正義の味方について語るなら、第一に挙げられるのは『犠牲』という言葉だろう。
なぜなら、正義の味方とはいつだって弱者の味方であり、弱きを助け強きをくじくモノだからだ。
もちろん、それについてはある一定の例外もあるだろうが、概ねの所の――いわゆる漫画やアニメ、小説などに出てくる客観的視点でのそういった存在はどうあっても大前提として第三者に好かれる語られ方をする。
では、読者が好む正義の味方とは果たして何なのか。
つまるところそこが正義の味方という存在の在り方を決定づけるモノであり、好みの問題、または考え方の違いでそれについても恐らくはある種の差はあるモノの、やはり最後に落ち着く概ねの意見は正しい存在であり、そういった正しい存在の大多数は弱者の味方であり正義の味方だ。
故に正義の味方とは、弱者があってこそと言える――というのは、まだ語っていないテーマがあるので早計と言える。
正義の味方が正義であるためにもっと大前提として必要なモノ、それは正義か、弱者か、それともそういった主役足る存在か。
否、絶対的『間違い』である。
絶対的間違い――即ち『悪』だ。
正義が正義であるためには、それに相応しい悪が存在しなくてはならない。
コインに裏表があるよう、光があってこそ闇が生まれるように、終わりがあるから始まるように、人が死ぬために生まれるように、モノが壊れるために作られるように、有るモノが無くなるためにあるように――悪があるからこそ正義が必要なのだ。
それが明白に分かるのが、物語と言えるだろう。
彼のモノは、顕著なまでに、丁寧なほどに悪を討つ正義を書きだしている。
生み出している。正しい存在が間違った存在を倒す。
読者が、物語の記憶者たちがそう望むからこそ物語はそう有るモノであり、だからこそそんな物語は総じて言えば大半過数の人間の心理を表しており、そういった観点から正義の味方にはそれ相応の悪が必要であるということが証明される。
そもそもだ。先に挙げた弱者という存在、彼らがどうしているのかと言えば、それは悪があるからだろう。
悪者に家族を殺される子供、悪に理不尽に苦しまされる者。
そういった顕著な例を外したとしても、例えば生まれつき足が不自由な人間がいたとして、その人は弱者なのか。
確かに人より多少劣っている感は否めないが、それでも弱者には定義されまい。その人を弱者足らしめるのは周りの反応であり、接し方であり、つまりはそういった細かな悪なのだ。
そこにたとえ本人たちの意思がなくとも誰かを『弱い』と定義させた何かが生まれた時点でそこに悪は生まれたと言える。
無論、これは弱者に限り言えるような狭い考えではない。
例えば正義の味方が持つ正しいまでの正義感。
弱者を救い、悪を倒そうとする何ともお偉い考えは、果たして正義の味方と呼ばれるような『主人公』達が、悪を知らなかったら持ちえたモノだろうか。
正義感とは、言ってしまえばトラウマとそう大した違いはない。
自身が許せない者がある――その事実がそういった感情を生み出し、正義漢の場合は正しさ、トラウマの場合は恐怖――正義の場合は悪を憎む心、トラウマの場合は恐ろしさを憎む感情。
つまりはどちらにせよ負の感情からくる気持ちであり想いであり、もしそういったマイナスがなければ、そういったプラスな考え方はそもそも生まれることさえなかったのではないだろうか。
つまり、悪という存在がなければそもそも正義と言うモノは存在しないと言える。
影があるからこそ光は光足れるのであり、言うなればマイナスがあるからこそプラスがあるのだから。
双対成すモノこそが、物体の証明。
つまり論じるならそこに行き着くのが自然であり必然なのである。
否、行きつかないのが間違いとさえ言えよう。
ならばである、正義の味方は言い方を変えれば悪があってこそのモノであり、もっと正しく言い換えれば、悪があるからこその正義ではないだろうか。
悪があるから弱者が生まれ、悪があるから正義感があり、悪があるから正義の味方が必要になる。
物語で言うところの王道的展開。正義が悪を、間違い失敗し犯し過ち許されない存在を討ち倒す――そんなことに人が純粋に爽快感を感じることこそ、この持論は正しく成立していると言えよう。
では、ここで少し視点を変えてみてはどうだろうか。
視点の変更――つまりコインの『裏側』を見つめ直すということだ。
たかがコインとはいえ、表しか見なければそのコインが果たして表と裏があるか確認できないだろう。
表に動物の絵が刻まれているから、裏にも同じ絵が刻まれている、そんな考えは所詮考えの域を決して出ることはなく、ならば確認しなくてはその結果は永遠に分からないということだ。
今例に出したのはコインというどこにでもあるようなモノだが、どうだろう。たかがコインという一枚の金属を指してさえそう言えるというのに、正義と悪というあるいは人なら一度は絶対に考えたことがあるであろうこのテーマの裏側を見る意味が本当にないと言えるのか。
まぁ、言える人間は確かにいるのだろうが、では見たくないというそんな人間は、前者と比べてそこまで多いのか。それについては第三者が好きに判断するだろうからここでは追論しまい。
今、語るべきは正義の裏側――即ち悪だ。
悪。言葉にすれば一文字で収まり、声にしたとしても二言で終わってしまうそれは、だが本当に悪と言えるのか。弱者を生み、正義を生みだすそんな存在。多くの人が皮肉を除けば概ねこちらには入りたくないと答えるだろうそれは、だがしかし本当に『悪』と言えるのだろうか。
物語で例えてみよう。正義が悪を倒すという概ね全ての人が好感を抱くその展開は、だが悪があってこそではないか。弱者を苦しめる悪を正義の味方が面白おかしく圧倒的に絶対的に倒すシーンで好感を持つ人間がいるのは、果たして正義の味方のおかげなのか。
世界を終わらせようとした悪の企みを正義の味方が正しさとそこからなる奇跡の力で防ぐことに人が心動かされるのは、そこに正義の味方がいるからか。
そこに――悪があるからではないだろうか。
無様に無残に不格好に恰好悪く見苦しく聞き苦しく倒されていく、そんな悪があるからこそ、正義が美しく正しく恰好よく見えるのではないか。
人が間違いを知ることが出来るのは、正義以上に全ての人間が理解する悪があるからではないか。
人が失敗を恐れるのは、そこに恐怖という名の悪があるからこそではないか。
人が人として在れるのは、明白に明確な悪があるからこそではないか。
間違わないと人は失敗に気付けない。
追い込まれなければ、人は本気にならない。
絶望を知るからこそ、人は誰かに優しくしてあげられる。
死にたくないと思うからこそ、人は生きていられる。
死ぬと思わないと、人は生きていると思えない。
悪があるからこそ――人は、人で在れる。
ならば、悪とは何だろう。
無様に無残に不格好に恰好悪く見苦しく聞き苦しく倒されていく、そんな悪は果たして『悪』と言えるのか。正義を正義足らしめる悪は、本当に悪でしかないのか。
コインの表と裏が同じなら、どちらの面でも表で在り裏で在るように、悪もまた、正義をより正しくするための、なお良しとするための、絶対的なモノに押し上げるための――弱者と同じ『犠牲』なのではないだろうか。
人が勝手にそう決めただけで、そう望んだだけで、悪は――本当は犠牲者なのだとしたら、そこに刹那の憂いを感じるのは、果たして間違ったことなのか。
それはきっと、それこそ第三者が決めるべき命題でしかないだろう。
だが、もし感じるモノが多少あるとするなら、正義の味方が悪を倒すそんな王道の物語の、悪の内心を考えてみてもいいのではないか。
これは、きっとそんな物語なのだから。