それは、途方もなく大きな樹だった。
「…………なんだこれ」
高宮英二は突然の出来事にこめかみを押さえる。
確か自分は県立旗江高等学校から帰る途中で、今日は買い食いしようかな、とか考えながら歩いていた筈だ。車に轢かれそうになった子供を身を挺して守った訳でも無く、実家にあった秘蔵の壺を開けた訳でも無く、ただ歩いていただけ。
一つ呼吸をして、もう一度前を見る。
それは途方もなく、果てしなく大きな樹。いや、樹と呼んでいいのかすら疑わしいほどの巨大。地平線の先に根は隠れているのに、何万もの木を折り重ねたような幹は空を突き抜け先が見えない。
視線を樹にそって上げれば、遥か天空を覆い尽くす葉が見える。どういう理屈なのかは分からないが、日光を遮る事もなく、ただゆらゆらと葉は揺れるだけ。
一体地球上のどこにこんな馬鹿でかい樹があるか。
馬鹿馬鹿しくも納得して、英二は座り込む。
あの大きな樹以外に視界を塞ぐ物は無い。一面に広がるのは、申し訳程度に草の生えた荒野。そういえば鞄も無い。
手に触れた土はさっきまで自分が居た世界と変わらない。少なくとも英二にはそう思える。しかし、これからどうすれば良いのか全く分からない。あの樹を目指して歩くにも一体何日かかることやら。その間の水は、食料はどうする。いきなり『ここに来た』自分には何の貯えも無い。
そう思うと、急に全ての世界が現実味を帯び始めた。
(状況確認だ。とりあえず俺は知らない世界に来た、と見て間違いない。もしあんな樹が一本でもあったらCO2がどうとか問題になる筈がないし。ていうかあれ、宇宙まで伸びてるのか?)
焦りのせいで少しズレる思考を強制的に戻す。
(いや、そんな事は今は関係ない。問題はどうやって元の場所に戻るか、だ)
家には優しい父とお祭り好きな母、最近兄離れを始めた妹がいる。もし自分が姿を消したら心配するだろう。
英二は正面を見据える。これだけ視界が広いのに、動物すら見かけない。少し寂しさを感じるが危険が無いのはありがたい。
とりあえずは食料と水の確保を最優先だ。
英二は立ち上がって、制服に付いたズボンの汚れを払う。
食料と水、とは言っても、見渡す限りの荒野だ。一体どれくらい広いのか。
世界は静かだ。その不気味な程の静けさが焦りを助長する。
襲ってくる悪い予感を振り払うように、ぱちっ、と自分の頬を叩く。
こんな所で死んでたまるか、と気合いを入れて上を向き、ふと後ろを振り向いた。
「……っとぉぉおお!? あ、あぶなっ」
後、一歩下がれば崖だった。目も眩むほど遠い底には、驚くほど澄んだ滝つぼ。
反射的に情けない格好で倒れ込んだ英二は、まだ心臓がどくどく波打つのを感じながら、とりあえずは水の心配はしなくて良くなった、と安堵した。
しかし、何故気付かなかったのか。さっきから纏わりつく違和感に首を捻りながら少し横を見れば、膨大な水が流れる川。そして滝。長く、空中で細やかな飛沫に変わっている滝。
もう一度、樹を見ると、確かに川は視界に入る。さっきまでは無かったはずの長い、どこまでも続く川が。
まあ、見落としただけか、と半ば無理やり納得しながら、英二は崖から距離を取り、川へと歩み寄った。やはり違和感がある。
思った以上に起伏が無く、川辺にはまばらに石があるだけ。どこか人工的な直線と、自然物が奇妙に共存している。
そして足元に水が飛んでくる距離になって、英二はようやく違和感の正体に気付いた。
音が、無いのだ。
水が叩きつけられる音や、流れる音。そういう当然あるべき音が無く、ただただ静寂だけが流れている。
(何だこれ? 本格的に物語の中にでも迷い込んだか?)
やはり、この世界はどこかがおかしい。
英二はそう思って音の無い水に手を伸ばした。
冷たく、感触はただの水。流れに逆らうように手を動かせば、ぱしゃぱしゃ、と何故かそこだけ水音が上がる。無性に喉が渇く。
巨大な樹。突然現れた川。音の無い水。この世界はおかしい。有り得る筈の無い現象が、英二の思考を不快な棘で締め上げる。
しかし、目の前には水がある。
酷く、喉が渇く。危ないかもしれない、という理性を奪う程に。
「…………大丈夫だよな?」
どこか言い訳がましく呟いて、英二は水に口をつける。
この世の物とは思えない美味。
それを最後に、高宮英二の意識は途絶えた。
そして、ここからが物語の始まり。