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[26404] 【けいおん!】放課後の仲間たち
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/06/28 20:31
 初投稿になります。
 もともとフォレストの方で連載しておりましたが、こちらで皆様方からのご指導がいただけたらなと厚かましい狙いで投稿することにしました。
 文才は無いです。もっともっと鍛錬が必要な作者なので、遠慮なく忌憚ない意見をいただければ幸いです。
 純粋に面白くない、というような意見でも結構です。

 尚。けいおんに男性のオリキャラを加えた二次小説になりますので、苦手な方もいるかと思います。
 原作の形で上手くまわっている中に無理矢理オリキャラを投入する事への違和感が感じられるかもしれませんので、あらかじめご了承ください。


 H23年・4月7日にチラ裏から移動しました。




 にじファンの方でも投稿しております。そちらにはオリキャラのイラスト、または挿絵があります。

  絵は作者自身が描いているものではございません。
 pixivにてイラスト公開されている「けい」様。

 オリキャラ紹介にてベースを持ったパツキンの夏音イラストのみ「しろ」様に描いていただきました。

 個人HPの方に明記していたので、うっかり忘れておりました。申し訳ございません。
 作者の絵心は皆無ですので!

「いつか眠りにつくまでに……」というサイトで連載しておりました。
 そちらにも挿絵や設定絵などがございます。

 オリキャラに少しでも興味が湧いたなら、ごらんください。


 ※作中の法律関係など、都合の良い風に変えている部分があります。運転免許などに関しては、他国で17歳で四輪免許を取ったとしても、日本では通用しません。
 



[26404] プロローグ
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/06/27 17:44

 桜舞う季節。花冷えると言われるこの時期の清々しさ、それに騒がしさを密かに孕んだ朝の静寂な空気。
 それらを胸いっぱいに吸い込んで歩く一人の少年がいた。
 鮮やかな桜並木の通りの中、黙々と歩みを進める少年は、そんな世界の有り様など気にもかけていないかのように視線を下げている。
 ひたすら俯きながら、足下の虫の一匹でさえも踏むまいかとしているかのように。
 日本の学校に用いられる制服と判る装いをしているが、この国では彼のような容姿の者が日本の制服を着ていると目立つ。現に彼とすれ違う中には「おや?」と首を傾げる者が大勢いた。
 やがて少年はうつむいた顔をようやくあげる。
 そこには西洋的な彫りの深い、端整な顔があった。肌は陶器のように白く、職人が磨き上げたような滑らかさが光る。
 完全に開いていればぱっちりと形が良さそうな瞳はとろんと眠たげに閉じかけている。
 欠伸を噛み殺しながら少年は大きな通りに出た。

 通りに出ると、彼が着ている物とデザインが似通った制服を纏う少女たちが何人もいた。
 その大方の者が一様に彼に視線を奪われて、吐息を洩らす。

「……今の人、見た?」
「見た。外国の子……だよね?」

 そんな会話が端々でなされている事など知らず、いまだ彼は歩みを止めない。目的地へ向かうまでに彼が周りを気にかけるそぶりは一切見られない。
 それからしばらく歩き、やがて彼は目的の場所へ辿り着いた。
「桜が丘高等学校」
 東京にごく近い、いわゆる郊外と呼ばれる地域に門戸を構える由緒正しき私立の高校である。真新しい制服を着た生徒たちが、チラホラと広く構えられた校門を通り抜けていく光景が目の前にある。
 校門の前に佇む少年の顔はどこか憂いを帯びていた。さらりとこぼれる髪を一房さらい、これから足を踏み入れる校舎を見上げる。

 少年は半開きだった瞳を徐々に押し広げる。青空のような色をした瞳に目の前の光景を映し出すと、彼はきゅっと眉を寄せた。
「ヤンキー……いないかなあ」
 深い溜め息と共にぽつりと漏らした。


 立花夏音は人とは少し異なる人生を送ってきた。
 まず彼には才能がある。
 素晴らしい音楽を紡ぎ出す天賦の才。
 常人には持ち合わせない感性をもって、それを生業として生きる類の人間である。わずか十七歳で、世界最高峰のベーシストの一人と言われる黒人ベーシスト。クリストファー・スループのファミリーの音楽一家の一員として、プロの音楽家として世界に名高い功績を挙げている。
 彼は一年前まで、確かな栄光を背負って輝かしいステージの中に生きていた。アメリカ全土にその名を轟かせただけでなく、世界にまで広く存在を刻んだはずだった。
 そんな彼がどうしてこの場所に立っているのか。
 原因はあまりにも多く、深い。
 どこを原因と呼べばよいのか。どこからが始まりであるかは実に定めがたい問題であったのだが……あえてここで言うとすれば一つ。

 ヤンキーであった。


 夏音の父親は、世界をまたにかけるプロのドラマーである。その昔、渡米したばかりの彼はアメリカ人の母と電撃婚を決め、夏音が生まれてからはずっとアメリカを拠点に活動してきた。
 しかし、ある日を境に彼の故郷である日本に帰りたいと言い出したのである。突如たる心変わりに当然のごとく周囲は揺れ動く。
 結果として、既にプロとして経験が長かった夏音も、とあるメーカーとの契約更新に待ったをかけることになった。
 これは決して転勤の多いお父さんに迷惑を強いられてきた子供の物語……などではない。

 ある日、父は気軽な態度で息子に問う。
「夏音………日本、行かなーい?」
 息子、答える。
「いーよー」
 という具合に、周囲のパニックも何のその。一家そろって放たれた矢のごとくアメリカを飛び出してきたのだ。

 見た目はまるっきり白人の夏音であるが、日本とアメリカのダブル。両親、特に父親の教育方針によりしっかりとした日本語を身に付けていたおかげで会話に苦労することはなかった。これといった問題もなく日本の高校に転入するこができたのである。
 未だ経験したことのなかった日本の高校生活がいかなるものか。胸をドキドキいざ踏み出そうとしていた矢先のこと。
 手を抜いて、投げやりな基準で選んだ転入先の学校は、地元では有名な不良校。
 時代錯誤も甚だしい古今東西のヤンキーの巣窟であった。
 とはいえ。いつの時代も女子というのはミーハー根性上等の生き物である。お人形のような容姿の転校生は瞬く間に女生徒から人気が出る。
 ちやほやされて悪い気分がするはずもない。夏音はすんなり日本の学生生活に溶け込めたと意気揚々としていたのだが。
 そこにヤンキー。
 不幸なことにヤンキー集団の頭に目をつけられてしまった。その頭がゾッコン夢中だった女子生徒が夏音を可愛がるようになったからだ。
 もちろん、彼女も男女間の感情を持っていた訳ではない。彼はいつもどうしてか恋愛に発展するような存在として扱われず、例えばそれは女の子がお気に入りの人形やペットを愛でるような感情だったのだが、そんなことは関係なかった。
 頭の勘に障った。
 その時点で、夏音はアウトだった。ゴートゥーヘル。

 日本では古よりヤンキーと呼ばれるギャング集団がいるという噂が本当だったのだと痛感した夏音は、入学して一ヶ月も経たないうちに登校拒否を決め込んだ。
 ガッコーコワイ。ヤンキーコワイ。
 こうして眉目秀麗なダブルの少年は、日本で生活を始めた早々にひきこもり生活を余儀なくされるのであった。

 ひきこもりの上に、どこをどう間違えたのか。彼は日本のサブカルチャーに広く深く触れてしまい、世間でo.t.kと呼ばれる人種へと昇華してしまった。
 基本的に放任主義で楽天的な立花夫妻も、さすがに一転してプロのミュージシャンから、不登校オタクへと変化した息子を放置しておくのはまずいかもしれない、と気付いた。
 ちなみに、この夫妻がその考えに至るまでに一年の時間を要した。

 説得には夏音の母であるアルヴィが行った。
「夏音ちゃーん。ちょっといいかしら~?」
「何だい、母さん?」
「あなたもそろそろ学校生活を再開してみる気はないの?」
「…………母さん」
「ママ、夏音に何があったかはわかるわ。でもねずっとこのままの状態も良くないと思うの。だから別の高校に行ってはどうかしらって思うの」
「………俺もそろそろかなと思っていたんだ。日本は素晴らしい。俺だってやれるに違いないんだ。とら〇らとか、ハ〇ヒとか、らき〇すたみたいな高校生活を送れるはずなんだ。リア充ってやつになれる可能性は俺にもあるんだよね!?」
「もうあなたが話してる事が理解できないけど、そんなことはいいの………わかってくれたのね夏音!!!」
「イェー、マム!!」
 母と子は、かたく抱き締めあった。
 思えば、親子がこうして抱き合うのも久しぶりのことであった。少し放っておいた内に我が子の脳内に巣くい始めた新たな知識など母は知るはずもなかった。
 一年という歳月により、さらに日本のサブカルチャーによって頭が毒されてしまった夏音少年であったが、こうして心機一転して十七歳という年齢で高校一年生をやり直すことになったのである。


 夏音は数分間のうちに、ここに至るまでの回想を終えた。
 今日、ここ私立・桜ヶ丘高等学校では入学式が行われる。

「女の子ばかり……どうやら、本当にヤンキーはいないんだね」

 このことは、まさに話に聞いていた通りで夏音は胸を撫で下ろした。
 母の話では、去年までこの高校は女子校だったらしいのだが、昨今の生徒数の減少。古い木造の校舎にかかる補修費等の問題で、今年度から共学に変わったのだそうだ。
 その際には、学校側によってあらゆる水面下での活動努力があったらしいがその甲斐むなしく、目標数の男子生徒の入学は得られなかったらしい。
 そのような事情のもと、上の二学年はまだ女子生徒しかいないし、男子生徒は少ないという両親が見つけた最高の学校の環境は、トラウマを抱える夏音でも安心なものとなっていた。
 再度、周りを見渡しても男子生徒の姿は確認できない。
「いける……今度こそ、俺はリア充になれるんだ」
 この“リア充”という単語は、彼がこの一年で覚えた日本語の一つである。
 「今度こそ」と言っているが、一年前の彼は純粋に日本の高校生活を楽しもうという希みを抱いていた一般人の思考を持っていた。日本の文化よ、あな恐ろしや。

「それにしても、早く来すぎちゃったかな」

 校舎の側面に付いている時計の時刻を見て、苦笑した。
 かといって、することもない。
 入学のしおりには、入学式当日で新入生はまず教室で待機ということだ。教室へ向かおう、と決めた夏音は自分の所属クラスを確認して上履きに履き替えて教室へと足を運んだ。

 夏音は静かに開けた教室のドアをくぐってそろりと教室に足を踏み入れた。
 一人きりの教室。
 窓明かりに浮かぶ教室。
 整頓された机。微かに埃っぽさ。
 夏音には、それがとても新鮮に感じられた。
 これが日本の学校、教室。

 早朝のこの独特な雰囲気はなんだろうか。何か、味わったことのない感覚に胸がきゅっとなる。
(以前はゆっくり味わう暇なんかなかったしな…………ううっ)
 思わず夏音の頭に暗黒の歴史が思い浮かび、ブルリと寒気が走った。
 すぐに頭をふってそれを打ち消す。足を進めて大きく教室を横切り、窓際に近付いてみた。窓から見下ろすと、チラホラと登校する女子生徒たちの姿。
 夏音は窓を開けて、窓際に腰をかけてその光景を眺めた。
 爽やかな風がふわりと入り込んできて、頬がゆるむ。
 あの人たちの中に、自分と仲良くしてくれる人がいるかもしれない。
 はたまた、この中の誰がいつフラグとやらを立ててくるのか…………夏音はぶるりと武者ぶるいをした。



 日本人形のように長い髪を揺らしながら、一人の女子生徒が歩いていた。
 少女はこつこつと音を鳴らしながら、真新しいローファーでアスファルトを踏み歩く。
 少女の胸には、期待と緊張を胸の中で跳ね回っていた。目の前には、入試の時以来の校門。
 すぅ。深呼吸。深く息を吸ってから桜高の校門をくぐった。
(私もいよいよ高校生か……高校生……コーコーセーコワイ……いや、でも何かとても大事なものを見つけたいな。見つけられるかな……その前に人見知りな私に新しい友達とかできるのかな?)
 校舎までの道をそわそわと歩きながら複雑な表情をしたり、はたまた笑みを浮かべたりと忙しない彼女であったが、ふと、どこからか視線を感じた。

 顔をあげると、二階の教室からこちらを見つめてくる人物がいた。

 少女は自分の足が止まっていることにしばし気付かなかった。

(綺麗な人……)

 一も二もなく心の中でそう漏らした。実際には、小さく吐息が漏れた。
二階のどこかの教室の窓からこちらを見下ろす人。
 風に梳かせている髪は遠目にもさらさらとツヤのある絹のようなさわり心地を想起させる。
(綺麗な人だな)
 少女は気付かずにその人のことをまじまじと見つめ返してしていた。
 それからすぐに自分を取り戻す。
(け、けど何でこんなに見られてるんだーー!?)
 視線そのものが熱を帯びているようだ。


 一方、夏音は自分の視線の先にいる黒髪の長い少女を見つめながら感激していた。

「すげー。ジャパニーズ人形みたいだね」
 少女は顔を真っ赤にして、つんのめるようにして校舎に入っていった。
  


 日本の学校の独特のベルが鳴り響く。
 日本における夏音の人生二度目の入学式が終わり、下校の時刻となった。
 慣れない行事を終え、どっと疲労が襲ってきた。凝り固まった肩をほぐしながら校舎の玄関を出たところ、やけに活気がある声が行く先を阻んでいた。
 見ると校舎から門までの空間に人がひしめき合っていた。
 桜高では毎年恒例の、部活勧誘の光景だ。一斉にビラを配る彼女たちの熱気が新入生を圧倒している。
「茶道部に興味はありませんか~?」
「柔道部ーー」
「見学やってまーす」
「そこのあなた、演劇に興味は!?」
 あちこちで勧誘を呼びかける大声がひしと飛び交っている。
「部活……部活か」
 夏音は部活には入ったことがない。変わった部活に入ってみるのも一興かもしれない。そう考えたところで、彼には録画していた深夜アニメの事を思い出した。
「いけない。忘れていた」
 上級生たちによる下級生めがけての押すな押すなの勧誘の中をきびきび走り抜けた夏音はさっさと帰路についた。
 通学路を歩いていると、早くも新入生同士で帰っている生徒がちらほら。
 自分に一緒に帰ろうと話しかけてくれる人はいなかった。
「あの外国人キャラで通してもいいのかな。掴みとしては最高だと思ったんだけどなー。そういう作品だと大抵……うーん、おかしいなあ」
 


 夏音に日本人形のようだ、と内心で評されていた少女――秋山澪は学校からの帰り道をぼーっと歩いていた。
 今朝、窓際から目があった美女―ーこれが驚くことに男であった――と同じクラスになったのである。
脱兎のごとく校舎に飛び込んだ彼女は、息を整えながら自分の教室へ向かっていた。
 教室へ近づくほどに、もしかして先ほどの美人さんがいた教室に近づいているのではないか。あげく同じクラスではないだろうかという考えがわき起こってくる。
 具体的に何かしでかした訳ではないが、何だか恥ずかしいところを見られてしまったような気がしたのだ。顔を合わせるのが恥ずかしいくらいには。
 歩いているうちにそんな妄想が止まらず、心臓がどきどきと鼓動を増してくる。
 いざ教室の扉を開けると、数人の女子生徒たちが離れて机に座っていただけで、その姿は見当たらなかった。
(もしかして、隣の教室だったのかな)
 まだ校舎の地理や位置関係を把握していないだけに、勘違いをしていたのかもしれない。
(な、何を焦ってたんだろうな)
 ガッカリしたような、ほっとしたような心持だった。 
 と思っていたのも束の間。
 初めて顔を見る担任が時間より早く教室に入ってきたところで、生徒もほとんど揃っていた。
 その頃、社交性のある生徒などは初対面であるにも関わらず、すぐにも後ろや隣にいる生徒とおしゃべりを始めていた。
 ざわざわと騒がしい中で、澪も小学校のころから一緒の親友・田井中律との他愛もない話に興じていた。
 ふと律が教室の入り口の方に顔をやってから、興奮して澪の肩を叩いてくる。
「なあ! 今入って来たヤツ見たか澪ー? 外人だよ外人!」
 呼吸が止まりそうになった。
「うわーあの顔で男なのか……ほんとにいるんだなーああいう人」
「あ、あ、あの人……!!」
 今朝の美人、来襲。
 実際に襲ってきた訳ではないが、その人物の登場はよほどの衝撃を澪にもたらした。
「ん、なに知り合い?」
 澪の過剰な反応を見た律は、澪のくせにめずらしーなとがっつし興味を惹かれたように目を丸くする。
「い、いや! 外国の方かなぁーと」
「本当の外人がこの学校に入学するわけねーだろ」
「そ、それもそうか。ダブルなのかな」
「むぅー? そんな気になって……も・し・か・し・て?」
「違う! バカ律!!」
 決してそんなつもりではない。澪は全力で否定したつもりだが、そんな態度が逆効果になって。
「ムキになるところがあーやしーなー」
 額に青筋を浮かべた澪は、すみやかにその口を黙らせた。
 こんなやり取りも、この目の前の幼馴染とは慣れたものだ。不本意ながら、彼への意識はそんなやり取りに埋もれてしまった。


 入学式を終えてHRの時―――。
 
 どの時代、どこの学校でも必ずといってあるお決まりの自己紹介の時間があった。
 1・名前
 2・出身
 3・趣味
 などをその場で立って発表するというものだ。
 澪は自分の自己紹介を終え、他のクラスメートが順繰り自己紹介をするのを緊張して聞いていた。彼の番が近づいてきた。 
「カノン・タチバナ、デス。アー……アッメリカからやってキマスタ。ヨロシクオネガイシュマ……あっ……ス」
(片言!!?)
(外国人……)
(やっぱり帰国子女とかかな)
(いい男の娘……じゅるり)
 その容貌から目立ちまくっていた彼が喋り終えると教室中の人間がいっせいにどよめいた。
 澪も例に洩れず、唖然としてしまった。
 そんな生徒たちの反応を見て、担任がすかさずフォローをいれた。
「あぁー、立花君はいわゆる帰国子女ってやつだ……が、こんなに日本語できなかったっけな……まあ、日本についてまだ不自由な点が多いだろう。みんなで助けてやってくれ」
 それで皆も納得したようで、その場の空気は流れかけようとしていた。
 彼が自己紹介を終えて、座ろうとしたところで担任が彼に声をかけた。
「あ、趣味を言うのを忘れとるぞ。あー……テル・アス・ユア趣味~……しゅみ……あっホッビー!」
 担任のぼろぼろの英語に反応した彼は、「hobby?」と呟いてしばらく考えた後。
「Music, thank you」
 と言って座ってしまった。その後、まばらな拍手。
 最後の一言に澪はどうしようもなく反応してしまった。
 趣味が音楽、ということは楽器をやっているともとれるし、聴く方専門ともとれる。
 どちらにしろ、アメリカで育った彼の音楽の嗜好はどんなものなのか。
 いつか、そんな話ができるかなと澪は思った。



「立花夏音……か」
「澪~? ちゃんと聞いてんのかー?」
「あ、あー聞いてるよ。苗字にゲイって入っている外人の悲愴な人生についてだろ?」
「ちげーよ!! それ、さっき話したやつ!」



[26404] 第一話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/12/25 01:14
 夏音は自分がアメリカの土を最後に踏んだのはいつだったかと思い返す。彼が日本にやって来てから既に一年以上が経つ。随分と遠い国に来たものである。人生の九割以上を過ごした場所から遙か遠くに位置する小さな島国。些細な事からその生活に不安を感じることもある。
 習慣、文化間のギャップ。人によっては異国間の些細な違いが時には多大なストレスになることもあるという。
 しかし、彼にとっては些末ごとに過ぎない。そんなことはどうでもいいのだ。
 彼が日本で暮らす中で悩ましい事と言えば、今でもこちらの時差を考えずに電話を入れてくるエージェントに他ならない。
 あまりにしつこいので辟易としてしまい、電話がかかる度にぺらぺらと言葉をまくしたてて、煙に巻かなくてはならない。口ばかりが上手くなってどうするのだろうか。

 さらに新生活とか節目の時期には多くの変化が巻き起こる。夏音が私立・桜ケ丘高等学校に入学してから一週間と数日が経ったところである問題が発生した。

 まず、両親が出て行った。
 別に家庭崩壊という危ういキーワードはここでは出てこないので安心して欲しい。

 ある日、珍しく全員がそろった夕食の席での事だ。

「夏音も日本にはだいぶ慣れたよな。また、仕事の方を以前の量に戻していこうと思うんだ」
 から揚げを頬張っていた夏音の父、譲二がふと真剣な表情で箸を置いてそう切り出すと、母のアルヴィがにこやかにこう添えた。
「ママもいっしょ」
 夫大好き人間の彼女のことだ。
「うん、大丈夫。俺は心配ないからどーぞいってらっしゃい」
 夏音は別に両親がいつ出て行こうが大して慌てる必要もないので、冷静に切り返した。そもそも、日本に来て家族で一緒に過ごした時間も多いとは言えない。もともと仕事の関係上、一般の家庭比べて家族団らんの時間は限られる。そんな家庭だった。
 今さら断るような話でもない。
 家族の暗黙の了解なので、二人にとってもこれはただの報告でしかないのだ。
 夏音に流れる血の本家大本の両親が音楽無しに生きていけるはずがない。自分にも言えることだが、彼らの場合は次元が違う。
 彼らは仕事としてではない、いわば趣味の域などでおさまるような類の人間ではない。趣味の範囲で出会えるような人々では満足たり得ないのだ。
 やはりあのステージに。限られた者がのぼることのできるあのステージにいなくてはならない。
 だから、ここで彼らを引き留めるという行為ほど無駄なことはないのだ。
 加えるなら夏音はいつでも一人暮らしを開始できておつりがくる程度の家事を叩き込まれているので、衣食住にいたっての心配も皆無だった。
 それでも唯一の気がかりといえば。
「じゃあさ。あのドラムとか持っていったりするかな?」
「いーや、あれはお前が好きに使っていいよ」
 なら、問題はなかった。夏音は家族共有のスタジオに設置されてあるドラムセットがお気に入りだった。

 翌朝、夫婦は文字通り飛び立っていった。
「アディオス、息子よ!」
「元気でねー! 電話するからねー」
 よく晴れた爽やかな早朝に、いつもエネルギー全開の両親の声が閑静な住宅街に響いた。
 寝巻き姿で、寝ぼけ眼のままそれを見送る夏音。
「アーーチュ!!」 
 くしゃみをしても一人。


 何より問題は二つ目だ。友達ができない。
 夏音は人間、第一印象が大事なのだということを誰よりも深く肝に銘じていたはずだった。過去の痛い経験も新しい未来へ進むための定石となれば良い。
頑張って、友達をつくるぞ。
 そんな決意を新たに踏み入れた高校生活アゲイン。
 入学式の自己紹介を終えて以降、日本語があまり話せない帰国子女という位置に落ち着いてしまった夏音は、クラスでも浮いた存在になってしまった。孤立ともいう。

「俺って奴は……また、やっちゃったのか」

 クラスメートはこちらが挨拶をすれば、しっかり同じように返してくれる。最初の方は好奇心もあってか、数人で夏音を取り囲むこともあった。
 しかし、夏音がしょっちゅう言葉に詰まったり、すぐ英語で問い返したりするようになると、相手はきまって「あわわわわ……」と狼狽えてから、おぼつかない英語で「パードン」か「ソーリー」ばかりだ。すごくバツの悪そうな表情で言うものだから、夏音の方こそ罪悪感マックスである。
 しかし、夏音には何よりも不可思議な点がある。会話する時、じーっと相手の目を見詰めると大抵の相手は顔をそらす。夏音は皆が何で自分と目を合わせてくれないのか不思議だった。
 前の学校でも。道行く人でさえも。会話する相手に対して失礼な話である。
 もちろん中には非常に気立てがよく、いわゆるノリがよい者もいてむちゃくちゃな英単語の羅列を駆使して会話を成り立たせてくれる者もいた。
 加えて大方の教師陣は授業中に夏音を指名するのを避けているようなのだ。「あ、その問題わかるぞ」と夏音の瞳がきらりと光ると、存在を無視される。揃いも揃ってそれが暗黙の了解のように。
 それだけなら、まだいい。
 そんな孤立した学校生活のなかでも、際立ってランチタイムが厳しい。
 日本の生徒は、与えられた自分たちの教室内で机をくっつけ合い、グループを形成して弁当を食べる習慣があるようだ。
 もちろん夏音はその輪の中に入ることができず、かといってぽつんと教室の隅で一人さびしく弁当をつっつくしかない。はっと思い立ち、アニメなどで必ず出てくる憧れの屋上はどうだと向かうと、施錠されており立入禁止であった。屋上は孤立した生徒の味方ではなかったと現実を知った。
 そんな馬鹿な。こんなの予想外である。自分は何一つ悪い事はしていないはずなのに。
「友達作る才能がないのかな……」
 その前に根本的な部分に気付くべきなのだが、彼がそこに気付くことはなかった。
 アニメや漫画のようにはいかない現実の難しさを身に染みて痛感した夏音であった。

 そんな中、夏音は周りの生徒たちの多くが部活動という単語を話題に出しているのを耳に挟んだ。そういえば、と思い出す。
 スポ根ものに代表されるように、日本の学生生活では部活動が割と重要な部分を占めるらしい。どこの学校も強制ではないが、生徒に何らかの部活をやることを勧めており、学校によっては強制的に部活に入らなければならない所もあるそうだ。
「ねえ、姫ちゃんどの部活はいったー?」
「一応ソフト部に仮入部した」
「えーマッジー? きつそー!」
 などという会話が端々で発生している。夏音は耳をダンボにしてそれらの会話をとらえた。
 部活動。そこでは、クラスとは別の集団が形成されている。
 つまり、また一から自分を出していける機会がそこにはあるということだ。
「部活か……。やっぱり入ってみようかな」
 そういえば、夏音は入学式に大量に配られたプリントの中に小冊子になって文科系、体育会系の全部活動の紹介が載ってあるものがあったのを思い出した。そして、いらないプリントと一緒に燃えるごみの日に出してしまったことも。
「ちゃんと確認しないで捨てちゃったからな。職員室にいけば、くれないかな」

 善は急げという。夏音は職員室に出向くことにした。決して狭くはないが、全教員が一つの部屋に詰まっているという職員室。くさい。コーヒーの匂いが充満している室内に入ってクラスの担任の姿を探す。
 夏音がきょろきょろしていると、メガネをかけた女性の教師が話しかけてきた。
「あら、誰かに用事かしら?」
 こちらを警戒させない柔らかい笑みを向けられ、夏音はこの人でも良いかと用件を話した。
「部活紹介の冊子が欲しくて」
「なくしちゃったの?」
「……捨てちゃいました。あ、きちんと資源ゴミですよ」
 決まりが悪そうに言うと、その女性はくすりと笑ってすぐにプリントを探してくれた。
「よかったわー余っていたみたい。はい、これでいい?」
「あ、それです。ありがとうございます。あ~、Ms.名前は?」
「山中さわ子よ。主に音楽を教えているの。ちなみに吹奏楽部の顧問をやっているから、興味があったら見学に来てちょうだいね?」
「ええ、ぜひ」
 夏音は笑顔で冊子を受け取ると、さわ子が「あら?」と夏音の手をじっと見て口を開いた。
「もしかして、あなた楽器とかやってる?」
「はい? やっていますよ。わかりますか?」
「まあ、手を見ればねぇ……ハッキリしてるしあなたの場合。ね、ひょっとしてベースとか?」
 夏音は面食らった。手を見ただけで、楽器まで見抜かれてしまうとは。確かに分かる人にはその人の手を見ただけで察してしまう人もいるかもしれない。
「ご名答です。山中先生も何か楽器を?」
「え、ええまあ。それじゃ、私は仕事があるから」
「お時間とらせました。失礼します」
 やけに焦った様子の彼女を不思議に思いながら職員室を出ようとした時、ちょうど職員室に入ってきた生徒が目に入った。同じクラスの女子である。
 夏音は思わぬところで遭遇したことに目を丸くした。向こうも同じように目を丸くして瞬かせた。
 双方が黙ったまま、しばらく見つめ合う。
「ハイ」
 夏音はとりあえず挨拶した。
「ハ、ハイーー!!?」
「オイ澪、テンパりすぎ」
 髪が長い方の泡を食ったような反応に片方がつっこむ。
「失礼」
 夏音は軽く頭を下げて、少女達を横切って職員室を後にした。

「あのハーフくん。何の用だったんだろうなー」
「さあな……あ、律。今はダブルって言った方がいいんだぞ」
「ふーん」
 少女達はまだ話したこともないクラスメートの後ろ姿を目で追っていたが、彼が扉の向こうに姿を消すと本来の用事を済ますことにした。
 

「え……廃部……した?」
 カチューシャをつけた利発そうな少女――田井中律はたった今告げられた事実に愕然とした。
「正確には、廃部寸前ね。昨年度までいた部員はみんな卒業しちゃって。今月中に五人入部しないと廃部になっちゃうの」
 おっとりとした雰囲気を崩さず、さわ子は気の毒そうに言った。
「だから誰もいなかったんだ、音楽室~」
 ひどく落胆した様子の律の悲痛な声が地面に落ちる。さわ子は彼女にかけるべき言葉を口に出しかけたところで、自分を呼びにきた生徒に気付いて時計を見た。
「ごめんね。次、音楽の授業あるから……」
 そう言って席をたつと、最後に思い出したように二人の方を振り返った。
「そういえばさっき話していた綺麗な子、知り合いかしら?」
「え。あのダブルの人ですか?」
 先ほどから興味なさそうに後ろで立っていた長髪の生徒―――秋山澪―――が咄嗟に反応した。
「そう。彼、楽器をやってるみたいよ。校内で見かけたら誘ってみればいいんじゃないかしら。それじゃあ頑張ってね、軽音部!」
 残された二人は思わず顔を見合わせた。

 職員室を出た後、興奮した口調で律が澪の肩を揺する。
「あの人も楽器やってるんだってさー。何の楽器やってるんだろうな」
「でも、数にいれても二人足りないだろ……よし、やっぱり廃部ならしかたないな。私は文芸部に入ると――」
 澪がほっと胸を撫で下ろした様子で親友を置いていこうとした瞬間、律が澪の首に強引に手をかけた。
「な、なあ澪。いま部員が一人もいないってことは、私が部長……? 澪は副部長かなー?」
 澪は「悪くないわねーふふ」などと調子に乗っている友人にたまらなく悪い予感がした。
 大抵、こういう目つきをした彼女の側にいると良い結果にならない。主に自分が。
「だ、だから私はまだ入ると言っていないぞ!」
そして、えいやと律の手を外して逃げた。すぐに追いつかれたが。
 

 その日、授業がすべて終わってからすぐに帰宅した夏音は、自宅の居間のソファでくつろぎながら受け取った小冊子のページをめくっていた。
 どうやら文科系、体育会系と様々な部活動、同好会が桜高にはあるようだ。
 漫画研究会、オカルト研究会、ミステリー研究会。
 茶道部、華道部。
 テニス部、ソフトボール部。
 合唱部、アコースティック同好会、ジャズ研究会、軽音部……。

「ん……けいおんぶ…? なんだろこれ」

 軽い音楽……。

「light musicのことか?」
 中でも、引っかかった見慣れない言葉。
 ジャズ研と分けられているくらいだ。どんな音楽をやる部なのだろうか。
「バンドか・・・・・・友達とバンドをやるって、どんな感じなんだろう」
 
 いつも大人たちに囲まれていたから、夏音はその感覚を知らない。
 学校の友達同士で気軽に楽しく音楽に興じるということ。金銭も、評価も、しがらみも関係なく純粋の音楽を楽しめるというのだろうか。
 そんなことを考えていると、少しばかり罪悪感が生まれる。
 色々なものを振り切ってプロとしての活動を自粛している自分が暢気に音楽クラブなどに所属してもよいのだろうか。
 何をやっているのだと、向こうで共に育った友人に怒られないだろうか。これでベースの腕がなまった等とブチギレられると目も当てられない。
 その心配はないと思いたいが。いかなる状況にあってもベースを弾かなかった日はない。ひきこもり中も。
 むしろテクニックだけは磨きがかかったと言ってもいいくらいだ。

 複雑な気持ちに胸がもやもやしてきだしたが、

「でも、気になる」

 ぱたりと小冊子を閉じる。

「週があけたら見学にでも行ってみるかな」


 そのころ、軽音部。
 軽音部を復活させようと活動していた二人は新たな仲間を獲得していた。合唱部に入ろうとふらっと音楽室へ迷い込んだ琴吹紬をくわえ込む事に成功したのだ。
「あと二人集めれば……いよーーし、やったるぞーー!!」
「けど……あと二週間で集まるかな」
「この際、楽器経験者でなくてもよいのでは? ボーカル、という形でもいいのですし」
「まー、とりあえず部員はそろってないけど部としての活動はやってもいいよな!」
 友人の言葉に、澪もうなずいた。
「そうだな! そうとなると、月曜日までに機材を持ってこようか」
にこにこと会話を聞いていた琴吹紬――通称ムギ――が疑問を呈した。
「あ、でも二人ともそんな重いもの学校まで運んでこれる?」
「あー……台車とかに積めば……でも学校まではきついかー」
「あ、私もアンプも持ってくるとなれば少しな……」
「あの~。もしよろしかったら明日、私の家の方で車を出しましょうか?」
「い、いいのですか紬さま!?」
「もちろんです」
 
 にっこり微笑んだ琴吹紬の笑顔にときめいた二人だったが、まだ彼女たちはこの麗しい少女のスケールの恐ろしさを知らなかった。
 翌日、それぞれの自宅に迎えにきた長い長い異次元の車を見た二人が青ざめたのは別の話。

 

 夏音は少し憂鬱気味であった。
 週があけた。相も変わらず仲の良い友達はできない。

「立花君、あーー……この問題、解けるかなー? いや、解けるよな、うん。じゃぁ、田井中ーこの問題解いてみろー」
 代わりに、夏音の横にいる女子生徒が当てられた。

(ごめんなさい田井中さん)

 一部の授業中にパターン化してきたこの流れに夏音は頭を悩ませていた。
 英文朗読の時のように迷いなく指名してくれる教師が少ないのだ。学校側がどのような認識を教師陣に広めているかは知らないが、言語の壁を必要としない教科にまで影響が出ている。
 ちなみに、今の授業は数学である。
 さすがに呆れたが、どうにもままならないようだ。 

「えーー!? 何で私ですか?!」
 そう言って、理不尽をくらった彼女が夏音を睨む。
(俺のせいじゃない俺のせいじゃない。にらまれても困る)
 恨みがこもった眼差しはかなり居心地が悪く、夏音はすっくと立ち上がる。
 そのままクラスが見守る中、黒板に書かれた問題をすらすら解き、そのまま黙って席に戻った。
「せ、正解だ……正解だぞ立花!!!」
 数学教師は丁寧に拍手までつけてきた。
(俺は、猿か何かとでも思われてるのだろうか)
 憮然とした顔で席に戻った夏音は自分を睨んでいた少女の様子を窺った。彼女は少し意外そうな顔で夏音を見つめてきた。
 夏音は名前を知ったばかりの彼女にふっと微笑みかけた。

 ぴくりと跳ねる彼女の眉毛。その表情はお世辞にも好意がこもっているとは言い難く、激しく不興を買ってしまったようだ。
 夏音には、いったいぜんたいどうして彼女が気を悪くしたのか理解できなかった。
 そこには、きっと誤解があるはず。
 しかし、視線のやり取りだけで弁明などできるはずもない。

「はい、次この問題解いてみろー田井中ー」
「って結局当たるのかよっ!?」

 彼女の解答は不正解だった。 



 夏音は肩を落として廊下を歩いていた。
 結局、その後も田井中という少女に話しかけるタイミングは訪れなかった。
 近寄ると肉食動物のような鋭い威嚇の目線を浴びせられるので、話しかけることはおろか近づくこともできなかった。

「またあんな流れはやだな」

 悪い予感しかしない。
 それでも気を取り直して放課後は気になった部活を訪ねてみたりしたのだが、どうもピンとくるものがなかった。話が合うかもと訪れたジャズ研究会も本日は活動を行っていないという始末。
 夏音は残された一つ。軽音部の部室へと足を向けていた。
 軽音部の活動の場は音楽室横の準備室らしい。校舎の最上階にあるらしく、一番階段を上らなくてはならない移動教室の一つだ。夏音は階段の手すりにある亀やウサギのレリーフを撫でながら、こつこつと階段を上っていた。

「おや?」

 階段の途中で、音が聞こえた。
 誰かが演奏している。
 夏音は急いで階段をのぼりきり、扉の向こうから聞こえてくる音楽に耳を傾けてみた。
 どこかで聞き覚えのある旋律。キーボードのぎこちないメロディラインとちぐはぐに絡み合ったベースとドラム。

「………硬い」

 全てが。なんだか恥ずかしくなってくる。初々しいぎこちなさは、決して悪い気分にはならない。
 胸の奥をくすぐられているような、どこか懐かしい香りがした。
 夏音が目を閉じて音を聴いていると、音が止んだ。
 演奏が終わったらしい。

「失礼します」

 すると突然入ってきた夏音に視線が集まる。

「あ」
「ああっ!」

 そこに待ち構えていた人物に、夏音は息をのんだ。
 先程まで夏音の悩みの種そのものであった田井中がそこにいたのである。
 ドラムセットの椅子の上坐しているのを見る限り、今の怪しさ抜群のドラムは彼女が叩いていたようだ。

「や、やるか!?」
「何をだよ」
「いや、何となくだけど」

 よく分からないやり取りを交わした少女達は、明らかに部室に現れた夏音に困惑している。

 涙がこぼれそうになった。夏音には、彼女が今も敵意の視線でこちらを睨んでいるように思えたのだ。
 しかし、少女達の表情は戸惑いや驚きが大きい。

「ここ、軽音部なう。アンダースタンド?」
「!?」
「あ、伝わってない? シッダウン!」
「ええっ!!?」

 『Shit Down(糞しやがれ)』と言われ、度肝を抜かれる夏音であった。こんな少女が口汚く罵ってくるとは思えなかったのだ。

「おい、律! いきなりそれは失礼だろ!」

 ベースを肩から提げた少女がいさめる。夏音は黒い長髪に切りそろえた前髪を揺らしている方にも見覚えがあった。
(お、この子は……)
 レフティのフェンダージャズベースを構えているその子は、クラスメートでもあり、入学式の時に窓から顔を出していた夏音と目が合った瞬間、とても機敏な動きで校舎に消えていった子であった。
 あまりに俊敏だったので、記憶に残っていた。
「あの~。見学の方でしょうか?」
 続けてキーボードの前に立った柔和な雰囲気を持った少女が夏音に話しかけてくる。夏音は彼女の外見を見て、目を瞠った。自分に似た色素の瞳、薄い髪の毛。何となく親近感がわいてしまった。
「ハイ……あー、ここは軽音部で合ってますか?」
「おい、ムギ! この人、あんまり言葉が……」
「え、でも日本語しゃべって・・・・・・」

 外人キャラという先入観は人の認識まで障害してしまうらしい。
 夏音の目が虚ろになりかけたところで、田井中が咳払いをこぼす。

「か、過去は水に流すもの。私をあざ笑った屈辱はとっておこう・・・・・・だが、入部希望者かもしれない、と。とりあえず……」
 三人は顔を見合わせた。
「う、ウェルカム。ウィ、ウィッチ、イズ、ティーオアコーヒーアーユー?」
「……は?」

(お茶かコーヒー?)

「とにかく、見学に来たんだよな!? ムギ、お茶の準備お願い!」
「は、はいっ!」

 いきなり、お茶を振舞われてしまった。

 とりあえず、コーヒーは苦くて嫌いだったのでほっとした。


『じーーーーー』
 そんな擬音が目に見えそうなくらい凝視されていた。変な汗をかいた。顔に穴があくのではないか。
 彼の目の前には高級そうな白磁のティーカップ、その中になみなみと紅茶が注がれていた。
 とりあえず、彼は出されたケーキに目をやる。自然とフォークを持つ手がぷるぷる震えてしまう。
 異性に一挙動を注目されながら食べるケーキ、初めて。
 何とかしてケーキを口に運んだところ。
「wow......I love it!!」
 あまりの美味しさに素で驚いてしまった。小指をたてないように気を配り、紅茶の方も一口すする。これが、渋みが強くて見事にケーキに合うのであった。
「あ、お、おいしいっどす」
 夏音がそう呟くと、お茶を淹れてくれた柔らかい雰囲気の少女が目を細めた。
 しかし、視線をずらすと田井中は夏音をじっと瞬ぎもせずに眺めている。夏音の胃に穴があくまで見詰める作戦だろうかと夏音の背中をつぃ、と冷や汗が伝った。
「あの、さ……立花さん!」
 そんな空気の中、長髪の少女が夏音の名を呼ぶ。
「立花さんは何か楽器とか……あの、その…………ご、ごめんなさーーーーい!!」
 そのままテーブルを割らん勢いで頭を下げた。
 
(あ、謝られた!!?)

 何もしていないのに謝られた。
 謝罪の文化とはいえ、それは行き過ぎではないか。
 謝られるいわれもないし、それを説明するのにこのままではならない。夏音は腹を括った。

「夏音。そう読んでください……父が日本人で、日本語は支障ない程度には話せます。できれば、普通にお願いします」
「……ッしゃべれんのかい!!」
 先ほどから夏音を睨めつけていた田井中が目を剥いた。
「何で片言だったの?」
「いや、なんといいますか……なんとなく? 緊張もしてたし」

 夏音は詰め寄ってきた田井中の剣幕にたじろぎ、おたおたと言葉を絞りだした。
 彼女はふらふらと下がってから、カッと目を開いた。

「疲れるやつ」
「すいません……」

 その場の張りつめていた空気は針をさしたように、一気に抜けていった。
「なんだよ……無駄に緊張した私らが馬鹿じゃんかよー」
 律がぐったりと椅子に座って深いため息をついた。
「で、でもうちのクラスではあまり話さないような……」
「それは……ただの誤解で、しゃべることはできます。誤解が誤解を生んだというか、目論んだ失敗というか……ははは?」
「ははは、じゃねー」
「すいません」
「はー。よくわかんないけど、改めるしかないか。とりあえず自己紹介。私、田井中律。軽音部の部長」

 それに倣うように、黒髪美少女の子も気恥ずかしそうに口を開いた。

「私も知ってる……かも、しれないけど……秋山澪。パートはベースなんかをやっている…です」
「はい……存じております」

 最後に先ほどから紅茶やケーキをかいがいしく振る舞ってくれていた少女がお辞儀をする。

「琴吹紬と申します。キーボードをやっています」
「は、はい」

 三人の自己紹介が終わると、何かを促す空気になった。「あ、俺もか」と立ち上がった夏音は気恥ずかしそうに頭を下げた。

「立花夏音です。ずっとアメリカにいましたが、日本語はある程度できます。楽器は色々やってます」

 実に簡素な紹介だが、淀みない日本語で夏音が改めて自己紹介をすると、小さく拍手が起こった。
 ここに来て、やっと認められた気がした。

 うっすら目尻に浮かんだ涙を拭って彼女たちの歓迎に頭を下げた。

「そういえば私たちの演奏終わってすぐ入ってきたけど、もしかして聞いてたりするの?」
「はい。演奏途中に入るのも悪いと思ったので」
「そうかー。で、で。感想は?」

 期待の眼差しを向けてくる律には悪いが、彼女を喜ばせるような言葉を送ることはできない。

「ああ、はい」
「はい、じゃなくてかんそー」
「懐かしい記憶がよみがえりました」
「うんうん」
「あれは三歳くらいの頃。あんな風にぎこちない演奏してたな、って」
「…………はっきり言う上に嫌みとはやるな」

 ずばり本音だったのだが、嫌みを返されたと受け取って落ち込んだ律をよそに、夏音はふとひっかかっていた事を澪に尋ねた。
「ところで、澪はレフティですけど、色々と大変じゃないですか?」
「え? ええ、いや、まあ……」

 余所余所しい反応である。視線も合わせてくれない。訳が分からないといった表情の夏音へ律が呆れた声を出す。
「あーあ。いきなり名前なんかで呼んじゃうから……特に、うちの澪は極度の恥ずかしがり屋なんだよ」
「え? 名前で呼んだくらいでダメなんですか?」
「あ、立花さんは向こうの習慣が当たり前になっているからではないかしら?」
「向こうの習慣て……あぁ、そうか。アメリカ暮らしが長いんだったなー。なるほどなるほど」
 夏音はぽんと手をついた。
「うーん。あまり同い年で敬称をつけたり、ラストネームでは呼んだりしないかなあ」

 それでも、話したことがない人にはできるだけ礼儀を持って接するようにしている。
 しかし、ビジネスでもない限り、互いに自己紹介を終えたら名前で呼ぶというのが夏音の基準になっていた。

「あ、そういえば日本では最初から名前で呼ぶことって礼儀知らずなんでしたっけ? すいません、秋山さん?」

 自分はどうやら失礼な事をしてしまったらしい、と夏音に頭を下げられた彼女はどぎまぎと目を泳がせた。

「い、いや……澪で、いい。いきなりだったから、つい」
「うちの子、純粋仕様だからさ」
「律!」

 先ほどから見ていて、彼女は律にだけは強気になれるようだった。既に何らかの絆が結ばれているようで、そういうやり取りは見ていると周りを笑顔にさせる。
 拳骨を震わせる澪は夏音にじっと見られていることに気付いて、すごすごと拳を納めた。拳の脅威を逃れた律は彼女から距離をとってから、夏音に言った。

「私のことも下の名前で呼んでいいから!」
「あ、はい。律って」
「わ、私も! ぜひお願いします!」
「あ、はい。紬ですね」
「ムギと! さんはい」
「む……ムギ!」

 夏音は、名前の呼び方一つでこんなやり取りが発生する事がおかしくてならなかった。
 くすぐったく、新鮮なやり取りが終わっただけなのに、何かの通過儀礼が終わったような気がした。
 それでも呼び方一つで一気に距離が近づいたようなように思えるのは気のせいではないはずだ。

「そういえば、夏音は何か弾ける楽器があるって?」
「あぁ、楽器ですか。ベースを主に。ギターにドラム、サックスはもうほとんどできないと思うんですけど、ピアノは母の影響で人並みには」

 小さい頃から周りから与えられるおもちゃは楽器だった。何でもやらされた覚えがあるが、人前で披露できる程に定着したのはそれくらいだった。

「や、やるじゃんー」
「まるで何でも屋だな」
「器用なんですねー」

 三者三様のコメントに気恥ずかしくなった夏音は慌てて手をぶんぶんと振った。

「いや、そんな大したものじゃなくて! ベース以外は、本格的にやっているわけではなくて、誇れるほどでは」
「あ、それより歌はイケる方?」
「まぁ、人に聞かせる程度には」
「それなら、ギターヴォーカルとかもイケる!?」
「ヴォーカルとギター……やれますけど」

 そもそも、夏音はもはや自分が入部することを前提で話が進んでいるような気がしてならない。
 あくまで見学に来ただけだということを忘れられているような。
 
 彼の答えを聞いた途端、三人の顔がぱっとほころんだ。
 「あ、それと」―――と律が切り出す。

「この部活、五人いないと廃部することになっているんだけど、誰か一人くらい心あたりはない?」
「五人……ん、五人?」

 まだ見ぬ部員がもう一人、と考えるほど脳天気ではない。
 そのことは後々触れるとして、律の無自覚な問いかけは夏音の心を正確に抉った。

「心あたり……友達いないから、ありえません」

 突如、夏音の頭上にぶあつい暗雲がたちこめた。その反応を見て律がぱちくりと目を瞬かせると、おそるおそる尋ねた。

「……友達、いないの?」
「お、おい律そんなストレートに!」

 夏音は顔をあげる。その表情を見て、全員が言葉を失った。
 律は、嗚呼―――と目をつぶり、そっと夏音の肩に手を置いた。
 部室が優しい空気に包まれた。

 気をとりなおしたように律が話題を変えた。
「ところでさ……そのしゃべり方なんとかならないの?」
「しゃべり方……だめですか?」

 うっかり沈んでいた夏音であったが、思わぬ指摘にきょとんとした。

「そう。敬語、使わなくていいよ。ほら、なんか堅苦しくって」

 それに同意と澪がうなずく。 

「そうだな。あまり堅苦しくなるのもよくないと私も思う。これから一緒の部でやっていくんだし」
「そう? それなら、そうする。俺もどちらかというとフランクな日本語の方がしっくりくるからね。それより、ねえ律。ずっと気に病んでいたことがあるのだけど」
「ん? なんだ?」
「俺は、君に何をして怒らせてしまったのかな?」

 今の今まで忘れていたらしく、「あぁっ」と思い出した律が憤慨し始めた。

「思い切り鼻で笑われたら、腹立っちゃうだろ? 『ふん、あなたはこんなのも解けないのかしら、お馬鹿さん? オホホ』って言われた気がして」
「No way!! 馬鹿になんてしていない! 誤解だ! あの僅かな間にそこまで読み取る君も大概だけど。そして、何で女言葉なのかな?」
「え、そなの?」
「そうだよ!」
 ぽかんと瞠目した彼女は、ぷっと噴き出して頭をかいた。
「アハハ! 私の勘違いかよ! ごめーん」

 すぐに間違いを認めた律に夏音の肩の力が抜ける。

「はぁ。誤解が解けたようでうれしいよ」
「なんかたかびーな美少女って感じで鼻についたんだよなー。外見で損してるねー」
「外見で得したことはないよ」

 早々に打ち解けている。じゃれあう二人のやりとりに澪が口を挟んだ。

「で、でもずっと誤解されたままでいいの?」
「ありがと。いつかは、どうにかしないとね」
「そう」

 今はどうするつもりもない、とも取れる発言に澪は納得しかねる様子であったが、今この場にある状況は夏音にとって大きな前進であった。

「あ、ところで一番大事な事を確認してなかったんだけど」

 大分打ち解けた雰囲気の中、夏音が笑顔で手をあげる。

「おーなんだー? 何でも聞いてー」

「俺、軽音部に入らないとだめかな?」

 夏音は自分の発言によって茫然自失となった三人の魂が帰るまで数分ほど待った。

 瞳に光が戻ってきた途端、律が口を開く。

「い、いや……ていうか…………入らないの?」

 先ほどから入る体で話を進めてきた一同はここで流れを断ち切るどんでん返し発言にすっかりパニック一色だ。

「てっきり入るものだとばっかり!」
「仲良くなれたと思いましたのに……」
 
 眉尻を下げ、震える瞳で夏音を見詰めてくる彼女たちの姿は罪悪感を覚えさせるほどの威力があった。「うっ」とたじろいだ夏音は何でか自分が悪い事をした気分に陥った。

「ま、待って。入らないとは言ってないだろ?」
「じゃあ、入るの?」
「待って。そうじゃない」
「じゃあ、入らないの?」
「か、考える時間。ジャストアモーメント!」

 夏音は今ここで答えを出さないと、と焦った。しかし、シンキングタイムを貰って呻吟したところで、すぐに答えは出ない。

「ほ、保留でっ!」

 日本人が得意な保留。とりあえず帰ってからじっくり考えよう、と思って絶妙な答えを出したつもりだった。

「……………じゅーきゅーはーちーなーな」
「そ、そのカウントダウンは?」

 目を眇めた律が数え始めた数字はゼロまで間近。

「さーんにーいーち」
「入ります!!」

 その瞬間、歓声が沸く。
 夏音があっと口を押さえたが、もう遅いようだ。

「前にテレビで見た心理学のやつ本当に使えるんだなー」

 見事に夏音の首を縦に振らせた律がぽつりと呟いたのを聞いて、夏音は頭を抱えた。

「いいのかなー。大丈夫かなー」


「とりあえず入部記念に記念撮影―っと」
 ぶつぶつと後ろ向きな言葉を呟き続ける夏音を無視して、律が嬉しそうに笑う。彼女は澪からカメラを奪うと、全員の肩を寄せ合うように指示した。

「笑って笑ってー」

 後日確認した写真の夏音は、想像以上に死にそうな顔をしていて笑えなかったという。



[26404] 第二話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/12/25 01:24

 肩を揺すられるような近くて遠い感覚。夏音はその感覚を遠ざけていたかった。
 このぬるま湯に浸かったみたいな心地よさが消えてしまいそうだから。
 半ば意識が浮上したところで、誰かが自分の肩をゆすっているらしいが、いかんせん自分は眠っていたいのだ。

「Hey! What`s up mom? I`m sleepy now.」
「こら、マムって。誰がお前のお母さんか」
「Huh? ……あれ?」
 目の前にはカチューシャをつけた少女。おでこが目につく。
「まみたん……?」
「……ちょっと寒気がした」
 夏音は数度目を瞬かせた。夏音がアニメにハマるきっかけになった作品の準ヒロイン、まみたん。カチューシャをこよなく愛し、決して離さない彼女はいない。
 目をこすると、そこには田井中律が呆れたような顔つきで夏音を見下ろしていた。
「律がなんでここに?」
 途端に、夏音は額をぺちんとはたかれた。
「こ・こ・は部室! 部活をやる場所であって、ガチ寝する所じゃなーい」
「部室?」
 上体を起こして周りを見渡すと、たしかに音楽室兼軽音部の部室である。いまだ惚けている頭をひねって夏音はとりあえず伸びをした。
「寝ちゃったのか」
 先週、晴れて軽音部に入部した夏音は早速放課後から部室に顔を出すことにした。尻込みしていたものの、入ってしまったものは仕方がない。よく考えれば周りが女の子のみの環境でバンドをやるのも悪くないな、と思い弾む気持ちで部室へ向かったのだ。
 ところが、どうだろう。彼女たちは一向に練習を始めるそぶりを見せるどころか、音楽の「お」の字も見えてこないではないか。
 はて、ここは何をする部活だったかと首をかしげたところで、大変美味なお菓子とお茶に文字通りお茶を濁されてしまったのであった。
 しかし、紅茶を何杯もおかわりできるくらい時間が過ぎても練習をする雰囲気が欠片も生まれることはなかった。
 何もしないなら仕方ない、と襲いくる睡魔に白旗を振ることにした夏音は部室のふかふかソファー(夏音、自主持ち込み品)に体を横たえたのであった。
 そこで意識が途絶えた。ここまで、思い出すのに二秒ほど。

 目をすっと眇めてこちらをじっと見る律に再度あくびを向けた夏音は、ぽりぽりと頬をかいた。
「ごめんよ」
 とりあえず、夏音は謝った。

「うむ、殊勝な態度でよろしい! ここは音楽する場所だからな、ゆめゆめ忘れないように」

 胸を張ってうなずく律は傲岸不遜な態度で身を反らす。あまりに尊大な態度だが、反らしすぎて逆にこっけいだ。

「お前も、何様だ!」

 しかし、そんな彼女も背後から迫る澪に頭を小突かれる。
 律は頭をさすって澪に口をとがらせた。

「なんだよー。澪だって一緒にただお茶飲んでただけじゃんかー!」
「そ、それとこれとは別に……」

 返す刀に思わず顔を赤くした澪であったが、じっと夏音に見詰められていることに気がついた。

「な、なに?」

「練習しないの?」

 痛い沈黙がその場に流れた。
「そもそも、あと一人部員を集めなくちゃないんじゃなかったっけ?」  
 邪気はないが、容赦もない。歯に衣を着せぬ夏音の意見に他メンバーは頭を抱えた。

「お、仰る通りで……ごぜーやす」
 バツが悪そうに言うのは軽音部の部長だった。
「とりあえず、必要なのはもう一人だけなんだろう? 今足りないパートはギター、ヴォーカルだね。俺はどこのパートでも大丈夫だし、こないだはその二つとも引き受けると言っちゃったけどさ。
 新しく入ってくれる人が初心者だった時のことを考慮すると、まだ俺のパートは確定しない方がいいんじゃないかな」

 あまりに淀みない日本語がすらすらと流れる。外人顔の帰国子女に正鵠を射た意見を矢継ぎ早に放たれた彼女たちは、ただ口をぽかんと開けていた。
 返す言葉がないとはこのことである。

「に、日本語上手よねー夏音くんたら」
「そ、そうだな! 堅苦しさもなくなったし」
「その年でバイリンガルだなんて素敵ですね♪」

 夏音はにこりと微笑む。

「お褒めにあずかりまして、ありがとう。俺は別に楽しくやれればいいんだけど……ただ、楽しく………楽しく」
「う………と、とにかく作戦会議だ!!」

 しかし、もう下校時刻だった。
 部室として割り当てられている音楽準備室だが、いつまでも使っていられる訳ではないので、会議は始まってもいないのに延長戦へもつれこむ。
 結局、四人はファーストフード店で話し合いをすることになった。


 マックスバーガー。ローカル規模のチェーン店である。
「Amazing…….この照り焼きhumurger……これこそ最高にクールだ」
「……照り焼き。向こうになかったの?」
「初めて食べたよ!」

 日本に来てからハンバーガーを食べたのは初めてだった夏音からしてみれば、何てもったいない事をしたのだと悔やむほどの事態であった。
 最後にプレートを抱えてやってきたムギはやけにニコニコしながら席についた。
「うふふー」
 頬をおさえて随分とご機嫌な様子のムギに律が何事かと眉をあげた。
「私、ファーストフードのお店初めてで……!」 
「え、マジで!?」
 そんな人種に会ったことない、と律はぎょっとした。
「ええ。『ご一緒にポテトもいかがですか?』って聞かれるのに憧れていたんです……はぁ~。あ、すみません! 始めてください」
「あー、うん。よし! なかなか新鮮な反応が二つも見れたし、作戦会議を開始します」

 議題は、今月中にあと一人部員を獲得するためにすべきこと。

「いったい何を?」
「それをこれから考えるのさー」

 律が何気なくポテトをプレートにどばっと広げるのを見てムギがきらきらとした瞳を彼女に向ける。
 すぐに真似するムギを見ていて夏音はなんだか幼い子供が大人の真似をしえいるみたいだと頬をゆるめた。
「今、入部したらなんかすんごい特典がもらえるとかー」

「車とか、別荘とか……ですか?」

 ムギの何の気なしの発言が周囲の人間を凍りつかせた。
 ぶっ飛んでんなこの娘、と夏音は目の前のぽやぽやした少女の認識を改めた。
 どん引きしつつ、かろうじて律は腹案を出していく。
「すごいけど、それ無理。アイスおごるとか。宿題手伝うとか……あ、英語の予習は全部夏音がやるとか!!」

「めんどい」 

 肘をつきながらコーラをすする夏音はばっさり切る。

「外国にいた奴が、めんどいって言うなよー」
「まんどい」 

 中身がすかすかな会議は煮詰まり、何度か意見を交わしたところで、とうとう律が議論をぶん投げて逃避行動に出る始末であった。部長の耐久力のなさが如実に表れた瞬間である。
 最終的にはポスターを作って掲示板に貼る、という至極まっとうな意見が採用されたのであった。
 延長戦まで話した意味なくない? と誰もが思った。


 翌日。
 四人が書いてきたポスターがいっせいに顔をつき合わせる。夏音は自分で絵心あふれる人間だと自負してきたが、「なに描いてるかわからん」という一言に膝をついた。
 神は二物を与えない。
 根っから器用らしいムギが用意してきた物が一番見栄えが良いとのことで、さっそく掲示板に貼った。 
 あとは、これを見た者が部を訪ねてくれるのを待つだけであった。
 


「ごめん遅くなっちゃった」
「あぁー、いいよ別に。今ちょうどお茶してたとこだし」
 夏音は運悪くゴミ捨ての当番になってしまった。つくづく掃除は生徒が担当するという日本の習慣が恨めしいと思った。
 しかし、こうして遅れて部室に向かったものの、部室には気怠そうに菓子を頬張る律とかいがいしくお茶の振る舞いに勤しむムギの姿しかなかった。
「あれ、澪はまだ来ていないの?」
「澪は、校舎裏の掃除ー」
「そうなんだ」
 彼女も災難だな、と思ったところで慣れた様子で席につく夏音の前に早速とばかりに紅茶とケーキが現れる。
「はぁ、最高ー」
 ほっぺたが落ちそうなくらいに甘い至福の味が口に広がる。そのまま体中に幸福が染み渡るような感覚。
 まったりとした雰囲気が流れる。もうこれがメインの部活でいいんじゃないかという考えが夏音の脳裏をよぎった。
「ところで、夏音はちゃんと楽器持ってきたかー?」
 すっかりリラックスモードで気の抜けた口調で律が夏音に訊いた。
「はいよー。今朝、部室の奥に置いておいたよ」
 夏音はうなずいて立ち上がると、部室の物置の扉を開けて中に入っていく。今朝、置いておいた物を抱えて戻ってくると、肩にギターケースをかついでいた。
「んー、それベースじゃないか?」
 律が怪訝な顔をした。ギターを持ってこい、と言っていたはずだった。別の楽器とはいえ、自分の幼なじみのおかげでケースの中身がギターかベースかくらいの判断はつく。
「あ、ごめん。ギター持ってこいって言ってたんだっけ?」
「おいおい。とりあえずギターを入れて合わせようって話だっただろー?」
「すっかり忘れてた!」

 アハ、と悪びれるそぶりは一切見せずに夏音が謝る。ウインクつき謝罪。

「このハーフむかつくな……」

 ウインクが似合う所など、非常に腹立たしい。

「持ってきたのが別のだったらなー。シンセとVベースでギターの音やれたんだけど……」
「ん、何が何だって?」

 律は夏音が語った事がよく理解できなかった。聞き直そうとしたが、夏音は再び物置に姿を消すとハードケースくらいの大きさがある長方形のケースを二つ抱えてきた。
「よいせっと。エフェクターもね。持ってきたんだ。軽音部で楽器を弾く機会が増えるだろうからねー」
 運ぶの超大変だったー、と軽く汗をふく夏音。律は目をまん丸にして夏音を眺めた。
「それ……全部エフェクター?」
「ん? そうだけど?」
「……開けていい?」
「どうぞー」
 律は恐る恐るエフェクターケースを開けて中をのぞいた。中には見たこともない大小のエフェクターがぎっしりと窮屈そうに詰まっていた。
「へ、へ、へ……へへへ……」
 律の口元がくっとゆがんだ。夏音が異常な様子の律を訝しげに見詰めた。
「頭、大丈夫?」
「お前は何者だ立花夏音!?」
「その言い様はなんだよー」
 びしっと指をさされてムッとした夏音。
「まあー、すごい数ですねー」
 傍らにかがみ込んでケースをのぞきこんでいたムギも驚きを隠せない様子で漏らした。
「これでもメインで使っているやつは避けてきたんだよ。まあ十分気に入っているセッティングだけど。同じの家にあるし。とりあえずどんな曲をやるか分からないから、これだけあれば対応できるかねー」
 これが当然ですが何か、と言わんばかりに淡々と語る夏音にいよいよ言葉を失くした二人であった。
「ひ、弾いて! 今すぐ弾いてみて!」
 まるでプロのような機材の充実。律はその実力はいかに、と食いついた。
「あぁ、そうだね。アンプは流石に持って来られなかったから澪のを借りるとするかな」 
 夏音はケースのファスナーを開けてベースを取り出した。弦がこすれてかすかな金属音が鳴る。
「それ、なんてベース?」
 律がじっとベースを見て聞いた。
「これはフォデラのエンペラーシリーズだよ。よくサブで使ってるんだ」
 幾何学的な模様の木目が広がるボディ。高級感漂う堂々とした迫力を持つベースだった。五弦使用となっており、そのヘッドには蝶のロゴ。
「ベースのことはよくわかんないけど、なんかすごい威圧感だな……」
「まー無駄に年季も入ってるから」
 夏音はケースのポケットからシールドを取り出すと、ストラップの内側に通してジャックに挿しこんだ。そのまま澪の私物であるフェンダーのベースアンプに挿しこみ、音を出せる状態のまま、チューニングをする。
 調弦が済むと夏音は遊ぶようにハーモニクスを鳴らした。
「さー。なんか適当に弾きまーす」
 律とムギは固唾をのんでうなずいた。
 風を切るような音と共に夏音の手が振り下ろされる。



 澪は音楽室へと急いでいた。運悪く自分の班が、やたらと長引くという噂の校舎裏の掃除にまわされてしまったのだ。
 皆はもう集まっているはずである。今日は初めて全員で演奏を合わせる日だった。澪もその事を楽しみにしていたし、抑えられないわくわくが彼女を急がせていた。小走りで階段に足をかけて、のぼる。
 ふと、音が聞こえた。音の力が伝わってきた。
 一瞬、澪の足が床に張り付く。
「な……なんだコレ……」
 音というより、何らかの力が放たれている感じである。それは強力な磁力で澪を引き込む。
 ブラックホールみたいな吸引力の源は音楽室から発生しているようだ。
 澪は二段飛ばしで階段をかけ上がった。
(この音……ベースの音……?)
 澪は躊躇なく音楽室の扉を蹴り開けた。
(やっぱり……)
 予感はしていた。澪はその予感と今目の前にある現実がぴったりと重なる瞬間に衝撃を覚えた。音が聞こえた瞬間、どんな人物がこのベースを弾いているのか頭にくっきりと浮かんでしまったのだから。
 自分の足が細かく震えていることにも気付かず、澪はその場を支配している夏音から体の自由を完全に奪われ続けた。
 かろうじて視線をずらせば、同じように硬直している律とムギが確認できた。
(上手い……上手いなんて言葉を超えている。そんな言葉で語れる場所にいない。彼が、立花夏音という存在がベースを通じてこんなにも私を……私たちを磔にしている)
 うねるグルーヴが宇宙を見せる。音の力が無数の光となり、襲ってくる。あらゆる色彩の洪水が口から、目から、耳から、皮膚の毛穴にまで流れ込んでくる。
 どこまでも広がる存在。
 澪は、ベースがこれだけ多彩な音を奏でる楽器だということに、驚かされた。次々と足下のエフェクターを踏み換え、どこをどう弾いているかわからないようなフレーズが飛び出してくる。ループを重ねては、ダイナミックな旋律を踊らせている。
 澪は自分も同じベーシストとして。こんな風な音を出せたことは一度としてない。
 彼女たちはそれから彼が音を吸い込むようにして演奏を止めるまで、彼の音以外の一切を耳に入れることを許されなかった。

「……律、ムギ?」
 演奏を終えて二人を見れば、何故だか放心状態で発見された。
「だ、大丈夫?」
 反応なし。不安になった夏音は律の顔の前で手をぱしんっと叩いてみた。
「うおっ」
 律の目の焦点が元に戻った。意識を取り戻した彼女の眼の中には今まで夏音に見せたことのない感情が宿っていた。
 驚愕、興奮、羨望。

「すっっっげーーーー!! 死ぬほどうま、うますぎるっ!!」
 律が絶叫した。つられてムギも正気を取り戻すと、がむしゃらに拍手をしながら夏音を褒めちぎった。
「すぐにでもプロになれるんじゃないですか!?」
 その一言に夏音の胸がどきっとなる。
「は、はは……だったらうれしいな」
 まさか、既にプロですとは言えない。
「あ、澪! 澪もいたのか。今の聴いたか、なあ!?」
 律が夏音の背後に向かって声をかける。
 振り返るとベースを担いだ澪が瞠目したまま立ち竦んでいた。
 明らかに様子がおかしい。
(震えているのか……?)
「あ、澪ごめんね。勝手にアンプ借りちゃったよ」
「…………ズルイ」
「え?」
 何かを呟いた澪に夏音が聞き返すと、彼女は慌てて取り繕うように声をたてて笑った。その頬は不自然に引き攣っている。
「いや、何でもない! ハハ、驚いたよ! すごく上手だな……私より、上手い」
「お、おい澪―。そんなの比べる必要ないだろー?」
 不穏な空気をいち早く察した律が明るい調子で澪に声をかけた。
「そ、そうです! 私、澪ちゃんのベース好きだよ?」
 そこにムギも重ねて澪に言う。しかし、澪の表情は相変わらず浮かない。長い髪をかきあげて、夏音を向く。
「もう、夏音がベースでいいんじゃないか?」
「はぁー!?」
 澪のとんでも発言に律が詰め寄った。
「なら、澪は何をやるんだよ?」
「私は……私は何を……」
「なーに言ってるんだよ、みーお。少しおかしいぞ? 校舎裏の掃除で精神がまいっちゃったかのかなー! ほら、ムギが持ってきたいつものケーキだぞー」
 暗い目で律を一瞥した澪は顔をそらした。
「ごめん。今日はちょっと体調が悪いから……」
 そして踵を返して部室から出て行った。残された三人は顔を見合わせた。
「澪……」
 夏音はすぐに澪を追って部室を飛び出した。


 階段を駆け下りて澪の姿を探したが、澪の姿はすでに遠くにあった。
 部室を出た途端、走ったのだろう。全力で。
 夏音も全力で走って追う。
 しかし、思いのほか足が鈍かった彼女は十秒で捕まった。
 夏音が澪の手首をつかむ。
「ヘイ澪!? いったいどうしたっていうんだ?」
 つかまれた腕を躍起になって離そうとする澪。外見に反した握力の前に、やがて抵抗することを諦める。振り向いた澪の顔を見て、夏音は息を呑んだ。
 澪の瞳に浮かんだ涙。震える唇。
「澪……俺のせいなの?」
「ちがう……」
「ちがわないだろ? 俺のベースを聴いたから?」
 そっと問い詰めても、澪はうつむくばかりであった。放課後とはいえ、廊下には生徒の姿がちらほらとあった。ただならぬ様子を見てとった生徒がひそひそとざわめきだした。
「ここだと、目立つな。人のいない場所へ行こう」
 夏音は澪の手を引っ張って人気のない中庭に向かった。

 澪は相変わらず黙ったまま。両者が沈黙を守ったまま、向き合う。
 夏音は内心で焦っていた。先ほどから背中には冷や汗が滝のごとく流れ落ちている。
 あまりこういう事態に慣れていないのもある。
 しかし、何より彼女を泣かせた原因が見当たらない……見当たらないのだが、自分が原因らしい事だけはハッキリしているという。
 自分の演奏が澪の気に障ったのだろうか。夏音には、澪の気持ちがつかめなかった。
 夏音が八方手詰まりの中、どうにか沈黙を破ったのは澪であった。
「子供みたいだって呆れるかもしれないけど……私は夏音のベースを聴いて、絶望のようなものを抱いたんだ」
「絶望……だって?」
「私なんか比べるまでもなく、夏音より下手だ……けど、それだけじゃなくて。私がこれからどれだけ努力したとしてもたどり着けない……突き放すようなあの音……あんなの聴いた後でベースなんか弾けなくなるよ……!」
 最後の方は、言葉が震えてまともに話せない。彼女の口から語られる気持ちは夏音の心を抉った。
「そんな………」
 夏音にはまるで青天の霹靂であった。
 今まで夏音の周りにいたのはプロのミュージシャンばかりだった。彼らは自分のスタイル、音や世界を確立している者たち。
 実力を認められることもあれば、嫉妬を向けられることもあった。中には、あなたみたいに弾きたいと言ってくる者もいた。
 目の前の少女は、自分のように弾けない事が涙するほど悔しいのだという。
 こんな気持ちを抱く人間に直に触れることはなかったのだ。
 尊い、向上心の裏返し。自分のせいで一人のミュージシャンが消えるなど、あってはならない。

「関係ない」

「え?」
「そんな風に自分に線引きをしたらダメだ! 澪は自分の音を憎んじゃいけない! 澪より上手い人なんて世界に幾らでもいるんだ。幾らでもじゃないけど、俺より凄いベース弾く人だってたくさんいる」
 そこで言葉を切り、夏音は澪の肩を寄せた。
「けどね。同じ音を奏でる人なんて一人だっていやしない。その音を奏でられるのはその人以外にいるはずないんだ」
 他人の音を真似ることはできる。だが全く寸部の狂いもなく同じ音はない。僅かばかりの差でも、やはり「同じ」ではないのだ。
 問題は、その音に振り向いてくれる者がどれだけいるかという事だけで。
 自分の目をストレートに貫いてくる真摯な瞳。堂々とした空の色に、澪は引きこまれそうになった。
「これから話すことは、誰かに自分から教えるつもりはなかった。いや、なかったのかな……どっちでも良かったかも」
「ま、待って。話が見えない……!」
 彼女は途轍もない重大性を潜めた瞳とぶつかった。話が見えなくても、今からなんかとんでもない事を打ち明けられる予感がした。
 この強制的な……強引に判らされる感覚、いやだと思った。

「実は俺―――――」

 時間にして、一分。
 物事を語るのに、その時間は長いか短いかはその人次第である。
しかし、この場合は少女にとって十分だった。
「…………………は…………えーーーーーー!!!???」
 澪の悲鳴が放課後の中庭に木霊した。それを聞いた人が思わず何事かとパニックになる程のものだったという。


「お待たせーー!!」
 夏音は部室の扉を開けて、声を張り上げた。
 ムギと律は心配して二人の帰りを待っていたので、ほっとした表情で駆け寄った。
 夏音の横には、恐ろしく顔を引き攣らせた澪が突っ立っていた。
「澪! 心配させんなよ……ん、なんか夏音にされたか?」
 よく見れば、出て行く前より顔が強張っていないだろうか。
「人聞きが悪いことを言うなよ」
 自分をからかう律にむっとした表情で夏音が返す。
「澪ちゃん大丈夫? 何だか顔色がすぐれないような……」
 心配そうに顔をのぞき込んだムギの言葉に澪はあわてて首を横にふった。
「い、いや! そんなことないよ! 気のせい!」
「なんか怪しい……おい夏音、本当に何かしたんじゃないだろうなー」
 ほのかに真剣味を帯びた疑りの目を送られた夏音だったが、涼しい顔で部室のソファーに腰掛けた。
「別に。本当に何もなかったよ?」
「そ、そうだ。何も夏音が実はプ―――」
 じろり。
 と夏音にねめつけられた澪は涙を浮かべて「ひっ」と慌てて言葉をつぐんだ。
「ん……夏音がなんだって?」
「プ……プライドなんて糞喰らえだぜおめーっ! て言ってくれたんだ!」
「な……なんつーことを言うんだお前!!」
 律は夏音に詰めよると拳をにぎった。
「う、ウェイウェイッ!! 澪が納得したんだから、それでいいだろ!」
 かたく握られた拳をみて、夏音が戦慄する。
 割と本気な親友にぎょっとした澪は急いで律を取り押さえた。
「そうだ! 私はそれで納得した! ふっきれた! 私のちっぽけなプライドなんて守るに値しない些細なものだって! さあ、練習するぞー」
「そうだ練習するぞー」
 そのまま、てきぱきと機材の準備をする澪に、それを手伝う夏音。そんな二人の様子を目の当たりにした律がぽかんと間の抜けた顔をつくる。自分の幼なじみはこんなにこざっぱりした性格だったろうか。変な方向に羽化した気がしてならない。
「なんだか、お二人とも急に仲が良くなっていませんか?」
 ムギの冷静なツッコミが入ると「あぁ、言われてみたら」と律もうなずく。すると二人の様子がよけい白々しく見えてきた。
 あくまで疑りの目を向ける律に夏音はばふっと両肩に手を乗っけた。
「ふ、ふふ……秘密を共有することで友となることもあるのだよ」

 顔を近づけて、フランクにウインク一つ。どうにも腑に落ちないといった表情の律であった。

「顔が無駄に良いってのがまた腹立つー」

 何だかんだと騒々しくも最初の修羅場をのりこえた軽音部であった。





[26404] 第三話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/09 03:14

「いやいや、そこはそう訳さないでしょう。日本じゃ英語はこうやって習うの?」
「んー、私は特に教えられた通りに訳したつもりだけど」
「間違ってはないんだけど……ただニュアンスがちぐはぐな感じかなー。海外に住む時がきたら、こういう些細な違いが大恥につながるんじゃないかな」
「将来、か……使うことになるのかな」
「それは澪の進む道次第だけど、小さなことでも正しく覚えておいて損はないよ」

 音楽準備室―――またの名を軽音部部室―――では、恒例となったティータイムのお時間となっていた。
 今はこうして机の上には菓子とお茶の他に勉強道具が広げられている。というのも、律と澪が本日出された英語の宿題の手伝いを夏音に頼んだのだ。自他共にバイリンガルと豪語している夏音にとってはお安い御用で、快く引き受けた。
 ちなみに律は早々に離脱して、勉強とはまったく関係のない話題でムギと会話に華を咲かせている。
 唯一、真剣に夏音の話を聞いているのは澪のみであった。
「ふん……ん、んーdon`t despair? なんかこの教科書、ブリティッシュとアメリカンがごちゃ混ぜだな。俺なら普通don`t worryって言うね、つまり――」
「あーなるほど!」
 そんな夏音と澪を横目に律は頬に手をあてて二人を茶化す。
「ずいぶんと仲がよろしおすことねー!」
 その瞬間、俊敏なガゼルのようなしなやかさで律に肉薄した澪の拳固が律の頭蓋に抉り込まれる。
「お前もちゃんと聞いとけ! どうせ後で泣きついてくるだろうが!」
「い、いたひ……最近ひねりが入ってきてヤバイ……ま、終わった後に全部見せてもらおうと……じょ、冗談だよ!」
 怒髪天をついている澪による二発目を回避すべく律は椅子からのけぞった。
 夏音は「仲睦まじいねー」と笑った。このコンビのどつき漫才も早くも恒例と化したやりとりであった。そんなぎゃーぎゃーと騒々しい部室を訪ねてきた人がいた。
「こんにちはー」
 ニコニコと部室に入ってきたのは音楽の担任の山中さわ子であった。
 この女性教師は夏音や他の部員とも面識のある人物であった。軽音部の四人も元気よく彼女に挨拶を返す。譜面代を借りに来たと言ったさわ子はふと夏音に視線を向けて微笑んだ。
「あら、あなたやっぱり軽音部に入ったのね」
 以前、夏音が楽器経験者であることを的中させた彼女は、実は澪や律に彼のことを紹介して、軽音部の部員獲得に一役買っていた影の立役者であった。 
「はい、とっても楽しいですよ」
「そう、よかったわ。じゃ、そんなあなた達に朗報よ」
 優雅にほほ笑んでテーブルの上に一枚の紙を置き、一言。
「入部希望者がいたわよー」
 なんと、待望の新入部員。果報を寝て待つ訳ではないが、ただお茶をしていただけで訪れた良い報せに一同はわっと沸き立った。
「よかったねー」
 夏音も軽音部の部員として、安堵した。これで廃部を逃れることができる訳である。
「それと、素敵なティーセットだけど飲み終わったらちゃんと片付けてね」
 最後に教師の顔で優しく注意すると、山中先生は部室を出て行った。
 
「よっしゃーー!! 廃部じゃなくなるーー!」
 律が入部届を手に椅子の上で跳ねる。その際にがたりとテーブルが揺れて紅茶がこぼれたので、澪が非難の目線を送ったが当人は気にもしない。
 一同は、そろりと椅子に座った律を囲んで顔を寄せ合ってその紙を覗き込んだ。
「どれどれ……平沢唯……なんか名前からすごそうだぞ。なんだろこのデジャヴ」
「やっぱギターだよな」
「ギターかねー」
「どんな方が来るか楽しみですねー」
 ただ、皆浮き足だっていた。
 無理もない。夏音自身も新しい部員が来るということに胸が高鳴っている。
 それは新しい友達、仲間が増えるということなのだから。
 ああもうこれでリア充への道は近いやったぜと密かに胸を高鳴らせる夏音であった。



 最近の夏音は放課後を楽しみに学校に来ているようなものだ。つまり、その放課後の時間が削られるのは、如何ともし難く耐えがたいことなのだ。
 だというのに度々自分をつけ狙ってくる英語の先生につかまってしまった。この教師に捕まると、何故か英語で世間話をするハメになる。
 ひどい発音でぺらぺらと喋る先生にいつも辟易させられてしまう。
 廊下でばったり会ってしまい、「Shit」と小さく漏らしたが、相手は明らかに迷惑そうな夏音の表情などお構いなしに駆け寄ってきた。
 自分を発見した際のその教師の顔といえば、大好きなご主人さまの姿を視界に捉えた犬のよう。こんな可愛くない犬はいらん、と思った。
 十数分のぐだぐだな会話を終え、何とか解放されたところで急ぎ足で部室へ向かう。
「おや?」
 廊下を歩く途中からどこからか楽器の演奏の音が漂ってきた。もしや、と階段にさしかかると、明らかに上の階から聞こえるようだった。
 階段を上りつつ耳をすませていると、曲が止まる。何だか少し前にも似たような経験をした覚えがあった。
「珍しく練習しているのか?」
 雨か槍でも降るかな、と三段飛ばしで残る階段をすいすいのぼっていった。

「お疲れ様です!」
 夏音は抜けの良い透き通った声を共に入室した。
 そこに軽音部のいつもの反応はなく。
 ぽかんと固まる見覚えのない少女がいた。
「……知らない子」
 夏音は物珍しそうにその少女に近づいた。
 その少女も、突然謎の大声をあげて部室に入ってきた人物に驚いた様子で目を丸くしていた。
 これといって特徴はないが、ムギとは違う意味でほわーんと独特の丸い雰囲気を醸し出している少女であった。
「遅かったな」
 澪が遅れてやってきた夏音に目を軽く目を尖らせた。
「いや、英語の先生に捕まってたんだ察して。それより、そちらさんは?」
 夏音は新入部員の人ではないかと、半ば確信的に尋ねた。
「ああ、この人が平沢唯さんだよ。たったいま軽音部に残ってくれることになったんだ!」
「ん? 残るってどういう事?」
「平沢さん、本当は楽器の経験がなくてやめようと思ってここに来たらしいんだ」
 澪が苦笑を浮かべながらそう説明した。
「そうだったのかい?」
 目を丸くした夏音に問われると、彼女はびくりと肩を揺らして赤くなった。
「お、お恥ずかしながら……でも、今演奏を聴いてみて、とっても楽しそうだなって。だから、軽音部続けてみることにしたんです!」
 そう言った彼女の口調は力強かった。
「楽しそうだよね。俺もそう思うよ」
 うんうんと頷きながら夏音は平沢の肩に手を置いた。
「軽音部へようこそ!!」
「……っはい!!」
「はーい! それなら、軽音部活動記念にーー!!」
 律が澪のカメラを勝手に取り出してきた。夏音は「またか」と苦笑した。
もちろん大歓迎だ。

「もっと寄って寄ってー」
 流石に、自分撮りで五人はきつかった。
「いっくよーん!」
 隣で上気する呼吸音とシャッター音が過ぎ去った。
 後日、できあがった写真は律のおでこから上までしか写っていなかった。それを見た夏音に大爆笑された腹いせに見事なボディーブローが決まったという。



 人間の基本は挨拶、自己紹介から始まる。
「唯でいいよー」
「よろしく、唯」
「実は私、学校で夏音君のこと見かけた時、本物の外人さんだって思ったんだー。何で男子の制服着てんのこの人って!」
「はははー! やっぱり……やっぱりそうなんだ…………」
 言葉がナイフのように心を刻むこともある。


 という感じに唯を五人目に据えた軽音部はこれにて廃部を回避することと相成った。
 今のところ唯は何一つ楽器の経験がないそうなので、この機会にギターを始めることにするらしい。初心者が一番とっつきやすいという理由もあった。
「ところで、結局夏音は何をやるつもりなの?」
 律が保留していた夏音のパートの件を指摘する。
「そうだな。ギターは二本あっていいだろうから、ギターかな」
 それに対して、まあそうだろうと意見が一致した。しかし、夏音がそこでぽつりと言い添えた。
「でも、ベースもやりたいんだなあ」
 夏音の言葉に澪がぎくりとした。律は「まあ、あれだけ弾けるんだし」と納得したが、同時に首をひねった。
「曲によってベースを変えるのもアリ、かな? Fullarmorみたいにツインベースとかやっちゃう!?」
「ツインベースか……できないことはないけど……いや、面白いかも」
(そうなると、六弦フレットレスの出番かな)
 するとおずおずと澪が口を開いた。
「夏音がベースをやりたいなら、そういうのもいいと私は思う」
「ま、いきなりツインベースはやり過ぎだとしても。例えば俺がベースをやる時は澪がヴォーカルとか」
「ヴォーカルっ!?」
 夏音がそう提案すると、澪が例の如く顔がゆでダコ状態になった。
「そう。何か問題ある?」
「は、恥ずかしい……っ」
「じゃあ、澪がヴォーカルで」
「え、やだ!!」
 恥ずかしがる澪をついからかいたくなってしまう夏音であったが、あまりに拒否反応を起こすので何がそんなにいやなのだろうかと真面目に首をかしげた。
「別にそこまで嫌がることかなー。歌に自信ない?」
「人前で歌ったりしなきゃいけないだろ!?」
「それは、これからのことだからよく分からないけど」
「これからライブとかあるだろうし……たくさん人の前で歌うなんて私にはとても……男の人もいっぱいいるだろうし」
「俺も男だ」
 延々と続きそうなやりとりにしびれを切らしたのか、ムギが澪に助け舟を出す形となった。
「まあまあ。無理に歌って貰う事もないんじゃないかしら? とりあえず夏音くんはギターを弾けばいいと思います。それに、せっかくだから平沢さんに教えてあげたらどうかしら?」
 もっともな意見だと皆うなずいた。
「ああ、そうだね。俺でよければギター教えようか?」
「ほんとー!? ありがとう!」
「じゃあ、まずギター買わないとね」
「え、レンタルとかしてくれないの?」
 と、彼女は目をパチクリさせた。
「貸せるギターはもちろんあるけど、それは唯のためにならないよ。自分で選んだ楽器を使わないとね」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
 そういうものなのであった。






 唯はまだ両手で数えられるくらいしか足を向けた事がない階段をゆっくり、一段ずつ上がっていた。
 人生十余年と生きてきた中で部活動などに所属した経験がない彼女であったが、高校生になってついに部活動に籍を置くことになった。しかも、自分が関わることはないだろうなと思っていたバンド。人生、何があるか分からないものだ。
 部活も、音楽をやるのもすべて初めての経験。
 これから踏み入れるのは真っ白な世界だ。
 どんなものが自分を待っているのか。そう考えた時の浮き立つ気持ちを、抑えることができなくなる事がある。
 授業中や、ふと夜に部屋でごろごろしている時など。新しくできた仲間の顔が浮かんできたり、あれやこれやと想像しているだけで足がじたばた動いてしまう。
 そう。今までの人生とは、違う。
 幼稚園の時も、小学生の時も。中学生になっても、ずっとぼーっと生きてきた。
 でも、今の唯には確かに新たな世界の扉が開かれたのだ。
「今日のお菓子はなんだろうなーっ」
 わくわくが止まらない。胸とか胃とか。


「こんにちはー」
 唯が部室の扉を開けて中に入ると、もう唯以外の全員が揃っていた。座席をくっつけて座っている三人、とお茶を立ち振舞っている一人。
 この四人が唯の軽音部の仲間である。
 唯が近づいていくと、長い黒髪の少女が片手をあげて片笑んできた。
 ベース担当の秋山澪。
 唯の中では背が高くて、格好いい大人の女性という印象の子であった。それと同時に唯が一番かわいらしいな、思う人だ。彼女は見た目のクールさとは裏腹に意外な一面も持ち合わせている。
 ふと唯が、何故ギターではなくベースを始めてのかという質問をすると。
「だ、だってギターは……は、恥ずかしいっ」
 ぽっと顔を赤らめて言うのであった。
「は、恥ずかしいの?」
 何が恥ずかしいのだろうと唯は驚いて聞き返したのだが、
「ギターってバンドの中心って感じでさ。先頭に立って演奏しなきゃいけないし……観客の目も自然に集まるだろ? 自分がその立場になるって考えただけで……」
 そこまで言うと、彼女の頭から見えないはずの蒸気が噴き出る。まるでピナッツヴォ火山みたいに。
「うおぅ!?」
 エネルギーが抜けたようにしおれる澪の肩を抱いて介抱するのはキーボード担当の琴吹紬。本人曰く、「ムギって呼んでね」とのこと。彼女を表す言葉としてはおっとりポヤポヤ。これまた可愛らしい人である。
「ムギちゃんはキーボードうまいよね。キーボード歴長いの?」
「私、四歳のころからピアノを習っていて。コンクールで賞を貰ったこともあるのよ?」
 微笑みながらしれっと言ったムギに、唯は何故軽音部にいるのだろうと疑問を抱いた。
 彼女に関しては疑問が深まるばかりだった。
「最近の高校ってこんな感じなのかなー」
 とやけに物が揃っている部室を一望して唯が感心していると、
「あぁー、それは私の家から持ってきたのよー」
 と微笑むムギは何者なのだろう。どこかのご令嬢という線が深い。
 唯には初めて接するタイプであることは間違いなかった。
 
 感心しながら、唯はお茶を一口すする。
 そしてふと隣に目を向けた。
 唯の隣に座るドラム担当の田井中律。軽音部の現部長で元気いっぱいの明るい女の子という感じが全身にあふれ出ている。
「律っちゃんはドラム~っって感じだよね!」
「なぁっ!? わ、私にもれっきとした理由が! そう。聞けば誰もが感動する理由があるんだぞ!」
「へー、どんな?」
「…………か、かっこいいカラ……」
「そ、そこ!?」
「だ、だって! ギターとかベースとかキーボードとか! ぬぁーー」
 すると彼女は突然、頭を抱えて悶絶しだした。
「ど、どしたの?」
「チマチマチマっチマ! 指でそんな動き想像するだけで……ぬがぁーっ! って……なる!!」
 強引な理由だ。
「そ、そうなんだー」
 深くは踏み込むまいと思った。さらに、唯は視線を横にずらす。
 窓から差す斜陽に照らされながら優雅にお茶を飲むのは、結局楽器は何をやっているのかはっきりしない立花夏音。
 彼は軽音部でただ一人の男の子で、ずっとアメリカに住んでいたいわゆる帰国子女というやつである。
 母親がアメリカ人で、夏音はダブルなのだそうだ。
 現実にお目にかかった事がないくらい綺麗な男の子で、唯は初めて彼を目撃した時には本当にこんな美人がいるものだと感動した。物語のお姫様がそのまま飛び出てきたみたいな容姿で、硝子細工みたいに繊細な印象の彼はまるっきり女の子に見えてしまう。堂々と女みたい、って言うと彼は変な顔をする。だから、唯はあまり言わないように気をつけることにした。
 何より彼は音楽に関してはすごい一面を持っているらしい。
「夏音君はどんな楽器でも弾けるんだよね?」
 唯が尋ねると彼はカチャリとお茶を置き、唯の目をじっと見た。
 誰かと話す時に、真っ直ぐに相手の目を見詰める彼は本当に綺麗な青い目をしていて、おまけに目力が凄くて慣れないとつらい。ムギもよく見れば瞳の色素が薄いけど、夏音の場合はハッキリと青く見える。
「何でも、はできないよ。ギターにベース、ドラムにサックスに……あとピアノとか」
 さらっとウインクをまじえて語ってしまうのも凄い。流石アメリカ育ち。こんなに全てがアメリカンな彼だが、びっくりするくらいに日本語がぺらぺらなのだ。
本当は日本語もしっかりできるのに、その顔が原因であまり周囲のクラスメートと馴染めないのだと夏音は悲しそうに言っていた。
「それでもすごいよーー!! いつから楽器を弾いているの?」
「そりゃあ、小さい頃からだよ」
「え、一歳くらい?」
唯が聞き返そうとしたら、ムギがおかわりをすすめてくれたので話が中断された。
「そういえば平沢さん、もうギターは買ったの?」
 澪が唯の名を呼ぶ。
「唯、でいいよ! 私もすでに澪ちゃんのこと、澪ちゃんってもう呼んじゃっているし!」
 ぜひ、フランクに呼び合いたいものであった。唯がそう言うと、澪は気恥ずかしそうに逡巡してから上目遣いにこちらを見て――、
「ゆ……ゆいっ」
「はぅあーっ!!」
おそらく天然だろう、こういう子がモテるんだろうなと思った。唯のハートにメガヒットした。
「で、唯~。ギターは?」
 律が話題を戻す。
「ギター? あ、そーだった! 私、ギターやるんだっけ!?」
 完全に唯は忘れていた。毎日のようにお茶をする部活だと思いかけていたくらいである。
 他の四人はそんな唯に苦笑するしかなかった。
「軽音部は喫茶店じゃないぞー?」
 澪が少しきつい口調で唯を叱る。
「ごめんねー。ギターってどれくらいするの?」
 これは楽器初心者の唯には見当もつかない話であった。すると面倒見が良いのか、澪は顎に手をあててすぐに首肯する。
「安いのは一万円台からあるけど、あんまり安すぎるのは良くないからなー……五万円くらいがいいかも!」
「ご、五万円かー。私のお小遣い十か月分……っ!!」
 そこにすかさず、澪が補足した。
「高いのは十万円以上するのもあるよ」
「千万円以上するのもあるよー」
 そこに夏音がのんびりとした口調で補足した。
「せ、せんっ……それはもう考えられないです……でも五万かぁー。ほい律っちゃん!」
「なに?」
「うふふ、部費で落ちませんか?」
「アハハー落・ち・ま・せ・ん」
 おとといきやがれ、と言うことか。唯はがっくりと肩を落とした。
「どっちにしろ楽器がないと何も始まらないぞ?」
 夏音が大皿からブルーベリータルトを一つ取りながら言う。
「よーし!」
 律が立ち上がり注目を集める。
「今度の休みにギター見に行こうぜ!!」
 唯は楽しみが増えたと喜ぶ内心で、貯金箱の中身を想像して胃が重たくなったのであった。

  
 まわりまわって夏音である。
 だだっ広いバスルーム、両足を伸ばして裕に余る浴槽に浸かっていた。髪を頭上でまとめて濡らさないようにして、ふんふんと鼻歌を歌う。
 翌日に控えた予定に興奮を収められなかった。時折、バシャバシャーと子供のように足を跳ねさせる。
 風呂場に備え付けた防水仕様のスピーカーから流れるBGMに身を委ねながら、うきうきと頭を揺らす。メガデスのHoly Wars。
 明日は軽音部の皆と初めてショッピングに行くことになっている。これでは、まるで本当にリア充そのものではないか。
 いいのだろうか。自分が、いいのだろうかと何度も反芻した。

「うー…………ビバノンノンってかーーーっ!!!」
 心は半分、日本人。


 当日。このように女の子とお出掛けというのは初めての経験であった夏音は何を着ていくか非常に迷った。
 小さい頃から夏音の洋服をトータルプロデュースしてきた母は不在。服装について聞ける兄弟もいないので、自分だけが頼りだった。おそらく歩くだろうし、カジュアルな格好が好ましいかと考えたが生憎洗濯をため込みすぎて着ることはできない。
 仕方なくタンクトップを二枚重ねた上に、襟が広くて肩出しに近いニットのセーター。ピタッとしたパンツという組み合わせになった。 
 集合の場所に着くと律、澪、ムギの三人が集まっており何やら歓談していた。
「お待たせ!」
 夏音が声をかけると、彼女たちはじっと夏音を見詰めてきた。上から下まで視線が這って居心地が悪い。
「ほ、ほら! やっぱりちゃんとした格好だろう」
「これ、ちゃんとしてるか? どう見ても女物まじってないか?」
「Yシャツメガネが……」
 自分の服装についての話題だったようだ。
「………なかなか気分を悪くする話をされているぞ」
しっかり三人のひそひそ話が漏れていたのを聞きとっていた夏音。全然声が潜まってないもの。
 するとバツの悪そうな顔をして律が笑った。
「いやー。夏音がどんな格好してくるか予想してみようって盛り上がっちゃってさー」
「別に気にしてないケドさ。この格好って変?」
「いえ、とっても似合ってますよー」
「よかったー。俺、あまり自分で服装決めないから悩んじゃったよ」
「じゃ、いつもは誰が決めてるんだよ?」
「母さんが俺の服選ぶの好きなんだ。今までは母さんが寄越してくるやつを言われた通りに着てました」
「ま、マザコンかよ……」
 律が「うっ」と身を引いた。幸いにもそれが夏音の耳にとまることはなく、むしろ上機嫌で笑っていた。
「そっかー。俺のセンスでも案外イケるんだなー。気分がいいからみんなに冷たいものでもオゴっちゃおうかなー」
「素敵よ夏音ちゃまーん……おっ唯だ」
 態度を180度ほど急変させた律が尻尾を振っていると、横断歩道の先に唯の姿を発見した。
 自分以外が既にお揃いであることに気がついた唯は急いで横断歩道を渡ってくる。はずだった。
 通行人とぶつかる。
 犬と戯れる。
 百円を見つける。
「あと数メートルなのに……なぜ辿りつかない!?」
 全員の心が一致した。

 
 五人集まったところで、さっそく商店街の中を歩いて楽器屋へ向かうことになった。
 聞くところによると、唯は母親にお小遣いの前借りをしてもらって、何とか五万円を用意する事ができたそうだ。
「これからは計画的に使わなきゃ!」
 それは厳しい戦いになるだろう。それでも唯はうきうきしながらむん、と意気込んだ。
 これから使えるお金が少なくなるとしても、もうすぐギターが買えるのだ。
 まさに前途洋々の気分なのだろう。
「……使わなきゃ……いけないんだけどさ……今ならこれ買えるっ……」
 唯は商店街の洋服屋のウィンドウの中の服の目の前に張り付いた。
「これじゃ前途多難ってやつだね」
 夏音はふっと溜息をついた。律がこーらとたしなめるも「少し見るだけだからっ」と言い置いて唯は店内へ走っていってしまった。その後を律が仕方なく追う。
夏音は肩をすくめて、澪と視線を合わせた。夏音が先にいこうか、と言いかけたところで。
「しょうがないな……私たちも入るか」
「そうねー」
「え、そうなの?」
 当然のように澪が言うもので度肝を抜かれた。
(俺が、この店に?)
 見るからに女の子の洋服屋さん。ファンシーな外装。
 澪たちはさっさと入店していった。独りで残されるのも嫌だったので、夏音もしぶしぶ店へ入ることになった。ふりっふりできゃぴきゃぴな世界の中を迷子になりかけた中で、自分が普段着ているような物がレディースとして売っている事に瞠目した。
「へー。女の子も着るんだー」
 新作のワンピースを本気で店員に勧められた時は、涙しそうになった。
 精神をがっつり削られて、やっと店から出たと思いきや、次は雑貨屋。デパートの地下と寄り道は続く。
 途中に寄ったゲームセンターで夏音のテンションが上がったせいで、長く時間を潰した後、一同は喫茶店でひと息ついていた。
「ひひー買っちったー」
 律も買い物をして満足。あー楽しかったまた来ようね、とその場に共通の充足感が満ちた時。
「でも、何か忘れているような……」
 唯がそう言った瞬間、夏音はついに叫んだ。
「楽器屋だよっ!!!」
「あっ、しまった!!」
 一同は当初の目的をすっかり忘れていたことに震撼して、ばっと席を立ち上がった。
 ちなみに、そこのお茶代は夏音がすべて出した。颯爽と伝票をもって会計をすませてきた夏音に四人の女子の評価がぐんと上がる。

「10GIA」

 ここのビルの地下に目当ての楽器屋があるという。一行はエスカレーターで下の階におりて楽器屋に入った。
 店内に入ると、静かなBGMやギターが試奏されている音が耳に入った。
 唯には壁一面にかけてあるギターやベース、弦やシールドにエフェクターなどの光景が真新しく映っているようだ。
「すごーい! ギターいっぱい!」
 新鮮な反応に夏音の頬もゆるんだ。
「ねえねえ夏音君。このギターって……」
「それはヤメトキナ。ジミー・ペイジになりたいの?」
 初心者にはまずおすすめできるものではない。
 夏音もビリー・シーンを真似てツインネックベースをオーダーメイドさせた過去があるのであったが……今ではあまり使わない。
「唯ー何買うか決めたー?」
 律が急かすように唯に問うが、ぱっと決められるものでもないだろうと夏音は呆れた。
「うーん……なんか選ぶ基準とかあるのかなぁ?」
 当然の疑問である。
「まあ音色はもちろん。ネックの太さや重さ、フォルムなんかもたくさんあるからね。ただ、その予算で決めるのであれば見た目を重視した方がよいかもしれない。あとはフィーリングで」
 すらすらと説明した夏音をよそに、唯は思いがけない代物に目をつけてそちらに気を取られていた。
「聞いてないですね唯さん」
 顔をひきつらせた夏音であったが、唯が夢中になっているギターを見て、目を軽く見開いた。
「へえ。レスポールか……またすごいのに目をつけたねえ。その予算じゃ到底買えないよ」
「このギターかわいい~」
「あくまで聞かないねえー唯さん」
 さすがに肩を落とした夏音であった。
「そのギター25万もするぞ?」
 律が値札を見てたまげた。
「ほ、本当だーっ。これはさすがに手が出ないや~」
(やっと気づいてくれたか唯よ……)
 律が別の場所に安価なギターがあると指摘したが、唯はそこを頑なに離れようとしなかった。
 よっぽどそのレスポールに惚れてしまったのだろう。
 ただ、夏音は初心者がいきなりギブソンというのもどうだろうと思った。はじめから良すぎるギターを使うのもどうかと思うし、良いギターでいえばストラトの方が扱いやすい。それにレスポールは折れやすいし曲がりやすい。やはり、初心者が扱うのには少し難儀する代物なのである。
「唯、このギターはもう少し唯がギターを続けてからにしない?」
「え、なんで?」
「まあ、いろいろと難しいギターなんだよ。丁寧に扱わないといけないし、いきなりこんな高いギターを買わなくてもいいと思うんだ」
「ええー、でもこれが気に入ったんだモン……」
あくまで引き下がらない唯に夏音も微妙な表情になる。
(フィーリングが大事なのもわかるけど……金銭的になぁ)
 そんな唯を見て何か思うところがあったのか、澪が「そういえば……」と自分が今のベースを買った時の話をした。澪も今のベースを買った時に悩みに悩んだそうだ。レフティは数が少なく、種類も多く選べない。ピンからキリまで値段があるとしても、ちょうど良い価格帯で探すことは難しいのだ。
 ちなみに律がYAMAHAのヒップギグを買った「値切り」話はいっそ感心するくらいであった。それを唯に求めるのは無理な話だが。
「とりあえず、試奏でもしてみたら?」
 夏音がそう提案すると、唯はきょとんとした。
「しそー、って何するの?」
 思わずこけそうになった夏音。何とか踏ん張って、目の前のほんわか娘に説明した。
「実際にこのギターを弾かせてもらうんだよ。実際に弾いてみないと分からない事もたくさんあるだろう?」
「で、でも私ギターまだ弾けないし……」
「あ、そうだったよね……なら、俺がちょっと試しに弾くよ。確認したいこともあるし」
 と夏音は店員を呼んで試奏をさせてもらうことにした。防犯用のタグを外した店員がレスポールを片手に夏音に聞いた。
「アンプはどれ使いたいとかありますか?」
「あ、ならそのマーシャルで」
 店員はアンプのところまで夏音を案内した。そのまま近くにあった椅子を引き寄せてセッティングをしようとしたが、あとは自分でやるので、と断った。
 夏音を囲むように軽音部のメンバーが立ち、てきぱきとセッティングする夏音を眺めていた。近くにあったシールドをジャックに差し、アンプの電源を入れてつまみをすべてフラットにする。チューニングを手早く済ませてアンプをいじった。

 唯はその一挙動を頬を赤く上気させて見守っている。
 セッティングが整い、夏音はピックを振り下ろした。純正なレスポール・スタンダードの音色が響く。
「おおーーっ!!」
 唯が歓声をあげる。
 そのまま夏音は試奏を続ける。
「イントロ当てゲーム!」
 ふふふ、と笑ってブルージーな曲調に変えた。
「あ、この曲は……クラプトン!」
 横にいた澪が驚いた声を出す。
「次は……天国への階段、だろ! ツェッペリンかぁ」
 律が弾んだ声をあげた。
「あと、……これはわからないな」
 腕を組んで悩む澪に演奏を止めた夏音はにやりと笑って「スティーヴ・ヴァイのソロでしたー」と意地悪く答えた。
「せめてホワイトスネイクの曲にしろ!」
 と律が文句を言った。夏音は店員を呼んでギターを渡した。
「で、試奏してみてどうだったの?」
 唯が拳をにぎりしめて夏音に聞いた。
「弾いてみた限り、特になんの変哲のないレスポールだった。小まめに調整しているみたいだし、あれなら大丈夫だと思うよ」
 にっこり笑って太鼓判を押した。
(それに、ちゃんとしたクラフトマンもいるみたいだし、渡す時に整備してくれるだろうしね)
「それより唯はギターの音聴いていてどうだった?」
「可愛い奴でも割とやる子って感じ!」
「そ、そう……」
 唯の感性はなかなか面白いと思った。
「ていうか! 値段の問題じゃね?」
 律が思い出したように二人の間に割って入った。
「あ、そうだった……」
 再びしょぼんとなる唯であったが、律が思わぬ提案を出した。 
「よぉーーしっ! 皆でバイトしよう!」
「ば、いと?」
 夏音が耳慣れぬ言葉にぽかんとして首をかしげる。
「うん! 唯の楽器を買うために!」
「えぇーっ!? そんな悪いよっ!」
 律の発言に誰しもが面食らったが、唯が一番色を失っていた。
「これも軽音部の活動の一環だって!」
「り、りっちゃん……っ」
「私やってみたいです!」
ムギは拳をにぎって顔を輝かせた。
「そうか! うっしゃーーっ!! やぁーるぞーおーーっ!」
 律が拳を振り上げると、ノリノリで従うムギ。
「ばいとって何?」
「仕事のことだよ……私、どうしよ」
 横で呆れたような目をしていた澪が補足してくれた。
「仕事……か」
 彼女たちは、唯のために労働しようと言っているらしい。
「俺、そういう仕事って初めてかも……やってみようかな」 
「えぇー夏音も!?」
 全員、澪が浮かない顔をしていたのは見ないふりをした。


 その夜のこと。
 リビングで独り夕食をとっていると、電話が鳴った。
「Hi? あ、じゃなかった。もしもし立花です」
『俺だよ夏音!!』
「その声は父さん?」
『元気にしていたか?』
「まあね。そっちはどう?」
『何も変わらず、最高さ! 俺にはアルヴィとお前と音楽と……この手羽先があればいい!』
「てばさ…? まあ元気そうでよかったよ」
『夏音。何か変わったことはあったか?』
「………俺、軽音部に入ったんだ」
『ほう……軽音部になー』
「楽しいよ。でも、まだ始まったばかり…………俺は自分のフィーリングが間違っていないと信じているし。心配しないで」
『そうか。なら、安心したよ……夏音。そろそろジョンの奴が可哀想になってきたから、たまには奴の要望にも応えてやれよ。俺の方にうるさくてかなわない』
「まあ、向こうが時間を合わせてくれるなら……」
『まあ、お前にはお前の時間がある。大切にするんだよ』
「うん、あ……そういえば俺アルバイトってやつをすることになった!」
『アルバイト? また、何で?』
「うん、いろいろとね! 想像つかないだろ!? とにかく楽しくやっているよ」
『……そうか。母さんにも代わってやりたかったんだが、あいにく今は外しててな。俺もそろそろ行かないといけない。とにかく元気にしているようで安心したよ夏音』
「うん。母さんにもそう伝えておいて。忙しいならもう切るよ。じゃあね、父さんおやすみ!」
『ああ、誕生日やイースターの時に帰れなくてすまなかったな。愛しているよ、おやすみ』
「俺もだよ。プレゼントは最高だったし、何も気にしていないよ。バイ」
電話を切った夏音はまた食卓についてからあることを父親に言いそびれたことを思い出した。
「こっちでも友達ができたんだ」


 それが全員異性だとは言えなかった。
 

 



[26404] 第四話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/10 02:08
「なんのバイトがいいかな~」
 放課後。軽音部の一同は仲良く肩を寄せて何かの雑誌を熱心に眺めていた。溜め息とページをめくる音が先ほどから連続している。
「やっぱりフリーペーパーじゃあまり良い求人ないなー」
 肘をついて肩を落とす律は「ネットも使うかー」と溜め息をついた。
 彼女たちが真剣な眼差しを向けているのはアルバイト情報が載ったフリーペーパーである。変なところで金をけちったのが災いしてしまったと一同は肩を落とした。
 何故こんな事をしているかというと、先日の話合いで唯のギターを買うために全員でアルバイトをすることになったのだ。   
 夏音は他人の楽器を買うのに働いてあげようだなんてどこまでもお人好しな子達なのだろうと呆れていた。しかし、それは自身にも言えることだ。夏音としても、アルバイトというのも初めての体験である。なかなか面白そうだと自身も興に乗っていた。

「ティッシュ配りとかはー?」
「あれも結構きついらしいぜー」
「ファーストフードなんかどうですか?」
(なるほど、アルバイトにも色々あるんだね)
 夏音はそれらの会話を真剣な表情で何度も頷きながら聞いていた。アルバイト情報誌なんていうものがあること自体、初めて知ったくらいである。
 意外にも働き先を決めることは難儀を極めた。良い条件を見つけたとして、どんな提案が出たとしても、接客を避けられないバイトなどは極度の恥ずかしがり屋の澪にとってハードルが高くなってしまう。無理をすると精神的に多大な苦痛をもたらして屍と化してしまうくらいに重症だということが判明した。
 行く末を心配された澪だが、一同は彼女が屍となるのを防ぐため、遠回りでも他の線で探しているのであった。
「どっこも高校生不可だってさー」
「せちがれぇ世の中だねりっちゃん……」
 そんな会話がしばしば挟まれる。その都度、澪が申し訳なさそうに体を揺するのをムギが慰めるということの繰り返し。エンドレスにループしそうな流れにしびれを切らした夏音が口を開いた。
「この際、少しくらいきつい仕事でも我慢しようよ。世の中きつくない仕事なんてあまりないでしょう?」
 全員が押し黙って夏音の言葉に目を丸くした。
 見るからに「箸より重いものは持ったことありませんわオホホ」な深窓のお嬢様然とした人間から飛び出た全うな言葉が意外だったのだ。
「まあ……夏音の言う通りだよな。私ら全員を雇ってくれるところなんて単発で力仕事ばかりだし……」
「そもそも全員で同じ場所で働く必要あるのかな?」
「それはそうなんだけど。ほら、うちの澪を単独働かせに出すのは心許ないっていうかさ……わかるだろ?」
「なっ! 余計なお世話だ!」
 完全に保護者の視点から悩む律の言葉を聞いた澪が屈辱に赤く顔を染めた。
「それもそうだな」
 夏音がさもありなん、と頷くのを見てとうとうショックを受けた彼女は気付かれないように隅でいじけた。
 放課後をかけて各自で携帯サイトや情報誌とにらめっこしたおかげで、澪にもできる交通量の調査という名前からして楽そうなアルバイトを探す事に成功した。
 ひたすら通りを走る車を数えるアルバイトだという。たったそれだけでお金が貰えるのか、と驚いた夏音は後に少しだけ後悔することになる。
 



 アルバイト当日。
 時刻は早朝の六時。一同が揃って集合場所に向かうと、帽子をかぶった中年の男女が一組待っていた。
「よろしくお願いします!」
 高校生らしく、朝から精一杯のやる気をこめて威勢の良い挨拶をする少年少女に人好きのする笑みを浮かべて彼らは自己紹介をする。女性の方は有坂さん。男性の方は片平さんと名乗った。
「はい、今日は日中気温が上がるそうなので、水分補給だけは小まめにしてくださいねー。それでは、現場に向かいましょうか」
 現場へ向かうにあたって二人一組に分けられ、ひたすら流れてくる車を数える業務につく。難しい業務ではないし、ずっと座っているだけなので尻のしびれとの戦いといっても過言ではないと思った。
 

「あの……他のみんなはどこに?」
 夏音が任された地区は軽音部の仲間達とは別で、彼女達とは二つほど区画を挟んだ道路であった。
「ごめんねー。お友達と一緒の所にしてあげたかったんだけど、人数の都合でしょうがないんだ」
 と派遣員の片平さんは言う。人が善さそうだが、気弱そうな人である。遙かに年配の者が自分に頭を下げてくるのもバツが悪い。
「そうなんですか。わがまま言ってすいません」
 軽く頭を下げると、夏音は支給されていたくっと帽子をかぶった。自分はここに仕事に来ているのであって遊びではないのだ。気を引き締めていかないとならない、という覚悟の表れである。
(しかし立花夏音、なかなかどうして寂しいものだ)
 実は寂しがり屋さんの夏音も時間が経つにつれ、仕事に慣れた。というか孤独に慣れた。作業は本当に車を数えているだけで、もう一生分の車を見ているのではないかと思われた。   
 むしろ睡魔をやっつける方がよっぽど難儀したくらいである。
 このバイトは一区域につき派遣員を含めて三人体制でまわっている。実際に調査するのは二人なので、交替で一人が休憩といったシステムである。ところが、休憩といっても軽音部のメンバーとかぶる時は少ない。用意されたワゴンの中に見知った顔を見つけた瞬間の夏音は尻尾をぶんぶんと振っていたように見えただろう。


 夏音は隣に座る相方の方に目を向けた。自分とペアを組んでいるのは都内にある某大学院で数学を研究しているという寡黙な青年だった。
 ぼさぼさの長髪にメガネ。洗いざらしのブルージーンズにシャツ、という地味な格好。一昔前の日本のフォークシンガーさながらという出で立ちである。彼とは初めの挨拶以来、口をきいた記憶がない。
 向こうが話す気がないのだろうか。それとも体調が優れないようにも見える。この青年、風が吹けば倒れそうというか、夏音が一発はたいただけでKOできそうなくらいゲッソリしている。そう思って見ると、だんだん顔色が青ざめているような気もする。この人ヤバいんじゃ……と不安にかられた夏音はたまらず口を開いた。 あまりに暇だったのもある。
「暑いですね」
「そうだね」
「あれも車に含めていいんですか」
「あれはヤクルトのおばちゃんだから……どうだろう」
「ヤクルト………好きですか?」
「毎日のおやつがジョアさ」
「僕も好きですよ、ジョア」
 夏音は奇妙な高揚感を得ていた。意外にも、会話がつながっている。夏音が思わず手元のカウンターをすごい勢いで回していると、今度は青年の方から話しかけてきた。
「君はどうしてこのバイトに?」
「お金を稼ぐためです。そう言うあなたは?」
「数字が好きなんだ……ひたすら数を数えていられる最高のバイトだから」
 ああ、変態なんですねという言葉をかろうじて飲み込んだ夏音はそれらしく「なるほど」と頷いて曖昧に濁した。
「君、どこの子?」
「桜高です」
「あぁ。あの女子校か……女子校って憧れだったなあ」
「いや、今年から共学になったんですよ? そういう僕は桜高共学化初年度の男子生徒なんです」
 夏音がそう言った途端、青年は一分くらい押し黙る。心配になって青年の顔をのぞき込むと、半分くらい前髪に覆われた顔は限界まで驚愕に固まっていた。まるでサンタクロースの衣装をクローゼットから発見した少年みたいな表情だった。意外に表情豊かだ。
 フリーズから解けた彼はくいっとメガネを押し上げて、怖々と口を開いた。
「そいつは君……実に驚愕の事実だよ……君のこと僕っ娘だとばかり……」
「………僕っ娘は女の子限定の属性ですよ?」
 性別を誤解されることなど、今さらである。しかし、夏音は彼と口をきくのをやめた。
「ところで、君のことどこかで見た気がするんだけどなあ……」
「気のせいです」
 その後、やたらと饒舌になった青年が数学的セックスについて語り出した時も、うんざりと道路の車に意識を集中させていた。

 時間はじっとりと過ぎていく。

 太陽も昇りきったところで、休憩の時間になった。
 向こうの配慮により、お昼の時間を合わせてもらったので、夏音は急いで他の皆の場所へ向かった。
 一刻も早くムギのお茶が飲みたかったのである。
 夏音が厳かに瞳をとじて、茶の一滴までも渋い顔で味わうのを不思議な顔つきで見守る軽音部一同の姿があった。それから休憩時間が終わると共に、哀愁を漂わせて帰る夏音の背中をそろって見送った。
 残りの時間、夏音はずっと憮然とした表情で過ごした。隣の青年の変態性が自分に感染らないかと不安になった。

 二日目は中だるみが激しく、大分いい加減なカウントになってしまった。天気だけは良く、爽やかな風が時折吹くのに気分は暗鬱。
 隣で数学の深遠な世界について語る青年の声もお経のように聞き流すことができるようになった。これも仲間のためと思い、今すぐにでも帰りたい欲求を我慢して夏音は乗り切った。
 とはいうものの、我慢もしてみるものだ。過ぎたる毒は、案外気持ちよくなることもある。
 夏音は隣の青年とうっかり会話が弾んでしまったのだ。
 どんな会話が切り口だったかは定かではないが、とにかく音楽の話になった。すると後は超自然的に音楽談義に花を咲かせることになり、実は彼がインディーズシーンにおけるマスメタルバンドの先駆的存在として羨望を集めているらしい事が判明したのだ。
「マスロックじゃなくて?」
「マスメタル、だよ。これでも割と名が知られていると思うのだけどね」
 正直、かなりアングラじゃないかと思ったが、彼が日本においてお馴染みの野外フェスに出場した話もあって、それなりに認められているのだと理解した。
 その後はヘビーすぎる音楽の話を堪能して、「いつか観にきてよ」とライブに誘われるくらい仲が良くなってしまった。
 まったく人は見かけによらない。
 重々承知していたのに、改めて思い知らされた。今回、アルバイトをして良かったと夏音は熱く噛みしめた。
 こうして二日間のアルバイトは終了した。

「二日間、お疲れ様―」
 ねぎらいの言葉と一緒に給料袋が手渡される。初めての肉体労働。その報酬に感極まった夏音が思わず涙をこぼし、それにつられたムギと涙をふきあう微笑ましい場面も見られた。
 本来の目的は唯のギター代を稼ぐことだったので、皆が一斉に受け取ったばかりの給料袋を全額まるごと唯に渡したのだ。
 全員分の袋を受け取った唯の表情が曇っていることに夏音は気がついた。だが、律たちはそれに気付かず他のバイトをやることを検討し始めていた。
 そんな唯の様子を何となく観察していた夏音であったが、唯が吹っ切れたような表情で顔をあげたのを見てなんだろうと首をかしげた。
「やっぱりこれいーよ!」
バイト代は自分のために使って――そう言って、唯は給料袋を全員の手に返す。
「私、自分で買えるギターを買う。一日でも早く練習して、皆と一緒に演奏したいもん! また楽器屋さんに付き合ってもらっていい?」
 全員が唯の決断に呆気にとられていたが、ふと顔がほころんだ。
 首を横に振る者などいなかった。

 夏音は小さくなっていく唯の姿を再度振り返って眺めた。
「いい子だな、唯は」
 ぽつりと呟いた夏音は、そんなに欲しいのならレスポールくらい手に入れてあげようかと考えた。
(すぐにでも……)
 思考が段取りを踏もうとしたところで、首を横に振った。
「やっぱりやめた。唯が決めたことだもんね」
「おーい、夏音! 置いてくぞー!」
「あぁ、ごめん今いく!」
 もう一度だけ唯の姿を視界におさめ、夏音は足踏みして待っている律たちの方へ駆けだした。

 
 そして、ついに唯のギターを決める日がやってきた。
 実のところ、夏音は内緒でまたあの楽器屋へ通ってちょうど良い価格で良さげなギターを見繕っていたりした。けれども、結局選ぶのは唯なので意味がない。そこは巧みな話術で唯を操って……と思い、ふらふらーと浮き足立つ唯に話しかける。
「あ、あのさー唯ちゃんや? ここらへんのギターのー……このへんの……これとかいいと思うんだけどなー……って唯?」
 さりげない態度で誘導商法を試みた夏音であったが、じっとしゃがみ込んだ唯の視線の先を追って眉を落とした。
 言うまでもなく熱い視線の先にはレスポールが光沢めいた光を放っている。同じように唯の様子に気付いた律と澪も仕方ないなー、といった表情で苦笑する。
「唯? よかったら買わなくても、弾くだけ弾いてみる?」
「うーん……それはいいや。あとちょっとだけ見させてー」
 まるで買って欲しい玩具をねだる子供そのものだ。
 夏音は肩をすくめて「見るだけって言っても……」と戸惑った。他の者に困惑した視線を向けると、澪と律が苦笑まじりだが、確実に嬉しそうに笑っていた。
 二人には唯の気持ちが十分に共感できるものだったし、仕方ないなと言った心持ちであった。
「ちょっと……ちょっと待っててください!」
 突然声を荒げたムギに「おや?」とした顔を見合わせた一同だったが、ムギが敏捷な動きで店員の方へ駆けていく様子を見守った。
 何やらムギが熱く語っている。しかし、相手をしている店員の顔が青ざめて見えるのは気のせいだろうか。
「ひ、ひぃっ」
 という悲鳴らしき者が遠くに聞こえた気がした。
「あの店員やけに焦ってないか?」
 律の指摘に、全員がうなずいた。そして、るんるんと上機嫌で戻ってきたムギが放った一言に度肝を抜かされた。

「このギター、五万円でいいって!」
「えぇーーー!!?」
「Jesus…!!!」
「な、なになに!? ムギちゃん何やったの!?」
 どう考えても怪しすぎる展開に唯が青くなってムギに詰め寄った。するとムギは照れくさそうに説明する。
「このお店、実はうちの系列のお店で……」
「そうなんだぁー。ありがとう、ムギちゃん! 残りはちゃんと返すから!!」
 唯は深く考える事をやめて、素直にムギへの感謝を述べた。そんな唯とは裏腹に、何という無茶苦茶な展開だろうと夏音は唖然としていた。琴吹家の財力や事業内容も気になるところだが、実家の権力を躊躇なく使ったムギも疑いなく二十万の値引きを受け入れた唯も思考回路が一般と画されている。
 二十万といったら新卒の初任給に相当する。新卒の給料一ヶ月カットするのと同義であるのに。
「ま、使えるものは使えばいいかな」
 幸福の絶頂かのように喜び跳ねる唯を見ていたら力が抜けてくる。やれやれ、と息をついた夏音は改めて彼女の表情を見やった。
 瞬間、胸がズキンと痛んで何とも言えない切なさを覚えた。
(ギターが手に入るのがそんなに嬉しいんだ……)
 夏音にもあっただろうか。
 こんな感覚。
 ずっと昔、初めて楽器を手にした時にもこんな風に打ち震えるような喜びを抱いただろうか。
 彼女の純粋無垢な喜びに触れたせいか、胸がどきどきとする。
 悲しいせいか、嬉しいせいか。どっちつかずの感情はすぐに皆の歓声に紛れた。
「おめでとう唯!!!」


 数日後、メンテナンスや最終チェックを終えて、ついに唯の手元に渡ってきたギターのお披露目が行われた。繊細な硝子細工を扱うようにそっとハードケースの中からギターをとりだした彼女は、ぎこちない様子でストラップを肩に下げた。そして、じゃーんとギターを構える唯の姿に軽音部の一同から拍手が起こった。
「ギター持つとそれらしく見えるね!」
 澪がいつになく興奮した口調で言った。
「なんか弾いてみて!!」
 律も同じように唯に声をかけたのだが、そこで唯が弾いたのはなんとも間抜けなメロディー。
「チャルメラかよ……」
 律がげんなりと言う。
(チャルメラってなんだろう)
 日本ではお馴染みの曲だが、夏音にはよく分からずに曖昧に笑っていた。
 すると話はギターのフィルムについての話題へと移行する。未だにギターのフィルムを剥がしていない事を律が目敏く発見したのだ。理由を尋ねると、唯がよくわからないギターの可愛がり方をして過ごしているということが判明した。
「添い寝はやめなさい。下手したら折れちゃうよ」
 それだけは釘をさしておかねばならない。折れやすい、レスポールちゃんは弾く時は悪魔のように大胆に。触れる時は赤子に触れるように繊細に。
 その後、律がフィルムを勝手に剥がして唯を泣かしたが、結果的に唯を練習へ向かわせたので結果オーライ、と夏音は満足だった。
「ライブみたいな音出すにはどうしたらいいのかな?」
と唯が言い出したので、部室の倉庫にあった古いマーシャルのギターアンプにつないでやった。
「よし、これで音が出るよ」
 サムズアップをして、唯に弾くように指示する。
 そして緊張した表情で唯がギターのネックを支える。
 右手が振り上げられ、下ろされる。
 響くレスポール、ハムバッカーが拾う弦の振動。
 ただの開放弦だ。音色とも言えない、微かなノイズまじりの音。
 そしてサスティーンが伸びきって、じょじょに消えていく。

 夏音は全身に鳥肌が立った。脳に電極をぶっさして雷でも落とされたかのようだ。
 何の予兆もなく、襲いかかってきたこの震え。遅れて、自分がこんな感覚を全身に迸らせていることに震撼した。
(何だよ…こんな……ギターを鳴らしただけじゃないか)
 夏音は唯の表情を見て、この間自分が覚えた感覚の正体が何か分かったような気がした。
 これは産声である。自分が初めて出した音が彼女の胸を魂を深く震わせている。喜びの歌声だ。

―――これどうやっておとだすのー? ――

―――ハハ、ここをこうおさえて弦を弾いてごらん――

―――す、すごいっ! おとがでたよっ――

―――ほぅほぅ、大したもんじゃないか――

(俺は……こんな感覚、とうの昔になくしていた)
 彼女を見ていて、脳裏をよぎる遠い記憶。
 唯の向こう側に幼いころの自分の姿が見えたような気がした。
(うらやましいな)
「やっとスタートだな」
 自分には、二度と取り戻せない感覚。夏音が深い思いに耽っていると、澪が神妙な口調で言った。万感の思いを織り込んだような声だった。
「私たちの軽音部」
 律が続ける。
「ええ!」
ムギが静かに、力強くうなずいた。
「俺たちの、軽音部……俺たちの、軽音部か」
 夏音の胸に目が覚めるような爽快な風が吹いた。ドクドク、と皮膚の裏を走るナニカが夏音を突き動かす。
 自分もまた新しい音楽を。
 改めてこの場所で、一から音楽に触れていき、育む。
(俺、ここに来て良かったのかも)
 夏音は軽音部に入る事を決めた(やや強制だった)自分のフィーリングは間違っていなかった。
「目指すは武道館ライブーー!!」
 律が声高らかに叫ぶ。あまりに大きく出た律の言葉に驚きの声があがるが、夏音はいっそ清々しかった。未来の事はわからない。もしかすると、このメンバーで武道館にあがる未来が来る日があるのかもしれない。現実的に考えると叶わない夢である。
 けれども、それがただの夢物語だとしても、本当に実現できたら。夏音は自分は夢想家ではないと思っているが、そんな未来がやってきたら大層面白いことだなと笑った。
「卒業までに!!」
「それは無理だろ」
 おまけにチャルメラとかいう謎のメロディーを加える唯に、盛り上がった空気が完全に抜けてしまった。
「ご、ごめん。まだこれしか弾けないやー。アンプで音を鳴らすのはもう少ししてからだねー」
 すると唯はアンプに近づき、つまみに手をかけずそのままジャックに手をかけ――、
「って、唯っ! 危ないっ!!」
 澪が叫ぶが、間に合わなかった。そして大抵の初心者が一度は聞くハメになる爆発音が部室に響いた。
 もう、辛抱できなかった。それを見て、夏音は盛大に笑い転げた。
 唯を注意していた澪だが、過呼吸気味に陥るほど腹を抱える夏音に若干顔をひきつらせせた。
「ひどい! そんなに笑わなくても~!」
 唯は頬をふくらませる。
「い、今の……そんなにツボる所あったかー……?」
 律は、儚げな美少女が床に転げるほど笑いまくる様子に目を背けたくなった。
「あー楽しいじゃないか軽音部!」
 これから、もっと楽しいことが起こるに違いない。



 その後。
「よし、唯にギターを叩きこむかー」
 先ほどの醜態から一転して、俄然やる気の闘志を燃やす夏音であった。
「あ、そうそう夏音くんや」
「何かな?」
「私、夏音くんがこの間弾いたの聴いてすっごい感動した! 私も早くあれだけ弾けるようになりたいので、よろしくお願いします先生!」
(あ、せん……先生……先生……甘美な響き)
「俺の特訓はきびしいぜ? やれるかい嬢ちゃん」
「覚悟しております! サー!」
「その意気やよし。まずはコードをおさえてみようか」
「サー! コードってなんですサー?」
「あれ、どこから教えればいいんだ……」
 思えば、夏音は一から楽器を教えるのは初めてであった。夏音が頭を抱えるのを見て、唯もつられて難しい顔をした。
 むぅ、と二人がうなった。



 ※今回、少し文量が少なめです。



[26404] 幕間1
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/06/28 20:30

 ※免許に関しては、完全に嘘です。日本においては18歳以上でないと運転できません。したがって、どう足掻いても夏音は二輪しか乗れません。


 一般にひきこもり生活というのは、文字通り自分の部屋に一日中こもって出てこない状態を指し示すはずだ。
 引きこもった人間は、徹底的に他人と接触するのを拒み、それは家族とて例外ではない。
 日中は家族と顔を合わせることを避け、食事は部屋の前に置いてもらう。家族と出会うリスクを回避するため、小用などはペットボトルに。
 清潔な者は家族不在の間隙を縫うようにシャワーを浴びる。これらの行為には、殊更家族のスケジュールを把握している必要があるが、うっかり母親と鉢合わせしてしまうことも。
「○ちゃん……!」
「くっ!」
 息子は母親を押しのけて自分の城へケツまくって逃げ帰る。
 夜中に耳をすませば、ふとドアの向こうに聞こえる家族の嗚咽。

 とにかく。これが引きこもりのステレオタイプだ。

 しかし、立花夏音においてはその全てが当てはまらない。
 彼の場合、ひきこもると言っても学校に行かないという点以外は、実にのびのびとしていた。まさに毎日が休日、という生活。
 もっぱら楽器を触るか、作曲。もしくは引きこもり生活中盤からは漫画やアニメ作品を漁るように鑑賞するという循環で一日が過ぎていった。
 彼は外に出るのが怖くなかったのだろうか。
 もちろん、初めは外に出ることもままならなかった。初めはまさに自宅引きこもり状態だったのが、徐々に表に出るようになったのは、もともと夏音が通った高校が遠く離れていた事が大きい。学校から自宅まで、電車で言うと八区間ほどの距離があったのである。
 彼を外に出す要因の一つとして、彼は自らの容姿を隠したことも大きい。
 日本ではやたら目立つブロンド色に輝く髪。母親譲りの髪を彼は気に入っていたが、身の安全のために一時的に捨てることにした。どう足掻いても日本人には見えない顔だけはどうにもならないが、眉毛と睫毛の色も日本人にまぎれる黒色にしたのだ。ちなみに、彼が体のどこまでを染めたのかは明らかにされていない。
 ぱっと見て元の彼を知る者が目撃しても、一瞬で彼とは分からないくらいに変化することに成功した。息子の変化をそっと見守っていた立花夫妻もその徹底ぶりに感心するくらいだった。
「黒いのも素敵よー」
 と母のアルヴィは喜んだのも束の間。「ママとお揃いだったのに……」と悲しみに打ちひしがれた母親を慰めるのに息子は苦心したという。
 一方、父である譲二は純正日本人として黒い頭髪を持っていたため、やっと息子が自分とお揃いになったと喜んだことは秘密であった。言葉にすると、妻の逆鱗に触れてしまうからだ。
 このように外出することに徐々に躊躇いがなくなってからは、良くドライブなどに出かけることもあった。
 というのも夏音はアメリカにいた頃、十五歳でパーミットを受け、日本に来る三ヶ月前に自動車運転免許を取得していた。
 免許を取得して一年が経っていたので、日本の学科試験を受けて日本でも公式に車に乗ることを認められた訳である。
 夏音の現在の年齢は十七歳。日本では十八歳からの取得になるのだが、驚きの国際ルールである。

 ちなみに彼は、自分が軽音部の皆より年上だという事は打ち明けていない。
 秘密ばかり抱えている、と夏音は悩む。
 いつかこの肩に背負う荷物を下ろせる日を考えねばならないと思った。

 両親が自宅に帰っていた時は、親子でよくセッションをして過ごした。
夏音の自宅、高級住宅街にそびえ立つ三階建ての家には広大な地下室が備わっている。あらゆる機材が揃っており、完全防音のスタジオである。夏音の部屋も所狭しと機材が置かれてあり、またこの部屋も防音仕様という充実。
 ロハス一家、ここに極まる。

 いつまで、この生活を終えようかと考えることもあった。それでも煮え切らない自分は考えを先延ばしにしてばかり。
 このまま、アメリカの親友が自分をぶん殴りにくるまでのんびりしていようか。それとも、とっとと元いた場所へ帰ってしまうのもいい。
 夏音は考えるばかりで、引きこもり生活を続けていた。

 今、夏音はひきこもり生活をやめた。
 新しい世界に飛び込むことにしたのだ。
 新しい仲間。
 軽音部。


「一人で作業はしんどいなあ」
 夏音は汗をぬぐってガレージにしまってある大型ワゴン車にせっせと機材を積んでいた。
 ギターアンプにベースアンプ。見るからに重そうな機材を車に運び入れる作業は骨が折れる。この場にあるのは小型アンプではない。ヘッドとキャビネットに分かれた高出力アンプである。さらに、500Wのモニターを二つ。小型のチャンネル数の少ないアナログミキサー。その他もろもろ。

 結論から言うと、軽音部には最低限のまともな設備が整っていなかった。先々代、いや先々々々々々代くらいの先輩方が遺していった過去の遺物が物置に放置されてあったものの、その機材設備のあまりの悪さに耐えきれなくなった夏音は、自宅から機材を運び入れようと奮起したのである。
 唯も澪も、あんな小さなアンプでやるより出力が大きいアンプでやった方が楽しいに違いない。夏音としても、自分が慣れたアンプの方がいい。
 ちなみに今運びこんでいるものだけで、総額百万を超える。
 こんな高いものを揃えて盗難の心配がないのだろうか。そんな心配も無用であった。
 それらのアンプは本命が壊れた時に使用するサブとんでサブであったのだから。
 夏音はたっぷり一時間半を費やして積み込みが終わると、へとへとになりながら車を走らせた。
 日本の住宅街の狭い道をゆっくり走り、大きな通りに出てからはものの十分ほどで学校に着いた。桜ヶ丘高等学校では、生徒が免許を取得すること、ましてや生徒が学校に車で来ることは原則的に禁じられているので、車は近くの路上に止めた。そもそも、向こうで取ったものは仕方がない。
 夏音は併せて持ってきていた業務用の台車を下ろすろと、苦労してそこに機材を乗せた。動いて落ちたら困るので、紐で固定することも忘れなく。

 今日は日曜日なので、学校には部活動に来る生徒しかいなかったが、それでもすれ違う生徒から注目を浴びてしまう。
 傍目には、重量級の機材を載せた戦車のような台車を押す美少女。なかなかシュールな光景である。
「しまった……階段、ムリ」
 うっかり夏音。今さら頭を抱えても遅い。自らの浅慮な行動を悔いたところで、フォースを使えるようになる訳でもないのだ。
 夏音ががっくり膝をついて途方にくれていると、ぶっとい胴間声を響かせて走ってくる集団が廊下の向こうに現れた。胴着を着た少女達の気合いがこちらまで伝わってくる。
(柔道部、かな)
 柔道部という事は、それなりに力があるはずだ。少なくとも、自分なんかよりは。

「ま、待って! そこ行くお嬢さん!!!」

 凄いスピードで通り過ぎようとする集団に、声をかける。
 良く抜ける声は、無視する事を許さない。真っ直ぐに鼓膜を揺らして、相手に届く。
 すると、先頭の主将らしき少女(二の腕だけで夏音の腹より二回り大きい)がその顔面に大量の汗と戸惑いを浮かべて立ち止まった。ぐったりした様子で床に女の子座りしている美少女が突然声をかけてきたのだ。困惑するのも無理はない。
 ほとんどのエネルギーここまで来るのに使い果たした疲労紺倍の夏音はまるで薄倖の美女のように映り、物語に出てきそうな少女の様子に顔を赤らめる者もいた。
しかし、視線をずらせばとんでもねー量の重量機材。果たして、この組み合わせは何だろうと首を傾げるのも無理はなかった。
「なんだっ! この柔道部主将・範馬魔亜娑にいかなる用向きだというのだ……む……ウハッかわええ子」
 黒帯をぐいっと締めて主将らしき少女が夏音を見下ろした。言葉の最後に危険な単語が潜んでいた気がした。
 あえて突っ込むのはよそう、と本来の要件を思い出した。
「すいません……助けてください」
「な……っ!」
 かろうじて細腕で体を支える夏音。もはや女の子座りから浜辺の人魚のような姿勢になっていたが、その実、乳酸がたまった腕が痙攣を起こし始めていた。立ち上がろうとして手を使ったのはいいものの、全然体を支えられない。
 すると、生まれたての仔牛のようにプルプルと立ち上がろうとする夏音をがっしりつかむ腕があった。
「む?」
 ふいに自分の腕を支えるように手を伸ばしてきた魔亜娑の顔を不思議そうに見詰める。
「私達にできることがあるのならば……何でも言うがいい」
 彼女の瞳には熱く濡れるものがきらめいていた。それだけでなく、鼻から二筋垂れる赤い線が目に付く。鼻血だ。彼女は自分をじっと見詰めて何度もうなずいている。
「何か顔から色々噴き出てますよ」
「今にも折れてしまいそうな美少女が震える体に鞭打って何かを訴える……これで心動かされずにいられるだろうか!」
「はぁ、そう……」
 変態である。最近、変態によく遭遇するなと思った。
 気にくわない単語が幾つか飛び出たが、その前に魔亜娑が掴んでくる腕の力が気になった。それ以上力をこめられたら折れそう。
「何でも言ってくれ美少女!」
「そ、そう。ならお言葉に甘えて……えーと、この機材を音楽準備室に運ばなければいけないんだけど、頼めますか? あと美少女じゃなくて……」
「おう一年コラ!」
「押忍!!!!!」
 とんでもない音圧ある声が響く。思わず、夏音の肩がびくっと跳ね上がった。
「これも練習の内と心得よ! この今にも根本から折れそうな美少女を手伝ってさしあげるのだ!」
「押忍!!!!!」
「いや、根本から折れるって……だから俺は女じゃなくて……」
「可愛いあの娘は」「えんやこら!」「美女のためなら」「えんやーこら!」
 生まれてくる性別を間違えているのではないか、と夏音はゲンナリと機材を運び出す彼女たちを見て思った。 
「あの……ありがたいけど、慎重に扱ってください……」
 夏音は音楽室に全ての機材を運んでくれた柔道部の面々に礼を言った。深々と頭を下げると、そんな礼とかはいいから連絡先を書いて寄越せと言われた。完全に下心じゃねーかと、丁重にお断りした。
 機材を配置する。懸念していた電源の位置や数の関係も、特殊なケーブル、トランスをもちこんだので問題なかった。
 しばらく作業をして、楽器を演奏する部活らしい部屋になったと夏音は満足気に部室を見渡した。
「明日、みんな驚くかなー」
うくくっと笑みをこぼして部室に施錠をして帰宅したのであった。

 後日。
 週明け。
 放課後。
 軽音部の部室にて。
「ぎゃ、ギャーーっ! な、な、何じゃこりゃー!?」
 わくわくしながら一番乗りで部室にスタンバイしていた夏音は最初に訪れた律の反応を見て、悪戯が成功した少年みたいに笑った。
「昨日、持ってきたんだ!」
「これを、一人でか!?」
「そのとおり!」
 開いた口が塞がらないといった様子でわななく律を見て、ますます夏音は踏ん反りがえった。
「軽音部の設備があまりにひどいもんでね。家から持ってきちゃったんだよ」
「これ、これだけでいくらだよ……」
 律はふらふらと椅子にへたりこんだ。
「他の皆が来るのが楽しみだなー」
 その後、ムギは一人でこれだけ揃えた夏音を手放しにねぎらい、澪はあまりの光景に気絶しかけ、唯はよく分からなかった様子で「すごいすごーい」とはしゃいだ。


 機材投資は、夏音にお任せ。




 ※幕間は、割と毛色の違った感じになります。これから度々、たぶん四つくらい幕間が差し挟まれますが、本編に重要な事も書いてますので。
  それと、フォレストの方のと同じ流れにするつもりですが、文章などを修正してこちらに投稿するので、こちらの方が完成版に近いつもりです。



[26404] 第五話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/26 21:25
 立花夏音は生まれてこの方、ずっとアメリカで育った。そんな彼は帰国子女と紹介されることが多いが「帰国」したのかと問われると首をかしげてしまう。ちなみに夏音の父親は何を思ったのか、夏音に二つの国籍を持って育つように措置をとったので、厳密に夏音は二つの国籍を持っていることになる。どちらにせよ、ずっと向こうの教育を受けて過ごしてきた彼を見て誰もが日本の高校教育についてこられるのだろうかと疑問を持っても不思議ではない。
 しかし、答えは否。
 ネイティブ並の日本語能力を持った夏音は、自らが入手した新たな趣味、日本の漫画や小説をこよなく愛したおかげで一般の日本人以上に達者な日本語を身につけていた。
 つまり、何も問題はなかったのである。


「やっとテストから解放された~」
 律は部室の中央で、天へと腕をかかげて自由への喜びを叫んだ。テスト勉強から解放された喜びを十二分に噛み締めている学生のよくある姿である。
「高校になって急に難しくなって大変だったわ」
 お茶の支度を進めながらそう呟いたのはムギである。口ではそう言うものの、何でもそつなくこなしてしまうような雰囲気を漂わせる彼女が勉強に苦労するようには見えなかった。しかし、世の高校生は中学時代との勉強の難易度の差に困惑する時期である。中学でそれなりの成績を収めていても、おごってしまったばかりに一気に成績下位に転落する者も多い。いかに優秀な人物でも油断はできないという事かもしれない。
「そうだなー。私も今回ちょっとヤバかったかも……ていうか、もっとヤバそうなのがそこにいるんだけど」
 澪が開放感に満ちあふれた部室でただ一人、暗雲を背負ってうなだれる少女を指さした。
 彼女のとった成績がいかなるものだったか、火を見るより明らかだ。
「唯……そんなにテスト悪かったのか?」
 頬をひくつかせて不気味な笑いを浮かべている唯は、ギギギと不可思議な音をたてて澪の方を向いた。
「ふ、ふ、ふふ……クラスでただ一人……追試だそうです」
そうして、ふらふらと立ち上がった唯が見せた答案をのぞきこんだ全員が青ざめた。
「よく……こんな点数をとれたな」
 夏音は驚愕に目を見開き、思わず手を頬にあてた。これだけの点数だと逆に感心してしまう。
「だ、大丈夫よ。今回は勉強の仕方が悪かっただけじゃない?」
「そうそう! ちょっと頑張れば、追試なんてヨユーヨユー!!」
 顔をひきつらせながらもムギと律がフォローをいれた。きっとそうに違いない。見事な優しさを目にして夏音もうんうんと首を振る。
「勉強は全くしてなかったけど」
 唯はけろりとして言い放った。 
「は、励ましの言葉返せこのやろう!!」
律が怒るのも無理はない。自業自得、因果応報。彼女にぴったりな四字熟語は幾らでもある。
 何故、勉強をしなかったのかと聞かれると唯は勉強もそっちのけでギターの練習をしていたのだと答えた。
「おかげでコードいっぱい弾けるようになったよ!!」
Vサインで勝ち誇る唯。
「その集中力を勉強にまわせよ……」
 完全に馬鹿にした態度をとる律にむっとした唯がじゃあ、と問い返す。
「そういうりっちゃんはどうったのさー?」
「私はホレ、この通りー!!」
そうして律が差し出した答案を見た唯が「うそっ……」と絶望した表情になる。
「こんなの、りっちゃんのキャラじゃないよ……」
「私くらいになると、何でもそつなくこなしちゃうのよーん?」
「そんな~りっちゃんは私の仲間だと信じていたのに」
 さらに高笑いをしつつ、胸を張る律。
「テストの前日に泣きついてきたのはどこの誰だっけな?」
 澪の氷点下を下回る冷たい眼差しが律に向けられた。自信にあふれた態度はただの虚勢だったらしい。
「はっ! そういえば夏音くんはどうだったの!?」
 矛先がこちらに来たな、と夏音は自信をもって答案を差し出した。
「ほぉ~」
「どれどれ……」
 それを唯と律が熱心に眺める。
「英語が百点っていうのは分かるけど、全科目高得点って何!?」
 馬鹿は自分だけだと思い知らされた唯はさめざめと泣いた。
「ココの出来が違うんじゃないかなー」
 自らの頭を指さして夏音が笑う。
「夏音くん……なんて嫌な子でしょう!」
 唯が頬を膨らませて怒る。全然迫力がないので、夏音は肩をすくめて受け流した。
「そういえば、今更だけど夏音はやけに日本語が達者だよな」
 澪がナポレオンパイを崩すまいと真剣な面持ちの夏音を見て言った。
「確かにそうですよね。夏音くんってずっと向こうにいたのよね?」
 ムギがお茶のおかわりを律のカップに注ぎながら、会話に参加した。
「生まれてこの方、ずっとアメリカにいたよ。でも俺の場合、向こうのスクールに 通わされていたし、我が家では『日本語の日」っていうのがあったんだ。父さんが俺にしっかり日本語を身につけてほしかったみたいだよ」
「へぇ~~~」
 一同、感嘆する。
「なんか夏音のお母さんってすっごく綺麗そうだなー」
すると律が唐突に切り出した。
「何で母さんの話なんだ? 今、父さんの話を……」
「夏音は母親似だろう?」
 澪が間髪いれずに聞いてくる。夏音は何故か全員が急に突っ込んできた事にたじたじした。
「いや、まあ似てるとは言われるけど」
「お母様の写真とかってありますかー?」
 ついにはムギがきらきらとした表情で夏音をじっと見つめてくる。
「い、家にはね。今は、ない」
 夏音は居心地が悪そうに体を震わせ、お茶を一気に飲み干した。普段なら家族の事を聞かれると嬉しくなるものだが、何だか不埒な好奇心を向けられている気がしてならなかった。まだ何か聞きたそうにうずうずする視線を向けられたので「さーて」と立ち上がった。
「ベース弾こーっと」
 そう言ってテーブルから離れてベースを取り出す。以前に持ってきていたフォデラではなく、別のベースである。定期的に色んなベースを弾く事も機材管理には必要な事なのだ。
「あれ! そういえば、私夏音くんがベース弾くの初めて見るかも!」
「そうだったっけ?」
「うん! ギター弾く所は何回も見たことあるけどベースは初めてだよ」
「ふーんそうかそうか」
 ならばこの腕、見せつけてくれようと密かに意気込んだ夏音は足下の機材をいじり始める。すると、ふと天啓的な頭に閃きが浮かんだ。
「あ、そうだ律。暇してるならセッションでもしない?」
まったりと紅茶をすすっている律に声をかけた。思えば軽音部に入ってから、まだ一度もそういう”らしい”事をした覚えがない。この機会だからいいかな、と軽い気持ちで誘ってみたのだが。
「え、あ、私っ!? いやいやいや! 今回などは、ちょいと遠慮するかな!」
「何でさ。遠慮しなくていいよ」
「やーだー」 
 全く予想外の拒否反応が返ってきた。
「何でだよ」
 人が誘ったセッションを頑なに拒むとは失礼な、とすっかり機嫌を損ねた声で夏音は律を睨んだ。
 すると、律は目をそらして指をもじもじし始めた。
「だ、だって~私セッションとかあまりしたことないしー」
「私とたまにやってたじゃない」
「澪は黙りんしゃい!」
 澪情報によって夏音の機嫌はますます降下する。
「嘘ついてまでやりたくないのかー?」
「そうじゃないけど……夏音のベースについていけないと思うんすよ」
「何それ!? ついていくも何もないじゃん! 楽しく音を合わせればいいだろ?」
 夏音ダダダッと律に詰め寄って肩をつかんだ。肩をつかまれじっと視線をロックされた律はしどろもどろになる。
「そ、それでも……う~ん……そ、そこまで言うならやってみようか……かな」
 ついに律は夏音の目力に負けてしまった。
「よし、きた!」
 夏音は手を叩いて喜び、急いでセッティングを再開した。
 しぶしぶと立ち上がった律に早くセットするよう促し、律がスネアやバスドラを鳴らすのを待った。
「ふんふん……律、少し気になったんだけど。律のスネア低すぎない?」
「え? 私は思いっきり叩いてダーンって音出る方が好きなんだけど」
「そうかぁ……別に、律の好みだからいいんだけど。今はもうちょっと硬い音が欲しいかなーって。もっとタイトな感じにできないかな」
「うーん、別にいいけど……」
「ま、面倒ならいいや」
 すごく面倒くさそうな律の顔を見たら強制はできなかった。
しばらくしてスティックをつかんで軽くストレッチしていた律は、最後に首をこきっと鳴らして8ビートを刻み始めた。お手本的なプレイである。三点から徐々にライドを絡めて、跳ね気味のドラミングを続けた。普段はほんわかとした空気に満ちる部室だが、誰かが楽器を鳴らした瞬間にそれは軽音部としての空気へと様変わりする。というより、ドラムの場合だとうるさすぎて会話がままならない。
 夏音は律の音をじっと聴きながら、自身の音作りを終わらせた。

「うん、私は準備オッケー!」
 律の準備が整ったらしい。
「こっちもいつでも!」
 夏音はひょこひょこと律に近づいた。
「テンポはどうする?」
 律がスティックを叩いてテンポを示した。
「BPM110だね」
「え、わかるの!?」
 夏音がすんなりBPMを当てたので「絶対拍だ……」と律が瞠目した。自分でさえ分からなかったというのに。
「そうだなぁ……フリーセッションということで! 特に決めごとなしでやろう。Play it by earでね! じゃあ、律頼んだ!」
「え、え、いきなり!?」
 いきなり指さされた律は焦ってなかなか演奏を始められない。たじたじと、どう始めたものかと焦っていた。
「Hey, look!」
 いきなり英語を使われ、律が夏音を見る。
「One, two, one, two, come on Ritsu!!」
 陽気なノリの夏音につられて、律が咄嗟にフィルインからドラムを叩き始めた。律が四小節ほど叩いたところで、夏音もリズムを合わせていく。
 律は夏音の顔を見て、びくりと頬をあげた。夏音は彼女が緊張しているのかなと思った。音が硬いというか、体に力が入ってリズムがよれてしまっている。どちらかというと、夏音のベースに必死に食らいつき、合わせようとしているようだ。
 違うのに、と夏音は首を横に振った。こちらの音をうかがいつつ叩くのでは、まったくノリが生まれてこない。お互いの音を探りつつ、徐々に合わせていくのがセッションの醍醐味の一つであるというのに。夏音は彼女が今まで澪と行ってきたというセッションでは何をしてきたのだろうと不思議に思った。
 しかし、このままで終わらせないのが立花夏音であった。
 ふと夏音が演奏の手を弱めた。ほとんど聞こえないくらいに音が小さくなり、律の刻むビートが宙に放り出される事になる。
 音は何よりその人の心境を伝える。夏音の音を見失ったことで、律のドラムに不安が折り混じる。顔をあげた律が困惑した瞳で夏音に訴えかけた。食い入るように見詰められた夏音は苦笑を漏らした。普段は飄々としている律が「まって、まってよ―」と健気な少女に見えてしまうのだ。まるで保護者からはぐれてしまった子供のように。
 だから夏音はその宙にさまよう手をしっかりとつないであげなければならない。

(こっちにおーいで、っと)

 足下のエフェクターを踏み込んだ夏音のベースが爆発する。
 大気圏から地表まで一気に駆け下りるようなグリッサンドの下降音。とんでもない熱量で軽音部の狭い部室に墜落した。
 それは彼女の反射であった。次の瞬間、律はかっちりと夏音のベースにリズムをはめていた。
 隕石が秒速五一キロメートルで天を下る先に人は何を見るだろうか。脳裏によぎる光景は強制的に大爆発を浮かび上がらせるだろう。それくらい当然の結果として、律は自分が叩くべき場所に逃げ込んだのだ。
 さらに巧妙にシンコペーションを入れられた後には、先ほどまで既にその場になかった物が存在していた。
 グルーヴ。
 二つの楽器のビートが融合してうねるような音の波が誕生していた。
 律の演奏は憑きものがとれたように変化した。肩に入っていた余計な力はどこかへ消えている。
 夏音が挑発するようにオカズを入れると、律も笑ってそれに対抗する。時折、ベースが少しドラムとずれても律が焦ることはない。そうすることで生まれる新たなノリを感じることができるのだ。
 離れるように見えて離れない。曲が崩れそうになっても、夏音がそれをすぐに修正して戻す。

 しばらくセッションは続き、夏音が最後の一音を止ませた瞬間、唯、澪、ムギは二人に盛大な拍手を送った。
 夏音はベースを置くと、スティックを握りしめたまま放心している律に近寄った。
「いやー楽しかった! ありがとう律!」
 笑顔で片手を差し出した。律はぼーっと差し出された手を眺めていたが、顔を赤くして「あ、ハイこちらこそ」と言って弱弱しく夏音の手を握り返した。
「すっごいすっごーーーい!! 二人ともカッコいいーー!!! セッションって初めて見たよ!!」
 唯はぱちぱちと手を鳴らして大はしゃぎであった。
「や、やっぱりスゴイ……」
 呆然と呟いたのは澪である。拍手する事も忘れて棒立ちになって演奏の余韻に意識を持って行かれたままになっていた。
「夏音くん何でそんなにすごいのさ!」
「え、何故と言われても……。練習したからじゃない?」
「私もギターいっぱい練習したらあんな風に弾けるかなー。私も夏音くんとセッションしたいなぁ~」
「そうだな。早くそうなれることを祈ってるよ」


 その後の律といえば、セッションが終わったところでそそくさとお茶に戻ってしまった。「ふっ、いい仕事したぜー」とでもいわんばかりの、爽やかな笑顔であった。それからずっと唯やムギと女三人で姦しいお茶会に没頭している。

(お茶が基本の部活かい……)
 さすがに夏音も半眼になってそれを横目に見ていた。今の感動の余韻はどこにいったのだろう。
 あれ、澪がいないと思っていたら足下にいた。
「うおっ!」
 彼女は夏音が苦労して運んできた自前のアンプの前でじっと見詰めていた。
「どうかしたのか?」
「このアンプ……畏れ多くて使えなかったんだけど、私も使ってみてもいいかな?」
 それが今世紀最大のお願いと言わんばかりに澪は両手を合わせた。
「何言っているんだよ! 最初から使っていいって言ったじゃない? これは澪のために持ってきたような物なんだよ?」
「え……私のため!?」
「澪も、ちゃんとしたアンプで音を出した方がいいと思ってさ。俺も使うからってのもあるんだけど……って澪? おーい? 澪さーん?」
 心なしか顔を赤くして遠い目をしていた澪を現実に引き戻す。
 それからしばらく澪の音づくりに付き合った夏音であったがふと時計を見て、慌てて自分のベースをケースにしまった。
 急に帰り支度を始めた夏音に注目が集まると、夏音は部室の扉に手をかけて振り向いた。
「ごめん! 俺もう帰らないと!」
「用事か何かあるのか?」
 夏音がエフェクターで嬉々として遊んでいた澪が尋ねた。
「ちょっとね。エフェクターは自由に使っていいから、最後にしまっておいてね! アディオス!」
 一同はぽかんとしながら別れの言葉を告げるが、既に扉の向こうへ消え去った後だった。


 夏音は学校を出てから、すぐに目的の場所へ急いだ。今夜、とある知人と会う約束をしていたのだ。学校を出て全力で走ったおかげか、約束の時間を十分ほど過ぎ、待ち合わせ場所の喫茶店の前に着いた。
 そこに見知った人物の姿を見つけて、笑顔で走り寄った。
「How are you John!!」 
 夏音にジョンと呼ばれてニコっと笑みを浮かべたのは、ブロンドの髪を後ろに撫でつけスーツを着込んでいる背の高い白人であった。がっしりとした肉体をスーツの中に隠し、肩はがっしりとしていて、屈強なアメフト選手を思い浮かばせる。
 夏音の姿を確認したジョンも喜色満面で夏音とハグをした。
「会うのは久しぶり、だな。まったく驚いた……まさか本当に日本のハイスクールに通っているなんて!」
 ジョンは夏音が日本の高校の制服を着ているのを見て、大袈裟にのけぞった。
「真面目に学生やってるよ」
「まあ、元気そうでなによりだ」
 ジョンが夏音の顔をしみじみと眺めながら感慨深く嘆息した。
「最後に会った時より、少し大人になったみたいだ。背がのびたのかな……いやしかし、ますますアルヴィに似てきたな」
「本当!? 実はちょっとだけ背が伸びたんだ! 0・5センチくらい!」
 お世辞だったのに、とジョンは心に浮かべた。
「立ち話もなんだから腰を落ち着けようよ」
 夏音は今自分たちが目の前にいる喫茶店を差し、笑った。
「ここジョンの好きなバニララテが美味しいんだ」


 店に入り、注文が来るのを待ってから二人は話を再開した。
 ジョンはひとまずバニララテを一口飲んで驚いた声を出した。
「こいつは……まさしく、バニラビーンズの味を完全に再現している。まいったな」
「だろう?」
 夏音も相好を崩して、同じものを口にした。ジョンはカップをテーブルに置くと、すぐに真剣な表情でさて、と話を切り出した。
「さて。これからは、君をカノン・マクレーンという一人のアーティストとして話をする」
「そうだろうね」
 夏音の表情が真剣味を帯びた。
「そのことだが、まず何回も電話ですまなかった。うっかり時差のことを考えに入れていなかったんだ」
 ジョンは話を始める前に、今までの自分がしてきた非礼を詫びた。
「気にしてないよ。ジョン、あんたは売れっ子敏腕で通してるエージェントだ。俺が勝手に契約待ってーって言ったせいで皺寄せをくらっているんよね。こちらこそ、申し訳ないよ」
「いや、いいんだ。僕はその小っ恥ずかしい形容詞がつくエージェントの前に、いち君のファンだからね。迷惑なんて思っちゃいない―――だが、」
 ジョンは言葉を切り、バニララテを一口含む。
「問題は君がいつまでそこにいるつもりかってことさ」
「それについては……前にも話したはずだよ」
「僕は君の才能が人々の前から一時期でも隠されるべきではない、と考えている。一瞬でもマクレーンから離れてしまう人がいてはならない、とね」
「そいつは随分大きく買われてるね」
 嘆息まじりに夏音は笑う。
 しかし、ジョンは夏音から視線を外さずに続けた。
「冗談でもなんでもない。このまま取り残された君のファンはどうなるんだ!?」
「サイトにもライブでも告知はしただろ? しばらく俺は――」
「普通の男の子になる?」
「まずかった?」
「ひどいなんてものじゃない。なんたって君は普通じゃないのだから」
「おいおい、ハリウッドでも天才子役とよばれる子供は思春期の頃くらいは役者業をやめた方がいいって言われているだろ?」
「役者とは話が違うだろう!」
「ヘイ、そう熱くならないでよ」
 ただでさえ外見によって目立つ二人である。注目を浴びてきていることもあり、夏音は鼻息を荒くしているジョンにバニララテの二杯目をすすめた。
 すると、ジョンはぶるぶる震えたと思うと、とたんに肩を落としてうつむいた。
「夏音は……あの世界に戻らなくても平気だというのか?」
 はじまった――と夏音は思わず天井を仰いだ。
(勘弁してくれー……このアメコミのヒールみたいなナリしてる奴が小鹿みたいに縮こまってんなよー)
 目の前でしょんぼりとしている男は、今この瞬間までこの男の体を覆っていた屈強なオーラの鎧をすっぽり脱いでしまったようだ。
 これをやられた人間は思わず、母性本能らしき感情をくすぐられるという七不思議の一つだ。さすが末っ子。さすが「泣き落としのジョン」。
「だがそれは通用しないよジョニー坊や!」
「そんな! 頼むよー!」
 純真無垢な少年の瞳で詰め寄ってくるジョン。
 夏音はただちに帰りたくなった。
 夏音は上を向いて視線を彷徨わせた後、びしっとジョンに人差し指を突きつけた。
「なら、これだけははっきりしておこうか」
 ジョンは姿勢を正して夏音に向き合う。
「こっちの高校を出るまでは以前のようには活動する気はない」
 きっぱり言い放った夏音の言葉にジョンはずどんと顎からテーブルに沈んだ。
「待ってジョン! そのタイタニックでも沈められそうなご自慢のアゴでテーブルを割る気!? だから、まったく活動をしないという訳ではないんだって!」
「え、それは本当!?」
 ジョン、蘇生。
「ああ。スケジュールさえ合えば、レコーディングとかなら受けてもいいよ。それとカノン・マクレーンとして公に活動するのは無理! それと学校がある日は夜じゃないと無理!」
 夏音が挙げた活動内容をゆっくり頭の中で咀嚼したジョンは、しばし巨大に割れたアゴに手をあてたが、瞬時に手帳を取り出した。
「なら、早速このアーティストのレコーディングがあるんだけど、どうだろう!?」
「早いな!?」
 そうと決まればすぐに動き出すジョンに苦笑しながら、夏音はしばらく二人で予定を合わせた。

 しばらくして話もまとまったところで、ジョンは小腹が空いたと料理を頼んだ。
ジョンはステーキ定食。ポテト。牛丼。ナポリタン。マルゲリータ。それだけでは飽きたらず、食後にジャンボパフェを持ってくるようオーダーした。
「日本のお店は一品の量が少ないね」
「向こうとはいろいろ規格が違うんだよ」
 そんな会話をしながら、二人は料理を楽しむ。
 夏音はこれでも序の口、というジョンの相変わらずの食の量に呆れたが、同時に懐かしさが沸き起こって頬をゆるめた。
「こんな光景も、久し振りだね……」
「ん、何か言ったかい?」
「何でもないよ」
 食後にパフェとコーヒーを楽しんでいたジョンはふと夏音に質問をした。
「ところで、クリスとは連絡を?」
 夏音の表情がその瞬間、固くなる。
「たまに、ね」
「そうか。彼も寂しがっているんじゃないか?」
「まぁ、立花家の奇行は今に始まったことじゃないし。初めの方に……そうだね、去年の夏に一度遊びに来たよ。それからも二ヶ月に一度くらいは電話をしている」
 夏音の語ったそれは全くの嘘である。日本に来てからアメリカから自分を訪ねてきた知人はいない。誰にも居場所を教えていないのだから。
「うん、ならよかった。この間、クリスとマダム・ナーシャがコラボレーションしたシングルが出たが、もう聞いたかい?」
「もちろん。相変わらず、といったところで……」
「ところで、マークは未だに夏音がいなくなったことで騒いでいるらしいけど」
「そうらしいね……最初のうちは一日に三回は熱烈な電話が携帯に来たよ。すぐに解約したけど」
 その時のことを思い出し、夏音はつい青くなった。
「仲が良かったからね」
「……そうだな」
 ジョンとの会話は楽しい。心の芯がぽかぽかしてくる。
 しかし、夏音はこれ以上話しているとあまりに向こうにいた頃のことを思い出してしまう。
 すぐに今を捨てて戻りたくなるくらいな……。
「どうしようもないな……」
 夏音が目を押さえて突然そう漏らすと、ジョンは口をぬぐって夏音にこう言った。
「君が後悔してはいけないよ」
「I know......」
「君がどう生きようと、僕は――僕らは君のことを好きであり続けるし、君の生き方が好きだよ。君らファミリーはどこかぶっとびすぎている感は否めないがね」
「さっきはあんなに喚いていたクセに大人ぶって」
 夏音は拗ねるように口をとがらせた。
「僕は君のことをずっと妹のように思っているからね」
「ほう……俺にそんな冗談を叩いたらどうなるか忘れたのか?」
 ジョンが最後に楽しみにとっておいたパフェのイチゴがまるごと夏音の口におさまった。

 ジョンはこれから都内のホテルで人と会うらしい。
 そろそろ時間だと言って、別れることにした。

「とにかく夏音。今日は君に会えてよかったよ。体には気をつけて」
「そっちこそ。日本にはまた来るだろう? その時はもう少しゆっくり、ね。父さんと母さんもいる時に」
 そう言ってもう一度ハグをしてジョンはタクシーに乗って去った。
 それを見送ってから、夏音はすっかり日が暮れてしまった夜の道を歩き出した。
 外は風が出てきて、少し寒い。
ふと浮かんだのは軽音部の皆の顔だった。
 そのことに少し驚いてから、顔を少し赤くさせて夏音はポケットに手をつっこんで歩き続けた。


 帰宅後、抜群のオーディオ環境がそろっているリビングで録画していたアニメを真剣な眼差しで鑑賞していた夏音。携帯のバイブが鳴り、それを一時停止せざるをえなくなったことに舌打ちをした。
「澪からだ」
【夏音、大変だ。唯が追試で合格しなかったら軽音部が廃部になってしまうらしい……】
「Holy shit......」
 夏音は即座に返信した。
【唯は馬鹿だねー。けれど唯には頑張ってもらわないとね! まあ、何とかなるさ!】
「送信……と」
 夏音は無駄な時間をとった、と再びリモコンをいじってアニメを再生したが、またもや澪からのメール着信で中断させられた。
【そうだな……何とかなるはずだな!】
 澪から返ってきた内容に、うんうんと頷いてからいざ、とリモコンを握ろうとしたが、メールの文章に続きがあることに気がついた。
【ところで、夏音さえ迷惑じゃなければ今度……私のベースをみてもらえないかな?】
 思わず二度見してしまった。
「もしかして……こっちが本題か?」
 まさか、唯の件がフェイントだとは思わなかった。彼女にとって唯と廃部の件は軽いジャブだったということだ。
 夏音は、それとなくこの文章を作った人物について思い浮かべてみた。
 あまり自分を出さない彼女のことだ。この文を打つのにどれだけの勇気が必要だったのだおる、と想像する。おそらく顔を震える手でおそるおそるメールを打つ澪の姿が想像できて、笑ってしまった。
「いいよー、と」
 了解のメールを送信して一分も経たないうちに澪から着信があった。
「澪から……?」
 夏音は首をかしげながら電話に出た。
「もしもし、澪? どうしたんだ?」
『も、もしゅ……夏音ですか?』
「夏音ですよー」
『ベ、ベースの件本当にいいのか!?』
「いいけどー」
『あ、あの……このことは他の人には内緒にしてもらいたいんだけど』
「何で?」
『恥ずかしいからに決まってる!』
 堂々と言われても……と夏音は通話相手に苦笑した。
「ふむ……じゃあ、どこで見ればいいの?」
『あ、部室はだめだよな……どうしようか……』
「俺の家でもくる?」
「はぁーーっ!!」

 ぶちり。
 ツーツーという音が通話終了を教える。

「What the hell happened!?」

 その夜、悶々と女心について悩んだ夏音であった。



※こんな時ですが、投稿します。こんな作品でも、わずか一瞬だけでも気が紛れれば幸いです。 



[26404] 第六話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2013/01/01 01:42
 アリとキリギリスという童話がある。この物語は実に教訓めいており、誰もが一度はこの物語に触れ、日頃から努力を惜しまない事の必要性を説かれたことだろう。

 軽音部におけるキリギリスは友人の前で膝を折って咽び泣いていた。

「という訳で澪ちゃん助けでーー!!!」
「えー、勉強してきたんじゃなかったの!?」

 足下にしがみついてくる唯に愕然とする澪。
それを横目で眺めていた夏音は大きな溜め息をついた。

 ことは唯が赤点をとった事が発端である。
 誰もが顎を落としそうになるような無惨な成績を叩き出した唯が追試を間逃れるはずもなかった。
 部活動をやる上で生徒は、部員である前に一人の高校生であることを求められる。
 当然のことながら、学業を疎かにした生徒が部活動に励むことなど許されない。
 文武両道を目指し、学を修める者として本末転倒とならないように、厳しいペナルティが用意されているのだ。
 追試で合格しなかった場合、部活動は停止。
 一人でも抜けてしまえば廃部へとまっしぐらの軽音部としては、何としてでも唯に追試を乗り切ってもらう必要があった。
 まさに唯の双肩に部の命運がかかっていると言っても過言ではないのであった。

『だーいじょうぶ! 今度はちゃんと勉強するもん』

 と余裕風を吹かせていた唯に根拠不明の不安を抱きながら、この一週間を過ごしていた一同であったが、あろう事か前言を撤回するように唯が泣きついてきた。追試の前日であった。
 今さら切羽詰まった唯は涙を浮かべながら土下座した。
この年にして、見事な土下座っぷりであった。

 誰もが暗澹たる表情で顔を見合わせた。
 このどうしようもない少女をどうしようかと視線を交わすが、誰もが首を横に振る。
 困ったように眉を落とす澪であったが、仮にも泣きつかれた立場として、仲間のために救いの手を差し伸べることにした。

「よし。今晩特訓だ!」

 そう言い放った澪を救世主のごとく見上げる唯。彼女から見る澪には後光がさしていた。
 律曰く、澪は一夜漬けを教えこむエキスパートらしい。
 非常に頼れる澪を筆頭に学校が終わってから、時間が許す限り唯に勉強を叩き込むという力押しの作戦がたてられ、唯の家に集まって勉強会が催されることになった。


「今日はお父さんが出張でね、お母さんも付添いでいないから気兼ねしなくていーよ」
「あれ、妹がいるって言ってなかった?」

 妹が一人いる。律はそんな話が前に出ていたような気がして尋ねた。

「うん! 妹は帰ってきていると思うー」
「それだとお邪魔にならないかしら?」
「え、気にしなくていいよ!」

 黙々と前を歩く夏音は、背後の三人の会話を聞きながら、じっと思案に耽っていた。

「(思えば、日本で友人の家に呼ばれるなんて初めてだ)」

 一年以上も日本に滞在しているくせに、一度たりともない。
 経験がないので、些か緊張していた。
 日本では他人の家にあがる時に変わった作法があるかもしれない。
 少なくとも自分の観てきた作品にそんな描写はなかったが。
 日本人としては当たり前すぎて、丁寧に描かれていなかったのか。
もしくは自分が見落としてしまったのか。
 謎が深まるばかりだったので、その横を歩いていた澪に声をかけた。

「ねえ。日本では友達の家にあがる時に何かしなくちゃだめなの?」

 あまり大っぴらに聞かれるのも恥ずかしかったので、夏音は隣を歩く澪に声を潜めて尋ねた。

「ねえ」
「ん?」
「俺、友達の家に招かれるのなんて初めてなんだけど」
「ええっ?」

 驚きの声を上げた澪はまじまじと夏音の顔を見詰めた。夏音はどうして澪がそんなに驚くのか理解できずに、首を傾げた。

「友達、いなかったの?」
「え?」
「やっぱりプロで活動してると時間とかないものなんだなー」

 ぶつぶつと呟き、勝手に納得する様子の澪に夏音は慌てて訂正を求めた。

「違うよ! 日本で、だよ! 向こうになら友達くらい……」

 いただろうか、と夏音は途中まで口にして頭を抑えた。友人、と呼んでいい存在はいたが、それは仕事上でつながった年上の者達ばかり。
 学校生活において家に招き招かれ、といった関係を結んだ人間はいなかった。

「い、いたけど全然?」
「そうか、勘違いしちゃったよ」

 強がりを口にして繕った夏音に気付かず、澪は素直に謝った。彼女は夏音がひょんなことから傷口を抉られたことに気落ちしたことに気付かず、話題を変えてしまう。

「電話で話した件なんだけど」
「ああ、はい」
「今度時間作れるかな。私から頼んでおいて悪いんだけど、みんなのいる前では話しづらいんだ」

 さりげなく視線をこちらに向ける澪。その表情が硬いことに気が付いた夏音は何かを察知して、快く承諾した。
「かまわないよ。大事な話なんでしょ」
「うん……ごめん」

 そして会話が途切れる。その後も特に交わす言葉もないまま、唯の家に到着してしまった。

「さーさー。あがってあがって」

 自分の家だからか、外にいるより随分と溌剌とする唯が皆に声をかける。

「お邪魔しまーーす」

 澪、ムギ、律の声が重なる。
 はっとなった夏音も「おじゃましまーーす!!!」と従う。声がひっくり返るのを皆に笑われてしまった。
 すると、すぐに奥から可愛らしい声が聞こえてきた。

「お姉ちゃんおかえりー」

 ぱたぱたと奥手から現れたのは、唯に瓜二つの少女であった。
 少女と唯の相違点といえば髪型くらいで、後は見分けがつかないくらいそっくりである。

「あら、お友達? はじめまして! 妹の憂です。姉がお世話になってます!」

 軽音部の一行に気付いた彼女はしっかりと頭を下げて挨拶すると、人数分のスリッパを用意する。

「スリッパをどうぞ」

 挨拶からその所作や気配りに至るまでの洗練されたものに対して「できる!」と心に浮かべた一行であった。
 夏音は靴を脱いで家にあがる少女たちの一挙一動を見逃すまいと真似たが、誰も夏音の様子に目をやる者などいなかった。
 そのまま二階にある唯の部屋へ案内され、やおら腰を下ろしいく。
 夏音はきょろきょろと唯の部屋を見回した。

「(これが、日本の女の子の部屋、か)」

 良い匂いが充満しており、誰にも気付かれないようにひくひく鼻を動かす。
 普段からずぼらな一面を見せる唯であったが、思いがけず部屋の中は整理されている。
 部屋の内装やインテリアに関しても女の子らしい彩りを感じさせられた。

「何をそんなにキョロキョロしてるんだよ。下着なら、たぶんそこだよ」

 そわそわと落ち着かない夏音の内心を看破した律が茶化してきたが、笑顔の澪に沈められた。
 思わず律の指し示す先へとじっと視線を向けた夏音に批難の目が向けられたことは言うまでもない。

 ここへ集まった本来の目的は唯の勉強である。澪が唯の横につき、ムギもそれに付き合う形で勉強が進められていった

 一方、何もすることがなく放置された夏音は気まずさに身動ぎした。ただでさえ「女子の部屋」というものに緊張しているのだ。
 自分がすることに再び批難の視線が突き刺さらないか。また、いちいち緊張している自分に気付かれないか不安を覚えるのであった。
 思春期の少年らしい葛藤を抱えながら、夏音はじっと銅像のように部屋の片隅で固まっていた。
 すると、退屈に身を持てあますあまり先程から落ち着かない律が夏音へと目を向けてきた。手持ち無沙汰なのか、じいっと夏音から視線を外さない。

「さっきから、なんだい」

 視線の圧力に耐えかねた夏音がたまらず聞くと、彼女はぐいっと身を乗り出してきた。

「ねーえー? 夏音くんってば緊張してるよねー。女の子の部屋はじめてー?」

 長い睫毛をわざとらしくパチパチさせる律。からかう気が満々なのは目に見えており、夏音はぶすっと答えた。

「そんなことないけど」

 もちろん、これも強がりである。夏音の回答に邪悪な笑みを浮かべた律は、わざとらしく高笑った。

「まーまー、まるで借りてきた猫のようですわよん。あ、一度借りてきた猫のようだって言ってみたかったんだよなー」
「知らないよっ!」

 好き勝手言ってくる律にたまらず声を荒げた夏音であったが、バタンと参考書を机にたたきつけた澪に睨まれた。

「お前ら……今、勉強中してるんだ。ちょっと静かにしてくれないか」
「……ごめん」 

 明らかに巻き添えを食らっただけなのだが、夏音は素直に謝罪する。その後、律を睨みつけたが、力が抜けたように夏音は唯のベッドに頭を乗っけた。
 まともに相手をしても仕方がない。何より彼女は年下である。
ここは大人としての余裕を見せるべきだと自分を納得させた。

 今まで自分より年が下の者と関わる機会などなかった。スクールバスは同い年の者同士で固まっていたし、その中でも夏音はあまり同級生と会話することはなかった。
 常に年が離れた者があふれる環境に身を置いていた夏音はどう対応すればよいのか分からない。
 特に気にすることなく接するようにはしているが、頭に置いておくにこしたことはない。例えば、こういうシチュエーションにおいて自分を納得させるためにも。
 そんなことを考えているうちに、思考がだんだんと白く溶けていった。


 次に夏音はぼんやりと意識を取り戻した時、まず首の筋が軋む感覚に顔をしかめた。

「首、いたぁ」

 寝ぼけ眼のまま体を起こすと、そこには見覚えのない少女が加わっていた。

「Oops。寝ちゃったよ」

 唯は夏音が起きたことに気付くと、声をあげた。

「あ、夏音くん起きた! ごめんね、あんまり気持ち良さそうに寝ていたから起こさなかったんだー」
「いや、俺こそ寝ちゃってごめんよ」


 頭をかいて姿勢を正した夏音は、先程まで勉強道具が広げられていたテーブルに美味そうなサンドイッチが広げられているのを見た。

「立花くんね。お噂はかねがね。はじめまして、真鍋和です」

 アンダーリムの眼鏡をかけた理知的な雰囲気の少女が夏音に話しかけてきた。

「夏音でいいよ。こちらこそ、よろしく……ちなみに噂ってところを詳しく聞きたいんだけど」
「噂ってほどでもないんだけど。二組に外人がいるみたい、って。日本語が不自由だって聞いてたけど、そうでもないみたいね。あ、外人って言い方は失礼ね」
「いや、別に外人でも気にしないけど」
 
 律儀に訂正する和に手を振りながら夏音は安堵した。他クラスでの噂と聞いたので、よくないものかと身構えたが、そこまで悪いものでもない。

「サンドイッチ作ってきたから、よかったらどうぞ」

 目の前のサンドイッチを視界に入れるとぐぅと小さく腹が鳴った。

「いただきます」

 それから、ひとときの間サンドイッチをつまみながら和が語る唯の小学校時代のエピソードなどを聞いて過ごした。
 彼女と唯は幼稚園以来の幼馴染らしい。
 幼馴染といえば澪と律も小学校から一緒で、掘ってみればいろんなエピソードがあるもので、澪の恥ずかしい話で盛り上がった。
 しばらくすると和はあまり邪魔したら悪いから、と平沢家をあとにした。

 唯の勉強はその後すぐに再開された。
 仲間を巻き込んでいるという自覚があるのだろう。
 集中を増した唯は次々と問題を解きこなしていき、夜が更けて数時間が経ったところで澪の及第点が出た。

「よし! これだけ解けたら大丈夫だろー!」
「これで追試もばっちりね!」

 長い時間、勉強に付き合ってくれた澪とムギに唯は深々と頭を下げた。

「本当に言葉もありません……うぅ」
「今度きちんと返してもらうからな!」

 流石に何時間も勉強につき合っていた澪の顔に疲れが浮かぶ。

「あれ、そういえば律はどこに行ったんだ?」
「いないわね」
「夏音は?」
「ふふ、そこにいるじゃない」

 ムギが忍び笑いを浮かべてある一点を指を指す。

「…………………」
「気持ちよさそうに寝てるねー夏音くん」
「他人の家でよくこれだけ眠れるな」

 唯のベッドを占領どころか布団にくるまって安らかに寝息を立てている夏音を見て、澪は呆れるどころか逆に感心する。
 澪はおもむろにカメラを取り出すと、

「後でからかってやろう」

 楽しげに笑い、写真に収めようとする。
 彼女にとってはいつもからかわれる側なので、やる側へまわった事への妙な高揚感を得た澪は「ふふふ」と不気味な笑みを漏らした。
 ファインダー越しに夏音を撮ろうとしたら、やはりその造りモノめいた顔の造形に集中してしまう。
 澪の中のスイッチがオンになってしまった。
 だんだんとこのままの角度でよいのだろうかと不満が出てくる。いっそ勝手にポーズでもとらせてみようかと思考する。
 気軽に撮ることのできない被写体なのだ。
 こうしてじっくりと写真に収めようとすると半端な形でシャッターを押す訳にはいかない。
 澪はプロのカメラマンになったような気分で、様々な角度を試し続ける。あどけない寝顔でさえ、レンズを通してみればそれだけで美術品の額縁を覗き込んでいるような気になるのだ。

「澪ちゃん、ここをこうした方がいいんじゃない?」

 急に雰囲気が変わった澪の思惑を察知したムギがそっと夏音の手を動かした。
 すると、誰もが「この寝姿!」と唸りそうな優雅な形になる。

「おおっ。これで画面の対比もばっちりだ!」

 いつの間にか高度な部分にまで気を回していた澪は満足そうに頷いた。

「髪はこんな感じでどう?」
「あー、いいな。そう、そんな感じ……あ、まさにそれ! ムギ天才!」
「ここで顎をあとちょっとだけ……くいっと」
「くいっと! そう!」
「唯ちゃん、これ点けるね?」
「うん! あ、これ白い画用紙だけど役に立つかな?」
「ああ、頼む」

 ムギは目に止まったベッド上の照明を点け、唯がレフ板代わりに画用紙を支えた。

 職人達の仕事っぷりにムギが満足そうに頷き、絶え間なくシャッター音が響いた。

「お前ら……何やってんの?」

 友人の妹に遊んでもらっていた律は部屋に戻ってきて早々目に飛び込んできた理解不能な光景に呆然と呟いた。
 
 ★     ★

 勉強会から数日。あの日、夏音を収めた写真がどうなったかは不明であるが、とっくに唯の勉強の成果が問われる日は過ぎていた。
 今日、唯が受けた追試の答案が返却されてくる予定である。
 部室ではいつものように茶菓子とお茶が振る舞われていたが、ふわふわとした雰囲気はない。
 むしろ全員が同様にそわそわとしている。
 そんな中、夏音は部室のソファに横になりながら持ち込んだ漫画を次々と積み上げていた。

「今日返却だよね……合格点とれてるかなー唯は」

 重たい空気に耐えきれなくなったのか、澪はあえて明るいトーンでそう切り出した。

「あ、あれだけ勉強したから大丈夫なはず!」

 ムギもはっとして、ひきつった笑顔で返す。
 夏音は何を大袈裟な、と楽観していたのだが、彼女たちの不安が伝染したのか、少し落ち着かなくなった。
 夏音とて、入ったばかりの部活がなくなるのは避けたいところである。
 そうこうしていると、唯がふらふらと部室に入ってきた。
 その足取りはどこか覚束ない。本試験のテスト返却日の様子を彷彿させる雰囲気である。誰もが息を呑んで唯の答案をのぞき込んだ。

「ま、満点!?」

 皆、平沢唯の底力を見誤っていた。 
 とはいえ、あれだけ面倒を見た唯が上々すぎる結果を持って帰ってきたことに大いに喝采を上げた。
 彼女がその満点を取るために犠牲にした代償を知らずに。

「ねえ……嘘だよね。あれだけ覚えたのに、もう全て忘れたっていうの!?」

 夏音は自分は滅多に声を荒げることはない、と自負していたがこの時ばかりは混乱のあまり自分を抑えてなどいられなかった。
 
 唯は完全に今までのギター経験すべてを忘却の彼方にぶっ飛ばしていたのだ。
 まるで供物とばかりに数学の神にコードを捧げてしまったかのようである。

「コード覚えるところからやり直し……だな」

 先が思い遣られ過ぎて、唯をのぞく軽音部一同はがっくりと肩を落とした。

「だ、大丈夫だよ! 一度覚えたんだしすぐに覚えるから! 私、できるから!」

 全員から諦念の目線を送られた少女も大概不遜だった。

★      ★

 夏音は、生まれて初めてカラオケボックスという所に足を踏み入れていた。
 ただでさえ不安定な軽音部の先行きをますます不安にさせた唯であるが、それでも追試を頑張ったということでお祝いと打ち上げを兼ねてカラオケに行こうと律が提案したのであった。
 これからやっと音楽に打ち込めると信じていた澪はもちろん反対したが、よくよく考えれば彼女こそ最大の功労者であり、その苦労がこうして報われたお祝いと考えようと律に諭されたらしい。
 一つの苦労が報われたが、また別の苦労が待ち受けている事はあえて考えないようにした。

「俺、カラオケって行ったことないよ!」

 うきうきと弾む気持ちでカラオケについていった夏音は興奮しきりで、同じように初カラオケというムギと共に浮かれていた。

「おっしゃー、トップバッターいきゃーす!」
「えー、りっちゃん最初に歌うのは私だよー?」

 一部では早速、マイクの奪い合いが始まっていた。
 夏音は小さい部屋に案内されてから、そわそわと室内を観察していた。
 小さい部屋にディスプレイ画面とマイクがあり、歌本から歌いたい曲を選んで記載されているコードを機械に転送すると曲が流れるという仕組みらしい。画面に歌詞が表示されて、曲中の詩の進行などもわかるようになっている。
 結局、二人で歌うことにしたらしい唯と律が夏音の知らないJ-POPの曲を歌い始めた。

「え、と。なんかアレだね」

 夏音は流れてくる安っぽいオケに対して苦笑いを浮かべた。

「考えたら負け、か」

 どうせ素人が作っている音源である。
 こういう場合は気にしていたら楽しめないだろうと思い、何故かテレビの下にあったタンバリンやマラカスを打ち鳴らした。
 楽しんだ者が勝ちである。

「最近のカラオケはずいぶん曲も増えて、マイナーなのも結構あるんだぞ」

 と夏音に語る澪だったが、なかなか曲を入れる様子が見られない。
 一歩引いた様子で二人の歌を聴いているといった塩梅である。

「ふーん。ところで澪は歌わないの?」

 夏音は慣れない機械に苦戦しながらも曲を選んで、やっと機械に転送した後で澪に訊ねた。

「い、いや! 私はあとでいいよ」

 急に歯切れが悪くなった澪であるが、事情は言わずもがなであった。 ここには友人しかいないのだが。彼女のシャイな部分は知っていたが、ここまで筋金入りだとは思ってもいなかった夏音は認識を改めた。

「あ、澪ー。さっき澪がいつも歌うやつ入れといたからー」

 エコーがかかったマイクを持った律がしてやったりと顔に浮かべて言った。

「え、えー!? 何を勝手に!」

 目に見えて狼狽えた澪であったが、曲のイントロが流れだした瞬間、びくりと固まった。
 にやにや笑いの律がさっとマイクを手渡すと、「がーんば!」とウィンクを投げる。
 そんな幼なじみを殺しそうな勢いで睨んだ澪であったが、歌いだしの部分まで曲が進むと観念したように立った。
 澪は、ふっと息を吸い込み、目を閉じた。
 彼女の声が狭い個室を埋めた。

「Wow!」

 夏音はイントロが始まった瞬間からそれが何の曲か分かっていた。あまりに有名な曲だ。
 Time after Time.
 これを歌うのは、夏音が最も尊敬する女性シンガーの一人である。
 夏音のテンションは最高潮に達した。
 マイクの当て方が悪いのか、声の調子が悪いのかわからないが、声量が大きいとは言えない。
 だが、発音はいささか怪しい部分はあるものの、歌い方のニュアンスは本家に近いものがあって歌い慣れているといった印象を受ける。
 夏音がゆらゆら揺れながら聴いていると、律が夏音にマイクを手渡した。顎で何かを促される。
 歌え、ということなのだろうか。たしかに一緒に歌える歌であるが、夏音は他人の歌に割り込んで良いものか迷った。
 サビに近づくあたりで、マイクをもった夏音に気がついた澪は夏音を見て恥ずかしそうにうなずいた。
 OKということらしい。夏音は頷き返すと、緊張しながら澪に声を重ねた。

「If you`re lost, you can look. And you will find me Time after time...」

 夏音の歌声は、澪の声にかっちりとはまった。二つの伸びやかな歌声が混ざり合い、心地よいハーモニーを奏でる。
 澪はこの歌詞の内容を理解しているのだろうか。この年頃の少女が歌うにはやや早熟な内容であるが、澪はたっぷり情感をこめて歌いこなしていた。

「Time after time...Time after time...」

 最後に澪が囁くように、詩の尾をそっと撫でるように、曲が終わった。
 二人がマイクを置くと、拍手が起こった。

「二人とも、すごく素敵でした!」

 ムギが顔を暗がりにも分かるほど顔を上気させ、タンバリンを叩いた。唯も「二人とも上手だねー」と手を叩いて喜んだ。
 夏音は初めて歌ったカラオケに達成感があったが、一方の澪は完全に力尽きた様子だ。
 続けて、夏音が入れた曲が流れる。

「お、次は俺だ」

 本家には程遠いストリングスの音を伴奏に夏音が歌い始めると、肩を落としていた澪をはじめ俯いて曲を選んでいた律までもが顔をあげた。
 先ほどの控えめのコーラスとは違い、ソロで歌う夏音は別次元だった。
 日本人離れした声質、発声。また声量がとんでもなく力強く、そしてどこまでも伸びていくのではないかと感じさせる高音域まで出せる喉。かと思いきや、中音域に独特の粘りがあり、聴くものをとらえて魅せる。

 当然である。
 
 夏音は自らの呼称をベーシスト、と限定するつもりはない。必要なことは何でもやる。歌が必要であれば、歌う。
 自分のアルバム内で歌うこともあり、友人ミュージシャンの楽曲の中でコーラス参加することもあった。
 自分の歌声を金を払って聴く人がいる。そう考えると、やるからには手を抜かない彼は、ヴォーカルトレーニングの経験も積んだ。
 一度でも歌えばシンガーである。ならば畑違いだからと疎かにせず、シンガーとして恥じないように、と学んだのだ。

 歌に感情がこもる。

 耳にそっと入る歌声は聴く者の感性を刺激して、うっとり惹き付ける。ダイナミクスが、アーティキュレーションが、一般人とは違う。
夏音の歌がこの小さな部屋に響き、空間を震わせ、埋めていた。
 やがて曲が終わると、ぼーっとしたメンバーに自分の歌はおかしかったかと訊くと、急いで首を横に振るのであった。

「上手いというか、凄まじいというか……」

 律はぽかんと放心したような顔をしていた。

「私、少し泣きそうになっちゃった」
「わ、わだしも……」
「唯、すでに泣いてる……」

 涙ぐむムギに、すでにいろいろ漏れている唯。身近な聴衆の反応に、夏音は顔を赤くした。

「いや、なんというか恥ずかしいな……」

 まんざらでもない様子で頭をかいた。こんな近くで聴衆の反応を見る機会はそうそうない。
 しかしカラオケも悪くない、と夏音は考えを改めた。
 曲は次々と予約されているので、湿っぽい空気はすぐに流れていった。
 夏音に感化されたのか、はっちゃけたように「The Who」を歌いきった澪、「Hail Holy Queen」を器用にも一人で歌いのけてしまったムギ、「レティクル座行超特急」でぶっ壊れた律、「日曜日よりの使者」で涙を浮かべて喉を枯らした唯。
 それに対抗して夏音も「スリラー」を踊りつきで熱唱して、軽音部一同は大いに沸いた。
 軽音部のメンバーは全員歌がうまかったことが判明したのであった。

 その日は皆喉を枯らすほど歌って解散した。


★      ★


 カラオケボックスで解散してから、律と共に帰って一度は帰宅までした澪だったが、再び外に出ていた。ベースのケースを背負って。
 澪にとっては重大な用事がこの後に控えているのだ。足取りはやや重たく、心は期待に弾む一方でやはり今からでも取り消すべきかと及び腰になっている。
 考え事をしているうちに、約束の場所まで辿り着いてしまった。

「やあ、こんばんは」

 そこに待ち構えていた夏音は緊張した面持ちの澪に両手を広げて歓待の意を示した。
 澪が向かっていたのは、夏音の自宅。教わった道順を辿っているうちに視界に入る住宅の豪華さに覚悟はしていたのだが、

「で、でか!」

 つい声に出してしまった。
 澪は夏音の家の規模に目を瞠る。家に対して規模というのもおかしな言い回しだが、これを目にしたらやはり広さ、大きさというより規模と表すのが妥当であった。
 開いた口が塞がらないままの澪は、夏音が自分を笑っているような気がしてむっと口を閉ざした。小市民としてのささやかなプライドに傷がつく。

「そうかな?」

 あろうことか、簡単に一言で返されてしまった。その一言に自分と彼の間に存在する距離を教えられてしまった。
 いつまでも外で立ち話というわけにもいかない。澪は夏音に招かれて、家へと案内された。

「お、おじゃまします」

 広い玄関で靴を脱ぎ、リビングへと通される。

「お茶淹れるね。座っててよ」
「あ、うん」

 そう言い置いて夏音は台所へ消えていった。澪は身を強張らせながらリビングを見回し、中央にでんと置かれているソファに腰を落とした。何とも言い難い感触で腰に反発してくるソファは革張りで、おそらくこれも馬鹿高い値段だろうなと思った。
 再びきょろきょろと室内を見渡してみる。白を基調としたモダンな雰囲気。けれども、フローリングの木肌が温かみをもたらす。
 二階と吹き抜けになっている部分があり、開放感がある作りだ。
 静かな家。まずその広さにも驚かされたが、次第にこの家に満ちる静けさが気になった。彼の両親もまた業界屈指のミュージシャンである。
 忙しく飛び回っているとは聞いていたが、一体どれだけの頻度で家に帰ってくるのだろうか。
 物は充実しているのに、人が住んでいるにしては生活の匂いが微かにしか漂ってこない。
 気になることは幾つも出てきたが、澪は特に意識していなかった事実に気が付いてしまった。

「(私、男の子の家にいるんだ)」

 あんな外見だろうと男である。女友達の付き添いで複数で男子の家に上がりこんだことはあるが、二人きりという状況においては初めてである。
 何もやましいことはないのに、どこか恥ずかしいという気持ちが沸き上がってきた。
 澪がうっすら頬を染めて借りてきた猫のようになっていると、クッキーと紅茶を淹れてきた夏音が向かい合って座った。

「さぁさぁどうぞ。買い置きのお菓子なんですがー」

 先日、平沢家にお邪魔した時に憂が言っていた台詞と一緒である。
そのことをしっかり覚えていた澪は思わず噴き出してしまった。

「いやー、あれだよね。買い置きのお菓子で申し訳ないって……謙虚な日本人らしい言葉だね」

 本人としては真面目に言ったつもりだろうが、夏音は誤魔化すように一口クッキーを頬張ってから気恥ずかしそうに笑った。

「ところで、もう周りを気にする必要もないでしょ?」

 どかっとソファの背もたれに寄りかかりながらリラックスした様子で澪に話を促した。
 澪はその言葉に深く頷き、重々しく口を開いた。

「私は既に夏音の正体……カノン・マクレーンだって知ってる」

 口火の切り方として、これはどうかと思ったが、夏音は澪の言葉に静かに耳を傾けていた。

「そうだね。澪がどこまで俺の事を知っているのかまでは存じないけど」
「もちろん私だって全部は知らないけど。もともと聞いたことがあった名前だったし、音楽雑誌とかでも名前が出ているのを見た事があったから」

 早口で喋った澪はそこで言葉を止める。

「今まで忘れていたんだけどね」

 言ってしまってから澪は「しまった!」と焦った。事実とはいえ、忘れていたなど失礼にも程がある。
 実際にカノン・マクレーンの存在が澪の頭からすっかり抜けていたのは真実である。その名前を目にする機会はいくらかあったのだが、食指を動かせなかった。カノン・マクレーンという名前の先を知ろうとしなかったのだ。

「あ、そうなの」

 澪の言葉に彼はとくに気にした様子もなかった。あっさり反応してみせたが、紅茶をすすろうと顔に近づけたカップがカタカタと震えていた。
 思い切り動揺している。実はショックだったらしい。
 悪いことを言ったと気に病んだ澪だったが、続けた。

「クリストファー・スループの弟子みたいなものなんだっていう認識かな。その名前が目につきすぎて、カノンの名前が弱く映ったのかも。それでも、私と変わらない年の男の子がすでにプロの世界で売れているって知った時は衝撃だったよ」

 本当のことを言うと、年の変わらない『女の子』だと思っていたなどとは口が裂けても言えなかった。
 雑誌で確認したヴィジュアルだけ見たら、そう勘違いしてしまっても悪くないと心の中で弁護する澪だった。

「ずっと考えてたんだ。どうして夏音のことを深く知ろうとしなかったのかなって。たぶん嫉妬するから、だと思う」
「そうか」
「嫉妬する、っていうか。ちょっとだけ嫉妬してたんだと思う。それで、この人のベースを聴いたらもっと嫉妬しちゃうんだろうって予感がしたから」

 澪は醜い感情だと改めて自分が抱いたもの醜悪さを知って嫌気がさした。

「ただ、それだけで。いつか別の場所で聴いて、それこそ私が大人になってひょっこり耳にしたら純粋にすごいなって思っちゃうんだよ。私がベースをやってるから。ただ、それだけの理由で意味わからない嫉妬心が出てきちゃったんだよ。馬鹿みたいだろ? 自分でも馬鹿って思う。だから、夏音の曲を聴いてみたりした」

 流石にすぐにCDを手に入れることはできず、夏音には悪いと思いながら動画サイトを利用した。
 そこには、たくさんの動画があった。
 リンクが次から次へと貼られてあり、リンク先にひょっこり現れる有名なバンドの名前だったり、共演した演奏動画を目にする度に、現実を突きつけられる気分であった。
 不思議と、かつて抱いた感情はなかった。
 彼の作った作品、音を素直な心で受け止めることができた。
 かつての感情を振り切って、澪が掴んだのは「尊敬」という感情だった。

 心から、彼の全てを平等な気持ちで評価することができたのだ。

 まだ全てを見たわけではなく、それも彼の一部だったのかもしれない。それでも、澪は彼のすごさを認め、一つの感情を抱いた上で、また自身の欲に出くわした。
 この人がそばにいる。
 このチャンスを、活かしたい。

 自分のことだけを考えたお願いだということは重々承知している。これが彼にとってメリットとなることはない。
 純粋に、これは澪の願いからくる懇願。
 それを彼に突きつけるために、澪は夏音のもとに出向いたのだ。

「ということで……私は、夏音に今の私のベースを聴いてもらいたいんだ。そして評価してほしい。本物の意見で」

 途中から一言も口を挟まず、話を聞き終えた夏音は、薄く微笑んできた。
 嫉妬。保身、排他。
 澪は、ごく当たり前に人間に起こりうる感情を何段階も経た後にこうして玉砕覚悟で夏音に向かい合っていた。
 夏音はそのことをきちんと見透かしていた。

「いいよ」

 あっさり、答えられた。その瞬間、澪はかっとお腹のあたりが熱くなったのを感じた。

「い、いいの?」
「いいよ。だって自分より上手い人がいるんだもん。ベース見てもらいたいって思うのは当たり前だし。俺だって隙あらば他の人に意見を聞いてもらうよ」
「夏音が!?」
「当たり前じゃないか。自分の意見が全て正しいはずない。俺なんてまだまだひよっこだし、自信をもって作った曲をこき下ろされたりすることもあるよ」

 それを知った澪はぶるりと身を震わせた。初めて、音楽に対して身震いするほどの思いを抱いた。
 深すぎる。音楽、そして音楽業界。目の前にいる男がまだまだならば、自分はどの位置にいるのだろうかと考えただけで立ち眩みを起こしてしまいそうだ。


 では早速とばかりに、澪は立花家ご自慢のスタジオに案内されることになった。
 防音のドアをあけて中に入った澪はしばらく言葉も出なかった。
 レコーディングスタジオといっても過言ではないほど、充実した機材の数々。さらに機材の保管庫はまだ他にもあると言う。

「さ、さすが……というか、もうお前に関わることで驚いていられないな」

 心臓がいくつあっても足りない。
 それを聞いた夏音は肩をすくめて、椅子を二つ用意した。
 澪は自前のベースを取り出して、調律をすませてからスタジオのアンプにつなぐ。

「見たことないつまみとかあるんだが」

 普段、自分が触れる機会のない高級なベースアンプ。澪はヘッドアンプに存在する幾つものつまみを前に戸惑ってしまった。

「ゲインとマスターがコレ。エンハンサーは使わないで。コンプもいらない。イコライザーはこれがベース、この二つがハイミッド、ロウミッド。それでトレブル、プリゼンスね。とりあえず今はフラットにして」

 初めて見るアンプに戸惑っている澪に、夏音はアンプのつまみを一つずつ説明した。
 セッティングが整うと、用意された椅子に互いが向き合う形で座る。
 澪はしきりに髪をいじる。聴いてくれと頼んだのは自分だったが、いざこうして夏音の目の前で弾くのは緊張してしまう。

「あ、あの……」
「ん?」

 頬に血が集まるのを感じながら、澪は恥ずかしさを誤魔化すつもりで言った。

「笑わないで、ね」

 その瞬間、夏音がのけぞった。見た事のない味のある表情が見物だった。
 彼の不思議な反応に澪は首を傾げたが、覚悟を決める。
 澪の手がネックに触れる。

 ★        ★

 澪の手がネックに触れる。
 左手が弦を撫でるように動き、ベースの低音が鳴り響いた。
 フェンダージャパンのパッシヴベース。澪が初めて買ったというベース。
 パッシヴ特有の温かいふくよかな音。澪が選んだのはクリームの曲だった。
 アレンジを加えながら、夏音のよく知る進行で曲が進んでいく。

 よくコピーできているな、と夏音は素直に感心した。
 楽曲をそのまま、という事ではなくて演奏者の手癖やニュアンスを表現しているという意味で。
 もしかして、澪はジャック・ブルースに影響を受けているのではないだろうか。
 時折入るオカズを聴く限り、ジャズやブルースといった音楽の要素がいくつか引き継がれているように思えた。
 おそらく、そっち方面の音楽を学んだというより、コピーしているうちに身につけたのだろうと推測した。
 夏音はしばらく彼女の演奏にじっと耳を傾けていた。
 真剣な表情で音を紡ぐ彼女が全力で自分に訴えようとしているもの。彼女が築き上げてきた技術を感じとろうとする。

 五分ほど弾いたところで、澪は演奏をやめた。

 演奏を終え、澪は恥ずかしそうに俯く。

 感想を待っているのだと気付いた夏音はゆっくり口を開く。

「何から言っていいやら」
 
 そう口にした夏音に澪は背筋を伸ばしてごくりと生唾をのむ。

「まず、澪は上手いね! うん、十分上手いと思うよ!」
「え?」

 澪は夏音から飛び出た言葉が想像していたのと違ったのか、素っ頓狂な声を出した。

「で、でもこんな実力でプロからすればへ、へた……なものじゃないのか?」
「プロだから、とかそういうのはよく分からないな。もちろん、そういう区別をするなら下手かもしれない。誰と比べてもいいなら、ね」

 夏音はいくつか彼女の演奏を聴いて思ったことを挙げた。

「良い音楽を聴いてるなぁ、って思ったよ。音については仕方がないけど、ピッキングが弱くて輪郭がぼやぼやだったかな。それにリズムキープ怪しくて、ところどころ崩れそうになる瞬間があるのとか……他にもあるけど」

 ぽんぽんと出た夏音の言葉に素直に頷いていたが、澪はまだ何か物足りないような表情を隠せないでいた。

「ちなみに、だけどジャコを聴いたことは?」

 夏音がふと尋ねた人物に澪が反応した。 

「名前は知ってるけど」
「ナルホド……」

 残念そうな顔になった夏音だったが、気を取り直した様子で数回頷くと「それくらいかな」と言った。

「……他には?」
「他?」
「何かないのか? 私のベースの感想っていうか、感じたこととか!」
「感じたこと……そうだな……ない!」

 ぐっさりどでかい言葉の杭を澪に突き立てた夏音であった。
 もちろん、澪は心に相当な深傷を負った。瞬く間に真っ白な灰になってこれから消え飛びそうになった澪に、夏音は泡を食う。

「ご、ごめん! 言葉が悪かった! 何も感じなかったっていうのは言い過ぎだね! なんて言えばいいんだろう……澪がさっきからプロとしての意見を頼む、って言っていたのは自分がプロとして通用するかってことなんだろ? そういう意味では、あなたはプロになれませんよーって断言することなんてできないよ。技術をひたすら磨けばたいていプロと呼ばれる人種にはなれる。ただ、」

 夏音が間を置いて澪と目を合わせる。澪は夏音の言葉の先を待った。

「ただ……?」
「上手いだけでは、通じないんだ……俺たちの世界ではね」
「…………」
「要するに、簡単に言ってしまえばワンアンドオンリーがない」
「個性ってこと?」
「そう。個性」
「プロにも何種類もの人間がいるのさ。言ってしまえば、その分野でお金をもらって食っていく人間はみんあがプロだ。ただ、俺が立っていた場所は……周りの人間は個性をもっていたよ。その人の音をもっていた……俺も、その内の一人だった」

 自慢でも過信や思い上がりではない。夏音はそのことだけは自信を持っている。夏音は続けて言う。

「だから、澪が今すぐプロに通じるなんて到底ムリ……残酷に聞こえるかもしれないけど」

 はっきりと言われ、澪はあからさまに落ち込んだ様子であった。それでも納得したようにうなずき、いっそ清々しいような笑顔を浮かべた。

「そうか……はっきり言ってくれてありがとう。別に、プロ願望が一番にあるわけではないんだ……ただ、今はベースが私の中で大きな部分を占めているから。どこまで通用するのか、って気になったんだ」
「なるほどね。ただ、勘違いしないでね」

 夏音は大事なことである、と一度切ってから話し始めた。

「澪がこの先もプロになれないとは言っていない」
「え?」
「もちろん、必ずなれるとも言えないけどな。今聴いた限りでは、澪は伸び代が十二分に余っていると思うよ」
「と、いうことは?」
「ということはも何もない。要はこれからってことさ」

 澪の顔は拍子抜け、といった感じがありありと出ている。夏音は彼女がどんな回答を求めていたか、容易に予想できた。

「澪。言っておくけど、単純な問題ではないんだよ。澪が期待するような答えなんて俺は持ってない。澪の将来のことなんて俺にわかるはずないじゃないか。これから澪がどんな努力をするかも分からない。オーディションを受けてるんじゃないんだ。今、この場で俺が君にジャッジを下せるはずないだろう」

 遠慮のない言葉に澪の視線がだんだんと下がっていく。しかし、夏音は澪にとっての衝撃的発言を口にした。

「俺なんかでいいのなら、教えてあげられることはあるけど」
「ええっ?」
「どうする?」

 顔を上げた澪は目を瞬かせて夏音の顔を覗き込んだ。

「そ、それって……」
「ていうか。最初からそういうつもりだったろ?」
「ち、違う! 最初からそんなつもりなんかじゃ! 私のベースが通用しないんだったら、それで諦めようって……」
「素直じゃないなー」
「す、素直とかそういう話じゃない! 本当だ!」
「別に恥ずかしがることじゃないよ。澪もベーシストだから、そういう風に俺を見てしまうこともわかる」

 澪は思わず、声を呑んだ。その声がわずかに震えていることに気付いたのだ。

「ただ……俺を遠ざけないで」
「と、遠ざけてなんかないよ!?」

 澪は急いでそれを否定した。

「本当に? 俺を、ただの夏音だと見てる?」
「そ、それは……うん、夏音は夏音だよ。他の何者でもない……んじゃないの?」
「なら、いいんだ。ただ、本当の事を知っているのは澪だけだし。澪は何だか最近様子がおかしいし。やっぱり打ち明けたことが原因だったのかなって」

 ★        ★


 澪はそれを聞いて、後悔した。自分の態度ははっきりと彼に伝わり、悩ませていたのだと今さら気付かされた。
 ただ才能をうらやみ、さらにあわよくばと彼を頼っていた自分を恥じた。

「ごめん。夏音のことを見る眼が少し変わったのは事実だ。けど、私が最初に友達になったのはカノン・マクレーンじゃなくって。立花夏音だ」

 澪にしては珍しい、かなり恥ずかしい発言である。澪も言ってしまった後に、それに気付き顔が真っ赤になった。

「あ、ありがとう……そう言ってくれると嬉しいよ」
「……ハイ」

 お互い、少し気まずくなった。

 二人はスタジオで様々な話をした。
 濃い、音楽の話。夏音の生い立ちやスループ一家との出会いなど。
それに対し、澪は表情をころころと変えて驚き、笑い、共感した。それは澪の想像の向こうの話。知られざる世界の裏事情だったり、有名なギタリストが同性愛者だったといったような話まで。
 そうやってしばらく話し込んでいるうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
 時間も時間であり、お暇すると告げた澪。夏音もそれに賛成すると、送っていくと言った。

「別に送ってもらわなくて大丈夫だぞ?」

 子供じゃないんだからと笑う澪だったが、夏音は外で待っていてと言って姿を消した。
 言われた通り、玄関先で待っていた澪だったが、ふと大きなエンジン音が聞こえたと思ったら大型のワゴンがガレージから出てきた。

「……ん、んなっ!?」

 運転していたのは夏音であった。

「Yeahhhh!!! huh!!! 乗んな!」

 運転席から顔を出し、カウボーイみたいなかけ声をあげ、乗れという夏音。運転席の下まで詰め寄った澪は悲鳴に近い声で叫んだ。

「な、何で夏音が車を!?」
「うんー、まあまあとりあえず乗ってよ」
「いや、でも!」
「いいから乗れよ!」

 大人しく乗ってしまう澪であった。
 助手席に乗ってから、無免許運転、犯罪、警察といった恐ろしい単語が頭をめぐり激しく後悔した。
 しかしながら遅かった。
 やっぱ降ります、と言う前に車は発進してしまった。

「そんなに怯えないでいいよ。無免許じゃないから」

 助手席でぶるぶる震えている小動物に夏音が苦笑しながらある物を差し出した。

「ん? これは……免許?」

「(何で夏音が免許を持っているんだ?)」

 頭の上に疑問符が何個も出ている澪は、どうやら本物らしい運転免許証を目を凝らして見た。
 その生年月日を。

「え…………夏音………お前……?」

 澪がおそるおそる夏音の方を見る。すると、夏音は大口をあけて笑い出した。

「そうでーす!! 実は十七歳でーす! 向こうで免許とって一年経っていれば日本でもとれるんだよ。まぁ、オートマ限定だけど」

 アハハハと笑う夏音であった。もうやけくそだった。この際、カミングアウトしてしまえーと思ったが、これでどんな反応がくるか不安である。

 夏音は横でしんとなっている澪をそっとうかがった。
 もしかして、なんとか―――、

「えーーーーーーーーーーっっ!!!!???」

 ―――ならなかった。澪の限界であった。つんざくような澪の悲鳴をBGMに大型ワゴンは夜の道を疾走する。

「あの、澪さん……何で僕はここまで怒られないといけなかったんでしょう」

 夏音が実は年上だという事実を知らされ、度を失ったように錯乱して運転中の夏音の首を絞めて揺さぶった澪は現在、しゅんとなってうなだれている。

「ご、ごめん。つい弾みで……」
「別に年なんて大した問題じゃないでしょう」
「た、大したことなくない! 夏音は私たちより年上なんだぞ!?」
「うーん、そうだけど。俺の生年月日なんてwikipediaに載ってるんだけどなあ」

 夏音が間延びした口調でそう言うので、澪は溜息をついた。
 そして真剣な口調で――、

「夏音さん。それとも夏音先輩、の方がいいか?」

 ハンドルを持つ手が滑り落ちそうになった。

「今、ゾワリと背中を何かが……頼むからやめてくれ……」

 信号で止まったので、澪の方を向くとその信号機の照明にぼんやり照らされた横顔、頬が緩んでいるのがわかった。

「……からかっているな?」
「ばれたか」

 夏音は少年のように笑う澪に肩の力が妙に抜けてしまった。

「そりゃびっくりしたけど。もう夏音のことでいちいち驚いていられないって思ったんだ」

 落ち着いた声でそう言った澪に、澪はふぅと溜め息をついた。

「そうですか……でも、澪には何もかもバレてしまったな」
「なあ、みんなには言わないつもりなのか?」

 澪は前から気になっていた、と夏音に訊ねた。だが、夏音は少し口をきかなくなり、やがてぽつぽつと喋りだした。

「そうだな……いずれ、必ず」
「まあ、夏音がそれでいいなら私は何も言わない」
「そうしてちょうだい」

 それから無事に澪を送り届けた夏音は、早々に帰宅した。



[26404] 第七話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/18 17:24

「カノン、僕は日本の萌えとやらを見くびっていたようだ……」
「やっと理解したか。これから見識を広めるといいよ」
 


 夏音は日本の梅雨が大嫌いである。故に、自然と六月が嫌いという事になる。連日降り続く雨、雨、雨。息を吸うだけで水分補給できるのではないかというくらい湿気にまみれた外の外気、気が付けば肌がじっとりと濡れていることなど当たり前。お気に入りの服を着ても、じっとりと汗が滲んで気分が台無し。
 肌寒い季節などとうに過ぎ、むしろ春の陽気すら懐かしく感じる程の熱気が幅をきかせている。善い人ほど早くいなくなる、というが心地良い季節も一瞬で通過してしまうのは悲しい。やっと自分達の元へ来てくれたんだね、と思ったらF1で言うとピットインしただけ。アーバヨ、と手をすり抜けていった。

 ジョンとの再会以降、夏音の生活も徐々に変化を見せ始めた。普通の学校生活を送りながら、ジョンが持ってくる仕事をこなす日々は久しく感じていなかった修羅場の空気を思い出させてくれた。アメリカでばりばり仕事をこなしていた時は、まさに東奔西走。ばたばたと音楽に明け暮れていた。それでも、夏音はそんな生活を気に入っていたし、音楽の中に身を委ねる以外に他は必要なかった。
 いかんせん不登校が続いたせいか、急激にめまぐるしくなった生活につい遅れを取るのは仕方がなかった。ジョンもその辺をしっかり把握しているので、夏音にまわしてくる仕事量を絶妙にコントロールしてくれている。今まで苦労させていた分、早く慣れねばと意気込む夏音であった。
 初めにまわってきたのは、某手数王と呼ばれる日本人ドラマーのアルバムへの参加。夏音は二曲だけ参加する事になっており、事前に渡された譜面を移動中に読んでスタジオへ向かう。こちらにはローディーがいないので、機材を運ぶのはジョンが手配した信頼できる人材が手伝ってくれた。何あれ、スタジオに着くと過去に共演したミュージシャンが数人いた。
 何を隠そう、夏音の父である譲二にドラムを教えて事がある、という人物こそが中心人物であったのだから。
「お久しー。あンさァ送った譜面なんだけどー」
 というような言葉から始まり、「アレンジなんだけどー」と言って九割以上の変更を申しつけてきた。まさか急にベース枠にすっぽり入る事になったのが夏音だとは思っていなかったらしくて、よもや今ある譜面を破り捨ててもよいのでは、と思ったくらい別の曲になってしまった。父に劣らず、クレイジーなドラマーだとは聞き及んでいた夏音だが、身をもって知ることになった。
 とはいえ、久々にプロのミュージシャン達とアンサンブルを考えていく作業は懐かしい風を夏音に吹き込むことになった。
 そんな感じで昼は学校、真夜中にはレコーディングに参加、時には母親つながりのジャズヴォーカリストの公演のトラとして呼ばれたりする日々を送っていた。
 楽しい、が忙しい。睡眠が足りなくて苛々とする事もしばしばあった。しかし、軽音部の皆の前ではおくびにも出さないように気をつけていた夏音だが、ついに抑えきれない衝動に大声を張り上げてしまった。



「外で洗濯物干せんやん!!!」


 沈黙が部室を覆った。軽音部の女子一同は目を丸くしてぽかんとたった今怒鳴り上げた人物に視線を注いだ。怒鳴った際、バンッと机を叩いたせいで少し紅茶がこぼれている。
「い、意外に家庭的な悩みだな」
 かろうじて律が言い返す言葉を絞り出した。

 軽音部の部室。いつものごとく夏音たちがお茶をしていると、誰かが湿気に対する文句を言い始めた。すると誰かが口火を切るのを待っていたかのように、全員が次々に不平を漏らす梅雨悪口大会に突入した。
 くせ毛がまとまらない。外で遊べない。楽器を持ってくるのが大変。つい傘をなくす。夏音は、次から次へと出てくるものは低次元の悩みだと思い切り鼻で嘲笑った。
「へぇー。そんなに言うならお前の悩みはさぞかしすごいんだろうなー?」
 と律がふっかけた事によって夏音が爆発するハメとなった。


「そんな専業主婦みたいな悩みを抱える高校生ってのもなんだかなー」
 外の天気とは対照的にからっと笑いながら律は気楽な意見を口走ったが、瞬時に夏音に目線で射殺されそうになった。
「そいつぁ、お前さん……自分で毎日洗濯をする身分になってから言ってみやがれってんだ」
「わ、分からなくはないけどさぁ……」
 自分もたまに家事を担う者として共感はできるものの、律は夏音のあまりの過剰な反応に怯えて少し後ろに退いた。
 夏音はこの一週間ほど、この雨と湿気に悩まされた。普段は乾燥機を使って梅雨を乗り切れるはずだったのだが、そんな乾燥機は一昨日壊れた。修理した結果、数日かかるそうだ。そもそも、夏音は干せるのであれば外で干したい派である。日光にあたって干された洗濯物の手触り、においは室内だと再現できない。これは夏音の密かな、しかし強いこだわりであった。
「え、もしかして夏音くん一人暮らしなの!?」
 唯がわっと驚いた顔で夏音に訊ねた。
「そうだよ。言ってなかったっけ?」
 そうだっけな、と夏音が記憶を探っているうちに、律が大変なことを聞いたと騒ぎ出す。
「えー! 夏音一人暮らしなのか! そいつは知らなかったなー! それは是非とも遊びにいかないと!」
「Not talking!!」
 すかさず夏音からは拒否反応が返った。
「えー、夏音くんのお家行ってみたいなー」
 唯が口を尖らせて抗議をするが、夏音は露骨に嫌そうな表情で断固首を縦に振らなかった。
「なんだよ、家に来られて困ることでもあんのかー」
 律がしつこく食い下がり、それを見かねた澪は夏音をフォローする。
「まあ夏音がいやだって言っているんだからあまりしつこくするなよ」
 自分は既に何回もお邪魔してます、とは口が裂けても言えない澪としては何となく都合が悪い。しかし、その発言は二人を引き下がらせるどころか律の耳に大きくひっかかってしまった。
「おい、澪。やけにすんなり夏音の肩をもったわねー」
 その瞬間、律のその瞳に好奇の光が宿ったのを見て、澪はぎくりと体を硬直させた。そして、その実直すぎる反応が律の格好の餌となる――そんな未来が克明になろうとした瞬間、ムギが口を開いた。
「どうして夏音くんは一人暮らしなの?」
「あぁ、うん。別にたいした理由じゃないよ」
 もっともな疑問を忘れるところだったと唯が夏音に説明を求めた。そこで律も澪に対する意識がそれて「そういえば何でだ?」と首をかしげた。
「両親が頻繁に仕事で家を空けるんだよ。今回はかなり長くなりそうというか、よっぽどでないと戻ってこないかもね」
 だから実質、一人暮らしなんだと淡々と語った夏音であった。はい、これでおしまいと会話を終焉に導こうとしたが、甘かった。
「そ、それは夏音くんが死んじゃう!」
「……はい?」
 唯がそれは一大事だとふるふると肩を震わす。言っている意味が全くもって理解できなかった夏音は思わず素っ頓狂な声で返してしまった。不思議な生物を見るような目で唯を見詰めると、彼女は真剣に語り始めた。
「夏音くん。人はね……人は独りぼっちでいると死んでしまう生き物なんだよ!」
「それは兎ちゃんでは?」
 ムギから冷静なツッコミが入るが、どこか変なスイッチが入ってしまった唯はどこ吹く風である。
「そうだ唯! 唯がいいこと言った!」
 そして唯の発言に乗った律が高らかに訴えた。それからトーンを落として夏音に悲痛をこらえたような表情で向き合う。
「ごめんな夏音……私たち、同じ部活の仲間なのにお前がずっと寂しい思いをしていたことなんて気がつかないで……」
 完全に悪ノリ状態の律は役者のように瞳を震わせた。
「今まで何を見てきたんだろうな私たちは……」
 夏音はそれに対して、完全にしらけた表情で沈黙を守る。
「でも、大丈夫! 今夜は私たちがずっと一緒にいてあげるから!」
「お前の魂胆はお見通しだけど、挙句の果てに泊まるつもりなのか!」
 流石に黙っていられなかった夏音はこれ以上エスカレートしてしまう前に釘を打とうと思った。
 遅かった。
「ということで放課後は夏音の家で遊びまーつ!!」
「おーー!! お菓子いっぱい持ってこー!」
 結局、そこに落としたかった律の明言に、素で同調している唯が叫んだ。
「これが穏やかな心で激しい怒りに目覚めるという感覚なのか……」
新感覚を覚えた夏音であった。
 やっていられない、と律たちを相手にしないことに決めた夏音であったが、ニコニコとこちらを向いているムギに気付いて表情がぴしりと固まった。
「夏音くんのお家、楽しみです」
 まさかのユダがいた。そして、より複雑な表情をしている澪がいた。


 元来、男は女の押しに弱いとはいうが、それがまさか自分にも当てはまるとは思いもしなかった。その事を身をもって痛感した夏音は流れに身を任せる、否、流されている真っ最中であった。鉄砲水に巻き込まれる勢いで流されている。
 決まってしまったモノは仕方がない。どうにもならない事への諦めの良さは自分の持つ美徳の一つと思って夏音は沸き起こる不満を飲み下した。よくよく考えてみれば、自宅に友達を呼ぶのは悪い事ではないし、むしろ良い事かもしれない。別に家の中にやましい事を抱えている訳ではない。
 いや、それは嘘だ。やましい所ばかりであった。
 いつの間にか軽音部の面々をあますところなく引き連れて自宅へと向かう道の途中、夏音はふいに頭に浮かんだ未来にはっとした。
(このまま、何の用意もなく女の子を家に入れるだなんて……)
 すぐに問題点を洗いざらい頭の中に浮かべた。まず家の中は部屋干し中の洗濯物ばかり。部屋干しに臭いはつきものだ。いや、待てよと思い直す。洗濯剤はアレを使っている。エ○エールで良かった。夏音は基本的に綺麗好きに部類される人間であるので、他所様に見せて恥ずかしいと思われるほど汚くすることはない。それでもここ二日間の洗濯物をまだ取り込んでいない。恥ずかしい。家に入ったら即行で片付けねばならない。
 一番見られたらまずいと思われるスタジオへと続く扉はしっかり封印すれば完璧ではないか。万が一のために鎖などを使おうと心に決めた。
 あと、何があるだろう。家の中の臭いは平気だろうか。洗濯モノを別として、自分で生活していて気付かない立花家オンリースメルが充満していたら事である。玄関入った瞬間にUターンされ、影で「あいつん家、玄関入った瞬間トイレの臭いしたけど」とか言われたら目も当てられない。
 そういえば滅多に使わないが、ド○キで買ったアメファブがあったと思い出す。 家中にぶっかけよう。
 夏音は家に帰ってから自分がすべき事をシミュレートし、あらゆる問題点を脳内で解決しながら、自宅へと続く最後の坂道へと曲がり角を折れた。

「しがない我が家ですが」
 夏音の家に着き、澪ともちろん本人をのぞいて一同はその高級住宅街に並んでいても遜色ない建物を見て呆然とした。
「ちっ、やっぱボンボンか」
 部室に運んできた機材とか、思い当たる節はいくでもあった。律が舌を打ち鳴らしてぼそりと呟いたが、幸い夏音の耳へは届かなかった。ムギは家の広さに、というより庭の花壇で美しい均整を保って咲き誇る花に嘆息していた。
「まあ綺麗……夏音くんが世話してるの?」
「世話は俺がしてるよ。枯らすと母さんに泣かれるからね」
「おおきーい」と口をあけっぱなしで騒ぐ唯を横目に見ながら「実質、趣味になりかけてるけど」と心で呟いた。
 それから夏音は家の玄関扉の前で振り返った。
「しばしお待ちを……この扉を開けてはなりませぬ」
 眉をきゅっと引き締め、それだけ言い残すとさっとドアに身を滑り込ませた。玄関先に取り残された軽音部の女子たちは顔を見合わせてきょとんとして「鶴の恩返し?」と思ったが、大人しく何もせずに待つことにした。待っている間中、ずっと家の中からドッタンバッタンと恐ろしい音が鳴り響いていた。
 数分してから夏音が笑顔で扉を開けて言った。
「どうぞー。散らかっているけど、あがって?」
 そういう夏音は、この数分でどれだけ動いたんだと思う程、服が乱れていた。一同は、第六感に従って、見ないふりをして玄関にあがった。
 夏音は前回、唯の家を訪問した際にスリッパを出すという日本の習慣に感銘を受けており、早速それを取り入れていたりした。玄関には、すでに人数分のスリッパが綺麗に並べられており、夏音は誇らしげに彼女達がスリッパを履くのを見守った。
「んー。なんか良い匂いがするね」
 そう唯が一言、それにムギが確かに、とうなずいた。
「これは……お花、かしら」
 そんな話を広げる二人に、律が鼻をくんくんとさせて言った。
「これ、ファ○リーズじゃないか? それにしては匂い、きつすぎないか?」
「う、うちは母さんが家中で香水ふりまくから……」
 律の一言にぎくりとした夏音だったが、余裕を見せるつもりで笑いながら言った。アメファブの威力を甘く見ていた。
「まぁ、私もよく使うけどなー」
 何も気にしない様子で律は言ったが、若干頬をぷるぷると震わせていた。この数分間の夏音の動きが手に取るようにわかってしまうのだ。
 夏音はひとまず彼女達をリビングに案内した。開放感あふれるリビングの広さに唯と律は「おー」と驚嘆の声を漏らし、それとは対照的にすでに何度も夏音の家に上がっている澪は家の内装には知らん顔を通していた。少しだけ自分は何回も来たけどな、と先輩風を吹かしたい気持ちもあった。
 夏音が勧める間もなく、どかっとソファに腰を下ろした唯と律はこれまたソファのふかふか加減にはしゃぎだす。その様子を苦笑しながら眺めていた夏音はお茶の用意に台所へ消えた。
 そんな中、ムギはきょろきょろと部屋を見渡してから、ふと収納棚の上に飾ってある写真立てに目を止めた。ムギはささっと立ち上がると写真立てに近づいて興味津津な様子で眺める。
「やっぱり夏音くんのお母様、すごい美人……」
 ムギがそう漏らすのを聞くと、澪はそういえば自分はリビングに飾ってある写真に触れたことがなかったなと思い、ムギの肩越しからそれらを覗いた。
「あ、本当だ。夏音そっくり……ていうか瓜二つ?」
 気がつけば唯と律もやって来て、飾ってある写真を次々に眺めていった。
「うおー。この人夏音の父ちゃん、かな?」
「チョイ悪っ! て感じだね!」
「でも、何か最近のしかないみたいだな」
 確かに、と全員が唸った。リビング中に写真があるが、どれも最近撮られたような物ばかりである。普通、幼少期からの写真とかも飾っているものではと頭をひねった。彼女たちが盛り上がっている中、紅茶とケーキを運んできた夏音が声をかける。
「写真がそんなに物珍しいのか?」
 ソファの間のテーブルにティーセットを用意すると、彼女たちはそろそろと集まった。
「夏音は良好に育ったんだなー」
「良好ってどういうことだよ?」
「生まれ持ったものを損なわないでよかったな!」
「……馬鹿にされているのか」
 律がにやにやそう言うもので、夏音はむっとしてよいものか分からずに軽く眉をひそめた。
「でも、夏音くんはお母様にそっくりなのね。よく言われないの?」
「うん、母さんとはたまに姉妹みたいだってね……喜んでいいやら」
「贅沢な悩みだなー、おい。敵はあまり作るなよー」
 夏音も自分の顔が男らしいものだとは思っていないが、それでいて個人的に得をしたことはなかった。むしろ大損ばかり。美人だ、私より綺麗、女の子みたいー、じゅるり……という言葉は聞き飽きるくらい言われた。格好良い、と言われると嬉しいのだが、皆もっと男らしい特徴を褒めてくれてもよいのではないだろうかと思う。
「ねえ、夏音の両親は何やっている人たちなの?」
 唯が好奇の目で訊ねた。
「う、おっおー……芸術家、かな?」
「芸術家!? なんかすごーい! 格好いいね!」
 夏音は目を輝かせて反応した唯に罪悪感を覚えた。つい口を出てしまったが、芸術家といってもすべて間違いというわけではないような気がするので、問題無いと言えば無い。案の定、人を疑わない軽音部の面々が夏音の言葉を信じ込む姿を見て、肩の力が抜けた。
 ふと、このままいくと家族のことやらを根掘り葉掘り話さないといけなくなる気がして、夏音は話題をそらした。
「そ、そうだ。とりあえず家に来たのはいいが……何をすればいいんだろう?」
「何をって……遊べばいいだろう?」
「その、遊ぶってどうすれば?」
「普通に遊べばいいだろ」
「普通の遊び方が分からないんだ。今まで学校の友達、っていなくてさ」
「…………」
 沈黙が下りた。夏音は似たような空気を以前も味わった記憶がある。気の毒なものを見るような目で夏音を見る視線が痛かった。
「あ、あの……夏音くんのお部屋とか見てみたいなー」
 おずおずと唯がそう提案すると、一斉に賛成の声があがった。
「…………………………」


 結局、部屋に彼女たちを案内した夏音であったが、部屋に入れた途端にさらに絶句した空気を放つ彼女達に首をかしげた。
「どうしたの?」
 広さは一人部屋にしてはかなり余裕のある十畳分くらいかそれ以上。ベッドがあり、机があり、クローゼットがある。しかし、普通の男の子の部屋というには無理があった。その部屋の半分ほどのスペースを占めるのは楽器、機材であったのだから。
 何種類もの楽器、機材。ベースやギターが何本も立てかけられ、中には壁にかけられているのもある。
 キーボード、電子ドラムにミキサー、マイク、スタンド、スピーカー、それらとつながっているケーブルが七、八本。ごっちゃごちゃとケーブルが絡み合っていて、近寄りがたい空気を放っている。
「こればっかりは片付けられなかったしなぁ」
 ぼそりと呟いたが、呆気にとられている彼女達の前ではそんな言い訳は通用しない。だから、夏音はあえて無視した。
「き、汚くてごめんね!」
 勇気を出して後ろを振り返って、表情を見ないようにして声をかけた。
「夏音くん……何者!!?」
 唯が切実にそう叫ぶのも無理はなかった。金持ちの息子だ、と胸を張ると納得された。

「ていうか、そのことにも突っ込みはあるけど! なんなんだこの部屋の! ソレとか! コレとか! アレとか!」
 わななく律がびしびし指さした場所には、天井付近までの高さの巨大な本棚にびしっと詰め込まれている漫画、ライトノベル、画集やアニメのDVDがあった。他にも、ベッドの天井に貼られている美少女アニメに登場するキャラクタのポスター。
 片や、プロ顔負けの機材設備を誇り、片や二次元に侵略されている領域。玉石混合の部屋に一同は騒然とした。
「それが何かおかしいの?」
 心の底から何を指摘されているのかわかりませんという顔の夏音に、律は思わず口をつぐんだ。あまりに純粋そうに首をかしげられた。
「夏音がオタクだとは思わなかったっていうか……意外すぎっていうか」
 気まずげに視線を合わせない律に、夏音は「あぁ!」と頷く。
「オタク……クールだよね」
「どこがっ!?」
「日本の文化は本当に尊敬できるよね!」
「うわーっ! なんかコイツ本当に外人って感じなんだけど!」
 ぎゃーぎゃーと律と夏音との攻防が続いた。「クールジャパン!」「ファンタスティックカルチャー」などの単語が飛び交う中、唯はさして気にしていない様子でギタースタンドに立てかけてあったギターに目を奪われていた。
 一方でムギはこの部屋のすべてに対して純粋に感心した様子。彼女にとっては真新しく見えて面白いのだろう。
 澪は……どん引きしていた。実は彼女が夏音の私室に入るのは初めてであった。いつもはリビングか、スタジオにしか用がなくて私室に上がる理由もなかったのだ。
 隠された夏音の趣味は、彼女にとって衝撃的であった。
(オ、オタク……オタクってアニメとか見て萌えーゲフフとか言っちゃうんだろ!?)
 深夜、何故か暗い室内でアニメを鑑賞する夏音。その顔は情けなく緩みきって「ゲヘヘ……○○たん萌えー」と言ってしまう夏音。
(い、いやいやいやいや! ないだろ! それは、流石にない!)
 現実から目を背けようとしても、至る所に現実が貼ってある。そもそも、ポスターの取り揃え方が半端ない。飾ろうと思えば幾らでもスペースがあるのに、何という無駄なスペースであろう。
 唯一、澪が目線を置ける場所は楽器コーナーしかなかった。そちらに目をやると、既に唯がちょこまかとうろついている。なんだかんだと、彼女ももう楽器を見たら興味がそそられてしまう人種になったのだ、と澪は頬をゆるめた。
「ねぇ、このギターはなんていうの?」
 唯が律と言い争っていた夏音に訊ねた。
「ジャズマスター」
「これはー?」
「ジュニア。Wカッタウェイモデル」
「この太っちょのとこれは?」
「リッケンバッカーとストラトだよ」
 次々とギターを持ち出して質問する唯。律やムギなども置いてあるドラムやキーボードに釘付けになった。律などは、「コレ、ドラムにパッドて……」とげんなりしていた。
「ここで演奏できるんじゃないか?」
 律が冗談交じりにそう言う。
「やる?」
「謹んで遠慮します!」
 もちろん軽音部の一同が夏音の部屋で楽器を演奏することはなかった。その日は大画面でテレビゲームをやったり、莫大な量のCDやレコードの試聴会。お菓子を食べながら、わいわいと談笑をしていた。
 どこにいても軽音部のすることは変わらない。夏音はこんな風に友達と過ごすのは初めてで、何とも新鮮な気持ちだった。同い年の友達よりか、遙かに年上の人間に囲まれ、音楽に携わっていた。学校内に友達はいたが、誰かを家に招いたことも招かれたこともない。
 ふと自分の家でくつろぐ彼女達の姿をじっと眺める。心からリラックスしていて、彼女達は今までもこうして誰かの家で遊んできたのだろう。それは夏音の知らない経験。自分に与えられなかった時間だ。
 こうして遊んでいると、時間が経つのが早く感じられる。そろそろ夕飯の時間だろうということで澪がそろそろお暇しようと言い出した。斜陽が窓から射し込んできて、もうすぐ日暮れだという事を教えてくれる。一同は少し残念そうな声を出したが、すんなりと澪に賛同した。簡単に片付けをしてから、玄関先までおりたところで律が何の気なしに夏音に尋ねた。
「そういやぁ、夏音は自炊もするのか?」
「もちろん。ご飯を作らなきゃ生きていけないもの」
「ほほう……」
「律……またよからぬことを考えているんじゃないだろーな」
 親友の企みをいち早く察した澪が律の制服の襟をひっぱった。
「ま、まだ何も言ってないだろー」
 思わず苦笑する面々であったが、ふと夏音が思わぬ一言をその場に零した。
「夕飯、食べてく?」


 数十分後には、夏音たちは近所のスーパーに買い物に出掛けていた。全員それぞれの家に電話を入れて、夕飯を外で済ますことの了承を頂いたようだ。全員で並んで歩き、それなりに栄えているスーパーへ向かう。夕飯時で駐車場は満車御礼。がやがやと買い物客で賑わっていた。店内は冷房をガンガンとかけており、従業員は皆外で過ごすより厚着をしている。まるっきり薄手でやってきた一同は「長くいると風邪ひきそう」と、さっさと買い物を済ませてしまおうと店内を練り泳いだ。
「大人数だし、今日は焼き肉にしようか」
 と夏音が提案し、皆それに目を輝かせて賛成した。カートを押して肉コーナーへ向かうと、ついてきているのは澪とムギだけだった。
「あれ、唯と律は?」
 後ろを振り返ってそう問うた夏音に澪は目を閉じてくいっとある方向を促した。
「……お菓子売り場」
「何歳だよ……」


 目的の精肉売り場へ着いたが、どうにも人が多い。主婦とみられる女性たちの群れが妙に殺気だちながらあたりをうろうろとしているのだ。まるで肉食獣のように互いを牽制するような視線……それは傍目にとても緊張感のあるフィールド。
「何かあるのかしら?」
 ムギも尋常ならぬ様子に疑問を抱いたのか、頬に手をあて首をかしげた。
 夏音たちがその場で立ち尽くしていると、店の裏方から壮年の男が颯爽と出てきた。この店の制服を着ているので、店長かもしれないと夏音はあたりをつけた。
ところが、その男が登場したことであたりの殺気がぐんと増した。
 奥様たちの雰囲気がただならぬものへ変化して、夏音は緊張のあまり唾をごくりと飲んだ。
「お待たせしました!! 只今から、こちらの牛肉、豚肉、鶏肉のお値段をお下げしまーーーーす!!!」
『きゃーーーーーー』
 ぞくり。
 生物としての本能が何かを告げた。
「え、どういう……」
「邪魔よ!!」
 唐突の事態にうろたえていたムギを一閃、はねのけた奥様の一人が人の波に突進していった。
「いったい、これはなにー?」
 澪が数歩後退しながら涙目で言った。
「おぉー、タイムセールじゃん!」
 いつの間にか背後にやってきていた律が興奮した口調で声をあげた。
「律! この場合、どうすればいいんだ!?」
 夏音は事態を打開する人物として近年稀にみる珍しいケースとして、律を頼った。
「つまり、ここはもう戦場ということだよ夏音くん!」
 気がつけば唯もが横にやってきていた。いつもの彼女の雰囲気とは違い、その様子は時代が時代であればどこぞの武将のように厳格な佇まいであった。
「男を見せろ、ってことさ」
 律がぽんと夏音の肩に手をやって、叫び声をあげながら戦場に突進していった。
 それに続く唯。
「お、おぉ……Unbelieveable!!」
 先に向かった唯と律に負けていられなかった。
 「お、俺………男・夏音いきます!!」

 
 主婦の力をその身をもって思い知らされた夏音はぼろぼろになってスーパーを出た。
「あなどれないな大和魂……」
 全身ぼさぼさになった夏音がげんなりとそう呟くのを笑って唯と律はご機嫌に歩いていた。
(あの二人が何であんなにぴんぴんしているのか理解できない)
 買った食材を全員で分けて持ち、夏音の家へと歩く。外はすっかりと暮れかかっていたが、西の空に落ちかかっている太陽が世界をオレンジ色に染めている。川沿いの土手が残光に浮かんでいて、まるっきり違う場所に来たみたいだ。会話はない。それでも言葉にない充足感が夏音の心を満たしていた。

 その晩は、せっかく立派な芝生があるのだからと夏音の家の広い庭でバーベキューとなった。作業があるからと髪をアップにして作業にあたり、たくさん肉を焼いた。
 女の子といえど高校生の食欲は恐ろしいもので、小一時間をすぎたところで食材のほとんどを食べつくしてしまった。
「唯は肉食い過ぎなんだよー」
「夏音くんは野菜ばかりよね」
「バランスよく食べないと……」
 肉が無くなっても他愛ない話は止まらない。
 夜が更けてから大分経ち、制服のままで遅くまで帰さないのはまずいと思ったので、お開きにしようと夏音は言った。
 そのことに反対する者もいなく、全員で協力しあって後片付けをした。さて帰るか、と全員が帰り支度を終えようとしたところで、一人夏音だけは思いつめた顔をしていた。
 その様子に気づき、しばらく地面を見つめて喋らない夏音に軽音部の面々も沈黙を守らざるをえなかった。
 そして、夏音は何かを決心したように勢いよく顔をあげた。



「皆、聞いて欲しいんだけど。俺、実は――――」 



※投稿遅れました。



[26404] 幕間2
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/18 17:29

 タン、タタン、タタタン。

 乾いたシンコペーションが響く。

 途轍もない深海に迷い込んだようにペダルを踏む足がうまく動かない。

 溺れそう……こんなに乾いているのに。

「ストーーーップ!!!」

 また、だ。

 透んでよく通る声、繊細だが力がたくさんこもっている声、私のビートに割り込んだ。
 シンバルのサスティーンが気だるく伸びて、すぐ消えた。

「律、また水分足りてないでしょう」

 私がぼうっと顔をあげると、たった今私のドラムを強制終了させた声の持ち主が髪をかきあげながら私を心配そうな顔で見つめている。そんな動作がいちいち艶めかしく感じる男のくせに。でも私、現在そんなことにいちいち反応している余裕はないんでした。もう死活的にね。
 立花夏音が演奏を途中で止めるのはこれで三回目。
 もう慣れたもので、私は水分を補給しにのろのろとベンチの上に置いてあるペットボトルの元までたどり着いた。
 それを一気に呷る。げっ。

「ぬっりー」

 これまた、当然なんだけど。
 溜め息が止まらない。


 ハイこちら、音楽準備室(またの名を軽音部部室)はやっとこさ梅雨が明けたと思いきや、どうやら雨雲が隠していたらしい夏の日差しのせいで、ひたすら熱気がこもる温室と化しちゃっています。
 窓を開けても涼しい風が入ることはなく、がんがんと遠慮なく射し込んでくる太陽光線のヤツが木造の校舎の床さえも鉄板のごとく熱している。焼き肉ができそうなくらい。ますます熱気は増すばかり。焼けんじゃねーか……? 焼いてみてー。
 さあ、季節は順調すぎるくらい夏に近づいていたのでした。
 この目の前の女男(非常に侮辱の意)―――夏音は不思議なことに、私の叩くドラムを耳にしただけで、私の状態がすぐに把握できてしまうらしい。それは包み隠しようのないくらい正確に空気を伝わってしまうみたい。
 それで今みたいに明らかに集中力が切れていたり、私の意識がどっか白いもやがかかった世界に突入しかけた時なんか、一発。

 薄い刃で斬りつけるようなストップの声が容赦なくかかる。

 まあ、それでずいぶん助かっているのは事実で、ましてや無理して脱水症状なんか起こしてしまうなんてとんでもないことだし。
 感謝しているというか、まあ……ご迷惑おかけしておりますって感じ。
 ていうか、夏音と二人きりで合奏しているわけだけど、どうしてこうなったんだろ。
 この土曜の日中に部室に人がいるなんてこと、軽音部ではごくごく稀にも起こらない珍事。うん、椿事。
 かくいう私も忘れ物をとりに来ただけで、部室の鍵を警備員さんから受け取ろうとした時に、先客がいるってことに驚かされた。
 何で夏音がそんな土曜の日中に部室へ足を運んだかというと、あまりにこの部室が冷房や湿度管理が行き届いていないので、機材のメンテナンスをやっていたらしい。
 ご苦労なこってす。
 小一時間以上もこのむしむしとしたサウナのような部室で機材をいじくっていたと言った彼は、全然そんなことは苦じゃないって涼しい顔をしていた。
 そもそも、この男。立花夏音。
 軽音部唯一の男子メンバーという割にその外見のせいもあって、むしろ女子だらけの軽音部にさらに華を添えるという不思議な一役を買っているという……にくたらしいことに。
 日本人には見えない顔で、美人な……男っ。男っ! ふざけている。
生まれ持ったパーツが違いすぎて、万が一にも自分と比べる気にならない。にっくきは人種の壁という事で気持ちを落ち着ける。
 お姫様みたいな容姿は一度は憧れるけど、現実に出てこられたらまいってしまう。中身と外見が一致していたらもっとよかったのに。こう見えてこの男、超絶オタク。そして割とヘタレっぽい。それは何というか、気安さとも言えるのだけど。 そのおかげで外見で萎縮するって事はない。
 ほんと無駄に麗しいな。こんな暑い日和には、和傘なんかをもたせてみると意外にも涼がとれるかもしれないなんて考えてみた。けっ。
 思い返せば、この男がなよーんとへばる場面なんて見たことがなかった。
 今もこうして、私が滝のような汗をかいてへばっているというのに、バテた様子はみじんも感じさせない。ぴしゃっと背筋をのばしている。
 そして、この男に関してはまだまだ「とくひつすべきこと」ってのがあったりする。
 それはこの間、軽音部の面々で夏音の自宅に遊びにいった(押しかけたともいう)時に本人の口から出たことなのだけど。
 思い詰めた表情で、私たちにとある告白をした彼。
 それを聞いて私は驚くと共に、少しだけ呆れてしまった。
 その告白というのは、夏音の年齢が私たちより一つ上だということ。実際には二つ。日本で言うと昭和生まれスレスレ。
 もちろん私たちはぶったまげた。でも、そこまで思い詰めた表情で語ることだろうかとも思った。
 すると続けて夏音が語った内容は予想の斜め上を超えていた。
 夏音は一年前に別の高校に入学した。私でも知っている遠くの学区にある不良高。そこで壮絶ないじめに遭い、学校に行かなくなったらしい。それからこの学校に入学するまで、不登校の日々。
 再び学校へ通う際には、両親が見つけてきた男子生徒が少ないであろう桜高に再度一年生から入学する事になったのだという。
 終いには照れくさそうに首をかきながら事実をつらつらと述べる彼を見ていると、そんな衝撃の事実があったということが嘘のようだと思った。
 ひきこもりのオーラが全く…………まぁ、なくはないけど。たびたび、私たちがそろって居た堪れなくなるような発言をするし。
 それにしても、信じられなかった。こいつのどこにいじめられる要素があるのだろうか。むしろ、優遇されて然るべきじゃないか? 疑問は大量にあったけど、掘り下げる事は躊躇われた。
 とにかく。結論からいえば私たちはそれを受け入れた。すんなりと。
 色々慰めるような事も言ったけど、唯なんかは「あーた、辛かったでしょう……」と涙を浮かべて徳光さん状態だった。ムギはショックに打ち震えた様子で、夏音の肩にぽんと手を置くと何か言った。聞こえなかったけど。しかし、面白かったのは澪だ。「何で言わなかったんだよー!」と完全にブチギレた上に号泣するという行為で周囲をどん引きさせた。流石の私も、あの澪をフォローするのは至難の業だった。
 とりあえず、軽音部に変化なし。今日も仲良くやっています。
 まぁ、だから今もこうしてセッションなんかをしているんだけどさ。
ちなみに、運転免許をもっているのには流石に度肝を抜かれた。
 驚きの国際ルール。
 ちなみに、ばっちし帰りは家まで乗っけてもらいました。


「いやぁー、待たせた! わりーわりー」
 水飲み場まで行って、蛇口から水を飲もうとしたんだけど、ぬるい液体しか出なかった。
 結局自販機で貴重な財布の重みを減らしてしまった。そっと目許をぬぐう。暑いからよく汗をかくしね……っ。
「いいよ、こうして残って付き合ってもらっているんだから」
 流石に夏音もこの温度の中、制服を着ているわけにはいかなかったらしく、タンクトップ姿で髪を結っていた。そりゃぁ、思わずじっと見つめてしまうものである。
 認めるのもしゃくだが、がんぷくがんぷく。ほそいなー、こいつ。私の視線に気づかないで、再度チューニングをしている夏音はまだまだやる気の様子。
 私はどかっと椅子に座り、愛用のオークのスティックを握る。
「そういえば、ヘッドを変えたんだね」
 夏音がチューニングをしながらこちらを見ずに、話しかけてきた。
「あー、この間割れちゃったからなー」
 予想外の出費に泣いたものだ。ああ、泣きましたとも。
「抜けがよくなった」
「そう? ちょっといつもより張ってるからじゃないか。本当はこのクラッシュもそろそろだめなんだけどなー」
「あぁそれね。もうエッジがぼろぼろっていうか、ぎりぎりアウト?」
「アウトかよ……」
「もー、アウト。律があと数倍もうまかったならもう少しマシなんだろうけど、ひどい音だよ」
 ぐっさり。こいつは、このように鋭い刃物のような言葉で簡単に人の心をぶっ刺してくるやつだ。
 こと音楽に関して。初めはぐさぐさと歯に衣着せぬ物言いに、文化のちがい? とか思っていたが、ただの性格だという事が短い付き合いの中で把握できた。
「うっ……そらぁ、悪ぅござんしたねっ!!」
 素直に負けは認められない。すっごい子供みたいだって分かってるんだけどさ。
「さー、いくよ!」
 夏音がこちらに視線を合わせる。目が合う。
 もう捉えられそうになる。強すぎる。その青い瞳は飛び道具ですか。
 そうすると、突然夏音の姿が何倍も大きくなったように感じた。それで、私は心の準備をするのにいっぱいいっぱいになる。どうしよう、とあせってしまう。

 これからとんでもなく恐ろしいものを投げられるかもしれない。

 そんなプレッシャーを肌に感じながら、それでも負けたくないと汗で滑りそうになるスティックを握りなおす。

 夏音が腕を振り上げる。

 カミナリが落ちた。

(あ……っ!?)

 またもや私は敗北を味わった。
 自分の音で、叩いてやろうじゃねーか。そのつもりでいたのに、無駄だった。
夏音の音に体が勝手に動いてしまう。否、動かされてしまう。バスドラを踏む足。スティックがスネアを叩きつける、この手。夏音という指揮者によっていいように動かされている感覚。
 一番初めの音で、ぐいっとつかまれてしまう。もう、主導権とかの次元じゃない。
 ブラックホールかというくらいの吸引力で私の音を手繰り寄せて、もう、それは自在に……。あぁ、何で。そこにそう来るの!?
 あれ、何でだろう。三拍目にブレイク……こんなこと分かってやるもんじゃない。けど、そう来るんだってわかってた。分からされてしまった。
 いきなり変拍子。頭がおかしいのか! 今まで、四拍でイケイケだったじゃん! あぁ、何でついていくの私。ついていけるの。
 これからずーっとコレについていくの!?
 しんどすぎるわっ!!
 もうがむしゃらになって、リムショットをぶちこむ。もう分かっていた。終わりの音だ。
 音が止む。

 静寂の中に、私の息を吸って吐く音が生々しく浮き上がっている状態。
 ぜぇぜぇ、って……。
 精神から体力を使い果たしてしまったようだ。
 私、田井中が申し上げます。これは……これはセッションなんかじゃない。

「マラソン走ったみたいになってるよ律」
 へらへら笑いながらそう言ってくる小奇麗な顔をした奴。綺麗にまとまりやがって、ベースをもって佇んでいるだけでどれだけ絵になるか。一葉に映しておきたくなる。
 中身がこれだけ化け物だと、その表面とのギャップに笑えてくる。
「もう、こんなのマラソン以外のなんだっつーの!!」
 私はうらめしい視線をおくってやる。肩をすくめられた。その動作が似合う。外人め。
「もう今日はこんなところにしておくか」
「うぅーーあー」
 驚いた。私、人間の言葉が発せなかった。へばりすぎにもほどがある。
「帰りに冷たいものでもご馳走しようか」
「マジかっ!?」
 復活。単純、それが私の美徳だと思う。ささっと後片付けをして撤収しようということになった。アイスのことしか頭に……だが、ここで帰ることに脳みそのどこかがブレーキをかけた。
 こういうのもいい機会だと思う。楽器を広げているうちに聞いておきたい。
「なあ、私のドラムって実際どうよ?」
 こんな事を平然と聞いているような顔して、内心では心臓ばくばくです。
「どうって……また『どう思う』、か……」
 夏音はよく分からないことを呟いて、コマッタコマッターと頭をかいた。聞き方が悪かったみたい。
「合わせづらい、とか変な手癖とか目立たないかなぁってさ」
 澪には、お前のドラムは走りがちだと言われるけど。私はその方が勢いがあった方がいいと思うんだけどなー。ていうか、信条として曲をもたらせるくらいなら走ってた方がいいって思う。
 だから、そこら辺で澪とは意見の衝突が絶えない。澪だってもう少し私と合わせてノリ出せるようになれっての。話がずれた。
 私は黙って返答を待つ。
 夏音は数分も考えこんだまま喋らない。よく考えてくれてのかわからんけど、流石に私も少しじれるぞ。まあ、果報は寝て待て、というしな。寝るか。
「そういえば、律って好きなドラマーは誰?」
 数分悩んでから、質問で返すな!
「キース・ムーンとか」
 私が眉をひそめながらもそう答えると、夏音は鷹揚にうなずいて、やっぱりなと笑った。
「The Whoが好きだって言ってたからさ。きっとそうだろうなって思ったんだ」
そうか、そんな会話をした覚えがばっちりある。
「なら、とりあえずドラム壊そっか!」
「あぁ、なるほどまずドラムを……って、何でだよっ!?」
 ぱぁっと花が咲いたように微笑みながら、言葉の暴力。会話の暴力ともいう。
「でも、やっぱり彼の真骨頂を知るにはいろいろ真似てみないと……」
「いや、たしかに好きだけどな! 全部リスペクトしているわけじゃないし!!」
「そうかー。ま、あまり影響を受けているように思えないけどなー」
「そ、そりゃぁあんな風には叩けないけどさ……」
「あ、これいいなっていうフィルとかをどんどんマネすればいいと思うよ。それ で、できるなら全ての曲をコピーするのだ!」
「げ……そ、れ、は……それぐらいやらないとだめか?」
「やって損することはないさ」
 夏音の言うことはもちろん正しい。けど、肝心のドラムの感想は?
「まぁードラムの感想というかなぁ。とりあえず今はリズムだけ頑張っていただければ、と」
「リズムか……最近メトロノーム使ってないなー」
「使えやー」
「うぃー」
「リズムが命だからね! あと、好きな尊敬するドラマーがいるならその人のプレイスタイルも真似てみなよ。バンドで叩いている律を見たことないから、何とも言えないけど」
 ふむふむ……。私に暴れながら叩けというのか。考えておこう。
「ま、こんな感じ」
 それから夏音はベースを丁寧に拭いてから、ささっと機材を片づけ始めた。まだ話を続けていたかったけど、私も暑さに耐えきれなくなってきたし。十分聞きたいことは聞けたと思う。
 たまには休日に部室に来るのも悪くないかなって思った。
 そこには誰かがいるかもしれないし。


 ただ、夏音さ。
 お前、もっと何か隠しているだろ?
 普通の男の子だって云い張られる方が嘘くさいし。
 何であんなに機材をそろえているか。こんなに凄まじいベースを弾くのか。
 そのことを聞けるのはもう少し先かな、と思う。
 けど、なんだか気長に待てる気がした。

「鍵かけるぞー」
「よっしゃー、アイス~アイス~!!」
「へいへい」
 
 とりあえず、目の前のアイスが待っているのでそんなことは後回しでぽい、だ。


 
 
 
※超絶短くてすみません。掌編的な。でも物語に少しだけ必要なアレなので。



[26404] 幕間3
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/19 03:04
 目覚めると、甘い草木の匂い。そっと肌を撫でる風を優しく吸い込むと一つ伸びをする。
 誰かが窓を開けたみたい。
 そっと目を開けてみると、眩しさに見慣れた天井が浮かんでいる。私はちょっとだけ頬をゆるめた。
 朝涼に目覚めがよくなる不思議。また深い緑の季節がやってきたのだと、そっとささやかな幸福に包まれる。愛しいひと時。
「お嬢様、朝でございますよ」
「窓を開けてくれたの?」
「はい。少し風を入れようと思いまして」
 私はメイド頭の唐沢さんに微笑むと、軽やかにベッドから起き上がった。こんな朝はベッドが簡単に私を手放してくれる。ベッドから降りてもこもこのスリッパに足を通す。それからゆったりと歩幅で窓に近づいた。
 そこからもこもこと積み重なった夏雲が遠くに見える。
 芳しい薫風が髪をさらっていく。

「何かいいことがありそう!」

 私はぐっと腕を伸ばした。


 私立桜ヶ丘高等学校の衣替えもとうに終わり、薄手の装いの生徒が肩を並べて登校している風景も見慣れてきた。駅から少し歩いて大通りを抜ける。見慣れた風景に違った匂いが混じるだけで嬉しくなる。たぶん、同じ気持ちを抱える人はたくさんいる。あそこの人も、そっちの人も。
 これから日照りが強くて厳しい季節になるのだけど、それでも気持ち良い風が「ファイトだよー」と言ってくれているみたいでご機嫌なのです。
 通学途中、クラスの子達と挨拶を交わしながら一人で歩く。いつも必ず、と言う訳ではないけど、この時私はある事を待っている。それは大抵、後ろからやってくる。
「おーっすムギ!」
 ほら、きた。期待に待ち焦がれていたつもりはないけど、抑えていた気持ちが一気に弾んでしまう。
 振り向けば、りっちゃんと澪ちゃんが仲良く並んでいた。二人は幼馴染で仲が良くて家も近いからよくこうして一緒に登校しているみたい。私にはそういう習慣がなかったから、それがうらやましくてたまらなくなる。それでも、どちらも私の大切なお友達。
 中学校までは家からの送り迎えに車を出してもらうのが習わしになっていて、学校のお友達と一緒に帰るということはなかった。お友達と一緒に帰りたいなんて我が侭は運転手さんに悪いから、こんな日が来る事が夢の一つだったりする。近くて遠かった、憧れの風景。
 家が遠いから仕方のないことなんだけど……。それでも高校生になったのだから、とお父さんや周囲の人たちを説得して電車通学をさせてもらっているだけ進歩したのかも。
「おはよう律っちゃん、澪ちゃん!」
 こうして大好きなお友達に気軽に声をかけられて一緒に学校へ行くことができる。駅から学校までのちょっとの距離だけど、その間の道のりは私が求めていた大切なものだった。
 だから、いいことなんて毎日起こっている。次から次へと新しい経験が舞い込んできて、一生分の運を使いこんでいるみたいで不安になるけど。
 合流した私達は他愛無いお喋りをしながら学校まで歩き続ける。その途中で、そろそろだと私は気付いた。
 つい笑いがこみ上げそうになるのを止められない。
 あと、少しかな……。このあたりで。この角で。
「あ、夏音だ」
「相変わらず眠そうだな……前見えてるのか」
 私たちの視線の先には、ふらりふらりと足元がおぼつかないまま歩く男の子がいた。見事な低血圧っぷりは予想を裏切らない。まわりの視線を大いに浴びながら、それに気付くこともなくぼーっと歩いてくる。
 男の子。あぁ……男の子にしておくの、なんてもったいないの!!
 セットする時間もなかったのかしら。頭上で一本に結われている髪は、それが解かれた姿を想像してみたくなるくらい綺麗。いつか彼の髪を弄ってみたい、とうのが今の私の密かな野望。
 あなた制服間違えていませんか、と尋ねたくなるくらいの外見なんだけど、本人はあんまりそう言われたくないみたい。
 夏音くんとはクラスが別だけど、あんまりお友達がいないみたいだし。これは澪ちゃんから聞いた話だけど、クラスから完全に浮いているのだとか。その原因は夏音くんが阿呆だからとか、皆が無駄に麗しい外見にだまされているから、とか熱く語っていた。結局、クラスでかろうじて話せるのは澪ちゃんとりっちゃんだけ。せっかく共学化したのに、男の子と仲良くできないなんて可哀想。けど、一番の問題は女の子のグループにいて「まったく違和感がない」ことかも。これは幸か不幸か。
 そんな夏音くんだけど、見事なくらいぼーっとしている。あまりにぼーっとしているので、そのまま私たちのことを視界に入れないで通りすぎようとした彼を律っちゃんが首をつかんで引きとめた。
 フライングニー。
 いただきました、今朝一番のフライングニー。でも、女の子が朝から公衆の面前で飛び蹴りはどうかと思うの。それが律っちゃんらしいといえばそうなのかも……。とにかく、死角から思わぬ襲撃をうけた夏音くんは空を飛びました。
 顔だけは傷をつけないで欲しいのだけど………あっ。すぐに立ち上がった夏音くんはものすごい勢いで襲撃者の姿をとらえ……その首を締めあげた。
 立ち直りが早い。毎朝これで血圧を上げたらすっきりして一時限目を受けられると思う。そんな朝から賑やかな軽音部が大好き。


 あぁ、放課後が待ち遠しい。授業はきちんと真面目に受けているけど、たまに意識がいつもの部活の風景にとんでしまう。

 皆とのティータイム。私の時間。今日のお菓子はババロア。

 実はこの間、あまりに評判が良かったから、今回は貰い物なんかじゃなくて家の人に用意して貰ったりしたのだけど……もちろん、みんなには内緒。きっと遠慮されてしまうから。時間がもっと早く経ってくれたらいいのに。そんな風にやきもきしていたら、授業の内容なんてまるで頭に入らなかった。

 それでも、がんばりました。やっと慣れた掃除も終わって、急いで部室へ向かった。
 もうみんないるかな。ついつい階段をのぼる足もだんだんと早くなってしまう。
でも、扉を開けようとしたら鍵がかかっていた。
「え……」
 扉に鍵がかかっているということは、まだ誰も来ていないということ。私の教室は部室から離れているから。普段は先に部室を開けて待っている人がいるのだ。
 たぶん今の私、すごく眉尻が下がっていると思う。そのまま意気悄然としながら鍵をとりにいこうと音楽室を後にしようと思ったら、階段を上ってくる足音が聞こえた。
「やあ、こんにちはームギ。今日はみんな遅いんだね」
 夏音くんだ。その手には部室の鍵が握られている。
「うん、みんなお掃除が長引いているのかしら?」
 あぁ、と何かを思い出すように目線をあげて夏音くんが言った。
「たしか資料室の掃除だったような気がするなあ。ほら、あすこはたまに資料整理とかさせられることあるから」
 なるほど、資料室のお掃除。あそこの先生、気まぐれだから早く終わる時との差が大きいという話。
 夏音くんは鍵穴になかなか鍵がささらないようで、ぼそりと口では言えないスラングを吐くと、手間取りながらも部室の扉を開けた。彼はそのまま慣れた様子で鞄をベンチの上に置く。私もその横に鞄を並べて、お茶の準備に取りかかった。
 こんな流れも自然と板について、今では軽音部の恒例の風景になっている。
 私はこうしてお茶の用意をする時間が気に入っている。振舞う、というのは大変気をつかうことだけれど、誰かのために幸いな時間を提供することは美しいことだと思う。
(それに……)
 茶葉をよく蒸らすところまで作業を終えて、袋から保冷剤で保存してあるお菓子を取り出す。私がこの役割を放棄しちゃったら、誰もやる人がいないもの。
「なんだか嬉しそうだね。いいことでもあったの?」
 夏音くんが目を細めながらそう言ってきた。作業に没頭している間に、私は知らず微笑んでいたみたい。
「ううん、何でもないわ」
 十分に蒸らし終えたところで、私はティーカップに紅茶をそそいで、お菓子と共に夏音くんの前に置いた。本日のお菓子を目の前に手を打って喜ぶ彼を見て、頬がゆるむのを感じる。
「あー、最高だね。軽音部に入ってよかった」
 太陽のような笑顔でそう言い放つ夏音くん。まあこのティータイムも軽音部の美点の「一つ」だけど……それだけじゃないはず。きっと。
「それにしてもさ」
 紅茶をすすって夏音くんの眼は私をしっかりと捉えた。青い瞳。私と同じ、けど同じじゃないくっきりとした青。
「掃除とか。部活とか。こうしてお菓子をひろげてティータイムとか。なんだか最近は初めてが一気に押し寄せてきて大変だよ」
 その言葉にすぐ返事をすることができないで、思わず黙ってしまった。
 どきっとした。まるで私のことを突然言われた気がして。
「そうね。向こうでは掃除なんかしないものね」
「部活も初めてだし、部活の度にこんな風にお茶をするのも新鮮だよなー」
 それは私もそう。ここで起こることはどれも真新しくて、胸を鳴らしてばかりいる。
 もしかして、お前もそうだろう? と言外に言われたのかも。
 それは考えすぎかしら。
 でも一つ腑に落ちたことがある。どこか自分に似ているなと思っていた目の前の男の子は、存外自分と似たような境遇だったのかもしれない。
 毎日が楽しくて仕方がないんだ。彼もきっとそう。知らなかった日常の葉を次々にとらえて、一枚一枚わくわくしながらめくっていく。
「きっと私たち似たもの同士なのね……」
「え?」
「え?」
「ム?」
「あ……ら…?」
 声に……声に出ていた!?
「…………」
「………………ッ」
 沈黙は金なり、誰かが言い残した言葉。あれは要するに、お金を稼ぐことは楽ではないということなのね。今、私とっても苦しい。
「そう言われてもなぁ、ムギ……」
「ひゃっ、はい!」
「俺はムギみたいにお上品でもないし、可愛くもないんだけど」
「……はぁ」
 彼のこういうところは、いつか直してもらわないと。私は紅茶のおかわりをすすめて、笑顔でその場の空気をしれっと流した。
 いつか彼が一部の女性から殺されないように願うばかりだ。それから私たちは他の人たちが来るのをゆっくりと待った。
 暫くして、私がキーボードの練習をしようとアンプをセッティングしていたら夏音くんが近寄ってきた。
「ムギのそれ、ちょっと弾かせて!」
 目を輝かせてそう言われたら断れるはずもない。
「うわぁー。全然タッチが違うやっ! なんていうんだろ、こんなしっかりとしたアナログな音も出るんだな」
 しきりにぶつぶつと呟く彼は新しいおもちゃに触れる少年のような表情をしていた。
「どうせなら、もっと機材増やしたいよねー」
 え、何を言うの夏音くんたら。
「わ、私は今のままで十分かな」
「えー、せっかく良いキーボード持ってるのに!? もっと鍵盤屋はもっと音に貪欲にならないと! あと三つくらいは増やしちゃおうよ!」
 そんなに身を乗り出して力説しなくても……。
「そ、それは……たぶん、今の私の実力には見合わないのではないかしらー……」
「そうかなー。こう、こいつどんな頭してんだって聴いた人を吐かせてしまうくらいな変態的な音とか、あればいいのになー」
「は、吐かせちゃうの? それはちょっと……」
 そこまで言うと彼も諦めたようで、そっと鍵盤から手を離した。
「まあ、ムギがそれでいいなら……」
「うん、ごめんなさい」
 あまりに彼がしょぼんとするので、何か悪いことをした気分になる。彼なりに私のことを考えてくれているのかしら?
「夏音くんは、どうしてそんなに機材にこだわるの?」
「そりゃぁ、表現のためさ」
「表現?」
「自分の出したい音、世界、全部に必要なことだよ」
「だからあんなに機材をもっているの?」
「そう。俺が持っているすべての機材をここに揃えたとしたらぶったまげるよ?」
 そう言って彼はにやにやといたずらっ子ぽく笑った。前から思っていたのだけど。
 夏音くんって何者かしら。
 もし、どこかでプロをやっていましたーと言われても驚かないわね。むしろ、納得。けれど彼が話さないということは、触れてほしくない部分なんだろう。
 私は時折弾く彼のベースを聴いたり、軽音部のみんなとお茶をしていられたら満足なのだし。
 だから、彼の真実についてはおあずけ。とりあえず今の私には必要がないものだから。
「ねぇ、こんなフレーズとかが浮かんだのだけど聴いてくれるかしら?」
「もちろん! 聴かせて!」
 こうしているだけで、楽しい。
 もうすぐみんな来るかな。



※ 若干時系列がおかしいです。夏音カミングアウト前だと思われます。あと二話ほど、こんな超短い掌編が続きます。すみません。ムギの描写下手ですみません。ギリギリ五千字以下ですみません。



[26404] 幕間4
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/20 04:09
<唯>

 音楽ってなんだろう。今までの私はそんなのこれっぽっちも深く考えたことはなかったけど、最近はちょっとだけ考えるようになった。

 私の中にある音楽なんて子供プールくらいの浅さしかないと思う。その浅いプールにはぷかぷかとレコードが浮かぶ。本当にそんなの見ちゃったらきっと悲しくなる。私の音楽ってこれだけなの?

 小学校の時は、まず長女の私にお父さんのラジカセが下がってきて、妹と一緒に家にあるカセットを聴いていた。妹の憂の方が音楽に興味津々って感じで、よく一緒に寝転んで流れてくる川本真琴の曲とかを口ずさんでいたり。そのうち、私のより立派なMDコンポが憂の部屋に置かれてからはそっちで音楽を聴くようになったけど。
 いつの間にかMDなんてものができていて、そのうち気が付けば何万の音楽が手のひらに収まるようになった。私は同級生が新しいプレーヤーに手をつける中で、それをぼーっと眺めていただけ。
 中学校の時なんかテレビに出てくるJ-POPばかり耳にしていた。後は和ちゃんが紹介してくれるCDとかをぽつぽつと聴いていただけ。
 そんな私も、このままじゃいられない場所に来てしまった。昔の自分が知ったら絶対びっくりする。
 私、軽音部に入りました。音楽をやる部活。

 音楽。音を楽しむと書く。ただの音じゃなくて、人間が組織づけた音。
 生まれた時から、ううん、それこそ生まれる前から耳に入ってきて、受け入れて、馴染んで。たまに口ずさんで。けど、それは真っ正面から向き合っているのとは違って。
 音楽はいろんな角度から私に触れてくるのに、こっちから応えることができるなんて思ってもいなかった。
 近頃、そういうことが少しずつわかってきた。


 アンプからずっと変な音が流れている。私がギターを弾いていない時、かすかにジャーって感じになるのが面白い。弦に触れたらぴたっと止まる。
 おもろい。
 夏音くんがこれはホワイトノイズっていうんだって教えてくれたんだけど、そこから先の「たいいき」がどうとかはよくわかんなかったけど。ノイズにも色があるのかな。ピンクとか、ブルーとか?
「唯、ぼーっとしてないで言われたコードをおさえてよ。プリーーーィズ」
 凛とした声に私はハゥっとなる。目の前には色白の女の子……失礼。みたいな男の子がギターを構えて座っている。どうやらまたやってしまったみたい。集中力が続かないで、すぐに他の事に気が散ってしまう私のいけない癖。面目ないです。
 夏音くんが困ったように眉を下げてこっちを見ているのであわてて頭を下げた。
「ご、ごめんですー!」
「ヤレヤレ。唯ちゃん、いいですかー? もう少し集中力をつけようねー」
「はーい!」
「まったく……一度集中したらすごいのに……」
 夏音くんは溜め息まじりに俯いた。こめかみを揉んで瞳を閉じている。だいぶお疲れの様子。私のせいなので、何も言えない。
 へへへ、と頬をかいて誤魔化し笑う。出来の悪い生徒でさーせんね。ひとまず教えてもらったコードを押さえて右手を振り下ろす。
 ジャーー。あれ、何か違う。絶対チガウ。
「一音ずれてるよー……薬指はここ! ひとつズレただけで、その音じゃなくなるんだから。唯は音感しっかりしてるんだから、わかるでしょ?」
「せ、先生。薬指が動きませんー!」
「そりゃぁね。一番神経が少ないから、薬指は頑張らないと動いてくれないんだよ。練習あるのみさ」
 最後の一言でばっさりと完結されるのも困る。その一言に尽きるのだとしても。
「これがGM7…A7…Bm7…えっとD…」
「そこはDonA。こう動くの」
「あ、そっか! それで、そこからGadd9。Gに9thのこの音を加えているの」
「あ、指つる……あぁ~~」
 もう指の限界だった。弦を押さえる指が痛いし、ずっとコードを押さえているうちに指がつった。
「ま、最初のうちは仕方ないよね。休憩にしようか」
 夏音くんは私の醜態にも頬をぴくりとさせずに静かに言い放った。そのままギタースタンドにギターを置いた夏音くんが皆のテーブルの方に向かう。置いてかれた私は今おさえていたコードの形を手で再現してみる、けど急に虚しくなった。
 ふぅ、と溜め息一つ。幸せ三つ逃げていった。滅多に溜め息はつかないけど、教えてくれる夏音くんに申し訳なくて、自分が不甲斐なくて。
 夏音くんに何回も言われている、肩の力を抜くってことがなかなかできない。普段の唯をそのまま出せばいいって言うけど……普段の私ってどんなの。最近はこのせいで肩凝りがひどかったりして急に何歳か老けたみたいに感じる。
「うぅ~、ごめんねー。せっかく教えてもらってるのに……」
「気にしないで。だんだん余計な力を入れないで押さえられるようになるから」
 そして椅子に腰掛けた夏音くんがお菓子を貰っているのを見て、私もギターを置いて立ち上がった。

「お疲れサン。唯の上達の程はどう?」
 ドラム雑誌を読みながら茶菓子をつまんでいたりっちゃんが隣に座った夏音くんに訊ねた。
「んー、まずまず?」
 ぎくってするよね。こうやって目の前で下された評価にどう反応したらいいのでしょう。絶対に褒められる要素なんかないし、聞かなかったフリでもすればいいかな。私は椅子に座ると会話に参加しないで、そっとその会話に耳を偲ばせてみた。
 あ、今日のお菓子は大福餅。わーい。
「だって一度は覚えていたものなんだよー?」
 夏音くんは湯のみをまわしながら、お手上げーって感じで肩をすくめた。
「だよなー」
 それに肩を揺らして同意するりっちゃん。二人とも、本人を目の前にしてひどいよ。そこまで言われると、いくら私だって何か言わなきゃと思って重い口を開くよ。
 がっと椅子を引いて立ちあがった。

「私はやればできる子だと……」

 あれ。部室から音がなくなっちゃったよ。

「和ちゃんが以前に言っておられまし………た……」
 澪ちゃんの方を向くと、音速で目をそらされた。やっぱり、夏音くんの反応が気になるよね。勇気がいるけど。えい。
 青い青い双眸を限界まで見開いてこっちを見上げる夏音くん。ふいにその表情が崩れて笑顔になった。
「まぁ、唯だからなー」
「あぁー、そっかー唯だもんなー」
「そ、そうだなー唯だからな!」
 急にほわーんと空気が崩れて、嬉しそうに同意するりっちゃんと澪ちゃん。これは馬鹿にされている気がする。
「まぁ、座りなさい」
 夏音くんが促すと、すかさずムギちゃんがお茶のおかわりを注いでくれた。それで私は大人しく椅子に落ち着く訳ですが。あれ、今の空気はなんだったんだろうと。納得がいかない。ああ大福が美味しい。
「あと十分くらいしたら再開するよー」
 間延びした夏音くんのもの言い。リラックスしきっている。腑に落ちないよ。


「さて、再開しますよー」
「はい」
 改めてギターを構えてアンプの前に座った夏音くんのレッスンが再開された。
「ギターをやっていくうえで唯が覚えることは山のようにあるんだけど、まずコードを押さえられないと話になりません」
「はい」
「ただ、曲としてやってみるのも上達の道でしょう」
「はい」
「ということで、二つしかコードを使わない曲があるんでそれをやってもらうね」
 そう言って夏音くんは「C」と「G7」だけ使って例を見せてくれた。
「ね、簡単でしょ? アップテンポな曲で、弾いていて楽しくなるよ」
 さぁー、やってみてと言われて私はギターを構える。流石に押さえるのが簡単なコードだし、詰まらずに弾けた。コードチェンジも初歩中の初歩のもの(かつて完璧に覚えていたのだから)。
 たどたどしいリズムで曲になっているか怪しいけど、何回も同じコード進行を繰り返す。すると夏音くんが足踏みで私のリズムを整えてくれる。あ、曲に入る前はまず足でテンポを作ってからって教えてもらったのを忘れていた。 
 それでも助け舟(足?)を出してくれた夏音くんの足に合わせてだんだんと私もノッてきた。
 でも、ここからがすごかった。夏音くんのギターがそれに参加してきた瞬間、もうそれは魔法みたいに変身した。ギターが縦横無尽に歌い、高鳴る旋律を部室に響かせている。
 顔を上げたら目が合った。そして気づいちゃった。彼のメロディーを支えているのは、今の私が弾いているギター。私がズレたらいけないんだ。こんな簡単なコードでこんなに素敵な演奏に立派に加わっている。

 すごいよ。私、今音楽やっているよ。

 夏音くんの音が甲高く伸びていく。表情で、もう終わりって示されているのがわかる。大げさにギターを掲げた夏音くんに合わせてジャカジャカーンと適当なストロークをかき鳴らして曲が終わった。
「すごいすごーい!! 夏音くん、私すごいよ!」
「うん、きちんと形になってたね!」
 私が興奮冷めやらぬ勢いでいると、夏音くんも満足そうに微笑んでいた。
「ちょっとはつかめたでしょ?」
「うんっ! 私、こうやってもっといっぱい曲弾きたいと思ったよ!」
「そう? なら、次はあの有名な曲にしよう。カントリーロードっていって、使うコードは今より増えるけど、ポジションチェンジが割と簡単だから……」
 ああ、楽しい。うん、楽しい。こんな風に音楽をやっている瞬間は楽しくて仕方がない。
 軽音部に入らなかったら、こんな感覚知る事はなかったと思う。
 だから私は今日も明日も、どれくらい指を痛めたって楽しいに違いないんだ。




<澪>



 残響が消える。一瞬前には少し低音がブーミーな音がアンプから漏れていた。サスティーンがゆっくり消えていく時、呼吸と似ている。ゆっくり息を吐き出すような感覚。
 私は演奏を終えて指板を手のひらでおさえて夏音の言葉を待った。夏音は腕を組んだ姿勢で目を閉じている。やっと開かれた口からは思わぬ一言が飛び出た。
「チューニングがズレてる」
「え?」
 よりによってそこ? と思わなくはないけど、まず言われた言葉に反応してみよう。おかしいな。これを弾く前に合わせたばかりなのでチューニングがズレたとは思えない。弾いていても気にならなかったし。
「ちょっと貸して」
 私が目を丸くして愛器を見詰めていると、夏音がベースを寄越せと身を乗り出した。素直に渡すと、彼は色んな場所でハーモニクスを鳴らしてペグをいじりだした。ネックを横から見たり縦から見たり。
「んー、うん。若干だけどネックが反ってるね。ここのところ湿気がすごかったからね」
「反ってるの!?」
 それは大変な事だ。いや、一大事だ。夏音の言葉にどうしようもなく焦ってしまう。それより、何て不甲斐ないんだと落ち込んだ。ネックが曲がっている事に気が付かなかったなんて!
「言っても少しだよ。ほら、オクターブが狂ってるでしょ?」
 ほら、って聴いてもわからないけど。
「どうしよう」
「どうしようといっても、どうしようもないよ。テンション緩めたまましばらく放っておこう。たったこれだけでロッドをまわしたくないし」
 その言葉にほっとする。何だ、大事にとってしまったと胸を撫で下ろした。実はネックというものは案外簡単に反ってしまうものだ。季節によって湿度の影響を受けてしまう。乾いたり、潤ったり。日本、忙しないから。とにかく楽器は生き物。 すごく繊細で、持ち主の管理がかなり重要だ。愛しの楽器が悲鳴をあげているのにも気が付かないような人間にはなりたくないものだ。
 意図せずネックが反ってしまえば、チューニングが揃わなかったりしてしまう。さらに言えば、弦がフレットに当たりすぎてしまったりすると演奏していられない。弦をビビらせる事も手だけど、そこは程度の問題。夏音が言ったように、ちょっと反ったくらいだとテンションの駆け具合で修正できてしまう。
 それにしても、夏音の耳はどんな造りをしているのだろう。私は音のズレがわからなかった。少しの音のずれが気になる、というより気にすることができる耳というのはうらやましい。
「澪はもともとロウを出し過ぎて何の音かはっきりしない時があるからな。力入りすぎて音上がってる時あるし」
 音感はしっかりつけた方がいいでしょう、と夏音は語る。しかしながら、コルグの安物のチューナーでは計測できないくらいのズレであったことは私の名誉のために言っておきたい。それでも他人に指摘されるのはやっぱりいたたまれなくなる。


 夏音の自宅で行うベースのレッスンは毎週の恒例行事になっている。頭を下げて夏音に見て貰う事になって、しばらくは私の方が萎縮してしまって身が入らなかったりした。二つのベースが向き合っていると、普段の彼の面影がすっとどこかに行ってしまう感じがしたのだ。同級生、部活仲間、という枠組みから外れたプロのベーシストとしての夏音を前に圧倒してしまった。
 それでも何回か続けていると人間、慣れるもの。すっかりこの環境に順応してしまった今ではこのプロ御用達スタジオ、みたいな自宅スタジオに居ても余裕しゃくしゃくでいられる。幸い、夏音以外の家族に遭遇する事もないし。
 ただ、多少の不満は何点かある。夏音という男はとかく自室か地下のスタジオにこもって大きな音に埋もれていることが多い。だからチャイムの音が届かないで三十分も玄関で待たされた事もしばしば。金持ちの豪邸の玄関先でじっと動かない少女を近所の主婦が怪しげに睨んできた事もあって、大変居心地が悪い気分を味わったりしたから。
 その辺についてつぶさに文句を言うこともできない。所詮、時間を削ってもらっている身だから。どうせ不平を漏らしても「あーごめんごめん」って簡単に謝るだけだし。それでも、それはそれで憎たらしい気持ちが湧かないっていうのはズルイ。それが立花夏音という人間で、幸か不幸か私はこの短期間ですっかり立花夏音という人間に慣れてしまった。
 もちろん慣れないことも確かにあるけど。主にカノン・マクレーンというアーティストについて。
 目の前にいるのは確かに夏音だけど、カノン・マクレーンでもある。ベースを弾いている時の彼を同級生として意識することはなかなかどうして難しい。
 桁が違い過ぎる。毎回、彼が走らせるグルーヴに圧倒されるし、打って変った幽玄な調べに心が揺れてしまう。フレーズが歌うのに合わせてこっちの心が揺り動かされる。なんといっても、毎度彼のベーシストのコンサートの特等席に座っているようなものだから。
 まだ両手で数えるほどしか行われていないレッスンだけど、たったそれだけで私はだいぶ成長したと個人的に思う。まだまだって笑われるかもしれないけど。自分の成長は自分が一番分かっているつもり。だから、胸を張って私は言う。少しだけ上手くなりました、って。
「澪は教えがいがあるよ。教えたことをすいすい覚えてしまうんだもの」
 夏音は前にそう言ってくれたことがあった………あったんだ。そのあと、頭が真っ白になった私がどう返したか記憶にないんだけど。彼は本当に真剣に教えてくれる。細かい所まで相手の立場になって疑問に答えてくれたり。ただ、真摯に教えてくれるのはいいけど。これまた頭が痛い問題が。

「ハハハッ! ヨレてるヨレてるー。何それ三連符になった時の澪のリズム気持ち悪い……あーキモイ!」
「はっはぁー、シャッフルつっても適当ってことじゃないんだよ。頭の中がシャッフルするんじゃないよ?」
「今のは、裏なの表なの?」
「ごめん、いまの曲だった?」

 等々の手厳しい言葉が飛び出る。なんというか、音楽に関しては鬼のように厳しくなるのだ。それも、レッスンが始まって最初のうちはまだいいんだ。
 興がのりだすと、だんだんと笑顔を顔面に張り付けたまま心は鬼軍曹と化す。
あまりの言葉に気絶しそうになったことも……。気のせいではないと思うんだけど、メンタル面の耐久力も徐々についてきている気がする。
 とにもかくにも。色々あるにせよ、この時間はとてもタメになるし大切なものだって事は間違いない。


「俺のベース貸すよ。弦が激死にだけど」
 どうにもこれ以上、私のベースの音を聴きたくないそうだ。ひどい。けど仕方ない。そう言って、彼はスタジオに置いてあったベースの一つを貸してくれた。現れたベースを見て、腰を抜かしそうになった。
 リッケンバッカ―……到底、私には手が出せない代物だ。万が一でも壊したらどうしようとベースを持つ手が少し震えてしまう。
「何でレフティーのがあるんだ……?」
「これ、知り合いのなんだ。前にプレゼントされた。レフティーのだからいらなかったけど、役に立つ日がくるとは……」
 ベースを受け取ってから、早速チューニングをすませてアンプで音を鳴らしてみた。
「あ、すごい」
 弦が死にかけといったが、良い感じに抜ける。綺麗に抜ける、というより重低音がイブシ銀に駆ける感じ。
「案外丸い音も出るだろ? ホローボディだしフロントのピックアップも特注、プリアンもこだわり抜いて造ったものらしいから。つまりオール特注だからスケールも澪のベースと違和感ないと思うよ」
 何だその至れり尽くせり。これ、正規の値段なんかじゃ図れない程のスペックじゃないか。
「うん……弾きやすい……弾きやすいけど、おそろしい」
「そー? よかったよかった!」
 夏音は私の呟きをガン無視してきた。庶民はこんな楽器をほいほい弁償できないというのに、理解していないのか。
 それでも、私は磨かれた白黒のボディをたくましく感じた。滅多にこんな良いベースを弾ける機会はないのも事実だから、嬉しい。
 それから指ならしのスケールを適当に弾きながら、うなずく。弦が死んでいるからあまり高い部分が出ない。イコライザーをいじりながら一弦でプルしたりしてそれを確認していると、ふと頭に浮かんだ事があった。
「私、きちんと教えてほしいことがあるんだケド……」
「なに?」
「スラップを……ね」
 スラップ。ベースを始めたものなら、誰しもがやってみたいはず。そのはず。スラップとは、と訊かれてどう答えるかは人によると思う。大元を説明すると、ベースで打楽器の代わりをする、というのが正しいかもしれない。
 先代の偉大なミュージシャンがスラップの道を切り拓いてきて、今ではその奏法もバリュエーションが豊かになった。要するに、なんだろう。とてもファンキーなグルーヴを作りだすことができて、弾けると格好良い。何を隠そう、この奏法で有名なベーシストの一人に目の前の彼がいたりする。
「そうか……スラップねぇ」
 すると夏音は自分のアンプのつまみをちょいちょいといじってから、四弦に親指を叩きつけた。うねるようなグリッサンドから、バキバキとファンキーなリフが繰り広げられる。
 私の苦手な三連のシャッフルが盛り込まれ(私へのあてつけ的な)、夏音の両手がめまぐるしく動く。というよりプルの連符……四つ音が聞こえた気がしたけど、幻聴だろうか。
 本当に、魔法みたいな手だと思う。見とれる。そして圧倒され。遠くなる。
 こんな人に追いつけるだろうかって。
 すぐに手を止めた夏音は私の顔を真っ直ぐに見詰めて口を開いた。
「スラップは……まだ、澪には早いと思う」
「そ、そうかな?」
 そう言われるとは思っていなくて、ショック。
「うん。まあ、見なさいな」
 そして夏音は親指を四弦に叩きつける。
「これがサムピング」
 次に、三弦を人差し指で引っ張って指板に叩きつけた。ベキッと音が鳴る。
「それでプル。この二つがスラップの基本です。けど、これを組み合わせてこういう音が鳴っていたらスラップって言うのかな」
 夏音は単純なサムとプルを使ったオクターブフレーズを弾く。
「ずっとこれじゃあ、つまんないね。澪が想像するスラップは、もっとこうファンキーな感じじゃない?」
「うん」
「それには、実はいろんな技術が必要だし澪は普段弾いていてもゴーストが下手。ミュートができないとそれっぽい事しかできないよ」
「うっ……!!」
 遠慮はなし。夏音の言葉は鋭い。
「だからスラップはもっと後でいい。サムやプルなんかの動きに慣れておく事はいいと思うけどね。今は他にやることがいっぱいあるからね!」
「うぅ、ハイ……」
 私は返す言葉もなく、うなだれてしまった。
「まあ、そんなに落ち込まないでよ。いつか、必ず教えるから。俺は澪にはきちんとベースを教えて、上手くなって欲しいんだ。澪なら、できると思うから」
 顔をあげると、真剣な表情で私の目をのぞく夏音。青い瞳は、嘘を含まない。たしかにボロクソ言われるけど、夏音は最後には必ず「澪ならできる」って言ってくれる。
 そう言われると、今がどんなに未熟でも必ず上手くなれるっていう自信がつくんだ。
 間違いない、って信じることができる。
「あぁ、確かに他ができていないのにスラップなんておこがましいよな……」
「うわぁ、おこがましいなんて日本語……澪ったらネガティブな子だね」
「こ、これは謙虚っていうんだ!」
「ハハハ! 冗談だよ。それに、そんなに遠くないうちに澪には教えることができると思うから安心して、な?」
 な、って言われてニッコリほほ笑まれると言葉が出ない。心なしか顔が熱い。だめだ……やっぱりこいつには勝てない。
「なんていうか……よろしくお願いします」
 顔は上げていられないから、頭を下げる。
「いいえー、こちらこそ」



※一話が短すぎたので、残りはまとめてみました。これで幕間、いったん終了です。こんだけ幕間つづかねーよと思われたら申し訳ございません。リッケン欲しいですなぁ。



[26404] 第八話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/26 21:07

 バンッ。
 それは夏の暑い放課後。うだるような暑さに口数も少なくなり、黙々とムギ提供の冷茶をすすっていた軽音部一同であったが、急に部室の入口からバンと大きな音にびくっと反応した。音の発生源に目を向けると、どうやら行儀の良さで知られていたはずの澪が部室の扉を蹴破る音だったらしい。
 彼女は注目を集めながら部室の中央へとずんずん進んでいく。肩で風を切りながら颯爽と部室を横切ってくる彼女に唖然としながら見詰めた。
 澪は口を閉ざしてぽかんとしている一同を見据えて、びしっと指を突きつけた。

「合宿をします!!!」

 夏音はハッと眼を見開いた。
 合宿。それは学園ものには必ず登場するお決まりのイベント。彼はこの青春の香りをぷんぷんと彷彿させるキーワードがいつ飛び出てくるかと待ち望んでいた。いつ、誰が言ってくれるのだろう。自分の我慢もそろそろ限界。誰も言わないなら自分が提案していたところだ、と疼いていた心に溶け込む言葉が今、澪の口から飛び出た。
「合宿……ああ合宿! その妙なる響きや、よし………ふふふ」
 ぼそぼそと危ない目をしながら呟く夏音に気付かず、他の者は疑問を浮かべていたが、次第にその顔が晴れやかに輝く。
「合宿って……海!? 山とか!?」
 ウキウキと自分の思い浮かべる合宿のイメージに浮かれる律に、澪の眉がぴくりとハネあがった。
「遊びにいくんじゃありません! バンドの強化合宿! 朝から晩までみっちり練習するの!!」
「えー、何でー?」
 律と同じく楽しい楽しい合宿風景を妄想していた唯が心からの疑問を放った。
「せっかくの合宿なのに」
 楽しいはず、合宿。なのに、澪の語る内容はどうも暑苦しい体育会系の匂いがぷんぷんする。
「まあまあ。合宿、いいじゃないか」
 すっと立ち上がり、真剣な表情で前に歩み出た夏音に視線が集まる。涼やかな微笑を湛えながら夏音は彼女達をしっかりと見据えて、口を開いた。
「青春に必要不可欠なものといえばなんだろうか。ここ最近『これだ!』というイベントがなかったよね。こんなはずじゃない。こんなのほほんと青春を無駄にしていいはずがない。合宿……あぁ甘美な響き。そう合宿! 海でも山でもいい! 若い男女が人里離れた場所で寝泊まりしてバーベキューに海水浴! はたまた川遊びにキャンプファイヤー。夜は温泉に入って風呂上がりの花火でしんみりと夏の終わりに寂寞を募らせる………決まりだ、合宿。行こうぜ、合宿……ぷくくっ」
 語っていく端から空気が冷えていく感触を肌で感じることができなかった夏音は背後に迫る凄まじい怒気に気が付かなかった。
 部室中に小気味のいい音が響いた。 

「ごめんなさい遅れちゃって……ってあら? 夏音くん頭どうしたの?」
遅れて部室へやってきたムギが、頭にタンコブを作って正座をしている夏音に目をとめた。
「気にしないでクダサイ」
 正座は日本の反省の証だそうだ。
 今しがた制裁を加えたダブルに冷たい一瞥をくらわせると、澪はもう一度自分の主張を再開した。
「来週には夏休みが始まります。そして夏休みが終わったらすぐ学校祭でしょ?」
「学校祭?」
「そう! 桜高祭での軽音部のライブといえば、昔はけっこう有名だったんだぞ?」
「そんな事より高校の学校祭ってスゴイんでしょ!?」
「おー、たこ焼きにお化け屋敷に喫茶店! 中学とは次元が違うって聞くな!」
 そんな事扱いされた挙げ句に話を脱線させてゆく二名にぴくりと澪の瞼がひくついた。こめかみに青筋を浮かべて、脱線魔達の脱線トークが過熱していくにつれ、うずく拳を止める事ができなかった。
 部室に頭をさする者が二名に増えた。
「高校の学校祭のすごさなんてどうでもいい! メイド喫茶も死んでもやらない! 私たちは軽音部でしょ? ライブやるのー!!」
 爆発しそうな勢いで怒りに顔を染める澪に律と唯が「うっ」と黙る。普段大人しい人物が怒るとより恐ろしいのだ。いついかなる時も彼女の鉄拳の恐怖にさらされている者どもは何も言えず、唯一その鉄拳制裁の射程範囲の外に位置するムギが場を収める事になった。
 太い眉毛をきゅっと引き締めたムギが魔法の一言を紡ぐ。
「まあまあ落ち着いて澪ちゃん。マドレーヌ食べよ?」
 怒れる澪もしょせん女の子。あっさりとお菓子に陥落した。とりあえず必殺のお菓子作戦で澪の気を和らげることに成功したムギはほっと胸を撫で下ろしてお茶の準備を始めた。
 これぞ軽音部クオリティ。


 小休止を挟んでほっと一息。だいぶ柔らかい表情になった澪がムギに向かって食い入るような視線を向けた。
「ムギはどう思う? いくら慌てずやっていこうといっても、もう三か月にもなるのに一度も合わせたことがないなんて……軽音部なのに!」
 それに対してムギは困ったように苦笑を浮かべるばかりで答えられない。答えようもない、といったところか。三か月という月日は長いようで短いものだったりする。とりあえずは新しい学校生活に慣れるのに精一杯で、夏休みが訪れるのがあっという間なのだ。その間の軽音部が個々人で音楽に触れ合っていたとはいえ、バンドとして演奏する事がなかったのは異常事態ともいえよう。ムギ自身もこんな現状に疑問を挟む機会は幾らでもあったが、行動を起こさなかった内の一人である。部を慮る澪に堂々と正論を述べるには躊躇ってしまうのだ。
 澪が熱く語る中、夏音は未だダメージを引き摺る頭をさすりながら、静かな瞳で思案にくれていた。
 誰も言わなかったのだから仕方がないのではないだろうか、と夏音は現状を受け止めている。彼は軽音部に入る事に決めて以降、自ら積極的に動かないように傍観の姿勢をとっていた。ギター初心者の唯にギターを教えるという作業のかたわら時折ベースに触れる事はある。機材の前で数時間も何もしないのは時間の無駄だからだ。そして夏音のベースをBGMとして陽気にティータイムを繰り広げていた中には、ちゃっかり澪もいるのだ。
 部としての音楽的方向性の欠片すら見えてこない状況。部活としての方針も未定。
 それでも夏音自信は、まあ楽しければいいんじゃないかなーと軽く構えていたのも事実だ。自分が悪くないとは思わないが、怠慢が過ぎたかもしれないと省みた。そもそも、そのように悩んでいるのであれば澪もベースのレッスン中に言ってくれればよかったのだ。
「バンド、やらないの?」
 切実な心の叫びが一同の心に突き刺さった。つい口を閉ざす面々の中、ムギがぱっと顔をあげる。
「ぜひ、行きましょう!」
 ムギがぽんと手を打って澪に賛同の言葉を贈る。力強く、だが楚々たる笑みを向けられた澪の表情に明るさが戻った。
「ムギ……」
 分かってくれたのか、と頼もしい表情でムギを見詰める澪。そんな彼女に大きく頷いたムギは続けざまに言った。
「みんなでお泊り行くの夢だったの!」
「え?」
 無垢な笑顔を真正面から受けた澪がぽかんと間の抜けた表情になる。
「あ、それじゃあ海にする? 山にする!?」
「山でも川で遊べる所がいいと思います!」
 彼女の言葉に端緒が開けたのか、今までの重苦しい雰囲気が嘘だったみたいに霧散した。合宿に行く事に反対意見はないとして、遊ぶ気マックスのテンションに持ち上がった一同に澪の涙まじりの叫びが響いた。
「だーかーらバンドの強化合宿だと何度言わせるんだ!!」


 その後、喧々諤々の議論(?)がヒートアップしたところで、夏音は「そういえば」と皆を見回した。
「合宿ってたくさんお金かかるんじゃないのかな? 俺は大丈夫だけど、みんなは大変じゃない?」
 ここ数ヶ月で女子高生の懐事情を把握しつつある夏音。ここで金銭の配慮をするというたまにしか見せない年の功を見せた男の発言に何名かの肩がずんと落ちこんだ。
「そ、それは……幾らくらいかかるんだろう」
 なんと言い出しっぺの澪は、何の段取りもとっていなかったらしい。
「まったく。煮詰めろとまでは言わないけど、言い出したんだから大雑把な予算くらいは見積もっておかないと」
 夏音の全うな言い分にさらに肩を落とした澪。先ほどまでの勢いは見る影なく、しょんぼりと縮こまってしまった。
「しっかし海に行くにも山に行くにもそれなりにお金かかるよなー」
 律が肘をついた両手に顎を乗っけた姿勢で深刻な表情になる。
「な、なあムギ?」
 意気消沈していた澪がギギギ、と首を軋ませると一縷の望みをかけてムギの方を向いた。
「はい?」 
「そ、その……別荘とか……持ってたりしないかなー」
 そんな馬鹿な。流石にそれはないだろう、と律が呆れたように鼻を鳴らした。
「ありますよ?」
 すっと一直線に返された言葉に律の頭が机に突き刺さって鈍い音を立てた。
「え、ほんと?」
「ありますよ、別荘」 
 宿泊場所、確保。 


 お嬢様然としたムギが本当にお嬢様だったと明るみになったところで、宿泊代が浮くという事実は大変喜ばしい。めでたやめでたや、と一同はうきうきとした雰囲気でお茶を再開した。そのまま和やかに合宿の予定が話し合われていく。
「いひゅならなふやふみででけっへーだろー?」
 とマドレーヌを頬張りながら言う律に澪が眉をひそめた。
「口にものを詰めて話すな行儀悪い」
 すかさずそれを注意する澪はまるで―――、 
「お母さん?」
「何か言ったか夏音?」
「なんも」
 やぶ蛇になりかねない、と夏音は慌てて口をつぐんだ。
「日程は一泊二日とか、かしら?」
 ムギが心なしかわくわくした様子でノートに決定案を書き込んでいくが、澪はその提案に曖昧な反応を示した。
「どうせなら三泊くらいはしたいところだなー」
 そこに夏音が難色を示す。
「三泊は長すぎるんじゃないか? 機材も持っていくし、着替えとかも結構かさばっちゃうよ」
「そうか……律は持っていくもの多くなっちゃうよな」
 澪がそれもそうか、と頷いて律に振った。
「ん? スティックだけ持ってくつもりだけど?」
「オイ……」
 ムギの話によると、父親が別荘に知り合いのバンドを呼ぶので機材一式が揃っているそうだ。ドラムセットから各アンプまで。楽器屋を傘下に収める琴吹家ならではの至れりつくせりである。どちらにしろ、重い機材と1セットの移動は厳しいものがあるので助かる話だ。機材車なんてないのだ。
 
 

 結局、合宿は二泊三日。夏休み第一週、つまり来週の金曜日から三日間となった。目先に決まった楽しげなイベントに「くくっくくっ」と笑いが止まらない夏音は帰り道で通りすがる人々に気味悪がられた。
 そもそも二泊三日も男女混合のお泊りが許されるのかという疑問が浮かんだ。浮かぶものと思っていたが、誰も触れないので考えないことにした。だから、いいのだ。もしかして異性として意識されていないのかもという考えは思考の外にぶん投げた。おそらく信頼されているのだ。そうなのだ。
 そのへんの繊細な問題については曖昧な笑みで濁しつつ、夏音は肝心の合宿内容について考える。
 先ほどの話合いで出された宿題。バンドで合わせるといってもオリジナルの曲も用意していない状態だとコピーしかない。何よりコピーの方が色々手っ取り早いという事で、コピーする曲を決める事になったのだ。これについては各自でやりたい曲を持ってこようという話に落ち着き、明日までの宿題となった。

(五人で、キーボードが入った編成のバンド……。もしもの時はアレンジしてやるのもいいか。迷うなあ)
 夏音はその日、自分の持っているCDやデータを漁って今の軽音部にぴったりな曲探しに明け暮れた。バンドで合わせた事はないものの、軽音部のメンバー全員とは一対一で音楽で触れているのだ。各自の実力も大体把握したつもりである。問題は唯である。唯を基準に曲を決めねばならない。
 あれもこれもと出てくるが、絞らないといけないとなると、どうも難しい。
 結局、その日は深夜までかかって何百と曲を聴いていた途中で眠気に負けてしまった。


 電気を点けたまま寝入ってしまい、そのまま朝をむかえた夏音は放課後になって曲を絞りきれなかった事に焦っていたのだが。いらぬ心配であったようだ。
「結局絞れませんでした」
 という意見が見事に出揃った放課後。皆、同じような悩みを持ったのだと思われる。これは好きな曲をベスト3で挙げてみて、と言われた時の境遇と同じようなものだ。
「そもそも、だよ!」
 夏音はここで曲を決めかねた理由を言った。
「このバンドの編成ってどうなの? きちんと決定した覚えはないんだよね」
 最も重要なことを忘れていたことに、お互い目を反らした。同じ穴のムジナ。それが軽音部。
「といってもドラムは律。キーボードはムギ。唯はギター。だから残るのは……」
「ベースが澪か俺か、だろう?」
 夏音は問題となっていた部分に触れた。そして続けざまに「澪でいいだろう」と言った。
「俺がヴォーカル。必要ならギターも弾くよ」
「でも、夏音はそれでいいのか?」
 澪が複雑な心中を表しながら夏音に尋ねた。
「全然かまわないよ。むしろ、一番それがすっきりするだろう?」
「夏音がそれでいいなら」
 未だ納得していない様子の澪を無視して「これで編成も決まった事だし!」と夏音が議題を進めた。
「どうする? 俺が全部の曲のヴォーカルということで決めていくの?」
「どうせなら、そうして欲しいな」
 澪は万が一でも自分が歌うことになったら大変、と夏音に歌を一任するように頼んだ。そもそも、唯が入る前にこの話は出ていたのだが、結局きちんと決定せずにここまできてしまっていたのだ。ここで夏音が歌うことに誰も異議はなかったので、ようやく話はまとまりつつあった。
「それでは、俺がヴォーカルということで曲を決めていきましょう! そしてバンドが演奏可能な曲を! お互いを思いやって曲を選んでください!」
「はーい」
 四人分の良い返事が返ってきた。夏音はそれに満足そうに頷いた。
 しかし、後日メンバーが選んできた曲はことごとく却下された。


 結局、今から合宿までの期間を考えると、三曲が限界だという事に。夏音は「そんなものか」と不承不承ながら納得して曲決めを進めることにした。ただ「好きだから」という理由で曲を選んだ彼女達の向こうみずっぷりを見かねて、結局のところ夏音主導での曲選びとなった。
 何と言っても、それぞれの技巧を顧みない選曲ばかりだったのだ。それでも何とか曲が決まった。採用されたのは、律と唯、夏音の曲である。
 それぞれに音源が渡され、練習に打ち込むように言いつけられた。
 これで軽音部もその名にふさわしい部活になってくれるだろうか。一抹の不安は拭いきれないが、あとは皆が練習してくるのを信じて合宿までの日数を消化していくしかない。


 帰宅後、夏音がリビングのソファでうとうとしていると、滅多にならない家の電話がけたたましく響いた。のろのろとした動作で電話の子機をとりあげると、そこからは聞き慣れた声が聞こえた。
『Hello!!』
 鈴を振ったような声。受話器越しにも鼓膜を通り抜けてくる独特な存在感を持った声の持ち主は他にはいない。
「Mom?」
 夏音は思わず声をあげた。
『そうよー元気にしてた?』
 電話をかけてきた主は、夏音の母・アルヴィであった。
「母さんこそ! 今どこにいるの?」
『北海道よー』
(相変わらず神出鬼没だな……)
『あのねー、もう少しで夏休みじゃない?』
「そうだよ。よく知ってるね」
 あの両親が自分の予定を把握しているとは、珍しい。
『たまには家族で過ごすべきだと思うの』
「帰ってくるの?」
『八月の第一週よー』
「げっ」
『何かあるの?』
「三日間ほど軽音部の合宿があるんだ」
『まあ! まぁまぁまぁ~……なんてことなの!』
「だから、三日間ほど家を空けることになるんだけど」
『ひどいわ夏音! ママたちより新しいお友達を選ぶのね!』
「そういうわけじゃないよ。もう決まってることだし、急に言われても困るよ。だから、帰ってくるなら二週目にして」
『でも、次の週にはお仕事で九州に行かなければならないの』
「じゃ、四日間だけかまってあげるよ」
『もーーつれない!』
 電話の向こうでぷりぷり怒っている彼女の様子が目に浮かび、夏音はくすりと笑った。
「ママに会えるのを楽しみにしてるよ」
『夏音……あなた、やっとママって……っ!』
「じゃぁ、忙しいから」
『あ、夏音! もしかして女の子と一緒にいるんじゃないでしょうね?』
 ブツッ。
 夏音は強制的に通話を終了した。
「やれやれ」
 クスッと笑って夏音はふとカレンダーに目をやった。丸が付けられている三日間まであとわずか。
 今はこちらの方が大切だから。申し訳ないけど、両親には我慢してもらう。




「はい、これ」
「F#7」
「次」
「Cadd9!」
 合宿前々日。夏休み初日とも言う日だが、夏音と唯は部室でギターを構えて向かい合っている。昼下がりの学校にいるのは、夏休み初日から気炎をあげて練習に打ち込む運動部。その他の文化系の部活動のみ。一般生徒の姿はほとんどない。
 校内に響く管楽器の音は吹奏楽部である。桜高の吹奏楽部はかなり大所帯で競争が激しいと聞く。個人が鎬を削り合ってレギュラーに食い込むために個人練習に励む姿勢は、軽音部とは大違いと言いたい所だが、今回ばかりはそうとも言えない。
 部室にいる二人の部員は練習のために休みの学校に来ているのだから。しかも、この練習は唯から言い出したものだ。初めてバンドで合わせる。本当の意味で軽音部の活動の第一歩を踏み出すのに、自分が足手まといになりたくないのだと唯は語った。
 当然夏音は「この立花先生に任せな!」と二つ返事で受けた。
 せっかくの休みという事で昼までたっぷり寝て、昼過ぎに部室に集まった。この三ヶ月間ほど、唯にギターを教えてきた夏音。初めは一から音楽知識がない唯に対して、どういったアプローチで教えようか悩んだ。ギターを弾くと言っても、ギターを弾く事だけ教えれば良い訳ではない。ギターよりも音楽を教える事が重要だと夏音は考えている。
 音楽理論については、教えようとして即頓挫してしまった。三度、五度やコード理論。唯の頭から煙が燻り始めてしまうのだ。夏音が見た限りでは、明らかに唯は感覚的にギターを弾くタイプの人間である。むしろそういう人間に理詰めで理論を叩き込むのは効率が悪い。いつか身につけるべき事であるが、時期尚早かもしれないと踏んだのだ。
 そうした事柄を踏まえた上で夏音が唯に叩き込んでいる事。それは、指板上のどこにどの音があるのかを徹底的に把握するという作業である。指板の上をフレットで区切られているギターは、フレットごとに音が存在する。ドレミファソラシドの音階が幾つも存在するのだ。オクターブがどこにあるのか、これで把握する。さらにスケールを覚え込ませようとした。教えたスケールをどの場所からでも弾けるようにひたすら繰り返すように言った。
「はい、Aドリアン」
 夏音は淡々とスケールを指定していく。夏音が言うスケールを唯が弾く。それでたまに間違う。
「違う!」
「え、えーと……これは……」
「それ、リディアン」
 こんな感じにスパルタでやらせてきた。何も全てのスケールを覚えこませようとしている訳ではない。ペンタトニック等のよく使用するスケールを中心に教え、それが完璧にできるようになったところで、他のスケールや応用を教えているのであった。同時に覚えたせいか、スケールがごっちゃごちゃになっているようであった。
「例えば、ここで9thの音を足すとこういうフレーズになるんだけど。なんか聞き覚えない?」
「聞いた事あるような、ないような……」
「あれー。一昨日、こういう手癖を多用する人のCD貸したばかりなんだけどナー」
「あぁ、それで聞き覚えが!」
 まぁ、そんなものかと苦笑した夏音であった。
「こういうフレーズの中にこうやってトリルを混ぜると、こんな感じに。よくソロで使っている人が多いです」
「ほぉー! 格好良い!」
 瞳を輝かせる唯に夏音も嬉しくなる。彼女は今まで自分がぽやーっと聞き流していたギターのフレーズ、その作り方を学んでいるのだ。以前に唯が、いつかギターソロを弾いてみたいと話していたのだが、こういう作業が積み重なってできるようになるのだという事がおぼろげにも見えてきているのだ。
 このような作業の中、唯は合宿に向けて曲の練習に励んでいる。幸いな事に、軽音部の面々は耳の力でフレーズをコピーする能力を持っていた。夏音としても、唯には市販のバンドスコアなどに触れて依存するようになって欲しくないので都合が良かった。
 三曲、全てを夏音は唯に耳で覚えさせた。崩した言い方で言うと、耳コピである。音楽初心者はこれをできない者が圧倒的に多い。今まで唯には指板上の音を全て覚えさせた。スケールも覚束ないながら覚えさせた。
 ここで嬉しい誤算が起こる。耳コピする中で、コードの構成音やらを感覚的に覚えつつあるのだ。何となく、の次元だがしっかりツボを押さえている。
 唯は絶対音感を持っている。ひょっとして化けるのではないかと夏音は腹の底からわき上がる言いしれぬ感覚にドキドキした。
 何としても、よく分からない身につけ方をされたりするので、教え甲斐はないかもしれない。向こうが納得しても、こちらが腑に落ちない、等がよくある。
 唯は結果、三曲全てを耳でコピーしてしまった。 


 そんな風に合宿も前日に迫ったところで、夏音自身に重大なトラブルが起こってしまった。
「なんというタイミングで……」
 夏音は自分の太ももにできた発疹を睨む。痛々しい、この……ジンマシン。
「サバなんて……サバなんて食わなければよかった!!」
 膝をついて昼食で食べた青身の魚を呪った。近所のマダムに貰ったものだから。急遽かかった医者は「君は青身魚だめなんだねー。美味しいのに」と暢気に笑った。薬を飲んで安静にしていろと言われて帰された。
 合宿の場所こそ秘密であったが、泳げる場所があるので水着を用意してきてねとムギに言われていた矢先の出来事。
 しかし、どうだろう。こんな状況で泳げるはずもない。他の者が楽しそうに泳ぐのをただ指をくわえて見ているだけということだ。
「なんてこと……俺に残るのは、あいつらの水着鑑賞だけか………………それもそれでよし、か」
 それも間違っている。


 合宿当日。
「I`m alone...alone...alone...」
 郷愁を感じさせる味のある表情で夏音は車を飛ばしていた。大型のワゴンには、運転席に座る夏音しかいない。後ろに積んだ機材や……唯のギター以外に同乗しているものはない。
「くそっ」
 思わず汚い言葉を吐く。俄然アクセルは強め。メーターは頂上を振り切っている。ハイビームのごとく山道を疾走する夏音は損な役回りを務めている自分に自分で同情した。
「×××ジャーップ!! 唯のやつーーっ!!」
 伏せ字は有名なFワード。一人、孤独に車を走らせているのも、全てあの破天荒な天然娘のせいなのであった。

 

「唯……もしかしてまだ寝てるんじゃ……」
 集合時間になっても一向に姿を現さない唯に不安を駆り立てられた澪が恐ろしい一言を吐いた。
「ま、まさかー。いくら唯でも、そんなはずは……」
 フォローの言葉が見つからず、律は押し黙ってしまう。ありえなくないや。
 夏音も足元のエフェクターケースに腰掛けたまま、焦れながら唯の到着を待っていた。普段からどこか抜けている少女を思い浮かべてさらに不安は増す一方である。
「よし。私、唯に電話してみる!」
 とうとう澪がシビれをきらした。電車の到着時刻までに余裕をもって集合時間を定めたが、これ以上遅くなるのであれば電車に乗り遅れるという最悪の事態も起こり得るのだ。それこそ笑い事では済まされない。
 一同は唯に電話をかける澪の様子を静かに見守った。きゅっと口を結んで相手が出るのを待つ澪であったが、その表情は見る見る青ざめていった。
 彼女はゆっくりと口を開いた。
「……お、おはよう」
 その一言を聞いた一同に戦慄が走ったという。
 案の定、寝坊をかましたという唯は二十分後に合流した。
「ごめんなさーーーい!!!」
 登場して早々、いきなり両手を地面について謝る彼女に、皆は山ほど言いたかった言葉を飲み込まざるをえなかった。何より、そんな時間の余裕はなかった。何と言っても発車時刻の五分前である。一同は土下座する唯を引っ張って猛然と走り出した。
「ほら、急ぐぞ! 切符はもう買ってあるから!」
 澪があらかじめ買っておいた切符を走りながら唯に手渡す。
「うん、本当にごめんね澪ちゃん!」
「まったくひやひやしたぞー」
 走りながら唯を咎める律であったが、夏音に「それを言うのはまだ早い!」と指さされた先には電車がホームに入ってくる光景が。
 そのまま息を切らしながら走る一同は、なんとかホームにたどり着いた。
「ふう~。なんとか間に合った……ていうか、五分くらい停車するんじゃんかよー」
 アナウンスを聞いた律が汗を拭いつつ夏音を軽く睨んだ。
「そんなの知らなかったもの」
 間に合った事で安堵したせいか、文句を言い合う二人にムギが笑いながら割って入った。
「まあまあ。とにかく間に合ってよかったじゃない……ってアラ……唯ちゃん……ギターは?」
「へ?」
 後に唯は『これが夢であればとどれだけ思ったことか』と語った。
 遅刻した少女は旅行鞄を一つ引っ提げて来た訳である。背中に背負っているべき重量がない事に気付かない程焦っていたという事だろうが、持ってきていないものはどうしようもない。そして、もうギターを取りに行く時間はなかった。集合した駅から出る電車から乗り換えを行わなくてはならないのだが、乗り換えるべき電車の本数が少ないのだ。調べてみると、次の電車は二時間後というお話。
 青褪めて二の句もつげぬ様子の唯。同様に言葉を失った一同に残された最終手段を必死に探る。
 その瞬間、四対の視線がちらりと夏音に向けられたのは偶然ではないと夏音は思い返した。


 最終手段として、夏音が唯の自宅までギターを取りに行き、単独で車を走らせて合宿地まで向かうという措置がとられた。
 自分に照射された視線に、ついに夏音は頭の隅に置いておいた対抗措置を引っ張ってきた。考えたくはない。これでは夏音がひく貧乏くじがあまりにも大きい。とはいえ、他の策を考える時間もなかった。おずおずと手を挙げて、自ら申告した。
「本当に大丈夫? 電車なら割とすぐなんだけど、車だと結構かかるのよ?」
 自分もソレを期待していた一員だとしても、やはり人道的な観点から夏音に悪いと思ってしまうムギは最後まで心配そうに夏音を見詰めてきた。それこそ、全員が同じ気持ちであったが、自分が犠牲になってどうにかなるのならやってやろうと夏音は意気込んだ。
 別荘の場所と住所を教えてもらい「男に二言はない!」とつっぱねた。
 その間、唯は地面をおでこで割らん勢いで土下座をしていた。


 夏音はすぐ切符の払い戻しをすると、車を取りに自宅まで走った。どうせならとアンプ類の機材を積み込んでから唯の家へ車を飛ばした。事前に連絡がいっていたらしく、唯の妹の憂がギターケースを抱えて家の前で待っていた。
 真っ青になって姉に負けじと平謝りをする憂を宥めてから、目的地まで車を走らせる旅に出たのである。
 比較的空いていた首都高を抜け、常盤道に入ってから一時間弱が経った。まっすぐにのびた道の先に陽炎が浮かんでいる。SAで休憩していた夏音は、皆はそろそろ目的地へ到着しているころだろうかと想像した。自分に悪いと思って沈み込んでいるかもしれない。特に、唯がしゅんと元気がない様子はこちらの心境も悪くなる。軽いお仕置きをする事にして、許してやろうと思った。
 SAを出発する前にカーナビをチェックする。それによるとあと一時間弱で着くらしい。もうひと踏ん張りだ。
「チクチョーその半分で行ってやる!」


 その頃、一方の女の子たちは。
「ははぁー、すっげぇー!!」
「海だーー!」
「泳ぐぞーー!!」
「だから、遊びにきたんじゃなくて!」
「うふふ」
 仲間愛とは何であろう。 



 軽音部から夏音をひいた面子は別荘に到着した。それはもう滞りなく着いた。途中、お腹を下す者も電車の中に忘れ物をするという者もいなかった。彼女達が乗車した特急は罪悪感という物を振り切る速度で目的地まで突っ走ってくれたのだ。
 やあ暑い。そうねえ、うふふと言った会話を挟みながらムギの案内で敷地内に案内された一同は揃って絶句した。絶句。出すべき言葉が脳みそから吹っ飛んでしまう程の衝撃。
 目の前にでかでかと建つのは想像やテレビ越しにしかお目にかかれないような「金持ちの別荘!」を凝縮した建物。
 やがて律が「でっけぇー」と呆けるように呟いた。
「本当はもっと広いところに泊まりたかったんだけど、一番小さいところしか借りられなかったの」
 付け加えるムギの発言に誰もが耳を疑った。目の前の現実に出会い頭にパンチされたというのに、まだこの上があるという。
「一番小さい……これで?」 
 律が皆の心の内を代弁した。どうやら自分達はこの不思議な友人の底を見誤っていたらしい。中でも律は今度テレビの長者番組に琴吹という名がないかチェックしようと心に誓った。
 早速施設の中に通されると、外観通り広い。家と称される屋内でこんなに歩くこともないだろう。木造の建物の中は、若干東南アジアや南の島のテイストが盛り込まれ、風通しの良い造りであった。避暑にはぴったり、というわけである。
 自分達が三日間を過ごすことになる建物のあまりの豪奢な加減に興奮した律と唯は歓声をあげながら屋内をずんずんと進んでいった。居間のテーブルにはセレブのパーティーに登場しそうなフルーツ盛り、冷蔵庫を開けてみると霜降り牛肉。天蓋付きのベッドには花が散らされていた。一般女子高生にとっては未経験ゾーンの贅沢が出るわ出るわで、はしゃぎまくった。
「うぅ……ごめんなさい」
 申し訳なさそうにさめざめと泣いているムギは、しゅんとうなだれて彼女の事情を話した
「いつもなるべく普通にしたいって言っているんだけど、なかなか理解ってもらえなくて……」
 その話を聞いた澪は、よく分からないがお嬢様も大変なのだなーと同情した。同時に自分には縁遠い話だ、とやさぐれかけた。
 肝心のスタジオに通されてから、機材をチェックし終えた澪は他の二人がいないことに気がついた。
「あれ、唯と律は?」
「途中でいなくなっちゃったけど……?」
「しょうがない奴らだ」
 溜め息と共にそう漏らしてから、澪はおもむろに旅行バッグからラジカセを取り出した。
「それ、なぁに?」
「これね」
 澪は言葉で説明するより、と再生ボタンを押した。攻撃的な高速ビートの曲が流れる。ずんずんと低音を響かせ、技巧を効かせたリフがうねっている。いわゆるメタルと呼ばれる音楽。
「昔の軽音部の学園祭でのライブ。この前部室で見つけたんだ」
「上手……」
 ムギは耳に入る弦楽器隊の技巧の数々に驚かされた。背後に疾走するドラムに乗っかって自由に喧嘩し合うツインリード。音質は悪いが、実際にその場にいたら圧倒されていたのだろうと想像できる。
「私たちより相当上手いと思う」
 澪は演奏が区切れたところで停止ボタンを押した。表情が曇ったまま。
「うん」
「なんか、これを聴いていたら負けたくないなって」
「それで合宿って言いだしたのね?」
 それで納得した様子のムギは澪の負けず嫌いな一面を知り、微笑ましく思った。
「まあ、ね」
「負けないと思う」
 その一言に澪ははっと顔をあげる。ムギは澪の顔をしっかりと見てから、力強く繰り返した。
「私たちなら」
「ムギ……」
 ムギの瞳に広がる静謐な光。それは揺れることなく、まっすぐに信頼という感情を表していた。澪はまだ付き合いの浅いこの少女の言葉がすっと胸に入ってくるのを感じた。不思議と「その通りだな」と納得してしまう。
 行き当たりばったりというより、全てに手探りで挑んでいる自分達には可能性がある。この音源の先輩方を凌駕できないはずがない。
 その言葉を誰かに言ってもらえただけで澪は胸につっかえた物がいくらか取れたように感じた。
 二人の間にさらなる友情の絆が結ばれようとしたその時。
「ぃよーーーーしあっそぶぞーーぃっ!!」
「オーイェーー!!!」
 真剣な空気は二人の闖入者によって木端に破壊された。
「って早っ! お、おい練習は!?」
 既に戦闘準備万端の二人に面食らった澪であったが、既に二人は部屋の外に突っ走っていってしまった。
「先行ってるから、二人とも急いでねー」
 遠くから唯の声が響いてくる。
「これでも……?」
 地獄の底から響いてきそうな声が澪の喉元から響いてきた。じっと暗い眼差しをあてられたムギは苦笑いを浮かべた。
「え、ええ……まぁ」
 ああいう流れがあった手前、若干気まずい。一気に不機嫌になった澪をちらっと見詰めたムギだったが遠くに響く歓声にふっと笑みを零した。
「澪ちゃん、いこ?」
 ムギからまさかの提案に澪の体がびくりと跳ねた。
「え……ム、ムギ行くつもり?」
「せっかくだし、少しくらいなら……ね?」
 ね、と悪戯っぽく笑うムギは心なしかうきうきとして見えた。今にも走り出しそうな、それでいて抑えているような。そんな彼女の様子に澪の心は揺れ動いた。
(ムギ、もしかしなくても遊びたいんじゃ……?)
 澪は、合宿前に彼女が同年代の友達と遊ぶことがなかったと言っていたのを思い出した。
「で、でも私は……」
 再び聞こえた律たちの催促の声に「はぁーい」と返したムギはついに「待ってるからー」と澪の元を去ってしまった。止める間もなかった。
 澪は、中途半端に伸ばしかけた手を力なく落とした。
「そ、そもそも夏音にあんなことさせておいて……その夏音だってまだ到着していないのに……」
 皆は何て冷たいんだろう、自分は決して行くもんかと背を向けた澪。そもそも唯は暢気に遊べるような心境に持って行けるのは逆にスゴイと思う。褒められたものではないが。

―――キャハハー、いっくぞー!
―――二人とも待ってー。
―――ビーチボールふくらますのやってよー!

 人のいない建物に響く楽しげな笑い声。澪の胸のあたりをぐっと這うような何かがこみ上げる。勝手に足がじたばたとなるのを抑える。
(でも、夏音が……)

 揺れる良心。

―――澪はまだこないのかー?
―――先行ってるって言っといたからー。

(ごめん、夏音!!)

「私も行ぐーーー!!!」

 割れる良心。

 言葉で言い尽くせない様々な理由によって涙を流しながら、澪はバッグの中から水着を探した。


 その結果がこうなる訳であった。

「もし、あなたがたに良心というものがあったなら―――」
 腕を組んで仁王立ちした夏音はそれ以上を続けることができなかった。
「―――お”、お”れ”の”……どうぢゃぐをま”っでから……うぅ……う”ぅ”……!!」
「!?」
 膝をついていた者たちは、鼻水と涙の滝が足元の砂に吸い込まれていくのをしっかりと目の当たりにした。
「申し訳ございませんでしたーー!!!」
 四人そろって土下座をする女の子たち。唯は心の中で、今日はよく土下座をする日だと思った。唯的土下座記念日。
 やっぱりこうなるよね、と澪は内省する。後の祭りだが。



 夏音はSAを発ってからわずか三十分で別荘まで到着という快挙を勝手に成し遂げていた。やっと辿り着いた別荘の駐車場に車を停め、見上げる建物の外観に溜息を漏らす。
「良さげな雰囲気だなー」
 そわりと吹いた潮風が髪をさらった。この時、既に夏音の気持ちも実に晴れやかで唯への怒りも鎮まりきっていた。
 それもそのはず。運転中。別荘に近づくにつれ、ばっと開けた視界に海が飛び込むロケーション。窓を開けると爽やかな風に潮の香り。遠くには夏空に浮かぶ入道雲。その空と同じ色をした瞳に、どこまでも開放的な夏の景色が映り込んだ。こんな環境でいつまでも怒っているのも馬鹿らしいではないか。
 それからは快適にここまでハンドルを握ってきた。
 最高のロケーションで合宿を楽しめると胸を撫で下ろしたところで、機材をせっせと室内に運ぶことにした。
 ところが。
 建物をどれだけ探しても、人の気配はない。偶然スタジオにたどり着くと、そこには散らかった荷物がお留守番をしていた。
「なに……?」
 事態をよく把握できなかった夏音は、遠くから聞こえる悲鳴を耳に捉えた。
 海の方からだ。
 このスタジオは、ガレージをスタジオ使いしているだけらしく、外に直結していた。
 夏音は木造のデッキから外に出て、海へと下る道を歩いた。そして先ほどの悲鳴の主たちに気がつく。
「俺を……さしおいて……なんてこと……?」
 浜辺に出ると、そこには水着姿で黄色い声をあげてはしゃぐ軽音部の仲間たちが。水着姿で。自分が到着するまでくつろでいるだろうと思っていたが、まさかスロットル全開で遊んでいるとは思いもしなかった。
 あまりのショックに、ふらふらと足元もおぼつかないまま近付いてくる夏音に誰も気が付かない。
「あ、あ、あ、アンタラァーーー!!!」
 その声が届いた彼女たちは、真夏なのに極寒にさ迷いこんだような感覚を覚えたという。



「ご、ごめんね夏音くん!!」
 もはや、土下座というより身を投げ出している唯が許しを請う。
「そ、そんな泣かなくても……っ」
「お、おい律!」
 そして、泣き濡れる夏音の顔を見上げた二人は「ギャーー」と叫びそうになるのを寸でこらえた。夏音はひたすら悲しそうな顔をしていたのだ。
 それは雨の中震える子犬を彷彿とさせる。もう、誰も顔をあげられなかった。
 天気は快晴なのに、どんよりと湿った空気が肌にはりついて離れない。こんなスタートの合宿嫌だ……と思っていた時。
「はぁ~あ……別にいいよ、もう!」
 打って変わった明るい声に顔をあげた皆は、涙などございましたか? とばかりにあっけらかんとした様子の夏音にずっこけた。
「切り換え、早っ!!?」
「ったく、連絡くらい入れてくれよなー」
 ぶつぶつ文句を言う夏音は、砂浜に投げ出されていたビーチボールを手にした。その硬度を確かめ、ぽんぽんと手で遊ぶ。
 それから、暗い視線を唯へと向けた。
「シカシ、唯サン」
 たまらず嫌な予感がした唯。
「は、はひっ」
 上擦る声は、次に起こる出来事を予感している。
「恩を仇で返すとは、このことだぁーっ!!」
 夏音はおおきく振りかぶった。その後の出来事は割愛に処する。



「あれ、夏音は泳がないのか?」
 ビニールシートの上で一休みしていた律は同じく横で座る夏音に訊いた。いったん着替えてくる、と別荘に戻った夏音は海辺にふさわしい装いに変わっていた。膝上までのパンツに、ノースリーブパーカー。髪を頭上で結んで、後ろの髪も折り返した所で留めて邪魔にならないようにしていた。
 間違っても男には見えないなー、と律は感心した。
「今、何か思ったでしょ?」
「な、なんも思ってないっ!」
「本当かなー?」
 律は、しっかりと心の内で「ナンパされても笑えねーなコイツ」と男数人にナンパされる夏音を妄想していた。男とは思えぬ容姿はもちろんのこと、陶器のように白くプルンプルンな肌はほんのり汗ばんでいて、どこか艶めかしい。丈の短いパンツからすらりと伸びた形の絶妙な太ももなんて……。
 そこまで考えたところで律は思考を停止させた。
(いやいや、私はオヤジかっ! しかも、相手はただの野郎……野郎だろう! あ、いま韻踏んだ)
「泳ぎたいさ」
 夏音はすねたように口をとがらせ、海ではしゃぐ唯たちの方を向いた。それから、「ほれ」と言って律に向かって腿を見せた。裾をまくりあげて、見せる、魅せる……。
(う、ヤバイ)
 律はうっかり鼻をおさえて、目をそらした。
「ジンマシンがさー……サバでさー……ということなの」
「え?」
 鼻の奥から漏れる液体を根性で引っ込ませながら、律が聞き返した。
「だから、サバでジンマシンが出ちゃったの! 海に入れないんだよ」
「えー、大丈夫なのかそれ?」
「安静にしてれば、ね。海水に浸かっちゃだめなんだって」
 すっかりしょぼくれている夏音の様子に律は慌ててフォローした。
「ま、まあ浅瀬で遊ぶには平気じゃないか?」
「ん……あ、そうか」
 それは思いつかなかった、とガバッと立ちあがった夏音。
「お前……どこかズレてるよなー」
「そうだよね! カバディやろう律!」
「何でよりによってカバディ!?」
 それから数時間ほど軽音部の一行は照りつける太陽の下、海水浴を楽しんだ。
(俺、勝ち組! 勝ち組!)
 間近にいる水着の女子高生たちの中、自分だけ男一人という状況に心の中でガッツポーズをとった夏音であった。
 傍からみればただの「海水浴に訪れた女の子集団」にしか見えなかったのは本人は知らない。



 一同は、日が暮れるまでたっぷりと遊んだ。すっかり本来の目的を忘れていた澪があわてて練習しようと騒ぎ出したところで海水浴は終了となった。それから交替でシャワーを浴びて海水でべたつく体をさっぱりしてから、スタジオへ向かうことに。
 さあ楽しい練習のお時間のはじまりである。といったところで、問題児二人によって阻まれた。
「初日なんだし、いっぱい遊びたいよー」
「唯に同感ーっ」
 遊び疲れてスタジオの床へ突っ伏す二人組を見下ろして夏音は深いため息をついた。
「どうしようもないねー。練習してから遊べばいいじゃないか」
「そうだぞお前ら。何しに来たと思っているんだ」
「……澪だって忘れてたクセに」
 腰に手をあてて夏音にのっかった澪だったが、瞬時に飛んできたピッチャー返しに言葉が詰まってしまう。
「う、私はちゃんと練習するつもりで……っ!」
 まあ、説得力はないけどと誰もが思った。
 

 夏音は持参のスピーカーを配置するとミキサーとつないでマイクの音量調節を終えた。それから、セッティングのセの字もしていない二名に目をやってそっと溜め息をつく。
 夏音と澪は自然に視線を交わした。何をすべきか心得た二人は頷き合う。
 澪はドンとアンプを二人のそばに置き、最大音量でかき鳴らす。
 鼓膜を揺るがす重低音に、二体の屍はたまらず身を起こした。死者をも呼び覚ます四弦使いを眼前に、怠惰は許されない。
 そこに澪の怒気を孕んだ一声がつきささる。
「は・じ・め・る・ぞ!!」
 それから二人は、ノロノロとした動きでセッティングにとりかかった。気怠そうにハイハットの位置やシンバルの角度を調整していた律は、作業を中断してタムタムの間に両手をかけてよりかかった。
「あー、だっりー」
 すっかり気力を失い尽くしている様子に澪はイラっとしたが、何か思いついたように意地の悪い笑みを浮かべた。
「そういえば、さっき思ったんだけど律太ったんじゃないかなー。やっぱり最近ドラム叩いてないかなー。あ、独り言だから気にしないで欲しいんだけど」
 宙に視線をさまよわせ、誰に言うでもなく、だが、しっかりと特定の人物に届く声で呟かれた言葉は、真っ直ぐに律の心に突き刺さった。
 え、うそ。マジなの? と自らの身体を見下ろして戦慄く律は救いをもとめて他の者に視線を向けた。その場にいた者は、ちらりと律の体に目を向けて、背ける。
「う、う、う、オリャーーーー!!!!」
 一心不乱にドラムを鳴らす。苦手なはずの難解なタム回しも完璧で夏音は一瞬呆気にとられた。
「人間の底力を見た気がする」

 そうしているうちに、唯もとっくにセッティングを終わらせていた。アンプ直結の唯がすることと言えば、チューニングくらいしかないので当然といえば当然である。
 今回の合宿でやることになった三曲は「Bon Jovi」「Deep Purple」「東京事変」の三バンドから、その中でも難易度を鑑みて曲が選ばれた。
「さぁ唯。この日のために特訓した成果を見せてもらおうではないか」
 夏音は不敵に笑って唯を指さす。
「何から演る?」
 全員のセッティングが終わったところで夏音が弾んだ声で、皆を見回す。
「そうだな、とりあえず簡単なものからがいいかな。スモーク・オン・ザ・ウォーターにしないか?」
 澪がすぐにそれに答えて他の者に同意を求めた。
「ええ、私はどれからでもいいわよ」
「唯は?」
「えーと、それってジャッジャッジャーって始まるやつだよね?」
「唯から始まるやつだね」 
 ディープ・パープルのあまりに有名すぎる一曲だ。リッチー・ブラックモアのギターの3コードのリフから始まる誰もが聴いたことのある印象的なフレーズ。しかし、この曲は一般のイメージによる簡単な曲というほど一枚岩ではなく、『スモーク・オン・ザ・ウォーターを笑うものは、スモーク・オン・ザ・ウォーターに泣く』とまで言われているほど奥が深いものだ。今の唯にそこまで求める訳ではないが、絶対に通って欲しい曲だと夏音はこの曲を選んだ。
 あと、律の事を思って手数を少なくアレンジできる点も。
「じゃ、演ろうか?」
 夏音は自分の青色のストラトを構える。ふと顔を上げると、何かにがんじがらめになっているような皆の姿があった。これほどわかりやすく緊張しているのも面白い。だが、演奏にならない。
 夏音はパンパンパンと手を叩いて注目を集めた。
「Let`s enjoy the music!! 唯! いったれ!」
 唯の右手がぎこちなく振り下ろされ、3コードのリフで曲が始まる。唯のピッキングを素直に拾うハムバッカーの音が歪みと共にアンプから放たれた。
今、この場に響いているのは六本の弦の振動。
 そこにムギのシンセから飛び出るオルガンの音色が控え目に跳ねる。すぐにフィルインからのドラムが参加して、ビートが生まれる。ここでこの曲のエンジンがかかる。すでに走り出したグルーヴに8ビートを刻む澪のベースが加わった。
夏音は、ふっと息を吸い上げる。
「We all came out to Montreux`―――」
 天高くまで届けとばかりに歌い上げる。
 その瞬間の空気が爆ぜるような圧が皆を均等に圧倒する。夏音のギターはトリッキーにアンサンブルの中を動きまわり、時に自由にオカズを加え、かつ原曲を壊さずに参加していた。
 バンドとしては、各楽器の音のズレがあちこちで発生しているというちょっとした惨事が進行中であった。
 あえて表現するなら、カッチカチ。夏音はいつまでも堅苦しい演奏を続ける彼女たちの音に、内心で舌打ちをした。初めてなのだから仕方ない、とはいえ彼女たちは演奏を楽しんでいないではないか。そこが不満なのだ。
 手元の楽器をただ鳴らすことだけに集中してしまい、他の楽器の音を聞いていない。
 しかし、経験の差だろうか。律と澪だけはきちんと顔をあげ、時折互いをみやって上手く曲をコントロールしている。彼女たちはそれなりに楽しんでいるように見えた。その楽しさを唯やムギにも共有してやってくれ、と思う。
 夏音は少しだけ苛立ちながら、このままで終わってたまるかと密かに決意を固めた。
(やってやろう)
 かくして、彼はタイミングをはかる。
 初めての合奏だからこんなものでも仕方ない? 違う。
 初めてだからこそ、彼女たちには何かを得て欲しい。理屈じゃ語れない化学反応。音楽の奥深さ。そういったものの一片でも感じとってほしいと思った。
 熱い想いはどんどん膨れ上がっていった。そして、夏音の待ち望んだ瞬間が、やってきた。
 夏音は足元のエフェクターを踏み替えた。
 空気が雷鳴に引き裂かれる。雷鳴と擬音できるほど、夏音が激しい光と音をもってその場に君臨した。
 ギターソロのお時間だ。チョーキングをした左手をそのまま、オーバードライブという味方をつけた夏音は破壊的なサウンドを携えて中央に躍り出た。下を向いて演奏をしていた唯やムギの目はすでに夏音から照準を離すことができずにいた。
 しかし、曲を壊すことはないものの、すでに原曲はぶち壊していることは言うまでもなかった。
 例えば、ジェット機のエンジンの間近にいるとこんな感覚だろう。轟音に身が縮こまりそうになった彼女たちは、次第にそれが直接アンプから出ている音によるものではないと気が付いた。
 今、全員の目線を釘付けにしている人物の発している音の力が、凄絶すぎるからゆえの圧力だと認識した。現実に測れないとして、確かに何かすごい物がこの場に発生している。
 華奢で、女の子みたいだと思っていた夏音。その彼が偉大なロックスターのように腰をかがめて、ギターを歌わせていた。
 どこまでも太く、存在感のある音を出す彼はこのスタジオを埋め尽くすほど巨大な姿となって映った。
 アームを使ってマシンガンのように響くエロティックなヴィブラート、そこからどこをどう弾いているか可視不可能な早弾き。ピッキング・ハーモニクスによって甲高い悲鳴をあげるギター。どこまでも高く、それは次第に女性の悲鳴みたいに、喘ぎ声みたいに妖艶に響いた。
 夏音は何小節も驀進し続けてから、すっと顔をあげた。
 音色が変わる。相変わらずソロは続くが、音の雰囲気がはっきりと変化したことに全員が気付いた。今までとは打って変わったハイポジションのバッキング。夏音はニヤリと笑って澪の目を見る。
 視線で射貫かれ、びくっとした澪であったが夏音の意図を正確にくみ取った。不幸な事に、気付かぬフリは通用しない。
「Mio, it`s your turn!!」
 マイクを通して夏音が言った発言に、他の三人は驚きの反応を見せた。表情だけで溜め息をつくという器用なジェスチャーをした澪は、小節の区切りでハイフレットの和音を伸ばした。
 次の瞬間には、夏音はごく自然に自らのソロを収束させていき、小節をまたぐ際に澪につないだ。
 一小節分、まるまると音を伸ばしてから、ブルージーなフレーズを生み出してく澪。まだまだ単純なスケールをなぞるだけのものであったが、夏音の影響で増やしたバリュエーションもあって、堂々とソロを弾ききった。
「お次は~~」
 獲物を見定めるような目つきの夏音に誰もがいっせいに目をそらした。
「…………やっぱ俺~!!」
 夏音、空気読む。
 エフェクターを踏んで元の音色に戻し、抑揚されたフレーズが続く。そのままいくらか時間がまわったところで、夏音の演奏も終盤に向けて走りだした。自分が暴走しすぎたので、周りの彼女たちが無事演奏を終われるか怪しかったが。
 高速のトリルを続けながら、やりすぎちゃったかも、と舌をちろりと出して夏音は笑った。

 

 
 唯は夏音のソロが始まってから、ずっと同じコードの繰り返しばかりで、弾いている場所を見失っていた。変な不協和音を奏でている訳ではないから、間違ってはいないだろうと思ったが、それでも収拾がつかなくなるのではと不安がちらりと渦巻いた。
 しかし、同じところばかり繰り返しているだけなのに湧き上がってくるこの高揚感はなんだろうか。
 曲が夏音によって頂点まで盛り上がる時には、もう何年もこのまま突っ走ってきたみたいに曲になじんでしまっている、信頼感。五回に一回はミスをしてしまうが、今の自分は確実に楽しんでいる。
 自分が影で固めて行く道の上を夏音が自由に、堂々と走りまわる。
 楽しい。それだけしか、感じられない。
 いつの間にか、夏音のギターが通常のバッキングに戻っており、彼の声が再び「湖上の煙」の歌詞を歌い上げていた。
(何だろう、この……なんか、長い旅から帰ってきたような感じ)
 唯は、今自分が響かせている音すら、百八十度変わって聞こえた。隣のムギを見ると、しっかり顔をあげたまま、演奏が始まった時より堂々とした様子。自分と目が合うと、にっこり微笑んでくれる。それだけで自分のバッキングにノリが出るような気さえした。
 演奏も終盤になると、音源通りの流れになった。夏音がわかるように指を四本立てた。あと四回、回すという合図。
 腕はもう感覚がない。それでもきちんとコードを押さえていられる不思議。
ムギが最後にクラッシュを打つと、音が止んだ。
 嵐の後の静けさ。そう表現するにぴったりの空気だった。

「こ……濃ゆっ!!」
 律が椅子からずり落ちて、床にへばりこんだ。気がつけば、皆汗だくになって息を乱していた。
「一曲目なのに……これってどうよ?」
 律は上半身だけ起こし、夏音に対して責めるような視線を向けた。夏音は、500ミリのペットボトルの水を一度に半分も空にして一言。
「楽しかったでしょ?」
 そうやって夏音は片頬だけあげてニヤリと笑った。これより先、こんなのがずっと続くのかと、彼以外の全員の目に諦めに似た感情がこもったのを唯はしっかりと目撃した。
 おそらく、自分もそんな目をしているに違いなかった。今日の晩御飯はさぞかし美味しく食べれることだろう。

 一時間ほどスタジオにこもって練習を終えた者たちは、空腹の絶頂期をいくつ超えただろうと指折り数え、やっと夕飯にありつけることに滂沱の涙を流した。
 さて、晩飯だといったところで何もないことを思い出したところで、一瞬垣間見た気がする天国は遥か彼方へすたこら逃げて行ったのだが。
「夕飯も自分たちで作るってことにしただろー?」
 あらかじめ買っておいた食材と調味料などの確認をする夏音がもう言葉を失くしている彼女たちの方を呆れた声を出した。
「もーーーだれかやったってー」
 生気のない声が床に突っ伏した唯から聞こえた。
「結局きちんと練習したのは最初の三十分だけだっただろう!!」
 夏音は思わず、手元のキュウリを唯に投げつけた。
 三曲を二回通したところで、唯律のコンビが駄々をこね始めた。
 もームリ、と。
 その瞬間、人のこめかみに青筋が浮くのを初めて目撃したという澪は夏音から一歩身を遠ざけた。
 温和な笑みを顔にはりつけたままのムギ。
 しまいには唯が「もうこのギターもてない……」と言い出す始末。だからギブソンやめろと言ったのに、と数か月前の不安が現実になった瞬間であった。
 なんともいえないプレッシャーが夏音を襲う。いくつもの視線が自分に訴えかける……休憩の一声をかけない訳にはいかなかった。
「ご飯にする?」
 打つ手なしの有様にすっかり匙を投げてしまった夏音はさっさと機材を片づけて練習終了を宣言した。


「という訳で、味見要員の者ども。テーブルを拭いたり、食器を並べたりしていなさい」
「はぁーーい!!」
 良い子の返事が返ってきた。結局、料理を作ることになったのは夏音、澪、ムギの三名に落ち着いた。既に動く余力がないと駄々をこねた律と唯はその他雑用を押しつけられた。
 厨房で火を使う夏音、包丁を握るのは澪、ムギは野菜の皮を剥いたりサラダを作ったり、ご飯や味噌汁係を担った。
 実に芳しい匂いが厨房を満たすと、その場の三人の腹がいっせいに鳴った。くすくす笑っている四人のもとへ唯がやってきた。
「すごく良いにおいー!!」
 これまた腹がきゅるりと鳴り、唯は恥ずかしそうに笑うが目が本気だ。涎が出ていることなど、気にしてもいない。
 その晩のメニューは白米、味噌汁、アボカドの肉餡かけにラーメンサラダ、から揚げという豪華な料理が食卓を彩った。
「シェフ、感激です!!!」
 運ばれてきた料理を見た唯が尊敬の眼差しで夏音を見上げた。
「これくらいは当然。そろそろ涎を拭きなよ唯」
 それから皿まで食いかねない勢いで全てを平らげた一同はデザートにスイカを切って、外のテラスで涼んだ。
 辺りに満ちる潮の匂いが鼻をくすぐり、海からは穏やかな風が吹いてくる。澪と隣あって座っていた夏音はスイカの種を勢いよく飛ばしながら、先ほどからごそごそと忙しなく動く律たちをぼーっと眺めていた。
「終わったら練習再開するからなー」
 澪がスイカを口いっぱい頬張りながら、浮つく彼女たちにしっかり釘をさしていた。頬を膨らませるその姿はまるでハムスターのようだとは口が滑っても言えない。
「わかってるわかってるー。それに明日もあるんだからダ―イジョーブだって!」
 どこまでもポジティブな部長のお言葉にムギが力強く頷く。
「ありがたいね……」
 夏音はぺっ、とスイカの種とともに吐き捨てた。相当荒んでいる。

 律とムギが動きを止めて、頷きあったのを見て何が始まるんだと夏音は注目した。
「せーーの!」
 光の波が瞳の奥に押し寄せた。吹き上げる閃光の中に躍り出たシルエットに夏音と澪は目を瞠った。
 相棒・レスポールを武器に、眩いステージでギターをかき鳴らす唯はどこまでも自由だった。アンプラグドのはずが、実際にエレキの音が聞こえてくるような気さえしてくる。
 澪と夏音、二人の網膜を支配した唯がさらに腕を大きく振り上げる。
 光の花が夏の夜空を照らし、その足元には一人のミュージシャンが。横にいる澪の目には何が映っているのだろう。自分の瞳には何が映っている。一瞬だけ唯が目の眩む光の先で何万人もの観客の前で演奏している姿が浮かんでいた。
 それは本当に刹那の幻覚にすぎなかったのだが、突如の出来事に夏音の心は突き動かされた。
 吹き上げる花火は徐々にしぼんでいき、後に残るのはオーイェー! とハシャぐ唯と火薬の硝煙のみ。
「え、もう終わり!?」
 予想以上に花火が続かず、これからが良いところだったのに―――、と唯は残念そうな声を出した。
「すまん、予算の問題で……」
 律が申し訳なさそうに言うが、その表情はどこか満足気だった。
「でも、いつかまた……ね?」
「そうだな! 武道館公演でこう、もっと派手にバババババァーッと!!」
 夏音はそういえばそんな話が初めに挙がっていたのを思い出した。
「ぶどーかん?」
「おいおい、目標はそこだって決めただろー!? なっ!?」
「へっ?」
 と急に話をふられた夏音と澪は二人揃って素っ頓狂な声をあげてしまう。
『目指せ武道館』
 このメンバーで。夏音はふと寂しさに似た感情がちくりと胸を突いたことに気付かないふりをした。彼女達がその夢を実現できたとして、その中に自分はいるのだろうか。
 夏音はコツンと自分の頭を小突いた。せっかく盛り上がっている中で何を暗くなっているのだろう。
 それでも胸がしくりと痛むのを留められなかった。大きなステージ。今はただのお遊びでしかない彼女達がそこに立つ日が来るのだろうか。
 暗い思考から逃げられないでいると、ふいに聞き覚えのある曲が夏音の耳に入ってきた。
 急にメタルなんか流してどういうつもりだ、と夏音はラジカセを手に持った澪を訝しげに見た。
「武道館目指すなら、まずこのくらいできるようにならなきゃなー」
 澪がこの合宿に思い立った理由。彼女はこれを聴いて皆に軽音部としてのスタンスを一度考え直して欲しかった。
 夏音は澪がメタルをやりたかったのだろうかと首を傾げた。
「へぇー、上手いなー」
 律が素直に感心した声を出す。既にその曲を一度聴いていたムギは静かに耳を傾けている。
「これ、私達の先輩なんだぞ?」
「これ軽音部なのか!?」
「ここからソロなんだけど、本当に高校生が弾いてるのかって次元だからよく聴いておけよ」
 かくしてギターソロが始まり、沈黙のまま誰もが聴き入っていた。
「あれ、この曲って……」
 夏音は横で何かに反応した唯が気になったが、何も言わなかった。曲が終わるまでじっと待ち、少しどや顔をしている澪がふん、と鼻を鳴らした。
「どうだ? これを超える演奏ができるようにならなくっちゃな!」
 何でお前が自慢気なんだと皆が思う中、ふとラジカセからこの世の怨嗟をぶち込めたようなドス黒い声が唸りを上げた。
『死ネーーーーッッ!!』
 テープから漏れる叫びにラジカセが宙を飛ぶ事になった。


 一同は怯えきった澪を宥めてからスタジオへ戻った。澪の作戦も功を奏したのか、律や唯が練習に向かう姿勢を見せたのだ。
 皆が再びアンプのセッティングを済ませていると、ムギが戸惑いの表情で唯を見つめていた。
「唯ちゃん、本当にさっきの曲……」
「うん! 見てて!」
 そう言って唯は、ギターを構える。
「…………うそ、だろ……?」
 唯が弾き始めたフレーズは先程カセットで流れた曲のギターソロであった。もちろんつっかかる部分があるし、原曲よりテンポも遅いし音数も少なかったりする。
 まさか、ここまでとは思っていなかった。夏音は一度聴いた曲はそのまま忘れないでいられる。初見ならぬ初聴でほぼ完璧に曲を再現できるし、それができないようであればプロとしてトップを走っていられない。
 しかし、ギターを初めて三ヶ月の唯が同じような事をできるとは思っていなかった。合宿用の曲を覚えた時はやけにすんなり覚えたなぁと思っていたが、これには度肝を抜かされた。自分が教えてきた事がこんなに早く実を結ぶとは思ってもみなかった。
 夏音は唯が絶対音感を持っている事を思い出し、さらにはそのセンスを侮っていた事を痛感させられた。
 皆、同様に目を見開いている。
「はいっ、どう!?」
 得意気に振りむく唯。
「すごいっ、完璧!」
 ムギが拍手したが、他の律と澪は声が出なかった。
「へへへへっ、でもみょーんってところがわからなくて……」
 頭をかきながら首をかしげる唯に、やっと言葉を取り戻した夏音が口を開いた。
「ベンディングだね」
 夏音が口を開くと澪が首を傾げた。
「ベンディング……ってチョーキングのこと?」
「あ、日本ではそう言うんだっけ?」
「ちょーき……ぐへっ」 
「これのこと?」
 新出の単語に唯が聞き返そうとしたところに律がプロレス技をかけた。
「それ、チョーキング違い……いいから、やめ!」
 夏音は貸してみぃ、と律から解放された唯からギターを受け取る。
「こうやってね」
 夏音は適当なフレットを押さえて、音を鳴らし、それをぐいっと指板に並行に引っ張った。
「音を出して、その弦を引っ張るんだ。それで音程を上げる奏法のことだよ。さっき俺も多用していただろ?」
 そのまま、チョーキングを使ったフレーズをささっと弾く。
「適当に引っ張るわけでもないんだよ。音程を考えてやらないといけないから、奥が深い」
 そういって、驚かされたお返しだとばかりに夏音はCD音源通りのギターソロを弾いた。
「す、すっごー……」
 夏音が唯にギターを返して「Try it」と言ったので、早速唯は実践する。
「こ、これ何か変ーーーー!!!」
 チョーキングがツボに入ったのか。弦を引っ張りながら大爆笑する唯に、彼女の頭の中の不可思議さについていけなくなった夏音であった。
 それから各曲を一度通してから今日の練習は完全に終了とした。
 シャワーで流したとして、やはり海水に浸かった体をしっかり洗いたい一同は風呂に入ることにした。ムギ曰く、大きい露天風呂がついているそうだ。しかし、男女で分かれていないので夏音は一人ぼっちである。
 事もあろうにスタジオに軟禁状態。やれやれ、俺の雄の部分を警戒しちゃってまぁ……と嬉しくなった夏音であったが、ここまでするのはどうだろう。
「ぜーったい覗くなよーっ」
「し、信用しているからな夏音のこと」
「夏音くんなら大丈夫だよー」
「ふふふ、一緒に入ってもいいんですよ?」
 三者三様、の反応。個室に閉じ込めておくにも鍵は内側から開く上、外から鍵をかけられる物置に閉じ込めるのは幾らなんでも不憫だという事で、お前はスタジオでずっと音を鳴らし続けておくのだ、と命じられたのである。
 この扱いは不憫ではないと言うのだろうか。
「あんまりだ……」
 露天風呂に入っていると、スタジオから響く音は十分すぎるくらいだそう。
 どうして彼女たちの風呂のBGMまで担当しなければいけないのか。どれだけ憤ったところでどうしようもないので、夏音はどうせなら爆音でやってやろうとアンプをセッティングし始めた。
「ムギの別荘の設備に感謝しなきゃなー」
 ハートキーの2000Wのキャビネット・スピーカー×2が片隅にどーんと置いてあったのだ。ついでに持ってきたベースでセッティングをする。さらについでにギターのセッティングをする。
「そもそも、あいつらちゃんと聞いてるんだろーな」
(ループさせてこっそりのぞいてやろうか?)
 しかし、それは決してやることはなかった。なんだかんだで弾いているうちに夢中になってしまったのである。


「お、ちゃんと弾いてるなー」
 外の露天風呂につかっている女子組は、バカでかい音で小宇宙を繰り広げている唯一の男子メンバーを思い浮かべた。
「ちょっとかわいそうじゃないか?」
 澪が眉を落として言ったが、「のぞかれたいのか~?」と律に茶化されて慌てて否定した。
「まぁー、当てつけのように激しいの弾いてるな」
 空気を裂いて響いてくる音。伝わるのは、怒り。轟音がここまで届いてうるさいほど。
「怒っているな」
「怒っているねー」
「でも、しかたないよね」
「しかたない……かもしれない」
 なんだかこの合宿で、夏音を怒らせてばかりな気がした一同。埋め合わせしなければならないと考えた。
「夏音一人だけなのに色んな音がきこえるなー」
「ええ、不思議……」
 割とどうでもよさそうに恍惚の表情で落ち着く彼女達。ループを多用してギターとベースを同時に弾いているとは思いもしないだろう。
「まさか露天風呂まであるとはねー」
 鼻歌をすさびながら、唯が星の瞬く夜空を見上げた。
「今日は本当に楽しかったー!」
 ムギもルンルンと上機嫌で足をのばしていた。
「ムギの言ってた通り、そんなに慌てる必要はなかったのかもな」
 今日、初めて音を合わせたバンド初心者の二人の様子を見た澪。もっと音楽とはこうあってもいいんだと再確認した一日でもあった。
「だったら明日はもっと遊ぶぞー!」
 ふいに潜水していた誰かが浮上した。
「だ、誰だっ!?」
 肝心の顔が前髪で隠れて、誰か判別できない
「私だ!」
「前髪長っ!?」
 我らが部長、律であった。普段カチューシャでおさえている前髪を下ろすとこんな感じらしい。新事実。
「案外可愛い……」
「あんがいってどういうこったコラ」
 そんなやりとりをしてから、二人の間に強引に並んだ律は絶えず聞こえてくる音に耳を向けた。
「ま、ゆっくりやろうが慌ててやろうが頼もしい奴がいるじゃん」
 その言葉の後に、ふいに曲調が変わった。
 夏の夜にふさわしい、涼やかだがどこか哀愁漂う情緒感。ひょっとしたら、今の夏音の内面を表しているのではないだろうか。
「さびしいのかな?」
「まぁ……さびしいんじゃね」
 ふと、澪は会話に加わらずに左手を奇妙に動かす唯に気付いて近づいた。
「それは、もしかしてこう?」
 手の形から、なんとなくコードを推測してみた澪に瞠目した唯は「すごーい」と喜んだ。
「唯……手の皮、ずいぶん剥けたな」
「あ、コレ? うん、今日一日でねー。ちょっと水ぶくれになっちゃった! だいぶ硬くなったと思ってたんだけどね」
 珍しく痛い話にかかわらず、自ら話題を振ってきた澪。自分も通ってきた道なので、案外それについては見ても平気だったりする。
「でも、やっぱり音楽っていいね。今日、初めてみんなと合わせてみて楽しかったなー」
「唯……まて、本当に楽しかったのか?」
「うん! 一番初めに合わせた時、すごく興奮したもん! 血が湧く、ってああいうかんじなんだね!」
「それはたぶん……夏音のおかげだろうな」
「そうなのかな? すごかったよね、夏音くん。私も早くあんな風に弾けるようになりたいなー」
「うん……唯なら、できるよ! 今日、唯があれだけ弾けるようになっていてビックリしたよ。きちんとバンドでも合わせられたし!」
「澪ちゃんが合宿を計画してくれたおかげだね! もし合宿がなかったらいつまで経っても、この気持ちを知らないままだったから……!!」
「そ、そう?」
「ありがとう、澪ちゃん」
 両手をつかんで礼を言う唯にもはや沸騰状態の澪を、律が抜け目なくからかった。
「澪のやつ照れてるぞーっ」
「こ、これはのぼせただけで……っ!」
 その場には、笑い声と………夏音が奏でる物悲しいメロディがあった。
「あ、そろそろ出ないと夏音くんが…………」
「あぁ……泣きのメロディーに入ってるな……あ、むしろ狂気?」
「早く行ってやろ……」
 
 
「おやすみー」
 と言って四人の女の子たちは別の部屋へ移っていった。夏音は別の部屋で眠る事になっていたが、何となく寝室に向かう気分にならなかった。ふうと息をついて居間のソファに横たわる。目を閉じると、様々な出来事が脳裏に浮かぶ。
 慌ただしい一日だった。本当に色々なことがあった。これだけ濃い一日を過ごしたのは久しぶりである。昼間の熱をひきずっていまだに気温は高いが、開け放しの窓から抜ける風が心地よくてだんだんと瞼が落ちてきそうになる。
 ふと横のテーブルを見ると、先ほどまで広げられていたトランプが綺麗にまとめられていた。記憶の残滓がまだそこに留まっているようで、夏音一人がここにいるという気がしなかった。
「楽しかったな」
 ポツリと呟かれた言葉は見上げた天井に染みこんで消えた。夏音は自分が持て余している気持ちを歯痒く感じた。
(さびしい、だなんて)
 これだけ楽しいのに、並行して寂しさが募っていく。どこまでも矛盾した生活をしていると思う。元いた場所への郷愁、尚今いる場所の心地よさ。どちらも手放したくないし、それが両立できたら悩むことなどないのに。
 個性が強い軽音部の皆。自分の周りに集まる人は魅力的な人が多いと思う。こんなに恵まれている自分は幸せだと感じた。
 でも、いつかは戻らねばならない日が来るだろう。自分が、自らの立ち位置を曖昧模糊としている間に、周りが動いていた。カノン・マクレーンは求められていた。ジョンはやり手だ。夏音の意志を尊重しつつ、もしかしたらこれからどんどん仕事を持ってくるかもしれない。そして徐々に自分を誘導してこの生活から切り離されている、という未来が訪れる可能性は大いにある。
 その前に向こうに放置してきた親友がやって来たとしたら。自分はあっさりと今ある環境を手放してしまうのだろうか。
「でも、まだみんなダメダメだしなー」
 唇が震えて何か言葉を紡いだ気がしたが、いつの間にか意識は暗く溶けていった。
 

 夏音は全くスッキリとしない頭のまま、目を覚ました。意識の膜が何重にも自分を眠りに閉じ込めようとしているようだ。しかし、周りが騒々しさが丁寧かつ乱暴にそれらを引っぺがしてくる。窓が全開になっているのか、潮風が強く吹き込んでくるのを感じた。
 むくりと体を起こすと、体の節々が凝っていた。結局、ベッドに行かないで居間で寝てしまったらしい。ぼーっと半開きの目で朝食の準備に忙しなく動き回る彼女達の姿を見る。
「顔、洗ってこよ」
 すっと腰を上げるとムギが声をかけてきた。
「夏音くん卵どうするー?」
「Scrambledでお願い」
 洗面所に向かい冷水を顔に叩きつけて、口をゆすぐ。それでもいまいち脳が覚醒しない。
 席に着くと朝食の準備が整っていた。マフィンやキッシュ、三種類のベーグルにお好みでトースト。ソーセージとスクランブルエッグに目玉焼き。グリーンサラダにスープとなんとも豪華なメニューが揃っていた。
 いただきます、と一斉に食べ始める中、半覚醒状態の夏音はぼろぼろとパン屑をこぼしたり、牛乳を口のまわりに滴らせたりと隣の澪が世話を焼く始末だった。
「こいつ、こんなに朝ダメだったか?」
「毎朝、ゾンビみたいに歩いているのは見るけどね」
 口に巻き込んだ髪をむしゃむしゃ咀嚼するあたり、「だめだコイツ」と律が呟いた。
 

「さて、諸君。今日の予定だが……ん、その顔はなんだい?」
 食事も終わり、身支度を整えて全員が集合したので今日の予定を組むことになった。
 仕切るのはきりっとした夏音。
「……いや、さっきまでぼろぼろ食べ物零していた奴と同じ人間かな、と」
「う……っ、朝は割とダメな方なんだよ!」
「堂々と言い切りましたね……」
 夏音はうぉっほんと咳ばらいをして、話を戻した。
「今日は、午前中に練習をしたら午後は遊びつくそうと思います。だから午前中に集中しよう!」
「んー、まあ涼しいうちにやった方がいいよな」
 もっともだと律がうなずく。
「それで、澪から提案があるそうだ」
 といって話を振られた澪はうん、と頷いてと前に出た。
「オリジナル曲を作ろうと思うんだ」
「オリジナル!?」
 唯が驚いた声を出す。コピーではないオリジナル。唯は、そういうのはもっと経験を積んでからやるものだと思っていた。
「せっかく軽音部として出るんだから、コピーだけだとつまらないだろ?」
「で、でもオリジナルって私……っ」
「あぁ、唯は特に何もしなくていいよー。今回は基本的に俺が示すように弾いてくれれば」
「あ、それなら……なんとか」 
 なるのだろうか。

 しかし、オリジナルの曲製作はさっそく壁にぶち当たった。やはり、まだ楽器初心者の域を出ない唯がなかなか作業の効率を下げてしまうのだ。昨日見せたプレイは幻覚だったのだろうかと誰もが嘆いた。
 しかし、こればかりは仕方ないと誰もが寛容にならざるを得ない。それでも夏音は皆から出てきたアイディアをまとめ、唯に丁寧に教え続けた。
「うん、イントロとAメロはE、A、Bの三つのコードを繰り返してね」
「ブラッシングも前に教えたよね。こうやってミュートするんだよ。え、ミュートって何だと!? まぁ、こんな音を出すようにやってみて……できてるじゃん。それで、ちょっと応用! これがカッティング!」
「そうそ。左手もミュートして右手もね。どっちかだけできちんと音が止まれるくらいになろーね」
「逆にダウンだけになるとかなりヨレるねー。何で? でもここはダウンで頑張ろうか。漢らしくあれ」
 このように、夏音がつきっきりで教えることによって何とかサビまで通せるようになった。
「ふぅ~……まぁ、合宿中に完成させるのは無理だな」
「それでも前の私たちの状態からしたら十分な進歩だよ」
 休憩中にそんな会話を澪としていた夏音であったが、休憩の合間ももくもくと曲の練習をする唯に視線を向けてふっと笑った。
(一度集中すると止まらない、か……)
「それにしても、こういう曲を作るのは初めてだなー。なんていうか、女の子っぽいポップな感じ」
「夏音からしたら、完成度としてはどうだ?」
「うーん……それを評価する段階ですらないな。骨格を組み立てている最中だし、気になるところは尽きないね」
「た、たとえば?」
「澪はもう少しシンコペーションを減らしてよ。もう少しフレーズを歌わせてほしいな。せめて2コーラス目では、もう少しきちんと考えてくれ。律も手数増やして。もっと気の利いたフィルたのむよ。ムギは音符の長さをちゃんときっちり合わせてくれ。バンドの中ですごくもたついてるからね」
 淡々とメンバーの演奏を講評する夏音。あまりに歯切れよく言われるものだから、言われた側は目を丸くしていた。澪は、心の中で「始まった……」と思った。 皆もついに自分と同じ目に合うのか、と。
 しかし、その心配は現実にならなかった。夏音はそれだけ言って一番のサビまでできた構成をチェックすると、「まあ、いいや」と練習を終わらせてしまった。

「いやー、なんかやけにあっさり終わったな」
 まだお昼にもなっていない。律が夏音に訊ねた。
「あれ以上は、効率悪くなるだけだから」
「どうせなら、もっと進んでもよかったんじゃないか?」
「今できている部分も、アレでいいとは思っていないよ。それに、夏休みはまだまだあるんだし、焦ってやらなくてもいいだろう?」
 気楽にやろうぜ、と笑顔で言われた律はわんなわなと震えた。
「しょ、初日のアレはなんだったんだ……っ!!」
 鬼気迫るものがアナタから感じられましたよ、とは死んでも言えない律であった。
「泳ぐぞーーー!!!」
 はりきっていこー、と先陣切って飛び出そうとした夏音であったが。
「そういえば、今泳げないんじゃなかったか?」
 じんましん、悪化。


 最終日は日中、海で遊びつくし、昼寝も挟んでから夜はバーベキュー大会に興じた。それから馬鹿野郎、金のことなんか気にすんじゃねえと昼間の内から夏音が車を飛ばして大量に買い込んできた打ち上げ花火やドラゴン花火で光の大輪を咲かせたりした。
 花火セットの中に線香花火がない事にムギが文句を言っていたのが珍しかった。
「またいつでもできるだろ?」
 頬を小さく膨らませるムギに言う律は、ぽんと膝を叩いて立ち上がり、夏音の方を向いた。
「さて、と。風呂に入るかな」
「はぁ……」
「風呂に、入ろうと思うんだ」
「つ、つまり……?」
 二日間とも彼女達の風呂の時間にベースを弾くことになった夏音は新たな感性に目覚めるところだった。
(なあ、これって何ていうプレイだろ……あれ、なんだろこの感覚……)

 合宿最終日の夜であったが、皆二日間体を動かし続けて疲労困憊の状態だったので早めの就寝となった。少しだけカードゲームを全員でやったが、あくびがあちこちで発生するようになったのでお開きとなったのだ。
 彼女たちは別室へ行き、夏音は一人。自分に割り当てられた部屋へと移動したが。
「…………どうしよう。まったく眠くない」
 困ったことにこれ以上ない! というくらい冴えわたっている。
「ハイになっているのかな」
 お酒でもあれば眠れるのかもしれないが、あいにく未成年である夏音が酒を買うことはできない。
 あるのは料理用の酒だけ。却下。
「みんなの寝顔でも写真に収めようかな……いや、間違いなく変態の烙印を押されてしまう……」
 悶々と悩む十七歳の少年は、スタジオの方へ向かった。
 しんと静まりかえったスタジオに入り、電気を点けようとしたが月明かりが入り込んでいるのに気付いた。
 蒼白い光が自分を導くように揺らいでいる。夏音は合宿中にあまり使わなかったアコースティックギターを手に取る。そのままスタスタとテラスの方へ向かい、皮を編んで作られた一人がけのソファに腰掛けた。
 調弦をあっという間にすませて、月明りの下、弦をつま弾いた。
 月が夜空を支配していて、星たちは主役の裏に控えている。
夏音は時折思う。人は月を見て美しいと思う。しかし、本当に美しいのは月が照らす空や雲、その下にあるすべての世界ではないか、と。誰も月は見ていない。月は見られていると思っていないので、気ままにすべてを照らしている。
 海に浮かぶ満月、静かに寄せるさざ波。遠いところから走っては寄せる、優しい自然の音楽。
 夏音はそっと目を閉じて、それらと調和していく。柔らかい音色のアルペジオが風に馴染んでいく。この瞬間にややこしい思考の入る隙間はなかった。
夏音は何も考えずに、ただそこにある世界と調和して、気がつけば一時間くらいアコギを弾き続けていた。
 二弦が切れなかったら、そのままずっと弾いていたかもしれない。演奏が止まると、背後から拍手の音。仰天して振り向くと、唯がいた。
「唯、いつからそこにいたの?」
「んーとね、たぶん三十分くらい前!」
「声、かけてくれればよかったのに」
「えー、そんなのもったいないよ」
「もったいない?」
「夏音くんのギターを止めちゃうの、もったいないと思ったから」
 また不思議な感性をもった唯のことだ。何の苦もなく、立ち通しで聴いていたのだろう。夏音は一人掛けのソファから、ベンチに移動した。唯も横に座った。
「眠れないの?」
「ううん、さっきまでお布団に入りながら少しだけみんなと話していたんだ。でもみんなすぐ寝ちゃったからトイレ行こうとしたら、ギターの音が聞こえたから」
「音がうるさかったかな?」
「ううん、たぶん夏音くんの音楽の力が強すぎたんだよ」
「なーるほど」
 夏音は謙遜もせずに、素直にその言葉を受け取った。
「唯は、今回の合宿楽しかった?」
「とっても!」
「俺も。また、合宿したいね」
「うん! 私、もっと軽音部のみんなと色んなことしたいな!」
 そうだな、とうなずいて夏音は立ちあがった。
「夏といっても、あまり潮風にあたるのはよくない。そろそろ入ろう?」
「はーい」
 歩きだした自分に、そろそろと背後に唯がついてくる音がした。夏音は、その時そんなことを言う予定ではなかった。しかし、何故かそれは出てしまった。
「なあ、唯……俺がどこから来たと思う?」
「えー? どこから……アメリカ?」
「そうなんだけどさ。向こうで俺がどんなことしていたか、とか……話してないじゃないか?」
 夏音は、口が自分の意思を離れてしまったような感覚に襲われた。そんな事を訊いてどうするのだ。
「向こうで?」
「そー。みんなにまだ話してない秘密の部分」
「………」
「もうそろそろ話しちゃおうかなって思うんだ」
 秘密を抱えたままは疲れる。今回の合宿で感じた。この少女達とはこれから長い付き合いになるだろう。少なくとも三年は一緒になる。いつまでも誤魔化していたくない。壁を作って過ごしたくない。
「うーん………別にいーよ!」
「え?」
 思わず背後を振り返る夏音。唯も立ち止まって夏音の顔をにっこり微笑みながら見ていた。
「夏音くん辛そうだよ。無理に言わないでいいよ。そんなの夏音くんが言いたくなったら言えばいいんだよ。別に秘密とか、気にしないでいいと思うけどな」
 夏音は頭をかいて、気まずく目をそらした。
「そ、そうだよなー。秘密の一つくらい持ってもいいよなー」
「そうそう!」
「先週、唯の分のコーヒーゼリー食った犯人とかなー」
「そうそ……ってえぇー!? 誰、誰なのっ!? それは許されざる秘密だよ! 大罪だよ!」
「誰にでも秘密はある。ただ、コーヒーゼリーも食い過ぎるとお腹に良くないんだよな……」
「おんしかーっ!」
 ギャーギャーと騒ぎ出した唯を見て、夏音は声をたてて笑った。ちょっとだけ荷物が軽くなった気がする。ちなみに、エスカレートしていく唯の怒りを体感するうちに、夏音は予想以上に深い恨みだったことにたじろいだ。
 口は災いのもと。うっかりご用心。とりあえず、今度同じものを買うことを約束してその場を諌めた。
 こうして合宿最後の晩は過ぎ、世界は朝を迎える。人の気配がない浜辺の側には朝焼に輝く燦然とした大海原。しかし、そんな世にも美しい光景を完全に素通りして午後まで爆睡していた軽音部の一同は昼食を摂ってから夏音の車で帰宅した。
 これにて三日間の合宿は無事終了とす。



※前回の投稿から時間が空いてしまいました。これからオリジナル色ががつんと強くなってくるはずです。



[26404] 第九話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/28 18:01
 夏音は注ぎ口から湯気があがる白磁のティーポットをぼーっと眺めた。
「にっぽんのーー、夏」
 チリン、と風鈴の音が鳴った。本日も、晴天なり。


 夏休み中の学校はあらゆる部活動がここぞと練習量を増やしているせいで、通常の学期中とほとんど変わらぬ賑わいと熱気を醸している。普段は使えない教室で各パートに分かれて練習する吹奏楽部の鳴らす金管楽器の音が廊下中にけたたましく響く。時折、楽器の響かない静寂の隙間には蝉の鳴き声。それをかき消す運動部の気合い。どうやら運動部もこの時期に重なる大会に力を入れているのか、掛け声の気合も二倍増しだ。
 このように部活動に所属する生徒達が精を出す中、もちろんご多分に洩れずに軽音部の活動も精力的になってきた。それは一学期の頃とは較べようもない部活動としての姿。
 合宿も終わり、目指すべき目標もできたところで、学園祭へ向けてオリジナル曲の作成が目下の課題だった。
 二週間(土日休み)もの間、根を詰めて練習した成果は上々。

 とは問屋がおろさねえのが、この部活。


「アイスティーが飲みたひ……」
 くっつけ合った机、ちょうど夏音の向かい側へ座っていた、もといしがみついていた唯が蚊の鳴いたようなか細い声を出した。さっきより三割増しで溶けている。
「ごめんね。氷を持ってこようと思ったんだけど、うっかり忘れちゃって……」
 かいがいしくお茶を淹れているムギが心から申し訳なさそうに詫びた。軽音部にそんな彼女を責めようとする者はいない。唯はかろうじて片手をあげるとひらひらと振って再びぱたりと力無く下ろした。
 気にするな、と言いたいのだがそれだけの言葉を発する気力も失せている。もう少しで溶けて無くなりそうである。
 窓は全開。空気の通りをよくするために扉を開けているものの、風通りは芳しくない。まさに蒸し風呂状態の部室であった。心ばかり、とつけた風鈴の音が虚しく響く。
 唯の言う通り、冷たい飲み物を欲していたが文句は言えない。ムギの用意する紅茶の味は最高で、夏摘みの茶の芳しい匂いはその茶葉が上等なものだと知ることができる。蒸らし加減もしっかり心得ているムギが演出するティータイムは文句のつけどころがなかった。
 しかし暑いものは暑いのだ。
「こんなに暑いんじゃ、機材も長時間使えないな」
 夏音はアンプヘッドを触って「アウッ!!」と外国人っぽい反応を見せた。彼も今年の猛暑には文句の一つや二つ言いたいところであった。天気予報では、今年の夏は猛暑を通り越して酷暑。どうでも良いが、ビールがよく売れるらしい。夏音は飲めないし飲みたいとも思わなかったが、何となくCMに出てくる俳優がごくごくと美味しそうに黄金の液体を飲み干す様子はそそるものがある。冷蔵庫にしまいっぱなしの父親のビールを開けてしまおうかと画策中だったりした。
「プールでも行こうよー」
 唯が相変わらずの姿勢でそう言うと、長い髪を持ちあげて首元に風を送っていた澪が手を止めた。
「プールなら先週も行ったばかりだろ。毎日こうなんだから我慢するしかないだろ」
 そして、再び手を動かす。手に持つ団扇は先々週の夏祭りで手に入れたものだ。
「それにしても連日こうだと流石にまいるな……」 
 暑いもんは暑いと、いつになく覇気のない声を出す澪も連日続くこの天気には弱っているようだ。
 練習どころではない。西海岸育ちの夏音も日本の湿気を伴う暑さだけは慣れる事ができない。暑さに強いと思っていた夏音でもへばりかけるのだ。誰も彼もがへとへとだった。このまま駄弁っていても何も実にならないので、そろそろ帰ろうかなと誰もが考えていたところ。
「ね、たまには外のスタジオでやってみないか? クーラー完備のさ!」
 そう言って袖を限界までまくり、生足を惜しげもなく晒しているのはこの部の部長。仮にも男の前でそれはどうだろうと夏音は思った。いまさらだが。
「外のスタジオか……それ、いいかもな!」
 澪はクーラー完備、スタジオ、と聞いて夏音の方をちらりと見たが律の提案に賛成した。
「外のすたじお~?」
 唯はそんなものあるのー、と机に向って呟いた。
「あぁ、スタジオにはクーラーがついているし機材だって…………まぁ、ここに揃っているのよりは劣るかもだけどさ」
 そういえば、いつの間にか高級機材に囲まれていることを思い出した律であった。一人の男による仕業である。
「それにたまには環境を変えてやるのもいいんじゃないか。すごく集中できるかもしれないし」
 すでに澪も外のスタジオへ行くことについて乗り気になっており、今にでも行こう! とそわそわしている。律にしては良いこと言った! と顔に書いてある。
「私、外のスタジオって行ってみたい!」
 実は、この暑さの中ただ一人顔色すら変えていないムギもキラキラとした表情で手を叩いた。
「涼しいとこならどこでもいいよ~」
 賛成に一票追加。澪はちらりと夏音の方を向いたが、「俺はどっちでもいいよ」と肩をすくめたのを見て立ちあがった。
「じゃ、決まりだな!」
 決まったと同時に機材をさっさと片付けて部室を出た軽音部一同は、カマドのように熱気が渦巻く校舎から逃げるように飛び出した。太陽から身を遮ってくれる物がない校門前で立ち止まり、律に注目が集まった。
「行くといっても、どこに?」
 今回の発言の責任者である律に質問が飛ぶが、彼女はまぁまぁまぁと余裕の笑みで携帯を取り出してどこかに電話をかけた。
「あ、もしもしー。今からすぐで空いてますかー? あーー、二時間くらいで、五人です。ハイハイ、田井中です。番号は090-××××-○○○○」
 皆、しんとなって通話をする律の様子を見守った。通話中も、自信に満ちた様子の律は最後に「とくにないです」と答えてから電話を切った。
「どこに電話したの?」
 達成感に満ちた表情の律に、ムギが首をかしげた。
「ふふーん。私の行きつけのス・タ・ジ・オさ!」
「行きつけ!?」
 ムギが瞠目して、口を押さえる。
「律っちゃんて、すごいのね!」
 その一言にさらに気をよくしたのか、律はさっさと先を行ってしまう。一度振り向いてから、きらりと歯が輝く。
「ついてきな!!」
 あくまで常識派と自負している夏音と澪は顔を合わせ、怪訝な表情を確認しあった。
「行きつけ……?」
「まぁ、律だから……付き合ってやってちょうだい」
 大人しく着いて行く一行。学校から歩いて三十分ほど歩き、大通りに一度出た。そこから、街の中心部に向かってしばらく歩いた。国道を道なりに歩いて数分すると、雑居ビルがひしめき合う場所に差し掛かった。ごちゃごちゃとしたビルの隙間を縫うように歩いたところで律は立ち止まる。

「つ、着いたぞ……」

 呟かれた一言はいっそう重々しく聞こえた。先ほどのテンションはどこ吹く風、今や汗だくになって元気を失っていた。
「さっきの元気はどこいった」
 そんな律に一言つっこんでおいた夏音は、一見ただの雑居ビルの一つとしか見えない建物を見上げた。いや、どう見てもただの雑居ビルだろう。
「そこの入口から降りて地下に行くんだー」
 むりやり足を交互に出して歩いている、といった様子の律はビルの横にぽつんと構える昇降口に進んでいった。
 スタジオというからには、防音機能がしっかりしていないとならない。このように周りにテナントが集まる場所にスタジオを構えるには、地下というのは都合が良いのだろう。
 店の看板らしきものには【ONE OF THE NIGHTS】とある。
 夏音はもしかして、イーグルスの「ONE OF THESE NIGHTS」とかけているのかと思った。イーグルス直球世代のオーナーの顔が何となく思い浮かばれる。

 階段を降り始めるとすぐ、ライブハウス独特のヤニ臭さが鼻につく。階段の途中には、壁一面を埋め尽くすようにありとあらゆるポスターが貼ってあった。どこのバンドの企画ライブ、フライヤー、落書きを通り過ぎると広いスペースに出た。
 正面に受付がぽつんとあり、貸し出し用のコーナーにギターやベース、シールドなどがかけられてある。この広めにつくられているスペースは待合スペースとなっているらしく、ベンチやソファーがテーブルを挟んで並んでいた。自動販売機も三つも用意しているあたり、客入りは良い方なのだろう。
 制服姿で現れた集団に気が付いた受付の男が「おはようございます」と頭を下げてきた。
「おはよう?」
「挨拶されちゃったよ!」
「返した方がいいのかしら?」
「そだね。おはようございます!」
 スタジオ初心者の二人組が微笑ましいやり取りを繰り広げる中、律が受付に歩み寄り、「予約していた田井中ですけどー」と言って受付カウンターに寄りかかった。何となく馴れ馴れしい。本当に常連なのかもしれない、と夏音は思った。
 その堂々とした様に、ほぅーという感嘆の声が背後からあがる。常連っぽさにハクが上がる訳でもなし。早くスタジオに入りたいと夏音は思った。
「はい、先ほどお電話いただいた田井中さま、でお間違いないですか? 当店のご利用は初めてでしょうか?」
「や、やだなー! 私ですよ、私! いつも使ってるでしょ?」
「あ……そうでしたっけ、すんません」
 店員の男は明らかに怪訝な表情をしたが、すぐにどうでもよさそうに律の主張に合わせた。
「お時間まで少しありますけど、もう入っても大丈夫です。Kスタでーす」
 それだけ言うと、店員は下を向いて何かの作業に戻ってしまう。律はそのまま振り向かない。自分の背中に受ける幾つもの視線に律はすっかり振り向けるはずがなかった。
「ねえ、こっち剥きなよ」
 夏音の慈愛に満ちた声が律の背中にぶつかった。
「あれは、その…………普段は別の人が、ねえ」
「皆まで言わなくていいよ」
「私ってあんまり濃い顔じゃないから」
「うんうん」
「ほ、ほんとに何回か入ったことあるんだぞ!?」
「うん、わかってる」
「あれは、私がまだドラムセット買えないころに……」
「律……」
 耐えかねた夏音は、ぽんと律の肩に手を優しく乗せた。
「夏音……?」
 目を開いて振り向いた律。爽やかな笑顔で夏音は口を開いた。
「死ぬ程どーでもいいや」
 日本刀の鋭さで斬りつけた。
「あいつ……鬼だな」
 後ろに控えていた三人は、律が不憫になってほんのり涙を目にためたとか。いないとか。


 気を取り直した一同は、奥の扉をくぐってスタジオがいくつも並ぶ廊下に出た。入ってすぐの案内板を見て、Kスタジオの場所を確認した。
「お、ここだね」
 少し進んだところで廊下が二又になっており、さらに進んだところで、鉤状に伸びた角の先にKスタジオはあった。夏音は厚い防音の扉を開けて中に入り、手探りで電気を点けた。
 スタジオ内の広さは学校の教室の四分の一といったところで、各アンプからドラムセット、スピーカー、ミキサー、マイクスタンドにマイク……あと、壁の一面に巨大な鏡までがそろっていた。
 暑がりの面々によってさっそくエアコンのスイッチがオンにされる。
「うわぁー、これがスタジオっ!!」
 ひょこんと中に突入してきた唯が室内を見回して感動の声をあげる。まず巨大な鏡を見てテンションがあがるのを見て、それもどうだろうと苦笑する夏音は早々に機材を下ろした。
「なんかテンションあがるだろ?」
ドラムの椅子に腰かけた律が言う。
「私も昔、今のドラムセット買う前にたまに来てたんだよ。当時はスティックしか買えなかったし、本物のドラムを叩きたい! って思ったからなー」
「なるほどね。あながち本当のことだったんだね」
 夏音は素直に感心したように笑った。この部長にもそんなしおらしい一面があったのだ。
 機材を確認すると、ギターアンプにはマーシャルのJCM900-4100の二段積みとローランドのJC-120、通称・ジャズコ。さらに奥にはピーヴィーの5150もあった。さらにベースアンプにはアンペグのSVT-4PRO。ドラムはパールのMASTERS PREMIUMであったが。何故かシンバルの一つがTAMA。
 傍では、澪は初めて使うアンプに「コレ、コレコレ使ってみたかったんだー!!」と声をあげていた。そうか、嬉しいんだねと微笑ましくなった。
「あら、キーボードアンプはどこかしら……?」
 ムギがきょろきょろと自分の楽器に対応したアンプがないことに戸惑っていた。
「あぁー、コレ使いなよ」
 夏音は、ジャズコを指さして言った。
「え、でもコレってギターのアンプじゃないの?」
「ううん、キーボードでも使えるんだよ。プロでも使っちゃう人はいるよ」
「へー! 初めて知ったー」
 夏音は、唯にマーシャルを使うように言ってからセッティングを始めた。自分の機材のセッティングがひとまず終わってからは、マイクをいじって音量を調節させた。
 未だにドラムの各配置を細かく決めている律の方を見る。ドラムを叩く上でも、自分のセッティングというものは存在する。むしろ、かなり重要である。ハイハットの高さ、シンバルの角度、距離。同じくタムの角度。
 たいていのドラマーは、自分のセッティングをきちんと持っている。こだわりにこだわる者が多くを占めている理由もいくつかある。特にプロで活躍するドラマーにとっては、それが重大にかかわってくる。いちいち手元を見ながら叩くわけにもいかず、普段の練習で慣れている距離感などで感覚的に叩いている分があるのだ。極端に言えば、セッティングが1センチでもずれていれば、怪我などにもつながることがある。
 もちろん、見た目も大事。 だから夏音は律のセッティングが遅れても文句を言わない。
 早くドラムをくれないと音をくれ、と思っても言わない。そんなドラマーたちの中でも律は存外こだわり派だったのだから。
(悩め悩めー若人よ)
 夏音は、そっと呟いた。もちろん心の中で。やっと金属を叩く音が連続して鳴った。
 バンド初心者が多いこの軽音部で、夏音は音作り、それもバンドとしての音作りの重要性と奥深さを何度も説いている。それはもうしつこいくらいに。
 個人で弾いている時だと、その楽器単体だけが鳴っているのでどこをどう弾いても音は聴こえる。それに、各々の音の好みもアンプのイコライザーをいじって自由にできる。
 しかし、バンドだと互いに違う音を抱える。上から下までの広い帯域が存在することになる。例えば、一番上の帯域がシンバル類かスネアとくる。それからおおざっぱに上からギター、ベースとなる。バスドラとベースの音をかぶらせないようにする事が重要だ。
 とはいっても、それらの楽器も同じ帯域を共有することになる。ぶつかり合って、それで互いの音を埋もれさせてしまうこともある。逆にそのマスキングを良い感じに使うことができれば音作りを分かってきた証拠でもある。
 特にこのバンドはギターが二人いる。唯がハムバッカーというピックアップを搭載しているギターなので、サウンドのキャラクタを分かりやすく分けるために夏音はシングルコイル搭載のストラトキャスターを選んだ。
 このようにして、二つのギターの音色にも区別をつけたりすることも一つの手である。特に、自分がベース弾きゆえにベースにこだわりがある夏音は、バンドにおけるベースの音作りは一番奥が深いと考えている。だから、澪に対しては若干厳しく構えることも多い。
 そういうこともすべて把握した上で、実力のある者は自分の個性を出していくのだ。
 音をぶつけ合うことも計算の内ならばよい。状況によってあえて抜けない感じにする場合もある。奥が深過ぎて、これを言葉で教えるのは困難であるのだが。
 音作りに時間をかけて、ある程度整ったところで夏音は手を掲げて注目を集めた。
「なら、決まったところまで通してみよう」
「ワン、トゥ、ワンットゥスリーフォー!!!」


 曲の構成としては、イントロ→Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロとくるのは別におかしくない。少し面白い展開を入れるのも一興だとも思う。今、そこに悩んでいるところであった。
「メロディーも単純だから、同じのが何回も続くなら短く終えていいと思う。二つ目のブリッジを終えたところでCメロ? 的なものでも入れたらどうだろう? もしくは転調を工夫するとか」
「でも、もう少し単純でもいいと思うんだけどな。お前のギターソロでいいんじゃないか?」
 このように曲に対する意見が練習の合間に出てくる。お互いの意見は頭ごなしに否定する事はしないで、とりあえず実践してみる。それでいまいちだったら別の案。というように曲作りは進んでいった。中でも曲の骨子を造ったムギに意見を問うてみると、それぞれの見せ場があると良いかも、だそうだ。
「それぞれの見せ場ねぇ。ソロ回しでもするか?」
「それでも一小節か、長くて二小節程度かな。ぐだぐだやるのには適さない」


 このように次々へと曲が変わっていくのは面白い。こういう作業こそ軽音部らしくなってきたではないか、と皆目を輝かせながら意見をぶつけ合っている。皆……一人おかしいのがいた。
「おい、唯。何か死にそうなんだけどどうしたの?」
 一度演奏を通した時から何だかおかしかった。音に覇気がないというか、切れが悪いというか。今は個々の演奏より曲自体をどうにかしないとならないと思って、あえて夏音は注意しなかったのだが。明らかに様子がおかしい。自らの身体を抱きかかえるようにしてぶるぶると震えているのだ。軽くヤバイ病気の人だ。もしくはゾンビに噛まれて豹変する前の人だ、と思った夏音は慌てて唯に近寄って肩を掴んだ。
「お、おい平気か唯っ!?」
「……ムイ」
「なんだって?」
「しゃ、しゃむい……わだし……エアコン苦手だったんでした……」
 それだけ言うと唯はへたり込んだ。床にギターのボディが当たり、ノイズが漏れる。
「そんなんどうすればいいんだよ!?」
 唯の面倒臭いパラメータが3上がった。

 暑いのは嫌なの、かといってエアコンも嫌なの。とのたまった唯はとりあえずスタジオから追い出された。何でも人工の風に当たっているとだんだん皮膚が粟だって身体が弱ってくるそうだ。そうなるとクリプトナイトをぶっさされたスーパーマンのごとくダメになってしまう。それでも団扇などは可、という良く分からない基準が彼女の中に存在しているらしく。夏は毎回それで乗り切るという。
 超面倒くせぇ、と誰もが思った。どうすれうべきかと悩んだところで、エアコンで既に冷えている室内に後から入る分には問題ないそうだ。仕方がないので、冷房でキンキンに冷やした状態で唯を再びスタジオに入れることになった。結局、ダメージを喰らったのは唯以外の全員だった。
 そんな風にトラブルもあったが、環境が変わったことで軽音部一同の集中力は格段に上がった。スタジオという狭い空間の中で大きな音を出すので、それによる解放感のようなものもあるのだろう。絶対ある。爆音で楽器を鳴らすのは大変気持ちの良いことである。耳がおかしくなる程の爆音で全員がハイになっていた。
 二時間で予約していた時間はあっという間に過ぎ、気が付けば終了時刻に迫ってしまった。
「あ、もうこんな時間かっ!」
 律がスタジオの時計を見て、驚いた声を出す。
「早く片付けなきゃっ! 五分前には片づけを終わっているのが礼儀だ!」
 その言葉を聞いた面々は、すぐに片づけを始めた。夏音は右手の一振りでツマミをすべて0にして、急いで機材をを片づけた。
 時間ギリギリでスタジオを飛び出た五人は、ささっと受付で会計をすませて外に出た。

「ぷはぁーーっ! なんか空気がおいしいなー!」
 スタジオを出て間もなく、律が大きく伸びをした。
「たしかに……たばこ臭かったしな」
 女の子たちはおタバコの臭いに敏感だった。
「でもスタジオは涼しかったし、音もいつもと違った感じだったよね。楽しかったー」
 唯がにこやかにそう言って律の方を向いた。その場にいた全員が涼しかったのはお前だけで自分達はむしろ寒かった、という言葉を飲み込む。
 おそらくエアコンが必要な季節の利用はこいつには向かない、と思いながらも律は得意気に頷いた。
「そうだな。今日は律にしてはまっとうな提案だったと思う」
「カチーン」
 上から目線の澪が腕を組んでうんうん頷くのを見て、律がえらく表情を引き攣らせた。こそこそと澪に何か耳打ちをしたと思うと、「イヤァァァァ」と耳を押さえてしゃがみこむ澪。
 いつものことだ。夏音はもう何も気にしない。
「それにしても二時間集中したせいかお腹すいたなー」
 夏音が切実に腹を押さえながら言うと、律がすかさず反応した。
「おっ、このままどこか飯食いに行くっ!?」
「わーい、ゴゴスいこーゴゴスー!!」
「でもお夕食には早いかしらね?」
「でも、お金がちょっと……」
「パフェくらいならおごってもいいケド」
「お供いたします」
「おい澪、今ダイエットしてるんじゃ……」
「あ、いや、でも、しかし!」
 仲良し軽音部、学園祭まであと少し。



「今日は俺が一番乗りかー」
 軽音部の部室には、夏音一人。荷物を置いてソファでぼーっとしていると誰かが扉をノックしてくる。
「はーいどうぞー」
 夏音が返事をすると、入ってきたのは吹奏楽部の顧問・軽音部とも縁ある山中さわ子教諭であった。
「ごめんねー、譜面台借りていくわねー……ってこれまたずいぶん機材増えたわねー」
 たまに部室を訪れる時にお茶をしていてもスルーな彼女だったが、久々に来た部室の様変わり具合が流石に目に止まったらしい。呆然と部室を見回すが、呆れているというより、どうやら興味津々で食い入るようにギターアンプを見詰めているような気がした。
「これ、え……うそ……何でこんなヴィンテージが……!?」
 わなわなと震えながら、慄くさわ子。
「え、先生わかるんですか?」
 夏音は若干目を大きくして、訊いてみた。
「え? あ、いや……何もわからないわよ!? 何一つ! なんか冷蔵庫みたいねこの機械……って、これも……渋い」
「…………」
「私は何も言っていないわね?」
「…………」
「し、失礼しましたっ!!」
 夏音が返しあぐねていると、さわ子は逃げるように部室を出て行った。今のは何だったのだろう、と首をかしげた夏音と大量の疑問符だけが部室に取り残された。

 

「部として認められていないだって!?」
 本日の部活は、そんな衝撃的な発表から始まった。部室であははうふふと殺気立ちながらインディアンポーカーで戯れていた律、澪、夏音の三名(敗者は労働奉仕)は遅れて部活へやってきた唯とムギが揃って持ってきた獲れたて衝撃情報にぶったまげた。
「ていうか……」
 皆、夏音の言動の先に注目した。
「部として認められていないのに、部室をこんなに好き放題にしちゃってよかったのかな……フホーセンキョってやつじゃないか?」
「ふ、不法……」
 何かよからぬ想像をしたのか、澪が怯え始める。夏休みが終了し、九月に入った現在の音楽準備室こと軽音部部室。
 もし四月の時点の部室風景を収めた写真と、現在のものとを見比べたとしたら、衝撃のビフォーアフターに誰もが仰天することだろう。
 戸棚に収納されたティーセット(高級)。部室の中央にでんと居座る冷蔵庫ほどの高さのベーアン含めたアンプ類(全アンプ合計で6つ)。ミキサーやスピーカーまで揃っている素敵な小スタジオと化している。
 それに加えて、本来なら授業で使うこともあるのだろうホワイトボードは軽音部員によってあまねくホワイトの部分を埋め尽くされている。主に落書き、落書き、謎のチラシなど。要するに、あらゆる私物で埋め尽くされた軽音部の部室は、部であるからこそ教師たちの海より深い寛容の精神によって看過されてきたのである。
 主犯各である二名の男女は落ち着き払っていたのにも関わらず、他の三人は狼狽しきってぎゃーぎゃー騒いでいる。
「ムギ、とりあえずお茶飲みたいよ」
「はぁい、ちょっと待っててね」
 爽やかにそんな会話を交わす主犯各のお二人。この二人のまわりにだけさらっとした風がそよいで見える。
「部員が五人集まったら大丈夫じゃなかったのか!?」
「そのはずなんだけどなー」
「おかしいねー」
 肩を寄せ合い、真剣に話し合う三人。
「あー、美味しい。今日はアッサム? スコーンにあうね」
「ええ、ジャムも四種類あるのよ」
 素敵なティータイムに勤しむ二人。
 同じ部室なのに、まるで空間が隔絶されているように別世界を作り上げていた。
「って、ソコこら! もっと真剣に考えろよ! 部の廃退の危機だぞ!?」
 スルーしきれなかった優雅な空間を作っていた夏音とムギに律がキレた。
「部の……っていっても、部じゃないんでしょ?」
 紅茶を片手に足を組んだ状態で振り返った夏音は、ガンを飛ばしてきた律に、その青い瞳に力を込めて律を見詰め返した。
「それは……そうですけども……」
「負けるの早いな」
 一瞬で勝負に敗れた幼馴染にため息をついた澪だったが、きっと眉をひきしめて夏音に詰め寄った。
「これだけ練習頑張っているのに、学園祭に出られなくなるんだぞ?」
コトリ、と置かれる白磁のティーカップ。
「More haste, less speed」
「な、なに?」
「急ぐならば、落ち着けってことだよ。まぁまぁ焦ったらいいことはないさ。とりあえずお茶、でしょ?」
 軽音部の基本は「とりあえず、お茶」である。何があっても部室に来ても寝ても覚めてもお茶に始まりお茶に終わる精神を持つ者すなわち軽音部なり。
 その軽音部の心得をこの五か月程で培ってきた(不本意)一同は、その言葉によってはっとして自分を取り戻した。
 三十分後。ムギの持ってきたお菓子をこの世から胃の中へ押し込んだ者たちは、落ち着いた心持ちで話し合った。
「それより、どういう理由なのか聞きにいかないとな~」
 先ほどまでの肩の力をどこへ消し去ったのか、軟体動物予備軍と化したぐにゃぐにゃ律は緊張感もなしにそんな提案をした。
「そりゃ、落ち着き過ぎだ」
 流石の夏音もしっかりツッコまざるをえない。


 その理由とやらを聞きにはるばる生徒会室まで向かうことにした一同。
「殴り込みじゃー」
「討ち入りじゃー」
 と生徒会室へと近づくにつれ、そんな単語を連呼する夏音と律。時の赤穂浪士に失礼である。
 彼らは完全に悪ノリの生き物である。主食は悪ノリ。ある教室の前で止まる。プレートには【生徒会室】と書かれてある。
 前線の二人は顔を合わせ、うなずく。
「たのもーーー!!!」
「イェー、ファッキンジャ○プ!!」
 ドアノブをまわした律、すかさず扉を蹴破った夏音の二名は、入った瞬間に突き刺さったいくつもの視線に凍りついた。
 皺一つない制服をぴちっと着こなす優等生の集団・生徒会。彼らは、和を乱す存在が嫌いというきらいがある。何かの分厚い資料を広げて、迷惑な存在を見る「ような」視線で貫いてくる。くいっとメガネを上げる人間ばかりだ。
「あ、会議中でしたか……」
「こいつぁ、失礼!」
 こてんと頭を打つ小芝居をいれておどけるが、場の空気は氷点下まで下がりつつあった。
「あれ、和ちゃん?」
 前線に立ちながら、もじもじとうつむいていた夏音たちの背後から声を発したのは唯。あれ、と顔をあげるとしっかりと会議の司会進行を務めていた人物に気が付いた。
「あら、唯?」
 アンダーリムの珍しい眼鏡をかけるその少女は、唯の幼馴染である真鍋和その人であった。
「へぇー、和ちゃんがここに!?」
「何でって、生徒会だからだけど?」
 唯の親友が生徒会だったなど、聞いていない。夏音は唯を軽く睨んだが、全く悪びれた様子がない唯は「知らなかったー」と暢気だ。
「とりあえず、会議が終わってからまた来てくれるかしら?」
 大人しく追ン出された。

 廊下でしばらく待っていると、幾つもの椅子が引かれる音がしてから、生徒がぞろぞろと生徒会室から出てきた。先ほどの闖入者たちをしっかりと睨んで行く者もいた。退出する生徒の波が途切れると、夏音たちは生徒会室へ再び入室して用件を話した。
「うーん、やっぱりリストにはないわねー」
 和は各部活動のリストを広げて確認してくれたが、どうしても軽音部の名前は見当たらないそうだ。つまり、これで軽音部が部活動として認められていないことが間違いないということになる。
「もしかして……」
 律が顎に手をあてて緊張した声を出す。夏音はまた阿呆な発言が飛び出すに違いないと全力スルーの構えをとった。今は省エネの時代。
「何か心あたりが?」
 だが、しっかりと乗っかる者もいた。唯だ。誰か乗っかってくれてよかったと内心安堵した律は、一度強く頷いてから和を鋭く見つめた。
「弱小部を廃部に追い込むための生徒会の陰謀!!」
(ほーら、やっぱり)
 それも、恐ろしくとんでもない阿呆な発言であった。ハハハ、と乾いた笑みを浮かべた夏音であったが、まさか本気でそれを信じようとする者がいるとは夢にも思わない。
「和ちゃんは本当は心のきれいな子! 目を覚まして!」
 ここにいた。
「何の話? ていうか部活申請用紙が提出されていないんじゃないの?」
 唯のこのような調子にも慣れっこなのか、和はさらっと流して事の原因を推察した。
「部活申請用紙?」
 聞きなれない単語に首を傾げてムギが反芻する。
「な、何だそりゃー。そんな話は聞いてないぞーっ!!」
 あくまで我に正義アリ、と言い放つ律であった。しかし、たらりと一筋の汗が額を流れた。
「田井中、うしろーっ!!」


 結局、和がその場で部活申請用紙を埋めてくれることになった。それで判子さえ押せば、晴れて軽音部も部活動の仲間入りである。
 すらすらと和のペンによって空欄が埋まっていく。軽音部の面々が息を呑んでそれを見守っていると、ふと彼女のペンが止まった。恐ろしい台詞が待っている予感がした。
「で、顧問は?」
「コモン?」
「Common?」
 何故、初めからそこに疑問が行き着かなかったのか。答えは簡単。全員、基本的に非常識の集まり。それが軽音部。


 件の顧問問題について即座に緊急会議が開かれた。開始数秒で山中さわ子教諭に頼むのが良いのではないか、という意見が出た。
 彼女は音楽教師であり、吹奏楽部の顧問を担っている。
 容姿もさることながら、その物腰の良さで生徒から圧倒的人気を誇っている美人教師というオプション付き。数か月前、夏音がベーシストだということを一発で見抜いた慧眼の持ち主でもあった。
 先日のこともあり、夏音もなんだかこの先生が適任である気がしてきた。アテが無くもないし、上手くいきそうな気しかしないのだ。


「ごめんなさい。なってあげたいのはヤマヤマだけど……私、吹奏楽部の顧問をやっているから、掛けもちはちょっと……」
ショックが皆を叩きのめす。私、付き合っている彼氏がいるからちょっと……と言われたようなものである。
「そんなぁ」
「本当、ごめんなさいね」
 そう言ってさわ子は心から申し訳なさそうに目を伏せた。 
「お時間はとらせません!」
「練習なら、自分たちでちゃんとしますから!」
「山中先生の損にはならないはずです!」
「ここに名前書いて、判子押すだけ! ね、簡単でしょ!?」
 どこの悪徳商法だとばかりに口先八丁で押す軽音部の面々だったが、相手は苦笑するばかり。
 こうなったら。
(奥の手だ……)
 一瞬だけ視線を交差させる。
(やるよ!)
 唯がさわ子の顔をじっと覗き込んでにんまり微笑む。
「な、なぁに?」
「先生、ここの卒業生ですよね?」
 できるだけ無邪気に。無垢な生徒の純粋な疑問を装うように唯をこの係に選んだのだ。上手くやれ、と皆の心が一つになった。
「え、えぇ」
「さっき、昔の軽音部のアルバム見てたんですけど……」
 その瞬間、びくっと体が跳ねたさわ子。
「あ、アルバムはどこにあるの?」
「部室ですけど?」
「そう……」
 ふらふらと後ろを向いたさわ子。その反応に夏音はにやっとした。ここで夏音は自分たちの予想が外れていなかったことを確信する。
「あれ、先生どうしたんですか?」
 唯がそう尋ねた瞬間、さわ子の体が深く沈んだ。それは、まるでチーターが獲物へ襲い掛かる瞬間に体を沈める予備動作のごとく。
 その体が跳ね上がると、瞬く間にさわ子の姿は廊下の遥か先へ消えていった。
「イエス!!」
 夏音はガッツポーズをしてから、急いで彼女の後を追った。
「イエス言うけど、先生めっちゃ速いぞ!?」
「問題ない!」
「うおっ! お前も足速いな!?」
 速度を増し、廊下を全力疾走する夏音は軽音部の部室へと向かった。スカートという事もあって、全力で走れない女子を置いて夏音は突っ走った。これでも一時期パシリとしてならしていた身である。一介の音楽教師に遅れをとる夏音ではない。「フハハハハー」と相手を追い詰める高揚感に高笑いしながら走り続けた。
 後を追ってきた四人が部室へ辿り着く時には、薄暗い部室の中央で膝を着いて固まるさわ子と、その背後には両腕を膝について荒い息をして笑む夏音の姿があった。ニヒルな笑いを浮かべようと必死だが、割と全力疾走が堪えたらしく余裕がなかった。
「やっぱりアレは先生なんですね」
 蒼褪めた顔でゆっくりとこちらを振り返るさわ子。その答えは聞かずとも、明白であった。
 

 夏音達は、先ほど部室にて昔の軽音部のアルバムを覗いていた。いわゆる軽音部の黒歴史というアイテムを見つけたのだと思ったのだ。
 嬉々としてアルバムをめくり、軽音部のOBが本当にメタルの住人だったんだと大いに笑ったところで、ふとアルバムの中の写真に既視感を覚えた。
 長い髪を振り乱して観客をこき下ろしている女性。フライングVを又に挟んで狂ったようにタッピングをする姿。
 極めつけには、その人物のスナップ写真。
「この人ってどこかで見たような……」
 という唯の一言から始まり「あ、やっぱ似てるよねー?」と夏音が頷き、もしや……と話が膨らんだ。
 冗談半分で盛り上がっていただけなのだが、それはやがて確信めいたものへと変わり…………今回の計画につながったのである。

「山中先生、あなたはかつて軽音部員だったんですね!!」
 びしっと指を突きつけた律。どこぞの探偵さながらのキレである。息が切れ切れの夏音から体よくその役を奪った律は活き活きとしている。
「よくわかったわね……そうよ、私……軽音部にいたの」
 あっさり自供したさわ子。肩を落とし、乙女座りでうなだれた彼女は「あぁ……あれはうら若き高校時代のこと……」語り出した。
 それから一同は彼女の重く、悲しい過去を知ることになる。自分でうら若きって言ったらダメだろうというツッコミはなかった。

 省略。おおざっぱにまとめると。
 当時、軽音部に所属していた山中さわ子。勉強は中の上、読書と音楽を愛するモラトリアムまっただ中の文化系少女だった。ただ、モラトリアム少女侮るべからず。当時、彼女が片思いをしていた彼がワイルドな女性が好みだと聞くや否や、さわ子は今までのアコースティック路線を瞬時に投げ捨ててしまう。あれが若さ、という勢いだと彼女は語った。
 それから、どんどんメタルの奥地へと足を踏み込んで止まらなくなった日々。ラウドネスを信仰する事から始まり、海外メタルに触手を伸ばしていく毎日。スィープ? タッピング? 電ドリとは何ぞや? と純真そのものだった少女の姿はそこにはもうなかった。
 最終的に、もちろんそんな彼女にどん引きした彼にはフラれてしまうのだった。めでたし。
 なんとも痛快なストーリーだったな、と夏音は話が終わった瞬間に惜しみない拍手を送りそうになった。寸で察した澪に止められた。日本人は空気を読めないといけないそうだ。

 自分の人生の恥部を生徒に曝け出した山中先生は、うっすら涙目だ。
 そんな時に唯が「じゃぁ、今もギター弾けるんですか?」とギターを渡したものだから、山中先生のソロリサイタルが始まってしまった。
 超絶的なテクニック、と表するにはとうが立っている気もしたが、彼女は確かな技術を持っていた。あのテープのリードギターをやっていた人物というのも納得できる程のレベル。
 早弾き、タッピング、歯ギター。普段あまり生でお目にかかれないピロピロサウンドに女子高生は興奮しっぱなしだった。夏音はと言うと、歯ギターをガチでやる人を見て、どん引いた。
 ギターを弾くと昔の荒々しさが出てしまうのだろう。よくある話だが、すっかり気が大きくなった彼女はそのままの勢いで軽音部一同をぎょろっと睨んだ。
「お前ら音楽室好きに使いすぎなんだよーーーー!!!!」
 軽音部一同は、そのあまりの気魄に両腕をついた。脳髄を介さない行動だった。
しかし、土下座という行為が脳みそにプリセットされていない夏音は腕を組んでふんぞり返っていた。
 にこやかと。
 一斉に自分に向かって頭を下げる生徒の姿に正気になったさわ子はおろおろと崩れ落ちた。
「やってしまったわ……」
 ヨヨヨと泣き崩れる先生に向かって夏音は歩き出した。その震える肩を抱き、優しく先生を見つめる。
「立花くん……」
 夏音は潤んだ瞳で見つめてくる山中先生にざっくり一言。
「バラされたくなかったら、顧問やってください」
「あいつ、やっぱり悪魔だな」
 企画・進行・結末までも一挙に成功させた彼についてそう評価するとともに、また彼の一撃をくらった不憫な山中先生を偲んで涙を流したとか。流していないとか。



「こんな感じのオリジナルなんですけど」
 「快く」顧問の件を引き受けてくれる事になったさわ子に今作っているオリジナルの曲を聴いてもらうことになった。相変わらず唯のリズムのヨレ具合や、中盤に入るフィルからテンポアップする律のドラムは一向に直らないだけでなく、他のメンバーの演奏面に不満だらけであった。
「顧問として、どう思います?」
 ベンチに腰掛け、じっと演奏を聴いていたさわ子先生がゆっくり口を開く。
「そうねー。『顧問』として、言わせてもらうわ。各自の演奏技術については他として、特に言うことはないかしら」
「いやー、顧問としてのご意見ありがとうございます!」
「いえいえー顧問として当然よー? ただ、ひとつだけね。歌はないの?」

 沈黙が何秒かその場を包む。パシン、と音がして夏音が自分の額を叩いていた。

「いっけないっ! まだだった!」
 舌を出して誤魔化す夏音に非難の視線が集中した。
(俺だけのせいじゃないのに……)
 夏音とて色々忙しかったのだ。曲の構成を決めてから譜割などを決めようと思っていたし、曲の全体像を掴んでから、と思っていたのだ。
「じゃぁ、まさか歌詞もまだとか?」
「まぁ、そりゃあね」
「それでよく学園祭のステージに出ようと考えたわねー」
 先生の様子が明らかに変化していく。具体的にいえば、眉がぴくぴくとし始め、眉間に血管が浮いて……。
「音楽室占領して今まで何やってたの!? ここはお茶を飲む場所じゃないのよ!?」
 本気の怒声が五人につきささった。かつての軽音部員として、桜高の学園祭で名を馳せていた先生。方向性はともかく、真剣に音楽に取り組んでいたのだろう。むしろ、現役が異常である。
「言いたいことはわかります! けど、今の演奏を聴いたでしょう?」
 怒れる獅子の前にすっと立つ夏音。一同は、恐れを知らぬ勇者の姿に固唾を呑んで見守った。
「ここにいる唯はギター初心者。数か月前までコードすら知らなかったんです。ムギにいたっては、バンド初めてだし。澪は音量にバラつきがあるし、律は相変わらずダメダメで……」
 後半、ただのダメ出し。
「それでも、演奏に関してはびしばしと練習してきました! 歌詞と歌は後からハメりゃあすむでしょう。そんなのすぐにできます! 何故なら、俺がヴォーカルやっちゃうからね!」
 理論になっていないが、何故か強引に納得しかけてしまう説得力。
「そう、それでやれるというならば……けど、これはないしょ。これだけ音楽室を好き放題にしちゃダメでしょ。私らだってここまでやってなかったっつーのに。その前に高校生の分際でなしてこんな機材揃ってんのよー!!? うらやましぃアーーーッ!!!」
「ごめん俺には手がつけられない」
 夏音、前線離脱。
「せ、先生!」
 息が荒い獣の前にムギがそろりと出る。
「ケーキ………いかがですか?」
 さわ子先生の人を殺せそうな目線がムギに向けられる。

「いただきます!!!」

 教師ですら陥落させるムギのお菓子こそ、ある意味で軽音部最大の武器かもしれない。





[26404] 第十話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/04/05 15:24

 少年は特に考え事をしていたわけではなかったが、電柱が鼻っ面ぎりぎりに迫るまで自分がまともに前を見て歩いていなかったことに気が付かなかった。うおっと小さく悲鳴を漏らし、電柱から飛び退く。少年は高くも低くもない自分の鼻の無事より、こんな間の抜けた行動を誰かに見られていないかの方が気になった。
 神経質にひょろ長い首を疑わしげに動かして、どこにも人影がないのが確認できるとほうっと安堵の息を漏らした。
(この現実世界でぼーっとしていて電柱にぶつかるなんてありえないよな)
 それは天然キャラにのみ許される失敗だ。彼は自分みたいに何のキャラも立っていない人間がそんな粗相をしたら、ただの痛い人だということくらい解っている。
 モブキャラなのだから。
 モブキャラとはなんぞや。いわゆる、漫画やアニメなどの背景キャラ。これは日々を目立たないながらも真面目に生きる日本人男子にとって悪魔のような悪口だろう。それを面と向ってではないが、風の噂にも自分がモブキャラと評されたことを知った時のどん底感は筆舌に尽くしがたい。ただ二、三度死にたくなった。この時期の男子高校生がどれだけ自らの個性に悩み、煩悶としてその他様々な思春期特有のゴニョゴニョに煩わされていることか。
 それを知ったうえでの、「なんてーか、モブキャラの一人っていうの?」とは何たる狼藉か。あまりに怒り心頭に発したので、よっぽど川原などで満腔の怒りをぶちまけようかと思った。できなかったが。それを言った張本人を見てみれば、出汁をとったら謎の油ばかりが浮かびあがってきそうな風体をしていた。それが救いだったかもしれない。
 キャラが立つとか立たないとか。
 この世の中はいつからそんな瑣末事を気にするようになってしまったのだろうかと嘆くのも飽きた。個性なんて、いくらでも個人に備わっているはずなのに、それを見極める目が備わっていない人が多いだけなのに。
 よく人のことを知りもしないでそんな評価を下せる人間は信じがたい。少年はそっと溜息をついてから、今度はしっかりと前を見据えながら再び歩きだした。
 この先、ずっと直線のまま住宅街の中を突っ切る。やや傾斜がついていて、緩い上り道となっている。
 まっすぐな道路の遥か先には陽炎が揺らいでいた。陽が出てからまだ数時間しか経っていないのに、今日も太陽は自分たちを攻めに攻める。ぼーっとしていたのは、梅雨明けから一気に増した熱気のせいだろうか。これだけ暑ければ、意識もつい曖昧になってしまう。ワイシャツの下に来ているタンクトップはさぞ絞りがいがあるだろう。
 歩きながらふと考える。少年は自分の名前が山田七海であることについて考える。
 そもそも、自分の苗字は日本国内ファミリーネームシェアナンバー1、2を争う人気がある。奇跡的にうちのクラスには自分しかいないのだけど。名前にいたっては女の子みたーいと騒ぎ出す奴が必ずいる。ところがどっこい、いざその時点で名前の持ち主の顔を眺めるや、こっそりと気まずい顔をするのが大半の反応だ。余計なお世話だ、と顔面を蹴りたくなる。
 自分でも名前負けしているな、とは思う。父親が海底二万マイルのファンだから仕方ない。七つの海を制覇してくれ? という現代にそぐわない祈りをこめたそうだ。自分で勝手に制覇してくれればいい。
 自分は、いろいろ持て余している。唯一の名前でさえも。キャラとかはどうでもいい、といったら嘘なのだけど。
 などと、暗い思考が進んだところでそれをふっきるように首を振った。
いけない。
 まるで自分がとても重たいものを抱えて生きているようだ。モブキャラが主人公みたいに。別に七海自身は自分を可哀想なんて思わないし、思わせない。
 要するに、個性がちょっとだけ表に出にくい、思春期の男の子によくある、なんてことない悩みを持て余しているだけなのだ。
 七海はまさに自分達をゆとり教育が助長した個性第一主義みたいな物の弊害を喰らっている世代だと思っている。実際には自分より上の世代がそうなのかもしれないが、その余波は確実に大きくなって自分達を直撃している。そもそも個性とは何なのか、答えてくれる大人は近くにいない。改めて言うまでもない話だからだ。誰に決められるものでもなく、押しつけられるものでもないものの正体を探っても仕方がない話だろう。わざわざ教育に出す必要はないから学校の先生も口に出さない。指導要綱にもあるらしいが、鼻にもかけていない人が多い。
 でも、確実にあるものが個性。授業中に腹が鳴っても温かい笑いを生み出す人間と、気まずげに無視される人間に分かれる事もそう。横に並ばせると身長も顔も違う。そんな当たり前のところから個性は始まっているのだろう。しかし、そんな些細な部分を個性に含んでくれない現実を知っていた。たぶん、皆が求める個性とはもっと強烈で、刺激的でとっておきのものだろう。そして自分に足りないものもそんな感じだ。
 こんな事を考えていると、ふと自分のクラスのちょうど隣に座っている人物の顔が思い浮かんだ。
 その人はまさしく個性の塊だった。外見も、中身も、すべて人が求めるものを持ち合わせていた。そういえば彼も自分みたいに女の子みたいな名前だけど、自分とは違う。彼は、彼なのに女の子みたいな名前を持った男の子でも許される容姿を持っているのだ。同じ人間だとは思えないくらい全てのパーツが違っていて、悔しさとかを感じるようなレベルじゃない。万が一にもこんな肌が欲しい、とか髪の質感がうらやましいとか思ったらアウトだ。自分が惨めになってしまう。
 七海にとっては気になるけど、遠い場所にいる同級生だ。そしてこの時の七海はこれから先、自分がどれだけ立花夏音という男と深い関わり合いになるかなんて知る由もなかった。
 

 HR前のざわめくクラスはいつもの喧噪を醸している。低血圧なのか、机に臥せっている者もいるし、一時間目の英語の予習を友人から必死に写させてもらっている者もいる。大半は自分の机になんか座っておらず、友人の席にグループで集まって姦しくおしゃべりだ。むしろ、合唱。輪唱。ソプラノからバスまで揃っている。が、低音が負けがちではある。それも不自然なことではない。このクラスひいては 学校の男女の比率は圧倒的に女子の方が大きいのだ。
 もともと女子高だったというのもあるのかもしれないが、クラスに存在する男子は女子七に対して三といった具合で、学年中の男子は入学当初などそれはもう肩身のせまい思いを味わってばかりだった。
 今はそんなことはない。もちろん男女の壁は当然厚いものと昔から相場が決まってはいるものの、この学校の女子は総体的に優しい性格の者が多い。元ではあるが、女子高に入学するのだから男子に対して距離がある人が多いのかなという偏見も今では完全に溶け切った。学校の校訓は自由自立を謳っている。お嬢様学校の気質を引き継いでいる部分が数年前まであったらしい。あった、と言われているが今もその影はひょんな所で現れることがある。
 例えば、五教科の他に選択する選択教科の中に家庭科がある。一年の時は必修だが、二年からは任意選択。先輩によると、昔風に言えば淑女たる者としての嗜みとして裁縫を習うらしいのだが、最終的にはどんな服でも作れるくらいのレベルを求められるらしい。レース縫いなんか何に使うのだろうかと先輩は零していたので、絶対に家庭科は選ばないと決めた。他にもテーブルマナーなども叩き込まれるという。
 学校としてのコンセプトがいまいち不透明だが、歴史ある学校という事で集まる生徒の質は悪くないのだ。昔から地域の住民には評判が良い。
 だから、いじめの噂は今のところ耳に入っていない。加えて男女の中は良好といっていいだろう。特に男子は、同性同士のつながりやコミュニティーは少数派の団結力を見せている。クラス内でもそうだし、別のクラスの男子も皆仲が良い。自分も、すでに一年の半分が過ぎた今となっては同性で名前を知らない者はいない。
 教室の風景に目を凝らしてみれば、ちらほらと固まって話す男子の姿がある。まぁ、結局は男も女も変わらないのかもしれない。
 現在の七海はというと、そのような輪の中に加わらずに机の上に書類とにらめっこをしていた。別にハブにされているとか、友達がいないとかではない。
ただ単に空いた時間をおしゃべりに使うのも惜しいくらいに忙しいのだ。
 去年の学級委員やなんやを決める時、自分は図らずもクラスの書記に任命されてしまった。字は綺麗な方だし、あまり書記の出番なんていうのも少ないからいいかと思って油断していたところ、ありがたいお言葉を頂戴してしまった。各クラスの書記から、生徒会の書記を選ぶのだと。
 数多いる書記の中から、最終的にくじ運の悪さから選任されてしまったのが自分というわけだ。
 生徒会の書記といっても、先輩方のしごきはとんでもなかった。何せ、男子が一人しかいない。
 今年から共学化された桜高は、当然ながら二、三年の上級生たちはすべて女子。そんな女の園もとい女の檻にぶちこまれた当然の帰結として、男手としてびしばしこき使われるハメに。
 なかなかやりがいはあるし、今は学園祭のシーズン。生徒会は目がまわる忙しさで、こうして空いた時間を、まさに間隙を縫う勢いで各クラスから提出されたクラス出展の企画書の束に目を通さねばならないのである。
 だから七海は「ああん、もうっ!」と心の中で叫びながら、血走った目でぎょろぎょろと企画書に目を通していたのだ。たまに指定年齢を敷かねばならぬ内容が出てきたり、思わず唾を吐きそうになる。ぺっ。
 流石に目が疲れてきたので作業を切り上げて、ふと時計に目をやる。あと五分でHRが始まる。トイレにでも行っておこうかと思い、席を立った。
 教室の引き戸を開けたところで、七海はあっと息をのんだ。
 海のような青にぶつかったのだ。それが錯覚だとしても、そう言い表すしかない。ガツンと視界に飛び込んでくる青が全身にがつんと衝撃を与えた。
 それは、ちょうど自分が教室を出るのと入れ違いに教室に入ろうとした人物だった。
 事もあろうに立花夏音その人だった。
 いきなり朝一番でこの顔を直視するのはつらい。それも、こんな事故みたいな形で。
 肩より伸びた真っ黒い髪は造りものみたいにしなやかで、ぱっちり二重まぶたは完璧なラインを見せつけ、そのすぐ下には透き通る蒼い瞳。どこまでも精緻に作られたフランス人形のような顔は、自分と同性なのだということを宇宙の彼方へぶっ飛ばしてしまう。
 女もうらやむ花の如く匂う美貌を有している「男の子」は、七海と同様に急に目先に現れた人間と数センチの距離を保っていることに驚いたようだ。しかし、瞠目した蒼い瞳に映る自分の方がよっぽど猿のように驚いている。
「おぉ……」
 数秒後に彼が呻く。実際に、彼は何気なく「あぁ」と呻いただけなのだが、七海の耳には「Oh...」と聞こえてしまう。
 何せ、目の前の同級生はまるで日本人には見えないのだ。
「ご、ごめんよ!」
 七海は舌をもつらせながら、何とか声を出して彼のために道を譲った。出る人優先、入る人優先。そんなものは知らない思いやりが大切。人一人分空いたスペースにそろりと体を潜り込ませた彼は、通りすがる時に七海に顔を向けた。
「ありがとう」
 微笑みの爆弾投下。羽根が舞った幻覚が見えた気がした。
(奴は……野郎だ……!!)
 七海は自分の顔がぽっと赤らんだ気がした、気のせいに違いない。横を通る時に、超良い匂いがしたとかそういうことは決して思っていない。
 けど、逃げた。七海は脱兎の如く廊下を走りぬけ、トイレへと向かった(男子のトイレは少し遠くにある)。
 そこで素早く用を済ませ、手を洗う。この学校は昨今では珍しくトイレに鏡が設置されている。
ハンカチで手を拭きながら、何気なく鏡の中の自分をじっと眺めてみた。
 頭髪に限らず、全体的に校則が超絶ユルい桜高だが、自分は中学校の時からほとんど変わらない髪型をキープしている。別にこだわりがあるわけではない、ただのスポーツ刈り。いや、実際にはスポーツ刈りよりはお洒落にキメているつもりである。その方がいいと言われ襟足を伸ばしてみたり、前髪眉毛にかかる程度だが、サイドは長めに残している。これらすべてはスポーツ刈りを基本として、派生した現在の髪型であった。
 顔は、自分では悪くないと思っている。良くも悪くも平均的。顔のパーツがどこか極端に歪んでいたりとかはなし、彫の浅い日本人らしい顔ではないだろうか。
人より瞳の色が茶色いことが密かに自慢だが、それが役に立ったことは一度もない。睫毛は奥二重のせいでしょっちゅう逆さになる困りものである。自分の体に特に不満はない。ただ、もう少し身長が欲しいな、と思うくらいである。けれど、自分の間近にあれだけ綺麗な生き物がいると本当に同じ人類かと思う。
 自信がなくなるという次元ではなく、自分と比べる気にもならない。強いて言うなら、美術品……の一種のようなものとして数えているのかもしれない。
 七海はそういえば彼と会話をしたことがないことに気が付いた。
 実はクラスの全員が、その顔や身振り手振りから彼のことを外国人そのものだと思い込んでいた時期がある。
 彼は入学式の時に担任から帰国子女だと紹介された。さらにアメリカと日本のダブルだということを知り、そんな境遇の人間が身近にいることにささやかな好奇心をくすぐられたクラスメートたちはこぞって彼に話しかけた。
 しかし、日本語はある程度できるものだと信じて声をかけると、ちぐはぐな日本語を返される。むしろ、英語を話される事が多かった。英語能力がないくせに、自尊心は何故か高い生徒たちは、自らの英語能力の低さを露呈することをおそれ、彼に話しかけないようになった。
 別に彼が嫌われた訳でもないし、むしろアイツは何か違うよ、と一目を置かれるようになった。七海は席替えの後に隣になった彼の事を特別扱いすることはなかったが、これといって積極的に関わり合いになろうともしなかった。授業は真面目に受けているし、早弁や机にうつ伏せてI Podを聴いているような素振りもなかったので、悪い人ではないんだろうなと思う程度。
 そんな彼が、途中から一部の女子たちと行動を共にすることが多くなった。どうやら彼女たちは同じ部活の仲間――軽音部だったと思う――らしい。お昼の時に一緒に弁当を広げて談笑をするもので、クラスメートも「おや?」と首を傾げるのも時間の問題だった。
 実は日本語が結構できることが判明して以来、彼はクラスの人気者に一気に君臨することになった。むしろ、マスコットだろうか。
 夏が過ぎる頃には、誰もが気軽に話しかけることができるくらいクラスに馴染んでいた。七海は生粋の天の邪鬼気質と少々の卑屈さのせいで彼と話そうとしなかった。こうなってからじゃないと声をかけられなかったと思われたくなかったからだ。
 そんな彼が先日、生徒会の会議の途中に殴り込みにきたらしい。らしい、というのも七海は用事があってその会議に出ることができなかったので人伝いに耳に挟んだだけなのだが。
 そんな突飛な行動をとる人間なんだな、と意外に思った。この時までは、まだその程度の認識だった。
 彼が放課後、再び生徒会室へ訪れるまでは。
  

「失礼します」
 数回のノックの後に生徒会室の扉が開かれ、顔をのぞかせた人物に視線が集まった。誰かが息を呑む音が聞こえ、作業に没頭していた七海もついそちらに視線を向けた。
「軽音部のステージ発表についてなんですけど……あっ!」
 用件を口にしながら部屋に入ってきた隣の美青年だった。彼は七海の姿を認めて驚いたように目を瞠った。
「ちょうどよかった。お隣の七海じゃないか」
 くだけた笑顔を自分に向けてそばに寄ってきた美貌の同級生に七海はどぎまぎした。そして、今なんか下の名前を呼び捨てされた気がした。
「や、やあ。僕も一応生徒会だからね。軽音部の発表がなんだって?」
 あくまで冷静な対応をとれたつもりである。七海は椅子を一つ用意し、彼の話を聞く態勢を整えた。「ありがと」と言って、大人しく椅子に座った彼はまっすぐに七海の目をのぞき込んで用件を話し始めた。
「軽音部の発表時間が二十分、ていうのは構わないんだ。オリジナルの曲も二曲しかないし、あとはコピーの曲を二つほどできたらいいなって思ってる。けど、この発表の枠がちょっとまずいんだ」
 そう言って渋面をつくる夏音を眺めて、七海は美人はどんな表情でも美人に変わらないんだなと感心した。
「まずいっていうと?」
「体育館でやるから、アンプの生音だけでやるには限界があるんだ。聞けば、この学校の学園祭はまともなスピーカーも、ましてやPAも用意しないんだってね……ちょっと信じられなくて」
「はぁ……それが、どう問題なのかが僕にはわからないんだけどな」
 事実、今までそうやってきたのだから問題はないはずだ。七海は、彼が何に不満を抱いているのか全く要領がつかめなかった。
 すると彼は七海の返しに、大袈裟にはぁーっと肩をすくめた。そんな仕草がいちいち似合っていて、不思議と不快ではない。たとえそれが馬鹿にされたのだとしても。
「いや、ごめんね。プロのライブっていうのがどうやって成り立っているかわかる?」
「ごめん、見当もつかない」
 コンサートに行ったこともないから、わかるはずもない。七海は正直に首を横に振ると、そうだろうと鷹揚に頷いた夏音が神妙な表情で解説し始めた。
「プロミュージシャンは大きいステージで演奏をするだろう? それこそ観客が何千、何万と入るくらいのステージでやる人もいる。彼らの演奏は全て機材をマイクで拾ったりラインで出力したものを巨大なスピーカーを通して観客に届けるんだ。そのステージ全部に音がしっかり行き届くようにね」
 七海は彼の講釈を黙って聞いていた。そう言われると、確かにそうなんだろうなと思う。それくらいは、演奏について素人である七海も理解できる。
「だから……つまり、そういうことなんだ」
これからさらに展開されると予想された彼の理屈はそこでぶったぎられた。
「えぇっ!? そういうことって、そこで終わっちゃうの?」
 得意気にミニ講義を始めたのだから、殊更もっと深く入りこんだ説明があると思っていた七海はぶったまげて思わず声をあげた。
「理解できなかったの?」
「今ので何を理解しろと? ねえ、はっきり言って何が不満なのかな」
 七海の反応に、それは小さな首を傾げて心の底から「あなたがわからない意味がわからないの」とでも言うような仕草をされた。それがたまらなくめんこいとしても、そんなことは関係なく七海は冷静に訊き返した。
 彼の本意が全く理解できなかったので、ざっくりと要望を教えて欲しかったのだ。しかし、その後に続いた沈黙に七海は「あれ?」と焦った。何故、この男は何も答えないのだろうとだんだん空恐ろしくなった。例えるなら、嵐の前の静けさ、みたいな感覚。
 七海がツバを呑んでじっと夏音を見詰めていると、彼はふいにその小さな肩を小刻みに震わせたかと思うと、がばっと七海に詰め寄った。
「音が小さいんじゃーっ!」
「え!?」
「こじんまりとした音でなんかしたくないの! もっとどかーんと自分たちの演奏を体育館に鳴らしたい! 屋外にだだ漏れになるくらいの! わかるかなーわかるよねー!?」
「揺れる揺れる! 脳みそ出る!」
 ぐわんぐわんと肩を揺すられ、半分ほど脳震盪に近い状態の七海。
「PAは自分でやります! 機材運びの人材はこっちで確保するし! ステージ設営は最小限に抑えて、他の発表の迷惑にならないようにもするよ。なんなら、でかいスピーカーは学園祭中ずっと他の出し物でも使ってもいいよ? だからいいでしょ、ねえ!?」
 七海は人畜無害の草食動物に襲われた気分だった。可愛い兎ちゃんにがぶっとやられた感じ。
「わ、わかった! 前向きに検討して……」
「Shut up Jap!! これだから日本人は……それはNOってことだろう!?」
「で、ではとりあえず生徒会で話しあってみるよ! できるなら君の意見を通すよう善しょぐふっ……!!」
「検討、善処という言葉に注意しろと言われている」
「もー、なんとかすっから! 絶対! だから、もう揺らさないで!!」
 七海が息も絶え絶えそう言うと、ぴたりと夏音の手が止まり、我が意を得たりとにやりとした。
「本当?」
「が、がんばってみる」
「プロミス!」
 夏音がいきなり小指をすっと七海の眼前に差しだして言ったので、七海は息を凝らしてその意を探った。もう背中に汗がびっしょりだ。
「………プロミス」
 すると、再度夏音が七海の目をしっかりと見据えて呟いた。
「ぷ、ぷろみす!!」
 約束ということか、と遅ればせながら理解した七海はしっかりとその小指に自分の小指を絡めた。そんな仕草は木村拓哉以外に許された行為だと思っていなかったのに。意外なことに、彼の全体像からは考えられないほど彼の手はがっしりとしていた。指も細いとは言えないし、なんともアンバランスな感じである。
「じゃあ、頼んだよ。ありがとうね!」
 満足そうに笑って頷いてから、彼はささっと生徒会室から出ていった。夏音の姿が扉の向こうに消えたのを見て、七海は一気に脱力した。
 わずかに残された気力でせいぜい椅子に座っていられるといった具合である。彼とほんのわずかやり取りを交わしただけで、どっと疲れてしまった。なんというエネルギーを持っている人間だろう。周りの人間は彼とまともに相手していたら、身がもたないのではないかと思う。
(でも、いやではなかった……かな)
 ふと、彼と交わったばかりの自らの小指を見つめる。そこで初めて七海は妙なプレッシャーを感じた。そして自分が今まで室内の人間の注目を集めていたことに気が付いて顔を真っ赤にさせるのであった。

 
 夏音は悠々と廊下を歩いていた。その歩みはどこかウキウキとして、快調に階段を数段飛ばしで軽音部の部室へ向かった。扉を開けると、いつものようにお茶をする彼女たちの姿―――はなく、楽器の用意をする姿があった。
 もう学園祭は間近。一同の気持ちがしっかりとライブに向いている表れである。
「ステージの件、どうたった?」
 夏音の姿を認めた澪が開口一番にそう訊ねた。
「うん、何とかなりそう」
 夏音もそれに笑顔で答えた。幸い、生徒会には知り合いが二人もいるし、先ほど十分にゴリ押ししてきたので良い方向へ向かってくれそうだという好感触をつかんで帰ってきた。
「それにしても、機材とかは本当に何とかなるのか?」
「それについては、大丈夫。心強い知り合いがいるし、あとは時間だけもらえらばなんとかなるよ」
 大船に乗ったつもりでいて、と胸を張る夏音に何とも言えない笑みを漏らす一同だったが、とにかく全員が集まったところで練習を始めることにした。
 他の者が各々の楽器を自由に鳴らしているなか、夏音は素早くギターのセッティングを済ませると、ふとギターをスタンドに立てかけた。
 続けて、タタタと小走りで部室の奥に走っていき、そこからまた別のギターケースを担いで持ってくるとその中からベースを取り出した。
 その様子を見ても、誰一人不思議がる者はいなかった。そういうことになっているからだ。
 今回、軽音部は二曲のオリジナルを用意した。
一曲は、合宿で作ったもの。そして、もう一つは夏音がベースを弾くもの。夏音がベースを弾きたいという我が侭を叶えるための曲であり、かつ悪ふざけで澪にヴォーカルをさせようと考えた結果できたものである。
 夏音がギターヴォーカルをやる曲の方は、澪作詞によって「ふわふわ時間」というタイトルに決まった。夏音は、歌詞の意味がよくわからなかったが、この曲がとんだキワモノになったということだけは理解した。
 夏音がベースの方のセッティングをしていると、律がドラムを叩く手を止めてじわりと額に滲んだ汗を拭く。ぬるくなったペットボトルの水をぐいっと呷ると辟易しながら胸元に手扇で風を送った。
「あっちー。そういえば、もういっこの曲の歌詞はできた?」
 自分に対して訊いているのだと気づいた夏音はちらりと律の方に目をむけてこくんと頷いた。
「できたよ」
「本当っ!? 見せて見せて!」
 それに対して大きく反応した唯は瞳を輝かせて手を振り回した。その際、手が弦に引っ掛かって不細工な音をたてる。夏音はケースから折りたたんだ一枚の紙を取り出し、それを広げてみせた。
 わくわくと擬音が聞こえてきそうな唯をはじめ、他の者もそろそろ集まってその紙を覗きこんだ。
「Walking of the Fancy Bear……?」
 澪は、その英語の題名を読み上げるとはうっと身もだえた。
「クマさん……っ」
 彼女が何を想像したのか分からないが、苦笑を浮かべた夏音はすぐに訂正を入れた。
「気まぐれ熊の散歩、ってとこだよ」
「す、すっごくイイ!!」
 唯は子供のように瞳を輝かせたが、歌詞を追っていくうちに一筋の汗が額を伝った。
「でも、夏音くんコレ何書いてるかわかんないよ」
 というのも、歌詞はすべて英語であったのだ。英語の成績が芳しくない唯は困り顔でお手上げとばかりに歌詞から目を離した。英語の羅列が足にまできている様子だ。
「英語だけど、何か問題かな?」
 まさか英語がまずかったとは夢にも思わなかった夏音は予想外の反発に目をぱちくりとさせた。弱ったな、と律は頭をかいた。
「問題ではないけど……歌詞の内容がわかる人が少ないんじゃないか?」
「別に、わかんなくてもいいと思うんだけど」
「そこは、ちゃんと歌詞も聴いて欲しいところだろ?」
「そうかな。別にこの曲は歌ものじゃないし、かまわないと思うんだけどな?」
 英語の歌詞である以上、大半の生徒がその内容を聞きとることができないだろう。しかし、夏音としてはその曲の特色によってそれは考え分けるべきだと思うし、今回自分が作った曲はけっこうえぐい。歌ものではないのだから、歌詞を聞き取ってくれなくても結構、と考える。
 そもそも、日本人は英語を歌うバンドのライブとかにも結構行くではないか。
「ヴォーカルの譜割とかも考えちゃったし、今更変えるのもなぁ」
 まさか反対意見が出るとは思わなかった夏音は、今さら日本語の歌詞に帰ることに難色を示した。
「これ歌うの、澪だろ? 澪の意見も聞いてみようか」
 急に話を振られた澪は、えっと声をあげたがそっと顎に手をあてて思案してから口を開いた。
「私は、このままでもいいと思う。曲って歌詞も大事だけど、それ以上に重要なこともあると思う。夏音の言うとおり、歌詞をしっかり聞いてもらわなくてもいいんじゃないかな」
 その言葉を聞いて、律がむぅと唸った。
 意見としては、それも十分アリだと思う。しかし、せっかく自分たちで作る曲なのだから、歌詞も印象に残したいというのが彼女の考えであった。
「律」
 考えこむ律に夏音の声がかかる。
「律は洋楽を聴いて、一発で好きになっちゃうことあるだろう?」
「まぁ、あるけど」
「その時、歌詞の内容に心を打たれるか?」
「あ……それはないな。何言っているかわかんないし」
「つまり、そういうことだよ。そこにこだわることも大事だけど、今回はこのままで行こう。時間がないんだからさ」
「むぅ……私は、別に……」
 顔をそらして、頬を膨らませる律はこれではまるで自分一人がゴネているみたいじゃないかと思った。
「じゃ、決まりで!」
 夏音はそんな彼女の反応を見て、にかっと笑った。見たものが肩の力を落としてしまうような無邪気な笑顔だった。


 七海は先日に二つ返事で受けてしまった―――正確には、受けさせられた―――件について、まさに東奔西走の忙しさを絶賛体験中であった。責任感だけは人一倍強い七海は、一度受けてしまったことは必ず完遂してみせるという信念をもっており、まずは生徒会の内部でこの案件を通すことに始まり、放送部や運営委員会にまで根回しをした。
 特に放送部を説得するにいたっては、だいぶ話が難航した。彼らは、そもそも素人の集まりでしかないし、自分たちの慣れている機材だけで必死なのである。
 外部からの機械など、恐ろしくて手がつけられないと恐慌していた。
 しかし、そこはやり手の七海(そう自負している)は上手いこと舌先で話をまとめて言いくるめた。それらの機械は、専門の人がやってくれるから君らはノータッチでいい、と。実際、夏音がそこまでの人員を用意してくるかは怪しかったが、そこは無茶を言いだした張本人なのだから、責任は負ってもらう。必ずや。
 あれからもう一度夏音と会った際(隣の席なのだから、当然のことだ)、メールアドレスを交換したので、詳しいやりとりはほとんどメールで済ませた。

 彼の要求は、きちんとしたセッティングの中でステージをやりたいとのこと。
 そのためには、スピーカーやマイクをつなぐミキサー卓が必要であり、そのセッティングはおいそれと数分でできるものではないこと。いっそ面倒だから卓を学園祭の間中ずっと固定しておいて、他のイベントやステージ発表の時のマイクでも使用してしまおうという提案がなされた。
 しかし、その提案には頷きがたい理由が七海にはあった。
 答えは簡単、邪魔だから。
 ステージ発表などには、舞台演劇なども含まれる。劇の最中に、どでかいモニター用のスピーカーが放置されていたら目だって仕方がないだろう。
 だから、現実的にはセッティングをしてから片づけまでを軽音部の発表に合わせて行う方法しかないのだ。
 二つ目の要求としては、リハーサルないし音づくりの時間が欲しいとのこと。
 モニターから返ってくる音の調整や、外部のスピーカーの音のバランスなどを合わせる作業が必要らしい。
 これも、聞けばセッティングから始めて、かなり大雑把にしても一時間はかかるという。
 ここまでこだわるのか、と流石に七海も天を仰いだ。
 こんな要求をしてくるのは、前代未聞らしい。そして、その苦労を一手に引き受けているのは自分である。
 とんだ貧乏くじをひいてしまったと、もう笑うしかない。
 様々な機関と調整した結果。すべての人材を軽音部で用意すること。セッティングからリハーサルまでをきっかり一時間で終わらせることを誓ってもらうことで、実現までこじつけた。
 しかし、軽音部の発表の時間帯を調整することでそれは何とかなりそうであった。各ステージ発表の順番が決まる中、軽音部は休憩後に出番をむかえるようにしたのだ。
 休憩(五十分)→軽音部発表(二十分)→ジャズ研発表(十五分)→ステージ発表終了、となるように配置した。それによって、休憩中にセッティングをして音出し。発表を終えた後、ジャズ研の発表を次にもってくることで設備を共有しようとのことになった。
 双方のアンプ機材は違うが、そこは微調整して何とかなるだろう、とのこと。
 七海は、頑張った。
 この年にして、靴の底を減らして頑張った。誰か自分を褒めて欲しかった。
「いやーー!!! 本当にありがとう! 助かったよ! 君のおかげだね!」
そして、今自分の手を握ってぶんぶん振りまわしてくる男を前にして彼はげんなりとしていた。
 周りの視線が痛い。
「わ、わかったから……これで、お望み通りだろう?」
「パーフェクトだよ! いやぁ、親切だねアンタ!」
 七海は、目尻にうっすら涙まで浮かばせて喜ぶ美人の同級生をじっくり眺めた。人形みたいと思っていた顔だが、その様子を見ると自分と変わらない、ただの子供の表情だということがわかる。なんだか、無防備な表情を自分に見せてくれていることが無性に嬉しかった。
「別に、大したことじゃないよ。役に立てたなら、よかった」
 心の底から、見栄を張っているわけでもなくそう言うことができた。七海は、少しだけ達成感や満足感というものを覚えて体がこそばゆくなった。
「Thank you friend!!」
 そうやって握っていた手を七海の背中にまわしてきた夏音に七海の思考は停止した。
 ハグ。
 これは、俗に言うハグ。
「は、はぐあぅはぅぐぁーーーっ!!?」
 一見、女の子にしか見えない同級生に抱きつかれている。髪から良い香りがしたとか、やわらかいとか。途切れそうになった意識の外では、黄色い声があがった気がする。
 七海は、自らの生命の防衛本能によってなんとか彼の肩をつかんでどんと押し返した。
 恐ろしく簡単に引きはがせた夏音は、よっぽど体重が軽いのだろう、数歩転びそうになりながら下がった。
 しかし、そんなことには構っていられなかった七海はゼェゼェと肩で息をしながら虫の息だった。
「は、―――」
 何とか搾ったように押し出した声に、夏音は目を丸くして「は?」と聞き返した。
「ハジメテなのにぃーーっ!!!」
 そう言って、七海はほうほうの体で何事かわめきながら逃げだした。 大人しい奴だと思っていたお隣の同級生の奇行に、取り残された夏音は首をかしげた。
「変な人だなー」
「夏音、今の悲鳴なに? この世の終わりみたいな凄惨な響きだったけど」
「んー、よくわからない。夏だからじゃない?」
 


 ※前回から時間があいてしまいました。そろそろその他に移動しようかと無謀にも考えているのですが、どうでしょうね……。



[26404] 第十一話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/04/07 03:12

「はい、スネアくださーい」
 カン、カン、と8ビートを刻むスネアの、どこかぎこちない音が硬く響く。
「つぎーハイハットお願いします」
 薄暗い体育館にはちらほらと一般生徒がいるだけで、がらんとしている。人が少ない広大なハコに響くのは、時々マイクを通したPAの人の声とドラムの音。
 静寂と木霊する打楽器の間にはどこかしら緊張を孕んだ空気がぴりぴりと漂い、その作業を見守る者はそろって口をつぐんで額に流れる汗をぬぐっていた。
「ね、ねえ夏音。私の音、どこかおかしくないよな?」
 夏音がステージを下りたところで、外音にじっと耳をすませていると、ベースをスタンドに置いた澪がステージを降りてきた。
「まだ、何とも言えないね。もう一度ちゃんと音聴くから。次、ベースだよ。ほらほらしっかり!」
 そんな彼女の緊張をほぐすようになるべく明るく声を出すと、彼女は顔を強張らせながらも微笑もうとした。失敗したが。軽く笑って頷き返すと、夏音はステージに足を向けた。後をついてくる澪は傍目にバレバレなくらいガチガチで先ほどから緊張を空気感染させている。
 足がガタガタと。動悸もかなりやばい。澪が緊張に弱いことなど、今さら確認するまでもなかったが、こんなになるまでガチガチになるのを見ると、本番での演奏が不安である。
 緊張は仕方がないことだし、適度な緊張は精神を冴え渡らせることもある。とはいえ、澪の縮こまり方は身体に余計な力が入ってまともな音を出せないではないかと懸念された。 
 とりあえず夏音ができることは本番までに彼女をなるべくリラックスさせる努力をすることだけだ。
 段取りは事前に説明はした。とはいえ、全てが初めての体験に違いない。彼女達がライブを作り上げるのに必要不可欠なリハーサルの空気にびびってしまうのも無理はない話だ。
 PAの指示は手慣れているものだったが親切である。今回、PAに関してだけは外部の人間を呼び寄せた。ちょうど夏音が日本に来てからレコスタで知り合った新米の斉藤という男が夏音の頼みを快く引き受けてくれたのだ。彼の経歴はスゴイ。 エンジニアを目指して音響の専門学校を出た後、すぐにそこら辺のレコード会社などに就職して下積み修行……をしないで単身で渡米。向こうのライブハウスでバンド活動をしながらバイトをして、幾つもの生の音を耳に入れて過ごした。
 そのうち、運良く出遭ったハリウッドの音響関係の仕事をしている人物と懇意になり、アシスタントという名の弟子になった。弟子といっても全く仕事を回して貰えない訳でもなく、実際に向こうで仕事を任せてもらえるようにもなったところで日本に帰ってきた。
 何でそんな惜しいところで、と気になった夏音が彼に尋ねると「向こうのB級映画の音響チームに入る機会があったんですけど……外れでした。B級のくせに気取った感じで、B級の誇りがないのか! って感じで。腐ってもプロで、自分なんかより数倍もマシな仕事するんですが、姿勢とか、合わなくて……」と照れくさそうに語った。
 その後、ツテというツテを使って今のポジションにいるらしい。
 夏音は彼の姿勢を感じ取って、いたく感銘を受けた。この業界にいると、そういう熱い志を持っている人間と出逢えるのも醍醐味だと思った。
 音響エンジニアといっても、その仕事の幅は広い。素人が想像するより、遙かに広い。彼は将来的には有名バンドやアーティストのレコーディングを担当したいと意気込んでいる。独特の訛りはあるものの、英語もばっちりなので、海外アーティストとの仕事には重宝されるだろう。
 夏音はそう思っても気軽にできるさ、とは言わずにその場は黙って頷いていた。
 そんな彼は、こういうライブの現場の仕事も大好きだそうだ。機材運びなどの肉体労働は疲れるが、現場だけの仕事だけは離れたくない、と。だから夏音は彼にすんなりこの話を持ちかけることができた。
 いや、その話をした時に「うっそっ! ちょ、マジでっ! あのカノンさんが!? JKがJKでJKとJKによる学祭ライブ? クソあがるわーー!!! 自分を指名してくれてありがとうございます! 仕事あっても空けていきます!」と意気込んできた。いや仕事は優先しなさいよ、と夏音は突っ込んだ。
 結局、仕事と重ならなかったのは幸いだった。
 当日、見知らぬ男性が大量の機材を携えて現れるのを他の軽音部一同は呆然としながら受け入れるハメになった。どこからこんな人を借りてきたのか、と問いただされたが夏音は「お、親の知り合いやねん」とその場しのぎの関西弁で誤魔化した。
 ステージセッティングなど絶対にできそうもない女子高生と、その気になればセッティングはできる華奢な男子一名だけでわずかな時間内に作業が終わるはずがない。
 機材を運ぶ役は女手にも任せたが、細かいワイヤリングやマイキングは全て斉藤と夏音だけで行った。普段、アーティストとエンジニア。その関係の二名がこんな仕事をするはずがないので、かえって新鮮だったがタイムアップまで鬼気迫る様子で作業を進めていく二人の姿を誰もがぽかんとしながら見守っていた。
「イヤー懐かしいですねー! 学生の時、こんな風に講堂とか体育館のセッティングしていましたよー」
 まあ、彼はやけに嬉しそうだったが。そう話しながら神速でケーブルを巻き上げていく姿は格好よかった。流石、プロの仕事である。
 セッティングといっても、各アンプとドラムにマイクを当てる。モニターと外部スピーカーだけである。
 そこまでステージの設計を終えると、後は彼女達にも出番がまわってくる。

「次、ベースお願いしまーす」
「ほら、澪の番だよ」
「は、はひゃっ!」 
 澪がびくっとしてストラップの位置を直した。さっきから何度目かわからないストラップ位置修正。どうも収まりが悪いらしい。どうやら彼女は寝よう寝ようと思って身体の至る所がかゆくなるタイプの人間らしい。
 手元のボリュームをフルテンにした澪はオリジナル曲のフレーズをループして弾く。彼女が高出力のアンプ、またスピーカーから放たれるどでかい音に気後れしているのがわかった。どうもボリュームを出すのを惜しんでいるというか、普通に弾けば良いのにメゾピアノ。
 PAとの作業というのは、外のスピーカーの音のバランスを整えたりする。ドラム、各アンプにセットしているマイクで音を拾ってスピーカーから流す。各楽器の音を順々に合わせていく作業は、たいていはドラム、ベース、ギター、キーボードという順になる。学期毎に使用するエフェクター、音量をPAに伝えるのが演者の役目だ。
 夏音はジェスチャーでもっと思い切り弾け、と澪に伝える。するとアンプから出てくる音が一・五倍くらいの大きさになる。斉藤が少しだけにやっとしたのが見える。しきりにステージと卓を行ったりきたりして、適当なところでOKの合図が出た。
 今回のセットリストは異色である。ベーシストが交替して、澪から夏音へと弾き手が代わるのだ。
 夏音の場合、使用するエフェクターが多めなのでしっかりと音作りをせねばならない。次々と斉藤と掛け合って確認作業を進めていく。シールドを伸ばしてステージの下で外とのバランスを自分で見たりして相談を重ねた。
「後ろから聴いてどう?」
「いやー、結構色んなところハウっちゃってますねー。あの天井とかだよなー。あと、あのめちゃくちゃ立て付け悪そうな窓。とりあえず、めっちゃ削りまくってなんとかしてます」
「どうしようかなー。元々、バンドのために作られてないからねー」
「時間かけたらどうにかなりますけど、まあそこまで支障ないです」
「そっか。あ、ちょっと全体的に中で上げるから外小さくして」
 みたいなやり取りが続き、夏音はベースを置くと次にギターの番に。同じようにギターの方の確認が終わると、その後は唯、ムギ。最後にヴォーカルとコーラスといった順でリハーサルはまわっていく。
 一曲目から二曲目への流れと一コーラスを確認すると、リハを終了した。
「OKでーす、本番よろしくお願いしまーす!」
 斎藤の言葉にメンバーはすごい勢いで頭を下げ、「よ、よろしくお願いしまっふ!」と勢いづいた。それを見てまたもやくすりと笑った斎藤が伸びをしてPA卓前の椅子にどかりと腰を下ろした。本当にお疲れ様です、と夏音は心で何度も頭を下げた。
「ふー……案外余裕あったね」
 夏音が時計を確認すると、休憩時間終了まであと二十分もあった。
「そろそろ衣装着ちゃわないとなー」
「……………衣装、か」
 あの衣装を着ねばならないのか。もう避けようのない未来は目の前に。夏音は肩を落としてステージ裏に向かうのであった。 




 桜高祭、といえば地元では有名なお祭り行事の一つである。生徒の保護者をはじめ、地域の住民や他校の生徒までもが普段開かれることのない門を堂々とくぐることができる一大イベントといったところか。
 近年、学生による文化行事への厳しい姿勢をとる保護者、各教育関係者たちが増えているせいで近辺の学校の文化祭がぎくしゃくとしている中、校風に謳っているように桜高祭は生徒の活動の自由度がかなり高い。泊まり込みも可能、火器の使用可、などと他校よりも緩い態勢である。
 その代わり、生徒は自分たちの企画した出し物については企画からすべて自分たちで行わなければならない。資金繰りや、人員配備、飲食を扱うならその材料の調達ルートまでもが自分たちの手で確保しなければならない。そこには、一つの目標に対しての重い責任や物事の達成を学ぶ桜高の教育姿勢があらわれている証拠でもあった。



「つーわけで、お化け屋敷をやるわけになったのでっした!」
 夏音が風邪をひいて学校を一日だけ休んでいる間に、クラスの出し物が決まっていた。お化け屋敷、企画立案はそれを告げた張本人の律。
「お化け屋敷……てなに」
 ばーんと両手をひろげて開口一番にそう告げてきた律を宇宙人でも見るような目で見詰めた夏音。反応が鈍いことに首を傾げた律が「あぁー」と首肯して説明を加えた。
「知らないのかー? 日本の伝統行事だよ。教室をまるまる一つ使って肝試しをするのさー。うらめしや~、ってね!」
「いや、お化け屋敷は知ってるんだけど。何でそんなけったいなものを?」
「けったいとか平気で使う帰国子女の方がけったいだ。ていうか、定番じゃん」
 定番だから、と単純な理由だが夏音は思い切りしかめっ面をした。
「面倒くさいのはいやですー」
「だーいじょうぶ! 小道具とか作ったり、みんなで作業するのとか面白いって! きっ
と!」
 おそらく律とは決定的な感覚のズレがあるのだろうと思った夏音はそれらしい理由を言い添える事にした。
「でも、それだと軽音部の練習だってあるのに時間をとられちゃうでしょ?」
「それもだいじょうぶ!」
「……ぺっ」
 態度を揺るがせない律に夏音はついつい口でつくられた分泌液を吐きだした。
「えぇっ! 今の会話の中でそんなんさせちゃう要素が!?」
「新曲のギターソロ終わりのフィルでいまだにもたつく奴が何を自信満々に言っているんだろうと思ってね。できるようになったのかしらー」
「う………だって、あの変拍子のところむずかしくて……」
「練習しろよ」
「夏音があんな変態な曲作ってくるから!」
「この口かーそんなことをほざくのは。口に靴下をつっこんでやろーか!?」
「ひぃーー!!」


 というやり取りがつい二週間くらい前にあったのだ。
 練習もしなくてはならないのに、クラスの出し物に時間をつぶされるのは歓迎できない。もちろん夏音は学校祭がどういうものか知っていた。定番だし。学園ものには欠かせない要素の一つである。学祭が存在しない青春ものなんてないはずだ。
 だが、クラス展示の作業はいつやらねばならないのか?
 放課後、である。
 夏音にとって放課後は何をする時間か。音楽をやる時間だ。また、お茶をして駄弁る時間。
 てきとーに参加してブッチしよーと考えていたのだが。
 現実はそう甘くはなかった。

「夏音くんは猫娘ねー!!」
「キャーーキャーーー」
 キャーキャーという黄色い悲鳴をバックに、夏音は固まった。
「パードゥンミー?」
 耳には入ったが、頭に入らない。夏音の中の夏音が神経をせき止めているに違いない。精神の安全を守るために。
「もう今さら変更は無理なの!」
「多数決だからね!」「民主主義ですもの……ふふっ」
 夏音がぼんやりと学園祭早くこないかなー、などと呆けているうちにクラスの女子たちは秘密裏に動いていた。
 お化け屋敷というのだから、脅かし役も当然ながら必要である。
 その脅かし役に見事抜擢されたのはクラスのお人形さんもといマスコットにいつの間にか祀り上げられていた夏音。いらぬ鉢がまわってきた……とまでは夏音も飲み込める。そこまでは。
 しかし、よりによってその役が猫娘。娘ってなんだろう。日本語の辞書をもう一度引いてみようかな、いや、やっぱありえないだろうおい、殺すぞというツッコミもなすがままに力失せて地面に墜落した。同時に、これから男としてのプライドも墜落する予定である。
 目の前の瞳を輝かせた女子の壁は、暗に『てめー逆らえると思うなよ?』とプレッシャーをかけられているのだろう。夏音は心の中でひっそりと涙を流した。
 後日、女の子用の浴衣を朱色に染め上げ、何故か裾をかなり短くされた衣装を目にした時は胃から何かがこみ上げてきそうだった。なんか、こう世紀末の大魔王的ななにかが。
 まあ、衣装の完成品は割と凝った出来でさすが手芸部が在籍しているだけあった。
「違う違う! そこはこう、いーい!? こう、足をあげて『ニャーー』よ!」
「にゃー」
 しばらく放課後にクラスの女子にそんな指導を受けることになったのだ。

 
 かくして学校祭当日を迎える事に。
「というわけで、はいコレ。猫耳」
 喜々として自分のメイクを担当している女の子が仕上げのアイテムを渡してきた。
「あ、泣いちゃだめよメイクがくずれちゃうじゃない!」
 知るか、と答えたかっただって男の子だもん。 

 実に本番の五時間前ほどの話である。

 さすがに軽音部の活動があることも承知してか、本番より前の練習には解放してくれる手筈になっているのは僥倖。
 しかし与えられた役を健気に果たしていると、次の客が歩いてくる音がした。
 夏音は、さて次に自分の魔の手にかかる哀れな客は誰か、と舌なめずりをした。既に割とノリノリである。しかし、彼はその人物の顔を見てぎょっとした。
 何故か怖がりの澪がふらふらとお化け屋敷に入ってきたのだ。ぎょっとしたのには色んな理由があるが、第一は真っ正面から今の自分の格好を見られるという極刑にまさる事態が起こってしまうというもの。
 澪はあまりクラス展示に関わっていなかったから、夏音の猫娘姿を知らない。知られたくもなかった。
 彼女は明らかにビビりまくり、へっぴり腰のままのろのろと歩いてくる。その距離、五歩分ほど。
 夏音は腹をくくり、澪の前に飛び出た。けたたましい妖怪の咆哮をあげながら。
「ニュィヤーーッハァーーッ!!!」
「キ、キャーッ!!!! んむぐっ……んぅーーー!! ニャーーー!!!」
 突然目の前に現れた妖怪・猫娘が現れ、しかも割と乱暴に襲いかかってきたことで澪の恐怖メーターが瞬時に吹っ飛んだ。
「ニャーーー、見るな叫ぶな見るニ”ャー!!!!」
 夏音は恐慌した澪をかついで、先に入ったカップルをひゅんっと追い抜いて出口から彼女を放り投げた。その後、猛ダッシュで元来た道を疾走する猫娘にカップルの男性の方が「キャーッ」と甲高く叫んだ。
 今ので猫娘十回分は疲れた、と夏音は汗を拭った。
 急にお化け屋敷の出口から飛び出てきた女子高生が白目を剥いて泡を吹きながら気を失っている光景に、「オイ……やべーぜ…………ココ」という噂が飛び交うように広まって大反響を呼んだ。



 そんなごたごたをこなした後、夏音の役目が終わった。夏音によってがっつりハードルがあがったお化け屋敷、後任の猫娘の子は相当の苦戦を強いられたと聞く。
メイクを落としてやっと苦役から解放されたと思いきや、全員が部室に集まったところで悪夢は更新される。


「みんないるわねぇー?」
 曲を二回ほど通して最終確認をしていたところ、さわ子が軽音部のドアを蹴破ってきた。
 ニッコニコと。その様子が「みんなのさわ子先生よー」というオーラを全身で振りまいていて、夏音はその表情をみて、ふと悪寒が走った。すぐ後に自分の勘はそれは大したもんだったと知ることになる。
「先生ぇ、どうしたんですかー?」
 鼻息荒く、尋常じゃない様子のさわ子先生に瞠目した唯が訊ねる。
「ふふーん、不本意ながらも軽音部に顧問になったことだし! 何か手伝えることとかないかなーと思ってぇー……衣装作ってきましたーっ!!」
 やんややんや。まさか半分以上が脅迫によって顧問にさせたさわ子先生がよもや自分たちのためにそんな手間をかけてくれるなんて。
 皆の表情が先生へ向けて尊敬を表すソレとなった。
「衣装ってどんなんですか!?」
 律がまるでしっぽを振った犬のようにさわ子先生のもとへ駆け寄る。
「見て驚きなさい。コ・レー」
 ぞくり。
 フリッフリのロリッロリ。
 あれである。今流行りのゴシックなんとかという。
 夏音は目をこすって、その衣装の中に男物がないことを疑った。
「先生……その」
「なぁに、立花くん?」
「俺の、は?」
「え、これだけど」
 スカートなんだけど。
「これ、男のじゃないですよね?」
「えっとね? 先生、女の子の服しかつくれなくてー、ごめんーみたいな?」
 絶対、嘘である。
「スカートなんだけど。俺、この年でスカート穿かなきゃいけないんだけど。ていうか、完膚無きまでにゴスロリ? ってやつなんだけど」
「大丈夫! あなたに着こなせないはずないから!」
 親指を立ててこちらにびしっと向けてきた顧問。あぁ、その親指を下に向けてアンタに返したい!
「拒否権は?」
「ありません(はーと)」
「うふふ、そんな~」
「じゅるり」
「もぉ~~先生とっとと消えてくださ~~い。ハートもまともに変換されないくせに」
「あらー何か言ったかしらー」
 火花が散る。絶対にさわ子は夏音に恨みを持っているはずだったのだ。これは体よく仕返しできるチャンスと踏んだに違いない。
「あー……ま、まあ夏音なら、ねぇ……?」
 律が同情めいた視線を送ってくるが、そう言っている本人も顔が引き攣っている。だって、とってもフリフリ。
 断固拒否したいところが、目の前に自分以上に気の毒な人間がいることで心の均衡を保とうとでもしているのか。
「こんな姿が知られたら……あいつにみられたら……」
 もう、二度とプロのステージには復帰できないかもしれない。さわ子先生が用意してきた衣装は、それくらいの破壊力を有していたのである。



 それを着て、これから観客の前で演奏しなければならない。
 本番前になると生徒もぞろぞろと体育館に入ってくるので、外に出られなくなる前に夏音は斎藤のもとへ向かった。
「あ、カノンさん。どうスか、調子は?」
「すこぶる……いいよ」
 夏音に気付いた斎藤がパイポを加えながら夏音に声をかけたが、それに対する返答は実に歯切れ悪い。当然だ。
「あのね。今日、目にすることは一切他言無用だということは話したよね?」
「ええ、もちろん! ここで聴いたり見たことはすべて秘密ですよね。わかってますよ。ギャラも弾んで、タダ同然でこんな面白そうなもの見られるならいくらでもお口にチャックしちゃいますよーぅ!」
「ホントにホントだからね」
「はいはい。スィークレットですよね!」
 この男、発音が悪いのだ。
「絶対に秘密だよ」
「ひみとぅーですね」
 おまけに結構バカだったりするから信用ならない。
「信用していないワケではないんだけど、念のためにね。釘をさす、ていうんだっけね」
「だーいじょうぶです!」
「よろしく頼むよ、ホントに……」
 念には念をだ。言いたいことは言ったので、さっさとステージ裏に向かう。
 数回ノックして、「どうぞー」という応えが返ってきた。
 ステージ裏の放送設備が置いてある部屋では、すでに衣装を着込んだメンバーの姿があった。彼女たちのソレは、似合っているのかは別として可愛い仕上がりとなっている。これを拝めるお客さんは眼福ものでしょう、といったナリだ。
 彼女たち、であったならば。

「コンナンデマシター」

 彼女達の後、そそくさと影で着替えを済ませた夏音は生気の抜けた顔で自らの格好をさらけ出した。もうこの視線が痛い。むしろ、くせになりそう。
「似合っている、よ……ねぇ?」
 ねぇー、と近所のオバチャンみたいな澪にふられたメンバーは夏音の姿に釘付けとなった。
「に、似合いすぎて逆にどんびきっていうか……」
「お人形さんみたいねー素敵ですよー」
「あぁ、ヤメテ。そんな言葉はいらない。泣きそうだから。この年になって一日何回も泣かされるの男の気持ちを考えてほしい」
 男心は実に繊細なのだ。



「軽音部は全員そろってる?」
「はぁーい」
 生徒会でステージ進行を担当している和がステージ裏で軽音部の面々に最終確認を促した。
「発表時間は二十分ね。機材も全部用意してあって……撤収作業はジャズ研の発表後に全員で行う、と……。あと五分で休憩が終わるわ……がんばってね」
 律は部長としてその言葉を受け取り、大きく頷くと皆の方に顔を向けた。
「よーし……やるぞーー!!」
「おーーー!!!」
 円陣をくみ、気合を入れる。夏音は両隣の澪とムギがわずかに震えているのを密着した肩に感じた。
 夏音は頬をゆるめて皆に最後の言葉を零した。
「いっぱい、いっぱい練習したんだ。自信をもって演奏しようね。最後に、音楽を楽しむことを忘れないで」
 夏音の言葉に全員が強くうなずき、ステージにあがる。
 ライブの構成は、合宿で作ったオリジナル曲、ふわふわ時間。それとこれまた合宿でやったSmoke On The Water、最後にオリジナルのWalking of the fancy bear。最初の二曲を夏音がヴォーカルを務め、次に澪がピンヴォーカルといった具合である。夏音はこのふわふわ時間という曲のヴォーカルをやる事を後悔していた。
 とんでもなく小っ恥ずかしい歌詞なのだ。夏音にとって未体験ゾーン。初めて歌詞を魅せられた時は、作詞者の澪の脳内世界を垣間見てぞっとした瞬間であった。
 
 和によると、お客さんは満員。立ち見の人までいるそうだ。
 たしかに、ステージの幕の外には大勢の人間のざわめき、熱がうごめいている気配を感じる。クラスの人に宣伝もしたし、ポスターも作った。休憩を挟んで人気の少なかった講堂だったが、今や人で埋め尽くされているに違いない。
 各自が自分の楽器をもち、スタンバイをする。
 アンプから音を出し、それが外のスピーカーやモニターから流れるのを確認した。大きな音が流れるとざわめきが一瞬静まり、再び大きさを増してざわめく。
 ステージ脇の和が「もう時間よ」と合図したのを見て、夏音は一度まわりを見渡す。
 それぞれと頷きあってから中央のマイクの前に立った。
 

 いざ、幕があがる。


「ワン、トゥー」
 律のカウント。
 唯のギブソンが若干ぎこちないリフを発射した。いや、まだ発射じゃない。装填。
 澪のグリッサンドがうねる。真空管から放たれる極太の歪みが曲を押し出す。そこに重なるのはムギのハモンド・オルガンの音と夏音のギター。引き金は引かれた。
 やはり稲妻のように轟く音と光をまき散らし、夏音のギターが自由に会場を駆け巡る。澪がボトムを支え、その上をひたすら驀進する。
 小っ恥ずかしい歌詞をきちんとした発音でしっかりと歌い上げる。内気な女の子の胸に秘めた想い。きっとその娘は寝る前のベッドの中で相手の事を想うのだろう。
 いったん曲に入り込んだら、夏音の集中力は凄かった。歌詞の内容をしっかり把握して、内容を無視しないで歌い続ける。羞恥心とせめぎあいながら、聴衆にしっかり歌を届ける。
 実はこの曲、ラップがある。おかしい。絶対、初めて耳にする人は「ん……んっ?」と二度見ならぬ二度聞きしてしまいそうな部分。
 どうして合宿から本番に至るまでこの曲がこんな進化を遂げたのか。それは澪の歌詞に問題があった。澪としては、詩を書いているうちに盛り上がりすぎたせいで譜割も何も考えずに書き連ねてきたらしい。そもそも、曲に詩を乗せるのは初めての彼女はあまり意識しないで歌詞を作ってしまったそうだ。
 根っから「うわーイタタ」となった律と夏音を除いたムギ、唯は詩をいたく気に入るわけだ。それは大絶賛の域で、この歌詞を削るのはもったいないと強く主張し始めた。正面切って詩を批判できない律と夏音は、しぶしぶ曲の方をどうにかする案に賛成する事になった。
 で、出た結果がコレだ。ラップ。ドロップDとディストーションとオーバードライヴを使い分けてそれぞれに特徴的に歪ませたギターとベースが曲に強烈なアクセントをもたらす。
 この部分は唯一の責任として、澪に歌わせた。その間、夏音は思い切り上体を振って暴れる。
「huwahuwa-time!!! Yeeeeeahhhh!!!!」
 終盤になって何かがすっごく吹っ切れた夏音の叫びが体育館を埋めていく。
 夏音はフィニッシュへ向かう曲の中、客の様子をじっと観察した。
ステージ幕があがってからすぐに内臓が震えるくらいの爆音。客が呆気にとられて目を見開いている様子に、にやっと笑う。
 これが軽音部の産声。彼女達にとって初めて作ったオリジナル曲だ。ムギが骨子をつくり、それを夏音が曲としての肉付けをした。全員でコンペしつつ、完成させていくうちに、微妙に足りない部分などを補った思い出もある。苦労した分、思い入れがある曲。
 夏音は歌う。恥ずかしい歌詞にありったけのソウルをこめて、歌った。
 曲が終わり、残響が響く。音を切った後、夏音の声がヴォーカルマイクを通してしんと講堂に響いた。
「Thank you」
 すかさず、拍手の音が演奏者に送られた。それこそ雷のように降り注いできて、彼女達様子を伺うと、自分たちに向けられる万雷の拍手に唖然とした表情をしていた。
 拍手は鳴りやまない。
「コニチハー!!」
 拍手が止んだ。
(あれ?)
 クラシックの会場みたいに水を打ったような静けさ。
 おかしい。何故、音がしないのだろうと夏音が首を傾げる。慌てて律の方に顔を向けた。
「おい、話が違うじゃないか! 俺がこれやったら絶対にどっかんどっかんだって!」
 律を睨んで、潜めた声で彼女を責める。
「し、しーらなーい」
「あ、あ、後で覚えておれよ……」
 怒りに方を震わせながら、アハハと取り繕った夏音が観客に向き合う。よく聞けば、「え、あの人ハーフ?」とか「日本語無理系な?」とか言われている。
(いやいや、留学生とかじゃなくて)
 どんなひそひそ声もしっかり耳に入ってしまう夏音は大変気まずかった。PA卓にいる斉藤は卓に突っ伏してふるふると震えている。夏音は彼が秘密を破った際は、六道の地獄すべてを味合わせてやろうと心に誓った。
「か、かんじゃいまーしたー! 軽音部です! ヴォーカルの立花って言います! 立花! 立つ花って書いて立花!」
 わずかにどよめく会場。おぉ~、と。ああ、日本の苗字だなぁ、と。
「カノンくーーん!!」
 数人のクラスメートが夏音の名を呼んだ。
「へ、へへ……こいつぁどうも」
 突然の事だったので、どう返してよかったか分からなかった。ステージで呼びかけられる事などしょっちゅうあったのに、プロとしての矜恃はどこにぶっ飛んでしまったのかと嘆かわしかった。
「アァー、次はみんなが知ってる曲をやります。有名すぎるあの曲です」
 律と目を合わせると、八分のカウントが刻まれる。二曲目はあっという間だった。放心気味だった彼女達は何回もやった曲だけに、演奏を楽しむ余裕ができたのか笑顔が見られるようになる。
 中年の男性教師や父兄がやたらノリノリだったのを見て安心したが、やはり同い年の少年少女達は予想以上の反応を見せてくれなかった。
 夏音は特に気にしないで、ギターをスタンドに置いた。
「チェーーーーーーーーーーーーーーーーーンジッ!!!!!!!」
 高らかに叫んでから澪を差し出す。
 夏音の行動に澪が「はうっ」と俯き、途轍もなくのろのろとした足取りで中央のヴォーカルマイクへ向かった。
「かわいいー」
 と言った声が即座に響く。それがますます彼女をアガらせてしまう事になっても、悪い気はしないだろう。
 それを見送りながら素早くエフェクターを踏み、準備をする。アンプから音を出し、少しずれていた音を合わせた。
まわりに合図を送り、準備が整ったことを知らせる。
「Walking of the fancy bear」
 コーラスマイクで曲名を言ってから、夏音が腕を振り上げた。しばし空中で腕を止める。溜めを作ってまわりを見回し、覚悟はいいかと目線で問いかける。答えは確認しない。
 腕は振り下ろされ、重低音からなるスラップが体育館の床をびりびりと振動させた。極限まで歪んだ邪悪な音が単体でグルーヴを作り上げていた。律のシンバルがそこに喧嘩を売るように重なる。バスドラが八分の裏で空気を打ち裂く。夏音は本当ならツインペダルを使用してほしかったのだが、今の律には無理だった。

 何ともファンシーな曲のタイトルである。タイトルは全て裏切る。
 クマが。
 クマさんが、客を食い殺そうとでもいうかのように太い腕を振り回して暴れる様が浮かびあがる。
唯のギターは再びローチューニングに変更。何ともヘヴィネスな曲調で観客を圧倒させる曲だ。
 全員が加わったところで数小節進む。ラストの小節で夏音のベースが取り残されることになる。
 そこで奏でられる1フレーズ。たった1フレーズだけで曲の空気をがらりと変えてしまう。
 今まで地獄の入り口から響いてきそうな恐ろしい音を客にぶつけていたのに、がらりと爽やかなパンクロックに様変わりだ。
 ガールズパンク。とりあえずの方向性の一つ。
 試せるものは何でも試す。このバンドの方向性がまだ定まっていないので、とりあえずここらへんから攻めるかと夏音が用意した曲である。
 爽やかとは言うものの、あくまでイントロからの音のニュアンスに大きな変わりはない。

 大きな大きな気まぐれグマは、自身の気まぐれで進む先の物を片っ端からぶっ壊していく。腹の虫が悪ければ、手当たり次第に。彼は森を進む。彼の通った後はめちゃくちゃだ。
 森に住む小動物達は慌てふためき、逃げ出す。クマさんはやがて森を走り抜けて川に出る。広々とした風景にすっかり機嫌が収まったクマさんはうっとりと川辺で両手で頬杖を着いて足をぱたぱたする。直後にハチに刺されて最後まで大暴れ、というストーリーを想像して作られた曲である。
 そんな曲である。そこに澪の声を乗っけるのは冒険だったが、澪の声はかっちりそこにハマっていた。
 二番のサビが終わり、唯のギターソロが入る。ヴィヴラートで細かく揺れる全音符で唯のギターが前に出る。何個か音外したが、客には分からない程度。ソロが終わると、全員が後ろを振り向いた。ドラムを見詰めて呼吸を一つにする。
 Cメロに入る前に難しい変拍子が入り、律のドラムもがっちり決まった。さらに疾走感あふれるアウトロ前の三十二分に逸れるフィル、突っ走り、ドラムロールの音がだんだんと上がってきて、ギリギリ壊れそうなところまで高まる。

 全てが最高潮に昇り詰めた瞬間、音がぴたりと終わる。

 無響の空間が数秒の間続いた。

 それまでこの空間に大音量をもたらしていた演者たちはその余韻の中、肩で息をしながら顔を伏せていた。
 響くのは生々しい息遣い。
 その静寂を破ったのは一人の客の拍手。それが波のようにまわりに伝播し、だんだんと大きくなる。
 今や、先ほどの音にも負けないくらいの拍手が軽音部の面々に降りかかっていた。
 夏音は顔をあげた。何故か、このステージがどこか別の場所なのではないかという錯覚に陥った。隣や後ろを見たら高名のプロミュージシャンがいるのではないか、いつものステージではないか。
 そんな感覚は、
「あ、ありがとーー!!」
 上擦った澪の叫びで霧のように消え去った。
 まわりを見渡すと、汗でぐしゃぐしゃになった顔をまっすぐにあげて誇らしげな彼女達。
 夏音はそっと胸をおさえ息をつくと、ベースを置いて客にむかって手を振った。
 皆がお辞儀をしたので、それに倣う。
 お互いに目をやり、満足な笑みを返しあう。
この一体感。大きなエネルギーをぶつけあい、撒き散らす感覚。夏音はそれらを久しく味わっていなかった気がした。
 次に控える人たちもいるので、万雷の拍手を名残惜しみながら、ステージから退散することにした。
 各自が楽器を抱えてステージ脇に歩き去ろうと動いた。
全てが気持ち良く終わる。皆、そう思っていた。この後、ステージ裏で抱き合って感動を分かち合おう。皆、よくやったのだ。高揚する気持ちを弾ませながら足取り軽く、歩いたのだ。
 しかし、足下はよく見なければならなかった。
 一足先にステージ脇に消えようと急いだ澪が、唯のシールドに足を絡ませて前につんのめった。
「うおっ……と」
 撤収しようとエフェクターを小袋にしまおうとしていた唯だったが、急にシールドがビーンとなって「ふぇ?」と間抜けな声を出す。澪は唯のシールドを足に引っかけたまま数歩よろめいた。
 当然のごとくシールドがアンプのジャックから抜け、爆発したような音が響く。
「み、澪!?」
 あわてて澪のもとへかけよった夏音だが、彼女が晒している姿を見て「Oh...」と天を仰いだ。「もう……澪ったらド・ジなんだからー」では済まされない光景が広がっていた。
 夏音はこれだけ短い裾だものね、と涙を浮かべそうになった。ここで問題である。ステージ下から上を見ただけでスカートの中身が見えそうな服装で転んだ場合、何が見えるか。
「い、イヤーーーーーーー!!!!」
 世紀の終わりとばかりに響いた悲鳴と共に轟いたその事件はのちに「学祭・パン見せ事件」として後の桜高軽音部に伝説として語り継がれることになる。

 

 初めての学校祭はあっという間に過ぎていった。皆、帰りがけにクラスメート達に次々に話しかけられ大絶賛を受けた。一番嬉しかったのは七海がステージを観てくれていたことだった。
 ステージの件では大分苦労をかけたので、夏音としては是非観てもらいたかったのだ。
「観てくれたんだね! ありがとう!!」
 夏音は彼が視線を逸らしながら「み、観てたよ……その………すごかった」と言うものだから嬉しくなってしまった。顔を真っ赤にさせてよっぽど興奮したに違いない。
 だから、思い切り彼に抱きついた。
「ありがとう!! 七海のおかげだよ! これからも軽音部をよろしくね!」
「アッーーーーーーー!!!!」
 すると、彼は大絶叫をした後、縄抜けの術かと言うくらいの速度で夏音の拘束から逃れた。
「君はどうしてそう………っ!! どういたしましてー!!」
 と言い残して、廊下の向こうへ消えていった。生徒会役員が廊下を走るのはどうかと思った。


 ひとまず全てが終わり、機材を撤収し終えてから一同は部室で一息ついた。
 皆、やり遂げたという充足感に満ちたりた表情でお茶をしていた。日が傾いて、蜂蜜色の光が部室を包み込んでいる。そこに言葉はいらなかった。顔を上げれば、お互いが微笑みを交わし、頷きあう。
 楽しかった。共有した感情に言葉は必要なかった。
 誰もが満ち足りていた。
 ただ一人をのぞいては。
 
 部室の隅で人類初の暗雲発生機と化している秋山澪・花の十五歳。つい先ほど、大衆の面前でパンチラデビューを果たしたばかりの傷心の乙女である。
 一同は再起不能となっている彼女をちらちらと見ては顔を合わせて表情を曇らせる。
 無理もない。
 ほぼ全校生徒の前でパンチラをかましてしまったのだ。全校生徒だけではない。父兄もいた。ロリコンもいただろう。パンチラ直後に響いたシャッター音は一生澪のトラウマになりかねない響きを持っていた。
 いつまでも体育座りで肩を落とす彼女に、誰よりも長い付き合いの律が「ここは私が」と一番槍を買って出た。
 律は澪に歩み寄ると、ぽんと優しく彼女の肩に手を置いた。
「過ぎ去ったことはもーしょうがない! 元気だせよ澪ー!」
 ぴくりとも動かない。屍のようだ。ひたすら呪詛のように「ぱん…ぱん…つ…」と繰り返すだけだ。
「パンチラくらい減るもんじゃないし気にしない気にしない!」
 とは口が裂けても言えない夏音。間違っても口に出すことはできない。
 この事は実に繊細な問題だし、男の子である夏音が口を挟むべきではないと思われた。
 病的な彼女の反応を見て、律は肩をすくめて「コリャ、だめだ」と戻ってきた。
「いやー、それにしても気持ちよかったなー」
「ええ、あれだけ大きな音でライブができるなんて滅多にないもの!」
 澪は放置の方向で話題を切り出した律にムギが力強くうなずいた。
「それにしても、夏音って本当に謎だよなー。PAの人と知り合いだし。いつの間にかクラスで人気者だし」

 尚、機材撤収は責任をもって軽音部が行った。ジャズ研の発表が終わると同時に客が捌けるのを待ってから斉藤と作業にあたった。
「いやー、なかなか良いモン見させてもらいました」
「まず、演奏の感想を言って欲しかったな」
 そんな軽口を叩きながらも「三曲目、ヤバかったです。超エグかったです」と絶賛してくれた。斉藤の感想に耳をダンボにしながら傾けていた律達がおかしかった。
 人気者については、夏音は自分でもよく分からない。
 最初は敬遠されていたと思っていたのに、いつの間にかクラスに溶け込んでいる自分に気付いた時には驚愕したものだ。
「夏音くんヤバかったー」
「カッコよかったよー」
「あの衣装、また着てちょうだいねー」
「スカートの絶対領域に神を見た」
 とクラスメートが声をかけてくれるのがこんなに嬉しいなんて。いや、嬉しくないのもある。
 これも軽音部のおかげ、だろうか。

「それにしても夏音くーん! 何でステージ降りてすぐ衣装脱いじゃうかなー。もっとあの姿の夏音くんが見たかったのにー!」
「写真撮ったんだからいいじゃんか唯さんよー」
 あれ以上あの姿でいたくなかった。夏音がステージ裏にはけてからまずやりたかったのは、ショック状態の澪を何とかする事でもなく、喜びを分かち合う事でもなかった。衣装を脱ぎ棄てることだった。即行で服に手をかけた夏音をムギがものすごい剣幕で阻止するという一幕があったりした。
「本当! あんなに似合っていたのに」
 口を尖らせて不平を言うさわ子に夏音は冷たい眼差しを向けた。
「もうアナタの衣装は着ないと心に誓った」
「なーなー。もしかして今日ヴォーカルを務めた二人にはファンなんかついちゃったりしてなー!」
 それは、ない。あんな姿の自分にファンがついたらなんか危機的なものを感じてしまう。主に貞操的な。
「あるかもー」
「ないない」
 そう願いたい。
「まぁ、そうなったら楽しいなー」
 無邪気に笑う律に笑顔で中指をたてた夏音であった。



「なんかこんなポスター見つけたんだけど」
【立花夏音ファンクラブ会員募集!!】
「オーーーマイガッ!!! あ、あ、あ……あーーーーーっ!!」
 膝から崩れ落ちた夏音はそのまましばらく動かなかったという。

  
 
 
 
 ※チラ裏から移動してきました。よろしくお願い致します。



[26404] 第十二話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/04/21 21:16

 あたふたと目まぐるしかった学校祭から一週間が経った。お祭りムードが抜けきらない一週間を終え、校内に満ちていた浮き立つ雰囲気も緩やかに影を潜めていった。大きな行事が終わるのを見届けるように季節は移ろって行く。ついこの間までサウナのごとく蒸していた空気もほんのり和らいだような気がする。
 秋が始まり夏が終わったのを風が含んだ金木犀の香り。薄羽蜻蛉の姿が見られるようになるのはもう少し先だろう。それでも残暑という言葉通りに、日差しはまだ地上を攻める手を緩めてくれなかったりする。最後まで仕事をきっちりこなす憎い心意気には感服だ。それでも、うすら寒くなった風と合わせてちょうど良い具合である。
 校舎の中は生ぬるい空気で満たされていた。暖房の加減がまた微妙な時期なので、暑くなったり寒くなったりを繰り返す中で、帰宅部の生徒がすっかり姿を消した校内はまさに生ぬるいと表現される温度を保っていた。
「まったく。誰の許可をとってんだろ」
 廊下の片隅で呟かれた声は誰に言うでもなく淡い喧噪に溶けた。ひょろ長い廊下の窓に白い陽光が差し込み、影と光の規則的なコントラストをつくりだしている。
 その一角に佇む人物は胸に流れた漆黒の髪を後ろに払い、不機嫌なオーラをびりびりと放っていた。入学当初より伸ばし続けた髪は肩ほどからだいぶ伸びて、背中の中程あたりで揺れている。
 夏の空のような爽やかな青色の瞳、並外れて華麗な容貌は日本人には見えないのだが、燃えるような漆黒のオリエンタルな艶めきと合わさって独特な存在感を放っていた。
 溜め息が一つ。

「やっぱりこういうのはまずいよね」

 彼は廊下の掲示板に貼り出された一枚のポスターを前にして苛々と足踏みをした。
 この立花夏音は一応、世界に知られたミュージシャンその人であって、それが何より問題なのだ。


 ライブ後にできたファンクラブとやらについて、夏音は初めこそ気軽にかまえていた。B5サイズの画用紙に【会員募集中!】と文字だけ書いてあるひっそりとしたもの。発見者の律曰く、校内にぱらりと一枚だけ落ちていたらしい。掲示板等に同じものが貼られている様子はないので、首をかしげていたところだったのだが。
 学校祭以来、自分のファンクラブとやらが目立った活動を見せることはないし、一時の勢いで衝動的に動いてしまっただけかもしれない。そもそも、ご本人様である自分に許可もないのは失礼な話である。
 本格的にそんなものを始動させようとしているならば、憧れを抱く相手に不快な思いをさせようとは思うまい。
 あくまで様子を見てやろう。そんな脳天気な気構えのまま、内心では面白がってすらいた。
 その矢先のこと。

「ねーねー夏音くんこれ見てー」
 夏音と律が鬼気迫る様子でスピードをやっていると、唯が部室に駆け込んできた。
「忙しい」
 一瞬とて目を離すことができないカードゲーム。故にたった一言、短く答えた夏音に唯が頬をふくらませた。
「せっかく夏音くんの晴れ姿を持ってきたのにー」
「はいはいあとでー」
「これ部室に貼っておこーよ」
「だから、あと………でっ!?」
 あまりに唯がしつこいのでちらっと唯の持つモノに目を向けた夏音は思わず目を剥いてしまった。
「そ、そりゃなんだい……」
「夏音くん学園祭Verだよ!」
「ォゥ、ジーザス……」
 夏音は瞳に飛び込んできた大きな文字に魂を引っこ抜かれそうになった。
【立花夏音ファンクラブ 絶賛会員募集中!】
 ゴシックでロリータで、フリッフリでヒラッヒラで、それでいて夏音なポスターがあればこの世から燃やすべきだと夏音は脳裏にラッシュする走馬燈を眺めながら叫んだ。
「悪夢の再来だ。どんな陰謀がこの軽音部を襲うというのか……っ!」
 椅子を蹴倒して天を仰ぐ。染みが目立つ天井がふと天使っぽい顔に見えてきた。
「よっしゃアガリーっ!」
 急に手を休めた相手の隙を決して見逃さなかった律は、自分の手札を無くしたところでもはや勝負どころではない夏音に気が付いて目を瞬かせた。
「なんだ? 雨漏りでもしてんの?」

 しばらく三人はそろって天井をじっと見詰めていた。


「ただのファンクラブの仕業だろ?」
 何を大げさな、と足を組んで鼻をならした律。大胆なモーションで太ももが際どい部分まで露わになり、唯が慌てた。
「り、律っちゃん! あんよがね……」
「あー悪い悪い。ワタクシったらはしたのうござんしたわー」
 なんと言っても男の子の前である。男というには性別の存在感が薄い相手であるが、男には違いない。慎み深い女性にまた一歩近づいたと頷いた律だが、肝心の男がこれっぽっちも自分の太ももに関心を寄せていないことに気が付いた。
 これにはさすがに乙女の矜恃にちょびっと傷がつくというもの。
「おーいニイチャン。太ももだよーん」
 あえてぴらっとスカートをまくってみせる律の存在などないかのようにうつむく夏音の態度は律の傷を抉った。
「私の太ももはそんなに魅力がないのかー!」
 側にいた唯が思わずびくっとなった一喝をもって、やっと夏音は呆けたような表情を彼女に向けた。
「あぁ、ハイ。大変魅力的かと存じましゅ……」
 まったく心がこもっていない賛辞に律は低い声でうなった。だが、あまりに憔悴した様子の夏音を見ていると小さく息を吐いた。
「てゆーか、さっきから自分のポスターをじっと見て気持ち悪い系な?」
「あぁ、自分で見ていて気持ちの良いもんじゃないね」
「別にその写真は気持ち悪くないけどさ……」
 唯はというと、ここに来てやっと自分の持ってきたモノのせいで夏音を落ち込ませたらしいと気が付いた。
(ど、どうしよう。なんかよくわからないけど、私のせいだよね)
 しかし、原因が全くわからない。わかるはずもない。無垢な魂を持つ唯は夏音におそるおそる声をかけた。
「夏音くん! 悩みがあるなら私が聞くよ?」
「しょうぞうけん」
「え?」
「肖像権ってさ、あるよね」
「む、難しい話は抜きでお願いしやす」
 唯は少し前まで持っていた人助けの心から一歩遠のいた。頭を使う悩みは役に立てそうもない。
「俺って一応……あ、これ言っちゃだめなやつだ」
 今、ぼそりとトンでもないことを言われかけた気がする。唯と律、二人の第六感がそう告げていた。
「これ、どこで見つけたの?」
「こ、校内の掲示板に貼ってありました」
 そう尋ねられた唯は、夏音の柔らかい口調にどこか背筋が冷えるような感覚を覚えた。
 これはもしかして怒っているのかもしれない。知り合って半年ほどの付き合いだが、唯は彼が本気で怒っている場面を見たことがない。あからさまに怒りを表現しているうちは、本気で怒っているうちに含まれないのだろう。怒鳴ったり、不機嫌になることはあるが、それは戯れの内として数えられてしまう。
 そう。このように敵意を含んだ怒りを見せる夏音は初めてなのだ。
 唯は「そうか」と低く呻いてから部室を出て行こうとする夏音の背中に声をかけずにはいられなかった。
「ど、どちらへ?」
「お花を摘みに……」
 それ、女性用の……と何故か頭の片隅にあった豆知識が喉から出かかったが、精神で阻止した。
「いってらっしゃい……」
 唯の言葉が終わらない内にバタンと扉が閉まった。
 部室に残った二名の女子は思わず顔を見合わせ、何とも言えない表情の応酬を繰り返した。



 冒頭に戻る。
 目の前のポスターで二枚目である。掲示板は校内のいたるところに点在している。その半分は生徒が使用することができず、もう半分は生徒が使用可能ではあるものの、すでに生徒会や委員会または部活動や文化系コンクール関係の掲示物などで埋め尽くされている。
 そもそも貼るのに教師の許可が必要である上、さらに大原則として掲示物の端に印鑑が押されてなくてはならない。 
 目の前のポスターに印鑑など、ない。つまりこのポスターはゲリラ的に貼っているということになるので、勝手にはがしてもよいということだ。
 ビリッ。 
 派手な音がして自分の姿が二等分にされる。その実行犯はまさにポスターに写っている本人なのだが。
 夏音は躊躇いなしに思い切りポスターをはがした。というよりも破いた。一つが終わると次へ。校内を練り歩き、ありとあらゆる掲示板をあたる。二つ目を破き、三つ目、四つ目へと。
「どれだけ俺のこと好きなんだっ!?」
 好意を寄せてくれるという行為に対して嫌だなんて思わない。というより、自分に好意を抱いてくれる人の数は圧倒的に常人より多いだろう。仕事やプライベートあわせて。
 ただ、今は世間に露出する訳にはいかないのだ。
 自分が何のために普通の高校生をやっているというのだろうか。日本のマスコミが夏音をかぎつけてどうこうすることはないと思うが、情報というのは恐ろしい。
 この現代、ネット時代。自身もその恩恵にどっぷりあずかっている身としては、そこのところの恐ろしさを承知している。
 誰がどこから見ているか。誰が嗅ぎつけてくるか。もしも自分の環境を乱す存在が現れたら? 日本にだってカノン・マクレーンを知っている人などいくらでもいる。
 もしかして、この学校にも何人かいるかもしれない。過信ではない。夏音は自分の知名度を客観的に判断している。現に学校祭の時はジャズ研の上級生に「あなた、どこかで見たことが……」と不審の目で見られてヒヤリとさせられた。
 ともあれ、夏音の正体を知る者が軽はずみにネットに情報を流したとしよう。その情報はたちまちネットの海を漂いながら広まり、結果的に現実となって夏音に襲いかかってくる可能性が十分にあるのだ。
 そんなことになったら、みんなの迷惑になってしまう。そのことが常に夏音の気がかりであった。
 何より、澪以外のメンバーに自分の口以外から事実を知って欲しくないというのもある。最近になって、隠していること自体、何の意味があるのか自分でも分からなくなっていて、その問題に対して悩むこともあった。
 だから、そうならないために動かなくてはならないのだ。夏音にとって、問題の芽は即刻摘むべきものであった。

「これで全部かな」
 八枚。謎の執念を感じる枚数であった。これがいつから貼られていたのか分からないが、普段からぼーっと歩いているだろう唯の目にとまるくらいだ。素通りしていたとかは考えられないから、昨日から今日という可能性がある。
 とりあえず、よしとしよう
 ひと仕事終えたところで上機嫌になった夏音が部室に戻ると、他の部員もそろっていた。
 神妙な顔つきで何を話しているのだろうかと近づくと、どうやら会話の中心に澪がいるらしい。
「だから! 私だってファンクラブとか認めたくないの!」
「んなこと言ったって作られたんだから仕方ないだろー?」
「私は断じて認めない! あんなに大勢の人の前で辱めを受けたのに!」
「はずかしめって……パンチラくらいで」
「パ、パン……パン! パ、パン! パパンパン!」
「どもりすぎだ」
 喘ぐように過呼吸じみた音を漏らす澪は相変わらずの様子であった。しかし、顔を真っ赤にさせてわめく彼女に全員が心の内で安堵していた。
 この一週間ばかり、彼女はまさに色彩を失った廃人と化していた。その様子はホセに敗れたジョーもかくやと真っ白であり、そんな澪の姿は見るに堪えないものがあった。このまま部室の隅っこが定位置となるのだろうかと誰もが懸念していたが、どうやら元の調子を取り戻したようである。
「そちらさんも大変なようで」
 ふらりと現れた夏音が同情を含んだ表情で澪を気遣う。潤んだ瞳で夏音を見る澪は何かを必死に訴えようと、口をパクパクさせていた。
「Oh...Fucking tired!!」
 だいぶ疲弊した様子の夏音にムギが紅茶を用意した。
「よかったらハチミツもあるからどうぞ」
「ありがとう」
「と、ところで夏音くんは今まで何をやっていたの?」
 尋常でない様子で部室を出て行った夏音を見たのが最後、帰ってきた彼が何故だかひと仕事終えたぜーとばかりにスッキリしていたときて、首を傾げた。
「校内のポスター全部はがしてきたよ」
「えー! 何で!?」
「気にくわないからに決まってるじゃん」
「こんなに可愛く写ってるのに?」
 夏音は、いったい何が問題なの? と本気で聞いてくる唯に脱力しそうになった。
「いや、写り映えが気に入らないわけじゃないから!」
「私には夏音くんが怒る理由がちょっとわかんないよ」
 時折、唯の相手ができる人間はよほど心の広い人間であるに違いないと思わされる。夏音は心の狭い人間ではありたくなかったので、無視したいという欲望をおさえた。
「俺が言いたいのは、筋を通せという話だよ」
「筋……? 夏音くんって変なのー」
 唯に変人呼ばわりされるのは実に心外きわまりなかったが、返事をするのも億劫なのでムギに淹れてもらった紅茶を楽しむことにした。ハチミツを足してほんのり甘い紅茶が疲弊した体に優しく沁みこんでくる。
「あーー」
「オッサン外国人」
「うるさーい」
 軽口を叩く律も大して気にならない。やはり癒しこそ、この軽音部の醍醐味であることは間違いない。非癒し系もいるけど、気にならない。
「夏音はどうしてそんな暢気にかまえていられるんだよ!」
 突然、眦をつりあげた澪が爆発して夏音に詰め寄った。
「別にファンができるのはいいことじゃないか」
「お、お前は慣れているかも、しれないけど、私なんてただの一般ピープルなんだぞ! 私の身になって考えてみろ!」
 そう言い放ってからわずかに間をあけてから「考えてみてくださいよ……」とぼそりと言い改めた。怒りをぶつけられる根拠がまったく思い当たらない夏音であったが、テーブルに肘をついて気怠そうに澪を見やる。
「とは言っても、高校生のファンクラブなんてどこにでもあるものでしょ? せいぜい取り囲んでキャーキャー言ったりとか」
「ひ、ひいーおぞましいっ!」
「裏で隠し撮り写真の卸売りが行われたり」
「か、隠し撮り?」
 盗撮とも言う。
「澪ちゃんグッズが裏で流通するくらいだろ?」
「いやーーーっ!!!」
 澪は己の身体を抱きかかえるようにして叫んだ。魂の底から飛び出たような悲鳴だ。
「ま、冗談だよ」
「やりすぎだぞ夏音」
 澪の怯えように見かねた律が夏音を諫めるが。
「律には言われたくない」
「んなっ!」
「そもそも高校のファンクラブなんて創るやつらの自己満足から始まるものでしょ? ファンである事とファンクラブを創ったり、所属することは全く別の目的でしょ」
「でも、その人のことを応援したいって思うから創るんじゃないの?」
「それもあるさ。でも、応援するならもっと別の方法があるはずだよ。結局は、シンボルを持ちたいんだよ。自分とのつながりをシンボルにしたい、ってことだろうよ」
「今日の夏音くん難しいことばかり言ってる」
 しょぼんと気落ちした唯はずずーっと茶をすする。
「まあ応援される側としても不快には思わないけどさ。自分の味方です、って形にして示してくれるわけだから。ただ、お互いが認め合うことから始めなくてはならないってことだよ」
「つまり、こういうことだな? ファンクラブ認めてやるから入会費などは……」
「まったくもって違う。もう喋りなさんな」
 軽音部の長がまともな言葉を発することはないのだろうか。

 どうせやるなら、お互い嫌な思いをしないでおこーねということである。やはり高校生になっても、むしろ高校生という年齢だからこそ、物事の道理がわかっていないのかもしれない。道理とまではいかない。常識の度合いである。
 想像力が足りないから、何をしたらこういう問題が起こるかもしれないという事まで考えが及ばない。
 現に、よかれと思って作ったのであろうポスターも夏音の気に障ってしまった。おそらくこの件で動いている人は夢中になっていることだろう。
「ガキだね……」
 ふいに呟いた一言に部室がしんとなる。
「ず、随分と辛口なんだな」
 律が心なしか引き気味に反応した。それに無言でうなずいた三人も夏音の態度に違和感を得た。
「あら、やだ」
「あら、やだじゃない!」
「まー、迷惑かけないでやってくれるならかまわないんだけどねー。それにまあ、ポスターも剥がしたことだし大丈夫でしょう」
 夏音が表情を緩めたことで、部室の空気もいつものほんわかなものへと戻った。

 その翌々日。
「ふえてるー」
 ぞっと背筋に寒々しいナニかが通り抜けた。得体の知れない戦慄が夏音を突き動かし、行動するまでに秒とかからなかった。昇降口を上がって教室に向かうまで、たったそれだけの距離で二枚のポスターが掲示物に重ねて貼られていた。
 合唱部の参加するイベントの告知ポスターの上に見たくもない自分の女装姿がでかでかと貼られているのを見て、肝が冷えるという言葉の意味を知る。
 というより、合唱部に申し訳ない。
 かろうじて悲鳴を抑えて、言うまでもなく発見したポスターは剥がした。この分だと他も見て廻った方が良さそうだと校内を走り回ったが、案の定の結果であった。昨日まで無かったポスターがあちこちに掲示されているのだ。どれも無駄な存在感を放っており、羞恥に死にたくなった。
 というより何枚刷ってあるのだ。
 犯人の異常性が分かると、さすがに自分の手に余ると考えた夏音は、放課後にさわ子に相談することにした。


「ストーカーに狙われて、貞操の危機を感じてるって?」
 夏音が一応あれでも教師だから、と頼りにした相手は自分の話をずいぶんと歪曲な解釈をしたあげく、とんでもねーまとめ方をしやがった。向かいに座る社会科教師がコーヒーを噴き出したのを視界の隅で確認しつつ、夏音は大まじめに頷いた。
「超極端に突き詰めていくと、そうかも。いや、それは言い過ぎだとしてもちょっと行動に狂気じみたところを感じませんか」
「んー。そもそも、その子のやっている事に認めるべき点が一つもないのだけど」
「まったくです。俺としては、向こうから話に来てくれるだけでいいのに。よっぽど馬鹿なんだか、事をこじらせやがって……ってところです」
「あなたさえ構わないなら、職員会議に通すけど……さすがに、ね?」
「そうなると、俺のファンクラブ云々が赤裸々に……遠慮します」
「そうよねー。でも、このまま放置するのもダメね。許可なしに掲示物を貼ることも、個人を担ぎ上げるような団体を創るのも」
「つまり、ファンクラブ反対?」
「教師としては」
「個人的には?」
「面白そうじゃないー。最近、そういうのと離れちゃったから懐かしいわー」
 彼女は高校生の頃、ここいら一帯で有名なヘビメタバンドをやっていた。最終的に信者を呼び寄せるレベルには成長できた彼女のバンドの事だ。ファンクラブとのいざいこざやりとり等もあったのだろう。規模が違うが。
 相談相手を間違えたかもしれないと思い始めたが、さわ子の言葉を聞いてから少し思うところがあった。
 やっぱり常識を持って行動しない人は、恐ろしい。けど、この場合はよくよく考えるとそういうサイコちっくなものとは違う気もする。
 幼稚なのだ。渦中のポスターのレイアウト、文章に至るまで洗練された出来とは言い難い。本当に何も考えていないのではないだろうか。
「つまり、底抜けの馬鹿か……」
「あ、え、いま先生に向かって………えっ……?」
「あ、違います。そうじゃなくて……やっぱりいいです。自分で解決しますから。お時間とらせてすいませんでした」
 水をぶっかけられたハムスターみたいな表情で目を瞬かせているさわ子を放って職員室を出ると部室へ向かった。ダムダムと足を踏みならして階段を上り、乱暴に部室の扉を開けた。
「ん?」
 普段なら誰かしらの声で楽しげな空気に満ちているはずの軽音部に不穏な気配を感じた。戸惑い、本来は陽気な唯や律の困惑を伝える息づかい。異常に耳が良い夏音は瞬時に異常事態だと察知した。

 なんか、いた。

「へーへー! 軽音部ってこんな風にお茶とか出るんですねー。想像と違ってびっくり素敵ですー!」
 明らかに軽音部員ではない少女。夏音の立つ位置からは後ろ姿しか確認できないが、少し不自然なくらいに明るい茶髪がぽんぽんと揺れていて、その形状は何というか特殊であった。
(そうだ、まどろみの剣だ。ドラクエで一瞬だけ使ってみたあの剣に似ている)
 人によってはチョココロネ、クロワッサンと例えるかもしれない髪型は見事な縦カール。素晴らしきカール大帝。二次元でのみと思っていた髪型を現実に見て、夏音は息を呑んだ。
 背後に現れた夏音に気づいていないのか、彼女は自分の言いたいことを自由に喋り通し続けていた。
 やがて他の者の視線の先に気付いて振り返り、かん高い悲鳴じみた声をあげた。
「キャ~~~~カノンさま!!」
「………さま!?」
 ぎょっとして眼を見開いた夏音が説明を求める目線を仲間達に送る。全員が悲哀を帯びた眼を合わせてくれることはなかった。
 夏音は心臓がばくばくと早まるのをおさえ、目の前の少女を眺めてみた。髪型こそ特殊だが、いたって普通の子のようだと判断した。むしろ普通より可愛い部類に入る。しかし第一段階の印象は束の間のうちにぶっ壊されることになる。
「は、初めまして! あたし堂島めぐみって言います! あの……立花夏音ファンクラブ会長をやらせてもらっています!!」
 一拍遅れて目眩が襲った。足下から崩れ落ちそうになるのをこらえ、額を抑えながらその少女――堂島めぐみとやらを睨む。
「何の冗談だこれは……」
「あの、あたし! 挨拶しなくちゃって!」
 憧れの人を目の前にしてあがっているらしく、本来の快活な性格はナリをひそめているようだ。それでもこちらが遠慮してしまうくらいに声がでかい。彼女にとってそれが自然なのだろうが、いつの間にかペースを握られてしまいそうなタイプである。
「友達に言われたんです。ファンクラブを創るって本人に挨拶もしないで勝手にやるのはよくないって」
 夏音はその言葉にほう、と目を瞠った。案外、まともな交友関係に恵まれているらしい。自分の予想した通り、本当に何も考えていなかっただけなのかもしれない。友人の忠告に素直に耳を傾けるあたりも悪い印象は感じられない。
 焦るあまり、少し大人げないことを考えていたかなと反省するにまで至った。
「あたし! いっつも勢いだけで行動しちゃうからこんなのばかりで! 一昨日もその勢いからポスター作ったんですけど、誰かに剥がされちゃって………ひどいですよね。人がせっかく一生懸命作ったものを踏みにじるなんて……っ!!」
「ん?」
 何が何だというのだ。思考が、その先にある面倒事を察知して早々に匙を投げかけた。いや、待てと強引に事態の理解に頭をめぐらす。
「夏音さまのベストショットを深夜かけて選んだんですよ。用紙だってあのサイズだと専用のプリンターしか刷れないし、遠くの専門店に行かないといけないのに。これって誰かの陰謀だと思うんですよね。きっとカノンさまの美しさ、可憐で、凛然とした佇まいに嫉妬した輩がいるんです!」
 おそらくこの場の誰に助けを求めても、無駄だろう。こうしている間もノンストップで言葉を連射している堂島めぐみの勢いにすっかり萎縮してしまっている始末だ。
 夏音はふっと嘆息すると、両の手を思い切り広げた。
 パンッ!
 と乾いた音が部室に響く。すると今まで矢継ぎ早どころかサブマシンガン並の速度で口を動かしていた存在も思わず口を閉ざす。
「堂島さんって言ったかな?」
「はい! めぐみって呼んでください!」
「堂島めぐみさん」
「めぐみです!」
「shit.めぐみさんとやら。そのポスターを勝手に貼るのもいけないことだって知ってる?」
「え、そうなんですか?」
 心の奥底から不思議に思っているのが表情に出ている。
「うん。生徒が何か掲示物を貼りたい時は先生の許可が必要なんだ。生徒手帳にも書いてあるし、考えたらわかるはずだけど」
「で、でも誰にも迷惑かけていないので大丈夫かなって」
「そう? 他の部活動の掲示物の上に重ねて貼ってあるのもあったけど」
「そ、それは悪いとは思いましたけど急いでいたし……それにずっと掲示してたんだからもういいと思いませんか?」
 夏音の限界を超えてしまった。異文化コミュニケーションの時代とはいえ、相手の言っていることは欠片も理解できないのは問題である。
「君の言うことは何一つ共感できないし、道理を知らない子供のわがままにしか聞こえないよ。というより、高校一年生にもなって自分がやったこともわからないというのか?」
「え………あ、二年ですけど……へっ?」
「ファンクラブについては、こんな俺で良いなら好きにやってくれと言うつもりだったんだ。君が俺に一言でも許可をもらいに来たらね。あまり派手にやってもらうのも困るし、外部へ情報が漏れるようなことは一切ないように厳重な体制を敷くこと。俺の邪魔にならない程度にやって欲しいという二つの事を守ってもらおうとな。けれど君ときたら、俺にリスペクトを向けると公言しながら失礼にも程があることの連続じゃないか。ちなみにポスターを剥がしたのは全部俺だよ」
 夏音の怒濤の勢いの説教に目を白黒させて唖然と聞いていた堂島めぐみであったが、最後の一言に大きく反応した。
「何でそんなことしたんですか?」
「教えてあげよう。自分の写真を引き延ばしたものを勝手にばらまかれて嬉しい人なんていないんだよ」
 しかも本人の黒歴史ど真ん中の代物だ。何の罰ゲームだ。
「そんな……あたし……夏音さんのために……」
「それは俺のためじゃないよね。君のためだ。君が君自身の仲間を増やすために勝手にやっただけだ」
 冷ややかに切り捨てる夏音の言葉は目の前の少女には辛いものとなるだろう。しかし、彼はあえて厳しく言わないとこの少女が学ぶことはないと考えたからこそ、冷淡な物言いになってしまったのだ。 
 とは言うものの、やっぱり女の子に厳しくあたるのは心に悪い。堂島めぐみの肩が細かく震えだし、しゃくりあげるような音が漏れる。どんどん大きくなる前兆に今すぐ回れ右して部室を出て行きたくなった夏音であった。
「う、うぇ……そんなぁ……」
 くるぞくるぞ。
 大噴火の予兆。その場の流れをじっと固唾を呑んで見守っていた女性陣もはぅっと息を詰めた。心なしか夏音に対する非難の視線が混じっていた。
「そんなぁ……そんな風に厳しく𠮟ってもらうの初めてです!」
 おや?
 堂島めぐみは真面目な顔で厳かに言った。
「あたし一人っ子です」
「そ、そうなんだ」
「両親はいつもあたしのこと𠮟らないんです。かといって特別わがままっ子に育ったつもりはないんですが、納得いかないじゃないですか……ちゃんとあたしのこと見てくれてるのかなって。愛してくれるのかなって」
 完全に自分の世界に旅立った者の目だ。秋葉原とか中野なんとかロードでよく見る目だ。あまりに心配と不安に駆られた夏音は思わず澪に目線でSOSを出した。
(おいおい、どうするよコレ……予想外の展開でぶったまげたよ)
 救いを求める視線は容赦なく澪を捉えていた。
(わ、私に何か求められても困る!)
 引きつった顔で、こちらも眼で言い返してきた。すると他の面子もそれに参戦する。
(夏音が起こした事態なんだから、自分で何とかしろ!)
(ふざけんな不本意にもほどがあるだろ! それにずっと高みの見物きめこんでたくせに!)
(とりあえず落ち着かせてみてはどーでしょうか?)
(ああ、そうだな。よし、唯やれ)
(なんで私っ!? おそれおおい任務につき、私には身に余ります!)
(そうか…………やれ)
(いやだよー。なんかこの子怖いもんっ)
(そこは天然系の魅力で何とか、さ)
(ひどいよ律っちゃん!)
(ひどくウィンクが似合わないな律さん)
(うるさい。ウィンクが外人だけのものと思うな!)
(とにかく!)
(やっぱり俺が何とかする感じ?)
 眼と眼で器用にも悲鳴をまじえた会話を交わしていた結論として、やはり夏音が犠牲になることになった。留まることを知らずに喋り続けていた堂島めぐみに向き合った。
「だから夏音さまに言われる一言は純金にも代え難い価値があるのです!」
「ヨシわかったよめぐみさん!」
「本当ですか!?」
「あぁ何にもわからないけど、とりあえず落ち着こう。確かに俺が厳しいことを言うのは君のためでもあるよ。あるけど……」
「じゃあ、『お姉様』って呼んでもいいんですね!?」
「Holy shit…」
 事態に頭がついていかなくなった。
「今のは、許可をもらったってことでいいんですよね?」
「え、いや何のことを言っているのかな」
「あたし、𠮟ってくれる人が欲しかったんです! だからお姉様となってあたしを𠮟ってくださいっ!」
 眼の中に宝石のようなきらめきが踊っている堂島めぐみは夏音の手をとって、胸の前まで掲げた。
 その手をばしっとふりほどき、
「ふざけんなこの縦ロール女が! そのクロワッサン丸ごと切って校長像に寄贈してやろうか!?」
 とは言えず。
 エマージェンシーモードによって魂が肉体から緊急退避している夏音は既に目の前の少女を意識から半分ほど追い出している。まさに危機回避本能の成せる奇跡の技には違いないが、残してきた本体は少女の言うことに差し当たりない程度にうなずくという悲劇のオプション付きであった。
 YURI。これはユリ。リアルで百合だけはなーと日頃から考えていた夏音。この場合、男と女でノーマルなカップリングであるが、何ともアブノーマルな響きとなって襲ってきたものだからたまったものじゃない。
 そもそも、自分は男である。
「ポスターについては本当にごめんなさい! あたし、もう二度と勝手なことしません! だからファンクラブについて認めてもらいたいです」
 やっとのこと手を離したと思いきや、がばっと頭を下げ始めたクロワッサンを眺めながら、こくりとうなずく夏音。
「それで、ファンクラブの方向性もお姉様に情け容赦のないお仕置きや説教をいただけるオプション付きってありですか?」
「それは……気が向いたら」
 半分以下の意識で曖昧な肯定をする。
「きゃーありがとうございます! あたし、さっき言っていたこともきちんと守ります! 勝手なことはしない! ファンクラブはあくまで秘密裏に活動すること! 秘密厳守! あたし全部守れますよー! むしろ、お姉様の魅力が広まりすぎるのもアレなので、少数でいこっかなーなんて」
「そう……」
「ポスターは全部剥がしたんですよね? まだ剥がしていないのがあったら自己回収しておきますので!」
「そう……」
「これでお姉様公認ってことですよね! 燃えてきたー! あたし、精一杯お姉様を応援させていただきます! 立花夏音様のファン一号として!」
 実際に君は一号どころか0を幾つも足した順位だよ、とも言えず。
「So...」
 最後にほぼ抱きつくようなくらい接近してきていた堂島めぐみは万事充ち満ちたような表情で爽やかであった。
「では、失礼しますね! 今日はお邪魔してすいませんでした! 軽音部の皆さんのことも応援していますから! それでは!」
 重たそうな巻き髪を振りながら歩く彼女は部室を出る時に再度礼をして姿を消した。

 竜巻が去った後はこんな空気になるのだろうか。誰も彼もが心神喪失していた。虚ろな瞳を抱え、その視線を虚空にさまよわせながら椅子に崩れ落ちていた。
 なかでも一番ひどいのが夏音であったことは言うまでもない。
 何かひどく恐ろしいものでも見てしまった五歳児のような表情で凍り付いていた夏音は、長い時間をかけて魂が完全に身体に戻ったのを感じた。
 周りを見ると、徐々にフリーズから解けて動き出す部員たちの姿があった。
「夏音くん男の子なのに、何でお姉様なのかなー?」
唯、そこじゃない。決してそこじゃない。夏音以外の全員が思い、おそるおそる渦中の人物の方を向く。
 唯の一言で決定的に我に返った彼は、むくりと立ち上がりふらふらと数歩よろめき……崩れ落ちた。

「う、うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 その後、錯乱状態に陥って叫ぶ夏音を慰めるために軽音部一同は必死になった。終いにはしなしなと倒れ込む仕草に、確かに男にはみえねーわと共通の感想を抱いたことは別の話である。

 とにかく。かろうじてPTSDだけは逃れた夏音は、一年の廊下で堂島めぐみの姿を見かけるたびに怯えきって逃げるようになった。
 彼に対してああやって公言した以上、きちんと目立った行動を控えているようであったが、人の眼がない場所にフィールドが移された途端、運動部顔負けの脚力で夏音に追いつくというスペックの高さを披露した。
 立花夏音のファンクラブはそこそこの会員数を得て、水面下で活動中であるらしい。
 時折、定期報告にふらりと現れる堂島めぐみの報告内容も恐ろしくて夏音は耳を塞いでいる。
 日本に来て、新たなトラウマを発掘した夏音はしばらく百合っぽい表現を出す作品に拒絶反応を示すようになった。
 ちなみに秋山澪ファンクラブ会長は事の次第をどこからか聞きつけたのか、後日、澪に便箋でファンクラブ活動の容認を求める至極丁寧な文書を提出してきたという。


※かなり時間が空いた上に、超絶的に短くてすみません。基本的に一話あたり15000文字以上を、と心がけているのですが。



[26404] 第十三話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/03 00:48


 何事も中庸が大切である。辛すぎても甘すぎてもダメ。賢すぎても愚かすぎてもダメ。
 そして、暑すぎず寒すぎない季節。
 それは秋。
 
 日本の四季は実に色彩豊かだ。夏音は通学途中に通りかかるイチョウ並木が紅く燃えている様子を見てそう思った。
 聞くところによるとこのイチョウはもう少しすると黄色くなり、やがて銀杏拾いが季節の風物詩となるそうだ。四季の中にも確かな変化がある。そして四季ごとにまるまる表情が変わる魅力がこの国にはある。
 まだまだ奥が深いな、と感心するのはこういう瞬間だ。
 思えば夏音が日本に来てからこの方、季節の味わいを感じる暇などなかった。いや、暇はあったにせよ心の余裕がなかったというべきだが。
 夏音にとって引き籠もり期間と言えば基本的に家にいることを指していたものの、もちろん外出することも度々あった。とはいえ、それでもすっかり腰が重くなってしまった彼は落ち着いた気候を狙って外出することが多く、少しでも暑かったり寒かったりした場合は家を出ない。まるでハムスターのようなものぐさを身につけて、すっかりアウトドアへの憧憬を失っていた。
 だが、それも去年までのこと。
 ふと空を見上げる。空が高い。中国のことわざに、天高く馬肥ゆる秋というのがあるらしい。夏音に詳しい意味は分からないが、食べ物がおいしいこの季節に馬が肥るということだろうか。
 馬も肥るのだから、人間だって体重が増えてもおかしくはない。
「だから、気にしすぎだよねー体重なんて」
 世の女性を敵にまわす発言である。


「秋といえば食欲の秋って言うよねー。最近、食べ物が美味しすぎて気が付いたら食べてばっかりだよー」
 本日のお茶菓子である紫いものタルトをつつきながら唯がふとそんなことを口にした。相も変わらず気の抜けた顔である。常に幸せそうだなーと感心しながら夏音もそれに同意して頷いた。
「日本の秋の味覚はどれも絶品だよね。俺もスーパーに出かける度に秋の食材に負けちゃってさ。作りたいものばっかりだよ」
 あーわかるなそれー、と律も会話に加わり、一気にグルメトークに華が咲いた。それはこの時期の新米が楽しみだとか、その際の水分量の調整が~などという通の議題にまでのぼった。
 一同がキャイキャイと玄人じみた食の話で盛り上がる中、ふと律は先ほどからまったく会話に加わる素振りを見せない澪が気になった。こと食べ物の話題が出ているというのに、強張った面持ちで何かに堪えるようにじっとしている幼なじみの姿は律にとって違和感しかない。いつもの調子でからかってみた。
「澪なんてすぐ誘惑に負けそうだよなー。毎年この時期に体重が体重が~って泣いてさー」
 なんだかその姿がすごく想像しやすかったのでくすくすと笑い合う一同は、澪の眼がだんだんと昏い影を帯びていく様子をとらえることができなかった。
「おいおい、どうしたんだよ澪? さっきから黙っちゃってさ。あれ……タルトも手つけてないじゃん?」
 澪の様子を不思議に思った夏音がしごく軽い気持ちでそんな言葉を口にした途端。
 ガタンッを椅子を蹴倒して澪が立ち上がった。
「うるっさーーーーーいっ! 私の気持ちがわかってたまるか!!」
 あまりの剣幕に誰もが顔をひきつらせて口を閉ざした。唯など唖然として口を半開きのまま固まってしまっている。
「私だって気にしてるんだよ……ついつい口にする食べ物のカロリーとか、その代わりに夕飯を減らしてみたりとか………それなのに人が食いしん坊の卑しん坊みたいに!!」
「い、いや誰も澪をそんな風に言ったりしてない」
「言っただろー!?」
「律さん、あなたのせいだ」
「なっ! 私が何を言ったって!?」
 澪の剣幕に怖れをなした夏音が間髪いれずに律を糾弾する。どちらにつくべきかを一瞬で判断できるのは夏音的に世渡り術だった。
しかし、何の身に覚えのない問責に律は慌てるしかなかった。何たって幼なじみがキレてる理由が意味不明だ。
「焼き芋。ブドウ、柿、カボチャ系、さんま、栗、キノコーーーアハハハハッ!!?」
 ありのままの欲望を述懐する澪は涙を浮かべて立ち上がった。と思いきや、ざざっと床に崩れ落ちた。
「卑しい私が悪いんですーー!!」
うわーーと泣き崩れる澪はあまりに痛々しかった。
 誰もが視線を交わし、そらす。
 夏音も例外ではなく、なんといった言葉を彼女にかけてやればいいか思い当たらなかった。それにいくら探したところで、今の不安定な澪には逆効果な気もしたのである。


 反動、というものだろうか。酷暑が続いた夏は人間の体力を削り、余分なお肉さえも削り取ってしまう。事実、夏に痩せてしまう者は多く、澪も例外ではなかったのかもしれない。
 普段、ダイエットを意識している故にアイスや冷たい物の魅力をはねのけ、食べることを躊躇する。
 すると、必要な栄養がまわらずにこじれにこじれて夏バテを起こしたりする。そして何とか季節を乗り越え、秋を過ぎるあたりにはいつの間にか帳尻があっていたりするのだ。
 そういえば夏の終わりごろに澪が体調を壊していたのを思い出す。
 夏休みの初めに会った時と比べ、かなりやせ細っていて心配した記憶があるが、なるほど現在の澪はその時の記憶の彼女よりもいくらかふっくらとして―――否、ふくよか感が増している。
「何をそんなに気にしているか知らないけど、ガリガリに痩せているよりかは健康的でいいと思うけどな」
 統計だと多くの男はふっくらめの女が好きという。
 夏音がふと漏らしてしまった一言に澪を除く女子がまずい! という表情をした。
 遅かった。
 澪はゆったりと立ち上がる。怨嗟のオーラが彼女の周りを渦巻いており、その姿は誰が見ても日本のホラーの1シーンであった。
「Oh, my…」
 その異様な威圧感に夏音も一歩下がる。正確には椅子に座っていたので、気持ち的に下がる。
「ニクイ」
「み、澪?」
「憎い! そのスタイルが憎い! 贅肉ひとつないし! 贅肉に悩まされたことなんて一度もありませんってか? その余裕の表情が憎い! 憎さあまってかわいさ百倍!」
 褒め言葉である。それ、逆だよ……とは誰も言えず。
夏音に詰め寄った澪は、ガシィっと夏音の顔をつかむ。そのまま握りつぶすのではない
かというくらい力をこめ「いだィ!」それから憎しみ対象の身体の検分に移る。
「ヘ、ヘイ!! 何をするっ!?」
「み、澪ちゃんそれはまずいわ!」
 ムギが悲鳴まじりに叫ぶが、何となく嬉しそう。
制服のボタンは神速で外され、気づけば半裸人になりかけていた。
「男のくせにこの身体………うらやましいっ! いや、うらめしい!」
 血を吐くような叫喚。実に自分の気持ちに正直な告白であった。確かに夏音の身体に贅肉らしきものは見当たらない。ガリではないのに、スラっとしてまるで芍薬の花のよう。
「それ以上は洒落にならないって!」
 女子生徒にひん剥かれそうな男。なんて凄絶な光景だろうか。夏音は振り払おうとするが、澪の力が強すぎてなかなか実行できないでいた。
底力というやつなのだろうが、使う場所を選ぶべきだと夏音は思った。
「澪ちゃんっ! 私は澪ちゃんの気持ちわかるよ!」
 間に割り込んできた声の主はムギだった。夏音は、その姿が暴走する王蟲を止めるナウシカのごとく。何にせよ助かったと安堵した。
「私も………○キロ……増えたから」
 本人の名誉のために伏せ字でお送りした数値に澪の瞳が大きく開かれる。夏音は、ポカン顔で「たったそれっぽっちの数値の変動」だけに女子は命をかけるのかとガチ驚愕。なんにせよ自分の被害と加減しても納得できない。
「ムギも……?」
「澪ちゃんも辛いのはわかるわ。けど、夏音くんを私たちのエゴに巻き込んだらいけないと思うの」
「うん……うん……」
 何故だかムギに後光が差している気がした。慈愛に満ちた彼女の言葉に、夏音を掴み挙げている腕の力が抜けていく。
「まるで犯罪者を説得するネゴシエイターのようだ」
 と、もちろん心にだけ思った夏音は解放された途端、澪の魔の手から抜け出した。
 はだけた服を直しつつ、しっかり距離をとってその後のムギと彼女の会話を聞いていた。
 勝手に二人だけで感動しているが、要約すると傷の舐めあいだ。
「ていうか、そんなに気になるなら運動でもすればいいんじゃないか?」
食べて動く。そんな簡単なサイクルで体重などいくらでも調整できるではないか。自分がそんな風にして生きてきたので何の迷いもなくそう言い放った夏音に二対の視線が突き刺さった。
「それができていたらこんなに悩むと思って?」
 ムギの涼やかな微笑の先に般若の面を見た気がした。
「これだから何の苦労もしていない奴は……」
 先程とは一転して思い切りこちらを見下し始めた態度をとる澪。夏音は驚いた。
 情緒不安定にも程がある。
「そんな訳で女性の敵ですよ?」
「その通りだ」
 なんと、夏音はたったこれだけのやり取りを経て、女性の敵に認定されてしまった。
「これ完全にあなた方のエゴに巻き込まれてるよね」
「周りにいる人を巻き込むもやむなし、それが私のエゴです」
「エゴとか言ったら格好がつくと思うなよ」
「それにしても夏音くんはデリカシーがなさすぎよ」
「それは………女心に疎いっていうのは言い訳だけどさ。そこまで怒ることじゃないでしょう?」
 夏音としても自分が責められるいわれはない。ムキになるのも大人げないと思い、理性的にもっていこうとしたのだが。
「はぁ~~」
 と対する二名が同時に数年分溜め込んでいたのではないかというくらい重い溜め息をつかれた。タイミングもぴったりシンクロ。
「いつか刺されるといい」
「言うに事欠いてひどくない!?」
「私たちは1キロの目盛りに左右されながら生きているのよ。少しでも気を抜いたら大事件なのよ。身体中の脂肪が反乱を起こすの」
 ひどい圧政でもしいているのだろうか。
「その割には毎日お菓子食べてんじゃ……」
「ムギの持ってくるお菓子はきちんとカロリー抑えめのものを選んでいるんだ」
「そうだったの?」
 どの辺がどう抑えられているのだろうと首をひねった。前に砂糖のかたまりみたいなのを出されたこともある。
「え、ええ……も、もちろん低カロリーを基準に選んでおりますとも!」
「なんかどもってない?」
「とにかく! 夏音くんは今後の発言に気を付けるように!」
 指をつきつけられるのは久しぶりである。何かさらっと誤魔化された感がしないでもないが、やはり反論しても意味がないと悟った夏音は大人しく引き下がった。
「わかったよ。気を付けますよ」
「わ、わかればいいのよ?」
 一件落着、誰もがほっとした瞬間であった。
 口は災いの元、というがまさにその通りだと夏音は痛感した。
 しかし、口を開かずとも災いが降りかかることもあるのが人生である。
 その場合はどうしろと? ただ災いが通り過ぎるのをじっとこらえて待つしかないのだろうか。


 どうも腑に落ちない。そんな面持ちの者が三名ほどお互いの反応を窺うように息を詰めていた。
 果たして誰が自分たちの胸の奥につかえる疑問を口にするだろうか。ただの考えすぎというには同じことが一週間続くとそう楽観視できない。
 そもそも、そこまで深刻な問題でもないのだが。こういう時、たいてい夏音がその役目を引き受けるのが常であった。この場合も例外ではなく、彼がふぅと吐息をもらしてから何気ない口調で口を開いた。
「最近なんか和菓子が多いよねー?」
 ぴく、と律の眉がはねる。しかしそんな反応などなかったように笑顔で返す。
「んー、たしかに。嫌いじゃないけどこればかりだとなー」
「和菓子もいいけど、洋菓子もねー」
「たまには生クリームとか、ねえ? 夏音しゃん?」
「そうそう。フルーツが盛り沢山のプディングとか、ねえ? 律しゃん?」
「フィナンシェとかもいいわねー」
 うふふ、と女子力を使用した会話。徐々に出力を上げていく二人。一人は明確に野郎だが。
 そこにずずっと渋茶をすすっていた唯が力無く呟いた。

「和菓子あきたー」

 あまりに率直すぎるが、まさに自分たちの心情を代弁する一言に夏音と律は口をつぐんだ。
 そう。飽きたのだ。
 この飽食の時代。舌が肥えてしまった現役高校生たちのスイーツ舌は常にフレッシュなサイクルを求めているのだ。ケーキを食ったら羊羹を。煎餅の次はプリン。ババロア。時折、パンナコッタ。ロールケーキの後にはみずみずしいゼリーを食したい。
 その欲望の流れを遮断するような和菓子のヘビーローテーションはそのような純粋な物事の流れに逆らっているといってもいい。
 その原因は言うまでもない。軽音部の茶菓子の提供者は琴吹紬その人しかいないのだから。
「ごめんなさい。最近、和菓子ばかりいただくの……」
 しゅん。眉尻を下げ、心の底からすまなそうに謝るものだから誰も言葉を返せない。
「い、いや! ムギが謝ることなんてないさ。いつもただでご馳走になっている身だしね」
「むしろ和菓子とか低カロリーで健康的だっていうしさ! ジャパニーズスイーツって海外のセレブにも人気が………ね………」
 墓穴を掘ったな馬鹿め、と夏音は蔑むような視線を固まった律に向ける。
「そうなのー。こんなに美味しいのにカロリーが低いの」
 ほんわかとした口調でムギが律の言葉に嬉しそうな反応をする。既に軽音部では、カロリーという言葉が出るだけで身の毛がよだちそうな雰囲気が発生するという。
 この常に準修羅場世界と化してしまったのはやはり先週の出来事のせいだろう。
「カロリーが低いから安心でしょ?」
 何が安心なの、とは聞けず。
 夏音、律、唯は、もしやこのままムギによる恐怖政治が始まるのではないかと、軽音部の行く末に思いを馳せては身が震える思いをしてばかりいた。
 デリケートな話題であるため、指摘しづらいのも夏音たちが口を閉ざす理由の一つであった。
 そもそも、この三人が共同体のようになっている理由もよくわからない。いつそんな絆芽生えた。
 そして、そのまま沈黙を通して練りきりを口に運ぶ三人であった。もふもふと咀嚼する。うん、最高級なのが唯一の救い。
 そして沈黙。
「ハ、ハロウィーンだ……」
「へ?」
 まさに天啓だった。ふと降りてきたその単語に夏音がふるふると震えた。夏音が突然言い放った言葉に気怠く反応したのは憔悴しきった様子の律であった。
「何言ってんの」
「そうだ! 何をやっていたんだ! もうすぐハロウィーンじゃないか!」
「おいおいー。ここは日本だぞー? ハロウィーンなんてどうせお菓子会社とかが適当に盛り上げて終わりだって」
「え、本当に?」
 異文化間のギャップがここにまた一つ浮き彫りになった。
「そうだよー」
 そんなの認められないと夏音は俄然、勢い込んだ。
「やろうぜParty!!」
 発音がネイティブなもので、もはやパーリィと聞こえる。その素敵な単語に唯の瞳が輝きつつあった。
「パ、パーリィ……その響き!!  美味しいもの食べられるの?」
「それはもう! お菓子をいやってくらい食べられるさ!」
「やりたい! 私、ハロウィーンパーリィやりたい!」
「そうか唯もやりたいか! そうとなったら計画を立てなきゃな!」
 突然生気を取り戻した二人の様子に眩しいものを見るように目を眇めていた律であったが、本来のお祭り好き性質が魂の底から浮上してきたのか、だんだんとノリ気になってきた。アクセル全開で会話に参戦する。
「そこはやっぱりパンプキンづくしでしょ!」
「タルトにパイ、ケーキにプリン!? 作っちゃおうか!」
「いいね! 材料買い込んで盛大にやろうぜー!」
奇妙な高揚感を得て、三人は異様なテンションになりつつあった。今すぐにでも扉を蹴破って買い物に出ていってしまうくらいうきうきそわそわと落ち着かない。
「ところでハロウィーンっていつ?」
「十月の終わりの日だよ」
「ってもうすぐじゃん!」
 ちなみに明後日ともいう。
「うん。家族でやろうかなって思ったんだけど、今年は二人とも無理だったんだ」
「え、毎年家族でやるものなのか?」
「俺の家はね。家族で一緒にいるようにはしていたかな」
「へー、すげーなー。改めて外国から来ているんだなって思うなー」
 そんな所に感心されても、と夏音が苦笑を浮かべているとカチャン、と陶器のぶつかる音が響く。
「ムギ?」
 湯飲みが足りないからとティーカップで緑茶を嗜んでいたムギが、同じく白磁のソーサーにの上に乱暴に置いた音である。中身が盛大にこぼれていた。
 ムギがキレた?
 誰もがそう思い戦々恐々としたが、それは杞憂に終わった。
「素敵ねーハロウィーン……私のお家、色んな催し物に招待されるけどハロウィーンパーティはないの」
 いつものムギだ。何に対しても興味津々で、その瞳には常に無邪気で好奇の光を宿している麦である。
 その無垢さこそがかえって心胆寒からしめるナニかを放っているという恐怖。
「かぼちゃのケーキなんてわくわくしちゃう!」
 そんな反応に三人は警戒を強めた。その裏に何かしらの真意があるのではないかと勘繰ってしまうのだ。
「十月の終わりだと、今週の土曜日……あさってね」
 手帳を確認して笑むムギ。一つ頷き、頬を染めた。
「よかった。何の予定もないみたい」
「む、ムギ? その日は洋菓子の祭典みたいなものですよ?」
「最高じゃないー」
 クロスカウンターで返ってくる屈託のない笑顔に、これ以上は何も言えない。
「たまには洋菓子も、ねえ………。私もいいよね……ねえ……澪ちゃん?」
「……………」
 得体の知れない悪寒にぶるりと身を震わせ、澪は気まずげに目をそらした。
 先ほどから、一瞬たりとも会話に参加していない。それどころか、存在感が欠片も感じられなかった彼女であるが、どこか様子がおかしい。引き結んだ唇はわなわなと震え、脂汗がじんわりと額を濡らしている。病院へ行くことをオススメしたくなるくらいの様相を呈している。
 しかし、その前にナニカ違和感が……。
 何であろう。澪の顔がぼんやりと……なんか、違う。何が違うのか分からないが、ナニカが………。
「澪?」
 おそるおそる夏音が澪の頬をつつく。
 ふにん。
「っ!!?」
 その瞬間に、夏音の危機回避能力的なナニカがいっせいに警鐘を鳴らした。スネークが見つかった時の比ではないレッドアラーム。その本能によって彼が全力のバックステップを決めるのにゼロコンマ一秒もかからなかった。
「お、おいどうしたんだよ夏音……」
 律は唐突に飛び退いて呆然とする夏音に面喰らいつつも、その奇行の原因らしい幼なじみを一瞥する。そして、能面のように無表情の彼女におそるおそる近づき、その二の腕に触れてみた。
「ひ、ひぃっ!」
 理解した、というより体内のシナプスが全速力でその情報を脳みそに叩き込んできた。
彼女に何があったかは定かではない。しかし、彼女の身体に物理的に起こったことはわかる。
「み、澪これッ! 軽くヤバ……ッ!?」
 彼女は今の今まで自分は無であろうとしていた。しかし幼なじみの言葉を得て、いつまでも馬耳東風を貫いてもいられなくなってきた。
「う、う………………うぅぅぅぅ」
 感涙に咽び泣いている訳では絶対にないだろう。その涙は悔悟、無念がたっぷり詰まっている。長い睫毛はびったりと涙に濡れ、両の瞳がカッと全開のまま顔面がグシャグシャいうひどい有様であった。
 曲がりなりにもクールな美少女というカテゴリに所属している秋山澪のあまりの姿。ファンクラブ会員にはとてもじゃないが見せられない。
「み、澪……お前、いつからだ……?」
というか、何で誰も気が付かなかったのだろうか。
「分からない………ケド、ヤバイと思ったのは一昨日……」
「いや、でも、そんな、まさか…………」
「だって私たちにはいつも通りに見えたぞ………?」
 そう。秋山澪は普通に見えた。細身の体躯とは言い難いが、女の子にしては身長が高い彼女はどちらかというとスレンダーな印象を他人に与える。それがちょうど一週間前に、少しふっくらしてきたかなぁーと感じたくらいで、そこまで深刻なレベルではなかったはずである。
 少しだけとがった顎、すっと通った鼻梁。照りがあってなめらかな頬にかかる黒髪は和製美人を彷彿とさせ、つり目がちの瞳が顔全体をクールな装いへと引き締める。
 しかし、現在の彼女をよく観察してみる。まず顔の外線がなめらかというより、ふくよかな丸みを帯びている。その双眸もふっくらな頬に押されているだけのように感じる。そして……なんか、太い。
 緩慢な変化につい気づくことがなかったが―――、
「…………肥えたか」
「そんな言い方はヤメテくれ~~~~~~~~~~~」
 一週間のうちにここまで身体の表面上に変化が表れるとは恐ろしい。どれだけ摂生なしに食べればここまで太れるのだろうと夏音が感心する程度のメタモルフォーゼ。そう、これはもはや変化。
「ここまで澪が体調管理できない子だったとは……」
 まったく嘆かわしいと額に手をあてる夏音に同意とうなずく唯や律もその表情に悲壮めいたものを隠さない。
「私はいったいどうすればいいんだ……………」
「いや世界の終わりみたいに言うけど、痩せればいいんじゃないか?」
「それができれば苦労しないんだよ!」
 先週も同じことを言われたが、今度はその口調にも力がない。むしろ、涙ながらにどガチで放たれるその言葉に切迫したものを感じられ、うっかりこちらの涙腺にきてしまいそうであった。夏音には彼女が言葉と共に喀血しているように見えた。
「そうは言うけれども。あなた痩せるための努力は?」
「……………まだです」
 険しく目を眇めた夏音の詰問に、超気まずそうにしれっと視線をそらした。
「アナタ、ダメネー」
「急に外人みたいに言うなよー。肥満大国から来たくせにー」
「ほう、肥満大国とな? なら肥満大国でもないのに勝手に肥満になっている人はだーれだ?」
「うぅっ………イジワルだぁ」
「ていうか。何がどうなってこうなったのさ?」



 先週の騒動後。澪とムギによってダイエット戦線が築かれていたようである(二名のみ)。その際にスイーツ条約とやらを交わし、一回のティータイムで用意できる菓子のカロリーの上限を決めていたそうだ(勝手に)。
 それだけではなく、いっそのことお互い目標の体重に戻るまで洋菓子を口にしないという約束まで結んでしまったという。しかし、日頃から誰よりも甘いものを恋い慕う澪にとっては二日で地獄のストレスとなった。
 やはり細胞レベルで我が身に染みつき、愛惜この上ないスイーツたち。その焦がれる想いは彼女を燃やし尽くさんばかりに肥大し、熱くなった結果……………彼女は砂糖の僕となったのだ。
「肥大したのは想いだけではなく脂肪。そして、いま燃やし尽くさなければならないものこそ脂肪という訳だね」
「そんな風に言わ………はい、そうです」
「ムギは我慢していたというわけだ」
「ええ、私は和菓子も大好きだから平気だったけど……澪ちゃんは条約を破ってしまったようね……」
 貴様らの間の裏切りなど知ったことか。おっとり自己弁護したところで所詮は共犯である。
 夏音は盛大に溜め息を漏らし、あきれかえった。
「なるほど………て、いうかさ? 要するに二人の問題に全力で巻き込まれている俺たちの立場はどうなの?」
 律と唯がばっと顔をあげた。言った、言ってくれたぞこの男! と勇者を仰ぎ見るようなアツイ視線が夏音に送られた。
「つまり、だ。俺たちは我慢を強いられていたわけだ。圧政に耐えていたわけだ!」
 うっ、と押し黙る両名を見て、まさに水を得た魚状態の夏音は両腕を広げて高らかに声をあげた。ついでに最高潮に高まった夏音は机の上にだんと上った。
「俺たちは甘いものを食べる権利がある! つまりハロウィーンだ! もう決めたからね俺は。テーブルには甘いもの以外乗せない! 辛いものを一切排除するんだ。そして虫歯なんて概念を捨て去り、砂糖で骨を溶かす勢いでそれを食す!」
 それはまた堪らん……と唯は溢れ出そうになる唾液を必死に嚥下する。
「ただし! そこに参加できるのはスイーツに身も心も捧げられる者のみだ! 体重だなんだと気にしてスイーツ様に背中向けようとする者に参加の資格はない!」
「!?」
 革命の狼煙は今あげられた。予想をだにしていなかった内部反乱にダイエット同盟が驚愕にくれる。
「あ、来たければ来てもいいけど。それなりの誠意を見せてもらうからね」
 夏音は怜悧な表情で二人を睥睨する。普段は爽やかな夏の空のような瞳が、今や極寒の海のような冷たさを帯びている。
 その視線にあてられて、戦慄く二人は顔を見合わせた。
「では、後日」
 スタンと机から降りてそれだけ言い残すと、颯爽と部室を去りゆく夏音。後をついて行こうか行くまいか逡巡して見せた唯と律。
 この場合の味方になるべき相手は考えるまでもなく、結果、部室には魂が抜けたようにかたまる約二名のダイエット女子が残ることになった。


 ハロウィーン当日。
「う、うわー。お姉ちゃん! 私、本当にこんな場所で料理しちゃっていいのかな!」
「無駄に広くてごめんねー憂ちゃん。たかが台所だから気兼ねなく楽しもうよ」
 せっかくの催しなので、他に誰か呼ぼうということになり、唯の妹である憂も招くことにした。誰かゲストを呼んで楽しむ、というより自分たちで準備して騒ぐのが目的なので、もちろん準備には唯や律も参加しなくてはならない。
 そうなると、日頃から姉の労働負担を減らすことを目標とする憂が黙っているはずがなかった。
 夏音が止めるも、「私も手伝います!」と言って聞かなかったのである。実に良い子だ。夏音の中で彼女の株がうなぎ登り。
 やはりハロウィーンということで、パンプキンづくしである。ケーキ、タルト、パイ、プリン、ババロア、ムース、かぼちゃのスフレロール、ブリュレ、スコーン、モンブラン、さつまいもとコラボしたキッシュ、ベーグルや鯛焼きなんてものまで。
 目白押しすぎて、なんかアレである。胸焼け確定ってことだろう。
 さすがにやり過ぎではないかと思ったが、あれだけ啖呵をきったもので後にはひけないという現状である。
「そう思っていたので、紅茶とコーヒーの取り揃えを充実しているからね」
 同じ不安を抱いていたらしい律は、夏音が見せたその茶葉とコーヒーの種類に度肝を抜かれた。
「品評会でもするつもりか……」
 はたまた「きき紅茶」でもするのかといったところか。
 しかし、当日中にすべてを準備するのは困難であるので、一人につき二品を用意してきて、残りは夏音の家で作るということになっていた。
 スポンジから作るケーキというのもなかなか本格的である。
 夏音はそこまでやろうと思っていなかったが、それを可能にするオーブンも完備してあるキッチンの噂を聞きつけた憂いが是非にも、ということだった。あくなき探求心に感服。
 というか、女子だらけのお菓子づくり。なんとも華やぎに満ちた空間であるが、ふと「これでいいのか俺」と自問自答に苦しむこともある。だが、誰もが口を揃えて「決して違和感はない」と言うだろう。それこそが問題であるのだが。
 しばらくして、夏音は自分の担当するベーグルが焼けるのを待つだけとなり、暇をもてあましてキッチンを出た。そのままリビングから玄関までの飾り付けを再び眺める。
 前日の朝から自宅をハロウィーン仕様に飾り付けていた努力もあって、なかなかの出来映えに満面の笑みでうなずいた。これは是非、誰かに見てもらわないといけない。
「さて、あの二人はどうすんのかねー」
 あれからいっこうに連絡がない。
 一応、開始時刻は伝えておいた。家にあがる時の条件も添えて。


 準備の時間はめまぐるしく過ぎ、宵が訪れる時刻となった。
 あらゆるスイーツがテーブルの上に乗り、香る極上の甘味たち。女の子の空間。スイーツパラダイスの完成であった。
 現在、唯たちはというと別の部屋でハロウィーンの衣装に着替えている。仮装して参加することが様式美であり、このパーティの大前提だという夏音による主張のためである。
 この仮装に関して、夏音は何をモチーフにしようかひたすら悩んだ。
 なにせ今までは母親が半強制的に着せたいものを彼に着せていたから、実は自分で選ぶのは今回が初めてなのだ。マザコン疑惑。
「夏音くん何ソレ変ー!!」
「び、びっくりするくらいテーマが見えない!」
「すごく……ユーモラスだと思います」
 三者三様の反応であるが、ここからどんな答えが窺えるだろうかと夏音は小首をかしげた。
「おかしいかな? 色々コラボってるんだけど……」
「その耳は?」
「狼男の耳だよ」
「そ、そもそも服装は……」
「シスターを意識している」
「その長い犬歯は?」
「ドラキュラだな」
「その尻尾は?」
「さあ……なんだろ?」

「私は夏音がよければそれでいいと思う」

 律が仏のような目で俺に微笑んだ。その表情を見てどこか腑に落ちないが、褒め言葉として夏音は受け取った。
 かく言う彼女たちはなかなか可愛い装いである。平沢姉妹は王道パターンのとんがり帽子の魔女仮装をおそろいで、律は髪をオールバックにしてでかい傷シールと頭から飛び出るネジ……フランケンシュタイン。
 しかし、クオリティが低いというか雑すぎる。
 お互いが「………………」無言の評価を下し合った。
 とりあえず記念撮影をした。


「ところで澪ちゃんたち、本当に来ないのかな?」
 開始時間まであとわずかといったところで、唯が心許なくなったのか、ふとそんなことを漏らした。
「うん……一応、誘ったんだけど」
「夏音がきつく言い過ぎたからじゃないの~?」
「とはいえ、あの時は結構キてたし……ほら、お互いにさ」
「でもあんな言い方されたら来づらいと思うけどなー。そもそも澪に至っては今さら甘いものなんて食べたら…………そんな親友の姿を見るのは辛いっ!」
「んー。一応、今日のはカロリー抑えめなんだけどな。砂糖や食材からすべて気を遣っているしさ」
 立花夏音に妥協の文字はない。
「ていうか今日の目的だって、澪たちに来てもらわないと達成しないっていうか……」
「え? そんな目的とかあったっけ?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
双方、マジ驚く。
「あ、ごめん。普通に言うの忘れていた」
「お、おいおい……」
「ていうか、かなり大事なことなんだけどさ」
 とザックバランな口調で夏音が説明をすると。
「ってそんなに重要なことを言い忘れるなーーーー!!!!」
 フランケンがキレた。



 その頃、秋山澪はごく最近に一蓮托生となった相方・琴吹紬と夜の住宅街を歩んでいた。着慣れない、というか普段なら絶対に着るはずもない服のヒラヒラした部分が風にはためく。
だいぶ日は短くなり、白い電灯が点いてからずいぶん経つ。いつもなら、この時期に感じる一年の終わりに寂寞を感じていた澪であったが、この瞬間だけは暗くてマジで助かったと安堵した。
「ね、ねえ。本当にこんな格好でいくの……?」
「え、素敵な格好じゃない?」
「は、恥ずかしいよ」
「えー? 澪ちゃん似合ってる」
「こ、こんなの似合いたくない……」
「私のも素敵よねー。これ、なんて服だったかしら」
 うきうきしている。この相方は、何故いつもこんな暢気でいられるのだろう。澪は自分の気持ちを共有してくれることを諦めた。
 二人はそんな会話を挟みながら高級住宅街と呼ばれる一角に足を踏み入れた。
 ここからは少し坂道となっている。澪は、少しの坂でも息が切れるようになった自分を情けなく感じた。
 前までは体育会系とまでは言わないが、活発に運動を嗜んでいた。言い訳にするつもりはないが、軽音部に入ってから運動するという機会が極端に減った気がした。
 かろうじて中学校まで培ったささやかな筋肉や、代謝といったものが高校生活を半年送っただけで失われていくような……。
 最近では、学校の制服もきついものがある。精神的に。何故なら少しだけ肉付きの良くなった太ももを惜しげもなくさらさなくてはならないのだ。どうしてあんなにスカートが短いのかと恨み言を漏らすことも増えた。だから最近の高校生が風紀が乱れていると言われるんだ。入学前までは、「なんて可愛い制服」と思っていたのはあくまで過去の出来事。
(私は過去を振り返らない……)
 所詮は言い訳だ。
 自堕落に日々を過ごした報い。因果応報、まだ大丈夫と思い放置していた瑕瑾はやがて大きな致命傷へとなっただけのこと。
 彼女は一週間前の「事件」以来、ずっと悲嘆にくれていた。
 ついに立花夏音はこんな自分を見限っただろうか、と。
 何せ自分たちのエゴで大切な軽音部のティータイムをぎくしゃくしたものにしてしまった。それだけではなく、澪はムギさえも裏切ったのである。
 彼女は「仕方ないわ」と許してくれたが、夏音は違ったのだ…………と思いきや。本日、自分たちは立花宅で行われるハロウィーンパーティーに招かれている。

「澪ちゃん、パーリィよ」

 だ、そうだ。ムギの訂正が入る。
 スイーツに背を向ける者に来る資格なし、とまで宣言されては足を運べるわけがない。そう思っていたのだが、夏音は奇妙な条件をこちらに提示してきた。

『以下に指定するコス……仮装をしてくるならば、参加の権利を与えよう』と。手渡された紙袋の中身を見た時は目を疑った。
「だからって、こんなの恥ずかしい……」
 暗闇にまぎれるのがこれ幸い。電灯の明かりでさえ避けて歩きたいような気分になる。
「ふふ。でも夏音くんはこれを着てこないとダメって言ってたじゃない?」
「何のつもりなのよーあの男……」
 とぼやいたところで始まらない。
 ついに自分たちは立花邸にたどり着いてしまったのだから。
「ム、ムギが押して」
「え、澪ちゃんからどうぞ?」
 インターフォンを押す役目を押しつけ合う二人であったが、いつまでもまごついていられない。近所の人の目がある。
 ピンポン。
「ハーイ?」
 インターフォン越しに聞こえたのは、ここの家主(の息子)の聞き慣れた声。
「と、トリックオアトリート!!!!」
 そして、二人は家についたらこう叫ぶようにという指示を律儀に守った。
「き、きた………ちょ、ちょっと待って!!!」
 ガチャリ、と荒々しく置かれたであろう受話器の音。何故か焦ったような夏音の様子。
 澪とムギがお互い顔を見合わせ、なんとも居心地の悪い空気を味わった。
 どんな顔をして家にあがればいいのか。
 いや、そもそもこんな格好だ。恥とか、この際どうでもいいのかもしれない。
 そんな思いに耽っていると、バタンと玄関が開いた。
「魔女っ娘キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
!!!!!!!!!」
 瞬間、目が眩む。襲ってくる怒濤のフラッシュ。
「こっちは巫女ダーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
ガトリングのように襲ってくる光の連射。
 まさに鳩が豆鉄砲くらったような顔をしていたのだろう(後日の写真を確認したら、まさにそんな感じだった)。
 驚いて言葉もない澪を見て、奇抜な仮装をした夏音が盛大にニヤニヤした。気が付けば唯や律、憂の三人もそろっていて澪たちの格好を見て口を開いていた。
「うあー澪ちゃんかわいーーー!!」
「お前らよくその格好でこれたな……」
 ムギも大きな瞳をぽかんと見開いている。そのまま視線をずらして、カメラ小僧よろしく一眼レフでフラッシュをたきまくる主催者を見やる。
「これ、これ! これが見たかったんだよね! いや、ヨカッタヨカッタ!!」
「か、夏音……その格好は!?」
「んー、よくわかんなくなった」
「この格好は!?」
「え? 黒魔女っ娘コスだけど。似合うよ?」
「似合うとかじゃなくて! ここまで来るの恥ずかしかったんだからな!」
「いやー、それも含めて………あると思います」
 羞恥プレイも嗜むのか、この男。
「ムギも似合うと思っていたんだよなー。ていうか、澪も巫女さんにしようか迷ってさー」
 澪は、いつまでも真剣にうなる目の前の男をぶん殴ろうとする衝動を必死に抑えた。
「夏音くん? 本日はお招きいただいてありがとうございます」
ムギがすらりと夏音にお辞儀をした。 そのまま顔をあげ、うかがうような表情で夏音に問うた。
「お邪魔してもよろしいかしら?」
「もちろんでございますお嬢さまがた」
 夏音は軽妙な動作でお辞儀を返し、澪とムギの手をとってエスコートしていく。
 玄関からリビングまで、ハロウィーン仕様となっている屋内。突貫作業にしては、かなり凝っているといってもいいだろう。
「う、うわ………」
 覚悟はしていた。
 テーブルの端から端まで乗っているスイーーツの数々に目がやられそうになる。
 今の自分にはあまりのも酷な光景である。
 澪の思考が、やはり夏音はこんな光景を自分に見せつけてこらしめようとしているのかもといったネガティブなものへ移行しそうになった。
「さー、全員そろったことだし始めようか!」
「夏音? 私は、その……た、食べられないん……だけど……」
 澪が神妙な口調で言うと、夏音はふっと相好を崩した。
「I know...でも気にしなーーーーい! 言ったでしょ? スイーツに背を向けてはならないって」
 確かに、言った。言われた。とはいえ、今の自分としてはスイーツを頬張りたくてもかなわないのである。これ以上の体重増加は女として堪えられない。
「今日は澪、ムギ。二人が主役なんだよ」
「え?」
思いがけない言葉に耳を疑う。ムギも同じようで、困惑した表情でいる。
「あのね、夏音くんは澪ちゃんとムギちゃんのためにこのパーリィを計画したんだよ」
夏音の言ったことに首肯して唯が前に出て説明を加えた。
「本日をもってして、明日以降、澪とムギが痩せるまで軽音部は甘いものを我慢することをここに誓います!!」
「ちかいまーす」
 夏音の宣誓に、きわめてノリ気な声と、そうではない声が後に続いた。
「ど、どういうこと?」
澪は事態についていけず、狼狽を隠せない。
「つまりさ。俺たちは仲間じゃないか? ティータイムしている時、隣で我慢している仲間がいるのに平然としていられないんだ。だから、澪とムギが納得できる体重に戻るまでは俺たちも断スイーツを決行することにしたのだよ」
「夏音くん……」
 そんな夏音の説明はあまりに荒唐無稽。そんな義理はないのだ。それがわかりきっているムギは震える声を出せずにいた。
 澪はふらっとその場に崩れ倒れそうになった。
 何てことだろう。そんな馬鹿な話があるはずがない。肥えたのは自分自身。脂肪貯金を一季に引き下ろしたのも自分だというのに、目の前の仲間たちは私と同じ苦しみを味わおうという。そんなことをする必要がないのに。
「だから、今日は遠慮しないで好きなだけ甘い物食べようよ。いやってほど食べて、死ぬほど胸やけして『もう甘いものいーや』ってなろう。それで痩せた後に『やっぱり甘いものないと生きていけないの!』ってなればいいじゃん? それって背を向けるっていうか、また後で目一杯楽しむためなんだから、ある意味前を向いてるってことじゃないかな」
 優しさが燃えるようにいたい。傷に沁みて、情けないくらいにいたい。
 気が付けば、澪の眦から涙がこぼれていた。
 仲間に想われることの暖かさと切なさが胸をいっぱいにさせる。
「あ、ありがとうみんな………」
 ふと澪はムギと顔を合わせると、隣の彼女も涙ぐんで笑んでいた。
「私たち絶対痩せる! 早くみんなとお菓子食べれるように!」
「がんばれよ二人とも」
「がんばってね!」
「応援してます!」
 一同は二人の宣言を受け入れた。二人のダイエット戦士の誓いを、その胸に刻み込む。彼女達ならできるはず、と。

「じゃ、始めようか?」
今夜はハロウィーン。楽しい楽しいパーティの始まりである。

「ここで死んでもいい……!!」
「このために生きているの!」
 極上のスイーツに囲まれ、感涙に咽ぶ澪とムギの幸せな姿。口いっぱいにスイーツを詰め込む彼女達はこの世の幸福を凝縮したような笑顔を見せた。
 これより三週間―――夏音立花プロデュース・地獄のダイエット生活プログラムを終了するその時までに確認された二人の最後の心よりの笑顔であったという。
 結局、彼女達は二人だけで用意された菓子の半分を消化してしまった。どれだけ砂糖に飢えていたかが如実に表れた結果であった。


 パーティの片付けが終わり、皆は一斉に夏音の家を後にした。
 ハロウィーンの飾り付けはまだ残しておいてもいいくらい愛着を抱いてしまった。今日は疲れているし、二、三にちくらいはこのままでいいだろうと夏音はうなずく。
「Zonked out...」
 糞疲れたー、と仕事終わりのサラリーマンみたいにソファに寝転ぶ。
 そのまま淡い微睡みに身を寄せようかと思ったところに、宅電が鳴り響く。
 一人しかいないリビングに電話の音はけたたましく響く。
 まるで誰もいないんだ、と家中に人が居ないことを確認していかのように空気を揺らしている。
 だが、自宅にかけてくる相手は限られている。
 夏音は重い身体を奮い立たせ、受話器をとった。
「Hello」
『Hi, honey?』
母である。
『夏音ーー!! トリックオアトリート!!!』
父である。

「父さん母さんいっせいに受話器で喋らないでよ」
いったい向こうはどんな状態なのだ。
「とりあえず父さんはすっこんでいてくれないかな?」
『ひ、ひどいぞ息子!?』
「酔っ払っているのわかるからねー?」
 受話器から漏れる息づかいが一人分減った気がした。
『今日は一緒にいられなくてごめんなさいね?』
「べつにー平気だよ」
『なんだか楽しそう。お友達と一緒だったの?』
「あ、わかる? すごいね」
『トーゼンでしょ。なんだか満ち足りている声。あなたの声を聞けば、どんな状態が一発でわかるに決まっているじゃない』
 息子だもの、と姿には見えないが胸を張っているだろうこの母親には敵わない、と夏音は思う。
『ところで夏音? 積もる話はあるんだけど、少し大事な話があるの』
「大事って……どれくらい? たいていそう言われる時は良いことないんだよね」
『ううん……あの……ちょっぴりよ?』
「母さんのちょっぴりが信用できない」
『ひ、ひどいわ夏音っ!! だいたい何っ? ママって呼びなさいよ!』
「ハイハイ。わかったから、教えてよ」
『むぅ…………あのね、あえて一言でまとめるからよく聞いておいてね』
「一言でトンデモネーのがきそう……どうぞ」
『マークに住所バレちゃった♪』
「そいつは…Mom....」
『じゃ、そういうことで』
「洒落になんねーぞ母さん!!!」
『アルヴィを責めちゃやーよー。ジョージも何にも悪くないの。クリスが全部悪いからね。そういうことに決めたの』
「ヘイ、何がどうなってそうなった?」
『私はこれ以上は……まぁ、あしからず』
「いや、ちょっ……母さん!?」
『愛してるわカヌーちゃんファイト♪』
「その愛称はやめてったら……!」
 ガチャリ。
 心優しい母親は無情にも電話をぶつ切った。
 夏音は母親のあまりの身勝手な振る舞いはこの際気にしなかった。今に始まったことではない。
「マークがくる……だと」
 戦慄がはしった。
「むしろ、崩壊の序曲?」
 そんな気分で過ごす秋の夜長はどこかうすら寒かった。



 ※何というか、幕間に含めてもいいような内容。けいおんって季節が一気に飛ぶから、間に何か挟みたいなと思ったのです。つなぎ、的に。
 原作に金髪碧眼キャラが出てきて、若干たじろいでおります。



[26404] 第十四話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/13 00:17


 冬、枯れ果てた季節。眠りの季節。実りを待つ季節。秋が終わり春が訪れるまでのっしりと居座る彼の季節はこれがまたけっこう嫌われ者だったりする。それでも、なんだかんだ必要だから付き合う。本当のところ、嫌いではない人が多いのではないだろうか。

「俺はあの澄んだ空気とか好きだけどなー」
 軽音部の一同は、これから来る厳しい季節についての話題で盛り上がっていた。彼女達がいるのは暖房をがんがんと焚いた校舎の一角にある軽音部の部室。ぬくぬくの室内とは反対に外の風景はすっかり寒々しい。
 厚く空を覆う雲は太陽の日差しを阻み、紫外線をよりいっそう強く地表にお届けするのに貢献している。だから、意外にもこの時期こそ入念な肌の手入れが必要であったりする。
「でも外で遊ぶのもしんどくなるし、ずっと家に引きこもっちゃうよなー」
「そうなるとますます私にかかる重力が増してしまう……」
「いや重力は増さないから。増すのは澪の体重だけ」
 すべてに平等に1G。重力のせいにしてはならない。
「雪降らないかなー」
 一人、そんな会話の輪から外れて窓辺から空を見上げていた唯が、「待て」をくらった犬みたいな表情でそんな一言を漏らした。残念ながらその期待に満ちた両の瞳に雪が映ることはない。
「北海道や東北ではもう雪が積もってるんですってー」
 ケーキも食べ尽くし、手持ち無沙汰の状態でカップをいじっていた夏音におかわりを勧めながら、ムギが今朝ニュースになっていたと語った。
 何でも去年は初雪も遅かったばかりでなく、降雪量も激減だったそうだが、今年はその利子を返済されたような豪雪の被害がひどいそうだ。そこに住んでいる住民からすれば、まったく迷惑な話に違いない。
 へぇー、と何心なく聞いていた夏音は、そういえば自分が住んでいた場所はあまり雪が降らなかったなと思い返した。それと同時に、随分と向こうに帰っていないものだと思う。
 あの季候、日本のとはまったく違うあの空気を触れないで久しい。
 思えば一年半も日本にいるのだと感慨深く溜め息をついた。
「雪ねえ。去年は見なかったなあ」
「あ、そっか。夏音は去年も日本にいたんだよなー」
「うん。ちょうどこの時期にさ、あまりに寒いから草津の方でずっと温泉入りながらのんびりしてたんだ。ベース片手に一人旅ってやつ」
「草津!? 温泉!? なんだその悠々暮らし! セレブか!」
 普段あまり自分と縁のない言葉に律が憤然と立ち上がった。去年の今頃といえば、自分は受験のために勉強漬けだったというもので、羨ましいことこの上ない話だ。
「ふふん。あぁ日本って素晴らしいって思った瞬間だったですのー」
「素敵ねー。その時はご家族と一緒に行ったの?」
「いや、ひとりだけど……」
 しんと部室に閑かな空気が流れる。この男は、たまにこういう空気をもたらすので注意が必要である。
「ねーねー。こないだせっかくの三連休だからどこか遊びに行きたいねって話してたよねー!」
「ああ、そういえばそんなことで盛り上がったな」
 主にお祭り好きの律と唯が中心となっていた。澪はまったく関心ないフリをしながらもしっかりと耳をそばだてていたその内容を思い出す。
「うっ……」
 そして、ちょうどあの時。その瞬間を思い出すという事はあの地獄のダイエットの日々を思い出す事と同義であった。澪はあまりの凄絶な記憶に胃液がこみあげそうになるのをおさえた。
「それでね! どこ行こうかずっと考えてたんだけど、温泉とかいいんじゃないかと思うのです!」
 バーン、と皆の前に躍り出た唯に夏音はふぅ、と溜め息をついた。
「タイムリーというか、単純というか……」
「影響されやすいからなー唯は」
 自分の提案が完璧であることをみじんも疑っていない唯は自信に満ちあふれた表情でどうだと視線をよこす。その中で一人、澪が小さな声でぼやいた。
「温泉……かあ」
ふいに表情が曇った澪の反応を見た夏音が意外そうに彼女に訊ねた。
「澪は温泉きらいな人?」
「い、いやそうじゃないけど……人前で、その………のは……」
「ん? よく聞こえなかった」
「人前で裸になるのに抵抗があるというか……」
「そんなこと言ってたら温泉なんて入れないじゃないか」
 夏音はさすがに呆れた表情で澪を見詰める。彼女が恥ずかしがり屋なのは周知の事実だったがそこまでとは思わない。しかし、そんなことより夏音は彼女の言葉に違和感を覚えた。
「ん? ていうか合宿でみんなとお風呂入ってたよね?」
 あの時の犠牲を忘れてなるものか、と夏音はぎらりと瞳を光らせた。
「い、いや……あの時は良かったけど」
「あぁーそうか。澪、まだ気にしてるんだ」
「だ、だから別にそういうのを気にしているわけじゃ……」
「そういうのってどういうのー?」
 にやにやと意地をついた夏音の質問に澪はぷいっと顔をそらした。頬を膨らまし、もう夏音の方など見るもんかと決意するかのように体ごとそらす。澪の反応をうかがって噴き出した夏音はおどけるように肩をすくめた。
「すねちゃった」
「今のは夏音くんが悪いわよ」
 横からつん、とムギが責める。責めるといっても、その声音は冗談めいた色を含んでいる。かの騒動があった後、何だかんだと夏音のおかげで目標としていた体重に到達したことで彼女には絶対的な余裕が生じていたのだ。
 もはや自分の精神は体重の話題だろうと動じないのだ、と。
「澪はもう痩せたんだから大丈夫だよ」
「ツーン………」
 あ、無視されたと軽くムカっときた夏音である。
「おーい秋肥りの秋山さん」
 秋をかけた二つ名のように彼女を呼んでみた。
「も、もう肥ってない!」
「じゃあ、元秋肥りの秋山さん」
 あくまで意地の悪い夏音に「うぅ~」と唇を噛みしめ、涙目になる澪。自分の提案で何故か修羅場が形成されつつある、とそれまで事態をぽかんと傍観していた唯は慌てた。
「夏音くんそれはひどいよ!」
「ゆ、唯ぃ……」
 珍しく自分を擁護してくれる人物(それが唯であろうと)に涙を浮かべて寄り添う澪であった。
「澪ちゃんはもう痩せたんだから! 脱いでもすごい澪ちゃんなんだよ!」
 いや、それはどうだろうと誰もが口にしかけた。その表現は色々誤解を生む気がする。
「夏音くんは澪ちゃんのプロポーションを生で見たことがないからわからないんだね!」
 唯の一言に夏音の目がキランと鋭く光る。
「いや、前に水着姿でしっかりと確認したよ。わがままNice bodyだよね」
 その両目と魂にしっかりと刻み込んだ思い出の一幕。
「な、何を言っているんだ夏音! ふ、ふ、ふ、不埒な……っ」
「で、でも夏音くんはその先を知らないんだよね」
 知ってたまるか、と夏音は手をあげた。降参のポーズである。
「別に俺は澪の身体が太まっているなんて言っていないだろう?」
「ふ、ふとまっ……そんな日本語はない!」
「ていうかー。あれだけダイエット頑張ったんだから自信もちなよ」「で、でも………」
「とりあえず澪の意見はすべて却下ね」
「んなっ」
 その事に反対する者もいなかったので、そんな流れに。
「ていうか温泉って近くにあるのか?」
 初めて律が建設的な意見を口にした。たしかに、この近くにある天然温泉の噂など聞いたことがない。夏音がすぐに携帯で検索しても、いまいちヒットしない。
「銭湯? ていうのならあるんだけど……違うよね?」
「あ、私はそれもいいと思います!」
 急に弾んだ口調でムギが手をあげた。とはいえ、夏音は「銭湯」というものがよく分からない。アニメなどで出てくる時があるが、温泉とどう違うのかまでは知識になかった。
 それにムギからしてみれば、銭湯なんてもっとも縁遠い物の一つだろう。ただ、わざわざ銭湯に入りにいくのに友達同士で行く必要などない。
「やっぱり少しくらい遠出する必要があるかもなー」
 家に温泉マップがあったなぁ、と言う律に夏音は眉をひそめた。
「もしかして、また俺が車を出さなくてはならないのかな?」
 一瞬、明確な間を挟んでから「いや、バスとかもあるだろうしねー」と律がしどろもどろに答えた。これは絶対にそのつもりだったな、と夏音は確信した。
 その他の人間はしれっとした顔でお茶をすする。わざとらしい。はっきりと顔に書いてあるのだ。「せっかくアシがあるんだしさー」と。
 別に軽音部でどこかへ遊びに行く時にいつも夏音が車を出すわけではない。しかし、高校生にとって遊ぶための交通費というのは絶妙に懐を痛めるやっかいなものである。できれば移動のためのお金は抑えるにこしたことはないのが本音であった。
 実際、夏音が車を持っていること判明してから、使えるものは親でも使うべしという考えのもと、彼女たちの顔には、はっきりとドライバーを所望する輝きが表れるのである。こう、度々と。
 もちろん車にだってガソリン代などの費用がかかるし、特に夏音の持つ大型ワゴンのガソリン代は満タンで入れるとなると彼女たちのお小遣いの額など軽く超えるだろう。
 そうはいっても、彼女たち自身は運転することや車についての了見が浅いのか、これといって気にする様子はない。
 夏音はそういった気が回るようになるのは実際に自分で車を運転してからなのだろうかと時折悲しくなる。夏音はそんな彼女達もいつかわかればいい、と自分を納得させている。
「ま、いいけど。近くだったら横須賀か、奥多摩………草津とか? どちらにしろ、日帰りはいやだな」
「草津がいい」
 やけにきっぱりと律が言った。その瞳にはありありと期待の色が滲んでいる。
「別にいいけど、なんで草津?」
「草津って名前だけ有名だけど、一度も行ったことないからな」
 そんなものか、と夏音は頷いた。
「みんなはどうなの?」
 一応ぐるっと見回して他の意見を得ようとする。反対票もなく、あっさりと草津行きが決まった。
 同時に草津まで運転することが決まった夏音は密かに嘆息した。
 今月の第三土曜日からの三連休。勤労感謝の日が月曜に来て、いい具合に連休となった場合はどこのレジャー施設も人で賑わうだろうから、渋滞が心配である。
「それで予算はどうする?」
「そうだな。草津だと宿泊費用ってどれくらいかかるんだろう」
 そこで具体的に費用について考えるのがしっかり者の澪である。流されてすでに温泉行きを諦めている様子であった。
「俺は素泊まりで泊まったんだ。料理も好きだし、好きな時に食べて好きな時に寝て、好きな時に温泉に入る……最高だなぁ」
「すでにオッサンの域だな……」
 律が軽口を叩くが、夏音は無視した。別になんと言われようとかまわないのだ。ダラダラしたい奴には最高の生活ではないか。
「そうだなー。一泊か二泊したところで素泊まりだと四、五千円かな。食事を何とかするとして、合計で七千円には収まるかな」
 夏音が利用した宿は特別安いわけでもなかったが、ふらふら歩いていたら破格の値段で提供している安宿などもぼちぼち目にした。
「いっそのこと宿泊費も何とかなったらなー。あームギとか別荘持ってたりしないよなー?」
 さすがの琴吹家でも、草津に別荘はないだろう。
 冗談口に笑い飛ばした律であったが「確かあったと思うけど…………どうだったかしら」と額に手をあてたムギに一同はそろって口をあんぐり開けたままフリーズした。
 ちょっと待ってね、とムギは席を離れた場所でどこぞへと電話をかける。その連絡先は想像に難くないが、一同は息をつめてそれを見守った。
「はい……はい……ありがとうございます」
 はっきりとそう聞こえた後、電話を切ったムギは振り返ってにっこりと笑った。




「いやー完全に遊びに行くだけってのもイイよなー!」
 と後部座席にふんぞり返った律が言った。つづいてバリボリとスナック菓子を咀嚼する音。
「ほれ、夏音よ」
 後ろからにょきっと生えてきた手にはイチゴ味のポッキーが。
「Thanks」
 若干ぶすっとした表情だった夏音は一瞬だけ前方から目を離してポッキーにかじりついた。イチゴ味、初めて食べる味であった。というより、お菓子を食べるのはいいが、ぼろぼろとこぼさないで欲しかった。
 後で掃除するのは夏音なのだ。
 基本的に法定速度を守らないドライバーである夏音だが、関越をぶっ飛ばして、やっと渋川伊香保のICを通過した所まで来ていた。
 万が一、渋滞に捕まることを懸念していたものの、この流れだと予定していた時間よりだいぶ早く到着できそうであった。
 目指すは琴吹家の別荘地。ムギの父親が温泉好きだったことで、全国で三つの温泉地に別荘があるらしい。北は登別。南は指宿。思えば、海辺の別荘でさえ風呂の設備が充実していたくらいだ。
 要するに、夏音とムギ以外は交通費も宿泊費も諸々かからずに草津温泉が楽しめるというどれだけ幸運に恵まれているのかというラッキーガールだということだ。
 別に請求するつもりは毛ほどもなかったが、流石に高速代くらいは出そうとするだろうかと期待していた夏音だったが、ETCという便利なアイテムのおかげで完全にスルーされた。
 ふと彼女たちの将来が心配になった夏音であった。
 ムギの別荘が使えるということでチェックインの時間を気にしなくても良くなったので、あえて道が混まない時間帯を選んで夜に出発することになった。
 金曜日の夜に出発して、日曜日の夕方に帰るというプランである。二泊三日で四千円にまるまる収まると聞いた時には目を剥いてしまった。
 実に贅沢な連休である。全国のサラリーマンに祟り殺されてしまいそうなくらいの充実。
「おっんせーん♪ おっんせーん♪」
 唯は途中に三十分くらい寝ていたが、起き出してからはまたテンションメーターを急上昇させ始めた。
「草津良いとこ一度はおいで~♪」「どっこいしょ」「あ、そーれ」
 皆が楽しいのであればいいんだもん、と夏音は諦観の境地に突入していた。
「夏音。さっき買ったミルクティーでも飲む?」
 助手席に座った澪がビニール袋をガサゴソと取り出す。どうやら先程の休憩で停まったSAで買っておいてくれたらしい。
「助かるよ。ありがと!」
 まったく気が利く娘だとうなってしまった。夏音が実はコーヒーが苦手だということも考慮してくれている。それに比べて後ろの三人はずっと浮かれ騒いでいるだけだというのに。愛弟子の出来に夏音は少しほろりとしてしまった。
 澪が助手席に座ったのは、何だかんだとメンバーの中で一番この車に乗る機会が多い(レッスンの時に家まで送るため)彼女が助手席に慣れすぎていたからであった。
 何の疑問もなくさらっと助手席に乗り込み、さらには空調の調整やら常にオプションで差し込まれているiPodをいじったり、あまりにそれらの行為をナチュラルにこなす彼女は当然のごとく目敏さに定評がある律に突っ込まれた。
 傍目から見てもたじたじになり「いや、何となく……音楽がさ……必要じゃない……」とモゴモゴ言うのみの澪の顔は真っ赤であった。気が動転した彼女がかけたのはメガデスだった。
 何故だか夏音も気まずくなるというものだった。あの空気は何だったのだろうと思い返しかけて、やめた。


「流石にこの時間からになると、今日は別荘の温泉だけだなー。明日は外湯めぐりとしゃれこみますかねー」
 うふふ、と律がガイドブックを眺めて言う。
「りっちゃん隊員! 温泉まんじゅうも逃せませんぞー」
 旅行が決まってから何回も繰り返されるこのやり取りに、どれだけ楽しみだ、と夏音は苦笑した。
「ガイドブックに載っていないところも知っているからつれていってやるよ」
「ほんとかー!? すげーな夏音!」
「ダテに一ヶ月もいなかったからな」
「ぶふぅっ!? そんなにいたのか!?」
 思わずお菓子を噴き出した律は「車を汚すな!」と夏音に叱られた。

「つ、ついた~」
 途中からカーナビに加えてムギの指示で車を動かし、山を少し登った所に別荘はあった。温泉街の景観を横目に通り過ぎ、ぐいぐいと奥地に進んでいった先。草津の中でも、特に奥地といった具合でこれは期待が大きいと誰もが胸をときめかせた。
「お疲れさまですー。いつもごめんね夏音くん」
 ムギが伸びをして体をほぐしている夏音に申し訳なさそうに言う。だが、そんなことはお互いさまであったので、気にするなと笑顔で返した。
「むしろムギのおかげでずいぶんと楽しい思いをさせてもらっているよ」
「ううん。それは私じゃなくて父のおかげ。私は何もしてないから……」
 台詞に反して、その言い方に卑屈な含みは感じられなかった。彼女は純粋に父親のことを尊敬しているようだし、自分の家がもつ威光に斜に構えている訳でもない。これは謙虚、という美徳。
「うん。でもムギがいないとだめだったからね。ありがと」
 それでも筋を通すべきだと夏音は相手が気負わなくていいような軽い口調で礼を言った。
「ふふ、どういたしまして」
 夏音はそう言って嬉しそうに目を細めたムギの横を通って別荘の玄関口まで荷物を運んだ。
「なんか旅館みたいだな……」
 一同は古色蒼然とした純和風の温泉旅館、といった体の建物に目を見張った。照明も明るすぎない、伝統的な和紙を使用した提灯の明かり程度。
 全部がそうではないだろうが入り口の雰囲気で、古きよき湯屋の趣を醸し出している。
「なかなか良い雰囲気だね」
「実は私もここに来るのは初めてなの」
「え、そうなの?」
 別荘の持ち腐れではないか。
「そうなの。でも、素敵ねー」
 そうやって建物を見上げるムギは心の底から嬉しそうだった。そうこうしているうちに、律と唯は玄関口からあがりこんでいた。
 中には琴吹家から管理を任命されている富岡という人の善さそうな初老の男性が待っていて、ほとんどの設備を使えるようにしてあると説明した。
 浴場の掃除も済んでおり、二十四時間入り放題だが、火傷には気を付けるようにとのこと。
 さらにその他諸々の注意点を話し終えた彼は「じゃ、ごゆっくり」と帰っていった。

 と放り出されたものの、これだけ広い建物である。まずは何があるか把握しなくてはならない。とりあえず居間に荷物を置いて、建物内を確認しようかと思ったが―――、
「うわーーすっげぇーーーっ! 露天風呂だぁーー!!」
「広いよりっちゃーん! 泳げるね!」
 探検隊がさっそく浴場を発見したようであった。
「まったく、うるさいヤツらだな……」
 ヤレヤレ、と言いながらもぐんと歩む速度があがった澪を見てムギがくすくすと笑った。彼女が草津に入ってからずっと隣でそわそわしていたのはバレバレである。
「ま、浴場は後で見るとして。暖房とかはどうなってるんだろう?」
「ボイラー室もあるけど、今はほとんど電気で管理しているんだって」
 つまり、こんな風格のある老練された建物でもオール電化住宅への一途を進んでいるらしい
「じゃ、あの立派な囲炉裏は?」
「使えないこともないと思うけど……」
 とムギは困ったように眉尻を下げた。
「まあ、様式美と機能美を両立することは難しいということか」
 一応すべて実用品らしいが、それを活かせるスキルがないのではどうしようもない。それでも日本の古式ゆかしい生活品に興味があった夏音としては気落ちするのも仕方がないことであった。
「おーい夏音来てみろよー。すごいぞお風呂!」
「こーんのミイラとりさん!」
 すっかり興奮した様子で居間に戻ってきた澪に対して、夏音はビシっと突っ込んだ。くふっと横でムギが噴き出した。

一日目―――、長距離の運転でへとへとに疲れた夏音が風呂に入り逃すことで終わる。


「あぁ~~~いい。いいよ、これー」
 変な時間に目覚めた夏音は朝日がのぼる直前に温泉を堪能していた。夜中過ぎに起きた彼は最高潮に不機嫌であった。
歯磨きもできなければ、風呂にも入れなかった。暖房が弱々しく動いていたおかげで、風邪をひかなかったのが救いだ。
 彼は外見を見事に裏切るような口汚い言葉を吐きながら、ふらふらと廊下に出た。
 トイレを探して閑とした廊下を彷徨っていると、妙な音が聞こえたのでそちらに足を向けたら、浴場があったのだ。


「朝日を拝みながら朝風呂ってのもクールだねー」
 天然の露天風呂。岩づくりの広い浴槽は源泉掛け流し状態で、常に滝のように湯が流れこんでいる。外気が冷えているので、温泉の蒸気が見事な湯けむりになって辺りを覆っていた。
 夏音はそんな神秘的な空間に射しこむ朝の清浄な光を満喫している最中であった。
 こんな時間に誰も来ないだろうとタカをくくり、完全に一人くつろぎモード。心を完全なるオープン状態へと解き放っていた。しかし、そんな時に限って上手くはいかない。オプチミストには優しくないのが現実というもの。
「あら、誰かいるの?」
 そんな矢先にふいにかけられた声に、夏音はザバンッとお湯に沈み込んだ。思わず溺れかけたのは不可抗力だ。
ほんわか間延びした透明な声。まぎれもないあの子である。
「ム、ムギ!? どうして!?」
 水面に顔を出すと、濃い湯気の向こうに人影が見える。つまり、いるのだ……夏音以外の人間が。つまり、その姿をこの場所で拝んではいけない異性が。
 ゴクリ、とツバを呑み込む。
「もしかして夏音くん?」
 ざばざばと取り乱している夏音とは裏腹に、のんびりと悠々たる調子でムギが声をかけてくる。湯気が立ちこめているので、お互いの姿ははっきりとは見えないが、彼女も一糸まとわずという訳ではないようだ。まだギリギリセーフの段階である。
「脱衣所で俺の服みなかったの!?」
 男女の区別のない浴場だから、ムギが入ってくるのも不思議ではないが―――気づけよ。
「あれ、そういえば夏音くんのお洋服だったのねー。すっかり忘れちゃってたのね」
 あくまでも、のほほんとした態度を崩さない。暢気にも程があると夏音は憤慨した。
「と、とりあえず脱衣所に戻ってくれると嬉しい。そして、俺の着替えを待っていてくれないかな!」
 ちゃぷん。
「失礼しまーす」
「もーぅ何やってんのこの娘はー!」
 夏音が視線を落として狼狽えている隙に、ムギが岩で固められた同じ浴槽に入ってきた。
「マナー違反だけど、見逃してね」
「いやタオル入れたままお湯に浸かるとかはどうでもよくて! いや、見えていないけどね」
 何故、朝からこんなに血圧を上げなくてはならないのか。自分は基本的に低血圧で、朝に二行以上の台詞を吐きたくないし、ましてや怒鳴りたくなんてないのだ。現状、心臓は途方もない速さのBPMで動いている。だって男の子だもん。
「ムギさん。あなた年頃の娘でしょうよ」
「えーと……ちょっと恥ずかしいけど。夏音くんだったら平気な気がして………」
「そんな根拠のない信頼を置かれても……」
 身に余る光栄だが、この少女は少しは人を疑った方がいいと夏音は心配になった。男というのは総じて異性をエロイ目で見るもので、何より自分もそんな男である。
 しかしムギは完全に腰を下ろし、おどけた口調で「まーまー。いいじゃないですかー」とか言っている。
 こんな警戒レベルだと将来痛い目に遭ってしまうかもしれない。
(あ、わかった。男って意識されてないんだ)
 自然と導き出された答えに肩を落とした。
 入ってきてしまったものは仕方がない、と諦めて一緒にまったりすることにした。顔を半分だけ鎮めてぶくぶくと泡を立てていると、ムギが「んー」と伸びをする。
「綺麗ねー」
「うん。湯けむりに朝陽が射し込んでくるのがまた風情があるよね」
「うふふ、すごいのね。夏音くんたら風情なんて知っているんだー」
 夏音の日本人度(命名・律)の高さがムギのツボにはまってしまったらしい。気品を失わない程度に身を震わせて笑っているのが伝わる。
 馬鹿にされた訳ではないとわかるので、夏音もつられて頬をゆるめた。夏音はムギの笑いのツボが最近になって把握できるようになってきたなと感無量である。思えば半年以上も彼女たちと過ごしているのだと嬉しい溜め息が出た。ふぅーって出た。
「夏音くんたらおかしいの……っ! お、おじさんみたい……っ」
 長い溜め息を、オッサンの歎声と例えられるのも哀しい話である。彼女が体を動かす度に夏音はどぎまぎとする。近くにいればお互いの顔が確認できる程度の視界が助かった。
 近くにいなければあまり意識をしなくても平気。ムギは声だけの存在。いわばエコー。
「どうして夏音くんの髪ってこんなに綺麗なのかしら」
「近っ!?」
 よもや接触されていた。ついでに頭も洗おうと解いていた髪の毛をひとすくいされる。
「綺麗な色よねー。あれ、根本のところが……?」
 借りてきたネコのように大人しく髪を触らせていた夏音は「ああ?」と呻いた。
「この色は地毛じゃないからね」
「え、そうなの?」
「本当はブロンドなんだ」
「えーそれも見てみたい!」
「えー黒髪でもいいじゃないか」
「黒髪もいいけど……もしかして小マメに染め直しているの?」
髪だけではない、眉毛に……睫毛もだ。時折ムギが夏音の顔をじっと眺めた時に感じた違和感の正体はこれだ。
 しかし、それは想像するにとんでもない手間がかかるはず。
「ん。ま、ね……」
 急に歯切れが悪くなった夏音につられたように黙ったムギは髪の毛をいじくる手を休めて、出すべき言葉を彷徨わせた。
 おそらく理由が、あるのだ。軽く踏み入れることができないもの。
「ごめんなさい。気に障ったかしら」
「別に………向こうじゃ誰でも染めてたからね。俺も黒いのが好きだから染めてるだけ」
「そう、なの……?」
「ムギの髪は染めてないんだろ?」
 今は濡れないようにアップにしているその髪。ムギの髪はブロンドというには明るさが抑えめ、ただ地毛というには明るすぎるような黄金色と栗色の中間といった色合いだ。
 染めているかそうでないかは目を凝らしてみればわかるもので、夏音にはそれが彼女の地毛だという認識があった。
「うん……母方の血筋がね……」
 立場が逆転してしまった、と今度はムギが口ごもり、まごまごしだした。
「俺はムギの髪のほうが綺麗だと思うな」
「あ、ありがとうー。あ、夏音くんもブロンドだったらお揃いみたいでよかったのにね!」
「ふふ、そうかもね。でも日本人って何で髪の色なんて気にするんだろうなー」
「うん、まるで馬鹿みたい」
 普段の彼女を知っている者からすれば、思いがけないほど厳しい口調だった。まるで知らずのうちに本音が漏れてしまったみたいに。
 湯気は相変わらずもくもくと浴場に充満している。夏音は長くお湯に浸かりすぎたのか、若干のぼせてきたのを感じた。
 互いにふぅ、と息をついた。
 言葉にしなくても、お互いが察してしまった。言葉を超えたところで痛い共感が胸に突き刺さり、気まずい空気が流れる。
「さて。少し長く浸かりすぎたかな。俺は先に出るからムギはゆっくり温まっておいでよ」
 タオルを引き寄せ、しっかりと体に巻き付けた夏音はじゃぶんとお湯を出た。
「え、ええ。また後でね」
「おぉ、ひとっ風呂浴びたし二度寝でもするかなー」
 と余裕を吹かせたものの、風呂を出た途端に十一月の冷たい空気に晒された身体が急速に冷えてしまった。
 夏音は足早に室内に戻り、熱めのシャワーを浴びてから脱衣所の衣服を急いで着こんだ。ドライヤーで長い髪を乾かし、乱暴に櫛を通す。何となく、一刻も早くこの部屋から出た方がいいと勘が働いた。
 その勘は見事に当たり、風呂を出た瞬間に寝ぼけ眼の唯に遭遇してしまった。

 ぎくっと心臓が飛び跳ねた。

「あひゃ~、かのんくん……ぷーりん……へるす……まいこぉ……いぇー」
 目の前の夏音をきちんと認識しているのか怪しいが、どうやら半覚醒状態らしかった。謎の呪文を唱えながらふらふらとした足取りで廊下の先へ消えていった。
 ほっと胸をなで下ろしてそれを見送った夏音は、背中に嫌な汗をかいてしまったと顔をしかめた。
「まあ、温泉はいくらでも入れるからいいか」
 とりあえず二度目の惰眠をむさぼるために、居間へと向かった。


「夏音はまだ起きないのか?」
「まだソファで寝てたよ。よっぽど疲れたのかなー?」
「あ、醤油とって」「はーい」「それみりん」
「まあ、遅くまで運転させちゃったしな……」
「なんだ澪~? 自分の作った味噌汁を早く飲んでもらいたいのかー?」
「ち、違うっ! そういう事で茶化すなアホ律っ!」
 わいわいと騒がしい調理場には朝餉の芳香が漂っている。
 食事に関しては、完全に自給自足することになっていたので、事前に買い込んでおいた食材を分担して調理しているのだ。
「オハヨー」
 眠気まなこをこすって夏音が起きてきたのは、食卓にひと揃い並んだ後だった。
「相変わらず朝に弱いな……」
 髪の毛ごとソーセージをもふもふと咀嚼している夏音を見て律が呆然と半ば呆れたように呟いた。
しかし、それが夏音クオリティ。

 午前中からは全員が自由に温泉をまわる時間となっている。草津に散らばる多くの外湯をまわるだけまわるのだ。
 湯当たりしてしまわない程度にさっとあがればいくら梯子しても案外へっちゃらなのだ。
 とりあえずみんなで湯畑を見て、饅頭や煎餅の試食にありついたりしてから、各自で行きたい所へ散らばった。


 夏音は以前に滞在した時にすべての外湯をまわり尽くした男である。さて、今回はどこに行こうものかと首をひねっていたところ、「ヌッ!?」と背後に戦くような気配を感じてバッと振り返った。
「お茶飲んでたらみんなに置いてかれたよ夏音くん……」
 その正体は、半べそかきながら背後霊よろしく夏音にひっついていた唯であった。
「らしいね」
 ふっと笑って言うと唯は頼りなさげなに夏音を見上げた。
「みんなどこ行ったのかな?」
「かなり足早に駆けてったから、たぶん目星をつけた場所があるのかも。不安ならメールいれとけばいいじゃない」
「そだねー。えっと、りっちゃんうらみます、と……」
「置いてかれたのは自業自得でしょうよ」
「冗談だよー。今、どこかなー、と」
「ま、どこに行ったかは想像がつくけどね……」


 草津の効能は皮膚炎の人には大変人気だと聞く。他にも、草津の温泉はあらゆる疾病、肉体の疲労に効くという。
 そういった意味では、応用が利くというか。体重を気にする女性たちにもそれらしい効果があると信じられている。
 澪が部室に持ち込んでいた雑誌の巻末付近に『絶対痩せる!? 温泉が新陳代謝を高めることで……』という特集記事があった。
 夏音は何気なく雑誌を手にとっただけなのに、しっかりとページの端を折り込んでいるのと、何回も開いていることで自然とそのページを開きやすくなっていたことでその気まずい見出しを目撃してしまったのだ。
「澪もダイエット戦士に鞍替えするのかな」
 別に、どんな澪でも彼女の個性だと思う。そう納得してあげることが大人の対応ではないだろうかと思った。
「ま、唯には関係ない話だな」
「え、なにが?」
「なんでもないよ。とりあえず、もう律たちは一つ目のどこかに行ったんだろう。オススメの所があるからそっちに行こうぜ」
「ほぇー。オススメってどんな風に?」
「お肌がツルツルになりますぜ……」
「ほ、ほぉ!?」
「ま、どこ入っても一緒だろうけど。あそこは特に効能が強い気がするんだよね。アッツアツだけど」
「アッツアツ!? 江戸っ子かい?!」
「江戸っ子だ!」「おほぉ!?」
「Shikamo…」
 夏音がふと顔に影を作り、唯の耳に顔を寄せる。
「な、なんと!?」
「イェス」
 眉根をぐっと寄せて真剣な表情になる唯とうなずき遭う。
 二人は互いの返事を待つまでもなく、駆けだした。
「あ、唯そっちじゃない! だから! 人の話を聞きなさい!」


(痩せる……私はこれで痩せる………これで……ヤセル……ワタシ…ヤセ)
「澪―いいかげんに出ようぜー」
「出ない」
「のぼせて危ないっつーの!」
「やだー」
 律は既に十五分はお湯に浸かっていると計算した。別に普通の風呂なら十五分も長い時間とは言えまいが、何せここは草津温泉なのだ。
 お湯があっついのだ。
 湯量、効能ともに豊富な草津の特長として、どの温泉も温度が高い。さっと入る分には良いかもしれないが、長湯には向かないと思われる。思われるのだが―――
(何でこいつってこんな意固地……)
 律は長年付き合っている親友の妙なところで発揮される意地の強さにすっかり参っていた。そして、こういった流れの先の顛末として澪がどうなるかも飽きるほど見てきた。
「ゼッタイ後になって後悔するに決まってんじゃん」
「特集では三十分は入らないといけない、って書いてあったもん」
「おいおい、それは休み休みの話だろー?」
 この女はきっちり読んでいるようで読んでいない。なぜ、雑誌の持ち主である澪より自分が記事の内容を把握しているのかと嘆いた。
「律は先にあがっていいよ」
「何で草津くんだりまで来といて、我慢大会しなきゃならないんだよー」
 心の底からアホーと叫びたかったが、この幼なじみは口で言うより経験して理解させた方が早かったりする。
 それに肉体的にも最後まで付き合ってやれる自信がない。
「わかったわかったー。そんなら気の済むまで入ってろよー」
 そう言い残してざばんとお湯を出た。そして、そのままこのアホを煮えたぎらせてしまえ草津温泉、と念じた。
「て、いうかムギは全然平気そうだなー……どして?」
「いいお湯加減ねー」
 真っ赤になっている澪とは違い、ニコニコと余裕綽々のムギの肌はつきたての餅のごとく白さを保っている。彼女の生態スペックがますます疑わしくなる瞬間であった。


「ゆ、唯! まだいけるか~~!?」
「ら、らいじょうぶーまだ十杯はいけふ……うぷっ……やっぱ無理かも」
 壁一枚で隔てられた男湯と女湯。風呂だというのにショートパンツに半袖姿という出で立ちの夏音は崩れ落ちそうになる精神を支え合うために唯とエールを掛け合った。いや、彼女も無理そうだった。
「どうしたぃ、もう限界かい!?」
「No kidding pops!! とっとと黙って流せやっ!」
「威勢がいい糞ガキだなっ! 女みたいな顔してる癖にやりやがる!」
「顔は関係ないだろ、うぷっ……ちょっ、ペース早いって……あ、バカ! やーめてっ!」
「めんこい面しやがってよー。うちの倅の嫁に来てほしーぜッキショー!」
「男だっつってんだろうがコノ……Dumn!! って流しすぎだshit!! You bastard!!」
「上半身だけでもいいんだがなぁ……俺はいいんだけどよぉ」
「Screw you!!」
「You punk……Wash your fuck`n mouth!!」
 ふいに流暢というより、カンザス辺りで聞こえそうな訛りの英語がオッサンから飛び出た。
 それに続いて今まで見たこともない量のアレが投入される。
 半分に切られた竹を伝ってものすごい勢いで落ちてくるアレ。箸で掬うには不可能な次元である。夏音はそのまま箸を構えた格好のまま呆然と立ち尽くした。
「ひゃっひゃっひゃ!!」
それを見て高笑いするオッサン。
「悪魔ー! くっそー今回はいけると思ったんだけどなーー」
 夏音はその場に崩れ落ちた。その瞬間、壁の向こうから悲鳴が聞こえた。
「もう無理~~~」
壁の向こうで崩れ落ちる音が聞こえた。


「夢破れて山河あり……っぷ……」
「何だ唯~。急に詩心に目覚めたのー」
「松尾芭蕉が詠んだんだよー。夢が叶わなか
ったって……ぉえっ……ことじゃないかなー」
「そうかー。あっ…………ぷ……ひぅーアブネ。芭蕉はよくわかってんねー」
 何もかもが、違うが。
 夏音と唯の両名は外湯施設にある無料の休憩場で横になっていた。もとい、グロッキー状態であった。
「くそー。英語わかんなら最初から言っておけってーの」
 テンションが異様な方向に上がり、思わずスラング言いたい放題だったと後悔する。
「おしかったなー」
「おしかったねー」
 二人して楽な姿勢を探して、横になる。

【挑戦者求ム 流しわんこソーメン 食べ切れたら『大友夜』の甘味全品無料券贈呈】

 喉から手が出るほど欲しい商品だった。
 流しソーメンとわんこそばをかけた恐ろしい種目だった。温泉の風景にそぐわない竹でできたレールがあり、上からどんどんソーメンを流されるのだが、そのペースがだんだんと上がっていくという地獄のルール。
 最初は「案外イケるかも」と思うが、中盤を超えたあたりで、めんつゆを足している時間もなくひたすら流れ来るソーメンをすくい口に入れ、かまずに飲む、という作業の繰り返しだ。
 別の名を苦行という。世の修行僧はこれに挑戦するべきだと思う。
 未だ達成したものはいないという噂だが、そもそも終わりが見えない鬼ゲーである。
「大友夜のスイーツが……」
「うぅくやしひ……それより、お腹がくるしひ……」
 韻を踏んだ台詞を吐きながら横で同じように苦しむ唯を見て、やっと冷静になった頭が「馬鹿なことをしたもんだ」と後悔を滲ませる。
 せっかく観光に来ているのに、何故苦行に赴かねばならなかったのだろうかと。
「後で運動でもしないとご飯が入らないよこれ……」
「うぅ、そだね……」
「唯、俺たちってバカかな」
「…………そだね」
 どこか似たような行動をとる軽音部in草津。


「みんな疲れちゃった?」
唯一、体力に余力があるムギは、討ち入りを果たした直後の赤穂浪士のごとく疲弊しきった他の面々の様子に首をかしげた。
「温泉って入りすぎるのもいけないんだね……」
 唯が漏らした一言に全員が無言で同意した。それは、まさに格言であった。
 今日一日で七つ以上もの温泉をめぐった彼女たちは疲れを癒すどころか、どっぷりと疲労にまみれていた。
「澪にいたってはゲッソリしてね?」
 夏音は当社比七十%ほどまで細くなった澪が目について仕方がなかった。途中から合流したが、お前に何があったと聞くに聞けない空気もあった。
「今日はもう何もしないでゆっくりしてたいや……」
 言うまでもねーと意見が一致した。

 夜になってすき焼きを食べた後、夏音は前に話してあったとっておきの秘湯に案内すると皆を車で連れ出した。
 でこぼことした山道を車で十分ほど行ったところで車を止めた。
「ここら辺、何もなくないか?」
「そう。ここからは歩きだから」
「えーこの寒いなかー!?」
 律は口をとがらせて盛大にブーイングを送るが、まあまあとムギやその他に窘められた。
「夏音くんがこれだけ言うんだから、きっと驚くほど素敵なのかも」
 そうにちがいない、と自信満々で若干ハードルをあげられた気がした。ナチュラルに人を追い詰める天才だなとゲンナリしながらも夏音は黙って頷いた。
 車を停車させてから、足早に険路を上ること十五分弱を歩く。
「くらいよーこわいよー」
「ほら、全員しっかりと前の人にしがみつきなよ。足下気を付けて」
 整備されていない山道など初体験である少女たちの歩みはのろのろと。先頭を歩く夏音のもつ懐中電灯の灯りだけが頼りであった。
「しかも、何でそんなたよりないの持ってきたんだよー」
 夏音が持つ懐中電灯の光があまりにも弱々しく、頼りないので律が恨み言をもらした。
「こうしないと楽しみが半減するんだよ」
 ぶつくさと文句を言われるのをなだめつつ、先頭の夏音がふんふんと鼻歌をすさびだす。誰もが聴いたことのあるベースライン。
「ウェンザナイッハズカム!」
「その曲ほど陽気な気分じゃないよ!」

 それから、えっちらおっちら歩き続けてしばらく経つ。
「着いたよ。でも、まだ顔をあげるなよー」
 夏音は立ち止まり、一時の間を置いた。
「はい、目をあけていいよー」
「う、わ………すご」
 ふとそう呟いたのは誰だったか。また誰かの溜め息が漏れる。
 ここに来て、少女たちは夏音が執拗なまでに明かりを避けようとしていた意図を理解した。
 億千の星空だった。銀色の海。王様の宝石箱の中身を夜空にぶちまけたような夜空。
 山の木々に阻まれ、空は見えないようになっていた。さらに細々とした明かりのせいで、お互いが縦一列に並んで足下を見ながら歩いてきた。
 明かりを抑えていたのは暗闇に慣れさせるため。すべて彼の計算のうちだと知る。
 青白く光り、赤い紅を刷いたような星々の御前。しばし、だれもかれもが自然の壮大さに打ち臥せられていた。そこにはぽかんと口をあけて空を仰ぐ者しかいない。
「これだけじゃないぜレイディーズ。何か音が聞こえないか?」
 夏音がいつまでも星空に魅了されている彼女たちに悪戯っぽく笑った。
「……水の音?」
 かすかに、というよりハッキリ聞こえる豪快な水の音。夏音が「Come on」と足下を照らして再び歩き出した。
 その場所からはごつごつとした斜面が続き、慎重に下りていくとまたもや視界が切り拓ける場所に出た。
「た、滝!?」
 そこにあったのは四、五メートルほどの滝。ゴゴゴゴ、と高度から大量の水が流れ落ちる時に発生する轟音。先ほどの音正体はこれであったのだ。またも驚嘆にくれる彼女たちに、得意顔の夏音が言った。
「ではお嬢さま方。例のものは持ってきましたか?」




「しっかし、こんなところにまで温泉が湧いてるなんてなー」
 滝を少し下流に行ったところに、小さなログハウスがあった。犬小屋を少し大きくした程度のものだが、そこには「滝の下温泉」と表記されてある。
 実のところ、こんな山奥にあったものとはつまり「温泉」のことであった。河原のあらゆる所に温泉が湧き出しており、その中でもきちんと岩で囲まれている場所がある。
 今、その中で五人の男女が足をのばしていた。
 リラックスしてこの世の幸福を受けたような弛緩した表情を見せていた律が、夏音に言う。
「そっかー。夏音は混浴狙いだったんだなー」
 さもありなん、と納得されそうになった夏音は慌てて否定した。わかるよー、みたいな顔されてもゼッタイにどん引きされているのが見え見えだった。
 真横で唯までもが「カノンくんたらえっちー」と言っているのが心に突き刺さる。
「だ、だから水着持ってこいって言ったんじゃん!」
「怒るなよジョーダンだろー?」
 かく言う夏音も異性の前ということで、しっかり水着を着込んでいる。
「ちゃんと水着買っておいてと言ったのに。何で俺だけこんなの?」
「いちおーみんなの精神衛生上の配慮だ」
 どきっぱりと言われた夏音は「……ソウカ」と悲しげにうつむいた。皆が買い出しに行く際、水着が無いのでサイズだけ伝えて買っておいてもらったはずだった。
 いざ用意された物を拝むと、下はショートパンツ。上は超薄手のノースリーブ………これは女の水着じゃないのか。
「最近じゃ、男でもそういうのが流行ってんだってよー」
「そ、そうなの?」
 律はそんなワケねーだろと夏音に聞こえないように笑った。
「綺麗だなー。なんか星空の中を漂ってるみたいだね」
「ほんとだなー」
 見上げれば満点の星空。落ちてきそうで怖いくらいのスケール。じっと見詰めていると自分がその中に浮いているような感覚。
「いくら暗くても、空気が澄んでないとなかなか見れないんだよなー」
「まさに冬ならでは、って感じなのねー」
 冬の澄み渡った空気の方が星空を見られる確率が高い。夏音が冬が好きな理由の一つだ。
 一同は片時の間、言葉を忘れてその光景に魅入っていた。
「ありがとうね夏音くん」
 その静寂を破ったのは思いがけない唯の言葉だった。
「どうしたんだ唯?」
「何となく夏音くんにお礼言わなきゃなって思って」
 本当に何となく言っただけらしい。何だよそりゃ、と苦笑して夏音は足をあげてお湯をじゃぶんと跳ねさせた。
「でもなー。考えられなかったなー男と温泉入る日が来るなんて」
「私はたぶん一生ないと思ってたけど」
「とか言って夏音なら許すのかなー?」
「そんなこと誰も言ってないだろー!?」
「でも夏音くんだとそこまで嫌な感じがしないよねー」
「ほんとどうしてかしら?」
 全員がそんなことを言い始めた。
 ぽつりと律が「ま、コイツが男と思えってのが無理だろ」と呟いた。かろうじて澪にだけ聞こえたらしく、同意とうなずく。
「みんなして何だよいきなり?」
空を見上げるのを中断して、思わず彼女たちを睨む。
「まあ、みんな感謝してるってことだよ! 特別ってことだろ?」
「そ、そーお?」
 居心地が悪そうに震えて夏音はぶくぶくぶー、と顔までお湯に沈み込んだ。
「もしかして夏音くんたら赤くなってる?」
「こ、こんな暗さで見えるはずないだろ!」
 思わず水面から半腰に。いくらムギでもそこまで夜目が冴えている筈がない。
「そう言うってことは図星じゃん!」
「違うわアホ!」
「夏音くんかわいー」
 きゃっきゃうふふ、とからかわれる責め苦を味わい、憤慨した夏音は彼女たちに向けてざぱんとお湯をぶっかけた。水のかたまりが律のデコに命中して飛散した。
「ぬわっ! 何すんだコラァ!」
「うるせーやい!」
「お湯が目にー」
 巻き添えをくらった唯は酸性が強めの湯が目に入って沁みたらしい。
「あ、ごめん」
「お返しじゃー」
「わぶっ!?」
「わ、わたしもお返しーとりゃー」
「ムギまで!?」
「あに他人事みたいなツラしてんだよ澪っ」
 混ざれ、と。
「わ、私は何も言ってないだろう!?」
「ぶぅ、沁みるーー」
「あ、そんな恥ずかしいぞ律!」
「いいじゃん他に誰もいないんだからサー。澪もどりゃー」
 律が勢いよく澪の方へ突っ込んでいく。
「み、澪ちゃん水着が……とれ……」
「Oh……Jesus…」
 軽音部はどこにいてもこんなものなのだろう。それが瞬く星空の下だろうと。


 二泊三日の小旅行は何だかんだと無事終了した。
 夏音は全員を送り届けた後、襲ってくる眠気に全力で抵抗しつつ帰路についた。ガソリンはメーターぎりぎり。何とか家まで持ってくれて間一髪であった。
いつものごとく、ソファーでぶっ倒れていると携帯の着信音が鳴る。古くさいパンク。 これはジョンが大学時代に若気の至りで活動していたガチパンクバンドの音源だ。完全に廃れて久しい「ガチ」な感じが全面に出ていてジョンの黒歴史認定第一種の物である。 夏音は嫌がらせとしてジョンからの着信音に採用している。
「ハイ、どうした?」
『カノン………元気かい?』
「何だよ。二週間前に会ったばかりだろ」
『い、いや……特に変わりはないかなと』
 夏音は、この男はいったい何を言っているのだろうと怪訝な表情をつくった。
「別に何にもないけど」
『それならかまわないんだ。そういうことで』
「待てよジョン」
『な、な、な、な、なんだ?』
 どもりすぎだ。
「マークのヤツはツアーだよな?」
『さ、さあーどうだったかな。彼のマネージメントは僕の管轄じゃない。それだけかい? それじゃ』
「まあ、別にいいんだけどさー。それにしても母さんが『マークにすべて割れてしまったの』って言うもんだからビクビクしてたんだよなー。まあ、あれから三週間経ったし杞憂だったかな」
『……………………………………………………』
「ジョン?」
「す、すまないカンン! いま忙しいんだから!」
 ガチャリ。
「変な奴……それにしてもジョンのくせに生意気な……」
 というより何のために電話してきたのだろうか。
 夏音は「まあ、ジョンだし」と結論づけ、風呂に入る頃にはそのことをすっかり頭の中から消し去ってしまった。
 確実に彼が怖れるモノが近づいてきていることなど知らずに。


 ※いろいろカオスです。超草津いきてーという願望が生み出したお話だったりします。温泉行きたいです温泉。
 次回、ぬんっとストーリーが展開するかと思います。



[26404] 番外編 『山田七海の生徒会生活』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/14 01:56
「つまり、どういうことなんですか?」
「あのね。山田くんにばかりこんなことを頼むのは申し訳ないんだけど……ね?」
「いや……ね? じゃなくて。何で僕がそんな役目を? 香坂先輩とか適任じゃないですか」
「うーん。本当はその予定だったんだけどね。あの子、今年の夏はご家族で海外旅行らしいの」
 七海は即座に「ちきしょうあのブルジョワがーっ」と心の内で叫んだ。もちろんそのような烈しい嫉妬に満ちた内心はおくびにも出さない。
 狭量な男だと思われたくないから。このように涼しげな態度を心がけながら、実際にはそこまでクールになりきれていない男が山田七海という男であった。
 現に両手を小さく合わせて小首をかしげる曾我部めぐみの憎いくらいの可愛らしさといったら。七海の口許は知らずのうちに緩んでしまっている。
 普段は可愛らしい、というより美人な女性の先輩だが、ふとした時に可愛くなれるという強力な武器を持っている。火力は言うまでもない。
「………わかりました」
「ホント? ありがとー。やっぱり男の子って頼りになるわね!」
 破顔一笑、きらびやかな笑顔で七海に礼を言ってくる先輩に小さく息をついた。
「あぁ……また過剰労働の日々」
 最後に惚れ惚れするくらい艶やかな笑みを七海に向けて、さっさと自分の座席に座ってしまった先輩を見送った七海は再びだだ漏れそうになった溜め息を寸で噛み殺した。
 ただでさえ七海は女子生徒の人口が多い桜高の中でも、さらに女密度の高い組織に所属している。その名は生徒会といって、あろうことか唯一の男子生徒にアレコレを押しつけてくる素敵な先輩方が生息している。
 唯一の男子。
 ふざけるな、と七海は憤然と主張する。それはこの環境を俗にハーレムだと称する者がいるからだ。ハーレムとは漫画や小説だと主人公の特権のように扱われるシチュエーションだ。まさに聖域にも等しい選ばれし者の空間のはず。
 だとしても、やはり七海はモブキャラなのだ。自分にとって正しい現実は「男だから」という理由で言い様にこき使われている毎日。
 力仕事は七海の出番だと期待の目線を送られる。最近では当然のように扱われている。
 頼りにされていると考えたら嬉しくなくもないが、それにも限度がある。同じ学年の同期達はそろって七海に同情の視線を送ってくるが、先輩が率先して七海に仕事を頼むものだから年功序列に従う彼女達には何もすることができない。
 ただ時折、お茶を机にさし置いてくれたりして七海はちょっぴり涙するのだ。

 そして今も仕事を押しつけられてしまった。

 ソフトボール部の応援、らしい。公式試合でかなり良いところまでいったソフトボール部の決勝の応援に生徒会からの代表が馳せ参じなくてはならないらしい。
 どの部活に限らず、生徒会はこのように部活動応援などに借り出されることが多い。何の形式か知らないが、そういうことになっているらしい。
 他にも、他校の行事に借り出される時はことごとく生徒会から選ばれる。加えて、その犠牲は最近では七海が主に受けているのである。一昨日など、吹奏楽部の演奏会にどこだかのホールまで東京まで向かい、観客席から一緒にスィングするハメになった。
 七海はいつまでこんな状況が続くのだろうと不安になった。生徒会の仕事はこんなに過密なものだろうか。聞くところによると、他校では生徒会の役割など学校祭の準備くらいのものだという。
 今はもうすぐ夏休みという遊び盛りの高校生にとってこれ以上ないドキドキわくわくの時間である。
 あーどこに行こうか。あれもこれも、それもあなたもと予定を立ててはしゃいでも罪はないはず。
 だが現実は浮かれた七海を打ちのめすかのように残酷なストレートを放ってきた。
 夏休みにまで生徒会の仕事が入っているなど、聞いていない。それも秋から始まる学校祭の準備などに休日出勤(この場合祭日出勤)を強いられる日々だそうだ。

 何故、どうして、ホワイ。自分ばかりがこのような外れクジをひかなければならないのだろう。

(僕は書記だぞ書記! もう書記の役割とか超えてるだろう!)

 ここ最近で一番でかい仕事は、タイだかフィリピンだかバングラデッシュだかのストリートチルドレンを救うための活動に必要な金集めの企画のリーダーにされたことだ。
 井戸を掘るのに必要なお金を集めるための方法って高校生に三十万円も集められるかという給与区の無茶ぶり企画だった。今どきの芸人でさえ、こんな企画はまわされないだろうに。
 七海、集めた。
 生徒会主催のチャリティーフリーマーケットに加え、残った品物をせどりをしたり、古物商との交渉をしている内に、品物の中にとんだ値打ち物が紛れ込んでいたことが判明した。するとどうだろう。三十万どころではない金額が生まれ、呆然としたことは言うまでもない。
 しかしだ。企画を進めたのは一年の七海であった。企画書を深夜かけて作成して、多方面へと走りまくった。
 それが事もあろうに、七海があまりの金額にぼーっとしている内にもっとも憎き副会長・香坂成美がその手柄をまるごと掻っ攫っていった。

 あの時ほど殺意が湧いたこともない。

 いつか見返してやる、と復讐の炎を燻らせているのは秘密である。唯一不安なのが、燻ったままこの炎が消化してしまわないかというくらい。七海はあまり意志が強くないのだ。

(よし!)

 秋が過ぎると生徒会も引き継ぎである。現在の最高権力である曾我部先輩と副会長である香坂がいなくなれば、この悪政もましになるはず。
 その時こそ、自分の時代だと七海は密かに生徒会を牛耳ろうと目論んでいる。
 こんなに働いている自分が後任を任されないはずがない。そして、事あるごとに仕事をしない副会長をやり玉にあげて後輩に伝えていくのだ。
 七海は知らず顔をにやけさせていた。もしかしたら声も出ていたかもしれない。
「ちょっとななみー。気味悪い笑顔を浮かべてないで、暇ならコーヒーおかわりお願いできるー?」
「はい、ただいまよろこんでー!」
 そう。今は我慢の時なのだ山田七海っ! と必死に自分に言い聞かせた。



「山田くん。明日、八時に駅前に集合でいいかしら?」
「へ?」
 時は夏休み。生徒会室にて七海が少なくとも三つ以上の仕事の資料をまとめていたところ、隣の席にいた真鍋和が何の気なしに話しかけてきた。
「なにが?」
「なにがって……明日、ソフト部の応援に行くんじゃない」
 確かに、そんな予定が入っているが。
「え? あれって僕ひとりで行くんじゃなかったの?」
「山田くん一人じゃ心許ないから、一緒にいけって」
「こ、心許ないって……」
「香坂先輩が」
「あの女っ!!」
 自分は優雅に海外へと避暑するくせに、後輩に尻ぬぐいをさせる負い目を感じないのか。
「先輩をあの女なんて呼んだらだめじゃない。あ、ちなみに伝言で『大変遺憾ではあるけど、これにかこつけてオオカミになったらだめよ』だって。オオカミってどういうことかしら?」
 さらにとんでもねー伝言を残していったものだ。これがそのまま遺言になればいいのに、と七海は舌打ちした。
「あの人の妄言は気にしちゃだめだよ。きっと頭ぶっ飛んでるんだから」
「ちょっ、山田くんっ!」
「ていうか思い切り体力バカで体育会系なのに、海外へ避暑って。去年はヴェネツィア行ったって聞くし。今年はどこだっけ、北欧? フィンランド? ストックホルム? ベルギー、オーストリア? あの人の場合オーストラリアで岩昇りしてる方が想像できるよね」
「山田……くん…………」
 和の声がか細くかすれる。彼女の場合、香坂先輩に可愛がられているから先輩の悪口のようなものを聞いて気分を悪くしたのかもしれない。確かに自分でも陰口みたいになって情けないな、と七海は気まずい空気を誤魔化すように咳払いをした。
「ま、まあ。任された仕事だからね。一人より心強いし、助かるよ」

「ななみ~~~~~アウト~~~~~」

「えっ……」
 間違っても和の声ではない。彼女はこんな地獄の三丁目あたりから響いてきそうな恐ろしい声ではない。幻聴でないならば。七海は今すぐ死ぬことになる。
 目の前の和は盛大に顔を引き攣らせている。その目線の向かう先にはそれはそれは恐ろしいナニカがあるのだろう。七海は滝のように噴き出した汗がYシャツを濡らしていくのを感じ、おそるおそる後ろを振り向いた。
「なーなーみーくーん。今、可愛い後輩から耳を塞ぎたくなるような暴言が吐かれたような気がしたんだけどー気のせいかなー」
「ひ、ひ、ヒィヤーーッ」
「どうもー。北欧が似合わない体力馬鹿女ですぅー。こんにちはー」
 こんにちは、の時点で七海の顔面はよほど女子には似つかわしくないほどの握力を備えた手に覆われていた。万力のような強力で無情な力がぎりぎりと七海の顔の形を変えようとしている。
「ろ、ろうひてこうひゃかせんぴゃいがぅおっ!?」
 七海は「噂をすればなんとやら」ということわざの意味をその身でもって体感していた。そういえば英語では「悪魔について話せば悪魔がやってくる」という言葉だったはずだ。
 この場合は「ゴリラいついて」本当にゴリラがやってきた。
「あれー言ってなかったけー。今日、夕方からのフライトなのよー。時差が違うからねーお昼に出てお昼に着くわけじゃないの」
 そろそろメガネが壊れそうである。思えばこの相手には何度もメガネを破壊されかけるレベルの暴力を頂戴していた。形状記憶という現代技術の恩恵がなければ、七海のメガネが壊れたであろう回数は計り知れない。
 次第に七海は自分の足が地面を離れようとしている感覚を得た。顔だけを支点に持ち上げられている。どれだけ馬鹿力なのだ。
「いたひいたひいたひ~~メガネこわれっ!」
「今ね。ツボを押してるの。太陽穴といって視力回復に良いんですってー。これでメガネが壊れても大丈夫でしょ」
 何という暴力理論。噂ではなく林檎を握りつぶせるその握力がさらに開放されていく。
「いやぁーーーーーっ」
 山田七海、魂のシャウトは生徒会室を駆け巡る。あまりに凄惨な光景に悲鳴を噛み殺していた和が慌てて割って入った。
「せ、先輩っ。それはやりすぎだと思います」
 その瞬間、七海を締め付けていた力が消えた。解放されると、七海は地面にバタンと倒れ伏した。和の慈悲に心から感謝した。
 七海を締め殺しかけた犯人はふん、と鼻をならすと少し柔らかい口調になった。
「まー可愛い和に言われたら仕方がないわね。あ、その角度から上を見上げたら踏みつぶすわよ」
 あんまりである。七海は床と熱くキスをしながらそんな思いでいっぱいだった。確かにこの角度から上を向いたら素敵な光景と相まみえることになるが、そんなのはこちらからお断りであった。
 命をベットして得られるほど良いもんじゃない。
 よろよろと立ち上がった七海は、きっと目の前に立つ女を睨んだ。
「ここに何用ですか!」
 にっこりと微笑む香坂成美。花が咲いたようなという表現が似つかわしい麗しい笑顔。
 何といってもこの少女はゴリラ並の膂力を有した桜高生徒会の副会長その人である。
 身長は女子としては高く、モデル体型といって差し支えない。現に街中でスカウトされたことも数度あるらしい。腰まで伸ばされた栗色の髪は毛先にゆるいウェーブがかかり、その髪全体からとんでもなく甘い匂いを放っている。
 その容姿はむしろ深窓のお嬢様に類しても過言ではないほどの華やかさを持っているのだが、七海は彼女が未来から来た殺人ロボットだと言われても納得できる。
「おや、まあ」
 おや、まあじゃねえよ。七海は決して口に出すことが憚られる暴言を心に落とした。人の顔面の形を強制的に整形しかけといて、すっとぼけたものだった。
「遺憾ね。夏休みなのに学校で働く可愛い後輩達の顔を見にきたらだめなのかしら?」
「ダメではないですけど………じゃ、もう見ましたよね。ほら、けっこう忙しい感じなんで、仕事に戻ります」
「どうしましょう可愛い後輩ににべもなくされちゃった」
 全く気にしていない様子でよく言ったものである。七海は宣言通りに机に向かって座り直し、作成していた資料を端から見直す。
「てい」
 横合いから入ってきた腕に資料が吹き飛ばされた。見覚えのある腕だ。
「なんなんですかっ!! 馬鹿野郎!」
「野郎じゃないわ」
「女郎め!」
「よく知ってたわね、女郎なんて」
 七海の返しに目を見開いて驚いてみせた彼女はにやっと笑い、七海の頭をがっしり掴んだ。目が笑ってなかった。
「でも、女性に言って許される言葉じゃないわ。訂正しなさい」
「お馬鹿さま」
「ふふ、まあいいけど」
 傍から見ていた和は「いいんだ……」と驚きを露わにしていた。この二人のやり取りは今期の生徒会が発足して以来の名物となっていた。
 いわゆる戯れというやつで、本気で人が傷ついたりしていないので、基本的に傍観の姿勢がとられる。たまに肉体的に七海が傷つくこともあるが。
「まあ、せっかくだから聞いてよ。私、これから北欧に行くわけなんだけど」
 やけに北欧、の部分を強調した香坂はうきうきと続けた。
「私の代わりに応援に行ってくれる後輩ちゃんのためにお土産を買ってこようと思うの。それで、二人は何がいいかなーって」
 もしかして、そのために来たのだろうか。七海は目を丸くしてぱちくりさせた。
 前から思っていたが、この先輩はどこか律儀な部分がある。もちろんメールや電話で済ませてしまえばいいことなのだが、少なくとも自分だけ遊びに行くことへの負い目があった訳だ。
「うーん。北欧って言っても、何があるんですか」
 ピンと来ない。これがディズニーランド、とかであれば七海もすんなり頼めるはずなのだが。
「何だ。人に北欧似合わないとか言うくせに、何の教養もないんじゃないの」
 ここぞと不敵な笑みを浮かべて七海を見下すような態度の香坂に七海はむっとした。悔しいが、その通り。
「私はムーミンのグッズとか売っていたら欲しいですかね」
「あっさすが和っ。わかってるー。ムーミンね! とっても可愛いの探してくるわ!」
 すらりと答えた和にとびきりの笑顔を向けた香坂はいまだに答えあぐねている七海の方をじっと見て、溜め息をついた。
「あぁーあー。これだからダメなのよね、七海は」
「今、考え中なんです!」
 何だムーミンとは。日本のアニメじゃなかったのか。七海は和がすんなりご当地の品を答えたことに度肝を抜かれていた。
 北欧。何が有名だろう。サウナ、白夜、フィヨルド、ノルウェイの森。いや、お金にできないプライスレスな知識ばかりが頭をめぐってしまう。シュールストレミング……は死んでもイヤだ。
「キ、キシリトール! ガンム!」
 若干かんだ。しばし悩んだ挙げ句、ぽんっと出たのがこれである。七海は口にした途端、羞恥心にもだえた。
 よりによってキシリトールガムとは。いや、これでも向こうにちなんだ物の名前が出ただけで褒めていただきいのだ。
「え? そんなのでいいの? 日本にたくさん売ってるじゃない」
 香坂はかなり怪訝な表情で七海を見詰めた。絶対に変な奴だと思われているに違いない。
「い、いやー。本場のキシリトールで健康な歯になりたくて」
「えー。あなた頑丈そうな歯じゃない」
 たしかに以前、正拳を頂戴した時にも折れなかった自慢の歯である。だが、ここは男の意地というものがある。一度言ってしまったものを撤回するのは七海的にちと恥ずかしい。曖昧に笑っていると、先輩は腑に落ちない様子だったが、ややあって頷いた。
「じゃ、キシリトールね。詰め合わせとか売ってたらそれにするわ」
 晴れやかに笑ってから先輩は「じゃ! 行ってくるわね!」と言って教室を出て行った。
 止める間もなかった。
「本当にそれ訊きにきただけ……?」
「さあ……」
 七海は嵐のように過ぎ去っていった先輩を思ってしばし和と顔を見合わせた。



 それからの日々は猛烈に忙しかった。過密日程の中を仕事に明け暮れ、夏休みらしいことをする暇もないくらい。きちんと和と二人でソフト部の応援にも行ったし、ボランティアにも参加した。
 桜高を代表してパネルディスカッションに曾我部先輩と二人で参加したことはひと時の安らぎだったが、その他校内の雑用が生徒会に押しつけられた。
 もちろん男手の有効活用は忘れず、資料室の整備や倉庫の大掃除などもやらされた。
 その中で七海にとっては副会長の姿がないと肉体的にも精神的にも楽だという発見があった。
 彼女の姿がないだけでこれだけ変わるものか、と驚いたものだ。普段から肉体言語を七海に解き放ってくる香坂は淑やかな容姿を全力で裏切る男っぽい絡み方をしてくるのだ。

 七海としては常に腰が引けた状態で言いなりになる他ない。断ってもいいのだが、首を横に振った時の自らの末路を想像すると恐ろしい。
 七海としては他の女の先輩方もそれはそれで恐ろしいのだが、香坂は別格だった。

 ああ楽だ。この世の春だ、と七海は浮かれていた。部活動で鬼コーチがいない時の練習ってこんな感じなんだろうな、と顧問不在時にやけにテンションがあがるバスケ部の気持ちを知った。
 そんな夏休みが半分ほど過ぎた中、そろそろ休み明けに入る生徒会最大行事である学校祭の準備のため、生徒会の者は例外なく生徒会室に集まるようになっていた。

 そして、香坂成美が帰ってきた。

 一番の繁忙期に悠々と海外でいる訳にはいかない、という理由で一人だけ旅行先から帰国したのだそうだ。何とも責任感あふれる行動である。もっと普段に活かして欲しい、と七海は思う。
「あ、ななみー。まだ残ってたの?」
 下校時刻が過ぎて久しい時刻。生徒会役員は準備のために校内に残ることを許されていて、たいていの生徒はそのまま生徒会室に缶詰状態であったが、ここまで遅い時間に残る者はいない。七海を除いて。
「持ち帰りの仕事とかあまりしたくないんで、片付けちゃおうかなって」
 少なくとも高校生の台詞ではない。これではワーカーホリックな会社員さながらである。
「ふーん。よし、もう帰るわよ」
「え、帰るわよって。今言ったこと無視!?」
 しかもその物言いでは、自分と彼女が一緒に帰るみたいではないか。
「あのね。一人でも生徒が残っていたら先生方も帰れないんだからね。そこらへん、ちょっと考えなさい」
 その言葉にはっとする。確かに、時刻は八時を迎えようとしていた。いつもこのくらいの時間まで学校に残る先生は数人いるから、あまり気にしなかったが、確かに七海が帰らないために残っている先生もいるかもしれない。
「わかりました。もう終わりにします」
 しかり、と七海は素直に香坂の言葉を受け入れ、資料を急いでしまい始めた。七海が机の上に乱雑になっていた資料をかき集めるのに苦戦していると、背後で呆れたような溜め息が聞こえた。
「はぁー。何でもっと綺麗にできないのかしら」
 その言葉にむっとしても七海は手を止めない。
「資料の数が多すぎるんですよ。パソコンとか使わせてくれたらもっと楽なのに」
 この数をアナログで片付ける時代はとうの昔に終わったはず。わざわざパソコン室まで出向き、往復するのは手間以外の何物でもないのだ。
「それなら前に予算通ったから、もう少し待ってちょうだいよ」
「あれ、通りましたっけ」
「ええ。私とめぐみで田代先生を押しきってね」
 七海は机に向かったままで見えないが、背後の香坂が最上級の悪い笑顔をしているに違いないと思った。何だかんだと生徒会の重要事項は会長と二人のコンビでもぎとってきたのである。どんな手腕を持っているのかは甚だ怪しいが。
「あぁーもう苛々するわねー。男ってみんなこうなのかしら」
 待ちくたびれたのか、好き勝手言いたい放題の相手に七海はかちんときた。
「別に待ってなくていいですよ。僕、わりと最後に出るんで慣れてますし」
「あほたれー。後輩残して帰る先輩がいるかい」
「普通、先輩が先にあがるものじゃないですか? 逆は気を遣うけど」
「いいから! ほら、もっとてきぱき手を動かすの!」
 見かねた香坂が七海の斜め横からぬんと身を乗り出して資料を片付け始める。何故か彼女は七海をかすめるようにカットインしてきたのだ。肘がこめかみをかすった。彼女はナチュラルに七海にダメージを与えるのが趣味なのだろうか。
(うわ……この匂いは……あふん)
 見た目は麗しく、性格は乱暴がさつに近いのにやっぱり女の子でふわふわ良い匂いがする。七海の苦手分野である。
 女の人の匂いの不思議は不肖・山田七海の十六年の歳月をもってしても解き明かされていない。
 七海が手を伸ばしたままの姿勢で硬直している間に、香坂の手は動き続けてあっという間に資料はまとめられていしまった。お互いの腕がふれて、「あっ……もじもじ」という空気は一切起こらなかった。むしろ動かない七海の腕を邪魔とばかりにばしばしと叩いてよけさせられていたのだが。
「は、はやっ!」
「ふふー。副会長をなめないでよ」
 得意気に笑う香坂が七海を見下ろした。こういう時に彼女がどういう言葉を欲しいか七海は知っていた。
「おみそれいたしました」
 少し大げさに頭を垂れる。すると偉そうに鼻を上機嫌に鳴らした彼女のできあがり。
 どれだけ敬われたいのだ、と七海は俯いたまま軽く舌打ちをした。
 そんな七海の不遜な態度には気付かない香坂はまた打ったように明るい声を響かせた。
「さ、とっとと出るわよ」


 全ての電気を消し、鍵をかけると職員室によって教職員に挨拶をする。この時間だととっくに正面玄関は施錠されているので、職員用の出入り口から校外へ出た。
「流石にもう日は落ちたわねー」
「あぁー、そうですね」
 七海の三歩ほど先をずかずか歩く香坂成美。結局、一緒に帰ることになった訳であるが。
(どうして、こうなった)
 この先輩といると何をされるか予測不能なのである。というよりどのような攻撃が加えられるかが未知数、七海に蓄積する防御パターンも限りがある。
「ななみは家どこなの」
「本田町ですけど」
「あれ? もしかしてご近所さんだったの!?」
「近所って……もしかしなくても先輩はあの豪邸が建ち並ぶ……」
 高級住宅街である。七海の自宅までは豪邸と称すべき家が軒を連ねている住宅街を通過する必要がある。
「そうよ」
 お嬢様だということは判っていたが、本当にそうらしい。
「でも通学途中とかに遭ったことないわね」
「まあ、たまたまじゃないですかね」
「ふーん。あんた朝早かったっけ?」
「いえ、これといって普通ですけど」
「ふーん」
 自分からふっといて「ふーん」しか言われないのも悲しい。怒りというより悲しい。
(ていうか、あそこまで同じ道ということか)
 気が重くなって沈黙していると、些細なところも見逃さない香坂であった。
「なんか急に大人しくなったわね。私と帰るのがいやなの?」
「滅相もございません」
 イエス! とは言えない物騒な雰囲気を醸し出しながら言われても困る。とはいえ、気が重くはあるが嫌悪するまででもない。ノーでもないけど。
「ていうか、いつもあんな時間まで残ってるの」
「今さらですか。あれだけの仕事量なんで普通に帰ってたら終わんないですよ」
「むー。そっか……悪いことしたわね」
「え?」
 この先輩にしてはずいぶんと殊勝な物言いである。言葉だけでなく、心からすまなそうな態度をとる香坂に七海は狼狽えた。
「なんか仕事押しつけまくっちゃってさ。あんたもほいほい請け負うからつい、てやつ?」
「はぁ。つい、ですか」
「それに私、この学校入って二年間も男の後輩なんていなかったからさ。どうも加減というか、調子がわかんなくて」
「まあ、女子校だったわけですしね」
「そうなの。まさか共学になるなんてねー。予想外もいいとこ」
「だから扱き使ってしまったと?」
 それが理由だとしたら、何ともやるせない。つい、で過労死でもしたら末代まで祟ってやると心に誓っていると、前を歩く香坂がぴたっと足を止めた。
「あなた、聞くけど」
「……ハイ」
 七海は真剣な表情でこちらを振り返った香坂に、ごくりとツバを飲み込んだ。
「マゾではないの?」
「んな訳あるかっ!」
 敬語も吹っ飛ぶくらい反射的に叫んでしまった。幸いにも「生意気なっ」と拳が飛んでくることはなかった。七海の言葉を受け取った彼女は「ふーむ」と思案する様子を見せる。
「後輩に押しつけてばかりじゃダメな先輩よね。よし! これからはほどほどにするわ!」
 腕を組みながら言う台詞ではないが。そしてあくまで尊大な態度は崩れないのだなぁといっそ惚れ惚れするくらいの潔さに七海はしばしぼーっと見とれた。
「そうしてくれると非常にありがたいですが」
「そうでしょう。ま、というわけでハイッ」
 どう前の文脈からつながるか分からないが「というわけ」で香坂は鞄から小さな袋を出して手渡してきた。
「え、何ですかこれ?」
「北欧のお土産よ。北欧が似合わない女からの、でよければ受け取りなさい」
「ああ……キシリトール」
 そういえば旅行前にそんな事を頼んだ覚えがあった。本当に欲しかった訳じゃなかったので、忘れかけていたが。
「いいからっ! それで毎朝毎晩スッキリしてることね」
 ぐいっと両腕に押しつけられた袋は予想していたより重みがあった。
「あと、ついでに蚤の市でよさげな小物があったからおまけを同封してあげといたわ」
「おまけ?」
 何にせよ、と中身を確認しようと七海が袋に手をかけたのだが「アウト~!」という怒声に阻まれた。
「普通、この場で空けるかい! ななみよ。チェリーボーイよ!」
 うるせえよ、と七海は毒づいた。もちろん心の中で。
「そういうのは笑顔で『あざっしたー』って言って帰ってから空けるものよ。礼儀よ。マナーよ!」
「あぁーわかりましたよ! 香坂先輩、ありがとうございました!」
「どういたしまして!」
 どこかやけくそになった二人はその後、沈黙のまま帰路を突き進むことになった。会話らしい会話はなかったが「お腹すいたー」「今晩、なんだろ」「買い食い、はまずいか生徒会だし」という短い応答が続いた。
 何と香坂宅に至るまでの通学路はほとんど一緒という事が現実に判ったところで、彼女の自宅に到着した。
 その豪邸の様相を細かく描写した瞬間、山田七海という人間の何かが壊れそうになるので割愛。
「さて、お別れだけど」
 門の前で仁王立ちをきめた香坂が神妙に切り出した。
「あんたは見た目、かなりダサイ。気を遣わなさすぎよね」
「別れ際に思春期の男の子を傷つけるのが仕様ですか?」
「どうせ私服も地味なんでしょうよ。だから、あなたはありがたく思った方がいいわ」
「流石に僕でも泣きますよ。いいんですか、自宅前で後輩を泣かせても。わんわん泣きますよ」
 ただでさえ「差」というものに打ちひしがれかけているというのに、この追い打ち。流石の七海も涙を禁じ得ない。
「あー、ちがくてっ。もー何て言ったらいいのかな……とりあえず、とりあえず帰ってお土産を見なさい。優しい先輩からの心遣いを知ることでしょう」
「はぁ……よくわかりませんが、了解しました」
 七海が首を振ると香坂は「また明日!」と家の門をくぐって行ってしまった。訝しげな顔をしたまま、しばらくその場に突っ立っていた七海は肩をすくめると歩き出した。


「ふーん。意外にぎっしりだなぁ」
 自宅に帰り、夕飯を食べて風呂に入り、テレビ番組を適当に流し見していた後にお土産をついに開封することにした。まずは一番大きく目立つ箱はキシリトールのガム。向こうのよくわからない言葉で成分表示などがされているが、空けてみるとなかなかの量だ。一口食べてみると目が覚めるような涼しい味わいが舌に広がって美味しかった。
「ん、これかな。おまけ」
 ガムとは別に小さな袋があった。中をおそるおそる開けてみると、出てきたのはブローチだった。最近では男がつけてもおかしくないのだろうか。だが、デザインは悪くない。
 色は白に近いピンクで花弁をイメージしているだろう形をしたデザインで、ところどころアクセントに使われている青色の材質はもしかして。
「宝石? じゃないよな」
 あの先輩がこんな高価なものをくれるだろうか。でも、金銭感覚が狂っているとすればその辺の宝石など軽い出費ということもありえる。
「ま、なんかのパワーストーンってとこかな」
 とはいえ、何ともセンスのある一品である。派手すぎず、かといってシンプルなセンスが漂って七海がつけても不自然ではない。洋服につけてもいいし、鞄につけてもいいかもしれない。
「成る程。これを機にお洒落にはげめよってことか」
 そんなんじゃいつまでたってもチェリーボーイだ、と言いたいわけか。
「まあ、ありがたく受け取っておきますかね」
 七海は、あんな先輩でも自分に優しい一面を見せてくれただけでよしとした。
 もちろん七海は宝石に興味がない日本の男子高校生であったし、その宝石の名前も宝石の持つ意味など知るよしもなかった。後々、これが痛い目に合う布石であることは神のみぞ知る。


 後日、会長にこんなことを言われた。
「あ、山田くん。そのブローチ素敵ね」
「え? これですか?」
「うん。成美のと似てるのねー。私、あれ見てから欲しくなったから、似たようなの探してるんだけど、なかなか見つからなくてね」
「へ、へーそうなんですか」
「成美のは黒っぽかったけど、なんか対になってるみたい。いいなー私も欲しいなー。ね、山田くん。卒業祝いに私がそれ欲しいって言ったらどうする?」
 悪戯っぽい口調だが、割と目が真剣と書いてマジと読む感じだ。
「す、すみません。これはちょっと差し上げるわけにはいかないんです」
「そ。ざーんねん」
 名残惜しそうに七海のブローチを撫でていた先輩がにっこり笑って七海に言った。
「大切にしてね」
 だが返事を聞かないで彼女は行ってしまった。七海はやっぱり女性にも評判が良いブローチなんだと鼻高々になった。
「もちろん大切にしますとも」



 ※すみません。次回予告を盛ったくせに、なんだコレはと。
  箸休め的にちょっと短編をと思ったのです。某所で意外に人気が出た七海の短編です。ぶっちゃけ見ても見なくてもいいお話だったりしますが、作者自身もこの子はお気に入りだったりしますので、どうぞご容赦を。



[26404] 第十五話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/15 04:36
「まったく人がごみごみと……」

 サングラス越しの瞳に映る風景に、男は思わず下品な言葉を吐き捨てた。いわゆるFが頭につく言葉だ。人の多さといえばアメリカの方が圧倒的だが、こうも狭い空間に人が密集してくると話が別である。
 不快度がぐんと上がり、男はますます剣呑な空気をその身に帯びていくばかりだ。ぐいと眉根を寄せてしかめ面をつくりながら、背の低い人間たちがぞろぞろと蠢く様子を見る。
 その中の幾人もがチラチラと自分に視線を向け、こちらと目が合うとぱっと逸らす。そんなことの繰り返しに男は少々やけになった。
 試しに彼の肌とは対照に白く輝く歯を出して手を振ってみた。
 視線の先にいた小さい子供が怯えて親に抱きついたのを見て、悲しくなる前に恥ずかしくなった。こんなのは自分のキャラではないのだ。こういう時は赤面してもわかりづらい肌でよかったと思う。
 彼らに悪気がないことはわかる。しかし日本ほど他の人種に対しての意識が曖昧な連中はいないと男は考える。
 ただ、自分たちとは違うナニカ、という認識だけがあるだけでそこにあからさまな嫌悪の表情、排他的な視線が含まれることは少ない。
 あくまで少ないというだけで、全くないという訳ではないが。
 おそらく彼らは外国人の中でも、褐色の肌をもつ自分の姿が珍しいのであろう。
 男はふと自分の格好はどうだろうかと気になった。どこか浮いたところはないか。奇をてらったファッションは好まないが、日本人のスタンダードからして突飛なものに映ってはいないだろうか、と。
 日本人のファッションはなかなかイケているのだ。
 もともと知ってはいたが、こうして街中でじっくりと過ぎゆく人々を観察していると独特のセンスを極めている者が多いことに感心させられる。
 今日は、これから出向く場所のことを考えてフォーマルなジャケットを選んでもらった。これを選んでくれた人は細身な自分にぴったりだと褒めてくれたから信頼できるはず。
 男はやはりこの視線はただの好奇心からなるものだろうと結論づけた。
 彼は日本が嫌いではない。ましてや日本人に抱くネガティブな気持ちはまったくない。
(ここはアイツの国でもあるからな)
 自分がリスペクトする人も日本の生まれが多い。だからその無意識な不躾さを寛容の精神で平然と受け流すことなどたやすいことだ。
 一つの問題が解決したところで、いまだに彼が不機嫌なのは別の理由だった。
「Shit….あいつめ、首を洗って待っていろよ……」
 その一つが今回の来日の目的というか原因となる人物の事を思い出すだけでムカつくから、というもの。
 二つ目の理由が、
「何でこんなに路線が多いんだ……っ!!」
 彼はもう二時間も駅から駅へと渡っている。
 今、踏み出して行くべき場所を見失った者はただ佇むしかないのだ。人はそれを絶賛迷子中という。



 時は遡る。
 今年度の新入生が入学して二月ほど経ったある日。
 桜ヶ丘高等学校に勤続十年目。男女交際未経験年数イコール実年齢の美術教師・竹中ヤスオは、生まれて初めて匂い立つような美女というものに接近を許した。許したというか向こうからひょこひょこと勝手に近づいてきた。
 どこの学校も同じだろうが、桜高の教師たちは時折校門に立って、勝手に抜け出す生徒がいないかを見張る。その役目はちょうど授業が入っていない教師が担うことになっており、特に決まったローテーションはない。
 そもそも滅多に抜け出す者などいないのだし、ちらっと形だけ見回るくらいだ。
 そのまま校門まで歩いてヘイ異常なしUターン、ポーゥッ、と去ろうとした間際、「Hi!」と声をかけられたのだ。
 まず、その声にぎょっとした。
 すっと耳に入ってきた声は無視や否定することを許さず、発声した者へと目を向けるような力を持つ声。
 どこまでも透き通っていて、鈴をふったような声かと思えば、とろけるような甘美な響きを含んでいる妖艶さ。純真な少女の声でありながら、色気のある成人女性のような声。
 聞いただけで竹中は金縛りに遭ったように固まった。
(うわー外人さんだなぁ)と脳みその隅っこで思考が流れる。
 さらにその容姿。腰まで流れるウェーブがかったブロンドヘアーはまるで絵画から抜け出してきた女神のような様相を呈しており、細身ながら膝丈のスカートから伸びる白い脚はすらっと引き締まり、形の良い腰が強調されている。
 威厳すらある美貌を有しながらも、女性は人懐っこい笑顔を浮かべて竹中に向かって手を振っている。
 これは夢にちがいない、と現実逃避しかけたところで目の前に迫った金髪美女に意識を取り戻すことができた。
「な、何か御用でしょうか?」
「ここは桜ヶ丘ハイスクールよね?」
「え、はいその通りですが」
 少しクセのあるイントネーションながらも流暢な日本語が飛び出てきたことに知らず安堵の息がもれた。
 少し落ち着き、いろいろ頭の中で思考できるくらいの余裕ができた。
 もしかしたら自分はこの美貌の人物の役に立てるのかもしれない。別にそこから何かが進展するなんて思いもよぎらなかったが、こんな人のために何かできるのは誇れることだろうなーと思った。
「そ、ありがと」
「え? ちょっ……」
 女性はそれだけ言うとあっさりと竹中の横を通り過ぎていく。無情にも竹中の心中など知るはずもなく。
 しばらく校門の前には、女性が残していった甘い残り香を胸一杯に吸い込みながら笑顔の彫刻と化した竹中の姿があった。
 三十分後、やおら意識を取り戻した彼は、たった今出会った美女がどこかで見たことがあったような気がして首をひねった。
 しかし、とっくに自分の担当教科の時間だと気が付くと顔面蒼白となり校舎へ戻った。


 通りゆく人の目を惹く見事な金髪を揺らしながら女性は道を闊歩していく。彼女は校庭をうかがいながら、天真爛漫な少年少女たちが元気に走り回っているのをサングラス越しに確認した。
 規則正しいかけ声、喚声、大歓声。校庭の隅にはドッジボールをやっている生徒の姿も目に映る。
「元気なものね」
 安堵の息がそっと漏れた。息子の様子を見る、という彼女の目的は果たされなかったが、この場所なら大丈夫そうだと確認できただけでも収穫であった。
 モデルのようなプロポーションを携えて、颯爽と歩く彼女の姿はまるで映画の一幕のように洗練されており、あつらえたようにその視線の先には真っ赤なスポーツカーの横で待ち構える男の姿があった。
 彼女は男の姿を確認するや、ダッと駆けだして男性の胸に飛びついた。
「ああーんカノンと会えなかったー!」
 ほんの一瞬。瞬きするだけの時間の内に彼女は一寸前のクールな装いを地べたにかなぐり捨て、べたべたと甘えた声を出し始めた。
 そんな彼女の様子に破顔一笑の男性も、がっしりと彼女を腕に抱く。
「まー何とかやってんだろうさ」
「んー、良い子たちが多そうだったけどー」
「そんなら平気だな!」
「そうかしらー?」
「そうとも!」
「ダーリンっ!」
「よしよしいい子だアルヴィー」
 そのまま二人はいちゃつきはじめた。
「まー外人さんはダイタンですなー」
 桜ヶ丘高等学校建立前よりこの土地に住むキヨさん(八九)は目の前でラブりだした二人を見て、感心したように呟いた。



 暗い。
 白い。
 暗い。
 しばらく暗い。
 やっぱり白い。何もない。

 ぱちくりと瞼が疑わしげに開いたり閉じたりしている。
 夏音は朝が弱い。起きた瞬間に思考が冴え渡るような事は十年に一度の大珍事というレベルだ。今まさに自分が明瞭な視界を得ていることはよほどの異常事態か、夢だろうと考えた。

 夢にちがいない。

 何故なら今の自分はこの真っ白い天井を見ることはできない。
 現在、夏音がベッドから天井を見上げると特大のアニメポスターがあるのだから。

(じゃおりんがいない……)

 夏音が大好きなキャラクター。毎朝、変わらぬ笑顔で自分に微笑む彼女がいないなんてありえない話なのだ。
 明晰夢という種類の夢は、夢の中にありながらある程度の思考が可能とされている。彼はこれが夢だと勘づいていた。
 
 静かすぎる。世界から音が逃げてしまったようだ。
 ベッドから起き上がって靴を履こうとした瞬間、吐き気に襲われた。

 ああ、こんな感じだった。
 頭の片隅で、この感覚は今でも鮮明に覚えているものだなと感心する一方、涙がぼろぼろと溢れてそれが床にこぼれるのを絶望的な気持ちで見送った。
 身を丸くして吐き気が通り過ぎるのを待つ。亀のように首をひっこめ、頭を抑えてひたすら。
 やがて心が落ち着きを取り戻していく。機械的に。ひどい時は気絶していることもあった。
 すべて嘘に決まっている。
 偽りの夢だから、もう一度ベッドに戻って目を閉じれば……あるいは、悪夢から覚めるために階段とか高いところから飛び降りてみれば目が覚めるかもしれない。
 そう考えたところで、彼に実行する勇気も気力もなかった。
 この時の世界の色はどれも褪せたように美しくなかった。
 絶望的な感情はどんどん広がっていく。
 こんなにヒドかったっけな、と首をかしげる自分。
 また、ああ何てひどい世界なんだろうと嘆きもがく自分がいた。

「大丈夫だよ夏音くん! こういう時は、とりあえずお茶だよ!」

 ふと聞こえた間延びした声に意識が白く溶けた。

「!?」

 関節のどこかがぱきりと鳴った。目の前には甘く微笑む蛇池歌織(じゃいけかおり)。通称じゃおりん。夏音の心のオアシスの一人である。
 いわゆる目覚めなのだと脳が理解する。
 夢というのは実によくできている。夢の中でどれだけその世界の住人に馴染んでいたとしても、一瞬で現実の自分を取り戻す。
 夏音はいやな汗でぐっしょりと寝間着が濡れているのを感じた。どこもかしこも布が肌にひっついている感じがひどく不快で、すぐにシャワーを浴びようと起き上がった。
 ここは日本だからベッドから起きても靴を履くことはない。唯に貰ったもこもことしたスリッパに足を突っ込んで部屋を出る。

 しばらくして、熱いシャワーを頭から浴びてそっと目を閉じる。
 ひどい夢だった。
 いくらなんでも誇張がすぎる、と夢の中の自分が馬鹿らしくなった。悲劇のヒロインにでもなったつもりだろうか。夢の脚本家のセンスが疑われる。
 あそこまで、ひどくはなかった。あんな絶望に負けそうになって、死にたくなるような過去は嘘だ。
 かつて抱いたことのある感情だという点に嘘はないが。それを言えば、一度抱いたことのある感情を良い方にも悪い方にも倍増させ、膨らませてしまうのが夢というものなのだろう
 何にせよ、すべては終わった話だ。
 確かに思い出せる荒れた時期。けれど、夏音には救いの手をさしのべてくれる人がいた。
 だから、あんな絶望に負けそうになることはなかったはずだ。
「もしや深層心理っていうやつか……」
 後でその辺の情報をチェックしてみようと決めて、シャワーを止めた。
「ていうか、今何時だろう」
 備え付けの時計を見る。
 世間ではランチタイムと呼ばれる時間だった。
 やけに目覚めがいいと思った。



「あれー夏音ちゃんどしたのー?」
「重役出勤ってやつ?」
「あはは、おそよー」
 教室に入ると、クラスの女子が堂々と現れた夏音に気が付いて声を投げかけてきた。
 茶化すように声をあげて笑う彼女たちに「まだ時計の時差調整してないんだー」と言うと「もう半年以上たってんのに!?」「うっけるー」と大ウケされた。
 夏音は今日もどっかんいわせてやったわと満足して頷いた。
 そんな彼女たちとの華やかな戯れをかわし、指定の席へ座ると周りの男子が三々五々と集まってきた。
「夏音くん新記録達成だね!」
「今度の言い訳はどうするの?」
(うるさい朝からムサ苦しい)、と夏音は心の中で盛大に舌打ちした。世界は昼と呼ばれている時刻だが。
「メインディッシュは後からくるものさ、とかどうだろ?」
「うわーっサブいってお前! いや、でも夏音なら嫌味じゃないかも……」
「夜中に妖精さんのパーティに出かけていたらついつい寝坊しちゃったワ、とかは?」
「なげーよ」
「じゃ、こんなんは……」
 随分と勝手なことばかり抜かしている。夏音は自分の頭上で飛び交う言い訳の応酬をうんざりした面持ちでやり過ごす。というより、どれだけレパートリーを持っているのだ。
「フツーに謝るよ。言い訳はないですー」
「うわ、見た目に反してなんて男らしい」
「アメリカって言い訳文化なんじゃないの?」
 一言洩らすたびに、こうした反応が起こるのはどうにかならないものか。
「あ、夏音くんご機嫌ななめ」
「お前のせいだ」
「何を言う。貴様だ」
「お前だ」
「私だ」
「お前か」

 うぜえ。
 この日本語が夏音の気持ちを表現するにぴったり。彼はこの三文字の日本語が大好きだ。さあ言おう。言ってしまおう。
 大きく息を吸い込み、周りでざわめく馬鹿な男どもに怒りをぶちまけようとした時。
「立花くん!」
「ん、おはよう七海」
 夏音の怒りを寸で遮ったのはクラスの委員長・山田七海(お世話になっています)その人であった。
 怒気で膨れあがったオーラをばちばちと滾らせ、夏音をきっと睨んでいる。思えば彼はこの一年で言い様の知れぬ迫力を身につけた。
「おはよう、じゃないだろう! いろいろ言いたいことあるけど、普通この時間になったら来ないだろう!?」
「いやー七海の顔を見たかったんだよ」
「また君はそんなことを……っ! からかうのも大概にしたまえ!」
「ぷっ……た、たまえ、だって……古代の日本語? ムスカ様がそんな感じで……」
「ち、ちがっ……つい言ってしまっただけだ!」
「たまえ?」
「大概にしやがれ! と言おうとしたんだ!」
「それはキャラが違うだろ」
「う、うるさいな! どうせ寝坊したんだろう? 部活するためなら放課後に来ればいいじゃないか?」
「だーかーらー。七海に会いたかったから?」
 淡桃色の唇がぷるんと揺れる。夏音は七海を絶妙な角度から見上げ、甘く囁きをもらす。すると、彼は顔を真っ赤にして――、
「ッアァーーーーーーッ!!」
 叫んだ。壊れた。瞬時にクラス中の視線が彼に集まる。
 夏音と七海の会話はだいたいこんな感じに終わる。夏音にとって根が真面目な七海は誰よりもからかいがいがある玩具のような存在だった。
 このように爆発する七海をクスクスと笑って楽しむ彼はイイ趣味の持ち主といっても過言ではない。
「な、何で掘られてんだよ七ちゃんっ」
 実際のところ夏音はそれを痛快愉快と笑っているクラスの男子たちとも仲が悪い訳ではない。
 入学当初はそれこそ避けられていたのだが。すでに仲の良い者同士で固まっていた男子グループと一緒に行動することもなく、ひどいもので体育の着替えの時間などは皆、何かから逃げるように夏音を一人だけ置いてさっさと更衣室から出て行く始末だった。
 女子はというと、いつもキラキラとした瞳で夏音を見つめる者ばかりで、あまり話しかけてくれなかった。
 そんな状況を打ち破ってくれたのは、軽音部のおかげに他ならない。律と澪の二人が教室で夏音と普通に話しているのを見て、じょじょにまわりの夏音に対する態度、警戒心というものが「お、こいつ意外とイケんじゃね?」的に溶けていったように思える。
 ころっと態度を一転させた男子どもは何かと夏音をかまってきて、それが時折たまらなく煩わしい。日本人のくせに空気読んでくれない。
 このように確実にクラスのマスコット的な存在として祭りあげられていた。
 しっしと夏音が彼らを追い払い、周りの人が捌けたタイミングで声をかけられた。


「お前、いい加減にしないと部活にも影響出るかもしれないぞ」
 声のトーンを聞いただけでとっても機嫌が悪いなとわかるのも珍しい。振り向くまでもなく、声の主が澪だとわかった。
「ダイジョブダイジョブ! お茶の時間までには必ず来るようにするから」
「おい……うちはお茶飲み部じゃないぞ!」
「果たしてどうかな」
 にやり、と夏音が笑うと「うっ」と澪がひるんだ。
「最近、音を合わせたのはいーつだったかなー!」
「い、一週間前……」
「まーまー。軽音部って何かしらねー」
「す、すいませ……って何で私が謝ってるんだよ! 夏音も原因の一人だろー!?」
「はいはい」
 澪は受け流しやすい。チョロイともいう。冷静かと思えばことのほか直情型なので、飄々とかまえている夏音はひらりひらりとマタドーラのごとく彼女の突進を流しまくれるのだ。
「むぅ……今日こそは練習するからな」
「はーいはい!」
 クスクスと笑って、憮然としている澪の鼻をぴっと押した。
「ぬぅっ!」
 それをばっと振り払い憤怒の表情をつくる澪からさっと逃げ、教室を後にする。
 後ろで澪が叫んでいるが、気にしない。どうせすぐに「はぅっ」と人前で叫んだことに気づいて縮こまるだろう。
 担任に怒られるだろうか。先に職員室に行って適当に謝ってこようか。
 何だか今日は気分が良い。夢見が悪かったにせよ、こうして日常の匂いを嗅いだことでどうしようもなくほっとしてしまったのだ。 幸い、つまらない授業はあと一コマ。担任に盛大な溜め息をつかれてささっと戻れば大丈夫。

 彼は軽い心持ちで職員室のドアを開けた。

【Mission:夏音は校舎裏・地獄の掃き掃除の勅令を受けた】

「ってなんでじゃー!」
 校舎裏で一人、ぽつんと竹箒を持たされた夏音は思い切り手に持つソレをたたきつけた。
 この場所まで疑問を抱くことなく来てしまった自分も大概だが、よりにもよって誰もが嫌と言う学校で一番掃除したくない場所ランキング堂々一位、単独一位の校舎裏をたった一人で掃けというのだ。
「体罰と言ってもか、か……なんだっけ。かげん? かごん? じゃないよもう。とりあえず立派なpunishmentだよこれは」
 日本の教師たちはPTAとやらを怖れているはずだ。その名前を出してみればよかったと後悔する。
 掃き掃除と言っても、ついこの間まで大量にあった枯葉たちの姿は見えなくなっていたし、砂ばかりの校舎裏を掃く目的が見当たらない。
 最近、風が強かったからみな飛んでいってしまったに違いない。このまま自分も風のように消えてしまおうか、と思った。
 ふと何気なく思った。それだけだった。
 しかし、何心もなく思ったその「消える」という言葉に胸の奥がしくりと痛んだ。
「むぅ……」
 今日は夢のせいですっかりとナーヴァスな心持ちである。衛生的な精神のために一刻も早く甘いものを摂取しなきゃ、と思い至ったので掃除を放棄することに決めた。
 箒を用具入れにジャンピング投げ入れ、部室へと急ぐ。
「今日のお菓子はなんだろーなー」
 階段を上る。駆け上がる。銅の取っ手をひねり、バンッと扉を開けた。

 おや? と思う。

 空気が違う。何だか凍りついた空気。
 戸惑いに満ちていた。
 それでいて何だかこの肌にぴりぴりくる緊張感に懐かしさを覚えた。

 夏音はするりと部室に入ると、すでに全員がそろっているのを確認した。
 一人多い。
 どう数えても一人多い。
 しかも、そのプラスアルファは絶対に学生じゃない。学生じゃない上に日本人じゃない。
 その男は新たに部室に入ってきた人物に気が付き、夏音の方へ振り向いた。ふっ、と大きく口角を押しあげる笑い方。夏音の記憶にある見覚えのある笑い方だ。
 夏音の額を一筋の汗が零れる。
 その男は顔にかけていたサングラスをやおら外す。

「Hi……Kanu?」
「マーク……。Jesus……」
 いるはずがない人物がいた。
 回れ右して、ダッシュした。
 二秒でつかまった。
 夏音は今日が人生の正念場だ、と泣きそうになりながら「ほら悪い予感が正しかったー」と誰に言うまでもなく文句を言った。



「さっき職員室の方がえらく騒がしくなかったか?」
 律はやけに閑散とした廊下を歩いていて不思議だな、と思っていたところに職員室の扉付近の人だかりに出くわした。
 野次馬根性丸だしの生徒が溢れているのを見て「うわー、これには混じれない」と思った律は、特に関心の的を確かめないで部室まであがってきたのだ。
「誰か有名人かも、って話だよ。なんか校長先生がわざわざ職員室まで飛んできたみたいだよー」
 律より遅れて部室へ訪れた唯は野次馬の一人、それも最初から事態を目撃していた生徒を運良くつかまえて事情を聞いたらしい。
「っへー。校長がねー」
 やっぱり見ておけばよかったと律がぼやく。
「唯はその誰かさんを見なかったのか?」
「見たよー」
「見たんかいっ!」
 律はがくっと椅子からずり落ちそうになり、澪は「うるさい」と睨んだ。そういえば唯は肝心なことを言い忘れるきらいがあるのを忘れていた、と律が頭をかいた。
「で、どんな人だった? 有名人?」
「んっとねー。後ろ姿しか見えなかったけど、金髪の女の人だったよ」
「それだけじゃなー」
「あ、後ろから見てもすごく美人だったよ!」
「背中だけでわかるのか」
「校長先生が顔真っ赤にして握手してたからきっと美人さんだよ!」
「な、何者だその人っ!」
「あと男の人もいてねー、すっごく校長先生になれなれしかった」
「やっぱ私見てこよーっと」
 即実行を肝に銘じている律はがたっと机を揺らして立ち上がった。
 そのやりとりをぼんやりと聞いていた澪はふぅ、と溜め息をついた。
「やっぱり野次馬しに行くんだな。そんなことだろうと思ったよ」
「ふーん。澪だって気になってるくせにー?」
「別に気になってない」
「ちぇっ。今日はノリが悪い」
 澪は、ぶつくさと口をとがらせて文句を言う律を無視することにした。
 渦中の人物が有名人だと決まったわけではないし、それに有名人なら毎日のように見ている。
 この部活だと、自分しか知らない事実。そこに多少の優越感を感じて密かに微笑んだ澪は、ちょうど読んでいた音楽雑誌の特集ページに目を凝らした。
 特集は『マーク・スループ』というギタリストについてあらゆる装飾語を駆使して、彼のすごさを解説しているものだ。
 六ページ半も使っているのはすごい。楽器についての専門誌ではない雑誌で機材の紹介に二ページも割いてくれているのは珍しい。楽器は違えども、プロの機材を知る瞬間は嬉しいものだ。
 澪は「ん?」と見出しを二度見した。スループ、という姓。
(この人もスループ一家なんだ……)
 自分にとって決して他人事ではなくなったそのファミリーネーム。こうして雑誌などでこの名を見かけると、改めて自分がとんでもない人物の近くにいるのだとおそろしく実感させられる。
 十中八九このマークという男も彼の知り合いなのだろう。スループという単語はつぶさに『音楽家』であるという意味を含むのだから。
 この人はどういったジャンルで活躍しているのだろうとじっくりと記事を読もうとした時。
『Silent Sistersの変態ギターの奥義がここに明らかに!?』
 という一文が目に飛び込んだ。
(こ、この人がギターだったんだ!?)
 Silent Sistersというプログレ色の強いロックバンドがある。
 初期のアルバム以降はロックというよりメタル寄りの雰囲気だが、その特色はメンバー全員の技巧の鋭さから生まれるめまぐるしい展開である。全員が神業的なフレーズを怒濤の勢いで重ね合わせ、頭がおかしくなってきそうなことを平然とやってのけるのだ。
 澪がこのバンドを知ったのは一年ほど前だった。某レンタルショップで未開のCDを発掘していた最中、とあるCDアルバムのジャケットに惹かれて(いわゆるジャケ借り)とりあえず一枚借りて家に帰り、コンポで流してみたのだ。
 気が付けばその日のうちにすべてのアルバムを購入していた。
 それほどの吸引力をもつバンドである。
 バンドの歴史としてはヴォーカルとドラムの二人、準レギュラー的なキーボードを抜かせばギターとベースのポジションが常に不安定なバンドだった。
 不安定、といっても演奏力のことではない。入ったり、やめたり。初代から含めるとギターは四人くらい変わっている。
 どうやら最新のアルバムではまたもやギターが変わったらしいという話は耳にしていたが、澪はそこまで気にしていなかった。
 どれだけギターが変わっても、例外なく超絶技巧の変態ギタリストが加入してくるのだから。そもそも、澪としてはバンドとしてのサウンドの中心に座しているドラムとヴォーカルがいる限り、音楽性に問題はないだろうと考えていた。


 最新アルバムは視聴で聴いただけだが、「またすごいギターがきたなぁ」と思った。
 あの次元になると、すごさのインフレが起こってどれだけすごくても感覚が麻痺してくるという不思議。
(黒人の人だったんだ)
 黒人のギターヒーローが少ないというのはいかにもな話ではないかと澪は考えている。ジミ・ヘンドリックスというジェフ・ベックやクラプトンにして「彼に勝てるギタリストは存在しない」と言わせた大御所はいる。
 とはいえロックのギターヒーロー、メタル界の怪物ギタリストなどと言われて思い浮かべることができる黒人ギタリストが何人いるだろう。

 少し音楽をかじっている、などと言う人に問うても首をひねって答えに詰まるだろう。

 Crackdustはガチメタル。レニー・クラヴィッツ、ロイド・グラント、ガンズのスラッシュ……はハーフだ。しかし、探せばいるといった程度だろう。世界は広いが、認知度の問題だ。
 ここのメンバーは全員白人なはず。その中に違和感なく入って受け入れられる(ファンに)には相当の腕を持っていると思って間違いない。スループの名を背負う者としては面目躍如といったところだろうか。
 ちゅ澪は低く唸りながら記事の上に視線を這わせた。
(空間系が少しだけ夏音とかぶってるかな。やっぱりあれはプロ御用達なのかも)
 こうして雑誌に夢中になろうとした拍子に、部室を出ようとした「ウギャーーッ」という律の悲鳴が響いた。
 澪は驚いて振り返った。振り返りつつ「いくらなんでもウギャーはないだろう。女の子として」と暢気に考えていた思考が凍り付いた。

「Excuse me. Kanon here?」
 平日、放課後。私立高校の音楽室で黒人に遭遇する確率は非常に少ない世の中だと思われる。
 ましてや日常会話で使える英語を学んでいない日本の高校生が英語で何かを問われたときたら、フリーズしてしまうのは致し方ない事だ。
「I heard he would be here…hey, why are you making a face? 」
 その男の肌は黒く、背が高かった。白いジャケットを着ていて、そのままジャズのステージに立っていてもおかしくない雰囲気を持っているが、何故か足下がスリッパ。
 高級感あふれるハットにサングラス。落ち着いて見ると、お洒落だと言えなくもないが、彼女たちにそんな心の余裕はない。
 律の喉から呼吸だけが漏れる。何かを話そうとしても、喉が言葉をせき止めてしまっている状態だ。
 パニックにより真っ白な状態の律を見て、その黒人の男は訝しげに律をのぞきこんだ。すると「Oh!」と手のひらを叩き、ぱっとハットをとって陽気に一言。
「コンニチハ!」
 誰もが思わず体の力がずるっと抜け落ちそうになった。
「は、はろー!」
 せっかく向こうが日本語で挨拶してきたのに、テンパった律が英語で返す。すると、その男も笑って「Hello, lady」と返してきた。
「アー、カノンはいますか?」
 たどたどしくもしっかりと日本語を話してきて、伝わった。夏音がいるか。
 この男は夏音を探しているということだ。
「あ、い、いません!」
(嘘ついた!?)
 律が思い切り嘘をついた瞬間、唯、ムギ、澪の三人の心が一つになる。
「ソウデスカ……ここ、ケイオンブ?」
「イエスイエス!」
「Strange……彼はケイオンブのはずです」
「い、いやその……」
 このタイミングで律が澪たちの方を振り向いた。助けを求める目をしている。はっきりと救難信号を発信しているのがわかる。
 しかし、勝手に嘘をついた律を助ける術が見当たらない。
 何より、できるだけ巻き込まれたくないので三人は全力で目をそらした。
 その瞬間、律の白目にギロッと血管が血走った。
 腹をくくって、律は一人で応対する。
「今、いなくて。後で来る、オーケー? あぁ……ヒー、カム、レイター」
 めちゃくちゃな英語だが、それで伝わったのか男は「Got it」とうなずいた。
 田井中律、初めての異文化コミュニケーションここに成功。かと思いきや。
「ココでマッテます」
「へ?」



 端的に言うと、田井中律は役に立たなかった。結局、彼女たちはそのまま男を中に通し、あまつさえ自分たちの席をすすめるハメとなってしまったのだ。
 とりあえずおもてなしの心によってムギがお茶を出し、唯は珍しく緊張しながらもまじまじと彼を見詰めていた。わりと興味津々のご様子。
 そんな中、澪は滅多に交流することのない外国人にがちがちに緊張していた。ちなみに普段接しているアレは外国人ではないと認識している。
 よりにもよって隣の席にどっかり座られてしまったせいで、まるで借りてきた猫のように背筋を伸ばして固まっていた。先程から雑誌は同じページのままめくられていない。
(ひ、ひぃーっどうしよう。何か話しかけたほうがいいのかな。ていうかさっきからずっと黙ってるけど怒ってるのかな? でもこういうのはムギとか唯とか律とかの出番だろうし)
 自分より遙かに社交的なはずの彼女たちが話しかけないとなると、ひたすら重い沈黙が自分の胃を直撃してくるのだ。
 自分が何か粗相でもしたら「オーゥ、ファッキンジャップ!」とか言われるのではないか。澪は頼むから誰かはやく喋ってくれ、と切に願っていた……が、誰もが同じくそれを願っていた。
(ムギなんてお嬢様で英才教育とか受けてそうなのに!? 外国とかもしょっちゅう行って他国のお偉いさんと会話とかしてそうなんだから、とっとと話しかけてー!)
 心が追い詰められているせいで何もかも他人に丸投げの姿勢をとっていた澪は、やっとの思いで首をギギギ、と動かしてお茶を振る舞うムギの顔を見ようとした。その際、隣に座る黒人の顔を眺めることになったのは偶然だった。
 そして、ふと自分が開いている雑誌の特集になっている黒人と瓜二つであることに気づいたのも偶然であった。
 目をぱちくりさせる。
 澪は自分の目がおかしくなったのかを疑い、こすってみた。
 視線を落とし、雑誌の表紙を確認。つづいて、隣を確認。
(こ、黒人って日本人からしたら見分けがつきづらいし……まさか、な)
 それに、マーク・スループは特徴的な髪型をしている。
 縮毛矯正をしているのか、肩過ぎまであるだろう長髪の顔まわりがさらっとしたストレート。それ以外をコーンローやドレッドの組み合わせというお洒落なヘアスタイルのはず。
 ハットをかぶっている時点で確認できないが、よく見れば隣にいる人物は少し髪が長いように見える。
(か、髪が長い黒人なんてごまんといるはず)
「Thank you」
 ムギが茶菓子を出したことで、彼が礼を言う。そして、おもむろにハットを脱いだ。
(う、う、う~~~~~。神様のばか~~~)
 しっかりとお洒落ヘアが確認できた。
(本人だよ……本人なんですけどっ!?)
 額からだらっだらと汗が流れ、目が怪しい動きをし始める。動揺のあまり焦点が定まらず、背中にも汗がだらりと垂れた。
 傍から見たら明らかに挙動不審の女である。
 何故、こんな人物がこんな場所に……と思いつく原因は一つしかない。正しくは、一人しかない。スループ。この単語だけで一たす一より簡単に、導かれる答えだ。
(こ、これって夏音と鉢合わせになったらまずいかも……?)
 澪は、その鉢合わせは夏音がプロであることを他の軽音部の者に知られることにつながってしまう気がする。
 いつかは話すとは言っていたが、このような形でバレてしまうのは彼の本意ではないはずだ。
 実のところ、澪はどうして夏音が入学当初に本当の事を打ち明けてくれたのかがわからない。
 もともと知っていたというのを見越した? ベーシストとしていつかバレてしまうと考えたからだろうか。
 そこにどんな理由があったのか。また、理由はなかったのか。
 ともかく澪にとっては夏音が自分にだけ打ち明けたという事実だけあれば満足だった。
 それが自分の秘密だったし、誰かと秘密を共に抱える楽しみは何だかスリルがあって楽しい。
 完全に子供みたいな理由だが、澪にとっては何だかよく分からないその他諸々の理由――言葉で説明なんてできない―――によって、夏音の正体が明らかになってしまうことは歓迎されにくい事柄であった。
 その正体が何なのかはよく分からないし、分からないままがいいと女の勘がささやくもので考えないようにしている。
 とりあえず、目の前の問題は截然としている。皆の前で二人を接触させないこと。
 果たしてそんな難題を乗り切ることができるのだろうか。こんな汗だくになってワイシャツを濡らしている女に。

(あ、メールすればいいんだ)
 うっかり文明の利器を忘れるところであった。澪はさっそく震える手で携帯を開こうとした。
「Are you okay?」
「は、はぅはあ?」
 突然、男に話しかけられた。マーク・スループに。超絶天才ギタリストに話しかけられた。秋山澪、てんぱる。すると日本語で言い直された。
「アナタ顔、ヒドイよ」
「ひ、ひどい?」
 その言いぐさがヒドイと思わないか、と澪はショックを受けた。
「気分ワルい?」
「あ………」
 そこで彼が体調を気遣ってくれていたのだと理解した。
(い、意外に紳士的?)
「ド、Don`t worry」
 かろうじて思い出せた一言を絞り出すと、やはり心配そうな顔をしたまま、それでも一応納得したように「そう」と引き下がった。心なしか不満そうだ。
 澪は再び携帯画面を開く。送信履歴のトップの方のアドレスに急いでメールを打つ。
【マーク・スループが部室に!】
 たったそれだけだ。
 雑誌に隠して、携帯を打つ。ノンルック打法だとしても、それだけ打つのに現役女子高生が五秒もかかってたまるか。そう意気込んでも震える手は思い切り誤字、誤変換のオンパレードを奏でる。
 慌てて打ち直さねばならない。クリアで全てを消す。
 もう見ながら打とう。テンキーに親指が乗ろうとした瞬間。
 ガチャリ。
 絶望の扉が開く音がした。携帯をもつ手を力無く下ろし、澪は天井を仰いだ。
(もう、しーらない……)
 自分は少しだけ頑張ったのだから。




 夏音の弾かれたような脱兎は束の間にして終焉した。
 襟を掴まれ、即座に身を縮めている夏音はまるでご主人様に叱られてしゅーんとしょげかえった犬のようだった。その表情は、ひーんと尻尾を巻いた犬そのもの。
「この大間抜け!!!!」
 控えめに言ってそんなニュアンスの英語が天下のギタリスト、マーク・スループの口から飛び出した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい~~~~~」
 軽音部一同は、あっという間の展開にぽかんと口をあけていた。英語で飛び交う会話、というより夏音が一方的に謝っていることくらいはもろにわかる。
「こんなに弱っちい感じの夏音って珍しいかも」
 律がぽつんと言った一言、澪はよりによってソコかと思わないでもなかったが、たしかにそうだと小さくうなずいた。
「何で俺に何も言わなかった!?」
「いったいその髪はなんだ!?」
「何でずっと連絡をよこさなかった!?」
「バカか!?」
「すぐ戻るとか言っていたそうじゃないか? もう二年も経つんだぞ?」
「高校の軽音部に入ったって聞いた時は目眩がしたぞ!」
「やっぱりお前はバカだ!」
「どあほーーーー!!!」

 破竹の勢いでなじられている夏音は肩をすぼめて、びくびくと震えていた。
 最初から全力で白旗を振っている。相手にお腹を見せる獣のごとく、逃げ腰だった。
 興奮冷めやらぬ状態で夏音の首根っこをおさえているマークは罵倒してもしきれんとばかりに矢継ぎ早に口を動かす。夏音はうっすら涙を浮かべてひたすらそれに堪えていた。そんな状態が続くかと思いきや、
「Mark. Calm down Mr.Wolf. My Little Red Riding Hood looks so pale.」
 しゃらん。
 甘く、やわらかい。聴いただけで美しい人物を想像してしまうような美声が張り詰めていた空気に割り込んだ。
 その一瞬で場の空気が華やかになり、部屋を埋め尽くしていた緊張感が消え去った。
「もー。マークは寂しかっただけなのよね」
 太陽のように輝くブロンドヘアーを揺らしながら、モデル顔負けのプロポーションの美女が入り口に立っていた。こちらも日本人ではない。
 顔も姿も眩く光輝いていて、部室中を照らした。花のような唇がくすりと笑い、青い瞳がすっかりしょげ返っている夏音の姿を絡め取った。
「My lovely sweet!!」
 そう叫ぶと彼女は夏音をぎゅぅーっと抱きしめ、その顔にキスの雨を降らせた。欧米式の熱烈なスキンシップに日本の女子高生たちはたじろぐ。
 キスしたよ。
 キスだよ。
「Mom!!?」
 軽音部の面々は、夏音が女性に返した一言に固まった。
「マムだって!!?」
 全員、目を剥いて女性を凝視した。女性は魅力的な微笑を浮かべて、人懐っこく笑った。
「カノンの母でーす! アルヴィって言いまーす!」
 日本語。
一同は正面から彼女の顔を見て口を揃えて言った。
「姉妹……?」
 髪の色以外はほとんど瓜二つという容姿をしている。どちらかというと女性の方が完成されている感じがする。夏音完成版。唯が正直な感想を洩らした。
「よく言われるのーありがとう!」
アルヴィは艶然と笑って少女達に微笑みかける。一方、アルヴィに夏音をかっさらわれたマークは肩を大きくすくめた。
「とりあえず、俺はこいつに物申さなくては気がすまないんだ」
「ええ、わかるけど……でもアナタ、すでに色々言ってたじゃない」
「これだけじゃ言い足りない!」
 アルヴィは自分の息子がマークから買っている恨みは存外深い、と困惑した。頬に手をあて、眉尻を下げて改めて息子を見下ろした。解放されるや、すぐに自分の背後に逃げ隠れた自慢の息子を。
「あなたも何か弁明はないの? 言い訳しておかないと後々ひどいかもしれないけどー」
 母の言葉を得て、夏音はおどおどと母の影から前に出た。深呼吸をしてちら、とマークを見てぎこちなく微笑む。
「や、やあマーク。ひさしぶり」
「…………久しぶり? ああ、久しぶりだな。これは久しぶりだろう」
 置かれた間がとても痛い。ギロリ、と蛇に睨まれた蛙状態に陥った夏音はふたたび「ひぃ」と飛びあがった。
「ずっと一方的に音信不通だったヤツの言う台詞にして気が利いてるな? そいつは冗談のつもりか?」
「ち、ちがうんだよっ! みんなには何も言わないで飛び出してきちゃったから……その……色々ございまして」
「みんな? 俺以外の奴らはほとんどが知っていたんだけどな。はたしてその“みんな”とやらに俺は含まれていないのか?」
「う、うぅーー…………ごめんなさい」
「何に対してのごめんなさい、だ?」
「黙って行ってしまってごめんなさい」
「それだけじゃないだろう?」
「その他諸々ごめんなさい」
「だから、その諸々ってのはなんだ?」
「う、うわーん」
 夏音はたまらず泣いた。もう抑えていられなくなり、人目を憚らずに恐怖による涙を流した。今時、うわーんと泣く人間も珍しい。
「くそっ。何でお前はいつもいつもいつもそうやって泣けばすむと思って!?」
 シュゴーッと怒りの蒸気を頭から発したマークが夏音に詰め寄る。
「あらー、懐かしいやりとりねー。マークったら好きな女の子についつい意地悪して泣かしてしまうタイプの子なのよねー」
「ち、違う! いい加減なことを!」
 語気を荒げて反駁したマーク。あまり気づく者はいなかったが、彼の肌はそれこそ真っ赤に茹だっていた。
「泣けるならいいじゃないの」
 マークは、アルヴィが静寂をまといながら投げかけた言葉に息を詰まらせた。彼女の言葉は氷を飲み込んだように一瞬で自分を黙らせた。視線をうろうろとさまよわせ、ゆっくりと泣きじゃくる夏音を眺める。

「ベースは………続けているんだな」
 先程までの詰問するような鋭さはなく、優しく確かめるような口調(かなり気を付けて)で彼は訊いた。
 それに対して夏音は幼子のようにこくん、と大きく頷いた。
「ベースは持ってきているのか?」
「……あるよ」
 再び素直にうなずく。完全に大人と子供のやり取りだ。マークはパチン、と手を鳴らすと周りを見回した。
「ちょうど良い。ところでジョージはどこにいるんだ?」
「ダーリンならおトイレに行ったわよー。でも、階段をのぼってすぐにここに来るわ」
 アルヴィはまだ姿も見えない誰かの階段をのぼる足音を聞き取っていた。そして彼女の話した事はすぐにその通りになる。
 またもやガチャリと扉があき、第三の客が姿を見せた。
「いやー日本の学校のトイレって超久しぶりでくそあがったわー!」
 豪快に笑いながらどすどすと部室へ入ってくる男は当然のごとく注目を浴びた。どうやら彼がジョージであるらしいが、明らかに日本人だ。年の功は二十代後半といったところで、一見細身に見える身体も近づくにつれて一切に無駄がない、限界まで絞られた鋼の筋肉に包まれていることがわかる。
 彼は夏音の姿を見るにつけ、にっこりと嬉しそうに頬をゆるめた。
「ややー、息子じゃないか。父をハグしておくれ。ていうか俺からしちゃうもんね!」
 そう言って夏音のもとまで一瞬で距離を縮めるとアルヴィと同様にむぎゅっと抱きしめる。
「ぐへぇっ」
 夏音の喉からカエルが潰れたような声が飛び出る。
 めまぐるしい展開の中、完全に置いてけぼりの女子高生は唖然とそれらの様子を見守るだけだ。
 ちなみに、彼女たちは先程から交わされる会話のほとんどが英語なので、何を言っているのか、何で夏音が泣き出したのかも把握できていない状態だ。
 ぽかん顔の女子高生たちがフリーズしているのに気づいた男はくだけた笑いを浮かべて、少女たちに挨拶した。
「立花譲二です! 夏音の父でーす! どうも息子がお世話になってるね! ありがとう愛してる!」
 初対面で同級生の父親に愛された少女たちは、硬直状態をさらに進行させた。
「何言ってるのさ! みんな固まったじゃない!」
 夏音はいきなり部活の仲間たちに愛してる発言をかました父親をぽかりと殴った。それでもこの父親、どことなく嬉しそうだ。
「カノン、ベースを用意しろ」
 親子の久々の再会をじっと眺めていたマークが厳しい口調で夏音に言った。ぴくり、と夏音の耳が動く。
「……やるの?」
「そうだ。ここは軽音部なんだろ? それでギターを貸してもらいたいんだが」
 マークは椅子に座ったまま強制的にアウトサイダーをやらされていた少女たちに声をかけた。
「え、何? ギター?」
 唯はギターという単語だけ聞き取れて、反応した。
「イエス。あー、ギターかしてくだサイ」
「ゆ、唯っ! ギターだ! お前のギターを今すぐ貸してさしあげるんだ!」
 何故かあわてふためく澪が唯に命令した。
「え? いいけど……ていうか澪ちゃんすごい汗だけど大丈夫?」
「私のことはいいから!」
 あの世界のギタリストにギターを貸せと言われる機会など、一生に一度だ。
 そんな澪の内心など知らない唯はやけに狼狽している澪の様子を不思議に思った。
 それでもギターを貸して欲しいというなら、貸そうではないかと思いケースからギブソンを取り出した。
「う、うちの子をお願いします」
 どこか、手塩をかけて育てた一人息子を送り出すような気分だった。マークは唯の差し出したギターを見て、ヒューッと口笛を吹いた。
「レスポールか……渋いな」
 ぱっと見、ただの女子高生がレスポールを使っているとは思いもしなかったのだろう。セッティングが良くないとはいえ、予想外の名器にマークの機嫌は少しだけ回復した。
「カノン。お前も早く用意しろ」
 レスポールをかまえたマークに声かけられ、ハッとなって夏音もいそいそと準備をし始めた。
「お、なんだなんだセッションか?」
 夏音の父、譲二は楽器の準備をし始めた息子たちを見てそわそわし始めた。
「俺もまじる!」
 わくわくが収まり切らなくなったのか、そう叫んだ。どこから取り出したのか不明だが、その手には二本の細長い棒が収まっていた。
「スティック?」
 誰よりも見覚えのあるその道具に反応したのは律だった。仲良く固まってはいたものの、しっかりと事態を見守っていた彼女は、突然現れた夏音の父親が取り出したスティックを見て唖然とした。
「え、夏音の父さんってドラマーなのか!?」
「クレイジー・ジョーってわりと有名だと思うけど……あまり日本のメディアに出ないから知らないかな」
 楽器の用意をしながら夏音が律に答えた。思えば夏音が部室で軽音部の誰かと話すのはこの瞬間が始めてだった。
「聞いたことあるような……」
「ま、そんなところだろうね」
「ていうかお前さんお前さん」
「な、なんでしょう」
 平然と会話をしている中、律はそろそろと夏音に近づいた。
「そろそろコレがいったいどういう事なのか説明が欲しいんだけどなー」
 もっともである。しかし、夏音は律の言葉にすっと目をそらしてうつむく。
「ごめん。あとで……ごめん」
 そんな反応が返ってくるとは思わなかった。
 律は予想外にも自分が夏音を傷つけてしまった気がして、ショックを受けた。
「そ、それならあとでも……べつに大丈夫っていうか?」
「…………」
 律はふらふらと椅子に戻った。


「まだソレを使っているのか」
 マークがふと呟いたのが、自分のベースのことを言っているのだと気づいた夏音はそっとボディを撫でた。
 フォデラ・エンペラーの五弦。コントロール部付近にできた小さな傷に目をやる。
「だって、クリスがくれたものだもん」
「チッ。俺がやったのはどうした?」
「もちろんアレも大切に……」
「ふん、なら別にいいんだが」
「飾ってあるよ」
「弾けよ!」
 準備をしながらふっと夏音は引きつっていた表情を崩した。
「なんだか懐かしいね、こんなやりとり」
「うるさい。何を暢気なことを」
「別に暢気でも何でもないよ。俺はいつもこんなんだよ」
「……知っている」
「ヨシ、準備できたよ」
 二人は会話をしながらも、しっかりと音を出して準備を整えていた。
「父さん、大丈夫?」
「いつでもいいぞー」
 夏音は母の肩を抱いて何か小言で囁いてクスクス笑っていた父親に尋ねた。友達の前でまでイチャつくなバカ、と思ったが口にしなかった。
「ていうか律にドラム借りるよって断ったの?」
「律ってどの子だい?」
 まだ、だった。この父は……と溜め息をついた夏音は律の方を向いて、その特徴を父に伝えた。
「Forehead」
「あー、君がドラムかい? ドラム借りていいかな!?」
 なんか今、とても失礼なやりとりが交わされた気がしたが、律は快く「あ、いいですよー」と答えた。
 許可を得た譲二はささっとドラムセットに向かった。
「ヒップギグか。なつかしいなー」
 椅子の高さだけ調整して、そのまま持っていたスティックをスネアに一発。
 その一発で言葉などいらなかった。
 そのたった一発のスネアだけで律は全身に雷が走ったような衝撃を受けてしまったのだ。
 続いて、他人のセッティングのままでドラムを叩き始めた人物のプレイに顎が外れそうになった。
 自分なんかより数倍、それ以上も音が大きい。クラッシュを打った瞬間、鼓膜を凄まじい音圧が襲う。爆弾でも弾けたような鋭くて短い、破裂音。
 腰が椅子に張り付いてしまったように動けなかった。身じろぎさえできなかった。
 律が衝撃を受けている隣で、澪も茫然としていた。すっかり白澪と化した彼女はもはや情報を処理しきれていなかった。
(夏音の父親といえば、あの伝説のセッションドラマー。加えてマーク・スループ。カノン・マクレーンの三つどもえセッション………)
 自分は、今まさにとんでもない物を目撃するハメになる。
 音楽ファンなら垂涎モノの機会に違いない。内心、自分だってこんな機会をお目にできる事に胸が震えぬはずがない。
 しかし、何だかんだ心配事がありすぎて、集中できないのも事実。
 横に視線をずらして、仲間たちの反応をうかがってみた。
 律は、先ほどから肩ならしとばかりに鳴らされるドラムに魂を抜かれたように見入っている。当然だ。桁が違う実力を持っている者の演奏をこんなに身近で聴ける機会など滅多にない。
 さらに横の唯。他人にいじられる自分のギターのことばかり気にかけているようだが、これから始まるとんでもない何かに心を躍らせているようだ。野生の勘に違いない。
 ムギはというと、先ほどから近距離でじゃれつくマークと夏音の姿を指くわえて眺めている。恍惚そうな表情。そっちもイケたのか、と澪は知りたくもない新事実を得た。

(あーもうみんなゼンッゼンわかっていない! このセッション、ふつーにお金とれるんだよ!?)
 チケット代、S席で唯の一月分の小遣いより遙かに高いだろう。
 誰かこの心境を分かって欲しい、と澪は肩を震わせた。さらに悪いことに、
「なんかずるいわ……私だけ仲間外れじゃない!」
 とアルヴィが騒ぎ出したせいで、ムギからキーボードを借り受けた彼女がセッションに参加を決めたのだ。
 澪はもちろん知っている。
 アルヴィ・マクレーン。
 超がつくほど有名なジャズシンガー。ピアノも相当できることは周知の事実。

 澪は決めた。
 このてんやわんやの先に何が待っているか。
 そんなことはどうでもいい。忘れよう。とりあえず、忘れよう。
 今はそんな事を忘れて楽しんだ方が勝ちなのだ。
  そう考えると、気が楽になった。ついつい強張っていた顔もゆるんだ。肩の力と共に、心配などがするりと抜け落ちた。後に残ったのは、心躍る胸が弾む気持ち。
「アハっ」
 何て最高な一日だろう。
「アハハッ」
「み、澪ちゃん?」
 ふいに笑い声を漏らしだした澪に気づいたムギ。何かの発作かと思ったのだ。
「アハハハハハッ! すごい! 最高だぞ! なあムギ!?」
「な、なにがーっ!?」
「おい唯も見ておけすごいぞー! なかなかだー!」
「澪ちゃんが壊れた……」
 ムギには、理由がまったく見当たらなかった。



 演奏が始まった。

 音が。
 まるで、そこから音楽が発祥したような誕生の仕方だった。
 一音の始まりから終わる瞬間までもが計算づくかのようなギターの音が響く。
 このギタリストがこの世の中にその音を発した瞬間と、聴衆の耳に届く瞬間の音はまるっきり違うのだろう。空間を伝播して、震わして影響させて広がる。音の力。
 さらに幽玄な調べが続く。青白いスポットライトが彼だけに当たっているような存在感。
 マークのセッティングは夏音からいくつか借り受けた足下だけで、今はいわゆる直アンの音。マーシャル社の技術とレスポールの根源的な絡み合い。そこにそれだけじゃないナニカが演奏者によって足される。
 それだけであっと息を呑む音を生み出しているのだ。
 それを支えているのは譲二のドラム。BPM一つ分もズレない正確さでマークと曲を進行させている。
 ミディアムテンポで進む曲が八小節ほど進んだところで夏音のベースが混じる。ただそれだけで音の厚さが数倍に膨れあがる。
 さらにしばらくして鍵盤の音が参加した時には他が入る余地のない鉄壁の要塞のような音楽ができあがっていた。
 互いが互いのすべてを知り尽くしているようなアンサンブル。
 相手の呼吸が自分のものであるかのように反応する面々。
 ふとベースがレイドバックすると、周りもそれを知っていたかのように独特のグルーヴへと変化させてしまう。
 プロのミュージシャンの中でも、超一流と呼ばれる者たちは時たまに超能力ではないかと思うような感覚を見せつける時がある。
 嗅覚、聴覚、視覚。そういうものを全て超越した感覚をもっているとしか思えない奇跡的な反応をしてしまうのだ。
 彼らはまさにそれにぴったりと当てはまっていた。決め事に縛られないセッションの中を巧みに動くだけではない。彼らの可動領域に限界はなく易々と遠くへ行ったり近づいたりする。彼らは音楽で連なり、一つの生き物のように駆け巡っているのだ。
 今までのは肩慣らしと言わんばかりに苛烈さを帯びてきた演奏の最中、マークによるギターソロが始まる。ブラックミュージックを通ってきているのがはっきりと分かる特有の手癖、リズム感、ブレスのタイミング。
 完全にマーク・スループの独壇場と化している、と思いきや、ふとクラシックのフレーズが出てきたりする。アンビバレンツなのではない、彼の場合、全て上手く混じり終えているマークの音楽としている。
 音楽のジャンルという垣根を越え、あらゆる音楽を取り囲んで別々のモノとしてではなく、表現の一つとして昇華してしまっているのだ。
 若くしてフレージングが神がかっていると評価される彼はそのまま彼の存在を音に乗せて押し広げる。一つのギターが鳴っているとはまるで思えない重厚さをもって彼のソウルを部屋中に埋め尽くそうとしていた。
 夏音はその演奏を聴きながら、頬をゆるめた。それと同時に青い瞳が小さく揺れる。
 彼にとってこの友人と音を合わせるのは実に二年半ぶりである。ますます磨きがかったテクニック、感性の爆発が目の前で展開されることは心の底から嬉しくて、たまらなく興奮する出来事なのだ。それと同時に懐かしくなる。昔を思い出し、引っ張っていかれそうになる。
 けれども、今の夏音は踏みとどまらなくてはならないのだ。しっかりと地面を踏みしめてある証明をしなくてはならない。
ギターソロが止んでアルヴィのピアノソロ。それが終わると自分の番になった。

 一小節の溜め。
 直後に和音を抑えた状態で右手を思い切り指板に叩きつけた。パーカッシヴな全音が響いたところですぐにトーンを急降下。フラメンコ奏法でざくざくとアンサンブルを巻き付けていく。
 叙情的なフレーズでその場は夏音のものに様変わりする。続けて彼はシャッフルのラスゲアードを展開させていった。時にスラップを混ぜながらの絶妙な音色のコントロールは何に分類される音楽かも知れたものではない。
 飛瀑を連想させる三連符が始まったと思いきや、タッピングから生まれるハーモニクスが幻想的に響く。
 そこを機転に横ノリなグルーヴを展開。神がかったピッチコントロール。ありとあらゆる手癖をミックスさせて創り出す幾何学的なベースラインで圧巻していく。
 夏音にしか持ち得ないアーティキュレーション。ワンアンドオンリーの音。世界に認められた音。
 色彩の魔術師と呼ばれた多彩な感性が空白の二年間で磨きに磨きを重ねられたのだ。
 夏音はベースを弾かない日はない。一日何時間も練習を重ねたのは引きこもっていた時でも変わらなかった。
 でも、それだけではない。
 夏音が新たに得たもの、経験。今までの人生では馴染みのないどうしようもなく普通で、世間ではありふれていて、それでも温かい世界。
 夏音は誇らしげに自分の持てる全てを肯定して出し尽くせる。
 少なくとも、この一年は無駄ではなかった。そう自信を持って思えるのだ。
 だから彼はそのことをマークに教えてやりたかった。
 もっと世界が広がったのだ。

(あれから成長したよ。ちゃんと前に進んでいるんだよ)

 夏音はいつの日か言われた言葉を思い出す。
『音は実に雄弁だよ。時に人間の言葉なんかよりも遙かに多く伝えたいことのせることができる素晴らしいものなんだ』
 だから、夏音は音にこめたメッセージをありったけの力で放射する。

 それは緑で、大地で、水銀の赫、風であって真冬の透明、枯れた石畳の灰色。
 あらゆる色彩の音色が夏音の中から世界に溢れだす。とどろく音の奔流となって、部屋を満たす。
  絡み合うビートたちは前に後ろに交互に行き交う。全員分のソロが終わると、ここからが本領発揮だった。
 この面子で行われるセッション。夏音が生まれてから何回行われたか数えられたものではないほど積み重なった信頼が崩れることはないのだ。
 セッションという場にかかわらず。夏音はディレイ、コーラスを踏む。ハーモニクス。倍音のアルペジオが幾重にも重なり、深海のソナーのように深く、優しく、包み込むように拡がる。いくつもの水の層。水で出来たレースのカーテンが光の射し込まない場所で淡くゆらめく。
 それを受け取ったマークもディレイを踏む。合わせてリバーブのスイッチが光っている。二つのフィードバックが重なり合い、許すように溶け合って、増してゆく。床が地震のように震えだし、音の壁が部屋中を押し潰していく。
 そんな中、譲二がにやりと悪戯小僧のように笑う。アルヴィはそんな彼らの様子を微笑ましそうに見詰めて、しっかりとついていく。
 
 後は、もう喧嘩だった。

 マークが人間離れした速弾きを始めると、夏音もそれに劣らぬ速弾きフレーズを繰り出す。
 すると、ふとドラムのフィルでスリリングなビートに逸れ、

「    」

 ブレイク。時が止まる。宙に放り出されたような感覚。
 再び世界が動きだし、またうねるグルーヴがそこかしこに迸り火花を跳ねさせる。
 五連符や六連符が飛び出す頃には、彼らの世界は有頂天にのぼりつめようとしていた。
 ワンペダルで五連を可能にしている怪物ドラマー。神々の争いを繰り広げているかのような弦楽器隊による演奏は留まることを知らなかった。


 たっぷり一時間。
 一時間の即興演奏がやっと終焉した。
 日が傾き。夕陽が部室に射し込み、部屋をオレンジ色に燃え上がらせている。
 四人の女子高生は魂が抜けたように虚ろな表情で座っていた。ぼんやり、とまるで魂とひきかえに悪魔の演奏でも見てしまったかのように。
 瞳を当社比一・五倍の大きさに見開いて、その瞳には光が入っているのか怪しかった。
 それでも、彼女たちは「はっ」と意識を取り戻す。
 今、起こったことを必死に反芻するように目をぱちくりさせる。夢を見ていたような気もするし、未だ耳の中で起こり続けている気もする。もしかしたらまだ夢の中かも。
 ぼんやりと互いの頬をつねり、夢からの脱出を図る。しかし、彼女たちは見た。

 演奏が終わり、オレンジの空気の中そっと佇む彼らを。
うつむく夏音の目からぼろぼろと流れる涙を。
 彼は肩を震わせ、両手で顔をおさえた。
 彼女たちは不思議だった。何であんなにすごい演奏をしたのに、そんなに悲しそうに泣くのだろう、と。
 答えは想像すらできなかったが、自分たちが何か彼にしてやれることはないかと頭をひねった。しかい、頭をひねっている間に彼の肩を抱いた者がいた。
 マークはギターを背中にまわすと、しっかりと夏音の小さな体を自分の胸に押しつけた。
 言葉はない。
 夏音は何かをしきりに呟きながら、ぎゅっとマークの背中に手をまわした。
「あまり心配させるな……手のかかる―――だな」
 軽音部の者には誰一人として、彼が何を言ったかわかった者はいなかった。だが、それはきっと夏音を温める優しい言葉だったのだろうと。優しく緩むマークの目を見て、そう思った。

 
「あの……皆さま。大変お騒がせしました……」
 なんか一段落ついたらしい夏音が「途中からずっと放置されていた」軽音部の仲間に頭を下げた。かなり気まずそうに。
「い、いやーなんか、こちらこそ。たいそう素晴らしいものをお見せいただいて……」
 何故か澪が代表で夏音にそう返すが、お互いしどろもどろでまとまるはずがなかった。
「ま、とりあえず。何が何だか知らんが、私らはお前の事情に全力で巻き込まれていたっていうのはわかった」
 律が耳をほじりながら、投げやりに言った。それが批判に聞こえたのか、夏音が身を縮めた。
「その通りなんだけど……俺の事情だ。みんなには話しておかなくちゃならないことかもしれないことが……」
「夏音!!」
 そこで澪が慌てて遮った。本人が話すのであれば、問題ないはずだが、何となく反射的に遮ってしまった。
 当然のごとく、皆の注目を浴びる。これが俗に自滅と呼ばれる行為である。
「い、いや……何でもない」
「なんかアヤシイな」
 律がそんな澪の様子を胡乱に見詰める。目を眇めて、じーっと。
「澪、隠し事はいかんぜよ」
「な、なにも隠してなんかない!」
「どうなんだ夏音!? お前ら二人して秘密の共有とかしちゃってたり!?」
「澪には………前に話したことがある」
「はぅわー。言っちゃった……」
 澪は額に手をあてて、へなへなと床にへたりこんだ。
「あら、カノン。女の子は大切にしないとダメよ?」
「母さん……今、大事な話の最中だから」
 後ろからぬっと現れ、腕を絡めてきた母親に困った表情をつくる。
 二人並べば、まさしくそっくりで、本当に姉妹みたいだと律は思った。そして、親子のスキンシップを目の当たりにして、おそるべしグローバルスタンダードなコミュニケーションだと感心した。
「今、俺がプロなんだよーって話すところなんだからさ」
「え! あなた、教えてなかったの!?」
 アルヴィ、まじ驚く。同じ瞳の息子を信じられないとばかりにまじまじと眺めた。
 一方、たった今放たれた言葉に律の時が止まった。
「え、今なんて?」
 後ろを振り返る。唯とムギは何がなんだか……と首をかしげる。すると「みーおちゃん?」と猫なで声で床に倒れ込んで女の子座りしている幼なじみを睨む。
 うつむいたままドキッと肩を揺らした彼女が律から逃げようとした。「ギャッ」律に足を踏まれた。
「え、マジで言ってなかったの? ジョージおどろきーだよ!」
 息子から初めて聞かされた事実にショックを受けたらしい譲二は、ぱっぱっと携帯をいじりだした。
「す、すいません! 今すごく不穏な言葉が聞こえたような………もいっかい?」
 律がうふふ、ええまさかもしかしてと微笑む。
 夏音は姿勢を正して、はっきりと宣言した。
「私、アメリカでプロのミュージシャンをしておりました」
(あ、言っちゃった)と澪は遠い目をした。
 静寂。
「ほらほら、コレ見てよ。自慢するためにホームページをお気に入りに入れているんだー」
 携帯をいじっていた譲二が、笑顔のまま硬直している律に携帯の画面を見せる。
 ギギギ、と油が足りていないブリキの人形のような動きで律が画面を見る。唯とムギもささっと寄り添って、同じくのぞき込む。
 そこには見慣れない、長いブロンドヘアーの、彼女たちが見たことのないベースをかまえる夏音の画像。

『Welcome to “Kanon McLean ” Official Web Site』

 トップの画像が次々と変わる。
 見たことのある歌手と同じステージに立つ夏音。
 何万人もの観衆の前に立つ夏音。
 でっかいステージに立つ夏音。
 
「えぇーーーーーーーーーーっ!!!??」


 放課後の校舎に憐れな女子高生たちの悲鳴が響き渡った。



[26404] 第十六話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/30 01:41

「全て語るのか?」
 譲二は複雑そうな表情を浮かべて息子をじっと見詰めた。
「うん。全て、包み隠さずに言おうと思うよ」
 それに対して夏音は柔らかな微笑で父に応えると、強い意志をこめた瞳を部の仲間達に向けた。
「父さんや母さんだけじゃなくて、もしかしたらこの場にいる人みんなが嫌な思いするかもしれないけど」
 真剣な表情でその場の者を見渡し、夏音は少しだけ肩を震わせた。
「特に君たちにはショックな話もあると思うけど、聞いて欲しい」
 軽音部の一同に向けて視線を向け、どこか引き攣った顔をしている彼女達を見詰める。
「夏音………俺は、いや……お前がそう言うのだったら」
 譲二は横にいるアルヴィの肩を抱き、力強く頷いた。
「大丈夫。後悔はしないから」
 自分を信じてくれているのだと父親から感じ取った夏音は少しだけ頬をほころばせると、再び真剣な面持ちに戻って彼の事情を話し始めた。




 立花夏音は生まれからして、人より恵まれていたといえよう。世界でも有数の才能あるミュージシャンの両親の間に生まれ、両親の周りには常に多くのミュージシャンが集い、その中にクリストファー・スループがいたという時点で彼の将来は決定されていたのだ。
 夏音の父、譲二が親友とも呼べるほど仲が良い彼の家族は例外なく全員が音楽に関わっているいわゆる音楽一家である。
 彼らの周りには音楽がない日など存在しない。
 そのような特殊な環境で育った夏音が音楽に関わらないはずがなかった。
 生まれた時から夏音にとって音楽とは片時も離れずにそばにあるもので、間近で音楽が鳴っていない生活などありえないものだったのである。
 夏音は誰からも可愛がられ、誰もがありとあらゆる楽器を教えこもうとした。ギター、サックス、ピアノ、ドラムに始まり、幼稚園児には持つことすらままならない楽器をぐいぐい押しつけられ、はたまた陽気にセッションを聴かされる毎日。
 子守歌は最前線をひた走る音楽家達が生み出す至高のアンサンブルだった。
 結局、より多くの楽器に触れた夏音がもっとも心を奪われたのはベースだった。将来、それでベーシストとしてデビューすることになる彼の音楽性を支える一番のバックグラウンドはこの環境だったことは間違いない。
 そんな中、一年のほとんどをスループ一家と過ごす夏音は当然、そこの家の者とも家族同然に育つことになる。年が近かったマークとは一番仲が良く、マークが兄貴面で夏音の面倒を見ることが多々あった。
 すくすくと、そして貪欲にあらゆる音楽を呑み込んでいった夏音はあらゆる者に天才と囁かれた。もちろんその裏に弛まぬ努力もあった。容姿が並外れて可憐であったこともあり、世間は彼に飛びつくことになる。
 それがスループ一家の小さな音楽家、として七歳でその才能を見出されてプロとしてデビューすることへ結びつくのは時間の問題だった。
 超大物メーカー。伝統高き老舗メーカーが行った前例のない最年少契約。どうせ青田買いだろうと見くびる者もいたが、彼らの度肝を抜くような演奏をその頃、すでに身につけていたのである。
 年齢に似つかわしくない成熟した感性は長年音楽を愛してやまない音楽フリークの耳にも十分に耐えうるもので、むしろお釣りが返ってくるほどのものであった。
 現在に至ってはすでに個人のアルバムを三枚出している上、参加したプロジェクト、セッションは数知れない。
 そんな音楽人生を順風満帆でいく彼が、どうしてプロのステージを離れることになったのか。

「耳が、きこえなくなったんだ」

 片耳だけどね。それが救いだったかのように添えられる一言。夏音はその事を何でもないことのように語った。さらに続けて、

「あと、別に契約に待ったをかけたのはそれが直接の原因じゃないよ」

 当時、あまりに憔悴を見せる夏音の様子に毎日葬式のような空気が流れた。活気あふれるミュージシャンのセッションも、心なしかマイナーコードがあふれる物悲しいものが増える。
 ある時、スペイン音楽の哀愁に満ちたギターを弾いていたマークの七つ上の兄が、ふと、おふざけで葬式の曲を弾いていたところ、マークをはじめ、あらゆる人間にボコボコにされたこともある。
 いつの間にか、それだけ中心的人物となっていた夏音が落ち込むと、彼の周りの人間は一様に彼のことを心配した。あらゆる手で慰めをしたが、それが空回りして慰めようとした人物が落ち込んで帰ることもしばしばあった。
 耳が聞こえなくなる。その原因はなんだったのか。
「ストレスだって」
 心因性の難聴。突然。しかもステージの上で聞こえなくなった。自分を襲った事態に動転した夏音はその場で意識を失った。
「ストレスの原因………今になって考えると思い当たる節がバリバリありまくりなんだけどね。あそこまでひどくなるなんて自分でも思ってもいなかったんだよね」
 彼に対するあらゆる賞賛の裏には常に嫉妬や心ない批判が絶えなかった。その理由として挙げられるのが、夏音が一所にとどまらなかったからであった。
 夏音はどんな音楽シーンにも足を踏み入れた。最初はジャズ、ファンク、ブルースやフュージョン。それがロックやメタルへと広がり、さらにはミリオンセールスのポップアーティストのバンドで演奏したりすることもあった。
 実は、現在マークが加入しているSilent Sistersの二つ前のベースが夏音だったことは一部では有名な話である。
 住み分けを強調する人間。縄張り意識を強く持つ人間にとっては面白くない話だったのだ。中でも最も大きな理由としては自分より遙かに年下、息子といって良いくらいの年の子供の活躍を良く思わない者がいたということである。

「まー。もちろんそんな心狭い人間が真剣に音楽に向き合ってるとはいえないがな」
 夏音の語りに思わず、と言った様子で口を挟んだ譲二は続けた。
「もちろん夏音に危害を加えたり、暴言を吐いた人間には然るべき処置をとってきたよ」
「然るべき処置って、俺よくわかんないんだけど」
「お前には言ってないもん」

 もちろん全ての人間が夏音に批判的だった訳ではない。多くの者は夏音を守ろうと動き、フォローした。
 なかでも両親を除いて一番に夏音を擁護する壁となったのは、クリストファー・スループ。誰もが一目を置く音楽会の巨匠その人であった。
 クリストファーは夏音にそうと気付かせずに庇護を置き、夏音の音楽性をのばすことに身を入れ続けた。業界きってのビッグネームに明らさまに夏音を攻撃する者は数を減らし、表沙汰には一件落着かと思われた。

『クリストファーの妾のくせに』

 夏音はその言葉の意味がわからなかった。
 首をかしげ、その意味を問おうと相手に尋ねようとした刹那。その相手は肩をひっつかみ、壁に押しつけてきた。二回り以上も大きい体躯をもつ相手が覆い被さって耳元で囁く。
『どら、俺にも試させろよ』
 物理的に身動きができないだけでなく、経験したことのない恐怖が金縛りのように夏音の身を縛り付けた。生ぬるい息遣い。
 締め付けられる首が痛み、悲鳴をあげようと思っても声は引きつったように出なかった。
『ふ、ふふ……ヒャハハ』
 狂気が相手の瞳に宿る。夏音はSF映画のモンスターにでも襲われたヒロインのように誰かが助けてくれるのを願った。
 しかし助けてくれる者は現れない。
 どうするべきか。動かなくては。そういえば、マークにこういうシチュエーションになった時はこうしろと教わったことがあった。ふいに閃いたその行動を夏音は躊躇いもなく行った。
「地獄に落ちろ糞野郎!!」
 ちょうどハマっていたマフィア映画の台詞つき。
 ゴールデンクラッシュ。
 相手の股間を思い切り蹴り上げた。
 見事に命中した一撃は相手の呼吸を奪い、相手が悶絶している隙に夏音は逃げ出すことができた。
 何かわからないが助かった。おっかなかったが、何とかなったな、と安堵と共に帰宅した夏音はそのことを両親に告げた。
 夏音は、その事を聞いた瞬間の両親の表情は今でも忘れられないという。数秒後に家を飛び出した両親が「妾」という言葉の意味を教えてくれることはなかったので、自分で調べた夏音は目を疑った。
 自分に縁のない単語。しかし、襲ってくる生々しいイメージ。身に覚えのない侮辱に訳がわからなくなり、何より侮辱の対象が自分ではなく大好きなクリストファーに向かったことに悲しくなった。
 当時、年配の人間関係が主流だったために性については人並み以上に知識だけは持っていた夏音は嫌悪感がまとわりついて離れなかった。自分がそういう対象として見られることへの汚らわしさ。
 聞けば、その男は周りの人間にもあることないことを吹聴していたらしい。いわゆる悪口仲間みたいなものがあり、その中で幅をきかせていたという。
 “まだ小さいから相当“具合”が良いらしい“
 “クリストファーだけでなく、まわりの男の格好の玩具”
 などと聞くに堪えないことばかりを好き放題言い荒らすだけの集いだ。
当然のごとく、夏音のフォローに動く人間が大勢いた。
 余程のショックを受けているのでは、と夏音の心を憂慮する周りの反応とは裏腹に本人は気丈な様子を見せた。
 何も気にしていない。自分で撃退できたのだから、むしろ褒めろと茶目っ気たっぷりに振る舞うものだから誰もがほっとした。
 トラウマなどになって、人格形成に影響があるばかりか音楽にも悪い影響が及ぶかもしれないという懸念はおさまりつつあった。
 ステージで倒れた夏音の姿を見た誰もが、それが甘い考えだったと後悔することになる。
「ま、最初は落ち込んだけどね。けど俺を見てあまりに落ち込むみんなの様子が逆に心配になってさ。マークなんて滅多に泣かないのに、影で嗚咽まじりに俺のCDを聴いてるんだもん。まいるよね」
 自分は愛されている。それだけでやっていけると思った。
「ステージで倒れたのも、なんかパニックになっちゃってさ。ほんと。耳聞こえなくなるほどひどいとは自分でも思わなかったよ」
 心因性の難聴が回復する期間は個人差がある。半年以内で治る者もいれば、三年かかる場合もある。

 それでも夏音は片耳でやっていこうと考えた。
 では、何で日本に来たのか。

「つまり、グランパだね」
 夏音は遠い目をする。
「父さんって家出人間なんだよね。父親から勘当されてこの年まできちゃった人なんだけど」
 ずっと実家とは疎遠になっていた譲二が妻と息子を両親に会わせたことはない。一方的に結婚した事と、子供ができた事だけを手紙で知らせた手紙をのぞけば、他に連絡をとったことはない。
 そのどれにも返事はなかったという。
「俺も話の中でしか知らなかったからさ。父さんの親なんて架空の人物くらいに思ってたんだけど」
 夏音がふさぎ込んでいた頃。一通の手紙が来た。
 送り元は『立花浩二』。
 一度も会ったことのない夏音の祖父だった。
「『拝啓 立花夏音様』なんて書いてあるんだよ! それに季節の挨拶とか。難しい漢字ばかりでよくわからなかったんだけどね」
 ニュースにもならなかった話をどこでどう知ったのか。
 手紙には夏音に起こった事を心配する内容でびっしりと埋まっていた。その中には、譲二に対して「ふがいない」だとか「息子を守れなくてなんとする」といった節がたびたび登場して笑えたという。それでいて、日本に来い。会いに来い、とは書けない頑固な不器用さは譲二とそっくり。
 何となく祖父の人柄が染みこんだような手紙だった。
 一度も顔を合わせたことのない自分を心から心配していた。夏音はその手紙からは確かな愛を感じた。
 すぐに返事を送ったが、もう一度祖父から手紙が届くことはなかった。
 祖父の訃報が届いたのはその一ヶ月後だった。
 
 夏音はそのことをアルヴィから聞かされたが、譲二から夏音に何か言うことはなかった。
 今までもそうたったように、あくまで実家のことを夏音に話すつもりは一切なかったのだと思われる。
 譲二は葬式に出ることもなかった。祖父は妻――夏音の祖母――を亡くしていたので、葬儀や諸々のことを親戚で執り行ったらしい。
 夏音は祖父の訃報を聞いて泣くことはおろか、特別悲しいと思う感情も湧かなかった。もちろんまったく悲しくなかった訳ではないが、「あぁ、死んだのか……」といった程度の感興のみで、むしろ一度も会えなかったことが残念という気持ちが強かった。
「せめて一度くらいは会ってみたかったな」
 いくら想っても、もう会えないものは仕方がない。

 そう思ったのが夏音だけではなかったということだろう。しばらくして譲二が夕食の席で夏音に尋ねた。

 何気なく、意図がないように。
「夏音、日本行かなーい?」
 だから、息子も何気なく答えた。意図など知らないように。
「いーよー?」

 今さら日本に行ってどうなるものでもないだろう。しかし、譲二は何を思ったのか日本に行くことを決めた。
 夏音も似たような心境だったのだ。
 日本で暮らしてみたい。
 祖父のいた国。父親の生まれ育った国。
 自分は生まれてこの方、音楽に包まれて生きてきた。それ以外はあまり知らない。
夏音は今まで生きてきた環境から少しだけ離れることを決めた。

「という訳なんです」

 息を呑みながら全てを聞かされた軽音部の面々は、知れずと詰めていた息を吐き出した。
 目の前には三人そろって座る立花親子。
 それぞれ苦々しげな表情をしていて、怒りのオーラが立ち上っている。
 それに向かい合って座る自分たち。
 マークは一人ソファーの方で遠巻きに話を聞いていた。

 最初に出されたお茶はすでに湯気をおさめている。

「あ、ちなみに耳はもう治ってるからね」

 言葉なく、押し黙る彼女たちに慌てて補足される。
 立花夏音という男は常に何かを隠していた。その隠し事の正体をさらっとこぼされた一同はたまったものではなく、説明を願ったのも当然の話であった。
 とりあえずお茶を囲みながら、とムギが紅茶を淹れてから夏音がすべてを語ることになった。時折、譲二が説明を加えたりしながらアメリカにいた頃の話があまねく語られた。
「へ、へえー」
 初めに声を出したのは律だった。
「なんていうか、その………」
 彼女はしどろもどろになりながら、夏音を見詰めた。
「お前がプロだったーって言われても正直………全然驚かないんだけどさ」
「え!? 驚かないの!?」
 予想外の返答に夏音の方がぶったまげた。ナンダッテー、と絶対に腰を抜かすと思っていたのに。
「むしろプロって言われるとそれはもう……すっと腑に落ちるというか」
「ムギまで!?」
 もとより知っていた澪は言わずもがな、唯もうんうんと頷いていた。
「ま、といっても。実際にプロなんだーって言われるとやっぱり驚きはするけどな」
 律は先ほど悲鳴をあげた理由を語る。周りを見ても、おそらく自分と同じ。
 夏音がただ者ではないことを察していたのは間違いなかった。
「そもそも。あれだけの事をやっておいて素人ですーって方がかえって不自然だよな」
 思えば、数々の常識外行動。部室に高級機材一式を運んでおいてなお余りがあったり。 そもそもの実力がおかしい。
「それよりか……お前のアメリカでの出来事の方がだんぜんヘビーすぎて……その……なんてーか………ねぇ?」
 先ほどの話を思い返してそう述懐する律は顔をひきつらせた。
 十代にして、とんでもない経験の持ち主だったことが判明したのだ。
 まるで映画でしか聞かないような壮絶な過去に、たじろいでしまうのも無理はない。
「あぁー。ま、そういう部分がちょっと刺激的かなーっとね。みんなそういうのに免疫なさそうだし」
「あ、あってたまるか!」
「語り口からも伝わったかと思うけど、俺としては当時もあんまり臨場感がなかったんだよねー。何だかんだ言ってすぐに撃退したわけだし。自分が性的な目で見られるのはすごく嫌なんだけど、ぶっちゃけどこにいてもエロイ目で見られることはあるしね。かなり不本意だけど、そういう人は多いらいし。みんなこそ女の子なんだからそういうの分かるようになると思うよ」
「お、お前……何て暢気な」
 そもそも、エロイ目で見られているのは女の子だと思われているからに相違ない。
「そ、そんな過去があったなんて私も聞いてなかった!」
 今の今まで固まっていた澪が不満そうに夏音を凝視した。その目には、ありありと私との間にまだ秘密を残していたなんて、と書いてある。
「ん? みーおー?」
 律は些細な隙でも食らいつく。
「そういえばソッチの話もあったんだ。何でお前だけ訳知り顔で参加してるんだ?」
「あ、ち、ちがう! これには訳があってだな!」
 しまった、と顔に出して口籠もる澪だったが、すでに遅かった。
「その訳を教えてもらいたいなー」
「そんな話は今どうだっていいだろ!」
「よくなーい。そこのところハッキリせんかい!」
「私も聞きたいでーす」
 挙手一名、琴吹紬。そこにごく自然に唯も加わる。
「そういえば、何で澪ちゃん知ってたの?」


「賑やかな子たちねー」
 火がついたように騒ぎ出した少女たちに目を細めたアルヴィが夏音にうっすら微笑んだ。
「良い子たちばかりじゃない」
「まーね……」
 このように喧しいけど、と心で付け足す。それが救いになっているという事は口に出さない。夏音はそもそもこれだけヘビーな話をしているのにこの反応は何だと不満を抱いた。自分が予想していた反応とはえらい違いである。
「て、ゆーかさ」
 途中からずっと押し黙っていた譲二が口を開いた。思いがけず響いた低い声に騒いでいた者たちもしんとなった。
「親父から手紙とか超初耳なんですけどっ!? ねぇ、それどういうこと!?」
「あー………そうだね」
「そうだね、じゃなくてっ! 何か……何かやだっ!」
「何がだよ。友達の前でごねないでよ」
「しかも何かその話だと俺が親父のために日本に来たみたいなっ!?」
 そこか……と夏音は溜め息をついた。
 それとなく濁したが、明らかに理由はソレだろうと呆れた目線を実の父に投げかける。
「実はねー。私がお義父さんに夏音のことを伝えたのー」
「アルヴィ!?」
 思わぬ所で現れた伏兵に譲二がぎょっとする。真横の妻を信じられないといった表情で食い入るように見詰めた。
「これはあなたへの唯一のナイショ話だったんだけどね? 実はたまーにお義父さんと手紙のやり取りをしてたのよー」
「そんな話は聞いてないっ!」
「言ってなかったもの」
 バッサリと返され、思わず頭を抱える譲二。
「あんのエロ親父が! 人の妻に色目つかいやがって!」
「それはちがうだろ」
 息子も思わずつっこむ。
「ナイショにしていてごめんなさい……けど、これは私のわがままだから」
「アルヴィ?」
 譲二は妻の様子をそっと窺う。そして俯いた妻の顔に表れる悲痛の表情に彼女の肩を抱いた。
「夏音が生まれることになって結婚を決めて……私があなたの家族を知らないまま一生を過ごしたくなかったの。今しかない、って思って私からご両親へコンタクトをとったわ。
 ほら、ちょうどあの頃に一週間だけ外出したことあるじゃない? その時に日本へ行って、お義父さまに会ってきたの」
「あ、あの時……マイアミにバカンスに行ったんじゃなかったのか……?」
 妊婦だったアルヴィが突然、フロリダに行くと飛び出た時は恐慌した。
 譲二はマリッジブルー、いやマタニティブルーかと青ざめて仕事をキャンセルしかけたのと思い出す。
「ふふ、そうやってあなたは疑いもしなかったわね」
 彼女はそうやって自分を疑うことを知らない夫を見やって笑った。
「会うとね。あなたの親だ、ってすぐにわかった。あなたの育った町を見たわ。あなたが昔使っていた部屋も。夕食をご馳走になって、あなたの好きだった料理なんか出してもらったりして」
 遠くを見るように微笑むアルヴィは息子を愛おしげに見詰めた。柔らかい笑みだった。
「お腹の中にいるこの子のことを紹介したかったのよ」
 それからアルヴィは義理の父と連絡を取り合うようになった。出会った時にも目を丸くしただけで、すぐにアルヴィを受け入れてくれた優しい義父は、実の息子のことなんかよりアルヴィと夏音のことを気にかけた。
 手紙の内容も、主に夏音のことが中心であったという。
 そんな話を聞くのは夏音も初めてだったが、これでどうして祖父が自分の事を知っていのか明らかになった。
「そんなことが……」
 譲二はいまだその顔に驚愕をありありと表していたが、妻をじっと見ていると次第に頬をゆるめていった。
「まだまだどうしようもねえガキだな、俺も。そうだ夏音、まだお前に確認してなかったな」
「何のこと?」
「これから先のことだよ。一度は逸れた道だが……このまま高校生を続けるのか?」
 譲二の言葉に息を呑んだのは軽音部の一同であった。
 プロという事実を知った上で、夏音には二つの選択肢が存在していることが明らかになった。
 わざわざ日本で高校生をやらずとも、人とは違う輝ける道が用意されている。それは決して自分たちとは交わらないであろう行き先。遠い場所へ旅立つ切符を与えられた者なのだ。
 思えば、この毛色の変わった同級生は自分たちとは違う遠い場所から訪れただけなのだ。もともと自分たちと同じ囲いの中にいた訳ではない。彼がこのまま平凡な高校生活を続けることの意味を探す方が難しいはずなのである。
「続けるけど?」
 それに対してあっさりと夏音は答える。
「そうか」
 子が子なら親も親である。譲二はそれだけ言うと、にこっと笑って席を立った。
「なら、それでいい」
 息子を見て、うなずいた。そのまま夏音の方へまわり、頬にキスを落とす。
「俺たち帰るわ」
 と残すと、その様子をぽかんと見ていた少女たちに手をふった。
「お邪魔したね。これからも息子をよろしく頼むよ」
 そしてマークに声をかけると、嫌がるマークを無理矢理に肩を組んで部室を出て行った。
「あれ、どうしたの母さん?」
 瞬く間に姿を消した父親と親友の後を追わずに佇んでいたアルヴィに声をかける。彼女は息子の仲間たちをじっと見ていた。
「ううん、私も帰るわ。その前にこの子たちにお別れの挨拶をしなくっちゃ」
「あ、私らですか!?」
 慌てて立ち上がった律に続いて、皆がアルヴィに向き合う。
「ありがとうね。カノンをお願い」
 真剣な面差しで言うと、全員を抱きしめ頬にキスをした。
 そのような挨拶習慣に慣れていない彼女たちはそろって顔を真っ赤にさせた。おたおたする彼女たちに柔らかく微笑むと、夏音に向かって「家で待ってるからねー」と残して部室を出て行った。
 部室に残るのはいつものメンバー。
 まるでハリケーンが過ぎたようにかき乱された空気がしん、と静寂を落とした。
「い、いい匂い……」
 一人、誰知らず呟いた者の言葉がよく響いた。全員がそれに同意とばかりにうなずく。
「じゃなくて軽音部ミーティング!!」
 切羽詰まった部長の一声が今までで一番それらしかったという。


 陽も完全に落ちて、電気を点した部室。先ほどまで遠くから聞こえてきたソフトボール部のかけ声はもう聞こえない。一同はお茶を淹れ直して、いつもの形で席についていた。
 いつもの静穏とした雰囲気はない。誰もが言葉を発しづらい中で律は全員の心の内を代表してずばり夏音に訊いた。
「で、夏音はこれからも軽音部なんだよな?」
「もちろん。今までも、これからも俺は軽音部だよ」
 夏音は淀みなく、彼女たちの硬くなった体の緊張をほぐすような言葉を落とした。
「そっっっっっかぁ~」
 尋ねた律が長く重たい息を吐いたのをきっかけに、全員がほっと安堵の表情を浮かべた。
「はぁ~。よかった~。一時はどうなるかと思った~」
 彼女にとって緊張を保てる我慢の限界だったのか。唯が机にへなへなと崩れ落ちていった。
「それにしても夏音くんがプロだったなんて! びっくりじゃないけど、びっくり!」
「ムギ、意味わかんないよそれ」
「違うの。プロでも不思議じゃないなーって思ってたのに、いざ本当にプロだって言われると……やっぱりすごいよ」
「ま、確かにな……」
 うまく言葉がまとまらずに要領を得ないムギだったが、その気持ちを共有できると律はうなずいた。
「いろいろ合点がいくっていうか。パズルの最後のピースが見つかったっていうか……」
「うん! まさにそんな感じ!」
 簡潔にまとめた律がムギ称賛の目線を送られる。
「でも、いいのか?」
 澪は今まで二人きりの時でも聞けなかった事を口にする。
「卒業するまでずっと活動しなくていいのか?」
 人の関心は移ろいやすい。高校生活を三年。一年のブランクがあるとして、四年以上も姿を現さない状態で再び認めてくれる人がいるだろうか。
 過去の人になってしまわないか。無用の心配かもしれないが、澪はその部分を夏音がどう考えているかをずっと気にしていた。
「活動しないなんて言ったつもりはないよ。実を言うと、今でも仕事はやってるんだ」
「え?」
「カノン・マクレーンとして堂々と世間に露出したりはしないけどさ。スタジオミュージシャンみたいにレコーディングに参加したりはしてるんだ」
「そ、そんなの聞いてないぞ!」
「もちろん澪にも言ってないもの」
 それから夏音が幾つか挙げたアルバムや曲のタイトルの中にはCMで流れるような有名なものもあった。
「あ、あの曲のベースってお前だったのか!?」
 律は世界的に有名な自動車会社のCMに使われた曲を思い出す。エコロジーを訴えるために頻繁に流れたため、何となくテレビを流している人でも聞き覚えのある曲である。
 昔、グラミー賞を獲ったカントリー歌手がヴォーカルに抜擢されていた。
「いや、あの曲はベースだけじゃなくて俺が作ったんだよ」
 さらっとそこに加えられた新たな事実に流石に言葉をなくした一同であった。
「まぁ、こそこそとやってるわけですよ。そういう仕事を再開したのも桜高に入学してからの話なんだけど」
「ま、マジか……」
 彼女たちは、改めて目の前にいるのがとんでもない人物なのだと思い知らされた。
「みんなには謝らなくちゃね。隠していてごめん」
 かしこまって頭を下げる夏音に一同は顔を見合わせて噴き出した。
「な、なに?」
 急にくすくすと笑い出した彼女たちに何かおかしなことでも言っただろうかと当惑する。
「今さら、だっつーの」
 夏音はうんうんと同調するようにうなずく彼女たちを上目遣いで見詰めた。
 次々に暖かい言葉をかけられるのをむずがゆそうにしながら。はにかんで。白磁のような肌に朱がさしているのを誤魔化すようにぽりぽりと頬をかいた。
「ありがと」



※あとがき

 とりあえず夏音が隠していたことがバレた訳ですね。それに対して軽音部の反応はぽかーんとしつつも受け入れるという。
 中には「え、こんだけ?」と肩すかしをくらったような気分の方もいるでしょう。
 ただ、私はスケールこそ違っても似たような体験をしたことがあります。

 そもそもプロといっても境界線は曖昧かなと思います。プロの定義も皆さんによって違いますし。
 皆さんは自分の周りの人間が、プロでしたーってなったらどう思うでしょうね。
 案外、プロといっても普通の人ですからね。先に知り合ってから後で知ったパターンもありますし、もともとプロだと知っておきながら会うパターンもありました。
 私自身、そういう人が近くにいてもおかしくない世界にいましたので、わりと「プロ」という人種は近くにいました。あ、もちろん私はプロではありません。

 そこで女子高生たちならどんな反応をするか……と考えに考え抜いた結果「ま、こんなもんだろう」という感じで作りました。

 例えば「な、なんだってーっ!!? キャー(バタンキュー)」という流れも考えたのですが、どう考えても不自然に感じてしまったのです。

 よく「あいつ、マジでプロ並にうまい!」と盛り上がっている人物が「プロなったってー」て言われたら驚きつつも「あー、やっぱりそうか-。そうなるよなー」っなりませんか。

 たぶん彼女たちにとって、今はそんな感じ。

 スゴイっていう感覚が麻痺しているのもありますが、仲間として知り合った相手だから極端に反応することはないだろう、という結論です。
 どちらにせよハッキリ言えるのは「これから」です。夏音がプロであることが物語に関わってくるのはこれより後のお話になります。
 これはいわば大きなプロローグが終わったに過ぎないかな、と。エロゲで言ったらここからOPが流れる、みたいな。長過ぎですね、OP。

 それでは、残りのお話もお付き合いしていただければ幸いです。


※5月30日 準強姦の表現について、ご指摘がありましたので加筆修正を加えました。



[26404] 番外編2『マークと夏音』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/20 01:37


 マークは先ほどから自分にひっつく小さな生き物を見下ろした。こちらが身じろぎをしてもちょっとやそっとでは動じない。
 なんと言っても体ごとべったりとひっつかれて、なかなか抜け出すこともできない。
「ねーねーまたやろうよ!」
 さっきから口をついて出るのは無邪気なお誘いの言葉。自分の姿を見つけた途端、どかっと渾身のタックルを決めてきた相手は、彼がうんと頷くまで解放するつもりはないだろう。
「だから言ってんだろ。俺は今からやることがあるんだからな」
 にべもなく言い放った言葉にすかさず盛大なブーイングが起こる。非常にやかましい。
「いい加減に一人で弾けよ」
「だってまだあんなに速く動かないもん!」
「それができるように、一人で頑張るんだろ?」
「やだ! マークのとうへんぼく!」
「とう……なんだって?」
 聞き慣れない単語にマークは目をぱちぱちと瞬かせた。腰元の小さな友人が自分の知らない語彙を持っているはずがないのだ。
 年上としてのプライドが働く前に呆気にとられてしまった。
「わかんないけど。父さんが言ってたよ!」
「ジョージが……変な言葉を覚えてんじゃねーよ」
「一回だけ! 一回だけ!」
 マークは思わず天を仰いだ。以前も一回だけ、と言って一時間以上も付き合わされた記憶がまだ浅い。
 しばらく反応しないでいると、がっちりと服を掴みながらぴょんぴょんと跳ね始めた。
 この粘っこさには感服してしまう。この根性が数々の音楽を呑み込む貪欲さと合わさって、天才だとか何とかと言われるのだろう。
 そのしつこさは、身をもって理解させられている。マークはそっと溜め息をつくと、視線を再び下に降ろした。
「わかった。だが、カヌー。本当に一回きりだからな! お得意の『もう一回』を言い出したら二度とやらない!」
「わかってるよ! だって本当に一回だけだもん!」
 ぱぁっと瞳を輝かせて声を立てて、腰を掴む力が消えた。マークはぱっと自分を放して離れた小さな生き物を見る。
 にこにことこちらを見上げる年下の少年。立花・M・夏音は少年というには可愛らしすぎた。
 フランス人形館あたりに紛れ込ませても何の違和感のないくらい精緻に縁取られた芸術品のような造り。
 鼻、目、睫毛、唇、耳。
 人々が思い描く白人の美少女、物語のお姫様。そういったものを全部まるごと詰め込んだような容姿を備えていた。
 お人形、というには生気に満ち溢れすぎているが、彼を表すのにちょうど良い表現だ。大人しくしていれば。
 マークは夏音ほど美しい生き物を見たことがなかった。いや、正確には美しい幼児、だが。
 この少年は彼の母親によく似ていて、並ぶと娘と母にしか見えない。よく聖母子像、と評されていて、スループ家に訪れる数々の音楽家たちに評判だ。
 夏音の両親はマークの父親の大親友で、マークが母のお腹に発生する前からの付き合いだ。
 マークが物心ついた時から当たり前のように側にいた夫妻にもやがて子供ができたわけだ。
 夏音が生まれた時、マークは四歳。夏音のおしゃぶりがやっと外れて未知の言語を喋りだした時期には五歳。
 アメリカでいう義務教育まで二年の猶予しか残されていなかった。マークは文字の読み書きができたし、特別な教育など無くとも、その辺の幼児レベルかもしくはそれ以上にしっかりとしていた。
 マークにとってABCの歌なんかを他の園児たちと混じって口ずさむことは、苦痛を伴う荒行以外の何でもないということが体験入園の時に判ってから、幼稚園には通っていない。
 だが、小学校は通わなければならない。
 それこそが、どうしようもなく気が滅入って鬱になる原因だったりした。
 その年で鬱になる幼児も珍しいが、音楽から離れる時間が増えるのは歓迎できるはずもなかった。
 そこで彼は、もうすぐ平日の日中を学校という牢獄に閉じ込められるようになってしまう前にたくさん遊びたいと考えていたのだ。
 やはり世間一般の基準とはかけ離れた幼児だが、スループ一家は基本的に大らかで、最終的に音楽で食っていけばいいさという意見の者ばかりだった。
 しっかり家庭環境に影響されたともいえよう。
 さらに何だかんだで学校には絶対に行った方がいい、と強く主張したのは立花夫妻だったというのだからどうしようもない。
 とにかく、一日が自由に使える残りわずかな期間を謳歌しようと思っていた矢先。  
 夏音と一番年が近いマークにお目付役が下ったのは災難であった。少なくともマークにとっては。
 少し前まで床でハイハイしていたと思いきや、周りの大人達に最高のおもちゃにされてしまった夏音はありったけの音楽を詰め込まれていた。
 常に音楽が満ち溢れる環境で育ったマークも同じような道を辿ったというか現在進行形で辿っている最中であるが。
 彼もまた、まるで永久に鳴り響くのではないかと思われる楽器の音を子守がわりに育ち、とりわけ最も得意なギターは少なくとも同年代の子供とは次元を逸しているほどの技術を持っている。
 それに比べても周りの人間たちの可愛がりようは異常だ。
 一を教えたら十を吸収する才覚に夢中になるのはわかるが、指の皮がむけてぼろぼろになるくらいに楽器を触らされる幼児を見ているのは流石に不憫だった。

 とはいえ、少し前までは自分が同じような場所にいたのに、入れ替わり立ち替わりに夏音をかまっていく大人達を見て面白くなかったというのが本音であった。
 偏向的に大人びた一面があるマークも所詮は子供なのだ。
 
 そんな大人たちの手から解放された夏音が真っ先に向かう先がマークだった。
 何とも懐かれたものだと悪い気はしなかったし、末っ子の自分にもむしろ妹(少なくとも弟には思えない)ができたような気分で誇らしかったりもした。
 それは今でも変わってはいないのだが、問題は夏音という子供の特異性に起因するのだ。
 夏音が天才と呼ばれる片隅で、マーク自身も負けているつもりは一切ない。   夏音が覚えた楽器は当然ながら演奏することができるし、実力も雲泥の差だ。ちょっとやそっとじゃ追いつかれるはずはない、とタカをくくっていたのだが。
「こないだの弾けるようになったよ!」
 と満面の笑みでギターを抱えてきた夏音が、つい先日に弾けなかったフレーズを完全に再現してしまったのをきっかけに考えを改めた。
 驚異的な集中力をもって夏音は音楽を吸収していく。才能、という要因が大きいのだろうが、やはり異様な速度で音楽を修めていく姿はマークの背筋をぞくりとさせるものがあった。
 さらに技術的な面は努力でカバーするという非の打ち所がない姿勢に、最近はマンネリっぽくなっていた自分の技術面を危ぶむきっかけにもなったのだ。
 それからマークは必死に練習するようになった訳で、夏音から尊敬の眼差しをかろうじて受けることになった。お兄ちゃんも必死なのである。


 そんなある日。つい戯れというか、遊び半分の気持ちで一つのギターを二人で弾くギター連弾をやったのだ。
 ちょうどその時、左手が間に合わなくて弾けないフレーズがあるという夏音がピッキングを担当。
 左手で弦を押さえるのをマークが担当した。Tico Ticoのパフォーマンスや、自分の家族や親類たちの連弾を見て以来、自分もやってみたいという願望があったので、マークとしても些か興奮を隠せなかった。
 初めはつっかかりながら、ぎこちなく。次第に息を合わせていくうちに、素晴らしい演奏になった。
 楽しかった。
 だが、それ以上に楽しかったらしいのが夏音であった。
 すっかり連弾にハマってしまったのか、ことある毎に夏音はマークにそれを求めてくる。よっぽど楽しかったんだな、と微笑ましかったのは最初のうちだけである。
 今では、そう。うんざりという言葉がぴったりだ。
 正直、あれは神経がすり減るのだ。実力が釣り合っていないと、顕著に難易度が上がる。

「ほら、とっととギターを持ってこい」
「うんっ!」
 だだっと駆けていった夏音を見送ってから、マークは踵を返した。
 向かう先は玄関。
 この隙にばっくれようという魂胆である。
 しかし、とマークは足を止めた。過去のトラウマが彼の足に自動的にブレーキを施したのだ。
 以前、同じようなことをして自分がどんな目に合ったかを忘れてはいないだろうか。
 ある時、マークに放っぽられた夏音は大泣きどころではない、スコールのような大号泣で周囲の大人を驚かせた。
 泣きわめく理由を訊いても答えない夏音に、何かの病気ではないか。大変だ、救急車を。と大騒ぎにまで発展してしまった。
 後々、落ち着きを取り戻した夏音の口からマークの名が飛び出た後の彼が受けた被害は筆舌に尽くしがたい。
 あの時の自らの顛末が脳裏にフラッシュバックしたマークは玄関からばっと飛び退った。
 危ない。
 トラウマを繰り返すところであった。人間は学ぶもの。寸でであったが、マークは同じ失敗を繰り返さない。慌てて居間に戻って夏音を待った。
「持ってきたよ!」
 とことことアコースティックギターを抱きかかえるように持ってきた夏音はコミカルに映る。
 いたって普通のサイズのギターなのだが、小さな体には不釣り合いなバランス感を呈している。
 マークが居間のソファに座るとポテポテと走り寄ってくる。そのまますぐ横に座ると、マークはネックを左手で握った。
 同じソファに座っているので、よっぽど体を密着しなければならない。ふにん、とやわらかな感触にマークは僅かにたじろいだ。
「ジャンゴ、だろ」
「そのとーり!」
 ジプシーギターの押さえ方は特殊で指使いも通常で覚えるものとは違う。しかし、問題が一点。
「おかしいだろ」
「何が?」
「俺からすれば右手の方が難しいぞ」
「どうして?」
 夏音は質問の意図がわからない、とでも言うかのように首を傾げた。
「どうして、って俺が訊いてるんだろ」
「むぅー」と口を尖らせてうなる夏音。
「だって、できるんだもん」
「よしわかった。やっぱり、お前はおかしい」
「おかしくないもん!」
 このくりくりと愛らしい瞳をつり上げて憤慨されても何一つ怖くない。
 マークは鼻で笑うと、左手を指板の上に走らせた。タッピングだけで音を出すと、パーカッシヴな音色が生まれ出す。
「オーケー、やろう」
「何やるかわかる?」
「部屋から駄々漏れになってたからわかるさ。インプロヴァイゼーションだ」
 にっこり笑って大きく頷いた夏音がマークの指を置いた弦をなぞる。

 短く、ふっと互いの吐息が漏れた。

バラバラと音階を辿り、メロディーに紡いでゆく。
 まだグルーヴとか、ノリなんてものはない。
 触る触る、といった感じに息を合わせてゆく。

 一瞬だ。

 どこからどうそれがシフトしたのかは定かではないが、二人の音楽が始まった瞬間がわかった。
 嗅覚、聴覚、そんな次元を超えたところにある感覚がこの場にある音楽をがっちり掴んでしまうのだ。

 分散和音とマイナーキーのスケール展開を叙情的にこなす。

 何小節か進むと歯切れの良いストロークの連続、突風のごとく、それがやわらぐ、刹那に影となった激しさの代わりに再び物悲しい音の粒が上へいったり下にいったりする。

 何年経っても色褪せることのないジャンゴの音。
 人は、後に生きる人にとんでもない音楽を遺していくものだとマークは思う。

 まさに静と動。
 
 ジャンゴはスィングジャズとジプシー音楽を融合した初の人間と言われているが、やはり彼の根幹にはジプシーの音が大きく存在している。
 ジプシーの音楽には何とも哀愁漂うエッセンスが盛り込まれている。
 いや、人が哀愁と呼ぶものに似た情感を掻き立てられるだけで、他の何に置き換えるような言葉はないのかもしれない。
 ひたすら、これがジプシーの音楽だ。魂だと理解するしかない。
 彼らの音楽を知るということは彼らを知ることであって、マークは一生かかってもそこに辿り着くことはないだろうと直感で理解していた。

 その表現に限りなく近づけること、は可能だろうが。

 なりを潜めた激しさが徐々に表に出てくる。
 急に烈しい三連符が雪崩れのように始まると収まり、六連へと膨らむ。高速のトレモロ。弦を引き千切りかねない激情でストロークをする夏音とマークは一体となっていた。

 お互いの呼吸がつながり、息を吸ったらどこからそれを吐くか。そんな考えずともわかる自然の行為に等しい次元までシンクロしていた。

 激しさの裏に静けさが訪れる。一度高まったものを鎮める行為、暴走しないようにコントロールするのは至難の業だ。
 忍耐と情熱をもって生み出される音楽は小学校にも上がっていない幼児達には早すぎた。
 マークは相方の、否、自分の右手が収まりきるはずがないと頭の隅で冷静に理解した。それと同時にテンション爆発で全力パッション中の音に酔いしれていた。

 途中でピックがぶっ飛んで素手でストロークをする夏音も同じく、目の前でこの狭い部屋を支配する音楽に夢中になっている。

 ビンッ!

「アッ!!」

 狂ったダンプカーのように突っ走っていた二人は、今の自分達にふさわしくない音に集中を削がれた。

 三弦と一弦が切れた。それも同時に。
 気が付けば荒い息をしていた夏音は「ふへぇ~」と背もたれに倒れ込んだ。ギターを隣に乱暴に置くとへらへら笑い出す。
「何だよ」
 同じようにトランス状態から解放されたマークもソファにもたれながら、にやにや笑う。
「たのしかったぁ~」
 本当に幸福そうに笑う。マークはその笑顔にしばし見惚れ、言葉を失った。
 それから頭を押さえて、夏音の腹の上に足を乗せて溜め息をついた。
「疲れた……」
「ねーまたやろうよ!」
 マークの足を押しのけて、腹の上にのし掛かってきた夏音がマークの胸の上で頬杖をつく。美少女顔にはお似合いの格好だ。
 それが花畑などであったならば。
「ええいっ」
 マークは全力で夏音を押しのけた。結果、小さい妹分(弟)はソファの下に転げ落ちた。
「一人で弾けるようになれ!」
「え、もう今のくらいは弾けるよ」
「さっき弾けないって言っただろう!」
「弾けないのは他の曲だもん。マークがこの曲を指定したんじゃないかー!」
「こ、の……」
 マークの褐色の肌に青筋が浮き上がる。  夏音は大好きなお兄ちゃんの短気な面を知っていたが、これくらいは許されるだろうと甘い考えでさらに付け加えた。
「本当はやりたい曲あったんだから。もう一曲くらい、いいよね?」
「いいわけあるかーっ! このボケナスが!」

 大爆発だった。

 夏音は耳を押さて飛び上がると、部屋を脱兎の勢いで飛び出ていった。素晴らしい逃げ足、逃げ様だった。

 マークは肩で息をしながら、夏音が置いていったギターをちらりと一瞥した。
「……ヤバイな。どんどん上達してきている。異常速度だ」
 ぷるぷると震える左手をぐっと押さえた。

 たった一曲なのに、とんでもない集中と握力を持って行かれてしまった。
 あと一曲なんてとんでもない。

「くそっ。こうしちゃいられない!!」

 兄としては、常に年下に対する威厳を保っていなければならない。

 マークは夕飯まで部屋を出ない、と心に誓って自分の部屋に向かった。



※十六話とあわせて投稿です。十六話が短すぎたので、こちらとあわせて勘弁してつかーさい。



[26404] 第十七話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/22 21:00


 夏休みに較べて冬休みは極端に短い。だから長期と名のつく休みを挟んだとして、寒さがゆるむ事などなく、むしろより厳しく増した冷気は容赦なく生徒達を襲う。
 さみーさみー、と暖かい校舎に逃げ込んでくる生徒たちの姿もまた見慣れたものであった。ごうごうと暖房を焚かれ、ほっと暖かい教室内には異様な眠気が満ちていた。
 次から次へと登校してきたクラスメートが教室の外から冷気を持ち込んできては、顔を顰める廊下側の席の子は不憫ともいえる。それというのも教室内で気温の格差が存在するからだ。
 たいていの生徒は窓側に備え付けられたラジエータ付近に密集する。教室における唯一の暖房機器は窓側にしか備え付けられておらず、温もりを求める生徒達はこぞって暖房の前に向かうのだ。夏は微かに入ってくる風を求め、冬は暖かみを。
 やはり窓側の恩恵はことのほか大きいらしい。それでも教室人口の大半を女子が占めているため、男子達は窓際に陣取る女子達を悔しげに眺めていたりする。しかし、実をいうと窓際に座る男子生徒が一番気の毒だったりする。周りを異性に囲まれて身動きできない姿はなかなか涙ぐましい。
 そんな何とも言い難い、ぬっくーい雰囲気が流れている教室内に別の理由で凍りついている生徒が一人いた。
「そんな……ひどい……ひどいよ!」
「だ・か・ら! ちゃんと誘っただろー?」
「俺、遅くからなら行けたんだよ!?」
「だって家族でクリスマス過ごすなんて言われたら、こっちもしつこく誘えないじゃんよー」
 今にも泣きそうな表情で机にすがりついている夏音とそれを面倒くさそうに慰める律の姿は注目の的であった。あまり朝の娯楽が無いのか、誰もが遠巻きに眺めている。
「あの、マークっていう人もいたんだろ? 久しぶりだったんだからたっぷり一緒に過ごせて良かったんじゃないの?」
「マークはクリスマス前に帰りましたー!」
「そ、そうか」
 がばっと顔をあげ、恨みがましい視線を向けられた律がたじろぐ。予想以上に根にもたれているなと、内心ひやりとしていた。
 昨年のクリスマス。夏音から非常に重要なカミングアウトがあった後に訪れた毎年恒例のイベント。
お祭り好きの律としては、世間に蔓延しているこのイベントの副次的な意図を唾棄すべきだ、という名目によって友達同士でわいわい過ごしたいねーと考えるのは当然であった。
 そもそも、クリスマスに自宅にいる事で弟含めた家族に「今年も予定ないのねー」的な生暖かい目線を向けられる未来を想像するだに、ぞっとしないのだ。
 だから、勝手に計画をたてた。ダメもとでムギの家を使えないかと画策したが、断念。甘い考えだったようだ。とはいえ、結果的に唯の自宅が使えることになり、晴れて軽音部の仲間でクリスマスを過ごす事にあいなったのだ。

「そこは押してよー。しつこいくらいに押してよー」

 目の前で半べそかいている美少女――ならぬ、美少年かっこ年上かっことじ、はそのイベントに参加することができなかった。
 律が部活でクリスマス会の開催宣言をした日、夏音が風邪をひいて学校に来ていなかったことから始まる。
 彼女はメールで「クリスマスにみんなで遊ぼうって話したんだけど、夏音は来れるか?」ときちんと連絡したのだ。だが、それに対する答えは「家族と過ごすからごめんねー」というそっけないものだった。
 そういえば、アメリカだとそういう習慣だよなーと納得してしまった律はそれ以降は夏音を気にかけることはなかった。悪気は一切なく、家族で過ごすなら仕方ないのだと思ったからだ。
 律は、振り返ってみて自分はそこまで悪いことをしたとは考えられなかった。
「初詣は一緒に行けたんだからいいだろー?」
 律はそれでも夏音が可哀想だと思って相手していたのだが、だんだん面倒くさくなってきたので、携帯をいじりながら相手をしだす。
 初詣は軽音部の全員で行った。律の策略によって澪がただ一人だけ晴れ着姿でやって来たのを見た夏音がやたら興奮していたのが記憶に新しい。
 日本の初詣の作法などまるっきり知らない彼に一から説明して、お参りも一緒にしたし、おみくじもひいた。正月を過ぎ、主に体重関係の悩みでデリケートになっている澪とムギに対して、懲りもせずに地雷を踏んだ唯には焦った。まあ、和気藹々と過ごした楽しい思い出である。
「それに父さん達は九時前には知り合いのミュージシャンが集まるパーティーに出かけたよ」
「そっちに行けばよかったんじゃないのかー?」
「……………最近、いろいろあったから観るもの溜まっていてさ……」
「あぁ、そっち関係の……」
 オタクスティックな用事だ。律たちが紆余曲折はあったものの、ワイワイと楽しんでいた隙にどれだけ寂しい時間を送っていたのか。一人、暗い室内でアニメ鑑賞に耽る姿を想像して、胸を締め付けるものがあった。

「何か……すまんっ」
「もう仲間外れはいやだからね」
「………わーかったよ」
 どうして自分がこんなに責められているんだ、と不服しか生まれない。それでも律の中の面倒くさいという感情がそれを上回ったので、しぶしぶ引き下がった。
「あ、そういえばそのマークさんとお前の母さんが……」
 律はそう言いかけたところで、はっとして口をつぐんだ。
「ん? 母さんとマークがどうしたって?」
 非常に聴覚が優れた夏音は律の発言を聞き零さなかった。小首をかしげて見詰めてくる夏音に、オホホと決まり悪そうに笑う。
 自分がうっかり口に出しかけた内容は、本人の耳に入れていいものか微妙であった。このことは、夏音をのぞいた軽音部でも簡単に話し合った。
 そこでこちらから夏音に問いただすようなことはよそう、と決めたのである。


 それというのも、例のカミングアウトの翌日。珍しく、遅刻した澪とは別々に登校していたのだが、学校に到着すると校門のあたりに異様な雰囲気が轟々と漂っているのを見かけた。
 すぐ前方を歩く一組の生徒が「あれ、昨日の人じゃない?」などと会話しているのを耳にキャッチした律はその視線の先をたどってみた。たどってみたところで、顔が引き攣った。
 見れば、どこか及び腰の生活指導の教師を気にもかけずに存在する一組の男女。

 片や洋画にでも出てきそうな金髪美女。片やサングラスをかけた黒人の放つ存在感は、早朝の学校前にはえらくミスマッチだった。
 まるで子供を産んだようには見えないが、夏音(十七)の実母であるアルヴィ。もう一人は、世界的人気を誇るバンドのギタリスト。

 律はうわーいやだなーと思いながらも仕方ないので、校門に向かう。すると歩いてくる律たちに気付いたアルヴィがはっきりとこちらに向けて手を振ってきた。
 微笑むだけで背後に不可視の花が散らばる。
(うわー後光がさしてるよ)
 オーラが半端ない。おまけに二人そろって近づいてくる。この時点で無視することなどできず、会釈をする。
「ハーイ! 寒いわねー」
「は、はい。あの、夏音のお母さん……」
「あら、気軽にアルヴィって呼んでちょうだい。あなたはたしか、えっと……ごめんなさいね」
「あ、律です。田井中律って言います。あ、アルヴィさんはどうしてここに?」
「律ちゃんねー。私というより、この子があなた達に用があるみたい。どうしても言っておきたいことがあるそうよー?」
 どうみてもこの子、という柄ではないが。ぽん、と肩に手を置かれたマークは嫌そうに顔を顰めて、それがとんでもない迫力なのだ。
「この子、まだ日本語が上手じゃないから私が通訳なの」
 そのまま背中にまわされた腕がマークを律たちの前に押し出す。少しよろめいてから咳払いを一つ。不機嫌そうだった表情とは裏腹に割とフランクな声で「Hi」と話しかけられた。
 律は「ハ、ハイっ!」といかにも日本語のままの発音で返す。
 昨日のこともあり、すごい人なのだという事は骨身に沁みているのだが、それでも気軽に話せるような相手ではない。
 律がガチガチと固まっていると、マークはぽつぽつと口を開いた。
「君たちはこの一年、あいつと一緒にいたそうだな」
 アルヴィによる通訳で即座に日本語に直される。
「ずっと音楽をやっていた。そうだな?」
「え、ええ。まあ、ハイ」
 “ずっと”音楽をやっていたかと言うと語弊がある。十割の内、音楽は四割ほどしか占めていないのではないか。
 そう考えると、プロのミュージシャンと過ごしていたというのに、なんてもったいない時間を過ごしていたのだろうか。
「一緒に音楽をやっていて……どう感じた?」
「どう……って?」
「楽しかった。切なかった。色々あるだろう? あいつと一緒にやる音楽はどうだったんだ?」
「あいつとの……音楽」
 考えずにはいられなかった。昨日の晩はその事がずっと頭を占めていたし、おそらく他の皆も同じだと思う。
「あいつとの音楽は………疲れます」
 そんな事を言うつもりではなかった。
 楽しい、とか興奮するとか。終わった後の達成感なんか、伝えるべき事がたくさんあった。
 それでも、この口は選ぶべき言葉を選べなかった。ふと、口に出してしまったことへの罪悪感がわき上がる。
「いや、何て言うか内容が濃すぎるって意味で!」
 慌てて律が弁解を口にすると、マークは声を立てて笑った。なんかウケた……と律はほっと胸を撫で下ろした。なんて疲れる会話。
「君はドラマーだろ?」
「ええ、まあ」
「楽器をやめたいと思った?」
「ドラムを? それはないです!」
 ドラムをやめたいと思ったことなんてない。予想外をついてきた質問につい声を荒げてしまった。
 はっとしてマークを見ると、腕を組んでこちらをじっと見詰めていた。
「オーケイ、わかったよ。君は……君たちはまだ知らないんだな」
「知らないって……何ですか?」
「あいつの本当の意味での恐ろしさを知らないんだ」
 その言葉を聞いたアルヴィがくっと眉をひそめるのが判った。数秒、躊躇った後に彼女はその通りに訳した。
「恐ろしさ?」
「そうだ。君たちはあいつの本当の実力も見ていないし、そんな奴と一緒に音楽をやっているという行為を理解していない」
 彼はどうしてか晴れやかな顔をしている。滔々と語られる言葉が律の頭を鈍らせていく。
 何を言っているのか、理解ができない。
「そうか。安心したよ。君たちは楽しく音楽をやっているんだな。俺が言うまでもないだろうけど、これからも是非、音楽を楽しんで欲しい」
「は、はあ……」
「よかった。遊びの範囲で」
「…………え?」
 律はその言葉がかなりしゃくに障った。自分たちの活動がお遊びと言われたのだ。
 プロから見ればお遊びかもしれないが、これでも真剣にやっている音楽を馬鹿にされた気がしたのだ。
「それ、どういう意味ですか?」
 思わず語気を荒げて反問したが、アルヴィがそれを許さなかった。非常に困った様子で額に手をあててマークに何かを言うと、マークは肩をすくめて笑うと「サヨナラ」と律に手を振った。
「んなっ」
「ごめんなさいね」
 律が呼び止めようとすると、アルヴィが遮った。眉尻を下げて申し訳なさそうに律の頬に手をやる。その困り顔さえも美しい友人の母はふぅ、と甘い溜め息をついて律に対して切なげに微笑んだ。
「悪気はないの。むしろ、あなた達を心配してるのよ」
「あの言い草で? すっごく馬鹿にされた気がするんですケド!」
「まあまあ。そんなに目くじらたてないでちょうだいなー。あの子の言った事もまるっきり外れてはいないのよ」
「だから、それが意味わかんなくて……」
「それはね。私はあなた達が実際にソレを味わうのが良いと思うの。言葉で語っても仕方がない事だもの」
 律はショックだった。突然現れた友人の家族がそろって訳の分からない事を述懐していく。その内容が気に障る。
「さっきからあいつがひどい事をする奴だって聞こえるんですけど」
「あなた、あの子のために怒ってくれるのね。もちろん私たちはそんなつもりはない事は分かってちょうだい」
 アルヴィは、彼女の息子と同じように人を真っ直ぐ見詰める青い瞳で律を射貫いた。
「それでも、過ぎた才能が時に人を傷つけることもあるの」
「……よくわかんないです」
「大丈夫よ。今はそれだけで……あなたはあの子を好きかしら?」
「………………そんなの、仲間ですから」
「そう」
 アルヴィは律に顔を近づけると、昨日のように頬に口づけを落とした。ちゅっとくすぐったい音が響いて、律が硬直する。
「よろしくね。願わくば、あの子の事をもっと知ってあげてね」
「ひゃ……ひゃいっ!」
 美人のキスの威力を侮ってはいけない。律は舌がもつれて上手く返事ができなかった。

「じゃ、また会いましょう」

 顔を真っ赤にさせている律に手を振って彼女は去っていく。しばらく行った処にマークが待ち構えていて、登校してくる生徒たちの群れを真っ二つにしながら歩み去っていった。
 やはり凄まじい存在感。律はリアルモーゼを目の当たりにした律はぽかんと彼らを見送った。
 その後、夏音がいない間に軽音部の皆に今朝の事を報告したのだった。


「ヘイヘイ、母さんとマークがどうしたってー?」
 そんな事もあって、うっかり口が滑るところだった。ギリギリセーフである。律はしつこく繰り返してくる夏音の顔を眺めた。
 相変わらず、麗しい。彼の母親と瓜二つの美貌が自分だけに向いている。内心で舌打ちすると、ぺしんっと夏音の顔を両手で挟んだ。
「お前、本当にうらやましいなー」
「な、なにが?」
 若干喋りづらそうに夏音が返す。
「その睫毛とかムカつくなー」
「り、律しゃんはなしてっ」
そのまま頬を引っ張って遊ぶ。すべすべもちもちの肌が面白いように形を変えて、律は意地悪く笑った。
 結局、少し前の発言も頭からぶっ飛んだらしく律は難を逃れることができた。



「そういえば夏音くんの動画いっぱい観たんだけど、すごいよねー」
 放課後、それまでと変わらない形でティータイムが行われている最中。いつものように菓子をめいっぱい口に含んだ唯がもぐもぐと咀嚼しながらそんな事を言い出した。
「唯ちゃんも観たの?」
 ポットの中身が空になったため、新しく茶葉を蒸らしていたムギが唯の発言に顔をあげた。
「うん。もしかしてムギちゃんも?」
「ええ。素敵だったわー」
ムギは恍惚の表情で微笑んで、こくりとうなずいた。
 両者の会話を何気なく耳に入れていた律は「やっぱり全員同じ事考えるんだな」と半ば呆れるように感心した。
 かく言う律も、ユーチューブ等の動画サイトでカノン・マクレーン関連の動画を漁るようにチェックしていたのであった。
 どんどん関連動画が貼られており、次から次へと自分の知らない夏音を目にすることになった。
コメントは英語がほとんどだったりするが、中には日本人がアップしている動画もあり、なかなかの認知度がある事を思い知らされた。
 枝分かれするように際限なく連なっている動画の中には、律が尊敬しているドラマーの一人とのセッション動画もあり、度肝を抜かされた覚えがある。
「えー、何それ。超恥ずかしいんだけど!」
 そんな彼女たちの会話を前にして夏音が頬に手をあてて顔を赤らめた。こうして見れば、普通の女の子……百歩譲って少し綺麗すぎる男の子にしか見えない。
「夏音くんって髪の毛染めてたんだねー」
「うん……ま、色々あってね」
「でもムギちゃんのとはちょっと違う感じだよね」
「え、私?」
 急に話を振られたムギはついどぎまぎする。その際、ティーカップに注いでいた紅茶を溢しかけていた。
「私も色素が薄いけど、金色ってほどでは……。どっちにしろ夏音くんほど綺麗な色じゃないもの」
「ええーっ? 私、ムギちゃんの髪の色好きだよー」
「ふふ、ありがとー」
 やや虚をつかれたような顔つきで、それでも嬉しそうにムギは笑った。

 そんな中、澪は何とも言えない眼差しで彼らを見ては小さく溜め息をついていた。よく見ればその表情はどこか憮然としていて、ふてくされているようにも映る。
 実際に、澪は少しだけ面白くなかった。もともと自分だけが気付いていた秘密があっけなく他の部員にバレた。それでいて何かしらの変化が表れるものだという懸念も何のその。
 軽音部はいつもと変わらぬ安穏とした空気を醸し出している。まさに順風満帆、平凡な航路をのほほんと漂い続けているのだ。
 百歩譲って、澪だけが夏音の秘密を知っていた事を散々からかわれたことは仕方がないと思う。
幼なじみが自分をからかうための隙を与えてしまったのだから、そうなるのは自然の流れだったといえよう。結局、自分が今までずっと夏音にベースを教わっていたことが露見してしまった。
 もちろん死ぬほどからかわれた。多大な羞恥心を犠牲にしたというのに、ここまで部に変化がないのはどういうことだろうか。
 澪は和やかに頬をゆるめている仲間たちを一瞥した。
 プロのミュージシャンが側にいることを知ったのだ。それなりに音楽的な意識に変化があっても良いのではないか。
 むしろ向上心がある者なら、千載一遇のチャンスとばかりに夏音を利用するくらいの勢いがあって然るべきだろう。何かないか。普通では考えられない何かすごいことを達成する機会があるはずだ、と期待する心が生まれるはずなのだ。
 しかし、彼女たちは今まで通りに仲良く高カロリーのお菓子をつっつき合うだけ。
 これではまるで宝の持ち腐れのようなものだ。
(宝の持ち腐れ……)
 ふと、頭に湧いて出た言葉にはっとなる。
 思えば、この言葉はまさに軽音部にぴったりではないか。
 ギター歴が一年にも満たないのに、飲み込みの良さとセンスだけは抜群の唯。
 堅実な鍵盤を操る技術と、夏音の影響によってシンセの知識を増大させたムギ。
 いまだ怪しいテンポキープながらも、普通の女子高生よりは卓越したドラミング技術を持っている律。
 そして、カノン・マクレーンからほぼ一年間もベースの手ほどきを受けた自分。完成というには程遠いが、それなりの土壌を持っているはずである。
 むしろ、依然として伸び代が十分に残されているといってもいい。

 だというのに軽音部でライブをやったのは一回きりというのはこれ如何に。

 自分たちの実力を確かめる機会がない。いや、機会を放棄しているといってもいい。
 このままだと、次のライブがいつになる事か。どうにかしないと。
 自分が、唯一まともな自分が何か行動を起こさないと……と悩むだけの澪は、いつまでも行動に起こすことのできない自分の小心さ加減を呪った。
 結局、今の自分だって彼女たちと同じく、高カロリーの菓子と高級茶葉を消費するだけの存在なのだ。
 情けなくて溜め息をつくことしかできない。
「おーい澪。さっきから難しい顔してどうしたー?」
「うるさい。今考え事してるんだ」
「恋煩い?」
「ぶふぅーっ!?」
 澪は思わず口に含んだ紅茶を噴き出した。滅多に見られない澪の粗相に一同が唖然としていた。
「ず、図星かっ!?」
 とりあえず澪は、焦って違う方向に勘違いを進めようとする幼なじみの頭に拳固を落とした。
「何をくだらないこと言ってるんだよっ!」
「い……っ……」
 ワリと切羽詰まった表情で頭をおさえる律。予想以上に澪の拳固の威力が強かったようだ。
「り、りっちゃん大丈夫?」
 見慣れた光景だが、普段の十割増しの威力を放った澪の拳は傍目にぞっとしない鈍い音を奏でたのであった。確実にべードラ一発分の音はした。
「す、すまん……強くしすぎた」
 あまりに痛がるので流石にやりすぎたかと不安になった澪。
「だ、大丈夫か?」
 そっと歩み行って、うずくまる律をのぞきこんだ。その瞬間。
 バッ。
「へ?」
 赤い水玉と私。
 立ち上がり様に勢いよく振り上げられた律の手は、親友のスカートにひっかかり、思い切りまくりあげた。
 当然の結果として、露わになる澪の下着。
 その瞬間、学園祭の事件が電光石火で脳裏に浮かんだ夏音は目をそらすこともできずに、澪の下着を拝んだ。
 刹那がスローモーションに引き延ばされ、赤と白のストライプが全員の目に焼き付く。
「Jesus……」
「お返しだーっ。今日のパンツは何色かなーってね!」
 頭に巨大なタンコブをこさえた律は驚異の回復力で反撃を加えた。けれども、彼女の幼なじみはしっかりと成功したその復讐を笑顔でむかえてくれるはずもなかった。

「りーーーーつぅーーーー!!!!」

 血を吐くような悲鳴が部室に木霊した。



「で、澪は何を悩んでたんだよ?」
 見事な二段タンコブを咲かせた律は、ふと神妙な表情をつくって澪に向き合った。その横では、何故か巻き添えをくらった夏音が小さめのタンコブをさすりながらうなずいていた。一応、見たということで夏音は甘んじてその一発を受けた。
 ただでさえ吊り目なのに、怒りによって目尻がきつくなった澪は完全にブチ切れている様子である。
喉をならし、怒りのオーラをふしゅーっと発している彼女は、無理矢理律に献上させたタルトに勢いよくフォークを刺した。
「うっ」
 まだ怒っているらしい。ここまえ怒りを引き摺るのは滅多にないので、律はたじろいだ。
「軽音部なのに」
 一言、口を開いた澪が溢す。
「なのに?」
「軽音部なのに、何で私たちはライブをしないんだ?」
「…………………」
 澪をのぞく全員分の沈黙が流れる。
「な、何でだろうなー」
 乾いた笑みで笑う律に視線が集まる。その中に混じる厳しい目線に律の態度がしぼんでいく。
「澪の言う通りだね」
 夏音は腕を組み、強くうなずいた。夏音の言葉を受け取った全員の視線が彼に照射される。
「せっかく練習してるんだからライブに出ないと損だよ」 
 夏音の言葉に全員の顔が引き締まった。
 練習。練習といえば、軽音部で練習をする頻度が問題である。冬休み前のハプニング勃発の時点で一週間も練習をサボっていた状況だった。その上、すぐに冬休みが始まったので合わせて二週間以上は裕に演奏していない。
「確かに練習量は少ないね。絶望的なくらい」
 それでも、と夏音は続ける。
「みんな家ではきちんと練習しているみたいだし、その成果を本番で出す事も必要じゃないかな」
 全員がその言葉に思うところがあった。中でも唯は去年ギターを始めたばかりの頃の自分と今の自分を比べて思わず唸ってしまう。
 自分でリフを考えられるくらいに腕をあげる事はできたと思う。学校祭以来、かなりのオリジナル曲を作ったが、そのどれにも頭を絞ってひねり出した彼女のギターフレーズが紛れ込んでいる。
 同じように律やムギも自分が持っていなかった技術を着実に身につけている。それらのきっかけはやはり夏音である。
 今思えば、自分たちはこの年若いプロミュージシャンの元でそれなりに演奏技術を向上させていたのではないか。
 中でも澪は、他の者とは比べようもない程の上達を見せていた。
「私、ライブやりたい!」
 唯が胸の前で両手を握って力強く言い放った。
「ライブやろ! やりたいよ!」
「急に態度変わったな……でも、私も」
 律も、本番のステージで自分の腕をかき鳴らしてみたいと思った。
「わ、私もライブできるならやりたいです!」
 次々と沸き起こるライブコールに夏音はふっと笑って澪を見た。
「だ、そうだよ。これでいいよね?」
「そ、そんなの私の方がもっとライブやりたいもん!」
 よく分からない返事をしてきた澪に苦笑した夏音は、ぱんっと手を打った。
「とにかく! 全員一致だね! ライブしよう!」
「「「「おーっ!」」」」

 それから一同はライブをやるにあたって、「いつ、どこで」を決める事にした。二月に入れば学年末のテストが入ってくる。やるなら、その前。問題は「どこで」やるかだ。

「場所は講堂でいいよね」
「うん、そこしかないと思う」
 体育館ともなると、他の部活動が練習に使っているので無理がある。文化祭のように限られた時間でセッティングする必要もないので、リハーサルの余裕もある。
「ちょっと待ったー!」
 すんなりと決まりかけた場所の件に異議を申し立てる者がいた。
「どうしたんだ律?」
 注目を浴びた律はコホン、と咳払いをした。
「いやいやー。お前らちょっとばかし考えてみようぜ」
 と彼女は講堂でライブをするにあたっての問題を挙げた。
 第一に、セッティングとリハーサルの時間に余裕があるとして、本番が開始可能になる時間はいったい何時頃になるか。
 第二に、ほとんどの生徒が何らかの部活動に勤しんでいる中、客が来るのかといった問題だ。
「そもそもある程度お客さんがいないと話にならないだろ? それで言うなら放課後にやるって時点で何人が来るんだ? しかも授業が終わってすぐに始められないなら帰宅部の人だって帰っちゃうだろ」
「…………Oh」
 ここで誤解が無いようにしておくが、それに反応したのは夏音ではなく澪であった。澪は律の口からすらすらと出てくる至極まっとうかつ的を射ている指摘に心底驚いた。
 それでついついネイティブっぽい発音で驚きを表してしまったのだ。
「そんなの考えてもいなかった……」
「そうだなー。俺も聴いてくれる人がいないとやる気が出ない」
 いつでも自分の演奏を聴きにくる大勢の客に恵まれていた夏音にしてみれば、本番という名で誰もいないようなホールでぽつんと自分たちの演奏が響く事など、何にも耐え難い事態なのである。
 声をかければ……かけなくても謎に自分を慕ってくるファンクラブのメンバーが集まってくるだろうが。
 ひょっとして澪のファンクラブと合わせれば、結構な数になるのかもしれない。試す気はさらさらないが。
「でも、他に演奏できる場所なんてあるのかしら?」
 心なしか前向きに傾いていたムードが失速したように思える。各自、頭をひねってどうしようかとうなっていると、問題を指摘した張本人である律だけは自信に満ちあふれていた顔をしていた。
「ふっふー。やっぱりここは部長である私の天啓めいたアイディアが必要みたいねー」
 今日の律はどこかおかしい。まっとうな部長としての自覚がついに目覚めたのかと誰もが疑いかけたくらいである。
「一応、聞くだけ聞いてみようかな」
「お前、私の扱いひどくね?」
 夏音から全面的に信用されていない事を知った律はがくっと肩を落とした。しかし、自分の発言に注目が集まっている事に気を持ち直して再び尊大な態度を復活させる。
「まー聞いて驚くがいいさ。実を言うと、私の友達でバンドやってる子がいるんだけどさ。その子が今度あるイベントに出場するって言ってたのを思い出したんだよ」
「ん……? 今、出場って言った?」
「まーまー最後まで聞きなさいよ。確かあのイベント何て名前だったけな………轟音……いや、爆音……えーと……」
「も、もしかして」
 まるで痴呆老人と化した律の言葉を聞いていた澪が青ざめたような顔で震えだした。

「爆メロじゃないだろうな!?」
「あー、それだ」

 律が澪の発言にぽんと手を鳴らした。頭の奥でつっかかっていた物が判明してスッキリした笑顔だ。その笑顔と対照的に頭を抱えて悲鳴をあげる澪に一同はぽかんとした。
 その悲鳴に切迫した響きを感じたのだ。
「爆メロってなに?」
 何だか美味しそうな名前かも、と涎を垂らしそうになった唯に不敵な笑いを浮かべた律が説明する。
「爆メロ☆ダイナマイト! 十代限定のバンドイベントさ!」
「意外に男くさい名前だね」
 唯がガッカリしたような声を出す。
「いや、誰も殴り合ったりしないからな」
 全く予想外の感想に律がむっとした。もっとこう、バーンと驚きを示されると思っていたのだが。
「い、いやだ。いやいやいやいやいや!!」
「澪さん?」
 突然、引き付けを起こしたように痙攣する澪は頭を抱えて窓際に移動するとぶるぶると縮こまった。
 尋常ではない様子の澪の様子に誰もが唖然とした。
「いったい澪ちゃんはどうしたのかしら」
 ムギが心配そうに澪の側による。そっと肩に触れると稼働中の洗濯機のように振動している。思わず手をひっこめたムギであった。
「ムリムリムリムリムリ」
 念仏のように呟く澪の表情は蒼白いのを通りこして土気色へと変化しそうになっていた。やがて、これは相当な異常事態だと悟った一同は、彼女をそんなにさせた爆メロについて律に問い正した。
「ペニーマーラーってライブハウスで毎年開催される十代限定のバンド合戦なんだ。コンクールっ言ったら違う気がするけど、そんな感じ! 優勝したら賞金二十万円!」
「あー、そういう感じのか」
 夏音は納得したように頷いた。どこにでもあるコンテストだという事だ。
「二十万円!?」
 そこに反応したのは唯だった。彼女の中で二十万円があれば、どれだけのケーキを買う事ができるかという妄想が思い描かれていた。
「あ、もうそんな食べられないや……」
「唯は何言ってんだ?」
 律は一向に自分の思い通りに進んでくれない会議に苛立ちを感じ始めていた。
「だから出ようぜ! 爆メロ!」
「ちょっと待って。それってテレビとか入るの?」
 勢い込んで立ち上がった律に夏音が声を差し挟む。
「いや、そこまで大きいコンテストじゃないからテレビは無いよ。もともと閃光ライオットを真似ただけのローカルなものだし……って言ったら開催者が怒りそうだけど」
「そうか。なら俺は出てもいいかなと思う。賛成一票!」
「おおっ! これで賛成二票だな!」
「わ、私も一票!」
 いきなりの大舞台に逡巡していたムギだったが、意を決めて手をあげた。
「おーい唯は?」
 律はそう言っていつまでも妄想の世界に入り浸る唯の肩を揺する。
「はっ! 出ます! 超出ます!」
「よし、これで残るは………澪しゃーん」
 律はずっと隅で震える澪の脇に手を差し入れて、持ち上げて立たせる。小さな首を振っていやいやした澪だったが、強引に立たされたのでかろうじて地面に足を踏ん張る。
「そんな……あれ、何人来ると思ってるのよ!?」
「えっと……前に二人で言った時はハコが満杯ぎゅうぎゅう詰めだったから……二千人くらい?」
「ヒィーーッッ!!!」
 再び悲鳴をあげて崩れ落ちた。
「二千人かー。ライブハウスにしては結構キャパあるんだね」
「まー基本的にプロのバンドが来る場所だからな」
「それなら不足なし、だな」
 少しだけやる気を出した夏音であったが、ふいに怨嗟のこもった視線を感じた。
「何で俺を睨むの?」
「絶対イヤだからな」
「頑なに拒むねー。別にいいじゃんか」
 人前に出る事が苦手なのは分かる。ここまで拒むとは誰も思っていなかったが、考えてみれば初めてのライブでトラウマを持っているのだ。
「あんな事は滅多に起こらないよ?」
「そ、その事じゃなくて! ていうかそんなの今ので思い出したよ! やっぱり、ライブやめましょう!」
「さっきライブやらないのかって怒ってたの誰だろーね!?」
 支離滅裂な澪に夏音は呆れた。このままだと基本的に逃げ腰の澪はあれよこれよと理由をつけて拒み続けるだろう。
「澪は人前でやる度胸をつけないと! 練習で出来たんだけど本番出来ませんでしたーじゃ意味ないんだよ?」
「そ、それは分かってるんだけど……」
「まあ、こういう場合は澪の意見は無視しよう」
 夏音の言葉に澪が目を剥く。
「なっ!? 私だって軽音部員なんだぞ!」
「民主主義の原理は多数決なのです」
「くっ……これだから民主国家から来た人間は……」
「日本も民主主義じゃないか」
 うっ、と返す言葉を無くした澪はしおしおとうなだれていった。
「まー澪を口説き落とす方法は幾らでもあるんだなー」
 意固地に反対する澪の頭に手を置いて律はごそごそと携帯をいじり始めた。何だ何だ、と様子を見守っていた一同だったが、「おっ、コレだ」と動きを止めた律が澪に携帯の画面を見せたのを見て「なるほど」と頷いた。
「こ、これはっ!」
 澪の顔が真っ赤になる。
「これ、公開しちゃおうかなー。ファンクラブの人とか、飛びつくぞー」
「この悪魔っ!」
 明らかに涙を浮かべて悔しそうにほぞをかむ澪の敗北だった。その携帯に何が映ったのかは二人しか知らない。


「と言う訳で全員の意見が一致したって事でよござんすねー!」
 反対の声はあがらない。
「あの、こちらのイベントは誰でも出る事が可能なんですか?」
 ムギがおずおずと疑問を挙げる。すると、ビシッとムギに指を突きつけた律が「よく気付いた!」と叫んだ。
「もちろん誰でも、はムリ。だからデモ音源を送らないといけないんだよなー。その方法も考えないと」
「音源か……」
 夏音は頬に手をあてて思案する。
「それなら俺の家で録音しようか」
「できるの? 録音」
「もちろん。我が家の自宅スタジオに不可能はない!」
 澪は床に伏せながら「あー確かに」と思った。毎週通っているので今さらスタジオの機材設備を見ても驚かないが、他の者は度肝を抜かれるだろう。
「すごいのねー夏音くん」
「まぁ、これでも本業ですから?」
 少し鼻を高くする夏音に一同は苦笑した。本人に言われたら返す言葉もない。
「とにかく、決まりだね。その前にそのデモ音源の応募締め切りはいつまでなんだ?」
 新曲も作る事を考えると、あまり余裕がないと困る。すると、律は再び携帯をいじる。しばらくして「あっ」と重たい声をあげた。
「今週の……金曜日だ」
 その場に戦慄が走った。
「それ………世間では明日って言いませんか?」
「………そうとも言う」
 唯一、澪だけが「それなら間に合わないな」と喜んだ。


 郵送する事を考えたら、当日の午前中までには音源が完成していなければならない。つまり、この瞬間から明日の朝までにレコーディングを済まさなければならないのだ。
 夏音としては、そのイベントの敷居がどこまで高いのかは判らないが、万が一にでも落選する事など許されない。夏音の全プライドをかけても許されない。
「今日……今日は俺の家に泊まり込み!!」
 夏音の裂帛の宣言を拒否できる者はいなかった。一同には既に参加を見送るという選択が見えていなかったのである。ただ一人をのぞいて。

 もう放課後に部室にいる暇もないくらいにてんやわんやとなった。まずは機材をどうするかという話になったが、部室にある機材より遙かに良い物が夏音宅にあるということで事なきを得た。
 とりあえず、各自の家に帰ってから最低限の支度をしてから夏音の家に集合することになった。唯一人だけ実家が離れているムギは夏音の家に直行する事になった。
 実家にその由を連絡するムギが受話器越しに「ええ、もちろんみんな女の子よ」と言っていたのを夏音は聞き逃さなかった。
 まあ嘘も方便、男が混じっているなど家族が聞いたら事だもんな、と心に繰り返し納得させた。
「お友達の家にお泊まりって初めてでわくわくしちゃう!」
 と胸を高鳴らせるムギを一瞥した夏音はふっと笑った。

「今夜は寝かさないぜ?」
「あら、うふふ」

 夏音の言葉を冗談だと受け取ったムギは案外まんざらでもない笑顔で返したが、まさかこの時の夏音が本気で言っていたと知るハメになる。



「ストップ!」
「…………ハァ」
 律は作業開始してからもう何度目にもなるその言葉にうんざりといった顔をした。現在時刻は夜中の零時を超えて久しい午前三時。真夜中である。
「だから、さっきからずっと同じ所で台無しになってるんだよ。そこのキックは百歳でくたばりかけのお婆さんに肩叩きするくらいの気持ちで!」
「私だってさっきからやってるつもりだっての!」
「フェザリングが苦手といっても程があるだろう。不格好な音で支えられてもこっちが音を乗っけたくないよ」
「………いつにも増して厳しすぎないか……?」
「そりゃそうだよ。わりと厳しい審査になるんだろ? 半端な物出したくないだろう」

 もう一回、と夏音はカウントを促す。知れず溜め息をついた者は律だけではない。
同じく何時間もレコーディングを共にしている他のメンバーも疲労にひしがれた表情で肩を落としている。
 レコーディングを開始してから六時間がまわっていた。
 夕飯を済ませた一同が夏音の家に集まったのが夜の八時。それからあらゆるセッティングと音作りを入念に済ませ、一時間後にレコーディングを開始させた。

 初めは各楽器ごとに録る予定だったのだが、ほとんどの者がクリックに合わせた演奏だとどうも調子が発揮できなかった。そうと分かった夏音は、やはりバンドで合わせた演奏を録音した方がいいとすぐに判断して、それからほぼぶっ通し状態で録音を続けている。
 間に休憩を挟みつつであったが、いつもの軽音部のようにゆったりとお茶を淹れる暇はなかった。
集中を途切れさせたくないと主張する夏音は最長で十五分の休憩しか許可しないのだ。
 体力的に限界が訪れようとしていた。それでも夏音が妥協を許すことはなかった。

「疲れたのは分かるけどさ、みんながしっかりやれば早く終わるんだよ。ぱっぱと終わらせようよ。頑張ろうよ!」
 夏音が励ます言葉も、どこか白々しく聞こえてくる。
 皆は表面上では頷いていたが、夏音の言葉の裏には自分達の下手さを皮肉るような意味が含まれているのでは、と疑ってしまったのだ。
 今までの練習の時とは明らかに違う。練習の時もそれは厳しかった夏音だが、ここまで他人を追い詰める事はなかった。
 特にドラムの律に対する指摘はいっそうの厳しさを増していた。
 ことあるごとにドラムである律が注意をされ、次第に律の精神にも不可がかかってきた。
 ちなみに先ほどから夏音が止めている理由はサビ終わりで打って変わって静かになる部分で、律のドラムの音が大きすぎるというものであった。
 ドラムを小さい音で叩くのは、意外に技術を要する。
 熟練した者になれば、ボリュームだけでなくニュアンスさえ自由自在なのだが、律はそうは行かない。弱く弱くと言われて努力しても、なかなか満足いく出来にならないのだ。

 今度は一曲を通す事ができた。
 各楽器の音の余韻が消えるのを待って、夏音が口を開いた。
「うん、今のは良かったよ律!」
「………で、今度はどこがダメなんだ?」
 及第点を得たと知っても、全く嬉しそうなそぶりを見せない律。むしろ、次はどんな指摘がくるのかとげっそりしていた。
「んー、色々あるけど……」
 まだ色々あるのか、と青ざめた。
「まぁ、とりあえず大丈夫かな。最後のタムとバスドラ絡めた三連まわしのフィルもいい感じだったし、そこから転調する所をもっと勢いよくやってくれれば最高だね。ていうかドラムより、キーボードなんだけど」
「わ、私ですか!?」
 急に方向転換して自分に指摘が入ると思っていなかったムギは狼狽してビッと背筋を伸ばした。
「やっぱリバーブもっと浅めにしてくれないかな? 何となく、深すぎる気がね。俺も俺で揺らしてるじゃない? 上手く噛み合ってない気がするんだよね。こう……もっと湖畔に落ちた波紋みたいな? 生まれたての静かな波。岸まで行かない感じで。わかる?」
「あ、ハイ!」
「でも……どう思う?」
「そ、そうですね。試してみるね」
「うん、お願い。あと決めのグリッサンドはもっと大胆にやってもいいよ」
「はいっ!」
 それから1コーラスだけ通す。演奏が止まると「やっぱこっちのがいいね」と頷いた夏音は額に流れた汗を拭った。
「よし、休憩しようか」
 その一言に一斉に安堵の息が漏れた。
「もうこんな時間か! 夜食でも用意しようか?」
「夜食!? わーい!」
 夏音の言葉に咄嗟に反応した唯はぶんぶんと尻尾を振る。少しでも多く体を休められるなら、と他の者も楽器を置いてそれに賛同した。
 今から本格的に作るには手間がかかるとの事で、一同は立花家に常備していたカップ麺にありついた。


「うぅ……夜中にこんなの食べたら太る……」
「こんだけカロリー消費してるんだから平気だって」
 涙を飲んで麺をすする澪を慰めるように律が言う。
「あっ」
 律が箸をぽろりと落とした。握力がほとんどなくなっているのだ。律は「ポロっちゃったー」と笑いながら周りを見ると、他の皆の箸を持つ手が震えていた。
 唯もムギも。食べづらそうに箸を動かしている。特に旺盛な食欲を余している唯は手が上手く動かない事への歯がゆさにもだえている。
「うー、もっと大胆に食べたいのにいけんですばい……」
 全員、こんなに連続して楽器を弾く機会がなかったから腕に来ているのだ。
 律は改めて、夏音の音楽への厳しさを知らしめられた気がした。もしかして、マークが言っていたのはこういう事なのかもしれないと思い返す。
 しかし、厳しいものの自分は音楽をやめたいなんて気持ちにはなっていないし、やはり大げさな口を叩いていただけだと一笑する。

「あー、やっぱ久々に食べるとうみゃい!」

 隣でずるずると麺をすする夏音はまったく体に変調をきたした様子はない。手が震えるどころか、疲れているそぶりさえ見せない。その一人だけ余裕綽々といった態度に律がむっと目を眇めた。
「今日はあとどれくらい続くんだろうなー」
 箸を置いた律が椅子に背をもたれかけて、ぽつりと言った。麺をすする音が止む。意識して皮肉を言ったつもりはないが、律の発言は夏音の耳にひっかかってしまった。
「終わるまで、じゃない? 最低でも学校行く前に郵送しなきゃだめだし」
 真剣に答える夏音は「そもそも今日中に届くのかな……」と頭をひねっていた。
「ていうか夏音が満足するまで、の間違いじゃないか?」
「お、おい律っ」
 澪が何を慌てたのか、自分の幼なじみの名前を呼んだ。
「ん、どうしたんだ澪?」
「何をぴりぴりしてるんだよ。ここで録った曲が審査されるんだから、みんな良いもの作ろうと頑張ってるんじゃないか!」
「そりゃ私だって同じだけどさー。こだわりすぎじゃないか? はっきり言って、向こうだって別にCD音源レベルを求めてなんかないだろうしさ?」
 律の意見は間違ってはいない。今回のイベント規模で、アマチュアのバンドにCD音源のような音質、ましてや絶妙なニュアンスまで求める審査員はいないだろう。
 むしろ、そういう物は一挙に本番で味わうものであり、最低限の水準を持っていないバンドを篩にかける作業としてのデモ審査である。
「こだわる事は悪くないけど。ちょっとはウェイトを考えろよってェ話」
 その言葉はハッキリ夏音へ向かっていた。夏音は律の意見に黙って耳を傾けていたが、何も言い返さなかった。ずるずると麺をすすり、スープまで飲み干して息をつく。やがて顔を上げ、
「…………そうか」
 たった一言。夏音はそれだけ言うと、立ち上がってカップ麺の容器をゴミ箱に捨てた。
「それなら、あと一回だけ通して終わろうか」
 それだけ言うと、食べ終わったら降りてきて、と言い残して先にスタジオへ行ってしまった。
「律、今のはお前が悪い」
「…………なんだよ。みんなだって同じ事考えてくせに」
 ふてくされたように口を尖らせた律は澪を軽く睨んだ。本気で怒っている訳ではない事がわかっている澪は、ふぅと息を漏らして頬をゆるめた。
「たぶん、これが普通なんだよ」
 誰にとって、と澪は言わなかった。少なくとも、自分達ではない誰か。
「…………わーかってるよ」


 全員が夜食を食べ終えてスタジオに降りると、夏音が椅子に座ってうつらうつらと船を
こいでいた。
「んぇ?」
 律を先頭に全員が戻ってきたのに気付くと夏音はハッとして立ち上がる。
「よーよーお前さんも実は超疲れてんじゃねーのー?」
 律があえて元気よく夏音に絡むと、少しだけふらりとしていた夏音がむっとした表情をつくった。
「俺はちゃんと睡眠とらなきゃ厳しいんだもん」
「ああ、毎朝あれだけ眠そうだもんな」
 と言うことは、今もかなり無理をしているはずである。年が上だとしても、肉体年齢には関係がない。見るからに折れそうなくらい華奢な体。
律は、むしろ自分の方が体力あるんじゃないかと思った。
(こいつも無理してんのかな……)
 律は、自分達だけが苦しんでいると思っていた。
「ヨッシャー! カンッペキにやったろー!」
 夏音は急に大声で叫んでドラムセットに座った律に驚いて目をぱちくりさせた。人間夜更かししているとハイになるというが、これがそうなのだろうかと首をかしげる。
「おーい夏音もぼーっとしてんなよー! 始めるぞー」
「あ、あぁ……それじゃあ、やろうか」
 急にフルテンになったテンションに気圧されつつ、夏音はギターを構える。ボリュームペダルを踏み込むとノイズが部屋の中に溢れ始める。
 顔を上げると先ほどまでと違い、どこか堅さがとれた彼女たちの顔が目に入った。音に意識を集中しかけていた夏音はそっと笑みを零した。
「オーケー。楽しもう!」
 乾いたスティックの音が鳴り響き、彼らの音が混じり合った。


「あれ、夏音まだ起きてるのか?」
 まだ地下室に続く階段の電気が消えていないのを見て、律は目を瞠った。まさかと思い、そっと階段を下りて透明な分厚い窓がはめ込まれた防音扉から中をのぞく。
 すると案の定、ヘッドフォンをかけてパソコンに向かって作業する夏音の後ろ姿があった。
 軽音部女子一同は、地獄のレコーディングが嵐のように過ぎ去ると、一同は精根尽き果てた有様でベッドに倒れこんだ。なんとロハスな立花家にはなんと客室用の部屋があり、そこに巨大サイズのベッドが用意されていたのだ。
 女の子として、というより人としての体裁もそっちのけで床に就いた他の者とは違って、律はシャワーを浴びることを望んだ。
 もはやスポーツと言ってもいいくらいに体を動かすドラマーとして、大量にかいた汗をそのままに寝る事は堪えられないのだ。夏音から客用のタオルを借り受け、シャワーでさっぱりする。
 もちろん入念にドライヤーをかけ、使い捨ての歯ブラシで歯を磨く。
 流石にここまで来ると律も恐縮を通り越して呆れてしまった。
 ホテルばりのアメニティが完備されている理由を尋ねたら、その身一つで客が泊まりに来ても大丈夫なようにしているのだ、と返された。
 その割には客室が使用された形跡はまったく見られなかったのだが。
 寝る前の支度を終えたところで、さあ登校まで残りわずかな睡眠をとるかと部屋に向かおうとした所だったのである。


「おーい、夏音? 寝ないのか?」
 扉を開けて入った律がそっと声をかけても夏音は気付かない。よく聞いたら若干ヘッドフォンから音が漏れている。
 背後に近づく律の気配にも気付かず何に没頭しているのかとパソコンの画面をのぞき見る。
 英語だらけで、LOOPやらTRACKやらの文字が律の目をぐるぐるとまわす。波形みたいな物がいくつも並び、まるで病院にある生命維持装置を分かりづらくしたみたいである。
 じーっと前のめりになって画面を見詰めていると、ふと腕が夏音の肩に触れた。
「うひゃぁっ!?」
 文字通り飛び上がって奇天烈な悲鳴をあげた夏音。あまりに声を出すので、律の心臓も飛び出そうになった
「り、律!?」
 夏音は胸を押さえながら、律を指差しながらかろうじて声を発した。
「前髪がある!」
「前髪くらいあるわ!」
「いや、ほんと髪下ろすと印象変わるねー。なかなか可愛いじゃん」
「余計なお世話だー」
 律にとってあまり触れて欲しくない部分である。褒められると体がむずがゆくなるので、それを誤魔化すように話題を変えた。
「なーに一人でこそこそとやってるんだよ?」
「別にこそこそなんてしてないよ。ミックスをしてるんだ。だいぶ突貫作業になっちゃうけどね」
 さらっと告げられたその言葉に律は素直に感心してしまった。
「とっことんこだわるなー」
「まぁ、時間がないから雑になっちゃうだろうけど」
 肩をすくめてパソコンに向き直った夏音はマウスをいじって律にはさっぱり意味不明な操作を続ける。その様子をしばらく見送っていた律は腰に手をあてて感嘆の息を漏らした。
「夏音はプロなんだもんなー」
「んー? まあ、プロですよー」
「それ、どれくらい続けるんだ?」
「ギリギリまでやるつもり」
「それ、さっきから何やってんの?」
「いろいろだよ。EQいじったり、ちょいちょいエフェクトかけたり……まー語り尽くせないけど、いろいろ」
「あー……なるほどな!」
 二秒で理解することをぶん投げた律がうんうんと力強く頷く。明らかに理解していない。
 そんな律に視線は向けないまま、夏音はふふっと軽く笑った。
「ま、色々かっこよくするための作業ってこと」
「あー私にもわかる説明をどーもありがと」
 夏音の周りにはごちゃごちゃと機械が並んで、何本もケーブルが繋がり合っている。そういう様子を見ていると思わずいじりたくなってしまう衝動を抑えて律は真面目な表情を作った。
「まぁ、私に言えることがあるなら、あまり無理するなよーってことくらいか」
「はーい。善処するよー」
「すっかり日本人みたいな逃げ方を覚えやがって……」
 律が苦笑いを浮かべて夏音の小さい頭を小突く。
「アテッ」
「じゃ、私は寝る!」
「うん、おやすー」
 またどこかのアニメから覚えたな、と笑いながら律はスタジオを後にした。





 それから数時間後。外は完全に朝陽がのぼっている。
 早朝の立花宅のスタジオに死者も目覚めんばかりの大音声が響く。
「う、うおーっほほほ!」
 頬に手をあてた唯が奇妙な叫び声を出す。本人的に感動のあまり出た喜びの声らしい。
「すごーい! これ、本当に私達が演奏してるのかな!?」
「もちろん!」
 ミックス作業を終えてCDを完成させた夏音は二階の客間で死んだように眠る彼女達を叩き起こした。僅かな睡眠時間しかとれず、揃って寝ぼけ眼の彼女達に音源を聴かせたのだ。
 曲が始まると同時に、ばっと意識を覚醒させた一同は興奮に満ちた様子で自分たちの曲を聴き終えた。
「俺としてはまだまだな出来だけどね。これで予選ごときを落とすような審査員は耳が腐って死ねばいい」
 自信に満ちあふれてそう豪語する夏音は自らの言葉に何度も頷いた。
「正直、自分達で聴いてみてもかなり良いんじゃないか!?」
 唯の喜び様に負けないくらいの勢いで澪が言い放った。
「これで今回の有望株とか期待されちゃったりしてー?」
 律が調子づいた言葉を口にしても、反論する者はいなかった。
「これで優勝ね!」
 同調するように強くうなずくムギは意気込むあまり律の手を握った。
「い、いやー。突っ込んでくれないと恥ずかしいってか……」
 突っ込まれない事に戸惑った律は苦笑い。
「まぁ、戦う相手が分からないけど俺がいるからには優勝しかないでしょう!」
「げっ……マジな奴ばっかでやんの」
「りっちゃん! 優勝だよ! 二十万円でケーキ食べ放題だよ!」
「お前は煩悩だけだなー」
 唯の瞳の奥に浮かぶ数々の甘味が彼女の考えを如実に表していた。
「優勝かー。もし、そんな事になったら………なったら………」
 調子が上がっていく会話に乗っかろうとした澪は自分の言葉の途中でふと留保していた重要事項が喉の奥からせり上がってくる感覚を覚えた。

「ゆ、優勝……目立つ……ていうか、アレ。やっぱり出場しちゃうのーーー!?」

 頭を抱えて青ざめた澪が壊れたように叫ぶ。

「今さらかよっ!?」

 とりあえず、全員が突っ込んでおいた。




※思えばけっこうなペースで更新してきましたが、少しだけ更新が落ち着いてくるかもしれません。

 感想をお待ちしております。



[26404] 番外編ともいえない掌編
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/25 23:07

※これは何というか「つなぎ」のための苦し紛れ投稿です。読まなくてもまったく支障はありません。


 アルヴィ・マクレーンの場合 

 ねえ、あなたはどこの世界にクリス・スクワイアのプレイを模倣しきれる五歳児がいると思うかしら? 
 このことを話すと誰もが「そんな子供がいるだなんて嘘に決まっているじゃないか」って言うの。
 「アルヴィは相変わらずだな」とか。失礼よね。だから実際に聞かせてみるでしょ。すると、顎が外れてしまったのかしらってくらいに大口あけて驚くから最高よね。あの顔、大好き。
 中には、まるで悪魔の子だとか真剣に罵倒されたこともあって……まあ、その人には然るべき処置が下されたけど。うちの子はロバート・ジョンソンじゃないってのね。
 ああ、そう。
「模倣しきれる」って表現したけど。
その人のベースを完全にコピーできるという訳じゃなくってね。まったく同じプレイをする人なんていないもの。
 その人が出す特有のエッセンスを抽出して、自分のものにする。言葉通りに自分のモノにするってこと。
 それって既にコピーとかの域を超えていて、既にその人のオリジナルの音に組み込まれているってことなの。
 コピーして、その音を体内に取り込む。血肉になり、その肉には個人の魂が染み渡っているのよ。これって食事みたいじゃない?
 動物の肉を食べて、自分の肉体の維持と成長のためにそれを取り込むの。彼のプレイを表現しようとして、何十年もかける人もいるのに。それをただ食事するみたいに、わずか数ヶ月でモノにしてしまう。
 それが私の息子。

 カノンは私たちの宝。この子を世の中に誕生させることができたこと、それが私の人生の意味じゃないかって思うの。言い過ぎじゃなくてね。
 唯一の不満はあるけど。外見は少しくらいジョージに似てくれてもよかったのにー、って。ジョージの目許とか、耳の形とか。ちょっとくらい、ねえ。
 私のママに言わせてみると、どうやら私の小さい頃に瓜二つらしいわ。将来、一緒にショッピングしたりするのが楽しみ。姉妹みたいに思われるかしら。
 話がズレたけど、私が言いたいのはカノンがとんでもない子供だってこと。誰よりも早く気づいたのよ、この私が。今ではもうみんな知っているけど。
 音楽の申し子っていうのかしら。神童? おそらく、モーツァルトが生きていたらこういう感じだったと思うわ。
 みんなが何でも甘やかしてペットにえさをあげてしまうみたいに、次々と「音楽」をあの子に食べさせたわ。やればやるだけ吸収していくから、面白いみたい。
 すでに何百というスケールがあの子に染みついている。インド音楽なんてジャズのスケールより数が多いのに。悪ふざけで教え込んだ人がいたみたい。まさか吸収するなんて思っていなかったでしょうけど。

 つまり、何が言いたいって?

 うちの子ったら、本当に天才なのー!!
 もう宇宙一!!
 あ、宇宙一はジョージだから銀河系一、かしら?
 でも宇宙といってもSWみたいにいくつも銀河があるはずだから銀河系って小さいかしら………ねえ、どうしようかしら?
 え、宇宙一に決まっている? そうなの。あなた、あの子が好きなのね。崇拝しているの? え、お姉様? 
 よくわからないけど、あの子もモテモテねー。


 クレイジー・ジョー(立花譲二)の場合

 どうも、息子の父だ。
 譲二って言うんだ。
 アルヴィが息子の自慢ばかりって? あれはいわゆるイントロダクションだから。コースで前菜だよ。必要だろ? 前菜。
 俺は実際に夏音が見せた最高にキュートな思い出の一つでも語ろうかな。

 夏音が六歳の時だ。
 俺が集めたバンドのライブがあってね。俺がリーダーだってもんで、そのライブのゲストに夏音を呼んだんだよ。
 本番でさ、俺がステージにあいつを呼ぶだろ? ほんのり緊張しつつ、あの体に不釣り合いな大きさのベースを抱えて……、
 走ってくるんだ。

 こう………トコトコーって。

 思わず抱きつきたくなったね。いや抱きついたんだけどさ。ついでに脳内シャッターも押したよ。連写したよ。

 夏音を抱いて俺の息子だオラァ! って言うと会場がどっかんどっかんなもんでさ。でもあいつら正直ナメきってた。
 どこのお人形さんが現れたんだろーって。かわいーでちゅねーって。傑作なことに、そいつがベース弾き出した瞬間見る目が変わるのよ。
 
 何だこの小さい生き物は? って。人間か? なんてな! ハハハハハッ!!
 まあ、外れじゃない。
 人間じゃなくて、天使だからな。まじ天使。
 とりあえず一曲あの子が参加しただけで、会場もヒートアップ。
 別にロックをやっていた訳でもないのに、あの異常な熱狂ぷりはヤバかったね。
 とてもクレイジーな雰囲気だった。あの空気だったら何やってもイケそうだぜ、って感じがした。バンドのメンバーもずいぶんとご機嫌で、ノリにノっていたよ。
 トロンボーンのデイヴィスなんて、おいおいお前それツッコミすぎだろ殺すぞってくらいだったしなー。テンションあがりすぎたんだな。
 ごめん汚い言葉が、ね。つい、ね。
 とにかく。息子の力によって舞台が一億倍にも輝いてね。
 最高な一夜だったと思う。途中まではね。
けどなー。夏音に影響されたメンバーの中で、特にバンドの花形。サックスのロニーがひどかったんだ。
 演奏中からべたべたと夏音に体を寄せてさ。
 傍から見たらこれこそミュージシャンのセッションだ! ってんだったろうよ(確かに格好良いとは思ったけど)。インプロヴァイゼーションの迫力がある? 俺からしたらオイオイ、てめー近すぎじゃね? ってなるだろう? 当然だろう? 激しくうなずいているけどわかってくれるんだね。
 こっちも暢気にスイングしてる場合じゃなかったんだ。まあ、ちょっぴりカチーンとしたけど曲は通したさ。
 ロニーがサックス吹いていない瞬間に、夏音の後ろまわってカメラ目線でキメ顔していたのも我慢したさ。
 けど、やりやがったよ奴さん。
 演奏が終わる瞬間にキスしやがった。
 おでこに、チュッって。いや、ブチューッってしやがった。そのタラコ唇で。
 その瞬間のことはよく覚えていないんだけど。
 気が付けば、ドラムのスティックが俺の手から消えていてロニーがステージ下の地面に頭から突き刺さっていたんだ。ガキん時に見たあの映画のワンシーンがよみがえったね。何だっけ、犬神家の一族? 観たことないかな。
 まあ、ともかく後で映像を見て確認したんだけど。ちょうどロニーがアップになった時、後ろからとんでもねー速さで飛んでくる物体が「スコーン」って奴さんの頭にぶつかったんだ。
 最高に笑える映像だよ。あれは俺のスティックだったんだ! 我ながらナイスなコントロールだよね。
 
 会場がシーンってなってさ。とりあえず他のメンバーも「目の前で逆さ一転倒立しているこいつに何があったんだ?」って驚いた顔をしていた中、俺に近づいてきた夏音が言うんだよ。
「ロック以外の音楽でもこういうパフォーマンスするんだね! ロニーはプロなんだ! すごい!」

 ってな。
 どうだいこの邪気のなさ。普通に考えればどこの世界に好きこのんで自分から地面に一本差しになりにいこうとするバカがいるんだって思うだろ?
 天使に地上の下らない理は必要ないってことだよ。
 もちろん「いいか。これは変態にしか使えない技だから、絶対に真似してはだめだ」と教えたよ。「変態になったら刑務所行き」だってな。音楽だけじゃなく、教育もきちんとしていたんだ。
 え、ロニーがどうなったか? あいつが起き上がった瞬間、目の前に心配そうな夏音がいたからヤツは微笑んだ。
「天使がいるな」
 って微笑んだ。さっきまで腹立たしく思っていた相手でも、その反応には俺も微笑ましくなってね。
 すかさず、
「俺の天使に気安く障るな」
 って言ったよ。
 最高にキメてやったと思うんだ。息子も父を尊敬し直すはずだったんだ。
 ところが、キメ顔でポーズまでとった俺に何て返したと思う?

「ところで、僕は誰だ?」

 呆けた顔でヨダレ垂らしながら言うんだ。俺の発言なんて瞬時に埋もれたよ。おいしいところ持っていきすぎだろう。

 それから二時間後くらいにロニーは自分を取り戻したんだけど。誰にでも優しい夏音が心配そうにあいつの頭を撫でてやったのが効いたに違いないと思う。
 世話をかけるヤツだって全員が呆れていたがな。
 まだまだ数え切れないくらいのエピソードがあるな。
 とにかく、うちの夏音は天使だってことを話せばよかったんだよね? こんなもんでよかったかな?
 ところでコレって何の取材だったのかな?
 そもそも君は誰かな? その巻き髪すごいねーアニメみたいだよね。どうやって巻いてるの? ちょっと触っていいかな。
 ていうかさっきから恍惚な表情でお姉様お姉様って連呼してるけど……その写真、うちの夏音っぽいんだけど気のせいかな? 
 ソレ女の子の格好している気が……そうじゃなくても焼き増しとかお願いできるかな。
 ファンクラブ? 入らないとだめなの?
 どうしようかな………どうしよう。


 




 『憂と夏音』



「本当に無理いってごめんなさい」
「いいんだよー賑やかで楽しいから」
「あ、夏音さんは座っていてください!」
「いやだよー。俺だってこれが趣味なんだから。それに家主が座ったまま客人に料理させるなんて流儀に反するよ」
「は、はぁ……」
 思わず苦笑もしちゃうよ。流儀に反する……だなんて。この言葉を使ったことのある日本人ってどれだけいるかな。この人はたまにおかしな日本語を使う。
 古くさかったり、どこか外れていたり。今時の若者が使うような言葉じゃないのが飛び出たりも。
 お姉ちゃん曰く、夏音さんが日本語が達者なのは日本のアニメとか古い映画とかを参考にしているからなんだって。夏音くんはオタクだからーって言っていたけど、オタクってすごいんだなーって思う。

 どっちにしても私の意見、たぶん聞いてもらえないんだろうな。
 それで案の定、夏音さんにも手伝ってもらうことになっちゃった。
 夏音さん………あの、馴れ馴れしくするつもりはないんだけど、夏音さんって呼んでいるのは「立花さんなんて呼ばないで!」って前に言われたから。
 あまりに激しく頼むものだから驚いちゃった。
 何でも、友達の妹に他人行儀にされたくないから、なんだとか。
 ちなみに。そうやって自分の意見とか希望とかをストレートに伝えるところがちょっとだけお姉ちゃんに似ているかも……って思ったのはナイショです。

 似てない部分はハッキリしているけど。
 この人は私に楽ばっかりさせてくる。

 私ってもしかして気遣われるのが苦手なのかな? とか自分の知らなかった一面に気付かされた。
 苦手、ってことはないと思うけど。どうしてなのか、この人のお世話になってばかりで何もしないのは嫌かも。
「で、今日は何風で責めますかシェフ!?」
 おどけた動作で両手を広げた夏音さんがおかしくて声をたてて笑っちゃった。すると夏音さんもにっこり目を細めた。
「憂ちゃんはまったく唯に似てないなー」
「え、そ、そうですか!?」
 お姉ちゃんに似ていない……って久しぶりに聞いたかも。似すぎ、とか平沢姉妹双子説! とかならよく言われるけど。似てないって言われるのは珍しい。
「外見は似ているんだけどね。中身的な問題」
 ああ納得。中身で似ているって言われたことは、ないものですから。
「笑う時とか、こう……口に手をあててお淑やかに笑うところとか。唯だったらありえないしねー」
「お、お姉ちゃんは笑ったら可愛いです……よ?」
「可愛いけど、こう……犬を見ている気分になるよね」
「い、犬!?」
 それはあまりの言い草。だって……よりによって、犬。
 私はムキになって言い返さなくちゃ、って思ってしまう。
「犬、可愛いじゃないですか!」

「犬は可愛いねー。グレートピレニーズとか好きだなー」
「は、はあ……」
「大きくて白い犬が飼いたいんだよねー。あ、唯は子犬かなー。柴犬って感じだね」
「お姉ちゃん、柴犬ですか?」
「柴犬……日本犬も捨てがたい」
「……………」
 そのまま真剣に悩み始めた夏音さんは本当に変な人だなって思う。変な人、ならまだしも変な美人なのが困るところ。
 この人の美貌を言葉に言い換えることは難しい。
 何百人もの小説家や詩人を並べて、夏音さんの美しさを表す言葉を考えさせてみたいな。
 ありとあらゆる美辞が並ぶんだろうな。そして、それはとても美しい文字の羅列。
 近寄りがたいレベルの美人さんなのに、エプロン姿がやけに板についていたりするのを見ると可愛いな、とも思う。もともと可愛いんだけど、可愛さのランクがあがったような感じ。ちょっとズルイよね。
「ふぅ」
「どうしたの?」
「………っな、なんでもないです!」
 いきなり近かった。
 目の前に醒めるような美人がいたもので、ぐって後ろに退いてしまう私。
「ゆ、夕飯ですよね。私、今日はイタリアンにしようかなって。でもここのキッチン使えるなら中華でもいいかなー」
「悩むね」
「悩みますー」
「なら、食べる専門の人に聞いてみるかな?」
「お姉ちゃんは……たぶん、どっちも食べたいって言うと思います」
「そうか。なら、両方作ってみよっか?」
「夏音さん、中華は?」
「俺はイタリアンを作ろうかな」
 作ったことないんですね……かろうじて口にするところで止めた。
 
 作るものが決まったところで、お姉ちゃんを残してスーパーに出かけることになった。  
 夏音さんと二人きりで。

 何でこんな会話が発生しているかというと。事の次第はひょんな不幸から始まった。

 今日は夕方まで友達とプールで遊んでくる日だったから、家にはお姉ちゃん一人だけ残すことになっていて、私は夕飯までには戻るつもりだった。
 買い物して帰ろうか、いや冷蔵庫にはまだ余裕があったはずだと余り物で作れる料理の献立を頭に思い浮かべていく。真夏の夕暮れは見た目こそ安穏としているけど、常に身体中から汗が噴き出るくらい暑い。
 オレンジ色に染まる風景が、まるでガスバーナーであぶられているみたいに見えてしまう。
 最近、そうめん続きだし。冷たいパスタでも作ろうか。たくさん野菜を入れて、鶏肉も使った和風冷やしパスタにしよう。そう決めたらお腹を空かせてうだっているお姉ちゃんの姿が目の裏から離れなくなった。
 そうして急いで帰ったのはよかったんだけど……ちょっとまずいことになっちゃった。
「え……冷蔵庫しんじゃってる……」
 冷蔵庫を開けてみてびっくり。冷蔵庫はあまりの暑さに仕事をサボっていた……わけではなく。家中が停電していた。
 ごろごろしているお姉ちゃんが何で気づかなかったのか。答えは簡単。お姉ちゃんはエアコンが苦手だから、日中どれだけ暑くても団扇だけで乗り切ってしまう剛の人。
 アイスはとっくに食べ尽くしていたし、他に冷蔵庫の中身を確認する用事はないと思う。動物的な嗅覚で涼しい場所を探してじっとする。
 ヴェネツィアのかの有名なカフェ・フロリアンの影追いみたいに影を追ってごろごろ。涼しい場所を見定めてはごろごろ………かわいいよね……じゃなくて。
 冷蔵庫の中身が全滅していた。これが何より大事だったのです。
「野菜もだめ……はぁ……」
 冷凍庫にお肉もあって、たぶん明日の朝か昼までにはなくなる程度の量だったのが救い。
 これが買い物したばかりだったら間違いなく泣いていたと思う。
「どうしようお姉ちゃん……」
 少しだけ涙声になった私の肩をぽんと叩いたお姉ちゃんは自信満々な顔つきでこう言った。
「私に任せて憂っ!」
 お姉ちゃんは本当に頼りになる。こういう時におろおろしてしまう私を引っ張ってくれる頼もしいお姉ちゃん。
 それが友達にすがりつくという手段であっても。お姉ちゃんはその時の状況に見合った最適の答えを見つける天才ってことなんだと思う。この時、誰よりも早くターゲットに指名されたのが夏音さんだった。
 そして、平然とOKと頷いてしまう夏音さんもすごいと思う。
「そいつは大変じゃないか! オッケーすぐCome on girls!!」
 と一切の躊躇なく。こうして私達は夏音さんの家に招かれて夕食をとることになったのでした。
 けど、お世話になるのだから食材くらいはこちらで何とかするべき。
 そう意気込んだ私にも「俺も食べるんだから半分出すよー」と言って私の言い分を全くきかなかった。
 どれだけ説得しようとしても。
一度決めたことは何が何でも貫く頑固な人だって思った。新しい発見。
 それで何を作ろうか相談した結果、イタリアンと中華に決まったというのがさっきまでの流れ。


 カートを押して店内を歩く。野菜なんかをじっくりと見繕ったりしていると「あ、虫くってら」とか「こっちの方がゼッタイ中身が詰まってる!」とか主張する夏音さんがおかしかった。
「これくらいなら、虫に食べられてる方が美味しいですよ?」
「えー、そうなの?」
「そうなんですよー」
「憂ちゃんは物知りだね」
「田舎のおばあちゃんのお庭で野菜を栽培しているんです。たまに野菜の世話を手伝ったりするんですけど、その時におばあちゃんが教えてくれて」
「素敵な人だね。俺のグランマは全然そういうの教えてくれなかったなー」
 夏音さんのおばあちゃん。私の中の好奇心がむくりと立ち上がった。
「どんな人なんですか?」
「んー。憂ちゃんは知らないと思うんだけど………わりと有名な女優だよ。正確には、だった、かな」
「女優さん……映画とかですか?」
「そうだねー。映画が中心だなー」
 それから夏音さんがいくつか挙げた映画の名前の中には、聞き覚えのあるものが確かにあった。名作紹介とかでよく登場するようなやつばかり。
「あ、その映画は観たことあります。たしかすっごい綺麗な女の人が十人くらいの男の人と同時に交際する話ですよね。それで、次々に『あなたに私はもったいないわ』っていう決めゼリフでふっちゃうやつ!」
「よく知ってるね。あれも相当古いけど……その女の人ってのがうちのグランマ。すごい悪女してたでしょ」
「え?」
「あの時のグランマは綺麗だったなー。あ、過去形にしたら殺されちゃうな。でもすっごく光輝いていたよねー。まさにマドンナって感じかな」

「えー!? あの人が夏音さんの!?」
 どれだけすごい事か逆にわからない。それなら夏音さんは超有名人の孫?
「そんなにすごいことでもないよ」
 そんなにすごいことなんですけど。そんなしれっと言われても困ります。
 さらっと度肝を抜かれたまま、カートを押して店内を練り歩く。
「あ」
「うん?」
 別にあうんの呼吸とかじゃなくて。
 お菓子コーナーを通り過ぎた時につい声を出してしまったら夏音さんも振り向いて立ち止まった。
「お姉ちゃんにおやつ買っていかないと」
「あぁ、そういうのも管理してるんだ」
「これ、お姉ちゃんが好きなんです」
「それ、たまに部室でも食べてるな」
 いちご味のポッキー。二つ手にとってカートに入れた。
「この代金はちゃんと払いますから」
「はいよー」
 別会計にするのも手間だから。きちんと断っておく。
 カートが再びゆるーく発進する。
「そういえば、家だと唯はどんな感じなの?」
「お姉ちゃんですか? いつもテレビみてごろごろしてます」
 ごろごろするのがお姉ちゃんという生き物だから。
「ギターはどれだけ弾いてるの?」
 やっぱり気になるのはそこだよね。
「お姉ちゃんはすごいんです。ギター始めてから、ずっと弾きっぱなしですよ。私もたまに練習に付き合うんですけど、気付いたら四時間くらい弾いてる時もあって!」
 私がいかにお姉ちゃんが真剣にギターをやっているかを説明すると、夏音さんは嬉しそうに笑った。その笑顔が少し得意気に見える。
「そ、よかったー。唯には二時間以上は弾くように言ってあるからね」
「夏音さんがお姉ちゃんに言ったんですか?」
 あ、そういえば夏音さんに教えてもらっているってお姉ちゃんが言ってた。
「うん。唯は教えれば教えるだけ、まるでスポンジみたいに染みこんでいくからね。たぶん人の三倍の速度で上達してるんじゃないかな」
「へ、へー! やっぱりお姉ちゃんすごい!」
「ただ、前に教えたこととかすっかり忘れていたり……」
「はは……」
「なのに次の日にあっさりできてたりしてさ。あれ、できてるじゃんって。ちゃんと復習したんだなーって感心してると、『あれ、夏音くんに教えてもらったっけ?』とか平然と言うんだ。むかつくよね」
「そ、そうなんだ……」
 たやすく想像できて、お姉ちゃんらしいの言葉に尽きる感じ。夏音さんに申し訳ない。
「後はメンテナンスをしっかりやるように口すっぱくして言ってるんだけど……なかなかギターをいたわらないんだよねー」
「え? かなり大切にしてると思いますけど?」
「まさか、まだギターと一緒に寝たりしてる?」
「それはもう毎日………あっ」
 これって言ったりしたらまずかったかも。と思った時には遅かった。
「ゆ~~い~~~」
 ぎらぎらと燃えさかる真っ黒い炎が夏音さんの瞳の中に見えた。美人が怒るとこんなにもおっかない。お姉ちゃん、ごめんって心の中で謝る。
「あれだけ言ったのにわからんとは……お仕置きだな」
「お、お仕置き!? ごめんなさい! お姉ちゃんには私がしっかり言っておくので許してあげてください!」
「憂ちゃんがそうやってかばうから唯が……」
「お姉ちゃんは言えば聞いてくれます!」
「言っても聞かなかった時は?」
「う……何度も言います!」
「ふーん。それで憂ちゃんは唯をしつけてきたのか……」
「し、しつけだなんて!」
 お姉ちゃんはペットじゃない。しつけなんて……しつけなんて……当たらずとも遠からずかもしれない。
「まぁ、今回は勘弁しましょうか。けど、今度はちょっとスパルタな練習にしてみよっと」
 これが限界みたい。お姉ちゃんがしごかれる未来を用意してしまった。こんな妹でごめんなさい。
「お、お手柔らかにお願いします」
「ふふん。それは唯次第だね」
 ウインク一つ。何故か機嫌がよくなってしまった夏音さんはずんずんとカートを押していってしまった。
「うぅ、ごめんお姉ちゃん……」
 おいしい中華、作るから。
「憂ちゃんは本当に唯が好きなんだね」

 買い物も済んで、夏音さんの家へ向かう途中に呟かれた言葉がすっと頭に入った。
「はい、大好きです」
 恥ずかしい、とかを感じなかった。他意はなく、ただ事実を確認するみたいに放たれた言葉だから。私も言葉の用意とかしてなくても、当然の答えを出した。
「俺もこんな妹が欲しかったなー」
「え? そ、そうなんですか」
「上ばかりでさ。下に弟も妹もいなかったんだ」
「それ、意外です。夏音さんって面倒見が良いからすごくおねえさ……お兄さんオーラ出てますよ」
「それは年上だから気をつけてるの」
 口をとがらせて言う夏音さんがちょっと可愛かった。
「よし。憂ちゃんは今日から俺の妹だ」
 真剣な表情で真っ正面から言われた。
 数秒の間。
「エーーーーーッ!!?」
 私、お姉ちゃんの妹なのに。嫌ではないけど……反応に困る。
「冗談なのに……そんなに嫌だとは思わないじゃん……」
 夏音さんは夏音さんで変な勘違いで落ち込んでいる。
「い、嫌ではないです!」
「また、そうやって……」
「嫌ではないですけど……夏音さんをお姉ちゃんって呼ぶのはちょっと……」
 私にとって、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから……。
「俺、お兄ちゃんなんだけど」
 冷たい瞳とぶつかった。
「あ………」
 やってしまった。
 その後、すっかり機嫌を損ねてしまった夏音さんをなだめるのに苦労した。でも案外、お姉ちゃんの機嫌を回復させるための手段がそのまま通用したりしておかしいよね。
 やっぱりあの二人って似ているかも、なんて。
 私の勝手な思い込みかもしれないけど。
 前から仲良くなりたいなあ、って思っていたけど。今回のことでちょっとだけこの人との距離が縮まった