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[27036] 少年は図らずも異世界に足を踏み入れた【異世界ファンタジー・トリップ】
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/05/13 16:13


この小説は小説家になろう様でも投稿しています。


また、作中の表現に、残酷な描写やR15程度の性描写等も含みます。苦手な方はご注意下さい。




[27036] プロローグ
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/04/28 07:01
 それは、途方もなく大きな樹だった。

「…………なんだこれ」

 高宮英二は突然の出来事にこめかみを押さえる。
 確か自分は県立旗江高等学校から帰る途中で、今日は買い食いしようかな、とか考えながら歩いていた筈だ。車に轢かれそうになった子供を身を挺して守った訳でも無く、実家にあった秘蔵の壺を開けた訳でも無く、ただ歩いていただけ。
 一つ呼吸をして、もう一度前を見る。

 それは途方もなく、果てしなく大きな樹。いや、樹と呼んでいいのかすら疑わしいほどの巨大。地平線の先に根は隠れているのに、何万もの木を折り重ねたような幹は空を突き抜け先が見えない。
 視線を樹にそって上げれば、遥か天空を覆い尽くす葉が見える。どういう理屈なのかは分からないが、日光を遮る事もなく、ただゆらゆらと葉は揺れるだけ。

 一体地球上のどこにこんな馬鹿でかい樹があるか。

 馬鹿馬鹿しくも納得して、英二は座り込む。
 あの大きな樹以外に視界を塞ぐ物は無い。一面に広がるのは、申し訳程度に草の生えた荒野。そういえば鞄も無い。
 手に触れた土はさっきまで自分が居た世界と変わらない。少なくとも英二にはそう思える。しかし、これからどうすれば良いのか全く分からない。あの樹を目指して歩くにも一体何日かかることやら。その間の水は、食料はどうする。いきなり『ここに来た』自分には何の貯えも無い。
 そう思うと、急に全ての世界が現実味を帯び始めた。

(状況確認だ。とりあえず俺は知らない世界に来た、と見て間違いない。もしあんな樹が一本でもあったらCO2がどうとか問題になる筈がないし。ていうかあれ、宇宙まで伸びてるのか?)

 焦りのせいで少しズレる思考を強制的に戻す。

(いや、そんな事は今は関係ない。問題はどうやって元の場所に戻るか、だ)

 家には優しい父とお祭り好きな母、最近兄離れを始めた妹がいる。もし自分が姿を消したら心配するだろう。
 英二は正面を見据える。これだけ視界が広いのに、動物すら見かけない。少し寂しさを感じるが危険が無いのはありがたい。
 とりあえずは食料と水の確保を最優先だ。

 英二は立ち上がって、制服に付いたズボンの汚れを払う。
 食料と水、とは言っても、見渡す限りの荒野だ。一体どれくらい広いのか。

 世界は静かだ。その不気味な程の静けさが焦りを助長する。
 襲ってくる悪い予感を振り払うように、ぱちっ、と自分の頬を叩く。
 こんな所で死んでたまるか、と気合いを入れて上を向き、ふと後ろを振り向いた。

「……っとぉぉおお!? あ、あぶなっ」

 後、一歩下がれば崖だった。目も眩むほど遠い底には、驚くほど澄んだ滝つぼ。
 反射的に情けない格好で倒れ込んだ英二は、まだ心臓がどくどく波打つのを感じながら、とりあえずは水の心配はしなくて良くなった、と安堵した。

 しかし、何故気付かなかったのか。さっきから纏わりつく違和感に首を捻りながら少し横を見れば、膨大な水が流れる川。そして滝。長く、空中で細やかな飛沫に変わっている滝。
 もう一度、樹を見ると、確かに川は視界に入る。さっきまでは無かったはずの長い、どこまでも続く川が。

 まあ、見落としただけか、と半ば無理やり納得しながら、英二は崖から距離を取り、川へと歩み寄った。やはり違和感がある。
 思った以上に起伏が無く、川辺にはまばらに石があるだけ。どこか人工的な直線と、自然物が奇妙に共存している。
 そして足元に水が飛んでくる距離になって、英二はようやく違和感の正体に気付いた。

 音が、無いのだ。
 水が叩きつけられる音や、流れる音。そういう当然あるべき音が無く、ただただ静寂だけが流れている。

(何だこれ? 本格的に物語の中にでも迷い込んだか?)

 やはり、この世界はどこかがおかしい。
 英二はそう思って音の無い水に手を伸ばした。
 冷たく、感触はただの水。流れに逆らうように手を動かせば、ぱしゃぱしゃ、と何故かそこだけ水音が上がる。無性に喉が渇く。

 巨大な樹。突然現れた川。音の無い水。この世界はおかしい。有り得る筈の無い現象が、英二の思考を不快な棘で締め上げる。
 しかし、目の前には水がある。

 酷く、喉が渇く。危ないかもしれない、という理性を奪う程に。

「…………大丈夫だよな?」

 どこか言い訳がましく呟いて、英二は水に口をつける。

 この世の物とは思えない美味。

 それを最後に、高宮英二の意識は途絶えた。

 そして、ここからが物語の始まり。



[27036] 一章一話 始まりの都
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/07/23 22:07
「…………冷たい」

 高宮英二は膝下に感じる冷たい水の流れで目を覚ました。
 仰向けの体を起こして、川から這い出るように移動する。どうにも長く浸かっていたらしい。気温はそこまで低くないとは言え、両脚は冷え切っている。

 靴を脱いで、靴下を日の当たる場所に広げる。
 ズボンを捲りながら周りを見れば、さっきまでとはうって変わって、青々と茂る木々。

(次から次へと……一体、俺が何をしたって言うんだ)

 流れる川の音。植物の命の匂い。日差しを揺らす豊かな葉。名前は知らないが、小さなリスみたいな生き物がこっちを見つけて逃げて行った。
 さっきまで見ていた世界とは違う、確かな生命の存在にどこかほっとしながら、英二は近くの岩に腰をかけた。

 そもそも、自分に何が起こっている?
 急に不可思議な場所に来た、と思ったら、また違う場所だ。
 前の場所での最後の記憶は、あの澄んだ水を飲んだ所まで。ここはあの川の下流だろうか。
 しかし、前の場所は明らかに地球では無かったし、世界中から見えそうだったあの樹も無い。まさか元の世界に帰れたのだろうか。
 とりとめもなく考えるが、答えは出ない。

 とにかく周辺を探索だ、と英二はまだ渇いていない靴下を右手に、水浸しの靴を履いた。

 熊が、出た。

「よし、分かった。ちょっと待て」

 英二は熊に、止まれ、と左手を上げる。。
 よく見れば熊というより、さっき見たリスみたいな生き物を激しく大きくしたような姿だ。と思ったら、熊みたいな生き物の足元で、さっきのリスみたいな生き物が可愛らしく小首を傾げた。英二は殺意を覚えた。

 心の中で悪態をついて、英二は視線を上げた。警戒しているのか、まだ熊らしき生き物は襲って来ない。だがこの均衡が破れるのも時間の問題だ。
 洒落にならない状況に、心臓は狂ったように早鐘を鳴らす。全身から冷や汗が吹き出るのが分かる。

 じりじり、と熊らしき生き物から、目を逸らさずに後ずさる。どこかテレビで見た知識。野生動物と出会った時は目を逸らしたらやられる。

 良い子だから動くなよ、と念じながら後ずさる途中、かかとに何かが引っかかる感触。
 やばい、と思っても体は重力のままに倒れる。視界の端で動き出す熊。背中に受ける硬い衝撃。

(ああ、死ぬかな、これ)

 十八年生きてきて、それなりに世の中が見えて来て、さあこれから卒業して一人暮らしのキャンパスライフだ、という時期にこのバッドエンド。
 ここは結局どこだったんだ。死んだらどこに行くのだろう。楽しい事も、悲しい事も感じなくなるのだろうか。
 そんなのは嫌だ。
 訳の分からない世界で、訳も分からないまま死ぬ。

 走馬灯のように伸びる思考の中、英二は無性に怒りを感じ始めた。

 ふざけるな。
 そんな理不尽な話、認めてたまるか。 まだ、自分は死んで無い。死にたくないんだ。

 だったら――

 生きる!

「っだらぁ!」

 間一髪、跳ね上がるように後転して熊の腕をかわす。自分でも信じられないくらいの自己最高の動きだった。多分、二度と出来ない。また鼓動が聞こえ始める。
 熊は牙をむき出しにして英二を見る。餌が逃げて不機嫌だ、とでも言いたげな唸り声。

(まだ死にたくない! だったら、どうする、俺!)

 英二を動かすのは強烈な生存本能だ。
 現代では出会ったことの無かった圧倒的な危機。日常というぬるま湯で錆びていた神経が、本来備わっている筈の輝きを取り戻す。生きるための、魂の選択。
 もう一度訪れる均衡。逸らさずに、さっきよりも近い熊の目を見る。

 どうする。どうする。どうする。

 がさり、とどこか音がした。それを合図に、熊は体長に似合わないとてつもない素早さで、襲いかかってくる。

 音に気を取られて英二は反応が遅れる。痛恨の失敗。冷える心臓とは別に体が熱を持つ。
 避け――間に合わない。
 誰もが死を確信する状況。絶体絶命。普通ならこう思うだろう。

 ああ、ここで死ぬのか、と。

 だが、英二は諦めない。

 声にならない声と共に、英二は破れかぶれの拳を繰り出した。圧倒的体重差。例え天地がひっくり返っても勝てやしない。
 それでも全てを込めた拳は、偶然にも先に熊の鼻先を捉える。
 体が熱い。これが命の輝きか、と頭のどこかで冗談を言っている。一瞬が長い。手の先に伝わる獣の濡れた鼻先。高宮英二のありったけを込めた拳。死ぬまで諦めてたまるものか。

 そして次の瞬間、英二が見たものは、首から剣を生やした熊の姿だった。

「危ない所だったね。大丈夫かい?」

 まだ状況が上手く飲み込めない英二は、声のした方向へとぎこちなく首を向ける。見知らぬ人が近付いて来る。この人間が投げたらしい剣が熊の命を奪い、自分は助かったらしい。

 男装の麗人、とでも言うべきだろうか。
 輝く金の長い髪は高い位置で一つに括られ、優雅な髪飾りで彩られる。華やかだが、動きやすさを重視した服は男物のようだ。しかし、確かな胸の膨らみと全体から滲み出る女性的なラインが、逆に彼女の魅力をアンバランスに引き立てる。目鼻立ちはすっきりしていて、なおさら中性的に見えるが、英二が驚いたのは瞳の色だ。
 深く、濃い紅。癖のない金糸の髪の下、血よりも濃い真紅の瞳。
 金と紅。初めて見る組み合わせに英二は目を離せなかった。

「しかし、まさかコリストの成体と素手で闘う人間がいたとは、驚いたよ」

 英二は慌てて目をそらして熊、コリストから離れると、男装の麗人は剣を引き抜いた。どういう仕組みか、血糊一つ付いていない。
 ちょん、と男装の麗人が大きな頭を押すと、コリストはゆっくりと倒れ、遠くで見ていたコリストの子供が逃げる。

 緊張が抜けて、英二は思わず地面に座り込んだ。

「し、死ぬかと思った……」

「ははっ。運良く私が通りかかって良かったね」

 英二は改めて男装の麗人を見る。
 細身の剣を鮮やかな動きで鞘に納める姿にすら、どこか気品が漂う。明らかに普通じゃない。おまけに金髪に紅眼。
 紅い瞳が細められて、英二に手を差し出した。

「見たところクジュウの国の民らしいけど、どうしてこんな場所に?」

 英二はその手を握って、立ち上がろうとした。

「それは……あ、あれ?」

 が、命の危機をくぐったせいか、腰が抜けて上手く立ち上がれない。
 男装の麗人は快活に笑いながら、英二に背を向けてしゃがんだ。

「まあ、良くある事だよ。さ、どうぞ」

 非常に嬉しい申し出だが、男としてのプライドが邪魔をする。だが、ここで助けの手を断って、置いて行かれでもしたら目も当てられない。

「えっと、お、お願いします」

 それでも若干悩んで、英二はしなやかな背中に手をかけた。
 男装の麗人は英二が掴まった事を確認して、しっかりとした動作で立ち上がり、歩き始める。

「それでさっきの質問だけれど、君は……、すまない。私としたことがまだ名前も名乗ってなかったね」

 随分と力持ちだな、と感心しながら、目の前の癖の無い金の髪束を避けていた英二は、思い出したように礼を言った。

「忘れる所でした。さっきは本当に助かりました。俺は高宮英二、って言います。えっと、高宮、が姓で、英二、が名前です」

「タカミヤエイジ? それは珍しい響きだね。姓名が逆というのも珍しい」

 言葉の振動が背中から英二に伝わって来る。男装の麗人は、こほん、と咳払いをして、その名を紡ぐ。

「私の名前はリズ・クライス・フラムベイン」

 英二はふと気付く。何故、自分はこの人の言葉が解るのか。明らかに日本人ではないこの人が、日本語を喋っているとは考えづらい。常識など既に吹き飛んでいるが、それでも常識的に考えて。

 そして英二は次の言葉で、更にぶっ飛んだ状況になっている事を、知る。

「まあ、早い話がこの国、フラムベイン帝国の第三皇女さ。あ、ちなみにここ、私の家の敷地だから」

 英二はさっきとは別の意味で命の危機を感じる。不法侵入。不敬罪。フラムベインってどこだ。
 金の髪がさらり、と英二の頬に当たった。太陽と甘酸っぱい匂いがする。からから、と明け透けに笑うリズの横顔から悪意は感じない。

 だが、英二には、それが悪魔の笑みにしか見えなかった。



[27036] 一章二話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/07/22 19:36
 揺らめく湯気。とろける体。

「極楽だ……」

 広い豪華な造りの浴場に、声が軽く反響して消えていく。
 一人では到底使い切れない広さの湯船。英二は足を伸ばし、大きく息を吐いた。

(とりあえず入れ、って言われたから入ったけど、この先どうなるんだ)

 リズの家。つまり皇女の住まいである皇居は、目を覚ました場所から、歩いて五分程の距離だった。最悪サバイバルを考えていた自分が恥ずかしい。
 ちゃぷりと乳白色のお湯を掬う。指の間から零れ落ちる。

 彼女がこの皇居に着く頃、英二は歩けるようになっていた。そこでいきなり現れた使用人に連れられ、どんな罰が待っているのか、と身構えていたら、意外にも着いた先はこの浴場だった。
 服を脱がせ、体を洗おうとしてくる使用人の女の子をどうにか説得し、一人で落ち着ける状況になった英二はぼんやりと上を向く。
 いきなり命の危機だったが、どうにか死なずに済んだ。

 そう、自分は生きているのだ。

自分がいた地球では経験したことの無い、危機に晒されたが故の生々しいまでの生。それは安心と、これから先の不安を浮き彫りにする。

(コリスト……だったっけ。あんな生き物が見たことも聞いたことも無い。でも、リズや使用人が話していた言葉は日本語。フラムベイン帝国、なんて聞いたことないし……やっぱりここはまだ異世界なのか?)

 言葉が通じる事の違和感。仮に外国だとして、そんな偶然があるのか。
 ここはあの大きな樹のあった世界とは、また別の異世界。その仮定が大きくなる。というより、それ以外にそれらしい答えを見つけきれない。
 英二は大理石で出来た石像を眺める。贅沢な金の使い方だ。

(いや、それは今はいい。言葉が通じて悪い事は何もない。話せるのが異世界に来た特典なら、喜んでも良い。問題はこの場所が、あの熊みたいなコリストを易々と殺せる場所だ、って事だ)

 まだ鮮明に覚えている、首から剣を生やしたコリストの映像。あれはリズが投げたんだろう。不意打ちとはいえ、リズはコリストをあの一撃で倒した。それこそ良くあること、レベルの気軽さで。
 つまりはリズはコリストより強い。それも、圧倒的に。

「女の子なのになぁ……」

 もしも。もしもこの異世界のフラムベインとか言う国が、力の支配する国だったら。女の子のリズでさえあの強さだ。自分など指先一つでやられてしまう。
 今はクジュウの民だかなんだかと勘違いしてくれているから良いが、本当は全く関係の無いただのひ弱な高校生です、とバレたらどうなるのだろう。

(…………よし、とにかくリズには逆らわないようにして、ご機嫌を取ろう。せめて、この異世界の事を知るまでは)

 力が強いというのは、間違いなく正しい。少なくとも、さっきのコリストとの戦いはそうだった。殺すか、殺されるか。

 今まで希薄だった意識。平和な日本の学生で、喧嘩一つしたことの無かった英二は異世界の地で、そんな当たり前の事を思った。









 浴場から出てリズの居るらしい部屋に移動する途中、英二は着慣れない、ゆったりとした異国の服の感触に襟元を引っ張った。

「こういう服はテレビの中でしか見たこと無いな……」

「あっ、もしかしてお気に召しませんでしたか!?」

 英二の言葉に、ラミ・モルドナーは敏感に反応した。
 緩く片側に括った亜麻色の髪は、彼女の動きに合わせて良く動く。エプロンドレスを身に纏う姿は様になっているが、対照的にその大きな碧眼は不安げに揺れている。
 美人か可愛いか。どちらかと言えば可愛いに分類されるラミの視線に、英二は罪悪感を感じて、軽く首を横に振った。

「いや、そういう訳じゃないんだ。気にしないでくれ」

「ああ、良かった。リズ様の連れてきたお客様に粗相があったら、後で叱られちゃいます」

 そう言って、さっきまでの不安げな表情を一転させて、笑いかけてくるラミ。その笑顔に癒されながらも、忙しい子だな、と英二は苦笑いを返した。

「ラミ……は、ここで働いてどれくらいになるんだ?」

 見た目は同い年くらいだが、初めに敬語と敬称をラミ本人に却下されたため、少し躊躇いながら名前を呼ぶ。
 当たり障りの無い世間話だが、ラミはどこか満足そうに答えた。

「私が十三の時にここに来たので、大体四年くらいですかね。たまたま、ここの侍女長のネイルさんに拾われて」

 良く動く表情。話し方や仕草の端々に、持ち前の明るさが滲み出る。
 英二はそんな明るさに自分の今の境遇が照らされた気がして、ちょっぴり気が滅入った。

「そっか。道理でその格好が様になってると思ったよ」

 ありがとうございますっ、と大袈裟に礼を言うラミ。
 エイジさんは何歳ですか、リズ様とはどういう関係ですか、と続けて嵐のような質問を浴びせてくる。英二が適当に答えたり、はぐらかしたりしていると、廊下の先に豪華な、他の部屋とは違う扉が見えてくる。
 こほん、とひとつ咳払いして、ラミは豪華な扉を指す。その動作はさすが長年使用人をしているだけあって、無駄の無い綺麗なものだ。

「あれがリズ様の部屋ですよ」

「もしかして、個人の部屋か? 応接間とかに通されると思ってたんだけど」

「普通はそうなんですけどね。リズ様のご指示です」

 話す間にも扉は近付いてくる。
 英二が立ち止まると同時に、ラミは扉をノックした。

「リズ様。エイジ様をお連れしました」

 入れてくれ、と中から声がして、ラミは扉を開き、英二に入るよう促す。
 英二は扉を開けた状態で待つラミを横切り、部屋に入る。

「やあ、さっき振りだね」

 思ったより質素な内装。ぱっと見ても、ここが国で上から数えたほうが早いほど偉い人の部屋とは思えない。かといって安物、という訳ではないのだろう。使い込まれた机や、使いやすさを重視した簡素なテーブルは、素人目に見ても造りの細かな高級品だ。
 中央のソファに座って朗らかな笑みを浮かべるリズ。後ろで扉の閉まる音。ラミは入って来ないらしい。
 英二はリズの機嫌を損なわないよう気を付けながら、ゆっくりと歩み寄る。まずは礼儀が大事だ。

「さっきは助けて頂きありがとう御座います」

 そう言って深々と頭を下げた英二に、リズは目尻を下げる。

「まあまあ、そんなに畏まらないでくれ。それにこちらとしても色々と聞きたい事があるんだ」

 来たか、と英二は思いながら、促されるままソファに座る。今は友好的だが、ここで機嫌を損ねたらどうなるか分からない。緊張しながらリズの言葉を待つ。

「前々からクジュウは気になっていてね。話にしか聞いた事は無いけど、この国とは違う技術体系で成り立っているとか」

「ええと、あの。そのこと何ですが……実は俺、ここがどこだかも分からなくて」

「ふむ、君はこの家の警備を潜り抜けてあの場所に居た。当然、君に何かしらの思惑があった、ということは知っているよ」

 警備を潜り抜け、という言葉に反応した英二を、リズは射抜くように見た。

「私や母を暗殺しに来た、にしてはコリストに遅れをとる実力。恐らく情報収集のみに特化した諜報員。現に敢えて背中を晒しても、何もしてこなかったしね」

 いつの間にか何か話が大きくヤバい方に向かっている。英二は誤解を解くつもりで口を開こうとして、思いとどまった。

(一体なんて説明すれば良い? 何もしてないけど、気付いたらあそこにいましたー、なんて言える雰囲気じゃないし、かといって諜報員とか、そういう悪人的な称号は非常にマズい)

 焦りながらも何も言わない英二に、リズは優しく微笑みかける。

「大丈夫、私は諜報員だからと言って、君をぞんざいに扱ったりはしない。使用人には、君は私の客人という事にしてあるし、現に今だってそう扱っているつもりだよ」

「はあ…………」

 英二は目的の読めないリズの言葉に生返事しか返せない。
 他国の諜報員なんて、普通は拷問なり何なりして口を割らせるんじゃないか、と映画で見た知識を呼び起こす。
 リズは腰を浮かせ、身を乗り出して英二に顔を寄せた。密やかな声が耳をくすぐる。

「早い話が、私の下につかないか、と言うことだ」

 英二は言われてやっとリズの意図が分かった。
 リズは自分を取り込もうとしているのだ。厳しいらしいこの家の警備をかいくぐり、クジュウとやらの情報を持っている、と思われている自分を。

 真実を話すのは今しか無い。これ以上話が飛躍する前に、英二は自分に起こった馬鹿げた事態を語る決意をした

「あの、とても信じて貰えないかもしれないんですが……」

「いやいや、君はこれから私の右腕になってもらうつもりだ。だから、私は信じよう」

「俺、こことは全然違う場所から、いきなりここに来たんです。多分、世界自体が違う場所から。クジュウとか諜報員とか、全く関係ありません」

「そうかそう……か……?」

 あれ、とリズは額を押さえて、少し沈黙した後、軽く笑みを浮かべた。

「いや、そういう嘘は言わなくても大丈夫だよ。ここは離れとはいえ、皇族の敷地内だ。偶然迷い込める場所じゃない。それこそ侵入のエキスパートでも無い限り……」

「いや、本当です。そもそもここが敷地内なんて知りませんでしたし」

 嘘だ本当だ、を繰り返す事、十分。ついにリズは折れた。

「はぁ、見かけによらず強情な性格だね。まあとにかく、最初に君に頼みたいのは……」

「リズ様、大変です! またマリレア様が発作を……!」

 勢いよく開いた扉から、緊張感のある声。
 英二が驚いて振り向くと、慌てた様子のラミの碧眼がさらに動揺する。

「す、す、すみません! 来客中だって事、忘れてましたっ」

「いや、いいよラミ。それで、母上がどうしたって?」

 リズはこれ以上の英二との話を諦めて、ラミに続きを促す。
 ラミは英二を気にしてか、自分の失敗を気にしてか、どこか遠慮がちに答えた。

「発作、です。いつもよりは軽微ですが、リズ様を呼んでいまして……」

 またか、とリズはため息をついて立ち上がった。

「エイジ、すまないが話は後だ。ラミ、エイジを客室にでも案内してくれ。私は母上……いや、マリレア様の所に行ってくる」

 はい、と幾分か落ち込んだラミが頷くのを見て、リズは早足で部屋を出て行った。
 よく分からない状況に首を傾げるエイジに、ラミは戸惑いがちな笑顔で話しかける。

「えっと、エイジ様。お部屋まで案内しますね」

 発作とは、リズの母親に何があったのだろう。英二は気にしながら返事をする。

「ああ、よろしくお願いしま……するよ」

 ラミは扉の前に立つ。普段から失敗が多いのか、先ほどよりやや元気が無い。
 英二の歳は十七。今年で十八。さっきの話によるとラミも同じくらいの歳だ。しかし、英二はなんだか学校の後輩のような親近感をラミに覚えた。実際はラミの方がこの世界の大先輩だが。

「えっと、とりあえず俺は気にしてないから、落ち込まないで良いよ」

 反射的に出た陳腐な慰めの言葉。少し驚いたような表情の後、ラミははにかんで、案内を始めた。







 込み入った事情だろう、と日本人的な気遣いで、リズの母の発作とは何なのかは、結局ラミに聞けずじまいだった。

 案内された部屋で椅子に座り、英二は机に肘をつく。
 部屋をざっと見渡せば、やはり日本では無い造りの家具。上質な木で出来たベッドは天蓋付きで、一体どこのお姫様の部屋だ、と思う。下手したらさっきの本物のお姫様の部屋より豪華だ。
 何気なく机に置いてあった本を開く。

「やっぱり日本語じゃない、か……」

 まだ僅かにあった『ここは日本の映画村的な場所で、もしかしたらそこに偶然来てしまっただけ』という希望は砕かれ、代わりにぽつりと声が漏れる。
 本に書かれた字は日本語でも英語でも無い、初めて見る文字。しかし、彼らが話す言葉は日本語。英二は少し考えて、理由探しを諦めた。

 本を閉じて立ち上がる。
 何にせよ、頼れるものが自分には無い。無力さを歯痒く思いながら、窓から外を眺めた。

 良く手入れされた庭。ちょっと前まで自分が居た森が奥にある。
 やることも無く、英二がぼんやりと庭を眺めていると、年端もいかない少女が歩いている姿を見つけた。

 その少女は英二に気付いていない。花を一輪大事そうに持ち、大きな帽子を揺らしながら歩く。
 少女が遠目からでも分かる上機嫌さを振りまいていると、強い風が吹いた。大きな帽子が飛ばされ、庭の木に引っ掛かる。
 帽子が引っかかった枝はそんなに高い場所ではないが、少女の背丈では届かない位置だ。更に少女の手の届く範囲の幹には、掴めそうな取っかかりもない。少女は何度か挑戦して、さっきまでの上機嫌とは一転、途方に暮れた様子で木に引っかかった帽子を見つめた。

 そんな少女を見ていた英二は、行儀悪く窓から出て、少女の背中に声をかけた。こんな事してる場合じゃないけど、と内心思いながら。

「俺が取るよ」

 いきなり声をかけられ驚く少女の返事も聞かず、英二は軽く跳躍して帽子を掴んだ。

「はい」

 差し出された帽子。少女はそれをゆっくりと、遠慮がちに受け取った後、満面の笑みを浮かべた。

「ありがとうございます! わたし、もの凄く困ってて、とっても嬉しいです!」

 少女は英二の手を取って、庭のテーブルを指差した。

「あそこで待ってて下さい! わたし、お礼のお菓子を持ってきますね!」

「あ、いや別に……」

 英二が否定する前に、少女は持っていた花を帽子に差して、その花を頭上で揺らしながら駆け出す。

「……まあいいか」

 どうせ今はやることが無いし、半ば無理やりとはいえ約束を破るのは気まずい。英二は仕方なく、綺麗に掃除されているテーブルに向かった。









「さっきはありがとうございました!」

 少女は元気にお礼を言って、テーブルに紅茶とお菓子を載せた盆を置いた。
 英二は安心して息を吐く。実は少女がたっぷりと盛り付けられたお盆を持ってくるのは二度目だ。一度目はテーブルに辿り着く前に転んで、色々と庭にばらまいてしまっている。

 そんな英二の胸中には気付かず、少女は大きな帽子を外した。
 散らばる金の髪が太陽を跳ね返す。肩まで伸びたその髪は緩く曲線を描き、少女の可憐さを引き立て、成長前特有の危うさを印象付ける。
 大きな瞳は好奇心と純真さをたっぷりのせた琥珀色。表情の変化の多さが、少女の性格を良く表している。
 転んだせいで汚れたドレスに気がつかないまま、少女は一礼した。

「わたしは、シアミトル・フラムベインです! シア、って呼んで下さい!」

 ここは皇族が住んでいる皇居。ならばその中で、明らかに上質なドレスを着たシアも当然、皇族。英二は薄々感づいていた。しかし、こんな小さな女の子が偉い人、というのがあまりピンとこない。

「えっと、俺は高宮……エイジ・タカミヤだ。シア……で良いか?」

「はい! エイジさん、ですか。素敵な名前ですね!」

 シアは嬉しそうに言った後、ドレスの汚れに気付き、慌てて両手で払う。
 英二は苦笑しながら立ち上がり、シアの手の届きにくい汚れを払った。

「そそっかしいお姫様だな」

「う…………すみません」

 気にしている部分を言われたからか、僅かに肩を落とすシア。英二は緩く佇む金髪をくしゃり、と撫でた。

「いや、褒め言葉だ。子供は元気なのが一番だしな」

 そう言われて、嬉しそうに笑顔を見せるシアに、元の世界の妹が重なって見え、英二は椅子に戻りながら家族に思いを馳せた。

 優しい父親とお祭り好きの母親。自分によく懐いてくれていたが、最近兄離れを始めていた妹。
 家族は心配しているだろう。自分は戻らなくちゃいけない。例えどれだけ時間がかかっても。

 庭の花の咲き具合がどうだとか、この帽子と花はお姉さまの贈り物でとても大事だとか、そんな事を一生懸命にシアは話す。英二はそんなシアに姿に、この世界に来てから無意識に張っていた警戒の網が緩くなっていくのを感じた。

「それで、お姉さまは凄いんです! 今まで色んな剣の強い人が来たんですけど、途中からお姉さまがみんな追い越して、最後には強かった人の方が教えを乞うようになるんですよ! 勉強も、家庭教師の人が『是非うちの研究所に来ないか。君ならこの国を背負う技術者になれる』って言うくらいでっ」

「そりゃ凄いな。どんな完璧超人だよ」

 シアは姉が大好きらしい。さっきから熱弁している。しかし、誇張が入りすぎだと思う。
 英二はお菓子のクッキーの最後の一枚をシアにあげ、紅茶を口に含んだ。

「まあ、それほどでもないさ。常に精進、積み重ねていけば誰だって出来る」

「ごほっ!」

 突然聞こえてきた声にむせる。

「エイジ、大丈夫かい? まるで悪事がバレた犯罪人みたいな反応をして。不法侵入とか」

「洒落になってないぞ、それ!」

 お姉さまはこいつか、と思わず敬語も忘れて振り向くと、リズは堪えきれない笑みを浮かべていた。

「ふふっ、そっちの方が良いな。ラミにも敬語は使ってなかったし……よし。私にも敬語は禁止だ、エイジ」

「んな事を言って、更に弱みを握るつもりですか?」

「不敬罪。皇族の命令に背けば重罪だ」

 敬語を使うと不敬罪、というあべこべな命令。
 英二が躊躇っていると、シアが立ち上がり、リズに飛びかかるように抱き付いた。

「お姉さま、エイジさんをあんまりいじめないで下さい! エイジさんはわたしが困っていた所を助けてくれたから、良い人です!」

「いじめてなんかないよ、シア」

 リズはシアの髪を手櫛で優しく流す。シアは気持ちよさげにされるがままだ。リズが男装のせいで、その二人の姿は頼れる兄と健気な妹に見えなくもない。
 リズはシアの頭に手を載せたまま、エイジに視線を上げた。

「エイジ、君は何歳だい?」

「今年で十八……です」

「なんだ。私と同じじゃないか。だったら、なおさら敬語なんて必要ない。君とはそういう部下と上司ではない、もっと深い仲になるつもりなんだ」

 聞きようによれば愛の告白にも似た言葉。現に勘違いしたシアはリズのお腹に赤くなった顔を押し付け、隠している。
 だが、英二はリズの紅い視線に、もっと深刻な決意を感じた。
 自分に何故これだけ執着するのかは分からない。しかし、助けられた恩もある。それに結局の所、今の英二に頼れる人間なんていない。
 ならば、ここは覚悟を決めるべきか。恩義が半分、打算が半分。英二はゆっくりと頷いた。

「…………分かった。これで良いか? 言っとくけど、この口調で行動は礼儀正しく、なんて器用な真似は出来ないぞ」

「ああ、それで良い。いや、それだからこそ良い」

 リズの思惑は分からないが、英二には彼女が悪い人間には思えなかった。

 どうせこの先、誰かの協力が必要だ。
 英二は元の世界に戻るため、この世界で生きるため、リズ・クライス・フラムベインと契約の握手を交わした。







 リズの住む皇居の森は広大だ。森の先は不踏のビルド山が侵入者を拒んでいるし、仮に入り込んだとしても方位磁針の効かない天然の迷宮が待ち受けている。さらに仮に森を抜け皇居に出ても、警備兵が常に目を光らせ、皇族の安全を守る。野生動物はそもそも人の気配の多い皇居にはあまり近付かない。

「確かこの辺りに…………おお、いたいた。結構デカいぞ」

 皇居の警備兵の一人、ダリアはリズの命で、英二と戦ったコリストを捕りに来ていた。
 コリストの毛皮はそれなりに高値だ。肉も不味くは無い。

「全く、散歩のついでにコリストの成体を狩ってくるなんて『皇帝姫』の名に相応しい武勇だな」

 ダリアが呆れながらコリストに近付くと、別の声が森に響く。

「当然だ。姫様にかかればコリスト等は片手間だろう。俺にすら倒せる相手だ」

 共に来た警備兵のモッズは、我が事のように胸を張った。
 ダリアは押してきた台車をコリストの死骸のそばに止め、モッズに手で指示しながら気だるげに話す。

「その姿は他のどの皇女より美しく、その剣は何人も相対する事を許さず。最近は求婚を避けるために男装までしてるが、それでも愛の花束は貴族から山のように届く。モッズ、お前には高値の花過ぎるだろ」

「…………うるさい。想うだけなら勝手だ」

 そんなものかね、とダリアは自分とは違う価値観を聞き流す。
 女遊びもしないこの仕事馬鹿とは、それなりに長い付き合いだ。この手の会話も何度したか覚えていない。

 そういえば今日は珍しく姫様に客人が来たらしい。どんな奴かは知らないが、男だったらモッズがうるさそうだ。

 ダリアは少し憂鬱になる。今日は飲みに行って、行きつけの娼婦のいる店に行こう。そうだ、そうしよう。こういう日には男ばかりの宿舎から離れて、女を抱くに限る。
 台車の取っ手に体重をかけ、周りを警戒する振りをしてサボる。モッズが恨みがましい視線を寄越すが、いつものことだから気にしない。

 モッズがため息を吐きながらも手際良くコリストを台車に載せた時に、ダリアはその違和感に気付いた。

「おいモッズ。なんかこのコリスト、顔が変じゃないか?」

「ん? ……言われて見ればそうだな」

 モッズはしゃがみこんでコリストの口元を短剣の柄で押した。

「どうやら、口元から顎にかけて骨が砕けてるらしいな」

「ひゃー、さすが皇帝姫。体術すら化け物並みですか」

「姫様を化け物呼ばわりするな! 恐らく噂に聞く魔力の応用法だろう。そんな技術を自ら編み出した姫様…………素晴らしい! ダリアっ、この技術は四年前、姫様の師範をしていたトルベール殿の……」

 また始まった、とダリアはバレないようにため息を吐く。モッズは一度姫様スイッチが入ると、普段の寡黙さはどこへやら、小一時間は姫様万歳な話を続ける。
 重いコリストは、台車を使っても二人がかりで運ぶのがやっとだ。よって、ダリアはモッズから離れる事も出来ない。

 早く仕事を終えて、飲み屋に繰り出したい。

 屋敷までの短い道のり。ダリアは酷く長く感じた。



[27036] 一章三話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/04/07 18:43


 リズ・クライス・フラムベインは不意に文字を書く手を止めた。

 夜も更け、自分の部屋には誰もいない。机に広げた日記には今日あった事、学んだ事、やるべき事を書き込んでいる。いわば、この日記はリズの歩む道だ。
 その中の一つ。今日、出会った面白い男を思い出しながら、リズは日記を引き出しの隠し場所にしまう。

 考え事ついでに森を散歩していると、その男は変な服装で武具も持たずにコリストと対峙していた。侵入者か、と息を潜めて見ていたが、どうやら本当に襲われていたらしい。
 よくよく見ればクジュウの民らしく、髪と瞳は黒かった。クジュウの民はフラムベインではとても珍しい。
 しかし、リズが彼を面白い、と思うのは、決して彼がクジュウの民だからでは無い。

 彼は殴ったのだ。獣の太い腕が、今まさに命を刈らんとするその瞬間。絶望的な体重差や腕力の違いを無視して、あがき続けたのだ。
 それは誰にでも出来る事ではない。少なくともリズは、死ぬ寸前になっても瞳に光を宿し続ける人間を初めて見た。

 もしかしたら、本当に一般人かもしれない。だが、あの容姿と心の在りようは、自分のこれからに必要だ。

 固まった背筋を伸ばし、ベッドに向かう。脱いだ服が軽やかな音を立てて床で重なる。リズは下着姿になってシーツにくるまった。

 国とは何か。そして、自分がやらなければいけないこと。

 早速、彼には明日から働いて貰おう。

 リズは広いベッドで、小さく丸まって眠った。







 このフラムベイン帝国の首都アリスナは、首都の名に恥じない豊かさを誇っている。
 貴族はこの地の西部に本家を置く事が一種のステータスであるし、南部にはフラムベイン帝国で二番目の規模を誇る歓楽街。東部には大陸最大の商会、ミスラム商会の本部が置かれ、それに伴うように商人が店を出す。
 当然、全ての人間が裕福な訳では無い。貴族などの富裕層とは別に、普通の住民も大勢いる。

 リズの住む皇居がある中央部から北に歩くと見えてくる、雑多な人ごみと人の熱。
 英二はそんな人々の活力に圧倒されながら、隣を歩くラミに話しかけた。

「す、凄い人だな。いつもこんななのか?」

「そうですよっ。ここは首都の中で一番人の多い、居住区ですから」

 使用人用の制服ではなく、私服を着たラミが楽しそうに頷く。
 大通りには露天商が並び、そこかしこで笑い声が響く。店の名前は読めないが、中を覗けば昼間から陽気に酒を飲む人。
 行く人行く人が英二の顔を見ていくが、もう慣れた。それほどクジュウの民とやらは珍しいのだろう。
 でも、とラミは指を立てる。

「今日は休日なので、どちらかといえば多い方ですかね」

「そう、休日だから私もついてきているんだ」

「……リズ、おまえ偉い人なのに大丈夫なのか?」

 問題無い、とリズは落ち着き無く周りを見渡しながら答える。最初見た高貴な服ではなく、安っぽい男物の服だ。
 長い髪は変わらず高い場所で結われ、癖の無い前髪の下には黒い瞳が輝いている。

 そう、紅ではなく黒い瞳が。

「不思議なもんだよなぁ……」

「簡単なものだよ。まあ、確かに使える人は珍しいけどね『魔術』は」

 こともなげに言うリズの瞳はやはり黒。紅い瞳は皇族の証らしく、そのままでは流石に街を歩けないらしい。英二は出立前に変化するその瞬間を見せられても、まだ信じられなかった。

 魔術。漫画とか映画とかフィクションの中の想像の産物。つい最近まではそうだったはずだ。
 喜びとかそういう感情より、とんでもない世界に来たもんだ、と諦めの感想が先に出る。
 そうこうしていると、リズがふらふらと輪から外れて行く。どこに行くんだ、とラミと一緒についていくと、美味そうな匂いの漂う出店の前にリズは止まった。

「おじさん、これ五つ下さい」

 出店で何かを焼いていた中年の男性は、弾けるような笑顔を浮かべ、ねーちゃん美人だから、とおまけに一つ多く商品を差し出す。
 ありがとう、と礼を言って勘定を済ませ、リズは振り返って両手いっぱいのそれを英二達に見せた。

「これ、美味いぞ。二人とも一つどうだい?」

「一つどうだって、六個もあるぞ。俺はそこまで大食漢じゃないし……」

「いらないのかい? エイジはもったいないことをするな。ほらラミ、一つ取って」

「ありがとうございますっ。これ、ナルバ焼きですよね? 私も好きなんですよ!」

 ラミはそのナルバ焼きとやらの包装紙を剥がす。中には出来立てらしいパンと、カリカリに焼けた肉厚のベーコン、そして一切れの野菜。
 そういえばこっちに来てからまともなものは何も食べていない。食べたのは昨日のシアとのお茶会での菓子くらいで、夜は気付いたら寝てしまっていた。
 急にお腹が空腹を主張し始める。昨日のクッキーみたいな菓子を食べた限り、こっちの食べ物も基本的に元の世界と大差ない筈だ。
 ラミがナルバ焼きにかぶりつく。小さな口がパンと肉と野菜を同時に持っていく。軽く溢れた肉汁がラミの手を汚す。それに気付いたラミが、口の中のナルバ焼きを喉を鳴らして飲み込んで、細い指の間に付着した液体を舐め取った。

 扇情的ともとれるその光景でも、英二の意識は形を変えたナルバ焼きだ。ナルバが何かは知らないが、めちゃくちゃ美味そうに見える。

「……あの、リズ、いや、リズさん。俺にも一つくれません?」

「敬語禁止」

「うっ。……お願いだから一つくれ。凄い美味そうだ……」

 ジト目から笑顔に変えて、リズは腕の中のナルバ焼きを英二に差し出す。奢られる、という事実に少し腰が引けるが、欲求には勝てずに英二はナルバ焼きを一つ取った。
 包装紙を剥がし、かぶりつく。確かな歯ごたえと、シンプルが故の直球で訴えかける肉とタレの味。

「美味いだろ?」

 リズの言葉に視線だけで肯定を返して、英二は食べ続ける。

「よし。そろそろ私も食べようかな」

 英二は夢中でナルバ焼きを貪る。ラミもお腹が空いていたのか、ぱくぱくと食べる。

 そして包装紙の底に残っていた肉片まで食べ、英二は吐息と共に声を漏らした。

「はぁ、美味かった」

「うん、美味しかったです」

 ラミも満足そうに包装紙を丸めている。
 若干の喉の渇きを覚えながら、英二はリズに視線を向けた。

「リズ、ご馳走様」

「いや、気にしなくていいよ。ラミ、あそこで飲み物を買ってきてくれないかい?」

 そう言ってリズが袋からお金を渡すと、ラミは素直に買いに行く。その姿は主人と使用人というより、仲の良い友達に見えた。
 しかし、英二は違和感を覚える。何かが変だ。
 少し考えて、英二はその正体に辿りついた。

「なあ、リズ。残り四つのナルバ焼きはどこに行ったんだ?」

「ん? 変なことを言うね。食べ物なんだから、食べたに決まってるじゃないか。さ、腹ごしらえもしたし、そろそろ目的地に向かおうか」

「あ、ああ……」

 帰ってきたラミから飲み物を受け取るリズの両手は、綺麗さっぱりなにも無い。汚れすらついていない。
 さ、行こうか、と先導するリズの背中にそれ以上何も言えず、英二は受け取った飲み物を一口飲んだ。果実の甘い後味。

「こ、これも美味いけど……なんだかなぁ」

 魔術もリズもこの世界は不思議だらけだ、と英二は独り言を零した。







「私の分は適当に、上品というよりは……そうだね、少し派手な方が良い。うん。……ああ、エイジ、ちょっと来てくれ」

 裏路地の奥の看板も出ていない店。リズに連れられて入ったそこには、所狭しと布が置かれている。
 この店の店主らしい、恰幅の良い女性と話していたリズに呼ばれ、英二は手に持っていた紫色の布を棚に戻した。

「結局、俺は何をすれば良いんだ?」

「とりあえず今は、そこに立つこと」

 言われるがままに立ち止まると、恰幅の良い女性に採寸される。あらかた採り終えると、女性は店の奥に入っていった。

「なあ、いい加減教えてくれたって良いだろ?」

「焦らない。物が出たら話すよ」

 それだけ言ってリズは黙る。大丈夫かよ、と思いながら英二は腕を組んだ。

 程なくして、女性は両手に服を携えて戻ってきた。暖色系の薄いドレスと、ゴテゴテとした軍服らしき一式。
 リズはその暖色のドレスを受け取り、目の前で広げた。

「うん、こんな感じだ。やっぱり君は優秀だよ」

 もったいないお言葉です、と女性は一礼した後、英二に軍服を渡す。しっかりとした生地。現代の洋服とは違い、ずしりとした重量感がある。

「リズ、物っていうのはこれか?」

「ああ、そろそろ説明をしておこう」

 こういう状況には慣れているのだろう。女性は何も言わずに店の奥に入っていく。
 リズはドレスを英二に見せながら、人差し指を立てた。

「今から行うのは、言わば潜入捜査だ」

 潜入捜査、という言葉だけなら英二にも分かる。英二は黙って頷いた。

「これから私たちはこの服に着替えてある場所に行く。なに、今回は危険は少ない筈さ。それに、もしもの時は私が守るよ」

 危険が少ない、と言うなら文句は無い。小心者な思考だが、身を守る手段の無い英二にとっては大事なことだ。

「それにはラミも行くのか?」

 名前を呼ばれて、今までリズの後ろで黙って控えていたラミが首を横に振る。

「いいえ、私はお供出来ません」

「これは私と君でしか出来ない事だからね。ラミはこの後、城に戻って仕事がある」

 気にかけて貰って嬉しいのか、ラミは視線で礼を言ってくる。そこまで深い意味は無かったのだが、英二は片手を上げて返しておいた。
 二人のやり取りに気付いたリズが、どこか怪しい笑みを浮かべる。

「なんだなんだ。いつの間に二人は仲良くなったんだい? 妹のシアといい、エイジは女性を誑かすのが上手いね」

「そ、そんなんじゃありませんよっ」

 慌てたラミが敏感に反応する。無論、英二にもそんな気は毛頭無い。

 片側に緩く括った亜麻色の髪が、ラミの動きに合わせて横に揺れる。英二はラミ・モルドナーに、女の子らしい女の子という印象以上を持っていない。

 布ばかりの空間を包んでいたさっきまでの緊張感が、どこかへ消えていく。きちんと説明の続きはしてくれるのだろうか。
 まあ時間はあるんだろう、と英二は仲良くじゃれあう主人と使用人をよそに、手の中の見慣れない軍服を興味深げに眺めた。

 





「…………本当に大丈夫なんだろうな?」

「大丈夫。私に抜かりは無い」

 英二は不安げに目の前の建物を見た。
 読めない文字で書かれた看板。リズが言うには『ミスラム商会』と書かれているらしい。

 ミスラム商会はこの国最大の、商人のための組織だ。他の街からの入ってくる品物の管理。商人同士の取り決めや、取引の仲介。他にも様々な場面でミスラム商会は動く。 それだけ聞けば良いことばかりだが、働くのは人間。やはり賄賂や密輸等の裏の側面はある。
 だが、それでもやはり自治体としての機能や抑止力は大きい。世の中は綺麗事だけで回る筈がないのだ。

 しかし、リズの耳にある情報が入る。このミスラム商会で今度大規模な密輸があるらしい。そしてその品物は――

「奴隷、か」

 英二はテレビで聞き慣れた、これまでの人生で全く関わりのなかった言葉を呟いた。
 奴隷。人を物として扱う行為。日本で育った英二にはあまり良い響きでは無い。

 リズとラミが落ち着いた後、説明はちゃんと続けてくれた。正直、そんな危なそうな事には関わりたくなかったが、やると言ったのは自分だ。それに危険は少ないと言っていた。そう自分を納得させる。

 よし、と迷いを振り切って、英二はミスラム商会に向かって進もうとする。

「エイジ、こっちに行こう」

 リズは英二の手を引っ張り、隣の店に入った。
 存外に強い力で引かれ、英二は抵抗出来ない。

「ちょっ、なんだよ」

「まあまあ。とりあえずご飯を食べよう。ナルバ焼きから結構時間がたってるし、お腹が空いてしまった」

 有無を言わさずに席に着くリズ。
 さっきまでいた北部の居住区の店の多くは、軽食や大衆食堂だった。このミスラム商会のある東部は北部と違い、高級な店や大規模な店舗が多い。分かりやすく言えば、北部は庶民的、東部はお高い店が多いのだ。
 しかし、この店は東部にしては雑多な印象を受ける。英二が軽く見た他の店とは違い、入っている人間はうるさいくらいの声量で話し、店自体もこじんまりとした質素な風体だ。
 英二は少し迷ってリズの対面に座る。

「そんな呑気でいいのか?」

「うん。時間はまだあるから大丈夫だよ」

 リズは黒い目を細めて笑った。
 男装ではない、ゆったりとした淡い暖色のドレス。長い金髪は美しく編まれ、大人っぽい色気を演出する。
 化粧も年齢を上げて見せる妖艶な仕上げ。おかげで今のリズは実年齢より五つほど高く見える。黒い目は魔術でそう見せているだけだ。

 品物を頼み始めたマイペースなリズを横目に、英二は頬杖をついた。

 この世界には魔術がある。リズは目の前で実演してくれた時には思わなかったが、少し時間が経った今、その魔術とやらに興味が出てきた。
 一体魔術とは、どんな事が出来るのだろう。リズに聞こうとするが、英二は思い直して止める。
 魔術を使える人間は少ないらしい。人の多いこの場所で聞けば、リズの正体が周りにバレるかもしれない。これは潜入捜査。下手なことは止めておくべきだ。
 英二がそんな心配をしている間に、リズは手早く店員に注文を頼んでいた。

「文字は読めないんだろう? とりあえず適当に注文しておいたよ。ここの料理は絶品なんだ」

 文字が読めない。文化も分からない。リズにはある程度、自分の事情を話してある。勿論、異世界云々は伏せて、世間のことが全く分からない田舎から来た、と嘘をついて。
 食べる事が好きなのかリズは無邪気に笑う。ちくり、と自分の嘘が胸を刺す。
 ありがとう、と誤魔化すように英二は礼を言った。







 確かに食事は美味かった。名前も知らない肉のステーキは分厚く、肉汁とタレが絡み合って濃厚だったし、デザートの果実は味だけでなく見栄えも良かった。

「それにしたって、食い過ぎだろ」

 初めて食べたライチのような果実の皮を皿に投げて、英二は目の前の惨状を眺める。
 大きな皿から小さな皿まで、多種多様にテーブルを埋め尽くす。あの細いお腹のどこにそんな量が入ったのだろう。
 最後の一皿を上品かつ迅速に食べていたリズは、綺麗になった皿を満足げに置いた。

「こんな食べ方はめったに出来ないからね。本当は家でもこのくらい食べたいんだけど」

 北部で食べたナルバ焼きが消えた理由。今になって英二は納得がいく。
 尋常じゃない早食いと大食い。流石に少し苦しいのか、僅かに膨らんだお腹をさするリズ。
 英二はドレスを指差した。

「もしかして、自分だけゆったりした服を着てきたのはこのためか? 食べ過ぎの腹を隠すためだけに」

「君だって、お腹が大きな婦人を連れて歩くのは嫌だろう?」

 返しづらい問いに英二は言葉に詰まる。
 リズは気にした風も無く続ける。

「大丈夫。君の服も似合ってるよ」

「…………それはどうも」

 この国のきっちりとした、隙の無い軍服。話によればリズの私物らしい。リズと英二の身長はほとんど変わらないため、サイズはぴったりだ。あの裏路地の家は、リズがお忍びで街に出るときの隠れ家だったらしい。あの女性も元は皇族ご用達の仕立て屋だったそうだ。

 英二は、窮屈そうに首元のボタンを外した。

「俺ももうちょっと、そういう余裕のある服が良かったな」

「軍服がだらしなかったら問題だよ」

「そうだけど、首周りが特にきつ……」

 途中で英二は固まる。視線はリズの胸元。
 大きく開いたそこには、暴力的な膨らみ。多分、片手では収まらない。しかしそれでもこの手に収めたい、と思わせるような形の良さは、服の上からでも明らかだ。
 ああ、とリズはすまなさそうに言った。

「ドレスっていうのは、多かれ少なかれ男性の視線を集めるためにある。ここが強調されるのは仕様だよ」

「いや、その……ゴメンナサイ」

 意外なほど大きな胸。男装の時は分からなかったが、かなり大きい。
 罪悪感でなんとなくテーブル上を片付け始めた英二に、リズは今までとは違う声色で話しかけた。

「ここから先は分かってるね?」

 最後の皿を重ねて、英二は落ち着いて返した。

「分かってるさ」

 英二は頭を切り替える。ここから先はゲームや漫画みたいな遊びじゃない。気を引き締めろ。

 そんな英二の様子を見て、リズは一つ頷いて立ち上がった。
 そして、英二の手を取る。今度は店に入った時のように強引にでは無く、まるで恋人にでも接する甘さを含めて。

「じゃあ、ここは私が払うよ。エ・イ・ジ」

 英二は頬が引きつるのを必死でこらえて、リズをエスコートする。

「あ、ああ。じゃあそろそろ行くか。マ、マイハニー」

 言えって言ったのはお前だろ、と英二は小さく噴き出した偽の恋人を、口に出さず恨んだ。







 薄暗い大きな部屋。中央奥にあるステージには誰も立っていない。
 いくつもあるテーブルには、身なりの良い人達が座っている。だが、顔までは暗くて見えない。
 テーブルの上には豪勢な料理。しかし、英二は目の前の料理に、手をつける気にならなかった。店で食べて正解だ。

 隣に座る仮初めの恋人を見て、英二は説明を思い出す。

『話がそれてしまったね。初めから言おう。これは下調べの潜入捜査だ。事を荒立てるつもりは無い。一応、荒事に自信はあるが君もいる事だしね』

 裏付けを取る。その後に奴隷購入者を全て捕まえる。それが今回、リズがやろうとしている事。

 フラムベイン帝国は、半年前に奴隷の所持を禁止とした。当時の文官、今は宰相であるラック・ムエルダ主導の、皇帝の認可を得た人道的政策だ。
 この政策は国民の大半から絶大な支持を持って受け入れられる。つい一年前まで続いていた、隣国『クレアラシル』との戦争は国民の生活を荒れさせ、それにつけこんだ貴族が無理やり娘を連れていく、という話も少なくなかったからだ。
 それに奴隷の多くは隣国『クレアラシル』の人間だ。国民にとってこの政策は、長く続いた隣国との戦争の、完全な終結を意味していた。
 しかし、昔から続いている習慣はそうそう変えられない。貴族や豪商の大半が所持しているままだ。それだけ奴隷は便利である。国民とは逆に、貴族達からの政策に対する反発は大きかった。国も全ての貴族を罰する訳にもいかない。政策は緩やかに浸透させる、と半年前にラック・ムエルダは方針を調整した。半年後までに全ての奴隷の所持を禁止。それまでに貴族は奴隷の解放、もしくは雇用への変更を。当然、解放の場合は国から保証金が出る、と。

 半年後の現在、奴隷の売買、および所持は禁止されている。表向きは、だ。
 実際、この首都アリスナで行われている奴隷の売買は黙認状態だ。ラック・ムエルダの奮戦虚しく、未だに奴隷は根強く残っている。ただ、国民の見えにくい場所へ移動しただけ。

 参加者は未だ奴隷を買おうとしている貴族や豪商。リズは殆ど独断でこの会合を潰す決意をした。

『私は奴隷を認めたくはない。さっきまで一緒に居たラミ。彼女は奴隷経験者だよ。運良くこの家の侍女長に引き取られたから良かったものの、また悪い商人にでも引っかかっていたら、と思うとぞっとする』

 本人は強い子だから立ち直れたけど、と言うリズの表情は、嫌悪に溢れていた。英二は詳しくは聞いていないが、きっとよほど酷い扱いだったんだろうと思った。

『この会合には高い入場料がいる。それと身分証。つまりは金持ちしか入れない。しかし、奴らも馬鹿では無い。あまりに怪しい人間は入れないだろう。そこで君の出番だ』

 そもそも、クジュウの国は本当に遠く、英二のクジュウの民のような容姿は殆どフラムベイン帝国では見ない。情報すらあまり伝わっておらず、クジュウの民はそれこそ神秘のベールで包まれている。

『君はかの国の王子様になって貰う。私はその恋人。なに、完全に嘘だがバレはしないよ。誰も知らない、私すら知らないんだから。この入国証にも偽の情報が載ってある。相手も王族ならば無碍には出来ないだろう。後は私が何とかする。あ、ちゃんと捜査の間は恋人のフリをしてくれよ? そうだね、マイハニーとでも呼んでくれ』

 英二がそこまで思い出した所で、ステージに明かりが点いた。

「エイジ、始まるぞ」

 怪しがる受付の男に、入場料の五倍払って黙らせたリズが、くい、と英二の袖を引っ張る。
 英二は黙ったままステージに集中した。

「今夜はお集まり頂き光栄です」

 ステージに上がったのは、背の高いがっしりとした体格の男。

「あれが商会の実質的な経営者、トワイロ・ガリアンだ」

 リズは英二の耳元で囁く。端から見れば、睦み合っているようにしか見えない。そう見えるようにしているから当然だ。
 トワイロが長ったらしい口上を述べ、今回の奴隷市の説明をする。英二は人間を商品として説明するその声に眉をひそめた。
 オークションである奴隷市の説明を終えたトワイロは、一層声を張り上げる。

「そしてなんと! 今回はあのクジュウの民の少女も出品されます! 当然、まだ使用済みではありません。自分好みに調教するもよし。あえて手を出さず愛でるもよし。皆様、どうか奮って入札下さい」

 おお、と会場にどよめきが走った。それ程までに珍しく、希少価値があるのだろう。
 これはリズも知らなかったらしく、目を丸くしていた。

 リズの話では伝わらなかった部分。人間の欲望が直に伝わってくる。
 英二はやりきれない感情を、目をつぶる事でやり過ごした。




 トワイロがステージから降り、最初の人間が出品される。
 浅黒い褐色の肌の男。服は何一つ無く、人間の尊厳すら無い扱い。
 あっさりとその男は落札された。引き渡しは後らしい。札らしき物を落札した貴婦人が受け取る。
 英二はリズに小声で話しかけた。

「暗いけど、誰が誰だか分かるのか?」

「ああ、今は暗い所が見える魔術を使っている。それより、大丈夫かい? 顔色が真っ青だよ」

 英二は自分の顔を軽く叩いて、ステージに視線を戻した。
 褐色の男は、無表情でステージから降ろされる。

「大丈夫。ちょっとこういうのには慣れてないだけだ」

 リズは何も言わずに英二の背中をさすった。

 オークションは進んでいく。老若男女、肌の色も問わず、淡々と。
 そしていよいよ本日の目玉。クジュウの民の少女がステージに上がる。

 闇に煌めく黒い髪。意志の強そうな黒い目。肌の色はリズとはまた違う、クジュウの民独特のきめ細かな白。彼女だけは檻に入れられ、体の線の透けて見える薄いベールを着せられている。
 彼女は怒りに満ちた視線で会場を見渡す。
 その姿は籠の中の鳥にも見えるが、鳥と言うにはあまりにも殺気立っていた。

 英二は彼女と目が合った気がして、反射的に目を逸らす。

「では、始めましょう! 一千万から!」

 トワイロの声でオークションは始まる。どんどんつり上がっていく値段。
 英二には一千万がどれくらい高いのかは分からなかった。しかし、さっきまでの奴隷達の最終価格より十倍以上高い値段だ。

 少女は動かない。その代わりに全てを呪う眼差しで、自分に値段をつける人々を睨む。
 黒目黒髪。自分と似た容姿の少女を見て、英二はリズに囁きかける。

「なあ、どうにかこの場で助けられないのか?」

 リズは悲しげに首を横に振る。

「無理だよ。この場で動けるのは私一人。もしここで暴れても、その間に証拠を消されれば意味がない。またこの会合は開かれるだろう。雑草は、根から抜かなければいけないんだ」

 理解は出来るし、その通りだとも思う。
 けれど、行き場の無い憤りが英二の胸で暴れる。

「……悪い、ちょっと頭を冷やしてくる」

 ああ、とリズはオークションから目を離さずに頷く。
 英二は最後にステージの少女を目に焼き付けて、静かに会場から出た。








 会場はミスラム商会の地下にある。そして地下には、会場とは別に休憩所や歓談所など、目的を果たした貴族や豪商などが交流を深めるための施設もある。
 ここまで大きなオークションが国に伝わらない筈がない。現にリズは知っている。
 しかし、リズは自分達以外にそれらしい動きは無いと言う。それはやはり、このオークションが国からほぼ黙認されている、ということだ。

 故に、笑顔を浮かべて人脈を作る商人や貴族に罪の意識は無い。
 当然だ。国が認めているのに悪であるはずがない。

 そんな空気の中、英二は一人掛けの椅子に座って俯いていた。話しかけるな、と言わんばかりに。

(これが、この世界の普通なんだ。多分、金持ちの中じゃリズが異端なんだろう)

 英二は顔を上げて笑いながら話す人々を眺める。
 命に値段をつけた者達。じゃあ、お前の命の値段はいくらになる?

 思った以上に繊細だったらしい自分に苦笑して、英二は立ち上がった。
 リズは目を逸らさなかった。現実を受け止めて、それを打開しようとしている。

 よし、と気合いを入れて英二が歩き出そうとすると、目の前に男が立っていた。
 短く逆立った赤毛の髪。他の貴族たちと同じような高そうな服をだらしなく着崩している。精悍な顔立ちには友好的な笑みが浮かび、鍛えられているであろう片腕が上げられると同時に、通りの良い独特な声が響いた。

「よう、久し振りだな!」

 明らかに自分に向けられた言葉。しかし、英二に見覚えは無い。

「え? あ、ああ」

 とりあえず合わせとくか、と右手を上げた英二の首に、短剣が突きつけられる。
 男は剣を突きつけたまま、英二の横に回った。

「さあて、皆様、今宵はお集まり頂きありがとうございます。今からの主催はトワイロ・ケルビンに代わりまして、このライヤー・ワンダーランドがお送りいたします、っと」

 一瞬の沈黙の後、悲鳴と共に逃げ惑う貴族達。しかし、剣を持った何人かが出口を塞ぎ、貴族達に静まるよう命令する。
 この会場に入る際、危険物は全て取り上げられる。よって、貴族達に対抗する術は無い。血色の良かった顔を青ざめさせて、次々に命乞いをする。更に別の人間が剣を振り上げて、その喧騒を黙らせる。

 そんな姿を見て、ライヤー・ワンダーランドは可笑しそうに英二に話しかけた。

「悪いね。あんたに恨みは無いけど、少し付き合って貰うぜ。クジュウの王子様」

 よく見れば、剣を携えた者達の手首に赤い布。ライヤーはゆっくりと懐から赤い布を取り出し、手首に巻く。
 英二はゆっくりと、もう片方の手も上げた。



[27036] 一章四話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/04/07 18:44


 ミスリム商会の地下に造られた会場設備は大規模だ。とは言っても、この地下施設は公式には存在しないことになっているため、数千人規模の人数を収容出来るという程では無いが、それでも固められた土を利用した通路は広い。男が二人並んで歩いてもまだまだ余裕がある。
 その二人の内の弱者側の人間。短剣を突きつけられたまま会場へと歩く英二は、あまり恐怖を感じていなかった。

「なあなあ、俺の名前はライヤーって言うんだけど、王子様の名前は何って言うんだ?」

 それはこのライヤーが飄々としていて、どこか親しみを持ちやすいからだろうか。もしくは、この気に食わないオークションを壊してくれる、という期待か。あるいは両方か。
 ライヤーの顔立ちは精悍でも、表情の移り変わりは道化師のように気まぐれだ。だが、嫌な感じはしない。
 英二は素直に答える。

「エイジ・タカミヤだ」

 ライヤーは後ろから突きつけている短剣を下げた。

「おおっ、エラく肝の座った王子様だな。クジュウの民、っていうのはみんなそうなのか?」

「さあな。それより、王子様ってのは止めてくれ。俺は王子様でも何でも無いんだ」

 英二は一応、周りに人がいない事を確認しながら言う。
 ライヤーは僅かに押し黙った後、大きな笑い声を上げた。

「なんだなんだ、あんたも訳ありだったのかよ! 怪しいとは思ってたが、くはっ。こいつはおもしれぇ!」

 ひときしり笑った後、ライヤーはもう一度短剣を突きつける。

「くくっ、なに、それなら尚更あんたを傷付けるつもりはねぇ。ただ、もう少しだけ王子様でいて貰うぜ」

「俺を王子様にしてどうするんだ?」

 ライヤーの声は不思議と良く通る独特の響きだ。
 英二はここの貴族達より、むしろ侵入者であるライヤーに好感を持った。
 それはこの侵入者も同じらしく、まるで旧友にでも話すかのような気軽さで、ライヤーは答える。

「決まってるさ。そいつの命はそいつの物。奴隷達を解放するのさ」

 オークション会場の入口が見える。
 そこには英二とライヤーを迎える人間が列をなして待っていた。さっき休憩所で歓談していた女性や警備員の服を着た男。受付にいた男もいる。
 老若男女、肌の色、区別も差別も無く、共通しているのは手首に巻いた赤い布だけ。
 その赤いリストバンドを掲げるように、彼らはライヤーに敬礼した。それこそが誇りであるような、迷いの無い動き。

「このライヤー・ワンダーランド率いる反帝国組織『ラクセルダス』がなぁ!」

 その花道を躊躇も無く歩く男は、確かに彼らの頭領なのだろう。
 笑みを浮かべたライヤーは、景気良く入り口の扉を蹴り開けた。







 クジュウの民の少女は最終的に二億まで値を上げて、肥えた商人に競り落とされた。薄暗い会場の澱んだ熱気もその時を最大にして、今はゆっくりと収束の瞬間へと進んでいる。

 淡い暖色のドレスを揺らし、リズは脚を組んだ。
 それはリズが考え事をするときの癖だ。あまり淑女としては良い癖ではないが、最近は男装に慣れていたために無意識にしてしまっている。

 隣の商人が、その艶めかしい脚に目を奪われていることにも気付かず、リズは物思いに耽る。
 仮初めの王子様は大丈夫だろうか。もしかしたら、彼を選んだのは失敗だったかもしれない。

(エイジは優しすぎる。悪い事とは言わないけど、きっとそれはいつか彼を苦しめてしまうだろう)

 リズは英二と自分の間に、決定的な価値観の差を感じている。さっきもそうだ。
 エイジは奴隷の苦しみを我が事のように思い、助けたいと思っていた。そして、その感情は全て奴隷自身のためだ。

 自分は違う。

 勿論、もうラミのような被害はあってはならないとは思うが、リズが一番心配しているのは、国と妹だ。
 リズはフラムベイン帝国の第三皇女として、奴隷の密売が国の益にはならない、と判断したから潰しにきた。
 現在、長らく続いた隣国との戦争は、互いの国力の疲弊によって休戦している。そして奴隷の主流は隣国、クレアラシルの褐色の肌を持った人間だ。
 休戦直後に奴隷の所持を禁止したラック・ムエルダも、恐らくこう考えたのだろう。今は悪戯に戦争の火種を起こしてはならない、と。

 何も戦争はやってはならない、とは言わない。フラムベイン帝国の歴史は戦いの連続だ。また近いうちに戦争は起こるだろう。しかし、まだ小さな背丈の妹の為に、抗う術を持たない無力なシアの為に、戦争は避けたい。
 それがこの先フラムベイン帝国の為になると信じているし、不遇の妹の救済になると信じている。

 リズは組んでいた脚を戻し、立ち上がった。
 オークションはもうすぐ終わる。この場にいた全員の顔はもう覚えた。長居をする必要は無い。

 未だに戻って来ない英二を探しに、リズはドレスの裾を揺らしながら出口へと歩き始める。

 その淀みない歩みを止め、飛び退くと同時に、勢い良く開いた扉から会場に男の声が響き渡る。独特な、だが通りの良い声。

「さあさあ、下らねぇ宴は楽しんだか!? 最後に俺達からの出品だ!」

 口上と共に、手首に赤い布を巻いた『ラクセルダス』の構成員が素早く侵入し、テーブルの人間が逃げ出す前に鎮圧していく。
 会場には主だった警備兵はいない。入場前の厳重な身体検査。警備兵がいる物々しい空間では入札が鈍る、というトワイロの判断だ。

 完全に裏目に出た自分の判断を呪い、トワイロはステージの奥の搬入路に逃げ出そうとする。
 ライヤーはそんなトワイロに声を張り上げた。

「お前が逃げればこのクジュウの王子を殺す! そうすればクジュウと戦争だぞ!」

 トワイロの心に戦争の二文字が浮かぶ。商人の自分にはありがたい事だ。

 その引き金を引くのは自分?
 トワイロは戦争を食い物にして今の地位まで上り詰めた。それ故に戦争の実態を良く知っている。人は多く死ぬ。世界が動く。前回のきっかけは、名も知らぬ貴族のこじつけのような因縁。そこから全土に烈火のごとく戦争は広がった。ありがたい、と笑いながら話した酒の席。波に乗り、流れを見切った自分の商人としての才。

 その引き金は、自分。

 今まで考えたことも無かったその重みが、トワイロの視線をライヤーに向けさせる。ライヤーの隣にいるのは確かに、クジュウの王子と名乗っていた黒目黒髪の少年だ。帳簿を見て自分はほくそえんでいた。金になる、と。
 動きの鈍ったトワイロの足に衝撃が走る。僅かな気の迷い。その小さな隙は、良く訓練されたラクセルダスの構成員がトワイロを取り押さえるのに、十分な隙だった。

「がっ!」

 地面に押さえつけられたトワイロは、己の失敗を悟る。
 その様子を見て、ライヤーは英二に突きつけていた短剣を下ろし、悠々とステージに上がった。

「さあ、奴隷達の牢屋の鍵を貰おうか」

 しゃがみこみ、トワイロに短剣を突きつけるライヤー。トワイロは顔を上げず、悔しげに呻いた。






 解放された英二は周りをぐるりと見渡した。地面に押さえられた貴族の男性。テーブルについたまま不満げにふんぞり返る商人。会場に少しの乱れはあっても、制圧の手際としては見事としか言いようが無い。
 ラクセルダスの構成員には、英二を拘束する意志は無いらしい。放っておいても危険は無いと舐められているのか、ライヤーの仲間と思われているのか。
 まあどっちでもいいか、と英二は暖色のドレスを、リズの姿を探して歩く。

「エイジ」

「リズ、こんな所にいたのか。もうちょっと見つけやすい所に居てくれよ」

 入り口の扉のすぐ横。両手を上げ、背中に剣を突きつけられたまま立っているリズに、英二は軽口を叩いて近寄る。
 リズが英二の知り合いだ、と分かると髭の生えた男の構成員は剣を下げた。しかし、男はまだ警戒を解かない。かといって襲い掛かったりもしてこない。
 英二がステージを見ると、ライヤーはトワイロの身ぐるみを剥がし、無理矢理牢屋の鍵を探していた。

「お前が全ての鍵を肌身離さず持ってるのは知ってるんだよ!」

 距離のある英二にまで聞こえてくる、心底楽しそうな声。計画が上手く運んで機嫌が良いのだろう。

 リズは無表情でそれを見ながら、英二の隣に立った。

「エイジ、彼らの目的は?」

「俺もよくは知らないけど」

 英二はまだ警戒している構成員をちらりと見た。特に何もしてこない。ならば話しても問題ないだろう。

「奴隷の解放、だったっけ。あいつも俺達と同じで、このオークションを壊しに来たらしい」

「…………確かにぶち壊してくれたな」

「まあまあ。少し話したけど、あいつの目的は略奪とかじゃなくて奴隷の解放だけらしいし、今回は仕方ないだろ」

 嫌悪感を表すリズに、英二は軽い気持ちで話す。リズからしたら失敗かもしれないが、やはりこの場で奴隷達が助かる、という事実が純粋に嬉しかった。

 そんな英二とは対照的に、リズは苦虫を噛み潰した表情のまま周囲を見回す。

「この中の指揮官は?」

 リズは見覚えのある男を、自分が入場料を払った元受付の男を見た。その男は剣を持って周囲を警戒している。
 ああ、と英二は既に決着のついているステージを指差す。

「あの男が親玉。そこまで悪い奴じゃなさそうだったぞ。名前は」

「やっと見つけたぜ! 手間かけさせてくれるなよっ」

 英二の声を途中で掻き消すほどの声量。ライヤーは軽い足取りでクジュウの少女の入った牢屋に近付き、数ある鍵の一つを差し込んだ。
 カチャリ、と音を立てて鍵は開く。少女は扉を開け、緩慢な動きで檻から出る。
 猫のような丸い漆黒の目が、助けたはずのライヤーを睨んだ。

「どうしたんだ、助かったんだぜ? お前」

 ライヤーは覗き込むように少女を見た。少女は睨み続ける。到底、助けてもらったとは思えない態度。
 まあいいか、と少女に興味を失ったライヤーは鍵束を構成員に投げ、ステージ奥に囚われている奴隷も解放するように指示した。

 英二はそこまで見て、少女が助かったことにほっとしながら、さっき言いそびれた言葉を話す。

「えっと、組織の名前はラクセルダスで、あいつの名前はライヤー……なんとかだった気がする」

「ライヤー・ワンダーランド、かい?」

「ああ、そうそう。そんな名前だった」

 そうか、と一つ頷いたリズは、驚くべき俊敏さで元受付の男の懐に踏み込み、鮮やかに顎を打ち抜いた。
 糸が切れたように崩れ落ちる男からこぼれ落ちた剣。リズは空中でそれを掴み、ステージに向け疾走した。

「はっ?」

 何が起こったか一瞬理解出来なかった英二は、間抜けな声を上げた。
 これにてめでたしめでたし、で終わる筈だったのに、何故リズはこんな事を。
 遅れて事態を察した髭の生えた男の構成員が、英二に向かって剣を見せ付けるように持ち上げる。
 総毛立つ感覚とほぼ同時に、英二はライヤーの言葉を思い出した。

『反帝国組織、ラクセルダスがなぁ!』

 リズは皇女で、ライヤーは反帝国組織の頭領。そんな二人が出会って何もない筈が無い。

 にじり寄る髭の生えた男から後ずさる英二。突然の異変を好機と受け取り、我先に、と出口へ逃げ出す貴族や商人。それを抑えようとする構成員達。凄まじい速さでステージを駆け上がり、ライヤーと対峙するリズ。未だ立ち尽くすクジュウの少女。
 会場は混乱の最中へと誘われた。



[27036] 一章五話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/04/07 18:45

 リズは冷静な人間だ。本来の性質がそうであるうえに、皇女たるべき教育によって積み上げられたその冷静さは、特筆すべきものがある。

 常に水平さを意識しろ。それを失った戦いに得る物は無い。
 三人目の剣の師はそう言っていた。自分もそう思う。

 そんな事を頭の隅で考えて、リズは奪った剣をぎり、と強く握った。

「…………貴様は、反帝国組織『ラクセルダス』のライヤー・ワンダーランドで間違いないか?」

 硬く押し出された声。ステージの下では貴族と商人が狂騒し、それをラクセルダスの構成員が鎮めようとしている。
 ライヤーはそんな会場の様子をちらりと見て、楽しそうに口を歪めながら、リズへと短剣を上げた。

「ああ、愛と自由の徒、ライヤー・ワンダーランドだ。宜しくな、リズ・クライス・フラムベイン」

 紅い瞳は皇族の証。例外は、無い。
 リズは瞳の色を変える魔術が途切れている事に気付き、反射的にライヤーから目を逸らした。僅かな隙が生まれる。

「お手合わせ願うぜ!」

 強い踏み込みにステージの床が軋む。一気に距離を詰めたライヤーは、鋭い切り上げを放った。

「くっ!」

 寸前で受け流し、距離を取るリズ。ライヤー・ワンダーランドの技量は高い。ただの一撃でリズはそう判断する。更に、それに加えて。

(せめて私の剣があればっ!)

 リズの剣は受け流した分だけ、ぼろぼろに削れていた。
 受け流すだけでここまで剣を消費する、というのは本来ならば有り得ない。
 本来ならば。

「どうだい、なかなかにイカす剣だろ?」

 ライヤーはその短剣をくるり、と曲芸のように回した。

「この魔剣の名前は【クルミ割り】って言うんだ。能力は斬りつけたモノ自体を脆くして、破壊する力だ。木だろうが、岩だろうが、金属だろうが、な」

「…………何故、そんな事を私に教える」

 戦闘において自分の情報を与えるのは、愚かな行為でしか無い。
 ぼろぼろになった剣をそれでも構えるリズに、ライヤーは【クルミ割り】の切っ先を向けた。

「そのちゃちな剣じゃ、俺の攻撃は二度防げない。俺は平和主義だから、無駄な殺生はしたくないんだ」

 へらへらとしたライヤーの表情が、変わる。厳しく、先を見据える視線。

「投降しろ、リズ・クライス・フラムベイン。お前には帝国に対する取引材料になってもらう」

 反帝国組織『ラクセルダス』は、革命派の中で最も大きな組織だ。目的として、未だ緊張関係にある隣国との完全和平、実態として残っている奴隷の解放、現皇帝の降任を掲げている。
 実働人員は一万を超え、水面下の賛同者は十万を超えると言われているラクセルダスの頭領。
 その重みを肩に載せた男の眼差しは、強い。

 奴隷の解放や和平という点において、ラクセルダスとリズの行動は似ている。
 しかし、決して両者は相容れない。それは立場であったり、犯罪組織だったりと様々な理由がある。

 ただ、今のリズを支配するのは個人的な感情だ。
 リズはゆっくりと剣を下げ、その紅い瞳を隠すように顔を伏せた。

「貴様は『マタニティ』という言葉を知っているか?」

「マタニティ? ……確か、最近出回り始めた麻薬の名前がそんな名前だったような……」

 【クルミ割り】を片手でくるくる回しながら、もう片方の手を顎に当て、ライヤーは呟いた。

「まあ、そんなモンにハマるような馬鹿は、死んでも治らねぇ。それとも皇帝姫さんは興味でもあるのか? 止めとけ。あれはロクなモンじゃねえよ」

 大仰な仕草で話すライヤー。リズは答えない。代わりに壊れかけの剣が、強く握り過ぎたせいで悲鳴を上げる。
 ライヤーは気にした様子もなく、リズに手を差し出した。

「俺の組織の情報網は広い。お前が俺達と同じ志を持ってるのは知っている。今回もこのオークションを潰しに来たんだろう?」

 ライヤーはステージを指し、良く通る声で言う。ほとんど沈静化した会場。その構成員達が、各々の手首に巻いた赤い布を掲げる。ぱらぱらと、散発的に。

「お前がもし、ラクセルダスに加担すれば、人民の心は動く! 下らない戦争や、いわれのない弾圧は終わるんだ! リズ・クライス・フラムベイン! お前が陰で汚職や不祥事を潰している事を俺達は知っている! だが、もっと根本から変えられるんだ! 平和な、戦いの無い世界にっ!」

 ライヤーが【クルミ割り】を掲げると同時に、ステージ下で構成員が湧き上がる。重ねるように上がる赤い布。怒りとも、歓喜ともとれるその光景。
 その布達の所持者は、肌の浅黒い痩せた男や、リズと同じ肌の色の髪の短い女性だ。各々が逃げようとした貴族や商人を押さえつけながら、分け隔てなく布を掲げている。このフラムベイン帝国に変化を望む、命ある民達。
 行動は歓声に変わる。喝采と、虐げられていた者達からの光ある眼差しに、ライヤーは腕を組み頷いた。

「言いたい事はそれだけか?」

 会場を満たす歓声を切り裂く小さな声。ライヤーは背筋に走る悪寒に従い、横に飛んだ。続いて起こる、まるで大木でも振り回したかのような風切り音。
 ライヤーが避けた先を見据え、リズはぼろぼろになった剣をゆっくりと構え直す。不意打ちなどは本来の彼女にとって恥ずべき行為だが、それを気にする余裕は既に無い。

「確かに、お前の言う事も一理ある」

 見開いたその瞳は、怒りの深紅。脳裏によぎるのは一人の女性。

「だが、私はお前を認めない!」

 繰魔術。このフラムベイン帝国には現時点で、リズ以外に使える者は居ない。
 魔力を純粋に自分の体のみで操り、自身の肉体を強化する術。

 リズはステージに一つ足跡を刻み、鋭い刺突を繰り出す。いかに剣が悪くとも、当たれば只では済まない。
 首を曲げ、寸前で欠けた刃をライヤーは避けた。そのままカウンター気味に右膝をリズの脇腹に叩き込む。

「っかてぇ! これが噂の繰魔術ってやつか!」

 膝蹴りを受けても微動だにしないリズから、ライヤーはあえて距離を取らない。足を掬うような剣閃を最小限の跳躍で回避し【クルミ割り】をリズの頭上から振り下ろす。

「うらっ!」

「くっ!?」

 頭上で【クルミ割り】を受けた剣は、ほんの少しだけ時間を稼いで、剣の原型を無くした。
 稼いだ時間で素早く距離を取るリズ。しかし、手元には刃の無くなった剣しか無い。

「諦めろ。もうお前に勝ち目は無いんだよ!」

「…………だからといって、貴様の組織が行った非道を許せるか!」

 剣を投げ捨て、爆発的な速さでライヤーの懐に入るリズ。【クルミ割り】を振る隙も無い。

「んのっ! 馬鹿やろうがぁっ!」

 強襲してきたしなやかな右脚を避け【クルミ割り】を振ろうとするライヤー。だが、それより早くリズが次の攻撃を繰り出す。
 素手とはいえ、繰魔術の強化は容易く人を破壊する。対する【クルミ割り】も生身で受ければただでは済まない。

 どちらかが一つ先に決めれば決着はつく。むしろ剣を持っていた時より厄介な相手に、ライヤーは意識的に殺さず、という条件を止めた。そしてリズは怒りに身を任せ、ライヤーの命を刈り取る為に体を動かす。

 互いに達人の域にある二人はステージの上。舞踏と見紛う戦いを続ける。







「……凄い」

 英二はステージの上で、まるで映画のような一進一退の攻防を続ける二人を見て、思わず零した。
 人間とは鍛錬であそこまで動けるのか。
 そんな事を思いながら見入っていると、後ろから声をかけられた。

「おい、変な気は起こすなよ」

 低めの男の声。英二はまたもや背中に突きつけられている剣の存在を思い出した。
 現代人の英二には、刃物を持っている相手に刃向かう程の無謀さは無い。

 もはや慣れかけたこの状況。英二は下がりかかっていた両手を再度上げた。

 ちっ、とその髭の生えた男は舌打ちして、隣の腕に傷のある男に話しかける。

「ったく、さっさと殺せばいいのによ。こんな人の不幸で成り立ってるような奴らは」

「まあ、そう怒るなよ。今回は頭領が直接指揮を執ってるからな。バレたらヤバいぞ」

 分かってる、と吐き捨てるように言って、髭の男は突きつけた剣を持ち直す。
 英二はそんな二人の会話を聞きながら、ステージの上を見ていた。
 方や命をかけて戦う二人。片や外側で話をしている二人。

 確かにステージの二人は全く違う。性別も、立場も、やり方も。
 しかし、英二にはステージの上と、このステージの下の方が、よっぽど対照的に見えた。

 そして、いつの間にか見えなくなっていたクジュウの少女がステージに表れたのも、英二が考え事をしている時だった。

「…………解放とか、皇帝とか……」

 ぽつりぽつりと溢れる声。ステージ奥の搬入口から表れた少女に、リズとライヤーの動きが止まる。
 それは少女が薄いベール一枚の、酷く危うい姿だったからでは無い。

「…………そんな事はどうだっていいのよっ!」

 リズとライヤーが見ているのは、少女が掲げた黒い杖。
 全ての色は黒。申し訳程度に金の装飾があるが、地味な印象は拭えない。普通の短めの杖。

 違う、その黒い杖には何かがある。命のやりとりで感覚を研ぎ澄まされた二人は、直感した。

「お前ら、全員逃げろ!」

 ライヤーは構成員に号令をかける。

「エイジ!」

 リズは英二の姿を探す。

 少女の細い腕は黒い杖を高く掲げている。体の線が透けて見える程の薄いベール。本の中の妖精がそのまま出てきたような儚さ。
 しかしその儚さを逆転させる程に、全ての不条理や理不尽に対する怒りで、彼女の瞳は満たされていた。

「世界がどうなんて関係ない! 『助けてやった』なんて哀れむなっ! あたしはそんなに弱くないっ!」

 振り下ろされる黒い杖。合わせて空気が揺らぐ。そこに何かが生まれようとしている。

 ステージの下はまた混乱だ。今度は収拾のつけようが無い。誰も彼も命が大事だ。頭領の号令で一気に逃げ出す構成員達。遅れて貴族や商人。

 そして英二は――

「ったく……思いっきり突き飛ばしやがって」

 髭の構成員に背中を蹴られ、床に倒れていた。
 痛みは無いが、逃げるには遅い。
 英二がふとステージを見上げる。

「…………冗談だろ?」

 それは大きく膨らんだ魔力の塊。ゆらゆらと揺らめく破壊の球。空気が音も無く波打っているのが肌で感じられる。
 始めて見る英二にも、それは明らかに異常な光景だと分かった。
 直径二メートル程のそれは、今にも地面に落ちようとしている。

 幻想的ですらあるその光景に英二は動けない。
 そんな英二をリズは包み込むように抱えた。

「巻き込んですまなかった。君は守るよ」

 耳元で囁かれた声と、太陽と甘酸っぱさの混じったリズの匂い。
 激しい衝撃が英二を襲う。

 そして、ミスラム商会の本部は突然の爆発により、隠された地下への入り口を塞ぐ形で半壊した。



[27036] 一章六話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/04/07 18:47


 酷い耳鳴りの中、英二はずしり、と響く低い音を聞いた。強く打った頭ををさすりながら、周りを見渡す。

 暴力的な魔力の氾濫は、会場を見るも無残な姿に変えていた。土をそのまま利用した壁は所々壊れ、ステージは原型を留めていない。人数分だけあった椅子やテーブルも、爆発源を中心に吹き飛ばされ見る影も無い。
 幸い死体等は無いが、ぱっと見ただけでもどれだけ破壊の威力が凄まじかったか分かる。よく助かったな、とため息を吐いたところで、英二は助かったのではなく、助けられた事を思い出した。

「……リズ!」

 近くにはいない。名前を読んでも返事は返ってこない。

 あの綺麗な金髪はどこへ行った。焦りながら視線を巡らす。壊れて足場の無いステージ。剥がれかけた土の壁。
 そして粉々に砕けたテーブルの下に散らばった金の糸を見つけ、英二は立ち上がり駆け寄った。

「おい、リズっ! 大丈夫か!?」

 確実に聞こえる距離のはずだが、返事が無い。
 最初に会ったときとついさっき。二度目の命の恩人。死なせたくは無い。
 うつ伏せのリズの背中に乗った大きな木の破片を投げ、英二は体を揺する。

「……エ、エイジ。揺するのは勘弁してくれないかい? ……か、体中が痛いんだ」

 右手を力無く上げるリズを見て、エイジは安心して座り込んだ。

「ったく、あんな無謀な事するなよ。善意にも限度ってモノがあるぞ」

 言葉とは裏腹に、精一杯の感謝を込めて、英二はリズに被さる残りの細かい破片をどかしていく。

「あれは善意じゃなくて、責任だよ。義務と言っても良い。君を守る、と口にしたからには、そうしないと格好悪いだろう?」

 リズは地面に両手をついて立ち上がろうとするが、腕に上手く力が入らない。しかたない、と諦めて英二に手を伸ばした。

「エイジ。すまないが手を貸してくれ。どうも自分じゃ動けそうに無い」

「手だろうが何だろうが貸すさ」

 英二はその手を取る。手のひらから伝わる暖かさは確かな命の証明だ。
 力を入れて、リズの体を引き上げる。女の子とはいえ人一人は重い。だがその重さに更に安心する。

 そしてその暖色のドレスが、瞳と同じ紅に染まっているのを英二は見た。痛々しいほど生命を主張する紅。

 驚きで何も言えない英二に、リズはその紅い部分を見ながら冷静に言った。

「ああ、丁度飛ばされた時に繰魔術が切れて、木片が刺さってるみたいだね。まだまだ修行が足りないな」

 やれやれ、とリズは腹に刺さった横広い木片を指す。
 傷の悲惨さと比べて危機感の無い表情。そんなちぐはぐなリズを見て、我に返る英二。

「だ、大丈夫なのか? それ」

「大丈夫かと言われれば、大丈夫じゃないかな。とりあえず止血したいから、私のスカートを適当な場所から千切ってくれないかい?」

 大丈夫じゃないのかよ、と英二は慌てながらもなるべく優しくリズを仰向けに寝かせ、スカートのほつれた場所を両手で掴んで、ありったけの力を込めた。
 柔らかい手触りの布は呆気なく引き裂かれ、肉感的な太股が露わになる。少し多く千切り過ぎたかもしれない。だが、英二にそれを気にする余裕は無い。

「千切ったぞ! 次はどうすればいいっ?」

「……次はこの木片を抜いてくれると助かる」

「抜けばいいんだな!?」

 スカートだった布を手早く傍に置き、英二は木片に手を伸ばそうとした。しかし、数センチ手前で止まる。

 元はテーブルの骨組みの一つだったであろう木片は、改めて見ると大きく、歪だ。その歪に尖った先が腹部へと中ほどまで侵入している。ドレスで見えないが、この木片はリズの柔肌を貫いて、脆い部分を傷つけているのだ。その痛みはどれほどだろう。冷静そうに見える表情の下でどんな激痛と戦っているのか。
 英二はごくり、と口の中に溜まっていた唾を飲んで、止まっていた手を動かした。

「いくぞ」

 こくり、とリズが頷くのを見て、英二は木片の上部をそっと掴む。リズの眉が苦しげに歪む。
 英二が慎重に引っ張ると、木片は嫌な手応えを残してリズから離れた。血が滴る先端は直視できない。
 形の良い額に脂汗を浮かべながら、それでも平静な表情でリズは言った。

「それじゃ最後にその布で傷口を押さえて貰って良いかい? 場所が場所だから、申し訳ないけど直に押さえて欲しいんだけど」

 直に、という言葉に英二は少し困惑したが、すぐに頭を切り替えて頷いた。怪我の手当てに羞恥心を持ってもしょうがないし、事は一刻を争うのだ。
 半分が紅く染まった木片を放り投げ、せめても、と上着を脱いでリズの下半身を隠す。布を右手に持ち、英二は短く伝える。

「悪い」

 ああ、とリズの声を聞きながら、短くなったスカートと手探りでたくし上げ、英二は上着の隙間から右手を突っ込んだ。
 傷の位置には分かりやすい紅い目印がある。傷口を広げないよう、これ以上血が出ないよう、英二はしっかりと右手で押さえつけた。

「……っ!」

 滑らかな肌の感触。ほんの少しだけ声を漏らして、リズは大きく息を吐く。その動きが英二の手にも伝わる。
 じわり、と布が湿り気を帯びた熱さに浸食されていく。初めて感じる他人の血の熱さは、英二の心に底知れない不安を積もらせた。

「ふう、とりあえずはそのままで頼むよ」

 落ち着いたリズの様子を見て、英二もどうにか不安を振り払う。
 リズは顔を横に向けて、視界に入る会場の惨状にため息をついた。

「酷い有り様だね。灯りが生きてるのが奇跡、って感じかな」

 壁の電灯はひび割れながらも光を放っている。破壊の衝撃を考えれば、幸運としか言いようが無い。
 英二も同じように改めて会場を眺めて、ふと爆発の瞬間を思い出す。

「ってか、あの爆発は何だったんだ? でっかい球みたいなモノは見えたんだけど」

「ああ、あれは多分あの杖のせいだろう。多分、あの少女があの黒い杖を使って起こしたんだ」

「あれも魔法ってやつか?」

「いや、厳密には違う……っいたた」

 傷に響いたのか痛がるリズ。
 あの杖も魔具とか言う物なのか。気にはなるが英二はそれ以上聞くのを断念して、更に会場を観察する。
 すると、ステージだった場所の一部から逞しい、赤い布の巻かれた肌色の何かが生えた。

「…………リズ、あれ何だと思う?」

「ん? ……手、かな。もしくは腕」

 だよなぁ、と英二が返す間に、その手は引っ込んだ。そして更に大きな物体が生える。

「流石のライヤー・ワンダーランドも死ぬかと思ったぜ!」

 細かな瓦礫を飛ばして、ライヤーは片手を天に突き上げた後、英二達に気付いてあっけらかんと笑った。

「おう、お前らも生きてたか! 良かったな!」

 英二はどこか憎めない男の無事に少し安心した。リズも毒気を抜かれたのか、ふう、と軽く息を吐いただけだった。
 ライヤーはぐるりと壊れた会場を見渡して、声に真剣さを混ぜた。

「ったく、この嬢ちゃんにはお仕置きが必要だな」

 自分の肩についていた木屑を払って、ライヤーはクジュウの少女を瓦礫から引き上げる。
 気絶した少女の手には、黒い杖がしっかりと握られていた。







「へえ、エイジはクジュウの民じゃないのか。それどころか、自分がどこ出身かも解らない、と」

「ああ。自分でもよく分からないけどな」

 興味深げに言うライヤーに、英二はぶっきらぼうに返事をした。異世界なんて信じて貰えないだろうから嘘をついているが、あまりその辺に触れられるとボロが出る。

 ついさっき、とりあえず出口を確認してくる、と言ったライヤーが出口を見に行ったが、爆発の衝撃で塞がれているらしく、すぐに戻って来た。クジュウの少女は気絶したまま目を覚まさないし、リズは怪我があるのであまり喋らせないようにしている。
 出口が開くまで他にやることもない。不思議な状況、というのを認識しながら、英二はライヤーと話していた。

「ライヤーはどこ出身なんだ?」

「はっ、それは言えねえな。反帝国組織の頭領なんてやってると、秘密にしなきゃいけねえことが多いんだ」

 反帝国組織、という言葉にリズが反応したのを、英二は傷を押さえる右手から感じる。
 そんな変化に気付かず、ライヤーはあぐらをかいた脚に、行儀悪く頬杖をついた。

「ま、こんな変な状況だ。たまには良いか。せっかくだから、腹割って話そう」

 おちゃらけた雰囲気が消え、真剣な表情でライヤーは言った。

「俺はブルゾ地区の出だ。姫様には『幽霊地区』とでも言った方が早いか?」

 英二には地名を言われても分からないが、リズには思う所があったらしい。体の強張りが英二の手に伝わる。
 ライヤーは英二をちらりと見た。

「英二は知らないか。早い話が、ブルゾ地区は貧民街みたいなものさ。ただし、実際は存在しない事になっている、自治体すらない無法地帯だがな」

「ブルゾ地区……」

 ブルゾ地区とはただ単に、たまたま人とゴミと悪意が重なって出来ただけの盆地だ。正式名称は、無い。ただ、一般からはブルゾ地区と呼ばれ、貴族からは『幽霊地区』と呼ばれる。
 ライヤーは唇を歪める。

「何故、幽霊地区と呼ばれるのか。それは、貴族の妾の子を捨てる絶好の場所になってるからさ。そこに捨てられれば戸籍など存在しない、幽霊の子が出来上がる。そして貴族は捨ててからこう呟くのさ。『強く生きてくれ』ってな」

 最高の冗談だろ、とライヤーは皮肉げ言った。
 英二は何も言えない。リズも黙ったままだ。
 ライヤーは指を一本立てた。

「一年。俺が『ラクセルダス』を作ってから、ここまで大きくするのにかかった時間だ。早すぎる、と思わないか? リズ・クライス・フラムベイン」

 リズは答えない。ライヤーは続ける。

「国民は変革を望んでるんだよ。休戦後も重税は変わらない。とってつけたような奴隷解放令は実際には張りぼてだ。国民も馬鹿じゃない。分かっている。この国が次の戦争の準備をしているのは明らかだ、と。永き戦争の歴史がこの国の進んだ道だが、もう違う道を進むべきなんだ」

 リズはゆっくりと首を横に振り、喋りだす。止めない代わりに、英二は止血に集中する。

「その道が正しい、とは言えないだろう? ライヤー・ワンダーランド。私だってこの国は変わらなければいけないと思っている。しかし、お前の組織がやっている事をお前は知っていない」

「知ってるさ。俺の組織だ。奴隷の解放。紛争地帯の鎮圧。戦争孤児の保護」

「盗賊まがいの略奪行為。粛正という名の虐殺。毒性の高い麻薬『マタニティ』の流通元もそれに追加しておけ」

 ライヤーは驚きに身を乗り出した。

「おいおい。本当にラクセルダスがやったのか? そんなモン俺は知らねえぞ」

「全てがそう、とは言わない。だが、そいつらは手首に赤い布を巻いていた。それに単発の犯罪者にしては犯行が計画的過ぎだった。ある程度以上の組織力が無ければ不可能だ。特に麻薬の流通」

 ごほ、とリズが苦しげに咳をする。英二は心配して視線を送るが、リズは止めない。

「今、この首都アスリナに入っている麻薬の殆どは『マタニティ』だ。そして『マタニティ』の原材料であるケミカはこの国では殆ど採れない。採れるのは隣国『クレアラシル』だけ。そして――」

 ごほっ、とまた咳をするリズの代わりに、英二は呟いた。

「その『クレアラシル』と取引が出来て、精製する資金と技術があって、尚且つこっちの首都まで入り込めるのはラクセルダスだけ、か」

 あまりこの世界に詳しくない英二でも分かる。いくら停戦したからといって、つい最近まで戦争していた国とすぐに取引を始めるとは思えない。いつ戦争が再開するか分からないし、麻薬の原材料なんて危険な物なら尚更だ。
 しかし、ライヤーのラクセルダスは反帝国組織。上手くいけばフラムベインを中から破壊出来る。ラクセルダスにとっても資金源になる。正に利害が一致している。

 心当たりがあるのか、ライヤーは押し黙って考え始めた。

 重苦しい沈黙の中、この面倒な事態に打つ手は無いか、と英二は思考を巡らせる。しかし一般人の英二にはスケールが大きすぎて見当もつかない。映画やドラマとは違うのだ。救世主が出てきて全て解決、なんて簡単な問題ではない。早々に諦めてある意味対照的な二人を見比べた。

 二人は考え込んでいる。早い話が二人共、現状の認識が違うのだ。互いに、自分が組する組織の認識と実態が離れ過ぎている。まだ二人はそれを消化し切れていない。

 崩壊しかけの帝国と、肥大のせいで腐り始めた組織。それぞれの頂点に組する二人。どちらが悪くて、どちらが良いなんて分からない。
 ただ、一つだけ英二にも分かる事がある。

「リズとライヤーって、結構似た者同士だよな」

 弾かれたようにリズとライヤーは首を横に振った。

「いやいやエイジ、それは無いから。こんな厚顔無恥な男とどこが似てるんだい?」

「いやエイジ、それはねえわ。俺はこんなに頭でっかちじゃあねえぞ?」

 リズとライヤーは少し睨み合った後、空気が抜けたように息を吐く。
 そんな様子がおかしくて英二が笑うと、ライヤーも軽く笑った。

「はっ、なんだか気が抜けたわ。もしかしたら、そうかもな」

「私は違うと思うけどね。ま、今はこんな真剣な話をしても気が滅入るだけかな」

 そうだな、とライヤーが返事をする。ステージで対峙していた時の、白刃で心臓を狙い合っていたような雰囲気はもう無い。

 英二が少し安心していると、ライヤーは倒れたままのリズを見て、何気なく言った。

「なあ、リズ」

「…………なんだ? ライヤー。私はそれなりに苦しいんだけど」

「俺と付き合う気はねえか?」

 突拍子も無い台詞に英二は思わずライヤーを見る。いたって真面目な表情。ライヤー・ワンダーランドが普通とは違う性格、というのはこの短い時間でわかっていたが、流石にそれでも英二は混乱した。この発言に何の含みがあるのか。
 そんな英二に気付かず、リズは同じく何気なく返した。

「それはいわゆる求愛か? 残念だがこれっぽっちも無い。来世に期待してくれ」

「いや、俺、結構本気だぜ? よくよく見れば言われるだけあって美人だし、頭は良いし胸でかいし。俺好みだ。皇族とか組織とか関係無しに、どう?」

「まったく無いな。というか、良くこの状態で口説けるね」

 リズは自分の紅く染まった腹部を指す。そこに服の下から手を突っ込んでいる英二は気まずい。
 ライヤーは英二に向き直り、リズの胸辺りを指差しながら、真面目な顔で言った。

「エイジ、この乳はもう揉んだのか?」

「揉む訳無いだろっ。俺とリズはそんなんじゃ無い!」

 含みも何も無く、本当に告白だったらしい。それに加えていきなりな質問に、英二は思わず声を荒げた。
 ふむ、とライヤーは顎に手を当てて頷いた。

「そうか。じゃあリズ、一生のお願いだから揉ませてくれ。一緒に殺し合った仲だろ?」

「うん。今からでもまた殺し合おうか?」

 淡々と答えるリズから殺気が漏れる。冗談だ、と言ってライヤーは両手を上げた

「ったく、分かってたけど脈無しか。結構本気なんだけどな」

 当たり前だ、とリズが強く言うと、ライヤーは軽くため息を吐いた。
 リズはそんなライヤーと英二を見比べた後、にやりと笑う。そして怪我人とは思えない素早い動きで英二の左手を掴み、自分の胸に押し当てた。

「ほれほれ」

「おいリズ!? 何やってるんだよ!」

「ん? いや、私達ってこの調査の間は愛人関係じゃないか。だから、英二を巻き込んだお詫びに、と思って」

 リズの口から漏れる忍び笑いが、いま言った言葉を完全否定している。
 仰向けの片方は英二の手の形に姿を変え、もう片方は衝撃でふるふると震える。言葉にならない柔らかさ。英二は思い知った。これが世の男達を魅惑してやまない感触なのか、と。
 むにむに。ふるふる。二種二様に自己主張する巨丘。ライヤーは眩しそうに目をつぶった。

「くっ、弾力、大きさ、形っ! これが噂の『皇帝姫の胸は皇帝級』の実力かっ!?」

「さっきまでの真面目な雰囲気を返せ!」

 リズの悪ふざけから左手を取り戻し、英二は拳を握った。決して感触を思い出す為では無い。そして、おふざけが好きなところなんか、特に似た者同士じゃないか、と改めて思った。

 高いソプラノが不機嫌に響く。

「…………うるさい」

 唐突に聞こえた声。三人は同時に同じ方向を見た。
 英二と同じ、黒い髪と黒い目。歳は英二より少し下だろうか。起き上がった上半身はやや起伏に乏しいが、それが逆に彼女の儚い雰囲気を醸し出す。薄いベールは華奢な体を最低限にしか隠していない。
 まだ、意識がしっかりしていないらしく、ぼんやりとした表情で猫のような目を擦る姿は、それこそ愛でられる要素を詰め込んだ小動物のようだった。

 その目が、しっかりと英二を見た。

「ああ、こんな所にあたし以外のクジュウの人間がいるはず無いのに、幻覚が見えるわ。それとも天国かしら。どちらにしてもたまったもんじゃ無いわね」

「人の顔見て酷い言いぐさだな、おい」

 少しむっとしながら英二は返したが、少女は返事をせずにリズとライヤーを見る。そしてはっきりと目を開き、思い出したように叫んだ。

「あっ! 傲慢男と怪力女!」

「おいおい、わざわざ身を挺して助けてやったのにひでえ言いぐさだな。お嬢ちゃん」

 ライヤーは呆れた声を出す。リズは面倒なのか返事をしない。
 ぼんやりとした雰囲気から一転、少女はこの場から逃げ出そうとするが、上手く立ち上がれず動けない。
 英二は少女の持つ黒い杖を指差した。

「ライヤー、また爆発されたらヤバくないか?」

「いや、多分大丈夫だ。あれだけの魔力を使って気を失ってたんだ。今のお嬢ちゃんにあの杖は使えねえし、しばらくは満足に動けねえよ」

 原理は分からないが、ライヤーが大丈夫と言うからには大丈夫なんだろう。
 英二はとりあえず納得して、未だ逃げ出そうとする少女に声をかけた。

「なあ、名前は何て言うんだ? 俺はエイジ・タカミヤだ。別に俺達はお前に何もしないから、とりあえずそこから教えてくれ」

 少女は同じクジュウの容姿の英二の言葉に、少しだけ警戒心を解く。

「…………ルル・トロンよ。その、それ……」

 猫のような視線がリズの傷口へ向かう。

「爆発から俺を庇ってくれたんだ」

 英二はルルから目を逸らさない。ルルは持ったままの黒い杖に視線をやって、ぼそりと何かを呟いた。その言葉が聞こえたのか、片手を上げるリズ。
 ライヤーはルルに話しかけた。

「ちなみにあの爆発からお嬢ちゃんを助けたのはこの俺、ライヤー・ワンダーランドな」

「……っ! そうっ、何が助けたよっ! あんた達さえ来なけりゃ、あたしは今ごろ逃げ出して、久し振りの美味しい料理でも食べてたっていうのにっ」

 突然、思い出したようにまくし立てるルル。英二は首を傾げる。

「逃げ出す?」

「そうよっ。奴隷を引き渡す時に持ち物は返される。あたしはこの杖さえ手に入れば抜け出すのは簡単だったのに、あんた達がめちゃめちゃにしたのよっ」

 それを聞いたライヤーは腕を組む。

「それって、俺達が助けても同じ事だろ? なんだってわざわざあんな爆発を……」

「違うっ!」

 ルルは黒い杖をライヤーに向けた。ステージに晒されていた時の様な、憎悪と嫌悪に彩られた表情。

「虫酸が走るのよっ。あんた達みたいに上から人を見て『助けてやる』なんて言える人間が! あたしはあたしの足で立ってるの。人の助けなんていらない!」

 ライヤーは大丈夫と言ったが、何かの間違いでまた爆発が起きたらたまったものではない。英二は慌ててルルを制する。

「ま、まあまあ。危ないからそいつは下げてくれ」

「うるさいっ! 大体あんたもクジュウの民のくせして、なんでこんな奴らと仲良くしてるのよっ」

「あー、ほら。仲が悪いよりは良い方が良いだろ? だからほら、そいつを下ろしてくれ」

 ちっ、と大きな舌打ちをしてルルは杖を降ろした。
 焦ったり安心したりと忙しい英二とは対称的に、ライヤー落ち着いたまま言い放つ。

「別に『助けてやる』なんて大層な志はねえよ。ただ、道具の制御も出来ないお嬢ちゃんがここから逃げ出せた、とは俺は思えねえな」

「そんなこと……!」

 英二はライヤーの挑発的な発言に冷や冷やしながらルルを見る。
 ルルは強く唇を噛み締めて黒い杖を握り直し、英二達から顔を背けた。ライヤーが【クルミ割り】を腰の鞘から取り出す。

「魔具ってのは繊細なんだ。特殊な能力を使うには訓練と資質が必要だし、一つ誤れば暴発の危険が存在する。最も、それに見合う対価はあるけどな」

 そう言ってライヤーは【クルミ割り】でぐるりと破壊された会場を指し示す。
 粉々になったステージ。原型すらないテーブル達の残骸。一個人の力としては明らかに過剰だ。
 ライヤーは【クルミ割り】を地面に軽く突き立てる。

「この【クルミ割り】も本気を出せば、この辺一帯を砂漠化させるくらいは出来る。さっきの戦闘じゃ能力を抑えてただけだ。まあ、途中からそんな余裕は無くなって、掠るだけで腕の一本くらいは一瞬で持ってく威力だったがな」

 さっきの爆発で今は壊れちまってるが、とライヤーは【クルミ割り】の刃の側面を軽く叩く。鈍い音がした。

「お嬢ちゃん。どういういきさつでその魔具を持ってるのかは知らねえが、これだけは言っとく」

 ルルは黒い杖を抱き締めるように抱える。
 ライヤーは【クルミ割り】を地面からゆっくりと引き抜いた。刃は鈍く光を放つ。

「強い力が危険なんじゃない。その力を芯から理解出来ないのが一番危険なんだ。悪い事は言わない。そいつに頼るのは止めとけ」

「…………うるさいっ! あんたに関係ないでしょ!」

「俺は親切だからな。忠告はしたぞ」

「余計なお世話っ!」

 上手く力の入らない脚で立ち上がり、ふらふらとルルは英二達から離れた。そして少し距離を取った場所で腰を下ろし、呟く。

「これしか無いのよ。あたしには」

 その言葉は空洞の会場に静かに響いた。
 商品として売られていた少女の過去を思って英二が視線を下に落とすと、黙って聞いていたリズと目が合う。紅い瞳が僅かに揺れた気がした。
 リズはルルへと顔を向ける。

「なあ、ルル。私の事は知っているか?」

「……リズ・クライス・フラムベイン。フラムベイン帝国の第三皇女で、史上二人目の女皇帝として期待されている。容姿は端麗、頭脳も明晰。『皇帝姫』の異名に恥じない化け物。牢屋の底にまで名前が聞こえてくる有名人でしょ? はっ、あたしとは住む世界が違うわ」

「知ってるなら話は早い。単刀直入に訊こう。君は今、この国をどう思ってる?」

 質問の意味を掴めなかったらしいルルは瞬きを数回した。そして言葉を咀嚼した後、皮肉げに口を歪めた。

「何? ここで『この国は駄目。助けて!』とでも言ったら、余所者のあたしをお姫様は助けてくれる訳?」

「人は人種に関係なく平等だ。出来れば、そうしたいと思っている」

「馬鹿にしないで。そういうのが一番嫌いなの。あたしは助けなんていらない」

 激しい拒絶。何がそこまで彼女を駆り立てるのか、英二には検討もつかない。ただ少し、この日本人の容姿を持った女の子に憐れみを覚えた。そして、その憐れみこそ、もっとも彼女が嫌っているものとも理解する。英二に出来るのは沈黙だけだ。
 でもまあ一つだけ言えるのは、とルルは可笑しそうに言った。

「あたしがステージに出た時。ステージから見たあいつらの嬉しさと驚きの混じった顔。必死に景品のあたしを競り落とそうとする表情。結局、あれが人間の本質よ。平等なんて、そんなもの現実には存在しないわ」

 リズはそれ以上言葉を紡がなかった。場に重苦しい沈黙。
 ちなみに、とライヤーが沈黙に臆さず話し出す。

「お嬢ちゃんを競り落とした商人は代行者だ。本当の落札者はこの国の宰相のラック・ムエルダ。早い話が仕組まれた競り、ってやつだ。実際には落札金額に関係なく、ラック・ムエルダの元へと嬢ちゃんは連れて行かれる予定だった。オークションを盛り上げるのも商会の仕事。額縁の中の宝石、ってとこだな」

 最大の目玉は最大の見世物。理解出来なくも無い。英二は話を聞いてそう思った。エンターテイメントとしての盛り上げは必要だ。それは次の奴隷売買の繁盛へと繋がる。
 しかし、リズは別の部分に衝撃を受けたらしい。英二はリズの体が強張るのを右手に感じた。

「……ライヤー。それは、本当か?」

「このヤマはアリスナにおける奴隷流通の重要な拠点だったからな。時間かけて、用意周到に内通者まで送り込んでたんだ。確かだぜ」

「そうか……あの方が……」

 独り言のような声が、自然とリズの唇からこぼれた。
 
 奴隷解放令に表されるよう、ラック・ムエルダは人格者として有名だ。振る舞いに派手さは無いが、堅実な政治的手腕を持つフラムベイン帝国の中心人物の一人で、リズも何度か会った事がある。その時の印象は、風評通りの真面目な人物というものだった。
 国の中での立場が高くなればなるほど、悪い噂は付きまとう。当然、ラック・ムエルダにもそれはあったが、リズはそれは間違いだと思っていた。出世を妬んだ少数派が言っているだけだ、と。
 奴隷解放令でのし上がったラック・ムエルダは、国一番の奴隷収集癖がある、という根も葉もない噂は。

 そのラック・ムエルダが奴隷を買っていた。奴隷を禁止し、人を助けるために尽力していた、と思っていたラック・ムエルダが。
 リズは頭痛を抑えるように額の髪を掴む。

「言っただろ。この国は腐ってる、って。何だったら後で証書でも持ってきてやろうか? 爆発で重要書類の保管場所は埋まっちまってるが、探せば見つかるだろ。今なら直筆の署名つきだぜ」

「……いや、いい」

 予想以上に今回の調査は収穫だ、とリズは思った。しかし、それは思うだけで、何故か感情までは届かない。いつもなら忙しくなる、と体に沸き起こる使命感が、今は無い。
 英二が明るく声を出す。

「ま、まだ確定じゃないんだし、今は思いつめるなよ。リズ」

 ああ、とリズは返事をして、自分のやけに掠れた声にまた気が落ちる。自分のなすべき事。根幹の部分が揺らいでいる。

 リズは手をどかして天井を眺めた。この国の実態はどこにある。取り繕った外見の裏には何がある。そしてそれは一体誰のためのモノなのか。
 限りなく深い泥沼に漬かっているような、そんな気がした。

 不意に、天井に亀裂が入った。

「っ! まずい、天井が落ちるぞ!」

 リズは痛む腹部を無視して、声を張り上げた。英二が上を向く。亀裂は凄まじい早さで広がっていく。恐らく、目に見える外面とは裏腹に、内側は既に崩壊していたのだ。壊れていない振りをして、限界が訪れれば一気に崩れる。そして崩れた後に待つのは――――。

「全員集まれ!」

 助かるための最善の行動をリズは瞬間的に構築する。その本能に近い思考に従い、体は勝手に動く。それはリズ・クライス・フラムベインとしての純粋な行動で、魂に染み付いた矜持だ。

 その言葉は、助かるための言葉。犯罪組織の頭領も、異国の少女も、異世界からの来訪者も、分け隔てなく従う。

 そして、天井が降り注いだ。



[27036] 一章七話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/04/07 18:48


 崩れ始める天井。その中でリズが始めに取った行動は、見極める事だった。
 どこに何が落ちてくるか。どう力を加えれば、全員が助かるための空間を確保出来るか。
 紅い瞳は一瞬で状況を把握する。英二はすぐ隣で天井を見ている。ライヤーは大きめの瓦礫を避けた。ルルは転げるように足元に滑り込んでいる。

 怪我をしているが、やるしかない。まだこの心臓は動いているのだ。

 リズは体内の魔力を練り上げる。速く、それでいて密に。

 本来、人は魔力を魔力として扱えない。魔力とは形の無いもの。あやふやで、捉えようの無いもの。故に形を与えなければならないのだ。例えば触れた物を砕く力や、衝撃を生む破壊球へと。紋様、言葉、あるいは魔具によって。
 しかし、繰魔術とはそれらと一線を画す技術。魔力を魔力として操り、体内で循環させる。結果、使用者の体はこの世の理から半歩ずれ、爆発的な身体能力の向上や驚異的な耐久力を有するに至る。
 そして最大のメリットは、デメリットが無い、と言う事だ。
 魔力は循環させるだけなので消費しない。特に負荷の増大や副作用も無い。強いて言えば多少集中が必要なくらいだが、リズは鍛錬によって瞬時に発動、持続が出来る。ただ、流石に気を失えば持続は出来ないが。

 リズの体に魔力が満ちる。体が軽くなる感覚。いや、世界が薄くなる、と言った方が適切かもしれない。
 天井に一際大きな亀裂が走った。一番大きな、厚く平べったい天井の破片。

 リズは一呼吸で立ち上がり、ずれ始めた天井の破片を見据える。これさえ凌げば空間が出来る。
 天井を悔しげに睨むライヤーの【クルミ割り】は壊れている。座り込んでいるルルには魔力が無い。

 英二は片手に血の付いた布を持ったまま、天井に手を伸ばしている。絶体絶命の状況下。しかし、何の力も無い英二の目には、しっかりとした命の輝きがあった。初めて会った時と同じ、諦めていないあの目だ。
 もし、自分が一人でこの状況に陥ったらどうするだろうか。悔しがるか。諦めるか。それとも。

 英二に天井が支えきれる筈が無い。しかし、自分は英二を守る責任がある。ただ口にしただけの約束だが、それを破るつもりは毛頭無い。何故か、と問われれば、そうしたいから、と答えるしかないだろう。
 自分のなすべきこと。守るべきもの。その答えは自分自身の心臓の鼓動にある。

 国のため、という自分の根幹は揺らいだが、自分自身は案外揺らいでいないらしい。澄んだ思考が加速していく。

 リズは軽く口元を緩めて、英二より高く両手を上に伸ばした。







 地鳴りのような崩壊の音は鳴り止まない。一度壊れ始めれば、呆気なく全てが形を崩す。

 英二は今にも落ちて来そうな天井を見る。あの一際大きな亀裂の欠片はどれほど重いのだろう。避ければ助かるか。

 いや、リズがそばで倒れている。

 英二はそれだけ思うと、膝立ちのまま両手を上げた。せめて少しだけ着地点をずらせれば、全員が助かるかもしれない。
 生と死が隣り合わせのこの状況で、他人の身を案じている自分が意外だった。

 もしかしたら、自分は変わりたかったのかもしれない。
 現代の生活の中で英二はただ生きていた。周りに流されて何となく大学へ進学しようか、と考えていた帰り道。大衆に埋もれる自分。不自由は少なかったが、代わりに何かが無かった。

 その何かは決して生きるために必要ではないが、きっと大事なモノだ。
 それを掴むために、英二は膝立ちのまま、ずれ始めた天井へと手を伸ばす。

 だが、それより高く、しなやかな手が中空に伸びた。

「リズ!?」

 英二が隣を見ると、さっきまで倒れていた筈のリズが立ち上がっている。ドレスは紅く染まったままだ。
 時間は止まらない。英二の驚きを飲み込むように、大きな天井の欠片は落ちてくる。圧倒的な質量。

「ぐっ!」

 硬い土で出来た天井にリズの手が僅かに食い込む。だが速度を落としただけで、落下は止まらない。

「っぁぁあ!」

 痛い程に力む体が地面に圧力の歪みをつける。それでもリズは全ての力を込め、天井を支え続ける。
 間近で見れば理解できる。人が一人リズを手伝ったところで、助けにはならない。そんな無慈悲さが荒い土の表面に漂っていた。

 迫る天井。速度を落としつつも増していく死の恐怖。

 そして英二の手が触れる前に、欠片は動きを止めた。

「…………止まった?」

 沈黙の中、ルルが呆けたように呟く。
 操魔術の作用か、リズの体は僅かに発光している。光のある場所では分からないだろうが、完全な暗闇になってしまったこの空間では、僅かにだが互いが見える程度に。
 ライヤーは肺に溜まっていた息を吐く。ぼんやりとした空気が揺れた。

「さっすが皇帝姫さん。助かったぜ」

 リズが支える欠片の下には、三人が入るだけの隙間が出来ている。判断力と規格外の膂力と、運。それをもってしても奇跡的だが、結果として全員が生きている。
 ルルはリズの足元に。ライヤーは背中側に身を寄せる。ひとまず、全員が潰れる、という事態は避けれた。安堵の空気が狭い空間を包もうとする。

「おいリズ! 大丈夫かっ!?」

 ただ、リズの正面にいた英二だけは、安堵とは程遠い声を出した。

「血が……また血が出てるぞ!」

 膝立ちのままの英二の顔は、芯の通った柔らさと、そこから湧き出る熱い液体に触れている。生臭い匂いが英二の頭をかき乱す。

「問題…………無いっ……!」

 リズの腹部から漏れ出る血。その勢いは明らかにさっきより増している。英二の耳に聞こえる心臓の鼓動に合わせ、どくどくと、規則的に。

「問題無い訳……くそっ」

 今、全員の命はリズに集まっている。支えるのを止めろ、とも言えず、英二はとにかく服の上から傷を押さえた。血に染まった布でも無いよりはマシだ。
 だが、それでもリズ自身が力を込めなければいけないせいで、流血は止まりそうにない。
 事態に気付いたライヤーが立ち上がり、リズと同じ様に天井を支えるが、通常の力では足しにもならない。それでも腕が震えるほど力を込めながら、ライヤーは叫ぶ。

「ぐっ、お嬢ちゃん! な、何とかならねえかぁ!?」

「出来るならやってるわよっ!」

 ルルはもう一度破壊の球を出そうと黒い杖を何度も握り直すが、変化は無い。

 ずり、と天井が一段下がる。

「ぐうっ…………!」

 リズからうめき声と血が零れ落ちる。既に相当の血を流している筈だ。
 ライヤーが必死に力を込めるが、天井は徐々に下がり始める。そもそもリズ一人で持っているようなものなのだ。リズが血を流し続け、弱り続けているこの状況は死へと着実に向かっていた。
 ルルが諦めたように、黒い杖を握った手を解く。乾いた音を立てる黒い杖。

「こんなことになるならもっと楽しい事やっとけば良かった……」

「このライヤー・ワンダーランドがっ、こんな所で死んでたまるかよっ!」

 ライヤーの怒号とは裏腹に天井はまた一段下がる。既に英二のすぐ頭の上だ。

「うるさいっ! もういやっ! なんであたしばっかりこんな目にあうのよっ!」

 ルルの叫び声を、英二はどこか遠くに感じていた。
 両手と顔にはリズの生暖かい血の感触。ライヤーがルルに何かを言っている。金色の、癖の無い髪からほのかに漂う香りが血に匂いに紛れ込む。太陽とくすぐったさを混ぜたような、優しい香り。また天井が下がる。
 苦痛で歪むリズの唇が動くが、ライヤーとルルの悲鳴でかき消される。小さい声より大きい声が聞こえるのは当たり前だ。それは聞こえないはずの言葉。

 だが、英二は確かに聞いた。

「生きるんだ」








 英二は両手をリズから離し、拳を握った。
 すぐ上にある死の重圧。焦燥。こびりついた顔の血を袖で拭う。極限状態のせいで、頭の中が氾濫している。
 そして、ぐちゃぐちゃの思考の中、自分の体が酷く熱い事に気付く。今にも体が燃え尽きてしまいそうな熱さなのに、それは体に良く馴染んでいた。

「生きるんだ」

 口にすると自然と拳に力が入る。どこまでも、どこまでも強く握る。普段なら考えられないほど強く力が入っている気がするが、今はそんな事はどうでも良い。また少し天井が落ちた。

「生きるんだ。そして守るんだ、高宮英二。お前の両手は何のためについてる?」

 自問自答。過熱しきった頭でも、答えは分かりきっている。

 この世界に来て、自分は守られてばかりだ。しかも自分と同じ歳の女の子に。
 たしかにその女の子は強い。力も、技術も、頭の良ささえ自分よりも上だろう。
 しかし、それでいいのか。守られて、守られて、挙句の果てには、その女の子すら巻き込んで自分は死のうとしている。

 ああ、なんて格好悪い。

 英二は上を向く。

「簡単だっ! ぶち破るためだろうがぁぁあああ!!」

 熊のような獣、コリストの時と同じだ。勝てる筈もない、出来る筈もない。英二は普通の現代人。喧嘩なんかしたことないし、ましてや魔力なんてモノは操れない。
 勢い良く天井に向け、拳を振る。無謀な行為だ。一般人がどう足掻こうとこの状況は覆らない。無意味。後、数秒もすれば四人は天井に潰され、大地の一部に変わる。

 そう、高宮英二が一般人で普通の現代人だったなら。

 ここは異世界で、高宮英二は異世界人。

 ならば、奇跡は起こる。それが、女の子を守る男の子ならば当然だ。

 リズが支え切れなくなり、急激に天井が落下を始める。声にならない誰かの悲鳴。

 英二の拳が、天井に触れる。






「これはまた…………酷い状態だな」

 皇居の警備兵であるモッズは住民の『大きな音がした』という通達を受けて、ミスラム商会の前に来ていた。
 本来ならば街の警備が駆けつけるべきだが、現場が皇居近くだった事、急を要する事態だという事で皇居の警備兵が臨時でかり出されている。
 同じく皇居の警備兵のダリアが、つい先程崩壊したらしいミスラム商会の建物を見つつ、モッズに後ろから話しかける。

「モッズ、見てないで仕事しろよ」

「分かってる。避難や怪我人の有無は?」

「最初に原因不明の大きな音がした時に、通りの人間は離れてたらしいし、別に建物が爆発とかしたわけじゃない。ミスラム商会で働いてた人間も最初の轟音で避難してる。今の所は被害ゼロ。表向きはな、って俺が上司だぞ。なに報告させてんだ」

「表向き?」

「聞けよおい……まあ、良いか」

 ここまで崩れてるなら逆に安心だ、とダリアは足元の瓦礫を蹴飛ばし、周りを見回した後に小声で言った。

「噂じゃあな、ここには秘密の地下会場があって、夜な夜なあくどい催し物が開かれてるらしい。今回のこの事件もそれがらみじゃないか、って言われてる。見てみろよ」

 ダリアの指差す先にモッズは目を凝らす。

「……何か、妙だな」

「だろ? 崩壊前の建物に比べて、あの辺りから明らかに基板が下がってる。まるで、あるはずの無い地下会場が陥没したかのようにな」

 その言葉を聞いてモッズが商会の残骸へと入ろうとするが、ダリアはそれを慌てて止めた。

「モッズ! 『この場には入らず、避難と怪我人の保護に終始せよ』って命令が上から出ただろうがっ」

「地下会場があるんだろう? ならば今、探れば何か見つかるかもしれない」

「この頭でっかちが! それをさせない為の命令だっ。少しは頭を使え!」

 モッズは周りを見渡して、声を潜める。

「どういう事だ? 命令は軍の上部からだろう?」

「ったく、そこまで考えたら分かるだろ。早い話が、見つけられちゃマズい、って言うのはお偉いさんにとっても同じなのさ」

「…………上部と商会の地下会場が繋がっている?」

「あんまり口に出すなよ。殺されても知らんぞ」

 考え込む堅物の同僚の肩を、ダリアは軽く叩いた。融通の効かないこの同僚であり、部下であり、友人である彼には信じがたい事実かもしれない。

「まあ、一応推測の域は出てないんだ。あんまり考え過ぎるな」

 口ではそう言っても、ダリア自身は殆ど確信している。モッズには伝えないが、ダリアの女遊びや飲み屋で得た情報は、おぼろげながらも確かにその事実を肯定していた。
 モッズは腕を組んで考えている。

 今日は姫様もいない。あのお転婆な皇帝姫は、またどこかで悪を裁いているのだろう。ダリアはモッズの冗談の通じなさそうな顔を見てため息を吐いた。
 さて堅物の代わりに仕事するか、とダリアが柄にも無く気合を入れ歩き出すと、モッズが呼び止める。ダリアはせっかくのやる気が霧散するのを感じながら振り向いた。

「なんだよ、モッズ」

「何か聞こえないか?」

「あ?」

 ダリアは目を閉じ、耳を澄ます。耳は良い方だ。どんなにうるさい飲み屋でも的確に聞きたい会話を探り出す。

「……なんだ? 太鼓? にしては変な…………」

 規則的な気もするが、それにしては下手なリズム。小さな音だが、確かに聞こえる。
 その音は振動に変わっていく。途中で異変に気付き、ダリアは弾かれたようにモッズへ指示を出した。

「商会の下だ! 何か起こるぞ、全員退け!」

 モッズは走り出して周辺の警備兵に呼びかけ、ダリアも商会を背にして距離を取る。振動が大地を揺らす。
 ダリアが目を凝らすと、元商会の床が僅かにだが動いていた。音に合わせて上下に、まるで何かがその下で暴れているかのように。

 地面の振動が頂点を迎えると同時に、残骸が下から吹き飛んだ。

 瓦礫が宙を舞い、離れていた警備兵達にもいくつか降りかかる。だが訓練された警備兵は的確に防ぐ。
 そして吹き飛んだ場所には空洞。そこから、のそりと何かが出てくる。

「っ! 姫様!」

 その中の人がリズである事に気付いたモッズが駆け寄る。明らかな命令違反だが、緊急事態だ。ダリアは舌打ちして声を張り上げる。

「姫様がいる! 総員救出に当たれ!」

 一瞬迷った後、警備兵達はミスラム商会の残骸へと足を踏み入れた。こうなれば処罰は出来ないだろう。仕方ない、姫様救出という緊急事態なのだから。

 今しがた現場に到着したラック・ムエルダが苦虫を噛み潰したような顔になる。ダリアはそれを横目で見て、ますます確信を強める。普通、ラック・ムエルダはこんな現場に来るような立場の人間では無い。やはりここには何かがあった。

 遅れてダリアもミスラム商会の残骸へと足を踏み入れる。リズとその一向の三人は怪我や疲弊が酷く、担架に載せて運ばれていた。特に血まみれのリズとクジュウの少年は見た目にも危険だ。 リズの担架を追いかけながら、泣きそうな顔のモッズと、一緒になって追いかけるその他の皇居の警備兵から視線を外して、ダリアはしゃがむ。ここなら全ての人間から死角だ。さっき残骸と一緒に吹き飛ばされたのか、地面に落ちていた鍵の束を素早く懐に隠す。

 ダリアは危うい物には近寄らない性格だ。見て見ぬ振りは日常茶飯事。危ないと分かっていてそこに首を突っ込むのは馬鹿のする事だと思っている。
 ただ、その性格故に発達した、嗅覚のような部分がダリアに伝える。この鍵は自分に災厄を与えるが、同時にラック・ムエルダが隠したがっていた重要な証拠でもある、と。
 この国は今、ねじ切れようとしている。長年積み重ねてきた歪みが、もうすぐ頂点に達する。この鍵はきっとその要素の一つだ。そんな予感がある。

 もしもの時は全て捨てて逃げ出しますか、と考えて、ダリアは立ち上がる。モッズの顔が浮かんだが、石ころを蹴って消す。執着は自分には必要無い。この鍵は様子を見て姫様にでも売りつけよう。

 ラック・ムエルダ直々の指揮の下、街の警備兵が残骸の処理を始める。

 ダリアは静かに、影のようにその場を去った。



[27036] 一章八話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/04/07 18:49


 ルルは目眩を覚えた。

「あたし……何やってるんだろう……」

「何って、お茶会ですよ! ルルさんはクジュウの民なんですよね? お話聞かせて下さい!」

 元気いっぱいに言うシアは、ルルの膝の上で満面の笑みを浮かべている。
 そんな二人を英二は生暖かい目で見る。

「ルル、俺もクジュウに少し興味あるんだ。話してくれよ」

「その目を止めなさいよ、その目をっ! 偽王子の癖にっ」

 ルルの暴言にも英二は動じない。ミスラム商会が崩壊した日から一週間。それなりに互いの性格を分かってきている。

「ただでさえ意味のわからない状況なのに、ゆっくりと世間話なんて出来る訳ないでしょ!?」

「まあまあ、お嬢ちゃん。もう一週間も経つんだ。いい加減慣れようや」

「一番訳わかんないのはあんたよっ、ライヤー・ワンダーランド!」

 ライヤーは慌てて周りを見回し、良く手入れのされた木々以外に誰もいないことを確認して、ため息混じりに頬杖をついた。

「お嬢ちゃん、名前と一緒に姓まで叫ぶのは止めてくれ。一応有名人なんだ、俺」

 そうなんですか、と無垢な瞳を向けるシアに片手を上げてごまかし、ライヤーは菓子をつまむ。
 ルルはやり場の無い怒りを紅茶で流し込んだ。

 確かに訳が分からない状態だ、と英二は思う。

 ここはリズの住む皇居の庭。隅々まで手の行き届いた木々は、完成された美しさがある。
 そして、柔らかな日差しが注ぐテーブルに着いているのは、クジュウの民と、反帝国組織の頭領と、世にも珍しい異世界人。それと小さな皇女様。これほど不思議な組み合わせはそうそう無い。

 ミスラム商会が崩壊して、一週間が過ぎた。その間、この三人はリズの皇居に匿ってもらっている。一人は国に仇なす犯罪者だが、リズのおかげか捕まったりはしていない。
 あんなに嫌っていた犯罪者を匿う。リズにどんな心境の変化があったかは知らないが、英二にとってはありがたかった。血を見る騒動はもうごめんだし、ライヤーは皇居内で唯一と言っていい男性の話し相手だ。
 仲良くなるのは異性より男性の方が早い。早い話が、英二はライヤーとそれなりに気の合う友達になっていた。

「ライヤー、その【クルミ割り】はまだ直らないのか?」

「ん? ああ、俺はそういうの専門じゃねえしな。見よう見まねでやってるが、これがなかなか……」

 ライヤーは憂鬱そうに紅茶を飲む。
 歳はライヤーが三つ上だが、この国は日本と違い、歳の差で人を敬うという観念が薄いらしい。加えてライヤー自身の親しみやすさと本人の意向で、英二は普通に接している。

 シアはルルの膝の上で上機嫌だ。無邪気な皇女様にルルもあまり強く出れないらしい。紅茶のカップを置き、ルルは諦めたように小さな体に腕を回した。

「……あんた、軽いわね」

「そうですか?」

 ええ、とルルは言って、振り返ろうとするシアの金の頭を見つめる。体がルルに支えられているため、振り向こうとしても振り向けない。シアは諦めて菓子に手を伸ばす。
 動きに合わせて揺れるつむじに、ルルは顎を乗せた。

「ル、ルルさん。重いですっ」

「うっさい。そこに居るあんたが悪いの」

 ルルは腕の中で身じろぎするシアのお腹を軽くつねる。シアは言葉とは逆にかまってもらって嬉しのか、楽しそうにルルへと更に体重を預けた。

 ライヤーと世間話をしながら、英二はそんな二人を生暖かい目で見てルルに怒鳴られる。まさにこの一週間で出来た人間関係の縮図のような光景。
 そして、この一週間で何度も言われた言葉を、英二はまた言われる。

「ところでエイジ。まだあの時みたいな『力』は出せないのか?」

 ライヤーに言われて、英二は胸の前で握った拳を見た。

 あの時、リズが力尽て全てが終わろうとした瞬間。落ちてくる天井を殴り飛ばし、あまつさえ地上にまで吹き飛ばした、荒唐無稽としか言いようの無い膂力。リズの操魔術よりも強い力。
 自分が起こした奇跡。夢では無い。だからみんな生きている。

 英二は立ち上がって近くの木の前へと歩く。テーブルの面々も英二に注目する。
 深呼吸。体に不調はない。
 目を閉じ、意識する。拳よ破壊の力がやどれ、と。もう一呼吸、目を開く。
 そして、英二は拳にありったけの力を込めて、樹皮を殴った。
 地下から四人を救った拳は木を粉々に破壊、しない。

「…………やっぱりだめか」

「やっぱり無理みたいね」

 結果を予想していたのか、興味が無いのか、さほど落胆した様子も無いルル。
 ライヤーも同じようにあまり動じず、椅子に斜めに座ったまま腕を組んだ。

「あの時の力が出せりゃ、下手すりゃ生物兵器になれるんだけどなぁ。……そしてウチの組織に勧誘する」

「間違っても入らないから安心してくれ」

 英二の前には、ビクともしない木が立ったままだ。英二は拳を解き、手のひらを眺めた。

 確かにあの時、追いつめられた自分は凄まじい馬鹿力を発揮した筈だ。どこまでも力が湧き出てきて、その力で堅い天井を打ち砕いた感触を今でも覚えている。
 一体何であれだけの力が発揮出来たのか。原因は分からない。ただ、現在は今まで通りの腕力に戻っている、という事は分かっている。

 英二は手を裏返し、甲を見る。全力で殴ったのはゴツゴツした樹皮。殴った部分の皮くらい剥けて然るべきだ。
 だが、そこには傷一つない肌がある。

「…………一体、俺はどうしたんだろう」

 現在、英二の体に起きた変化で、分かっているのは一つ。怪我をしなくなった、ということだ。
 堅くなったとかそういう訳ではない。ただ、刃物でもこの肌は切れないし、打撃もあまり効かない。感覚が無くなった訳ではなく、抓れば痛いが、それも我慢できる程度だ。傍から見れば痛々しいほどに皮を摘まれても、痛みはそれよりはるかに小さい。

 いつからこうなったのかは分からない。しかし、英二にはある程度の目星がついていた。

(やっぱり、この世界に来てからか…………それ以外考えられない)

 少なくとも、元の世界にいた時はこんな体質では無かった。そして、ここ最近で最も劇的な変化。それこそ異常な耐久力の体になるくらいの事件と言えば、この世界に来た事くらいしか無い。

 自分に起きた異変はどういう意味があるのか。英二には検討もつかない。
 しかし、気付かない内に自分の体が変わっている、というのは普通の人間なら錯乱してもおかしくない状況だが、幸か不幸か英二は前向きだった。

「とりあえず、これは使える」

「はっ、使えるどころじゃねえよ。鎧よりも強い体なんて、その手の奴は泣いて欲しがるぜ」

 ライヤーが両手を頭の後ろで組み、面白そうに言う。
 武道家がどれだけ鍛錬しても手に入らない、桁外れの生身の耐久力。刃すら防ぐ体など、普通の人間ではどんなに努力しても手に入らない。それを英二は手に入れた。

 英二は二、三回、手を軽く握って、テーブルに戻る。
 この世界で生きるための、自分の武器。もしまた熊のような生き物、コリストに襲われたとして、どこまで体が耐えられるかは分からない。反撃の手段もまだ無い。しかし、逃げるくらいは出来そうだ。

 この剣と魔術の存在する世界で頼れる物が出来た。その事実に気が軽くなるのを感じながら、英二は冷めた紅茶を啜った。視界の外で足音がする。

「待たせたね、みんな。この一週間あまり会えなかったけど、元気だったかい?」

 男装の麗人、リズ・クライス・フラムベインは片手を上げ、朗らかな笑みを浮かべてテーブルに近付いて行く。
 英二はライヤー越しに視線を向けた。

「お陰様で怪我一つ無いさ。そっちこそ、腹の傷はもう良いのか?」

「鍛えてるからね。実際、傷は二日で完治してて、今までは色々と別件で忙しかったんだ」

 含みのある言い回しと僅かにライヤーとルルへ向けられた視線。事件の現場にいた犯罪者と、珍しいクジュウの民を匿うのは労力がいるのだろう。実際この一週間、リズと話したのは数えるほどしかないし、話したとしても世間話程度だ。
 英二がそう納得すると、ライヤーは行儀悪く椅子を傾け、リズに話しかける。

「姫さん、俺を捕まえるなら今の内だぜ?」

「はっ、いつでも捕まえられるさ」

 怖い怖い、とライヤーは両手を上げた。やや過激な冗談だが、リズが気分を害した様子は無い。
 リズは一つ空いている椅子に、皇族らしい鮮やかな所作で座る。

「ルル、シアの面倒をみてくれてありがとう」

 ルルは一瞬きょとんとして、シアを支える両手を素早く離した。

「そ、そんなんじゃないわよっ。この子が勝手にここに座ってきただけ!」

 降りなさいっ、とルルはシアの背中を押す。シアはちょっとだけ抵抗して、名残惜しげにルルから離れた。

「ルル、そのくらいやってやれよ。そんな負担でもないだろ?」

「うっさいわよっ。じゃあ、エイジ。あんたがやりなさいっ」

「変な所で強情だなぁ」

 英二がシアを見ると、その大きな瞳をキラキラと輝かせていた。

「ん? ここ来るか?」

「はいっ」

 快活に返事をして、シアは英二へと近付く。
 英二はその小さな体を持ち上げて、自分の膝の上に乗せた。髪が胸に当たって、少しくすぐったい。
 シアはぱたぱたと足をばたつかせてお菓子に手を伸ばし、クッキーを手に取った。そして体をずらして横に座り、英二にクッキーを差し出す。

「はいっ」

 英二は顔の前に差し出されたクッキーを、そのまま口で受け取る。噛むと控えめな甘さが口に広がった。兄離れを始めた元の世界の妹も、少し前まで丁度こんな感じでじゃれついてきたものだ。
 懐かしさと一抹の寂しさを感じながら飲み込むと、シアが体勢を戻し、英二に背を預けてきた。

「やっぱりエイジさんは優しいですねっ」

 きらきらと緩やかにウェーブのかかった髪が、胸の前で踊っている。英二はその髪を手で撫でつける。
 上機嫌そうなシアの体をもう片方の手で落ちないように固定した所で、英二はルルの汚らわしい物を見るような目に気付いた。

「なんだよ、その目は」

「あんたって、そういう趣味だったのね…………」

「……は?」

 自分の身を守るような仕草をするルル。言いたいことは分からないでも無いが、妹を持つ英二にとって小さな子供は庇護対象にしかならない。間違っても変な気分になんてならない。
 馬鹿馬鹿しい話だ。同意を求めようとライヤーを見ると、顎に手を当て真剣に考えていた。

「……確かあの時、目の前に乳があっても全く揉もうとしなかった…………もしかして本当にそういう趣味なのか?」

 へ、と間抜けな声を出して、英二は記憶を掘り起こす。
 確かに地下会場でリズを手当てしている時、あの色気溢るる服の下に手を入れながら何もしていない。
 だがそれは当然だ、と英二は思う。あの状況下でそんな余裕は無かったし、人として当たり前の事だ。

「いや、あれはそんな場面じゃなかったろ」

「いやっ、いつ何時でも男ならっ! 目の前の魅惑の果実に手を伸ばす筈……!」

 しかし、そんな理屈はライヤーの中に無いらしい。何故だかどんどん間違った確信を深めていく。

「そうだっ、そう考えれば納得がいく。まな板のお嬢ちゃんに手を出さないのも、あのラミって使用人と艶っぽい関係にならないのも、対象年齢外だったからか…………俺は応援するぜ。道は険しいけど、頑張れよっ」

 勝手に結論まで辿り着き、爽やかな笑顔を向けてくるライヤー。だが英二は見た。ライヤーの小鼻がぴくぴくと動いているのを。
 話の見えないらしいシアは膝の上で小首を傾げる。英二はだらだらと全身の汗が噴き出すのを感じた。ルルの勘違いとライヤーの悪乗りのせいで、このままではロリコン扱いされてしまう。訂正しないと自分の尊厳が危うい。

「お、おいおい。ちょっと、ちが」

「エイジ」

 静かだが、しっかりとした芯の通った声。汗が急に引いていく。コリストと戦った時とは比べものにならない緊張感。
 英二はゆっくりと顔をリズへと向ける。いや、リズは違うだろう。これが誤解だと分かってくれる筈だ。そんな希望を抱きながら。

 笑顔とは感情だ。嬉しい時、楽しい時。自然と出てくるプラスの感情。きっと多分。
 リズは感情の見えない不気味な笑顔で言葉を紡いだ。

「シアを返してくれないかい?」

「…………はい」

 会話についていけていないらしく、首を傾げるシア。希望など無かった。
 世の中の理不尽さに心で涙を流しながら、英二はシアの体を膝から降ろした。

「シア、こっちにおいで」

「えと、はいっ」

 リズの呼びかけに、シアは満面の笑みで英二から離れる。愛しのお姉さまに呼ばれて嬉しいのだろう。シアは今までで一番の笑顔を見せる。なんだか英二は少し泣きたくなった。

 シアを抱きとめて、リズは空気を切り替える為にやや大きな声を出す。

「エイジの趣味は置いておいて。今日集まって貰ったのには、話があるからだ」

「ああ…………うん、もういいや」

 今日、英二達がこの場でお茶を飲んでいるのは偶然では無い。リズの要望によるものだ。
 英二は誤解を解くのを諦めて、改めて椅子に座り直す。ライヤーを見れば笑いを噛み殺しているが、無視してリズに話を促す。

「で、話っていうのはなんなんだ?」

「まあまあ、焦らない焦らない」

 リズは英二を制して、テーブルに頬杖をつく黒い髪の少女に向き直る。

「ルル、君はクジュウに帰りたいかい?」

 興味が無さそうだった半開きの目が、言葉の意味を理解すると共に勝ち気な曲線を取り戻す。

「そんな事聞いて、どうするの?」

「どうするかは返答次第だね」

「あたし、あんた嫌いなんだけど」

「結構。私は気にしない」

 ルルはリズを数秒見詰めた後、その華奢な肩に乗った黒い髪を乱暴に払った。

「ああもうっ! 帰りたいわ。帰りたいに決まってるでしょ! この大陸に来て一年っ。もう一秒だってこんな国に居たくないわよっ」

「そっか。じゃあルルは決まり、と」

 何の話よっ、と騒ぐルルを放置して、リズはライヤーに言葉を投げる。

「貴様は、知るべきだと思わないか? 自分の持ち物について」

 これだけでは何の事だか分からない。現にシアは可愛らしく小首を傾げている。
 だが、ライヤーが反帝国組織『ラクセルダス』の頭領だと知る英二とルルには分かる。持ち物とはその通り『ラクセルダス』だ。
 ライヤーは面白そうに唇を歪めた。

「ああ、自分の物はきちんと自分で管理しないとな。入れ忘れは無いか、綻びは無いか。改めて確認するのは大事な事だ」

「じゃあ、貴様も決定だ。じっくりと確認させてやる」

 ピクリとライヤーの眉が動く。

「姫様よぉ。さっきから結局何が言いたいんだ?」

「まあ待て。次が最後だ」

 リズはそう言ってシアを地面に降ろす。そして、英二へと真っ直ぐ向き合った。

「エイジ、君は世界を知っているか?」

 世界。哲学的とも取れる質問だが、英二はこう答えるしかない。

「いや」

 異世界人である身からすれば、知っていることなどほとんど無い、と言っていい。
 しかし、もし仮に元の世界の事を知っているか、と訊かれても英二は同じ答えを返すだろう。

 世界は、広い。
 その世界を知っている、と言えるほど英二は自惚れていなかった。
 返事を聞いたリズが、僅かに笑みを浮かべる。

「じゃあ、世界を知りたい、と思うかい?」

 英二は考える。
 突然来たこの世界。自分がいた世界とは違う、血なまぐさくて、争いの近い世界。
 この世界に来て、大変な事ばかりだった。いきなり獣に襲われたり、潜入捜査を手伝ったり、崩落に巻き込まれたり。一歩間違えばそれこそ死ぬような世界だ。出来れば二度と体験したくない。

 だけど、街で食べたナルバ焼きは美味かった。風通る庭で飲む大して好きでもない紅茶は、どこか心が晴れやかだった。
 リズは律儀な奴だ。ライヤーは面白い。ルルは口は悪いが、ラミと一緒で何気に世話焼きだし、その相手のシアは天真爛漫で癒される。

「きっと、君の場所が見つかると思うんだ」

 リズの声が耳を撫で、英二は故郷に想いを馳せる。
 学校の友達や家族。見慣れた風景や行きつけの定食屋。今帰れば、自分はどこにいるのだろう。ただ生きてきた高宮英二の場所は、一体どこにあるのだろう。

 自分は、どこまで行けるのだろう。

 ここまで考えて英二は気付く。なんだかんだ言って、自分はこの世界に興味が出てきているらしい。どうせまだ帰れないのだ。その方法を探す旅をする必要がある。
 魔術を使いこなすらしい中立の森の民。浮遊する岩で出来た大山脈の上の巨大神殿。隣国に住む護国の竜。この一週間で人から聞いた、御伽噺のような話の数々。これらは、この世界に本当に実在しているらしい。もしかしたら、その中で帰る方法が見つかるのかもしれない。
 興味や好奇心。それこそ物語の中でしか聞いた事の無いモノ達を見たい、という子供のような欲求。久しく感じていなかった胸の高鳴りが、帰るため、という殻を被って英二の胸に沸き起こる。一体、どんな世界が広がっているのか。
 今、自分は考える振りをしている。帰る、という目的の為の手段が、心を躍らせるのだ。

 人間の順応力は恐ろしい、と英二は軽く笑って、はっきりと言った。

「ああ、見てみたい。この世界を」

 それは宣言だ。この世界を歩く、この世界で生きる、という宣言。
 いつか元の世界に戻る為、今はこの世界で生きる。今この瞬間。本当の意味で初めて、英二はこの世界に来たのかもしれない。

 英二の返答に、リズは満足そうに頷いた。

「うん、宜しい。では、みんなで旅をしよう。このアリスナから東にずっと行って、クレアラシルを越え、砂漠を越え、海を越えた先にあるクジュウまで」

 はぁ? とルルが間抜けな声を出した。そう来たか、とライヤーは可笑しそうに笑う。
 その反応を楽しむように、リズは紅茶を一口飲み、湿った唇をもう一度動かす。

「私は知りたい。世界の真実の姿を。ありのままの人の姿を。その為には旅をしなければいけない、と思ったんだ。そして丁度、みんな旅をしなければいけない『理由』がある。ならばルルもライヤーも英二も、全員で行こうじゃないか。まだ見ぬ世界へと」

 何かを言おうとして口を開いたルルが、クジュウに帰れるという事に気が付いて口を閉じる。ライヤーも何も言わない。ただ、何かを潜めた目で、面白そうにリズを見る。

 ずっと黙って聞いていたシアが、リズの服を控え目に握った。

「お姉さま、遠くへ行くのですか?」

 琥珀色の瞳が涙を我慢して揺れる。リズはシアの頭を優しく撫でる。そこに愛情以外の不純物など無い。

「ああ、遠くへ行くよ。勿論、シアも一緒にね」

 一瞬きょとんとした後、溢れんばかりの嬉しさを表情に出すシア。そんな可愛い妹をリズは優しく撫で続ける。

 この世界に存在する未知の場所、物、技術。英二はそれらを想像する。しかし、きっとその想像以上の世界が広がっている筈だ。ここは異世界なのだから。

 そしてそこに、元の世界に帰る方法があるかもしれない。

 見えてきた方向性。高宮英二の旅をする目的。

 英二は空を見上げて、まだ見ぬ世界に想いを馳せる。



 突然。本当に突然、高宮英二は見知らぬ世界にやってきた。
 その見知らぬ世界の晴れた空。暖気漂う雲の下。
 騒がしく話す旅人達は、自分達の運命をまだ知らない。




[27036] 一章九話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/04/09 10:41

「じゃあ、そういう事だから。出発は明日の早朝。各自、準備をしておいてくれ」

 リズは立ち上がりながら、そう締めくくる。
 ルルは不満を顔に浮かべながらも、帰る手段はこれしかない、と渋々納得した。ライヤーは何が可笑しいのか、口元に笑みを浮かべて菓子を摘む。
 英二とシアにも異論は無い。明日の早朝には、全員揃ってこのアリスナを出発するだろう。

 リズは場を後にして、皇居へと入る。
 このリズが住む屋敷は、アリスナに五つある皇族の住処の内の一つ、第三皇居と呼ばれている。
 皇居と呼ばれるからには、内装も外見も豪華で贅沢な造りをしている。それは立場のある者の義務であるし、リズに不満は無い。
 ただ、豪華にということは敷地も広い。必然的に廊下も長くなる。時折、鬱陶しく感じてしまうこともある。

「姫様、本当に大丈夫ですかい? エイジ・タカミヤはともかく、ライヤー・ワンダーランドとシア嬢ちゃんまで一緒に連れて行くなんて」

 その廊下の途中で警備兵、ダリアは細身の体を壁に預けてリズに話しかけた。丁寧とは言い難い言葉遣いだが、リズに気にした様子は無い。
 皇女と警備兵、という立場の違いは大きいが、リズはこの男が、不遜な態度の下に鋭い牙を隠し持っている事を知っている。人を見る目は自信がある。

「ライヤー・ワンダーランドは問題無い。魔具が壊れている以上、私の敵ではないよ。シアは…………私が一緒に居ないと、駄目だ」

 リズは振り向き、自分が歩いてきた方向を見た。自分が妹に甘いのは重々承知している。それが弱点になり得ることも。
だが、そういう損得の感情とは別に、リズはシアを傍から離したくないのだ。

 シアミトル・フラムベイン。存在してはならない娘。皇族であれば必ず持っていなければならない、紅い瞳を持ちえなかった娘。
 リズの母であるマリレアがシアを産んだ時、その琥珀色の瞳を見た彼女は言った。

『これは違う』

 絶叫にも似たその呪詛。隣室でそれを聞いた幼いリズには意味が分からなかったが、時が経った今は分かりたくない事まで理解できる。
 皇帝の血をひけば瞳は紅くなる。例外は、無い。ならば答えは必然。シアは皇帝の子では無い、別の男の子供なのだ。あってはならない事態。

 あってはならないなら、消せばいい。周囲は何も言わず、出産自体を無かった事にした。しかし、ほとんど公然の秘密のようなものだ。そんなシアの扱いを、リズは納得できなかった。幼いながらもリズはシアを守り、屋敷の中だけでも、と仮初の自由を作ったのだ。
 マリレアはシアを産んだ日を境にどこかが壊れ、麻薬『マタニティ』に手を出した。止めさせようと注意していてもどこからか入手し、今では薬物中毒の末期症状を引き起こしている。正直、もうどうにもならないとリズは理解しているし、シアを捨てた母にくぐもった感情も感じている。だが、それでも見捨てることは出来ない。

 リズにとって母親は大事だ。そして誰の子だろうとも、妹のシアを愛している。義務にも似た、しかし義務などよりも強い感情。
 母は長くは持たないだろう。そして、妹を守るのは自分だ。その為にも自分は皇帝にならなければならない。

 この国を安らかな国にする。シアやルル、弾圧される民達。そんな持たざる者が大手を振って名乗れるような、安寧の国に。
 それがこの一週間で出したリズの新しい目標。ルルと話して、ライヤーから聞いて、揺らいだ自分に突き通す新たな鉄柱。
 そのために旅をするのだ。本当の自分の目で見て、何が良くて何が悪いのかを判断しなくてはならない。

 リズはダリアに向き直る。

「ダリア、貴様はマリレア様を南の『カイロウ』に移動させろ。あそこなら安全だからな。そして、その場の指揮の全権を任せる。明日の夜に来るラック・ムエルダの襲撃までには、絶対に間に合わせろ」

「っ! 了解しましたっ」

 国を守る、では駄目なのだ。それでは変わらない。国を壊し、作り変えることが必要だ。

 明日の夜、ラック・ムエルダがここに襲撃してくる。事前に調べさせて正解だった。あの会場でラック・ムエルダの秘密を握ったリズは、もはや敵と認識されているらしい。シアの事を考えると、ここを離れるのが最良だ。あの子にはこの世界の残酷さを見せてはいけないのだ。汚い部分を自分が背負う代わりに、世界は楽しいものだ、と教えなければ。それも旅に出る理由。
 
 ダリアの敬礼を横に、リズは歩き始める。その姿には、覚悟を決めた王者のみが持ち得る荘厳さを漂わせていた。






 緊張した背筋を緩め、ダリアは息を吐く。

「…………思わず敬礼しちまった」

 一週間前の事件。あれからリズが何やら裏で動いていた事は知っている。ライヤー・ワンダーランドやルル・トロンの事とは別件ということまではダリアの耳にも入っていた。
 また何か火遊びをしているのか、と思っていたが、違うらしい。

「ラック・ムエルダ」

 ダリアの口から無意識に漏れる、この国の重要人物。皇帝を除けば、この国のトップと言っても過言ではない名前。慌てて長い廊下を見回す。幸い、誰もいない。

(ラック・ムエルダが襲撃に来る。そしてそれを予期しているリズ・クライス・フラムベイン。この前のミスリム商会が崩壊した事件)

 リズはあの場の、崩壊した地下に居た。
 おぼろげながら全容が見えてくる。ラック・ムエルダとリズは敵対した。そしてラック・ムエルダの秘密をリズは握っている。だから襲撃に来るのだ。普通、皇居を襲撃など考えられないが、それ程大きな秘密なのだろう。
 ラック・ムエルダとリズ・クライス・フラムベイン。立場はリズが上だが、人脈、権力、実績においてはラック・ムエルダの圧勝である。

 ダリアは勝ち馬に乗る主義だ。その主義に沿うならば、ここは裏切ってラック・ムエルダにつくべきだろう。

 しかし、とダリアは考える。
 リズからの命令は急過ぎるし、大きすぎる。普段あまり真面目では無い自分に任せるのは無謀。そう、自分を知る者ならば任せない。例え、本当は遂行出来る能力があっても。

(しかし、姫様は俺に任せた。一体、どこまで知っている?)

 ダリアは懐に隠した鍵を、鎧の上から押さえる。そもそも命令自体、ある程度事情を知っている者にしか言えないだろう。国家反逆とも取られない命令なのだ。自棄になって自分に命令した、と思うにはリズは落ち着いていたし、そんな性格では無い、ということをダリアはモッズから嫌と言うほど聞かされている。

 底の見えない皇女か、現宰相か。

「ダリア、どうしたんだ? こんな場所で考え込んで」

 ダリアは突然かけられた声に、反射的に剣を抜きそうになる。
 それをどうにか押し止めて、話しかけてきた同僚のモッズに、努めて平静な動きを返した。

「いや、今日も平和だから、厨房に菓子でも貰いに行こうかと思ってたんだ」

「またそうやってサボる事ばかり考える。お前はそれしか無いのか」

「生憎、それでもお前より立場は上だ」

「くっ……! すぐに追い抜いてやるっ!」

 モッズは太い腕に力を入れてダリアに反論する。普段通りの会話に、ダリアの肩から若干緊張が抜けた。

「今から休憩か?」

「ああ、お前も仕事をしろ」

「うっさい。俺の仕事は、お前達がちゃんと働いてるか見ることなんだ」

 軽い世間話をしながらもダリアは考える。この先どうするべきか。どこに自分は歩を進め、立ち位置を決めるべき。

 ふと思い付いて、ダリアは質問を投げかける。

「モッズ、例えばの話だ。帰りの道と行きの道。帰りの道はある程度の財貨と安全。行きの道にはまだ見ぬ栄光と、全てを失う危険がある。二つの道があったとして、お前ならどっちに行く?」

「なんだ、その質問は?」

「いいから、答えろよ」

 訳が分からん、と言いながらもモッズは腕を組み思案する。姫様か剣か、どちらかの話題でしか滑らかに動かない口が、神妙に開く。

「行きの道」

「何故だ?」

「簡単だ。帰りは見てきた風景しか無いのだろう? ならば行きの道を行くべきだ。新たな景色を見るために」

 ダリアは思わずモッズの顔をまじまじと見てしまった。堅物の友人にしては気の利き過ぎた返答。いつもならばもっと簡潔で、つまらない返ししかしない男なのに。
 そんなダリアの胸中を感じ取ったのか、モッズは舌打ちして顔を逸らした。

「やはりこういう含みを持たせた物言いは、俺には合わん」

「あ、ああ、俺もそう思う。一体どんな心境の変化だ?」

 モッズは眉を顰めたまま答えない。ダリアはそんな友人の横顔を見て推測する。
 変化。最近起こった事。モッズが敬愛してやまない人物。
 誰も知らない筈の、目の前の一年間共に過ごした同僚さえ知らないダリアの優秀な頭脳が答えを弾き出す。

「…………もしかして、最近姫様が男と仲良くしだしたから、今の内に気に入られようとしている、とか?」

 一週間前の事件。あれからこの皇居に居ついている男二人。特にクジュウの民の少年はリズと親しい。いや、リズが親しくしようとしている、と言った方が正しいか。逢い引き等の直接的な証拠は無いが、その名前はリズの話の中に多く出てくるようになった。
 それに気付いたモッズが焦るのは自明の理。だからあんなリズのような言い回しを真似してまで、気に入られようとしたのだ。
 その推測は図星だったらしい。みるみるうちにモッズの顔が羞恥で赤くなる。ダリアはモッズの鍛えられた胸板を軽く叩いた。

「その愛しの姫様からの命令だ。今から皇居の全ての人員に召集をかけろ。他の仕事はいい、最優先だ」

「……本当に姫様の命令か?」

「本当だ」

 ダリアの急な命令に訝しげな視線を向けるモッズ。しかし、その命令が冗談ではないと分かると敬礼を一つ。モッズは素早く警備兵達の集まる休憩所へと駆け出していった。

「行きの道と、帰りの道」

 リズの命令に従う、という事はラック・ムエルダと対立するという事。しかし、ダリアはリズの側を選んだ。
 ラック・ムエルダに付けば報酬は大きいだろう。それだけの秘密だから躍起になって襲撃してくるのだろうし、その成功の立役者になればある程度の信用は得られる。
 だが、それだけだ。裏切り者として移動すれば、それ以上は望めない。 
 しかし、もし万が一リズが勝ち、皇帝になったとしたら。
 皇帝に目をかけられる、ということは今の立場より格段に上を望める。大隊長、いや将軍にすら手が届くかもしれない。

 いつも仕事をサボってばかりの男にも、純粋な頃があった。それは幼い日に交わした、小さな小さな約束だ。
 相手は忘れているだろう。いや、それどころか生きてさえいるか怪しい。ただ、自分は覚えている。正確にはついさっき、その約束を胸の古ぼけた棚から出したのだ。

 ――きっとえらい人になって、きみをむかえに行くよ! えらい人だから、きみがはたらかなくてすむ!

 淡い初恋。笑ってしまうくらい陳腐な約束で、果たすことが出来ないであろう約束。腕に大きな怪我をした少女を、元気付けるために言っただけ。あの頃はその言葉の重さや、大変さなんて分からなかった。
 
 今までのダリアならこの機会に主人を乗り換えているだろう。ついでにリズの弱点であるシアミトル・フラムベインでも手土産に持って。ダリア・トールドとはそういう男だし、事実そういう人生を歩んできた。子供の時も、家を捨てた時も、戦争でも。

「どうせ人には果てがある。ならば、まだ見たことの無い風景を探すのも悪くない。そういう事にしとくか。けっ、似合わねえな」

 ダリアは久しく感じていなかった高揚感を覚え、思わず独り言を零す。新しい言葉を、ゆっくりと自分に染み込ませるように。今までの自分を覆い隠すように。
 そして肩を一度ぐるりと回して、自分の仕事をするために、早足で歩きだした。






 フラムベイン帝国は今、緩やかな実りの季節が包み込もうとしているオクトバの月だ。

 そんな穏やかな空気の中、『皇帝姫』と名高いリズ・クライス・フラムベインが住む第三皇居が賊に襲撃される。その報は瞬く間に広く国民の耳に知れ渡った。
 その話では、運良くリズ・クライス・フラムベインは同日に旅に出ていて、それに合わせて皇居の使用人達も暇が出ており、奇跡的に人的被害はなかったらしい。
 戦争の無い久しぶりの実りの季節だ。雲の上の話は忙しい生活の雑音で掻き消えていく。国民は一月後には忘れてしまうだろう。


 人々の道が交わるのは、もう少し先の話だ。







 一章       了



[27036] 二章一話 それぞれの街、宴の夜
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/07/23 22:06

「さて、雑多の街『ファフィリア』までもう少し、かな」

 金色の癖の無い髪が、きらきらと光を返しながら風と戯れる。

「リズ、危ないぞ」

 手すりから身を乗り出して景色を見るリズ。風にはためく彼女の服を、英二は内側へ軽く引っ張った。

 風に混じる緑の匂い。後方に流れていく青々とした木々は、実りの色に染まり始めている。公道、とも言うべき広い道は平らに整備されているが、人影は少ない。振動も気にする程ではない。
 首都アリスナを出発して二日目。英二が思っていたよりも早かった。だが、それはアリスナとファフィリアの距離が近いという事では無く、単に乗り物の移動速度が早く、絶え間無く走り続けていたからだ。

「凄いですね! ずっと走ってますけど、疲れないんでしょうか!?」

「疲れないんじゃないの? 知らないけど」

 気に入ったのか、荷台の端でルルの腕に収まるよう座っているシア。短い指を先頭へ向けて伸ばし、楽しそうな声を上げた。
 対照的に興味なさげなルル。そんなルルの代わりに、乗り出していた上半身を戻しながらリズが答える。

「シア、あれはナルバという生き物で、馬とは違うよ。力持ちで持久力もあり、なおかつ肉も美味い。性格が臆病だから戦闘には使えないが、荷台を牽かせるにはこれ以上無い生き物だよ」

 淀みの無いリズの説明に聴き入るシア。へえ、とルルも相槌を打つ。

 大きな体。地を蹴る足は太く、丸みを帯びた顔はどこか愛嬌がある。ゴツゴツとした厚い皮を震わせて走りながら、ナルバは鳴いた。それは甲高く、始まりを告げる笛の音のようだ。

 更なる説明をする為に、シアとルルの元へと移動するリズ。小さな皇女は全身を使って歓迎し、異国の少女は若干不機嫌になる。リズは気にせず説明を続ける。

 英二は足を伸ばして荷台の床に座り直す。今、英二たちの乗っている荷台は広く、中々に快適だ。だが、長くかかるであろう旅の荷物は、荷台の一角を占領し、少し手狭になっている。

 そしてその荷物の一つ、床に大きなスペースを使って横たわる人間に、英二は声をかけた。

「ライヤー、大丈夫か? もうすぐ着くらしいぞ」

「…………わかっ……うぷっ」

 起き上がろうとするが、起き上がれない。短く逆立った髪も、心なしかしんなりしている。出発早々乗り物酔いになったライヤーは、ずっとこんな調子だ。訊けば乗り物に元々酔いやすい体質らしい。
 反帝国組織の頭領にしては情けない姿。しかし、女性達で心配していたのはシアだけだ。そのシアも今は愛しのお姉さまの講義に夢中である。
 そんな不遇のライヤーに英二は同情してしまう。

「無理するなよ。着いたら起こすから」

「…………ち……が……」

「ん?」

 赤い布の巻かれていない腕が宙をさまよい、うわごとのように呟かれた言葉は風にかき消される。
 よく聞こうと英二はライヤーに近寄った。

「……乳が揉みたい。出来れば手から零れ落ちるくらいの大きな乳が……あれ? この場にはそんな乳は一つしか、いや、二つしかな」

 微かな風切り音。何かが英二の脇をすり抜け、ライヤーの頭に突き刺さる。

「あ、あっぶね! 死ぬぞっ、カッコ良くて素敵で無敵なライヤー・ワンダーランドさんが死ぬとこだったぞっ!」

 慌てて飛び起きるライヤー。頭に突き刺さったかに見えた短剣が、床できらりと光を返した。

 投げたであろう張本人は、素知らぬ顔でナルバについての講義を続けている。シアは頷きながら聞き入り、ルルは半分目を閉じ眠そうだ。

 なんだかんだで上手くやっている、と英二は思う。リズとライヤーのふとした命のやりとりも、ルルの口の悪さも、そろそろ余興のようなものに感じてきたから大丈夫。きっと。

 英二は荷台の端に腰をかけ直す。手すりはそんなに高くは無い。さっきのリズのように身を乗り出せば、先方まで見渡せるだろう。
 屋根と壁との隙間から差す陽は心地良い。英二は軽く伸びをした。異世界にしては平和な、至極平和な空間。

 前触れも無く、影が英二達を包み込む。

「なんだっ!?」

 雲がかかったにしては暗すぎる。それに暗いのは周辺だけだ。後方の道を見れば、暗すぎる影は途切れ、さっきと変わりない暖かな日差しが地面を照らしている。

――まさか、これが魔法?

 緩やかになっていた頭が一気に加速する。そう、ここは異世界なのだから。
 ここには特別な人間が多い。皇女、反帝国組織の頭領、異国の少女。誰かに狙われたとしても不思議では無い。

 そうとしか考えられない。
 英二は立ち上がる。見えない暗さでは無い。荷台から身を乗り出して、空を仰いだ。

 初めに認識出来たのは翼だ。空を流れるように進む大きな翼は、細かい極彩色の羽が集まって形作られている。
 次に見つけたのは頭だ。流線型で無駄の無いくちばしで空気の海を進む姿は、どこか優雅にすら見える。

 つまりは、巨大な鳥。
 英二は絶句した。ジャンボ機のような大きさの鳥など、英二のいた世界では聞いたことすらない。それが丁度、英二達の真上を低空飛行している。
 存外に近い位置からリズの声が聞こえた。

「珍しい。エイジ、あれは『旅する鳥』という魔獣だよ」

「魔獣!?」

 さっきとは真逆で、乗り出した英二の体を落ちないように引っ張りながら、リズも上を覗く。

「大丈夫。『旅する鳥』は分類こそ魔獣に属するけど、危害を加えたりはして来ない。生態や行動範囲は不明。一説によれば産まれてから死ぬまで一度も地面に降りないとか。その証拠に足が無いし……と、話が逸れたね」

 英二は『旅する鳥』の足を探すが、確かに無い。その事実は大きさ以上に不思議な印象だ。繁殖や食事はどうしているのだろう。
 危険は無いという事が分かって一息つく。旅の初心者には少々過激すぎる出だしだ。
 魔獣。そんな生き物が存在している。しかし、危害を加えるようなものではないらしい。少なくともこの巨大な鳥は。
 あの羽は一体どのくらいの大きさなのか。『旅する鳥』の不思議について英二が考えていると、リズも同じように身を乗り出してきた。

「ふふっ。『旅する鳥』は旅人の象徴。なんだか幸先が良いと思わないかい?」

 リズは相変わらず男装している。ただし、旅の間は皇女の身分は隠すらしく、高貴な軍服では無く至って普通な、この世界で良く見る男物の服だ。
 しかし、着る服が平凡でも、着る人間が平凡でなければ、それは特別になる。早い話が、いくら平凡な服に身を包もうとも、リズ・クライス・フラムベインの美しさは隠せないのだ。

 柔らかい肩が触れる。横を見ると、上を見上げる綺麗な横顔。
 英二は変な気恥ずかしさを覚えた。この世界に来てから生きることに精一杯で気にしていなかったが、冷静に見れば容姿、スタイル共に英二の出会った女性の中で、リズは文句なしの一位だ。思春期の男の子には刺激が強い。

 気付かれないよう僅かに距離を取って、英二はまた上を見る。

「まあ、そうだな」

「気のない返事だね。これは本当に珍しい事なんだよ? ……よし、この際だから君に常識と言うモノを叩き込んであげよう。ルルとシアもこっちへおいで。ライヤーは……どうでもいいか」

「…………返す……気力もねえ……うっ」

 倒れたままのライヤーに目もくれず、嬉しそうなシアはリズの元に寄っていく。そんなシアの手を振り払えず、ルルもされるがままに集まった。

 乗り出した身を引っ込めて、英二の隣でリズは楽しそうに話す。それは地理だったり歴史だったり、様々な分野に渡る話だ。シアは熱心に聞き入り、ルルはつまらなそうに流し聞く。ライヤーは相変わらず動かない。

 リズの声は優しく、はっきりと分かりやすい、春風のような声だ。英二も内側に戻り、春の調べを聞きながら、未だに居座る『旅する鳥』を見上げた。

 『旅する鳥』はゆっくり空へ上がっていく。それにつれて、周りの影はどんどん薄くなる。
 やがて元の明るさに戻った所で、木に囲まれていた道が一気に開けた。

 先に見えるのは大きな街。悪人も善人も、高い物も安い物も、混ざり合って成長する濁流の坩堝。
 雑多の街『ファフィリア』では、何が待ち受けているのか。

 英二は旅の仲間達の姿をちらりと見た後、太陽に向けて伸びをした。




[27036] 二章二話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/05/06 21:10


 雑多の街、ファフィリアはその名の通り、色んなものがごちゃ混ぜの街だ。人、物、街並みすら節操無く移り変わる。
 その中の安くもないが高くもない、普通の宿屋に五人はいる。。

「部屋は取ったよ。行こうか」

 宿の支払いを終えた黒い瞳のリズは、二つの鍵を見せながら英二達に移動を促した。

 ライヤーとシアはリズに先導され階段を上る。軽く文句を言いながらルルもついていく。
 英二は最後尾で上る途中、ふと立ち止まって窓から街を見た。

 人通りの多い、細く入り組んだ通り。真新しい白い壁の隣に、大きな染みの付いた汚い塀。雑多の街だけあってごちゃごちゃしている。英二はそんな印象を持った。

 乗って来たナルバと荷台は、さっき御者の人と共に別れた。彼らもこの街のどこかにいるのだろう。

「ぼさっとしてないで行くわよ」

「ああ」

 階段の上で振り向いているルルに返事をして、英二は足を進めた。

 階段を登ると二つの扉。その前にリズは立ち、英二達に二つの鍵を見せる。

「借りたのは二部屋だから、男女で分かれよう」

 英二は頷いて鍵を受け取るが、リズの隣に立つルルが不満の声を上げる。

「あんた金持ちなんでしょ? 一人一部屋くらい借りなさいよね」

「あんまりバラバラでも面倒だよ。ま、この位の不便は勘弁してくれないかい?」

 リズは言いながら部屋の鍵を開ける。ルルは不満気な表情のまま部屋に入った。とにかくルルはリズに突っかかる事が多い。あしらいも慣れたものだ。

「じゃ、私達はこっちにいるから、何かあったら声をかけてくれ。次の街への出発は明日の朝。それまでは各自自由にしよう。ああ、英二は荷物を置いたら私の所に」

「了解」

「この街は色んな物がある。少し買い物に行こう。さ、シア、入ろうか」

 リズもシアの手を取って部屋へと入る。英二も同じように鍵を開け、部屋の中へと歩を進めた。

 小綺麗な部屋には二つのベッド。リズの住んでいた皇居のような豪華さは無いが、十分まともな部屋だ。
 ライヤーは荷物を置き、ベッドに飛び込むように座った。

「各自自由、ね。皇帝姫さんは俺が逃げ出すとは考えないのかね」

「信用されてるんじゃないか?」

 英二も荷物を足元に置いて、近くの椅子に座る。
 脚を組み、頬杖をつくライヤー。獰猛な笑み。

「信用? はっ、どこから見たらそんな風に見えるんだ?」

「ほら、ミスリム商会の地下で告白してたし、情みたいなものが芽生えてきた、とか」

 英二の発言にライヤーは堪えきれずに噴き出した。

「くはっ、無いだろっ。あんな言葉に惑わされる程『皇帝姫』はヤワじゃない。確かに良い女だが、俺とは絶望的に相性が悪いらしいし。くくっ」

 ツボに入ったらしいライヤーはなかなか笑いが止まらない。そこそこ真面目に答えた英二は恥ずかしそうに頭をかいた。

「なんだ、あれ嘘だったのか。てっきり本当だと思ってたのに」

「純情な奴だな、おい。くくっ」

 笑いの発作が治まってきたライヤーは、諭すように言う。

「あんなの牽制みたいなもんだろ。そんな言葉を投げかけられて情なんか湧いたら、頭を疑うね」

 自分の頭を指差すライヤー。この男は想像以上の食わせ者らしい。
 そんな飄々としたライヤーに、英二はむしろ信用を置いている。

「でも、ライヤーは逃げないんだろ?」

「まあな」

 その言動や行動に反して、ライヤーは真っ直ぐだ。そんな所に英二は好感を持っている。例え、犯罪組織の頭領だろうと関係無い。そもそもその組織すら義憤の為であるのだ。
 勢い良くベッドに背中を預けたライヤーは、ぽつりとこぼす。

「あー、今夜は酒でも飲みにいくかな。……英二、お前も来るか?」

「酒? うーん……」

 甘酒などは飲んだ事があるが、今までちゃんとした酒を飲んだ事は無い。
 本来なら未成年だからいけないが、ここは異世界。日本の法律を守る必要は無い。
 一応確認だけは、と英二は訊いてみる。

「俺、まだ十七なんだけど」

「ん? ああ、知らねえのか。この国は十六から飲酒していいんだ」

 郷に入りては郷に従え。つまりは合法。
 未知への興味も手伝って、英二はすんなりと決めた。

「よし、行く。でも今まで飲んだこと無いから、お手柔らかにな」

「ははっ、何をお手柔らかにするんだよ」

 ライヤーが笑い声を上げる。つられて英二も笑った。

 扉からノックの音。英二が振り向くと、荷物を置いたリズが部屋に入ってきた。

「エイジ、遅いから迎えに来たよ」

「あ、悪い。ライヤーと話し込んでた」

 そういえば荷物を置いたら来い、と言われていた。英二は椅子から立ち上がる。
 ベッドにだらしなく寝転がるライヤーが思い出したように言う。

「あ、リズ。今夜飲みに行くから、金くれ」

 遠慮の無い物言いだが、リズが気にした様子は無い。ただ僅かに眉を顰めた。

「率直というかなんというか……」

「エイジに夜の楽しみを教えてやるんだ。ちょっとくらい良いだろ。なんならお前も来るか?」

「うーん…………。シアもいるし、後で決めるよ」

 そうか、とライヤーは起き上がって、片手をリズに突き出した。しかし、リズは無視して英二と部屋から出ようとする。

「…………あれ。金は?」

「今渡したら別の事に使うから。大体、いくらかは持ってるだろう? それで遊んだらいい」

「ぐっ、何故バレてやがる……。ったく、じゃあ寝とくわ、俺」

 ふて寝を始めるライヤーを尻目に、二人は部屋を出る。
 似た者同士のやりとりに苦笑していた英二は、階段を降りながらリズに話しかけた。

「それで、買い物だっけ」

「ああ、色々と必要だろう?」

 問われて考える。自分の荷物はリズが用意してくれた分しかないが、かといって今のところ不自由はしていない。

「そう言われても、別に何も思い浮かばないけどな……」

 リズの高い位置で結われている髪が、目の前で歩みに合わせて揺れる。いわゆるポニーテールというやつが、リズの標準だ。
 その長く、癖の無い金の尾が、くるりと向こうに移動した。

「まあ、街に出れば見つかるよ。ここは雑多の街ファフィリアだからね」

 階段の段差のせいで見上げられる形になった英二。紅い瞳でなくとも、その容姿は十分すぎるほど人目を惹く。
 そしてその瞳は、先への期待に光り輝いている。

「……飯とか、色々あるんだろうな」

「おおっ、エイジもやっぱりそう思うかい!? この街は隠れた名店が多いらしくて、宿に来る途中にも良さげな店がちらほらあったんだよ! やっぱり旅は食だね、食! 今から涎が……失礼、淑女らしくないね。あっ、でも今は別に上品に振舞う必要も…………」

 堰を切ったように話し出すリズ。何のことは無い。ただ自分が食べ歩きたかっただけらしい。
 話を聞いていると英二もお腹が空いてきた。

 未知の世界の未知の街。そこの食べ物はどんな味だろう。
 少しだけ期待に胸を膨らませて、もしくは大きく胸を膨らませて、英二達は宿屋を後にした。






 ルル・トロンは好き嫌いが激しい性格だ。お金が好き。自由が好き。偉い奴は嫌い。

「ルルさん、旅ってなんだかわくわくしますねっ。わたし、こんな風に家から外に出るの初めてです!」

 ちなみに、子供は苦手だ。
 部屋に入ってからもじゃれついてくるシア。自分よりも貧弱で、か弱い存在。その手をルルは払えない。

 そういう所が苦手なのよ、と思いながらもルルは渋々相手をする。

「そう、だからあんたって、世間知らずそうな間抜けな顔してるのね」

「はいっ、だからルルさん、色々教えて下さいね!」

 ベッドに座っているルルを見上げるシアは、疑う事を知らないような純真な笑顔。皮肉も通じない。

 ルルは諦めに似た感情を感じながら、されるがままにシアに抱きつかれる。きゃー、とやたらテンションの高いシアは、ぐりぐりと顔をルルの腹に押し付けた。

 どうしてこの小さな皇女は、こんなにも自分に懐いているのか。お世辞にも自分は愛想が良いとは言えないし、出会った時期もごく最近。好かれる要素は皆無の筈。
 ルルがそんな事を思いながら、シアの無防備な背中を軽くつねる。シアは嬉しそうに声を上げて体全体をルルに預けようとする。
 顔を押しつけるな、という意味を込めたその行動は、まるきり逆の結果をもたらした。子供は謎だ。

「ちょっと、もう少し落ち着きなさいよ」

「落ち着いてます!」

「…………落ち着いてないって……」

 器用に体を移動させ、ルルの膝の上で向かい合うように座るシア。
 小柄なルルよりも更に小柄なシアだが、こうなれば視線は同じ高さだ。琥珀色のシアの瞳は真っ直ぐにルルを見て、また笑顔になる。
 思わず視線を逸らしたルルに、シアは上機嫌に言った。

「ルルさん、この街はどんな所なんですか?」

「どんな所って……知らないわよ。あたしはこの国の人間じゃないし」

「そうなんですか?」

「クジュウからこの大陸に来て、丁度この国の国境辺りで…………まあ、色々あって直接首都に来たのよ。だから知らないわ」

 国境辺りで人さらいに捕まり奴隷市に出された、とは流石に子供に言えない。ルルは濁しながら答えた。
 その説明にシアは納得して、次の疑問をぶつける。

「ルルさんは、クジュウからどうしてこの大陸まで来たんですか?」

 本当に純粋な疑問だったのだろう。だが、その言葉はルルの胸を強く抉った。

「……人を捜してたのよ。まあ、見つかったからもういいんだけど」

「見つかったって、もしかしてエイジさんですか!?」

「そんな訳無いわよ。やっぱりあんたは馬鹿ね」

「ば、馬鹿じゃないですよっ!」

 むすっとした顔になるシアだが、部屋の扉をノックする音が聞こえると、一転して興味津々な表情をルルに近付ける。

「あのっ、わたし、開けてきてもいいですか?」

「ていうかあんたが開けなさい。あたしは面倒だし」

「ありがとうございますっ!」

 無垢な笑顔を浮かべて、シアはルルの上から降りようとする。しかし、どうも上手くバランスがとれず、ルルを掴む手を離せない。
 そのもたもたした動きに耐えられず、ルルはシアを持ち上げて床に降ろす。
 もう一度礼を言って、シアは扉へと小走りで駆けて行く。その小さな背中を見て、何であたしが相手しているんだろう、とルルは何度目になるか分からない疑問を抱いた。

「ライヤーさん、どうぞ!」

「お、こりゃ可愛らしい出迎えだ」

 扉が開いて見えたのは、短く逆立った赤毛。
 ライヤーはシアを褒めた後、部屋には入らずルルに話しかけた。

「お嬢ちゃん、暇だからエイジ達でも追いかけようぜ」

「悪趣味だし、あんたと一緒にいるのが嫌だから却下」

 ルルは間髪入れずに返答した。
 そもそも、ルルはこの旅の連中と仲良くするつもりはない。必要以上に行動を共にするなどもってのほかだ。
 その意志を知ってか知らずか、ライヤーは不敵に笑う。

「まあまあ、別に仲良しこよししましょう、って訳じゃねえんだ。ただ、もしかしたらあの皇帝姫のあられもない秘密なんか見れるかもよ」

「お姉さまは見られて恥ずかしい秘密なんてありません!」

 シアが大声で否定する中、ルルの猫のような目が細められる。
 あのいけすかない皇女はいつも余裕たっぷりで、嫌な奴だ。命を助けられたかもしれないが、感謝などしない。

「ふーん。まあ、それなら行くわ。ただし、ついでになんか買って」

 嫌いな奴には優位に立ちたい。ルルはライヤーも嫌いだ。

「おう、良いぜ。シアも来るか?」

「そんな、お姉さまを内緒で追いかけるなんて…………」

「そんな大した事じゃねえよ。それにお姉さまには秘密なんて無いんだろう? だったらシアが信じてやらないと、お姉さまが可哀想だ」

「あ、あれ? わたし、お姉さまを疑って…………?」

 混乱してきたのか、しどろもどろなシア。更にライヤーは追い討ちをかける。

「ついでにシアにも何か買ってやる。この街は色々あるからな。食べ物とかもおいしいぞ?」

「た、食べ物……」

「通りじゃ大道芸人が世にも奇妙な技を見せてくれるし、きっと楽しいぞ? ほら、お姉さまの為にも、みんなで街に行こうや」

「…………そ、そうですよね! わたし、街に行きます! ここなら警備の兵隊さんもいないし、街に出られるんですから!」

 お姉さまのためにっ、と間違った決意を固めるシアの目は、まだ見ぬ魅惑の光景に爛々と輝いている。
 よく言うわ、とルルは思いながら、立ち上がって部屋の鍵を取った。

「んじゃ、決まったならさっさと行くわよ。あいつらが出たの結構前だし、見つけるのも骨だわ」

 シアもルルも普通の街人の格好だ。変に目立つ事も無いだろう。
 最後に黒い杖を入れた袋を背中に背負って、ルルは部屋から出る。特に持ち物の無いシアは先に出て、ライヤーと話していた。

「ライヤーさんって、有名人だからお金持ってるんですか?」

「まあな。だから、あんまり外で俺の名前を言っちゃいけないぜ? 有名人だから、人が集まって街を見れなくなる」

 ばっ、と慌てて自分の口を塞ぐシアに、ライヤーは笑いを零す。

「いや、ライヤーくらいは大丈夫だ。姓まで呼ばれると流石にマズいが」

「わ、分かりました。……あれ、ライヤーさんの姓って何でしたっけ?」

「ははっ、忘れてるならそっちの方が良いだろ。秘密にしとくわ」

 和やかに話す二人は、実は非常に危険な会話をしている。ライヤーは有名人だが、それは悪い意味での有名人なのだ。シアが知れば悲しむだろう。

「あんたって、詐欺師みたいな奴ね」

 鍵を閉め、二人の会話を聞いていたルルは思わず口を挟む。
 ライヤーはその言葉に破顔して、自信たっぷりに言った。

「おう、何故なら俺の名前はライヤー…………だからな!」

「あっ、今、隠しましたね! ずるい!」

 はははっ、と笑うライヤーとシアは楽しそうだ。案外、この二人の相性は良いかも知れない。

 和やかな雰囲気。どうにも受け付けない。
 ついさっき鍵を閉めたルルは、早くも部屋に戻りたくなった。



[27036] 二章三話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/05/06 21:12


 人が蠢き、物が並び、喧嘩が起これば物見で賑わう。アリスナの人の多さとはまた質の違う、全てがごちゃ混ぜになった風景。

 英二はファフィリアの中央通りを前に立ち止まっていた。圧倒される、とはまさにこの事だ。向けられる好奇の視線にはもう慣れた。

「…………これはなかなか……」

 先に見える中央通りは広い。しかし、人の多さの前にはその広さなど意味が無い。通りの筈なのに、店に並ぶ行列や見て回る人々の壁があるのだ。
 同じように隣で尻込みしているリズに、英二は人の壁へと顔を向けたまま話しかけた。

「人が多いとは聞いてたけど、ここまで多いなんて予想外だ」

「……すまない。私も予想外だった」

 目の前の混雑に戸惑っている声。英二はリズの横顔を見る。

「なんだ、リズもここに来たことが無かったのか? この街の特産品の解説とかしてたのに」

「いや、その…………まあね。一応、この街に来たことはあるんだけど、こういう場所までは来れなくて」

 視線を合わせないまま話すリズの頬が、羞恥に染まる。
 勤勉な皇女にとって、知らない事は恥ずかしい事なのだろう。英二はもう一度中央通りを見る。当然、人は減らない。

「こっちは諦めて、別の所に行くか? 宿に行く途中にも良さそうな店があったんだろ?」

 この中央通りは文字通り、この街の中心だ。人にしても物にしても、ここを目指して集まってくる姿は、言わばこの雑多の街の象徴とも言える。
 勿論、少し通りを離れてもそれなりに店はある。何もここにしか物はない、という訳ではないのだ。ゆっくり見て回るなら、むしろそっちの方が良い。

 だが、リズ・クライス・フラムベインは退かない。何故ならば、そこにまだ見ぬご飯があるから。

「いや、進もう。私達は進まなければならないんだよ。それが旅というものだ」

「いや、それっぽいこと言ってるけど違うからな」

 英二の言葉は届かなかったらしい。リズは英二に手を差し出す。

「さ、はぐれるといけないから」

「え?」

 差し出された手の意味を考えて、英二は目を逸らした。

「い、いや。子供じゃないんだから、手を繋ぐってのは…………」

「手くらいで恥ずかしがる程、子供でも無いだろう? それに、この混雑じゃ子供も大人も関係ないよ。まあ、もし君がはぐれても大丈夫、って言うなら別だけど」

 文字も読めずお金も無く、この世界の常識も無い。加えて悪目立ちするクジュウの民の容姿。もしはぐれたら、比喩じゃなく死ねる。
 そう自分に言い聞かせて、英二は差し出された手を握った。

「そう握ったら歩けないだろう? こうしないと」

 握手する形で握った英二の手の甲を、リズはもう片方の手で掴む。右手と右手では二人が同じ方向を向いて歩けないのだ。今更ながらに英二は間違いに気付いて、二重の恥ずかしさで顔に血が上る。

「よし、行こうか。戦いの地へと」

 握り直した手は、剣を扱っているせいか少し硬めだ。鍛えられ、荒れた指先が、英二の手を軽く締めつける。予想していた感触と違うとはいえ、曲がりなりにも女性の、それもとびきり美人の手だ。どうにも落ち着かない。
 英二は軽く頭を降った。これは妹の手。そう思い込んで平静を保つ。

「こんな所を他の奴らに見られたら誤解されるなぁ」

「まあ、かもしれないね。あんまり多く食べる姿を見られたく無いから英二だけ呼んだんだけど、正解だったみたいだ」

「……っていうか、本当にそのためだけなんだな、俺を呼んだのって」

「ああっ! い、いや、ちゃんと目的はあるよ? ただ、どうせなら食べたいし…………ね?」

「何が『ね?』だよ。ったく、それなら早く行くぞ。俺も腹が減ってきた」

 英二の目の前には、入るのにも苦労しそうな人の壁。早々と疲労感が漂ってくる。

 いくらリズが強いといっても、こういう時は男から。

 景気づけに軽く手に力を入れて、英二は人混みに突撃した。







「…………まさか、まさかまさかの展開だな、こりゃおい」

 中央通りから少し離れた看板の裏。仲良く手を繋いで中央通りに入っていったリズと英二を遠目で見て、ライヤーは面白くなって参りました、とばかりに口角を上げた。

 特に期待していた訳では無い。ただ単に暇だったからという理由で、ルルとシアを交えて始めた尾行は、急展開を見せてくれた。
 なんと、あの『皇帝姫』が男と仲睦まじく手を繋いで人混みに消えたではないか。
 ミスラム商会の地下では関係を否定されたが、これはひょっとするとひょっとするかもしれない。

 皇帝姫が皇帝姫と呼ばれる由縁の一つに、リズの男の影の無さがある。
 今までの皇女は、ほとんど大貴族の婿を取り、内政には関わってこなかった。皇女という立場は、それだけで一生を約束されているからだ。向こうから寄ってくる婿を選び、適当な時期に婚約し、子を成せば人生に不自由は無いのに、わざわざ自ら求婚を退け、政治の世界に飛び込む理由など無い。それなのに積極的に政治に関わろうとするリズは、言わば異端に近い。

 皇帝とは絶対なる者。そして孤独な者だ。
 『皇帝姫』とは、才ある皇族の中でも更に卓越した能力に加え、独り身でいることに拘るリズへの揶揄の意味もあった。

 それがどうだ。ライヤーは自分の顔がにやけていることを自覚する。

「くくっ、不意を突かれて戸惑った顔。男に手を引かれて進むなんて、天下の姫様らしく無さ過ぎて…………ふっ、ぶはっ」

「気持ち悪い笑い方しないでよ。気持ち悪い」

 ルルは冷めた視線でライヤーを見る。シアは何故ライヤーが笑っているのか理解出来ないようだ。

「お姉さまとエイジさんが手を繋ぐのって、そんなに面白いことですか?」

「ああ、シアにはまだ分かんねえかも知れないが、ぶっちゃけここ最近で一番面白い事件なんだぜ。ぷふっ」

 諭すように話そうとしても決まらない。それはライヤー・ワンダーランドにとって非常に珍しい事態だ。

 これは早急に解決しなければ、と心に決めて看板の影から身を出す。ルルも着いてきてはいるが、あまり乗る気では無さそうだ。
 珍しいクジュウの民だからか、容姿が可愛らしいからか。おそらく両方の理由で集まる視線を鬱陶しげに一瞥して、ルルはつまらなさそうに言った。

「あの二人がそういう関係な訳無いじゃない。どうせ、人が多いから、とか子供みたいな理由でしょ。そんなの見てもしょうがないわ。それより買い物に行きましょう」

 黒髪の少女は早くも飽きてきたらしい。

 皇女と身元不明の変な男。まあ、確かに不釣り合い過ぎる。
 ライヤーは顎に手を当て、英二達の消えた先を見る。面白いからこうあって欲しい、という考えを捨てて冷静に考えれば、ルルの言う事はかなり可能性が高い。この先に休めるような宿は無いし、あの英二に『皇帝姫』の男になるほどの甲斐性があるとは思えないのだ。

 偶然が重なった非常に珍しい光景。リズの性格も考えに入れると、そう考えるのが妥当。

 ライヤーの頭の中で、さっきまで感じていた高揚が色褪せていく。あの二人が恋人である、という確証があれば、更なる喜劇が見れるかもしれないが、今のところは無い。これ以上は望めないだろう。
 つまんねえな、と思いながら、ライヤーは所持金を確認するために、腰にかけた袋に手を伸ばす。

「しょうがねえ、どっか別の面白い場所にでも行くか」

 袋から金貨を取り出して親指ではじく。くるくると回りながら高く飛ぶ金貨。
 それを感心したように見ながら、シアはさらりと爆弾を放った。

「そうですよ。お姉さま達は『こいびと』なんですから、邪魔しちゃ駄目です」

 恋人が具体的にどういう意味を持つのか、実感していない幼い声。ライヤーは金貨を空中で掴み損ねた。慌てて拾ってシアに近付く。

「お、おいシア。今、何て言った?」

「え? 何がですか?」

「いやだから、リズとエイジが何ですよ、って言ったんだ?」

 ライヤーは一般男性よりも身長が高い。遥か高みから見下しているような状態だ。
 シアが困惑しているのに気付いて、ライヤーは足を曲げて琥珀色の目の高さに合わせた。

「大丈夫、怒ってるん訳じゃないんだ。ちょーっとばかりさっきの台詞に違和感があっただけで。で、あの二人がどういう仲だって?」

「え、えっと…………」

 シアは一生懸命に記憶を掘り出す。

「わ、わたしがエイジさんと初めて会った時に、お姉さまが言ったんです。えっと、『私は君と深い仲になりたい』って」

 これはこれは。ライヤーの冷めかけた心に火が点る。

「で、エイジはそれを了承したんだよな」

「は、はい。わたしは恥ずかしくて見れなかったんですけど、握手してました。だから、お姉さま達は『こいびと』なんです」

 ライヤーはほくそ笑んだ。
 皇帝姫が。あの男嫌いと言われていたリズ・クライス・フラムベインが。ただの男に惚れている。
 大事件、と言っても過言では無い。ライヤーは立ち上がって考える。もしそれが事実なら、英二をこちらに引き込めばリズが付いてくるかもしれない。そしてそこから帝国打倒の道が――

 はた、とライヤーは考えを止めた。この旅についてきた理由。いつでも逃げ出せるのに、未だにこの街に居る原因。それこそが帝国打倒のための組織ラクセルダスなのだ。

 ラクセルダスは暴走している、とリズに言われた。確かに、最近は自分の手が回らない範囲が多くなり、他の人間に指揮を任せる事も多かった。そして決まって、別働隊のの報告書には成功と、いつもより多い民間人の死人の数が載っているのだ。
 それは誤差の範囲なのかもしれない。まったく血が流れない解放など有り得ない。だが、ライヤーはその見えない部分に、嫌な胎動を感じていたのだ。少し、心当たりがあるから。
 その事実を確かめる為に組織を離れ、旅をしている。
 もし自分が作った組織のままだったら戻ればいい。簡単だ。そして帝国を倒し、平等な世界を造ろう。

 違う場合は、作ったこの手で。

 ライヤーは深部へと下がっていく心を止め、振り返らないまま後ろのルルに話しかけた。

「お嬢ちゃん、これは一大事だぜ」

 立ち上がる自分の顔には、ひねくれた笑みが浮かべられているだろう。ライヤー・ワンダーランドという仮面はこの程度では揺らがない。思う所はあるが、今は目の前の事件を楽しむべきだ。そう思うと、仮面の笑顔と自分の顔が重なって、真実になる。ラクセルダスの頭領は、自分を律せないほど愚かでは無い。
 ふと、ライヤーはルルからの返事が無い事に気付く。嫌われているとはいえ、無視される程ではない筈だ。
 不思議に思って振り向くと、羨ましがるような嫌悪しているような、なんとも言えない表情のルルが、英二達の消えた先を見つめていた。

「お嬢ちゃん?」

 もう一度呼ぶと、ルルは慌てたような素振りを一瞬見せて、すぐにつまらなさそうな顔に戻った。

「別に一大事じゃないわよ。興味無いもの」

 だが、人を読むことに長けたライヤーは、その猫のような瞳が大きく揺れ始めた事実を見逃さない。興味無いなんて嘘。
 ライヤーは腕を組んで頷いた。

「好きの反対は無関心だもんな。うんうん」

「だからっ、興味無わよっ。あいつらがどこまでいってようとっ」

「ルルさん、どこまでって、どういう意味ですか?」

「っ! …………し、知らないっ!」

 シアの疑問を強引にかわし、ルルは元いた場所、つまり宿の方角へと歩き出す。
 そんな後姿にライヤーは言葉の銛を投げる。

「お嬢ちゃん、愛する二人が何をするのか見にいかねえのか?」

 ピタリとルルが歩みを止め、振り返る。

「愛なんて、ばっかじゃないのっ」

 心底くだらない、と言わんばかりの不快な表情。
 その表情を見て、ライヤーは自分の言葉の選択が正しかった事を確信する。

「愛は良いもんだぜ」

「そんな訳無い。くだらない」

 愛。それがルルの心のざわめく場所。
 銛は深く刺さっている。ならば後は力いっぱい引っ張るだけ。

「じゃ、愛の素晴らしさを証明してやる」

「……どうやって?」

「それは二人が進んだ先にある。見ればわかるさ」

 ライヤーは自信たっぷりに、二人が消えた人ごみを親指で示した。
 ルルは視線を人ごみに移した後、鬱陶しげに黒髪を払った。

「愛なんて幻想よ。それを証明するために行ってあげる」

 ライヤーは近付いてくるルルを見て、おう、と軽く返事をした。
 当然、愛を証明するつもりはさらさら無いし、二人の行き先なんて知らない。ただ、この場さえ凌げれば後はどうとでもなる。完全にはったりだ。

 この先、二人を尾行するにあたってルルは不可欠だ。なぜなら、からかう相手がルルしかいないから。シアは疑うことを知らなさ過ぎて、からかいがいが無い。
 楽しい事は楽しもう。自然と、ライヤーの笑顔は優しいものになる。久しく浮かべていなかった笑みだ。
 隣に立っていたシアがぽつりと零した。

「こいびとなのは、やましいことでは無いですよね?」

「ああ。やましくないさ。やら……素晴らしい事だ。愛と平和の徒、ライヤー…………が保証するぜ!」

「…………なんだか、ライヤーさんが信じられなくなってきました」

 ライヤーは大きな声を上げて笑う。
 大いなる遊び心を満たすため、つまりは二人を追うために、中央通りの横の脇道へと、ライヤーは二人を引き連れ進み出した。






 威勢のいい客引きの声。それに釣られるように見知らぬ男女が店に入って行く。どこもかしこも繁盛しているのは、それだけ多種多様な品揃えがあるからだろう。
 ファフィリアの中央通りをある程度進むと、入り口のような大混雑は無くなった。それでも依然、道行く人は多い。やたらと集まる視線は、隣を歩く男が珍しい容姿をしているからだ。その男と手を繋いで歩いている自分は、まさに先程同じように男と手を繋いで店に入った女性と、同じ様に見られているかもしれない。

 ただ、リズも伊達に皇女をしている訳ではない。他人の視線に怖じ気づくほど、繊細な人生を送るつもりは無いのだ。

 堂々と道を歩くだけ。何もやましい事など無い。
 今まで荒事など経験したことの無さそうな、恐らく自分より綺麗で柔らかい手を、リズは軽く握り締める。

「さあ、どこから行こうか」

「腹が減ってるんだろ? 俺はどこでもいいぞ」

「いや、せっかくこんなにも色んな店があるし、時間はまだたっぷりある。まずは見て回ろう。ほら、あそこなんて楽しそうだ」

 言うが早いか、リズはその店に向かって方向を変える。繋いだ手に引かれるまま、英二もその店の扉をくぐる。

 二人を出迎えるのは、まるで統一性の無い雑貨の数々。宝石の付いたブレスレットや、鮮やかな赤に染められた布。帽子や手袋の一角に、何故か重厚な鎧まで置いてある。

「いらっしゃい」

 裏にいたらしい中年の男の店主が声をかけてくる。

「ウチには色々置いてるから、じっくりどうぞ」

 作業着が少し汚れている。何か仕事の最中なのだろう。店主はそう告げて、また裏に引っ込んでいった。
 代わりに髪の毛を三つ編みにした女の子がリズ達に近寄る。

「何をお探しですか?」

 店員らしい。リズは苦笑を返した。

「いや、特に目的は無いんだ」

「そうですか。何かあったら、気軽に言ってくださいね」

 ああ、とリズは片手を上げて、周りを見回した。
 つられて英二も見ていると、小物を置いている一角に目が止まったらしい。くい、と手が引っ張られる。

「ちょっとあっち見ないか?」

「ん」

 引かれるままに移動する。行動にしろ作戦にしろ、いつも引っ張る側だったせいで、誰かに引かれる、というのはどうにも慣れない。
 商品の前で止まった英二は、細やかな細工の施された髪飾りを手に取る。そしてリズの結われた髪に挿した。
 英二は思い出すように顎に手を当てる。

「たしか、こんなん挿してなかったっけ?」

「ああ、向こうにいた時はね。今は旅してるし、そういうのを挿してもしょうがないかな、って思ったから、置いてきたんだよ」

 リズが片手で髪飾りを挿しなおす。一応、定位置があるのだ。

「私は基本男装だから、こういうところでお洒落しないと」

「ってか、なんで男装してたんだ?」

「剣を振るのに、スカートを履いてどうするんだい?」

 違いない、と英二は笑って、また小物達に目を落とす。リズも小物を眺めた。ここの小物は他とは違い、全て繊細な細工で統一感がある。値段は普通の小物より僅かに高いが、質はそこらの物など比較にならない。特に髪飾りは洗練された意匠と実用性を兼ね備えた見事なものだ。
 リズが感心していると、店員の女の子が後ろから話しかけてくる。

「その辺りの小物はお父さんが……店主が作ってるんですよ。綺麗でしょう? 昔、アリスナの東部の一等地に店を出さないか、ってお話があったくらいで」

 アリスナの東部にはよほど金と腕が無いと店は出せない。新しく出す、となれば尚更上質なものが要求される。

「へえ、それは素晴らしいね。でも、何故アリスナに行かなかったんだい?」

「それがですね……聞いて驚かないでくださいよ?」

 女の子は、店主である自慢の父親が大好きなのだろう。我がことのように胸を張って笑顔で話した。

「お話を聞くために私達がアリスナに行った時、丁度年に一度の『大舞祭』があったんです。その祭りで私達が歩いていると、なんとっ! あの第三皇女のリズ様を連れた行列が来たんですよ!」

 リズは思わず声を上げそうになる。しかしどうにか押し留め、代わりに英二へと視線をずらす。案の上、英二も目を見開いて見返していた。
 その反応を、二人が自分の体験に驚いている、とある意味間違っていない解釈をして、店員の女の子は更にヒートアップする。

「行列は『大舞祭』の目玉の一つで、どの方がどこを進むかは公表されないんですっ! だから、あのリズ様に出会えたのは、本当に幸運でした!」

 何か言いたげな様子だが、ぐっとこらえて英二は頷く。

「そ、それは凄いな」

「いや、そこからが凄いんですよ!」

 女の子は興奮しっぱなしだ。

「当然、その行列を聞きつけた人達がいっぱい集まってきて、私達は押されて倒れちゃったんです。それもリズ様の進路を塞ぐ形で。本当なら罰せられてもおかしくはないのに、リズ様は進行を止めて降りてきてくださったんですっ! 私達の前にっ! そして『大丈夫かい』って声をかけられて……きゃーっ!」

 その時の事を思い出しているのか、真っ赤になった頬を両手で押さえて、女の子は説明を続ける。

「あの時のリズ様……男装し始めてから結い始めた髪に輝く髪飾り……吸い込まれそうな紅い瞳……まさに美の化身でした……」

 なんというか、ここまで言われると申し訳ない気持ちすら湧いてくる。リズは頬をかきながら、話を戻すために口を開いた。

「え、えーと、それで結局、なんでアリスナに店を出さなかったんだい?」

 リズの最初と同じ質問に、どこか虚ろになり始めていた目が正気に戻る。女の子は恥ずかしそうに一つ咳をした。

「こ、こほんっ。話がずれちゃいましたね。その時にお父さんが感銘を受けたらしくて『俺は驕っていた。この方に見合う細工を作れない俺が、アリスナに店を出すなどおこがましい』って言い出して、その話は立ち消えになったんです。話がずれちゃいましたけど、この店の小物はアリスナに持っていっても恥ずかしくない、良い物なのは保証しますよ。リズ様に着けて頂けるような物を目指してますから」

 にこにこと笑いながら、女の子はリズを見る。

「お客様もお綺麗ですから、お洒落した方が良いですよ。リズ様みたいな綺麗な金髪ですから、ウチの商品は大体合わせられる筈です」

 リズは置いてある小物に視線を落とす。確かに、言われてみれば納得する。どこか統一感があるのは同じ人間が作ったから、と思っていたが、本当は着けるべき人間が同じだったらしい。

 しかしそれにしても、偶然というものはあるらしい。リズ自身、相手の顔までは覚えていないが、その騒動自体は覚えている。
 女の子はふと目を細めて、ぐっとリズに顔を近づける。

「本当に綺麗ですよね。まるで本当にリズ様みたい…………あれ、もしかしてリズ様本人…………?」

 女の子の表情が、親しげなものから真剣なものへと変わっていく。
 リズは首を横に振る。

「そんな訳無いよ。こんな所にリズ様がいらっしゃるはずが無い」

「……そう、ですね」

「良く言われるんだ。光栄だけど畏れ多いよ」

 口元には笑み。
 アリスナで街に出る時にも、こういうことは何度もあった。しかし、変に力を入れずに返せば大体相手も納得してくれる。
 それだけ皇女が街に出ている、というのは本来なら有り得ないのだ。

「……でも、声も似てるような…………」

 更に怪しげな視線を向ける女の子。リズはここで駄目押しをする。

「エイジ、私はこの髪飾りが欲しいな」

「えっ? っ! あ、ああ、そうだな。良く似合ってるし、いいと思うぞ」

 わざと、見せつける様に指を絡め、甘えた声を出す。返ってくるのは戸惑いの感触。
 まったくもって自分らしくない行動だが、効果はあった。

「あっ……! そ、そうですよね。男嫌いのリズ様が、男の人と手を繋いで街にいるはず無いです。瞳だって黒いし。いきなり変な事を言って、すみませんでした」

 女の子はリズと英二の間の『恋人らしい仕草』を見て、ぱっと吹っ切れたように笑顔になった。その頬は僅かに赤く、視線は恥ずかしげに揺れている。
 リズは女の子の視線が落ち着く前に、後ろ手に硬貨を取り出す。髪飾りの値段は把握している。
 英二は居心地が悪そうに身じろぎをして、リズに言った。

「そ、それじゃ、そろそろ行くか」

「そうだね。あ、少し汚れてるよ」

 リズは言いながら英二に身を寄せる。丁度、女の子から手元が見えなくなるように。
 後ずさりかけた英二はすぐに意図に気付き、さりげなく硬貨を受け取った。ねだったのはリズで、了承したのは英二。支払うのは男だ。

「はい、これでよし」

「お、おう。ありがとう。じゃ、これが代金」

「はい、ありがとうございます! 良くお似合いですよ」

 つり銭は無い。そのくらいは配慮してある。
 リズと違い余裕が無いのか、英二は早足に出口へと向かう。また引っ張られる形になったが、今はこれが自然だ。

 やはりどこか落ち着かない。しかし、その落ち着かない形も、たまには良いかもしれない。リズは慌てる英二の背中を見てそう思った。

「ありがとうございましたー」

 扉が閉まると同時に、英二は大きく息を吐く。

「リズ。あの子の事、知らなかったのか?」

「一応そういうことがあった、っていうのは覚えてるけど、流石に顔までは覚えて無いよ。国に仕える人間ならともかく」

 リズはにやりと唇を曲げた。

「しかし、バレなくて良かった。バレたら街を見て回る、なんて夢のまた夢だからね。この手に感謝しないと」

 そう言って、リズは繋いだ手を軽く持ち上げる。そして店内でやったように、わざと恋人のように指を絡めた。
 英二は少し力を込めて、絡まった手を強引に下げる。二度は効かないらしい。

「それじゃ、次に行くか?」

 もう平静に戻ったらしい。普段通りの声だ。少しつまらない。
 そんな感情をおくびにも出さず、リズは頷いた。

「ああ、そうだね。まだ目的の物があるんだ。次はそれを探そう」

 リズはゆっくりと歩き出した。すぐに人の多い通りに出る。
 その人の波に乗る直前、後ろから声をかけられる。。

「リズ、髪飾りが外れそうだ」

「え?」

 リズは立ち止まって手を離し、片手で髪飾りを取る。そしてその髪飾りを見詰めた後、英二に差し出す。

「どうも前の飾りとは重心が違うらしい。エイジ、君が付けてくれ」

 リズは言いながら背中を見せる。
 どんな反応が見られるか、と思いながら待っていると、あっさりと髪飾りが中へと侵入していく感触。

「出来たぞ」

「さっきもそうだったけど、随分慣れてるね。もしかして君は女性経験が豊富だったりするのかい?」

「するか。妹が居て、よく髪の毛を結ったりしてただけだ」

 思いもよらない台詞に、少しだけリズは嬉しくなる。

「そうか。君が本当の自分の事を話してくれて、私は嬉しいよ」

 最初に出会った時から、英二は自分の情報を何も話そうとしない。別に咎めるつもりも詮索するつもりも無いが、真実を話してくれる方が良い。

 リズにとって、英二は非常に特殊な存在だ。最初こそは子飼いの部下にしよう、と思い、そういう風にしようと行動していたが、その関係は変わりつつある。
 きっかけは、シアだ。
 英二と庭にいた時、シアは本当に楽しそうな顔をしていた。温い檻の中で、自分以外に滅多に見せる事の無かった、本当に楽しそうな笑顔。シアがその笑顔を見せる相手に、敬語を使わせる訳にはいかない。だから禁止した。

 その後が、英二の面白いところ。
 普通、いくら敬語を禁止して、楽にしていい、と言っても、どこか距離を置くものである。何故ならば、自分はこの国の皇女リズ・クライス・フラムベインなのだから。一度、使用人のラミ・モルドナーにも言った事があるが、言葉遣いとは逆に、態度が余所余所しくなったほどだ。
 しかし、英二は言葉通り、普通に接してきた。それこそ、まるで友人にでも接するような態度で。
 友人。それは自分にとって、今まで必要ではなかったもの。英二は丁度、その空白の部分に納まりかけている。
 だから、リズにとって英二は特別な存在で、隣に立っても違和感が無い特殊な存在なのだ。

 どこから来て、どこに行こうと、変わらないもの。そういうものがきっとあるはず。それは魂とでも呼ぶべきものなのかもしれないが、まだしっかりとは見えていない。
 だが、リズはその変わらないものを、信じる事にしている。シアとの繋がりもまた、変わってはいけないものだから。

「さ、行こうか。君はエイジ・タカミヤなんだ。私はそれ以上を欲さない」

 英二が何かを言おうとするが、リズはあえて気付かない振りをして歩き出す。

「もたもたしていたら日が暮れる。先に進もう」

 結局、英二は何も言わずに、引っ張られるがままに歩き出した。それで良い、とリズは握った手を少し強めた。

 引く手。引かれる手。互いに役目を交換する時もある。
 そして繋がった手はいつか切れる。先に離すのは、どちらだろうか。
 願わくば、離される側でありたい。リズはそう思った。









 そんな二人を遠くから眺める六つの目。

「な、なんだあの睦まじさは。か、完璧にバカップルじゃねえか…………ぶふっ」

「…………愛なんて、不潔だわ……」

「やっぱり、お姉さまとエイジさんはこいびとでした。わたし、なんだか嬉しいです!」

 三者三様の反応をしているライヤー達は、英二達を順調に尾行していた。
 身長の低いシアを肩車しているライヤーは、頭のすぐ上にある小さな体に話しかけた。

「シアはお姉さまがエイジと恋人で嬉しいのか?」

「はい! だって、『恋愛したい。出会いが欲しい』ってラミさんも言ってました! だから、お姉さまが出会えて良かったですっ」

 シアは疑いも無く言い放つ。愛は素敵で、本の中の恋も綺麗だった。そこにリズが加わるのならば、それはもっともっと素敵なものなのだ。

「愛なんて……!」

 しかし、ルルは納得出来ない。

「どうせすぐに飽きて、違う奴にまた『愛してる』なんて言うのよっ! そう、そうに決まってるわっ」

「一体どうしたんだ? お嬢ちゃん」

 不自然なまでに否定するルルに、ライヤーは訝しげな視線を向ける。シアも不思議そうな顔だ。
 そんな二人の視線を前に、ルル・トロンは宣言した。

「決めたわ。あたしが愛なんて嘘だ、って証明してやる」

「いや別に証明しなくても」

 ルルは尾行を始める前と立場が逆転している事に気付かない。

「するったらするのっ!」

 話を聞きそうに無い黒い瞳は、鋭く英二達が消えた先を見た。
 ライヤーはシアを降ろしながら質問する。

「よっ……まあ、それは良いんだが、どうやって証明するんだ?」

 純粋な疑問。哲学的命題にも似た問題にどうやって答えをつけるのか。自分が『愛の素晴らしさを証明する』と言った事を完全に棚に上げて、ライヤーは腕を組んだ。
 ルルは猫のような目を、妖しく細める。

「簡単よ。エイジがあたしに惚れれば、愛なんて一時の気の迷いだって証明できる」

 愛は二人に誓えない。永遠ではない愛に、真実など宿らない。黒い瞳はそう物語っている。
 どうしてそこまで愛を否定するのか、ライヤーには分からない。だが、歪な恋の三角関係なんて面白い物を見逃す手は無い。それはライヤーの性分だ。

「くくっ……。よし! じゃあ、お洒落しないとな」

「ダメですよ! お、お姉さま達の邪魔はさせませんっ」

 しかし、シアがそのルル達の行動を容認出来る筈がない。今まさに完成している二人に、ちょっかいを出させる訳にはいかないのだ。シアはライヤーの服を必死で引っ張る。
 仕方ない、とライヤーはしゃがんで、シアへとそっと耳打ちした。

「なんだ、シアはルルが恋しちゃいけないって言うのか?」

「そ、そういう訳じゃないですけど…………あ! で、でも、さっき『証明するため』って言ってたから、恋とは違うんじゃ……」

「それはお嬢ちゃんなりの照れ隠しなんだよ。素直じゃないだけで、本当はエイジの事が大好きなんだ。だから、ここから先は俺達が口出しする事じゃない。当人達の問題さ。大人なら、黙って行く末を見守らないと」

 リズには幸せになって欲しいが、ルルが不幸せになって欲しくも無い。しかし、それは両立出来ない。ならば、どちらに自分は味方すれば良いのか。それとも、ライヤーの言うように何もしないのが正解なのか。
 悩むシアに、駄目押しの悪魔の囁き。

「リズだって、シアが一生懸命に何かをしている時、手伝ったりはしないだろ? それは自分でやらなくちゃ意味が無いからだ。それと同じさ。分かるよな?」

 シアの脳裏によぎる光景。自分が何かをする時、優しい人ほど手伝ったりしない。本当に出来そうに無い時以外、最後まで自分を見守ってくれる。リズは勿論、初めてエイジと会った時もそうだった。
 もし、最初から全部手伝って貰ったら、自分は未だにお菓子も運べなかっただろう。優しさと厳しさは裏表のようなものなのだ。
 手を出さず、見守ってくれること。それは自分にとって、とても嬉しいことだった。

 もう、自分だって大人なのだ。

 シアは止めたい気持ちを、頭を振って追い払う。

「……分かりました。けど、ひきょうなことは無しですよ」

「おう、当然だ。俺は卑怯なことが大嫌いだからな」

 ライヤーの笑みはどうにも薄っぺらく見える。シアは心配になりながらも、ルルを見上げた。

「ルルさん、頑張って下さい! 手伝ったりは出来ないけど、応援します」

「はっ、あたしにかかったら、男なんて楽勝よ」

 間違った理解をして盛り上がるシア。よく分からない闘志を燃やすルル。

 何はともあれ、更に事態は面白くなりそうだ。
 ライヤーは笑いをかみ殺し切れなかった。

「…………ぶふぁっ!」




[27036] 二章四話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/05/13 16:11


「さあ、好きな物を選んでくれ」

 そう言われても、良し悪しが分からない。英二はぐるりと店の中を見回した。

 様々な種類の刃物。一目で剣と分かる物から、波打った刀身の変な形の物。槍もあれば弓もある。

 裏路地の奥の怪しげな店。入れば危険な物が沢山あった。英二は緩みかけていた気を引き締める。

(そうだ。ここはそういう世界だったんだ)

 剣があって、戦争があって、奴隷がいて。そういうのが近くにある世界に自分はいるのだ。
 英二はゆっくりと近くの長剣に手を伸ばす。
 棚から取ってみると、それは意外なほど重かった。

「…………よくこんなの振れるなぁ」

「訓練してるからね」

 リズが後ろから神妙に言う。
 英二はずしりとした重みの長剣を元の位置に戻した。訓練をしていない自分がこんなものを振れるとは、到底思えない。
 振り返ってリズに尋ねる。

「初心者が持つような剣とかって、無いのか?」

「ああ、それならこっちが良い」

 リズは右隣の棚に近付く。

「この辺は短くて軽い短剣だから、この中から選ぶと良い」

 長剣に比べて長さが無いが、その分扱い易いのが短剣だ。
 ライヤーが使っていた【クルミ割り】と同じ位の大きさの短剣を手にとって、英二は思い出したように顔をリズに向ける。

「なあ、リズ。魔具、だっけ。あれはここに無いのか?」

 砕く短剣と破壊の杖。思い出すのはそんなイメージ。
 リズは手に持っていた別の短剣を見ながら返事をする。

「あれは店には無いよ。あんな物が沢山売ってたら、どんな世の中になるか分かったものじゃない」

 確かに、と英二は納得する。道行く人が皆、あんなとんでもない能力の武器を持っているなんて、想像するだけで恐ろしい。

「じゃあ、もしあったら、俺は魔具を使えるのか?」

 疑問。結局未だに分からない、魔力だとか魔術だとか、その辺りの知識。
 この際だから訊いておくべきだ。英二は返答を待つ。
 その真面目な質問に、リズは軽く笑みを浮かべた。

「知りたいかい?」

「え? ああ、そりゃ、まあ」

「よろしい。じゃあ、君に教えよう。そもそも魔力というのはだね」

「ストップ。要点だけで頼む」

 長くなりそうな話を強引に止める。リズは説明する事が好きらしい。下手をしたら説明だけで今日が終わるかもしれない。
 止められた不満を隠さない表情で、リズは持っていた短剣を棚に戻した。

「もう、少しは聞いてくれたって良いじゃないか」

「いやまあ、この後、飯を食べに行くんだろ? だから手短にな」

 それもそうか、とリズはあっさり納得して、店の奥の広いスペースへと移動した。

「ちょっとこっちへ」

 手招きに従い、英二はリズへと近寄っていく。

「これを持ってごらん」

 リズはそう言って、腰に付けていた自分の剣を英二に渡す。
 受け取ってその剣を眺める。

「…………これって、最初に会った時、コリストに投げた剣か?」

「ご名答」

 安全の為か、鞘ごと渡された長剣はしっかりとした重さがある。全体的に質素だが、柄に一つだけ輝く宝石。それ以外に目立った部分は無いが、使い込まれた様子が所々に垣間見えた。

 英二はそれを持ち上げたり、振ってみたりする。

「持ったけど、どうすれば良いんだ?」

「そうだね。とりあえず、英二の魔力の素養は無い、って事は分かったかな」

 魔力の素養が無い。それはつまり。

「俺は魔具を使えない?」

「残念だけどね」

 リズは英二が持ったままの剣の柄を握る。
 直後、英二の手の中の剣が変わった。

「なんだ……?」

 外見に変化は無い。だが、確かに剣は変わった。上手く言葉に出来ないが、存在が変化した、という表現が一番近い。

「分かるかい? こんな風に使える人間が持つと、剣の本質が変わるんだ。こればかりは持って生まれた物、としか言いようが無い」

 リズは言いながら軽く剣を引く。
 魔具が使えない事を少しだけ残念に思いながら、英二は剣から手を離す。もう剣の違和感は分からなくなった。

「まあ、仕方がないか」

「大丈夫、君は私が守るから。それに魔具を使える人間は、大抵騒動に巻き込まれる。大きな力は争乱の元さ」

 剣を腰に戻すリズに、英二は疑問を投げかける。

「その剣も【クルミ割り】みたいに名前があるのか?」

「無い無い。そんな酔狂な真似はしない。やるのは自己顕示欲の塊みたいな奴だけだよ」

「じゃあ、その剣は何が出来るんだ?」

 ライヤーは物を崩す力。ルルは破壊の球。だとすれば、リズはどんな能力の剣を持っているのだろう。
 炎とか出すのか、と英二は予想していたが、答えはあっけないものだった。

「良く切れて、曲がらない。切れ味が落ちない」

「それだけ?」

「それだけ」

 なんとも微妙だ。英二のそんな思いが顔に出る。
 だが、リズは自信満々に言い放った。

「剣を使うなら、それだけで十分。いや、それが一番必要な要素だよ。派手さは無いけど、私はこの剣こそが最強だと思うね」

「うーん、良く分からん」

 結局、自分にあるのは防御力だけ。だが、その位が丁度良いのかもしれない。
 例えばライヤーの【クルミ割り】が使えたとして、自分が人に向けてそれを振れるとは到底思えない。
 英二はもう一度、扱えそうな剣を探し始めた。








 そこには可愛い小瓶や、綺麗な色が所狭しと佇んでいる箱や、細かな毛先を誇らしげに立たせている筆が、乱雑に置かれている。しかし、一見無造作に並んでいるその道具達も、言うなれば魔法の小道具。輝いて見えるのもしょうがない。

 華やかで、いい匂いのお店。その店に入ったシアが抱いたのはそんな感想だ。そして今は魔法の小道具に夢中。

 リズ達の尾行は一時中断。中央通りから少し離れた場所にある、看板も出ていない店『ローライ』にシア達は来ていた。

「ふふふ……綺麗な肌……。クジュウの子ってのは、みんなこうなのかしら?」

「ちょっと! なんでそんなに顔を近付け……みっ、耳を触るなぁっ!」

「触ってないわよ。嗅いでるの」

「よ、余計悪いわよっ! はなっ、離れ……!」

 なにやら楽しそうな声につられてシアは振り返る。そこには椅子に座ったルルと、その黒髪に顔を近づけている大柄な女性が、鏡の前で遊んでいる。
 シアもそれに加わろうとするが、これは遊びではない、と思い出して立ち止まった。

「んー、どうしようかしら。私としては可愛らしさを全面に押し出したい所だけど、そういうのじゃ無いのよね?」

「だから、男を落とせるようなやつがいいって……」

「男なんて、ちょっと笑顔見せて酔った振りして宿に連れ込んだら一発よ? 経験則的に」

「そういうのじゃ無いって、何度言わせればいいのよっ!」

 二人の会話は良く分からない部分が多い。しかし、とても大事な話なのは分かる。シアは邪魔しないように、と思いながら店内を見回した。
 ここにある全てのものは、女性のためのものだ。その大半が見た事のないもので、一体どんな風に使うか検討もつかないものだってある。
 何故ライヤーがこんな店を知っているのかは謎だが、訊こうにも『ちょっと出てくる』と言ってどこかに行ってしまった。よって、ここにいるのはルルとシアとこの店の女主人、ローライの三人だけだ。
 自分の名前をそのまま店の名前にしたらしいローライが、シアの様子に気付く。

「どうしたの? あっ、座るものが無かったわね、ごめんなさい。あんまり複数で来る人が居ないから」

 シアが何かを言う前に、ローライは奥に消えていく。がさがさ、と何かを探る音。
 椅子に座っているルルが、疲れたと言わんばかりに深く息を吐いた。

「はぁ、何なの、あいつ……」

 シアはルルに元気を出してもらおう、と口を開くが、肝心の言葉が出ない。どうしてそんなに疲れているのか分からないからだ。
 だって、これから起こるのは、とてもとても素敵な事だから。

「はい、これに座っていいわよ」

 戻ってきたローライが、シアの前に箱を置く。その箱は薄い紅真珠の綺麗な色で、シアは座るのをためらった。

「遠慮しなくていいわ。壊れても大丈夫だから」

 ローライは大柄だが、全然威圧感が無い。長い髪はふわふわと腰まで降りていて、触るとなんだか楽しそうだし、たれ目がちな瞳はいつも慈愛に満ちている。女性らしさを体現したような体つきも、雰囲気を和らげるのに一役買っているのだろう。
 シアは礼を言って、ゆっくりと箱に座った。小さな体に丁度いい高さだ。きっとそこまで考えてこの箱を持ってきたのだろう。

「さ、続きをしましょう、子猫ちゃん……?」

 ルルが不機嫌そうに頷く。
 そんなルルを見て、ローライは満面の笑みを溢した。

「そんな顔も素敵ね。でも、これからもっともっと素敵にしてあげる。ふふっ」

 この店は女性のためだけの店。一から十まで、化粧から服まで全て用意してくれる。ここにかかれば蛙も美女に、が売り文句の総合美容店。

 ルルは可愛い。女のシアから見てもそう思うくらいだ。勿論、リズには一歩届かないが、それは仕方がない。
 シアは、ルルが更に可愛らしくなる様を想像して、早くも抱きつきたくなる気持ちをぐっと堪えた。

 入り口が開き、からん、と来店の音がする。

「お、やってんな」

 シアが入り口へ向くと、そこには少し前に出て行ったライヤー。

「とりあえず使えそうな物を買ってきたぜ」

「使えそうな物?」

 一体なんだろう、とシアが立ち上がって、ライヤーの持つ袋を覗き込もうとした。
 しかし、ライヤーは袋を高く掲げて、シアに中身を見せない。

「シアにはちょっと早いな、うん」

 一体、袋の中身は何だろう。シアは首を傾げる。

「一体、何が入ってるんですか?」

「秘密。大きくなったら教えてやるよ」

 ついさっき、シアは大人だから、と言ったのに、今は子供だから、と見せてくれない。
 そんな大人に理不尽さを感じるが、シアは渋々箱に座りなおす。
 ライヤーは袋を持って、髪の毛を梳かれているルルの隣に立つ。

「お嬢ちゃん、色々買ったんだが、どれが良い?」

「何がよ?」

 ルルは鬱陶しそうに答え、開かれた袋を覗き込む。

「…………なにこれ?」

「あれ? ちっ、お嬢ちゃんにも早かったか」

 望んだ反応を得られなかったらしいライヤーは、つまらなさそうに袋をルルの膝の上に置いた。
 同じく袋の中身を見たらしいローライが、シアをちらりと見た後、そっとルルに耳打ちをする。
 鏡に映るルルの顔は徐々に赤くなって、最終的に爆発した。

「そんな物使うかっ! あんた達馬鹿じゃないの!?」

「使うだろ、普通。なあ、ローラン」

「使いますよねぇ。まあ、私は使われる側ですが」

 膝に置かれた袋を叩き落とし、信じられない物を見たような顔でローライを見つめるルル。悪戯が成功した子供のような満足げな表情で頷くライヤー。ローライは大人の笑みを浮かべた後、ルルの顔を鏡へと向きなおさせる。
 落ちた袋からは棒状の物体が出ているが、シアにはそれが一体何なのか分からない。
 ライヤーは袋を拾って床に置き、近くの台に背を預ける。

「さて、ローライ。最近はどうなんだ? 繁盛してんのか?」

「はい、おかげさまで。この辺りは人の出入りが激しいので、固定客がつくか心配してたんですが、杞憂だったみたいです」

「そりや、お前の腕が良いからだろう」

「もったいないお言葉です」

 ローライは苦笑しながらルルの髪の毛を整えていく。ルルの髪の毛は首元くらいの長さだが、ローライは丁寧に髪に手を加えていく。
 漆黒の髪は、次第に輝きを放ち始める。黒でありながら光を返しているのだ。
 その髪だけで宝石よりも価値がある。そう思わせるほどに、ルルの髪は変化した。本人は未だに呆けているが。

「へえ、こんなになるもんなんだな」

「この子の髪は特別ですからね。普段からお手入れしておけば、もっと良くなりますよ」

 ライヤーとローライは旧知らしい。ルルは動けない。
 魔法のような手際は面白いが、邪魔をしてはいけないから近くで見る事が出来ない。店の中は一通り見終えた。シアは外に行きたくなってきたが、勝手に外に出てはいけない。

 シアは、ここで重大な事実を思い出す。

 今は屋敷の中でもない。外に出る事を咎める人もいない。
 そう、外に出てもいいのだ。

 そうと分かれば早く外に出よう。時間は有限だし、まだまだ外の街を見て回りたい。

 シアはそっと立ち上がった。別に悪い事をする訳ではないが、心のどこかで罪悪感を感じている。それはきっと、今まで外に出てはいけない、と言われ続けたからだろう。だから気にすることは無い。

 ルルが自分を取り戻し、大きな声を上げる。

「ちょっ……! なんであんなもの買ったのよ! ていうかあんなものが入るわけ……」

 扉を開けると鳴る、からん、という音は、その声にかき消された。







 

「しかし、ほんと良く食うなぁ」

 英二は呆れを含んだ声で、目の前の淑女に話しかける。
 淑女のリズは口の中の物を飲み込み、優雅にフォークを皿の上に置いた。

「ふう。ここのご飯はまずまず、かな」

「これだけ食ってまずまずかよ」

 フォークの置かれた皿の下には、更に大きな皿がいくつも重ねられている。とても二人で食べたとは思えない程の量だが、そのほとんどリズのお腹に収まっている。英二は大目に見ても一皿分くらいしか食べていない。

「個人的にはもう少し濃い味が好きなんだけど、ここは総じて薄味だったから。あ、でも、不味いって事じゃないよ。十分に美味しい料理だった」

 その言葉を裏付けるように、リズの顔には満面の笑みが浮かんでいる。

「さて、そろそろ戻ろうかな。シアが退屈してないといいけど」

「ルルと街に出てるんじゃないか? なんだかんだ言って、ルルは頼まれたら連れていきそうだ」

「かもしれないね。でも、この街はまだ安全だから大丈夫だよ。流石にシア一人ではないだろうし」

 リズは窓へと視線を移す。英二もつられて外を見る。日が傾き、空は僅かに赤く染まり始めていた。
 英二は腰についた短剣にそっと触れる。つけた時は異物感しか無かったが、今ではもうこの重みに慣れ始めている。
 少し間をおいて、リズはぽつりと言った。

「今まで自由にしてあげられなかったから、シアにはこの旅を楽しんで欲しい」

 英二は立ち上がりながら言葉を返す。

「じゃあ、まずは俺達が楽しまないとな」

 楽しい気持ちは伝染する。誰かに楽しんで貰う時には、まずは自分が楽しむべきだ。そんな意味を込めた軽い言葉。
 リズは外を見たまま頷いた。

「そう、だね。うん」

 遅めの昼食、または早めの夕食は終わりだ。リズは立ち上がる。

「それじゃ、先に外で待っててくれないかい? 支払いをしてくるよ」

「分かった。いつも悪いな」

 それだけ言って、英二はあっさりと店の出口へと歩き出す。経済的には寄生も良いところだ。最初の頃は男のプライドが邪魔をして、申し訳ない気持ちになっていたが、そろそろ開き直りつつある。

 扉を開けて通りに立つ。ようやく人通りのピークも過ぎ、道が見渡せるようになってきた。
 リズを待つ間、何気なく通りを歩く人を眺める。

 嬉しそうな顔の女の子。笑い合いながら歩いている男達。ベンチで居眠りをしている老人。

 そこに見知った少女が、ウェーブがかった金髪を揺らしながら通り過ぎた。

「シア?」

 思わずその少女の名前が口に出る。周りを見渡しても、少女以外に見知った人間はいない。つまりは一人。

 さっきの会話を思い出す。ルルと一緒か、と周りを見てもどこにも見えない。ライヤーもいない。

 振り向いて、ついさっき出てきた扉を見る。まだリズは出てこない。
 そうこうする間に、シアは狭い曲がり道に入って見えなくなった。

 もし、シアが一人で迷子になったら一大事だ。しかし、リズなら一人にしても問題は無い。自分がいなくなって戸惑うかもしれないが、一旦宿に戻るだろう。その時に事情を話せばいい。

 英二はそう判断して、小走りでシアの消えた先へと向かった。






 少し経って、店の扉が開いた。中からリズが姿を出す。

「エイジ?」

 いるはずの人間がいない。それは奇妙な事実。

 その事実に嫌な気配を感じながら、リズは英二を探すために足を踏み出した。



[27036] 二章五話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/05/26 20:44


 女性が変身するには、それなりに時間がかかる。それに手を加える場所が多ければ多いほど、長くなるのは必然。
 ライヤーは店『ローライ』の一室で、腕を組み立っていた。

「お待たせしました」

 ローライが扉を開けて入ってくる。そして、立ったまま待っていたライヤーを見て、困ったような笑顔を浮かべる。

「ベッドにでも腰掛けて下さい。お疲れでしょう?」

「いや、女の匂いの残ったベッドに入ったら、ちょいと我慢が効かなくなりそうでな」

 冗談めかしてライヤーは答えた。
 ここはローライの自室だ。服と、化粧品と、ベッド。それだけの狭い部屋だが、彼女の匂いは色濃く残っている。

「ふふっ、言って頂けたら、いつだってお相手しますよ?」

 ローライはわざとらしく胸を強調してライヤーに一歩近付く。狭い部屋だ。それだけでライヤーの鼻に直接、ローライの男を惑わす匂いが飛び込んだ。
 ライヤーは諦めたようにベッドへと腰掛ける。

「で、お嬢ちゃんはいつ頃終わりそうなんだ?」

「夜までにはなんとか。今は指先の手入れをしています」

「お前がやるんじゃないのか?」

「流石に全ては無理ですよ。細かい部分は専門の店に頼んでいます。私の仕事は、女性を臨むべく場に相応しい姿にする事。言うなれば戦術ではなく戦略、ですかね」

 胸を張ってローライは語った。そして、そのままゆっくりと自分の服に手をかける。
 ライヤーはそれを眺めて、にやりと笑う。ローライの大柄な体に相応しい、溢れんばかりの胸が布に引っ張られて形を変えた。

「はっ、これも戦略か?」

「まさか。愛ですよ。私は、貴方の為に生きているんですから」

 ローライの瞳が濡れた光を帯びる。蕩けるような熱がこもった視線。

 上着が無くなり、短くなった袖から柔らかそうな二の腕が見える頃。ライヤーは風に吹かれた蝋燭のように、その笑みを消した。

「さて、茶番は止めろ。訊きたい事がある」

「はい、私達の希望。ラクセルダスの頭領。ライヤー・ワンダーランド様」

 敬礼したその右手首には、赤い布が巻かれている。







 塗られ、盛り付けられ、揉まれ、擦られ。
 いつも適当にしている何十倍の時間と技術を使い、自分の体は磨かれている。
 その様を鏡で眺め続けたルルが一言。

「長い」

「当たり前ですよ。普通は普段から気を付けておくものなのに、全く手入れされた後が無いんです。せっかくこんなに綺麗な肌と髪なのに、これじゃ宝の持ち腐れ……」

 ルルと同じくらいの女の子は、さっきから良く喋る。だが、同時に手も良く動く。会話の間にも忙しなくルルの髪の毛をいじくっている。

「あ、こんな所にほくろがありますよ! 知ってました? こういう所って、自分じゃ見えないから知らない人も多いんです。でも、この首の後ろにほくろがある人って、美人さんが多い気がします。不思議ですよねー。そういえば少し前、同じ場所にほくろがある人が……」

 ルルは面倒になって聞き流す。
 最初にローライと話して方向性を決められ、その後から怒涛のような美容のフルコース。今回、英二を落とすのに全く関係の無さそうなマッサージまで受けた。あまり堪え性の無いルルにしてはかなり頑張っている。

 だが、そろそろ限界だ。

「…………あと、どれくらい?」

「そうですねー。もうすぐ夕方ですから、暗くなる頃には間に合いそうですよ。……でも、黒髪も珍しくて良いんですけど、こういう明るめの茶色でふわふわにする、っていうのも捨てがたい……」

 そう言って女の子がごそごそと箱からかつらを取り出し、ルルの頭に乗せる。

「ほら! やっぱりこっちの方が良いですよ! 柔らかい印象で可愛らしいし……ちょっとローライさんに言ってきますね! 色々と変更点が……」

 目の前には、ふわふわした茶色の髪の毛の女の子。軽くのせた化粧と胸辺りまで届くかつらは、一見するとルルだと分からないほど印象を変える。
 だが、ルルは我慢ならなかった。

「面倒くさいっ! なんでここまで来て変えるのよっ!」

「でも、絶対こっちの方が……」

 あくまでも茶髪を譲らない女の子にルルはしびれを切らす。

「もういいっ! 別に何だって良いのよ、あいつさえ落とせたら!」

 そう叫んでルルは立ち上がり、杖の入った袋を担ぐ。ついでにかつらを乱暴に投げた。服はとりあえず見立てられたワンピースだが、別に変じゃなければ何だって良い。

「あっ、ちょっと待って」

 女の子の声を無視してルルは店から出ていった。からん、と来店の鐘が虚しく響く。
 呆然とする女の子。

「おいおい、どうしたんだ?」

「……あれ、ルルちゃんはどこ?」

 途方に暮れる女の子しかいない部屋に、ライヤーとローライが奥から戻って来た。
 女の子は慌てていきさつを話す。

「あ、あの、わたし、茶髪の方が似合うんじゃないか、と思って言ったら、怒らせちゃったみたいで。……で、出て行っちゃいました……」

 それを聞いたローライが眉を顰めるが、ライヤーは特に気にした様子も無く店内を見回した。

「まあ、どうせ待ち疲れてかんしゃくでも起こしたんだろ。気にすんな」

「あっ、その、……本当にすみません!」

 女の子は泣きそうになりながら謝る。
 実際、ライヤーは気にしていない。それより気になることがある。

「んで、それは置いといて、シアはどこに行った?」

 ライヤーの言葉にローライも店内を見回す。

「シア、ってあのちっちゃな女の子ですよね? ルルちゃんをマッサージする為に、ライヤーさんを奥に連れて行った時にはもういませんでしたよ、確か」

「げっ、それって大分前の話だろ? その時は手洗かなんかだと思ってたんだが……」

「じゃあ、外にでも行ったんじゃないですか? 遊びたい年頃でしょうし」

 普通の子供が普通に外で遊ぶ分には問題無い。だが、シアは普通では無いのだ。慣れないこの街で、万が一迷子にでもなっていたらマズい。
 そしてそれに加え、ライヤーの頭には厄介な問題が思い浮かんでいる。

「最近、危ないんだろ? この辺」

「まあ、そうですけど。まだ日も昇ってますし、シアちゃんは賢そうですし……」

「え? 最近何か事件でもあったんですか?」

 ライヤーとローライの会話に、女の子が首を傾げる。
 先程、奥でライヤーが得た情報の一つ。『ついさっき、帝国の手先がこの街に来た』というローライの言葉が蘇る。
 ローライはラクセルダスの頭領であるライヤーに注意を促す意味で言ったのだろうが、ライヤーはその情報の真の意味をおおよそ掴んでいる。

 帝国、つまりラック・ムエルダの狙いはリズ。そしてラック・ムエルダがシアの存在を知らない筈がない。

 ライヤーは自分の肩を叩きながら出口へと歩き出す。

「仕方ねえ。ちょっくら二人を探してくるわ」

「あっ、私も探しに行きます」

「いや、ローライはここで準備でもしといてくれ。入れ違いになったら面倒だしな」

 それにリズと鉢合わせたら余計面倒だから、とは言わずに、ライヤーは扉をくぐった。

 ウェーブがかった金髪を探しながら、人通りの減った通りを進む。

 外はもう赤く染まり始めている。自然と歩く足が速くなった。

 そしてライヤーは別の金髪を見つけ、僅かに迷った後に近付く。

「おい、リズ」

「ん? ああ、貴様か」

 同じように何かを探しながら歩いていたリズに、ライヤーは後ろから声をかける。
 リズは周りを一度見渡して、言葉を繋げる。

「丁度いい。エイジはそっちに戻ってないか? 急にいなくなってしまったんだ」

「エイジ? いや、知らねえぜ。こっちはシアとルルが出て行ったから、二人を探してるんだ」

「シアとルルが?」

 リズの表情が曇る。
 場に、嫌な空気が立ち込める。なにか悪い事が起こりそうな、予感めいた想像。
 ライヤーはその空気を敏感に感じ取りながら口を開く。

「そうそう、耳よりな情報だ。今、この街には帝国の兵が来ているらしい。まるで俺達の後を追うように、な」

 その情報を聞いたリズの行動は早く、すぐさま見知った姿を探して駆け出した。鋭い速さで走る主人を追って、金の尾は風にたなびく。
 その後ろ姿を見ながら、ライヤーは顎に手をあてた。

「帝国が俺らに追いついたのは想定外、か」

 自分達がこの街に着いた数時間後に、帝国は追いついた。それはあまりにも早すぎる。リズが馬鹿正直に行き先を漏らした訳でも無いだろうに。
 皇居襲撃の件からして、リズとラック・ムエルダが敵対しているのは間違いないが、情報が筒抜けすぎる。

「この街に来た奴らは俺らとは関係無い…………ってのは虫が良すぎるな。だとしたらよほど切れる奴がいるのか、はたまた特別な魔術でも使ったのか……」

 ライヤーはあまり魔術には詳しくないが、そういう術がある、という話だけは知っている。最も、その話の中で、それはもう存在しない失われた魔術だったが。

 他にも選択肢はあるが、今は動くべき時。軽く頭を振って、ライヤーも旅の道連れを探しに走り出す。
 まだまだ旅は始まったばかりだ。終わりを見るのは早過ぎる。

 日は、ゆっくりと落ちていく。







 どこにでも、ガラの悪い連中はいるものだ。当然、このファフィリアにもそういう連中がいる。
 しかし、彼らも四六時中悪い事をしている訳では無い。悪い事をすれば捕まる。とすればやはり、普通に過ごしている時間の方が長い。

 では、何を持って悪い奴らと普通の奴らを区別するのか。

 答えは簡単だ。目の前に危ない儲け話をちらつかせればいい。普通ならば掴まない、考えもしない、とびっきりの儲け話を。

「まあまあ、だから言ってるじゃんか。お前が残ればそこの女の子は見逃してやる、って」

 やたらと人相の悪い男が、薄ら笑いを浮かべながらそう告げた。周りにいる仲間も同じような顔をしている。
 英二はそんな奴らにどう返すべきか悩んだ。

(多勢に無勢。こっちにはシアだっているし…………もしかしてピンチってやつか?)

 シアを追って入った裏路地は、見るからに危なげな雰囲気を放っていた。恐る恐る進み、やっとの事でシアを見付けると、そこには人相の悪い男とぶつかったらしいシアが謝っていた。その時はまだその男一人だった。
 だが、英二がそこに辿り着き、シアの保護者だと分かると、人相の悪い男の態度が一変した。具体的に言えば『子供のしたことくらい許すか』という雰囲気から『何が何でも男は逃がさない』という雰囲気へ。

 いくら英二でも、危ない雰囲気くらいは感知できる。しかし、ぶつかったのはシアで、こちらに非が無い訳でもない。
 そうこうしている内に人が集まってきて、この有り様だ。逃げるタイミングを完全に外してしまった。

「え、エイジさん…………」

 シアが不安げな、罪悪感に捕らわれた表情で見上げてくる。英二はその小さな背中を手でさする。
 しがみつくようにして傍にいるシア。その姿が家族と重なる。守らないと、と英二は強く思った。

「分かった。俺が行けばシアは見逃してくれるんだな?」

「ああ、保護者が責任を取るなら許してやるよ。ただ、誠意ってモンを見せて貰うけどな」

 人相の悪い男が暗い喜びを顔に出す。英二はそれを見ずに、シアの肩に手を置いた。

「シア。俺はちょっと謝ってくるから、宿に戻っててくれ。次からは一人で出歩かないようにな」

 いやいや、とシアは泣きそうな表情で首を横に振る。濡れ始めた後悔の目。
 英二はひっつこうとするシアを優しく離す。反省しているのなら良い。失敗を許すのが兄の務めだ。

「ほら、あっちが大通りだ。今度は迷子になるなよ」

 人通り多い通りの見える場所まで、英二は抵抗するシアの背中を押す。逃がさないようにか、何人かの男達が英二のすぐ後ろに立っている。
 通りにシアを弾き出すと、英二は後ろの男に服を掴まれる。シアは英二と道の向こうを見比べた後、躓きながらもその場から駆け出した。

「ほら、付いて来い」

 人相の悪い男の声に英二は大人しく従う。リズやライヤーならともかく、英二がこの人数差で逆らうなど無謀だ。
 とりあえずシアは逃がせた事に安堵しながら、英二は男達に囲まれながら移動する。心臓はバクバクだ。

 しかし、きっと逃げる隙くらいある筈。

 そう自分に言い聞かせながら、英二はゆっくりと裏路地の奥へと歩いていった。






 シアがルル・トロンが出会えたのは偶然だ。それも、シアが英二と離れてから一つ目の角を曲がった所、という幸運付き。

 とりあえず出てみたはいいが、英二の所在が分からなかったルル。泣きそうなシアの必死の説明を聞き終えて、不機嫌だった眉を更に曲げる。

「なにやってんのよっ。馬鹿じゃないの、あいつ」

 思わず吐いた暴言にシアの体がびくりと震える。
 ルルは舌打ちして身を翻した。

「えっ!? あっ、あのっ、ルルさん!」

「なによ」

「え、エイジさんは……」

「知らない。自業自得よ」

 冷たく言い放って去ろうとするルルを、シアは必死で引き止める。

「わたしが悪いんです! だから、助けに……」

「それが自業自得だって言ってるのよ」

 しかし、ルルは止まらない。漠然とした怒りを抱いて、今来た道を戻り続ける。
 人が人を助ける事は不自然だ。人のため、正義のため、同情。結局、そこには自己満足や打算が詰まっているのに、助けられた側は無条件で感謝しなければならない。
 そういう匂いが嫌いだから、ルルは助けられたくない。助けるのは単純に嫌い。
 英二やリズは、ルルの思想とは正反対の人間だ。助けて当然。だから連れて行かれる。いい気味だ。

 シアは立ち止まって、地面に視線を落とした。そしてぽたりと地面に染みをつけた後、はっと気付いたように袖で目を拭って、もう一度動き出す。

「わたし、何でもしますっ。もう外に出ないようにするし、わがままも言いません……だから! だから、エイジさんを助けて下さいっ!」

 シアがルルの前へと回り込み、すがるように進路を塞ぐ。

 助けようと思えば助けられる。自分には、背中の杖があるから。しかし、その気は無い。
 ルルがもう一度シアを突き放そうとしたその時、気に食わない声が蘇る。

――悪い事は言わない。そいつに頼るのはやめとけ。

 ミスリム商会の地下で言われた言葉。頼る、だなんて見当違いも甚だしい。この杖は自分の分身だ。この杖のおかげで自分は歩いて来れたのだから。
 そう、だから。否定されたままではいけないのだ。

「…………あいつはどっちに行ったのよ。案内しなさい」

 ルルの言葉を聞いて、シアは濡れた瞳を嬉しそうに開いた。そしてエイジと別れた場所へ、ルルを連れて行く。
 その途中で、ルルはしっかりと告げる。譲れない事。

「感謝なんかしなくていい。あたしは、助けるのも助けられるのも嫌いなの」

 そう、今回は特別。あの嘘つきな男の言葉を退けるために行くのだ。ついでにこの件でエイジが自分に惚れれば、愛なんて嘘だと証明も出来る。一石二鳥だから、今回だけ特別だ。打算のために助けるから、反吐の出る感情だけ得られればいい。

「はいっ、ありがとうございますっ」

 ルルは無視する。シアは急いで英二のいた場所へと戻る。

 不機嫌そうに鼻を鳴らして、ルルは後を追った。



[27036] 二章六話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/05/31 21:10

 英二が連れてこられたのは裏路地の奥。人目を避けるように存在する扉の中。
 そして、通された部屋で一人、頭を抱えて座っている。

(に、逃げられなかった……)

 逃げる隙を伺いながら移動したのはいいが、一般人の英二にそんな隙を見つける事は出来なかった。というか、多少の隙を見つけたところで逃げ出せる程、人数差というハンデは甘くない。近くの男に掴まって終わりだ。
 最後の望みである『本当に謝罪だけ』という希望的予測は見事にハズレらしい。この部屋に通される前の広間のいた人間は皆、見るからに堅気ではない、いわゆるワケアリな人間だった。

 英二は立ち上がって部屋の扉を開けようとする。しかし、外から鍵がかかっているらしく、内側からは開かない。
 大失敗。シアを逃がしたは良いものの、自分が易々と捕まってどうする。英二は暴れてでも逃げるべきだった、と激しく後悔した。

 扉から離れて、古びた椅子にまた座る。そして両手で自分の頬を叩き、渇をいれる。

「…………よし、後悔終了っ」

 無理にでも思考を前向きに。考えるべきは、あの時ああすべきだった、ではなく、今からどうすべきか。失敗したのが自分なら、それを取り戻すのも自分なのだ。

 一呼吸して、状況を整理する。

(とてもじゃないけど、謝罪で済みそうな気配は無い。そして軟禁状態。…………俺が金持ちの息子にでも見えたか?)

 捕まえる、というのは価値がないと意味が無い。つまり、あの人相の悪い男は英二に何かしらの価値を見出した、ということ。例えば、身代金目的の誘拐。
 それならば話は早い。身代金目的なら、リズと連絡が取れる。リズに現在地さえ教えれば、きっとすぐに解決してくれるだろう。誘拐なんて、彼女が許す筈が無い。

 しかし、英二の服装は至ってシンプルな普通の服だ。まかり間違っても貴族には見えないし、溢れ出る高貴さなど微塵も無い。となると、別の理由がある。
 それ以外の、英二の価値。

 可能性に行き当たって、英二の背筋に悪寒が走った。まさか、という想像。最悪の最悪。

 英二は自分の髪をくしゃり、と手で握る。短い髪が視界に入ることは無いが、その色はもう見飽きたくらいだ。

 そう、黒。

 クジュウの民は珍しい。オークションの目玉になる程度には。

 英二は椅子から立ち上がった。
 もしこれが身代金とか関係なく、このまま別の場所に連れて行かれるのならば、自分はどうなる。

 奴隷。その文字が頭に浮かぶ。全く持って現実的じゃない、現実の未来。

 手が汗ばんでいる。
 英二がその手を拭った所で、扉の鍵が開く音がした。
 心臓がびくりと跳ねる音。英二は扉から距離を取って、腰の短剣に手を伸ばす。武器を取られなかった、というのは僥倖だ。荒事に慣れていない、と見抜かれているだけかもしれないが。
 扉が開いて、一人の男が入ってくる。英二を連れてきた人相の悪い男では無い、笑みを浮かべた優男だ。

「おやおや。警戒されてるなぁ。まあ、無理もないか」

 今にも剣を抜こうとしている英二を見ても、優男は笑みを崩さない。それどころか、その笑みをより深くした。

「抜くかい?」

 英二は確信した。自分は、この男に勝てない。

 優男の首元まで伸びた髪は、良く手入れされてる。柔和な容姿と相まって、女性と見紛う印象だ。しかし、よく見れば優男の体は鍛えられている事が分かる。そして明らかに戦闘に慣れている眼。
 それでも英二は短剣から手を離さずに、精一杯の虚勢を張る。

「俺を連れてきた男は?」

「連れてきた男? ああ、もう帰ったんじゃないかな。金は渡したし」

 優男は腕を組み、形の良い顎に手を当てる。

「次は僕から質問して良いかな」

 良いも悪いも無い。多分、この優男は性格が悪いな、と英二は思った。
 そしてその質問は、英二にとって思いがけないものだった。

「リズ・クライス・フラムベインはどこにいる?」

 優男は笑みを崩さない。







 ルルとシアは裏路地の隅で隠れるように立っていた。
 集団で移動する英二達は遅く、すぐに見つけられた。しかし、攻撃を仕掛ける前に建物へと入ってしまった。

 敵の本拠地だ。こうなると流石に作戦の一つや二つ考えなければならない。
 ルルは数十分間悩んだ。そして、何も言わずに背中の袋から黒い杖を取り出した。

 同じように悩んでいたシアが、ルルに希望の瞳を向ける。

「なにか思いついたんですか!?」

 はっ、と笑って、ルルは獰猛に口を歪めた。

「作戦は、正面突破よ」

 作戦など性に合わない。多分、どうにかなる。ルルは考えを放棄した。
 言うが早いか、ルルは杖を振り上げる。目標は隠れるように存在する扉。
 シアが慌てて止めようとするがもう遅い。杖が振り下ろされると同時に、魔力の球が空を駆けた。
 手のひら大の球は狂い無く扉へと向かい、着弾する。

 大きな破砕音。扉は粉々に吹き飛んだ。

 初めてルルの魔具の力を見たシアは、何も言えないほどの衝撃を受けた。まるで本の中のような強大な力。
 そして扉に向かって悠々と歩くルルは、その力の使い手なのだ。

「あっ、ま、待って下さいっ」

 シアは我に返って、ルルの後を追う。しかし、止める訳ではない。何故ならば、ルルは強者だから。

 世界には戦える人間と戦えない人間がいる。ルルやリズは前者で、自分は後者だ。シアはそう考える。そして強者に、羨望を感じてしまう。短い人生経験は、幼い心にそんな意識を植え付けている。

 シアが更なる信頼を寄せているとは露知らず、ルルは扉の破片を蹴飛ばして建物に入る。そこには、殺気立って剣を抜いている十人程度の男達。顔に傷があったり、片手が無かったり、明らかに堅気の雰囲気ではない。

「上等じゃない。あたしの敵じゃ無いわ」

 好戦的な笑みを浮かべて、猫のような目が細くなった。
 それを見た男達は、ルルを敵だと認識する。血気盛んな男が一人、ルルに飛びかかった。

「邪魔」

 ルルはその男に杖を向ける。三センチ程の魔力の球が、男の胸を捉える。跳ね上がるように男は吹き飛び、胸を押さえてうずくまった。

「こ、こいつ、やっぱり魔具持ちだぞ!」

 あれが魔具かっ、と男達の中の誰か叫ぶ。そして一人が裏口へと逃げ出すと、全員が我先にとその後を追って逃げ出した。吹き飛んだ男も必死に逃げ出していた。

「はっ、情けない奴らね」

 魔具。それは圧倒的な力。そこらの人間では前に立つ事すら許さない。英二やシアはその希少価値を本当の意味で理解していないから騒がないが、本来なら一生見ない人間の方が多い。半ば空想の武器のような物なのだ。
 とんとん、とルルは杖を肩に当てながら辺りを見回した。汚く散らかった広い部屋。いくつかの扉が見える。

 しらみつぶしに開けるしかない。ため息を吐いてルルがその内の一つに近付くと、別の扉が開いた。

「これは一体どういう事かな」

 そこから出て来たのは、困ったような笑みを浮かべた優男だ。そして優男が剣を首に当てているのは、英二。
 優男はルルへと呼びかける。

「もしかして、君はこの男の仲間だったりするのかい? だったら、大人しくして欲しい。首が地面に転がる光景は見たくないだろう?」

 呼びかけには答えない。ルルは英二の姿を見付けると舌打ちして、杖を大きく振り上げた。
 優男は表情を崩さない。

「もう一度言おう。この男の命が――」

 構わず、ルルは杖を振り下ろす。生まれるのは、人の頭ほどの魔力の球。
 それは迷いなく優男に向かっていく。優男は素早く英二の拘束を解き、横に跳んだ。

 当然、魔力の球は英二に直撃し、今しがた出て来た部屋へとその体を吹き飛ばす。奥の壁にぶち当たる轟音。普通の人間なら死んでいる。

「……まいったね。君は彼を助けに来たんじゃ無いのかい?」

「助けに来たわよ」

「……しかし、彼は死んでしまった。まあいい。君も仲間なら話は早い。リズ・クライス・フラムベインの居場所を……」

「ナイスだ、ルル!」

 しかし、英二は普通の人間では無い。人間と呼ぶべきか怪しい耐久力で衝撃を凌ぎ、部屋から飛び出してルルへと駆け寄った。

「流石に痛かった…………あれ? ルル、だよな?」

「そうよ。見りゃ分かるでしょうが」

「いや、何か雰囲気が変わってるから。でも、助けてくれてありがとうな」

 女の子らしいワンピース。薄い化粧は雰囲気を和らげる。見た目だけの印象は、優しいお嬢さん、といったところだ。
 ルルは優男から目を離さないまま、英二に言う。

「別に、あたしに惚れてもいいわよ」

 もらった、とルルは思った。自分の容姿。そしてやりたくも無い事をやった努力。これで落ちない筈が無い。
 感謝などされたくもないが、愛のくだらなさを証明するためだ。そのためなら多少の事は我慢しよう。

 悲しむリズの姿を想像して、いい気味だ、とルルは口元を歪める。所詮、人の絆は脆い。
 しかし、返ってきたのは全く別の言葉だった。

「リズ達は来てないのか?」

 英二は室内を見回す。そこにはシアが出口に立っているだけ。

 努力、我慢、そして外れ。ルルは自分の中の何かが切れる音を聞いた。

「何でよ!? そこはそうじゃないでしょうがっ!」

「いや、何がだよ? 助けたから何か言う事聞け、とか言うのか? まあ、無茶な注文じゃなけりゃ聞くけど」

「それは…………!」

 ここは自分に惚れる場面だ、だから惚れろ、とは流石に言えず、ルルは沈黙した。代わりに沸き上がる怒りを込めて優男を睨んだ。
 英二は優男と十分に距離があることを確認した後、出口近くにいるシアに近付く。

「シア。宿まで逃げるぞ」

 シアは小首を傾げた。ルルという強者がいるのに、何故英二は焦っているのか。

 その答えは簡単。紛れもなく、その優男も強者だからだ。

「もしかして、その子はシアミトル・フラムベイン? …………ふふっ、ふはははははっ。ツイてる! やっぱり僕は全てにおいて完璧だっ!」

 様子を見ていた優男は歓喜の声を上げた。

「悪いけれど、逃がさないよ。欲しい物が自分から来てくれたんだ」

 優男は剣を抜いた。鍛錬を積んだ者が持ち得る空気が、場を支配し始める。

「だから君達は用済みだ。死んで貰おう」

 その優男――ユラルの目的は単純明快。

「その子がいれば、リズ・クライス・フラムベインを殺せるのだから」

 ユラル・バーン。二十一歳。帝国の十二番隊所属。ラック・ムエルダの命により、ファフィリアへと潜入した。剣の腕は一流だが、性格に難あり。

「ああ、第三皇女は美しいからなぁ。腫れ上がるまで顔を叩いて、泣き顔に思いっ切りぶっかけたいなぁ。副隊長は許してくれるかなぁ。でも、殺していいんだから、大丈夫だよね?」

 澱んだ願望を晒しながら、ユラルは笑みを浮かべている。女性的な顔に浮かぶ、歪んだ笑み。
 英二は思わず叫んだ。

「シア、走れ!」

 ユラルはシアへと目標を定め、剣を揺らしながら駆ける。シアを外へと押し出し、英二はユラルの前に短剣を抜いて立ちふさがった。

「邪魔」

 まるで意に介さず、ユラルは剣を振る。鍛え抜かれた剣閃は、とても素人の英二に防げるものではない。首を防ぐ位置に構えた短剣を嘲笑うかのように、ユラルの一撃が英二の腹部を切り裂いた。

 しかし、ユラルは妙な手応えに立ち止まる。

「…………切れて無い?」

 切り裂いたのは英二の服だけ。そこに血は滲んでいない。
 英二は遅れて安堵する。思わず前に立ったが、本気の剣閃を防げる保証は無かった。それを試した時のリスクが大きすぎるから。
 だが、防げた。これは大きなアドバンテージだ。剣を持つ相手に対して、剣が効かない。それは負けない、ということ。

 そんな英二の考えを見透かしたかのように、ユラルは笑みを崩さない。

「これが噂の繰魔術、ってやつか? ふん、でも目までは堅くないだろう」

 突き。正確に目を狙った、恐ろしいまでに精密な突き。それを成す技量がユラルにはあった。
 構え、引き絞る。すぐさま来るであろう刺突に恐怖して、英二は思わず目をつぶる。同時に、すぐ前方を何かが通る風切り音。続いて横から届く爆発の余波。

 英二は体勢を崩しながら目を開ける。そこには距離を取ったユラルと、吹き飛んだ横の壁の残骸。

「それは魔具か。珍しい。揃いも揃って、何とも厄介な仲間達だね」

 ユラルの余裕は崩れない。放った攻撃が当たらなかった事に、ルルは舌打ちする。
 九死に一生。英二はユラルを警戒したままルルへと近付いた。

「ルル、どうやって逃げるっ?」

 ユラルは明らかに闘い慣れている。こちらには剣を通さない体と魔具があるが、ユラルの余裕を見ると決して有利とは思えない。
 英二としてはこのまま自分達も逃げたい。自分を殺そうとする人間と闘うのはまだ、心構えが足りないからだ。現に、手は汗でべったりと濡れているし、呼吸は浅い。足だってがくがくだ。
 そんな英二を無視して、ルルは黒い杖をユラルに向けた。

「あんた、うっざいわ。誰が仲間よ」

 猫のような瞳には怒り。不満や苛立ちを抑えない、むき出しの感情。
 ユラルの余裕の表情と言動が、ルルの神経を逆撫でしたらしい。

 闘いは避けられない。それを裏付けるように、黒い杖から魔力の球が放たれる。








 シアは走っていた。
 目指すのは、荷物を置いた宿。『ローライ』の方にライヤーが居るのかもしれないが、ここからなら宿の方が近い。それに緊急事態にシアが頼るのはリズだ。それは本能に近い部分に刷り込まれている。

 脚がもつれて転びそうになるが、なんとか立て直して、再び走る。
 リズが宿に居なかったら。そんな想像をすると、恐怖が胸に染み込んでくる。肩を人にぶつけた。シアは慌てて謝り、また走る。

 子供の足に宿は遠い。走る速度が歩く速度と同じくらいになる頃、やっと宿が見えてくる。息も絶え絶えで視界は朦朧とする中、シアは安心して気を弛めた。
 その気の弛みを見透かしたかのように、地面の窪みが脚を取る。シアは転んだ。

 痛い。手を擦りむいた。また涙が滲んでくる。
 英二とルルが危ない目にあっているのは自分のせい。転んだのも自分のせい。やはり、望んではいけなかったのだ。
 だけど今は、泣いている暇など無い。

 立ち上がって宿へと向かう。きっと、きっとリズが居るはず。
 建物に入り、階段を駆け上がり、部屋の扉に手をかけた。

「……そんな…………」

 鍵が掛かっている。リズは、居ない。焦りがシアを支配する。
 こんな時、リズならどうするか。しかし、捜しているのはそのリズ。
 変に混乱しながら、シアはもう一度外に出るために階段を下りる。ふと窓に目をやると、遠くに癖の無い、長い金の尾がちらりと見えた。

 リズだ!
 シアは急いで階段を降りる。そして最後の段で足を踏み外し、豪快に尻餅をつく。何事だ、と宿の人間が近寄ってくるが、シアは痛みを堪えながら通りに飛び出た。

 さっき見えたのは左の方向。迷わずに走る。
 更に上がる息。重い足。頭がぼんやりとして働かない。それでもシアは、一縷の望みをかけて目印の金の尾を捜す。

 そして見えてくる、さっき見えた後ろ姿。

「っ! お、お姉さ――」

 そこまで言って、シアは気付いてしまった。その後ろ姿は、あの強く優しいものとは違う事を。
 途切れた子供の大声に、そのリズに似た後ろ姿は振り返る。全然違う。どこにでもいる、ありふれた町娘。

 不思議がりながらも歩き出した町娘の後ろ姿を見ながら、シアは無力さを噛みしめていた。その無力はどうにもしがたいほど重く、足を前に出せなくさせるのだ。
 随分と暗くなった空。時間は止まってはくれない。しかし、足が動いてくれない。
 息と心臓と汗が止まらない。走りすぎだ。シアはその場にうずくまった。
 荒い息の音だけが視界を支配する。全てを拒絶するように目を瞑る。

 そこに、何も出来ない自分が居る気がした。

「シア」

 望んでいた声が聞こえた。

 シアは顔を上げて、声のする方を向く。そこには、捜していた姿。

「良かった。心配したんだよ」

 リズの安堵の笑顔。前髪が汗で額に張り付いている。
 もしかしたら、リズも自分を捜していたのだろうか。そう思うと、申し訳なさを感じると共に嬉しさも湧き出てしまう。

 違う。今はそんな場合じゃない。英二とルルが。

 口を開こうとした途端、シアの世界がぐらりと揺れた。
 遠くでリズの声がするが、シアは答えられない。そしてそのまま、シアの意識は途絶えた。

 激しい運動。精神的な重圧。軽い脱水症状。それらは屋敷の中で育ったシアを倒れさせるのに、十分な要素だ。

 リズはシアを抱きかかえて、急いで宿へと戻る。大事なものを守るために。

 そしてその一部始終を、独断でシアを探していたローランは見ていた。
 驚きに見開いた目のまま、ローランは自分の店へと足を向ける。しかし、動き出さずにもう一度視線を戻した。そこに、見間違うはずの無い第三皇女はもういない。
 一度頭を振る。豊かな長い髪が、動きに合わせて揺れる。
 ローランは今度こそ、自分の店に向かって歩き始めた。



 シアのメッセージは伝わらないまま。しかし、それはさほど重要ではない。何故ならば、シアが二人から離れて、既に十五分は経過しているのだ。
 戦いが十五分続く、という事は非常に稀だ。多くの場合、すぐに決着がつく。それが本当の命のやりとりなら、尚更。


 時間は少し巻き戻り、舞台は英二とルルの所へ。

 先に宣言しておこう。最後に立つのは、一人だけだ。




[27036] 二章七話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/06/09 13:24


 ルルの放った魔力の球は、大きな音を立てて壁に新しい入り口を作った。
 ユラルは余裕を保ったまま、芝居がかった仕草で、その破壊の力の投擲者に話しかける。

「そんな分かりやすい攻撃、僕には当たらないよ」

「うるさいっ! 死ねっ」

 ルルの罵声を気にも留めず、ユラルはそのまま視線を落とす。
 ワンピースから見える脚から細い腰。気持ち程度の胸。そして、気の強い猫のような瞳。
 ユラルは笑みを濃くした。

「うん、合格だ。その瞳が良い」

「はぁ? 何がよ?」

 ルルは意味不明の発言に思わず聞き返す。
 そしてすぐ、そのことを後悔する。

「君は両手両足を折ろう。そして、その後に泣いてる君の口を僕のモノで塞ぐんだ。ふふふっ、楽しみだなぁ。そういう生意気な瞳が歪むのは、いつ見ても素晴らしいからね。そして最後にゆっくり首を切ってあげる。愛撫するみたいに、ゆっくりと、ね。くふっ、ひひっ」

 我慢できない。そんな情動を示すように漏れる笑い声。優男のような顔は暗い悦びを形作り、膨らみがズボンを押す。

 ルルは嫌悪した。その異常な精神性と言動。
 そして何より、怖い、と一瞬でも思った自分の心に。

 そんなルルを守るように、英二はユラルの前に立った。腰に戻した短剣を、抜く事も忘れて。

「なんなんだよ、お前」

 英二の心の中から、怖さは殆ど消えている。あるのは、疑問。
 どうして、そんな事を言えるのか。そんな酷い事を――

「なんだよ。僕は男に興味は無いんだ」

 剣は来ない。代わりに、鋭い蹴りが英二を横に吹き飛ばす。
 受け身もとれないまま倒れる英二、ユラルは剣を振り上げる。

「安心してよ。殺しはしないから」

「ルル!」

 英二は叫びながら立ち上がるが、間に合わない。

 例えるなら、ルルと英二は剣と盾だ。ルルは剣。英二は盾。
 破る方法は簡単だ。英二に攻撃が効かないなら、効くルルを先に潰せばいい。当然の行動で、英二もそれを警戒していた。
 だが、英二は盾にすら成り得なかった。それだけだ。盾を失った剣は、今にも折られようとしている。

「舐め、るなぁっ!」

 ただ、ルルはそこで折れるような弱いだけの剣ではない。
 いいようにやられる、なんてルルの最も嫌いな状況。それこそ、たとえ死んでも許せない。

 優男のへらへらした口元。見下した目。恐怖を抱いた自分。ルルは怒りのままに一歩踏み出す。思惑も何もあったものでは無い。激情に突き動かされるままユラルの懐に入った。

 既に剣を振り上げているユラルの方が早い。しかし、余裕と目的がユラルの剣を緩ませる。
 この位置からだと頭を切るしかないが、そこを切ってしまうと目の前の人形がすぐに死んでしまう。それは、つまらない。

 仕方ない、とユラルは体を捻る。続けて下から空を切る黒い杖。併せて胴体程の大きさの魔力の球が、天井に向けて放たれる。

 やすやすと必殺を避けたユラルは、軽やかに距離をとる。そして、杖を振り切ったルルは、その慣性を支えきれずに膝をついた。
 その倒れ方を知っている。ユラルの口がいやらしく歪む。

 ルルが膝をついた原因。それは、魔力の使い過ぎ。

 英二は起き上がりながら、その原因に思い当たる。そう、魔力は無限ではないのだ。使えば減る。
 そして、減った先には自分達の、死。

「はははっ! これだから魔力は脆弱なんだっ。強きは、剣。僕は魔力などに負けはしないっ」

 ユラルは恍惚を声に乗せ、舌で唇を湿らせる。嗜虐的な視線でルルを眺めて、一歩近付いた。

「ああ、駄目だ、我慢できない。やっぱり斬ろう。お願いだから、綺麗に死なないでくれよ?」

 死んだら元も子もないんだから、と言いながらユラルは剣を振り上げる。白い残光が煌めいた。

 英二は間一髪、その間に体を割り込ませる。

「くそっ!」

 ぎりぎりだが、間に合った。しかし、力量の差は歴然だ。二人を合わせても一人に負けている。
 背中に白刃の感触を感じながら、英二はルルの脇に手を差し込んだ。

「ちょっ! なにすん……」

 騒ぐルルを無視して英二は力を込め、全力でユラルから離れた。
 持ち上げられたルルは暴れ、英二の首もとを掴む。

「何やってんのよ! あたしを助けるくらいならあいつを倒しなさいよっ!」

「倒せたら苦労するかよ!」

 息のかかる距離で英二は言い返す。しかし、それで状況が良くなる筈も無く。

「仲間割れは良くないなぁ、うん」

 好機にもかかわらず、ユラルは英二達を追わない。それも当然だ。弱者を見下すのは強者の権利なのだから。

 広間の隅まで英二達は下がる。背中に当たる冷たい壁。もう、逃げ場は無い。

「ルル、まだ魔具は使えるのか?」

 英二は真正面からルルを見る。ユラルは面白そうに英二達を見るだけで、近寄ってすらこない。

「当たり前よっ」

 ルルは噛みつくような表情で言い返した。
 英二は考える。一体どうすればここを切り抜けられるか。

――ルルが壁をぶち破った後、そこから逃げる。
 却下だ。ルルを担いだ状態でユラルから逃げ切れるとは思えない。
――自分を囮にして、ルルがユラルを狙い撃つ。
 これも無理。ユラルはルルの攻撃を何度も避けている。今更当たってくれるとは考えにくい。

――英二がユラルを正面から倒す。

 もし、またあの時のような爆発的な力が出せるなら、それも可能かもしれない。しかし、そんな予兆は微塵も無い。

 神に祈るような不確定過ぎる希望に縋るのはまだ早い。英二は必死に考えを巡らせる。
 そんな英二を嘲笑うように、ユラルは距離を詰め始めた。

「ほらほら、早くしないと死ぬよ? くくっ、それとも逃げるかい?」

 一歩、一歩。広間の距離などたかが知れている。時間は、無い。

 それでも諦めない。英二は死神の足音を聞きながら、うるさい心臓の音を振り払い、最善の行動を模索する。
 近付く死の気配。

「さぁ、泣いてくれよ。泣き叫んでくれよ! うふっ、ふはははっ!」

 ユラルは剣の切っ先を英二達に向ける。欲望と快楽の詰まった血袋を裂くために。もう我慢など出来やしない。

 狭まる距離の中、英二はそっとルルの耳元で何かを囁いた。
 仕方ない、と言いたげな表情でルルは英二から離れる。

「今回だけよ。あたしが従うのは」

 ルルは黒い杖にしがみつくようにしてようやく立っている。
 英二は前に出て、ユラルと相対した。そして、腰の短剣を抜く。

「俺も、こういうのは今回だけにして欲しいさ」

 ぎゅっ、と短剣を握る。人を殺す道具を。

 覚悟は、決めた。後はやるだけ。

「ルル!」

 英二の叫びに合わせて、ルルは杖を振り上げる。そして英二は一気にユラルへと突っ込んだ。

「甘いっ!」

 ユラルは切りかかってくる英二に袈裟切りを放った。剣は滑るように英二の体を上滑る。相変わらず効かないが、ここは牽制程度でいい。所詮、素人の英二の剣など、目を瞑っていても避けられる自信がユラルにはある。
 故に、意識は後ろのルルへ。今にも振り下ろされようとしている黒い魔具を、ユラルは警戒する。あの出鱈目な破壊の球さえ直撃しなければ、負ける事は決して無いのだ。
 斬られた衝撃でよろける英二。同時にルルが杖を振る。魔力は杖を通り、破壊のエネルギーへと変換され、指向性を持ち、放たれる。

 その先は、上。

 不意をつかれ、ユラルの動きは一瞬止まる。破壊の球が天井で弾け、破片は空中を待う。思わず手で頭を守った。視界は狭まり反応は遅れる。
 これはそう、目眩ましだ。
 ならば、本命は目の前の男しかいない。破壊の球が連射出来ない事は見抜いている。だから、目眩ましに乗じて短剣で攻撃してくる筈。

 素人の短剣といえど、当たれば危険。だが、笑止。
 視界の端に短剣がちらりと見えた。ユラルは頭を守っていた手を解き、あらんかぎりの速さで剣を振った。確かな手応えが甘い感覚を脳に送る。吹き飛ぶ短剣。勝った、という確信。

 だが待て。妙ではなかったか。あまりにも手応えが良すぎる。まるで、吹き飛ばされる事を前提にわざと置かれていたような――

「さっすが。剣に自信のありそうなお前なら、俺の得物を狙ってくれると思ったよ」

 英二はわざと短剣を差し出すように構えていた。いたぶるのが趣味のユラルならば、まずは武器を奪うだろう、という予測。
 全力で剣を振った直後のユラル。短剣を吹き飛ばされること前提で構えていた英二。いくら実力差があろうとも、どちらが先に動けるかは明白だ。
 英二は何も持っていない手を伸ばし、ユラルの腕を掴んだ。

「じゃ、俺と一緒に吹き飛ぼうぜ」

「屑がッ! 触れるな!」

 ユラルは英二の指を掴み折ろうとするが、剣だこ一つ無い貧弱な小指は異様なほど硬い。英二の肩越しに、ルルがゆっくりと杖を振り上げる姿が見える。

「まさか、道連れにするつもり……!」

 杖は振り下ろされる。持ち主は倒れる。そこまで叫んでユラルは理解した。これは道連れなどではない、と。
 体を捩って拘束を解こうにも、もう遅い。英二に必要なのは僅かな足止め。いかに実力差があろうと、時間をかければ解ける戒めだろうと、終わりはすぐにやってくるのだから。

「畜生がっ、一般人の分際で……っ!」

「結構痛いからな。俺が保障する」

 人の頭ほどの魔力の球が英二の背中に触れる。瞬間、衝撃が発生し、体が宙に浮く。そのまま英二の体はユラルを巻き込み、五歩ほど離れた壁に激突。煉瓦を鈍器で叩いたような音がして、二人は地面に転がった。

「……疲れたわ」

 緊張の糸を切り、ルルは地面に座り込んだ。気を失うほど多く魔力を使った訳ではないが、しばらく足に力が入りそうに無い。

『一発、目眩ましを撃ってくれ。その後、俺ごと全力で』

 英二の『自爆作戦』はどうにか上手くいった。相手の油断と、魔力の限界と、運。ぎりぎりだったが、とにかく勝ちは勝ちだ。
 のそり、と壁に激突した内の一人が立ち上がる。ちっ、とルルは舌打ちした。

「頑丈過ぎよ。一緒に死んでも良かったのに」

「…………痛てて。……何でそう可愛げが無いんだよ」

 戦いは、終わった。英二一人が立っている。

 英二は、諦めを感じながら座っているルルを見た。喜びを体全体で表現する、なんて思っていなかったが、ここでも憎まれ口とはもっと思っていなかった。しかし、本気で言っている訳ではない、というのはルルの気を抜いた溜め息で分かる。むしろ変に心配されたら、自分の耳が腐ったと焦るかもしれない。
 足下には自分と同じ破壊の球の犠牲者。英二は落ちていたユラルの剣を拾い、傷つかないように刃の腹で顔を軽く叩いてみる。
 長めの髪はぐちゃぐちゃ。女性的な顔は白目のまま。反応は、無い。

「……死んで無いよな?」

「さあ。どっちでもいいわよ」

 心底どうでもよさそうなルル。

 死んだのか死んでないのか。流石に重要な問題だ。確認のため、英二は更に近付いてユラルに手を伸ばす。

「君達、大丈夫か!?」

 突然響いた男の声。驚いた英二は声の方向に首を向ける。

「私はこの街の警備兵だ。通報を受けてやって来た。……しかし、酷い有り様だな」

 三十代くらいの、皮の胸当てを身に着けた男。鍛えられた体からは覇気が滲み出ている。どこか戦いの気配を身に纏った雰囲気。
 その眉の下に傷がある男は、破壊の痕が色濃く残る室内を見回しながら、英二達に近付いた。
 英二は持っていた剣を慌てて捨てる。眉の下に傷のある男は気にせず、倒れているユラルの首に手のひらを当てた。

「……死んではいないな。まさか、君達はこの男の仲間か?」

「とんでもない!」

 そんな男の仲間だと思われたくない。因縁をつけられた事、連れて来られた事、被害者だという事。英二はそれらを掻い摘んで、やや誇張して話した。

 眉の下に傷のある男は、黙って聞く。そして英二が話終えると、やはりか、と口を開いた。

「まあ、そんな所だろうと思っていた。ここの連中はいつ大犯罪を犯すか分からないような悪の集まりだ。今まで上手く逃げられていたが、ようやく撲滅の目処がついた。いや、もう撲滅されたか」

 眉の下に傷のある男はそう言ってもう一度部屋を見回す。意外に冗談も言うらしい。硬さが和らいだ空気に、英二は自然と安心した。

「ああ、名前も言ってなかったな。私はナド・ザトスだ」

「あっ、俺はエイジ・タカミヤです。あっちはルル・トロン」

 視線すら寄越さないルルの分も一緒に英二は名乗る。無愛想なルルだが、ナドが気分を害した様子は無い。淡々と続けて英二に話しかけた。

「君達は何のためにこの街に? クジュウから商売でも?」

「いや、そういう訳では…………。この街に来た理由は……観光、ですかね」

「観光か。まあ、この街に来る人間の半分はそういう道楽なのは事実だからな。クジュウからはるばるご苦労な事だ」

 ははは、と英二は愛想笑いで誤魔化す。本当は異世界に帰る方法を探すためです、とは間違っても言えない。

 本当に信じたかは分からないが、それ以上ナドは訊かずに、倒れているユラルの腕を縛りながら話を変える。

「宿はどこを取っている? そこまでは送っていこう。君達を疑う訳ではないが、少し話も聞きたいしな」

 また同じような人間に絡まれるのは勘弁願いたい。英二は一も二もなく頷いて、ルルへと視線を向けた。

「ルル、立てるか?」

「……当たり前よ」

 ルルは杖を支えに立ち上がる。が、震える脚は頼りなく、長く続かないのは火を見るより明らかだ。

 意地っ張りな奴。
 英二はそう思ってルルの前で背を向け、しゃがんだ。

「ほら、帰るぞ」

「いらない。助けられるのは嫌いなの。あんただけ先に帰ってなさいよ」

 ある程度予想していた偏屈な答え。英二は用意していた言葉を放つ。

「助けてくれたんだ。これくらいはさせてくれ」

「そういうのが嫌いなのよ。ほんっと、助けて損したっ」

 可愛くない奴だ。英二はやけくそ気味に立ち上がった。曲がりなりにも女の子を一人残して、自分だけ帰る訳にはいかない。例えそれが罵りばかり吐く生意気な猫でも。

「ああ、じゃあ俺は背も手も何も貸さない。だけど俺はお前の一歩前を歩くから、服なり腕なり掴んでくれよっ」

 詭弁でしか無いが、これならぎりぎり助けてないと言えなくもない。
 何でも良いから納得してくれ、と願う英二の背中に、微かな感触。

「…………早く歩きなさいよっ」

「はぁ、了解」

「……何、そのため息」

「いいや、何でも」

 歩き出す二人。出口付近で待ってくれているナドが、心なしか急かしている気が英二にはしている。

 勿論、それは気のせいだ。だって、非常に歩くペースの遅くなってしまう二人に、文句も言わず合わせてくれるのだから。

「しっかし、あんた服がボロボロね。似合ってるわよ」

「……リズに真剣に怒られるかもな……。その時はルルも共犯な」

「はぁ!? 汚れてるのはあんた一人でしょうが!」

「汚したのは半分くらいルルだろ? ま、仲良く怒られような」

 死ねっ、という声が太陽の見えなくなった通りに響く。夕陽の残滓に浮かぶ薄い影が二つ。歩みの揃った影達の距離は近く、繋がっている。

 英二達はゆっくり宿へと戻る。それに合わせて後ろを歩くナドは、そんな二人を無表情で見ていた。







「エイジ! 酷い格好じゃないか!」

 英二が宿の男部屋に戻ると、リズがすぐさま部屋に入ってきた。
 きっと心配していたのだろう。申し訳なさと安堵を感じながら英二は事態を説明する。ルルは途中で寄った『ローラン』という店で、中にいた大柄な女性に捕まった。英二は仕方なく、宿までナドと二人で帰ってきていた。

 英二の話は戦った優男についてへと変わる。

「で、そいつはリズを狙ってたんだ。心当たりとか無いか?」

「……その男の名前は分からないかい?」

「いや、流石にそんな余裕は無かった。ほとんど不意打ちで倒したみたいなものだし、出来れば二度と会いたくないな」

 視線を外し、思案しているリズ。それまで黙っていたナドが口を開いた。

「私はナド・ザトス。この街の警備兵だ。少し話を聞いて良いか?」

「ああ、申し訳ない。私はリザリラ・ファーウェイといいます」

 流れるように偽名を答えるリズ。ナドが気付いた様子は無い。

「この街へはいつから?」

「今日の昼くらいです。アリスナからエイジ――彼と遊ぶ為に」

「そうか。それで、その男に何か心当たりは? 街中で話しかけられた、とか」

「いえ。この街に来るのは初めてで。少し街を回りましたが、そんな事はありませんでした」

 ナドは当たり障りの無い質問をいくつかして、眉の下の傷を指で掻いた。

「まあ大方、街であなたを見かけて、妄想にでも取り付かれたんだろう。あなたはそれだけ魅力的だし、奴らはいつもそんなきっかけで暴れ回るからな」

 それは場を和ませる冗談。リズは上品に微笑む。

「ふふっ、私がその人達を骨抜きにするほど魅力的であれば、事件なんて起こらなかったんです。もっと磨いておくべきでしたね」

 ナドはその返しに破顔する。英二も思わず笑ってしまった。
 部屋の扉が開き、小さな影がリズに飛びかかる。

「お姉さま!」

 体当たりのようなシアの抱擁をリズは受け止める。リズしか見えていないシアは早口でまくし立てた。

「あのっ、エイジさんが、ルルさんが大変なんですっ! 私がぶつかったから…………あれ?」

 リズの腕の中で、シアは背後へと視線を向け、呆けたように英二の姿を見詰める。

「シア、ちゃんと宿に戻れたな」

 英二が笑って手を上げると、シアはリズの腕を飛び出して、英二へと頭から突っ込んだ。

「うわっ」

 シアの突撃に耐えられず、英二はバランスを崩す。一歩下がった所で体は傾き、背後の壁に頭を打ちつけて、ずるずると床に座った。
 稲妻のようなシアの行動に、ぽつりと追加される。

「…………ごめんな゛ざい゛」

 英二にしがみついたままのシアは、そう言った後に大声で泣き出した。
 我が儘もじゃれつかれるのも大丈夫だが、泣くのは駄目だ。英二は慌てた。

「シ、シア、言った通り、俺は大丈夫だったろ? ルルだってちょっと疲れた位で何ともない。だから泣くなって」

 朝に比べて随分とボロボロになった服は、更に涙と鼻水で汚れていく。英二の声が聞こえている筈だが、泣き止む気配は無い。
 困ったのは英二だ。シアが反省してくれればいいだけなのに、こんなに泣くとは思わなかった。小さな女の子に泣かれると、自分が悪くなくても無条件で罪悪感を刺激される。兄と妹がいて妹が泣いたら、必ず兄が悪いのだ。この感情は刷り込みに近い。
 背中をさすっても頭を撫でても、小さなシアは泣き続ける。何だか英二も泣きたくなってきた。

「シア」

 泣き声の合間。破けた心の隙間を縫い止めるような声が紡がれる。

「泣いたらいけないよ。シアが泣いたらエイジも悲しむし、私だって悲しい。だから、今シアがやらなきゃいけないのは泣くことなんかじゃないんだ」

 泣き声が小さくなる。しかし、顔はまだ英二の服に押し付けたまま。

「自分の失敗を知ったら誰だって悲しい。私だって今まで幾つも失敗したよ。でも、そういう時こそ俯いちゃ駄目なんだ。顔を上げて、ね」

 シアはゆっくりと顔を上げる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃのその顔を、英二は袖で拭ってやった。
 幼いシアにとって、リズは何よりも大きい。その声の効果は絶大だ。

「エイジに言わないとね。ごめんなさい、じゃない言葉を」

 シアは英二を正面から見ようとするが、まだまとまらない感情が邪魔をする。
 それでも意を決して目を合わせ、掠れた声を絞り出した。

「……助けていただいて、ありがとうございましたっ」

「どういたしまして」

 間を空けずに返すと、シアはもう一度英二に抱き付いた。嬉しさを体現したようにしっかりと、首に手を回して。
 英二がシアの背中をとんとん、と叩くと、耳元で鼻をすする音がする。とりあえずは治まった。

 リズが窓に視線をやって言う。

「うん、元気を出すために、夜に美味しい物でも食べに行こう。せっかくファフィリアに来たんだから、ね」

 シアが英二から手を離し、不安げな瞳をリズに向ける。

「でも……わたしは外に出ない方が…………」

「シアが反省したなら大丈夫。今度は私もいるし、危ない所には行かないよ」

 シアは英二とリズを何度か見比べて、ゆっくりと頷いた。
 こほん、と咳払いをして、ナドが話し出す。

「じゃあ、私はそろそろ戻るとしよう。今度は何も起こさないように」

 短く注意して、ナドは去った。
 英二は膝の上に乗ったままのシアを降ろそうと、優しく肩を押す。しかし、何を勘違いしたのか、シアは英二の手を取って、ぎゅっと両手で握った。

「…………えへへっ」

 犬の尻尾の代わりのように、その手は上下に振られる。仕方なく、英二はされるがままに力を抜いた。

 ふと、リズを見ると、穏やかな笑みが浮かんでいる。何の変哲もない綺麗な顔。
 だが、どうにも違和感がある。英二は首を傾げた。

「シア、まだ時間はあるから、部屋で休んでいなさい」

 声も普段と変わらない。なのに、英二にはいつもと違って見える。

「はいっ、お姉さま」

 シアは素直に頷いて立ち上がる。扉を開けて出ようとして振り向き、一つ笑顔を見せた後に出て行った。

 部屋に残るのは英二とリズ。そしてリズは相変わらず笑顔を浮かべている。

 これは怒っているんだな、と気がついた英二は、先手必勝で正座した。

「悪いっ!」

 すかさず謝る。勝手にいなくなったこと。シアを危ない目に遭わせたこと。服をボロボロにしたこと。思い当たる理由はいくらでもある。

「…………何が悪いか、本当に分かってるかい?」

 氷山の豪雪が垣間見える声色。これは相当怒っている。英二はどれが原因か必死に考える。

「…………服を駄目にしたこと?」

「違う」

「じゃあ、シアを危ない目に遭わせたこと」

「それは確かに重要だけれど、今に限っては違う」

 じゃあ、と英二がまた口を開こうとする前に、リズはしゃがんで視線の高さを合わせる。

「どうして、逃げなかったんだい?」

「それは…………まあ、仕方なく」

 逃げられるなら英二だって逃げたかった。しかし、状況がそれを許さなかったし、途中からは怒りに似た感情が芽生えたせいで、選択肢から消えていた。

「君は戦わなくて良いんだ。いくら体が丈夫だからって、いつ危険がそれを上回るか分からない。それに外傷以外で苦痛を与える術だっていくらでもある。君は、とても危ない橋を渡ったんだよ」

 理屈は解る。だが納得は出来ない。結果としては怪我もしていないし、不気味な男も倒せた。結局、あの時は戦う事が最善だったのだ。
 言い返そうと英二が口を開こうとする。しかし、急にリズが立ち上がり、ベッドに向かったせいでタイミングを失ってしまう。

 リズは立ち止まり、ぱちんと顔を両手で覆う。
 そしてそのままベッドに飛び込み、シーツに顔をうずめた。

「あああああもうっ、なにやってるんだ私はっ!」

 全くらしくない、荒げた声。くぐもっていても、リズが言ったのは明白。いきなりの奇行に英二は思わず目を白黒させた。

「リ、リズ?」

 ばたばたと暴れる足を見ながら、英二は立ち上がる。なんというか、予想外の行動過ぎて反応が出来ない。

 ぴたり、とリズの動きが止まる。

「分かってるんだ。私がシアから離れなければ、油断しなければこんな事にはならなかった。私はもっと慎重になるべきだったんだ。ああっ、自分の不甲斐なさに腹が立つ!」

「それは違うんじゃないか?」

 全知全能の人間などいない。不測の事態は必ず起こる。
 そんな意味を込めた英二の言葉に、リズは顔だけ上げる。

「違わないんだよ。シアも、君も、ルルも。私が守らなきゃいけない。それは絶対なんだ」

 英二からリズの顔は見えない。しかし、ベッドの上の背中には、強い決意が見え隠れしている。

 少し迷って、英二はリズの隣に腰掛けた。

「まあ、ほどほどにな。あんまり窮屈だと息が詰まるし」

「分かってるさ。失敗は、しない。私はシアの前で完璧にしなくちゃいけないんだ。それでいて、他の全ても完全に」

 リズは英二を見ずに言う。
 これ以上は泥沼だ。そう判断して英二は話題を変える。

「で、夜はどこに行くんだ? シアに言ったからには、美味い所に行くんだろ?」

 すぐに返事は来ない。沈黙の後にリズはのそのそとベッドから降りて、ずれた髪飾りを直す。
 髪飾りの位置が決まり、リズはいつも通りになった。いまさらさっきの奇行が恥ずかしかったのか、少し頬が赤い。

「こほん。まだ決めてないよ。適当に人に訊いてみようかな、と思ってる」

 さっきの行動が嘘だったかのような流れ。
 何も触れないのだお互いのためだ。そう判断して英二は頷いた。

 扉が開き、ライヤーが入ってきた。

「おっ。帰ってたのか、二人共」

「まあ、色々あったけど、どうにか」

「色々……ねえ。ま、訊かねぇでやるよ」

 本当に色々あった。思い出すだけでも疲れる。含みを持たせたライヤーの台詞に、英二は苦笑いで答えた。
 そうだ、とリズが何かを思い付く。

「ライヤー。この辺りで良い店を知らないか?」

「良い店? 飯か?」

「ああ」

 それなら、とライヤーは顎をさする。

「少し歩くが、良い店がある。そこは美味くて安いし、なにより酒が良い。そこらで売ってる酒なんてメじゃねえ」

「……夜、そこに連れていけばいいんだろう? 今日は奢ろう。予約に行くから、案内してくれ」

「うっし、話が早くて助かるぜ。エイジ、今日の宴は決まったぞ」

 ライヤーに言われて今日の夜の約束を思い出した英二は、妙な気分になった。
 さっきまでとんでもない非日常の中にいて、今からは少し外れた日常へ。その落差が変に可笑しい。

 それが新しい日常か、と英二は思って、ベッドに背を預ける。疲れはそんなに無い。
 扉に手をかけながら、ライヤーは振り向いた。

「そうそう、お嬢ちゃんも来るぜ。少し遅れるけどな」

 それだけ言って、ライヤーとリズは出て行った。

 結局、全員参加が決定した今夜の宴。外はもう随分と暗い。

 そう、夜はすぐそこまで来ていた。




[27036] 二章八話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/06/20 10:25


 ファフィリアの街は、夜と昼で別の顔を見せる。
 昼間、買い物客で賑わっていた大通りは鳴りを潜め、変わりに飲食店の多い西通りが主流になるのだ。
 その人の流れの鮮やかな移り変わりは、四季を早送りで見ているような、不思議な光景だった。

 一気に人の増えた西通り。暗い中でも尚、人目を惹く集団がいる。

「ここがライヤーの言ってた店か?」

 この国では珍しい、クジュウの民の容姿をした少年が看板を見ながら言った。腰に付けた短剣はまだ新しく、どこか浮いている。

「ああ。なかなか人気があるらしくて、いい雰囲気の店だよ」

 長い金髪を高い位置で一つに結った男装の麗人が、そう言って扉を開けた。なぜ男装しているのか分からない程の美人。そして男装していても伝わってくるスタイルの良さ。

「ここの飯は上手いぞ。俺が保証する」

 飄々とした態度の青年。短く逆立った赤毛が精悍な顔立ちに良く合っている。

「ライヤーさんはこの街に来たことあるんですか?」

 夜の街に不釣り合いな少女は青年に問いかける。少女にはそこに居るだけで場を明るくする、生来の華やかさがあった。

 本来ならもう一人、目立つ少女がいる筈だが、今はいない。しかし、その少女がいなくても、十分過ぎる程に目立つ集団だ。
 薄く光の漏れる店の扉。待ちきれない、といった様子でライヤーは扉に手をかける。

「さっさと入ろうぜ。美味い料理と美味い酒が待ってるんだ」

 そう言ってさっさと扉をくぐった。英二も続けて扉の向こうに消える。
 外で待っていても料理は来ない。リズも店に入ろうとした時、力の弱い、されど振り払えるはずも無い感触を腰に感じた。

「お姉さま」

 どこか控えめにシアがリズの服を掴んでいた。リズは足を止め、シアの視線に合わせる。

「どうしたんだい? シア」

「ええと…………その……今日はありがとうございます……」

 いつも明るい表情が、今はぎこちない。
 シアは今まで殆ど皇居から出ていないのだ。こういう人の多いところは苦手なのかもしれない。それにまだ罪の意識が残っているのだろう。
 リズが考えを巡らせていると、シアは打って変わって力強い表情になった。

「あの、頑張って下さいね! エイジさんとのこと、応援してます!」

 リズとエイジはこいびと同士。そんな勘違いを胸に抱いたまま、シアはライヤー達を追う。

 まさか最愛の妹に誤解されているとは思わない。首を傾げながら、リズは三人から遅れて店の敷居を跨いだ。







 大声で話しながら泣いている大男。それをめんどくさそうに聞きながら、グラスを傾ける友人。身振り手振りを交えて離す中年と、それを見て馬鹿笑いをしている太った男。睦まじく寄り添う恋人達。
 陽気さに満ち満ちている店内。酒を呑み、笑うことに忙しい客達は、新しく入ってきた人間など気にも留めない。
 予約していたテーブルに着き、リズは店員に声をかけた。

「注文をいいかな」

「あ、はい!」

 料理を運んでいたエプロン姿の女性店員が返事をする。仕事を終えた店員は、リズ達の座るテーブルに近付いた。
 リズは軽く店内を見回す。

「そうだね、何かみんなで摘める料理を十……こほん。五人前ほど。後、飲み物はクエイクと、この子が飲めそうなジュース。後……そっちはどうする?」

 話を振られても、英二に分かるのは焼酎とかビールくらいだ。しかし、この世界にあるのか、疑わしい。
 返答に困って隣のライヤーを見ると、ニヤリと笑う横顔。

「へぇ、クエイクなんて酒を呑むのか」

「と言うより、これくらいしか知らないんだ。こういう場で呑めそうなお酒は」

 ほうほう、とライヤーは顎に手を当てる。英二は気になって訊いてみた。

「クエイクって、どんな酒なんだ?」

「ん? ま、いわゆる庶民のお酒、って奴だな。安酒の割には美味い。ただ、安酒の域は超えない。度数が割と高いから、どちらかって言ったら、酒に強い酒好きが呑んでるな」

 じゃ、俺もクエイクで、と注文するライヤー。それを伝票に書き込む店員。
 英二は腕を組んで唸る。

「うーん。どうしよう」

「まあ、最初は甘い酒でも呑んだらいいんじゃねえか? 甘けりゃ呑めないこともないだろ」

「……そうだよな。そうするか、って事で、ライヤーのオススメを一つ」

 仕方ねえな、とライヤーは笑って店員に注文する。店員は小気味良い返事をして厨房に入っていった。
 英二は異世界で大人の階段を登っていることに、少し面白さを感じた。同時に、同年代のリズが立派な酒を呑んでいるのに、自分は気弱な選択をしてしまった後悔も少し。いや、初めての酒だ。だからこれは逃げでは無いのだ。
 英二は頭の中で言い訳をしながら、未だ来ない少女のための空席を見た。

「そういえば、ルルはなんで遅れてるんだ?」

 あの騒ぎの帰り道。少し休めば回復する、とルルは言っていた。しかし『ローラン』で捕まった彼女はまだ姿を見せない。
 シアがリズの服をぎゅっと掴む。リズはそんなシアの頭を優しく撫でながら、冗談めかして言う。

「さあ、身支度でも整えてるんじゃないかい?」

「無いだろ。もしそうだったら明日は槍が降る」

 助けてくれた時は何故か服装が変わっていたが、それが自分達に見せる為と思えない。そして今、鏡の前でいそいそと化粧をしているなんて、そんな可愛らしさがあの少女にあるはずが無い。英二は確信していた。

「ルルも根は悪い奴じゃないけど、やたら口が悪いしなぁ……」

 口が悪い。素行はそこまででもないが、とにかく口が悪すぎる。
 助けに来たのに死ね、とか言うし、正直、その口の悪さだけは好きになれなかった。別に自分が傷つく、とかそういう訳ではないが。
 英二がルルの怒鳴る姿を明確に思い出していると、シアがテーブルに身を乗り出してきた。

「る、ルルさんはいい人ですよっ! ちょっと意地悪な時もあるけど、強くて、やさしい人です!」

 場に不釣合いな幼い声に何人かがこちらを見るが、すぐに自分達の騒ぎの中へと戻る。
 英二はテーブルに乗り出した小さな体を押し返した。

「知ってるよ。大丈夫、俺は別にあいつのことが嫌いな訳じゃない。ただ、ちょっと直して欲しいかな、って思う部分があるくらいで」

 押し返すついでに、英二はその緩やかにウェーブがかった髪を撫でようとして、リズの手に弾かれた。

「あたっ!? な、なんだよ?」

「あ、いやその、つい」

 申し訳なさそうにしているリズ。あ、と英二は思い出す。そういえばまだリズに、自分が幼女趣味だと誤解されたままだ。宿で怒っていた時の感情には、それも混じっていたかもしれない。
 誤解を解こうと英二が口を開いた瞬間。店内の喧騒が急に無くなった。

 その原因は扉を開けた少女だ。猫のような大きな目。夜のような漆黒の髪と漆黒の目。人目を引くその珍しい色は、薄化粧をした少女の可憐な容姿のせいで吸引力すら感じられる。
 肌はきめ細かく、触れれば手に新雪のような感触を残すだろう。まだ成長途中の体躯は、少女の儚さをより一層際立たせる。その体躯を包むドレスは、周りの空間だけを切り取り、少女の存在感をさらに色濃く示す黒だ。どこぞのパーティーに顔を出せば、きっと王子も跪く。

 華奢な足が店へと入る。扉を閉める手の指先。全ての視線は少女に集中している。
 クジュウの民、というだけではここまで注目はされなかった。どちらが美人か、と言われれば同じ店内の皇女の方だろう。

 では何故、ここまでこの少女――ルル・トロンが注目を浴びているのか。
 クジュウの民で美しいから。それもある。だが、それ以上に簡単な話だ。

 自分達のテーブルの最後の空席に座ったルルに、英二は言った。

「ルル、この店でその格好は流石に無いんじゃないか? 舞踏会じゃないんだから」

「うっさい! 死ね!」

 それこそ、緩やかなワルツのリズムに乗って、今すぐに踊り出しても違和感の無い服装。ここが普通の店でなく、立派なダンスホールだったら。
 叫び声を合図にまた喧騒が戻る。ほとんどのテーブルでは、今入ってきた場違いな妖精の話で、また盛り上がっているのだろう。クジュウ、とかわい子ちゃん、とかそういう言葉が英二達まで届いている。

 丁度オレンジジュースを持ってきた店員に、酒っ、とルルは投げやりに注文する。
 そして程なくして全員分の飲み物が揃った。

「ま、とにかく、今日は色々あったけど、存分に飲み食いしてくれ」

 リズが自分のグラスを持ってそう言った。
 悪戯が成功した笑いを噛み殺すライヤー。隣に座った妖精に、きらきらとした眼差しを向けるシア。どこか自棄になっているルル。全員がグラスを持つ。
 そして英二も目の前の乳白色の液体の入ったグラスを持つ。これはどうやら、異世界も共通らしい。

「乾杯!」

 開始の合図はグラスの音色。店の雰囲気から浮きまくりのルルを加え、宴は始まる。








 グラスを口元に持っていく。

「…………ちょっと不味いな」

 甘さと苦さが同居する微妙な味。鼻を抜ける慣れないアルコール。
 いきなりテンションが上がるとか、そんな事は無い。高宮英二の初めての飲酒は、まったくもって地味だった。思わず首を傾げる程に。
 英二の隣に座るライヤーが、半分に減ったグラスをやや乱暴にテーブルへと戻した。

「っかぁ! やっぱり最初の一杯は格別だな!」

「そうですよね! わたしもそう思います!」

「はっ、良く分かってるじゃねえか」

 シアも満足げな顔でジュースを置く。陽気な空気と、予想以上に素晴らしい変身を遂げたルル。シアにとって不思議の国のような出来事は、揺れる後悔を簡単に打ち消していた。

 遅れて運ばれてきた料理越しに、リズは笑み混じりで英二に話しかける。

「どうだい? 初めてのお酒は」

 どうやら首を傾げた所を見られていたらしい。素直に英二は苦笑を返した。

「正直、そんなに良さが分からない」

「慣れもあるからね。まあ、それだけ呑んで、追加するかは自分で決めたらいいさ。ただ、無理は禁物だよ」

「んー、とりあえずは酔う、ってのが分かるまで呑んでみる。せっかくだしな」

 酔っ払う、といえば英二の中では母親のイメージが強い。彼女は事ある毎に場を盛り上げ、騒ぎを大きくし、最後には宴会にしてしまう。それなのに酒に弱く一番に潰れてしまっていた。そして介抱するのは父か自分だ。
 しかし、その寝顔はどこか幸せそうで、酔うという事は英二にとって、どちらかと言えば良いイメージなのだ。酔ってみたい、というのは前々から持っていた欲求。その後の二日酔いに苦しむ母親の姿は酷いものなので、あくまでもほどほどにだが。

 うんうん、とリズは頷いて、湯気の立つ肉料理を小皿に移し始めた。
 ライヤーが美味いと言っていただけあって、漂ってくる香ばしい匂いは英二の胃を刺激する。危なっかしい手つきのシアが、盛られた小皿を英二に渡した。

「どうぞ」

「ありがとう」

 はにかむような笑顔の前で、小皿の肉をフォークで刺す。
 そしてその一口サイズの肉片を口に放り込んだ。

 鶏肉に似た食感。噛むと少し固めの肉質から、味の濃い肉汁が染み出す。
 同じ様に肉を食べているライヤーが、頬を膨らませたままニヤリと笑った。

「上品じゃねえが、美味いだろ? これがまた酒に合うんだ」

 そう言って飲み込み、グラスを一気に呷る。透明な液体はするりとライヤーの喉に消え、代わりに氷だけが残った。

「くーっ! 姉ちゃん、もう一杯!」

 はーい、と店員が寄ってくる。ライヤーは少し赤くなり始めた頬でグラスを渡した。
 その心底美味い、と書いてある顔を見て、英二も自分のグラスに口をつけるが、やはり微妙だ。

「うーん。次は普通のお酒を頼んでみるかな」

「おお、そうしろそうしろ。そんなもんは酒であって酒じゃねえ」

「いや、ライヤーに薦められたんだけど」

「んなこまけぇこと気にすんな!」

 ばしばしとライヤーは英二の肩を叩く。この感じ。酔っ払いの初期だ。

 目の前には、乳白色の液体がまだ半分ほど残っているグラス。
 よし、と覚悟を決め、英二はグラスの残りを一気に呑んだ。

「…………よし。俺もクエイクを呑む」

「おう! 良く言った!」

 酒は飲めども呑まれるな。心に刻んでもう一杯。せっかくの旅だ。冒険しよう。
 お姉ちゃーん、とライヤーが酒を注文する。リズが心配そうな顔をするが、英二は笑って片手を上げた。別に意識が飛んだりはしていない。滅法弱い、ということはなさそうだ。

 正気を保ったままの英二の瞳。それを見て安心したようにリズもグラスを傾ける。

「お待たせしました」

 次々に来る料理。そして酒。宴は進む。
 それぞれが思い思いに料理を口に運び、酒を注文する。リズは酒豪らしく、顔色一つ変えずに何杯も呑んでいる。ライヤーも顔こそ赤く騒がしいものの、一向に潰れる気配は無い。
 リズとは違う意味で色んな事を知っているライヤーは、巧みな話術で場を盛り上げる。冒険活劇から怖い話、そして不思議な話へと。

「そう、丁度ここから少し離れた所には『大空洞』っつう長い洞窟があるんだ。その洞窟にまた変な昔話がある」

「どんなお話ですかっ?」

 楽しい話には笑顔を、怖い話には可愛らしい悲鳴を。シアはライヤーの話に夢中だ。身を乗り出す勢いで聞き入っている。

「昔々、ある種族がそこに住んでたんだ。人の知恵と獣の力を持った、それはそれは強い種族だったらしい。だが、その種族は初代皇帝カタルの強大な力の前に敗れ去り、滅びた。それだけなら争乱の時代、ってだけで済むんだが、ここからが面白い」

「……なんだか、悲しいお話です」

 その種族に同情したのか、シアが期待に満ちていた瞳を伏せる。
 その反応を待っていた、と言わんばかりにライヤーは人差し指を立てた。

「そう、悲しい筈の話なんだ。シアが悲しいくらいだから、滅びた種族はその何倍も悲しかったし、悔しかったと思うだろう? なのに、洞窟内には何故か初代皇帝を讃える遺跡があるんだ。滅ぼされている自分達まで構図に入れた、初代皇帝の銅像がな」

「確かに、変な奴らだな、そいつら」

 万歳をして敵に突っ込んで玉砕した、という昔の日本兵を英二は思い出す。しかし、それにしても敵を賛美した銅像まで作る、というのは随分と手の込んだ皮肉だ。
 リズが口の中にある食べ物を飲み込み、静かにフォークを皿に置いた。

「初代皇帝の時代は逸話が多いんだ。その種族の事も調べられたらしいけど、詳しい資料や痕跡が見つからずに真意は不明のまま。その時に彼らが何を思って皇帝を崇拝する像を作ったのか。今となっては闇の中、だね」

「初代皇帝ね……。それって、いつ頃の話なんだ?」

「大体、八百年ほど昔かな。そのくらい昔になると、まともな資料を探すのにも一苦労だよ。一説には『その種族は現神人たる皇帝の神々しさに平伏したが、皇帝は許さずに彼らを滅ぼした。あの像は許しを乞うために、種族が三日三晩かけて寝ずに作った』って言われてるけど、そうするとその種族の特性と食い違いが……」

 補足される情報。シアは良く分からず首を傾げている。
 歴史というものは正確ではない。分からない事、未だに解明出来ない物が沢山ある。だが、そこにロマンがあるのだ。
 そういった少し不思議な小話が好きな英二は、やはり男の子なのだろう。戦う事を生き甲斐にしていたらしいその種族を、適当に想像する。
 しかし、その想像はゆるゆると別の事柄へ。

 男の子と言えば女の子。この場に居る女の子は三人。
 その三人の中で、英二は気になっている女の子がいる。

 どうして、何故。我慢していたが、そろそろ良いだろう。正直、声をかけたくてかけたくて仕方がなかった。
 迷いを振り切る。ここまで作り上げた和やかな雰囲気を壊そうとも、英二は勇気の一歩を踏み出す。
 それこそが、自分の気持ちに素直になる、ということなのだから。
 一瞬の会話の隙をついて、英二は何気なく視線を移した。

「で、ルル。結局なんでそんな格好なんだ?」

 会話がピタリと止んだ。そのせいか、黒いドレスと薄化粧のルルの姿がさらに鮮明になった気がする。
 最初に乾杯してから『あたしに触れるな』オーラを振りまきながらグラスをあおっていたルル。空気を読んでみんな触れなかったが、いい加減良いだろう。
 酒の回り始めた英二の適当な判断。

「ルル?」

 無視。返ってきたのは沈黙。俯いたままの顔は反応さえしない。代わりにシアがあたふたしている。

 いつものルルならここで暴言を吐くのだが、無視は初めてだ。
 新しいバリエーションか、と酔いで鈍い思考のまま、英二はクエイクをもう一口。鋭い味が喉を過ぎ、胃が熱を持つ。さっきの甘い酒よりはこっちの方が好みだ。癖になる苦味というか、変に不純物が無い分、真っ直ぐで良い。
 かと言って好きか、と問われても、首を傾げる程度にだが。

「エイジ」

 高めの、芯の通った声。
 遅れて返ってきた返事。無視をされた訳では無かったらしい。ふわふわとした感覚のまま、英二はルルを再度見た。

 睨まれ慣れた黒い瞳は大きく、意志の強い輝きがある。それはルルの勝ち気な性格をよく表している。
 頬はやや赤みがかり、薄い口紅で描かれた唇が少し開いて、閉じた。

 見た目に騙されたら痛い目に遭う。もったいないなぁ、と英二は見詰める。
 妖精のような可憐な外見の彼女。その彼女の中身にそぐわない、外見通りの透明な雰囲気で、ルルは英二に手を伸ばした。

「どうした?」

 たおやかな腕。繊細な指。英二はその意味を計りかねて、とりあえずその手を掴んだ。

「あんたが全部悪いのよっ!」

 急に引っ張られて体勢を崩し、英二はテーブルの角に腰を強打する。

「な、なんだよっ。いきなり」

 痛くは無いし、テーブルは固定されているために料理にも被害は無かった。それでも急な攻撃に、英二の四位は若干冷めた。

 ルルはすぐに手を離し、荒い動作で立ち上がって英二の横まで回り込む。

「こんな恥ずかしい思いも、こんな国にいるのも、愛なんてあるのもっ。全部全部全部あんたのせいに決まってる!」

「無茶苦茶言うなっ!」

 首もとを掴まれ、揺らされながら英二は反論する。
 そして近くに見える大きな瞳から、涙が流れ落ちるのを見て、英二は理解した。

「ああ、おまえ酔ってるな」

「酔っで無い゛! 酔っでるのも、あんたのせい゛っ」

「わかった。酔ってるんだな」

 テーブルには、いつの間に消費したのか、中身の無い三つのグラスが置かれている。そして、酔っで無い゛っ、と未だに揺らしてくるルルの目の焦点は定まっていない。加えて酔っ払い特有の支離滅裂さ。
 英二は何を言っても無駄だ、と悟った。

 こんな絡み方をしてくるとは予想できなかったが、今日は大いに助けられた。今度は自分が介護しよう、と英二が考えていると、ルルは手を離し、化粧もお構い無しに顔を両手で擦った。

「ずずっ、ああ、もうっ。あんだなんて勃だなくなれば良いのにっ」

「えっ……それは勘弁してくれ」

 鼻を鳴らすルルに、割と真顔になって英二は言い返した。

 結局、何故ルルはこんな格好をしたのか。本人からは聞けそうにないが、答えを知っている人物に見当はついている。

「ライヤー、ルルになんか吹き込んだだろ」

「おいおい、何だよそれ。まるで俺があの手この手でお嬢ちゃんをからかった悪い人みたいじゃねえか」

 隣のライヤーが心外そうな顔で両手を上げる。しかし、英二から手を離したルルが、ぼろぼろ雫をこぼしながらそれを否定した。

「あの店にづれてったのははあ゛んだでしょうが!」

 おおこの揚げ物美味いな、とシラを切るライヤー。
 またライヤーがあること無いこと吹き込んだんだろう、と結論付けて、英二は目の前で泣きじゃくり始めたルルに自分の椅子を譲る。

「ほら、落ち着けよ。水でも飲んで」

 ぐしぐしと両手で涙を押さえようとするルル。完璧、と言って差し支えなかった化粧は、もう見る影も無い。少し残念に思いながら、英二はグラスに水を注いで置いた。ついでに服に付いていたソースも拭き取る。

「ははっ、なんだか手慣れてるね」

「まあな」

 一連の騒動を興味深そうに見ていたリズが頬杖をつきながら目を細める。世話をする手を止め、英二は黒い瞳を見返す。

「珍しいな」

「ん? 何がだい」

「いや、そういう行儀の悪い行動」

 リズ・クライス・フラムベインは皇女だ。意識してかは知らないが、その肩書きは行動の一つ一つに滲み出ている。
 今日はそんな珍しい姿が二回目。目の前の、まるで悩める少女のようなリズの体勢がどこかちぐはぐに見えて、英二は笑った。
 リズがその意味に気付き、頬杖を止めようとして、思い直してまたテーブルに体重をかける。

「もう、何も笑わなくたっていいじゃないか」

「悪い。なんか面白くて」

 そう言いながらも、英二の笑いの発作は治まる気配を見せない。

 初めての酒。騒がしくも心が踊る。

 元の世界の事も今は忘れて、英二は夜の宴を満喫していた。








「ふう。さて、そろそろ宿に戻ろうか」

 リズが最後の一杯を飲み干して、そう切り出した。
 席を譲った英二はテーブル越しに、泣き疲れて眠ったルルへ視線を向ける。最初と丁度入れ替わった形だ。

「ルル、どうしようか」

「エイジ、お前が背負ってやれよ。お嬢ちゃんはお前の為にそんな格好したんだからよ」

 顔は赤いがまだまだ余裕のありそうなライヤーが、料理の余りを摘みながら言った。
 自分のため、と言われても全くしっくりこなかったが、特に異論は無いため、英二は頷いて立ち上がる。

 テーブルに突っ伏したルル。一応肩を揺すってみるが、やはり反応は無い。
 英二は四苦八苦しながらもルルを背負う。動かない人間を背負うのは案外難しい。

 酔いのせいか、背中の柔らかさもどこか他人ごとのように感じる。代わりに、頑なに助けを拒まれた場面が蘇る。もしルルが起きていたら、うるさく耳元で叫ばれそうだ。
 英二がぼんやりと考えていると、横腹辺りの服を引っ張られる感触。視線を下げると、眠そうに目をこするシア。

「エイジ、私は会計を済ませて行くから、シアを連れて先に戻ってくれ」

「そんなに時間はかからないだろ? 待っとくよ」

 椅子から立ち上がるリズ。英二はルルの腕越しに返事をする。

「いや、シアが眠そうだから先に帰ってくれ。私はついでに料理をいくつか包んで貰うつもりだから。道は分かるだろう?」

「ん、大丈夫だ。あんまり遅くなるなよ?」

「ふふっ、ありがとう。だけど、心配されるほど私は弱くない」

 そりゃそうか、と英二はリズの強さを思い出して、出口へ向かう。ライヤーも立ち上がるが、出口ではなく奥へと消えていった。

 トイレか何かだろう。どうせ部屋で一緒になる。シアのためにも早く帰ろう。
 そう思って英二は店を出る。背中にはルル。横にはシアを携えて。

 そんな三人を見送ったリズは、店員を呼んで会計を済ませた。
 
 一つ深呼吸をして店から出た後、宿とは逆の方向へと歩き出す。

 こつり、こつりと夜の街に足音が木霊する。夜も更けた。灯りもまばらだ。
 ファフィリアの道は入り組んでいる。リズは細い道へと溶けるように入って行った。








 男、ナド・ザトスは暗闇の中で息を殺していた。視線の先には、リズが消えていった裏路地。周囲には同じように、幾人もの部下が隠れている。

 ラック・ムエルダの命令でリズ・クライス・フラムベインを追ってきたが、存外に早く終わりそうである。ナドは眉の下の傷を掻いた。
 ユラルと共に行動していた部下から『クジュウの男を捕まえた』と聞き駆けつけた時、まさかそのユラルが無様に気絶しているとは思わなかった。しかし、結局はリズ・クライス・フラムベインさえ確認できれば良かったのだ。まんまと騙されてくれたクジュウの少年達には礼を言わなければいけない。

 もっとも、もう彼達と生きて対面する事は無いだろうが。

 ナドがラック。ムエルダから受けた命令は『リズ・クライス・フラムベインの殺害。他の者の生死は問わない。ただし、身辺の荷物は全て持ち帰れ』というものだ。
 生死を問わない。それは『殺せ』と同義。殺すより生かすほうが難しい。ユラルのように快楽的な殺人をするつもりはないが、効率を重視するならそちらの方が都合良い。 

 無様な姿を晒したユラルは後方で待機だ。才覚ばかりに頼ったツケは、何か払わせねばなるまい。
 ナドは部下に手で指示を出す。リズが消えた道へ、音もなく部下の一人が滑り込んだ。

「しかし、呑気なもんですね。酒の後の優雅な散歩なんて」

 一人の部下が話しかけてくる。

「同感だが、油断はするな」

 ナドは窘めるように言い返した。
 第三皇女は、こんなに早く追いつかれると思いもしていなかっただろう。ついさっき分かった事だが、わざわざナルバの旧街道まで使いこの街に来たのだ。
 しかし、目に付かないように移動しても、行き先が分かっていれば意味が無い。この辺りは、ラック・ムエルダの方が上手だった。どんな手段を用いたかは知らないが、すぐにこの行き先を割り出したのだから。

 先に行かせた部下が戻ってくる。
 皇女はこの先の開けた場所で空を見ている、という苦笑いの報告。

 今夜は、不出来な妹と先の無い母に想いを馳せ、夜風に涼んでいるのだろうか。

 ナド・ザトスは、決して殺しがしたいとは思っていない。ただ、それが得意だったから、半年ほど前にこの隊の副隊長になった。
 人の生き死にの選択は、感情で決まるものでは無いのだ。ただ、結果だけがある。

 頭を切り替える。冷徹に、忠実に、やるべきことをこなすだけ。

 ナドは手を振り指示を出す。影に寄り添うように身を潜めていた部下達が、静かに隊列を組む。

 最後にもう一度眉の下の傷を掻き、ナドは腰から短剣を引き抜いた。濡れた刀身から毒の滴が落ちる。掠るだけで命を刈り取る毒の牙。

 情報によれば、皇女は武術の達人らしい。加えて繰魔術という希少な技法まで体得しているそうだ。
 しかし、いくら武術の達人でも、連携した人間から放たれる同時攻撃は捌けないし、繰魔術といえど傷一つつかない訳ではあるまい。十数名の内、僅かにでも傷をつければいい。
 例え自分が犠牲になろうとも、他の誰かの為の隙になればいい。そういう心構えで行け、と部下には命じてある。当然、自分もそうするつもりだ。

 ナドは手で部下に指示を出す。行け、と。それに従い、何人かがリズの居る道へと入り込む。その動きに無駄は無い。よく訓練されている動き。

 続いてナドも進入すると、すぐにリズの姿が見えた。しかし、妙な事に部下が立ち止まっている。
 そして異変に気付いた。それは、血の匂いだ。良く見れば部下だった物体が、地面に血の水溜りを作っている。

「さて、君達がラック・ムエルダの追っ手で間違い無いかな?」

 春の調べのような優しい声。爛々と輝く紅い瞳。血糊一つ付いていない、剣。
 人の理から半歩ずれたその姿は、ただただ美しかった。

 紅い瞳がナドの姿を捉える。人ならざる輝きに一瞬だけ心臓が跳ねるが、今更さっき会った事などもう関係ない。気後れせずに見返した。
 しかし、次の言葉にナドの心は大きく揺さぶられる。

「ああ、さっきはどうも。『リーオフ・マボロ』君。今は十二番隊の副隊長だったか」

 ナド・ザトス――本名、リーオフ・マボロとリズ・クライス・フラムベインに面識は無い。たかだか一介の新参副隊長と皇女が知り合う機会など、あるはずが無かった。

 では何故、知るはずの無い情報を知られているのか。そうなれば、クジュウの少年達へも追っ手が行っている事が、ライヤー・ワンダーランドにも知られて――

 リーオフが平静さを装う中、リズは悠然と腕を組む。

「そうかそうか。ここ最近、十二番隊の異動が多かったのはそういう事か。となるとやはり軍にまでラック・ムエルダの手が回っている、か……。皮肉なものだね、こういう状況になって初めて国の腐敗した部分を理解する、というのも」

 形の良い唇から朗々と紡がれるのは、真実。

 動けない。リーオフは得体の知れない何かをリズから感じていた。あの美しい容姿の裏、凛とした立ち姿の後ろに。

 そう、自分は何か大きな勘違いをしているのではないか。決定的な、あるいは想像以上の。

「……やれ」

 しかし、ここで引けはしない。何より、圧倒的有利に変わりは無い。リーオフは目的の遂行のみ自分の頭に残して、短く殺意の言葉を吐いた。

 リズの落ち着き過ぎた雰囲気に逡巡していた部下達が、その言葉を合図に動き出す。先頭にいた二人の部下がリズに襲い掛かる。地面に転がっている死体は一つだ。気が逸って返り討ちにあった馬鹿な隊員。
 今度は違う。同時に放たれる二つの斬撃は、常人ならばそれだけで命を散らす。達人と言えども限度があるのだ。止める剣が一つしかないのに、どうして二つの剣閃が防げよう。

 ここで終わり。リーオフも部下もそれを疑わない。掠るだけで命を奪う毒の剣だ。

 リズ・クライス・フラムベインは僅かに腰を落とす。

 襲いかかる二つの刃に合わせ、リズは疾風の速さで剣を横に振った。部下の一人がその恐ろしいほど鋭い薙ぎを受けようと剣を立て、もう一人は構わずに切りかかる。
 完璧なコンビネーション。片方に剣を止められれば、リズに避ける隙は無い。リーオフは終わりを確信した。これをどうやって切り抜けるのだ、と。

 だが、容易くその確信は裏切られる。

 舞う血飛沫。転がる腕。地面に落ちる剣だった金属片。部下だった男の上半身。
 文字通り、リズは切り抜けた。剣も腕も体も、区別無く一太刀の元に切り捨てた。

「あっ。俺のうでがな」

 優雅にさえ映る二の太刀で、リズは腕を無くした男の首を刎ねる。受けようとした剣ごと切られる、という非常識に目を見開いたまま、男の首は地面の暗闇に転がって見えなくなった。

「さて、リーオフ・マボロ君。まだやるつもりかな? 私としてはあまりオススメしないけど」

 煌めくのは細身の剣。血糊一つ付いていない。

 口を開く、というのは意味の無い行動だ。敵に情報を与える行為でしか無い。それを理解していても、リーオフは口に出さずにはいられない。

「貴様……一体どうやって」

「一体どうやって切った、と? リーオフ・マボロ君。それはあまりにも間の抜けた質問じゃないかな」

 今、人を二人殺したとは思えない、変わらない口調。
 死は、重い。何度も人を殺した経験のあるリーオフは知っている。それは興奮だったり、懺悔だったり、殺した人間に何かしらの影響を与えるものだ。

 まるで元から何も無かったかのように歩き出して良い筈がない。それが許されるのは、人では無い何かのみ。

 リーオフは知らず知らずの内に一歩下がる。
 リズはゆっくりと、ゆっくりと歩を進めた。

「切っただけ、だよ。私の魔具は良く切れて、曲がらない。切れ味が落ちない。そういう能力なんだ。君だって知っているだろう?」

「そんな筈が無い……! その魔具の能力は知られ尽くしているんだっ。切れ味が良い、と言っても所詮は剣の域からは外れない。それ以外に特殊な能力は無い!」

 リズ・クライス・フラムベインの持つ魔具は、皇族の持つ財産の一つに過ぎない。
 魔具、というのはその能力に大きな幅がある。ただ切るだけのリズの魔具はハズレの部類だ。今現在の所在は不明だが、一振りで街を消滅させる魔具すら存在している。それらと比べると、圧倒的に弱い。
 そういう認識があったから、リーオフはやれる、と判断した。いくら武術の達人で、繰魔術が使えて、魔具があろうと、数の前には意味を成さない筈だったのだ。

 しかし、リーオフか予想していたよりもリズが武術に秀で、想定よりも操魔術が強く、魔具がこれ以上ないほどその能力を引き出されていたら。壊れない、という優位を使い、想像以上の力で強引に切られる。セオリーが通用しない。それは純粋な足し算では無く、乗算となり得るのではないか。リーオフは最悪の可能性を思い浮かべた。

 リーオフのその考えは当たっている。特に、操魔術とリズの魔具は非常に相性が良い。切れ味が剣の域を超えずとも、膂力は人の域を超えている。そして刃こぼれや破損が無ければ、並みの剣など存在しないかの如く圧し切れる。実際、純粋な戦闘だけでリズに勝てる人間など、殆ど居ないと言っていい。

 リズは歩を進める。隊員は気圧され、道を空ける。リーオフとの距離は一足一刀の間合い。

 リーオフははっきりと理解した。今まで自分が殺してきた者達のように、今度は自分が地面に横たわるのだ、と。
 妙に澄んでくる視界。変に笑いが込み上げる。しかし、今まで散々人を殺したリーオフは、こういう時に言おうと決めていた言葉がある。一呼吸して、相手を、最後の相手の目を見た。

「改めて名乗らせて頂きます、リズ・クライス・フラムベイン様。私はリーオフ・マボロ。出来れば次は剣ではなく、楽器を持って死にたいものですな」

「…………そうか」

 気の利いた返事では無かったが、まあいいか、と思って、リーオフは切りかかった。









 最後に一人残ったリーオフの部下の男が、防御のために剣を掲げる。しかし、リズはその剣ごと上からその男を切り裂いた。

 その男の名前も、リズは知っている。リーオフ・マボロの部下、トプリ・エディだ。
 リズがリーオフの事を知っていた理由。それはただ、軍部に属する何千、何万という優秀な人材を全員覚えていただけ。国の公開されている情報で、勤勉な彼女が知らない事の方が少ない。
 必要な情報は忘れない。リズの優秀さはそこにある。

 見覚えのある男が地面に倒れる。リズは鉄の匂いの中、息をする。
 そして血糊一つ付いていない魔具を鞘に戻し、地面に吐瀉物をぶちまけた。

「なんだよ、もう終わったのか」

 リズは口元を拭い、返事をせずに振り向く。そこには不適な笑みのライヤーが、裏路地の入り口に立っていた。

「……白々しいな。途中から見ていたんだろう?」

「助けて欲しかったのか? それとも代わりに殺して欲しかったか? 『皇帝姫』ともあろうものが、随分と弱気なもんだ」

 煙に巻く話し方。無視をして、リズは宿に帰ろうと、裏路地から出ようとする。

「なあ、リズ・クライス・フラムベイン」

 ライヤーは立ちふさがり、腕を組んだ。リズは立ち止まる。

「人を斬ったのは、初めてか?」

「ああ」

 ライヤーとリズの視線がぶつかる。どちらも逸らさない。

 しばらくして、紅い瞳の奥を覗き込むように見ていたライヤーは、リズの横を通り抜ける。

「そうか、お前もこっち側だな」

 リズは一瞬だけ体を強張らせるが、それに気付いたのは本人だけ。
 空を見上げる。血に濡れた服を、縋るように強く握る。一滴、赤い雫が地面に落ちた。

「私には大事なモノがある。立ち止まっては、いられない」

「そうかい」

 ライヤーは腰の【クルミ割り】を抜き、地面に這いつくばる死体へと近付いた。

「俺だって、そうさ」

 ライヤーは【クルミ割り】を死体の背中に突き刺す。その笑みは、どこか寂しげだった。

「へっ、弱え奴らだったぜ。【クルミ割り】を使うまでもなかった。せっかく英二達まで騙して、まだ壊れたまま、って設定だったのによ」

 英二達は何も知らずに宿で眠っている。英二達を狙ったリーオフの部下達は、所詮ライヤーの敵ではなかった。ただ、それだけだ。
 柄を強く握る。すると【クルミ割り】の刺さった場所から死体はぼろぼろと崩れ、最後には風に流されて跡形も無くなった。

「さて、明日からまた移動か。馬車はもうやめろよ。せっかく今日蓄えた酒を吐いちまう」

 一転して明るい声で立ち上がったライヤーに、リズは振り返ってぎこちなく笑った。

「そうだな。うん、今日は楽しかった。美味しい料理に美味しいお酒。……思わず、旅の目的を忘れそうになるくらい」

「エイジも慣れない酒を無理して呑んで、顔真っ赤にしてたしな。全く、デカい弟が出来たみたいだぜ。俺は可愛い女の子が好きなのによ」

「ルルがいるだろう? 素直で良い子じゃないか」

「はっ。確かに、素直過ぎてついついからかっちまうくらいだ」

 ライヤーは話しながらも次々と死体を片付けていく。
 そして最後にリーオフだった肉塊が消えた所で、ライヤーはリズと向き合った。

「リズ、あいつらは俺達とは違う」

 いつもの軽薄さが無いその瞳を、リズは真っ直ぐに見返す。

「……分かってるさ。巻き込んだのは私だ。だから、私が責任を持ってクジュウまで連れて行く。そのつもりで二人を連れてきたんだ」

「そうか。って事は」

 そもそもの旅の理由。真実のため。故郷に帰るため。逃げるため。幾重にも絡まった目的の一つ。

「エイジもクジュウに置いていく。それが最善だ」

 リズははっきりと言って、宿に向かって歩き出す。まだ足取りは本調子ではない。
 それなら文句はねえけどな、とライヤーもぼやいて後を追う。

 英二は、まだ見ぬ世界の夢を見る。






 覚悟が、必要だ。
 血の舞う夜の宴の中、その覚悟の下、少女は確かに大きな傷を負った。



[27036] 二章九話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/06/20 21:46


 まだ日も昇っていない早朝に英二は目を覚ました。
 上半身を起こし大きく伸びをすると、肩が心地良い音を立て、それだけで眠気は消える。素晴らしく寝起きの良い朝だ。

 ベッドから降り靴を履き、窓に向かって静かに歩く。ライヤーはまだ気持ちよさそうに寝ている。

 異世界に来てから一週間と少し。英二が思ったより、元の世界との差は少ない。
 しかし、何故自分はこの世界に来たのだろう。まだ薄暗い空気の中、英二は考える。

 窓の外には、ちらほらと人が見える。店の準備だろうか。荷物を運ぶ動きは忙しない。
 それは街が起き始めた証拠で、湧き出る泉の胎動のような、力強い命の予兆だ。今まで知らなかっただけで、元の世界の日本にもこんな風景があったのだろう。ビルの影に埋もれて、気付けなかっただけだ。

 この世界に来た意味。いや、意味など無いのかもしれない。道端で蹴飛ばす小石と同等に、ただの偶然。

 少し、英二は怖くなった。息を吸い、吐き出す。夜に冷やされた空気が肺を冷やした。

 英二は頭をがりがりと掻いて、音を立てないように移動する。そして部屋を出て階段を下りた。目が慣れれば見える程度に薄暗く、一階のロビーに人の気配はまだ無い。
 適当に散歩でもしようか、とそのまま外に出ようとすると、遠くから声をかけられた。聞き覚えのある声。

 振り向くと、併設されている食堂から人が出てくる。見えづらい薄闇の中でも、高貴な雰囲気は伝わってくる。

「おはよう、エイジ。今日は随分と早いね」

「リズこそ」

 リズが出てきた食堂の入り口へと、英二は目を向ける。

「もう開いてるのか?」

「いや、シア達を起こすのも悪いし、椅子を借りていただけだよ」

 考え事もしたかったしね、とリズは頬を掻く。そして徐々に光を取り戻している窓の外を見て、英二にも分からないくらい小さなため息をついた。

「今日はいい天気になりそうだ」

 そう呟いた言葉にも、霜が降りたような痛みが混じる。
 その微かな冷たさには気付いて、英二も窓に視線をやった。そして、思い付くままに口を動かす。

「リズ、散歩でもしないか?」

 リズは少し考えて、うん、と頷いた。






 何か悩んでいるんだな、と英二は予想する。そしてその悩みは、するりと解決する類ではないだろう、ということも。

 そういう時は下手な慰めをしても仕方がない。笑い飛ばさず、訊かず、ゆっくり歩くのが一番良い。少なくとも、自分がそういう悩みを抱えた時はそうだった。
 その考えを肯定するように、朝の締まった空気は体を心地良く撫で、喉の奥を洗ってくれる。

 空の雲の輪郭がはっきりしていく。その下を、二人は無言で歩く。段々と活気づく街が、二人の代わりに騒がしさを増している。

 通りの中心の広場まで来て、リズはやっと言葉を発した。

「うん、やっぱりこの街は良い街だ」

「そうだな」

 歩いて来た道を見ながら、リズは軽く伸びをする。隣に立つ英二も振り返る。

「やっぱり、想像するのと直に触れるのは違った。街の事を本当に知るには、その街を歩く事が大事なんだと改めて思い知らされる」

 木が数本立っているだけの味気ない広場。ここも、もうすぐ人で溢れるだろう。その熱気はそこに居ないと味わえない。
 英二は空を見上げた。どこまでも行けそうな雲一つない空に、太陽の姿はまだない。
 それでも、明るいのだ。主役を今か今かと待ち続ける観衆のように、希望だけを映して。

 英二が視線を戻すと、リズが自分を見ていた。偽装された黒い瞳に問いかけるより早く、紅い唇が動く。

「君は私が守るよ。君は、自分を守る事だけ考えてくれ」

 一方的ですらある言葉。英二は腰に手を当てた。

「ありがたいけど、俺がカッコ悪過ぎないか?」

 リズは笑った。

「ふふっ、今まで君が格好良い時なんてあったかい?」

 思い返せば無いかもしれない。唯一活躍らしい活躍だったアリスナでの事件も、結局は気を失ってしまっていた。
 英二は反論を諦めてまた空を見上げる。僅かに太陽が顔を出し、一気に街に光が溢れた。

「でも、君は君のままでいて欲しいと、私は思うよ」

「なんだそりゃ」

 漏れ出た朝日を受けて、リズの髪がきらきらと輝く。

 格好悪いままじゃいられない。何となく、英二はそう思った。

 何も言わずとも、二人はゆっくりと宿に戻り始める。
 互いに誓いを胸に立て。

 ファフィリアの街が、さらに騒がしく動き始めた。








 自室の豪華な机に座るラック・ムエルダは、力の限りに報告書を握り潰した。
 四十近くの歳に、生気に満ちた目。丸めた報告書を投げる左手の小指は、第一関節までしか無い。

 リズ・クライス・フラムベインの殺害は失敗。これは忌々しき事態だ。

 ミスリム商会の事件。リズ・クライス・フラムベインはラック・ムエルダの秘密を知っただろう。そして、暗殺の手を逃れたリズは、その秘密を糾弾しようとする筈。彼女の潔癖さは有名だ。
 自分が奴隷を買っていた事が世間に伝わるのは避けたい。そして国民の人気の高いリズ・クライス・フラムベインと敵対している、という事実は隠したい。
 どちらも自分の足を引っ張るのが目に見えている。それでは己の覇道が閉ざされてしまうのだ。

 ラック・ムエルダは乱暴に立ち上がり、自室から出る。警備の兵の一礼に手を上げ、重い足取りで向かった先は――

「失敗したか、ラック・ムエルダよ」

 抑揚の無い声。王者の前で、ラック・ムエルダは膝をつく。

 四十代の男。髪は長く、皺はそれほどない。その表情に色は無く、静かな圧力を身に纏っている。胸に大きく光る宝石は、世界で一人しか着ける事を許されない。

 皇帝、ビスタルデニア・フラムベイン。
 深い紅の瞳に感情は見えない。老成というよりも達観したその視線がラック・ムエルダに向けられていた。

「申し訳ありません。ビスタルデニア皇帝閣下」

 玉座に深く腰掛けたビスタルデニアは、つまらなさそうに頬杖を突いた。

「構わん。時間などは腐る程ある。力無き者は足掻き、積み上げ、初めて微功を得るものだ」

「慈悲深き御心、有り難く頂戴します」

 愚帝が、とラック・ムエルダは頭を下げたまま歯噛みした。

 皇族の血筋は優秀だ。リズ・クライス・フラムベインをはじめ、文武に優れた者が多い。
 しかし、皇帝になるには、現皇帝に選ばれなければ決してなれない。それはフラムベイン帝国の絶対であり、例外の無い掟だ。

 くだらない制度だ。ラック・ムエルダは常々思う。
 能力のある自分が、血筋という壁に阻まれる。それだけで一体どれほど損失か。
 掟を破り、この国の頂点に立つ。力に酔った能の無い皇帝を引きずり降ろし、自分が新たな王に。
 それこそがラック・ムエルダの野望。

 そんな野心とは縁遠い、硬質な紅い瞳が動く。

「しかし、必ず鍵を取り戻せ。あれは必要な物だ。皇女などはどうなろうとよい」

 皇帝閣下の命令には逆らえない。流れはこちらにあることを再確認して、ラック・ムエルダは見えないように唇を歪める。

 ミスリム商会でラック・ムエルダが手に入れる予定の物は二つあった。
 一つはクジュウの奴隷。ただのクジュウの奴隷、というだけならば買わなかったが、可愛らしいクジュウの少女、というのは是非とも手に入れたかった。顔すら見れなかったのが惜しまれる。

 二つ目は、箱だ。
 中身、差出人が一切不明の箱。皇帝の指示通りにその箱はミスリム商会に運ばれ、埋まっていた所をようやく掘り出した。ラック・ムエルダの情報網を持ってしても、たった一つ以外、全てが謎の箱。

 そのたった一つだけ分かっている事。

「まだしばらく使わないが、これは大事な物だからな」

 皇帝はそれに、奇妙な愛着を持っている、という事。
 ビスタルデニアは手元に置いてあるその箱に、愛おしげな視線を向けた。そこだけ嫌に生々しい温度を感じて、ラック・ムエルダは吐き気を覚える。もし人払いをしていなかったら、衛兵の誰かが気付いたかもしれない。
 しかし、そんな内面はおくびにも出さず、ラック・ムエルダは言った。

「トワイロ・ガリアンの証言通りなら、ライヤー・ワンダーランドか第三皇女が持っているはず。必ず、鍵を取り返します」

 第三皇女を殺して、とラック・ムエルダは頭の中で付け足した。実際、付け足した所でビスタルデニアが反応する、とも思えなかったが。
 案の定、ビスタルデニアはもうその話題に興味を無くしたように、元の無表情に近い表情に戻った。

「で、ラック・ムエルダよ。まだ戦争を始めないのか」

「まだ民は疲労しています。今までの戦争が永過ぎたのです。もう少し休ませねば、閣下の望む戦の大火は広がらないでしょう」

 この手の問答は飽きるほど繰り返した。
 人とは変わるものだ。ラック・ムエルダはつくづくそう思う。

 前代の皇帝の時代。ビスタルデニアがただの皇太子だった時、まず戦争など言い出す性格では無かった。
 兄に隠れて影が薄く、気の弱い、日和見な男。同年代だが、同じ時期に必死で足掻いていたラック・ムエルダから見れば、なんとも愚図な青年だった。

 それが何の間違いか次期皇帝に指名され、皇帝の証である宝石を手に入れた途端、人が変わったように戦争を推進しだした。

 皇帝の証である宝石は魔具である。手に入れるのは、絶大な力。

 絶大な力と権力を手に入れれば、人は変わる。戦争狂になろうとおかしくは無い。愚図が身の丈に合わない力を持つから、とラック・ムエルダは呆れた。
 だが、戦争ばかりして国が豊かになる筈がない。国が豊かでなければ、手に入れても意味が無いのだ。

 響くのは抑揚の無い声。

「そうか。では行け」

 ラック・ムエルダは一礼して玉座の間から出た。代わりに衛兵達が各々の持ち場に戻り、皇帝は退屈の息を吐いた。

「飽いたな。停滞のみがこの身を苦しめる」

 その呟きに反応する者はいない。







「世話になったな、ローラン。連れも喜んでたぜ」

「光栄です、ライヤー様。またいつだっていらして下さい」

 ローランはライヤーに熱っぽい瞳を向けた。店の前、大柄な体の正面で手を組む姿は、恋する乙女、と言っても差し支えない。

「私はライヤー様のためなら、どんな事だってします」

 いや、それに近い感情がローランにはある。ただ、それでライヤーを縛ろうとは夢にも思わないだけ。
 分かった分かった、と苦笑して、ライヤーはローランに背を向けた。

「じゃあな。連れ達が待ってる。またこの街に来た時は寄るぜ」

 ずきり、とローランの胸が痛んだ。

「はい」

 ライヤーが通りの奥へ消えていくのを、服に隠れた赤い布を確かめるようにさすりながら、ローランは見ていた。

 連れとは、誰の事だろう。例えば、憎き皇女だろうか。
 理性と感情が相反する。他人の空似。信じたい気持ちと、見違える筈のない顔。

 もしもライヤーが誰かを愛しても、それは仕方の無い事だ。むしろそういう一定の女性が居ない現状がおかしい。
 愛せ、と言われれば喜んで愛そう。死ね、と言われれば喜んで死のう。しかし、あの皇女と共に行動している、という現状だけは、自分でも嫌になるほど頭に残っている。

 ライヤーが意味の無い行動をする筈が無い。だから、きっとリズと共に居る事にも深い考えがある。帝国を倒すのに必要な、重要な意味が。

 そう自分に言い聞かせても、ローランの胸の感情は晴れない。さっきまでの安心も、離れれば不安に変わる。店に入った時に鳴る鐘の音が、寂しい。

 ローランはそのまま奥へと歩く。そして狭い自分の部屋へと入り、上着を捨てるように脱いでベッドに倒れ込んだ。長く、豊かな髪が散らばる。

 刻一刻と流れる時間。頭の中を整理しようとして、ライヤーの顔が浮かんで、ぐちゃぐちゃになってまた散らばる。

 リズ・クライス・フラムベイン。ライヤー・ワンダーランド。自分よりも遥かに高い位置に立つ二人は、同じ視線で話すのだろうか。

 また、心が散らばる。

 ベッドの上で身じろぎして、ローランは赤ん坊のように丸まった。

 リズ・クライス・フラムベインの顔は女の自分から見ても美しい。それに頭も良く、剣も強い。自分が勝っているのは、体くらい。

 指先で手首に巻いた赤い布をなぞって、腕を伝い、胸へと手を滑らせる。
 少し力を入れると、大きな胸は容易く形を変えた。

「……んっ」

 唇から湿った声が漏れる。化粧品の香りが漂う狭い部屋に、とろみを帯びた別の甘い匂いが満ち始める。

 膨らみかけた衝動に任せ、更に手を下げようとして、ローランは止めた。代わりに、シーツの表面を手で歪めた。

 愛される事は望まない。それでも、愛が欲しかった。

 狭い部屋に、街の喧騒が聞こえ始める。もう、人が増える時間帯だ。
 ローランはベッドから降り、机に座る。雑に置かれた化粧品を片付け、手紙を書き始める。

 長い時間をかけて書いた手紙は、一見すれば何の変哲も無いただの近況報告だ。定期的に書く、必要な手紙。

 その手紙は英二達の歩みより早く、ラクセルダスの本部へと届けられる。






 二章     了



[27036] 三章一話 掲げた旗は振り下ろされる
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:ac2f38a7
Date: 2011/07/22 19:37


 木陰に寝そべったまま、ダリア・トールドは晴れた空を眺めている。
 寝転がって見る空は遥か高く、とても手が届かない場所にある。どんなに頑張っても届かないのは、優しい事だ。

 だから眺めるのには丁度良い。そう思って、ダリアは目を瞑った。

「おい、ダリア」

 聞こえる男の声を無視して、ダリアは目を瞑り続ける。
 一向に返事をしないダリアに痺れを切らしたモッズは、長く伸ばされた脚を蹴りつけた。

「いてっ」

「そんなに痛く無かったろうが。起きろ、仕事だ」

 渋々、ダリアは上半身を起こす。不満気な表情を隠そうともせず、モッズの仏頂面を睨んだ。

「やっと取れた憩いの時間なんだ。上司を労る気持ちくらい持ちやがれ」

「……お前はここの最高責任者だろう。不本意だがな」

 モッズは怒りを押さえ込むように両手を組んだ。鍛えられた筋肉が服を押し上げる。

「しかし、姫様の命令だから仕方が無い。ほら、立て」

「その姫様への敬意の十分の一でも俺に向けてくれたら……いや、気持ち悪いな」

 軽口にモッズは顔をしかめた。よっ、と勢いをつけて、ダリアは立ち上がった。

「で、何があったんだ?」

「第二神官が来た」

 整備された街並みの一角。芝と若い木々が緑を競う公園を後にし、二人は会話を続ける。さっきまでのやり取りとは一変、ダリアもモッズも既に仕事の表情だ。

「けっ、やっとかよ。カイロウに着いてから三日、待たせるだけ待たせて急に来やがって」

「それには俺も同感だ。ここの空気は、好かん」

 建物の屋根の向こうの遠く先。モッズが横目で見た先に、塔はそびえ立っている。
 しかし、それは塔では無い。この街、カイロウの端にある教会の先端だ。

 宗教都市カイロウ。その象徴である教会は、山を削って造られている。故に壮大で、その威容は街のどこからでも確認出来た。
 その教会からの使者。落ちぶれたとはいえ、皇帝の寵愛を受けたマリレアに挨拶へと来るのは当然だ。もっとも、随分と遅い来訪だが。

「モッズ、一番良い酒とアレ、用意しとけよ」

「…………分かっている」

 アレとは、いわゆる賄賂。立場や身分はマリレアが上だが、ここにはここのルールがある。
 遠くに離れたリズを想って、モッズは溜め息混じりに呟いた。

「この世で一番金が好きなのは、商人ではなく神だな」

「お、言うようになったな」

 段々と口が上手くなってきた相棒の言葉に、ダリアは笑った。

 カイロウ教。街と同じ名前の教えは、フラムベイン帝国に数ある宗教で最も勢力が大きい。『剣を捨てれば分かり合える』と説いたカイロウを教祖とした宗教だ。カイロウでは、人を傷付ける事が出来ない。もし人を傷付ければ、自分も同じ傷を負う。教会で常に発動している巨大魔具が、この街をそういう特殊な空間にしているからだ。
 その特性のせいで、この街に信徒はあまり多くない。この街の特性を利用しようと、信心などない貴族や富豪ばかりが住み始め、土地の価格が異常なほど高くなってしまったからだ。
 信徒である住民も居るが、教会が優先するのは金持ちである。この街では暴力が無くなった代わりに、金が一番力を持った。

 この街の様相が、初代皇帝カタルの妹、カイロウの本当に願った世界なのかは、今となっては誰にも分からない。

「あ、ダリアさん見つかったんですね」

 屋敷の前で待っていたラミは、二人を見て胸を撫で下ろした。
 アリスナの皇居に比べれば幾分か小さい扉を開け、二人を奥へと促す。

「早く行ってあげて下さいっ。侍女長がお相手してますけど、いつ堪忍袋の緒が切れるか分からないので」

「了解」

 屋敷へと入りながら、ダリアは肩を回した。

 仕事をしなかった男は今、忙しく働いている。








 第二神官を上機嫌に帰らせて、この街に住む障害はひとまず無くなった。付き合いが法より重要な時は多々ある。

「それで、リズ様から連絡は来たんですか?」

 疲れた顔で椅子に座るダリアに紅茶を出しながら、ラミは心配そうに言った。

「いや、ファフィリアからどこに行くのかは俺も知らない。向こうも一息ついたら連絡くらい寄越すだろ」

 椅子にだらしなく座ったダリアは紅茶を一口飲んだ。紅茶の良し悪しなど分からないが、豊かな香りが体を癒やしてくれる気がする。

「というか、連絡が無いと困る」

 それはダリアの偽らざる本音だ。
 リズを皇帝にするために、やらなければいけない事はいくらでもある。皇位の継承が皇帝の一存で決まるとはいえ、ただ天に祈って待つのは馬鹿でしかない。
 しかし、意思の疎通が出来ていなけれは下手に動く事も出来ない。和解、決裂、交渉。どれにしても一歩間違えれば破滅と同義だ。
 真剣さとは縁遠い、ラミの相槌を計ったかのように、部屋の扉が開いた。

「ここは、どこ?」

 舌足らずな声だが、その声質は女性の、それもある程度歳を経た声だ。
 現れたのは、ダリアもラミも良く知っている人物。この街に来る事になった要因の、大半を占める女性。

「あなたは、どこ?」

 その女性、マリレア・クライスは折れそうなほど細い腕で扉にしがみつき、虚ろな視線を彷徨わせた。
 細く、量の少ない金の髪。ぼろぼろに荒れた肌と、頬骨の浮き出た顔。鼻や目の形がなまじ良い分、悲壮さが前に出る。かつて栄華を誇った美貌は影も無い。

「マリレア様!?」

 風が吹けば倒れそうなマリレアを見た途端、ラミがその体を支えに駆け寄る。

「駄目ですよ、お身体に障りますっ」

 ラミの手がマリレアに触れる。今気付いたかのように、マリレアはラミへと怯えた目を向けた。

「あなたは、だれ?」

「大丈夫、私は使用人です。皇帝閣下の所に戻りましょう」

「そう……そうね。お腹の子供に何かあったらいけないものね」

 マリレアは嬉しそうに膨らみの無い腹部をさする。ラミはダリアを一度見て頷き、マリレアを支えながら部屋から出て行った。

「ほんっと、難儀なもんだな」

 麻薬に破壊された体と精神。いや、精神が破壊されたから麻薬に手を出したのか。どちらにせよ、もう元には戻らない。
 気分の悪さを誤魔化すように、ダリアは温くなった紅茶をちびちびと飲んだ。

 紅茶も飲み終え、静かな時間が訪れる。ダリアが大口を開けて欠伸をした時、ラミが部屋に帰ってきた。隣にモッズもいる。

「大丈夫だったか?」

 常套句に近い質問。マリレアの容態の変化と、そのマリレアに何もされなかったか、という二重の意味を込めたダリアの問いかけに、ラミはぎこちない笑みを返した。

「はい」

 モッズの無表情に嫌な色が混じる。

「俺が通りかからなければ、大丈夫では無かったがな」

「モッズさん!」

 ラミに見つめられ、モッズは口を閉じた。
 ラミの亜麻色の髪は、薄緑の紐で緩く片側に括られている。その結び目の方向が変わっている事に目ざとく気付いたダリアは、大体の事情を察した。
 しかし、その事には触れずに、新しい話題を切り出す。

「で、モッズ。お前はどうしてここに?」

 間違ってもモッズは用事も無く遊びに来るような性格ではない。モッズが来るのは何かがある時だけだ。
 その予想通り、モッズは懐から数枚の紙を取り出した。

「報告書と人事の書類。まだまだ追加で来るから覚悟しておけ」

「げっ…………ちょっと休憩してくるっ」

 ダリアはそう言って止める間も無く部屋から出て行く。相変わらずだ、とモッズは肩を竦め、ラミはカップを片づけ始めた。

 部屋から出たダリアは、屋敷内で自分にあてがわれた部屋に戻った。
 そのままベッドに飛び込もうとしたが、ダリアは思い直して机へと近付いた。

 上から二段目の引き出しを開け、奥に手を突っ込む。普通に開け閉めしただけでは見えない、突き当たりの固い感触を掴み、取り出す。
 そこにあるのは一本の鍵。見る限りでは何の変哲もない、ただの鍵だ。
 だが、これがそんなありふれた物でない事は分かっている。ダリアの嗅覚は正しかった。

 この鍵は、特殊な魔具である。
 ただ、普通の魔具とは違い、素養のある者が触れてもそうだとは分からない。その身で魔力を変化させる事も無く、微弱な魔力が宿るだけだ。
 この鍵を鑑定した裏商店の老人は、対になる特殊な鍵穴がある、と言っていた。鍵なのだからその発想は当たり前だ、と言ったらその老人は大笑いしていたが。

 今、この鍵についての情報はそのくらいしかない。肝心要の『開くべき錠』と『その中身』についての情報は全く得られなかった。

 しかし、ダリアにはある考えが浮かんでいた。とても低い可能性だが、やってみる価値はある。

 鍵を隠すように持ち、ダリアは部屋を出た。
 目指すのは、マリレアの休む部屋。

「ああ、はやくうまれておいで、シア。きっとしあわせにしてあげる」

 扉を開けると、マリレアはベッドの上で上半身を起こし、安らかな顔でお腹を撫でていた。マリレアの立場に比べれば随分と質素な部屋だが、それでもダリアの目には悪い意味で不釣合いに見える。
 今更、何も思わない。ダリアは躊躇無く近付き、マリレアの目の前に鍵をちらつかせた。

「そばにいるわ。ええ、ずっとそばに」

 反応は、無い。虚ろな目に鍵は映り込まない。
 こんなもんか、とダリアは納得して鍵を握り込んだ。元より期待はしていなかった分、落胆は少なかった。

「あれ、あなたはどなた?」

 マリレアが初めてダリアの姿を認める。いつもの事なので、ダリアは一礼して去ろうとした。

 その時、ダリアは鍵を服に引っ掛けてしまった。床に落ちる鍵。

 変化は劇的だった。虚ろだったマリレアの目は見開かれ、這いずるように落ちた鍵へと手を伸ばした。

「ああっ、やっと会いに来てくれた! 私、ずっと寂しくて、一人で。本当に嬉しい!」

 激しく、愛おしく、鍵に頬ずりを繰り返し、目からは壊れたように涙が溢れる。服が捲れて肉の薄い太ももが露わになるのも構わず、マリレアは床に転がったまま鍵に口付けをした。

「愛してるわ、あなた!」

 ダリアはぎょっとして鍵を取り返そうとするが、マリレアは離さない。無理矢理掴んで引っ張っても、骨の出た指は恐るべき力で鍵に纏わりついている。爪に挟まっていた亜麻色の髪がゆっくりと床に落ちた。

「ねえ、あなたは覚えていないって言ったけど、私は覚えてる。初めて出会った時のことを。パーティーで休んでいた私を誘ったあなたの手は、震えていたわ。ふふっ、一度断った時のあなたの表情があまりにもおかしくて、笑っちゃった。でも、だから思い直して手を取ったの。だから怒らないで?」

 壊れたように紡がれる言葉。昔のような、自信たっぷりで、明朗な話し方。それが逆に狂気をダリアに感じさせる。

「くそっ、知るかよっ」

「怒らないで、って言ってるじゃない。もう昔の話よ。それより、シアの顔を見ていってあげて? あなたに似て、紅い瞳がとても綺麗よ。リズも仲良くしているみたいだし。なのに、なぜ他の女の匂いがするの? ああ、そうよね、わかってる。しかたのないことって、わかって…………」

 始まりと同じく、唐突に終わりは訪れた。
 へばりついていた力が無くなり、鍵はダリアの手に戻った。急いで懐に隠し、息を大きく吸う。
 沈黙したマリレアは、横たわったまま虚空を見詰めている。ダリアは少し安心してマリレアをベッドに戻した。

「あなた……か」

 自分の部屋に戻り、鍵を元の場所に隠して、ダリアは掠れた声を出した。背中の汗を自覚する。
 マリレアの突然の変化。狂人の吐いた言葉に意味などあるはずがない。
 しかし、マリレアは魔具の素養を持っていた。使うことは無かったが、その素養は随分と優秀だったと聞く。鍵に宿る微弱な魔力を、もしかしたら嗅ぎとったのかもしれない。だとすれば。

 想像よりも、事態は複雑かもしれない。
 ダリアは認識を改めながら、モッズとラミの待つ部屋へと早足で歩いた。







 目の前に見えてくるのは大きな断層。せり上がった大地の断面に、くりぬいたような大きな口がついている。
 その口の先は暗闇が続いており、まさに『大空洞』と言うべき空間が広がっていた。

 じゃり、と英二は地面を踏みしめる。広い荒野には緑が少ない。岩と僅かな起伏だけの風景は、どこか寂しい。

「あれが大空洞か」

 英二は感心したように呟く。何万年もかけて出来上がったであろう自然の建造物は、それだけ迫力があった。

「俺も見るのは初めてだが、こりゃ凄えな」

 ライヤーが片手で日差しを遮りながら零す。その姿に疲れは見えない。
 ファフィリアから大空洞まで、歩いて丸一日。見晴らしの良い平野は徐々に変わっていった。
 英二はあまり疲れていない。それどころか歩き疲れたシアを背負って進んでも、まだまだ余裕がある。
 それも体の異変の一部だろう、と英二は変に納得している。というより、自分の中で納得させざるを得ない。そもそも異変の原因であろう『異世界から来た』という事実は誰にも言っていないのだ。今更混乱させても仕方ないので、言う予定も無い。
 だが、長く歩いた道のり以外の要因で、英二は精神的に疲れていた。

「…………死ね、変態」

 突き刺さる視線。猫のようなの一対の瞳。

「いやだから、俺はそんなんじゃ無いって。リズとライヤーはもしもの時に手が空いてないと困るし、ルルは力不足。俺が持つしか無いだろ?」

 背中には寝息を立てる小さなお姫様。起こさないように静かに反論する。

 何度目になるか分からない弁解も、また無駄に終わったらしい。ルルの視線はぴたりと背中に張り付いたままだ。完全に目の仇にされている。

 ルルはファフィリアでの夜の事を覚えていなかったらしく、自分が背負って部屋まで運んだ、と言ったら何故かケダモノを見るような目で見られた。以後はずっとこの調子だ。

 英二は大空洞の入り口を見る。この先には長い洞窟が続き、抜ければ次に目指す町があるらしい。
 右も左も分からない英二が口を出してもしょうがないので、ルートに関してはリズに任せっきりだ。遺跡の関係で一般人は立ち入り禁止らしいが、リズがそこを通る、と言えば通れない場所は無い。

 空を見上げていたリズが振り返る。長い金の尾がくるりと弧を描いた。

「雨は降らないようだ。今日は入り口の前で一旦休もう。無理をさせてしまったみたいですまない」

 英二は特に疲れていない。後ろから相変わらずの高い声。

「あたしは大丈夫よっ」

 きっと無理してるんだろうな、と英二は思いながら歩を進める。意地を張りすぎるのも考え物だ。かと言って弱音を吐く姿を見たら逆に心配するが。

 風が吹く。少し冷たい、季節を運ぶ風だ。実りの時期は近い。
 五人は大空洞の前で、野営の準備を始める。








 ぽっかりと開いた入り口を見上げた後、英二は視線を落とした。
 月明かりと力無い火の光では、到底奥まで照らせはしない。身震いがするほど深く、大きな暗闇の空間。

「エイジ、そろそろ眠ろう。日が昇れば嫌と言うほどその中を歩くんだから」

 英二は振り向いて、話しかけてきたリズを見た。

「ああ、分かってる」

 片手を上げて返事をしながら、火の光に向かって足を出す。
 二人は無言のまま野営地点に戻る。ルルとシアは食事の後、早々に眠ってしまったし、ライヤーもいびきをかきながら眠っている。周囲に習い、横との距離を取って、英二は寝転んだ。

 リズは火の近くに立ち、ぼそぼそと何かを呟く。

「……うん、これで朝まで燃える筈だよ」

 地面に点る魔術の火。さっきまでとの違いが英二には分からない。
 英二は自分の毛布にくるまって空を眺める。
 満点の星空。点と点でどんな絵でも描けそうなほど、空には光の粒が溢れている。それに元の世界よりもずっと大きな月。何度見ても吸い込まれそうで、とても美しい空だ、と英二は思う。
 しかし、同時に怖さも感じてしまう。異世界を歩く覚悟は決めた筈なのに、配置の違う星と大きすぎる月が、ここはお前の世界ではない、と圧力をかけてくる気がするのだ。

 地面は堅く、寝心地が良いとは言いづらい。それに疲れにくくなった体質のせいか、眠気もやってこない。

 風の音と静かな空気。なかなか眠れずに、英二は何度か寝返りを打つ。仕方なく遠くの暗闇を見ていると、寝ずの番を自ら買ってでたリズが小さな声で話しかけてくる。

「眠れないのかい?」

 上半身を起こして頷く。
 どうせ眠れないのなら、話でもしよう。そう思って英二は毛布をマントのように肩にかけて、膝を抱えるように座るリズの近くへと腰を動かした。

「なんか疲れにくい体質になったらしい。おかげで元気が余ってる」

「それは……傷つきにくい体になったのと、何か関係があるのかな」

「さあ、どうだろう。ま、不便はしてないしな。なんなら俺が見張りをしようか?」

 英二の提案をリズは笑顔で受け流す。

「いや、大丈夫だよ。ありがとう」

 予想していた答え。寒いわけではなかったが、英二はなんとなく、火に向けて手をかざした。
 魔術の火は普通のそれと変わりが無い。ただ、何もない地面からゆらゆらと燃え上がる姿は、どこか幻想的だ。

「しかし、一体どうなってるんだろうね、その体質は」

 膝を抱える腕に頭を乗せながら、リズは呟いた。その言葉は夜に溶けるような質感を持って、英二へと届く。

「リズ?」

 強い女性。英二のリズに対するイメージはその一言に尽きる。だが、うずくまるような体勢のリズは、そのイメージとずれている。
 そんな英二の戸惑いに気付かず、リズは思考に没頭する。

「繰魔術の類……にしても英二に魔術の素養が無い事は実証したし……。生まれつきそういう体質だった、って訳でも無い。考えられるのは誰かに呪いの類でもかけられたか、あるいは……全く未知の現象か…………」

 話しながら落ちる瞼。長い睫毛が閉じていく。

「リズ、眠いのか?」

 英二が話しかけると同時に、ビクリとリズの体が反応する。

「っと………………眠ってないよ?」

「はいはい」

 誤魔化すように背筋を伸ばして宣言するリズ。英二はそれ以上の追求を止める。
 ここまでの旅の手配は全てリズが行っている。つまり、リズに一番負担がかかっているのだ。疲れがたまって当然だ。
 それでも、番をする、と言ったらリズはするのだろう。
 すっきりと背筋を伸ばし、少し恥ずかしそうに毛布を肩にかけ直しているリズを見ながら、英二は話題を変える。

「なあ、魔術って何が出来るんだ?」

「何が出来ると言われても……そうだね」

 リズが人差し指を立てると、そこに小さな光が灯った。

「色んな事が出来る。私が出来るのは、せいぜいこういうちょっと便利な事くらいだけど、専門の人間ならそれこそ何でも出来る、と言って良い。勿論、制約や限界はあるけれど」

「専門の人間って、魔術師ってやつか?」

「まあね」

 ふっ、と人差し指の光が消えて、そのまま指先は地面の小石を拾う。
 微かな音を立てて描かれるのは、簡略化された人。

「そもそも魔力とは何か。エイジ、分かるかい?」

「…………分からない。魔力なんてこれっぽっちも感じれないしな」

 英二は首を横に振った。魔力なんて、つい最近まで空想の産物だったのだ。分かる筈が無い。
 その答えを予想していたのだろう。リズは頷いた。

「そう、それが大半の人の認識なんだ。魔術における命題でもある」

 リズは地面に描かれた人の内側に斜線を引いていく。

「実は、魔術を使う人間も『魔力が何か』なんて分かって無いんだ。ただ、君よりも少しだけ自分の中の魔力を感じ取れて、それを辛うじて体の外に誘導出来るだけ」

 地面の人の横に三角の図形が描かれ、人の手から細い線が伸びる。そして、その図形を通った線は火のような絵に変わる。どうやら、この線が魔力を表しているようだ。
 眠気は飛んだらしい。リズの紅い瞳には説明を出来る喜びが見え隠れしている。

「魔術師はただ『こういう構造に魔力を流せば、こういう風に魔力は変化する』と知っているだけ。それ以上の事は殆ど何も解明出来て無い。魔力は未知なるモノなんだ。繰魔術を使える人間が極端に少ないのも、魔力を魔力として扱える人間がごく僅かだからさ。まあ、こっちの魔術関係の発展がクレアラシルに比べて遅れてる、っていうのもあるけどね」

 眠気を吹き飛ばした説明好きは、少し残念そうに呟いた。
 魔力について。フラムベインにおける魔術の立ち位置。クレアラシルとの差異。そういう部分を含めてリズは説明してくれた。もし魔術師の試験があるなら、それはとても重要な事なのだろう。
 だが、英二が気になっている事は、ただ一点。

「じゃあ、人間が魔術で遠くに転移したりは出来るのか?」

 不可思議な現象は、不可思議な力で起こすしかない。
 ゲームで良くある移動魔法。どこにでも一瞬で移動出来る、そんな奇跡。もしそれがあるならば、元の世界にも案外簡単に帰れるかもしれない。
 質問を受けたリズは少し考えて、ゆっくりと口を開いた。

「出来るよ、一応ね」

 歯切れの悪い言葉。どことなく悪い予感が駆け巡る。

「なんだよ、一応って。近くにしか移動出来ない、とかか?」

「いや、その魔術なら一度行った場所ならどこにでも行けるし、距離なんてあってないようなもの、だけど」

 まさに英二が求めるものと一致している。それをどうにかして使えるようになるか、あるいは誰かに使ってもらえば、もしかしたら元の世界に帰れるかもしれない。
 だが、次のリズの言葉はそれを否定する。

「ただ、転移させた物は粉々に砕けていたり、裏返しになっていたり、無事な姿ではすまないんだ。だからその魔術は禁止されている。それでも挑んだ魔術師がいたけど、結果は散々なものだよ。人間だと尚更。自身を移動させようとした魔術師が何人かいたけど、皆例外なく命を落とした」

 転移させた物は無事ではすまない。人も物も、例外はない。
 その魔術師の末路を想像して、英二は振り払うように頭を横に振る。

「そっか。じゃあ転移は難しい、か」

「そうだね。ただ、クレアラシルの研究機関やクジュウの秘法なら、もしかしたら何か見つかるかもしれないけど。そこまで行ったら探してみよう。手伝える事なら手伝うよ」

 リズは英二の目を見る。真っ直ぐな視線。
 その紅い瞳を見返しながら、英二は何気なく口を開いた。

「なんで、そこまでしてくれるんだ?」

 英二とリズは出会って間もない。最初こそ調査の手伝いをしていたが、実質二人が一緒に居る理由は無いのだ。この旅にしても、英二にとっては帰る為の方法を探す、というメリットがあるが、リズにとって英二と旅をするメリットは無い。ただ足手まといの食い扶持が増えるだけだ。
 どうして。そんな素朴な疑問。リズは視線を外して、魔術の火を見つめる。

「責任、かな」

「俺を守る、って言った? それこそもう調査が終わったから、意味の無いものだろ。生活まで面倒みて貰うのは有り難いけど、なんかそれだと貰い過ぎてる気がする」

「いや、いいんだ。私がやりたくてやってる事だから。君は受け取ってくれればいい」

 どうにも納得出来ない。しかし、貰う側の英二は文句を言える立場では無いのだ。
 けれど、せめて何かを返そう、と英二は思った。

「じゃあ、何か困った事があったら言ってくれ。出来る事なら何でもする」

 夜のせいで、少し大袈裟になったかもしれない。しかし、出した言葉を引っ込める事はしない。

「ありがとう」

 何故ならば目の前の紅い瞳が、淋しげな曲線を描いていたから。
 ちっぽけな約束かもしれないが、破る気にはなれなかった。

 会話が途切れて、英二はまた空を見上げる。溢れるほど多い星と巨大な月は健在だが、もう怖さは感じなかった。

 リズも何も話さない。英二も特に会話をしようとは思わない。
 長い時間、飽きることなく空を眺めていると、とん、と背中に軽い重みがかかる。

「ん? シア?」

 続けて首に回される短い腕。シアから返答は無い。
 耳元にこすりつけられる子供特有の柔らかい髪と、鼻にかかった声。

「……お姉さま……あったかい…………すぅ」

 どうやら寒くなって起きてきたらしい。しかし、寝ぼけて標的を間違えている。もしくは無意識の内に、長く居座っていた英二の背中を目指して来たのか。
 どちらにせよ、無碍にする訳にもいかない。仕方ない、と英二は首に回された腕を解き、シアの体を正面に持ってくる。そして自分を背もたれにすると、シアは身じろいで丁度良い場所を探す。
 シアが自分の良いように収まるのを待って、英二はそっと上から毛布をかける。子供と酔っ払いの相手は手慣れたものだ。

 とすん、今度は横からの衝撃に、英二は驚いて首を動かす。
 見れば、リズが倒れるようにして横腹にもたれかかってきている。

「おーい、リズ?」

「…………ん」

 返事は曖昧。やはり疲れていたのか、リズは眠っているらしい。文字通り、倒れるようにして。
 首を曲げた、寝苦しそうな体勢。英二は自分の体をずらして、どうにか太ももに頭を乗せた。
 姉妹仲良く、英二に寄り添って眠る姿は微笑ましい。だが、太ももの熱さのせいで、英二本人の心情は穏やかとは全く言えなかった。

(駄目だ駄目だっ! 変な方向に考えを逸らすなっ)

 夜、というのは恐ろしい。
 少し手をずらせば触れられる、柔らかそうな肩。感じる身じろぎ。そういうのが、とてつもなく近くて遠い。
 こうなったら、自分が起きているしかない。冷静に考えると、これだけリズが近ければすぐに起こせるし、案外合理的なのかもしれない。そうとでも思わないと駄目だ。色々と。

 高宮英二は健全なる男子高校生。この世界に来て二週間近い。溜まるものは溜まっている。

 英二は深く息を吐いて、疲れていない事とは別に、眠れなくなった夜を過ごした。




[27036] 三章二話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:f770cf01
Date: 2011/08/01 16:47

 大空洞の中は暗い。それこそ足元も見えない程に。
 しかし、ある程度進むと劇的な変化が起こる。

「うわ…………凄いな」

 感嘆の息と共に、英二は思わず呟いた。
 視界を埋め尽くすのは淡い碧色の光達。壁も地面も関係無く、全てが均一に碧を主張している。
 近付いて見てみると、ざらついた壁自体が光を放っている。見た目はただの土壁だが、ぼんやりと光を放つその姿はどこか幻想的だ。

 先頭を歩いていたリズが立ち止まり、碧の光の中で指を立てる。声が洞窟内を軽やかに跳ね回った。

「この辺りにはミルア鉱の鉱脈があるんだ。ミルア鉱は水分に反応して碧の光を放つ。ここは空気中の水分に反応したミルア鉱が、常に淡い光を出しているんだよ」

 シアがしゃがみこんで、光る地面に手を伸ばした。ルルも不思議そうに壁を触っている。ライヤーはさほど興味が無さそうに壁を拳で叩いている。
 荷物を背負い直し、天井の光の濃淡から目を離して、英二はリズに向き直った。

「こんなものがあるなら、灯りには困らないな」

 空気中の水分で発光。なんともエコロジーな鉱物。
 だが、リズは首を横に振る。碧に染まった金髪が揺れた。

「それがそうでも無いんだ。この鉱物の発光量は質量に依存しているから」

 英二が首を傾げると、リズの隣のライヤーが腰の【クルミ割り】を引き抜いた。

「まあ、見れば早いだろ」

 そう言ってライヤーは壁を【クルミ割り】で一撫でする。
 一瞬、英二の頭に崩落の文字が浮かんだが、それは杞憂だった。
 碧色に光る壁の表面が、ぼろぼろと崩れる。さっきまで光っていた壁はただの土に変わり、地面に黒い斑点を作った。

「とまぁ、こんな風に、ある程度でっかくねえと光らないのさ」

「それに、この壁の大きさでこの程度の光量しか無いんだ。しかも鉱脈はここに限らず、ほぼ国中で見ることが出来る。結局、ミルア鉱はほとんど価値のない鉱物になっているんだよ」

 たまに装飾品とかで使われたりはするけど、リズが補足するように続ける。
 つまり、小さくすると光らない。大きくても光が弱い。更にその辺にもあるから希少価値も無い、という事らしい。へえ、と英二はもう一度壁を見回した。

「そういや、魔具は直ったんだな」

「おう。どうにかな」

 ライヤーは【クルミ割り】を手際よく鞘に戻して言った。
 熱くも冷たくもない碧色の光は、ただただ静かに洞窟を満たす。立ち止まり続けても仕方がない。やがて、一同は進み出した。
 夢の回廊に似た空間だが、ここには五人以外誰もいない。なんだか勿体無いな、と思いながら、英二も歩を進めた。

 ミルア鉱の景色にも飽きてきた頃、洞窟は一気に広がりを見せる。空間が広がると同時に、碧が強さを増し、一気に空気が冷たさを持った。
 先に見えるのは大きな湖。その中から強い碧色の光が洩れる。水の中のミルア鉱が活発に発光しているのだろう。

 視線を上げ、急に高くなった天井を見上げていると、リズの声が後ろから聞こえた。

「多分、ここが遺跡跡地だと思う。結構歩いたし、少し休憩しよう」

 冷えた空気に英二が軽く腕をさすりながら振り向くと、リズがシアの荷物を降ろしていた。小さな体はいつもより少しだけ元気が無い。シアの荷物の中身は、リズや英二が分けて持っている。しかし、少なくなった荷物でも子供の体には大きな負担になっているようだ。
 英二は疲れた様子のシアに近付き、緩やかにウェーブを描く金髪をぽんぽんと叩く。シアは黙ったまま、英二のお腹に抱きついた。

「エイジ、こっちに来てみろよ」

 早々に荷物を置いたライヤーが、離れた場所から呼んでいる。英二はシアを抱きかかえて、ライヤーのいる湖の近くへと歩いた。

「どうしたんだ?」

「いいから、これを見ろよ」

 ライヤーの言葉に従い視線を下げ、英二は息を飲んだ。

 この空間の明るさと冷気の正体は、当然この湖だ。事実、近付けばさらに冷気と明るさを実感出来る。
 水の中で光輝く碧色の鉱石の河。十分美しい光景だが、それだけなら英二はここまで驚かない。

 驚いたのは、底に奇妙な碧色の戦士達がいたからだ。

「きれい、です……けど」

 腕の中のシアが戸惑いながら呟いた。その呟きに肯定も否定も返さず、英二はただ、戦士達を見る。

 分厚い剣。頑強そうな盾。無骨な鎧。それらを纏うのは、美しい女性をかたどった像。
 その女性達は、中央で剣を掲げる一人の人間に跪いている。
 リズが隣に立ち、中央の像を指差す。

「これが大空洞の遺跡だよ。あの中央の像が初代皇帝のカタルと言われている。…………しかし、保管されていた報告書を読んだ時は実感出来なかったけど、確かにこれは変、だね」

「…………だな」

 英二は絞るように声を出した。

 初代皇帝カタルの掲げた剣。その剣は今にも振り下ろされようとしている。そしてその先には、両手を広げて剣を待つ一人の女性。

 見れば見るほど奇妙な光景だ。仲間が今にも斬られようとしているのに、跪く女性の像は微動だにしていない。

 自らを斬る相手に敬意を払っているような姿勢。それでいて武器は手放さず、いつでも戦える格好。像の精巧さはそのまま違和感を増幅させ、結果として見た者に微妙なしこりを残す。
 波の立たない水の底で、一体どれだけの時間を過ごしたのだろう。真意の読めないオブジェは、洞窟内を淡く照らし続けている。
 ぱちん、とリズは手を叩く。

「ま、とにかく今は休もう。シア、おいで」

 シアはリズの言葉に従い、湖に名残惜しそうな視線を送りながら英二から離れた。ライヤーもほとりから移動し、先に休んでいたルルに耳打ちをしている。

 別段疲れも無い英二は、何となく湖に沿って歩きだす。水面からそんなに離れてはいないが、落ちたら登るのに苦労しそうだ。

「……からっ! そんな訳無いに決まってるでしょっ!?」

「またまた。本当の事、おじさんに話してみ?」

 ルルとライヤーの声が英二の後ろで木霊する。ライヤーも飽きないな、と思いながら英二は地面と湖の境界を覗いた。
 ライヤーの声が小さくなり、洞窟に束の間の静けさが戻る。そして案の定、激昂したルルの叫びが再び英二の背中に当たった。

「さっさと死ねっ! この変態詐欺師がっ!」

 続く風切り音。不穏な気配を感じた英二が振り返る間も無く、背中に何かが当たった。いや、当たった、ではなく炸裂した、だ。最近、何度か味わった覚えのある衝撃。

「え゛?」

 間抜けな声がした。
 英二の足が地を離れ、景色が一瞬にして移動する。描いてはいけない放物線に沿って、体は碧の中に吸い込まれる。
 要するに、英二は勢い良く吹き飛ばされ、盛大な水しぶきを立てて腹から湖の真ん中に落ちた。

「エイジ!」

「エイジさん!」

 リズとシアが慌てて湖に駆け寄る。ルルは黒い杖を振り下ろした体勢のまま、予想外の事態に猫のような目を目一杯開き、ライヤーは明後日の方向を向いて口笛を吹いていた。

 水中でどうにか体勢を立て直し、英二は湖から顔を出して思い切り空気を取り込んだ。

「ぷはっ、し、心臓飛び出るかと思ったっ」

 シアは安堵の息を吐き、リズは背後のトラブルメーカーへと手招きをする。落ち着いた動きが逆に恐怖をそそる。

「二人とも、こっちへ」

「あ、あたしのせいじゃないっ! この変態が変態なこと言うからで…………!」

 ライヤーは騒ぐルルを無視して口笛を吹き続けている。
 リズの紅い瞳が燃え上がり、体が僅かに発光を始めた。それを確認した直後、ライヤーは素早い動きでルルの首の後ろを掴み、リズの前まで連れて行った。

「さ、触るなっ! 離しなさいよっ」

「姫さん、ホシは捕まえたぜ。この人生で一度も嘘をついた事の無い、正直者のライヤー・ワンダーランドがな」

「嘘をつけ。いいか、やっていい冗談とやったら悪い冗談というのが…………」

 リズが二人に説教を始めた。流石に自分にも非があると思ったのか、ルルは反論せずに俯いて聞いている。ライヤーも殊勝に頷いているが、この男が反省しているかはかなり怪しい。

 リズに説教される二人に怒りよりも呆れを覚えながら、英二はちょうど近くにいた初代皇帝の頭を足場にした。不敬だが、そうすると胸辺りまで水から出て楽だ。

「エイジさーん。大丈夫ですかー?」

 声をかけてくるシアに手を振って応え、英二は登れそうな場所を探した。
 しかし、内側から見ればよく分かるが、陸との境目は見事に逆反っている。高さは一メートル程だが、もしここに来たのが一人だったら戻るのは容易ではなかっただろう。
 英二は早々に諦めて助けを求める。

「おーい。一人じゃ無理そうだから、何か縄みたいなのを下ろしてくれー」

 それを聞いたリズは荷物を指差しながら、罪人達に命令した。

「責任を持って助けるんだ。今すぐに」

「おう! 待ってろエイジ!」

「…………分かったわよ」

 ライヤーは敬礼してわざとらしいくらいに大きな声を上げ、反対にルルは消えそうな声量だった。

 二人が荷物を探る間、岸へ行こうと英二は足に力を込めた。が、予想していたように体は前に進まず、再度水に落ちる音と、嫌な感触だけが足の裏に残る。
 もう一度水の中に沈む体。今度は静かに頭を水面から出す。

「…………あれ。もしかしなくても、俺のせい?」

 恐る恐る水面から下を覗くと、酷いことに蹴り飛ばされて首の無くなった初代皇帝。そしてゆっくりと水底に落ちる顔。
 高宮英二は、初代皇帝を討ち取ってしまった。八百年の威光もここまでだ。
 窺うようにリズを見れば、笑顔で手招きをしている。罪人が三人になった。

「エイジ、早く上がって来てくれ」

 現実から目を逸らすように、英二は落ちていく生首を見た。随分と柔くなっていたらしい。底に当たると綺麗に首は半分に別れ、音もなく動きを止めた。

「ん?」

 そして英二が見つけたのは、八百年もの間、誰にも気付かれなかった煌めき。

「紅い……石?」

 初代皇帝の顔の断面には、紅く輝く丸い石が埋まっている。







 紅い石は手のひらと同じくらいの球体だった。
 埋め込まれたそれを掴むと、呆気なく断面から外れる。水中のミルア鉱はかなり柔らかくなっていたようだ。
 石は装飾品の類なのか、紐を通すような細工が施されてあった。

 ライヤーの持つ縄に引き上げられた英二は、その石を改めて見つめる。

「石にしてはやたら軽いし…………リズ、何だか分かるか?」

 シアが座っている英二から、布で頭をがしがしと拭く。
 前が見えなくなった英二の手から、石のおもちゃみたいな重さが無くなった。

「ん? これは…………」

 訝しげなリズの声。視界を遮る布を手でどかすと、眉間にしわを寄せた綺麗な顔。

「エイジ、これを持ってて何とも無かったかい?」

「え? 別に何も無いけど」

 しゃがんでいるリズは、険しい顔のまま石を地面に置いた。
 ライヤーが興味津々に石へと手を伸ばす。しかし、指先が触れた瞬間、表情を引き締めて手を戻した。

「なんだこりゃ、ヤバいな」

「癪だが、私もお前と同じ意見だ」

 会話が理解出来ず、英二は首を傾げた。
 同じく理解出来ていないルルが、何気なく石に近付く。

「あっ、馬鹿野郎っ」

 ライヤーの叫びも虚しく、ルルは石を持ち上げた。

「ひゃっ」

 可愛らしい悲鳴と共に、糸が切れたようにルルは膝から崩れ落ちた。地面に転がる紅い石。
 座り込んだまま、何が起こったかいまいち理解できていない顔のルル。 あーあー、とライヤーは肩を竦める。
 最近、良く似た光景を見ている英二は、思い付くままに口を開いた。

「魔力切れ、か?」

「ああ、全く……。私は魔力が多いから掴んでも大丈夫だったけど、それでも半分を近く持っていかれたんだ。普通の人なら絶命してもおかしくない」

 リズが嘆くように首を振った。

「この石は魔力を吸う。それもとんでもない速度で」

 地面の上で妖しい紅い輝きを放つ紅い石。
 英二はその石をむんずと掴んだ。

「……魔力を吸うって、俺は何とも無いんだけどな」

「それは……私にも分からない。魔力は誰にでもあるから、その石に触れば普通は魔力切れを起こすはず、なんだけど……」

 英二は目の前でへたり込んでいるルルの横顔を見る。演技、という訳ではなさそうだ。事実、リズとライヤーは最初に触って理解している。
 どうして自分は大丈夫なのか。分からないまま、英二は手の平の上で石を転がした。

「エイジ、ちょっと地面に置いてみな」

 ライヤーの言われるままに英二は石を地面にそっと置く。

「よっ」

 前振り無く振り降ろされる【クルミ割り】の切っ先が、軽い音を立てて石にぶつかる。しかし、金属すら崩す不思議な剣でも、石は鈍い紅光を返すだけ。
 ライヤーは眉をひそめる。

「…………こりゃあ『崩す力』を吸い取ってんのか? 魔力みたいに」

 仮説を確かな物にするため、ライヤーは【クルミ割り】をずらし、地面に突き立てる。堅い地面は鳴くように震え、【クルミ割り】を中心に一メートル四方の砂地が現れる。
 いきなり足元が砂地に変わった英二は、慌てて後ろに下がった。

「ちょっ、びっくりするだろっ!」

「お? 悪い悪い。まあ、浅いから心配すんな」

 そう言ってライヤーは足元の砂を掻き分ける。ライヤーが立っているので当然だが、砂の厚みはくるぶしにも満たない。

 その後、リズとライヤーがいくつか実験をしたが、結局この石の正体は分からず仕舞いだった。
 そんな二人をよそに、英二はルルに手を貸そうとして断られたり、服を着替えたりした。退屈そうなシアが石に触ろうとして、慌てたリズが止める。
 遺跡から出てきたとはいえ、拾った石がそんなに変な代物だとは予想していなかった。もっと不思議な物がこの世界にはありそうだけどなぁ、とぼんやり思いながら、英二は遠巻きに話し合う二人を眺める。

「やっぱり、マドゥロ谷辺りの魔物の一部じゃねえか? 八百年前にはそういう能力のある魔物もいたかもしれないだろ」

「馬鹿言え。あそこは確かに特殊な生物が多いが、耐性が高いとかならまだしも、魔力から変換した衝撃まで吸収する、なんて性質があったら淘汰されるはずがない。それに保有量も明らかにおかしい。一体その魔力を使い切るのにどれだけの…………」

 議論は白熱している。視線を移せば、シアが遠い瞳で湖を眺めていた。
 なんとなく近付いて、隣に立つ。

「シア、何見てるんだ?」

「あっ、いえ。なんでもないです」

 不自然なほど素早く、シアは首を横に振る。気になった英二は湖へと視線を向けた。

「…………ああ、忘れてた……」

「あ、あはは…………」

 当たり前だが、湖の底に佇む初代皇帝の首は無い。最初の荘厳な雰囲気の跡形も無い、間抜けな姿だ。
 しかし、それでも国が調査していたほどの歴史的遺跡である。リズは宝石に気を取られて忘れているが、本来なら怒られるどころの話ではない。
 困ったように笑うシアの頭を撫でて、英二は決断した。
 バレる前に、逃げよう。

「リズ、とりあえず宝石は俺が持つから、話は進みながらしよう。いつまでも時間を食っていられない」

「えっ? ああ、それもそうだね。よし、進もう」

 荷物を持ち上げながら、リズとライヤーは話し続けている。よほど紅い石は特殊らしい。
 英二は有無を言わさずルルを背負う。そして背中の罵詈雑言は気にせず、大空洞の広間を後にした。








 大空洞は長かった。休憩を挟みながらだったものの、洞窟を抜けた頃には陽が落ちかけていた。ただ、抜けた先は入る前の殺風景とは一転、見渡す限りの草原だ。
 敷き詰められた薄緑の絨毯は夕陽に染まり、風に撫でられ波を立てる。流れる大気は大空洞を抜ける前と質の違う、冷たい鋭さを宿した空気だ。
 這いよる冷風を掻き分けて先頭を歩くリズは、遠くに見える灯りを指差した。

「あそこが次の町だよ。もう少しだから、頑張ろう」

 英二は歩きながら、隣を歩くルルに話し掛けた。

「大丈夫か?」

 ルルは英二と距離を取るように移動する。

「近寄るな。あんたが一番変態だわ」

「いや、あれはほら、仕方なかったんだよ」

 主に俺の為に、という言葉を飲み込んで、英二は頭を掻いた。
 ファフィリアの街で、ルルは背負われる事を嫌がっていた。それを強引に行った代償はそれなりに大きかったようだ。

「え、えっと、わたしはその、エイジさんのこと、変に思ってませんよ!」

 シアが歩きながら、英二の手を取る。
 結局、石は英二の荷物の中に布を巻いて入れてある。ある程度資料と設備のある街に着いたら調べる予定だ。
 ルルには全く無い健気さに癒されながら、英二はシアの頭を撫でた。

「……シア、ちょっとこっちに来なさい」

 そんな二人を薄目で見て、ルルは手招きをする。

「はい、なんですか?」

 シアは手を離し、誘われるままに駆け寄る。ふわふわと振動で揺れる金髪に、ルルは顔を寄せた。

「あいつに近寄っちゃ駄目よ。今に変な事されるから」

「変な事、ですか?」

「おーい、言っとくけど、丸聞こえだからな?」

 陰口をまるで隠す気のないルルと、いまいち理解出来ていない表情のシア。英二の突っ込みは虚しく風に流される。
 そんな三人の後ろを歩くライヤーが、合いの手を入れる。

「ほらほら、喋るのは良いけど、あんまり姫さんと離れるなよ」

 言われて三人はリズと距離があることに気付き、歩を早めた。
 
 一行はようやく草の無い道に出たが、町の明かりはまだ遠い。一際冷たい風が吹き、ルルが鼻を鳴らした。

「ん?」

 日の姿が小さくなる中、話しながら道沿いに歩いていると、ライヤーが止まって振り向いた。つられて全員の歩みも止まる。

「どうした?」

 微かに緊張を孕んだリズ。ライヤーは払うように手を振る。

「いや、何か後ろから来てやがるが、多分ただの荷馬車だな」

 その言葉を証明するように、夕闇の先に影が揺らめく。その影はすぐに鮮明な姿に変わり、英二達の前で速度を落とした。
 幾つかの袋以外、何もない荷台。御者台に座っているのは二人。対のような少年と少女だった。

「こんにちは。もしかして、旅の方ですか?」

 背中で纏めた長い髪。凪のように佇む少女は、静かな話し方の中に確かな好奇心を見え隠れさせている。

「クロネ、もう少し後先を考えて……」

 大柄な体に強面。だが、それを一気に打ち消す弱気な態度。少年は不安そうに英二達と少女を見比べる。
クロネと呼ばれた少女は、ふわりと目元を和らげた。

「大丈夫よ。こんな可愛らしい女の子を連れた夜盗なんて、聞いたことないもの」

「そういうことじゃ……はあ、言っても仕方ないか」

 諦めたように息を吐いて、少年は改めて英二達に向き直った。

「良かったら、乗って行きますか?」

 無骨な親指で示された空の荷台。諦めた様な顔と興味津々な顔。
 それがリバリー姉弟との出会いだった。







「いや、俺は別にクジュウの人間じゃないんだ。あっちでぶすっとしてるのが、本当のクジュウの民」

「へぇ、そうなの」

 揺れる荷台の上。英二が指差すと、クロネ・リバリーは静かな目で、そっぽを向いているルルを見詰めた。
 五人はリバリー姉弟の好意に甘える形で荷台に乗せてもらった。その代わり、姉のクロネから質問攻めを受けている。答えているのは主に英二とリズだが。
 ゆっくりと、クロネは視線を戻す。そして、目の前に座る英二に顔を寄せた。

「ちょっ、ちかっ」

 急に迫ってきた翡翠色の瞳に、英二は思わず腰をずらして後ずさる。
 標的を逃した瞳は、考えを巡らすように横のリズへと焦点をずらした。

「どういう関係なのか、聞いていい?」

「ク、クロネ! そういうのは……!」

 弟、スピナ・リバリーの焦った声と合わせたように、荷台が強く揺れる。
 崩れた体勢を戻しながら、クロネは心配性の弟に文句を言った。

 当たり障りの無い会話を乗せて、荷台は町へと近づいていく。
 頑丈そうな石壁に囲まれたその町の名前はケート。横を流れる大河の恵みと、古き良き名残の小さな町。

 もう太陽の消えてしまった空を見上げた後、クロネは目を薄めて言った。

「今日、泊まる所はまだ決まって無いのでしょう? うちに泊まらない?」

 急な申し出に誰もが一瞬言葉を失った。最初にその空白から復帰したのはスピナだ。

「クロネ……! もうっ、なんだっていっつも君はそんな急に……!」

「だって、人はいつ出会って、いつ別れるか、なんてわからないのよ? この出会いを大切にする事がそんなにおかしい?」

 恐らく、過去に何度もこのやり取りは行われたのだろう。クロネは顔色ひとつ変えずにスピナの意見を押し込める。どちらかといえばスピナの方が正論を言っているが、クロネが勝ちそうな辺りにこの姉弟の力関係が伺える。
 やや一方的な姉弟喧嘩の合間を縫って、英二は隣のリズへ顔を向けた。

「リズ、どうするんだ?」

「さて…………どうしようか?」

 怪しいと言えば怪しいが、どうにも悪意があるとは思えない。リズはぐるりと仲間達を見回す。

「ま、どっちでも良いんでねえの?」

 ライヤーは荷台の端に腰掛けたまま、投げやりに言った。ルルは背中に抱きついてくるシアに軽い溜め息を吐くだけで、特に何も発言しない。
 泊めてくれる、という条件だけを見れば、それはとても魅力的だ。しかし、裏が無いとも限らない。

「俺は別に良いと思うけどな」

 既に姉の一方的な展開になった姉弟をちらりと見て、英二は頷いた。それでもリズは決めあぐねて、顎に手を当てる。
 決着をつけた姉は、勝者らしからぬ無表情で振り向いた。

「勿論、その場合は私たちも要求する事があります」

 リズは無意識に身構える。クロネの目元が下がった。

「沢山、私たちにお話を聞かせてくれること。どうですか、良心的でしょう?」

「……そうだね。今夜は長い夜になりそうだ」

 短く笑って、リズは降参するように両手を挙げた。





[27036] 三章三話
Name: かまたかま◆7c61daf2 ID:f770cf01
Date: 2011/08/08 17:25


 暖かな光を分け与える年季の入った暖炉。使い込まれた様子のテーブルの上に、四つの暖かい飲み物が置かれた。
 二階には幾つかの部屋がある。質素な食事を終えた後、疲れていたルルとシアは同じ部屋で仲良く眠り、ライヤーはどこかへ出かけていった。

 残った四人での話は他愛の無いものだった。
 それこそ、重要でも何でもない話。リズはアリスナの街の事や、子供の頃にあった小さな事件。クロネは今年の川で行われた漁での出来事。英二は所々ぼかしながら、学校の友達がやった一世一代の告白の話をした。女性陣は面白そうに聞いていたが、本当に意味なんて無いただの世間話だ。
 あまりスピナは喋らなかったが、それを補ってリズとクロネは言葉を交わしていた。意味の無い会話だからこそ、部屋には透明な楽しみが満ちていた。
 リバリー姉弟の家は上等とは言えなかったが、二人で暮らすには十分過ぎるほど大きい。クロネの望んだ歓談の途中でも、他の人が住んでいる気配は聞こえない。

 湯気を立てるカップを両手で包み込むように持ち、リズはゆっくりと口を付けた。

「美味しいね。単純だけど、とても優しい」

「あ、どうも」

 向かいに座りながら、スピナは短い髪を大きな手で撫でつける。女性に話しかけられるのに慣れていないのか、やたら落ち着きが無い。
 そんな隣の弟を一瞥した後、クロネは小さく欠伸をした。

「ああ、今日は良く話したわ」

 もう長いことテーブルで話し続けている。英二が曖昧に頷くと、クロネは小さく笑った。
 おとなしそうな見た目と話し方に反して、クロネは良く喋る。裏も何も無く、単純に人と話す事が好きらしい。
 凝り固まった背中をほぐすように英二が上を向くと、クロネは相変わらずのゆったりとした話し声を出した。

「この町にはどの位いるの?」

「多分、明日には次の場所へ出発すると思う」

 英二とリズ。どちらともなく投げかけられた言葉に返したのはリズだ。
 クロネは残念そうに眉を曲げる。

「急がなくても、もう少しいたら良いのに」

「クロネ、彼女達を困らせるような事は言わないでよ」

 スピナは語気を強めて言うが、その効果はまるで無い。クロネは英二に無言の交渉を仕掛ける。
 じぃ、っと動かない翡翠色の瞳。英二はたじろいだ。

「え、えっと、り、リザ。ちょっとくらい、ゆっくりしてもいいんじゃないか?」

 助けを求められたリザことリズは、顎に指を当てて考え始める。そちらに移るクロネの視線。ひとまず止んだ猛撃に、英二は安堵の息を吐く。
 そしてふと前を見ると、スピナの覗き込むような目とかち合った。

「ん?」

「あ、いや」

 慌ててそっぽを向かれ、英二は首を傾げる。続くようにリズが口を開いた。

「そうだね。あまり長くは留まれないけど、この辺りで少し休もうか。私達はともかく、シアとルルは大分疲労してるみたいだし」

 この旅は子供や女性にとって、体力的に厳しいものがある。我慢と負けん気。正反対の理由だが、二人とも中々本音を吐かない。
 休息はどこかで必ず取らなければいけない。
 英二が頷くと、それよりも大きくクロネが頷いた。

「うん。じゃあ、明日から毎日お話ししましょう」

 クロネの中では、明日からもこの家に泊まる事は決定しているらしい。英二とリズは目を合わせた後、苦笑した。
 リザさんがいいならいいけど、と言いながらもどこか嬉しそうなスピナ。そんな弟を横目で見て、クロネは思い出したように言った。

「そうだ。明後日にはちょっとした催し物があるの。どうせだから、みんなで参加しましょう」

 反対する者はこの場にいなかった。







 ケートの町の催事は、とても簡単な恵みへの感謝の儀式だ。
 町のすぐ横を流れる広大なコクナロース川。その川の恵みで得た財貨で買った麦を、町人達が一斉に水辺へと投げる、というもの。こうして流れを循環させ、次も変わらぬ恵みを願う。そうしてこの町は生きてきた。
 ただ、今となってはそんな真面目な催事では無く、町人達のささやかな祝い事の意味合いが強い。別に投げる物は麦でなくてもいいし、町人達も本命はその後の催事にかこつけた酒だ。

 そんな話をクロネから聞いたシアは、琥珀色の瞳を輝かせた。ケートの町は今、その準備の真っ最中らしい。
 張り切って手伝おうとしたシアだが、旅の疲れはしっかりと小さな体に溜まっていた。朝、足の筋肉痛でふらふらしている所で、リズに留守番を命じられている。

 現在、シアの代わりに、という訳でもないが、英二は催事の準備を手伝っていた。初めこそクジュウの容姿のおかげで注目を集めたが、仕事が始まれば気にならなくなった。

「エイジさん、そっちに行ってくれ」

 長い板の端を持つスピナが、向かいの英二に指示を出す。
 大量の台、気持ち程度の椅子。結構な人数が青空の下、この広場で作業をしている。
 明日、川に麦を投げた後、ここで大多数が飲み食いする。そう考えればこの量は当然だが、準備は椅子と台を出すだけだ。まだ日も高いのに、もうすぐ全て終えてしまう。
 英二は指示された場所に横歩きしながら、周囲の人達を見た。明日の事を思ってか、皆の顔は明るい。しかし、同時に疲れも色濃く表れている。
 それと、英二には気になることが一つ。

「なあ、俺の顔に何かついてるか?」

「えっ! い、いやっ」

 スピナの態度だ。昨日から感じていたが、どうもちょくちょく英二の顔を見ては、何かを考えているらしい。
 恨みを買うようなことが出来るほど、まだ出会ってから時間は経っていないし、そもそもそういう感じではない。
 検討がつかないまま、英二は地面に板を置いた。朝から働き詰めだったおかげで、一応英二達の仕事はこれで終わりだ。
 近くの木材に腰を降ろし、英二は手持ち無沙汰のまま、近くの町民であろう親父達の手際の良い組み立てを眺めた。柱の立った土台を作ったかと思えば、それはひっくり返されて大きなテーブルになる。見ていて面白い。

「あ、あの、エイジさん」

 スピナに呼ばれ、英二は顔を向ける。首が痛いほど視線を上げると、窺うような強面。力を込めれば人一人くらい殺せそうな顔だが、その片鱗も見えない。
 おかげで特に萎縮することも無く、英二は真っ直ぐに見返した。

「ん?」

「その、一つ訊きたいことが……」

「訊きたいこと? 俺が知ってることならいいけど」

 その内容がまったく想像出来ないまま、英二は次の言葉を待った。しかし、スピナの目線は泳ぐばかりで、一向に質問が来ない。大きな男が自分を前にもじもじしている姿は、ちょっと不気味だった。

 ようやく定まる焦点。スピナは大きな手で頭を掻いた。

「単刀直入に聞くけど、り、リザさんとライヤーさんってどんな関係?」

 予想以上に突っ込んだ質問だった。今度は英二が言葉に詰まる。
 正直に話せば『皇女と反帝国組織の頭領です』だが、それを馬鹿みたいに何も考えずに言うほど、英二は愚かではない。それに、スピナが求めている答えもそういうものではない。
 質問した後、恥ずかしそうに遠くを見るスピナ。特別色恋に敏くないエイジだって、ここまでわかり易ければ感づかざるを得ない。

「もしかして、リザのこと」

「あーあーっ! ちがっ、変な意味じゃなくて、ただ純粋な疑問と言うか……そう! 家に泊めてるんだから、その位は把握しておかないと!」

 大きな全身を精一杯使い、誤魔化すスピナ。英二はそんな外見とはかけ離れた純朴さに好感を覚えた。
 とりあえず、当たり障りの無い答えを返す。

「まあ、スピナが思ってるような関係じゃないよ。なんていうか……好敵手、みたいな関係かな」

「好敵手? 一体何の?」

「だから、みたいな関係」

 好敵手。言ってみれば、これほど二人を端的に表す単語は無い。

「……そっか。それならまあ、いいかな」

 あからさまに安堵したスピナに英二は軽く吹き出した。それを見たスピナが首を傾げる。
 リズとライヤー。正反対のようで似ている二人。リズは文句なしの美人だし、ライヤーも信念を持った良い男だ。そう考えると二人ほどお似合い、という言葉が似合うペアはいない。言ったら間違いなく本人達からは大ひんしゅくを買うだろうが。
 その場面を想像して出てくる笑いを抑えていると、スピナがまた英二を見ていた。今度は窺うような目ではなく、とても気軽さを持った表情だ。

「じゃあ、エイジさんとルルさんが恋人なのか?」

 今度こそ、英二は声を上げて笑った。少し落ち着いてから答える。

「くくっ、いや、それは無いって。あのルルと恋人なんて、天地がひっくり返っても有り得ない」

 結構お似合いだけどなぁ、とスピナは呟いた。笑いの発作に苛まれながら、英二は少しだけスピナと仲良くなれた気がした。









「くしゅんっ」

 二つのくしゃみが重なった。クロネは金の尾と珍しい黒髪に、お大事に、と声をかけた。

 英二達のいる広場の近くの食堂。いつもなら常連の男達が居座る時間帯だが、今その空間の大半を占めているのは熟れに熟れた可憐な淑女達だ。
 淑女達は突き抜けるような声の大きさで世間話をしている。しかし、食材を仕込む手に乱れは無い。そのあたりは長年の経験が勝っているらしい。

 鼻をすすって、恨み辛みをぶちまけるように、ルルは大鍋の頑固な汚れにタワシを突き立てた。

「なんでっ、あたしがっ、こんなことっ、しなきゃいけないっ、のよっ!」

「家にはライヤーが居るからいたくない、って言ったのはルルだろう? 丁度よかったじゃないか、暇を持て余さずに済んで。あ、失礼、もうすぐこっちは終わります」

 くしゃみのせいで止まっていた手を動かし、リズは隣のおばさんに最後の食器を渡した。どこか夢見るような表情だったおばさんは、まるで少女の様に浮き足立って、受け取った食器を奥に持っていった。
 一通り水場を綺麗にして、リズは洗われている大鍋を覗き込んだ。力の弱いルルではなかなか汚れが落ちないらしく、あまり捗っているとは言えない。

「手伝おうか?」

「いら、ないっ! くそっ、こうなったらとことんやってやるわよ!」

 より一層体重をかけて、ルルはタワシに力を込める。リズは後ろに下がって、そんな様子を微笑ましく見守った。
 そんなリズに、クロネが飲み物を差し出す。

「はい。お疲れ様」

「ありがとう」

 リズは受け取って、一口啜る。隣のクロネは大鍋と格闘しているルルを見て、僅かに溜め息を吐いた。
 その溜め息は小さく、誰の耳にも届かないはずだったが、リズは見逃さずに口を開いた。

「どうしたんだい?」

「え? ああ、何でもないわ」

 クロネ自身、無意識だったのだろう。言われて不思議な顔をした後に、手元の盆を両手で持ち直した。
 しかし、溜め息が何も無く吐かれることはない。年頃の乙女の溜め息は、いつだって憂いを帯びた花梨の香りなのだ。

「ねえ」

 カップから口を離し、リズは声の主へと視線を移す。そこには、思いのほか真剣な翡翠色の瞳。

「やっぱり、男は綺麗な女性か、可愛い女の子が好きなのかしら」

 リズは首を傾げてクロネを見つめ返した。

「なんというか、急な話題だね」

「そうね。でも、目の前にこんな綺麗な女性が居て、その連れがこれまた可愛いんだから、訊いておくべき質問だと思うの。やっぱり、今まで男からの求愛はたくさんあった?」

 参ったな、とリズは指先で髪を摘んだ。熟れた淑女達もこの話題に興味があるのか、聞き耳を立てている。

「まあ、無かった事はなかった、かな」

 きゃー、と後ろのほうで響いたおば様方の悲鳴。リズは余裕を持ってクロネに笑顔を見せた。
 しかし、内心はボロを出さないように必死だ。

「でも、外見なんて飾りだよ。それに寄ってくる男に、ろくな人間は居ないさ」

 それっぽいことを言うリズ・クライス・フラムベイン。男女の間柄を育むほど、これまでの人生、暇ではなかった。

 納得したように頷くクロネ。リズは罪悪感から目を逸らす。知ったかぶりなどは最も恥ずべき行為。
 だが、遂に真実は言い出せず、クロネの興味が尽きるまで、聞きかじりの知識を語る羽目になった。

「とまあ、そういう事で、男は狼なのさ……」

「やっぱり、都会は凄いわね」

 ははは、とリズは乾いた笑いを零す。大半が恋愛小説の話、ということは誰にも言えない。
 リズが台に置いていたコップに手を伸ばす。その拍子に、肘を机にぶつけた。
 痛くは無い。しかし、同時に眩暈がリズを襲う。

「……っ!」

 揺らぐ体を強引に元に戻し、台に寄りかかる。異常を感じたクロネが心配そうに覗き込んだ。

「なんだか、本当に疲れてるわね。昨日は眠れた?」

「勿論。ただ、やっぱり慣れない旅の分だけ、私も疲れが溜まっているみたいだ。この辺りで休む、というのは、何にせよ必要だったかもしれないね」

 眩暈は抜けない。こんなことで倒れていては、この先もやっていけるはずが無い。
 クロネの静かな瞳に、リズは目をつぶって答えた。そして、ゆっくりと魔術で黒くしている目を開く。
 訊きたいことがあるのは、クロネだけではなかった。

「それに、疲れてるのはクロネ達も同じだろう?」

 初めて、クロネは動揺したように視線を逸らしたが、リズはそれ以上追及せず、残ってい飲み物を飲み干した。
 本来、ケートの村はもっと若者が多い。だが、若者が人口に比べて極端に少ない。特にこういう行事には親が強制してでも参加させるものだが、ここにはクロネの他の若い女性が数える程しかいなかった。外でも、若い男を余り見かけない。
 クロネは何も言わないまま、外へと出ていってしまった。失敗したかな、とリズは思ったが、すぐに戻ってきたクロネの姿にその考えを改めた。

「あの、ちょっといい?」

 真剣な瞳。未だ鍋と組み合っているルルを背に、リズとクロネは外に出た。






 今、この町は崩壊の危機を迎えている。
 最初にクロネはそう言った。

「何が悪い、っていうのはみんなわかってる。一昨年から領主を継いだイページのせいよ」

 人通りの少ない店の裏。それでも周りを警戒するようにクロネは慎重に話した。

「最初は、小さなことだったわ。今年の税収が少ないから、別途に徴収したの。それは別に良かった。今までだって何度かあったし、そんなに大きな額でもなかったから。問題は、どんどん要求が大きくなって、仕舞いに起こしたある事件」

 その事件は、余りにも稚拙な顛末だった。
 税を上げ、更には必要の無い宴まで開催するようになったイページ。その内、イページに反する者も出た。
 しかし、イページはその者に『娘を差し出せ』と無茶な要求をした。その家族は呆れ果て、ついにこの町を出てしまった。それでもイページの態度は変わらず、子供の遊びのような統治をするばかり。
 まだこの町から出て行く元気のある若者から流れるように出て行き、この町の若い世代は激減した。戻りたいと望むものも多いが、イページが領主でいる限りは叶いそうも無い。

 リズはそのイページの間抜けさに呆れた。暴政を強いるでもなく、ただただ我侭を言うような領主など、実在しているのが不思議なくらいだ。

「で、結局、私に何を望むんだい?」

 ただ、間抜けさで済ませられるほど、町が弱るという事は小事ではない。国を変えるには、こういう所から良くしていくべきだ。
 リズの胸中は固まっていたが、それでも訊いた。いざとなれば、直談判でも解決できそうだ。
 クロネはそっと、打ち明けるようにその名を言った。

「この催事が終わってからでいい。ラクセルダスのいる街まで、私を連れて行って欲しいの」

 頼るべき旗の色。突き付けられた現実の求める標に、リズは頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。



 同時刻。英二の目の前に、小太りの男が立っていた。冴えない顔に薄くなりかけの髪。
 その男は両脇に肌の浅黒い女性を侍らせている。
 わかりやすい。英二は気分が悪くなった。

「おい、そこのクジュウの民。暇だから踊れ」

 両脇に陰鬱そうな表情の奴隷を従えた領主――イページは、妙に高い声でそう言った。



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