔を見て、クックックと笑う。
「可愛い女の子三人と喫茶店か……なんだかハーレムみたいで気分がいいな」
「……」
 ニッと三人を眺めるように見ながら言った荒井の言葉に、三人とも顔を少し赤らめて下を向く。可愛いと言われて嬉しく無い女の子はいないだろう。
 そんな時だ。店の扉が開き、一人の少年が入って来る。元気一杯の10歳前後ほどの少年だろうか。左手にサッカーボールを持ち、右手に袋を持っている。
「おかーさーん、こんなの見つけたんだけど」
「おかえり……って、あら、それもしかして」
 モグモグと食べながら灯里はその少年とおばさんを見つめる。どうやら息子さんのようだ。
「なんか、街の人が言うに灯里って人が探してるとかないとか」
「? あんた灯里ちゃんの名前なんで知って……」
 灯里は自分の名前が少年から出た事に僅か疑問に思いつつ首を傾げると、おばさんは息子さんから荷物を受け取り、それを灯里達に向けて一言。
「灯里ちゃん、もしかして探し物はこれかい?」
『――――っ!』
 ケーキを口に運んだ状態のまま、三人が目を見開く。同時に荒井ががたんと立ち上がった。
「あぁぁあああー! 俺の工具袋!」
 口の中に残っていたケーキを飲み込む前に、荒井が駆け出す。おばさんから袋を受け取ると、ズシッとした重量と金属同士が当たる音が響いた。荒井が中身を確認すると、その中にはハンマーからノミ、ドリルにナイフ、様々な工具が入っている。物騒なものではあるが、彼にとっては大切な特殊工具達だろう。
 後ろから工具を確認する荒井の手の中を覗き込んで、灯里達は微笑む。
「良かったですね、見つかって」
「ああ、本当にありがとう灯里ちゃん! 藍華ちゃん、アリスちゃん! アリア社長!」
 ぷいにゅっとブイサインを出すアリア社長。灯里は笑みを返して、藍華とアリスは手をテーブルの上から振るう。
 ようやく見つかった革袋を握り締めて、荒井は少年の頭をグリグリと強めに撫で回す。
「ありがとな少年! 助かったよ!」
「お兄さんのだったんだ?」
「ああ。お礼に、明日の大会楽しみにしてろよ? 俺のとっておきを見せてやるからな!」
「明日の大会だって? もしかしてあんた、氷職人さんかい」
「そうだ。俺は明日の大会の参加者だ」
「そうかい。それじゃあ楽しみにしているよ。何番だい?」
「俺は6番の氷を掘ってる。灯里ちゃん達も、見に来てくれよ?」
「勿論です!」
 二カッと笑い、自分の分のケーキとカフェモカの金額を置いて、荒井は走って店を後にする。
 残された灯里達はお互いに視線を合わせてクスクスと笑う。大人の男性のような静かな人だったと思えば、探し物が見つかった途端に少年のように顔を輝かせた。本当に大事な工具で、氷を掘るのが本当に大好きなんだと、灯里は感じられた。
「灯里ちゃん、その顔は誰が見てもワクワクしちゃう笑顔だね」
「はひ、すっごく楽しみです」
 あっはっはと笑うおばさんと、そのおばさんに背中をバンバンと叩かれる灯里。
「全く、可愛い笑顔だよ!」
「い、痛いですおばさん」
 くーなんて言いながら今度は灯里の頭をグリグリと撫でるおばさん。その動きはまるで、娘と一緒に居るかのようだ。
 少年はしばし呆然としてから、家の中へと戻って行く。しかし直ぐにサッカーボールを置いて、走って店の奥から出て来た。そして凄い勢いでそのまま外へと駆けて行く。果たしてどこへ行くのか。
 灯里はおばさんから解放されると、藍華達の元へと戻って来る。
「良かったわね、見つかって」
「まさかのまさかですね」
「でも、どうしてあの息子さん、灯里先輩の名前を知ってたんでしょうか」
「きっと、色々な人に流れたのよ。あれだけの人に話たり聞いたりすれば、そりゃ何時の間にか話も広がるわよ」
 藍華とアリスの言葉に、灯里は少し頬を赤く染める。
 まさか、と心の中で思いながらも、灯里達もケーキと食べカフェモカを飲み干し、代金を払って店を出る。
「灯里……あんたは、もしかしたらこの街の中心に成り得る人物かもね」
 そう、唐突に藍華が言った。その言葉にえっと声を上げてから藍華の見ている方を見ると、灯里が声をかけた人、声をかけられた人が、ゴンドラに乗って「赤い染みの付いた革袋を知らないか」と街中に聞いていた。しかも乗せているのは灯里が話しかけたとあるおじさんのゴンドラだった。
「灯里先輩、もう見つかったって教えないと」
「そ、そうだね!」
 アリスの言葉に、灯里は慌てる。アリア社長がゴンドラに乗り、藍華とアリスが乗ると同時に、灯里は素早くゴンドラを動かす。そして元気一杯に声を張り上げた。
 それから数十分、灯里の言葉によって集まった一部の人々は、何故か灯里に感謝して去って行く。ゴンドラに乗っていた人達はそれぞれ帰路に付き、ゴンドラのおじさんも帰って行く。
 藍華とアリスも灯里に帰る事を提案し、明日の合同練習の時間は大会までと話し合ってから、別れる。
 そしてARIAカンパニーに戻った灯里は、その日はドキドキワクワクで、眠るのが少し遅れてしまったのだった。



 翌日。ゴンドラでの合同練習は終り、氷の芸術大会が開かれた。だが、どうやら昨日の夕方から既に開始していたらしく、夕方に終わるように設定していたらしい。
 その大会が終わったのは、灯里達が練習を終えてサン・マルコ広場へと辿り着いてから、約1時間後だった。ほとんど完成したところからしか見れなかった三人は少し残念に思ったが、そんな気持など吹き飛ばすほどに見事な、とても見事な氷の芸術達が、そこに居た。
 氷で造られた、いくつもの動物達。鳥に猫に、存在はしないが認知度は高い幻想の存在、フェニックスやドラゴン、それから火星猫やAQUAが舞台ということでケットシーを掘った人も居た。
 完成された氷は一般公開され、当然しばしの間全てを見て回る時間がある。それを投票により勝者を決めるというものだが、灯里は正直言って決めかねていた。
 藍華、アリス、灯里の三人は勿論の事、この時間はウンディーネ業もしばしの休憩。大会や祭りは、街の人総出で楽しむから、仕事が一時的に中断されるのだ。
 だから、三人の傍にはアリシア、晃、アテナも居たのだが、やはり三人も決めかねていた。
「どれもこれも素晴らしいわ」
「うむむ……これのどれかを選べと言うのか……」
「凄いリアル……」
 あまりにも出来の良い氷の芸術というものに、水の三大妖精とはいえ唖然としていた。19歳の女性とはいえ、やはり女の子である以上、綺麗な物や可愛い物には目が無く、あっちをこっちを見て回る三人。
 何時の間にやら、それぞれが別々に見て回る事になっており、投票次第サン・マルコ広場の二本の柱の間に集合ということになっていた。
 灯里は、とりあえず15番の人から見て回り、ゆっくりと眺めては次へ、眺めては次へと繰り返していた。
 15個ものチーム。彼らが作り上げた動物たちは間違いなく素晴らしい出来だった。中には夕方に審査になるということを考慮して、夕焼けになるとその真価を発揮するという出鱈目な計算の上にできた氷の芸術までもがあった。
 本当に綺麗で、素敵で、どれを選べば良いのか本当に困り始めていた灯里。
「あは」
 しかし、あまりにも贅沢なその悩みに、彼女は笑う。氷の芸術達に囲まれたサン・マルコ広場。その中に立っていられる自分が、とても幸せな気分だった。
 その中で、ついに6番目を見る。そこで、灯里は目を見開いた。そこにあったのは、一隻のゴンドラ。だが間違えてはいけない。それは紛れも無く氷で造られ、そのゴンドラには誰がどう見てもアリア社長と思われる火星猫が、これまた氷で掘られているのだ。
「――」
 言葉を失う灯里。その先端の形状は、紛れも無く灯里のゴンドラと瓜二つ。そしてゴンドラの横には、本物のゴンドラにはない「ARIA COMPANY」の文字。
 唖然と、灯里はそのゴンドラを見つめる。
「お、灯里ちゃん。どうだい、このゴンドラは君のゴンドラを掘らせて貰ったんだが」
「あ、荒井さん……」
 悪戯っ子のような笑みを浮かべながら、荒井は自分の作品を前に灯里の横に立つ。灯里は何を言えば良いのかパクパクと口を動かしたまま、目を見開いて固まっている。
「おお、驚いてる驚いてる。だが驚くのはまだ早い。これは完成じゃないんだ」
「え、そうなんですか?」
「ああ。っと、悪いな親方が呼んでる。灯里ちゃん、大会の審査が終わり次第頼みがある。サン・マルコ広場の二柱の間に居てくれるかい?」
「え、あ、はひ」
 目をぱちくりぱちくりさせながら、灯里は6番エリアの周りから人がゆっくりと離れるのを感じ取る。いや、どうやらサン・マルコ広場が動きだしたようだ。審査時間の終わりらしい。灯里は慌てて5から1のチームの作品も見て、最終的にどれが一番良かったかを考える。
 だが――思い浮かぶのは6番。まるで灯里のために造られたようなあのゴンドラに、投票しないわけにはいかなかった。
 投票箱の6番にカードを入れて、灯里の投票権は終り。それから少し氷のゴンドラを思い出して、ニヘラっと顔が緩む。止められない灯里は、その笑顔のまま二柱の間へ移動する。
「あ、ほら後輩ちゃん、やっぱり満面の笑みよあの子」
「でっかい予想的中ですね」
 そんな事を言いながら、藍華とアリスも笑みが浮いている。その後ろに居る三人も物凄い笑顔だ。
「灯里ちゃん、良い笑顔だね」
「やっぱり、あのゴンドラは灯里ちゃんのだよね」
 晃とアテナもまた、予想通りという笑顔を浮かべていた。
「灯里ちゃん、もしかして昨日言ってた荒井さんって」
「あ、はい。6番の……」
「それならそうと教えて頂戴。私、何事かと思ってビックリしたわ」
「す、すみませんアリシアさん」
「ううん。とても素敵な物を作って貰って……良かったわね、灯里ちゃん」
「――っはひ」
 満面の笑みのアリシアに負けないほどの満面の笑み。
 そして、サン・マルコ広場にマイクの声が響き渡る。最初に演説。それから参加者のチームの紹介、そして投票結果。一位は見事な火の鳥、不死鳥とも呼ばれるフェニックスを作り出したチーム。その後にケット・シー。その次に猫達だ。三位は一票差で決まったらしく、フェニックスは圧倒的だったようだ。
 優勝チームが「1」と書かれた場所に立ち、2、3と続く。そして閉会式が始まろうとした、その時だ。
 ――荒井という男は奇抜な発想の持ち主。そう、チーム紹介の中で言われていたのだが、どうやらその奇抜な発想というのは今大会にも使われていたらしい。
「さあ、公式の場はこれで終わりだ! ここからは俺の感謝を込めたサプライズだ!」
 マイクを一本借りて叫び始めたのは、荒井だ。同時にどこからともなく、大型のプールが運ばれて来る。そのプールの上には、何時の間に置かれていたのか氷のゴンドラが浮いていた。
 もちろん、それは先ほど6番で見た氷のゴンドラ。「ARIA COMPANY」の文字がしっかりと、この夕焼けの世界に映っている。
「俺の作品はこれだけじゃぁない! 灯里ちゃん、こちらへ!」
「へ?」
 ビクリと、灯里が頬を引き攣らせて固まる。だがニヤリと笑う小悪魔二人。晃と藍華だ。しかし勿論アリシアも混ざり、灯里の背中をグイッと押す。
「わ、わ、わ!?」
 藍華と晃、そしてアリシアに押されて、さきほどまで今大会の勝者達が立っていた場所に、灯里が無理矢理に押し出される。緊張にガチンゴチンになっている灯里は、完全に笑みが固まっていた。
「これが俺からの感謝だ、灯里ちゃん。これを足底に付けて」
 マイクを通さず、荒井が灯里の横に立ってニヤリと笑う。それは本当の悪戯っ子の笑みだった。
 灯里はとりあえず、言われた通りに足元にあったテープを踏む。一見なんの変哲もないが、どうやらそれは滑り止め加工を靴の裏にする物だったらしく、灯里はまさかと目の前のゴンドラを見る。
 巨大なプール、その上にある氷のゴンドラと、氷で造られたアリア社長――と思えば、姿を見なかった本物のアリア社長が既にソコに居た。
「あ、あの私は――」
「さあ、乗った乗った!」
 グイッと引っ張られて、灯里は諦める事にする。仕方が無いので、灯里は足を出す。ドキドキしながらその氷に足を置く。滑り止めの効果は絶大のようで、靴はガッチリと氷の芸術をキャッチする。
 そして、えいやっと灯里はそのゴンドラの上に。
「――あはっ」
 その瞬間、氷の船は灯里をしっかりと受け止め、同時にオレンジ色に焼ける世界を彼女にプレゼントした。
「凄い、本当に氷の船――」
「まだまだぁ! 行くぞおめーら!」
『ぉぉおお!!』
「へ?」
「ぷいにゅ?」
 灯里が船の上に乗り、バランスを取ってしっかりと乗った事を確認するや否や、荒井が吼える。同時に、何時の間に準備していたのか大会参加者である全員が、彼の今やろうとしている事に力を貸していた。
 何事と思った瞬間、乗っていたプールが動き始める。同時にポーンと投げられて来たオールを、灯里は反射的に掴み、バランスを取り始める。
 向かう先は――お客さん達が道を開く先、海だ。
「はわわわわわわわ!?」
「ぷぷぷぷいにゅー!?」
 かなりの勢いで押されている灯里の乗るゴンドラの乗るプール。移動式だったのはさっき見ていたから判ってはいるが、この状況でこの先は――まずいのではないか。
 後ろを見ると、さすがにこの状況は理解できなかったのか、藍華や晃すらも唖然としている。というよりも、街の人々全員が唖然としていた。
「これが――」
 ガコンッとゴンドラの入っているプールが落ちる。その真下には、確か船着き場があったはずだ。慌てて下を見ると、そこには何時の間に撤去されたのか何も無かった。
 だがプールが落ちると言う事は勿論、氷のゴンドラも落ちる事になる。
 口を開けたまま、灯里とアリア社長は悲鳴も上げられない。
「俺の――」
 だが次の瞬間、灯里を乗せたまま海へダイブするのかと思われたゴンドラは、唐突に横から光りの翼を広げた。それは、地球の技術。このアクアという星ではあまり使われない、便利な技術だ。
「本当の作品――」
 空を、浮かぶ。氷のゴンドラは灯里を乗せたまま、ゆっくりと空へと浮かんだ。
 何が起こっているのかさっぱり分からない灯里は、しかし下を見て、前を見て、後ろを見て――唖然としていた表情がどんどん笑顔に変わって行く。
「蒼い星のウンディーネだぁ!」
 荒井が叫んだ、刹那。蒼い照明が、灯里を照らす。惜しみなく使われる本来の技術。空飛ぶ光の翼、蒼い光を放つスポットライト。そして――日が沈み、夕焼けとなった空を浮かぶ、蒼い光を放つゴンドラ。それに乗るウンディーネである灯里は、まさに蒼い星のウンディーネだ。
 うぉおおおおおっと、ネオ・ヴェネツィア中の人々が叫び始める。どうやら本当のクライマックスはここだったらしい。大会はまだまだ続いている、いや祭りはまだまだ続いているのだと、街が叫んでいた。
「ぷいにゅー!」
「気持ち良い――アリア社長、私達今、精霊さんになってます!」
 オレンジ色の空を、滑空するように飛ぶ氷の船。その上で、灯里は叫んだのだった。



 それから約数分後に、灯里は船の上にあるレバーを発見。それを操作すると光りの翼が動き、船の方向が変わる。その向きをサン・マルコ広場に向けて、灯里はしばし空の旅を満喫した。それからゆっくりと高度が下がり、光の翼が消えはじめる。どうやら充電切れのようで、ゆっくりと下降していった。
 そうして海へと辿り着いた氷のゴンドラは、今度こそ本当に灯里の手によって海を動き始める。
 海底が見れる氷の船。その上で、灯里は魚と一緒に泳いでいる気分にすらなって、気付けばサン・マルコ広場の船着き場に辿り着いていた。
 そこでアリシアに抱き締められ、藍華、アリス、晃、アテナに褒められる。感極まった灯里もまた、アリシアに抱き締め返し、凄く素敵だったということをひたすらに教えたのだった。
 それから数時間後には、大会も終り、完全にサン・マルコ広場に静寂が戻る。大会の後片付けは明日からだという。
「灯里ちゃん、どうだったかな、俺のサプライズ」
「あ、荒井さん」
 まったりモードに入り始めていた灯里達の元に現れる、荒井。そんな彼を、全員が拍手で迎える。どもどもと照れ笑いをしながら、荒井は二カッと灯里に笑みを向ける。その笑みに、灯里は笑みで返す。
「とても驚いて、何が起こってるのか判らなくて――気付けば空を飛んで、氷の船は蒼く光って――本物の、水の精霊<ウンディーネ>になった気持ちになれました」
 空をゴンドラに乗りながら飛ぶなんてことを考えた事も無かった灯里は、その瞬間の気持ちを思い出してドキドキワクワクする。胸のあたりがキュッと締められる感覚を思い出して、灯里は笑顔を浮かべる。
 その笑顔は、見ている周りの人間すらも、ドキッとさせられるあまりにも可愛い笑顔だった。
「本当に、ありがとうございました」
「――あ、あはは、いやこちらこそ」
 その笑顔に、しばらく見惚れていたのだろう、荒井は一瞬遅れて返事を返した。
「灯里ちゃん。君がプリマになった時、俺は必ず、君に観光案内してもらいに来る。その時を、心待ちにしてるよ」
「――はひ」
 水無灯里。彼女が居る傍では、笑顔が途切れることはないという。それは事実で、なにより本人が常に笑顔で居ることが多い。その笑顔は、素敵な物を見つけたり、綺麗な物を見つけたり、何かを見つけた時に浮かび上がる。
 だが――彼女の本当の笑顔は、他の人すらも元気にさせるほどの笑みがある。
 そんな「笑み」というものが存在するということを、地球からやってきた氷の職人達は知った。
 そして、彼女の周りのウンディーネ達は、やはりそういう効果があるのだと、再認識した。
「さあ、そろそろ帰りましょう。明日も、練習頑張らないと!」
 灯里の言葉に、皆が頷いた。
「プリマ目指して、がんばるぞー!」
『おー!』
 少女達の笑顔はどこまでも明るく、彼女達を見守る先輩達の笑顔はどこまでも暖かかった。




――――――
はいどうも、ヤルダバです。
熱血な小説書いてたくせに今度はまったりを書いてみました。
灯里やら藍華やらアリスやら、クセのあるキャラばかりのARIAですが、書いててなんかまったりしてました。
うん、綺麗だ素敵だと何度も書いてるけど……別に良いかとか、細かいこと忘れていましたね。
まったり、ゆったり、実のところ自分はまったりするのが好きですw
とまあグダグダ長くするのは止めて。
最後まで読んでくださった方に、多大なる感謝を。
では!



[27284] アクア・アルタ
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/04/21 03:53


 アクア・アルタ。地球で言う梅雨のような時期に発生する、ネオ・ヴェネツィア特有の浸水現象のことである。といっても、この高潮現象は南風と潮の干満に気圧の変化が重なって起こる、いくつかの偶然が重なって生み出す現象であり、この時期に毎年起こるものだ。
 故に、ネオ・ヴェネツィアの人々は一切焦らないし、この時期が近付くと買い溜めをしておいて準備をしている。そのため生活には問題はなく、実際この時期であってもお店は開店している。
 ただし、観光業である水先案内人<ウンディーネ>の仕事は開店休業中だ。
 街中は水で埋め尽くされ、床上浸水で、大洪水。だというのにこのARIAカンパニーの社員である水無灯里は今日も元気一杯に――うたた寝していた。

「くー……」

 事務業務がいくつか残っていたため、その後始末をしている最中だったため、灯里は机に突っ伏したまま眠っていた。しかもこの現象を楽しむ灯里は、ちょっといつもと違う事をやってみようと水が溜まっている一階で事務業をしていたのだ。
 だがそれをするにはいくつかの問題があった。まず事務業務の後始末というのがアリシアの予約表の整理。それから経費で使った金額の整理と売り上げの金額の整理である。これが数字をひたすらに追う為に少し気を抜くとくらっと眠くなってしまうのだ。

「ん~……」

 次に、季節的には春と夏の間であるこの時期は、非常に日光が気持ちが良い。部屋の中は勿論とても暖かく、ポカポカホカホカと布団に入っている時の温度を常に身体に感じるのだ。そしてトドメが足の水である。海水なのだが、アクアの海水はとても綺麗で触れたとしてもなんら問題はない。水温はそこそこ暖かいのだろうが、身体に感じる熱と合間って体感温度はとても冷たい。
 つまり、足元がひんやり冷たく、身体はポカポカ――とっても気持ちの良い状況なのである。
 そのため灯里はついつい油断してしまい、睡魔という悪魔に身を委ねてしまったのだ。ちなみに足をツンツンと突く魚のささやかな攻撃は彼女にとってはなんら効果はない。

「ん? ふぁ……あ」

 背中にコツン、という衝撃の直後にぽちゃんという何かが水の中に落ちる音に、灯里は瞳を開いた。まどろむ瞼に入って来る太陽光。その光に眩しいと思いながら、灯里は寝ぼけ眼で振り返る。
 アリア社長が、階段の上からボールペンを投げていた。クスンクスンと泣いている。同時に鳴り響くのはアリア社長の腹の虫。
 一気に目が覚めた灯里は目の前にある書類関係をかき集め、慌てて階段のところへ移動する。猫は水が好きではないのだが、火星猫もそこは同じらしく、アリア社長は灯里にボールペンを投げて必死に起こすという手段を取るしかなかったらしい。
 ちなみにアリシアはゴンドラ協会の会合で今は留守だ。

「す、すみませんアリア社長。昼食で……す……ね?」

 灯里は書類を持ちながら器用にアリア社長を抱き上げて二階への階段を登る。そして時計を見て、灯里は愕然とする。時刻は1時半。とっくに昼食の時間は過ぎていた。

「あわわわわわ」
「ぷいにゅ~!」

 時間を見て固まった灯里を、アリア社長が猫パンチする。全く痛くはないのだが、基本的にそんなことすらしないアリア社長である。どうやらとてつもなくお腹が空いているようだ。
 灯里はハッとしてとりあえずアリア社長をテーブルの椅子の上に。それから二階に避難しておいたアリア社長のお気に入り猫飯を取り出してそれを皿の上に出し、水と一緒にアリア社長の前に置く。その間、実に素早い動きで灯里は行動していた。基本まったりだが、いざという時は早いのである。

「ごめんなさいアリア社長。あまりに気持ちが良かったのでつい……」
「ぷぷいぷいにゅ!」

 気にするなとでも言うように凄まじい勢いで食べながら叫ぶアリア社長。ご飯さえ貰えれば良かったらしい。灯里はアリア社長の横で寝てしまったために進んでいない事務業務を終わらせるためにテーブルに座る。
 ――それから一時間後にようやく整理が片付いたところで、時刻は2時半。
 少しもったいない事をしたかな、と思いながら灯里はARIAカンパニーのベランダに出る。
 見渡す限り水、水、水。どこを見ても水で、ネオ・ヴェネツィアは海の中に入り込んでいる。いや、今日この瞬間は溶け込んでいるといっても過言ではないだろう。

「はぁ~……気持ち良い」

 風は涼しく、日は暖かく、灯里はとても贅沢な気分になってしまう。まったりモードに入りそうになりながら、灯里は幸せのバロメータが上がって行くのを感じる。
 しかしここで動かないのはまたもったいないと灯里は顔を上げる。ではどうするか。もちろん、散歩である。一日中まったりゴロゴロするのも良いかもしれないが、折角のアクア・アルタ。楽しまないのはもったいない。

「よし。アリア社長、お出かけしましょう!」
「ぷいにゅ!」

 満腹になったアリア社長が、灯里の言葉にブイサインを返した。



 灯里は一年ぶりのアクア・アルタをどう楽しもうか考えながら歩く。長靴を穿いているが、水深があまり深く無いところならまだいいが、少し深い場所を歩けばすぐに水が入って来てしまう。
 毎年それは判ってはいるのだが、いかんせん最後には水が浸入していて結局裸足で歩くことになっていたりする。今年はそうはならないと、灯里は少し水笠が浅いところを歩く。そして目指すは、ネオ・ヴェネツィアの中でも景色のいいところだ。
 そう、去年トレジャーハンターの気分でお宝探しをして見つけた、心の宝を、久々に見に行こうとしていたのだ。
 歩けば歩くほどに大好きになって行く不思議な街――不思議な惑星。本当に、摩訶不思議なこの世界が、灯里は大好きだった。例えこうしてアクア・アルタで沈んでいようとも、それはこの街の在り方を少し変えて、灯里に新しいネオ・ヴェネツィアを見せてくれる。
 それが、たまらなく嬉しい。

「アリア社長、確かこっちですよね」
「ぷいにゅ!」

 アリア社長専用の小さなゴンドラを、少し狭いとはいえ坂道になっている道の途中に止める。さすがに持って歩くわけにはいかないので、ゴンドラは流れないように丁度いいところにあった電柱に紐で括り、流されないようにしておく。
 それからアリア社長も歩いて、灯里と共に喜劇小道に続く道を登って行く。
 目的地はすぐそこだ――もう既にドキドキワクワクしている灯里は、にやける顔を止めることができない。あの時見た景色は十分に、この心の中の宝物入れに入っている。
 今度は、アクア・アルタの状態。素敵な景色は、更なる素敵な景色へと変わっていることだろう。それがとても楽しみで、とてもワクワクで。灯里は一人占めできるその景色が、楽しみで仕方が無いのだ。

「ありました! アリア社長、この階段を下れば――アリア社長?」
「ぷぷいにゅ~」

 ふと気付けば、どうやらかなりの速い足取りで歩いていたらしい。アリア社長は疲れ切っているようで、はあはあと肩で息をしていた。あははとやってしまったと笑う灯里。
 アリア社長を抱き上げて、灯里は狭い階段を下る。

「行きますよ、アリア社長」
「ぷいにゅ」

 疲れて元気が少し無くなってしまっているアリア社長。心の中で謝りながら、灯里はゆっくりと階段を下りて行く。
 そして見えた――蒼い街。

「――――うっわぁぁあ!」
「ぷぷいにゅ……」

 下から吹き上げて来る風に潮が混ざる。その風がとてもひんやりとしていて気持ちが良い。しかし、それはこの美しい景色の一つのアクセントでしかない。
 今、このネオ・ヴェネツィアはまさにアクアの街となっていた。
 蒼い水に沈んだ街。しかしその実、見晴らしの良いその場所からは、海が、空が、どこまでも繋がっていて、境界線が判らない。その所為か、海に映る雲のおかげで、まるで街が空に浮いているように見えた。

「アリア社長、ネオ・ヴェネツィアが空に浮いてます!」
「ぷい、ぷいぷいにゅ!」

 言うなれば、空に浮かぶ建物達。言いかえれば、空中庭園。箱庭のような小さな街が空に浮けば、そう呼んでも差し支えはないだろう。
 海にしばしの間支配されてしまうネオ・ヴェネツィア。だが場所を変えてみれば、まるで空に支配されてしまったように見える不思議。そして灯里に吹き付ける風は強く、まさに空に居るような錯覚にすら陥る。

「なんだか私達、空中庭園に迷い込んでしまったようですね」
「ぷいにゅ! ぷぷいにゅ!」

 アリア社長も、灯里の想いに賛同するように声を上げる。どうやらさしものアリア社長も、この景色は驚きのものだったようだ。
 っと、その時である。

「恥ずかしい台詞禁止!!」
「はひ!?」

 凄まじい怒声のような声で叫ばれる何時もの言葉。振り返ってみれば、そこには顔を赤くした藍華が立っていた。目をパチクリさせて、灯里は引き攣った笑みで藍華を見つめる。

「あ、藍華ちゃん……いつからそこに?」
「ん、実は結構前から後を付けてた」

 全然気付かなかったと思いながら、灯里はすぐさま二マーっと笑う。それを見て、藍華は何よと言う。言ってしまう。

「藍華ちゃんもこの景色に見とれてたんだー」
「――そうよ、悪い!?」
「でっかい素直ですね、藍華先輩」
「ひょっ!?」

 灯里の言葉に頬を染めながら言った藍華。直後、藍華の背後より更に第三者の声が響く。しかもそれが耳元での発言だったために、藍華はびっくうと本気でビビる。
 灯里も驚きながら、そこに立っていたアリスにビッと親指を立てる。刹那、アリスも親指を立てた。してやったりというようなその二人の合図に、藍華は悔しがる。

「……後輩ちゃん、いつからそこに」
「藍華先輩が灯里先輩を尾行していたのを見つけて、私も尾行していました」
「ってことは、アリスちゃんもこの景色に?」
「……はい、しばしこの空中庭園に見惚れてました」

 ちなみに灯里の台詞は全て聞かれていたらしい。しかし、灯里はそんな事を気にするような女の子ではない。なんでもかんでも素敵にしてしまう彼女からは、いつも突拍子もない言葉と、目の前に浮かぶ情景を素敵な言葉で表現してしまう。
その一つたる空中庭園という言葉を気に入ったのか、アリスは早速その名を使う。本当ならば浮き島をそう呼んでもおかしくないのだろうが――酷いようだがあれでは小さすぎるし規模が違いすぎる。

「二人とも居たんなら声かけてよ~」
「ごめんごめん。どこ行くのかなーって思ってね」
「……なんだか灯里先輩の行く先には、素敵な物が多いですね。まさかこんな良い物が見れるなんて」

 しばし、三人は目の前の景色を見つめる。
 空と、海。蒼と蒼――繋がる境界線。その蒼に埋もれる建物。アクアとネオ・ヴェネツィアが一体になったかのようなその光景は、そうそう見られるものではないだろう。
 素敵な、素敵な世界。灯里は、益々この星が、この街が大好きになってしまう自分が居る事に、なんだか少しこそばゆい気持ちになっていた。

「不思議な事を教えてくれるアクア――摩訶不思議な出会いをくれるネオ・ヴェネツィア――藍華ちゃん、アリスちゃん、私もう、この街から離れられないよ」
「は、恥ずかしい台詞……禁止」
「藍華先輩、今、灯里先輩の言葉に感動しましたね?」

 優しい、どこまでも優しい灯里の笑顔とその台詞に、藍華は思わず赤くなりながらいつもの突っ込みをしようとするが、照れてしまって強く言えなかった。その理由をしっかり図星で突っ込みを入れるアリスに、藍華はうっさいと照れ隠しに叫ぶ。
 そんな二人をクスクスと笑いながら、灯里はもう一度このキラキラとした景色を見て、やっぱり素敵で、やっぱり綺麗で、やっぱりとても素晴らしくて――我慢できずに叫ぶ。

「ぜっけーかなー!!」

 抑えられない気持ちを叫んで、灯里は笑う。彼女に釣られて藍華もアリスも笑う。
 そして、三人は暗くなる前に帰路に付く。お土産話は、ちょっと贅沢な幸せのお裾分けである。




――――――

ARIAを知っている人が結構いる事に驚いているヤルダバです、こんばんわ。
時刻は夜中の3時を回っております。なにしてんのかな俺は。
というわけで調子に乗って書かせてもらっちゃいました。
とはいえ――実は最近ARIAを読み直し、アニメの方まで全てを見てしまうというどっぷりとまったりワールドに入り込んでいるのです。
故に少し書いてみたいというお話がいくつかありますので、もし良ければ今後ともよろしくお願いします。

さて今回はアクア・アルタです。それと宝物探しで見つけた高い場所からの景色。
高い場所からの光景が自分は結構好きだったりします。
そこでアクア・アルタと合体。
高いところから少し海に入り込んだ街を眺めるとどんな景色になるのか……正直想像もできませんが、「空中庭園」とか出しちゃいました。
きっと写真を撮ってもその凄い景色はどうあっても表現できないでしょうね。
なんかそういうの、生で見たいな。
ちなみに自分が見たい光景を、今回は灯里に見て貰った感じですね。
と、今の世の中から現実逃避するようなことを言ってみました。
ではでは、また。



[27284] 岬で
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/04/22 21:02

 現在アクアという火星は、その名とは全くの正反対の「水」の惑星としてとても親しまれている。
 しかし、その水を生み出すのには途方も無い時間と、途方も無い犠牲があった。
 何十年、何百年――火星に住もうとした人々は必死になって命の源である水を作り出す方法を模索して、それを見つけ、ついに恵みの水を手に入れたのだ。
 そう、アクアとは実際には数多の犠牲の上に立つ、奇跡の星である。
 だから――水無灯里は歴史の本を見ながらこの惑星を「アクア」と呼ばれる星にしてくれた先祖達に、多大な感謝を送っていた。

「アリア社長、凄いですね」
「にゅ?」

 灯里が思わず立ち止り、本を読み始めてから暇になってしまったために、ゴロゴロとその辺を転がっていたアリア社長に、灯里がいきなり絶賛の言葉を上げる。何の事か判らず、アリア社長はクエスチョンマークを頭の上に浮かべた。
 灯里はクスッと微笑みながらアリア社長を抱き上げて、本を元の場所に戻す。

「私達がここにこうしていられるのは、奇跡なんだなって」
「ぷいにゅ?」

 なんのこと? と首を傾げるアリア社長。しかし言いたい事はそれだけだったのか、それとも灯里はその言葉を口にしたかっただけなのか。それは彼女にしか判らないが、何時も通り元気一杯の女の子は細かい事など考えさせない笑みを浮かべて、本屋から外へと出る。
 今日も素敵な出会いがありますように――そう願いながら。

「あっ。アリア社長、久しぶりにお花畑を見に行きましょう!」
「にゅ?」

 灯里の頭に浮かんだのは、アリスと初めて会った岬。藍華とシングルの訓練として行った場所で、アリスと初めて勝負をした場所でもある。とはいえ、勝負は灯里の所為でお流れになったのだが。
 春はそろそろ過ぎ去ってしまう。ゴンドラの合同練習の時間は今から――となれば、思い立ったが吉日である。
 灯里は集合場所へと向かい、藍華とアリスに提案しようと考えながら、もう既に頭の中はお花畑の光景で一杯だった。



「良いわね。それじゃあ灯里、一番手ね」
「あのお花畑、確かに綺麗でしたからね」
「わひー」

 集合場所で待っていた藍華とアリスに早速提案した灯里。勿論二人は二つ返事でオーケー。灯里は喜びながらオールを引っ掴み、では早速と海へと出かける。
 ゴンドラが海を割いて進む。塩水を含んだ風が頬を撫でる。しかし優しく、触れる程度の風。太陽はポカポカ。うん、水上を進むのにこの三つは欠かせない。灯里は何時も感じているそんな普通が、しかしこれも奇跡であることに思い当たる。

「……この蒼さ、恵みの水。そして太古の昔から存在する風。昔は無かったかもしれないこの世界に――今は確かに存在するんだね」
「恥ずかしい台詞禁止!」
「ええー!」
「灯里先輩、今日はやけにしんみりしてますね」

 灯里はエヘヘーと微笑みを浮かべながら、アリスの問いに答える。先程本屋にてアクアの歴史本を見た事を。パラパラっと見ただけなのだが、昔は水などどこにもなく、どこまでも砂しかない惑星であったという部分にへぇっと目を通してしまったのだ。
 結果、どういう経緯でこの惑星が水の惑星となったのかが気になり、しばしの間読んでいた事。
 未だ、この惑星アクアにはテラフォーミングをする上で犠牲になってしまった島が多々あり、同時に沈んでしまった工事現場……というのは少しおかしいかもしれないが、工場地区と呼べるそんな場所が多々あるのだ。今は、そこで働いていた人々のお墓があるだけの、ちょっと寂しい場所になってしまっているが。
 だから、こんな些細な風や、水の上を走るゴンドラというのは、こうしているだけで昔の人々にとっては奇跡で、想像もできなかったに違いない。灯里は、そんな人達の努力を今を生きる人間として精一杯楽しもうと思ったのだ。
 だけどまずは、小さな事から感じる事が良いと思ったわけである。

「なるほど、歴史を紐解いてしまった灯里先輩は、現在でっかい感謝をしているのですね」
「うん。だって凄い事だよ。惑星が砂しかなかったのに、今はこうして水で一杯になってるんだよ」
「確かに、昔の人がいなければ私達はここには居ないし、私達がウンディーネとして出会う事も無かったでしょうね」
「だから――これは奇跡で、凄い運命なんだよ! 素敵な巡り合わせは、この恵みの水を生み出した人達の時からきっと始まってるんだよ!」
「恥ずかしい台詞禁止!」
「素敵ングー!!」
「あ、灯里先輩素敵モードが」

 藍華の突っ込みに反応すらできないほどに頭の中が「奇跡、運命、素敵」に支配されてしまった灯里。アリスはそんな灯里を呆れたように見て、しかしそこにある微笑みに釣られて微笑んでしまう。
 藍華はもはや聞いていないと諦めて、アリア社長を抱き締める。そして小さくため息を吐いた。

「この星が――奇跡で出来てるなんてとっくに知ってるんだから、今更はしゃぐところでも無いでしょうに。それに、素敵な巡り合わせっていうけど、灯里、あんたは私と会うべくして会ったんだから、曖昧な運命なんて言わないの」
「私も、きっと藍華先輩や灯里先輩に会うべくして会ったんです。奇跡や運命なんかじゃないです」
「……藍華ちゃん、アリスちゃん」

 確かに、この惑星は奇跡によって出来ているだろう。それは否定しないし、否定できるものではない。昔の人々が必死になって作り上げた水の惑星なのだから、それを否定してはこうして住んでいる自分たちをも否定することになってしまう。
 だけど、藍華とアリスは灯里と出会えた事や、素敵な先輩達と出会えた事を奇跡とは思わない。それはきっと必然で、出会うべくして出会ったのだと。

「うんっ!」

 力強く頷いた灯里に、少し頬を染めながら二人は笑みを浮かべる。
 素敵な出会い――それは奇跡か、運命か。いや、きっと出会ったその瞬間から、運命のような出会いは、必然の出会いとなるのだろう。
 灯里は二人の親友に新しい事を教えて貰い、それを感謝しながら突き進む。
 アクアの海は、ウンディーネ達を優しく包んでいた。



 辿り着いたのはいくつかの小さな島が点在するエリアだ。ウンディーネ業界でもそこそこ有名な訓練場。点在する島によって潮の流れが常にバラバラで複雑で、その潮を上手く捉えられるかが難しいのだ。藍華が言うには難易度は上級者向けらしい。
 ここに来るのも久々だなーなんて思いながら、灯里はスイスイとてこずっていたはずの道を軽く漕いで行く。自分の腕が上がっている事を確認できて、なんだか嬉しい灯里だった。

「さあて、お花はどこかな?」
「確かあっちの岩場の影にありましたよね」
「……でも……岬全部が花になって無い?」

 灯里とアリスは前に見た黄色い花の場所を思い出しながら、そこへ向かおうとしていた。しかし藍華が呟いた言葉に、灯里は藍華が見つめる先を見てゴンドラを停止させる。
 一瞬の間。藍華とアリスも固まっている。
 ゴンドラがゆっくりと流される。大きく飛び出た岩が邪魔で見えない位置に止まってしまっていたようだが、流されてみればそこには――岬一面の花畑のようなものが見える。
 灯里は素早く態勢を整える。えっと藍華とアリスが思った直後には、もうワクワクのドキドキで周りが見えていない灯里の表情がそこにはあった。その瞬間、複雑な潮の流れもなんのその。余裕でそれらを全てクリアーしてあっという間に岬に到着である。
 灯里の底力、恐るべしと藍華は思った。

「うっわー!」

 そしていつもの驚きの声を上げる灯里。その声に少し呆れながらも、藍華もアリスも岬を見る。そして顔を三人で見合わせて、笑う。
ゴンドラを近くの木に紐で繋げて、三人は上陸。岬の周りは木々に囲まれていて見えなかったが、その奥。近くで見れば見るほどはっきりと判るそこは、まさに、カラフルなお花畑だった。

「うわ……すご」
「でっかい綺麗です」
「岩場どころじゃないね」

 ほぼ、岬の全てが花だらけ。どちらかといえば、お花の絨毯というところだろうか。思い返してみれば、あの時アリスと出会ったのは春になってから間もなかった。今は春真っ只中であり、少しばかり季節の状況が違う。
 アリア社長がダッシュで花畑に突撃し、ゴロゴロと転がる。とても楽しそうで気持ちよさそうだ。
 灯里達も顔を見合わせてから、花畑へ入り込む。そして足の踏み場もないそこで、三人は寝転がる。下敷きになってしまう花は申し訳ないが――しばしの間この場所を満喫させてほしいと灯里は思う。

「ん~……気持ち良い」
「あったかいですね」
「はぁ~……」

 花の良い匂いがする。日光が良く当たるためか、どうやらこの場所は花の楽園のようだ。蒼に紅に黄色。鮮やかな紫なんかもある。様々な花が、春という季節を堪能しているようだ。

「……お花の咲く星になった時、昔の人はどれくらい嬉しかったのかな」
「そりゃ、本当に嬉しかったでしょう」
「こんな当たり前の事が――本当に奇跡なんですね」
「……後輩ちゃん、恥ずかしい台詞禁止」
「でっかい恥ずかしくないです」

 少し頬を染めながら、藍華の突っ込みに対抗するように言うアリス。
 灯里はそんな二人を見ながら、微笑む。そして二人もまた、微笑む。

「藍華ちゃん、アリスちゃん」
『ん~?』

 二人に声をかけると、現在この気持ちの良いポカポカとした陽気を堪能しているのか、二人は気の無い返事を返して来た。だが、そんな事は気にしない。
 微笑みを浮かべたまま、寝転がっている二人と、自分。灯里はクスクスと笑いながら、言った。

「この小さな小さな微笑みも――私達が気付かない小さな奇跡だね」
『―――――っ』

 灯里の言葉に、藍華とアリスは目を見開く。なんて小さい事を、なんて嬉しそうに言うのか。二人は顔を見合わせて、クスッと笑う。そして我慢できずに大笑い。それに釣られて灯里も笑う。アリア社長は嬉しそうに周りを飛び跳ねている。
 アリスと藍華は思う。ああ、まったく、確かに本当に――呆れるほどに小さな奇跡だ。






―――――――
さて、一時間ほどで書いたものです。なんか頭に浮かんだのでカタカタと。
なんだか……ARIAにどっぷり浸かってる自分がいます。
しかも漫画片手に書いてるっていうw

今回は奇跡が多用されてますねぇ。とっても奇跡の連呼。
しかし……恥ずかしい台詞だなぁホント。
書いててこっぱずかしくなるw
藍華やアリスは多分こんな事を言うのではないか、なんて思う。っていうかどこかで言ってたと思います。はい。

アクアは数多の犠牲の上に出来ているというアニメの話。
それを元に書いてたら何故か岬に移動。
そもそもにして頭に浮かんだのは「季節の違う場所に行くと新しい発見がある」というフレーズ。
そこで岬の話を書こうとしたらなんでかアクアの過去がw
不思議だ……ARIAを書くと不思議な感じがする。

とまあ再び調子に乗って短いながらに。
皆様にどう感じられるかわかりませんが、まったりワールド、皆さまも楽しみましょう。
きっとちょくちょく投稿させてもらいます。
ちなみに現実にも季節によって顔を変える場所がありますね。
確か春夏秋冬がはっきり判る花の公園とか。
ああいう場所に行ってみたいなぁ、まったり時間がある時に。



[27284] 洞窟
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/04/22 01:29



鍾乳洞。それは天然の洞窟。
長い年月を掛けて大地が作り上げる洞窟である。
人の手は入らず、もちろん動物の力すらも入らない。偶然に偶然を重ね、数百年以上の年月によって完成するそれは、地球では今も国宝級の扱いになっている。
 人間の手では到底創ることが出来ない、その神秘の領域。
 しかし残念ながら、ネオ・ヴェネツィアにはそう言った物は無く、さすがに鍾乳洞と呼ばれる場所はない。
 季節は夏。灯里はその観光シーズン真っ只中で、ARIAカンパニーも例外なく忙しい中、お客様に聞かれた質問に答えられなかった事に少し落ち込み気味だった。
 その質問とは、「鍾乳洞とかの洞窟みたいな観光地はないのかしら」という質問だ。
 アリシアもさすがにそれは聞いたことが無いと言い、申し訳なさそうにしていた。

「テラフォーミングされてから150年……洞窟は見つかって無い」
「そうねぇ。そもそも、鍾乳洞ってどれくらいの期間でできるのかしら?」
「少なくとも数十年以上だとは言われてますが……アクアがこうやって海に沈むほどの水に包まれたのって、実際には100年も経ってない……んですよね?」
「そうねぇ。テラフォーミングをするっていうプロジェクト開始時期と、準備期間、それからこうして水が溢れるほどに出て来るまでにきっと50年は必要だったかもしれないから」

 アクアの歴史を紐解けば、年代などは判るだろうし、水がこうして溢れてからどれくらいの期間が経っているのかも判るだろう。そしてこの惑星のどこかに天然の洞窟はあるかもしれない。だがさすがにそれを見つける事は難しいし、なにより地球でも鍾乳洞見つけようと思って見つけた物ではない。偶然見つけた物をかなりの年月をかけて中を調査し、その後に一般公開されたりするのだ。
 つまり、今この瞬間に誰かが見つけていたとしても、その情報がネオ・ヴェネツィアに流れるにはまだまだ先だろう。

「鍾乳洞かぁ……昔地球で見ましたけど、とても素敵な場所でした」
「へぇ~。私は見た事無いから、ちょっと羨ましいわ」

 地下洞窟、というのも少し変だが、アクアにはネオ・ヴェネツィアの真下にあるノームの地下の街がある。それが唯一洞窟と呼べるところではあるが――とてつもなく失礼に当たるので口には出さないことにする。
 灯里は少し考えて、どこかの島にあるかもなーと考えながら、もし見つけたらどんな世界が広がっているのか、どんな光景が広がっているのか、想像してみる。すると、それだけでワクワクしてしまう。

「灯里ちゃん、今ちょっと、想像してるでしょ?」
「はひ。バレちゃいました」
「うふふ。そんなワクワクドキドキの顔を見せられたら、誰でも判るわ」

 クスクスと笑いながら、アリシアは時計を見る。時刻は7時を過ぎていた。晩御飯を食べてからのしばしののんびりタイムはそろそろ終わりだ。

「それじゃあ灯里ちゃん。私ももう帰るわね」
「あ、はい。お疲れ様でした、アリシアさん」
「うん。灯里ちゃんも。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「ぷぷいにゅー」

 玄関までアリシアを見送りして、ARIAカンパニーから離れて行くアリシアを確認してから扉を閉めて鍵をかける。それから灯里はアリア社長に振り返り、一言。

「それじゃあアリア社長、私達も寝ましょうか」
「ぷいにゅ」

 何故かブイサインを出して来るアリア社長。灯里はそのブイサインに首を傾げた。なんのブイサインなのだろうと。きっと寝る前なので少しテンションが上がっているのだろうと思い、灯里は寝る前にお風呂に入るために着替えを二階に取りに行く。
 それから最近の楽しみであるお風呂に入れるお花の粉。例えばラベンダーの葉を特殊な形で粉にし、それをお風呂に溶かすというものだ。バスクリン、お風呂の添加剤なんて呼ばれたりもするそれを入れるのが、最近のお気に入りだったりする。
 お風呂に入れるだけで――花畑に行った気分になれる優れものだと、灯里は思っているのだ。

「さあ、今日もさっぱりしてから寝ましょう!」
「ぷいにゅ!」

 灯里の言葉に元気良く答えておきながら、そこは猫である。お風呂が嫌いなために、素早く撤収。灯里はそんなアリア社長をクスクスと笑いながらも、しかしニヤリと笑ってアリア社長を追い掛けてとっ捕まえる。それからお風呂場へ連れ込み、その身体を大雑把に洗う。

「ほーらアリア社長、綺麗綺麗です!」
「ぷいにゅ-!!」

 びええええっと悲鳴を上げながら灯里から逃げようとするが、こんな時ばかりは灯里は全力。素早くアリア社長の身体を洗い、解放する。その時間、今はもう慣れたために15分とかからない。
 とはいえ水で毛皮を洗うだけなのでそんなものである。むしろタオルで拭き取る時間の方が長い。
 ちゃんとシャンプーを使って洗う時は、アリシアも一緒の時である。
 さて、と灯里はアリア社長の安易風呂が終わったところで、自分の番となる。着替えを確認してから、灯里は一度リビングへ。

「アリア社長、大人しくしていてくださいね」
「ぷいにゅ」

 風呂場から出て来たアリア社長に笑顔でそう言ってから、灯里は風呂へ。
 ちなみにアリア社長は「また洗われる!?」と毎日のようにこの瞬間だけビクッとし、灯里が風呂場へ戻ると同時に安堵のため息を吐くのだった。




 翌日。
 アリシアが仕事に出て行ってしまった後に、合同練習を開始。アリスと藍華はいつもの三人でありながら、灯里が少し上の空であることに疑問を浮かべた。
 きっとこの灼熱の日光の所為でぼんやりとしているのだろうと思うが、アリア社長の声にも反応を返さないので、藍華はおーいと声をかけてみる。
 その声に、灯里はハッと我に返った。ちなみに現在は藍華が漕いでいる。

「あ、うん、何藍華ちゃん」
「何じゃないわよ。どうしたの、なんかあった?」
「ほへ?」
「灯里先輩、でっかい上の空でした。アリア社長の猫パンチにも反応してませんでした」

 ほぼ完全に無視され続けたアリア社長は、現在アリスの腕の中で涙目になっている。くすんくすんと、泣き虫なアリア社長は灯里をジーッと見ていた。
 灯里はアリア社長に謝ってから、実はと事のあらましを話す。昨日のお客様から言われた、鍾乳洞、もしくは洞窟の件だ。

「なるほど、洞窟」
「確かに、観光地に行ったら定番といえば定番のモノですね」

 洞窟といえば、観光で旅行に行ったらその場にあったために、ついでに見ようと思い見たくなるものだ。とはいえ、さすがにこのアクアではそれを見た、聞いたという話は聞かない。
 アクアの大地は小さい。点在する島を地球のどこかの国をベースに作っていたり、もしくは別のエリアと区切ってそこをまたどこかの国のベースとしている。
 アクアにはネオ・ヴェネツィア以外の街も勿論あるが、基本的にそちらの方へはいかない灯里達には、その辺りの事は判らない。
 もしかしたらどこかにあるかもしれないが、正直言って灯里達には判らない。

「ならば、その洞窟。私達が探し出そうじゃあないの!」
「おー、探検ですな?」
「でも、どこを探すのですか?」
「じゃあ適当にあの島で」
『適当っ』

 本当に適当だった。少しばかり潮の流れが速い場所でスピードをコントロールする練習でもしようと、少しネオ・ヴェネツィアから離れた場所に来て居たのだが、少しどころか結構離れていた。故に、藍華は眼前にある大きな島でも歩いて探検しようと、本当に適当に選んだのだ。
 その大雑把な選び方に大丈夫かなと思いながらも、灯里もアリスも特に反論はない。島には木々が生い茂っているので、もしかしたら日陰に入れるかもしれない。そうすればきっと涼しいだろうと、二人は思っていた。
 とりあえず今現在はっきりしていることは――暑い。それだけは間違いなかった。

「さ、到着」

 場所が決まれば速い物で、昔と比べれば圧倒的に腕を上げた藍華にとってはなんら苦にならずに辿り着いた。ゴンドラを素早く岩に紐で繋ぎ、流れないようにする。繋げた紐を確認して、ビッと親指を立てる灯里。ソレに対してお弁当を取り出していた藍華とアリスもまた、ビッと親指を立てた。
 準備は完了。上陸も無事果たした。後は――鬱蒼と茂るこの森の中を、探検するだけである。

「ピクニックだね!」
「よぅし、では洞窟探索隊、出発!」
「灯里先輩、既に目的が……」

 グッと力強く手を握った灯里。彼女の叫んだ言葉を藍華は無視していざと叫ぶ。だがどうしても気になってしまったアリスが灯里に突っ込みを入れようとするが、灯里のドキドキとした表情に言葉を押し止める。
 もう、何を言っても無駄だと判っているからだ。
 そんな灯里は、アリア社長を抱き上げながら、森の中を指出して、言う。

「いざ、しゅっぱーつ!」
「……私も言ったじゃないのよ」

 藍華の言葉を一切合財聞いていなかったのか、既に出発している藍華に突っ込みを入れられる灯里。あれ? っと首を傾げる灯里は、ぼちぼちズレていた。どうやら相当にテンションが高いようだ。
 しばし、道なき道を行く三人と一匹。真夏の太陽が空からギンギンに照らしてきているはずなのに、周りからは蝉の鳴き声が響くだけで、そんなに暑くはなかった。
 やはり木々の葉が日影となり、直射日光が暑すぎる夏の太陽はしかし、丁度良い温度で大地に辿り着いている。

「わー、木漏れ日が綺麗だねー」
「まるで、光のカーテンですね」
「森の中に浮かぶ湿気の所為かしらね?」

 森の中を歩きながら、自然にそんな事を言う三人。実際、暗めの森の中に入り込んで来る太陽光は葉と葉の間から差し込んで来るだけ。その所為か湿地帯となっているようで、森の中には湿気が目に見えるほどに浮いている。
 ジメジメしているのだが――暑すぎないここの温度は、とても気持ちが良い。まるでこの中だけが春のような温度だ。

「さぁー、どこまで続いているのか」
「楽しみだねー」

 そういう二人の前を、元気一杯に突き進むのはアリア社長だった。ズンズン進んでいくアリア社長の後ろを付いて行くような形になっているのだが、何時の間にやらアリア社長の動きが段々素早くなって来ている。
 それに気付いたのは、アリア社長との距離が数メートル以上になった時だった。

「灯里先輩、藍華先輩。アリア社長、速くなってませんか?」
「た、確かに」
「アリア社長ー! まってくださーい!」

 声を上げても、アリア社長は素早く森の中を突き進んでいく。走っているわけではないのだが、ぽぷよんと野生の動物みたいに本能に突き動かされるように進んでいき、その速度が上がっている。
 ちょっと急がないと、見失ってしまう。仕方なく灯里は駆け足になり、藍華とアリスも歩き難い森の中を小走り気味に走る。
 すると、アリア社長が不意に左へと曲がる。やばいと、藍華が本気になって走り始める。既に息が上がっているのだが、一直線なら良いが曲がられては本当に見失ってしまう。

「灯里、後輩ちゃん、急いで!」
「は、はひ!」
「わ、わかりました」

 とはいえ、灯里は正直に言って運動音痴である。スポーツをするには体力があまりにも少ない。ウンディーネの仕事も体力勝負とはいえ、体力の使い方があまりにも違いすぎるのだ。
 だから、藍華とアリスに追いつけず少しづつ距離が離れ、アリア社長に至ってはもはや見えなかった。
 かろうじて動きだけは止めないようにして、限界が違くになって来た灯里は、倒れる前に足を止める。止めてはならないと判っていても、これだけの距離を走ったのは久しぶりでどうしようもなかった。

「はあ……はあ……あ、アリア社長~……藍華ちゃん……アリス……ちゃん」

 置いて行かれたくないので、必死になって歩く。すると、木々の間から藍華とアリスがこっちに来いというように手招きをしてくる。どうやらギリギリで終着地点まで付いて来ていたらしい。一瞬泣きそうになった灯里だったが、安心すると同時になんとか足を動かす。
 そうして、二人の居る場所に近づくに連れてなんだか凄い音がすることに気付いた。それは、かなりの水が流れ、落ちる音。つまり、滝の音がするのだ。

「はぁ、はぁ」
「お疲れさん、灯里」
「灯里先輩、大丈夫ですか?」

 二人とも荒い息をしているが、灯里ほどではないようだ。灯里は直ぐ傍に二人が居る事に安心して、ずるりと崩れ落ちる。丁度木の根が椅子のようにそこにあったので、そこに腰を落ち着ける。
 それから、さっきからドーっという凄まじい音を立てる方向に目を向けて、灯里は一瞬言葉を失った。

「―――」

 森の中にある、湧水の類だろうか。この島はもしかしたらどこかの大陸の山にでも繋がっているのかもしれない。かなり大型の川が、森の中にあった。だが問題はそこではない。
 高さはおそらく15メートル強。かなり高い位置から水が下へと降り注いでいる。大型の滝だ。その上、木々の隙間から入り込む太陽光に反射している水飛沫がキラキラと空中を漂っている。暑い身体にひんやりとしたその水飛沫はとても気持ちが良かった。
 灯里は持って来ていたバッグからタオルを取り出して、その滝に手を入れる。バチバチと水が腕に当たって痛いのだが、マッサージのようでそれが気持ち良い。
 藍華とアリスも既にそうしたようで、二人ともタオルを片手に額や腕、後ろを向いて背中の中などを拭いている。ここには人目も無いので、とりあえず全身を拭く事もできそうだ。さすがにやらないが。

「凄い綺麗だねー」
「まさかこんな場所があるなんてね」
「良い物見つけました」

 とりあえず休憩とそこにある木の根に座り、周りを見渡す。背の高い木が多く、根っ子もかなりの物だ。立派なその木々に、灯里は一体どれほどの年月ここに居るのかを聞いてみたくなる。当然返事はないが、30メートル級の縦長の木々ばかりなのだから、気になってもおかしくはないだろう。
 だが、おそらくはアクアに水が沢山出て来た頃から生まれた木で、それからずーっとここに居るのだろう。これほどまでに立派になるには、100年近い歳月は必要のはずだ。

「アリア社長は?」
「ここまで追い掛けて来たけど、ごめん見失った」
「ええー」

 もう駄目っと藍華もアリスもその場に寝転がっている。だが流石に、猫にこの森の中を走られては人間では追い掛けるのは無理がある。アリア社長がどこに行ってしまったのか判らないが、藍華とアリスの所為ではない。
 とにかく休憩が必要なので、灯里はどうしようと思いながらも動けないでいた。

「きっと……ここに居れば戻って来ます。アリア社長はでっかい寂しがり屋さんですから」
「そうだね」

 休憩ついでに昼食も食べてしまおうと、灯里達は持って来ていたお弁当を開く。水筒を出しながら、灯里は水筒の中のお茶を出そうとしてそうだと振り返る。試しに、滝の水を水筒のコップに入れてみる。
 透き通った透明な水。コクっと一口。

「!?」

 驚きに、目を見開く。灯里は再び水をコップに入れてゴクッと飲む。その行為を見て、藍華とアリスが首を傾げる。

「灯里? お水そんなに美味しいの?」
「あ、藍華ちゃん、アリスちゃん、このお水、オレンジの味がする」
『は?』

 まさかと思いながら、藍華とアリスも滝に手を突っ込み、直ぐに取り出す。コップ一杯に注がれた水を口に運んで、飲みながら驚き、そのまま飲み干す。

『………………』
「ね、ね、オレンジの味だよね!?」

 灯里の言葉に、二人は何故かは理解できないが確かに感じたオレンジの味に、うんっと頷く。
 藍華とアリスは信じられないと目の前の水を見つめる。

「私達、オレンジの王国にでも迷い込んじゃったのかな」
「い、いやそれはないでしょ」
「でも、でっかい謎です」

 とりあえずコップを再び差し出して、灯里はその水を気に入ったのかそれを持ったまま昼食へ。もしアリア社長がお腹を空かせれば、食べ物の匂いで戻って来るだろうと、灯里は油断する。
 そうして数分後――お腹が一杯になった三人は体力も戻って来たので、さてっと立ち上がる。

「戻って来ないね、アリア社長」
「さすがにまずい匂いがビンビンして来たわ」
「探さないとですね」

 やっばーと三人の間に微妙な空気が漂う。
 現状、素晴らしい景色のこの場で昼食をとれた事に感謝をしてから、灯里達は行動を開始する。おそらくはこの川の上流に居るかもしれない。
 その淡い期待を持ちながら、三人は再び行動を開始する。
 歩き難い道無き道を進むが、アリア社長の気配はしない。どこまで行ったのか、心配になってきた灯里は少し焦り始める。

「アリアしゃーちょー!」

 声を張り上げて森の中に叫んでみる。返事があれば良いのだがと耳を澄ますが、川の流れる音が聞こえて来るのと、風に揺られて鳴り響く葉の音くらいしか聞こえて来ない。
 小さくため息を吐いてから、三人は再び歩く。
 それから更に数分後の事だった。森の中に、より一層光の強い場所が現れる。そこから小さく、聞き覚えのある声のようなものを聞いた気がした。

「アリア社長ー!?」
「ぷいにゅー!」

 間違いなく、それはアリア社長の声だった。良かったと灯里は走る。その後ろを付いて来る藍華とアリス。
 そしてアリア社長を追い掛けた先に――森が開けた。

「ぇ――」
「う、うわ」
「なにこれ……」

 もはや言葉も無い。そこにあったのは、巨大な、それこそ巨大なオレンジの木が一本立っていた。威風堂々としたそれは、樹というべきものだろうか。その枝に付けたオレンジは大きく、その真下にある源泉には沢山のオレンジが落ちていた。ここが、この川の流れの大元なのだろう。
 樹の大きさは果たしてどれくらいのものだろうか。灯里達三人が手を限界まで開いても、おそらく一周はできないだろう。巨大な樹はおそらく、そこに生まれた時からずーっと成長を続けて来たのだろう。この森の主と言っても過言ではないその巨大な、巨大な樹は、あまりにも立派だった。

「あ、灯里! 灯里!」
「?」

 あまりの存在に目を奪われていた灯里に、藍華から声がかかる。声の主は、何時の間にやら樹の横に移動していた。しかしその視線は、更にその奥に向いているようだ。
 灯里とアリスは顔を見合わせてから、オレンジの樹横へと移動する。

「洞窟、みっけ」
『――――』

 私も驚いてますという顔で行った藍華の言葉に、灯里達は表情をコロコロと変える。どう喜びを表現すればいいのか、どうこの瞬間の気持ちを表現すればいいのか――さっぱり判らない。

「ほわぁぁあああ!!」
「や、やった、やりました!」
「やっちゃったわ私達!」

 灯里はもはや何を言えばいいのか判らないらしく、喜んでいるのか驚いているのか判らない叫び声を上げていた。アリスは灯里の両手を持ったまま洞窟から目を離さず、藍華は二人を抱き締める。
 その後方で、ちゃっかり灯里のかばんを受け取り、その中から自分の昼食を頬張っているアリア社長には一切気付かない。

「ぼ、冒険しちゃう?」
「行きましょう!」
「適当に選んだ島に、こんな場所があるなんて――なんてラッキー」

 緊張で震える全身を必死になって抑えて、三人は高鳴る心臓を抑えられないまま洞窟の中へ。外からの光がある程度まで中を照らしていて、キラキラ光る地面や天井、壁に三人とも言葉が出ない。
 そしてゆったりとした曲がり道のようで、少しずつ暗くなっていく洞窟内。さすがに光が必要だろうかと思いながらも、三人はゆっくりと進んでいく。
 そうして本当に真っ暗になり、後方から水の音が聞こえなくなったあたりで、洞窟の中が風の音だけが響き、とても静かな事に気付く。自分達の足や腰の動きで、洞窟の中が微妙に坂道になっている、ということくらいしか正直判らない。しかし、完全に漆黒の中に入ってしまうと同時に、進む先から光りが再び現れる。
 随分と軟らかい、蒼い光。
 そしてその光の正体を見て――三人は唖然とした。

「苔が……光ってる」
「凄い――」

 もう、驚く事が以外にできることがない。灯里も、藍華も、アリスも、言葉を失う。
 そうして蒼い光に導かれたそこで、もはやグゥの音も出ない光景に、目を奪われた。

『……』

 そこは地底湖と呼べる場所だった。洞窟の奥深くにある窪んだ場所に溜まった水。それが湖のように溜まったのだ。しかし、その水は至る所から垂れて来るほんのわずかな量の水が溜まって出来た物。これだけの水が溜まるまでに、はたしてどれほどの長い時間が必要だろうか。
 その大きさは、直径10メートルほどの横幅で、深さは30センチほどだろうか。奥の方は判らないが、もっと深そうである。というよりも、更に先がありそうだ。
 だが灯里も藍華もアリスも、これ以上先に行く気はない。無論、行けないからなのだが、それ以上先を求める必要がないからだ。

「す、凄い……まるで宇宙の中に居るみたい」
「光る苔なんて、初めて見た」
「これが存在したのは数百年も昔の地球の洞窟内部のはずです」

 何を、どう言えば良いのか。とにかく目の前の光景に唖然としていた灯里は、段々とその表情をにんまりとした笑顔に変えて行く。もう耐えきれないというように。
 しかし藍華とアリスも、似たようなものだった。

「まるで、銀河の中みたいだね!」
「惑星の中で銀河って変なんだけど」
「だけどキラキラ光る水と、淡く光る苔が、まさしく宇宙みたいです」

 キラキラと輝く洞窟内部にある水が数多の惑星で、蒼い苔が銀河の光。惑星の中なのにこんな光景を見せられてしまうと、三人は自分がどこに居るのか一瞬判らなくなってしまう。
 ここはアクアで、一つの島で、その中にある鍾乳洞で――素敵すぎる世界で。

「別の世界に迷い込んじゃったね」
「もう言葉も出ないわ……こんなの」
「さすがに表現のしようがないです」

 えへへーと笑いながら言う灯里。そんな彼女の言葉に、藍華もアリスもこの壮大すぎる世界を表現する事が出来ない。灯里もそれは同じで、微笑みを浮かべるだけ。
 だが――それでいいじゃないかと、灯里は思う。
 しばしの沈黙が流れて、三人は思い思いにこの光景を楽しむ。

「キラキラ煌めく星と、淡く優しい蒼い銀河……か。星間旅行をしてここに来たけど……なんだか本物の宇宙空間よりも、このアクアの宇宙の方が好きかも」

 灯里がそう言った時、まるで彼女の言葉を待っていたというように、唐突に蒼い光が強まる。
 えっと三人が驚いている間に、その光はどんどん強くなっていく。淡い光は巨大な照明となり、洞窟全てが蒼い光に覆われてしまった。
 そこで――灯里は気付いた。気付いてしまった。

「そっか、ここは、アクアなんだ」
「え?」
「静かで綺麗な空間は夜で、淡い光は街灯。だけど一度蒼い光が生まれて朝になれば――そこは淡い蒼い世界――アクアになる」

 そう、それはアクアそのもの。さきほどまでが夜ならば、今この瞬間は朝だ。
 蒼い洞窟――まるで、アクアの内側に居るようだ。しかしアクアの大気の中という意味ではなく、その言葉の通りの意味。つまりアクアという星の体内に入り込んだということだ。
 それはきっと、この惑星のプレゼントなのだろう。
 この星の、ウンディーネという水の妖精たちへの、ささやかなプレゼント。

「藍華ちゃん、アリスちゃん、私達アクアに抱き締められてるんだね」
『―――』

 クルクルと回る灯里。その言葉に、藍華もアリスも敵わないなと思う。素敵な言葉を言いたかった。灯里に負けないくらいに。こんな光景を見たのだ、恥ずかしい台詞も何もない。
 だというのに、藍華もアリスも出て来なかった言葉。この景色を表現したかった。どうにかして言葉にしてみたかった。だがどうしても普通以上の感想が限界で、これらを表す言葉が出て来なかった。
 だからこの時、藍華とアリスは灯里の言葉にとても満足すると同時に、そういう感じ方ができる灯里が心の底から羨ましかった。

「敵わないわ」
「まったくです」

 そう言って、二人は灯里を見る。心底楽しそうにそこら中を見て回っている灯里を見て、まるで宝石のような笑みを浮かべる灯里に、微笑むしかない。
 この蒼い世界は、確かにアクアだ。
 だが同時に、二人は灯里もそうなのではないかと感じていた。蒼い世界で宝石のような笑みを浮かべるあの子は、まるで本物の宝石であるアクアマリンみたいだと。




 たっぷりと鍾乳洞を楽しんだ三人が外に出た時には、時刻は夕刻になっていた。
 さすがにこれ以上遅くなると森は真っ暗になってしまう。とにかく急いで戻ろうと三人は森を抜けるために川を下って行った。暗くなっては、帰り道が判らなくなってしまう可能性まである。
 アリア社長も今度は急がずに、灯里の傍を歩き続けていた。
 そういえば洞窟の中には入って来なかったなと思いながら、灯里はきっと怖かったのかもしれないと思う。
 そうして、三人は小さなお土産を片手に、無事ゴンドラまで辿り着き、灯里はARIAカンパニーへ、アリスはオレンジぷらねっとへ、藍華は姫屋へと帰宅した。
 そしてアリシアが最後の仕事を終えて帰って来た時、灯里は今日の話をした。そのお土産である、光る苔を持って。

「まあ、まあまあまあ! 灯里ちゃん、すごいわ!」
「とっても綺麗なんです、アリシアさん!」

 電気を消して光る苔を見て、アリシアは今日の仕事の疲れが吹き飛んだかのようはしゃぎ、驚きに目を見開いた。灯里の話は本当で、このアクアにも凄い鍾乳洞があるという事を知る。
 だが人を連れて行くような場所ではなく、もちろん人に教えられる場所でもない。
 だから、灯里達はあそこを彼女達だけの秘密の場所にしようと思っていた。それになにより、場所が遠い。

「素敵ねぇ……光る苔なんて、初めて見たわ」

 どうしてあそこに鍾乳洞と呼べる洞窟があって、その中に光る苔があるのかは灯里には判らないし知らない。しかし現実、あそこに確かにソレは存在していて、灯里達に素敵な思い出をくれたのだ。それ以上でも以下でもなく、それが真実。
 だから、光る苔の正体も、あの島の事も、灯里は気にしない。

「その内、私も連れて行ってね」
「はひ! 私もアリシアさんや晃さん、アテナさんにも見せてあげたいです!」

 興奮冷めぬやら、灯里は声を荒げてアリシアに言う。蒼い淡い光に照らされる灯里は、本当に良い笑顔で話をしている。
 アリシアはそれを見れる事も幸せだし、こうして彼女のお土産話を聞くのも楽しいし嬉しい。しかし灯里は知らないがアリシアにはそれよりも心配ごとが一つだけあることを、灯里は知らない。

「灯里ちゃん」
「? はい?」

 とりわけ今日は良く喋る灯里は、アリシアに言葉を止められて一瞬固まる。だが次の瞬間、ギュッとアリシアに抱き締められていた。
 一瞬、何事と理解することができずに、灯里はパクパクと魚のように口を開いては閉じる。

「色々なところに冒険に行って、色々な物を見るのは良いわ。だけど必ず、無事に帰って来ること。それが絶対条件。灯里ちゃんは、素敵な事になると見境がないから、少し心配」
「アリシアさん……私そこまで見境ないですか?」
「うん。ちょっと」
「がぁーん」

 クスクスと笑うアリシア。だがそれは心から心配してくれているからの言葉だろう。確かにこうして光る苔なんて綺麗で、奇跡的に存在する物を見せてくれた。しかし話を聞けば少しばかり危なげな場所でもある。だからこそ、アリシアは少しだけ釘を刺したのだ。
 灯里はしばし自分の行動を考えてみる。もし自分に後輩が出来て、こういう苔を持ち帰って来たら、まず喜ぶ。それは間違いなくて、同時にどんな場所に行ったのか判らないので心配もする。なるほどと灯里は理解した。

「可愛い後輩の笑顔とお話が聞けるから、私は嬉しいの。だから灯里ちゃん、あまり無茶は駄目よ?」
「はひ。私も、アリシアさんにそこまで心配かけたくありません」
「わかればよろしい」
「……」
「……」

 抱き締められたままポンポンと背中を優しく叩かれて、灯里はんーっとアリシアの身体にくっついたまま固まる。あら? と離れない灯里に、疑問符を浮かべるアリシア。
 直後、灯里はアリシアに抱き付き返す。

「アリシアさんぬっくいです」
「あらあら」

 ギューッと抱き付いたまま離れない灯里に少し困惑した笑みを浮かべるアリシア。だが灯里を無理矢理引き離すとか、そんなことはしない。それを知っているのかどうかは判らないが、灯里は幸せそうな笑みを浮かべている。
 優しい先輩の、優しい言葉。
 この素晴らしいアクアという星で、様々な出会いや、色々な素敵な体験をして来た。今日の洞窟探検もその一つだ。
 しかしやはり、一番嬉しい出会いは、この人だった。

「私、ARIAカンパニーに入れて、アリシアさんに出会えて、凄く幸せ者です!」
「あらあら……ふふ。それじゃあ灯里ちゃん、今日のお話、もっと聞かせてもらおうかしら?」

 今日は泊って行くわ、なんていうアリシア。その頬が暗い部屋の中でも少し赤く見えたのは、きっと気の所為ではないだろう。
 灯里は元気良く答えて、わーひとアリシアから離れる。
 それから、数時間後。夜遅くまで、ARIAカンパニーの二階には少女達の笑い声が響いていた。


 ちなみにこの時、アリア社長はあまりにも疲れてとっくに二階で眠っていたりするのだった。





―――――――
どうも皆さまこんばんわ。
今日は暇でした。同時に最近仕事の休みが固まっていて暇な日が続いていました。
ついでに言えばスパロボZ2、グレンラガンのギガドリルブレイクの演出に思わず笑ってしまいました。
アニメまんまなんだもんw

さあ書いてしまいましたやってしまいました。
皆さん鍾乳洞とか洞窟、見た事あります?
自分はいくつか見た事があります。
その時、わたくしめは生意気な餓鬼んちょでした。
見たくも無いと父さんに喚いたものですw
しかしいざ行ってみて、その凄まじい光景に唖然としたのを覚えてます。
世界は凄いです。日本は狭いです。
鍾乳洞。あんまりにも凄い光景やら景色を見ると、言葉も出ない事があります。
今回はその三つの驚きを灯里たちにしてもらいました。
「うわー」っと声に出す喜び。
「ぇ――」っと目を疑う喜び。
「―――っ」っと息を呑む喜び。
驚き方にも色々ありますが、やはり息を呑む瞬間が一番大きいでしょうか?
ちなみに、多分オレンジがいくつも川に落ちても、水の味がオレンジになるなんてことはないかと(オイコラ
数十年、ずっとオレンジがあれば、もしかすればと思いこんな感じになりました。

世の中、苛々したりすると見えないですが、まったりのんびりした時ほど「お~」なんて思う事は多々あります。
時々車で散歩もといドライブに行く時がありますが、畑の中やら森の中やら走ると、とても気持ちの良い穏やかな気分になります。
そんな感じで、今回はこれを書いてみました。
というか、ARIAの小説を書き始めた最近ですが、実はこれが書きたくて練習的に書いてました。
皆さまの感想で自信を少し貰い、夕方6時頃から9時頃まで書き、微調整的な事をちまちまやってやっと完成です。

皆さまにも新たな発見をしてもらえれば、なんて思います。
ではでは! ヤルダバでした!



[27284] 温泉の島
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/04/27 21:56



「藍華ちゃん、アリスちゃん! 見てこれ!」
『はい?』
「にゅ?」

 唐突に灯里の声が上がった。
 時期は秋。時刻は正午。昼下がりの昼食後のちょっとした散歩の最中だった。
 カフェ・フロリアンでまったりと過ごした三人は店長に挨拶をしてから合同練習に戻ろうという、その最中である。
 灯里の声に二人と一匹が止まり、彼女の方を向く。そこに、とあるパンフレットを持って二人と一匹に見えるようにビシッと突き出す灯里の姿があった。

「日本の温泉ここに現る?」
「なんだかアニメちっくなタイトルですね」
「草津温泉だって! ねえ、行こうよ!」

 そこのパンフレットには「日本の最高の温泉! ついにネオ・ヴェネツィアに上陸!」なんて見出しがあった。ふむなるほどと、二人は考える。
 温泉という存在は、もちろんネオ・ヴェネツィアにも存在する。有名なところで言うならば屋敷の一階を丸ごと温泉にしてしまった名物温泉だろうか。だがその温泉は、ただの温泉。もちろん効能はあるだろうが詳しくは二人も憶えていない。
 しかし草津温泉と聞けば、地球にある日本の名物の一つだ。匂いは臭いらしいが、その効能は凄まじい物で、なんでも大きな物は皮膚病などの病、小さな物は擦り傷まで、なんでも治してしまうらしい。故に興味はあるし、気になる物でもある。
 悲しい事に、このネオ・ヴェネツィアどころかアクアにはそのような温泉は湧き出ていない。

「草津温泉っていうのはね、日本にも今は一ヶ所しかない温泉なんだ。予約がいつも一杯で入れないの」
「ってことは、あんたも入った事はないと」
「うん!」

 何故満面の笑みで答えるのか。それはもちろん、このネオ・ヴェネツィアにその温泉が来るからだろう。
 だがただ温泉が来るだけでは面白くないらしい。この草津温泉とやらを持って来ようという企画者は、どうやらネオ・ヴェネツィアが大好きなようで、レトロとハイテクを融合するという話もあるようだ。
 インタビューに答えているのは男性だろう。写真の横にそのインタビューの細かい話がある。

「なになに? ネオ・ヴェネツィアのアドリア海に人工島を置き、一週間の限定ツアーを開催。尚、この企画の手伝いをしてくださったARIAカンパニーには多大な感謝を込め――って、え?」
「へ?」
「お?」
「にゅ?」

 今、間違いなく聞き覚えのある名前があった。そう思い三人と一匹が目を擦り、見間違いではないかとマジマジとパンフレットを見つめる。
 そこには間違いなく、ARIAカンパニーの文字があった。

『……』

 しばしの沈黙。それからたっぷり数秒後。

『ぇぇえええええ!?』
「ぷぷいにゅー!?」

 三人と一匹の声がネオ・ヴェネツィアに響いた。




「あ、アリシアさん!」

 バァン! と勢い良く開いた扉。かなりの急ぎだったので勢い余って開いた扉はARIAカンパニーの壁に激突する。しかしそんな事は気にしない灯里は、パンフレットを持ったままアリシアへと近づく。

「あら、おかえり灯里ちゃん」
「ただいまです。ってそうじゃなくて!」

 灯里の様子に気付きながらもいつもの笑顔で迎えるアリシア。その笑顔に同じく笑顔になって答える灯里だが、フルフルと首を横に振る。
 そしてパンフレットをアリシアに見えるようにするのと、藍華とアリスが入って来るのはほぼ同時だった。

「あ、アリシアさん、これなんですけど!」
「ん? ……あら、あらあらまあ。本当にこの企画通ったのね」
「じゃ、じゃあやっぱりアリシアさんが?」
「この前のゴンドラ協会の会合でね、この話が出たの。そこで私が少し意見を述べただけなんだけど……」

 何にもしてないはずなのにインタビューで自社の名前が出ている事に、アリシアも驚いているようだ。しばしインタビューを読み、コクンと首を傾げる。

「あら、こんにちは藍華ちゃん、アリスちゃん」
『こんにちは』

 灯里と同じく肩で息をしている二人。三人とも大分急いで来た様子が良く判る。

「ARIAカンパニーには招待状を送る……って書いてあるわね」
「わ、私達入れるんでしょうか!?」
「多分?」

 パンフレットを再び見て、気になるところを言ってみる。その言葉にしっかりがっちり反応する灯里に、一瞬驚きながらもアリシアは微笑みながら首を傾げてみる。
 こういうパンフレットに書いてある場合、さすがに悪戯や冗談ではすまないだろう。まず間違いなく本当であることは間違いない。であれば、やはりフリーチケットなどが貰えるのだろうか。いやいや、さすがに値引き券など? 既に灯里の中では入れる事は決定事項。

「あ、灯里、落ち着いて」
「灯里先輩、凄い勢いでトリップしてますね」
「あらあら」

 ほわ~っと既に何かを夢見る少女になっている灯里に三人は苦笑いを浮かべる。
 とりあえず灯里を放って、アリシアはそうだと今朝届いていた手紙のいくつかを漁る。すると、その中に「ネオ・ヴェネツィア、草津温泉上陸企画部より」という手紙があることに気付く。
 このご時世に地球の人がメールではなく、わざわざ手紙を使っている事に僅か驚く。

「これだわ。かなり沢山チケットが入っているけれど……」

 取り出したのはチケットの入っている手紙。中の白い紙を見てみると、丁寧な字で「ARIAカンパニーの皆さまにこの度は多大な感謝を」と書かれている文章だけがある。

「……ちなみにアリシアさん、どんな意見を?」
「ん? んーっと……確か、ならネオ・ヴェネツィアに孤島を持って来て、そこに温泉を作ってはいかが? って言った記憶があるわ」

 本当に別に大したことは言っていない。何故多大な感謝をされ、更に無料招待券を6枚も用意してあるのか。首を傾げること数分、アリシアも灯里も、細かい事は気にしない事にした。

「招待されているんだもの、使わないともったいないわ」
「そうですね! 招待されたら行かないと! もちろん藍華ちゃんとアリスちゃんも行くよね!?」
『モチロン』

 灯里の言葉に即答する二人。その右手には親指がキラーンと立っていた。




 それから数日後。
 地球より飛来した人工島――その名も草津島はたった一週間のためだけに持って来られた。その移動の仕方は実にシンプル。巨大な宇宙航空便の中に入れて遠路遥々持って来たのだ。
 時刻は朝八時。良い時間である。波も高く無く、天候も晴れており、風も穏やか。「島」という巨大な物を降ろすには絶好の日だった。
 そしてなんと、「島」がネオ・ヴェネツィアにやってくるなんていうのはあり得ない事なので、その日は街を上げてのお祭り騒ぎ。ウンディーネ業界ではお客様には申し訳ないのだが、予約を入れていた人達の分は別の日に変更となり、どうしても今日でなくてはならないという人の分だけ、観光案内をする事になっていた。
 つまり――街を上げて本来の仕事は休んで、皆で温泉に行こうというのだ。地球ではありえない事を、平気でするのがこの街、ネオ・ヴェネツィアである。
 さすがに休んではまずいだろうという仕事、例えば郵便配達の場合は郵便物を回収し、速達分だけを配達して終わり次第終了。そんな感じだ。
 仕事はするが最低限の仕事でオッケーというわけだ。
 ちなみにARIAカンパニーには当日、予約は一件。一応事情を説明したところ、後日でも全然オッケーであり、その代わり草津島まで連れて行ってくれという話になり、決定。
 そう、草津島は人工島。それも巨大な船がアドリア海のど真ん中に降ろすのだ。
 大きさは幅500メートル、縦500メートルの超巨大な物。しかし温泉だけを入れる島なので重量も無ければ質量もほとんどない。言うなればフライパンを海に浮かせるようなものだ。

「す、凄いですアリシアさん。島が浮いてます」
「凄い光景ねぇ」

 さすがにこんな光景は見たことが無いため、アリア社長も含めその場に居る全員が唖然としていた。
 ちなみにそこに居るのは灯里とアリシア、アリア社長は当たり前だが、藍華、アリス、アテナ、晃のいつもの6人である。ちなみに藍華の手には姫社長。アリスの手にはマーくんが居る。
 全員呆然と見上げている。

「島の配達ってか?」
「配達っていうか……何?」
「でっかい物を、でっかい海に……」
「なんていうか、夢を見てるみたいね」

 それぞれの感想を、目の前の光景を見ながら言う面子。
 それもそうだろうが、上空には数百メートル級の巨大な宇宙艦がある。別に宇宙戦艦とかそういうわけではないし、母艦とかそういう仰々しい物でもない。ただ、巨大な物を運ぶための船なのだが、その大きさは圧巻であり、地球の最新技術の結晶とも言える船なのだ。だから、あまりに大きい所為で威圧感があるのは否めない。
 しかし、島は順調にゆっくりと降ろされている。海の上に降ろされる以上、船で行かねばならぬわけだが、ゴンドラを扱えるのは船を持つ人だけ。
 そこでウンディーネ協会に依頼が来て居た。シングルだけが集まってできるトラゲットを、渡し船として使用したいという考えと、幾人かのプリマに渡し船をしてほしいというもの。もちろん帰りも送る必要があるが、一度島に行った場合、夕方6時を過ぎない限り帰ってはならないという良く判らない条件があった。更には島に入る場合、入場時間は12時まで。条件付きである。
 おそらくは、その送り迎えのウンディーネ達にもしっかり楽しんで欲しいからなのだろうが。

「おー……」

 ゆっくりと降ろされた人工島、草津島。ただの温泉の為にどんだけの人件費と航宙費、更には様々な会社への依頼した際の契約金がかかっていることか。
 ちなみにARIAカンパニーは少人数すぎるので、今回のゴンドラ協会の「トラゲット」も「プリマの渡し船」にも参加しないことになっている。唯一送るのが元々予約で入っていたお客様だけである。つまり、お客様と一緒に草津島へ行くわけである。
 なんにせよ、灯里の顔はもうワクワクのドキドキで止まらない。いや、ワクワクもドキドキも越えて、今にもこの場ではっちゃけそうである。
 草津島から、湯煙が上がり始める。どうやら温泉を作り始めているようだ。
 さすがに地球から草津温泉そのものを持って来ることはできない。しかし今の技術ならば草津温泉と同じ物を作ることも可能である。だから、この企画者はこんな途轍もない事をやろうと計画したのだ。
 だが草津温泉――地球の神秘でもあり、日本の神秘でもある常に無菌の不思議な温泉。一説には火山の影響という話もあるが、そこまで勉強をしていないし調べてもいない灯里達には判らない。
 ただ単に温泉に入れる。それが重要なのである。

「ん~! 私ワクワクしてきました!」
「あらあら。灯里ちゃん、もう爆発しそうよ?」

 今すぐにでも飛び出したそうにウズウズしている灯里を見て、アリシアは笑顔のままそんな事を言う。その発言の理由はもちろん、アリシアも内心ウズウズしているのだった。
 藍華とアリスは灯里の反応に苦笑いし、アテナと晃はアリシア同様にウズウズしていた。
 ぶっちゃけ、全員今すぐに海に飛び出したいのだ。しかしさすがにあの巨大な島である。あんな物が降ろされた直後に海に出ては波に押し倒されてしまう。
 いかに軽い人工島とはいえ、島だ。他の島と比べれば軽いだけで、その重さは実に数百トンはある。しかも機械の塊でもあるのだから、重い方だ。
 現在ARIAカンパニーの二階から見ているのだが、波は結構高くなっている。しばし待たない限り船出はできそうにいない。なにより……草津島の準備がまだかかりそうだ。
 巨大な航宙船はゴウンゴウンとアクアから離れて行く。一週間後に戻ってくるのか、アクアの近くで滞在するのか。おそらくは後者だろう。さすがに地球に戻るには一週間では短すぎる。

「まだですかね」
「まだよ」

 ドキドキしている六人中、もう我慢できないというようにソワソワしている灯里。もうどうしようもない。
 アリシアはそんな灯里を軽く落ち着かせようとしているが、灯里に即発されてアリシアもソワソワしている。
 そんな二人を見て、可愛いなぁ、綺麗だなぁと思う数人が横に居た。

「あ、皆さんあそこ」
『ん?』

 アリスが不意に、空を指差した。そこには大きめな飛行船のようなものが飛んでおり、そこには電光掲示板が流れている。そこにはこう流れていた。

「草津温泉の準備完了致しました。波が収まり次第ネオ・ヴェネツィアの皆さまの歓迎を行いたいと思います」

 準備完了が随分速いなと思いながらも、波は次第に穏やかになって行く。
 もう、ネオ・ヴェネツィアが待つ必要は無くなった。マルコポーロの海岸線や、サン・マルコ広場の船乗り場付近から、早速数人のゴンドラが流れ始める。同時に至る所から洗われるゴンドラの数、数、数。どこにこんなにという程に、ゴンドラがわらわらとネオ・ヴェネツィアから出て来る。

「うわぁ……まるでゴンドラの海だね」
「っていうか……ゴンドラしかいないわね」
「この状況で出るのはちょっと危ないかしら」

 灯里の言葉に、呆れたような藍華の言葉。状況を見て出遅れたかしらというアリシアの言葉は、間違いないだろう。思いっきり出遅れている。
 さすがに危ないなと思いながらジーッと見ていると。しかし数が多いだけで皆しっかりとゆっくりまったり、焦らずに草津島へ向かっていた。やっぱり大丈夫かもと思いながらも、少しだけ待つことにする。

「一階に降りましょうか」
「はひ!」

 トントンと階段を降り始めるアリシア。灯里は彼女を追い掛けるように階段に向かう。その後ろをアリア社長が付いて行く。
 二階からでも見えた湯煙は、今や凄まじい勢いで上がっていた。

「煙が凄いわね」
「まるで霧の中に浮かぶ蜃気楼が本物になったみたい」
「恥ずかしい台詞禁止!」
「そもそも秋に蜃気楼は発生しません」
「冷静な突っ込みは辛いな、アリスちゃん」

 少しずーんとなりながら、アリスの強烈な突っ込みに苦笑いしかできない灯里。しかし小さなことなど気にしない。率直な感想がそう思ったのだから灯里にとってはそんな事は些細な問題だ。

「灯里ちゃん、私はお客様を待つから、先に行って良いわよ?」
「いいえ、お供します!」
「でも……」

 アリシアの提案を、しかし灯里は突っぱね様とする。もちろん、あの草津島とやらに到着を一緒にしたいからなのだが、アリシアはもう今すぐにでも、正直ゴンドラが無くても海の上を走ってでも行きそうな灯里のソワソワっぷりに、見ている方までもがドキドキワクワクしてしまうのだ。
 アリシアとて一緒に行きたいのは山々だが、いかんせんそこまで楽しみにしている可愛い後輩を、お客様とはいえこちらの都合で待たせるのも悪いかと思ったのだ。
 しかしながら、そんなアリシアの意図を汲み取ったのか、晃が灯里の肩に手をポンっと置く。

「アリシアがこう言ったんだ。灯里ちゃん、藍華、アリスちゃん、先に行って良いよ」
「私達はアリシアちゃんとお客様を待つから」

 名前を呼ばれた三人は顔を見合わせる。晃とアテナも先に行けと手をシッシと振る。
 そうなれば、ならばと動き出すのはやはり藍華だ。

「では、お言葉に甘えて!」
「行きましょう、灯里先輩!」
「え、え、ちょっとまって藍華ちゃん、アリスちゃん!」

 ちなみに、実に準備の良い六人は、とっくにお風呂セットの準備は済ませていた。藍華とアリスは灯里のゴンドラに置いておいたので、ゴンドラに乗り込むなり出発である。もちろん、アリア社長達も一緒に。

「灯里ちゃん、後でねー!」
「はーひ!」

 問答無用で動き出したゴンドラ。灯里は仕方なく先に行く事にする。アリシアの声に元気良く答えておいて、灯里は正面に浮かぶ巨大な人工島を見つめる。

「んん――――――っ!! ワクワクが止まらない!」
「落ち着いてください灯里先輩」
「全く、ワクワクドキドキモード全開にもほどがあるわよ」

 思わず叫んだ灯里に対して、アリスも自分のドキドキを抑えながらそんな事を言う。それを知っている藍華は苦笑しながら灯里の全開っぷりに突っ込みを入れる。

「でも、楽しみだよね!」
「はい、でっかい楽しみです」
「当たり前でしょ。楽しみじゃないはずがないわ」

 何せこんな出鱈目なイベントなのだ。楽しみじゃない人なんて居るはずがない。
 至る所から上陸できるようになっているようで、灯里達も適当に草津島に上陸する。昨日まで無かったはずのその島。いや、それどころか先ほどまで無かった島なのだ。なんだか不思議な気分になって、灯里はそこに立ちながらはふーと溜息を吐く。

「ん~、新しい島って、なんか不思議」
「不思議っていうか……凄いかな」
「これが全部お風呂……ネオ・ヴェネツィアの人全員入れそうですね」

 確かにと、アリスの言葉に二人は頷く。
 周りを見てみると、楽しみにしていた人々がゆっくりと建物に向かって歩いて行く。と言っても、建物は一件のみで、上陸するための場所以外は全てが巨大な塀で囲まれている。なんだか城塞のような物々しさがあるが、お風呂なのだから当然といえば当然かもしれない。
 覗き見対策というところだろう。
 三人は建物に向かい、歩きだす。真新しい芝生は、靴越しに軟らかい感触がした。これらが全て人工とは到底思えない。芝生は人工芝生だろうが、それでもしっかりと緑を豊かに見せるその心は、見逃せない評価の一つだろうか。

「いらっしゃいませ。草津温泉へようこそ」

 そう言ってお姉さん二人が巨大な門の前で出迎えてくれる。本当にお城かと思ってしまうほどに大型の門は、しかし中を見てみれば以外にも大きめなロビーのようだ。
 どうやらロビーでお金を払い、中に入るらしい。お値段は高くもなく低くもなく。誰もが入れる値段でリーズナブル。更にタオルやシャンプー、石鹸などなどは必要ならば付けるとまで至り尽くせりである。更にマッサージエリアにアロマエリアなんかもある。

「な、なんか高級エステに来た気分だね」
「エステ……って?」
「地球で言う美容の味方ですね」

 灯里の言葉に、聞き慣れない言葉を聞いた藍華は首を傾げる。それにアリスが助け船を出すが、結局良く判らない。もちろん美容や身体のラインなど、女の子ならば気にしてしまう物は三人とて気にしている。だがそれでも、エステというものにはあまり興味が無く、見もせずにスルーしていた。
 ならば――今日はそのエステとやらを存分に満喫しようではないかと、三人はニヤリと笑う。

「あ、灯里先輩。ARIAカンパニーの方はこちらへって」
「ほへ?」

 ロビーで人々が並ぶ中、確かに一ヶ所だけそんな看板を掲げたまま立っている女性と男性が居る。灯里は一応チケットを取り出してその二人の元に歩いて行く。
 すると、二人の従業員はビシッと身嗜みを正し直立不動した。その行為に、ビクッと灯里が振るえる。

「お待ちしておりました、ARIAカンパニーの水無灯里さん、アリア社長様」
「そしてお友達の皆さまですね。では、どうぞこちらへ」

 そう言って開かれた場所は、他の人達とは違う道。なんだか悪い気がしながらも、どうぞどうぞと連れ込まれる三人と三匹。アリア社長も、姫社長も、マー社長も、なんとも言い難い雰囲気を出している。
 三人が入れられた部屋は、大きくもなければ小さくもない。そして見た所脱衣所という感じでもない。

「なに?」
「でっかい怪しいです」
「ふむ……嫌な予感」

 部屋の向こうで騒がしいロビーとは違い、異様に静かな部屋。こんな状況では不安になるなと言う方が無理だというものだ。
 しかしながら、灯里達の前に一人の男性が現れる。

「どうも初めまして。わたくし、今回この草津温泉ネオ・ヴェネツィア上陸企画を担当した者です」
『ど、どうも初めまして』
「はっはっは。そう硬くならないでください。ARIAカンパニーの灯里さん」
「わ、私の名前……」

 名乗ってもいないのに何故? とも思うが、企画担当者ということはこの企画の最高責任者ということになる。ということはARIAカンパニーとなんらかの繋がりがあるはずなので、灯里は首を傾げながらもどこかで聞いたのだろうと思う。
 しかし、男性は少し困ったという顔をした。

「おや、思い出して貰えないですか。私、数ヶ月前に灯里さん、あなたのゴンドラに乗ってるんですけど」
「ええー!? ど、どうしよう思い出せない……」
「ふふふ。いえ申し訳ない。さすがに沢山の人を乗せているのですから、私一人憶えていないのも無理はないでしょう」
「す、すみません。えーっと、えーっと……」

 黒い髪の毛。セミロングとまではいかないがそこそこに長い。黒縁のメガネとスーツ。しかし考えても考えても、思い出せない。んーっと考えていると、そういえば髪の毛の短い男性が、アリシアとの練習中にとある場所に連れて行って欲しいと言われて連れて行った記憶があるのを思い出す。
 その男性は絵が描きたいと言い、アドリア海のど真ん中に移動して、ネオ・ヴェネツィアを横一面に広げられる場所で絵を書いたのだ。揺れる船の上だというのに、である。

「私、あなたの言葉に驚いたのですよ。「このオレンジの光の中にあるネオ・ヴェネツィアはまるで夢幻のようで消えてしいそう、だから綺麗に描いてあげてください」と。そこまで街一つを愛せるあなたの言葉に、私いたく関心しまして、共に納得もしました。だからウンディーネという職業ができるのだと」
「……あ、ああー! もしかしてあの時の絵描きさん!?」
「そうです、思い出していただけましたか!?」
「はい! できたんですか、あの絵?」
「ええ、もちろん。確かに美しく、綺麗な世界。ゲットさせて頂きました」

 そう言って、男性はこちらへと優雅に三人を誘う。二人は頭の上に?マークを浮かべたまま灯里と男性の後ろを歩いて行くことしかできない。アリア社長すら疑問符を浮かべている。

「さあ、ご覧ください。あなたの心に負けないように、頑張って描き上げた私の最高作品!」

 辿り着いたのは大きな扉。その扉が開かれたその先にあったのは、巨大な絵画。そこには、長い髪の毛を持ったウンディーネの女性が、夕焼けのネオ・ヴェネツィアをバックに立っている絵画だ。しかしながらその女性、どっからどう見ても、灯里である。
 水無灯里本人の、満面の笑みがそこにある。

「………………ほへ?」
「あ、灯里だ……」
「灯里先輩……ですね」

 あまりにも綺麗な絵画。そのモデルはどう見ても灯里で、夕焼けに照らされる彼女はあまりにも美しい。

「水無灯里さん! 私はあなたに感謝しているのです! この美しいアクアの星を、本気で美しいと思える瞬間を与えてくださったあなたに!」
「お、大袈裟な」
「大袈裟なものですかっ! 故に、今回アリシア・フローレンス女史が提案された「島に温泉」という言葉を聞いた瞬間に閃いたのです! 灯里さん、あなたへの感謝の気持ちはこの草津温泉でお返ししようと!」

 全力全開で叫ぶ男性に、藍華とアリスはただただ見ていることしかできない。そして灯里は顔を真っ赤にしたまま巨大な絵画を見ている。自分そっくりの、夕焼けの中に佇む女性。
 だがとりあえず、藍華とアリスは理解した。――ああ、そう言う事かと。

「で、何故温泉?」
「灯里さんが温泉の話を熱く語られていたからです!」
「納得しました」

 藍華の問いに即答する男性。それだけであっさり理解したアリスはその時点でシャットダウンさせる。

「藍華先輩、これはもしや」
「ええ、判ってるわ後輩ちゃん。おそらくは私達の考えている通りよ」

 灯里と男性から少し距離を取り、藍華とアリスはこそこそと話す。
 そんな二人をしばし遠目に見ながら、灯里はボケーッとその絵画を見ていた。そうして、不意に口を開く。

「まるで、伝説の楽園と呼ばれる黄金郷みたい」
「っ!? 黄金……なるほど、そのような考え方もあるのですね」
「……ところで、そろそろ開店にしなくて良いんですか?」
「はっ! しまった時間が過ぎている! 開店だ! お客様を待たすな!」
『オープンします!』

 どこからともなく取り出したインカムに向かって、男性が叫ぶ。同時にインカムの向こうからまだーという声が聞こえて来ていた。そして開かれる巨大な門。もちろん男湯女湯に別れている。
 灯里、藍華、アリスの居る場所の扉は閉められ、男性も共に中に入る。

「ふう、お見苦しいところをお見せしました」
「いえいえ」

 ニコニコとしている灯里。男性はメガネを少し持ち上げて、頬を赤く染めたまま固まっている。

「あ、藍華先輩、これはもしや」
「シッ! 後輩ちゃん、ここは見守るべきところよ!」

 何時の間にやら隠れるようにしている二人。とはいえ灯里から少しばかり離れているだけだが。

「水無灯里さん」
「はい?」
「今回のこの企画は、確かにあなたへの感謝の気持ちです。ですが同時に、私はこのアクアという星を好きになりたい。そしてネオ・ヴェネツィアの人々と仲良くなりたいのです。これはその第一歩」
「そのお気持ちはとっても嬉しいです。ありがとうございます」

 なんだかだんだんと改まった態勢になり、男性は言葉を伸ばすように喋る。灯里はそれに対して心からの感謝を込めて答える。
 じれったいと思う影が、二人。

「人は美しいと思える物を美しいと思う。それは誰もが感じる感覚ですが、見慣れた物を美しいと思える人は滅多にいません。あなたは常日頃、新しい発見をされているようだ。ネオ・ヴェネツィアは、あなたにとって素敵な街ですね」
「はい。私にとって、ネオ・ヴェネツィアは唯一無二の存在です」

 そうして、男性はにこやかな笑顔を浮かべて、満足したように頷いた。

「では、灯里さん。あなたへの感謝はこの辺にして、たっぷりと楽しんでいってください」
「はひ、思いっきり!」

 灯里は笑顔で答える。その顔が少し紅潮しているのは気の所為ではないだろう。先ほどの絵画がそうさせているのだろうが、恥ずかしいとかそういうのを通り越して、嬉しすぎて赤い、というのが今の灯里には合っているだろう。
 藍華とアリスはおや? っと首を傾げるが、男性はそこの扉から女性更衣室に入れますと教えてからスタスタと歩き去る。

「あれ……告白とかないのかしら」
「おかしいですね……灯里先輩にでっかいゾッコンだと思ったのですが」

 どうやら、二人の乙女の勘は外れたようだ。
 しかし元よりそんな甘酸っぱい事すらも気にしていなかった灯里は、女子更衣室への扉へ。
 二人は灯里の後に付いて行って、「まいっか」と苦笑した。

「楽しもうよ藍華ちゃん、アリスちゃん!」
『もちろん!』

 開かれた更衣室からは、既に草津温泉の独特の匂いが漂っていた。




「はぁー……」

 極楽とはこのことを言うのだろうと、灯里は思う。
 超巨大な温泉。温泉のための島。実は草津島は日本にあるありとあらゆる温泉を再現しているらしく、草津温泉はその一部だった。北は北海道から南は沖縄まで、名所だった温泉の名を掲げたお風呂がいくつもあった。だからこその、500メートルなんていう規格外の大きさなのだ。
 とある昔のロボットアニメなどを見ると、そのロボットが15メートルとかなのだから、その大きさは計り知れない。人間って凄い物を作る時は凄い事をするんだなと、灯里は思う。

「きもちぃいー」

 現在、灯里は一人でまったりと草津温泉に身を委ねていた。白く濁ったお湯。その匂いは臭く、硫黄と呼ばれる火山近くによく発生すると言われる臭いだ。曰く、卵が腐ったような臭い。
 しかしそんな臭いなど灯里の障害には当然ならない。この白いお湯に浸かる為のちょっとした我慢だ。

「白いお湯に入れば、極楽天国……んー、臭いけど、なんだか不思議に気持ち良い」
「うん、とっても気持ち良いわね」
「はひ!? アリシアさん、いつからそこに!」
「ちょっと前から」

 まったりモード半分全開になりそうになりながら、灯里は唐突に現れたアリシアにビクッと反応する。
 ちなみにこの温泉にはタオルは付けないようにと書かれているので、灯里は少し沈み込む。アリシアは少し恥ずかしがり屋な灯里を見てクスクスと笑う。

「ところであの絵画……灯里ちゃんよね?」
「あ、はい……恥ずかしながら」
「あのシチュエーション、どこかで……」
「私が乗せたお客様が、この温泉の島の企画者だったんです」
「……そんなお偉いさんを乗せたことあったかしら?」

 んー? と首を傾げるアリシア。しかし思い出せないようでしばし沈黙した後、まあいいかと温泉に更に深く浸かる。
 どうやらネオ・ヴェネツィアの人にはこの草津温泉の匂いは少々きついらしい。入っている人はそんなにおらず、他の人はラベンダーやカモミールと言ったアロマ温泉、もしくは別の温泉に行ってしまっている。
 ほとんど、草津温泉付近は灯里とアリシアの二人の貸し切り状態。

「まあ……なんでしょう。この気持ち良い温泉に入れるなら、細かい事は気にしません」
「あらあら……そうねぇ」

 はふーと二人して溜息を吐く。この二人の場合、幸せが逃げると言われる溜息も、あまりにも溜め込み過ぎた幸せを放出しているというような感じに見える。
 まったりゆったり、白い水面に揺られる蒼い空。おそらく温泉の温度は38度前後。しばし長い間浸かっていられるような適温だ。高すぎると入れない人も居るからなのだろう。温度が低いと言う人はしばらく我慢すれば問題は無い。

「んにゃー……」
「あらあら灯里ちゃん、にゃんこさんになってるわよ」
「えへへ」

 もはやふにゃふにゃになっている灯里。しかしアリシアも似たようなもので、かなりふにゃりとした顔をしている。二人ともまったりモード全開である。

「あー、アリシアさん」
「んー?」

 灯里は四方を見渡して、囲まれているこの孤島を見る。不意に、実は世界はここだけしかないのではないかと錯覚してしまう。

「私達なんだか、素敵な小さな島に迷い込んだみたいですねー」
「んー」
「温泉が沢山あって、お腹が空いたらお菓子も食べれる」
「んー」
「小さな楽園――これがホントのネバーランド」
「うん、ここは温泉のネバーランド。きっと世の中には、もっと素敵なネバーランドが存在しているかもね」
「はひ。人が作った物でも、自然の物でも、素敵ならなんでもオッケーです」

 ニコニコまったり笑顔の二人。
 小さな楽園。500メートル四方しかない世界は、確かにそうだろう。
 外に出ればまたいつもの世界があるが、今はこの世界のみ。それがなんだか不思議で、灯里は温泉のネバーランドに迷い込んだ気分になっていた。
 何時の間にか、何時からか。もちろん自分達がここに来てからだが――この巨大な奇跡は、灯里の想いが元に作られている。
 巨大な絵画を見て、あまりにも美人に描かれている自分に少し恥ずかしがりながら、灯里は思考回路を止める。
 今はまったりゆったり、この温泉に浸かっていよう。
 細かいことは――気にしない。
 今は、この暖かい温泉に浸かりながら、秋の涼しい風を頬に感じて、澄んだ蒼い空を眺め、白い雲を観察し、光を放つ太陽を感じよう。ただそれだけで、十分。

「人工物と自然界に、サンドイッチ……摩訶不思議」

 ぽそりと呟いた灯里の言葉は、誰にも聞こえなかった。



 それから一週間。
 企画部担当の男性はARIAカンパニーに企画の元となった灯里への感謝をしにARIAカンパニーに再び現れる。
 男性は、実のところどこかのお偉いさんとか、どこかのおぼっちゃまとか、そういう人ではなかった。そう、彼の正体はただのプロのアーティスト。それも絵描きだったのだ。なるほど、あのネオ・ヴェネツィアをバックにした灯里の絵は彼が描いたものだったわけだ。
 今の今まで描かれた絵は全てが博物館レベル。飾られた数は実に数百枚を超えるといい、彼の描いた絵はなんと数十万から数百万で取引される。しかしそんな彼もスランプに陥り、どうしても絵が描けなくなってしまったという。
 そんな彼が灯里に出会ったのは、彼女がシングルになってから間もない頃だったらしい。灯里はなんとか思い出せたが、アリシアは正直思い出せなかったらしい。
 それほどまでに些細な出来事。しかし二人にとって些細な出来事でも、彼にとってはとても大きなことだったようだ。それにより、スランプを脱出。世界の新しい見方を知ったとのこと。
 故に、ゴンドラ協会に何か企画をということで、話をした。そこでアリシアから「温泉の島」というまず考え付かない考えを聞き、これだと思ったのだ。
 なにより、彼も温泉が好きであり、灯里も温泉が好きであり、二人は一時温泉の話で盛り上がったのだから。
 感謝するならば、でっかくしたいと、彼の突拍子もない考えからできたのが、この一週間の出鱈目な企画だったのだ。
 その費用はおそらく、考えるのもバカらしく、凡人には出せる物ではないことは間違いない。だが売り上げた金額もまた途方もない数字だろう。
 何せ、一週間ずーっと人が絶える事は無かったのだから。

「行っちゃいましたね」
「ええ、そうね」

 全てが終わった一週間。
 温泉の島とネオ・ヴェネツィアの人々にも好かれた孤島は、今はもうその姿はアドリア海にはない。元々そこには無かった島だが、あの大きさの物が一週間もあると随分と寂しい物がある。
 何も無くなったアドリア海。しかし、この場所には灯里だけではなく、ネオ・ヴェネツィアの人々全員が愛してやまない水の都を水の都たらしめる物である以上、やはりそこに大きな島があってはならない。
 アリシアとアリア社長と一緒に、ARIAカンパニーから見る夕焼け。
 そこにもう島は無いが、代わりに黄金の海がそこにはある。

「温泉の島も良かったけど……やっぱり私は、この景色の方が好きです」
「うん、実は私もそう」

 殺風景かもしれない。水平線の上に小さな島がポツポツある寂しい光景かもしれない。空に浮かぶ雲を見るくらいしかできないかもしれない。太陽の光を見つめる事くらいしかできないかもしれない。
 だけど――灯里は頬に触れる優しい海風が好きで、この何も無い景色が好きで、そして朝は蒼い海となり、夕方になれば黄金の海になり、夜には月光の海となる。様々な顔を見せるこのアドリア海が、好きなのだ。
 例え雲を眺めることしかできなくても、太陽の光を見つめる事くらいしかできなくても、ゆったりのんびり、それが出来るのであればどれだけ幸せか。

「アリシアさん」
「なぁに? 灯里ちゃん」
「黄金の海も、オレンジの空も良いですけど――私は、この素敵な光を放つネオ・ヴェネツィアも大好きです」

 そう、灯里が言った瞬間だった。僅かに波が高くなり、水飛沫が上がる。その水の粒は風に運ばれて空へと登る。すると水の粒は光を放ち、まるでプリズムのように光り輝き――水の粒は、ネオ・ヴェネツィアに虹を生み出す。

「色々な光を放つネオ・ヴェネツィアは、今日も絶好調ですね」
「灯里ちゃんの幸せ探しも、絶好調ね」
「……っ、はひ!」

 アリシアの笑顔と同時に、灯里は一瞬ドキッとする。しかし直ぐに満面の笑顔を浮かべた時には、彼女はいつもの元気な声を上げた。
 幸せの達人は、今日も絶好調である。






――――――――――――
どうもこんばんわ。ヤルダバです。
仕事が終わり次第書くと言う事をしていたら結構時間かかりましたw
やはり小説は難しい……そしてARIAが難しい。
今回は「まずないだろそんなの」という事をしたかったのでやってもらいました。
温泉の島……やりすぎですね。
ちょっと突拍子もない事をと思ったらとんでもないことにw
そして今回は特に灯里達の言葉もあまりなく……ちょいとARIAじゃない感じになってしまいました。
ARIAの雰囲気は壊したくなかったんですけど……んー。

ちなみに温泉の話を書いたのは、温泉に行ったから(ぉ
そして草津温泉のお湯に浸かったから(ぁ
いやぁ、気持ち良かった。
温泉って素晴らしいですね。まったりのんびりできます、本当に。
疲れも取れる、気分も安らぐ。良い事しかないなぁ。
ん~、やっぱ温泉に入ってる全員を書くべきだったかなぁ。
灯里ばっかりに行ってしまった気がする。あとアリシア。
この失敗を次の糧に!

ところで実は他の方のARIAをちゃっかり読み、オリジナルキャラを入れている作品を見て、オリキャラを作ってみたところ……駄目でした。
どうしてもARIAの雰囲気壊れますw
わたくしは灯里で楽しみますw
ではでは。

そして他の方々も頑張ってください!



[27284] 没ネタ1
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/04/28 01:17
どうもヤルダバです。
書いてはみたけど「なんかな?」と思った物です。
灯里と晃の二人だけの話ですね。
かなり短いのでさすがにどうかなって思ってしまい、没にしたものです。
でも書いたからもったいないかなと思う貧乏性なワタクシヤルダバーは、こんなものすらも投稿させてもらっちゃいます。
……投稿させていただきますので、よろしくお願いします^^;

ではでは、どうぞ。











 春。陽気が気持ちの良い時期。
 気温はだいたい20度前後。とても過ごし易く、とても気持ちの良い温度だ。暑くも無く涼しくも無く、どちらかと言えばちょっぴり暑め。
 冬に比べて人が多く動き、同時に観光のお客さんも段々と来るようになる。
 しかし――本日、水無灯里はポカポカとした陽気の中、一人プリマへの練習中、一休憩していると思わずまどろむ瞼と格闘していた。動いていないと眠ってしまう。しかし休憩くらいはしたいので動きを止めてしまう。するとポカポカでホカホカの暖かい太陽の光は、人間に睡魔という悪魔を送り込んで来る天敵となる。
 とはいえ誰一人として、その睡魔に逆らえず、同時に太陽を憎むことはない。気持ち良くなって寝てしまうほうが悪いからだ。
「はぁー」
 少し息を吸い、それを吐き出す。小さな深呼吸をして、灯里は空を見上げる。ゴンドラは他のゴンドラの通行の邪魔にならないよう、メインストリートの端っこに止めてある。
 人々が行き気する往来の中、ゴンドラの上でまどろむ灯里。中々に肝が据わっている。
「すわっ! 灯里ちゃん、こんなところで何をしてる!」
「はひ!? 晃さん!?」
 ビクリと肩を震わせて、灯里は唐突に聞こえた声に慌てて振り返る。そこには腕を組み、仁王立ちをした黒髪の女性が立っていた。姫屋の晃・E・フェラーリである。
「ああ、その、と、とても良いお天気ですね」
「うむ。凄く気持ちの良い天気だ。それで、灯里ちゃんはここで寝ようとしてたね?」
「ええと……はい」
 空をちょっと見上げて、灯里の言葉に晃は同意する。
 うたた寝注意報を発令をしていたにもかかわらず、灯里はうつらうつらとしていた。それが晃に見つかったのは偶然だが、灯里とて眠りたいわけではなかった。ので、少しの弁解をしようとしたが、晃はよっこらしょと灯里のゴンドラに乗り込んで来る。
 そしてそのままゴンドラにある小さなソファーに座り込んで、ふぅと一息。
「…………」
「…………」
 静かな沈黙が流れる。
 どうやら、晃は別に灯里を叱るわけでも、怒るわけでもなく、ただ知り合いに出会ったからこうして乗って来たようだ。
 風が吹くと、海の潮が乗ってひんやり冷たい。しかし上空からの暖かい光は頬に付いたそれを一瞬で蒸発させる。この位置は、特にゴンドラやボートが通る場所なので水飛沫が立ち易く、風に潮が乗り易い。そのため非常に気持ちが良いのだ。おそらくは陸の上で寝転がるよりも更に気持ちが良い。
「……今日は珍しくフリーな時間が出来たんだ。お客様からの連絡で、とある事情でキャンセルになってな。そこで散歩していたら灯里ちゃんを見つけたんだ」
「なるほど、そうだったんですか」
「……アリア社長は一緒じゃないの?」
「今日は猫好きのお客様のご指名で」
「ああ、なるほど」
 灯里はまーったりとしながらも、ふと脇に置いてある水筒を思い出す。ゴソゴソと荷物の中を物色しながら、晃さんの観光案内をキャンセルしてしまうなんて、相当の事情があったんだろうなと灯里は思いながら、コップと水筒を取り出す。
 そして晃にコップを一つ渡して、灯里は自分特製の紅茶を差し出す。
「……これは、薔薇の匂い?」
「はひ。ローズヒップの紅茶です」
 人肌ほどのぬくい温度で水筒に入れていたそれは、良い匂いを漂わせる。晃はほほうと言いながら素直に受け取り、それを一口。薔薇の香りと、ほんのり甘酸っぱい味が口の中に広がり、春なのに薔薇とはこれいかにと思いながらも、その丁度いい味に心の中で大きな花丸を灯里にあげていた。
 そんな晃の小さな驚きは放って、灯里もコクコクと飲む。はふーと、短い溜息。
 こんな人波の多い水上で、まったりモード全開である。
「……なあ灯里ちゃん、道行く人に思いっきり見られてるぞ?」
「はいー。けど色々な人が通って、色々な船やゴンドラが通っているのを、私も見ています。――ああ、ネオ・ヴェネツィアは今日も大忙しさんなんだなって思いながら観察しています。だから、お互いさまなので気にしません」
 灯里は正面を見て、白いボート、黒と白のゴンドラ、道行く人々の服のカラフルな色。その行っては戻ってを繰り返す人波を見て、灯里はネオ・ヴェネツィアは今日も元気一杯の人々で賑わっているのだと満足気に微笑む。それ故に、こうしてここでまったりしていれば、逆に誰かに見られるのは当然というわけだ。
「確かに、大忙しで……お互いさまだな」
「はひ。それに――ここ、とても気持ち良いので人の視線なんてへっちゃらぽんです」
 街並みを観察するように見ているのだから、見られるのは当然であるという考え。お互いに見ているのだから気にすることはないというが、普通の人ならばおそらくは気にするだろう。不思議な考え方をする灯里だが、それが灯里にとっての普通なのだった。
 ただし、それはこの場に止まって良い場所だから。通行の邪魔にならない場所だからこそ、灯里もまったりしているのだ。さすがに灯里とてそんな理由で止めてはならない場所に止めるなんてことはしない。
 晃もここなら長時間止めていても大丈夫な場所であることを知っているので、深くは追求しないし言わない。なにより、こんな場所でも楽しめてしまう灯里に苦笑すら出る。
「ようし、なら灯里ちゃん。私と一緒に、春を見に行こうか?」
「え?」
 そんな提案がまさか晃から来るとは思っていなかった灯里は、口を開けたまま固まる。ぼけっと、固まる。
 晃はクックックと笑い、足を組んで、手を組んで、ニヤッと笑う。
「灯里ちゃんに私のとっておきを、お見せしよう」
「とっておき! 見たいです!」
 灯里は水筒をしまい、コップを受け取りゴミ袋にしまい、素早くオールを持ってゴンドラに立つ。そしてすぐさま移動開始である。晃との会話で、眠気はほとんどないのでオール捌きに心配はなかった。
「灯里ちゃん、向かうはあっちだ」
 そう言って晃が指を指したのは、ネオ・ヴェネツィアから離れる方角だった。しかしそんな些細な事は、もはや晃の「とっておき」宣言の正体を見たいと心をときめかす灯里にはなんの障害にもならなかった。



 辿り着いたのは、温泉。それもそこまで大きくはないが、どうやら前に藍華やアリスと共に行った場所とも少し違うようだ。
 灯里はドキドキワクワクしながら、ゴンドラをパリ―ナに括り付けてから晃と共に上陸。
 春を見る――そういえば、去年くらいにアリシアとも春を探しに出掛けたなと、灯里は思い出す。
「さあ、入るぞ」
「あ、でもタオルとか……」
「いらんいらん。ここではそれらの道具を全て貸してくれるんだ」
 へぇーと答えつつ、灯里は晃の後ろを付いて行く。
温泉の建物の中に入ると、まだ昼間だというのに人はまばらに居る。晃が店のおばちゃんと話をして、チケットらしきものを二枚。
「ここはな、アリシアとアテナ、それと私の三人の秘密の場所なんだ。ネオ・ヴェネツィアに住んでいても、ここには来ないからな」
「そうなんですか」
「そしてここは観光案内の本や、雑誌にすら乗らない隠れた名店。知る人ぞ知るってわけだ」
「そ、そんな秘密の場所に、良いんでしょうか私」
 畏れ多いなんて言いながら灯里がアワアワし始めるので、晃は苦笑いしながら彼女を背中から押す。気にするなと。
 そうして入った脱衣所で、さっさと服を脱ぐ晃。凄い綺麗なボディラインに少し見とれながら、灯里は一瞬の逡巡後に同じく服を脱ぎ出す。
「灯里ちゃん、入ると同時に、我が目を疑うよ?」
「え?」
 それ以上の言葉は不要とばかりに、晃は借りたタオルを身体に巻き付け、出入り口へ。
 灯里も慌てて服を脱いで、二枚のタオルの内一枚を身体に巻き付けて晃の後を追う。良く良く見れば、脱衣所の中には人がいない。
 さすがに、この時間は人が少ないようだ。
「さあ、行くよ?」
 ガラガラーっと、ガラスの戸が開く。
開かれたその先には、湯気の上がる温水――ではなく、桜の絨毯が、そこにはあった。
「う、うわー! うわー!」
「あはっはっはっは! 良い反応!」
 灯里の驚きに見開かれた瞳。声を上げて心底驚いてますという反応。驚かす為に連れて来たのだから、これくらいのリアクションは欲しい。そしてそのリアクションは晃を十分に満足させられるほどの、大きなリアクションだった。
 しかし、灯里にとってそれは純粋に驚いての反応。
 本来は温水があるはずであるお湯は全てが桜に埋め尽くされ、露天風呂と呼ばれる外に造られた温泉の上には桜の天井が存在していた。
「桜に挟まれてます! 世界がピンク一色です!」
 去年くらいだろうか。アリシアと共に見た電車の中の桜の絨毯と、桜の天井――あれよりは小さいとはいえ、数が大幅に多い桜の木の数。
 あれが壮大で威厳ある一本なら、これは迫力ある大群である。
「この時期になると、この温泉の周囲にある桜の木が一気に満開になるんだ。今日私がフリーになったのは偶然だから、灯里ちゃんは運が良い」
「晃さん、ありがとうございます!」
 灯里の満面の笑みは、桜に負けないほどに綺麗だったと、晃は思う。
「純粋にそこまで喜んでくれると、連れて来た甲斐があったよ」
 クスクス笑いながら、晃は良かった良かったと呟きながら温泉に入る。
 灯里もその後に続き温泉に入ろうとするが、その前にと足の指先だけで水面――というよりも、桜の絨毯に触れてみる。ふわふわと軟らかな桜の感触が、指先に触れてくすぐられるような気持ちになる。
 足の裏をゆっくりと付ければ、とってもこそばゆい。そうして足を温水の中に入れてみれば、まるでどうぞと言わんばかりに水面に出来た波紋によって桜の花が灯里を中心に離れて広がって行く。
「あはっ」
 それが楽しくて、灯里はゆっくりと桜の絨毯の中を歩く。膝に当たる感触はとても軟らかく、ひっついた桜の花はやっぱりくすぐったい。桜の木の下まで移動して、灯里はそこに腰を降ろす。
 春を連想すると、思い浮かぶのはポカポカの陽気と、活気溢れる人々と、心を穏やかにしてくれる桜の木。その内の一つ、桜の花びらが、今灯里の目の前で絨毯と、天井と、空間すらも一色に埋め尽くしている。
「綺麗で――暖かくて――とっても素敵」
 そう小さく呟くと、灯里の背後に晃が現れる。彼女もまた笑みを浮かべて、その桜の木を見上げて、灯里に問い掛ける。
「ふふ……それでは?」
「はひ!」
 力強く頷いて、灯里は両手を広げて――一言。
『春、みぃーつけた!』
 晃と共に、今年の春を見ることができた。それも、桜の大群である。
 晃という女性の新たな一面を垣間見れた事もあり、灯里はそんな細かいことは全く、何一つ、気にすることはなかった。







 ちなみに彼女らの隣では。

「ぁぁあー、いいなぁ、こんなのないなぁ」
「いやぁー、こうなんだ。肌からこう染み込んで来る感じだね」
「五臓六腑に染み渡るね」
「オヤジか。しかし言いたい事は判る。魂が振るえるからな」
「更に進化しそうになるね」
「魂が震えながら五臓六腑に染み渡り進化しそうになる温泉ってどんなだ」
「いやいや、そりゃおまえ」
『ハイパー気持ち良いということさ』
「なんなのお前ら」

 男の青年達が良く判らない会話をしていた。



[27284]
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/04/29 08:18

 朝、灯里は速い時間に目が覚めた。
 まどろむ瞳にまだ昇りきっていない淡い太陽の光が当たり、それだけでも眩しさに瞳は更に細くなる。しかし次第に慣れて来ると、灯里はひょいっとベッドの上から窓の外を眺める。
 夏の朝。昼間は日影にいないとあまりの暑さに倒れそうになってしまうが、この時間帯は暖かい。布団の中に入っているかのようなその暖かさは、まるで世界中がお昼寝のための大きなベッドだ。だって、きっとどんなところに居ようとも、例えゴンドラの上であろうとも眠れるだろうから。
 灯里はベッドから降りて、下着とも言える恰好のまま寝ぼけ眼で階段を降りて行く。
 一階の洗面所で顔を洗い、少しだけ覚醒する頭。

「……なんで眠いのに動いちゃうんだろ」

 仮にも毎日、藍華やアリスと合同練習を繰り返していて、結構身体には疲れがあるはずだ。そのため眠ればだいたいARIAカンパニーの朝、8時頃には目が覚める。しかし、今日は何故か目覚めてしまう速い朝。別に速く起きたからやりたいことはないし、やりたい事があって起きたわけでもない。
 灯里は少し考えて、しかし回らない頭は何を考えたのかARIAカンパニーの外へ。
 そのままベランダでぼーっと立ったまま、海を眺める。
 太陽の昇らない、しかし近くまで来ているのか空は明るい。暗い夜の空が、追いやられるように蒼くなりはじめている。黒かった雲も白くなり、海もその色を変えて行く。
 灯里はそんな光景を見て、にへらーっと笑い始める。

「黒から白に塗り替えられてくアドリア海やネオ・ヴェネツィア……朝から夜……光りの有る無しだけで変わる世界の摩訶不思議……」

 黒から白へ。眠る時間は終わりだと言わんばかりに暗かった時間は次第に明るい時間になっていく。
 寝惚けていた灯里は次第に視界が鮮明になって行く。ようやく頭も回り出す。

「んー……今日も風が気持ち良いなぁ」

 一日の始まりである朝。そして始まりの色と言われる白。その色に変わって行く世界。眺めていると、それが何故だか不思議に感じる。
 灯里は段々明るくなっていく世界を見て、あの水平線の向こうはどうなってるんだろうと考える。きっと、もう明るい朝になっているのだろう。

「…………ネオ・ヴェネツィアの朝、一人占め」

 そう一人呟いて、灯里はジーッと水平線の向こうを眺め続ける。
 暑い時期、ウンディーネにとって最も忙しい時期。考えてみれば、こういう朝ののんびりとした時間があるのもまた、悪くは無い。陽が昇った後とはまた違う、朝。

「あ」

 太陽の頭が、水平線の向こうから僅かに見え始める。その瞬間、灯里の目に強烈な光が襲う。その眩しさに思わず顔を背けるが、それでも昼頃の太陽の光と比べればまだ弱弱しい。
 まるで、生まれたての太陽が頑張って空に昇ろうとしているように見えて、灯里は太陽に向かって呟く。

「頑張れ」

 太陽はゆっくりと、その姿を大きくしていく。陽の光が当たる身体の部分が、だんだんと暖かくなっていく。
 太陽に応援など、何をしているのかと自分でも思う。しかし灯里は、それを繰り返す。良く判らないが、楽しいのだ。何が楽しいのか判らないが、楽しいのである。

「頑張れ、頑張れ」

 小さな声でエールを送る。太陽が昇り、世界の色が一気に変わって行く。夕焼けとは違う、朝焼け。この時間の、早朝でしか見られない世界。朝だけの一時の世界。
 夕焼けの、暗闇に染まって行く世界を見るのとはまた違った印象を感じられる。
 きっと、それが楽しいのかもしれない。

「あと少し」

 そうしてのんびりと太陽が水平線から抜け出すまで待つと、灯里はよしっと握り拳を作る。
 そして太陽が水平線より抜け出した瞬間、灯里の身体を何故か突風が襲う。わっと驚いて顔を背けると、灯里は風が止むのを待つ。

「……?」

 なんで突風がと思いながら目を開けて、再び太陽を見る。すると、さきほどまで暗かった場所は無くなり、夜の闇は完全に太陽の光によって塗り替えられてしまった。朝焼けは終わり、夏の強い日差しを早速大地に降り注いでいる。
 魚達は飛び跳ね、鳥達は飛び立ち、海の波が少しだけ高くなりざーんと、まるで世界が産声を上げたように動き出す。何時もと同じなのに、なんだか違う朝に、灯里は別の世界に迷い込んだのかなんて考えてしまう。
 だが、太陽の昇るのんびりペースや、世界が生まれ変わる姿、大自然の動き出す瞬間、そんな壮大な世界の一つが自分なのだと感じて、灯里はあはっと笑顔が浮かんでしまう。

「なんだか……こそばゆいっ」

 風が吹き始める。熱を持ったそれは中々に暑い。
 もう夏の強い日差しはそこまで来ている。
 大変な夏。忙しい夏。しかし――灯里はぐぐーっと伸びをして、ふうっと力を抜いてから、うんっと両腕を握る。

「今日も一日頑張りますか!」

 気合十分、パワー全開。
 水無灯里は、今日も絶好調だ。






 その数分後、アリシアに見つかり下着姿で歩き回るのはさすがに良くないよと言われるまで、灯里は下着として使う薄いワンピース一枚で外に居ることに気付かなかった。
 幸い誰にも見られていなかったが、せめて着替えようと自分に言い聞かせるのだった。







――――――――――
なぜ6時に起きた(ぉ
どうも、おはようございます。ヤルダバです。
リアルに6時に起き、何故か眠れず、「あー」とボケた声を出して、そうだこれを灯里にしてもらおうなんて思って今書いた私。
超特急の適当レベルマックス。
しかし――正直楽しかったかもしれませんw
灯里の場合こうなるんじゃないかと想像、妄想しながら書いてましたね。
半分寝ぼけながら(ぉ

さて、朝っぱらから書いたので正直何をメインにとか全くないのですが、書いてる最中に「こそばゆい」を言わせたくなってこんな終わりに。
……正直に申し上げまして、「こそばゆい」って言葉を使う漫画やらアニメなんて、ARIA以外では見た記憶がありません。
ってか、「こそばゆい」なんて日本語があることを完全無欠に忘れてましたw
ARIAは日本語の一つを思い出してくれる偉大な作品です(ぉ

それにしても、究極ののんびりまったりを書くのは普通に楽しかったです。
朝だというのにもう目も覚めておりますw
さあて――仕事まで後少しだけど、ちったぁ頑張りますか。

ではでは、ヤルダバでした。



[27284] 昇格試験
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/05/02 21:26





 ある程度、ARIAカンパニーに慣れた頃だろうと、灯里が思ったのが発端だった。
 最近、アイにあまり元気がないと思い、灯里はどうしたものかと考えていたのだ。仕事に慣れて来ると、少しの間ナイーブになってしまう時期などがある。灯里はそういう事はなく、全ての物事を楽しいと思える彼女はどんなに仕事が忙しても元気がなくなるなんていうことはなかった。
 しかしアイは違うだろう。灯里ほどに人付き合いが上手いわけでもなく、ほんの些細な事から幸せな事を見つけられるのは灯里くらいのものだ。
 灯里自信、周りの人々に言われるからなんとなく判って来た節があるが、それでも彼女にとって自然に行うそれは首を傾げてしまうようなことだ。
 とはいえ、アイをそのままにしておくわけにはいかないし、先輩としてする事は決まっている。彼女の心を楽しい思いと素敵な幸せにどっぷり浸かって貰うことだ。
 ということで、灯里はひょいひょいと自分の予約が入っていない日をカレンダーの上から見つけて、うんと頷く。思い立ったら即行動。運良く明日が休みのようだ。ならばする事は決まっている。

「アイちゃん、明日お散歩でもしようか?」
「え? でも、灯里さんお仕事は」
「大丈夫、お気になさんな」

 ふふんと大人びた言い方をして、灯里は仕事が終わって心地よい気ダルさを感じながらも食後のコーヒーを飲む。コーヒーといっても少し甘めのカフェモカだ。

「……あと、今日は私も泊って行くね」
「本当ですか?」
「うん。明日は予約も入ってないし……この時期は飛び込みのお客様は少ないから……お休みにしちゃおう」

 いいの、そんなにアバウトでと突っ込まれながら、灯里は大丈夫と笑う。
 笑顔が浮かぶアイの顔。黒いショートの髪の毛が揺れるし、コロコロ表情も変わる可愛い後輩。しかしやはりどこか元気を感じない。

「ぷいぷいにゅ!」
「アリア社長はどこに行きたいですかー?」

 アイがアリア社長を持ち上げてクルクル回る。今日一日の仕事が終わり、食後のフリータイムのような時間に、アイはアリア社長と遊ぶのが日課らしい。
 灯里は今はこのARIAカンパニーから少し離れたアパートで暮らしている。ARIAカンパニーの代々引き継がれるやり方だ。新人がARIAカンパニーの三階に下宿して、プリマは近くのアパートで暮らす。だから、人数はそんなに増やす事は出来ない。
だが、少数でありながら、ARIAカンパニーの今までの実績は間違いなくウンディーネ業界の中でも脅威的な数字を叩き出している。むしろ、一人二人で稼ぐ金額としては間違いなくナンバー1に今も輝いている。姫屋やオレンジプラネットはもはや別だ。
 そんな脅威的な会社だが、灯里は自分がその権威ある会社の看板に傷をつけていないかが心配だった。しかし時折やってくるアリシアやグランマの「自分のやりたいように、灯里ちゃんのARIAカンパニーを見せてね」と言われてしまえば、その通りにやるしかない。
 だから――今は灯里はやりたいようにやっている。もちろん会社としてしっかり機能するように。

「それじゃあ、お風呂に入ろうか」
「あ、はい。それじゃあお湯入れてきますね」
「ううん。アイちゃんは休んでて」
「え、でも」
「いいの。私達は家族なんだよ? お母さんに甘えなさい」
「…………はい」

 アリシアは、この会社の事を家と言っていた。そして同時に灯里を家族のように接してくれていた。だから灯里は、アイと共にこの会社を動かすことになっている今日、灯里もアイを娘と思いながら接するので、アイには母親のように接するようにと言っていた。
 とはいえ、実際にお母さんなどと呼ばれては色々問題が発生してしまう。ので、母親のように親しく、思いっきり接してくれという意味での言葉だ。
 もちろんそれはアイにも理解されているし納得もしてもらっている。

「ん、じゃあ……お願いします、灯里ママ」
「…………ちょっとこそばゆいかな」

 ママ、なんて呼ばれるとは思わず、灯里は笑顔のまま固まった。そうして数秒後にはえへへと言いながら恥ずかしさを誤魔化す様に言う。

「灯里さんがお母さんと思えって言ったのにー」
「ごめんごめん。さて……アイちゃんを抱き締めちゃうところだった」

 ぷくーっと膨れるアイに、灯里は慌てて謝る。うずった身体を抑えながらお風呂場へと向かいながら、ぼそりとアイを抱きしめたくなった身体を止められた自分を褒める。
 さて――一緒にお風呂に入ろうかな。
 そう、提案したのだが、アイにはNOを言われて少し傷ついた灯里だった。今度温泉に連れて行ってあげねばと、心の中で何か違う決意を固めるのだった。





 翌日。
 朝目が覚めると、灯里は身体が何かに引っ張られている事を感じた。寝ぼけ眼で見てみると、ギューッと握られたパジャマがあり、アイが灯里の身体に蹲っているのを発見。胸元にアイの顔が入り込み、どうやらその軟らかさに枕か何かと思っているようだ。
 結構強めに顔を押し付けて来るもんで、灯里は少し顔を赤らめながらゆっくりと身体を離そうとする。
 しかし。

「ひゃう」

 ぐいっと引っ張られ、何故か胸元を引っ張られる。そうして押し付けられる顔。助けてアリア社長と思いながらアリア社長を見てみると、そこにはゴロゴロ転がるアリア社長が居た。何をしているのかと見ていると、不意にがばっと立ち上がる。が、その眼は薄く、どうやら起きているのではなく寝惚けているらしい。
 ふらふらと灯里とアイのお腹のあたりの隙間に入り込み、そのままバタンキュー。寝息を立て始める。どうやら本能的に狭い場所に入り込んだようだ。

「……もう」

 一気に目が覚めてしまった灯里は小さく文句を言いながら、可愛い後輩と社長を優しく抱き締める。秋晴れの少し肌寒くなってきた朝は、色々な意味で暖かい物から始まった。
 それから数十分後。アイの寝顔を微笑みながら観察をしていた灯里は、もぞもぞと動き始めたアイが寒いのかと毛布を肩の上くらいまでかけてあげる。すると瞳が薄く開き、目の前にある灯里の谷間に絶句。

「へ?」

 小さな疑問を浮かべながらアイは視線を上に持っていく。そこにはクスクスと笑う灯里の顔があった。ボンっと顔を真っ赤に爆発させて、がばっと後ろに下がるアイ。

「す、すすすみません灯里さん!」
「おはようアイちゃん。私は楽しかったからオッケーオッケー」
「た、楽しかった?」
「うん、アイちゃんの寝顔、コロコロ変わるから」
「はう……」

 更にボンっと赤くなるアイに、灯里はふふふと笑う。ベッドから身体を降ろし、立ち上がってんーっと伸びをする。アイの温もりを胸に感じながら、灯里はようやく解放された身体を少し解す様に軽い運動を始める。
 後ろで、アリア社長が目覚める声も聞こえて来た。視線を向けてみれば、やはり首を傾げながら起きている。

「おはようございます、アリア社長」
「おはようございます、アリア社長。灯里さんもおはようございます」
「うん、それじゃあ二人とも起きたところで、着替えようか」

 灯里は服を脱ぎ、持って来ていた制服に着替える。一応今日は休みにしようと思っていたとはいえ、さすがに私服で動き回るのはまずいかと考えたのだ。まあ、散歩中にお客さんに出くわした場合に、乗せられることも考えての恰好だ。
 ちなみにアイの練習も兼ねて行こうかなと思っていたので、その場合は逆に制服でなければならない。
 そういうわけで、制服を着て、灯里は階段を一足先に降り始める。

「着替えたら下に来てね、アイちゃん、アリア社長」
「ぷいにゅ!」
「はい!」

 トントンと階段を降りて行く灯里。そんな彼女の横顔を見ながら、アイは一人手や顔にある温もりに触れる。

「あ、灯里さんの……胸……やわい」

 自分の胸元を見ながら、アイは小さくため息を吐いた事を灯里は知る由もない。





 朝食も食べ、アリアカンパニーの施錠もして、二人と一匹は早速ゴンドラに乗った。
 持ち物はお弁当。それから水筒にお菓子。さて――それでは、彼の場所へ出発。

「あ、そうだアイちゃん。もう漕ぎの方は大分慣れた?」
「あ、はい。少なくとも最初の頃よりは」

 まだまだですけど、と言いながらアイはえへへと答える。灯里はそんな彼女のゴンドラに乗った憶えがほとんどない事を思い出す。ならば、ついでだと思い灯里は提案する。

「じゃあアイちゃん。私をお客様だと思って、案内してくれる?」
「あ、はい! 望むところです!」

 アリスちゃんみたいな言い方するなと思いながら、灯里は荷物をゴンドラの上に置いて行く。そうして立ち上がった時、目の前に手の平が差し出された。

「お手をどうぞ」

 その姿は、随分と様になっていた。まだARIAカンパニーに来てから12カ月くらいだろうか。十分に時間は経っているが、アイのゴンドラにはそんなに乗った覚えが無い灯里。アイが最後にお客さんを乗せたのを思い返してみると……実は数カ月も前になる。
 あれ? そんなになるの? と灯里は冷や汗を垂らす。ということはその間、灯里は彼女のゴンドラに一度も乗っていない。これは――まずいと灯里は思う。もしかしたら元気が無かったのは、私がほとんど一緒にいなかったからなのかと、灯里はドキドキし始める。
 手を取りながらゴンドラに乗り、座る灯里。目の前にはアリア社長が飛び乗る。

「ではお客様、どこへ向かいましょう」
「あ、そうだねー……じゃあ……」

 そうして、灯里の乗ったゴンドラはゆっくりと、静かに動き始めた。





 時間は沢山ある。ゆっくりと、確実に、アイはその場所を目指す。時には一人で練習していたアイ。傍らにはアリア社長も居たが、時々出会う藍華やアリス、それに晃やアテナ、アリシアにまで時々教えを貰っていた。
 だから、灯里はアイの上達のスピードを知らなかった。先輩失格だなぁと思いながら、灯里はスイスイ進んでいくアイのゴンドラに少し驚いていた。最後に乗った時よりも、かなり上達している。
 そうして水上エレベーターの中に入ると、アイはあわあわしながら周りを見渡す。
 後ろは退路を塞がれ、中には水が入り込んで来る。灯里も最初見た時は慌てたものだ。

「あ、灯里さん、水攻めです!」
「落ち着いてアイちゃん。私も最初そう言ったけど」

 慌てるアイに苦笑しながらそういう灯里。自身がそうだったのでアイの事は笑えない。だから、灯里はのんびりと水が入って来て水面が上がって行くのを待つ、この水上エレベーターの話をし始める。

「これは水上エレベーターで、やたらとのんびりなエレベーターだよ。下を見てみると、お魚が泳いでるのが見えるの」
「わぁー、綺麗。お魚さーん」

 パシャパシャと水面を叩いて気を引こうとするアイ。しかしそんな事をしても魚は上って来なければ、基本は音に反応して逃げてしまう。

「これ、どれくらいかかるんですか?」
「んーっと。確か上がるまでに30分くらいかな?」
「……すっごいゆっくりなんですね」
「うん。アリシアさんも、私も、ここは好きな場所」
「…………水が流れる音しかないですね。風の音は上からしかしない……水飛沫が冷たくて気持ち良い……灯里さん、私もここ、お気に入りになりそうです」

 えへっと微笑むアイを見て、灯里もクスリと笑う。
 そうして話をしながら、灯里は自分がどんな練習をしていたか、三人でいつも練習をしていた事を話す。するとアイも最近は、とある二人と練習をしているらしい。話を聞けば、藍華の後輩とアリスの後輩らしい。
 なるほど――アリシア、晃、アテナの三人。灯里、藍華、アリスの三人。今度はアイとその二人の三人ということだろうか。
 世界は大きくて、でも小さい。気付けば知り合いということもある。そんな不思議にクルクル回る世界で、これからもきっとある素敵な出会いに、灯里もアイも期待する。

「あ、付いた」
「よーし、がんばるぞー」

 大型の門が開き、アイが水上エレベーターから抜け出す。ふと横を見ると、おじさんがたばこを吸いながらふぅーと新聞を読んでいた。
 さっきは下に居たのだが、今度は上に居る。ということは、どこかに階段でもあるのだろうかとアイは思う。
 事情を知っている灯里は、

「おじさーん。また後でー」
「あいよー。お譲ちゃんがんばれよー」
「はーい、がんばりまーす」

 ここに来るまでに何度か言われた言葉に、アイはしっかりと答える。灯里はもしかして何か勘づいているのかとドキドキしていたが、実際はそうではない。
 アイはここの水路が長くて交通量が多いから、大変なのでがんばれと言ってくれていると思っているのだ。良い意味で純粋な子である。

「アイ、行きます!」

 灯里の真似をしながら、アイは再び漕ぎ出す。灯里はそんな彼女の声を、微笑みながら聞いているのだった。





辿り着いたのは、壮大な景色がある場所だった。
ネオ・ヴェネツィアからかなり離れた場所で、同時に30分も使って上がる水上エレベーターを二回使い、更にずーっと登り続けていたのだ。実はかなりの標高で、気付けばかなりの高さだった。
 だから、アクアという星の一部を見渡せるこの光景は、美しいの一言に尽きる。そして、灯里にとって、藍華やアリスにとって、どうしても忘れられない大きな事件があった場所でもある。

「うわぁ……凄い綺麗」
「ここはね、アイちゃん。希望の丘って言うの。私達ウンディーネにとって、ここを一人で通れるには意味があるの」
「そうなんですか?」
「うん。だから、アイちゃん。左手を出して」
「? はい」

 灯里は手袋を付けていない自分の手を一度見てから、ゴンドラの上でゆっくりと立ち上がる。そうしてアイの真正面に立ち、灯里はアイの左手に触れる。そしてゆっくりと、その左手から手袋を引き抜いて行く。
 えっと驚いた顔をするアイに微笑みを浮かべながら、灯里はまず、一言。

「合格おめでとう、アイちゃん」
「ほへ?」

 アイは何が起こったのか理解できずに首を傾げる。灯里はクスクスと笑いながら、この場所の説明をする。

「実はね、この難しい陸橋水路を、トラブルなく無事に一人だけの力で通ること。それが、シングルへの昇格試験なの」
「……ごう、かく……?」
「そう、だから、アイちゃんは見事に、それだけの実力を身につけていました。今日一日かけて通って来た道は、シングルへの昇格試験に使われる道なの」
「そ、そうだったんですか」

 自分の左手から手袋が抜き取られたため、アイはボーっと手袋の無い左手を見つめる。本当に、シングルに昇格したんだと、アイは段々とその顔に笑顔を浮かべて行く。

「ありがとうございます、灯里さん!」
「ふふ。でも良かった。これでアイちゃんが落ちたらどうしようかと」

 もう昇格試験は終わった。そして見事成功したからこそ、そう言えるのだ。灯里はふぅっと胸を撫で下ろす。アイもようやく色々な事を理解したために、はふぅと溜息を吐いた。

「この試験はね、内緒で行うの。知らないのは見習いウンディーネだけなんだ」
「ああ、だからおじさんとか、すれ違うウンディーネさんががんばれって」
「うん」

 そこまで言って、不意に風が吹く。後ろでは大きな風車がクルクルと回る。夕陽に照らされるオレンジ色の風車と、緑の大地が揺れる。その風が吹いた方を見ると、とても綺麗な景色がそこにはある。

「この丘の事はね、ウンディーネの間では「希望の丘」って呼んでいるの」
「希望の丘……」

 そう言って、ネオ・ヴェネツィアが一望できるこの場所から景色を眺める。同時に空に浮かぶ浮き島も見る事が出来る。
 全てが見渡せるこの場所は――確かに希望の丘と呼ぶに相応しい。

「……黄金の太陽に照らされてるネオ・ヴェネツィアは、なんだか黄金郷って呼ばれる街みたいですね」
「――あは、そんな黄金郷に住める私達は、」
『幸せ者だねー』

 二人してそう言って、二人は声を上げて笑う。
 うん、まさに――黄金の世界。ここが希望の丘と呼ばれるのは、きっとこの宝物だらけのネオ・ヴェネツィアを見て、希望を持ってもらおうということなのだろう。
 灯里は一歩、前に出る。今度は私が漕ごうかなと、アイからオールを受け取る。

「さあ、帰ろうか、アイちゃん」
「あ、はい!」

 そうして二人は、帰り路に付くのだった。







「灯里さん、私が漕ぎますよ?」
「ここまで漕いで疲れたでしょ? 休んでで良いよ」
「ぷいにゅー」
「……灯里さん、アリア社長が出番が無いって」
「……作者に行ってください、アリア社長」
「ぷいにゃー!」

 失礼。





―――――――――――
ん~……ARIAのゲームを買ってみようか止めようか悩んでいるヤルダバです、こんばんわ。
ゴールデンウィークですねぇ。世間は。
僕らにはそんなものはありません……そろそろゴールデンウィークだけでなく、夏休みや冬休みも欲しいです。
さて、そんな気分が下がるようなことは放っておいて。
ワタクシ今日は休みだったので家でぐーたらしてました(いつものこと)
で、不意に灯里でも描いてみようと描いて、絵を描いたら挿絵的にどうだろうと適当にこれを書いてみました。
そしてアイを昇格させてしまった……むぅ。
とりあえず今回は昇格試験ですね。
希望の丘は灯里達にとって思い出の場所ですね。それも忘れられないほどの。
忘れられない思い出かぁ……沢山ありますけど、多分皆さん「初めて」の時が一番忘れられないんじゃないかと思います。
自分もそうですねぇ。
友達になった人の家に初めて行く時とか、初めてした仕事とか、色々。
でもやっぱり、心に響いた事も忘れられないですよね。
今度はそんな物を書いてみたい。




スパロボも進まないよう……戦場のヴァルキュリアも進まない。
時間が足りないのぅ……(ぉ
頭の中遊びたいで一杯ですわわたくし。
ではでは、ありがとうございました。



[27284] 精霊
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/05/05 01:22



 その日は雨の前日。
 水無灯里は目の前の光景に唖然とし、そして自らが呼び寄せたという奇跡にただただ愕然とするしかなかった。
 世界には不思議な出来事がある。例えばネオ・ヴェネツィアで言うならば七不思議だ。その中でも守り神としてネオ・ヴェネツィアには猫の妖精が居ると言われている。
 更に、このネオ・ヴェネツィアの職業は全て精霊からの名前が使われている。
 シルフ、サラマンダー、ノーム、そしてウンディーネ。
 その中のウンディーネという職業に灯里は属しているのだが、とある時にその昔やったゲームを思い出したのだ。なんでもないただのRPGゲーム。その中に、精霊としてウンディーネと呼ばれる存在が居た。人の姿をして水を操る、水の妖精。
 そんな存在が本当に居たら、出会ってみたいと、灯里は思ったのだ。不思議な体験をしてきた彼女なので、尚更にそう言った物に出会いたいという気持ちは強かったのだ。
 だから――だろうか。
 人が出会ってはならない、世界の存在。世界が生み出した、大自然の力。清らかな水、果てしない蒼、恵みの流水、世界の子供、ウンディーネ。

『あなたが、私を生み出したのです――水無灯里』

 蒼い身体、白いワンピース、蒼い瞳、長い蒼い髪の毛。水の惑星と呼ばれるアクアなのだから居るのではないかと思っていた、想像もしたし妄想もした。だが――ウンディーネは目の前に居る。

「私が……生み出した?」

 驚いて何も言えない灯里は、何故自分がこんな状況に立たされているのかを思い出す。
 そう、その日の前日は雨。湿気の多い空気が漂う、天気の良い日だった。






「アリシアさん、アリア社長、それじゃあ行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「ぷいにゅ」

 水筒にお弁当、お菓子もしっかり持ち小さなリュックを一つ背負って、灯里は今日の朝、一人で探検に出掛けることにしていた。
 今日のお客さんの予約の数は4つ。その内の最初のお客さんがアリア社長も一緒にということで、アリア社長もアリシアと共にお客さんを喜ばせなければならない。故に、その要望を叶えて上げるためにアリア社長も今日はお仕事なのである。
 だからというわけではないが、灯里は不意に思い出したアリシアの「とっておきの場所」というのを思い出し、前に行った時は道を間違えて大きな桜の下に行ったのを思い出した。あれも素敵で綺麗な場所ではあったが、何分灯里は素敵探しが大好きだ。
アリシアが言った場所が、気になってしまったのだ。島の位置は憶えているし、分かれ道の事も憶えている。ならばあとは再びあの島に行き、思うがままに進むのみ、というわけだ。

「さぁて、今日は探検家になるぞー」

 ふん、と気合を入れる。ゴンドラはゆっくりと動き出し、灯里の髪の毛が優しい風に揺らされる。
 っと、その時である。不意に風が吹いたと思った時、その風に乗って何かを感じる。別段何か強い風が吹いたとか、風の中に細かい砂粒があったとか、そういうことではない。言葉では言い表せない違和感とでも言うべきだろう。
 それは、灯里が今から向かう島の方角から。何かも判らないが、それは確かに、灯里にとっては「呼んでいる」と感じ取れる何かだった。

「?」

 判らないながらに、灯里は小さく首を傾げて――しかし次の瞬間、何か素晴らしい出会いが、その先にあってはならないような出来事がありそうで、ワクワク、ドキドキ、笑顔を浮かべて灯里は動き出した。
 想像もできない何かがある。きっとある。
 もしかしたら、今までに何度も考えては消えた精霊が居るかもしれない。
 そう例えば、この水の惑星の精霊、ウンディーネが。




 まずは廃墟となった駅。それから線路を辿って分かれ道。
 ここを適当に棒を倒してどちらに行くかを決めたのだが、今回はその必要はない。灯里はさっさと左側の道を選び、ズンズンと歌を歌いながら進んでいく。
 一人で寂しい事はない。前回は二人と一匹とはいえ、こういう森の中を歩くのは灯里は好きだった。
 様々な大自然の大合唱が聞けるからだ。風の音、その風に揺らされる大樹の葉の音。草原の音、そして水の音――水?

「あれ、水なんてここに……」

 森のど真ん中。灯里はほんの僅かに聞こえた不可思議な音に首を傾げる。少し辺りをキョロキョロと見てみるが、近くに水の気配はない。川もなければ泉のような小さな水源もない。
 足を止めて首を傾げる。だが今度は、再び風が吹く。その瞬間、灯里は再び得も言えぬ謎の感覚を感じた。

「……こっち?」

 灯里は今まで歩いていた道の、その更に先を見つめる。どこかに寄り道とかではない、正面だ。
 アリシアの目的地だった場所を目指しているこの道を、来いと言われているような気がして、灯里は再び歩き出す。
 不思議な魅力がある、何か。呼ばれていると感じる何か。不思議なそれに対して、灯里に恐怖はない。むしろ、何故か安心してそこへ向かって良いのだと思えるのだ。
 ここは摩訶不思議な世界アクア。
 何が起こっても不思議ではない、不思議。不確かな世界かもしれないが――灯里にとっては、そちらの方が良い。

「特別な出会いが、ありそう」

 何かを感じながら、灯里は歩く。
 得体の知れない何かを感じる――それは人にとっては恐怖の対象になることが多い。人間は得体の知れない物から自分が知らない物までを嫌がる。それが普通で、誰もそれを咎める事はない。
 しかし灯里の場合は少し違う。何かを感じながらも、それが安心できる何かであることも感じていたのだ。今までにもいくつかの不思議を体験した灯里だから、なのかもしれない。

「ん? こっち?」

 不意に、感じる何かの向きが変わる。良く良く見れば、そこで森は途切れていた。地平線を真っ直ぐに伸びる線路はそのままだが、その線路は右にカーブして行く。それとは逆に、左に来いという感覚。
 灯里は言われるがままにその方向に歩いて行く。
 すると――水の音がした。それも少し大きな音だ。おそらく川が流れているのではなく、滝壺があるだろう音。
 少し足早になって、灯里はその音がする方に走る。

「っ! うわぁ!」

 その音の正体が、灯里の目の前に現れる。やはり想像した通りの滝壺だった。
 左が森の出入り口で木々が生え、右は森ではなく草原が広がっている。その左右の違いをまるで区切るように、ど真ん中に滝壺があるのだが、そこには丸い虹が見事に浮いていた。
 滝壺は、小さな崖に囲まれた小じんまりとした場所。まるで世界のヘソと呼ばれても良いくらいに、そこだけが窪んでいる。その少し高い視線の中で、灯里は丸い虹と、流れる滝を見つめる。

「丸い虹だぁ……あの真ん中を通れたら、別の世界に行けそう」

 はっきりくっきり浮かぶ丸い虹。水飛沫をほぼ真上から見ないとそうは見れない、珍しい虹だ。灯里はそれが別世界への扉と思いながら、クスクスと笑う。
 それからどうにかして下に降りられないかと灯里は辺りを見渡して、唯一少し斜めになっている足場を見つける。灯里はそこから降りようと、移動を開始。
 斜めの岩盤。苔が生えていて滑りそうなので、灯里は慎重に降りて行く。
 そこで不意に気付いたのだが、この滝壺、何故か四方八方が緑に囲まれているのに、ここには木々が生えず岩場だけがある。同時に滝壺から落ちた水はどこにも流れている様子はないのに、溢れる様子はどこにもない。
 なんとも――不思議な場所。

「あ、丸い虹」

 上を見上げて、灯里はそこにまだ丸い虹があることを確認する。しかし同時に首も傾げる。本来は高い位置でないと見れないはず……しかし真下から見ているから、見れることもあるかもしれないと灯里は結論付ける。
 なにより――蒼い空に浮かぶ丸い虹は、綺麗なのだ。綺麗な物に理由を付ける必要はない。
 素敵な物は素敵で、綺麗な物は綺麗。それだけで十分な灯里は、にへらっと頬を緩ます。
 一人しかいない場所。誰もいない場所。
 灯里は冷たい水飛沫を浴びながら、滝壺を眺める。

「なんだか一人で夢の世界に迷い込んだみたい」

 例えば、森の中の小さなオアシス。そこには無数の水の精霊が飛び交い、きっと無邪気に遊んでいるのだろう。そんな事を考えながら、灯里はその小さな世界で一人、滝を眺める。
 滝と、水と、岩場と、崖で囲まれた小さな場所。更に天井は丸い虹。そこはまるで、神秘的な、小さな箱庭。そう、精霊の箱庭なんてどうだろう。
しゃがみながらこの光景を満喫し、そんな事を楽しく想像していた、その時だ。

『水無灯里』
「はひ!?」

 声が響く。ビクッと灯里が肩を震わすと同時に立ち上がり、周りを見渡す。
 不思議と心に響く声で、優しい声。ただ驚いて立ち上がったが、周りを見ても誰も居ない。というよりも、誰かが居ても隠れられる場所はない。

「あ、あれ、声がしたと思ったんだけど……」
『こちらですよ、灯里』

 この、小さな滝壺の中に響く声。軟らかい声は灯里を呼び、その方を灯里は見る。

「――――――えっ?」

 目を見開いて、灯里はその存在を見つめて呆然となる。
 宙に浮かぶ、不思議な女性がそこに居た。いや、女性の姿形をしているだけで、それはその存在の「固定された姿」ではないと、灯里は直感でそう感じた。
真っ白なワンピースは蒼い肌を引き立てる。蒼い瞳は優しい光を放って、その顔はまるで灯里に会えた事を喜ぶように微笑んでいる。美しい、女性。そして、存在するはずの無い、女性。
 おそらくそれは、人としての本能だろう。目の前の女性の正体を理解した灯里は、どうすればいいのかとタダ固まっていることしかできない。

『ふふふ。大丈夫よ、灯里。私はただ、あなたに会いたかっただけ』
「私に……ですか?」

 優しい、澄んだ綺麗な声。灯里はその声を耳にできることだけでも幸せなのだと理解する。
 しかし言われた言葉は灯里に疑問を浮かばせる。何故、この偉大な存在が私に会いたいと思うのかと。

『この世界に、精霊はいません。ですが、このアクアと呼ばれる星には不思議な力があります』
「不思議な……」
『その力は、どういうわけか灯里、あなたの想いに反応した』
「…………はへ?」
『そしてあなたの想いにより、私という精霊ウンディーネが誕生した』
「…………」

 長い長い、蒼い髪の毛が揺れる。精霊ウンディーネという存在に、灯里はあまりの事に理解しきれない。

「わ、私の想い、ですか?」

 良く判らないままに、灯里は問い掛ける。その言葉に、にこりと微笑んだ彼女は小さく頷く。どうやら混乱している灯里に、理解する時間をあげているようだ。
 それでも、現状の状況を理解できるわけがなかった。そして信じられないのだ。

『子供のように輝く心、澄んだ綺麗な魂。灯里の想いは、小さくても大きな影響を、この星に与えているの』

 わかる? なんて言われても、灯里は口を開けたまま首を横に振るしかない。
 うん、さっぱり判らない。

「で、でも良く判りませんけど……この出会いは、きっと奇跡なんですよね?」

 精霊ウンディーネ。それは昔から水の化身として思われて来た。しかしそれは伝説であり、空想。夢物語の一つで、現実には存在しないはずなのである。
 その存在が、今目の前に名乗って存在している。
 奇跡の出会いとは確かにそうだが――奇跡という言葉で表せる現象ではない事に、灯里は気付いていない。

『そう、これは奇跡。だけど、一時の奇跡』

 ニコッとウンディーネが微笑む。しかし少しだけ、寂しそうな雰囲気を持っている。

『私があなたと一目会いたいがために見せた、短い一時の夢。だから……この夢が終われば、あなたは私を憶えていない』
「そう……なんですか」

 夢。そう言われて、灯里は何故か理解する。
 確かにこれは夢の中なのかもしれない。本当は今日という日ははじまっていないのかもしれない。これは精霊が作り出した世界で、夢の世界で、奇跡の世界。
 だけどそれでも、灯里にとってこれは、この出会いは、間違いなくココにある。

「えと、ウンディーネさん。確かに一時の夢……なのかもしれません。良く判らないですけど……でも、それでも私達がこうして出会えたのは、やっぱり奇跡です」
『灯里……』
「私、あなたに会えて嬉しいです。とても。精霊と言えば存在しない伝説の存在……神話の存在なのに、そんな凄い人が私に会いたいって思ってもらえた……それだけで私は十分です」

 そこまで言って、灯里は胸元にキュッと大切な何かを抱き締めるように両手を握る。するとふわりと、灯里の身体が誰かに包まれる。
 蒼い髪の毛が、灯里の視界に舞う。

『ありがとう……灯里。でも一つだけ違うの』
「え?」
『これは、私が望んだ奇跡。世界にお願いした私の我儘……だって、あなたの想いが私を生んだ』

 そこまで言って、綺麗で美しい女性だったウンディーネの姿は、一瞬光った直後には小さな女の子になっていた。
 その顔を、灯里は見覚えがある。そう――小さい頃の灯里に似ているのだ。

『ということは、あなたは私の母になる』
「私が、母親?」
『うん。だから、一目見たかった。私を想い、生み出した人が、どんな人なのか』
「…………私は、あなたの思った通りの人だったのかな?」
『――私の思った通り、とても素敵で、とてもゆったりしてる』
「そんなにゆったりしてるかな……」

 まるで親から離された子供が、数十年ぶりに出会った母親に対して言うような言葉を、ウンディーネは言う。
 だけど灯里には、実感がない。想いが生んだと言われても、実感などないのだ。しかし、母と言われて嫌な思いはしない。するはずがない。

『もう、時間』
「え?」
『この夢は終わり。灯里は現実に帰らないと』

 少し寂しそうな笑み。さきほども見たその笑みは、つまりは母親と離れなければならない事に対してだったのだろう。だから――灯里は優しく引き寄せて抱き締めた。

「うん、判った」
『…………』
「……もう、会えないんだね?」
『この一回だけ。世界が許した一度だけの夢……でも、ありがとう灯里』

 実態はある。宙に浮かぶという不思議な事が起こっているが、抱き締める事が出来る。相手の温もりを感じる。ならば、これがいかに夢であろうとも、この瞬間だけは現実だ。
 それを、二人は理解していた。

『私は、いつも灯里を見てるよ』
「なら私は、いつも傍に居るよ」

 お互いに微笑み、すうっとウンディーネの少女が離れる。それは別れの時なのだろう。
 なんとなく理解した灯里は、離れて行く少女の手をそれでも、離したくなくて――最後の最後まで、指と指が離れるまで、触れ合い続けていた。

『ありがとう、お母さん』
「うん――こちらこそ」

 出会えた奇跡。一時の夢。一瞬の幻。だけどこの時間は確かにあって、二人は確かに出会えた。
 母であると言われて、ウンディーネが他人のような気がしなくて、本当に精霊という存在とは思えなくて――まるで過去の自分に出会えたような気持ちで、灯里は話していた。それはきっと、分け隔てなく話して欲しいというウンディーネの想いが、灯里に伝わったのだろう。
 それだけで、二人は十分。そして、さよならは言わない。

『またね』

 二人は同時にそう言った。その瞬間、強い光が灯里の視界を埋め尽くした。






 朝は何時も通りに訪れる。
 今朝は少し肌寒く、そろそろ秋も終りに近づいてきた事を理解できた。
 眠い目を擦りながら起き上った灯里は、ふと、瞳から何か雫が流れている事に気付く。

「ほえ?」

 それが何か理解できず、首を傾げながらそれを拭う。悲しいわけではないのに、灯里の瞳からは涙が零れていた。心の中は何時も通り晴れ晴れとしていて、空も天気が良く蒼い空が窓の向こうに顔を覗かせている。
 そんな晴れ晴れしい、清々しい朝だというのに、何故か涙が流れる。
 何故、涙が? そう考えた瞬間、夢を見たのだと直感した。その夢の内容は判らない。その夢に誰が出て来たのか、何が出て来たのか、さっぱり判らない。夢とはそういうもので、憶えている時ははっきりと覚えているが、憶えていない物は何も覚えていない。
 ただ――夢を見たのだと言う事実だけを憶えている。

「……綺麗な想いが交差して、素敵な出会いが会った気がする……とても大事な……出会い」

 両手を見る。いつもの、自分の両手。しかしその手に何か温もりを感じて、それが凄く大事に思えて、灯里はそれを逃がさないようにゆっくりと、しっかりと握る。それは例えるなら、愛しい娘を抱き締めるように。

「摩訶不思議な、夢。だからかな、ちょっぴり切ない」

 キュッと胸元に抱き締めた両手を、心の中にしまうように胸に当ててから、灯里は顔を上げる。その顔は晴れ晴れとした何時もの笑顔で、元気一杯の灯里になっていた。
 ベッドから降りて、灯里は水先案内人<ウンディーネ>の制服に手を掛ける。

「さあ、今日もプリマになるために、頑張りましょう!」
「ぷいにゃ?」

 朝から気合を入れる灯里。その声に、アリア社長が起き出す。そんなネボスケなアリア社長を意地悪で放って、灯里はトントンと階段を降りる。
 そこには、既にアリシアが朝食の準備をするためにキッチンに立っていた。

「あら、灯里ちゃん。おはよう」
「おはようございます、アリシアさん!」
「あらあら、今日は元気一杯ね」
「はひ! 今日は、なんだか凄く、凄く、すっごく摩訶不思議で、でも素敵な夢を見たんです!」
「うふふ。ちなみに、どんな夢?」
「それが、さっぱり憶えてないんです。でも――」
「でも?」
「私にとって、凄く大事な何かと出会えた気がします」
「…………」
「アリシアさん?」

 アリシアは、灯里の浮かべた笑顔に一瞬驚いて固まった。その理由は、おそらくこの場に藍華やアリスが居ても固まっていただろう。
 たった一日で何があったのか。いや、たった数時間の間に何があったのか。
 何にせよ、アリシアは灯里の浮かべた笑顔に、見惚れてしまったのだ。
 あまりにも綺麗で、あまりにも純粋で、あまりにも母親と呼べる笑顔に。

「あ、ううん。灯里ちゃん――今日は一段と良い笑顔ね」
「ありがとうございます!」

 そうして、灯里もアリシアの朝食の準備を手伝う。
 テーブルの上に料理を置いて、灯里は換気の為に窓を開ける。その瞬間、蒼い海に少女が浮いていたように見えて、灯里は一瞬動きを止める。だが、どこを見渡しても少女などいない。
 気の所為だと思い部屋に戻り、アリシアとアリア社長と共に朝食を取る。
 何時もの日常、何時もの時間。
 しかし灯里は知らない。彼女を見守る妖精に、精霊という存在までもが、彼女を見守っている事を。

 アクアと呼ばれる水の星。この世界には、まだまだ不思議な出来事が存在する。
 そこに居るだけで、優しくなれる、あらゆる物が愛しく見える、不思議な星アクア。
 今日も――不思議で、素敵な出会いが、水無灯里という水先案内人<ウンディーネ>を迎える。




――――――――
こんばんわ、ヤルダバです。
今回も突拍子もない物を書きました。
というのも、「本物の精霊ウンディーネに出会ったらどうなるのか」というのを考えた結果でした。
実際「ケット・シー」と呼ばれる猫妖精が居るとして描かれるならば、「精霊ウンディーネ」もだうだ! としてみました。
っても、それでは灯里もどうするかが判りません。
というわけで、アクアの「不思議な力」を理由に「灯里の純粋な想い」から「生まれた」としました。
「アクアに対する影響は小さくても、世界は確実に変わる想い」っていう感じですかね。
正直――言ってる自分もわかりません。
ただ、世界が生んだ精霊だけど、元を正せば灯里の想いが原因だった。
だから灯里の娘的な位置づけで出しました。
ちなみに大人の女性として最初に出たのは、自分が精霊である事を灯里に知らせるためなのと、その方が話し易いと思ったから、という裏設定的なものもw
まあ普通なら少女の姿から女性へ、っていうが定番だと思ったので、逆にしてみただけなんですが(ぉ

さて、そんな今回の話はおそらく賛否両論になると思います。
なんせ「精霊」ですから。でもアクアには居ても良いんじゃないかと思っちゃいます。
だってねぇ……不思議な世界ですから!
優しく、愛しくさせるアクアの星ってね!
アクアって世界に行きたい!
子供、餓鬼、大人だから夢を捨てろなんて言われようとも、俺はARIAというまったりワールドと、アクアという水の惑星が大好きだぁ!
うおおおおおおお!!
はっ! 申し訳ございません、少しばかり熱くなりました。
ではでは、今回はこの辺で。
ここまで読んで下さった方に、多大な感謝を!



[27284] 風邪
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/05/07 08:39

「アイちゃん、大丈夫?」
「は、はい……すみません灯里さん」
「良いの良いの。風邪はしょうがないから」

 本日、晴天なれど雲多し。時折太陽が雲に隠れては影が差すその日は、色々な意味で楽しい日のはずだった。
 水の上を漕いでいると、上から太陽の光が降り注ぎ、雲に太陽が隠れれば、それでも尚大地に光を送るためにその隙間を縫い、光は輝きを増す。その時、まるで太陽のカーテンが空から降りて来るように見えるのだ。
 それが見れる特殊な日が、灯里は元より、アイも大好きだった。
 だから、この夏なれど雨の日の後は、好きなのだ。太陽のカーテンは、湿気が強く無くては見れないから。
 しかしどうやら昨日の雨にやられ、アイが戻って来た時にはその身体はびしょびしょ。直ぐにお風呂に入って身体を温めたが、どうやら遅かったようだ。
 悲しい事に、風邪をひいてしまったアイは、今日は灯里の仕事を手伝う予定でもあったので謝ることしかできない。だが当然のように、灯里はそれを許す。むしろ心配する。

「熱は……39度……かなり高いね。絶対に外に出たら駄目だよ? お医者さん呼んで来るからね?」
「あはは……灯里さん、大袈裟すぎ。大丈夫です、私昔から風邪を引いても直ぐに治るタイプなので」
「駄目だよ油断しちゃ! 風邪は怖いんだからね! って、ああお客さん来ちゃう。どーしよー!」
「お、落ち着いて灯里さ……ごほ。大丈夫だから」

 あまりの灯里の慌てっぷりに、アイは苦笑しながら灯里に大丈夫と伝える。しかし、実際39度となれば相当に辛いものだ。現にアイは、大分弱っている。身体を起こす事もままならない。

「よし、一緒に居てあげる!」
「お仕事休んじゃ駄目ですよ灯里さん」
「でもアリア社長じゃあまり……」
「灯里さん、アリア社長傷ついてます」

 さっきから後ろで様々な薬や医薬品を片っ端から集めていたアリア社長だったが、灯里の思わぬ言葉にシクシクと涙を流す。その事に灯里ははっとして、アリア社長に謝罪する。

「す、すみませんアリア社長」
「ぷぷいにゅ! ぷい! ぷぷいにゃ!」
「あはは……アリア社長が怒ってる」

 さすがに心外だと言わんばかりに灯里に怒鳴るアリア社長。心配している気持ちは同じなのだと主張しているのだろう。灯里はごめんなさいと謝る。
 その時、一階の方で声が聞こえて来た。どうやら今日の予約のお客様が来られたようだ。

「あ―――あ――」
「良いですから、灯里さん行ってください」

 一階に行くべきか、アイの傍に居るべきか。灯里にとって究極の二択なのだろう。凄い狼狽している。見ているこっちが嬉しくなってしまうほどにアイが大事なのだろう。だから、大事に思われていることが判るアイは、だからといって仕事を放棄してはならないと思う。
 もちろん、行って欲しく無いに決まっているのだが、そこは大人として我慢だ。

「わ、わかった。後で誰か呼んでおくね!」
「い、いや、風邪うつっちゃ……」

 ドタドタと階段を降りて行く灯里。もうすでに結構慌てている感じだ。そして一階の方でも、中々凄い事になっているようで、どんがらがっしゃーんという凄い音が聞こえて来た。

「だ、大丈夫ですか灯里さん!?」
「だ、大丈夫でふ……」
「怪我はないですか!?」
「ありがとうございますお客様、な、なんとか大丈夫ですので」

 どうやら階段から転げ落ちたらしい。それを安易に想像できて、アイはクスクスと笑ってしまう。
 そうしてふっと横に、丸くて白い存在が立っている事に気付いた。左手にお薬を、右手にお水を。しかしながらそのお薬、ただの便秘薬である。

「アリア社長……それじゃないです」
「ぷいにゃ!?」

 ガビンとショックを受けるアリア社長。しかしめげない。すぐさまベッドから飛び降りて、再び別のお薬を持ってアイのところへ。今度は胃薬だった。
 ちなみに一回では灯里達の声がまだ少し聞こえて来る。

「アリア社長、良いですよ。どれが風邪薬か判らないんですもんね」
「ぷいー……」
「風邪が移っちゃいけませんから、アリア社長も一階に居てください。私少し眠りますので」

 灯里達の声が聞こえなくなったところで、アイはアリア社長に風邪が移ってしまう事を恐れる。だけど傍に居て欲しいとは思う。どうしようと思いながらも、やっぱり風邪が移ることが問題だ。
 それに眠い。影になったり日が出たりとしている今日の気温は、凄く適温だ。丁度も気持ち良いので、アイも眠りたいのだ。寝ている間、傍に居られても困ってしまうので、アイはアリア社長にそう告げる。

「ぷぷい、ぷいにゃ」
「ふふ、おやすみなさい」

 ブイっとなぜかブイサインを出すアリア社長に、アイは少し弱弱しい笑みを浮かべる。かなり辛いと思われる彼女は、それでも強気に振る舞っている。

 そうしてアイが寝静まった頃、アリア社長は彼女の辛さを理解していた。故に、社長たる自分がするべきは一つ、助けを呼ぶことである。
 お出かけの準備をして、助けを求めるべき存在を考えて、アリア社長は一目散にダッシュした。眠っているが、もし目が覚めたら寂しくて泣いてしまうかもしれないから。だから、急ぐ。
 アイは、新しい家族だから。





 数時間後。
 太陽が横向きになり、正午を約3時間ほど過ぎた頃だろうか。アイは不意に、良い匂いに釣られて目が覚めた。
 時計を見ると、午後3時30分。結構予約が詰まっていたはずの今日は、灯里が戻って来ているとは思えない時刻だ。
 しかし、二階の厨房からか、良い匂いがしてくるのは間違いない。アイは少し身体が楽になった事を確認してから、ベッドから起き上がる。少し身体がふら付き、アイはまだまずいかなと思いながらベッドに座ったまましばらく休む。起き上がるだけで、こんなになっちゃうんだと、アイは自分の弱り方に驚きを隠せない。
 今までの疲れと、強い風邪により一気に身体にガタが来たのだろう。中々に辛い。

「ん、少し楽になったかな……アリア社長はどこに行ったんだろう」

 そう、キョロキョロと周りを見ても、アリア社長の白い姿は見えない。少し寂しいなと思っていると、トントンと階段を誰かが登って来る音が聞こえて来る。誰だろうと思いながらも、アイはその良い匂いにお腹が鳴った事に、お腹が空いていることを自覚する。そして自覚した所為か、お腹が物凄い音を立て始めた。顔を真っ赤にして収めようとするが、どうしようもない腹の虫はどうやら階段の人にも聞こえたらしい。
 少し足早に、階段を登る音に変化する。そして、その人は現れる。

「あらあら、アイちゃん起きたのね」
「あ、アリシアさん……」

 思わぬ人物の登場に、アイは驚きを隠せない。しかし同時に、彼女の手に持っている美味しそうな料理を見て、お腹が鳴ってしまう自分に顔を俯かせる。女の子として、やはり少し恥ずかしいのだ。

「良かった、お腹は空いているのね。それじゃ、食べられる?」
「あ、はい。いただきます」

 風邪を引いている時に一番困るのは、食欲がわかないことだ。物が食べられない場合、体力を作ることができない。それはつまり、凄い勢いで弱って行く事を意味する。逆にお腹が鳴ったアイは、身体の中の菌に白血球などの細胞が戦い勝利している事を意味することにも繋がる。だから、アリシアは良かったと言ったのだ。
 回復している事は、間違いないのだから。

「一応、熱を測ってみましょうか」
「あ、ありがとうございます」

 そう言って、アリシアが取り出したのは新しい温度計。それをアイの耳元に付けて、ピッとボタンを押す。すると一瞬にして、アイの体温が現れる。こういう技術だけはレトロじゃないんだよなと、アイは心の中で呟く。まあ、病気に関してだけはレトロである必要はどこにもない。むしろ今の技術を惜しみなく使うべきだろう。

「朝は何度だった?」
「39度です」
「38度5分。それでも少ししか下がってないわね」
「でも、随分楽になった気がします。たった5分でも」

 そう言いながら、アイは出された食べ物をパクパクと食べて行く。おかゆとみそ汁、食べ易く細かく切られたサラダ。もちろん、栄養たっぷり愛情たっぷり。

「私の愛情もしっかり入ってるからね」
「……えへへ、美味しいです」

 ふふと優しく微笑みながら、アリシアは一歩下がって今朝灯里が座っていた椅子に腰かける。そこでふと、アイはお味噌汁を食べながら気付いた。
アリシアのお腹が、少し大きい? 太った、とかそういうのではない。断じてない。であれば、いや間違いない。結婚しているのだからその内、きっととは思っていたけれど……子供? アイは食事を食べる手を止めて、思わずそのお腹に視線を向けてしまう。
 その視線に気付いたのか、アリシアが優しく自分のお腹に触れる。

「気付いちゃった?」
「はい、気付いちゃいました」

 アリシアの問い掛けに、アイのぼーっとした顔が、段々と笑顔に変わって行く。思わずそのお腹に手を伸ばそうとして、自分の身体の上にトレイを乗せている所為で動きが取れない事を思い出す。

「うふふ。しっかり全部食べてから」
「あ、あの、動くん、ですか?」
「時々」

 凄い、とアイは小さく呟く。小さな、小さな命がそこにある。女性は凄いと言われるが、自分がそうなるまで果たして何年か、いやそもそも相手がいるのかすら判らないが、アイは目の前の尊敬する女性に、子が出来ている事に驚きを隠せない。
 結婚をしているのだからその内、当たり前のように子供ができるのだろうとは思っていたが、妊娠していると言われると少し感じが違う。そう、なんだかまるで奇跡のよう。

「……男性と愛し合って、子供ができる……だけど、どうして私達女は生命を宿せるのかしら」
「人間の身体の仕組みを調べて、子供ができる理由は判ってますし、どうやって生まれるかもわかっていますけど……アリシアさんでも、やっぱり不思議って思うんですか?」
「実際こうしてお腹に子供ができても、不思議よ。どうしてここに、命ができるのか」

 アイはご飯を食べ終えて、トレイをヒョイッとベッドのよこにある小さなドレッサーの上に置く。それからアリシアのお腹に触れようと身体を伸ばそうとして、ガクンと身体から力が抜けてしまう。風邪をひいていたことを忘れていたと思いながら、アイはアリシアに助けられる。

「あらあら、私が近付くから」
「あ、あはは……すみません」
「うふふ。興味津津ね」

 アリシアが椅子を動かしてアイの傍へと移動する。そこでアイは手を伸ばしてアリシアのお腹に触れる。特に何も感じることはできないが、やっぱりなんだか不思議だった。
子供が出来て、生まれる。赤ん坊から始まって、成長していって、小さな子供は大きな大人になる。だけれど、正直に行って子供から大人の間、言うなれば境目が判らない。だけど人は、成長していくに連れて「大人になった」と言う。
子供から大人へ。そしてまた、大人は子を産み、子は成長して大人となり、そして子を産む。
 それは常に連鎖し、常に繋がり流れ続け、生命は育まれる。だけどどうして成長すると子供を作れるようになれるのか。

「……私、アリシアさんと会った時は小さかったですね」
「うん。けど、今は立派な女の子」
「幼女だったってことですか?」
「幼女……ね。けれどきっと、直ぐに灯里ちゃんみたいに女性になる」
「……私も成長するんですね」
「人間っていう動物だもの。成長はするわ。だけど……女の子は何時だって、心も成長するものよ」

 細くて綺麗な指を立てて、アリシアはアイの胸に指を当てる。そんな女として生まれた彼女達にしか判らない会話をしていると、不意にアリシアのお腹が動いたような気がした。
 アイは右手に感じた不思議な振動に、ドキッとする。そしてアリシアを見て、満面の笑みを浮かべる。

「動いてます! ちゃんと生きてます!」
「もちろん。そして、この子を産んだら、私は母親」
「そうですね、お母さんになるんですね!」
「……アイちゃん、興奮してると熱がぶり返すわよ?」
「あ」

 小さい頃は感情を押し殺しているようなところがあったアイ。それこそ出会った直後はそんな雰囲気があった。だが灯里と出会い、彼女と様々な話をしたアイは、どうやら素晴らしい女の子に育ったようだ。
 それが、アリシアは嬉しく、そして灯里の成長もアリシアには喜ばしいことだった。
 あれから二年。地球で言えば四年。灯里も既に21。アイは15歳。人の成長、それも自分が深く関わった存在が成長するというのは、早いと感じてしまう。そんな考えをしているアリシアに、アイは言う。

「でも、アリシアさんは、元々母親みたいな人でしたけど」
「え?」
「だって、灯里さんと話をしているアリシアさんは、灯里さんのお姉さんみたいで、私と話をしてくれる時はお母さんみたいなんですもん」
「……アイちゃん、私にとって、ARIAカンパニーは私の第二の家なの。だから、その年長者として、あなた達を見ているわ。お姉さんとしても、お母さんとしても……でもどちらかと言えば、お姉さんがいいかしら」
「やっぱりそこは若く」
「女の子だもの」

 うふふと、永遠の女の子を貫き通すアリシアに、二人は笑う。
 そこでふと、アイは今更に思った疑問を浮かべる。

「そういえば、アリシアさんはどうしてここに?」
「アリア社長が来てね、アイちゃんが倒れたっていうメッセージを置いて行ったの。だから居ても立ってもいられなくて、来たのよ」
「アリア社長が……?」
「ええ。とても心配していたわよ。あ、そうそう、はい風邪薬」
「ああ、忘れてた。ありがとうございます」

 手渡された風邪薬を口の中に放り、水は無かったかとドレッサーの上を見る。そこには、朝アリア社長が用意してくれていた水が未だに置いてあった。それでいいやとコップを持とうとした瞬間、アリシアに食器全てを回収されてしまう。

「古いお水は駄目よ。今持って来るからちょっと我慢してね」
「……ほねがいひまふ」

 カプセルの薬を口にいれたまま、アイはそれが落ちないように声を出す。
 そうしてトントンと降りて行くアリシアの背中を見て、綺麗な女性だなと思う。優しく気品があり、ふわりとした何かに包まれるような気になる。
 けれど――。

「こんにちわー!」
「アイちゃん大丈夫ー!?」

 一階の扉が開かれる音がすると同時に、聞き覚えのある声が聞こえて来た。時計を見ると、午後4時を過ぎている。なるほど、人によってはもうそろそろウンディーネとしてお客さんを乗せる時間は過ぎる時刻だ。後は
会社に帰って書類や予約のお客さんの名簿の整理をする時間だろう。
 だからといって、藍華とアリスはまだ来れる時間ではないと思う。期待の超新星の三人の内、二人なのだから。

「あらあら、アリスちゃんと藍華ちゃんね。はいお水」
「ありがとうほざいましゅ」

 上手く喋れなくて、変な言葉になってしまい少し赤くなる。素早く水と一緒に薬を飲み、言いなおす。

「ありがとうございます、アリシアさん」
「良いの良いの」
「あれ? 声がする――って、この声は!」
「藍華先輩、でっかい地獄耳ですね」

 え、聞き取ったの? とアイは藍華の耳の聴力がどうなっているのかと疑問を浮かべる。しかしドタドタと階段を登って来て、二階へと突撃して来た時、アリシアは椅子に座ってアイの隣で来客を出迎えていた。

「いらっしゃい藍華ちゃん」
「こんばんは、藍華さん」
「アリシアさん!」
「こんばんは、アリシアさん、アイちゃん。五月蠅いですよ藍華先輩。病人の前ですよ」
「うっ、ごめん。改めてこんばんは、アイちゃん、アリシアさん」

 どっちが先輩なのか一瞬判らなくなってしまうような状況で、アイとアリシアはクスクスと笑う。そんな二人の反応の意味を理解しているのだろう藍華は、少し顔を赤くさせる。
 短い髪の毛を照れ隠しに弄りながら、そうだと素早く背後に隠していた箱を前に向ける。

「アイちゃん、風邪はもう大丈夫なの?」
「まだ結構あるんですけど、大丈夫です」
「じゃあお腹は空いてる?」
「さっきアリシアさんにご飯を頂きました」
『スイーツが入るお腹は?』
「大丈夫です」

 思わず突っ込みを入れたくなる最後の言葉だが、そこは女の子。スイーツと聞いて黙っていられないのだろう。甘い物は体力にも影響するので、何にしても不要なものではない。それに、気持ちが明るい方が風邪にも早く勝てるというものだ。
 だから、アリシアも何も言わない。女の子として甘い物を食べられるのは幸せだからだ。まあもちろん、中には甘い物は嫌いという女性も居るが。

「ならば後輩ちゃん! お皿を四枚用意!」
「なら藍華さんはコーヒーを用意」
「あらあら、私も手伝うわよ」
「あ、じゃあアリシアさん特製ココアを」
「特製ココア……」
「あら? うん、でも良いか」

 藍華が取り仕切ろうとしたところで、アリスの目が光りコーヒーを要望。その二人の手伝いをしようとアリシアが腰を浮かせた時、アリスはこんな時くらいしかと思い目を光らせて彼の生クリーム乗せココアを所望する。そんなアリスの言葉にこれまた反応するのは、ベッドに座っているアイだ。
 なにそれ? という、少し不思議そうな顔は、しかし輝いている。そんな顔を見てしまっては、断れない。アリシアは小さく笑いながら、可愛い後輩のためにと動き出す。

「ところで藍華ちゃんとアリスちゃん、もしかしてアリア社長に?」
「そうなんですよ。突然店に突撃して来て。しかもゴロゴロ転がりながら。何があったのかさっぱり分からないですけど、あゆみさんが爆笑してたんで間違いなくあの人が何かしたんだと思いますが」
「私の方もそうです。でも会社の皆にちやほやされて一瞬本来の目的を忘れかけているように見えましたが」
「あらあら」

 三人の会話を聞いて、アイは二人も呼んでくれたんだとアリア社長に感謝する。しかし、それでも当の本人は帰って来ない。

「まあ、アリア社長が一人で来るなんてないと思うので、でっかい何か事件の匂いを感じて聞いてみれば、アイちゃんが倒れたと聞いて」
「私も。後輩が、それも知ってる後輩が倒れたとあっちゃあ、放っておけないわけですよ」

 三人の会話。なんだか賑やかだなぁと思いながら、優しい二人の先輩の気づかいにここから感謝をする。しかし三人が下に降りたおかげか、薬の所為か、はたまたお腹が膨れたからか、不意に眠気に襲われる。
 アイはスイーツがと思いながらも、しかし眠気には勝てない。
 少し態勢を変えて、寝転がると、直ぐに意識は闇の中へと落ちて行った。

 喋りながら戻って来たアリスと藍華は、ベッドの上のアイを見て会話を止める。そして小さく微笑むと、二人は階段を降りる。アリシアの問いに、寝ているという答えを返すだけで、三人は静かにお茶会を始めた。
 もちろん、アイの分はしっかりと残して。




 目が覚めると、時刻は夜の7時を回っていた。アリシアの料理を食べてから、アリスと藍華が来たところまでは憶えているが、その後の記憶が無い。
 かなりの眠気に襲われて直ぐに寝てしまったのが原因だろうと思いながら、アイは身体をむくりと起こす。
 暗い、ベッドルーム。あるのは月光の光のみ。その光は優しくアイを照らしていて、暗闇に慣れた瞳を光りに慣らすには十分に明るい。しばしボーっとしたまま、アイは不意に下の階がヤケに賑やかな事に気付いた。
 身体を起こして、ベッドから足を出す。頭はまだ少しクラクラするが、それでもなんとか立てるし、歩けるレベルだ。アイはゆっくりとした足取りで歩いて、階段をゆっくりと降りて行く。
 明るい電気の光が目を刺激するが、さきほど月光の光で少し慣らしていたおかげか、直ぐに目はしっかりと開けるレベルにまで慣れる。
 すると、そこには、皆が居た。

「あ、晃さんにアテナさんまで居る」
「お、なんだ、居ちゃ悪いか?」
「晃ちゃん、アイちゃんを虐めちゃ駄目よ」
「おはよう。良く眠れた?」

 晃の言葉にやんわりと突っ込むアリシア。そんな二人を放ってマイペースに問い掛けるのはアテナだ。
 優しくアイの手を取り、ゆっくりと歩かせてテーブルの席に。
 そこには、美味しそうなお菓子やデザート、それからご飯が置いてある。どうやら晩御飯をここで食べるつもりだったようで、今もキッチンから良い匂いがしてくる。

「こんなに来るんだから、大慌ててスイーツの追加をしてたのよ」
「お、多すぎませんか?」
「大丈夫です、そろそろでっかい食いしん坊さんが帰ってきますよ」
「食いしん坊さん?」

 藍華の言葉に、目の前にズラーっと並ぶスイーツの山々にアイは引き攣った笑顔のまま固まる。流石に多すぎるその量だが、しかしこれだけの人数なら食べられるのかと考える。
 しかしアリスの言葉に、アイの頭にはふと、白い真丸が浮かび上がった。良く良く周りを見れば、まぁ社長とヒメ社長もテーブルの上に鎮座している。二匹とも動かないのはきっと、もうとっくにお腹が一杯だからなのだろう。まぁ社長に至っては大口を開いたままテーブルの上を寝転がっている。自由だ。
 なるほどと、アイは理解する。そこでふと、灯里だけがまだ居ない事に気付いた。

「灯里さんは、まだお仕事ですか」
「今日の予約の数を見ると、本日の一番の労働者は灯里ちゃんだね」

 そう言いながら、晃がくるみパンを頬張る。今から晩御飯じゃないのだろうかと心の中で思いながらも、美味しそうに食べる晃を見て、自分のお腹も再び空いている事に気付く。
 食べて、寝て、起きて、食べる。おそらくはこの後も直ぐに寝る必要がある。風邪は酷くなってはいないが、確実に治りつつある。太りそうなんて言っていられない。速く治すことが第一だ。

「あ、あの。皆さん風邪が移るかもしれないのに、どうして私のために……」
「どうしてって……今更だねぇ」
「そうねぇ、今更ねぇ」
「うふふ、今更」
「ホント、今更だわ」
「でっかい今更ですね、アイちゃん」
「まぁ」

 晃、アテナ、アリシア、藍華、アリス、そしてまぁ社長までもが言う。ヒメ社長は何も言わないが、その瞳が「なにを今更」と言っていた。そんな人々に、アイは理解していながらも、自惚れではないかと考えてしまう。

「アリア社長に教えて貰ったからってのもあるけどね」
「もちろん、それを知ったからっていうのもあるけど」
「知っちゃったら、放っておけないじゃない?」

 綺麗な笑顔を見せる、水の三大妖精と呼ばれる人達。三人のその笑顔を向けられて、アイは目を見開いて何も言えずに恐縮してしまう。

「でもアイちゃん。知ったからこうして来るって言う事は」
「私達が、アイちゃんをでっかい大事な後輩で、友達だからです」

 だけど二人の先輩に言われて、アイはその眼に熱い何かが込み上げて来るのを感じる。嬉しくて、申し訳が無くて、それでもやっぱり嬉しくて――

「――それに、私にとって、アイちゃんは家族だもの。放っておけないわ」

 アリシアの言葉に、感極まって泣いてしまう。泣き虫と言われようとも、悲しいから、痛いから泣く事はない。嬉しくて、嬉しすぎて、涙が出てしまうのもまた、人の性だ。

「あ、ありがとう、ございます」

 必死に声を絞り出して、ひーんと泣いてしまうアイ。そんな彼女の涙の意味を理解できるからこそ、皆何も言わない。ただ、優しい微笑みを彼女に向ける。
 その時だ。

「アイちゃーん!」
「ぷいにゃーん!」

 アイの先輩と、社長の声が一階より響き渡った。扉が乱暴に開けられた音が二階に居る彼女達にまで聞こえて来る。

『お、本命登場』
「でっかい遅刻ですね」
「あらあら」
「心配だったのね」

 藍華と晃が同じ事を言って、アリスがクスッと言う。灯里の何時もの感じに何時もの笑顔を浮かべるアリシアと、同じような笑みを浮かべているアテナ。
 皆、大事で、大好きな家族とお友達。だけど――アイは心の中で皆に謝る。そして少し椅子をずらして、アイは皆に気付かれないように立ち上がる。

「アイちゃん! って、あれ皆さん!?」
「ぷいぷいにゃー!?」

 ずざーっと階段から飛び出して来た灯里が、電気が付いているからここに居るのだろうと想定して駆け上がって来て、同時にブレーキを掛けた。それと更に同時に、集まっている豪華メンバーに灯里も嬉しそうな驚きの声を上げる。
 その後ろで、ブレーキをかけられなかったアリア社長がゴロゴロと転がって行く。そのまま壁に激突する姿を、まぁ社長とヒメ社長だけが見ていた。

「灯里さん、おかえりなさい!」
「あ、アイちゃん! 風邪はもう大丈夫!?」
「皆さんのお陰で大分良くなってますけど、まだ少し」

 灯里に向かって抱き付いて、アイは灯里を出迎える。そんなアイの突撃を身体全身で受け止めて、灯里は動けるようになっているアイに心配そうな瞳を向けて来る。
 そんな二人を、暖かい目で見つめる5人。

「アイちゃん、灯里ちゃんが好きなんだねぇ」
「私達より圧倒的に灯里ちゃんかな?」
「んー、ちょっと悔しいわねぇ」

 ニヤニヤと笑う三人。そんな三人の言葉に、アイは少し赤くなって下を向く。しかし灯里が気に会って上目遣いで見てみると、ニコニコとした笑顔の灯里がそこには居た。その笑顔が大好きで、アイも釣られて笑顔になる。

「大丈夫です、アリシアさんへのラブは私が」
「藍華先輩にはアルさんが居るじゃないですか」
「あ、アルくんは別よ!」
「ほほう、藍華! アルの話を聞かせな?」
「い、いやぁ晃さん、そんな面白くは……」

 ガッシと肩を掴まれて、晃は藍華が逃げられないようにする。しかし藍華は必死に視線を反らして晃と視線を合わせないようにする。

「っすわ! ならばアリシア! 女として――その、妊娠してどうなんだ!」
「あら?」

 藍華が頑なに喋ろうとしないので、晃が矛先を変える。同時にアリシアが笑みのまま首を傾げた。そこで、全員がアリシアの腹部に注目する。

「んー……不思議な気分?」
「いや、もちっと具体的にだな」
「初めてってやっぱり痛い?」
『っ!? ストレート禁止ぃ!』

 アリシアの曖昧すぎるにもほどがある答えに、晃は突っ込む。しかしそこでボケっ子であるアテナがオブラートに包み隠さずに直球ストレートの質問を下す。その質問に顔を真っ赤にして藍華と晃が突っ込む。
 そこは後輩と先輩なのだろうか。良く似ている二人一組は、顔を真っ赤にする藍華と晃、興味津々のアテナとアリスの二つに分かれていた。そんな賑やかな中で、アイは灯里に少しシャガムように要求し、耳打ちをする。

「灯里さん、私達のお母さんは、それでも女の子みたいです」
「――アイちゃん、それはつまり?」
「本物のお母さんになっても、女の子は女の子のままみたいですよ」
「あはっ。アリシアさんは初めからお母さんみたいな人だもんね」
『ねー』

 クスクスと笑いながらそんな事を話す二人。今度はそんな二人に話題の矛先が変わる。

「アイちゃん、この中で誰が好きだ!?」

 一体全体何がどうなってそんな問い掛けが飛んでくるのか判らないが、晃の唐突すぎる質問に、しかしアイは即答した。

 皆優しくて、皆が素敵で、皆が大事で、皆が大好きで――けれど、皆さんごめんなさい。

「灯里さん!」

 それでも灯里さんが一番大好きです。だから、二番で我慢してください。






「私も大好きだよアイちゃん!」
「灯里さんー!」
「あらあら、熱いわね」
「お前の後輩達だお前の」
「女性同士ってわけですね?」
「そっち方面って良いの?」

 抱き締め会うアイと灯里。そんな二人を見て、口々に突っ込みを入れるメンバー。
 しかしその中で一人、無表情に親指を立てる緑の髪の毛の女性が居た。
 曰く、でっかい全然オッケー。
 その深い意味と、小さな行動に、誰も気付かなかった。







――――――――
再びアイちゃん登場。しかし今回は風邪を引いてしまいました。
なんていう話を作ってみました、ヤルダバです。こんばんわ。
全員と知り合いで、小さい頃からの知り合いなので、アニメ側を強めに。
しかし……誠に申し訳ございません。
ワタクシ――野郎です。男です。正真正銘、車大好きの馬鹿です。
にも関わらず女性のうんたらと……書いてて恥ずかしい。
でも子供ができる不思議というよりも、生命を作れる人間の神秘に関しては少しばかり興味があります。
「命は金で買えない」なんていう言葉がありますが、人間は犬や猫の命を「金で買ってます」ね。
しかも病気にならないように予防注射をされた子を。まあそれは良いでしょう。
しかし人間の子供は何故か少し違う。同じ命ですね。
同じ生き物で、生まれ方もほとんど同じ。なのに何か違う。きっとワタクシ、ヤルダバが人間だからでしょうねぇ。そして、成長が早いです。
子供の成長が早いとかじゃないと思うのです。きっと我々の生き方が忙しすぎるからなのだろうと、ワタクシは思っております。
だって専門学校から就職して、もう3年。速いです……。
車の年式とか見て「そんなに古いのかこれ!?」と驚く始末。

ちなみにもう7年か8年くらい前に、赤ちゃんを見ました。小さくて生まれたばかりの赤ちゃんでした。しかし久しぶりに会ってみると「あ、え、でかくね?」って心底思いました。
更に次に会った時は立ってるし歩いてるし「お兄ちゃん」なんて言われるし! おおう、赤ん坊だったよな? 成長って早いなって本気で思いましたね。そして弟が欲しいなんて思った(ぉい
皆さんもそんな体験をした事がきっとあるかもしれないですね!
ちなみに、「特に他人の子供が成長するのが早い」というのは本当だと、ワタクシヤルダバは思いましたでございます。

さてそっちよりもアリシアの妊娠です。……本編の中でも言ってますが、「結婚してるからそろそろ」と思って妊娠させてしまい、アイとアリシアを絡ませる理由にしました。
そして成長の話と人の神秘を。
でも――そもそも良いのか、アリシアを妊娠させてと、ビクビクしております。
お許しを。

そんなこんなで、今回はアイちゃんのとある一日でした。
風邪を引いても、アリア社長という友人がいて、周りにも大好きな友人が居る。そして誰より灯里が好きなアイでした。(ぉ
ちなみにアイが寝ている間、会社から持って来た書類やら資料の整理やらをやっていたなんて裏話も。
ちなみにアリスが最後に少し変なのは、taisaさんの作品を読んだために少し影響されました。
後で感想書きにまいります!

ではでは、今回はこれにて失礼いたします。



[27284] ARIA 前篇
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/05/12 07:30
注意:ついにオリジナルキャラを突っ込んでみました。他のキャラと上手くからませているつもりですが、いかんせん上手くできたかわかりません。
原作の雰囲気は壊さないようにと思いましたが……おそらく壊れてます。やっぱ難しいです。それでもかまわん! と言う方だけ先にお進みください。
前篇、中編、後編の三回のみの話の予定ですが、ちょくちょく増えるかもしれません。
もし「中々やるじゃないか」と思っていただければ幸いです。
ではでは、どうぞ。






 ARIA 

 「前篇」



 魂が叫んでいる。必ずなると。やってろうじゃないかと天に向かって吠えている。いや、咆哮を上げると言うのもありだろうか。例えば「やってやろうじゃないのー!」みたいな感じで。
 心は躍り、血肉は滾り、今にもスキップして走り回りたい。
 それほどに――彼女、アイナ・クルセイドは熱血しながらこの水の惑星AQUAに降り立った。
 2302年6月現在。季節は春。新卒が仕事を探し始める季節だろうか。ミドルスクールが終わるとそのまま就職する人は多い。その中の一人に数えられるのが彼女、アイナである。
 マンホーム出身のアイナは、太陽の光を真正面から受け止めて、両手を上げる。風が全身に当たり、潮の匂いを嗅いで、マンホームとは全く違うこの新天地を味わう。

「いやっほーう!」

 我慢できなくなって叫ぶ。テンションは上りに上がって自分でも止められないほどだった。しかし今はそんなことをしている暇はない。
 アイナは素早く背中の荷物を降ろし、会社の地図を出す。社名は浮遊船社なんていう名前が面白い会社だった。このマルコポーロ国際宇宙港からそんなに遠く無い場所にアイナ会社のようだ。
 アイナは走り出したい気持ちを抑えて、とりあえずこのアクアの雰囲気を楽しみながら行こうと歩き出す。見る物見る人、全てが初めての人達。金髪の女性がいたり、ピンクな髪の毛やら黒い髪の毛、緑の髪の毛の人なんかもいたりするが、きっとアクアの影響によって不思議な色の髪の毛ができているのかもしれない。
 アドリア海を見てみれば、憧れのウンディーネ達がお客を乗せて漕いでいる姿が見える。あの一員になれるのだと思うと、やはり魂が震えると言わざるを得ない。

「この星で私は、新しい息吹を貰うのだー!」

 うおー! なんて叫ぶアイナ。通行人の視線もなんのその、自由な少女である。
 歳は16。ミドルスクールを卒業してから一年、なんとか親を説得してこのアクアへの就職を認めて貰い、かつウンディーネの会社に見事合格を果たして遠路はるばるやってきた。そう、彼女は一年待ったのだ。故に常日頃から熱く燃える彼女の心は今、まさに爆熱している真っ只中。
 待ちに待った大好きな事や大好きな物に対する想いは、人それぞれだろうが、彼女の場合はその待ちに待った分だけ嬉しくて楽しくて仕方が無いのだ。

「…………さてさて、会社は」

 右手の地図を再び開き、頭の中から消え失せた道筋をもう一度確認する。
 そうして再び歩き出して、アイナは会社へと向かう。下宿先でもあるそこで、新たな人生の幕開けだと、意気込みながら。
 それから数十分後。迷路のように入り組んだ道をドキドキワクワクしながら歩き続け、ところどころに現れる猫に気を取られながらもそこはなんとか耐え、地図の通りに歩き続けた結果、アイナは会社に辿り着くことができた。
 だがしかし。世の中不幸な時はあるもので、アイナが向かった会社は、今日の朝倒産というとてつもない事態に陥っていた。

「え?」
「本当にごめんなさい! まさか今日この会社が潰れるなんて思ってもみなかったの!」

 目の前で両手をパンッと会わせながら頭を下げる、未来の先輩だった女性。その口から出たのは本日、アイナにとって地獄の一丁目に叩き落とされる言葉だった。

「ちょ、ちょちょちょちょっと待ってください!? じゃ、じゃああたしはどうすれば!?」
「うちの方でなんとかするから、本当に申し訳ないんだけど入社したい会社の候補とかある?」
「で、でも内定とか履歴書とか全部こちらに出して、なんとかクリアできたくらいなんですが……」
「そこはそこ。さすがに入社に来てくれたのにその日に潰れるなんて私達も予想してなかったし、そんな話があるなんていうのは噂で、実際にはまだまだ行けるって話になってたんだけど……親会社がここの売り上げが少ないって理由でね」
「そ……そんな……」

 がっくしと両膝を地面に付き、両手すらも地面に落ちる。まさかの四つん這いでの落ち込み。目の前の女性も凄く焦っているが、アイナはそんな事を気にしている場合ではない。
 つまり、入社する前に会社は消え、ウンディーネへの道は断たれた。更に下宿先という扱いでもあったので住処もなく、同時に一年気合と根性で貯めに貯めたお金ももうそんなにあるわけではないので、まずいのだ。
 前途多難とかそういうレベルではない。

「い、一応今日の夕方までに教えてくれる? なんとかこちらから話をするから」
「は、はい……」

 ずぅーんという音が似合うほどにアイナは落ち込む。だが、もしこれがマンホームの家での出来事ならばきっと、アイナはもうそのままウンディーネを諦めて別の仕事を探すだろう。
 だがしかし――アイナは落ち込んだまま周りの水の音、風の音、活気ある街の音を聞いて、思い出す。そうだ、ここはアクアなのだと。確かに目の前で入社前に会社が潰れるなんて思いもしなかったし、そんな体験、経験をすることはまずないだろう。せめて入社してから一日、もしくは一週間でも居られれば話はまた違っただろうが、それでも起こってしまった事は仕方がない。
 それに別の会社を探してくれれば話をしてくれるというのだ。ならば今は、行動あるのみ!

「判りました! もうこうなっちゃった以上どうしようもありません! では申し訳ないんですが、地図を頂けませんか!?」
「う、うん、判った。ちょっとまっててね」

 唐突に立ち上がり、唐突にフッ切ったと思われるアイナ。更に清々しい程に叫ぶ彼女に、一瞬押されながらも女性は微笑みを返しつつ店内へ入って行く。
 そして待つ事数分。女性はいくつかの資料と会社の紹介文、それから地図を用意してくれた。それを受け取り、アイナは考える為に少し離れる事を告げて歩き出す。
時刻は夕方まで。行動アイナのみである。
 少し大きめの広場を見つけ、そこにある長椅子に座る。とりわけ一番近い会社からと思いいくつかの会社の地図を取り出すが、ふと会社の紹介文を見てみようと思い当たりそちらの資料を一番上に持って来る。
 以外にも沢山あるのだが、その中でも最も大きな会社が二つ。姫屋とオレンジぷらねっとだ。その下にMAGA社、奇想館、エンプレス、天神遊船、スクロッコという会社がある。名前からして天神遊船というのが、アイナが入社する予定だった浮遊船の親会社だったのだろう。支店が作れるならば十分に大きいお店のはずだが、潰れるということは経営的に負担があったのだろう。詳しい事はわからないがきっとそうなのだ。
 まあなんにせよ、今更何を言ったところで始まらないし、起こってしまったことは仕方が無い。相手の方もそれを判っているから別の会社でも話をすると言ってくれているのだ。そのままポイじゃないだけマシである。
 だから、アイナはどこにしようかと探す。ウンディーネの会社……以外にも沢山あるわけだが、考えても意味はなく、そして考えたところで判らない。となれば、アイナは紹介文を全て畳んで荷物に押し込み、地図を持つ。
 直に見た方が、早い。

「出撃!」

 別に機械でもなんでもないのに、少女はそう叫んでから早足に行動を開始した。内心、かなり焦ってはいるが、そこは人として間違ってはいないだろう。
 むしろ、焦って動けなくなる人間の方が多いと思われるこの状況では、彼女の行動は間違いなく正しいのだ。
 しかし同時に、アイナはこうも思っていた。全ての会社を見学できるかもしれないと。短い時間で、時間制限もあるが、一日という時間は以外にも長い。普通なら一つ二つ回るのが限界だろうが、アイナはもう全ての水先案内人業界を歩き回る気満々だった。





 まず、一件目。やはり近いところからということで姫屋だ。古くからある歴史、といったところだろうか。その佇まいはなるほど、少しばかり威圧感というか時代を感じさせる古臭い建物である。壁画には大きく姫屋のマークが書かれているのは、この建物のトレードマークだろう。看板もあるが、この巨大な店その物を看板にしている時点で意味はなさそうだ。
 中に入ろうとして、ふと、アイナは思う。現在アイナの恰好は普通の女の子。上にタンクトップと薄いパーカー、下は短いスカートという井出立ち。どう考えてもただの女の子で、学生でもなければもちろん同業者にも見えない。つまり、入った瞬間お客さんと思われる可能性が高い。
 さてどうしたものかと考えていると、唐突に扉が開かれる。扉を開いたのは、背の高い美丈夫のの女性。綺麗とか、可愛いとか、女性を褒める言葉はいくつかあるが、その中でも目の前の女性は「カッコイイ」という言葉が似合う、美人だった。

「ん、なんだ?」
「あ、あの、姫屋の見学をさせてください!」
「……見学?」

 なんて言えば良いのか判らず、しかもどう説明して話を聞いてもらおう、見学させてもらおうと思っているところにこの女性の登場。ある意味チャンスである。その瞬間を逃してなるものかと、アイナは当たって砕けろ作戦で単刀直入に切り出した。
 女性は、ただオウム返しにアイナの言葉を反復しながら首を傾げた。

「ん、姫屋に入社希望者か?」
「あ、いえあの……じ、実はですね」

 さすがにどう話せばいいのか判らず、いつでもどこでもペラペラ喋るアイナもどもる。そりゃあ、入社しようとした会社が行ってみたら潰れていて、その代わりの会社を探す旅に出ているなどと早々話せる物ではない。
 とりあえず通行人の邪魔になるということで姫屋の中に入り、その出入り口で女性に説明をすると、女性はぶっはと噴出した。どうやらかなり面白かったらしく、我慢できなかったらしい。失礼なと思いながらも、アイナは目の前の女性をどこかで見たような気がすると、今更に思う。
 長い黒い髪、美人、背が高いくてモデルみたいな……姫屋のウンディーネ。

「あっはっは! ごめんね、さすがにそんな体験できるのかって思ったら、体験した場合そりゃ途方に暮れるさ」

 クックックと腹を抱える女性。目尻に涙まで溜めている。そんなにかと突っ込みたいが、実際自分がこんな話をされたらきっと笑う。うん、ほぼ確実に大爆笑だ。目の前の女性と同じくらいに。
 しかし笑える状況ではないこともまた、事実だ。

「良いよ、案内してあげよう」
「あ、ありがとうございます!」
「それじゃあ、まず自己紹介だ。私は姫屋のウンディーネ、晃・E・フェラーリだ。君は?」
「アイナです。アイナ・クルセイド」
「アイナだな。良し、なら付いて来い!」
「はい!」

 優しい人で良かったと思いながら、アイナは晃と名乗る女性の後ろを歩き出す。そうして一歩歩いたところで、ふと頭に浮かんだ女性の顔と、名前が一致した。そしてその通り名も。
 真紅の薔薇<クリムゾン・ローズ>こと、姫屋の晃。ウンディーネ業界のトップ3の一人で、水の三大妖精。

「…………あ、あの、クリムゾン・ローズの晃さん、なんでしょうか?」
「ん、ああ、そうだよ?」

 あっさり、気取るどころか凄くどうでもよさそうに答える晃。それより早くしないと時間なくなっちゃうよと言われて、アイナは呆けていた頭と身体を動かす。
 ぶっちゃけ、感動に一瞬全てが遠のいたのだった。

「ああ、あ、あの、あの、晃さんは――」
「はいストップ。見学なんだろ? まずは見て回る事を優先しなさい」
「……はい!」

 余計な事は良い。今は自らの目的の為に成すべきことを成せ。そう言われた気がして、アイナはむんっと気合を入れ直す。あの晃さんに案内してもらえるのだから、とっても凄いことなのだと思いながら。
 思いながら――思いながら――思いながら――晃のカッコイイ横顔、カッコイイ背中、綺麗な長い髪の毛に女性として欲しくなる豊満なボディ。そんなところばかりを見て、ぶっちゃけ姫屋の見学になったのかどうか判らないままに、アイナの姫屋見学はたったの数十分で終了していた。
 玄関にまで案内されてから、アイナはハッと我に返る。

「どうだった?」
「あ、はい! とても良いお店だっていうことも、古くからの決められた仕来たりとか、暗黙の了解の事も良く判りました。良くも悪くも古いお店っていうことですね」
「う、うん。……そんな事言ったか?」

 申し訳ない、ほとんど聞いていませんでした。と心の中で晃に謝り、アイナは当たり障りのない言葉でなんとか回避した。
 名残惜しいが時間もない。アイナは晃に感謝を述べてから姫屋を後にする。
 さあ、お次は別の会社だ。





 そうして数件の会社を周り、最後にオレンジぷらねっとをそこのウンディーネに案内してもらい、全ての会社を回って終了。一段落できたが、いかんせんこれで終わりではない。
 今日見た会社は、全てが同じような物と言えば同じようなものだ。会社が下宿先であることも、会社に部屋があることも同じ。違うのは二人部屋か、一人部屋か、食事は食堂か、自分達で作るか。ほとんどそれくらいで、後は朝が早いか遅いかだが、最初の見習いウンディーネの両手袋<ペア>にはあまり関係はない。
 ならば後は決めるだけなのだ。最初に晃さんに会えたことは嬉しかったと別の事を考えながら、オレンジぷらねっとから離れ、近くの公園に座り込む。
 うーん、どうするかと考えながら、再び地図と会社の紹介文を取り出す。
 どれもこれも良いところで、皆優しいところばかり。まあ人と接する職業なのだから、優しい人や素敵な人ではないと務まらないだろう。とはいえ、そこは人それぞれと言う奴だ。ウンディーネになる理由は十人十色。人と接したい人も居れば、きっと給料が良いからって人も居るだろう。
 そんなことは、さて置いて。
 アイナはセミロングの黒髪を指で弄びながら、うーんと唸る。晃さんと出会えたので、姫屋が候補の一つなのは言うまでもないのだが、オレンジぷらねっとで偶然見てしまった天上の謳声<セイレーン>のアテナが歌っている場面を目撃してしまったこともある。綺麗な声はアイナの足を止めさせ、徹底的に魅了した。そして歌が終わった後、すぐにそのドジっ子としか思えないとんでもドジを見て、可愛いと思ってしまったのもまた問題だ。
 晃とアテナ。やはり水の三大妖精が居る会社に入りたいと思ってしまうのは、憧れる女の子なのだから仕方が無いだろう。しかしそこでふと、アイナは思いだす。
 水の三大妖精なのだから、もう一人、白き妖精<スノーホワイト>ことアリシア・フローレンスがいなかったのはどういうことなのだろうか。
 マンホームからこのアクアに来るまで、急がしてくて水先案内業界を調べている時間は無かったが、さすがにあの三人の会社の事は調べていた。いたのだが、今更に気付く。
 アリシアが居るはずの会社、アリアカンパニーの紹介文や地図だけを貰っていないのだ。
 全ての会社を回るとなればやはり、あのアリアカンパニーにも寄りたいし見てみたいという思いはある。だがいかんせんマンホームでも会社は写真で見れても、その場所までは判らないし、なによりこの迷路のように入り組んだ街だ。地図無しでは地元の人間にしか判らない。
 そこで、ん? とアイナは気付く。そうだ、地元の人間に聞けばいいのでは。そう考えて即行動しようとした、その時だった。

「こんにちは~」
「うひょあ!?」

 唐突に声を掛けられて、アイナはビクッと肩を震わせた。しかし声を掛けた本人は間違いなく驚かそうとしたわけではなく、そこに居たアイナにただ優しく挨拶をしただけなのは間違いない。
 アイナはその声の主を見るために振り向くと、そこにはウンディーネの服を着た女の子が立っていた。歳はおそらくアイナと変わらないだろう。足元には帽子と服を着た猫が一匹。

「こ、こんにちは……」
「日向ぼっこですか?」
「え、いえそういうわけでは」
「ん? ああー、ウンディーネ会社の資料。っていうことは、ウンディーネを目指してるんですか?」
「目指してるっていうか……入ろうとしたっていうか……」
「ぷいにゅ?」
「にゃんこー」

 唐突に問われた事には上手く対応できないアイナは、どうしようと心の中で思いながらも、愛想笑いを浮かべて目の前の女性に答える。とはいえ、曖昧な良く判らない答えしか返せない。
 それでも、足元に居る猫が可愛いことだけは判る。

「んー……あれ、アリアカンパニーの資料が無いですね」
「あ、そうなんですよ。そこの会社全部見学したんですけど、アリアカンパニーの資料だけが無い事に今気付いて……気付い…………」
「じゃあ、私がお連れしましょうか?」

 白い真丸い猫の両手を掴んでばんざーいと遊んであげると喜ぶ猫。そんな状態でウンディーネの人からの問いに、アイナは振り返りながら答える。そこでふと、この人はどこのウンディーネさんなのだろうと帽子の名前を見て、ピシッと固まった。
 同時に素早く目の前の猫を見る。その帽子を見て、再び固まる。ウンディーネさんの提案に、アイナは、

「お願いします!」
「うわ!? お、おっきい声ですね」
「ああ、驚かせてすみません! なんかテンションが上がると声が張り上がるタイプで」
「……ってことは、唐突な時は小さくなっちゃう?」
「……せ、正解です」

 唐突にガバッと頭を下げてまで言ったアイナの言葉に、ウンディーネの人は少し驚いていた。そして一言二言で、アイナのちょっとしたコンプレックスまでも言い当てる。
 そう、心は熱血、魂を燃やす熱血少女で声はでかいのだが、とはいえ、実は唐突な事が起きたりするとビックリして声が小さくなってしまうのだ。あと突発的な事に対応が上手くできないというのもある。

「ふふふ。シャイさんだ」
「しゃ、シャイって言わないでください!」
「じゃ、素敵な恥ずかしがり屋さんですか?」
「べ、別に恥ずかし……がりやってわけじゃぁ……ない……かなぁ?」
「ふふふ。それじゃあ、行きましょう。付いて来てください。私達のアリアカンパニーを、ご紹介しますので」
「ぷいにゅー!」

 恥ずかしがり屋に素敵を付ける意味が良く判らなかったが、アイナはそこは敢えて無視して目の前のウンディーネに付いて行くことにする。
 ウンディーネさんと猫の帽子には、アリアカンパニーと書かれていた。





 アリアカンパニーの片手袋<シングル>ウンディーネ水無灯里。それがウンディーネさんの名前だった。道すがらこの街に来たのは何時とか、会社はどうとか、灯里の言葉に相槌を打ちつつ自分の事を洗い浚い喋ってしまったアイナは、灯里の巧みな話術に驚いていた。実際にはほぼ全て自分から話したのだが、本人はそう思っているようだ。
 しかし灯里は灯里でアイナの話が面白かったらしく、それからマンホームからアクアまでの航宙時間内に何をしていたとか、他愛の無い話をしながら歩いていた。
 で、道なんかほとんど頭に入らないほどに話がヒートアップして来たところで、灯里の家兼会社であるアリアカンパニーがアイナの前に姿を現した。
 今までと違って、海の中に立つような立地。三方を海に囲まれ、一方を陸に囲まれている小さな会社。まるでパッと見、ただの小さな一軒家。それもけったいなところに立てた一軒家だ。しかし、どことなく不思議な雰囲気を纏うこの会社は、今までの会社に無いなんだか暖かくなるものがあった。
 どう見ても、ただの建物。アリアカンパニーと呼ばれる小さな会社なのに……何が違うのかは判らないがきっと、本当に「家」のように感じられるのが不思議なのだろう。
 大きさや貫禄、歴史や時間。そんな物理的な物ではない、別の何かが、他の会社よりも全てにおいて勝っている。

「なんだか、不思議な会社……っていうか会社なのコレ」
「これが我が社のアリアカンパニーです。ご案内します」
「ぷぷいにゅ」

 小さな声で聞こえないように言うアイナ。さすがに聞こえては失礼になると配慮したのだ。案の定聞こえていないのか、灯里は良い笑顔で自分の会社を紹介する。その笑顔は、営業スマイルではない。本当に、心の底からアイナに自分の会社を紹介するのが楽しい、嬉しいと感じている顔だった。
 笑顔の種類は、アイナには良く判るから。

「こちらがカウンターです」
「壁一面がカウンターエリアなんだ」

 上には小さな看板にアリアカンパニーと書かている。同時に腰の高さまでのカウンター。椅子に座れば丁度肘が置ける高さになっているようだ。
 更に中へと招待される。

「ここが仕事場です」
「ぷい! ぷぷいにゅ!」
「ここが社長室です」

 大雑把! という心の突っ込みは言わず、アイナはリビングとしか思えない場所と、小さな机に「アリア社長」と書かれた小さなネームプレートが置かれている場所を見る。そこに隔たりはない。

「我が社は社長との触れ合いが大事なんですー」
「ぷいにゃー」

 机の上でごろりと寝転がり、その真丸いお腹を見せるように仰向けにする。そのあまりにも見事な丸っぷりに、アイナは思わず近づいて撫で回す、捏ね繰り回す。軟らかい弾力が指に良い刺激を与えてくれる。
 ――イイ!

「アリア社長のお腹最高! もちもちー!」
「ちなみにアリア社長のお腹の名称はもちもちぽんぽんです」
「もちもちぽんぽん!」
「ぷぷいにゃー!!」

 我慢できなくてぎゅむーっと抱き締めながらそのお腹をものっそい勢いで撫で回すアイナ。その手の動きは凄まじくエロく、アリア社長は良い知れぬ恐怖を覚えて悲鳴を上げながら涙を流す。
 アイナはその不思議な名前に取り付かれ、しかしその名はまさに存在を体現するかのような見事な名称だと納得した。何せもちもちであり、ぽんぽんしているお腹だからだ。

「ちなみに二階にキッチンがあって、そこで料理をして朝食から夜食を食べます」
「なるほど、こちらはやっぱり自分で」
「はい、自分で作ります」

 ん、夜食? 夕食ではなく、その更に先ではないかと心の中で突っ込みながら、以外に食いしん坊な人なのかもしれないとアイナは思う。
 それにしてもと、アイナは中を見渡す。
 マンホームの家にはない暖炉、綺麗にされている棚やテーブル、少ない家具でしっかりと整理整頓されているし手の届いた掃除もしてある。小さな机の上では猫が転がってるし。なんだか落ち着く会社……というより家だ。
 アリアカンパニーには少数の人間しか入社しないと言われていて、確か今まで最大でも二人か三人だったと聞いている。その内の数人は寿退社をしているとか。魅力溢れるアリアカンパニーの女性に惹かれる男性は多いというわけなのか、それとも逆なのか。

「それからですね、二階に上がります」
「はい」

 楽しそうに会社を紹介する灯里。本当に楽しくて嬉しいのだろう、その顔はまるで歳に似合わない少女の笑顔だ。そう、例えるならそれは無垢な笑顔というものだろう。同じくらいの歳で無垢な笑顔……そうとうの天然な子なのか、それとも心から優しい子なのか、どちらかだろう。
 案内されて二階に登る。更に小さな部屋というべきそこは、キッチンがありテーブルがあり、少し大きめなソファーがあるだけで、他には何もない。ただバルコニーへの扉であろう扉と、階段がもう一つ。

「ここで朝ご飯とか食べるんですけど、場合によってはですね」

 テーブルに置いた手を離し、テッテと駆け足でバルコニーへの扉に近づいて開く。そして外からオレンジ色の光が、アリアカンパニーの中に入って来る。白い色を基調としていた部屋が、一気にオレンジ色に染め上がる。その光景が、なんとも綺麗だった。
アイナは灯里のこっちという手招きを確認して、外へと出る。二階から、アドリア海が一望できる。

「時々、この景色を見ながら昼食をとったりします」
「うわぁー」

 真っ赤に燃える太陽というべきか。沈み行く太陽が水平線に消えて行く。今日もお疲れ様なんて太陽に言ってから、アイナは左右を見る。この時間に、未だゴンドラは動いている。皆気持ち良さそうに漕いでいる。中には海の真っ只中でお茶をしている人までいる。
 のんびりとしている風景。海の波は低く、風も静か。金色の海は凄く綺麗で、心が満たされる。

「不思議ですねー、自然って」
「え?」
「だって、大自然の壮大な景色って、私達人間の心を大きく広げてくれるじゃないですか」
「あは。そうだねー、心が広くなるのもありますけど、心が温かくもなりますよねー」
「そうですそうです。んー、気持ちが安らいだら熱血してきたー!」
「ふふ。アイナさんはあの太陽みたいに、素敵に燃えてる人なんですね」

 灯里の言葉に、アイナは一瞬固まる。両手を上げてまで叫んでしまったその言葉を、一瞬後悔した。そんな事を言われた事が無かったので、頬が熱くなるのが判る。
 困った――今までこんな会話に付いて来れる人はいなかったが、この灯里と言う人は間違いなく自分の上を行く人だ。しかし……嫌味でもなんでもない、心からそう思った言葉を言ってくれているので嫌な気は全くしない。
 不思議な人だ。
 そして同時に、アイナは灯里に問い掛ける。

「あの、灯里さん」
「はいー?」
「私、アリアカンパニーに入社したいです!」
「…………はひ?」

 バルコニーの上で柵に手を付いたまま、二人は固まる。そこで、アイナはふと思い出した。

「あ、そだ。夕方にはもう一度行かないといけないんだっけ。すみません灯里さん、後で色々お願いしに来ると思いますので、ご検討お願いします!」

 ではっと右手をシュタッと上げて、アイナは部屋に戻り一階へ降り、一階からダッシュで外へと出て、浮遊船社へと駆けだした。
 残された灯里は、あれ? と首を傾げる。

「アイナさん……ウンディーネを目指してるんじゃなくて……入社する会社を探してたの!?」

 はひーと今になって慌て始める灯里。状況は上手く飲み込めないが、とりあえずアリシアに相談だと、自分の唯一の先輩の帰りを待つことにする。





「そう、アリアカンパニー」
「はい。凄く良い人がいて、凄く綺麗な場所で、凄く心が落ち着いて、ここ良いなぁって」
「なるほどねぇ。アリシアさんも居るしなぁ……プリマである私は今更アリアカンパニーには入れないし。ああ、アリシアさんのご指導を受けたかった」
「…………結構ミーハー?」
「ん? なんか言った?」
「いえ、何も」

 笑顔に凄みがあるというのはこう言う事を言うのかと思いながら、アイナはしかしどうしようかと悩む。この会社に話をしてもらうか、己の力で入社を頼みこむか。基本は己の力のみでやらねばならぬ。会社に入社するというのはそういうものだ。しかし一度会社に入り、その会社が潰れてしまった場合には会社が責任を持って別の会社を紹介しなくてはならず、話もしなければならない。
 とはいえ――状況が状況。そこは臨機応変に対応しなくてはならない。
 それに紹介された会社の中に、アリアカンパニーは無かった。その理由は、アリアカンパニーに紹介できないからだ。少数精鋭と時々言われるあの会社に入るには、そもそも勇気が居る。あの偉大なグランマと、アリシア・フローレンスと共に居て、かつその名を背負うというのは酷で、辛い物がある。おそらくそのプレッシャーを跳ね除ける程に強い精神か、もしくは気にしない天然でなくてはならないだろう。
 だから、基本的にアリアカンパニーに行きたいと思っても、行動に移せないのが現状なのだ。それに、この小さな会社から行くのは気が引けるというのもある。

「ん~……でもまあ、あなたがそれを望むのなら、私も応援するわよ?」
「ありがとうございます。でも……やっぱり自分でなんとかしてみます!」
「そう。まあ今日一日じゃあやっぱり片付けも済んでないから……もし駄目だったら、またここにいらっしゃい。明日でも一応、他の会社には話を通す事はできるから」
「判りました。ありがとうございます」
「ん、頑張ってね」
「はい!」

 そう言って中に入って行く女性。そういえば結局名前を聞かなかったなと思いながら、アイナは踵を返す。そして数歩歩いてから振り返り、結局一度もお世話にならなかった会社を見て、小さくため息を吐く。ここに楽しい思い出が作れる予定だったのだが、それはもうできないことだ。
 少し名残惜しいというのもある。何せ人生で最初の会社だったのだ。とはいえ……まあ仕方が無い。アイナは少しだけ小さくお辞儀をしてから、歩いて行く。
 向かうはアリアカンパニー。

「さあ、勝負の時!」

 どこかおかしい言い回しを言いながら、アイナは気合を入れる。魂に火を付けろと心の中で自分を叱咤して、これが最後のチャンスだと心を燃やす。
 アリアカンパニーが駄目だった時は――白く燃え尽きる所存でございます。





 アリアカンパニーに辿り着くと、そこには灯里が立っていた。その足元にはアリア社長が寝転がってゴロゴロとしていた。なんとものんびりモードであr。灯里は灯里で暗くなった夜空をボーっと眺め、視線を追ってみればそこには月があった。
 月光ですなぁと心の中で呟きながら、アイナは灯里の両肩に手を置いた。びくりと動く両肩に、笑いそうになる。

「あ、アイナさん」
「はい、来ました。ご検討していただけました?」
「それが……」

 あ、やっぱり駄目だったのかなと、アイナは不安に思う。目が泳ぐ灯里。困った笑顔。その顔が意味するところは何か。

「履歴書や、アイナさんの詳細な情報を貰ってないんですけど……」
「…………あ」

 すっかり忘れていたと、アイナはポンっと手を叩く。
 少し大きめのバッグを降ろして、アイナは中から履歴書や自分の生年月日等々の情報が書いてあるデータディスクを取り出す。それを灯里に渡そうとしたところで、灯里はとりあえず中にと言う。
 アリア社長も短い手で中へと誘ってくれていた。
 そんなわけで、場所を変えて中へ移動。するとそこには、長い金髪の女性がテーブルの上で何か雑誌を読んでいた。優しげな雰囲気を漂わせた、美女。まさに絶世の美女だ。

「ぉぉ、アリシアさんだ……」

 小声で驚くのは勿論アイナである。本物のアリシアさんが居ると思い固まっていると、灯里がアリシアのところへと向かい、何かを喋る。少し遠くて聞こえないのだが、アリシアは顔を上げてアイナに視線を向ける。
 緊張に身体が固まりそうだが、しかし熱い心でもって燃料を燃やし、アイナは身体を動かす事に集中する。

「は、初めまして! アイナ・クルセイドと言います!」
「……あらあら、元気の良い子ね」

 思った通りの優しい声に、アイナは一種の感動すら覚えた。褒めてもらえたーと。
 が、本題はそこではない。

「それで、アリアカンパニーに入社したいってお話を聞いたのだけど」
「あ、はい。実はですね――」

 とりあえず事のあらましを話す。アクアに辿り着いて早々に会社が潰れた事を知り、様々な会社を見て来た事。その中でもアリアカンパニーがとても素敵な場所で、景色も良ければ心も常に明るくいられそうだったからだ。
 そういった事まで話て、不意にとんとんと足を叩かれる。下を見ると、そこにはアリア社長が居た。短い手を動かして、椅子に座ったら? という感じに椅子を指す。その行動を見て、灯里も椅子を引き出してどうぞと手を使ってジェスチャー。

「ありがとうございます」
「立ってると疲れちゃうでしょ?」
「えへへ……」

 一度喋ると止まらないんですと心の中で言いながら、アイナは真正面のアリシアに視線を向ける。緊張に倒れそうだが、頑張る。さっき手元に出していた履歴書や個人データを差し出して、

「お願いします!」

 と頭を下げた。それを受け取り、アリシアは履歴書をさらっと見て、個人データに至ってはとりあえずテーブルの上に置く。

「アイナ・クルセイドさんだっけ? 歳は?」
「16です」
「灯里ちゃんと一緒ね。ちなみに趣味は?」
「あ、えと……ね、熱血バトル漫画とかアニメとか……子供っぽいですね」
「うふふ、良いのよ。じゃあ、ゴンドラを漕ぐのは好き?」
「あ、それはもちろんです。マンホームのバーチャルだと得点は低いけど、楽しくて止められない日が何度も」
「ふぅん……マンホーム出身……ここは不便だけど、やっていけそう?」
「そこは大丈夫です。あたし、自ら面倒なことをやってたんで。マンホームでも散歩とかしてましたし……ただまあ、散歩しても何も面白くなかったですけど」

 マンホームの機械仕掛けの世界を思い出して、アイナははふうと溜息を吐く。それに比べてここのまったり世界はどうだ。素晴らしいだろうに。あんな機械の世界では人は駄目になってしまう。それを目の当たりにして来たし、なによりここに来てその空気の美味しい事、世界の雰囲気の優しい事。マンホームとは違いすぎる。
 しかし履歴書はチラ見。個人データは見ていないのに、アリシアはんーっと次の質問を考えている。なんだか、変な面接……なのだろうか。

「猫は好き?」
「ぷいにゅ!」
「大好きです」

 アリシアの問いにへい! と言うように手を上げるアリア社長。その姿を見てあまりの可愛さに顔の頬が緩むのを感じながら即答する。

「素敵な景色は?」
「大好きです」
「美味しいご飯は?」
「大好きです」
「甘いスイーツ」
「大好き!」
「子猫ちゃん」
「大好き!」
「じゃあ合格」
「だい――へ?」

 勢いで答えて行き、最後には大好物ともいえるスイーツと子猫を出されてはもう叫ぶしかない。大好きと叫ぶ事二回、三回目に何か別の言葉が聞こえたアイナは、その時点で固まった。

「ね、アリア社長?」
「ぷぷいにゅ! ぷい! ぷいにゃ!」
「え、あの?」
「うふふ。景色が好きで、甘いスイーツが好きで、子猫が好きな人に、悪い人はいないわ」
「そ、そのような判断基準が!?」

 それは間違いなくアリシア専用の判断基準なのだろう。しかし個人データや履歴書をほとんど見ていないし、特に個人データを見ないと自分が何者なのかもはっきりとしないだろうに、合格とな。アイナはその緩さに驚きを隠せない。

「ちなみに判断基準には履歴書のこのやりたい事もあるわ。アイナさん、素敵な探し物をしたいなんて書いてるんだもの。応援したくなっちゃうわ」
「あ、あはは」

 そういえば書いたなと、アイナは思い出す。実際素敵な物を探して回りたいと思っていたし、丁度いいやとアイナは特に弁解もせずに笑う。

「ん、ということは……私、入社できるんですか!?」
「アリア社長もオッケーと申しております」
「ぷいにゃ!」
「おめでとうございます、アイナさん!」
「あ、ありがとうございます! 灯里さん、アリシアさん、アリア社長!」

 ペコペコと頭を下げて、一安心。なんか嬉しくて目から涙まで流れて来る。アイナは涙を手で拭き取り、えへへと笑う。嬉しいのに涙が出るんだから変なのと。
 その時だ。ぐぎゅるるるうとアイナのお腹の竜が吼える。虫、というにはあまりにも盛大な音だった。

「はう!?」
「あらあら、お腹空いてる?」
「丁度ご飯ですから、一緒に食べましょう!」
「ぷぷいにゃー」

 そういえば朝から何も食べずにあっち行ったりこっち行ったりしてたんだったと思い出して、アイナは恥ずかしさに縮こまる。そんな姿が可愛いからか、二人の女性に微笑みが浮かぶ。

「じゃあその前に」
「はい」
「?」

 アリシアが立ち上がり、灯里がその隣に立つ。そうして二人がアイナに近づき、手を差し出して来る。

『ようこそ、アリアカンパニーへ』
「……あはっ。はい!」

 二人の手を両手で掴み、アイナは満面の笑みで答えた。
 今日から――楽しくなりそうだ。





「ん、ふあー」
「お、おはよう、アイナちゃん」
「あ、おはよう、灯里ちゃん……なんでそのようなところに?」

 朝、アリアカンパニーに入社して初日。とりあえず家は無いしお金もそんなに無いのでホテルもアパートも駄目ということで、灯里の部屋に止めて貰う事になったわけだが、考えてみれば二人以上の人が入社した場合の事を実はアリシアも知らなかったらしい。
下宿のための部屋は一つ。そこに既に灯里が住んでいる。状況が状況で、夜だったためにとにかく調べるのもどうするかもとりあえず明日として、昨日は灯里と共に同じベッドの上で眠りに付いたのだ。
 だがどういうわけか、灯里は自らの胸を護るようにして手でガードして、少し離れたところで顔を赤くしながら縮こまっていた。どうしたのだろうか。

「……あー、あたし、もしかして……」
「……」

 わきわきと手を動かす。ぐっぱぐっぱ。その手の動きに、コクリと頷く灯里。顔は真っ赤。アイナも真っ赤。
 アイナは昔、人形を抱きながら眠っていた時期がある。その時の人形は肌触りが良く良い弾力を持っていたのを今でも覚えている彼女は、その人形が破けて捨てられてしまってからでも以来、寝ている間に何かを掴み、揉むという良く判らない癖のようなものがついてしまっているらしい。
 それもある程度の弾力と、掴める大きさ。それが判ったのは、マンホーム時代に友達の家に止まった日の後。朝起きると胸をガードして寄るな変態と言われる始末。どうやら早速起動したらしい。

「も、もーしわけない」

 昨日の夜。寝るまで灯里と話し込み、既に仲良くなっていたわけだが、これで亀裂が入ったかもしれないと少し不安になる。アイナは思いっきり土下座して、本気で謝る。

「う、うん、その……は、初めてで……」
「や、そのマジな初めて発言はまずいと思うよ? 灯里ちゃん?」

 どうやら相当に揉み尽くしたのか、灯里の胸元のパジャマが随分とヨレヨレになっている。こいつぁまずいとアイナは本気で思い、しかしながら同時に悪戯魂が燃え始める。そりゃあ元の発生原因は子供ながらに可愛いものだと思うが、今この歳でもそれをした場合に、オヤジと呼ばれる行為の一つである。ならば徹底してオヤジモードにでもなってやろうかと、アイナはにやりと笑う。
 っと、そこに横からピョンっと灯里とアイナの間に入り込んで来るアリア社長。その口には、真新しい制服があった。

『……おはようございます、アリア社長』
「ぷいにゅ!」

 とりあえず二人は挨拶をして、アリア社長が持って来た制服に視線を移す。

「こ、これは!」

 まさかも何も、それはアイナのアリアカンパニーの制服だった。

「あは、アリア社長自分で持って来ちゃったんですね」
「ぷぷい」
「アリア社長―!」

 がばちょ。そんな効果音が付きそうな勢いでアリア社長に抱き付くアイナ。そんな二人を見て微笑んでから、灯里はベッドから降りる。
 とりあえず――危機は去ったようだと灯里は思ったのだ。
 そんな事を知らないアイナは制服を手に、おーっと声を上げる。

「あ、良い匂い。もうアリシアさん来てるみたいだね」
「え!? 本当!?」

 言われて鼻を動かして見ると、確かに良い匂いがする。朝のご飯としては色々な匂いがする。パンとスープが基本だったマンホームの家を思い出すと、一体何がここの食卓では並ぶのか、楽しみでしょうがない。
 アイナは制服を見て、どうやって着るのかを考える。下から? 上から?
 灯里が着替えている姿をちらっと見る。下着姿を見てボンっと真っ赤になって視線を反らす。駄目だ、やはりそういう方面は駄目だ。
 本当にオヤジになってしまう――!

「よ、よし」
「先に降りてるねー」
「あ、はーい」

 もう着替えたのか、灯里は昨日出会った際に見たウンディーネの制服で下へと降りて行った。
 アイナも着替えるためにとりあえずパジャマを脱ぐ。灯里のパジャマが綺麗に畳んであるのを見て、アイナもしっかり畳むことにする。
 それから制服を……スリットが入っているので上から着るには少々面倒かと思い、アイナは下から引き上げる。ワンピースみたいな作りで、肩に掛け上からカーディガンのようなものを着る。そうすると、アリアカンパニーの制服は完成。
 結構暑そうに見えて、全然そんな事はないくらいに涼しい。スリットからの風が気持ちが良い。こんな服は着た事が無いアイナは、少しドキドキした。鏡を見て、自分の姿を確認する。

「へ、変じゃないかな」
「ぷぷいにゅ」
「あ、アリア社長。……ずっと居たんですか。女の子の着替えを覗くなんて」
「ぷい?」
「っふ。女としても見られないくらいに小さいですよあたしは」

 髪の毛だけはそこそこ長いセミロングを頭の後ろで結んでポニーテイルにして、帽子を被る。むう、と一つ唸ってから、ポニーテイルはやめてそのままセミロングの状態にする。面倒だからこれでいいやと、アイナは帽子を被る。
 ウンディーネの制服。憧れたそれを着れて、アイナの心は燻り始めている。もうゴンドラに乗って煌めく海原を走り回りたい気分だ。しかしここは会社。そんな事をいきなりしてはならない。
 とりあえず先輩であるアリシアに挨拶だと降りて行って……少し気恥ずかしくなってしまう。似合っていると言ってくれるだろうかと。

「アリシアさん、おはようございます」
「あら。あらあら、似合うわアイナちゃん」
「ありがとうございます」
「またアリア社長ったら。新しい子の制服を自分で持って行っちゃうのが好きなのかしら」

 ドキドキしながら挨拶をしてみると、普通に挨拶を返し、似合うとも言って貰える。それだけでちょっぴり嬉しいアイナは判り易い子である。なんとなく気恥ずかしくて、帽子で口元を隠してしまう。ニヤリと笑みが浮かんでしまったからだ。
 ちなみにアリシアの言葉など全く気にしていないアリア社長は、アイナの後ろからぴょんぴょんと階段を降りて来る。手足が短いのも大変だななんて思いながら、アイナは可愛いその動きをテーブルに乗って動きが止まるまで目で追う。
 っと、そこでテーブルの上に料理が乗っている事に気付いた。

「あ、朝ご飯!?」
「あら、朝は食べない?」
「い、いえそうではなくて……こんな豪華な」
「何時もこんな感じだよ?」
「そうなの!?」

 食卓に並べられている物を見て、驚かずにはいられない。凄まじい量だ。朝から食べる量とは思えない。だが考えてみれば丸一日ゴンドラを漕ぐという肉体労働。食べなければやってられないのは間違いないだろう。今まで朝はパンとスープが基本だったが、今日からはこれである。
 ご飯に卵にベーコン、サラダにお味噌汁。何時もと比べれば間違いなく多いが……美味しそうな匂いはお腹を鳴らすには十分すぎる効果を持っていた。そして何より、二人の料理は間違いなく美味しい。昨日の夜にそれは体験済みである。

「料理はどう? 得意?」
「いえ、あたしはあんまり」
「じゃあ今度、私が教えてあげる」
「ホント? その時はお願いね灯里ちゃん」
「任せてー」
「うふふ。もう仲良しになっちゃったの?」
『はい』

 アリシアの問いに元気良く答える二人。
 料理が全て出揃い、いただきますの挨拶で食事を開始する。美味い――アイナは素早く口の中に放り込みながら、ガツガツと食っていく。水を飲み、食べ、味噌汁を飲み、食べ、サラダを食らいベーコンをワイルドにかぶりつき――そこでハッと、アイナは二人を見る。
 呆気にとられながら、ニコッと笑った。

「ワイルドだねー」
「うふふ、勢いがあるのは良いけど、汚しちゃだめよ?」
「ご、ごめんなさい」

 朝からこんな美味しいご飯が食べられる。なんて素晴らしい事か。人が楽しいひと時を過ごすのは人それぞれだけど、アイナの中には美味しいご飯を食べている時間が二番目か三番目に幸せで楽しい一時なのだ。
 ちなみにその下には猫を眺める時間というのがアイナの中でランクインしている。

「ところで、アパートを探そうと思うのですが」
「ああ、そうそう。アイナちゃん、直ぐそこのアパートに空き家があるから、そこでどうかしら?」
「へ?」
「私も住んでるアパートなんだけど、悪くはないと思うわよ?」
「アリシアさんが住んでる!? そこに決定でお願いします」
「あらあら、見ても無いのに」

 ほぼ即決。見てもいなければどんな場所かも判らないのに、アイナはそこに決めた。アリシアが住んでいるのなら外れはないはずだと勝手に決め付けて。

「昨日大家さんに話はしたから、後で行きましょう」
「わーい」
「はい、はい! 私も行きます!」
「ぷいにゅ!」
「はいはい、じゃあ皆でね」
『うわーい』

 灯里とアリア社長も気になるのか、勢い良く手を上げる二人。心なしか、さっき灯里が胸のあたりをガードするような手つきをしたのは気の所為だろうか。きっと気の所為ではないだろう。
 揉んだのであれば、手に感触があればそれはそれで良かったというのにと、心の中で思うオヤジ娘だった。

「ところで灯里ちゃん、なんで時々胸元に手を伸ばしてるの? 痒いの?」
「へあ!? あ、いえ、別に……実は昨日ちょっと……新しい自分に目覚めそうになってました」
「ん?」
「…………」

 心の中で、心の底から、アイナは灯里に土下座した。意味が判っていないアリシアは首を傾げているが、灯里は顔を真っ赤にしてちらりと、アイナを見る。その視線を見たのか、アリシアが不思議そうな顔をして、アイナの顔を見てははーんと何かに頷く。
 そしていつもの笑顔になった。

「あんまり、いけない事しちゃ駄目よ?」
「滅相もございません。故にアパートを所望します」
「あらあら」

 真っ赤な灯里と、申し訳なさそうなアイナ。そんな二人を見れば誰だって判る。しかも人の挙動や動作、小さな行動の中ですらもアリシアは人を見る能力がある。そんな人に隠し事などできるわけがなかった。

「…………」
「…………」
「灯里ちゃん……大丈夫?」

 ご飯を食べ終えてから灯里が胸元を隠しながらそっぽを向いて固まってしまったので、二人は少し冷や汗をかきながらその不可思議な沈黙をどうしたものかと考える。
 アイナはとりあえず、寝ている時の良く判らない癖を治すことを第一目標にしようと、ウンディーネの仕事を二の次にしてまで考えた。おそらく、早急な対策が必須なのは間違いない。

『ごちそうさまでした』

 とりあえず最後の一口を食べて、三人は合唱する。
 朝食を食べた後は、早速ウンディーネとしての仕事開始か、それともまずアパートか。少しワクワクしてきたアイナだった。

「さあ、お片付け」
「あ、私も」
「あ、あたしも一緒に」

 そう言って立とうとして、アイナは座っててと言われてしまう。そうして二人でキッチンに入ってしまうと、二人で限界のキッチンだった。なるほど、これは行っても意味はないなと思いながらも、食器だけは持っていける事に気付く。
 テーブルから食器を二人に手渡すことで手伝いをして、食器が無くなったところでテーブルをナフキンで拭き上げる。毎日しっかり拭いているからか、テーブルは綺麗なままだ。

「さあ、それじゃあ二人とも、今日のご予約のお客様は11時からだから、今のうちにアパートに行って部屋を見て来ましょう」
『はーい』

 アリシアの言葉に元気良く答えて、三人は行動を開始した。





 結論から言って、アイナは初見でアパートを気に入った。
 まず入った直後にある姫屋のような大きなエントランス。正面階段から二階に行って、左の通路。綺麗な模様をした絨毯と綺麗な夕焼けの絵や写真が飾られた通路も十分に魅力的な物だった。そしてその通路の奥に、アイナに用意された部屋があった。扉を開けば、もうそこは一つの大きな部屋。靴を脱いで中に入り、右に小さなキッチンへの扉があるくらいで、後は左にベッドと箪笥が置かれ、右に水回りが固まって置いてあった。
 ホテルと言っても十分すぎる大型の部屋は、間違いなくそんじょそこらのアパートではない。というか、マンホームにこんな部屋があったらもう家賃なんてばかにならない。そんなレベルだ。
 そして極めつけはベランダから見えるアドリア海である。左下を見ればアリアカンパニーの屋根が見える。素晴らしい眺めで、どう考えたって安い物件ではない。
 だがそこは元々、アリアカンパニーが従業員が少しでも増えたら借りられるような手配になっているらしく、グランドマザー時代からその話は常にあったらしい。
 とはいえ、それでも基本的に二人、三人目が居ても少しの間だけだったりと、何故か少人数で頑張って来たアリアカンパニーだ。今回、ペアとシングルの二人の後輩を手に入れてしまったので、アリシアは嬉しくなりながらもここの大家さんに話をしてくれたのだという。
 ちなみにアパート代はアリアカンパニーが出してくれるそうで、下宿先とはいえ無料とはありえないと思ったのはおかしくはないだろう。
 だっていかにも高そうなホテルの一室レベルの部屋だ。少し給料からなんて話があってもおかしくはない。
 で、結果気に入ったアイナはその一室に住まう事になったのだった。
 それからアリアカンパニーに戻って、アイナはまずお手並み拝見という形で灯里のゴンドラを借りて漕いだ。
 そして、アイナはその昔、灯里がやってしまった初歩的な間違いをしてしまっている事に気付かなかった。そう、俗に言う逆漕ぎである。
 そこに突っ込まれて、アイナは今意気消沈していた。

「おぅ……」
「あ、アイナちゃん、大丈夫、私も最初は間違えたから」
「同じ間違い?」
「うん、同じ間違い」
「同士」
「同士」
「あらあら。それじゃあアイナちゃん、普通の向きで漕いでみましょうか」
「はい」

 よいしょと立ち上がり、ゴンドラの上でバランスを取る。運動神経とバランス感覚には自信があるアイナは、ようしとイッチョ気合を入れる。そして一発目を強く漕いで、そこからをゆったりと漕いでみる。
 だがバランスは上手く取れず、ゴンドラの前の方が波に攫われて行きたい方向からズルズルと進行方向を変えられてしまう。お、あ、と小さな声を上げながら方向修正するが、その所為でよろよろ、ふらふらと大分動きが悪く、乗り心地も良く無かった。

「うぅ……まさかこんなボケをするとは……私はウンディーネではなく漫才になればよかったのか」
「あ、アイナちゃん……」
「ま、最初はこんなものでしょ」

 アリシアの言葉に申し訳ないと心の中で謝りながら、ずーんと落ち込むアイナ。言葉にならないショックである。灯里は励ましてくれているが、それでも立ち直れるようなものではない。
 しかし、しかしだ。考えてみればバーチャルで腕を上げていて、初めからそこそこ漕げてはおもしろくないのではないだろうか。初めてだからその楽しみというのはある。ふむ、そうだそっちだ。アイナは考えを改めて、数瞬前の自分をフッ切る。

「シングルまで時間はある。きっと楽しい事が起こるに違いない。ならば今はペアとしてペアを楽しむ!」
「凄い前向きだね!」
「……なんか悲しいよその言葉」
「え、え、あれ!?」
「あらあら」

 グッと力強く握り拳を作って宣言したアイナだったが、灯里の突っ込みは存外に胸を抉った。痛いと思いながら心の中で涙を零す。前向きなのは良い事だが、そもそも前向き云々の前に、痛恨のミスを起こした自分が果てしなく切ない。
 アイナはとりあえず船着き場に移動して、ゴンドラをアリアカンパニーに付ける。それから直ぐに、アリシアのゴンドラが出せるように船を移動させる。時間としては、お客が来る時刻なのだ。

「すみませーん」
「あ、お客様だ」
「はーい」
「あ、あ、えと、どうすればいいんですか、灯里先輩」
「落ち着いてアイナちゃん」

 普通にお客の元へと歩いて行くアリシア。すぐさま出迎える準備をする灯里。考えてみればその辺りの事を何一つ教えて貰ってなかったアイナは、あわあわと焦る。
 カームダウンと灯里に言われて、すーはーと息を吸って吐く。二回、三回と繰り返して、ふと気付けばひっひっふーに変わっているアイナ。

「アイナちゃん、それは腹式呼吸」
「はっ!」

 もはやグダグダのアイナは、部屋の隅に移動してとりあえずお茶を入れる事にする。ポッドを出してカップを置いてと準備していると、

「早く乗ろうよー!」
「ちょっと待ってなさい。名前書かないといけないから」
「うふふ。元気なお子さんですねー」
「やんちゃ坊主よ」

 後ろから普通にお客と会話をする灯里の声が聞こえて来た。普通に見知らぬ人と話せるとは、なんという能力かつ才能かと。しかし気付けば、お茶を入れても意味がないようだ。カップを戻してとりあえずお客の元へ。

「えと、ようこそ、アリアカンパニーへ」
「あら、新人さん?」
「はい。アリアカンパニーのアイナです。よろしくお願いします」
「ふふ。元気が良さそうじゃない。灯里ちゃんと一緒に、プリマ目指して頑張ってね」
「あ、ありがとうございます!」
「うふふ。それでは、準備ができましたのでこちらへ」
「はいはい。ほらアリシアさんのゴンドラに乗るわよ」
「わーい!」

 少年、はしゃぎ過ぎるなよ。心の中でアイナはクルクル回ってまで喜びを体現する少年に、少し心配になってそんな突っ込みをしていた。アリシアに手を出される瞬間には動きは止まり、途端にギクシャクした動きでゴンドラに乗り込む。とてつもなく判り易い少年に、アイナと灯里は顔を見合わせて、クスリと笑った。
 そうして二人でお見送り。

「いってらっしゃいませー」
「お気を付けてー」
「行ってきまーす」
「いってーきまーす!」

 アイナと灯里の言葉に、お母さんと子供が叫ぶ。アリシアは静かに手を振って答えてくれた。
 そうして見送った後、灯里は時計を見る。時間は11時30分。お客さんは少し遅い登場だったが、大体合っていたようだ。

「よっし、それじゃあアイナちゃん。私達も行こうか、練習」
「ういさ!」

 アイナのゴンドラは用意されるまでしばらく時間がかかるらしいので、とりあえず灯里のゴンドラに乗ってしばらく練習する必要がある。
 では、いざ、大海原へ! と意気込んで乗り込んでみたものの、なにやら時間が迫っているらしく灯里が漕ぐということになり、アイナはゴンドラの上でアリア社長を抱き締めてお手並み拝見である。まあ漕ぎ出した瞬間から、シングルである灯里の実力を理解した。さすがは先輩、上手い。

「灯里ちゃん上手い!」
「えへへー、練習の賜物なのだ」

 拍手を送って灯里を褒めるアイナ。灯里は照れ臭そうに笑う。

「それで、今からどこに行くの?」
「うん、私いつも友達と練習してるから、今日はそのお友達を紹介するね」
「そして一緒に練習と。良いわ、相手になる」
「……べ、別に戦ったりしないよ?」
「……や、さすがにそれは……」

 ちょっとした言い回しなのだが、少し本気で心配されてしまった事に少し焦るアイナ。
 まあそんな事より……アイナは今ゴンドラの上に居る。

「それにしても……良い天気だねー」
「そうだねー」

 本日は晴れ。天候は素晴らしいほどに蒼い空のみである。雲がちょくちょくあるが、気にするようなことではない。風も微風で頬に当たる風は優しく、少しくすぐったい。

「軟らかい風がこそばゆいね」
「あ、良いねそれ。こそばゆい」
「うん」
「んふふー」
『こそばゆいっ』

 頬に触れる髪の毛、首に当たる髪の毛、風が軟らかく弄ぶ髪の毛と頬に当たる感触。ゆったりとまったりとそれを感じると、なんだかやっぱり、こそばゆいのだった。





 合同練習の待ち合わせ。
 場所はサン・マルコ広場。そのゴンドラ置き場で待つのかと思いきや、灯里は陸上へ。付いて来るべしなんて言われてしまうと付いて行くしかないアイナは、灯里の後ろを歩いて行く。するとその先に、カフェ・フロリアンというお店が現れる。外でコーヒーを飲み、新聞を読んでいる人や雑誌を読んでいる人、何をするでもなくまったりしている人までいる。
 その一つに座り込み、灯里はこっちこっちと手招きする。

「ここはカフェ・フロリアンって言って、カフェ・ラテがとても美味しいの」
「カフェ・ラテかぁ。ならば一杯頂きましょう」
「すみませーん、カフェ・ラテ三つお願いしますー」
「かしこまりました」

 招待されては頼まないわけにはいかない。灯里はアイナの同意を確認するなりすぐさま横を歩いているウェイターさんに声を掛ける。するとウェイターはピシッとした態勢で見事なお辞儀をしてお店の中へ。
 それから数分後、カフェ・ラテとクッキーが運ばれて来た。

「お待たせいたしました。カフェ・ラテ三つとこれはサービスのクッキーです。何時もご利用、ありがとうございます」
「わぁ。ありがとうございます!」

 そう言ってスタスタと歩き去るウェイター。その後ろ姿を見ながら、アイナは灯里に問い掛ける。

「何時も来てるの?」
「うん、しょっちゅう来るんだー」

 ここの店長さんにいつでも来てねって言われてるから、何時も来ちゃうなんていう灯里の笑顔は、可愛い笑顔である。うん、女も良いななんて思うのはいけない子の証拠である。しかしそんな事は、カフェ・ラテを一口飲んで走った衝撃に、もはや気にならなくなる。
 美味い。少しある苦味の奥に甘味を感じる。なんだこれは――。そしてクッキー、絶妙な甘さはカフェ・ラテとマッチしている。美味い。アリア社長すらも飲めるカフェ・ラテ。不思議な生物だ、火星猫。
 これはいくらでも時間を潰せるなと考えて、ふと感じた違和感に気付く。

「……待ち合わせの時間って実は何時?」
「……実は午後1時」
「……後一時間半はある」
「……早めの行動だよ」
「嘘おっしゃいなぁ!」
「はひぃー!?」

 もうまったりモードに入り掛けていた灯里の髪の毛を少し引っ張り、思わず激しい突っ込みをしてしまう。
 残り一時間半。その間ここでまったりのんびり待つということなのだろう。その間に練習するっていう考えはないのか。いやまあ、心のオアシスというのは大切だ。疲れ過ぎては意味が無い。それは認めよう。
 アイナはうーんうーんとどちらが正しいのか、正しく無いのか考え始めたら止まらない思考回路に、唸り声を上げる。早速だがそう言う事を考える脳を持たないアイナは、早速オーバーヒート寸前である。

「い、痛いよアイナちゃん」
「思わず突っ込みを入れるような事をするから」

 髪の毛の上の方を摩っている灯里を見て、アイナはごめんねと言いながらも突っ込みを入れさせたあんたが悪いとばかりに言い張る。
 しかしだ。カフェ・ラテとクッキーを食べて思う。一時間半……悪くはないか。

「今日はこの美味しいカフェ・ラテとクッキーで許してあげる」
「ええー」

 引っ張られたのにとショックを受ける灯里。しかしアイナは聞かない。とりあえずカフェ・ラテを飲みながら、クッキーを食べ、優しい陽光を浴び、軟らかい風を受け、そこかしこを飛び回るハトを見て、アイナはふーっと溜息を吐く。
 正面を見ると、このゆったりと時間を全力で楽しんでいる灯里が居る。なるほど、こういう子かとアイナはようやく灯里という女の子の実態を見た気がした。つまり、まったり大好きッ子である。
 きっと灯里にとって、待つという行為すらも楽しいのだろう。例えばぽっかり空いた時間に、なにをしようと考えていて時間が過ぎ去る、なんてことは良くあることなのだ。

「ん~……」
「ん~……」

 二人とも考えるのを放棄する。ゆったりと、まったりと、時間が過ぎて行くのを待つ。暇な時間。何をして時間を潰すかを考える時間。なるほど、こんなゆっくりとした時間を良いかもしれない。

「これだけゆっくりできるのも、幸せ者だぁ~」
「灯里ちゃんと居るとこんなんばかりなのか……人として大丈夫かなあたし」

 ボーっとしながら、アイナはこんなにのんびりして大丈夫かと思ってしまう。マンホームから来る前は一年間、地獄のように動き回っていたのだから、今この瞬間にまったりとのんびりタイムを知ってしまうと、なんだか死んでしまいそうな気がする。そう、例えばマグロのように。
 そういえばと、アイナは一緒に居たはずのアリア社長は何をしているのかと探す。気付けば席に居ないので、その辺を歩き回っているのだろう。そう思って当たりを見てみると、帽子を被ったおじさんと二人でカフェ・ラテを飲んでいた。
 おじさんは紳士的な恰好をしていて、帽子も良く似合うおじさんだ。そのおじさんと視線が合い、二カッと笑う。釣られてにへらっと笑う。そうしておじさんは立ち上がり、こちらへと歩いて来た。

「こんにちは」
「あ、店長さん。こんにちは~」
「はっはっは、幸せの達人さんは今日もまったりしてますね」
「はひ~。この時間はこれから頑張る自分への休憩タイムです」
「それで、灯里さん。こちらの方はどなたかな? 同じアリアカンパニーのようですが」
「あ、昨日から入社したアイナちゃんです。きっとこれからもこちらに来ると思いますので、よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
「よろしく。カフェ・フロリアンの店長です」

 て、店長さんだったんだと心の中で驚きながら、カフェ・ラテを飲む。
 それから三人と一匹、同じ小さなテーブルで肩狭しとコーヒーとクッキーをポリポリと食べていた。
 灯里が幸せの達人とか、店長さんがサン・マルコ広場の達人とか、色々面白い話ができた。それにしても、まったりモード全開に突入した灯里は今よりもふにゃふにゃになるらしいので、アイナとしてはその姿が少し見たい気がしないでもない。
 しかし、話が盛り上がり楽しくなってくると、時間の経過と言うのは早い。カフェ・ラテを二杯目飲み終えたところだろうか、黒い髪の毛の女の子と緑の髪の毛の女の子が、灯里の肩を叩いて現れた。

「お待たせ灯里。って、待ってもいないわよねこの様子じゃ」
「こんにちは、灯里先輩」
「あ、藍華ちゃんにアリスちゃん。飲む?」
「……飲みたいのは山々だけど、練習してからね」

 どうやら話の元である友人達のようだ。この人達が灯里の友達かぁと見てみると、非常に普通そうに見えて、少し普通じゃないところが二人にあった。お互いに、猫を持っている。片やなにやらエレガントな佇まいの地球の猫らしき蒼い毛並みの猫で、もう片方はまるでパンダのようなブチブチマークのある毛皮の子猫。
 うむ、とてつもなく可愛い。

「藍華ちゃん、アリスちゃん、紹介するね。昨日からアリアカンパニーに入社した、アイナちゃん」
「アイナ・クルセイドです。よろしくお願いします」
『……え?』
「で、こちらは姫屋の藍華ちゃんと、オレンジぷらねっとのアリスちゃん」

 極普通に挨拶しつつ、灯里も極普通に紹介する。しかしながらどうやら、アリアカンパニーに新人が入社したという事実に驚いているのか、はたまたあまりにもいきなりすぎて意味が判らないという意味で驚いているのか、どちらにせよ二人は目を見開いてアイナを見ていた。
 アイナの恰好を上から下まで。見間違いでもなくアリアカンパニーの制服である。アリシアよりも、灯里よりも背が低くても、制服の模様や形は変わらない。

「ぇえええ!? アリシアさんが許可したの!?」
「うん、結構あっさり」
「確かにあっさり決定しました」
「で、でっかいニュースじゃないですかっ」

 驚くのも無理はないかとアイナは思う。考えてみれば、二人にとっては昨日まで一緒に居た相手に、唐突に後輩ができるようなものだ。そしてその後輩を連れてこうしてコーヒーを飲んでいる。……待ち合わせ時間まで。
 考えてみれば、それはそれでどうなのだとアイナは思った。先輩なら先輩らしく、漕ぎを教えて欲しいと今更に思ってしまったアイナ。だがさっきもその考えに至りながらも、このカフェ・ラテとクッキーの魅力に負けたのは間違いなく自分自身なので、灯里に攻めるような事はしない。だけどここに連れて来た事は感謝すると同時に駄目だろと突っ込みを入れる。

「昨日から……何時の間に」
「昨日の昼頃ではない……んですよね?」
「うん、散歩してたらウンディーネの会社を見て回ってるって言ってたから、誘ってみたの。そしたらアリアカンパニーを選んでくれて」

 さきほど紹介されたわけだが、藍華は姫屋、アリスはオレンジぷらねっとの制服を着ている。まあその会社にいるのだから当たり前なのだが、どちらも制服は可愛い。そういえばオレンジぷらねっとの制服は業界で一番可愛いのが人気の理由の一つとかどこかに書いてあった気もする。姫屋は業界一古いお店の一つとして人気があるはずだ。

「あ、そういえば昨日晃さんが言ってたな。なんか面白い奴が居たって。もしかしてあなた?」
「はい。昨日晃さんに姫屋を案内して貰えました。そうだ、今度感謝しにいかないと」
「あははー、その必要はないわ。もしかしたらアリアカンパニーに入るタイプの子かもしれない、なんて言ってたもの」
「へ?」

 予知されていたというのだろうか。晃に。あの人は水の三大妖精としての実力以外に、実は全く関係の無い超能力を持っているとか? いやいやしかし。だがしかし。ああ、そういう不思議な力にはワクワクドキドキと妄想が止まらない。

「……なるほど、晃さんの言ってた意味が判ったわ」
「はへ!?」

 顔がコロコロ勝手に変わるアイナを見て、藍華とアリスは少し呆れたような顔で、アリアカンパニーを選んだ理由が判ったらしく納得していた。

「な、何故に……」
「オレンジぷらねっとにも面白い子が来てたってお話がありました。なるほど、あなただったようですね」
「あ、うん。アテナさんの歌が聞けてラッキーって思ってたの。姫屋もオレンジぷらねっとも捨てがたくて、他の会社も見学させて貰ってどこも良いとこばっかりだったんですけど……アリアカンパニーは私にとって最高の場所だったので、選ばせてもらいました」

 まあいきなり面接やら何やらをしてもらって感謝もしているが、採用とか合格とかをその場でして貰えるとは思わなかった。ちなみに灯里がお茶の準備をしている時に聞いてみた事が一つあるが、アリシアはニコニコと笑顔で「直接お話をしないと判らないことは沢山ある」という。だから履歴書はちらっと見るにしても、個人データはあまり入社には関係ないらしい。
 それが、アリシアの人選の仕方。そういえば灯里はどうやって選ばれたのかと思い至ったが、まだ聞いてはいない。きっと似たような感じなのだろうと、アイナは思う。実際は全く違うのだが。

「晃さんはカッコイイし美丈夫な女性で……アテナさんはドジっ子属性装備ってことは判ったし、アリシアさんはなんかもう言葉にできない美しさを持ってるし……水の三大妖精恐るべし!」
「まあ、晃さんは確かにカッコいいわね」
「ドジっ子って……客人の前で何を……」
「アリシアさんは軟らかくて暖かいんです」
「それだ」

 アリシアを表現するのが難しいと思ったところで、灯里の言葉にピタッと一致するアリシアの雰囲気。軟らかくて暖かい。うむ間違いないだろう。そしてなにより優しいあの声は、きっとどんなに頑張ったとして出せるものではない。あれはもう、自然と出るあの人だけの声だ。
 アイナとて優しい声を出そうと思えば出る。だがそれはアリシアの声とは間違いなく違うものだ。
 天賦の才。間違いなくそれだ。

「ま、良いわ。それより灯里、ほら練習行くわよ」
「アイナさんも、行きましょう」
「うん判った。店長さん、今日もありがとうございます」
「どうもありがとうございました」
「ぷいにゃー」

 店長さんに挨拶をして、灯里がお会計のレシートの上にお金を置く。そしてそれを店長さんに直に渡して、灯里達は席を立つ。アイナは店長さんの隣に座っていたアリア社長を抱き上げて、少しズシッとするアリア社長の重量にうーむと唸る。ダイエット必要かな、と。
 その時、アリスの手に居る猫がアリア社長をガン見しているのを発見。もしやと思いお腹を掴んでニュッと出して見る。子猫はぴくりと反応していた。饅頭か何かと思っているのかもしれないとアイナは思うが、何か違う気がする。
 カフェ・フロリアンから離れながら、アイナは藍華とアリスに問い掛ける。

「藍華さん、アリスさん、その猫さんは?」
「ああ、こっちはヒメ社長」
「こっちはまぁ社長です」
「おお、社長ズ」

 そう言いながら、アイナはアリスの横に移動。その動きを三人は目で追い、何をするのだろうと見ていると、アイナは何を思ったのかアリア社長のお腹をニュッと出す。その巧みな指使いは、なんだか変態的だ。だがそれを見た真正面に居るまぁ社長は、くわっ! と口を開いた。

「おぉ!?」
「ぷいにゃー!」

 かなり近づけたところでがぶっ! と勢い良く口を閉じるまぁ社長。何をされるのか判らず、かつ段々と近づいて来るまぁ社長にあまりにもビビりすぎて声すら出なかったアリア社長が、たまらず悲鳴を上げた。ギリギリで遠ざけたが、なるほどまぁ社長はどうやらアリア社長のお腹が大好きなようだ。
 理解したところで、アイナはにんまりと笑みを浮かべる。

「可愛い!」
「鬼か」

 二匹の事情を知っている三人は、その行為がいかに恐ろしいかを知っている。知らないアイナだからこそやってしまう芸当だが、アリア社長は恐怖によりアイナに抱き付いている。多分結構な力で抱き付いているだろう。
 それから藍華の横に移動し、背筋をピンっと立てている猫を見る。エレガントに決まっている。

「ヒメ社長かぁ……アリア社長」
「ぷいにゅ」

 歩きながらヒョイッとアリア社長の力を抜かせてヒメ社長に近づける。顔を少し赤くして手を伸ばそうとしたところで引っ込める。鳴き声も変わった。なるほどとアイナはニヤリと笑った。

「さあて、アリア社長を応援するべきか、それともまぁ社長を応援するべきか――この三角関係、燃える!」
「いやいや」
「でっかいマイペースです」
「あ、アイナちゃん……」

 藍華は突っ込み、アリスは呆れ、灯里は笑うしかない。アイナの猫を弄ぶ能力は相当に高いことは間違いないようだった。
 それからゴンドラの船着き場に到着して、灯里のゴンドラに乗り込む四人。で、まず誰からという事でじゃんけんをしてみる。じゃんけんなどに弱いアイナは一発負け。だが負けん気は人一倍なので、では実戦と意気込んで立ち上がった。
 しかしまだ入社したばかりのペア。街中に入るのは危険なので、とある場所を指定する。アドリア海を挟んだ対岸まで行こうとのことだった。道は教えると言う事と、ゴンドラの漕ぎ方を教えながら行くから大丈夫と。

「本物の初心者なので、お手柔らかにお願いします!」

 少し緊張しながら、叫ぶアイナ。だがついに来たこの場面。心を燃やして、魂を震わせて、いざ行かん大海原へ! そしてグイッと一発目を漕いだ瞬間、何故かグインッと右に動き、パリ―ナにコォンとぶつかる。

「はうあ!?」
「アイナちゃん、アイナちゃん、オールは真っ直ぐ!」
「力を入れすぎです」
「まずは腰を動かさないで腕で漕ぎなさい!」
「は、はいー!」

 慣れてくれば腰を使って漕いでスピードを出したりとか、力を込めてもゴンドラのバランスは失わないらしい。しかし初心者ともなれば本当に海の流れというのを掴みずらいので、最初はゆっくり、本当にゆっくりと漕ぎ出さないとならないらしい。
 先ほど気付いたが、シングル二人とペア一人の先輩。ペアも先輩というのは変だが、間違いなく入った期間は遅いのでアリスも先輩だ。しかしアリスがペアであることはある意味嬉しい事実だった。だって全員シングルでは、正直少し荷が重いからだ。
 それから四苦八苦しながらゴンドラ置き場から離脱。それから海の真ん中を通って行くと、気持ちのいい風が頬に当たる。ふうーと溜息を吐いて、心を落ち着かせる。しかし燃える心はいっくぞーと勢いはそのままだ。

「いよっ」

 声を出してゆっくりと腕を使って漕ぐ。少し思い出して、灯里の漕ぎ方を見よう見真似する。なんか違うと思いながら海の水面を見る。海には場所によって流れがあるので、その流れに対してどういう向きならスムーズにいけるのかを模索する。
 何度かやってみるも、ゴンドラは左右にゆらゆら、力もそこまで込めずゆっくりとやっているのだが、やはり波に乗れないようだ。しかし直ぐにできるとは思っていないので、アイナは何度も試みる。

「お」
「あ」
「ぬ」

 っと、三人がゴンドラの動きが変わったことに敏感に気付いた。アイナも手に伝わる海の感触と、ゴンドラに当たる波の感触を両手両足で感じ取り、ここだと漕いでみる。すると不思議に、ゴンドラはスイーッと前えと進んだ。バランスも崩れずに綺麗に。

「おぉおぉー! アイナちゃん凄い凄い!」
「バカな……この短時間で……」
「でっかい驚きです」
「マグレですよ」

 驚く三人に驚くアイナ。それでも灯里のゴンドラよりも乗り心地は悪いし船は揺れている。いきなりでもスイーッと動けた事が凄いのかと思うが、アイナはそれを知らない。
 だが感覚はなんとなく判ったところで、今の流れやコツを掴もうと何度となく繰り返すが、やはり上手くいかない。波に流されて滅茶苦茶に動いてしまう。なんとか修正しながら、ようやく辿り着いた場所にはじゃがバター屋があった。

「じゃ、じゃがバター」
「アイナちゃん、あそこへ!」

 はいゴーとゴンドラの手すりを叩いて指を指す灯里。喰う気かと心の中で突っ込みながら、アイナはゆっくりと近づけて行く。しかし横に移動の仕方など判るわけが無く、上手くゴンドラ置き場に行けない。むしろ、流されて遠くなっていく。

「え、えと……こうかな?」

 オールの持ち方を変えて、えいやと漕いでみる。しかし無理矢理すぎるためにぐらりとゴンドラのバランスが思いっきり崩れる。悲鳴が上がる中で、アイナはやっぱだめだー! と叫んだ。

「まあ、仕方ないわね。変わるわ」

 藍華の申し出にありがとうと答えて、アイナはオールを渡す。それから藍華は少し下がり、ゴンドラを斜めにして上手い具合に移動していく。なるほど、真横にしては波の影響を思いっきり受けるから、少しでも受け流すために斜めにするようだ。
 理解はしても、それが難しいのだが。
 あっさりとゴンドラ置き場にゴンドラを置いて、四人と三匹は上陸。その先でじゃがバター屋のおじさんにじゃがバターを五つ頼み、アイナ、藍華、アリス、そして灯里とアリア社長は少し離れた場所で、草原の上に座って食べ始める。
 大きなジャガイモ。その上にバターを乗せただけのシンプルな料理。ホカホカなそれは、良い匂いをしている。食欲をそそるのだが、今さっきカフェ・ラテを飲み、クッキーを食べていたのに、いきなり休憩とはこれいかに。
 が、細かい事は気にしない。アイナはフォークで一口食べて、美味いという感想が出て来る。昨日から美味しい食べ物ばかりで、太ってしまいそうだ。

「灯里ちゃーん、美味しすぎるんだけど」
「マンホームじゃ食べられないもんねー」
「ああ、こんな美味しい食べ物が沢山あるならもっと早く来るべきだった」

 灯里に涙すら流してそんな事を言うアイナに、微笑みを浮かべて同意してくれる灯里に感謝すら浮かぶ。アイナはアクア最高と、食べ物だけでそう思う。更に早速できた友人達、優しい先輩。もう言う事はない。幸せで死にそうだ。
 死んだら全力で化けて出る気は満々だが。

「アイナさんは、昨日マンホームから来たんですよね?」
「ん? うん、そうだよ。昨日着いたの。長かった」
「ちなみに、アリアカンパニーに入社したのは、入社しようとした会社が潰れたのだと聞きましたが」
「……そうなのです。辿り着いたその日に……」
「……あ、いや、聞かない方が良かったですね」
「お願い、そこは流してアリスちゃん」

 アリスの何気ない問いに、しかしアイナの心を抉るには十分な威力だった。美味しさで出た涙は悲しみの涙へと変わり、うだーっと流れる。既にアイナへの質問で、会社の話はタブーのようだ。
 それからある程度の他愛の無い話で盛り上がり、アイナの趣味やら何やらを聞かれる。やはりそこは定番の問い掛けというところか。アイナはすんなりと「熱血バトルアニメが好き」という答えを言ったり、「燃える展開が大好き」と答えたりと、時々口にする「心が燃える、魂を揺さぶる」という男勝りな熱血根性が大好きだということが発覚。ちなみにアイナ自身、良く自分にそう言い聞かせて前向きに生きて来た。
 で、話の内容がアイナのマンホームに居た一年の気合と根性の日々になり、ついに念願かなってアクアに来れたという話になり、藍華とアリス、灯里はそのどたばたの日々に涙すらしていた。
 ちなみに一部、戦いの日々なんて話もあったがそこはちょっとばかし捏造していたりする。しかし、それはアイナの胸に閉まっておく。
 それからさっさと食べ終えて、アイナはゴンドラを再び漕ぐためにオールを持つ。

「では、念願叶ってここに立てたあたしアイナは、まずはシングル目指して漕ぎの練習をしたいと思います!」
「おー、頑張れー!」
「はいよー! シルバー!」
「でっかい恥ずかしい掛け声ですね」
「いっけーアイナちゃーん!」

 もうノリノリである。アイナはとうりゃっと漕ぎ出し、やっぱり力を入れすぎて不安定になるゴンドラ。しかしながら腹は膨れ、休憩もたんまりして、身体は絶好調。思考回路もばっちりなので、アイナは焦らず急がずをもっとーにして、腕から力を抜いて漕ぎ出す。
 ウンディーネのプリマを目指す! 気合と根性は必要だろうが、急いではならない。自制する精神力の成長がまず必要かもしれないと、アイナは思った。なんせ漕いでいると、制限速度よりも上か下か、どちらかにしかできず、かつ上手く止まれない、曲がれない、進めない。
 気合と根性、意気込み具合の熱血レベルは合格でも、さすがに下手なのは仕方が無かった。
 それでも、前向きは変わらない。高い壁こそ乗り越えるべき人生の醍醐味。だから、ゴンドラを漕ぐ順番が変わったところで、アイナは

「あたしは今、猛烈に熱血しているー!」

 そんな事を叫ぶのだった。

「ええい、魂の叫び禁止!」
「あれ、駄目!?」
「駄目っていうか、人目がでっかいきついです」
「おかしいな。元気な可愛い少女なのに」

 こんなに、なんて自分の顔を両手の人差し指で指しながら笑顔を浮かべる。ちなみに傍から見れば確かに顔立ちは良いのだ。可愛い女の子というのは間違いないのだが、自分で言うものではない。
アリア社長はふぅと溜息を吐いている。

「アイナちゃんはあの太陽みたいに燃えてるんだねー」
「恥ずかしい台詞も禁止!」
「太陽よりも熱いよあたし。そう、そこはかとなく燦然と輝く太陽の黒点!」
「や、黒点は熱く無いでしょ」
「え!? そうなの!?」

 カッコ良く言っても凄いカッコいい台詞と思って言っても、突っ込まれるアイナ。藍華とアリスが強敵であることは間違いないと、アイナは理解するのだった。
 もはやボケ担当みたいな立ち位置になりつつあるアイナは、どうしたものかと考える。
 そこで、ついに、アリスがアイナへと言い放った。

「アイナさん、でっかい天然ですよね」
「ガァーン!」

 今まで馬鹿とかボケとか、散々な事を言われた事はあった。暑苦しいとも言われたし、喧しいとも言われたこともある。しかし、天然だけは言われたことがなかったので、アイナは大いにダメージを受けた。主に心に。
 隣でアリア社長がヒメ社長に何かをしようとしていたが、直ぐ横から現れたまぁ社長により攻撃を受ける。

「て、天然……」
「天然の灼熱娘ってこと?」
「いや、藍華先輩、そもそも熱血も何も……勢いだけで生きてると後々後悔します」
「はうあ!?」

 そいつはトドメと言っていい言葉だった。ぐっさりと胸元に突き立つ言葉の凶器。あまりのダメージにアイナはゴンドラの上で端っこに移動し、両膝を抱えて落ち込む。意気消沈というレベルではなく、もはや生きる気力すら無くしては居ないかというくらいにどん底だった。アリア社長は灯里に助けられ、アイナの落ち込みっぷりを見て、とりあえず状況を飲み込めないままに気にするなというようにぽんっと足を叩いている。
 藍華に言いすぎと言われてアリスはそこまでと冷や汗をかく。

「で、でもまあ……時には勢いも必要ですし……元気が取り柄っていうのもアリかなと」
「だ、大丈夫だよアイナちゃん、天然さんでも問題ないよ」
「っていうかあんたも天然でしょうが灯里」
「ぇえー!?」
「灯里、やっぱあんたはあたしの親友だわ」
「今の言葉で親友って言われると少し微妙な気分なんだけど」

 ガッシと掴むアイナの手は灯里の手。そしてそのまま灯里を抱き締めてそのまま押し倒す。同じ天然同士仲良くしようなんて言いながら、ゴンドラの上で抱き締める。真っ赤な顔の灯里は何も言えずパクパクと口を開いたり閉じたり。
 それを見ていた藍華もアリスも少し顔を赤くしながらも、藍華はアイナの首根っこを掴んで持ち上げる。

「やらしい事禁止」
「はい」

 今までで一番凄みのある声と顔で言われて、アイナはあっさりと謝った。
 それから全員で何度かローテーションしながらゴンドラを漕ぎ、アイナも少しだけ上達することが出来た。そうして二人と別れて、アイナは今日一日をゴンドラを漕ぎながら振り返る。

「まだ初日なのに、随分と濃い一日だったなぁ」
「そうだねぇ。アイナちゃんの事も良く判ったし」
「あたしは何時の間にか灯里って呼んでるし」
「私は気にしないよー」
「アイナって呼んでくれると嬉しいんだけど?」
「ちゃんもいらない?」
「いらなーい」

 うふふと二人で笑いながら、他愛の無い話をする。もうそれだけで楽しいと思えるのは、灯里とアイナの間にほとんど隔たりがないことを意味しているのだろう。
 藍華とアリスとも十分に友達になれた。楽しくて仕方が無い。今日からもう毎日が楽しみだ。

「じゃあ、アイナ」
「っく、灯里、あんたが男だったらあたしは惚れてる」
「えぇー」
「冗談だよ。お、綺麗な夕焼けー」
「ホントだ」

 大海原に浮かぶ大きな太陽。とはいえ地球よりも遠いいので小さいはずなのだが、それでも太陽の大きさというのは凄まじい。火星はマンホームよりも太陽から離れているというのに、あまり変わったようには見えない不思議。
 太陽の光。マンホームではそれすらも機械で制御するようにしてしまっているため、日光そのものを浴びることはできない。ともなれば、今こうして太陽の光を浴びている事も、大自然の風、水、大地に触れている事も楽しくて仕方が無い。
 火星という火の星と呼ばれた惑星が、今や水の惑星アクアと名前を変えている。水星なんていうのもあるが、あちらは本当に人が住めるような場所ではない。なにより太陽に近づいてしまう。ここが火星で、アクアで、テラフォーミングされていて、本当に良かったと思える。

「あたしの心も、負けないくらい黄金に燃えてるんだから、見てろよ太陽―!」
「あ、アイナちゃん、あっち」
「ほへ?」

 太陽に向かってビシッと指を指すアイナ。そんな彼女の熱血咆哮にはもう慣れたのか、灯里はスカートをくいくいと引っ張る。そんな灯里の視線を追うと、そこには白いゴンドラを優雅に動かす人物が。偉大なる先輩、アリシアだ。
 スイスイと海の上を綺麗に走る。ゴンドラは揺れず、アリシアも揺れない。優雅に、エレガントに、静かに綺麗に、不安定なはずの水の上をまるでレールの上を走るかのように動くアリシアのゴンドラ。
 プリマとの実力の差を、はっきりと思い知る。
 アリア社長も気付いたのか、アリシアに向かって声を張り上げている。しかし遠すぎるために、さすがに気付かない。

「凄い……凄い凄い、カッコいいなぁ」
「うん。アリシアさんは、私達の目標だから」
「藍華ちゃんやアリスちゃんも?」
「っそう」

 藍華はゴンドラの操舵は上手く、声も張り上げていてしっかりしている。少なからず、灯里、アリス、アイナの三人を纏めているのは藍華だろう。
 しかしゴンドラを漕ぐ、という点だけはペアであるはずのアリスの方が圧倒的だ。そこだけならきっと、あの子はプリマと同じレベルか、少し下くらいか。何にせよ漕ぎの上手さは文句の言いようがないが、声が出ないのが唯一の難点だ。少し恥ずかしがっている様子。
 灯里は操舵も、声も、並だろうか。しかしあらゆる素敵を見つけたり、日常の中の素敵を見つけたりと、言われておーなんて思ってしまう事も多々あった。幸せ発見探査能力は間違いなく合格点だ。恥ずかしい台詞は禁止らしいが、アイナは気にしない。
 そして自身であるアイナは、声だけ。操舵は当たり前ながらからっきし駄目で、声だけは昔から張り上げているのででかい。その点だけは藍華も灯里もアリスも褒めてくれた。
後はカンツォーネなのだが、アイナにとってそこだけが唯一の問題なのだ。歌が下手なのである。音程も取れているし、歌も歌えるのだが、いかんせん歌を覚えるということができない。頑張って憶えようとしても、どうしてもメロディに耳が傾いてしまい歌を忘れてしまうのだ。
 アリシアのレベルに達するまで、何年か。前途多難だが……それでも、アイナの心に雲はない。

「ま、のんびりプリマを目指しますかね」
「そうだね」
「ぷいにゃー」

 朝より大分上達したのではないかと思いながら、アイナはゴンドラを漕ぐ。
 これからの毎日が、楽しみで仕方が無い。








――――――――――
さて、とある事情により会社が消えてしまったアイナ。
ひょんなことでアリアカンパニーに入社してしまいました。
本来ならこんな簡単に入社できるもんじゃありませんが、リアルとは違うと言う点は気にしないでください^^;
さてオリキャラのアイナはというと、天然、熱血、ボケ、突っ込み、なんでもやってしまう属性を持っています。
結構ギャグ路線が多々ありますが、なんだか馴染みやすいんじゃなかろうかと思いこんなキャラに。

まだアリスと藍華の絡みは少ないですし、喰ってばっかですが、中編では色々やる予定です。
温泉とか、散歩とか、色々。
ペアのおバカキャラにどうか暖かい声援をお願いしますw

それにしても、「あ」から始まるキャラってのは名前が難しいですね。っというか、思い付く名前が大半いるので困って困って。
ガンダムのアイナ・サハリンから奪い取りました(コラ
クルセイドは適当です(ぉ

でまあ、キャラとしてはこんな感じ?
セミロング……のはずなんだけどなぁ。

うgeocitiesうjpあhomura2003jpあaina1うhtml

「h t t p : / / w w w」を最初に入れて、「う=.」「あ=/」にして飛んでみてください。
イメージ的にこんな感じとして描いてみました。
……これ止めた方が良いのでしょうか。禁止されてるし。



[27284] ARIA のんびりと
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/05/15 10:10




 お昼。
 灯里は一人のんびりととあるカフェで昼食をとっていた。お弁当を開いて、お店のスイーツとコーヒーを後の楽しみとして取って置いて、アリア社長と一緒に静かな時間を過ごしている。
 季節は春と夏の間。そろそろ暑くなってきたので、アイスコーヒーにしている。ウンディーネの服もそろそろ夏に衣替えだなーと思いながら、灯里は真正面にある木を眺める。
 ぽかぽかの陽気。
 暖かい静かな風。
 木のざわめき。
 海の波の音。
 遠くからヴァポレットの音や、街の雑踏の音。静かにしているだけで、色々な音が聞こえて来る。
 うみねこのみゃあみゃあという鳴き声も聞こえて来る。
 ふと、海岸線にあるカフェから海を見てみる。プリマウンディーネのゴンドラが一隻、お客を乗せて通り過ぎる。私もいつかと思いながら、灯里はお弁当を頬張る。
 アリア社長はもう食べ終えたのか、灯里の足元で寝転がっている。

「……ん~」

 お弁当を食べ終え、片付けてから持っていたカバンに戻し、軟らかい風を受けながら灯里は空を見上げる。
 蒼い空は、どこまでも澄んでいる。大気があるのでもちろん宇宙は見えないが、月は白くそこに存在する。それを眺めるでもなく、灯里は目を瞑り、この世界の音に耳をすませる。
 静かな、のんびりとした時間。誰かを待っているわけでもなく、誰かと出会うわけでもなく。ただ、のんびりと。
 パフェを一口食べる。じつは我慢できずにお弁当より少し先に食べてしまったそれは、既に陽気により暖かくなっていた。冷たいままで食べれば良かったと思いながらも、しかし灯里は口に運んだそれの甘い味に、んーと歓喜の声を上げる。

「甘いです」

 ぽつりと呟いて、灯里はアイスコーヒーを飲む。コップには水がたっぷりとついて、何時の間にやらコップの周りは大洪水。が、夏といえばそれもまた風物詩といえよう。どんな飲み物でも、冷たければコップには水滴が付く。それを、灯里は指でなぞってアリア社長を描いてみる。
 しかし、上手くいかないので断念。

「アリア社長、まったりですねー……」
「ぷいにゃー……」

 こうのんびりしていると、本当にプリマになれるのかと少し心配になってしまう。だが時にはこうしてまったりする時間は必要だと、灯里は思っていた。とはいえ、彼女の場合は常にのんびりまったり、気の向くままに行動である。必要ではあるが、なんだかちょっぴり違う感じ。
 さぁーっと、風が吹いた。髪の毛が風に攫われてヒラヒラと空を舞う。それを抑えつけながら、灯里は海を見る。水の妖精、ウンディーネ。水先案内人、ウンディーネ。綺麗で、素敵で、カッコいい名前。そんな名前を冠する仕事ができて、灯里は少し誇らしい。
 このアクア、水の惑星と呼ばれる星の名すらも冠しているのだから。

「まるで、アクアの精霊さんが、私達を妖精さんにしてくれるみたいだよね」

 マンホームとは違う、不思議な世界。惑星アクア。この惑星には七不思議があったり、謎の人物が居たり、謎の銀河鉄道が居たり、過去への扉があったり――摩訶不思議な出来事が多い。
 その大半を体験してしまった灯里は、この星も、この街も大好きで、その感情はもはや特別なのかもしれない。

「……ううん、違うかな」

 小さく、自分の考えを否定する。テーブルに両手を乗せ、その上に頭を乗せる。再び、風が吹いた。

「私達が、アクアなんだ」

 アクアの一部で、アクアが居るから私達が居る。ウンディーネが居る。ノームも、サラマンダーも、シルフも居るのだ。
 こののんびりとした街並み。面倒事ばかりで、買い物も出掛けなければならない、迷路のような水路や陸路はどこもかしこも迷ってしまいようで、頭に地図を入れておかなければならない。そしてメールではなく、人が書いた手紙でのやりとり。ハイテクは最低限で、後はレトロ。その効果は、この街の人々を見れば判る。
 機械は人を駄目にするとどこかで聞いたことがあるが、まさにその通りかもしれない。
 灯里は目を瞑ったまま様々な音に耳を傾ける。
 機械では作れない雑踏の音。機械では奏でられない海の波の音。機械では出ない木々のざわめきの音。
合理化された街では迷う事も無く、人と話をするタイミングもない。人に話しかける事も必要なく、落し物すらも自動的に機械が届けてくれる。自分が動かなくても、なんでもできて、なんでもしてしまう機械。
しかしこのネオ・ヴェネツィアには、そんなものはない。だから、人は自分から行動しなくてはならない。商売もそうで、人と話す事を人は望んでいる。顔と顔を合わせて話すから、相手の事が判る。
 ネオ・ヴェネツィアの人々は優しく、陽気で、言い方はおかしいかもしれないが子供心を忘れていない。そしてこの不思議と落ち着く面倒な街が、やっぱり大好きなのだ。きっと嫌いな人など、一割にも満たないだろう。
 なにより――そう、空気が美味しい。その美味しい空気を吸いながら、灯里は色々な事を考えながら、眠ってしまった。

「ん」

 約、数時間。灯里は不意に瞳を開いた。
 寝ぼけながら顔を上げると、唐突に空より爆音が響き渡った。寝ぼけていた頭は一瞬で覚醒して、思わずその音の方に視線を向ける。
 大気が震え、轟く轟音。腹に響く凄まじい音で爆発するそれは、瞬時に光りの花を広げ、輝く空の大輪となる。

「花火……」

 どうして今日と思いながら、灯里は首を傾げる。思い出しても特に今日は何かの日であるとは思えない。中途半端な日だし、なにより何かの記念日でもない。
 しかしもしかしたら、ただ花火職人の人達が気の向くままに行動を開始したのかもしれない。もちろん、やるなら許可は必要なはずなので取っているだろうが、きっとドッキリだ。ポスターもチラシも出回ってないのだから。
 再び、轟音が響く。本物の花火を見るのは、これで二回か、三回か。
 何度見ても綺麗で、夜の空に広がる大きな花はこれだけ五月蠅いのに、どうしてか落ち着く。
 きっと大きな花が素敵で、綺麗だから、皆音なんか気にせずに見ていられるのだろう。そしてあまりにも壮大すぎる素敵に、心は落ち着くのだ。
 きっと、そうだ。

「こんばんは、灯里ちゃん」
「やっほ、灯里」

 ぽん、ぽんよ両肩を叩かれて、そのまま海側に歩いて行く二人のウンディーネ。唐突に声を掛けられても、その二人の名前くらいは出て来る。

「藍華ちゃん、晃さん?」
「こんばんは、灯里ちゃん」
「こんばんは灯里先輩」

 更に両肩を二回。今度はオレンジぷらねっとの二人だった。えっえっと混乱しながらも、灯里は二人の名を呼ぶ。

「アリスちゃん、アテナさん」

 なんでここにと思いながらも、更に両肩に手を置かれる。この面子で最後と言えば、と思いながら灯里は振り返る。そこには優しい笑顔のアリシアが立っていた。

「こんばんは、灯里ちゃん。私達も、同席して良いかしら?」

 唐突の皆の登場に灯里は少し混乱する。きっと、見晴らしが良くてこの花火を思いっきり見れる場所を探したら、ここに辿り着いたのだろう。そこに偶然灯里が居た。おそらくはそれだけ。しかしそれだけでも、まるで図られたような巡り合わせ。
 花火が、空を覆う。灯里はその光を背に、アリシアに満面の笑みで答える。

「はひ!」

 そうして、全員で空を見上げて花火を見つめる。爆音、轟音、地響き、それらの影響により響くお腹。それがなんだか楽しくて、おかしくて、そして皆で見れる事が何より嬉しくて、灯里は一人呟いた。

「まるで、巡り合わせの天使が降りて来るための儀式みたい」

 そう、それは一人で花火を見ようとしていた灯里への、アクアからの巡り合わせ。その巡り合わせは誰がしてくれるのか判らないが、灯里は天使のような存在が居たら良いなと考えた。
 きっとそれは素晴らしい事で、とても嬉しい事。
 幸せな気分で、灯里はアリシアと共に空を見上げる。巨大な大輪は、これから数十分に渡り空を彩る。その色とりどりの光の花は、灯里達を閃光のように力強く、しかし優しく照らし続ける。
 だけどほんのちょっぴり、この花火を一人占めしたかったと考える灯里は、少し贅沢者であった。

「アリシアさん」
「ん?」
「私、駄目な贅沢者さんです」
「あらあら」




――――――――
どうも、ヤルダバです。
中編ではなく、なんとなく灯里ののんびりタイムを書きたくなり、本当に何もしない灯里を書いてみました。
まったりのんびり……良いのぅ。
リアルの仕事はこれだけ働かされるのに……灯里達はこうしてのんびりタイムがあって。基本は訓練でも、訓練楽しそうだし。
仕事を楽しめる人は良いのぅ。
さて、そんな愚痴よりも。

ゆったりとした空間を描いてみたのですが、どうでしたでしょうか。
ゆったりまったりのんびり。それらを意識してみました。
習作ですから、色々挑戦していきたいと思ってますので。

それにしても……最近急激に気温が上がって来ましたね。
もう夏ですねw 勘弁してほしい……。
春はどこに行った。ほんの一瞬じゃないか。
そのくせ家の中は不思議に寒いからどうすればいいのかw
それ折角の休日ですし、数日前の台風で汚れた車を洗って来ます。
ではでは、ヤルダバでした~。



[27284] ARIA 中編
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/05/23 07:33
ARIA

「中編」



 アリアカンパニーに入社して早一年。といっても正確には12カ月で、今は秋になりたて。地獄のような夏を抜けると、灯里と共に見た蜃気楼や夢現な幻を見てどんちゃん騒ぎになって楽しかったと思いだす。
 さあ、今から涼しくなってまいります。新たに頂いた冬服に衣替えをして、ペアの手袋を付けて、いざアパートより出撃。
 しかし朝早く起きてしまったアイナは、家から出ようとしてふと、とあるアニメのデータディスクを一本持ち出す。アリア社長が夏の間に見せたアニメを大層気に入り、ちょくちょくアリアカンパニーに持って行っているのだ。
 ちなみにマンホームからの荷物はアパートに越して二日目に到着している。ウッディーなるエアバイクの人に運んでもらったのだが、灯里とこれまた知り合いで驚いたのもまだ記憶に新しい。
 サラマンダーの暁、ノームのアル、シルフのウッディー。この三人はちょくちょく誰かと共にアリアカンパニー、もしくはイベント的な行事に参加して、何時の間にやら友達になっていた。特に暁とは血の滾りをお互いに反応し、何故か熱く良く判らない事を語っていたりして中々に楽しかった。
 荷物はそんなに多くもなく、実際私服が数枚と下着が数枚、後は秘蔵のデータディスクだけである。マンホームでは落ち込んだ時は熱血アニメを見て熱くなってフッ切っていたが、今は外の景色を見るだけで癒される。そして再び燃えるのだ。やってやらぁと。
 そんなアイナの精神を作り上げたアニメを見せるためにデータディスクを持って行くのだが、今日はちょいと早いので、アリア社長が起きているか判らないが、行ってみれば判るだろう安直な考えをする。
 アリアカンパニーのカギを持って、外に出る。廊下を歩いてゆっくりゆっくり、音を鳴らさずに降りて行く。ギシギシという木造らしい音が響く。静かな空間では、その音すらも大きく聞こえる。

「おはよう階段。なんて」

 ギシギシ鳴る階段に挨拶をして、クスリと笑う。
 んー、と息を吸い、この大きな広間の大きな階段の真ん中で息を吐く。木造で、少し古い建物からの匂いは、木々の独特の匂いがしていて、それがまた良い味を出している。

「そんじゃま、今日も参りますか」

 そう言って、結構大きな扉を開く。ギシィという音がして、重々しく開かれる扉。うん、良い音だ。
 外から吹いて来る風に少し寒気を覚えて、うひーっと声を上げる。まだ秋になったばかりだというのに、早速冷たい風が吹く。冬服になりスパッツも穿いているとはいえ、やはり寒いものは寒い。しかし、寒いのは苦手ということでもない。何せ、熱く滾る血肉が心躍るからだ。まあ、つまりは寒さに対する対抗心なのだが。
 アドリア海をしばし眺めて、アリアカンパニーを見て、もう随分と見慣れた景色ににへらっと笑う。一年。たった一年。されどもう一年。しかしアクアではまだ一年ではなく12カ月。不思議で、変な感覚。

「我が生涯に一片の悔いなし! って言いたいなぁ」

 でも実際、現在は一片たりとも悔いはない。それ以前に生涯をまだ全うしたくはない。まだまだ長く生きて、全力で楽しむのだ。
 それになにより、まだまだイベントや行事は沢山待っている。参加した事が無い物だって次の春にあるのだ。まだまだ素敵は沢山あるし、楽しい思い出は大量に待っている。

「白い未来への切符は、あたしが選ぶ!」

 そう握り拳を作りながら言って、再び風が吹く。潮風が冷たい。うっひゃぁと悲鳴を上げて、アイナはおのれと海に向かって両手を上げる。そうして叫ぼうとして、なんとか踏み止まる。かなり早い朝なので、叫ぶのはさすがにご近所迷惑だ。
 しかし両手を上げて何かを叫ぼうとした状態で止まるととても恥ずかしい。っが、それでも心の中で叫んだ。大自然の寒さには負けないぞっと。

「……さて、アリア社長起きてるかなー。起きてるわけないけど」

 えへへと自分で言っておきながら、考えてみれば太陽すら昇っていない状況であのアリア社長が起きているとは思えない。食いしん坊で甘えん坊で、泣き虫なアリア社長。コロコロ変わる表情や、人と同じポーズをとったりと愛嬌を振り撒く姿はとても可愛い。問題は少しぽっちゃりなところだが、しかしあのもちもちぽんぽんは捨て難い。
 前に灯里に相談したことがあったが、アイナと共にあのもちもちぽんぽんを失うのが怖いとのこと。アイナに至ってはアリア社長が痩せた姿が想像すらできないのだが。

「っは! そうだ、これはチャンス。朝、起きていない女の子部屋。潜入するにはバッチ来いなタイミング。にひひ、灯里、どうやって起こしてあげようか」

 もう会社の先輩ということはすっかり忘れて、アイナはちょくちょく灯里に悪戯をしていた。とはいえその悪戯は可愛いもので、朝のモーニングコーヒーを手の込んだココアに変えたり、朝起こす時にアリア社長とダイブしたり、朝布団に潜り込んで一緒に寝たり、朝背後から襲ってみたり。
 最初の頃こそ驚きながらも笑ってくれた灯里だったが、最近は慣れてしまい今までの事をしても起きなくなってしまった。ちなみに起こすのは大体、灯里が起きようとする時間帯だ。まあ、一緒に寝る時は時間に関係なく潜り込み、その胸に顔を埋めて幸せを肥やすのだが。灯里、日に日に大きく……成長段階である。

「さぁー、始まりました潜入捜査でございます」

 アリアカンパニーの扉を開きながら、どこかのリポーターのようにボソボソと言ってみる。まだ寝静まっているアリアカンパニー。外からの波音すらも大きく聞こえるほどに静かなその中に、アイナはそろそろと入り込む。それから朝の静かな空間をふふーんと堪能してから、二階へ上がる。
 キッチンを覗き込み、今日は何にしようかと考える。お湯を沸かすならもう少し時間が経ってからのほうがいいだろう。しかしコーヒーにするか、ココアにするか、それとも紅茶にするか。朝、気分によってそれらを作るのだが、秋なのでさっぱり甘い紅茶にしようと、アイナは紅茶の茶っ葉を取り出す。それから鍋に水を入れて、紅茶の葉を放り込む。これでしばし置いてから、火を掛けるのがアイナのやり方。以外にもあまり味は変わらないので、アイナは作り方を気にしない。
 それから更に三階へと上がるのだが、ここで注意しなくてはならない。大きな音を立てると、そこは猫であるアリア社長が反応するのだ。起きると、灯里が起きる確率も上がる。
 そうしてゆっくり、ゆっくりと音を立てない様に上がって行くと、そこには外からの軟らかい光が当たるベッドの上で眠りこける女の子が一人。夏は中々刺激的な服装で眠っていたが、今は秋になり少し暖かなパジャマで眠っている。しかしナイトキャップに猫耳がついているあたり、灯里のにゃんこさん好きにはライバル心すら燃える。

「ん~……今日も良い寝顔でございますねー」

 ベッドの直ぐ横まで移動して、ゆっくりとしゃがみ込む。灯里の顔と位置を一緒にして、にへへと笑う。全くもって眠り姫とはこういう事を言うのだろうと、良く判らない解釈をする。
 その灯里の寝顔を見たまま、さてどうしようかなーと考える。しばし考えて、アイナはよいしょと上に着ていた二枚ほどのカーディガン状に作られた制服を脱ぎ、スカートと一体の制服姿になる。服を脱ぐ音も中々大きな音に聞こえてしまうが、アイナは気にしない。それから胸元のボタンを開いて、潜入。

「おじゃましまーす」

 にやける顔をそのままに、アイナは灯里の眠るベッドに侵入する。そして――何を思ったのか灯里を優しく抱き締めて、自分の胸に顔を埋めさせる。心臓がドキドキしているので灯里が直ぐに起きてしまいそうだ。だが息苦しくなって起きてはつまらないので、そこは上手い具合に息をできるようにしておく。
 そのままで、約数十分。太陽が昇ったのか、ぽかぽかとした陽気が建物の中に入って来る。布団の中は良い温度で、アイナは灯里が起きるまで待っていようかと思っていたが、限界だった。意識を手放し、そのまま横になる。もちろん、灯里の頭をしっかりと抱き締めて。
 ――それから、おそらく数十分後。

「ふ……――っ!?」
「ああおう」

 寝ぼけ眼の灯里が、目の前にある鮮やかな色の物を不思議に思い、手を伸ばしてそれを掴む。むにっとした感触がすると同時に、するりと肌蹴る白い肌。それがアイナの胸元であることに気付くまで、たっぷりと数秒があった。
 がばぁと起き上がり、灯里は声にならない悲鳴を上げながら両手で頬を抑える。

「な、な、なにしてるんですかぁー!?」
「いやぁ、良い揉みっぷりだったよ灯里。一発で目が覚めた」
「アイナちゃん、時々思うけど……かなり危ないよ?」
「うん、あたしもそう思うよ。灯里との朝のスキンシップがこれほどまでに楽しいとそろそろマジで」

 灯里が好きなのは友達としてだと、アイナは信じたい。だがしかし、そっち方面でも良いかなどと思い始めている事もまた事実だったりする。
 時計を見てみると、時刻はアイナが起きた時間から1時間は経過していた。ふむ、結構寝ていたらしい。

「……あのー、奥さん。もう一つようござんすか?」
「はひ?」
「外を見ると太陽が昇る、朝の黄金が見れるっぜ!」

 アイナはベッドの上をちょこちょこと四つん這いで歩き、良い感じの屋根上の窓から外を見る。太陽が昇ったばかりで、朝焼けと呼ばれる短い時間の朝の黄金の海。それから蒼く澄んでいくオレンジ色の空。
 景色が変わって行く姿を二人で見る、朝の日課のようなものだった。
 窓を開くと、少し暖かくなった風が吹き、二人の頬を通り過ぎる。お互いに見つめ合い、ニコッと笑い、

「今日もこそばゆいね」
「うん、色んな意味でこそばゆい」

 そんな事を言うのだった。
 さてとベッドから降りて、アイナは制服を着直す。しっかりと着こなして、先に下に行っている事を伝えて階段を降りる。まだアリシアは来ていないはずなので、アイナは紅茶を作ろうとキッチンへ。
 茶っ葉を入れた鍋に火を付け、直に味を出す。水の色が変わるまでが、少しばかり時間がかかるが、良い匂いがしてくるまで待つのもた一興。アクアに来てから12カ月、料理方法をアリシアや灯里に教えて貰い、今では料理することが楽しくなっていた。
 なんというか、ゼロから何かを作るというのが楽しいようで、アイナは料理に嵌ってしまったのである。現在は家に料理本を置き、何を作ってアリシアと灯里を驚かそうかと考えていたりする。その時の二人の表情を想像するのも、また面白い。

「ふっふ~ん」
「ごきげんね、アイナちゃん」
「ふっは!? アリシアさん!? う、お、おやほうございまふ?」
「落ち着いてアイナちゃん。おはよう」
「お、おはようございます。って、早くないですか?」

 唐突に声を掛けられて、その声が明らかに灯里と違うと判り振り返ると、そこには金髪の美女が一人軟らかい微笑みを浮かべて立っていた。その人のまさかの登場に、アイナは驚いて焦る。
 アリアカンパニーが動き出すまでもう少し時間はあるはず。アイナは一人でアリアカンパニーに来て、朝早くから行動を開始している。その理由は簡単で、基本的に夜寝るのが早いので、朝早くに目が覚めてしまうのだ。マンホームの時は夜寝るのが遅かったので、辛かったのを覚えている。
 だからか、朝早く起きて手持無沙汰になったアイナは、アリアカンパニーに赴き灯里が起きないように一緒に寝たり、侵入したりする。もちろん、起こすのはご法度。起きる時間になれば起こすのだが。
 そして、数ヶ月前から実行している、朝ご飯を作るという行為。料理の腕はメキメキ上がり、アリシアや灯里にも褒められるほど。しかしながら二人の腕前には追いつけないので、日々練習しているわけだ。

「うん、今日は私も早く起きちゃって。もしかしたら来てるかなって」
「あはは。案の定、来てました」
「うふふ。今は紅茶?」
「あ、はい。朝はまず、美味しい一杯からです」

 ぽこぽこと鍋から湯気が立ち上り始める。色が赤茶色に変わり、茶っ葉の匂いがして来る。ちなみにアイナはアールグレイをストレートに砂糖を少し入れるのが好き。たまにミルクティーを飲みたい時はアッサムティーを使用する。
 匂いが少し強烈になりそうなところで、火を止め、カップ四つを用意して、ろ過しながら入れて行く。何十回と繰り返してようやく判ったタイミングで出した味は、中々に美味いと自負している。とはいえお店で出すわけではなく、個人的な物なのでアイナ自身はそこまで拘っているわけではないと思っている。とりあえず、個人的に美味しければそれでよし、というわけだ。
 しかしその個人的な物が細かかったようで、そこまでしなくてもと突っ込まれる事数回。藍華やアリスにも言われた事はある。なんだかんだで拘りは持っているようだ。本人は気付いていない。

「良い匂いだねー、アイナちゃん。あ、アリシアさん、おはようございます」
「おはよう灯里ちゃん」
「ぷぷいにゃー」
「おはようございます、アリア社長」

 階段から降りて来た灯里が、アリシアを見て挨拶をする。その横から更に出て来たアリア社長にも挨拶をして、アリアカンパニーの全員が揃った。丁度良かったと、カップを二つ持ち、テーブルへと二人と一匹を誘導する。テーブルの上にカップを置いて、すぐさまキッチンへ戻り残りの二つも持って来る。
 それぞれの上に置いて、朝の紅茶タイムである。
 ちなみに普段はアイナ一人か、もしくは灯里と二人、アリア社長と二人、と言う事が多い。アリシアは今回が初なのだが、ニコニコ笑顔で絶賛してくれる。

「美味しい。毎日この時間に?」
「はい。朝早く起きたりすると、アパートで飲むよりこっちで飲む方が落ち着くし美味しいもので」
「あらあら。でもこれだけ美味しいなら、早起きも良いわね」

 十分に早起きなんですけど、と心の中で突っ込む。実際、ウンディーネの朝はそこそこに早いと思われる。朝起きて、朝ご飯を食べて、しばらくすれば直ぐに仕事だ。仕事開始時間は会社によって違うようだが、ここアリアカンパニーは場合によって時間が変わる。とはいえ三十分単位くらいの変化で、それほど大きくはない。
 まったり、のんびり、朝を楽しむ。こんな時間も悪くはない。居心地のいい沈黙というのも有りだ。そう思いながらゴクッと一口飲んだ瞬間、何をミスったのか器官側に入る紅茶。

「げっほ!! ごほ、げほ!」
「はひ!? アイナちゃん、大丈夫!?」
「あらあら、器官に入っちゃった?」
「ごほ! はい、入り――げっほ!」

 隣の灯里が背中を摩ってくれる。しかしそれで楽になるわけではない。器官に入った水がある程度出たところで、アイナはぜはーっと息をした。時々発生するこの器官侵入事件。生きている以上一回は体験したことがあるはずだが、いかんせんかなり苦しい。目尻に涙を溜めて、アイナの激しい咳はけほけほと軽い咳に変わる。

「はあ、はあ……灯里、ありがと」
「大丈夫?」
「うん、なんとかね」

 少し心配そうなアリシアの顔を見て、アイナは大丈夫ですっとブイサインを出す。ソレに少し驚きながら、アリシアはうふふと笑ってくれた。どうやら心配はないと判断したようだ。
 灯里も大丈夫そうだと判断して、アイナの背中から手を離す。

「あ、そだ。ちなみに灯里、やっぱり「ちゃん」は外せないの?」
「え?」
「ほら、あたしを呼ぶ時「ちゃん」が付くじゃん? 最初の頃いらないって言ったのにやっぱり付くから」
「あ、あはは。なんか外し難いというか、私昔からそうだから」
「ふむ。まあ慣れない事を強制しても意味ないから良いか」
「ごめんね」
「謝らないで灯里ー! 私が虐めてるみたいじゃない!」

 謝られる程の事ではないし、それはアイナの我儘だ。名を呼び捨てで呼んで欲しいというのは。しかしそれが慣れない人は確かに居る。それに「ちゃん」があろうがなかろうが、親友は親友。しかしアイナの中では灯里はソウルシスターなのだが。ちなみに名称はソウルブラザーより。
 残りの紅茶を飲み終えて、まったりタイムはそこで終了。では朝ご飯を作る時間である。っと、その前にとアイナはアリア社長を呼ぶ。

「アリア社長、はいデータディスク」
「ぷいにゃー!」

 アリア社長にアニメのディスクを渡すと、アリア社長は下の階へと降りて行く。テレビは一階にしかないのだ。

「ご飯出来たら呼びますねー」

 アイナの呼び掛けに、アリア社長は元気に返事をする。
 そんな二人を見ながら、アリシアは不思議そうに問い掛ける。

「アイナちゃん、今のは?」
「ああ、あたしの秘蔵の熱血アニメです。アリア社長気に入っちゃって」
「凄い熱血パワフルな話だったね」
「うん、壁があれば殴って壊せ、道が無ければ自分で創る、なんていう台詞まであるくらいですから」
「ふぅん……私も見てみようかな」
『っ!?』

 そう言って優雅に立ち上がり、とことことアリア社長の後を追うように降りて行くアリシア。その行動を、灯里とアイナはただ見ていることしかできない。突っ込めないし、何をおっしゃいますかとも言えない。それどころか、まさかそんな行動に出るとは思わなかったのだ。
 唖然と、アリシアが降りて行った階段を見ていることしかできない。程なくして、一階から前回のあらすじの熱血を通り越して魂の叫びと呼んでも良いほどにうるさく、でかい声がテレビを通して聞こえて来た。

「……灯里、あたしたちはご飯を作ろうか」
「そ、そうだね」

 にへらと笑い、釣られて笑みを浮かべる灯里。その笑顔が、なぜか救いだと感じるアイナだった。





 さて、秋に入った直後なのだが既に肌寒くなりつつある気温。冬服に衣替えをして、新しい制服を着て初めて、アイナはゴンドラの上に立っていた。
 ちなみにアイナのゴンドラが用意されたのは入社してから一週間ほどした頃だった。それからはちょくちょく一人で練習したり、灯里達と練習したり、アリシアに教えて貰いながら練習していた。
 色々な練習方法があったが、やはりアリシアと共に行った練習が中々面白かった事を覚えている。
 それはさておき、まだ少しは暖かい陽気が残っているのが幸いだとアイナは思いつつ、朝の事を思い出していた。
 朝食を作り、準備が出来たのでアリア社長を読んでみれば、アリア社長は何時も通りノリノリで見ていたのだが、アリシアも身振り手振りでアニメキャラの動きを楽しんでいたのには声を失った。後から聞いてみれば、面白かったとのこと。何がどう、というわけではないそうなのだが、アリア社長と遊んでいたというのも考えられる。というか、そう考えたかった。
 そして、アイナは頭の中からアリシアのポーズを消去したかった。右腕を上げて何時もの声で「おー」と笑いながら声を上げている姿を。ちなみにそれはアニメキャラの勝利のポーズである。もちろん、その隣でアリア社長もばっちり同じ恰好をしていた。
 なんでも楽しんでしまう性格だと灯里から聞いていたが、楽しみすぎだろうと言いたかったのは勿論秘密だ。
 しかしアリシアに何気なく聞いてみたところ、アリア社長に一緒にとせがまれたと言っていたので、アリシア自身は自分からしたわけではないようで、それだけが唯一の心の救いだった。
 悪いわけではないのだが、ついそう思ってしまうのだ。
 ブンブンと頭を横に振り、アイナは前を見る。
 海の波は平穏。風は弱い。太陽も光ってるが日差しは強く無く、その代わり冷えて来た空気がアイナの身体を覆う。気持ち良いのだが、夏という時期があまりにも熱かったのでこれだけで寒いと感じてしまうほどだった。
 空を見上げて、暁めと浮き島を睨む。そこでふと、そういえば浮き島って行った事無いなと思いだした。思い出したら即行動、アイナは目の前に居る灯里に問い掛ける。

「ねえ灯里、浮き島って行った事ある?」
「うん、あるよ」
「どんな場所?」
「えっとね……空を飛んでる気分になれるよ」
「空を……行ってみたい!」

 空を飛んでいる気分になれると聞いたら、一度は行ってみたいと思ってしまう。どうやって行くのかと考えていると、そういえばロープウェイで行くんだとかなんだとか、暁から聞いた記憶がある。夏のど真ん中だったか。

「そういえば、今年は残暑が思った以上に短くて、あのイベント週末に変更になったんだっけ」
「イベント?」
「うん、イベント。今はそれしか言えないのだー」
「なーによ、気になるじゃない」

 ゴンドラを漕ぎながら、えへへーとニヤニヤする灯里にむぅと膨れるアイナ。そんな微笑ましい光景の横に、すいーっと近づいて来るゴンドラが一隻。その存在に気付いて視線を向けてみると、そこにはアリスが何時の間にか横に並んでいた。
 何時の間にと思いながら、アイナは手を上げる。

「おはようアリスちゃん」
「おはようアリス。今日は早いの?」
「おはようございます、灯里先輩、アイナ先輩。今日の授業はとある事情により午後からなので、暇だったので漕いでました。そしたらお二人の姿を見つけたもので」

 そのとある事情が少し気になったが、おそらくそれは学校の何かなのだろうし、気にする事はないとアイナは深くは考えずにそうなんだと答えた。
 ちなみに12カ月もの時間というのは、お互いの事をそこそこ知るには十分な時間である。その為、アイナはアリス、藍華と親愛の意味を込めて呼び捨てでいる。アイナにとって、呼び捨てとはお互いを知った仲間である意味を含めるので、そこは人それぞれの一つだろうか。ちなみにアリシア、晃、アテナは敬意を込めての「さん」付けである。
 アリスが少しブルッと震える。オレンジぷらねっとの冬服の制服ではなく、まだ夏服を着ていたアリスは、どうやら選択を間違えたようだ。

「でっかい寒いです……」
「制服、冬にした方が良いと思うよ?」
「そうですね。まさか一気に気温が下がるとは思ってませんでした」

 うーと可愛く唸りながら、アリスは少し強く吹いた風に身を縮める。かなり寒いようだが、いかんせん毛布のようなものは今は持っていないし、持っていたとしても漕いで帰ることはできない。そこで、自分が来ている大きめな上着を脱ぎ、アリスにはいっと差し出す。ソレを見て、アリスは首を傾げた。

「え?」
「寒いでしょ。後で返してね」
「アイナ先輩……でも、アイナ先輩が寒いんじゃ」
「大丈夫、あたしには灯里というホッカイロがあるから」
「え、私!?」

 そう言いながら船首から一歩歩いて灯里の隣にしゃがみぎゅーっと抱き締める。ちなみに灯里はアリア社長を抱き締めていたので、一緒に抱き締める事になる。ヌクヌクである。

「んー、あったかい」
「……では遠慮なくお借りします」

 そう言ってアイナの服を着て、アリスはふうと息を吐いた。それまでアイナが着ていたので、少しは暖かさが残っているだろう。しかし、少し大きいようで動きにくそうだ。

「ありゃ、大きかった?」
「ええ、少し。でも……でっかい暖かいです」
「人肌ってぬっくいよねー」
「ヌクヌクなのは良いんだけど、アイナちゃん離れてー」

 そう言いながら一切の抵抗をしない灯里。なんだかんだでアリア社長の暖かさが手放せないので、手での抵抗ができないのだ。アイナはアイナで灯里とアリア社長の一人と一匹が予想以上にぬくいので離れられない。
 そんな二人と一匹の状況を見ながら、アリスはぽんっと手を打つ。

「先輩方、温泉に行きませんか?」
「温泉?」
「温泉!」

 アリスの言葉に、アイナは首を傾げ、灯里は飛び上がるように反応した。面白いくらいに正反対の二人の反応に、アリスはくすりと笑う。

「はい。やっぱ冷える時は温泉かと」
「温泉って、あの温泉!?」
「そう、あの温泉だよー!」
「やっぱりまだアイナ先輩は入った事がないようですね」
「あ、アリス、本当に!? 温泉って入れるの!?」
「当たり前です」

 既に温泉を想像してか、灯里がぽけーっとしている。しかしイマイチどんな物か想像できないアイナは、名前だけは調べてホログラフで見たことがあるのを思い出す。とても不思議なお風呂、というべきだろうか。
 まず岩作りの壁に、彫られた池の中が温泉というものから、岩肌に直に入り込む温泉、人工的に創った露天風呂、温泉と言っても色々な姿形があったのを思い出す。そして、マンホームにはもうそれは存在しないので、まさかのアリスの言葉に驚きを隠せないのだ。

「ほ、本物!?」
「うん、私も最初は興奮したよ~」
「マンホームにはもう温泉が無いと言いますからね」

 灯里に確認すると、灯里はのほほんとした顔でそんなことをのたまう。良い感じにトリップしているようだが、アイナもまた若干トリップ気味になりつつある。
 アリスはそんなマンホームコンビに、クスリと笑いながらトドメでも言っておこうと一言追加する。

「身体の芯からでっかい暖まります」
「行く! アリス、あたしは行くよ!」
「アリスちゃん、アリスちゃん、私も私も!」
「判りました。では、夕方サン・マルコ広場に集合で」
『了解しました!』

 そこまで言うと、すいーっと先に行ってしまうアリス。試しに追い掛けてみようと思いながらアイナは直ぐに船首に立って漕いでみるが、アリスに追い付ける気がしない。
直ぐに諦めて、アイナは頭の中に温泉と言う物を想像する。
 んー、どんな場所なのだろう。想像するだけで楽しみだ。

「灯里、あたしは温泉とやらが楽しみで仕方が無いよ」
「そうだね!」

 満面の笑みで、灯里は答える。その顔に、アイナも負けないほどの笑みで返した。

 ――――夕刻。
 ウンディーネの練習も終り、アイナはすかさずお風呂セットを装備してアリアカンパニーへと戻り、待機していた。待機している理由は、灯里を待っているのである。まず持って行く物を灯里に聞いて、それを準備する。それから制服で行くか私服で行くか悩んだが、着替える時間がもったいなくてそのまま制服で来てしまったのだ。
 灯里はどうするのか判らないが、とりあえず制服で行くようだ。二階から降りて来た灯里は、既にお風呂セットを手に持っていた。しかし、ひよこ? のようなおもちゃは、なんなのだろう。

「灯里、ソレ何?」
「これ? えへへー、ひよこちゃん」
「お風呂にひよこ!?」
「うん、ひよこー」

 なるほど、確かに愛らしいつぶらな瞳と黄色い小さなボディは間違いなくひよこだ。しかし何故ひよこのおもちゃを持参する。
 まあいいかと考えながら、そろそろ約束の時刻に近づこうとしている。アリスとは夕方にという約束をしたが、考えてみれば時間を決めていない。ならば出来る限り早めに行くのが良いだろう。
 アイナは灯里を急かせ、早くと言いながらもふと、脳裏に浮かんだもう一人の親友、藍華を思い出す。昼間の練習中に温泉の話を聞いて「私も行く」と言いだすのは予想していたが、そういえば何時どこで約束か言ったかどうか、憶えていない。

「……灯里」
「なに?」
「藍華に約束の場所と時間、言ったっけ?」
「私が言ったよ」
「おお、さすが灯里」

 何時の間にとアイナは思う。ならば心配はいらない。後は温泉に突撃するのみだ。
 と、そろそろ行こうかなと思ったところで、アリアカンパニーの扉が開く。

「たのもー」
「道場破り!?」

 扉からの声にいち早く反応したのは勿論アイナ。その声の主を見て、しかしアイナは唖然とする。そこには黒髪の女性と、金髪の女性が立っていたからだ。その後ろには銀髪の女性までもがいる。
 晃、アリシア、アテナの水の三大妖精だ。

「あ、アリシアさん!? 晃さんとアテナさんまで!」
「ただいま、アイナちゃん、灯里ちゃん」
「おかえりなさいアリシアさん」
「ぷいにゃー」

 今の今までゴロゴロしていたアリア社長が、アリシア登場と同時に彼女にタックルする。しかしそれを軽く受け止めて、アリシアはそのままよいしょと抱き抱える。灯里は温泉セットを袋に入れて再登場していた。
 なるほど、スポーツバッグのような大きめなバッグに入れれば、色々な物を持っていける。これは盲点だった。アイナはどうしたものかと思いながらも、そういえば下着やら何やらを持って来ていない事に今更になって気が付いた。

「あ、着替え」
「ん? なんだお前ら、どこか行くのか?」
「はい、温泉に」
「あら、良いわね。私も良いかしら?」
「私も行くー」

 晃の問いにすんなりと答えた灯里の言葉に、アリシアが早速同意。更に後ろからアテナが手を上げて自己アピールをしてきた。断り様が無い。というか断れないというのが本音である。
 ちなみに晃は少し考えた素振りをして、ふっと笑った。

「あの温泉宿か?」
「わからないですけど、多分」
「アリスちゃんが誘ったんじゃない?」
「あれ、アテナさんなんでわかるんですか?」
「うふふ。今日言ってたから。温泉宿に行って来ますって」
「……ってことは?」
「じゃーん」

 アテナが何かを持っているということは判っていた。さきほどから何か大きな物を持っていると。しかしだ、まさか温泉に行くという予想を立て、晃とアリシアを探し出してアリアカンパニーにまで押しかけ、こうしてアイナと灯里の状況を確認して、アリスの言葉が本当で、かつどこに行くかを想定していたというのか。
 温泉宿。その名の通り温泉が宿にもなっている場所だ。温泉にも入れて、宿に泊まれる。最高の羽伸ばしである。

「……私と藍華だけ、知らなかったというわけか?」
「藍華には昼間話しましたよ?」
「なに!? って、昼間どころか朝のおはよう以外会った覚えが無いな」
「そりゃ藍華だって話せませんって」

 少し怖そうな顔で言って来たので、藍華に責任を擦り付けようとして言ったアイナ。しかし晃はあーと言いながら思いだしたようで、藍華にはそもそも責任もなにもなかったようだ。
 とりあえず、アテナの準備が万端であることは理解した。そして奇跡的に三人共夕方に手が開いたようで、こうしてここに来ているのだろう。ということは、もう後はする事は一つしかない。

「それじゃあ、準備して来るから、灯里ちゃん、アイナちゃん、ちょっと待っててくれる?」
「おいアリシア。下着貸してくれ」
「私のじゃ小さくない?」
「いや……んー、あー、小さいかも……」
「あらあら」

 アリアカンパニーから出る前にアリア社長を降ろして、アリシアはアパートへと向かった。さすがに姫屋は少しばかり遠いいので、晃はどうしたものかと少し考えながら出て行った。
 待っていてくれと言われれば、待つしかない。アイナと灯里は顔を見合わせて、ふふっと笑う。
 だが、考えてみればチャンスだとアイナも思い出す。

「あ、あたしも下着取って来る」

 素早く立ち上がり駆け足でアリアカンパニーを飛び出す。夜のネオ・ヴェネツィアは、結構な冷え模様だった。





 そうして到着した温泉宿。とはいえ今日は日帰りということなのだが、正直結構遠かったのを考えると日帰り、それもかなり夜遅くになりそうなのだが、大丈夫なのかとアイナは思った。
 だが温泉宿という建物を見て、その考えはどこかへと吹き飛んでしまった。心配事など気にするな、さあ入れというように大きな入口が口を開いている。その中に、夕方から入って行く人々。結構な人の数だ。

「うわっはー!」
「何時見てもおっきー!」

 その大きな建物に興奮してしまうアイナ。それに便乗するように灯里も少し興奮気味だ。そんな二人を、残りの人達は呆れたような顔をしたり、笑顔を浮かべたり、様々に表情を浮かべる。

「さあ、ここで終わりじゃないぞ」
「そうよ。中に入ってからなんだから」

 アイナの肩を晃が、灯里の肩を藍華がぽんっと叩いて中へと向かう。その二人に付いて行くようにアイナと灯里は前に進んだ。
 受付を通り、日帰りなので金額を払って脱衣所へと入る。
女湯に入ると、アイナはむっと顔を背けた。しかし背けては歩けないので、俯いた。灯里とアリシアの足だろうと思われるウンディーネ一行の一部に入り込んで、ちょこちょこと歩く。

「あにしてんのよ、熱血娘」
「い、いぁ……ちょっと恥ずかしいなと」
「うんうん、私も最初は恥ずかしかったよー」

 藍華の言葉に少し頬を赤くしながら答えるアイナ。その言葉に灯里は同意してくれる。やはりマンホーム出身同士、そこは同じ場面で少し赤面してしまうらしい。まあ、同じお風呂にほかの人と入るということはまずないのだから仕方が無い。
 藍華は灯里とそっくりねと思うが、アイナはそれを知らない。

「いつものノリで脱いじゃいないさい」
「ぬ、脱ぐ……」

 ちらっと周りを見てみると、アリシア、晃、アテナは既にタオルを身体に巻いていた。はやっと思ったのも一瞬、おさきにーと言ってさっさと中へと入ってしまう。
 藍華とアリスも服を脱ぎ、灯里もボタンに手を掛ける。それらを見て、渡された籠を見て、アイナはええいままよと服に手を掛ける。
 が、勢い良く手をボタンに掛けたのは良いが、そこからはノロノロと。他の女性が素っ裸で歩き回る空間が、なんだか異様な光景に思えて居た堪れない。

「はう~」
「あ、アイナちゃん落ち着いて」

 ドキドキしすぎて脳に血が上り、ふらっとするアイナ。そんな彼女を支える灯里だが、既に彼女も素っ裸。タオルはもちろん巻いているが、気の所為か少しだけ頬が赤い。当然、身体が暖まったとかではないのは間違いない。

「今日は私がリードするからね、それじゃあ脱いでアイナちゃん!」
「なんかやらしいよ灯里」
「……私もまだ恥ずかしいんだよ」

 中に入っちゃえば大丈夫と言いながら、灯里はクルッと振り返る。その間に脱げということだろう。アイナは意を決して服を脱ぎ、全てを籠の中に入れてタオルを巻く。よし、準備万端。しかし、凄く恥ずかしい。

「灯里、おっけー」
「じゃ行くよー」

 そう言って前を歩く灯里。きょろきょろと周りを見てしまう挙動不審なアイナ。初めてなので優しくしてと心の中で言いながら、なんか違うと自分に突っ込みを入れる。初めてだから変な目で見ないでと言いたいのだが、いかんせん少しばかり混乱中の彼女は、少し変である。
 いつも変なのは御愛嬌。

「モタモタ禁止―」
「でっかい遅いです」

 ガラガラと入口を開けると、そこには藍華とアリスが立っていた。お風呂に入る用の髪の毛の形なのだろう、少し二人とも雰囲気が違う。
 それよりも、下から昇って来る暖かい空気に、アイナはおっと思わず下を見た。アイナ達が居るのは階段の上の方で、どうやら下の階がそのまま温泉になっているようだ。ついに温泉に入る時が来たと、アイナは思う。っと、そこでアイナはアリア社長達がどこに行ったのか疑問を浮かべた。
 自分の事が手一杯で社長ズのことを忘れていたのだ。

「あ、アリア社長は?」
「アリシアさんが連れて行ったよ」

 え、さっき? そう思って脳裏でさきほどのシーンを逆再生してみる。いや、いないと思ったがと首を傾げて、おそらくは目を離した瞬間に入ったのだろうとアイナは思考回路を切った。
 それよりもである。階段を降りた先の目の前のこの空間。広々とした屋敷。来る前に聞いていたが、大きな広間をそのまま温泉にしたこの風変わりな創りは、確かに面白い。

「うっほー。まるで妖精が住んでそうだね、灯里!」
「あ、私も最初そう言ったの。昔話みたいだよね!」
「うん、そう、昔話の妖精が住んでそうなね!」
「恥ずかしい台詞禁止!」
「でっかいうるさいですよ、三人共」

 アリスの視線とは違い、他の何十もの視線を受けて、アイナと灯里、藍華は少し小さくなってすみませんと答えた。とりあえずそのまま藍華達に付いて行き、ほとんど人が居ない端っこへと移動する。そこにはアリシア、晃、アテナも居て、三人ともくつろいでいた。
 瓦礫のような岩の上、崩れてボロボロの屋敷。だというのに、なんだか面白くて楽しくて。何があったのだろうというよりも、こうして崩れた天上から月が見えるだけで十分ではないだろうか。
 月光に照らされて、アイナは思わずその真下でしゃがみ込み、温泉に浸かる。足も、腕も、伸ばし放題動かし放題。楽しいと満面の笑みを浮かべる。
 アイナの隣では、同じように灯里がほへーっと暖まっていた。その横にアリス、藍華ものんびりと浸かっている。そうして更に深く浸かり、アイナはにへっと笑って声を上げた。

「ぁあああー、極楽じゃー」
「ジジイ発言禁止!」
「ナイス突っ込み」

 やってくれると思っていた藍華に、アイナは笑いながら親指を立てる。そんなアイナに呆れながらも、どうだと親指を立て返す藍華。そんな二人を、灯里とアリスは笑いながら見て、アリシア達は苦笑している。

「じゃあこれ。いっい湯っだっな、あははん」
「……いや、わかんない」
「あー、ド○フ!」
「灯里正解。って、マンホームじゃないとわかんないか」

 数百年前に存在した伝説の番組。8時だぜ! という番組があった。コントのみの番組なのだが、伝説のコントとして今もマンホームでは人気がある。1980年代という遥か昔の代物だというのに、この2300年でも存在し続けるその伝説は、まさに伝説級の爆笑ができる。
 時々、アイナはそれを見て爆笑していたりするのだが、皆には内緒だった。

「さすがに判らないよ」
「ならばこれ。えんだーいあー!」
「温泉関係ないよね!?」
「んふはははははは!!」

 とてつもなく楽しいので、アイナはもう訳も判らず叫び、大声で笑った。それに釣られて皆も笑い、やかましい熱血娘は今日は大人しく笑うだけにしておく。
 それからウロウロと動き回り、温泉でゆっくりするはずがアイナは一人あっちへこっちへ。何か素敵なものはないかなーとウロチョロしていると、ちょいちょいと灯里に肩を叩かれる。おっと思い灯里が指を指す方に視線を向けると、ないやら皆が静かに行動を開始している。
 アイナは面白い何かがあるのだなと直感し、すぐさまその後に付いて行く。だが音はほとんど出さない様に注意しながら行動だ。
 なにやら扉が開かれ、その先の通路に皆が進んでいるようだ。しかし、その道を遮る立入禁止のマークが。普通にこれを通過したとなると、皆さん悪ですねと心の中で突っ込みを入れる。
 さてそんな事は気にせずに、アイナはよいしょとそのマークを通り、皆が進んだ方へ進む。真っ暗で灯里と二人で恐る恐る進む。すると、不意に灯里が通路の先から見えて来た。出口はあそこだと心の中で叫んで、しかし身体はゆっくりと前に進むのみ。怖くて走れないのだ。
 そうして、辿り着いた先には――

「うっわぁー……」

 アイナは声を上げた。灯里はその隣でクスクス笑っており、自分と同じ反応をするアイナを楽しくみているようだった。
 そこはまるで、中世のロンドンなどにありそうな城の瓦礫の山の中のようだった。崩れた瓦礫が至る所にあり、折れた柱や石柱が乱雑に立ち並び、巨大な岩がまるで外界との境を作る様にそこに立っている。外にある温泉というわけだ。
つまり、露天風呂。

「すっご」
「綺麗」

 キラキラ輝く暗闇の海。月光に照らされると同時に、水面に反射して映る月。どちらも明るく眩しく、そして軟らかい光でアイナ達を照らしている。

「まるで、夜の海に歓迎されてるみたいだね」
「あは、素敵だね」
「恥ずかしい台詞禁止いぃー!」
「ぇぇえー」

 灯里の言葉に、確かにその通りで素敵な言葉だとアイナは同意する。だが耳の良い藍華は少し離れたところから吼えるように突っ込みをして来た。思わぬ位置からの何時もの突っ込みに、灯里はなんでーと声を上げる。
 そんな二人のやりとりを何時もの事と見て、アイナは空を見上げる。月光。満月ではなく三日月。だけどこの明るさは十分に証明の役割を果たしている。
 じゃぶじゃぶと歩いて、しかしあまりにも広く、広大な暖かい温泉に、身体がうずうずしてきたアイナは、っていと水の中へと飛び込む。少し泳いで、ふはっと息を吐く。

「楽しい!」
「やっぱり泳ぎたくなるよねー」

 すいーっと灯里がアイナの横を通り過ぎる。あまりにも広すぎて、まるで温泉プールだ。マンホームには確か存在しないはずなので、これは初めての経験である。アイナはすかさず再び水に浸かり、そのままゆっくりと泳ぎ始めた。
 だが、次の瞬間。身体に巻いていたタオルが、何かに引っ掛かりするりと取れてしまう。あっと思い立ち上がり、素早くタオルを引っ掴むが、時既に遅し。

「お」
「あ」

 数人の声が一緒に上がる。アイナの素っ裸は、月光の元、この場に居る全ての人に見られるのだった。

「うっきゃー!」

 顔を真っ赤にして、水に沈む。直ぐに身体にタオルを巻くが、上手く巻けない。巻けなくて、焦って、恥ずかしくて、巻こうとして、巻けなくて、焦って手が動かずにタオルは手から離れる始末。そうしてたっぷり数秒タオルと格闘した結果。
 アイナは、タオルを引っ掴み肩に掛けて、立ち上がった。ヤケクソである。

「あっはっはー! あたしの綺麗な身体くらいいくらでも見せてあげるわ!」
「確かに白い肌で綺麗だね」
「……は、恥ずかしい台詞禁止」
「ええー!?」

 アイナの身体を褒めたのに禁止と言われて、灯里は酷いと声を上げる。だが直ぐにタオルを掴んでアイナの身体に巻いてあげる。すんなりと、アイナの身体はタオルに巻かれた。
 とりあえず、見ているこっちが恥ずかしいので。だがアイナはもう気にしていないようだ。

「ありゃ、ありがと灯里」
「うん。見てるこっちが恥ずかしい」
「ん~……まるで新婚ね」
「でっかい仲良いですね」
「私の居場所が小さくなっちゃう」
「アリシアが困ってるぞー」
「アリシアちゃん、あの二人そういう関係?」

 5人が言いたい放題言ってくれる。挙句に困ったと言う顔で言うアリシアに、アイナと灯里はいやいやと心の中で突っ込みを入れる。それこそボケることも突っ込む事も出来ない人にそんな事を言われると、どうすればいいのだとアイナは右手の平手を動かして虚しく空を切るのみである。
 わいのわいのと騒いで、ふうと誰かが息を吐いたところで、全員が空を見上げる。誰かは岩の上で、誰かは石柱の上で、誰かは水に浮かんで、空に浮かぶ月を見つめる。
 星の瞬き、月の光。朝は太陽が光を送り、夜は月が光を送る。不思議な、マンホーム時代から変わらない昼と夜の不思議。そんなことを何気なく考えて、アイナは手を伸ばした。

「……ウンディーネ。なってやろうじゃない」

 まだまだペアの見習い。シングルの灯里と練習し、プリマのアリシアに教えて貰い、日々腕を上げる毎日。今ならきっと、シングルになれるんじゃないだろうかと思いながら、しかしアイナは油断大敵とその慢心を投げ捨てる。
 それになにより、この楽しい時間をまだ続けていたい。故に――のんびり、プリマを目指そうと思うのだった。

『温泉パワー、充電完了』

 不意に口を突いて出た言葉。それは奇しくも灯里と同じ言葉を、同じタイミングで呟いていた。思わず視線を合わせる二人。そして、クスリと笑い、笑顔を浮かべた。





 週末になった。
 温泉に浸かって次の日は体調は絶好調でやたらと張り切ってしまいアイナは約二日後の今日、結構疲れていた。他の皆は疲れなど皆無のように見えるが、温泉の力とは凄い物でその次の日ばかりは皆張り切っていた。
 張り切り過ぎで疲れたのは勿論、アイナだけだったようだが。

「さて、本日は灯里が言っていたイベントの日! で、浮き島ってどうやって行くの!?」
「あらあら、アイナちゃんは今日も元気ね」
「はひ。元気満々で羨ましいです」
「ぷぷいにゅ」

 なんで呆れられてるんだろうと、アイナはアリア社長の「はぁーやれやれ」という動きに些かショックを受ける。二人の上司は暖かな笑顔を向けてくれているのに。
 しかしそんな些細な事で傷つくほどやわな心ではないアイナはさっさとその謎はほっぽって、灯里とアリシアにゴンドラの上で問い掛ける。
 現在、アリアカンパニーから向かっているのは浮き島行きの空中ロープウェイ乗り場。漕ぎは灯里が担当している。灯里の漕ぎを見て、まだまだだなぁと自分の両手を見つめる。手袋二つ。むぅーっと小さく唸る。

「アイナちゃん、あれあれ」
「ほへ? お、おー!」

 時折空を移動する箱を見ていたわけだが、ロープウェイの乗り物ともなればなるほど、どことなく空中遊泳をしているように見えるのはおかしい話ではないかもしれない。前に空中を移動しているロープウェイを見て、灯里が言った言葉である。空中遊泳、なるほどと思った。
 ちなみに、吊られて移動している箱の乗り物を搬器と呼ぶらしい。
 そんな空中遊泳をするロープウェイに、今日は乗れるのだ。ドキドキしないわけもなく、ワクワクしないわけもない。もうさっきから心臓は鳴りっぱなしである。楽しみだとアリア社長を抱き締める。

「さあ、到着」

 すいーっと灯里がゴンドラを止めて、パリ―ナに紐を結んで確認し、素早く降りる。アリシアも降りて、最後にアイナも降りる。

「おおー!」

 かなり大きな建物。そこからいくつものロープウェイが張り巡らされ、浮き島へのロープウェイが今動き続けている。大きさはかなりの物で、約十人は乗れるかもしれない。凄い凄いとアイナは見上げたまま、まるで子供のようにはしゃぎながらとてとて走る。

「アリシアさん、あたし今なら限界突破できそうです!」
「あらあら、何になっちゃうのかしら?」
「アイナちゃんどっか飛んで行きそう」

 うっきうきのアイナの言葉に、アリシアはどこかズレた言葉を良い、灯里はテンションの高いアイナがジャンプでロープウェイに乗ってしまうんじゃないかと思ってしまう。それほどに、今のアイナはヤケに動きが俊敏だ。
 二人より少し先を歩いて、アイナは建物の中へ。おーっと思い上を見上げると、大型の建物らしく上に吹き抜けがあった。高い建物で、数百メートルはあるかもしれない。
足を止めたアイナの横を、アリシアが通り過ぎる。灯里がアイナの隣で止まり、こっちこっちと手を掴んで歩かせる。その先には、ロープウェイの切符売り場。四枚購入して、アリア社長の分ももったまま建物の中へ。
 切符を渡して中に入り、少し上階へ登る。そしてロープウェイ乗り場に辿り着き、後は搬器の扉が開くのを待つばかり。

「足元にご注意ください」

 そう言いながらその場に居た乗り降りをサポートする人が手を動かす。ガチャンガチャンとロックが外されて、中に乗っていた人達が降りる。そして搬器が移動して、アイナ達の前に到着。
 やはり数十人乗れてしまうようで、アイナ、灯里、アリシアは少し端っこへ移動。アリア社長が潰されないようにと思っていたが、そんなに乗り込んで来る人はおらず余裕がある状態で出発。
 建物の中から外へ。空中に居るその光景に、アイナは目を輝かせる。

「うわっはー、良い眺め」

 ネオ・ヴェネツィアがどんどん小さくなっていく。灯里はクスリと笑い、落ち着いてと声を掛ける。
 約、数十分の移動距離。その間に面白い事、凄い事を見て、アイナのテンションは上がりっぱなし。途中から灯里のテンションも上がり始め、特に雲の中に入り込んだ時は凄い物だった。
 雲を抜け、空に浮く空中都市に辿り着く。ロープウェイ終了が少し残念だが、アイナは搬器からひょいっと飛び降りてから周りを見渡す。
 こっちこっちと灯里が手を引いて来るので、アイナも一緒に駆け出す。
 そして空中ロープウェイ乗り場から飛び出したアイナは、その光景に唖然とする。

「おおおおおおお!!」
「うっわー!!」

 二人は驚きの声を上げる。上を見上げればまだまだ続く蒼い空なのだが、下があまりにも不思議な光景だった。
そこには、浮き島に到達する前に確認していた雲が、まるで絨毯のようにそこに広がっていた。どうやら気候の問題か何かのようで、この浮き島の周りにだけ雲が発生しているらしい。直ぐ傍の電光掲示板にそんな事が書かれていたが、そんな些細な問題はどうでもいい。
 まさに素敵な光景。雲の絨毯など見た事もない。

「あらあら、凄いわねこれ」
「アリシアさん、雲の絨毯です!」
「この中を飛んでみたいー!」

 興奮する二人を、あらあらと笑いながら見つめるアリシア。今回は本当に三人だけのイベント。
 前回は暁に案内をしてもらったらしいのだが、今回は忙しくてどうしても来れないと言う事だったので、諦めたのだ。それから藍華達も仕事である。というのも、結構前から予約が入っていたらしく、キャンセルとかにはできないそうだ。それはアリスも同じで、どちらもイベントが急遽変更になったのが悪いと起こっていた。
 が、アリシアにはイベントが変更になるかもしれないと少し前から話が来て居て、そのためアリシアはその日、つまり今日には予約を入れていなかったのである。というより、定休日にしたのだ。ちなみにアリシアにだけ情報が来たのは、彼女が社長補佐だからである。
 姫屋とオレンジぷらねっとは、本日社員達から上の人達に文句を言う人が多かったらしい。

「さあ、まずはこの浮き島の周りを走る、列車に乗りましょうか」
『はーい!』

 まるで大きな子供二人である。アリシアはうふふと笑いながら、二人を案内しはじめる。
 アイナは空の世界をじっくり堪能することができて幸せだと思うのだった。





 そうして約数時間。列車の上から見た絶景に思わず「ぜっけーかなー」と叫んだ二人。雲の上を走っている様にも見えて「まるで天への招待列車みたい」と灯里の言葉にアイナは強く頷いた。
 それから美味しい食事を食べて、しばし休憩。それから再び行動を開始して、浮き島の色々なところへ行ってみた。もちろんサラマンダーの仕事場近くにも行ってみたが、危ないのでと追い返されてしまった。
 まあでも、地球は完全にオートで機械任せのため、気温は適温に常に設定されているので、近くまで来て、見て、思ったのはやはり手動でのマニュアルで、気候がぼちぼち可笑しいのは御愛嬌だろう。それにそのおかげで、こうして雲の絨毯なんていう凄い景色を見れたのだから。
 なにより機械仕掛けより、こちらの方が好きである。
 存分に楽しんだ三人と一匹は、その足でそそくさと次の場所へ。時刻は7時を過ぎようとしていた。太陽も沈み、真っ暗になる。しかし気候の変化により、浮き島の周りに浮いていた雲は何時の間にか消えていた。

「で、で、イベントってどんな事するの?」
「見てからのお楽しみだよ」
「そうね、見ればわかるわ」

 ふふっと笑う二人。アリア社長はゴロゴロと転がるのみで特に何も言わない。今日はやけに大人しくはないか? と思いながらも、思い返せば至る所で灯里の真似やアリシアの真似、アイナの真似を黙々として遊んでいた姿を思い出す。
 それはそうと、イベントの内容が気になる。夜にならなければできないことなのだろう。昼間の内にイベントが発生したようには見えなかったし、なによりイベントを開始したようにも見えなかった。
 となれば、夜、今からなのだろう。それに灯里とアリシアが、異様なまでに人気の少なく、そして灯里も少ない、言うなれば穴場と呼んでもおかしくないような場所に連れて来てくれた。景色も絶景。下のネオ・ヴェネツィアがはっきり見えるほどに何も無い。
 橋の先端、と言えるそこは、まさに穴場だ。

「ここって、前に来た時に?」
「うん、暁さんに教えて貰ったの」
「ここは地元の人達も知らないんですって」
「暁さん、結構やんちゃな人だったみたいで、こういう場所沢山知ってるみたいだよ」
「へぇー……なかなかやるじゃない、あかつきん」

 乙女心を判っているとまでは言わない。しかしそこそこ理解していることは間違いないだろう。……いや、おそらくはアリシアが居たからかもしれない。
男であっても絶景が見れる場所、凄く綺麗な場所などにはやはり目が行ってしまうことはある。そして昔やんちゃ坊主であったなら、こういう場所を知っていて、それを人に教えるのはなんだか、負けたような気がして仕方が無い気になるのもなんとなく判る。
 故に、教えても良い存在。つまり好きな人、もしくは憧れの人と共に見れるならば、教えても良いと思う事はきっとあるはずだ。ならばやはり、アリシアが居たからこの場所を教えた可能性はある。
 ……なんとなく、判り易いなとアイナは暁の性格を思い出してははっと笑う。

「それで、もうそろそろ?」
「うん。あと……数分かな?」
「なにが起こるのー」

 ワクワクドキドキ。目をキラキラ光らせて、アイナはうーっと唸る。灯里も隣でもうすぐもうすぐと楽しそうにしている。それでも、待ちきれないというように目を輝かせている。
 その時、アリシアが一言。

「上がるわよ、光の大輪が」
「え?」

 アリシアの言葉に首を傾げた瞬間、光の柱がネオ・ヴェネツィアより上がった。何事と思っていると、光の柱は消え、先端の光の塊も消えた。だが、刹那の静寂の後、ドンっという低音が世界に響き渡った。

「――――っ!?」

 強い閃光と共に光り輝く闇の空。轟音と共に響き渡る音。凄まじい音は、お腹にも響いて来る。

「は、花火!?」

 ドン、ドンと響き渡る音。空を照らす光。閃光。様々な色が花開く。まさに、炎の花。
 夜の空に開く巨大な大輪だった。

「うわっはぁー! すごーい!」
「えへへー、これを内緒にしてたんだ」
「うふふ。アイナちゃん初めてだし、前は暁くんがばらしちゃったもんね」
「はひ。なので今回はアイナちゃんを驚かそうと思って」

 夜空の大輪は、見る者全てを魅了する。ホログラフでしか見たことが無い花火。凄い迫力だ。
 大きな大きな花と、火薬が爆発する音。ただの色つきの火薬が燃えているだけだというのに、これは想像を絶する。何度も見たいと思っていたが、まさかここまでとは思っていなかったアイナ。そして本物が見れるとは思っていなかったために、言葉も無く花火を見つめる。
 ただただ見ていることくらいしかできない。

「なんでかな……灯里」
「え?」
「あたし、なんで懐かしいって思うんだろう。この音と光景」
「――――あは。私と同じだ」
「ほへ?」
「私もね、こう胸がキュッてなる事があったの。その事をアリシアさんに言ったら、それは懐かしいんだって教えてくれたの」

 なるほどと頷いた。自分で言っておいてなんだが、確かに懐かしいのだ。不思議に懐かしい。

「たまにあるんだよね……した事もないのに、初めてなのに、懐かしいなって感じる事が」
「それがきっと、人が積み重ねて来た歴史の中で、私達に埋め込まれた何かなのかもね」
「うん。歴史の中で忘れられて来た物が、私達の中にあるのよ、きっと」
「それこそ、魂に刻まれてるのかもしれないね」

 摩訶不思議なその感覚。きっとこれからも沢山の「懐かしい」に出会うことだろう。
 灯里が、アクアは宝箱といつか言っていたのを思い出す。つまり灯里にとって、この惑星は懐かしく愛おしい、素敵な惑星なのだろう。

「あたしのお宝探しは、始まったばかり」
「私ももっと出会いたい」
「うふふ。まだまだ、一杯出会えるわ。だって二人とも、素敵なんだもの。だから、世界も素敵に見えるのよ」

 アリシアの言葉に、アイナと灯里は顔を見合わせる。えへへーと照れながら、花火を見つめる。
 その夜空の花畑は、まだまだ続くのだった。





 本日の天気は晴れ。されど波高し。風も強くなく弱くもなく、気候は穏やかな物だ。
 そうして、アイナは灯里、藍華、アリスの三人にオススメされてやって来た場所に居た。ネオ・ヴェネツィアから列車を使っての移動。水の都から出た事が無かったアイナはドキドキしながらの一人旅。
 その一人旅だが、とある疑問をアリシアにぶつけたのが原因だった。別に灯里や藍華、アリスの三人で行くのも悪くはないのではないかと思ったが、二人はシングルの研修、アリスは学校で何かがあるらしく、参加できなかったのだ。無論、アリシアは仕事である。
 そんなわけで一人旅なのだが、アイナはドキドキしていた。
 それがアリシアにぶつけた疑問の理由で、かつ彼女のとある質問である。すなわち、プリマになるためにはどのような事をすればいいのかと言うもの。アリシアがプリマになる前には彼の水の大妖精が教えたという。ならばその教えとはどのようなものだったのか。それが少し気になったのだ。
その問いに、アリシアは少し困ったような笑顔を浮かべてから、本人に聞いてみてはと言われたのだ。
 結果、こうしてアイナは一人旅に出ているのである。
 約一時間。列車で随分遠くまで来たのと思いながら周りを見渡すと、森、山、川、空、風と様々な大自然を感じることができる。とても美味しい空気に、アイナはくぅーっと熱血して来る自分が居る事に気付く。

「なんかなつかしいぃ-!」

 良く判らないながらに、この景色と空気がなんだか懐かしく感じたのだ。この前浮き島に行った所為だろうか。最近懐かしいと思うものが多い気がする。しかしこの、なんというか、のんびりとしたのどかな空間が、やはり今までも一番懐かしいと思えるかもしれない。
 さてっと大自然を楽しむのは後にして、アイナはここで待っていれば迎えが来ると言われていたので待つことにする。果たしてどこから、どのような人物が来てくれるのか。
 楽しみで楽しみで仕方が無い。
 だが、どうやら待つ必要はなかったらしく、アイナの背後から声が聞こえて来た。

「あなたがアイナちゃんね?」
「ん?」

 名を呼ばれて、アイナは振り返る。そこには少し小柄のおばあさんが立っていた。優しい笑顔が良く似合う、どこか不思議な雰囲気を持つ女性だ。声を掛けられ、名を知っているということは、間違いなくこの女性がグランマと呼ばれるウンディーネの母という存在。
 藍華曰く、神のような存在だと。そしてアリス曰く、とても素敵な女性だと。あの顔は間違いなく自分のおばあちゃんだと思うほどに好きな目だった。

「初めまして」
「あ、初めまして。アイナ・クルセイドと申します」
「うふふ。私の事はグランマと呼んで頂戴ね」
「あ、はい」

 アイナは彼女がグランマと呼ばれる理由がなんとなく判った。全てを優しく包み込むような、大きな器を感じる。優しい笑顔や、もうおばあちゃんだというのに元気な姿。それに、何か、グランマからは言葉では現わせられない何かを感じる。ただ、近くに居るだけで安心することができる。

「それじゃあ、付いて来てくれる?」
「はーい」

 優しい言葉に、アイナは元気良く答える。小さい女の子っぽく。言っておきながらやってしまったと思いながらも、グランマはほっほと笑うだけ。

「ん~……気持ち良いですね、ここ」
「そうでしょう? ここは風も気持ちが良いし、静かで沢山の緑があるの。心が安らぐのよ」
「うん。ネオ・ヴェネツィアとはまた違う、のんびりとしたのどかな雰囲気が凄く良いです」

 それはアイナの率直な感想。グランマはまるで自分のお気に入りを褒めて貰えたような感じで、ありがとうと答えた。
 アイナはアリア社長も連れてくれば良かったと思いながらも、仕方ないかとも思う。何せ、最近やけに猫好きなお客さんがアリア社長を指名するのだから。仕事なので抜けることはできないというわけだ。
 だから一人で来たわけだが……実際のところプリマになる事に焦りはないし、地道にやって行くと元より決めている。単にアリシアからグランマ、大妖精という存在の話を聞こうとしたら、実際に会った方が早いと言われてしまったのだから少しショックだ。
 だが実際に会って、アイナは少し理解した。なるほど、と。会った方が、理解は早い。不思議な人だ。言葉では説明が難しいだろう。なんというか、まさに大妖精……と言う感じか。

「ここだよ」
「ここがグランマの家ですか?」

 そこは古い民家だった。マンホームでいえば日本の古き良き時代の家、というべきだろうか。縁側があり、庭があり、瓦で造られた屋根とねずみ返しのついた廊下。しかしきっと、姿形が古いだけで、中身はほとんど新型のシステムがついていることだろう。
 そう思いながら入って、アイナは少し首を傾げた。機械ちっくな物は何もない。まあ目に見えない範囲に技術は惜しみなく使われているのだろうが、それにしても何も無い。木で作られた立派な木造住宅だ。

「グランマ……この空気、あたしなんか、好きです」
「おや。そう言ってくれたのは、灯里ちゃん以来かしら」

 その家の雰囲気。ゆっくりとした、静かな空気。なるほど、灯里なら同じ事を言っていたかもしれない。
 グランマに案内されて、家の中の一部屋を借りる。

「えと……それじゃあグランマ、あたし何かお手伝いします!」
「ん。それじゃあねぇ」

 そう言って、グランマは様々な事をして遊んでくれた。季節が季節なので、蝶と遊ぶとか、畑から取れる物も少なく特にすることはないとか、やることは減っていたが、その代わりという形で料理、洗濯、素早く畳む方法、俗に言うおばあちゃんの豆知識を沢山教えて貰った。
 とうもろこしは灯里達が取った物がまだあったらしく、それを蒸して食べた。蒸し方も教えて貰い、一日はあっという間に過ぎる。
 その日の夜は、グランマと一緒に作った美味しい晩御飯を食べて、お風呂に入って縁側で星を見ていた。周りには街灯などないのですっかり真っ暗だ。だが、今日は運が良かったのか満月が空に浮いている。月光はアイナを優しく照らし、火照った身体を冷たすぎない風が冷やしてくれる。
 そこへグランマが暖かいココアを作って持って来たので、二人で月を見上げる。静かな時間、静かな世界、優しくも暖かい空間。不思議と安心できる、グランマの存在。

「……グランマ、あたしはプリマになりたいんです。でも、正直言って最近、あたしなんかが成れるのかって悩んじゃう時があるんです」
「そう。灯里ちゃんやアリシアは、アイナちゃんから見て、どうかしら?」
「……ん、そうですね。灯里はいつも素敵な物を見つけるのが上手くて、いつでも心の中は面白おかしいことで一杯な元気な子です。アリシアさんは……そうですね、確かなんでも楽しむ達人だって聞いてます。実際、どんなことでもどんな時でも、アリシアさんは楽しそうに笑顔でいます。あたしや灯里を見る目も優しくて素敵な笑顔で見守ってくれます。それにプリマとしての腕は、あたしなんか足元にも及ばないくらいに凄い人です」

 料理も家事も、仕事もなんでもできてしまう。完璧超人とは少し言いすぎかもしれないが、それでも、そんな雰囲気を持っている。それが、アイナから見たアリシアという存在だ。
それからそんなアリシアを心の底から尊敬して、そのくせなんでも素敵な事と結び付けて、普通なら思い付かないような考えに思い至る不思議ッ子。それがアイナから見た灯里という存在だ。
 そんな二人を見て、アイナは自分はどうだろうかと考える。素敵な事を探しに、綺麗な物を探しにこのアクアという惑星に来た。ウンディーネという職業で、自分がどれほどのことができるのかという思いもある。しかしその二つの事を、灯里とアリシアは普通にやっているのだ。灯里はシングル。アリシアはプリマ。そしてアイナはペア。そりゃあ半年くらいでシングルになれるとは思っていなかったが、一年もかかるとは思わなかった。
 いや、未だペアであるアイナは、まだまあアリシアを納得させられるレベルではないのだろうと思っていた。

「ふふ。そうね、アリシアは確かになんでも楽しんでしまう子よ。いつでも、どんな時でも、笑顔で楽しんでいたわ。そりゃあ最初の頃は膨れて怒ったり、悲しくて泣いたりしてた時もあったけれど、数十分もすればアリア社長と一緒にコロッと表情を変えて楽しんでいたわ」
「……悲しい事や辛い事は、すぐに忘れるか、割り切れるか……ってことなんですか?」
「いいえ。そんな物は、人生をより楽しむためのスパイスだと思えば良いの」
「……人生を、より楽しむ……」

 楽しい事が甘いスイーツならば、悲しい事は辛いスパイス。きっと料理が好きだから、調味料で例えてくれたのだろう。だがそれは、とても判り易い話で、とても納得してしまう話だった。
 人生は確かに、辛くて悲しい事が多い。だけどそれを楽しめる人は凄いという。実際、楽しむことなどほとんど不可能だ。マンホームに居た時、楽しむ余裕などどこにもなかった。辛くて悲しくて、ただ我武者羅に動き回っていただけだ。
 それを考えれば、アリシアはやはり凄い人なのだと思う。

「けど、それが難しいんです」
「そうね。でもアイナちゃん。人生を楽しむということは、あなたがあなたを好きになるということよ」
「……」

 その言葉に、アイナは反応できなかった。言っている事も、言われている意味も理解していた。理解していたが故に、どう答えれば良いのかアイナには判らなかった。
 いつもハイテンションで遊んで楽しんで、でも影ではやっぱりプリマへの道の遠さに悲しくなる時がある。では逆に考えて――プリマへの道が遠いのではなく、プリマになるまでの楽しい時間が沢山あるのだと考えればいいのだろうか。
 いや――頑張る自分を、褒めてあげるだけでいいのではないか。

「アイナちゃん、あなたは自分を褒めてあげて。頑張っている自分を。そして聴く物、見る物、触れる物、この世界がくれるもの全てを楽しんでしまいなさい」
「褒めて、楽しむ」
「ええ。そうすれば、このウンディーネという業界で、トップになる事も夢じゃないわ」
「……トップかぁ。あ、でもグランマ。ライバルが多いかも」
「うふふ。藍華ちゃん、アリスちゃん、灯里ちゃんのことかしら?」
「あは、やっぱり知ってるんだ」

 うん、マンホームと違ってゆっくりと、まったりと、頑張っている自分。少し怠けていないかと思っていたけど、それでも少しずつ進歩している自分を褒めてあげよう。
 灯里から聴く物、藍華が見せてくれる物、アリスが触れさせてくれる物、この惑星が出会わせてくれた全ての物に楽しみを貰っていた。なるほど、考えれば考えるほどに――楽しいことしか、この惑星にはないかもしれない。
 この楽しい事に気付いた者の、勝ち。

「楽しく仕事をしている人と、嫌々ながらに仕事をしている人、アイナちゃんはどっち?」
「もちろん、楽しく!」
「うふふ。そう、元気に楽しく、時にはお転婆な女の子になって楽しんじゃいなさい」
「いつでもお転婆です、あたし」
「あらあら」

 そう言って、グランマは笑い、アイナも笑う。それは、なんだかとても清々しい笑いだった。
どこでも、いつでも楽しく笑い、テンションを上げては灯里達と笑っていた。しかしやはり、心のどこかに不安や悲しいと思う場所があったのかもしれない。本当に、心の底から笑顔を浮かべたのは、何時頃だろうか。きっと自分が気付くほどの心からの笑顔なのだから、相当前からかもしれない。
そう、例えば、マンホームからこのアクアに来る前からかもしれない。

「さあ、そろそろ寝なさいな。明日は早いから」
「はい。グランマ」
「ん?」
「おやすみなさい。それからありがとうございます」
「あらあら、なんだか笑顔が可愛くなったわ」
「えへへ。なんか、自分でも判らない何かをフッ切ったみたいです」

 カウンセリングをしに来たわけではないのだが、結果的にそういう物、もしくは似た物になっていたのかもしれない。だけどなんだか心は軽くなり、今まで不安だったものすらも楽観的に考えられる。そりゃあこれからもきっと、不安なことも辛い事も沢山起こる事だろう。
 だけどアイナは、そんな事に負ける気は毛頭なかった。面白おかしく、あたしなりにこの世界を生きようと、アイナは誓う。
 夜空の月に、グランマに、灯里やアリシアに、アリアカンパニーに、そして何より自分自身に、誓うのだ。
 絶対に、プリマになると。






―――――――――――
どうも、ヤルダバです。
んー、ARIAの世界観を壊さないようにとか思ってるのにも関わらず、やっぱりどうしても駄目ですね。
オリキャラ混じると壊れちゃう。
世界観を壊すような物をいくつか書いた後に言うなっていう話ですけどね^^;

さて、今回はアイナにエロス(コラ)と温泉と浮き島とおばあちゃんの豆知識を体験させました。
……グランマどうすればいいのかわからなかったです。秋頃って……w
古き良く田舎とはいえ秋は何をすれば。そして少しの迷いすらもふっきったアイナはどうなるのか。
というわけでとりあえず料理を楽しんだという話に。
あと浮き島はアリアカンパニーの面子で。
花火って凄いですよねー。腹に響くあの震動。音。火薬が爆発してるだけのはずなのに、最近じゃ人の顔やら動物、惑星すらも打ち上げる。
花火大会とかもう凄まじいとかのレベルじゃないですもんね。
それにしても灯里が落ち着いている……w

さて……なんか少しグダグダな雰囲気な中編です。
次で終わりですが、後編はもちっとまともにできそうです。
やっぱり、終わり方はここでしょう。
ではでは、ヤルダバでしたぁ。



[27284] ARIA 後編
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/05/29 02:04




 ARIA

 後編





 来たばかりの春はアクア・アルタ夏はレデントーレに参加して、秋の終わりにヴォガ・ロンガに参加して全力で楽しんで、冬は雪虫と戯れて、年の最後には思いっきりはしゃいで、冬の終わりにはカーニヴァルを楽しんだ。アクアに来てからの数カ月で、様々な事を経験した。その全ての出来事は本当に楽しくて、自分でも輝いていたんじゃないかと思えるほどだった。
 アイナは、今日の日付を見る。あと少しで、アクアに来てから一年となる。地球で言えば二年。長いようので、短い期間。まさに怒涛の一年だ。
 アイナはゴンドラを漕ぎながら、自分の腕の上達っぷりを考える。最初の頃はフラフラとヨロヨロとしていた。しかし今は灯里と一緒に同じ速度で漕ぐ事もできる。ただし、唐突の出来事に対処する速度はまだまだだ。
 春。気持ちの良い風と、暖かな空気が彼女の頬を撫でる。

「んー、やっぱ春はいいねぇ」

 一人でまったりと練習。灯里や藍華、アリスとは別に一人で練習をしたい日もあるわけで、しかし誘われたら間違いなく断れないので、アイナは朝早くから海へと繰り出していた。きっと今頃、灯里達が探しているかもしれないが、心の中で謝っておく。
 さて、今日はどこへ行こう。というのは嘘で、既にアイナの行く先は決まっている。そこはネオ・ヴェネツィアンガラスが作られている島だ。前にとても綺麗だという話を聞いていたので、アイナは今日はそこへ一人で行ってみようと思い至ったのである。
 優しい風が吹く中、辿り着いたのは工場地帯。物を燃やしている臭いがしてくる。しかし酷い臭いではなく、バーベキューをしている時の炭を燃やしているような臭いだ。

「ほほう、ここが有名なネオ・ヴェネツィアンガラス製作所ですな」

 顎鬚なんて持っていないのに、それを摩るような仕草をしながら関心する。無意味なその行為をしてから、アイナは適当な場所にゴンドラを止めてから上陸した。小さな出店から小さなお店が沢山ならんでいる。大小様々だが、どのお店も作っているガラスのコンセプトが違うようだ。
 アイナはその一つに適当に入ってみる。どうやらそこは生き物をモチーフにしたガラス屋のようで、様々な動物や虫、魚のガラスが置いてある。色とりどりでキラキラ光るそれは、まるで宝石のようだ。実際、アイナにとって職人が作り出すそれらは、本物の宝石よりも宝石に見えた。

「うわぁ。これ可愛い……イルカだ」

 もしアクアにもイルカが居たら、年がら年中イルカと遊べたのだろうか。もしできればとても楽しいだろうなと、アイナはイルカのネオ・ヴェネツィアンガラスを眺めながら考えてみる。
 蒼い宝石で造られたような綺麗なイルカのガラス。しっかり目も口も、ヒレも尾も綺麗に作られている。精細な作業のはずだろうに、見事な作りだ。
 しかし、耳元に隣の老夫婦の声が聞こえて来る。

「これじゃぁまだまだだな」
「そうね。これはヴェネツィアンガラスではないわ……」

 少し残念そうな声は、間違いなく目の前のネオ・ヴェネツィアンガラスに失望したような声だった。二人の客はそのまま持っていた物を置くと、早々にお店から去って行く。首を傾げながら、アイナはその老夫婦が見ていたと思われる物を見てみる。そこには、小さな昆虫をガラスで作った物があった。見事なまでに色まで付けられている。
 それはマンホームでは今はほとんど見なくなってしまった、蜂だった。しかし触覚が足まで、細いところまでしっかり再現されている。人の手で作られているのだからその細さはまちまちだが、それでも十分に形として整っている。これのどこが不満だったのだろうと首を傾げるしかない。
 とりあえずアイナはイルカとその蜂のガラスを買って行く事にした。周りを見ると可愛い動物達がこちらを見ている。アイナはふらふらと近づいては見て、あっちにフラフラと近づいては眺める。太陽の光に反射してキラキラ光る一色のガラスで作られた動物と、しっかり色付けされた多彩な色を使って作られた動物。どちらも魅力的で、可愛くて、特に海の哺乳類であるイルカやジュゴン、シャチといった種類の魚に目を奪われる。
 やはり水の精霊の名を冠するからか、海の存在が好きなのだ。ちなみに貝もあり、ペンダントやイヤリングになって販売されている。だがいかんせん、中々に高額。

「うぅ……」

 悩む。しかしイルカと蜂は抜けない。なんだか見れば見るほど買ってといわんばかりにつぶらな瞳を向けて来るので、アイナは悩んだ。とはいえ、今日は買い物の日としてここに来たのだから、焦る必要はないはずなのだ。問題は、練習をサボっての行為であることが問題なのである。
 悪い子アイナ、ここに極まる。
 というわけで、その悪い子は許しを貰うためにアリシア、灯里にお土産としてその貝のペンダントとイヤリングを買って行くことにする。きっとあの二人は、本物の宝石よりも、こちらの方が好きだろうと思い。
 それらを購入し、手持ちが一気に減った事にあははーと乾いた笑いを浮かべる。しかし、凄く楽しいので気にしない事にした。
 それから島の中を周り、ネオ・ヴェネツィアンガラスで作られたお皿、コップ、架空の存在である竜や剣、車やゴンドラ、オール、雪だるまや馬、コウモリ、更にカブトムシやクワガタムシ、蟻まで、本当に全世界に居る動植物が至る所に存在していた。春夏秋冬、哺乳類から甲殻類、昆虫まで、本当になんでも揃っていた。幻の存在や、伝説の存在すらも居る。
 まるで、小さな世界だ。

「ふぁー、楽しい。まるでガラスの世界に迷い込んだみたいだよう。イッツァスモールワールド!」

 休憩がてらに座った椅子の上で、両腕両足を伸ばしてそんな事を言う。そう、ここは小さなガラスの世界だ。ガラスのために存在する、ガラスのためだけの世界。ネオ・ヴェネツィアンガラスの島は、想像以上に素晴らしいところだ。
 来て良かったと思いながらも、結構買ってしまった自分に溜息を吐く。カッコ良くて竜まで買ってしまった。可愛くて火星猫まで購入。コップやお皿もばっちりである。結果、相当な金額を使用していた。今日持ち出したお金はほとんどなくなり、お財布の中はほとんど空っぽである。
 気持ちはパンパンだが、懐はスカスカと言う奴である。
 かっくりと首を曲げてから、あははーと乾いた笑いが出る。しかし満足感はあるので、まあいいかとアイナは買ったガラスの品々を見つめる。今は梱包材に包まれているが、キラキラピカピカと光るネオ・ヴェネツィアンガラスは宝物だ。

「お宝を手に入れたら、しっかり持ち帰る。それが海賊なのだ。なんて……ん?」

 ふふんと笑いながらそんな事を言ったアイナだが、ふと視線を感じて後ろを見てみる。しかし、そこには誰もいない。ただ木が立っていて、その周りを芝生が囲んでいるだけだ。周りは隠れるような場所が無い広場。思いっきりしゃがめば花壇に隠れられるかもしれないが、まさかとアイナは思う。
 だが、クルリと首を戻してからワンツーでもう一度、今度は一気に後ろに向く。すると、そこに一人の少年と言えようか男の子が立っていた。慌てて隠れるが、もう遅い。
 帽子につなぎ姿。頭はアフロと中々良い趣味をしている。

「……何か用ですかー?」

 試しに声を掛けてみる。ここに来たのは初めてのはずなので、知り合いになるような人はいない。こうしてコソコソ見つめられる意味も判らなければ、見つめられる理由もない。

「あ、あの。アリアカンパニーの人っすよね?」

 おずおずと出て来る少年。その手には何か綺麗にラッピングされた物を持っている。
何者だと言いたかったが、流石にアリアカンパニーを知っていて、そのお客さんだとまずいのでそんな事は言えない。それにアリアカンパニーの制服を着ているから声を掛けられたので、失礼なことはできない。
 とりあえず、普通に答える事にする。

「はい。アリアカンパニーの見習いのアイナと言います」
「僕、前にアリアカンパニーの灯里さんにお世話になったものなんすけど、これを渡して貰いたいんっす」

 灯里にお世話になった? やはりお客様のようだ。失礼な態度を取らなくて良かったと安心すると同時に、近づいて来る少年を見てアイナは、少年というよりは背の小さい青年らしい事に気付く。
帽子とつなぎを着て、ラッピングされた小物と思われる小箱。灯里にお世話になる……うん、繋がりが全く判らない。しかし工房の人ではないかという推測はできる。

「えっと……灯里とはどこで?」
「前にうちのネオ・ヴェネツィアンガラスを運搬して貰ったんす。その時に」
「へぇ……灯里ってばそんなお仕事を手伝ったんだ」
「それで、お礼をしようと思ったんすけど……タイミングがどうしても合わなくて」
「配達では駄目なんですか?」
「ガラスなのでちょっと」

 アイナはふむと考える。なるほど、確かにガラス製品ではエアバイクの人達や配達ゴンドラでは少し怖いかもしれない。信用していないのではなく、色々な場所に廻っている内に壊れてしまうという可能性はなくはないだろう。
 そこに偶然現れた渡したい人の居る会社の人間。そういうことか。

「ん、じゃああたしが渡しますよ」
「良いんですか?」
「もちろんです。それに、ここで沢山ガラス製品を買っちゃったので、帰りはゆったりするつもりなので」

 そう言って少し多めの袋を指差す。中にはもちろん、彼女の宝物が沢山である。
 実のところネオ・ヴェネツィアンガラスは直ぐにでも見たかった物だったが、なぜか我慢して来たのだ。見習いとして腕を上げたら自分で見に行きたかったがために。腕が上がった証拠であると同時に、そのご褒美として気に入った物を買う。
 それがアイナのこのネオ・ヴェネツィアンガラスへの想いだ。キラキラと綺麗な物は、やはり女の子として見逃せないのだろう。

「そんなに沢山……」
「ええ。だって、素敵じゃないですか。まるでガラスで出来た世界の一部を持って帰れるんですから」

 えへへと笑いながら、アイナはガラス達の入っている袋を見る。速く出してアリアカンパニーにも、自分の部屋にも飾りたい、使いたい。きっと楽しいだろうなと、アイナは今からワクワクしてしまう。

「嘘物とか……偽物とか、そう言った事は考えないんすね、あなたも」
「ん? んー、そうですね。あたしは、ここにこうして存在するこのガラス達は、結局このガラス達しかないと思ってます。特に、ヴェネツィアンガラスといえば手作りが基本。なら、私が手に入れたこのネオ・ヴェネツィアンガラスも世界……いいえ、宇宙にたった一つしかないんだってあたしは思ってます。どんなに同じ物でも、どんなに似ている物でも、この世にはその一つしかない。だから偽物とか嘘物とか、あたしには良く判りません」

 アイナにとって、この世界の「物」に対する想いはそういうものなのである。どんなに量産された物でも、その一つを手に入れたらそれがこの世でたった一つの物になる。どんなに似ている個体でも、どんなに同じ個体でも、自分にとって特別な個体というものがあるわけだ。
 安物、高価な物、人にとっての価値観は人によって変わる。十人十色という奴だ。どんなに安い物でも、それがその人にとって宝物になる時もあれば、どんなに高い物でも特別でもなんでもないと感じる人も居る。
 世の中そんなものだと、アイナは思っているのだ。

「……アリアカンパニーには、素敵なウンディーネさんが多いんですね」

 微笑む少年か、青年か。正直わからないが、彼の言った言葉には何か特別なニュアンスを感じた。アイナは目をぱちくりさせながら、んーっとその人の顔を覗き込む。
 良く良く見れば顔が少し赤い。こいつぁもしかすると?

「あなた、灯里に惚れてます?」
「い、いいえ、滅相もないっす」
「あはは、判り易いですよ」

 顔を一気に真っ赤にして誤魔化そうとする姿を見て、アイナは嘘が下手だなと笑う。
 それから手を差し出して、アイナは受け取りますと意思表示をする。すると、青年もその手に大事そうにプレゼントを置いてくれる。信用してもらえた以上、この仕事は確実にこなさなくてはならない。

「絶対に、お渡しします」
「よろしくお願いするっす」

 そう言って、休憩時間が終わるという理由で青年は去って行った。そういえば名前も聞かなかったなと思うが、きっと灯里の事だ。ネオ・ヴェネツィアンガラスの関係することなら憶えていることだろう。なんとなくだが、こういう素敵で綺麗な場所と関わりを持ったら、その第一印象はしっかり憶えているものだと、アイナは思っている。
 さて、帰ろうかなっと立ち上がり、袋の中にゆっくりと壊れ物を扱うように優しく入れる。一体何が入っているのかとても気になるが、アイナは無粋なことはしない。
 だってこれは、恋する青年が灯里に渡す物なのだから。重い気持ちが乗っている物を、開けられるわけがない。
 ゴンドラに向かって、アイナは歩き出した。

 ――――アリアカンパニーが近づいて来ると、アイナはそこにゴンドラがいくつかある事を確認する。どうやら灯里やアリシア以外にも、アリアカンパニーに来ている人達がいるようだ。アリスと藍華だろうと見当を付けながら、アイナは船着き場にゴンドラを止める。
 時刻は既に夕刻。結構遠いいんだなと、アイナは再確認する。ゆっくりと帰って来たとはいえ、時間は大分掛っていた。 
 荷物をゆっくりと降ろし、ゴンドラから降りる。ズシッとするほどに重いガラス製品達。んー、買いすぎたとアイナは腕が限界に近いなと冷静に自己判断した。それでももう一踏ん張りして、アリアカンパニーへ。
 がちゃりとドアを開けると、アイナは元気良く叫ぶ。

「ただいま戻りましたー!」
「あ、おかえりアイナちゃん」
「おかえり、アイナちゃん」

 よっこいせとドアを開けながら、袋を引っ張りながら入って来るアイナ。そんな彼女を見ながらとりあえず返事をしてくれたのは、灯里とアリシアだった。
 他の人達は、アイナの手元の物に釘付けである。案の定、アリスと藍華だった。

「凄い荷物だね。どこに行ってたの?」
「うん。ガラスの世界に迷い込んでたの」
「…………ネオ・ヴェネツィアンガラスを見に行って来たの?」
「おお、さすがアリシアさん!」
「あらあら。それにしても、沢山買って来たのね」

 アイナの荷物を手伝って運んでくれる灯里。その荷物の数を見て、アリシアは興味津々というように近づいて来る。もちろん、ネオ・ヴェネツィアンガラスと聞いた瞬間から目を輝かせている灯里は別である。
 興味津々なのは、アリア社長もだ。

「練習さぼってどこ行ってるかと思えば」
「私達も誘ってください。でっかいずるいです」
「えへへー、ごめんごめん。でね、灯里に渡すものがあるの」
「ほへ?」

 藍華とアリスの文句を謝りながら、アイナはゴソゴソと袋の中に手を入れる。そこから出したのは勿論、大切に預かった青年からのプレゼントだ。

「これ。灯里が憶えてるか判らないんだけど、前にガラスを運搬してもらったって人からプレゼント預かったの」
「ガラスの運搬……ああ、うん憶えてるよ……ってプレゼント?」

 はいっと渡しながら説明するアイナ。受け取りながら首を傾げる灯里。

「っそ。お礼らしいよ」
「……開けちゃって良いのでしょうか?」

 戸惑いながら受け取り、灯里は四人の顔を見る。もちろん、四人ともそういうことならと微笑む。その顔を見て、灯里は綺麗にラッピングされているそれをテーブルに移動して、綺麗に開いて行く。
 中から出て来たのは、小さな小箱。開いてみれば、中にはネックレスが入っていた。ガラスで出来た、「ARIA COMPANY」の文字が刻まれた帽子だ。蒼と白の二色は、アリアカンパニーのイメージカラーだろう。

「うわぁ……こ、こんな物を貰ってしまって良いのでしょうか」
「当たり前じゃない。ほら、付けて付けて」

 そう言って、アイナは灯里を急かす。灯里は戸惑いながら、しかし藍華やアリス、アリシアにまで言われては付けるしかない。
 首元にネックレスを掛けて、灯里はどうでしょうとアイナ達に向く。
 胸元に輝く、蒼と白のコントラストのガラス。とても良く、灯里に似合っている。

「凄い似合ってるわ、灯里ちゃん」
「良いねー、凄く良いねー」
「でっかいお似合いです」
「良い感じに似合ってるわよ」

 皆が皆、似合っているというそのネックレス。事実、それは灯里のために生まれて来た、この世でたった一つの、ネオ・ヴェネツィアンガラスだ。そこに込められた想いもまたたった一つ。ソレが、似合わないわけがない。灯里は鏡を見て、自分の胸元に光るそれを確認する。
 ボケーッと、動きを止める。

「間違いなく、灯里のために作られた、灯里のためのネックレスだね。良いなぁ」
「私のため…………えへへ」

 特別な物。それは人に貰った物こそ本当にそう感じる物がある。それが安物か、偽物か、高価な物かは問題ではなく、そこに込められた想いもあれば、受け取った本人が込める想いもある。
 それらを理解しているからだろうか、灯里は満面の笑みを浮かべて、呟いた。

「ちょっと……こそばゆいです」

 その笑顔に、アイナはなんて可愛い笑顔を浮かべるんだと心の中で思いながら天井を向く。青年の顔を思い出して、アイナは自分も買ったプレゼントがある事を思い出す。
 ――灯里の笑顔を手に入れる。勝負!
 アイナはガサゴソと袋の中に手を突っ込み、その中から名前を書いた包みを出す。まずアリシアと書かれた包みが出て来るのでアリシアに。次ぎに藍華と晃の二つ。アリスとアテナの分。そして最後に出て来たのが灯里とアリア社長の分。

「それらは皆、あたしからのプレゼントです!」
『……私達に?』

 手渡してから、アイナはそう叫ぶ。不思議そうに首を傾げる先輩達を、アイナはもちろんと頷く。
 視界の端で、空っぽになった袋に、アリア社長が飛び込んだのが見えた。

「あたしがこのアクアに来てから一年が経ちます。その間とても良くして貰い、同時に友達になってくれた、感謝の意味を込めて!」
『……』

一年間。長くも短い時間だったが、その間に色々な事があった。様々な事があった。その中でもやはり、素敵な出会いと、最高の時間をくれた人達に感謝をしたかった。
だからこその、ネオ・ヴェネツィアンガラス。感謝の意を表すなら、気持ちを伝えるならコレだとアイナは思っていた。
 灯里、アリス、藍華、アリシア、晃、アテナ。未来の三大妖精と、現在の三大妖精。その六人への想いは、おそらくアイナは誰よりも強いだろう。未来の三大妖精と思っているのはアイナだけではあるが。

「ありがとうございます、アイナさん」
「あ、ありがと」
「ありがとうアイナちゃん」
「ありがとうございます、アイナちゃん」

 感謝されて、アイナは微笑む。それぞれに開けて開けてと押して、その中を見て貰う。もちろん、肌身離さずに持っていて欲しいので、それぞれに合った物を選んだつもりだ。
 灯里には髪を結ぶ装飾品、アリシアにペンダント、アリスにブレスレット、アテナに指輪、晃と藍華はイヤリング。ちなみに一番悩んだのはアリシアとアテナで、正直装飾品を付ける人達かと考えてしまったのである。仮に付けても邪魔にならないものがいいだろうと思ったのがこれである。買っておいてなんだが、邪魔になりそうなものナンバーワンだった。

「アテナ先輩には、必ず渡します」
「晃さんにも」
「うん、お任せ。というわけで皆さま!」

 ビシッと姿勢を正して、アイナはペコっとお辞儀をした。

「これから、改めてよろしくお願いします!」

 そんなアイナを見て、彼女達はにこりと笑顔を浮かべ、

『こちらこそ、よろしくお願いします』

 そう、答えてくれたのだった。






 数日後。アイナは唐突に、アリシアからピクニックの誘いを受けた。
 唐突だったもので、灯里は別の予定があって断ってしまっていたが、今回は二人で行こうという話になり、アイナは現在お弁当を作っていた。
 どこに行くのか、どこへ行くのか。アリシアが既に決めているらしいので、アイナはウキウキしていた。それと同時にドキドキもしていた。
 なんせ、数ヶ月ぶりのアリシアとの二人っきりの練習にもなるからだ。基本的に個人でやるか、灯里達と練習するかだったので、アリシアに練習を最後に見て貰ったのは数ヶ月前になるのだ。数えてみれば見るほど、最後っていつだっけと首を傾げてしまうほどだ。
 そんなに、アリシアの仕事の量は多い。なのに一切の弱音どころか病気になったり疲れたとも言わない大先輩を、アイナは憧れと希望の眼差しで見つめてしまう。
 あんなプリマになりたいと、何度思った事か。

「準備完了!」
「こっちも準備終わったわ」

 お弁当を風呂敷に包み込み、それをバスケットの中へ。忘れ物が無い事を確認してオッケーと確認が終わると同時に、アリシアの方の準備も完了したようだ。
 お互いに微笑み合い、ではとアイナとアリシアは外へ。アリア社長がぽぷよんと付いて来る。
 ゴンドラに荷物を置き、アリシアからも荷物を受け取ってゴンドラの上に置く。それからアリア社長を乗せて、アイナは立ち上がる。背を伸ばして、よしっと気合を入れる。

「そうだアイナちゃん。今日は私がお客様の役で、アイナちゃんがウンディーネの役ってどう?」
「おお? そりゃもちろん、受けて立ちます!」

 唐突のアリシアの提案に、アイナはグッと意気込む。それから左脚でゴンドラを固定し、右手で岸の棒を引っ掴み空いている左手をお客様に差し出す。もちろん、笑顔で。

「では、お客様。お手をどうぞ」
「―――はい」

 その姿が様になっていたから、少し驚いたような表情を見せたアリシア。しかしすぐに笑顔になり、アイナの差し出した手を掴んだ。
 それからゴンドラの上に誘導し、ソファーに座って貰う。そうして漕ぐための位置にアイナは移動して、オールを掴んだ。そして掴んだオールを見て、良しっと頷いた。
これはある意味戦いだ。自分との戦いで、同時に練習でありながら実戦を兼ねた戦い。上手くいかねば一生ペアで終わると、アイナは自分に言い聞かせる。とはいえ、上手くいかない場合と、上手くいった場合の判断はアリシア次第なので、その判断基準は判らない。
アリア社長が逸早く、先頭に立って指を突き立て、大海原を指していた。いざ行かんというように。

「では、参りましょう!」
「ええ」

 アイナは、海原へと繰り出した。
 行くべき場所はアリシアの言う方向へ。海原を通ったと思えば街外れまで移動。それから大きな海原だった道は何時の間にか段々と狭くなり、開けている場所だというのにやけに狭い水路へと導かれていた。
 広大な土地があり、左右は民家が数件と畑のような光景。中々良い眺めだが、いかんせん水路が狭い所為でそこまで余所見はしていられない。ゴンドラを岸にぶつけてしまうようなミスはないし、進路がゆらゆら揺れて不安定になることもないが、問題は前方から来るゴンドラである。
 プリマのゴンドラが、すいーっと横を通る。お客様が乗っているので、邪魔になってはまずいとギリギリまで船を寄せる。良く良く見ればすれ違うプリマの人は大きなゴンドラを使っていて、パッと見でも六人くらいは乗っていた。

「ありがとうー」
「いいえー」
「がんばってねー」
「はーい」

 すれ違いざまに少し頑張ってギリギリまで寄せていたのが見えたのか、感謝されるアイナ。しかしギリギリまで寄せていたのはお互いなので、アイナも感謝せねばと思った矢先、応援されてしまった。この狭い水路を通行するからがんばってという意味なのだろうか。それともペアだからか。
 しばし考えて、おそらく後者だろうと結論を出す。っと、今度は水上バス<ヴァポレット>が登場。

「おお、今度は更におっきいの来た!」
「あらあら」

 よいしょと再びギリギリへ。ヴァポレットとはいえ、大きさは本物のそれとは一回り小さい。しかしこの水路では十分に大きく、ゴンドラ一隻が隣を通るのでギリギリだ。波に揺られてぶつけないようにコントロールしながら、なんとか通り過ぎる。
 ふうっと小さく息を吐いて、アイナはこんな所も通るんだとその水上バスを見つめる。
 アリア社長はビビっていたのか、ゴンドラの端っこに移動している。

「……プリマのゴンドラ、小型のヴァポレット……この先にも観光名所みたいのがあるんですか?」
「ええ。その観光名所に行くために良くゴンドラは通るし、隣の街への水路でもあるから、頻繁にすれ違いが起こるのよ。だから、ここを通るには漕ぎ手の技量が問われるの」
「なるほど。だからさっきのプリマさんはがんばれと」
「うふふ。きっとそうね」

 ならば頑張らないわけにはいかないと、アイナはふんっと再び意気込んだ。
 それから数隻のゴンドラとすれ違い、アイナは急がず焦らず確実にこなしていった。しかしふと、アイナはゴンドラやヴァポレットが来るタイミングが、何か決まった時間が経ってから来ているような気がして来た。少し漕いでると何隻かがやって来て、そして数十分ほど何も来ない。そしてやっぱり数十分後に来る。
 何かあるのかと、アイナは少し疑問に思う。
 ちなみにそんな疑問もなんのその、アリア社長はアリシアに抱っこしてもらって眠っていた。

「あれ?」

 っと、前方に壁が出現した。進行方向上、明らかに大きな壁がそこにあり、その隣におじさんがたばこを吸いながら新聞紙を読んでいる姿見える。
 なんだあれはと思っていると、おじさんが立ち上がり建物の中へ。すると巨大な扉が開き、中からゴンドラが一隻出て来た。小型のスクリューエンジンを付けた、これまた小型のゴンドラである。難なく通り過ぎて、アイナははぁーっと溜息を吐きながらその壁とも言える巨大な扉を見つめた。
 なんのためにこんな? と思っていると、おじさんが声を掛けて来る。

「姉ちゃん、初めてかい?」
「あ、はい」
「じゃあ中に入りな」

 特に説明もなく、アイナは言われるがままに中へ。結構大きな中は、しかしその先に行くための道はなく、大きな壁がある。首を傾げながらその壁を見て、後ろを見ると、そこにおじさんが。

「閉めるぞー」
「っへ?」

 言われるや否や、アイナの目の前に無情に閉められる扉。状況が理解できずそのまま固まっていると、大きく重そうな扉は閉められてしまった。
 完全に閉じ込められたとアイナが思っていると、さぁーっという水の流れる音が聞こえて来た。その音の方を見ると、上から水が流れて来ているのが見える。

「ふぉお!? あ、アリシアさん、水攻めです!」
「あらあら。落ち着いてアイナちゃん」

 灯里ちゃんと同じ反応ねと小さく言いながら、アリシアは人差し指を立てて説明モードに。

「ここはね、水上エレベーターって言うの。密閉した場所に水を入れて水位を上げて、上の水路に繋げるって言う方法よ」
「……そ、そんなエレベーターが」
「ええ。ちなみに30分くらいはかかるわ」
「……の、のんびりしてますねー」

 普通の人なら我慢できなそうだ。しかし下を見れば魚がウロウロ、空を見上げれば小さな虹が見えて、蒼い空が見える。春の陽気な太陽の光は、隔離されたこの空間の中でも暖かい光を送ってくれる。だが暑くなる事はなく、水飛沫により暖まる身体は冷やされとても涼しいのだ。のんびり、ゆっくり――なるほど、これは面白い。
 少しずつ水面が上がる感覚が、なんとも言えない。

「ははぁー」

 とりあえずお客様とウンディーネモードは一旦停止で、アイナもゴンドラに座って下を眺める。迷い込んだ魚がウロウロと大きな水槽の中を泳ぎ回っている。あと数十分もすれば自由への道が開かれるが、その道に入り込めるかどうか。
 それにしても、透明感のある水だと、アイナは関心する。毎日思う事だが、このアクアの水は本当に澄んでいる。綺麗で、不純物など何も含んでいないのだろう。水深数十メートル先が簡単に見れるほどに綺麗な水など、おそらくこのアクアくらいでしか見る事は出来ないだろう。

「……綺麗な水ですよね、アクアの水って」
「ええ。空気を汚す物や、廃棄物の処分もないし、マンホームみたいに機械に使ったオイルを捨ててしまう、なんてこともないから、とても綺麗なままで保存されているわ。昔の人々は、この水を希望の水とも呼んだらしいから、きっとこのままずーっと、綺麗なままよ」
「それは、とても素敵なことですね」

 綺麗なまま、美しいままの水をそのままにするために、車を走らせることはないアクア。いや、正確にはネオ・ヴェネツィアが禁止なだけで、一応別の街には車は存在する。だが走る代わりに、環境を護るためにモーターが使われており、基本的にエンジンは使われていないらしい。排気ガスもなければ、廃油というエンジンから出るオイルもない。まあ、ギヤのオイル等々は出るらしいのだが、アイナには良く判らないことだ。
 とりあえず判ることは、アクアの人々は皆、この星を、この環境をそのままにしておきたいという想いがあるということだ。もしかしたらマンホームの心無い人達が着たら、星間戦争なんてものに発展してしまうのではないだろうか。
 少し怖い話だが、それはないだろう。なんせマンホームからアクアに来る際の注意事項に、環境を護る為のしてはならない項目というのがある。それをねっちりと教えられたのだから、マンホームの人々も、このアクアを綺麗なままにしたいという想いがあるのだろう。だから、大丈夫。

「希望の水かぁ……火星と呼ばれた赤い星が、今は水の惑星アクアなんて名前を変えてるんだから、驚き」
「うふふ。そうね……けどだからこそ、私は皆に出会えたこの惑星の水が好きよ」
「えへへー、あたしもです」

 巡り合わせてくれたこの惑星の水。ウンディーネという職業があるからこそ出会えた親友達、後輩達、先輩達。全て、このアクアという惑星のお陰で出会えた奇跡なのだろう。

「さあ、そろそろ到着よ」
「おお。ではでは」

 アリシアに言われて、アイナは立ち上がってオールを掴んだ。
 流れて来る水が止まり、大きな扉が開かれる。すると、正面に新たな水路が姿を現した。垂直に上がる、水のエレベーター。なんだかこの先どうなるのかとてもワクワクしてきたアイナ。
 とっておきのアリシアの場所。ピクニックはまだまだ続くようだ。
 どこまで行くのか、この道がどこまで続いているのか。
 アイナは再び、オールを動かし始めた。

―――約数時間後。登り道が続く道だったようで、何時の間にやら大分高い位置まで移動していた。ネオ・ヴェネツィアだけではなく、浮き島と同じ目線の高さにまで移動しつつある事に、アイナは気付く。
 随分と眺めの良い場所だなと思いつつ、アイナは漕ぎ続けること数時間。二回目の水上エレベーターの中で、少しばかり遅い昼食を取って、アイナは疲れが溜まったのか、少し眠くなってしまった。うつらうつらとしていると、アリシアが手招きをしてくる。足元を見ると、アリア社長が既にアリシアの膝元で眠っていた。
 笑顔のアリシア……美人で、優しくて、可愛くて、女から見ても魅力的な女性。そんな人に微笑みを見せられ、手招きされて、断る事などできるわけがない。アイナはフラフラと近づくと、こてっとアリシアの膝の上に頭を乗せる。
 そのまま、さーっと流れる水の音を聞きながら、アイナは眠りへと落ちて行った。
 それから数十分後。

「アイナちゃん。アイナちゃん」

仮眠を取るような形になったアイナは、声をかけられて目を覚ました。
 初めに目に入ったのはアリシアの笑顔。綺麗な微笑みだなぁと思いつつも、その全身がオレンジ色に染まっている事に気付く。良く良く見れば、空の向こうもオレンジ色だ。そういえば、二回目の水上エレベーターに乗る前に、大分太陽の向きが傾いていた事を思い出す。
アリア社長も目を覚まして、目の前の光景を見ている。
身体を起こし、アイナはここはどこだろうと首を傾げる。

「ここが終点よ、アイナちゃん」
「ここが……終点……わ、うわぁー!」

 アイナは思わず、寝惚けていた頭が一気に覚醒する感覚に襲われる。
 それもそのはずで、片や丘の上にいくつもの風力発電のプロペラがあり、それらが全て規則正しくオレンジ色に光りながら回っている。大きな丘で、その向こう側は一切見えない。壮大な景色だ。
 更に反対側。何時の間にか浮き島とネオ・ヴェネツィアの半分くらいの場所に移動していて、全てを見降ろせてしまう凄い景色だった。今は水平線に沈んでいく太陽すらも見降ろしていて、オレンジ色に燃える世界を一望できる。ネオ・ヴェネツィアも勿論なら、その先に続く道すらも見える。
 オレンジ色の、夕焼けの世界。アイナにとって夕焼けは大好きな光景の一つだが、こんな高所からの夕焼けは初めてだった。出てくる声は歓喜と驚愕。それ以外にはない。

「凄い凄いすごーい!」

 両手を広げて、その広大な景色に馴染もうとするかのように吹き抜ける風を受け止める。かなり標高が高いためか、風は冷たいくらいだ。だが、今のアイナにとってそんな事はどうでもいい。この素敵な景色が、光景が、まるで今まで諦めていた自分の心に希望を宿してくれるような、勇気を持たしてくれるような、不思議な感覚が身体を走った。
 アイナは深呼吸して、思いっきり吐いた。気持ちの良い空気に、満面の笑みを浮かべる。

「アイナちゃん」

 凄い綺麗な景色に見とれている中で声を掛けられて、アイナはんっとアリシアを見る。アイナの前に立っていて、右手を差し出して来ている。その手に右手を出すと、アリシアはするりと、アイナの手袋を抜き取った。
 目を点にして、アイナは手袋を外された右手をマジマジと見つめる。

「合格おめでとう、アイナちゃん」
「…………はい?」

 何の、何が、何を? と首を傾げつつ、意味の判らない疑問をいくつも浮かべる。状況がイマイチ理解できずに、アイナは右手を見て、アリシアの手の平にあるさっきまで付いていた手袋を見て、そしてアリシアを見て、再び右手に戻る。

「合格……と申しますと?」
「この難しい陸橋水路を、トラブルもなくよく自分一人の力で漕ぎ切ったわね」

 なんとなく、今自分が置かれている状況が理解出来て来た。

「今日一日かけて通って来た道は、ペアの昇格試験に使われる道でもあるのよ」
「…………なんですと」

 今日、ずーっと何の気なしに通り続けた道が、実はずーっと試験中だったということなのだろうか。ということは、試験なのに随分と適当な事を自分はしていなかったかと思いだして見るが、いかんせん楽しい思い出しか出て来なくてあれっと首を傾げる。
 が、まあ過ぎた事は良いので、アイナは右手を見る。左てを見る。灯里と同じ、片手。

「アイナちゃん、今日からアイナちゃんもシングルです」
「あたしも、シングル…………っは! あ、あの、えと、あ、ありがとうございます!」

 唐突の合格通知とか、シングル昇格と言われてもピンっと来なくて、アイナは目一杯頭を下げる。
 だがいい加減に右手を見て、今日通って来た道を思い出して、そして出会ったばかりの頃、アリシアや灯里と出会ったばかりの時を思い出して、自分の腕が上がっているのだと理解する。

「この昇格試験はね、ペアには内緒で行うのがネオ・ヴェネツィアの行事なのよ。知らないのはペアの子たちだけ」
「そ、そうなんだ。あ、だから今日すれ違う人達ががんばれって……そういうことか」
「うふふ。そういうことよ」

 今日すれ違ったプリマの人や、ヴァポレットの人、それに水上エレベーターの人。皆知っていたからこそ、声を掛けてくれたのだろう。しかし一体何に対しての「頑張れ」だったのか良く判らなかったのでどういうことか良く判らなかったが、この水路が難しいからそのための「頑張れ」だと思っていた。
 しかしながら、どうやら関係はあっても少し違う物だったようだ。

「それでね、この丘はウンディーネの間では「希望の丘」って呼ばれているの」
「希望の、丘」

 それは、きっと先ほどアイナが感じた物と同じ意味なのかもしれない。ここからの景色は、不思議と諦めかけていた気持ちをリセットしてくれる気がするのだ。
 それはもしかすると、ペアからシングルにすらなれないと思いこんでいた子が、この瞬間にシングルとなり、同時にプリマへの道が見えたからこその希望なのかもしれない。
 だが――そんなこまごまとした意味なんかよりも、この目の前の絶景を見て、希望を抱かない子などいないはずだ。

「きっとこの景色は、頑張ったウンディーネの卵達へのご褒美なんだと思うわ」
「――全くその通りですね」

 アリシアの言葉に、アイナは力強く答える。きっとその言葉は間違いじゃない。アリシアの言葉の意味は間違いなくそういう意味を持っているはずだ。

「……あたし、プリマになります。シングルになったばかりだけど、こんな景色を見て黙っていられません!」
「あらあら」
「ペアもシングルも突破して、なって見せましょうプリマウンディーネ! あたしの辞書に、不可能の文字はないのだー!!」

 うおー! っと燃えて来たアイナは沈む太陽に向かって吼える。
 左手の手袋が取れるその日まで、諦めることはない。
 だが、しかしだがしかし、そうしかし! それでも、だ!

「アリシアさん! どうしましょう!!」
「? どうしたの?」
「嬉しくてテンションが上がり過ぎて止まりません!!」
「あらあら」

 ぐわっしとアリア社長の両手を掴んで、何事と驚くアリア社長を無視して持ち上げ、そのままポーンっと上空へ投げ飛ばす。意味も判らず驚いたアリア社長は泣きそうになるが、落ちて来るなり強く強く抱き締められる。悲鳴も上げられない。

「んー! アリア社長、やりました! やりましたよー!」

 うわーいと喜びながら、アイナは勢い余ってそのまま丘の上に飛び上がる。そのままアリア社長の両手を引っ掴み、そのままぐるぐると回り始める。アリア社長の悲鳴が上がるが、アイナは止まらない。
 回って回って、目が回ったところで倒れ込み、アリア社長がゴロゴロと転がる姿を傍目に空を見上げる。倒れ込んだまま右手を上げて、手袋が付いていない手に、やはり喜びを隠しきれない。

「いよっしゃー! シングルだぁー!」

 その叫び声はもしかしたら、ネオ・ヴェネツィアにまで届いていたかもしれない。






 シングルになってから数日後。
 アイナは早速己の腕を磨く場所を探していた。とはいえお客さんを乗せるにしてもアリシアという先輩が必要で、半人前では一人では乗せられない。
 しかしお客さんを乗せたいアイナは、アリシアにこう問い掛けた。

「アリシアさん! あたしはお客様を乗せて一歩前進したいのです!」
「え?」
「シングルになってから早数日! アリシアさんが多忙なのは判っているのですが、アリシアさんがいなくてはお客様を乗せられない! なれば、アリシアさんが居なくてもお客様を乗せても良いという何か裏技ちっくなものはないのでしょうか!?」
「あらあら。じゃあ、トラゲットはどうかしら?」
「……トラゲット?」

 トラゲットとは。ゴンドラを使ったこの街の渡し船の事。街のメインストリートである大運河を、前と後ろの二人の漕ぎ手が二人でお客様を運ぶ物。ウンディーネ業界でも唯一、シングル同士でお客様を乗せられる方法でもあるわけだ。
 なるほど、それならアイナでも稼ぐ事はできるし、シングルになったばかりの彼女でもアリアカンパニーに貢献できる。この会社には想いがあるのだから。

「トラゲットかぁ。大運河のあれですよね」
「ええ、あれよ」

 脳裏に大運河を思い浮かべて、その間を行き来するゴンドラを思い出しながら言う。

「はい、それに参加してきます!」

 アイナはアリシアに紹介された場所へ、移動することに。
 ちなみに灯里も一緒に参加することになった。どうやら話を聞いていたらしく、同じく会社に貢献したいという想いからだった。
 二人して、いざ大運河へ。

 ―――というわけでやって来た場所には、アイナと灯里を含めて沢山のウンディーネが集まっていた。どうやら一度ここで集まり、渡し船の活動エリアを決められるらしい。
 二人とも緊張していて、あまり動かない。そして話も聞いていないため、皆が持ち場に移動になる頃には二人は棒立ちしていた。

「あのー」
「あ、はい!」
「はひ! まだまだ半人前ですが!」

 楽しみで、別の事を考えていて、そして緊張していて、二人は固まっていたところで肩を叩かれ、ビクッとなりながら返事をした。返事ついでに灯里がなぜか半人前と言っているところは気にしないことにする。
 周りを見て、はてと首を傾げる。さっきまで集まっていた人達が、いない。

「あ、あれ、皆さんは?」
「もう持ち場についたわよ」

 キョロキョロしながら灯里が問うと、呆れたような笑顔を浮かべながら、オレンジぷらねっとの人が答えてくれる。優しげな笑顔と、ウェーブのかかった髪の毛が特徴の人だ。綺麗で可愛い感じだろうか。
 それからもう一人、茶髪の短髪の女性が居る。こちらは姫屋の人のようで、活発そうな笑顔を浮かべている。なんとなくだが、藍華にちょっと似ているかもしれない。
 それからもう一人。おかっぱヘアーの女の子……という年齢か判らないが、ぼけーっと立っている人が居る。なんだかトラゲットに来たというよりも、沈んだ思いをそのままに来てしまったと言う感じだ。

「今日は私達5人がこの渡し場の担当だから、今日一日よろしくね」
「はひ! アリアカンパニーの水無灯里と申します! よろしくお願いします!」
「同じくアイナ・クルセイドと申します! よろしくお願いします!」

 カチンコチンに固まりながら自己紹介した二人と違い、三人は笑顔を浮かべたままだ。トラゲットに慣れているのか、慣れていないのかは判らないが、とりあえずアイナと灯里とは違って経験豊富のようだ。
 そんな二人の前に、飴玉が差し出される。思わず受け取る二人だが、オレンジぷらねっとの女性は笑顔で、

「緊張している時は、お腹に何かを入れると落ち着くわよ」

 と教えてくれた。アイナと灯里はお互いに顔を見合わせ、ありがとうございますと答える。

「私はオレンジぷらねっとのアトラ。よろしくね」

 アトラというらしい女性は、少しうーんと考える仕草をする。そこへ短髪の女性が来て、

「キミ達、トラゲットは初めて?」
『はい』
「うーん、良い返事だ」
「ねえあゆみ。最初はちょっと厳しいと思うんだけど」
「そうだな。それじゃあ、とりあえず経験者三人でローテーションして、残った一人がレクチャーしつつって形でどうよ」
「OK」

 どうやらあゆみ、というらしい姫屋の女性。しかし話に参加してこないもう一人の女性は、これまた再び遠くを眺めていた。
 アイナと灯里も成り行きを見守るくらいしかできないが、どうしたものかと考えてしまう。

「では。ウチは姫屋のあゆみ。よろしくな」

 っと、アイナと灯里の手を取り、清々しい笑顔で姫屋の女性が自己紹介してくれた。

『よろしくお願いします』
「でさ、キミ達トラゲットは好きかい?」
「……いえ、好きか嫌いかはまだ……なんとも……」


 まだ仕事を開始していないのだから判らない。そんな想いを含めて言ってみたのだが、アイナの言葉にあゆみはにへっと笑う。ならば好きにならせてやろう、というような意気込みを感じるその笑顔に、アイナはどことなく晃とも似ているなと感じた。

「ウチはね、観光案内よりもこっちの渡し船の方が好きなのさ。より地元密着型っていうかな」

 ほほーう、そういう人もいるんだなぁとアイナは思った。どうやら灯里も同じようで、へぇーと答えている。やはり人によってはプリマという一人前でなくても、シングルでこのトラゲットを楽しむ人もいるようだ。
 なんせこの仕事は、シングルでなければいけないのだから。

「オレンジぷらねっとの杏です。よろしく」
「あ、はい! 水無灯里です!」
「あ、アイナ・クルセイド……です?」

 背後から唐突に名乗られて、アイナと灯里は慌てて答える。しかし振り返った形のまま、二人は固まってしまった。なぜなら、名乗ってくれた杏がその場で固まっているからだ。
 何かあったのか、随分と気落ちしている。えーっとと考えていると、ぽんっとあゆみがアイナの肩を引っ掴む。同時にアトラが手をパンパンと叩いて良く判らない空気になったその場の雰囲気を変えようとする。

「さあ、お仕事お仕事」
「まずはウチと杏からな。トラゲットはお客様が皆立ってるから、独特のバランス感覚が必要になるから、アトラからちょっとしたコツを聞いておいてくれ」
「わかりました」
「あゆみ、お客様が集まって来たわ」
「いよぉーし、じゃあ今日も行ってみよう!」

 杏とあゆみ、アトラがさっさと橋の方へと移動し、テキパキと流れるように開店を開始。お客さんを何人か乗せて、残ったアトラがいってらっしゃいと言って送り出す。
 素早い三人に、見ていることしかできなかったアイナと灯里はぼーっとして、アトラが振り返ると同時に二人もアトラの方を見る。

「ごめんね、杏ちょっと元気ないの」
「ほえ、何故に?」
「何かあったんですか?」
「うん、ちょっと前にプリマの昇格試験に落ちちゃって」
『へぇ――――えぇ!?』

 何の気なしに聞いて、そんなことがと思いながらも、アイナと灯里は時間差でその事の重大さに気が付く。なんですととアトラを見ると、彼女は笑うでもなく、悲しむでもなく、ただ杏とあゆみが乗っているゴンドラを眺めたまま答えてくれた。

「でもね、あの娘は何度も何度も落ち込んでは、何度も何度もチャレンジするの。偉いのよ、諦めずに何度も何度も。そりゃあ、簡単には合格できるものじゃないって判ってるんだけどね」

 ははぁと聞いて、アイナと灯里は他人事ではないなと思った。何せ目指している物はプリマウンディーネなのだから。一人前になって、お客様を乗せて観光案内をする。この大好きな街を案内するのだ。それがどれだけ楽しいか、灯里は特に知っていることだろう。
 そのプリマの試験。それに落ちたとなれば、なるほど少し落ち込んでしまうわけだ。

「やっぱり、大変なんですか?」
「うん……同じ会社の先輩が試験官になるから人によるけれど……私達の担当の先輩は特に厳しいから」

 大変そうだなぁと思いながらも、アリシアとて合格するに適さない腕であれば駄目だと言ってくれるだろう。
 試験官というのも、大変なのだと思う。きっと合格できなかった杏はその場で泣いているのかもしれない。それと同時にその涙を試験官も見なくてはならない。それはきっと、お互いに辛いはずだ。しかし半端な腕でプリマにしてしまい、もし何かがあれば、その責任は会社に、先輩に、後輩に、つまり全員に来てしまうのだ。シビアな判断結果が必要なのだろう。
 アイナはきっとそうなのだと思いながらも、実際試験官になどなったことがないので判らないなとも思う。

「さあ、そんな事より、トラゲットのコツだけど」

 暗い話をざっくらばんに切り捨てて、アトラはアイナと灯里にトラゲットをする際の、普段と違う点をいくつか教えてくれた。
 お客様が立っているために重心が高いこと、独特のバランスは独自に掴むしかないこと、それから動く子供が中々に厄介な事等々。流石に経験者から出る言葉は判り易く、同時に本当に厄介なのだと理解することができた。特に子供が走り回った時はどうしようかと思ったのだろう、説明しながら当時を思い出したのか、フルフル小刻みに震えて怒りを抑えていた。
 お母さん、お願いだから子供はしっかり掴んでいてくれと、アイナは思った。

「お、帰って来た。じゃあ次は私ね」

 ゴンドラが戻って来ると、反対側からのお客様を降ろす。
それからあゆみが降りて来て、ハイタッチをしてからオールを渡し、アトラが乗り込んで準備を始める。準備が終わったところで杏に合図を送ると、杏は一度頷いてからそこで待っていたお客さまを乗せて行く。それからスイーッと、ゴンドラを発進させた。
 残ったあゆみは、ふぅーと言いながら腕を回してアイナと灯里のところに近づいて来る。

「杏さん、元気無さそうでした?」
「そー、そー、あいつ元気ないんだよ。プリマになるのって大変みたいだねー」
「そんな他人事みたいな……」
「うん、他人事だからさ」
『え?』

 灯里の問いに困ったな―と言いながらそう答えたあゆみ。その言葉のニュアンスがあまりにも他人事だったのでアイナが突っ込んでみると、あっさりと他人事と返して来るあゆみ。
 灯里とアイナは素っ頓狂な声を上げて、首を傾げた。

「言ったろ? ウチはトラゲットが好きだって。だからプリマにはならないのさ。なんせ、トラゲットはシングルでしかできないからね」
「た、確かに言ってましたけど……」

 まさか本当にプリマを目指さずにシングルで固まっているのか。あゆみの言葉にアイナはこういう人もいるんだなーと二度目の確認を行った。

「別にさ、珍しい話じゃないんだ。この業界にだって、明確な競争は存在する。で、トラゲットはシングルでも立派に稼ぐことができて、同時にシングルの修行の場でもあるんだ」

 あゆみの言葉を、灯里とアイナは黙って聞いていることしかできない。
確かに、明確な競争は存在する。その競走のおかげで、アイナはこのアクアに来ると同時に、就職先を失ったのだから。

「ウチみたいに初めからトラゲット専門になりたいって奴は少なくてさ。基本的にここに居るのは、プリマになれなかったシングル達だから」

 軽くて、重い言葉。こんな風に普通に喋れるのは、きっとあゆみが元々プリマではなく、このトラゲット専門のシングルを目指していたからなのだろう。もしプリマを目指して、プリマになれずにここに落ち着いた人が、こんな淡々と喋られるわけがない。
 ちょっとした勉強になったなと、アイナは思った。

「さあ、それよりもトラゲットのコツだ」

 というわけで、さきほどアトラから教えて貰った事をアイナと灯里はあゆみに言うと、今度はまた別のコツを教えてくれる。
 重心が高いから波にはどう対処するとか、あまり急がず焦らずしっかり漕ぐ事、あと急げというお客さんが居る場合はそれでも急いではならないと、お決まりや接客の方法、漕ぎのコツなどを教えて貰った。
 それから再び戻って来たゴンドラに、今度はアトラとあゆみが乗り込み、お客さまを乗せて再出港した。

「あの、プリマになるのは大変みたいですね。アトラさんから聞きました」
「ええ。ちょっと前にあたし、その昇格試験に落ちちゃって……ごめんなさい、場を暗くしてますよね」
「い、いえ、そんなことは……」

 ズーンと落ち込んでいる杏。話しかけてみたが、これは重症のようだ。
 しかし俯かせていた顔を持ち上げて、杏はでもっと声を上げた。

「あたし、諦めてません。確かに今は落ち込んでますが、いっぱい食べて、いっぱい寝て、また元気を出してから修行して、今度こそ絶対に合格するんです! 合格するまで、何度だってチャレンジするんです!」

 そこには、気迫にも似た物があった。それだけの気合と根性があれば、この人は大丈夫だとアイナと灯里は思った。お互いに顔を見合わせて、クスリと笑う。
 正直、アイナから言わせてもらえば、杏の横顔はとても凛々しい顔だったと思う。その希望に満ち溢れている顔は、いつか必ず笑顔になるはずだ。

「さあ、それよりも灯里さん、アイナさん。次ですよ。コツはどうですか?」

 アトラ、あゆみから聞かされた事を話して、あとはもう実戦するしかないと言われてしまった。しかし立ち方や漕ぎ方がちょっと変わったりするらしく、杏はこうっとジェスチャーのような形で動かし方を教えてくれる。
 二人も同じようにイメージトレーニングをして、帰って来たゴンドラを見てドキッとする。
 お客様が降りて、交代のタイミング。先に灯里が行くことになり、残るのはアトラとあゆみ。それから杏と灯里が乗り込む。アイナはドキドキしながら灯里達の行く末を見守る。
 お客様が乗り込み、準備オーケーの合図が杏から出される。よしっと、灯里がオールに力を込めた。

「水無灯里、行きます!」
「……だから名乗らなくても良いでしょうに」

 スゥっと動き出したゴンドラ。ほんの僅かこそ揺れた物の、直ぐに灯里はバランスと波の流れを確認して態勢を立て直し、乗っているお客様全員が普通に立っていられるように漕いで行く。その様子を、アトラとあゆみはおーっと声を上げて見ていた。
 そんな二人と違って、アイナは何時ものように名乗って漕ぎ出した灯里に、苦笑するしかない。

「あの娘、もしかして凄腕?」
「え?」
「だって、ゴンドラが左右に揺れないし、綺麗に真っ直ぐ漕いで行ったわよ?」
「普通は、左右に揺れるんですか?」
「んー、最初はそうね、バランスが上手く取れなくてちょっとフラフラしたりするんだけど……」

 なんと。であればあの灯里のスイーッと動く漕ぎのレベルは相当なものではないのだろうか。アイナは今さっき出て行った灯里のゴンドラの動きを思いだして、んーっと首を傾げる。
 まあ、ほぼ毎日のように練習しているのだから、もしかしたら立っている人が乗っていても灯里には全く問題ないのかもしれない。なにより考えてみれば、灯里達のゴンドラに乗っている時に動き回る存在が居る。それが自分であることと、アリア社長であることに今更になって気付く。
 そういえば、何時の日からかアリア社長とゴンドラの上で暴れても、普通に漕いでいる灯里が居る事を思い出した。何時レベルアップしているのか判らないが、灯里はやはり上手いのだろう。

「……あたしの所為か」

 とりあえず、灯里のゴンドラの練習の邪魔をしていたのだなと今気付いて、アイナは反省した。
アトラとあゆみが不思議そうな顔で見ていたが、気にしない事にする。
アトラとあゆみと話をしながら待つこと数十分。

「お、戻って来た」

 帰って来たゴンドラ。いよいよ自分の番だと立ち上がり、カチンコチンに固まる。

「あ、あの、灯里と違って私は本当にシングルになったばかりなので、よろしくお願いします」
「そんなに硬くならないで。大丈夫、その為の二人なんだから」

 一緒にゴンドラに乗るアトラに断って、アイナは緊張に手の汗が凄い事になっていることに気付く。
 そうしてお客さまを降ろしてから、灯里と杏が降りて来る。そしてアイナの近くに来ると、

「アイナちゃん、凄く面白かったよ!」

 なんて、とんでもない事を言ってのける。さすが灯里、レベルが違うわとアイナは笑顔を浮かべるしかなかった。
 オールを受け取り、アイナはゴンドラの後ろへ。準備が出来たので合図を送ると、アトラが数人のお客様を乗せて行く。ドキドキしながら、乗って来るお客様の動きを確認する。
 ゴンドラが、揺れる。それも重心が高いから揺れるとかではなく、皆が思い思いの位置に立つから揺れるのだ。右寄り、左寄りに立つ変な人達。せめてセンターに皆立ってくれと思うが、そんなことは言えない。
 アトラが合図を送ってくれる。アイナは頷いてから、オールを動かし始める。動かして――感じる。普段動かしているゴンドラよりも重い所為か、オールそのものも重い。それでも焦らず、急がず、何時ものように漕ぐと、不思議とそれでもしっかりと前に進んだ。
 海の波に揺られ、ゴンドラが今まで感じた事の無い動きをする。しかし身体はその動きの対処方法を知っているのか、アイナは素早く動く。勝手に揺れず、波に揺らされない。
 波と波の間を縫うように、アイナはゴンドラを漕いで行く。なるほど、今まで感じたことが無くて、かつ今までしたことがないゴンドラの制御。灯里の面白いとは、これのことではないだろうか。

「お姉ちゃん、トラゲットは初めてじゃないのかい?」
「え?」
「さっき乗る時に、初めての子が漕ぐので、少し揺れるかもしれないと言われてね」
「あ、はい。初めてなので確かに揺れると思いますが、どうでしょうか?」
「いやぁ、気になるほどの揺れは最初だけで、今は何もないよ」

 タキシードと帽子を被った紳士風の男性に言われて、アイナはえへへーと嬉しくて顔を綻ばせてしまう。それでも、足腰に来るゴンドラに当たる波と、オールから伝わる水の流れを感知して、上手い具合にバランスはしっかりと保ち続ける。
 しかし、これが限界。少し遅いかもしれないが、速度を上げる事も減速をする事もできない。これ以上早くすればおそらく、アイナの処理能力の限界を超える。それと同時に減速する際のバランスのとり方がおそらく判らなくなってしまう。
 それでも、どうやら十分な速度は出ているらしく、乗っている人達は特に文句は言って来ない。

「良い腕だね、嬢ちゃん!」
「ありがとうございます!」

 ひょいっと女性が顔を覗かせて、腕を捲ってそんなことを言ってくれる。その女性の行動に乗っている人達がクスクスと笑ったが、アイナは嬉しくて満面の笑顔で答えた。
 そうして反対の渡り場に送り届けると、新しいお客様が乗って来る。今度は漕ぐ立場が逆転して、アトラが漕ぎ始めた。最初こそやはり少し揺れるが、それ以降は一切揺れることはなく、綺麗に進んでいく。これだけの腕があってもプリマにはなれないのかと、アイナは思う。ならばどれほどの腕があれば、プリマとして観光案内ができるのだろうか。
 考えても仕方が無いので、アイナは思考を切り替える。今はトラゲットに集中しなくてはならない。
 そうして送り届けて、再び交代。
 トラゲットを心行くまで楽しんで、皆で交代して漕いで、時間はあっという間に過ぎて行った。

「そろそろ、営業時間も終りかな」
「そうね」
「お疲れさま―」

 陽が傾き、夕焼けになった空を見上げてアトラ達が身体を解す。それを見て、アイナと灯里も終りなのかと身体を伸ばしたり解したりした。最初の緊張以外はほとんど何時もの練習通りにできたので、そこまで疲れてはいないが、後半からはどうしても体力が足りなかったのか、アイナは少しバランスが崩れたりして少し大変だったのだが、灯里はそんなことはなかったようで十分にこのトラゲットを楽しんだという顔をしている。
 さすがにそこはシングルとして時間の差があるようだ。

「いやぁ、それにしてもキミ凄腕だなぁ」
「うん、やっぱ灯里は凄いわ」
「そうね。コツも直ぐに吸収しちゃうし、終始バランスは崩れないし」
「あたし達が安心して一緒に居られるのって変かもしれないけど、そんな感じがしたよ」

 確かに、ウンディーネがウンディーネの漕ぎで安心してはいけないと思う。しかしそこに突っ込みを入れる人はこの場にはいない。

「さすがグランドマザーが創設したアリアカンパニーの従業員」
「こりゃあプリマまでも時間の問題だなぁ」

 あははと笑いながら言うあゆみ。灯里が時間の問題なのはアイナも知っているので何も言わない。
自分の手を見て、最初の頃と比べれば間違いなく腕は上がっている事はアイナも判っている。しかしやはり、そう簡単にはプリマにはなれないようだ。アトラや杏みたいな、腕があるのに合格できないのだから、まだまだなのだろう。
しかし、アイナにとってはそっちの方が良い。高いハードルほど、乗り越えたその時の達成感は凄く気持ちが良いのだから。それに簡単なハードルなど、意味はないのだ。

「いいですねー、プリマ」
『はっ!』

 が、そんな考えのアイナとは違い、純粋にプリマになれないことで落ち込んでいる人物もここにはいるのだ。そしてその娘は今日一日、しばしば落ち込んでいたのである。

「おめでとうございます、灯里さん」
「いやいや、まだプリマになってないから」
「ま、まだまだ半人前ですから」

 灯里の手を握って上下に振る杏。そんな彼女にアイナは突っ込みを入れる。灯里はどう答えて良いやらわからないようだ。とりあえずまだまだであることはアピールしているが。

「アイナちゃんも良い腕してるしね」
「やっぱりアリアカンパニーは精鋭が多いわ」
「アイナちゃんもおめでとうー」
「あたし数日前にシングルになったばかりですけど!?」

 自分が褒められて嬉しいのだが、杏はもはや聞こえていない様子。プリマになるとかならないとか、まだまだの話のはずなのに、杏の中では既になる事になってしまっているらしい。落ち着いてくれと心の中でアイナは思う。杏をいかにして沈めれば良いのかと考える。

「だ、大丈夫ですよ、杏さん。杏さんだって直ぐになれますって」
「そうよ、杏だって頑張ってるじゃないの」

 とにかく落ち着かせようと杏の肩を叩いて、動きを止めさせる。そんな彼女に、アトラは呆れたように声をかけてくる。

「それに、私達が悪いんじゃない……試験官が厳しすぎるのよ」
「――――」

 それは、確かにそうなのかもしれない。アトラの言葉の中に悲しみと絶望を感じて、アイナは少し顔を伏せる。困った、元気付ける言葉が見当たらない。それにそれは、運が悪いとしか言えない点もある。

「きっと、私達は試験官さえ変われば直ぐにでもプリマになれる。でもね、最近私はこのトラゲットも良いなって思えて来たの」
「アトラさん?」
「もちろんプリマにもなりたいけど、あゆみと同じように私もトラゲット専門になるのも、悪くはないかもって」
「……いや、アトラはウチと違うっしょ」

 アトラの言葉を、ばっさりと切り捨てるのはもちろん、名を出されたあゆみだ。もちろん、そこに同情や相手を気遣う素振りなどどこにもない。本当に、ばっさりだ。

「だってアトラ、本当は観光案内がしたいんだろ? でも半年前に試験に落ちてから、昇格試験受けなくなったじゃん。どうして杏みたいにチャレンジしないの?」

 それはきっと、あゆみの素朴な疑問なのだろう。だがどうやら、アトラにとっては少しきつい問い掛けのようだ。顔を伏せて、どう答えて良いのか判らないと言う様子。
 半年前に落ちて、それ以来昇格試験を受けていない。それはきっと、怖いからなのだとアイナは思う。

「あたしは、アトラさんの気持ちが少しわかる」
「あたしは、アトラちゃんの気持ちがちょっぴりわかる」

 アイナと杏は、同時にそんな事を言った。二人して顔を見合わせて、クスッと笑う。

「昇格試験じゃあないけど、あたしはマンホームで一度、試験に落ちた。その時自分の才能が無いんだって辛くて悲しくて、何度も落ちる度にドンドン怖くなって、辛くなって、委縮していくの」
「うん、あたしはウンディーネの試験に落ちる度に、ウンディーネとしての自分が否定されるてる気になって、アイナちゃんが言った様にドンドン委縮して硬くなっちゃうの」
『でも、それじゃ駄目』

 アイナは、マンホームに居た時に中学の頃に受けた試験を思い出す。それはとある技術部門での試験だったのだが、それがなくてはとある企業に入れないというものだった。結局その試験には落ち続けて諦めてしまったのだが、それは今は良い教訓となっている。運が良かったのは、それは中学の時である事と、まだやり直しが効く時だったと言う事だ。
 怖くて、辛くて、硬くなっては、その場で止まってしまう。硬くなってしまうのだ。だがそれでは、その後の物事を、何一つ吸収できなくなってしまうのだ。それは例えるなら、親に怒られた事を気にし過ぎて、他の事が一切できなくなってしまうのと同じ事。

「他人は変えられない。試験官を変えるっていうのは、我儘でしかないよ」
「でも自分は変えられる。ガチガチに硬いままじゃ駄目なら、やわっこくなればいいんだよ。そしてやわっこくなって、足りない自分に足していく。未熟なら、未熟らしく成長するの」
「うん。だから、軟らかくなって、色々な物を吸収していく。そうすれば、色々な事ができるようになる」
「軟らかければどんな形にだって形を変えられる。どんなものだって吸収できる」
「ちなみに、あたしは今日、杏さんやあゆみさん、アトラさんの技術を吸収させてもらいました」

 どうやら、杏も同じことを考えているらしい。昔ではなく、今その事に気付いたのは凄いことだとアイナは思う。あの時、中学の時にこの事に気付いていなければ、きっとアイナはここにはいない。
 思えば、あの時自分が頑なになって居た事が不思議で、何も見ていなかった事にも気付かなかったことが不思議でならない。世界は、楽しい事と嬉しい事、面白い事が沢山あって、それらを吸収していくことが楽しいのに。きっと、一つの事に固執しすぎては駄目なのだとアイナは思う。
 杏の場合、自分の技術に駄目なところがあればソレを直し、人の良いところは奪うと言う事を繰り返していることだろう。こういう技術が関係するものは、最初の教育がおかしいと変な癖がついてしまったりして危険である。だからもしかすると、どこか危険な動作をする場所があるから、その試験官も二人を落としているのかもしれない。
 それがどんなところなのか、アイナには判らない。

「だからね、やわっこくなれば何にだって形を変えられるの。そうすれば、何にだってなれる。そう、きっと憧れのプリマにだって、なれるの」

 それは、杏の希望なのかもしれない。だけど、その思いを持つことは間違いなく正解だ。
なるほど、確かに軟らかい形なら何にだってなれる。アイナの場合はスポンジのように吸収する事を考えていたが、どうやら杏の場合は姿形すら変えられる粘土のイメージのようだ。
ほんの僅かな違いではあるが、アイナにとってはそれもまた、吸収させてもらう点である。

「でも、でもね、あの先輩にもう遅いって言われたら……」
「大丈夫です」

 どうやら考えは改まったらしい。しかし不安が残るようだが、灯里が口を挟んだ時点で、アイナはクスリと笑う。もう、大丈夫だと。

「きっと大丈夫です。何時でも何処でも何度でも、チャレンジしたいと思った時が新しいスタートなんです」
「じゃあ灯里、それを何かに例えるなら?」
「まるで太陽が、新しい朝と夜を何度も繰り返すように、新しい気持ちでスタートすればいいんです!」
「おお」

 ほとんど無茶振りだったのだが、灯里は見事にアイナの言葉に答えて見せた。なるほど、太陽を例えに出して来たかとアイナはうんうんと関心した。毎日新しい朝と夜を繰り返す太陽。
 さすがは灯里と、アイナは苦笑した。

「一度は沈んで、でも次に起き上がる。確かに太陽だね」
「はひ。だから、自分が終わりって思わない限り、遅いことなんてないんです」
「うん。本当に終わりなんて来ない。それに――墓穴を掘っても、掘り抜ければ勝てるんです!」
「なにそれ」

 アイナの良く判らない言葉に、皆が笑う。そうして一頻り笑った後、アトラは綺麗な、清々しい笑顔を見せてくれた。

「うん。私、頑張ってみるね」

 アトラの言葉に、言葉を返さずに力強く頷くアイナ、灯里、杏。そんな四人を見て、あゆみは「っかー!」と声を上げ始めた。何事と思えば、

「なんだなんだこれは! 青春か!」

 オヤジのような突っ込みを入れて来た。けど、それがまた面白くて、アイナ達は再び笑う。

「さあ、では皆さま、叫びましょう!」
『へ?』
「あたしを、誰だと思っていやがるー!」

 テンションが上がって来たので、アイナは我慢できずに叫ぶ。商店街の渡し場のゴンドラの上だが、そんなことはまるで気にも留めない。アイナは右手を上げて、指一本を立てて、尚叫ぶ。

「あたしはアイナ、アイナ・クルセイド! このアクアでウンディーネの一番星になってやるー!」
「おっほ、熱血だね?」
「イエス!」

 ならばと、なぜかあゆみが立ち上がる。ほへっ? と首を傾げる四人。アイナとて少し予想外の人が立ち上がったので、何をするのかと考える。しかし、熱血勝負なら負けるつもりはない。
 と、思っていたのだが、何故かグイグイとゴンドラを降ろされる。そのままズイズイと渡し場から押し出され、更に商店街の中へ。何? と首を傾げた瞬間だった。

「皆さまー! 元気で可愛い美少女達がプリマになる夢を、応援してあげてくださーい!!」

 ぐわしっと引っ掴まれ、前に引き摺り出される。とんでもない事を言ってくれたあゆみに、四人は口をパクパクさせて文句を言おうとしながらも、あまりの恥ずかしさに声も出ない。
 自分で叫ぶならまだしも、こんな紹介のされかたをしたらアイナとて恥ずかしくて何もできなくなる。

「おー! プリマになったら乗せてくれやー!」
「美少女の観光案内なら楽しみでいいやねー!」
「元気で可愛いなら期待してるぜー!」
「可愛い女の子ならここにもいるわよー!」
「プリマになったら乗せてちょうだいねー!」
「夢を叶えたら、次はその夢を磨いて行けよ、ウンディーネの原石達ー!」

 色々な人からの声が響く。どさくさに紛れて何か違うのが入っていた気がするが、基本的に街の人々が応援してくれている。
 あまりの気恥ずかしさに皆顔を伏せていたが、恥ずかしさをフッ切って笑顔が浮かぶ。しかしその笑いを我慢しようとして、その顔が面白くて、お互いに吹き出し、お腹の底から声を出して笑った。
 トラゲット。大運河を渡るゴンドラ。
 それはもしかしたら、ウンディーネの悲しさや辛さも運んで、別の世界へと送っているのかもしれない。そして希望と夢を、運んで来るのだろう。そこにはきっと、悲しみや辛さなんてものはなく、素敵に輝く白いページとなって彼女達の心に再び希望と夢が生まれるのだ。
 その時には、まるで太陽のように輝く笑顔が浮かんでいることだろう。






 春の終わりごろだっただろうか。だんだんと街の中が活気付き始めていて、何なんだろうとアイナは頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。
 道行く人は大半が恋人同士のように見えるし、親友同士に見える。男女もあれば女性と女性、男性と男性で歩き回る姿がある。しかし基本的に二人一組なのだ。こうなってくると、怪しい雰囲気を感じる。
 例えば、アクア・アルタの際にあるボッコロの日を思い出す。来たばかりの時に床上浸水は驚いたが、それももうそろそろだななんて思ってしまう。それよりも、男性から女性に薔薇を一輪渡すというあのイベントを鑑みると、もしかしたらそういう類の物が再びあるのかもしれないとアイナは推測する。
 だが、疑問も答えも推測も意味はなく、ふと見たとある家の壁にポスターが貼ってあった。それが、彼女の疑問を全て答えてくれていた。

「……海との結婚?」

 4年に一度の大イベントだったのである。
 ポスターに、少しだけ書いてある。

「……ウンディーネの大行進。美しく壮大なその光景に目を奪われる。心現れる美しいその光景と共に、海との永遠を誓いましょう……大行進……?」

 ペア、シングル、プリマの大行進とわざわざ書かれている。おっほうちょっとまてと、アイナは現在自分が置かれている状況を考える。
 アイナはウンディーネで、シングルだ。ウンディーネ業界はこの日は勿論全て休み。この海との結婚には全員参加は間違いない。巨大な、超巨大な豪華客船のような船の前に、小さなゴンドラが居る所を見ると、このゴンドラの上に自分達がいるのだろう。
 ……この巨大な船がなんなのか、一体何をどうすればいいのか。とりあえず、アイナは情報収集をするためにアリアカンパニーに戻る事にした。
 だが、戻るよりも先に、ふと見た道の先に見知った三人組の顔が見えた。

「おお、灯里ー! 藍華ー! アリスー!」

 三人でポスターを見て、なにやら緊張した面持ちだったが、アイナは気にせずに走り寄りながら声をかける。その声に気付いてくれた三人は、やほーと声を返してくれた。

「ねえ、海との結婚って何?」
「ぬな!? アイナ、あんた知らないの!?」
「超巨大な一大イベントだよー」
「では藍華先輩、ご説明を」
「……あによ後輩ちゃん。自分で説明すれば良いじゃない」
「いえ、でっかい説明大好きな藍華先輩だからこそ」

 説明なんて好きだっけ藍華。そんな疑問を頭に浮かべつつ、アイナは藍華を見つめる。
 とりあえず、海との結婚の情報が欲しいわけだ。

「サン・マルコ広場の岸辺を目指して、何百ものゴンドラが粛々と行進するの。クライマックスには全員で海に指輪を投げ入れて、ネオ・ヴェネツィアと海との永遠の愛を誓うのよ」
「ほっほう」
「ちなみに、マンホームでは海洋国家として海との強い絆を国のアピールとして、年に一度の式典だったんだよ」
「式典……お祭りじゃないじゃない」
「そしてネオ・ヴェネツィアでは4年に一度のイベントになったのです」
「おお、なるほど」

 藍華の説明には、彼女が心の底から楽しみにしている想いと海との結婚と言う物に強い憧れのような物があるように感じた。とはいえ、三人とも既にドキドキのワクワクの様子。どうやらアリスと灯里も同じくらい楽しみのようだ。
 いつもなら灯里が一人大はしゃぎしているところだが、藍華とアリスもはしゃいでいる。これは相当なものだろう。

「……で、全員参加?」
「勿論、ウンディーネは全員参加よ」
「……参列しなきゃだめ?」
「勿論だよ」
「……緊張してオール落としそう」
「それはでっかい駄目です」

 話を聞いて、どういった物かは理解した。そしてどういう行事であるかも理解した。そしてそれが既に間近に迫っている事も理解した。そして同時に、自分如きの腕で大丈夫なのかと本気で心配になって来た。今から手と足が震えている。
 しかしながら、それ以上に、ドキドキし始めている。

「きっと、このお祭りを最初に考えた人は、素敵な海の蒼への想いに心も身体も満ち溢れていたんだね」
「恥ずかしい台詞禁止!」
「んー、なんてロマンチックな話……」

 灯里の言葉にすかさず藍華が突っ込むが、アイナはなるほどと首を縦に振りつつ偉大な人がいたものだと感心した。
 だが関心している場合ではない気がする。

「海との結婚のために、指輪も調達しなければ」
『どんな指輪にしようかなー』

 アリスの言葉に、アイナと灯里の言葉が綺麗にハモる。

「それよりあんた達、漕ぎの方は大丈夫?」
「……」

 話が変わってはしゃぎ始めた娘っ子共に、藍華がしっかり突っ込みを入れてくれる。しかしながらその突っ込みは、アイナにとっては厳しいものだった。

「大観衆の前で一糸乱れぬパレードを披露するのよ? 街の象徴で、水の妖精として、その名に恥じないオール捌きを見せないといけないのよ。とっても責任重大で名誉あることなのよ?」

 わかってる? なんて強めの口調で言われて、三人はしばし固まる。
 そう、そこだ。アイナはさっきからその点を考えていた。やはりとてつもなく責任重大な点を一任されるのだろう。なんせウンディーネの大行進なのだ。

「あ、あたしの腕如きで大丈夫かすぃら」
「き、緊張してきた」
「私も……」
「私もです」

 全員で自分の手を見つつ、引き攣った笑みを浮かべる。っが、しかし。

「いいや、やるなら全力を尽くすのみ! 藍華、アリス、灯里、練習よ!」
「なーんでアイナが仕切ってるのよ! あったりまえでしょ!」
「でっかい当たり前です! がんばりましょう!」
「ではでは、いざ当日まで、練習開始!」

 私の台詞を取るな―と藍華から軽いジャブを食らうが、じゃれるようなもので全く痛くはない。
 その日は、目一杯オール捌きの訓練に明け暮れるのであった。

 ――数日後。
 あと二日ほどに海との結婚が迫った頃だろうか。アイナは一人漕ぎの練習に再び出向いていた。どこかに行こうか、それとも街中をメインに練習するか。おそらくは街中の方が良いだろう。何せ、既に色々なところで準備が始まっている。それもネオ・アドリア海を中心にだ。
 指輪も決まらず、ゴンドラの練習も今日はなんだか気が進まない。というのも……既に街中からゴンドラが減り始めていることが現実なのだ。
 きっと海との結婚のために準備をしているのだろう。ウンディーネ業界とて同じで、今はほとんど観光案内をしていない。きっと参列の流れとか並びとか、順番とかを決めているのだろう。全てのウンディーネ業界が参加するこの超巨大な一大イベント。その力の入れように妥協はない。

「んー、あたしも指輪を探しに行けば良かったかな」

 ゴンドラを漕ぎつつ、アイナはそんなことを思う。実際には男性から貰うのが良いらしいのだが、別に親友から貰っても、親から貰っても良いらしい。理想なのは、男性からということなのだが……いかんせん相手が居ない。
 灯里には暁から貰った指輪があるし、藍華にはアルから貰った指輪がある。アリスも確か何か指輪のようなものを持っていた。それにしても皆して左の薬指、もしくは右の薬指に付けているが……左はまずいんじゃないか?

「左の薬指……結婚指輪かぁ……いいなぁ」

 そこはそろそろ18になる乙女の心情。アクアでは一年だが、年齢は二つ増える。なんだか時間の経過が早くてもったいなく感じてしまうが、逆に言えばアイナは充実した生活を送っているということになる。充実した生活は、本当に時間の流れが早い。
 さて、そんなババクサイ考えをアイナは投げ捨てて、今をトキメク18歳はとりあえず船場へとゴンドラを止める。パリ―ナに固定してから上陸して、アイナはしばし散歩しようと考えを変える。
 では散歩するにもどこへ行こうか。やはり……指輪を買うしかないだろう。

「自分で自分に買うのは切ないなぁ」

 なんて言いながら入ると、そこには見覚えのある制服の人が居る。ん? っと首を傾げつつその人の近くに移動してみると、見覚えのある顔がそこにはあった。

『あ』

 お互いに視線を合わせた瞬間、脳裏にフラッシュバックの様にこのアクアに来た当時を思い出した。目の前に居る女性は、間違いなくあの時入社しようとした会社の人だったのだ。
 見た感じ一人なのだが、指輪を買いに来たのだろうか。

「ど、どうもこんにちは」
「こんにちは、アイナちゃん。あの時以来ね。どう、アリアカンパニーは」
「はい、お陰様で最高に楽しい毎日を過ごしてます」
「そう、それは良かったわ。あの時はごめんなさいね」
「いいえ、それはもう過ぎたことですから。それより、あなたも指輪を?」
「ええまあ……その、相手がいないの」
「あはは、実はあたしもです」

 過去の事はぽいっと投げて、アイナは指輪の話をする。案の定相手が居ないから自分で買いに来たようだ。
自分と同じだと思い、アイナはそうだと手を叩く。そして名を呼ぼうとして、そういえば名乗られた覚えが無いことを思い出す。

「……そういえば、お名前を聞いていないのですが」
「え? あら、名乗って無かったかしら」
「ええ。あれだけのインパクトのある出会いの中での名前なら、あたしは確実に憶えてますから」
「……そうよねぇ、あれだけのインパクトの中だものね」

 だからこそアイナも女性もお互いの顔を憶えているのだから。名を名乗っていれば間違いなく憶えている事は間違いない。

「私はアヤ。アヤ・クリストファ。アヤでいいわよ、アイナちゃん」
「では、アヤ先輩。あたしがアヤ先輩に指輪を買いますので、あたしのを買ってもらえませんか?」
「……ふふ、うふふ。ええ、私も今、そう思っていたの」

 綺麗な笑顔で、アヤは答えてくれた。アイナは自分の提案を受け入れてくれたことも嬉しいが、何よりこんなところで偶然、アクアに来て初めて会った人に出会えるとは思っていなかったので、この出会いもまた嬉しい。
 もう過ぎたことではあるので深くは突っ込まないが、本来ならアイナの先輩は、きっとこのアヤになるはずだったのだから。とはいえ、どうかは判らないが。
 さて、細かい事は再び投げ捨てて、アイナは指輪選びを開始した。とはいえ――凄い数だ。
 どうやら海との結婚の指輪は、海の海水に溶けるようになっているらしい。鉄ではない……のだろう。何でできているのか判らないが、手に取ると軽い。色々な種類があるが、とりあえず海を汚さない考慮はされているようだ。
 ……だとすれば、あのアリスのあれは……何か鉄のようにしか見えなかったが、良いのだろうか。

「アイナちゃん、こんなのは好き?」
「ほへ? おおっほう!」
「良いリアクションね」

 そこにあったのは、一輪の花。蒼い花をモチーフにした指輪だ。鮮やかなその蒼は、アイナの目を釘付けにした。

「これはね、アイリスっていうの。花言葉で選んでみたんだけど、どうしかしら?」
「可愛いし、綺麗だし、あたしは気に入りました!」
「ふふ、じゃあこれでいいかしら?」
「はい! あ、ちなみに花言葉って?」
「素晴らしい結婚をって花言葉があるの」

 このタイミングでその選択はずるいと、アイナは思った。アイリス、綺麗な蒼色をモチーフにした可愛い指輪だ。正直海に投げ込みたくないとすら思ってしまう。
 しかし選んでもらったのだから、選ばなくてはならない。しかし花言葉なんてロマンチックな物はアイナは知らないし、なんだかそれに対抗しようにも思い付かない。だから――アイナは花言葉ではなく、見た感じの綺麗な花を選び出した。

「アヤ先輩、花言葉はあたしは判らないんですけど、アヤ先輩の笑顔が素敵だったので、ひまわりにしてみました」
「ええ? 素敵な笑顔って……は、恥ずかしいな」

 ひまわり。それはつまり太陽を意味するとアイナは思っている。一般的な意見でしかないが、アイナにはそれくらいしか判らない。花言葉も知らないが、ひまわりなら問題はないだろうとアイナは思っていた。それになにより、ひまわりはアイナの好きな花の一つだから。
 顔を赤くして、頬を抑えながら恥ずかしがるアヤ。その姿が、少し可愛いなと思ってしまったアイナだった。

「じゃ、じゃあそれでお願いするわ」
「はい!」

 えへへーと活発な笑みを浮かべると、アヤも優しい笑顔を返してくれる。その笑顔は、どことなくアリシアにも似ている。やっぱり大人の女性って可愛いより綺麗になるんだなと、アイナは良く判らない解釈をした。
 指輪を購入し、二人はとりあえずお店から離れることにする。それからお互いに向き合い、スッとお互いに指輪を差し出した。

「では、どうぞ」
「そちらこそ、どうぞ」

 どちらから、と言う事も無く同時に受け取り、アイナとアヤはクスクスと笑う。

「なんか、変なやりとりです」
「本当ね」

 子供のような笑顔を浮かべながら、アヤはクスクス笑う。きっと自分も同じような笑顔なのだろうと、アイナは思う。
 っと、アヤは時計を見て、あ、まずいと小さく驚いてアイナに向き直る。

「アイナちゃん、今日はありがとう。また会えて嬉しかったわ」
「いいえ、こちらこそありがとうございます」
「ん。それから、シングルへの昇格おめでとう。あと、先輩って呼んで貰えて、嬉しかったわ。また会いましょう」
「はい、どこかで会えれば!」
「会えるわ。だってここは、奇跡の出会いが沢山あるネオ・ヴェネツィアなんだもの」
「――――あは」

 それは、凄く、凄く綺麗な笑顔だった。きっと、アヤも何か不思議な体験や、素敵な出会いを繰り返して来たのかもしれない。もしかしたら、だからこそあんなに優しいのかもしれない。
 誰も彼もが優しくなれてしまう不思議な街、アクアのネオ・ヴェネツィア。やっぱり、何か特殊な力でも持っているのではないだろうか。
 奇跡の出会い――全くもって、その通りだ。今日の出会いもまた、奇跡なのだから。

 ――海との結婚の日。
 まず、朝からてんやわんやの大騒ぎである。
 アリアカンパニーはそこまで忙しくはなく、三人だけだから特に問題はなかった。何よりアリシアは最後の最後で登場する偉大な役を受け、残りの二人は適当に参列に組み込まれるだけだったからだ。
 問題はウンディーネ業界の最大手である姫屋とオレンジぷらねっとの人達だ。人数が多いのでしっかりと場所と順番を決めて居て、誰が居ない、あの子が遅れてる、どこいったと凄い事になっている。

「灯里、あたし達二人で良かったね」
「そ、そうだね」

 指輪を嵌めたまま、二人はオールを持って待機していた。何をするにも、何もできないので二人は立っていることしかできない。ボケーッと立っていても、別に誰かに何かを言われる事もない。
 何せ、既に二人は集合場所に到着し、かつグループ別けされたグループ内に立っているからだ。
 それにしても沢山人がいるなーと思いながら見ていると、藍華やアリスの姿も見えた。ふと目が合って、お互いに手を振る。しかし関心してしまうのが、ペアとシングルがどたばたしているのに、プリマの人達は既に集まって次の準備を確認している。やはり実力と同時に、何か冷静さを持つ何かも手に入れられるのがプリマなのだろうか。
 ははぁと周りを見ながら、アイナと灯里はぼけーっとしている。
 とりあえずグループが集まらない限り、何かをすることはない。

「すみません、ここが第三グループですよね」
「お待たせしました」

 そこに、オレンジぷらねっとの制服を着た二人の女性が駆けて来る。特に待ってませんと二人で答えながら、まだまだ走り回る女の子達を見る。

「……大変そうですね、沢山居て」
「え、ええ……しかも持ち場が判らないのが問題ですね」

 アイナの言葉に、女性の一人が答える。彼女の声には呆れも含まれているようだ。その隣に立っている女性の手を握っている辺り、もしかしたらそっちの子が迷ったか遅刻したか。

「ごめんなさい、寝坊して……」
「あははー、大丈夫ですよぉ」

 何せ、まだ後三人来るはずなのにまだ来ないのだから。むしろ彼女達は早かった方だ。

「ごめんなさい、遅れました!」
「ここかぁ第三グループ!」

 どたどたとやって来たのは、姫屋の二人。どうやら全力疾走でもして来たのか、かなり息を切らしてのご登場だ。そんなに焦らなくても大丈夫なのにと心の中で言いながらも、アイナと灯里は笑顔を返す。
 さて、あと一人なのだが、いかんせん現れない。そろそろ別のグループはゴンドラに移動を開始している。横に数十列と、縦に数十列並ぶから、一つのグループがいないとなるだけでも少し面倒事になってしまう。
 もう一人はいずこと思っていると、もう一人姫屋から短髪の女の子が登場。

「ご、ごめんなさい、遅れてしまいました!」
「あー、やっと来た。ほら、もう皆待ってるから」
「急ぎましょう!」

 トテトテと走って来たのはアイナ達と同じ年齢の子だろうか。しかしながら時間は差し迫っているので、それぞれ名乗る事もせずにすかさずゴンドラの方へ。
 ゴンドラに乗り込むと、先頭に立つ灯里が最初に動き出す。その後ろにアイナ、姫屋の三人、オレンジぷらねっとの二人である。これがゴンドラ協会の人達が決めたアイナ達の列の順番。
 混乱しながらも、しっかりと整列することができたペアとシングルのウンディーネ。時間はもうそろそろである。サン・マルコ広場へと向けて動こうと言う際に、アイナはドキドキワクワクしてしまう。どうやら灯里も同じようで、後ろから見ているとソワソワしているのがはっきりと判る。

「あの、アリアカンパニーの片ですよね?」
「ん?」
「大丈夫ですか? なんだか緊張しているように見えて……」
「あはは、ごめんなさい。ちょっとドキドキワクワクが止まらなくて。まさか海との結婚に参加できるなんて夢にも思わなかったから」

 考えてみればウンディーネである以上必ず参加することにはなるだろう。しかしこんなに早くこの超巨大なイベントに参加できるとは思っていなかったのだ。アクアが代表するお祭りの一つだ。
 そんなアイナの言葉に、姫屋の娘はなるほどと笑った。

「えへへー、実は私もドキドキワクワクして、さっきもどんな風になるんだろうって思ったら考えちゃって」
「ああ、それで遅れちゃったんですね」
「あう。すみませんです」
「気にしない気にしない。あたしはアリアカンパニーのアイナ。あなたは?」
「あ、姫屋のアニエス・デュマです。アニーと呼んでください」
「じゃあアニー。目一杯楽しもう」
「はい」

 可愛い笑顔を浮かべるアニーに、アイナはふふっと笑顔を浮かべる。
 前に向き直り、少し波に動かされていたのでアイナはオールを使って位置を調整する。灯里のゴンドラの後ろにしっかりと待機し、キョロキョロと周りを見る。
 っと、その視界の端に、超巨大な船を発見した。

「――――」

 言葉を失い、アイナはただそれを見つめた。偉大で荘厳なその存在は、あまりにも巨大でゴンドラが米粒の様に見える。何十本もの巨大なオールが船体から飛び出し、それらがゆっくりと動いてその巨大な船を動かしている。その正体は、総督の乗るお召し船、ブチントーロだ。
 その存在に、他のウンディーネ達も目を奪われているようだ。思わず、ブチントーロを見つめてしまっている。
 灯里に至ってはうわーうわーと小さく声を上げながらワクワクドキドキしている。
 っと、最後に藍華達のグループが灯里の隣に到着する。姫屋でもなく、オレンジぷらねっとでもなく、別の会社の子が遅れてしまったようで少しイラついているように見えたが、ブチントーロを見て溜息を吐いて、真っ直ぐに前を見据えて凛とする。
 さすがに、姫屋の主の娘ということか――その姿には少し貫禄もある。

「藍華は時々見せるあのギャップが溜まらないわよねぇ……」

 なんて、ブチントーロの次に藍華に見惚れるとはどういうことか。
 アイナは小さく笑ってから、もう一度ブチントーロを見つめて、目を伏せた。
 心臓は高鳴っている。これ以上ないほどに高鳴っている。緊張している所為か血がドクドクと
心臓というポンプを元に全身へと走り回っている。しかし焦らなくて良いというように、何時もと変わらない波音が耳に届く。優しい風が頬を撫でて、瞼には緩やかな太陽の光が当たっている。
 深呼吸をして、アイナは瞳を開いた。
 いざ――参ろう。
 ペアの軍が、合図と共に動き始める。
 周りをちらりと見ると、皆さっきまで深呼吸したり、指輪をチェックしたりと色々身嗜みをチェックしていたのだが、今は全員が瞳を瞑って周りの音を聞いているように見える。
 どうやら、アイナと同じでこの海に冷静さを貰っているようだ。この風に、この太陽に、焦る必要はないと聞いているようだ。まるで、ウンディーネ達全員がアクアの一部になったようなこの一体感。
 ペアの全員が動き出し、今度はシングル達に合図が出る。それと同時に灯里達がオールを動かし始め、移動を開始する。
 瞳を開いて、しっかりと前を見つめる。一定の距離が離れると、アイナ達も動き出す。
 沈黙を守りつつ、真っ直ぐに漕いで行く。一糸乱れぬ全てのウンディーネ。それはペアとシングルであっても仰々しく、そして迫力がある姿だった。
その中の一人として参加できていることが、アイナはとてつもなく嬉しい。その喜びを抑えて、灯里達に付いて行く。ここでずれてもまだ修正は効くが、運河の角を曲がったらもう修正は効かない。
だが誰一人として乱れる事はなく、ウンディーネの行進は綺麗に真っ直ぐに進んでいく。運河の角を曲がると、その先にはサン・マルコ広場がある。
そのサンマルコ広場に入りきる前に、ペアとシングルは左右に別れ、ゴンドラを止めると同時にまるで銃剣を立てるかのようにオールを真っ直ぐに立てる。
そのペアとシングルの黒いゴンドラの間を、白いゴンドラであるプリマが通る。ペアとシングルは露払いで、このプリマが主力艦隊だ。
アイナはその荘厳の姿を見て、ただただ唖然とするしかない。こんな大迫力のシーンを、こんな近くで見れるなんて思いもしなかった。

「あ」

そのプリマ達の中に、アヤを見つける。彼女もこちらに気付いてくれたのか、にこりと笑顔を向けてくれた。その笑顔のままに、プリマ達は黒いゴンドラの間を抜けていく。
そしてその後方から、英雄の登場だ。

「――――」

 総督を護るガレー船を率いて、白いゴンドラの中でも一際目立つゴンドラに乗って、我らがウンディーネの頂点に立つ、水の三大妖精が現れる。普通のウンディーネの制服ではなく、明らかにこの時の為に作られたと思われる真っ白な服を着ている。
 あまりの美しさに、アイナはただただ見ていることしかできない。
 これが――水の三大妖精。
 三人の後ろから大きな船、ガレー船が来るがアイナにとってはそっちなどどうでも良かった。
 綺麗で、カッコ良くて、美しくて、何よりも憧れるアクア一のウンディーネ達。その気品ある姿は、憧れを通り越してしまう。
 そして、アテナのカンツォーネが始まる。それは天上の謳声に祝福されて、総督の乗る巨大な船が現れるサイン。その歌を聞くと同時に、ペア、シングルはゴンドラの上で跪く。
クライマックスである。
 巨大な鐘が鳴り響き、その音を鳴らしながらの登場。その荘厳で威厳ある存在感は、なるほど人々の気持ちを高ぶるには十分すぎる役割を持っていることだろう。
 ブチントーロ。
 その巨大な姿に、ネオ・ヴェネツィアの人々は毎度のように言葉を失い、そして歓声を上げる。この光景を見て、胸に込み上げて来る物がある。それは一種の感動と、この街への愛を再確認することだ。
 ブチントーロが動きを止めると、ペアとシングルは立ち上がる。上を見上げて、アイナはブチントーロの船首にゆっくりと出て来る人影を見つける。ゴンドラ協会の人はどんな人なのかと思っていたが、全く違った。
 関係ないわけではない。むしろウンディーネにとってその人は全てのウンディーネの母であり、全てのウンディーネが尊敬する存在なのだ。そう、あの水の三大妖精すらも、あの人には頭が上がらない。
 グランドマザー。
 かつて地球では総督が海に指輪を投げたというが、今回の海との結婚はどうやら伝説の大妖精がその任についたようだが……嬉しいサプライズである。まさかグランドマザーとこうして一緒にできるとは思っても居なかったからだ。
 だって、直前までゴンドラ協会の人が出ると聞いていたのだから。
 グランドマザーが、指輪を外す動作をする。ソレを見て、ネオ・ヴェネツィアの人々も、ウンディーネ達も、自分の指に嵌めていた指輪を外す。
 アイナもゆっくりと指輪を外して、その指輪に笑みを浮かべる。ちょっともったいないけれど、アヤとの初めての交換記念品だけれど――この素晴らしく素敵な事に使えるならば、そもそもこの為に購入した物。使わない方が怒られてしまうだろう。
 指輪にごめんねと小さく謝りながら、アイナはそれを持ったまま空へと掲げる。ふと前を見て、んっ? とアイナは灯里の手元を見た。どうやら、この状況下でもあの指輪は外れないようだ。指輪を指に嵌めたまま、手を上げている。

「海よ、おお愛しく偉大なる者よ永遠の平和を祈念して、ネオ・ヴェネツィアは汝と結婚せり」

 アナウンスのように声が響く。それはグランマの声で、前に聞いた時同様に優しい声だ。本当に愛する海への結婚を宣言しているようだ。
 その声を合図に、全ての人が指輪を海へと投げる。
 その時だ、アイナが投げると同時に、不思議と灯里の指から指輪が抜け、空へと舞った。まるで彼女から貰えないのは嫌だと言うように、海が勝手に抜き取ったかのようだ。不思議な出来事に出会う灯里だからこその、不思議な出来事と言えるだろうか。
 灯里が嬉しいのか、声を上げる。
 アイナも自分の投げた指輪を探して見るが、既に指輪は海の中へ。
 惑星アクア――水の星。その守り神がケット・シーと呼ばれる猫の王様なのか、それとも水の妖精と呼ばれるウンディーネなのか判らないが、アイナにとってはどちらが居てくれてもかまわない。
 この優しい気持ちにさせてくれる星と、不思議な出会い、素敵な出会いをくれるこの素晴らしい世界を、見守って欲しいと願う。

「あたしはあなたと結婚します――アクア」

 底が見えそうな程に澄んでいる綺麗な海の水を見つめながら、アイナはそう、宣言した

 ――――そして海との結婚が終わる。
 壮大なお祭りだったとしか言えないが、とにかく荘厳で、偉大で、威厳のある凄まじいお祭りだったといえる。まあ、本来ヴェネツィアではお祭りではなく、式典だったのだから当然だろう。それに国が企画した、軍の士気や国民の結束を高めたというのだから、凄いのは当然だろう。
 アイナはゴンドラを漕ぎながら、灯里、藍華、アリスと一緒に疲れた体を癒す為にとりあえず陸へと向かっていた。
 太陽は既に傾き、夕方になっている。気温が下がって少し涼しくなっているが、ネオ・ヴェネツィアは今は黄金に輝きつつ、その熱気を保っている。まだまだお祭り騒ぎは止まらないようだ。
何時もの黄金の綺麗な光景に、アイナは見惚れる。何時見ても綺麗だが、今日はなんだかいつも以上にこの光景を愛おしく思える。

「あれ、暁さんだ」
「ん、ポニ男?」

 ふいに視界の端に、三人組の男性陣が見えた。暁、アル、ウッディーの三人。その姿を確認するや否や、灯里が手を振って大声で名を呼んだ。

「おーい、暁さーん。指輪無事に外れましたー!」
「おー、見てた見てた」

 ブンブンと腕を振る灯里。見た感じ、興奮冷めぬやらといったところか、物凄く嬉しそうな腕の速度だ。その灯里の腕に付いていけない感じで、暁がゆらゆらと腕を軽く振っている。

「藍華ちゃん、アリスちゃん、アイナちゃん」
『うん?』

 唐突に、灯里が三人の名を呼ぶ。何? と首を傾げて灯里を見ると、灯里は何とも言えない笑顔で、言った。

「私、何度も何度も思うんだけど、今日は格別に思うよ。ウンディーネになって、本当に良かったって」

 それは、心からの気持ち。心の底からの想い。灯里の強いその気持ちは、言葉がなくったって伝わってくる。そしてその灯里の言葉は、残りの三人の心の声をも代弁していた。

「うん。まったくもって、ウンディーネになれて良かった。ドキドキが治まんない」
「ホント。まだ心臓ドキドキ鳴ってるし」
「でっかい緊張しました」
「うん、私もすっごくドキドキしてる」

 皆してドキドキしていたと、自分の胸に手を当てる。そんな変な光景に、四人はクスリと笑う。

「さあ、今日の晩御飯どうしようか!?」
「おお、いきなり何!?」
「いやぁ、だって緊張しすぎてあたしゃ死にそうなんだもん!」
「でっかい意味不明ですアイナ先輩。でも確かにお腹は空きました」
「じゃあ何時ものレストランに行こうよ。私もお腹空いちゃった」
「ようし。ならば今日もピザを食べるとしようか!」

 何時もの調子に戻して、アイナは右腕を上げる。おーという合図みたいなものだが、藍華と灯里、アリスもしっかり乗ってくれた。
 ゴンドラを漕いで、アイナ達は何時もの道へ。通り慣れた道、良く通る道、良く知った道。だけど今日はなんだか、別の世界に迷い込んだかのように違う景色に見える。
 不思議なその感覚に、アイナはうふふと笑みを浮かべた。

「あたしさ――」
「ん?」
「ネオ・ヴェネツィアが大好きになる魔法にかけられた見たいだよ」
「恥ずかしい台詞禁止!」

 何度も何度も、見飽きる程に見ているのに、なんだか今日は事更に愛おしい。海との結婚を終わらせた後だからだろうか。海と結婚するということは、つまりネオ・ヴェネツィアとも結婚するということになるのではないだろうか。
 だとすれば、この街の事をアイナは夫として見るわけだ。なるほど――愛しい男性ではないが、愛しい街並というわけだ。だから、不思議とこの小さな水路だけでもこんなに愛おしく思えるのだろう。
 アイナは空を見上げて、右腕を上げる。手の平を広げて、天空に浮かぶ空を掴もうとする。

「叶えて見せるさ、あたしの夢を」

 プリマになることは夢ではない。プリマになることは当然で、プリマは通過点に過ぎないのだ。
 アイナの夢は、まず追い抜く必要がある。誰をと言うまでもなく、現在の水の三大妖精を。そして次期三大妖精と呼ばれそうな灯里たちをも。
 右手を、力強く握った。

「――目指すは、プリマの一番星!」
 


 FIN








―――――――
こんばんわ、ヤルダバです。
結構短めに終わらせるつもりが、予定を変更して大分長くなってしまいました。
きっと途中で読むのを止めてしまう方もいらっしゃるはず。
誤字脱字に「おいおい」と突っ込む方もいらっしゃるはず。
そして同じ言葉を多用する自分の文才の無さを恨むべし。……クソゥ。
さて、これにて「アイナ」のお話は終了です。
最後の最後にアニーをちょいと登場させてみました。姫屋にちゃんと入れたという形で。
そしてこれ以降は、思い付いた時くらいにしか書くことはないかと思われます。
というのも、オリジナルキャラを使うともう、原作の雰囲気が残せない気がして来て。
いや、もうとっくにそんな物はないんですけどね。

さてさて、今回はいきなり更に一年が経って、アクア歴で一年が経過したことになっております。
今回は「ネオ・ヴェネツィアンガラス」と「昇格」と「トラゲット」と「海との結婚」です。
基本的に昇格試験が終わりになるという予測が立てられる気がしたので、そこを会えて海との結婚にしてみました。
「ARIA エルシエロ」のゲームだとアニーが普通に昇格の後に終わってしまったためというのもあります。
ヴェネツィアンガラスは実家に実際にあるのですが、ぶっちゃけ程度はまちまちですよねw
綺麗に作られたものは本当に綺麗ですが、適当なのは本当に適当で面白いw
面白い事が沢山ある良い国です、あそこは。
でも、今回は色々。あとアイナが感謝をするような感じでしたね。
ちなみに灯里を知っていたのはあのアフロの少年です。
灯里ファンの男の子ですね。
それにしても……時々見せるこの灯里、藍華、アリスの特別な笑顔があまりにも綺麗で見入っちゃいますわ。
原作最高。そして天野こずえ大先生最高。
あまんちゅ次出してw

ではでは、今回はこんな感じ(?)でした。
またボチボチ出現するとは思いますが、その時はどうぞよろしくお願いします。
でももしやっちゃって良いなら、もうほんとやりたい放題でやっちゃいますけど……良いのかな。書いちゃって。
皆さんのご意見ご感想、もしよろしければ、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました!
ヤルダバでした!



[27284] 習少年
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/06/04 19:40


「あにーじゃー!」
「うぉぉぉおおお!!」

 唐突に響いたのは、少年達の声。気合十分、元気十分な大声。ネオ・ヴェネツィアでもそんなに無い大きな公園で、彼らは走り回っていた。
 目指すはランナーとか、サッカー選手とか、走り込みをしているわけでは全くなく、彼らはただ一つの存在をひたすらに追いかけていた。
 猫である。
 その口には白い袋が咥えられていて、その中にはいくつかの色とりどりの袋が入っている。

「兄者そっちだ!」
「任せろ!」
「返せ我らのお菓子を!」
「ってかその言葉使いやめろ!」

 挟撃による攻撃。しかし猫は軽やかな身のこなしで見事に回避する。
少年が吼えると、とりあえずもう一人の少年が彼の奇妙な言葉遣いに突っ込んだ。走りながら器用である。

「にゃろう!」

 このネオ・ヴェネツィアの狭い路地に入られては終わりだ。この猫がただ遊んで欲しいが故にこうしているのか、お腹が空いているからこんなことをしているのか、そんなことはさっぱり判らない。
 しかし、ただ一つ判っていることがある。

「頼むから返してくれ俺たちのお菓子!」
「ぎーぶみーばーっく!!」

 その時、二人の腹が凄まじい音を鳴らした。同時にスピードが落ち、二人はぐふぅと倒れ込む。お腹が空いているのだ。

「っく……ギリギリまで腹を減らし、食べ物全てが美味いと感じる時に食べるのが至福の時だというのに!」
「これじゃあ地獄だぜ」

 ぜぇぜぇと荒く息をしながら、少年二人は顔を見上げる。そこにはちょこんと猫が立っている。その猫と目が合うと、

「なにをしている小童。ほうれこっちこいや」

 と言っているように見えた。もちろん、少年達の想像だが。
 なんて最低な猫だ。少年二人は魂を奮い立たせ、腹が減った程度で負けてたまるかと立ち上がる。

『ぅおぉおおっぉおおぉおおお!!』

 二人は走った。しかも世界選手権ランニング選手が居たらおそらく驚くほどの見事なフォームで。本能でどう走れば最速で動けるかを理解しているかのようなそのダッシュ。短距離走ならおそらく上位を狙えるかもしれないというほどに、見事な走りだ。
 しかし、人間如きがやはり猫に追い付けるわけもなく、猫はシュバッ! と軽く走る。結構大きな袋を持っているにも関わらず俊敏さが衰えないところはお見事と言えるだろうか。

「きゃーーーっつ!」
「俺たちの昼飯ぃぃいぃいい!!」

 鬼の形相とも言える顔で、少年たちは猫を追う。
 お腹が空いては戦はできぬというが、この場合は火に油を注いだようだ。そして力尽きる寸前が良く燃えるとも言うだろうか――限界は近い。
 そして猫が公園の出口へと猛ダッシュ。少年たちはまずいと心の中で叫ぶ。

「まて猫よ! それを食べればお前はたちどころに死んでしまうぞ!」
「地球猫の食べられる成分は入ってない!」

 今度は言葉で攻める。全力疾走しながら喋られるこの二人も凄いが、その言葉を理解して一瞬足を止めた猫も驚きだ。しかし真に驚くべきは、「大丈夫、俺アクア猫だから」という感じに器用に指を一本立てる猫だ。人間で言う親指を上げての「グッ」という擬音付きのポーズである。
 ピキッと怒りに来た瞬間、更に速度を上げようとした時だった。
 路地側から一人の女性が現れる。その女性は路地からの出入り口に立っている猫を見つけて、邪魔だと判断したのか、それとも危ないよと注意したいのか、あっさりとその猫を抱き上げる。
猫は少年たちを見る事に集中していたのが敗因だろう。

「っにゃ」
「危ないよ、こんなところに居たら」

 ピンクの髪の毛の女性がそういうと、「捕まっちまった」という顔でふーと息を吐く猫。随分とやんちゃな少年のような反応をするその猫を見て、女性はふふふと笑う。

「姉上、あざーっす!」
「その猫を我らに!」
「はひ!?」

 テンションが上がり過ぎているのか、訳のわからない言葉で叫ぶ少年たち。何事なのか理解できずに、女性はビクンチョと驚きながらも、事情を聴くことにしたのだった。
 それから約数分後。
 少年たちはガス欠となった腹の中に燃料を補給。エネルギーが回復する毎に少年たちは言葉使いが戻り、テンションもゆったりと落ち着いていった。お菓子を見る見る内に平らげ、数分で完食である。
 そこでようやく、目の前の女性がウンディーネ特有の制服を着ていることに気付いたのだった。その隣に白いでかい猫が居る事にも。

「いやぁ、ありがとうございましたお姉さん」
「俺たち死ぬかと思いましたよ」
「そんなにお腹が空いてたんだね」

 ふぅーと息を吐きながら、少年二人はお菓子の袋を全部買い物袋の中へ押し込むと、しっかりと口を閉める。ゴミはしっかりゴミ箱へ。

「俺アルス」
「俺はアキト」
「兄弟なの?」
『いえ、同級生です』

 短い髪の毛をツンツン頭にしている二人。その姿形も随分と良く似ている二人である。容姿も似ているため兄弟なのかと良く聞かれるため、二人は首を横に振ってそれを否定する。

「家が隣なので腐れ縁ってやつで」
「んなことより、お姉さんって確か……アリアカンパニーの人ですよね」

 こいつがこいつが、というように指でアキトを突っつくアルス。それでもやっぱり、兄弟のように育ったという点だけは間違いないようだ。
 そんなアルスを放って置いて、アキトはピンクヘアーのお姉さんに問い掛けると、彼女はうんと頷いた。

「アリアカンパニーの水無灯里と申します」
「灯里さん、ですか。このご恩は一生忘れません」
「俺たちのご飯を助けてくれて、ありがとうございました」

 なんか変な感謝の仕方だなと思いながら、アルスはペコリと頭を下げる。アキトは紳士のように優雅にお辞儀をした。その動きが中々様になっていて、灯里は少し驚く。

「……アキトくんは、何か目指してる物があるの?」
「……なにゆえ?」
「今のお辞儀、凄く綺麗だったから」
「この動きで見破ったと!? す、凄い……さすがアリアカンパニーの」

 灯里の問いに驚くアキトとアルス。流石に今の動きだけで何かを目指しているかどうかなどと気付いた人はいない。ただ紳士的な動きを真似しているんだろうな程度にしか思わないだろう。というより、今までそういう人の方が多かったために、灯里からの質問に驚くのだ。

「イエス、俺の夢はカフェ・フロリアンで店長になること!」
「えー、あそこのコーヒー苦くね?」
「その苦味こそ至高の味! お前そんなこともわからんのか!」
「いや確かに至高の味とはいうけど、さすがにそれでカフェに就職もどうかとな?」
「…………まあ、お前は別の職人目指してるわけだからな」
「おうよ」

 美味いコーヒーが飲めるかもしれない。四六時中。そして影追いが楽しい、コーヒーが美味い、クッキーが最高に美味い、だからこそカフェ・フロリアンで働きたいと願う少年アキト。
 だがそんな願いが安直すぎやしないかとアルスが突っ込む。そんな彼の願いは職人らしい。

「何の職人さんなの?」
「灯里さん達が使うゴンドラですとも」
「へー、ゴンドラを作るのが夢なんだ?」
「夢と言いますか、繋がりと言いますか……いやぁ何と言いますか……」
「……?」

 なんとも言い難そうにするアルスに、灯里は首を傾げる。
 そんな二人の隣で、アキトがニヤリと笑みを浮かべた。

「俺たち今ミドルスクールに居るんですけどね? こいつに春が来てるのですよ姉さん」

 春? 春? 男の子に春? 女の子の春はなんだっけ? あ、そういうことか。と、数秒の考える時間の中で灯里は頭の中でリフレイン。そして導き出されたアンサー。
 ちなみに灯里の連れていた猫ははさきほど捕まえた猫と戯れていたりする。

「恋だね!?」
「女の人に「春」の話をすると激しく喰いつくから話すなよ」
「はっはっは。我が夢を冒涜した罪は重い」
「こいつ……何様だ」
「アキトエル様だ」
「地味にエルを付けてんじゃねえ! 天使か!」
「天使ズの名前の後ろにはエルが付くからな! しかしどっちかというと俺の場合は神だ! ゴッデスだ!」
「オーゴッデス、アキトエルサマ、頭の中が花畑って素晴らしいですね」

 にゃろうとバチバチ火花を散らす二人の視線。そんな二人に慌てながら、灯里はアルスに問い掛ける。

「ど、同級生の子が好きになったの?」
「イエス姉さん。ゴンドラ部主将、不屈のエース! この14歳という若さであのオレンジぷらねっとに大抜擢された英雄とも言える可憐な女性! 愛想無し、口数無し、我が道を行くクール・ビューティー! その名は、アリス・キャロル大先生だ!」
「お前良くそんな言葉をサラサラと……」

 凄い勢いで喋ったアキト。どうもこの二人は似た物同士なのか、片方が冷静になれば片方が燃え上がり、片方が冷静になれば片方のテンションが上がるという構図のようだ。
 とりあえずアリスの名が出た事により、灯里はえっと笑顔で固まった。

「あ、アリスちゃん……?」
「おおっと、灯里姉さんご存知のようで。まあウンディーネ業界でも天才と謳われるアリスだからな、知ってて当然か。で、こいつはそのアリスさんが好きだと」
「おう、俺はアリスが好きだ。何が悪い」
「なんて潔さだ」

 確かに。そう思わずにはいられないほどにハッキリと宣言するアルスに、アキトも灯里も小さく拍手までしてしまう。

「だから、ゴンドラを作る職人さんなんだね」
「そうなのです。アリスに俺のゴンドラを渡す――それが俺の夢!」
「超高難易度ですけどね。そもそもオレンジぷらねっとの使うゴンドラ製作所の人間にならないと話にならん」
「そこなんだよな。どこで作ってるのかもわからねぇ」

 ゴンドラを作っている場所は確かに限られるが、ウンディーネ用のゴンドラがその内の何処で作られているのかが判らないのだ。特にオレンジぷらねっとはちょこっと特殊な場所で沢山作って貰っているらしい。となればもしかしたら隠れた場所で作っている可能性がある。
 とはいえ、それはあくまで噂なので、きっとオレンジぷらねっとに直接聞けば教えてくれることだろう。しかし、聞けないのが難しいところなのである。

「さて……ところでよアルス。そろそろ卒業の時だ。お前準備は」
「魂を込めて告白したいのだが……俺ぁ弱虫だ。ウジ虫だ。駄目駄目野郎の米粒だ」
「ああ。今のお前は男ではない。へにょりんだ」
「おーけー、新種の謎の生命体になるのだけは勘弁してくれ」
「惜しい」
「なにが!?」

 どうやら告白できない事に対して俺は駄目だと思っている様子のアルス。アキトの凄まじいネーミングセンスに突っ込みを入れるが、ボケ突っ込みが必ず入る二人の会話。
 聞いていて面白いのか、灯里はふふっと笑う。

「あ、私そろそろ行かなきゃ」
「灯里さん、一つお願いがあります」
「はひ?」
「アリスに、男はいないのでしょうか!?」
「……い、いないと、思うかな?」

 ムッくん大好きだけどと心の中で突っ込みつつ、灯里はアキトの問い掛けに答える。しかしながら何故アキトが質問を飛ばすのか。当の本人であるアルスは何も言わないし突っ込まない。
 不思議な二人の少年。面白い彼と別れ、灯里は白い大きな猫を呼んで、どこかへと向かって言った。

「アリス――俺はキミを手に入れて見せるぜ!」
「あー、そう言う事は本人の前でな」
「ミリ!」
「無理って言え! 地味に一文字くねらせんな!」
「まともに突っ込め! なんだくねるって!」
「身体をこう、グネッと」
「そして右60度に曲げて左に100度曲がるわけだな」
「そうそう。そして右斜め後ろに……って訳わかんねぇよ!」
「乗って来たのはおまえだろ!?」
「ノリ突っ込みか!」
「俺の台詞だ!」

 ボケも突っ込みも滅茶苦茶に入れ替わりしていながら、二人は笑う。
 そうしてお互いの何かを認め、コーヒーブレイクでもしようぜと二人は歩いて行く。



 そして別れた灯里は、

「面白い二人でしたね、アリア社長」
「ぷい?」

 全力でもう一匹の猫と遊んでいたため、ほとんど話を聞いていなかったアリア社長。だからだろう、首を傾げることしかできない。

「それにしてもアリスちゃんが好きなんて……ふふ。頑張れ」

 世話好き、お節介焼きの灯里だが、今回ばかりはそんなことはできない。故に、応援するのみ。

「さて、じゃあ張り切って買い出しに向かいますか、アリア社長!」
「ぷいにゅ!」

 おー! と楽しそうに腕を上げて、一人と一匹は歩いて行く。
 アリスがどう答えるのか、それを楽しみにして。





―――――――――
こんばんわ、ヤルダバです。
今回はネオ・ヴェネツィアのほんの日常を書いてみました。
本当にわずかな日常です。
こんなこともあろうに程度ですw
少年達はミドルスクールでアリスと同級生。
アルスはアリスに片想い中。いや、絶対一人は居るだろうなと思いまして……。
そんな少年たちに出会う灯里。ただたんに偶然出会っただけですね。
通りすがりも良いところの人。

お話でもなんでもないですが、「練習」ということで、灯里達ではなくネオ・ヴェネツィアの人達から灯里達を見てみようと思った次第です。
試してガッテン。
しかし……やっぱ固定されてないキャラしかいないのでオリキャラになっちゃいますね。
ん~……なんかこう、書き方を変えてみようかな……。
ではでは、ヤルダバでしたー。



[27284] スクエーロ
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/06/09 00:17
「へい野郎ども! 今日の工具点検の結果を教えろ!」
『オス! 我らが愛しき工具は全て揃っておりやす!』
「OK! 出来上がるゴンドラの数は!?」
『オス! 3隻完成間近でおりやす!』
「All light! オールの完成度はどうだ!?」
『オス! あと色を塗れば完成するのが5本でぇい!』
「いようし! 今日はゴンドラ三隻の完成とオールを三本完成させて、オレンジぷらねっとに配達だ! いいな野郎共!?」
『ウォッス!!』

 朝っぱら元気というよりも、やかましいと言えるほどに大きな声で気合を入れるのは、ネオ・ヴェネツィアの中でもずば抜けて従業員が暑苦しいと噂のスクエーロである。
 そんな中に、水無灯里は立っていた。別に一緒に叫んでいたとか、ウンディーネから職業を変えるとかそんなことはなく、単にゴンドラの点検に来ただけなのである。
 いつものスクエーロがお休みで、他のスクエーロまでもがおやすみだったので、仕方なく空いているここに来たのだが、あまりの熱気にただただ唖然と見ていることしかできなかった。

「ちなみに今日の第一のお客様だ! 丁重に丁寧に美人ウンディーネさんをお迎えしろぉ!」
『オス! いらっしゃいませお姉さま!』
「はひ!?」

 びくぅと肩を震わせて、灯里は一歩後ずさる。ちなみに足元のアリア社長はさっきからビクビクしている。あまりの熱気に恐怖すら覚えているようだ。

「ど、どうもおはようございます」
『おはようございます!』

 目をぱちくりさせながら、灯里はぺこりとお辞儀をする。するとズバッという効果音が付きそうな勢いで、その場に居た10人前後の従業員達が一斉に頭を下げる。
 その揃い具合たるや、そんじょそこらの兵隊にも勝るかもしれない。

「アストラ! お前ウンディーネさんの担当をしろ!」
「オス! お任せくださいウンディーネさん、我らがグレイトスクエーロの手にかかれば、定期点検などすぐに終わります!」
「よ、よろしくおねがいします」
「ではウンディーネさん、定期点検中、お店の中でカフェでも飲みながらお待ちくださいませ!」
「あ、ありがとうございます」

 顔を引き攣らせながら、変に笑顔で固まったままに受け応えする灯里。あまりの勢いに押されっぱなしだ。
 アリア社長は悲鳴を上げそうである。

「ようし野郎共! 仕事にかかれぇ!」
『オッス!』

 ここ、スクエーロだよね……? と灯里は看板を見上げる。そこには間違いなくスクエーロの名前がある。しっかりとネオ・ヴェネツィアのゴンドラ協会の指定工場資格も受けている。専門の工房であることは間違いなく、そしてその腕が一流であることも間違いないだろう。
 とにもかくにも、暑苦しいのだ。
 とりあえずゴンドラを預けた灯里は、定期点検が終わるまでとりあえず待たなくてはならない。初めて来たスクエーロなので少し戸惑いながらも、灯里はお店の中へと入る。

「……ほえ?」

 外は寒くも暑くもない気温だったが、店の中は随分と涼しかった。なんで? と首を傾げたが、随分と湿気が少ないのだと気付く。身体に纏わりつく湿気が何もないのだ。
 アリア社長も少し涼しそうにしている。

「おはようございます。今日ご予約のアリアカンパニーの水無灯里さんですね?」
「あ、はい」
「どうぞこちらへ」

 入り口でボーっとしていると、灯里に声を掛けて来る女性が一人。その女性はにこやかに笑顔を浮かべてくれると、テーブルへと誘ってくれた。

「外、五月蠅かったでしょう?」
「え、いえあの、まあ……」

 五月蠅かったとは言わないが、あまりにも熱気が凄かったために灯里はなんとも言えない答ともいえない答えを返す。

「大丈夫ですよ。初めての方は大体灯里さんみたいな感じなので」
「そ、そうなんですか」

 何が大丈夫なのか疑問だが、そこには一切突っ込まない。すると、もう一人の女性がコーヒーを持ってやってくる。女性は軽く一礼してから、カップをテーブルの上に置いた。

「どうぞ」
「ありがとうございます」
「あとクッキーも」
「うわぁ、おいしそう」
「ぷいにゃー!」

 コトリと置いてくれたコーヒー。と思いきや、どこに持っていたのか女性は袋包みのクッキーを出して来た。確かにトレイの上にコーヒーしかもっていなかったと思ったのだが、灯里は深く考えずにクッキーを凝視する。美味しそうである。
 アリア社長がひょいっとテーブルの上に乗って来た。クッキーを見て瞳を輝かせる。

「ちなみに、あの高台に乗って叫んでいたのがうちの社長です」
「ええ、社長さんですか!?」
「ほら、驚いた。だから皆驚くって」
「さすが我が社の社長。だれも社長と思ってくれないところが笑えるわ」

 さっき大声で叫んでいたのが社長と聞いて、元気すぎる社長に大いに驚いた。
 我が社のアリア社長も元気だが、元気の度合いが違うというところか。そう思いながら灯里がアリア社長を見ると、アリア社長が胸を叩いた。任せろということだろうか……何を?

「あら、うちの社長と戦うつもりかしら、にゃんこさん?」
「止めといた方がいいわよ、アリア社長さん。あれは人じゃないから」
「と、とんでもない事を……」
『良いの良いの。なんせ社長自身が俺は人じゃないなんて言ってるくらいだから』

 二人の女性の言葉に、灯里はあわあわしながら言ってみるが、二人はまるで気にしないというようにカラカラ笑ってテーブルから離れていく。
 色々、このスクエーロは違うようだ。色々な意味で、色々な部分で、全体的に違うようだ。

「おーきゃくさーまー!」
「はひぃ!?」

 ドバァン! と開かれる扉。その勢いのままに開いて壁に激突し、その勢いのままに戻り扉が閉まる。えっと灯里が硬直した後に、今度はそこそこゆっくりと開かれる扉。

「定期点検、終わりました!」
「え、もう?」
「今灯里さんはコーヒーを飲んでるので、少しお待ちくださいアストラさん」

 まだコーヒーに一口すら手も口もつけていないのに、出入り口から入って来た先ほどの整備士の人がその場で叫ぶ。店内に響き渡る声に、灯里は思わず慌てる。しかしコーヒーをそのままにしてもおけないしと思いあっちこっちを見ていると、先ほどのお姉さんがアストラという人にストップをかけている。

「む、休憩中か。では終わり次第お呼びください」
「あいよ」

 シュバッという音でも出そうなほどに素早く外へと戻り、別の作業へと戻って行った。その出入り口の光景を唖然と見ていた灯里に、お姉さんがにこりと微笑む。
 灯里はえーっとと思いながらもクッキーを開き、アリア社長に渡して、自分も一口食べて、コーヒーを飲む。ふぅーと溜息を吐いて……いいのかなと首を傾げる。

「ゆっくりしてください」
「あ、すみません」
「うちの連中、動きが速いんですけど……まあ午後には体力が足りなくてバテますので、見てると以外に面白いことになりますよ」
「し、真剣に働いてる人にそれは……」
「うふふ。まあその後は気合と根性と熱意だけで動き始めるから、まるでゾンビよ」

 最高に面白いことになるから今度見に来てねなんて言うお姉さん。その悪女っぷりに、灯里はなんと返せばいいのかわからず、とりあえず冷や汗しかでない。
 アリア社長に視線を向けると、アリア社長も灯里の顔を見る。

 ――私達、平和ですね。
 ――そうだね。

 そんな会話が、灯里とアリア社長の間で交わされた気がした。
 っと、ふと壁に貼ってあるポスターを見る。そこにはまさにゾンビのように一度倒れ、それでも尚立ち上がる従業員達の姿があった。「倒れようと何度でも立ち上がる。俺達に敗北と妥協の文字はない」という見出しが妙にカッコいい。しかし怖い。

「……が、頑張ってください……」

 思わず、そのポスターに向かってぽつりと呟く灯里だった。





 コーヒーを飲んでクッキーを食べ終え、灯里とアリア社長は外へ。
 定期点検されただけのはずのゴンドラが、やけにキラキラになって水路の上に浮かんでいた。どうやらその場でできる範囲で綺麗にしてくれているようだ。

「おや、もうよろしいですか?」
「あ、はい」
「ではでは、ではでは、じゃあじゃあ今回の定期点検のご報告をさせていただきますね!」
「はい。お願いします」
「はい! ではですね……まず、新品のゴンドラなので問題点は無し! 小さな子傷が少しあるくらいで問題はなく、木材の痛みも皆無! 灯里さん、今後ともやさしいぃぃぃぃぃぃぃいく扱ってあげてください」
「はひ! あ、ありがとうございます!」
 アストラの「優しく」の言い方にビクッとしながらも、灯里はアストラから点検用紙を受け取る。点検結果は問題なしの百点満点だ。

「ちなみに灯里さんが休憩している間に、綺麗に拭き上げてからコーティングしておきましたので、ピッカピカですよ」
「こ、コーティングまでしてくださったんですか?」
「ええ、もちろんでぇございます! 美しい灯里様には、美しいゴンドラでお帰り頂きたいが故に!」
「ええ……っと……」

 クルリとその場でターンして、ビタッと止まるアストラ。灯里は、一歩引いた。灯里の引き攣った笑顔が、いかに目の前の光景が強烈であるかが良くわかる。

「えと、コーティングのお代……」
「ノー! こいつぁワタクシ共のサービス魂でございます! なぁ野郎共!?」
『OH YEAH!』

 サービス心ではなく、それを越えた魂らしい。そしてアストラの声に二カッと爽やかスマイルと立ち上がる仲間達の親指。その汗ばんだ顔や身体が、まさに職人だ。

「で、では……ありがとうございました!」
「いえいえ、こちらこそ。どうぞ」

 頭を下げてから、灯里はトコトコとゴンドラの上に乗り込む。それからオールを持って、定期点検を終えたゴンドラを見る。またよろしくと心の中で言ってから、再びアストラの方へ向く。

「それじゃあ、ありがとうございました」
「ありがとうございました」

 ペコリともう一度軽く頭を下げてから、灯里はオールを動かす。
 最後だけは普通だったなぁとほっとしていた灯里。
だが、油断大敵である。

「おぅい野郎共! お客様のお帰りだぁー!」
『あざっしたー!』

 アストラの声に反応して、全員が吼えるように答える。どこまでも響きそうな怒涛の声である。
 結局、最初から最後まで普通ではなかったが、その熱意や気合、それから面白いという点で、灯里はまた来ようかなぁと少し考えながら、水路を通って行く。
 しかし、アリア社長はもう二度と来たくはないのではないだろうか。その証拠にビクビクしながらゴンドラの隅で小さくなっている。

「……それにしても……」

 仕事は完璧だなぁと、灯里は思わず感心してしまうのだった。

「……それじゃあ、今日も頑張りましょう」
「ぷいにゅ」

 午前中に、それもこんなに早く終わるとは思っていなかったので、灯里は練習がてらどこかに行こうかなと、脳裏にネオ・ヴェネツィアの地図を広げる。
 そして向かうのは、やはりじゃがバター屋である。小腹が空いた時は、やはりあそこに限る。

「それにしても……午後からゾンビって……どんな風になっちゃうんだろう」

 後ろを少しだけ振り向いて、灯里はドンチャン騒ぎな工房を見る。少し離れたところで彼らの声が聞こえない事はなく、未だ怒号が聞こえて来る。
 皆せかせか働いているので……灯里は興味で見ちゃいけないと思い、いけない考えを頭の中から投げ捨てて、じゃがバター屋に向かうのだった。





 その夜。

「おまちどーさまでーす!」
『おまちー!』
「……どこの板前さんですかあなた達は」
「っふ。ある意味板前さ! ゴンドラの板を扱うんだからなぁ!」
『オッス!』
「いいからその喧しい声をなんとかしてくれ」
「こいつぁ俺たちの情熱と気合と根性だ! 捨てられねぇ!」
『イェー!』
「って、お互いに肩を貸しながらグダグダの連中が気合と根性って言っても説得力が無いわ!」
「張り切りすぎちまったぜ」
『オーバーヒートってやつだ』
「いいから黙れお前ら」

 オレンジぷらねっとに来た三隻のゴンドラ。その受け渡しのシーンは、全てのオレンジぷらねっとの従業員達が見ていた。
 そしてその受取人であるオレンジぷらねっとの管理部長たるアレサ・カンニガムが頭を抱えながら書類にサインをするのだった。

「御苦労さま」
「なぁに、これが俺たちの仕事よ」
「そうやって普通に返してください。疲れてしまう」
「っふ。それじゃあ俺たちは俺たちのスクエーロに戻るぜ」
『真っ白に燃え尽きる前に』
「もう燃え尽きてしまえ」

 社長が親指を立てながら、全身からの汗をタオルで拭く。そんな彼の行動を見て、スクエーロの人々は親指を立てながらフラフラと歩き始める。
 もう十分に燃え尽きている彼らに、アレサは問答無用の言葉の追い打ちをかけるのだった。
 そうして少し離れたところまで言ったところで、アレサははぁと溜息を吐く。これでようやく静かになると思った、直後。

「っぐ!」
「おいどうした!?」
「おれぁもう駄目だ。お前ら、先に帰ってくれ」
「バカ野郎、お前を置いて行けるか!」
「てめぇら」
「立て、立つんだ、じ」
「人の会社の前で茶番するんじゃねー!!」
『ふははははははは!!』

 なんなんだあいつらはと、肩で息をしながらアレサはノリノリのオッサンどもを睨みつける。彼女の怒声に、男達は立ち去った。

「…………静かな夜を、ようやく楽しめるのね……」

 ようやく静かになったところで、アレサは小さくため息を吐いて、日が沈んで涼しくなった風を受けてふぅーと息を吐いた。気持ちのいい風が、頬を撫でる。
 その時。

『ふははははははは!! うふはははははははははは!! うぬぅはははははははははは!!』

 唐突に、オレンジぷらねっとから響き渡るおっさんの笑い声。その声は間違いなく、社長の声だ。しかも地味に笑い方を変えている。

「アレサ管理部長!! ゴンドラの上になんか携帯再生機が!」
「あんのスクエーロ共!! 子供か! 止めろいますぐに!!」

 オレンジぷらねっとの創立者と知り合いとはいえ、これはやりすぎではないか。そう思いながらも、アレサはあれで腕が良いのだから困ると本気で思うのだった。
 馬鹿と天才は紙一重。そんな言葉を、アレサは思いだした。
 基本的に使わない荒い言葉が、彼らの前だとあっさりと出てしまう。物静かな管理部長の威厳が、間違いなく瓦解していることだろう。

「はぁ……疲れる」

 ただゴンドラを受け取るだけだというのに、なんで疲れるのか。そう、アレサは本気で思うのだった。





―――――――――
こんばんわ、今回はネオ・ヴェネツィアの日常を書いてみました。
というよりも、スクエーロ?
一応灯里視点と、何故かアレサ・カンニガム管理部長視点。
こんな気合と根性と熱血とど根性と必中と鉄壁を持った連中、いてたまるかって感じですけどねw
とりあえず叫んでないと死んでしまうような連中がネオ・ヴェネツィアにいたらどうなるのだろうとやってみました。
いやぁ……やりたい放題だなぁ……。
今回は、ギャグ路線ですね。
なんかこんなのが書きたくなりました。
でもスクエーロがどんな場所かは正直細かく書けないので工房ってことと、整備士なんて名前を出しましたがあまり深い意味はありません。
ゴンドラの定期点検も何を見るかは判りませんが、とりあえず船体のダメージのはずだとこんな具合に。

……笑って貰えればいいなぁと思います!

ではでは、ヤルダバでした。



[27284] 夜光鈴
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/06/20 22:58



夜光鈴。
 ネオ・ヴェネツィアでは夏の風物詩となっているそれは、日本の夏を思い出させてくれる。
 リーンと綺麗な音が奏でる音は、熱い夏の日差しを少しだけ和らげてくれる不思議な力を持っている。とても澄んだその音は、耳にも優しく、聞く人全てに和みを与えてくれる。
 そんな夜光鈴が市場に出て来るのは、大体夏の始まり頃だ。風物詩である事もあるが、灯里はこの音が好きなのでついつい買いに行ってしまうのである。
 夏の楽しみの一つだ。とはいえ、春、夏、秋、冬、全てに楽しみがある灯里にとっては、毎日が楽しくて仕方が無いわけだが、そこは別の話。
 そんなわけで、本日はアリスと藍華と合同練習の後に買い物である。もちろん、夜光鈴の買い物だ。

「それじゃあ行きましょうか、アリア社長」
「ぷいにゅ」

 財布を入れた小さなカバンを片手に、灯里はアリア社長に声を掛ける。片手を上げて返事をするアリア社長は、こんな夏でも毛皮に包まれている。毛が生え換わっているにしても、暑そうで仕方が無い。しかしそれを考えると更に暑くなるので、灯里は考えないようにしている。
 よいしょっと扉を開けて、灯里は会社の外へ。クーラーをある程度効かせていた会社と違い、むわっと来る熱気にうわぁと声を上げる。出入口にて、灯里はしばし固まる。
 しかも真下が海であるため、蒸発して来た水が強烈な湿気を感じさせる。だが、それでも夜光鈴は欲しいのだ。覚悟を決めて、灯里は外へと出る。

「日差しが強いなぁ……」
「ホント、強烈すぎるわ」
「うわ!? 藍華ちゃん……なんでここに? それにアリスちゃんまで」
「にゅ?」

 外に出て扉を閉めたところで呟いた灯里の言葉に、横から声をが掛る。その予想外の声に驚いた灯里だったが、その正体を見てクエスチョンマークを頭の上に浮かべる。確か合同練習が終わり次第出掛けると言っていたはずなのに、何故ここに? という疑問だ。
 それにアリスも横に居る。暑そうに二人ともパタパタとうちわを煽っている。

「でっかい暑い中、灯里先輩が夜光鈴を買いに行くだろうという考えからです」
「ええー……さっき夜光鈴買いに行こうって言ったのに」
「驚かせるためよ」
「サプライズです」

 なんで驚かす必要があるのと疑問を再び浮かべるが、灯里はまあいいかとさらりと流し、思考を切り替える。そう、夜光鈴に。

「じゃあ、行こう」
「あいよ」
「はい」

 はからずもアリア社長とだけではなくなった買い物に、灯里は少し嬉しくて笑顔を浮かべる。その笑顔に、藍華もアリスも笑顔で返した。
 ちなみにアリア社長はにゅっと声を出しながら、瞳をキラリと光らせるだけである。どこか明後日の方に向かって。





 辿り着いたのは夜光鈴が大量に売られる市場、夜光鈴市である。
 大きな通路には所狭しと夜光鈴が並んでおり、人が歩くスペースが何時もの二分の一くらいしかない。そんな狭くなってしまった通路を、灯里、藍華、アリス、アリア社長は歩いて行く。

「今年も沢山あるね」
「毎年こんなにどこから集まるのかしらね」
「でっかい大量ですね」
「ぷいにゅ」

 見ては歩き、見ては歩き。灯里は左右の夜光鈴を見ながらテクテクと歩く。可愛い物は基本的に早い者勝ちなので、今日の灯里の動きは些か素早い。と言っても、少し歩くペースが速いだけなのだが。
 しかしそれでも、藍華もアリスも気付かない程度。灯里自身、おそらく気付いては居ないだろう。きっと気付いているのは、アリア社長だけである。

「今年はどれにしようかなぁ~」
「そんなに目映りすることかい」
「だってだって」
「駄々っ子禁止」
「あう……」

 キョロキョロしながら見ていると、藍華の鋭い突っ込みが飛んで来る。灯里は少し肩を落としながらも、しかし心は沈まない。しっかり見て、こう心にグッと来る物を選びたいのだ。折角だから。
 藍華もアリスも適当に気に入った物を選んで購入している。二人はチリーンという綺麗な音を鳴らす夜光鈴を片手に、灯里に付いて来ていた。既に選んでいる二人には悪いが、それでも灯里は何かこうないかなと、具体的なイメージも無く探してしまう。
 それにしても暑いと、少し探索を休憩して身体を持ち上げる。強い日差しに周りの人達もフラフラだ。かなりの暑さに、身体からは汗が止まらない勢いで出ている。

「……灯里先輩、そろそろ休憩しましょう」
「そうだね。このままじゃ脱水症状になっちゃいそう」

 アリスの提案を飲んで、灯里はうんと頷いた。ここから一番近いカフェでもレストランでも、どこでもいい、飲み物を飲める場所が欲しいのと、少しばかり涼みたい。だから、藍華もアリスも灯里も、もちろんアリア社長も適当な休憩所となりそうな場所を探す。
 夜光鈴市から少し離れた場所に、その小さなカフェはあった。
 中に入ると、来客を知らせるための鈴が鳴る。考えてみれば、その音は随分と響き渡る綺麗な音色だった事に気付く。ふと上を見上げてみれば、少し大きめな鐘が付いていた。夜光鈴とはまた違う雰囲気を持ち、しかし綺麗な音色を奏でている。
 その音はきっと、マンホームの日本で風鈴の音に魔除けの意味があったというように、同じような効果と同時に涼しさを強調してくれるのだろう。
 そのカフェの中は、随分と涼しかった。しかし、寒くなるほどではなく、そこそこに涼しくしているような感じだ。

「涼しいね」
「そうねー。クーラーガンガンじゃないのは正解だわ」
「ガンガンだとキンキンに冷えますからね」
「風邪引いちゃうね」

 凄まじい熱気を持つ外から、冷やされた空間に入り込む。人間といえど、熱いところから冷えたところにいきなり入ると、あまりの温度差に体調を崩してしまうことがある。それは例えるなら、熱された鉄が急激に冷えると脆くなる原理と同じだろう。
 急激な温度差は、人にも物にも動物にも危険である。故にネオ・ヴェネツィアではそれをわかってか、そこそこに冷やしてある程度で、外から入った直後に涼しいと感じられるくらいにしてあるのだ。

「いらっしゃい。あら、灯里ちゃんこんにちは」
「あ、おばさん。ここの人だったんですか」

 中から出て来たおばさんに声を掛けられて振り返ると、灯里は見覚えのある顔におおっと声を上げた。おばさんも少し驚いたようだが、凄く驚いたと言う様子はない。肝が座っているのか、単にお客さんとして来た灯里にそこまで派手はリアクションは必要ないということか。
 そもそもリアクションを期待するほうが間違いなのだが、そっちよりも藍華とアリスはまたかと別の意味で驚いていた。灯里の友達作成法による賜物なのだろうが、それにしたってネオ・ヴェネツィア中に彼女の友達がいる。友達というよりも、顔見知りというところだろうか。
 とりあえずおばさんに案内されて、灯里達は席に付く。三人の身体から汗が出ているのを確認すると、おばさんは冷たい物が欲しいかいと聞いて来る。その問いに、三人は勿論と答える。

「アイスパフェを一つ」
「あいよ」
「……アリスちゃんお腹壊さない?」
「でっかい大丈夫です。というより、飲んで食べられるパフェは人類史上最大の発明品です」
「なに言ってるのよ。ってか飲めないでしょパフェ」
「……溶ければ飲めます」
「溶けたアイスって美味しく無いと思う……」

 溶けたアイスをもったいないと思い飲んでみると、明らかに暖かくなった甘いクリームになっている。味は良いかもしれないが、冷えて居ない点が問題だ。
 アリスの言葉に突っ込みをそこそこ入れたところで、灯里はアイスコーヒー、藍華はアイスティーを頼んだ。アリア社長には少し甘めのキャットドリンクなるものを用意してくれるという。

「それにしても今日は暑いねー」
「下着まで汗に濡れるわ」
「少し気持ち悪いですね」
「ぷいにゃー……」
「アリア社長ダウン気味だ」

 外を窓越しに見ながら、三人は小さくため息を吐いた。溜息どころかもう歩きたくないというレベルで突っ伏しているアリア社長を見て、あははと笑うしかない灯里。

「……夏かぁ……夏と言えば、何を連想する?」
「あによいきなり」
「なんとなく」

 灯里はふと思いついた問いを投げてみれば、藍華とアリスはうーんと悩む。
 たっぷり数秒後には、二人はうんっと答えた。

「やっぱり夏祭りでしょ」
「夏休みもあります」
「私は夜光鈴かなぁ」
『それは駄目でしょ』
「あれ?」

 灯里の言葉に、今現在起こっている夏の風物詩合戦の一つ、夜光鈴を出した事に対してコラと突っ込む二人。灯里はやっぱ駄目かと呟きながら、じゃあともう一つ。

「花火大会」
「なるほど、それもありね」
「では、食べ物では?」

 食べ物かぁ。夏と言えばの食べ物……言われて気付くが、夏といえばの食べ物と言われると結構ある。
 灯里と藍華、アリスも一緒に考えているが、まず一つ目。

「私はかき氷」
「アイスかな」
「パフェですね」
「……みんなアイス系だね」

 おいおいと皆してそれは駄目だろと言いながら、なら普通の食べ物でと項目を変更してみる。

「えーっとね、おそうめん」
「んー、冷やし中華」
「スイカ……ですかね」

 こうして出して見ると、色々な物が出て来る。三人はなんとなく面白くなって来て、なら思い付く限りを言ってみようと課題変更である。
 何故か言えなくなったら負けという良く判らない勝負にまでなっている。

「じゃあ私からね。夏と言えば、海!」
「いつもお隣さんだけどね」
「海と一緒に住んでますからね」
「だってここマンホームじゃないもん……」

 マンホームでは夏と言えば海、が定番だったのだが、確かに海と一緒に住んでいるネオ・ヴェネツィアではそれは少し違ったかもしれない。

「まあいいわ。それじゃあ私ね。夏と言えば、浴衣」
「そういえば、灯里先輩。浴衣はまだあるのでしょうか?」
「もちろんあるよ。また着る?」
『是非』

 夏の終わりの祭りに去年来た浴衣を思い出したのか、藍華とアリスが欲しいとまで言って来る。もちろんあげても良いのだが、灯里以外着方を知らないのが問題だろうか。
 ちなみに今年はアリシアにも着方を教える予定になっていたりする。となれば、もしかしたらアテナや晃も来るかもしれないと、灯里は今年の夏祭りの始まりは大変そうだなと思い、しかし嫌な思いは勿論せず、むしろ楽しみでクスリと笑ってしまう。

「では私ですね。夏と言えば、水着でしょうか」
「海と一緒だね」
「でもネオ・ヴェネツィアでも泳げる場所は少ないのよね」
「アドリア海にある島の一つくらいですかね」
『ネバーランド』
「はい」

 これまた去年の思い出。ネバーランドと言えば、アリス、藍華、灯里の三人が晃とアリシアにウンディーネとしての訓練をしてもらった場所であり、同時に灯里が初めて海で泳いだ場所である。
 ネバーランドという名の小さな島は、しかし今では彼女達の遊び場でもあったりする。

「じゃあ再び私。夏と言えば、うちわ」
「ああ、これね。確かに夏と言えば……出て来る……かなぁ?」
「でっかい疑問ですね」
「ええー」

 駄目かなうちわと言いながらも、藍華もアリスも合格サインをくれる。
 しかしうちわが良いとなれば、それに関連した物もOKということになってしまう。

「クーラー」
「扇風機」
「……風を送るものだね」
「うちわなんて言うからよ」
「ううー、意地悪だよ藍華ちゃん」

 というわけで一瞬にして再び灯里に廻って来た。ならばと、灯里は次の夏と言えばを繰り出す。

「じゃあバーベキュー」
「ん~、夏といえばってわけじゃない気がするけど、まあいいか」
「でも、確かにバーベキューを夏にすると楽しいですね」
「でしょでしょ。今度やろうよ」
「そうね、気が向いた時にね」

 バーベキューと言えば、数ヶ月前に藍華の髪の毛がファイヤーする事件が勃発したが、そこには触れないことにする。しかし短髪になった藍華は、イメージが変わったと同時に随分と女らしく、そして可愛らしくなった。まあ、ヘアピンが悪いという意味不明な事をいきなり言う時もあったが。

「はい、おまちどう」
「待ってましたー」
「パフェ私です」
「パフェ頼んだの後輩ちゃんだけだから」
「ぷいにゅー」

 はいっと手を上げたアリスに、藍華は苦笑しながら受け取ったパフェを渡す。藍華の突っ込みに少し頬を赤く染めながら、アリスは受け取る。その口が少し尖っているように見えるのはきっと気の所為ではないだろう。
 灯里はアイスコーヒーを受け取り、見覚えの無い白い液体の入ったコップに首を傾げる。これはと問うと、それがアリア社長専用、キャットドリンクなるものらしい。牛乳にしか見えないのだが、気の所為だろうか。とりあえずアリア社長に渡すと、早速飲みだす。

「凄い勢いで飲んでるわね」
「牛乳が元なんだけどね、そこにとあるブレンドをしてるのよ」
「へぇー、どんなブレンドですか?」
「それは企業秘密だよ、灯里ちゃん」
「えぷー」
「アリア社長、飲み干しちゃいましたよ」
『はやっ』

 おばさんと話をしている間に、アリスによる報告でアリア社長を見て見ると、そこには口の周りの白い毛皮を更に白くしたアリア社長がげっぷをしている姿があった。なんというスピードと唖然としている中で、アリア社長は「へいもう一杯!」というようにコップを掲げた。

「でも、かなり糖分多いから一杯だけね」
「だそうです、アリア社長」
「ぷいにゅっ!?」

 ガーンというリアクションをして、グスグスと泣き始めるアリア社長。しかし心を鬼にして、灯里はとりあえず冷たいミルクをお願いしておく。
 さてと再び三人はお互いを見て、再び夏と言えばの問題に取り掛かる。

「バーベキューかぁ……そういえば、夏と言えばバーベキューだとすれば、キャンプもじゃない?」
「キャンプかぁ……やってみたいなぁ」
「灯里先輩、キャンプしたことないんですか?」
「うん」
「ありゃま。それじゃあ今度の休みにしようか。キャンプとバーベキュー」
「良いですね」
「決まりだね」

 というわけで、今度の休みにバーベキューをすることになったところで、次である。

「ん~……では、マンホームでは夏と言えばオープンカーなんて言うのを見た気がします」
「車は駄目でしょ」
「確かにマンホームだとオープンカーが多かったかなぁ。気候が調整されちゃうから、いつも快適に走れる所為だと思うよ」
「はい、乗り物雑誌で読みました。流石にゴンドラの特集はありませんでしたが」
「それは……さすがに……」

 アリスの言葉にうーんと悩みながらも納得の意を示す灯里。確かにマンホームでは常日頃雨が降らない。降る時は降るよーと宣言されるからだ。大自然の恵みを人の力で動かすのは、好みではないのだが。
 とはいえ、マンホームの雑誌にゴンドラはないだろうと、灯里も藍華も思う。もちろん、アリスとて冗談での言葉だが、それだけマンホームにはゴンドラというものが存在しない事が判る。何より、海と遊ぶ事も、そこに近づく事もあまり良かれと思われていないほどに汚れてしまっているのが問題だろうか。
 古き良き時代の姿を残すアクアが、どれだけ素晴らしい物か。

「夏と言えばかぁ……結構あるわねぇ」
「他にも遊園地とか散歩とか」
「散歩は春とか秋じゃない?」
「私も夏に散歩は少し辛いです」

 藍華の言葉に、他にもあるよーと言ってみる灯里。しかしさすがに散歩は不評のようだ。とはいえ、散歩はいついかなる季節であっても気候でもあっても、気分によって楽しい事なので話が違うだろう。
 アイスコーヒーを飲み終え、アリスがパフェを食べ終わるまで少し雑談して、そして休憩終わりという宣言と共に、三人と一匹は再び夜光鈴市に向かうのだった。





 再び夜光鈴市へ来た三人と一匹。後は灯里が夜光鈴を手に入れれば万事解決なのだが、再び夜光鈴の並ぶ屋台の間を歩き続ける。
 灼熱の太陽が空から大地を焼いて、空気は熱された地面の所為か陽炎のように世界が揺れている。随分涼しんだとはいえ、やはり暑い。それも少しばかり尋常ではない熱気だ。本日は真夏日の中でもおそらく最高の気温ではないだろうか。
 そんな中を歩いていると、ふと視界に夜光鈴とは違う麦わら帽子を見つける。それを三秒ほどボーっと見つめて、アリア社長が被っている麦わら帽子を見る。灯里はうんっと頷いた。

「おじさん、麦わら帽子ください」
「あいよ」

 で、買ってしまった灯里。アリアカンパニーの帽子を取って早速被ってみる。帽子の影の範囲が大きく、肩の半分以上を影で覆い隠してくれる。それだけで随分と気が楽になった。ちょっとばかしウンディーネの服とは似合わないが、この熱気の中なのだから許してくれるだろうと、灯里は思う。
 しかし藍華とアリスの反応は、

「あ、私も」
「私も買ってきます」

 しっかりと同意してくれた上に買って来てしまった。藍華曰く、水の上で無ければ帽子なんて飾りだということだ。とはいえ、会社近くになったら取って被り直さないと晃に何を言われるか判ったもんじゃないとボソボソ独り言を言っていたが。
 そんなわけで、三人のウンディーネは麦わら帽子を被ったまま歩く。

「あ」

 そうして再び歩き出して、数分後。灯里が視界に映った一つの夜光鈴に興味をそそられる。それは蒼い色の夜光鈴だった。前に購入したのはピンク色だったのだが、今回はアレに似た蒼い物。下に行けば蒼く、上に行けば透明になるというグラデーションカラーが美しい。形状としては極普通の物だが、前回買った物がフリルのようにウェーブしていたのが少し特殊だったのかもしれない。
 可愛いという物ではないが、なんだかその蒼が空や海の色に思えて、綺麗だなと感じた。例えるなら、海と空を繋ぐ水平線がこの熱気による蜃気楼の為か映らず、まるで溶け合って混じり合うような不思議な現象に似ている。
 何より、その蒼色がなんとも美しい色合いだ。空とも海ともいえない色。そう、宝石のような綺麗な色をしている。サファイアの薄い蒼といったところだろうか。

「……おじさん、これください!」
「おじさんは酷いわウンディーネさん」
「はひ!? ご、ごめんなさい!」

 麦わら帽子を被って俯いていた店員さんに思いっきり声を掛けて見れば、そこに座っていたのはおばさんだった。何を思っておじさんと言ったのかというと、丁度おばさんの身体が屋台に隠れるベストな位置に居た所為だ。身体が見えず、麦わら帽子を被り、肩にタオルを置いていたらそりゃあおじさんに見える。

「ま、おじさんっぽい恰好してるあたしが悪いんだけどね」
「い、いえそんな事は」

 苦笑しながらおばさんは金額を言ってくれる。その金額を払いながら、すみませんと灯里は謝りながらお金を出す。
 どうやらこの屋台で一番人気だったようで、これが最後の一つだよと教えてくれたおばさん。結構綺麗に出来た最高の一品だったようで、そう言ったことを聞くとなんだか御利益があるような気がして来る。
 ちなみに後方で灯里の買い物を見ていた藍華とアリスは、

「おじさんっぽかったわね」
「……でっかいおじさんでした」

 なんせおばさんの恰好は麦わら帽子におそらくは胸元を隠す何かが入ったシャツ一枚に腹巻きに短パン。これをおじさんと言わずしてなんというか。きっと売っている物が昆虫とか魚でも違和感は無かっただろう。
 そういえば、と二人はとあることを思い出した。

「夏と言えば釣りってのもあったわね」
「私は虫取りを思い出しました」

 夏の定番を思い出して、二人は小さく笑う。そんな二人を購入した夜光鈴を持ちながら戻って来た灯里が見て、何か面白い事でもあったのかと問う。
 とはいえ別段面白いことでもないので、藍華は別にと短く答えて帰ろうと促す。その一言に、二人と一匹は肯定の意を表した。





 何時も通りというのもおかしいが、アリアカンパニーに帰って来たところで、三人の夜光鈴を並べて見る。
 リーンと言う綺麗な音色が響く。三つとも音が違うが、それは形状による所為だろう。灯里の物が綺麗な高音を奏でるのであれば、少しウェーブのついたアリスの夜光鈴は低音気味。強いウェーブのかかった藍華のは特に低音側になっている。
 しかし低音と言っても、高音の中の低音だ。それに音が綺麗な事に変わりはない。

「はぁー……あっつぃ」
「風が気持ち良いねー……」
「氷を浴びたい……」

 アリアカンパニーの通路に置いてあるベンチ型の椅子に座り、藍華ががっくりと項垂れる。灯里は風を受けてひんやりとする身体を感じて、アリスはそれはまずいでしょと突っ込みたくなる一言を呟く。

「あらあら、おかえり三人共。気に入った夜光鈴はあったかしら?」
「あ、ただいまですアリシアさん」

 帰り着くと同時にグデーっとこの椅子に座ってしまったため中にも入らずダウンしてしまったのだが、ふと海を見てみればそこには白いゴンドラが浮いていた。どうやらアリシアも仕事を終えて帰って来ていたようだ。

「うふふ。スイカはいる?」
「はひ!」
「食べまーす!」
「いただきます」
「ぷいにゃー!」

 その上スイカを切ってくれていた事に感謝して、灯里達はスイカを頂く。
 夏と言えばやっぱりこれだと話しながらシャクシャクと食べる。食べ易い大きさに切ってくれているので非常に食べ易い。っが、アリア社長は完全に半分に切っただけのスイカに顔を突っ込んで食べている。中々にワイルドだ。
 とはいえ何時もの事なので気にしない。

「はぁー……美味しい」

 キンキンに冷えたスイカはアイスやかき氷並に冷たい。しかし美味しいとはいえ食べすぎればお腹が急激に冷えてお腹を壊してしまう可能性があるのでそう沢山は食べられない。
 かつ、女性としてカロリーが云々カンヌン。
 そうして食べ終えたところで、みんなで一休憩。リーンという綺麗な音を聞きながら、流れる海風を感じながらしばしの沈黙を楽しむ。
 海の波の音、鳥の鳴き声、夜光鈴の音、風の音、それらの音を楽しみ、のんびりとした時間に灯里は空を見上げる。強い日差しが建物により遮られ、光と影に別れるわけだが今ばかりは影の涼しさが気持ちが良い。そして綺麗な音色を聞いて、優しい音を聞いて――なんだか安心できるこの空気を、灯里は少しくすぐったく感じた。

「……なんだか、こそばゆい」

 小さく呟いた声。隣に居た藍華やアリスもその声に気付かないくらいにこの熱気にダウンしているが、灯里は一人ニコニコとした笑顔でこの静かで壮大で素敵な大自然のロンドを楽しむ。

 さて――夜になったら、またお茶会を楽しもうかな。

 そんな事を一人思いながら、灯里は瞳を瞑る。とても気持ちのいいこの空間と、とても優しいこの空気に、灯里はいつしか夢の中へと誘われる。
 この素晴らしい世界を愛おしく思いながら――。







――――――――――――
皆さんこんばんわ、ヤルダバです。
今回は夜光鈴のお話でした。
夏ですねー……最近暑いです。でも梅雨ですけど……やっぱり夏ですw
梅雨だからアクア・アルタを書こうかなって思ったのですが、なんとなく夏真ん中の夜光鈴に。
風鈴今年は買おうかなぁ……。あの音が結構好きです。皆さんはどうでしょうか?
のんびりまったり生きたいなぁ。
仕事も楽しいって思える人は幸せだなぁ(ぉ
灯里はどう考えても幸せだよなぁ……w
さて、漫画のキャラに嫉妬しても全く意味はないのですが、彼女ののんびりまったりワールドに今日も心を癒されております。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
梅雨の雨がちょっと尋常じゃなくなって来ているので、お気を付けて。
ではでは、ヤルダバでしたー^^



[27284] 幻想世界
Name: ヤルダバ◆c7be7aa7 ID:751ca440
Date: 2011/06/28 14:54


 その日は朝早く起きた、というよりも夜中に起きてしまった。まだ誰も起きておらず、まだ誰も静まり返ったネオ・ヴェネツィアの中を歩いていない。
 空を見上げれば漆黒の空が広がり、ところどころに白ではなくグレーの雲が浮いている。しかしこの暗い闇の世界の中で、月だけはそこにあった。三日月なので明るくはないが、街灯の無い場所では十分に光と成りうるだろう。
 そんな月光を頼りに、水無灯里はゴンドラの上で揺れていた。
 足元ではアリア社長がゴンドラの上で眠っており、灯里は何故かぱっちりと目覚めてしまったが故にお出かけを決行。暗い夜の海の中を漕ぐのは、ちょっとした冒険をしている感じだった。
 明日は休みだが完全フリーというわけではない。一応書類の片付け等々があるが、それくらいは帰ってからでも遅くはない。ほぼ午前中に全てが終わる様な物しか残っていないため、気にせずにこうして出掛けているのだ。
 何より、深夜である。本来ならば起きてしまっても眠っているのが普通だが、朝3時半ともなれば完全な夜中である。太陽が昇るまでまだまだ時間がある。おそらくは5時頃には明るくなってくるだろうが、6時か7時くらいにならねば太陽そのものは上がって来ないだろう。
 しかし何故こんな時間からこうして海に出て来たかだが、ちょっとした出来心である。曰く、朝早い丘の上はいかなる景色だろうかというもの。
 ウンディーネとして、一つの終着点であるシングルへの昇格。その際に向かう希望の丘。なんとなくあそこが思い付き、そしてなんとなく朝焼けというものが見たくなってしまったのだ。
 時間的にもおそらくは間に合う。今の灯里の腕ならば余裕だろうが、問題は水上エレベーターが動くかどうかだ。基本的に水上エレベーターはとあるおじさんに制御されている。そのおじさんも間違いなく休んでいるはずだ。
 動くかどうかはわからないが――行ってみればわかるというもの。
 というわけで、出発した次第なのだ。

「キラキラの水面……その水面に映る月……」

 それだけでも十分に綺麗だ。この何も無く誰も居ない、静かな世界で見る星と月は別格だ。月光の美しく優しい光と、その周りで自己主張する星々。きっとあの中にマンホームもあるんだろうと思いながら、灯里は笑う。その星の一つから、こうして別の星に来ている。そして生きている。
 なんとも不思議な話ではないか。
 別の星で生まれ育ったのに、こうして別の星に居る。空を見上げたあの点にしか見えない星の一つから、ここに来ている。人間はちっぽけだなぁなんて思う瞬間でもある。

「……あそこから来てるんだもんなぁ」

 どれがマンホームかは判らない。ただ、どれかがマンホームのはずだ。キラキラ輝く星。マンホームとは違って二つある月。どちらも優しい光をこのアクアに送り、星達を輝かせる。
 科学で言えば太陽の光を反射しているというが、その割には月の光に熱はない。きっと紫外線というものが無いからなのだろうが、そんな些細な事はどうでもいい。灯里にとって、月は淡く優しく光ってアクアを見守ってくれればそれでいいのだ。そして星も、この夜空を覆ってくれていればそれでいい。
 科学での解明なんてどうでもいい――不思議な、この摩訶不思議な世界が楽しめるなら、それでいいのだ。

「……えへへ」

 一人ぽつぽつ呟いて、灯里は夜風に身を任す。季節は夏だが、夜はそこまで暑くはない。昼の温度が30度を超えるなら、夜は15度から20度あるかないか。
 温度計が無いのでさすがに数字は判らないが、きっとそのくらい。暑くもなく、寒くもない、ベストな気温だ。
 気持ち良いと思いながら、灯里はゴンドラを漕ぐ。
 少しだけ、強く漕いでみる。速度を上げて、風を強く受けて見る。うん、やっぱり気持ちが良い。
 頬や首筋を駆け抜ける風なんてこそばゆいほどだ。

「ん~……」

 大自然の恵み。その中でも大気という人が生きるには絶対必須な物を、文字通り肌で感じる。
 そんな気持ちのいい世界を、灯里は進む。
 大きな通りから、狭い水路へ。街灯のように一定の距離を置かれて設置されている電灯が、光っていた。いや、電灯ではなく電光掲示板のようなものだが、夜はそれが光りを放って電灯のようになっているようだ。それはずっと先まで続き、まるで光の道。照らされる水面は光の絨毯というところか。とはいえ、水は波打っているので揺れている絨毯というのは少しおかしいかもしれないが。
 そんな些細な事を少しも気にせず、灯里は突き進む。
 そうして、水上エレベーターの出入り口まで来たところで、左手にある上下を示す矢印が光っている事を確認する。もしかしてと思うが、灯里は下の矢印が光っているのを確認してしばし待ってみる事に。
 風が、灯里の髪の毛を弄ぶ。私服でこんな事をしていたら怒られやしないかと思いながらも、ここまで来て引き返す気にはなれない。もちろん水上エレベーターが動いていないなら話は別だが。
 休憩のためにゴンドラの上に座る。のんびりと夜風を楽しみ、光っている水路を見つめる。
 昼間とは全く違うその光景に、灯里は少し得した気分になる。っと、ポーンという気の抜ける音と共に、水上エレベーターの下の矢印が少し強く光る。すると水上エレベーターの扉が開き、大きな口を開いた。

「うわぁ……」

 中はどうなっているのだろうと思っていたが、開かれたその扉の向こうを見て驚いた。
 中から誰かが出て来る事は無かったが、代わりに現れたのは光る水面。それも上からの光ではなく、下からの光。美しく綺麗な蒼が、下から淡く照らされていた。中にいる人を、闇の中に入れないための配慮なのだろうが、それがまた神秘的な世界を作り出している。
 灯里はゆっくりとゴンドラを前進させて、真ん中付近で止める。するとセンサーでも付いているのか自動的に扉が閉まり、水が入れられる。

「…………」

 もはや言葉も出ない。
 水上エレベーターの中は、どうやら四方の端っこに電球が埋め込まれているらしい。しかしその光は強くはなく、しかし弱くもない。直に眼で直接光源を見てもそこまで眩しいと思う事は無い。どうやら広く広範囲に広がる作りにしてあるため、眩しくない様に作られているようだ。
 灯里は、そんなライトを設計して、かつ設置した人を全力で褒めてあげたかった。
 四方を囲まれたボックスの中で、灯里は見た事もない素敵な光景を目の当たりにしたのだから。
 下から照らされる美しい蒼。その光により水の底から照らされる小さな箱庭の世界。周囲は壁とはいえ、その中を舞う水飛沫はまるで水の妖精達のようだ。キラキラ光る妖精は、もちろん重量などほとんどない水飛沫。ゆらゆらとふわふわと勢いのままに浮かび上がっている。
 その水飛沫が、この空間の巨大な照明となっていた。四か所の光が、水の粒が反射しているのだろう。紫外線も少し光りに含まれているのか、そのおかげで丸い虹が目の前にできている。

「凄い……」

 丸い、虹。それは虹の本来の姿である。基本的には空に浮かんだ虹は大きすぎてその半分が見えない、故に半円しか見えないが、こうして水飛沫の中である一定の角度と光の反射によって丸く見える事がある。
 だが――自然界でそれを見ることはまず叶わない。相当な条件が揃わなければならない。そのため、この真円の虹が見れる人工と自然のあまりにも美しい光景に、灯里は言葉を失うほどに心を奪われる。ただ漏れるのは、率直な感想のみ。
 そこはまるで光の舞台。美しく輝く黄金の舞台だ。こんな素敵な場所がこんな近くにあるなんてと、灯里は得した気持ちになる。というよりも、これはもうお土産話には丁度いいだろう。
 あまりにも楽しくて、あまりにも素敵で、時間はあっという間に過ぎて、何時の間にか出口の扉が開くほどに時間が経っていた。
 これだけで十分に楽しめたが、実際の目的地は更に先である。再び夜の街灯の中を突き進む。
すいーっとなんら問題無く、さきほどの光景を思い浮かべてはニヤリと笑みを浮かべてしまう灯里。楽しくて仕方が無いという笑顔。何かに祝福されてるのかな、なんて思ったりしてしまう。
だが、不意に風が止んだ。灯里はあれ? っと周りを見て見るが、遠くから草が揺れる音すらしなくなる。何故かぱったりと、風が止んでしまった。それでも尚ゴンドラを漕ぎ続ける物の、風と草の音があまりにも静かすぎるこの場所の唯一の音源だったのだが、それが消えると些か寂しさがある。
水の音だけが、その場に響き渡る。っと、灯里はゴンドラを止める。不意に電光掲示板の光が弱まったからだ。

「あれ、あれれ」

 ちょっとまってと心の中で思いながらも、口に出すよりも前に先に電光掲示板の光が落ちた。真っ暗闇になってしまった。これでは先に進むどころか戻る事もできない。
 ど、どうしようと灯里は呆然と立ち尽くす。何故風が止んで、更に電光掲示板の光が落ちるのか。まるで連動しているように切れてしまった二つ。その謎は判らないが、そんなことよりも灯里としてはこの後どうすればいいのか本気で悩むところだ。
 光源となるものは一応持って来ている。懐中電灯はあるが、それではおそらく光が弱すぎるだろう。一応取り出して光を出して見るが、やはり照らせる範囲は限られている。それも今までしっかりとした光が照らしていたものだからそちらに目が慣れてしまい、こんな弱い光では不安で仕方が無い。
 無いよりマシだが……引き返した方がいいのかもしれないと灯里は思う。
 だが――その時である。

「――ぉぉおおお」

 パッと光が発生したと思えば、パパパパパと水路の底から光りが漏れる。先ほどの水上エレベーターの中の物と同じ光源のようだが、少し弱め。水路の範囲が判る程度の光だ。しかしそれがずっと連続すれば、それは十分に明るい光となる。
 この道を行けというように示された光の道。灯里はよーしと立ち上がり、再び漕ぎ出す。驚いた声を出したものの、心の中では良かったと安堵していたりする。
 それにしてもと、灯里は水面を見る。さきほどまで上からの光だったから水面が光る事は無く、その代わりに水の底が光っていると、姿を一変させてしまうのもまた不思議だ。しかし上からの光よりも遥かに見易く、そして何より綺麗だ。水の底が見えると、魚が悠々と泳いでいる姿を確認することができる。
 これまた嬉しいサプライズと言ったところだろう。前にシングルになった後、帰り道はこんな事も無く、光の電光掲示板の光で帰っただけである。ということはある意味ハプニングであり、嬉しいハプニングと言うものである。
 空に向かって自分の影があるような気がして、灯里は空を見上げる。グレーの雲が、何時の間にやら目前まで来ていた。いや、霧、だろうか。ふと気付けば光が霧の中に。そして気付けば灯里も霧の中に入っていた。
 驚くのも束の間、中々に濃い霧の中に入り込んでしまった。とはいえ道は一本しか無く、光は道を指し示す様に続いている。その光を頼りに、灯里はゴンドラを漕いで行く。
 そうして辿り着いた二つ目の水上エレベーター。運良く辿り着くなり扉が開き、灯里を中へと招き入れる。最初と同じ、水の底から光りが溢れ、入って来る水の飛沫により虹や明るい世界が満喫できる。しかし、二回目はそれだけではなかった。
前に来た時は眠ってしまい憶えていないが、この光の中で一ヶ所、色が違う煉瓦がある事に気付く。なんだろうあれとジーッと見ていると、色が違う煉瓦ではなく、そもそもにして煉瓦ではないことに気付く。水面が上がり、その煉瓦ではない一部が水の中へと浸かる。それを不思議に見ていると、唐突に強い光を発した。
わっと驚く物の、灯里は強い光が反対の壁に当たっているのを見る。見て――唖然として、直ぐに笑顔に変わっていく。

「う、うわぁ!」

 そこには、マンホームでもほとんど見たことが無い希少な生物の映像があった。バンドウイルカと呼ばれる、海のほ乳類。そう、つまりイルカである。その映像が、目の前に展開されている。泳ぐ姿、人と遊んでいる姿。どうやらここを作った人は相当に良い趣味をしていたらしい。
 こんなサプライズがあるとは思ってもみなかった灯里は、なにこれと見ていることしかできない。できないが……とてつもなく楽しい。映像が切り替わって切り替わって、まるでサーカスの中にいるような気分になってくる。
 遥か昔には水族館などで多くみられたと言われるバンドウイルカ。その数は今では激減してしまい、絶滅危惧種に指定されマンホームでは見る事はもうほとんどなくなってしまった。
 故に――こんな映像が見れるなんて思っているわけが無く、灯里はあまりの嬉しさに見入ってしまう。

「凄い凄い……」
「ぷいにゅー……」
「はひ!? あ、アリア社長……起きてらしたんですね」

 そりゃああんな大声を出されればというようにアリア社長がふうっと息を吐いた。灯里は小さく謝るモノの、ここまで来るのに起きなかったのも凄いと灯里は思う。
 しかしそんな事はどうでも良く、灯里はゴンドラの上で時間を忘れて見入っていると、ふとイルカの映像が消えて重い音が聞こえて来る。
 気付けば空は明るくなり、さきほどまで濃かった霧はどこにもなかった。
 灯里は立ち上がってゴンドラを再び漕ぎ始める。太陽の光が空を覆い始めたからか、水の底からの光は消え、電光掲示板の光も消えたままになっていた。
 だがさすがにもう視界は良好なので、灯里はそのまま漕いで行く。すると程なくして、灯里は希望の丘へと辿り着く。右手にはあの時見たあの風車がある。だが今は風が無い所為か回って居ない。そして反対側を見ようとして、不意に風の音が聞こえて来た。ゴォっという強い風の音。灯里はなんとなく直感で、ゴンドラの上にしゃがみ込む。刹那、突風と言っても良いような勢いの風が灯里を襲う。ゴンドラも少し流されているのが判るほどに強い風。
 その風が止むと、やんわりとした軟らかい風がそよそよと吹いていた。

「す、凄い風……」

 そう言いながらふと上を見て、あれ? っと小さく呟く。電光掲示板が復活していた。そして右手を見て、風車が回っている事を確認する。どうやら風力発電により電光掲示板が動いているようだ。となれば、まず止まらない風が、さきほどまで止まっていたということになる。
 その時の予備の光が、水の底から照らすあれなのだろうか?
 ちなみに光が出てきたとはいえ、水の中を覗いても光源は確認できない。アクアの水が澄んでいるにしても、流れている水の中で、かつバレないようにでもしているのか、やはり下からの光の発生源は判らない。
 そうして左手を見て、灯里は絶句した。

「うわ、うわぁ、うわぁあああ」

 それは、あまりにも、あまりにも美しい景色。

「凄い凄い――アリア社長、見てください!」
「ぷいにゃー!」

 その景色は、もはや人間の世界とは思えなかった。灯里は天国にでも来てしまったのかと錯覚すらしてしまう。

「雲の……絨毯です」

 丘の下は、全てが雲。白く美しい、もわもわぽわぽわした柔らかそうな雲に覆われていた。まるで絵本やお伽話などで見る天界の世界のような景色だ。
 淡い光に照らされる空。地面を覆う濃くも軟らかい雲。
 さきほど水上エレベーターで上がる前に遭った霧は、やはり雲だったようだ。灯里の居るところから丁度数メートル下が、雲になっている。灯里は思わずゴンドラを動かして、水路に止めて陸に。本当は降りてはいけないが、今この時間に船が通る事は無いだろう。
 なにより、ほんの少しだけ。
 雲の上に立って、灯里はおおぉおおと声を上げる。一歩踏み出せば、足が雲の中へ。濃い雲なので先が全く見えないのでそれ以上はいけないが、天の世界にでも来たかのような気持ちになってしまった。そして――上がって来たのは太陽。強い光が白い雲を更に白く光らせるその存在を、灯里は振り返って確認する。丘の頂上より、ゆっくりと顔を出している太陽。
 ここは、一瞬どこなのだろうかと灯里は考えてしまった。
 実は寝ていて、これは夢なのではないだろうかなどと思ってしまう。
 雲の傍から離れて、灯里は駆け足でゴンドラに向かう。流されてしまう前に戻り、オールを持ってゴンドラの位置を維持する。離れたくない、帰りたくない、もう少し、この景色を満喫したい。
 だから――灯里はしばらくそこに佇む。
 地上を覆う白い雲――青空に浮かぶ赤い太陽――幻想的なこの景色を、灯里は脳裏に焼き付ける。
 この、素晴らしき美しい世界を、もっと好きになるために。
 そして一枚だけ、この美しい光景を写真に収める。もちろん、皆に自慢するために。

「アリア社長……私達、世界の果てに来ちゃったみたいですね」

 不思議な世界。ただ状況が少し違うだけで姿を変える摩訶不思議。水無灯里は、生まれて初めて雲の上の世界というものを知った。
 美しいという言葉すら、似合わないほどの景色。どう表現すれば良いのか灯里には判らない。だけどきっと、美しいという人の感性以上の言葉は出て来ないはずだ。だから、美しいで良いのだろう。だけどもしそれ以上の言葉が今浮かんだら、きっとそれがこの景色に合う言葉になるはずだ。
 アリア社長も何かを考えているのか、景色を見ながらただ、その景色に見惚れている。

「さ、帰りましょうか」
「ぷいにゅ」

 ずっとこの景色を見ていたいが、夢か現実か、幻であるからこそ美しい物がある。灯里にとってはそれがこれだと言える自信があった。故に、長く見る事はしない。儚く短い時間だからこそ、この景色の素晴らしさがはっきりと判るのだから。
 良い物が見れた――灯里にとっては、それだけ。

「素敵な景色……一人占めです」

 この景色を見れるのは、朝早く起きた人の特権だ。浮き島の人は少しずるいが、それはそれ、これはこれ。
 今、この場には灯里とアリア社長しかいない。アリア社長が居るにしても、やっぱり一人占め状態。
 そんな素敵な景色から離れるのが少しもったいないような、もう少し居てもと思ってしまうが、何だかんだでお仕事もある。ならば戻らざるを得ない。
 自分の行動に意味を持たせて、灯里は動き出さない腕を無理矢理に動かす。
 太陽はゆっくりと上がり、朝焼けはゆったりと空を覆う。

――さあ、今日も一日頑張りますか!

 そう気合を入れて、灯里は希望の丘を後にする。
 幻想的な世界から、現実の世界へ戻るために。





―――――――――
こんばんわ、ヤルダバです。
今回は幻想世界なんて言ってますが、実際はうーん?w
とある時、とある時間でとある思いで山を車で登り、その先にあった休憩所で見た景色を元に書いてみました。
いやぁ、朝焼けって綺麗です。
ホント美しい。でもそれ以上の言葉が自分の中で出て来ないのです。
ヘルプ。
いやそうではないですね。きっと似合う言葉が出て来ないだけなのだ!
ちなみにものっそい低い雲が、空を覆ってる時に見たので、街が完全に雲の下に。
しかも濃い雲だった所為で本当に何も見えない、一面真っ白の世界でした。
あれは雪の銀世界よりも幻想的でしたね。
一回か二回見れただけで、それ以外はその場所が雲の中だったり、風が強すぎて見てられなかったり、寒過ぎて見れなかったり、眠くて見る余裕がなかったりw
だからこその限定的なタイミングでの幻想的な光景に心を奪われたのでしょう!
そんな、多分生涯最高の景色の一つとして見ても良いそんな景色を、今回は灯里に体験してもらいました。
車ではなく、ゴンドラで。きっともっとも低いタイプの雲なら、あの丘の上であればいけるだろうと。
ただ、あの水路が夜どうなるのかとか、下からのライトアップは自分が勝手に。ごめんなさい。
水上エレベーターは夜はシステムが制御して、人が来たら動くようになってます……なんてのは自分の設定……怒られそう。

口数も少なく、話なんて何もない今回のお話ですが、まあ良いかとw
ただ、ゴンドラの場合はこうだろうなと思った次第で。
車だとエンジン音やらオーディオの音やらでどんちゃん騒ぎですが、ゴンドラなら水の音だけのはず。
ゆったりまったり昇っていっていたので、本当に濃霧の中では空の状況どころか1メートル先すら判らないので、それを元に。

さて裏話をちょくちょく書かせて頂いたところで、本日はこれにて。
すみません自分の体験談で。
でも、本当に素敵だったので……良いんじゃないかと。
問題は場所だったんですが……あの丘で……。
ではでは、ヤルダバでした。


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