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[26404] 【けいおん!】放課後の仲間たち
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/06/28 20:31
 初投稿になります。
 もともとフォレストの方で連載しておりましたが、こちらで皆様方からのご指導がいただけたらなと厚かましい狙いで投稿することにしました。
 文才は無いです。もっともっと鍛錬が必要な作者なので、遠慮なく忌憚ない意見をいただければ幸いです。
 純粋に面白くない、というような意見でも結構です。

 尚。けいおんに男性のオリキャラを加えた二次小説になりますので、苦手な方もいるかと思います。
 原作の形で上手くまわっている中に無理矢理オリキャラを投入する事への違和感が感じられるかもしれませんので、あらかじめご了承ください。


 H23年・4月7日にチラ裏から移動しました。




 にじファンの方でも投稿しております。そちらにはオリキャラのイラスト、または挿絵があります。

  絵は作者自身が描いているものではございません。
 pixivにてイラスト公開されている「けい」様。

 オリキャラ紹介にてベースを持ったパツキンの夏音イラストのみ「しろ」様に描いていただきました。

 個人HPの方に明記していたので、うっかり忘れておりました。申し訳ございません。
 作者の絵心は皆無ですので!

「いつか眠りにつくまでに……」というサイトで連載しておりました。
 そちらにも挿絵や設定絵などがございます。

 オリキャラに少しでも興味が湧いたなら、ごらんください。


 ※作中の法律関係など、都合の良い風に変えている部分があります。運転免許などに関しては、他国で17歳で四輪免許を取ったとしても、日本では通用しません。
 



[26404] プロローグ
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/06/27 17:44

 桜舞う季節。花冷えると言われるこの時期の清々しさ、それに騒がしさを密かに孕んだ朝の静寂な空気。
 それらを胸いっぱいに吸い込んで歩く一人の少年がいた。
 鮮やかな桜並木の通りの中、黙々と歩みを進める少年は、そんな世界の有り様など気にもかけていないかのように視線を下げている。
 ひたすら俯きながら、足下の虫の一匹でさえも踏むまいかとしているかのように。
 日本の学校に用いられる制服と判る装いをしているが、この国では彼のような容姿の者が日本の制服を着ていると目立つ。現に彼とすれ違う中には「おや?」と首を傾げる者が大勢いた。
 やがて少年はうつむいた顔をようやくあげる。
 そこには西洋的な彫りの深い、端整な顔があった。肌は陶器のように白く、職人が磨き上げたような滑らかさが光る。
 完全に開いていればぱっちりと形が良さそうな瞳はとろんと眠たげに閉じかけている。
 欠伸を噛み殺しながら少年は大きな通りに出た。

 通りに出ると、彼が着ている物とデザインが似通った制服を纏う少女たちが何人もいた。
 その大方の者が一様に彼に視線を奪われて、吐息を洩らす。

「……今の人、見た?」
「見た。外国の子……だよね?」

 そんな会話が端々でなされている事など知らず、いまだ彼は歩みを止めない。目的地へ向かうまでに彼が周りを気にかけるそぶりは一切見られない。
 それからしばらく歩き、やがて彼は目的の場所へ辿り着いた。
「桜が丘高等学校」
 東京にごく近い、いわゆる郊外と呼ばれる地域に門戸を構える由緒正しき私立の高校である。真新しい制服を着た生徒たちが、チラホラと広く構えられた校門を通り抜けていく光景が目の前にある。
 校門の前に佇む少年の顔はどこか憂いを帯びていた。さらりとこぼれる髪を一房さらい、これから足を踏み入れる校舎を見上げる。

 少年は半開きだった瞳を徐々に押し広げる。青空のような色をした瞳に目の前の光景を映し出すと、彼はきゅっと眉を寄せた。
「ヤンキー……いないかなあ」
 深い溜め息と共にぽつりと漏らした。


 立花夏音は人とは少し異なる人生を送ってきた。
 まず彼には才能がある。
 素晴らしい音楽を紡ぎ出す天賦の才。
 常人には持ち合わせない感性をもって、それを生業として生きる類の人間である。わずか十七歳で、世界最高峰のベーシストの一人と言われる黒人ベーシスト。クリストファー・スループのファミリーの音楽一家の一員として、プロの音楽家として世界に名高い功績を挙げている。
 彼は一年前まで、確かな栄光を背負って輝かしいステージの中に生きていた。アメリカ全土にその名を轟かせただけでなく、世界にまで広く存在を刻んだはずだった。
 そんな彼がどうしてこの場所に立っているのか。
 原因はあまりにも多く、深い。
 どこを原因と呼べばよいのか。どこからが始まりであるかは実に定めがたい問題であったのだが……あえてここで言うとすれば一つ。

 ヤンキーであった。


 夏音の父親は、世界をまたにかけるプロのドラマーである。その昔、渡米したばかりの彼はアメリカ人の母と電撃婚を決め、夏音が生まれてからはずっとアメリカを拠点に活動してきた。
 しかし、ある日を境に彼の故郷である日本に帰りたいと言い出したのである。突如たる心変わりに当然のごとく周囲は揺れ動く。
 結果として、既にプロとして経験が長かった夏音も、とあるメーカーとの契約更新に待ったをかけることになった。
 これは決して転勤の多いお父さんに迷惑を強いられてきた子供の物語……などではない。

 ある日、父は気軽な態度で息子に問う。
「夏音………日本、行かなーい?」
 息子、答える。
「いーよー」
 という具合に、周囲のパニックも何のその。一家そろって放たれた矢のごとくアメリカを飛び出してきたのだ。

 見た目はまるっきり白人の夏音であるが、日本とアメリカのダブル。両親、特に父親の教育方針によりしっかりとした日本語を身に付けていたおかげで会話に苦労することはなかった。これといった問題もなく日本の高校に転入するこができたのである。
 未だ経験したことのなかった日本の高校生活がいかなるものか。胸をドキドキいざ踏み出そうとしていた矢先のこと。
 手を抜いて、投げやりな基準で選んだ転入先の学校は、地元では有名な不良校。
 時代錯誤も甚だしい古今東西のヤンキーの巣窟であった。
 とはいえ。いつの時代も女子というのはミーハー根性上等の生き物である。お人形のような容姿の転校生は瞬く間に女生徒から人気が出る。
 ちやほやされて悪い気分がするはずもない。夏音はすんなり日本の学生生活に溶け込めたと意気揚々としていたのだが。
 そこにヤンキー。
 不幸なことにヤンキー集団の頭に目をつけられてしまった。その頭がゾッコン夢中だった女子生徒が夏音を可愛がるようになったからだ。
 もちろん、彼女も男女間の感情を持っていた訳ではない。彼はいつもどうしてか恋愛に発展するような存在として扱われず、例えばそれは女の子がお気に入りの人形やペットを愛でるような感情だったのだが、そんなことは関係なかった。
 頭の勘に障った。
 その時点で、夏音はアウトだった。ゴートゥーヘル。

 日本では古よりヤンキーと呼ばれるギャング集団がいるという噂が本当だったのだと痛感した夏音は、入学して一ヶ月も経たないうちに登校拒否を決め込んだ。
 ガッコーコワイ。ヤンキーコワイ。
 こうして眉目秀麗なダブルの少年は、日本で生活を始めた早々にひきこもり生活を余儀なくされるのであった。

 ひきこもりの上に、どこをどう間違えたのか。彼は日本のサブカルチャーに広く深く触れてしまい、世間でo.t.kと呼ばれる人種へと昇華してしまった。
 基本的に放任主義で楽天的な立花夫妻も、さすがに一転してプロのミュージシャンから、不登校オタクへと変化した息子を放置しておくのはまずいかもしれない、と気付いた。
 ちなみに、この夫妻がその考えに至るまでに一年の時間を要した。

 説得には夏音の母であるアルヴィが行った。
「夏音ちゃーん。ちょっといいかしら~?」
「何だい、母さん?」
「あなたもそろそろ学校生活を再開してみる気はないの?」
「…………母さん」
「ママ、夏音に何があったかはわかるわ。でもねずっとこのままの状態も良くないと思うの。だから別の高校に行ってはどうかしらって思うの」
「………俺もそろそろかなと思っていたんだ。日本は素晴らしい。俺だってやれるに違いないんだ。とら〇らとか、ハ〇ヒとか、らき〇すたみたいな高校生活を送れるはずなんだ。リア充ってやつになれる可能性は俺にもあるんだよね!?」
「もうあなたが話してる事が理解できないけど、そんなことはいいの………わかってくれたのね夏音!!!」
「イェー、マム!!」
 母と子は、かたく抱き締めあった。
 思えば、親子がこうして抱き合うのも久しぶりのことであった。少し放っておいた内に我が子の脳内に巣くい始めた新たな知識など母は知るはずもなかった。
 一年という歳月により、さらに日本のサブカルチャーによって頭が毒されてしまった夏音少年であったが、こうして心機一転して十七歳という年齢で高校一年生をやり直すことになったのである。


 夏音は数分間のうちに、ここに至るまでの回想を終えた。
 今日、ここ私立・桜ヶ丘高等学校では入学式が行われる。

「女の子ばかり……どうやら、本当にヤンキーはいないんだね」

 このことは、まさに話に聞いていた通りで夏音は胸を撫で下ろした。
 母の話では、去年までこの高校は女子校だったらしいのだが、昨今の生徒数の減少。古い木造の校舎にかかる補修費等の問題で、今年度から共学に変わったのだそうだ。
 その際には、学校側によってあらゆる水面下での活動努力があったらしいがその甲斐むなしく、目標数の男子生徒の入学は得られなかったらしい。
 そのような事情のもと、上の二学年はまだ女子生徒しかいないし、男子生徒は少ないという両親が見つけた最高の学校の環境は、トラウマを抱える夏音でも安心なものとなっていた。
 再度、周りを見渡しても男子生徒の姿は確認できない。
「いける……今度こそ、俺はリア充になれるんだ」
 この“リア充”という単語は、彼がこの一年で覚えた日本語の一つである。
 「今度こそ」と言っているが、一年前の彼は純粋に日本の高校生活を楽しもうという希みを抱いていた一般人の思考を持っていた。日本の文化よ、あな恐ろしや。

「それにしても、早く来すぎちゃったかな」

 校舎の側面に付いている時計の時刻を見て、苦笑した。
 かといって、することもない。
 入学のしおりには、入学式当日で新入生はまず教室で待機ということだ。教室へ向かおう、と決めた夏音は自分の所属クラスを確認して上履きに履き替えて教室へと足を運んだ。

 夏音は静かに開けた教室のドアをくぐってそろりと教室に足を踏み入れた。
 一人きりの教室。
 窓明かりに浮かぶ教室。
 整頓された机。微かに埃っぽさ。
 夏音には、それがとても新鮮に感じられた。
 これが日本の学校、教室。

 早朝のこの独特な雰囲気はなんだろうか。何か、味わったことのない感覚に胸がきゅっとなる。
(以前はゆっくり味わう暇なんかなかったしな…………ううっ)
 思わず夏音の頭に暗黒の歴史が思い浮かび、ブルリと寒気が走った。
 すぐに頭をふってそれを打ち消す。足を進めて大きく教室を横切り、窓際に近付いてみた。窓から見下ろすと、チラホラと登校する女子生徒たちの姿。
 夏音は窓を開けて、窓際に腰をかけてその光景を眺めた。
 爽やかな風がふわりと入り込んできて、頬がゆるむ。
 あの人たちの中に、自分と仲良くしてくれる人がいるかもしれない。
 はたまた、この中の誰がいつフラグとやらを立ててくるのか…………夏音はぶるりと武者ぶるいをした。



 日本人形のように長い髪を揺らしながら、一人の女子生徒が歩いていた。
 少女はこつこつと音を鳴らしながら、真新しいローファーでアスファルトを踏み歩く。
 少女の胸には、期待と緊張を胸の中で跳ね回っていた。目の前には、入試の時以来の校門。
 すぅ。深呼吸。深く息を吸ってから桜高の校門をくぐった。
(私もいよいよ高校生か……高校生……コーコーセーコワイ……いや、でも何かとても大事なものを見つけたいな。見つけられるかな……その前に人見知りな私に新しい友達とかできるのかな?)
 校舎までの道をそわそわと歩きながら複雑な表情をしたり、はたまた笑みを浮かべたりと忙しない彼女であったが、ふと、どこからか視線を感じた。

 顔をあげると、二階の教室からこちらを見つめてくる人物がいた。

 少女は自分の足が止まっていることにしばし気付かなかった。

(綺麗な人……)

 一も二もなく心の中でそう漏らした。実際には、小さく吐息が漏れた。
二階のどこかの教室の窓からこちらを見下ろす人。
 風に梳かせている髪は遠目にもさらさらとツヤのある絹のようなさわり心地を想起させる。
(綺麗な人だな)
 少女は気付かずにその人のことをまじまじと見つめ返してしていた。
 それからすぐに自分を取り戻す。
(け、けど何でこんなに見られてるんだーー!?)
 視線そのものが熱を帯びているようだ。


 一方、夏音は自分の視線の先にいる黒髪の長い少女を見つめながら感激していた。

「すげー。ジャパニーズ人形みたいだね」
 少女は顔を真っ赤にして、つんのめるようにして校舎に入っていった。
  


 日本の学校の独特のベルが鳴り響く。
 日本における夏音の人生二度目の入学式が終わり、下校の時刻となった。
 慣れない行事を終え、どっと疲労が襲ってきた。凝り固まった肩をほぐしながら校舎の玄関を出たところ、やけに活気がある声が行く先を阻んでいた。
 見ると校舎から門までの空間に人がひしめき合っていた。
 桜高では毎年恒例の、部活勧誘の光景だ。一斉にビラを配る彼女たちの熱気が新入生を圧倒している。
「茶道部に興味はありませんか~?」
「柔道部ーー」
「見学やってまーす」
「そこのあなた、演劇に興味は!?」
 あちこちで勧誘を呼びかける大声がひしと飛び交っている。
「部活……部活か」
 夏音は部活には入ったことがない。変わった部活に入ってみるのも一興かもしれない。そう考えたところで、彼には録画していた深夜アニメの事を思い出した。
「いけない。忘れていた」
 上級生たちによる下級生めがけての押すな押すなの勧誘の中をきびきび走り抜けた夏音はさっさと帰路についた。
 通学路を歩いていると、早くも新入生同士で帰っている生徒がちらほら。
 自分に一緒に帰ろうと話しかけてくれる人はいなかった。
「あの外国人キャラで通してもいいのかな。掴みとしては最高だと思ったんだけどなー。そういう作品だと大抵……うーん、おかしいなあ」
 


 夏音に日本人形のようだ、と内心で評されていた少女――秋山澪は学校からの帰り道をぼーっと歩いていた。
 今朝、窓際から目があった美女―ーこれが驚くことに男であった――と同じクラスになったのである。
脱兎のごとく校舎に飛び込んだ彼女は、息を整えながら自分の教室へ向かっていた。
 教室へ近づくほどに、もしかして先ほどの美人さんがいた教室に近づいているのではないか。あげく同じクラスではないだろうかという考えがわき起こってくる。
 具体的に何かしでかした訳ではないが、何だか恥ずかしいところを見られてしまったような気がしたのだ。顔を合わせるのが恥ずかしいくらいには。
 歩いているうちにそんな妄想が止まらず、心臓がどきどきと鼓動を増してくる。
 いざ教室の扉を開けると、数人の女子生徒たちが離れて机に座っていただけで、その姿は見当たらなかった。
(もしかして、隣の教室だったのかな)
 まだ校舎の地理や位置関係を把握していないだけに、勘違いをしていたのかもしれない。
(な、何を焦ってたんだろうな)
 ガッカリしたような、ほっとしたような心持だった。 
 と思っていたのも束の間。
 初めて顔を見る担任が時間より早く教室に入ってきたところで、生徒もほとんど揃っていた。
 その頃、社交性のある生徒などは初対面であるにも関わらず、すぐにも後ろや隣にいる生徒とおしゃべりを始めていた。
 ざわざわと騒がしい中で、澪も小学校のころから一緒の親友・田井中律との他愛もない話に興じていた。
 ふと律が教室の入り口の方に顔をやってから、興奮して澪の肩を叩いてくる。
「なあ! 今入って来たヤツ見たか澪ー? 外人だよ外人!」
 呼吸が止まりそうになった。
「うわーあの顔で男なのか……ほんとにいるんだなーああいう人」
「あ、あ、あの人……!!」
 今朝の美人、来襲。
 実際に襲ってきた訳ではないが、その人物の登場はよほどの衝撃を澪にもたらした。
「ん、なに知り合い?」
 澪の過剰な反応を見た律は、澪のくせにめずらしーなとがっつし興味を惹かれたように目を丸くする。
「い、いや! 外国の方かなぁーと」
「本当の外人がこの学校に入学するわけねーだろ」
「そ、それもそうか。ダブルなのかな」
「むぅー? そんな気になって……も・し・か・し・て?」
「違う! バカ律!!」
 決してそんなつもりではない。澪は全力で否定したつもりだが、そんな態度が逆効果になって。
「ムキになるところがあーやしーなー」
 額に青筋を浮かべた澪は、すみやかにその口を黙らせた。
 こんなやり取りも、この目の前の幼馴染とは慣れたものだ。不本意ながら、彼への意識はそんなやり取りに埋もれてしまった。


 入学式を終えてHRの時―――。
 
 どの時代、どこの学校でも必ずといってあるお決まりの自己紹介の時間があった。
 1・名前
 2・出身
 3・趣味
 などをその場で立って発表するというものだ。
 澪は自分の自己紹介を終え、他のクラスメートが順繰り自己紹介をするのを緊張して聞いていた。彼の番が近づいてきた。 
「カノン・タチバナ、デス。アー……アッメリカからやってキマスタ。ヨロシクオネガイシュマ……あっ……ス」
(片言!!?)
(外国人……)
(やっぱり帰国子女とかかな)
(いい男の娘……じゅるり)
 その容貌から目立ちまくっていた彼が喋り終えると教室中の人間がいっせいにどよめいた。
 澪も例に洩れず、唖然としてしまった。
 そんな生徒たちの反応を見て、担任がすかさずフォローをいれた。
「あぁー、立花君はいわゆる帰国子女ってやつだ……が、こんなに日本語できなかったっけな……まあ、日本についてまだ不自由な点が多いだろう。みんなで助けてやってくれ」
 それで皆も納得したようで、その場の空気は流れかけようとしていた。
 彼が自己紹介を終えて、座ろうとしたところで担任が彼に声をかけた。
「あ、趣味を言うのを忘れとるぞ。あー……テル・アス・ユア趣味~……しゅみ……あっホッビー!」
 担任のぼろぼろの英語に反応した彼は、「hobby?」と呟いてしばらく考えた後。
「Music, thank you」
 と言って座ってしまった。その後、まばらな拍手。
 最後の一言に澪はどうしようもなく反応してしまった。
 趣味が音楽、ということは楽器をやっているともとれるし、聴く方専門ともとれる。
 どちらにしろ、アメリカで育った彼の音楽の嗜好はどんなものなのか。
 いつか、そんな話ができるかなと澪は思った。



「立花夏音……か」
「澪~? ちゃんと聞いてんのかー?」
「あ、あー聞いてるよ。苗字にゲイって入っている外人の悲愴な人生についてだろ?」
「ちげーよ!! それ、さっき話したやつ!」



[26404] 第一話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/12/25 01:14
 夏音は自分がアメリカの土を最後に踏んだのはいつだったかと思い返す。彼が日本にやって来てから既に一年以上が経つ。随分と遠い国に来たものである。人生の九割以上を過ごした場所から遙か遠くに位置する小さな島国。些細な事からその生活に不安を感じることもある。
 習慣、文化間のギャップ。人によっては異国間の些細な違いが時には多大なストレスになることもあるという。
 しかし、彼にとっては些末ごとに過ぎない。そんなことはどうでもいいのだ。
 彼が日本で暮らす中で悩ましい事と言えば、今でもこちらの時差を考えずに電話を入れてくるエージェントに他ならない。
 あまりにしつこいので辟易としてしまい、電話がかかる度にぺらぺらと言葉をまくしたてて、煙に巻かなくてはならない。口ばかりが上手くなってどうするのだろうか。

 さらに新生活とか節目の時期には多くの変化が巻き起こる。夏音が私立・桜ケ丘高等学校に入学してから一週間と数日が経ったところである問題が発生した。

 まず、両親が出て行った。
 別に家庭崩壊という危ういキーワードはここでは出てこないので安心して欲しい。

 ある日、珍しく全員がそろった夕食の席での事だ。

「夏音も日本にはだいぶ慣れたよな。また、仕事の方を以前の量に戻していこうと思うんだ」
 から揚げを頬張っていた夏音の父、譲二がふと真剣な表情で箸を置いてそう切り出すと、母のアルヴィがにこやかにこう添えた。
「ママもいっしょ」
 夫大好き人間の彼女のことだ。
「うん、大丈夫。俺は心配ないからどーぞいってらっしゃい」
 夏音は別に両親がいつ出て行こうが大して慌てる必要もないので、冷静に切り返した。そもそも、日本に来て家族で一緒に過ごした時間も多いとは言えない。もともと仕事の関係上、一般の家庭比べて家族団らんの時間は限られる。そんな家庭だった。
 今さら断るような話でもない。
 家族の暗黙の了解なので、二人にとってもこれはただの報告でしかないのだ。
 夏音に流れる血の本家大本の両親が音楽無しに生きていけるはずがない。自分にも言えることだが、彼らの場合は次元が違う。
 彼らは仕事としてではない、いわば趣味の域などでおさまるような類の人間ではない。趣味の範囲で出会えるような人々では満足たり得ないのだ。
 やはりあのステージに。限られた者がのぼることのできるあのステージにいなくてはならない。
 だから、ここで彼らを引き留めるという行為ほど無駄なことはないのだ。
 加えるなら夏音はいつでも一人暮らしを開始できておつりがくる程度の家事を叩き込まれているので、衣食住にいたっての心配も皆無だった。
 それでも唯一の気がかりといえば。
「じゃあさ。あのドラムとか持っていったりするかな?」
「いーや、あれはお前が好きに使っていいよ」
 なら、問題はなかった。夏音は家族共有のスタジオに設置されてあるドラムセットがお気に入りだった。

 翌朝、夫婦は文字通り飛び立っていった。
「アディオス、息子よ!」
「元気でねー! 電話するからねー」
 よく晴れた爽やかな早朝に、いつもエネルギー全開の両親の声が閑静な住宅街に響いた。
 寝巻き姿で、寝ぼけ眼のままそれを見送る夏音。
「アーーチュ!!」 
 くしゃみをしても一人。


 何より問題は二つ目だ。友達ができない。
 夏音は人間、第一印象が大事なのだということを誰よりも深く肝に銘じていたはずだった。過去の痛い経験も新しい未来へ進むための定石となれば良い。
頑張って、友達をつくるぞ。
 そんな決意を新たに踏み入れた高校生活アゲイン。
 入学式の自己紹介を終えて以降、日本語があまり話せない帰国子女という位置に落ち着いてしまった夏音は、クラスでも浮いた存在になってしまった。孤立ともいう。

「俺って奴は……また、やっちゃったのか」

 クラスメートはこちらが挨拶をすれば、しっかり同じように返してくれる。最初の方は好奇心もあってか、数人で夏音を取り囲むこともあった。
 しかし、夏音がしょっちゅう言葉に詰まったり、すぐ英語で問い返したりするようになると、相手はきまって「あわわわわ……」と狼狽えてから、おぼつかない英語で「パードン」か「ソーリー」ばかりだ。すごくバツの悪そうな表情で言うものだから、夏音の方こそ罪悪感マックスである。
 しかし、夏音には何よりも不可思議な点がある。会話する時、じーっと相手の目を見詰めると大抵の相手は顔をそらす。夏音は皆が何で自分と目を合わせてくれないのか不思議だった。
 前の学校でも。道行く人でさえも。会話する相手に対して失礼な話である。
 もちろん中には非常に気立てがよく、いわゆるノリがよい者もいてむちゃくちゃな英単語の羅列を駆使して会話を成り立たせてくれる者もいた。
 加えて大方の教師陣は授業中に夏音を指名するのを避けているようなのだ。「あ、その問題わかるぞ」と夏音の瞳がきらりと光ると、存在を無視される。揃いも揃ってそれが暗黙の了解のように。
 それだけなら、まだいい。
 そんな孤立した学校生活のなかでも、際立ってランチタイムが厳しい。
 日本の生徒は、与えられた自分たちの教室内で机をくっつけ合い、グループを形成して弁当を食べる習慣があるようだ。
 もちろん夏音はその輪の中に入ることができず、かといってぽつんと教室の隅で一人さびしく弁当をつっつくしかない。はっと思い立ち、アニメなどで必ず出てくる憧れの屋上はどうだと向かうと、施錠されており立入禁止であった。屋上は孤立した生徒の味方ではなかったと現実を知った。
 そんな馬鹿な。こんなの予想外である。自分は何一つ悪い事はしていないはずなのに。
「友達作る才能がないのかな……」
 その前に根本的な部分に気付くべきなのだが、彼がそこに気付くことはなかった。
 アニメや漫画のようにはいかない現実の難しさを身に染みて痛感した夏音であった。

 そんな中、夏音は周りの生徒たちの多くが部活動という単語を話題に出しているのを耳に挟んだ。そういえば、と思い出す。
 スポ根ものに代表されるように、日本の学生生活では部活動が割と重要な部分を占めるらしい。どこの学校も強制ではないが、生徒に何らかの部活をやることを勧めており、学校によっては強制的に部活に入らなければならない所もあるそうだ。
「ねえ、姫ちゃんどの部活はいったー?」
「一応ソフト部に仮入部した」
「えーマッジー? きつそー!」
 などという会話が端々で発生している。夏音は耳をダンボにしてそれらの会話をとらえた。
 部活動。そこでは、クラスとは別の集団が形成されている。
 つまり、また一から自分を出していける機会がそこにはあるということだ。
「部活か……。やっぱり入ってみようかな」
 そういえば、夏音は入学式に大量に配られたプリントの中に小冊子になって文科系、体育会系の全部活動の紹介が載ってあるものがあったのを思い出した。そして、いらないプリントと一緒に燃えるごみの日に出してしまったことも。
「ちゃんと確認しないで捨てちゃったからな。職員室にいけば、くれないかな」

 善は急げという。夏音は職員室に出向くことにした。決して狭くはないが、全教員が一つの部屋に詰まっているという職員室。くさい。コーヒーの匂いが充満している室内に入ってクラスの担任の姿を探す。
 夏音がきょろきょろしていると、メガネをかけた女性の教師が話しかけてきた。
「あら、誰かに用事かしら?」
 こちらを警戒させない柔らかい笑みを向けられ、夏音はこの人でも良いかと用件を話した。
「部活紹介の冊子が欲しくて」
「なくしちゃったの?」
「……捨てちゃいました。あ、きちんと資源ゴミですよ」
 決まりが悪そうに言うと、その女性はくすりと笑ってすぐにプリントを探してくれた。
「よかったわー余っていたみたい。はい、これでいい?」
「あ、それです。ありがとうございます。あ~、Ms.名前は?」
「山中さわ子よ。主に音楽を教えているの。ちなみに吹奏楽部の顧問をやっているから、興味があったら見学に来てちょうだいね?」
「ええ、ぜひ」
 夏音は笑顔で冊子を受け取ると、さわ子が「あら?」と夏音の手をじっと見て口を開いた。
「もしかして、あなた楽器とかやってる?」
「はい? やっていますよ。わかりますか?」
「まあ、手を見ればねぇ……ハッキリしてるしあなたの場合。ね、ひょっとしてベースとか?」
 夏音は面食らった。手を見ただけで、楽器まで見抜かれてしまうとは。確かに分かる人にはその人の手を見ただけで察してしまう人もいるかもしれない。
「ご名答です。山中先生も何か楽器を?」
「え、ええまあ。それじゃ、私は仕事があるから」
「お時間とらせました。失礼します」
 やけに焦った様子の彼女を不思議に思いながら職員室を出ようとした時、ちょうど職員室に入ってきた生徒が目に入った。同じクラスの女子である。
 夏音は思わぬところで遭遇したことに目を丸くした。向こうも同じように目を丸くして瞬かせた。
 双方が黙ったまま、しばらく見つめ合う。
「ハイ」
 夏音はとりあえず挨拶した。
「ハ、ハイーー!!?」
「オイ澪、テンパりすぎ」
 髪が長い方の泡を食ったような反応に片方がつっこむ。
「失礼」
 夏音は軽く頭を下げて、少女達を横切って職員室を後にした。

「あのハーフくん。何の用だったんだろうなー」
「さあな……あ、律。今はダブルって言った方がいいんだぞ」
「ふーん」
 少女達はまだ話したこともないクラスメートの後ろ姿を目で追っていたが、彼が扉の向こうに姿を消すと本来の用事を済ますことにした。
 

「え……廃部……した?」
 カチューシャをつけた利発そうな少女――田井中律はたった今告げられた事実に愕然とした。
「正確には、廃部寸前ね。昨年度までいた部員はみんな卒業しちゃって。今月中に五人入部しないと廃部になっちゃうの」
 おっとりとした雰囲気を崩さず、さわ子は気の毒そうに言った。
「だから誰もいなかったんだ、音楽室~」
 ひどく落胆した様子の律の悲痛な声が地面に落ちる。さわ子は彼女にかけるべき言葉を口に出しかけたところで、自分を呼びにきた生徒に気付いて時計を見た。
「ごめんね。次、音楽の授業あるから……」
 そう言って席をたつと、最後に思い出したように二人の方を振り返った。
「そういえばさっき話していた綺麗な子、知り合いかしら?」
「え。あのダブルの人ですか?」
 先ほどから興味なさそうに後ろで立っていた長髪の生徒―――秋山澪―――が咄嗟に反応した。
「そう。彼、楽器をやってるみたいよ。校内で見かけたら誘ってみればいいんじゃないかしら。それじゃあ頑張ってね、軽音部!」
 残された二人は思わず顔を見合わせた。

 職員室を出た後、興奮した口調で律が澪の肩を揺する。
「あの人も楽器やってるんだってさー。何の楽器やってるんだろうな」
「でも、数にいれても二人足りないだろ……よし、やっぱり廃部ならしかたないな。私は文芸部に入ると――」
 澪がほっと胸を撫で下ろした様子で親友を置いていこうとした瞬間、律が澪の首に強引に手をかけた。
「な、なあ澪。いま部員が一人もいないってことは、私が部長……? 澪は副部長かなー?」
 澪は「悪くないわねーふふ」などと調子に乗っている友人にたまらなく悪い予感がした。
 大抵、こういう目つきをした彼女の側にいると良い結果にならない。主に自分が。
「だ、だから私はまだ入ると言っていないぞ!」
そして、えいやと律の手を外して逃げた。すぐに追いつかれたが。
 

 その日、授業がすべて終わってからすぐに帰宅した夏音は、自宅の居間のソファでくつろぎながら受け取った小冊子のページをめくっていた。
 どうやら文科系、体育会系と様々な部活動、同好会が桜高にはあるようだ。
 漫画研究会、オカルト研究会、ミステリー研究会。
 茶道部、華道部。
 テニス部、ソフトボール部。
 合唱部、アコースティック同好会、ジャズ研究会、軽音部……。

「ん……けいおんぶ…? なんだろこれ」

 軽い音楽……。

「light musicのことか?」
 中でも、引っかかった見慣れない言葉。
 ジャズ研と分けられているくらいだ。どんな音楽をやる部なのだろうか。
「バンドか・・・・・・友達とバンドをやるって、どんな感じなんだろう」
 
 いつも大人たちに囲まれていたから、夏音はその感覚を知らない。
 学校の友達同士で気軽に楽しく音楽に興じるということ。金銭も、評価も、しがらみも関係なく純粋の音楽を楽しめるというのだろうか。
 そんなことを考えていると、少しばかり罪悪感が生まれる。
 色々なものを振り切ってプロとしての活動を自粛している自分が暢気に音楽クラブなどに所属してもよいのだろうか。
 何をやっているのだと、向こうで共に育った友人に怒られないだろうか。これでベースの腕がなまった等とブチギレられると目も当てられない。
 その心配はないと思いたいが。いかなる状況にあってもベースを弾かなかった日はない。ひきこもり中も。
 むしろテクニックだけは磨きがかかったと言ってもいいくらいだ。

 複雑な気持ちに胸がもやもやしてきだしたが、

「でも、気になる」

 ぱたりと小冊子を閉じる。

「週があけたら見学にでも行ってみるかな」


 そのころ、軽音部。
 軽音部を復活させようと活動していた二人は新たな仲間を獲得していた。合唱部に入ろうとふらっと音楽室へ迷い込んだ琴吹紬をくわえ込む事に成功したのだ。
「あと二人集めれば……いよーーし、やったるぞーー!!」
「けど……あと二週間で集まるかな」
「この際、楽器経験者でなくてもよいのでは? ボーカル、という形でもいいのですし」
「まー、とりあえず部員はそろってないけど部としての活動はやってもいいよな!」
 友人の言葉に、澪もうなずいた。
「そうだな! そうとなると、月曜日までに機材を持ってこようか」
にこにこと会話を聞いていた琴吹紬――通称ムギ――が疑問を呈した。
「あ、でも二人ともそんな重いもの学校まで運んでこれる?」
「あー……台車とかに積めば……でも学校まではきついかー」
「あ、私もアンプも持ってくるとなれば少しな……」
「あの~。もしよろしかったら明日、私の家の方で車を出しましょうか?」
「い、いいのですか紬さま!?」
「もちろんです」
 
 にっこり微笑んだ琴吹紬の笑顔にときめいた二人だったが、まだ彼女たちはこの麗しい少女のスケールの恐ろしさを知らなかった。
 翌日、それぞれの自宅に迎えにきた長い長い異次元の車を見た二人が青ざめたのは別の話。

 

 夏音は少し憂鬱気味であった。
 週があけた。相も変わらず仲の良い友達はできない。

「立花君、あーー……この問題、解けるかなー? いや、解けるよな、うん。じゃぁ、田井中ーこの問題解いてみろー」
 代わりに、夏音の横にいる女子生徒が当てられた。

(ごめんなさい田井中さん)

 一部の授業中にパターン化してきたこの流れに夏音は頭を悩ませていた。
 英文朗読の時のように迷いなく指名してくれる教師が少ないのだ。学校側がどのような認識を教師陣に広めているかは知らないが、言語の壁を必要としない教科にまで影響が出ている。
 ちなみに、今の授業は数学である。
 さすがに呆れたが、どうにもままならないようだ。 

「えーー!? 何で私ですか?!」
 そう言って、理不尽をくらった彼女が夏音を睨む。
(俺のせいじゃない俺のせいじゃない。にらまれても困る)
 恨みがこもった眼差しはかなり居心地が悪く、夏音はすっくと立ち上がる。
 そのままクラスが見守る中、黒板に書かれた問題をすらすら解き、そのまま黙って席に戻った。
「せ、正解だ……正解だぞ立花!!!」
 数学教師は丁寧に拍手までつけてきた。
(俺は、猿か何かとでも思われてるのだろうか)
 憮然とした顔で席に戻った夏音は自分を睨んでいた少女の様子を窺った。彼女は少し意外そうな顔で夏音を見つめてきた。
 夏音は名前を知ったばかりの彼女にふっと微笑みかけた。

 ぴくりと跳ねる彼女の眉毛。その表情はお世辞にも好意がこもっているとは言い難く、激しく不興を買ってしまったようだ。
 夏音には、いったいぜんたいどうして彼女が気を悪くしたのか理解できなかった。
 そこには、きっと誤解があるはず。
 しかし、視線のやり取りだけで弁明などできるはずもない。

「はい、次この問題解いてみろー田井中ー」
「って結局当たるのかよっ!?」

 彼女の解答は不正解だった。 



 夏音は肩を落として廊下を歩いていた。
 結局、その後も田井中という少女に話しかけるタイミングは訪れなかった。
 近寄ると肉食動物のような鋭い威嚇の目線を浴びせられるので、話しかけることはおろか近づくこともできなかった。

「またあんな流れはやだな」

 悪い予感しかしない。
 それでも気を取り直して放課後は気になった部活を訪ねてみたりしたのだが、どうもピンとくるものがなかった。話が合うかもと訪れたジャズ研究会も本日は活動を行っていないという始末。
 夏音は残された一つ。軽音部の部室へと足を向けていた。
 軽音部の活動の場は音楽室横の準備室らしい。校舎の最上階にあるらしく、一番階段を上らなくてはならない移動教室の一つだ。夏音は階段の手すりにある亀やウサギのレリーフを撫でながら、こつこつと階段を上っていた。

「おや?」

 階段の途中で、音が聞こえた。
 誰かが演奏している。
 夏音は急いで階段をのぼりきり、扉の向こうから聞こえてくる音楽に耳を傾けてみた。
 どこかで聞き覚えのある旋律。キーボードのぎこちないメロディラインとちぐはぐに絡み合ったベースとドラム。

「………硬い」

 全てが。なんだか恥ずかしくなってくる。初々しいぎこちなさは、決して悪い気分にはならない。
 胸の奥をくすぐられているような、どこか懐かしい香りがした。
 夏音が目を閉じて音を聴いていると、音が止んだ。
 演奏が終わったらしい。

「失礼します」

 すると突然入ってきた夏音に視線が集まる。

「あ」
「ああっ!」

 そこに待ち構えていた人物に、夏音は息をのんだ。
 先程まで夏音の悩みの種そのものであった田井中がそこにいたのである。
 ドラムセットの椅子の上坐しているのを見る限り、今の怪しさ抜群のドラムは彼女が叩いていたようだ。

「や、やるか!?」
「何をだよ」
「いや、何となくだけど」

 よく分からないやり取りを交わした少女達は、明らかに部室に現れた夏音に困惑している。

 涙がこぼれそうになった。夏音には、彼女が今も敵意の視線でこちらを睨んでいるように思えたのだ。
 しかし、少女達の表情は戸惑いや驚きが大きい。

「ここ、軽音部なう。アンダースタンド?」
「!?」
「あ、伝わってない? シッダウン!」
「ええっ!!?」

 『Shit Down(糞しやがれ)』と言われ、度肝を抜かれる夏音であった。こんな少女が口汚く罵ってくるとは思えなかったのだ。

「おい、律! いきなりそれは失礼だろ!」

 ベースを肩から提げた少女がいさめる。夏音は黒い長髪に切りそろえた前髪を揺らしている方にも見覚えがあった。
(お、この子は……)
 レフティのフェンダージャズベースを構えているその子は、クラスメートでもあり、入学式の時に窓から顔を出していた夏音と目が合った瞬間、とても機敏な動きで校舎に消えていった子であった。
 あまりに俊敏だったので、記憶に残っていた。
「あの~。見学の方でしょうか?」
 続けてキーボードの前に立った柔和な雰囲気を持った少女が夏音に話しかけてくる。夏音は彼女の外見を見て、目を瞠った。自分に似た色素の瞳、薄い髪の毛。何となく親近感がわいてしまった。
「ハイ……あー、ここは軽音部で合ってますか?」
「おい、ムギ! この人、あんまり言葉が……」
「え、でも日本語しゃべって・・・・・・」

 外人キャラという先入観は人の認識まで障害してしまうらしい。
 夏音の目が虚ろになりかけたところで、田井中が咳払いをこぼす。

「か、過去は水に流すもの。私をあざ笑った屈辱はとっておこう・・・・・・だが、入部希望者かもしれない、と。とりあえず……」
 三人は顔を見合わせた。
「う、ウェルカム。ウィ、ウィッチ、イズ、ティーオアコーヒーアーユー?」
「……は?」

(お茶かコーヒー?)

「とにかく、見学に来たんだよな!? ムギ、お茶の準備お願い!」
「は、はいっ!」

 いきなり、お茶を振舞われてしまった。

 とりあえず、コーヒーは苦くて嫌いだったのでほっとした。


『じーーーーー』
 そんな擬音が目に見えそうなくらい凝視されていた。変な汗をかいた。顔に穴があくのではないか。
 彼の目の前には高級そうな白磁のティーカップ、その中になみなみと紅茶が注がれていた。
 とりあえず、彼は出されたケーキに目をやる。自然とフォークを持つ手がぷるぷる震えてしまう。
 異性に一挙動を注目されながら食べるケーキ、初めて。
 何とかしてケーキを口に運んだところ。
「wow......I love it!!」
 あまりの美味しさに素で驚いてしまった。小指をたてないように気を配り、紅茶の方も一口すする。これが、渋みが強くて見事にケーキに合うのであった。
「あ、お、おいしいっどす」
 夏音がそう呟くと、お茶を淹れてくれた柔らかい雰囲気の少女が目を細めた。
 しかし、視線をずらすと田井中は夏音をじっと瞬ぎもせずに眺めている。夏音の胃に穴があくまで見詰める作戦だろうかと夏音の背中をつぃ、と冷や汗が伝った。
「あの、さ……立花さん!」
 そんな空気の中、長髪の少女が夏音の名を呼ぶ。
「立花さんは何か楽器とか……あの、その…………ご、ごめんなさーーーーい!!」
 そのままテーブルを割らん勢いで頭を下げた。
 
(あ、謝られた!!?)

 何もしていないのに謝られた。
 謝罪の文化とはいえ、それは行き過ぎではないか。
 謝られるいわれもないし、それを説明するのにこのままではならない。夏音は腹を括った。

「夏音。そう読んでください……父が日本人で、日本語は支障ない程度には話せます。できれば、普通にお願いします」
「……ッしゃべれんのかい!!」
 先ほどから夏音を睨めつけていた田井中が目を剥いた。
「何で片言だったの?」
「いや、なんといいますか……なんとなく? 緊張もしてたし」

 夏音は詰め寄ってきた田井中の剣幕にたじろぎ、おたおたと言葉を絞りだした。
 彼女はふらふらと下がってから、カッと目を開いた。

「疲れるやつ」
「すいません……」

 その場の張りつめていた空気は針をさしたように、一気に抜けていった。
「なんだよ……無駄に緊張した私らが馬鹿じゃんかよー」
 律がぐったりと椅子に座って深いため息をついた。
「で、でもうちのクラスではあまり話さないような……」
「それは……ただの誤解で、しゃべることはできます。誤解が誤解を生んだというか、目論んだ失敗というか……ははは?」
「ははは、じゃねー」
「すいません」
「はー。よくわかんないけど、改めるしかないか。とりあえず自己紹介。私、田井中律。軽音部の部長」

 それに倣うように、黒髪美少女の子も気恥ずかしそうに口を開いた。

「私も知ってる……かも、しれないけど……秋山澪。パートはベースなんかをやっている…です」
「はい……存じております」

 最後に先ほどから紅茶やケーキをかいがいしく振る舞ってくれていた少女がお辞儀をする。

「琴吹紬と申します。キーボードをやっています」
「は、はい」

 三人の自己紹介が終わると、何かを促す空気になった。「あ、俺もか」と立ち上がった夏音は気恥ずかしそうに頭を下げた。

「立花夏音です。ずっとアメリカにいましたが、日本語はある程度できます。楽器は色々やってます」

 実に簡素な紹介だが、淀みない日本語で夏音が改めて自己紹介をすると、小さく拍手が起こった。
 ここに来て、やっと認められた気がした。

 うっすら目尻に浮かんだ涙を拭って彼女たちの歓迎に頭を下げた。

「そういえば私たちの演奏終わってすぐ入ってきたけど、もしかして聞いてたりするの?」
「はい。演奏途中に入るのも悪いと思ったので」
「そうかー。で、で。感想は?」

 期待の眼差しを向けてくる律には悪いが、彼女を喜ばせるような言葉を送ることはできない。

「ああ、はい」
「はい、じゃなくてかんそー」
「懐かしい記憶がよみがえりました」
「うんうん」
「あれは三歳くらいの頃。あんな風にぎこちない演奏してたな、って」
「…………はっきり言う上に嫌みとはやるな」

 ずばり本音だったのだが、嫌みを返されたと受け取って落ち込んだ律をよそに、夏音はふとひっかかっていた事を澪に尋ねた。
「ところで、澪はレフティですけど、色々と大変じゃないですか?」
「え? ええ、いや、まあ……」

 余所余所しい反応である。視線も合わせてくれない。訳が分からないといった表情の夏音へ律が呆れた声を出す。
「あーあ。いきなり名前なんかで呼んじゃうから……特に、うちの澪は極度の恥ずかしがり屋なんだよ」
「え? 名前で呼んだくらいでダメなんですか?」
「あ、立花さんは向こうの習慣が当たり前になっているからではないかしら?」
「向こうの習慣て……あぁ、そうか。アメリカ暮らしが長いんだったなー。なるほどなるほど」
 夏音はぽんと手をついた。
「うーん。あまり同い年で敬称をつけたり、ラストネームでは呼んだりしないかなあ」

 それでも、話したことがない人にはできるだけ礼儀を持って接するようにしている。
 しかし、ビジネスでもない限り、互いに自己紹介を終えたら名前で呼ぶというのが夏音の基準になっていた。

「あ、そういえば日本では最初から名前で呼ぶことって礼儀知らずなんでしたっけ? すいません、秋山さん?」

 自分はどうやら失礼な事をしてしまったらしい、と夏音に頭を下げられた彼女はどぎまぎと目を泳がせた。

「い、いや……澪で、いい。いきなりだったから、つい」
「うちの子、純粋仕様だからさ」
「律!」

 先ほどから見ていて、彼女は律にだけは強気になれるようだった。既に何らかの絆が結ばれているようで、そういうやり取りは見ていると周りを笑顔にさせる。
 拳骨を震わせる澪は夏音にじっと見られていることに気付いて、すごすごと拳を納めた。拳の脅威を逃れた律は彼女から距離をとってから、夏音に言った。

「私のことも下の名前で呼んでいいから!」
「あ、はい。律って」
「わ、私も! ぜひお願いします!」
「あ、はい。紬ですね」
「ムギと! さんはい」
「む……ムギ!」

 夏音は、名前の呼び方一つでこんなやり取りが発生する事がおかしくてならなかった。
 くすぐったく、新鮮なやり取りが終わっただけなのに、何かの通過儀礼が終わったような気がした。
 それでも呼び方一つで一気に距離が近づいたようなように思えるのは気のせいではないはずだ。

「そういえば、夏音は何か弾ける楽器があるって?」
「あぁ、楽器ですか。ベースを主に。ギターにドラム、サックスはもうほとんどできないと思うんですけど、ピアノは母の影響で人並みには」

 小さい頃から周りから与えられるおもちゃは楽器だった。何でもやらされた覚えがあるが、人前で披露できる程に定着したのはそれくらいだった。

「や、やるじゃんー」
「まるで何でも屋だな」
「器用なんですねー」

 三者三様のコメントに気恥ずかしくなった夏音は慌てて手をぶんぶんと振った。

「いや、そんな大したものじゃなくて! ベース以外は、本格的にやっているわけではなくて、誇れるほどでは」
「あ、それより歌はイケる方?」
「まぁ、人に聞かせる程度には」
「それなら、ギターヴォーカルとかもイケる!?」
「ヴォーカルとギター……やれますけど」

 そもそも、夏音はもはや自分が入部することを前提で話が進んでいるような気がしてならない。
 あくまで見学に来ただけだということを忘れられているような。
 
 彼の答えを聞いた途端、三人の顔がぱっとほころんだ。
 「あ、それと」―――と律が切り出す。

「この部活、五人いないと廃部することになっているんだけど、誰か一人くらい心あたりはない?」
「五人……ん、五人?」

 まだ見ぬ部員がもう一人、と考えるほど脳天気ではない。
 そのことは後々触れるとして、律の無自覚な問いかけは夏音の心を正確に抉った。

「心あたり……友達いないから、ありえません」

 突如、夏音の頭上にぶあつい暗雲がたちこめた。その反応を見て律がぱちくりと目を瞬かせると、おそるおそる尋ねた。

「……友達、いないの?」
「お、おい律そんなストレートに!」

 夏音は顔をあげる。その表情を見て、全員が言葉を失った。
 律は、嗚呼―――と目をつぶり、そっと夏音の肩に手を置いた。
 部室が優しい空気に包まれた。

 気をとりなおしたように律が話題を変えた。
「ところでさ……そのしゃべり方なんとかならないの?」
「しゃべり方……だめですか?」

 うっかり沈んでいた夏音であったが、思わぬ指摘にきょとんとした。

「そう。敬語、使わなくていいよ。ほら、なんか堅苦しくって」

 それに同意と澪がうなずく。 

「そうだな。あまり堅苦しくなるのもよくないと私も思う。これから一緒の部でやっていくんだし」
「そう? それなら、そうする。俺もどちらかというとフランクな日本語の方がしっくりくるからね。それより、ねえ律。ずっと気に病んでいたことがあるのだけど」
「ん? なんだ?」
「俺は、君に何をして怒らせてしまったのかな?」

 今の今まで忘れていたらしく、「あぁっ」と思い出した律が憤慨し始めた。

「思い切り鼻で笑われたら、腹立っちゃうだろ? 『ふん、あなたはこんなのも解けないのかしら、お馬鹿さん? オホホ』って言われた気がして」
「No way!! 馬鹿になんてしていない! 誤解だ! あの僅かな間にそこまで読み取る君も大概だけど。そして、何で女言葉なのかな?」
「え、そなの?」
「そうだよ!」
 ぽかんと瞠目した彼女は、ぷっと噴き出して頭をかいた。
「アハハ! 私の勘違いかよ! ごめーん」

 すぐに間違いを認めた律に夏音の肩の力が抜ける。

「はぁ。誤解が解けたようでうれしいよ」
「なんかたかびーな美少女って感じで鼻についたんだよなー。外見で損してるねー」
「外見で得したことはないよ」

 早々に打ち解けている。じゃれあう二人のやりとりに澪が口を挟んだ。

「で、でもずっと誤解されたままでいいの?」
「ありがと。いつかは、どうにかしないとね」
「そう」

 今はどうするつもりもない、とも取れる発言に澪は納得しかねる様子であったが、今この場にある状況は夏音にとって大きな前進であった。

「あ、ところで一番大事な事を確認してなかったんだけど」

 大分打ち解けた雰囲気の中、夏音が笑顔で手をあげる。

「おーなんだー? 何でも聞いてー」

「俺、軽音部に入らないとだめかな?」

 夏音は自分の発言によって茫然自失となった三人の魂が帰るまで数分ほど待った。

 瞳に光が戻ってきた途端、律が口を開く。

「い、いや……ていうか…………入らないの?」

 先ほどから入る体で話を進めてきた一同はここで流れを断ち切るどんでん返し発言にすっかりパニック一色だ。

「てっきり入るものだとばっかり!」
「仲良くなれたと思いましたのに……」
 
 眉尻を下げ、震える瞳で夏音を見詰めてくる彼女たちの姿は罪悪感を覚えさせるほどの威力があった。「うっ」とたじろいだ夏音は何でか自分が悪い事をした気分に陥った。

「ま、待って。入らないとは言ってないだろ?」
「じゃあ、入るの?」
「待って。そうじゃない」
「じゃあ、入らないの?」
「か、考える時間。ジャストアモーメント!」

 夏音は今ここで答えを出さないと、と焦った。しかし、シンキングタイムを貰って呻吟したところで、すぐに答えは出ない。

「ほ、保留でっ!」

 日本人が得意な保留。とりあえず帰ってからじっくり考えよう、と思って絶妙な答えを出したつもりだった。

「……………じゅーきゅーはーちーなーな」
「そ、そのカウントダウンは?」

 目を眇めた律が数え始めた数字はゼロまで間近。

「さーんにーいーち」
「入ります!!」

 その瞬間、歓声が沸く。
 夏音があっと口を押さえたが、もう遅いようだ。

「前にテレビで見た心理学のやつ本当に使えるんだなー」

 見事に夏音の首を縦に振らせた律がぽつりと呟いたのを聞いて、夏音は頭を抱えた。

「いいのかなー。大丈夫かなー」


「とりあえず入部記念に記念撮影―っと」
 ぶつぶつと後ろ向きな言葉を呟き続ける夏音を無視して、律が嬉しそうに笑う。彼女は澪からカメラを奪うと、全員の肩を寄せ合うように指示した。

「笑って笑ってー」

 後日確認した写真の夏音は、想像以上に死にそうな顔をしていて笑えなかったという。



[26404] 第二話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/12/25 01:24

 肩を揺すられるような近くて遠い感覚。夏音はその感覚を遠ざけていたかった。
 このぬるま湯に浸かったみたいな心地よさが消えてしまいそうだから。
 半ば意識が浮上したところで、誰かが自分の肩をゆすっているらしいが、いかんせん自分は眠っていたいのだ。

「Hey! What`s up mom? I`m sleepy now.」
「こら、マムって。誰がお前のお母さんか」
「Huh? ……あれ?」
 目の前にはカチューシャをつけた少女。おでこが目につく。
「まみたん……?」
「……ちょっと寒気がした」
 夏音は数度目を瞬かせた。夏音がアニメにハマるきっかけになった作品の準ヒロイン、まみたん。カチューシャをこよなく愛し、決して離さない彼女はいない。
 目をこすると、そこには田井中律が呆れたような顔つきで夏音を見下ろしていた。
「律がなんでここに?」
 途端に、夏音は額をぺちんとはたかれた。
「こ・こ・は部室! 部活をやる場所であって、ガチ寝する所じゃなーい」
「部室?」
 上体を起こして周りを見渡すと、たしかに音楽室兼軽音部の部室である。いまだ惚けている頭をひねって夏音はとりあえず伸びをした。
「寝ちゃったのか」
 先週、晴れて軽音部に入部した夏音は早速放課後から部室に顔を出すことにした。尻込みしていたものの、入ってしまったものは仕方がない。よく考えれば周りが女の子のみの環境でバンドをやるのも悪くないな、と思い弾む気持ちで部室へ向かったのだ。
 ところが、どうだろう。彼女たちは一向に練習を始めるそぶりを見せるどころか、音楽の「お」の字も見えてこないではないか。
 はて、ここは何をする部活だったかと首をかしげたところで、大変美味なお菓子とお茶に文字通りお茶を濁されてしまったのであった。
 しかし、紅茶を何杯もおかわりできるくらい時間が過ぎても練習をする雰囲気が欠片も生まれることはなかった。
 何もしないなら仕方ない、と襲いくる睡魔に白旗を振ることにした夏音は部室のふかふかソファー(夏音、自主持ち込み品)に体を横たえたのであった。
 そこで意識が途絶えた。ここまで、思い出すのに二秒ほど。

 目をすっと眇めてこちらをじっと見る律に再度あくびを向けた夏音は、ぽりぽりと頬をかいた。
「ごめんよ」
 とりあえず、夏音は謝った。

「うむ、殊勝な態度でよろしい! ここは音楽する場所だからな、ゆめゆめ忘れないように」

 胸を張ってうなずく律は傲岸不遜な態度で身を反らす。あまりに尊大な態度だが、反らしすぎて逆にこっけいだ。

「お前も、何様だ!」

 しかし、そんな彼女も背後から迫る澪に頭を小突かれる。
 律は頭をさすって澪に口をとがらせた。

「なんだよー。澪だって一緒にただお茶飲んでただけじゃんかー!」
「そ、それとこれとは別に……」

 返す刀に思わず顔を赤くした澪であったが、じっと夏音に見詰められていることに気がついた。

「な、なに?」

「練習しないの?」

 痛い沈黙がその場に流れた。
「そもそも、あと一人部員を集めなくちゃないんじゃなかったっけ?」  
 邪気はないが、容赦もない。歯に衣を着せぬ夏音の意見に他メンバーは頭を抱えた。

「お、仰る通りで……ごぜーやす」
 バツが悪そうに言うのは軽音部の部長だった。
「とりあえず、必要なのはもう一人だけなんだろう? 今足りないパートはギター、ヴォーカルだね。俺はどこのパートでも大丈夫だし、こないだはその二つとも引き受けると言っちゃったけどさ。
 新しく入ってくれる人が初心者だった時のことを考慮すると、まだ俺のパートは確定しない方がいいんじゃないかな」

 あまりに淀みない日本語がすらすらと流れる。外人顔の帰国子女に正鵠を射た意見を矢継ぎ早に放たれた彼女たちは、ただ口をぽかんと開けていた。
 返す言葉がないとはこのことである。

「に、日本語上手よねー夏音くんたら」
「そ、そうだな! 堅苦しさもなくなったし」
「その年でバイリンガルだなんて素敵ですね♪」

 夏音はにこりと微笑む。

「お褒めにあずかりまして、ありがとう。俺は別に楽しくやれればいいんだけど……ただ、楽しく………楽しく」
「う………と、とにかく作戦会議だ!!」

 しかし、もう下校時刻だった。
 部室として割り当てられている音楽準備室だが、いつまでも使っていられる訳ではないので、会議は始まってもいないのに延長戦へもつれこむ。
 結局、四人はファーストフード店で話し合いをすることになった。


 マックスバーガー。ローカル規模のチェーン店である。
「Amazing…….この照り焼きhumurger……これこそ最高にクールだ」
「……照り焼き。向こうになかったの?」
「初めて食べたよ!」

 日本に来てからハンバーガーを食べたのは初めてだった夏音からしてみれば、何てもったいない事をしたのだと悔やむほどの事態であった。
 最後にプレートを抱えてやってきたムギはやけにニコニコしながら席についた。
「うふふー」
 頬をおさえて随分とご機嫌な様子のムギに律が何事かと眉をあげた。
「私、ファーストフードのお店初めてで……!」 
「え、マジで!?」
 そんな人種に会ったことない、と律はぎょっとした。
「ええ。『ご一緒にポテトもいかがですか?』って聞かれるのに憧れていたんです……はぁ~。あ、すみません! 始めてください」
「あー、うん。よし! なかなか新鮮な反応が二つも見れたし、作戦会議を開始します」

 議題は、今月中にあと一人部員を獲得するためにすべきこと。

「いったい何を?」
「それをこれから考えるのさー」

 律が何気なくポテトをプレートにどばっと広げるのを見てムギがきらきらとした瞳を彼女に向ける。
 すぐに真似するムギを見ていて夏音はなんだか幼い子供が大人の真似をしえいるみたいだと頬をゆるめた。
「今、入部したらなんかすんごい特典がもらえるとかー」

「車とか、別荘とか……ですか?」

 ムギの何の気なしの発言が周囲の人間を凍りつかせた。
 ぶっ飛んでんなこの娘、と夏音は目の前のぽやぽやした少女の認識を改めた。
 どん引きしつつ、かろうじて律は腹案を出していく。
「すごいけど、それ無理。アイスおごるとか。宿題手伝うとか……あ、英語の予習は全部夏音がやるとか!!」

「めんどい」 

 肘をつきながらコーラをすする夏音はばっさり切る。

「外国にいた奴が、めんどいって言うなよー」
「まんどい」 

 中身がすかすかな会議は煮詰まり、何度か意見を交わしたところで、とうとう律が議論をぶん投げて逃避行動に出る始末であった。部長の耐久力のなさが如実に表れた瞬間である。
 最終的にはポスターを作って掲示板に貼る、という至極まっとうな意見が採用されたのであった。
 延長戦まで話した意味なくない? と誰もが思った。


 翌日。
 四人が書いてきたポスターがいっせいに顔をつき合わせる。夏音は自分で絵心あふれる人間だと自負してきたが、「なに描いてるかわからん」という一言に膝をついた。
 神は二物を与えない。
 根っから器用らしいムギが用意してきた物が一番見栄えが良いとのことで、さっそく掲示板に貼った。 
 あとは、これを見た者が部を訪ねてくれるのを待つだけであった。
 


「ごめん遅くなっちゃった」
「あぁー、いいよ別に。今ちょうどお茶してたとこだし」
 夏音は運悪くゴミ捨ての当番になってしまった。つくづく掃除は生徒が担当するという日本の習慣が恨めしいと思った。
 しかし、こうして遅れて部室に向かったものの、部室には気怠そうに菓子を頬張る律とかいがいしくお茶の振る舞いに勤しむムギの姿しかなかった。
「あれ、澪はまだ来ていないの?」
「澪は、校舎裏の掃除ー」
「そうなんだ」
 彼女も災難だな、と思ったところで慣れた様子で席につく夏音の前に早速とばかりに紅茶とケーキが現れる。
「はぁ、最高ー」
 ほっぺたが落ちそうなくらいに甘い至福の味が口に広がる。そのまま体中に幸福が染み渡るような感覚。
 まったりとした雰囲気が流れる。もうこれがメインの部活でいいんじゃないかという考えが夏音の脳裏をよぎった。
「ところで、夏音はちゃんと楽器持ってきたかー?」
 すっかりリラックスモードで気の抜けた口調で律が夏音に訊いた。
「はいよー。今朝、部室の奥に置いておいたよ」
 夏音はうなずいて立ち上がると、部室の物置の扉を開けて中に入っていく。今朝、置いておいた物を抱えて戻ってくると、肩にギターケースをかついでいた。
「んー、それベースじゃないか?」
 律が怪訝な顔をした。ギターを持ってこい、と言っていたはずだった。別の楽器とはいえ、自分の幼なじみのおかげでケースの中身がギターかベースかくらいの判断はつく。
「あ、ごめん。ギター持ってこいって言ってたんだっけ?」
「おいおい。とりあえずギターを入れて合わせようって話だっただろー?」
「すっかり忘れてた!」

 アハ、と悪びれるそぶりは一切見せずに夏音が謝る。ウインクつき謝罪。

「このハーフむかつくな……」

 ウインクが似合う所など、非常に腹立たしい。

「持ってきたのが別のだったらなー。シンセとVベースでギターの音やれたんだけど……」
「ん、何が何だって?」

 律は夏音が語った事がよく理解できなかった。聞き直そうとしたが、夏音は再び物置に姿を消すとハードケースくらいの大きさがある長方形のケースを二つ抱えてきた。
「よいせっと。エフェクターもね。持ってきたんだ。軽音部で楽器を弾く機会が増えるだろうからねー」
 運ぶの超大変だったー、と軽く汗をふく夏音。律は目をまん丸にして夏音を眺めた。
「それ……全部エフェクター?」
「ん? そうだけど?」
「……開けていい?」
「どうぞー」
 律は恐る恐るエフェクターケースを開けて中をのぞいた。中には見たこともない大小のエフェクターがぎっしりと窮屈そうに詰まっていた。
「へ、へ、へ……へへへ……」
 律の口元がくっとゆがんだ。夏音が異常な様子の律を訝しげに見詰めた。
「頭、大丈夫?」
「お前は何者だ立花夏音!?」
「その言い様はなんだよー」
 びしっと指をさされてムッとした夏音。
「まあー、すごい数ですねー」
 傍らにかがみ込んでケースをのぞきこんでいたムギも驚きを隠せない様子で漏らした。
「これでもメインで使っているやつは避けてきたんだよ。まあ十分気に入っているセッティングだけど。同じの家にあるし。とりあえずどんな曲をやるか分からないから、これだけあれば対応できるかねー」
 これが当然ですが何か、と言わんばかりに淡々と語る夏音にいよいよ言葉を失くした二人であった。
「ひ、弾いて! 今すぐ弾いてみて!」
 まるでプロのような機材の充実。律はその実力はいかに、と食いついた。
「あぁ、そうだね。アンプは流石に持って来られなかったから澪のを借りるとするかな」 
 夏音はケースのファスナーを開けてベースを取り出した。弦がこすれてかすかな金属音が鳴る。
「それ、なんてベース?」
 律がじっとベースを見て聞いた。
「これはフォデラのエンペラーシリーズだよ。よくサブで使ってるんだ」
 幾何学的な模様の木目が広がるボディ。高級感漂う堂々とした迫力を持つベースだった。五弦使用となっており、そのヘッドには蝶のロゴ。
「ベースのことはよくわかんないけど、なんかすごい威圧感だな……」
「まー無駄に年季も入ってるから」
 夏音はケースのポケットからシールドを取り出すと、ストラップの内側に通してジャックに挿しこんだ。そのまま澪の私物であるフェンダーのベースアンプに挿しこみ、音を出せる状態のまま、チューニングをする。
 調弦が済むと夏音は遊ぶようにハーモニクスを鳴らした。
「さー。なんか適当に弾きまーす」
 律とムギは固唾をのんでうなずいた。
 風を切るような音と共に夏音の手が振り下ろされる。



 澪は音楽室へと急いでいた。運悪く自分の班が、やたらと長引くという噂の校舎裏の掃除にまわされてしまったのだ。
 皆はもう集まっているはずである。今日は初めて全員で演奏を合わせる日だった。澪もその事を楽しみにしていたし、抑えられないわくわくが彼女を急がせていた。小走りで階段に足をかけて、のぼる。
 ふと、音が聞こえた。音の力が伝わってきた。
 一瞬、澪の足が床に張り付く。
「な……なんだコレ……」
 音というより、何らかの力が放たれている感じである。それは強力な磁力で澪を引き込む。
 ブラックホールみたいな吸引力の源は音楽室から発生しているようだ。
 澪は二段飛ばしで階段をかけ上がった。
(この音……ベースの音……?)
 澪は躊躇なく音楽室の扉を蹴り開けた。
(やっぱり……)
 予感はしていた。澪はその予感と今目の前にある現実がぴったりと重なる瞬間に衝撃を覚えた。音が聞こえた瞬間、どんな人物がこのベースを弾いているのか頭にくっきりと浮かんでしまったのだから。
 自分の足が細かく震えていることにも気付かず、澪はその場を支配している夏音から体の自由を完全に奪われ続けた。
 かろうじて視線をずらせば、同じように硬直している律とムギが確認できた。
(上手い……上手いなんて言葉を超えている。そんな言葉で語れる場所にいない。彼が、立花夏音という存在がベースを通じてこんなにも私を……私たちを磔にしている)
 うねるグルーヴが宇宙を見せる。音の力が無数の光となり、襲ってくる。あらゆる色彩の洪水が口から、目から、耳から、皮膚の毛穴にまで流れ込んでくる。
 どこまでも広がる存在。
 澪は、ベースがこれだけ多彩な音を奏でる楽器だということに、驚かされた。次々と足下のエフェクターを踏み換え、どこをどう弾いているかわからないようなフレーズが飛び出してくる。ループを重ねては、ダイナミックな旋律を踊らせている。
 澪は自分も同じベーシストとして。こんな風な音を出せたことは一度としてない。
 彼女たちはそれから彼が音を吸い込むようにして演奏を止めるまで、彼の音以外の一切を耳に入れることを許されなかった。

「……律、ムギ?」
 演奏を終えて二人を見れば、何故だか放心状態で発見された。
「だ、大丈夫?」
 反応なし。不安になった夏音は律の顔の前で手をぱしんっと叩いてみた。
「うおっ」
 律の目の焦点が元に戻った。意識を取り戻した彼女の眼の中には今まで夏音に見せたことのない感情が宿っていた。
 驚愕、興奮、羨望。

「すっっっげーーーー!! 死ぬほどうま、うますぎるっ!!」
 律が絶叫した。つられてムギも正気を取り戻すと、がむしゃらに拍手をしながら夏音を褒めちぎった。
「すぐにでもプロになれるんじゃないですか!?」
 その一言に夏音の胸がどきっとなる。
「は、はは……だったらうれしいな」
 まさか、既にプロですとは言えない。
「あ、澪! 澪もいたのか。今の聴いたか、なあ!?」
 律が夏音の背後に向かって声をかける。
 振り返るとベースを担いだ澪が瞠目したまま立ち竦んでいた。
 明らかに様子がおかしい。
(震えているのか……?)
「あ、澪ごめんね。勝手にアンプ借りちゃったよ」
「…………ズルイ」
「え?」
 何かを呟いた澪に夏音が聞き返すと、彼女は慌てて取り繕うように声をたてて笑った。その頬は不自然に引き攣っている。
「いや、何でもない! ハハ、驚いたよ! すごく上手だな……私より、上手い」
「お、おい澪―。そんなの比べる必要ないだろー?」
 不穏な空気をいち早く察した律が明るい調子で澪に声をかけた。
「そ、そうです! 私、澪ちゃんのベース好きだよ?」
 そこにムギも重ねて澪に言う。しかし、澪の表情は相変わらず浮かない。長い髪をかきあげて、夏音を向く。
「もう、夏音がベースでいいんじゃないか?」
「はぁー!?」
 澪のとんでも発言に律が詰め寄った。
「なら、澪は何をやるんだよ?」
「私は……私は何を……」
「なーに言ってるんだよ、みーお。少しおかしいぞ? 校舎裏の掃除で精神がまいっちゃったかのかなー! ほら、ムギが持ってきたいつものケーキだぞー」
 暗い目で律を一瞥した澪は顔をそらした。
「ごめん。今日はちょっと体調が悪いから……」
 そして踵を返して部室から出て行った。残された三人は顔を見合わせた。
「澪……」
 夏音はすぐに澪を追って部室を飛び出した。


 階段を駆け下りて澪の姿を探したが、澪の姿はすでに遠くにあった。
 部室を出た途端、走ったのだろう。全力で。
 夏音も全力で走って追う。
 しかし、思いのほか足が鈍かった彼女は十秒で捕まった。
 夏音が澪の手首をつかむ。
「ヘイ澪!? いったいどうしたっていうんだ?」
 つかまれた腕を躍起になって離そうとする澪。外見に反した握力の前に、やがて抵抗することを諦める。振り向いた澪の顔を見て、夏音は息を呑んだ。
 澪の瞳に浮かんだ涙。震える唇。
「澪……俺のせいなの?」
「ちがう……」
「ちがわないだろ? 俺のベースを聴いたから?」
 そっと問い詰めても、澪はうつむくばかりであった。放課後とはいえ、廊下には生徒の姿がちらほらとあった。ただならぬ様子を見てとった生徒がひそひそとざわめきだした。
「ここだと、目立つな。人のいない場所へ行こう」
 夏音は澪の手を引っ張って人気のない中庭に向かった。

 澪は相変わらず黙ったまま。両者が沈黙を守ったまま、向き合う。
 夏音は内心で焦っていた。先ほどから背中には冷や汗が滝のごとく流れ落ちている。
 あまりこういう事態に慣れていないのもある。
 しかし、何より彼女を泣かせた原因が見当たらない……見当たらないのだが、自分が原因らしい事だけはハッキリしているという。
 自分の演奏が澪の気に障ったのだろうか。夏音には、澪の気持ちがつかめなかった。
 夏音が八方手詰まりの中、どうにか沈黙を破ったのは澪であった。
「子供みたいだって呆れるかもしれないけど……私は夏音のベースを聴いて、絶望のようなものを抱いたんだ」
「絶望……だって?」
「私なんか比べるまでもなく、夏音より下手だ……けど、それだけじゃなくて。私がこれからどれだけ努力したとしてもたどり着けない……突き放すようなあの音……あんなの聴いた後でベースなんか弾けなくなるよ……!」
 最後の方は、言葉が震えてまともに話せない。彼女の口から語られる気持ちは夏音の心を抉った。
「そんな………」
 夏音にはまるで青天の霹靂であった。
 今まで夏音の周りにいたのはプロのミュージシャンばかりだった。彼らは自分のスタイル、音や世界を確立している者たち。
 実力を認められることもあれば、嫉妬を向けられることもあった。中には、あなたみたいに弾きたいと言ってくる者もいた。
 目の前の少女は、自分のように弾けない事が涙するほど悔しいのだという。
 こんな気持ちを抱く人間に直に触れることはなかったのだ。
 尊い、向上心の裏返し。自分のせいで一人のミュージシャンが消えるなど、あってはならない。

「関係ない」

「え?」
「そんな風に自分に線引きをしたらダメだ! 澪は自分の音を憎んじゃいけない! 澪より上手い人なんて世界に幾らでもいるんだ。幾らでもじゃないけど、俺より凄いベース弾く人だってたくさんいる」
 そこで言葉を切り、夏音は澪の肩を寄せた。
「けどね。同じ音を奏でる人なんて一人だっていやしない。その音を奏でられるのはその人以外にいるはずないんだ」
 他人の音を真似ることはできる。だが全く寸部の狂いもなく同じ音はない。僅かばかりの差でも、やはり「同じ」ではないのだ。
 問題は、その音に振り向いてくれる者がどれだけいるかという事だけで。
 自分の目をストレートに貫いてくる真摯な瞳。堂々とした空の色に、澪は引きこまれそうになった。
「これから話すことは、誰かに自分から教えるつもりはなかった。いや、なかったのかな……どっちでも良かったかも」
「ま、待って。話が見えない……!」
 彼女は途轍もない重大性を潜めた瞳とぶつかった。話が見えなくても、今からなんかとんでもない事を打ち明けられる予感がした。
 この強制的な……強引に判らされる感覚、いやだと思った。

「実は俺―――――」

 時間にして、一分。
 物事を語るのに、その時間は長いか短いかはその人次第である。
しかし、この場合は少女にとって十分だった。
「…………………は…………えーーーーーー!!!???」
 澪の悲鳴が放課後の中庭に木霊した。それを聞いた人が思わず何事かとパニックになる程のものだったという。


「お待たせーー!!」
 夏音は部室の扉を開けて、声を張り上げた。
 ムギと律は心配して二人の帰りを待っていたので、ほっとした表情で駆け寄った。
 夏音の横には、恐ろしく顔を引き攣らせた澪が突っ立っていた。
「澪! 心配させんなよ……ん、なんか夏音にされたか?」
 よく見れば、出て行く前より顔が強張っていないだろうか。
「人聞きが悪いことを言うなよ」
 自分をからかう律にむっとした表情で夏音が返す。
「澪ちゃん大丈夫? 何だか顔色がすぐれないような……」
 心配そうに顔をのぞき込んだムギの言葉に澪はあわてて首を横にふった。
「い、いや! そんなことないよ! 気のせい!」
「なんか怪しい……おい夏音、本当に何かしたんじゃないだろうなー」
 ほのかに真剣味を帯びた疑りの目を送られた夏音だったが、涼しい顔で部室のソファーに腰掛けた。
「別に。本当に何もなかったよ?」
「そ、そうだ。何も夏音が実はプ―――」
 じろり。
 と夏音にねめつけられた澪は涙を浮かべて「ひっ」と慌てて言葉をつぐんだ。
「ん……夏音がなんだって?」
「プ……プライドなんて糞喰らえだぜおめーっ! て言ってくれたんだ!」
「な……なんつーことを言うんだお前!!」
 律は夏音に詰めよると拳をにぎった。
「う、ウェイウェイッ!! 澪が納得したんだから、それでいいだろ!」
 かたく握られた拳をみて、夏音が戦慄する。
 割と本気な親友にぎょっとした澪は急いで律を取り押さえた。
「そうだ! 私はそれで納得した! ふっきれた! 私のちっぽけなプライドなんて守るに値しない些細なものだって! さあ、練習するぞー」
「そうだ練習するぞー」
 そのまま、てきぱきと機材の準備をする澪に、それを手伝う夏音。そんな二人の様子を目の当たりにした律がぽかんと間の抜けた顔をつくる。自分の幼なじみはこんなにこざっぱりした性格だったろうか。変な方向に羽化した気がしてならない。
「なんだか、お二人とも急に仲が良くなっていませんか?」
 ムギの冷静なツッコミが入ると「あぁ、言われてみたら」と律もうなずく。すると二人の様子がよけい白々しく見えてきた。
 あくまで疑りの目を向ける律に夏音はばふっと両肩に手を乗っけた。
「ふ、ふふ……秘密を共有することで友となることもあるのだよ」

 顔を近づけて、フランクにウインク一つ。どうにも腑に落ちないといった表情の律であった。

「顔が無駄に良いってのがまた腹立つー」

 何だかんだと騒々しくも最初の修羅場をのりこえた軽音部であった。





[26404] 第三話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/09 03:14

「いやいや、そこはそう訳さないでしょう。日本じゃ英語はこうやって習うの?」
「んー、私は特に教えられた通りに訳したつもりだけど」
「間違ってはないんだけど……ただニュアンスがちぐはぐな感じかなー。海外に住む時がきたら、こういう些細な違いが大恥につながるんじゃないかな」
「将来、か……使うことになるのかな」
「それは澪の進む道次第だけど、小さなことでも正しく覚えておいて損はないよ」

 音楽準備室―――またの名を軽音部部室―――では、恒例となったティータイムのお時間となっていた。
 今はこうして机の上には菓子とお茶の他に勉強道具が広げられている。というのも、律と澪が本日出された英語の宿題の手伝いを夏音に頼んだのだ。自他共にバイリンガルと豪語している夏音にとってはお安い御用で、快く引き受けた。
 ちなみに律は早々に離脱して、勉強とはまったく関係のない話題でムギと会話に華を咲かせている。
 唯一、真剣に夏音の話を聞いているのは澪のみであった。
「ふん……ん、んーdon`t despair? なんかこの教科書、ブリティッシュとアメリカンがごちゃ混ぜだな。俺なら普通don`t worryって言うね、つまり――」
「あーなるほど!」
 そんな夏音と澪を横目に律は頬に手をあてて二人を茶化す。
「ずいぶんと仲がよろしおすことねー!」
 その瞬間、俊敏なガゼルのようなしなやかさで律に肉薄した澪の拳固が律の頭蓋に抉り込まれる。
「お前もちゃんと聞いとけ! どうせ後で泣きついてくるだろうが!」
「い、いたひ……最近ひねりが入ってきてヤバイ……ま、終わった後に全部見せてもらおうと……じょ、冗談だよ!」
 怒髪天をついている澪による二発目を回避すべく律は椅子からのけぞった。
 夏音は「仲睦まじいねー」と笑った。このコンビのどつき漫才も早くも恒例と化したやりとりであった。そんなぎゃーぎゃーと騒々しい部室を訪ねてきた人がいた。
「こんにちはー」
 ニコニコと部室に入ってきたのは音楽の担任の山中さわ子であった。
 この女性教師は夏音や他の部員とも面識のある人物であった。軽音部の四人も元気よく彼女に挨拶を返す。譜面代を借りに来たと言ったさわ子はふと夏音に視線を向けて微笑んだ。
「あら、あなたやっぱり軽音部に入ったのね」
 以前、夏音が楽器経験者であることを的中させた彼女は、実は澪や律に彼のことを紹介して、軽音部の部員獲得に一役買っていた影の立役者であった。 
「はい、とっても楽しいですよ」
「そう、よかったわ。じゃ、そんなあなた達に朗報よ」
 優雅にほほ笑んでテーブルの上に一枚の紙を置き、一言。
「入部希望者がいたわよー」
 なんと、待望の新入部員。果報を寝て待つ訳ではないが、ただお茶をしていただけで訪れた良い報せに一同はわっと沸き立った。
「よかったねー」
 夏音も軽音部の部員として、安堵した。これで廃部を逃れることができる訳である。
「それと、素敵なティーセットだけど飲み終わったらちゃんと片付けてね」
 最後に教師の顔で優しく注意すると、山中先生は部室を出て行った。
 
「よっしゃーー!! 廃部じゃなくなるーー!」
 律が入部届を手に椅子の上で跳ねる。その際にがたりとテーブルが揺れて紅茶がこぼれたので、澪が非難の目線を送ったが当人は気にもしない。
 一同は、そろりと椅子に座った律を囲んで顔を寄せ合ってその紙を覗き込んだ。
「どれどれ……平沢唯……なんか名前からすごそうだぞ。なんだろこのデジャヴ」
「やっぱギターだよな」
「ギターかねー」
「どんな方が来るか楽しみですねー」
 ただ、皆浮き足だっていた。
 無理もない。夏音自身も新しい部員が来るということに胸が高鳴っている。
 それは新しい友達、仲間が増えるということなのだから。
 ああもうこれでリア充への道は近いやったぜと密かに胸を高鳴らせる夏音であった。



 最近の夏音は放課後を楽しみに学校に来ているようなものだ。つまり、その放課後の時間が削られるのは、如何ともし難く耐えがたいことなのだ。
 だというのに度々自分をつけ狙ってくる英語の先生につかまってしまった。この教師に捕まると、何故か英語で世間話をするハメになる。
 ひどい発音でぺらぺらと喋る先生にいつも辟易させられてしまう。
 廊下でばったり会ってしまい、「Shit」と小さく漏らしたが、相手は明らかに迷惑そうな夏音の表情などお構いなしに駆け寄ってきた。
 自分を発見した際のその教師の顔といえば、大好きなご主人さまの姿を視界に捉えた犬のよう。こんな可愛くない犬はいらん、と思った。
 十数分のぐだぐだな会話を終え、何とか解放されたところで急ぎ足で部室へ向かう。
「おや?」
 廊下を歩く途中からどこからか楽器の演奏の音が漂ってきた。もしや、と階段にさしかかると、明らかに上の階から聞こえるようだった。
 階段を上りつつ耳をすませていると、曲が止まる。何だか少し前にも似たような経験をした覚えがあった。
「珍しく練習しているのか?」
 雨か槍でも降るかな、と三段飛ばしで残る階段をすいすいのぼっていった。

「お疲れ様です!」
 夏音は抜けの良い透き通った声を共に入室した。
 そこに軽音部のいつもの反応はなく。
 ぽかんと固まる見覚えのない少女がいた。
「……知らない子」
 夏音は物珍しそうにその少女に近づいた。
 その少女も、突然謎の大声をあげて部室に入ってきた人物に驚いた様子で目を丸くしていた。
 これといって特徴はないが、ムギとは違う意味でほわーんと独特の丸い雰囲気を醸し出している少女であった。
「遅かったな」
 澪が遅れてやってきた夏音に目を軽く目を尖らせた。
「いや、英語の先生に捕まってたんだ察して。それより、そちらさんは?」
 夏音は新入部員の人ではないかと、半ば確信的に尋ねた。
「ああ、この人が平沢唯さんだよ。たったいま軽音部に残ってくれることになったんだ!」
「ん? 残るってどういう事?」
「平沢さん、本当は楽器の経験がなくてやめようと思ってここに来たらしいんだ」
 澪が苦笑を浮かべながらそう説明した。
「そうだったのかい?」
 目を丸くした夏音に問われると、彼女はびくりと肩を揺らして赤くなった。
「お、お恥ずかしながら……でも、今演奏を聴いてみて、とっても楽しそうだなって。だから、軽音部続けてみることにしたんです!」
 そう言った彼女の口調は力強かった。
「楽しそうだよね。俺もそう思うよ」
 うんうんと頷きながら夏音は平沢の肩に手を置いた。
「軽音部へようこそ!!」
「……っはい!!」
「はーい! それなら、軽音部活動記念にーー!!」
 律が澪のカメラを勝手に取り出してきた。夏音は「またか」と苦笑した。
もちろん大歓迎だ。

「もっと寄って寄ってー」
 流石に、自分撮りで五人はきつかった。
「いっくよーん!」
 隣で上気する呼吸音とシャッター音が過ぎ去った。
 後日、できあがった写真は律のおでこから上までしか写っていなかった。それを見た夏音に大爆笑された腹いせに見事なボディーブローが決まったという。



 人間の基本は挨拶、自己紹介から始まる。
「唯でいいよー」
「よろしく、唯」
「実は私、学校で夏音君のこと見かけた時、本物の外人さんだって思ったんだー。何で男子の制服着てんのこの人って!」
「はははー! やっぱり……やっぱりそうなんだ…………」
 言葉がナイフのように心を刻むこともある。


 という感じに唯を五人目に据えた軽音部はこれにて廃部を回避することと相成った。
 今のところ唯は何一つ楽器の経験がないそうなので、この機会にギターを始めることにするらしい。初心者が一番とっつきやすいという理由もあった。
「ところで、結局夏音は何をやるつもりなの?」
 律が保留していた夏音のパートの件を指摘する。
「そうだな。ギターは二本あっていいだろうから、ギターかな」
 それに対して、まあそうだろうと意見が一致した。しかし、夏音がそこでぽつりと言い添えた。
「でも、ベースもやりたいんだなあ」
 夏音の言葉に澪がぎくりとした。律は「まあ、あれだけ弾けるんだし」と納得したが、同時に首をひねった。
「曲によってベースを変えるのもアリ、かな? Fullarmorみたいにツインベースとかやっちゃう!?」
「ツインベースか……できないことはないけど……いや、面白いかも」
(そうなると、六弦フレットレスの出番かな)
 するとおずおずと澪が口を開いた。
「夏音がベースをやりたいなら、そういうのもいいと私は思う」
「ま、いきなりツインベースはやり過ぎだとしても。例えば俺がベースをやる時は澪がヴォーカルとか」
「ヴォーカルっ!?」
 夏音がそう提案すると、澪が例の如く顔がゆでダコ状態になった。
「そう。何か問題ある?」
「は、恥ずかしい……っ」
「じゃあ、澪がヴォーカルで」
「え、やだ!!」
 恥ずかしがる澪をついからかいたくなってしまう夏音であったが、あまりに拒否反応を起こすので何がそんなにいやなのだろうかと真面目に首をかしげた。
「別にそこまで嫌がることかなー。歌に自信ない?」
「人前で歌ったりしなきゃいけないだろ!?」
「それは、これからのことだからよく分からないけど」
「これからライブとかあるだろうし……たくさん人の前で歌うなんて私にはとても……男の人もいっぱいいるだろうし」
「俺も男だ」
 延々と続きそうなやりとりにしびれを切らしたのか、ムギが澪に助け舟を出す形となった。
「まあまあ。無理に歌って貰う事もないんじゃないかしら? とりあえず夏音くんはギターを弾けばいいと思います。それに、せっかくだから平沢さんに教えてあげたらどうかしら?」
 もっともな意見だと皆うなずいた。
「ああ、そうだね。俺でよければギター教えようか?」
「ほんとー!? ありがとう!」
「じゃあ、まずギター買わないとね」
「え、レンタルとかしてくれないの?」
 と、彼女は目をパチクリさせた。
「貸せるギターはもちろんあるけど、それは唯のためにならないよ。自分で選んだ楽器を使わないとね」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
 そういうものなのであった。






 唯はまだ両手で数えられるくらいしか足を向けた事がない階段をゆっくり、一段ずつ上がっていた。
 人生十余年と生きてきた中で部活動などに所属した経験がない彼女であったが、高校生になってついに部活動に籍を置くことになった。しかも、自分が関わることはないだろうなと思っていたバンド。人生、何があるか分からないものだ。
 部活も、音楽をやるのもすべて初めての経験。
 これから踏み入れるのは真っ白な世界だ。
 どんなものが自分を待っているのか。そう考えた時の浮き立つ気持ちを、抑えることができなくなる事がある。
 授業中や、ふと夜に部屋でごろごろしている時など。新しくできた仲間の顔が浮かんできたり、あれやこれやと想像しているだけで足がじたばた動いてしまう。
 そう。今までの人生とは、違う。
 幼稚園の時も、小学生の時も。中学生になっても、ずっとぼーっと生きてきた。
 でも、今の唯には確かに新たな世界の扉が開かれたのだ。
「今日のお菓子はなんだろうなーっ」
 わくわくが止まらない。胸とか胃とか。


「こんにちはー」
 唯が部室の扉を開けて中に入ると、もう唯以外の全員が揃っていた。座席をくっつけて座っている三人、とお茶を立ち振舞っている一人。
 この四人が唯の軽音部の仲間である。
 唯が近づいていくと、長い黒髪の少女が片手をあげて片笑んできた。
 ベース担当の秋山澪。
 唯の中では背が高くて、格好いい大人の女性という印象の子であった。それと同時に唯が一番かわいらしいな、思う人だ。彼女は見た目のクールさとは裏腹に意外な一面も持ち合わせている。
 ふと唯が、何故ギターではなくベースを始めてのかという質問をすると。
「だ、だってギターは……は、恥ずかしいっ」
 ぽっと顔を赤らめて言うのであった。
「は、恥ずかしいの?」
 何が恥ずかしいのだろうと唯は驚いて聞き返したのだが、
「ギターってバンドの中心って感じでさ。先頭に立って演奏しなきゃいけないし……観客の目も自然に集まるだろ? 自分がその立場になるって考えただけで……」
 そこまで言うと、彼女の頭から見えないはずの蒸気が噴き出る。まるでピナッツヴォ火山みたいに。
「うおぅ!?」
 エネルギーが抜けたようにしおれる澪の肩を抱いて介抱するのはキーボード担当の琴吹紬。本人曰く、「ムギって呼んでね」とのこと。彼女を表す言葉としてはおっとりポヤポヤ。これまた可愛らしい人である。
「ムギちゃんはキーボードうまいよね。キーボード歴長いの?」
「私、四歳のころからピアノを習っていて。コンクールで賞を貰ったこともあるのよ?」
 微笑みながらしれっと言ったムギに、唯は何故軽音部にいるのだろうと疑問を抱いた。
 彼女に関しては疑問が深まるばかりだった。
「最近の高校ってこんな感じなのかなー」
 とやけに物が揃っている部室を一望して唯が感心していると、
「あぁー、それは私の家から持ってきたのよー」
 と微笑むムギは何者なのだろう。どこかのご令嬢という線が深い。
 唯には初めて接するタイプであることは間違いなかった。
 
 感心しながら、唯はお茶を一口すする。
 そしてふと隣に目を向けた。
 唯の隣に座るドラム担当の田井中律。軽音部の現部長で元気いっぱいの明るい女の子という感じが全身にあふれ出ている。
「律っちゃんはドラム~っって感じだよね!」
「なぁっ!? わ、私にもれっきとした理由が! そう。聞けば誰もが感動する理由があるんだぞ!」
「へー、どんな?」
「…………か、かっこいいカラ……」
「そ、そこ!?」
「だ、だって! ギターとかベースとかキーボードとか! ぬぁーー」
 すると彼女は突然、頭を抱えて悶絶しだした。
「ど、どしたの?」
「チマチマチマっチマ! 指でそんな動き想像するだけで……ぬがぁーっ! って……なる!!」
 強引な理由だ。
「そ、そうなんだー」
 深くは踏み込むまいと思った。さらに、唯は視線を横にずらす。
 窓から差す斜陽に照らされながら優雅にお茶を飲むのは、結局楽器は何をやっているのかはっきりしない立花夏音。
 彼は軽音部でただ一人の男の子で、ずっとアメリカに住んでいたいわゆる帰国子女というやつである。
 母親がアメリカ人で、夏音はダブルなのだそうだ。
 現実にお目にかかった事がないくらい綺麗な男の子で、唯は初めて彼を目撃した時には本当にこんな美人がいるものだと感動した。物語のお姫様がそのまま飛び出てきたみたいな容姿で、硝子細工みたいに繊細な印象の彼はまるっきり女の子に見えてしまう。堂々と女みたい、って言うと彼は変な顔をする。だから、唯はあまり言わないように気をつけることにした。
 何より彼は音楽に関してはすごい一面を持っているらしい。
「夏音君はどんな楽器でも弾けるんだよね?」
 唯が尋ねると彼はカチャリとお茶を置き、唯の目をじっと見た。
 誰かと話す時に、真っ直ぐに相手の目を見詰める彼は本当に綺麗な青い目をしていて、おまけに目力が凄くて慣れないとつらい。ムギもよく見れば瞳の色素が薄いけど、夏音の場合はハッキリと青く見える。
「何でも、はできないよ。ギターにベース、ドラムにサックスに……あとピアノとか」
 さらっとウインクをまじえて語ってしまうのも凄い。流石アメリカ育ち。こんなに全てがアメリカンな彼だが、びっくりするくらいに日本語がぺらぺらなのだ。
本当は日本語もしっかりできるのに、その顔が原因であまり周囲のクラスメートと馴染めないのだと夏音は悲しそうに言っていた。
「それでもすごいよーー!! いつから楽器を弾いているの?」
「そりゃあ、小さい頃からだよ」
「え、一歳くらい?」
唯が聞き返そうとしたら、ムギがおかわりをすすめてくれたので話が中断された。
「そういえば平沢さん、もうギターは買ったの?」
 澪が唯の名を呼ぶ。
「唯、でいいよ! 私もすでに澪ちゃんのこと、澪ちゃんってもう呼んじゃっているし!」
 ぜひ、フランクに呼び合いたいものであった。唯がそう言うと、澪は気恥ずかしそうに逡巡してから上目遣いにこちらを見て――、
「ゆ……ゆいっ」
「はぅあーっ!!」
おそらく天然だろう、こういう子がモテるんだろうなと思った。唯のハートにメガヒットした。
「で、唯~。ギターは?」
 律が話題を戻す。
「ギター? あ、そーだった! 私、ギターやるんだっけ!?」
 完全に唯は忘れていた。毎日のようにお茶をする部活だと思いかけていたくらいである。
 他の四人はそんな唯に苦笑するしかなかった。
「軽音部は喫茶店じゃないぞー?」
 澪が少しきつい口調で唯を叱る。
「ごめんねー。ギターってどれくらいするの?」
 これは楽器初心者の唯には見当もつかない話であった。すると面倒見が良いのか、澪は顎に手をあててすぐに首肯する。
「安いのは一万円台からあるけど、あんまり安すぎるのは良くないからなー……五万円くらいがいいかも!」
「ご、五万円かー。私のお小遣い十か月分……っ!!」
 そこにすかさず、澪が補足した。
「高いのは十万円以上するのもあるよ」
「千万円以上するのもあるよー」
 そこに夏音がのんびりとした口調で補足した。
「せ、せんっ……それはもう考えられないです……でも五万かぁー。ほい律っちゃん!」
「なに?」
「うふふ、部費で落ちませんか?」
「アハハー落・ち・ま・せ・ん」
 おとといきやがれ、と言うことか。唯はがっくりと肩を落とした。
「どっちにしろ楽器がないと何も始まらないぞ?」
 夏音が大皿からブルーベリータルトを一つ取りながら言う。
「よーし!」
 律が立ち上がり注目を集める。
「今度の休みにギター見に行こうぜ!!」
 唯は楽しみが増えたと喜ぶ内心で、貯金箱の中身を想像して胃が重たくなったのであった。

  
 まわりまわって夏音である。
 だだっ広いバスルーム、両足を伸ばして裕に余る浴槽に浸かっていた。髪を頭上でまとめて濡らさないようにして、ふんふんと鼻歌を歌う。
 翌日に控えた予定に興奮を収められなかった。時折、バシャバシャーと子供のように足を跳ねさせる。
 風呂場に備え付けた防水仕様のスピーカーから流れるBGMに身を委ねながら、うきうきと頭を揺らす。メガデスのHoly Wars。
 明日は軽音部の皆と初めてショッピングに行くことになっている。これでは、まるで本当にリア充そのものではないか。
 いいのだろうか。自分が、いいのだろうかと何度も反芻した。

「うー…………ビバノンノンってかーーーっ!!!」
 心は半分、日本人。


 当日。このように女の子とお出掛けというのは初めての経験であった夏音は何を着ていくか非常に迷った。
 小さい頃から夏音の洋服をトータルプロデュースしてきた母は不在。服装について聞ける兄弟もいないので、自分だけが頼りだった。おそらく歩くだろうし、カジュアルな格好が好ましいかと考えたが生憎洗濯をため込みすぎて着ることはできない。
 仕方なくタンクトップを二枚重ねた上に、襟が広くて肩出しに近いニットのセーター。ピタッとしたパンツという組み合わせになった。 
 集合の場所に着くと律、澪、ムギの三人が集まっており何やら歓談していた。
「お待たせ!」
 夏音が声をかけると、彼女たちはじっと夏音を見詰めてきた。上から下まで視線が這って居心地が悪い。
「ほ、ほら! やっぱりちゃんとした格好だろう」
「これ、ちゃんとしてるか? どう見ても女物まじってないか?」
「Yシャツメガネが……」
 自分の服装についての話題だったようだ。
「………なかなか気分を悪くする話をされているぞ」
しっかり三人のひそひそ話が漏れていたのを聞きとっていた夏音。全然声が潜まってないもの。
 するとバツの悪そうな顔をして律が笑った。
「いやー。夏音がどんな格好してくるか予想してみようって盛り上がっちゃってさー」
「別に気にしてないケドさ。この格好って変?」
「いえ、とっても似合ってますよー」
「よかったー。俺、あまり自分で服装決めないから悩んじゃったよ」
「じゃ、いつもは誰が決めてるんだよ?」
「母さんが俺の服選ぶの好きなんだ。今までは母さんが寄越してくるやつを言われた通りに着てました」
「ま、マザコンかよ……」
 律が「うっ」と身を引いた。幸いにもそれが夏音の耳にとまることはなく、むしろ上機嫌で笑っていた。
「そっかー。俺のセンスでも案外イケるんだなー。気分がいいからみんなに冷たいものでもオゴっちゃおうかなー」
「素敵よ夏音ちゃまーん……おっ唯だ」
 態度を180度ほど急変させた律が尻尾を振っていると、横断歩道の先に唯の姿を発見した。
 自分以外が既にお揃いであることに気がついた唯は急いで横断歩道を渡ってくる。はずだった。
 通行人とぶつかる。
 犬と戯れる。
 百円を見つける。
「あと数メートルなのに……なぜ辿りつかない!?」
 全員の心が一致した。

 
 五人集まったところで、さっそく商店街の中を歩いて楽器屋へ向かうことになった。
 聞くところによると、唯は母親にお小遣いの前借りをしてもらって、何とか五万円を用意する事ができたそうだ。
「これからは計画的に使わなきゃ!」
 それは厳しい戦いになるだろう。それでも唯はうきうきしながらむん、と意気込んだ。
 これから使えるお金が少なくなるとしても、もうすぐギターが買えるのだ。
 まさに前途洋々の気分なのだろう。
「……使わなきゃ……いけないんだけどさ……今ならこれ買えるっ……」
 唯は商店街の洋服屋のウィンドウの中の服の目の前に張り付いた。
「これじゃ前途多難ってやつだね」
 夏音はふっと溜息をついた。律がこーらとたしなめるも「少し見るだけだからっ」と言い置いて唯は店内へ走っていってしまった。その後を律が仕方なく追う。
夏音は肩をすくめて、澪と視線を合わせた。夏音が先にいこうか、と言いかけたところで。
「しょうがないな……私たちも入るか」
「そうねー」
「え、そうなの?」
 当然のように澪が言うもので度肝を抜かれた。
(俺が、この店に?)
 見るからに女の子の洋服屋さん。ファンシーな外装。
 澪たちはさっさと入店していった。独りで残されるのも嫌だったので、夏音もしぶしぶ店へ入ることになった。ふりっふりできゃぴきゃぴな世界の中を迷子になりかけた中で、自分が普段着ているような物がレディースとして売っている事に瞠目した。
「へー。女の子も着るんだー」
 新作のワンピースを本気で店員に勧められた時は、涙しそうになった。
 精神をがっつり削られて、やっと店から出たと思いきや、次は雑貨屋。デパートの地下と寄り道は続く。
 途中に寄ったゲームセンターで夏音のテンションが上がったせいで、長く時間を潰した後、一同は喫茶店でひと息ついていた。
「ひひー買っちったー」
 律も買い物をして満足。あー楽しかったまた来ようね、とその場に共通の充足感が満ちた時。
「でも、何か忘れているような……」
 唯がそう言った瞬間、夏音はついに叫んだ。
「楽器屋だよっ!!!」
「あっ、しまった!!」
 一同は当初の目的をすっかり忘れていたことに震撼して、ばっと席を立ち上がった。
 ちなみに、そこのお茶代は夏音がすべて出した。颯爽と伝票をもって会計をすませてきた夏音に四人の女子の評価がぐんと上がる。

「10GIA」

 ここのビルの地下に目当ての楽器屋があるという。一行はエスカレーターで下の階におりて楽器屋に入った。
 店内に入ると、静かなBGMやギターが試奏されている音が耳に入った。
 唯には壁一面にかけてあるギターやベース、弦やシールドにエフェクターなどの光景が真新しく映っているようだ。
「すごーい! ギターいっぱい!」
 新鮮な反応に夏音の頬もゆるんだ。
「ねえねえ夏音君。このギターって……」
「それはヤメトキナ。ジミー・ペイジになりたいの?」
 初心者にはまずおすすめできるものではない。
 夏音もビリー・シーンを真似てツインネックベースをオーダーメイドさせた過去があるのであったが……今ではあまり使わない。
「唯ー何買うか決めたー?」
 律が急かすように唯に問うが、ぱっと決められるものでもないだろうと夏音は呆れた。
「うーん……なんか選ぶ基準とかあるのかなぁ?」
 当然の疑問である。
「まあ音色はもちろん。ネックの太さや重さ、フォルムなんかもたくさんあるからね。ただ、その予算で決めるのであれば見た目を重視した方がよいかもしれない。あとはフィーリングで」
 すらすらと説明した夏音をよそに、唯は思いがけない代物に目をつけてそちらに気を取られていた。
「聞いてないですね唯さん」
 顔をひきつらせた夏音であったが、唯が夢中になっているギターを見て、目を軽く見開いた。
「へえ。レスポールか……またすごいのに目をつけたねえ。その予算じゃ到底買えないよ」
「このギターかわいい~」
「あくまで聞かないねえー唯さん」
 さすがに肩を落とした夏音であった。
「そのギター25万もするぞ?」
 律が値札を見てたまげた。
「ほ、本当だーっ。これはさすがに手が出ないや~」
(やっと気づいてくれたか唯よ……)
 律が別の場所に安価なギターがあると指摘したが、唯はそこを頑なに離れようとしなかった。
 よっぽどそのレスポールに惚れてしまったのだろう。
 ただ、夏音は初心者がいきなりギブソンというのもどうだろうと思った。はじめから良すぎるギターを使うのもどうかと思うし、良いギターでいえばストラトの方が扱いやすい。それにレスポールは折れやすいし曲がりやすい。やはり、初心者が扱うのには少し難儀する代物なのである。
「唯、このギターはもう少し唯がギターを続けてからにしない?」
「え、なんで?」
「まあ、いろいろと難しいギターなんだよ。丁寧に扱わないといけないし、いきなりこんな高いギターを買わなくてもいいと思うんだ」
「ええー、でもこれが気に入ったんだモン……」
あくまで引き下がらない唯に夏音も微妙な表情になる。
(フィーリングが大事なのもわかるけど……金銭的になぁ)
 そんな唯を見て何か思うところがあったのか、澪が「そういえば……」と自分が今のベースを買った時の話をした。澪も今のベースを買った時に悩みに悩んだそうだ。レフティは数が少なく、種類も多く選べない。ピンからキリまで値段があるとしても、ちょうど良い価格帯で探すことは難しいのだ。
 ちなみに律がYAMAHAのヒップギグを買った「値切り」話はいっそ感心するくらいであった。それを唯に求めるのは無理な話だが。
「とりあえず、試奏でもしてみたら?」
 夏音がそう提案すると、唯はきょとんとした。
「しそー、って何するの?」
 思わずこけそうになった夏音。何とか踏ん張って、目の前のほんわか娘に説明した。
「実際にこのギターを弾かせてもらうんだよ。実際に弾いてみないと分からない事もたくさんあるだろう?」
「で、でも私ギターまだ弾けないし……」
「あ、そうだったよね……なら、俺がちょっと試しに弾くよ。確認したいこともあるし」
 と夏音は店員を呼んで試奏をさせてもらうことにした。防犯用のタグを外した店員がレスポールを片手に夏音に聞いた。
「アンプはどれ使いたいとかありますか?」
「あ、ならそのマーシャルで」
 店員はアンプのところまで夏音を案内した。そのまま近くにあった椅子を引き寄せてセッティングをしようとしたが、あとは自分でやるので、と断った。
 夏音を囲むように軽音部のメンバーが立ち、てきぱきとセッティングする夏音を眺めていた。近くにあったシールドをジャックに差し、アンプの電源を入れてつまみをすべてフラットにする。チューニングを手早く済ませてアンプをいじった。

 唯はその一挙動を頬を赤く上気させて見守っている。
 セッティングが整い、夏音はピックを振り下ろした。純正なレスポール・スタンダードの音色が響く。
「おおーーっ!!」
 唯が歓声をあげる。
 そのまま夏音は試奏を続ける。
「イントロ当てゲーム!」
 ふふふ、と笑ってブルージーな曲調に変えた。
「あ、この曲は……クラプトン!」
 横にいた澪が驚いた声を出す。
「次は……天国への階段、だろ! ツェッペリンかぁ」
 律が弾んだ声をあげた。
「あと、……これはわからないな」
 腕を組んで悩む澪に演奏を止めた夏音はにやりと笑って「スティーヴ・ヴァイのソロでしたー」と意地悪く答えた。
「せめてホワイトスネイクの曲にしろ!」
 と律が文句を言った。夏音は店員を呼んでギターを渡した。
「で、試奏してみてどうだったの?」
 唯が拳をにぎりしめて夏音に聞いた。
「弾いてみた限り、特になんの変哲のないレスポールだった。小まめに調整しているみたいだし、あれなら大丈夫だと思うよ」
 にっこり笑って太鼓判を押した。
(それに、ちゃんとしたクラフトマンもいるみたいだし、渡す時に整備してくれるだろうしね)
「それより唯はギターの音聴いていてどうだった?」
「可愛い奴でも割とやる子って感じ!」
「そ、そう……」
 唯の感性はなかなか面白いと思った。
「ていうか! 値段の問題じゃね?」
 律が思い出したように二人の間に割って入った。
「あ、そうだった……」
 再びしょぼんとなる唯であったが、律が思わぬ提案を出した。 
「よぉーーしっ! 皆でバイトしよう!」
「ば、いと?」
 夏音が耳慣れぬ言葉にぽかんとして首をかしげる。
「うん! 唯の楽器を買うために!」
「えぇーっ!? そんな悪いよっ!」
 律の発言に誰しもが面食らったが、唯が一番色を失っていた。
「これも軽音部の活動の一環だって!」
「り、りっちゃん……っ」
「私やってみたいです!」
ムギは拳をにぎって顔を輝かせた。
「そうか! うっしゃーーっ!! やぁーるぞーおーーっ!」
 律が拳を振り上げると、ノリノリで従うムギ。
「ばいとって何?」
「仕事のことだよ……私、どうしよ」
 横で呆れたような目をしていた澪が補足してくれた。
「仕事……か」
 彼女たちは、唯のために労働しようと言っているらしい。
「俺、そういう仕事って初めてかも……やってみようかな」 
「えぇー夏音も!?」
 全員、澪が浮かない顔をしていたのは見ないふりをした。


 その夜のこと。
 リビングで独り夕食をとっていると、電話が鳴った。
「Hi? あ、じゃなかった。もしもし立花です」
『俺だよ夏音!!』
「その声は父さん?」
『元気にしていたか?』
「まあね。そっちはどう?」
『何も変わらず、最高さ! 俺にはアルヴィとお前と音楽と……この手羽先があればいい!』
「てばさ…? まあ元気そうでよかったよ」
『夏音。何か変わったことはあったか?』
「………俺、軽音部に入ったんだ」
『ほう……軽音部になー』
「楽しいよ。でも、まだ始まったばかり…………俺は自分のフィーリングが間違っていないと信じているし。心配しないで」
『そうか。なら、安心したよ……夏音。そろそろジョンの奴が可哀想になってきたから、たまには奴の要望にも応えてやれよ。俺の方にうるさくてかなわない』
「まあ、向こうが時間を合わせてくれるなら……」
『まあ、お前にはお前の時間がある。大切にするんだよ』
「うん、あ……そういえば俺アルバイトってやつをすることになった!」
『アルバイト? また、何で?』
「うん、いろいろとね! 想像つかないだろ!? とにかく楽しくやっているよ」
『……そうか。母さんにも代わってやりたかったんだが、あいにく今は外しててな。俺もそろそろ行かないといけない。とにかく元気にしているようで安心したよ夏音』
「うん。母さんにもそう伝えておいて。忙しいならもう切るよ。じゃあね、父さんおやすみ!」
『ああ、誕生日やイースターの時に帰れなくてすまなかったな。愛しているよ、おやすみ』
「俺もだよ。プレゼントは最高だったし、何も気にしていないよ。バイ」
電話を切った夏音はまた食卓についてからあることを父親に言いそびれたことを思い出した。
「こっちでも友達ができたんだ」


 それが全員異性だとは言えなかった。
 

 



[26404] 第四話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/10 02:08
「なんのバイトがいいかな~」
 放課後。軽音部の一同は仲良く肩を寄せて何かの雑誌を熱心に眺めていた。溜め息とページをめくる音が先ほどから連続している。
「やっぱりフリーペーパーじゃあまり良い求人ないなー」
 肘をついて肩を落とす律は「ネットも使うかー」と溜め息をついた。
 彼女たちが真剣な眼差しを向けているのはアルバイト情報が載ったフリーペーパーである。変なところで金をけちったのが災いしてしまったと一同は肩を落とした。
 何故こんな事をしているかというと、先日の話合いで唯のギターを買うために全員でアルバイトをすることになったのだ。   
 夏音は他人の楽器を買うのに働いてあげようだなんてどこまでもお人好しな子達なのだろうと呆れていた。しかし、それは自身にも言えることだ。夏音としても、アルバイトというのも初めての体験である。なかなか面白そうだと自身も興に乗っていた。

「ティッシュ配りとかはー?」
「あれも結構きついらしいぜー」
「ファーストフードなんかどうですか?」
(なるほど、アルバイトにも色々あるんだね)
 夏音はそれらの会話を真剣な表情で何度も頷きながら聞いていた。アルバイト情報誌なんていうものがあること自体、初めて知ったくらいである。
 意外にも働き先を決めることは難儀を極めた。良い条件を見つけたとして、どんな提案が出たとしても、接客を避けられないバイトなどは極度の恥ずかしがり屋の澪にとってハードルが高くなってしまう。無理をすると精神的に多大な苦痛をもたらして屍と化してしまうくらいに重症だということが判明した。
 行く末を心配された澪だが、一同は彼女が屍となるのを防ぐため、遠回りでも他の線で探しているのであった。
「どっこも高校生不可だってさー」
「せちがれぇ世の中だねりっちゃん……」
 そんな会話がしばしば挟まれる。その都度、澪が申し訳なさそうに体を揺するのをムギが慰めるということの繰り返し。エンドレスにループしそうな流れにしびれを切らした夏音が口を開いた。
「この際、少しくらいきつい仕事でも我慢しようよ。世の中きつくない仕事なんてあまりないでしょう?」
 全員が押し黙って夏音の言葉に目を丸くした。
 見るからに「箸より重いものは持ったことありませんわオホホ」な深窓のお嬢様然とした人間から飛び出た全うな言葉が意外だったのだ。
「まあ……夏音の言う通りだよな。私ら全員を雇ってくれるところなんて単発で力仕事ばかりだし……」
「そもそも全員で同じ場所で働く必要あるのかな?」
「それはそうなんだけど。ほら、うちの澪を単独働かせに出すのは心許ないっていうかさ……わかるだろ?」
「なっ! 余計なお世話だ!」
 完全に保護者の視点から悩む律の言葉を聞いた澪が屈辱に赤く顔を染めた。
「それもそうだな」
 夏音がさもありなん、と頷くのを見てとうとうショックを受けた彼女は気付かれないように隅でいじけた。
 放課後をかけて各自で携帯サイトや情報誌とにらめっこしたおかげで、澪にもできる交通量の調査という名前からして楽そうなアルバイトを探す事に成功した。
 ひたすら通りを走る車を数えるアルバイトだという。たったそれだけでお金が貰えるのか、と驚いた夏音は後に少しだけ後悔することになる。
 



 アルバイト当日。
 時刻は早朝の六時。一同が揃って集合場所に向かうと、帽子をかぶった中年の男女が一組待っていた。
「よろしくお願いします!」
 高校生らしく、朝から精一杯のやる気をこめて威勢の良い挨拶をする少年少女に人好きのする笑みを浮かべて彼らは自己紹介をする。女性の方は有坂さん。男性の方は片平さんと名乗った。
「はい、今日は日中気温が上がるそうなので、水分補給だけは小まめにしてくださいねー。それでは、現場に向かいましょうか」
 現場へ向かうにあたって二人一組に分けられ、ひたすら流れてくる車を数える業務につく。難しい業務ではないし、ずっと座っているだけなので尻のしびれとの戦いといっても過言ではないと思った。
 

「あの……他のみんなはどこに?」
 夏音が任された地区は軽音部の仲間達とは別で、彼女達とは二つほど区画を挟んだ道路であった。
「ごめんねー。お友達と一緒の所にしてあげたかったんだけど、人数の都合でしょうがないんだ」
 と派遣員の片平さんは言う。人が善さそうだが、気弱そうな人である。遙かに年配の者が自分に頭を下げてくるのもバツが悪い。
「そうなんですか。わがまま言ってすいません」
 軽く頭を下げると、夏音は支給されていたくっと帽子をかぶった。自分はここに仕事に来ているのであって遊びではないのだ。気を引き締めていかないとならない、という覚悟の表れである。
(しかし立花夏音、なかなかどうして寂しいものだ)
 実は寂しがり屋さんの夏音も時間が経つにつれ、仕事に慣れた。というか孤独に慣れた。作業は本当に車を数えているだけで、もう一生分の車を見ているのではないかと思われた。   
 むしろ睡魔をやっつける方がよっぽど難儀したくらいである。
 このバイトは一区域につき派遣員を含めて三人体制でまわっている。実際に調査するのは二人なので、交替で一人が休憩といったシステムである。ところが、休憩といっても軽音部のメンバーとかぶる時は少ない。用意されたワゴンの中に見知った顔を見つけた瞬間の夏音は尻尾をぶんぶんと振っていたように見えただろう。


 夏音は隣に座る相方の方に目を向けた。自分とペアを組んでいるのは都内にある某大学院で数学を研究しているという寡黙な青年だった。
 ぼさぼさの長髪にメガネ。洗いざらしのブルージーンズにシャツ、という地味な格好。一昔前の日本のフォークシンガーさながらという出で立ちである。彼とは初めの挨拶以来、口をきいた記憶がない。
 向こうが話す気がないのだろうか。それとも体調が優れないようにも見える。この青年、風が吹けば倒れそうというか、夏音が一発はたいただけでKOできそうなくらいゲッソリしている。そう思って見ると、だんだん顔色が青ざめているような気もする。この人ヤバいんじゃ……と不安にかられた夏音はたまらず口を開いた。 あまりに暇だったのもある。
「暑いですね」
「そうだね」
「あれも車に含めていいんですか」
「あれはヤクルトのおばちゃんだから……どうだろう」
「ヤクルト………好きですか?」
「毎日のおやつがジョアさ」
「僕も好きですよ、ジョア」
 夏音は奇妙な高揚感を得ていた。意外にも、会話がつながっている。夏音が思わず手元のカウンターをすごい勢いで回していると、今度は青年の方から話しかけてきた。
「君はどうしてこのバイトに?」
「お金を稼ぐためです。そう言うあなたは?」
「数字が好きなんだ……ひたすら数を数えていられる最高のバイトだから」
 ああ、変態なんですねという言葉をかろうじて飲み込んだ夏音はそれらしく「なるほど」と頷いて曖昧に濁した。
「君、どこの子?」
「桜高です」
「あぁ。あの女子校か……女子校って憧れだったなあ」
「いや、今年から共学になったんですよ? そういう僕は桜高共学化初年度の男子生徒なんです」
 夏音がそう言った途端、青年は一分くらい押し黙る。心配になって青年の顔をのぞき込むと、半分くらい前髪に覆われた顔は限界まで驚愕に固まっていた。まるでサンタクロースの衣装をクローゼットから発見した少年みたいな表情だった。意外に表情豊かだ。
 フリーズから解けた彼はくいっとメガネを押し上げて、怖々と口を開いた。
「そいつは君……実に驚愕の事実だよ……君のこと僕っ娘だとばかり……」
「………僕っ娘は女の子限定の属性ですよ?」
 性別を誤解されることなど、今さらである。しかし、夏音は彼と口をきくのをやめた。
「ところで、君のことどこかで見た気がするんだけどなあ……」
「気のせいです」
 その後、やたらと饒舌になった青年が数学的セックスについて語り出した時も、うんざりと道路の車に意識を集中させていた。

 時間はじっとりと過ぎていく。

 太陽も昇りきったところで、休憩の時間になった。
 向こうの配慮により、お昼の時間を合わせてもらったので、夏音は急いで他の皆の場所へ向かった。
 一刻も早くムギのお茶が飲みたかったのである。
 夏音が厳かに瞳をとじて、茶の一滴までも渋い顔で味わうのを不思議な顔つきで見守る軽音部一同の姿があった。それから休憩時間が終わると共に、哀愁を漂わせて帰る夏音の背中をそろって見送った。
 残りの時間、夏音はずっと憮然とした表情で過ごした。隣の青年の変態性が自分に感染らないかと不安になった。

 二日目は中だるみが激しく、大分いい加減なカウントになってしまった。天気だけは良く、爽やかな風が時折吹くのに気分は暗鬱。
 隣で数学の深遠な世界について語る青年の声もお経のように聞き流すことができるようになった。これも仲間のためと思い、今すぐにでも帰りたい欲求を我慢して夏音は乗り切った。
 とはいうものの、我慢もしてみるものだ。過ぎたる毒は、案外気持ちよくなることもある。
 夏音は隣の青年とうっかり会話が弾んでしまったのだ。
 どんな会話が切り口だったかは定かではないが、とにかく音楽の話になった。すると後は超自然的に音楽談義に花を咲かせることになり、実は彼がインディーズシーンにおけるマスメタルバンドの先駆的存在として羨望を集めているらしい事が判明したのだ。
「マスロックじゃなくて?」
「マスメタル、だよ。これでも割と名が知られていると思うのだけどね」
 正直、かなりアングラじゃないかと思ったが、彼が日本においてお馴染みの野外フェスに出場した話もあって、それなりに認められているのだと理解した。
 その後はヘビーすぎる音楽の話を堪能して、「いつか観にきてよ」とライブに誘われるくらい仲が良くなってしまった。
 まったく人は見かけによらない。
 重々承知していたのに、改めて思い知らされた。今回、アルバイトをして良かったと夏音は熱く噛みしめた。
 こうして二日間のアルバイトは終了した。

「二日間、お疲れ様―」
 ねぎらいの言葉と一緒に給料袋が手渡される。初めての肉体労働。その報酬に感極まった夏音が思わず涙をこぼし、それにつられたムギと涙をふきあう微笑ましい場面も見られた。
 本来の目的は唯のギター代を稼ぐことだったので、皆が一斉に受け取ったばかりの給料袋を全額まるごと唯に渡したのだ。
 全員分の袋を受け取った唯の表情が曇っていることに夏音は気がついた。だが、律たちはそれに気付かず他のバイトをやることを検討し始めていた。
 そんな唯の様子を何となく観察していた夏音であったが、唯が吹っ切れたような表情で顔をあげたのを見てなんだろうと首をかしげた。
「やっぱりこれいーよ!」
バイト代は自分のために使って――そう言って、唯は給料袋を全員の手に返す。
「私、自分で買えるギターを買う。一日でも早く練習して、皆と一緒に演奏したいもん! また楽器屋さんに付き合ってもらっていい?」
 全員が唯の決断に呆気にとられていたが、ふと顔がほころんだ。
 首を横に振る者などいなかった。

 夏音は小さくなっていく唯の姿を再度振り返って眺めた。
「いい子だな、唯は」
 ぽつりと呟いた夏音は、そんなに欲しいのならレスポールくらい手に入れてあげようかと考えた。
(すぐにでも……)
 思考が段取りを踏もうとしたところで、首を横に振った。
「やっぱりやめた。唯が決めたことだもんね」
「おーい、夏音! 置いてくぞー!」
「あぁ、ごめん今いく!」
 もう一度だけ唯の姿を視界におさめ、夏音は足踏みして待っている律たちの方へ駆けだした。

 
 そして、ついに唯のギターを決める日がやってきた。
 実のところ、夏音は内緒でまたあの楽器屋へ通ってちょうど良い価格で良さげなギターを見繕っていたりした。けれども、結局選ぶのは唯なので意味がない。そこは巧みな話術で唯を操って……と思い、ふらふらーと浮き足立つ唯に話しかける。
「あ、あのさー唯ちゃんや? ここらへんのギターのー……このへんの……これとかいいと思うんだけどなー……って唯?」
 さりげない態度で誘導商法を試みた夏音であったが、じっとしゃがみ込んだ唯の視線の先を追って眉を落とした。
 言うまでもなく熱い視線の先にはレスポールが光沢めいた光を放っている。同じように唯の様子に気付いた律と澪も仕方ないなー、といった表情で苦笑する。
「唯? よかったら買わなくても、弾くだけ弾いてみる?」
「うーん……それはいいや。あとちょっとだけ見させてー」
 まるで買って欲しい玩具をねだる子供そのものだ。
 夏音は肩をすくめて「見るだけって言っても……」と戸惑った。他の者に困惑した視線を向けると、澪と律が苦笑まじりだが、確実に嬉しそうに笑っていた。
 二人には唯の気持ちが十分に共感できるものだったし、仕方ないなと言った心持ちであった。
「ちょっと……ちょっと待っててください!」
 突然声を荒げたムギに「おや?」とした顔を見合わせた一同だったが、ムギが敏捷な動きで店員の方へ駆けていく様子を見守った。
 何やらムギが熱く語っている。しかし、相手をしている店員の顔が青ざめて見えるのは気のせいだろうか。
「ひ、ひぃっ」
 という悲鳴らしき者が遠くに聞こえた気がした。
「あの店員やけに焦ってないか?」
 律の指摘に、全員がうなずいた。そして、るんるんと上機嫌で戻ってきたムギが放った一言に度肝を抜かされた。

「このギター、五万円でいいって!」
「えぇーーー!!?」
「Jesus…!!!」
「な、なになに!? ムギちゃん何やったの!?」
 どう考えても怪しすぎる展開に唯が青くなってムギに詰め寄った。するとムギは照れくさそうに説明する。
「このお店、実はうちの系列のお店で……」
「そうなんだぁー。ありがとう、ムギちゃん! 残りはちゃんと返すから!!」
 唯は深く考える事をやめて、素直にムギへの感謝を述べた。そんな唯とは裏腹に、何という無茶苦茶な展開だろうと夏音は唖然としていた。琴吹家の財力や事業内容も気になるところだが、実家の権力を躊躇なく使ったムギも疑いなく二十万の値引きを受け入れた唯も思考回路が一般と画されている。
 二十万といったら新卒の初任給に相当する。新卒の給料一ヶ月カットするのと同義であるのに。
「ま、使えるものは使えばいいかな」
 幸福の絶頂かのように喜び跳ねる唯を見ていたら力が抜けてくる。やれやれ、と息をついた夏音は改めて彼女の表情を見やった。
 瞬間、胸がズキンと痛んで何とも言えない切なさを覚えた。
(ギターが手に入るのがそんなに嬉しいんだ……)
 夏音にもあっただろうか。
 こんな感覚。
 ずっと昔、初めて楽器を手にした時にもこんな風に打ち震えるような喜びを抱いただろうか。
 彼女の純粋無垢な喜びに触れたせいか、胸がどきどきとする。
 悲しいせいか、嬉しいせいか。どっちつかずの感情はすぐに皆の歓声に紛れた。
「おめでとう唯!!!」


 数日後、メンテナンスや最終チェックを終えて、ついに唯の手元に渡ってきたギターのお披露目が行われた。繊細な硝子細工を扱うようにそっとハードケースの中からギターをとりだした彼女は、ぎこちない様子でストラップを肩に下げた。そして、じゃーんとギターを構える唯の姿に軽音部の一同から拍手が起こった。
「ギター持つとそれらしく見えるね!」
 澪がいつになく興奮した口調で言った。
「なんか弾いてみて!!」
 律も同じように唯に声をかけたのだが、そこで唯が弾いたのはなんとも間抜けなメロディー。
「チャルメラかよ……」
 律がげんなりと言う。
(チャルメラってなんだろう)
 日本ではお馴染みの曲だが、夏音にはよく分からずに曖昧に笑っていた。
 すると話はギターのフィルムについての話題へと移行する。未だにギターのフィルムを剥がしていない事を律が目敏く発見したのだ。理由を尋ねると、唯がよくわからないギターの可愛がり方をして過ごしているということが判明した。
「添い寝はやめなさい。下手したら折れちゃうよ」
 それだけは釘をさしておかねばならない。折れやすい、レスポールちゃんは弾く時は悪魔のように大胆に。触れる時は赤子に触れるように繊細に。
 その後、律がフィルムを勝手に剥がして唯を泣かしたが、結果的に唯を練習へ向かわせたので結果オーライ、と夏音は満足だった。
「ライブみたいな音出すにはどうしたらいいのかな?」
と唯が言い出したので、部室の倉庫にあった古いマーシャルのギターアンプにつないでやった。
「よし、これで音が出るよ」
 サムズアップをして、唯に弾くように指示する。
 そして緊張した表情で唯がギターのネックを支える。
 右手が振り上げられ、下ろされる。
 響くレスポール、ハムバッカーが拾う弦の振動。
 ただの開放弦だ。音色とも言えない、微かなノイズまじりの音。
 そしてサスティーンが伸びきって、じょじょに消えていく。

 夏音は全身に鳥肌が立った。脳に電極をぶっさして雷でも落とされたかのようだ。
 何の予兆もなく、襲いかかってきたこの震え。遅れて、自分がこんな感覚を全身に迸らせていることに震撼した。
(何だよ…こんな……ギターを鳴らしただけじゃないか)
 夏音は唯の表情を見て、この間自分が覚えた感覚の正体が何か分かったような気がした。
 これは産声である。自分が初めて出した音が彼女の胸を魂を深く震わせている。喜びの歌声だ。

―――これどうやっておとだすのー? ――

―――ハハ、ここをこうおさえて弦を弾いてごらん――

―――す、すごいっ! おとがでたよっ――

―――ほぅほぅ、大したもんじゃないか――

(俺は……こんな感覚、とうの昔になくしていた)
 彼女を見ていて、脳裏をよぎる遠い記憶。
 唯の向こう側に幼いころの自分の姿が見えたような気がした。
(うらやましいな)
「やっとスタートだな」
 自分には、二度と取り戻せない感覚。夏音が深い思いに耽っていると、澪が神妙な口調で言った。万感の思いを織り込んだような声だった。
「私たちの軽音部」
 律が続ける。
「ええ!」
ムギが静かに、力強くうなずいた。
「俺たちの、軽音部……俺たちの、軽音部か」
 夏音の胸に目が覚めるような爽快な風が吹いた。ドクドク、と皮膚の裏を走るナニカが夏音を突き動かす。
 自分もまた新しい音楽を。
 改めてこの場所で、一から音楽に触れていき、育む。
(俺、ここに来て良かったのかも)
 夏音は軽音部に入る事を決めた(やや強制だった)自分のフィーリングは間違っていなかった。
「目指すは武道館ライブーー!!」
 律が声高らかに叫ぶ。あまりに大きく出た律の言葉に驚きの声があがるが、夏音はいっそ清々しかった。未来の事はわからない。もしかすると、このメンバーで武道館にあがる未来が来る日があるのかもしれない。現実的に考えると叶わない夢である。
 けれども、それがただの夢物語だとしても、本当に実現できたら。夏音は自分は夢想家ではないと思っているが、そんな未来がやってきたら大層面白いことだなと笑った。
「卒業までに!!」
「それは無理だろ」
 おまけにチャルメラとかいう謎のメロディーを加える唯に、盛り上がった空気が完全に抜けてしまった。
「ご、ごめん。まだこれしか弾けないやー。アンプで音を鳴らすのはもう少ししてからだねー」
 すると唯はアンプに近づき、つまみに手をかけずそのままジャックに手をかけ――、
「って、唯っ! 危ないっ!!」
 澪が叫ぶが、間に合わなかった。そして大抵の初心者が一度は聞くハメになる爆発音が部室に響いた。
 もう、辛抱できなかった。それを見て、夏音は盛大に笑い転げた。
 唯を注意していた澪だが、過呼吸気味に陥るほど腹を抱える夏音に若干顔をひきつらせせた。
「ひどい! そんなに笑わなくても~!」
 唯は頬をふくらませる。
「い、今の……そんなにツボる所あったかー……?」
 律は、儚げな美少女が床に転げるほど笑いまくる様子に目を背けたくなった。
「あー楽しいじゃないか軽音部!」
 これから、もっと楽しいことが起こるに違いない。



 その後。
「よし、唯にギターを叩きこむかー」
 先ほどの醜態から一転して、俄然やる気の闘志を燃やす夏音であった。
「あ、そうそう夏音くんや」
「何かな?」
「私、夏音くんがこの間弾いたの聴いてすっごい感動した! 私も早くあれだけ弾けるようになりたいので、よろしくお願いします先生!」
(あ、せん……先生……先生……甘美な響き)
「俺の特訓はきびしいぜ? やれるかい嬢ちゃん」
「覚悟しております! サー!」
「その意気やよし。まずはコードをおさえてみようか」
「サー! コードってなんですサー?」
「あれ、どこから教えればいいんだ……」
 思えば、夏音は一から楽器を教えるのは初めてであった。夏音が頭を抱えるのを見て、唯もつられて難しい顔をした。
 むぅ、と二人がうなった。



 ※今回、少し文量が少なめです。



[26404] 幕間1
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/06/28 20:30

 ※免許に関しては、完全に嘘です。日本においては18歳以上でないと運転できません。したがって、どう足掻いても夏音は二輪しか乗れません。


 一般にひきこもり生活というのは、文字通り自分の部屋に一日中こもって出てこない状態を指し示すはずだ。
 引きこもった人間は、徹底的に他人と接触するのを拒み、それは家族とて例外ではない。
 日中は家族と顔を合わせることを避け、食事は部屋の前に置いてもらう。家族と出会うリスクを回避するため、小用などはペットボトルに。
 清潔な者は家族不在の間隙を縫うようにシャワーを浴びる。これらの行為には、殊更家族のスケジュールを把握している必要があるが、うっかり母親と鉢合わせしてしまうことも。
「○ちゃん……!」
「くっ!」
 息子は母親を押しのけて自分の城へケツまくって逃げ帰る。
 夜中に耳をすませば、ふとドアの向こうに聞こえる家族の嗚咽。

 とにかく。これが引きこもりのステレオタイプだ。

 しかし、立花夏音においてはその全てが当てはまらない。
 彼の場合、ひきこもると言っても学校に行かないという点以外は、実にのびのびとしていた。まさに毎日が休日、という生活。
 もっぱら楽器を触るか、作曲。もしくは引きこもり生活中盤からは漫画やアニメ作品を漁るように鑑賞するという循環で一日が過ぎていった。
 彼は外に出るのが怖くなかったのだろうか。
 もちろん、初めは外に出ることもままならなかった。初めはまさに自宅引きこもり状態だったのが、徐々に表に出るようになったのは、もともと夏音が通った高校が遠く離れていた事が大きい。学校から自宅まで、電車で言うと八区間ほどの距離があったのである。
 彼を外に出す要因の一つとして、彼は自らの容姿を隠したことも大きい。
 日本ではやたら目立つブロンド色に輝く髪。母親譲りの髪を彼は気に入っていたが、身の安全のために一時的に捨てることにした。どう足掻いても日本人には見えない顔だけはどうにもならないが、眉毛と睫毛の色も日本人にまぎれる黒色にしたのだ。ちなみに、彼が体のどこまでを染めたのかは明らかにされていない。
 ぱっと見て元の彼を知る者が目撃しても、一瞬で彼とは分からないくらいに変化することに成功した。息子の変化をそっと見守っていた立花夫妻もその徹底ぶりに感心するくらいだった。
「黒いのも素敵よー」
 と母のアルヴィは喜んだのも束の間。「ママとお揃いだったのに……」と悲しみに打ちひしがれた母親を慰めるのに息子は苦心したという。
 一方、父である譲二は純正日本人として黒い頭髪を持っていたため、やっと息子が自分とお揃いになったと喜んだことは秘密であった。言葉にすると、妻の逆鱗に触れてしまうからだ。
 このように外出することに徐々に躊躇いがなくなってからは、良くドライブなどに出かけることもあった。
 というのも夏音はアメリカにいた頃、十五歳でパーミットを受け、日本に来る三ヶ月前に自動車運転免許を取得していた。
 免許を取得して一年が経っていたので、日本の学科試験を受けて日本でも公式に車に乗ることを認められた訳である。
 夏音の現在の年齢は十七歳。日本では十八歳からの取得になるのだが、驚きの国際ルールである。

 ちなみに彼は、自分が軽音部の皆より年上だという事は打ち明けていない。
 秘密ばかり抱えている、と夏音は悩む。
 いつかこの肩に背負う荷物を下ろせる日を考えねばならないと思った。

 両親が自宅に帰っていた時は、親子でよくセッションをして過ごした。
夏音の自宅、高級住宅街にそびえ立つ三階建ての家には広大な地下室が備わっている。あらゆる機材が揃っており、完全防音のスタジオである。夏音の部屋も所狭しと機材が置かれてあり、またこの部屋も防音仕様という充実。
 ロハス一家、ここに極まる。

 いつまで、この生活を終えようかと考えることもあった。それでも煮え切らない自分は考えを先延ばしにしてばかり。
 このまま、アメリカの親友が自分をぶん殴りにくるまでのんびりしていようか。それとも、とっとと元いた場所へ帰ってしまうのもいい。
 夏音は考えるばかりで、引きこもり生活を続けていた。

 今、夏音はひきこもり生活をやめた。
 新しい世界に飛び込むことにしたのだ。
 新しい仲間。
 軽音部。


「一人で作業はしんどいなあ」
 夏音は汗をぬぐってガレージにしまってある大型ワゴン車にせっせと機材を積んでいた。
 ギターアンプにベースアンプ。見るからに重そうな機材を車に運び入れる作業は骨が折れる。この場にあるのは小型アンプではない。ヘッドとキャビネットに分かれた高出力アンプである。さらに、500Wのモニターを二つ。小型のチャンネル数の少ないアナログミキサー。その他もろもろ。

 結論から言うと、軽音部には最低限のまともな設備が整っていなかった。先々代、いや先々々々々々代くらいの先輩方が遺していった過去の遺物が物置に放置されてあったものの、その機材設備のあまりの悪さに耐えきれなくなった夏音は、自宅から機材を運び入れようと奮起したのである。
 唯も澪も、あんな小さなアンプでやるより出力が大きいアンプでやった方が楽しいに違いない。夏音としても、自分が慣れたアンプの方がいい。
 ちなみに今運びこんでいるものだけで、総額百万を超える。
 こんな高いものを揃えて盗難の心配がないのだろうか。そんな心配も無用であった。
 それらのアンプは本命が壊れた時に使用するサブとんでサブであったのだから。
 夏音はたっぷり一時間半を費やして積み込みが終わると、へとへとになりながら車を走らせた。
 日本の住宅街の狭い道をゆっくり走り、大きな通りに出てからはものの十分ほどで学校に着いた。桜ヶ丘高等学校では、生徒が免許を取得すること、ましてや生徒が学校に車で来ることは原則的に禁じられているので、車は近くの路上に止めた。そもそも、向こうで取ったものは仕方がない。
 夏音は併せて持ってきていた業務用の台車を下ろすろと、苦労してそこに機材を乗せた。動いて落ちたら困るので、紐で固定することも忘れなく。

 今日は日曜日なので、学校には部活動に来る生徒しかいなかったが、それでもすれ違う生徒から注目を浴びてしまう。
 傍目には、重量級の機材を載せた戦車のような台車を押す美少女。なかなかシュールな光景である。
「しまった……階段、ムリ」
 うっかり夏音。今さら頭を抱えても遅い。自らの浅慮な行動を悔いたところで、フォースを使えるようになる訳でもないのだ。
 夏音ががっくり膝をついて途方にくれていると、ぶっとい胴間声を響かせて走ってくる集団が廊下の向こうに現れた。胴着を着た少女達の気合いがこちらまで伝わってくる。
(柔道部、かな)
 柔道部という事は、それなりに力があるはずだ。少なくとも、自分なんかよりは。

「ま、待って! そこ行くお嬢さん!!!」

 凄いスピードで通り過ぎようとする集団に、声をかける。
 良く抜ける声は、無視する事を許さない。真っ直ぐに鼓膜を揺らして、相手に届く。
 すると、先頭の主将らしき少女(二の腕だけで夏音の腹より二回り大きい)がその顔面に大量の汗と戸惑いを浮かべて立ち止まった。ぐったりした様子で床に女の子座りしている美少女が突然声をかけてきたのだ。困惑するのも無理はない。
 ほとんどのエネルギーここまで来るのに使い果たした疲労紺倍の夏音はまるで薄倖の美女のように映り、物語に出てきそうな少女の様子に顔を赤らめる者もいた。
しかし、視線をずらせばとんでもねー量の重量機材。果たして、この組み合わせは何だろうと首を傾げるのも無理はなかった。
「なんだっ! この柔道部主将・範馬魔亜娑にいかなる用向きだというのだ……む……ウハッかわええ子」
 黒帯をぐいっと締めて主将らしき少女が夏音を見下ろした。言葉の最後に危険な単語が潜んでいた気がした。
 あえて突っ込むのはよそう、と本来の要件を思い出した。
「すいません……助けてください」
「な……っ!」
 かろうじて細腕で体を支える夏音。もはや女の子座りから浜辺の人魚のような姿勢になっていたが、その実、乳酸がたまった腕が痙攣を起こし始めていた。立ち上がろうとして手を使ったのはいいものの、全然体を支えられない。
 すると、生まれたての仔牛のようにプルプルと立ち上がろうとする夏音をがっしりつかむ腕があった。
「む?」
 ふいに自分の腕を支えるように手を伸ばしてきた魔亜娑の顔を不思議そうに見詰める。
「私達にできることがあるのならば……何でも言うがいい」
 彼女の瞳には熱く濡れるものがきらめいていた。それだけでなく、鼻から二筋垂れる赤い線が目に付く。鼻血だ。彼女は自分をじっと見詰めて何度もうなずいている。
「何か顔から色々噴き出てますよ」
「今にも折れてしまいそうな美少女が震える体に鞭打って何かを訴える……これで心動かされずにいられるだろうか!」
「はぁ、そう……」
 変態である。最近、変態によく遭遇するなと思った。
 気にくわない単語が幾つか飛び出たが、その前に魔亜娑が掴んでくる腕の力が気になった。それ以上力をこめられたら折れそう。
「何でも言ってくれ美少女!」
「そ、そう。ならお言葉に甘えて……えーと、この機材を音楽準備室に運ばなければいけないんだけど、頼めますか? あと美少女じゃなくて……」
「おう一年コラ!」
「押忍!!!!!」
 とんでもない音圧ある声が響く。思わず、夏音の肩がびくっと跳ね上がった。
「これも練習の内と心得よ! この今にも根本から折れそうな美少女を手伝ってさしあげるのだ!」
「押忍!!!!!」
「いや、根本から折れるって……だから俺は女じゃなくて……」
「可愛いあの娘は」「えんやこら!」「美女のためなら」「えんやーこら!」
 生まれてくる性別を間違えているのではないか、と夏音はゲンナリと機材を運び出す彼女たちを見て思った。 
「あの……ありがたいけど、慎重に扱ってください……」
 夏音は音楽室に全ての機材を運んでくれた柔道部の面々に礼を言った。深々と頭を下げると、そんな礼とかはいいから連絡先を書いて寄越せと言われた。完全に下心じゃねーかと、丁重にお断りした。
 機材を配置する。懸念していた電源の位置や数の関係も、特殊なケーブル、トランスをもちこんだので問題なかった。
 しばらく作業をして、楽器を演奏する部活らしい部屋になったと夏音は満足気に部室を見渡した。
「明日、みんな驚くかなー」
うくくっと笑みをこぼして部室に施錠をして帰宅したのであった。

 後日。
 週明け。
 放課後。
 軽音部の部室にて。
「ぎゃ、ギャーーっ! な、な、何じゃこりゃー!?」
 わくわくしながら一番乗りで部室にスタンバイしていた夏音は最初に訪れた律の反応を見て、悪戯が成功した少年みたいに笑った。
「昨日、持ってきたんだ!」
「これを、一人でか!?」
「そのとおり!」
 開いた口が塞がらないといった様子でわななく律を見て、ますます夏音は踏ん反りがえった。
「軽音部の設備があまりにひどいもんでね。家から持ってきちゃったんだよ」
「これ、これだけでいくらだよ……」
 律はふらふらと椅子にへたりこんだ。
「他の皆が来るのが楽しみだなー」
 その後、ムギは一人でこれだけ揃えた夏音を手放しにねぎらい、澪はあまりの光景に気絶しかけ、唯はよく分からなかった様子で「すごいすごーい」とはしゃいだ。


 機材投資は、夏音にお任せ。




 ※幕間は、割と毛色の違った感じになります。これから度々、たぶん四つくらい幕間が差し挟まれますが、本編に重要な事も書いてますので。
  それと、フォレストの方のと同じ流れにするつもりですが、文章などを修正してこちらに投稿するので、こちらの方が完成版に近いつもりです。



[26404] 第五話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/26 21:25
 立花夏音は生まれてこの方、ずっとアメリカで育った。そんな彼は帰国子女と紹介されることが多いが「帰国」したのかと問われると首をかしげてしまう。ちなみに夏音の父親は何を思ったのか、夏音に二つの国籍を持って育つように措置をとったので、厳密に夏音は二つの国籍を持っていることになる。どちらにせよ、ずっと向こうの教育を受けて過ごしてきた彼を見て誰もが日本の高校教育についてこられるのだろうかと疑問を持っても不思議ではない。
 しかし、答えは否。
 ネイティブ並の日本語能力を持った夏音は、自らが入手した新たな趣味、日本の漫画や小説をこよなく愛したおかげで一般の日本人以上に達者な日本語を身につけていた。
 つまり、何も問題はなかったのである。


「やっとテストから解放された~」
 律は部室の中央で、天へと腕をかかげて自由への喜びを叫んだ。テスト勉強から解放された喜びを十二分に噛み締めている学生のよくある姿である。
「高校になって急に難しくなって大変だったわ」
 お茶の支度を進めながらそう呟いたのはムギである。口ではそう言うものの、何でもそつなくこなしてしまうような雰囲気を漂わせる彼女が勉強に苦労するようには見えなかった。しかし、世の高校生は中学時代との勉強の難易度の差に困惑する時期である。中学でそれなりの成績を収めていても、おごってしまったばかりに一気に成績下位に転落する者も多い。いかに優秀な人物でも油断はできないという事かもしれない。
「そうだなー。私も今回ちょっとヤバかったかも……ていうか、もっとヤバそうなのがそこにいるんだけど」
 澪が開放感に満ちあふれた部室でただ一人、暗雲を背負ってうなだれる少女を指さした。
 彼女のとった成績がいかなるものだったか、火を見るより明らかだ。
「唯……そんなにテスト悪かったのか?」
 頬をひくつかせて不気味な笑いを浮かべている唯は、ギギギと不可思議な音をたてて澪の方を向いた。
「ふ、ふ、ふふ……クラスでただ一人……追試だそうです」
そうして、ふらふらと立ち上がった唯が見せた答案をのぞきこんだ全員が青ざめた。
「よく……こんな点数をとれたな」
 夏音は驚愕に目を見開き、思わず手を頬にあてた。これだけの点数だと逆に感心してしまう。
「だ、大丈夫よ。今回は勉強の仕方が悪かっただけじゃない?」
「そうそう! ちょっと頑張れば、追試なんてヨユーヨユー!!」
 顔をひきつらせながらもムギと律がフォローをいれた。きっとそうに違いない。見事な優しさを目にして夏音もうんうんと首を振る。
「勉強は全くしてなかったけど」
 唯はけろりとして言い放った。 
「は、励ましの言葉返せこのやろう!!」
律が怒るのも無理はない。自業自得、因果応報。彼女にぴったりな四字熟語は幾らでもある。
 何故、勉強をしなかったのかと聞かれると唯は勉強もそっちのけでギターの練習をしていたのだと答えた。
「おかげでコードいっぱい弾けるようになったよ!!」
Vサインで勝ち誇る唯。
「その集中力を勉強にまわせよ……」
 完全に馬鹿にした態度をとる律にむっとした唯がじゃあ、と問い返す。
「そういうりっちゃんはどうったのさー?」
「私はホレ、この通りー!!」
そうして律が差し出した答案を見た唯が「うそっ……」と絶望した表情になる。
「こんなの、りっちゃんのキャラじゃないよ……」
「私くらいになると、何でもそつなくこなしちゃうのよーん?」
「そんな~りっちゃんは私の仲間だと信じていたのに」
 さらに高笑いをしつつ、胸を張る律。
「テストの前日に泣きついてきたのはどこの誰だっけな?」
 澪の氷点下を下回る冷たい眼差しが律に向けられた。自信にあふれた態度はただの虚勢だったらしい。
「はっ! そういえば夏音くんはどうだったの!?」
 矛先がこちらに来たな、と夏音は自信をもって答案を差し出した。
「ほぉ~」
「どれどれ……」
 それを唯と律が熱心に眺める。
「英語が百点っていうのは分かるけど、全科目高得点って何!?」
 馬鹿は自分だけだと思い知らされた唯はさめざめと泣いた。
「ココの出来が違うんじゃないかなー」
 自らの頭を指さして夏音が笑う。
「夏音くん……なんて嫌な子でしょう!」
 唯が頬を膨らませて怒る。全然迫力がないので、夏音は肩をすくめて受け流した。
「そういえば、今更だけど夏音はやけに日本語が達者だよな」
 澪がナポレオンパイを崩すまいと真剣な面持ちの夏音を見て言った。
「確かにそうですよね。夏音くんってずっと向こうにいたのよね?」
 ムギがお茶のおかわりを律のカップに注ぎながら、会話に参加した。
「生まれてこの方、ずっとアメリカにいたよ。でも俺の場合、向こうのスクールに 通わされていたし、我が家では『日本語の日」っていうのがあったんだ。父さんが俺にしっかり日本語を身につけてほしかったみたいだよ」
「へぇ~~~」
 一同、感嘆する。
「なんか夏音のお母さんってすっごく綺麗そうだなー」
すると律が唐突に切り出した。
「何で母さんの話なんだ? 今、父さんの話を……」
「夏音は母親似だろう?」
 澪が間髪いれずに聞いてくる。夏音は何故か全員が急に突っ込んできた事にたじたじした。
「いや、まあ似てるとは言われるけど」
「お母様の写真とかってありますかー?」
 ついにはムギがきらきらとした表情で夏音をじっと見つめてくる。
「い、家にはね。今は、ない」
 夏音は居心地が悪そうに体を震わせ、お茶を一気に飲み干した。普段なら家族の事を聞かれると嬉しくなるものだが、何だか不埒な好奇心を向けられている気がしてならなかった。まだ何か聞きたそうにうずうずする視線を向けられたので「さーて」と立ち上がった。
「ベース弾こーっと」
 そう言ってテーブルから離れてベースを取り出す。以前に持ってきていたフォデラではなく、別のベースである。定期的に色んなベースを弾く事も機材管理には必要な事なのだ。
「あれ! そういえば、私夏音くんがベース弾くの初めて見るかも!」
「そうだったっけ?」
「うん! ギター弾く所は何回も見たことあるけどベースは初めてだよ」
「ふーんそうかそうか」
 ならばこの腕、見せつけてくれようと密かに意気込んだ夏音は足下の機材をいじり始める。すると、ふと天啓的な頭に閃きが浮かんだ。
「あ、そうだ律。暇してるならセッションでもしない?」
まったりと紅茶をすすっている律に声をかけた。思えば軽音部に入ってから、まだ一度もそういう”らしい”事をした覚えがない。この機会だからいいかな、と軽い気持ちで誘ってみたのだが。
「え、あ、私っ!? いやいやいや! 今回などは、ちょいと遠慮するかな!」
「何でさ。遠慮しなくていいよ」
「やーだー」 
 全く予想外の拒否反応が返ってきた。
「何でだよ」
 人が誘ったセッションを頑なに拒むとは失礼な、とすっかり機嫌を損ねた声で夏音は律を睨んだ。
 すると、律は目をそらして指をもじもじし始めた。
「だ、だって~私セッションとかあまりしたことないしー」
「私とたまにやってたじゃない」
「澪は黙りんしゃい!」
 澪情報によって夏音の機嫌はますます降下する。
「嘘ついてまでやりたくないのかー?」
「そうじゃないけど……夏音のベースについていけないと思うんすよ」
「何それ!? ついていくも何もないじゃん! 楽しく音を合わせればいいだろ?」
 夏音ダダダッと律に詰め寄って肩をつかんだ。肩をつかまれじっと視線をロックされた律はしどろもどろになる。
「そ、それでも……う~ん……そ、そこまで言うならやってみようか……かな」
 ついに律は夏音の目力に負けてしまった。
「よし、きた!」
 夏音は手を叩いて喜び、急いでセッティングを再開した。
 しぶしぶと立ち上がった律に早くセットするよう促し、律がスネアやバスドラを鳴らすのを待った。
「ふんふん……律、少し気になったんだけど。律のスネア低すぎない?」
「え? 私は思いっきり叩いてダーンって音出る方が好きなんだけど」
「そうかぁ……別に、律の好みだからいいんだけど。今はもうちょっと硬い音が欲しいかなーって。もっとタイトな感じにできないかな」
「うーん、別にいいけど……」
「ま、面倒ならいいや」
 すごく面倒くさそうな律の顔を見たら強制はできなかった。
しばらくしてスティックをつかんで軽くストレッチしていた律は、最後に首をこきっと鳴らして8ビートを刻み始めた。お手本的なプレイである。三点から徐々にライドを絡めて、跳ね気味のドラミングを続けた。普段はほんわかとした空気に満ちる部室だが、誰かが楽器を鳴らした瞬間にそれは軽音部としての空気へと様変わりする。というより、ドラムの場合だとうるさすぎて会話がままならない。
 夏音は律の音をじっと聴きながら、自身の音作りを終わらせた。

「うん、私は準備オッケー!」
 律の準備が整ったらしい。
「こっちもいつでも!」
 夏音はひょこひょこと律に近づいた。
「テンポはどうする?」
 律がスティックを叩いてテンポを示した。
「BPM110だね」
「え、わかるの!?」
 夏音がすんなりBPMを当てたので「絶対拍だ……」と律が瞠目した。自分でさえ分からなかったというのに。
「そうだなぁ……フリーセッションということで! 特に決めごとなしでやろう。Play it by earでね! じゃあ、律頼んだ!」
「え、え、いきなり!?」
 いきなり指さされた律は焦ってなかなか演奏を始められない。たじたじと、どう始めたものかと焦っていた。
「Hey, look!」
 いきなり英語を使われ、律が夏音を見る。
「One, two, one, two, come on Ritsu!!」
 陽気なノリの夏音につられて、律が咄嗟にフィルインからドラムを叩き始めた。律が四小節ほど叩いたところで、夏音もリズムを合わせていく。
 律は夏音の顔を見て、びくりと頬をあげた。夏音は彼女が緊張しているのかなと思った。音が硬いというか、体に力が入ってリズムがよれてしまっている。どちらかというと、夏音のベースに必死に食らいつき、合わせようとしているようだ。
 違うのに、と夏音は首を横に振った。こちらの音をうかがいつつ叩くのでは、まったくノリが生まれてこない。お互いの音を探りつつ、徐々に合わせていくのがセッションの醍醐味の一つであるというのに。夏音は彼女が今まで澪と行ってきたというセッションでは何をしてきたのだろうと不思議に思った。
 しかし、このままで終わらせないのが立花夏音であった。
 ふと夏音が演奏の手を弱めた。ほとんど聞こえないくらいに音が小さくなり、律の刻むビートが宙に放り出される事になる。
 音は何よりその人の心境を伝える。夏音の音を見失ったことで、律のドラムに不安が折り混じる。顔をあげた律が困惑した瞳で夏音に訴えかけた。食い入るように見詰められた夏音は苦笑を漏らした。普段は飄々としている律が「まって、まってよ―」と健気な少女に見えてしまうのだ。まるで保護者からはぐれてしまった子供のように。
 だから夏音はその宙にさまよう手をしっかりとつないであげなければならない。

(こっちにおーいで、っと)

 足下のエフェクターを踏み込んだ夏音のベースが爆発する。
 大気圏から地表まで一気に駆け下りるようなグリッサンドの下降音。とんでもない熱量で軽音部の狭い部室に墜落した。
 それは彼女の反射であった。次の瞬間、律はかっちりと夏音のベースにリズムをはめていた。
 隕石が秒速五一キロメートルで天を下る先に人は何を見るだろうか。脳裏によぎる光景は強制的に大爆発を浮かび上がらせるだろう。それくらい当然の結果として、律は自分が叩くべき場所に逃げ込んだのだ。
 さらに巧妙にシンコペーションを入れられた後には、先ほどまで既にその場になかった物が存在していた。
 グルーヴ。
 二つの楽器のビートが融合してうねるような音の波が誕生していた。
 律の演奏は憑きものがとれたように変化した。肩に入っていた余計な力はどこかへ消えている。
 夏音が挑発するようにオカズを入れると、律も笑ってそれに対抗する。時折、ベースが少しドラムとずれても律が焦ることはない。そうすることで生まれる新たなノリを感じることができるのだ。
 離れるように見えて離れない。曲が崩れそうになっても、夏音がそれをすぐに修正して戻す。

 しばらくセッションは続き、夏音が最後の一音を止ませた瞬間、唯、澪、ムギは二人に盛大な拍手を送った。
 夏音はベースを置くと、スティックを握りしめたまま放心している律に近寄った。
「いやー楽しかった! ありがとう律!」
 笑顔で片手を差し出した。律はぼーっと差し出された手を眺めていたが、顔を赤くして「あ、ハイこちらこそ」と言って弱弱しく夏音の手を握り返した。
「すっごいすっごーーーい!! 二人ともカッコいいーー!!! セッションって初めて見たよ!!」
 唯はぱちぱちと手を鳴らして大はしゃぎであった。
「や、やっぱりスゴイ……」
 呆然と呟いたのは澪である。拍手する事も忘れて棒立ちになって演奏の余韻に意識を持って行かれたままになっていた。
「夏音くん何でそんなにすごいのさ!」
「え、何故と言われても……。練習したからじゃない?」
「私もギターいっぱい練習したらあんな風に弾けるかなー。私も夏音くんとセッションしたいなぁ~」
「そうだな。早くそうなれることを祈ってるよ」


 その後の律といえば、セッションが終わったところでそそくさとお茶に戻ってしまった。「ふっ、いい仕事したぜー」とでもいわんばかりの、爽やかな笑顔であった。それからずっと唯やムギと女三人で姦しいお茶会に没頭している。

(お茶が基本の部活かい……)
 さすがに夏音も半眼になってそれを横目に見ていた。今の感動の余韻はどこにいったのだろう。
 あれ、澪がいないと思っていたら足下にいた。
「うおっ!」
 彼女は夏音が苦労して運んできた自前のアンプの前でじっと見詰めていた。
「どうかしたのか?」
「このアンプ……畏れ多くて使えなかったんだけど、私も使ってみてもいいかな?」
 それが今世紀最大のお願いと言わんばかりに澪は両手を合わせた。
「何言っているんだよ! 最初から使っていいって言ったじゃない? これは澪のために持ってきたような物なんだよ?」
「え……私のため!?」
「澪も、ちゃんとしたアンプで音を出した方がいいと思ってさ。俺も使うからってのもあるんだけど……って澪? おーい? 澪さーん?」
 心なしか顔を赤くして遠い目をしていた澪を現実に引き戻す。
 それからしばらく澪の音づくりに付き合った夏音であったがふと時計を見て、慌てて自分のベースをケースにしまった。
 急に帰り支度を始めた夏音に注目が集まると、夏音は部室の扉に手をかけて振り向いた。
「ごめん! 俺もう帰らないと!」
「用事か何かあるのか?」
 夏音がエフェクターで嬉々として遊んでいた澪が尋ねた。
「ちょっとね。エフェクターは自由に使っていいから、最後にしまっておいてね! アディオス!」
 一同はぽかんとしながら別れの言葉を告げるが、既に扉の向こうへ消え去った後だった。


 夏音は学校を出てから、すぐに目的の場所へ急いだ。今夜、とある知人と会う約束をしていたのだ。学校を出て全力で走ったおかげか、約束の時間を十分ほど過ぎ、待ち合わせ場所の喫茶店の前に着いた。
 そこに見知った人物の姿を見つけて、笑顔で走り寄った。
「How are you John!!」 
 夏音にジョンと呼ばれてニコっと笑みを浮かべたのは、ブロンドの髪を後ろに撫でつけスーツを着込んでいる背の高い白人であった。がっしりとした肉体をスーツの中に隠し、肩はがっしりとしていて、屈強なアメフト選手を思い浮かばせる。
 夏音の姿を確認したジョンも喜色満面で夏音とハグをした。
「会うのは久しぶり、だな。まったく驚いた……まさか本当に日本のハイスクールに通っているなんて!」
 ジョンは夏音が日本の高校の制服を着ているのを見て、大袈裟にのけぞった。
「真面目に学生やってるよ」
「まあ、元気そうでなによりだ」
 ジョンが夏音の顔をしみじみと眺めながら感慨深く嘆息した。
「最後に会った時より、少し大人になったみたいだ。背がのびたのかな……いやしかし、ますますアルヴィに似てきたな」
「本当!? 実はちょっとだけ背が伸びたんだ! 0・5センチくらい!」
 お世辞だったのに、とジョンは心に浮かべた。
「立ち話もなんだから腰を落ち着けようよ」
 夏音は今自分たちが目の前にいる喫茶店を差し、笑った。
「ここジョンの好きなバニララテが美味しいんだ」


 店に入り、注文が来るのを待ってから二人は話を再開した。
 ジョンはひとまずバニララテを一口飲んで驚いた声を出した。
「こいつは……まさしく、バニラビーンズの味を完全に再現している。まいったな」
「だろう?」
 夏音も相好を崩して、同じものを口にした。ジョンはカップをテーブルに置くと、すぐに真剣な表情でさて、と話を切り出した。
「さて。これからは、君をカノン・マクレーンという一人のアーティストとして話をする」
「そうだろうね」
 夏音の表情が真剣味を帯びた。
「そのことだが、まず何回も電話ですまなかった。うっかり時差のことを考えに入れていなかったんだ」
 ジョンは話を始める前に、今までの自分がしてきた非礼を詫びた。
「気にしてないよ。ジョン、あんたは売れっ子敏腕で通してるエージェントだ。俺が勝手に契約待ってーって言ったせいで皺寄せをくらっているんよね。こちらこそ、申し訳ないよ」
「いや、いいんだ。僕はその小っ恥ずかしい形容詞がつくエージェントの前に、いち君のファンだからね。迷惑なんて思っちゃいない―――だが、」
 ジョンは言葉を切り、バニララテを一口含む。
「問題は君がいつまでそこにいるつもりかってことさ」
「それについては……前にも話したはずだよ」
「僕は君の才能が人々の前から一時期でも隠されるべきではない、と考えている。一瞬でもマクレーンから離れてしまう人がいてはならない、とね」
「そいつは随分大きく買われてるね」
 嘆息まじりに夏音は笑う。
 しかし、ジョンは夏音から視線を外さずに続けた。
「冗談でもなんでもない。このまま取り残された君のファンはどうなるんだ!?」
「サイトにもライブでも告知はしただろ? しばらく俺は――」
「普通の男の子になる?」
「まずかった?」
「ひどいなんてものじゃない。なんたって君は普通じゃないのだから」
「おいおい、ハリウッドでも天才子役とよばれる子供は思春期の頃くらいは役者業をやめた方がいいって言われているだろ?」
「役者とは話が違うだろう!」
「ヘイ、そう熱くならないでよ」
 ただでさえ外見によって目立つ二人である。注目を浴びてきていることもあり、夏音は鼻息を荒くしているジョンにバニララテの二杯目をすすめた。
 すると、ジョンはぶるぶる震えたと思うと、とたんに肩を落としてうつむいた。
「夏音は……あの世界に戻らなくても平気だというのか?」
 はじまった――と夏音は思わず天井を仰いだ。
(勘弁してくれー……このアメコミのヒールみたいなナリしてる奴が小鹿みたいに縮こまってんなよー)
 目の前でしょんぼりとしている男は、今この瞬間までこの男の体を覆っていた屈強なオーラの鎧をすっぽり脱いでしまったようだ。
 これをやられた人間は思わず、母性本能らしき感情をくすぐられるという七不思議の一つだ。さすが末っ子。さすが「泣き落としのジョン」。
「だがそれは通用しないよジョニー坊や!」
「そんな! 頼むよー!」
 純真無垢な少年の瞳で詰め寄ってくるジョン。
 夏音はただちに帰りたくなった。
 夏音は上を向いて視線を彷徨わせた後、びしっとジョンに人差し指を突きつけた。
「なら、これだけははっきりしておこうか」
 ジョンは姿勢を正して夏音に向き合う。
「こっちの高校を出るまでは以前のようには活動する気はない」
 きっぱり言い放った夏音の言葉にジョンはずどんと顎からテーブルに沈んだ。
「待ってジョン! そのタイタニックでも沈められそうなご自慢のアゴでテーブルを割る気!? だから、まったく活動をしないという訳ではないんだって!」
「え、それは本当!?」
 ジョン、蘇生。
「ああ。スケジュールさえ合えば、レコーディングとかなら受けてもいいよ。それとカノン・マクレーンとして公に活動するのは無理! それと学校がある日は夜じゃないと無理!」
 夏音が挙げた活動内容をゆっくり頭の中で咀嚼したジョンは、しばし巨大に割れたアゴに手をあてたが、瞬時に手帳を取り出した。
「なら、早速このアーティストのレコーディングがあるんだけど、どうだろう!?」
「早いな!?」
 そうと決まればすぐに動き出すジョンに苦笑しながら、夏音はしばらく二人で予定を合わせた。

 しばらくして話もまとまったところで、ジョンは小腹が空いたと料理を頼んだ。
ジョンはステーキ定食。ポテト。牛丼。ナポリタン。マルゲリータ。それだけでは飽きたらず、食後にジャンボパフェを持ってくるようオーダーした。
「日本のお店は一品の量が少ないね」
「向こうとはいろいろ規格が違うんだよ」
 そんな会話をしながら、二人は料理を楽しむ。
 夏音はこれでも序の口、というジョンの相変わらずの食の量に呆れたが、同時に懐かしさが沸き起こって頬をゆるめた。
「こんな光景も、久し振りだね……」
「ん、何か言ったかい?」
「何でもないよ」
 食後にパフェとコーヒーを楽しんでいたジョンはふと夏音に質問をした。
「ところで、クリスとは連絡を?」
 夏音の表情がその瞬間、固くなる。
「たまに、ね」
「そうか。彼も寂しがっているんじゃないか?」
「まぁ、立花家の奇行は今に始まったことじゃないし。初めの方に……そうだね、去年の夏に一度遊びに来たよ。それからも二ヶ月に一度くらいは電話をしている」
 夏音の語ったそれは全くの嘘である。日本に来てからアメリカから自分を訪ねてきた知人はいない。誰にも居場所を教えていないのだから。
「うん、ならよかった。この間、クリスとマダム・ナーシャがコラボレーションしたシングルが出たが、もう聞いたかい?」
「もちろん。相変わらず、といったところで……」
「ところで、マークは未だに夏音がいなくなったことで騒いでいるらしいけど」
「そうらしいね……最初のうちは一日に三回は熱烈な電話が携帯に来たよ。すぐに解約したけど」
 その時のことを思い出し、夏音はつい青くなった。
「仲が良かったからね」
「……そうだな」
 ジョンとの会話は楽しい。心の芯がぽかぽかしてくる。
 しかし、夏音はこれ以上話しているとあまりに向こうにいた頃のことを思い出してしまう。
 すぐに今を捨てて戻りたくなるくらいな……。
「どうしようもないな……」
 夏音が目を押さえて突然そう漏らすと、ジョンは口をぬぐって夏音にこう言った。
「君が後悔してはいけないよ」
「I know......」
「君がどう生きようと、僕は――僕らは君のことを好きであり続けるし、君の生き方が好きだよ。君らファミリーはどこかぶっとびすぎている感は否めないがね」
「さっきはあんなに喚いていたクセに大人ぶって」
 夏音は拗ねるように口をとがらせた。
「僕は君のことをずっと妹のように思っているからね」
「ほう……俺にそんな冗談を叩いたらどうなるか忘れたのか?」
 ジョンが最後に楽しみにとっておいたパフェのイチゴがまるごと夏音の口におさまった。

 ジョンはこれから都内のホテルで人と会うらしい。
 そろそろ時間だと言って、別れることにした。

「とにかく夏音。今日は君に会えてよかったよ。体には気をつけて」
「そっちこそ。日本にはまた来るだろう? その時はもう少しゆっくり、ね。父さんと母さんもいる時に」
 そう言ってもう一度ハグをしてジョンはタクシーに乗って去った。
 それを見送ってから、夏音はすっかり日が暮れてしまった夜の道を歩き出した。
 外は風が出てきて、少し寒い。
ふと浮かんだのは軽音部の皆の顔だった。
 そのことに少し驚いてから、顔を少し赤くさせて夏音はポケットに手をつっこんで歩き続けた。


 帰宅後、抜群のオーディオ環境がそろっているリビングで録画していたアニメを真剣な眼差しで鑑賞していた夏音。携帯のバイブが鳴り、それを一時停止せざるをえなくなったことに舌打ちをした。
「澪からだ」
【夏音、大変だ。唯が追試で合格しなかったら軽音部が廃部になってしまうらしい……】
「Holy shit......」
 夏音は即座に返信した。
【唯は馬鹿だねー。けれど唯には頑張ってもらわないとね! まあ、何とかなるさ!】
「送信……と」
 夏音は無駄な時間をとった、と再びリモコンをいじってアニメを再生したが、またもや澪からのメール着信で中断させられた。
【そうだな……何とかなるはずだな!】
 澪から返ってきた内容に、うんうんと頷いてからいざ、とリモコンを握ろうとしたが、メールの文章に続きがあることに気がついた。
【ところで、夏音さえ迷惑じゃなければ今度……私のベースをみてもらえないかな?】
 思わず二度見してしまった。
「もしかして……こっちが本題か?」
 まさか、唯の件がフェイントだとは思わなかった。彼女にとって唯と廃部の件は軽いジャブだったということだ。
 夏音は、それとなくこの文章を作った人物について思い浮かべてみた。
 あまり自分を出さない彼女のことだ。この文を打つのにどれだけの勇気が必要だったのだおる、と想像する。おそらく顔を震える手でおそるおそるメールを打つ澪の姿が想像できて、笑ってしまった。
「いいよー、と」
 了解のメールを送信して一分も経たないうちに澪から着信があった。
「澪から……?」
 夏音は首をかしげながら電話に出た。
「もしもし、澪? どうしたんだ?」
『も、もしゅ……夏音ですか?』
「夏音ですよー」
『ベ、ベースの件本当にいいのか!?』
「いいけどー」
『あ、あの……このことは他の人には内緒にしてもらいたいんだけど』
「何で?」
『恥ずかしいからに決まってる!』
 堂々と言われても……と夏音は通話相手に苦笑した。
「ふむ……じゃあ、どこで見ればいいの?」
『あ、部室はだめだよな……どうしようか……』
「俺の家でもくる?」
「はぁーーっ!!」

 ぶちり。
 ツーツーという音が通話終了を教える。

「What the hell happened!?」

 その夜、悶々と女心について悩んだ夏音であった。



※こんな時ですが、投稿します。こんな作品でも、わずか一瞬だけでも気が紛れれば幸いです。 



[26404] 第六話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2013/01/01 01:42
 アリとキリギリスという童話がある。この物語は実に教訓めいており、誰もが一度はこの物語に触れ、日頃から努力を惜しまない事の必要性を説かれたことだろう。

 軽音部におけるキリギリスは友人の前で膝を折って咽び泣いていた。

「という訳で澪ちゃん助けでーー!!!」
「えー、勉強してきたんじゃなかったの!?」

 足下にしがみついてくる唯に愕然とする澪。
それを横目で眺めていた夏音は大きな溜め息をついた。

 ことは唯が赤点をとった事が発端である。
 誰もが顎を落としそうになるような無惨な成績を叩き出した唯が追試を間逃れるはずもなかった。
 部活動をやる上で生徒は、部員である前に一人の高校生であることを求められる。
 当然のことながら、学業を疎かにした生徒が部活動に励むことなど許されない。
 文武両道を目指し、学を修める者として本末転倒とならないように、厳しいペナルティが用意されているのだ。
 追試で合格しなかった場合、部活動は停止。
 一人でも抜けてしまえば廃部へとまっしぐらの軽音部としては、何としてでも唯に追試を乗り切ってもらう必要があった。
 まさに唯の双肩に部の命運がかかっていると言っても過言ではないのであった。

『だーいじょうぶ! 今度はちゃんと勉強するもん』

 と余裕風を吹かせていた唯に根拠不明の不安を抱きながら、この一週間を過ごしていた一同であったが、あろう事か前言を撤回するように唯が泣きついてきた。追試の前日であった。
 今さら切羽詰まった唯は涙を浮かべながら土下座した。
この年にして、見事な土下座っぷりであった。

 誰もが暗澹たる表情で顔を見合わせた。
 このどうしようもない少女をどうしようかと視線を交わすが、誰もが首を横に振る。
 困ったように眉を落とす澪であったが、仮にも泣きつかれた立場として、仲間のために救いの手を差し伸べることにした。

「よし。今晩特訓だ!」

 そう言い放った澪を救世主のごとく見上げる唯。彼女から見る澪には後光がさしていた。
 律曰く、澪は一夜漬けを教えこむエキスパートらしい。
 非常に頼れる澪を筆頭に学校が終わってから、時間が許す限り唯に勉強を叩き込むという力押しの作戦がたてられ、唯の家に集まって勉強会が催されることになった。


「今日はお父さんが出張でね、お母さんも付添いでいないから気兼ねしなくていーよ」
「あれ、妹がいるって言ってなかった?」

 妹が一人いる。律はそんな話が前に出ていたような気がして尋ねた。

「うん! 妹は帰ってきていると思うー」
「それだとお邪魔にならないかしら?」
「え、気にしなくていいよ!」

 黙々と前を歩く夏音は、背後の三人の会話を聞きながら、じっと思案に耽っていた。

「(思えば、日本で友人の家に呼ばれるなんて初めてだ)」

 一年以上も日本に滞在しているくせに、一度たりともない。
 経験がないので、些か緊張していた。
 日本では他人の家にあがる時に変わった作法があるかもしれない。
 少なくとも自分の観てきた作品にそんな描写はなかったが。
 日本人としては当たり前すぎて、丁寧に描かれていなかったのか。
もしくは自分が見落としてしまったのか。
 謎が深まるばかりだったので、その横を歩いていた澪に声をかけた。

「ねえ。日本では友達の家にあがる時に何かしなくちゃだめなの?」

 あまり大っぴらに聞かれるのも恥ずかしかったので、夏音は隣を歩く澪に声を潜めて尋ねた。

「ねえ」
「ん?」
「俺、友達の家に招かれるのなんて初めてなんだけど」
「ええっ?」

 驚きの声を上げた澪はまじまじと夏音の顔を見詰めた。夏音はどうして澪がそんなに驚くのか理解できずに、首を傾げた。

「友達、いなかったの?」
「え?」
「やっぱりプロで活動してると時間とかないものなんだなー」

 ぶつぶつと呟き、勝手に納得する様子の澪に夏音は慌てて訂正を求めた。

「違うよ! 日本で、だよ! 向こうになら友達くらい……」

 いただろうか、と夏音は途中まで口にして頭を抑えた。友人、と呼んでいい存在はいたが、それは仕事上でつながった年上の者達ばかり。
 学校生活において家に招き招かれ、といった関係を結んだ人間はいなかった。

「い、いたけど全然?」
「そうか、勘違いしちゃったよ」

 強がりを口にして繕った夏音に気付かず、澪は素直に謝った。彼女は夏音がひょんなことから傷口を抉られたことに気落ちしたことに気付かず、話題を変えてしまう。

「電話で話した件なんだけど」
「ああ、はい」
「今度時間作れるかな。私から頼んでおいて悪いんだけど、みんなのいる前では話しづらいんだ」

 さりげなく視線をこちらに向ける澪。その表情が硬いことに気が付いた夏音は何かを察知して、快く承諾した。
「かまわないよ。大事な話なんでしょ」
「うん……ごめん」

 そして会話が途切れる。その後も特に交わす言葉もないまま、唯の家に到着してしまった。

「さーさー。あがってあがって」

 自分の家だからか、外にいるより随分と溌剌とする唯が皆に声をかける。

「お邪魔しまーーす」

 澪、ムギ、律の声が重なる。
 はっとなった夏音も「おじゃましまーーす!!!」と従う。声がひっくり返るのを皆に笑われてしまった。
 すると、すぐに奥から可愛らしい声が聞こえてきた。

「お姉ちゃんおかえりー」

 ぱたぱたと奥手から現れたのは、唯に瓜二つの少女であった。
 少女と唯の相違点といえば髪型くらいで、後は見分けがつかないくらいそっくりである。

「あら、お友達? はじめまして! 妹の憂です。姉がお世話になってます!」

 軽音部の一行に気付いた彼女はしっかりと頭を下げて挨拶すると、人数分のスリッパを用意する。

「スリッパをどうぞ」

 挨拶からその所作や気配りに至るまでの洗練されたものに対して「できる!」と心に浮かべた一行であった。
 夏音は靴を脱いで家にあがる少女たちの一挙一動を見逃すまいと真似たが、誰も夏音の様子に目をやる者などいなかった。
 そのまま二階にある唯の部屋へ案内され、やおら腰を下ろしいく。
 夏音はきょろきょろと唯の部屋を見回した。

「(これが、日本の女の子の部屋、か)」

 良い匂いが充満しており、誰にも気付かれないようにひくひく鼻を動かす。
 普段からずぼらな一面を見せる唯であったが、思いがけず部屋の中は整理されている。
 部屋の内装やインテリアに関しても女の子らしい彩りを感じさせられた。

「何をそんなにキョロキョロしてるんだよ。下着なら、たぶんそこだよ」

 そわそわと落ち着かない夏音の内心を看破した律が茶化してきたが、笑顔の澪に沈められた。
 思わず律の指し示す先へとじっと視線を向けた夏音に批難の目が向けられたことは言うまでもない。

 ここへ集まった本来の目的は唯の勉強である。澪が唯の横につき、ムギもそれに付き合う形で勉強が進められていった

 一方、何もすることがなく放置された夏音は気まずさに身動ぎした。ただでさえ「女子の部屋」というものに緊張しているのだ。
 自分がすることに再び批難の視線が突き刺さらないか。また、いちいち緊張している自分に気付かれないか不安を覚えるのであった。
 思春期の少年らしい葛藤を抱えながら、夏音はじっと銅像のように部屋の片隅で固まっていた。
 すると、退屈に身を持てあますあまり先程から落ち着かない律が夏音へと目を向けてきた。手持ち無沙汰なのか、じいっと夏音から視線を外さない。

「さっきから、なんだい」

 視線の圧力に耐えかねた夏音がたまらず聞くと、彼女はぐいっと身を乗り出してきた。

「ねーえー? 夏音くんってば緊張してるよねー。女の子の部屋はじめてー?」

 長い睫毛をわざとらしくパチパチさせる律。からかう気が満々なのは目に見えており、夏音はぶすっと答えた。

「そんなことないけど」

 もちろん、これも強がりである。夏音の回答に邪悪な笑みを浮かべた律は、わざとらしく高笑った。

「まーまー、まるで借りてきた猫のようですわよん。あ、一度借りてきた猫のようだって言ってみたかったんだよなー」
「知らないよっ!」

 好き勝手言ってくる律にたまらず声を荒げた夏音であったが、バタンと参考書を机にたたきつけた澪に睨まれた。

「お前ら……今、勉強中してるんだ。ちょっと静かにしてくれないか」
「……ごめん」 

 明らかに巻き添えを食らっただけなのだが、夏音は素直に謝罪する。その後、律を睨みつけたが、力が抜けたように夏音は唯のベッドに頭を乗っけた。
 まともに相手をしても仕方がない。何より彼女は年下である。
ここは大人としての余裕を見せるべきだと自分を納得させた。

 今まで自分より年が下の者と関わる機会などなかった。スクールバスは同い年の者同士で固まっていたし、その中でも夏音はあまり同級生と会話することはなかった。
 常に年が離れた者があふれる環境に身を置いていた夏音はどう対応すればよいのか分からない。
 特に気にすることなく接するようにはしているが、頭に置いておくにこしたことはない。例えば、こういうシチュエーションにおいて自分を納得させるためにも。
 そんなことを考えているうちに、思考がだんだんと白く溶けていった。


 次に夏音はぼんやりと意識を取り戻した時、まず首の筋が軋む感覚に顔をしかめた。

「首、いたぁ」

 寝ぼけ眼のまま体を起こすと、そこには見覚えのない少女が加わっていた。

「Oops。寝ちゃったよ」

 唯は夏音が起きたことに気付くと、声をあげた。

「あ、夏音くん起きた! ごめんね、あんまり気持ち良さそうに寝ていたから起こさなかったんだー」
「いや、俺こそ寝ちゃってごめんよ」


 頭をかいて姿勢を正した夏音は、先程まで勉強道具が広げられていたテーブルに美味そうなサンドイッチが広げられているのを見た。

「立花くんね。お噂はかねがね。はじめまして、真鍋和です」

 アンダーリムの眼鏡をかけた理知的な雰囲気の少女が夏音に話しかけてきた。

「夏音でいいよ。こちらこそ、よろしく……ちなみに噂ってところを詳しく聞きたいんだけど」
「噂ってほどでもないんだけど。二組に外人がいるみたい、って。日本語が不自由だって聞いてたけど、そうでもないみたいね。あ、外人って言い方は失礼ね」
「いや、別に外人でも気にしないけど」
 
 律儀に訂正する和に手を振りながら夏音は安堵した。他クラスでの噂と聞いたので、よくないものかと身構えたが、そこまで悪いものでもない。

「サンドイッチ作ってきたから、よかったらどうぞ」

 目の前のサンドイッチを視界に入れるとぐぅと小さく腹が鳴った。

「いただきます」

 それから、ひとときの間サンドイッチをつまみながら和が語る唯の小学校時代のエピソードなどを聞いて過ごした。
 彼女と唯は幼稚園以来の幼馴染らしい。
 幼馴染といえば澪と律も小学校から一緒で、掘ってみればいろんなエピソードがあるもので、澪の恥ずかしい話で盛り上がった。
 しばらくすると和はあまり邪魔したら悪いから、と平沢家をあとにした。

 唯の勉強はその後すぐに再開された。
 仲間を巻き込んでいるという自覚があるのだろう。
 集中を増した唯は次々と問題を解きこなしていき、夜が更けて数時間が経ったところで澪の及第点が出た。

「よし! これだけ解けたら大丈夫だろー!」
「これで追試もばっちりね!」

 長い時間、勉強に付き合ってくれた澪とムギに唯は深々と頭を下げた。

「本当に言葉もありません……うぅ」
「今度きちんと返してもらうからな!」

 流石に何時間も勉強につき合っていた澪の顔に疲れが浮かぶ。

「あれ、そういえば律はどこに行ったんだ?」
「いないわね」
「夏音は?」
「ふふ、そこにいるじゃない」

 ムギが忍び笑いを浮かべてある一点を指を指す。

「…………………」
「気持ちよさそうに寝てるねー夏音くん」
「他人の家でよくこれだけ眠れるな」

 唯のベッドを占領どころか布団にくるまって安らかに寝息を立てている夏音を見て、澪は呆れるどころか逆に感心する。
 澪はおもむろにカメラを取り出すと、

「後でからかってやろう」

 楽しげに笑い、写真に収めようとする。
 彼女にとってはいつもからかわれる側なので、やる側へまわった事への妙な高揚感を得た澪は「ふふふ」と不気味な笑みを漏らした。
 ファインダー越しに夏音を撮ろうとしたら、やはりその造りモノめいた顔の造形に集中してしまう。
 澪の中のスイッチがオンになってしまった。
 だんだんとこのままの角度でよいのだろうかと不満が出てくる。いっそ勝手にポーズでもとらせてみようかと思考する。
 気軽に撮ることのできない被写体なのだ。
 こうしてじっくりと写真に収めようとすると半端な形でシャッターを押す訳にはいかない。
 澪はプロのカメラマンになったような気分で、様々な角度を試し続ける。あどけない寝顔でさえ、レンズを通してみればそれだけで美術品の額縁を覗き込んでいるような気になるのだ。

「澪ちゃん、ここをこうした方がいいんじゃない?」

 急に雰囲気が変わった澪の思惑を察知したムギがそっと夏音の手を動かした。
 すると、誰もが「この寝姿!」と唸りそうな優雅な形になる。

「おおっ。これで画面の対比もばっちりだ!」

 いつの間にか高度な部分にまで気を回していた澪は満足そうに頷いた。

「髪はこんな感じでどう?」
「あー、いいな。そう、そんな感じ……あ、まさにそれ! ムギ天才!」
「ここで顎をあとちょっとだけ……くいっと」
「くいっと! そう!」
「唯ちゃん、これ点けるね?」
「うん! あ、これ白い画用紙だけど役に立つかな?」
「ああ、頼む」

 ムギは目に止まったベッド上の照明を点け、唯がレフ板代わりに画用紙を支えた。

 職人達の仕事っぷりにムギが満足そうに頷き、絶え間なくシャッター音が響いた。

「お前ら……何やってんの?」

 友人の妹に遊んでもらっていた律は部屋に戻ってきて早々目に飛び込んできた理解不能な光景に呆然と呟いた。
 
 ★     ★

 勉強会から数日。あの日、夏音を収めた写真がどうなったかは不明であるが、とっくに唯の勉強の成果が問われる日は過ぎていた。
 今日、唯が受けた追試の答案が返却されてくる予定である。
 部室ではいつものように茶菓子とお茶が振る舞われていたが、ふわふわとした雰囲気はない。
 むしろ全員が同様にそわそわとしている。
 そんな中、夏音は部室のソファに横になりながら持ち込んだ漫画を次々と積み上げていた。

「今日返却だよね……合格点とれてるかなー唯は」

 重たい空気に耐えきれなくなったのか、澪はあえて明るいトーンでそう切り出した。

「あ、あれだけ勉強したから大丈夫なはず!」

 ムギもはっとして、ひきつった笑顔で返す。
 夏音は何を大袈裟な、と楽観していたのだが、彼女たちの不安が伝染したのか、少し落ち着かなくなった。
 夏音とて、入ったばかりの部活がなくなるのは避けたいところである。
 そうこうしていると、唯がふらふらと部室に入ってきた。
 その足取りはどこか覚束ない。本試験のテスト返却日の様子を彷彿させる雰囲気である。誰もが息を呑んで唯の答案をのぞき込んだ。

「ま、満点!?」

 皆、平沢唯の底力を見誤っていた。 
 とはいえ、あれだけ面倒を見た唯が上々すぎる結果を持って帰ってきたことに大いに喝采を上げた。
 彼女がその満点を取るために犠牲にした代償を知らずに。

「ねえ……嘘だよね。あれだけ覚えたのに、もう全て忘れたっていうの!?」

 夏音は自分は滅多に声を荒げることはない、と自負していたがこの時ばかりは混乱のあまり自分を抑えてなどいられなかった。
 
 唯は完全に今までのギター経験すべてを忘却の彼方にぶっ飛ばしていたのだ。
 まるで供物とばかりに数学の神にコードを捧げてしまったかのようである。

「コード覚えるところからやり直し……だな」

 先が思い遣られ過ぎて、唯をのぞく軽音部一同はがっくりと肩を落とした。

「だ、大丈夫だよ! 一度覚えたんだしすぐに覚えるから! 私、できるから!」

 全員から諦念の目線を送られた少女も大概不遜だった。

★      ★

 夏音は、生まれて初めてカラオケボックスという所に足を踏み入れていた。
 ただでさえ不安定な軽音部の先行きをますます不安にさせた唯であるが、それでも追試を頑張ったということでお祝いと打ち上げを兼ねてカラオケに行こうと律が提案したのであった。
 これからやっと音楽に打ち込めると信じていた澪はもちろん反対したが、よくよく考えれば彼女こそ最大の功労者であり、その苦労がこうして報われたお祝いと考えようと律に諭されたらしい。
 一つの苦労が報われたが、また別の苦労が待ち受けている事はあえて考えないようにした。

「俺、カラオケって行ったことないよ!」

 うきうきと弾む気持ちでカラオケについていった夏音は興奮しきりで、同じように初カラオケというムギと共に浮かれていた。

「おっしゃー、トップバッターいきゃーす!」
「えー、りっちゃん最初に歌うのは私だよー?」

 一部では早速、マイクの奪い合いが始まっていた。
 夏音は小さい部屋に案内されてから、そわそわと室内を観察していた。
 小さい部屋にディスプレイ画面とマイクがあり、歌本から歌いたい曲を選んで記載されているコードを機械に転送すると曲が流れるという仕組みらしい。画面に歌詞が表示されて、曲中の詩の進行などもわかるようになっている。
 結局、二人で歌うことにしたらしい唯と律が夏音の知らないJ-POPの曲を歌い始めた。

「え、と。なんかアレだね」

 夏音は流れてくる安っぽいオケに対して苦笑いを浮かべた。

「考えたら負け、か」

 どうせ素人が作っている音源である。
 こういう場合は気にしていたら楽しめないだろうと思い、何故かテレビの下にあったタンバリンやマラカスを打ち鳴らした。
 楽しんだ者が勝ちである。

「最近のカラオケはずいぶん曲も増えて、マイナーなのも結構あるんだぞ」

 と夏音に語る澪だったが、なかなか曲を入れる様子が見られない。
 一歩引いた様子で二人の歌を聴いているといった塩梅である。

「ふーん。ところで澪は歌わないの?」

 夏音は慣れない機械に苦戦しながらも曲を選んで、やっと機械に転送した後で澪に訊ねた。

「い、いや! 私はあとでいいよ」

 急に歯切れが悪くなった澪であるが、事情は言わずもがなであった。 ここには友人しかいないのだが。彼女のシャイな部分は知っていたが、ここまで筋金入りだとは思ってもいなかった夏音は認識を改めた。

「あ、澪ー。さっき澪がいつも歌うやつ入れといたからー」

 エコーがかかったマイクを持った律がしてやったりと顔に浮かべて言った。

「え、えー!? 何を勝手に!」

 目に見えて狼狽えた澪であったが、曲のイントロが流れだした瞬間、びくりと固まった。
 にやにや笑いの律がさっとマイクを手渡すと、「がーんば!」とウィンクを投げる。
 そんな幼なじみを殺しそうな勢いで睨んだ澪であったが、歌いだしの部分まで曲が進むと観念したように立った。
 澪は、ふっと息を吸い込み、目を閉じた。
 彼女の声が狭い個室を埋めた。

「Wow!」

 夏音はイントロが始まった瞬間からそれが何の曲か分かっていた。あまりに有名な曲だ。
 Time after Time.
 これを歌うのは、夏音が最も尊敬する女性シンガーの一人である。
 夏音のテンションは最高潮に達した。
 マイクの当て方が悪いのか、声の調子が悪いのかわからないが、声量が大きいとは言えない。
 だが、発音はいささか怪しい部分はあるものの、歌い方のニュアンスは本家に近いものがあって歌い慣れているといった印象を受ける。
 夏音がゆらゆら揺れながら聴いていると、律が夏音にマイクを手渡した。顎で何かを促される。
 歌え、ということなのだろうか。たしかに一緒に歌える歌であるが、夏音は他人の歌に割り込んで良いものか迷った。
 サビに近づくあたりで、マイクをもった夏音に気がついた澪は夏音を見て恥ずかしそうにうなずいた。
 OKということらしい。夏音は頷き返すと、緊張しながら澪に声を重ねた。

「If you`re lost, you can look. And you will find me Time after time...」

 夏音の歌声は、澪の声にかっちりとはまった。二つの伸びやかな歌声が混ざり合い、心地よいハーモニーを奏でる。
 澪はこの歌詞の内容を理解しているのだろうか。この年頃の少女が歌うにはやや早熟な内容であるが、澪はたっぷり情感をこめて歌いこなしていた。

「Time after time...Time after time...」

 最後に澪が囁くように、詩の尾をそっと撫でるように、曲が終わった。
 二人がマイクを置くと、拍手が起こった。

「二人とも、すごく素敵でした!」

 ムギが顔を暗がりにも分かるほど顔を上気させ、タンバリンを叩いた。唯も「二人とも上手だねー」と手を叩いて喜んだ。
 夏音は初めて歌ったカラオケに達成感があったが、一方の澪は完全に力尽きた様子だ。
 続けて、夏音が入れた曲が流れる。

「お、次は俺だ」

 本家には程遠いストリングスの音を伴奏に夏音が歌い始めると、肩を落としていた澪をはじめ俯いて曲を選んでいた律までもが顔をあげた。
 先ほどの控えめのコーラスとは違い、ソロで歌う夏音は別次元だった。
 日本人離れした声質、発声。また声量がとんでもなく力強く、そしてどこまでも伸びていくのではないかと感じさせる高音域まで出せる喉。かと思いきや、中音域に独特の粘りがあり、聴くものをとらえて魅せる。

 当然である。
 
 夏音は自らの呼称をベーシスト、と限定するつもりはない。必要なことは何でもやる。歌が必要であれば、歌う。
 自分のアルバム内で歌うこともあり、友人ミュージシャンの楽曲の中でコーラス参加することもあった。
 自分の歌声を金を払って聴く人がいる。そう考えると、やるからには手を抜かない彼は、ヴォーカルトレーニングの経験も積んだ。
 一度でも歌えばシンガーである。ならば畑違いだからと疎かにせず、シンガーとして恥じないように、と学んだのだ。

 歌に感情がこもる。

 耳にそっと入る歌声は聴く者の感性を刺激して、うっとり惹き付ける。ダイナミクスが、アーティキュレーションが、一般人とは違う。
夏音の歌がこの小さな部屋に響き、空間を震わせ、埋めていた。
 やがて曲が終わると、ぼーっとしたメンバーに自分の歌はおかしかったかと訊くと、急いで首を横に振るのであった。

「上手いというか、凄まじいというか……」

 律はぽかんと放心したような顔をしていた。

「私、少し泣きそうになっちゃった」
「わ、わだしも……」
「唯、すでに泣いてる……」

 涙ぐむムギに、すでにいろいろ漏れている唯。身近な聴衆の反応に、夏音は顔を赤くした。

「いや、なんというか恥ずかしいな……」

 まんざらでもない様子で頭をかいた。こんな近くで聴衆の反応を見る機会はそうそうない。
 しかしカラオケも悪くない、と夏音は考えを改めた。
 曲は次々と予約されているので、湿っぽい空気はすぐに流れていった。
 夏音に感化されたのか、はっちゃけたように「The Who」を歌いきった澪、「Hail Holy Queen」を器用にも一人で歌いのけてしまったムギ、「レティクル座行超特急」でぶっ壊れた律、「日曜日よりの使者」で涙を浮かべて喉を枯らした唯。
 それに対抗して夏音も「スリラー」を踊りつきで熱唱して、軽音部一同は大いに沸いた。
 軽音部のメンバーは全員歌がうまかったことが判明したのであった。

 その日は皆喉を枯らすほど歌って解散した。


★      ★


 カラオケボックスで解散してから、律と共に帰って一度は帰宅までした澪だったが、再び外に出ていた。ベースのケースを背負って。
 澪にとっては重大な用事がこの後に控えているのだ。足取りはやや重たく、心は期待に弾む一方でやはり今からでも取り消すべきかと及び腰になっている。
 考え事をしているうちに、約束の場所まで辿り着いてしまった。

「やあ、こんばんは」

 そこに待ち構えていた夏音は緊張した面持ちの澪に両手を広げて歓待の意を示した。
 澪が向かっていたのは、夏音の自宅。教わった道順を辿っているうちに視界に入る住宅の豪華さに覚悟はしていたのだが、

「で、でか!」

 つい声に出してしまった。
 澪は夏音の家の規模に目を瞠る。家に対して規模というのもおかしな言い回しだが、これを目にしたらやはり広さ、大きさというより規模と表すのが妥当であった。
 開いた口が塞がらないままの澪は、夏音が自分を笑っているような気がしてむっと口を閉ざした。小市民としてのささやかなプライドに傷がつく。

「そうかな?」

 あろうことか、簡単に一言で返されてしまった。その一言に自分と彼の間に存在する距離を教えられてしまった。
 いつまでも外で立ち話というわけにもいかない。澪は夏音に招かれて、家へと案内された。

「お、おじゃまします」

 広い玄関で靴を脱ぎ、リビングへと通される。

「お茶淹れるね。座っててよ」
「あ、うん」

 そう言い置いて夏音は台所へ消えていった。澪は身を強張らせながらリビングを見回し、中央にでんと置かれているソファに腰を落とした。何とも言い難い感触で腰に反発してくるソファは革張りで、おそらくこれも馬鹿高い値段だろうなと思った。
 再びきょろきょろと室内を見渡してみる。白を基調としたモダンな雰囲気。けれども、フローリングの木肌が温かみをもたらす。
 二階と吹き抜けになっている部分があり、開放感がある作りだ。
 静かな家。まずその広さにも驚かされたが、次第にこの家に満ちる静けさが気になった。彼の両親もまた業界屈指のミュージシャンである。
 忙しく飛び回っているとは聞いていたが、一体どれだけの頻度で家に帰ってくるのだろうか。
 物は充実しているのに、人が住んでいるにしては生活の匂いが微かにしか漂ってこない。
 気になることは幾つも出てきたが、澪は特に意識していなかった事実に気が付いてしまった。

「(私、男の子の家にいるんだ)」

 あんな外見だろうと男である。女友達の付き添いで複数で男子の家に上がりこんだことはあるが、二人きりという状況においては初めてである。
 何もやましいことはないのに、どこか恥ずかしいという気持ちが沸き上がってきた。
 澪がうっすら頬を染めて借りてきた猫のようになっていると、クッキーと紅茶を淹れてきた夏音が向かい合って座った。

「さぁさぁどうぞ。買い置きのお菓子なんですがー」

 先日、平沢家にお邪魔した時に憂が言っていた台詞と一緒である。
そのことをしっかり覚えていた澪は思わず噴き出してしまった。

「いやー、あれだよね。買い置きのお菓子で申し訳ないって……謙虚な日本人らしい言葉だね」

 本人としては真面目に言ったつもりだろうが、夏音は誤魔化すように一口クッキーを頬張ってから気恥ずかしそうに笑った。

「ところで、もう周りを気にする必要もないでしょ?」

 どかっとソファの背もたれに寄りかかりながらリラックスした様子で澪に話を促した。
 澪はその言葉に深く頷き、重々しく口を開いた。

「私は既に夏音の正体……カノン・マクレーンだって知ってる」

 口火の切り方として、これはどうかと思ったが、夏音は澪の言葉に静かに耳を傾けていた。

「そうだね。澪がどこまで俺の事を知っているのかまでは存じないけど」
「もちろん私だって全部は知らないけど。もともと聞いたことがあった名前だったし、音楽雑誌とかでも名前が出ているのを見た事があったから」

 早口で喋った澪はそこで言葉を止める。

「今まで忘れていたんだけどね」

 言ってしまってから澪は「しまった!」と焦った。事実とはいえ、忘れていたなど失礼にも程がある。
 実際にカノン・マクレーンの存在が澪の頭からすっかり抜けていたのは真実である。その名前を目にする機会はいくらかあったのだが、食指を動かせなかった。カノン・マクレーンという名前の先を知ろうとしなかったのだ。

「あ、そうなの」

 澪の言葉に彼はとくに気にした様子もなかった。あっさり反応してみせたが、紅茶をすすろうと顔に近づけたカップがカタカタと震えていた。
 思い切り動揺している。実はショックだったらしい。
 悪いことを言ったと気に病んだ澪だったが、続けた。

「クリストファー・スループの弟子みたいなものなんだっていう認識かな。その名前が目につきすぎて、カノンの名前が弱く映ったのかも。それでも、私と変わらない年の男の子がすでにプロの世界で売れているって知った時は衝撃だったよ」

 本当のことを言うと、年の変わらない『女の子』だと思っていたなどとは口が裂けても言えなかった。
 雑誌で確認したヴィジュアルだけ見たら、そう勘違いしてしまっても悪くないと心の中で弁護する澪だった。

「ずっと考えてたんだ。どうして夏音のことを深く知ろうとしなかったのかなって。たぶん嫉妬するから、だと思う」
「そうか」
「嫉妬する、っていうか。ちょっとだけ嫉妬してたんだと思う。それで、この人のベースを聴いたらもっと嫉妬しちゃうんだろうって予感がしたから」

 澪は醜い感情だと改めて自分が抱いたもの醜悪さを知って嫌気がさした。

「ただ、それだけで。いつか別の場所で聴いて、それこそ私が大人になってひょっこり耳にしたら純粋にすごいなって思っちゃうんだよ。私がベースをやってるから。ただ、それだけの理由で意味わからない嫉妬心が出てきちゃったんだよ。馬鹿みたいだろ? 自分でも馬鹿って思う。だから、夏音の曲を聴いてみたりした」

 流石にすぐにCDを手に入れることはできず、夏音には悪いと思いながら動画サイトを利用した。
 そこには、たくさんの動画があった。
 リンクが次から次へと貼られてあり、リンク先にひょっこり現れる有名なバンドの名前だったり、共演した演奏動画を目にする度に、現実を突きつけられる気分であった。
 不思議と、かつて抱いた感情はなかった。
 彼の作った作品、音を素直な心で受け止めることができた。
 かつての感情を振り切って、澪が掴んだのは「尊敬」という感情だった。

 心から、彼の全てを平等な気持ちで評価することができたのだ。

 まだ全てを見たわけではなく、それも彼の一部だったのかもしれない。それでも、澪は彼のすごさを認め、一つの感情を抱いた上で、また自身の欲に出くわした。
 この人がそばにいる。
 このチャンスを、活かしたい。

 自分のことだけを考えたお願いだということは重々承知している。これが彼にとってメリットとなることはない。
 純粋に、これは澪の願いからくる懇願。
 それを彼に突きつけるために、澪は夏音のもとに出向いたのだ。

「ということで……私は、夏音に今の私のベースを聴いてもらいたいんだ。そして評価してほしい。本物の意見で」

 途中から一言も口を挟まず、話を聞き終えた夏音は、薄く微笑んできた。
 嫉妬。保身、排他。
 澪は、ごく当たり前に人間に起こりうる感情を何段階も経た後にこうして玉砕覚悟で夏音に向かい合っていた。
 夏音はそのことをきちんと見透かしていた。

「いいよ」

 あっさり、答えられた。その瞬間、澪はかっとお腹のあたりが熱くなったのを感じた。

「い、いいの?」
「いいよ。だって自分より上手い人がいるんだもん。ベース見てもらいたいって思うのは当たり前だし。俺だって隙あらば他の人に意見を聞いてもらうよ」
「夏音が!?」
「当たり前じゃないか。自分の意見が全て正しいはずない。俺なんてまだまだひよっこだし、自信をもって作った曲をこき下ろされたりすることもあるよ」

 それを知った澪はぶるりと身を震わせた。初めて、音楽に対して身震いするほどの思いを抱いた。
 深すぎる。音楽、そして音楽業界。目の前にいる男がまだまだならば、自分はどの位置にいるのだろうかと考えただけで立ち眩みを起こしてしまいそうだ。


 では早速とばかりに、澪は立花家ご自慢のスタジオに案内されることになった。
 防音のドアをあけて中に入った澪はしばらく言葉も出なかった。
 レコーディングスタジオといっても過言ではないほど、充実した機材の数々。さらに機材の保管庫はまだ他にもあると言う。

「さ、さすが……というか、もうお前に関わることで驚いていられないな」

 心臓がいくつあっても足りない。
 それを聞いた夏音は肩をすくめて、椅子を二つ用意した。
 澪は自前のベースを取り出して、調律をすませてからスタジオのアンプにつなぐ。

「見たことないつまみとかあるんだが」

 普段、自分が触れる機会のない高級なベースアンプ。澪はヘッドアンプに存在する幾つものつまみを前に戸惑ってしまった。

「ゲインとマスターがコレ。エンハンサーは使わないで。コンプもいらない。イコライザーはこれがベース、この二つがハイミッド、ロウミッド。それでトレブル、プリゼンスね。とりあえず今はフラットにして」

 初めて見るアンプに戸惑っている澪に、夏音はアンプのつまみを一つずつ説明した。
 セッティングが整うと、用意された椅子に互いが向き合う形で座る。
 澪はしきりに髪をいじる。聴いてくれと頼んだのは自分だったが、いざこうして夏音の目の前で弾くのは緊張してしまう。

「あ、あの……」
「ん?」

 頬に血が集まるのを感じながら、澪は恥ずかしさを誤魔化すつもりで言った。

「笑わないで、ね」

 その瞬間、夏音がのけぞった。見た事のない味のある表情が見物だった。
 彼の不思議な反応に澪は首を傾げたが、覚悟を決める。
 澪の手がネックに触れる。

 ★        ★

 澪の手がネックに触れる。
 左手が弦を撫でるように動き、ベースの低音が鳴り響いた。
 フェンダージャパンのパッシヴベース。澪が初めて買ったというベース。
 パッシヴ特有の温かいふくよかな音。澪が選んだのはクリームの曲だった。
 アレンジを加えながら、夏音のよく知る進行で曲が進んでいく。

 よくコピーできているな、と夏音は素直に感心した。
 楽曲をそのまま、という事ではなくて演奏者の手癖やニュアンスを表現しているという意味で。
 もしかして、澪はジャック・ブルースに影響を受けているのではないだろうか。
 時折入るオカズを聴く限り、ジャズやブルースといった音楽の要素がいくつか引き継がれているように思えた。
 おそらく、そっち方面の音楽を学んだというより、コピーしているうちに身につけたのだろうと推測した。
 夏音はしばらく彼女の演奏にじっと耳を傾けていた。
 真剣な表情で音を紡ぐ彼女が全力で自分に訴えようとしているもの。彼女が築き上げてきた技術を感じとろうとする。

 五分ほど弾いたところで、澪は演奏をやめた。

 演奏を終え、澪は恥ずかしそうに俯く。

 感想を待っているのだと気付いた夏音はゆっくり口を開く。

「何から言っていいやら」
 
 そう口にした夏音に澪は背筋を伸ばしてごくりと生唾をのむ。

「まず、澪は上手いね! うん、十分上手いと思うよ!」
「え?」

 澪は夏音から飛び出た言葉が想像していたのと違ったのか、素っ頓狂な声を出した。

「で、でもこんな実力でプロからすればへ、へた……なものじゃないのか?」
「プロだから、とかそういうのはよく分からないな。もちろん、そういう区別をするなら下手かもしれない。誰と比べてもいいなら、ね」

 夏音はいくつか彼女の演奏を聴いて思ったことを挙げた。

「良い音楽を聴いてるなぁ、って思ったよ。音については仕方がないけど、ピッキングが弱くて輪郭がぼやぼやだったかな。それにリズムキープ怪しくて、ところどころ崩れそうになる瞬間があるのとか……他にもあるけど」

 ぽんぽんと出た夏音の言葉に素直に頷いていたが、澪はまだ何か物足りないような表情を隠せないでいた。

「ちなみに、だけどジャコを聴いたことは?」

 夏音がふと尋ねた人物に澪が反応した。 

「名前は知ってるけど」
「ナルホド……」

 残念そうな顔になった夏音だったが、気を取り直した様子で数回頷くと「それくらいかな」と言った。

「……他には?」
「他?」
「何かないのか? 私のベースの感想っていうか、感じたこととか!」
「感じたこと……そうだな……ない!」

 ぐっさりどでかい言葉の杭を澪に突き立てた夏音であった。
 もちろん、澪は心に相当な深傷を負った。瞬く間に真っ白な灰になってこれから消え飛びそうになった澪に、夏音は泡を食う。

「ご、ごめん! 言葉が悪かった! 何も感じなかったっていうのは言い過ぎだね! なんて言えばいいんだろう……澪がさっきからプロとしての意見を頼む、って言っていたのは自分がプロとして通用するかってことなんだろ? そういう意味では、あなたはプロになれませんよーって断言することなんてできないよ。技術をひたすら磨けばたいていプロと呼ばれる人種にはなれる。ただ、」

 夏音が間を置いて澪と目を合わせる。澪は夏音の言葉の先を待った。

「ただ……?」
「上手いだけでは、通じないんだ……俺たちの世界ではね」
「…………」
「要するに、簡単に言ってしまえばワンアンドオンリーがない」
「個性ってこと?」
「そう。個性」
「プロにも何種類もの人間がいるのさ。言ってしまえば、その分野でお金をもらって食っていく人間はみんあがプロだ。ただ、俺が立っていた場所は……周りの人間は個性をもっていたよ。その人の音をもっていた……俺も、その内の一人だった」

 自慢でも過信や思い上がりではない。夏音はそのことだけは自信を持っている。夏音は続けて言う。

「だから、澪が今すぐプロに通じるなんて到底ムリ……残酷に聞こえるかもしれないけど」

 はっきりと言われ、澪はあからさまに落ち込んだ様子であった。それでも納得したようにうなずき、いっそ清々しいような笑顔を浮かべた。

「そうか……はっきり言ってくれてありがとう。別に、プロ願望が一番にあるわけではないんだ……ただ、今はベースが私の中で大きな部分を占めているから。どこまで通用するのか、って気になったんだ」
「なるほどね。ただ、勘違いしないでね」

 夏音は大事なことである、と一度切ってから話し始めた。

「澪がこの先もプロになれないとは言っていない」
「え?」
「もちろん、必ずなれるとも言えないけどな。今聴いた限りでは、澪は伸び代が十二分に余っていると思うよ」
「と、いうことは?」
「ということはも何もない。要はこれからってことさ」

 澪の顔は拍子抜け、といった感じがありありと出ている。夏音は彼女がどんな回答を求めていたか、容易に予想できた。

「澪。言っておくけど、単純な問題ではないんだよ。澪が期待するような答えなんて俺は持ってない。澪の将来のことなんて俺にわかるはずないじゃないか。これから澪がどんな努力をするかも分からない。オーディションを受けてるんじゃないんだ。今、この場で俺が君にジャッジを下せるはずないだろう」

 遠慮のない言葉に澪の視線がだんだんと下がっていく。しかし、夏音は澪にとっての衝撃的発言を口にした。

「俺なんかでいいのなら、教えてあげられることはあるけど」
「ええっ?」
「どうする?」

 顔を上げた澪は目を瞬かせて夏音の顔を覗き込んだ。

「そ、それって……」
「ていうか。最初からそういうつもりだったろ?」
「ち、違う! 最初からそんなつもりなんかじゃ! 私のベースが通用しないんだったら、それで諦めようって……」
「素直じゃないなー」
「す、素直とかそういう話じゃない! 本当だ!」
「別に恥ずかしがることじゃないよ。澪もベーシストだから、そういう風に俺を見てしまうこともわかる」

 澪は思わず、声を呑んだ。その声がわずかに震えていることに気付いたのだ。

「ただ……俺を遠ざけないで」
「と、遠ざけてなんかないよ!?」

 澪は急いでそれを否定した。

「本当に? 俺を、ただの夏音だと見てる?」
「そ、それは……うん、夏音は夏音だよ。他の何者でもない……んじゃないの?」
「なら、いいんだ。ただ、本当の事を知っているのは澪だけだし。澪は何だか最近様子がおかしいし。やっぱり打ち明けたことが原因だったのかなって」

 ★        ★


 澪はそれを聞いて、後悔した。自分の態度ははっきりと彼に伝わり、悩ませていたのだと今さら気付かされた。
 ただ才能をうらやみ、さらにあわよくばと彼を頼っていた自分を恥じた。

「ごめん。夏音のことを見る眼が少し変わったのは事実だ。けど、私が最初に友達になったのはカノン・マクレーンじゃなくって。立花夏音だ」

 澪にしては珍しい、かなり恥ずかしい発言である。澪も言ってしまった後に、それに気付き顔が真っ赤になった。

「あ、ありがとう……そう言ってくれると嬉しいよ」
「……ハイ」

 お互い、少し気まずくなった。

 二人はスタジオで様々な話をした。
 濃い、音楽の話。夏音の生い立ちやスループ一家との出会いなど。
それに対し、澪は表情をころころと変えて驚き、笑い、共感した。それは澪の想像の向こうの話。知られざる世界の裏事情だったり、有名なギタリストが同性愛者だったといったような話まで。
 そうやってしばらく話し込んでいるうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
 時間も時間であり、お暇すると告げた澪。夏音もそれに賛成すると、送っていくと言った。

「別に送ってもらわなくて大丈夫だぞ?」

 子供じゃないんだからと笑う澪だったが、夏音は外で待っていてと言って姿を消した。
 言われた通り、玄関先で待っていた澪だったが、ふと大きなエンジン音が聞こえたと思ったら大型のワゴンがガレージから出てきた。

「……ん、んなっ!?」

 運転していたのは夏音であった。

「Yeahhhh!!! huh!!! 乗んな!」

 運転席から顔を出し、カウボーイみたいなかけ声をあげ、乗れという夏音。運転席の下まで詰め寄った澪は悲鳴に近い声で叫んだ。

「な、何で夏音が車を!?」
「うんー、まあまあとりあえず乗ってよ」
「いや、でも!」
「いいから乗れよ!」

 大人しく乗ってしまう澪であった。
 助手席に乗ってから、無免許運転、犯罪、警察といった恐ろしい単語が頭をめぐり激しく後悔した。
 しかしながら遅かった。
 やっぱ降ります、と言う前に車は発進してしまった。

「そんなに怯えないでいいよ。無免許じゃないから」

 助手席でぶるぶる震えている小動物に夏音が苦笑しながらある物を差し出した。

「ん? これは……免許?」

「(何で夏音が免許を持っているんだ?)」

 頭の上に疑問符が何個も出ている澪は、どうやら本物らしい運転免許証を目を凝らして見た。
 その生年月日を。

「え…………夏音………お前……?」

 澪がおそるおそる夏音の方を見る。すると、夏音は大口をあけて笑い出した。

「そうでーす!! 実は十七歳でーす! 向こうで免許とって一年経っていれば日本でもとれるんだよ。まぁ、オートマ限定だけど」

 アハハハと笑う夏音であった。もうやけくそだった。この際、カミングアウトしてしまえーと思ったが、これでどんな反応がくるか不安である。

 夏音は横でしんとなっている澪をそっとうかがった。
 もしかして、なんとか―――、

「えーーーーーーーーーーっっ!!!!???」

 ―――ならなかった。澪の限界であった。つんざくような澪の悲鳴をBGMに大型ワゴンは夜の道を疾走する。

「あの、澪さん……何で僕はここまで怒られないといけなかったんでしょう」

 夏音が実は年上だという事実を知らされ、度を失ったように錯乱して運転中の夏音の首を絞めて揺さぶった澪は現在、しゅんとなってうなだれている。

「ご、ごめん。つい弾みで……」
「別に年なんて大した問題じゃないでしょう」
「た、大したことなくない! 夏音は私たちより年上なんだぞ!?」
「うーん、そうだけど。俺の生年月日なんてwikipediaに載ってるんだけどなあ」

 夏音が間延びした口調でそう言うので、澪は溜息をついた。
 そして真剣な口調で――、

「夏音さん。それとも夏音先輩、の方がいいか?」

 ハンドルを持つ手が滑り落ちそうになった。

「今、ゾワリと背中を何かが……頼むからやめてくれ……」

 信号で止まったので、澪の方を向くとその信号機の照明にぼんやり照らされた横顔、頬が緩んでいるのがわかった。

「……からかっているな?」
「ばれたか」

 夏音は少年のように笑う澪に肩の力が妙に抜けてしまった。

「そりゃびっくりしたけど。もう夏音のことでいちいち驚いていられないって思ったんだ」

 落ち着いた声でそう言った澪に、澪はふぅと溜め息をついた。

「そうですか……でも、澪には何もかもバレてしまったな」
「なあ、みんなには言わないつもりなのか?」

 澪は前から気になっていた、と夏音に訊ねた。だが、夏音は少し口をきかなくなり、やがてぽつぽつと喋りだした。

「そうだな……いずれ、必ず」
「まあ、夏音がそれでいいなら私は何も言わない」
「そうしてちょうだい」

 それから無事に澪を送り届けた夏音は、早々に帰宅した。



[26404] 第七話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/18 17:24

「カノン、僕は日本の萌えとやらを見くびっていたようだ……」
「やっと理解したか。これから見識を広めるといいよ」
 


 夏音は日本の梅雨が大嫌いである。故に、自然と六月が嫌いという事になる。連日降り続く雨、雨、雨。息を吸うだけで水分補給できるのではないかというくらい湿気にまみれた外の外気、気が付けば肌がじっとりと濡れていることなど当たり前。お気に入りの服を着ても、じっとりと汗が滲んで気分が台無し。
 肌寒い季節などとうに過ぎ、むしろ春の陽気すら懐かしく感じる程の熱気が幅をきかせている。善い人ほど早くいなくなる、というが心地良い季節も一瞬で通過してしまうのは悲しい。やっと自分達の元へ来てくれたんだね、と思ったらF1で言うとピットインしただけ。アーバヨ、と手をすり抜けていった。

 ジョンとの再会以降、夏音の生活も徐々に変化を見せ始めた。普通の学校生活を送りながら、ジョンが持ってくる仕事をこなす日々は久しく感じていなかった修羅場の空気を思い出させてくれた。アメリカでばりばり仕事をこなしていた時は、まさに東奔西走。ばたばたと音楽に明け暮れていた。それでも、夏音はそんな生活を気に入っていたし、音楽の中に身を委ねる以外に他は必要なかった。
 いかんせん不登校が続いたせいか、急激にめまぐるしくなった生活につい遅れを取るのは仕方がなかった。ジョンもその辺をしっかり把握しているので、夏音にまわしてくる仕事量を絶妙にコントロールしてくれている。今まで苦労させていた分、早く慣れねばと意気込む夏音であった。
 初めにまわってきたのは、某手数王と呼ばれる日本人ドラマーのアルバムへの参加。夏音は二曲だけ参加する事になっており、事前に渡された譜面を移動中に読んでスタジオへ向かう。こちらにはローディーがいないので、機材を運ぶのはジョンが手配した信頼できる人材が手伝ってくれた。何あれ、スタジオに着くと過去に共演したミュージシャンが数人いた。
 何を隠そう、夏音の父である譲二にドラムを教えて事がある、という人物こそが中心人物であったのだから。
「お久しー。あンさァ送った譜面なんだけどー」
 というような言葉から始まり、「アレンジなんだけどー」と言って九割以上の変更を申しつけてきた。まさか急にベース枠にすっぽり入る事になったのが夏音だとは思っていなかったらしくて、よもや今ある譜面を破り捨ててもよいのでは、と思ったくらい別の曲になってしまった。父に劣らず、クレイジーなドラマーだとは聞き及んでいた夏音だが、身をもって知ることになった。
 とはいえ、久々にプロのミュージシャン達とアンサンブルを考えていく作業は懐かしい風を夏音に吹き込むことになった。
 そんな感じで昼は学校、真夜中にはレコーディングに参加、時には母親つながりのジャズヴォーカリストの公演のトラとして呼ばれたりする日々を送っていた。
 楽しい、が忙しい。睡眠が足りなくて苛々とする事もしばしばあった。しかし、軽音部の皆の前ではおくびにも出さないように気をつけていた夏音だが、ついに抑えきれない衝動に大声を張り上げてしまった。



「外で洗濯物干せんやん!!!」


 沈黙が部室を覆った。軽音部の女子一同は目を丸くしてぽかんとたった今怒鳴り上げた人物に視線を注いだ。怒鳴った際、バンッと机を叩いたせいで少し紅茶がこぼれている。
「い、意外に家庭的な悩みだな」
 かろうじて律が言い返す言葉を絞り出した。

 軽音部の部室。いつものごとく夏音たちがお茶をしていると、誰かが湿気に対する文句を言い始めた。すると誰かが口火を切るのを待っていたかのように、全員が次々に不平を漏らす梅雨悪口大会に突入した。
 くせ毛がまとまらない。外で遊べない。楽器を持ってくるのが大変。つい傘をなくす。夏音は、次から次へと出てくるものは低次元の悩みだと思い切り鼻で嘲笑った。
「へぇー。そんなに言うならお前の悩みはさぞかしすごいんだろうなー?」
 と律がふっかけた事によって夏音が爆発するハメとなった。


「そんな専業主婦みたいな悩みを抱える高校生ってのもなんだかなー」
 外の天気とは対照的にからっと笑いながら律は気楽な意見を口走ったが、瞬時に夏音に目線で射殺されそうになった。
「そいつぁ、お前さん……自分で毎日洗濯をする身分になってから言ってみやがれってんだ」
「わ、分からなくはないけどさぁ……」
 自分もたまに家事を担う者として共感はできるものの、律は夏音のあまりの過剰な反応に怯えて少し後ろに退いた。
 夏音はこの一週間ほど、この雨と湿気に悩まされた。普段は乾燥機を使って梅雨を乗り切れるはずだったのだが、そんな乾燥機は一昨日壊れた。修理した結果、数日かかるそうだ。そもそも、夏音は干せるのであれば外で干したい派である。日光にあたって干された洗濯物の手触り、においは室内だと再現できない。これは夏音の密かな、しかし強いこだわりであった。
「え、もしかして夏音くん一人暮らしなの!?」
 唯がわっと驚いた顔で夏音に訊ねた。
「そうだよ。言ってなかったっけ?」
 そうだっけな、と夏音が記憶を探っているうちに、律が大変なことを聞いたと騒ぎ出す。
「えー! 夏音一人暮らしなのか! そいつは知らなかったなー! それは是非とも遊びにいかないと!」
「Not talking!!」
 すかさず夏音からは拒否反応が返った。
「えー、夏音くんのお家行ってみたいなー」
 唯が口を尖らせて抗議をするが、夏音は露骨に嫌そうな表情で断固首を縦に振らなかった。
「なんだよ、家に来られて困ることでもあんのかー」
 律がしつこく食い下がり、それを見かねた澪は夏音をフォローする。
「まあ夏音がいやだって言っているんだからあまりしつこくするなよ」
 自分は既に何回もお邪魔してます、とは口が裂けても言えない澪としては何となく都合が悪い。しかし、その発言は二人を引き下がらせるどころか律の耳に大きくひっかかってしまった。
「おい、澪。やけにすんなり夏音の肩をもったわねー」
 その瞬間、律のその瞳に好奇の光が宿ったのを見て、澪はぎくりと体を硬直させた。そして、その実直すぎる反応が律の格好の餌となる――そんな未来が克明になろうとした瞬間、ムギが口を開いた。
「どうして夏音くんは一人暮らしなの?」
「あぁ、うん。別にたいした理由じゃないよ」
 もっともな疑問を忘れるところだったと唯が夏音に説明を求めた。そこで律も澪に対する意識がそれて「そういえば何でだ?」と首をかしげた。
「両親が頻繁に仕事で家を空けるんだよ。今回はかなり長くなりそうというか、よっぽどでないと戻ってこないかもね」
 だから実質、一人暮らしなんだと淡々と語った夏音であった。はい、これでおしまいと会話を終焉に導こうとしたが、甘かった。
「そ、それは夏音くんが死んじゃう!」
「……はい?」
 唯がそれは一大事だとふるふると肩を震わす。言っている意味が全くもって理解できなかった夏音は思わず素っ頓狂な声で返してしまった。不思議な生物を見るような目で唯を見詰めると、彼女は真剣に語り始めた。
「夏音くん。人はね……人は独りぼっちでいると死んでしまう生き物なんだよ!」
「それは兎ちゃんでは?」
 ムギから冷静なツッコミが入るが、どこか変なスイッチが入ってしまった唯はどこ吹く風である。
「そうだ唯! 唯がいいこと言った!」
 そして唯の発言に乗った律が高らかに訴えた。それからトーンを落として夏音に悲痛をこらえたような表情で向き合う。
「ごめんな夏音……私たち、同じ部活の仲間なのにお前がずっと寂しい思いをしていたことなんて気がつかないで……」
 完全に悪ノリ状態の律は役者のように瞳を震わせた。
「今まで何を見てきたんだろうな私たちは……」
 夏音はそれに対して、完全にしらけた表情で沈黙を守る。
「でも、大丈夫! 今夜は私たちがずっと一緒にいてあげるから!」
「お前の魂胆はお見通しだけど、挙句の果てに泊まるつもりなのか!」
 流石に黙っていられなかった夏音はこれ以上エスカレートしてしまう前に釘を打とうと思った。
 遅かった。
「ということで放課後は夏音の家で遊びまーつ!!」
「おーー!! お菓子いっぱい持ってこー!」
 結局、そこに落としたかった律の明言に、素で同調している唯が叫んだ。
「これが穏やかな心で激しい怒りに目覚めるという感覚なのか……」
新感覚を覚えた夏音であった。
 やっていられない、と律たちを相手にしないことに決めた夏音であったが、ニコニコとこちらを向いているムギに気付いて表情がぴしりと固まった。
「夏音くんのお家、楽しみです」
 まさかのユダがいた。そして、より複雑な表情をしている澪がいた。


 元来、男は女の押しに弱いとはいうが、それがまさか自分にも当てはまるとは思いもしなかった。その事を身をもって痛感した夏音は流れに身を任せる、否、流されている真っ最中であった。鉄砲水に巻き込まれる勢いで流されている。
 決まってしまったモノは仕方がない。どうにもならない事への諦めの良さは自分の持つ美徳の一つと思って夏音は沸き起こる不満を飲み下した。よくよく考えてみれば、自宅に友達を呼ぶのは悪い事ではないし、むしろ良い事かもしれない。別に家の中にやましい事を抱えている訳ではない。
 いや、それは嘘だ。やましい所ばかりであった。
 いつの間にか軽音部の面々をあますところなく引き連れて自宅へと向かう道の途中、夏音はふいに頭に浮かんだ未来にはっとした。
(このまま、何の用意もなく女の子を家に入れるだなんて……)
 すぐに問題点を洗いざらい頭の中に浮かべた。まず家の中は部屋干し中の洗濯物ばかり。部屋干しに臭いはつきものだ。いや、待てよと思い直す。洗濯剤はアレを使っている。エ○エールで良かった。夏音は基本的に綺麗好きに部類される人間であるので、他所様に見せて恥ずかしいと思われるほど汚くすることはない。それでもここ二日間の洗濯物をまだ取り込んでいない。恥ずかしい。家に入ったら即行で片付けねばならない。
 一番見られたらまずいと思われるスタジオへと続く扉はしっかり封印すれば完璧ではないか。万が一のために鎖などを使おうと心に決めた。
 あと、何があるだろう。家の中の臭いは平気だろうか。洗濯モノを別として、自分で生活していて気付かない立花家オンリースメルが充満していたら事である。玄関入った瞬間にUターンされ、影で「あいつん家、玄関入った瞬間トイレの臭いしたけど」とか言われたら目も当てられない。
 そういえば滅多に使わないが、ド○キで買ったアメファブがあったと思い出す。 家中にぶっかけよう。
 夏音は家に帰ってから自分がすべき事をシミュレートし、あらゆる問題点を脳内で解決しながら、自宅へと続く最後の坂道へと曲がり角を折れた。

「しがない我が家ですが」
 夏音の家に着き、澪ともちろん本人をのぞいて一同はその高級住宅街に並んでいても遜色ない建物を見て呆然とした。
「ちっ、やっぱボンボンか」
 部室に運んできた機材とか、思い当たる節はいくでもあった。律が舌を打ち鳴らしてぼそりと呟いたが、幸い夏音の耳へは届かなかった。ムギは家の広さに、というより庭の花壇で美しい均整を保って咲き誇る花に嘆息していた。
「まあ綺麗……夏音くんが世話してるの?」
「世話は俺がしてるよ。枯らすと母さんに泣かれるからね」
「おおきーい」と口をあけっぱなしで騒ぐ唯を横目に見ながら「実質、趣味になりかけてるけど」と心で呟いた。
 それから夏音は家の玄関扉の前で振り返った。
「しばしお待ちを……この扉を開けてはなりませぬ」
 眉をきゅっと引き締め、それだけ言い残すとさっとドアに身を滑り込ませた。玄関先に取り残された軽音部の女子たちは顔を見合わせてきょとんとして「鶴の恩返し?」と思ったが、大人しく何もせずに待つことにした。待っている間中、ずっと家の中からドッタンバッタンと恐ろしい音が鳴り響いていた。
 数分してから夏音が笑顔で扉を開けて言った。
「どうぞー。散らかっているけど、あがって?」
 そういう夏音は、この数分でどれだけ動いたんだと思う程、服が乱れていた。一同は、第六感に従って、見ないふりをして玄関にあがった。
 夏音は前回、唯の家を訪問した際にスリッパを出すという日本の習慣に感銘を受けており、早速それを取り入れていたりした。玄関には、すでに人数分のスリッパが綺麗に並べられており、夏音は誇らしげに彼女達がスリッパを履くのを見守った。
「んー。なんか良い匂いがするね」
 そう唯が一言、それにムギが確かに、とうなずいた。
「これは……お花、かしら」
 そんな話を広げる二人に、律が鼻をくんくんとさせて言った。
「これ、ファ○リーズじゃないか? それにしては匂い、きつすぎないか?」
「う、うちは母さんが家中で香水ふりまくから……」
 律の一言にぎくりとした夏音だったが、余裕を見せるつもりで笑いながら言った。アメファブの威力を甘く見ていた。
「まぁ、私もよく使うけどなー」
 何も気にしない様子で律は言ったが、若干頬をぷるぷると震わせていた。この数分間の夏音の動きが手に取るようにわかってしまうのだ。
 夏音はひとまず彼女達をリビングに案内した。開放感あふれるリビングの広さに唯と律は「おー」と驚嘆の声を漏らし、それとは対照的にすでに何度も夏音の家に上がっている澪は家の内装には知らん顔を通していた。少しだけ自分は何回も来たけどな、と先輩風を吹かしたい気持ちもあった。
 夏音が勧める間もなく、どかっとソファに腰を下ろした唯と律はこれまたソファのふかふか加減にはしゃぎだす。その様子を苦笑しながら眺めていた夏音はお茶の用意に台所へ消えた。
 そんな中、ムギはきょろきょろと部屋を見渡してから、ふと収納棚の上に飾ってある写真立てに目を止めた。ムギはささっと立ち上がると写真立てに近づいて興味津津な様子で眺める。
「やっぱり夏音くんのお母様、すごい美人……」
 ムギがそう漏らすのを聞くと、澪はそういえば自分はリビングに飾ってある写真に触れたことがなかったなと思い、ムギの肩越しからそれらを覗いた。
「あ、本当だ。夏音そっくり……ていうか瓜二つ?」
 気がつけば唯と律もやって来て、飾ってある写真を次々に眺めていった。
「うおー。この人夏音の父ちゃん、かな?」
「チョイ悪っ! て感じだね!」
「でも、何か最近のしかないみたいだな」
 確かに、と全員が唸った。リビング中に写真があるが、どれも最近撮られたような物ばかりである。普通、幼少期からの写真とかも飾っているものではと頭をひねった。彼女たちが盛り上がっている中、紅茶とケーキを運んできた夏音が声をかける。
「写真がそんなに物珍しいのか?」
 ソファの間のテーブルにティーセットを用意すると、彼女たちはそろそろと集まった。
「夏音は良好に育ったんだなー」
「良好ってどういうことだよ?」
「生まれ持ったものを損なわないでよかったな!」
「……馬鹿にされているのか」
 律がにやにやそう言うもので、夏音はむっとしてよいものか分からずに軽く眉をひそめた。
「でも、夏音くんはお母様にそっくりなのね。よく言われないの?」
「うん、母さんとはたまに姉妹みたいだってね……喜んでいいやら」
「贅沢な悩みだなー、おい。敵はあまり作るなよー」
 夏音も自分の顔が男らしいものだとは思っていないが、それでいて個人的に得をしたことはなかった。むしろ大損ばかり。美人だ、私より綺麗、女の子みたいー、じゅるり……という言葉は聞き飽きるくらい言われた。格好良い、と言われると嬉しいのだが、皆もっと男らしい特徴を褒めてくれてもよいのではないだろうかと思う。
「ねえ、夏音の両親は何やっている人たちなの?」
 唯が好奇の目で訊ねた。
「う、おっおー……芸術家、かな?」
「芸術家!? なんかすごーい! 格好いいね!」
 夏音は目を輝かせて反応した唯に罪悪感を覚えた。つい口を出てしまったが、芸術家といってもすべて間違いというわけではないような気がするので、問題無いと言えば無い。案の定、人を疑わない軽音部の面々が夏音の言葉を信じ込む姿を見て、肩の力が抜けた。
 ふと、このままいくと家族のことやらを根掘り葉掘り話さないといけなくなる気がして、夏音は話題をそらした。
「そ、そうだ。とりあえず家に来たのはいいが……何をすればいいんだろう?」
「何をって……遊べばいいだろう?」
「その、遊ぶってどうすれば?」
「普通に遊べばいいだろ」
「普通の遊び方が分からないんだ。今まで学校の友達、っていなくてさ」
「…………」
 沈黙が下りた。夏音は似たような空気を以前も味わった記憶がある。気の毒なものを見るような目で夏音を見る視線が痛かった。
「あ、あの……夏音くんのお部屋とか見てみたいなー」
 おずおずと唯がそう提案すると、一斉に賛成の声があがった。
「…………………………」


 結局、部屋に彼女たちを案内した夏音であったが、部屋に入れた途端にさらに絶句した空気を放つ彼女達に首をかしげた。
「どうしたの?」
 広さは一人部屋にしてはかなり余裕のある十畳分くらいかそれ以上。ベッドがあり、机があり、クローゼットがある。しかし、普通の男の子の部屋というには無理があった。その部屋の半分ほどのスペースを占めるのは楽器、機材であったのだから。
 何種類もの楽器、機材。ベースやギターが何本も立てかけられ、中には壁にかけられているのもある。
 キーボード、電子ドラムにミキサー、マイク、スタンド、スピーカー、それらとつながっているケーブルが七、八本。ごっちゃごちゃとケーブルが絡み合っていて、近寄りがたい空気を放っている。
「こればっかりは片付けられなかったしなぁ」
 ぼそりと呟いたが、呆気にとられている彼女達の前ではそんな言い訳は通用しない。だから、夏音はあえて無視した。
「き、汚くてごめんね!」
 勇気を出して後ろを振り返って、表情を見ないようにして声をかけた。
「夏音くん……何者!!?」
 唯が切実にそう叫ぶのも無理はなかった。金持ちの息子だ、と胸を張ると納得された。

「ていうか、そのことにも突っ込みはあるけど! なんなんだこの部屋の! ソレとか! コレとか! アレとか!」
 わななく律がびしびし指さした場所には、天井付近までの高さの巨大な本棚にびしっと詰め込まれている漫画、ライトノベル、画集やアニメのDVDがあった。他にも、ベッドの天井に貼られている美少女アニメに登場するキャラクタのポスター。
 片や、プロ顔負けの機材設備を誇り、片や二次元に侵略されている領域。玉石混合の部屋に一同は騒然とした。
「それが何かおかしいの?」
 心の底から何を指摘されているのかわかりませんという顔の夏音に、律は思わず口をつぐんだ。あまりに純粋そうに首をかしげられた。
「夏音がオタクだとは思わなかったっていうか……意外すぎっていうか」
 気まずげに視線を合わせない律に、夏音は「あぁ!」と頷く。
「オタク……クールだよね」
「どこがっ!?」
「日本の文化は本当に尊敬できるよね!」
「うわーっ! なんかコイツ本当に外人って感じなんだけど!」
 ぎゃーぎゃーと律と夏音との攻防が続いた。「クールジャパン!」「ファンタスティックカルチャー」などの単語が飛び交う中、唯はさして気にしていない様子でギタースタンドに立てかけてあったギターに目を奪われていた。
 一方でムギはこの部屋のすべてに対して純粋に感心した様子。彼女にとっては真新しく見えて面白いのだろう。
 澪は……どん引きしていた。実は彼女が夏音の私室に入るのは初めてであった。いつもはリビングか、スタジオにしか用がなくて私室に上がる理由もなかったのだ。
 隠された夏音の趣味は、彼女にとって衝撃的であった。
(オ、オタク……オタクってアニメとか見て萌えーゲフフとか言っちゃうんだろ!?)
 深夜、何故か暗い室内でアニメを鑑賞する夏音。その顔は情けなく緩みきって「ゲヘヘ……○○たん萌えー」と言ってしまう夏音。
(い、いやいやいやいや! ないだろ! それは、流石にない!)
 現実から目を背けようとしても、至る所に現実が貼ってある。そもそも、ポスターの取り揃え方が半端ない。飾ろうと思えば幾らでもスペースがあるのに、何という無駄なスペースであろう。
 唯一、澪が目線を置ける場所は楽器コーナーしかなかった。そちらに目をやると、既に唯がちょこまかとうろついている。なんだかんだと、彼女ももう楽器を見たら興味がそそられてしまう人種になったのだ、と澪は頬をゆるめた。
「ねぇ、このギターはなんていうの?」
 唯が律と言い争っていた夏音に訊ねた。
「ジャズマスター」
「これはー?」
「ジュニア。Wカッタウェイモデル」
「この太っちょのとこれは?」
「リッケンバッカーとストラトだよ」
 次々とギターを持ち出して質問する唯。律やムギなども置いてあるドラムやキーボードに釘付けになった。律などは、「コレ、ドラムにパッドて……」とげんなりしていた。
「ここで演奏できるんじゃないか?」
 律が冗談交じりにそう言う。
「やる?」
「謹んで遠慮します!」
 もちろん軽音部の一同が夏音の部屋で楽器を演奏することはなかった。その日は大画面でテレビゲームをやったり、莫大な量のCDやレコードの試聴会。お菓子を食べながら、わいわいと談笑をしていた。
 どこにいても軽音部のすることは変わらない。夏音はこんな風に友達と過ごすのは初めてで、何とも新鮮な気持ちだった。同い年の友達よりか、遙かに年上の人間に囲まれ、音楽に携わっていた。学校内に友達はいたが、誰かを家に招いたことも招かれたこともない。
 ふと自分の家でくつろぐ彼女達の姿をじっと眺める。心からリラックスしていて、彼女達は今までもこうして誰かの家で遊んできたのだろう。それは夏音の知らない経験。自分に与えられなかった時間だ。
 こうして遊んでいると、時間が経つのが早く感じられる。そろそろ夕飯の時間だろうということで澪がそろそろお暇しようと言い出した。斜陽が窓から射し込んできて、もうすぐ日暮れだという事を教えてくれる。一同は少し残念そうな声を出したが、すんなりと澪に賛同した。簡単に片付けをしてから、玄関先までおりたところで律が何の気なしに夏音に尋ねた。
「そういやぁ、夏音は自炊もするのか?」
「もちろん。ご飯を作らなきゃ生きていけないもの」
「ほほう……」
「律……またよからぬことを考えているんじゃないだろーな」
 親友の企みをいち早く察した澪が律の制服の襟をひっぱった。
「ま、まだ何も言ってないだろー」
 思わず苦笑する面々であったが、ふと夏音が思わぬ一言をその場に零した。
「夕飯、食べてく?」


 数十分後には、夏音たちは近所のスーパーに買い物に出掛けていた。全員それぞれの家に電話を入れて、夕飯を外で済ますことの了承を頂いたようだ。全員で並んで歩き、それなりに栄えているスーパーへ向かう。夕飯時で駐車場は満車御礼。がやがやと買い物客で賑わっていた。店内は冷房をガンガンとかけており、従業員は皆外で過ごすより厚着をしている。まるっきり薄手でやってきた一同は「長くいると風邪ひきそう」と、さっさと買い物を済ませてしまおうと店内を練り泳いだ。
「大人数だし、今日は焼き肉にしようか」
 と夏音が提案し、皆それに目を輝かせて賛成した。カートを押して肉コーナーへ向かうと、ついてきているのは澪とムギだけだった。
「あれ、唯と律は?」
 後ろを振り返ってそう問うた夏音に澪は目を閉じてくいっとある方向を促した。
「……お菓子売り場」
「何歳だよ……」


 目的の精肉売り場へ着いたが、どうにも人が多い。主婦とみられる女性たちの群れが妙に殺気だちながらあたりをうろうろとしているのだ。まるで肉食獣のように互いを牽制するような視線……それは傍目にとても緊張感のあるフィールド。
「何かあるのかしら?」
 ムギも尋常ならぬ様子に疑問を抱いたのか、頬に手をあて首をかしげた。
 夏音たちがその場で立ち尽くしていると、店の裏方から壮年の男が颯爽と出てきた。この店の制服を着ているので、店長かもしれないと夏音はあたりをつけた。
ところが、その男が登場したことであたりの殺気がぐんと増した。
 奥様たちの雰囲気がただならぬものへ変化して、夏音は緊張のあまり唾をごくりと飲んだ。
「お待たせしました!! 只今から、こちらの牛肉、豚肉、鶏肉のお値段をお下げしまーーーーす!!!」
『きゃーーーーーー』
 ぞくり。
 生物としての本能が何かを告げた。
「え、どういう……」
「邪魔よ!!」
 唐突の事態にうろたえていたムギを一閃、はねのけた奥様の一人が人の波に突進していった。
「いったい、これはなにー?」
 澪が数歩後退しながら涙目で言った。
「おぉー、タイムセールじゃん!」
 いつの間にか背後にやってきていた律が興奮した口調で声をあげた。
「律! この場合、どうすればいいんだ!?」
 夏音は事態を打開する人物として近年稀にみる珍しいケースとして、律を頼った。
「つまり、ここはもう戦場ということだよ夏音くん!」
 気がつけば唯もが横にやってきていた。いつもの彼女の雰囲気とは違い、その様子は時代が時代であればどこぞの武将のように厳格な佇まいであった。
「男を見せろ、ってことさ」
 律がぽんと夏音の肩に手をやって、叫び声をあげながら戦場に突進していった。
 それに続く唯。
「お、おぉ……Unbelieveable!!」
 先に向かった唯と律に負けていられなかった。
 「お、俺………男・夏音いきます!!」

 
 主婦の力をその身をもって思い知らされた夏音はぼろぼろになってスーパーを出た。
「あなどれないな大和魂……」
 全身ぼさぼさになった夏音がげんなりとそう呟くのを笑って唯と律はご機嫌に歩いていた。
(あの二人が何であんなにぴんぴんしているのか理解できない)
 買った食材を全員で分けて持ち、夏音の家へと歩く。外はすっかりと暮れかかっていたが、西の空に落ちかかっている太陽が世界をオレンジ色に染めている。川沿いの土手が残光に浮かんでいて、まるっきり違う場所に来たみたいだ。会話はない。それでも言葉にない充足感が夏音の心を満たしていた。

 その晩は、せっかく立派な芝生があるのだからと夏音の家の広い庭でバーベキューとなった。作業があるからと髪をアップにして作業にあたり、たくさん肉を焼いた。
 女の子といえど高校生の食欲は恐ろしいもので、小一時間をすぎたところで食材のほとんどを食べつくしてしまった。
「唯は肉食い過ぎなんだよー」
「夏音くんは野菜ばかりよね」
「バランスよく食べないと……」
 肉が無くなっても他愛ない話は止まらない。
 夜が更けてから大分経ち、制服のままで遅くまで帰さないのはまずいと思ったので、お開きにしようと夏音は言った。
 そのことに反対する者もいなく、全員で協力しあって後片付けをした。さて帰るか、と全員が帰り支度を終えようとしたところで、一人夏音だけは思いつめた顔をしていた。
 その様子に気づき、しばらく地面を見つめて喋らない夏音に軽音部の面々も沈黙を守らざるをえなかった。
 そして、夏音は何かを決心したように勢いよく顔をあげた。



「皆、聞いて欲しいんだけど。俺、実は――――」 



※投稿遅れました。



[26404] 幕間2
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/18 17:29

 タン、タタン、タタタン。

 乾いたシンコペーションが響く。

 途轍もない深海に迷い込んだようにペダルを踏む足がうまく動かない。

 溺れそう……こんなに乾いているのに。

「ストーーーップ!!!」

 また、だ。

 透んでよく通る声、繊細だが力がたくさんこもっている声、私のビートに割り込んだ。
 シンバルのサスティーンが気だるく伸びて、すぐ消えた。

「律、また水分足りてないでしょう」

 私がぼうっと顔をあげると、たった今私のドラムを強制終了させた声の持ち主が髪をかきあげながら私を心配そうな顔で見つめている。そんな動作がいちいち艶めかしく感じる男のくせに。でも私、現在そんなことにいちいち反応している余裕はないんでした。もう死活的にね。
 立花夏音が演奏を途中で止めるのはこれで三回目。
 もう慣れたもので、私は水分を補給しにのろのろとベンチの上に置いてあるペットボトルの元までたどり着いた。
 それを一気に呷る。げっ。

「ぬっりー」

 これまた、当然なんだけど。
 溜め息が止まらない。


 ハイこちら、音楽準備室(またの名を軽音部部室)はやっとこさ梅雨が明けたと思いきや、どうやら雨雲が隠していたらしい夏の日差しのせいで、ひたすら熱気がこもる温室と化しちゃっています。
 窓を開けても涼しい風が入ることはなく、がんがんと遠慮なく射し込んでくる太陽光線のヤツが木造の校舎の床さえも鉄板のごとく熱している。焼き肉ができそうなくらい。ますます熱気は増すばかり。焼けんじゃねーか……? 焼いてみてー。
 さあ、季節は順調すぎるくらい夏に近づいていたのでした。
 この目の前の女男(非常に侮辱の意)―――夏音は不思議なことに、私の叩くドラムを耳にしただけで、私の状態がすぐに把握できてしまうらしい。それは包み隠しようのないくらい正確に空気を伝わってしまうみたい。
 それで今みたいに明らかに集中力が切れていたり、私の意識がどっか白いもやがかかった世界に突入しかけた時なんか、一発。

 薄い刃で斬りつけるようなストップの声が容赦なくかかる。

 まあ、それでずいぶん助かっているのは事実で、ましてや無理して脱水症状なんか起こしてしまうなんてとんでもないことだし。
 感謝しているというか、まあ……ご迷惑おかけしておりますって感じ。
 ていうか、夏音と二人きりで合奏しているわけだけど、どうしてこうなったんだろ。
 この土曜の日中に部室に人がいるなんてこと、軽音部ではごくごく稀にも起こらない珍事。うん、椿事。
 かくいう私も忘れ物をとりに来ただけで、部室の鍵を警備員さんから受け取ろうとした時に、先客がいるってことに驚かされた。
 何で夏音がそんな土曜の日中に部室へ足を運んだかというと、あまりにこの部室が冷房や湿度管理が行き届いていないので、機材のメンテナンスをやっていたらしい。
 ご苦労なこってす。
 小一時間以上もこのむしむしとしたサウナのような部室で機材をいじくっていたと言った彼は、全然そんなことは苦じゃないって涼しい顔をしていた。
 そもそも、この男。立花夏音。
 軽音部唯一の男子メンバーという割にその外見のせいもあって、むしろ女子だらけの軽音部にさらに華を添えるという不思議な一役を買っているという……にくたらしいことに。
 日本人には見えない顔で、美人な……男っ。男っ! ふざけている。
生まれ持ったパーツが違いすぎて、万が一にも自分と比べる気にならない。にっくきは人種の壁という事で気持ちを落ち着ける。
 お姫様みたいな容姿は一度は憧れるけど、現実に出てこられたらまいってしまう。中身と外見が一致していたらもっとよかったのに。こう見えてこの男、超絶オタク。そして割とヘタレっぽい。それは何というか、気安さとも言えるのだけど。 そのおかげで外見で萎縮するって事はない。
 ほんと無駄に麗しいな。こんな暑い日和には、和傘なんかをもたせてみると意外にも涼がとれるかもしれないなんて考えてみた。けっ。
 思い返せば、この男がなよーんとへばる場面なんて見たことがなかった。
 今もこうして、私が滝のような汗をかいてへばっているというのに、バテた様子はみじんも感じさせない。ぴしゃっと背筋をのばしている。
 そして、この男に関してはまだまだ「とくひつすべきこと」ってのがあったりする。
 それはこの間、軽音部の面々で夏音の自宅に遊びにいった(押しかけたともいう)時に本人の口から出たことなのだけど。
 思い詰めた表情で、私たちにとある告白をした彼。
 それを聞いて私は驚くと共に、少しだけ呆れてしまった。
 その告白というのは、夏音の年齢が私たちより一つ上だということ。実際には二つ。日本で言うと昭和生まれスレスレ。
 もちろん私たちはぶったまげた。でも、そこまで思い詰めた表情で語ることだろうかとも思った。
 すると続けて夏音が語った内容は予想の斜め上を超えていた。
 夏音は一年前に別の高校に入学した。私でも知っている遠くの学区にある不良高。そこで壮絶ないじめに遭い、学校に行かなくなったらしい。それからこの学校に入学するまで、不登校の日々。
 再び学校へ通う際には、両親が見つけてきた男子生徒が少ないであろう桜高に再度一年生から入学する事になったのだという。
 終いには照れくさそうに首をかきながら事実をつらつらと述べる彼を見ていると、そんな衝撃の事実があったということが嘘のようだと思った。
 ひきこもりのオーラが全く…………まぁ、なくはないけど。たびたび、私たちがそろって居た堪れなくなるような発言をするし。
 それにしても、信じられなかった。こいつのどこにいじめられる要素があるのだろうか。むしろ、優遇されて然るべきじゃないか? 疑問は大量にあったけど、掘り下げる事は躊躇われた。
 とにかく。結論からいえば私たちはそれを受け入れた。すんなりと。
 色々慰めるような事も言ったけど、唯なんかは「あーた、辛かったでしょう……」と涙を浮かべて徳光さん状態だった。ムギはショックに打ち震えた様子で、夏音の肩にぽんと手を置くと何か言った。聞こえなかったけど。しかし、面白かったのは澪だ。「何で言わなかったんだよー!」と完全にブチギレた上に号泣するという行為で周囲をどん引きさせた。流石の私も、あの澪をフォローするのは至難の業だった。
 とりあえず、軽音部に変化なし。今日も仲良くやっています。
 まぁ、だから今もこうしてセッションなんかをしているんだけどさ。
ちなみに、運転免許をもっているのには流石に度肝を抜かれた。
 驚きの国際ルール。
 ちなみに、ばっちし帰りは家まで乗っけてもらいました。


「いやぁー、待たせた! わりーわりー」
 水飲み場まで行って、蛇口から水を飲もうとしたんだけど、ぬるい液体しか出なかった。
 結局自販機で貴重な財布の重みを減らしてしまった。そっと目許をぬぐう。暑いからよく汗をかくしね……っ。
「いいよ、こうして残って付き合ってもらっているんだから」
 流石に夏音もこの温度の中、制服を着ているわけにはいかなかったらしく、タンクトップ姿で髪を結っていた。そりゃぁ、思わずじっと見つめてしまうものである。
 認めるのもしゃくだが、がんぷくがんぷく。ほそいなー、こいつ。私の視線に気づかないで、再度チューニングをしている夏音はまだまだやる気の様子。
 私はどかっと椅子に座り、愛用のオークのスティックを握る。
「そういえば、ヘッドを変えたんだね」
 夏音がチューニングをしながらこちらを見ずに、話しかけてきた。
「あー、この間割れちゃったからなー」
 予想外の出費に泣いたものだ。ああ、泣きましたとも。
「抜けがよくなった」
「そう? ちょっといつもより張ってるからじゃないか。本当はこのクラッシュもそろそろだめなんだけどなー」
「あぁそれね。もうエッジがぼろぼろっていうか、ぎりぎりアウト?」
「アウトかよ……」
「もー、アウト。律があと数倍もうまかったならもう少しマシなんだろうけど、ひどい音だよ」
 ぐっさり。こいつは、このように鋭い刃物のような言葉で簡単に人の心をぶっ刺してくるやつだ。
 こと音楽に関して。初めはぐさぐさと歯に衣着せぬ物言いに、文化のちがい? とか思っていたが、ただの性格だという事が短い付き合いの中で把握できた。
「うっ……そらぁ、悪ぅござんしたねっ!!」
 素直に負けは認められない。すっごい子供みたいだって分かってるんだけどさ。
「さー、いくよ!」
 夏音がこちらに視線を合わせる。目が合う。
 もう捉えられそうになる。強すぎる。その青い瞳は飛び道具ですか。
 そうすると、突然夏音の姿が何倍も大きくなったように感じた。それで、私は心の準備をするのにいっぱいいっぱいになる。どうしよう、とあせってしまう。

 これからとんでもなく恐ろしいものを投げられるかもしれない。

 そんなプレッシャーを肌に感じながら、それでも負けたくないと汗で滑りそうになるスティックを握りなおす。

 夏音が腕を振り上げる。

 カミナリが落ちた。

(あ……っ!?)

 またもや私は敗北を味わった。
 自分の音で、叩いてやろうじゃねーか。そのつもりでいたのに、無駄だった。
夏音の音に体が勝手に動いてしまう。否、動かされてしまう。バスドラを踏む足。スティックがスネアを叩きつける、この手。夏音という指揮者によっていいように動かされている感覚。
 一番初めの音で、ぐいっとつかまれてしまう。もう、主導権とかの次元じゃない。
 ブラックホールかというくらいの吸引力で私の音を手繰り寄せて、もう、それは自在に……。あぁ、何で。そこにそう来るの!?
 あれ、何でだろう。三拍目にブレイク……こんなこと分かってやるもんじゃない。けど、そう来るんだってわかってた。分からされてしまった。
 いきなり変拍子。頭がおかしいのか! 今まで、四拍でイケイケだったじゃん! あぁ、何でついていくの私。ついていけるの。
 これからずーっとコレについていくの!?
 しんどすぎるわっ!!
 もうがむしゃらになって、リムショットをぶちこむ。もう分かっていた。終わりの音だ。
 音が止む。

 静寂の中に、私の息を吸って吐く音が生々しく浮き上がっている状態。
 ぜぇぜぇ、って……。
 精神から体力を使い果たしてしまったようだ。
 私、田井中が申し上げます。これは……これはセッションなんかじゃない。

「マラソン走ったみたいになってるよ律」
 へらへら笑いながらそう言ってくる小奇麗な顔をした奴。綺麗にまとまりやがって、ベースをもって佇んでいるだけでどれだけ絵になるか。一葉に映しておきたくなる。
 中身がこれだけ化け物だと、その表面とのギャップに笑えてくる。
「もう、こんなのマラソン以外のなんだっつーの!!」
 私はうらめしい視線をおくってやる。肩をすくめられた。その動作が似合う。外人め。
「もう今日はこんなところにしておくか」
「うぅーーあー」
 驚いた。私、人間の言葉が発せなかった。へばりすぎにもほどがある。
「帰りに冷たいものでもご馳走しようか」
「マジかっ!?」
 復活。単純、それが私の美徳だと思う。ささっと後片付けをして撤収しようということになった。アイスのことしか頭に……だが、ここで帰ることに脳みそのどこかがブレーキをかけた。
 こういうのもいい機会だと思う。楽器を広げているうちに聞いておきたい。
「なあ、私のドラムって実際どうよ?」
 こんな事を平然と聞いているような顔して、内心では心臓ばくばくです。
「どうって……また『どう思う』、か……」
 夏音はよく分からないことを呟いて、コマッタコマッターと頭をかいた。聞き方が悪かったみたい。
「合わせづらい、とか変な手癖とか目立たないかなぁってさ」
 澪には、お前のドラムは走りがちだと言われるけど。私はその方が勢いがあった方がいいと思うんだけどなー。ていうか、信条として曲をもたらせるくらいなら走ってた方がいいって思う。
 だから、そこら辺で澪とは意見の衝突が絶えない。澪だってもう少し私と合わせてノリ出せるようになれっての。話がずれた。
 私は黙って返答を待つ。
 夏音は数分も考えこんだまま喋らない。よく考えてくれてのかわからんけど、流石に私も少しじれるぞ。まあ、果報は寝て待て、というしな。寝るか。
「そういえば、律って好きなドラマーは誰?」
 数分悩んでから、質問で返すな!
「キース・ムーンとか」
 私が眉をひそめながらもそう答えると、夏音は鷹揚にうなずいて、やっぱりなと笑った。
「The Whoが好きだって言ってたからさ。きっとそうだろうなって思ったんだ」
そうか、そんな会話をした覚えがばっちりある。
「なら、とりあえずドラム壊そっか!」
「あぁ、なるほどまずドラムを……って、何でだよっ!?」
 ぱぁっと花が咲いたように微笑みながら、言葉の暴力。会話の暴力ともいう。
「でも、やっぱり彼の真骨頂を知るにはいろいろ真似てみないと……」
「いや、たしかに好きだけどな! 全部リスペクトしているわけじゃないし!!」
「そうかー。ま、あまり影響を受けているように思えないけどなー」
「そ、そりゃぁあんな風には叩けないけどさ……」
「あ、これいいなっていうフィルとかをどんどんマネすればいいと思うよ。それ で、できるなら全ての曲をコピーするのだ!」
「げ……そ、れ、は……それぐらいやらないとだめか?」
「やって損することはないさ」
 夏音の言うことはもちろん正しい。けど、肝心のドラムの感想は?
「まぁードラムの感想というかなぁ。とりあえず今はリズムだけ頑張っていただければ、と」
「リズムか……最近メトロノーム使ってないなー」
「使えやー」
「うぃー」
「リズムが命だからね! あと、好きな尊敬するドラマーがいるならその人のプレイスタイルも真似てみなよ。バンドで叩いている律を見たことないから、何とも言えないけど」
 ふむふむ……。私に暴れながら叩けというのか。考えておこう。
「ま、こんな感じ」
 それから夏音はベースを丁寧に拭いてから、ささっと機材を片づけ始めた。まだ話を続けていたかったけど、私も暑さに耐えきれなくなってきたし。十分聞きたいことは聞けたと思う。
 たまには休日に部室に来るのも悪くないかなって思った。
 そこには誰かがいるかもしれないし。


 ただ、夏音さ。
 お前、もっと何か隠しているだろ?
 普通の男の子だって云い張られる方が嘘くさいし。
 何であんなに機材をそろえているか。こんなに凄まじいベースを弾くのか。
 そのことを聞けるのはもう少し先かな、と思う。
 けど、なんだか気長に待てる気がした。

「鍵かけるぞー」
「よっしゃー、アイス~アイス~!!」
「へいへい」
 
 とりあえず、目の前のアイスが待っているのでそんなことは後回しでぽい、だ。


 
 
 
※超絶短くてすみません。掌編的な。でも物語に少しだけ必要なアレなので。



[26404] 幕間3
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/19 03:04
 目覚めると、甘い草木の匂い。そっと肌を撫でる風を優しく吸い込むと一つ伸びをする。
 誰かが窓を開けたみたい。
 そっと目を開けてみると、眩しさに見慣れた天井が浮かんでいる。私はちょっとだけ頬をゆるめた。
 朝涼に目覚めがよくなる不思議。また深い緑の季節がやってきたのだと、そっとささやかな幸福に包まれる。愛しいひと時。
「お嬢様、朝でございますよ」
「窓を開けてくれたの?」
「はい。少し風を入れようと思いまして」
 私はメイド頭の唐沢さんに微笑むと、軽やかにベッドから起き上がった。こんな朝はベッドが簡単に私を手放してくれる。ベッドから降りてもこもこのスリッパに足を通す。それからゆったりと歩幅で窓に近づいた。
 そこからもこもこと積み重なった夏雲が遠くに見える。
 芳しい薫風が髪をさらっていく。

「何かいいことがありそう!」

 私はぐっと腕を伸ばした。


 私立桜ヶ丘高等学校の衣替えもとうに終わり、薄手の装いの生徒が肩を並べて登校している風景も見慣れてきた。駅から少し歩いて大通りを抜ける。見慣れた風景に違った匂いが混じるだけで嬉しくなる。たぶん、同じ気持ちを抱える人はたくさんいる。あそこの人も、そっちの人も。
 これから日照りが強くて厳しい季節になるのだけど、それでも気持ち良い風が「ファイトだよー」と言ってくれているみたいでご機嫌なのです。
 通学途中、クラスの子達と挨拶を交わしながら一人で歩く。いつも必ず、と言う訳ではないけど、この時私はある事を待っている。それは大抵、後ろからやってくる。
「おーっすムギ!」
 ほら、きた。期待に待ち焦がれていたつもりはないけど、抑えていた気持ちが一気に弾んでしまう。
 振り向けば、りっちゃんと澪ちゃんが仲良く並んでいた。二人は幼馴染で仲が良くて家も近いからよくこうして一緒に登校しているみたい。私にはそういう習慣がなかったから、それがうらやましくてたまらなくなる。それでも、どちらも私の大切なお友達。
 中学校までは家からの送り迎えに車を出してもらうのが習わしになっていて、学校のお友達と一緒に帰るということはなかった。お友達と一緒に帰りたいなんて我が侭は運転手さんに悪いから、こんな日が来る事が夢の一つだったりする。近くて遠かった、憧れの風景。
 家が遠いから仕方のないことなんだけど……。それでも高校生になったのだから、とお父さんや周囲の人たちを説得して電車通学をさせてもらっているだけ進歩したのかも。
「おはよう律っちゃん、澪ちゃん!」
 こうして大好きなお友達に気軽に声をかけられて一緒に学校へ行くことができる。駅から学校までのちょっとの距離だけど、その間の道のりは私が求めていた大切なものだった。
 だから、いいことなんて毎日起こっている。次から次へと新しい経験が舞い込んできて、一生分の運を使いこんでいるみたいで不安になるけど。
 合流した私達は他愛無いお喋りをしながら学校まで歩き続ける。その途中で、そろそろだと私は気付いた。
 つい笑いがこみ上げそうになるのを止められない。
 あと、少しかな……。このあたりで。この角で。
「あ、夏音だ」
「相変わらず眠そうだな……前見えてるのか」
 私たちの視線の先には、ふらりふらりと足元がおぼつかないまま歩く男の子がいた。見事な低血圧っぷりは予想を裏切らない。まわりの視線を大いに浴びながら、それに気付くこともなくぼーっと歩いてくる。
 男の子。あぁ……男の子にしておくの、なんてもったいないの!!
 セットする時間もなかったのかしら。頭上で一本に結われている髪は、それが解かれた姿を想像してみたくなるくらい綺麗。いつか彼の髪を弄ってみたい、とうのが今の私の密かな野望。
 あなた制服間違えていませんか、と尋ねたくなるくらいの外見なんだけど、本人はあんまりそう言われたくないみたい。
 夏音くんとはクラスが別だけど、あんまりお友達がいないみたいだし。これは澪ちゃんから聞いた話だけど、クラスから完全に浮いているのだとか。その原因は夏音くんが阿呆だからとか、皆が無駄に麗しい外見にだまされているから、とか熱く語っていた。結局、クラスでかろうじて話せるのは澪ちゃんとりっちゃんだけ。せっかく共学化したのに、男の子と仲良くできないなんて可哀想。けど、一番の問題は女の子のグループにいて「まったく違和感がない」ことかも。これは幸か不幸か。
 そんな夏音くんだけど、見事なくらいぼーっとしている。あまりにぼーっとしているので、そのまま私たちのことを視界に入れないで通りすぎようとした彼を律っちゃんが首をつかんで引きとめた。
 フライングニー。
 いただきました、今朝一番のフライングニー。でも、女の子が朝から公衆の面前で飛び蹴りはどうかと思うの。それが律っちゃんらしいといえばそうなのかも……。とにかく、死角から思わぬ襲撃をうけた夏音くんは空を飛びました。
 顔だけは傷をつけないで欲しいのだけど………あっ。すぐに立ち上がった夏音くんはものすごい勢いで襲撃者の姿をとらえ……その首を締めあげた。
 立ち直りが早い。毎朝これで血圧を上げたらすっきりして一時限目を受けられると思う。そんな朝から賑やかな軽音部が大好き。


 あぁ、放課後が待ち遠しい。授業はきちんと真面目に受けているけど、たまに意識がいつもの部活の風景にとんでしまう。

 皆とのティータイム。私の時間。今日のお菓子はババロア。

 実はこの間、あまりに評判が良かったから、今回は貰い物なんかじゃなくて家の人に用意して貰ったりしたのだけど……もちろん、みんなには内緒。きっと遠慮されてしまうから。時間がもっと早く経ってくれたらいいのに。そんな風にやきもきしていたら、授業の内容なんてまるで頭に入らなかった。

 それでも、がんばりました。やっと慣れた掃除も終わって、急いで部室へ向かった。
 もうみんないるかな。ついつい階段をのぼる足もだんだんと早くなってしまう。
でも、扉を開けようとしたら鍵がかかっていた。
「え……」
 扉に鍵がかかっているということは、まだ誰も来ていないということ。私の教室は部室から離れているから。普段は先に部室を開けて待っている人がいるのだ。
 たぶん今の私、すごく眉尻が下がっていると思う。そのまま意気悄然としながら鍵をとりにいこうと音楽室を後にしようと思ったら、階段を上ってくる足音が聞こえた。
「やあ、こんにちはームギ。今日はみんな遅いんだね」
 夏音くんだ。その手には部室の鍵が握られている。
「うん、みんなお掃除が長引いているのかしら?」
 あぁ、と何かを思い出すように目線をあげて夏音くんが言った。
「たしか資料室の掃除だったような気がするなあ。ほら、あすこはたまに資料整理とかさせられることあるから」
 なるほど、資料室のお掃除。あそこの先生、気まぐれだから早く終わる時との差が大きいという話。
 夏音くんは鍵穴になかなか鍵がささらないようで、ぼそりと口では言えないスラングを吐くと、手間取りながらも部室の扉を開けた。彼はそのまま慣れた様子で鞄をベンチの上に置く。私もその横に鞄を並べて、お茶の準備に取りかかった。
 こんな流れも自然と板について、今では軽音部の恒例の風景になっている。
 私はこうしてお茶の用意をする時間が気に入っている。振舞う、というのは大変気をつかうことだけれど、誰かのために幸いな時間を提供することは美しいことだと思う。
(それに……)
 茶葉をよく蒸らすところまで作業を終えて、袋から保冷剤で保存してあるお菓子を取り出す。私がこの役割を放棄しちゃったら、誰もやる人がいないもの。
「なんだか嬉しそうだね。いいことでもあったの?」
 夏音くんが目を細めながらそう言ってきた。作業に没頭している間に、私は知らず微笑んでいたみたい。
「ううん、何でもないわ」
 十分に蒸らし終えたところで、私はティーカップに紅茶をそそいで、お菓子と共に夏音くんの前に置いた。本日のお菓子を目の前に手を打って喜ぶ彼を見て、頬がゆるむのを感じる。
「あー、最高だね。軽音部に入ってよかった」
 太陽のような笑顔でそう言い放つ夏音くん。まあこのティータイムも軽音部の美点の「一つ」だけど……それだけじゃないはず。きっと。
「それにしてもさ」
 紅茶をすすって夏音くんの眼は私をしっかりと捉えた。青い瞳。私と同じ、けど同じじゃないくっきりとした青。
「掃除とか。部活とか。こうしてお菓子をひろげてティータイムとか。なんだか最近は初めてが一気に押し寄せてきて大変だよ」
 その言葉にすぐ返事をすることができないで、思わず黙ってしまった。
 どきっとした。まるで私のことを突然言われた気がして。
「そうね。向こうでは掃除なんかしないものね」
「部活も初めてだし、部活の度にこんな風にお茶をするのも新鮮だよなー」
 それは私もそう。ここで起こることはどれも真新しくて、胸を鳴らしてばかりいる。
 もしかして、お前もそうだろう? と言外に言われたのかも。
 それは考えすぎかしら。
 でも一つ腑に落ちたことがある。どこか自分に似ているなと思っていた目の前の男の子は、存外自分と似たような境遇だったのかもしれない。
 毎日が楽しくて仕方がないんだ。彼もきっとそう。知らなかった日常の葉を次々にとらえて、一枚一枚わくわくしながらめくっていく。
「きっと私たち似たもの同士なのね……」
「え?」
「え?」
「ム?」
「あ……ら…?」
 声に……声に出ていた!?
「…………」
「………………ッ」
 沈黙は金なり、誰かが言い残した言葉。あれは要するに、お金を稼ぐことは楽ではないということなのね。今、私とっても苦しい。
「そう言われてもなぁ、ムギ……」
「ひゃっ、はい!」
「俺はムギみたいにお上品でもないし、可愛くもないんだけど」
「……はぁ」
 彼のこういうところは、いつか直してもらわないと。私は紅茶のおかわりをすすめて、笑顔でその場の空気をしれっと流した。
 いつか彼が一部の女性から殺されないように願うばかりだ。それから私たちは他の人たちが来るのをゆっくりと待った。
 暫くして、私がキーボードの練習をしようとアンプをセッティングしていたら夏音くんが近寄ってきた。
「ムギのそれ、ちょっと弾かせて!」
 目を輝かせてそう言われたら断れるはずもない。
「うわぁー。全然タッチが違うやっ! なんていうんだろ、こんなしっかりとしたアナログな音も出るんだな」
 しきりにぶつぶつと呟く彼は新しいおもちゃに触れる少年のような表情をしていた。
「どうせなら、もっと機材増やしたいよねー」
 え、何を言うの夏音くんたら。
「わ、私は今のままで十分かな」
「えー、せっかく良いキーボード持ってるのに!? もっと鍵盤屋はもっと音に貪欲にならないと! あと三つくらいは増やしちゃおうよ!」
 そんなに身を乗り出して力説しなくても……。
「そ、それは……たぶん、今の私の実力には見合わないのではないかしらー……」
「そうかなー。こう、こいつどんな頭してんだって聴いた人を吐かせてしまうくらいな変態的な音とか、あればいいのになー」
「は、吐かせちゃうの? それはちょっと……」
 そこまで言うと彼も諦めたようで、そっと鍵盤から手を離した。
「まあ、ムギがそれでいいなら……」
「うん、ごめんなさい」
 あまりに彼がしょぼんとするので、何か悪いことをした気分になる。彼なりに私のことを考えてくれているのかしら?
「夏音くんは、どうしてそんなに機材にこだわるの?」
「そりゃぁ、表現のためさ」
「表現?」
「自分の出したい音、世界、全部に必要なことだよ」
「だからあんなに機材をもっているの?」
「そう。俺が持っているすべての機材をここに揃えたとしたらぶったまげるよ?」
 そう言って彼はにやにやといたずらっ子ぽく笑った。前から思っていたのだけど。
 夏音くんって何者かしら。
 もし、どこかでプロをやっていましたーと言われても驚かないわね。むしろ、納得。けれど彼が話さないということは、触れてほしくない部分なんだろう。
 私は時折弾く彼のベースを聴いたり、軽音部のみんなとお茶をしていられたら満足なのだし。
 だから、彼の真実についてはおあずけ。とりあえず今の私には必要がないものだから。
「ねぇ、こんなフレーズとかが浮かんだのだけど聴いてくれるかしら?」
「もちろん! 聴かせて!」
 こうしているだけで、楽しい。
 もうすぐみんな来るかな。



※ 若干時系列がおかしいです。夏音カミングアウト前だと思われます。あと二話ほど、こんな超短い掌編が続きます。すみません。ムギの描写下手ですみません。ギリギリ五千字以下ですみません。



[26404] 幕間4
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/20 04:09
<唯>

 音楽ってなんだろう。今までの私はそんなのこれっぽっちも深く考えたことはなかったけど、最近はちょっとだけ考えるようになった。

 私の中にある音楽なんて子供プールくらいの浅さしかないと思う。その浅いプールにはぷかぷかとレコードが浮かぶ。本当にそんなの見ちゃったらきっと悲しくなる。私の音楽ってこれだけなの?

 小学校の時は、まず長女の私にお父さんのラジカセが下がってきて、妹と一緒に家にあるカセットを聴いていた。妹の憂の方が音楽に興味津々って感じで、よく一緒に寝転んで流れてくる川本真琴の曲とかを口ずさんでいたり。そのうち、私のより立派なMDコンポが憂の部屋に置かれてからはそっちで音楽を聴くようになったけど。
 いつの間にかMDなんてものができていて、そのうち気が付けば何万の音楽が手のひらに収まるようになった。私は同級生が新しいプレーヤーに手をつける中で、それをぼーっと眺めていただけ。
 中学校の時なんかテレビに出てくるJ-POPばかり耳にしていた。後は和ちゃんが紹介してくれるCDとかをぽつぽつと聴いていただけ。
 そんな私も、このままじゃいられない場所に来てしまった。昔の自分が知ったら絶対びっくりする。
 私、軽音部に入りました。音楽をやる部活。

 音楽。音を楽しむと書く。ただの音じゃなくて、人間が組織づけた音。
 生まれた時から、ううん、それこそ生まれる前から耳に入ってきて、受け入れて、馴染んで。たまに口ずさんで。けど、それは真っ正面から向き合っているのとは違って。
 音楽はいろんな角度から私に触れてくるのに、こっちから応えることができるなんて思ってもいなかった。
 近頃、そういうことが少しずつわかってきた。


 アンプからずっと変な音が流れている。私がギターを弾いていない時、かすかにジャーって感じになるのが面白い。弦に触れたらぴたっと止まる。
 おもろい。
 夏音くんがこれはホワイトノイズっていうんだって教えてくれたんだけど、そこから先の「たいいき」がどうとかはよくわかんなかったけど。ノイズにも色があるのかな。ピンクとか、ブルーとか?
「唯、ぼーっとしてないで言われたコードをおさえてよ。プリーーーィズ」
 凛とした声に私はハゥっとなる。目の前には色白の女の子……失礼。みたいな男の子がギターを構えて座っている。どうやらまたやってしまったみたい。集中力が続かないで、すぐに他の事に気が散ってしまう私のいけない癖。面目ないです。
 夏音くんが困ったように眉を下げてこっちを見ているのであわてて頭を下げた。
「ご、ごめんですー!」
「ヤレヤレ。唯ちゃん、いいですかー? もう少し集中力をつけようねー」
「はーい!」
「まったく……一度集中したらすごいのに……」
 夏音くんは溜め息まじりに俯いた。こめかみを揉んで瞳を閉じている。だいぶお疲れの様子。私のせいなので、何も言えない。
 へへへ、と頬をかいて誤魔化し笑う。出来の悪い生徒でさーせんね。ひとまず教えてもらったコードを押さえて右手を振り下ろす。
 ジャーー。あれ、何か違う。絶対チガウ。
「一音ずれてるよー……薬指はここ! ひとつズレただけで、その音じゃなくなるんだから。唯は音感しっかりしてるんだから、わかるでしょ?」
「せ、先生。薬指が動きませんー!」
「そりゃぁね。一番神経が少ないから、薬指は頑張らないと動いてくれないんだよ。練習あるのみさ」
 最後の一言でばっさりと完結されるのも困る。その一言に尽きるのだとしても。
「これがGM7…A7…Bm7…えっとD…」
「そこはDonA。こう動くの」
「あ、そっか! それで、そこからGadd9。Gに9thのこの音を加えているの」
「あ、指つる……あぁ~~」
 もう指の限界だった。弦を押さえる指が痛いし、ずっとコードを押さえているうちに指がつった。
「ま、最初のうちは仕方ないよね。休憩にしようか」
 夏音くんは私の醜態にも頬をぴくりとさせずに静かに言い放った。そのままギタースタンドにギターを置いた夏音くんが皆のテーブルの方に向かう。置いてかれた私は今おさえていたコードの形を手で再現してみる、けど急に虚しくなった。
 ふぅ、と溜め息一つ。幸せ三つ逃げていった。滅多に溜め息はつかないけど、教えてくれる夏音くんに申し訳なくて、自分が不甲斐なくて。
 夏音くんに何回も言われている、肩の力を抜くってことがなかなかできない。普段の唯をそのまま出せばいいって言うけど……普段の私ってどんなの。最近はこのせいで肩凝りがひどかったりして急に何歳か老けたみたいに感じる。
「うぅ~、ごめんねー。せっかく教えてもらってるのに……」
「気にしないで。だんだん余計な力を入れないで押さえられるようになるから」
 そして椅子に腰掛けた夏音くんがお菓子を貰っているのを見て、私もギターを置いて立ち上がった。

「お疲れサン。唯の上達の程はどう?」
 ドラム雑誌を読みながら茶菓子をつまんでいたりっちゃんが隣に座った夏音くんに訊ねた。
「んー、まずまず?」
 ぎくってするよね。こうやって目の前で下された評価にどう反応したらいいのでしょう。絶対に褒められる要素なんかないし、聞かなかったフリでもすればいいかな。私は椅子に座ると会話に参加しないで、そっとその会話に耳を偲ばせてみた。
 あ、今日のお菓子は大福餅。わーい。
「だって一度は覚えていたものなんだよー?」
 夏音くんは湯のみをまわしながら、お手上げーって感じで肩をすくめた。
「だよなー」
 それに肩を揺らして同意するりっちゃん。二人とも、本人を目の前にしてひどいよ。そこまで言われると、いくら私だって何か言わなきゃと思って重い口を開くよ。
 がっと椅子を引いて立ちあがった。

「私はやればできる子だと……」

 あれ。部室から音がなくなっちゃったよ。

「和ちゃんが以前に言っておられまし………た……」
 澪ちゃんの方を向くと、音速で目をそらされた。やっぱり、夏音くんの反応が気になるよね。勇気がいるけど。えい。
 青い青い双眸を限界まで見開いてこっちを見上げる夏音くん。ふいにその表情が崩れて笑顔になった。
「まぁ、唯だからなー」
「あぁー、そっかー唯だもんなー」
「そ、そうだなー唯だからな!」
 急にほわーんと空気が崩れて、嬉しそうに同意するりっちゃんと澪ちゃん。これは馬鹿にされている気がする。
「まぁ、座りなさい」
 夏音くんが促すと、すかさずムギちゃんがお茶のおかわりを注いでくれた。それで私は大人しく椅子に落ち着く訳ですが。あれ、今の空気はなんだったんだろうと。納得がいかない。ああ大福が美味しい。
「あと十分くらいしたら再開するよー」
 間延びした夏音くんのもの言い。リラックスしきっている。腑に落ちないよ。


「さて、再開しますよー」
「はい」
 改めてギターを構えてアンプの前に座った夏音くんのレッスンが再開された。
「ギターをやっていくうえで唯が覚えることは山のようにあるんだけど、まずコードを押さえられないと話になりません」
「はい」
「ただ、曲としてやってみるのも上達の道でしょう」
「はい」
「ということで、二つしかコードを使わない曲があるんでそれをやってもらうね」
 そう言って夏音くんは「C」と「G7」だけ使って例を見せてくれた。
「ね、簡単でしょ? アップテンポな曲で、弾いていて楽しくなるよ」
 さぁー、やってみてと言われて私はギターを構える。流石に押さえるのが簡単なコードだし、詰まらずに弾けた。コードチェンジも初歩中の初歩のもの(かつて完璧に覚えていたのだから)。
 たどたどしいリズムで曲になっているか怪しいけど、何回も同じコード進行を繰り返す。すると夏音くんが足踏みで私のリズムを整えてくれる。あ、曲に入る前はまず足でテンポを作ってからって教えてもらったのを忘れていた。 
 それでも助け舟(足?)を出してくれた夏音くんの足に合わせてだんだんと私もノッてきた。
 でも、ここからがすごかった。夏音くんのギターがそれに参加してきた瞬間、もうそれは魔法みたいに変身した。ギターが縦横無尽に歌い、高鳴る旋律を部室に響かせている。
 顔を上げたら目が合った。そして気づいちゃった。彼のメロディーを支えているのは、今の私が弾いているギター。私がズレたらいけないんだ。こんな簡単なコードでこんなに素敵な演奏に立派に加わっている。

 すごいよ。私、今音楽やっているよ。

 夏音くんの音が甲高く伸びていく。表情で、もう終わりって示されているのがわかる。大げさにギターを掲げた夏音くんに合わせてジャカジャカーンと適当なストロークをかき鳴らして曲が終わった。
「すごいすごーい!! 夏音くん、私すごいよ!」
「うん、きちんと形になってたね!」
 私が興奮冷めやらぬ勢いでいると、夏音くんも満足そうに微笑んでいた。
「ちょっとはつかめたでしょ?」
「うんっ! 私、こうやってもっといっぱい曲弾きたいと思ったよ!」
「そう? なら、次はあの有名な曲にしよう。カントリーロードっていって、使うコードは今より増えるけど、ポジションチェンジが割と簡単だから……」
 ああ、楽しい。うん、楽しい。こんな風に音楽をやっている瞬間は楽しくて仕方がない。
 軽音部に入らなかったら、こんな感覚知る事はなかったと思う。
 だから私は今日も明日も、どれくらい指を痛めたって楽しいに違いないんだ。




<澪>



 残響が消える。一瞬前には少し低音がブーミーな音がアンプから漏れていた。サスティーンがゆっくり消えていく時、呼吸と似ている。ゆっくり息を吐き出すような感覚。
 私は演奏を終えて指板を手のひらでおさえて夏音の言葉を待った。夏音は腕を組んだ姿勢で目を閉じている。やっと開かれた口からは思わぬ一言が飛び出た。
「チューニングがズレてる」
「え?」
 よりによってそこ? と思わなくはないけど、まず言われた言葉に反応してみよう。おかしいな。これを弾く前に合わせたばかりなのでチューニングがズレたとは思えない。弾いていても気にならなかったし。
「ちょっと貸して」
 私が目を丸くして愛器を見詰めていると、夏音がベースを寄越せと身を乗り出した。素直に渡すと、彼は色んな場所でハーモニクスを鳴らしてペグをいじりだした。ネックを横から見たり縦から見たり。
「んー、うん。若干だけどネックが反ってるね。ここのところ湿気がすごかったからね」
「反ってるの!?」
 それは大変な事だ。いや、一大事だ。夏音の言葉にどうしようもなく焦ってしまう。それより、何て不甲斐ないんだと落ち込んだ。ネックが曲がっている事に気が付かなかったなんて!
「言っても少しだよ。ほら、オクターブが狂ってるでしょ?」
 ほら、って聴いてもわからないけど。
「どうしよう」
「どうしようといっても、どうしようもないよ。テンション緩めたまましばらく放っておこう。たったこれだけでロッドをまわしたくないし」
 その言葉にほっとする。何だ、大事にとってしまったと胸を撫で下ろした。実はネックというものは案外簡単に反ってしまうものだ。季節によって湿度の影響を受けてしまう。乾いたり、潤ったり。日本、忙しないから。とにかく楽器は生き物。 すごく繊細で、持ち主の管理がかなり重要だ。愛しの楽器が悲鳴をあげているのにも気が付かないような人間にはなりたくないものだ。
 意図せずネックが反ってしまえば、チューニングが揃わなかったりしてしまう。さらに言えば、弦がフレットに当たりすぎてしまったりすると演奏していられない。弦をビビらせる事も手だけど、そこは程度の問題。夏音が言ったように、ちょっと反ったくらいだとテンションの駆け具合で修正できてしまう。
 それにしても、夏音の耳はどんな造りをしているのだろう。私は音のズレがわからなかった。少しの音のずれが気になる、というより気にすることができる耳というのはうらやましい。
「澪はもともとロウを出し過ぎて何の音かはっきりしない時があるからな。力入りすぎて音上がってる時あるし」
 音感はしっかりつけた方がいいでしょう、と夏音は語る。しかしながら、コルグの安物のチューナーでは計測できないくらいのズレであったことは私の名誉のために言っておきたい。それでも他人に指摘されるのはやっぱりいたたまれなくなる。


 夏音の自宅で行うベースのレッスンは毎週の恒例行事になっている。頭を下げて夏音に見て貰う事になって、しばらくは私の方が萎縮してしまって身が入らなかったりした。二つのベースが向き合っていると、普段の彼の面影がすっとどこかに行ってしまう感じがしたのだ。同級生、部活仲間、という枠組みから外れたプロのベーシストとしての夏音を前に圧倒してしまった。
 それでも何回か続けていると人間、慣れるもの。すっかりこの環境に順応してしまった今ではこのプロ御用達スタジオ、みたいな自宅スタジオに居ても余裕しゃくしゃくでいられる。幸い、夏音以外の家族に遭遇する事もないし。
 ただ、多少の不満は何点かある。夏音という男はとかく自室か地下のスタジオにこもって大きな音に埋もれていることが多い。だからチャイムの音が届かないで三十分も玄関で待たされた事もしばしば。金持ちの豪邸の玄関先でじっと動かない少女を近所の主婦が怪しげに睨んできた事もあって、大変居心地が悪い気分を味わったりしたから。
 その辺についてつぶさに文句を言うこともできない。所詮、時間を削ってもらっている身だから。どうせ不平を漏らしても「あーごめんごめん」って簡単に謝るだけだし。それでも、それはそれで憎たらしい気持ちが湧かないっていうのはズルイ。それが立花夏音という人間で、幸か不幸か私はこの短期間ですっかり立花夏音という人間に慣れてしまった。
 もちろん慣れないことも確かにあるけど。主にカノン・マクレーンというアーティストについて。
 目の前にいるのは確かに夏音だけど、カノン・マクレーンでもある。ベースを弾いている時の彼を同級生として意識することはなかなかどうして難しい。
 桁が違い過ぎる。毎回、彼が走らせるグルーヴに圧倒されるし、打って変った幽玄な調べに心が揺れてしまう。フレーズが歌うのに合わせてこっちの心が揺り動かされる。なんといっても、毎度彼のベーシストのコンサートの特等席に座っているようなものだから。
 まだ両手で数えるほどしか行われていないレッスンだけど、たったそれだけで私はだいぶ成長したと個人的に思う。まだまだって笑われるかもしれないけど。自分の成長は自分が一番分かっているつもり。だから、胸を張って私は言う。少しだけ上手くなりました、って。
「澪は教えがいがあるよ。教えたことをすいすい覚えてしまうんだもの」
 夏音は前にそう言ってくれたことがあった………あったんだ。そのあと、頭が真っ白になった私がどう返したか記憶にないんだけど。彼は本当に真剣に教えてくれる。細かい所まで相手の立場になって疑問に答えてくれたり。ただ、真摯に教えてくれるのはいいけど。これまた頭が痛い問題が。

「ハハハッ! ヨレてるヨレてるー。何それ三連符になった時の澪のリズム気持ち悪い……あーキモイ!」
「はっはぁー、シャッフルつっても適当ってことじゃないんだよ。頭の中がシャッフルするんじゃないよ?」
「今のは、裏なの表なの?」
「ごめん、いまの曲だった?」

 等々の手厳しい言葉が飛び出る。なんというか、音楽に関しては鬼のように厳しくなるのだ。それも、レッスンが始まって最初のうちはまだいいんだ。
 興がのりだすと、だんだんと笑顔を顔面に張り付けたまま心は鬼軍曹と化す。
あまりの言葉に気絶しそうになったことも……。気のせいではないと思うんだけど、メンタル面の耐久力も徐々についてきている気がする。
 とにもかくにも。色々あるにせよ、この時間はとてもタメになるし大切なものだって事は間違いない。


「俺のベース貸すよ。弦が激死にだけど」
 どうにもこれ以上、私のベースの音を聴きたくないそうだ。ひどい。けど仕方ない。そう言って、彼はスタジオに置いてあったベースの一つを貸してくれた。現れたベースを見て、腰を抜かしそうになった。
 リッケンバッカ―……到底、私には手が出せない代物だ。万が一でも壊したらどうしようとベースを持つ手が少し震えてしまう。
「何でレフティーのがあるんだ……?」
「これ、知り合いのなんだ。前にプレゼントされた。レフティーのだからいらなかったけど、役に立つ日がくるとは……」
 ベースを受け取ってから、早速チューニングをすませてアンプで音を鳴らしてみた。
「あ、すごい」
 弦が死にかけといったが、良い感じに抜ける。綺麗に抜ける、というより重低音がイブシ銀に駆ける感じ。
「案外丸い音も出るだろ? ホローボディだしフロントのピックアップも特注、プリアンもこだわり抜いて造ったものらしいから。つまりオール特注だからスケールも澪のベースと違和感ないと思うよ」
 何だその至れり尽くせり。これ、正規の値段なんかじゃ図れない程のスペックじゃないか。
「うん……弾きやすい……弾きやすいけど、おそろしい」
「そー? よかったよかった!」
 夏音は私の呟きをガン無視してきた。庶民はこんな楽器をほいほい弁償できないというのに、理解していないのか。
 それでも、私は磨かれた白黒のボディをたくましく感じた。滅多にこんな良いベースを弾ける機会はないのも事実だから、嬉しい。
 それから指ならしのスケールを適当に弾きながら、うなずく。弦が死んでいるからあまり高い部分が出ない。イコライザーをいじりながら一弦でプルしたりしてそれを確認していると、ふと頭に浮かんだ事があった。
「私、きちんと教えてほしいことがあるんだケド……」
「なに?」
「スラップを……ね」
 スラップ。ベースを始めたものなら、誰しもがやってみたいはず。そのはず。スラップとは、と訊かれてどう答えるかは人によると思う。大元を説明すると、ベースで打楽器の代わりをする、というのが正しいかもしれない。
 先代の偉大なミュージシャンがスラップの道を切り拓いてきて、今ではその奏法もバリュエーションが豊かになった。要するに、なんだろう。とてもファンキーなグルーヴを作りだすことができて、弾けると格好良い。何を隠そう、この奏法で有名なベーシストの一人に目の前の彼がいたりする。
「そうか……スラップねぇ」
 すると夏音は自分のアンプのつまみをちょいちょいといじってから、四弦に親指を叩きつけた。うねるようなグリッサンドから、バキバキとファンキーなリフが繰り広げられる。
 私の苦手な三連のシャッフルが盛り込まれ(私へのあてつけ的な)、夏音の両手がめまぐるしく動く。というよりプルの連符……四つ音が聞こえた気がしたけど、幻聴だろうか。
 本当に、魔法みたいな手だと思う。見とれる。そして圧倒され。遠くなる。
 こんな人に追いつけるだろうかって。
 すぐに手を止めた夏音は私の顔を真っ直ぐに見詰めて口を開いた。
「スラップは……まだ、澪には早いと思う」
「そ、そうかな?」
 そう言われるとは思っていなくて、ショック。
「うん。まあ、見なさいな」
 そして夏音は親指を四弦に叩きつける。
「これがサムピング」
 次に、三弦を人差し指で引っ張って指板に叩きつけた。ベキッと音が鳴る。
「それでプル。この二つがスラップの基本です。けど、これを組み合わせてこういう音が鳴っていたらスラップって言うのかな」
 夏音は単純なサムとプルを使ったオクターブフレーズを弾く。
「ずっとこれじゃあ、つまんないね。澪が想像するスラップは、もっとこうファンキーな感じじゃない?」
「うん」
「それには、実はいろんな技術が必要だし澪は普段弾いていてもゴーストが下手。ミュートができないとそれっぽい事しかできないよ」
「うっ……!!」
 遠慮はなし。夏音の言葉は鋭い。
「だからスラップはもっと後でいい。サムやプルなんかの動きに慣れておく事はいいと思うけどね。今は他にやることがいっぱいあるからね!」
「うぅ、ハイ……」
 私は返す言葉もなく、うなだれてしまった。
「まあ、そんなに落ち込まないでよ。いつか、必ず教えるから。俺は澪にはきちんとベースを教えて、上手くなって欲しいんだ。澪なら、できると思うから」
 顔をあげると、真剣な表情で私の目をのぞく夏音。青い瞳は、嘘を含まない。たしかにボロクソ言われるけど、夏音は最後には必ず「澪ならできる」って言ってくれる。
 そう言われると、今がどんなに未熟でも必ず上手くなれるっていう自信がつくんだ。
 間違いない、って信じることができる。
「あぁ、確かに他ができていないのにスラップなんておこがましいよな……」
「うわぁ、おこがましいなんて日本語……澪ったらネガティブな子だね」
「こ、これは謙虚っていうんだ!」
「ハハハ! 冗談だよ。それに、そんなに遠くないうちに澪には教えることができると思うから安心して、な?」
 な、って言われてニッコリほほ笑まれると言葉が出ない。心なしか顔が熱い。だめだ……やっぱりこいつには勝てない。
「なんていうか……よろしくお願いします」
 顔は上げていられないから、頭を下げる。
「いいえー、こちらこそ」



※一話が短すぎたので、残りはまとめてみました。これで幕間、いったん終了です。こんだけ幕間つづかねーよと思われたら申し訳ございません。リッケン欲しいですなぁ。



[26404] 第八話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/26 21:07

 バンッ。
 それは夏の暑い放課後。うだるような暑さに口数も少なくなり、黙々とムギ提供の冷茶をすすっていた軽音部一同であったが、急に部室の入口からバンと大きな音にびくっと反応した。音の発生源に目を向けると、どうやら行儀の良さで知られていたはずの澪が部室の扉を蹴破る音だったらしい。
 彼女は注目を集めながら部室の中央へとずんずん進んでいく。肩で風を切りながら颯爽と部室を横切ってくる彼女に唖然としながら見詰めた。
 澪は口を閉ざしてぽかんとしている一同を見据えて、びしっと指を突きつけた。

「合宿をします!!!」

 夏音はハッと眼を見開いた。
 合宿。それは学園ものには必ず登場するお決まりのイベント。彼はこの青春の香りをぷんぷんと彷彿させるキーワードがいつ飛び出てくるかと待ち望んでいた。いつ、誰が言ってくれるのだろう。自分の我慢もそろそろ限界。誰も言わないなら自分が提案していたところだ、と疼いていた心に溶け込む言葉が今、澪の口から飛び出た。
「合宿……ああ合宿! その妙なる響きや、よし………ふふふ」
 ぼそぼそと危ない目をしながら呟く夏音に気付かず、他の者は疑問を浮かべていたが、次第にその顔が晴れやかに輝く。
「合宿って……海!? 山とか!?」
 ウキウキと自分の思い浮かべる合宿のイメージに浮かれる律に、澪の眉がぴくりとハネあがった。
「遊びにいくんじゃありません! バンドの強化合宿! 朝から晩までみっちり練習するの!!」
「えー、何でー?」
 律と同じく楽しい楽しい合宿風景を妄想していた唯が心からの疑問を放った。
「せっかくの合宿なのに」
 楽しいはず、合宿。なのに、澪の語る内容はどうも暑苦しい体育会系の匂いがぷんぷんする。
「まあまあ。合宿、いいじゃないか」
 すっと立ち上がり、真剣な表情で前に歩み出た夏音に視線が集まる。涼やかな微笑を湛えながら夏音は彼女達をしっかりと見据えて、口を開いた。
「青春に必要不可欠なものといえばなんだろうか。ここ最近『これだ!』というイベントがなかったよね。こんなはずじゃない。こんなのほほんと青春を無駄にしていいはずがない。合宿……あぁ甘美な響き。そう合宿! 海でも山でもいい! 若い男女が人里離れた場所で寝泊まりしてバーベキューに海水浴! はたまた川遊びにキャンプファイヤー。夜は温泉に入って風呂上がりの花火でしんみりと夏の終わりに寂寞を募らせる………決まりだ、合宿。行こうぜ、合宿……ぷくくっ」
 語っていく端から空気が冷えていく感触を肌で感じることができなかった夏音は背後に迫る凄まじい怒気に気が付かなかった。
 部室中に小気味のいい音が響いた。 

「ごめんなさい遅れちゃって……ってあら? 夏音くん頭どうしたの?」
遅れて部室へやってきたムギが、頭にタンコブを作って正座をしている夏音に目をとめた。
「気にしないでクダサイ」
 正座は日本の反省の証だそうだ。
 今しがた制裁を加えたダブルに冷たい一瞥をくらわせると、澪はもう一度自分の主張を再開した。
「来週には夏休みが始まります。そして夏休みが終わったらすぐ学校祭でしょ?」
「学校祭?」
「そう! 桜高祭での軽音部のライブといえば、昔はけっこう有名だったんだぞ?」
「そんな事より高校の学校祭ってスゴイんでしょ!?」
「おー、たこ焼きにお化け屋敷に喫茶店! 中学とは次元が違うって聞くな!」
 そんな事扱いされた挙げ句に話を脱線させてゆく二名にぴくりと澪の瞼がひくついた。こめかみに青筋を浮かべて、脱線魔達の脱線トークが過熱していくにつれ、うずく拳を止める事ができなかった。
 部室に頭をさする者が二名に増えた。
「高校の学校祭のすごさなんてどうでもいい! メイド喫茶も死んでもやらない! 私たちは軽音部でしょ? ライブやるのー!!」
 爆発しそうな勢いで怒りに顔を染める澪に律と唯が「うっ」と黙る。普段大人しい人物が怒るとより恐ろしいのだ。いついかなる時も彼女の鉄拳の恐怖にさらされている者どもは何も言えず、唯一その鉄拳制裁の射程範囲の外に位置するムギが場を収める事になった。
 太い眉毛をきゅっと引き締めたムギが魔法の一言を紡ぐ。
「まあまあ落ち着いて澪ちゃん。マドレーヌ食べよ?」
 怒れる澪もしょせん女の子。あっさりとお菓子に陥落した。とりあえず必殺のお菓子作戦で澪の気を和らげることに成功したムギはほっと胸を撫で下ろしてお茶の準備を始めた。
 これぞ軽音部クオリティ。


 小休止を挟んでほっと一息。だいぶ柔らかい表情になった澪がムギに向かって食い入るような視線を向けた。
「ムギはどう思う? いくら慌てずやっていこうといっても、もう三か月にもなるのに一度も合わせたことがないなんて……軽音部なのに!」
 それに対してムギは困ったように苦笑を浮かべるばかりで答えられない。答えようもない、といったところか。三か月という月日は長いようで短いものだったりする。とりあえずは新しい学校生活に慣れるのに精一杯で、夏休みが訪れるのがあっという間なのだ。その間の軽音部が個々人で音楽に触れ合っていたとはいえ、バンドとして演奏する事がなかったのは異常事態ともいえよう。ムギ自身もこんな現状に疑問を挟む機会は幾らでもあったが、行動を起こさなかった内の一人である。部を慮る澪に堂々と正論を述べるには躊躇ってしまうのだ。
 澪が熱く語る中、夏音は未だダメージを引き摺る頭をさすりながら、静かな瞳で思案にくれていた。
 誰も言わなかったのだから仕方がないのではないだろうか、と夏音は現状を受け止めている。彼は軽音部に入る事に決めて以降、自ら積極的に動かないように傍観の姿勢をとっていた。ギター初心者の唯にギターを教えるという作業のかたわら時折ベースに触れる事はある。機材の前で数時間も何もしないのは時間の無駄だからだ。そして夏音のベースをBGMとして陽気にティータイムを繰り広げていた中には、ちゃっかり澪もいるのだ。
 部としての音楽的方向性の欠片すら見えてこない状況。部活としての方針も未定。
 それでも夏音自信は、まあ楽しければいいんじゃないかなーと軽く構えていたのも事実だ。自分が悪くないとは思わないが、怠慢が過ぎたかもしれないと省みた。そもそも、そのように悩んでいるのであれば澪もベースのレッスン中に言ってくれればよかったのだ。
「バンド、やらないの?」
 切実な心の叫びが一同の心に突き刺さった。つい口を閉ざす面々の中、ムギがぱっと顔をあげる。
「ぜひ、行きましょう!」
 ムギがぽんと手を打って澪に賛同の言葉を贈る。力強く、だが楚々たる笑みを向けられた澪の表情に明るさが戻った。
「ムギ……」
 分かってくれたのか、と頼もしい表情でムギを見詰める澪。そんな彼女に大きく頷いたムギは続けざまに言った。
「みんなでお泊り行くの夢だったの!」
「え?」
 無垢な笑顔を真正面から受けた澪がぽかんと間の抜けた表情になる。
「あ、それじゃあ海にする? 山にする!?」
「山でも川で遊べる所がいいと思います!」
 彼女の言葉に端緒が開けたのか、今までの重苦しい雰囲気が嘘だったみたいに霧散した。合宿に行く事に反対意見はないとして、遊ぶ気マックスのテンションに持ち上がった一同に澪の涙まじりの叫びが響いた。
「だーかーらバンドの強化合宿だと何度言わせるんだ!!」


 その後、喧々諤々の議論(?)がヒートアップしたところで、夏音は「そういえば」と皆を見回した。
「合宿ってたくさんお金かかるんじゃないのかな? 俺は大丈夫だけど、みんなは大変じゃない?」
 ここ数ヶ月で女子高生の懐事情を把握しつつある夏音。ここで金銭の配慮をするというたまにしか見せない年の功を見せた男の発言に何名かの肩がずんと落ちこんだ。
「そ、それは……幾らくらいかかるんだろう」
 なんと言い出しっぺの澪は、何の段取りもとっていなかったらしい。
「まったく。煮詰めろとまでは言わないけど、言い出したんだから大雑把な予算くらいは見積もっておかないと」
 夏音の全うな言い分にさらに肩を落とした澪。先ほどまでの勢いは見る影なく、しょんぼりと縮こまってしまった。
「しっかし海に行くにも山に行くにもそれなりにお金かかるよなー」
 律が肘をついた両手に顎を乗っけた姿勢で深刻な表情になる。
「な、なあムギ?」
 意気消沈していた澪がギギギ、と首を軋ませると一縷の望みをかけてムギの方を向いた。
「はい?」 
「そ、その……別荘とか……持ってたりしないかなー」
 そんな馬鹿な。流石にそれはないだろう、と律が呆れたように鼻を鳴らした。
「ありますよ?」
 すっと一直線に返された言葉に律の頭が机に突き刺さって鈍い音を立てた。
「え、ほんと?」
「ありますよ、別荘」 
 宿泊場所、確保。 


 お嬢様然としたムギが本当にお嬢様だったと明るみになったところで、宿泊代が浮くという事実は大変喜ばしい。めでたやめでたや、と一同はうきうきとした雰囲気でお茶を再開した。そのまま和やかに合宿の予定が話し合われていく。
「いひゅならなふやふみででけっへーだろー?」
 とマドレーヌを頬張りながら言う律に澪が眉をひそめた。
「口にものを詰めて話すな行儀悪い」
 すかさずそれを注意する澪はまるで―――、 
「お母さん?」
「何か言ったか夏音?」
「なんも」
 やぶ蛇になりかねない、と夏音は慌てて口をつぐんだ。
「日程は一泊二日とか、かしら?」
 ムギが心なしかわくわくした様子でノートに決定案を書き込んでいくが、澪はその提案に曖昧な反応を示した。
「どうせなら三泊くらいはしたいところだなー」
 そこに夏音が難色を示す。
「三泊は長すぎるんじゃないか? 機材も持っていくし、着替えとかも結構かさばっちゃうよ」
「そうか……律は持っていくもの多くなっちゃうよな」
 澪がそれもそうか、と頷いて律に振った。
「ん? スティックだけ持ってくつもりだけど?」
「オイ……」
 ムギの話によると、父親が別荘に知り合いのバンドを呼ぶので機材一式が揃っているそうだ。ドラムセットから各アンプまで。楽器屋を傘下に収める琴吹家ならではの至れりつくせりである。どちらにしろ、重い機材と1セットの移動は厳しいものがあるので助かる話だ。機材車なんてないのだ。
 
 

 結局、合宿は二泊三日。夏休み第一週、つまり来週の金曜日から三日間となった。目先に決まった楽しげなイベントに「くくっくくっ」と笑いが止まらない夏音は帰り道で通りすがる人々に気味悪がられた。
 そもそも二泊三日も男女混合のお泊りが許されるのかという疑問が浮かんだ。浮かぶものと思っていたが、誰も触れないので考えないことにした。だから、いいのだ。もしかして異性として意識されていないのかもという考えは思考の外にぶん投げた。おそらく信頼されているのだ。そうなのだ。
 そのへんの繊細な問題については曖昧な笑みで濁しつつ、夏音は肝心の合宿内容について考える。
 先ほどの話合いで出された宿題。バンドで合わせるといってもオリジナルの曲も用意していない状態だとコピーしかない。何よりコピーの方が色々手っ取り早いという事で、コピーする曲を決める事になったのだ。これについては各自でやりたい曲を持ってこようという話に落ち着き、明日までの宿題となった。

(五人で、キーボードが入った編成のバンド……。もしもの時はアレンジしてやるのもいいか。迷うなあ)
 夏音はその日、自分の持っているCDやデータを漁って今の軽音部にぴったりな曲探しに明け暮れた。バンドで合わせた事はないものの、軽音部のメンバー全員とは一対一で音楽で触れているのだ。各自の実力も大体把握したつもりである。問題は唯である。唯を基準に曲を決めねばならない。
 あれもこれもと出てくるが、絞らないといけないとなると、どうも難しい。
 結局、その日は深夜までかかって何百と曲を聴いていた途中で眠気に負けてしまった。


 電気を点けたまま寝入ってしまい、そのまま朝をむかえた夏音は放課後になって曲を絞りきれなかった事に焦っていたのだが。いらぬ心配であったようだ。
「結局絞れませんでした」
 という意見が見事に出揃った放課後。皆、同じような悩みを持ったのだと思われる。これは好きな曲をベスト3で挙げてみて、と言われた時の境遇と同じようなものだ。
「そもそも、だよ!」
 夏音はここで曲を決めかねた理由を言った。
「このバンドの編成ってどうなの? きちんと決定した覚えはないんだよね」
 最も重要なことを忘れていたことに、お互い目を反らした。同じ穴のムジナ。それが軽音部。
「といってもドラムは律。キーボードはムギ。唯はギター。だから残るのは……」
「ベースが澪か俺か、だろう?」
 夏音は問題となっていた部分に触れた。そして続けざまに「澪でいいだろう」と言った。
「俺がヴォーカル。必要ならギターも弾くよ」
「でも、夏音はそれでいいのか?」
 澪が複雑な心中を表しながら夏音に尋ねた。
「全然かまわないよ。むしろ、一番それがすっきりするだろう?」
「夏音がそれでいいなら」
 未だ納得していない様子の澪を無視して「これで編成も決まった事だし!」と夏音が議題を進めた。
「どうする? 俺が全部の曲のヴォーカルということで決めていくの?」
「どうせなら、そうして欲しいな」
 澪は万が一でも自分が歌うことになったら大変、と夏音に歌を一任するように頼んだ。そもそも、唯が入る前にこの話は出ていたのだが、結局きちんと決定せずにここまできてしまっていたのだ。ここで夏音が歌うことに誰も異議はなかったので、ようやく話はまとまりつつあった。
「それでは、俺がヴォーカルということで曲を決めていきましょう! そしてバンドが演奏可能な曲を! お互いを思いやって曲を選んでください!」
「はーい」
 四人分の良い返事が返ってきた。夏音はそれに満足そうに頷いた。
 しかし、後日メンバーが選んできた曲はことごとく却下された。


 結局、今から合宿までの期間を考えると、三曲が限界だという事に。夏音は「そんなものか」と不承不承ながら納得して曲決めを進めることにした。ただ「好きだから」という理由で曲を選んだ彼女達の向こうみずっぷりを見かねて、結局のところ夏音主導での曲選びとなった。
 何と言っても、それぞれの技巧を顧みない選曲ばかりだったのだ。それでも何とか曲が決まった。採用されたのは、律と唯、夏音の曲である。
 それぞれに音源が渡され、練習に打ち込むように言いつけられた。
 これで軽音部もその名にふさわしい部活になってくれるだろうか。一抹の不安は拭いきれないが、あとは皆が練習してくるのを信じて合宿までの日数を消化していくしかない。


 帰宅後、夏音がリビングのソファでうとうとしていると、滅多にならない家の電話がけたたましく響いた。のろのろとした動作で電話の子機をとりあげると、そこからは聞き慣れた声が聞こえた。
『Hello!!』
 鈴を振ったような声。受話器越しにも鼓膜を通り抜けてくる独特な存在感を持った声の持ち主は他にはいない。
「Mom?」
 夏音は思わず声をあげた。
『そうよー元気にしてた?』
 電話をかけてきた主は、夏音の母・アルヴィであった。
「母さんこそ! 今どこにいるの?」
『北海道よー』
(相変わらず神出鬼没だな……)
『あのねー、もう少しで夏休みじゃない?』
「そうだよ。よく知ってるね」
 あの両親が自分の予定を把握しているとは、珍しい。
『たまには家族で過ごすべきだと思うの』
「帰ってくるの?」
『八月の第一週よー』
「げっ」
『何かあるの?』
「三日間ほど軽音部の合宿があるんだ」
『まあ! まぁまぁまぁ~……なんてことなの!』
「だから、三日間ほど家を空けることになるんだけど」
『ひどいわ夏音! ママたちより新しいお友達を選ぶのね!』
「そういうわけじゃないよ。もう決まってることだし、急に言われても困るよ。だから、帰ってくるなら二週目にして」
『でも、次の週にはお仕事で九州に行かなければならないの』
「じゃ、四日間だけかまってあげるよ」
『もーーつれない!』
 電話の向こうでぷりぷり怒っている彼女の様子が目に浮かび、夏音はくすりと笑った。
「ママに会えるのを楽しみにしてるよ」
『夏音……あなた、やっとママって……っ!』
「じゃぁ、忙しいから」
『あ、夏音! もしかして女の子と一緒にいるんじゃないでしょうね?』
 ブツッ。
 夏音は強制的に通話を終了した。
「やれやれ」
 クスッと笑って夏音はふとカレンダーに目をやった。丸が付けられている三日間まであとわずか。
 今はこちらの方が大切だから。申し訳ないけど、両親には我慢してもらう。




「はい、これ」
「F#7」
「次」
「Cadd9!」
 合宿前々日。夏休み初日とも言う日だが、夏音と唯は部室でギターを構えて向かい合っている。昼下がりの学校にいるのは、夏休み初日から気炎をあげて練習に打ち込む運動部。その他の文化系の部活動のみ。一般生徒の姿はほとんどない。
 校内に響く管楽器の音は吹奏楽部である。桜高の吹奏楽部はかなり大所帯で競争が激しいと聞く。個人が鎬を削り合ってレギュラーに食い込むために個人練習に励む姿勢は、軽音部とは大違いと言いたい所だが、今回ばかりはそうとも言えない。
 部室にいる二人の部員は練習のために休みの学校に来ているのだから。しかも、この練習は唯から言い出したものだ。初めてバンドで合わせる。本当の意味で軽音部の活動の第一歩を踏み出すのに、自分が足手まといになりたくないのだと唯は語った。
 当然夏音は「この立花先生に任せな!」と二つ返事で受けた。
 せっかくの休みという事で昼までたっぷり寝て、昼過ぎに部室に集まった。この三ヶ月間ほど、唯にギターを教えてきた夏音。初めは一から音楽知識がない唯に対して、どういったアプローチで教えようか悩んだ。ギターを弾くと言っても、ギターを弾く事だけ教えれば良い訳ではない。ギターよりも音楽を教える事が重要だと夏音は考えている。
 音楽理論については、教えようとして即頓挫してしまった。三度、五度やコード理論。唯の頭から煙が燻り始めてしまうのだ。夏音が見た限りでは、明らかに唯は感覚的にギターを弾くタイプの人間である。むしろそういう人間に理詰めで理論を叩き込むのは効率が悪い。いつか身につけるべき事であるが、時期尚早かもしれないと踏んだのだ。
 そうした事柄を踏まえた上で夏音が唯に叩き込んでいる事。それは、指板上のどこにどの音があるのかを徹底的に把握するという作業である。指板の上をフレットで区切られているギターは、フレットごとに音が存在する。ドレミファソラシドの音階が幾つも存在するのだ。オクターブがどこにあるのか、これで把握する。さらにスケールを覚え込ませようとした。教えたスケールをどの場所からでも弾けるようにひたすら繰り返すように言った。
「はい、Aドリアン」
 夏音は淡々とスケールを指定していく。夏音が言うスケールを唯が弾く。それでたまに間違う。
「違う!」
「え、えーと……これは……」
「それ、リディアン」
 こんな感じにスパルタでやらせてきた。何も全てのスケールを覚えこませようとしている訳ではない。ペンタトニック等のよく使用するスケールを中心に教え、それが完璧にできるようになったところで、他のスケールや応用を教えているのであった。同時に覚えたせいか、スケールがごっちゃごちゃになっているようであった。
「例えば、ここで9thの音を足すとこういうフレーズになるんだけど。なんか聞き覚えない?」
「聞いた事あるような、ないような……」
「あれー。一昨日、こういう手癖を多用する人のCD貸したばかりなんだけどナー」
「あぁ、それで聞き覚えが!」
 まぁ、そんなものかと苦笑した夏音であった。
「こういうフレーズの中にこうやってトリルを混ぜると、こんな感じに。よくソロで使っている人が多いです」
「ほぉー! 格好良い!」
 瞳を輝かせる唯に夏音も嬉しくなる。彼女は今まで自分がぽやーっと聞き流していたギターのフレーズ、その作り方を学んでいるのだ。以前に唯が、いつかギターソロを弾いてみたいと話していたのだが、こういう作業が積み重なってできるようになるのだという事がおぼろげにも見えてきているのだ。
 このような作業の中、唯は合宿に向けて曲の練習に励んでいる。幸いな事に、軽音部の面々は耳の力でフレーズをコピーする能力を持っていた。夏音としても、唯には市販のバンドスコアなどに触れて依存するようになって欲しくないので都合が良かった。
 三曲、全てを夏音は唯に耳で覚えさせた。崩した言い方で言うと、耳コピである。音楽初心者はこれをできない者が圧倒的に多い。今まで唯には指板上の音を全て覚えさせた。スケールも覚束ないながら覚えさせた。
 ここで嬉しい誤算が起こる。耳コピする中で、コードの構成音やらを感覚的に覚えつつあるのだ。何となく、の次元だがしっかりツボを押さえている。
 唯は絶対音感を持っている。ひょっとして化けるのではないかと夏音は腹の底からわき上がる言いしれぬ感覚にドキドキした。
 何としても、よく分からない身につけ方をされたりするので、教え甲斐はないかもしれない。向こうが納得しても、こちらが腑に落ちない、等がよくある。
 唯は結果、三曲全てを耳でコピーしてしまった。 


 そんな風に合宿も前日に迫ったところで、夏音自身に重大なトラブルが起こってしまった。
「なんというタイミングで……」
 夏音は自分の太ももにできた発疹を睨む。痛々しい、この……ジンマシン。
「サバなんて……サバなんて食わなければよかった!!」
 膝をついて昼食で食べた青身の魚を呪った。近所のマダムに貰ったものだから。急遽かかった医者は「君は青身魚だめなんだねー。美味しいのに」と暢気に笑った。薬を飲んで安静にしていろと言われて帰された。
 合宿の場所こそ秘密であったが、泳げる場所があるので水着を用意してきてねとムギに言われていた矢先の出来事。
 しかし、どうだろう。こんな状況で泳げるはずもない。他の者が楽しそうに泳ぐのをただ指をくわえて見ているだけということだ。
「なんてこと……俺に残るのは、あいつらの水着鑑賞だけか………………それもそれでよし、か」
 それも間違っている。


 合宿当日。
「I`m alone...alone...alone...」
 郷愁を感じさせる味のある表情で夏音は車を飛ばしていた。大型のワゴンには、運転席に座る夏音しかいない。後ろに積んだ機材や……唯のギター以外に同乗しているものはない。
「くそっ」
 思わず汚い言葉を吐く。俄然アクセルは強め。メーターは頂上を振り切っている。ハイビームのごとく山道を疾走する夏音は損な役回りを務めている自分に自分で同情した。
「×××ジャーップ!! 唯のやつーーっ!!」
 伏せ字は有名なFワード。一人、孤独に車を走らせているのも、全てあの破天荒な天然娘のせいなのであった。

 

「唯……もしかしてまだ寝てるんじゃ……」
 集合時間になっても一向に姿を現さない唯に不安を駆り立てられた澪が恐ろしい一言を吐いた。
「ま、まさかー。いくら唯でも、そんなはずは……」
 フォローの言葉が見つからず、律は押し黙ってしまう。ありえなくないや。
 夏音も足元のエフェクターケースに腰掛けたまま、焦れながら唯の到着を待っていた。普段からどこか抜けている少女を思い浮かべてさらに不安は増す一方である。
「よし。私、唯に電話してみる!」
 とうとう澪がシビれをきらした。電車の到着時刻までに余裕をもって集合時間を定めたが、これ以上遅くなるのであれば電車に乗り遅れるという最悪の事態も起こり得るのだ。それこそ笑い事では済まされない。
 一同は唯に電話をかける澪の様子を静かに見守った。きゅっと口を結んで相手が出るのを待つ澪であったが、その表情は見る見る青ざめていった。
 彼女はゆっくりと口を開いた。
「……お、おはよう」
 その一言を聞いた一同に戦慄が走ったという。
 案の定、寝坊をかましたという唯は二十分後に合流した。
「ごめんなさーーーい!!!」
 登場して早々、いきなり両手を地面について謝る彼女に、皆は山ほど言いたかった言葉を飲み込まざるをえなかった。何より、そんな時間の余裕はなかった。何と言っても発車時刻の五分前である。一同は土下座する唯を引っ張って猛然と走り出した。
「ほら、急ぐぞ! 切符はもう買ってあるから!」
 澪があらかじめ買っておいた切符を走りながら唯に手渡す。
「うん、本当にごめんね澪ちゃん!」
「まったくひやひやしたぞー」
 走りながら唯を咎める律であったが、夏音に「それを言うのはまだ早い!」と指さされた先には電車がホームに入ってくる光景が。
 そのまま息を切らしながら走る一同は、なんとかホームにたどり着いた。
「ふう~。なんとか間に合った……ていうか、五分くらい停車するんじゃんかよー」
 アナウンスを聞いた律が汗を拭いつつ夏音を軽く睨んだ。
「そんなの知らなかったもの」
 間に合った事で安堵したせいか、文句を言い合う二人にムギが笑いながら割って入った。
「まあまあ。とにかく間に合ってよかったじゃない……ってアラ……唯ちゃん……ギターは?」
「へ?」
 後に唯は『これが夢であればとどれだけ思ったことか』と語った。
 遅刻した少女は旅行鞄を一つ引っ提げて来た訳である。背中に背負っているべき重量がない事に気付かない程焦っていたという事だろうが、持ってきていないものはどうしようもない。そして、もうギターを取りに行く時間はなかった。集合した駅から出る電車から乗り換えを行わなくてはならないのだが、乗り換えるべき電車の本数が少ないのだ。調べてみると、次の電車は二時間後というお話。
 青褪めて二の句もつげぬ様子の唯。同様に言葉を失った一同に残された最終手段を必死に探る。
 その瞬間、四対の視線がちらりと夏音に向けられたのは偶然ではないと夏音は思い返した。


 最終手段として、夏音が唯の自宅までギターを取りに行き、単独で車を走らせて合宿地まで向かうという措置がとられた。
 自分に照射された視線に、ついに夏音は頭の隅に置いておいた対抗措置を引っ張ってきた。考えたくはない。これでは夏音がひく貧乏くじがあまりにも大きい。とはいえ、他の策を考える時間もなかった。おずおずと手を挙げて、自ら申告した。
「本当に大丈夫? 電車なら割とすぐなんだけど、車だと結構かかるのよ?」
 自分もソレを期待していた一員だとしても、やはり人道的な観点から夏音に悪いと思ってしまうムギは最後まで心配そうに夏音を見詰めてきた。それこそ、全員が同じ気持ちであったが、自分が犠牲になってどうにかなるのならやってやろうと夏音は意気込んだ。
 別荘の場所と住所を教えてもらい「男に二言はない!」とつっぱねた。
 その間、唯は地面をおでこで割らん勢いで土下座をしていた。


 夏音はすぐ切符の払い戻しをすると、車を取りに自宅まで走った。どうせならとアンプ類の機材を積み込んでから唯の家へ車を飛ばした。事前に連絡がいっていたらしく、唯の妹の憂がギターケースを抱えて家の前で待っていた。
 真っ青になって姉に負けじと平謝りをする憂を宥めてから、目的地まで車を走らせる旅に出たのである。
 比較的空いていた首都高を抜け、常盤道に入ってから一時間弱が経った。まっすぐにのびた道の先に陽炎が浮かんでいる。SAで休憩していた夏音は、皆はそろそろ目的地へ到着しているころだろうかと想像した。自分に悪いと思って沈み込んでいるかもしれない。特に、唯がしゅんと元気がない様子はこちらの心境も悪くなる。軽いお仕置きをする事にして、許してやろうと思った。
 SAを出発する前にカーナビをチェックする。それによるとあと一時間弱で着くらしい。もうひと踏ん張りだ。
「チクチョーその半分で行ってやる!」


 その頃、一方の女の子たちは。
「ははぁー、すっげぇー!!」
「海だーー!」
「泳ぐぞーー!!」
「だから、遊びにきたんじゃなくて!」
「うふふ」
 仲間愛とは何であろう。 



 軽音部から夏音をひいた面子は別荘に到着した。それはもう滞りなく着いた。途中、お腹を下す者も電車の中に忘れ物をするという者もいなかった。彼女達が乗車した特急は罪悪感という物を振り切る速度で目的地まで突っ走ってくれたのだ。
 やあ暑い。そうねえ、うふふと言った会話を挟みながらムギの案内で敷地内に案内された一同は揃って絶句した。絶句。出すべき言葉が脳みそから吹っ飛んでしまう程の衝撃。
 目の前にでかでかと建つのは想像やテレビ越しにしかお目にかかれないような「金持ちの別荘!」を凝縮した建物。
 やがて律が「でっけぇー」と呆けるように呟いた。
「本当はもっと広いところに泊まりたかったんだけど、一番小さいところしか借りられなかったの」
 付け加えるムギの発言に誰もが耳を疑った。目の前の現実に出会い頭にパンチされたというのに、まだこの上があるという。
「一番小さい……これで?」 
 律が皆の心の内を代弁した。どうやら自分達はこの不思議な友人の底を見誤っていたらしい。中でも律は今度テレビの長者番組に琴吹という名がないかチェックしようと心に誓った。
 早速施設の中に通されると、外観通り広い。家と称される屋内でこんなに歩くこともないだろう。木造の建物の中は、若干東南アジアや南の島のテイストが盛り込まれ、風通しの良い造りであった。避暑にはぴったり、というわけである。
 自分達が三日間を過ごすことになる建物のあまりの豪奢な加減に興奮した律と唯は歓声をあげながら屋内をずんずんと進んでいった。居間のテーブルにはセレブのパーティーに登場しそうなフルーツ盛り、冷蔵庫を開けてみると霜降り牛肉。天蓋付きのベッドには花が散らされていた。一般女子高生にとっては未経験ゾーンの贅沢が出るわ出るわで、はしゃぎまくった。
「うぅ……ごめんなさい」
 申し訳なさそうにさめざめと泣いているムギは、しゅんとうなだれて彼女の事情を話した
「いつもなるべく普通にしたいって言っているんだけど、なかなか理解ってもらえなくて……」
 その話を聞いた澪は、よく分からないがお嬢様も大変なのだなーと同情した。同時に自分には縁遠い話だ、とやさぐれかけた。
 肝心のスタジオに通されてから、機材をチェックし終えた澪は他の二人がいないことに気がついた。
「あれ、唯と律は?」
「途中でいなくなっちゃったけど……?」
「しょうがない奴らだ」
 溜め息と共にそう漏らしてから、澪はおもむろに旅行バッグからラジカセを取り出した。
「それ、なぁに?」
「これね」
 澪は言葉で説明するより、と再生ボタンを押した。攻撃的な高速ビートの曲が流れる。ずんずんと低音を響かせ、技巧を効かせたリフがうねっている。いわゆるメタルと呼ばれる音楽。
「昔の軽音部の学園祭でのライブ。この前部室で見つけたんだ」
「上手……」
 ムギは耳に入る弦楽器隊の技巧の数々に驚かされた。背後に疾走するドラムに乗っかって自由に喧嘩し合うツインリード。音質は悪いが、実際にその場にいたら圧倒されていたのだろうと想像できる。
「私たちより相当上手いと思う」
 澪は演奏が区切れたところで停止ボタンを押した。表情が曇ったまま。
「うん」
「なんか、これを聴いていたら負けたくないなって」
「それで合宿って言いだしたのね?」
 それで納得した様子のムギは澪の負けず嫌いな一面を知り、微笑ましく思った。
「まあ、ね」
「負けないと思う」
 その一言に澪ははっと顔をあげる。ムギは澪の顔をしっかりと見てから、力強く繰り返した。
「私たちなら」
「ムギ……」
 ムギの瞳に広がる静謐な光。それは揺れることなく、まっすぐに信頼という感情を表していた。澪はまだ付き合いの浅いこの少女の言葉がすっと胸に入ってくるのを感じた。不思議と「その通りだな」と納得してしまう。
 行き当たりばったりというより、全てに手探りで挑んでいる自分達には可能性がある。この音源の先輩方を凌駕できないはずがない。
 その言葉を誰かに言ってもらえただけで澪は胸につっかえた物がいくらか取れたように感じた。
 二人の間にさらなる友情の絆が結ばれようとしたその時。
「ぃよーーーーしあっそぶぞーーぃっ!!」
「オーイェーー!!!」
 真剣な空気は二人の闖入者によって木端に破壊された。
「って早っ! お、おい練習は!?」
 既に戦闘準備万端の二人に面食らった澪であったが、既に二人は部屋の外に突っ走っていってしまった。
「先行ってるから、二人とも急いでねー」
 遠くから唯の声が響いてくる。
「これでも……?」
 地獄の底から響いてきそうな声が澪の喉元から響いてきた。じっと暗い眼差しをあてられたムギは苦笑いを浮かべた。
「え、ええ……まぁ」
 ああいう流れがあった手前、若干気まずい。一気に不機嫌になった澪をちらっと見詰めたムギだったが遠くに響く歓声にふっと笑みを零した。
「澪ちゃん、いこ?」
 ムギからまさかの提案に澪の体がびくりと跳ねた。
「え……ム、ムギ行くつもり?」
「せっかくだし、少しくらいなら……ね?」
 ね、と悪戯っぽく笑うムギは心なしかうきうきとして見えた。今にも走り出しそうな、それでいて抑えているような。そんな彼女の様子に澪の心は揺れ動いた。
(ムギ、もしかしなくても遊びたいんじゃ……?)
 澪は、合宿前に彼女が同年代の友達と遊ぶことがなかったと言っていたのを思い出した。
「で、でも私は……」
 再び聞こえた律たちの催促の声に「はぁーい」と返したムギはついに「待ってるからー」と澪の元を去ってしまった。止める間もなかった。
 澪は、中途半端に伸ばしかけた手を力なく落とした。
「そ、そもそも夏音にあんなことさせておいて……その夏音だってまだ到着していないのに……」
 皆は何て冷たいんだろう、自分は決して行くもんかと背を向けた澪。そもそも唯は暢気に遊べるような心境に持って行けるのは逆にスゴイと思う。褒められたものではないが。

―――キャハハー、いっくぞー!
―――二人とも待ってー。
―――ビーチボールふくらますのやってよー!

 人のいない建物に響く楽しげな笑い声。澪の胸のあたりをぐっと這うような何かがこみ上げる。勝手に足がじたばたとなるのを抑える。
(でも、夏音が……)

 揺れる良心。

―――澪はまだこないのかー?
―――先行ってるって言っといたからー。

(ごめん、夏音!!)

「私も行ぐーーー!!!」

 割れる良心。

 言葉で言い尽くせない様々な理由によって涙を流しながら、澪はバッグの中から水着を探した。


 その結果がこうなる訳であった。

「もし、あなたがたに良心というものがあったなら―――」
 腕を組んで仁王立ちした夏音はそれ以上を続けることができなかった。
「―――お”、お”れ”の”……どうぢゃぐをま”っでから……うぅ……う”ぅ”……!!」
「!?」
 膝をついていた者たちは、鼻水と涙の滝が足元の砂に吸い込まれていくのをしっかりと目の当たりにした。
「申し訳ございませんでしたーー!!!」
 四人そろって土下座をする女の子たち。唯は心の中で、今日はよく土下座をする日だと思った。唯的土下座記念日。
 やっぱりこうなるよね、と澪は内省する。後の祭りだが。



 夏音はSAを発ってからわずか三十分で別荘まで到着という快挙を勝手に成し遂げていた。やっと辿り着いた別荘の駐車場に車を停め、見上げる建物の外観に溜息を漏らす。
「良さげな雰囲気だなー」
 そわりと吹いた潮風が髪をさらった。この時、既に夏音の気持ちも実に晴れやかで唯への怒りも鎮まりきっていた。
 それもそのはず。運転中。別荘に近づくにつれ、ばっと開けた視界に海が飛び込むロケーション。窓を開けると爽やかな風に潮の香り。遠くには夏空に浮かぶ入道雲。その空と同じ色をした瞳に、どこまでも開放的な夏の景色が映り込んだ。こんな環境でいつまでも怒っているのも馬鹿らしいではないか。
 それからは快適にここまでハンドルを握ってきた。
 最高のロケーションで合宿を楽しめると胸を撫で下ろしたところで、機材をせっせと室内に運ぶことにした。
 ところが。
 建物をどれだけ探しても、人の気配はない。偶然スタジオにたどり着くと、そこには散らかった荷物がお留守番をしていた。
「なに……?」
 事態をよく把握できなかった夏音は、遠くから聞こえる悲鳴を耳に捉えた。
 海の方からだ。
 このスタジオは、ガレージをスタジオ使いしているだけらしく、外に直結していた。
 夏音は木造のデッキから外に出て、海へと下る道を歩いた。そして先ほどの悲鳴の主たちに気がつく。
「俺を……さしおいて……なんてこと……?」
 浜辺に出ると、そこには水着姿で黄色い声をあげてはしゃぐ軽音部の仲間たちが。水着姿で。自分が到着するまでくつろでいるだろうと思っていたが、まさかスロットル全開で遊んでいるとは思いもしなかった。
 あまりのショックに、ふらふらと足元もおぼつかないまま近付いてくる夏音に誰も気が付かない。
「あ、あ、あ、アンタラァーーー!!!」
 その声が届いた彼女たちは、真夏なのに極寒にさ迷いこんだような感覚を覚えたという。



「ご、ごめんね夏音くん!!」
 もはや、土下座というより身を投げ出している唯が許しを請う。
「そ、そんな泣かなくても……っ」
「お、おい律!」
 そして、泣き濡れる夏音の顔を見上げた二人は「ギャーー」と叫びそうになるのを寸でこらえた。夏音はひたすら悲しそうな顔をしていたのだ。
 それは雨の中震える子犬を彷彿とさせる。もう、誰も顔をあげられなかった。
 天気は快晴なのに、どんよりと湿った空気が肌にはりついて離れない。こんなスタートの合宿嫌だ……と思っていた時。
「はぁ~あ……別にいいよ、もう!」
 打って変わった明るい声に顔をあげた皆は、涙などございましたか? とばかりにあっけらかんとした様子の夏音にずっこけた。
「切り換え、早っ!!?」
「ったく、連絡くらい入れてくれよなー」
 ぶつぶつ文句を言う夏音は、砂浜に投げ出されていたビーチボールを手にした。その硬度を確かめ、ぽんぽんと手で遊ぶ。
 それから、暗い視線を唯へと向けた。
「シカシ、唯サン」
 たまらず嫌な予感がした唯。
「は、はひっ」
 上擦る声は、次に起こる出来事を予感している。
「恩を仇で返すとは、このことだぁーっ!!」
 夏音はおおきく振りかぶった。その後の出来事は割愛に処する。



「あれ、夏音は泳がないのか?」
 ビニールシートの上で一休みしていた律は同じく横で座る夏音に訊いた。いったん着替えてくる、と別荘に戻った夏音は海辺にふさわしい装いに変わっていた。膝上までのパンツに、ノースリーブパーカー。髪を頭上で結んで、後ろの髪も折り返した所で留めて邪魔にならないようにしていた。
 間違っても男には見えないなー、と律は感心した。
「今、何か思ったでしょ?」
「な、なんも思ってないっ!」
「本当かなー?」
 律は、しっかりと心の内で「ナンパされても笑えねーなコイツ」と男数人にナンパされる夏音を妄想していた。男とは思えぬ容姿はもちろんのこと、陶器のように白くプルンプルンな肌はほんのり汗ばんでいて、どこか艶めかしい。丈の短いパンツからすらりと伸びた形の絶妙な太ももなんて……。
 そこまで考えたところで律は思考を停止させた。
(いやいや、私はオヤジかっ! しかも、相手はただの野郎……野郎だろう! あ、いま韻踏んだ)
「泳ぎたいさ」
 夏音はすねたように口をとがらせ、海ではしゃぐ唯たちの方を向いた。それから、「ほれ」と言って律に向かって腿を見せた。裾をまくりあげて、見せる、魅せる……。
(う、ヤバイ)
 律はうっかり鼻をおさえて、目をそらした。
「ジンマシンがさー……サバでさー……ということなの」
「え?」
 鼻の奥から漏れる液体を根性で引っ込ませながら、律が聞き返した。
「だから、サバでジンマシンが出ちゃったの! 海に入れないんだよ」
「えー、大丈夫なのかそれ?」
「安静にしてれば、ね。海水に浸かっちゃだめなんだって」
 すっかりしょぼくれている夏音の様子に律は慌ててフォローした。
「ま、まあ浅瀬で遊ぶには平気じゃないか?」
「ん……あ、そうか」
 それは思いつかなかった、とガバッと立ちあがった夏音。
「お前……どこかズレてるよなー」
「そうだよね! カバディやろう律!」
「何でよりによってカバディ!?」
 それから数時間ほど軽音部の一行は照りつける太陽の下、海水浴を楽しんだ。
(俺、勝ち組! 勝ち組!)
 間近にいる水着の女子高生たちの中、自分だけ男一人という状況に心の中でガッツポーズをとった夏音であった。
 傍からみればただの「海水浴に訪れた女の子集団」にしか見えなかったのは本人は知らない。



 一同は、日が暮れるまでたっぷりと遊んだ。すっかり本来の目的を忘れていた澪があわてて練習しようと騒ぎ出したところで海水浴は終了となった。それから交替でシャワーを浴びて海水でべたつく体をさっぱりしてから、スタジオへ向かうことに。
 さあ楽しい練習のお時間のはじまりである。といったところで、問題児二人によって阻まれた。
「初日なんだし、いっぱい遊びたいよー」
「唯に同感ーっ」
 遊び疲れてスタジオの床へ突っ伏す二人組を見下ろして夏音は深いため息をついた。
「どうしようもないねー。練習してから遊べばいいじゃないか」
「そうだぞお前ら。何しに来たと思っているんだ」
「……澪だって忘れてたクセに」
 腰に手をあてて夏音にのっかった澪だったが、瞬時に飛んできたピッチャー返しに言葉が詰まってしまう。
「う、私はちゃんと練習するつもりで……っ!」
 まあ、説得力はないけどと誰もが思った。
 

 夏音は持参のスピーカーを配置するとミキサーとつないでマイクの音量調節を終えた。それから、セッティングのセの字もしていない二名に目をやってそっと溜め息をつく。
 夏音と澪は自然に視線を交わした。何をすべきか心得た二人は頷き合う。
 澪はドンとアンプを二人のそばに置き、最大音量でかき鳴らす。
 鼓膜を揺るがす重低音に、二体の屍はたまらず身を起こした。死者をも呼び覚ます四弦使いを眼前に、怠惰は許されない。
 そこに澪の怒気を孕んだ一声がつきささる。
「は・じ・め・る・ぞ!!」
 それから二人は、ノロノロとした動きでセッティングにとりかかった。気怠そうにハイハットの位置やシンバルの角度を調整していた律は、作業を中断してタムタムの間に両手をかけてよりかかった。
「あー、だっりー」
 すっかり気力を失い尽くしている様子に澪はイラっとしたが、何か思いついたように意地の悪い笑みを浮かべた。
「そういえば、さっき思ったんだけど律太ったんじゃないかなー。やっぱり最近ドラム叩いてないかなー。あ、独り言だから気にしないで欲しいんだけど」
 宙に視線をさまよわせ、誰に言うでもなく、だが、しっかりと特定の人物に届く声で呟かれた言葉は、真っ直ぐに律の心に突き刺さった。
 え、うそ。マジなの? と自らの身体を見下ろして戦慄く律は救いをもとめて他の者に視線を向けた。その場にいた者は、ちらりと律の体に目を向けて、背ける。
「う、う、う、オリャーーーー!!!!」
 一心不乱にドラムを鳴らす。苦手なはずの難解なタム回しも完璧で夏音は一瞬呆気にとられた。
「人間の底力を見た気がする」

 そうしているうちに、唯もとっくにセッティングを終わらせていた。アンプ直結の唯がすることと言えば、チューニングくらいしかないので当然といえば当然である。
 今回の合宿でやることになった三曲は「Bon Jovi」「Deep Purple」「東京事変」の三バンドから、その中でも難易度を鑑みて曲が選ばれた。
「さぁ唯。この日のために特訓した成果を見せてもらおうではないか」
 夏音は不敵に笑って唯を指さす。
「何から演る?」
 全員のセッティングが終わったところで夏音が弾んだ声で、皆を見回す。
「そうだな、とりあえず簡単なものからがいいかな。スモーク・オン・ザ・ウォーターにしないか?」
 澪がすぐにそれに答えて他の者に同意を求めた。
「ええ、私はどれからでもいいわよ」
「唯は?」
「えーと、それってジャッジャッジャーって始まるやつだよね?」
「唯から始まるやつだね」 
 ディープ・パープルのあまりに有名すぎる一曲だ。リッチー・ブラックモアのギターの3コードのリフから始まる誰もが聴いたことのある印象的なフレーズ。しかし、この曲は一般のイメージによる簡単な曲というほど一枚岩ではなく、『スモーク・オン・ザ・ウォーターを笑うものは、スモーク・オン・ザ・ウォーターに泣く』とまで言われているほど奥が深いものだ。今の唯にそこまで求める訳ではないが、絶対に通って欲しい曲だと夏音はこの曲を選んだ。
 あと、律の事を思って手数を少なくアレンジできる点も。
「じゃ、演ろうか?」
 夏音は自分の青色のストラトを構える。ふと顔を上げると、何かにがんじがらめになっているような皆の姿があった。これほどわかりやすく緊張しているのも面白い。だが、演奏にならない。
 夏音はパンパンパンと手を叩いて注目を集めた。
「Let`s enjoy the music!! 唯! いったれ!」
 唯の右手がぎこちなく振り下ろされ、3コードのリフで曲が始まる。唯のピッキングを素直に拾うハムバッカーの音が歪みと共にアンプから放たれた。
今、この場に響いているのは六本の弦の振動。
 そこにムギのシンセから飛び出るオルガンの音色が控え目に跳ねる。すぐにフィルインからのドラムが参加して、ビートが生まれる。ここでこの曲のエンジンがかかる。すでに走り出したグルーヴに8ビートを刻む澪のベースが加わった。
夏音は、ふっと息を吸い上げる。
「We all came out to Montreux`―――」
 天高くまで届けとばかりに歌い上げる。
 その瞬間の空気が爆ぜるような圧が皆を均等に圧倒する。夏音のギターはトリッキーにアンサンブルの中を動きまわり、時に自由にオカズを加え、かつ原曲を壊さずに参加していた。
 バンドとしては、各楽器の音のズレがあちこちで発生しているというちょっとした惨事が進行中であった。
 あえて表現するなら、カッチカチ。夏音はいつまでも堅苦しい演奏を続ける彼女たちの音に、内心で舌打ちをした。初めてなのだから仕方ない、とはいえ彼女たちは演奏を楽しんでいないではないか。そこが不満なのだ。
 手元の楽器をただ鳴らすことだけに集中してしまい、他の楽器の音を聞いていない。
 しかし、経験の差だろうか。律と澪だけはきちんと顔をあげ、時折互いをみやって上手く曲をコントロールしている。彼女たちはそれなりに楽しんでいるように見えた。その楽しさを唯やムギにも共有してやってくれ、と思う。
 夏音は少しだけ苛立ちながら、このままで終わってたまるかと密かに決意を固めた。
(やってやろう)
 かくして、彼はタイミングをはかる。
 初めての合奏だからこんなものでも仕方ない? 違う。
 初めてだからこそ、彼女たちには何かを得て欲しい。理屈じゃ語れない化学反応。音楽の奥深さ。そういったものの一片でも感じとってほしいと思った。
 熱い想いはどんどん膨れ上がっていった。そして、夏音の待ち望んだ瞬間が、やってきた。
 夏音は足元のエフェクターを踏み替えた。
 空気が雷鳴に引き裂かれる。雷鳴と擬音できるほど、夏音が激しい光と音をもってその場に君臨した。
 ギターソロのお時間だ。チョーキングをした左手をそのまま、オーバードライブという味方をつけた夏音は破壊的なサウンドを携えて中央に躍り出た。下を向いて演奏をしていた唯やムギの目はすでに夏音から照準を離すことができずにいた。
 しかし、曲を壊すことはないものの、すでに原曲はぶち壊していることは言うまでもなかった。
 例えば、ジェット機のエンジンの間近にいるとこんな感覚だろう。轟音に身が縮こまりそうになった彼女たちは、次第にそれが直接アンプから出ている音によるものではないと気が付いた。
 今、全員の目線を釘付けにしている人物の発している音の力が、凄絶すぎるからゆえの圧力だと認識した。現実に測れないとして、確かに何かすごい物がこの場に発生している。
 華奢で、女の子みたいだと思っていた夏音。その彼が偉大なロックスターのように腰をかがめて、ギターを歌わせていた。
 どこまでも太く、存在感のある音を出す彼はこのスタジオを埋め尽くすほど巨大な姿となって映った。
 アームを使ってマシンガンのように響くエロティックなヴィブラート、そこからどこをどう弾いているか可視不可能な早弾き。ピッキング・ハーモニクスによって甲高い悲鳴をあげるギター。どこまでも高く、それは次第に女性の悲鳴みたいに、喘ぎ声みたいに妖艶に響いた。
 夏音は何小節も驀進し続けてから、すっと顔をあげた。
 音色が変わる。相変わらずソロは続くが、音の雰囲気がはっきりと変化したことに全員が気付いた。今までとは打って変わったハイポジションのバッキング。夏音はニヤリと笑って澪の目を見る。
 視線で射貫かれ、びくっとした澪であったが夏音の意図を正確にくみ取った。不幸な事に、気付かぬフリは通用しない。
「Mio, it`s your turn!!」
 マイクを通して夏音が言った発言に、他の三人は驚きの反応を見せた。表情だけで溜め息をつくという器用なジェスチャーをした澪は、小節の区切りでハイフレットの和音を伸ばした。
 次の瞬間には、夏音はごく自然に自らのソロを収束させていき、小節をまたぐ際に澪につないだ。
 一小節分、まるまると音を伸ばしてから、ブルージーなフレーズを生み出してく澪。まだまだ単純なスケールをなぞるだけのものであったが、夏音の影響で増やしたバリュエーションもあって、堂々とソロを弾ききった。
「お次は~~」
 獲物を見定めるような目つきの夏音に誰もがいっせいに目をそらした。
「…………やっぱ俺~!!」
 夏音、空気読む。
 エフェクターを踏んで元の音色に戻し、抑揚されたフレーズが続く。そのままいくらか時間がまわったところで、夏音の演奏も終盤に向けて走りだした。自分が暴走しすぎたので、周りの彼女たちが無事演奏を終われるか怪しかったが。
 高速のトリルを続けながら、やりすぎちゃったかも、と舌をちろりと出して夏音は笑った。

 

 
 唯は夏音のソロが始まってから、ずっと同じコードの繰り返しばかりで、弾いている場所を見失っていた。変な不協和音を奏でている訳ではないから、間違ってはいないだろうと思ったが、それでも収拾がつかなくなるのではと不安がちらりと渦巻いた。
 しかし、同じところばかり繰り返しているだけなのに湧き上がってくるこの高揚感はなんだろうか。
 曲が夏音によって頂点まで盛り上がる時には、もう何年もこのまま突っ走ってきたみたいに曲になじんでしまっている、信頼感。五回に一回はミスをしてしまうが、今の自分は確実に楽しんでいる。
 自分が影で固めて行く道の上を夏音が自由に、堂々と走りまわる。
 楽しい。それだけしか、感じられない。
 いつの間にか、夏音のギターが通常のバッキングに戻っており、彼の声が再び「湖上の煙」の歌詞を歌い上げていた。
(何だろう、この……なんか、長い旅から帰ってきたような感じ)
 唯は、今自分が響かせている音すら、百八十度変わって聞こえた。隣のムギを見ると、しっかり顔をあげたまま、演奏が始まった時より堂々とした様子。自分と目が合うと、にっこり微笑んでくれる。それだけで自分のバッキングにノリが出るような気さえした。
 演奏も終盤になると、音源通りの流れになった。夏音がわかるように指を四本立てた。あと四回、回すという合図。
 腕はもう感覚がない。それでもきちんとコードを押さえていられる不思議。
ムギが最後にクラッシュを打つと、音が止んだ。
 嵐の後の静けさ。そう表現するにぴったりの空気だった。

「こ……濃ゆっ!!」
 律が椅子からずり落ちて、床にへばりこんだ。気がつけば、皆汗だくになって息を乱していた。
「一曲目なのに……これってどうよ?」
 律は上半身だけ起こし、夏音に対して責めるような視線を向けた。夏音は、500ミリのペットボトルの水を一度に半分も空にして一言。
「楽しかったでしょ?」
 そうやって夏音は片頬だけあげてニヤリと笑った。これより先、こんなのがずっと続くのかと、彼以外の全員の目に諦めに似た感情がこもったのを唯はしっかりと目撃した。
 おそらく、自分もそんな目をしているに違いなかった。今日の晩御飯はさぞかし美味しく食べれることだろう。

 一時間ほどスタジオにこもって練習を終えた者たちは、空腹の絶頂期をいくつ超えただろうと指折り数え、やっと夕飯にありつけることに滂沱の涙を流した。
 さて、晩飯だといったところで何もないことを思い出したところで、一瞬垣間見た気がする天国は遥か彼方へすたこら逃げて行ったのだが。
「夕飯も自分たちで作るってことにしただろー?」
 あらかじめ買っておいた食材と調味料などの確認をする夏音がもう言葉を失くしている彼女たちの方を呆れた声を出した。
「もーーーだれかやったってー」
 生気のない声が床に突っ伏した唯から聞こえた。
「結局きちんと練習したのは最初の三十分だけだっただろう!!」
 夏音は思わず、手元のキュウリを唯に投げつけた。
 三曲を二回通したところで、唯律のコンビが駄々をこね始めた。
 もームリ、と。
 その瞬間、人のこめかみに青筋が浮くのを初めて目撃したという澪は夏音から一歩身を遠ざけた。
 温和な笑みを顔にはりつけたままのムギ。
 しまいには唯が「もうこのギターもてない……」と言い出す始末。だからギブソンやめろと言ったのに、と数か月前の不安が現実になった瞬間であった。
 なんともいえないプレッシャーが夏音を襲う。いくつもの視線が自分に訴えかける……休憩の一声をかけない訳にはいかなかった。
「ご飯にする?」
 打つ手なしの有様にすっかり匙を投げてしまった夏音はさっさと機材を片づけて練習終了を宣言した。


「という訳で、味見要員の者ども。テーブルを拭いたり、食器を並べたりしていなさい」
「はぁーーい!!」
 良い子の返事が返ってきた。結局、料理を作ることになったのは夏音、澪、ムギの三名に落ち着いた。既に動く余力がないと駄々をこねた律と唯はその他雑用を押しつけられた。
 厨房で火を使う夏音、包丁を握るのは澪、ムギは野菜の皮を剥いたりサラダを作ったり、ご飯や味噌汁係を担った。
 実に芳しい匂いが厨房を満たすと、その場の三人の腹がいっせいに鳴った。くすくす笑っている四人のもとへ唯がやってきた。
「すごく良いにおいー!!」
 これまた腹がきゅるりと鳴り、唯は恥ずかしそうに笑うが目が本気だ。涎が出ていることなど、気にしてもいない。
 その晩のメニューは白米、味噌汁、アボカドの肉餡かけにラーメンサラダ、から揚げという豪華な料理が食卓を彩った。
「シェフ、感激です!!!」
 運ばれてきた料理を見た唯が尊敬の眼差しで夏音を見上げた。
「これくらいは当然。そろそろ涎を拭きなよ唯」
 それから皿まで食いかねない勢いで全てを平らげた一同はデザートにスイカを切って、外のテラスで涼んだ。
 辺りに満ちる潮の匂いが鼻をくすぐり、海からは穏やかな風が吹いてくる。澪と隣あって座っていた夏音はスイカの種を勢いよく飛ばしながら、先ほどからごそごそと忙しなく動く律たちをぼーっと眺めていた。
「終わったら練習再開するからなー」
 澪がスイカを口いっぱい頬張りながら、浮つく彼女たちにしっかり釘をさしていた。頬を膨らませるその姿はまるでハムスターのようだとは口が滑っても言えない。
「わかってるわかってるー。それに明日もあるんだからダ―イジョーブだって!」
 どこまでもポジティブな部長のお言葉にムギが力強く頷く。
「ありがたいね……」
 夏音はぺっ、とスイカの種とともに吐き捨てた。相当荒んでいる。

 律とムギが動きを止めて、頷きあったのを見て何が始まるんだと夏音は注目した。
「せーーの!」
 光の波が瞳の奥に押し寄せた。吹き上げる閃光の中に躍り出たシルエットに夏音と澪は目を瞠った。
 相棒・レスポールを武器に、眩いステージでギターをかき鳴らす唯はどこまでも自由だった。アンプラグドのはずが、実際にエレキの音が聞こえてくるような気さえしてくる。
 澪と夏音、二人の網膜を支配した唯がさらに腕を大きく振り上げる。
 光の花が夏の夜空を照らし、その足元には一人のミュージシャンが。横にいる澪の目には何が映っているのだろう。自分の瞳には何が映っている。一瞬だけ唯が目の眩む光の先で何万人もの観客の前で演奏している姿が浮かんでいた。
 それは本当に刹那の幻覚にすぎなかったのだが、突如の出来事に夏音の心は突き動かされた。
 吹き上げる花火は徐々にしぼんでいき、後に残るのはオーイェー! とハシャぐ唯と火薬の硝煙のみ。
「え、もう終わり!?」
 予想以上に花火が続かず、これからが良いところだったのに―――、と唯は残念そうな声を出した。
「すまん、予算の問題で……」
 律が申し訳なさそうに言うが、その表情はどこか満足気だった。
「でも、いつかまた……ね?」
「そうだな! 武道館公演でこう、もっと派手にバババババァーッと!!」
 夏音はそういえばそんな話が初めに挙がっていたのを思い出した。
「ぶどーかん?」
「おいおい、目標はそこだって決めただろー!? なっ!?」
「へっ?」
 と急に話をふられた夏音と澪は二人揃って素っ頓狂な声をあげてしまう。
『目指せ武道館』
 このメンバーで。夏音はふと寂しさに似た感情がちくりと胸を突いたことに気付かないふりをした。彼女達がその夢を実現できたとして、その中に自分はいるのだろうか。
 夏音はコツンと自分の頭を小突いた。せっかく盛り上がっている中で何を暗くなっているのだろう。
 それでも胸がしくりと痛むのを留められなかった。大きなステージ。今はただのお遊びでしかない彼女達がそこに立つ日が来るのだろうか。
 暗い思考から逃げられないでいると、ふいに聞き覚えのある曲が夏音の耳に入ってきた。
 急にメタルなんか流してどういうつもりだ、と夏音はラジカセを手に持った澪を訝しげに見た。
「武道館目指すなら、まずこのくらいできるようにならなきゃなー」
 澪がこの合宿に思い立った理由。彼女はこれを聴いて皆に軽音部としてのスタンスを一度考え直して欲しかった。
 夏音は澪がメタルをやりたかったのだろうかと首を傾げた。
「へぇー、上手いなー」
 律が素直に感心した声を出す。既にその曲を一度聴いていたムギは静かに耳を傾けている。
「これ、私達の先輩なんだぞ?」
「これ軽音部なのか!?」
「ここからソロなんだけど、本当に高校生が弾いてるのかって次元だからよく聴いておけよ」
 かくしてギターソロが始まり、沈黙のまま誰もが聴き入っていた。
「あれ、この曲って……」
 夏音は横で何かに反応した唯が気になったが、何も言わなかった。曲が終わるまでじっと待ち、少しどや顔をしている澪がふん、と鼻を鳴らした。
「どうだ? これを超える演奏ができるようにならなくっちゃな!」
 何でお前が自慢気なんだと皆が思う中、ふとラジカセからこの世の怨嗟をぶち込めたようなドス黒い声が唸りを上げた。
『死ネーーーーッッ!!』
 テープから漏れる叫びにラジカセが宙を飛ぶ事になった。


 一同は怯えきった澪を宥めてからスタジオへ戻った。澪の作戦も功を奏したのか、律や唯が練習に向かう姿勢を見せたのだ。
 皆が再びアンプのセッティングを済ませていると、ムギが戸惑いの表情で唯を見つめていた。
「唯ちゃん、本当にさっきの曲……」
「うん! 見てて!」
 そう言って唯は、ギターを構える。
「…………うそ、だろ……?」
 唯が弾き始めたフレーズは先程カセットで流れた曲のギターソロであった。もちろんつっかかる部分があるし、原曲よりテンポも遅いし音数も少なかったりする。
 まさか、ここまでとは思っていなかった。夏音は一度聴いた曲はそのまま忘れないでいられる。初見ならぬ初聴でほぼ完璧に曲を再現できるし、それができないようであればプロとしてトップを走っていられない。
 しかし、ギターを初めて三ヶ月の唯が同じような事をできるとは思っていなかった。合宿用の曲を覚えた時はやけにすんなり覚えたなぁと思っていたが、これには度肝を抜かされた。自分が教えてきた事がこんなに早く実を結ぶとは思ってもみなかった。
 夏音は唯が絶対音感を持っている事を思い出し、さらにはそのセンスを侮っていた事を痛感させられた。
 皆、同様に目を見開いている。
「はいっ、どう!?」
 得意気に振りむく唯。
「すごいっ、完璧!」
 ムギが拍手したが、他の律と澪は声が出なかった。
「へへへへっ、でもみょーんってところがわからなくて……」
 頭をかきながら首をかしげる唯に、やっと言葉を取り戻した夏音が口を開いた。
「ベンディングだね」
 夏音が口を開くと澪が首を傾げた。
「ベンディング……ってチョーキングのこと?」
「あ、日本ではそう言うんだっけ?」
「ちょーき……ぐへっ」 
「これのこと?」
 新出の単語に唯が聞き返そうとしたところに律がプロレス技をかけた。
「それ、チョーキング違い……いいから、やめ!」
 夏音は貸してみぃ、と律から解放された唯からギターを受け取る。
「こうやってね」
 夏音は適当なフレットを押さえて、音を鳴らし、それをぐいっと指板に並行に引っ張った。
「音を出して、その弦を引っ張るんだ。それで音程を上げる奏法のことだよ。さっき俺も多用していただろ?」
 そのまま、チョーキングを使ったフレーズをささっと弾く。
「適当に引っ張るわけでもないんだよ。音程を考えてやらないといけないから、奥が深い」
 そういって、驚かされたお返しだとばかりに夏音はCD音源通りのギターソロを弾いた。
「す、すっごー……」
 夏音が唯にギターを返して「Try it」と言ったので、早速唯は実践する。
「こ、これ何か変ーーーー!!!」
 チョーキングがツボに入ったのか。弦を引っ張りながら大爆笑する唯に、彼女の頭の中の不可思議さについていけなくなった夏音であった。
 それから各曲を一度通してから今日の練習は完全に終了とした。
 シャワーで流したとして、やはり海水に浸かった体をしっかり洗いたい一同は風呂に入ることにした。ムギ曰く、大きい露天風呂がついているそうだ。しかし、男女で分かれていないので夏音は一人ぼっちである。
 事もあろうにスタジオに軟禁状態。やれやれ、俺の雄の部分を警戒しちゃってまぁ……と嬉しくなった夏音であったが、ここまでするのはどうだろう。
「ぜーったい覗くなよーっ」
「し、信用しているからな夏音のこと」
「夏音くんなら大丈夫だよー」
「ふふふ、一緒に入ってもいいんですよ?」
 三者三様、の反応。個室に閉じ込めておくにも鍵は内側から開く上、外から鍵をかけられる物置に閉じ込めるのは幾らなんでも不憫だという事で、お前はスタジオでずっと音を鳴らし続けておくのだ、と命じられたのである。
 この扱いは不憫ではないと言うのだろうか。
「あんまりだ……」
 露天風呂に入っていると、スタジオから響く音は十分すぎるくらいだそう。
 どうして彼女たちの風呂のBGMまで担当しなければいけないのか。どれだけ憤ったところでどうしようもないので、夏音はどうせなら爆音でやってやろうとアンプをセッティングし始めた。
「ムギの別荘の設備に感謝しなきゃなー」
 ハートキーの2000Wのキャビネット・スピーカー×2が片隅にどーんと置いてあったのだ。ついでに持ってきたベースでセッティングをする。さらについでにギターのセッティングをする。
「そもそも、あいつらちゃんと聞いてるんだろーな」
(ループさせてこっそりのぞいてやろうか?)
 しかし、それは決してやることはなかった。なんだかんだで弾いているうちに夢中になってしまったのである。


「お、ちゃんと弾いてるなー」
 外の露天風呂につかっている女子組は、バカでかい音で小宇宙を繰り広げている唯一の男子メンバーを思い浮かべた。
「ちょっとかわいそうじゃないか?」
 澪が眉を落として言ったが、「のぞかれたいのか~?」と律に茶化されて慌てて否定した。
「まぁー、当てつけのように激しいの弾いてるな」
 空気を裂いて響いてくる音。伝わるのは、怒り。轟音がここまで届いてうるさいほど。
「怒っているな」
「怒っているねー」
「でも、しかたないよね」
「しかたない……かもしれない」
 なんだかこの合宿で、夏音を怒らせてばかりな気がした一同。埋め合わせしなければならないと考えた。
「夏音一人だけなのに色んな音がきこえるなー」
「ええ、不思議……」
 割とどうでもよさそうに恍惚の表情で落ち着く彼女達。ループを多用してギターとベースを同時に弾いているとは思いもしないだろう。
「まさか露天風呂まであるとはねー」
 鼻歌をすさびながら、唯が星の瞬く夜空を見上げた。
「今日は本当に楽しかったー!」
 ムギもルンルンと上機嫌で足をのばしていた。
「ムギの言ってた通り、そんなに慌てる必要はなかったのかもな」
 今日、初めて音を合わせたバンド初心者の二人の様子を見た澪。もっと音楽とはこうあってもいいんだと再確認した一日でもあった。
「だったら明日はもっと遊ぶぞー!」
 ふいに潜水していた誰かが浮上した。
「だ、誰だっ!?」
 肝心の顔が前髪で隠れて、誰か判別できない
「私だ!」
「前髪長っ!?」
 我らが部長、律であった。普段カチューシャでおさえている前髪を下ろすとこんな感じらしい。新事実。
「案外可愛い……」
「あんがいってどういうこったコラ」
 そんなやりとりをしてから、二人の間に強引に並んだ律は絶えず聞こえてくる音に耳を向けた。
「ま、ゆっくりやろうが慌ててやろうが頼もしい奴がいるじゃん」
 その言葉の後に、ふいに曲調が変わった。
 夏の夜にふさわしい、涼やかだがどこか哀愁漂う情緒感。ひょっとしたら、今の夏音の内面を表しているのではないだろうか。
「さびしいのかな?」
「まぁ……さびしいんじゃね」
 ふと、澪は会話に加わらずに左手を奇妙に動かす唯に気付いて近づいた。
「それは、もしかしてこう?」
 手の形から、なんとなくコードを推測してみた澪に瞠目した唯は「すごーい」と喜んだ。
「唯……手の皮、ずいぶん剥けたな」
「あ、コレ? うん、今日一日でねー。ちょっと水ぶくれになっちゃった! だいぶ硬くなったと思ってたんだけどね」
 珍しく痛い話にかかわらず、自ら話題を振ってきた澪。自分も通ってきた道なので、案外それについては見ても平気だったりする。
「でも、やっぱり音楽っていいね。今日、初めてみんなと合わせてみて楽しかったなー」
「唯……まて、本当に楽しかったのか?」
「うん! 一番初めに合わせた時、すごく興奮したもん! 血が湧く、ってああいうかんじなんだね!」
「それはたぶん……夏音のおかげだろうな」
「そうなのかな? すごかったよね、夏音くん。私も早くあんな風に弾けるようになりたいなー」
「うん……唯なら、できるよ! 今日、唯があれだけ弾けるようになっていてビックリしたよ。きちんとバンドでも合わせられたし!」
「澪ちゃんが合宿を計画してくれたおかげだね! もし合宿がなかったらいつまで経っても、この気持ちを知らないままだったから……!!」
「そ、そう?」
「ありがとう、澪ちゃん」
 両手をつかんで礼を言う唯にもはや沸騰状態の澪を、律が抜け目なくからかった。
「澪のやつ照れてるぞーっ」
「こ、これはのぼせただけで……っ!」
 その場には、笑い声と………夏音が奏でる物悲しいメロディがあった。
「あ、そろそろ出ないと夏音くんが…………」
「あぁ……泣きのメロディーに入ってるな……あ、むしろ狂気?」
「早く行ってやろ……」
 
 
「おやすみー」
 と言って四人の女の子たちは別の部屋へ移っていった。夏音は別の部屋で眠る事になっていたが、何となく寝室に向かう気分にならなかった。ふうと息をついて居間のソファに横たわる。目を閉じると、様々な出来事が脳裏に浮かぶ。
 慌ただしい一日だった。本当に色々なことがあった。これだけ濃い一日を過ごしたのは久しぶりである。昼間の熱をひきずっていまだに気温は高いが、開け放しの窓から抜ける風が心地よくてだんだんと瞼が落ちてきそうになる。
 ふと横のテーブルを見ると、先ほどまで広げられていたトランプが綺麗にまとめられていた。記憶の残滓がまだそこに留まっているようで、夏音一人がここにいるという気がしなかった。
「楽しかったな」
 ポツリと呟かれた言葉は見上げた天井に染みこんで消えた。夏音は自分が持て余している気持ちを歯痒く感じた。
(さびしい、だなんて)
 これだけ楽しいのに、並行して寂しさが募っていく。どこまでも矛盾した生活をしていると思う。元いた場所への郷愁、尚今いる場所の心地よさ。どちらも手放したくないし、それが両立できたら悩むことなどないのに。
 個性が強い軽音部の皆。自分の周りに集まる人は魅力的な人が多いと思う。こんなに恵まれている自分は幸せだと感じた。
 でも、いつかは戻らねばならない日が来るだろう。自分が、自らの立ち位置を曖昧模糊としている間に、周りが動いていた。カノン・マクレーンは求められていた。ジョンはやり手だ。夏音の意志を尊重しつつ、もしかしたらこれからどんどん仕事を持ってくるかもしれない。そして徐々に自分を誘導してこの生活から切り離されている、という未来が訪れる可能性は大いにある。
 その前に向こうに放置してきた親友がやって来たとしたら。自分はあっさりと今ある環境を手放してしまうのだろうか。
「でも、まだみんなダメダメだしなー」
 唇が震えて何か言葉を紡いだ気がしたが、いつの間にか意識は暗く溶けていった。
 

 夏音は全くスッキリとしない頭のまま、目を覚ました。意識の膜が何重にも自分を眠りに閉じ込めようとしているようだ。しかし、周りが騒々しさが丁寧かつ乱暴にそれらを引っぺがしてくる。窓が全開になっているのか、潮風が強く吹き込んでくるのを感じた。
 むくりと体を起こすと、体の節々が凝っていた。結局、ベッドに行かないで居間で寝てしまったらしい。ぼーっと半開きの目で朝食の準備に忙しなく動き回る彼女達の姿を見る。
「顔、洗ってこよ」
 すっと腰を上げるとムギが声をかけてきた。
「夏音くん卵どうするー?」
「Scrambledでお願い」
 洗面所に向かい冷水を顔に叩きつけて、口をゆすぐ。それでもいまいち脳が覚醒しない。
 席に着くと朝食の準備が整っていた。マフィンやキッシュ、三種類のベーグルにお好みでトースト。ソーセージとスクランブルエッグに目玉焼き。グリーンサラダにスープとなんとも豪華なメニューが揃っていた。
 いただきます、と一斉に食べ始める中、半覚醒状態の夏音はぼろぼろとパン屑をこぼしたり、牛乳を口のまわりに滴らせたりと隣の澪が世話を焼く始末だった。
「こいつ、こんなに朝ダメだったか?」
「毎朝、ゾンビみたいに歩いているのは見るけどね」
 口に巻き込んだ髪をむしゃむしゃ咀嚼するあたり、「だめだコイツ」と律が呟いた。
 

「さて、諸君。今日の予定だが……ん、その顔はなんだい?」
 食事も終わり、身支度を整えて全員が集合したので今日の予定を組むことになった。
 仕切るのはきりっとした夏音。
「……いや、さっきまでぼろぼろ食べ物零していた奴と同じ人間かな、と」
「う……っ、朝は割とダメな方なんだよ!」
「堂々と言い切りましたね……」
 夏音はうぉっほんと咳ばらいをして、話を戻した。
「今日は、午前中に練習をしたら午後は遊びつくそうと思います。だから午前中に集中しよう!」
「んー、まあ涼しいうちにやった方がいいよな」
 もっともだと律がうなずく。
「それで、澪から提案があるそうだ」
 といって話を振られた澪はうん、と頷いてと前に出た。
「オリジナル曲を作ろうと思うんだ」
「オリジナル!?」
 唯が驚いた声を出す。コピーではないオリジナル。唯は、そういうのはもっと経験を積んでからやるものだと思っていた。
「せっかく軽音部として出るんだから、コピーだけだとつまらないだろ?」
「で、でもオリジナルって私……っ」
「あぁ、唯は特に何もしなくていいよー。今回は基本的に俺が示すように弾いてくれれば」
「あ、それなら……なんとか」 
 なるのだろうか。

 しかし、オリジナルの曲製作はさっそく壁にぶち当たった。やはり、まだ楽器初心者の域を出ない唯がなかなか作業の効率を下げてしまうのだ。昨日見せたプレイは幻覚だったのだろうかと誰もが嘆いた。
 しかし、こればかりは仕方ないと誰もが寛容にならざるを得ない。それでも夏音は皆から出てきたアイディアをまとめ、唯に丁寧に教え続けた。
「うん、イントロとAメロはE、A、Bの三つのコードを繰り返してね」
「ブラッシングも前に教えたよね。こうやってミュートするんだよ。え、ミュートって何だと!? まぁ、こんな音を出すようにやってみて……できてるじゃん。それで、ちょっと応用! これがカッティング!」
「そうそ。左手もミュートして右手もね。どっちかだけできちんと音が止まれるくらいになろーね」
「逆にダウンだけになるとかなりヨレるねー。何で? でもここはダウンで頑張ろうか。漢らしくあれ」
 このように、夏音がつきっきりで教えることによって何とかサビまで通せるようになった。
「ふぅ~……まぁ、合宿中に完成させるのは無理だな」
「それでも前の私たちの状態からしたら十分な進歩だよ」
 休憩中にそんな会話を澪としていた夏音であったが、休憩の合間ももくもくと曲の練習をする唯に視線を向けてふっと笑った。
(一度集中すると止まらない、か……)
「それにしても、こういう曲を作るのは初めてだなー。なんていうか、女の子っぽいポップな感じ」
「夏音からしたら、完成度としてはどうだ?」
「うーん……それを評価する段階ですらないな。骨格を組み立てている最中だし、気になるところは尽きないね」
「た、たとえば?」
「澪はもう少しシンコペーションを減らしてよ。もう少しフレーズを歌わせてほしいな。せめて2コーラス目では、もう少しきちんと考えてくれ。律も手数増やして。もっと気の利いたフィルたのむよ。ムギは音符の長さをちゃんときっちり合わせてくれ。バンドの中ですごくもたついてるからね」
 淡々とメンバーの演奏を講評する夏音。あまりに歯切れよく言われるものだから、言われた側は目を丸くしていた。澪は、心の中で「始まった……」と思った。 皆もついに自分と同じ目に合うのか、と。
 しかし、その心配は現実にならなかった。夏音はそれだけ言って一番のサビまでできた構成をチェックすると、「まあ、いいや」と練習を終わらせてしまった。

「いやー、なんかやけにあっさり終わったな」
 まだお昼にもなっていない。律が夏音に訊ねた。
「あれ以上は、効率悪くなるだけだから」
「どうせなら、もっと進んでもよかったんじゃないか?」
「今できている部分も、アレでいいとは思っていないよ。それに、夏休みはまだまだあるんだし、焦ってやらなくてもいいだろう?」
 気楽にやろうぜ、と笑顔で言われた律はわんなわなと震えた。
「しょ、初日のアレはなんだったんだ……っ!!」
 鬼気迫るものがアナタから感じられましたよ、とは死んでも言えない律であった。
「泳ぐぞーーー!!!」
 はりきっていこー、と先陣切って飛び出そうとした夏音であったが。
「そういえば、今泳げないんじゃなかったか?」
 じんましん、悪化。


 最終日は日中、海で遊びつくし、昼寝も挟んでから夜はバーベキュー大会に興じた。それから馬鹿野郎、金のことなんか気にすんじゃねえと昼間の内から夏音が車を飛ばして大量に買い込んできた打ち上げ花火やドラゴン花火で光の大輪を咲かせたりした。
 花火セットの中に線香花火がない事にムギが文句を言っていたのが珍しかった。
「またいつでもできるだろ?」
 頬を小さく膨らませるムギに言う律は、ぽんと膝を叩いて立ち上がり、夏音の方を向いた。
「さて、と。風呂に入るかな」
「はぁ……」
「風呂に、入ろうと思うんだ」
「つ、つまり……?」
 二日間とも彼女達の風呂の時間にベースを弾くことになった夏音は新たな感性に目覚めるところだった。
(なあ、これって何ていうプレイだろ……あれ、なんだろこの感覚……)

 合宿最終日の夜であったが、皆二日間体を動かし続けて疲労困憊の状態だったので早めの就寝となった。少しだけカードゲームを全員でやったが、あくびがあちこちで発生するようになったのでお開きとなったのだ。
 彼女たちは別室へ行き、夏音は一人。自分に割り当てられた部屋へと移動したが。
「…………どうしよう。まったく眠くない」
 困ったことにこれ以上ない! というくらい冴えわたっている。
「ハイになっているのかな」
 お酒でもあれば眠れるのかもしれないが、あいにく未成年である夏音が酒を買うことはできない。
 あるのは料理用の酒だけ。却下。
「みんなの寝顔でも写真に収めようかな……いや、間違いなく変態の烙印を押されてしまう……」
 悶々と悩む十七歳の少年は、スタジオの方へ向かった。
 しんと静まりかえったスタジオに入り、電気を点けようとしたが月明かりが入り込んでいるのに気付いた。
 蒼白い光が自分を導くように揺らいでいる。夏音は合宿中にあまり使わなかったアコースティックギターを手に取る。そのままスタスタとテラスの方へ向かい、皮を編んで作られた一人がけのソファに腰掛けた。
 調弦をあっという間にすませて、月明りの下、弦をつま弾いた。
 月が夜空を支配していて、星たちは主役の裏に控えている。
夏音は時折思う。人は月を見て美しいと思う。しかし、本当に美しいのは月が照らす空や雲、その下にあるすべての世界ではないか、と。誰も月は見ていない。月は見られていると思っていないので、気ままにすべてを照らしている。
 海に浮かぶ満月、静かに寄せるさざ波。遠いところから走っては寄せる、優しい自然の音楽。
 夏音はそっと目を閉じて、それらと調和していく。柔らかい音色のアルペジオが風に馴染んでいく。この瞬間にややこしい思考の入る隙間はなかった。
夏音は何も考えずに、ただそこにある世界と調和して、気がつけば一時間くらいアコギを弾き続けていた。
 二弦が切れなかったら、そのままずっと弾いていたかもしれない。演奏が止まると、背後から拍手の音。仰天して振り向くと、唯がいた。
「唯、いつからそこにいたの?」
「んーとね、たぶん三十分くらい前!」
「声、かけてくれればよかったのに」
「えー、そんなのもったいないよ」
「もったいない?」
「夏音くんのギターを止めちゃうの、もったいないと思ったから」
 また不思議な感性をもった唯のことだ。何の苦もなく、立ち通しで聴いていたのだろう。夏音は一人掛けのソファから、ベンチに移動した。唯も横に座った。
「眠れないの?」
「ううん、さっきまでお布団に入りながら少しだけみんなと話していたんだ。でもみんなすぐ寝ちゃったからトイレ行こうとしたら、ギターの音が聞こえたから」
「音がうるさかったかな?」
「ううん、たぶん夏音くんの音楽の力が強すぎたんだよ」
「なーるほど」
 夏音は謙遜もせずに、素直にその言葉を受け取った。
「唯は、今回の合宿楽しかった?」
「とっても!」
「俺も。また、合宿したいね」
「うん! 私、もっと軽音部のみんなと色んなことしたいな!」
 そうだな、とうなずいて夏音は立ちあがった。
「夏といっても、あまり潮風にあたるのはよくない。そろそろ入ろう?」
「はーい」
 歩きだした自分に、そろそろと背後に唯がついてくる音がした。夏音は、その時そんなことを言う予定ではなかった。しかし、何故かそれは出てしまった。
「なあ、唯……俺がどこから来たと思う?」
「えー? どこから……アメリカ?」
「そうなんだけどさ。向こうで俺がどんなことしていたか、とか……話してないじゃないか?」
 夏音は、口が自分の意思を離れてしまったような感覚に襲われた。そんな事を訊いてどうするのだ。
「向こうで?」
「そー。みんなにまだ話してない秘密の部分」
「………」
「もうそろそろ話しちゃおうかなって思うんだ」
 秘密を抱えたままは疲れる。今回の合宿で感じた。この少女達とはこれから長い付き合いになるだろう。少なくとも三年は一緒になる。いつまでも誤魔化していたくない。壁を作って過ごしたくない。
「うーん………別にいーよ!」
「え?」
 思わず背後を振り返る夏音。唯も立ち止まって夏音の顔をにっこり微笑みながら見ていた。
「夏音くん辛そうだよ。無理に言わないでいいよ。そんなの夏音くんが言いたくなったら言えばいいんだよ。別に秘密とか、気にしないでいいと思うけどな」
 夏音は頭をかいて、気まずく目をそらした。
「そ、そうだよなー。秘密の一つくらい持ってもいいよなー」
「そうそう!」
「先週、唯の分のコーヒーゼリー食った犯人とかなー」
「そうそ……ってえぇー!? 誰、誰なのっ!? それは許されざる秘密だよ! 大罪だよ!」
「誰にでも秘密はある。ただ、コーヒーゼリーも食い過ぎるとお腹に良くないんだよな……」
「おんしかーっ!」
 ギャーギャーと騒ぎ出した唯を見て、夏音は声をたてて笑った。ちょっとだけ荷物が軽くなった気がする。ちなみに、エスカレートしていく唯の怒りを体感するうちに、夏音は予想以上に深い恨みだったことにたじろいだ。
 口は災いのもと。うっかりご用心。とりあえず、今度同じものを買うことを約束してその場を諌めた。
 こうして合宿最後の晩は過ぎ、世界は朝を迎える。人の気配がない浜辺の側には朝焼に輝く燦然とした大海原。しかし、そんな世にも美しい光景を完全に素通りして午後まで爆睡していた軽音部の一同は昼食を摂ってから夏音の車で帰宅した。
 これにて三日間の合宿は無事終了とす。



※前回の投稿から時間が空いてしまいました。これからオリジナル色ががつんと強くなってくるはずです。



[26404] 第九話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/28 18:01
 夏音は注ぎ口から湯気があがる白磁のティーポットをぼーっと眺めた。
「にっぽんのーー、夏」
 チリン、と風鈴の音が鳴った。本日も、晴天なり。


 夏休み中の学校はあらゆる部活動がここぞと練習量を増やしているせいで、通常の学期中とほとんど変わらぬ賑わいと熱気を醸している。普段は使えない教室で各パートに分かれて練習する吹奏楽部の鳴らす金管楽器の音が廊下中にけたたましく響く。時折、楽器の響かない静寂の隙間には蝉の鳴き声。それをかき消す運動部の気合い。どうやら運動部もこの時期に重なる大会に力を入れているのか、掛け声の気合も二倍増しだ。
 このように部活動に所属する生徒達が精を出す中、もちろんご多分に洩れずに軽音部の活動も精力的になってきた。それは一学期の頃とは較べようもない部活動としての姿。
 合宿も終わり、目指すべき目標もできたところで、学園祭へ向けてオリジナル曲の作成が目下の課題だった。
 二週間(土日休み)もの間、根を詰めて練習した成果は上々。

 とは問屋がおろさねえのが、この部活。


「アイスティーが飲みたひ……」
 くっつけ合った机、ちょうど夏音の向かい側へ座っていた、もといしがみついていた唯が蚊の鳴いたようなか細い声を出した。さっきより三割増しで溶けている。
「ごめんね。氷を持ってこようと思ったんだけど、うっかり忘れちゃって……」
 かいがいしくお茶を淹れているムギが心から申し訳なさそうに詫びた。軽音部にそんな彼女を責めようとする者はいない。唯はかろうじて片手をあげるとひらひらと振って再びぱたりと力無く下ろした。
 気にするな、と言いたいのだがそれだけの言葉を発する気力も失せている。もう少しで溶けて無くなりそうである。
 窓は全開。空気の通りをよくするために扉を開けているものの、風通りは芳しくない。まさに蒸し風呂状態の部室であった。心ばかり、とつけた風鈴の音が虚しく響く。
 唯の言う通り、冷たい飲み物を欲していたが文句は言えない。ムギの用意する紅茶の味は最高で、夏摘みの茶の芳しい匂いはその茶葉が上等なものだと知ることができる。蒸らし加減もしっかり心得ているムギが演出するティータイムは文句のつけどころがなかった。
 しかし暑いものは暑いのだ。
「こんなに暑いんじゃ、機材も長時間使えないな」
 夏音はアンプヘッドを触って「アウッ!!」と外国人っぽい反応を見せた。彼も今年の猛暑には文句の一つや二つ言いたいところであった。天気予報では、今年の夏は猛暑を通り越して酷暑。どうでも良いが、ビールがよく売れるらしい。夏音は飲めないし飲みたいとも思わなかったが、何となくCMに出てくる俳優がごくごくと美味しそうに黄金の液体を飲み干す様子はそそるものがある。冷蔵庫にしまいっぱなしの父親のビールを開けてしまおうかと画策中だったりした。
「プールでも行こうよー」
 唯が相変わらずの姿勢でそう言うと、長い髪を持ちあげて首元に風を送っていた澪が手を止めた。
「プールなら先週も行ったばかりだろ。毎日こうなんだから我慢するしかないだろ」
 そして、再び手を動かす。手に持つ団扇は先々週の夏祭りで手に入れたものだ。
「それにしても連日こうだと流石にまいるな……」 
 暑いもんは暑いと、いつになく覇気のない声を出す澪も連日続くこの天気には弱っているようだ。
 練習どころではない。西海岸育ちの夏音も日本の湿気を伴う暑さだけは慣れる事ができない。暑さに強いと思っていた夏音でもへばりかけるのだ。誰も彼もがへとへとだった。このまま駄弁っていても何も実にならないので、そろそろ帰ろうかなと誰もが考えていたところ。
「ね、たまには外のスタジオでやってみないか? クーラー完備のさ!」
 そう言って袖を限界までまくり、生足を惜しげもなく晒しているのはこの部の部長。仮にも男の前でそれはどうだろうと夏音は思った。いまさらだが。
「外のスタジオか……それ、いいかもな!」
 澪はクーラー完備、スタジオ、と聞いて夏音の方をちらりと見たが律の提案に賛成した。
「外のすたじお~?」
 唯はそんなものあるのー、と机に向って呟いた。
「あぁ、スタジオにはクーラーがついているし機材だって…………まぁ、ここに揃っているのよりは劣るかもだけどさ」
 そういえば、いつの間にか高級機材に囲まれていることを思い出した律であった。一人の男による仕業である。
「それにたまには環境を変えてやるのもいいんじゃないか。すごく集中できるかもしれないし」
 すでに澪も外のスタジオへ行くことについて乗り気になっており、今にでも行こう! とそわそわしている。律にしては良いこと言った! と顔に書いてある。
「私、外のスタジオって行ってみたい!」
 実は、この暑さの中ただ一人顔色すら変えていないムギもキラキラとした表情で手を叩いた。
「涼しいとこならどこでもいいよ~」
 賛成に一票追加。澪はちらりと夏音の方を向いたが、「俺はどっちでもいいよ」と肩をすくめたのを見て立ちあがった。
「じゃ、決まりだな!」
 決まったと同時に機材をさっさと片付けて部室を出た軽音部一同は、カマドのように熱気が渦巻く校舎から逃げるように飛び出した。太陽から身を遮ってくれる物がない校門前で立ち止まり、律に注目が集まった。
「行くといっても、どこに?」
 今回の発言の責任者である律に質問が飛ぶが、彼女はまぁまぁまぁと余裕の笑みで携帯を取り出してどこかに電話をかけた。
「あ、もしもしー。今からすぐで空いてますかー? あーー、二時間くらいで、五人です。ハイハイ、田井中です。番号は090-××××-○○○○」
 皆、しんとなって通話をする律の様子を見守った。通話中も、自信に満ちた様子の律は最後に「とくにないです」と答えてから電話を切った。
「どこに電話したの?」
 達成感に満ちた表情の律に、ムギが首をかしげた。
「ふふーん。私の行きつけのス・タ・ジ・オさ!」
「行きつけ!?」
 ムギが瞠目して、口を押さえる。
「律っちゃんて、すごいのね!」
 その一言にさらに気をよくしたのか、律はさっさと先を行ってしまう。一度振り向いてから、きらりと歯が輝く。
「ついてきな!!」
 あくまで常識派と自負している夏音と澪は顔を合わせ、怪訝な表情を確認しあった。
「行きつけ……?」
「まぁ、律だから……付き合ってやってちょうだい」
 大人しく着いて行く一行。学校から歩いて三十分ほど歩き、大通りに一度出た。そこから、街の中心部に向かってしばらく歩いた。国道を道なりに歩いて数分すると、雑居ビルがひしめき合う場所に差し掛かった。ごちゃごちゃとしたビルの隙間を縫うように歩いたところで律は立ち止まる。

「つ、着いたぞ……」

 呟かれた一言はいっそう重々しく聞こえた。先ほどのテンションはどこ吹く風、今や汗だくになって元気を失っていた。
「さっきの元気はどこいった」
 そんな律に一言つっこんでおいた夏音は、一見ただの雑居ビルの一つとしか見えない建物を見上げた。いや、どう見てもただの雑居ビルだろう。
「そこの入口から降りて地下に行くんだー」
 むりやり足を交互に出して歩いている、といった様子の律はビルの横にぽつんと構える昇降口に進んでいった。
 スタジオというからには、防音機能がしっかりしていないとならない。このように周りにテナントが集まる場所にスタジオを構えるには、地下というのは都合が良いのだろう。
 店の看板らしきものには【ONE OF THE NIGHTS】とある。
 夏音はもしかして、イーグルスの「ONE OF THESE NIGHTS」とかけているのかと思った。イーグルス直球世代のオーナーの顔が何となく思い浮かばれる。

 階段を降り始めるとすぐ、ライブハウス独特のヤニ臭さが鼻につく。階段の途中には、壁一面を埋め尽くすようにありとあらゆるポスターが貼ってあった。どこのバンドの企画ライブ、フライヤー、落書きを通り過ぎると広いスペースに出た。
 正面に受付がぽつんとあり、貸し出し用のコーナーにギターやベース、シールドなどがかけられてある。この広めにつくられているスペースは待合スペースとなっているらしく、ベンチやソファーがテーブルを挟んで並んでいた。自動販売機も三つも用意しているあたり、客入りは良い方なのだろう。
 制服姿で現れた集団に気が付いた受付の男が「おはようございます」と頭を下げてきた。
「おはよう?」
「挨拶されちゃったよ!」
「返した方がいいのかしら?」
「そだね。おはようございます!」
 スタジオ初心者の二人組が微笑ましいやり取りを繰り広げる中、律が受付に歩み寄り、「予約していた田井中ですけどー」と言って受付カウンターに寄りかかった。何となく馴れ馴れしい。本当に常連なのかもしれない、と夏音は思った。
 その堂々とした様に、ほぅーという感嘆の声が背後からあがる。常連っぽさにハクが上がる訳でもなし。早くスタジオに入りたいと夏音は思った。
「はい、先ほどお電話いただいた田井中さま、でお間違いないですか? 当店のご利用は初めてでしょうか?」
「や、やだなー! 私ですよ、私! いつも使ってるでしょ?」
「あ……そうでしたっけ、すんません」
 店員の男は明らかに怪訝な表情をしたが、すぐにどうでもよさそうに律の主張に合わせた。
「お時間まで少しありますけど、もう入っても大丈夫です。Kスタでーす」
 それだけ言うと、店員は下を向いて何かの作業に戻ってしまう。律はそのまま振り向かない。自分の背中に受ける幾つもの視線に律はすっかり振り向けるはずがなかった。
「ねえ、こっち剥きなよ」
 夏音の慈愛に満ちた声が律の背中にぶつかった。
「あれは、その…………普段は別の人が、ねえ」
「皆まで言わなくていいよ」
「私ってあんまり濃い顔じゃないから」
「うんうん」
「ほ、ほんとに何回か入ったことあるんだぞ!?」
「うん、わかってる」
「あれは、私がまだドラムセット買えないころに……」
「律……」
 耐えかねた夏音は、ぽんと律の肩に手を優しく乗せた。
「夏音……?」
 目を開いて振り向いた律。爽やかな笑顔で夏音は口を開いた。
「死ぬ程どーでもいいや」
 日本刀の鋭さで斬りつけた。
「あいつ……鬼だな」
 後ろに控えていた三人は、律が不憫になってほんのり涙を目にためたとか。いないとか。


 気を取り直した一同は、奥の扉をくぐってスタジオがいくつも並ぶ廊下に出た。入ってすぐの案内板を見て、Kスタジオの場所を確認した。
「お、ここだね」
 少し進んだところで廊下が二又になっており、さらに進んだところで、鉤状に伸びた角の先にKスタジオはあった。夏音は厚い防音の扉を開けて中に入り、手探りで電気を点けた。
 スタジオ内の広さは学校の教室の四分の一といったところで、各アンプからドラムセット、スピーカー、ミキサー、マイクスタンドにマイク……あと、壁の一面に巨大な鏡までがそろっていた。
 暑がりの面々によってさっそくエアコンのスイッチがオンにされる。
「うわぁー、これがスタジオっ!!」
 ひょこんと中に突入してきた唯が室内を見回して感動の声をあげる。まず巨大な鏡を見てテンションがあがるのを見て、それもどうだろうと苦笑する夏音は早々に機材を下ろした。
「なんかテンションあがるだろ?」
ドラムの椅子に腰かけた律が言う。
「私も昔、今のドラムセット買う前にたまに来てたんだよ。当時はスティックしか買えなかったし、本物のドラムを叩きたい! って思ったからなー」
「なるほどね。あながち本当のことだったんだね」
 夏音は素直に感心したように笑った。この部長にもそんなしおらしい一面があったのだ。
 機材を確認すると、ギターアンプにはマーシャルのJCM900-4100の二段積みとローランドのJC-120、通称・ジャズコ。さらに奥にはピーヴィーの5150もあった。さらにベースアンプにはアンペグのSVT-4PRO。ドラムはパールのMASTERS PREMIUMであったが。何故かシンバルの一つがTAMA。
 傍では、澪は初めて使うアンプに「コレ、コレコレ使ってみたかったんだー!!」と声をあげていた。そうか、嬉しいんだねと微笑ましくなった。
「あら、キーボードアンプはどこかしら……?」
 ムギがきょろきょろと自分の楽器に対応したアンプがないことに戸惑っていた。
「あぁー、コレ使いなよ」
 夏音は、ジャズコを指さして言った。
「え、でもコレってギターのアンプじゃないの?」
「ううん、キーボードでも使えるんだよ。プロでも使っちゃう人はいるよ」
「へー! 初めて知ったー」
 夏音は、唯にマーシャルを使うように言ってからセッティングを始めた。自分の機材のセッティングがひとまず終わってからは、マイクをいじって音量を調節させた。
 未だにドラムの各配置を細かく決めている律の方を見る。ドラムを叩く上でも、自分のセッティングというものは存在する。むしろ、かなり重要である。ハイハットの高さ、シンバルの角度、距離。同じくタムの角度。
 たいていのドラマーは、自分のセッティングをきちんと持っている。こだわりにこだわる者が多くを占めている理由もいくつかある。特にプロで活躍するドラマーにとっては、それが重大にかかわってくる。いちいち手元を見ながら叩くわけにもいかず、普段の練習で慣れている距離感などで感覚的に叩いている分があるのだ。極端に言えば、セッティングが1センチでもずれていれば、怪我などにもつながることがある。
 もちろん、見た目も大事。 だから夏音は律のセッティングが遅れても文句を言わない。
 早くドラムをくれないと音をくれ、と思っても言わない。そんなドラマーたちの中でも律は存外こだわり派だったのだから。
(悩め悩めー若人よ)
 夏音は、そっと呟いた。もちろん心の中で。やっと金属を叩く音が連続して鳴った。
 バンド初心者が多いこの軽音部で、夏音は音作り、それもバンドとしての音作りの重要性と奥深さを何度も説いている。それはもうしつこいくらいに。
 個人で弾いている時だと、その楽器単体だけが鳴っているのでどこをどう弾いても音は聴こえる。それに、各々の音の好みもアンプのイコライザーをいじって自由にできる。
 しかし、バンドだと互いに違う音を抱える。上から下までの広い帯域が存在することになる。例えば、一番上の帯域がシンバル類かスネアとくる。それからおおざっぱに上からギター、ベースとなる。バスドラとベースの音をかぶらせないようにする事が重要だ。
 とはいっても、それらの楽器も同じ帯域を共有することになる。ぶつかり合って、それで互いの音を埋もれさせてしまうこともある。逆にそのマスキングを良い感じに使うことができれば音作りを分かってきた証拠でもある。
 特にこのバンドはギターが二人いる。唯がハムバッカーというピックアップを搭載しているギターなので、サウンドのキャラクタを分かりやすく分けるために夏音はシングルコイル搭載のストラトキャスターを選んだ。
 このようにして、二つのギターの音色にも区別をつけたりすることも一つの手である。特に、自分がベース弾きゆえにベースにこだわりがある夏音は、バンドにおけるベースの音作りは一番奥が深いと考えている。だから、澪に対しては若干厳しく構えることも多い。
 そういうこともすべて把握した上で、実力のある者は自分の個性を出していくのだ。
 音をぶつけ合うことも計算の内ならばよい。状況によってあえて抜けない感じにする場合もある。奥が深過ぎて、これを言葉で教えるのは困難であるのだが。
 音作りに時間をかけて、ある程度整ったところで夏音は手を掲げて注目を集めた。
「なら、決まったところまで通してみよう」
「ワン、トゥ、ワンットゥスリーフォー!!!」


 曲の構成としては、イントロ→Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロとくるのは別におかしくない。少し面白い展開を入れるのも一興だとも思う。今、そこに悩んでいるところであった。
「メロディーも単純だから、同じのが何回も続くなら短く終えていいと思う。二つ目のブリッジを終えたところでCメロ? 的なものでも入れたらどうだろう? もしくは転調を工夫するとか」
「でも、もう少し単純でもいいと思うんだけどな。お前のギターソロでいいんじゃないか?」
 このように曲に対する意見が練習の合間に出てくる。お互いの意見は頭ごなしに否定する事はしないで、とりあえず実践してみる。それでいまいちだったら別の案。というように曲作りは進んでいった。中でも曲の骨子を造ったムギに意見を問うてみると、それぞれの見せ場があると良いかも、だそうだ。
「それぞれの見せ場ねぇ。ソロ回しでもするか?」
「それでも一小節か、長くて二小節程度かな。ぐだぐだやるのには適さない」


 このように次々へと曲が変わっていくのは面白い。こういう作業こそ軽音部らしくなってきたではないか、と皆目を輝かせながら意見をぶつけ合っている。皆……一人おかしいのがいた。
「おい、唯。何か死にそうなんだけどどうしたの?」
 一度演奏を通した時から何だかおかしかった。音に覇気がないというか、切れが悪いというか。今は個々の演奏より曲自体をどうにかしないとならないと思って、あえて夏音は注意しなかったのだが。明らかに様子がおかしい。自らの身体を抱きかかえるようにしてぶるぶると震えているのだ。軽くヤバイ病気の人だ。もしくはゾンビに噛まれて豹変する前の人だ、と思った夏音は慌てて唯に近寄って肩を掴んだ。
「お、おい平気か唯っ!?」
「……ムイ」
「なんだって?」
「しゃ、しゃむい……わだし……エアコン苦手だったんでした……」
 それだけ言うと唯はへたり込んだ。床にギターのボディが当たり、ノイズが漏れる。
「そんなんどうすればいいんだよ!?」
 唯の面倒臭いパラメータが3上がった。

 暑いのは嫌なの、かといってエアコンも嫌なの。とのたまった唯はとりあえずスタジオから追い出された。何でも人工の風に当たっているとだんだん皮膚が粟だって身体が弱ってくるそうだ。そうなるとクリプトナイトをぶっさされたスーパーマンのごとくダメになってしまう。それでも団扇などは可、という良く分からない基準が彼女の中に存在しているらしく。夏は毎回それで乗り切るという。
 超面倒くせぇ、と誰もが思った。どうすれうべきかと悩んだところで、エアコンで既に冷えている室内に後から入る分には問題ないそうだ。仕方がないので、冷房でキンキンに冷やした状態で唯を再びスタジオに入れることになった。結局、ダメージを喰らったのは唯以外の全員だった。
 そんな風にトラブルもあったが、環境が変わったことで軽音部一同の集中力は格段に上がった。スタジオという狭い空間の中で大きな音を出すので、それによる解放感のようなものもあるのだろう。絶対ある。爆音で楽器を鳴らすのは大変気持ちの良いことである。耳がおかしくなる程の爆音で全員がハイになっていた。
 二時間で予約していた時間はあっという間に過ぎ、気が付けば終了時刻に迫ってしまった。
「あ、もうこんな時間かっ!」
 律がスタジオの時計を見て、驚いた声を出す。
「早く片付けなきゃっ! 五分前には片づけを終わっているのが礼儀だ!」
 その言葉を聞いた面々は、すぐに片づけを始めた。夏音は右手の一振りでツマミをすべて0にして、急いで機材をを片づけた。
 時間ギリギリでスタジオを飛び出た五人は、ささっと受付で会計をすませて外に出た。

「ぷはぁーーっ! なんか空気がおいしいなー!」
 スタジオを出て間もなく、律が大きく伸びをした。
「たしかに……たばこ臭かったしな」
 女の子たちはおタバコの臭いに敏感だった。
「でもスタジオは涼しかったし、音もいつもと違った感じだったよね。楽しかったー」
 唯がにこやかにそう言って律の方を向いた。その場にいた全員が涼しかったのはお前だけで自分達はむしろ寒かった、という言葉を飲み込む。
 おそらくエアコンが必要な季節の利用はこいつには向かない、と思いながらも律は得意気に頷いた。
「そうだな。今日は律にしてはまっとうな提案だったと思う」
「カチーン」
 上から目線の澪が腕を組んでうんうん頷くのを見て、律がえらく表情を引き攣らせた。こそこそと澪に何か耳打ちをしたと思うと、「イヤァァァァ」と耳を押さえてしゃがみこむ澪。
 いつものことだ。夏音はもう何も気にしない。
「それにしても二時間集中したせいかお腹すいたなー」
 夏音が切実に腹を押さえながら言うと、律がすかさず反応した。
「おっ、このままどこか飯食いに行くっ!?」
「わーい、ゴゴスいこーゴゴスー!!」
「でもお夕食には早いかしらね?」
「でも、お金がちょっと……」
「パフェくらいならおごってもいいケド」
「お供いたします」
「おい澪、今ダイエットしてるんじゃ……」
「あ、いや、でも、しかし!」
 仲良し軽音部、学園祭まであと少し。



「今日は俺が一番乗りかー」
 軽音部の部室には、夏音一人。荷物を置いてソファでぼーっとしていると誰かが扉をノックしてくる。
「はーいどうぞー」
 夏音が返事をすると、入ってきたのは吹奏楽部の顧問・軽音部とも縁ある山中さわ子教諭であった。
「ごめんねー、譜面台借りていくわねー……ってこれまたずいぶん機材増えたわねー」
 たまに部室を訪れる時にお茶をしていてもスルーな彼女だったが、久々に来た部室の様変わり具合が流石に目に止まったらしい。呆然と部室を見回すが、呆れているというより、どうやら興味津々で食い入るようにギターアンプを見詰めているような気がした。
「これ、え……うそ……何でこんなヴィンテージが……!?」
 わなわなと震えながら、慄くさわ子。
「え、先生わかるんですか?」
 夏音は若干目を大きくして、訊いてみた。
「え? あ、いや……何もわからないわよ!? 何一つ! なんか冷蔵庫みたいねこの機械……って、これも……渋い」
「…………」
「私は何も言っていないわね?」
「…………」
「し、失礼しましたっ!!」
 夏音が返しあぐねていると、さわ子は逃げるように部室を出て行った。今のは何だったのだろう、と首をかしげた夏音と大量の疑問符だけが部室に取り残された。

 

「部として認められていないだって!?」
 本日の部活は、そんな衝撃的な発表から始まった。部室であははうふふと殺気立ちながらインディアンポーカーで戯れていた律、澪、夏音の三名(敗者は労働奉仕)は遅れて部活へやってきた唯とムギが揃って持ってきた獲れたて衝撃情報にぶったまげた。
「ていうか……」
 皆、夏音の言動の先に注目した。
「部として認められていないのに、部室をこんなに好き放題にしちゃってよかったのかな……フホーセンキョってやつじゃないか?」
「ふ、不法……」
 何かよからぬ想像をしたのか、澪が怯え始める。夏休みが終了し、九月に入った現在の音楽準備室こと軽音部部室。
 もし四月の時点の部室風景を収めた写真と、現在のものとを見比べたとしたら、衝撃のビフォーアフターに誰もが仰天することだろう。
 戸棚に収納されたティーセット(高級)。部室の中央にでんと居座る冷蔵庫ほどの高さのベーアン含めたアンプ類(全アンプ合計で6つ)。ミキサーやスピーカーまで揃っている素敵な小スタジオと化している。
 それに加えて、本来なら授業で使うこともあるのだろうホワイトボードは軽音部員によってあまねくホワイトの部分を埋め尽くされている。主に落書き、落書き、謎のチラシなど。要するに、あらゆる私物で埋め尽くされた軽音部の部室は、部であるからこそ教師たちの海より深い寛容の精神によって看過されてきたのである。
 主犯各である二名の男女は落ち着き払っていたのにも関わらず、他の三人は狼狽しきってぎゃーぎゃー騒いでいる。
「ムギ、とりあえずお茶飲みたいよ」
「はぁい、ちょっと待っててね」
 爽やかにそんな会話を交わす主犯各のお二人。この二人のまわりにだけさらっとした風がそよいで見える。
「部員が五人集まったら大丈夫じゃなかったのか!?」
「そのはずなんだけどなー」
「おかしいねー」
 肩を寄せ合い、真剣に話し合う三人。
「あー、美味しい。今日はアッサム? スコーンにあうね」
「ええ、ジャムも四種類あるのよ」
 素敵なティータイムに勤しむ二人。
 同じ部室なのに、まるで空間が隔絶されているように別世界を作り上げていた。
「って、ソコこら! もっと真剣に考えろよ! 部の廃退の危機だぞ!?」
 スルーしきれなかった優雅な空間を作っていた夏音とムギに律がキレた。
「部の……っていっても、部じゃないんでしょ?」
 紅茶を片手に足を組んだ状態で振り返った夏音は、ガンを飛ばしてきた律に、その青い瞳に力を込めて律を見詰め返した。
「それは……そうですけども……」
「負けるの早いな」
 一瞬で勝負に敗れた幼馴染にため息をついた澪だったが、きっと眉をひきしめて夏音に詰め寄った。
「これだけ練習頑張っているのに、学園祭に出られなくなるんだぞ?」
コトリ、と置かれる白磁のティーカップ。
「More haste, less speed」
「な、なに?」
「急ぐならば、落ち着けってことだよ。まぁまぁ焦ったらいいことはないさ。とりあえずお茶、でしょ?」
 軽音部の基本は「とりあえず、お茶」である。何があっても部室に来ても寝ても覚めてもお茶に始まりお茶に終わる精神を持つ者すなわち軽音部なり。
 その軽音部の心得をこの五か月程で培ってきた(不本意)一同は、その言葉によってはっとして自分を取り戻した。
 三十分後。ムギの持ってきたお菓子をこの世から胃の中へ押し込んだ者たちは、落ち着いた心持ちで話し合った。
「それより、どういう理由なのか聞きにいかないとな~」
 先ほどまでの肩の力をどこへ消し去ったのか、軟体動物予備軍と化したぐにゃぐにゃ律は緊張感もなしにそんな提案をした。
「そりゃ、落ち着き過ぎだ」
 流石の夏音もしっかりツッコまざるをえない。


 その理由とやらを聞きにはるばる生徒会室まで向かうことにした一同。
「殴り込みじゃー」
「討ち入りじゃー」
 と生徒会室へと近づくにつれ、そんな単語を連呼する夏音と律。時の赤穂浪士に失礼である。
 彼らは完全に悪ノリの生き物である。主食は悪ノリ。ある教室の前で止まる。プレートには【生徒会室】と書かれてある。
 前線の二人は顔を合わせ、うなずく。
「たのもーーー!!!」
「イェー、ファッキンジャ○プ!!」
 ドアノブをまわした律、すかさず扉を蹴破った夏音の二名は、入った瞬間に突き刺さったいくつもの視線に凍りついた。
 皺一つない制服をぴちっと着こなす優等生の集団・生徒会。彼らは、和を乱す存在が嫌いというきらいがある。何かの分厚い資料を広げて、迷惑な存在を見る「ような」視線で貫いてくる。くいっとメガネを上げる人間ばかりだ。
「あ、会議中でしたか……」
「こいつぁ、失礼!」
 こてんと頭を打つ小芝居をいれておどけるが、場の空気は氷点下まで下がりつつあった。
「あれ、和ちゃん?」
 前線に立ちながら、もじもじとうつむいていた夏音たちの背後から声を発したのは唯。あれ、と顔をあげるとしっかりと会議の司会進行を務めていた人物に気が付いた。
「あら、唯?」
 アンダーリムの珍しい眼鏡をかけるその少女は、唯の幼馴染である真鍋和その人であった。
「へぇー、和ちゃんがここに!?」
「何でって、生徒会だからだけど?」
 唯の親友が生徒会だったなど、聞いていない。夏音は唯を軽く睨んだが、全く悪びれた様子がない唯は「知らなかったー」と暢気だ。
「とりあえず、会議が終わってからまた来てくれるかしら?」
 大人しく追ン出された。

 廊下でしばらく待っていると、幾つもの椅子が引かれる音がしてから、生徒がぞろぞろと生徒会室から出てきた。先ほどの闖入者たちをしっかりと睨んで行く者もいた。退出する生徒の波が途切れると、夏音たちは生徒会室へ再び入室して用件を話した。
「うーん、やっぱりリストにはないわねー」
 和は各部活動のリストを広げて確認してくれたが、どうしても軽音部の名前は見当たらないそうだ。つまり、これで軽音部が部活動として認められていないことが間違いないということになる。
「もしかして……」
 律が顎に手をあてて緊張した声を出す。夏音はまた阿呆な発言が飛び出すに違いないと全力スルーの構えをとった。今は省エネの時代。
「何か心あたりが?」
 だが、しっかりと乗っかる者もいた。唯だ。誰か乗っかってくれてよかったと内心安堵した律は、一度強く頷いてから和を鋭く見つめた。
「弱小部を廃部に追い込むための生徒会の陰謀!!」
(ほーら、やっぱり)
 それも、恐ろしくとんでもない阿呆な発言であった。ハハハ、と乾いた笑みを浮かべた夏音であったが、まさか本気でそれを信じようとする者がいるとは夢にも思わない。
「和ちゃんは本当は心のきれいな子! 目を覚まして!」
 ここにいた。
「何の話? ていうか部活申請用紙が提出されていないんじゃないの?」
 唯のこのような調子にも慣れっこなのか、和はさらっと流して事の原因を推察した。
「部活申請用紙?」
 聞きなれない単語に首を傾げてムギが反芻する。
「な、何だそりゃー。そんな話は聞いてないぞーっ!!」
 あくまで我に正義アリ、と言い放つ律であった。しかし、たらりと一筋の汗が額を流れた。
「田井中、うしろーっ!!」


 結局、和がその場で部活申請用紙を埋めてくれることになった。それで判子さえ押せば、晴れて軽音部も部活動の仲間入りである。
 すらすらと和のペンによって空欄が埋まっていく。軽音部の面々が息を呑んでそれを見守っていると、ふと彼女のペンが止まった。恐ろしい台詞が待っている予感がした。
「で、顧問は?」
「コモン?」
「Common?」
 何故、初めからそこに疑問が行き着かなかったのか。答えは簡単。全員、基本的に非常識の集まり。それが軽音部。


 件の顧問問題について即座に緊急会議が開かれた。開始数秒で山中さわ子教諭に頼むのが良いのではないか、という意見が出た。
 彼女は音楽教師であり、吹奏楽部の顧問を担っている。
 容姿もさることながら、その物腰の良さで生徒から圧倒的人気を誇っている美人教師というオプション付き。数か月前、夏音がベーシストだということを一発で見抜いた慧眼の持ち主でもあった。
 先日のこともあり、夏音もなんだかこの先生が適任である気がしてきた。アテが無くもないし、上手くいきそうな気しかしないのだ。


「ごめんなさい。なってあげたいのはヤマヤマだけど……私、吹奏楽部の顧問をやっているから、掛けもちはちょっと……」
ショックが皆を叩きのめす。私、付き合っている彼氏がいるからちょっと……と言われたようなものである。
「そんなぁ」
「本当、ごめんなさいね」
 そう言ってさわ子は心から申し訳なさそうに目を伏せた。 
「お時間はとらせません!」
「練習なら、自分たちでちゃんとしますから!」
「山中先生の損にはならないはずです!」
「ここに名前書いて、判子押すだけ! ね、簡単でしょ!?」
 どこの悪徳商法だとばかりに口先八丁で押す軽音部の面々だったが、相手は苦笑するばかり。
 こうなったら。
(奥の手だ……)
 一瞬だけ視線を交差させる。
(やるよ!)
 唯がさわ子の顔をじっと覗き込んでにんまり微笑む。
「な、なぁに?」
「先生、ここの卒業生ですよね?」
 できるだけ無邪気に。無垢な生徒の純粋な疑問を装うように唯をこの係に選んだのだ。上手くやれ、と皆の心が一つになった。
「え、えぇ」
「さっき、昔の軽音部のアルバム見てたんですけど……」
 その瞬間、びくっと体が跳ねたさわ子。
「あ、アルバムはどこにあるの?」
「部室ですけど?」
「そう……」
 ふらふらと後ろを向いたさわ子。その反応に夏音はにやっとした。ここで夏音は自分たちの予想が外れていなかったことを確信する。
「あれ、先生どうしたんですか?」
 唯がそう尋ねた瞬間、さわ子の体が深く沈んだ。それは、まるでチーターが獲物へ襲い掛かる瞬間に体を沈める予備動作のごとく。
 その体が跳ね上がると、瞬く間にさわ子の姿は廊下の遥か先へ消えていった。
「イエス!!」
 夏音はガッツポーズをしてから、急いで彼女の後を追った。
「イエス言うけど、先生めっちゃ速いぞ!?」
「問題ない!」
「うおっ! お前も足速いな!?」
 速度を増し、廊下を全力疾走する夏音は軽音部の部室へと向かった。スカートという事もあって、全力で走れない女子を置いて夏音は突っ走った。これでも一時期パシリとしてならしていた身である。一介の音楽教師に遅れをとる夏音ではない。「フハハハハー」と相手を追い詰める高揚感に高笑いしながら走り続けた。
 後を追ってきた四人が部室へ辿り着く時には、薄暗い部室の中央で膝を着いて固まるさわ子と、その背後には両腕を膝について荒い息をして笑む夏音の姿があった。ニヒルな笑いを浮かべようと必死だが、割と全力疾走が堪えたらしく余裕がなかった。
「やっぱりアレは先生なんですね」
 蒼褪めた顔でゆっくりとこちらを振り返るさわ子。その答えは聞かずとも、明白であった。
 

 夏音達は、先ほど部室にて昔の軽音部のアルバムを覗いていた。いわゆる軽音部の黒歴史というアイテムを見つけたのだと思ったのだ。
 嬉々としてアルバムをめくり、軽音部のOBが本当にメタルの住人だったんだと大いに笑ったところで、ふとアルバムの中の写真に既視感を覚えた。
 長い髪を振り乱して観客をこき下ろしている女性。フライングVを又に挟んで狂ったようにタッピングをする姿。
 極めつけには、その人物のスナップ写真。
「この人ってどこかで見たような……」
 という唯の一言から始まり「あ、やっぱ似てるよねー?」と夏音が頷き、もしや……と話が膨らんだ。
 冗談半分で盛り上がっていただけなのだが、それはやがて確信めいたものへと変わり…………今回の計画につながったのである。

「山中先生、あなたはかつて軽音部員だったんですね!!」
 びしっと指を突きつけた律。どこぞの探偵さながらのキレである。息が切れ切れの夏音から体よくその役を奪った律は活き活きとしている。
「よくわかったわね……そうよ、私……軽音部にいたの」
 あっさり自供したさわ子。肩を落とし、乙女座りでうなだれた彼女は「あぁ……あれはうら若き高校時代のこと……」語り出した。
 それから一同は彼女の重く、悲しい過去を知ることになる。自分でうら若きって言ったらダメだろうというツッコミはなかった。

 省略。おおざっぱにまとめると。
 当時、軽音部に所属していた山中さわ子。勉強は中の上、読書と音楽を愛するモラトリアムまっただ中の文化系少女だった。ただ、モラトリアム少女侮るべからず。当時、彼女が片思いをしていた彼がワイルドな女性が好みだと聞くや否や、さわ子は今までのアコースティック路線を瞬時に投げ捨ててしまう。あれが若さ、という勢いだと彼女は語った。
 それから、どんどんメタルの奥地へと足を踏み込んで止まらなくなった日々。ラウドネスを信仰する事から始まり、海外メタルに触手を伸ばしていく毎日。スィープ? タッピング? 電ドリとは何ぞや? と純真そのものだった少女の姿はそこにはもうなかった。
 最終的に、もちろんそんな彼女にどん引きした彼にはフラれてしまうのだった。めでたし。
 なんとも痛快なストーリーだったな、と夏音は話が終わった瞬間に惜しみない拍手を送りそうになった。寸で察した澪に止められた。日本人は空気を読めないといけないそうだ。

 自分の人生の恥部を生徒に曝け出した山中先生は、うっすら涙目だ。
 そんな時に唯が「じゃぁ、今もギター弾けるんですか?」とギターを渡したものだから、山中先生のソロリサイタルが始まってしまった。
 超絶的なテクニック、と表するにはとうが立っている気もしたが、彼女は確かな技術を持っていた。あのテープのリードギターをやっていた人物というのも納得できる程のレベル。
 早弾き、タッピング、歯ギター。普段あまり生でお目にかかれないピロピロサウンドに女子高生は興奮しっぱなしだった。夏音はと言うと、歯ギターをガチでやる人を見て、どん引いた。
 ギターを弾くと昔の荒々しさが出てしまうのだろう。よくある話だが、すっかり気が大きくなった彼女はそのままの勢いで軽音部一同をぎょろっと睨んだ。
「お前ら音楽室好きに使いすぎなんだよーーーー!!!!」
 軽音部一同は、そのあまりの気魄に両腕をついた。脳髄を介さない行動だった。
しかし、土下座という行為が脳みそにプリセットされていない夏音は腕を組んでふんぞり返っていた。
 にこやかと。
 一斉に自分に向かって頭を下げる生徒の姿に正気になったさわ子はおろおろと崩れ落ちた。
「やってしまったわ……」
 ヨヨヨと泣き崩れる先生に向かって夏音は歩き出した。その震える肩を抱き、優しく先生を見つめる。
「立花くん……」
 夏音は潤んだ瞳で見つめてくる山中先生にざっくり一言。
「バラされたくなかったら、顧問やってください」
「あいつ、やっぱり悪魔だな」
 企画・進行・結末までも一挙に成功させた彼についてそう評価するとともに、また彼の一撃をくらった不憫な山中先生を偲んで涙を流したとか。流していないとか。



「こんな感じのオリジナルなんですけど」
 「快く」顧問の件を引き受けてくれる事になったさわ子に今作っているオリジナルの曲を聴いてもらうことになった。相変わらず唯のリズムのヨレ具合や、中盤に入るフィルからテンポアップする律のドラムは一向に直らないだけでなく、他のメンバーの演奏面に不満だらけであった。
「顧問として、どう思います?」
 ベンチに腰掛け、じっと演奏を聴いていたさわ子先生がゆっくり口を開く。
「そうねー。『顧問』として、言わせてもらうわ。各自の演奏技術については他として、特に言うことはないかしら」
「いやー、顧問としてのご意見ありがとうございます!」
「いえいえー顧問として当然よー? ただ、ひとつだけね。歌はないの?」

 沈黙が何秒かその場を包む。パシン、と音がして夏音が自分の額を叩いていた。

「いっけないっ! まだだった!」
 舌を出して誤魔化す夏音に非難の視線が集中した。
(俺だけのせいじゃないのに……)
 夏音とて色々忙しかったのだ。曲の構成を決めてから譜割などを決めようと思っていたし、曲の全体像を掴んでから、と思っていたのだ。
「じゃぁ、まさか歌詞もまだとか?」
「まぁ、そりゃあね」
「それでよく学園祭のステージに出ようと考えたわねー」
 先生の様子が明らかに変化していく。具体的にいえば、眉がぴくぴくとし始め、眉間に血管が浮いて……。
「音楽室占領して今まで何やってたの!? ここはお茶を飲む場所じゃないのよ!?」
 本気の怒声が五人につきささった。かつての軽音部員として、桜高の学園祭で名を馳せていた先生。方向性はともかく、真剣に音楽に取り組んでいたのだろう。むしろ、現役が異常である。
「言いたいことはわかります! けど、今の演奏を聴いたでしょう?」
 怒れる獅子の前にすっと立つ夏音。一同は、恐れを知らぬ勇者の姿に固唾を呑んで見守った。
「ここにいる唯はギター初心者。数か月前までコードすら知らなかったんです。ムギにいたっては、バンド初めてだし。澪は音量にバラつきがあるし、律は相変わらずダメダメで……」
 後半、ただのダメ出し。
「それでも、演奏に関してはびしばしと練習してきました! 歌詞と歌は後からハメりゃあすむでしょう。そんなのすぐにできます! 何故なら、俺がヴォーカルやっちゃうからね!」
 理論になっていないが、何故か強引に納得しかけてしまう説得力。
「そう、それでやれるというならば……けど、これはないしょ。これだけ音楽室を好き放題にしちゃダメでしょ。私らだってここまでやってなかったっつーのに。その前に高校生の分際でなしてこんな機材揃ってんのよー!!? うらやましぃアーーーッ!!!」
「ごめん俺には手がつけられない」
 夏音、前線離脱。
「せ、先生!」
 息が荒い獣の前にムギがそろりと出る。
「ケーキ………いかがですか?」
 さわ子先生の人を殺せそうな目線がムギに向けられる。

「いただきます!!!」

 教師ですら陥落させるムギのお菓子こそ、ある意味で軽音部最大の武器かもしれない。





[26404] 第十話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/04/05 15:24

 少年は特に考え事をしていたわけではなかったが、電柱が鼻っ面ぎりぎりに迫るまで自分がまともに前を見て歩いていなかったことに気が付かなかった。うおっと小さく悲鳴を漏らし、電柱から飛び退く。少年は高くも低くもない自分の鼻の無事より、こんな間の抜けた行動を誰かに見られていないかの方が気になった。
 神経質にひょろ長い首を疑わしげに動かして、どこにも人影がないのが確認できるとほうっと安堵の息を漏らした。
(この現実世界でぼーっとしていて電柱にぶつかるなんてありえないよな)
 それは天然キャラにのみ許される失敗だ。彼は自分みたいに何のキャラも立っていない人間がそんな粗相をしたら、ただの痛い人だということくらい解っている。
 モブキャラなのだから。
 モブキャラとはなんぞや。いわゆる、漫画やアニメなどの背景キャラ。これは日々を目立たないながらも真面目に生きる日本人男子にとって悪魔のような悪口だろう。それを面と向ってではないが、風の噂にも自分がモブキャラと評されたことを知った時のどん底感は筆舌に尽くしがたい。ただ二、三度死にたくなった。この時期の男子高校生がどれだけ自らの個性に悩み、煩悶としてその他様々な思春期特有のゴニョゴニョに煩わされていることか。
 それを知ったうえでの、「なんてーか、モブキャラの一人っていうの?」とは何たる狼藉か。あまりに怒り心頭に発したので、よっぽど川原などで満腔の怒りをぶちまけようかと思った。できなかったが。それを言った張本人を見てみれば、出汁をとったら謎の油ばかりが浮かびあがってきそうな風体をしていた。それが救いだったかもしれない。
 キャラが立つとか立たないとか。
 この世の中はいつからそんな瑣末事を気にするようになってしまったのだろうかと嘆くのも飽きた。個性なんて、いくらでも個人に備わっているはずなのに、それを見極める目が備わっていない人が多いだけなのに。
 よく人のことを知りもしないでそんな評価を下せる人間は信じがたい。少年はそっと溜息をついてから、今度はしっかりと前を見据えながら再び歩きだした。
 この先、ずっと直線のまま住宅街の中を突っ切る。やや傾斜がついていて、緩い上り道となっている。
 まっすぐな道路の遥か先には陽炎が揺らいでいた。陽が出てからまだ数時間しか経っていないのに、今日も太陽は自分たちを攻めに攻める。ぼーっとしていたのは、梅雨明けから一気に増した熱気のせいだろうか。これだけ暑ければ、意識もつい曖昧になってしまう。ワイシャツの下に来ているタンクトップはさぞ絞りがいがあるだろう。
 歩きながらふと考える。少年は自分の名前が山田七海であることについて考える。
 そもそも、自分の苗字は日本国内ファミリーネームシェアナンバー1、2を争う人気がある。奇跡的にうちのクラスには自分しかいないのだけど。名前にいたっては女の子みたーいと騒ぎ出す奴が必ずいる。ところがどっこい、いざその時点で名前の持ち主の顔を眺めるや、こっそりと気まずい顔をするのが大半の反応だ。余計なお世話だ、と顔面を蹴りたくなる。
 自分でも名前負けしているな、とは思う。父親が海底二万マイルのファンだから仕方ない。七つの海を制覇してくれ? という現代にそぐわない祈りをこめたそうだ。自分で勝手に制覇してくれればいい。
 自分は、いろいろ持て余している。唯一の名前でさえも。キャラとかはどうでもいい、といったら嘘なのだけど。
 などと、暗い思考が進んだところでそれをふっきるように首を振った。
いけない。
 まるで自分がとても重たいものを抱えて生きているようだ。モブキャラが主人公みたいに。別に七海自身は自分を可哀想なんて思わないし、思わせない。
 要するに、個性がちょっとだけ表に出にくい、思春期の男の子によくある、なんてことない悩みを持て余しているだけなのだ。
 七海はまさに自分達をゆとり教育が助長した個性第一主義みたいな物の弊害を喰らっている世代だと思っている。実際には自分より上の世代がそうなのかもしれないが、その余波は確実に大きくなって自分達を直撃している。そもそも個性とは何なのか、答えてくれる大人は近くにいない。改めて言うまでもない話だからだ。誰に決められるものでもなく、押しつけられるものでもないものの正体を探っても仕方がない話だろう。わざわざ教育に出す必要はないから学校の先生も口に出さない。指導要綱にもあるらしいが、鼻にもかけていない人が多い。
 でも、確実にあるものが個性。授業中に腹が鳴っても温かい笑いを生み出す人間と、気まずげに無視される人間に分かれる事もそう。横に並ばせると身長も顔も違う。そんな当たり前のところから個性は始まっているのだろう。しかし、そんな些細な部分を個性に含んでくれない現実を知っていた。たぶん、皆が求める個性とはもっと強烈で、刺激的でとっておきのものだろう。そして自分に足りないものもそんな感じだ。
 こんな事を考えていると、ふと自分のクラスのちょうど隣に座っている人物の顔が思い浮かんだ。
 その人はまさしく個性の塊だった。外見も、中身も、すべて人が求めるものを持ち合わせていた。そういえば彼も自分みたいに女の子みたいな名前だけど、自分とは違う。彼は、彼なのに女の子みたいな名前を持った男の子でも許される容姿を持っているのだ。同じ人間だとは思えないくらい全てのパーツが違っていて、悔しさとかを感じるようなレベルじゃない。万が一にもこんな肌が欲しい、とか髪の質感がうらやましいとか思ったらアウトだ。自分が惨めになってしまう。
 七海にとっては気になるけど、遠い場所にいる同級生だ。そしてこの時の七海はこれから先、自分がどれだけ立花夏音という男と深い関わり合いになるかなんて知る由もなかった。
 

 HR前のざわめくクラスはいつもの喧噪を醸している。低血圧なのか、机に臥せっている者もいるし、一時間目の英語の予習を友人から必死に写させてもらっている者もいる。大半は自分の机になんか座っておらず、友人の席にグループで集まって姦しくおしゃべりだ。むしろ、合唱。輪唱。ソプラノからバスまで揃っている。が、低音が負けがちではある。それも不自然なことではない。このクラスひいては 学校の男女の比率は圧倒的に女子の方が大きいのだ。
 もともと女子高だったというのもあるのかもしれないが、クラスに存在する男子は女子七に対して三といった具合で、学年中の男子は入学当初などそれはもう肩身のせまい思いを味わってばかりだった。
 今はそんなことはない。もちろん男女の壁は当然厚いものと昔から相場が決まってはいるものの、この学校の女子は総体的に優しい性格の者が多い。元ではあるが、女子高に入学するのだから男子に対して距離がある人が多いのかなという偏見も今では完全に溶け切った。学校の校訓は自由自立を謳っている。お嬢様学校の気質を引き継いでいる部分が数年前まであったらしい。あった、と言われているが今もその影はひょんな所で現れることがある。
 例えば、五教科の他に選択する選択教科の中に家庭科がある。一年の時は必修だが、二年からは任意選択。先輩によると、昔風に言えば淑女たる者としての嗜みとして裁縫を習うらしいのだが、最終的にはどんな服でも作れるくらいのレベルを求められるらしい。レース縫いなんか何に使うのだろうかと先輩は零していたので、絶対に家庭科は選ばないと決めた。他にもテーブルマナーなども叩き込まれるという。
 学校としてのコンセプトがいまいち不透明だが、歴史ある学校という事で集まる生徒の質は悪くないのだ。昔から地域の住民には評判が良い。
 だから、いじめの噂は今のところ耳に入っていない。加えて男女の中は良好といっていいだろう。特に男子は、同性同士のつながりやコミュニティーは少数派の団結力を見せている。クラス内でもそうだし、別のクラスの男子も皆仲が良い。自分も、すでに一年の半分が過ぎた今となっては同性で名前を知らない者はいない。
 教室の風景に目を凝らしてみれば、ちらほらと固まって話す男子の姿がある。まぁ、結局は男も女も変わらないのかもしれない。
 現在の七海はというと、そのような輪の中に加わらずに机の上に書類とにらめっこをしていた。別にハブにされているとか、友達がいないとかではない。
ただ単に空いた時間をおしゃべりに使うのも惜しいくらいに忙しいのだ。
 去年の学級委員やなんやを決める時、自分は図らずもクラスの書記に任命されてしまった。字は綺麗な方だし、あまり書記の出番なんていうのも少ないからいいかと思って油断していたところ、ありがたいお言葉を頂戴してしまった。各クラスの書記から、生徒会の書記を選ぶのだと。
 数多いる書記の中から、最終的にくじ運の悪さから選任されてしまったのが自分というわけだ。
 生徒会の書記といっても、先輩方のしごきはとんでもなかった。何せ、男子が一人しかいない。
 今年から共学化された桜高は、当然ながら二、三年の上級生たちはすべて女子。そんな女の園もとい女の檻にぶちこまれた当然の帰結として、男手としてびしばしこき使われるハメに。
 なかなかやりがいはあるし、今は学園祭のシーズン。生徒会は目がまわる忙しさで、こうして空いた時間を、まさに間隙を縫う勢いで各クラスから提出されたクラス出展の企画書の束に目を通さねばならないのである。
 だから七海は「ああん、もうっ!」と心の中で叫びながら、血走った目でぎょろぎょろと企画書に目を通していたのだ。たまに指定年齢を敷かねばならぬ内容が出てきたり、思わず唾を吐きそうになる。ぺっ。
 流石に目が疲れてきたので作業を切り上げて、ふと時計に目をやる。あと五分でHRが始まる。トイレにでも行っておこうかと思い、席を立った。
 教室の引き戸を開けたところで、七海はあっと息をのんだ。
 海のような青にぶつかったのだ。それが錯覚だとしても、そう言い表すしかない。ガツンと視界に飛び込んでくる青が全身にがつんと衝撃を与えた。
 それは、ちょうど自分が教室を出るのと入れ違いに教室に入ろうとした人物だった。
 事もあろうに立花夏音その人だった。
 いきなり朝一番でこの顔を直視するのはつらい。それも、こんな事故みたいな形で。
 肩より伸びた真っ黒い髪は造りものみたいにしなやかで、ぱっちり二重まぶたは完璧なラインを見せつけ、そのすぐ下には透き通る蒼い瞳。どこまでも精緻に作られたフランス人形のような顔は、自分と同性なのだということを宇宙の彼方へぶっ飛ばしてしまう。
 女もうらやむ花の如く匂う美貌を有している「男の子」は、七海と同様に急に目先に現れた人間と数センチの距離を保っていることに驚いたようだ。しかし、瞠目した蒼い瞳に映る自分の方がよっぽど猿のように驚いている。
「おぉ……」
 数秒後に彼が呻く。実際に、彼は何気なく「あぁ」と呻いただけなのだが、七海の耳には「Oh...」と聞こえてしまう。
 何せ、目の前の同級生はまるで日本人には見えないのだ。
「ご、ごめんよ!」
 七海は舌をもつらせながら、何とか声を出して彼のために道を譲った。出る人優先、入る人優先。そんなものは知らない思いやりが大切。人一人分空いたスペースにそろりと体を潜り込ませた彼は、通りすがる時に七海に顔を向けた。
「ありがとう」
 微笑みの爆弾投下。羽根が舞った幻覚が見えた気がした。
(奴は……野郎だ……!!)
 七海は自分の顔がぽっと赤らんだ気がした、気のせいに違いない。横を通る時に、超良い匂いがしたとかそういうことは決して思っていない。
 けど、逃げた。七海は脱兎の如く廊下を走りぬけ、トイレへと向かった(男子のトイレは少し遠くにある)。
 そこで素早く用を済ませ、手を洗う。この学校は昨今では珍しくトイレに鏡が設置されている。
ハンカチで手を拭きながら、何気なく鏡の中の自分をじっと眺めてみた。
 頭髪に限らず、全体的に校則が超絶ユルい桜高だが、自分は中学校の時からほとんど変わらない髪型をキープしている。別にこだわりがあるわけではない、ただのスポーツ刈り。いや、実際にはスポーツ刈りよりはお洒落にキメているつもりである。その方がいいと言われ襟足を伸ばしてみたり、前髪眉毛にかかる程度だが、サイドは長めに残している。これらすべてはスポーツ刈りを基本として、派生した現在の髪型であった。
 顔は、自分では悪くないと思っている。良くも悪くも平均的。顔のパーツがどこか極端に歪んでいたりとかはなし、彫の浅い日本人らしい顔ではないだろうか。
人より瞳の色が茶色いことが密かに自慢だが、それが役に立ったことは一度もない。睫毛は奥二重のせいでしょっちゅう逆さになる困りものである。自分の体に特に不満はない。ただ、もう少し身長が欲しいな、と思うくらいである。けれど、自分の間近にあれだけ綺麗な生き物がいると本当に同じ人類かと思う。
 自信がなくなるという次元ではなく、自分と比べる気にもならない。強いて言うなら、美術品……の一種のようなものとして数えているのかもしれない。
 七海はそういえば彼と会話をしたことがないことに気が付いた。
 実はクラスの全員が、その顔や身振り手振りから彼のことを外国人そのものだと思い込んでいた時期がある。
 彼は入学式の時に担任から帰国子女だと紹介された。さらにアメリカと日本のダブルだということを知り、そんな境遇の人間が身近にいることにささやかな好奇心をくすぐられたクラスメートたちはこぞって彼に話しかけた。
 しかし、日本語はある程度できるものだと信じて声をかけると、ちぐはぐな日本語を返される。むしろ、英語を話される事が多かった。英語能力がないくせに、自尊心は何故か高い生徒たちは、自らの英語能力の低さを露呈することをおそれ、彼に話しかけないようになった。
 別に彼が嫌われた訳でもないし、むしろアイツは何か違うよ、と一目を置かれるようになった。七海は席替えの後に隣になった彼の事を特別扱いすることはなかったが、これといって積極的に関わり合いになろうともしなかった。授業は真面目に受けているし、早弁や机にうつ伏せてI Podを聴いているような素振りもなかったので、悪い人ではないんだろうなと思う程度。
 そんな彼が、途中から一部の女子たちと行動を共にすることが多くなった。どうやら彼女たちは同じ部活の仲間――軽音部だったと思う――らしい。お昼の時に一緒に弁当を広げて談笑をするもので、クラスメートも「おや?」と首を傾げるのも時間の問題だった。
 実は日本語が結構できることが判明して以来、彼はクラスの人気者に一気に君臨することになった。むしろ、マスコットだろうか。
 夏が過ぎる頃には、誰もが気軽に話しかけることができるくらいクラスに馴染んでいた。七海は生粋の天の邪鬼気質と少々の卑屈さのせいで彼と話そうとしなかった。こうなってからじゃないと声をかけられなかったと思われたくなかったからだ。
 そんな彼が先日、生徒会の会議の途中に殴り込みにきたらしい。らしい、というのも七海は用事があってその会議に出ることができなかったので人伝いに耳に挟んだだけなのだが。
 そんな突飛な行動をとる人間なんだな、と意外に思った。この時までは、まだその程度の認識だった。
 彼が放課後、再び生徒会室へ訪れるまでは。
  

「失礼します」
 数回のノックの後に生徒会室の扉が開かれ、顔をのぞかせた人物に視線が集まった。誰かが息を呑む音が聞こえ、作業に没頭していた七海もついそちらに視線を向けた。
「軽音部のステージ発表についてなんですけど……あっ!」
 用件を口にしながら部屋に入ってきた隣の美青年だった。彼は七海の姿を認めて驚いたように目を瞠った。
「ちょうどよかった。お隣の七海じゃないか」
 くだけた笑顔を自分に向けてそばに寄ってきた美貌の同級生に七海はどぎまぎした。そして、今なんか下の名前を呼び捨てされた気がした。
「や、やあ。僕も一応生徒会だからね。軽音部の発表がなんだって?」
 あくまで冷静な対応をとれたつもりである。七海は椅子を一つ用意し、彼の話を聞く態勢を整えた。「ありがと」と言って、大人しく椅子に座った彼はまっすぐに七海の目をのぞき込んで用件を話し始めた。
「軽音部の発表時間が二十分、ていうのは構わないんだ。オリジナルの曲も二曲しかないし、あとはコピーの曲を二つほどできたらいいなって思ってる。けど、この発表の枠がちょっとまずいんだ」
 そう言って渋面をつくる夏音を眺めて、七海は美人はどんな表情でも美人に変わらないんだなと感心した。
「まずいっていうと?」
「体育館でやるから、アンプの生音だけでやるには限界があるんだ。聞けば、この学校の学園祭はまともなスピーカーも、ましてやPAも用意しないんだってね……ちょっと信じられなくて」
「はぁ……それが、どう問題なのかが僕にはわからないんだけどな」
 事実、今までそうやってきたのだから問題はないはずだ。七海は、彼が何に不満を抱いているのか全く要領がつかめなかった。
 すると彼は七海の返しに、大袈裟にはぁーっと肩をすくめた。そんな仕草がいちいち似合っていて、不思議と不快ではない。たとえそれが馬鹿にされたのだとしても。
「いや、ごめんね。プロのライブっていうのがどうやって成り立っているかわかる?」
「ごめん、見当もつかない」
 コンサートに行ったこともないから、わかるはずもない。七海は正直に首を横に振ると、そうだろうと鷹揚に頷いた夏音が神妙な表情で解説し始めた。
「プロミュージシャンは大きいステージで演奏をするだろう? それこそ観客が何千、何万と入るくらいのステージでやる人もいる。彼らの演奏は全て機材をマイクで拾ったりラインで出力したものを巨大なスピーカーを通して観客に届けるんだ。そのステージ全部に音がしっかり行き届くようにね」
 七海は彼の講釈を黙って聞いていた。そう言われると、確かにそうなんだろうなと思う。それくらいは、演奏について素人である七海も理解できる。
「だから……つまり、そういうことなんだ」
これからさらに展開されると予想された彼の理屈はそこでぶったぎられた。
「えぇっ!? そういうことって、そこで終わっちゃうの?」
 得意気にミニ講義を始めたのだから、殊更もっと深く入りこんだ説明があると思っていた七海はぶったまげて思わず声をあげた。
「理解できなかったの?」
「今ので何を理解しろと? ねえ、はっきり言って何が不満なのかな」
 七海の反応に、それは小さな首を傾げて心の底から「あなたがわからない意味がわからないの」とでも言うような仕草をされた。それがたまらなくめんこいとしても、そんなことは関係なく七海は冷静に訊き返した。
 彼の本意が全く理解できなかったので、ざっくりと要望を教えて欲しかったのだ。しかし、その後に続いた沈黙に七海は「あれ?」と焦った。何故、この男は何も答えないのだろうとだんだん空恐ろしくなった。例えるなら、嵐の前の静けさ、みたいな感覚。
 七海がツバを呑んでじっと夏音を見詰めていると、彼はふいにその小さな肩を小刻みに震わせたかと思うと、がばっと七海に詰め寄った。
「音が小さいんじゃーっ!」
「え!?」
「こじんまりとした音でなんかしたくないの! もっとどかーんと自分たちの演奏を体育館に鳴らしたい! 屋外にだだ漏れになるくらいの! わかるかなーわかるよねー!?」
「揺れる揺れる! 脳みそ出る!」
 ぐわんぐわんと肩を揺すられ、半分ほど脳震盪に近い状態の七海。
「PAは自分でやります! 機材運びの人材はこっちで確保するし! ステージ設営は最小限に抑えて、他の発表の迷惑にならないようにもするよ。なんなら、でかいスピーカーは学園祭中ずっと他の出し物でも使ってもいいよ? だからいいでしょ、ねえ!?」
 七海は人畜無害の草食動物に襲われた気分だった。可愛い兎ちゃんにがぶっとやられた感じ。
「わ、わかった! 前向きに検討して……」
「Shut up Jap!! これだから日本人は……それはNOってことだろう!?」
「で、ではとりあえず生徒会で話しあってみるよ! できるなら君の意見を通すよう善しょぐふっ……!!」
「検討、善処という言葉に注意しろと言われている」
「もー、なんとかすっから! 絶対! だから、もう揺らさないで!!」
 七海が息も絶え絶えそう言うと、ぴたりと夏音の手が止まり、我が意を得たりとにやりとした。
「本当?」
「が、がんばってみる」
「プロミス!」
 夏音がいきなり小指をすっと七海の眼前に差しだして言ったので、七海は息を凝らしてその意を探った。もう背中に汗がびっしょりだ。
「………プロミス」
 すると、再度夏音が七海の目をしっかりと見据えて呟いた。
「ぷ、ぷろみす!!」
 約束ということか、と遅ればせながら理解した七海はしっかりとその小指に自分の小指を絡めた。そんな仕草は木村拓哉以外に許された行為だと思っていなかったのに。意外なことに、彼の全体像からは考えられないほど彼の手はがっしりとしていた。指も細いとは言えないし、なんともアンバランスな感じである。
「じゃあ、頼んだよ。ありがとうね!」
 満足そうに笑って頷いてから、彼はささっと生徒会室から出ていった。夏音の姿が扉の向こうに消えたのを見て、七海は一気に脱力した。
 わずかに残された気力でせいぜい椅子に座っていられるといった具合である。彼とほんのわずかやり取りを交わしただけで、どっと疲れてしまった。なんというエネルギーを持っている人間だろう。周りの人間は彼とまともに相手していたら、身がもたないのではないかと思う。
(でも、いやではなかった……かな)
 ふと、彼と交わったばかりの自らの小指を見つめる。そこで初めて七海は妙なプレッシャーを感じた。そして自分が今まで室内の人間の注目を集めていたことに気が付いて顔を真っ赤にさせるのであった。

 
 夏音は悠々と廊下を歩いていた。その歩みはどこかウキウキとして、快調に階段を数段飛ばしで軽音部の部室へ向かった。扉を開けると、いつものようにお茶をする彼女たちの姿―――はなく、楽器の用意をする姿があった。
 もう学園祭は間近。一同の気持ちがしっかりとライブに向いている表れである。
「ステージの件、どうたった?」
 夏音の姿を認めた澪が開口一番にそう訊ねた。
「うん、何とかなりそう」
 夏音もそれに笑顔で答えた。幸い、生徒会には知り合いが二人もいるし、先ほど十分にゴリ押ししてきたので良い方向へ向かってくれそうだという好感触をつかんで帰ってきた。
「それにしても、機材とかは本当に何とかなるのか?」
「それについては、大丈夫。心強い知り合いがいるし、あとは時間だけもらえらばなんとかなるよ」
 大船に乗ったつもりでいて、と胸を張る夏音に何とも言えない笑みを漏らす一同だったが、とにかく全員が集まったところで練習を始めることにした。
 他の者が各々の楽器を自由に鳴らしているなか、夏音は素早くギターのセッティングを済ませると、ふとギターをスタンドに立てかけた。
 続けて、タタタと小走りで部室の奥に走っていき、そこからまた別のギターケースを担いで持ってくるとその中からベースを取り出した。
 その様子を見ても、誰一人不思議がる者はいなかった。そういうことになっているからだ。
 今回、軽音部は二曲のオリジナルを用意した。
一曲は、合宿で作ったもの。そして、もう一つは夏音がベースを弾くもの。夏音がベースを弾きたいという我が侭を叶えるための曲であり、かつ悪ふざけで澪にヴォーカルをさせようと考えた結果できたものである。
 夏音がギターヴォーカルをやる曲の方は、澪作詞によって「ふわふわ時間」というタイトルに決まった。夏音は、歌詞の意味がよくわからなかったが、この曲がとんだキワモノになったということだけは理解した。
 夏音がベースの方のセッティングをしていると、律がドラムを叩く手を止めてじわりと額に滲んだ汗を拭く。ぬるくなったペットボトルの水をぐいっと呷ると辟易しながら胸元に手扇で風を送った。
「あっちー。そういえば、もういっこの曲の歌詞はできた?」
 自分に対して訊いているのだと気づいた夏音はちらりと律の方に目をむけてこくんと頷いた。
「できたよ」
「本当っ!? 見せて見せて!」
 それに対して大きく反応した唯は瞳を輝かせて手を振り回した。その際、手が弦に引っ掛かって不細工な音をたてる。夏音はケースから折りたたんだ一枚の紙を取り出し、それを広げてみせた。
 わくわくと擬音が聞こえてきそうな唯をはじめ、他の者もそろそろ集まってその紙を覗きこんだ。
「Walking of the Fancy Bear……?」
 澪は、その英語の題名を読み上げるとはうっと身もだえた。
「クマさん……っ」
 彼女が何を想像したのか分からないが、苦笑を浮かべた夏音はすぐに訂正を入れた。
「気まぐれ熊の散歩、ってとこだよ」
「す、すっごくイイ!!」
 唯は子供のように瞳を輝かせたが、歌詞を追っていくうちに一筋の汗が額を伝った。
「でも、夏音くんコレ何書いてるかわかんないよ」
 というのも、歌詞はすべて英語であったのだ。英語の成績が芳しくない唯は困り顔でお手上げとばかりに歌詞から目を離した。英語の羅列が足にまできている様子だ。
「英語だけど、何か問題かな?」
 まさか英語がまずかったとは夢にも思わなかった夏音は予想外の反発に目をぱちくりとさせた。弱ったな、と律は頭をかいた。
「問題ではないけど……歌詞の内容がわかる人が少ないんじゃないか?」
「別に、わかんなくてもいいと思うんだけど」
「そこは、ちゃんと歌詞も聴いて欲しいところだろ?」
「そうかな。別にこの曲は歌ものじゃないし、かまわないと思うんだけどな?」
 英語の歌詞である以上、大半の生徒がその内容を聞きとることができないだろう。しかし、夏音としてはその曲の特色によってそれは考え分けるべきだと思うし、今回自分が作った曲はけっこうえぐい。歌ものではないのだから、歌詞を聞き取ってくれなくても結構、と考える。
 そもそも、日本人は英語を歌うバンドのライブとかにも結構行くではないか。
「ヴォーカルの譜割とかも考えちゃったし、今更変えるのもなぁ」
 まさか反対意見が出るとは思わなかった夏音は、今さら日本語の歌詞に帰ることに難色を示した。
「これ歌うの、澪だろ? 澪の意見も聞いてみようか」
 急に話を振られた澪は、えっと声をあげたがそっと顎に手をあてて思案してから口を開いた。
「私は、このままでもいいと思う。曲って歌詞も大事だけど、それ以上に重要なこともあると思う。夏音の言うとおり、歌詞をしっかり聞いてもらわなくてもいいんじゃないかな」
 その言葉を聞いて、律がむぅと唸った。
 意見としては、それも十分アリだと思う。しかし、せっかく自分たちで作る曲なのだから、歌詞も印象に残したいというのが彼女の考えであった。
「律」
 考えこむ律に夏音の声がかかる。
「律は洋楽を聴いて、一発で好きになっちゃうことあるだろう?」
「まぁ、あるけど」
「その時、歌詞の内容に心を打たれるか?」
「あ……それはないな。何言っているかわかんないし」
「つまり、そういうことだよ。そこにこだわることも大事だけど、今回はこのままで行こう。時間がないんだからさ」
「むぅ……私は、別に……」
 顔をそらして、頬を膨らませる律はこれではまるで自分一人がゴネているみたいじゃないかと思った。
「じゃ、決まりで!」
 夏音はそんな彼女の反応を見て、にかっと笑った。見たものが肩の力を落としてしまうような無邪気な笑顔だった。


 七海は先日に二つ返事で受けてしまった―――正確には、受けさせられた―――件について、まさに東奔西走の忙しさを絶賛体験中であった。責任感だけは人一倍強い七海は、一度受けてしまったことは必ず完遂してみせるという信念をもっており、まずは生徒会の内部でこの案件を通すことに始まり、放送部や運営委員会にまで根回しをした。
 特に放送部を説得するにいたっては、だいぶ話が難航した。彼らは、そもそも素人の集まりでしかないし、自分たちの慣れている機材だけで必死なのである。
 外部からの機械など、恐ろしくて手がつけられないと恐慌していた。
 しかし、そこはやり手の七海(そう自負している)は上手いこと舌先で話をまとめて言いくるめた。それらの機械は、専門の人がやってくれるから君らはノータッチでいい、と。実際、夏音がそこまでの人員を用意してくるかは怪しかったが、そこは無茶を言いだした張本人なのだから、責任は負ってもらう。必ずや。
 あれからもう一度夏音と会った際(隣の席なのだから、当然のことだ)、メールアドレスを交換したので、詳しいやりとりはほとんどメールで済ませた。

 彼の要求は、きちんとしたセッティングの中でステージをやりたいとのこと。
 そのためには、スピーカーやマイクをつなぐミキサー卓が必要であり、そのセッティングはおいそれと数分でできるものではないこと。いっそ面倒だから卓を学園祭の間中ずっと固定しておいて、他のイベントやステージ発表の時のマイクでも使用してしまおうという提案がなされた。
 しかし、その提案には頷きがたい理由が七海にはあった。
 答えは簡単、邪魔だから。
 ステージ発表などには、舞台演劇なども含まれる。劇の最中に、どでかいモニター用のスピーカーが放置されていたら目だって仕方がないだろう。
 だから、現実的にはセッティングをしてから片づけまでを軽音部の発表に合わせて行う方法しかないのだ。
 二つ目の要求としては、リハーサルないし音づくりの時間が欲しいとのこと。
 モニターから返ってくる音の調整や、外部のスピーカーの音のバランスなどを合わせる作業が必要らしい。
 これも、聞けばセッティングから始めて、かなり大雑把にしても一時間はかかるという。
 ここまでこだわるのか、と流石に七海も天を仰いだ。
 こんな要求をしてくるのは、前代未聞らしい。そして、その苦労を一手に引き受けているのは自分である。
 とんだ貧乏くじをひいてしまったと、もう笑うしかない。
 様々な機関と調整した結果。すべての人材を軽音部で用意すること。セッティングからリハーサルまでをきっかり一時間で終わらせることを誓ってもらうことで、実現までこじつけた。
 しかし、軽音部の発表の時間帯を調整することでそれは何とかなりそうであった。各ステージ発表の順番が決まる中、軽音部は休憩後に出番をむかえるようにしたのだ。
 休憩(五十分)→軽音部発表(二十分)→ジャズ研発表(十五分)→ステージ発表終了、となるように配置した。それによって、休憩中にセッティングをして音出し。発表を終えた後、ジャズ研の発表を次にもってくることで設備を共有しようとのことになった。
 双方のアンプ機材は違うが、そこは微調整して何とかなるだろう、とのこと。
 七海は、頑張った。
 この年にして、靴の底を減らして頑張った。誰か自分を褒めて欲しかった。
「いやーー!!! 本当にありがとう! 助かったよ! 君のおかげだね!」
そして、今自分の手を握ってぶんぶん振りまわしてくる男を前にして彼はげんなりとしていた。
 周りの視線が痛い。
「わ、わかったから……これで、お望み通りだろう?」
「パーフェクトだよ! いやぁ、親切だねアンタ!」
 七海は、目尻にうっすら涙まで浮かばせて喜ぶ美人の同級生をじっくり眺めた。人形みたいと思っていた顔だが、その様子を見ると自分と変わらない、ただの子供の表情だということがわかる。なんだか、無防備な表情を自分に見せてくれていることが無性に嬉しかった。
「別に、大したことじゃないよ。役に立てたなら、よかった」
 心の底から、見栄を張っているわけでもなくそう言うことができた。七海は、少しだけ達成感や満足感というものを覚えて体がこそばゆくなった。
「Thank you friend!!」
 そうやって握っていた手を七海の背中にまわしてきた夏音に七海の思考は停止した。
 ハグ。
 これは、俗に言うハグ。
「は、はぐあぅはぅぐぁーーーっ!!?」
 一見、女の子にしか見えない同級生に抱きつかれている。髪から良い香りがしたとか、やわらかいとか。途切れそうになった意識の外では、黄色い声があがった気がする。
 七海は、自らの生命の防衛本能によってなんとか彼の肩をつかんでどんと押し返した。
 恐ろしく簡単に引きはがせた夏音は、よっぽど体重が軽いのだろう、数歩転びそうになりながら下がった。
 しかし、そんなことには構っていられなかった七海はゼェゼェと肩で息をしながら虫の息だった。
「は、―――」
 何とか搾ったように押し出した声に、夏音は目を丸くして「は?」と聞き返した。
「ハジメテなのにぃーーっ!!!」
 そう言って、七海はほうほうの体で何事かわめきながら逃げだした。 大人しい奴だと思っていたお隣の同級生の奇行に、取り残された夏音は首をかしげた。
「変な人だなー」
「夏音、今の悲鳴なに? この世の終わりみたいな凄惨な響きだったけど」
「んー、よくわからない。夏だからじゃない?」
 


 ※前回から時間があいてしまいました。そろそろその他に移動しようかと無謀にも考えているのですが、どうでしょうね……。



[26404] 第十一話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/04/07 03:12

「はい、スネアくださーい」
 カン、カン、と8ビートを刻むスネアの、どこかぎこちない音が硬く響く。
「つぎーハイハットお願いします」
 薄暗い体育館にはちらほらと一般生徒がいるだけで、がらんとしている。人が少ない広大なハコに響くのは、時々マイクを通したPAの人の声とドラムの音。
 静寂と木霊する打楽器の間にはどこかしら緊張を孕んだ空気がぴりぴりと漂い、その作業を見守る者はそろって口をつぐんで額に流れる汗をぬぐっていた。
「ね、ねえ夏音。私の音、どこかおかしくないよな?」
 夏音がステージを下りたところで、外音にじっと耳をすませていると、ベースをスタンドに置いた澪がステージを降りてきた。
「まだ、何とも言えないね。もう一度ちゃんと音聴くから。次、ベースだよ。ほらほらしっかり!」
 そんな彼女の緊張をほぐすようになるべく明るく声を出すと、彼女は顔を強張らせながらも微笑もうとした。失敗したが。軽く笑って頷き返すと、夏音はステージに足を向けた。後をついてくる澪は傍目にバレバレなくらいガチガチで先ほどから緊張を空気感染させている。
 足がガタガタと。動悸もかなりやばい。澪が緊張に弱いことなど、今さら確認するまでもなかったが、こんなになるまでガチガチになるのを見ると、本番での演奏が不安である。
 緊張は仕方がないことだし、適度な緊張は精神を冴え渡らせることもある。とはいえ、澪の縮こまり方は身体に余計な力が入ってまともな音を出せないではないかと懸念された。 
 とりあえず夏音ができることは本番までに彼女をなるべくリラックスさせる努力をすることだけだ。
 段取りは事前に説明はした。とはいえ、全てが初めての体験に違いない。彼女達がライブを作り上げるのに必要不可欠なリハーサルの空気にびびってしまうのも無理はない話だ。
 PAの指示は手慣れているものだったが親切である。今回、PAに関してだけは外部の人間を呼び寄せた。ちょうど夏音が日本に来てからレコスタで知り合った新米の斉藤という男が夏音の頼みを快く引き受けてくれたのだ。彼の経歴はスゴイ。 エンジニアを目指して音響の専門学校を出た後、すぐにそこら辺のレコード会社などに就職して下積み修行……をしないで単身で渡米。向こうのライブハウスでバンド活動をしながらバイトをして、幾つもの生の音を耳に入れて過ごした。
 そのうち、運良く出遭ったハリウッドの音響関係の仕事をしている人物と懇意になり、アシスタントという名の弟子になった。弟子といっても全く仕事を回して貰えない訳でもなく、実際に向こうで仕事を任せてもらえるようにもなったところで日本に帰ってきた。
 何でそんな惜しいところで、と気になった夏音が彼に尋ねると「向こうのB級映画の音響チームに入る機会があったんですけど……外れでした。B級のくせに気取った感じで、B級の誇りがないのか! って感じで。腐ってもプロで、自分なんかより数倍もマシな仕事するんですが、姿勢とか、合わなくて……」と照れくさそうに語った。
 その後、ツテというツテを使って今のポジションにいるらしい。
 夏音は彼の姿勢を感じ取って、いたく感銘を受けた。この業界にいると、そういう熱い志を持っている人間と出逢えるのも醍醐味だと思った。
 音響エンジニアといっても、その仕事の幅は広い。素人が想像するより、遙かに広い。彼は将来的には有名バンドやアーティストのレコーディングを担当したいと意気込んでいる。独特の訛りはあるものの、英語もばっちりなので、海外アーティストとの仕事には重宝されるだろう。
 夏音はそう思っても気軽にできるさ、とは言わずにその場は黙って頷いていた。
 そんな彼は、こういうライブの現場の仕事も大好きだそうだ。機材運びなどの肉体労働は疲れるが、現場だけの仕事だけは離れたくない、と。だから夏音は彼にすんなりこの話を持ちかけることができた。
 いや、その話をした時に「うっそっ! ちょ、マジでっ! あのカノンさんが!? JKがJKでJKとJKによる学祭ライブ? クソあがるわーー!!! 自分を指名してくれてありがとうございます! 仕事あっても空けていきます!」と意気込んできた。いや仕事は優先しなさいよ、と夏音は突っ込んだ。
 結局、仕事と重ならなかったのは幸いだった。
 当日、見知らぬ男性が大量の機材を携えて現れるのを他の軽音部一同は呆然としながら受け入れるハメになった。どこからこんな人を借りてきたのか、と問いただされたが夏音は「お、親の知り合いやねん」とその場しのぎの関西弁で誤魔化した。
 ステージセッティングなど絶対にできそうもない女子高生と、その気になればセッティングはできる華奢な男子一名だけでわずかな時間内に作業が終わるはずがない。
 機材を運ぶ役は女手にも任せたが、細かいワイヤリングやマイキングは全て斉藤と夏音だけで行った。普段、アーティストとエンジニア。その関係の二名がこんな仕事をするはずがないので、かえって新鮮だったがタイムアップまで鬼気迫る様子で作業を進めていく二人の姿を誰もがぽかんとしながら見守っていた。
「イヤー懐かしいですねー! 学生の時、こんな風に講堂とか体育館のセッティングしていましたよー」
 まあ、彼はやけに嬉しそうだったが。そう話しながら神速でケーブルを巻き上げていく姿は格好よかった。流石、プロの仕事である。
 セッティングといっても、各アンプとドラムにマイクを当てる。モニターと外部スピーカーだけである。
 そこまでステージの設計を終えると、後は彼女達にも出番がまわってくる。

「次、ベースお願いしまーす」
「ほら、澪の番だよ」
「は、はひゃっ!」 
 澪がびくっとしてストラップの位置を直した。さっきから何度目かわからないストラップ位置修正。どうも収まりが悪いらしい。どうやら彼女は寝よう寝ようと思って身体の至る所がかゆくなるタイプの人間らしい。
 手元のボリュームをフルテンにした澪はオリジナル曲のフレーズをループして弾く。彼女が高出力のアンプ、またスピーカーから放たれるどでかい音に気後れしているのがわかった。どうもボリュームを出すのを惜しんでいるというか、普通に弾けば良いのにメゾピアノ。
 PAとの作業というのは、外のスピーカーの音のバランスを整えたりする。ドラム、各アンプにセットしているマイクで音を拾ってスピーカーから流す。各楽器の音を順々に合わせていく作業は、たいていはドラム、ベース、ギター、キーボードという順になる。学期毎に使用するエフェクター、音量をPAに伝えるのが演者の役目だ。
 夏音はジェスチャーでもっと思い切り弾け、と澪に伝える。するとアンプから出てくる音が一・五倍くらいの大きさになる。斉藤が少しだけにやっとしたのが見える。しきりにステージと卓を行ったりきたりして、適当なところでOKの合図が出た。
 今回のセットリストは異色である。ベーシストが交替して、澪から夏音へと弾き手が代わるのだ。
 夏音の場合、使用するエフェクターが多めなのでしっかりと音作りをせねばならない。次々と斉藤と掛け合って確認作業を進めていく。シールドを伸ばしてステージの下で外とのバランスを自分で見たりして相談を重ねた。
「後ろから聴いてどう?」
「いやー、結構色んなところハウっちゃってますねー。あの天井とかだよなー。あと、あのめちゃくちゃ立て付け悪そうな窓。とりあえず、めっちゃ削りまくってなんとかしてます」
「どうしようかなー。元々、バンドのために作られてないからねー」
「時間かけたらどうにかなりますけど、まあそこまで支障ないです」
「そっか。あ、ちょっと全体的に中で上げるから外小さくして」
 みたいなやり取りが続き、夏音はベースを置くと次にギターの番に。同じようにギターの方の確認が終わると、その後は唯、ムギ。最後にヴォーカルとコーラスといった順でリハーサルはまわっていく。
 一曲目から二曲目への流れと一コーラスを確認すると、リハを終了した。
「OKでーす、本番よろしくお願いしまーす!」
 斎藤の言葉にメンバーはすごい勢いで頭を下げ、「よ、よろしくお願いしまっふ!」と勢いづいた。それを見てまたもやくすりと笑った斎藤が伸びをしてPA卓前の椅子にどかりと腰を下ろした。本当にお疲れ様です、と夏音は心で何度も頭を下げた。
「ふー……案外余裕あったね」
 夏音が時計を確認すると、休憩時間終了まであと二十分もあった。
「そろそろ衣装着ちゃわないとなー」
「……………衣装、か」
 あの衣装を着ねばならないのか。もう避けようのない未来は目の前に。夏音は肩を落としてステージ裏に向かうのであった。 




 桜高祭、といえば地元では有名なお祭り行事の一つである。生徒の保護者をはじめ、地域の住民や他校の生徒までもが普段開かれることのない門を堂々とくぐることができる一大イベントといったところか。
 近年、学生による文化行事への厳しい姿勢をとる保護者、各教育関係者たちが増えているせいで近辺の学校の文化祭がぎくしゃくとしている中、校風に謳っているように桜高祭は生徒の活動の自由度がかなり高い。泊まり込みも可能、火器の使用可、などと他校よりも緩い態勢である。
 その代わり、生徒は自分たちの企画した出し物については企画からすべて自分たちで行わなければならない。資金繰りや、人員配備、飲食を扱うならその材料の調達ルートまでもが自分たちの手で確保しなければならない。そこには、一つの目標に対しての重い責任や物事の達成を学ぶ桜高の教育姿勢があらわれている証拠でもあった。



「つーわけで、お化け屋敷をやるわけになったのでっした!」
 夏音が風邪をひいて学校を一日だけ休んでいる間に、クラスの出し物が決まっていた。お化け屋敷、企画立案はそれを告げた張本人の律。
「お化け屋敷……てなに」
 ばーんと両手をひろげて開口一番にそう告げてきた律を宇宙人でも見るような目で見詰めた夏音。反応が鈍いことに首を傾げた律が「あぁー」と首肯して説明を加えた。
「知らないのかー? 日本の伝統行事だよ。教室をまるまる一つ使って肝試しをするのさー。うらめしや~、ってね!」
「いや、お化け屋敷は知ってるんだけど。何でそんなけったいなものを?」
「けったいとか平気で使う帰国子女の方がけったいだ。ていうか、定番じゃん」
 定番だから、と単純な理由だが夏音は思い切りしかめっ面をした。
「面倒くさいのはいやですー」
「だーいじょうぶ! 小道具とか作ったり、みんなで作業するのとか面白いって! きっ
と!」
 おそらく律とは決定的な感覚のズレがあるのだろうと思った夏音はそれらしい理由を言い添える事にした。
「でも、それだと軽音部の練習だってあるのに時間をとられちゃうでしょ?」
「それもだいじょうぶ!」
「……ぺっ」
 態度を揺るがせない律に夏音はついつい口でつくられた分泌液を吐きだした。
「えぇっ! 今の会話の中でそんなんさせちゃう要素が!?」
「新曲のギターソロ終わりのフィルでいまだにもたつく奴が何を自信満々に言っているんだろうと思ってね。できるようになったのかしらー」
「う………だって、あの変拍子のところむずかしくて……」
「練習しろよ」
「夏音があんな変態な曲作ってくるから!」
「この口かーそんなことをほざくのは。口に靴下をつっこんでやろーか!?」
「ひぃーー!!」


 というやり取りがつい二週間くらい前にあったのだ。
 練習もしなくてはならないのに、クラスの出し物に時間をつぶされるのは歓迎できない。もちろん夏音は学校祭がどういうものか知っていた。定番だし。学園ものには欠かせない要素の一つである。学祭が存在しない青春ものなんてないはずだ。
 だが、クラス展示の作業はいつやらねばならないのか?
 放課後、である。
 夏音にとって放課後は何をする時間か。音楽をやる時間だ。また、お茶をして駄弁る時間。
 てきとーに参加してブッチしよーと考えていたのだが。
 現実はそう甘くはなかった。

「夏音くんは猫娘ねー!!」
「キャーーキャーーー」
 キャーキャーという黄色い悲鳴をバックに、夏音は固まった。
「パードゥンミー?」
 耳には入ったが、頭に入らない。夏音の中の夏音が神経をせき止めているに違いない。精神の安全を守るために。
「もう今さら変更は無理なの!」
「多数決だからね!」「民主主義ですもの……ふふっ」
 夏音がぼんやりと学園祭早くこないかなー、などと呆けているうちにクラスの女子たちは秘密裏に動いていた。
 お化け屋敷というのだから、脅かし役も当然ながら必要である。
 その脅かし役に見事抜擢されたのはクラスのお人形さんもといマスコットにいつの間にか祀り上げられていた夏音。いらぬ鉢がまわってきた……とまでは夏音も飲み込める。そこまでは。
 しかし、よりによってその役が猫娘。娘ってなんだろう。日本語の辞書をもう一度引いてみようかな、いや、やっぱありえないだろうおい、殺すぞというツッコミもなすがままに力失せて地面に墜落した。同時に、これから男としてのプライドも墜落する予定である。
 目の前の瞳を輝かせた女子の壁は、暗に『てめー逆らえると思うなよ?』とプレッシャーをかけられているのだろう。夏音は心の中でひっそりと涙を流した。
 後日、女の子用の浴衣を朱色に染め上げ、何故か裾をかなり短くされた衣装を目にした時は胃から何かがこみ上げてきそうだった。なんか、こう世紀末の大魔王的ななにかが。
 まあ、衣装の完成品は割と凝った出来でさすが手芸部が在籍しているだけあった。
「違う違う! そこはこう、いーい!? こう、足をあげて『ニャーー』よ!」
「にゃー」
 しばらく放課後にクラスの女子にそんな指導を受けることになったのだ。

 
 かくして学校祭当日を迎える事に。
「というわけで、はいコレ。猫耳」
 喜々として自分のメイクを担当している女の子が仕上げのアイテムを渡してきた。
「あ、泣いちゃだめよメイクがくずれちゃうじゃない!」
 知るか、と答えたかっただって男の子だもん。 

 実に本番の五時間前ほどの話である。

 さすがに軽音部の活動があることも承知してか、本番より前の練習には解放してくれる手筈になっているのは僥倖。
 しかし与えられた役を健気に果たしていると、次の客が歩いてくる音がした。
 夏音は、さて次に自分の魔の手にかかる哀れな客は誰か、と舌なめずりをした。既に割とノリノリである。しかし、彼はその人物の顔を見てぎょっとした。
 何故か怖がりの澪がふらふらとお化け屋敷に入ってきたのだ。ぎょっとしたのには色んな理由があるが、第一は真っ正面から今の自分の格好を見られるという極刑にまさる事態が起こってしまうというもの。
 澪はあまりクラス展示に関わっていなかったから、夏音の猫娘姿を知らない。知られたくもなかった。
 彼女は明らかにビビりまくり、へっぴり腰のままのろのろと歩いてくる。その距離、五歩分ほど。
 夏音は腹をくくり、澪の前に飛び出た。けたたましい妖怪の咆哮をあげながら。
「ニュィヤーーッハァーーッ!!!」
「キ、キャーッ!!!! んむぐっ……んぅーーー!! ニャーーー!!!」
 突然目の前に現れた妖怪・猫娘が現れ、しかも割と乱暴に襲いかかってきたことで澪の恐怖メーターが瞬時に吹っ飛んだ。
「ニャーーー、見るな叫ぶな見るニ”ャー!!!!」
 夏音は恐慌した澪をかついで、先に入ったカップルをひゅんっと追い抜いて出口から彼女を放り投げた。その後、猛ダッシュで元来た道を疾走する猫娘にカップルの男性の方が「キャーッ」と甲高く叫んだ。
 今ので猫娘十回分は疲れた、と夏音は汗を拭った。
 急にお化け屋敷の出口から飛び出てきた女子高生が白目を剥いて泡を吹きながら気を失っている光景に、「オイ……やべーぜ…………ココ」という噂が飛び交うように広まって大反響を呼んだ。



 そんなごたごたをこなした後、夏音の役目が終わった。夏音によってがっつりハードルがあがったお化け屋敷、後任の猫娘の子は相当の苦戦を強いられたと聞く。
メイクを落としてやっと苦役から解放されたと思いきや、全員が部室に集まったところで悪夢は更新される。


「みんないるわねぇー?」
 曲を二回ほど通して最終確認をしていたところ、さわ子が軽音部のドアを蹴破ってきた。
 ニッコニコと。その様子が「みんなのさわ子先生よー」というオーラを全身で振りまいていて、夏音はその表情をみて、ふと悪寒が走った。すぐ後に自分の勘はそれは大したもんだったと知ることになる。
「先生ぇ、どうしたんですかー?」
 鼻息荒く、尋常じゃない様子のさわ子先生に瞠目した唯が訊ねる。
「ふふーん、不本意ながらも軽音部に顧問になったことだし! 何か手伝えることとかないかなーと思ってぇー……衣装作ってきましたーっ!!」
 やんややんや。まさか半分以上が脅迫によって顧問にさせたさわ子先生がよもや自分たちのためにそんな手間をかけてくれるなんて。
 皆の表情が先生へ向けて尊敬を表すソレとなった。
「衣装ってどんなんですか!?」
 律がまるでしっぽを振った犬のようにさわ子先生のもとへ駆け寄る。
「見て驚きなさい。コ・レー」
 ぞくり。
 フリッフリのロリッロリ。
 あれである。今流行りのゴシックなんとかという。
 夏音は目をこすって、その衣装の中に男物がないことを疑った。
「先生……その」
「なぁに、立花くん?」
「俺の、は?」
「え、これだけど」
 スカートなんだけど。
「これ、男のじゃないですよね?」
「えっとね? 先生、女の子の服しかつくれなくてー、ごめんーみたいな?」
 絶対、嘘である。
「スカートなんだけど。俺、この年でスカート穿かなきゃいけないんだけど。ていうか、完膚無きまでにゴスロリ? ってやつなんだけど」
「大丈夫! あなたに着こなせないはずないから!」
 親指を立ててこちらにびしっと向けてきた顧問。あぁ、その親指を下に向けてアンタに返したい!
「拒否権は?」
「ありません(はーと)」
「うふふ、そんな~」
「じゅるり」
「もぉ~~先生とっとと消えてくださ~~い。ハートもまともに変換されないくせに」
「あらー何か言ったかしらー」
 火花が散る。絶対にさわ子は夏音に恨みを持っているはずだったのだ。これは体よく仕返しできるチャンスと踏んだに違いない。
「あー……ま、まあ夏音なら、ねぇ……?」
 律が同情めいた視線を送ってくるが、そう言っている本人も顔が引き攣っている。だって、とってもフリフリ。
 断固拒否したいところが、目の前に自分以上に気の毒な人間がいることで心の均衡を保とうとでもしているのか。
「こんな姿が知られたら……あいつにみられたら……」
 もう、二度とプロのステージには復帰できないかもしれない。さわ子先生が用意してきた衣装は、それくらいの破壊力を有していたのである。



 それを着て、これから観客の前で演奏しなければならない。
 本番前になると生徒もぞろぞろと体育館に入ってくるので、外に出られなくなる前に夏音は斎藤のもとへ向かった。
「あ、カノンさん。どうスか、調子は?」
「すこぶる……いいよ」
 夏音に気付いた斎藤がパイポを加えながら夏音に声をかけたが、それに対する返答は実に歯切れ悪い。当然だ。
「あのね。今日、目にすることは一切他言無用だということは話したよね?」
「ええ、もちろん! ここで聴いたり見たことはすべて秘密ですよね。わかってますよ。ギャラも弾んで、タダ同然でこんな面白そうなもの見られるならいくらでもお口にチャックしちゃいますよーぅ!」
「ホントにホントだからね」
「はいはい。スィークレットですよね!」
 この男、発音が悪いのだ。
「絶対に秘密だよ」
「ひみとぅーですね」
 おまけに結構バカだったりするから信用ならない。
「信用していないワケではないんだけど、念のためにね。釘をさす、ていうんだっけね」
「だーいじょうぶです!」
「よろしく頼むよ、ホントに……」
 念には念をだ。言いたいことは言ったので、さっさとステージ裏に向かう。
 数回ノックして、「どうぞー」という応えが返ってきた。
 ステージ裏の放送設備が置いてある部屋では、すでに衣装を着込んだメンバーの姿があった。彼女たちのソレは、似合っているのかは別として可愛い仕上がりとなっている。これを拝めるお客さんは眼福ものでしょう、といったナリだ。
 彼女たち、であったならば。

「コンナンデマシター」

 彼女達の後、そそくさと影で着替えを済ませた夏音は生気の抜けた顔で自らの格好をさらけ出した。もうこの視線が痛い。むしろ、くせになりそう。
「似合っている、よ……ねぇ?」
 ねぇー、と近所のオバチャンみたいな澪にふられたメンバーは夏音の姿に釘付けとなった。
「に、似合いすぎて逆にどんびきっていうか……」
「お人形さんみたいねー素敵ですよー」
「あぁ、ヤメテ。そんな言葉はいらない。泣きそうだから。この年になって一日何回も泣かされるの男の気持ちを考えてほしい」
 男心は実に繊細なのだ。



「軽音部は全員そろってる?」
「はぁーい」
 生徒会でステージ進行を担当している和がステージ裏で軽音部の面々に最終確認を促した。
「発表時間は二十分ね。機材も全部用意してあって……撤収作業はジャズ研の発表後に全員で行う、と……。あと五分で休憩が終わるわ……がんばってね」
 律は部長としてその言葉を受け取り、大きく頷くと皆の方に顔を向けた。
「よーし……やるぞーー!!」
「おーーー!!!」
 円陣をくみ、気合を入れる。夏音は両隣の澪とムギがわずかに震えているのを密着した肩に感じた。
 夏音は頬をゆるめて皆に最後の言葉を零した。
「いっぱい、いっぱい練習したんだ。自信をもって演奏しようね。最後に、音楽を楽しむことを忘れないで」
 夏音の言葉に全員が強くうなずき、ステージにあがる。
 ライブの構成は、合宿で作ったオリジナル曲、ふわふわ時間。それとこれまた合宿でやったSmoke On The Water、最後にオリジナルのWalking of the fancy bear。最初の二曲を夏音がヴォーカルを務め、次に澪がピンヴォーカルといった具合である。夏音はこのふわふわ時間という曲のヴォーカルをやる事を後悔していた。
 とんでもなく小っ恥ずかしい歌詞なのだ。夏音にとって未体験ゾーン。初めて歌詞を魅せられた時は、作詞者の澪の脳内世界を垣間見てぞっとした瞬間であった。
 
 和によると、お客さんは満員。立ち見の人までいるそうだ。
 たしかに、ステージの幕の外には大勢の人間のざわめき、熱がうごめいている気配を感じる。クラスの人に宣伝もしたし、ポスターも作った。休憩を挟んで人気の少なかった講堂だったが、今や人で埋め尽くされているに違いない。
 各自が自分の楽器をもち、スタンバイをする。
 アンプから音を出し、それが外のスピーカーやモニターから流れるのを確認した。大きな音が流れるとざわめきが一瞬静まり、再び大きさを増してざわめく。
 ステージ脇の和が「もう時間よ」と合図したのを見て、夏音は一度まわりを見渡す。
 それぞれと頷きあってから中央のマイクの前に立った。
 

 いざ、幕があがる。


「ワン、トゥー」
 律のカウント。
 唯のギブソンが若干ぎこちないリフを発射した。いや、まだ発射じゃない。装填。
 澪のグリッサンドがうねる。真空管から放たれる極太の歪みが曲を押し出す。そこに重なるのはムギのハモンド・オルガンの音と夏音のギター。引き金は引かれた。
 やはり稲妻のように轟く音と光をまき散らし、夏音のギターが自由に会場を駆け巡る。澪がボトムを支え、その上をひたすら驀進する。
 小っ恥ずかしい歌詞をきちんとした発音でしっかりと歌い上げる。内気な女の子の胸に秘めた想い。きっとその娘は寝る前のベッドの中で相手の事を想うのだろう。
 いったん曲に入り込んだら、夏音の集中力は凄かった。歌詞の内容をしっかり把握して、内容を無視しないで歌い続ける。羞恥心とせめぎあいながら、聴衆にしっかり歌を届ける。
 実はこの曲、ラップがある。おかしい。絶対、初めて耳にする人は「ん……んっ?」と二度見ならぬ二度聞きしてしまいそうな部分。
 どうして合宿から本番に至るまでこの曲がこんな進化を遂げたのか。それは澪の歌詞に問題があった。澪としては、詩を書いているうちに盛り上がりすぎたせいで譜割も何も考えずに書き連ねてきたらしい。そもそも、曲に詩を乗せるのは初めての彼女はあまり意識しないで歌詞を作ってしまったそうだ。
 根っから「うわーイタタ」となった律と夏音を除いたムギ、唯は詩をいたく気に入るわけだ。それは大絶賛の域で、この歌詞を削るのはもったいないと強く主張し始めた。正面切って詩を批判できない律と夏音は、しぶしぶ曲の方をどうにかする案に賛成する事になった。
 で、出た結果がコレだ。ラップ。ドロップDとディストーションとオーバードライヴを使い分けてそれぞれに特徴的に歪ませたギターとベースが曲に強烈なアクセントをもたらす。
 この部分は唯一の責任として、澪に歌わせた。その間、夏音は思い切り上体を振って暴れる。
「huwahuwa-time!!! Yeeeeeahhhh!!!!」
 終盤になって何かがすっごく吹っ切れた夏音の叫びが体育館を埋めていく。
 夏音はフィニッシュへ向かう曲の中、客の様子をじっと観察した。
ステージ幕があがってからすぐに内臓が震えるくらいの爆音。客が呆気にとられて目を見開いている様子に、にやっと笑う。
 これが軽音部の産声。彼女達にとって初めて作ったオリジナル曲だ。ムギが骨子をつくり、それを夏音が曲としての肉付けをした。全員でコンペしつつ、完成させていくうちに、微妙に足りない部分などを補った思い出もある。苦労した分、思い入れがある曲。
 夏音は歌う。恥ずかしい歌詞にありったけのソウルをこめて、歌った。
 曲が終わり、残響が響く。音を切った後、夏音の声がヴォーカルマイクを通してしんと講堂に響いた。
「Thank you」
 すかさず、拍手の音が演奏者に送られた。それこそ雷のように降り注いできて、彼女達様子を伺うと、自分たちに向けられる万雷の拍手に唖然とした表情をしていた。
 拍手は鳴りやまない。
「コニチハー!!」
 拍手が止んだ。
(あれ?)
 クラシックの会場みたいに水を打ったような静けさ。
 おかしい。何故、音がしないのだろうと夏音が首を傾げる。慌てて律の方に顔を向けた。
「おい、話が違うじゃないか! 俺がこれやったら絶対にどっかんどっかんだって!」
 律を睨んで、潜めた声で彼女を責める。
「し、しーらなーい」
「あ、あ、後で覚えておれよ……」
 怒りに方を震わせながら、アハハと取り繕った夏音が観客に向き合う。よく聞けば、「え、あの人ハーフ?」とか「日本語無理系な?」とか言われている。
(いやいや、留学生とかじゃなくて)
 どんなひそひそ声もしっかり耳に入ってしまう夏音は大変気まずかった。PA卓にいる斉藤は卓に突っ伏してふるふると震えている。夏音は彼が秘密を破った際は、六道の地獄すべてを味合わせてやろうと心に誓った。
「か、かんじゃいまーしたー! 軽音部です! ヴォーカルの立花って言います! 立花! 立つ花って書いて立花!」
 わずかにどよめく会場。おぉ~、と。ああ、日本の苗字だなぁ、と。
「カノンくーーん!!」
 数人のクラスメートが夏音の名を呼んだ。
「へ、へへ……こいつぁどうも」
 突然の事だったので、どう返してよかったか分からなかった。ステージで呼びかけられる事などしょっちゅうあったのに、プロとしての矜恃はどこにぶっ飛んでしまったのかと嘆かわしかった。
「アァー、次はみんなが知ってる曲をやります。有名すぎるあの曲です」
 律と目を合わせると、八分のカウントが刻まれる。二曲目はあっという間だった。放心気味だった彼女達は何回もやった曲だけに、演奏を楽しむ余裕ができたのか笑顔が見られるようになる。
 中年の男性教師や父兄がやたらノリノリだったのを見て安心したが、やはり同い年の少年少女達は予想以上の反応を見せてくれなかった。
 夏音は特に気にしないで、ギターをスタンドに置いた。
「チェーーーーーーーーーーーーーーーーーンジッ!!!!!!!」
 高らかに叫んでから澪を差し出す。
 夏音の行動に澪が「はうっ」と俯き、途轍もなくのろのろとした足取りで中央のヴォーカルマイクへ向かった。
「かわいいー」
 と言った声が即座に響く。それがますます彼女をアガらせてしまう事になっても、悪い気はしないだろう。
 それを見送りながら素早くエフェクターを踏み、準備をする。アンプから音を出し、少しずれていた音を合わせた。
まわりに合図を送り、準備が整ったことを知らせる。
「Walking of the fancy bear」
 コーラスマイクで曲名を言ってから、夏音が腕を振り上げた。しばし空中で腕を止める。溜めを作ってまわりを見回し、覚悟はいいかと目線で問いかける。答えは確認しない。
 腕は振り下ろされ、重低音からなるスラップが体育館の床をびりびりと振動させた。極限まで歪んだ邪悪な音が単体でグルーヴを作り上げていた。律のシンバルがそこに喧嘩を売るように重なる。バスドラが八分の裏で空気を打ち裂く。夏音は本当ならツインペダルを使用してほしかったのだが、今の律には無理だった。

 何ともファンシーな曲のタイトルである。タイトルは全て裏切る。
 クマが。
 クマさんが、客を食い殺そうとでもいうかのように太い腕を振り回して暴れる様が浮かびあがる。
唯のギターは再びローチューニングに変更。何ともヘヴィネスな曲調で観客を圧倒させる曲だ。
 全員が加わったところで数小節進む。ラストの小節で夏音のベースが取り残されることになる。
 そこで奏でられる1フレーズ。たった1フレーズだけで曲の空気をがらりと変えてしまう。
 今まで地獄の入り口から響いてきそうな恐ろしい音を客にぶつけていたのに、がらりと爽やかなパンクロックに様変わりだ。
 ガールズパンク。とりあえずの方向性の一つ。
 試せるものは何でも試す。このバンドの方向性がまだ定まっていないので、とりあえずここらへんから攻めるかと夏音が用意した曲である。
 爽やかとは言うものの、あくまでイントロからの音のニュアンスに大きな変わりはない。

 大きな大きな気まぐれグマは、自身の気まぐれで進む先の物を片っ端からぶっ壊していく。腹の虫が悪ければ、手当たり次第に。彼は森を進む。彼の通った後はめちゃくちゃだ。
 森に住む小動物達は慌てふためき、逃げ出す。クマさんはやがて森を走り抜けて川に出る。広々とした風景にすっかり機嫌が収まったクマさんはうっとりと川辺で両手で頬杖を着いて足をぱたぱたする。直後にハチに刺されて最後まで大暴れ、というストーリーを想像して作られた曲である。
 そんな曲である。そこに澪の声を乗っけるのは冒険だったが、澪の声はかっちりそこにハマっていた。
 二番のサビが終わり、唯のギターソロが入る。ヴィヴラートで細かく揺れる全音符で唯のギターが前に出る。何個か音外したが、客には分からない程度。ソロが終わると、全員が後ろを振り向いた。ドラムを見詰めて呼吸を一つにする。
 Cメロに入る前に難しい変拍子が入り、律のドラムもがっちり決まった。さらに疾走感あふれるアウトロ前の三十二分に逸れるフィル、突っ走り、ドラムロールの音がだんだんと上がってきて、ギリギリ壊れそうなところまで高まる。

 全てが最高潮に昇り詰めた瞬間、音がぴたりと終わる。

 無響の空間が数秒の間続いた。

 それまでこの空間に大音量をもたらしていた演者たちはその余韻の中、肩で息をしながら顔を伏せていた。
 響くのは生々しい息遣い。
 その静寂を破ったのは一人の客の拍手。それが波のようにまわりに伝播し、だんだんと大きくなる。
 今や、先ほどの音にも負けないくらいの拍手が軽音部の面々に降りかかっていた。
 夏音は顔をあげた。何故か、このステージがどこか別の場所なのではないかという錯覚に陥った。隣や後ろを見たら高名のプロミュージシャンがいるのではないか、いつものステージではないか。
 そんな感覚は、
「あ、ありがとーー!!」
 上擦った澪の叫びで霧のように消え去った。
 まわりを見渡すと、汗でぐしゃぐしゃになった顔をまっすぐにあげて誇らしげな彼女達。
 夏音はそっと胸をおさえ息をつくと、ベースを置いて客にむかって手を振った。
 皆がお辞儀をしたので、それに倣う。
 お互いに目をやり、満足な笑みを返しあう。
この一体感。大きなエネルギーをぶつけあい、撒き散らす感覚。夏音はそれらを久しく味わっていなかった気がした。
 次に控える人たちもいるので、万雷の拍手を名残惜しみながら、ステージから退散することにした。
 各自が楽器を抱えてステージ脇に歩き去ろうと動いた。
全てが気持ち良く終わる。皆、そう思っていた。この後、ステージ裏で抱き合って感動を分かち合おう。皆、よくやったのだ。高揚する気持ちを弾ませながら足取り軽く、歩いたのだ。
 しかし、足下はよく見なければならなかった。
 一足先にステージ脇に消えようと急いだ澪が、唯のシールドに足を絡ませて前につんのめった。
「うおっ……と」
 撤収しようとエフェクターを小袋にしまおうとしていた唯だったが、急にシールドがビーンとなって「ふぇ?」と間抜けな声を出す。澪は唯のシールドを足に引っかけたまま数歩よろめいた。
 当然のごとくシールドがアンプのジャックから抜け、爆発したような音が響く。
「み、澪!?」
 あわてて澪のもとへかけよった夏音だが、彼女が晒している姿を見て「Oh...」と天を仰いだ。「もう……澪ったらド・ジなんだからー」では済まされない光景が広がっていた。
 夏音はこれだけ短い裾だものね、と涙を浮かべそうになった。ここで問題である。ステージ下から上を見ただけでスカートの中身が見えそうな服装で転んだ場合、何が見えるか。
「い、イヤーーーーーーー!!!!」
 世紀の終わりとばかりに響いた悲鳴と共に轟いたその事件はのちに「学祭・パン見せ事件」として後の桜高軽音部に伝説として語り継がれることになる。

 

 初めての学校祭はあっという間に過ぎていった。皆、帰りがけにクラスメート達に次々に話しかけられ大絶賛を受けた。一番嬉しかったのは七海がステージを観てくれていたことだった。
 ステージの件では大分苦労をかけたので、夏音としては是非観てもらいたかったのだ。
「観てくれたんだね! ありがとう!!」
 夏音は彼が視線を逸らしながら「み、観てたよ……その………すごかった」と言うものだから嬉しくなってしまった。顔を真っ赤にさせてよっぽど興奮したに違いない。
 だから、思い切り彼に抱きついた。
「ありがとう!! 七海のおかげだよ! これからも軽音部をよろしくね!」
「アッーーーーーーー!!!!」
 すると、彼は大絶叫をした後、縄抜けの術かと言うくらいの速度で夏音の拘束から逃れた。
「君はどうしてそう………っ!! どういたしましてー!!」
 と言い残して、廊下の向こうへ消えていった。生徒会役員が廊下を走るのはどうかと思った。


 ひとまず全てが終わり、機材を撤収し終えてから一同は部室で一息ついた。
 皆、やり遂げたという充足感に満ちたりた表情でお茶をしていた。日が傾いて、蜂蜜色の光が部室を包み込んでいる。そこに言葉はいらなかった。顔を上げれば、お互いが微笑みを交わし、頷きあう。
 楽しかった。共有した感情に言葉は必要なかった。
 誰もが満ち足りていた。
 ただ一人をのぞいては。
 
 部室の隅で人類初の暗雲発生機と化している秋山澪・花の十五歳。つい先ほど、大衆の面前でパンチラデビューを果たしたばかりの傷心の乙女である。
 一同は再起不能となっている彼女をちらちらと見ては顔を合わせて表情を曇らせる。
 無理もない。
 ほぼ全校生徒の前でパンチラをかましてしまったのだ。全校生徒だけではない。父兄もいた。ロリコンもいただろう。パンチラ直後に響いたシャッター音は一生澪のトラウマになりかねない響きを持っていた。
 いつまでも体育座りで肩を落とす彼女に、誰よりも長い付き合いの律が「ここは私が」と一番槍を買って出た。
 律は澪に歩み寄ると、ぽんと優しく彼女の肩に手を置いた。
「過ぎ去ったことはもーしょうがない! 元気だせよ澪ー!」
 ぴくりとも動かない。屍のようだ。ひたすら呪詛のように「ぱん…ぱん…つ…」と繰り返すだけだ。
「パンチラくらい減るもんじゃないし気にしない気にしない!」
 とは口が裂けても言えない夏音。間違っても口に出すことはできない。
 この事は実に繊細な問題だし、男の子である夏音が口を挟むべきではないと思われた。
 病的な彼女の反応を見て、律は肩をすくめて「コリャ、だめだ」と戻ってきた。
「いやー、それにしても気持ちよかったなー」
「ええ、あれだけ大きな音でライブができるなんて滅多にないもの!」
 澪は放置の方向で話題を切り出した律にムギが力強くうなずいた。
「それにしても、夏音って本当に謎だよなー。PAの人と知り合いだし。いつの間にかクラスで人気者だし」

 尚、機材撤収は責任をもって軽音部が行った。ジャズ研の発表が終わると同時に客が捌けるのを待ってから斉藤と作業にあたった。
「いやー、なかなか良いモン見させてもらいました」
「まず、演奏の感想を言って欲しかったな」
 そんな軽口を叩きながらも「三曲目、ヤバかったです。超エグかったです」と絶賛してくれた。斉藤の感想に耳をダンボにしながら傾けていた律達がおかしかった。
 人気者については、夏音は自分でもよく分からない。
 最初は敬遠されていたと思っていたのに、いつの間にかクラスに溶け込んでいる自分に気付いた時には驚愕したものだ。
「夏音くんヤバかったー」
「カッコよかったよー」
「あの衣装、また着てちょうだいねー」
「スカートの絶対領域に神を見た」
 とクラスメートが声をかけてくれるのがこんなに嬉しいなんて。いや、嬉しくないのもある。
 これも軽音部のおかげ、だろうか。

「それにしても夏音くーん! 何でステージ降りてすぐ衣装脱いじゃうかなー。もっとあの姿の夏音くんが見たかったのにー!」
「写真撮ったんだからいいじゃんか唯さんよー」
 あれ以上あの姿でいたくなかった。夏音がステージ裏にはけてからまずやりたかったのは、ショック状態の澪を何とかする事でもなく、喜びを分かち合う事でもなかった。衣装を脱ぎ棄てることだった。即行で服に手をかけた夏音をムギがものすごい剣幕で阻止するという一幕があったりした。
「本当! あんなに似合っていたのに」
 口を尖らせて不平を言うさわ子に夏音は冷たい眼差しを向けた。
「もうアナタの衣装は着ないと心に誓った」
「なーなー。もしかして今日ヴォーカルを務めた二人にはファンなんかついちゃったりしてなー!」
 それは、ない。あんな姿の自分にファンがついたらなんか危機的なものを感じてしまう。主に貞操的な。
「あるかもー」
「ないない」
 そう願いたい。
「まぁ、そうなったら楽しいなー」
 無邪気に笑う律に笑顔で中指をたてた夏音であった。



「なんかこんなポスター見つけたんだけど」
【立花夏音ファンクラブ会員募集!!】
「オーーーマイガッ!!! あ、あ、あ……あーーーーーっ!!」
 膝から崩れ落ちた夏音はそのまましばらく動かなかったという。

  
 
 
 
 ※チラ裏から移動してきました。よろしくお願い致します。



[26404] 第十二話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/04/21 21:16

 あたふたと目まぐるしかった学校祭から一週間が経った。お祭りムードが抜けきらない一週間を終え、校内に満ちていた浮き立つ雰囲気も緩やかに影を潜めていった。大きな行事が終わるのを見届けるように季節は移ろって行く。ついこの間までサウナのごとく蒸していた空気もほんのり和らいだような気がする。
 秋が始まり夏が終わったのを風が含んだ金木犀の香り。薄羽蜻蛉の姿が見られるようになるのはもう少し先だろう。それでも残暑という言葉通りに、日差しはまだ地上を攻める手を緩めてくれなかったりする。最後まで仕事をきっちりこなす憎い心意気には感服だ。それでも、うすら寒くなった風と合わせてちょうど良い具合である。
 校舎の中は生ぬるい空気で満たされていた。暖房の加減がまた微妙な時期なので、暑くなったり寒くなったりを繰り返す中で、帰宅部の生徒がすっかり姿を消した校内はまさに生ぬるいと表現される温度を保っていた。
「まったく。誰の許可をとってんだろ」
 廊下の片隅で呟かれた声は誰に言うでもなく淡い喧噪に溶けた。ひょろ長い廊下の窓に白い陽光が差し込み、影と光の規則的なコントラストをつくりだしている。
 その一角に佇む人物は胸に流れた漆黒の髪を後ろに払い、不機嫌なオーラをびりびりと放っていた。入学当初より伸ばし続けた髪は肩ほどからだいぶ伸びて、背中の中程あたりで揺れている。
 夏の空のような爽やかな青色の瞳、並外れて華麗な容貌は日本人には見えないのだが、燃えるような漆黒のオリエンタルな艶めきと合わさって独特な存在感を放っていた。
 溜め息が一つ。

「やっぱりこういうのはまずいよね」

 彼は廊下の掲示板に貼り出された一枚のポスターを前にして苛々と足踏みをした。
 この立花夏音は一応、世界に知られたミュージシャンその人であって、それが何より問題なのだ。


 ライブ後にできたファンクラブとやらについて、夏音は初めこそ気軽にかまえていた。B5サイズの画用紙に【会員募集中!】と文字だけ書いてあるひっそりとしたもの。発見者の律曰く、校内にぱらりと一枚だけ落ちていたらしい。掲示板等に同じものが貼られている様子はないので、首をかしげていたところだったのだが。
 学校祭以来、自分のファンクラブとやらが目立った活動を見せることはないし、一時の勢いで衝動的に動いてしまっただけかもしれない。そもそも、ご本人様である自分に許可もないのは失礼な話である。
 本格的にそんなものを始動させようとしているならば、憧れを抱く相手に不快な思いをさせようとは思うまい。
 あくまで様子を見てやろう。そんな脳天気な気構えのまま、内心では面白がってすらいた。
 その矢先のこと。

「ねーねー夏音くんこれ見てー」
 夏音と律が鬼気迫る様子でスピードをやっていると、唯が部室に駆け込んできた。
「忙しい」
 一瞬とて目を離すことができないカードゲーム。故にたった一言、短く答えた夏音に唯が頬をふくらませた。
「せっかく夏音くんの晴れ姿を持ってきたのにー」
「はいはいあとでー」
「これ部室に貼っておこーよ」
「だから、あと………でっ!?」
 あまりに唯がしつこいのでちらっと唯の持つモノに目を向けた夏音は思わず目を剥いてしまった。
「そ、そりゃなんだい……」
「夏音くん学園祭Verだよ!」
「ォゥ、ジーザス……」
 夏音は瞳に飛び込んできた大きな文字に魂を引っこ抜かれそうになった。
【立花夏音ファンクラブ 絶賛会員募集中!】
 ゴシックでロリータで、フリッフリでヒラッヒラで、それでいて夏音なポスターがあればこの世から燃やすべきだと夏音は脳裏にラッシュする走馬燈を眺めながら叫んだ。
「悪夢の再来だ。どんな陰謀がこの軽音部を襲うというのか……っ!」
 椅子を蹴倒して天を仰ぐ。染みが目立つ天井がふと天使っぽい顔に見えてきた。
「よっしゃアガリーっ!」
 急に手を休めた相手の隙を決して見逃さなかった律は、自分の手札を無くしたところでもはや勝負どころではない夏音に気が付いて目を瞬かせた。
「なんだ? 雨漏りでもしてんの?」

 しばらく三人はそろって天井をじっと見詰めていた。


「ただのファンクラブの仕業だろ?」
 何を大げさな、と足を組んで鼻をならした律。大胆なモーションで太ももが際どい部分まで露わになり、唯が慌てた。
「り、律っちゃん! あんよがね……」
「あー悪い悪い。ワタクシったらはしたのうござんしたわー」
 なんと言っても男の子の前である。男というには性別の存在感が薄い相手であるが、男には違いない。慎み深い女性にまた一歩近づいたと頷いた律だが、肝心の男がこれっぽっちも自分の太ももに関心を寄せていないことに気が付いた。
 これにはさすがに乙女の矜恃にちょびっと傷がつくというもの。
「おーいニイチャン。太ももだよーん」
 あえてぴらっとスカートをまくってみせる律の存在などないかのようにうつむく夏音の態度は律の傷を抉った。
「私の太ももはそんなに魅力がないのかー!」
 側にいた唯が思わずびくっとなった一喝をもって、やっと夏音は呆けたような表情を彼女に向けた。
「あぁ、ハイ。大変魅力的かと存じましゅ……」
 まったく心がこもっていない賛辞に律は低い声でうなった。だが、あまりに憔悴した様子の夏音を見ていると小さく息を吐いた。
「てゆーか、さっきから自分のポスターをじっと見て気持ち悪い系な?」
「あぁ、自分で見ていて気持ちの良いもんじゃないね」
「別にその写真は気持ち悪くないけどさ……」
 唯はというと、ここに来てやっと自分の持ってきたモノのせいで夏音を落ち込ませたらしいと気が付いた。
(ど、どうしよう。なんかよくわからないけど、私のせいだよね)
 しかし、原因が全くわからない。わかるはずもない。無垢な魂を持つ唯は夏音におそるおそる声をかけた。
「夏音くん! 悩みがあるなら私が聞くよ?」
「しょうぞうけん」
「え?」
「肖像権ってさ、あるよね」
「む、難しい話は抜きでお願いしやす」
 唯は少し前まで持っていた人助けの心から一歩遠のいた。頭を使う悩みは役に立てそうもない。
「俺って一応……あ、これ言っちゃだめなやつだ」
 今、ぼそりとトンでもないことを言われかけた気がする。唯と律、二人の第六感がそう告げていた。
「これ、どこで見つけたの?」
「こ、校内の掲示板に貼ってありました」
 そう尋ねられた唯は、夏音の柔らかい口調にどこか背筋が冷えるような感覚を覚えた。
 これはもしかして怒っているのかもしれない。知り合って半年ほどの付き合いだが、唯は彼が本気で怒っている場面を見たことがない。あからさまに怒りを表現しているうちは、本気で怒っているうちに含まれないのだろう。怒鳴ったり、不機嫌になることはあるが、それは戯れの内として数えられてしまう。
 そう。このように敵意を含んだ怒りを見せる夏音は初めてなのだ。
 唯は「そうか」と低く呻いてから部室を出て行こうとする夏音の背中に声をかけずにはいられなかった。
「ど、どちらへ?」
「お花を摘みに……」
 それ、女性用の……と何故か頭の片隅にあった豆知識が喉から出かかったが、精神で阻止した。
「いってらっしゃい……」
 唯の言葉が終わらない内にバタンと扉が閉まった。
 部室に残った二名の女子は思わず顔を見合わせ、何とも言えない表情の応酬を繰り返した。



 冒頭に戻る。
 目の前のポスターで二枚目である。掲示板は校内のいたるところに点在している。その半分は生徒が使用することができず、もう半分は生徒が使用可能ではあるものの、すでに生徒会や委員会または部活動や文化系コンクール関係の掲示物などで埋め尽くされている。
 そもそも貼るのに教師の許可が必要である上、さらに大原則として掲示物の端に印鑑が押されてなくてはならない。 
 目の前のポスターに印鑑など、ない。つまりこのポスターはゲリラ的に貼っているということになるので、勝手にはがしてもよいということだ。
 ビリッ。 
 派手な音がして自分の姿が二等分にされる。その実行犯はまさにポスターに写っている本人なのだが。
 夏音は躊躇いなしに思い切りポスターをはがした。というよりも破いた。一つが終わると次へ。校内を練り歩き、ありとあらゆる掲示板をあたる。二つ目を破き、三つ目、四つ目へと。
「どれだけ俺のこと好きなんだっ!?」
 好意を寄せてくれるという行為に対して嫌だなんて思わない。というより、自分に好意を抱いてくれる人の数は圧倒的に常人より多いだろう。仕事やプライベートあわせて。
 ただ、今は世間に露出する訳にはいかないのだ。
 自分が何のために普通の高校生をやっているというのだろうか。日本のマスコミが夏音をかぎつけてどうこうすることはないと思うが、情報というのは恐ろしい。
 この現代、ネット時代。自身もその恩恵にどっぷりあずかっている身としては、そこのところの恐ろしさを承知している。
 誰がどこから見ているか。誰が嗅ぎつけてくるか。もしも自分の環境を乱す存在が現れたら? 日本にだってカノン・マクレーンを知っている人などいくらでもいる。
 もしかして、この学校にも何人かいるかもしれない。過信ではない。夏音は自分の知名度を客観的に判断している。現に学校祭の時はジャズ研の上級生に「あなた、どこかで見たことが……」と不審の目で見られてヒヤリとさせられた。
 ともあれ、夏音の正体を知る者が軽はずみにネットに情報を流したとしよう。その情報はたちまちネットの海を漂いながら広まり、結果的に現実となって夏音に襲いかかってくる可能性が十分にあるのだ。
 そんなことになったら、みんなの迷惑になってしまう。そのことが常に夏音の気がかりであった。
 何より、澪以外のメンバーに自分の口以外から事実を知って欲しくないというのもある。最近になって、隠していること自体、何の意味があるのか自分でも分からなくなっていて、その問題に対して悩むこともあった。
 だから、そうならないために動かなくてはならないのだ。夏音にとって、問題の芽は即刻摘むべきものであった。

「これで全部かな」
 八枚。謎の執念を感じる枚数であった。これがいつから貼られていたのか分からないが、普段からぼーっと歩いているだろう唯の目にとまるくらいだ。素通りしていたとかは考えられないから、昨日から今日という可能性がある。
 とりあえず、よしとしよう
 ひと仕事終えたところで上機嫌になった夏音が部室に戻ると、他の部員もそろっていた。
 神妙な顔つきで何を話しているのだろうかと近づくと、どうやら会話の中心に澪がいるらしい。
「だから! 私だってファンクラブとか認めたくないの!」
「んなこと言ったって作られたんだから仕方ないだろー?」
「私は断じて認めない! あんなに大勢の人の前で辱めを受けたのに!」
「はずかしめって……パンチラくらいで」
「パ、パン……パン! パ、パン! パパンパン!」
「どもりすぎだ」
 喘ぐように過呼吸じみた音を漏らす澪は相変わらずの様子であった。しかし、顔を真っ赤にさせてわめく彼女に全員が心の内で安堵していた。
 この一週間ばかり、彼女はまさに色彩を失った廃人と化していた。その様子はホセに敗れたジョーもかくやと真っ白であり、そんな澪の姿は見るに堪えないものがあった。このまま部室の隅っこが定位置となるのだろうかと誰もが懸念していたが、どうやら元の調子を取り戻したようである。
「そちらさんも大変なようで」
 ふらりと現れた夏音が同情を含んだ表情で澪を気遣う。潤んだ瞳で夏音を見る澪は何かを必死に訴えようと、口をパクパクさせていた。
「Oh...Fucking tired!!」
 だいぶ疲弊した様子の夏音にムギが紅茶を用意した。
「よかったらハチミツもあるからどうぞ」
「ありがとう」
「と、ところで夏音くんは今まで何をやっていたの?」
 尋常でない様子で部室を出て行った夏音を見たのが最後、帰ってきた彼が何故だかひと仕事終えたぜーとばかりにスッキリしていたときて、首を傾げた。
「校内のポスター全部はがしてきたよ」
「えー! 何で!?」
「気にくわないからに決まってるじゃん」
「こんなに可愛く写ってるのに?」
 夏音は、いったい何が問題なの? と本気で聞いてくる唯に脱力しそうになった。
「いや、写り映えが気に入らないわけじゃないから!」
「私には夏音くんが怒る理由がちょっとわかんないよ」
 時折、唯の相手ができる人間はよほど心の広い人間であるに違いないと思わされる。夏音は心の狭い人間ではありたくなかったので、無視したいという欲望をおさえた。
「俺が言いたいのは、筋を通せという話だよ」
「筋……? 夏音くんって変なのー」
 唯に変人呼ばわりされるのは実に心外きわまりなかったが、返事をするのも億劫なのでムギに淹れてもらった紅茶を楽しむことにした。ハチミツを足してほんのり甘い紅茶が疲弊した体に優しく沁みこんでくる。
「あーー」
「オッサン外国人」
「うるさーい」
 軽口を叩く律も大して気にならない。やはり癒しこそ、この軽音部の醍醐味であることは間違いない。非癒し系もいるけど、気にならない。
「夏音はどうしてそんな暢気にかまえていられるんだよ!」
 突然、眦をつりあげた澪が爆発して夏音に詰め寄った。
「別にファンができるのはいいことじゃないか」
「お、お前は慣れているかも、しれないけど、私なんてただの一般ピープルなんだぞ! 私の身になって考えてみろ!」
 そう言い放ってからわずかに間をあけてから「考えてみてくださいよ……」とぼそりと言い改めた。怒りをぶつけられる根拠がまったく思い当たらない夏音であったが、テーブルに肘をついて気怠そうに澪を見やる。
「とは言っても、高校生のファンクラブなんてどこにでもあるものでしょ? せいぜい取り囲んでキャーキャー言ったりとか」
「ひ、ひいーおぞましいっ!」
「裏で隠し撮り写真の卸売りが行われたり」
「か、隠し撮り?」
 盗撮とも言う。
「澪ちゃんグッズが裏で流通するくらいだろ?」
「いやーーーっ!!!」
 澪は己の身体を抱きかかえるようにして叫んだ。魂の底から飛び出たような悲鳴だ。
「ま、冗談だよ」
「やりすぎだぞ夏音」
 澪の怯えように見かねた律が夏音を諫めるが。
「律には言われたくない」
「んなっ!」
「そもそも高校のファンクラブなんて創るやつらの自己満足から始まるものでしょ? ファンである事とファンクラブを創ったり、所属することは全く別の目的でしょ」
「でも、その人のことを応援したいって思うから創るんじゃないの?」
「それもあるさ。でも、応援するならもっと別の方法があるはずだよ。結局は、シンボルを持ちたいんだよ。自分とのつながりをシンボルにしたい、ってことだろうよ」
「今日の夏音くん難しいことばかり言ってる」
 しょぼんと気落ちした唯はずずーっと茶をすする。
「まあ応援される側としても不快には思わないけどさ。自分の味方です、って形にして示してくれるわけだから。ただ、お互いが認め合うことから始めなくてはならないってことだよ」
「つまり、こういうことだな? ファンクラブ認めてやるから入会費などは……」
「まったくもって違う。もう喋りなさんな」
 軽音部の長がまともな言葉を発することはないのだろうか。

 どうせやるなら、お互い嫌な思いをしないでおこーねということである。やはり高校生になっても、むしろ高校生という年齢だからこそ、物事の道理がわかっていないのかもしれない。道理とまではいかない。常識の度合いである。
 想像力が足りないから、何をしたらこういう問題が起こるかもしれないという事まで考えが及ばない。
 現に、よかれと思って作ったのであろうポスターも夏音の気に障ってしまった。おそらくこの件で動いている人は夢中になっていることだろう。
「ガキだね……」
 ふいに呟いた一言に部室がしんとなる。
「ず、随分と辛口なんだな」
 律が心なしか引き気味に反応した。それに無言でうなずいた三人も夏音の態度に違和感を得た。
「あら、やだ」
「あら、やだじゃない!」
「まー、迷惑かけないでやってくれるならかまわないんだけどねー。それにまあ、ポスターも剥がしたことだし大丈夫でしょう」
 夏音が表情を緩めたことで、部室の空気もいつものほんわかなものへと戻った。

 その翌々日。
「ふえてるー」
 ぞっと背筋に寒々しいナニかが通り抜けた。得体の知れない戦慄が夏音を突き動かし、行動するまでに秒とかからなかった。昇降口を上がって教室に向かうまで、たったそれだけの距離で二枚のポスターが掲示物に重ねて貼られていた。
 合唱部の参加するイベントの告知ポスターの上に見たくもない自分の女装姿がでかでかと貼られているのを見て、肝が冷えるという言葉の意味を知る。
 というより、合唱部に申し訳ない。
 かろうじて悲鳴を抑えて、言うまでもなく発見したポスターは剥がした。この分だと他も見て廻った方が良さそうだと校内を走り回ったが、案の定の結果であった。昨日まで無かったポスターがあちこちに掲示されているのだ。どれも無駄な存在感を放っており、羞恥に死にたくなった。
 というより何枚刷ってあるのだ。
 犯人の異常性が分かると、さすがに自分の手に余ると考えた夏音は、放課後にさわ子に相談することにした。


「ストーカーに狙われて、貞操の危機を感じてるって?」
 夏音が一応あれでも教師だから、と頼りにした相手は自分の話をずいぶんと歪曲な解釈をしたあげく、とんでもねーまとめ方をしやがった。向かいに座る社会科教師がコーヒーを噴き出したのを視界の隅で確認しつつ、夏音は大まじめに頷いた。
「超極端に突き詰めていくと、そうかも。いや、それは言い過ぎだとしてもちょっと行動に狂気じみたところを感じませんか」
「んー。そもそも、その子のやっている事に認めるべき点が一つもないのだけど」
「まったくです。俺としては、向こうから話に来てくれるだけでいいのに。よっぽど馬鹿なんだか、事をこじらせやがって……ってところです」
「あなたさえ構わないなら、職員会議に通すけど……さすがに、ね?」
「そうなると、俺のファンクラブ云々が赤裸々に……遠慮します」
「そうよねー。でも、このまま放置するのもダメね。許可なしに掲示物を貼ることも、個人を担ぎ上げるような団体を創るのも」
「つまり、ファンクラブ反対?」
「教師としては」
「個人的には?」
「面白そうじゃないー。最近、そういうのと離れちゃったから懐かしいわー」
 彼女は高校生の頃、ここいら一帯で有名なヘビメタバンドをやっていた。最終的に信者を呼び寄せるレベルには成長できた彼女のバンドの事だ。ファンクラブとのいざいこざやりとり等もあったのだろう。規模が違うが。
 相談相手を間違えたかもしれないと思い始めたが、さわ子の言葉を聞いてから少し思うところがあった。
 やっぱり常識を持って行動しない人は、恐ろしい。けど、この場合はよくよく考えるとそういうサイコちっくなものとは違う気もする。
 幼稚なのだ。渦中のポスターのレイアウト、文章に至るまで洗練された出来とは言い難い。本当に何も考えていないのではないだろうか。
「つまり、底抜けの馬鹿か……」
「あ、え、いま先生に向かって………えっ……?」
「あ、違います。そうじゃなくて……やっぱりいいです。自分で解決しますから。お時間とらせてすいませんでした」
 水をぶっかけられたハムスターみたいな表情で目を瞬かせているさわ子を放って職員室を出ると部室へ向かった。ダムダムと足を踏みならして階段を上り、乱暴に部室の扉を開けた。
「ん?」
 普段なら誰かしらの声で楽しげな空気に満ちているはずの軽音部に不穏な気配を感じた。戸惑い、本来は陽気な唯や律の困惑を伝える息づかい。異常に耳が良い夏音は瞬時に異常事態だと察知した。

 なんか、いた。

「へーへー! 軽音部ってこんな風にお茶とか出るんですねー。想像と違ってびっくり素敵ですー!」
 明らかに軽音部員ではない少女。夏音の立つ位置からは後ろ姿しか確認できないが、少し不自然なくらいに明るい茶髪がぽんぽんと揺れていて、その形状は何というか特殊であった。
(そうだ、まどろみの剣だ。ドラクエで一瞬だけ使ってみたあの剣に似ている)
 人によってはチョココロネ、クロワッサンと例えるかもしれない髪型は見事な縦カール。素晴らしきカール大帝。二次元でのみと思っていた髪型を現実に見て、夏音は息を呑んだ。
 背後に現れた夏音に気づいていないのか、彼女は自分の言いたいことを自由に喋り通し続けていた。
 やがて他の者の視線の先に気付いて振り返り、かん高い悲鳴じみた声をあげた。
「キャ~~~~カノンさま!!」
「………さま!?」
 ぎょっとして眼を見開いた夏音が説明を求める目線を仲間達に送る。全員が悲哀を帯びた眼を合わせてくれることはなかった。
 夏音は心臓がばくばくと早まるのをおさえ、目の前の少女を眺めてみた。髪型こそ特殊だが、いたって普通の子のようだと判断した。むしろ普通より可愛い部類に入る。しかし第一段階の印象は束の間のうちにぶっ壊されることになる。
「は、初めまして! あたし堂島めぐみって言います! あの……立花夏音ファンクラブ会長をやらせてもらっています!!」
 一拍遅れて目眩が襲った。足下から崩れ落ちそうになるのをこらえ、額を抑えながらその少女――堂島めぐみとやらを睨む。
「何の冗談だこれは……」
「あの、あたし! 挨拶しなくちゃって!」
 憧れの人を目の前にしてあがっているらしく、本来の快活な性格はナリをひそめているようだ。それでもこちらが遠慮してしまうくらいに声がでかい。彼女にとってそれが自然なのだろうが、いつの間にかペースを握られてしまいそうなタイプである。
「友達に言われたんです。ファンクラブを創るって本人に挨拶もしないで勝手にやるのはよくないって」
 夏音はその言葉にほう、と目を瞠った。案外、まともな交友関係に恵まれているらしい。自分の予想した通り、本当に何も考えていなかっただけなのかもしれない。友人の忠告に素直に耳を傾けるあたりも悪い印象は感じられない。
 焦るあまり、少し大人げないことを考えていたかなと反省するにまで至った。
「あたし! いっつも勢いだけで行動しちゃうからこんなのばかりで! 一昨日もその勢いからポスター作ったんですけど、誰かに剥がされちゃって………ひどいですよね。人がせっかく一生懸命作ったものを踏みにじるなんて……っ!!」
「ん?」
 何が何だというのだ。思考が、その先にある面倒事を察知して早々に匙を投げかけた。いや、待てと強引に事態の理解に頭をめぐらす。
「夏音さまのベストショットを深夜かけて選んだんですよ。用紙だってあのサイズだと専用のプリンターしか刷れないし、遠くの専門店に行かないといけないのに。これって誰かの陰謀だと思うんですよね。きっとカノンさまの美しさ、可憐で、凛然とした佇まいに嫉妬した輩がいるんです!」
 おそらくこの場の誰に助けを求めても、無駄だろう。こうしている間もノンストップで言葉を連射している堂島めぐみの勢いにすっかり萎縮してしまっている始末だ。
 夏音はふっと嘆息すると、両の手を思い切り広げた。
 パンッ!
 と乾いた音が部室に響く。すると今まで矢継ぎ早どころかサブマシンガン並の速度で口を動かしていた存在も思わず口を閉ざす。
「堂島さんって言ったかな?」
「はい! めぐみって呼んでください!」
「堂島めぐみさん」
「めぐみです!」
「shit.めぐみさんとやら。そのポスターを勝手に貼るのもいけないことだって知ってる?」
「え、そうなんですか?」
 心の奥底から不思議に思っているのが表情に出ている。
「うん。生徒が何か掲示物を貼りたい時は先生の許可が必要なんだ。生徒手帳にも書いてあるし、考えたらわかるはずだけど」
「で、でも誰にも迷惑かけていないので大丈夫かなって」
「そう? 他の部活動の掲示物の上に重ねて貼ってあるのもあったけど」
「そ、それは悪いとは思いましたけど急いでいたし……それにずっと掲示してたんだからもういいと思いませんか?」
 夏音の限界を超えてしまった。異文化コミュニケーションの時代とはいえ、相手の言っていることは欠片も理解できないのは問題である。
「君の言うことは何一つ共感できないし、道理を知らない子供のわがままにしか聞こえないよ。というより、高校一年生にもなって自分がやったこともわからないというのか?」
「え………あ、二年ですけど……へっ?」
「ファンクラブについては、こんな俺で良いなら好きにやってくれと言うつもりだったんだ。君が俺に一言でも許可をもらいに来たらね。あまり派手にやってもらうのも困るし、外部へ情報が漏れるようなことは一切ないように厳重な体制を敷くこと。俺の邪魔にならない程度にやって欲しいという二つの事を守ってもらおうとな。けれど君ときたら、俺にリスペクトを向けると公言しながら失礼にも程があることの連続じゃないか。ちなみにポスターを剥がしたのは全部俺だよ」
 夏音の怒濤の勢いの説教に目を白黒させて唖然と聞いていた堂島めぐみであったが、最後の一言に大きく反応した。
「何でそんなことしたんですか?」
「教えてあげよう。自分の写真を引き延ばしたものを勝手にばらまかれて嬉しい人なんていないんだよ」
 しかも本人の黒歴史ど真ん中の代物だ。何の罰ゲームだ。
「そんな……あたし……夏音さんのために……」
「それは俺のためじゃないよね。君のためだ。君が君自身の仲間を増やすために勝手にやっただけだ」
 冷ややかに切り捨てる夏音の言葉は目の前の少女には辛いものとなるだろう。しかし、彼はあえて厳しく言わないとこの少女が学ぶことはないと考えたからこそ、冷淡な物言いになってしまったのだ。 
 とは言うものの、やっぱり女の子に厳しくあたるのは心に悪い。堂島めぐみの肩が細かく震えだし、しゃくりあげるような音が漏れる。どんどん大きくなる前兆に今すぐ回れ右して部室を出て行きたくなった夏音であった。
「う、うぇ……そんなぁ……」
 くるぞくるぞ。
 大噴火の予兆。その場の流れをじっと固唾を呑んで見守っていた女性陣もはぅっと息を詰めた。心なしか夏音に対する非難の視線が混じっていた。
「そんなぁ……そんな風に厳しく𠮟ってもらうの初めてです!」
 おや?
 堂島めぐみは真面目な顔で厳かに言った。
「あたし一人っ子です」
「そ、そうなんだ」
「両親はいつもあたしのこと𠮟らないんです。かといって特別わがままっ子に育ったつもりはないんですが、納得いかないじゃないですか……ちゃんとあたしのこと見てくれてるのかなって。愛してくれるのかなって」
 完全に自分の世界に旅立った者の目だ。秋葉原とか中野なんとかロードでよく見る目だ。あまりに心配と不安に駆られた夏音は思わず澪に目線でSOSを出した。
(おいおい、どうするよコレ……予想外の展開でぶったまげたよ)
 救いを求める視線は容赦なく澪を捉えていた。
(わ、私に何か求められても困る!)
 引きつった顔で、こちらも眼で言い返してきた。すると他の面子もそれに参戦する。
(夏音が起こした事態なんだから、自分で何とかしろ!)
(ふざけんな不本意にもほどがあるだろ! それにずっと高みの見物きめこんでたくせに!)
(とりあえず落ち着かせてみてはどーでしょうか?)
(ああ、そうだな。よし、唯やれ)
(なんで私っ!? おそれおおい任務につき、私には身に余ります!)
(そうか…………やれ)
(いやだよー。なんかこの子怖いもんっ)
(そこは天然系の魅力で何とか、さ)
(ひどいよ律っちゃん!)
(ひどくウィンクが似合わないな律さん)
(うるさい。ウィンクが外人だけのものと思うな!)
(とにかく!)
(やっぱり俺が何とかする感じ?)
 眼と眼で器用にも悲鳴をまじえた会話を交わしていた結論として、やはり夏音が犠牲になることになった。留まることを知らずに喋り続けていた堂島めぐみに向き合った。
「だから夏音さまに言われる一言は純金にも代え難い価値があるのです!」
「ヨシわかったよめぐみさん!」
「本当ですか!?」
「あぁ何にもわからないけど、とりあえず落ち着こう。確かに俺が厳しいことを言うのは君のためでもあるよ。あるけど……」
「じゃあ、『お姉様』って呼んでもいいんですね!?」
「Holy shit…」
 事態に頭がついていかなくなった。
「今のは、許可をもらったってことでいいんですよね?」
「え、いや何のことを言っているのかな」
「あたし、𠮟ってくれる人が欲しかったんです! だからお姉様となってあたしを𠮟ってくださいっ!」
 眼の中に宝石のようなきらめきが踊っている堂島めぐみは夏音の手をとって、胸の前まで掲げた。
 その手をばしっとふりほどき、
「ふざけんなこの縦ロール女が! そのクロワッサン丸ごと切って校長像に寄贈してやろうか!?」
 とは言えず。
 エマージェンシーモードによって魂が肉体から緊急退避している夏音は既に目の前の少女を意識から半分ほど追い出している。まさに危機回避本能の成せる奇跡の技には違いないが、残してきた本体は少女の言うことに差し当たりない程度にうなずくという悲劇のオプション付きであった。
 YURI。これはユリ。リアルで百合だけはなーと日頃から考えていた夏音。この場合、男と女でノーマルなカップリングであるが、何ともアブノーマルな響きとなって襲ってきたものだからたまったものじゃない。
 そもそも、自分は男である。
「ポスターについては本当にごめんなさい! あたし、もう二度と勝手なことしません! だからファンクラブについて認めてもらいたいです」
 やっとのこと手を離したと思いきや、がばっと頭を下げ始めたクロワッサンを眺めながら、こくりとうなずく夏音。
「それで、ファンクラブの方向性もお姉様に情け容赦のないお仕置きや説教をいただけるオプション付きってありですか?」
「それは……気が向いたら」
 半分以下の意識で曖昧な肯定をする。
「きゃーありがとうございます! あたし、さっき言っていたこともきちんと守ります! 勝手なことはしない! ファンクラブはあくまで秘密裏に活動すること! 秘密厳守! あたし全部守れますよー! むしろ、お姉様の魅力が広まりすぎるのもアレなので、少数でいこっかなーなんて」
「そう……」
「ポスターは全部剥がしたんですよね? まだ剥がしていないのがあったら自己回収しておきますので!」
「そう……」
「これでお姉様公認ってことですよね! 燃えてきたー! あたし、精一杯お姉様を応援させていただきます! 立花夏音様のファン一号として!」
 実際に君は一号どころか0を幾つも足した順位だよ、とも言えず。
「So...」
 最後にほぼ抱きつくようなくらい接近してきていた堂島めぐみは万事充ち満ちたような表情で爽やかであった。
「では、失礼しますね! 今日はお邪魔してすいませんでした! 軽音部の皆さんのことも応援していますから! それでは!」
 重たそうな巻き髪を振りながら歩く彼女は部室を出る時に再度礼をして姿を消した。

 竜巻が去った後はこんな空気になるのだろうか。誰も彼もが心神喪失していた。虚ろな瞳を抱え、その視線を虚空にさまよわせながら椅子に崩れ落ちていた。
 なかでも一番ひどいのが夏音であったことは言うまでもない。
 何かひどく恐ろしいものでも見てしまった五歳児のような表情で凍り付いていた夏音は、長い時間をかけて魂が完全に身体に戻ったのを感じた。
 周りを見ると、徐々にフリーズから解けて動き出す部員たちの姿があった。
「夏音くん男の子なのに、何でお姉様なのかなー?」
唯、そこじゃない。決してそこじゃない。夏音以外の全員が思い、おそるおそる渦中の人物の方を向く。
 唯の一言で決定的に我に返った彼は、むくりと立ち上がりふらふらと数歩よろめき……崩れ落ちた。

「う、うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 その後、錯乱状態に陥って叫ぶ夏音を慰めるために軽音部一同は必死になった。終いにはしなしなと倒れ込む仕草に、確かに男にはみえねーわと共通の感想を抱いたことは別の話である。

 とにかく。かろうじてPTSDだけは逃れた夏音は、一年の廊下で堂島めぐみの姿を見かけるたびに怯えきって逃げるようになった。
 彼に対してああやって公言した以上、きちんと目立った行動を控えているようであったが、人の眼がない場所にフィールドが移された途端、運動部顔負けの脚力で夏音に追いつくというスペックの高さを披露した。
 立花夏音のファンクラブはそこそこの会員数を得て、水面下で活動中であるらしい。
 時折、定期報告にふらりと現れる堂島めぐみの報告内容も恐ろしくて夏音は耳を塞いでいる。
 日本に来て、新たなトラウマを発掘した夏音はしばらく百合っぽい表現を出す作品に拒絶反応を示すようになった。
 ちなみに秋山澪ファンクラブ会長は事の次第をどこからか聞きつけたのか、後日、澪に便箋でファンクラブ活動の容認を求める至極丁寧な文書を提出してきたという。


※かなり時間が空いた上に、超絶的に短くてすみません。基本的に一話あたり15000文字以上を、と心がけているのですが。



[26404] 第十三話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/03 00:48


 何事も中庸が大切である。辛すぎても甘すぎてもダメ。賢すぎても愚かすぎてもダメ。
 そして、暑すぎず寒すぎない季節。
 それは秋。
 
 日本の四季は実に色彩豊かだ。夏音は通学途中に通りかかるイチョウ並木が紅く燃えている様子を見てそう思った。
 聞くところによるとこのイチョウはもう少しすると黄色くなり、やがて銀杏拾いが季節の風物詩となるそうだ。四季の中にも確かな変化がある。そして四季ごとにまるまる表情が変わる魅力がこの国にはある。
 まだまだ奥が深いな、と感心するのはこういう瞬間だ。
 思えば夏音が日本に来てからこの方、季節の味わいを感じる暇などなかった。いや、暇はあったにせよ心の余裕がなかったというべきだが。
 夏音にとって引き籠もり期間と言えば基本的に家にいることを指していたものの、もちろん外出することも度々あった。とはいえ、それでもすっかり腰が重くなってしまった彼は落ち着いた気候を狙って外出することが多く、少しでも暑かったり寒かったりした場合は家を出ない。まるでハムスターのようなものぐさを身につけて、すっかりアウトドアへの憧憬を失っていた。
 だが、それも去年までのこと。
 ふと空を見上げる。空が高い。中国のことわざに、天高く馬肥ゆる秋というのがあるらしい。夏音に詳しい意味は分からないが、食べ物がおいしいこの季節に馬が肥るということだろうか。
 馬も肥るのだから、人間だって体重が増えてもおかしくはない。
「だから、気にしすぎだよねー体重なんて」
 世の女性を敵にまわす発言である。


「秋といえば食欲の秋って言うよねー。最近、食べ物が美味しすぎて気が付いたら食べてばっかりだよー」
 本日のお茶菓子である紫いものタルトをつつきながら唯がふとそんなことを口にした。相も変わらず気の抜けた顔である。常に幸せそうだなーと感心しながら夏音もそれに同意して頷いた。
「日本の秋の味覚はどれも絶品だよね。俺もスーパーに出かける度に秋の食材に負けちゃってさ。作りたいものばっかりだよ」
 あーわかるなそれー、と律も会話に加わり、一気にグルメトークに華が咲いた。それはこの時期の新米が楽しみだとか、その際の水分量の調整が~などという通の議題にまでのぼった。
 一同がキャイキャイと玄人じみた食の話で盛り上がる中、ふと律は先ほどからまったく会話に加わる素振りを見せない澪が気になった。こと食べ物の話題が出ているというのに、強張った面持ちで何かに堪えるようにじっとしている幼なじみの姿は律にとって違和感しかない。いつもの調子でからかってみた。
「澪なんてすぐ誘惑に負けそうだよなー。毎年この時期に体重が体重が~って泣いてさー」
 なんだかその姿がすごく想像しやすかったのでくすくすと笑い合う一同は、澪の眼がだんだんと昏い影を帯びていく様子をとらえることができなかった。
「おいおい、どうしたんだよ澪? さっきから黙っちゃってさ。あれ……タルトも手つけてないじゃん?」
 澪の様子を不思議に思った夏音がしごく軽い気持ちでそんな言葉を口にした途端。
 ガタンッを椅子を蹴倒して澪が立ち上がった。
「うるっさーーーーーいっ! 私の気持ちがわかってたまるか!!」
 あまりの剣幕に誰もが顔をひきつらせて口を閉ざした。唯など唖然として口を半開きのまま固まってしまっている。
「私だって気にしてるんだよ……ついつい口にする食べ物のカロリーとか、その代わりに夕飯を減らしてみたりとか………それなのに人が食いしん坊の卑しん坊みたいに!!」
「い、いや誰も澪をそんな風に言ったりしてない」
「言っただろー!?」
「律さん、あなたのせいだ」
「なっ! 私が何を言ったって!?」
 澪の剣幕に怖れをなした夏音が間髪いれずに律を糾弾する。どちらにつくべきかを一瞬で判断できるのは夏音的に世渡り術だった。
しかし、何の身に覚えのない問責に律は慌てるしかなかった。何たって幼なじみがキレてる理由が意味不明だ。
「焼き芋。ブドウ、柿、カボチャ系、さんま、栗、キノコーーーアハハハハッ!!?」
 ありのままの欲望を述懐する澪は涙を浮かべて立ち上がった。と思いきや、ざざっと床に崩れ落ちた。
「卑しい私が悪いんですーー!!」
うわーーと泣き崩れる澪はあまりに痛々しかった。
 誰もが視線を交わし、そらす。
 夏音も例外ではなく、なんといった言葉を彼女にかけてやればいいか思い当たらなかった。それにいくら探したところで、今の不安定な澪には逆効果な気もしたのである。


 反動、というものだろうか。酷暑が続いた夏は人間の体力を削り、余分なお肉さえも削り取ってしまう。事実、夏に痩せてしまう者は多く、澪も例外ではなかったのかもしれない。
 普段、ダイエットを意識している故にアイスや冷たい物の魅力をはねのけ、食べることを躊躇する。
 すると、必要な栄養がまわらずにこじれにこじれて夏バテを起こしたりする。そして何とか季節を乗り越え、秋を過ぎるあたりにはいつの間にか帳尻があっていたりするのだ。
 そういえば夏の終わりごろに澪が体調を壊していたのを思い出す。
 夏休みの初めに会った時と比べ、かなりやせ細っていて心配した記憶があるが、なるほど現在の澪はその時の記憶の彼女よりもいくらかふっくらとして―――否、ふくよか感が増している。
「何をそんなに気にしているか知らないけど、ガリガリに痩せているよりかは健康的でいいと思うけどな」
 統計だと多くの男はふっくらめの女が好きという。
 夏音がふと漏らしてしまった一言に澪を除く女子がまずい! という表情をした。
 遅かった。
 澪はゆったりと立ち上がる。怨嗟のオーラが彼女の周りを渦巻いており、その姿は誰が見ても日本のホラーの1シーンであった。
「Oh, my…」
 その異様な威圧感に夏音も一歩下がる。正確には椅子に座っていたので、気持ち的に下がる。
「ニクイ」
「み、澪?」
「憎い! そのスタイルが憎い! 贅肉ひとつないし! 贅肉に悩まされたことなんて一度もありませんってか? その余裕の表情が憎い! 憎さあまってかわいさ百倍!」
 褒め言葉である。それ、逆だよ……とは誰も言えず。
夏音に詰め寄った澪は、ガシィっと夏音の顔をつかむ。そのまま握りつぶすのではない
かというくらい力をこめ「いだィ!」それから憎しみ対象の身体の検分に移る。
「ヘ、ヘイ!! 何をするっ!?」
「み、澪ちゃんそれはまずいわ!」
 ムギが悲鳴まじりに叫ぶが、何となく嬉しそう。
制服のボタンは神速で外され、気づけば半裸人になりかけていた。
「男のくせにこの身体………うらやましいっ! いや、うらめしい!」
 血を吐くような叫喚。実に自分の気持ちに正直な告白であった。確かに夏音の身体に贅肉らしきものは見当たらない。ガリではないのに、スラっとしてまるで芍薬の花のよう。
「それ以上は洒落にならないって!」
 女子生徒にひん剥かれそうな男。なんて凄絶な光景だろうか。夏音は振り払おうとするが、澪の力が強すぎてなかなか実行できないでいた。
底力というやつなのだろうが、使う場所を選ぶべきだと夏音は思った。
「澪ちゃんっ! 私は澪ちゃんの気持ちわかるよ!」
 間に割り込んできた声の主はムギだった。夏音は、その姿が暴走する王蟲を止めるナウシカのごとく。何にせよ助かったと安堵した。
「私も………○キロ……増えたから」
 本人の名誉のために伏せ字でお送りした数値に澪の瞳が大きく開かれる。夏音は、ポカン顔で「たったそれっぽっちの数値の変動」だけに女子は命をかけるのかとガチ驚愕。なんにせよ自分の被害と加減しても納得できない。
「ムギも……?」
「澪ちゃんも辛いのはわかるわ。けど、夏音くんを私たちのエゴに巻き込んだらいけないと思うの」
「うん……うん……」
 何故だかムギに後光が差している気がした。慈愛に満ちた彼女の言葉に、夏音を掴み挙げている腕の力が抜けていく。
「まるで犯罪者を説得するネゴシエイターのようだ」
 と、もちろん心にだけ思った夏音は解放された途端、澪の魔の手から抜け出した。
 はだけた服を直しつつ、しっかり距離をとってその後のムギと彼女の会話を聞いていた。
 勝手に二人だけで感動しているが、要約すると傷の舐めあいだ。
「ていうか、そんなに気になるなら運動でもすればいいんじゃないか?」
食べて動く。そんな簡単なサイクルで体重などいくらでも調整できるではないか。自分がそんな風にして生きてきたので何の迷いもなくそう言い放った夏音に二対の視線が突き刺さった。
「それができていたらこんなに悩むと思って?」
 ムギの涼やかな微笑の先に般若の面を見た気がした。
「これだから何の苦労もしていない奴は……」
 先程とは一転して思い切りこちらを見下し始めた態度をとる澪。夏音は驚いた。
 情緒不安定にも程がある。
「そんな訳で女性の敵ですよ?」
「その通りだ」
 なんと、夏音はたったこれだけのやり取りを経て、女性の敵に認定されてしまった。
「これ完全にあなた方のエゴに巻き込まれてるよね」
「周りにいる人を巻き込むもやむなし、それが私のエゴです」
「エゴとか言ったら格好がつくと思うなよ」
「それにしても夏音くんはデリカシーがなさすぎよ」
「それは………女心に疎いっていうのは言い訳だけどさ。そこまで怒ることじゃないでしょう?」
 夏音としても自分が責められるいわれはない。ムキになるのも大人げないと思い、理性的にもっていこうとしたのだが。
「はぁ~~」
 と対する二名が同時に数年分溜め込んでいたのではないかというくらい重い溜め息をつかれた。タイミングもぴったりシンクロ。
「いつか刺されるといい」
「言うに事欠いてひどくない!?」
「私たちは1キロの目盛りに左右されながら生きているのよ。少しでも気を抜いたら大事件なのよ。身体中の脂肪が反乱を起こすの」
 ひどい圧政でもしいているのだろうか。
「その割には毎日お菓子食べてんじゃ……」
「ムギの持ってくるお菓子はきちんとカロリー抑えめのものを選んでいるんだ」
「そうだったの?」
 どの辺がどう抑えられているのだろうと首をひねった。前に砂糖のかたまりみたいなのを出されたこともある。
「え、ええ……も、もちろん低カロリーを基準に選んでおりますとも!」
「なんかどもってない?」
「とにかく! 夏音くんは今後の発言に気を付けるように!」
 指をつきつけられるのは久しぶりである。何かさらっと誤魔化された感がしないでもないが、やはり反論しても意味がないと悟った夏音は大人しく引き下がった。
「わかったよ。気を付けますよ」
「わ、わかればいいのよ?」
 一件落着、誰もがほっとした瞬間であった。
 口は災いの元、というがまさにその通りだと夏音は痛感した。
 しかし、口を開かずとも災いが降りかかることもあるのが人生である。
 その場合はどうしろと? ただ災いが通り過ぎるのをじっとこらえて待つしかないのだろうか。


 どうも腑に落ちない。そんな面持ちの者が三名ほどお互いの反応を窺うように息を詰めていた。
 果たして誰が自分たちの胸の奥につかえる疑問を口にするだろうか。ただの考えすぎというには同じことが一週間続くとそう楽観視できない。
 そもそも、そこまで深刻な問題でもないのだが。こういう時、たいてい夏音がその役目を引き受けるのが常であった。この場合も例外ではなく、彼がふぅと吐息をもらしてから何気ない口調で口を開いた。
「最近なんか和菓子が多いよねー?」
 ぴく、と律の眉がはねる。しかしそんな反応などなかったように笑顔で返す。
「んー、たしかに。嫌いじゃないけどこればかりだとなー」
「和菓子もいいけど、洋菓子もねー」
「たまには生クリームとか、ねえ? 夏音しゃん?」
「そうそう。フルーツが盛り沢山のプディングとか、ねえ? 律しゃん?」
「フィナンシェとかもいいわねー」
 うふふ、と女子力を使用した会話。徐々に出力を上げていく二人。一人は明確に野郎だが。
 そこにずずっと渋茶をすすっていた唯が力無く呟いた。

「和菓子あきたー」

 あまりに率直すぎるが、まさに自分たちの心情を代弁する一言に夏音と律は口をつぐんだ。
 そう。飽きたのだ。
 この飽食の時代。舌が肥えてしまった現役高校生たちのスイーツ舌は常にフレッシュなサイクルを求めているのだ。ケーキを食ったら羊羹を。煎餅の次はプリン。ババロア。時折、パンナコッタ。ロールケーキの後にはみずみずしいゼリーを食したい。
 その欲望の流れを遮断するような和菓子のヘビーローテーションはそのような純粋な物事の流れに逆らっているといってもいい。
 その原因は言うまでもない。軽音部の茶菓子の提供者は琴吹紬その人しかいないのだから。
「ごめんなさい。最近、和菓子ばかりいただくの……」
 しゅん。眉尻を下げ、心の底からすまなそうに謝るものだから誰も言葉を返せない。
「い、いや! ムギが謝ることなんてないさ。いつもただでご馳走になっている身だしね」
「むしろ和菓子とか低カロリーで健康的だっていうしさ! ジャパニーズスイーツって海外のセレブにも人気が………ね………」
 墓穴を掘ったな馬鹿め、と夏音は蔑むような視線を固まった律に向ける。
「そうなのー。こんなに美味しいのにカロリーが低いの」
 ほんわかとした口調でムギが律の言葉に嬉しそうな反応をする。既に軽音部では、カロリーという言葉が出るだけで身の毛がよだちそうな雰囲気が発生するという。
 この常に準修羅場世界と化してしまったのはやはり先週の出来事のせいだろう。
「カロリーが低いから安心でしょ?」
 何が安心なの、とは聞けず。
 夏音、律、唯は、もしやこのままムギによる恐怖政治が始まるのではないかと、軽音部の行く末に思いを馳せては身が震える思いをしてばかりいた。
 デリケートな話題であるため、指摘しづらいのも夏音たちが口を閉ざす理由の一つであった。
 そもそも、この三人が共同体のようになっている理由もよくわからない。いつそんな絆芽生えた。
 そして、そのまま沈黙を通して練りきりを口に運ぶ三人であった。もふもふと咀嚼する。うん、最高級なのが唯一の救い。
 そして沈黙。
「ハ、ハロウィーンだ……」
「へ?」
 まさに天啓だった。ふと降りてきたその単語に夏音がふるふると震えた。夏音が突然言い放った言葉に気怠く反応したのは憔悴しきった様子の律であった。
「何言ってんの」
「そうだ! 何をやっていたんだ! もうすぐハロウィーンじゃないか!」
「おいおいー。ここは日本だぞー? ハロウィーンなんてどうせお菓子会社とかが適当に盛り上げて終わりだって」
「え、本当に?」
 異文化間のギャップがここにまた一つ浮き彫りになった。
「そうだよー」
 そんなの認められないと夏音は俄然、勢い込んだ。
「やろうぜParty!!」
 発音がネイティブなもので、もはやパーリィと聞こえる。その素敵な単語に唯の瞳が輝きつつあった。
「パ、パーリィ……その響き!!  美味しいもの食べられるの?」
「それはもう! お菓子をいやってくらい食べられるさ!」
「やりたい! 私、ハロウィーンパーリィやりたい!」
「そうか唯もやりたいか! そうとなったら計画を立てなきゃな!」
 突然生気を取り戻した二人の様子に眩しいものを見るように目を眇めていた律であったが、本来のお祭り好き性質が魂の底から浮上してきたのか、だんだんとノリ気になってきた。アクセル全開で会話に参戦する。
「そこはやっぱりパンプキンづくしでしょ!」
「タルトにパイ、ケーキにプリン!? 作っちゃおうか!」
「いいね! 材料買い込んで盛大にやろうぜー!」
奇妙な高揚感を得て、三人は異様なテンションになりつつあった。今すぐにでも扉を蹴破って買い物に出ていってしまうくらいうきうきそわそわと落ち着かない。
「ところでハロウィーンっていつ?」
「十月の終わりの日だよ」
「ってもうすぐじゃん!」
 ちなみに明後日ともいう。
「うん。家族でやろうかなって思ったんだけど、今年は二人とも無理だったんだ」
「え、毎年家族でやるものなのか?」
「俺の家はね。家族で一緒にいるようにはしていたかな」
「へー、すげーなー。改めて外国から来ているんだなって思うなー」
 そんな所に感心されても、と夏音が苦笑を浮かべているとカチャン、と陶器のぶつかる音が響く。
「ムギ?」
 湯飲みが足りないからとティーカップで緑茶を嗜んでいたムギが、同じく白磁のソーサーにの上に乱暴に置いた音である。中身が盛大にこぼれていた。
 ムギがキレた?
 誰もがそう思い戦々恐々としたが、それは杞憂に終わった。
「素敵ねーハロウィーン……私のお家、色んな催し物に招待されるけどハロウィーンパーティはないの」
 いつものムギだ。何に対しても興味津々で、その瞳には常に無邪気で好奇の光を宿している麦である。
 その無垢さこそがかえって心胆寒からしめるナニかを放っているという恐怖。
「かぼちゃのケーキなんてわくわくしちゃう!」
 そんな反応に三人は警戒を強めた。その裏に何かしらの真意があるのではないかと勘繰ってしまうのだ。
「十月の終わりだと、今週の土曜日……あさってね」
 手帳を確認して笑むムギ。一つ頷き、頬を染めた。
「よかった。何の予定もないみたい」
「む、ムギ? その日は洋菓子の祭典みたいなものですよ?」
「最高じゃないー」
 クロスカウンターで返ってくる屈託のない笑顔に、これ以上は何も言えない。
「たまには洋菓子も、ねえ………。私もいいよね……ねえ……澪ちゃん?」
「……………」
 得体の知れない悪寒にぶるりと身を震わせ、澪は気まずげに目をそらした。
 先ほどから、一瞬たりとも会話に参加していない。それどころか、存在感が欠片も感じられなかった彼女であるが、どこか様子がおかしい。引き結んだ唇はわなわなと震え、脂汗がじんわりと額を濡らしている。病院へ行くことをオススメしたくなるくらいの様相を呈している。
 しかし、その前にナニカ違和感が……。
 何であろう。澪の顔がぼんやりと……なんか、違う。何が違うのか分からないが、ナニカが………。
「澪?」
 おそるおそる夏音が澪の頬をつつく。
 ふにん。
「っ!!?」
 その瞬間に、夏音の危機回避能力的なナニカがいっせいに警鐘を鳴らした。スネークが見つかった時の比ではないレッドアラーム。その本能によって彼が全力のバックステップを決めるのにゼロコンマ一秒もかからなかった。
「お、おいどうしたんだよ夏音……」
 律は唐突に飛び退いて呆然とする夏音に面喰らいつつも、その奇行の原因らしい幼なじみを一瞥する。そして、能面のように無表情の彼女におそるおそる近づき、その二の腕に触れてみた。
「ひ、ひぃっ!」
 理解した、というより体内のシナプスが全速力でその情報を脳みそに叩き込んできた。
彼女に何があったかは定かではない。しかし、彼女の身体に物理的に起こったことはわかる。
「み、澪これッ! 軽くヤバ……ッ!?」
 彼女は今の今まで自分は無であろうとしていた。しかし幼なじみの言葉を得て、いつまでも馬耳東風を貫いてもいられなくなってきた。
「う、う………………うぅぅぅぅ」
 感涙に咽び泣いている訳では絶対にないだろう。その涙は悔悟、無念がたっぷり詰まっている。長い睫毛はびったりと涙に濡れ、両の瞳がカッと全開のまま顔面がグシャグシャいうひどい有様であった。
 曲がりなりにもクールな美少女というカテゴリに所属している秋山澪のあまりの姿。ファンクラブ会員にはとてもじゃないが見せられない。
「み、澪……お前、いつからだ……?」
というか、何で誰も気が付かなかったのだろうか。
「分からない………ケド、ヤバイと思ったのは一昨日……」
「いや、でも、そんな、まさか…………」
「だって私たちにはいつも通りに見えたぞ………?」
 そう。秋山澪は普通に見えた。細身の体躯とは言い難いが、女の子にしては身長が高い彼女はどちらかというとスレンダーな印象を他人に与える。それがちょうど一週間前に、少しふっくらしてきたかなぁーと感じたくらいで、そこまで深刻なレベルではなかったはずである。
 少しだけとがった顎、すっと通った鼻梁。照りがあってなめらかな頬にかかる黒髪は和製美人を彷彿とさせ、つり目がちの瞳が顔全体をクールな装いへと引き締める。
 しかし、現在の彼女をよく観察してみる。まず顔の外線がなめらかというより、ふくよかな丸みを帯びている。その双眸もふっくらな頬に押されているだけのように感じる。そして……なんか、太い。
 緩慢な変化につい気づくことがなかったが―――、
「…………肥えたか」
「そんな言い方はヤメテくれ~~~~~~~~~~~」
 一週間のうちにここまで身体の表面上に変化が表れるとは恐ろしい。どれだけ摂生なしに食べればここまで太れるのだろうと夏音が感心する程度のメタモルフォーゼ。そう、これはもはや変化。
「ここまで澪が体調管理できない子だったとは……」
 まったく嘆かわしいと額に手をあてる夏音に同意とうなずく唯や律もその表情に悲壮めいたものを隠さない。
「私はいったいどうすればいいんだ……………」
「いや世界の終わりみたいに言うけど、痩せればいいんじゃないか?」
「それができれば苦労しないんだよ!」
 先週も同じことを言われたが、今度はその口調にも力がない。むしろ、涙ながらにどガチで放たれるその言葉に切迫したものを感じられ、うっかりこちらの涙腺にきてしまいそうであった。夏音には彼女が言葉と共に喀血しているように見えた。
「そうは言うけれども。あなた痩せるための努力は?」
「……………まだです」
 険しく目を眇めた夏音の詰問に、超気まずそうにしれっと視線をそらした。
「アナタ、ダメネー」
「急に外人みたいに言うなよー。肥満大国から来たくせにー」
「ほう、肥満大国とな? なら肥満大国でもないのに勝手に肥満になっている人はだーれだ?」
「うぅっ………イジワルだぁ」
「ていうか。何がどうなってこうなったのさ?」



 先週の騒動後。澪とムギによってダイエット戦線が築かれていたようである(二名のみ)。その際にスイーツ条約とやらを交わし、一回のティータイムで用意できる菓子のカロリーの上限を決めていたそうだ(勝手に)。
 それだけではなく、いっそのことお互い目標の体重に戻るまで洋菓子を口にしないという約束まで結んでしまったという。しかし、日頃から誰よりも甘いものを恋い慕う澪にとっては二日で地獄のストレスとなった。
 やはり細胞レベルで我が身に染みつき、愛惜この上ないスイーツたち。その焦がれる想いは彼女を燃やし尽くさんばかりに肥大し、熱くなった結果……………彼女は砂糖の僕となったのだ。
「肥大したのは想いだけではなく脂肪。そして、いま燃やし尽くさなければならないものこそ脂肪という訳だね」
「そんな風に言わ………はい、そうです」
「ムギは我慢していたというわけだ」
「ええ、私は和菓子も大好きだから平気だったけど……澪ちゃんは条約を破ってしまったようね……」
 貴様らの間の裏切りなど知ったことか。おっとり自己弁護したところで所詮は共犯である。
 夏音は盛大に溜め息を漏らし、あきれかえった。
「なるほど………て、いうかさ? 要するに二人の問題に全力で巻き込まれている俺たちの立場はどうなの?」
 律と唯がばっと顔をあげた。言った、言ってくれたぞこの男! と勇者を仰ぎ見るようなアツイ視線が夏音に送られた。
「つまり、だ。俺たちは我慢を強いられていたわけだ。圧政に耐えていたわけだ!」
 うっ、と押し黙る両名を見て、まさに水を得た魚状態の夏音は両腕を広げて高らかに声をあげた。ついでに最高潮に高まった夏音は机の上にだんと上った。
「俺たちは甘いものを食べる権利がある! つまりハロウィーンだ! もう決めたからね俺は。テーブルには甘いもの以外乗せない! 辛いものを一切排除するんだ。そして虫歯なんて概念を捨て去り、砂糖で骨を溶かす勢いでそれを食す!」
 それはまた堪らん……と唯は溢れ出そうになる唾液を必死に嚥下する。
「ただし! そこに参加できるのはスイーツに身も心も捧げられる者のみだ! 体重だなんだと気にしてスイーツ様に背中向けようとする者に参加の資格はない!」
「!?」
 革命の狼煙は今あげられた。予想をだにしていなかった内部反乱にダイエット同盟が驚愕にくれる。
「あ、来たければ来てもいいけど。それなりの誠意を見せてもらうからね」
 夏音は怜悧な表情で二人を睥睨する。普段は爽やかな夏の空のような瞳が、今や極寒の海のような冷たさを帯びている。
 その視線にあてられて、戦慄く二人は顔を見合わせた。
「では、後日」
 スタンと机から降りてそれだけ言い残すと、颯爽と部室を去りゆく夏音。後をついて行こうか行くまいか逡巡して見せた唯と律。
 この場合の味方になるべき相手は考えるまでもなく、結果、部室には魂が抜けたようにかたまる約二名のダイエット女子が残ることになった。


 ハロウィーン当日。
「う、うわー。お姉ちゃん! 私、本当にこんな場所で料理しちゃっていいのかな!」
「無駄に広くてごめんねー憂ちゃん。たかが台所だから気兼ねなく楽しもうよ」
 せっかくの催しなので、他に誰か呼ぼうということになり、唯の妹である憂も招くことにした。誰かゲストを呼んで楽しむ、というより自分たちで準備して騒ぐのが目的なので、もちろん準備には唯や律も参加しなくてはならない。
 そうなると、日頃から姉の労働負担を減らすことを目標とする憂が黙っているはずがなかった。
 夏音が止めるも、「私も手伝います!」と言って聞かなかったのである。実に良い子だ。夏音の中で彼女の株がうなぎ登り。
 やはりハロウィーンということで、パンプキンづくしである。ケーキ、タルト、パイ、プリン、ババロア、ムース、かぼちゃのスフレロール、ブリュレ、スコーン、モンブラン、さつまいもとコラボしたキッシュ、ベーグルや鯛焼きなんてものまで。
 目白押しすぎて、なんかアレである。胸焼け確定ってことだろう。
 さすがにやり過ぎではないかと思ったが、あれだけ啖呵をきったもので後にはひけないという現状である。
「そう思っていたので、紅茶とコーヒーの取り揃えを充実しているからね」
 同じ不安を抱いていたらしい律は、夏音が見せたその茶葉とコーヒーの種類に度肝を抜かれた。
「品評会でもするつもりか……」
 はたまた「きき紅茶」でもするのかといったところか。
 しかし、当日中にすべてを準備するのは困難であるので、一人につき二品を用意してきて、残りは夏音の家で作るということになっていた。
 スポンジから作るケーキというのもなかなか本格的である。
 夏音はそこまでやろうと思っていなかったが、それを可能にするオーブンも完備してあるキッチンの噂を聞きつけた憂いが是非にも、ということだった。あくなき探求心に感服。
 というか、女子だらけのお菓子づくり。なんとも華やぎに満ちた空間であるが、ふと「これでいいのか俺」と自問自答に苦しむこともある。だが、誰もが口を揃えて「決して違和感はない」と言うだろう。それこそが問題であるのだが。
 しばらくして、夏音は自分の担当するベーグルが焼けるのを待つだけとなり、暇をもてあましてキッチンを出た。そのままリビングから玄関までの飾り付けを再び眺める。
 前日の朝から自宅をハロウィーン仕様に飾り付けていた努力もあって、なかなかの出来映えに満面の笑みでうなずいた。これは是非、誰かに見てもらわないといけない。
「さて、あの二人はどうすんのかねー」
 あれからいっこうに連絡がない。
 一応、開始時刻は伝えておいた。家にあがる時の条件も添えて。


 準備の時間はめまぐるしく過ぎ、宵が訪れる時刻となった。
 あらゆるスイーツがテーブルの上に乗り、香る極上の甘味たち。女の子の空間。スイーツパラダイスの完成であった。
 現在、唯たちはというと別の部屋でハロウィーンの衣装に着替えている。仮装して参加することが様式美であり、このパーティの大前提だという夏音による主張のためである。
 この仮装に関して、夏音は何をモチーフにしようかひたすら悩んだ。
 なにせ今までは母親が半強制的に着せたいものを彼に着せていたから、実は自分で選ぶのは今回が初めてなのだ。マザコン疑惑。
「夏音くん何ソレ変ー!!」
「び、びっくりするくらいテーマが見えない!」
「すごく……ユーモラスだと思います」
 三者三様の反応であるが、ここからどんな答えが窺えるだろうかと夏音は小首をかしげた。
「おかしいかな? 色々コラボってるんだけど……」
「その耳は?」
「狼男の耳だよ」
「そ、そもそも服装は……」
「シスターを意識している」
「その長い犬歯は?」
「ドラキュラだな」
「その尻尾は?」
「さあ……なんだろ?」

「私は夏音がよければそれでいいと思う」

 律が仏のような目で俺に微笑んだ。その表情を見てどこか腑に落ちないが、褒め言葉として夏音は受け取った。
 かく言う彼女たちはなかなか可愛い装いである。平沢姉妹は王道パターンのとんがり帽子の魔女仮装をおそろいで、律は髪をオールバックにしてでかい傷シールと頭から飛び出るネジ……フランケンシュタイン。
 しかし、クオリティが低いというか雑すぎる。
 お互いが「………………」無言の評価を下し合った。
 とりあえず記念撮影をした。


「ところで澪ちゃんたち、本当に来ないのかな?」
 開始時間まであとわずかといったところで、唯が心許なくなったのか、ふとそんなことを漏らした。
「うん……一応、誘ったんだけど」
「夏音がきつく言い過ぎたからじゃないの~?」
「とはいえ、あの時は結構キてたし……ほら、お互いにさ」
「でもあんな言い方されたら来づらいと思うけどなー。そもそも澪に至っては今さら甘いものなんて食べたら…………そんな親友の姿を見るのは辛いっ!」
「んー。一応、今日のはカロリー抑えめなんだけどな。砂糖や食材からすべて気を遣っているしさ」
 立花夏音に妥協の文字はない。
「ていうか今日の目的だって、澪たちに来てもらわないと達成しないっていうか……」
「え? そんな目的とかあったっけ?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
双方、マジ驚く。
「あ、ごめん。普通に言うの忘れていた」
「お、おいおい……」
「ていうか、かなり大事なことなんだけどさ」
 とザックバランな口調で夏音が説明をすると。
「ってそんなに重要なことを言い忘れるなーーーー!!!!」
 フランケンがキレた。



 その頃、秋山澪はごく最近に一蓮托生となった相方・琴吹紬と夜の住宅街を歩んでいた。着慣れない、というか普段なら絶対に着るはずもない服のヒラヒラした部分が風にはためく。
だいぶ日は短くなり、白い電灯が点いてからずいぶん経つ。いつもなら、この時期に感じる一年の終わりに寂寞を感じていた澪であったが、この瞬間だけは暗くてマジで助かったと安堵した。
「ね、ねえ。本当にこんな格好でいくの……?」
「え、素敵な格好じゃない?」
「は、恥ずかしいよ」
「えー? 澪ちゃん似合ってる」
「こ、こんなの似合いたくない……」
「私のも素敵よねー。これ、なんて服だったかしら」
 うきうきしている。この相方は、何故いつもこんな暢気でいられるのだろう。澪は自分の気持ちを共有してくれることを諦めた。
 二人はそんな会話を挟みながら高級住宅街と呼ばれる一角に足を踏み入れた。
 ここからは少し坂道となっている。澪は、少しの坂でも息が切れるようになった自分を情けなく感じた。
 前までは体育会系とまでは言わないが、活発に運動を嗜んでいた。言い訳にするつもりはないが、軽音部に入ってから運動するという機会が極端に減った気がした。
 かろうじて中学校まで培ったささやかな筋肉や、代謝といったものが高校生活を半年送っただけで失われていくような……。
 最近では、学校の制服もきついものがある。精神的に。何故なら少しだけ肉付きの良くなった太ももを惜しげもなくさらさなくてはならないのだ。どうしてあんなにスカートが短いのかと恨み言を漏らすことも増えた。だから最近の高校生が風紀が乱れていると言われるんだ。入学前までは、「なんて可愛い制服」と思っていたのはあくまで過去の出来事。
(私は過去を振り返らない……)
 所詮は言い訳だ。
 自堕落に日々を過ごした報い。因果応報、まだ大丈夫と思い放置していた瑕瑾はやがて大きな致命傷へとなっただけのこと。
 彼女は一週間前の「事件」以来、ずっと悲嘆にくれていた。
 ついに立花夏音はこんな自分を見限っただろうか、と。
 何せ自分たちのエゴで大切な軽音部のティータイムをぎくしゃくしたものにしてしまった。それだけではなく、澪はムギさえも裏切ったのである。
 彼女は「仕方ないわ」と許してくれたが、夏音は違ったのだ…………と思いきや。本日、自分たちは立花宅で行われるハロウィーンパーティーに招かれている。

「澪ちゃん、パーリィよ」

 だ、そうだ。ムギの訂正が入る。
 スイーツに背を向ける者に来る資格なし、とまで宣言されては足を運べるわけがない。そう思っていたのだが、夏音は奇妙な条件をこちらに提示してきた。

『以下に指定するコス……仮装をしてくるならば、参加の権利を与えよう』と。手渡された紙袋の中身を見た時は目を疑った。
「だからって、こんなの恥ずかしい……」
 暗闇にまぎれるのがこれ幸い。電灯の明かりでさえ避けて歩きたいような気分になる。
「ふふ。でも夏音くんはこれを着てこないとダメって言ってたじゃない?」
「何のつもりなのよーあの男……」
 とぼやいたところで始まらない。
 ついに自分たちは立花邸にたどり着いてしまったのだから。
「ム、ムギが押して」
「え、澪ちゃんからどうぞ?」
 インターフォンを押す役目を押しつけ合う二人であったが、いつまでもまごついていられない。近所の人の目がある。
 ピンポン。
「ハーイ?」
 インターフォン越しに聞こえたのは、ここの家主(の息子)の聞き慣れた声。
「と、トリックオアトリート!!!!」
 そして、二人は家についたらこう叫ぶようにという指示を律儀に守った。
「き、きた………ちょ、ちょっと待って!!!」
 ガチャリ、と荒々しく置かれたであろう受話器の音。何故か焦ったような夏音の様子。
 澪とムギがお互い顔を見合わせ、なんとも居心地の悪い空気を味わった。
 どんな顔をして家にあがればいいのか。
 いや、そもそもこんな格好だ。恥とか、この際どうでもいいのかもしれない。
 そんな思いに耽っていると、バタンと玄関が開いた。
「魔女っ娘キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
!!!!!!!!!」
 瞬間、目が眩む。襲ってくる怒濤のフラッシュ。
「こっちは巫女ダーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
ガトリングのように襲ってくる光の連射。
 まさに鳩が豆鉄砲くらったような顔をしていたのだろう(後日の写真を確認したら、まさにそんな感じだった)。
 驚いて言葉もない澪を見て、奇抜な仮装をした夏音が盛大にニヤニヤした。気が付けば唯や律、憂の三人もそろっていて澪たちの格好を見て口を開いていた。
「うあー澪ちゃんかわいーーー!!」
「お前らよくその格好でこれたな……」
 ムギも大きな瞳をぽかんと見開いている。そのまま視線をずらして、カメラ小僧よろしく一眼レフでフラッシュをたきまくる主催者を見やる。
「これ、これ! これが見たかったんだよね! いや、ヨカッタヨカッタ!!」
「か、夏音……その格好は!?」
「んー、よくわかんなくなった」
「この格好は!?」
「え? 黒魔女っ娘コスだけど。似合うよ?」
「似合うとかじゃなくて! ここまで来るの恥ずかしかったんだからな!」
「いやー、それも含めて………あると思います」
 羞恥プレイも嗜むのか、この男。
「ムギも似合うと思っていたんだよなー。ていうか、澪も巫女さんにしようか迷ってさー」
 澪は、いつまでも真剣にうなる目の前の男をぶん殴ろうとする衝動を必死に抑えた。
「夏音くん? 本日はお招きいただいてありがとうございます」
ムギがすらりと夏音にお辞儀をした。 そのまま顔をあげ、うかがうような表情で夏音に問うた。
「お邪魔してもよろしいかしら?」
「もちろんでございますお嬢さまがた」
 夏音は軽妙な動作でお辞儀を返し、澪とムギの手をとってエスコートしていく。
 玄関からリビングまで、ハロウィーン仕様となっている屋内。突貫作業にしては、かなり凝っているといってもいいだろう。
「う、うわ………」
 覚悟はしていた。
 テーブルの端から端まで乗っているスイーーツの数々に目がやられそうになる。
 今の自分にはあまりのも酷な光景である。
 澪の思考が、やはり夏音はこんな光景を自分に見せつけてこらしめようとしているのかもといったネガティブなものへ移行しそうになった。
「さー、全員そろったことだし始めようか!」
「夏音? 私は、その……た、食べられないん……だけど……」
 澪が神妙な口調で言うと、夏音はふっと相好を崩した。
「I know...でも気にしなーーーーい! 言ったでしょ? スイーツに背を向けてはならないって」
 確かに、言った。言われた。とはいえ、今の自分としてはスイーツを頬張りたくてもかなわないのである。これ以上の体重増加は女として堪えられない。
「今日は澪、ムギ。二人が主役なんだよ」
「え?」
思いがけない言葉に耳を疑う。ムギも同じようで、困惑した表情でいる。
「あのね、夏音くんは澪ちゃんとムギちゃんのためにこのパーリィを計画したんだよ」
夏音の言ったことに首肯して唯が前に出て説明を加えた。
「本日をもってして、明日以降、澪とムギが痩せるまで軽音部は甘いものを我慢することをここに誓います!!」
「ちかいまーす」
 夏音の宣誓に、きわめてノリ気な声と、そうではない声が後に続いた。
「ど、どういうこと?」
澪は事態についていけず、狼狽を隠せない。
「つまりさ。俺たちは仲間じゃないか? ティータイムしている時、隣で我慢している仲間がいるのに平然としていられないんだ。だから、澪とムギが納得できる体重に戻るまでは俺たちも断スイーツを決行することにしたのだよ」
「夏音くん……」
 そんな夏音の説明はあまりに荒唐無稽。そんな義理はないのだ。それがわかりきっているムギは震える声を出せずにいた。
 澪はふらっとその場に崩れ倒れそうになった。
 何てことだろう。そんな馬鹿な話があるはずがない。肥えたのは自分自身。脂肪貯金を一季に引き下ろしたのも自分だというのに、目の前の仲間たちは私と同じ苦しみを味わおうという。そんなことをする必要がないのに。
「だから、今日は遠慮しないで好きなだけ甘い物食べようよ。いやってほど食べて、死ぬほど胸やけして『もう甘いものいーや』ってなろう。それで痩せた後に『やっぱり甘いものないと生きていけないの!』ってなればいいじゃん? それって背を向けるっていうか、また後で目一杯楽しむためなんだから、ある意味前を向いてるってことじゃないかな」
 優しさが燃えるようにいたい。傷に沁みて、情けないくらいにいたい。
 気が付けば、澪の眦から涙がこぼれていた。
 仲間に想われることの暖かさと切なさが胸をいっぱいにさせる。
「あ、ありがとうみんな………」
 ふと澪はムギと顔を合わせると、隣の彼女も涙ぐんで笑んでいた。
「私たち絶対痩せる! 早くみんなとお菓子食べれるように!」
「がんばれよ二人とも」
「がんばってね!」
「応援してます!」
 一同は二人の宣言を受け入れた。二人のダイエット戦士の誓いを、その胸に刻み込む。彼女達ならできるはず、と。

「じゃ、始めようか?」
今夜はハロウィーン。楽しい楽しいパーティの始まりである。

「ここで死んでもいい……!!」
「このために生きているの!」
 極上のスイーツに囲まれ、感涙に咽ぶ澪とムギの幸せな姿。口いっぱいにスイーツを詰め込む彼女達はこの世の幸福を凝縮したような笑顔を見せた。
 これより三週間―――夏音立花プロデュース・地獄のダイエット生活プログラムを終了するその時までに確認された二人の最後の心よりの笑顔であったという。
 結局、彼女達は二人だけで用意された菓子の半分を消化してしまった。どれだけ砂糖に飢えていたかが如実に表れた結果であった。


 パーティの片付けが終わり、皆は一斉に夏音の家を後にした。
 ハロウィーンの飾り付けはまだ残しておいてもいいくらい愛着を抱いてしまった。今日は疲れているし、二、三にちくらいはこのままでいいだろうと夏音はうなずく。
「Zonked out...」
 糞疲れたー、と仕事終わりのサラリーマンみたいにソファに寝転ぶ。
 そのまま淡い微睡みに身を寄せようかと思ったところに、宅電が鳴り響く。
 一人しかいないリビングに電話の音はけたたましく響く。
 まるで誰もいないんだ、と家中に人が居ないことを確認していかのように空気を揺らしている。
 だが、自宅にかけてくる相手は限られている。
 夏音は重い身体を奮い立たせ、受話器をとった。
「Hello」
『Hi, honey?』
母である。
『夏音ーー!! トリックオアトリート!!!』
父である。

「父さん母さんいっせいに受話器で喋らないでよ」
いったい向こうはどんな状態なのだ。
「とりあえず父さんはすっこんでいてくれないかな?」
『ひ、ひどいぞ息子!?』
「酔っ払っているのわかるからねー?」
 受話器から漏れる息づかいが一人分減った気がした。
『今日は一緒にいられなくてごめんなさいね?』
「べつにー平気だよ」
『なんだか楽しそう。お友達と一緒だったの?』
「あ、わかる? すごいね」
『トーゼンでしょ。なんだか満ち足りている声。あなたの声を聞けば、どんな状態が一発でわかるに決まっているじゃない』
 息子だもの、と姿には見えないが胸を張っているだろうこの母親には敵わない、と夏音は思う。
『ところで夏音? 積もる話はあるんだけど、少し大事な話があるの』
「大事って……どれくらい? たいていそう言われる時は良いことないんだよね」
『ううん……あの……ちょっぴりよ?』
「母さんのちょっぴりが信用できない」
『ひ、ひどいわ夏音っ!! だいたい何っ? ママって呼びなさいよ!』
「ハイハイ。わかったから、教えてよ」
『むぅ…………あのね、あえて一言でまとめるからよく聞いておいてね』
「一言でトンデモネーのがきそう……どうぞ」
『マークに住所バレちゃった♪』
「そいつは…Mom....」
『じゃ、そういうことで』
「洒落になんねーぞ母さん!!!」
『アルヴィを責めちゃやーよー。ジョージも何にも悪くないの。クリスが全部悪いからね。そういうことに決めたの』
「ヘイ、何がどうなってそうなった?」
『私はこれ以上は……まぁ、あしからず』
「いや、ちょっ……母さん!?」
『愛してるわカヌーちゃんファイト♪』
「その愛称はやめてったら……!」
 ガチャリ。
 心優しい母親は無情にも電話をぶつ切った。
 夏音は母親のあまりの身勝手な振る舞いはこの際気にしなかった。今に始まったことではない。
「マークがくる……だと」
 戦慄がはしった。
「むしろ、崩壊の序曲?」
 そんな気分で過ごす秋の夜長はどこかうすら寒かった。



 ※何というか、幕間に含めてもいいような内容。けいおんって季節が一気に飛ぶから、間に何か挟みたいなと思ったのです。つなぎ、的に。
 原作に金髪碧眼キャラが出てきて、若干たじろいでおります。



[26404] 第十四話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/13 00:17


 冬、枯れ果てた季節。眠りの季節。実りを待つ季節。秋が終わり春が訪れるまでのっしりと居座る彼の季節はこれがまたけっこう嫌われ者だったりする。それでも、なんだかんだ必要だから付き合う。本当のところ、嫌いではない人が多いのではないだろうか。

「俺はあの澄んだ空気とか好きだけどなー」
 軽音部の一同は、これから来る厳しい季節についての話題で盛り上がっていた。彼女達がいるのは暖房をがんがんと焚いた校舎の一角にある軽音部の部室。ぬくぬくの室内とは反対に外の風景はすっかり寒々しい。
 厚く空を覆う雲は太陽の日差しを阻み、紫外線をよりいっそう強く地表にお届けするのに貢献している。だから、意外にもこの時期こそ入念な肌の手入れが必要であったりする。
「でも外で遊ぶのもしんどくなるし、ずっと家に引きこもっちゃうよなー」
「そうなるとますます私にかかる重力が増してしまう……」
「いや重力は増さないから。増すのは澪の体重だけ」
 すべてに平等に1G。重力のせいにしてはならない。
「雪降らないかなー」
 一人、そんな会話の輪から外れて窓辺から空を見上げていた唯が、「待て」をくらった犬みたいな表情でそんな一言を漏らした。残念ながらその期待に満ちた両の瞳に雪が映ることはない。
「北海道や東北ではもう雪が積もってるんですってー」
 ケーキも食べ尽くし、手持ち無沙汰の状態でカップをいじっていた夏音におかわりを勧めながら、ムギが今朝ニュースになっていたと語った。
 何でも去年は初雪も遅かったばかりでなく、降雪量も激減だったそうだが、今年はその利子を返済されたような豪雪の被害がひどいそうだ。そこに住んでいる住民からすれば、まったく迷惑な話に違いない。
 へぇー、と何心なく聞いていた夏音は、そういえば自分が住んでいた場所はあまり雪が降らなかったなと思い返した。それと同時に、随分と向こうに帰っていないものだと思う。
 あの季候、日本のとはまったく違うあの空気を触れないで久しい。
 思えば一年半も日本にいるのだと感慨深く溜め息をついた。
「雪ねえ。去年は見なかったなあ」
「あ、そっか。夏音は去年も日本にいたんだよなー」
「うん。ちょうどこの時期にさ、あまりに寒いから草津の方でずっと温泉入りながらのんびりしてたんだ。ベース片手に一人旅ってやつ」
「草津!? 温泉!? なんだその悠々暮らし! セレブか!」
 普段あまり自分と縁のない言葉に律が憤然と立ち上がった。去年の今頃といえば、自分は受験のために勉強漬けだったというもので、羨ましいことこの上ない話だ。
「ふふん。あぁ日本って素晴らしいって思った瞬間だったですのー」
「素敵ねー。その時はご家族と一緒に行ったの?」
「いや、ひとりだけど……」
 しんと部室に閑かな空気が流れる。この男は、たまにこういう空気をもたらすので注意が必要である。
「ねーねー。こないだせっかくの三連休だからどこか遊びに行きたいねって話してたよねー!」
「ああ、そういえばそんなことで盛り上がったな」
 主にお祭り好きの律と唯が中心となっていた。澪はまったく関心ないフリをしながらもしっかりと耳をそばだてていたその内容を思い出す。
「うっ……」
 そして、ちょうどあの時。その瞬間を思い出すという事はあの地獄のダイエットの日々を思い出す事と同義であった。澪はあまりの凄絶な記憶に胃液がこみあげそうになるのをおさえた。
「それでね! どこ行こうかずっと考えてたんだけど、温泉とかいいんじゃないかと思うのです!」
 バーン、と皆の前に躍り出た唯に夏音はふぅ、と溜め息をついた。
「タイムリーというか、単純というか……」
「影響されやすいからなー唯は」
 自分の提案が完璧であることをみじんも疑っていない唯は自信に満ちあふれた表情でどうだと視線をよこす。その中で一人、澪が小さな声でぼやいた。
「温泉……かあ」
ふいに表情が曇った澪の反応を見た夏音が意外そうに彼女に訊ねた。
「澪は温泉きらいな人?」
「い、いやそうじゃないけど……人前で、その………のは……」
「ん? よく聞こえなかった」
「人前で裸になるのに抵抗があるというか……」
「そんなこと言ってたら温泉なんて入れないじゃないか」
 夏音はさすがに呆れた表情で澪を見詰める。彼女が恥ずかしがり屋なのは周知の事実だったがそこまでとは思わない。しかし、そんなことより夏音は彼女の言葉に違和感を覚えた。
「ん? ていうか合宿でみんなとお風呂入ってたよね?」
 あの時の犠牲を忘れてなるものか、と夏音はぎらりと瞳を光らせた。
「い、いや……あの時は良かったけど」
「あぁーそうか。澪、まだ気にしてるんだ」
「だ、だから別にそういうのを気にしているわけじゃ……」
「そういうのってどういうのー?」
 にやにやと意地をついた夏音の質問に澪はぷいっと顔をそらした。頬を膨らまし、もう夏音の方など見るもんかと決意するかのように体ごとそらす。澪の反応をうかがって噴き出した夏音はおどけるように肩をすくめた。
「すねちゃった」
「今のは夏音くんが悪いわよ」
 横からつん、とムギが責める。責めるといっても、その声音は冗談めいた色を含んでいる。かの騒動があった後、何だかんだと夏音のおかげで目標としていた体重に到達したことで彼女には絶対的な余裕が生じていたのだ。
 もはや自分の精神は体重の話題だろうと動じないのだ、と。
「澪はもう痩せたんだから大丈夫だよ」
「ツーン………」
 あ、無視されたと軽くムカっときた夏音である。
「おーい秋肥りの秋山さん」
 秋をかけた二つ名のように彼女を呼んでみた。
「も、もう肥ってない!」
「じゃあ、元秋肥りの秋山さん」
 あくまで意地の悪い夏音に「うぅ~」と唇を噛みしめ、涙目になる澪。自分の提案で何故か修羅場が形成されつつある、とそれまで事態をぽかんと傍観していた唯は慌てた。
「夏音くんそれはひどいよ!」
「ゆ、唯ぃ……」
 珍しく自分を擁護してくれる人物(それが唯であろうと)に涙を浮かべて寄り添う澪であった。
「澪ちゃんはもう痩せたんだから! 脱いでもすごい澪ちゃんなんだよ!」
 いや、それはどうだろうと誰もが口にしかけた。その表現は色々誤解を生む気がする。
「夏音くんは澪ちゃんのプロポーションを生で見たことがないからわからないんだね!」
 唯の一言に夏音の目がキランと鋭く光る。
「いや、前に水着姿でしっかりと確認したよ。わがままNice bodyだよね」
 その両目と魂にしっかりと刻み込んだ思い出の一幕。
「な、何を言っているんだ夏音! ふ、ふ、ふ、不埒な……っ」
「で、でも夏音くんはその先を知らないんだよね」
 知ってたまるか、と夏音は手をあげた。降参のポーズである。
「別に俺は澪の身体が太まっているなんて言っていないだろう?」
「ふ、ふとまっ……そんな日本語はない!」
「ていうかー。あれだけダイエット頑張ったんだから自信もちなよ」「で、でも………」
「とりあえず澪の意見はすべて却下ね」
「んなっ」
 その事に反対する者もいなかったので、そんな流れに。
「ていうか温泉って近くにあるのか?」
 初めて律が建設的な意見を口にした。たしかに、この近くにある天然温泉の噂など聞いたことがない。夏音がすぐに携帯で検索しても、いまいちヒットしない。
「銭湯? ていうのならあるんだけど……違うよね?」
「あ、私はそれもいいと思います!」
 急に弾んだ口調でムギが手をあげた。とはいえ、夏音は「銭湯」というものがよく分からない。アニメなどで出てくる時があるが、温泉とどう違うのかまでは知識になかった。
 それにムギからしてみれば、銭湯なんてもっとも縁遠い物の一つだろう。ただ、わざわざ銭湯に入りにいくのに友達同士で行く必要などない。
「やっぱり少しくらい遠出する必要があるかもなー」
 家に温泉マップがあったなぁ、と言う律に夏音は眉をひそめた。
「もしかして、また俺が車を出さなくてはならないのかな?」
 一瞬、明確な間を挟んでから「いや、バスとかもあるだろうしねー」と律がしどろもどろに答えた。これは絶対にそのつもりだったな、と夏音は確信した。
 その他の人間はしれっとした顔でお茶をすする。わざとらしい。はっきりと顔に書いてあるのだ。「せっかくアシがあるんだしさー」と。
 別に軽音部でどこかへ遊びに行く時にいつも夏音が車を出すわけではない。しかし、高校生にとって遊ぶための交通費というのは絶妙に懐を痛めるやっかいなものである。できれば移動のためのお金は抑えるにこしたことはないのが本音であった。
 実際、夏音が車を持っていること判明してから、使えるものは親でも使うべしという考えのもと、彼女たちの顔には、はっきりとドライバーを所望する輝きが表れるのである。こう、度々と。
 もちろん車にだってガソリン代などの費用がかかるし、特に夏音の持つ大型ワゴンのガソリン代は満タンで入れるとなると彼女たちのお小遣いの額など軽く超えるだろう。
 そうはいっても、彼女たち自身は運転することや車についての了見が浅いのか、これといって気にする様子はない。
 夏音はそういった気が回るようになるのは実際に自分で車を運転してからなのだろうかと時折悲しくなる。夏音はそんな彼女達もいつかわかればいい、と自分を納得させている。
「ま、いいけど。近くだったら横須賀か、奥多摩………草津とか? どちらにしろ、日帰りはいやだな」
「草津がいい」
 やけにきっぱりと律が言った。その瞳にはありありと期待の色が滲んでいる。
「別にいいけど、なんで草津?」
「草津って名前だけ有名だけど、一度も行ったことないからな」
 そんなものか、と夏音は頷いた。
「みんなはどうなの?」
 一応ぐるっと見回して他の意見を得ようとする。反対票もなく、あっさりと草津行きが決まった。
 同時に草津まで運転することが決まった夏音は密かに嘆息した。
 今月の第三土曜日からの三連休。勤労感謝の日が月曜に来て、いい具合に連休となった場合はどこのレジャー施設も人で賑わうだろうから、渋滞が心配である。
「それで予算はどうする?」
「そうだな。草津だと宿泊費用ってどれくらいかかるんだろう」
 そこで具体的に費用について考えるのがしっかり者の澪である。流されてすでに温泉行きを諦めている様子であった。
「俺は素泊まりで泊まったんだ。料理も好きだし、好きな時に食べて好きな時に寝て、好きな時に温泉に入る……最高だなぁ」
「すでにオッサンの域だな……」
 律が軽口を叩くが、夏音は無視した。別になんと言われようとかまわないのだ。ダラダラしたい奴には最高の生活ではないか。
「そうだなー。一泊か二泊したところで素泊まりだと四、五千円かな。食事を何とかするとして、合計で七千円には収まるかな」
 夏音が利用した宿は特別安いわけでもなかったが、ふらふら歩いていたら破格の値段で提供している安宿などもぼちぼち目にした。
「いっそのこと宿泊費も何とかなったらなー。あームギとか別荘持ってたりしないよなー?」
 さすがの琴吹家でも、草津に別荘はないだろう。
 冗談口に笑い飛ばした律であったが「確かあったと思うけど…………どうだったかしら」と額に手をあてたムギに一同はそろって口をあんぐり開けたままフリーズした。
 ちょっと待ってね、とムギは席を離れた場所でどこぞへと電話をかける。その連絡先は想像に難くないが、一同は息をつめてそれを見守った。
「はい……はい……ありがとうございます」
 はっきりとそう聞こえた後、電話を切ったムギは振り返ってにっこりと笑った。




「いやー完全に遊びに行くだけってのもイイよなー!」
 と後部座席にふんぞり返った律が言った。つづいてバリボリとスナック菓子を咀嚼する音。
「ほれ、夏音よ」
 後ろからにょきっと生えてきた手にはイチゴ味のポッキーが。
「Thanks」
 若干ぶすっとした表情だった夏音は一瞬だけ前方から目を離してポッキーにかじりついた。イチゴ味、初めて食べる味であった。というより、お菓子を食べるのはいいが、ぼろぼろとこぼさないで欲しかった。
 後で掃除するのは夏音なのだ。
 基本的に法定速度を守らないドライバーである夏音だが、関越をぶっ飛ばして、やっと渋川伊香保のICを通過した所まで来ていた。
 万が一、渋滞に捕まることを懸念していたものの、この流れだと予定していた時間よりだいぶ早く到着できそうであった。
 目指すは琴吹家の別荘地。ムギの父親が温泉好きだったことで、全国で三つの温泉地に別荘があるらしい。北は登別。南は指宿。思えば、海辺の別荘でさえ風呂の設備が充実していたくらいだ。
 要するに、夏音とムギ以外は交通費も宿泊費も諸々かからずに草津温泉が楽しめるというどれだけ幸運に恵まれているのかというラッキーガールだということだ。
 別に請求するつもりは毛ほどもなかったが、流石に高速代くらいは出そうとするだろうかと期待していた夏音だったが、ETCという便利なアイテムのおかげで完全にスルーされた。
 ふと彼女たちの将来が心配になった夏音であった。
 ムギの別荘が使えるということでチェックインの時間を気にしなくても良くなったので、あえて道が混まない時間帯を選んで夜に出発することになった。
 金曜日の夜に出発して、日曜日の夕方に帰るというプランである。二泊三日で四千円にまるまる収まると聞いた時には目を剥いてしまった。
 実に贅沢な連休である。全国のサラリーマンに祟り殺されてしまいそうなくらいの充実。
「おっんせーん♪ おっんせーん♪」
 唯は途中に三十分くらい寝ていたが、起き出してからはまたテンションメーターを急上昇させ始めた。
「草津良いとこ一度はおいで~♪」「どっこいしょ」「あ、そーれ」
 皆が楽しいのであればいいんだもん、と夏音は諦観の境地に突入していた。
「夏音。さっき買ったミルクティーでも飲む?」
 助手席に座った澪がビニール袋をガサゴソと取り出す。どうやら先程の休憩で停まったSAで買っておいてくれたらしい。
「助かるよ。ありがと!」
 まったく気が利く娘だとうなってしまった。夏音が実はコーヒーが苦手だということも考慮してくれている。それに比べて後ろの三人はずっと浮かれ騒いでいるだけだというのに。愛弟子の出来に夏音は少しほろりとしてしまった。
 澪が助手席に座ったのは、何だかんだとメンバーの中で一番この車に乗る機会が多い(レッスンの時に家まで送るため)彼女が助手席に慣れすぎていたからであった。
 何の疑問もなくさらっと助手席に乗り込み、さらには空調の調整やら常にオプションで差し込まれているiPodをいじったり、あまりにそれらの行為をナチュラルにこなす彼女は当然のごとく目敏さに定評がある律に突っ込まれた。
 傍目から見てもたじたじになり「いや、何となく……音楽がさ……必要じゃない……」とモゴモゴ言うのみの澪の顔は真っ赤であった。気が動転した彼女がかけたのはメガデスだった。
 何故だか夏音も気まずくなるというものだった。あの空気は何だったのだろうと思い返しかけて、やめた。


「流石にこの時間からになると、今日は別荘の温泉だけだなー。明日は外湯めぐりとしゃれこみますかねー」
 うふふ、と律がガイドブックを眺めて言う。
「りっちゃん隊員! 温泉まんじゅうも逃せませんぞー」
 旅行が決まってから何回も繰り返されるこのやり取りに、どれだけ楽しみだ、と夏音は苦笑した。
「ガイドブックに載っていないところも知っているからつれていってやるよ」
「ほんとかー!? すげーな夏音!」
「ダテに一ヶ月もいなかったからな」
「ぶふぅっ!? そんなにいたのか!?」
 思わずお菓子を噴き出した律は「車を汚すな!」と夏音に叱られた。

「つ、ついた~」
 途中からカーナビに加えてムギの指示で車を動かし、山を少し登った所に別荘はあった。温泉街の景観を横目に通り過ぎ、ぐいぐいと奥地に進んでいった先。草津の中でも、特に奥地といった具合でこれは期待が大きいと誰もが胸をときめかせた。
「お疲れさまですー。いつもごめんね夏音くん」
 ムギが伸びをして体をほぐしている夏音に申し訳なさそうに言う。だが、そんなことはお互いさまであったので、気にするなと笑顔で返した。
「むしろムギのおかげでずいぶんと楽しい思いをさせてもらっているよ」
「ううん。それは私じゃなくて父のおかげ。私は何もしてないから……」
 台詞に反して、その言い方に卑屈な含みは感じられなかった。彼女は純粋に父親のことを尊敬しているようだし、自分の家がもつ威光に斜に構えている訳でもない。これは謙虚、という美徳。
「うん。でもムギがいないとだめだったからね。ありがと」
 それでも筋を通すべきだと夏音は相手が気負わなくていいような軽い口調で礼を言った。
「ふふ、どういたしまして」
 夏音はそう言って嬉しそうに目を細めたムギの横を通って別荘の玄関口まで荷物を運んだ。
「なんか旅館みたいだな……」
 一同は古色蒼然とした純和風の温泉旅館、といった体の建物に目を見張った。照明も明るすぎない、伝統的な和紙を使用した提灯の明かり程度。
 全部がそうではないだろうが入り口の雰囲気で、古きよき湯屋の趣を醸し出している。
「なかなか良い雰囲気だね」
「実は私もここに来るのは初めてなの」
「え、そうなの?」
 別荘の持ち腐れではないか。
「そうなの。でも、素敵ねー」
 そうやって建物を見上げるムギは心の底から嬉しそうだった。そうこうしているうちに、律と唯は玄関口からあがりこんでいた。
 中には琴吹家から管理を任命されている富岡という人の善さそうな初老の男性が待っていて、ほとんどの設備を使えるようにしてあると説明した。
 浴場の掃除も済んでおり、二十四時間入り放題だが、火傷には気を付けるようにとのこと。
 さらにその他諸々の注意点を話し終えた彼は「じゃ、ごゆっくり」と帰っていった。

 と放り出されたものの、これだけ広い建物である。まずは何があるか把握しなくてはならない。とりあえず居間に荷物を置いて、建物内を確認しようかと思ったが―――、
「うわーーすっげぇーーーっ! 露天風呂だぁーー!!」
「広いよりっちゃーん! 泳げるね!」
 探検隊がさっそく浴場を発見したようであった。
「まったく、うるさいヤツらだな……」
 ヤレヤレ、と言いながらもぐんと歩む速度があがった澪を見てムギがくすくすと笑った。彼女が草津に入ってからずっと隣でそわそわしていたのはバレバレである。
「ま、浴場は後で見るとして。暖房とかはどうなってるんだろう?」
「ボイラー室もあるけど、今はほとんど電気で管理しているんだって」
 つまり、こんな風格のある老練された建物でもオール電化住宅への一途を進んでいるらしい
「じゃ、あの立派な囲炉裏は?」
「使えないこともないと思うけど……」
 とムギは困ったように眉尻を下げた。
「まあ、様式美と機能美を両立することは難しいということか」
 一応すべて実用品らしいが、それを活かせるスキルがないのではどうしようもない。それでも日本の古式ゆかしい生活品に興味があった夏音としては気落ちするのも仕方がないことであった。
「おーい夏音来てみろよー。すごいぞお風呂!」
「こーんのミイラとりさん!」
 すっかり興奮した様子で居間に戻ってきた澪に対して、夏音はビシっと突っ込んだ。くふっと横でムギが噴き出した。

一日目―――、長距離の運転でへとへとに疲れた夏音が風呂に入り逃すことで終わる。


「あぁ~~~いい。いいよ、これー」
 変な時間に目覚めた夏音は朝日がのぼる直前に温泉を堪能していた。夜中過ぎに起きた彼は最高潮に不機嫌であった。
歯磨きもできなければ、風呂にも入れなかった。暖房が弱々しく動いていたおかげで、風邪をひかなかったのが救いだ。
 彼は外見を見事に裏切るような口汚い言葉を吐きながら、ふらふらと廊下に出た。
 トイレを探して閑とした廊下を彷徨っていると、妙な音が聞こえたのでそちらに足を向けたら、浴場があったのだ。


「朝日を拝みながら朝風呂ってのもクールだねー」
 天然の露天風呂。岩づくりの広い浴槽は源泉掛け流し状態で、常に滝のように湯が流れこんでいる。外気が冷えているので、温泉の蒸気が見事な湯けむりになって辺りを覆っていた。
 夏音はそんな神秘的な空間に射しこむ朝の清浄な光を満喫している最中であった。
 こんな時間に誰も来ないだろうとタカをくくり、完全に一人くつろぎモード。心を完全なるオープン状態へと解き放っていた。しかし、そんな時に限って上手くはいかない。オプチミストには優しくないのが現実というもの。
「あら、誰かいるの?」
 そんな矢先にふいにかけられた声に、夏音はザバンッとお湯に沈み込んだ。思わず溺れかけたのは不可抗力だ。
ほんわか間延びした透明な声。まぎれもないあの子である。
「ム、ムギ!? どうして!?」
 水面に顔を出すと、濃い湯気の向こうに人影が見える。つまり、いるのだ……夏音以外の人間が。つまり、その姿をこの場所で拝んではいけない異性が。
 ゴクリ、とツバを呑み込む。
「もしかして夏音くん?」
 ざばざばと取り乱している夏音とは裏腹に、のんびりと悠々たる調子でムギが声をかけてくる。湯気が立ちこめているので、お互いの姿ははっきりとは見えないが、彼女も一糸まとわずという訳ではないようだ。まだギリギリセーフの段階である。
「脱衣所で俺の服みなかったの!?」
 男女の区別のない浴場だから、ムギが入ってくるのも不思議ではないが―――気づけよ。
「あれ、そういえば夏音くんのお洋服だったのねー。すっかり忘れちゃってたのね」
 あくまでも、のほほんとした態度を崩さない。暢気にも程があると夏音は憤慨した。
「と、とりあえず脱衣所に戻ってくれると嬉しい。そして、俺の着替えを待っていてくれないかな!」
 ちゃぷん。
「失礼しまーす」
「もーぅ何やってんのこの娘はー!」
 夏音が視線を落として狼狽えている隙に、ムギが岩で固められた同じ浴槽に入ってきた。
「マナー違反だけど、見逃してね」
「いやタオル入れたままお湯に浸かるとかはどうでもよくて! いや、見えていないけどね」
 何故、朝からこんなに血圧を上げなくてはならないのか。自分は基本的に低血圧で、朝に二行以上の台詞を吐きたくないし、ましてや怒鳴りたくなんてないのだ。現状、心臓は途方もない速さのBPMで動いている。だって男の子だもん。
「ムギさん。あなた年頃の娘でしょうよ」
「えーと……ちょっと恥ずかしいけど。夏音くんだったら平気な気がして………」
「そんな根拠のない信頼を置かれても……」
 身に余る光栄だが、この少女は少しは人を疑った方がいいと夏音は心配になった。男というのは総じて異性をエロイ目で見るもので、何より自分もそんな男である。
 しかしムギは完全に腰を下ろし、おどけた口調で「まーまー。いいじゃないですかー」とか言っている。
 こんな警戒レベルだと将来痛い目に遭ってしまうかもしれない。
(あ、わかった。男って意識されてないんだ)
 自然と導き出された答えに肩を落とした。
 入ってきてしまったものは仕方がない、と諦めて一緒にまったりすることにした。顔を半分だけ鎮めてぶくぶくと泡を立てていると、ムギが「んー」と伸びをする。
「綺麗ねー」
「うん。湯けむりに朝陽が射し込んでくるのがまた風情があるよね」
「うふふ、すごいのね。夏音くんたら風情なんて知っているんだー」
 夏音の日本人度(命名・律)の高さがムギのツボにはまってしまったらしい。気品を失わない程度に身を震わせて笑っているのが伝わる。
 馬鹿にされた訳ではないとわかるので、夏音もつられて頬をゆるめた。夏音はムギの笑いのツボが最近になって把握できるようになってきたなと感無量である。思えば半年以上も彼女たちと過ごしているのだと嬉しい溜め息が出た。ふぅーって出た。
「夏音くんたらおかしいの……っ! お、おじさんみたい……っ」
 長い溜め息を、オッサンの歎声と例えられるのも哀しい話である。彼女が体を動かす度に夏音はどぎまぎとする。近くにいればお互いの顔が確認できる程度の視界が助かった。
 近くにいなければあまり意識をしなくても平気。ムギは声だけの存在。いわばエコー。
「どうして夏音くんの髪ってこんなに綺麗なのかしら」
「近っ!?」
 よもや接触されていた。ついでに頭も洗おうと解いていた髪の毛をひとすくいされる。
「綺麗な色よねー。あれ、根本のところが……?」
 借りてきたネコのように大人しく髪を触らせていた夏音は「ああ?」と呻いた。
「この色は地毛じゃないからね」
「え、そうなの?」
「本当はブロンドなんだ」
「えーそれも見てみたい!」
「えー黒髪でもいいじゃないか」
「黒髪もいいけど……もしかして小マメに染め直しているの?」
髪だけではない、眉毛に……睫毛もだ。時折ムギが夏音の顔をじっと眺めた時に感じた違和感の正体はこれだ。
 しかし、それは想像するにとんでもない手間がかかるはず。
「ん。ま、ね……」
 急に歯切れが悪くなった夏音につられたように黙ったムギは髪の毛をいじくる手を休めて、出すべき言葉を彷徨わせた。
 おそらく理由が、あるのだ。軽く踏み入れることができないもの。
「ごめんなさい。気に障ったかしら」
「別に………向こうじゃ誰でも染めてたからね。俺も黒いのが好きだから染めてるだけ」
「そう、なの……?」
「ムギの髪は染めてないんだろ?」
 今は濡れないようにアップにしているその髪。ムギの髪はブロンドというには明るさが抑えめ、ただ地毛というには明るすぎるような黄金色と栗色の中間といった色合いだ。
 染めているかそうでないかは目を凝らしてみればわかるもので、夏音にはそれが彼女の地毛だという認識があった。
「うん……母方の血筋がね……」
 立場が逆転してしまった、と今度はムギが口ごもり、まごまごしだした。
「俺はムギの髪のほうが綺麗だと思うな」
「あ、ありがとうー。あ、夏音くんもブロンドだったらお揃いみたいでよかったのにね!」
「ふふ、そうかもね。でも日本人って何で髪の色なんて気にするんだろうなー」
「うん、まるで馬鹿みたい」
 普段の彼女を知っている者からすれば、思いがけないほど厳しい口調だった。まるで知らずのうちに本音が漏れてしまったみたいに。
 湯気は相変わらずもくもくと浴場に充満している。夏音は長くお湯に浸かりすぎたのか、若干のぼせてきたのを感じた。
 互いにふぅ、と息をついた。
 言葉にしなくても、お互いが察してしまった。言葉を超えたところで痛い共感が胸に突き刺さり、気まずい空気が流れる。
「さて。少し長く浸かりすぎたかな。俺は先に出るからムギはゆっくり温まっておいでよ」
 タオルを引き寄せ、しっかりと体に巻き付けた夏音はじゃぶんとお湯を出た。
「え、ええ。また後でね」
「おぉ、ひとっ風呂浴びたし二度寝でもするかなー」
 と余裕を吹かせたものの、風呂を出た途端に十一月の冷たい空気に晒された身体が急速に冷えてしまった。
 夏音は足早に室内に戻り、熱めのシャワーを浴びてから脱衣所の衣服を急いで着こんだ。ドライヤーで長い髪を乾かし、乱暴に櫛を通す。何となく、一刻も早くこの部屋から出た方がいいと勘が働いた。
 その勘は見事に当たり、風呂を出た瞬間に寝ぼけ眼の唯に遭遇してしまった。

 ぎくっと心臓が飛び跳ねた。

「あひゃ~、かのんくん……ぷーりん……へるす……まいこぉ……いぇー」
 目の前の夏音をきちんと認識しているのか怪しいが、どうやら半覚醒状態らしかった。謎の呪文を唱えながらふらふらとした足取りで廊下の先へ消えていった。
 ほっと胸をなで下ろしてそれを見送った夏音は、背中に嫌な汗をかいてしまったと顔をしかめた。
「まあ、温泉はいくらでも入れるからいいか」
 とりあえず二度目の惰眠をむさぼるために、居間へと向かった。


「夏音はまだ起きないのか?」
「まだソファで寝てたよ。よっぽど疲れたのかなー?」
「あ、醤油とって」「はーい」「それみりん」
「まあ、遅くまで運転させちゃったしな……」
「なんだ澪~? 自分の作った味噌汁を早く飲んでもらいたいのかー?」
「ち、違うっ! そういう事で茶化すなアホ律っ!」
 わいわいと騒がしい調理場には朝餉の芳香が漂っている。
 食事に関しては、完全に自給自足することになっていたので、事前に買い込んでおいた食材を分担して調理しているのだ。
「オハヨー」
 眠気まなこをこすって夏音が起きてきたのは、食卓にひと揃い並んだ後だった。
「相変わらず朝に弱いな……」
 髪の毛ごとソーセージをもふもふと咀嚼している夏音を見て律が呆然と半ば呆れたように呟いた。
しかし、それが夏音クオリティ。

 午前中からは全員が自由に温泉をまわる時間となっている。草津に散らばる多くの外湯をまわるだけまわるのだ。
 湯当たりしてしまわない程度にさっとあがればいくら梯子しても案外へっちゃらなのだ。
 とりあえずみんなで湯畑を見て、饅頭や煎餅の試食にありついたりしてから、各自で行きたい所へ散らばった。


 夏音は以前に滞在した時にすべての外湯をまわり尽くした男である。さて、今回はどこに行こうものかと首をひねっていたところ、「ヌッ!?」と背後に戦くような気配を感じてバッと振り返った。
「お茶飲んでたらみんなに置いてかれたよ夏音くん……」
 その正体は、半べそかきながら背後霊よろしく夏音にひっついていた唯であった。
「らしいね」
 ふっと笑って言うと唯は頼りなさげなに夏音を見上げた。
「みんなどこ行ったのかな?」
「かなり足早に駆けてったから、たぶん目星をつけた場所があるのかも。不安ならメールいれとけばいいじゃない」
「そだねー。えっと、りっちゃんうらみます、と……」
「置いてかれたのは自業自得でしょうよ」
「冗談だよー。今、どこかなー、と」
「ま、どこに行ったかは想像がつくけどね……」


 草津の効能は皮膚炎の人には大変人気だと聞く。他にも、草津の温泉はあらゆる疾病、肉体の疲労に効くという。
 そういった意味では、応用が利くというか。体重を気にする女性たちにもそれらしい効果があると信じられている。
 澪が部室に持ち込んでいた雑誌の巻末付近に『絶対痩せる!? 温泉が新陳代謝を高めることで……』という特集記事があった。
 夏音は何気なく雑誌を手にとっただけなのに、しっかりとページの端を折り込んでいるのと、何回も開いていることで自然とそのページを開きやすくなっていたことでその気まずい見出しを目撃してしまったのだ。
「澪もダイエット戦士に鞍替えするのかな」
 別に、どんな澪でも彼女の個性だと思う。そう納得してあげることが大人の対応ではないだろうかと思った。
「ま、唯には関係ない話だな」
「え、なにが?」
「なんでもないよ。とりあえず、もう律たちは一つ目のどこかに行ったんだろう。オススメの所があるからそっちに行こうぜ」
「ほぇー。オススメってどんな風に?」
「お肌がツルツルになりますぜ……」
「ほ、ほぉ!?」
「ま、どこ入っても一緒だろうけど。あそこは特に効能が強い気がするんだよね。アッツアツだけど」
「アッツアツ!? 江戸っ子かい?!」
「江戸っ子だ!」「おほぉ!?」
「Shikamo…」
 夏音がふと顔に影を作り、唯の耳に顔を寄せる。
「な、なんと!?」
「イェス」
 眉根をぐっと寄せて真剣な表情になる唯とうなずき遭う。
 二人は互いの返事を待つまでもなく、駆けだした。
「あ、唯そっちじゃない! だから! 人の話を聞きなさい!」


(痩せる……私はこれで痩せる………これで……ヤセル……ワタシ…ヤセ)
「澪―いいかげんに出ようぜー」
「出ない」
「のぼせて危ないっつーの!」
「やだー」
 律は既に十五分はお湯に浸かっていると計算した。別に普通の風呂なら十五分も長い時間とは言えまいが、何せここは草津温泉なのだ。
 お湯があっついのだ。
 湯量、効能ともに豊富な草津の特長として、どの温泉も温度が高い。さっと入る分には良いかもしれないが、長湯には向かないと思われる。思われるのだが―――
(何でこいつってこんな意固地……)
 律は長年付き合っている親友の妙なところで発揮される意地の強さにすっかり参っていた。そして、こういった流れの先の顛末として澪がどうなるかも飽きるほど見てきた。
「ゼッタイ後になって後悔するに決まってんじゃん」
「特集では三十分は入らないといけない、って書いてあったもん」
「おいおい、それは休み休みの話だろー?」
 この女はきっちり読んでいるようで読んでいない。なぜ、雑誌の持ち主である澪より自分が記事の内容を把握しているのかと嘆いた。
「律は先にあがっていいよ」
「何で草津くんだりまで来といて、我慢大会しなきゃならないんだよー」
 心の底からアホーと叫びたかったが、この幼なじみは口で言うより経験して理解させた方が早かったりする。
 それに肉体的にも最後まで付き合ってやれる自信がない。
「わかったわかったー。そんなら気の済むまで入ってろよー」
 そう言い残してざばんとお湯を出た。そして、そのままこのアホを煮えたぎらせてしまえ草津温泉、と念じた。
「て、いうかムギは全然平気そうだなー……どして?」
「いいお湯加減ねー」
 真っ赤になっている澪とは違い、ニコニコと余裕綽々のムギの肌はつきたての餅のごとく白さを保っている。彼女の生態スペックがますます疑わしくなる瞬間であった。


「ゆ、唯! まだいけるか~~!?」
「ら、らいじょうぶーまだ十杯はいけふ……うぷっ……やっぱ無理かも」
 壁一枚で隔てられた男湯と女湯。風呂だというのにショートパンツに半袖姿という出で立ちの夏音は崩れ落ちそうになる精神を支え合うために唯とエールを掛け合った。いや、彼女も無理そうだった。
「どうしたぃ、もう限界かい!?」
「No kidding pops!! とっとと黙って流せやっ!」
「威勢がいい糞ガキだなっ! 女みたいな顔してる癖にやりやがる!」
「顔は関係ないだろ、うぷっ……ちょっ、ペース早いって……あ、バカ! やーめてっ!」
「めんこい面しやがってよー。うちの倅の嫁に来てほしーぜッキショー!」
「男だっつってんだろうがコノ……Dumn!! って流しすぎだshit!! You bastard!!」
「上半身だけでもいいんだがなぁ……俺はいいんだけどよぉ」
「Screw you!!」
「You punk……Wash your fuck`n mouth!!」
 ふいに流暢というより、カンザス辺りで聞こえそうな訛りの英語がオッサンから飛び出た。
 それに続いて今まで見たこともない量のアレが投入される。
 半分に切られた竹を伝ってものすごい勢いで落ちてくるアレ。箸で掬うには不可能な次元である。夏音はそのまま箸を構えた格好のまま呆然と立ち尽くした。
「ひゃっひゃっひゃ!!」
それを見て高笑いするオッサン。
「悪魔ー! くっそー今回はいけると思ったんだけどなーー」
 夏音はその場に崩れ落ちた。その瞬間、壁の向こうから悲鳴が聞こえた。
「もう無理~~~」
壁の向こうで崩れ落ちる音が聞こえた。


「夢破れて山河あり……っぷ……」
「何だ唯~。急に詩心に目覚めたのー」
「松尾芭蕉が詠んだんだよー。夢が叶わなか
ったって……ぉえっ……ことじゃないかなー」
「そうかー。あっ…………ぷ……ひぅーアブネ。芭蕉はよくわかってんねー」
 何もかもが、違うが。
 夏音と唯の両名は外湯施設にある無料の休憩場で横になっていた。もとい、グロッキー状態であった。
「くそー。英語わかんなら最初から言っておけってーの」
 テンションが異様な方向に上がり、思わずスラング言いたい放題だったと後悔する。
「おしかったなー」
「おしかったねー」
 二人して楽な姿勢を探して、横になる。

【挑戦者求ム 流しわんこソーメン 食べ切れたら『大友夜』の甘味全品無料券贈呈】

 喉から手が出るほど欲しい商品だった。
 流しソーメンとわんこそばをかけた恐ろしい種目だった。温泉の風景にそぐわない竹でできたレールがあり、上からどんどんソーメンを流されるのだが、そのペースがだんだんと上がっていくという地獄のルール。
 最初は「案外イケるかも」と思うが、中盤を超えたあたりで、めんつゆを足している時間もなくひたすら流れ来るソーメンをすくい口に入れ、かまずに飲む、という作業の繰り返しだ。
 別の名を苦行という。世の修行僧はこれに挑戦するべきだと思う。
 未だ達成したものはいないという噂だが、そもそも終わりが見えない鬼ゲーである。
「大友夜のスイーツが……」
「うぅくやしひ……それより、お腹がくるしひ……」
 韻を踏んだ台詞を吐きながら横で同じように苦しむ唯を見て、やっと冷静になった頭が「馬鹿なことをしたもんだ」と後悔を滲ませる。
 せっかく観光に来ているのに、何故苦行に赴かねばならなかったのだろうかと。
「後で運動でもしないとご飯が入らないよこれ……」
「うぅ、そだね……」
「唯、俺たちってバカかな」
「…………そだね」
 どこか似たような行動をとる軽音部in草津。


「みんな疲れちゃった?」
唯一、体力に余力があるムギは、討ち入りを果たした直後の赤穂浪士のごとく疲弊しきった他の面々の様子に首をかしげた。
「温泉って入りすぎるのもいけないんだね……」
 唯が漏らした一言に全員が無言で同意した。それは、まさに格言であった。
 今日一日で七つ以上もの温泉をめぐった彼女たちは疲れを癒すどころか、どっぷりと疲労にまみれていた。
「澪にいたってはゲッソリしてね?」
 夏音は当社比七十%ほどまで細くなった澪が目について仕方がなかった。途中から合流したが、お前に何があったと聞くに聞けない空気もあった。
「今日はもう何もしないでゆっくりしてたいや……」
 言うまでもねーと意見が一致した。

 夜になってすき焼きを食べた後、夏音は前に話してあったとっておきの秘湯に案内すると皆を車で連れ出した。
 でこぼことした山道を車で十分ほど行ったところで車を止めた。
「ここら辺、何もなくないか?」
「そう。ここからは歩きだから」
「えーこの寒いなかー!?」
 律は口をとがらせて盛大にブーイングを送るが、まあまあとムギやその他に窘められた。
「夏音くんがこれだけ言うんだから、きっと驚くほど素敵なのかも」
 そうにちがいない、と自信満々で若干ハードルをあげられた気がした。ナチュラルに人を追い詰める天才だなとゲンナリしながらも夏音は黙って頷いた。
 車を停車させてから、足早に険路を上ること十五分弱を歩く。
「くらいよーこわいよー」
「ほら、全員しっかりと前の人にしがみつきなよ。足下気を付けて」
 整備されていない山道など初体験である少女たちの歩みはのろのろと。先頭を歩く夏音のもつ懐中電灯の灯りだけが頼りであった。
「しかも、何でそんなたよりないの持ってきたんだよー」
 夏音が持つ懐中電灯の光があまりにも弱々しく、頼りないので律が恨み言をもらした。
「こうしないと楽しみが半減するんだよ」
 ぶつくさと文句を言われるのをなだめつつ、先頭の夏音がふんふんと鼻歌をすさびだす。誰もが聴いたことのあるベースライン。
「ウェンザナイッハズカム!」
「その曲ほど陽気な気分じゃないよ!」

 それから、えっちらおっちら歩き続けてしばらく経つ。
「着いたよ。でも、まだ顔をあげるなよー」
 夏音は立ち止まり、一時の間を置いた。
「はい、目をあけていいよー」
「う、わ………すご」
 ふとそう呟いたのは誰だったか。また誰かの溜め息が漏れる。
 ここに来て、少女たちは夏音が執拗なまでに明かりを避けようとしていた意図を理解した。
 億千の星空だった。銀色の海。王様の宝石箱の中身を夜空にぶちまけたような夜空。
 山の木々に阻まれ、空は見えないようになっていた。さらに細々とした明かりのせいで、お互いが縦一列に並んで足下を見ながら歩いてきた。
 明かりを抑えていたのは暗闇に慣れさせるため。すべて彼の計算のうちだと知る。
 青白く光り、赤い紅を刷いたような星々の御前。しばし、だれもかれもが自然の壮大さに打ち臥せられていた。そこにはぽかんと口をあけて空を仰ぐ者しかいない。
「これだけじゃないぜレイディーズ。何か音が聞こえないか?」
 夏音がいつまでも星空に魅了されている彼女たちに悪戯っぽく笑った。
「……水の音?」
 かすかに、というよりハッキリ聞こえる豪快な水の音。夏音が「Come on」と足下を照らして再び歩き出した。
 その場所からはごつごつとした斜面が続き、慎重に下りていくとまたもや視界が切り拓ける場所に出た。
「た、滝!?」
 そこにあったのは四、五メートルほどの滝。ゴゴゴゴ、と高度から大量の水が流れ落ちる時に発生する轟音。先ほどの音正体はこれであったのだ。またも驚嘆にくれる彼女たちに、得意顔の夏音が言った。
「ではお嬢さま方。例のものは持ってきましたか?」




「しっかし、こんなところにまで温泉が湧いてるなんてなー」
 滝を少し下流に行ったところに、小さなログハウスがあった。犬小屋を少し大きくした程度のものだが、そこには「滝の下温泉」と表記されてある。
 実のところ、こんな山奥にあったものとはつまり「温泉」のことであった。河原のあらゆる所に温泉が湧き出しており、その中でもきちんと岩で囲まれている場所がある。
 今、その中で五人の男女が足をのばしていた。
 リラックスしてこの世の幸福を受けたような弛緩した表情を見せていた律が、夏音に言う。
「そっかー。夏音は混浴狙いだったんだなー」
 さもありなん、と納得されそうになった夏音は慌てて否定した。わかるよー、みたいな顔されてもゼッタイにどん引きされているのが見え見えだった。
 真横で唯までもが「カノンくんたらえっちー」と言っているのが心に突き刺さる。
「だ、だから水着持ってこいって言ったんじゃん!」
「怒るなよジョーダンだろー?」
 かく言う夏音も異性の前ということで、しっかり水着を着込んでいる。
「ちゃんと水着買っておいてと言ったのに。何で俺だけこんなの?」
「いちおーみんなの精神衛生上の配慮だ」
 どきっぱりと言われた夏音は「……ソウカ」と悲しげにうつむいた。皆が買い出しに行く際、水着が無いのでサイズだけ伝えて買っておいてもらったはずだった。
 いざ用意された物を拝むと、下はショートパンツ。上は超薄手のノースリーブ………これは女の水着じゃないのか。
「最近じゃ、男でもそういうのが流行ってんだってよー」
「そ、そうなの?」
 律はそんなワケねーだろと夏音に聞こえないように笑った。
「綺麗だなー。なんか星空の中を漂ってるみたいだね」
「ほんとだなー」
 見上げれば満点の星空。落ちてきそうで怖いくらいのスケール。じっと見詰めていると自分がその中に浮いているような感覚。
「いくら暗くても、空気が澄んでないとなかなか見れないんだよなー」
「まさに冬ならでは、って感じなのねー」
 冬の澄み渡った空気の方が星空を見られる確率が高い。夏音が冬が好きな理由の一つだ。
 一同は片時の間、言葉を忘れてその光景に魅入っていた。
「ありがとうね夏音くん」
 その静寂を破ったのは思いがけない唯の言葉だった。
「どうしたんだ唯?」
「何となく夏音くんにお礼言わなきゃなって思って」
 本当に何となく言っただけらしい。何だよそりゃ、と苦笑して夏音は足をあげてお湯をじゃぶんと跳ねさせた。
「でもなー。考えられなかったなー男と温泉入る日が来るなんて」
「私はたぶん一生ないと思ってたけど」
「とか言って夏音なら許すのかなー?」
「そんなこと誰も言ってないだろー!?」
「でも夏音くんだとそこまで嫌な感じがしないよねー」
「ほんとどうしてかしら?」
 全員がそんなことを言い始めた。
 ぽつりと律が「ま、コイツが男と思えってのが無理だろ」と呟いた。かろうじて澪にだけ聞こえたらしく、同意とうなずく。
「みんなして何だよいきなり?」
空を見上げるのを中断して、思わず彼女たちを睨む。
「まあ、みんな感謝してるってことだよ! 特別ってことだろ?」
「そ、そーお?」
 居心地が悪そうに震えて夏音はぶくぶくぶー、と顔までお湯に沈み込んだ。
「もしかして夏音くんたら赤くなってる?」
「こ、こんな暗さで見えるはずないだろ!」
 思わず水面から半腰に。いくらムギでもそこまで夜目が冴えている筈がない。
「そう言うってことは図星じゃん!」
「違うわアホ!」
「夏音くんかわいー」
 きゃっきゃうふふ、とからかわれる責め苦を味わい、憤慨した夏音は彼女たちに向けてざぱんとお湯をぶっかけた。水のかたまりが律のデコに命中して飛散した。
「ぬわっ! 何すんだコラァ!」
「うるせーやい!」
「お湯が目にー」
 巻き添えをくらった唯は酸性が強めの湯が目に入って沁みたらしい。
「あ、ごめん」
「お返しじゃー」
「わぶっ!?」
「わ、わたしもお返しーとりゃー」
「ムギまで!?」
「あに他人事みたいなツラしてんだよ澪っ」
 混ざれ、と。
「わ、私は何も言ってないだろう!?」
「ぶぅ、沁みるーー」
「あ、そんな恥ずかしいぞ律!」
「いいじゃん他に誰もいないんだからサー。澪もどりゃー」
 律が勢いよく澪の方へ突っ込んでいく。
「み、澪ちゃん水着が……とれ……」
「Oh……Jesus…」
 軽音部はどこにいてもこんなものなのだろう。それが瞬く星空の下だろうと。


 二泊三日の小旅行は何だかんだと無事終了した。
 夏音は全員を送り届けた後、襲ってくる眠気に全力で抵抗しつつ帰路についた。ガソリンはメーターぎりぎり。何とか家まで持ってくれて間一髪であった。
いつものごとく、ソファーでぶっ倒れていると携帯の着信音が鳴る。古くさいパンク。 これはジョンが大学時代に若気の至りで活動していたガチパンクバンドの音源だ。完全に廃れて久しい「ガチ」な感じが全面に出ていてジョンの黒歴史認定第一種の物である。 夏音は嫌がらせとしてジョンからの着信音に採用している。
「ハイ、どうした?」
『カノン………元気かい?』
「何だよ。二週間前に会ったばかりだろ」
『い、いや……特に変わりはないかなと』
 夏音は、この男はいったい何を言っているのだろうと怪訝な表情をつくった。
「別に何にもないけど」
『それならかまわないんだ。そういうことで』
「待てよジョン」
『な、な、な、な、なんだ?』
 どもりすぎだ。
「マークのヤツはツアーだよな?」
『さ、さあーどうだったかな。彼のマネージメントは僕の管轄じゃない。それだけかい? それじゃ』
「まあ、別にいいんだけどさー。それにしても母さんが『マークにすべて割れてしまったの』って言うもんだからビクビクしてたんだよなー。まあ、あれから三週間経ったし杞憂だったかな」
『……………………………………………………』
「ジョン?」
「す、すまないカンン! いま忙しいんだから!」
 ガチャリ。
「変な奴……それにしてもジョンのくせに生意気な……」
 というより何のために電話してきたのだろうか。
 夏音は「まあ、ジョンだし」と結論づけ、風呂に入る頃にはそのことをすっかり頭の中から消し去ってしまった。
 確実に彼が怖れるモノが近づいてきていることなど知らずに。


 ※いろいろカオスです。超草津いきてーという願望が生み出したお話だったりします。温泉行きたいです温泉。
 次回、ぬんっとストーリーが展開するかと思います。



[26404] 番外編 『山田七海の生徒会生活』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/14 01:56
「つまり、どういうことなんですか?」
「あのね。山田くんにばかりこんなことを頼むのは申し訳ないんだけど……ね?」
「いや……ね? じゃなくて。何で僕がそんな役目を? 香坂先輩とか適任じゃないですか」
「うーん。本当はその予定だったんだけどね。あの子、今年の夏はご家族で海外旅行らしいの」
 七海は即座に「ちきしょうあのブルジョワがーっ」と心の内で叫んだ。もちろんそのような烈しい嫉妬に満ちた内心はおくびにも出さない。
 狭量な男だと思われたくないから。このように涼しげな態度を心がけながら、実際にはそこまでクールになりきれていない男が山田七海という男であった。
 現に両手を小さく合わせて小首をかしげる曾我部めぐみの憎いくらいの可愛らしさといったら。七海の口許は知らずのうちに緩んでしまっている。
 普段は可愛らしい、というより美人な女性の先輩だが、ふとした時に可愛くなれるという強力な武器を持っている。火力は言うまでもない。
「………わかりました」
「ホント? ありがとー。やっぱり男の子って頼りになるわね!」
 破顔一笑、きらびやかな笑顔で七海に礼を言ってくる先輩に小さく息をついた。
「あぁ……また過剰労働の日々」
 最後に惚れ惚れするくらい艶やかな笑みを七海に向けて、さっさと自分の座席に座ってしまった先輩を見送った七海は再びだだ漏れそうになった溜め息を寸で噛み殺した。
 ただでさえ七海は女子生徒の人口が多い桜高の中でも、さらに女密度の高い組織に所属している。その名は生徒会といって、あろうことか唯一の男子生徒にアレコレを押しつけてくる素敵な先輩方が生息している。
 唯一の男子。
 ふざけるな、と七海は憤然と主張する。それはこの環境を俗にハーレムだと称する者がいるからだ。ハーレムとは漫画や小説だと主人公の特権のように扱われるシチュエーションだ。まさに聖域にも等しい選ばれし者の空間のはず。
 だとしても、やはり七海はモブキャラなのだ。自分にとって正しい現実は「男だから」という理由で言い様にこき使われている毎日。
 力仕事は七海の出番だと期待の目線を送られる。最近では当然のように扱われている。
 頼りにされていると考えたら嬉しくなくもないが、それにも限度がある。同じ学年の同期達はそろって七海に同情の視線を送ってくるが、先輩が率先して七海に仕事を頼むものだから年功序列に従う彼女達には何もすることができない。
 ただ時折、お茶を机にさし置いてくれたりして七海はちょっぴり涙するのだ。

 そして今も仕事を押しつけられてしまった。

 ソフトボール部の応援、らしい。公式試合でかなり良いところまでいったソフトボール部の決勝の応援に生徒会からの代表が馳せ参じなくてはならないらしい。
 どの部活に限らず、生徒会はこのように部活動応援などに借り出されることが多い。何の形式か知らないが、そういうことになっているらしい。
 他にも、他校の行事に借り出される時はことごとく生徒会から選ばれる。加えて、その犠牲は最近では七海が主に受けているのである。一昨日など、吹奏楽部の演奏会にどこだかのホールまで東京まで向かい、観客席から一緒にスィングするハメになった。
 七海はいつまでこんな状況が続くのだろうと不安になった。生徒会の仕事はこんなに過密なものだろうか。聞くところによると、他校では生徒会の役割など学校祭の準備くらいのものだという。
 今はもうすぐ夏休みという遊び盛りの高校生にとってこれ以上ないドキドキわくわくの時間である。
 あーどこに行こうか。あれもこれも、それもあなたもと予定を立ててはしゃいでも罪はないはず。
 だが現実は浮かれた七海を打ちのめすかのように残酷なストレートを放ってきた。
 夏休みにまで生徒会の仕事が入っているなど、聞いていない。それも秋から始まる学校祭の準備などに休日出勤(この場合祭日出勤)を強いられる日々だそうだ。

 何故、どうして、ホワイ。自分ばかりがこのような外れクジをひかなければならないのだろう。

(僕は書記だぞ書記! もう書記の役割とか超えてるだろう!)

 ここ最近で一番でかい仕事は、タイだかフィリピンだかバングラデッシュだかのストリートチルドレンを救うための活動に必要な金集めの企画のリーダーにされたことだ。
 井戸を掘るのに必要なお金を集めるための方法って高校生に三十万円も集められるかという給与区の無茶ぶり企画だった。今どきの芸人でさえ、こんな企画はまわされないだろうに。
 七海、集めた。
 生徒会主催のチャリティーフリーマーケットに加え、残った品物をせどりをしたり、古物商との交渉をしている内に、品物の中にとんだ値打ち物が紛れ込んでいたことが判明した。するとどうだろう。三十万どころではない金額が生まれ、呆然としたことは言うまでもない。
 しかしだ。企画を進めたのは一年の七海であった。企画書を深夜かけて作成して、多方面へと走りまくった。
 それが事もあろうに、七海があまりの金額にぼーっとしている内にもっとも憎き副会長・香坂成美がその手柄をまるごと掻っ攫っていった。

 あの時ほど殺意が湧いたこともない。

 いつか見返してやる、と復讐の炎を燻らせているのは秘密である。唯一不安なのが、燻ったままこの炎が消化してしまわないかというくらい。七海はあまり意志が強くないのだ。

(よし!)

 秋が過ぎると生徒会も引き継ぎである。現在の最高権力である曾我部先輩と副会長である香坂がいなくなれば、この悪政もましになるはず。
 その時こそ、自分の時代だと七海は密かに生徒会を牛耳ろうと目論んでいる。
 こんなに働いている自分が後任を任されないはずがない。そして、事あるごとに仕事をしない副会長をやり玉にあげて後輩に伝えていくのだ。
 七海は知らず顔をにやけさせていた。もしかしたら声も出ていたかもしれない。
「ちょっとななみー。気味悪い笑顔を浮かべてないで、暇ならコーヒーおかわりお願いできるー?」
「はい、ただいまよろこんでー!」
 そう。今は我慢の時なのだ山田七海っ! と必死に自分に言い聞かせた。



「山田くん。明日、八時に駅前に集合でいいかしら?」
「へ?」
 時は夏休み。生徒会室にて七海が少なくとも三つ以上の仕事の資料をまとめていたところ、隣の席にいた真鍋和が何の気なしに話しかけてきた。
「なにが?」
「なにがって……明日、ソフト部の応援に行くんじゃない」
 確かに、そんな予定が入っているが。
「え? あれって僕ひとりで行くんじゃなかったの?」
「山田くん一人じゃ心許ないから、一緒にいけって」
「こ、心許ないって……」
「香坂先輩が」
「あの女っ!!」
 自分は優雅に海外へと避暑するくせに、後輩に尻ぬぐいをさせる負い目を感じないのか。
「先輩をあの女なんて呼んだらだめじゃない。あ、ちなみに伝言で『大変遺憾ではあるけど、これにかこつけてオオカミになったらだめよ』だって。オオカミってどういうことかしら?」
 さらにとんでもねー伝言を残していったものだ。これがそのまま遺言になればいいのに、と七海は舌打ちした。
「あの人の妄言は気にしちゃだめだよ。きっと頭ぶっ飛んでるんだから」
「ちょっ、山田くんっ!」
「ていうか思い切り体力バカで体育会系なのに、海外へ避暑って。去年はヴェネツィア行ったって聞くし。今年はどこだっけ、北欧? フィンランド? ストックホルム? ベルギー、オーストリア? あの人の場合オーストラリアで岩昇りしてる方が想像できるよね」
「山田……くん…………」
 和の声がか細くかすれる。彼女の場合、香坂先輩に可愛がられているから先輩の悪口のようなものを聞いて気分を悪くしたのかもしれない。確かに自分でも陰口みたいになって情けないな、と七海は気まずい空気を誤魔化すように咳払いをした。
「ま、まあ。任された仕事だからね。一人より心強いし、助かるよ」

「ななみ~~~~~アウト~~~~~」

「えっ……」
 間違っても和の声ではない。彼女はこんな地獄の三丁目あたりから響いてきそうな恐ろしい声ではない。幻聴でないならば。七海は今すぐ死ぬことになる。
 目の前の和は盛大に顔を引き攣らせている。その目線の向かう先にはそれはそれは恐ろしいナニカがあるのだろう。七海は滝のように噴き出した汗がYシャツを濡らしていくのを感じ、おそるおそる後ろを振り向いた。
「なーなーみーくーん。今、可愛い後輩から耳を塞ぎたくなるような暴言が吐かれたような気がしたんだけどー気のせいかなー」
「ひ、ひ、ヒィヤーーッ」
「どうもー。北欧が似合わない体力馬鹿女ですぅー。こんにちはー」
 こんにちは、の時点で七海の顔面はよほど女子には似つかわしくないほどの握力を備えた手に覆われていた。万力のような強力で無情な力がぎりぎりと七海の顔の形を変えようとしている。
「ろ、ろうひてこうひゃかせんぴゃいがぅおっ!?」
 七海は「噂をすればなんとやら」ということわざの意味をその身でもって体感していた。そういえば英語では「悪魔について話せば悪魔がやってくる」という言葉だったはずだ。
 この場合は「ゴリラいついて」本当にゴリラがやってきた。
「あれー言ってなかったけー。今日、夕方からのフライトなのよー。時差が違うからねーお昼に出てお昼に着くわけじゃないの」
 そろそろメガネが壊れそうである。思えばこの相手には何度もメガネを破壊されかけるレベルの暴力を頂戴していた。形状記憶という現代技術の恩恵がなければ、七海のメガネが壊れたであろう回数は計り知れない。
 次第に七海は自分の足が地面を離れようとしている感覚を得た。顔だけを支点に持ち上げられている。どれだけ馬鹿力なのだ。
「いたひいたひいたひ~~メガネこわれっ!」
「今ね。ツボを押してるの。太陽穴といって視力回復に良いんですってー。これでメガネが壊れても大丈夫でしょ」
 何という暴力理論。噂ではなく林檎を握りつぶせるその握力がさらに開放されていく。
「いやぁーーーーーっ」
 山田七海、魂のシャウトは生徒会室を駆け巡る。あまりに凄惨な光景に悲鳴を噛み殺していた和が慌てて割って入った。
「せ、先輩っ。それはやりすぎだと思います」
 その瞬間、七海を締め付けていた力が消えた。解放されると、七海は地面にバタンと倒れ伏した。和の慈悲に心から感謝した。
 七海を締め殺しかけた犯人はふん、と鼻をならすと少し柔らかい口調になった。
「まー可愛い和に言われたら仕方がないわね。あ、その角度から上を見上げたら踏みつぶすわよ」
 あんまりである。七海は床と熱くキスをしながらそんな思いでいっぱいだった。確かにこの角度から上を向いたら素敵な光景と相まみえることになるが、そんなのはこちらからお断りであった。
 命をベットして得られるほど良いもんじゃない。
 よろよろと立ち上がった七海は、きっと目の前に立つ女を睨んだ。
「ここに何用ですか!」
 にっこりと微笑む香坂成美。花が咲いたようなという表現が似つかわしい麗しい笑顔。
 何といってもこの少女はゴリラ並の膂力を有した桜高生徒会の副会長その人である。
 身長は女子としては高く、モデル体型といって差し支えない。現に街中でスカウトされたことも数度あるらしい。腰まで伸ばされた栗色の髪は毛先にゆるいウェーブがかかり、その髪全体からとんでもなく甘い匂いを放っている。
 その容姿はむしろ深窓のお嬢様に類しても過言ではないほどの華やかさを持っているのだが、七海は彼女が未来から来た殺人ロボットだと言われても納得できる。
「おや、まあ」
 おや、まあじゃねえよ。七海は決して口に出すことが憚られる暴言を心に落とした。人の顔面の形を強制的に整形しかけといて、すっとぼけたものだった。
「遺憾ね。夏休みなのに学校で働く可愛い後輩達の顔を見にきたらだめなのかしら?」
「ダメではないですけど………じゃ、もう見ましたよね。ほら、けっこう忙しい感じなんで、仕事に戻ります」
「どうしましょう可愛い後輩ににべもなくされちゃった」
 全く気にしていない様子でよく言ったものである。七海は宣言通りに机に向かって座り直し、作成していた資料を端から見直す。
「てい」
 横合いから入ってきた腕に資料が吹き飛ばされた。見覚えのある腕だ。
「なんなんですかっ!! 馬鹿野郎!」
「野郎じゃないわ」
「女郎め!」
「よく知ってたわね、女郎なんて」
 七海の返しに目を見開いて驚いてみせた彼女はにやっと笑い、七海の頭をがっしり掴んだ。目が笑ってなかった。
「でも、女性に言って許される言葉じゃないわ。訂正しなさい」
「お馬鹿さま」
「ふふ、まあいいけど」
 傍から見ていた和は「いいんだ……」と驚きを露わにしていた。この二人のやり取りは今期の生徒会が発足して以来の名物となっていた。
 いわゆる戯れというやつで、本気で人が傷ついたりしていないので、基本的に傍観の姿勢がとられる。たまに肉体的に七海が傷つくこともあるが。
「まあ、せっかくだから聞いてよ。私、これから北欧に行くわけなんだけど」
 やけに北欧、の部分を強調した香坂はうきうきと続けた。
「私の代わりに応援に行ってくれる後輩ちゃんのためにお土産を買ってこようと思うの。それで、二人は何がいいかなーって」
 もしかして、そのために来たのだろうか。七海は目を丸くしてぱちくりさせた。
 前から思っていたが、この先輩はどこか律儀な部分がある。もちろんメールや電話で済ませてしまえばいいことなのだが、少なくとも自分だけ遊びに行くことへの負い目があった訳だ。
「うーん。北欧って言っても、何があるんですか」
 ピンと来ない。これがディズニーランド、とかであれば七海もすんなり頼めるはずなのだが。
「何だ。人に北欧似合わないとか言うくせに、何の教養もないんじゃないの」
 ここぞと不敵な笑みを浮かべて七海を見下すような態度の香坂に七海はむっとした。悔しいが、その通り。
「私はムーミンのグッズとか売っていたら欲しいですかね」
「あっさすが和っ。わかってるー。ムーミンね! とっても可愛いの探してくるわ!」
 すらりと答えた和にとびきりの笑顔を向けた香坂はいまだに答えあぐねている七海の方をじっと見て、溜め息をついた。
「あぁーあー。これだからダメなのよね、七海は」
「今、考え中なんです!」
 何だムーミンとは。日本のアニメじゃなかったのか。七海は和がすんなりご当地の品を答えたことに度肝を抜かれていた。
 北欧。何が有名だろう。サウナ、白夜、フィヨルド、ノルウェイの森。いや、お金にできないプライスレスな知識ばかりが頭をめぐってしまう。シュールストレミング……は死んでもイヤだ。
「キ、キシリトール! ガンム!」
 若干かんだ。しばし悩んだ挙げ句、ぽんっと出たのがこれである。七海は口にした途端、羞恥心にもだえた。
 よりによってキシリトールガムとは。いや、これでも向こうにちなんだ物の名前が出ただけで褒めていただきいのだ。
「え? そんなのでいいの? 日本にたくさん売ってるじゃない」
 香坂はかなり怪訝な表情で七海を見詰めた。絶対に変な奴だと思われているに違いない。
「い、いやー。本場のキシリトールで健康な歯になりたくて」
「えー。あなた頑丈そうな歯じゃない」
 たしかに以前、正拳を頂戴した時にも折れなかった自慢の歯である。だが、ここは男の意地というものがある。一度言ってしまったものを撤回するのは七海的にちと恥ずかしい。曖昧に笑っていると、先輩は腑に落ちない様子だったが、ややあって頷いた。
「じゃ、キシリトールね。詰め合わせとか売ってたらそれにするわ」
 晴れやかに笑ってから先輩は「じゃ! 行ってくるわね!」と言って教室を出て行った。
 止める間もなかった。
「本当にそれ訊きにきただけ……?」
「さあ……」
 七海は嵐のように過ぎ去っていった先輩を思ってしばし和と顔を見合わせた。



 それからの日々は猛烈に忙しかった。過密日程の中を仕事に明け暮れ、夏休みらしいことをする暇もないくらい。きちんと和と二人でソフト部の応援にも行ったし、ボランティアにも参加した。
 桜高を代表してパネルディスカッションに曾我部先輩と二人で参加したことはひと時の安らぎだったが、その他校内の雑用が生徒会に押しつけられた。
 もちろん男手の有効活用は忘れず、資料室の整備や倉庫の大掃除などもやらされた。
 その中で七海にとっては副会長の姿がないと肉体的にも精神的にも楽だという発見があった。
 彼女の姿がないだけでこれだけ変わるものか、と驚いたものだ。普段から肉体言語を七海に解き放ってくる香坂は淑やかな容姿を全力で裏切る男っぽい絡み方をしてくるのだ。

 七海としては常に腰が引けた状態で言いなりになる他ない。断ってもいいのだが、首を横に振った時の自らの末路を想像すると恐ろしい。
 七海としては他の女の先輩方もそれはそれで恐ろしいのだが、香坂は別格だった。

 ああ楽だ。この世の春だ、と七海は浮かれていた。部活動で鬼コーチがいない時の練習ってこんな感じなんだろうな、と顧問不在時にやけにテンションがあがるバスケ部の気持ちを知った。
 そんな夏休みが半分ほど過ぎた中、そろそろ休み明けに入る生徒会最大行事である学校祭の準備のため、生徒会の者は例外なく生徒会室に集まるようになっていた。

 そして、香坂成美が帰ってきた。

 一番の繁忙期に悠々と海外でいる訳にはいかない、という理由で一人だけ旅行先から帰国したのだそうだ。何とも責任感あふれる行動である。もっと普段に活かして欲しい、と七海は思う。
「あ、ななみー。まだ残ってたの?」
 下校時刻が過ぎて久しい時刻。生徒会役員は準備のために校内に残ることを許されていて、たいていの生徒はそのまま生徒会室に缶詰状態であったが、ここまで遅い時間に残る者はいない。七海を除いて。
「持ち帰りの仕事とかあまりしたくないんで、片付けちゃおうかなって」
 少なくとも高校生の台詞ではない。これではワーカーホリックな会社員さながらである。
「ふーん。よし、もう帰るわよ」
「え、帰るわよって。今言ったこと無視!?」
 しかもその物言いでは、自分と彼女が一緒に帰るみたいではないか。
「あのね。一人でも生徒が残っていたら先生方も帰れないんだからね。そこらへん、ちょっと考えなさい」
 その言葉にはっとする。確かに、時刻は八時を迎えようとしていた。いつもこのくらいの時間まで学校に残る先生は数人いるから、あまり気にしなかったが、確かに七海が帰らないために残っている先生もいるかもしれない。
「わかりました。もう終わりにします」
 しかり、と七海は素直に香坂の言葉を受け入れ、資料を急いでしまい始めた。七海が机の上に乱雑になっていた資料をかき集めるのに苦戦していると、背後で呆れたような溜め息が聞こえた。
「はぁー。何でもっと綺麗にできないのかしら」
 その言葉にむっとしても七海は手を止めない。
「資料の数が多すぎるんですよ。パソコンとか使わせてくれたらもっと楽なのに」
 この数をアナログで片付ける時代はとうの昔に終わったはず。わざわざパソコン室まで出向き、往復するのは手間以外の何物でもないのだ。
「それなら前に予算通ったから、もう少し待ってちょうだいよ」
「あれ、通りましたっけ」
「ええ。私とめぐみで田代先生を押しきってね」
 七海は机に向かったままで見えないが、背後の香坂が最上級の悪い笑顔をしているに違いないと思った。何だかんだと生徒会の重要事項は会長と二人のコンビでもぎとってきたのである。どんな手腕を持っているのかは甚だ怪しいが。
「あぁーもう苛々するわねー。男ってみんなこうなのかしら」
 待ちくたびれたのか、好き勝手言いたい放題の相手に七海はかちんときた。
「別に待ってなくていいですよ。僕、わりと最後に出るんで慣れてますし」
「あほたれー。後輩残して帰る先輩がいるかい」
「普通、先輩が先にあがるものじゃないですか? 逆は気を遣うけど」
「いいから! ほら、もっとてきぱき手を動かすの!」
 見かねた香坂が七海の斜め横からぬんと身を乗り出して資料を片付け始める。何故か彼女は七海をかすめるようにカットインしてきたのだ。肘がこめかみをかすった。彼女はナチュラルに七海にダメージを与えるのが趣味なのだろうか。
(うわ……この匂いは……あふん)
 見た目は麗しく、性格は乱暴がさつに近いのにやっぱり女の子でふわふわ良い匂いがする。七海の苦手分野である。
 女の人の匂いの不思議は不肖・山田七海の十六年の歳月をもってしても解き明かされていない。
 七海が手を伸ばしたままの姿勢で硬直している間に、香坂の手は動き続けてあっという間に資料はまとめられていしまった。お互いの腕がふれて、「あっ……もじもじ」という空気は一切起こらなかった。むしろ動かない七海の腕を邪魔とばかりにばしばしと叩いてよけさせられていたのだが。
「は、はやっ!」
「ふふー。副会長をなめないでよ」
 得意気に笑う香坂が七海を見下ろした。こういう時に彼女がどういう言葉を欲しいか七海は知っていた。
「おみそれいたしました」
 少し大げさに頭を垂れる。すると偉そうに鼻を上機嫌に鳴らした彼女のできあがり。
 どれだけ敬われたいのだ、と七海は俯いたまま軽く舌打ちをした。
 そんな七海の不遜な態度には気付かない香坂はまた打ったように明るい声を響かせた。
「さ、とっとと出るわよ」


 全ての電気を消し、鍵をかけると職員室によって教職員に挨拶をする。この時間だととっくに正面玄関は施錠されているので、職員用の出入り口から校外へ出た。
「流石にもう日は落ちたわねー」
「あぁー、そうですね」
 七海の三歩ほど先をずかずか歩く香坂成美。結局、一緒に帰ることになった訳であるが。
(どうして、こうなった)
 この先輩といると何をされるか予測不能なのである。というよりどのような攻撃が加えられるかが未知数、七海に蓄積する防御パターンも限りがある。
「ななみは家どこなの」
「本田町ですけど」
「あれ? もしかしてご近所さんだったの!?」
「近所って……もしかしなくても先輩はあの豪邸が建ち並ぶ……」
 高級住宅街である。七海の自宅までは豪邸と称すべき家が軒を連ねている住宅街を通過する必要がある。
「そうよ」
 お嬢様だということは判っていたが、本当にそうらしい。
「でも通学途中とかに遭ったことないわね」
「まあ、たまたまじゃないですかね」
「ふーん。あんた朝早かったっけ?」
「いえ、これといって普通ですけど」
「ふーん」
 自分からふっといて「ふーん」しか言われないのも悲しい。怒りというより悲しい。
(ていうか、あそこまで同じ道ということか)
 気が重くなって沈黙していると、些細なところも見逃さない香坂であった。
「なんか急に大人しくなったわね。私と帰るのがいやなの?」
「滅相もございません」
 イエス! とは言えない物騒な雰囲気を醸し出しながら言われても困る。とはいえ、気が重くはあるが嫌悪するまででもない。ノーでもないけど。
「ていうか、いつもあんな時間まで残ってるの」
「今さらですか。あれだけの仕事量なんで普通に帰ってたら終わんないですよ」
「むー。そっか……悪いことしたわね」
「え?」
 この先輩にしてはずいぶんと殊勝な物言いである。言葉だけでなく、心からすまなそうな態度をとる香坂に七海は狼狽えた。
「なんか仕事押しつけまくっちゃってさ。あんたもほいほい請け負うからつい、てやつ?」
「はぁ。つい、ですか」
「それに私、この学校入って二年間も男の後輩なんていなかったからさ。どうも加減というか、調子がわかんなくて」
「まあ、女子校だったわけですしね」
「そうなの。まさか共学になるなんてねー。予想外もいいとこ」
「だから扱き使ってしまったと?」
 それが理由だとしたら、何ともやるせない。つい、で過労死でもしたら末代まで祟ってやると心に誓っていると、前を歩く香坂がぴたっと足を止めた。
「あなた、聞くけど」
「……ハイ」
 七海は真剣な表情でこちらを振り返った香坂に、ごくりとツバを飲み込んだ。
「マゾではないの?」
「んな訳あるかっ!」
 敬語も吹っ飛ぶくらい反射的に叫んでしまった。幸いにも「生意気なっ」と拳が飛んでくることはなかった。七海の言葉を受け取った彼女は「ふーむ」と思案する様子を見せる。
「後輩に押しつけてばかりじゃダメな先輩よね。よし! これからはほどほどにするわ!」
 腕を組みながら言う台詞ではないが。そしてあくまで尊大な態度は崩れないのだなぁといっそ惚れ惚れするくらいの潔さに七海はしばしぼーっと見とれた。
「そうしてくれると非常にありがたいですが」
「そうでしょう。ま、というわけでハイッ」
 どう前の文脈からつながるか分からないが「というわけ」で香坂は鞄から小さな袋を出して手渡してきた。
「え、何ですかこれ?」
「北欧のお土産よ。北欧が似合わない女からの、でよければ受け取りなさい」
「ああ……キシリトール」
 そういえば旅行前にそんな事を頼んだ覚えがあった。本当に欲しかった訳じゃなかったので、忘れかけていたが。
「いいからっ! それで毎朝毎晩スッキリしてることね」
 ぐいっと両腕に押しつけられた袋は予想していたより重みがあった。
「あと、ついでに蚤の市でよさげな小物があったからおまけを同封してあげといたわ」
「おまけ?」
 何にせよ、と中身を確認しようと七海が袋に手をかけたのだが「アウト~!」という怒声に阻まれた。
「普通、この場で空けるかい! ななみよ。チェリーボーイよ!」
 うるせえよ、と七海は毒づいた。もちろん心の中で。
「そういうのは笑顔で『あざっしたー』って言って帰ってから空けるものよ。礼儀よ。マナーよ!」
「あぁーわかりましたよ! 香坂先輩、ありがとうございました!」
「どういたしまして!」
 どこかやけくそになった二人はその後、沈黙のまま帰路を突き進むことになった。会話らしい会話はなかったが「お腹すいたー」「今晩、なんだろ」「買い食い、はまずいか生徒会だし」という短い応答が続いた。
 何と香坂宅に至るまでの通学路はほとんど一緒という事が現実に判ったところで、彼女の自宅に到着した。
 その豪邸の様相を細かく描写した瞬間、山田七海という人間の何かが壊れそうになるので割愛。
「さて、お別れだけど」
 門の前で仁王立ちをきめた香坂が神妙に切り出した。
「あんたは見た目、かなりダサイ。気を遣わなさすぎよね」
「別れ際に思春期の男の子を傷つけるのが仕様ですか?」
「どうせ私服も地味なんでしょうよ。だから、あなたはありがたく思った方がいいわ」
「流石に僕でも泣きますよ。いいんですか、自宅前で後輩を泣かせても。わんわん泣きますよ」
 ただでさえ「差」というものに打ちひしがれかけているというのに、この追い打ち。流石の七海も涙を禁じ得ない。
「あー、ちがくてっ。もー何て言ったらいいのかな……とりあえず、とりあえず帰ってお土産を見なさい。優しい先輩からの心遣いを知ることでしょう」
「はぁ……よくわかりませんが、了解しました」
 七海が首を振ると香坂は「また明日!」と家の門をくぐって行ってしまった。訝しげな顔をしたまま、しばらくその場に突っ立っていた七海は肩をすくめると歩き出した。


「ふーん。意外にぎっしりだなぁ」
 自宅に帰り、夕飯を食べて風呂に入り、テレビ番組を適当に流し見していた後にお土産をついに開封することにした。まずは一番大きく目立つ箱はキシリトールのガム。向こうのよくわからない言葉で成分表示などがされているが、空けてみるとなかなかの量だ。一口食べてみると目が覚めるような涼しい味わいが舌に広がって美味しかった。
「ん、これかな。おまけ」
 ガムとは別に小さな袋があった。中をおそるおそる開けてみると、出てきたのはブローチだった。最近では男がつけてもおかしくないのだろうか。だが、デザインは悪くない。
 色は白に近いピンクで花弁をイメージしているだろう形をしたデザインで、ところどころアクセントに使われている青色の材質はもしかして。
「宝石? じゃないよな」
 あの先輩がこんな高価なものをくれるだろうか。でも、金銭感覚が狂っているとすればその辺の宝石など軽い出費ということもありえる。
「ま、なんかのパワーストーンってとこかな」
 とはいえ、何ともセンスのある一品である。派手すぎず、かといってシンプルなセンスが漂って七海がつけても不自然ではない。洋服につけてもいいし、鞄につけてもいいかもしれない。
「成る程。これを機にお洒落にはげめよってことか」
 そんなんじゃいつまでたってもチェリーボーイだ、と言いたいわけか。
「まあ、ありがたく受け取っておきますかね」
 七海は、あんな先輩でも自分に優しい一面を見せてくれただけでよしとした。
 もちろん七海は宝石に興味がない日本の男子高校生であったし、その宝石の名前も宝石の持つ意味など知るよしもなかった。後々、これが痛い目に合う布石であることは神のみぞ知る。


 後日、会長にこんなことを言われた。
「あ、山田くん。そのブローチ素敵ね」
「え? これですか?」
「うん。成美のと似てるのねー。私、あれ見てから欲しくなったから、似たようなの探してるんだけど、なかなか見つからなくてね」
「へ、へーそうなんですか」
「成美のは黒っぽかったけど、なんか対になってるみたい。いいなー私も欲しいなー。ね、山田くん。卒業祝いに私がそれ欲しいって言ったらどうする?」
 悪戯っぽい口調だが、割と目が真剣と書いてマジと読む感じだ。
「す、すみません。これはちょっと差し上げるわけにはいかないんです」
「そ。ざーんねん」
 名残惜しそうに七海のブローチを撫でていた先輩がにっこり笑って七海に言った。
「大切にしてね」
 だが返事を聞かないで彼女は行ってしまった。七海はやっぱり女性にも評判が良いブローチなんだと鼻高々になった。
「もちろん大切にしますとも」



 ※すみません。次回予告を盛ったくせに、なんだコレはと。
  箸休め的にちょっと短編をと思ったのです。某所で意外に人気が出た七海の短編です。ぶっちゃけ見ても見なくてもいいお話だったりしますが、作者自身もこの子はお気に入りだったりしますので、どうぞご容赦を。



[26404] 第十五話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/15 04:36
「まったく人がごみごみと……」

 サングラス越しの瞳に映る風景に、男は思わず下品な言葉を吐き捨てた。いわゆるFが頭につく言葉だ。人の多さといえばアメリカの方が圧倒的だが、こうも狭い空間に人が密集してくると話が別である。
 不快度がぐんと上がり、男はますます剣呑な空気をその身に帯びていくばかりだ。ぐいと眉根を寄せてしかめ面をつくりながら、背の低い人間たちがぞろぞろと蠢く様子を見る。
 その中の幾人もがチラチラと自分に視線を向け、こちらと目が合うとぱっと逸らす。そんなことの繰り返しに男は少々やけになった。
 試しに彼の肌とは対照に白く輝く歯を出して手を振ってみた。
 視線の先にいた小さい子供が怯えて親に抱きついたのを見て、悲しくなる前に恥ずかしくなった。こんなのは自分のキャラではないのだ。こういう時は赤面してもわかりづらい肌でよかったと思う。
 彼らに悪気がないことはわかる。しかし日本ほど他の人種に対しての意識が曖昧な連中はいないと男は考える。
 ただ、自分たちとは違うナニカ、という認識だけがあるだけでそこにあからさまな嫌悪の表情、排他的な視線が含まれることは少ない。
 あくまで少ないというだけで、全くないという訳ではないが。
 おそらく彼らは外国人の中でも、褐色の肌をもつ自分の姿が珍しいのであろう。
 男はふと自分の格好はどうだろうかと気になった。どこか浮いたところはないか。奇をてらったファッションは好まないが、日本人のスタンダードからして突飛なものに映ってはいないだろうか、と。
 日本人のファッションはなかなかイケているのだ。
 もともと知ってはいたが、こうして街中でじっくりと過ぎゆく人々を観察していると独特のセンスを極めている者が多いことに感心させられる。
 今日は、これから出向く場所のことを考えてフォーマルなジャケットを選んでもらった。これを選んでくれた人は細身な自分にぴったりだと褒めてくれたから信頼できるはず。
 男はやはりこの視線はただの好奇心からなるものだろうと結論づけた。
 彼は日本が嫌いではない。ましてや日本人に抱くネガティブな気持ちはまったくない。
(ここはアイツの国でもあるからな)
 自分がリスペクトする人も日本の生まれが多い。だからその無意識な不躾さを寛容の精神で平然と受け流すことなどたやすいことだ。
 一つの問題が解決したところで、いまだに彼が不機嫌なのは別の理由だった。
「Shit….あいつめ、首を洗って待っていろよ……」
 その一つが今回の来日の目的というか原因となる人物の事を思い出すだけでムカつくから、というもの。
 二つ目の理由が、
「何でこんなに路線が多いんだ……っ!!」
 彼はもう二時間も駅から駅へと渡っている。
 今、踏み出して行くべき場所を見失った者はただ佇むしかないのだ。人はそれを絶賛迷子中という。



 時は遡る。
 今年度の新入生が入学して二月ほど経ったある日。
 桜ヶ丘高等学校に勤続十年目。男女交際未経験年数イコール実年齢の美術教師・竹中ヤスオは、生まれて初めて匂い立つような美女というものに接近を許した。許したというか向こうからひょこひょこと勝手に近づいてきた。
 どこの学校も同じだろうが、桜高の教師たちは時折校門に立って、勝手に抜け出す生徒がいないかを見張る。その役目はちょうど授業が入っていない教師が担うことになっており、特に決まったローテーションはない。
 そもそも滅多に抜け出す者などいないのだし、ちらっと形だけ見回るくらいだ。
 そのまま校門まで歩いてヘイ異常なしUターン、ポーゥッ、と去ろうとした間際、「Hi!」と声をかけられたのだ。
 まず、その声にぎょっとした。
 すっと耳に入ってきた声は無視や否定することを許さず、発声した者へと目を向けるような力を持つ声。
 どこまでも透き通っていて、鈴をふったような声かと思えば、とろけるような甘美な響きを含んでいる妖艶さ。純真な少女の声でありながら、色気のある成人女性のような声。
 聞いただけで竹中は金縛りに遭ったように固まった。
(うわー外人さんだなぁ)と脳みその隅っこで思考が流れる。
 さらにその容姿。腰まで流れるウェーブがかったブロンドヘアーはまるで絵画から抜け出してきた女神のような様相を呈しており、細身ながら膝丈のスカートから伸びる白い脚はすらっと引き締まり、形の良い腰が強調されている。
 威厳すらある美貌を有しながらも、女性は人懐っこい笑顔を浮かべて竹中に向かって手を振っている。
 これは夢にちがいない、と現実逃避しかけたところで目の前に迫った金髪美女に意識を取り戻すことができた。
「な、何か御用でしょうか?」
「ここは桜ヶ丘ハイスクールよね?」
「え、はいその通りですが」
 少しクセのあるイントネーションながらも流暢な日本語が飛び出てきたことに知らず安堵の息がもれた。
 少し落ち着き、いろいろ頭の中で思考できるくらいの余裕ができた。
 もしかしたら自分はこの美貌の人物の役に立てるのかもしれない。別にそこから何かが進展するなんて思いもよぎらなかったが、こんな人のために何かできるのは誇れることだろうなーと思った。
「そ、ありがと」
「え? ちょっ……」
 女性はそれだけ言うとあっさりと竹中の横を通り過ぎていく。無情にも竹中の心中など知るはずもなく。
 しばらく校門の前には、女性が残していった甘い残り香を胸一杯に吸い込みながら笑顔の彫刻と化した竹中の姿があった。
 三十分後、やおら意識を取り戻した彼は、たった今出会った美女がどこかで見たことがあったような気がして首をひねった。
 しかし、とっくに自分の担当教科の時間だと気が付くと顔面蒼白となり校舎へ戻った。


 通りゆく人の目を惹く見事な金髪を揺らしながら女性は道を闊歩していく。彼女は校庭をうかがいながら、天真爛漫な少年少女たちが元気に走り回っているのをサングラス越しに確認した。
 規則正しいかけ声、喚声、大歓声。校庭の隅にはドッジボールをやっている生徒の姿も目に映る。
「元気なものね」
 安堵の息がそっと漏れた。息子の様子を見る、という彼女の目的は果たされなかったが、この場所なら大丈夫そうだと確認できただけでも収穫であった。
 モデルのようなプロポーションを携えて、颯爽と歩く彼女の姿はまるで映画の一幕のように洗練されており、あつらえたようにその視線の先には真っ赤なスポーツカーの横で待ち構える男の姿があった。
 彼女は男の姿を確認するや、ダッと駆けだして男性の胸に飛びついた。
「ああーんカノンと会えなかったー!」
 ほんの一瞬。瞬きするだけの時間の内に彼女は一寸前のクールな装いを地べたにかなぐり捨て、べたべたと甘えた声を出し始めた。
 そんな彼女の様子に破顔一笑の男性も、がっしりと彼女を腕に抱く。
「まー何とかやってんだろうさ」
「んー、良い子たちが多そうだったけどー」
「そんなら平気だな!」
「そうかしらー?」
「そうとも!」
「ダーリンっ!」
「よしよしいい子だアルヴィー」
 そのまま二人はいちゃつきはじめた。
「まー外人さんはダイタンですなー」
 桜ヶ丘高等学校建立前よりこの土地に住むキヨさん(八九)は目の前でラブりだした二人を見て、感心したように呟いた。



 暗い。
 白い。
 暗い。
 しばらく暗い。
 やっぱり白い。何もない。

 ぱちくりと瞼が疑わしげに開いたり閉じたりしている。
 夏音は朝が弱い。起きた瞬間に思考が冴え渡るような事は十年に一度の大珍事というレベルだ。今まさに自分が明瞭な視界を得ていることはよほどの異常事態か、夢だろうと考えた。

 夢にちがいない。

 何故なら今の自分はこの真っ白い天井を見ることはできない。
 現在、夏音がベッドから天井を見上げると特大のアニメポスターがあるのだから。

(じゃおりんがいない……)

 夏音が大好きなキャラクター。毎朝、変わらぬ笑顔で自分に微笑む彼女がいないなんてありえない話なのだ。
 明晰夢という種類の夢は、夢の中にありながらある程度の思考が可能とされている。彼はこれが夢だと勘づいていた。
 
 静かすぎる。世界から音が逃げてしまったようだ。
 ベッドから起き上がって靴を履こうとした瞬間、吐き気に襲われた。

 ああ、こんな感じだった。
 頭の片隅で、この感覚は今でも鮮明に覚えているものだなと感心する一方、涙がぼろぼろと溢れてそれが床にこぼれるのを絶望的な気持ちで見送った。
 身を丸くして吐き気が通り過ぎるのを待つ。亀のように首をひっこめ、頭を抑えてひたすら。
 やがて心が落ち着きを取り戻していく。機械的に。ひどい時は気絶していることもあった。
 すべて嘘に決まっている。
 偽りの夢だから、もう一度ベッドに戻って目を閉じれば……あるいは、悪夢から覚めるために階段とか高いところから飛び降りてみれば目が覚めるかもしれない。
 そう考えたところで、彼に実行する勇気も気力もなかった。
 この時の世界の色はどれも褪せたように美しくなかった。
 絶望的な感情はどんどん広がっていく。
 こんなにヒドかったっけな、と首をかしげる自分。
 また、ああ何てひどい世界なんだろうと嘆きもがく自分がいた。

「大丈夫だよ夏音くん! こういう時は、とりあえずお茶だよ!」

 ふと聞こえた間延びした声に意識が白く溶けた。

「!?」

 関節のどこかがぱきりと鳴った。目の前には甘く微笑む蛇池歌織(じゃいけかおり)。通称じゃおりん。夏音の心のオアシスの一人である。
 いわゆる目覚めなのだと脳が理解する。
 夢というのは実によくできている。夢の中でどれだけその世界の住人に馴染んでいたとしても、一瞬で現実の自分を取り戻す。
 夏音はいやな汗でぐっしょりと寝間着が濡れているのを感じた。どこもかしこも布が肌にひっついている感じがひどく不快で、すぐにシャワーを浴びようと起き上がった。
 ここは日本だからベッドから起きても靴を履くことはない。唯に貰ったもこもことしたスリッパに足を突っ込んで部屋を出る。

 しばらくして、熱いシャワーを頭から浴びてそっと目を閉じる。
 ひどい夢だった。
 いくらなんでも誇張がすぎる、と夢の中の自分が馬鹿らしくなった。悲劇のヒロインにでもなったつもりだろうか。夢の脚本家のセンスが疑われる。
 あそこまで、ひどくはなかった。あんな絶望に負けそうになって、死にたくなるような過去は嘘だ。
 かつて抱いたことのある感情だという点に嘘はないが。それを言えば、一度抱いたことのある感情を良い方にも悪い方にも倍増させ、膨らませてしまうのが夢というものなのだろう
 何にせよ、すべては終わった話だ。
 確かに思い出せる荒れた時期。けれど、夏音には救いの手をさしのべてくれる人がいた。
 だから、あんな絶望に負けそうになることはなかったはずだ。
「もしや深層心理っていうやつか……」
 後でその辺の情報をチェックしてみようと決めて、シャワーを止めた。
「ていうか、今何時だろう」
 備え付けの時計を見る。
 世間ではランチタイムと呼ばれる時間だった。
 やけに目覚めがいいと思った。



「あれー夏音ちゃんどしたのー?」
「重役出勤ってやつ?」
「あはは、おそよー」
 教室に入ると、クラスの女子が堂々と現れた夏音に気が付いて声を投げかけてきた。
 茶化すように声をあげて笑う彼女たちに「まだ時計の時差調整してないんだー」と言うと「もう半年以上たってんのに!?」「うっけるー」と大ウケされた。
 夏音は今日もどっかんいわせてやったわと満足して頷いた。
 そんな彼女たちとの華やかな戯れをかわし、指定の席へ座ると周りの男子が三々五々と集まってきた。
「夏音くん新記録達成だね!」
「今度の言い訳はどうするの?」
(うるさい朝からムサ苦しい)、と夏音は心の中で盛大に舌打ちした。世界は昼と呼ばれている時刻だが。
「メインディッシュは後からくるものさ、とかどうだろ?」
「うわーっサブいってお前! いや、でも夏音なら嫌味じゃないかも……」
「夜中に妖精さんのパーティに出かけていたらついつい寝坊しちゃったワ、とかは?」
「なげーよ」
「じゃ、こんなんは……」
 随分と勝手なことばかり抜かしている。夏音は自分の頭上で飛び交う言い訳の応酬をうんざりした面持ちでやり過ごす。というより、どれだけレパートリーを持っているのだ。
「フツーに謝るよ。言い訳はないですー」
「うわ、見た目に反してなんて男らしい」
「アメリカって言い訳文化なんじゃないの?」
 一言洩らすたびに、こうした反応が起こるのはどうにかならないものか。
「あ、夏音くんご機嫌ななめ」
「お前のせいだ」
「何を言う。貴様だ」
「お前だ」
「私だ」
「お前か」

 うぜえ。
 この日本語が夏音の気持ちを表現するにぴったり。彼はこの三文字の日本語が大好きだ。さあ言おう。言ってしまおう。
 大きく息を吸い込み、周りでざわめく馬鹿な男どもに怒りをぶちまけようとした時。
「立花くん!」
「ん、おはよう七海」
 夏音の怒りを寸で遮ったのはクラスの委員長・山田七海(お世話になっています)その人であった。
 怒気で膨れあがったオーラをばちばちと滾らせ、夏音をきっと睨んでいる。思えば彼はこの一年で言い様の知れぬ迫力を身につけた。
「おはよう、じゃないだろう! いろいろ言いたいことあるけど、普通この時間になったら来ないだろう!?」
「いやー七海の顔を見たかったんだよ」
「また君はそんなことを……っ! からかうのも大概にしたまえ!」
「ぷっ……た、たまえ、だって……古代の日本語? ムスカ様がそんな感じで……」
「ち、ちがっ……つい言ってしまっただけだ!」
「たまえ?」
「大概にしやがれ! と言おうとしたんだ!」
「それはキャラが違うだろ」
「う、うるさいな! どうせ寝坊したんだろう? 部活するためなら放課後に来ればいいじゃないか?」
「だーかーらー。七海に会いたかったから?」
 淡桃色の唇がぷるんと揺れる。夏音は七海を絶妙な角度から見上げ、甘く囁きをもらす。すると、彼は顔を真っ赤にして――、
「ッアァーーーーーーッ!!」
 叫んだ。壊れた。瞬時にクラス中の視線が彼に集まる。
 夏音と七海の会話はだいたいこんな感じに終わる。夏音にとって根が真面目な七海は誰よりもからかいがいがある玩具のような存在だった。
 このように爆発する七海をクスクスと笑って楽しむ彼はイイ趣味の持ち主といっても過言ではない。
「な、何で掘られてんだよ七ちゃんっ」
 実際のところ夏音はそれを痛快愉快と笑っているクラスの男子たちとも仲が悪い訳ではない。
 入学当初はそれこそ避けられていたのだが。すでに仲の良い者同士で固まっていた男子グループと一緒に行動することもなく、ひどいもので体育の着替えの時間などは皆、何かから逃げるように夏音を一人だけ置いてさっさと更衣室から出て行く始末だった。
 女子はというと、いつもキラキラとした瞳で夏音を見つめる者ばかりで、あまり話しかけてくれなかった。
 そんな状況を打ち破ってくれたのは、軽音部のおかげに他ならない。律と澪の二人が教室で夏音と普通に話しているのを見て、じょじょにまわりの夏音に対する態度、警戒心というものが「お、こいつ意外とイケんじゃね?」的に溶けていったように思える。
 ころっと態度を一転させた男子どもは何かと夏音をかまってきて、それが時折たまらなく煩わしい。日本人のくせに空気読んでくれない。
 このように確実にクラスのマスコット的な存在として祭りあげられていた。
 しっしと夏音が彼らを追い払い、周りの人が捌けたタイミングで声をかけられた。


「お前、いい加減にしないと部活にも影響出るかもしれないぞ」
 声のトーンを聞いただけでとっても機嫌が悪いなとわかるのも珍しい。振り向くまでもなく、声の主が澪だとわかった。
「ダイジョブダイジョブ! お茶の時間までには必ず来るようにするから」
「おい……うちはお茶飲み部じゃないぞ!」
「果たしてどうかな」
 にやり、と夏音が笑うと「うっ」と澪がひるんだ。
「最近、音を合わせたのはいーつだったかなー!」
「い、一週間前……」
「まーまー。軽音部って何かしらねー」
「す、すいませ……って何で私が謝ってるんだよ! 夏音も原因の一人だろー!?」
「はいはい」
 澪は受け流しやすい。チョロイともいう。冷静かと思えばことのほか直情型なので、飄々とかまえている夏音はひらりひらりとマタドーラのごとく彼女の突進を流しまくれるのだ。
「むぅ……今日こそは練習するからな」
「はーいはい!」
 クスクスと笑って、憮然としている澪の鼻をぴっと押した。
「ぬぅっ!」
 それをばっと振り払い憤怒の表情をつくる澪からさっと逃げ、教室を後にする。
 後ろで澪が叫んでいるが、気にしない。どうせすぐに「はぅっ」と人前で叫んだことに気づいて縮こまるだろう。
 担任に怒られるだろうか。先に職員室に行って適当に謝ってこようか。
 何だか今日は気分が良い。夢見が悪かったにせよ、こうして日常の匂いを嗅いだことでどうしようもなくほっとしてしまったのだ。 幸い、つまらない授業はあと一コマ。担任に盛大な溜め息をつかれてささっと戻れば大丈夫。

 彼は軽い心持ちで職員室のドアを開けた。

【Mission:夏音は校舎裏・地獄の掃き掃除の勅令を受けた】

「ってなんでじゃー!」
 校舎裏で一人、ぽつんと竹箒を持たされた夏音は思い切り手に持つソレをたたきつけた。
 この場所まで疑問を抱くことなく来てしまった自分も大概だが、よりにもよって誰もが嫌と言う学校で一番掃除したくない場所ランキング堂々一位、単独一位の校舎裏をたった一人で掃けというのだ。
「体罰と言ってもか、か……なんだっけ。かげん? かごん? じゃないよもう。とりあえず立派なpunishmentだよこれは」
 日本の教師たちはPTAとやらを怖れているはずだ。その名前を出してみればよかったと後悔する。
 掃き掃除と言っても、ついこの間まで大量にあった枯葉たちの姿は見えなくなっていたし、砂ばかりの校舎裏を掃く目的が見当たらない。
 最近、風が強かったからみな飛んでいってしまったに違いない。このまま自分も風のように消えてしまおうか、と思った。
 ふと何気なく思った。それだけだった。
 しかし、何心もなく思ったその「消える」という言葉に胸の奥がしくりと痛んだ。
「むぅ……」
 今日は夢のせいですっかりとナーヴァスな心持ちである。衛生的な精神のために一刻も早く甘いものを摂取しなきゃ、と思い至ったので掃除を放棄することに決めた。
 箒を用具入れにジャンピング投げ入れ、部室へと急ぐ。
「今日のお菓子はなんだろーなー」
 階段を上る。駆け上がる。銅の取っ手をひねり、バンッと扉を開けた。

 おや? と思う。

 空気が違う。何だか凍りついた空気。
 戸惑いに満ちていた。
 それでいて何だかこの肌にぴりぴりくる緊張感に懐かしさを覚えた。

 夏音はするりと部室に入ると、すでに全員がそろっているのを確認した。
 一人多い。
 どう数えても一人多い。
 しかも、そのプラスアルファは絶対に学生じゃない。学生じゃない上に日本人じゃない。
 その男は新たに部室に入ってきた人物に気が付き、夏音の方へ振り向いた。ふっ、と大きく口角を押しあげる笑い方。夏音の記憶にある見覚えのある笑い方だ。
 夏音の額を一筋の汗が零れる。
 その男は顔にかけていたサングラスをやおら外す。

「Hi……Kanu?」
「マーク……。Jesus……」
 いるはずがない人物がいた。
 回れ右して、ダッシュした。
 二秒でつかまった。
 夏音は今日が人生の正念場だ、と泣きそうになりながら「ほら悪い予感が正しかったー」と誰に言うまでもなく文句を言った。



「さっき職員室の方がえらく騒がしくなかったか?」
 律はやけに閑散とした廊下を歩いていて不思議だな、と思っていたところに職員室の扉付近の人だかりに出くわした。
 野次馬根性丸だしの生徒が溢れているのを見て「うわー、これには混じれない」と思った律は、特に関心の的を確かめないで部室まであがってきたのだ。
「誰か有名人かも、って話だよ。なんか校長先生がわざわざ職員室まで飛んできたみたいだよー」
 律より遅れて部室へ訪れた唯は野次馬の一人、それも最初から事態を目撃していた生徒を運良くつかまえて事情を聞いたらしい。
「っへー。校長がねー」
 やっぱり見ておけばよかったと律がぼやく。
「唯はその誰かさんを見なかったのか?」
「見たよー」
「見たんかいっ!」
 律はがくっと椅子からずり落ちそうになり、澪は「うるさい」と睨んだ。そういえば唯は肝心なことを言い忘れるきらいがあるのを忘れていた、と律が頭をかいた。
「で、どんな人だった? 有名人?」
「んっとねー。後ろ姿しか見えなかったけど、金髪の女の人だったよ」
「それだけじゃなー」
「あ、後ろから見てもすごく美人だったよ!」
「背中だけでわかるのか」
「校長先生が顔真っ赤にして握手してたからきっと美人さんだよ!」
「な、何者だその人っ!」
「あと男の人もいてねー、すっごく校長先生になれなれしかった」
「やっぱ私見てこよーっと」
 即実行を肝に銘じている律はがたっと机を揺らして立ち上がった。
 そのやりとりをぼんやりと聞いていた澪はふぅ、と溜め息をついた。
「やっぱり野次馬しに行くんだな。そんなことだろうと思ったよ」
「ふーん。澪だって気になってるくせにー?」
「別に気になってない」
「ちぇっ。今日はノリが悪い」
 澪は、ぶつくさと口をとがらせて文句を言う律を無視することにした。
 渦中の人物が有名人だと決まったわけではないし、それに有名人なら毎日のように見ている。
 この部活だと、自分しか知らない事実。そこに多少の優越感を感じて密かに微笑んだ澪は、ちょうど読んでいた音楽雑誌の特集ページに目を凝らした。
 特集は『マーク・スループ』というギタリストについてあらゆる装飾語を駆使して、彼のすごさを解説しているものだ。
 六ページ半も使っているのはすごい。楽器についての専門誌ではない雑誌で機材の紹介に二ページも割いてくれているのは珍しい。楽器は違えども、プロの機材を知る瞬間は嬉しいものだ。
 澪は「ん?」と見出しを二度見した。スループ、という姓。
(この人もスループ一家なんだ……)
 自分にとって決して他人事ではなくなったそのファミリーネーム。こうして雑誌などでこの名を見かけると、改めて自分がとんでもない人物の近くにいるのだとおそろしく実感させられる。
 十中八九このマークという男も彼の知り合いなのだろう。スループという単語はつぶさに『音楽家』であるという意味を含むのだから。
 この人はどういったジャンルで活躍しているのだろうとじっくりと記事を読もうとした時。
『Silent Sistersの変態ギターの奥義がここに明らかに!?』
 という一文が目に飛び込んだ。
(こ、この人がギターだったんだ!?)
 Silent Sistersというプログレ色の強いロックバンドがある。
 初期のアルバム以降はロックというよりメタル寄りの雰囲気だが、その特色はメンバー全員の技巧の鋭さから生まれるめまぐるしい展開である。全員が神業的なフレーズを怒濤の勢いで重ね合わせ、頭がおかしくなってきそうなことを平然とやってのけるのだ。
 澪がこのバンドを知ったのは一年ほど前だった。某レンタルショップで未開のCDを発掘していた最中、とあるCDアルバムのジャケットに惹かれて(いわゆるジャケ借り)とりあえず一枚借りて家に帰り、コンポで流してみたのだ。
 気が付けばその日のうちにすべてのアルバムを購入していた。
 それほどの吸引力をもつバンドである。
 バンドの歴史としてはヴォーカルとドラムの二人、準レギュラー的なキーボードを抜かせばギターとベースのポジションが常に不安定なバンドだった。
 不安定、といっても演奏力のことではない。入ったり、やめたり。初代から含めるとギターは四人くらい変わっている。
 どうやら最新のアルバムではまたもやギターが変わったらしいという話は耳にしていたが、澪はそこまで気にしていなかった。
 どれだけギターが変わっても、例外なく超絶技巧の変態ギタリストが加入してくるのだから。そもそも、澪としてはバンドとしてのサウンドの中心に座しているドラムとヴォーカルがいる限り、音楽性に問題はないだろうと考えていた。


 最新アルバムは視聴で聴いただけだが、「またすごいギターがきたなぁ」と思った。
 あの次元になると、すごさのインフレが起こってどれだけすごくても感覚が麻痺してくるという不思議。
(黒人の人だったんだ)
 黒人のギターヒーローが少ないというのはいかにもな話ではないかと澪は考えている。ジミ・ヘンドリックスというジェフ・ベックやクラプトンにして「彼に勝てるギタリストは存在しない」と言わせた大御所はいる。
 とはいえロックのギターヒーロー、メタル界の怪物ギタリストなどと言われて思い浮かべることができる黒人ギタリストが何人いるだろう。

 少し音楽をかじっている、などと言う人に問うても首をひねって答えに詰まるだろう。

 Crackdustはガチメタル。レニー・クラヴィッツ、ロイド・グラント、ガンズのスラッシュ……はハーフだ。しかし、探せばいるといった程度だろう。世界は広いが、認知度の問題だ。
 ここのメンバーは全員白人なはず。その中に違和感なく入って受け入れられる(ファンに)には相当の腕を持っていると思って間違いない。スループの名を背負う者としては面目躍如といったところだろうか。
 ちゅ澪は低く唸りながら記事の上に視線を這わせた。
(空間系が少しだけ夏音とかぶってるかな。やっぱりあれはプロ御用達なのかも)
 こうして雑誌に夢中になろうとした拍子に、部室を出ようとした「ウギャーーッ」という律の悲鳴が響いた。
 澪は驚いて振り返った。振り返りつつ「いくらなんでもウギャーはないだろう。女の子として」と暢気に考えていた思考が凍り付いた。

「Excuse me. Kanon here?」
 平日、放課後。私立高校の音楽室で黒人に遭遇する確率は非常に少ない世の中だと思われる。
 ましてや日常会話で使える英語を学んでいない日本の高校生が英語で何かを問われたときたら、フリーズしてしまうのは致し方ない事だ。
「I heard he would be here…hey, why are you making a face? 」
 その男の肌は黒く、背が高かった。白いジャケットを着ていて、そのままジャズのステージに立っていてもおかしくない雰囲気を持っているが、何故か足下がスリッパ。
 高級感あふれるハットにサングラス。落ち着いて見ると、お洒落だと言えなくもないが、彼女たちにそんな心の余裕はない。
 律の喉から呼吸だけが漏れる。何かを話そうとしても、喉が言葉をせき止めてしまっている状態だ。
 パニックにより真っ白な状態の律を見て、その黒人の男は訝しげに律をのぞきこんだ。すると「Oh!」と手のひらを叩き、ぱっとハットをとって陽気に一言。
「コンニチハ!」
 誰もが思わず体の力がずるっと抜け落ちそうになった。
「は、はろー!」
 せっかく向こうが日本語で挨拶してきたのに、テンパった律が英語で返す。すると、その男も笑って「Hello, lady」と返してきた。
「アー、カノンはいますか?」
 たどたどしくもしっかりと日本語を話してきて、伝わった。夏音がいるか。
 この男は夏音を探しているということだ。
「あ、い、いません!」
(嘘ついた!?)
 律が思い切り嘘をついた瞬間、唯、ムギ、澪の三人の心が一つになる。
「ソウデスカ……ここ、ケイオンブ?」
「イエスイエス!」
「Strange……彼はケイオンブのはずです」
「い、いやその……」
 このタイミングで律が澪たちの方を振り向いた。助けを求める目をしている。はっきりと救難信号を発信しているのがわかる。
 しかし、勝手に嘘をついた律を助ける術が見当たらない。
 何より、できるだけ巻き込まれたくないので三人は全力で目をそらした。
 その瞬間、律の白目にギロッと血管が血走った。
 腹をくくって、律は一人で応対する。
「今、いなくて。後で来る、オーケー? あぁ……ヒー、カム、レイター」
 めちゃくちゃな英語だが、それで伝わったのか男は「Got it」とうなずいた。
 田井中律、初めての異文化コミュニケーションここに成功。かと思いきや。
「ココでマッテます」
「へ?」



 端的に言うと、田井中律は役に立たなかった。結局、彼女たちはそのまま男を中に通し、あまつさえ自分たちの席をすすめるハメとなってしまったのだ。
 とりあえずおもてなしの心によってムギがお茶を出し、唯は珍しく緊張しながらもまじまじと彼を見詰めていた。わりと興味津々のご様子。
 そんな中、澪は滅多に交流することのない外国人にがちがちに緊張していた。ちなみに普段接しているアレは外国人ではないと認識している。
 よりにもよって隣の席にどっかり座られてしまったせいで、まるで借りてきた猫のように背筋を伸ばして固まっていた。先程から雑誌は同じページのままめくられていない。
(ひ、ひぃーっどうしよう。何か話しかけたほうがいいのかな。ていうかさっきからずっと黙ってるけど怒ってるのかな? でもこういうのはムギとか唯とか律とかの出番だろうし)
 自分より遙かに社交的なはずの彼女たちが話しかけないとなると、ひたすら重い沈黙が自分の胃を直撃してくるのだ。
 自分が何か粗相でもしたら「オーゥ、ファッキンジャップ!」とか言われるのではないか。澪は頼むから誰かはやく喋ってくれ、と切に願っていた……が、誰もが同じくそれを願っていた。
(ムギなんてお嬢様で英才教育とか受けてそうなのに!? 外国とかもしょっちゅう行って他国のお偉いさんと会話とかしてそうなんだから、とっとと話しかけてー!)
 心が追い詰められているせいで何もかも他人に丸投げの姿勢をとっていた澪は、やっとの思いで首をギギギ、と動かしてお茶を振る舞うムギの顔を見ようとした。その際、隣に座る黒人の顔を眺めることになったのは偶然だった。
 そして、ふと自分が開いている雑誌の特集になっている黒人と瓜二つであることに気づいたのも偶然であった。
 目をぱちくりさせる。
 澪は自分の目がおかしくなったのかを疑い、こすってみた。
 視線を落とし、雑誌の表紙を確認。つづいて、隣を確認。
(こ、黒人って日本人からしたら見分けがつきづらいし……まさか、な)
 それに、マーク・スループは特徴的な髪型をしている。
 縮毛矯正をしているのか、肩過ぎまであるだろう長髪の顔まわりがさらっとしたストレート。それ以外をコーンローやドレッドの組み合わせというお洒落なヘアスタイルのはず。
 ハットをかぶっている時点で確認できないが、よく見れば隣にいる人物は少し髪が長いように見える。
(か、髪が長い黒人なんてごまんといるはず)
「Thank you」
 ムギが茶菓子を出したことで、彼が礼を言う。そして、おもむろにハットを脱いだ。
(う、う、う~~~~~。神様のばか~~~)
 しっかりとお洒落ヘアが確認できた。
(本人だよ……本人なんですけどっ!?)
 額からだらっだらと汗が流れ、目が怪しい動きをし始める。動揺のあまり焦点が定まらず、背中にも汗がだらりと垂れた。
 傍から見たら明らかに挙動不審の女である。
 何故、こんな人物がこんな場所に……と思いつく原因は一つしかない。正しくは、一人しかない。スループ。この単語だけで一たす一より簡単に、導かれる答えだ。
(こ、これって夏音と鉢合わせになったらまずいかも……?)
 澪は、その鉢合わせは夏音がプロであることを他の軽音部の者に知られることにつながってしまう気がする。
 いつかは話すとは言っていたが、このような形でバレてしまうのは彼の本意ではないはずだ。
 実のところ、澪はどうして夏音が入学当初に本当の事を打ち明けてくれたのかがわからない。
 もともと知っていたというのを見越した? ベーシストとしていつかバレてしまうと考えたからだろうか。
 そこにどんな理由があったのか。また、理由はなかったのか。
 ともかく澪にとっては夏音が自分にだけ打ち明けたという事実だけあれば満足だった。
 それが自分の秘密だったし、誰かと秘密を共に抱える楽しみは何だかスリルがあって楽しい。
 完全に子供みたいな理由だが、澪にとっては何だかよく分からないその他諸々の理由――言葉で説明なんてできない―――によって、夏音の正体が明らかになってしまうことは歓迎されにくい事柄であった。
 その正体が何なのかはよく分からないし、分からないままがいいと女の勘がささやくもので考えないようにしている。
 とりあえず、目の前の問題は截然としている。皆の前で二人を接触させないこと。
 果たしてそんな難題を乗り切ることができるのだろうか。こんな汗だくになってワイシャツを濡らしている女に。

(あ、メールすればいいんだ)
 うっかり文明の利器を忘れるところであった。澪はさっそく震える手で携帯を開こうとした。
「Are you okay?」
「は、はぅはあ?」
 突然、男に話しかけられた。マーク・スループに。超絶天才ギタリストに話しかけられた。秋山澪、てんぱる。すると日本語で言い直された。
「アナタ顔、ヒドイよ」
「ひ、ひどい?」
 その言いぐさがヒドイと思わないか、と澪はショックを受けた。
「気分ワルい?」
「あ………」
 そこで彼が体調を気遣ってくれていたのだと理解した。
(い、意外に紳士的?)
「ド、Don`t worry」
 かろうじて思い出せた一言を絞り出すと、やはり心配そうな顔をしたまま、それでも一応納得したように「そう」と引き下がった。心なしか不満そうだ。
 澪は再び携帯画面を開く。送信履歴のトップの方のアドレスに急いでメールを打つ。
【マーク・スループが部室に!】
 たったそれだけだ。
 雑誌に隠して、携帯を打つ。ノンルック打法だとしても、それだけ打つのに現役女子高生が五秒もかかってたまるか。そう意気込んでも震える手は思い切り誤字、誤変換のオンパレードを奏でる。
 慌てて打ち直さねばならない。クリアで全てを消す。
 もう見ながら打とう。テンキーに親指が乗ろうとした瞬間。
 ガチャリ。
 絶望の扉が開く音がした。携帯をもつ手を力無く下ろし、澪は天井を仰いだ。
(もう、しーらない……)
 自分は少しだけ頑張ったのだから。




 夏音の弾かれたような脱兎は束の間にして終焉した。
 襟を掴まれ、即座に身を縮めている夏音はまるでご主人様に叱られてしゅーんとしょげかえった犬のようだった。その表情は、ひーんと尻尾を巻いた犬そのもの。
「この大間抜け!!!!」
 控えめに言ってそんなニュアンスの英語が天下のギタリスト、マーク・スループの口から飛び出した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい~~~~~」
 軽音部一同は、あっという間の展開にぽかんと口をあけていた。英語で飛び交う会話、というより夏音が一方的に謝っていることくらいはもろにわかる。
「こんなに弱っちい感じの夏音って珍しいかも」
 律がぽつんと言った一言、澪はよりによってソコかと思わないでもなかったが、たしかにそうだと小さくうなずいた。
「何で俺に何も言わなかった!?」
「いったいその髪はなんだ!?」
「何でずっと連絡をよこさなかった!?」
「バカか!?」
「すぐ戻るとか言っていたそうじゃないか? もう二年も経つんだぞ?」
「高校の軽音部に入ったって聞いた時は目眩がしたぞ!」
「やっぱりお前はバカだ!」
「どあほーーーー!!!」

 破竹の勢いでなじられている夏音は肩をすぼめて、びくびくと震えていた。
 最初から全力で白旗を振っている。相手にお腹を見せる獣のごとく、逃げ腰だった。
 興奮冷めやらぬ状態で夏音の首根っこをおさえているマークは罵倒してもしきれんとばかりに矢継ぎ早に口を動かす。夏音はうっすら涙を浮かべてひたすらそれに堪えていた。そんな状態が続くかと思いきや、
「Mark. Calm down Mr.Wolf. My Little Red Riding Hood looks so pale.」
 しゃらん。
 甘く、やわらかい。聴いただけで美しい人物を想像してしまうような美声が張り詰めていた空気に割り込んだ。
 その一瞬で場の空気が華やかになり、部屋を埋め尽くしていた緊張感が消え去った。
「もー。マークは寂しかっただけなのよね」
 太陽のように輝くブロンドヘアーを揺らしながら、モデル顔負けのプロポーションの美女が入り口に立っていた。こちらも日本人ではない。
 顔も姿も眩く光輝いていて、部室中を照らした。花のような唇がくすりと笑い、青い瞳がすっかりしょげ返っている夏音の姿を絡め取った。
「My lovely sweet!!」
 そう叫ぶと彼女は夏音をぎゅぅーっと抱きしめ、その顔にキスの雨を降らせた。欧米式の熱烈なスキンシップに日本の女子高生たちはたじろぐ。
 キスしたよ。
 キスだよ。
「Mom!!?」
 軽音部の面々は、夏音が女性に返した一言に固まった。
「マムだって!!?」
 全員、目を剥いて女性を凝視した。女性は魅力的な微笑を浮かべて、人懐っこく笑った。
「カノンの母でーす! アルヴィって言いまーす!」
 日本語。
一同は正面から彼女の顔を見て口を揃えて言った。
「姉妹……?」
 髪の色以外はほとんど瓜二つという容姿をしている。どちらかというと女性の方が完成されている感じがする。夏音完成版。唯が正直な感想を洩らした。
「よく言われるのーありがとう!」
アルヴィは艶然と笑って少女達に微笑みかける。一方、アルヴィに夏音をかっさらわれたマークは肩を大きくすくめた。
「とりあえず、俺はこいつに物申さなくては気がすまないんだ」
「ええ、わかるけど……でもアナタ、すでに色々言ってたじゃない」
「これだけじゃ言い足りない!」
 アルヴィは自分の息子がマークから買っている恨みは存外深い、と困惑した。頬に手をあて、眉尻を下げて改めて息子を見下ろした。解放されるや、すぐに自分の背後に逃げ隠れた自慢の息子を。
「あなたも何か弁明はないの? 言い訳しておかないと後々ひどいかもしれないけどー」
 母の言葉を得て、夏音はおどおどと母の影から前に出た。深呼吸をしてちら、とマークを見てぎこちなく微笑む。
「や、やあマーク。ひさしぶり」
「…………久しぶり? ああ、久しぶりだな。これは久しぶりだろう」
 置かれた間がとても痛い。ギロリ、と蛇に睨まれた蛙状態に陥った夏音はふたたび「ひぃ」と飛びあがった。
「ずっと一方的に音信不通だったヤツの言う台詞にして気が利いてるな? そいつは冗談のつもりか?」
「ち、ちがうんだよっ! みんなには何も言わないで飛び出してきちゃったから……その……色々ございまして」
「みんな? 俺以外の奴らはほとんどが知っていたんだけどな。はたしてその“みんな”とやらに俺は含まれていないのか?」
「う、うぅーー…………ごめんなさい」
「何に対してのごめんなさい、だ?」
「黙って行ってしまってごめんなさい」
「それだけじゃないだろう?」
「その他諸々ごめんなさい」
「だから、その諸々ってのはなんだ?」
「う、うわーん」
 夏音はたまらず泣いた。もう抑えていられなくなり、人目を憚らずに恐怖による涙を流した。今時、うわーんと泣く人間も珍しい。
「くそっ。何でお前はいつもいつもいつもそうやって泣けばすむと思って!?」
 シュゴーッと怒りの蒸気を頭から発したマークが夏音に詰め寄る。
「あらー、懐かしいやりとりねー。マークったら好きな女の子についつい意地悪して泣かしてしまうタイプの子なのよねー」
「ち、違う! いい加減なことを!」
 語気を荒げて反駁したマーク。あまり気づく者はいなかったが、彼の肌はそれこそ真っ赤に茹だっていた。
「泣けるならいいじゃないの」
 マークは、アルヴィが静寂をまといながら投げかけた言葉に息を詰まらせた。彼女の言葉は氷を飲み込んだように一瞬で自分を黙らせた。視線をうろうろとさまよわせ、ゆっくりと泣きじゃくる夏音を眺める。

「ベースは………続けているんだな」
 先程までの詰問するような鋭さはなく、優しく確かめるような口調(かなり気を付けて)で彼は訊いた。
 それに対して夏音は幼子のようにこくん、と大きく頷いた。
「ベースは持ってきているのか?」
「……あるよ」
 再び素直にうなずく。完全に大人と子供のやり取りだ。マークはパチン、と手を鳴らすと周りを見回した。
「ちょうど良い。ところでジョージはどこにいるんだ?」
「ダーリンならおトイレに行ったわよー。でも、階段をのぼってすぐにここに来るわ」
 アルヴィはまだ姿も見えない誰かの階段をのぼる足音を聞き取っていた。そして彼女の話した事はすぐにその通りになる。
 またもやガチャリと扉があき、第三の客が姿を見せた。
「いやー日本の学校のトイレって超久しぶりでくそあがったわー!」
 豪快に笑いながらどすどすと部室へ入ってくる男は当然のごとく注目を浴びた。どうやら彼がジョージであるらしいが、明らかに日本人だ。年の功は二十代後半といったところで、一見細身に見える身体も近づくにつれて一切に無駄がない、限界まで絞られた鋼の筋肉に包まれていることがわかる。
 彼は夏音の姿を見るにつけ、にっこりと嬉しそうに頬をゆるめた。
「ややー、息子じゃないか。父をハグしておくれ。ていうか俺からしちゃうもんね!」
 そう言って夏音のもとまで一瞬で距離を縮めるとアルヴィと同様にむぎゅっと抱きしめる。
「ぐへぇっ」
 夏音の喉からカエルが潰れたような声が飛び出る。
 めまぐるしい展開の中、完全に置いてけぼりの女子高生は唖然とそれらの様子を見守るだけだ。
 ちなみに、彼女たちは先程から交わされる会話のほとんどが英語なので、何を言っているのか、何で夏音が泣き出したのかも把握できていない状態だ。
 ぽかん顔の女子高生たちがフリーズしているのに気づいた男はくだけた笑いを浮かべて、少女たちに挨拶した。
「立花譲二です! 夏音の父でーす! どうも息子がお世話になってるね! ありがとう愛してる!」
 初対面で同級生の父親に愛された少女たちは、硬直状態をさらに進行させた。
「何言ってるのさ! みんな固まったじゃない!」
 夏音はいきなり部活の仲間たちに愛してる発言をかました父親をぽかりと殴った。それでもこの父親、どことなく嬉しそうだ。
「カノン、ベースを用意しろ」
 親子の久々の再会をじっと眺めていたマークが厳しい口調で夏音に言った。ぴくり、と夏音の耳が動く。
「……やるの?」
「そうだ。ここは軽音部なんだろ? それでギターを貸してもらいたいんだが」
 マークは椅子に座ったまま強制的にアウトサイダーをやらされていた少女たちに声をかけた。
「え、何? ギター?」
 唯はギターという単語だけ聞き取れて、反応した。
「イエス。あー、ギターかしてくだサイ」
「ゆ、唯っ! ギターだ! お前のギターを今すぐ貸してさしあげるんだ!」
 何故かあわてふためく澪が唯に命令した。
「え? いいけど……ていうか澪ちゃんすごい汗だけど大丈夫?」
「私のことはいいから!」
 あの世界のギタリストにギターを貸せと言われる機会など、一生に一度だ。
 そんな澪の内心など知らない唯はやけに狼狽している澪の様子を不思議に思った。
 それでもギターを貸して欲しいというなら、貸そうではないかと思いケースからギブソンを取り出した。
「う、うちの子をお願いします」
 どこか、手塩をかけて育てた一人息子を送り出すような気分だった。マークは唯の差し出したギターを見て、ヒューッと口笛を吹いた。
「レスポールか……渋いな」
 ぱっと見、ただの女子高生がレスポールを使っているとは思いもしなかったのだろう。セッティングが良くないとはいえ、予想外の名器にマークの機嫌は少しだけ回復した。
「カノン。お前も早く用意しろ」
 レスポールをかまえたマークに声かけられ、ハッとなって夏音もいそいそと準備をし始めた。
「お、なんだなんだセッションか?」
 夏音の父、譲二は楽器の準備をし始めた息子たちを見てそわそわし始めた。
「俺もまじる!」
 わくわくが収まり切らなくなったのか、そう叫んだ。どこから取り出したのか不明だが、その手には二本の細長い棒が収まっていた。
「スティック?」
 誰よりも見覚えのあるその道具に反応したのは律だった。仲良く固まってはいたものの、しっかりと事態を見守っていた彼女は、突然現れた夏音の父親が取り出したスティックを見て唖然とした。
「え、夏音の父さんってドラマーなのか!?」
「クレイジー・ジョーってわりと有名だと思うけど……あまり日本のメディアに出ないから知らないかな」
 楽器の用意をしながら夏音が律に答えた。思えば夏音が部室で軽音部の誰かと話すのはこの瞬間が始めてだった。
「聞いたことあるような……」
「ま、そんなところだろうね」
「ていうかお前さんお前さん」
「な、なんでしょう」
 平然と会話をしている中、律はそろそろと夏音に近づいた。
「そろそろコレがいったいどういう事なのか説明が欲しいんだけどなー」
 もっともである。しかし、夏音は律の言葉にすっと目をそらしてうつむく。
「ごめん。あとで……ごめん」
 そんな反応が返ってくるとは思わなかった。
 律は予想外にも自分が夏音を傷つけてしまった気がして、ショックを受けた。
「そ、それならあとでも……べつに大丈夫っていうか?」
「…………」
 律はふらふらと椅子に戻った。


「まだソレを使っているのか」
 マークがふと呟いたのが、自分のベースのことを言っているのだと気づいた夏音はそっとボディを撫でた。
 フォデラ・エンペラーの五弦。コントロール部付近にできた小さな傷に目をやる。
「だって、クリスがくれたものだもん」
「チッ。俺がやったのはどうした?」
「もちろんアレも大切に……」
「ふん、なら別にいいんだが」
「飾ってあるよ」
「弾けよ!」
 準備をしながらふっと夏音は引きつっていた表情を崩した。
「なんだか懐かしいね、こんなやりとり」
「うるさい。何を暢気なことを」
「別に暢気でも何でもないよ。俺はいつもこんなんだよ」
「……知っている」
「ヨシ、準備できたよ」
 二人は会話をしながらも、しっかりと音を出して準備を整えていた。
「父さん、大丈夫?」
「いつでもいいぞー」
 夏音は母の肩を抱いて何か小言で囁いてクスクス笑っていた父親に尋ねた。友達の前でまでイチャつくなバカ、と思ったが口にしなかった。
「ていうか律にドラム借りるよって断ったの?」
「律ってどの子だい?」
 まだ、だった。この父は……と溜め息をついた夏音は律の方を向いて、その特徴を父に伝えた。
「Forehead」
「あー、君がドラムかい? ドラム借りていいかな!?」
 なんか今、とても失礼なやりとりが交わされた気がしたが、律は快く「あ、いいですよー」と答えた。
 許可を得た譲二はささっとドラムセットに向かった。
「ヒップギグか。なつかしいなー」
 椅子の高さだけ調整して、そのまま持っていたスティックをスネアに一発。
 その一発で言葉などいらなかった。
 そのたった一発のスネアだけで律は全身に雷が走ったような衝撃を受けてしまったのだ。
 続いて、他人のセッティングのままでドラムを叩き始めた人物のプレイに顎が外れそうになった。
 自分なんかより数倍、それ以上も音が大きい。クラッシュを打った瞬間、鼓膜を凄まじい音圧が襲う。爆弾でも弾けたような鋭くて短い、破裂音。
 腰が椅子に張り付いてしまったように動けなかった。身じろぎさえできなかった。
 律が衝撃を受けている隣で、澪も茫然としていた。すっかり白澪と化した彼女はもはや情報を処理しきれていなかった。
(夏音の父親といえば、あの伝説のセッションドラマー。加えてマーク・スループ。カノン・マクレーンの三つどもえセッション………)
 自分は、今まさにとんでもない物を目撃するハメになる。
 音楽ファンなら垂涎モノの機会に違いない。内心、自分だってこんな機会をお目にできる事に胸が震えぬはずがない。
 しかし、何だかんだ心配事がありすぎて、集中できないのも事実。
 横に視線をずらして、仲間たちの反応をうかがってみた。
 律は、先ほどから肩ならしとばかりに鳴らされるドラムに魂を抜かれたように見入っている。当然だ。桁が違う実力を持っている者の演奏をこんなに身近で聴ける機会など滅多にない。
 さらに横の唯。他人にいじられる自分のギターのことばかり気にかけているようだが、これから始まるとんでもない何かに心を躍らせているようだ。野生の勘に違いない。
 ムギはというと、先ほどから近距離でじゃれつくマークと夏音の姿を指くわえて眺めている。恍惚そうな表情。そっちもイケたのか、と澪は知りたくもない新事実を得た。

(あーもうみんなゼンッゼンわかっていない! このセッション、ふつーにお金とれるんだよ!?)
 チケット代、S席で唯の一月分の小遣いより遙かに高いだろう。
 誰かこの心境を分かって欲しい、と澪は肩を震わせた。さらに悪いことに、
「なんかずるいわ……私だけ仲間外れじゃない!」
 とアルヴィが騒ぎ出したせいで、ムギからキーボードを借り受けた彼女がセッションに参加を決めたのだ。
 澪はもちろん知っている。
 アルヴィ・マクレーン。
 超がつくほど有名なジャズシンガー。ピアノも相当できることは周知の事実。

 澪は決めた。
 このてんやわんやの先に何が待っているか。
 そんなことはどうでもいい。忘れよう。とりあえず、忘れよう。
 今はそんな事を忘れて楽しんだ方が勝ちなのだ。
  そう考えると、気が楽になった。ついつい強張っていた顔もゆるんだ。肩の力と共に、心配などがするりと抜け落ちた。後に残ったのは、心躍る胸が弾む気持ち。
「アハっ」
 何て最高な一日だろう。
「アハハッ」
「み、澪ちゃん?」
 ふいに笑い声を漏らしだした澪に気づいたムギ。何かの発作かと思ったのだ。
「アハハハハハッ! すごい! 最高だぞ! なあムギ!?」
「な、なにがーっ!?」
「おい唯も見ておけすごいぞー! なかなかだー!」
「澪ちゃんが壊れた……」
 ムギには、理由がまったく見当たらなかった。



 演奏が始まった。

 音が。
 まるで、そこから音楽が発祥したような誕生の仕方だった。
 一音の始まりから終わる瞬間までもが計算づくかのようなギターの音が響く。
 このギタリストがこの世の中にその音を発した瞬間と、聴衆の耳に届く瞬間の音はまるっきり違うのだろう。空間を伝播して、震わして影響させて広がる。音の力。
 さらに幽玄な調べが続く。青白いスポットライトが彼だけに当たっているような存在感。
 マークのセッティングは夏音からいくつか借り受けた足下だけで、今はいわゆる直アンの音。マーシャル社の技術とレスポールの根源的な絡み合い。そこにそれだけじゃないナニカが演奏者によって足される。
 それだけであっと息を呑む音を生み出しているのだ。
 それを支えているのは譲二のドラム。BPM一つ分もズレない正確さでマークと曲を進行させている。
 ミディアムテンポで進む曲が八小節ほど進んだところで夏音のベースが混じる。ただそれだけで音の厚さが数倍に膨れあがる。
 さらにしばらくして鍵盤の音が参加した時には他が入る余地のない鉄壁の要塞のような音楽ができあがっていた。
 互いが互いのすべてを知り尽くしているようなアンサンブル。
 相手の呼吸が自分のものであるかのように反応する面々。
 ふとベースがレイドバックすると、周りもそれを知っていたかのように独特のグルーヴへと変化させてしまう。
 プロのミュージシャンの中でも、超一流と呼ばれる者たちは時たまに超能力ではないかと思うような感覚を見せつける時がある。
 嗅覚、聴覚、視覚。そういうものを全て超越した感覚をもっているとしか思えない奇跡的な反応をしてしまうのだ。
 彼らはまさにそれにぴったりと当てはまっていた。決め事に縛られないセッションの中を巧みに動くだけではない。彼らの可動領域に限界はなく易々と遠くへ行ったり近づいたりする。彼らは音楽で連なり、一つの生き物のように駆け巡っているのだ。
 今までのは肩慣らしと言わんばかりに苛烈さを帯びてきた演奏の最中、マークによるギターソロが始まる。ブラックミュージックを通ってきているのがはっきりと分かる特有の手癖、リズム感、ブレスのタイミング。
 完全にマーク・スループの独壇場と化している、と思いきや、ふとクラシックのフレーズが出てきたりする。アンビバレンツなのではない、彼の場合、全て上手く混じり終えているマークの音楽としている。
 音楽のジャンルという垣根を越え、あらゆる音楽を取り囲んで別々のモノとしてではなく、表現の一つとして昇華してしまっているのだ。
 若くしてフレージングが神がかっていると評価される彼はそのまま彼の存在を音に乗せて押し広げる。一つのギターが鳴っているとはまるで思えない重厚さをもって彼のソウルを部屋中に埋め尽くそうとしていた。
 夏音はその演奏を聴きながら、頬をゆるめた。それと同時に青い瞳が小さく揺れる。
 彼にとってこの友人と音を合わせるのは実に二年半ぶりである。ますます磨きがかったテクニック、感性の爆発が目の前で展開されることは心の底から嬉しくて、たまらなく興奮する出来事なのだ。それと同時に懐かしくなる。昔を思い出し、引っ張っていかれそうになる。
 けれども、今の夏音は踏みとどまらなくてはならないのだ。しっかりと地面を踏みしめてある証明をしなくてはならない。
ギターソロが止んでアルヴィのピアノソロ。それが終わると自分の番になった。

 一小節の溜め。
 直後に和音を抑えた状態で右手を思い切り指板に叩きつけた。パーカッシヴな全音が響いたところですぐにトーンを急降下。フラメンコ奏法でざくざくとアンサンブルを巻き付けていく。
 叙情的なフレーズでその場は夏音のものに様変わりする。続けて彼はシャッフルのラスゲアードを展開させていった。時にスラップを混ぜながらの絶妙な音色のコントロールは何に分類される音楽かも知れたものではない。
 飛瀑を連想させる三連符が始まったと思いきや、タッピングから生まれるハーモニクスが幻想的に響く。
 そこを機転に横ノリなグルーヴを展開。神がかったピッチコントロール。ありとあらゆる手癖をミックスさせて創り出す幾何学的なベースラインで圧巻していく。
 夏音にしか持ち得ないアーティキュレーション。ワンアンドオンリーの音。世界に認められた音。
 色彩の魔術師と呼ばれた多彩な感性が空白の二年間で磨きに磨きを重ねられたのだ。
 夏音はベースを弾かない日はない。一日何時間も練習を重ねたのは引きこもっていた時でも変わらなかった。
 でも、それだけではない。
 夏音が新たに得たもの、経験。今までの人生では馴染みのないどうしようもなく普通で、世間ではありふれていて、それでも温かい世界。
 夏音は誇らしげに自分の持てる全てを肯定して出し尽くせる。
 少なくとも、この一年は無駄ではなかった。そう自信を持って思えるのだ。
 だから彼はそのことをマークに教えてやりたかった。
 もっと世界が広がったのだ。

(あれから成長したよ。ちゃんと前に進んでいるんだよ)

 夏音はいつの日か言われた言葉を思い出す。
『音は実に雄弁だよ。時に人間の言葉なんかよりも遙かに多く伝えたいことのせることができる素晴らしいものなんだ』
 だから、夏音は音にこめたメッセージをありったけの力で放射する。

 それは緑で、大地で、水銀の赫、風であって真冬の透明、枯れた石畳の灰色。
 あらゆる色彩の音色が夏音の中から世界に溢れだす。とどろく音の奔流となって、部屋を満たす。
  絡み合うビートたちは前に後ろに交互に行き交う。全員分のソロが終わると、ここからが本領発揮だった。
 この面子で行われるセッション。夏音が生まれてから何回行われたか数えられたものではないほど積み重なった信頼が崩れることはないのだ。
 セッションという場にかかわらず。夏音はディレイ、コーラスを踏む。ハーモニクス。倍音のアルペジオが幾重にも重なり、深海のソナーのように深く、優しく、包み込むように拡がる。いくつもの水の層。水で出来たレースのカーテンが光の射し込まない場所で淡くゆらめく。
 それを受け取ったマークもディレイを踏む。合わせてリバーブのスイッチが光っている。二つのフィードバックが重なり合い、許すように溶け合って、増してゆく。床が地震のように震えだし、音の壁が部屋中を押し潰していく。
 そんな中、譲二がにやりと悪戯小僧のように笑う。アルヴィはそんな彼らの様子を微笑ましそうに見詰めて、しっかりとついていく。
 
 後は、もう喧嘩だった。

 マークが人間離れした速弾きを始めると、夏音もそれに劣らぬ速弾きフレーズを繰り出す。
 すると、ふとドラムのフィルでスリリングなビートに逸れ、

「    」

 ブレイク。時が止まる。宙に放り出されたような感覚。
 再び世界が動きだし、またうねるグルーヴがそこかしこに迸り火花を跳ねさせる。
 五連符や六連符が飛び出す頃には、彼らの世界は有頂天にのぼりつめようとしていた。
 ワンペダルで五連を可能にしている怪物ドラマー。神々の争いを繰り広げているかのような弦楽器隊による演奏は留まることを知らなかった。


 たっぷり一時間。
 一時間の即興演奏がやっと終焉した。
 日が傾き。夕陽が部室に射し込み、部屋をオレンジ色に燃え上がらせている。
 四人の女子高生は魂が抜けたように虚ろな表情で座っていた。ぼんやり、とまるで魂とひきかえに悪魔の演奏でも見てしまったかのように。
 瞳を当社比一・五倍の大きさに見開いて、その瞳には光が入っているのか怪しかった。
 それでも、彼女たちは「はっ」と意識を取り戻す。
 今、起こったことを必死に反芻するように目をぱちくりさせる。夢を見ていたような気もするし、未だ耳の中で起こり続けている気もする。もしかしたらまだ夢の中かも。
 ぼんやりと互いの頬をつねり、夢からの脱出を図る。しかし、彼女たちは見た。

 演奏が終わり、オレンジの空気の中そっと佇む彼らを。
うつむく夏音の目からぼろぼろと流れる涙を。
 彼は肩を震わせ、両手で顔をおさえた。
 彼女たちは不思議だった。何であんなにすごい演奏をしたのに、そんなに悲しそうに泣くのだろう、と。
 答えは想像すらできなかったが、自分たちが何か彼にしてやれることはないかと頭をひねった。しかい、頭をひねっている間に彼の肩を抱いた者がいた。
 マークはギターを背中にまわすと、しっかりと夏音の小さな体を自分の胸に押しつけた。
 言葉はない。
 夏音は何かをしきりに呟きながら、ぎゅっとマークの背中に手をまわした。
「あまり心配させるな……手のかかる―――だな」
 軽音部の者には誰一人として、彼が何を言ったかわかった者はいなかった。だが、それはきっと夏音を温める優しい言葉だったのだろうと。優しく緩むマークの目を見て、そう思った。

 
「あの……皆さま。大変お騒がせしました……」
 なんか一段落ついたらしい夏音が「途中からずっと放置されていた」軽音部の仲間に頭を下げた。かなり気まずそうに。
「い、いやーなんか、こちらこそ。たいそう素晴らしいものをお見せいただいて……」
 何故か澪が代表で夏音にそう返すが、お互いしどろもどろでまとまるはずがなかった。
「ま、とりあえず。何が何だか知らんが、私らはお前の事情に全力で巻き込まれていたっていうのはわかった」
 律が耳をほじりながら、投げやりに言った。それが批判に聞こえたのか、夏音が身を縮めた。
「その通りなんだけど……俺の事情だ。みんなには話しておかなくちゃならないことかもしれないことが……」
「夏音!!」
 そこで澪が慌てて遮った。本人が話すのであれば、問題ないはずだが、何となく反射的に遮ってしまった。
 当然のごとく、皆の注目を浴びる。これが俗に自滅と呼ばれる行為である。
「い、いや……何でもない」
「なんかアヤシイな」
 律がそんな澪の様子を胡乱に見詰める。目を眇めて、じーっと。
「澪、隠し事はいかんぜよ」
「な、なにも隠してなんかない!」
「どうなんだ夏音!? お前ら二人して秘密の共有とかしちゃってたり!?」
「澪には………前に話したことがある」
「はぅわー。言っちゃった……」
 澪は額に手をあてて、へなへなと床にへたりこんだ。
「あら、カノン。女の子は大切にしないとダメよ?」
「母さん……今、大事な話の最中だから」
 後ろからぬっと現れ、腕を絡めてきた母親に困った表情をつくる。
 二人並べば、まさしくそっくりで、本当に姉妹みたいだと律は思った。そして、親子のスキンシップを目の当たりにして、おそるべしグローバルスタンダードなコミュニケーションだと感心した。
「今、俺がプロなんだよーって話すところなんだからさ」
「え! あなた、教えてなかったの!?」
 アルヴィ、まじ驚く。同じ瞳の息子を信じられないとばかりにまじまじと眺めた。
 一方、たった今放たれた言葉に律の時が止まった。
「え、今なんて?」
 後ろを振り返る。唯とムギは何がなんだか……と首をかしげる。すると「みーおちゃん?」と猫なで声で床に倒れ込んで女の子座りしている幼なじみを睨む。
 うつむいたままドキッと肩を揺らした彼女が律から逃げようとした。「ギャッ」律に足を踏まれた。
「え、マジで言ってなかったの? ジョージおどろきーだよ!」
 息子から初めて聞かされた事実にショックを受けたらしい譲二は、ぱっぱっと携帯をいじりだした。
「す、すいません! 今すごく不穏な言葉が聞こえたような………もいっかい?」
 律がうふふ、ええまさかもしかしてと微笑む。
 夏音は姿勢を正して、はっきりと宣言した。
「私、アメリカでプロのミュージシャンをしておりました」
(あ、言っちゃった)と澪は遠い目をした。
 静寂。
「ほらほら、コレ見てよ。自慢するためにホームページをお気に入りに入れているんだー」
 携帯をいじっていた譲二が、笑顔のまま硬直している律に携帯の画面を見せる。
 ギギギ、と油が足りていないブリキの人形のような動きで律が画面を見る。唯とムギもささっと寄り添って、同じくのぞき込む。
 そこには見慣れない、長いブロンドヘアーの、彼女たちが見たことのないベースをかまえる夏音の画像。

『Welcome to “Kanon McLean ” Official Web Site』

 トップの画像が次々と変わる。
 見たことのある歌手と同じステージに立つ夏音。
 何万人もの観衆の前に立つ夏音。
 でっかいステージに立つ夏音。
 
「えぇーーーーーーーーーーっ!!!??」


 放課後の校舎に憐れな女子高生たちの悲鳴が響き渡った。



[26404] 第十六話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/30 01:41

「全て語るのか?」
 譲二は複雑そうな表情を浮かべて息子をじっと見詰めた。
「うん。全て、包み隠さずに言おうと思うよ」
 それに対して夏音は柔らかな微笑で父に応えると、強い意志をこめた瞳を部の仲間達に向けた。
「父さんや母さんだけじゃなくて、もしかしたらこの場にいる人みんなが嫌な思いするかもしれないけど」
 真剣な表情でその場の者を見渡し、夏音は少しだけ肩を震わせた。
「特に君たちにはショックな話もあると思うけど、聞いて欲しい」
 軽音部の一同に向けて視線を向け、どこか引き攣った顔をしている彼女達を見詰める。
「夏音………俺は、いや……お前がそう言うのだったら」
 譲二は横にいるアルヴィの肩を抱き、力強く頷いた。
「大丈夫。後悔はしないから」
 自分を信じてくれているのだと父親から感じ取った夏音は少しだけ頬をほころばせると、再び真剣な面持ちに戻って彼の事情を話し始めた。




 立花夏音は生まれからして、人より恵まれていたといえよう。世界でも有数の才能あるミュージシャンの両親の間に生まれ、両親の周りには常に多くのミュージシャンが集い、その中にクリストファー・スループがいたという時点で彼の将来は決定されていたのだ。
 夏音の父、譲二が親友とも呼べるほど仲が良い彼の家族は例外なく全員が音楽に関わっているいわゆる音楽一家である。
 彼らの周りには音楽がない日など存在しない。
 そのような特殊な環境で育った夏音が音楽に関わらないはずがなかった。
 生まれた時から夏音にとって音楽とは片時も離れずにそばにあるもので、間近で音楽が鳴っていない生活などありえないものだったのである。
 夏音は誰からも可愛がられ、誰もがありとあらゆる楽器を教えこもうとした。ギター、サックス、ピアノ、ドラムに始まり、幼稚園児には持つことすらままならない楽器をぐいぐい押しつけられ、はたまた陽気にセッションを聴かされる毎日。
 子守歌は最前線をひた走る音楽家達が生み出す至高のアンサンブルだった。
 結局、より多くの楽器に触れた夏音がもっとも心を奪われたのはベースだった。将来、それでベーシストとしてデビューすることになる彼の音楽性を支える一番のバックグラウンドはこの環境だったことは間違いない。
 そんな中、一年のほとんどをスループ一家と過ごす夏音は当然、そこの家の者とも家族同然に育つことになる。年が近かったマークとは一番仲が良く、マークが兄貴面で夏音の面倒を見ることが多々あった。
 すくすくと、そして貪欲にあらゆる音楽を呑み込んでいった夏音はあらゆる者に天才と囁かれた。もちろんその裏に弛まぬ努力もあった。容姿が並外れて可憐であったこともあり、世間は彼に飛びつくことになる。
 それがスループ一家の小さな音楽家、として七歳でその才能を見出されてプロとしてデビューすることへ結びつくのは時間の問題だった。
 超大物メーカー。伝統高き老舗メーカーが行った前例のない最年少契約。どうせ青田買いだろうと見くびる者もいたが、彼らの度肝を抜くような演奏をその頃、すでに身につけていたのである。
 年齢に似つかわしくない成熟した感性は長年音楽を愛してやまない音楽フリークの耳にも十分に耐えうるもので、むしろお釣りが返ってくるほどのものであった。
 現在に至ってはすでに個人のアルバムを三枚出している上、参加したプロジェクト、セッションは数知れない。
 そんな音楽人生を順風満帆でいく彼が、どうしてプロのステージを離れることになったのか。

「耳が、きこえなくなったんだ」

 片耳だけどね。それが救いだったかのように添えられる一言。夏音はその事を何でもないことのように語った。さらに続けて、

「あと、別に契約に待ったをかけたのはそれが直接の原因じゃないよ」

 当時、あまりに憔悴を見せる夏音の様子に毎日葬式のような空気が流れた。活気あふれるミュージシャンのセッションも、心なしかマイナーコードがあふれる物悲しいものが増える。
 ある時、スペイン音楽の哀愁に満ちたギターを弾いていたマークの七つ上の兄が、ふと、おふざけで葬式の曲を弾いていたところ、マークをはじめ、あらゆる人間にボコボコにされたこともある。
 いつの間にか、それだけ中心的人物となっていた夏音が落ち込むと、彼の周りの人間は一様に彼のことを心配した。あらゆる手で慰めをしたが、それが空回りして慰めようとした人物が落ち込んで帰ることもしばしばあった。
 耳が聞こえなくなる。その原因はなんだったのか。
「ストレスだって」
 心因性の難聴。突然。しかもステージの上で聞こえなくなった。自分を襲った事態に動転した夏音はその場で意識を失った。
「ストレスの原因………今になって考えると思い当たる節がバリバリありまくりなんだけどね。あそこまでひどくなるなんて自分でも思ってもいなかったんだよね」
 彼に対するあらゆる賞賛の裏には常に嫉妬や心ない批判が絶えなかった。その理由として挙げられるのが、夏音が一所にとどまらなかったからであった。
 夏音はどんな音楽シーンにも足を踏み入れた。最初はジャズ、ファンク、ブルースやフュージョン。それがロックやメタルへと広がり、さらにはミリオンセールスのポップアーティストのバンドで演奏したりすることもあった。
 実は、現在マークが加入しているSilent Sistersの二つ前のベースが夏音だったことは一部では有名な話である。
 住み分けを強調する人間。縄張り意識を強く持つ人間にとっては面白くない話だったのだ。中でも最も大きな理由としては自分より遙かに年下、息子といって良いくらいの年の子供の活躍を良く思わない者がいたということである。

「まー。もちろんそんな心狭い人間が真剣に音楽に向き合ってるとはいえないがな」
 夏音の語りに思わず、と言った様子で口を挟んだ譲二は続けた。
「もちろん夏音に危害を加えたり、暴言を吐いた人間には然るべき処置をとってきたよ」
「然るべき処置って、俺よくわかんないんだけど」
「お前には言ってないもん」

 もちろん全ての人間が夏音に批判的だった訳ではない。多くの者は夏音を守ろうと動き、フォローした。
 なかでも両親を除いて一番に夏音を擁護する壁となったのは、クリストファー・スループ。誰もが一目を置く音楽会の巨匠その人であった。
 クリストファーは夏音にそうと気付かせずに庇護を置き、夏音の音楽性をのばすことに身を入れ続けた。業界きってのビッグネームに明らさまに夏音を攻撃する者は数を減らし、表沙汰には一件落着かと思われた。

『クリストファーの妾のくせに』

 夏音はその言葉の意味がわからなかった。
 首をかしげ、その意味を問おうと相手に尋ねようとした刹那。その相手は肩をひっつかみ、壁に押しつけてきた。二回り以上も大きい体躯をもつ相手が覆い被さって耳元で囁く。
『どら、俺にも試させろよ』
 物理的に身動きができないだけでなく、経験したことのない恐怖が金縛りのように夏音の身を縛り付けた。生ぬるい息遣い。
 締め付けられる首が痛み、悲鳴をあげようと思っても声は引きつったように出なかった。
『ふ、ふふ……ヒャハハ』
 狂気が相手の瞳に宿る。夏音はSF映画のモンスターにでも襲われたヒロインのように誰かが助けてくれるのを願った。
 しかし助けてくれる者は現れない。
 どうするべきか。動かなくては。そういえば、マークにこういうシチュエーションになった時はこうしろと教わったことがあった。ふいに閃いたその行動を夏音は躊躇いもなく行った。
「地獄に落ちろ糞野郎!!」
 ちょうどハマっていたマフィア映画の台詞つき。
 ゴールデンクラッシュ。
 相手の股間を思い切り蹴り上げた。
 見事に命中した一撃は相手の呼吸を奪い、相手が悶絶している隙に夏音は逃げ出すことができた。
 何かわからないが助かった。おっかなかったが、何とかなったな、と安堵と共に帰宅した夏音はそのことを両親に告げた。
 夏音は、その事を聞いた瞬間の両親の表情は今でも忘れられないという。数秒後に家を飛び出した両親が「妾」という言葉の意味を教えてくれることはなかったので、自分で調べた夏音は目を疑った。
 自分に縁のない単語。しかし、襲ってくる生々しいイメージ。身に覚えのない侮辱に訳がわからなくなり、何より侮辱の対象が自分ではなく大好きなクリストファーに向かったことに悲しくなった。
 当時、年配の人間関係が主流だったために性については人並み以上に知識だけは持っていた夏音は嫌悪感がまとわりついて離れなかった。自分がそういう対象として見られることへの汚らわしさ。
 聞けば、その男は周りの人間にもあることないことを吹聴していたらしい。いわゆる悪口仲間みたいなものがあり、その中で幅をきかせていたという。
 “まだ小さいから相当“具合”が良いらしい“
 “クリストファーだけでなく、まわりの男の格好の玩具”
 などと聞くに堪えないことばかりを好き放題言い荒らすだけの集いだ。
当然のごとく、夏音のフォローに動く人間が大勢いた。
 余程のショックを受けているのでは、と夏音の心を憂慮する周りの反応とは裏腹に本人は気丈な様子を見せた。
 何も気にしていない。自分で撃退できたのだから、むしろ褒めろと茶目っ気たっぷりに振る舞うものだから誰もがほっとした。
 トラウマなどになって、人格形成に影響があるばかりか音楽にも悪い影響が及ぶかもしれないという懸念はおさまりつつあった。
 ステージで倒れた夏音の姿を見た誰もが、それが甘い考えだったと後悔することになる。
「ま、最初は落ち込んだけどね。けど俺を見てあまりに落ち込むみんなの様子が逆に心配になってさ。マークなんて滅多に泣かないのに、影で嗚咽まじりに俺のCDを聴いてるんだもん。まいるよね」
 自分は愛されている。それだけでやっていけると思った。
「ステージで倒れたのも、なんかパニックになっちゃってさ。ほんと。耳聞こえなくなるほどひどいとは自分でも思わなかったよ」
 心因性の難聴が回復する期間は個人差がある。半年以内で治る者もいれば、三年かかる場合もある。

 それでも夏音は片耳でやっていこうと考えた。
 では、何で日本に来たのか。

「つまり、グランパだね」
 夏音は遠い目をする。
「父さんって家出人間なんだよね。父親から勘当されてこの年まできちゃった人なんだけど」
 ずっと実家とは疎遠になっていた譲二が妻と息子を両親に会わせたことはない。一方的に結婚した事と、子供ができた事だけを手紙で知らせた手紙をのぞけば、他に連絡をとったことはない。
 そのどれにも返事はなかったという。
「俺も話の中でしか知らなかったからさ。父さんの親なんて架空の人物くらいに思ってたんだけど」
 夏音がふさぎ込んでいた頃。一通の手紙が来た。
 送り元は『立花浩二』。
 一度も会ったことのない夏音の祖父だった。
「『拝啓 立花夏音様』なんて書いてあるんだよ! それに季節の挨拶とか。難しい漢字ばかりでよくわからなかったんだけどね」
 ニュースにもならなかった話をどこでどう知ったのか。
 手紙には夏音に起こった事を心配する内容でびっしりと埋まっていた。その中には、譲二に対して「ふがいない」だとか「息子を守れなくてなんとする」といった節がたびたび登場して笑えたという。それでいて、日本に来い。会いに来い、とは書けない頑固な不器用さは譲二とそっくり。
 何となく祖父の人柄が染みこんだような手紙だった。
 一度も顔を合わせたことのない自分を心から心配していた。夏音はその手紙からは確かな愛を感じた。
 すぐに返事を送ったが、もう一度祖父から手紙が届くことはなかった。
 祖父の訃報が届いたのはその一ヶ月後だった。
 
 夏音はそのことをアルヴィから聞かされたが、譲二から夏音に何か言うことはなかった。
 今までもそうたったように、あくまで実家のことを夏音に話すつもりは一切なかったのだと思われる。
 譲二は葬式に出ることもなかった。祖父は妻――夏音の祖母――を亡くしていたので、葬儀や諸々のことを親戚で執り行ったらしい。
 夏音は祖父の訃報を聞いて泣くことはおろか、特別悲しいと思う感情も湧かなかった。もちろんまったく悲しくなかった訳ではないが、「あぁ、死んだのか……」といった程度の感興のみで、むしろ一度も会えなかったことが残念という気持ちが強かった。
「せめて一度くらいは会ってみたかったな」
 いくら想っても、もう会えないものは仕方がない。

 そう思ったのが夏音だけではなかったということだろう。しばらくして譲二が夕食の席で夏音に尋ねた。

 何気なく、意図がないように。
「夏音、日本行かなーい?」
 だから、息子も何気なく答えた。意図など知らないように。
「いーよー?」

 今さら日本に行ってどうなるものでもないだろう。しかし、譲二は何を思ったのか日本に行くことを決めた。
 夏音も似たような心境だったのだ。
 日本で暮らしてみたい。
 祖父のいた国。父親の生まれ育った国。
 自分は生まれてこの方、音楽に包まれて生きてきた。それ以外はあまり知らない。
夏音は今まで生きてきた環境から少しだけ離れることを決めた。

「という訳なんです」

 息を呑みながら全てを聞かされた軽音部の面々は、知れずと詰めていた息を吐き出した。
 目の前には三人そろって座る立花親子。
 それぞれ苦々しげな表情をしていて、怒りのオーラが立ち上っている。
 それに向かい合って座る自分たち。
 マークは一人ソファーの方で遠巻きに話を聞いていた。

 最初に出されたお茶はすでに湯気をおさめている。

「あ、ちなみに耳はもう治ってるからね」

 言葉なく、押し黙る彼女たちに慌てて補足される。
 立花夏音という男は常に何かを隠していた。その隠し事の正体をさらっとこぼされた一同はたまったものではなく、説明を願ったのも当然の話であった。
 とりあえずお茶を囲みながら、とムギが紅茶を淹れてから夏音がすべてを語ることになった。時折、譲二が説明を加えたりしながらアメリカにいた頃の話があまねく語られた。
「へ、へえー」
 初めに声を出したのは律だった。
「なんていうか、その………」
 彼女はしどろもどろになりながら、夏音を見詰めた。
「お前がプロだったーって言われても正直………全然驚かないんだけどさ」
「え!? 驚かないの!?」
 予想外の返答に夏音の方がぶったまげた。ナンダッテー、と絶対に腰を抜かすと思っていたのに。
「むしろプロって言われるとそれはもう……すっと腑に落ちるというか」
「ムギまで!?」
 もとより知っていた澪は言わずもがな、唯もうんうんと頷いていた。
「ま、といっても。実際にプロなんだーって言われるとやっぱり驚きはするけどな」
 律は先ほど悲鳴をあげた理由を語る。周りを見ても、おそらく自分と同じ。
 夏音がただ者ではないことを察していたのは間違いなかった。
「そもそも。あれだけの事をやっておいて素人ですーって方がかえって不自然だよな」
 思えば、数々の常識外行動。部室に高級機材一式を運んでおいてなお余りがあったり。 そもそもの実力がおかしい。
「それよりか……お前のアメリカでの出来事の方がだんぜんヘビーすぎて……その……なんてーか………ねぇ?」
 先ほどの話を思い返してそう述懐する律は顔をひきつらせた。
 十代にして、とんでもない経験の持ち主だったことが判明したのだ。
 まるで映画でしか聞かないような壮絶な過去に、たじろいでしまうのも無理はない。
「あぁー。ま、そういう部分がちょっと刺激的かなーっとね。みんなそういうのに免疫なさそうだし」
「あ、あってたまるか!」
「語り口からも伝わったかと思うけど、俺としては当時もあんまり臨場感がなかったんだよねー。何だかんだ言ってすぐに撃退したわけだし。自分が性的な目で見られるのはすごく嫌なんだけど、ぶっちゃけどこにいてもエロイ目で見られることはあるしね。かなり不本意だけど、そういう人は多いらいし。みんなこそ女の子なんだからそういうの分かるようになると思うよ」
「お、お前……何て暢気な」
 そもそも、エロイ目で見られているのは女の子だと思われているからに相違ない。
「そ、そんな過去があったなんて私も聞いてなかった!」
 今の今まで固まっていた澪が不満そうに夏音を凝視した。その目には、ありありと私との間にまだ秘密を残していたなんて、と書いてある。
「ん? みーおー?」
 律は些細な隙でも食らいつく。
「そういえばソッチの話もあったんだ。何でお前だけ訳知り顔で参加してるんだ?」
「あ、ち、ちがう! これには訳があってだな!」
 しまった、と顔に出して口籠もる澪だったが、すでに遅かった。
「その訳を教えてもらいたいなー」
「そんな話は今どうだっていいだろ!」
「よくなーい。そこのところハッキリせんかい!」
「私も聞きたいでーす」
 挙手一名、琴吹紬。そこにごく自然に唯も加わる。
「そういえば、何で澪ちゃん知ってたの?」


「賑やかな子たちねー」
 火がついたように騒ぎ出した少女たちに目を細めたアルヴィが夏音にうっすら微笑んだ。
「良い子たちばかりじゃない」
「まーね……」
 このように喧しいけど、と心で付け足す。それが救いになっているという事は口に出さない。夏音はそもそもこれだけヘビーな話をしているのにこの反応は何だと不満を抱いた。自分が予想していた反応とはえらい違いである。
「て、ゆーかさ」
 途中からずっと押し黙っていた譲二が口を開いた。思いがけず響いた低い声に騒いでいた者たちもしんとなった。
「親父から手紙とか超初耳なんですけどっ!? ねぇ、それどういうこと!?」
「あー………そうだね」
「そうだね、じゃなくてっ! 何か……何かやだっ!」
「何がだよ。友達の前でごねないでよ」
「しかも何かその話だと俺が親父のために日本に来たみたいなっ!?」
 そこか……と夏音は溜め息をついた。
 それとなく濁したが、明らかに理由はソレだろうと呆れた目線を実の父に投げかける。
「実はねー。私がお義父さんに夏音のことを伝えたのー」
「アルヴィ!?」
 思わぬ所で現れた伏兵に譲二がぎょっとする。真横の妻を信じられないといった表情で食い入るように見詰めた。
「これはあなたへの唯一のナイショ話だったんだけどね? 実はたまーにお義父さんと手紙のやり取りをしてたのよー」
「そんな話は聞いてないっ!」
「言ってなかったもの」
 バッサリと返され、思わず頭を抱える譲二。
「あんのエロ親父が! 人の妻に色目つかいやがって!」
「それはちがうだろ」
 息子も思わずつっこむ。
「ナイショにしていてごめんなさい……けど、これは私のわがままだから」
「アルヴィ?」
 譲二は妻の様子をそっと窺う。そして俯いた妻の顔に表れる悲痛の表情に彼女の肩を抱いた。
「夏音が生まれることになって結婚を決めて……私があなたの家族を知らないまま一生を過ごしたくなかったの。今しかない、って思って私からご両親へコンタクトをとったわ。
 ほら、ちょうどあの頃に一週間だけ外出したことあるじゃない? その時に日本へ行って、お義父さまに会ってきたの」
「あ、あの時……マイアミにバカンスに行ったんじゃなかったのか……?」
 妊婦だったアルヴィが突然、フロリダに行くと飛び出た時は恐慌した。
 譲二はマリッジブルー、いやマタニティブルーかと青ざめて仕事をキャンセルしかけたのと思い出す。
「ふふ、そうやってあなたは疑いもしなかったわね」
 彼女はそうやって自分を疑うことを知らない夫を見やって笑った。
「会うとね。あなたの親だ、ってすぐにわかった。あなたの育った町を見たわ。あなたが昔使っていた部屋も。夕食をご馳走になって、あなたの好きだった料理なんか出してもらったりして」
 遠くを見るように微笑むアルヴィは息子を愛おしげに見詰めた。柔らかい笑みだった。
「お腹の中にいるこの子のことを紹介したかったのよ」
 それからアルヴィは義理の父と連絡を取り合うようになった。出会った時にも目を丸くしただけで、すぐにアルヴィを受け入れてくれた優しい義父は、実の息子のことなんかよりアルヴィと夏音のことを気にかけた。
 手紙の内容も、主に夏音のことが中心であったという。
 そんな話を聞くのは夏音も初めてだったが、これでどうして祖父が自分の事を知っていのか明らかになった。
「そんなことが……」
 譲二はいまだその顔に驚愕をありありと表していたが、妻をじっと見ていると次第に頬をゆるめていった。
「まだまだどうしようもねえガキだな、俺も。そうだ夏音、まだお前に確認してなかったな」
「何のこと?」
「これから先のことだよ。一度は逸れた道だが……このまま高校生を続けるのか?」
 譲二の言葉に息を呑んだのは軽音部の一同であった。
 プロという事実を知った上で、夏音には二つの選択肢が存在していることが明らかになった。
 わざわざ日本で高校生をやらずとも、人とは違う輝ける道が用意されている。それは決して自分たちとは交わらないであろう行き先。遠い場所へ旅立つ切符を与えられた者なのだ。
 思えば、この毛色の変わった同級生は自分たちとは違う遠い場所から訪れただけなのだ。もともと自分たちと同じ囲いの中にいた訳ではない。彼がこのまま平凡な高校生活を続けることの意味を探す方が難しいはずなのである。
「続けるけど?」
 それに対してあっさりと夏音は答える。
「そうか」
 子が子なら親も親である。譲二はそれだけ言うと、にこっと笑って席を立った。
「なら、それでいい」
 息子を見て、うなずいた。そのまま夏音の方へまわり、頬にキスを落とす。
「俺たち帰るわ」
 と残すと、その様子をぽかんと見ていた少女たちに手をふった。
「お邪魔したね。これからも息子をよろしく頼むよ」
 そしてマークに声をかけると、嫌がるマークを無理矢理に肩を組んで部室を出て行った。
「あれ、どうしたの母さん?」
 瞬く間に姿を消した父親と親友の後を追わずに佇んでいたアルヴィに声をかける。彼女は息子の仲間たちをじっと見ていた。
「ううん、私も帰るわ。その前にこの子たちにお別れの挨拶をしなくっちゃ」
「あ、私らですか!?」
 慌てて立ち上がった律に続いて、皆がアルヴィに向き合う。
「ありがとうね。カノンをお願い」
 真剣な面差しで言うと、全員を抱きしめ頬にキスをした。
 そのような挨拶習慣に慣れていない彼女たちはそろって顔を真っ赤にさせた。おたおたする彼女たちに柔らかく微笑むと、夏音に向かって「家で待ってるからねー」と残して部室を出て行った。
 部室に残るのはいつものメンバー。
 まるでハリケーンが過ぎたようにかき乱された空気がしん、と静寂を落とした。
「い、いい匂い……」
 一人、誰知らず呟いた者の言葉がよく響いた。全員がそれに同意とばかりにうなずく。
「じゃなくて軽音部ミーティング!!」
 切羽詰まった部長の一声が今までで一番それらしかったという。


 陽も完全に落ちて、電気を点した部室。先ほどまで遠くから聞こえてきたソフトボール部のかけ声はもう聞こえない。一同はお茶を淹れ直して、いつもの形で席についていた。
 いつもの静穏とした雰囲気はない。誰もが言葉を発しづらい中で律は全員の心の内を代表してずばり夏音に訊いた。
「で、夏音はこれからも軽音部なんだよな?」
「もちろん。今までも、これからも俺は軽音部だよ」
 夏音は淀みなく、彼女たちの硬くなった体の緊張をほぐすような言葉を落とした。
「そっっっっっかぁ~」
 尋ねた律が長く重たい息を吐いたのをきっかけに、全員がほっと安堵の表情を浮かべた。
「はぁ~。よかった~。一時はどうなるかと思った~」
 彼女にとって緊張を保てる我慢の限界だったのか。唯が机にへなへなと崩れ落ちていった。
「それにしても夏音くんがプロだったなんて! びっくりじゃないけど、びっくり!」
「ムギ、意味わかんないよそれ」
「違うの。プロでも不思議じゃないなーって思ってたのに、いざ本当にプロだって言われると……やっぱりすごいよ」
「ま、確かにな……」
 うまく言葉がまとまらずに要領を得ないムギだったが、その気持ちを共有できると律はうなずいた。
「いろいろ合点がいくっていうか。パズルの最後のピースが見つかったっていうか……」
「うん! まさにそんな感じ!」
 簡潔にまとめた律がムギ称賛の目線を送られる。
「でも、いいのか?」
 澪は今まで二人きりの時でも聞けなかった事を口にする。
「卒業するまでずっと活動しなくていいのか?」
 人の関心は移ろいやすい。高校生活を三年。一年のブランクがあるとして、四年以上も姿を現さない状態で再び認めてくれる人がいるだろうか。
 過去の人になってしまわないか。無用の心配かもしれないが、澪はその部分を夏音がどう考えているかをずっと気にしていた。
「活動しないなんて言ったつもりはないよ。実を言うと、今でも仕事はやってるんだ」
「え?」
「カノン・マクレーンとして堂々と世間に露出したりはしないけどさ。スタジオミュージシャンみたいにレコーディングに参加したりはしてるんだ」
「そ、そんなの聞いてないぞ!」
「もちろん澪にも言ってないもの」
 それから夏音が幾つか挙げたアルバムや曲のタイトルの中にはCMで流れるような有名なものもあった。
「あ、あの曲のベースってお前だったのか!?」
 律は世界的に有名な自動車会社のCMに使われた曲を思い出す。エコロジーを訴えるために頻繁に流れたため、何となくテレビを流している人でも聞き覚えのある曲である。
 昔、グラミー賞を獲ったカントリー歌手がヴォーカルに抜擢されていた。
「いや、あの曲はベースだけじゃなくて俺が作ったんだよ」
 さらっとそこに加えられた新たな事実に流石に言葉をなくした一同であった。
「まぁ、こそこそとやってるわけですよ。そういう仕事を再開したのも桜高に入学してからの話なんだけど」
「ま、マジか……」
 彼女たちは、改めて目の前にいるのがとんでもない人物なのだと思い知らされた。
「みんなには謝らなくちゃね。隠していてごめん」
 かしこまって頭を下げる夏音に一同は顔を見合わせて噴き出した。
「な、なに?」
 急にくすくすと笑い出した彼女たちに何かおかしなことでも言っただろうかと当惑する。
「今さら、だっつーの」
 夏音はうんうんと同調するようにうなずく彼女たちを上目遣いで見詰めた。
 次々に暖かい言葉をかけられるのをむずがゆそうにしながら。はにかんで。白磁のような肌に朱がさしているのを誤魔化すようにぽりぽりと頬をかいた。
「ありがと」



※あとがき

 とりあえず夏音が隠していたことがバレた訳ですね。それに対して軽音部の反応はぽかーんとしつつも受け入れるという。
 中には「え、こんだけ?」と肩すかしをくらったような気分の方もいるでしょう。
 ただ、私はスケールこそ違っても似たような体験をしたことがあります。

 そもそもプロといっても境界線は曖昧かなと思います。プロの定義も皆さんによって違いますし。
 皆さんは自分の周りの人間が、プロでしたーってなったらどう思うでしょうね。
 案外、プロといっても普通の人ですからね。先に知り合ってから後で知ったパターンもありますし、もともとプロだと知っておきながら会うパターンもありました。
 私自身、そういう人が近くにいてもおかしくない世界にいましたので、わりと「プロ」という人種は近くにいました。あ、もちろん私はプロではありません。

 そこで女子高生たちならどんな反応をするか……と考えに考え抜いた結果「ま、こんなもんだろう」という感じで作りました。

 例えば「な、なんだってーっ!!? キャー(バタンキュー)」という流れも考えたのですが、どう考えても不自然に感じてしまったのです。

 よく「あいつ、マジでプロ並にうまい!」と盛り上がっている人物が「プロなったってー」て言われたら驚きつつも「あー、やっぱりそうか-。そうなるよなー」っなりませんか。

 たぶん彼女たちにとって、今はそんな感じ。

 スゴイっていう感覚が麻痺しているのもありますが、仲間として知り合った相手だから極端に反応することはないだろう、という結論です。
 どちらにせよハッキリ言えるのは「これから」です。夏音がプロであることが物語に関わってくるのはこれより後のお話になります。
 これはいわば大きなプロローグが終わったに過ぎないかな、と。エロゲで言ったらここからOPが流れる、みたいな。長過ぎですね、OP。

 それでは、残りのお話もお付き合いしていただければ幸いです。


※5月30日 準強姦の表現について、ご指摘がありましたので加筆修正を加えました。



[26404] 番外編2『マークと夏音』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/20 01:37


 マークは先ほどから自分にひっつく小さな生き物を見下ろした。こちらが身じろぎをしてもちょっとやそっとでは動じない。
 なんと言っても体ごとべったりとひっつかれて、なかなか抜け出すこともできない。
「ねーねーまたやろうよ!」
 さっきから口をついて出るのは無邪気なお誘いの言葉。自分の姿を見つけた途端、どかっと渾身のタックルを決めてきた相手は、彼がうんと頷くまで解放するつもりはないだろう。
「だから言ってんだろ。俺は今からやることがあるんだからな」
 にべもなく言い放った言葉にすかさず盛大なブーイングが起こる。非常にやかましい。
「いい加減に一人で弾けよ」
「だってまだあんなに速く動かないもん!」
「それができるように、一人で頑張るんだろ?」
「やだ! マークのとうへんぼく!」
「とう……なんだって?」
 聞き慣れない単語にマークは目をぱちぱちと瞬かせた。腰元の小さな友人が自分の知らない語彙を持っているはずがないのだ。
 年上としてのプライドが働く前に呆気にとられてしまった。
「わかんないけど。父さんが言ってたよ!」
「ジョージが……変な言葉を覚えてんじゃねーよ」
「一回だけ! 一回だけ!」
 マークは思わず天を仰いだ。以前も一回だけ、と言って一時間以上も付き合わされた記憶がまだ浅い。
 しばらく反応しないでいると、がっちりと服を掴みながらぴょんぴょんと跳ね始めた。
 この粘っこさには感服してしまう。この根性が数々の音楽を呑み込む貪欲さと合わさって、天才だとか何とかと言われるのだろう。
 そのしつこさは、身をもって理解させられている。マークはそっと溜め息をつくと、視線を再び下に降ろした。
「わかった。だが、カヌー。本当に一回きりだからな! お得意の『もう一回』を言い出したら二度とやらない!」
「わかってるよ! だって本当に一回だけだもん!」
 ぱぁっと瞳を輝かせて声を立てて、腰を掴む力が消えた。マークはぱっと自分を放して離れた小さな生き物を見る。
 にこにことこちらを見上げる年下の少年。立花・M・夏音は少年というには可愛らしすぎた。
 フランス人形館あたりに紛れ込ませても何の違和感のないくらい精緻に縁取られた芸術品のような造り。
 鼻、目、睫毛、唇、耳。
 人々が思い描く白人の美少女、物語のお姫様。そういったものを全部まるごと詰め込んだような容姿を備えていた。
 お人形、というには生気に満ち溢れすぎているが、彼を表すのにちょうど良い表現だ。大人しくしていれば。
 マークは夏音ほど美しい生き物を見たことがなかった。いや、正確には美しい幼児、だが。
 この少年は彼の母親によく似ていて、並ぶと娘と母にしか見えない。よく聖母子像、と評されていて、スループ家に訪れる数々の音楽家たちに評判だ。
 夏音の両親はマークの父親の大親友で、マークが母のお腹に発生する前からの付き合いだ。
 マークが物心ついた時から当たり前のように側にいた夫妻にもやがて子供ができたわけだ。
 夏音が生まれた時、マークは四歳。夏音のおしゃぶりがやっと外れて未知の言語を喋りだした時期には五歳。
 アメリカでいう義務教育まで二年の猶予しか残されていなかった。マークは文字の読み書きができたし、特別な教育など無くとも、その辺の幼児レベルかもしくはそれ以上にしっかりとしていた。
 マークにとってABCの歌なんかを他の園児たちと混じって口ずさむことは、苦痛を伴う荒行以外の何でもないということが体験入園の時に判ってから、幼稚園には通っていない。
 だが、小学校は通わなければならない。
 それこそが、どうしようもなく気が滅入って鬱になる原因だったりした。
 その年で鬱になる幼児も珍しいが、音楽から離れる時間が増えるのは歓迎できるはずもなかった。
 そこで彼は、もうすぐ平日の日中を学校という牢獄に閉じ込められるようになってしまう前にたくさん遊びたいと考えていたのだ。
 やはり世間一般の基準とはかけ離れた幼児だが、スループ一家は基本的に大らかで、最終的に音楽で食っていけばいいさという意見の者ばかりだった。
 しっかり家庭環境に影響されたともいえよう。
 さらに何だかんだで学校には絶対に行った方がいい、と強く主張したのは立花夫妻だったというのだからどうしようもない。
 とにかく、一日が自由に使える残りわずかな期間を謳歌しようと思っていた矢先。  
 夏音と一番年が近いマークにお目付役が下ったのは災難であった。少なくともマークにとっては。
 少し前まで床でハイハイしていたと思いきや、周りの大人達に最高のおもちゃにされてしまった夏音はありったけの音楽を詰め込まれていた。
 常に音楽が満ち溢れる環境で育ったマークも同じような道を辿ったというか現在進行形で辿っている最中であるが。
 彼もまた、まるで永久に鳴り響くのではないかと思われる楽器の音を子守がわりに育ち、とりわけ最も得意なギターは少なくとも同年代の子供とは次元を逸しているほどの技術を持っている。
 それに比べても周りの人間たちの可愛がりようは異常だ。
 一を教えたら十を吸収する才覚に夢中になるのはわかるが、指の皮がむけてぼろぼろになるくらいに楽器を触らされる幼児を見ているのは流石に不憫だった。

 とはいえ、少し前までは自分が同じような場所にいたのに、入れ替わり立ち替わりに夏音をかまっていく大人達を見て面白くなかったというのが本音であった。
 偏向的に大人びた一面があるマークも所詮は子供なのだ。
 
 そんな大人たちの手から解放された夏音が真っ先に向かう先がマークだった。
 何とも懐かれたものだと悪い気はしなかったし、末っ子の自分にもむしろ妹(少なくとも弟には思えない)ができたような気分で誇らしかったりもした。
 それは今でも変わってはいないのだが、問題は夏音という子供の特異性に起因するのだ。
 夏音が天才と呼ばれる片隅で、マーク自身も負けているつもりは一切ない。   夏音が覚えた楽器は当然ながら演奏することができるし、実力も雲泥の差だ。ちょっとやそっとじゃ追いつかれるはずはない、とタカをくくっていたのだが。
「こないだの弾けるようになったよ!」
 と満面の笑みでギターを抱えてきた夏音が、つい先日に弾けなかったフレーズを完全に再現してしまったのをきっかけに考えを改めた。
 驚異的な集中力をもって夏音は音楽を吸収していく。才能、という要因が大きいのだろうが、やはり異様な速度で音楽を修めていく姿はマークの背筋をぞくりとさせるものがあった。
 さらに技術的な面は努力でカバーするという非の打ち所がない姿勢に、最近はマンネリっぽくなっていた自分の技術面を危ぶむきっかけにもなったのだ。
 それからマークは必死に練習するようになった訳で、夏音から尊敬の眼差しをかろうじて受けることになった。お兄ちゃんも必死なのである。


 そんなある日。つい戯れというか、遊び半分の気持ちで一つのギターを二人で弾くギター連弾をやったのだ。
 ちょうどその時、左手が間に合わなくて弾けないフレーズがあるという夏音がピッキングを担当。
 左手で弦を押さえるのをマークが担当した。Tico Ticoのパフォーマンスや、自分の家族や親類たちの連弾を見て以来、自分もやってみたいという願望があったので、マークとしても些か興奮を隠せなかった。
 初めはつっかかりながら、ぎこちなく。次第に息を合わせていくうちに、素晴らしい演奏になった。
 楽しかった。
 だが、それ以上に楽しかったらしいのが夏音であった。
 すっかり連弾にハマってしまったのか、ことある毎に夏音はマークにそれを求めてくる。よっぽど楽しかったんだな、と微笑ましかったのは最初のうちだけである。
 今では、そう。うんざりという言葉がぴったりだ。
 正直、あれは神経がすり減るのだ。実力が釣り合っていないと、顕著に難易度が上がる。

「ほら、とっととギターを持ってこい」
「うんっ!」
 だだっと駆けていった夏音を見送ってから、マークは踵を返した。
 向かう先は玄関。
 この隙にばっくれようという魂胆である。
 しかし、とマークは足を止めた。過去のトラウマが彼の足に自動的にブレーキを施したのだ。
 以前、同じようなことをして自分がどんな目に合ったかを忘れてはいないだろうか。
 ある時、マークに放っぽられた夏音は大泣きどころではない、スコールのような大号泣で周囲の大人を驚かせた。
 泣きわめく理由を訊いても答えない夏音に、何かの病気ではないか。大変だ、救急車を。と大騒ぎにまで発展してしまった。
 後々、落ち着きを取り戻した夏音の口からマークの名が飛び出た後の彼が受けた被害は筆舌に尽くしがたい。
 あの時の自らの顛末が脳裏にフラッシュバックしたマークは玄関からばっと飛び退った。
 危ない。
 トラウマを繰り返すところであった。人間は学ぶもの。寸でであったが、マークは同じ失敗を繰り返さない。慌てて居間に戻って夏音を待った。
「持ってきたよ!」
 とことことアコースティックギターを抱きかかえるように持ってきた夏音はコミカルに映る。
 いたって普通のサイズのギターなのだが、小さな体には不釣り合いなバランス感を呈している。
 マークが居間のソファに座るとポテポテと走り寄ってくる。そのまますぐ横に座ると、マークはネックを左手で握った。
 同じソファに座っているので、よっぽど体を密着しなければならない。ふにん、とやわらかな感触にマークは僅かにたじろいだ。
「ジャンゴ、だろ」
「そのとーり!」
 ジプシーギターの押さえ方は特殊で指使いも通常で覚えるものとは違う。しかし、問題が一点。
「おかしいだろ」
「何が?」
「俺からすれば右手の方が難しいぞ」
「どうして?」
 夏音は質問の意図がわからない、とでも言うかのように首を傾げた。
「どうして、って俺が訊いてるんだろ」
「むぅー」と口を尖らせてうなる夏音。
「だって、できるんだもん」
「よしわかった。やっぱり、お前はおかしい」
「おかしくないもん!」
 このくりくりと愛らしい瞳をつり上げて憤慨されても何一つ怖くない。
 マークは鼻で笑うと、左手を指板の上に走らせた。タッピングだけで音を出すと、パーカッシヴな音色が生まれ出す。
「オーケー、やろう」
「何やるかわかる?」
「部屋から駄々漏れになってたからわかるさ。インプロヴァイゼーションだ」
 にっこり笑って大きく頷いた夏音がマークの指を置いた弦をなぞる。

 短く、ふっと互いの吐息が漏れた。

バラバラと音階を辿り、メロディーに紡いでゆく。
 まだグルーヴとか、ノリなんてものはない。
 触る触る、といった感じに息を合わせてゆく。

 一瞬だ。

 どこからどうそれがシフトしたのかは定かではないが、二人の音楽が始まった瞬間がわかった。
 嗅覚、聴覚、そんな次元を超えたところにある感覚がこの場にある音楽をがっちり掴んでしまうのだ。

 分散和音とマイナーキーのスケール展開を叙情的にこなす。

 何小節か進むと歯切れの良いストロークの連続、突風のごとく、それがやわらぐ、刹那に影となった激しさの代わりに再び物悲しい音の粒が上へいったり下にいったりする。

 何年経っても色褪せることのないジャンゴの音。
 人は、後に生きる人にとんでもない音楽を遺していくものだとマークは思う。

 まさに静と動。
 
 ジャンゴはスィングジャズとジプシー音楽を融合した初の人間と言われているが、やはり彼の根幹にはジプシーの音が大きく存在している。
 ジプシーの音楽には何とも哀愁漂うエッセンスが盛り込まれている。
 いや、人が哀愁と呼ぶものに似た情感を掻き立てられるだけで、他の何に置き換えるような言葉はないのかもしれない。
 ひたすら、これがジプシーの音楽だ。魂だと理解するしかない。
 彼らの音楽を知るということは彼らを知ることであって、マークは一生かかってもそこに辿り着くことはないだろうと直感で理解していた。

 その表現に限りなく近づけること、は可能だろうが。

 なりを潜めた激しさが徐々に表に出てくる。
 急に烈しい三連符が雪崩れのように始まると収まり、六連へと膨らむ。高速のトレモロ。弦を引き千切りかねない激情でストロークをする夏音とマークは一体となっていた。

 お互いの呼吸がつながり、息を吸ったらどこからそれを吐くか。そんな考えずともわかる自然の行為に等しい次元までシンクロしていた。

 激しさの裏に静けさが訪れる。一度高まったものを鎮める行為、暴走しないようにコントロールするのは至難の業だ。
 忍耐と情熱をもって生み出される音楽は小学校にも上がっていない幼児達には早すぎた。
 マークは相方の、否、自分の右手が収まりきるはずがないと頭の隅で冷静に理解した。それと同時にテンション爆発で全力パッション中の音に酔いしれていた。

 途中でピックがぶっ飛んで素手でストロークをする夏音も同じく、目の前でこの狭い部屋を支配する音楽に夢中になっている。

 ビンッ!

「アッ!!」

 狂ったダンプカーのように突っ走っていた二人は、今の自分達にふさわしくない音に集中を削がれた。

 三弦と一弦が切れた。それも同時に。
 気が付けば荒い息をしていた夏音は「ふへぇ~」と背もたれに倒れ込んだ。ギターを隣に乱暴に置くとへらへら笑い出す。
「何だよ」
 同じようにトランス状態から解放されたマークもソファにもたれながら、にやにや笑う。
「たのしかったぁ~」
 本当に幸福そうに笑う。マークはその笑顔にしばし見惚れ、言葉を失った。
 それから頭を押さえて、夏音の腹の上に足を乗せて溜め息をついた。
「疲れた……」
「ねーまたやろうよ!」
 マークの足を押しのけて、腹の上にのし掛かってきた夏音がマークの胸の上で頬杖をつく。美少女顔にはお似合いの格好だ。
 それが花畑などであったならば。
「ええいっ」
 マークは全力で夏音を押しのけた。結果、小さい妹分(弟)はソファの下に転げ落ちた。
「一人で弾けるようになれ!」
「え、もう今のくらいは弾けるよ」
「さっき弾けないって言っただろう!」
「弾けないのは他の曲だもん。マークがこの曲を指定したんじゃないかー!」
「こ、の……」
 マークの褐色の肌に青筋が浮き上がる。  夏音は大好きなお兄ちゃんの短気な面を知っていたが、これくらいは許されるだろうと甘い考えでさらに付け加えた。
「本当はやりたい曲あったんだから。もう一曲くらい、いいよね?」
「いいわけあるかーっ! このボケナスが!」

 大爆発だった。

 夏音は耳を押さて飛び上がると、部屋を脱兎の勢いで飛び出ていった。素晴らしい逃げ足、逃げ様だった。

 マークは肩で息をしながら、夏音が置いていったギターをちらりと一瞥した。
「……ヤバイな。どんどん上達してきている。異常速度だ」
 ぷるぷると震える左手をぐっと押さえた。

 たった一曲なのに、とんでもない集中と握力を持って行かれてしまった。
 あと一曲なんてとんでもない。

「くそっ。こうしちゃいられない!!」

 兄としては、常に年下に対する威厳を保っていなければならない。

 マークは夕飯まで部屋を出ない、と心に誓って自分の部屋に向かった。



※十六話とあわせて投稿です。十六話が短すぎたので、こちらとあわせて勘弁してつかーさい。



[26404] 第十七話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/22 21:00


 夏休みに較べて冬休みは極端に短い。だから長期と名のつく休みを挟んだとして、寒さがゆるむ事などなく、むしろより厳しく増した冷気は容赦なく生徒達を襲う。
 さみーさみー、と暖かい校舎に逃げ込んでくる生徒たちの姿もまた見慣れたものであった。ごうごうと暖房を焚かれ、ほっと暖かい教室内には異様な眠気が満ちていた。
 次から次へと登校してきたクラスメートが教室の外から冷気を持ち込んできては、顔を顰める廊下側の席の子は不憫ともいえる。それというのも教室内で気温の格差が存在するからだ。
 たいていの生徒は窓側に備え付けられたラジエータ付近に密集する。教室における唯一の暖房機器は窓側にしか備え付けられておらず、温もりを求める生徒達はこぞって暖房の前に向かうのだ。夏は微かに入ってくる風を求め、冬は暖かみを。
 やはり窓側の恩恵はことのほか大きいらしい。それでも教室人口の大半を女子が占めているため、男子達は窓際に陣取る女子達を悔しげに眺めていたりする。しかし、実をいうと窓際に座る男子生徒が一番気の毒だったりする。周りを異性に囲まれて身動きできない姿はなかなか涙ぐましい。
 そんな何とも言い難い、ぬっくーい雰囲気が流れている教室内に別の理由で凍りついている生徒が一人いた。
「そんな……ひどい……ひどいよ!」
「だ・か・ら! ちゃんと誘っただろー?」
「俺、遅くからなら行けたんだよ!?」
「だって家族でクリスマス過ごすなんて言われたら、こっちもしつこく誘えないじゃんよー」
 今にも泣きそうな表情で机にすがりついている夏音とそれを面倒くさそうに慰める律の姿は注目の的であった。あまり朝の娯楽が無いのか、誰もが遠巻きに眺めている。
「あの、マークっていう人もいたんだろ? 久しぶりだったんだからたっぷり一緒に過ごせて良かったんじゃないの?」
「マークはクリスマス前に帰りましたー!」
「そ、そうか」
 がばっと顔をあげ、恨みがましい視線を向けられた律がたじろぐ。予想以上に根にもたれているなと、内心ひやりとしていた。
 昨年のクリスマス。夏音から非常に重要なカミングアウトがあった後に訪れた毎年恒例のイベント。
お祭り好きの律としては、世間に蔓延しているこのイベントの副次的な意図を唾棄すべきだ、という名目によって友達同士でわいわい過ごしたいねーと考えるのは当然であった。
 そもそも、クリスマスに自宅にいる事で弟含めた家族に「今年も予定ないのねー」的な生暖かい目線を向けられる未来を想像するだに、ぞっとしないのだ。
 だから、勝手に計画をたてた。ダメもとでムギの家を使えないかと画策したが、断念。甘い考えだったようだ。とはいえ、結果的に唯の自宅が使えることになり、晴れて軽音部の仲間でクリスマスを過ごす事にあいなったのだ。

「そこは押してよー。しつこいくらいに押してよー」

 目の前で半べそかいている美少女――ならぬ、美少年かっこ年上かっことじ、はそのイベントに参加することができなかった。
 律が部活でクリスマス会の開催宣言をした日、夏音が風邪をひいて学校に来ていなかったことから始まる。
 彼女はメールで「クリスマスにみんなで遊ぼうって話したんだけど、夏音は来れるか?」ときちんと連絡したのだ。だが、それに対する答えは「家族と過ごすからごめんねー」というそっけないものだった。
 そういえば、アメリカだとそういう習慣だよなーと納得してしまった律はそれ以降は夏音を気にかけることはなかった。悪気は一切なく、家族で過ごすなら仕方ないのだと思ったからだ。
 律は、振り返ってみて自分はそこまで悪いことをしたとは考えられなかった。
「初詣は一緒に行けたんだからいいだろー?」
 律はそれでも夏音が可哀想だと思って相手していたのだが、だんだん面倒くさくなってきたので、携帯をいじりながら相手をしだす。
 初詣は軽音部の全員で行った。律の策略によって澪がただ一人だけ晴れ着姿でやって来たのを見た夏音がやたら興奮していたのが記憶に新しい。
 日本の初詣の作法などまるっきり知らない彼に一から説明して、お参りも一緒にしたし、おみくじもひいた。正月を過ぎ、主に体重関係の悩みでデリケートになっている澪とムギに対して、懲りもせずに地雷を踏んだ唯には焦った。まあ、和気藹々と過ごした楽しい思い出である。
「それに父さん達は九時前には知り合いのミュージシャンが集まるパーティーに出かけたよ」
「そっちに行けばよかったんじゃないのかー?」
「……………最近、いろいろあったから観るもの溜まっていてさ……」
「あぁ、そっち関係の……」
 オタクスティックな用事だ。律たちが紆余曲折はあったものの、ワイワイと楽しんでいた隙にどれだけ寂しい時間を送っていたのか。一人、暗い室内でアニメ鑑賞に耽る姿を想像して、胸を締め付けるものがあった。

「何か……すまんっ」
「もう仲間外れはいやだからね」
「………わーかったよ」
 どうして自分がこんなに責められているんだ、と不服しか生まれない。それでも律の中の面倒くさいという感情がそれを上回ったので、しぶしぶ引き下がった。
「あ、そういえばそのマークさんとお前の母さんが……」
 律はそう言いかけたところで、はっとして口をつぐんだ。
「ん? 母さんとマークがどうしたって?」
 非常に聴覚が優れた夏音は律の発言を聞き零さなかった。小首をかしげて見詰めてくる夏音に、オホホと決まり悪そうに笑う。
 自分がうっかり口に出しかけた内容は、本人の耳に入れていいものか微妙であった。このことは、夏音をのぞいた軽音部でも簡単に話し合った。
 そこでこちらから夏音に問いただすようなことはよそう、と決めたのである。


 それというのも、例のカミングアウトの翌日。珍しく、遅刻した澪とは別々に登校していたのだが、学校に到着すると校門のあたりに異様な雰囲気が轟々と漂っているのを見かけた。
 すぐ前方を歩く一組の生徒が「あれ、昨日の人じゃない?」などと会話しているのを耳にキャッチした律はその視線の先をたどってみた。たどってみたところで、顔が引き攣った。
 見れば、どこか及び腰の生活指導の教師を気にもかけずに存在する一組の男女。

 片や洋画にでも出てきそうな金髪美女。片やサングラスをかけた黒人の放つ存在感は、早朝の学校前にはえらくミスマッチだった。
 まるで子供を産んだようには見えないが、夏音(十七)の実母であるアルヴィ。もう一人は、世界的人気を誇るバンドのギタリスト。

 律はうわーいやだなーと思いながらも仕方ないので、校門に向かう。すると歩いてくる律たちに気付いたアルヴィがはっきりとこちらに向けて手を振ってきた。
 微笑むだけで背後に不可視の花が散らばる。
(うわー後光がさしてるよ)
 オーラが半端ない。おまけに二人そろって近づいてくる。この時点で無視することなどできず、会釈をする。
「ハーイ! 寒いわねー」
「は、はい。あの、夏音のお母さん……」
「あら、気軽にアルヴィって呼んでちょうだい。あなたはたしか、えっと……ごめんなさいね」
「あ、律です。田井中律って言います。あ、アルヴィさんはどうしてここに?」
「律ちゃんねー。私というより、この子があなた達に用があるみたい。どうしても言っておきたいことがあるそうよー?」
 どうみてもこの子、という柄ではないが。ぽん、と肩に手を置かれたマークは嫌そうに顔を顰めて、それがとんでもない迫力なのだ。
「この子、まだ日本語が上手じゃないから私が通訳なの」
 そのまま背中にまわされた腕がマークを律たちの前に押し出す。少しよろめいてから咳払いを一つ。不機嫌そうだった表情とは裏腹に割とフランクな声で「Hi」と話しかけられた。
 律は「ハ、ハイっ!」といかにも日本語のままの発音で返す。
 昨日のこともあり、すごい人なのだという事は骨身に沁みているのだが、それでも気軽に話せるような相手ではない。
 律がガチガチと固まっていると、マークはぽつぽつと口を開いた。
「君たちはこの一年、あいつと一緒にいたそうだな」
 アルヴィによる通訳で即座に日本語に直される。
「ずっと音楽をやっていた。そうだな?」
「え、ええ。まあ、ハイ」
 “ずっと”音楽をやっていたかと言うと語弊がある。十割の内、音楽は四割ほどしか占めていないのではないか。
 そう考えると、プロのミュージシャンと過ごしていたというのに、なんてもったいない時間を過ごしていたのだろうか。
「一緒に音楽をやっていて……どう感じた?」
「どう……って?」
「楽しかった。切なかった。色々あるだろう? あいつと一緒にやる音楽はどうだったんだ?」
「あいつとの……音楽」
 考えずにはいられなかった。昨日の晩はその事がずっと頭を占めていたし、おそらく他の皆も同じだと思う。
「あいつとの音楽は………疲れます」
 そんな事を言うつもりではなかった。
 楽しい、とか興奮するとか。終わった後の達成感なんか、伝えるべき事がたくさんあった。
 それでも、この口は選ぶべき言葉を選べなかった。ふと、口に出してしまったことへの罪悪感がわき上がる。
「いや、何て言うか内容が濃すぎるって意味で!」
 慌てて律が弁解を口にすると、マークは声を立てて笑った。なんかウケた……と律はほっと胸を撫で下ろした。なんて疲れる会話。
「君はドラマーだろ?」
「ええ、まあ」
「楽器をやめたいと思った?」
「ドラムを? それはないです!」
 ドラムをやめたいと思ったことなんてない。予想外をついてきた質問につい声を荒げてしまった。
 はっとしてマークを見ると、腕を組んでこちらをじっと見詰めていた。
「オーケイ、わかったよ。君は……君たちはまだ知らないんだな」
「知らないって……何ですか?」
「あいつの本当の意味での恐ろしさを知らないんだ」
 その言葉を聞いたアルヴィがくっと眉をひそめるのが判った。数秒、躊躇った後に彼女はその通りに訳した。
「恐ろしさ?」
「そうだ。君たちはあいつの本当の実力も見ていないし、そんな奴と一緒に音楽をやっているという行為を理解していない」
 彼はどうしてか晴れやかな顔をしている。滔々と語られる言葉が律の頭を鈍らせていく。
 何を言っているのか、理解ができない。
「そうか。安心したよ。君たちは楽しく音楽をやっているんだな。俺が言うまでもないだろうけど、これからも是非、音楽を楽しんで欲しい」
「は、はあ……」
「よかった。遊びの範囲で」
「…………え?」
 律はその言葉がかなりしゃくに障った。自分たちの活動がお遊びと言われたのだ。
 プロから見ればお遊びかもしれないが、これでも真剣にやっている音楽を馬鹿にされた気がしたのだ。
「それ、どういう意味ですか?」
 思わず語気を荒げて反問したが、アルヴィがそれを許さなかった。非常に困った様子で額に手をあててマークに何かを言うと、マークは肩をすくめて笑うと「サヨナラ」と律に手を振った。
「んなっ」
「ごめんなさいね」
 律が呼び止めようとすると、アルヴィが遮った。眉尻を下げて申し訳なさそうに律の頬に手をやる。その困り顔さえも美しい友人の母はふぅ、と甘い溜め息をついて律に対して切なげに微笑んだ。
「悪気はないの。むしろ、あなた達を心配してるのよ」
「あの言い草で? すっごく馬鹿にされた気がするんですケド!」
「まあまあ。そんなに目くじらたてないでちょうだいなー。あの子の言った事もまるっきり外れてはいないのよ」
「だから、それが意味わかんなくて……」
「それはね。私はあなた達が実際にソレを味わうのが良いと思うの。言葉で語っても仕方がない事だもの」
 律はショックだった。突然現れた友人の家族がそろって訳の分からない事を述懐していく。その内容が気に障る。
「さっきからあいつがひどい事をする奴だって聞こえるんですけど」
「あなた、あの子のために怒ってくれるのね。もちろん私たちはそんなつもりはない事は分かってちょうだい」
 アルヴィは、彼女の息子と同じように人を真っ直ぐ見詰める青い瞳で律を射貫いた。
「それでも、過ぎた才能が時に人を傷つけることもあるの」
「……よくわかんないです」
「大丈夫よ。今はそれだけで……あなたはあの子を好きかしら?」
「………………そんなの、仲間ですから」
「そう」
 アルヴィは律に顔を近づけると、昨日のように頬に口づけを落とした。ちゅっとくすぐったい音が響いて、律が硬直する。
「よろしくね。願わくば、あの子の事をもっと知ってあげてね」
「ひゃ……ひゃいっ!」
 美人のキスの威力を侮ってはいけない。律は舌がもつれて上手く返事ができなかった。

「じゃ、また会いましょう」

 顔を真っ赤にさせている律に手を振って彼女は去っていく。しばらく行った処にマークが待ち構えていて、登校してくる生徒たちの群れを真っ二つにしながら歩み去っていった。
 やはり凄まじい存在感。律はリアルモーゼを目の当たりにした律はぽかんと彼らを見送った。
 その後、夏音がいない間に軽音部の皆に今朝の事を報告したのだった。


「ヘイヘイ、母さんとマークがどうしたってー?」
 そんな事もあって、うっかり口が滑るところだった。ギリギリセーフである。律はしつこく繰り返してくる夏音の顔を眺めた。
 相変わらず、麗しい。彼の母親と瓜二つの美貌が自分だけに向いている。内心で舌打ちすると、ぺしんっと夏音の顔を両手で挟んだ。
「お前、本当にうらやましいなー」
「な、なにが?」
 若干喋りづらそうに夏音が返す。
「その睫毛とかムカつくなー」
「り、律しゃんはなしてっ」
そのまま頬を引っ張って遊ぶ。すべすべもちもちの肌が面白いように形を変えて、律は意地悪く笑った。
 結局、少し前の発言も頭からぶっ飛んだらしく律は難を逃れることができた。



「そういえば夏音くんの動画いっぱい観たんだけど、すごいよねー」
 放課後、それまでと変わらない形でティータイムが行われている最中。いつものように菓子をめいっぱい口に含んだ唯がもぐもぐと咀嚼しながらそんな事を言い出した。
「唯ちゃんも観たの?」
 ポットの中身が空になったため、新しく茶葉を蒸らしていたムギが唯の発言に顔をあげた。
「うん。もしかしてムギちゃんも?」
「ええ。素敵だったわー」
ムギは恍惚の表情で微笑んで、こくりとうなずいた。
 両者の会話を何気なく耳に入れていた律は「やっぱり全員同じ事考えるんだな」と半ば呆れるように感心した。
 かく言う律も、ユーチューブ等の動画サイトでカノン・マクレーン関連の動画を漁るようにチェックしていたのであった。
 どんどん関連動画が貼られており、次から次へと自分の知らない夏音を目にすることになった。
コメントは英語がほとんどだったりするが、中には日本人がアップしている動画もあり、なかなかの認知度がある事を思い知らされた。
 枝分かれするように際限なく連なっている動画の中には、律が尊敬しているドラマーの一人とのセッション動画もあり、度肝を抜かされた覚えがある。
「えー、何それ。超恥ずかしいんだけど!」
 そんな彼女たちの会話を前にして夏音が頬に手をあてて顔を赤らめた。こうして見れば、普通の女の子……百歩譲って少し綺麗すぎる男の子にしか見えない。
「夏音くんって髪の毛染めてたんだねー」
「うん……ま、色々あってね」
「でもムギちゃんのとはちょっと違う感じだよね」
「え、私?」
 急に話を振られたムギはついどぎまぎする。その際、ティーカップに注いでいた紅茶を溢しかけていた。
「私も色素が薄いけど、金色ってほどでは……。どっちにしろ夏音くんほど綺麗な色じゃないもの」
「ええーっ? 私、ムギちゃんの髪の色好きだよー」
「ふふ、ありがとー」
 やや虚をつかれたような顔つきで、それでも嬉しそうにムギは笑った。

 そんな中、澪は何とも言えない眼差しで彼らを見ては小さく溜め息をついていた。よく見ればその表情はどこか憮然としていて、ふてくされているようにも映る。
 実際に、澪は少しだけ面白くなかった。もともと自分だけが気付いていた秘密があっけなく他の部員にバレた。それでいて何かしらの変化が表れるものだという懸念も何のその。
 軽音部はいつもと変わらぬ安穏とした空気を醸し出している。まさに順風満帆、平凡な航路をのほほんと漂い続けているのだ。
 百歩譲って、澪だけが夏音の秘密を知っていた事を散々からかわれたことは仕方がないと思う。
幼なじみが自分をからかうための隙を与えてしまったのだから、そうなるのは自然の流れだったといえよう。結局、自分が今までずっと夏音にベースを教わっていたことが露見してしまった。
 もちろん死ぬほどからかわれた。多大な羞恥心を犠牲にしたというのに、ここまで部に変化がないのはどういうことだろうか。
 澪は和やかに頬をゆるめている仲間たちを一瞥した。
 プロのミュージシャンが側にいることを知ったのだ。それなりに音楽的な意識に変化があっても良いのではないか。
 むしろ向上心がある者なら、千載一遇のチャンスとばかりに夏音を利用するくらいの勢いがあって然るべきだろう。何かないか。普通では考えられない何かすごいことを達成する機会があるはずだ、と期待する心が生まれるはずなのだ。
 しかし、彼女たちは今まで通りに仲良く高カロリーのお菓子をつっつき合うだけ。
 これではまるで宝の持ち腐れのようなものだ。
(宝の持ち腐れ……)
 ふと、頭に湧いて出た言葉にはっとなる。
 思えば、この言葉はまさに軽音部にぴったりではないか。
 ギター歴が一年にも満たないのに、飲み込みの良さとセンスだけは抜群の唯。
 堅実な鍵盤を操る技術と、夏音の影響によってシンセの知識を増大させたムギ。
 いまだ怪しいテンポキープながらも、普通の女子高生よりは卓越したドラミング技術を持っている律。
 そして、カノン・マクレーンからほぼ一年間もベースの手ほどきを受けた自分。完成というには程遠いが、それなりの土壌を持っているはずである。
 むしろ、依然として伸び代が十分に残されているといってもいい。

 だというのに軽音部でライブをやったのは一回きりというのはこれ如何に。

 自分たちの実力を確かめる機会がない。いや、機会を放棄しているといってもいい。
 このままだと、次のライブがいつになる事か。どうにかしないと。
 自分が、唯一まともな自分が何か行動を起こさないと……と悩むだけの澪は、いつまでも行動に起こすことのできない自分の小心さ加減を呪った。
 結局、今の自分だって彼女たちと同じく、高カロリーの菓子と高級茶葉を消費するだけの存在なのだ。
 情けなくて溜め息をつくことしかできない。
「おーい澪。さっきから難しい顔してどうしたー?」
「うるさい。今考え事してるんだ」
「恋煩い?」
「ぶふぅーっ!?」
 澪は思わず口に含んだ紅茶を噴き出した。滅多に見られない澪の粗相に一同が唖然としていた。
「ず、図星かっ!?」
 とりあえず澪は、焦って違う方向に勘違いを進めようとする幼なじみの頭に拳固を落とした。
「何をくだらないこと言ってるんだよっ!」
「い……っ……」
 ワリと切羽詰まった表情で頭をおさえる律。予想以上に澪の拳固の威力が強かったようだ。
「り、りっちゃん大丈夫?」
 見慣れた光景だが、普段の十割増しの威力を放った澪の拳は傍目にぞっとしない鈍い音を奏でたのであった。確実にべードラ一発分の音はした。
「す、すまん……強くしすぎた」
 あまりに痛がるので流石にやりすぎたかと不安になった澪。
「だ、大丈夫か?」
 そっと歩み行って、うずくまる律をのぞきこんだ。その瞬間。
 バッ。
「へ?」
 赤い水玉と私。
 立ち上がり様に勢いよく振り上げられた律の手は、親友のスカートにひっかかり、思い切りまくりあげた。
 当然の結果として、露わになる澪の下着。
 その瞬間、学園祭の事件が電光石火で脳裏に浮かんだ夏音は目をそらすこともできずに、澪の下着を拝んだ。
 刹那がスローモーションに引き延ばされ、赤と白のストライプが全員の目に焼き付く。
「Jesus……」
「お返しだーっ。今日のパンツは何色かなーってね!」
 頭に巨大なタンコブをこさえた律は驚異の回復力で反撃を加えた。けれども、彼女の幼なじみはしっかりと成功したその復讐を笑顔でむかえてくれるはずもなかった。

「りーーーーつぅーーーー!!!!」

 血を吐くような悲鳴が部室に木霊した。



「で、澪は何を悩んでたんだよ?」
 見事な二段タンコブを咲かせた律は、ふと神妙な表情をつくって澪に向き合った。その横では、何故か巻き添えをくらった夏音が小さめのタンコブをさすりながらうなずいていた。一応、見たということで夏音は甘んじてその一発を受けた。
 ただでさえ吊り目なのに、怒りによって目尻がきつくなった澪は完全にブチ切れている様子である。
喉をならし、怒りのオーラをふしゅーっと発している彼女は、無理矢理律に献上させたタルトに勢いよくフォークを刺した。
「うっ」
 まだ怒っているらしい。ここまえ怒りを引き摺るのは滅多にないので、律はたじろいだ。
「軽音部なのに」
 一言、口を開いた澪が溢す。
「なのに?」
「軽音部なのに、何で私たちはライブをしないんだ?」
「…………………」
 澪をのぞく全員分の沈黙が流れる。
「な、何でだろうなー」
 乾いた笑みで笑う律に視線が集まる。その中に混じる厳しい目線に律の態度がしぼんでいく。
「澪の言う通りだね」
 夏音は腕を組み、強くうなずいた。夏音の言葉を受け取った全員の視線が彼に照射される。
「せっかく練習してるんだからライブに出ないと損だよ」 
 夏音の言葉に全員の顔が引き締まった。
 練習。練習といえば、軽音部で練習をする頻度が問題である。冬休み前のハプニング勃発の時点で一週間も練習をサボっていた状況だった。その上、すぐに冬休みが始まったので合わせて二週間以上は裕に演奏していない。
「確かに練習量は少ないね。絶望的なくらい」
 それでも、と夏音は続ける。
「みんな家ではきちんと練習しているみたいだし、その成果を本番で出す事も必要じゃないかな」
 全員がその言葉に思うところがあった。中でも唯は去年ギターを始めたばかりの頃の自分と今の自分を比べて思わず唸ってしまう。
 自分でリフを考えられるくらいに腕をあげる事はできたと思う。学校祭以来、かなりのオリジナル曲を作ったが、そのどれにも頭を絞ってひねり出した彼女のギターフレーズが紛れ込んでいる。
 同じように律やムギも自分が持っていなかった技術を着実に身につけている。それらのきっかけはやはり夏音である。
 今思えば、自分たちはこの年若いプロミュージシャンの元でそれなりに演奏技術を向上させていたのではないか。
 中でも澪は、他の者とは比べようもない程の上達を見せていた。
「私、ライブやりたい!」
 唯が胸の前で両手を握って力強く言い放った。
「ライブやろ! やりたいよ!」
「急に態度変わったな……でも、私も」
 律も、本番のステージで自分の腕をかき鳴らしてみたいと思った。
「わ、私もライブできるならやりたいです!」
 次々と沸き起こるライブコールに夏音はふっと笑って澪を見た。
「だ、そうだよ。これでいいよね?」
「そ、そんなの私の方がもっとライブやりたいもん!」
 よく分からない返事をしてきた澪に苦笑した夏音は、ぱんっと手を打った。
「とにかく! 全員一致だね! ライブしよう!」
「「「「おーっ!」」」」

 それから一同はライブをやるにあたって、「いつ、どこで」を決める事にした。二月に入れば学年末のテストが入ってくる。やるなら、その前。問題は「どこで」やるかだ。

「場所は講堂でいいよね」
「うん、そこしかないと思う」
 体育館ともなると、他の部活動が練習に使っているので無理がある。文化祭のように限られた時間でセッティングする必要もないので、リハーサルの余裕もある。
「ちょっと待ったー!」
 すんなりと決まりかけた場所の件に異議を申し立てる者がいた。
「どうしたんだ律?」
 注目を浴びた律はコホン、と咳払いをした。
「いやいやー。お前らちょっとばかし考えてみようぜ」
 と彼女は講堂でライブをするにあたっての問題を挙げた。
 第一に、セッティングとリハーサルの時間に余裕があるとして、本番が開始可能になる時間はいったい何時頃になるか。
 第二に、ほとんどの生徒が何らかの部活動に勤しんでいる中、客が来るのかといった問題だ。
「そもそもある程度お客さんがいないと話にならないだろ? それで言うなら放課後にやるって時点で何人が来るんだ? しかも授業が終わってすぐに始められないなら帰宅部の人だって帰っちゃうだろ」
「…………Oh」
 ここで誤解が無いようにしておくが、それに反応したのは夏音ではなく澪であった。澪は律の口からすらすらと出てくる至極まっとうかつ的を射ている指摘に心底驚いた。
 それでついついネイティブっぽい発音で驚きを表してしまったのだ。
「そんなの考えてもいなかった……」
「そうだなー。俺も聴いてくれる人がいないとやる気が出ない」
 いつでも自分の演奏を聴きにくる大勢の客に恵まれていた夏音にしてみれば、本番という名で誰もいないようなホールでぽつんと自分たちの演奏が響く事など、何にも耐え難い事態なのである。
 声をかければ……かけなくても謎に自分を慕ってくるファンクラブのメンバーが集まってくるだろうが。
 ひょっとして澪のファンクラブと合わせれば、結構な数になるのかもしれない。試す気はさらさらないが。
「でも、他に演奏できる場所なんてあるのかしら?」
 心なしか前向きに傾いていたムードが失速したように思える。各自、頭をひねってどうしようかとうなっていると、問題を指摘した張本人である律だけは自信に満ちあふれていた顔をしていた。
「ふっふー。やっぱりここは部長である私の天啓めいたアイディアが必要みたいねー」
 今日の律はどこかおかしい。まっとうな部長としての自覚がついに目覚めたのかと誰もが疑いかけたくらいである。
「一応、聞くだけ聞いてみようかな」
「お前、私の扱いひどくね?」
 夏音から全面的に信用されていない事を知った律はがくっと肩を落とした。しかし、自分の発言に注目が集まっている事に気を持ち直して再び尊大な態度を復活させる。
「まー聞いて驚くがいいさ。実を言うと、私の友達でバンドやってる子がいるんだけどさ。その子が今度あるイベントに出場するって言ってたのを思い出したんだよ」
「ん……? 今、出場って言った?」
「まーまー最後まで聞きなさいよ。確かあのイベント何て名前だったけな………轟音……いや、爆音……えーと……」
「も、もしかして」
 まるで痴呆老人と化した律の言葉を聞いていた澪が青ざめたような顔で震えだした。

「爆メロじゃないだろうな!?」
「あー、それだ」

 律が澪の発言にぽんと手を鳴らした。頭の奥でつっかかっていた物が判明してスッキリした笑顔だ。その笑顔と対照的に頭を抱えて悲鳴をあげる澪に一同はぽかんとした。
 その悲鳴に切迫した響きを感じたのだ。
「爆メロってなに?」
 何だか美味しそうな名前かも、と涎を垂らしそうになった唯に不敵な笑いを浮かべた律が説明する。
「爆メロ☆ダイナマイト! 十代限定のバンドイベントさ!」
「意外に男くさい名前だね」
 唯がガッカリしたような声を出す。
「いや、誰も殴り合ったりしないからな」
 全く予想外の感想に律がむっとした。もっとこう、バーンと驚きを示されると思っていたのだが。
「い、いやだ。いやいやいやいやいや!!」
「澪さん?」
 突然、引き付けを起こしたように痙攣する澪は頭を抱えて窓際に移動するとぶるぶると縮こまった。
 尋常ではない様子の澪の様子に誰もが唖然とした。
「いったい澪ちゃんはどうしたのかしら」
 ムギが心配そうに澪の側による。そっと肩に触れると稼働中の洗濯機のように振動している。思わず手をひっこめたムギであった。
「ムリムリムリムリムリ」
 念仏のように呟く澪の表情は蒼白いのを通りこして土気色へと変化しそうになっていた。やがて、これは相当な異常事態だと悟った一同は、彼女をそんなにさせた爆メロについて律に問い正した。
「ペニーマーラーってライブハウスで毎年開催される十代限定のバンド合戦なんだ。コンクールっ言ったら違う気がするけど、そんな感じ! 優勝したら賞金二十万円!」
「あー、そういう感じのか」
 夏音は納得したように頷いた。どこにでもあるコンテストだという事だ。
「二十万円!?」
 そこに反応したのは唯だった。彼女の中で二十万円があれば、どれだけのケーキを買う事ができるかという妄想が思い描かれていた。
「あ、もうそんな食べられないや……」
「唯は何言ってんだ?」
 律は一向に自分の思い通りに進んでくれない会議に苛立ちを感じ始めていた。
「だから出ようぜ! 爆メロ!」
「ちょっと待って。それってテレビとか入るの?」
 勢い込んで立ち上がった律に夏音が声を差し挟む。
「いや、そこまで大きいコンテストじゃないからテレビは無いよ。もともと閃光ライオットを真似ただけのローカルなものだし……って言ったら開催者が怒りそうだけど」
「そうか。なら俺は出てもいいかなと思う。賛成一票!」
「おおっ! これで賛成二票だな!」
「わ、私も一票!」
 いきなりの大舞台に逡巡していたムギだったが、意を決めて手をあげた。
「おーい唯は?」
 律はそう言っていつまでも妄想の世界に入り浸る唯の肩を揺する。
「はっ! 出ます! 超出ます!」
「よし、これで残るは………澪しゃーん」
 律はずっと隅で震える澪の脇に手を差し入れて、持ち上げて立たせる。小さな首を振っていやいやした澪だったが、強引に立たされたのでかろうじて地面に足を踏ん張る。
「そんな……あれ、何人来ると思ってるのよ!?」
「えっと……前に二人で言った時はハコが満杯ぎゅうぎゅう詰めだったから……二千人くらい?」
「ヒィーーッッ!!!」
 再び悲鳴をあげて崩れ落ちた。
「二千人かー。ライブハウスにしては結構キャパあるんだね」
「まー基本的にプロのバンドが来る場所だからな」
「それなら不足なし、だな」
 少しだけやる気を出した夏音であったが、ふいに怨嗟のこもった視線を感じた。
「何で俺を睨むの?」
「絶対イヤだからな」
「頑なに拒むねー。別にいいじゃんか」
 人前に出る事が苦手なのは分かる。ここまで拒むとは誰も思っていなかったが、考えてみれば初めてのライブでトラウマを持っているのだ。
「あんな事は滅多に起こらないよ?」
「そ、その事じゃなくて! ていうかそんなの今ので思い出したよ! やっぱり、ライブやめましょう!」
「さっきライブやらないのかって怒ってたの誰だろーね!?」
 支離滅裂な澪に夏音は呆れた。このままだと基本的に逃げ腰の澪はあれよこれよと理由をつけて拒み続けるだろう。
「澪は人前でやる度胸をつけないと! 練習で出来たんだけど本番出来ませんでしたーじゃ意味ないんだよ?」
「そ、それは分かってるんだけど……」
「まあ、こういう場合は澪の意見は無視しよう」
 夏音の言葉に澪が目を剥く。
「なっ!? 私だって軽音部員なんだぞ!」
「民主主義の原理は多数決なのです」
「くっ……これだから民主国家から来た人間は……」
「日本も民主主義じゃないか」
 うっ、と返す言葉を無くした澪はしおしおとうなだれていった。
「まー澪を口説き落とす方法は幾らでもあるんだなー」
 意固地に反対する澪の頭に手を置いて律はごそごそと携帯をいじり始めた。何だ何だ、と様子を見守っていた一同だったが、「おっ、コレだ」と動きを止めた律が澪に携帯の画面を見せたのを見て「なるほど」と頷いた。
「こ、これはっ!」
 澪の顔が真っ赤になる。
「これ、公開しちゃおうかなー。ファンクラブの人とか、飛びつくぞー」
「この悪魔っ!」
 明らかに涙を浮かべて悔しそうにほぞをかむ澪の敗北だった。その携帯に何が映ったのかは二人しか知らない。


「と言う訳で全員の意見が一致したって事でよござんすねー!」
 反対の声はあがらない。
「あの、こちらのイベントは誰でも出る事が可能なんですか?」
 ムギがおずおずと疑問を挙げる。すると、ビシッとムギに指を突きつけた律が「よく気付いた!」と叫んだ。
「もちろん誰でも、はムリ。だからデモ音源を送らないといけないんだよなー。その方法も考えないと」
「音源か……」
 夏音は頬に手をあてて思案する。
「それなら俺の家で録音しようか」
「できるの? 録音」
「もちろん。我が家の自宅スタジオに不可能はない!」
 澪は床に伏せながら「あー確かに」と思った。毎週通っているので今さらスタジオの機材設備を見ても驚かないが、他の者は度肝を抜かれるだろう。
「すごいのねー夏音くん」
「まぁ、これでも本業ですから?」
 少し鼻を高くする夏音に一同は苦笑した。本人に言われたら返す言葉もない。
「とにかく、決まりだね。その前にそのデモ音源の応募締め切りはいつまでなんだ?」
 新曲も作る事を考えると、あまり余裕がないと困る。すると、律は再び携帯をいじる。しばらくして「あっ」と重たい声をあげた。
「今週の……金曜日だ」
 その場に戦慄が走った。
「それ………世間では明日って言いませんか?」
「………そうとも言う」
 唯一、澪だけが「それなら間に合わないな」と喜んだ。


 郵送する事を考えたら、当日の午前中までには音源が完成していなければならない。つまり、この瞬間から明日の朝までにレコーディングを済まさなければならないのだ。
 夏音としては、そのイベントの敷居がどこまで高いのかは判らないが、万が一にでも落選する事など許されない。夏音の全プライドをかけても許されない。
「今日……今日は俺の家に泊まり込み!!」
 夏音の裂帛の宣言を拒否できる者はいなかった。一同には既に参加を見送るという選択が見えていなかったのである。ただ一人をのぞいて。

 もう放課後に部室にいる暇もないくらいにてんやわんやとなった。まずは機材をどうするかという話になったが、部室にある機材より遙かに良い物が夏音宅にあるということで事なきを得た。
 とりあえず、各自の家に帰ってから最低限の支度をしてから夏音の家に集合することになった。唯一人だけ実家が離れているムギは夏音の家に直行する事になった。
 実家にその由を連絡するムギが受話器越しに「ええ、もちろんみんな女の子よ」と言っていたのを夏音は聞き逃さなかった。
 まあ嘘も方便、男が混じっているなど家族が聞いたら事だもんな、と心に繰り返し納得させた。
「お友達の家にお泊まりって初めてでわくわくしちゃう!」
 と胸を高鳴らせるムギを一瞥した夏音はふっと笑った。

「今夜は寝かさないぜ?」
「あら、うふふ」

 夏音の言葉を冗談だと受け取ったムギは案外まんざらでもない笑顔で返したが、まさかこの時の夏音が本気で言っていたと知るハメになる。



「ストップ!」
「…………ハァ」
 律は作業開始してからもう何度目にもなるその言葉にうんざりといった顔をした。現在時刻は夜中の零時を超えて久しい午前三時。真夜中である。
「だから、さっきからずっと同じ所で台無しになってるんだよ。そこのキックは百歳でくたばりかけのお婆さんに肩叩きするくらいの気持ちで!」
「私だってさっきからやってるつもりだっての!」
「フェザリングが苦手といっても程があるだろう。不格好な音で支えられてもこっちが音を乗っけたくないよ」
「………いつにも増して厳しすぎないか……?」
「そりゃそうだよ。わりと厳しい審査になるんだろ? 半端な物出したくないだろう」

 もう一回、と夏音はカウントを促す。知れず溜め息をついた者は律だけではない。
同じく何時間もレコーディングを共にしている他のメンバーも疲労にひしがれた表情で肩を落としている。
 レコーディングを開始してから六時間がまわっていた。
 夕飯を済ませた一同が夏音の家に集まったのが夜の八時。それからあらゆるセッティングと音作りを入念に済ませ、一時間後にレコーディングを開始させた。

 初めは各楽器ごとに録る予定だったのだが、ほとんどの者がクリックに合わせた演奏だとどうも調子が発揮できなかった。そうと分かった夏音は、やはりバンドで合わせた演奏を録音した方がいいとすぐに判断して、それからほぼぶっ通し状態で録音を続けている。
 間に休憩を挟みつつであったが、いつもの軽音部のようにゆったりとお茶を淹れる暇はなかった。
集中を途切れさせたくないと主張する夏音は最長で十五分の休憩しか許可しないのだ。
 体力的に限界が訪れようとしていた。それでも夏音が妥協を許すことはなかった。

「疲れたのは分かるけどさ、みんながしっかりやれば早く終わるんだよ。ぱっぱと終わらせようよ。頑張ろうよ!」
 夏音が励ます言葉も、どこか白々しく聞こえてくる。
 皆は表面上では頷いていたが、夏音の言葉の裏には自分達の下手さを皮肉るような意味が含まれているのでは、と疑ってしまったのだ。
 今までの練習の時とは明らかに違う。練習の時もそれは厳しかった夏音だが、ここまで他人を追い詰める事はなかった。
 特にドラムの律に対する指摘はいっそうの厳しさを増していた。
 ことあるごとにドラムである律が注意をされ、次第に律の精神にも不可がかかってきた。
 ちなみに先ほどから夏音が止めている理由はサビ終わりで打って変わって静かになる部分で、律のドラムの音が大きすぎるというものであった。
 ドラムを小さい音で叩くのは、意外に技術を要する。
 熟練した者になれば、ボリュームだけでなくニュアンスさえ自由自在なのだが、律はそうは行かない。弱く弱くと言われて努力しても、なかなか満足いく出来にならないのだ。

 今度は一曲を通す事ができた。
 各楽器の音の余韻が消えるのを待って、夏音が口を開いた。
「うん、今のは良かったよ律!」
「………で、今度はどこがダメなんだ?」
 及第点を得たと知っても、全く嬉しそうなそぶりを見せない律。むしろ、次はどんな指摘がくるのかとげっそりしていた。
「んー、色々あるけど……」
 まだ色々あるのか、と青ざめた。
「まぁ、とりあえず大丈夫かな。最後のタムとバスドラ絡めた三連まわしのフィルもいい感じだったし、そこから転調する所をもっと勢いよくやってくれれば最高だね。ていうかドラムより、キーボードなんだけど」
「わ、私ですか!?」
 急に方向転換して自分に指摘が入ると思っていなかったムギは狼狽してビッと背筋を伸ばした。
「やっぱリバーブもっと浅めにしてくれないかな? 何となく、深すぎる気がね。俺も俺で揺らしてるじゃない? 上手く噛み合ってない気がするんだよね。こう……もっと湖畔に落ちた波紋みたいな? 生まれたての静かな波。岸まで行かない感じで。わかる?」
「あ、ハイ!」
「でも……どう思う?」
「そ、そうですね。試してみるね」
「うん、お願い。あと決めのグリッサンドはもっと大胆にやってもいいよ」
「はいっ!」
 それから1コーラスだけ通す。演奏が止まると「やっぱこっちのがいいね」と頷いた夏音は額に流れた汗を拭った。
「よし、休憩しようか」
 その一言に一斉に安堵の息が漏れた。
「もうこんな時間か! 夜食でも用意しようか?」
「夜食!? わーい!」
 夏音の言葉に咄嗟に反応した唯はぶんぶんと尻尾を振る。少しでも多く体を休められるなら、と他の者も楽器を置いてそれに賛同した。
 今から本格的に作るには手間がかかるとの事で、一同は立花家に常備していたカップ麺にありついた。


「うぅ……夜中にこんなの食べたら太る……」
「こんだけカロリー消費してるんだから平気だって」
 涙を飲んで麺をすする澪を慰めるように律が言う。
「あっ」
 律が箸をぽろりと落とした。握力がほとんどなくなっているのだ。律は「ポロっちゃったー」と笑いながら周りを見ると、他の皆の箸を持つ手が震えていた。
 唯もムギも。食べづらそうに箸を動かしている。特に旺盛な食欲を余している唯は手が上手く動かない事への歯がゆさにもだえている。
「うー、もっと大胆に食べたいのにいけんですばい……」
 全員、こんなに連続して楽器を弾く機会がなかったから腕に来ているのだ。
 律は改めて、夏音の音楽への厳しさを知らしめられた気がした。もしかして、マークが言っていたのはこういう事なのかもしれないと思い返す。
 しかし、厳しいものの自分は音楽をやめたいなんて気持ちにはなっていないし、やはり大げさな口を叩いていただけだと一笑する。

「あー、やっぱ久々に食べるとうみゃい!」

 隣でずるずると麺をすする夏音はまったく体に変調をきたした様子はない。手が震えるどころか、疲れているそぶりさえ見せない。その一人だけ余裕綽々といった態度に律がむっと目を眇めた。
「今日はあとどれくらい続くんだろうなー」
 箸を置いた律が椅子に背をもたれかけて、ぽつりと言った。麺をすする音が止む。意識して皮肉を言ったつもりはないが、律の発言は夏音の耳にひっかかってしまった。
「終わるまで、じゃない? 最低でも学校行く前に郵送しなきゃだめだし」
 真剣に答える夏音は「そもそも今日中に届くのかな……」と頭をひねっていた。
「ていうか夏音が満足するまで、の間違いじゃないか?」
「お、おい律っ」
 澪が何を慌てたのか、自分の幼なじみの名前を呼んだ。
「ん、どうしたんだ澪?」
「何をぴりぴりしてるんだよ。ここで録った曲が審査されるんだから、みんな良いもの作ろうと頑張ってるんじゃないか!」
「そりゃ私だって同じだけどさー。こだわりすぎじゃないか? はっきり言って、向こうだって別にCD音源レベルを求めてなんかないだろうしさ?」
 律の意見は間違ってはいない。今回のイベント規模で、アマチュアのバンドにCD音源のような音質、ましてや絶妙なニュアンスまで求める審査員はいないだろう。
 むしろ、そういう物は一挙に本番で味わうものであり、最低限の水準を持っていないバンドを篩にかける作業としてのデモ審査である。
「こだわる事は悪くないけど。ちょっとはウェイトを考えろよってェ話」
 その言葉はハッキリ夏音へ向かっていた。夏音は律の意見に黙って耳を傾けていたが、何も言い返さなかった。ずるずると麺をすすり、スープまで飲み干して息をつく。やがて顔を上げ、
「…………そうか」
 たった一言。夏音はそれだけ言うと、立ち上がってカップ麺の容器をゴミ箱に捨てた。
「それなら、あと一回だけ通して終わろうか」
 それだけ言うと、食べ終わったら降りてきて、と言い残して先にスタジオへ行ってしまった。
「律、今のはお前が悪い」
「…………なんだよ。みんなだって同じ事考えてくせに」
 ふてくされたように口を尖らせた律は澪を軽く睨んだ。本気で怒っている訳ではない事がわかっている澪は、ふぅと息を漏らして頬をゆるめた。
「たぶん、これが普通なんだよ」
 誰にとって、と澪は言わなかった。少なくとも、自分達ではない誰か。
「…………わーかってるよ」


 全員が夜食を食べ終えてスタジオに降りると、夏音が椅子に座ってうつらうつらと船を
こいでいた。
「んぇ?」
 律を先頭に全員が戻ってきたのに気付くと夏音はハッとして立ち上がる。
「よーよーお前さんも実は超疲れてんじゃねーのー?」
 律があえて元気よく夏音に絡むと、少しだけふらりとしていた夏音がむっとした表情をつくった。
「俺はちゃんと睡眠とらなきゃ厳しいんだもん」
「ああ、毎朝あれだけ眠そうだもんな」
 と言うことは、今もかなり無理をしているはずである。年が上だとしても、肉体年齢には関係がない。見るからに折れそうなくらい華奢な体。
律は、むしろ自分の方が体力あるんじゃないかと思った。
(こいつも無理してんのかな……)
 律は、自分達だけが苦しんでいると思っていた。
「ヨッシャー! カンッペキにやったろー!」
 夏音は急に大声で叫んでドラムセットに座った律に驚いて目をぱちくりさせた。人間夜更かししているとハイになるというが、これがそうなのだろうかと首をかしげる。
「おーい夏音もぼーっとしてんなよー! 始めるぞー」
「あ、あぁ……それじゃあ、やろうか」
 急にフルテンになったテンションに気圧されつつ、夏音はギターを構える。ボリュームペダルを踏み込むとノイズが部屋の中に溢れ始める。
 顔を上げると先ほどまでと違い、どこか堅さがとれた彼女たちの顔が目に入った。音に意識を集中しかけていた夏音はそっと笑みを零した。
「オーケー。楽しもう!」
 乾いたスティックの音が鳴り響き、彼らの音が混じり合った。


「あれ、夏音まだ起きてるのか?」
 まだ地下室に続く階段の電気が消えていないのを見て、律は目を瞠った。まさかと思い、そっと階段を下りて透明な分厚い窓がはめ込まれた防音扉から中をのぞく。
 すると案の定、ヘッドフォンをかけてパソコンに向かって作業する夏音の後ろ姿があった。
 軽音部女子一同は、地獄のレコーディングが嵐のように過ぎ去ると、一同は精根尽き果てた有様でベッドに倒れこんだ。なんとロハスな立花家にはなんと客室用の部屋があり、そこに巨大サイズのベッドが用意されていたのだ。
 女の子として、というより人としての体裁もそっちのけで床に就いた他の者とは違って、律はシャワーを浴びることを望んだ。
 もはやスポーツと言ってもいいくらいに体を動かすドラマーとして、大量にかいた汗をそのままに寝る事は堪えられないのだ。夏音から客用のタオルを借り受け、シャワーでさっぱりする。
 もちろん入念にドライヤーをかけ、使い捨ての歯ブラシで歯を磨く。
 流石にここまで来ると律も恐縮を通り越して呆れてしまった。
 ホテルばりのアメニティが完備されている理由を尋ねたら、その身一つで客が泊まりに来ても大丈夫なようにしているのだ、と返された。
 その割には客室が使用された形跡はまったく見られなかったのだが。
 寝る前の支度を終えたところで、さあ登校まで残りわずかな睡眠をとるかと部屋に向かおうとした所だったのである。


「おーい、夏音? 寝ないのか?」
 扉を開けて入った律がそっと声をかけても夏音は気付かない。よく聞いたら若干ヘッドフォンから音が漏れている。
 背後に近づく律の気配にも気付かず何に没頭しているのかとパソコンの画面をのぞき見る。
 英語だらけで、LOOPやらTRACKやらの文字が律の目をぐるぐるとまわす。波形みたいな物がいくつも並び、まるで病院にある生命維持装置を分かりづらくしたみたいである。
 じーっと前のめりになって画面を見詰めていると、ふと腕が夏音の肩に触れた。
「うひゃぁっ!?」
 文字通り飛び上がって奇天烈な悲鳴をあげた夏音。あまりに声を出すので、律の心臓も飛び出そうになった
「り、律!?」
 夏音は胸を押さえながら、律を指差しながらかろうじて声を発した。
「前髪がある!」
「前髪くらいあるわ!」
「いや、ほんと髪下ろすと印象変わるねー。なかなか可愛いじゃん」
「余計なお世話だー」
 律にとってあまり触れて欲しくない部分である。褒められると体がむずがゆくなるので、それを誤魔化すように話題を変えた。
「なーに一人でこそこそとやってるんだよ?」
「別にこそこそなんてしてないよ。ミックスをしてるんだ。だいぶ突貫作業になっちゃうけどね」
 さらっと告げられたその言葉に律は素直に感心してしまった。
「とっことんこだわるなー」
「まぁ、時間がないから雑になっちゃうだろうけど」
 肩をすくめてパソコンに向き直った夏音はマウスをいじって律にはさっぱり意味不明な操作を続ける。その様子をしばらく見送っていた律は腰に手をあてて感嘆の息を漏らした。
「夏音はプロなんだもんなー」
「んー? まあ、プロですよー」
「それ、どれくらい続けるんだ?」
「ギリギリまでやるつもり」
「それ、さっきから何やってんの?」
「いろいろだよ。EQいじったり、ちょいちょいエフェクトかけたり……まー語り尽くせないけど、いろいろ」
「あー……なるほどな!」
 二秒で理解することをぶん投げた律がうんうんと力強く頷く。明らかに理解していない。
 そんな律に視線は向けないまま、夏音はふふっと軽く笑った。
「ま、色々かっこよくするための作業ってこと」
「あー私にもわかる説明をどーもありがと」
 夏音の周りにはごちゃごちゃと機械が並んで、何本もケーブルが繋がり合っている。そういう様子を見ていると思わずいじりたくなってしまう衝動を抑えて律は真面目な表情を作った。
「まぁ、私に言えることがあるなら、あまり無理するなよーってことくらいか」
「はーい。善処するよー」
「すっかり日本人みたいな逃げ方を覚えやがって……」
 律が苦笑いを浮かべて夏音の小さい頭を小突く。
「アテッ」
「じゃ、私は寝る!」
「うん、おやすー」
 またどこかのアニメから覚えたな、と笑いながら律はスタジオを後にした。





 それから数時間後。外は完全に朝陽がのぼっている。
 早朝の立花宅のスタジオに死者も目覚めんばかりの大音声が響く。
「う、うおーっほほほ!」
 頬に手をあてた唯が奇妙な叫び声を出す。本人的に感動のあまり出た喜びの声らしい。
「すごーい! これ、本当に私達が演奏してるのかな!?」
「もちろん!」
 ミックス作業を終えてCDを完成させた夏音は二階の客間で死んだように眠る彼女達を叩き起こした。僅かな睡眠時間しかとれず、揃って寝ぼけ眼の彼女達に音源を聴かせたのだ。
 曲が始まると同時に、ばっと意識を覚醒させた一同は興奮に満ちた様子で自分たちの曲を聴き終えた。
「俺としてはまだまだな出来だけどね。これで予選ごときを落とすような審査員は耳が腐って死ねばいい」
 自信に満ちあふれてそう豪語する夏音は自らの言葉に何度も頷いた。
「正直、自分達で聴いてみてもかなり良いんじゃないか!?」
 唯の喜び様に負けないくらいの勢いで澪が言い放った。
「これで今回の有望株とか期待されちゃったりしてー?」
 律が調子づいた言葉を口にしても、反論する者はいなかった。
「これで優勝ね!」
 同調するように強くうなずくムギは意気込むあまり律の手を握った。
「い、いやー。突っ込んでくれないと恥ずかしいってか……」
 突っ込まれない事に戸惑った律は苦笑い。
「まぁ、戦う相手が分からないけど俺がいるからには優勝しかないでしょう!」
「げっ……マジな奴ばっかでやんの」
「りっちゃん! 優勝だよ! 二十万円でケーキ食べ放題だよ!」
「お前は煩悩だけだなー」
 唯の瞳の奥に浮かぶ数々の甘味が彼女の考えを如実に表していた。
「優勝かー。もし、そんな事になったら………なったら………」
 調子が上がっていく会話に乗っかろうとした澪は自分の言葉の途中でふと留保していた重要事項が喉の奥からせり上がってくる感覚を覚えた。

「ゆ、優勝……目立つ……ていうか、アレ。やっぱり出場しちゃうのーーー!?」

 頭を抱えて青ざめた澪が壊れたように叫ぶ。

「今さらかよっ!?」

 とりあえず、全員が突っ込んでおいた。




※思えばけっこうなペースで更新してきましたが、少しだけ更新が落ち着いてくるかもしれません。

 感想をお待ちしております。



[26404] 番外編ともいえない掌編
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/05/25 23:07

※これは何というか「つなぎ」のための苦し紛れ投稿です。読まなくてもまったく支障はありません。


 アルヴィ・マクレーンの場合 

 ねえ、あなたはどこの世界にクリス・スクワイアのプレイを模倣しきれる五歳児がいると思うかしら? 
 このことを話すと誰もが「そんな子供がいるだなんて嘘に決まっているじゃないか」って言うの。
 「アルヴィは相変わらずだな」とか。失礼よね。だから実際に聞かせてみるでしょ。すると、顎が外れてしまったのかしらってくらいに大口あけて驚くから最高よね。あの顔、大好き。
 中には、まるで悪魔の子だとか真剣に罵倒されたこともあって……まあ、その人には然るべき処置が下されたけど。うちの子はロバート・ジョンソンじゃないってのね。
 ああ、そう。
「模倣しきれる」って表現したけど。
その人のベースを完全にコピーできるという訳じゃなくってね。まったく同じプレイをする人なんていないもの。
 その人が出す特有のエッセンスを抽出して、自分のものにする。言葉通りに自分のモノにするってこと。
 それって既にコピーとかの域を超えていて、既にその人のオリジナルの音に組み込まれているってことなの。
 コピーして、その音を体内に取り込む。血肉になり、その肉には個人の魂が染み渡っているのよ。これって食事みたいじゃない?
 動物の肉を食べて、自分の肉体の維持と成長のためにそれを取り込むの。彼のプレイを表現しようとして、何十年もかける人もいるのに。それをただ食事するみたいに、わずか数ヶ月でモノにしてしまう。
 それが私の息子。

 カノンは私たちの宝。この子を世の中に誕生させることができたこと、それが私の人生の意味じゃないかって思うの。言い過ぎじゃなくてね。
 唯一の不満はあるけど。外見は少しくらいジョージに似てくれてもよかったのにー、って。ジョージの目許とか、耳の形とか。ちょっとくらい、ねえ。
 私のママに言わせてみると、どうやら私の小さい頃に瓜二つらしいわ。将来、一緒にショッピングしたりするのが楽しみ。姉妹みたいに思われるかしら。
 話がズレたけど、私が言いたいのはカノンがとんでもない子供だってこと。誰よりも早く気づいたのよ、この私が。今ではもうみんな知っているけど。
 音楽の申し子っていうのかしら。神童? おそらく、モーツァルトが生きていたらこういう感じだったと思うわ。
 みんなが何でも甘やかしてペットにえさをあげてしまうみたいに、次々と「音楽」をあの子に食べさせたわ。やればやるだけ吸収していくから、面白いみたい。
 すでに何百というスケールがあの子に染みついている。インド音楽なんてジャズのスケールより数が多いのに。悪ふざけで教え込んだ人がいたみたい。まさか吸収するなんて思っていなかったでしょうけど。

 つまり、何が言いたいって?

 うちの子ったら、本当に天才なのー!!
 もう宇宙一!!
 あ、宇宙一はジョージだから銀河系一、かしら?
 でも宇宙といってもSWみたいにいくつも銀河があるはずだから銀河系って小さいかしら………ねえ、どうしようかしら?
 え、宇宙一に決まっている? そうなの。あなた、あの子が好きなのね。崇拝しているの? え、お姉様? 
 よくわからないけど、あの子もモテモテねー。


 クレイジー・ジョー(立花譲二)の場合

 どうも、息子の父だ。
 譲二って言うんだ。
 アルヴィが息子の自慢ばかりって? あれはいわゆるイントロダクションだから。コースで前菜だよ。必要だろ? 前菜。
 俺は実際に夏音が見せた最高にキュートな思い出の一つでも語ろうかな。

 夏音が六歳の時だ。
 俺が集めたバンドのライブがあってね。俺がリーダーだってもんで、そのライブのゲストに夏音を呼んだんだよ。
 本番でさ、俺がステージにあいつを呼ぶだろ? ほんのり緊張しつつ、あの体に不釣り合いな大きさのベースを抱えて……、
 走ってくるんだ。

 こう………トコトコーって。

 思わず抱きつきたくなったね。いや抱きついたんだけどさ。ついでに脳内シャッターも押したよ。連写したよ。

 夏音を抱いて俺の息子だオラァ! って言うと会場がどっかんどっかんなもんでさ。でもあいつら正直ナメきってた。
 どこのお人形さんが現れたんだろーって。かわいーでちゅねーって。傑作なことに、そいつがベース弾き出した瞬間見る目が変わるのよ。
 
 何だこの小さい生き物は? って。人間か? なんてな! ハハハハハッ!!
 まあ、外れじゃない。
 人間じゃなくて、天使だからな。まじ天使。
 とりあえず一曲あの子が参加しただけで、会場もヒートアップ。
 別にロックをやっていた訳でもないのに、あの異常な熱狂ぷりはヤバかったね。
 とてもクレイジーな雰囲気だった。あの空気だったら何やってもイケそうだぜ、って感じがした。バンドのメンバーもずいぶんとご機嫌で、ノリにノっていたよ。
 トロンボーンのデイヴィスなんて、おいおいお前それツッコミすぎだろ殺すぞってくらいだったしなー。テンションあがりすぎたんだな。
 ごめん汚い言葉が、ね。つい、ね。
 とにかく。息子の力によって舞台が一億倍にも輝いてね。
 最高な一夜だったと思う。途中まではね。
けどなー。夏音に影響されたメンバーの中で、特にバンドの花形。サックスのロニーがひどかったんだ。
 演奏中からべたべたと夏音に体を寄せてさ。
 傍から見たらこれこそミュージシャンのセッションだ! ってんだったろうよ(確かに格好良いとは思ったけど)。インプロヴァイゼーションの迫力がある? 俺からしたらオイオイ、てめー近すぎじゃね? ってなるだろう? 当然だろう? 激しくうなずいているけどわかってくれるんだね。
 こっちも暢気にスイングしてる場合じゃなかったんだ。まあ、ちょっぴりカチーンとしたけど曲は通したさ。
 ロニーがサックス吹いていない瞬間に、夏音の後ろまわってカメラ目線でキメ顔していたのも我慢したさ。
 けど、やりやがったよ奴さん。
 演奏が終わる瞬間にキスしやがった。
 おでこに、チュッって。いや、ブチューッってしやがった。そのタラコ唇で。
 その瞬間のことはよく覚えていないんだけど。
 気が付けば、ドラムのスティックが俺の手から消えていてロニーがステージ下の地面に頭から突き刺さっていたんだ。ガキん時に見たあの映画のワンシーンがよみがえったね。何だっけ、犬神家の一族? 観たことないかな。
 まあ、ともかく後で映像を見て確認したんだけど。ちょうどロニーがアップになった時、後ろからとんでもねー速さで飛んでくる物体が「スコーン」って奴さんの頭にぶつかったんだ。
 最高に笑える映像だよ。あれは俺のスティックだったんだ! 我ながらナイスなコントロールだよね。
 
 会場がシーンってなってさ。とりあえず他のメンバーも「目の前で逆さ一転倒立しているこいつに何があったんだ?」って驚いた顔をしていた中、俺に近づいてきた夏音が言うんだよ。
「ロック以外の音楽でもこういうパフォーマンスするんだね! ロニーはプロなんだ! すごい!」

 ってな。
 どうだいこの邪気のなさ。普通に考えればどこの世界に好きこのんで自分から地面に一本差しになりにいこうとするバカがいるんだって思うだろ?
 天使に地上の下らない理は必要ないってことだよ。
 もちろん「いいか。これは変態にしか使えない技だから、絶対に真似してはだめだ」と教えたよ。「変態になったら刑務所行き」だってな。音楽だけじゃなく、教育もきちんとしていたんだ。
 え、ロニーがどうなったか? あいつが起き上がった瞬間、目の前に心配そうな夏音がいたからヤツは微笑んだ。
「天使がいるな」
 って微笑んだ。さっきまで腹立たしく思っていた相手でも、その反応には俺も微笑ましくなってね。
 すかさず、
「俺の天使に気安く障るな」
 って言ったよ。
 最高にキメてやったと思うんだ。息子も父を尊敬し直すはずだったんだ。
 ところが、キメ顔でポーズまでとった俺に何て返したと思う?

「ところで、僕は誰だ?」

 呆けた顔でヨダレ垂らしながら言うんだ。俺の発言なんて瞬時に埋もれたよ。おいしいところ持っていきすぎだろう。

 それから二時間後くらいにロニーは自分を取り戻したんだけど。誰にでも優しい夏音が心配そうにあいつの頭を撫でてやったのが効いたに違いないと思う。
 世話をかけるヤツだって全員が呆れていたがな。
 まだまだ数え切れないくらいのエピソードがあるな。
 とにかく、うちの夏音は天使だってことを話せばよかったんだよね? こんなもんでよかったかな?
 ところでコレって何の取材だったのかな?
 そもそも君は誰かな? その巻き髪すごいねーアニメみたいだよね。どうやって巻いてるの? ちょっと触っていいかな。
 ていうかさっきから恍惚な表情でお姉様お姉様って連呼してるけど……その写真、うちの夏音っぽいんだけど気のせいかな? 
 ソレ女の子の格好している気が……そうじゃなくても焼き増しとかお願いできるかな。
 ファンクラブ? 入らないとだめなの?
 どうしようかな………どうしよう。


 




 『憂と夏音』



「本当に無理いってごめんなさい」
「いいんだよー賑やかで楽しいから」
「あ、夏音さんは座っていてください!」
「いやだよー。俺だってこれが趣味なんだから。それに家主が座ったまま客人に料理させるなんて流儀に反するよ」
「は、はぁ……」
 思わず苦笑もしちゃうよ。流儀に反する……だなんて。この言葉を使ったことのある日本人ってどれだけいるかな。この人はたまにおかしな日本語を使う。
 古くさかったり、どこか外れていたり。今時の若者が使うような言葉じゃないのが飛び出たりも。
 お姉ちゃん曰く、夏音さんが日本語が達者なのは日本のアニメとか古い映画とかを参考にしているからなんだって。夏音くんはオタクだからーって言っていたけど、オタクってすごいんだなーって思う。

 どっちにしても私の意見、たぶん聞いてもらえないんだろうな。
 それで案の定、夏音さんにも手伝ってもらうことになっちゃった。
 夏音さん………あの、馴れ馴れしくするつもりはないんだけど、夏音さんって呼んでいるのは「立花さんなんて呼ばないで!」って前に言われたから。
 あまりに激しく頼むものだから驚いちゃった。
 何でも、友達の妹に他人行儀にされたくないから、なんだとか。
 ちなみに。そうやって自分の意見とか希望とかをストレートに伝えるところがちょっとだけお姉ちゃんに似ているかも……って思ったのはナイショです。

 似てない部分はハッキリしているけど。
 この人は私に楽ばっかりさせてくる。

 私ってもしかして気遣われるのが苦手なのかな? とか自分の知らなかった一面に気付かされた。
 苦手、ってことはないと思うけど。どうしてなのか、この人のお世話になってばかりで何もしないのは嫌かも。
「で、今日は何風で責めますかシェフ!?」
 おどけた動作で両手を広げた夏音さんがおかしくて声をたてて笑っちゃった。すると夏音さんもにっこり目を細めた。
「憂ちゃんはまったく唯に似てないなー」
「え、そ、そうですか!?」
 お姉ちゃんに似ていない……って久しぶりに聞いたかも。似すぎ、とか平沢姉妹双子説! とかならよく言われるけど。似てないって言われるのは珍しい。
「外見は似ているんだけどね。中身的な問題」
 ああ納得。中身で似ているって言われたことは、ないものですから。
「笑う時とか、こう……口に手をあててお淑やかに笑うところとか。唯だったらありえないしねー」
「お、お姉ちゃんは笑ったら可愛いです……よ?」
「可愛いけど、こう……犬を見ている気分になるよね」
「い、犬!?」
 それはあまりの言い草。だって……よりによって、犬。
 私はムキになって言い返さなくちゃ、って思ってしまう。
「犬、可愛いじゃないですか!」

「犬は可愛いねー。グレートピレニーズとか好きだなー」
「は、はあ……」
「大きくて白い犬が飼いたいんだよねー。あ、唯は子犬かなー。柴犬って感じだね」
「お姉ちゃん、柴犬ですか?」
「柴犬……日本犬も捨てがたい」
「……………」
 そのまま真剣に悩み始めた夏音さんは本当に変な人だなって思う。変な人、ならまだしも変な美人なのが困るところ。
 この人の美貌を言葉に言い換えることは難しい。
 何百人もの小説家や詩人を並べて、夏音さんの美しさを表す言葉を考えさせてみたいな。
 ありとあらゆる美辞が並ぶんだろうな。そして、それはとても美しい文字の羅列。
 近寄りがたいレベルの美人さんなのに、エプロン姿がやけに板についていたりするのを見ると可愛いな、とも思う。もともと可愛いんだけど、可愛さのランクがあがったような感じ。ちょっとズルイよね。
「ふぅ」
「どうしたの?」
「………っな、なんでもないです!」
 いきなり近かった。
 目の前に醒めるような美人がいたもので、ぐって後ろに退いてしまう私。
「ゆ、夕飯ですよね。私、今日はイタリアンにしようかなって。でもここのキッチン使えるなら中華でもいいかなー」
「悩むね」
「悩みますー」
「なら、食べる専門の人に聞いてみるかな?」
「お姉ちゃんは……たぶん、どっちも食べたいって言うと思います」
「そうか。なら、両方作ってみよっか?」
「夏音さん、中華は?」
「俺はイタリアンを作ろうかな」
 作ったことないんですね……かろうじて口にするところで止めた。
 
 作るものが決まったところで、お姉ちゃんを残してスーパーに出かけることになった。  
 夏音さんと二人きりで。

 何でこんな会話が発生しているかというと。事の次第はひょんな不幸から始まった。

 今日は夕方まで友達とプールで遊んでくる日だったから、家にはお姉ちゃん一人だけ残すことになっていて、私は夕飯までには戻るつもりだった。
 買い物して帰ろうか、いや冷蔵庫にはまだ余裕があったはずだと余り物で作れる料理の献立を頭に思い浮かべていく。真夏の夕暮れは見た目こそ安穏としているけど、常に身体中から汗が噴き出るくらい暑い。
 オレンジ色に染まる風景が、まるでガスバーナーであぶられているみたいに見えてしまう。
 最近、そうめん続きだし。冷たいパスタでも作ろうか。たくさん野菜を入れて、鶏肉も使った和風冷やしパスタにしよう。そう決めたらお腹を空かせてうだっているお姉ちゃんの姿が目の裏から離れなくなった。
 そうして急いで帰ったのはよかったんだけど……ちょっとまずいことになっちゃった。
「え……冷蔵庫しんじゃってる……」
 冷蔵庫を開けてみてびっくり。冷蔵庫はあまりの暑さに仕事をサボっていた……わけではなく。家中が停電していた。
 ごろごろしているお姉ちゃんが何で気づかなかったのか。答えは簡単。お姉ちゃんはエアコンが苦手だから、日中どれだけ暑くても団扇だけで乗り切ってしまう剛の人。
 アイスはとっくに食べ尽くしていたし、他に冷蔵庫の中身を確認する用事はないと思う。動物的な嗅覚で涼しい場所を探してじっとする。
 ヴェネツィアのかの有名なカフェ・フロリアンの影追いみたいに影を追ってごろごろ。涼しい場所を見定めてはごろごろ………かわいいよね……じゃなくて。
 冷蔵庫の中身が全滅していた。これが何より大事だったのです。
「野菜もだめ……はぁ……」
 冷凍庫にお肉もあって、たぶん明日の朝か昼までにはなくなる程度の量だったのが救い。
 これが買い物したばかりだったら間違いなく泣いていたと思う。
「どうしようお姉ちゃん……」
 少しだけ涙声になった私の肩をぽんと叩いたお姉ちゃんは自信満々な顔つきでこう言った。
「私に任せて憂っ!」
 お姉ちゃんは本当に頼りになる。こういう時におろおろしてしまう私を引っ張ってくれる頼もしいお姉ちゃん。
 それが友達にすがりつくという手段であっても。お姉ちゃんはその時の状況に見合った最適の答えを見つける天才ってことなんだと思う。この時、誰よりも早くターゲットに指名されたのが夏音さんだった。
 そして、平然とOKと頷いてしまう夏音さんもすごいと思う。
「そいつは大変じゃないか! オッケーすぐCome on girls!!」
 と一切の躊躇なく。こうして私達は夏音さんの家に招かれて夕食をとることになったのでした。
 けど、お世話になるのだから食材くらいはこちらで何とかするべき。
 そう意気込んだ私にも「俺も食べるんだから半分出すよー」と言って私の言い分を全くきかなかった。
 どれだけ説得しようとしても。
一度決めたことは何が何でも貫く頑固な人だって思った。新しい発見。
 それで何を作ろうか相談した結果、イタリアンと中華に決まったというのがさっきまでの流れ。


 カートを押して店内を歩く。野菜なんかをじっくりと見繕ったりしていると「あ、虫くってら」とか「こっちの方がゼッタイ中身が詰まってる!」とか主張する夏音さんがおかしかった。
「これくらいなら、虫に食べられてる方が美味しいですよ?」
「えー、そうなの?」
「そうなんですよー」
「憂ちゃんは物知りだね」
「田舎のおばあちゃんのお庭で野菜を栽培しているんです。たまに野菜の世話を手伝ったりするんですけど、その時におばあちゃんが教えてくれて」
「素敵な人だね。俺のグランマは全然そういうの教えてくれなかったなー」
 夏音さんのおばあちゃん。私の中の好奇心がむくりと立ち上がった。
「どんな人なんですか?」
「んー。憂ちゃんは知らないと思うんだけど………わりと有名な女優だよ。正確には、だった、かな」
「女優さん……映画とかですか?」
「そうだねー。映画が中心だなー」
 それから夏音さんがいくつか挙げた映画の名前の中には、聞き覚えのあるものが確かにあった。名作紹介とかでよく登場するようなやつばかり。
「あ、その映画は観たことあります。たしかすっごい綺麗な女の人が十人くらいの男の人と同時に交際する話ですよね。それで、次々に『あなたに私はもったいないわ』っていう決めゼリフでふっちゃうやつ!」
「よく知ってるね。あれも相当古いけど……その女の人ってのがうちのグランマ。すごい悪女してたでしょ」
「え?」
「あの時のグランマは綺麗だったなー。あ、過去形にしたら殺されちゃうな。でもすっごく光輝いていたよねー。まさにマドンナって感じかな」

「えー!? あの人が夏音さんの!?」
 どれだけすごい事か逆にわからない。それなら夏音さんは超有名人の孫?
「そんなにすごいことでもないよ」
 そんなにすごいことなんですけど。そんなしれっと言われても困ります。
 さらっと度肝を抜かれたまま、カートを押して店内を練り歩く。
「あ」
「うん?」
 別にあうんの呼吸とかじゃなくて。
 お菓子コーナーを通り過ぎた時につい声を出してしまったら夏音さんも振り向いて立ち止まった。
「お姉ちゃんにおやつ買っていかないと」
「あぁ、そういうのも管理してるんだ」
「これ、お姉ちゃんが好きなんです」
「それ、たまに部室でも食べてるな」
 いちご味のポッキー。二つ手にとってカートに入れた。
「この代金はちゃんと払いますから」
「はいよー」
 別会計にするのも手間だから。きちんと断っておく。
 カートが再びゆるーく発進する。
「そういえば、家だと唯はどんな感じなの?」
「お姉ちゃんですか? いつもテレビみてごろごろしてます」
 ごろごろするのがお姉ちゃんという生き物だから。
「ギターはどれだけ弾いてるの?」
 やっぱり気になるのはそこだよね。
「お姉ちゃんはすごいんです。ギター始めてから、ずっと弾きっぱなしですよ。私もたまに練習に付き合うんですけど、気付いたら四時間くらい弾いてる時もあって!」
 私がいかにお姉ちゃんが真剣にギターをやっているかを説明すると、夏音さんは嬉しそうに笑った。その笑顔が少し得意気に見える。
「そ、よかったー。唯には二時間以上は弾くように言ってあるからね」
「夏音さんがお姉ちゃんに言ったんですか?」
 あ、そういえば夏音さんに教えてもらっているってお姉ちゃんが言ってた。
「うん。唯は教えれば教えるだけ、まるでスポンジみたいに染みこんでいくからね。たぶん人の三倍の速度で上達してるんじゃないかな」
「へ、へー! やっぱりお姉ちゃんすごい!」
「ただ、前に教えたこととかすっかり忘れていたり……」
「はは……」
「なのに次の日にあっさりできてたりしてさ。あれ、できてるじゃんって。ちゃんと復習したんだなーって感心してると、『あれ、夏音くんに教えてもらったっけ?』とか平然と言うんだ。むかつくよね」
「そ、そうなんだ……」
 たやすく想像できて、お姉ちゃんらしいの言葉に尽きる感じ。夏音さんに申し訳ない。
「後はメンテナンスをしっかりやるように口すっぱくして言ってるんだけど……なかなかギターをいたわらないんだよねー」
「え? かなり大切にしてると思いますけど?」
「まさか、まだギターと一緒に寝たりしてる?」
「それはもう毎日………あっ」
 これって言ったりしたらまずかったかも。と思った時には遅かった。
「ゆ~~い~~~」
 ぎらぎらと燃えさかる真っ黒い炎が夏音さんの瞳の中に見えた。美人が怒るとこんなにもおっかない。お姉ちゃん、ごめんって心の中で謝る。
「あれだけ言ったのにわからんとは……お仕置きだな」
「お、お仕置き!? ごめんなさい! お姉ちゃんには私がしっかり言っておくので許してあげてください!」
「憂ちゃんがそうやってかばうから唯が……」
「お姉ちゃんは言えば聞いてくれます!」
「言っても聞かなかった時は?」
「う……何度も言います!」
「ふーん。それで憂ちゃんは唯をしつけてきたのか……」
「し、しつけだなんて!」
 お姉ちゃんはペットじゃない。しつけなんて……しつけなんて……当たらずとも遠からずかもしれない。
「まぁ、今回は勘弁しましょうか。けど、今度はちょっとスパルタな練習にしてみよっと」
 これが限界みたい。お姉ちゃんがしごかれる未来を用意してしまった。こんな妹でごめんなさい。
「お、お手柔らかにお願いします」
「ふふん。それは唯次第だね」
 ウインク一つ。何故か機嫌がよくなってしまった夏音さんはずんずんとカートを押していってしまった。
「うぅ、ごめんお姉ちゃん……」
 おいしい中華、作るから。
「憂ちゃんは本当に唯が好きなんだね」

 買い物も済んで、夏音さんの家へ向かう途中に呟かれた言葉がすっと頭に入った。
「はい、大好きです」
 恥ずかしい、とかを感じなかった。他意はなく、ただ事実を確認するみたいに放たれた言葉だから。私も言葉の用意とかしてなくても、当然の答えを出した。
「俺もこんな妹が欲しかったなー」
「え? そ、そうなんですか」
「上ばかりでさ。下に弟も妹もいなかったんだ」
「それ、意外です。夏音さんって面倒見が良いからすごくおねえさ……お兄さんオーラ出てますよ」
「それは年上だから気をつけてるの」
 口をとがらせて言う夏音さんがちょっと可愛かった。
「よし。憂ちゃんは今日から俺の妹だ」
 真剣な表情で真っ正面から言われた。
 数秒の間。
「エーーーーーッ!!?」
 私、お姉ちゃんの妹なのに。嫌ではないけど……反応に困る。
「冗談なのに……そんなに嫌だとは思わないじゃん……」
 夏音さんは夏音さんで変な勘違いで落ち込んでいる。
「い、嫌ではないです!」
「また、そうやって……」
「嫌ではないですけど……夏音さんをお姉ちゃんって呼ぶのはちょっと……」
 私にとって、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから……。
「俺、お兄ちゃんなんだけど」
 冷たい瞳とぶつかった。
「あ………」
 やってしまった。
 その後、すっかり機嫌を損ねてしまった夏音さんをなだめるのに苦労した。でも案外、お姉ちゃんの機嫌を回復させるための手段がそのまま通用したりしておかしいよね。
 やっぱりあの二人って似ているかも、なんて。
 私の勝手な思い込みかもしれないけど。
 前から仲良くなりたいなあ、って思っていたけど。今回のことでちょっとだけこの人との距離が縮まった気がした。



 

 ※最後、なんか憂夢っぽくなってしまったことはご愛敬。



[26404] 第十八話(前)
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/06/27 17:52

※今回、四万字を裕に越えてしまったので二つに分けました。



「ねえ、バンド名ってどうしようか?」
 爆メロの公式サイトからダウンロードしたエントリー用書類とにらめっこをしていた夏音がふと顔を上げて放った一言に食後のティータイムを楽しんでいた者達がぴしりと固まった。
 バンド名。
 それは自分達を表す一番の象徴となるもの。その瞬間、軽音部の面々の脳裏に閃光のごとく映像が流れた。
 ある者にはCDショップで自分達のバンド名がどでかくコーナーを占拠する光景。またある者には音楽好きな子供が「○○ってマジ熱くてさー」と友人に語る様。とある姉には「うちのお姉ちゃん、○○のギターなんだよ!」と語る妹の姿が。
 当然それぞれの○○には自分が考えついたバンド名が当てはまり、妄想は瞬時に熱を帯びて加速していく。どこまでも行ってしまいそうになる脳内世界に歯止めはきかず、現実から離れたままぽーっとうっとりする彼女達を眺めていた夏音は手に挟んだボールペンをとんとんと机に打ち鳴らした。しばらくぼんやりした表情で彼女達を見詰めていたが、大きく悩ましげな息をついてから書類に向かい直った。
「ま、テキトーでいいか」
 ときめく妄想の世界へ旅立った彼女達を放っておくことにして、さてどんなバンド名にしようかと頭をひねることに専念したが、いち早く現実へ引き返してきた唯がびしっと手を挙げた。
「はい! ノースイーツ・ノーライフがいいと思います!」
 思わず夏音の手から落ちたペンが乾いた音を立てる。
「私は女っ気如雨露が良い!」
 続いて律が負けじと声を張り上げる。そのセンスに寒気を感じた夏音はぶるりと身を震わせた。
「ぽ、ぽわぽわチェリー、とか?」
 お前は出場に反対じゃなかったのかと半眼でまじろがずに澪を見詰めた。
「…………一応、聞いておこうかな。ムギはどう?」
 声をかけられるまで陶然と虚空に視線を彷徨わせていたムギがその表情のままに衝撃の言葉を紡ごうと、
「私はー………カミングアウ―――」
「なんかそれ以上言わないといて!」
 するのをなんとか防いだ。
 夏音は途中まで耳に入った時点で背筋を通り抜けた悪寒に従い、ムギの言葉を遮った。何だかそのまま台詞を完結させたらまずいような気がしたのだ。
はー、と重たい溜め息をついて眉間に手をあてた。個性的と言ってしまえば聞こえは良いかもしれないが、見事に方向性がバラバラである。おまけにセンスがところどころ崩壊している。
「あー……Crazy Combination、と」
 夏音はその時ふと思いついたバンド名を書類に書き込んだ。何と言うか、個性的な人間がこれでもかと揃った軽音部である。並べて見るとちぐはぐな組み合わせだが、どこかまとまりがあるので案外ぴったりだと思ったのだ。
 何より、あくまで仮決定なのだからこんな事で時間を無駄にしたくないというのが率直な感想だった。都内に郵送なので、今日中に届くはずだが学校に行かなければならない時間は目前に迫っているのだ。
「あーっ! 勝手に決めてやんの!」
 その行動に目敏く反応した律が盛大にブーイングを飛ばした。それに続いて次々に幾つもの不平が夏音に飛び交う。
「あ、あくまで仮だから!」
「そんなこと言って強行決定するつもりだろー抜け目ない奴め。そんなの長いし覚えづらいし英語だし! 何よりダサイ!」
「ダサイって………言いたいこともわかるよ。俺だってじっくり話し合って決めたい。でも、このままだと学校遅刻するんだけど!」
 例え自分のセンスを全否定されたとして、夏音の気持ちはあくまでこの一言に集約される。これから取り急ぎ郵便局に寄らなければならない。しかも営業時間の都合で本局まで遠回りしなければならないのだ。いつもより早く家を出なければ間に合わない。
「ねーねー。ていうか、あの時計おかしくない?」
 居間に備え付けてある壁掛け時計を指し示した唯が自分の携帯と交互に見比べて不審を訴える。
「何が?」
「あれ私の携帯より二十分くらい遅れてるよ」
「はぁ? 唯の携帯がおかしいんじゃないの?」
 律が唯の携帯をのぞき込む。そして、自分の携帯と見比べて―――、
「う、うそーん」
 青ざめた顔が呆然と固まる。
「…………」
 夏音はあくまで冷静にその事態を受け止め、おもむろにテレビを点けて朝のニュース番組を見た。そこに表示される左上の数字を確認して、ふっと小さく微笑んだ。
「あ、あの時計………滅多に見ないからさ……」
誤魔化すような微笑を浮かべながら、声を震わせながら弁解する夏音は、背後で彼女達が浮かべている表情を確かめる勇気はなかった。


 その日、見事に軽音部全員が大遅刻をするという不始末のせいで、顧問であるさわ子にしわ寄せがいったらしい。仲良くお揃いで遅刻する必要もなかったのだが、どうあっても一緒に郵便局に行くと言ってきかなかった彼女達を振り切ることが夏音にはできなかった。速達の荷物を預かった瞬間「どーか通りますように」の願いをこめてパンパンと二拍手のちの一礼をされた郵便局員の表情は見物であった。
 結局、一同は放課後に部室に訪れたさわ子にくどくどと文句を言われるハメになったが、もちろん神妙に話を聞く者などいない。
 説教をする人物が手に持つフォークと次々と口に消えていくケーキがなかったらそれらしく聞けるのに、と全員一致で思った。
 そもそも彼女達は肉体的にも精神的にも誰かの説教を聞いている余裕などなかった。
 レコーディングぶっ通しのオール空け後すぐに全力疾走をかました上に六コマの授業を乗り超えた一同は完全にグロッキー状態。授業中は死人のように眠り、移動教室は幽鬼のようにふらつく。
 どのクラスも体育の授業が入ってなかったのは不幸中の幸いであった。唯は太陽が黄色く見えるぜ、としきりに呟いていた。
 ちなみに爆メロに応募したことはさわ子には伏せてある。ひとまずの結果が出ない内に話したところで、いざ落選という情けない事態になった時に恥ずかしいからという理由だ。夏音はしきりに大丈夫と訴えたにも関わらず、部長とその幼なじみが強く反対した。
「これの結果はいつ分かるんだろう」
「たしかどんなに長くても二週間くらいで発表されるって」
「二週間ねー………どう考えてもこの選考日程、テストとかぶっちゃうよな」
 むぅ、と眉間に皺をつくって唸る律。あまりテストなど気にするタイプに見えない彼女でも相応の懸念はあるらしい。
 何と言っても学年末は成績に重要な影響を及ぼす。一年の復讐的なテストでもあるので、平均点が高めになるという情報も流れているだけに、その捉え方は深刻になりやすい。
 基本的に成績なんてどうでもいい夏音にとってはテストなど瑣末事でしかないのだが、他の者にとってはそうでもない。あからさまに我関せずと聞き流すような軽率な態度は控えた。
「どうにかメリハリつけてやらないといけないな。審査が通ったら、の話だけど」
 あらぬ所へ視線をやりながら語る澪の内心は明け透けである。どうあっても大舞台に立ちたくない澪は自然の流れで審査落ちすればいいなあーと思っているのはバレバレである。
 どうしてそこまで拒否るのか、と問いただせば、過去数回も足を運んでいるイベントだけに憧れが強すぎるだそうだ。
 小規模なイベントだが、根強いファンがいる音楽イベントだ。ここからメジャーに駆け上がって成功しているバンドは幾つもある。澪曰く、最初から敷居の高い所から始めるより、自分としては小さな所からこつこつとやっていきたいらしい。
 夏音はその言葉に、ずいぶん悠長な話だと呆れた。
 彼はチャンスとは自ら掴むものであって、ふと自分が大注目を浴びる覚悟くらいなくてどうするのだ、と考えている。
 かつて自分が四歳でドロシー・チャンドラー・パビリオンの舞台に立たされた時、または六歳の時に急遽、代役でカーネギー・ホールに放り込まれた時は覚悟などこれっぽっちもなかったものの、土壇場で何とかやってしまう胆力があったおかげで乗り越えたのだ。  
 だから、これをきっかけで軽音部が一般聴衆の前に出る事は大変良い事である。
 優勝までは望まないが、外からの評価という物を与えられた彼女達に大きな変化が訪れる事は間違いないのだ。
「そうだね。がっつり練習してからテストを挟むとモチベーションが下がっちゃうだろうし。今のうちから手をつけようか、勉強」
「ほぇ? 夏音くん何でこっち見るの?」
 その言葉と同時に確実に自分に照準が合わせられた瞳に唯がたじろぐ。
「唯さん。我々はあなたが心配なのですよ」
「だ、大丈夫! 今回はいけると思ってる!」
「ダウトー!」
「ひ、ひどーい!」
「悪いんだけど、唯の大丈夫は信用がないのです」
「うぅ……ハイ」
 因果応報という。過去に全力で部に迷惑をかけた覚えがある唯はその言葉に素直にうんと頷く事しかできないのだ。
「とりあえずは選考結果を待つかー」
 あくびをかみ殺しながら律が会話を戻した。
「驚くことに音源が通っちゃったら後は実演審査一回で最終なんだってさ」
 理由は審査に金と手間をかけていないイベントだから。ならばスタジオ審査に向けての練習もせねばならない。ますます勉強に集中している時間などなかった。何にせよ、唯一人だけが頑張ればいいのだ。
 他の部員から発せられる無言のプレッシャーをぴりぴりと肌に感じた唯はごくりとツバを飲み込んだ。


 それから二週間と数日はあっという間に経ち、放課後まで一枚の封書を取っておいた夏音は全員が集まったところで立ち上がった。
「皆さんにお伝えすることがございます」
 一様に息を飲む音。今まさに全員の注目を浴びる一枚の紙を手に持つ夏音は絶妙な溜めをつくってから、高らかに叫んだ。
「一次審査通りましたー!!!」
 その瞬間、爆発したような歓声と共に澪が意識を手放した。

「いやーまさか通るなんてなー」
「通るさ。アレだけやって一次すら通らないはずないって」
 偶然だが、いつになく豪勢に振る舞われた茶菓子をわいわいと囲む一同はいまだ興奮冷めやらぬ状態である。
 一同はブラックアウトした澪をソファに安置すると、全員が手を取り合い飛び跳ねて喜びを表した。
 純粋にやれめでたい、と口にするムギや唯とは違い、律はまさか自分があのステージに参戦しようとする日が来るとは思いもしなかった、と柄にもなく眦に涙を滲ませていた。
 嬉しすぎて出る涙だ。
 もし、このまま次の審査を通ったら憧れのステージでライブができる。彼女にとっては紛れもなくとんでもない事態だ。
 デモが通る事がどれだけすごい事態なのか。通って当然だと言い放つ夏音の言葉に納得している唯やムギはまるで理解していない、と律は暢気な彼女達に呆れた。 何十というバンドがこの一次審査で落とされるのだ。運で残るはずがない。
 爆メロは野外ステージを貸し切って本物のフェスさながらのステージ、といった規模のものではない。他のイベントの二番煎じと評される事もあるが、何と言っても主催者側の意気込み方が半端ないのだ。
 まず主催する会社で働く人物のありとあらゆるコネを使って審査員に誰もが知っているプロミュージシャンを数名据える事で、大きく箔をつけている。
 審査員がメディアへの露出度が少なかろうとも全く関係なし。
 露出などしていなくても、その道の者から圧倒的支持を受けている人物達をよくもここまで、という程集めている。
 特徴としては、イベント当日の様子をメディアに乗せて発信することがないという点が際立っている。
 自宅で悠々と新鋭バンドをチェックすることなどできない。その場所に足を運んだ者だけ、新たな伝説の始まりを目撃しに来た者のみが口伝てに出場バンドの評判を広めることができるのである。
 さらに優勝したバンドへのフォローもないしレーベルのプロモーションを期待しても無駄だ。
 イベントで観客の期待を勝ち得たとしても、後は自分達で道を切り拓いていかねばならない。優勝してデビューすることはない。そこで得たチャンスを活かすことができた者たち。そこで生き残った良質の音楽を世に送り出したい、という音楽提供者の熱い想いが詰まった仕様。
 人はそういうのに弱い。大がかりなプロモーションが背後にチラチラ見えるようなライブイベントが蔓延する世の中に突如として現れた隠れ家的イベント。
ぷんぷんする「本物」の臭い。ミーハーなコンテストなんかぬるい。
 どれ、いっちょ本物っていうのを俺が発掘してやるんだ、という人間が一挙に押し寄せるアングラかつ敷居の高いライブイベントとして成功を収めているのだ。
 十代限定、というのも面白い。よくこんな若手どもを見つけたな、という程の才能の塊ばかり。律は中学二年の時に友達に誘われて観に行った時、かつて味わったことのない刺激を与えられた。
 自分とそう変わらない年の人間が千人単位の人を熱狂の渦に引きずり込むリアルを体感させられた。
 言葉に出来ないくらい悔しかったし、まだ何も始まっていない歯がゆさを噛みしめて帰った記憶が鮮烈に思い出される。
 翌年は澪を連れて行き、そこで一年前の自分と同じような反応を見せる幼なじみと一緒に爆メロのステージへの畏敬の念をよりいっそう高めるのであった。
 ちなみに、その二回目で優勝したバンドは最近、二枚目のフルアルバムをリリースしていた。
 でも、まさか通ってしまった。浮かれていようが、楽天的だろうが通ってしまったのだ。
 まだ一次審査、されど一次審査。このイベントに至っては次が最終審査という短いレース。それを勝ち進めば本選が待っている。
 何回も審査を重ねるような形ではなく、より厳しい審査をたったの二回の内で行うのだ。経営側は音楽に対して辛口もいいところで、デモの時点で特大の篩にかけられる。
 次に演奏を直接聴く事で審査する。バンドの良さを色んな角度から知る必要なんてない。彼らが良いと思うか思わないかが決め手なのだ。
 一次を通った時点でそこにはRPGでいうボス級軍団しか残っていないのだろう。よーいのドンした瞬間、有象無象を蹴散らして最終審査を乗り越えようとしている猛者達が。
 そんな中に軽音部が紛れ込んでしまった。まぐれではなく、自分達で作り上げた形が誰かに認められてしまった。
 律は途端に恐ろしくなった。おそらく、この恐怖に気付いている者は他にはいない。
 いや、いたとしてもそいつは気絶している。使えない。
「ちょっと私も予想外っていうか、こんなにあっさり行くとは思わなかったなー。結構動揺してるんだけど」
「そもそも言い出しっぺは律じゃないか。通らないと思って提案したんじゃないでしょ?」
 夏音はまるで理解できない、と涼しい眼差しを律に送る。
「いや、そうじゃなくてさ! 私もこのメンバーでどこまでやれるか、っていうのが興味あって……そういう意味で爆メロを推したんだけど。いざこうやって通ってしまったら現実感なくてさ……この微妙な感じ、伝わるかなー?」
「まったく意味がわかんないや」
「あぁー、外人は日本人の曖昧で繊細な心の機微を捉えられないからなー」
「そういう事じゃないだろ! ていうか二重国籍なめんじゃないよ!」
「あーつまり! この展開は、な。ガチでヤバイってことだ」
「ガチで……ヤバイとな?」
「あぁ、そのとーり」
「日本語、おかしくない?」
「お前に指摘されたくないわ!」
 今までずっと外国にいた人間に母国語を指摘されて、ついムカっとしてしまった律は憤然と言い返す。
「これはスラングなの! 帰国子女さんもっとフランクな日本語に触れたらどーかしらー!?」
 言い放ってから馬鹿にするように思い切り夏音を見下す。彼はそれに対してむっと眉を寄せて何か言いたげに口をぱくぱくとしたが、ふんっと鼻で笑った。
「つまり、律はびびってるってことだ」
「誰がっ!」
 憤慨した律だったが「いや、実際そうなんだけども」と一瞬だけ心に浮かべてから、それを振り払うように「ここまで来たら逆にあがるわー! やってやろーじゃんかー!」といきり立った。
 反動もあってか、若干空回り気味になってしまった律の威勢を見てにたりと笑った夏音は両手を振りかざして「そうだー!」と追従した。
「もーこの際だから優勝目指しちゃおー!」
 流れに乗って唯が拳を振り上げる。すると火がついたように全員が立ち上がり、机をばんばんと叩く。
「優勝! 優勝!」
「イェー!」
 ジャンベを打ち鳴らすアフリカ少数民族のようにアフリカンビートで加速していく机。全員のテンションが明らかにおかしくなった部室。
「うぅ……ここは、どこ……?」
 不幸なことに全員が飛び跳ねてドタバタと床を振動させている最中に意識を取り戻した澪が呻いた。騒がしさに顔をしかめ、そっと上体を起こしてみると、目の前に異様なテンションで飛び跳ねる仲間達の姿が。
「ど、どうしたんだよみんな?」
「Yeah!!?」
「いや、Yeah!? じゃなくて」
 完全に取り残された澪は全てを放り投げてもう一度意識を失えないかを必死に試みた。


 あれから三週間。目の前の行事が頭を占めるあまり、全員が完全にスルーしていた澪の誕生日を遅ればせながら祝ったのが四日前。唯に関しては多大なプレッシャーをかけて猛勉強を命じた効果があったのか、期末試験は何とか乗り切れそうだと言う。
 あくまで本人談だが。部としても唯が赤点を取らなければ良いので、人様に迷惑をかけない結果であれば問題ないのだ。
 まるっきり信頼なしで傷ついたよという唯。前科者の汚名を雪ぐにはそれなりの時間がかかるというものだ。
 スタジオ審査という名目の最終審査だが、なんと実際に爆メロの会場となるライブハウスのステージで演奏する事実上のライブ審査となっている。
 本番さながらの音でじっくり正確に品定めをされるそうだ。公式サイトの発表では、一次通過者の数は十四。全応募者数、実に八十五組の中から選ばれた十四の中に軽音部が含まれるという事に一同は身震いする思いだった。
 審査日はライブハウスの運営するライブの隙間を狙って行われ、一日何組といったように数日に分けて行われる。各組の予定を合わせた結果、二月の中旬――テスト直後に決定した。
 日付が決まれば、後はそれに向けて驀進するのみだ。
そこで夏音は一度気合いを入れ直してやっていくために、本日の放課後は部室ではなく自宅に皆を集めることにした。
 楽器を持ち込み、早速例の自宅スタジオでミーティングが行われる。
「今の私達らしい曲ってなんだろうね」
「うーん………曲調がバラバラだもんなぁ。何のバンドって言われたら答えに詰まっちゃうような」
 議題は自分達が演奏する当日のセットリストである。提出したデモの曲は必ずやるとして、現在の軽音部が持つ十一曲のオリジナル曲の中から選び抜くのだ。あの緩やかな活動の中、半年で十一曲を作ったといえば、相当な数だといえよう。
 軽音部はいまだ未知数。各自がバラバラのバックグラウンドを持ってバンドとして集まっているだけでなく、それぞれがこの一年で様々な音楽的背景を獲得してきた。それが上手い具合に混ざり合うこともちぐはぐになってしまうこともある。
 ここがバンドの面白い所であるが、バンドで生み出される化学反応は一プラス一ではなく、時によっては百にも千にもなる。しかし今の軽音部はその段階にない。
 自分達の音楽を模索中といったところで、あらゆるジャンルに手を出して試行錯誤の最中である。とどのつまり、どの音楽もやってみないと、自分達に合うかわからないんだから色々やってみよーということだ。
 それ故に次々に曲が生み出されていった。中にはイマイチ出来が悪い、と二度と演奏しなくなった曲もある。
 そのような試行錯誤を経た後に残っている曲はそこそこの出来だという認識が共通してあり、現にその内の一つが他者に認められたわけである。
 甘いバラード、物悲しいバラード。メロコア風の曲もあれば、プログレだったりアンビエントなニュアンスを出す曲もある。
 こうして並べてみれば現在軽音部が用意できるセットリストは見事にバラバラな曲調ばかりである。
 夏音は総じて音楽のジャンルという垣根を良く思わない傾向があった。正確には、ジャンルを気にして選り好みするという思考。お堅い頭の連中が棲み分け、などと声を大きく主張する現実が嫌いだった。
 本人がプロとしてバリバリ活動していた時の活動範囲がその音楽に対する意識を如実に語っている。
 縦横無尽に幅広い音楽の中を駆け巡っていた夏音は、それぞれの音楽に良い部分が数多あることを知っている。
 良いものは良い。それが全てだ。
 その思想は徐々に軽音部内にも浸透していき、次々に生み出されていくオリジナルの曲にも反映されていると言える。
 そんな中、十一曲の中から絞って演奏する事は実に悩ましい問題なのだ。どの曲も悪くない、だがどれにしよう。バンドとしては嬉しくも悩ましい。
「クマさんは良いと思うんだよなー。二曲目に勢いつけるのに最適じゃない?」
「確かに二曲ぶっ通しでいくならそれが良いかも」
 Walking of Fancy Bear。通称クマさん。学校祭でやったイントロのエグい一曲だ。そのベースラインを澪が弾けるようになり、レギュラー曲に定着しつつある。
 とりあえず律の意見を一つとして頭に入れる。なかなか的を射ている意見だと皆が頷き、皆の同意となりかけたのだが。
「でもチューニングがなあ」
「その問題があったねー」
「とにかくバランスを見ないと。技巧が目立つ曲ばっかりだと単調だし。バラードは必ず入れたいよね。それでいてやっぱり一曲は本当にヤバイ曲が欲しい……」
「ヤバい曲……アレかな」
 ふと律が遠い目をする。
「“バス亭”な」
 律の言葉に夏音以外の者が息を呑む。現在、軽音部が持っている曲の中で最も物理的に難易度が高いのが「バス亭」である。Bメロに三十二分の休符がごちゃごちゃとあり、律にまるまる十六小節呼吸が止まると言わしめた曲。
 ギターソロの最中に転調、ごちゃごちゃしてからまた転調。合間にはキーボードと他楽器との掛け合いに加え、ベースとリードのユニゾンフレーズが目白押し。なお、夏音の満足行く演奏を行えた事は未だかつてない無茶ぶり曲。
「あれ、本番でやれる勇気はないな」
「えーアレ弾き通せたらかなり格好良いじゃん!」
 げんなりと呟いた律に夏音は頬をふくらませて訴えた。
「とりあえず保留で」
 部長の言葉にほっと胸を撫で下ろす反応に夏音はさらに頬を膨らませた。
 夏音の意見を何とか押し込めて曲決めは進んでいく。
 気が付けば一時間以上も曲決めに費やし、何とか五曲に絞る事ができた。
「曲はトリビュート、クマさん、夢日記、キャンディーウォーズ、スクールデイズで良いですかー」
「はーい!」
 嬉々として声を張り上げた律に元気よく手をあげた三人。渋々と手をあげる一人によって全員一致で可決された。
 とはいっても五曲全てを演奏できるか分からないので、前三曲が中心になる。
「じゃぁ、曲が決まったところで練習開始!」
 そう言って下がりかけていたテンションを引き上げた夏音はすかさず「おー」と威勢良い返事が返ってくるかと思いきや、
「その前にお茶……しませんか?」
「異議なーし!」
 まぁ、いっかと夏音もその決定に従った。まだ焦ることもない。そう楽観的に考えていたことがすぐに裏目に出るとは知らずに。


「はぁ」
 重苦しい溜め息がスタジオの温度をどんどん下げていく。溜め息一つとっても見る者が惚けてしまうくらいに絵になる男がいる。しかし、例え見た目が華やかでもそれを目の当たりにした者はその男から溢れ出る冷気に身を縮めた。
「もう何度目だろう……果たして何度目だろー」
 がしがしっと乱暴に髪の毛をかき乱すとストラトを置いた夏音はふっと椅子に座った。少女達は不安げに視線を交わし合い、どういった反応をするべきかを探り合った。
「あのね。アンサンブルが完全にぶっ壊れてんの。みんなお互いの音が聞こえないの?」
 顔を俯かせたまま、うんざりと吐かれる言葉が張り詰めた空間に鈍く広がる。
「ご、ごめんね夏音くん。私がリズム狂わせちゃうんだよね」
 物音を立てる事さえ憚れる雰囲気の中、勇気を振り絞った唯が口を開いた。
「正確なリズム感を持つ事は最低条件……だけど、みんなできてないから。唯だけじゃないよ」
 一言がぐさりと胸を抉る。
「曲が速くなっちゃうのはもーこの際仕方ないとして。みんなすぐに合わせないと。かといって律も周りが聞こえてないから合わせようとしても意味ないし。お互いが引き摺り合ったりしてごっちゃごちゃですよ」
 夏音の指摘は一つとして間違ってはいない。フィーリングが全く合わないどころか、今の彼女達の演奏の中にグルーヴを見つける事は難しい。時折、良い感じになったとしても誰かが必ずそれを崩す。あろうことかそれがドラムであったり、べースといったリズムセクションだったりする。
「ねえムギ。指、疲れた?」
「だ、大丈夫です!」
「そう。悪いけど、がんばってね」
 激励の言葉とは裏腹に絶対零度の、感情の乏しい表情で言われたら堪ったものではない。顔にかかった前髪の間から覗く瞳の鋭さにムギはかろうじて悲鳴を抑え、震えそうになる足を踏ん張った。
 強張りそうになる表情を微笑で隠して「うん、ごめんね」と返した。
「夏音。少し身体も頭も冷やさない? 煮詰まった時はインターバルを置いた方が良いって前に言ってただろ?」
 自身もいい加減に指の力が無くなってきそうだった澪。学校祭以降、ヴォーカルを降りて幾分かベースに専任することができるようになった澪にも夏音の叱責は遠慮なく飛ぶ。自分も怒られる身だとしても、彼女はこの険悪な空気を払拭しなくては、と休憩を提案した。
 このような諫言も、他の部員より一番接する機会が多い澪だから言えたことである。いわゆる、怒られ慣れた弟子の特攻だった。
「…………うーん休憩……okay。そうしよっか」
 澪の提案にあっさり頷いた夏音がギターをスタンドにかけてぐっと伸びをした。そして自らが重くしてしまった空気を透き通る一声で切り裂いた。
「おーーー茶だあーーーーーーーーい!!!」
 張り詰めた空気が不思議な程、一瞬で消え去った。依然として胸にわだかまる物をすぐに消し去ることはできなかったが、彼女達はずっと強張っていた頬を緩めることに成功した。

 スタジオを出てリビングに集まると、一同は淹れ立ての紅茶とワッフルを囲んでくつろいだ。驚いたことについ先ほどまでのざらついた空気は一切ない。
 一度落ち着くと身体に溜まった疲労が押し寄せてくる。今すぐにでも眠ってしまえそうな疲労感と格闘中の律は震える手で紅茶をすすりながら、そっと他の者の様子を窺っていた。唯、澪、ムギ。つい今し方まで真っ青になって楽器を弾いていた彼女達だが、この場においてはぎこちない様子などは見られない。
 身じろぎしただけで傷ついてしまうやすりのような空気はどこにいったのだろうと思う。皆、すっかりリラックスしている。何より、一番だらーんとソファーでまったりしている夏音は先刻まで鬼教官のような檄を飛ばしていたというのに。

 不思議な男である。
 この男がどれだけ練習で怒ったり、剣呑な雰囲気を醸し出した時でも、練習が終わってしまえば一気にそれが白昼夢であったかのように霧散してしまう。すぐにいつもの立花夏音の空気に巻き込まれてしまう。ぐっさり心に傷をつけられても、おかしな事に気にならなくなってしまうのだ。
 人の顔色を伺いがちな澪でさえ、肩の力が抜けきっている。
 唯やムギは言わずもがな。
 その反面、律は物事を引き摺りがちな自分を自嘲していた。
 練習の最中に言われた一言が彼女の頭の中を離れない。
 練習は練習、とオンオフで割り切るだけの余裕が自分に欠けている悔しかった。
 他の皆が大人なのかと問われると首をひねってしまうが、それでもそんな割り切り方がうらやましかった。
 自分の普段の外面とは正反対な内面を知ったら周りはどう思うか心配になる。田井中律という少女の意外にも思える一面が彼女を余計に悩ませる。
 律はこのままではイケナイと気持ちを切り替えようとした。自分一人が重苦しく悩んでいるというのに、目の前のふやけた顔をしている美貌の主を見ていると馬鹿らしくなってくるのもある。
 曖昧にその場の話に合わせて笑っていた律だったが、ふとその態度に気付いた澪が声をかけた。
「どうした律? ぼーっとして」
「え? い、いやー腹減ったなーって思ってさ!」
「ああードラムは一番エネルギー使うからねー。仕方ないよね」
 クッキーを頬いっぱいに詰め込みつつ、ハムスター化した夏音が神妙に頷いた。ばりぼり。その真剣な態度と顔があまりに合わなすぎて、一同は「ぶっ」と紅茶を噴き出した。
「ん? なに、どしたの?」
「そ、その顔をどうにかしろっ! くふふっ!! アハハハハ!!」
「だから何がぶふぉっ!」
 クッキーの細かい欠片が喉にいったのか、夏音がクッキーを噴き出した。
「きたなっ!?」
「げほっげほっ!」
「もーお前、サイアク!」
 何だかんだでいつもの空気に戻ってしまうのが軽音部だったりする。

 気が付けばミーティングを含めて練習が始まってから三時間以上が経っていた。世間のご家庭では立派に夕飯時といっていい時間だ。
 休憩を終えてまた練習、とは行かなかった。話合いと軽く練習のつもりがこんなに根を詰めてやるハメになるとは思いもしなかったのだ。
 律は弟に夕飯を作らねばならず、唯も憂がご飯を作って待っている。今日はここまで、という事で一同は解散した。
 夏音が車で送ろうかと申し出たが、丁重に断れた。なら玄関先まで、と見送りに出ると澪が声を潜めて夏音に話しかけてきた。
「なあ夏音、あまり根を詰めすぎないように頼むよ」
「別にそこまでやってないと思うけどなー」
「夏音がそうでも。こう言うのはなんだけど、私達はプロじゃないんだから。とりあえず明日、いつもの時間に行くから」
 というのはベースのレッスンの話だ。
「うん、わかった。待ってるよ」
「じゃあまた明日」
「気をつけて帰ってね」
 澪が門の向こうへ消えるのを確認してから、夏音はしばらくぼーっと空を見上げていた。それから星も何もない鈍色の夜空を視界から外すと家に入っていった。



 時間割の中に卒業式演習なるものがちらほらと含まれる中、部内に卒業生を抱えていない軽音部はこれといって特定の卒業生に何かすべきこともない。目下、最終選考に向けて練習するのみ……のはずだったのだが。
「最近どうも誰かに見られている気がする、とな」
「うん……そうなんだ」
 真剣だが、どこか諦観したような乾いた笑顔の澪がかくかくと頷いた。何となく、煮えきらない様子だ。
 妙な態度である。夏音は「相談があるんだ」と改まって澪に声をかけられたので、思わず姿勢を正して話を聞いていたのだが、その内容を聞くと「なんだ」と嘆息した。
「俺なんて学校祭以降いつでもどこでも視線を感じるよ」
 犯人は言わずもがなだ、と付け加えられる。なんと言っても立花夏音には恐ろしい集団がつきまとっているのだから。
 それはファンクラブという名をもって時折、夏音の日常にささやかなスリルをもたらす。リアルに振り返れば奴がいる状態。
「あぁーあー。澪しゃんもファンクラブあるんだっけねー」
 虚ろな目をした夏音がふと思い出したように澪を見る。「あータイヘンねー」と自らを棚に上げて同情的な眼差しに澪の眉がひくつく。この男にそういった憐憫を向けられる筋合いはないと思ったが、何とか腹に落として先を進める。
「そ、その話はいいから!」
 何より澪にとって話題にしたくない内容だ。自分などにファン、とは何事。あの失態の末にできたファンなんていかがわしいものに決まっている。
 とはいえ、案外トップの人間は礼儀正しいようで以前にファンクラブ設立の許可を賜るための慇懃な文体の書状が届いたのは記憶に近しい。承諾したつもりはない(どこに承諾したものか分からなかったから)が、活動は水面下で行われているらしいと風の噂に聞いた。
「他のみんなには相談したの?」
「したからこうやって夏音に相談してるんだ」
「あぁ、そういうこと」
 鷹揚に頷く夏音。納得である。役立たずという漏斗を通り越しても濾しきれなかった悩みなのだろう。それは大きい悩みが残ったものだ。そして夏音は最後の砦のように信頼されているのだろうと鼻を高くした。
「そういうことなら俺に任せなさい」
「ほ、ほんとかっ!?」
「うん、まずは澪に問いたい。自意識過剰という言葉を知っているかい?」
「お前もかっ!」
「いや、まずその線から潰していこうかと」
「もういい!」
 基本的に人の役に立たず。軽音部クオリティここにあり。かの歴史の名言に近い台詞を吐くと、憤懣やるかたない様子で澪は部室の扉を蹴破って出て行った。最近、行動が荒々しくなってきていることに彼女は気付いていない。

 数十分後。
「それでライブをやりたいと。へぇー」
 また突拍子もない事態が発生した。軽音部の得意分野である。
他の面子が揃ったところでお茶を開始していた頃に出戻ってきた澪がとても気まずそうにライブをやらないかと持ちかけてきた。
 いわく件の視線の正体は澪の妄想ではなくて本当に存在していたようで、やはりファンクラブの者によるものだったらしい。
 しかし話はそこで終わらない。何とそのファンクラブの者はクラブの会長張本人で、加えて生徒会の元会長だったという驚天動地の事実が露わとなった。
 元会長の曾我部恵は容姿端麗、公明正大、頭脳明晰と誰もが認める生徒会長の鑑のような人らしい。皆も全校集会で何度も目にしたことがあり、確かにそんな四字熟語が似合いそうな人物に見えた。
「ていうか恵って名前はファンクラブの会長になる素質でもあるのかな」
 立花夏音ファンクラブの会長もめぐみという名前だ。
 ともかく、そんな人間もつい魔がさしてストーカーに陥ってしまったのだという悲しい事件はこうして幕を……閉じなかった。
「曾我部先輩も悪気があったわけじゃないみたいなんだ。なんか、好きな人をつい目で追ってしまうような感覚だったらしい」
「それ、自分で言って悲しくないかい?」
 夏音のツッコミに言葉を詰まらせる澪だったが、あえて無視して続けた。
「私としてもなんか面はゆいんだけど、そこまで想ってもらって知らんぷりするのも嫌なんだ。だから、卒業する先輩に私達からお祝いと見送りを兼ねてライブを贈ってあげられたらなって」
 顔を赤くしながら言い切った澪はつぃ、と顔を俯かせる。もじもじと指をいじって反応を待っているあたり、いじらしさが満開だ。そんな彼女の想いを受け取った唯がにっこりと微笑んだ。
「澪ちゃんすっごく最高なアイディアだよそれ!」
「ほ、ほんと?」
「ええ、澪ちゃんらしくて素敵! 曾我部先輩も絶対に喜んでくれるわね!」
 ムギの力強い後押しに澪の顔がぱあっと輝く。澪も時期的に一大イベントに向けて高まるモチベーションに水を差さないか不安であったのだ。余計な時間を割いてまでやりたくない、とでも言い出されたらおそらく何も言い返せなかっただろう。
 結果、弾き語りでも何でもやるつもりではあった。よく考えたら軽音部の中に反対するような心が狭い人間なんているはずなかったのだ。
「ま、澪らしいな」
「そうだね。ライブ審査前に誰かに聴いてもらうのも良い機会だし、どうせなら高校最後にさいっこうに贅沢な想いをしてもらおうよ」
 律と夏音も乗り気な発言を加えて、一気にライブムードになった。何の曲をやるか、構成はどうするかという話に火がついてミーティングをした結果。
「私が……ヴォーカル?」
「そこはそうでしょう」
「………や、だ…」
 いつもなら即答で「やだ!」と反応する澪も歯切れが悪い。秋山澪のファンというのであれば、彼女自身のヴォーカルが聴きたいはずだし、学校祭の時はしっかり一曲歌ったのだ。
「学校祭が終わってから俺がヴォーカルをやってきたわけだけど、澪だってちゃんと歌えるんだからもったいないよ」
 夏音はひそかに澪にヴォーカルの素質を見出していた。声量はまだまだまだまだ足りないが、しっかり音を取れる上になかなかヴォーカル映えする声を持っている。
 そもそも、ギターと歌を同時にこなすことのできない唯をのぞいて軽音部全体のコーラスワークはなかなかのものである(特訓によって)が、中でも澪の声域は下に出る分、重宝されている。
 全曲の中で一番低いヴォーカルの時に六度下を通る声で出せるのは澪くらいである。
「という訳で澪ヴォーカル!」
「ちょっ、ちょっと待って! 考えさせて! 熟考させて!」
 逃げ腰の澪に猶予を与えてはならない。この一年でそれをよく学んだ一同は強制的に澪をヴォーカルに据える事にした。
「澪が良いと思う人~」
「はーーい!」
 澪を除く全員分の賛成。民主主義の原則に則った文句のつけようもない採決である。前にもこんな事があった気がして澪は深くうなだれた。
 どうせこういう時は自分に決定権はないのだから、と諦める事が肝要であると、彼女もまたこの一年で学んだのだ。
「ただ、それだとやれる曲が絞られてくるぞ?」
 最後の抵抗と唇を尖らせて澪が言う。
「ヴォーカルしながら弾けない曲なんて幾つもあるんだからな!」
 威張って言う事ではないが、一理ある。
「そうだねー。どうしようか」
 夏音が笑いながら首をひねった。明らかにこの事態を楽しんでいる顔である。すると同じくにやにやしていた律がふと気難しい表情で口を開いた。
「それ言うなら、夏音はリード弾きながらよく歌えるよな」
「うん、本当そうだねー! すごいよね! ていうか私が早くリード弾けたら良いんですがね……へへ…へ」
 前半は素直に賛同しながら、後半は自嘲気味に笑う唯がずんとテーブルに重い視線を落とした。ギターが二人いる軽音部だが、実際にリードを弾いているのはヴォーカルを担当している夏音である。
 一般的にはギターヴォーカルがバッキングに徹する姿が多く見られるが、まだ唯にはリードを任せられないという理由で夏音がリードをとる形態となっている。唯が腕を上げたらツインリードというのも面白いかもしれないと夏音は考えているのだが、基本的にギターが二本あってもお互いがボス級の実力を持っていないと釣り合わないものだ。現状はなかなか抜け出せない。
「コツだよコツ」
 そう簡単に言ってのけるこの男を基準にしてはならない、という共通の見解を持っている他の部員達はそろって溜め息を落とした。
「コツで何とかなれば苦労しないってーの」
 そんな全員の気持ちを代弁した律が苦笑混じりに言い返した。
「ところでコツのコツってどういう意味?」
「知らんわ!」
 珍妙なやり取りを挟んだ後、また真剣な話し合いに戻る。確かに、色々難しい曲が多い。というより、この時点で一同の頭にはハッキリとある感想が浮かび上がっていた。「面倒くさい曲ばっかだな」と。犯人は一人だが。
「なるべくシンプルな曲にしよう。ほら、前にやったふわふわ時間。それにクマさんでしょ。カレーのちライスとか私の恋はホッチキス、とか!」
「あぁー。あれなー」
「それってほとんど澪ちゃんが作詞したやつだよね。私、あの歌詞好きだからもう一度やりたいなー」
 唯には大好評だった小っ恥ずかしい歌詞がのった曲達。夏音が歌うにあたって羞恥心とのせめぎあいに敗れて消えそうになっている数々の曲。
「うん、私もいいと思う!」
「そ、そう? それなら、いいかな」
 べた褒めされて悪い気はしない澪が頬をかきながらやる気を出しつつあった。さらに夏音が一押しする。
「そうだよ! あのクレイ…独創的な詩の世界を表現できるのは澪しかいないよ!」
 聞く者によっては完全に馬鹿にしている発言だが、自分の師匠的な人物にそう言われて澪の瞳がぴかんと輝いた。
「よ、よし。それならヴォーカルと一緒にできるな! そうと決まれば練習しないと!」
 がたんっと立ち上がり、楽器に向かう澪を尻目に一同はにやにやと視線を酌み交わした。ちょろい。
「あ、ちょうど良い機会だから今回は唯もしっかりコーラスするんだよ」
「嘘っ!?」
「ほんと」
「わ、私まだギターと歌できないよ!」
「だから特訓するんじゃないか」
「とっくん?」
「Special Trainingをね」
「す、すぺしゃるとぅれーにん?」
「Yes」
 にたりと口角をあげる夏音に唯は嫌な汗が背中を垂れる感覚にぶるりと震えた。


 唯にギターと歌を両立する地獄の特訓三日間を経た後、ライブ当日を迎えた。
現生徒会の和に協力を得て、講堂に曾我部先輩を連れてきてもらえる手筈となっている。
 もう学校に用もない先輩を学校に連れてくる口実として、和が生徒会の引き継ぎで分からない所を見てもらう事になっており、その間に講堂に機材を運ぶのだが、今回は最小限の機材を使う事になった。
 アンプも持ち運びやすい低出力のコンボタイプに。さらに外音を使わないので楽器を奥だけ、という驚異的な早さでセッティングが完了した。マイクは仕方がないので講堂備え付けの音響設備で何とかすることに。
「ていうかよー。ライブ直前にこんなこと言うのもなんだけど…………唯、喉やばくないか?」
 コーラスマイクの前で発声練習をしている唯を不安げに見ていた律がたまらず口を開く。
「え、そう?」
 屈託無い笑顔で首を傾げる唯の声はかなりハスキーだ。ハスキーというか嗄れてしまっていうる。こんな老婆のような声でコーラスなんかしたら聴くに堪えられないのではないか。
「ていうか今朝会った時から突っ込みたかったよ! おい、お前どういう練習させたんだよ?」
「フツーにやっただけなんだけどなー」
 おかしいなー、と頭をひねる夏音に非難の視線が飛ぶ。
「お前の言う普通の尺度がおかしい!」
 三日間でふわふわとした雲のようなキャンディーボイスが巣鴨のばっちゃんに早変わりだ。とんだビフォーアフター。明らかに指導者のミスの結晶がここにあり。
「でも、わりとギター弾きながら歌えるようになったよ?」
「とりあえず、今日は夏音がコーラスな」
「えぇー! せっかく特訓したのにねー」
「ねー?」
 ぶーぶーと文句を言う二人に澪が爆発した。
「今日は曾我部先輩のために演奏するんだからな! ちゃんと真面目にやれ!」
 講堂によく響く澪の怒声に二人は「……うっす」と大人しく従った。
「あ、和ちゃんがもうこっち来るって!」
「マジか! セッティングまだ途中なのに!」
「四十秒で済ませな!」
 わーわーと慌てふためいている内に、ガチャリと講堂の重い扉が開く音がした。
 来た。
 閉じられた幕の向こうに聞こえる、確かな二人分の足音がこちらに近づく。
「ね、ねえ真鍋さん。こんな所に呼んで何があるの?」
「実は軽音部に呼ばれて来たんです」
「え!? ま、まさかお礼参りとか!? いや! 堪忍してちょうだい! そういうのは成美にお任せよっ!」
「そんなバカな」
 その瞬間、端っこにいた唯が幕を開けるボタンを押して慌てて所定位置に着いた。
 幕の向こうに見えてきた曾我部先輩のぽかんとした顔を見て、夏音はまずはサプライズ成功だと笑った。
「曾我部先輩! ご卒業おめでとうございます!」
 全員で声を合わせて先輩を祝う言葉をかける。中央に立つ澪が緊張でカチコチになりながらも先輩にじっと目を合わせた。
「あの……私達、桜高軽音部がお祝いの意味をこめて演奏させていただきます! 聴いてください!」
 そして澪の底深い歌声が夕陽射し込む講堂を震わせた。


 終始うっとりと演奏に聴き入っていた、というより澪に観入っていた先輩は飛び跳ねて喜んでくれた。しっかり澪からサインを貰っているあたり、抜け目がない。とにかく、ライブは無事に成功した。
 終わってみて夏音は今回演奏した曲は自分が歌うのには合わないとして切り捨ててきたが、いざヴォーカルを代えただけでしっくりきたことで、バンドの新たな可能性をもう一度考えねばならないと考えていた。
 こういうのも悪くない。そう感じたのだ。
 ともあれ最終選考へのモチベーションが少しでも高まったかな、と悪くない感触に頬をほころばせていたところ。
「ズルイです!」
「………ウヒャー」
 夏音は人間とは思えない機械的な悲鳴を漏らした。
「お姉様!」
 一同が部室に戻ると、扉の前に夏音にとって嫌なくらい見覚えのあるクロワッサンヘアーの少女が憤然と待ち構えていた。
 一難ならぬ一めぐみが去った後にまためぐみ、である。
 夏音はその姿を発見した瞬間、階段から落ちそうになったが何とか踏みこたえた。
 部室に帰還してきた軽音部に気付いた彼女はひどく息巻いた様子で、その表情には若干の恨みがたっぷりとこもっている。
 ついでに涙目で上目遣いという小技を用いるこの少女に夏音は弱い。
「会員の報告で軽音部が講堂に楽器を運んでいたって耳に挟んだので、向かってみたら演奏しているじゃないですか! しかも二人の観客のために! こんなの二人占めですよ二人占め!」
 ビシッと指二本を立てて猛然とまくし立ててくるこの超絶巻き髪ヘアーの少女の名は堂島めぐみ。立花夏音ファンクラブの会長だ。
 夏音には、現代に生きるガチ百合っ子という認識をされているが、何故か男である夏音に傾倒しきっている。挙げ句の果てにお姉様などという屈辱的な呼称を堂々と言い放ち、夏音をナチュラルに苦しめている。お姉様とは言うが、学年は二年。事実上、夏音と同い年である。
「………っ」
 夏音は助けを求めて仲間達に視線を送る。光の速さで反らされた。
「私達にはそういうの無いのでしょうか?」
「そ、そうだね……今回は特別講演だったわけだし……しょっちゅうはチョット」
「そこを曲げられませんか?」
 曲げたくないなあ、とは言えない夏音はたじたじと言葉を詰まらせる。嫌な汗が身体中の至る所から噴き出ている。
「い、いやあんまり講堂を自由にするのも……ねえ? 今日だって軽く怒られちゃったし」
「そんな……」
 そのままがっくしと膝をついためぐみは人生に絶望した中年サラリーマンのような悲愴感を漂わせる。ここで可愛い描写が出てこないのがこの少女らしい。
「そんな…………もう、今の私じゃだめなの……」
 夏音にはよく分からない言葉をぶつぶつと呟きだした。いけない傾向だ、と急変した彼女の様子を危ぶみながら夏音は悩んだ。
「め、めぐみちゃんさ。とりあえずその……お姉様ってところを直してくれたら考えるよ」
「え? どうしてですか?」
 いったい何言っているのこの人? みたいな目で夏音をじっと見上げためぐみの瞳に曇りはない。曇り無き眼に射貫かれた夏音は「うっ」と一歩退いた。
「お姉様はお姉様でしょう?」
 ガチ百合世界に生きる少女はやはり恐ろしい。本当にお姉様、等と言う者がまわりからどんな目で見られるかに気付いていないのだ。
 最低限、人前で呼ぶなという命令に従っているだけマシであるが。
「ひ、人のことは名前で呼ばないと」
「名前で?」
「そうそう。名前で、ね?」
「な、名前で…………キャッ」
 かぁーーっと顔を真っ赤にするめぐみは頭を抱えてふるふると首を振った。見た目だけは可愛らしいが、何とも寒々しさを覚えた夏音であった。
「ついに……ここまで来たのね」
「え!? いや! 君がどこまで行ったのかわかんないけど! ただ名前で呼ぶだけだからね! 今時の幼稚園児でもやってるよ!」
「でも……恥ずかしいです」
「お姉様の方がよっぽど恥ずかしいから!」
「そう……ですか?」
「そうだよ!」
「お姉様がそう言うなら……」
「いや、直ってないよ! 肝心なところ直ってない!」
「か、夏音さま」
「初心に還っちゃったよ! せめて『さん』でお願いします!」
「か、夏音さん!!」
 目を閉じて意を決した様子のめぐみが夏音の名を呼ぶ。
 そこに至るまでどんな壁を乗り越えたのかは不明だが、相当な体力が必要だったらしい。ゼェーハァーと荒い呼吸をする彼女は「一仕事したぜ」みたいな爽やかな笑顔で額に流れた汗をそっとぬぐった。
「名前で呼んだら、演奏していただけるのですよね?」
「………あ」
 そんな事を三十秒前くらいに言った記憶があった夏音はしっかり言質を取られていた事に愕然とした。いや、しかし考えると言っただけでやるとは一言も言っていない。
「明日、同じように講堂でお願いします」
 だが、今さら断れるはずもなかった。
「……………ミンナ、イイカナ?」
 ハイライトが失せた瞳で振り向かれた軽音部一同は首を横に振れるはずもなかった。
 ちなみに、蛇足として奇しくも2デイズとなってしまったライブだったが、二日目に集まった十五名の生徒を前に終始ヴォーカルが顔を引き攣らせていた。





[26404] 第十八話(後)
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/06/27 18:05


 てんやわんやもあったが、ついに軽音部は大きな試練の日を迎えた。
 会場は都内にあるライブハウス、ペニー・マーラー。アマチュアのイベントからインディーズ、メジャーアーティストまで幅広く愛用されている有名なハコである。
 最終選考にあたって主催側から一次通過バンドに対して幾つか指示があった。
 当日、機材を持ち込むバンドは事前に申請する必要があるとのこと。この場合の機材というのは、各演者の楽器やエフェクターではなく、アンプやドラムセットをそのまま持ち込むことを示す。
 軽音部の場合、アンプ、ドラムセット、PA、スピーカー等々、まるまる自分達だけでライブを行えるくらいの機材環境が整っている。本来なら普段使っている機材を全てそっくりそのまま使えるのが理想だが、ここで搬入の問題が出てくる。
 ライブハウスまで持っていくのに車を使う必要があるが、それは夏音が車を持っているおかげでさして問題ではない。問題なのは限られた時間内で大量の機材をセッティングできる余裕があるかである。
 夏音にとっては時間をたっぷり使ってスタッフが機材をセッティングするのが当たり前だったので、そこに頭を悩ます日が来るとは思いもしなかった。
「なになに……YAMAHAのYD-9000とPEARLの……うーん……私のやつより良い機材だしなあ」
 何よりドラムのセッティングが一番面倒くさいことになる。ライブハウスの人員をどれだけ割いてくれるかも不明だが、他にも会場に合わせてチューニングをすることも考えれば、当日の流れが把握できない時点で極力時間を省くように努めなければならない。
 律はドラムセットを持っていくのかを最後まで悩んでいたが、結局ペダルとスネアだけを持参することになった。
 最終的に唯、夏音、澪も部室のアンプヘッドだけを、ムギはスタンドとアンプ本体を持ち込むことになり当日を迎えることになった。


 軽快に走るハイエースの車内は異様な雰囲気に満ちていた。ハンドルを握る夏音はちらちらと何度もミラーでそれを確認して眉を寄せていた。その内、ついに我慢しきれずに綺麗に響く声を張り上げた。
「はーいみなさん昨日は眠れましたかー」
「……………うん」
 ただ一人だけ反応した唯は夜更かしの勲章を目許にこさえていた。隣に座る律とムギは互いに頭をもたれ合って眠りの世界に旅立っている。
「せめて移動中は寝てなさい」
「………」
 返事はない。後部座席の三人が仲良く眠った現在、助手席の澪の方を見た夏音はまたしても眉を顰めてしまう。
「澪も眠れなかったんだね?」
「何回も何回もシミュレートして………曲のおさらいとかやっぱり練習しなくちゃって思ったら気付けば朝に」
「澪も寝ておきなさい」
「眠れない!」
 充血した目をかっと押し開いて夏音の横顔を見詰める澪は一人だけアドレナリン全開だった。
「わかったから。その目であまりこっち見ないで怖いの」
「どうしよう……こんな状態でちゃんとできるかな」
「そう思うなら気絶してでも寝ればよかったんだよ」
「夏音は舞台慣れしてるだろうけど!」
「そういう苦情は受け付けておりません」
 今さら本番前に寝付けなくなるほど緊張することはない夏音。彼にしてみれば、体調を万全にしておくことも仕事の内だ。
「しかたがないなー。眠れる曲でもかけるか」
 そう言って夏音は信号で車が止まっている間に手元のプレーヤーを操作する。優しいピアノのメロディーが流れてゆったりとした時間が流れ出す。
「The Goldberg Variations。バッハが貴族様を眠らせるために作った曲らしいよ。まあ気休めだけど」
「………ぐぅ」
「バッハすごい!」
 



「うわーおっきー!」
 駐車場から機材を積んだ台車を押して会場の前に着いた途端、一同はそのライブハウスの堂々とした佇まいに圧倒された。
 都心から外れた場所にあるものの、高層ビルが騒然と建ち並ぶ都会の風景に突如として現れる長方形の建造物は独特の雰囲気を放っていた。全て黒く塗られたシックな外観は全てを包み込む圧倒的な存在感がある。
 目が眩むような光の洪水も、爆ぜるような音だって閉じ込めて、その中で沸き起こる歓声、燃えるような熱気に人がどよめき発するエネルギーをまるごと許してしまう場所。
これまでライブハウスなどに縁がなかった唯などは大きく口を開けたまま唖然としている。
「へー! わりと大きいね」
 サングラスをかけた夏音が建物を見上げて一言。その当人の格好は周りの少女達と比べて明らかに浮きまくっている。帽子を目深に被り、まるで顔をさらさないように気を遣う芸能人のような出で立ちである。
「あくまで今日の俺は高校で軽音部をやってる立花夏音だからね!」
 既に同じ台詞を飽きるほど聞かされた彼女達はそっと呆れた表情になった。
 この男、数日前に突然「えーワタクシ絶対に正体を明かしたくないので、当日は変装します」という宣言をしたのである。事情を知っている彼女達もその本意はよく分かるので了解とした。
 ところがいざ変装と銘打って現れた夏音の格好は彼女達にとっては「それのどこが変装?」と突っ込みたくなるようなクオリティだった。お粗末。気付かぬは本人のみ。
 カノン・マクレーンとしての彼を知る者にとってはトレードマークのようなブロンドヘアーは黒染めによって隠れているのだし、後は目許さえ隠せば何とかなってしまう気もしたので、あえて何も指摘しないのは彼女達の優しさ。マスクもした方がいいかとしつこく訊ねてきた時は流石に止めたが。
 各々の衣装に関しては制服で行くのも何か狙っている気がするので、却下された。普通に私服で向かうことになり、コンセプトも一切ないバラバラ状態である。バンド名にふさわしいといえばふさわしい。
「久しぶりだなー」
 何度か客として訪れたことがある律が感慨深げに呟く。客として訪れるなら、正面の入り口から入ることになるのだろうが、今日は違う。選考を受ける者は裏口から入る手筈となっており、律と澪の両名は未だかつて足を踏み入れたことがない関係者用の出入り口を前にして感動しきりだった。
「入り口でかー。ここから機材の搬入搬出とかすんのかな」
 トラックで侵入可能なくらいの裏口を見る限り、そうなのだろう。入り口には警備員が一人いるだけで、そのままずかずかと入っていいものか逡巡してしまった。夏音が彼女達の後から息を切らして台車を押して追いつくとちょうど良く向こうからスタッフらしき男性が現れた
「おはようございまーす!」
 カジュアルな笑顔で警戒心を与えないような挨拶。慌てて頭を下げる高校生を微笑ましいと思ったのか、バンドをやっている人種にしては随分と平凡人畜無害に思われたのか、でれっとした笑顔を浮かべたその男性は軽音部が運ぶ機材の方に目をやって軽く目を瞠った。高校生バンドでこんな大荷物というのも珍しいに違いない。
「Crazy Combinationの方々でしょうか?」
「あ、はい!」
 代表して律が肯定すると、男性は大きく頷いた。
「私、ペニー・マーラースタッフの高木と申します。参加表明証はありますか?」
「あ、はい。ここに」
 いそいそと律がカバンの中から一枚の紙を取りだして高木に渡す。
「……ハイ、確認しました。とりあえずこちらにお願いします」
 と言う高木に案内されて中に入る。通路は運搬の邪魔にならないように片付いていた。省エネなのか分からないが、通路の照明は薄暗い。独特の匂いが漂い、一人をのぞいて別世界に侵入してしまったような感覚に軽音部一同は自然と緊張を高めていく。
 無意識に一列縦隊となって高木の後をついて行くと、巨大なリフトの上に機材を置くように言われた。この先がステージで、運搬はこのように行うのだと説明される。
「はい、ひとまず大きい機材も置いたところで。本日は3バンドの選考となります。あなた方で全員揃ったので会議室で本日の流れ等の説明をします」
 さらにステージ裏の通路を右に曲がったり左に曲がったりして階段を上り、迷路を伝うような気分で高木に追従して会議室に向かう。
 先導する高木が廊下の突き当たりにある扉の前で立ち止まり、扉を開けた。
「Crazy Combinationさん入りまーす」
 高木の大声にびくっとしながら律を先頭におずおずと部屋に入ると、まず律が軽く息を呑んだ。すぐ後ろにいる澪にしか聞こえない程度の。それに気付いて後から部屋に入った澪は律の反応を理解した。
 既に部屋の中には並べ置かれたパイプ椅子に腰掛ける他のバンドの姿があった。
 それぞれが厳しい一次審査を勝ち抜いた者たち。このイベントに参加しているのは外でバンドを組んでいる者が大半だろう。
 バンドマン独特の雰囲気をぷんぷん放っている。派手なカラーリングが入った髪の者や独特のファッションスタイルが際立つ者。緊張でガチガチになっている軽音部に比べてまさに泰然自若、腕を組み落ち着き払うその様子は歴戦の戦士の雰囲気すら感じる。
 前二人の様子がおかしいことに気付いたムギと唯は目を合わせて首を傾げていたが、室内にいる全員の視線が一斉に自分達に向けられた瞬間、びくっとした。そしてひそひそと「ねえムギちゃんあの髪型セット大変そうだね」「ピアスをあんなにたくさん……痛くないのかしら……」意外に余裕あり。
 そんな中、彼女達の背後から夏音が静かに躍り出て、
「おはようございまーす」
 良く通る透き通った声が響き渡る。
「おはよーざっす!」
「ハヨマース!」
「おねあしゃーす!」
「おはよーです!」
「うぉっしゃーす!」
 一挙に挨拶の大合唱が返ってきた。ピアスを大量に空けているモヒカン風の男も座ったままぺこりと一礼。
「挨拶は基本です」
 つい固まってしまった彼女達を振り返って夏音が得意気に語った。
「はーーーいオハヨウございまーーす!!」
 全員が席についたところで、いきなりテンション高いオッサンが現れた。ライダース風のファッションに身を包み、ご丁寧にかけていたサングラスを胸ポケットに挿して「ハーイ」と白い歯を光らせる。
「あれ、誰? すごい出オチ感がびしばしと……」
 唐突に現れて場を仕切りだした男性に訝しむような眼差しを送った夏音はこっそりと隣の律に耳打ったのだが、
「ばっ知らないのか!? いや、知らないよな……FMとか聴かないだろうからわかんないと思うけど、DJレイジだよ」
 随分と過剰な反応である。
「レイジ?」
「バッキングページっていう番組の名物DJ。超有名だよ! ていうか爆メロを主催してる番組だよ!」
「ふーん」
 夏音はあまり興味をそそられた素振りを見せずに何となく頷いた。夏音は日本のラジオ番組など聴かないのでピンとこないのである。
「審査方法はいたって簡単! ライブをする! 俺達に見せる! それでこいつらぶっ飛んでんなって思わせたらYou達の勝ちだ!」
 えらくシンプルだが、それでいいのかと胡乱気な目線を送った者は少なくない。
「だーかーら! 本番さながらの勢いでやって欲しい! 客はいないけど、本ステージでやってるくらいのつもりで頼むぞーい! じゃ、審査員席で待ってまーす! 待ってまーす!」
 語るだけ語ると、DJレイジは再び白い歯をきらりと光らせて悠々と部屋を立ち去ってしまった。歯に蛍光塗料でも塗っているのかと夏音は首を傾げているのをよそに、室内の誰もがまさかあれで説明が終わりかと言葉を失っていた。
 まさか、そんなはずはなかった。
 後ろに控えていた高木がそそくさと前に出てきちんと丁寧な説明を始めた。
「あの男の意味は?」
 ぼそっと誰かが呟いた疑問に答えられる者はいない。説明を続ける高木だけが唯一、気まずそうに身を縮めていた。


 その後の高木の説明によると、事前に決めてある順番に従って呼ばれたバンドが審査員の前で演奏することになる。制限時間は四十五分。その内でバンドの全力をぶつけて頑張れという言葉で締めくくられ、最初のバンドがステージへ向かっていった。
 何と言っても軽音部の出番は最後であった。残されたもう片方のバンドと一緒に会議室に取り残されてしまった。
「うぅ~……緊張……ってレベルじゃない震えがきてるんだけど」
 ガクブルと恐慌状態の澪ばりに震える律はすっかり青ざめた顔で腕を抱えている。
「リラックスだよー律。ていうかみんなも緊張しすぎだよー」
 一人だけのほほんとしている夏音を除き、彼女達は揃いも揃ってナーバスになっていた。無理もないが、体が強張っていては良い演奏などできたものではない。
 緊張というものは二種類ある。ほどよいプレッシャーによって集中力が高まり、良い結果をもたらすもの。思考を鈍らせ、体をがんじがらめに強張らせて最悪の結果を生み出すもの。
 彼女達の場合だと明らかに後者だ。このままだと良い結果はつかめない。
「ムギー、お茶にしよう?」
 見かねた夏音が努めて柔らかい口調でムギに言った。
「へ? あ、お茶……そうだ。私、ティーセット持ってきたんだ」
 まるで上の空だったムギが夏音の言葉で目覚める。ぽんっと手を叩くと、お茶の準備を始めた。
「それティーセットだったのか……」
 ムギが持ってきた鞄には気が付いていたが緊張で突っ込む余裕がなかった一同は驚きと呆れが半々だったが、それでも少しだけ頬をゆるめた。
 こんな所でもお茶。考えてみれば軽音部らしい。
 突然、ケーキやら紅茶やらを広げ始めた連中が物珍しいのかもう一組のバンドの視線がこちらに向けられる。
 軽音部と共に大気中の彼らはモヒカン、ピアスの男、超絶カラフルヘアーと個性豊かな顔揃いである。男のみの編成で、ほぼ女だけの軽音部とは対極の空気を醸し出している。
 先ほどからチラチラとこちらを窺い、どうにも軽音部の様子が気になって仕方がないらしい。彼らの熱い眼差しに気付いてはいたものの、こちらから話しかける勇気は彼女達にはなかった。
ただ一人を除いて。
「こんにちはー」
「ばっ唯! なに普通に話しかけてんだよ!」
 ふにゃんとした笑顔で向こうのバンドに手を振る唯の腰を律が慌ててせっつく。
「へ? 何かだめ?」
「アレだ。精神統一とか色々あんだよ……見ろよあのただならぬ雰囲気。良く切れるナイフみたいに研ぎ澄まされた感じ……相当できるぜ」
 唾を飲み込んでしばらく真剣に語る律を不思議そうに眺めていた唯は「ふーん」と言って大人しく座り直した。そんなものかと納得したらしい。
 夏音はその言葉をいまいち理解できなかったが、傍目に向こうも緊張しているだけに思えた。
「せっかくだから仲良くやればいいのに」
 夏音の言葉に唯がもっともだと頷く。
「やっぱりそうだよー。ねえムギちゃんお茶ってまだ余ってるかな?」
「ええ。多めに持ってきているから。それにここにもポットあるみたいだから大丈夫」
「よかったー。あのーすみませーん」
 唯のリトライ精神に最早止めることすらままならなかった律はあんぐりと口を開けて額を押さえた。
「は、はひっす!」
 おや? と一同の時が止まる。今、裏返った情けない声は天にそそり立つ頭髪を持つモヒカン男から出た気がした。
「にゃ、にゃんでしょう!?」
「にゃ?」 
モヒカン男は明らかに挙動不審の体で自分に呼びかけた唯を凝視している。
「いやー、四十五分って長いからお茶でもどうですかと思ってー」
「お、お茶っ! お茶ですって!?」
 いちいち感嘆符がつくような反応を示す男だった。よく見たらモヒカン男を筆頭に彼らのメンバー全員がぽっと顔を赤らめている。
「い、どうするよ……?」
「お茶ったって……俺らがお邪魔して悪くないかな?」
「で、でもせっかく誘ってくれてるんだしよー」
 小さく固まってプチ会議が始まっている。
「なんてーか……意外に純情?」
 呆気にとられた律がすっかり拍子抜けして呟く。
「人は見かけによらないよね」
 うんうんと頷く夏音。
「ていうかお前ああいう人達が怖くないのか? ほら、あんまり言いたくないけど前の学校とかで……」
「別に彼らとは違うよ。それに真面目に音楽やってきたからここまで来れたんでしょ。良い人に決まってるよ」
「そんなものかなー」
 戸惑い続ける律に返事をしないで夏音は会議中の彼らに声をかけた。
「おかわりできるくらいは用意してるから遠慮しないでいいよ」
 その一言が決め手になって彼らはためらいがちな足取りでパイプ椅子をこちらまで持ってきた。
「なんか……すんません」
 モヒカン男が軽く頭を下げてムギから紙コップを受け取る。他のメンバーにも行き渡ったところでモヒカン男が口を開いた。
「俺、マイナージェネレーションの田口って言います。一応、バンドのリーダーです」
 やけに率先して話していたが、モヒカン男もとい田口がリーダーだったらしい。続いて口々に自己紹介が始まる。
「ギターの泰二です」
「ドラムの丸山です」
「ベースの鈴木です」
 ぺこり、と一糸乱れぬお辞儀。とても礼儀正しい。
 奇天烈な風貌の男達に頭を下げられた軽音部一同も「これはご丁寧に」とお辞儀する。
 顔を上げたモヒカンが怖々と一同を見渡す。さっと掌を上に差し出し、一声。
「お、お手前は?」
 どこの任侠者だ。
 何を言われたか分からなかった一同だったが自己紹介を求められているということを察して順に紹介を返した。
 ずずっ。一斉に紅茶をすする。
「…………………………」
 盛大な沈黙が広がった。向こうの緊張が伝染して軽音部側も口を開くに開けなくなった。互いに刹那的な視線の探り合い。
「自分ら今回が初出場なんですけど、あなた方は?」
 するとドラムの丸山が若干言葉に詰まりながら重くなりかけた空気に会話を落とした。
「私達も初めてなんです」
 向こうも初出場という情報にムギが破顔して答える。にっこり笑いかけられた丸山はさっと視線を逸らして俯いた。
「そ、そうなんですか……上手くいくといいですね」
「ええ、そちらこそ!」
「いやあー」
 なんともデレデレだ。
「君たちは外でライブやってるの?」
 何とも言い難い空気に耐えかねた夏音がどうにか広がりそうな話題を選んで彼らに問いかけた。
「そですね。月に二回のペースで細々とやってます。ノルマを回収できたことはないですけどそれなりに良くしてもらってますね」
 モヒカン田口は頭を掻きながら語るが、何故か夏音の方を見て照れる。
「へー外でやってるんだ」
 外バンに興味をそそられた律が会話に参入する。案外、怖い人達じゃないことが分かって普段のフランクな口調に戻っていた。
「外バンかー。面白そうだよなー」
 羨ましげに溜め息を漏らす律に田口が驚きを露わにして声を上げた。
「え、皆さんは外でやってないんですか!?」
「え? うん。私らは高校の軽音部だよ」
「そ、それで一次通ったんですか……すげ……」
「い、いや! すごくなんかないって! 実際に大勢のお客さんの前でライブするのって滅多にないし、たぶん本番慣れとかの面でもう……」
「そんなこと! 俺たちだってゼンッゼン緊張しっぱなしですよ。今だってもうガチガチでひどいですし」
「いやいやーでもライブハウスに普段から出てる人達に比べたら」
「そんなそんな! 皆さんの方がすごいですって!」
「お世辞ですって」
「こちらこそー」
「いーえー」
「おい、いい加減にこの会話をやめておくれ!」
 我慢の限界が訪れた夏音によって会話が中断された。
「ていうか四十五分って言ったけど、案外すぐだよ。お茶を勧めておいてなんだけど、準備とかしなくて大丈夫なの?」
 夏音がそう指摘するとハッとした彼らはお茶を一気に飲み干すと、「す、すみません準備しなくちゃなんで。お茶ごちそうさまでした」と頭を下げて準備を始めた。
 片や機材を取り出し、片や体操を始める彼らを感心したような眼差しで見詰めている少女達に夏音はふっと頬をゆるめた。
「珍しい?」
「え、なにが?」
「だってみんなはライブ前に体操とかしないでしょ?」
「そりゃ、簡単なストレッチはするけどあそこまで念入りには……」
 全員の視線の先にはリーダー田口が入念にストレッチをしている姿があった。開脚や、どこの部位をほぐしているのか検討もつかないような柔軟まで行っている。他のメンバーはギターやべースを取り出して手慣らしに何かのフレーズを弾き、ドラムはヘッドホンを装着したまま、パッドにスティックをリズミカルに叩きつけている。
「すごいな」
 それを見た澪がぽつりと感想を漏らす。今まで軽音部に見せていた気弱そうな一面はさっと消え失せ、張り詰めた雰囲気を纏い始めたマイナージェネレーションの面々。夏音はおもむろに立ち上がってケースからギターを取り出した。
「あれ夏音くんどうしたの?」
「うん。審査が始まる前に弦も替えたいしね」
「わ、私もやろー」
 慌てて唯がギターを取り出すと続くようにムギと澪も自分の楽器のもとに駆けよった。
「別に無理に真似してやることないのに」
 すかさず夏音がにやにや笑って言うが、集中しているので聞こえませんと主張するように無視される。
 パタパタと音がするかと思えば、律がしれっとした顔でその辺にあった雑誌を積み上げてメトロノームに合わせてスティックを振り回していた。
 やれやれ、と含むように微笑んだ夏音だったが、次第に自分がすべき準備の方に意識を集中させていった。
 それから数十分後に軽音部による盛大なお見送りでマイナージェネレーションが審査に向かうと、会議室には軽音部しかいなかった。どうやら前に選考を受けたバンドはそのまま帰ってしまったらしい。
「なー。夏音はいつも人前で演奏する時って緊張しないのか?」
 身内以外誰もいない空間になると、スティックを持つ手を止めた律が弦を張り替えている夏音に声をかけた。
「んー。緊張ね……する時としない時があるけど。でもステージに行く時まではちょっとくらいは緊張するよ」
 淡々と答える内容に驚きの声が上がる。
「夏音くんも緊張するのねー」
「そりゃーね。みんなと変わんないよ」
「でも私、学校祭の時はあまり緊張しなかったなー。緊張より楽しみだなーって感じのが強かったもん」
「そう! まさに唯みたいな感じ! 楽しみ、っていう方が緊張を上回っちゃうんだよね。演奏が始まったら緊張とかは消えちゃうかな」
 そしてどこか遠い目をして微笑む夏音。
「あっという間に音楽の世界に連れ去られちゃうんだよ。お客さんがいて演奏する俺達がいるんだけど……ノーボーダー。全部の境界線が溶けてしまう。そこにある音楽と調和して自分の全てを捧げるんだ。それで……たぶん理性とか越えた部分で会話をするんだ」
 夏音が語るのはこの場にいる者にはおそらく理解できない領域の話。頭で理解することは不可能な体験。どれだけ目を凝らしてみても、その瞳の中に映るどこかの景色は彼女達には見えない。
 そこに辿り着くまでにどれだけの時間が必要なのか。おそらく途方もない時間。それぞれが今まで考えたこともない自分達の遠く先に待ち受ける音楽の世界について思考を伸ばしていた。
「別に理性が飛んじゃうとかじゃなくてね。すごく冷静な自分もいるんだけど、何ていうのかな………」
 うーんと唸りながら首をひねるが、大きく息を吐いて両手を上げた。
「まあ、言葉じゃ説明できないや」
 皆はからっと笑った夏音に思わず頷いてしまった。説明できないということが言いしれぬ説得力を与ええてくるのだ。
「俺はライブ前には念入りに体をほぐすようにしてるよ。最高のパフォーマンスにはガチガチになった体では行えないからね」
「なんていうか夏音くんが本当にプロなんだなーって思っちゃうね」
 瞳を輝かせた唯が感心して言う。
「ていうかプロですから」
「ま、そうだけども」
 夏音がプロであることを暴露してから時折出る冗談に笑いが起こった。


「Crazy Combinationさん。そろそろ出番なんで準備お願いします」
 という言葉に導かれてステージに向かうまでの時間は誰もが無言だった。楽器を持って、ステージに近づくにつれて耳に入る爆音。この音の発生源は言わずもがな、先にステージに上がったマイナージェネレーションである。
 軽音部がステージ脇に辿り着くと、ちょうど演奏が終わる瞬間だった。
 音の残滓から伝わる彼らの実力。この音はどんな風にその空間を震わせていたのか。伊達に予選を勝ち抜いた者達ではないということはすぐに彼女達の頭に叩き込まれた。
 身を固くして立ち竦む彼女達の横で夏音はいそいそと機材の準備を始めていた。
「ほらほら。急いでセッティングするんだからぼーっとしてる暇はないよー」
 審査員と何事かのやり取りをするマイナージェネレーションから目を離さない彼女達に夏音の声がかけられる。はっとして夏音の方を振り返った時には既に彼はスタッフと話を進めていた。
「とりあえず中は自分達のアンプからメインで出すから最初はモニター抑えめでお願いしたいです。音を合わせる時間くらいはくれるんですよね?」
「それは大丈夫です。なるべくスピーディーに対応するんで遠慮なく何でも言ってください」
 それから夏音がスタッフへアンプの説明などを終えて待機していると、機材を片付け終えたマイナージェネレーションの面々が軽音部のいる方に捌けてきた。
「あ、お疲れ様っす!」
 モヒカン田口が軽音部の姿に目をとめると、にかっと笑った会釈してきた。控え室から出て行く時より自然体な感じが出ており、この分だと演奏の出来は上々だったのかもしれない。少なくとも落ち込んだ様子はない。
「ていうかヘッド持ち込みっすか!? 超本格的じゃないですか!」
 早速、軽音部の機材に目をつけた田口が目を丸くする。
「そうかな?」
「そうっすよ。俺らなんて、ほら。この撤収の早さときたら……」
「素晴らしいことじゃないか。それより、審査はどうだった?」
「まあ、わりとやりやすい感じですよ。朗らかなオッサンばっかです……けど」
「けど?」
 こればかりは黙って会話を聞いていた他の者も聞き返す。
「一番左に座ってるオッサン。確か新手のレーベルの社長らしいけど、すっげー変な質問してきますね」
「変ってどんなさ?」
「それはですね…………まあ、それはお楽しみということで」
「なんじゃそりゃー」と揃ってこけた。どうやらこのモヒカンはここに来て、初めて彼女達がライバルだということに頭がめぐったようだ。敵に塩を送ってたまるかという心算が唐突に変わった表情の変化でバレバレである。
 マイナージェネレーションはそれから良い笑顔で「頑張ってください!」と言い残して帰っていった。
 そして前のバンドがいなくなったところで暢気にしている暇など残されていない。入れ替わるようにステージに出ると、大急ぎで各自のセッティングをスタッフと共に始める。
 がらんとしたホールの中央部には長机が並べてあり、そこには六人の審査員がいた。厳めしいオーラを放っている者もいれば、にやにやと好奇の光を湛えた瞳でこちらを見詰める者もいる。DJレイジは遠くからでも分かる白い歯をきらめかせていた。
 まずはセッティングということで、挨拶もそこそこに、そちらへ取りかかった。それぞれのパートの立ち位置はあらかじめ伝えてあるので、それぞれによって細かい指定がなされるはずだったのだが。
「あ、あれっ! セッティングって何からすればいいんだっけ!?」
「あわ、あわわわ」
「どどどうしよ夏音くん! ギターってどうやって音出すんだっけ。これは何だっけそれはどこにここはどこ……あれ、私って何だっけ」
「その疑問は哲学的すぎてわからないけど。とりあえずギターをケースから出すことから始めてみてはどうかな?」
「あ、そうだね!」
 パニック状態なのは唯だけではなかった。ムギはスタンドを立てる前にキーボードを片手で肩にかついで「あれ? あれ?」と置き場所を求めて首をひねっている。傍から見ればどう見てもガテン系の人間である。同じくして律はハイハットを自分の頭くらいの位置まで上げて「高すぎるっ!」と自分に突っ込んでいた。
 そんな彼女達の様子を半眼で眺めていた夏音はふとした違和感に自分の手元に視線を向けた。
「ねえ澪。流石にこれはジョークだよね?」
「え! 何が!?」
 上擦った声で悲鳴のように叫び返してきた澪は夏音のギターから伸びるシールドを自身のベースにインサートしていた。

「………………」

 楽器同士の直列。

 この状態からどんな奇跡を起こせるのだというのか。

「わーわーわー! ご、ごめん! 間違った!」
「こんなミラクルな間違え……まあ面白いけど。こーのおっちょこちょいさんめっ!」
 自分の失態に気付いた澪がさーっと顔を青くするので、緊張を和らげるように言っただけの一言に再び「ご、ごめん」と謝る。
 夏音は楽器同士で繋がるという滅多に起こらない珍事に、内心でステージに笑い転げたい衝動を抑えて「気にしないで」とかろうじて答えた。
 ブフォッ! という音が遠くから聞こえたと思ったら数人の審査員が腹を抱えて大爆笑していた。
 遠慮のない笑い声は容赦なく彼女達の耳に入る。ますます強張る皆に夏音は大きく息を吐くと、手を叩いて彼女達の注目を集めた。
「オーケィ。みんなイイ感じのつかみだよ。絶対気に入られたね。とりあえず落ち着いて。いつも通りにやって」
 夏音の普段と変わらない透き通る声は彼女達の心を落ち着かせるまではいかずとも、やるべきことに意識を向けるくらいには効果的だった。
 ぎこちなく頷いてそれぞれがセッティングを進めて行く。
 その様子を見て安心の微笑を浮かべた夏音はこれだけで五分は過ぎたかもしれないとかすかな焦りを覚えていた。
 夏音にとってはセッティングの時間がこれだけというあり得ない状況下なのだ。バンドでこんなに手早く満足いく音を作ることなど不可能。運営側は審査対象を所詮はアマチュアバンドとしてみなしている。プロのように時間をかけて音作りをさせる余裕を与える気はないのだ。
 音響も会場の癖も把握できていない現状で頼りになるのは夏音の長年プロとして培ってきた勘のみ。
 どのような会場で音がどう抜けていくかを思い出し、音を作っていくしかない。このライブハウスのPAを信頼することはできないので、それを見越してステージ上の音を確定しなくてはならない。
 夏音のセッティングが終わりマーシャルから放たれる大音量の音が遠くへ抜けていく感覚を捉える。偶然にも夏音の音に続くように唯、澪、ムギの手元で生まれた音がアンプから飛びだした。
 スタンドの位置などを調整していた律もドコドコシャンシャンと一通り叩き終えてから大きく頷いた。
「Ya!! とりあえず大まかなセッティングは終了、と。ドラムのチューニングをどうにかしたいけど………仕方ないか」
 律もそれに合わせているようで、このライブハウスの音に合わせていくしかないようである。
 それから数分の間にバンド内の音を調整していった。
「唯。ちょっとミッド切りすぎ。もうちょっと上げてよ」
「どれくらい?」
 唯が首を傾げるのに対し、夏音は手を出して微妙なひねりを加えて唯に示す。
「こーのくらい」
「らじゃー」
 誰が見てもあり得ない会話だが、成り立っていた。現に、次の瞬間唯が出した音に満足したらしい夏音が大きく頷いた。
「大丈夫ですかー?」
 ホールの一番後ろにあるミキサー卓の男性がマイクを使ってこちらに呼びかけてきた。
「はい。外出してください」
 夏音がヴォーカルマイクを通して返した瞬間、ノイズが大きな空間に広がっていくのがわかった。
「時間無いんで1コーラスくらい何か弾いてもらえますか? ちょっと大雑把になって申し訳ないんだけど」
 本当に申し訳なさそうな声なので、夏音も許そうと思う。彼らもアマチュアバンドの音作りに対して途轍もない瞬発力をもって聴ける音に仕立てなければならないのだ。
 心中察する、と言いたいところだがそれでも夏音は彼らにそれなりの仕事をしてもらわねばならない。
「じゃあ、そうだね……前にやった60`s mind。ギターソロから。ドラムのフィルから入ろう。それでブレイクして四人のハモりね。前にやったアレンジで」
「フィルからかぁー。ちょっと待って」
 いきなりの大役の任命に尻込みする律だった。彼女にとっては、以前にやった中で最も大好きになった曲の一つである。
「まあ、シンプルでいいよ。カウントでもかまわないし」
 MR.BIGの名曲。Green Tinted 60`s mind。ソロ終わりにサビのメロディを四声で綺麗にハモるのだが、全員のマイク音量の調節を計ってもらうのにピッタリである。キーボードを加えたアレンジながらも整然とした音並びなのでPA側もやりやすいと夏音が踏んでの選曲だった。
 ギターソロから1コーラスが終わると、夏音はサングラスの奥で瞳を曇らせていた。
 音が堅すぎるだけではない。夏音をのぞく誰一人としてしっかりと声を出せている者がいない。コーラスが目立つ分、その調子の悪さは取り繕いようもないくらい際立ってしまっていた。流石にこれはまずすぎると踏んだ夏音は努めて明るく周りに声をかける。
「みんなーもっとリラックスしてよ」
 いつものように怒るような真似はしない。そんなことをしても彼女達はさらに強張ってしまうだろう。
 一様に頷くが、あまり夏音の言葉が効を奏した様子は見られない。そもそもこの齢でこれほどの大ステージで演奏するチャンスなどないのだ。スタジオや学校祭のライブ環境とは比べものにならないだだっ広い空間でバカでかい音を出すのに躊躇が生じている。
「あ、それとドラムをもっと上げて下さい。それと高い音が少し痛いからカットしてもかまいません」
 PAに指示を送り、後ろを振り返った夏音は自分にすがるように向けられた幾つもの視線を肌に感じた。
 そこから伝わる恐怖。音を鳴らすことに恐怖を抱いている。
 審査員は既に最初から自分達を値踏みしているだろう。このやり取りも含め、どんな評価になるかは定かではない。だが、そんな評価は大した問題ではないのだ。実際の演奏を評価させればいい。
「……………じゃ、やりますか」
 それでも今の夏音には彼女達へかける言葉が見つからなかった。言葉だけでは彼女達には届かないと思ったのだ。一曲終わる頃には慣れるだろうと楽天的に考え、前を向いた。
 バンドの準備が整った頃合いを見て、審査員が名前だけの自己紹介をする。一応の流れはあるようで、こちらもメンバーの名前を順に言っていく。一曲終わる度に審査員から質問があるかもしれない、ということを説明された。

「ガールズバンドなんだねー。今回ガールズバンドが君たちだけだから、なんか華やいでいいねー!」

「……………………………………じゃ、お願いします」

 開始を促され、そこかしこで唾を飲み込む音がする。
 スティックの乾いた音。
 2カウント。
 直後に発生したひどく不細工なアンサンブルにステージの上は凍り付いた。
 色彩が失われた音符の交錯は不格好きわまりなく、それぞれのメロディーはバラバラの方角へ飛び散った。
 最初の八小節で全員の表情に絶望の色が浮かび上がる。

 このトリビュートという曲はデモ音源として軽音部が一次選考を通過したものだ。
 イントロにディレイを噛ませた夏音のリードギターとムギの全てを包み込むようなオルガンの音が壮大な世界観から展開が始まり、サイドの唯は単音カッティングでコード進行に沿ってリズムのエッジを立たせる役目に徹し、ボトムを支える澪のベースは律のオープンハイのタイミングに合わせて弦を飛んでニュアンスを出す。
 それぞれの旋律が噛み合えば美しい音楽が生まれるはずだった。現時点では本来の美しさはナリを潜めてしまっている。
 律は小節のつなぎでリズムを崩し、唯は鳴らしてはいけない音をノイズまじりに弾いてしまう。曲の骨格はかろうじて澪と夏音でもっていたものの、リズムセクションが崩れかけているのは明白だった。
 全てが揃った上で初めて際立つムギの壮麗な音色は本来の魅力の半分も出せていない。
 イントロが大事な曲であるにも関わらず、踏み出すべき最初の一歩を踏み損ねてしまったのだ。

 一歩目を踏み出すことに失敗したら最後、二歩目はさらによろける、三歩目で持ち直そうとした時には既に倒れる寸前なのだ。
 夏音は内心で舌打ちする。彼は今ここで持ち直すために必要なものを知っていた。
 それは経験。それなりに場数を踏んだバンドなら曲の途中からでも調子を上げていくこともあるが、軽音部の場合はそうもいかない。絶望的にライブの経験が少ないことは致命的なハンディとなって彼女達に襲いかかることになる。
 曲の途中で心を切り替える余裕が生まれてこないのである。
 一曲目が終わりに近づいた頃、夏音の脳裏には深海でもがく軽音部の姿が映し出された。
 地上と違って当たり前に呼吸することができない。全方位から余すところなく圧迫してくる水圧は自由に体を動かすことを許さない。そして底へ沈めば沈むほどその圧力は増していくのだ。
 ギターのフィードバックが消えゆき、ボリュームペダルを0にした瞬間、形として見えない何かも一緒にするりと消えていった。
 誰も言葉にしない。言葉にする必要はなかった。
 一曲が終わっただけで全員が汗だくである。
 マイクを持った審査員が順に何らかの感想を語っている。最早誰の耳にも留まらないその言葉は何度か彼女達を通り抜け、やがて次の曲を促される。
 その後、クマさんのイントロはさらにボロボロだった。澪はスラップで不協和音を奏で、攻撃的な重低音はちぐはぐにもつれあう。
 曲が進むにつれ、誰もが一人ぼっちになっていった。リズムの根幹を成すドラムは必死に他の音を探るが、どの音も遠くに聞こえる。
 澪は先ほどからチラチラと律の方を振り返り、しきりにムギや唯に何かを訴えるように視線を向ける。
 マイクに向かう夏音、位置が固定されているムギをのぞいたフロントの二人が既にステージの前方ではなく、後ろに体を向けてしまっている状態だった。
 それでも互いのメッセージは伝わらない。走り気味になったドラムがついにBPMを一・五倍ほどの速度にしてしまう。ツッコミ気味に進む律に何とかして気付かせようと澪が視線を送りながら後ろ気味のルートを弾くが、意味がない。
 彼女達の耳には、モニターから出てくる音は街中を歩いている時にどこか遠くのスピーカーから聞こえるラジオみたいに他人事のような面をしている。中音の確認をしっかりしなかったことがここに祟った。
 ドラムの動きに合わせ、かろうじてブレイクのタイミングや拍の頭だけは揃う。それ以外はボロボロの演奏としか言いようがなかった。
 足が地面にしっかりと立っているはずなのに、宙に浮かんだような頼りない感覚に陥る。嗅覚、聴覚、視覚がだんだんと遠のいていき、ステージを照らす強烈な照明の中に溶けていった。
 夏音はここにきて全てを後悔しかけていた。ただ前だけを見据える夏音の視界。審査員の冷たい眼が遠くで光ったような気がした。
 彼にとってはそんな視線を向けられることが何より耐えられない。体の奥底から沸き上がる感情に顔が熱くなる。
 どろり、と心を覆い尽くす黒い感情がせめて歌にこめられていなければいい、と願う。
 皆、半端な気持ちでこのイベントに参戦したつもりはない。それに向けての練習に気を緩めたつもりもない。本来の目的は軽音部のステップアップであり、大勢の客を前にして演奏することに慣れてもらうことで、優勝は二の次三の次だったはずだ。
 それがいつの間にか優勝などという分不相応な目標へと切り替わっていた。今、この瞬間も優勝などと大それた口が叩けるだろうか。
 身の程知らずで空疎な目標は本来の目的すら叶うことなく敗北感だけを生み出してしまっているではないか。
 夏音の中に、曲に対する質問をぶつけてくる審査員に対する苛立ちが募ってくる。
 誰が曲を作ったのか。バンド結成の理由。
 今は、そんなことはどうでもいいのだ。
 そんな質問はたった今、自分達が行った演奏の前には何の意味も持たない。
 後ろを振り返れば、揃って青ざめた表情で俯く少女達の姿がある。その内に渦巻く感情は手に取るように分かった。困惑、不甲斐なさ、怒り。
 その誰もが夏音に対して目線で必死に訴えてくる。
『どうにかしてくれ』と。
 夏音はそっと目を閉じる。その眼差しに込められた想いは言葉にならなくともありありと分かる。
 彼女達はプロのミュージシャンであるカノン・マクレーンを見詰めている。
 ならば夏音は応えねばならない。高いところから言葉をぶつけてくる審査員の度肝を抜いて強烈な印象を叩き込まなくてはならない。鼻を明かしてやるのだ。
「じゃ、次に一曲やってもらって最後になります」 
 審査員の言葉に誰かがはっとなる。たった三曲で終わり。セッティングの時間も含めて時間は余っているはずである。
 やはりそこから導かれる答えは、自分達は見限られたということ。これ以上聴く必要はない、そういう評価が下されたということだ。
 軽音部の間に絶望が広がる。今までの演奏を否定したくても、どうしようもなくこれで終わり。
 律、澪、唯、ムギの四人は諦めの表情を携えて最後の曲を始める準備をした。もたもたとチューニングを合わせ、居心地が悪そうに身を揺する。
ただ一人、夏音だけは違った。その瞳に何か言いしれぬ光を宿らせて毅然と前を向く。
「あ、ちょっと待ってくれないか。僕から最後に質問がある」
 演奏に向かう前に審査員の一人がマイクを通してそれを制止してきた。演奏への士気を高めていた夏音はかろうじて舌打ちを我慢して「どうぞ」と言った。
「君たちは何のために音楽をやっているんだい?」
 その質問を投げかけるのは先ほど田口が触れていた一番左に座っているという審査員だった。厄介というより、正解のない問いかけだけに質問の意図を探ってしまう。
 何のために。人によって様々な理由が返っていくのだろう。
 夏音はそんなことに時間を割かれるのがもったいないとすら感じた。
 そんなのは考えるまでもない。
「そこにあるから」
 一言、マイクに通すと夏音は律に曲を促した。
 ドラムのフィルインから最後の曲が始まる。三曲目ともなると、多少は落ち着きを取り戻していた。もうダメだという宣告を受けたと思い込んで、吹っ切れつつあったのかもしれない。
 イントロから1コーラスが終わるまで、今日の演奏の中では一番と言うべき出来だった。音を外すこともなく、ドラムがリズムを崩すこともない。それぞれの持ち味も少しずつ出てきていた。
 これで終わりというのが惜しいくらいだった。最初からこれだけ弾けていれば良かったという悔しさが彼女達の頭を巡った。
 次に訪れる夏音のソロが終わるとサビを二回しして曲が終わる。
 だから、ここで自分達の闘いは終わるのだと少女達は諦めに近い想いを抱いていた。
 ソロを取る夏音がこの曲で使う予定にないエフェクターを踏む瞬間までは。
 唐突に全身を襲った邪悪な音に彼女達の体は感電したようにびくりと反応した。驚いてその原因となる男を見る。
 鮮烈な光を纏ったように前に躍り出た夏音は極限まで歪んだ音色を持ってその場の注目を奪った。
 その圧倒的な存在感が急速に膨張していく。
 十六小節で終わるはずのソロだった。しかし出だしの音が鳴った時点で夏音のソロがそれだけで収拾がつくはずがなかった。
 凄まじい速度で動く左手は既に目で追うことすらできない。機関銃のごとく放たれる音の連射が終わったと思うと、すかさずあえぐようなピッキング・ハーモニクスが会場にエロティックに鳴り響く。
 空気をじぐざぐに切り裂いた破壊的なサウンドは手をかざせば切り裂かれそうなほどの威力をもってホール内を飛び交った。
 その音の影響は同じステージの上で演奏している他のメンバーにも表れた。
ソロの裏でバッキングをする唯のギターは同じように勢いを増したドラムにどんぴしゃりと絡み合い、ベースはボトムを支えながら次々と装飾音を放り込み始めた。遙か上空を行くギターとそれを支える他の楽器の間、ちょうど中間の場所でキーボードは大きくうねる。
 全身の動きを使った大胆不敵なグリッサンドは絶妙なツボを押さえて、バンドという一つの生き物の発する咆哮となった。
 夏音はモニターの上にその細い脚を乗っけて悪魔のようなソロをかき鳴らしながら長い髪を宙に翻す。
 飛散する白い光、音の奔流が一分の隙も許さずに空間を埋め尽くしていく。
 最早全てアドリブだった。原曲の形をかろうじて保っているのはコード進行に忠実なベースラインとサイドギターの音と何かが乗り移ったようにキレを増した律のドラム。
 この瞬間の軽音部を目の当たりにした者は、先ほどまで気の抜けた演奏をしていた人間と同じ存在だとはにわかに信じられないだろう。
 一人の男がスイッチを押した瞬間、まるで別の生き物へと変貌してしまったのだ。
 気が付けば審査員の見る目が変わっていた。純粋に驚きを露わにする者、面白そうに笑む者、興味深そうに姿勢を正して凝視する者。
 少なくとも彼らの中で出来上がりつつあった評価を揺さぶってしまう程の衝撃だったらしい。
 いつ終わるのか予想がつかない夏音のソロは収束に向かうどころかどんどん熱を帯びて肥大していった。
 ワウを踏みながらカッティングだけで一つのグルーヴを作る夏音に対し、今度はベースがスラップを入れる。今や誰のソロなのかすら分からなくなるほどそれぞれの演奏力がパワーを増していた。
 唯がチョーキングをまじえた三連符でフレーズを歌わせると、素早く反応した澪の拍が四拍三連の和音で重ねる。拍に独特のスペースが生まれ、そこに戦車のようなドラムが入り込む。
 ポリリズムで進む演奏は収拾がつくのかすら怪しい域にまで達している。
 ふと互いの視線が交差する。一瞬だけすれ違うほどの短い視線の邂逅で全員が違いの意思を把握した。
 夏音のギターが轟音のフィードバックで全てを押し潰そうと膨れあがる。空間に満ちる音圧に紛れて他の音も一緒に高まっていく。
 その高まりが極限に達したその瞬間、夏音が腕を羽ばたくように腕を広げた。
 ピタリと止む。
 彼女達は宙に浮かべた空白を演奏する。
 宙高く舞った空白は次に圧倒的な質量を持って会場に落下した。
 光と熱を撒き散らして地面に落下した音の勢いが夏音の歌声によってまとめられる。
 その歌声が指揮を執り、曲の果てへと怒濤の進軍を。粉塵を巻き起こし、誰にも止められない勢いをもって。
 その日、軽音部の戦う時間は終わった。



「何て言うか……まあ、最後のはよかった、よな」
 帰りの車内は来る時の数倍は空気が重かった。心身ともに満身創痍になった一同はぐったりとしながら自分達の住む街への帰り道の中にあった。
 先ほど来た時とは逆に飛んでいく風景をぼーっと見送り、空々しく廻るエンジンの音に身を委ねていた。誰も言葉を発することもなく、精神はへとへとのはずなのに、それでも眠ることもできずにただ沈黙を保っていた。
 そんな空気の中にぽつりともたらされた律の言葉にすぐ反応する者はいない。少し遅れてからムギが苦し紛れに「そうねー」と同意した。会話は淀みの中を漂うように流れていかない。
 殊更、いつもは明るく会話の中心になる人間が一言も言葉を発さないので空気は暗くなるばかりだった。その人間はハンドルを握り、ぼんやりとした表情でひたすら前を向いている。運転しているのだから当然のことに思えたが、この場合はそれとも少し違うように思えた。
 示し合わせたわけでもないのに、四人の少女は夏音の顔色を窺っていた。誰もが彼の様子を気にかけ、下手に口を開けないようにしていた。
 演奏を通じて伝わってきた、純粋な怒り。
 今日、彼に向けられた視線は今まで彼が浴びてきた類のものではなかった。彼を見上げ、讃えて止まない眼差しではなかった。
 無様な演奏を晒してしまったのはバンドという一つの単位。一つの記号。夏音という個人が一人だけ際立っていても、意味がないのだ。
 バンドは揃って評価される。つまり、低い評価をされたのなら不甲斐ない演奏をしてしまった自分達にある、と彼女達は考えているのだ。
 誰がどう聞いても、今日の演奏中で失敗がなかったのは夏音だけだったのだから。失敗がなかったどころか、惚れ惚れするほど卓越したギター捌きだったといえよう。周りがそれに合わせることができなかっただけで。
「ま、最後の曲はね」 
 何と一度沈み欠けた会話の尾を掴んだのは意外にも夏音だった。
「みんな緊張しすぎなんだよねー。仕方ないけど。あんな大きいステージなんて普通のアマチュアバンドが立つこともないのに、たった三回の校内ライブしか経験したことない人間が堂々としてられるはずないよね」
 その口調には怒りや苛立ちといったものは含まれていない。いつも通りハキハキと聞こえる癖にどこか気の抜けたような声。
「夏音くんは怒ってないの?」
 唯がずっと気にしていた内容を尋ねる。
「怒って? 何で怒るの?」
「だって……私、ダメダメだったし」
「確かにダメダメだったけどね」
「うぅっ」
「結果が全てなのは動かせない事実だよ。どの世界でも言えることだけど、いつでも万全のコンディションを出せるのは一流の証拠だ。それでも残念ながら調子が悪い日もある。プロだって同じことだよ。正直、今日の演奏は絶対にベストとは言えないよね。でも、今までの練習を思い出してみれば、もっともっと良い演奏ができたことだってある。俺達は自分達で最高だ! って思える演奏を確実に持ってはいるんだ。そして、その最高の演奏をあの空間で出せなかったというだけの話だよ」
 その言葉が示すようにまさしく今日の自分達を鑑みた場合、ベストの実力を出せなかったことは言うまでもない。
 自分達はもっとやれたはず。それも間違いない。後からそう思っても結果が全てというのも夏音の言う通りなのだ。
 それでも、釈然としないものがある。喉にひっかかり、ありのままの結果を飲み下せない理由が。
「でも……悔しい。こんなの」
 震える声で搾り出すように澪が言う。後部座席の三人がはっと息を飲み、顔を上げた。
「あれだけやったのに……練習だっていっぱいしたのに!」
 ボリュームは大きくなかったのに、悲痛な叫びは異常に車内に響いた。
 手がボロボロになるまで楽器を弾き、何時間もスタジオにこもって汗にまみれた。ティータイムの回数は減り、自分達の可能性を信じて今日という日に向けて練習の日々だった。
 頑張った全ての時間があの一瞬で無駄になったような気がして、一同の胸にはやりきれなさがくっついて離れない。
 澪の言葉は皆の心中を代弁したものだった。
 言葉にしても悔しさが増すだけ、と抑えていたものが澪の一言で崩れる。
「私だって……もっとやれたはずなのに!」
 律が自分の膝に拳を叩きつけて歯を食いしばった。
「自分の体じゃないみたいだった。スティックが今にもすっ飛んでいきそうになるわ、すぐに息があがるわ………何だったんだ……アレは」
「私も……今日はみんなが遠くにいた感じ。だんだん自分の音も聞こえなくなって、こわかった」
 唯も表情を曇らせて遠い目をする。あのステージで感じた独りぼっちのどうしようもない感覚を思い出して、身震いした。
「ステージには魔物がいる、とは言うけど」
 仲間が次々に悔しさを口にするのを聞いて、夏音が口を挟む。
「それは結局のところ、理由にすらならない」
 ぴしりと言い切った。
「ステージの上では……どれだけ自分を保てるのかが鍵になる。自分が自分であることを忘れなかったら見えもしない魔物なんかには負けない。自分以外の何物のせいにもしてはいけない。今日、みんなは自分に負けたんだよ」
 いつだって立花夏音の言葉は正しく彼女達の心に入っていく。
 たった一つしか年齢が離れていないにも関わらず、その言葉は同年代の他の誰かが吐くより確かな重みと熱がある。借り物の言葉はそれを受け取る者を素通りしがちである。ただの言葉に説得力が付随して初めてそれを聞く者はすんなりと飲み下すことができるのだ。
 歩んできた人生が違う、というだけの単純な理由ではない。少なくとも、平凡な日常を生きてきた少女達とは比べものにならない、深い経験と共にある言葉。
「まあ、いい経験だったと思うしかないね! お寺にでも行って精神修行でもしてみる?」
 ハハハと笑い事のようにまとめようとする夏音の言葉にも少女達の顔は晴れない。
「自分に、負けた……」
 ぽつりと助手席の澪が呟いたのを最後に、それぞれが家に送り届けられるまで車内の会話はなくなった。



 最終選考の日から一週間と数日の時が流れた。軽音部は今までの日常を取り戻しつつあった。
 万が一ということもあるかもしれないので、練習は欠かしてはいない。とはいえ、今までのようなしゃかりきな勢いはない。
 顔を上げて前だけを見据え、みなぎる自信を追い風に驀進するようなエネルギーはなかった。
 平常運転と臨時急行の狭間にいるような形で軽音部の活動は続いている。爆メロについては、まるで参加していたことが夢だったかのように話題に出ない。
 彼女達の中では全て過ぎたこと、という扱いになりつつあった。あれだけ無様な演奏を見せつけてしまったのだ。選考に通るはずがないというのが共通の見解で、誰もそれを疑うこともなかった。
「なー澪。お前バッキングページ聴いてる?」
「いや……最近はちょっと、な」
 掃除当番で遅れた夏音以外のメンバーが揃った部室。菓子を囲んでお茶、といういつもの風景に身を置いていた澪はふいに律の口から出た単語に顔を引き攣らせた。
 FM局の花形番組であるバッキングページはこの二人の中では共通の話題としてよく会話にのぼる。流行のチャートから、かなりマニアックな音楽情報まで網羅しているこの番組の大ファンである二人は毎回欠かさずに番組をチェックして翌日になるとどちらかが「昨日のページさ」と話し始めるのだ。
 しかし最近となっては暗黙の了解のように話題に出すことが憚られた。
 何故なら、爆メロを主催している番組である。どうしても苦い思い出とセットになってしまう。
 そして当然のことながら番組では爆メロの情報を流す。さらには最終審査の一環として、デモ音源をランダムに流して読者からの反応を見るのだ。
「実はさ。私らの音源、けっこー流れてんだよね」
「え、そうなのか?」
 思わず読んでいた雑誌を取り落としそうになる澪。驚愕を露わに幼なじみを見詰めると、まさに今その情報を流した当人も困惑した様子で頷く。
「うん。少なくとも三回は耳にしたかな」
「三回って………待てよ。週三でOPとEDで流すだろ……選考終わってから七回は放送したから……多すぎないか!?」
 悲鳴に近い大声を上げて澪は頭を抱えてしまった。
「ねえねえ。私達の音源がどうとかって何の話してるの?」
 隣で栗鼠のようにクッキーを詰め込んでいた唯が気になる会話を始めた二人に訊ねる。
「うーんと。爆メロ主催の番組で最終選考に残ったバンドの音源を流すんだよ。それで視聴者からの反応も審査に含めるってー話なんだケド……」
「それでそれで?」
「やっぱり視聴者の反応というのは素早いもので。一応、平等に流されるはずなんだけど視聴者次第では流す回数が変わったりとか」
 仕組みを理解していない唯に親切に説明する律だったが、語っている最中に自分でもおかしいなと思ったのか徐々に首を傾げていった。
「だからより多く流れたバンドはそれだけ視聴者の期待が………ってアレ?」
 カチリ、と何かがハマった。
「ってことは私達、期待されてる?」
 それを言葉にしたのは唯だった。瞳からキラキラと眩い光を放ち、前のめりになって律の顔を覗き込む唯に律は思わず身を引いた。
「そ、そんなばかな……いや、でも……」
「どったのりっちゃん」
「FMで自分達の曲が流れるのもおかしな感覚というか………なんつーかいつも聴いてる番組が私らの曲流しちゃってるよスゲーって感動もんで………ぶっちゃけ、自分でもうわっこれよくない!? って不覚にも思っちゃったりして」
「へぇーーっ! 私も聴いてみたーい!」 
「と思うよな? 感動のあまりテープに録画しちゃったよ」
「りっちゃんさすが!」
 すかさず鞄から一本のテープを取り出すあたり、用意周到である。
「ねえラジオって録画できるの?」
 先ほどから会話に参加していなかったムギが机に置かれたテープを物珍しそうに眺める。
「オイオイ……ラジオ聴いたことないのかー?」
「お店で流れるのくらいかしら」
「いや、あれは有線……まあテレビ番組と同じだよ。コンポとかで番組を流してそれを録画するだけ」
「へー。すごいのねー」
「いや、なんもすごいことはないんだけど……ま、まあとりあえず聴いてみよーぜー」
 部室にある古いラジカセを取り出してセットする。
 一同がじっと息を凝らして見詰める中、律が仰々しい手振りで再生ボタンを押す。
『ハイ、というワケでー今夜もこれでお別れの時間というワケでー! 父さん……僕は……今日もこの曲を流そうと思うワケで……』
 声を聞いただけで人物像が思い浮かんでくるというのも珍しい。DJレイジの白い歯のきらめきが一同の頭の中に映し出されたところで、これが番組の終了時を録画したことが分かる。
「もしかしてーって思って慌てて録画ボタン押したんだよなー。そしたらどんぴしゃりで私らの曲だったのさ」
 それから二言三言だけDJレイジが戯けたことを言った後に、聞き覚えのあるイントロが流れる。
「あっ!」
 ペニー・マーラーのステージ上ではボロボロだった曲は本来の美しい旋律となってスピーカーから響いてくる。
 しばらく一同は自分達の曲に聴き入った。
 間違いなく、自分達が演奏した曲。しかし、ラジオから流れるその曲はどこか自分の手を離れた別の物のように思える。
 曲が終わりCMが入ると、律はラジカセの停止ボタンを押した。示し合わせたわけでもないのに、ほぅ、と嘆息が揃う。
「これ、イイ」
「うん」
 重大事項を発表するような口ぶりで澪が囁き、互いに確認するように頷き合う。
「何て言うか自分で言うのもホント変な話だけど………自分達が弾いてるのかなって思っちゃうね」
 うっとりと耳を傾けていた唯が照れくさそうに笑う。
「なんか不思議な感じ………どこか他の上手いバンドの人達の曲に聞こえるのね」
 頬に手をあてたムギが嬉しさと戸惑いが混じった表情で言う。
「今さらだけど………やっぱり悔しいな。多分これを聴いた人はこの曲を作ったバンドはどんなだろうってそこそこ気になってくれるよな」
 誰にも知られていない自分達という存在が生み出した曲。自分達の手を離れたところで、顔も知らない誰かの耳に入り、形として伝わっている。
 だが、今となってはどうしようもならない。そんな言葉が後に続くように思われた澪の言葉にその場がしんと静まりかえる。
「いや! そこそこなんてもんじゃない……私なら絶対! ガッツリ気に入ってる!」
 顔を上げた律は拳を握って澪を見る。
「律……」
 ぶるぶると拳を振るわせる律を見た澪が悲しげに瞳を震わせる。
「でも……」
「でもじゃない!」
 言いかけた澪の台詞を遮るように律が声を張り上げた。
 澪の言わんとすることは言葉にしなくても分かる。今は自分達の曲を褒めようが、傷の舐め愛のような体裁にしかならない。
「いいもんはいい! だろ!?」
 引き攣った声は弱々しく、同意を求める彼女の言葉は迷子の子供みたいに宙を漂う。
「そのとーーり!!!」
 高らかに叫んで部室に入ってきた人物へ視線が飛んだ。
「そのとーーり!!!」
 リフレインと共に大またで部室を横切ってきた夏音は脇に抱えていた封筒をバンと机の上に叩きつけた。
「これ……何?」
 全員の視線が集まった封筒は一見すると何の変哲もない茶封筒なのに、言いしれぬオーラを放っていた。
 一斉に自分に突き刺さった視線に、夏音は曖昧な笑みを浮かべた。


「えぇーーーっ!!? 本選出場!!!!?」
 と叫んだ四人の少女の絶叫が部室を揺らした。耳を塞いだ夏音は微苦笑を浮かべて大きく頷いた。
「嘘……これは嘘だ…夢だ……悪夢だ!」
「いや悪夢じゃーないだろ」
 混乱してあらぬ事を口走った澪に冷静に突っ込んだ律は、それをキッカケに落ち着きを取り戻した。
「で、でもちょっとおかしいだろ? だって、自分で言うのはアレだけど…………アレだったじゃん!?」
 中高年のような体で疑問を投げつける律に対して夏音は静かに頷いた。
「俺もびっくり仰天オドロキ桃の木だったんだけどさ。受かっちゃったー」
 シンプルにまとめられた。
「いや、そんなばかなっ!?」
「まあ、この話には悲しいオチがあるんだけどね」
「上げて落とすなー!」
 話の順序が恐ろしく間違っていることに律が激怒する。
「うん……ていうかこれは俺が独自に調べなきゃ分からなかったことなんだけど。実は俺達は一度落ちたみたいなんだ」
「は?」
 衝撃的すぎる発言にその場の空気が固まった。今、この男は何を申し奉ったというのか。
「だから、落ちたんだって」
 さもありなん、と肩をすくめる夏音。当然だろ? と言わんばかりのジェスチャーに怒りをすり抜けてパニックに陥った彼女達は口をパクパクとさせた。
「ほぇーー」
 頭の回路がショートしかかった唯が呆けた表情のまま気の抜けた声を出した。
「落ちたのに、何で?」
「そ、そうだ。落ちたのに何でじゃー!?」
 興奮冷めやらぬ様子で立ち上がった律が夏音に詰め寄った。夏音はひらりと律を躱すと、彼女が座っていた椅子にぽふんと腰を下ろした。
「ツテのツテから仕入れた情報だよ。あの日、俺達は自分達が思ったほど低い評価をつけられてはいなかったらしい」
 それがいけ好かないとばかりに短く鼻を鳴らした。誰の反応もなく、ちゃんとついてきているか不安になった夏音は彼女達の様子を確認してから続けた。
「それもギリギリ落選する程度のものだった。ま、要するに落ちたんだ。なら何で俺達が勝ち上がれたのかってことだけど。ギリギリのところで引っ掛かってた俺達の上にはこれまたギリギリで合格したバンドがいたらしいんだ。まーまーまーそのバンドはギリギリ合格とは露も知らずに大喜び。だがナンテコッター。しかし不幸は起こったー。なんとバンドのギターの子がバイト先で右腕複雑骨折してしまったのだー。悲しみに暮れるボーイズ。ギターを替えることも救済案として出たがー………ここから熱い部分。残りのメンバーはそれを二つ返事で断った! 『アイツの代わりのギターなんてこの世にゃいねえんです!』ってね。泣けるね。まあ、それでもって出場バンドが一つ減りました、となった時にそういえばギリギリのところに上手い具合に引っ掛かってた奴らがいたな、と…………それがギリギリな俺達ってわけ」
 淡々と語られた事実に揃って絶句であった。
「てことはお情け合格!? 棚ぼたラッキーじゃん!」
 肩を怒らせた律が息を荒げる。
「そゆこと」
 切り返す夏音もどこか苛立たしげである。
 ストレートに実力が認められたわけではなくて、ちょうど良かったから声がかかったのだと言われたようなものである。
 しかし、他の者が示した反応は意外なものだった。
「で、でも…………それでも本選に出ることを許されたってことだろ?」
 複雑な表情の澪はどう反応していいのか迷っているようだが、それでも結果を純粋に受け取るような発言をした。
「確かに納得いかないけど……私達以外に出られないバンドだってあるんだし」
 自分達以外を含めて残っていたバンドは十四組。その内、本選の枠は五バンドなので、ほぼ三分の二は落選する計算になる。
 そのどれもが箸にも棒にもかからないようなバンドではないだろう。そんな中で選ばれたという幸運を無碍にするのもどうかと澪は考えていた。
「それに……審査員の人達だって私達の演奏全部を認めてくれたんじゃないと思う。やっぱり最後の演奏………私達の見せたわずかな片鱗に期待してくれたんだったら、それに答えてみたいって気持ちもある……」
 言い切ってから頬を染める澪に誰もが口を広げたままフリーズした。
「い、いつになく澪が前向き……」
「どうしたんだ澪!? キャラが違う気がするんだけど。これが俗に言うイメチェンってやつ?」
「違う! それだけ悔しかったんだよ!」
 あまりに好き勝手に言われて怒鳴った澪はふと真剣な眼差しで封筒を睨んだ。
「みんなはどうなんだ?」
 そう澪が問うた瞬間、沈黙が落ちる隙間もなく反応したのは唯だった。
「出たい! 私、もう一度あのステージでやりたい! リヴァイバルしたい!」
「リベンジな」
「唯ちゃんの言う通り。私もリヴァースしたい!」
「もうリしか合ってないって」
 連続でボケ通した唯とムギにいちいち突っ込んでいた律も、ぼりぼりと頭をかくとぼそりと言い添えた。
「私も……やれるなら、やってみたい……かな」
 あの時、ああであればという後悔はその後の人生につきまとってくる。大なり小なり、どんな問題でも挽回できるチャンスがあるならばそこにしがみつきたいのが人間というものである。
「………………Fine」
 全員の意志が固まりつつあるのを見て、夏音が怖いほどに張り詰めた声をその場に落とした。
「俺はね……実は今回のこと、無かったことにしようかとも思ったんだ」
 その口からなされた告白に一同の顔が驚きに固まった。
「悩んで、悩んで……放課後まで悩んでこれを持ってきた。やっぱりみんなに決めてもらわないとだめだって」
 封筒に目を落とす。少しだけ皺が寄った開封済みの茶封筒。
「みんなが出たいっていうなら、一つだけ俺の言葉を頭に入れて欲しいんだ。ううん、入れるだけじゃないや。叩き込んで釘でも打って留めておいて欲しい」
 数拍置いてふっと息を吸った夏音は一人一人の顔を見回して口を開いた。
「今度、やるからには本気で。半端な覚悟で挑まないで欲しい。緊張したからなんて言い訳であんな演奏しかできないバンドとしてあのステージに上がることは許されない。優勝とかはこの際、どうでもいいんだ。ただ中途半端だけは許さない」
 今までで一番厳しい口調にその場にいた者はぐっと腹に力を込め直した。そうしなければ夏音の体から滲み出る迫力に負けそうになる。
「俺は……あんな……あんな……な想いはしたくない」
 俯いた夏音が搾り出すように出した言葉は一部が彼女達の耳に入らずに消えていった。それから彼はぱっと顔を上げてから笑顔を見せた。
「さっき。聴いてたのは本当に素敵な曲だっただろ?」
「え? あ、ああトリビュート………あんな曲だっけって感動した」
「そうだね。あんな素敵な曲なのに……あのステージの上では可哀想なことをした」
 心の底から悲しそうに額に手をあてた夏音にその場の視線が吸い寄せられる。磨き抜かれた大理石のような白い肌に、今にも雫が伝いそうな気がした。
「か、夏音くん?」
「なーに唯?」
 慌てて夏音の顔を覗き込んだ唯はきょとんとした表情で見詰められてほっとした。
「あ、いや……泣いてるのかと思って」
 唯の言葉にぱちぱちと目を瞬かせる夏音。
「変な唯だな。とにかく本選に出場すると決めた以上、緊張なんかに負けないほどの特訓を行います!」
 びしりと言い放った夏音の発言に少女達の背筋にぞわりと冷たいものが走った。
「妥協はないです。本番になったらあのフロアを埋め尽くすほどの人が入るんだからね。プレッシャーも比べものにならないし、途中で投げ出すこともできない。ひょっとしてブーイングが来るかもしれない。客がしらけきってしまったりするかも。現実は甘くないし、プレイヤーにとっては世界で一番残酷な体験を味わうかも。それでも最高の演奏をやり抜ける覚悟は……その時の自分を裏切らない覚悟はある?」
 鋭い言葉が重くそれぞれの胸に突き刺さる。
 あのステージで彼女達が肌に感じた恐怖が蘇りそうになる。言葉にしてみれば何とも他愛無い「緊張」という言葉。実際に味わったソレは未だかつてないほど巨大な壁として立ち塞がった。
 立花夏音はもう負けを許さないと言っているのだ。
 当日になって再び同じような惨状を招いてしまったら、今ある軽音部という形すら別のものになってしまいそうな気配がするのだ。
 容易に頷くのを躊躇ってしまうだけの理由がそこにある。
 もともと任意で参加するイベント。さらに一度は落ちた。
 これから失うかもしれないものを賭けてまで決めねばならない覚悟というのはいったいどんなものだというのか。
 のるかそるかの世界とは無縁な少女達は、ここにきて自分達が重大な決断を迫られていることに動揺していた。
 前を見れば、自分達を真っ直ぐに見詰める瞳。青く燃えるサファイアの色は揺るがずにそこにある。彼は、いつだって頼もしくそこにあったのだ。
「やります」
 厳かな響きで肯定をしたのはムギだった。
 彼女はいつも軽音部の中では重大な決め事に自ら進んで関わることはない。好奇心が旺盛なので、アレをやりたいコレをやりたいという願望は真っ先に手を挙げて口にするが、何らかの事柄を決議する時は律や夏音、澪といった者が出した意見や決断に従うように動いているのだ。
 そのように積極的に場を引っ張っていくよりは大人しく後に従ってきた彼女が、この場で何より大事な意思を表した。
 太い眉をくっと凛々しく引き締めて夏音を見据える。
「私、たぶんこの機会を諦めちゃったら次はないと思うの。高校生になってからやっぱり私は普通の人よりやったことがないことばかりで、世の中には私の知らないことがたくさんあって。もっと早くやっておけばよかった。なんてもったいなかったんだろうって気付かされる。だからこれを逃したら二度と経験できないなら、未来で後悔したくない」
 色々と言い表せない感情が言葉の端から伝わる。お嬢様として何不自由ない生活の代わりにどこか一般庶民の感覚と隔たりがあった彼女が、何をするでも初めての体験に頬をほころばせていた姿が思い浮かぶ。
「たしかに……こんな機会、普通に生きてたらないもんな」
「バンドだってやらない人の方が圧倒的に多いし」
 律と澪が共感するように頷くと、長年の付き合いのたまものなのか、声を揃えた「私も!」と答えた。
「唯は?」
 残る一人に静かに問いかけた夏音と目を合わせて唯はぱちっと一つ瞬きをする。
「私もやりまっす!」
 その一言に緊張していた空気がほっと柔らかくなった。全員の覚悟を受け取った夏音は、じっと身動がずに彼女達を見詰めていたが、やがてゆるやかに目を細めた。
「じゃ、やろっか」
 その秀麗な顔にできた笑い皺を見た一同はきっと自分達なら上手くいくと思った。



 出場を決意した軽音部はその日を境に再び爆メロに向けて猛練習を再開した。
 火室へあるだけの石炭をくべて前へ前へとひた走る蒸気機関車のように彼女達はひらすら練習へ熱を入れていった。泣き言を言わずに練習についてくる彼女達に、夏音もますます厳しい声を加えていく。
 それぞれがより高いレベルへと意識を向け、夏音の叱咤にも全力で応えようとする中、本番の日が間近に迫ってきていた。
 学校ではいつの間にか卒業式が終わり、学校もあと二週間で春休みへと突入するが、そんなことさえ軽音部には瑣末事でしかなかった。
 その目に映るのは自分達が上るステージのみ。
 しかし熱くなりすぎた動力炉は一度も冷めることなく、彼女達を乗せた記者は暴走寸前だった。


「何回同じことやるの。違うって言ってるじゃん」
「だから何が違うんだよ!?」
「そこはもっと拍を伸ばすように叩いてくれないと台無しなんだよ!」
「そんなんずっと前から一生懸命やっとるわ! これが私の精一杯だ!」
「へぇ……それで精一杯か」
「そうだよ。限界。努力云々とかじゃなくて私の技術の限界! 情けないし、申し訳ないけどね! お前の話す次元のニュアンスなんてまだ無理だよ……」
「俺は律の限界なんて知らないよ。曲の話をしてるんだよ。曲が可哀想だと思わないのってこと」
 辛辣な口調で続く叱責に律がついに言葉を失った。
 学校が午前授業ばかりになってから、午後はひたすら練習だった。決まったセットリストを全て通してから一曲ずつじっくり確認していく。
 本選に出ることを決めてから、厳しさを増した夏音の言葉はナイフのような鋭さで全員に平等に傷を作った。
 平等、というのは少し違うかもしれなかった。わずかだが、他より厳しく怒鳴られるのが律のドラムだった。他より一割増でダメ出しされる律は傍目にどんどん青ざめていった。
 猛練習を開始した当初の彼女なら青くなるより顔を真っ赤にさせて夏音に対抗していたはずだった。怒りや悔しさをバネに何とかしてやろうという気概でこの口の減らない男の及第点を得てやる、という意志があった。
 だが、ここ二日間の練習で彼女の気丈さは失われつつあった。つい焦燥にかられて単純なミスを連発している彼女はどつぼにはまっていく。
 下らない間違いを犯す自分にも腹が立つ、といった様子の彼女はついには8ビートの刻みすら不安定になった。まるで見えない何かに怯えるように、彼女は自由を失っていった。
 誰よりも間近に迫った大舞台を前に意気込み、そして誰よりも精神的に自分を追い詰めていたのは律であった。
「か、夏音くん! 休憩! 休憩しましょう?」
 実は人一倍物事を悔やみ、責任を感じてしまう彼女が気丈さを削いでいく姿は他の者たちの心配の種であった。
 二人のやり取りを見ていられなかったムギが慌てて口を挟むが、すっと自分へと向けられた青い瞳に射竦められてしまった。いつもは夏の青空のような爽やかな色の瞳は触れたらやけどしそうなくらいに冷たい氷のようだった。
「休憩はしない」
 ムギから視線を外した夏音は短く言った。
「休憩で何とかなるとは思えない」
 しゅん、とうなだれるムギに気付かずに夏音は律の瞳を優しくのぞき込んだ。状況が違えば、見惚れるような柔和な瞳だった。
「ねえ律。だいぶ前に律は俺が今求めてるようなドラムを叩いたことがあるんだ。別に息が続かないくらい速く叩けって言ってるんじゃないよ。表現をして欲しいんだ。曲を理解して、呼吸するくらい当たり前にやって欲しいだけなんだ。感覚で身につけてくれないと本番で出来ないよ?」
 貼り付けたような笑顔で淡々と話す様は事務的で突き放したような印象を与える。それに対して律は夏音の瞳をじっと見詰めていた。
 彼女の瞳には闘志の炎も無ければ、悔恨の悲しみも宿っていない。
 ただ、そこには哀れみがあった。
 その瞳は目の前に映る美貌の青年を哀れんでいた。夏音は自分に向けられるその感情に驚愕してたじろいだ。思わず逃げるように足を退いて、呆然と律の瞳から逃れられなかった。
「曲を理解しろ……って?」
 居然としていた律がおもむろに口を開いた。彼女が発した短い声は慎み深く、厳かに響く。
「曲を理解するってさ」
「そうだよ。理解しなければそれを表すことはできないだろう?」
 律から滲み出る迫力に気圧された夏音だったが、腹に力を入れて答えた。自分の主張に間違いはない、だからそれを彼女に伝える。
「私らがやってんのってクラシックかなんか?」
 律は恨みを孕んだ眼差しで夏音を睨み付けた。
「クラシックとは違う。確かにクラシックの理念は他の音楽にも通じるよ。ていうか律、クラシックの難しさを分かってないでしょ」
「そんなん知らないよ。私がやりたいのはバンドだもん」
「そうだよ。バンドだ。けど、バンドだって同じだよ。ガムシャラに弾けばいいってもんじゃない。戦争や社会に怒りを表現するアナーキストが集まるバンドがニマニマ笑いながら今日のセサミストリートが楽しみだなんて思って演奏するか? 自分達の音楽に向き合ってないと何も伝えられないよ」
「いちいち変な例え持ってこなくてもわかるよ! 伝わるよ! でも私がやりたいのはロックだってこと! もっと単純明快で! 小難しいことなんか考えなくても爆発できる音楽!」
 本音でぶつかってくる律に夏音は冷静に切り返す。
「頭で考えろって意味じゃない。表現者は頭で難しいこと考えないよ。感性の問題だ」
「なら私の感性が合わないってことだろ!」
「そんな風に言ってない! 律は素晴らしい感性を持っているだろ!? それをここで発揮してもらいたいんだよ! いいか? たしかに小難しいことなんて考える必要はない! ただお互いを感じてればこんな風にテンポを崩すドラムになんかならないんだ! ノッてる時の律はすごく良いドラム叩くのにもったいないよ」
「そんな気休め言われても嬉しくない。どうせ私は下手だからな。自分でもわかってるよ。お前は死ぬほど上手いドラマーとやってきたんだろうし、私となんかじゃ比べようもないだろ? それなのに口だけで褒めたりするなよ」
「口だけじゃない! 心の底から良いと思う時があるよ! だから俺はいつだってその律が見たいんだよ!」
「お前のためにか?」
「なんだって?」
「お前の音楽のために? 誰の表現? 私達は何を表現しようとしてるんだ? いつから自分が表現者なんて高尚な者になったのか私は知らないよ。要するにお前は私が下手だから! こないだみたいに惨めな思いをしたくないんだろ! 自分に恥さえかかさなければいいんだろ!?」
「そんなことは言ってない!!」
 激しくなっていく意見の激突に口を挟める者はいなかった。ただ事態を目撃しているだけしかできなかった他の者は次に律が発した言葉で何かが壊れていくような音を耳にした。

「分かるんだよ! 演奏中にお前が思ってること! すっごく苛々してることも。自分が思ったようにやってくれない素人にうんざりしてる瞬間も! 自分が悪いんだって納得するのにも限界があるんだよ!」

 律が投げ飛ばしたスティックが誰もいない床に落ちた。木と木がぶつかり合う甲高い音がしてから、夏音が息を呑む音が空虚に響いた。
 夕陽が射し込む部室は普段なら温かい色に満ちているはずなのに、そこから色を取っぱらってしまったように虚ろだった。
 震えていたムギがついに嗚咽を漏らし始めた時、誰もが言葉をどこかに忘れていたように黙っていた。唯はおろおろと周りの顔を窺って何と声をかけようかと迷い、澪は歯を食いしばって表しようもない感情を持てあましていた。
 一方、スティックを放り投げた律は自分が放ってしまった発言にはっとなった。蒼白になった顔を機械のように動かし、前を見上げた。見てすぐに後悔した。
 夏音は限界まで目を丸くして固まっていた。まるで信じられないものを見詰めるように愕然としていて、他の感情はひっこんでしまったように、驚きしか表れていない。
 言葉が部室から失われてから随分時が経ったように思われた。実際にはわずか数秒の事でも、彼女達には一生のように感じられた。
 驚きの表情で固まっていた夏音の時間もまた流れ出した。
 まん丸になっていた目が徐々に細くなり、長い睫毛が影を落とす。それから微笑を浮かべたように顔を歪めて、平静な口調で言った。
「そう、か…………そう……そうだよね」
「あ、」
 律が声を出そうとしたところで、喉がつっかかった。声が震え出さないように腹に力を込めて彼女は再び口を開いた。
「………ご、ごめん………つい熱くなりすぎちゃったな。いや、私のせいなのは確かなんだ……前に恥かかせちゃったのもホントのことだし……て、ていうかこんなこと言うつもりじゃ……」
 彼女はいつも自分がしている軽妙な態度を取り戻そうとしたが、失敗した。にかっと歯を見せて笑おうにも、ぎこちなく頬が引き攣るだけで笑顔には程遠い。
「て、ていうかできてねー癖に何言ってんだって話だよな。なんか八つ当たりみたいで私ダサくね? はは……ナーバスになってんのかな。ほ、ほら私ってば力だけはあり余ってるから細かいニュアンスとか苦手だからさー。夏音の言う通り何とかしなくちゃって感じっつーか」 
 律はこの場に穿ってしまった穴を何とかしようとしている。そう感じ取った他の三人が硬直を解いて一斉にフォローを入れるために動いた。
「そうだぞ律ー。お前は無駄に力が強いから音が大きくなるんだ」
「そ、そうかー? いやーハハハ。ちょっと昼に食い過ぎたせいかも!」
「り、りっちゃん今日のお弁当三段だったんでしょー? 逆に私は力入らなくなるからそれくらいにしようかなー」
「お前はこれ以上、憂ちゃんの負担を増やすのかよ!」
 ふと流れ出したいつもの軽音部の空気……にはならなかった。どう考えても律の発言は取り繕う事のできるものではなかった。彼女が開けた穴は些か大きすぎたのだ。
「ごめん」
 耳朶を心地よく震わす鈴のような声が会話を打ち切る。皆、動きを止めて夏音を見た。
「今日はこれで終わりにしよう」
「夏音くん! 私まだできるよ? 私が一番下手なんだから練習しないとー」
 唯が明るい調子で夏音に近づく。と、その調子にシールドを足にひっかけて前のめりになった。夏音に近寄る流れで引っかかったものだから、唯は夏音に突っ込む形となる。つい振り上げた腕が宙をもがくように彷徨い、倒れゆく本体を何とかしようと動く。
 動いた先に夏音の頭があった。
「へぶっ!?」
 思い切り夏音の頭にチョップをかました唯はすんなりと足をついてバランスを取った。自分の手刀が目の前の男の子にめり込んだ姿勢のまま、唯は思った。私ってやつは本当にもう……。
「か、夏音……?」
 あまりの光景に顔を引き攣らせた澪がそっと夏音に声をかけた。すると、彼はすすっと軽やかに横に移動すると今まで頭があった場所に唯のチョップが取り残された。
 そのまま頭をさすりながら夏音はギターをしまい始める。誰も声をかける事のないまま、さっさとケースにギターを収納した夏音はベンチに置いてあった学生鞄をひょいと肩にかけると「それじゃ、また」と部室を出て行った。
 膝をがっくりと床についた唯が自らの手を見詰めて「このバカモンがぁ……」と呟きながらうるうると涙を溜める中、重苦しい沈黙がいつまでも部室に佇んでいた。



※盛大に投稿が遅くなって申し訳ございません。私生活を言い訳にしたくないですが、全くパソコンに触れませんでした。作品自体も、何というか先は見えているはずなのに書き直しまくったり……とりあえず、ここら辺ですごく重い展開になってしまいました。
 レコーディングの時にもこんな風な諍いがありましたが、あれは序の口でした。
 律が爆発してしまうシーンに至るまでの描写が少し甘くなったかもしれません。

 次のお話もすごく長いので、お付き合いしていただければ幸いです。



[26404] 第十九話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/06/30 20:36
※今回もそこそこ長いです。オリ主以外のキャラを掘り下げてみました。



 陽はまだ高くない。既に冬と呼べるほどの寒さは残っていないが、まだ春の訪れを感じることはできない。
 七海はいつだって春がやってくる世界のざわめきを逃すことはない。人によって個人差もあろうが、季節が移ろう瞬間ほど手に取るようにわかるものはないと七海は思っている。
 世界が明確に違うのだ。
 昼間に日光をたっぷりと浴びた感想した土の香が鼻をくすぐると、叩きつけるように強く吹く風が髪を舞い上がらせる。路傍に草木が茂りだし、花の彩りが目に入る。耳は、冬を越えたばかりの少しだけ湿気を纏った空気を震わす大通りの車の音を捉える。
 そして五感の全てがあらゆる生命が芽生える気配を捉えて「また一年が始まるんだ」と胸が高鳴る。
 七海はその瞬間に訪れる妙にくすぐったい感覚が好きだった。こうして自分はまた一つ季節を超えて新たな季節を進んでいくのが嬉しかったりする。
 冬には冬の良さがあるが、あの寒さを超えて嬉しくないはずがない。それでいて今になって冬が寒かったと思う感じも嫌いじゃない。
 ああ春だった夏だった秋だった。そして冬だったなと思うのはいつだって冬が過ぎてから。当然のことだけど、おかしな矛盾。喉元過ぎれば何とやらというやつかもしれないが、真冬に真冬だと感じていた記憶はない。冬に外で遊んでいる時は冬だって事を本当は忘れているに違いない。冬だけど、その時に冬以外の寒さを思い出すことはないから。
 難しい事を考えているようで、そうでもない。七海は、こういう風にぼーっとしながらとりとめない思考を楽しみながらのんびり歩くのが癖になってしまった。
 何はともあれ、そんな他愛もない思考回路へフェードインしてしまったのはこの春でもなく冬でもない狭間の季節の夕空のせいだった。
 生徒会の仕事を終えて学校を出たのが五時を過ぎたあたり。仕事、といっても仲間内で駄弁っていただけだが。
 真新しいコンバースの靴を履いて校舎を出ると、まだ西の空が薄明るい光を引き摺っていることに意識がいった。少し前まで、五時になると真っ暗だったはずなのだ。
 そういえば、いつの間にか冬の間ずっと手放すことのなかったPコートを着てこなかった。季節の移ろいに気付いていないようで、しっかりと対応している自分が何だか周到なような気もしたし、無意識に流されているだけのような気もした。
 そんな風に考えているうちに、あんな哲学的な内容に頭を委ねるハメになる。どこかの純文学の主人公みたいに気取った感じは恥ずかしい。
 モブキャラの自分には似合わないだろうから。
 MP3から伸びるイヤホンは外の音をほとんど遮断している。七海は普段からあまり音楽を聴きながら歩いたりしないが、今日はそんな気分だった。
 耳に流れてくるのはクラムボンの「残暑」。この曲を選んだのは全くの偶然だったが、詩の始まりの部分が先ほど七海が考えていた事に何となく一致していた気がした。
 原田郁子の特徴的な声と一緒にずくずくと大通りを歩いていく。このヴォーカルをどう言い表すべきか七海はふさわしい言葉を持ち合わせていない。
 ケモノと魔法という彼女のソロアルバムを聴いてから好きになった女性ヴォーカリストだ。激しいわけではないが、やはりどこかエモーショナルなヴォーカルはそっと優しく、眠れぬ夜に捉えられてしまった自分を殺してくれるような魅力にあふれていた。
 同じクラスで軽音部に所属する秋山澪がクラムボン好きだと小耳に挟んで、彼女とちらほら会話を交わすきっかけになったのもこのバンドだ。彼女はこのバンドのベーシストをリスペクトしているそうで、自分とは違った入り口や聴き方に思わず唸ったものだ。


 七海の自宅は学校から徒歩で三十分ほどの住宅街にある。このご時世に二階建ての一軒家を購入できるくらいの両親を持ったことを幸運と思うものの、その家というのはびっくりするくらい何の変哲もない近代住宅の様相を呈している。一言で表すと、普通の家。
 別に彼はそのことに不満を抱いたことはないし、むしろ自分の家以外を安住の地と思うには躊躇いがある。
 それでも、学校から自宅に帰るのに必ず通らねばならない高級住宅街の一軒一軒を眺めていると悲しくなる。
 複雑な悲しさだ。どう足掻いても、こんな家に新たに住み移ることのできない両親の限界とか、そんな豪邸に住む者達との間に存在する壁とかを考えた時に訪れる些細な感覚。 
 壁というほど露骨ではないにしろ、今にも手で触れられそうな薄い膜が自分と彼らを隔てているような気がするのだ。
 それでもこの町並み自体は嫌いじゃなかった。高級住宅街と銘打っているが、古い家屋も転々と散在している。その微妙なバランスを保っている姿がどうしようもなく個性的に見えて気に入ってすらいる。
 そういえば、と知り合いが数人、ここに住んでいることを思い出す。
(ブルジョワって何かねー)
 そんなことを考えながら、大通りを大きく外れてしばらく歩くと、やや丘陵状になっている道にそれる。そこからは別世界。七海は三階建てとか巨大な門をぼーっと通り過ぎて、とある角を曲がる。この角を曲がると七海がほっとする風景が待っているのだ。
 ただの公園だが、梅や桜の木がいくつも植えてあり、この時期だと早咲きの梅が咲き誇っている。近所の子供達の遊び場であり、休日の昼間は子供を遊びに連れてきた奥様達の井戸端会議が開かれている光景がよく見られる。
 春には町内会の花見も行われ、ブルジョワジーの人々も近所のイベントなんてものを楽しむのだなぁと些細な共通点を見つけてはほっとしてしまう。
 この土地は少し高い位置に存在していて、この町を一望とまではいかないが軽く見下ろせる。夜には遠くの市街地の夜景が見えるし、ちょうどこの時間だと夕陽が綺麗で何ともノスタルジックな気持ちに浸れるので七海のお気に入りだ。
 中学生の時、ポケットに手をつっこみ暮れなずむ町並みを見下ろして黄昏れるというひとり青春ごっこをやったことがある。当時好きな女の子に目撃されて死にたくなった。
 でも、今日は違った。そこにはいつもと違う光景が広がっていた。
 この場所に訪れると、急に景色が開ける。高度的には周りの家と変わらないはずなのに、どこかこの土地だけぼっこりせり上がっている印象を受ける。七海は息を漏らして咲き誇る梅の花に目を奪われるはずだった……だったのに、別の物に視界を占拠されてしまった。
 誰もいない公園の一点にぽつんと存在している芸術が。頭上に咲き誇る梅にも負けずに、誰もが目を奪われる鮮やかな一輪の花のようにその人は存在していた。
 夕陽が溢れる中、公園のベンチに孤独に腰掛ける高校生の姿はドラマや漫画の世界だけの話だと思っていたが、絵になる人間だけは別なのかと微妙な気持ちにさせられた。
「……………さて、どうしようかな」
 七海は二つの選択肢の間で足踏みをする。今すぐUターンを決めて元来た道を戻るべきか、はたまた彼に近づいて話しかけるべきか。
 ふと顔を上げればそこには絵画のような美しい光景があるが、七海としてはこんなの自分に対処できるものではないと思うのだ。第六感的なものによって。
 それ以前に、立花夏音がどうしてここにいるのだ。
 美貌の同級生が自分の通学路の中に立ち塞がることなど今までなかった。本人は腰掛けているが、七海の足を止めていることには違いはなかった。
 七海は彼を嫌いなわけではない。ただ、会う度に何かとスキンシップが激しくて自分のペースがかき乱される。悪意はないだろうが、どうせ自分のことをからかっているのだろうと若干の苦手意識があるのだ。
(いや、別に嫌いじゃないんだけど。嫌いじゃ)
 最近では教室で彼と二人で声を交わすだけでにやにやとした視線が飛ばされることがある。そういった周囲のからかいもあるし、それ以前に柔らかすぎるのだ。
 彼に抱きつかれると、まずその細さにぎょっとするし続いてどこもかしこもふにっと柔らかい感触にどぎまぎしてしまう。あの柔らかさは七海の苦手分野だ。
 とどめにふわりと感じる甘い匂い。こうあれこれ沸いてくる感情に煩悶としてしまうのだ。
 あれは女子特有の匂いじゃなかったのかと世界一強く反発したい。女の子の異性を射止めるためのフェロモン的な何かじゃないのか。
 実は男装しておりましたー、といつか言われるのではないかと七海は警戒を緩めない。むしろ、そう言われた方が納得できるから恐ろしい。
 普段は底抜けに明るい彼が今や憂い顔で公園のベンチに佇んでいる。これを見て、やはり何かあったのだろうなと理解するのに苦労はしなかった。
 そして、彼が何かあるとすれば大抵は軽音部くらいしか想像できない。
 彼を素通りする事もできたが、無意識のうちに七海の足は彼に向けて歩き出していた。じゃりじゃり、と公園の砂利を踏みしめて近づく。夕陽を背にした七海の長い影が彼の前に肉薄する。七海が近づいても、彼が顔を上げることはない。自分に近づく誰かに気が付いているのか、あるいは気付いていても相手をする気はないということか。
 どこを見るともなく、心ここにあらずといった様子の彼を近くで眺めて七海ははっと息を呑んだ。この距離で見ると、改めてその細部が否応なく目に入る。
(本当に綺麗だな……)
 フラジャイル。七海は現実に壊れそうな美しさを初めて目の当たりにした。その瞬間の美しさは今にもここに留まっていられないような危うさを秘めていて、手を伸ばせば逃れる蜃気楼を思わせる。
 あまりに世界との境界線が曖昧で、ふと油断した時に今にもこの夕陽の中に溶けていってしまいそうな繊細さ。
「夏音……くん」
 意を決したワケではない。あまりにも儚い彼を見ていて、放っておけるはずがなかった。彼はゆったりとした動作で顔をあげた。惚けたような表情で七海の姿を捉えた彼の瞳にふといつもの光が宿った。
「七海?」
 長い睫毛をぱちぱちと瞬かせ、きょとんとした表情になる。
「どうしてここにいるの?」
 七海は彼のいつもと変わらない声の調子にほっとした。立花夏音という存在にきちんとした輪郭が取り戻ったような気がした。
「ここ、僕の通学路なんだ」
「へー! そうなんだ」
「君こそ、どうしたの。部活は終わったのかい?」
「部活は……今日はもうおしまい」
 部活という言葉に触れた瞬間、眉を落として顔を逸らした夏音の反応を見て七海は確信した。
「部活で何かあったの?」
 取り繕う事もない。七海はストレートに訊いてみた。
「………べつに」
 絶対にべつに、じゃない。ぷいっ、とそっぽを向くという分かり易すぎる反応に七海は苦笑した。火を見るより明らか、というかこの男は壊滅的に隠し事に向いていない。
「ふーん。あんまり喧嘩する噂とか聞かないけどなー。軽音部はすごく仲良しだって評判だよ」
「そりゃあもう仲良しだよ。喧嘩なんて滅多にしないし……お菓子が絡んだ時とか、すごいけど」
 それ完全に女子じゃん、と七海は呻いた。
「そういえば、君はこのあたりに住んでるの?」
「うん、そこの道のぼってすぐのとこ」
 つまり、この高級住宅街の住人だということだ。今さら目の前の男のスペックが上がったところで、驚きはしない七海であった。ただ、何とも言えない悔しさがこみ上げそうになるだけだ。
「ん、どうしたの七海?」
「い、いや何でもないよ! 別に持てる者との彼我の距離を嘆いていただけで……」
「??? よくわからないけど」
「そんな事より! 喧嘩じゃないなら、何かトラブルかな? 何か困っているなら話してみるのもいいんじゃないかな。一応、お隣のよしみで」
「…………ふーん。どうしよっかなー」
「あれ何か急に態度が偉そうになった気がするよ」
 不敵な笑みを浮かべて七海を見下ろす夏音。見上げながら見下ろすという器用な真似をする。
「教えて欲しい? そんなに教えて欲しいなら今すぐ何か面白いことやって」
「いきなり何様になったんだよ!? しかもその無茶ぶり!」
 七海にとって無茶ぶりは生徒会でこりごりである。
「ふふ、冗談だよ」
 微笑を浮かべた夏音がべしべしと自分の横を叩いた。座れ、ということなのだろう。七海はそっけない態度を演出しながら彼の横に腰掛けた。少し距離を離して。
「…………」
「…………」
 ずずっ。
 隣の男はいきなり七海と彼にできた距離を詰めてきた。
「なっ!?」
 わざわざ距離を空けたのに、何故近くなる。ふと漂ってきた甘い匂いに悲鳴をあげそうになった。
「はははっ! 何でそんな遠くに座るの!」
「あ、あたり前だろっ!」
「何であたり前なの?」
「男としてのマナーだ!」
「ほう……それは守らないとね」
 急に神妙な顔をした彼がざざっと元の位置に戻る。からかわれているのだと思うし、割と自覚的にやっている節が彼には見られる。
 それと同時にどこまで本気なのか分からないところが厄介だ。七海は背中に変な汗がつたうのを感じながら、ふぅと息を漏らした。
「で、やっぱり軽音部かい?」
 埒があかないので、率直に話を戻す。しばらく曖昧な笑みを浮かべていた夏音は足下の砂をざりざりといじりながら口を開いた。
「なんかね……嫌われちゃったかも」
「……君が?」
「うん」
「ど、どうして」
「たぶん俺がめちゃくちゃ言ったから。みんなを責め立てることばっかり言っちゃったから………それだけじゃない。自分では気付かないうちにみんなにひどい態度を取ってたのかもしれない」
 その言葉だけを聞いたら彼が悪いようにも聞こえるが、七海は慎重に頭を働かせた。相談を受ける相手は早とちりをしてはいけない。まずは冷静に情報を集めることが大切なのだ。
「どういった事が起こって君がそうしたのか聞かせてくれる? 僕には理由もなしに君がそんなことをする人間には思えないよ」
「…………俺が伝えたい事はたぶん伝わらないよ。だから、七海に話してもきっとわからないもの」
「でも話すだけ話してみるのはどうかな」
 彼がほのかに拒絶を漂わせたことはすぐに理解できた。それでも七海は穏やかな態度を崩さずないまま、しっかりと食らいついた。
 自分がこれから彼のために紡ぐだろう言葉が根本的な救いになるとは思えない。
 七海は人並みに相談事を持ちかけられることが多いし、大抵の悩みには適当な答えを用意することができる。その自信がある。
 だから、この時の七海は自分には彼の背負っているものを少しだけでも降ろしてやる役目があるのだと信じて疑わなかった。
「んー……七海はさ」
 七海に向かい合うように座り直した夏音は真剣な表情で瞳をのぞきこんできた。絹糸のような髪がさらりと風にはためき、時折その瞳を隠すがそれでも揺るぎない 眼圧は七海を緊張の谷へ突き落とす。
「そこだと自分ではいられない場所に、ずっといたいと思う?」
 正直な反応として、七海はこの質問に面食らってしまった。
 字面を追うと、思春期の少年少女らしい茫漠な悩みのようである。膨張しすぎた自己意識が苛ませる現状否定。しかし、七海はどれもが違うと確信した。
 彼はそんな益体のない自己形成の通過儀礼に悩むような人には思えない。彼がそう悩んでいるのならば、真に彼を追い立てている問題なのだろう。
 七海は慎重に言葉を紡いだ。
「そこにいると、自分じゃなくなるの?」
「どうだろう。そうとも限らないんだろうけど、そうとも言えるかな。でも必要を満たさないといけないのに、それが得られないなら……どうする?」
「……なるほどね」
 全然、まったくもって、これっぽっちも「なるほど」じゃなかったが、七海はとりあえず彼の言葉を受け取り、理解して、吟味するようなフリをした。こういう場合は自らの思考を探り、自身の哲学から搾り出されるような答えを出すべきなのだろう。
 だが、七海はそれをできない。そんな問題を意識したことなんてないからだ。
 それらしい悩みを主題にした物語はいくつもある。その登場人物達が得た答えをこの場所で出すことは簡単だ。けれども、それは七海の答えにならない。
 例え気の利いた言葉を与えることができなくとも、借り物の言葉で誤魔化すべきではない。
 それが狭まった思考の中で僅かに残されたプライドだった。
「その……」
 まるで纏まっていない思考の端っこを捕まえながらかろうじて七海は口を開いた。少し声がかすれてしまい、咳払いをする。
「その場所で得られるものじゃ、だめなのかい?」
「それが難しいー……んだよー」
 少し揺れた青い瞳を隠すように目を閉じた夏音が何とも言えない笑みを浮かべた。
「いらないものが、一つもないから」
 再び開かれた瞳が七海を映す。背後から風が強く吹き、七海の髪を逆立てる。それでもしっかりと開いた瞳が閉じることはなかった。
 自分を、みている。
 七海は彼の瞳に映る自分の顔がたいそう間抜けになっているだろうと思った。吸い込まれそうになる青は濃い朱色と混じり、世界を収めている。その中に、自分がいる。
 いらないものじゃない、自分がそこにいるのだろうかと思った。
「それは大切?」
「うん、とってもね」
「たぶんその大切なものにとっても、君は大切だと思うよ」
 言葉が滑らかに口から出ていった。七海は言ってしまってから、少しだけ恥ずかしくなった。柄にもないくさい台詞だ。不思議と後悔はなかった。自分の言葉を受け取ってくれた夏音が嬉しそうに笑った顔を見ていると、どうでもよくなった。
「へへ、アリガト」
 すると彼は「さて」とベンチから立ち上がった。夕陽に照らされた顔を何故か隠すように大げさに振り向いて時計を見た。
「アァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
「へ?」
 時が止まったかと思った。それくらいの大絶叫。終末を目にした予言者でもこんな叫びはあげまい。
「やってもうたーーっ!! もう始まるじゃん! 予約してないのに!」
「な、何がっ!? どうして? どうしたの?」
 思わず七海も立ち上がり、焦る。何が世界に起こったというのか。モブキャラである自分が主役級のくさい台詞を吐いたことが原因だったら土下座も辞さない。世界に対して。
「って……予約?」
「始まるんだよっ! 魔法少女★羅王が!」
「何そのいかめしいタイトル!?」
「こうしちゃいられないっ! 帰るっ! じゃーね!」
 少し前まであった空気の余韻は欠片も残さずに夏音は七海の視界から消えた。恐ろしい速さだった。立つ鳥後を濁さず。
「ンだよそりゃーよーーーーーーっ!!!」
 七海は暮れなずむ公園の中心で高々に叫んだ。
 あ、これ青春っぽいかもと心の隅で思ったことは内緒である。




 教員五年目は新米をようやく抜け出せたくらいの時期………だと思っていた。公務員は定時であがれる等という都市伝説を信じていたのは遙か昔のことだった。
 こと教師という職業だと、非常に不安定な勤務時間になるのは致し方ない。とはいえ、部活動の顧問を担っている教員はそれこそ生徒達が下校するまで残っている(中にはすぐに帰ってしまう者もいる)ので、七時をまわることなどよくある話だ。
 さわ子は現在、二つの部活動の顧問を掛け持ちしていたので殊更に責任も二倍だ。
 はっきり言って「つれー」と零したい。
 いや、叫びたい。
 この職員室のど真ん中で「働かせすぎだろーよ!」と思いのたけを高らかにぶちまけられたらどれだけ爽快なことだろうか。
 現実には、ムリ。二十代半ばを過ぎても新米扱いされる山中さわ子は、公務員にもかかわらずひたすらワーカーホリックの道を突き進んでいる。
 下の人員が入ってこないからだ。桜高は今年も新卒採用はなかった。去年も、一昨年も。転勤で出入りする者はいても、大学出のきらっきらした若手が来ないものだから、いつまで経っても底辺にいるハメになる。
 いまだ居座る定年ギリギリ世代が恨めしいばかりだ。自分の学生時代の教師など、とっくに隠居していてもおかしくないというのに。
 さわ子が顧問を担っている二つの部活の一つは吹奏楽部という。全員が本当に高校生かというくらいにしっかりしているので、基本的に放置していてもかまわない素晴らしい生徒達だ。
 さわ子は彼女達に対しては少しだけ申し訳ない気分になってしまう。
 音楽教師として生計を立てているだけでなく、もともと音楽知識は人並み以上にあったさわ子であったが、音大を出ているわけではない。ブラバンを率いる指導者として全国を目指すなどという役割は荷が重い。
 さわ子が卒業したのは都内にある、かろうじてマンモスではない教育大。高校三年に意中の人がそこへ行くことを知り、必死に勉強した。
 もともとクラシックギターやピアノをやっていたのも手伝って、音楽課程に合格することができた。わりとギリギリで。バッハの平均律を課題に出されるとは思いもしなかったから。
 だが、教育大の音楽課程といっても馬鹿にできない。音大に比べたら個人のレッスン回数も少ないし、音楽に触れる濃さも違う。
 音楽家ではなく音楽教師を輩出するための場所なので、国家試験の勉強や教育課程に時間を割かれることがしばしばだ。
 とはいえ、さわ子の人生にとって非常に重要な時間を過ごしたことは間違いない。詳しくは割愛するが、少なくとも音楽教師としてこうして母校に凱旋できるくらいには成長した訳だ。
 ハ音記号を使いこなすまではいかないが、軽音部時代とソルフェージュ能力を比べたら雲泥の差だ。
 そんな彼女でも吹奏楽を指導する力量はない。というより、必要がない。定期的に外部の人間を呼んで指導を任せているので、あくまで彼女はお目付役としての任をこなすだけであった。
 部活終了前に顧問として反省会に顔を出すだけ。問題ない。ただ、こんなんでスマンと心で謝るだけだ。
 問題ありなのは、もう一方の部活動。
 軽音楽部。楽が抜けて呼ばれる事が多いからほんの少しだけ略して軽音部。その名の通り音楽をやる部活のはずだが、桜高の軽音部はその活動の主旨以外の方面に力が入っている。
 活動内容のメインがお茶会とはこれいかに。教師としては捨て置けない問題。ゆゆしき問題にちがいない。
 そうはいっても。彼女達との関わり合いは十も年下の若輩どもに弱みを握られ、顧問にさせられたという苦々しいスタートだったが、さわ子は軽音部が嫌いではない。というより、嫌えるはずもない。好き嫌い以前に、軽音部には並々ならぬ思いがあるのだ。
 なんと言ってもさわ子自身が桜高軽音部OBであった。
 世間的には(自主的に)秘めた暗黒の時代であるが、自分の青春をかけたかけがえのない居場所だった。さわ子を含めた五人の仲間と共に真剣に音楽に打ち込んだ日々は今も近い場所にある。
 さわ子の時代は、まさに音楽に命をかけているような勢いでバリバリ演奏をしていた。当時のV系の流れは、どちらかというと体育会系ノリだった。
 さわ子の場合はV系というか、メタルだったが。メタルにV系の装いを取り入れていったバンドは幾らでもいる。ライブに行けば、ことごとく体育会系だった。懐かしき音楽シーン。
 とりあえず部室内のギターバトルは当たり前。魂の解放によって、演奏の度に毎日号泣することもあった。
 それだけ真剣だったのだ。過激さの裏に甘酸っぱい青春の光もあった。さわ子達も時には部活を休んで遊びにいくこともあったが、それも限度があるというもの。
現在はどうだろう。後輩達は何かあれば、すぐティータイム。ふわふわ、ぽわぽわとゆるい空間に浸って日々を過ごしている。
 世代の差、だろうかとさわ子はふと考える。
 今時の若い娘っ子どもはこういうのが主流なのかと目を疑ってしまう。やっている音楽もよく分からないものが増えたし、いわゆる「ゆるふわ」とかが時代の最前線なのかもしれない。
 例えば、ゆるふわパーマ。かけてみっか、と二十代半ばの音楽教師はキラリと目を光らせた。
「ま、ないわね」
 断念。
 しかし彼女達のスタンスには問題があるとはいえ、否定できないナニカがあった。そのナニカははっきりと形にできないが、悪いものではない。だから頭から否定するのではなく、さわ子も彼女達のお茶会に参加してみることにした。
 すると、どうだろう。
 ミイラ取りがミイラになってしまった。
 日々の教師生活。自らが創りあげてしまった清楚な美人教師という仮面を保つためにすり減らす気力。緊張感に苛まれて知らずうちに肩肘貼っていた自分を癒してくれる最高のリラクゼーション空間にさわ子はどうしようもなくやられてしまった。
 今では、軽音部のティータイムがないと生きていけないと断言できる。女の子も皆、可愛いので着飾りたい願望もすくすく膨らんでいる。
 一人だけ男子生徒がいるが、その生徒の場合は男子生徒として数えるのに抵抗がある。
 あんな可愛らしい男が男のはずがない。という名目のもと、フリッフリのゴスロリの衣装を着せたことがある。それ以来、さわ子はすっかり警戒されてしまったようだが、教師といえど強すぎる煩悩にあらがいきれない時もあるのだ。
 許せ、と言っても歯牙にもかけられなかった。次に期待しよう。

 というより、もう大好きだった。軽音部。
 さわ子が桜高に赴任することになり、いざ母校に帰ってみたら、思い出の部活は誰にも引き継がれていなかった。一人の部員もいない、廃部寸前の状態の軽音部を見た時は胸をしめつけるような気分だった。
 自分が何よりも深く触れた物の形が失われようとしているのを黙って見過ごすのは酷だった。初めはそれとなく生徒に関心を与えるような話題を会話の中に差し挟んだりしていたが、それも効果はなかった。
 興味を持つ生徒がいても、五人いなければ成り立たない部活を再起させるにはあと僅かといったところで人が足りなかったり。
 部活紹介冊子には何年も前に書かれたきりのページが重版されているだけ。そろそろ、それも無くすべきかという話も出たことがある。もちろん、強く反対したさわ子によってその場は治まった。
 やがて諦観が心を覆い始めた。もしかしたら高校生がバンドをやるような時代ではないのかもしれない、と。
 バンドの時代ではないのかもしれない。高校生がバンドに興味を持つような時代は終わり、軽音部という看板はいつの頃からかとっくに命が尽きていたのかもしれない。
 そんな風に考え、それならばいつまでも亡骸を晒すより、土に還ってくれた方がいい。軽音部に感謝を捧げ、一生その思いを忘れないことが供養になるやもしれない。
 後ろ向きな考えに落ち着こうとする時期が訪れようとしていた。
 部のことはもう考えまい。自分の中に一つの決着をつけようとしていた中、毎年のように現れる新入生が職員室を訪れた。

『軽音部の顧問ってどなたですかー?』

 その瞬間のさわ子の喜びはここ数年来感じたことがないものだった。たった二人だけで部活を始めようとする生徒に「五人いなければいけない」と伝えるのは辛かった。それでもOBとして、軽音部を愛する者の一人として何より強い気持ちで「頑張ってね。軽音部!」とエールを送る。軽音部に入りたいと思った瞬間から、もう軽音部なのだと。
 軽音部は復活した。彼女達は五人そろって軽音部になった。

 と熱い想いを滾らせていたさわ子だったが、いざ廃部の危機がなくなったと分かれば、手のひらを返したように彼女達との距離を置いた。
 何しろこれを機にあのブラックさわ子時代が公になってしまうという事態は避けねばならないからだ。軽音部復活と同時にそのリスクは高まることも忘れてはいなかった。ズルイ大人のリスクヘッジ。
 極力関わらないように。陰ながら軽音部を応援することに決め、彼女達の行く末を遠くから見詰めていこうとした結果、だいぶ放置した軽音部が大きく様変わりしていくのに気付かなかったのだ。
 久しぶりに部室に踏み入れてみればそこらに溢れる高級機材。バンド時代、ライブハウスでも触ったことのないようなアンプ。
 いったいこの子たちは何なのだ、と目眩を覚えた瞬間であった。
 その後、一つの波乱を経てさわ子が晴れて軽音部の顧問になったことによってその原因を知ることになった。
 その者の名は立花夏音。それまでもさわ子は彼のことをよく知らなかった。一人の生徒として、一人の生徒としての彼は帰国子女で成績は古典と体育をのぞいて優秀。とりわけ音楽の授業ではさわ子を脅かすくらいの知識を披露することもあり、軽音部の実質上のリーダーとして皆をひっぱっていることくらい。
 
 二学期の終わり頃。愛しの恋人と過ごす予定のクリスマス直前の浮ついた気持ちを持て余していた時期だった。そんな冬休み直前の桜高にとある客人が訪れた。目が眩みそうなブロンドヘアーの外人美女と流行りのチョイ悪風の男性。
 さわ子は目にしていないが、黒人の青年もいたそうだ。彼らが職員室を訪れた時、ぶったまげた。
 アルヴィ・マクレーン。クレイジー・ジョー。
 音楽をある程度囓っている人で知らない者はいないプロのミュージシャンがひょっこり目の前に現れた。
 初めこそ気が付かなかったが、すぐに脳内メモリーから引っ張られてきた人物に相違なく、そんな彼らがちょうど入り口付近に座っていた英語教師にフランクな口調で話しかけた一言に魂が離脱しかけた。
 その第一声が。
「カノンがいつもお世話になっておりまーす」
 とんでもない。
 誰がどのカノンをお世話したというのか。さわ子は直球ど真ん中で思い当たる生徒の顔が脳裏によぎって、しばし呆然とした。
 それに対応した英語教師は突然現れた異様な二人組に気圧された様子だったが、しばらくして「ああ、立花くんの……」と気付いた様子で歓談を始めた。
 知らないということはある意味で幸せなことだとさわ子は息を呑んでそれを見守っていたのだが。
 次にどこから聞きつけたのか、立花夫妻の訪問を知った校長が校長室からすっ飛んできた。
 その勢いに職員室中の教師が目をまん丸にして吃驚したことは言うまでもない。
 あの校長が息せききって校長室を飛び出してくるなんて。PTAの会長が来た時も直前まで芋羊羹を頬張っていたくらいの男である。これはよほどの異常事態だと誰もが息を呑んで見守った。
 職員室中の視線が集まる中、校長の一言目の台詞が「ニューアルバム拝聴しました!」だったのは笑えない。
 聞くところによると、校長はアルヴィ・マクレーンの大のファン。いい年こいて、と思わなくもないがそこは武士の情けでスルー。
 とにかく彼らは立花夏音の両親であり、彼が入学する前に校長に特別な挨拶をしていたのだという。以前に在籍していた学校で問題があり、くれぐれも注意を促す目的だったらしい。
 寝耳に水だった。しかし、この話を聞いた時にまずひっかかる問題は幾つもあった。とりあえず二人のプロミュージシャンの息子として生まれた彼が平凡な人間である筈がなかったのだと納得。
 続いての問題は、カノン・マクレーンに関する情報がさわ子の耳に入るのが初めてではないということだ。
 そこまで古くない記憶を隅から隅まで探り出す。
『あの夫婦、たしか息子もプロなんだよねー』
 これである。かつて苦楽を共にしたバンド仲間の一人がそんなことを言っていたシーンが畳みかけるように脳裏にバババッと閃いた。飲み会の席などでよく音楽の話になるが、その中であがった話題だった気がする。
 そう。プロの子はプロ。
 カノン・マクレーンという名でアメリカ全土ならず世界に名を馳せているベーシストである。
 その場で意識を手放しそうになったさわ子であった。知り合いにメジャーデビューした者達がいないわけではないが、まさか教え子にプロミュージシャンが出現するとは思いもよらなかったのだ。
 いつかそういう生徒が現れる可能性はあったが、それはさわ子がその子達を見送ってからの話だと捉えていた。
 既に、プロとは。
 かつてさわ子が昇ることのなかった高みにいる者が幾つも年下の現役バリバリの生徒だとは。
 だが、その場でさわ子を占めた感情は嫉妬ではなかった。ひたすら疑問だったのだ。
 何故、彼が日本で普通の高校生をやっているのか。さわ子は事態が収束するのを見計らって、彼にそっと問いかけることになった。
 まず彼は全てを隠していたことを謝罪した。自分の立場を明らかにすることで余計な混乱を招くことになるだろうと懸念したとのことだった。
 さわ子としては謝罪の言葉が欲しかったわけでもないし、そもそも謝られる筋合いもない。
 彼女は教師としての立場からではなく、山中さわ子という一個人による純粋な好奇心から問うているのだと正直に話した。彼はその疑問に対する答えを話さなくても良いし、さわ子が知る義務などないのだから。
 彼は全てを話してくれた。包み隠さず、時にはジョークをまじえてその年の子供にとっては凄惨といってもおかしくない過去を。
 彼の抱えた懊悩を、さわ子は唇を噛みしめながら最後まで聞いた。今さらさわ子にできることはなかったが、それでも彼を襲ったという男は想像の中で何度もボコボコにした。何度も。彼をいじめた高校生達には教育的指導を。
 すべて妄想の中で、だが。
 全てを聞き終わり、さわ子は彼をそっと抱きしめようとした。
 スルッとさわ子の腕から逃げ出した彼はにっこりと一言。
「なんか怖いのでハグは遠慮するね」
 本気で泣きたくなった。因果応報とは言うが、あんまりだった。
 その瞬間だけは気まずい思いもしたが、さわ子はこれから自分が彼を全力でバックアップすることを誓った。教師として、大人として。彼を脅かすものからかばう、と。
 滅多にない厳粛な態度で向かってくるさわ子に彼は目を剥いて驚いていたが「ありがとう」と笑顔を向けてきた。

 熱血教師・山中さわ子の誕生である。

 という話になれば格好がついたのだが。

 これといった非常事態もなく、諍い事の一つも起こらない平和な毎日に気抜けしてしまった。
 もっとこう、青春ドラマのごとく熱い展開があるのかとほのかな期待がなかったと言うと嘘になる。
 それにしても平和すぎるだろう、と。自分が教師として金メッキのごとく輝くイベントがあるかもしれないと気合いを入れていた自分が間抜けみたいだった。しかし熱が冷めてきたらそんな不謹慎な心づもりに赤面する思いで、いざという時に頼れる存在として落ち着くことにした。

 そんな中、さわ子を良い意味で唸らせることがあった。
 どうやら彼女達が最近になってやっと本格的に軽音部の本分を思い出したらしいのだ。
 ある時期からお茶の時間も惜しいとばかりに練習する彼女達の姿を見て、さわ子は感心しきりだった。
 どうやら軽音部として、学外のライブイベントに参加することになったらしい。難関と名高いオーディションを勝ち抜いてイベント本選に出場すると聞かされた時には自分で言うのも癪だが、なんとも間抜けな表情のまま固まってしまった。
 実際に彼女達の楽器演奏の技術は決して低くはない。同い年の子供達に比べると、断然上手いくらいだ。
 さわ子が顧問になる以前の様子は分からないが、それ以降の成長は目を瞠るものがある。これが若さか、と圧倒されてしまったくらいだ。とはいえ、さわ子も高校時代にギターのテクニックをめきめきと伸ばしていったクチなので、他人事ではない。
 この時期の成長率というものは数値では計り知れない無限大の可能性を秘めているのだ。まさに雨後の筍みたいにニョキニョキと大きくなるので、目が離せない。男子でなくとも、三日離れればどれだけ変わっていてもおかしくない年なのだ。

 いつの間に、ここまで。
 
 ここに来て、顧問らしいことをしてやれていないのが悔しくなった。彼女達は自分の力で羽化しようとしている。
 さわ子の力を借りずとも、力強く羽ばたこうとしているのだ。
 それが切なくもあり、嬉しくもあった。教師としては教え子たちの自立を喜ばないはずがない。まだ自立と呼べるかは甚だ怪しいが、それでも大きな進歩だ。
 さわ子は今がとても大切な時期だと知っている。一年で固まりつつある、部活としての形、バンドとしての形がこの先どうなっていくかはこの時間にかかっていると言えよう。
 バンドがダメになる。俗に言う“ポシャる”原因は様々だ。
 その内の一つとして、ガムシャラ期の失敗というのがある。
 バンドの士気があがる一方で、各々の意見が飛び交うようになる。あそこはこうした方がいい、とかお前のリフじゃつまらない、など。
 熱くなって議論することは良いことだが、それもさじ加減が重要なのだ。
 頭に血が上りすぎて、ちょっとしたきっかけでバンドの破綻につながることは稀ではない。要するにバンド内の個性が上手い具合につながらないと、バンドは終わる。
 ひとえにこのガムシャラ期を自分達の成長につなげることができたバンドが生き残っていくということだ。
 所詮は高校生の部活だろうと甘く見てはならない。
 軽音部というのは運動部とは違って特殊な性質を持っているのだ。絶対的なルールに従って勝ち負けの出る世界ではない。全ての仕切りが取っ払われた状態で自分という存在を放っていく。決められた方向だけではない。放射状に、どこにでも、どこまでも。
 言うなれば結果の善し悪しは自分達で決めるのだ。百人が認めてくれて成功だと喜ぶか、たったそれだけかと悔しがるかの違い。プロを目指すかアマチュアに甘んじるかの違い
 故に、彼女達は自分達にどこまでも甘くなれるし厳しくもなれる。
 幼さのせいでどこかで折り合いをつけることができずに、メンバーの仲が悪くなる可能性だってあるのだ。
 さわ子はあの仲良し達に限ってその心配は特にないだろうと考えているが、万が一のこともある。メンバーが多いサッカー部などだと替えがきくこともあるだろうが、彼女達はギリギリのところで持っている。一人やめた時点で部として存続することを許されないのだ。
 しかし、そんな時の為にこそ自分という存在がいる。
 さわ子は彼女達の人生の先輩として、その辺をコントロールしていかなくてはならない。
 それでも、懸念していた問題がこうも早い段階で訪れるとは思わなかった。


「えっと………ここ、軽音部で間違いないわよね?」
 さわ子が部室に足を踏み入れての第一声は傍から聞けば滑稽であった。
 音楽室へ向かう階段を上り、部室の扉を開けて入った先が軽音部の他にあるはずもない。ましてや顧問が発する疑問としてはどうかしている。
 それでもさわ子は目に飛び込んできた風景が自分のよく知る軽音部とはにわかに信じられなかった。
 入った瞬間、ほんわかと香る紅茶の残り香。少女達の賑やかな話し声。扉を開けると、彼女が求める学校砂漠のオアシスとしての空間。もしくは最近では鬼気迫る様子で演奏を繰り広げる彼女達の姿があるはずだったのだ。
 その一切が重苦しい空気の中に見つけることは叶わなかった。
 続いて彼女が心に浮かべた感想は「お葬式?」だった。
 部室には通夜のような雰囲気が横たわっていた。現在時刻は六時に差し掛かろうとしている。外からの明かりはほとんどないようなもので、それでも明かりをつけずにいつもの机に座り込んでいる少女達は不気味ですらあった。
 机に座っているのに、いつものように心惹かれるお菓子とお茶を取り囲んでいる様子はない。申し訳なさそうにそれぞれの前に置かれたティーカップから湯気が立つこともない。
 どよーん。と暗雲を頭上に背負っている幻覚が見えたくらいだ。彼女達に何があったのだろうかと訊ねるのも憚られるような雰囲気であった。
 それでもさわ子は訊かなくてはならない。
「あなた達、いったい何があったの?」
 電気を点けて近づいてきたさわ子が声をかけるまで部室に誰か入ってきたことにも気が付かなかったようだ。ハッと顔をあげた彼女達が一斉にさわ子の方を見上げた。
「あ、さわちゃん。今日はもうお菓子ないよ?」
 それに対する第一声を発した唯の言葉にさわ子の足の力が抜けそうになった。あれだけ重苦しい空気の中、よくもそこまで暢気な考えが出るものだ。
そもそも常にお菓子を目当てに部室に来ると思われていることに悲しくなる。
「あのねー。べつにお茶しに来たわけじゃないわよ。もう遅い時間だから声をかけにきただけ」
「あ、そっか。もうそんな時間……って六時!?」
 さわ子の言葉に携帯の時計を確認した律がぎょっと目を剥いた。それに続くように「どれだけこの状態だったんだろ」「あ、憂に連絡いれてないや」「紅茶も冷め切っちゃいましたね」などの反応が一挙に起こる。
 そんな彼女達に呆れたような眼差しを送ったさわ子は、苦々しい表情で眉間をおさえた。そして気になる最大の疑問を投げかける。
「ねえ夏音くんはどうしたの?」
 一気に押し黙る彼女達の反応を見て、さわ子は天を仰ぎたくなった。
 ああやはり、と。半ば確信的になっていた考えが完全な形となってきた。
「…………やっぱり何かあったのねー」
 さわ子は腕を組んだ状態で今一度うなだれる彼女達を見渡した。普段の快活な少女達の姿は影を潜めている。このままだとこちらのペースが崩れてしまいそうだ。
「何がったのか話してごらんなさい?」
 さわ子は柔らかい口調で率直に問い訊ねてみた。しかし、それぞれが何かを言いたげにしているのだが、なかなか言葉が出てこない。言いあぐねているというより、彼女達も整理がついていないのかもしれない。
 それでもおずおずと口を開いた澪が語ったのはこういうことである。
 練習に燃えていた軽音部だが、事ある毎に厳しい檄を飛ばす夏音と言い争いになってしまった。殊更に注意されることで半ばノイローゼと化していた律が言ってしまった一言で夏音が傷つき、部室を飛び出していってしまった。
 簡潔に表せば、そういうことらしい。
 事態はそう簡単なものだとは思えないが。所々言い淀む澪。どこか奥歯に物がひっかかったような物言いに、それが全貌ではないだろうとさわ子は勘づいていた。
 とりあえず話を聞き終わり、さわ子はふぅと軽く息をつく。
 自身の予感が見事に的中してしまったことに苦虫を噛みつぶすような想いだった。彼女が懸念していた事態、おそらくそれを起こしてしまうのは立花夏音であると予測していたのだ。
 普通に考えてみれば、それも然りである。彼は自分達とは次元を逸するプロとしての音楽家である。音に対して思うところは素人の計り知れるものではないだろう。
 つまり彼が素人の中でもさらに高校生バンドの中に混じるというのだから満足な結果が出るはずがない。
 さわ子は彼が遊び半分で部に所属していると解釈していた。新たにできた仲間達を一緒に過ごすことが目的で、音楽に関してはお遊びの域を出ないものだと。
 高校生たちのぎこちなく微笑ましい同好会の監督的ポジションでいるものだとばかり思っていた。
 それがどうやら話が変わってきたらしい。
 第一にプロだと発覚してから少しだけ遠慮がなくなったようにも思える。以前までやや控えめだった音へのこだわりが、プロとしての彼の境界線を越えてこちら側にまで伸ばしてきたような印象を覚えた。
 それが僅かなものだとしても、彼女達にとってはそうではなかったということだ。
 営利目的でもない、純粋な音楽のイベントに出場する。ギャラも発生しなければノルマもない。けれども大勢の客の前で演奏をするという環境は彼をそれなりに奮い立たせたのだろう。
 それはプロとしての矜恃。バンドマスターとして、恥ずかしい演奏があってはならない。だから納得のいくものを創りあげるまで妥協をしない。
 立派な考えに思えるが、それについてくる人間がいなければ意味がないのだ。
 彼の理想に沿って追随できる人間はここにはいない。おそらく全盛期の腕をもつさわ子でも到底無理な話だ。
 さわ子は彼がひどく窮屈な思いをしていたのではないかという可能性を疑わずにはいられなかった。不安で仕方がないのだ。
 まだ若いうちにプロとして、カノン・マクレーンとしてのアウトプットが停滞してしまうのは今後のキャリアにも影響が出てしまうだろうし、ストレスにもなる。
 ミュージシャンとしての活動はそこそこに行っているらしいが、彼のホームグラウンドはやはり遠く海を隔てたアメリカなのだ。
 彼のフラストレーションがいつ爆発してもおかしくない状態だったのだろう。
 ついにこのような事態へと直結してしまった。それが早かったか遅かったかの違いだ。

「で、彼が出ていってからずっとここにいたわけね?」
 さらなる沈黙が答えである。
「ねえ本番はいつだっけ?」
「今週の……土曜」
 さわ子はカレンダーを確認して眉を顰めた。それは、つまり五日後である。
「…………どうやら出場は無理かしらね」
「……それは、何とかするよ」
 仏頂面の律がくぐもった声を出す。その時、ばっと顔を上げた澪が睨むように彼女を見詰めた。
「何とかってこのままじゃ何とかならないだろ!?」
 気色ばんだ様子の澪に唯が不安げに何かを言いそうにしている。
「何だよ。私のせいだから何とかするって言ってんじゃんか!」
 負けじと澪を睨み返す律の声は心なしか震えていた。
「そうな風に言ってないだろ! もうお前だけの問題じゃないんだ。私らの……軽音部の問題だろ?」
「だから何とかするって」
「もう時間がないんだからな……」
「わかってるよそんなの」
 トーンを落とした状態で会話する二人の間には剣呑な雰囲気が流れ始める。さわ子は「これも若さかな」と苦笑しながらそんな二人に割って入った。
「はいはい教師の前で堂々と喧嘩しないの。とりあえず肝心の夏音くんがいないんだからここでくさっていても仕方ないでしょ。もう下校時刻になるからとりあえず帰りなさい」
 教師に帰れと言われて渋る年齢でもない。それに彼女達は誰かがそう言ってくれないとじっとその場を動くことはできなかっただろう。
 素直に帰り支度を始めた彼女達を見て、さわ子はとりあえずほっとすると同時にこれからの対策に頭をひねらせていた。
 彼女は、この大きな波の向こうに可愛い後輩たちを無事に越えさせなくてはならないのだ。




 翌日の登校は軽音部の一同にとって鬼門と化していた。なんと言っても昨日の今日でまず顔を合わせなければならないのだ。
 お互いに会ったらどんな顔をすればいいのか。どう切り出すべきか。
 非常に気まずい思いをすることは確定しているようなもので、誰もが頭を抱えて登校するハメになった。
 夏音と同じクラスの澪と律の二人は一緒に登校する傍ら、常に周囲の生徒達の間に視線を飛ばしていた。昨日の帰り際に起こった諍いの残り香など微塵も感じさせていないのは長年の付き合いのたまものである。二人は生徒達の中に夏音の姿を見つけようとしたが、ついに登校の最中に見つけることはなかった。
 それでも学校に着いて言葉少ないまま教室に入ると当然のように彼はいた。
 自分の机の周りに集まるクラスの男子生徒といつものように談笑する姿にどちらともなくほっと息をついた。万が一でも学校に来ないかもしれないという不安もあったのだ。
 教室に入った二人に挨拶してくるクラスメート達にぎこちなく応えながら、二人はこれからが本番だと気を引き締めた。
 律を先頭にして、そっと後ろから彼に近づく。周りの男子が歩み寄ってくる彼女達の姿に気が付き、夏音に促した。
 ゆっくりと振り向いた夏音はごく自然な笑みを浮かべながら「オハヨウ!」と挨拶をしてきた。
 そのあまりの落ち着いた態度に、二人は思いがけず拍子抜けしてしまった。
「あ、おはよ……あの、さ。夏音……部活でのことなんだけど……」
 いつもと変わらない態度のおかげで少しだけ肩の力が抜けた律は自然に用件を切り出すことができた。
 とはいえ顔がやや引き攣ってしまうのは致し方ない。いつも飄々としている彼女も当たり前のように繊細な女の子の一面を持っているのだ。自分が原因のような形で起こったトラブルに責任を感じないわけがない。
 ましてや自分が傷つけてしまったかもしれない相手との翌日対面を何事もなかったかのように振る舞えるほど面の皮が厚くない。
 しかし、勇気を出した律を夏音は裏切る。
「あっごめんね! 俺、今日は仕事の方があるから早く学校を出ないといけないんだ!」
 両手を合わせて可愛く片目を閉じる様子に周りの男子たちが、おぉーと息を呑む。同時に「でも仕事ってなんだー?」と首を傾げるが、そんなものは眼中にない律は唖然として呟いた。
「え?」
「だからちょっと今日は部活……ごめんね!」
「そ、そっか。それなら、仕方ないな」
 何とかそれだけ言葉を搾り出すと、律はふらふらと引き下がった。それから後ろで悄然としている澪を押しやって自分の席に向かった。
 席につくと再び男子生徒と会話に華を咲かせる夏音を窺った。夏音を見詰める律の瞳は細かく揺れ、光を乱反射させている。
 彼女は頭に思考を鈍らせる麻酔でも打ったかのようにあらゆる思考がまとまらなかった。
 幾つもの感情を平行させて走らせているような奇妙な感覚が彼女を縦に横に揺さぶっている。
 現実を上手く認識できない。ぐわんぐわんと視界が揺れている気がして頭を抑える。
 朝の淡い喧噪にまぎれた生徒の息遣い、どうでもいい会話が遠慮なく耳に入ってくる。それでも、どこにいたって確実に届く夏音の透き通る声だけが痛みとなって彼女を苛ます。
 昨日の朝とはまるっきり違う教室の風景に感じられた。一日ずれただけで夏音との間に見えない壁ができたような。薄い膜が直接触れることを遮ってしまうような明白な拒絶。
 彼女はふとカチューシャで留めている髪を下ろした。ばさりとうっとうしいくらいに長い前髪が彼女の顔を覆い隠す。横に分けないと前が見えなくて、もともと彼女は前髪を下ろした状態が好きではかったのだが、今は好都合だった。
 目の前の風景を隠してくれる。どんな表情をしているものだか分からない自分の顔も周りから塞いでくれる。
 律はたった一瞬でも様変わりしてしまうこの世界が恐ろしくなった。自覚してしまえば、それは急加速して変貌した様を律に見せつけてくる。
 昨日までの風景はどこに行ってしまったのだろうか。朝、教室でとりとめもない内容の会話をしたり、戯れたり、借りていたCDの感想を真剣に述べてみたり。
 そんな世界がもう遠くに感じられるのだ。
 どこで間違えて、どこからやり直せるのか検討もつかないことばかりが頭をめぐる。あのとき、こうしていたら。「たられば」で始まる様々な結果が駆け巡り、そしてそんな妄想は容赦なく立ち聳える現実から律を楽にしてくれた。
 澪とは口をきかずにそれぞれの席について、灰色の一日が教室に入ってきた担任の声によって始まりを告げた。




 七海は遅ればせながら生徒会室から教室に帰ると、まずは目当ての人物を確認した。
 彼は、そこにいた。普通にいた。というよりあまりにも普通すぎて七海は「はぁ?」としゃくり上げるように声に出して驚いてしまった。
 おそるおそる近づき、自分の座席の椅子をひいてカバンを横に机の横に置くと口々に挨拶が飛ぶ。
「昨日は間に合ったの?」
 若干渋い顔で七海が横にいた夏音に尋ねた。昨日、七海に対して行った仕打ちに対しての弁明を聞きたいわけではない。おそらく、あまり気にされていないだろうから。
「あぁー。超ギリギリ! 間一髪で間に合ったんだけど、見終わってから靴を脱いでいないことに気が付いたよ」
「欧米か!」
 すかさず横に突っ立っていた男子生徒が突っ込んだ。乾いた笑いがその場に起こるが七海の機嫌はぐっと急降下した。そのネタは古い上に、勝手に話の腰を折るなと睨み付けた。
「それはよかったね」
 とりあえずこんな風に周りを有象無象のクラスメート達に囲われた状態で真面目な話など切り出せそうもない。教室で話すような話題でもないだろうし、落ち着いたらもう一度昨日の続きを持ちかけてみようと七海は思った。
 一時間目の授業の教科書とノートを机の中に入れ、片手で頬杖をついてぼんやりとする。今日は何だか友人達と馬鹿話をする気分になれなかった。
 いつもなら夏音と七海を中心に男子が集まって、男男男で姦しいのだが、どうも昨日の事を引き摺っているのかもしれない。もしくは最近、七海自身に起こったことが原因だったかもしれないが、それは別の話であった。
 ちらりと横に顔を向ける。いつも通りに美しい人間がいる風景だが、何故か七海の視線は彼を通り抜けて向こう側にいる女子生徒を捉えた。

(田井中さん?)

 のはずである。七海の目がおかしくなければ。どういうわけか彼女のトレードマークともなっているカチューシャを外した状態で、そんな彼女は実は長かった前髪に顔を覆われていた。暗がりでいきなり出くわしたらプチホラー級である。
 イメチェンだろうか。急にそんな挑戦心に満ちた行動をする理由があるのかもしれないが、それにしても様子がおかしい。七海は普段から他人をよく観察する癖があるので、その人の僅かな変化も違和感として引っ掛かってしまうというスゴイのかよく分からない特技を持っていた。
 そんな七海のアイビジョンを通して映る彼女は明らかに違和感の塊でしかなかった。誰が見てもカチューシャを外したその状態こそ違和感しかなかったが、それとは違う。何というか佇まいというか雰囲気のようなものが。
 暗い。彼女の周囲だけどんより真っ暗。彼女の周りにだけ分厚い雲が差し掛かっているのではないかというくらいに暗いのだ。
 七海にとって彼女のイメージは明朗快活、元気いっぱい太陽のような性格だった。クラスの男子の数人が彼女に懸想している者いるくらい、人を惹き付けるような人柄だったはずだ。
 しかし、今の彼女を見て同じ印象を抱くことはできない。
 さらに視線をずらして見れば同じ部活の秋山澪の姿が目に入ってくる。予想通りこちらも大差が無いご様子だ。
 同じようにくら~い表情、というより今にも死にそうな具合である。女子の数人が心配して声をかけていくのにも気付かないほどに落ち込んでいることがわかる。
「ふぅ」
 七海はこらえきれなかった溜め息を浅くついた。
 どうやら事態の収拾は簡単につくものではないのかもしれない。七海が直接割り込んでどうにかするつもりはなかったが、昨日の相談を受けた流れから放ってもおけない。
 昨日の場合、自分から首を突っ込んだような形だったが、気になって仕方がないのだ。これはもはや七海の性分のようなものだ。
 それにしても隣で平常時と変わらぬ様子で笑う男こそが一番の違和感の正体であった。
 昨日はあんなに落ち込んでいたのにも関わらず、この有り様はどうしたものだろう。
 そんな彼とは対照的に沈み込んでいる彼女達の姿をあわせて眺めると、何とも気味の悪い風景である。
 仮に、彼が吹っ切れたのだとしても。その場合、羅王が原因なのだろうか。題名を聞いたところで全貌どころか概略もつかめない魔法少女アニメによってあれだけ儚く消えそうだった魂が現世に留まったというのであれば笑い話だ。ただそう思いたくとも、七海の第六感的なナニカが絶対にそうではないと告げている。
 とりあえず、七海はタイミングを見計らって彼に話し掛けてみようと思った。


 それが放課後まで延長してしまったのは七海の失態ではない。既に時刻は放課後、といっても午前授業なので、時刻は正午をまわったばかりだった。
 今日の彼は一日中、一所に落ち着いていなかった。七海が二人きりで話す時間を作ろうとするのを分かっていてあえて避けるかのようにひらりひらりと七海を躱していくのであった。
 明らかに避けられているのかも、と七海が確信を持った時には放課後だったのだ。
 普段、どちらかというと追いかけられる側の七海が追いかける側にまわるのは珍しかった。
「夏音くん! ちょっと待って!」
「………はーい。待つよ七海のためならば!」
 放課後、簡単な掃除が終わって真っ先に帰宅しようとした彼を捕まえることができたのは玄関前の昇降口であった。
 逃してなるものか、と階段の上から数段飛ばしで駆け下りて叫んだ。勢いよく振り返った夏音はものすごい形相で向かってくる七海にいつものおどけた口調で応えた。
「昨日のことなんだけどさ!」
「あー七海。昨日のことは忘れてくれないかな?」
 氷水をぶっかけられたような衝撃だった。笑顔のまま夏音の口調は未だ七海に対して向けたことのない厳しさを含んでいた。七海はやられた、と顔を歪めた。
 初手で拒絶されたら、その後にしつこく食い下がるのは至難の業だ。それでもあきらめの悪さはこの一年でたっぷりと磨いてきた七海はそこを気力で乗り切った。
「いやだ!」
「へ?」
 夏音は七海の返しにきょとんとした。
「え、と七海……? あれ、七海ってこんな押しの強い子だったっけ」
「まあまあ夏音くん。生徒会室にでも寄っていきなよ。軽音部には劣るけどお茶とかお菓子とかあるんだよ」
「い、いやそれは遠慮するかな。俺もちょっと急いでるっていうか」
「いや! いやいやいや! お時間はとらせないからさ!」
 何だか悪徳セールスの営業マンのような体裁になってしまった七海である。ぎこちなく相手を警戒させない笑みとやらを試しても三流詐欺師にしか見えない。
 普段とは打って変わった様子の七海の様子にどん引いた夏音はじりじりと七海から距離を取りつつ、引き攣った笑みを漏らす。対する七海は「まあまあまあ」と揉み手で笑顔。
 傍から見ればうら若き乙女に迫る変質者、の図でしかなかった。
「七海、なんだか怖いよ? というより一歩間違えたら色々アウトな臭いがぷんぷんと……」
「そうかな? それより何で少しずつ後ろに下がっているのかな?」
「い、いや。七海が迫ってくるから」
「何だよそれ。いつもは君の方から近づいてくるじゃないか」
「わかった。下がらないから! その笑顔で迫ってくるのやめて!」
「少し傷ついた気がするけど、わかったよ」
 七海的にふるふると震える美少女(のような男)に恐怖の眼差しを向けられるのは堪える。その場で足を止めた七海は咳払いをしてから本題を切り出した。
「ねえ。僕は部外者だよ」
「Huh?」
「でもああいうの見たら放っておけないんだ。昨日、君からあんな話を聞かされて何事もなかったみたいに過ごすことなんてできない」
「……………」
「だから、僕に手助けさせてもらえないかな?」
「七海が助ける?」
「うん」
 ぱっちりした瞳をさらに見開いて七海を見据える夏音は花が咲いたように微笑んだ。
「助けるって何を?」
 七海は内心で「ああ……」と呻いた。目の前の友人の頑固さときたらワールドクラスである。彼は頑なに拒むのだ。個人の問題に踏み入れられるのを。
「僕は君にとって友達かい?」
「もちろん」
 当たり前だと首肯する夏音に七海は続ける。
「じゃあ君の悩みを話すに足らない程度の存在かな?」
「七海……」
 眉間をおさえて溜め息をついた夏音はやれやれ、といった様子でまるで年下の子供を見るような目つきで七海を映した。
「あのね。そういうことじゃないの。これは俺のかなり複雑きわまりない個人的な問題なんだ。一朝一夕で誰かに理解できるものじゃない。それこそ即理解された時なんかは逆に落ち込むよ。あれ、俺の悩みってこんなに単純だったのってね」
「君個人の問題だっていうのかい。軽音部のみんなを巻き込んでいるのに?」
「それは……それも含めて、だね」
「今日一日の彼女達の様子は見ていられなかったよ僕は。君はどう思った?」
「律と澪が?」
「何、わかってなかったの?」
 心から何のことかわからないといった表情を見て七海は、ここにきて初めて彼に対する苛立ちを覚えた。
「明らかに落ち込んでたろう! そりゃひどいものだったよ。あまりにひどいから心配した女の子も何人かいたっていうのに」
 彼女達の様子を勘違いしたのか『重いの?』とか『あれ持ってきてる?』という会話が聞こえてきたことはあえて言わない。女子比率が多いクラスの繊細な話題である。
「………ぼーっとしてたから、わからなかったよ」
「自分しか見えてないね、君も」
 七海の言葉にむっときたらしい夏音が声を尖らせて反発してくる。
「もしかしたら体調が悪かったのかもしれないじゃん」
「二人揃って同じ症状? 軽音部で風邪でも流行ってるのかな?」
 顔が整っている者が怒るととんでもない迫力がある。ましてや眼圧がとんでもない相手の一睨みに対して平静でいられるほど肝が据わっている人間は多くない。
 七海はそんな瞳にひるむことはなかった。彼の生徒会で過ごした一年間はそれはもう特濃で恐ろしい日々だったのだから。すぐに腕力を行使する暴力副会長、微笑みながら他人を威圧する会長、ひたすら目つきが悪い先輩。
彼女達に揉まれまくった七海は夏音の瞳を真っ正面から睨み返せるくらいの胆力がついていた。
「OK. You win」
 両手をひらひらと振って降参のポーズをとった夏音は頭をがしがしとかきながら、力無い視線を七海に向けてきた。
「俺が悪いんだよ。あの子たちには迷惑かけてる自覚もある。ただちょっと整理が必要なんだ。ごちゃごちゃなんだよ。だから今はそっとしてくれないかな?」
 困ったように笑い。強張った表情の中に揺れる瞳を七海は捉えた。
「ありがとうね七海。本当に嬉しいし大好きだよ」
「だ、だいしゅ……プシュー」
 強烈な情報が耳に入った途端、七海の回路の一つがショートしてしまう。ふとした拍子にさらっと小っ恥ずかしい台詞を紛れ込ませるのは反則である。流石アメリカ、恐るべしアメリカ、と七海がややずれた感心の仕方をしていると彼は続けた。
「でも、今はちょっとね……本当にごめんね」
「夏音くん……」
「あ、急いでるのは本当だから行くね。また明日ね!」
 去り際にこちらに手を振って彼は矢のような速さで学校を飛びだしていった。取り残された七海はそれを呆然と見送り、しばらくぼーっとしていた。
「ふぅ……」
「ふぅ、じゃねーのよ」
「!?」
 耳元に底知れず獰猛な声が囁かれたと思った瞬間、七海の身体は勢いよく後ろに引っ張られた。
 世界がひっくり返った。
「え! え!? なになになに!?」
 そのままわけも分からず恐慌状態に陥った七海はなんと恐るべき怪力を持つ何者かによって猛スピードで運ばれていた。運ぶというより、引き摺られている……という表現すらも生ぬるい。七海は制服の襟をつかまれたまま宙を舞っているのだ。
天翔る龍の閃きのごとく走り抜ける速度のせいで空を漂う凧のように、時折ホバリングを繰り返して移動しているのだ、人間が。
 というかもはやこの世の物理法則に逆らっている気がした。
 直進だったのが、ふとコーナリングの際に向こう側の壁に激突間近で切り返し、景色がびゅんびゅんと飛び去っていく。
 ジェットコースターの方が百倍ましというくらいのスリルに七海は終始パニック状態で叫び続けた。
 視界の端にちらちらとクロワッサンらしきナニカが見えていたのだが、七海はそれが何なのかも理解できないまま、自分を拉致した人物が動きを止めるのをひたすら待った。

 ガラッ、バタン。

 どこかの教室に入って、即行でドアを閉められた音。
 誘拐犯の暴走特急はここに来て止まってくれたようで、七海はばんっと床に投げ置かれた。硬い床とマジでキスする五秒前だった。このような仕打ちには慣れ親しんだものだが、もしかして自分のよく知る生徒会元副会長の仕業かと思って自然と体が震え上がった。
 あの先輩の恐怖政治は去ったはずなのだ。というより最近は初期の頃より暴力をふるわれる回数も歴然と減って、ここまで無慈悲な扱いは久しぶりであった。
 訳が分からずに頭に思い浮かんだ人物の名前を呟いた。
「こ、香坂先輩?」
「とりゃあっ!」
「あふんっ!」
 おそるおそる顔を上げた七海の視界に飛び込んできたのは見事なクロワッサン……ではなく、縦に巻かれたゴージャスヘアーを持つ少女だった。ハテナが七海の頭に飛び交う隙すら与えず、その少女は七海を引き摺り上げ、壁際に追い詰めた。
「グルルルルル」
「だ、誰っ!?」
 猛獣のようなうなり声をあげて七海にメンチ切っている人物に見覚えがなかった。一見、普通の少女なのだがその瞳の奥に爛々と輝く物騒な光は軽めに言ってヤバい。チラリと見える鋭そうな犬歯が怪しげに光っている。
 ここで喰われるのか、と七海は早すぎる人生の幕引きにそっと目を閉じた。
「山田七海……」
「へ?」
 自分がまだ無事であることより、どうしてこの凶暴な少女が自分の名前を知っているのだろうという疑問が浮かんだ。
「あなたに聞きたいことがあるのだけど……」
「は、はい!」
「その前に誰とか言ったわね。私の名前は堂島めぐみ……そして立花夏音ファンクラブの会長。これが何を意味するかもうわかるわね?」
「え、何がですか!?」
 だいぶ一方的だが会話が挟まれたことで七海にも多少の余裕が生まれた。視線を下に送ると、リボンの色が緑だ。
 つまりこの少女が一つ先輩だということである。
 七海は生徒会や一部の生徒以外に先輩の知り合いはいない。どこかで接点があっただろうかと首を傾げる。襟元を掴み上げられているので、気持ちだけ。
「あなたについての報告は逐一受けてるわ。ふふふ……山田七海。恐れ多くも夏音さんに馴れ馴れしくもべたべたと………その所行、万死に値する」
 べたべたとひっついてくるのは向こうなんですけどー!? という叫びはさらにぐいっと力を込められた腕に封じ込められる。
「それにさっきのは何? 告白? 告白してたの? それでフラれてたの? ざまーみやがりなさいよ!」
「ち、ちが……誤解です!」
「五回!? 五回目なの!? 何てしつこい男! いや、その決してへこたれない精神は称賛に値するかもしれないけど……」
 全く名誉ではない褒められ方をしているが、七海としては何も言い返すことができない。言葉を発するために必要な酸素の供給が今にもストップしそうなのだ。
 思えばこの状況。山田七海、人生初の上級生による恐喝である。まさか桜高に来てこんな目に遭うとは思ってもみなかった。
「と、とりあえず離してくらひゃい……」
「……仕方ないわね」
 不承不承としながら七海を拘束する力が緩められた。肺が酸素を求めて「ブッハァーッ」と大きく呼吸を促す。へなへなと床に落ち込んだ七海を見下ろす堂島めぐみは腕を組み、じっと睨み付けてくる。
 息が整ったところで七海は彼女の全貌を初めて眺めることになった。
 まず目に入るのは見事な縦ロール。トルコあたりを発祥とする小麦の食べ物に似ている。しかし、七海は彼女の体格の小ささに驚いた。
 明らかに七海より小柄な彼女が、先ほどまで恐るべき力で七海を引っ張っていた人間とは信じられなかった。そして襲い来る既視感。生徒会にもその細腕からよくぞその怪力が出るものだと感心する人間がいる。
 桜高には不思議な人外生物がたくさんいるのだな、と七海は思わず感心してしまった。
「ど、堂島先輩と言いましたか。いったいぜんたい、どうして僕がここに呼び出されたのでしょうか?」
「あぁん?」
 言葉から態度までしゃくり上げるその仕草はどこぞのヤンキーさながらだった。ぱっと見てお嬢様風なのに、外見を裏切りすぎな中身に七海の心臓がばくばくと跳ね上がる。
「………ふぅ、まあいいわ。ここにあなたを呼び出したのは他でもない夏音さんのことよ」
「ぼ、僕は彼とは友達以上になったこともなるつもりもありませんよ!?」
「シャラーーーーーーーーー」
 数秒待つ。
「ーーーーーーーーップ!!」
 Shout it up.訳せば、だまれてめー。もちろん七海は口をつぐんだ。下手に喋って地雷原のごとく存在する逆鱗に触れてはならないと考えたのだ。
「そうじゃなくて。あなた曲がりなりにも夏音さんの従僕でしょう?」
「従僕じゃねーよ!」
「似たようなものじゃない。あなたがそれなりに親しい関係だということは割れてるのよ。それで聞きたいことっていうのは、昨日から今日まで夏音さんの様子がおかしいじゃない? 何があったのかきりきり吐きなさい」
「様子がおかしいって……耳が早いというか、よく分かりましたね」
 彼にとってナニカがあったのは昨日の放課後。それから今日は普通に登校して普通に授業を受けていたはずだ。その間に感じ取れるような彼の異変に彼女は気付いたというのだろうか。
 ファンクラブ会長の名はダテじゃないということか。
「当然よ。極力だけど私たちは夏音さんを視界に収めてそれを報告する義務を負っているの。昨日の放課後、明らかに尋常じゃない様子の夏音さんを目撃した子がいたのよ」
「はあ、なるほど」
 一歩間違えればストーカー行為だが。それも組織単位の犯行。
「それで後を尾けた子が公園で二人きりのあなたと夏音さんをしっかりその曇りなき眼に収めたというのよ!」
 バーン、と指を突きつけてくるめぐみに七海は呆然と立ち尽くした。心なしかどや顔で犯人を追い詰める名探偵のような雰囲気すら漂っている。
「と言われても、たまたま通学路が一緒なだけですよ。帰宅途中に彼を見かけたからちょっと話してたんです」
「あなたの弁明は必要じゃないの。ナウ必要なのは、そう。夏音さんがどんなゆゆしき問題を抱えているか、よ」
 そう言って彼女はご自慢の(定かではないが)縦ロールをばさりと後ろに翻した。意外に柔らかそうな感触だろうか、ふぁさりと舞い上がってからやはり貫禄のクロワッサンへと形を戻す。形状記憶でもついているに違いない。
「本当はあなたが絡んでいて諸悪の根源であるあなたを倒せばいいと思ってたんだけど……そうじゃないみたいだし」
「しょ、諸悪の根源て……」
 ラスボスみたいで格好良いと一瞬思ったことはおくびにも出さず、七海は途方にくれた声を出す。モブキャラがラスボスに昇格などありえない話である。
 彼の問題を話してよいものか逡巡したが、七海は結局かいつまんで話すことにした。
「あのですね。僕だっていち友人として彼の悩みを聞いて共有したいと思ってるんですよ。ついさっき本人からそっとしておいてと言われましたが」
 簡単にまとめた彼と軽音部の皆とのトラブルをめぐみに打ち明け、さらに自分の彼に対するスタンスをしっかり付け加えた。
「あなたじゃ役が足りないのよ」
 返す刀でバッサリだ。何ともコンプレックスを刺激する男お言葉。その台詞を真顔で言われたくなかった。そちらこそ夏音くんのなんなのさー、と不満を口にしかけたが決してそのまま口に出す失態はない。
 お口にチャック、こそ生きる術だと七海は学んでいる。たいてい黙っているうちに相手が勝手に話を進めていくのだから。
「かといって私も他人のことは言えないけど」
「え、意外に理性があるんだ」
「何か言った?」
「いいえ」
「はぁ」
 ふいに彼女の七海を睨む瞳から力が消えていく。それまで彼女を包んでいた闘気がみるみると萎んでいくのを七海はぼんやりと眺めていた。
 次第にしゅーんと縮こまっためぐみの眦に涙がじわりと溜まっていく。これには七海もぎょっとした。
「え、ちょっと先輩!?」
「私なんてただのファンだし……? 夏音さんの悩みを解消してあげるなんておこがましいよね?」
 おこがましいなんて言葉を使う人間に限ってひどく面倒くさいものだが。しかし七海は堂島めぐみメンドーと彼女を放置することはなかった。
「そ、そんなことないですよ! 彼は自分を心配してくれることを嫌に思う人じゃないでしょう?」
「そうだけど……そーお?」
 涙に濡れた瞳で七海を見上げた彼女は何かの小動物みたいだった。そうしていると十分に可愛い部類に入るのに、もったいないと七海は冷静に彼女を評価していた。しかしこうなると彼の周りには粒ぞろいの残念なべっぴんが招き集められているのではないかと疑ってしまう。
「そうです!」
「思えば私って夏音さんとじっくりと普段付き合いしたことなんてないのよね」
「はあ、さようで」
「ええ。というか自分から線引きしてるんだけどね。いちファンとして、近すぎず遠すぎずの距離で迷惑にならないように応援していこうって決めてるから」
「良心的ですね。いよっファンの鑑!」
「ふ、ふん。まあね!」
 鼻を鳴らしてふんぞり返るめぐみはこれを機にぐんと調子を持ち直したようだった。七海の必殺・ヨイショ攻撃にあっさりと乗った彼女は、何かを決意したような表情で大きく頷いた。
「でも、それって本当に夏音さんを理解していることにならないのよね。その人が上っ面だけうまくいっている姿だけ応援するなんておかしい」
「うん? え、ええそうです……よね?」
 何を言っているかわからないが、イエスマン七海と化して調子を合わせた。力強い指示を得た彼女はますます自信を滾らせ、ぐっと小さな握り拳を天高く掲げた。
「ィヨーシ! 夏音さんに直接アタックしてみる!!」
「その通り……ってエエー!?」
「だって私、夏音さんの力になりたいもん」
「いや……もん、じゃなくって。さっき僕の言ったこと聞いてました? 彼は放っておいて欲しいと言ったんですよ。変に踏みいったことすると嫌われちゃいますよ?」
 嫌な流れに傾いてきたと肌で感じた七海は急いで方向転換を促す。だが、勢いづいた人間はすっかり流れに乗ってしまっていた。
「それでも! それでも……私のエゴでも、迷惑でもいいの。人を助けるのに資格なんて必要ないじゃない。だって決まって助けてくれる誰かなんて現実にはいないのよ。人を助けるのはその場にいる人、よ。付き合いの長さとか好き合ってるとかいがみ合ってるとか関係ないの!」
 嫌われるという言葉に反応して腰が引けたとしても、彼女は屈強な覚悟をもってその決意を果たそうとするのであった。
「助けたいと思った人が助けていいの! 誰に助けられても同じなんだからいいでしょ!」
 ここに来て、七海は初めてこの先輩がすごい人なんじゃないかと感心した。とんでもない出遭いのせいでどん底の評価を下していたのだが、彼女の言葉によってちょっぴり評価点が上昇した。雀の涙ほどだが。
「あの……先輩のそれは素晴らしい考えだとは思いますが、それも人によりけりだと思いますよ。僕だって力になれるならなりたい。けど、どうにも彼は人に踏み入れて欲しくないようで」
「昔の人はこう言ったわ。泣かぬなら 泣かせてみせよう ホトトギス」
「はぁ」
 それが何だというのか。
「そして偉大な人はこの言葉を遺した。迷わず行けよ、行けばわかるさ」
「猪木生きてますから!」
「つまり私が言いたいのは、相手がどう思っていようと無理矢理にでも心を開いてしまいましょうってこと」
「すげー暴力的な解釈!? 意外にえげつねーこと考えますね。本当にファンクラブ会長なんですか」
「文句ばかりね。それだけ言うならあなたも案を出してみなさいよ」
「あれ、僕っていつの間にか頭数に含まれてます?」
「当然じゃない」
「だから僕はもう触らぬ神にたたりなし、のスタンスでいこうかと……」
「あのね、後輩」
 また呼び方が変わったが、七海はふいに真剣味を帯びた先輩の声に打たれたように黙る。
「だから言ってんじゃない。大切なのは相手の反応にびくついていちいち顔色窺うのではないの。結局、それって自分を守ってるってことよ。相手のことを思いやってるならば時には自分が傷ついてでも……それこそ嫌われても踏み込むことも必要なのよ」
 七海は静かに語る彼女にうっかり感服してしまいそうになった。もちろん穴だらけだったり突っ込む隙はたくさんあると思うのに、何だかこの場合は彼女が正しいように思えたのだ。
それに加えて傷つくことを怖れる、という部分は七海の心を浅く傷つけた。七海は彼から話を引き出すのに多少の粘りを見せたが、そこから先へ踏み入れる勇気がなかった。自分のことを揶揄されているような気がして、彼女の言葉に何も言い返すことはできなかった。
「私、あの人のことになると見境なくなるし。無自覚に迷惑かけてる時もあるかもしれないけど、この想いの強さなら誰にも負けない! だからできることは全てやりたい」
「どうしてそこまで彼にのめり込むんですか?」
 彼女の執着は異常といってもいい。真面目、というよりも愚直ともいえる彼女の性質はその対象が何であれ、決めたことにひた走るエネルギーを持っていた。
しかし赤の他人にそこまで献身的な態度を貫けるような人の気持ちは七海にとっては測りかねるものだ。七海も他人のために行動をすることはあるが、自分を捨ててまで相手に尽くそうとする気持ちは理解しがたい。
 ましてや好意を寄せる相手に拒絶されるリスクを負うなど考えられなかった。
「どうしてと言われたら夏音さんを大切に想ってるからとしか答えられないわね」
「そうじゃなくて。だって彼と特別仲が良いわけでもないでしょ? どちらかというと先輩は一方的じゃないですか! こんなこと言いたくないですけど、世の中ギブアンドテイクってこともあるでしょ。先輩が彼からどれだけの物を得られるというんですか!」
 七海は少しだけムキになっていた。敬虔なクリスチャンでもあるまいし、理由なき自己犠牲精神なんてもので彼に踏み込もうとする人間を認めることができなかった。
 生意気ともとれる後輩の辛辣な言葉に怒るか思われたが、七海の予想は外れた。彼女は目をつり上げるどころか、目を細めて笑っていたのだ。
「私が貰ったもの……? あるわよ。とっても大きなもの」
 まるで初恋の人を思い浮かべるようなうっとりとした顔つきに七海は一瞬だけ見惚れた。彼女はうっとりとしたまま、続ける。
「あの人に助けてもらった私はいつか必ずあの人を助けなければならないの」
「え?」
 何だか壮大なスケールな予感。何だか物語のような過去がありそうで、七海はちょっぴりドキッと胸を高鳴らせた。
「まあ、詳しいことは話さないけど。とにかく! いくわよ後輩!」
 割愛のもとにすっぱり会話を切った彼女はドアに手をかけて七海を振り返った。
「ってどこにですか?」
「決まってるじゃない。夏音さんの元へよ!」
「いや、彼は用事があるとかでどこにいるかもわからないんですけど」
「でも家には必ず帰るでしょ!?」
「つ、つまり?」
「張り込みのいろはってやつを教えてやるよ、新入り」
「えーーー!!?」
 そう言って彼女はどこぞの班長のようにくっと片頬をあげる。
「ていうかもっと何か考えましょうよ!?」
「そうは言っても私、小難しい作戦とか苦手だし」
 あれだけ自信満々だったわりに、ノープラン。先行きが思いやられるな、と深い溜め息をついた七海は、すでに自分が逃れられないことが確定していることに胃が痛むのを感じた。
「胃薬が欲しい」
「なーに保健室寄ってく?」




 放課後になって部室に集まる。各自が掃除や日直の仕事などを終えてちらほらと部室に現れるとまずカバンをベンチに置く。それから部室の奥に並べた机の所定位置に腰掛けて芳醇な香り漂う紅茶が淹れられるのを待つ。
 そんな風に自然と決まった流れで軽音部の部活動は始まっていく。
 部室にいち早く到着するのはたいていムギだったが、それも日によってまちまちである。運悪くどの清掃区域より時間を食ってしまう校舎裏などに割り当てられた日などは適度に駄弁って時間を潰す。
 やがてムギがいそいそと現れ、かいがいしくお茶の用意をし始めるのが決まり切った流れであった。
 今日の場合、誰が示し合わせたわけでもなく、全員が同じタイミングで部室に集まっていた。いや、全員というには一人だけ足りない。
 お茶の用意は滞りなく済み、いつもの軽音部の日常が始まる用意は整っている。
 それでも軽音部は始まらない。たった一人だけ足りないだけなのに、大切なパーツが抜け落ちてしまったような印象が拭いきれないことに一同は驚愕した。
 風邪や、諸事情によって部員が揃わないことなどざらにあった。それにも関わらず、今日の部活の雰囲気はこれまでに味わったことのない空虚感に満たされてしまっている。
 時折、紅茶をすする音が白々しく響く。たったそれだけが響く沈黙がその場にあった。
 沈黙ほど軽音部に似つかわしくないものはなかった。いつも誰かが話題を出し、それが連鎖的に広がって収拾がつかなくなるくらいに盛り上がるのが当たり前。喋り足りなくて、ついつい練習の時間を削ってまでお喋りに華を咲かせるほどの活気に満ち溢れていた。
「ね、ねえ。練習しようよ! 今日たくさん練習して夏音くん明日になったら驚かせちゃお!」
 その空気に耐えかねた唯がわざとらしいくらい明るい調子で言った。誰かが話し出すことを怖れていたかのようにびくりと反応したのは皆一緒だったようだ。億劫な様子で唯を眺めた律がものぐさに言い放つ。
「一日頑張ったってあいつを満足させられるわけないだろー?」
 苛立ちが滲んだ言葉に唯が表情を曇らせる。それを見たムギが慌ててその会話を繋げようと口を開いた。
「で、でも。やれるだけやってみない? 仮にも本選に出られることになったんだし、いけるとこまで行ってみたいと思うな」
「ムギはそう言うけどなー。確かに私だって本選に出ることになってスゴイと思ったよ。それなりに実力つけたんだなって自分を褒めたくなったけどさ。あいつはそんなもんじゃ満足できないんだろ? たぶん、今やってることだってお遊戯みたいな感覚なんだと思うぜ」
 そこが問題だった。どれだけ練習したとしても、プロの耳を満足させられるくらいに仕上げることは不可能というのが彼女達の共通認識だった。
「でも……今回のことはそういうことじゃないと思う」
 先ほどから否定を繰り返す律をじっと見据えた澪が慎重に言葉を選ぶように続けた。
「たぶん……夏音はいつだって私達に無理はさせてない……させないように気を遣ってたんじゃないかな」
「それどういうことだよ?」
「……本当にわかんないのか?」
 澪は胡乱な目つきで訊いてきた律に厳しい目線で切り返した。
「練習して、少しずつ腕を磨いてきた人なら気が付いてもおかしくないはずだぞ」
「無理ったって……相当な無茶を強いられた記憶があるんだけど」
 いくら思い返しても律にとって夏音の要求は決して楽なものではなかった。繊細な表現の仕方だとか、慣れないリズムパターンに四苦八苦してばかりいたのだ。
「コレができたら、次はコレに挑戦する。みんなそうやって楽器は上達してきたと思うんだ。私は夏音からずっとレッスンを受けてきたから、よくわかる。あ、あいつは私のことをよく考えて、くれて………ちょっと無茶するくらいの……いや、わりと無理めで地獄を見たとしても頑張ればこなせるようなメニューを作ってくれたんだ」
 とつとつと述懐する澪の言葉に全員が黙って耳を傾けていた。
「だ、だってさ。音楽の世界にはもっともっと……私達が想像つかないくらい難しいことなんていくらでもあるのに、そういうのをやれなんて言わないだろ……いつだって私達が頑張って手を伸ばせば届く所にあるものばかりだっただろ?」
 悲鳴にも似た彼女の心の叫びは痛いほどストレートに彼女達の心に入っていった。空間に溶けてからそれはとても深い部分に到達して彼女達にとある事実を再認識させた。
 立花夏音は卓越したバンマスとしての能力を十二分に発揮していたのは事実なのだ。全員がプロで固められたバンドを引っ張るのと、自分以外が素人であるバンドを形にしていくのはどちらが難しいことかなど考えずとも導き出される答えだ。
 その都度、誰かがつっかかれば納得いくまで繰り返させる。それで身についた時には次のステップへと繋げる。
 この一年、軽音部は立花夏音に育てられてきたのだ。夏音主導の活動は決して楽なものではなかったが、彼女達は必死についていった。
 何のためにそこまで辛い思いをしたのか。
できなかったことができるようになる喜び、自身の成長のための努力。それ以上に夏音という可能性に挑む戦いでもあったのだ。
 彼は自分達の可能性を存分に引き出してくれる。それと同時に自分達の持つ可能性が膨らめば膨らむほど、彼が与えてくれる未知の世界への鍵を手にとりたかったからこそ、彼女達はがむしゃらに夏音の要求に応えようと努力したはずだった。
 来るなら、来い。どんなものでも寄越してみるがいい。自分達はそれを乗り越えてみせる、という暗黙の部分で行われていた静かな戦い。
 負けはなかった。
 彼女達はかろうじて勝ち続けてきた。歯を食いしばり、少しでも彼が立つ場所へと近づくために。
「私らは自分達で始めた自分との根比べに負けたんだ」
 重苦しい響きをもってその言葉は少女達を襲った。
「ちがう……それなら、きっと私だけが負けたんだ」
「りっちゃん……」
 沈黙を打ち破るようにもたらされた律の自嘲を受け取ったムギが心悲しげに瞳を揺らした。
「みんなは投げ出さなかった。私だけが、負けたんだ……たぶん自分に」
「律」
「いい、何も言うな。わかってるよ……誰が悪いとか、問題じゃないって。でもな……私は言っちゃいけない言葉をあいつの顔に吐き捨てちゃったんだ」
 感情が爆発するのを抑えきることができなかった。熱くなっていた、というのはただの言い訳にしかならない。
「別に軽音部の曲はなんにも嫌いな音楽じゃない。上手くキまった時はすっげー気持ち良くなるし、小手先の技とかも使いようによっては必要なんだって知ることもできた。それでも私が頭ひねって考えたフレーズとかを否定されたり、曲の完成形のビジョンが違いすぎたりしてさ。そんな時、面と向かって言えないじゃん………プロなんだから……ってな」
 最後の言葉を共感できない者はいない。彼女達が曲に対して意見する時は、たいてい夏音の味付けが加えられる。夜中までかけて考えたわずか1フレーズでさえ、違うものへと変容してしまうのを目の当たりにして、自分を認めてくれていないのだと受け取ってしまうこともしばしばあった。
 それでも真っ向から夏音に意見をできる者はいなかったのだ。プロと知る前から彼の圧倒的な音楽の才能を前にして、彼が黒と言ったものを自分の意見で白と塗り替える勇気は彼女達にはなかった。
「それに……なんか勝手にひがみ入ってた」
 少し開けた窓から生ぬるい風が吹き込んできた。
「向こうはお高くとまったこともないのに、いつだって真剣なだけ。なんかスゴイ劣等感ばかりだった。最低だ、私」
 低く呻くような呟きが響き、そこで言葉を無くした律は視線を落としてうなだれる。
「あのね。たぶん、ね」
 と唯が弱々しくも張り詰めた声を鎮まった会話に落とした。
「そういうの……ちゃんと話さなかったからじゃないかな」
 そして唯は自分が言った言葉をその場で反芻して、何か見えていなかったものから霧が取り除かれていくような感覚を得た。
「……うん、やっぱりそうだよ。私達、ちゃんと夏音くんに言わなかったよ」
 何を、とまでは言うまでもなく一同は理解できた。
「これ好きじゃない、とか。ここはこうしたい、とか……夏音くんに伝えなかった」
「でも、あいつは……あいつのアイディアを否定するなんてできっこなかっただろ」
「ううん、りっちゃん。たぶん夏音くんは言って欲しかったんじゃないかな? 夏音くんいつもバンド楽しいって言ってた。ここにしかない音がある、って」
「本当に楽しいって?」
「うん。ていうかいつも言ってると思うけど夏音くん」 
「そうだったっけ?」
 記憶を引っ張り出すように視線をうろつかせて律が眉根を寄せる。
「そういえば、上手く言った時は『アヒャヒャヒャたーのしー』とか叫んでた気も……」
「夏音そんなだったか?」
 疑問を浮かべてからふとその様を想像した澪はぷっと噴き出した。向かいあった律もつられて笑いを堪えるような表情をした。
「つまり……私達が勝手に壁を作ってたってことか」
 覆い隠されていた答えをひも解くように、だんだんと自分達の問題の原因が見えてきた。その答えは誰もが以前から知っていたような気がした。
 プロだから。その言葉は呪いのような響きを持つ。彼女達にとっても、立花夏音にとっても。
 その一言だけで解消する物もあれば、その一言が壁となってしまうのだ。まさに軽音部をアチラとコチラで分けてしまう程の力をもって、立ちはだかってしまう。
 腕を組んで大きく息をついた澪は軽音部の中で一番初めに夏音の秘密を打ち明けられた時のことを思い出した。出会って間もなくの時だった。夏音は澪に秘密を打ち明けた際にこう言った。
 自分を立花夏音として見て欲しい。遠ざけないで欲しい、と。
 今になってその言葉が、その裏にある想いに気付いてしまったことが痛々しいほどに自分を責めてくる。
 誰よりも夏音と触れあっていたにも関わらずそのことを見出してやれなかったことに澪は苦々しい思いに顔を顰めた。唇をぐっと強く噛みしめて悔やんでも、後の祭りなのだ。
「いや……後の祭りなんかにさせない」
「は? 祭りがどうしたって?」
 唐突に突拍子のない単語を口にした澪にきょとんとする律。
「まだ遅くない。何を全て終わってしまった風に片付けようとしてたんだ」
 何かを悟ってしまったように淡い微笑みを浮かべ始めた澪を一同は怪訝な表情で見守っていた。彼女達の心配をよそに澪はガタンッと力強く椅子を引いて立ち上がった。
「みんな。誰が悪いとか、そういうのばかり話しても仕方ない。夏音に会いに行こう!」
「行くって……あいつ今日、仕事だって言ってなかったか?」
「そんなこと関係ない! 無理矢理にでも時間をつくってもらう!」
「み、澪ちゃん?」
 いつになく勇ましい態度の澪にムギが不安を覚えて声をかける。ぎらぎらと力強い光を備えた澪は非常に頼もしく見えるのだが、どこか無鉄砲な匂いもぷんぷんとするのだ。
「澪~急にどした~? 最初に言ったことはともかくお前らしくないぞ」
「はぁ!? 私らしさって何ですかねー。知りませんよそんなの!」
 口調もどこかおかしいし、と律は内心に募り始めた不安を力づくで散らしながら幼なじみを宥めた。
「わかったわかった。お前の言いたいことはよーくわかったから。とりあえず落ち着け、な?」
「これが落ち着いていられいでか!」
 ついでにハンッと鼻をすすれば完全な江戸っ子である。とりあえず律は時たまに暴走特急を化してしまう幼なじみがこうなったら最後、ゴールまで突っ走ることを十分に理解していた。
 そんな彼女を阻止することは、あまり成功したことがない。
「あ、あのなー澪? 夏音に話すのはもちろん私も賛成……ってか私が率先して言わないといけないくらいなんだけどさ。あいつは仕事だろ? もう仕事場に出かけたかもしれない。それが都内のプライベートスタジオとかだったらどうするんだ?」
「そ、そうか……そういう可能性は高いんだよな……ど、どうしよう」
 見る見ると青ざめて頭を抱えた澪を落ち着けようとムギが声を上げた。
「澪ちゃんひとまず落ち着こ? どちらにしてもすぐに夏音くんに会うことはできないと思うの」
「で、でも! のんびりしてたらなんかアレだろ!」
「うん。とりあえずメールか何かで時間をとってもらうようにしましょう?」
「あ………その手があったか」
 冷静なムギの指摘に手をぽんと打つと澪は顔を赤らめていそいそと携帯を取り出した。
「え、と……なんて打とう。話があるから今日会えるかな……いや、これだと何か恥ずかしい……今会いに行きます……じゃなくて、えーとえっと」
 その場の誰もが顔を赤くしたり青くしたりと忙しい澪を苦笑して見守っていたが、その内ムギがくすりと音を立てると、それが火を点けたように優しい笑いが広がっていく。それと同時に皆がほっと息をついた。
 ここに来て、やっといつもの軽音部らしい空気が戻ってきたのだ。こういう調子がないと軽音部ではない。
 事態が解決したわけでもなければ、根本的な問題はこれから取り組むのだが、それでも先ほどまであった居心地の悪い空気は消えつつあった。
「澪ちゃん。メールの内容はお茶しながらでも考えましょ?」
「で、でも電波の届かない場所に行かれたら気付かれないかもしれないだろ?」
「さっき学校終わったばかりよ? 焦って変な文章を送っても困らせちゃうかも」
「そうだよ澪ちゃん! とりあえず、お茶だよ!」
 唯のにっこり頬をゆるめての一言に澪の気持ちは凪いでいく。彼女の無邪気な笑顔は人を落ち着かせる効果でもあるのだろうか、と苦笑して澪はゆっくりと席に腰を下ろした。
「そうだな」
 ふぅと胸をおさえて落ち着きを取り戻した澪はムギに笑いかけて言った。
「いつもの、お願い」 
 心得た、と力強く頷いたムギは抑えていられない笑顔を貼り付けたまま急いでお茶の準備に取りかかった。
「それにしても会ったらまず何て言おうかねー」
「律の土下座からでいいんじゃないか?」
「夏音くんに土下座するの初めてじゃないしね!」
 あながち本気の目をしている二人に律の頬が引き攣った。






[26404] 第二十話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/08/22 14:54

 目にも鮮やかな薄桃色が穏やかな風に揺られている。満開の梅が咲き誇る公園に一組の制服姿の高校生がいた。ベンチに腰掛けた少年少女の姿は後ろから眺めてみるとまるで初々しいカップルのようで、お互いが絶妙な距離を保ったままベンチの端っこに座り合っているところなど、いじらしくも微笑ましい。
 しかし、正面から彼らを見た時に同じような感想を抱ける者はいないだろう。
 一人は黒縁の眼鏡をかけた真面目そうな少年で、先ほどから眼鏡の奥で揺れる瞳を頼りなさげに瞬かせている。時折、公園の風景に目をとめてほぅ、と目許を緩めるがちらりと真横にスライドさせた瞬間にやるせなく溜め息をつく。
 少なくとも、いかようにして自分が懸想する相手の気を惹けるかということで悩んでいるようには見えない。
 一方の少女は現実では珍しい縦巻の特大カールを風にたなびかせながら、時の戦国武将のような佇まいで背筋をびしっと伸ばしていた。少女の瞳には何が映っているのか、少なくとも眼前に広がる公園の美しい風景など目に入っていない。じっと正面を見据え、たまにふんすっと鼻息を荒げている。
 ふと公園に訪れた者はそんな彼らの姿を見て、いったいどんな関係だろうと首を傾げては、少女の尋常ならぬ威圧感に押されてすぐに公園を後にしていた。
 彼らの醸し出す異様なプレッシャーがことごとく他者を阻んでいるのである。そんな重苦しい空間の中で、ふいに軽快な電子音が鳴り響いた。少女は音の発生源である少年の方にすっと視線を向けると、少年は慌ててポケットから携帯を取り出した。そして、しばらく画面を眺めてから少女に言った。
「夏音くん。もう帰ってくるそうです」
「そう……いよいよね」
 少女はそれだけ呟くとすっとベンチから立ち上がった。その瞬間、一陣の風が吹いて少女の服をはためかす。
 これから出陣である、とでも言わんばかりの雰囲気を醸し出しつつ少女はとてとてと数歩前に歩み出る。それからじっとその様子を眺める少年に振り向くと、射貫くような視線をぶつけてから厳かな口調で、
「今からあなたを殴るわ」
「ってハイ!!? 何で!?」
「そして私を殴りなさい」
「いやいやいや! 一昔前の青春ドラマじゃないんだから! ていうかその意図がまったくわかりません!」
 少女のとんでもない発言に少年も思わず立ち上がった。情けないくらい声が上擦っているが、急に殴ると言われて平常でいられる者は少ないだろう。
「知れたことよ。気合いを入れる他にあるまい」
 きっと目を眇めて厳粛な態度を崩さないまま、少女は短く言い切った。
「何でそんな見た目で超体育会系なんですか! 嫌ですよ!」
 そんな理由で殴られるなど、まっぴらご免である。七海の強い反発を受けて少女の眉が厳しくつり上がる。
「何よ情けない。とある偉人はね、そうやって信者達に渇を入れてきたのよ。そして頬をぶたれた後にこう答えるの……ありがとうございます、と」
「あの……さっきから思ったんですけど、猪木大好きですよね」
 その割に故人扱いしているが。
「まあ、あなたがあまりにへにゃんとしてるから見かねたんじゃない」
「すみません。謝りますから、殴らない方向で」
「…………ふん。へにゃ××野郎ね」
 仕方ねーな、とヤレヤレなポーズを取られて少年は言葉を失いかけたが、何とか心が折れる前に踏みとどまった。
「あの堂島先輩。僕はあなたがいることを夏音くんには言ってないんですが、やっぱりなんか騙すような感じで心が痛みますよ」
 縦ロールをばさりと翻した少女、堂島めぐみは自分が立花夏音に話があるにも関わらず、初対面の後輩である七海に連絡をとらせた。
 何でもファンクラブの者が彼に連絡する日にちは決められているので、それ以外のコンタクトは許されていないのだという。どれだけ嫌がられているのだ。
「仕方がないじゃない。あなたの方が友人というポジションで近しいんだから警戒されないでしょ」
「いちおー警戒されるかもって自覚はあるんですね」
 めぐみはそれに答えず、再び大股でベンチに歩むとドカッと腰を下ろした。
 七海はその動作を見守ってしばらく立ち竦んでいたが、やがて自身も腰を下ろした。
 それから先ほどと変わらない状況に舞い戻ってしまった。先ほどと違う点は、横にいる先輩が憧れの人物ともうすぐ会えるおかげでウキウキとしていることだ。
 その横に仏頂面で佇む七海の頭の中はこんな一言で占めていた。
 今日は厄日である、と。
 何を隠そう、初対面の人物から傍若無人の振る舞いを受けたのは初めてではない。
 否応なく一人の少女の顔が頭に思い浮かんでしまう。つい先日、涙と共に桜高を旅立っていった女の先輩。
 彼女の存在はいつでも七海の心に重くのしかかってくる。外面だけは最上級のもので、それだけでなく成績優秀、眉目秀麗な上に仕事もできた。面倒見もよく誰にでも頼られ、好かれるような理想の先輩。一方でひたすら烈しい気質を七海に隠さず、どちらかというと七海にとってはとてつもなくおっかない先輩の筆頭であった。
 七海は、彼女のおかげで相当打たれ強くなったと自負している。彼女との日常的なコミュニケーションはたいてい痛みを伴ったが、それでも彼女が七海に与えてくれたものは悪いものばかりではない。
 一年という短い間にも色々あった。語り尽くせないほど特濃の、色々が。
 彼女が卒業式の日に自分に声をかけなかったことは七海の心の中に鈍い澱のような形となってしつこく残留している。
 取り払うことはできない、鈍い痛みが彼を苛ませていた。
 良くも悪くも強烈な人だったのだ。忘れることなどできないし、あの代の生徒会の先輩達がいなくなることは人並み以上に七海を悲しませた。
 今の七海に残っているのは漠然とした寂寥感。次第に暖かさを増す春の日差しと共に気分も落ち着いてくるかと思われたが、まだ七海の心を温めきるまでには至っていない。
 そんな中、現れた一人の少女が七海を現在進行形で悩ませていたりする。堂島めぐみはどことなく似ている気がしたのだ。姿形ではなく、この破天荒な一面が。そして、その奔放さが全て七海に対してはちゃめちゃな結果で働くという部分すらも。
 あの先輩が去ってすぐにこれはない、と七海は独りごちる。
 せっかく自分を叩きのめしてしまうような人間がいなくなったというのに、平穏な日々は自分に訪れないのだろうかと涙がほろりである。
 しかし、同時に沸き上がってくる気持ちを心の奥底に封じ込めるのに必死でもあった。
「ちくしょー」
 内心の一言が表の世界に漏れているとは知らず、七海は歯を食いしばっていた。隣でそんな七海の様子を横目で見ているめぐみには気付かず、ひたすらどこを見るともなく考え事をしていたのだが。
「ねえ、後輩」
「へ? 何ですか」
「あんたも悩みがあるなら聞いてあげようか」
「は……と、とつぜんなんですか! 僕に悩みなんて……ていうか今は夏音くんの悩みでしょう?」
「それは、そうだけど……」
 釈然としない様子で引き下がった彼女との間に沈黙が流れていく。
「風が……だんだん強くなってきましたね」
「そうね。春が近づいている証拠だわ」
「今年は桜の開花が遅いようですが」
「ええ。なかなか卒業式と同時に、とはいかないわね。先輩が嘆いてたわー」
「先輩にも、先輩がいるんですか?」
 言ってから頓珍漢な質問になってしまったことは自覚したが、七海としてはこの堂島めぐみから先輩、という言葉が出るとは思わなかったのだ。何となく。
「私にもいるに決まってるじゃない。それに私、部活にも入ってるから」
「へえ、そうなんですか。どちらの部活に?」
「バトン部と文芸部よ。文芸部の方はあんまり参加できてないけどね」
「へー、バトン……似合いそうです。なんかこう……くるくるした感じが。バトン部は綾部部長でしたよね。うちの先輩が仲良くてたまに生徒会室に来てましたね。あと文芸部……木村先輩とは何回かお話したかなあ」
「ああ生徒会だものね。あの人、変わってるでしょ?」
 あなたには言われたくないでしょう、という言葉は呑み込んで七海は頷く。
「木村文子。初見でよく文字って読まれるんだーって言ってたような」
「そう。文芸部にはぴったりだって。ペンネームは木村文字っていうのよ」
 そう言ってめぐみはおかしそうに体を震わせた。
「文芸部ってことは先輩も物語とか書くんですか?」
「私の場合は詩作とかが中心ね。小説も好きだけど、詩の方がより私らしさを出せるっていうか性に合ってる気がする」
「へえー。僕は創作の才能がないから憧れますね」
「そう? やってみればわからないわよ。意外に楽しいかも」
「そんなものですかね」
「そんなものよ」
 もしかしなくても、七海とめぐみは出会ってから初めて日常会話というものを行っていた。初対面から数時間、長い道のりである。
 数時間前までこんなとりとめのない会話を彼女と交わすことになるとは想像できなかったので、七海は小さな感動を覚えた。七海の周りは突拍子のない性格の人ばかりだが、どの人達もこういう普通な一面があるということを知る度、不思議な気持ちになる。どんなに風変わりな人だって結局は同じ人間なのだ。
 思えば中学の頃までは人と深く付き合ったことがなかったのだと気付かされる。高校に入り、一年を過ごして少しだけわかった人間というもの。以前まで、美人は美人という生き物で、人気者は人気者という生き物なのだと思っていた。
 それが今になってよくわかる。自分のような何の取り柄もないような地味な人間と根本的には変わらないのだと。
 風がまた強く吹き、制服の隙間に入り込んできた。肌寒かった風はいつの間にか温かい温度を孕んで心地良いものになっていた。
 これからこの公園を訪れる人物との間に何が起こるのか。不安は少しだけあるが、いつの間にか七海の心は少しだけ落ち着きが取り戻っていた。

 と思っていた頃が懐かしかった七海である。

 それから時間が幾分か進んだ。
 
 状況を整理したいと思っても思考が追いつかない。


 現在、目の前では堂島めぐみに襟元を締め上げられて青ざめている立花夏音の姿がある。彼を締め上げている張本人はというと、瞳を固く閉じて興奮気味に息を荒立たせている。彼女も自分がやっている行動を理解していない様子で、とにかく勢いの赴くままに憧れの人に恐喝体勢をとっているようである。

 どうして、こうなった。

 七海はそっと瞳を閉じ、目の前で繰り広げられる光景を視界から追いやった。
 なんとか落ち着いてあっちこっちにぶっ飛んでいる記憶を手づかみでたぐり寄せてみた。
 あれからしばらくして、立花夏音は公園に現れた。滅多にお目にかかれない私服姿の彼はどう考えても女物の洋服に包まれていたが、そこは力を振り絞ってスルーした。似合っているから、いいやと自分を最大限に妥協させた。
 今は洋服の問題ではない。
 プライベートスタイルのまま、しぶしぶといった様子で現れた彼はまずベンチに座る七海の姿に目を止めた。そして当然のごとく、七海の隣で仁王立ちしている少女の方へ視線をずらす。
 瞬間、決まった彼のUターンはそれはもう華麗なものであった。おそらく脊髄のみを介した反射的な動きだったのであろう。
 ズババッと公園からエスケープを試みた彼は俊足といっても誇張ではない速度を出した。そういえば体育の短距離走だとクラストップだったのを思い出した七海は、その時点で会話もままならずに話合いは終わってしまったのだと確信した。
 その後、カール・ルイスを彷彿とさせる綺麗なフォームで公園を駆け抜けていくめぐみが一瞬で彼にいともたやすく追いついてしまうまで、少なくともそう思っていた。
 彼女が夏音にタッチした瞬間、「ギャーーーー」と叫んでピタリと足を止めた彼が恐る恐る振り向いて捕捉者を見詰める表情には恐怖以外の何も存在しておらず、慌てて二人に近づいた七海はさらにめぐみがとった行動に仰天するのであった。
「か、夏音さん逃げないでください!」
 彼女としては心から逃げて欲しくなかったのだろう。だから彼の逃走を防ぐために彼をがっしり掴むことは間違いではない。
 ただ、その掴み方がどうして彼の首を締め上げることになるのだと七海は疑問を放たずにはいられなかった。
「何故っ!?」
 最早、ミラクルである。友人を慮る以前に魂の底からわき上がった叫びは悲しきかな、無視された。
 それからしばらく会話も何もなく、七海が短い回想をしている間、ガッチリと彼をホールドした手を緩めないまま時が経つ。
「………ハッ! 私ったら!」
 急に純真無垢な少女のような声をあげためぐみは自分の手がしでかした粗相に心底驚いた様子だった。慌てて手を離し、夏音を解放するや彼から飛び退いた。
「夏音さんごめんなさい! つい!」
 つい、では済まない気がするが、七海はザ・恐喝スタイルから解き放たれた夏音がすぐに逃げ出すのではないかと彼の行動を見守った。しかし彼のとった行動は七海の斜め上のさらに大気圏を越えたあたりに突っ込んでいった。
 表情を無くした彼は油の切れたカラクリ人形のようなぎこちなさでふらふらと立ち上がると、おもむろに尻ポケットから財布を取り出した。
「す、すいません……これで勘弁してください」
 そして財布を両手で献上するように差し出し、頭を下げる。
「えぇーーっ!!?」
 いっそ潔いくらいの逃げの姿勢。立ち向かうどころか全力で後ろ向きに向かっていく夏音の対応に七海は驚愕を露わにした。
 そしてその姿がどういうわけかやけにサマになっていることに愕然とする。
「やめてください! そういう冗談はいくら私でもきついです!」
「いや。わりと堂に入った姿でしたが先輩」
 まず、冗談には見えなかった。今日一日の彼女がとった行動にセットでついてきそうなシーンではないか。七海はいつ彼女から財布出せ、と言われるかドキドキだった。
 逃げる相手を捕まえて首を締め上げるという行動を無意識でやってのける人材としては、割と慣れてんじゃないの? とか言ったら流石にブチギレられそうだったので七海は口を噤んだ。
「今日は私が彼に頼んで夏音さんを呼び出してもらったんです」
 七海の方を指さして述懐しためぐみはさらに続ける。
「私……夏音さんが抱える悩み、わかってあげられると思います」
 言い切った。どこからその自信が湧いてくるのだろうかと七海は呆れたが、彼女の言葉はどこまでも本気だった。自分の発言を何一つ疑っていない者だけが出せる言葉の強さがある。
 顔を上げて財布をしまった夏音は、七海の方にちらりと視線を向けてから彼女をじっと見詰めた。
 怒っている風でもなければ、悲しむ様子もない。ただ、ひたすら彼女に対する感情を持て余しているようなに困惑したまま口を半開きにしている。
 やがてそっと瞼を閉じて、息をついた。
「めぐみちゃん……そんな大事じゃないから大丈夫だよ」
 その言葉のどこまで嘘なのか、七海には判別がつかない。自信をもって彼を判断できるほど七海は彼を理解しているわけではない。
 ただ、何となく。
 彼がこの場を逃れようとしていることはわかった。つまり、七海がわかることを彼女が看破できないはずもなかった。
「嘘です。大丈夫じゃない人ほど大丈夫って言います」
「…………」
「お節介だと思いますよね。たかがファンクラブの会長が……たかが凡愚が何を言ってんだろって」
 卑屈すぎだろ、と七海は心に思った。
「そんなことはないよ! 決して、誓ってそんなことはない。俺は誰の言葉だろうと自分を想ってくれる言葉に優先順位はつけないよ」
 少しだけ語気を強めた夏音が否定の言葉を返す。めぐみはあくまで真摯な態度を貫く彼に予想外そうに微笑んだが、すぐにぎゅっと表情を引き締めた。
「私は……ずっと考えてました。私があなたの大切なものになれることはないだろうけど、私の大切な気持ちを受け取ってくれる方法を」
「大切な気持ち?」
「たぶん、あなたが真剣に耳を傾ける言葉を持つ人には私はなれないんだと思います。悲しいけど、それでもいい。一方通行でも、いい」
 要領を得ない言葉を紡ぐ彼女の言葉にも夏音は真剣に耳を傾けていた。真っ直ぐに視線を彼女に向け、その言葉を体に入れようとしている。
 七海はめぐみの言葉を聞いてそうではないんじゃないか、と思う。こんな風に、彼はめぐみに対して真剣だというのに。それともめぐみが言っている真剣な言葉とは別の意味を持っているというのか。
「悩んでいてもあなたが腹を割って話せる人は、ここにはいないでしょう?」
「………そんなこと……」
 ない、と続けようとした彼の言葉はそのままにしていたらどう続いていたか定かではない。それでもめぐみは彼の言葉に被せるように強く言い放った。
「あるでしょう? だって、あなたは遠くから来たんですもの。遠すぎて、遠すぎて……こんな場所にいて誰が味方なんですか?」
「君はさっきから何を言ってるの?」
「この後輩から」
 と再び七海を指さし、
「夏音さんと軽音部で起こったことはだいたい聞きました。何が起こったのか、この後輩はよく分かってないみたいだけど、私にはわかります」
 単刀直入にそう続けためぐみは視線を揺らがせることなく、彼を見据えている。それに対して夏音は表情の選択に窮しているようで、感情の狭間を行ったり来たりしているような印象を放つ。
「みんな、わかんないよ……きっとわかんないんだ」
 どこか危うげな響きを含みながら夏音は震える唇を動かして言葉を紡いでいく。
「時々、とても辛くなる。ここじゃない場所に逃げたくなる」
「あなたの言う逃げ場所は………逃げるための場所なんですか?」
「……そうであってはならないんだろうけど……結局、今はそうなっちゃうんだろうね。すっかり逃げ癖がついちゃったみたいだ」
 自嘲するように微苦笑してから夏音はふっと空を見上げる。太陽は雲に隠れているのに、眩しそうに目を眇めた。そして彼の瞳と同じ色の空をすぐに視界から追いやり、再びめぐみの顔に視線を戻す。
「ま、すっかり自己嫌悪なわけですよ。実際ね」
「今のあなたはそんな風に笑うしかないんですね」
「人間って本当に困ったらたいていこんな表情になるんだよ」
「私は……あまり好きじゃありません。夏音さんにはいつも素敵な笑顔でいて欲しいから」
 偽物くさい笑顔を貼り付ける夏音とは反対にめぐみの表情は曇っていた。彼女は心から悲しそうにうるんだ瞳を夏音に向ける。
 それから意を決したように彼女は自身のとっておきの言葉を出した。
「カノン・マクレーンさん」
「え……なん、で?」
 限界まで瞳が見開かれた状態で固まった夏音は、得体の知れない物を見るような目つきでめぐみを凝視した。
「……知ってますよ……知ってましたよ、私」
 静かな口調で告白するめぐみは辛そうに笑った。
「知ってたに決まってるじゃないですか」
 今度はからっとした口調で、それに似つかわしい笑顔で。
「う、うそ……君が、知ってたのに……どうして?」
「だってあなたが隠そうとしてるのに、私がそれを明らかにするはずないですよ」
「え……ていうか……えっ!? マジで知ってた感じで!? いつから!?」
「えっと……あれは私が小学生の時だから七年前ですね」
「超前じゃん!」と悲鳴まじりに叫ぶ夏音。
「それはもう。私はこの学校では誰よりも早くから夏音さんのファンだったわけですね!」
 それが彼女の誇りなのだと言うように胸を張るめぐみ。そんな彼女をまじまじと見詰めていた夏音はショックが抜けきらない様子である。
「ちょっと……ちょっと整理を」
 夏音は眉間を押さえながら、呟き始めた。
「いや、待てよ……彼女は知っていてファンクラブに……でも、あれ、何かわかんないや……Oh my…」
 それから頭を抱えて英語まじりの独り言を続ける。明らかに小パニック状態に陥っていた。
「あのー夏音さん。これには事情がいくつかあってですね」
「な、ならそれを話しなさいよ!」
「は、はい!」
 なんだか自棄になっている節が見られる夏音がそう言うと、めぐみは慌ててその事情という物を語り始めた。
「ちょ、ちょっと長くなっても?」
「いいから!」


 堂島めぐみの両親は互いに一流企業の第一線で活躍する働き人である。働き人、と言えば聞こえはいいが、それが純粋に社会人という言葉を指して終わるものではなかった。
 典型的な仕事人間の父親だけでなく、女身一つでコネを使わずにゼロから現場たたき上げで現在までの地位を築いた母親もそれは見事な仕事中毒を患っていたのである。
 めぐみは母親がどんな過去をもって、そうなったのかは知らない。それでも、めぐみの目には何かに取り憑かれたように仕事に向かう両親の中でも、母親の姿はとりわけ異常に映った。めぐみは時折、仕事に依存する自分の母親はそれに縋り付かなければ死んでしまうのではと思う時がある。
 実際、彼女は彼女が産まれてからも、すぐに子育てをベビーシッターに預けて遅れを取り戻すかのように働きづめだったらしく、さらに父親は家庭をまわすことに興味がない。幼少時に家族で団欒した記憶はほとんどない。
 絵に描いたように冷え切った家庭環境である。夫婦は互いに仕事と婚姻を結んだかのように振る舞い、一人娘にかける愛情との比率を数値に表したら世にも残酷な値が明らかになるだろう。愛が皆無かと言えば、そうでもないが感じられる温もりは極々わずかなものである。
 彼女は幼稚舎で出来た友達と互いの家で遊んだ記憶もなく、母親よりも遙かに年上の家政婦しか話し相手がいない幼少期を過ごした。それからエスカレーター式であがった小学校も似たようなもので、家に友達を招くことは原則的に禁じられていた。
 両親はめぐみが朝起きる前に出社して、夜は彼女が就寝してから自宅に帰るので、平気で一週間ほど顔を合わせないというのも稀ではなかった。両親のどちらかが家にいる間のみ、めぐみは友達と遊ぶことを許されていたが、そんな状態で彼女が友達の家に遊びに行くことは数えられるほどだった。
 このように唯一の肉親との繋がりすら希薄な生活に、幼い彼女の心が冷え切ってしまうのも無理はなかった。彼女は滅多に笑わない子供になり、次第に心を閉ざしていくようになる。
 あまり笑わない不気味な子供。いつの間にかそんなレッテルを貼られていることも知らず、彼女は与えられた籠の中で順調に育っていた。
 彼女の世界は学校、自宅、そして週のほとんどを埋め尽くす習い事だけで、それもいつの間にか両親に始めさせられたものだった。
 英会話、茶道、華道にピアノ、フルートに水泳、合気道。深窓のお嬢様の道を地で突っ走るようなお稽古リストである。そこに両親のこだわりがあったのかは分からない。
 彼女にとっては強制的に始めたものであったが、それでもただ一人でいるよりかは何倍も輝いている時間であった。茶道と華道はあまり性に合わなかったが、思い切りプールで泳ぐのは気持ちが良かったし、足の裏が擦りむけてボロボロになっても優しくも厳しい道場の先生や気の良い門下生と一緒にいられる合気道は彼女の救いとなった。
 ピアノやフルートは音楽の世界に没頭するというより、次々と難しい曲を弾きこなしていくだけの作業に思えてあまり好きになれなかった。
 決められた時間以外のテレビを観ることは許されず、流行の音楽シーンはまるで彼女の耳に入ってこない。当然、クラスメートが話すアーティストの話についていける筈もなかった。
 めぐみにとって音楽は好きになったり嫌いになったりするものではなく、与えられたノルマをこなしていくだけの作業の一環でしかなかったのである。前より早く指を動かせるように、難しいリズムを完璧にする。
 失敗したら怒られる。怒られないように弾く。
 ピアノの先生は外国の音楽用語を連呼してはめぐみを責めることもあり、少なくとも楽しいとは到底感じられないものだった。
 世界が色づいて見えることはなかった。
 物心がついてからめぐみにとって世界は常に色彩を欠いたモノトーンが支配していた。
 生まれた時からそこにある世界を人はどう受け取るのだろうか。それ以外の世界を知らない子供はそれを当然のものだと認識するに違いない。だがめぐみは同い年の子よりは遙かに本を読む子だったので、自然と思考も進んでいく。
 彼女は今、自分が享受している世界は何なのか。何故、自分は自分として生まれたのか。クラスの子たちが話すエピソードを皆が当たり前のように共有しているのは何故か。
 誰も答えてくれない疑問に取り憑かれた。
 常に考えても彼女は答えを出すことはない。答えは出ずとも、今の状態が正解であるはずがないということだけは分かった。


 そんな生活を送る中でも、一家が揃って出かける機会はあった。年に一度、家族で海外にバカンスへ行くのが堂島家では習わしとなっていて、その時間だけは両親が仕事に出て行くこともなく、形だけでも団欒を味わうことができた。
 ある年。めぐみの人生を大きく変えるその年はアメリカの西海岸を巡る旅だった。
 西海岸を北から南へ列車を使う度。オレゴンの田舎からカリフォルニアまで海岸沿いに向かい、ロサンゼルスへと辿り着くと、そこで有名なコンサートホールで行われるコンサートを観に行く予定であった。
 コンサート自体は全くもって興味がなかったのだが、めぐみにとって予想外だったのは、それがクラシックのコンサートではなかったことだ。
 クリストファー・スループ・ビッグバンド。ベース界の巨匠がビッグバンドを引き連れて演奏を行うのだ、とめぐみの父親が隠しきれない興奮を滲ませて語るのが不思議で仕方がなかった。
 自分の父が音楽にそこまで興味があるとは知らなかったし、めぐみにはクラシック以外の音楽を禁じているくせに自分ばかりズルイと思ったりもした。それ以前に父親が子供みたいにはしゃぐ様子が珍しく、同じように楽しみだと首肯した母もいつもと違った様子であったことに小さく驚愕した。
 後に分かったことだが、この二人は音楽の趣味がよく合うらしい。それが交際のきっかけにもなったほどだそうだ。
 そんなことを露ほど知らずにめぐみも次第にこれから観に行くコンサートに強く惹かれていった。
 あの両親がそれほどまでに夢中になる音楽家とは、いったいどんなものか。
 コンサート当日。クラシックやオペラを観に行くわけではないとしても、最低限のドレスコードはある。めぐみは普段、滅多にできないおめかしを施されて会場に連れられていった。
 ドロシー・チャンドラー・パビリオン。ロサンゼルス・ミュージックセンターの中にあるアカデミー賞授与式に使われたこともある歌劇場である。
 会場は三千以上の座席が備わっている広壮な造りで、少しでも手を離したら迷いそうだった。めぐみは母親と手をつなぎながら、ぞろぞろと会場に呑み込まれていく観衆に圧倒されていた。
 周りにいる客は言わずもがな、外国人。こんな所で一人になってしまった暁には、二度と日本には帰れないかもしれないと考えためぐみは、しっかりと母親の手を握り直した。
 入場する客の流れも落ち着き、開演まであと三十分ほどのことだった。会場に圧倒されてソワソワしていた彼女は自分が自然と下腹部に力を入れたままだということに気が付いた。人間として誰もが催す生理現象だ。ここで我慢したりすれば、開演後ずっと地獄を見るハメになる。挙げ句粗相をしてしまったらたまらない。
それで素直にトイレに行きたいと母親について来てもらったのはいいものの、彼女の母親はとんでもなかった。
 化粧室の鏡の前でじっとめぐみを待っていた彼女だが、ふと携帯の着信音がトイレに鳴り響いたと思うと「あ、いけない。電源切ってなかったわ……はい、私だけど」電話に出た。
 用を足す最中だっためぐみはこれに愕然とした。電話に出たまではいいが、個室の外にはうろうろと歩き回る母親の話し声がそろそろと遠のいていくのだ。
「え、お母さん………お母さん!?」
 トイレの中からいくら叫んでも母親の応えはない。用を足し終えた彼女は急いで個室から出たが、母親の姿はそこにはなかった。
「お母さん?」
 最低限のマナーとして手をちゃっと洗うと、めぐみはトイレから出て母親の姿を探した。しかしどれだけ辺りを見渡してみても見覚えのある人の姿はない。
この時、実は背の高い外国人ばかりで見えなくなっていただけで、めぐみの母親はすぐ近くにいたのだが、そんなことはこの時のめぐみに分かるはずもない。
 迷子になるまい、と決意していた矢先の出来事だった。軽くパニックになった彼女はそのままふらふらと母親の姿を求めて歩き出した。
 おそらく人生初の迷子に恐慌状態の彼女は泣くわけでもなく、ただひたすらに「怒られるどうしよう」と嘆いていた。先ほどから自分に突き刺さる肌と瞳の色が違う人々が怖かったこともある。
 無意識のうちに足早に会場内を歩き、気が付けば人気のない場所にいた。
「ここ、どこだろ……」
 先ほどまで関係者と思しき人間や観客の姿があったのだが、歩いている内にすっかり奥行った場所へやって来てしまったらしい。
 とりあえず母親はこの場にいないだろうと思い、来た道を戻ろうとした時だった。
「Hey」
 その時、めぐみの耳朶に触れた声は不思議と彼女の中にすっと入り込んだ。両親のものではない。この異国の地で自分に声をかけてくる人間に安心感を抱けるはずがないのに、どうしてかそのどこか幼く、甘い声の主は悪い人ではないと感じた。
 顔を上げると、そこにはめぐみが今まで見たことのない綺麗な生き物がいた。まるで物語に登場する妖精だとかお姫様なんです、と言われた方が納得できるくらいその美しさが浮き世離れしている。めぐみは思わず口を半開きにして惚けてしまった。
「ふぁ……」
「What`s you up to?」
 だが、その生き物は妖精ではないらしい。可愛らしく小首を傾げてフランクな笑みを浮かべながら何かを尋ねてきている。その容姿にぼーっとしてしまっためぐみには何を言われたのかすっかり理解できなかった。
 彼女、のはずだが。思わず言葉をなくしてしまうくらいの美少女なのに、燕尾服を着ている。襟元を飾るちょこんとした蝶ネクタイが微笑ましい。こんなに美しいのだから自分のようにスカートを履けばいいのに、とめぐみは暢気に考えた。
 めぐみが何も喋らないでいることに少しむっとした様子の彼女はしばらくじーっとめぐみの顔を見詰めると、自信なさげに声を出した。
「Uh……Japanese?」
「イ、イエス!」
 英語を習っているとはいえ、土壇場でネイティブと会話できる度量はめぐみにはなかった。だが、彼女が疑問系で話した言葉くらいは理解できる。
「あー日本人!!」
 すると、どうだろう。なんと明らかに外国人の子供から流暢な日本語が飛び出してきた。と思った途端、彼女はぱぁっと瞳を輝かせ、めぐみに体を寄せてきた。
「こんなところで日本人に会うなんて!」
 唐突に距離を縮められたことにびくっとしながら、めぐみは言葉が通じることに安堵した。
「え、えっと……日本語うまいね?」
「Daddyが日本人だからね!」
「そ、そうなの」
「君は一人なの?」
「うん……お母さんがはぐれちゃって」
「迷子だね!」
 太陽のように輝かしい笑顔で馬鹿にされた気がした。めぐみは事実、そうなのだから腹を立てることもなく頷いた。
「元来た場所わからない?」
「ううん。来た道を戻ればいいから」
「君のMomも探しているかもね。アナウンスでもかけてもらう?」
「いらない。たぶん席に戻ってるかも。お父さんは席にいるから何とかなるかもしれないし」
「ふーん……ねえ君、すっごくつまんない顔してるねー」
「……………っ」
 無垢な響きをもったその疑問にめぐみは言葉を失ってしまった。白色人種に比べれば日本人は平坦な顔をしているだろうが、そんなにストレートに訊かれてもどう答えろと言うのだろうか。自分の顔に特別コンプレックスはないが、この時ばかりは自分の顔を覆い隠したくなった。
「余計なお世話よ」
「あれ、怒った? 怒らせること言ったかな……」
 しらをきるか、この……とめぐみの顔がさっと赤らむ。頬をかいて苦笑いをする彼女はしばらくむっと押し黙るめぐみの肩をぱんっと叩いた。
「ごめんね! 何か悪いことしたみたいだから、お詫びをさせてよ!」
「お詫び……何するの?」
「今日、俺も演奏するんだ」
「え……?」
 めぐみは我が耳を疑った。目の前の少女がこれから開始される演奏に参加するというのだろうか。何千人もがお金を払って観にくるコンサート。めぐみの両親でさえワクワクと胸を躍らせている(ように見える)このプロのコンサートに自分とそう年が変わらないような少女が出演するなどとはにわかに信じがたいことであった。
「嘘よ。今日のコンサートはすっごーい人たちが出るんだってお父さんが言ってたもん」
「嘘じゃないよ。俺だってプロだもの」
「あなたが? 子供なのに」
 めぐみは疑りの目を不躾に彼女にぶつけた。めぐみの中では、プロの人達は皆大人の人、というのが常識だったのだ。
「子供でもプロになれるんですー」
 未だに自分の言葉を信じないめぐみに彼女は口を尖らせて目を眇めた。
「オーケィ。だったらお詫びもかねてリクエストを聞いてあげる!」
「リクエスト?」
「うん。俺のソロがあるからその時に君の好きな曲をやってあげる。あ、知ってる曲じゃないと無理だけど」
 堂々と俺のソロ、などと虚勢を張る彼女に対してめぐみはふん、と鼻をならした。あくまで出演者などと言うのであれば思い切り無理難題を押しつけてみようと意地悪く考えた。
「………おにび」
「What? Oni…?」
「鬼火! リストよ。全く期待してないけどできるものならやってみてよ」
 こんな綺麗な子に何て意地悪を言っているのだろう、と言ったそばから自己嫌悪をするめぐみだったが、一度発してしまった言葉は飲み込めない。
 ぽかんとしているその少女を放って席に戻ろうとめぐみが踵を返すと、後ろから慌てたような声が追いかけてきた。
「ちょっと待って! 君はそのオニビっていうのがいいんだね!? 好きな曲なの?」
 途方に暮れているだろうと踏んでいたのだが、意外にへこたれていない。その外見に加えて根性まで据わっているなんてとんでもない。
 めぐみはそっと首だけ動かして振り返ると、
「リストは好き。弾けないけど、先生が前に弾いてたのが格好よかったの。超絶技巧練習曲第五番。変ロ長調……あなたも聴いてみるといいよ」
 手短にそれだけ言うとめぐみは歩幅を大きくしてその場を去った。去り際に「え、へんろちょーちょーってなに!? なーにー!?」という叫びが聞こえた。放っておいた。
 席に戻る前にトイレの前を通りがかると、母親が電話越しにガミガミと怒鳴っている姿があったので一安心して先に座席についた。
 開演まであと僅かの時間しかない。場内はオペラやクラシック会場のような静寂が保たれているわけではなく、開演間近の興奮のせいでかなりざわめいていた。
 めぐみはふと目を閉じ、網膜に焼き付いて離れないあの鮮烈な「色」を思い返していた。輝けるブロンドに夏の碧空のような澄んだ瞳。おまけに何故か男っぽい口調。
 家族もさぞかし美形なのだろう。そんな周囲に取り囲まれていたら自分の顔がつまらないというのも無理はない。
 彼女がもしも……万が一にでも本当にステージに上がるとして、自分のリクエストした曲を弾けるはずがない。そもそも、彼女が何の楽器をやっているのかも知らないのだ。
 本人もそこを最初に言っておくべきだと思った。
 めぐみがそんな風に思索に耽っていると、会場の照明が一気に暗くなる。会場中に爆発したような歓声と拍手が沸き上がると、いつの間にかほとんどの人間が立ち上がって一点を見詰めていた。
 
 ステージが始まる。

 一言で言えば、圧巻だった。
 ドラムのカウントの後に続く重厚なブラスの音が壮大なステージの幕開けを会場に知らしめた。その時点でめぐみはあらゆる感情がごちゃまぜになって皮膚が粟立つのを止めることができなかった。とんでもない音圧。ほとばしる何か、目では捉えられない熱を持った何かが大気中を暴れていた。
 生でエレキギターの音を聴くのも初めてで、次々に始まるトランペットやサックスのソロに会場は序盤からヒートアップする。
 初めて直に触れる音に圧倒される中で、めぐみには決して耳に離れない音があることに気が付いた。
 ステージの上を縦横無尽に歩き回りながらベースを弾く男。びしっとした白いスーツに身を包まれた壮年の黒人男性こそがクリストファー・スループなのだと本能的に理解させられた。
 これほどまでに大人数のプレイヤーの中で決して埋もれることはなく、演奏を支える重低音。変幻自在な音は時に最前線に飛び出てきて好きなように様々な楽器と絡んでは、他の楽器を際立たせるような裏方にまわる。
 巨匠。こんな言葉が頭に浮かんだ。オーケストラの指揮者のようにタクトを振っているわけではないが、彼がこの音楽家達をまとめているのだ。
 とりあえず彼が何をやっているのかめぐみに分かったところはそんな所である。後はもう見識の遙か上をぶっ飛ぶようなプレイでめぐみの心を震わし続けるのであった。
 気が付けば、万雷の拍手と共に演者達がステージの奥に下がっていくところであった。結局、演者の中にあの少女の姿を見ることはなかった。やはりハッタリだったのかと肩を落としたところで、この演奏が終わってしまうことは残念で仕方がなかった。
「もう終わりなの……」
 誰に尋ねるともなく呟いた一言にめぐみの父親が反応した。
「いや、ファーストステージが終わったのさ。セカンドまで少し休憩なんだ」
 次いでにベースの人がクリストファーなのかと訊いたら、そうだと答えてくれた。
 それから今のうちにトイレに行く、と席を離れた父親を見送ったところでめぐみは気持ちの奥深くに疼いている小さな感覚が気にかかった。
 淡く、くすぐったいそれが何であるのかめぐみには分かる。次のステージで彼女が出てくるのではないか、と期待しているのだ。
「でも本当かな」
 人のことを言えないが、あんな子供が今の演奏の中に入っていけるなど到底信じられなかった。
 それでも、と彼女は自分の胸をそっと押さえる。
「あの子の演奏、聴いてみたいな」
 純粋なる好奇心。自分とそう変わらない年の子供が奏でる音はいったいどんなものだろうか。
 めぐみの周りには彼女と同じようにピアノを習っている子が多くいる。お嬢様学校なのだから、当然のことだ。めぐみより遙かに卓越した技術を持っている人などざらにいる。それを鼻にかけたりしなければ、純粋にスゴイと思えるのだが。
 何となく。
 先ほどの少女はそんな子たちとは違うような気がした。種類が違うというか、生きている世界が違うというか。
 おそらく彼女は自分の抱える瑣末な悩みとは無縁なのだろう。勝手な憶測でしかないが、自分と違う生き物なのだということくらいは先ほどの一瞬の邂逅だけでわかる。
 彼女は、こんなつまらない世界には似合わない。
 ステージの上にいたらどれだけ輝ける光を放つのだろうか。それが見たい、強くそう思ってしまうのだった。
 セカンドステージは少しだけ編成が変わっていた。休憩中にカーテンの向こうで何やら物が移動したりする音がしていたので、おそらくスタッフが機材を替えたりして動いていたのだろう。
 変わったのはホーンセクションの人数だったり、またギタリスト自体が別人になっていたり、細かい所ではアルトサックス奏者がピッコロに持ち替えていたりした。
 それでも、ベースだけは何があっても変わらない。そう思っていた矢先のことだ。
「Ladieeeeeeees and Gentlemeeeeeeeeen!! Here comes my little-little......pretty……bass maestro!!」
 クリストファーがマイクの前に立ち、会場中に響き渡るような低音ボイスである一点を指し示した。
「Mr.Kanon McLean!!」
 またもや会場が沸き立った。瞬間湯沸かし器のように一瞬で沸騰して落ち着いてを繰り返していた会場だったが、この時は一際目立って歓声が飛んでいた気がした。
 人々の歓声の間を縫って現れたのは、
「あ、あの子……」
 先ほどの少女だった。
 彼女が抱えている楽器を最初はギターだと思ったのだが、弦の太さを見る限りベースらしい。弦が六つあるベースを抱えた彼女は満面の笑みで観客に手を振りながら、悠々とクリストファーの方へ歩み寄って握手してからハグをした。
 そこで二言くらい言葉を交わした後に、彼女はアンプに近づいて少しだけつまみをいじってからステージの中央にクリストファーと並び立つ。
 会場が鎮まると同時にキーボード奏者がブルージーなピアノを叩き始めた。八小節後に全ての楽器がそれに参加する。
 ベースが二本になって何が変わるのだろう、と一瞬でも侮っていた者は次の瞬間に顎を外したのではないかとめぐみは確信する。
 自分もその中の一人になりかけたので、聴衆の声なきどよめきはしっかりと理解できた。
 ベースのスライドが甲高く伸びた瞬間、二人のベーシストの速弾きが始まった。
 指が五本で足りるのか、というくらいの速さ。隙間のない音の洪水が客席に押し寄せる。
 クリストファーの包み込むような大らかさと根底にある芯の太い音に対して彼女の音はどこまでも自由でフラットな、それでいて心臓にどくんと響いてくる真っ直ぐな音だった。華麗なステップで舞う踊り子のようにメロディの中をくるくると回って魅了する。
 一方が音階を駆け上がるとそのすぐ側でつかず離れずの状態でハーモニーを創る。そうかと思えば、対旋律で駆け下りてきたりと信じられない技巧の数々が繰り広げられていた。
 正直、桁違いだった。
 クラスの子、なんて考えていた時期が馬鹿馬鹿しい。次元が違いすぎて、比べようもない。
 彼女はその存在をベースの音に溶かして世界に放射しているのだ。
 その時、ふと目に飛び込んできたものをめぐみは錯覚かと思った。瞬きを繰り返し、目をこすってみる。
 また、きた。
 視界の中に、というより視界の奥に不思議な現象が起こった。音が色になって見えるのだ。
 それは極彩色だったり、柔らかいクリーム色だったりする。それでも一番強く主張してくるのは眩くもずっと見ていたくなる黄金色の鮮烈だった。
 二人の速弾きは終わり、彼女のソロが切なくも軽やかに流れていた。
 まるで夕陽に浮かぶ小麦畑に連れてこられたような郷愁と根源的な慈愛が絡み合った情景がめぐみの奥底に入り込んできた。
 色褪せた世界に瞬く間に色が塗られていく。
 いつの間にか頬が少しだけ濡れていることにも気付かずに、伝い落ちていく涙をそのままにしてめぐみはステージに捉えられていた。
 距離だとかを破って空間を突き抜けた音はめぐみの心の琴線を強烈にかき鳴らした。
 それからジャズのスタンダードだと紹介された曲が幾つか過ぎていくと、ふと彼女がスタンドマイクの前に立った。
「I dedicate this play to you」
 この曲を君に捧げる。ハッキリと理解できた英語にはっとした。彼女が言う君とは自分のことだ。
 彼女は会場の中にいるめぐみを探すように辺りを見渡すと続けて、
「笑ってごらんよ」
 日本語で、はっきりと言った。次の瞬間、彼女にスポットライトが絞られて宙に浮かんだ姿がゆらりと陽炎のように揺らいだ。
 一つの音が生まれた瞬間、この場所に宇宙が生まれていた。
 今度こそ、めぐみは悲鳴を漏らしていた。
 これはピアノ曲の中でも難易度が高い練習曲で、題名に超絶技巧と名がつく通りにとんでもない技巧が詰まっている。それをベースで弾いてしまう人間がこの世にいるとは思わなかった。
 神の速度で音が次々に生まれ、音と音の境界線がなくなってしまっている。重音のトリルが聞こえてきたような気がして、めぐみは気絶しそうになった。
 ベースであの演奏が可能なのか。裏で機械が弾いているのではないかと疑っても、目が、耳が、肌がそれを否定する。間違いなく。永久に続くような音の連続はこちらに呼吸することを忘れさせ、彼女の音に引きずり込んでくる。
 凄まじい音が急に止むと、ゆったりとした美しい旋律へと変わる。どうやら原曲通りに弾いているわけではなく、大まかな音をなぞってほとんど彼女の即興らしい。
「やっぱり……」
 また瞼の裏に現れる色の奔流がその正体をめぐみに悟らせた。
 それは彼女の魂の色。ソウルと呼ばれる不可視のエネルギー。人から人へ空間を通じて伝わる魂の力なのだ。
 力を振り絞って周りを見渡してみると、口をぽかんと開けた状態の人ばかりだった。両隣の両親までもが手のひらで口を覆い、目を押し開いて硬直していた。
 皆の魂を捉えてしまうような力がどうしてあの細腕から生まれるのだろう。楽器から彼女の力に共鳴してどこまでも増大していくかのようだ。
 滲んでいく。深いところまで。
 彼女は奇妙な高揚感に包まれて、息が上気していくのを止められなかった。
(なんだろうこのキモチ)
 おそらく忘れかけていた。めぐみがこうなる前は、僅かでもあったはずなのに、なくしていたものが手に触れた。
 確実にそれは上昇してどんどん高まっていく。
 めぐみの奥深くまで浸透してきた不思議な力はやがて彼女の固く閉じられていた何かをこじあけた。
 音の力は重力を増したように身体を押さえつけてくるのに、ナニカが。
 せり上がってくる。
 めぐみは自分の心の中にうずくまっている黒い物の存在に気付いた。今、彼女の中に入り込んできた音の力がそれを真っ白に染めていく。
 めぐみの中の何かが羽を広げ、飛翔するように力強い羽ばたきを起こす。この身の内に、立ち昇る感覚が全身から今まさに抜けだそうとしていた。
 それからの現実としての感覚を彼女は覚えていない。
 既に彼女の精神は歴史あるコンサートホールの中になどいなかった。
 彼女は光輝く大空へと駆け上っていた。大空には全ての色が渦を巻いて彼女を待ち構えていた。
 やがて彼女はその色に溶け合い、調和して世界に広がっていく。ここにない景色の中を光の速さで飛び交い、この世の美しいすべてのものを体中で感じていた。
 魂が肉体を飛び出して、世界を旅する。
 それを可能にしているのは音楽の力だ。これがある限り、どこまでも行ける。
 そんな体験をする者がどれだけいるだろう。めぐみは生まれて初めて出すような大声で叫んだ。力の限り、この自由を、そこに在る世界の美しさに感謝して、その身に滾る歓喜の尽くす限りを咆哮に乗せて。
 横を見ると、黄金色の魂がいた。
 そうか、と彼女は納得する。彼女がこの場所へ連れてきてくれたのだと。
 自分とは比にならないほど巨大な魂の塊と共に流星のように世界を巡る。このままこの星を飛び出すこともできるのではないかと思えた。
 それでもめぐみはこの時間は有限のものだと理解していた。
二つの魂はコンサート会場の上空に差し掛かり、そのまま勢いよく天井を突き抜けて会場に着地した。
 どすん、と軽い衝撃を覚えてめぐみが自身の肉体に戻ったのだと理解した瞬間、鳴り止んだ神の音楽の残響を仰ぎ見た瞬刻の後、火山が大噴火したような地響きが会場を覆い尽くした。
 めぐみがこれほどの大喝采を見たことは後にも先にもない、といったくらいの拍手だった。総ての人間が立ち上がり、小さく美しい音楽の女神を讃えていた。
 めぐみは隣で呆然と座る両親の間からすっくと立ち、手が腫れるくらいの拍手を送った。瞳からあふれ出す涙が顔をぐちゃぐちゃにして、嗚咽を止めることはできなかった。
 公演が終わった後も涙が止まらないめぐみを訝しんだ両親が「どこか痛いのか?」と尋ねてくる一方で、めぐみはこの人達は何をピントはずれなことを言っているのだと驚いた。
 あんなものを見た後で、平然としていられる理由があるだろうか。
「ほら、ハンカチ」
 三枚目のハンカチを母親から手渡された彼女はそれを使って盛大に鼻をかみ、「うわ汚いっ」と悲鳴をあげた母親を無視して、会場の外の風景に目をやった。
「あ……」
 つい先ほどまで彼女が自由に飛び回っていた空にかかる虹が目に飛び込んできた。
「あら、雨なんか降ったかしら」
「さあ、公演最中ににわか雨でも降ったんじゃないか? まあ今は止んでるしちょうど良かったな」
 両親はそんな暢気な会話を交わしていたが、めぐみはその美しさに心を奪われていた。
 虹だけではない。この会場に入る前と、世界がまるっきり違うのだ。
 どう違うのか、具体的な部分を挙げることはできない。それでも彼女はこの短い間に世界が変貌を遂げたことを感じていた。
「きれい……!」
 それまで、どこか色彩を欠いた堂島めぐみの世界に色がついていた。
 虹を綺麗だと思った記憶はなかった。それでも彼女の眼前に大きくその姿を見せつける虹は今まで見たどんな風景より綺麗だと思えた。
 どうだ。やっと私のすばらしさに気付いたか。
 そんな声が聞こえた気がした。

 世界が塗り替えられた衝撃の日から、めぐみの態度は急変した。まるで生まれ変わったように触れる全てのものが真新しく映り、彼女は自分が見過ごしていたあらゆるものにもう一度触れてみようとした。
 とりあえず今やっている習い事に全力で向かってみることにした。といっても、やはり茶道も華道も全力で向かうには性に合わなかった。
 急に笑うようになった娘がえらく活動的になったことに首を傾げていた両親だったが、特に憂慮すべきこともないかと最初は何も言うことはなかった。それがある日突然、「お茶もお花もやりたくない!! やめる!」と猛烈な勢いで抗議をしてきた時点で不審に変わった。
 もしやこれが反抗期か!? と人生初の娘による不服申し立てに狼狽えた。
 実を言うと娘に習わせている習い事のうち、水泳と合気道こそお互いが得意とする分野だから娘にも習わせたいという一心だったが、その他のピアノ、フルート、茶道、華道はこれといった理由もなくできないよりかは、まあできた方がいいよな、という程度の夫婦の曖昧な基準によるものだった。
 後から聞かされためぐみは「なんじゃそりゃっ!?」と憤慨するが、とにかく習い事の種類自体に固執していたわけではない両親は不承不承ながらめぐみが茶と華の道を捨てることを許可した。
 めぐみは茶道と華道の稽古をやめ、それまでに培った微々たる作法なども綺麗さっぱり忘れ去って次々と興味が沸いた事柄に飛びついた。
 音楽関連についてはあの強烈な体験によって自身も続けたい意志があったので、ピアノだけは続けることにして、フルートもやめた。
 野球、バスケット、サッカーというオーソドックスな球技から、バレエやダンスといった広範囲に渡って体験して、自分に合ったものは続け、合わないものは一週間ほどで足を引いた。
 ジャンルを問わず種々な事柄に手を出すめぐみは夢中で何でもやりたがった。自分に足りなかった何かを補うように。ぽっかりと自分に空いていた穴を埋めるように世界にあふれるありとあらゆる事柄を求めていった。
 中でも一番大きい決断は高校入学だった。エスカレーターで上がれるお嬢様学校の道をバッサリとかなぐり捨て、彼女は普通の私立校に行くことにした。
 両親の反対を全力で抑え、家からも近いしかろうじて女子校だからという理由で選んだのが桜高であった。その一年後に共学化されるとも知らず。
 めぐみは普通の学校に行ってみたかった。周りにおハイソな少女が溢れる学校ではなく、自分に足りなかった普通をもたらしてくれる環境。
 今やバトン部のエース、文芸部の準幽霊部員、立花夏音ファンクラブの会長という目まぐるしい充実した生活を送るに至る。


「とまあ、嘘のようなホントの話」
 あっさりとした口調で締めためぐみは彼女が話した思い出に浸るように遠い目で微笑んでいる。その正面には大きく口を開けたまま夏音が固まっていた。
 放心状態の夏音を見てくすりと笑った彼女はその出来事以来、どれだけ夏音の熱烈なファンになったかを話した。
「後からあなたが男だと知って死にたくなったのはまあ、いいとして。まずあなたの大ファンになった私はCDもポスターも全部買ったし、参加したセッションとか他のミュージシャンとの共演したやつも全部部屋にあります。あれから二回だけ日本でやったライブも行きました」
 どうやら正真正銘のファンに間違いないようである。
「ただ、活動休止することを知った時は心臓が止まりそうになりました………あなたがこの世からいなくなるわけではないけど、もうあの音を聴けないのかって思うと胸が張り裂けそうで。まさか自分高校に通ってるなんて思いもよりませんでしたけど。学年も下でしたし」
「それ、は………まあ、様々な事情が折り重なった結果このように………」
 めぐみはどこか言い淀む夏音に満面の笑みを向けると首を振った。
「ま、別にいいんですけど! これはー逃すわけにはいかねえってもんでファンクラブ創っちゃいましたし。世間には見せないカノン・マクレーンの姿を間近で拝めるなんてファンだったら気絶ものですよ」
 垂涎、というより少し涎が出ている彼女は瞬時に袖で拭うと再びにこやかに目を細める。
「髪の気も真っ黒になってましたし、あまり下級生とすれ違うこともないですから学校祭のあの日まで気付かなかったんです。気付けなかった自分が腹立たしかったですが、とりあえず卒業までは近くにいられるからいいやーって」
「その……めぐみちゃん」
「はい?」
 深刻な表情をした夏音がめぐみに頭を下げた。
「ごめん。今まで思い出せなくて……そんな会話を交わしたっていうのに……大事なことを忘れてた」
 めぐみは束の間、憧れの人物のつむじを呆然と眺めていたが、ふっと頬を和らげた。
「それは、いいんです。ていうか頭を上げてください。あなたに頭下げられるのは心苦しいんです」
 ゆったり顔を上げた夏音は改めて彼女の顔をまじまじと眺めた。
「そのこと自体は思い出したよ」
 そう言って遠い目をする。
「あの時、変ロ長調が何かわからなくて、楽屋でてんやわんや……」
 幼き日の夏音はめぐみを見送った後、楽屋で「へんろちょーちょーってなにー!? なんなのー!?」と大騒ぎをした。事情を聞いた大人達の中で曲名から「B♭メジャーのことじゃないか?」と助言してくれた者がいて、たまたま持っていたウォークマンの中に入っていた曲を聴いて曲の骨子を頭に叩き込んだのである。かくして何とか原曲に近い即興を披露できたというわけだ。夏音はあの時、超絶無茶ぶりに応えた自分を褒め称えたい気分になった。
「まあ今まで見事に気付かなかったというか……記憶の中の君とどうも違いすぎるっていうか……うーん………昔はなかったはずだよなー……くるくる」
 視線は立派すぎる彼女の渦巻く髪へ吸い寄せられる。
「え?」
「い、いや何でもない!」
 誤魔化すように手を振った夏音に首を傾げためぐみだったが、話を元に戻した。
「とにかくですね! あなたはあの時、素晴らしい音楽を私に捧げてくれたんです。まだ何事においても価値のない私に。世界に色をつけてくれた。このことを他人に聞かせてもその重大性を理解してくれないけど、それはとても尊くかけがえのない贈り物だったんです」
 夏音がはっと息を呑む。
「あなたがこんな場所に来たとしても音楽を続けるってことはとても良いことだと思ったんです。どんな時だってこの人は音に囲まれて生きるんだろうなって納得しました。だから軽音部の子たちも一緒に応援することもやぶさかではないと思いましたし、結局のところあなたにとってそこが楽しい場所なら、どこにいてもかまわないんです」
 ひときわ強く吹いた風が三人の間を通り抜ける。夏音の絹糸のような細い髪はいとも簡単に風に舞い上がる。めぐみはひと時その光景に目を奪われたが、そっと目を伏せて続きを話し出した。
「でも、本当ならどこまでも羽ばたいていけるあなたの音楽は最早そこにはありませんでした。私は……あの時、私を連れていってくれたあの自由な音をもう一度聴きたかった。学校祭の時はとっても楽しそうだったし、それはそれで納得できるものがあったけど、今のあなたは気が付けば地上に近いところに繋ぎ止められてしまったような……幾つもの鎖があなたに巻き付いてる感じがしてならないんです」
 夏音の目尻がぴくっとひくつく。
「その正体がなんなのか、誰よりも夏音さんが分かってると思いましたが」
 厳しい口調と化しためぐみの言葉に夏音は耳を塞ぎたくなった。もしくはそこから先を紡ごうとする彼女の唇を押さえつけたい衝動にとらわれた。
 しかし、どちらも叶わずに彼女は口を開いた。
「あの子たちはあなたの自由を奪っている。そうじゃないですか?」
「ち、ちが……っ!」
 堪えようのない震えを押し殺そうとして失敗した。彼女の言動に明らかに動揺を隠せなかった夏音は何かにすがるように手を動かした。
 結局、何もつかめずに力無く降ろされた手をめぐみはじっと見詰めた。
「あなたがそれでいいって割り切るなら私も何も言いません。でも、夏音さん苦しそうなんだもん! あなたと同じ土俵に立つ人達ならあなたを苦しめることなんてしないで、自由な音楽をやらせてくれる! ねえ、夏音さん。迷うことなんてないんですよ。本来いた場所にはあなたを待ってる人が大勢います。こんな狭い場所に閉じこもる必要なんてないじゃないですか」
 めぐみにとってはかつてのカノン・マクレーンの姿は目に焼き付き、魂を焦がすほどに強烈であった。あり続けた、といっていい。これまで彼女の心の中から決して離れることはなかったのだから。憧れ、という言葉を越えた崇拝に近い感情がめぐみの中で生まれ、なおかつ自分の世界を塗り変えてしまった人間と現在の姿があまりにもかけ離れていることは何事にも耐え難かったのだ。
 自分がカノン・マクレーンという存在を勝手に捉えて、それを押しつけるつもりはない。めぐみは自分が見たいものしか見ない、というような愚かな選択はしない。
 彼女が問いたいのは、夏音の本音だった。彼が本当に望んでその場に留まっているのか。その一点を考えた時に、在りし日にめぐみが心を奪われた夏音の輝きが萎んでいるように思えるのは、実際に夏音の音楽が死にかけているのではないかと危惧したのである。
「狭くなんて……彼女達は彼女達なりに頑張ってる」
 無難な答えが口をついて出たが、これは自分がしっくりくる答えではないと夏音は知っていた。
 軽音部の皆が懸命に努力をしていることは事実である。部が始まった当初、それこそ聞くに耐えがたいくらいひどいものだった演奏も、確実に洗練されてきているのが分かる。この一年で自分が口うるさく彼女達の演奏に渇を入れてきた結果だけではない。相応の努力が紡いできた軌跡を夏音はずっと見守ってきたのだ。丁寧に育ててきた花が芽吹き、成長する喜びに近いものさえあった。
 自分の正体を明らかにした後でも、その成長に揺るぎはなかった。夏音の目に映る彼女達は、まだ何物でもない自分達を受け入れて、それぞれがやれることに打ち込んでいる。
 何物か、そうではないか。
そこの境界とやらがまさに夏音を苛ませているのだ。
「だからといってあなたが同じ歩幅で、一緒についていく義務なんかないはずです。既にあなたは向こう側の人間なんですよ。あの子達と肩を並べて歩く必要がどこにあるんですか? 私はそれを夏音さんの口から聞きたい」
 ここに来て、彼女は核心の中の核心に触れた。
 彼女には、長年カノン・マクレーンを見詰め続けていた堂島めぐみには、既に夏音が抱える懊悩など見破られているのだろう。
 夏音は彼女がここまで自分の悩みを理解してくれるとは、むしろそんな人間がこんな近くに存在するとは思ってもいなかった。
 だから、突きつけられる。ストレートに。自分自身さえ、考えあぐねている問題を。
 ここで自分の問題と突っぱねてお茶を濁すことは許されないことは夏音には分かっていた。
 逃げられない。逃げてはいけない。
 堂島めぐみは自分の無二のファンだ。彼女の意見は自分が見ないように覆っていた所からやって来た現実なのだから。
 夏音は唾を飲み込み、毅然として顔を上げた。
「……向こう側とか、そんなのは関係ない。だって……だって」
 この問題に必要なのは、じっくり考える時間なんかではない。どれだけ時間を使って考えても、答えを出す瞬間は刹那に過ぎる。
「これは、俺が決めた道だから」
 一度、言葉にしてしまえば後は坂道を下るように勢いがつく。
「君が言うように俺が元いた場所に戻れば、楽なんだろうね。けれど、まだ俺はそれを選ぶつもりはないよ」
 真剣な眼差しでじっと夏音を見詰めるめぐみの肩が少し震える。
「いったい俺と彼女達の間には何があるんだろうってずっと考えてた。だって俺も周りもまるでそこに深い溝でもあるかのように振る舞うんだから。それはおかしいことだって思うけど、お互いの暗黙の了解みたいに、存在すらしない溝を意識しなくちゃならなかった。溝なんて本当はないのに、どんどん悪い方向に物事が流れていっちゃって……優柔不断な俺は見事に流されかけてたってわけ。
とどのつまり、俺はただワガママをこいてただけなんだって、今なら分かるよ。自分の見たい世界を彼女達に強要してばかりいた。それが正解とは限らないのに、ほらなんで君たちにはこの風景が見えないんだ!? ってね。彼女達とでなければ見えない景色もあるのに、その大切さも最初は分かってたはずなのにいつの間にか無視してしまってたんだ」
 下手な演奏と合わせるシンプルなセッションも良く分からない躍動感に満ちていた。単純に楽しいことを享受してめちゃくちゃに音をかき鳴らすのが愉快でたまらなかった。それがいつしか、失われていったのである。
「俺の傲慢は自分でも気付かないうちに膨らんでいった。そういえば今になって思い出したんだけど。知り合いの知り合いに、ミュージシャンの第一線で活躍していた人がいたんだけど、その人は貧しい国の、それも楽器が手に入らないような場所にギター一本で旅立っていったよ。音楽なんかまるで習ったこともない子供たちと毎日楽しく歌ってるって………つまり、そういうことだよね」
 めぐみはどこかおぼろげだった夏音の瞳の中の光が徐々に強まっていくのを見て微かに瞠目した。どこか精細を欠いたような、わずかに濁った光に澄んだ色が戻ってきている。
「Well.やっぱり俺が見せてあげられる世界を彼女達と共有できたらいいなとは思うよ。でも、それはいつか遠くの話だった。いつか、できたらなってお話。焦るあまり今の彼女達の最高を置いてけぼりにしてまで追い求めるものじゃない。だから………」
 そこで一端言葉を切った夏音はこの場で初めて心からの笑顔を見せた。
「俺はもう少しここで音楽を続けてみようかと思う」
 言い切った後に夏音はめぐみの顔をじっと見た。
 少し悲しげだが、どこか満足そうに微笑む顔を。
「そうですか。夏音さんがそう言うなら、私はそれでいいです」
「他人に言われてみてやっと気持ちが固まった気がするよ。君のおかげだ。ありがとう」
「そう考えたら私、ひどいことしか言ってない気がするんですけど……」
 男女問わず見惚れてしまいそうなほど端麗な笑顔を真っ直ぐに向けられてたじろぐ。平常運転時ならば目をハートにして、抱きつきたい衝動を必死で抑えているところだが、ここまで真っ直ぐな感情を向けられては邪な気持ちも自重してしまうというものだった。
「もう一度、カノン・マクレーンが世界の舞台に戻った時は必ず君を招待するって誓う」
 バヒューーーーーーーーーーーーンとめぐみの体に稲妻のような衝撃が走った。その瞬間の衝撃はめぐみの心臓を貫き、後に残されたのはふらふらとその場に倒れ伏す彼女の姿。
「アカンす……そんな嬉しいこと……幸せ死しますぅ……」
 冷静と情熱の間で悶える彼女に温かい視線を送っていた夏音は地べたに倒れた彼女に手を差し出した。顔を赤らめためぐみがそっとその手を取ると、一気に引き上げられた。
「夏音さん……」
 少し視線を上にやって夏音の瞳を覗き込んだめぐみは、その瞳の中にあるものを確認するようにじっと見詰めると、満足そうに頷いた。
「頑張ってくださいね」
 その時、強く吹いた風がその言葉を遠くまで運んでいった。この短い時間の中で、夏音の中の堂島めぐみという人間へ対する認識は大きく変わった。それまでは、どこか彼女が自分に向けられる好意に違和感を持っていたのだが、その正体がようやく分かったのだ。彼女は随分と昔から自分のことを知っていて、にわかに芽生えた好奇心や憧憬なんかより強い感情を向けてくれていたのだ。そのことを多少なりとも「重い」と受け止めていた自分を恥じるばかりであった。
 辺りは陽が傾いて暗くなり始めていた。風がびゅうびゅうと吹き、髪を巻き上げる。話すべきことは話したので、いつまでも立ち話をしているのにふさわしい環境ではない。
 夏音はもう一度、彼女達にお礼を言ってからその場を後にした。


「…………………で、後半から完全に空気だった後輩。いつまで固まってるの?」
 夏音が立ち去った後、しばらく余韻に浸っていためぐみは先ほどから隣にいるものの、一言も会話に加わらなかった七海に顔を向けた。
「……………もう何て言ったらいいんでしょう。僕、必要ありましたか?」
 何とも言えない複雑な心境をどう表してよいのか検討もつかないまま、七海は久しぶりに声を発した。夏音が登場した辺りから声を出すどころか、自分の存在すら限りなく薄くなっていたので、誰かの注目を浴びる準備がすっかりなくなっていた。
「………たぶん」
「妙な優しさ出さないでください!」
 先刻までの不遜な態度をとられるわけでもなく、なんだか気の毒そうに目を逸らしためぐみに七海の心が抉れた。
「ていうか何か言ってる意味がよくわかんなかったし! 分かんなかったけど、中途半端に何となく分からされてしまったのでより複雑ですよ! 夏音くんが、え? プロ? すごい人なんですか? すごい人だっていうのは前から分かってはいましたけども!」
 目の前で取り乱す七海に面倒くさそうに溜め息をついためぐみはぽりぽりと頬を掻いた。
「あー……あんたはね。こう……もう、ググりなさい」
 夏音に向ける愛情のひとかけらでも自分に向けて欲しいと思った七海であった。






 ※長らく投稿できておりませんでした。様々な事情があって語り尽くせないのですが………本当に長くなるので、やめます。
 間があいて申し訳ございませんでした。
 一週間以内にもう一話もアップしたいです。すごく中途半端なところで区切ってしまってすいません!!

 原作の方でついにDTMが出てきて、びっくりしました。なんというか……先にやられたー。



[26404] 第二十一話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/08/29 21:03


 澪はつい先ほどまで見事なまでのオレンジ色が埋め尽くしていた空を見上げた。春の訪れを感じさせる強風は陽が落ちるにつれて冷気を孕み始め、すっかり肌寒くなってしまっている。
「すっかり暗くなっちゃったじゃないか」
 傍目にも弾力のある淡桃色の唇を尖らせて低い声でぼやく。西の空には残光が残るばかりで、ちょうど自分達の真上に向かうにつれてオレンジから濃紺へのグラデーションも見頃を過ぎてしまったようだ。
 自分の、正確には自分達、の計画が頓挫しかけていることに彼女は苛立っていた。周りを同じような速度で歩く少女達ばかりを責めるわけにはいかないが、揃いも揃ってやらかしてしまった失敗に対する気持ちはやり切れない。
(あーもう、お粗末すぎる!)
 正直、煮えたぎる怒りを緩和させるために彼女の心境をあえてコミカルに表すならば「トホホ」と言ったところである。
 いや、トホホで済むならば問題はない。それもこれも、これからの彼女達の行動にかかっているのだ。
 歩みが自然と速くなりつつあるのに気付いて澪はそっと溜め息をついた。いつの間にか仲間たちを追い抜いて随分前を独走中だったようだ。
「おい澪~。ここで焦っても仕方がないだろー?」
「そうだよ澪ちゃん。まだ家に帰ってないんなら早くついても遅くついても一緒だよ」
 間延びした声を出す二人を振り返った澪の顔はよく見えない。俯き気味なのと、街灯の頼りない光が影を作ってしまっているのだ。
「でも………なんか、気持ち的に仕方がないだろ」
 こつこつとローファーがアスファルトを蹴る音が狭い住宅街の街路に響く。その音が自分の前で止まる。
「そういえばムギはこんな時間だけど平気なのか?」
 自分のために立ち止まった彼女達に対して気まずくなったので、まさに今気が付いたと言うように訊いた。
「うん、家の人には電話したから大丈夫」
「そっか」
 その会話をきっかけに一同は再び歩き出す。青白い街灯が次の街灯へと自分達の橋渡しをする。去年の暮れにこの辺りで変質者が出没する事件が増え、その対策として青色灯が導入されたのだ。科学的根拠が明確ではないものの、青白い光は犯罪抑止効果があるという話を信じて自治体が取り入れたらしいのだが、実際に奏功しているかは怪しい。青白いとは言え、いささか青すぎるように思える。正直、不気味な雰囲気と言えなくもない。
 四人でいるとはいえ、高校生の少女だけでいることに不安が消えることはない。今までもこういう道を軽音部で歩いたことはあったが、その時はここまでの不安というものは無かったはずである。
 澪は渦中の人物は見た目はアレでも、案外しっかりと男の役割を果たしていたのではないかと今ならば思える。
 男性としての頼もしさを期待するには今ひとつだと思っていたのに、いなくなってみて分かることがここにもあるものだとますます気分が落ち込んでいった。
「澪。ほんとに大丈夫か?」
 隣に並んできた律が眉を潜めて澪に声をかける。
「あ、ああ。ちょっと考え事をしていて……この道、こんなに不気味だったっけ」
「不気味? そうか?」
「なんか青白くて……うぅ」
 自分で言っといて、体がぶるりと震えた澪は無意識に幼なじみの腕を掴んでいた。
「お、澪しゃん。コワイんでちゅねー。大丈夫でしゅねーよーよちよち」
 しまった、と思った時には遅い。常日頃から澪をからかうためにセンサーを張り巡らせている律にうっかりボロを見せてしまったからには、しばしの辱めを受けるハメになるのだ。
「ち、違うからな! 私はこの青白灯が本当に犯罪抑止につながるかを検証していてだな!」
「えー? こんな光で犯罪がなくなるかよって」
 それは、あまりにもみもふたもない言い草である。少しくらいは効果があるはずだが、何とも言えないので澪は答えるのを控えた。
「あーあー。それにしても、何か今日の私ら間抜けすぎて泣けるわ……」
「ほんとだねー」
 とぼとぼと歩く律が零した自嘲に同意する唯が苦笑を浮かべた。
 澪は口に出さないまま、まったくだと本日何度目になるか分からない溜め息を漏らした。
 夏音と重大な話をする計画を立てるべく、ひとまずティータイムと洒落込んだ彼女達はどこか浮ついた気分になっていた。
 全員が揃ったわけではないものの、自分達が一丸となって何かに向かう時の勢い、無敵感に似た頼もしさが彼女達をどこまでもポジティブにさせていたのだ。きっと何とかなる、してみせるという気持ちが強くなり、次第に落ち着きがなくなった唯が「私は少しでも時間をかけてギターに触らなくちゃ!」とギターを弾き始めると、後は「私も!」となったわけである。しまいにはヴォーカルとリードギターを抜かした状態でバンドの合奏練習に熱が入ってしまったのだ。
 ぐんと集中力を増した彼女達は今までにないほどカッチリ合う演奏に手応えを感じつつ、夏音について行けるだけの力を! と燃えた。
 気が付けば、夏音にメールを送ることも忘れて時計の長針が何周もしていた。短縮授業で、下校時刻が早まっていなかったら日が暮れてからも止まらなかっただろう。
 青ざめるのを通り過ぎて真っ白になった一同は電光石火の動きで楽器を片付け、校舎を飛び出してきたのである。
 急いで考えた文面で夏音にコンタクトを取ろうとしたが、一向に返信がない。一か八かで夏音の自宅へ向かうことになったが、家に帰っているのかさえも分からないままなのだ。一行は行き当たりばったりの行動に不安を抱えたまま、夏音の家に向かっている最中であった。
 夏音に会って一同が話すべきことは決まっていた。まず、自分達の行為が夏音を傷つけたことを謝らなくてはならない。それから自分達はこの五人で音楽をやりたいのだと言うつもりである。
 そのために、腹を割って話す必要がある。お互いの腹に隠していた些細な気持ちも、彼女達が抱えるなけなしのプライドも、全て明らかにしてしまわなくては先に進めないと少女達の意見は一致した。
 全てをさらけ出して、その先にどんな答えが待っているかは分からない。この先が正念場なのだ。




「み、澪が押せよ。押し慣れてるんだろ?」
 夏音の自宅前の玄関。誰がチャイムを押すかで誰もが迷いあぐねていると、そんな無責任なことを律が言った。
「それは関係ないだろ!」
「いいから、そのチャイムを押すのは君しかいない」
 渋い声をつくって律がキメ顔で眉間に皺を寄せる。
「こ、こら。人の手を勝手に……っ!」
 ピンポーン。
「む、ムギ?」
「そういえば私、このピンポンってやったことがなかったのー」
 琴吹紬、勇者である。
「あら? あなたたちはたしかー」
 その瞬間、インターホンから聞き覚えのある甘い声が聞こえてきた。


「Hey,girls!! カノンのお友達ねー。ちょうどよかったわ! 今、ベリーパイを焼いてるところなの!」
 と見事すぎるほど台詞の中にアメリカを感じさせる言葉で出迎えてくれたのは夏音の母、アルヴィだった。律を除けば一度だけ会っただけの美貌の人物に一同は思わず息を呑んだ。
 それから返事をする間もなく、ほぼ強引に自宅の中に招き入れられ、リビングに通されてしまった。抵抗も反論も許されないまま、ソファに座らされた一同はこの強引さはどこか自身の息子に通じている気がすると確かに感じる。
 このメンバーの中では唯一この家に通い慣れている澪は、夏音以外の家人がこの空間で動いているのを見たことがない。キッチンの方で何やら賑やかな音を立てているのが夏音の母親というのがどこか滑稽にすら感じた。何となくだが、この家に夏音以外の人間が住んでいるというのが違和感を生じさせるのである。
(滅多に帰らないって聞いたけど……)
 キッチンという空間をそこにいるだけで華やかに彩ってしまう秀麗な女性。夏音を成熟させてみればこんな美女になるだろうといった予測を現実に体現している彼女が調理器具を手にする様はどこか手慣れたものがあった。
 考えてみれば、何の不思議もない話ではある。滅多に帰らない、といってもここが家なのだ。彼女が帰ってくるのも当たり前だし、母親が料理をする光景は自然のものであっておかしくはない。
 ソファで固まる一同は借りてきた猫のように大人しい。所在なさげに室内を見回したり、もじもじと手を弄んでいたりする。どちらかというと天真爛漫というか恐れを知らなそうな彼女達も流石に友達の母親、というのに加えて外国人な上にプロミュージシャンの美女と同じ空間というシチュエーションは得意でないらしい。一つ目ならまだしも、それ以外が特殊すぎるというのもあるだろう。
「お待たせー。熱々だから気をつけて食べてねー」
 お茶と一緒にほくほくとした出来立てのベリーパイを運んできたアルヴィに律が「あ、どうも」と頭を下げる。
 ニコニコと嬉しそうに笑うアルヴィはとても友好的な眼差しを少女達に向け、可愛らしく手を合わせた。
「私、ベリーパイだけは自信あるの。日本の子たちの口に合うか分からないけど、どうぞ召し上がってちょうだい」
 妖精のごとく麗らかな美女にこうも言われたら、手をつけないはずがない。丁寧に切り分けられたパイが全員に行き渡ったところで、誰知れず唾を呑み込んだ。焼きたてのパイは見目も良く、ほんのりと甘い匂いを漂わせている。昼間からノンストップで練習を続けて何も口にしていなかったこともあって、今まで忘れていたように腹の虫が空腹を訴えるのも無理がなかった。
「い、いただきまーすっ!」
 軽音部の食欲といっても過言ではない唯が真っ先に手をつけたのを皮切りに全員がベリーパイを口に運ぶ。
「………………んっ」
「……………………」
「…………っ……………むぅ……………」
「……………ぶふぉっ……………ぐふぁっ!?」
「どうかしらー?」
 誰一人として、感想を発する者はいなかった。否、発することができる者は存在しなかった。
 無垢な瞳でこちらを見つめてくるアルヴィから全力で目を逸らし、一同はアイコンタクトを交わし合う。
(ど、どうも何も……コレ……コレっ! ナニっ!?)
(いやいやいやいや。そんなはずはない! 得意料理って言ってたもの! 全力で自信作って言ってたもの!)
(これ、食べ物なのかしら。食べて良い物としてこの世にカテゴライズしていいのかしら)
(外国の人的にはこれが普通……なはずないよね。ベリーパイってベリーがこうベリーだと思ってたんだけどー)
(全然ベリってないっつーか中何入ってんのコレ!? さっきからニョリっていう食感がひっついて離れないんだけど! 未だかつてない食感なんだけど新しいけど食感に含めてよいかわかんない物質かもだけどっ!?)
(ていうか澪ちゃん。さっきから女の子としてアウトな顔してるけどダイジョーブ? 限界まで頬袋使ったハムスターでももっと可愛い体裁を残してるよっ!)
(コレハ試練ナリコレハ試練……コレヲ越エナクチャ夏音クンに辿リ着ケナインダヨキット……)
(唯ー!? なんか解脱寸前の人みたいな顔色だよ!?)
 極限状態にて交わされるアイコンタクトの応酬は時に実際の言葉を凌駕して互いに伝わった。
「久々に帰ったから多めに作ってみたんだけど……よかったらおかわりもあるの」
「「「「っ!!!?」」」」
 死刑宣告に近い言葉が彼女達に襲いかかってきた。
 最早、彼女達の頭に警報に近いレベルでこの一言が浮かび上がる。
『夏音に会う前に死ぬわけにいかない』
 冗談抜きに夏音の顔を見る前に旅立ちを迎えそうな現状は傍目にはよく分からない彼女達の内面の闘いであった。
 表面上はニコニコと。脂汗を滴らせながら、かろうじて愛想笑いを浮かべることに成功した一同は人生最大の気力を振り絞って口に含んだ未現物質を嚥下した。
 未だかつて通過したことのない物質に、喉が、食道が、胃が随所で全力の抵抗をしたが何とかそれを抑えた。これを飲み下せば何か別の世界に行ける気さえ、した。
「た、大変おいしゅーございました」
 何とか気力を振り絞って言い切ったのは琴吹紬という一人の猛者。少女達は揃って尊敬の眼差しを彼女に向けた。
「あら、よかったー! もしかして今時の子はこういうの好きじゃないかもってドキドキだったの!」
 ペロリと可愛らしく舌を出すアルヴィの姿はとんでもない攻撃力を放ったが、次に発した一言にその場の気温が一気に下がった。
「だってカノンたらせっかく作っても手をつけてくれないんだもの。意地でも食べさせたいって思うじゃない? だから隙あらばこうして作ってテーブルに置いておくの。あ、聞いてちょうだいひどいのよ!? テーブルに他のお料理が並んでいてもパイから遠ざけるようにして食べるの! まるで私のパイが今にでも襲いかかってくるみたいに振る舞うのよ!」
 今、まさに襲いかかられている少女達は自分達の誰よりも早くこの物質の脅威に晒されて生きてきたのだと思うと、涙が出てきそうだった。
 何とか一皿を平らげた彼女達は第二波が来たら、確実にやられてしまうと悟った。
「あのっ! 私達、夏音に会いにきたんです!」
 息も絶え絶えだった律が強引に声を張り上げて本題を切り出す。あのまま彼女のペースに乗せられる、といった事態を回避できた一同はほっと息をついた。
「あ、そうよね。あの子なら帰ってからずっとスタジオに籠もりっきりだから覗いてみてちょうだい。それと今日は私が夕飯を作るから何がいいか訊いてきてくれたら嬉しいわ」


 このまま彼女に夕飯を作らせる選択が正しいのかは置いといて、真っ先にソレは夏音に伝えた方が良いだろうと思われた。お茶とパイをご馳走になった礼を言って一同は、各々で食器を片付けてからリビングを後にした。廊下に出て、スタジオへと続く階段を下りていくと、スタジオの防音扉にはめ込まれた窓から明かりが漏れていた。
 中を覗くと、軽音部では使ったことのない六弦のベースをスタンドに置いて何かの機械を操作している夏音の姿が見られた。しばらくタブレット型の機械のディスプレイをなぞったりしていたが、ベースを肩にかつぐと手元のボリュームを回した。微かなノイズがスタジオ内に満ちたのが、外にいる彼女達にも伝わってきた。
 夏音の指が弦の上を滑るように動き、響いてくる音は荘厳な光を纏って壁一枚を隔てた少女達の耳に入ってくる。指板の上で忙しなく動く指には目もくれず、じっと目の前のタブレットを見詰める夏音はどこか鬼気迫る様子である。
 じっと耳を澄ませてみれば、小節が進むごとに何かしら音の変化があるのが分かる。ブルースでもなくジャズでもない。その曲調はあまり耳に馴染まない、いわば軽音部では聴かないタイプのベースライン。夏音の即興なのか、もしくは既存の曲なのかまでは分からない。
 演奏に夢中になっていた一同だったが、ふとムギが何かに気付いた様子で声を上げた。
「これ、ショパン」
「ショパン?」
「うん。ショパンのエチュードだと思う」
 ショパンのエチュードと言えば、難易度も高い。右手も左手も忙しなく動くスピード感のある難曲に違いないが、それを弾いているのだという。
「やっぱり、すごいね」
 唯が溜め息と共にそんな感想を漏らす。
「そういえば夏音が言ってたんだけど、練習に色んな曲の初見をやるんだって」
 澪が言った。
「楽譜の存在する曲ならクラシックでもそれこそJ―POPでも。クラシックが多くなるみたいだけど、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス。弦楽器だけじゃなくて、ファゴットとかトロンボーン、フルートって具合に何でも初見で弾く練習をするんだって言ってた」
「それ、ホント? クラシックなんて楽器ごとに表記も変わっちゃうし、ハ音記号とかも読めるってことになるし、すごいことなのよ!」
「何て言うか……ここまでくると、あいつってどこまでやっちゃうんだろって感じ」
 呆然と律が言うと、全員が静かに頷いた。世の中には楽譜が読めないプロミュージシャンだっているというのに、クラシックの世界にまで足を入れるとは。本当に節操なしと良い意味でも悪い意味でも評価されていた理由が分かるというものだった。
「あ、終わった」
 時間にしてみれば、三分も無かったところで演奏が中断された。一同が意を決して扉を開けようかとした瞬間、また重低音が飛び出してきた。
「あ、またショパン」
 反応したムギが言うには、ショパンのエチュードは名の通り練習曲であり、一曲ごとが短い。何番から弾き始めたのかまでは分からないが、夏音がこの勢いで弾き通してしまうつもりなら相当の時間がかかるだろうとのことだ。
「どうしよう……すごく集中しているから邪魔するのも悪いし……」
「次の曲が終わった瞬間にばーんって入るしかないかなー?」
 過激な意見を出した唯だったが、現実として曲と曲の間の僅かなインターバルを狙う他に突入のタイミングはなさそうだった。
 あのままの様子で行くとなると、夏音が「よし休憩!」と言い出すのは遙か先のはずである。

「もういーよー?」

「フギャッ!」
 色気のない叫び声を発したのは律である。完全に無防備なところを背後から自分達以外の人間(明らかに)の声がしたので文字通り飛び上がったのであった。
 もちろんこの家の中でそんな甘く魅力的な声の持ち主はアルヴィ・マクレーンを置いて他にいない。
「ア、アルヴィさん! 驚かさないでくださいよ!」
「ふふ、ごめんねー」
 淑やかな笑いの中に少しだけ悪戯が成功した悪ガキのような含みがあった。意外にお茶目さんのようである。
「あの子、放っておいたらこのまま何時間も弾き倒しちゃうから、無理矢理にでも止めるくらいでちょうどいいの」
「へ、へえー。すごい集中力ですね」
「ええ。あの子がファーストグレイドの時からずっとそんな感じよ。放っておけば一日何時間だってベースを弾いていられるんですもの」
 その言葉に一同は軽く息を呑んだ。
「プロフェッショナルってことはそういうことだったりするのよ。誰もがあの子ほど顕著じゃないにしても、ミュージシャンが下手くそだったら話にならないでしょ?」
「でも、学生をやって……ていうか、いっつも私らと遅くまで部活やってるのに練習する時間もとって、ってなると無茶じゃないですか?」
「だって、それがあの子の選んでいる道だもの。仕方ないわ」
 皆、事も無げに言い放ったアルヴィの顔を思わずじっと見詰めた。基本的に彼女達とは較べようもない親子関係なのだとしても、その言い方には少しドライな雰囲気があった。
「それでも、そんな無理しすぎたら倒れちゃうよ……」
 唯が顔を曇らせて言った。彼女としては、毎朝ふらふらになって学校にやってくる夏音の姿を見ているだけにいっそう不安になった。実際には朝が弱いのが一番の理由なのだが。ただでさえ華奢な体つきで、薄倖の美少女然としている夏音がいつか倒れてしまうのでは、と心配なのだ。
 一方、音楽業界について夏音の口からよく聞かされていた澪は別の捉え方をしていた。
アルヴィは同じ仕事をしている立場として、個人の事情が斟酌されるような世界ではないことを知っているのだ。夏音の場合は既に最大級の緩和措置が執られていることもあって、少しでも状況に甘んじるようなことがあれば、その世界から転げ落ちてしまうハメになる。そう、転げ落ちるのは夏音自身なのである。
 その責任を全て自分で背負うことによって夏音はプロを名乗っている。夏音が辛いと言ったら親がどちらかを辞めさせるように動くこともなく、そっと見守るだけだ。
 彼女が息子を溺愛していることは一度親子の様子を見ただけで理解できるはずだ。それでも彼女は息子が音楽と学業の両立を図った結果、倒れることになっても「仕方ない」と割り切ってしまうのだろう。
 澪は、子供の自己責任を容認し続ける器量があるということは、実はすごいことではないかと思うのだ。
(私だったら、自分の子供が無理しすぎてたら止めちゃうだろうな)
 あえて手を出さない、というのも難しい話だなと澪は心に思った。
「それでも、あの子が好きでやってるんですからねー。でも、ちょっとやりすぎな部分は目に余るのよ。その辺の境界を自分で分かってないからやきもきしちゃう。基本的にあの子、どこまでもマゾだと思うし」
 どエラい一言が最後にくっついたが。彼女も心配には違いないのである。
「ということで。夕飯も遅れちゃうし、なんか勝手に作っちゃうことにしたって伝えてちょうだい。ということで頑張ってきてねー」
「え、ちょっと何を……きゃっ!」
 のほほんとした声の割にガッシリ力強い腕に抱えられた少女達は一瞬の内にスタジオの中に押し込まれていた。重い防音扉を開け、四人の少女を力ずくでスタジオに放り込む。恐ろしい早業であった。
「いてて……」
「お、重いよー」
 雪崩れ込んだので三人の下敷きになった唯が悲鳴を上げる。
「そ、そんなに重かった!? ごめんなさい!」
 その悲鳴の内容がある少女のデリケートな部分にダメージを与えていたりした。
「ていうか、何やってんの君たち?」
 いつの間にか音が止んでいた。少女達がおそるおそる顔を上げると、突如スタジオ内に突入してきた四人を見詰める夏音がいた。ぱっちりとした瞳を押し広げて驚愕を露わにしている夏音に気まずく笑い合う一同はそそくさと立ち上がった。
「こ、こんばんはー」
 わざとらしく埃を払うような動作と共に精一杯の愛想笑いを浮かべる。白々しいにも程があったが、夏音はそんなことには気付かずに彼女達の来訪に純粋に驚いてしまっているようだ。
「えっと………いらっしゃい?」
 首を傾げて暢気に返した夏音も十分に混乱していた。
「い、いらっしゃいましたが……あの、その」
 何か言葉を紡がねばならないと考えた唯がとんでもない一言をその空間にぶっ放した。
「夏音くんの腹を割にきました!」
 刹那の沈黙。
「ばっ! 違うだろアホぅ!」
 律に後ろ頭をひっぱたかれた唯が「あぅ~」と床に沈む。図らずも前に出てしまった律は、何故だか自分が代表して何かを言わなければならない気がした。
「あの、だな。げ、元気してたー?」
 思わず、背後に立つ澪の膝がかくんと折れそうになる。
「昼間、学校で会ったばっかだろ!?」
「ちょっ、うるさい! ただの掴みなんだからぎゃーぎゃーリアクションすんなよ!」
「のっけから不自然の塊でしかないだろ!」
「二人とも落ち着きなよー」
「なんかお前には言われたくないな唯っ」
 さらに、そんな騒々しい三人をまあまあと宥めすかすムギも含めて奇妙な空間ができあがっていた。突如現れた少女達をぽかんと眺めていた夏音など、完全に置いてけぼりをくらっている。
「あのー」
 半ば呆けていた夏音がかろうじて搾り出した声が少女達の間に割って入る。
 ピタリ、と止む四人の挙動。ベースを置き、ゆらりと立ち上がる夏音に唾を呑み込む音が響く。
 四人は横一列に並び、立花夏音と対峙する。
 最早、夏音の表情には少女達が現れたことに対する驚きはない。端整な顔立ちを引き締め、じっと少女達を見据える。
 少女達の戯れの気配も狭いスタジオの外へ逃げていった。四対の瞳と交錯する視線。互いの間に走る沈黙はじょじょに高まり、すっと瞳を閉じた双方の人間は、微かに息を吸い込み、そして。

「ごめんなさいでしたー!!」
「すいませんっしたーー!!」
 
 世界に奇跡が起こった。
 まったくの同時だった。
 それは、土下座という。どちら側の人間の頭が先に床についたかは定かではない。いずれの無駄も省かれた一糸乱れぬ振る舞い、その挙措。一寸の隙も入り込む余地すら与えられぬ謝罪の表れ。
 世界で一番美しい土下座の形がそこにできあがっていた。この場で、頭を上げている者は一人としていない。一対四。扇形に広がった五人の形が全てを物語っていた。
 最初の一声以降に音が立つことはない。
まさしく沈黙の中にも、美あり。
 語らず、表す。
 ゲザリスト、またはゲザーが認める、渾身の土下座であった。その佇まいに哲学すら感じるほどの。
 幾ばくの時が経ったかは分からない。この光景を目撃した外国人が「クレイジージャパン!」と叫んでもおかしくない事態だったが、彼らの胸には確かに熱いものがこみ上げていた。
 迫り上がる高揚感を抑え、双方はゆっくりと顔を上げた。その所作の一つまでが磨き上げられた伝統のようである。
 そのまま正座スタイルに移行した彼らは再び互いの顔を見つめ合った。
「楽器……持ってきたの?」
 夏音が口を開いた。
 無言でうなずいた少女達は顔を合わせ、照れくさそうに微笑んだ。
「久しぶりにセッション、いっとく?」



「ルールは一つ」
 楽器の準備を整えた皆に夏音は人差し指を立てた。
「楽しむこと!」
 それは、近頃の軽音部に足りなかったものだ。お茶ばかりの活動の中で、ごく稀に始まるセッションはグダグダになりながらも笑い合って楽しんでいた。いつしか、そんな風に音のやり取りを楽しむ機会はなくなり、ひたすら目視できない先のことばかり考えるようになったのだ。
「あのね、夏音くん」
 唯がジャッとGのコードを鳴らした。その瞬間、何かが全員の頭に閃く。ただのGの音なのに、誰でも使うコードの一つに過ぎないのに、唯の言わんとすることが何となく理解できたのだ。
 それは、おそらく今日会ったばかりの者達では感じることができなかっただろう。一年にも満たない付き合いでも、彼らは自分の仲間が持ち構えている音を感覚的に把握していたのだ。
 その場にいた者は言葉にできない勘に等しい感覚が正しかったことをすぐ知ることになる。
 カウントもない状態で唯がピックを持つ手を大きく振り下ろしたのだ。聞き覚えのあるリフが飛び出てくる。
 ああ、分かっていた。その場に立つ者が浮かべたのはそんな表情だった。
 このリフが出てくると知っていたと言えるほどの確信。全員がくすりと笑い、入部当初はまるで初心者だった唯が奏でる音楽を心ゆくまで噛みしめた。
 スモーク・オン・ザ・ウォーター。
 軽音部で最初に演奏した曲。Gmのゆったりとしたリフを弾いている者は半年前なんかと比べようもない滑らかな演奏をするようになった。
 律と澪が顔を合わせ、うなずくとベースとドラムが軽やかに唯に寄り添う。ムギがうずうずと待ちきれない様子で残り二小節を待つ。やがて鍵盤に手が置かれ、渾身のロングトーン。彼女がこの半年で揃えた多彩なオルガンサウンドの一つは圧倒的な存在感を放った。
 夏音は演奏に入るのを忘れて呆けていた。彼の瞳に映る光がゆらゆらと揺れる。
(いつの間に……)
 彼女達の音がどれほどの成長を遂げたかをまざまざと見せつけられた。先制のパンチのようなものだった。
(楽しそう!)
 驚愕してから、夏音は胸に沸き上がってくる興奮に目を輝かせた。既に環をつくり出している彼女達の演奏は魅惑のエネルギーに満ちていた。
 早く。早く自分もそこに加わりたい。そう思った夏音はストラトのネックをそっと握った。だが、夏音はいざ自分もと思ってもなかなか動き出せなかった。
既にイントロと呼べるような時間は過ぎたのだが、演奏に入っていけない。どう入ろうか、と悩んでいるのではない。この中に、自分が入ってよいのかという考えが頭に浮かんでしまったのだ。
 数多の怪物ミュージシャンとセッションしてきた夏音が、彼らを遙かに下回る高校生の演奏に尻込みしている。
 演奏が始まる前に自分で楽しもうなどと言っておきながら、自分の音が彼女達に与えてこの環がどうなるか怖れている。
 夏音の額にじわりと汗が滲む。既に同じフレーズがループされ、本来なら1コーラスが終わっていてもおかしくない時間が経った。
 そこで、いつまでも演奏に加わらない男にしびれを切らした律が挑発的なフィルを入れる。鋭く重く破裂したクラッシュの音が夏音の耳に衝撃を与える。
 彼女のフィルに合わせるようにフレーズを動かした他の少女達によって、反射的に夏音はピックを振り切った。この男ともあろう者が、分かり易いほどのタイミングに入らないはずがなかった。
 ヤレヤレ、といった様子でくすりと微苦笑を浮かべた律が周りに目を配る。顔を向け合
った少女達が目を細めてうなずく。
 唯は自分と重なり合うコードを奏でる夏音に弾けるような笑顔を見せた。半年前、彼女は演奏に遅れないように必死についていった。それが今や、先に曲をリードしていたのは自分で、後から入ってきた夏音を迎え入れるような形をとっているのが嬉しくてたまらないのだ。
 それでも、数小節進むだけで実力差は明らかになる。全体のノリを汲み取り、さらには先に演奏していた唯の音価に合わせているのだ。
 それぞれの音が混ざり合う。強力な個性を放つ人間達が音楽で結びつき、一つになる。その美しさがそこにあった。
 五人が一つになった演奏の中で、誰もが感極まっていた。
 これこそ軽音部の音だ。この一体感、光と音が溢れる躍動感は生きている音楽である。
「お先っ!」
 実際には誰の耳にも聞こえなかったが、おそらくそう言っただろう唯が足下のブースターを踏み入れる。一気にハイフレットへと向かった左手が素早く動き回る。随所にチョーキングを絡ませ、時折弦を飛んで入れるトリルなど、少なくともギターを始めて一年以内の初心者とは思えない技巧を駆使している。
 唯が、一人目のソロをとったのだ。バッキングに回った夏音は完全に意表をつかれたように目を丸くしていた。
 あの唯が、積極的にソロを弾くというのだ。他の三人も同じことを思っていた。自分達の上をパワフルかつトリッキーなソロで飛び行く唯の姿は鮮烈に焼き付いた。
 その姿が、少女達の心に火を点けた。
 唯のソロが終わる前に視線の探り合いが起こる。微笑を浮かべながら殺気に近いオーラを放ちだした少女達にすっかり蚊帳の外に放り出された夏音は頬を引き攣らせた。
 音の端々からストレートに伝わってくるけんか腰の態度。唯の演奏はどうやら彼女達のハートを熱く燃えたぎらせてしまったらしい。
 ソロが終わり、演奏が進む。次に、すかさず飛び出てきたのはムギだった。激しく歪んだ音色で前に出てきたかと思えば、フランジャーのエフェクターを踏み、とんでもない音で暴れまわる。そうかと思えば飛び道具を収め、速弾きを始めた。ムギは滅多に速弾きをしないため、この光景はかなり珍しいものだ。実際にピアノの方では、ショパンやリストを弾きこなしてしまう彼女が持つポテンシャルは半端なものではない。
 最後にお茶目にDビームを使った彼女は満足気に頷いてソロを終えた。その瞬間、全力で指板に掌を叩きつけた澪がその存在を前に押し出していく。引っ込み思案の彼女のイメージを根こそぎ塗り替えんばかりの行為。指板を叩いて和音を出すテクニックを彼女に教えたのは夏音だったが、まさか彼女が実践でやるとは思ってなかったりした。目を丸くした夏音の方をちらりと見た澪は涼しげな顔で立て続けに力強いピッキングを続ける。
 ミドルとハイをブーストしたサウンドに二つほどエフェクトを加える。激しい歪みを味方につけた彼女はジョン・エントウィッスルばりのプレイが展開されていく。得意のペンタトニックを多用したフレーズが次々に飛び出してくるが、途中に夏音も驚くような方向に展開していったりするのだ。
 ぐおん! とうなるグリッサンド。時折、混ざるライトハンド奏法。彼女が和音を使用するポイントなどは、夏音から影響を受けていることが多い。こうして形になっているところを目の当たりにした彼女の師匠は、ずっと目を押し広げっぱなしだった。
 澪が律に目配せをすると、ドラムのプレイが変化する。ベースとドラムで巧みに飛び交うグルーヴのうねりは、彼女達の息がぴったりな証拠。
 考えてみれば、ドラムのソロということで律だけが延々と単独で叩いている場面は来ない。自分を理解するベース・プレイヤーのもとで律のプレイは徐々に熱を帯びていく。澪のプレイに合わせ、律の手数がどんどん増えていく。ベースがたまに空ける空白を利用して律の手足が忙しなく動き回る。
 その後、普段の律なら考えられないほど複雑なフィルインをかましたことによって、最後に一人だけ残されたソロ・プレイヤーへとその場が託された。
 その場にいる全員の視線が集まるその者は、にやっと笑って足下のスイッチを踏み込んだ。




 音の無い空間にぺたりと座り込んだ五人は激しく上気した呼吸を整えながら、満足そうに笑っていた。夏音がギターを抱えながらスタジオの床に身を投げ出すと、それを見た澪もおずおずと同じように寝転がる。ヨイショ、と声を上げてそれに倣った唯や「私もー」と楽しそうに横になるムギも一緒になってスタジオの天井を見上げる形となった。
 よろよろとドラムセットから離れた律が腰に手をあてて、そんな仲間達を見下ろしていると「ぷっ」と噴き出して倒れ込んだ。
「冷たーい」
「だなー」
 輪になって横たわった一同は、それからしばらくは無言で息を整えた。冷房の効いたスタジオは熱を持った体を冷ましていく。ずっしりと重い疲労感を打ち消すほどの安らかな気持ちがそれぞれを満たしていた。
「びっくりしたよ」
 ふいに夏音が口を開く。
「みんながあれだけ弾けるようになっていたなんて」
 正直な告白。夏音は軽音部の者を誰一人として「上手い」とは思っていなかった。この程度まで弾ける、という認識はあったものの、夏音の中で彼女達がベストプレイヤーの枠に納まることは一切なかったのだ。
「上手になったんだね……演っていてあんなに興奮したのは久しぶり。ていうか、負けてたまるかコンニャローって思ったのが久々だったよ」
 一回し目のソロを弾く夏音の目には、ぎらぎらとした光が宿っていた。その時、彼は確かに「負けていられない」と思っていた。技術的には圧倒的に彼女達を凌駕しているのだが、次々にソロを弾き倒していく仲間達の姿に圧倒されてしまったのだ。それは気持ちの面でも。彼女達は演奏を心から楽しもうという気概が溢れていただけでなく、自分の持てる力を出し切って、夏音に泡を吹かそうという心算があった。
 初っぱなから全力で向かった唯の先制パンチは夏音に予想以上の衝撃を与えていたのだ。彼女に触発されるように烈しいソロを見せた他の者も同じである。
 少女四人の演奏を聴いた夏音はまさに負けず嫌いの精神で超絶ソロでお返しした。普段はやらないようなテクニックやパフォーマンスをふんだんに盛り込み、途中でチューニングを変えてしまったりと、プロとしての面目躍如を果たしたといえよう。
「アンジェロ・ラッシュをされた時は本気で笑い出しそうになったよ」
 実際にソレを生で見たのが初めてだった律は噴き出すのをこらえたドラムに向かわなければならなかったため、その瞬間の彼女のバスドラは怪しいリズムになってしまった。
「超どや顔すぎてねらってんのかと思ったわ」
 思い出し笑いで死にそうになっている律に夏音は苦笑する。
「いや、あんなの滅多にやらないんだけど。死ぬほどテンション上がりすぎた時とかにやるとウケるからさ……」
「でも、やっぱり夏音くんはすごいやー」
「何だよ唯。改まってさ」
「だって後半なんか何やってるかわかんなかったもん」
「あぁ、わかるなーそれ。もう合わせるのとか放棄して好きにやってくれって感じになるよな」
「いやいや。俺は唯が一番すごいと思うよ。これに関してはマジです」
「そっかなー、いやーそれほどのものでもー」
 分かりやすく照れる唯に笑いが起きるが、真剣な表情になった夏音は感慨深い溜め息をついた。
「いやホントに。ギターに初めて触ってから一年も経っていないのに、よくぞここまでって感じ……センスあるよ」
「確かに唯はある意味天才ってやつかもな」
「り、りっちゃんまでー。おだてても何も出やしないよー?」
 がばっと身を起こして照れまくる唯は、くすくすと笑う仲間達に頬を膨らませて抗議の声を上げた。
「それならムギちゃんのがカッコよかったよ! ダダダダダダーンって」
「ムギもすっごくアグレッシブだったなあ。ああいうの普段からやればいいのに」
「えー、そうかしら?」
「澪ちゃんもなんていうか、今日は輝いてる澪ちゃんだった!」
 普段は輝いていないのか、というツッコミも忘れて澪は顔を赤くする。
「あ、ありがとう……そんな、まだまだだケド」
「唯の言う通りだね。澪はこの一年で信じられないくらい成長したって分かる演奏だった。律と一緒に弾いてた時なんか、すっごくエキサイティングだったよ」
「あぁ、うぅ……」
 お師匠に直々に褒められた澪は、今度こそ顔をゆでだこのように真っ赤に染めて手で覆った。
「はーあ。楽しかった」
 夏音が呟いた言葉は全員の気持ちを表していた。
 楽しかった。軽音部にとって音楽をやった後、こう思えたのは久しぶりのことだったのだ。
「うん、楽しかった」
「またやりたいな」
 誰もがこう言い合って、終われば良いと思った。そして、何度でもこのやり取りを繰り返していければ良いのだ。
「俺は間違ってた。間違いだらけだった」
 ふいに語り出した夏音の口調が今までと変わったことに皆が気付く。
「すっごく傲慢だった。楽しまなければ音楽をやる意味もないってのに、俺自身がつまんなくさせちゃってた。俺が作る音楽が一番だ、俺のアイディアやアレンジが最適なんだって信じて疑わなかったんだ。今まで作った曲だって本当はみんなの意見を取り入れてたら違ったものになったんだろうね。それが良い物かは別だけど……みんな本当はもっとこうしたいって音楽があったんじゃないかな」
「そんなことないよ!」
 すかさず声を上げた唯は、その言い方にやや怒りを混じらせていた。
「私、今の軽音部の曲が好きだもん。コレ以外って言われてもよくわかんないし、夏音くんが言ってること間違ってると思う!」
「私もそう思う! 私が持ち込んだフレーズでも、いつも夏音くんが手を加えて変わっていくのが好きだもん! ああ、こういう風にした方がいいのかって感心させられっぱなしで。でも、悔しかったりしたから、夏音くんにそのまま採用して貰えるようなメロディーをいっぱい考えたりしたの。ほら、トリビュートの時のメロディって夏音くん褒めてくれたから嬉しかった。だから、コレでいいんだって自信が持てるの」
 いつになく早口のムギに夏音が目をぱちくりさせた。
 本当に良いものは、良いとする。夏音はそうやってそれぞれの音楽を結わいていく。時に厳しく、曲の雰囲気にそぐわなかったりするものは容赦なく排除する。
 議論に澪が口を挟む。
「多分、これでいいんだと思う。夏音は自分が口を出したからって悩んでるみたいだけど、結果的にはそれが私達にとって現状になって受け入れてるじゃない。それに、夏音はよく音楽に正解はないって口癖みたいに言うだろ? その通りに考えたら、失敗もないんじゃない? 私は少なくとも自分達の曲が好きだ。失敗した、なんて思ってないし思ってもそのままにしたくない」
「つーか、今イチって曲はもう演奏してないじゃん私ら。ダメって思った曲はきちんとそういう風に意見を通してきただろ? 私らだって機械や人形じゃないんだ。オリジナルの曲で本当に嫌だ! って思ったことくらい口にするよ。口にして、本気でぶつかり合ったことなんてないし、結局はみんな納得ずくってことだよ」
 律の言葉にさもありなん、と同意した一同だった。それから律はぽりぽりと頬をかき、言葉を続ける。
「でも、まあ……こうは言ったけど、たしかに何もかも遠慮無しに意見を言えていたわけでもないな。うん……きれい事抜きに言っちゃえば、けっこー不満に思ってたかも。大まかな意見は一緒だと思うけど、やっぱり細かい部分とかだと自分の意見を通しづらい雰囲気はあった」
 心からの本音を述懐する律に、夏音は眉尻を下げる。
「そういう些細なところとか、募りに募ってこうなっちゃったんだろうな-。そういうの、私的に『らしくない』しさ。ストレスになってたのは正直なところ」
「律。それについては本当にごめん、俺は―――」
「だーかーら。もういいんだってば! 私の方がガキだったってこと。それを言うならみんな勝手に自分の意見を抑えてたのが悪いんだからさ!」
「りっちゃんの言う通りだね。私なんか一番下手だし、下っ端? って感じだし。夏音くんだけじゃなくてみんなに注意されたこともハイハイって聞くけど、こんな私でもちょっとくらいは意見があったりしたもん。ここはこうした方がいいんじゃないかな、とかすごく弾きづらいなーとか、なかなか言い出せなくて……」
「唯……」
「いつも夏音くんはプロですごいんだから! って納得してたんだー。でも、それって本当はよくないことなんだよね……」
 俯いた唯にうなずいたのはムギである。
「知らない内に壁を作ってたのね。私、そういう見えない壁にはいつも敏感だったのに……」
 そう言って彼女は悔しげに手を強く握りしめた。ムギに引き継いで、澪が口を開いた。
「そういうのもちゃんと話し合っていかないとな。私も音楽に正解はないって夏音が口すっぱくして言ってたのに、自分の口にすることが失敗にならないかばっかり気にしてた……そういうのもやめにしないと。だからさ、夏音。結局、私達はこれからってことじゃないか?」
「澪の言うとーり! なんか一通りの懺悔みたいになっちゃったけどさ。みんな軽音部のことでひとしきり悩んだんだ。だから、さ」
 一瞬、口をつぐんだ律の代わりにムギがその言葉を発した。
「仲直りしましょう?」
その途端、夏音は足をじたばたさせた。
「でもでも! やっぱりみんな俺のせいで窮屈な思いしてたんだ! きっと、アイツのワンマンにはいい加減つきあえねーって影で思ってたんでしょ!?」
「ていっ」
「……」
「Oh!!」
 夏音の間近にいた澪と律が同時に夏音の顔にチョップを入れた。
「いひゃいっ!」
 つい舌を噛んでしまい涙目になる夏音だったが、そんなのはおかまいなしにチョップを入れた張本人達は頬を怒りに染めていた。
「このアホっ! 面倒くさっ! どこまで自虐に走ろうとするんだよ。本当にマゾなのもいい加減にしろっつの」
「私がそんな風に思うような人間だと思われてたのがムカついた」
「だ、だって……っ」
 鼻声になった夏音は思わず体を起こした。
「同年代の友達、あまり居たことないんだ!」
 しんと静まりかえったスタジオで、どうしたものかと視線を交わす一同の中、肩をすくめた律が口を開く。
「じゃ、私らで学べばいーじゃん?」
 どこか呆れたような、それでいて優しい声だった。
「………………ぐすっ」
 夏音の鼻をすする音が大きくなる。
「あれー夏音くん泣いてる?」
「おまっ、そこは空気読めよ!」
「えーー? りっちゃんに言われたくなーい!」
「オマエな……私のは緻密な計算あってこそのだな」
「それより、私達って何か夏音に伝えないといけないことがあった気がしたんだけど……」
「ごめんなさいも言ったし、何かあったかしら?」
「あー? なんかあったっけ。忘れるくらいならどうでもいーだろ?」
「いや、なんか重要な……」
「あ、夏音くんのお母さんが伝えてねって言ってたやつじゃない?」
「…………………………………………………………………………そ、そういえば」
 彼女達の会話を心地良く聞いていた夏音は、その単語の中に登場した母親の名前に嫌な予感がした。
「母さんが、どうしたって?」
「あー、いや、なんだ……今日の夕飯は何か勝手に作っておくからーっていう伝言をな」
 視線を泳がせる律の言葉が言い終わらない内に、夏音は跳ね起きてスタジオを飛び出ていった。あんなに機敏な動きはなかなか見られないほどだった。
「…………夏音が料理上手なのって、そういうことだったのかな」
「それは分からないけど………いつまでもお邪魔してたら、その……」
 一度、言葉を区切った澪は息を大きく吸い込み、
「私達も夕飯にお呼ばれする可能性が、あるんだけど………」
 一瞬で顔が青ざめた少女達の行動は神速のものだった。今までにないくらいの手際で楽器を片付け、帰り支度を済ませると玄関先まで急いだのであった。



 最低限の別れの挨拶だけそこそこに、脱兎のごとく家から出て行った少女達を恨めしげに見送った夏音は小さく息をついた。
 隣に立って少女達に手を振っていたアルヴィはそんな息子の肩に手を置いて微笑む。
「Such a nice for you(よかったわね)」
「What do you mean?(何が?)」
「Nothing(さあねー)」
 したり顔で微笑むアルヴィにバツの悪い思いを覚えた夏音は、そっと彼女の手をどかして家の中に入っていった。
「さて、作ったものは食べないとね」
 その際、彼の足取りと同じくらい重い一言を呟いた。







※今回、短めですみません。仲直り回、終了です。そこまで落ちきらなかった上に、仲直りもなんだかなーと思われるかもしれません。
 最良の仲直りの形、というのも定まったものはないと思いますので、結局はこういう感じでいいのかなーと……首を傾げながら書き上げました。





[26404] 第二十二話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/09/11 19:11


 放課後、特に示し合わせたわけでもないが、全員が廊下を歩いている途中に合流した。鍵を取っていざ部室へと向かったが、既に先客がいることに気付いた一同は怪訝な表情を浮かべた。
 その答えは扉を開けてみて、すぐに理解させられることに。
「夏音くん……あなたを待っていたわ……いや、オマエをマッテイタ!!!」
「……………………………………………………………」
 部室に入った軽音部一行を待ち構えていたのは我らが顧問、山中さわ子。美人で優しい評判高い女教師。その本人は見た目にそぐわぬフライングVを携えて、今まさに部室に入ってきた夏音を見据えている。
「…………どうしちゃったんだろう、この人」
 全員分の意見である。ぽかんとした表情で首を傾げた夏音は、じっと鋭い視線を向けられる覚えがなかったので、顧問に尋ねた。
「いったいどうしたんですか?」
 頭とか、諸々含めて。
「ふふ……あなたは今とても重大な分岐点に立っているはず。自分の抱える悩み、葛藤の日々。わかる……とても、わかるのよ。けれど、私はあなたがいつまでも悩んでるこの現状が見てられないの! そう、顧問としてあなたにしてあげられることがないか考えたわ。そんなの一つしかないじゃない……本当の音楽を………この魂のぶつかり合いの中で思い出させてあげるの。さあ! ギターを出しなさい! こちとら多少は腕が錆び付いたってその辺のちゃらいギター弾きより劣ったつもりはないわよ!」
 びしっとピックを挟んだ指を夏音に向けるさわ子。
「あなたの魂を解放させてあげるわ!」
 本人としては最高に格好よくキメたつもりなのだろうが、真正面に立つ少年少女達は胡乱気に見詰め返すばかりだった。
「やれやれ。完全に自分の世界に酔いしれてるみたいだね。なんだか俺が原因みたいだけど」
 肩をすくめて、前に歩み出た夏音はギターケースからストラトを取り出す。
「面倒くさいけど、付き合ってみるかな」
 にっと笑う夏音にさわ子の眼がきらりと光った。


「………今日もお茶がうまい」
 しばらくして後、軽音部はいつもの安穏とした空気に満ち足りていた。ケーキと紅茶を囲んで優雅なティータイム。姦しくどうでもいい会話に華を咲かせている。昨日までの殺伐とした空気はどこかへ吹き飛び、以前までの軽音部が戻ったといえよう。
「わかってはいたの……わかってはいたのよ……」
 ただ一人、ギターを抱えてうずくまる女教師だけがこの空間に闇を落としていた。
「プロとはいえ、生徒にこてんぱんにされるなんて……不甲斐なくて泣きそう……」
 嗚咽を漏らし続ける彼女はどう見ても既に泣いていたが、誰もそこに突っ込まない。むしろ、九割五分ほど自分達のティータイムに夢中で、残りなけなしの同情の念によってさわ子の方をちらりと見るくらいだ。それも、ひどく面倒くさそうに。
「さーわちゃん。元気だしなよー。さわちゃんは勝てるとかの前に、色々と方向性が間違ってるんだよ。もう、人としてっていうか」
 心ない律の一言に、さらに激しく泣き伏せるさわ子にいい加減に「めんどくせー」と思い始めた一同だった。


 結局、突如として始まったギターバトル(さわ子いわく、魂の解放)は、序盤からメーターふりきりのさわ子の速弾きから始まり、返す夏音の超絶技巧との掛け合いがしばらく続いた。泣きのチョーキングまで入れ、さらに全力の表情まで使ってギターを弾くさわ子の瞳から一筋の涙が流れたあたりからさわ子の劣勢は始まる。徐々に凄みを増す夏音は早く勝負をつけたかったのか、実力を惜しげなく披露。
 最終的に指が吊ってギターが弾けなくなったさわ子はその場に崩れ落ちることになった。
「先生もやるね。ブランクあるとは全然思えなかったや! たまに部活でも弾いたらいいんじゃないかな」
 爽やかな笑顔で声を掛けられた後、決定的な一言。
「あ、それと俺達はちゃんと仲直りもしたし。今日も平常運行なんで、ヨロシク!」
 勝手に事態を解決されていたのである。夜通し悩んだあげく、このような手段に出たさわ子は、まるで立場がなかったわけだ。


「まあ、心中察しはするけど……」
 気の毒そうに眉を寄せた澪が背を丸めてうずくまるさわ子を見る。十も年下の生徒の前でこの体たらくは、あんまりである。
「さわちゃんカッコよかったよ! ケーキあるからおいでー?」
 いたわりの声をかけてくれる唯に泣き濡れた瞳を向けたさわ子は、唯一の優しさに導かれるようにテーブルに座った。その際、既にささっとお茶の用意を済ませていたムギは流石である。
「………このために生きてきたと言っても過言ではないわ」
 しみじみと茶をすすりながら深い息をつく姿は、まだ若い少女達には直視しがたいものがあった。一回りほど老けたような状態の彼女は、仮にも桜高の美人教師で通っているのだが。
「ま、よく考えたら自分達だけで片をつけるのがイチバンなのよねー」
 今しがたまで晒していた醜態を綺麗さっぱりぶん投げたさわ子は、打って変わって教師の顔をした。
「いちおー顧問としてあなた達の予定とかは把握しておきたいんだけど、結局はどうすることにしたの?」
 この問いに顔を見合わせた面々である。
「出ることにしたよ」
 代表して夏音が答えた。
「出ないっていう選択肢もあったんだけど、せっかくだしね」
「そのコンテストってテレビとかは入らないの?」
「そうだよ。だからこそ俺が安心して出られるっていうのもあるんだ」
「ま、何かの間違いでファイナル進出なんてことになっちゃったけど。こんなチャンスはなかなかないだろうからなー」
 コンテストに出場することは誰にでもできるが、最終舞台まで辿り着けるものは一握りなのである。課程がどうであれ、やれるところまでやってみたいという挑戦心が彼女達の心を占めていたのだ。
「優勝とかは正直無理だろうけど、そういうことじゃないんだ」
 夏音の言葉にしたり顔で頷き合う少女達にさわ子は「ふーん」と目を眇めた。この子供達は何かを乗り越えて、絆をより深めたのだろうとすぐに分かったのだ。満面笑みを湛えてから、すぐに表情を引き締める。
 さわ子は本当ならば心の底から喜んでやりたいが、教師としての自分が課程の段階で手放しで喜ぶのも何か違うと思ったのである。さわ子が満面の笑みで彼女達を迎えるのは全てが終わった後でなくてはならない。さんざん浮かれたあげく、散々な結果になった時に自分も一緒に落ち込みそうだからというのもある。
 微笑程度に留め、何だか「わかり合っている」雰囲気を出す生徒達に改めて言った。
「何にしても後悔が無いようになさい? 学生のうちって全てに全力で向かっていける時期なのよねー。うらやましいわあ……」
 嘆くさわ子の言葉は誰も聞いていなかったが。少しぴくりとこめかみが脈打ったが、さわ子は大人の余裕をもって彼女達に尋ねる。
「当日は私も応援に行くつもりだけど、チケットとかはないの?」
「営利目的のイベントじゃないから入場無料だよ。ただ1ドリンク代だけかかるけど」
「そう。じゃ、これから練習しなくちゃね! 私、もう行くわ。頑張って!」
 いつの間にか平らげてしまったケーキと紅茶の礼を言って、さわ子は職員室に戻っていった。
「ある意味、すごい人だよな」
 色々と強烈な顧問が去っていった後の扉を見詰め、律が苦笑混じりに呟いた。そして、そのまま思い出したように夏音に訊ねた。
「そういえば昨日、夏音はその……夕飯を食べたのか?」
「………ああ」
 その一言にぎっしりと説得力が詰まっていた。誰もが気の毒そうに見詰めるので、座りが悪くなった夏音が大袈裟な、と手を振る。
「大丈夫。生まれてから何度も口にしてきたんだから。それより、よくぞみんなこそ平気だったね。初心者は大抵トイレに直行するんだけど」
 心の底から驚嘆を示す夏音に、昨夜の記憶がよみがえってしまった面々が胃を押さえる。げっそりと視線を泳がせる反応を見て、夏音は心得た様子で頷いていた。
「ご愁傷さま、てやつだね」
 簡単に言ってくれる、と恨みのこもった視線をそこで向けた澪だったが、筋違いかと思い直したのか代わりに小さく溜め息をついた。
「完璧な人間なんてそうそういないってことか」
「え、何か言った?」
「な、なんでもない!」
 仮にも身内をバカにするような発言をされたら気を悪くさせたかも、と澪は反省した。
「ま、いいか。さてお茶も飲み終わったし練習しようか?」
 反対の声は誰一人あがらなかった。




『ハーイ、それじゃあ最後に意気込みをお願いCHA~』
『う、あ、ハイ! んっと……緊張はすごいですが、精一杯頑張りましゅ!』
『オーケィ。明日、あの場所で会おうぜ! クレイジーコンビネーションのRITSUでしたー!』
 通話が切れたことを確認してから、肺の中の酸素を吐き切る勢いで息をついた律にすかさず叫声が叩きつけられる。
「すごーいりっちゃん! ラジオに出演しちゃったよ! 芸能人だよ!」
 興奮冷めやらぬ様子でぴょんぴょんとはねる唯の横では、手を握りしめて同じように頬を上気させたムギがきらきらと瞳を輝かせている。
「お疲れさま」
 特に大した運動をしたわけでもないのに、びっしょりと汗を掻いた律に澪からタオルが差し伸べられる。
「サンキュー………うぅ、最後かんじゃった……もうだめだー! 全国ネットで笑いものだー!!」
 ウギャーと頭を抱えて床で悶えまくる律の耳に、プッと噴き出す音が引っ掛かる。
「笑うな夏音!」
「だ、だって律の声、ラジオからきこえるんだもん! あーヤバイ! 何あの声っ!? つくりすぎだろー」
 終いには腹を抱えて転げ落ちそうになる。自分を馬鹿にする男をきつく睨んだ律は恨みがましい声で唸った。
「つーか何で私だよー! お前の方がラジオとか喋り慣れてそうだろう!?」
「いーや。俺、ラジオは全然出たことないんだ」
「んなことどーでもいいわっ! つまりお前の方がメディア慣れしてんじゃんって話だろ!」
「そんなことないよ? 俺、テレビとかの前だと緊張するし。『あ、あ、あ、あ、あの、オァ、スゥーッハァ。スゥーーッ、ブフォッ! ソ、ソ、ソ、ソソーデスネ!?』みたいな感じになるもん」
「嘘つけっ! めっちゃフレンドリーに喋りまくってる動画観たわっ!」
 有名人は誤魔化しがきかない。
「でも、この部の部長は律なんだからさ。そこが妥当だと思うけどな」
「へっ! そういう時だけ部長部長ってな」
「例えば唯に喋らせてみなよ。何喋るかわかんなくて恐ろしすぎるだろ?」
 公共の放送にはいささかデンジャラスすぎる会話を提供しそうである。
「夏音くんひどい……」
「まあ確かにな」
 そりゃそうだと激しく同意する律に、さらにショックを受けた唯は膝を抱えていじけ始める。
「澪なんかひどいと思うよ。放送事故になること間違いなし」
「それもそうか」
 これにも思い当たる節がありまくりなので、容易に想像できた。思わず抗議の声を上げた澪は無視される。
「ムギはまあ、いいと思うけど……」
「けど?」
「なんか、違う気がする」
「結局、私一択しかねーじゃねーか!」
 おまけに、最後のは理由にすらなっていない。
「まあまあそんな怒りなさんなよー。いい経験じゃないか」
 律は怒りのあまり身を起こすと、がばっと立ち上がった。
「明日、私がどんな目で見られるかわかってんのかよ!? 『あ、ラジオで噛んでた女だ』だぞ!?」
「いや、別に誰も思わないでしょそんなの。微笑ましく捉えられたと思うけどな」
「そうよりっちゃん。緊張のあまり噛んじゃった女子高生! バッチリだと思う!」
 横でニコニコと会話をうかがっていたムギが言う。
「ば、ばっちりってなんだー?」
 律は、日頃からよく考えが読めないムギにたじろいだ。
「大丈夫!」
「いや、自信満々におされても……」
 心の底から言っているだろうムギに弱ってしまった律。これには、抗いたい気持ちも萎えてしまった。
「別に終わったからいーんだけどさ……」
 爆メロ前日にラジオに生放送するという話が襲来した時、一同は誰が電話に出るかでもめにもめた。たらい回しした結果、部長ということで律に白羽の矢が立ってしまったのである。彼女は電話がかかってくる寸前まで抵抗していたのだが、受話器越しに聞こえる喋る自分の声がすぐ側のラジオから流れるのを聞いて腹をくくるしかなかったようだ。頭は真っ白になって何を喋ったか、ほとんどぶっ飛んでしまっている。
「いよいよ明日、か」
 ぽつりと噛みしめるように呟いた澪の言葉に皆が口をつぐむ。今日、夏音の家に皆が集まったのは、律のラジオトークを聞くためだけではない。機材や明日の流れについての最終確認であった。主催側との打ち合わせ内容を確認し、間違いがないようにチェックする。明日はスタジオリハを行った後に夏音の車で会場に向かうので、全員が夏音の自宅に泊まることになっている。
爆メロに出場することが決まって以来、誰しもがこの日を迎えることの実感を得られないでいた。どこか非現実のものとして、ふわふわとした感覚を抱えたまま進んできたのだ。
 夏音がポテトチップスの袋を持ち、残りわずかな欠片を口に押し込んだ。その緊張感のない行為に澪は呆れた眼差しを向ける。
「何か言うことはないのか?」
「言うことって……俺が?」
 ふいに向けられた鋭い視線を不思議に思い、ぽかんとする夏音。
「え、と。明日は楽しもうね?」
「何で疑問系だよ!」
 まるで締まらない言葉に律が憤慨した。先ほどから自分が怒られるような覚えはないので、不服そうに夏音が口を尖らせた。
「だって何言ったらいいのかわかんないし!」
「こう、何かあるあるだろー? みんなを奮い立たせるような熱い言葉がさー」
「意味わかんない。いくぜオラーとか?」
 とことん気合いを入れるには不向きな人材であった。
「そういうのを仰々しくやったことってあまり無いなあ。あ、でも必ず言うことはあるかな」
 改めて至近距離で注目されていることを意識した夏音は気恥ずかしそうに笑った。すっと立ち上がり、両手を広げる。
「楽しもう」
 その瞬間、少女達の頭の中にこの一年の光景がフラッシュバックする。音楽をやろうとする時、この唯一の男はいつだってその一言を口にする。
「あ……」
 ムギがふいに漏らした声に、はっと息を呑む音が響く。
「私、なんか感極まっちゃって……おかしいね」
 彼女は大きな瞳に涙を溜めていた。頬を伝う一筋の痕が、一同の目を引いた。
「ムギ……」
「あ、ごめんね! 別に悲しいとかじゃないの! 私、この一年で今までにないくらいいっぱい濃い体験をしてきて……そういうのとか、一気にきちゃって……」
 笑いながら泣く彼女の横で、同じように鼻をすする者がいた。
「み、澪ちゃんも?」
 目を赤くして涙を零す澪に気付いた唯が驚いた声を出した。
「いや……私、もらい泣きすごくて」
「あー、澪は昔からもらい泣きの女王だからなー。もらわなくても率先して泣いてるくらいだし」
 横で好き勝手言っている幼なじみを無視して、澪は鼻をかんだ。
「でも、ムギの気持ちもわかるんだ。私もこの一年で色々……」
 そう言いかけて、夏音の方をちらりと見る。
「……っ」
 数秒のち、頬が赤くなった。
「え? ナ、ナニ!?」
 澪の反応に狼狽えた夏音。すかさず、からかいの声がかかった。
「おやー二人は何か特別な思い出でもあんのかなー? いや、あるんだっけ。何せ二人だけの放課後レッスン……やらしー」
「そんなんじゃないって!」
「そーいうのじゃない!」
 同時に声を上げる。くつくつと笑う律はどこふく風である。既に機嫌を取り戻した彼女は、これをもってささやかな反撃とした。
 一瞬、静まりかえった雰囲気はすぐに朗らかなものへと変わった。本人の意志は別として、律がこのように部のムードメーカーになっていることは間違いない。
「ま、各々感じ入るところもあるワケだと思うけど」
 脱力したように腰を下ろした夏音だったが、仕切り直すように話し始めた。
「たぶん言葉なんかじゃ表せないよね。俺もこの一年は衝撃の連続だった」
 日本にやって来て、滑り出しこそ失敗してしまった。心の奥深くまで残るような傷ではないが、二度と学校に通いたくないとまで思わせるような体験もした。けれども、再出発は生まれて初めて体験することの連続だった。
 彼にとって桜高に入学してからの出来事は、とても言葉でまとめられるようなものではないのだ。
「あ、そうだ。どうせなら、その気持ちを本番でぶつけるために思い出語りでもしようか?」
「いいよ、そんな。それに思い出語るにはまだ早すぎだろー?」
「それもそっか」
 苦笑で返された夏音は、もう一度心でそれもそうだと繰り返した。
 振り返るには、まだ早い。軽音部は、まだまだこれからなのだ。
「やっぱ仰々しくやっても意味ない! 今日は前夜祭ってことで騒がないと!」
 その為に、お菓子もジュースもたくさん用意したのだ。夏音の言葉に、全員が笑顔でそれに応えた。



 前回、夏音の家に泊まった時と同じように少女達には客室が開放された。深夜に差し掛かるあたりまで前夜祭と称したパーティは続いた。交代で風呂に入り、途中からパジャマパーティと化して団欒のひとときを過ごす。ゲームをやったり、他愛無いおしゃべりに華を咲かせているうちにあっという間に時間は過ぎていった。
 夏音は皆が客室に下がると、リビングに降りた。これから彼女達はさらなる女子トークを繰り広げるのかもしれないが、流石に夏音もその輪に加わることは遠慮せざるを得ない。
 何をする気も起きず、ただぼんやりとソファに寝転がって天井を見上げる。自分の同級生、部活の仲間。そんなものが一つ屋根の下にいることが不思議に思えた。
 アメリカにいた頃は、家に友達を上げたりするような機会はなかった。学校が終わるとすぐに大人達に混ざって音楽に浸るような生活。流行のカートゥーンの話題についていけなく、多くの友達ができることはなかった。
 幼い頃からそのような生活を送っているせいで、どこか早熟な少年だった夏音は、同年代の子供達と合わないことがしばしばあった。皆が口にする話題だったり、彼らの好む遊びなどに違和感を覚えて仕方がなかったのである。
 どこそこから出るおもちゃを買って貰った。パパに野球に連れていってもらった。他にも、その年頃の少年少女がこぞって自慢したがるような事柄に熱烈に興味を示すこともなかったので、自然と接点も消えていく。幼い子供達は、自分と同じものに興味を持つ仲間を欲しがるのである。自分が先んじて手に入れたゲームを羨んで欲しいし、自分が受けたその恩恵をめぐんでやって交流を深めることが重要視されるのだ。
 夏音は週に一度もスニッカーズを食べずにいても平気だし、親がおもちゃを買ってくれなくて癇癪を起こすこともない。人並みに興味を覚えなかったわけではないが、夢中になることはなく。そうやって他の子供達が揃って手に入れていく「当たり前」を横目に生きてきた。
 この一年、夏音は自分が受け取り損ねていた物をたくさん得た。誰もが当たり前に享受していた物の存在を知り、同じように触れていったのだ。
 自分が普通の子供ではないことを充分に承知していた夏音は、今こうやって普通に慣れ親しもうとしている自分に驚いている。
 大切な友達ができた。
 一緒に学び、遊び、目標に向かい、たまに旅行に行ったりするような存在。彼女達は自分が長らく触れてきたもの、自分の一部と化しているくらい自然な「音楽」という物に熱い眼差しを向けている。
 彼女達の考えることが理解できないことも多々あったが、共に音楽を味わうその瞬間には、これとないほどの絆を感じるようにもなった。
 明日、否、既に時刻は本日。短いながらも彼女達と培ってきたものが試されることになる。
 自分も含めて、彼女達は初めて観衆という存在からのジャッジを受けるのだ。文化祭の客とは桁外れな次元。彼らの視線の正体を知ることになる。一生、その視線を味あわない者もいる。だが、彼女達は違う。
 何にしても楽ませてやろうと夏音は心に決めていた。あのステージで、同じ体験をさせることは自分が許さない。彼女達を楽しませること。一緒に弾けることができなければ、自分の音楽家としての生命が潰えるだろう、と思うくらいに真剣であった。
 何気なく投げ出していた足を抱える。誰も居ない家は慣れる以前に、当たり前の日常であった。
 気配だけ、ひっそりと感じる。目に見えないし、音も聞こえないのに、同じ家に誰かが居ることが伝わる。温もりのような、不可視なものを感じている。
 その感覚がどこかしっくり来て、夏音は自宅なのに普段以上にくつろいでいた。
 その時。二階から誰かが降りてくる音がした。
 おや、と顔を上げる前に夏音は目を閉じながらその人物を推測する。
「唯?」
「え、何でわかったの?」
 夏音くんエスパー? と首を傾げながら一気に階段をかけ下りてくる唯。そのまん丸に開かれた瞳がおかしくて、夏音はくつくつと笑った。
「わりと当てずっぽうだったけどね」
 本当は確信に近いものもあったが。細かい違いだが、足音にも個性はある。律の場合はスタスタと規則正しくも、少し大雑把な感じ。澪の場合は注意深く、少し重い感じ(体重のことではなく)。ムギはあまり足音を感じさせない。唯の場合は気が抜けたようにバラバラな歩き方をする。
「みんなはまだ寝てないの?」
「さっきまでお話してたんだけど、もう寝ちゃったよ」
「唯は眠れないの? 水でも飲む?」
「私、いっつももう少し起きてるから眠れなくって……」
 真っ先に眠ってしまいそうな彼女が一番宵っ張りなのは意外である。気恥ずかしそうに答えた彼女は別のソファに腰を下ろした。
「だから寝坊ばっかするんじゃないの?」
「えへへ~憂にもよく怒られてるんだー」
「苦労するなぁ」
 しっかり者の妹君の顔を思い浮かべて気の毒そうに言う。
「夏音くんこそまだ寝ないの?」
「んー。俺もなんか寝れなくてさ」
「へー、一緒だねー」
 含みはないとしても、皮肉のようになってしまった。言外に人のこと言えないだろうと指摘されたようで夏音はむっとした。しかし、すぐにそんな気持ちは霧散してしまう。
「なんか騒いだ後ってやけに静かになるだろう? そういうのが、少しね……落ち着かないんだ」
 祭りの後の静寂に似ている。どこか閑散とした空気がそれまでそこに存在していたエネルギーの残滓を消し去ろうとしている気がするのだ。
「んー。何となく分かるかも」
「そうだろー?」
 例えば、それは素晴らしいコンサート。客とまさしく一体となり、最高の夜を過ごした時などは体のどこかが切なくなるものだ。
「夏音くん、緊張とかしてる?」
「緊張? そんな馬鹿な―――」
 一生に付そうとした瞬間、夏音は言葉を詰まらせた。唯の何の気なしの一言が夏音の心に予想外の衝撃を与えたのだ。
「緊張………もしかして、緊張してるかも」
 これには夏音自身が驚愕していた。前日から眠れなくなってしまうほど思い詰めるような経験は久しい。自分でも気付いていなかったことを言い当ててしまった唯を思わず見詰めてしまう。
 彼女はにたにたと笑んでいた。
「なにさ?」
「いやー夏音くんでも緊張するんだなーって」
「俺でも緊張くらいはするさ」
 いや、少し前に緊張なんて大したことないと偉そうに言っていた。その分、気まずいのだ。
「やっぱり俺にとってもこのライブは特別なんだよ。今までに経験がないと言ってもいい」
 夏音にとってプロの舞台とは異なり「何者でもない自分」として人前で演奏すると、何とも言えない感覚に包まれるのだ。カノン・マクレーンという肩書きが取っ払われた状態で、自分の演奏がどのように評価されるかが気にならないと言えば嘘になる。自分の力を過大に評価することもないが、ライブハウスでの審査の時点で自分を含めた演奏で落とされたことは、夏音に微かな焦りをもたらしていた。
 自分の築いてきた物は、実はカノン・マクレーンというブランドを育てていただけで、その実力だけを抜き出せば大した物とは扱われないのかもしれないという不安である。
 例えば姿を見せないで演奏したとすれば、それを聴いた者は自分の演奏を評価してくれるのか。
 あのライブハウスで演奏した日から自身の評価の軸がぶれてきて、焦りが沸々と大きくなった。だからこそ、夏音は軽音部にいる自分が不安になってしまったのだ。
「でもね。緊張はしてるけど、どちらかというと楽しみのほうが大きいと思うよ」
 緊張すれども、それに押し潰されることはない。緊張は夏音にとって明確な敵にはならないのだ。
「ワクワクしすぎて、どうにかなっちゃいそうだ。誰も知らないこのメンバーで思い切り純粋な音楽をぶつけてやるんだ。どう評価されても、それは悪いことにはならないって確信もある。そうだな……どちらかというと、興奮しているのかもしれないね」
「やっぱり夏音くんは余裕だね! でも、私も少し楽しみ!」
「楽しみは少しなの?」
 夏音が意地悪く笑う。
「うーん……楽しみだけど……うん、やっぱり楽しみかな?」
「きっと楽しいはずさ」
「そだねー」
 唯は目を細めて言った。
「夏音くんが言うんだから間違いないよ」
 夏音はその笑顔を受けて顔を逸らしかけた。少女達が自分に置いている信頼が時折、こうやって自分を見据えてくる。
「俺が言わなくても、きっとそうなるさ……唯もみんなも」
「夏音くん……?」
 夏音は姿勢を正してじっと唯に向き直った。
「唯。ギターは楽しい?」
「うん!」
 訊くまでもない質問に、答えるまでもない答え。唯は当たり前だといった風に強く頷いた。
「なら楽しいことをしに行くんだ。楽しくないはずがない」
 両手を広げ、大袈裟に肩をすくめる夏音。そんな動作が外見と相まってとてもしっくりとしている。
「それもそっかー」
 頬をだらしなく緩ませ、納得する唯。その単純さに思わず夏音は声を立てて笑った。
「さて! 明日起きれなくなっちゃうからもうおねんねだ!」
「はーい」
 おやすみと言い残して唯が客室に消えた後、深夜に良い年の男女が二人きりというシチュエーションにすら何も感じていなかった自分に、いい加減男としての自覚はどこに去ってしまったものかと悩んだ夏音であった。


 

※すみません。今回は激短です。そして、結構前から出来ていたんですけど投稿するのを忘れていました。
 今、次話を書いているので近いうちにまた更新します。



[26404] 第二十三話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/10/28 02:20


 床がびりびりと震えるほどの振動を身体に感じながら最後の音を振り切った。
「うん! いい感じだな!」
 曲の締めに控えめなグリス。澪の手癖である。そして、ぴたりと音を止めた澪が白い歯を見せて言った一言に夏音が素直に頷く。
「今までの中で一番演奏が締まってた」
「あーこれがそのまま本番だったらなー」
 タムにもたれかかった律が楽しげに笑う。苦笑混じりの表情を見る限り、真にそう思っているのだろう。
「りっちゃん弱気―」
「うるさーい」
「あ、そうだ。ところで本番は律のデコは出す感じなのかな」
「んー。衣装とかは特に決めてなくても、ちょっとくらいは体裁を整えておきたいかもな」
 顎に手を当てて悩む澪。
「そこの二人チョイ待てーぃ! 私のデコについて方針を決めようとすんな!」
「……いや、でも。うーんカチューシャデコ出しって逆にアリなのかな」
「えー? りっちゃんはこの感じが可愛いんだよ!」
「でも私、りっちゃんが髪下ろしたのも可愛くて良いと思うわー」
「え、何か真剣に話し合いに突入したんだけど。やだ何これこわい」
 本人を無視した、デコ出し議論はしばらく続く。
 このように、軽音部の一大イベント当日はゆるやかな雰囲気で始まった。



 軽音部ことCrazy Combination。夏音の独断によってついたバンド名だが、既に公式HPの上にも名前が載ってしまっている。バンド紹介のページに思い切り偽名を使っているヴォーカルであったり、勝手にプログレと紹介されていたりとツッコミどころ満載だったが、さらにそのHPにはこう書いてあるのだ。
一バンド目、と。
 これを知った時、ほとんどの者が身震いした。何しろ、トップバッターとは荷が重い役割を担う。イベントを見に来た客がはじめに今回の爆メロの質を感じ取るのである。
 あまりに肩すかしを食わせるような内容の演奏をしてしまえば、主催側にも同じ土俵に立つバンドにも申し訳ないような気がするのである。
 最初と最後に演奏するバンドは色んな意味で客の注目を浴びる役目にある。どうせなら二番か三番がよかったと分かりやすく項垂れた澪に夏音は言った。
「でも一番には一番の利点があるんだよ」
 正直、自分達がいわゆる「おこぼれ通過」したと思っている夏音はこの出順は妥当だと捉えていた。審査側の期待値があるとすれば、その期待値が高いバンドほど後ろに持ってくるのは当然の選択である。
 そもそも、本気で優勝にこだわっているわけではないので、出順に執着する必要は全くないのだ。
「逆リハだから転換の時が楽だよね!」
 ずこーっと崩れ落ちる音が複数。
「んなこたわかってるわ! もっと経験豊富な人間としてのアレがあるだろ!」
「んー。なんだろう……後のライブをゆっくり観れること?」
「発言内容が地味すぎる……」
「うるさいなー。でも、お客さんもスタッフもみんな序盤だから元気いっぱいだよ!」
「はぁ……」
「いやいや何その溜め息!? これは真面目な話だから! ああいうイベントってオープニングのテンションがすごいだろう。何バンドも立ちっぱなしで見ているうちに疲れてくるじゃん? そうなったらお客さんのテンションも少し落ちるわけで。それに歴代の優勝バンドでプロになった人達がオープニングアクトをやるっていう話だよ。おそらく、俺達が演奏する前に彼らが充分に会場を温めてくれると思うから、むしろやりやすいんじゃない?」
 爆メロでは、毎年恒例でオープニングアクトをプロのバンドが勤めることになっているらしい。これもどこぞの大会からのパクリという噂もあるそうだが。
「あ、モノクロボンボヤージュだっけ?」
「違う。モノラルボンバーイェイだ」
 唯と律が私のが合ってると主張し始める。
「二人とも違う! モノグロット・ボンバストだ!」
「バンド名、意味わかんないね」
「ねー」
 見事に間違えた二名は顔を見合わせてバンド名を批難する。
「意味はわかるけど、語呂が悪いね。明らかに辞書引いて決めましたーって感じのバンド名。だっさ」
 日本人が英語を使うとこうなる場合が多い。
 さらっと毒を吐いた夏音は、おもむろに席を立ってキッチンに向かった。スタジオリハも済み、既に朝食も摂った。後は出発の時間まで自由だが、食器を洗って片付けなくてはならない。
 意外にマメな性格である。
「あ、夏音―。私やっちゃうよ」
 すぐに後を追いかけてきた律が袖をまくって流し台の前に立つ。それからスポンジに水をふくませ、洗剤を数滴垂らす。しっかり泡立てた後、水に浸けていた食器を洗い始めた。
 夏音が遠慮する暇もないくらいに自然な動作で、驚くほど手際がよい。これは普段からやり慣れている証拠であり、家庭では家事を担うこともある彼女のことを知っていた夏音だったが、やはり先入観というものは恐ろしい。平常時の彼女のイメージに慣れているせいか、せっせとてきぱき家事をこなす律というのはとても違和感がある。
「ん? 何ぼーっと見てんの?」
「あ、いや。何というか……ご、ご苦労さんです」
「え? あ、……はい」
 律はぽかんと目を見開いたまま、曖昧な返事をした。何か失敗したような気がした夏音は居たたまれなくなった。完全に自分のせいだと分かっていたが、よろしくと律に一声残してその場を離れた。
 リビングに戻り、そこでテレビを見ながらくつろいでいる他の面々は本番当日の緊張の影が見られない。先ほどスタジオリハをやった効果もあるのかもしれないが、テレビで流れるニュースにとぼけた反応を示す唯や冷静に突っ込む澪。そんな二人をにこにこと見守るムギ。肩の力が抜けており、平常運行といった様子だ。
 キッチンでは律が皿を洗っている。
 夏音は深く息を吐いて微笑んだ。きっと大丈夫。今日は良い一日になる。そんな確信を得て、三人の会話に混じった。


「ではではみなさま。出発しますが、よろしいですか!」
「おー!」
「出発進行ー!」
 機材も積み終わり、準備万端となったところで気合いを入れて車を走らせる。以前と同じ道を快調に飛ばして自分達の曲を流した。澄み切った青空が気持ち良く、窓を全開にしてスピードを出すと風が車内に激しく入り込んだ。
 途中で唯がせっかくセットした髪がぐしゃぐしゃになったと喚き、律が「カチューシャにすればいいんだ」と鼻で笑った。
「りっちゃんは本番で髪を下ろさなくちゃだめなのです」
「お前さっきこの髪型が可愛いって言ってただろーが!」
 突如として始まったデコ会話に夏音が加わる。
「おっ。じゃあ律はデコを封印する方向で」
「方向とかっ! お前は! 私の何なんだっつの」
「でも髪下ろしてドラム叩くと格好いいと思うけどな。こう……ふとした時に髪が翻って荒々しい感じとか」
 澪が真面目な口調で言うと、ムギが手を叩いて喜ぶ。
「わーっ。荒ぶるりっちゃんも格好いいかも!」
「いやー。ぶっちゃけ髪がチクチク刺さってうざったい」
 それに前が見えなくなるし、と呟く。
「澪の言う通り律はもっと上半身を振り乱しちゃいなよ。かっけーよ。やっちゃいなよ」
「ナオみたいでいいかもな。似合わないけど」
「澪は賛成なのか反対なのかどっちなんですかー?」
 いつもデコ一つに対して仲間からの一斉射撃が行われる律はいい加減に辟易した様子で押し黙った。しかし、その手はカチューシャのあたりを弄くっている。
「でもうちらのバンドって夏音くらいしか動く人がいないよな」
「なら澪が動けばいいじゃん」
「わ、私はそういう感じのじゃないからっ」
 即座に夏音から指摘され、墓穴を掘ったと後悔した澪は慌てて否定する。
「逆にさ。俺はヴォーカルだけど動けるところで動いてるのに、みんなが大人しいと浮いちゃうんだよ。こればかりは慣れだから言わないでおいたけど」
「んー。動くって言われても……どうすればいいのかわかんないよ」
 そう言って困ったように眉を寄せる唯などは、演奏中は楽しそうに体を揺らすことはあるが激しく動き回ることはない。あくまで自然に体が動くだけで、パフォーマンスやスタイルとしての動きというのは意識していないのだ。
「フロントの二人がステージの上で大人しいのもステージ映えしないからさ。いつかそういうのも気を遣って欲しいと思ってたんだよね、実は」
「むーー。よくわからないなー」
 匙を投げた唯の隣でムギがおずおずと口を開いた。
「わ、私も動いた方がいいですか?」
「ムギは……そうだなー。動くに越したことはないけど。わざわざ動く必要もないというか……非常に難しい問題なんだよ」
「夏音くんは有名な人でこういう人の動きがいい! っていうのはないの?」
「例えば……キース・エマーソンとか?」
 極端な例を出したか、と夏音は思い直した。
「俺、日本のJポップも少しは知ってるんだけどさ。昔の小室哲哉とか、すっごい動いてるよね」
「小室さん?」
「え、小室知らないのかムギ!?」
 夏音でさえ知っているのに、と驚愕の声を上げた律に首を傾げるムギ。
「はぁー。これがジェネレーションギャップってやつかぁー」
「同い年だろ。そもそもお前も世代からちょっとズレてるんじゃないか?」
「澪だって知ってるだろ? ていうか知らない人って珍しいくらいだって」
「ごめんなさい……私、勉強不足で」
「ほら! ムギがしょんぼりしちゃっただろう!」
 肩を落としてしょげたムギを見て澪が目を吊り上げる。
「わ、悪かったよー怒鳴って。あんまりびっくりしちゃったからさー」
「俺は日本にいなかったから律の気持ちはよく分からないけど、知っておいた方がいい人だと思うよ」
 周りの反応を受けて相当ショックだったのか、ムギは何度もこくこくと首を振った。
「いきなり今日やれって言うのも無理だから、今後は意識していけばいいさ」
 無難にまとめた夏音に一同は素直に頷いたのであった。


 ライブハウスには午後一時を少し過ぎたところで到着した。以前と同じように駐車場に車を停め、機材を積んだ荷車を押しながらペニーマーラーの裏口に入る。一度来た場所なので、行くべき場所まではすいすいと進んでいけた。ステージの裏まで行くと、ちょうど前のバンドのリハーサルが行われていた。そこに控えていたスタッフが機材を持って現れた軽音部の面々に気付き、先頭に構えていた夏音に顔を寄せる。下心があるわけではなく、あまりに音がうるさいのでこうして耳元で叫ばないと声が聞き取りづらいのである。
「おはようございます! 今このバンド始まったばっかなんですよね。リハ終わるまでかなり時間あると思うんで、機材だけ下ろして控え室行っててください!」
 なんと前のバンドはリハを始めたばかりだったらしい。このように車で来ると時間の調整が難しい。道の混み具合も分からない上、余裕を持って到着しようと心懸けていたので、予定の集合時間よりだいぶ早く到着してしまったようだ。
 夏音が同じことを彼女達に伝えると、一同は以前も控え室として使われていた会議室へと向かった。
 控え室にはバンドの世話をするスタッフが一名だけいるだけで、他のバンドの姿はない。何とも贅沢なことに、今回は五バンド分の控え室があるらしい。ちなみに、この会議室は正式な控え室ではなく、軽音部は四つある控え室に割り当てる時に抽選で外れてしまったそうだ。
「ふぃー。なんか前の時を思い出して胃が痛くなってきた」
 椅子に腰を下ろしたところで律が強張った笑みを浮かべて言った。
「確かにあんまり良い思い出じゃないもんねー」
 と言う割には落ち着き払った様子の唯。
「あーきんちょーしてきた」
「なんか白々しい響きを感じたわけだけど」
 やはり、その発言の割にはこれとして緊張した素振りもない唯に夏音は首を傾げる。
「えーそんなことないよー? 手とか震えて、もう。ほら……」
 ばーんと広げて見せた両手に異変は見られない。
「………そう?」
「ほんとほんと! もーやだなー。本番どうしよー」
 ここまで来れば、誰しもがおかしいと思った。確かに前回ここに訪れた時の唯は誰もが分かるほどガチガチに固まっていた。それは他の面々も同様であったが、今の彼女は余裕すら感じるほどに気楽な笑みを湛えている。
「熱でもあんのか唯ー?」
 訝しげに眉を顰めた律が唯の額に手をあてようとする。その手をひらりと避けた唯がけらけら笑った。
「そんなことないよ。もーりっちゃん無礼者ー!」
 語彙もどこかおかしい。同じようなことを思ったのか、一同はいよいよ不気味そうに唯を凝視した。
「なんか気持ちわるい!」
 歯に物着せぬ物言いは夏音の特権のようなものである。その表情には気味が悪いとありありと浮かんでいる。
「へへ。夏音くんも言うねー」
「いや、言うねーじゃないから! さっきまでこんなんじゃなかったのにどうした!?」
 愕然とした律が頭を抱えて叫んだ。
「りっちゃんは元気良いのがとりえだよね」
「あぁん!?」
「ヤバイ。唯が本格的に不思議の世界の住人に。ここに来て、この急激な路線変更はいったい!?」
「いや、路線的には真っ直ぐだと思うけど……何段階も飛んでしまったような?」
 取り乱しかけた夏音へ冷静に応える澪だったが、自身も首をひねって唯をじっと見詰めた。
「ムギ。今日の朝って何か変な物食べたか?」
「普通だったと思うけど……」
「おいっ! 人が作った物にケチつけないでくれ!」
 憤慨する夏音。まず疑われるのが自分の提供した物というのがカチンと来たようだ。
「みんな何言ってんの? 変なの」
「変なのはお前だーーっ!!!」
 急に難しい顔をして話合いを始めた周りを不思議に思ったらしい。唯は多くのツッコミを気にした様子もなく、ふんふんと鼻歌をすさび始めた。
 奇天烈な鼻歌の旋律だけが響く控え室。
頭が沸いてしまったのだろうか。軽音部きってのリードギター(という名のサイドギター)の態度の急変に残された者は厳しい表情を作った。目を見合わせてこのメルヘン少女の対処を試みたのである。
(なんかヤバくない?)
(ヤバイも何も……っていうか、お前らこっち来い!)
 軽音部お得意のアイコンタクトをもどかしく思ったのか、律が唯を除くメンバーを隅の方まで引っ張っていった。
「なんかよく分かんねーけどさ。このまま本番を迎えるのだけはまずい気がする」
「うん。私も律の言葉に全面的賛成だ」
「澪ちゃんはさっき変な食べ物が原因じゃないかって言ってたわよね? なんだかいつもの唯ちゃんが割り増しになった感じが……」
 ムギの言葉を聞いて、皆が唯の方に視線を向ける。
 割り増し唯。確かに、周囲に飛んでいる少女漫画的なふわふわはいつもの数倍の量である。自分ワールドの扉をオープンしているのもいつものことだが、未だかつて無いほどその扉が全開になっているのだ。
「嫌な予感がこう、ひしひしと」
 弱々しく呟いた夏音の声が、一同の不安をいっそう掻き立てる。
「と、とにかく。唯がどれだけまともなのか確かめないと!」
 びしっと指を立てた律が鬼気迫る形相で言った。それもそうだ、と一同はそろって言い出しっぺの律に行くように促した。何で自分が、と唇を尖らせた律だったが、このままでは拉致があかない上にリハの時間が迫っていることもあって唯に近づいていった。
「なぁー唯ー? リハ前に本番の流れとか確認しておかないかー」
「うん、いいよりっちゃん。どんとこいだよー」
「えっと、一曲目は何だっけ」
「とりびゅーでしょ?」
「そ、そうだな。MCはどこに挟むんだっけ!?」
「二曲目が終わってチューニング変えるからそこでやるんだよね?」
「そ、その通りだ。ううむ……そうなんだけど……」
「なんだかりっちゃんおかしいよ? 緊張してるなら飴ちゃんあるよ」
「い、いやそうではない。そうではないんだ……が……」
 存外、まともな受け答えをする唯に対して逆に律が狼狽えてしまった。助けを求める視線に返ってくる気配はない。薄情者、と内心で吐き捨てた律は孤軍奮闘を決意する。
「そうだな、唯。リハとはいえ、しっかりやるに越したことはない。だから、ギターのチェックでもしとけ」
「あ、うん。そだねー」
 素直に頷いた唯はケースを置いた場所までのそのそと歩いて行った。
「おいっ。超まともじゃん!?」
「うん。ていうより今の会話だけ抜き取れば本当にバンドの人みたい……」
「みたい、もなにもバンドやってるんだけど!」
 散々な評価も受けながら、すごすご戻ってきた律は怪訝な表情を崩さない。
「でもなーんかチガウ。違和感の塊しかねー」
「確かにそんな印象を受けたね」
 うーん、と長々とうなった面々はそれからしばらく、愛おしげにボディを撫で撫でする唯を揃って眺めていた。


その後、曲のフレーズを幾度もチェックする唯を見守るように固唾を呑んでいた四人であった。控え室が良く分からない緊張と生温さが混ざり合う空気に包まれていた中、「はい次準備よろしくお願いします」と言って現れたスタッフの言葉に、澪はびくりと肩を跳ね上げさせた。
「ほ、ほ、ほ、本番だな!」
「いや、まだリハだけど」
 緊張するから、と人という漢字を飲み下しまくっていた澪。足取りはどこか危なげだが、よく見ればそれは他も同じようなものであった。ふにゃふにゃとまるでタコのようにぐねぐねと歩いていて、傍から見れば滑稽な集団である。
 楽しもう。そんな風に気概を示してみたとして、言葉ではどうと言えようが、緊張を完全に消し去るのは誰とて難しい。
 先頭をすたすたと歩く夏音でさえ、じんわりとお腹のあたりが引き締まるような感覚を覚えている。後続の軟体生物たちほどのレベルではないが。
 ステージに向かう際、前のバンドとすれ違うようなことはなかった。既に捌け終えていた前のバンドは反対側の出口から出て行ったらしく、会場の注目は完全に軽音部に絞られていた。
 聞くところによると、このようなコンテストにおいて、これだけ入念なリハーサルを用意してくれる所はないらしい。破格の扱い、とまで評価されるだけあって大抵の出場バンドは本番で自分達の鳴らす音に満足して演奏に集中できるそうだ。
 これも全て主催側のはからいによるものである。他のように贅沢な賞金、賞品を用意することもできない上、規模も小さい。せめてバンドが全力で力を出せるようにと、自分達でかけられる手間は目一杯かけてやろう、ということだ。
 一時間使えるリハーサル。逆リハなので、自分達が最後である。
 周りに構えているスタッフはテキパキと動き続けている。贅沢なことに、各パートの者に対して最低一人は面倒を見てくれるスタッフがいる。皆が持ち込んだ機材を所定の位置にセッティングし、しきりにPAとインカムで連絡を取り合っている。
 前回のようなドタバタコントが発生することはなかったが、互いを見渡すような余裕もなかった。
 それぞれが自分のセッティングに勤しみ、自分についてくれているスタッフと必要なだけの会話をこなしているだけだった。
 やはり最初に音を出すのはドラムである。律の手探りのセッティングがステージの上に響き渡る。
 律のドコドコとバスドラを蹴る音の後ろからベースの重低音が現れた。澪は弦楽器隊の中で一番機材の少ない。チューナー、ディストーション、コーラス、イコライザー二つ。チューナーの前には限界まで改造したA/Bボックスを置き、音痩せ対策としている。
 アンプのゲインとマスターを上げる。イコライザーをいじり、自分の音を確かめていく。スタジオでのセッティングは、こんなにも広いライブハウスでは通用しない。実際にこのステージの上で響く音を聴き、他の楽器と合わせていく必要があるのだ。
 澪が音を出し始めたのと同時くらいに、ムギのオルガンが飛び出てくる。
 ギター組は足下のセッティングに手間取るので、一番遅い。
 夏音は着実に、肩の力が抜けた状態でテキパキとセッティングをこなしていく。ギターに弦の滑りを良くするスムーサーを吹きかけると、夏音のストラトがギラリと眩い光の音を出した。どこまでも伸びていきそうなサスティーンに思わず目を向けるスタッフが数人いた。艶やかな音がマーシャルのスピーカーから滑り出してくると、夏音が微調整を加え、エフェクトの具合を確かめていく。
 この時点で、四名のセッティングはバンドとしての微調整といった具合まで進んだ。彼女達はお互いが顔を見合わす余裕もできたところで、ようやく先ほどまで抱いていた不安が形になって現れたような予感を覚えていた
 唯のギターがいつまでも聞こえてこないのだ。
 自分のセッティングから意識を離した途端、その異常事態に気付くことになる。皆、何かのトラブルかと唯の方を見るが、彼女はシールドを既にアンプに挿した状態で、肩から提げたレスポールにそっと手をやったまま直立していた。
 どこを見るでもなく。ぼーっと中空に目を向けて、佇んでいる。他の誰にも見えない何かに目を奪われているかのように。
「唯!」
 夏音が唯に近づき、肩を叩く。心ここにあらずといった彼女はゆっくりと夏音の方を向いた。
「スタッフの人が困ってるよ。みんなセッティング終わって、あとは唯だけだよ?」
「あ……あーごめんごめん。今やるねー」
 ふにゃんと笑った唯に夏音はホッと息をついた。その瞬間の唯はいつもの唯のように見えたのだ。
 夏音は他の者を安心させるように振り返って肩をすくめる。それに対して一同は、すぐに唯がアンプのセッティングを始めたのを見て、不安を隠すようにぎこちなく笑うのであった。

 
 リハーサルはどこのバンドも同じ流れだ。それぞれの音量を調節して、確かめていく。学校祭で一度経験していただけに、一同はPAの指示に従って淡々とこなしていく。
 夏音はこのライブハウスのスピーカーを高評価していたので、安心して外音をPAに任せることができた。夏音は自分のギターはスピーカーが歪まないギリギリの音量を保つようにお願いして幾つかのエフェクトのかかり具合を調整して終わった。
 やはり最後に音を合わせる唯の時は少しだけ全員の心に不安が奔ったが、音合わせは難なく終了した。
「じゃ、曲でやろっか」
 ステージの中央に立つ夏音が後ろを振り向く。まるで指揮者のように注目が集まったところで、彼は周りを見渡した。
「トリビュートから。1コーラス」
 全員がその言葉にうなずく。リハーサルで確認しておくべきことも事前に話し合っている。何をすべきかあらかじめ頭に入っているならば、それに集中することができる。
 1コーラスを終えた時点で律がモニターの要望をPAに伝えた。ベースの音量がどうも大きすぎたらしい。
 その後、一曲を通したあたりで中音も万全の状態に整えられた。後は照明効果などの確認もあるので、構成を見せるだけである。
 変拍子が目白押しの曲などはしっかりと照明と合わされば相乗効果を得られるが、細かい打ち合わせもしていないので、基本的にスタッフにお任せだ。
「じゃあ本番と同じように始めようか」
「うわー入るトコロしくりそー」
 緊張が度を超えたのかは定かではないが、むしろ楽しげに笑いながら律が言う。そんな律に小さく笑いを返してそれぞれが楽器を構える。曲の最初はギター二人のフィードバックが空間を包み込むように広がっていくところから始まる。ディレイ、リバーブを通してふくよかに巨大化していく音の波が最高潮にまで達するまで、そのままアンビエントが続く。良い感じになったところで律のバスドラが鼓動する。和音で鳴らすベースとドラムがそこで密かにビートを作り上げておき、一斉にブレイク。ドラムのフィルインからイントロのフレーズが始まるという構成である。
 夏音はギターとアンプの最適な位置に陣取り、弦をそっと撫でるように音を押し広げていった。
 その時、夏音は妙な気配を感じた。スピーカーから自分の音が流れた瞬間に身体中に奔った奇妙な違和感。
 それは数秒のこと。自分の音しか流れていないことは明確だった。
 驚いて唯の方を見ると、彼女は膝をついてステージにうずくまっていた。
「唯っ!?」
 ボリュームを切った夏音はすぐさま唯に駆けよった。不協和音が流れないように、しっかりとネックを握り込んでいるが、どう見ても尋常じゃない様子が分かる。
「唯、大丈夫? さっきからおかしかったけど、具合悪いの?」
「ご、ごめんねー。ちょっと目眩しちゃって……」
 トラブルかと察したのか、ステージの上の照明が全て点けられた。明るみで確認した唯は熱に浮かされたようにうなっている。
「立てる? とりあえずギターを置こう。まずは落ち着いて、深呼吸して、落ち着いていこう」
「お前が落ち着け」
 すぐに駆けよってきた澪が冷静に突っ込む。こういう事態には女性の方が強いのかもしれない。
「唯、いつからだ?」
「ん、と………起きてから?」
 目の前で始まった会話に夏音はついどぎまぎしてしまった。
「そ、そんなストレートな話はちょっと……男子の前でさ」
「はぁ? 夏音こそ何を言ってるんだ?」
 もじもじと視線をさまよわせる夏音。盛大に眉を顰めた澪が少し語気を荒げて夏音を見詰める。
「え、だって、つまり……女の子の、そういう日の話では」
「違う! いつから具合が悪かったか聞いてるんだバカ!」
 流石に余裕のない状態で澪の口も悪くなる。勝手に勘違いをしていた夏音は顔から火が出る勢いで赤面した。
「申し訳ない……」
 しゅんと肩を落とした夏音を放って、澪が唯の肩に手をやる。
「どうして言わなかったんだ?」
「だって、今日が本番だし心配かけると思って……」
「こうしてギリギリになって倒れる方が問題だろう!」
 厳しい口調の澪は、ふと溜め息をつくと打って変わって気遣わしげな表情になる。
「熱はあるのか?」
「んーちょっと熱っぽいくらい」
 そう言って笑った唯額に手をあてた。
「…………」
「澪、どうなの?」
「すごい熱だ。こんなのちょっとどころじゃないだろ!」
 澪の言葉に夏音は頭を抱えた。よりによってこのタイミングでこういったトラブルが起こるとは想定していなかったのだ。
「お、おいおい。マジでヤバイんじゃないのか?」
「私、薬持ってきてるよ?」
 律とムギがハラハラした様子で唯に声をかける。スタッフも集まってきており、既にリハーサルを続行する空気ではなかった。 
 夏音は、自分達に与えられた時間がこうしている間にも減っていくのを感じていた。いつまでも迷っていても仕方がない。バンマスとして、即座の決断が必要だと判断した。
「よし。とりあえず唯はギター置いて。律、水とって」
 夏音が出した指示にすぐに反応した律はアンプの上に置いてあった唯の水を手にとった。
「ほら唯。とりあえずこれ飲め」
 その間にスタッフがギターを受け取ってスタンドに置く。ステージ上にはスタッフが集まってきており、切迫した空気が流れ始める。
「ちょっといいですか?」
 スタッフの一人に声をかけられた夏音はそのままステージの袖に移動した。
「えーと。見た感じだとギターの娘、すぐに始められないみたいなんで。リハ終わりから本番までは多少の余裕があるので、このままリハを延長するって形でやりましょう」
「あー、そうしてもらえますか。本当にすいません」
「ただ、こういうのもアレなんですけど……どこかでその……判断していただく必要があってですね」
 歯切れが悪いスタッフの口調に夏音は心得たように頷いた。
「うん、わかります。出場辞退も考えないと、ですね」
 ハッキリと言葉にした夏音にスタッフは残念そうに眉を落とした。
「最悪、そうするしかないんですが。あとオープニングのモノグロさんのリハもあるんで、あんまり長いこと延ばすこともできないんです。三十分空けて様子を見ましょう」
「わかりました。よろしくお願いします」
 話が終わり、ステージに戻った夏音は唯を囲むようにしゃがみ込むメンバーに近づいた。
「とりあえず控え室に戻ろう」
 不安に満ちた表情の少女達は、こくりと頷いた。


 ムギが持っていた熱冷ましの薬を飲んだ唯は控え室のソファに横になっている。すぐ側に付き添っているムギは心配そうに唯の手を握っている。一方、他の者は部屋の隅に肩を寄せ合っていた。
「唯がいないなら出場は辞退。これは変わらない」
 重々しく夏音が口を開く。
「それは分かるけど、でも……」
 珍しく真剣な面持ちだった律が眉間に皺を寄せる。悔しげに歯噛みする彼女は夏音の意見が正しいとは理解できるものの、気持ちの上では千載一遇のチャンスを目の前で逃すこと割り切れないといった様子だった。
「私は夏音の言ったように、全員で出られないくらいなら出るべきじゃないと想う」
 夏音と律。その二人の合間に座る澪は腕を組みながら毅然と言い放った。
「仮に四人だけで演奏できる曲を選んでも、そういうことじゃないだろ」
 律が合わさった拳の上に顎を乗せた状態で深く息をつく。彼女も言われるまでもなく、理解はしているのだ。それでも、心の底から腹におさめることへの抵抗が残ってしまうのは誰も責めることはできない。
「厳しいことを言うようだけど、唯がある程度回復したとしても出場は微妙なところだね。俺は前にも言ったと思うけど、ボロボロな演奏を見せることは避けたい」
 三人はちらりと唯の方へ視線を向けた。浅い呼吸を繰り返す唯は誰が見ても軽い症状ではない。今回は、唯としても今までとは気合いの入り方が違った。ライブのことを慮ってついに倒れるまで不調を隠そうとしたくらいだ。だが、皆に迷惑をかけまい、としていたにも関わらず唯は演奏に向かうことができなかった。
 気合いや想いでどうにかなる問題ではない。
「俺はともかく、みんなにはこういう機会がなかなかない。この一回がどうしようもなく大事なのは分かるし、それは俺も同じだけどね。今日のステージは俺達だけが満足すれば良いものではないんだ。俺達だけを見に来たお客さんばかりではないにしろ、ゼロじゃない。そういう人達を裏切ることになるのは間違いないよ」
 夏音の言葉は二人にとって目から鱗だった。自分が自分のバンドのことしか考えていない中、目の前の男は客のことを考えている。それも自然に。この立花夏音という人間にとってステージとは、観客という存在が必ずセットになっているのである。
 魅せることを生業にしていた者の視点。彼女達には馴染みがない考え方であった。
「そっか。そうだよな。ラジオを聴いてちょっとでも好きになってくれた人達がいるんだよな」
 以前、自分が大好きな番組で自分達の曲が流れた時のことを思い返す律。
「私は………また、来たいな」
 澪がぽつりと言った。
「来年、また来れるように」
 語尾が震える。それでも力強い口調に夏音と律がゆっくりと首を縦に振る。
「ちょっとーーーぉ!! 何でもう終わりみたいな感じなのさ、みんな!」
「えぇっ!?」
 三人の輪の中に大声を上げて割り込んできたのは、他でもない。まさしく議題の中心となっていた唯だった。
「唯、寝てろよ!」
「大丈夫! ムギちゃんの薬のおかげで良くなったもん!」
「うわー超回復ってやつ?」
「ていうかムギの薬が何だったのかが気になるところなんだが……」
「ふ、ふつうの熱冷ましだけど」
 とは言いつつも、自分でも不安に思ったのかパッケージを確認するムギ。薬局でも買える市販薬だ。
「ふんす! 気合い入れてくよー!」
 片手を腰に、残された手は中指と薬指で作るピースサイン。いつもの唯が戻ってきた。誰もが不審そうに唯を見詰める。だが、もの問いたげにしていたのも束の間。律が唯の頭をばんと叩いた。
「き、気合い入れてくじゃねーっつの! お前のことでこっちはなあ!」
 そう続けようとした時である。
 ふらり、と腰から力が抜けていくように。唯は、床に手をついて倒れた。
「お前……やっぱダメなんじゃ……」
 どう見ても虚勢である。やせ我慢して元気になったように見えたのも一瞬のこと。やはり、ハッキリ聞こえるほど荒い呼吸をする唯はとてもではないがステージに立つことなどできそうになかった。
「ま、待って……大丈夫、だから。私、絶対にやれるから」
 熱で潤んだ瞳を力の限り見開いて上目遣いになる。話すだけでも辛そうな体で、必死に想いを振り絞るように紡ぐ。
「ゆい……」
 誰一人として、その瞳から目を逸らすことはできなかった。こんなに真摯な言葉を紡ぐ唯を見たことはなかった。根気という言葉からかけ離れた存在の彼女が、こんなにも必死に食らい付くような、人を気圧すほどの執念をこめた光を瞳に宿したことはなかった。
 彼女の気持ちを振り払える者はいなかった。かといって、ギリギリまで伸ばされた手を即座に取ることができる者もいなかった。
「でも、お前がそんな状態じゃ……」
 律が困惑した声で呟く。彼女は本心では、やってやりたいと叫びたいのだ。それでも自分の判断だけでどうにかなる問題ではない。この場合は全員一致が不可欠である。
 だから彼女は同じように迷いあぐねているだろう仲間の顔を窺う。互いが互いの視線を感じ取り、顔を見合わせる。
「今日はね? 憂も、和ちゃんも、来るんだあ。二人に、私が出会った新しいものを見せたい。何やってもぱっとしなかった私がこれだけ本気になったものを見せたい……」
 彼女の瞳から涙が零れる。震えながら床についた手を握りしめる唯を黙って見詰めていた者達の中で、夏音がそっと膝をつく。視線を唯に合わせて、頭に手を乗せる。
「やれるのかい?」
「やれる……っ」
「当然だけど、へろへろなギターなんか弾いたら本番中でもステージを降りるよ」
「大丈夫! みんなで最後まで演奏できるようにする!」
 夏音は目を閉じて、考える。空気を伝ってくる唯の意志の強さ。いつの間に、このような屈強な精神が彼女の中で育まれてきたのだろうか。
 もしかしたら、ただの火事場のなんとやらかもしれない。
 それでも。
「じゃ、やるよ」
 夏音は賭けてみることにした。ごちゃごちゃと巡らせていた思考は一瞬で吹き飛び、ただ目の前の少女の可能性や、この一年で自分が味わってきた全てが答えを用意したのである。
 ぺしんっ、と良い音を立てて唯のおでこをはたく。
「こんな大事な時に体調崩す唯はどうしよーもない馬鹿だね」
 それは満面の笑みで言うことではない、と唯は心で呟く。
「まー俺もたいがい馬鹿なんだけど。雰囲気に流されやすいっていうか……一緒に恥を掻くのも悪くない、とか思えるほどにはこのバンドにイカれてるみたい」
「が、がのんぐぅん……」
 ボロボロと涙を流す唯。よもや鼻水もかくや、と駄々漏れで乙女としての体は銀河の彼方に消えている。
「ま、本名も顔もバレてないからいーんだけどね」
「そ、そういうことですか!?」
 ぐしゃぐしゃになった顔で頬を膨らます唯。ひどい顔である。すると、他の三人からこらえきれなかったように笑いが起きた。
「あーもう。この集まりはなんだろうなー。シリアスなのと間が抜けたのが代わる代わるくるからなー!」
 眦に涙を浮かべた律がそれを拭いながら笑み零れた。
「そうそう。どこか軽音部っぽさを外さないんだよな」
「でも、私こういうのが大好き」
 その場が一気に朗らかな雰囲気に包まれる。心外だとばかりに頬を膨らませ続けていた唯もやがてつられるように笑い、夏音はニヤニヤと悪戯っぽく眉を上げる。
「さて、と。いつまでも待たせるわけにはいかないからね。行こうか」
「おー! とっととリハ終わらせよーぜ!」



 三十分と経たずに戻ってきた一行をスタッフは何も言わずに受け入れてくれた。否、表情にはありありと書かれていた。
 やれるのか、と。
 彼らとしても不様なバンドを相手どるつもりはない。この高校生の集団は、お金を払って演奏していただくような身分ではないのだ。
「行けます。バッチリです」
 口を開き、明朗に響く唯の声。それから遅れたことへの謝罪を済ませた後、軽音部はリハーサルを開始した。



「あとは本番なんだね……」
 あの後、リハーサルは無事に終了した。時間がおしていることもあり、三曲だけ確認することにしたのである。軽音部の機材はステージの少し後方へずらし、彼女達は控え室に撤収した。
 どっしりとソファに腰を下ろした唯が嘆息まじりに言った言葉に皆、不思議な心持ちを抱いた。
「そうみたい……だな」
 首を傾げる澪。その横でそれを真似たように同じ向きに首を傾けた律が呟く。
「ぜんっぜんそんな実感がないんだけど」
 夏音はそんな彼女達を見渡して、楽しげな声を出す。
「みんなびっくりするくらい肩の力が抜けてるよ。なんか頼もしいくらいだ」
「そ、そうなのか? そう言われれば、なんかそんな気も……」
「あっ! そうだよ! 澪が緊張のきの字も見せてないなんて異常事態だって!」
「澪ちゃん。すっごく楽しそうにベース弾いてたもの」
 リハーサルの澪は、良い具合に力が抜けた演奏をしていた。彼女が緊張した時に現れる硬いプレイは見る影もなかった。
 互いの音が行き渡り、ドラムとのコンビネーションも普段以上に冴えていた。
「もうやるしかないってとこまで来たから、逆に腹が据わったのかな。律も走ったりしなかったからやりやすかったな」
「それってアレだね! 火事場の馬鹿力ってやつだね!?」
「いや、それとはちょっと違うから」
 賑やかな雰囲気はいつもの軽音部そのものだった。やはりソファに横たわる唯は具合が悪そうだったが、こうして会話に加われるくらいにはしっかりしている。演奏の方も、ぼーっとしているようで、しっかりと周りの音を捉えていた。
「本番まで少し時間があるから、気分転換に外の空気でも吸いたいね」
 一同がしばらくのんびりと体を休めていると、夏音がそんな提案をした。二つ返事で応えたメンバーは揃って控え室を後にした。
 屋上でもあればいいね、と零した唯の一言の後に、それらしき階段を発見した律が先導して登っていくと、本当に屋上につながっていた。
「勝手にこんな所に入って怒られないか?」
「澪ちんは心配性だなー。屋上に上って怒る奴がどこにいるよ」
 友人の心配を素早くはねのけた律が扉に手をかける。あっさりと開いた扉の隙間から、オレンジの光が溢れる。
 おそるおそるその光を押し広げ、完全に開け放った扉の向こう側には広大な夕焼けの空が待ち構えていた。
「うわー」
 誰となく漏らした言葉は誰の声だったのか。その場にいた全員が同じことを心に浮かべた。
 都会の片隅にぽつりと建つライブハウスの上に、このような景色が用意されているなどとは誰も想像すらしていなかった。
 視界の端には高層ビルが建ち並ぶのに。どこまでもここから見渡せるような。
 吸い込まれるような風景に圧倒されながら、何気なく端っこまで足を進める。
「し、下見てみろよ」
 はっと息を呑んだ律の言葉に従って、フェンス越しに眼下の景色に目を落とした一同が目にしたもの。
 オープン前だというのに、入り口付近にまばらに集まってきている観客の姿であった。
「あ、あれ全部お客さんなの?」
 目下の光景に震える声を上げたムギ。その隣では、言葉もなく呆然とする澪が口を戦慄かせていた。
「す、すごい……あの人達、私達を観にきてるんだよね?」
 唯の言葉にごくりと唾を呑み込む音が返る。実際に目にするまで、どこか壁一枚向こうにあったような存在が、こうして目に見える形で現れたのだ。彼女達の心が大きく揺さぶられたのは言うまでもなかった。
「私達、とは言うけど。俺達だけを観にきたわけじゃないと思うよ。むしろ、俺達なんか興味ないって人もたくさんいるかもね」
 そこで、さらなる現実を知る男が口を開く。
「びっくりして、呑まれないでね。いいかな? あそこにいる人達はこれから俺達の演奏を耳にすることになる。ジャッジを下す存在だ。それでも忘れないで欲しい」
 もったいつけたように言葉を途切れさせる夏音。
「俺達は音楽をやりにきただけだよ。楽しんで、楽しませて、終わればそれでいいんだ。この一年で俺達がやってきたこと以上のことはやらなくていい。俺達がここに持ってきたものは……」
 夏音は隣にいる澪と律の手を強く握った。はっとした二人は少し躊躇った後、余った自分の手をその先へと繋げる。
「これだけ」
 視線は下ではなく、上へ向ける。
「これだけあれば、充分じゃないか」
 一つに繋がった手は互いの温もりに触れていた。その暖かさが凝り固まった緊張を解きほぐしていく。
 少女達はその言葉がまるで魔法のように感じた。自分達の中心にいる人物が、いつも自分達にもたらしてくれる物を思い出して、確かに感じる温もりを離さないようにぎゅっと握り直した。
「すごいねー」
「何が?」
「一年があっという間に過ぎちゃった」
「そうだなー。もうすぐ二年になるんだもんなー」
「二年になれば律もちゃんとしてくれるといいんだけどな」
「澪のヘタレも治ればいいこと」
「…………」
「い、痛い痛い! 無言で俺の手をぐっと握りしめるな!! 俺が痛いからってお隣に伝わらないから!」
「澪ちゃんは今のままでいてね」
「ムギ、それはどういう意味合いが……」
「澪ちゃん度が下がったら悲しむ人が増えると思う」
「それって今の私が100%なのか!? もう私の人生、ここが最高潮なの!?」
「あームギちゃんの言うことわかる! 澪ちゃんは、こう……ちょっとくらいアレな感じがおいしいんだよね!」
「心が苦しくなってきた……」
「褒められてるんだよ。どっちにしろ澪がいじられキャラから脱することはできないんだしさ……痛いってば!」
「二年って言えばさ。もうすぐ後輩とかできちゃうわけだろ? 想像できねー」
「あぅっ後輩……………………………しょうがないなぁ、私が一から教えて……」
「妄想が駄々漏れてきてるよ唯」
「私、後輩って初めてだからドキドキする!」
「コーハイ………不思議な響き。アニメでしか聞いたことない」
「夏音、お前ってやつは……」
「でも、何だかんだでもう次の一年が始まるんだよなー」
「そだねー」
「そう考えるとあっという間だったけど……これからあと二年なんて想像つかないな」
「たぶん、それもあっという間じゃないかな」
「かもしれない」
「ま、その前に後から入ってくるコーハイ達に自慢できるようにしないとね」
「ハー……そろそろ本番かー」
 改めて下を見ると、外に並ぶ客の数が徐々に増えてきていた。そこに並ぶ人々は、今日この場所で生まれるニューカマーを目撃しに来ている。これから先、いつまでも自分達を音楽に引っ張ってくれる可能性を信じている。
「あ、憂がもう着いたって!」
「マジで? ちょっと早くない?」
「でも、もうすぐオープンだぞ」
「げっ、もうそんな時間か!」
 のんびりとした空気を仕舞い、心は準備を整え始める。少し後ずさって少女達を眺める夏音は微笑んでそれを見守っていた。
「なーにニタニタしてんだよ夏音?」
「Nothing.ちょっと嬉しいだけ」
「何が?」
「よく分かんないけど、早くみんなと音を合わせたくて仕方がないんだ」
 夏音は自分でもよく理解できないうずきを抑えるのに必死だった。その気持ちの動力源だけは知っていた。
「俺、仲良くなったのがみんなでよかった」
「はぁ!? な、な、なに急に! 外人かっって……いや、外人かっ!」
「そんな白昼堂々と……恥ずかしい奴」
 極端に反応した律と澪は心なしか顔が赤い。他の二人はぽかんとした表情で固まっていたが、すぐに顔をほころばせた。
「私だってみんな大好きだよ!」
「私もー!」
 えへへ、と笑い合う三人を目をひくつかせながら見ていた律は呆れた顔で「感性が違いすぎる」と零した。
「言いたい時に言わないとね。減るもんじゃなし」
「そう割り切れるか!」
「わかってる。律は実は誰よりもウブなんだもんね」
「殴るっ」
「つーことで、これからもよろしくってこと!」
「こちらこそー!」
 叫びつつ、がーっと襲いかかる律をひらりと躱す夏音の鬼ごっこを笑いながら見守っていた一同は、しばらくしてから屋上を後にして下に降りた。


「プロの演奏をこんな所で聴くの初めて」
「まー聴く機会なんてないよな」
 会場の熱気はステージ袖にいても充分以上に伝わる。幾重にも折り重なる眩いスポットライト。客が踊り、跳ね、振動する空間。洗練されたサウンド、パフォーマンスはあまりライブというものに訪れることがない少女達には衝撃の連続だった。できるならば、客席からこの演奏を味わいたいと思うが、なんと言っても彼らのいる場所にこの後すぐに立つことになるのである。
 今さらながら、信じがたいという感覚が彼女達を埋め尽くす。
「て、ていうかこんな後にやるなんて……絶対に見劣りするに決まってる」
 青い顔で震える澪は完全に雰囲気に呑み込まれているようだった。意外なことに他の者は彼女ほど極端に緊張している様子はない。
「意外に平静じゃないか律?」
「ん? まあ、ここまで来たらもうやるっきゃないっていうか……逆に吹っ切れた感じかな」
「それは頼もしいね」
「夏音からしたら、この演奏はどうなんだ?」
「んー……アメリカのライブハウスに行った時、アマチュアでやってたバンドの方が数倍上手かったよ」
「ってことは、そんなに上手くない?」
「ライブ慣れしてるんだろうけど……本人達が思ってるほどやれてなさそうだね。ほら、あのベースなんてドラムの方ちらちら確認してるだろ? あんまりモニターから音取れてないんだと思う」
 暴れまわるギターとは対照的に、ベースは動きたくても動けていないような印象を受ける。普段の彼らがどんなライブをするかは分からないが、夏音の目には、彼らが自分達で満足できるようなステージができているようには見えなかった。
「プロなら、どんな状態でも自分のパフォーマンスをできないとね」
 そう言い切った夏音を、少女達は「流石プロ」と言わんばかりに見詰めるのであった。
「なんか……夏音の言うこと聞いてたらそんなものかも、って思ってしまう自分がコワイ」
「澪って意外に単純?」
「ここにもっとすごい人物がいて、その本人が大したことないって言うんだ。別にいいだろ?」
「それ、なんとなくわかるわ」
 何ともよく分からない信頼を置かれているな、と夏音は苦笑した。
「ていうか夏音くん。ずっとそのサングラスつけてるの?」
「え、なんかおかしい?」
「いや、暗くない?」
「すっごく暗い。転換の時に転ばないか心配だよ」
 それでも自分の正体がバレたくないという一心で、むしろ暗い部分の方が多いこの空間で演奏をするというのだ。そもそも、この男は目を瞑っていても楽器の一つや二つなど弾いてのけてしまうのだから、深刻に心配する必要もない。
「ねえ唯ちゃん、ほんとに大丈夫か?」
 先ほどからふらふらと危なっかしい唯をずっと心配していたムギが声をかける。先ほどから眉を落として不安げだったのは、目前に迫ったステージより、こちらの方が原因だったらしい。
「んーちょっとぼーっとするけどダイジョブ! たぶん」
「おいおいー。すっげー不安になる一言をつけくわえんなー」
「ステージでも、りっちゃんのおでこが輝いてたら私はいける!」
「口だけは達者でいやがって!」
「あぅ」
「何だ。いつも通りじゃん」
 ふふ、と笑いが零れた夏音であったが、内心では万が一の事態のことに考えを巡らせていた。
(ヤバそうになったら、帰る)
 夏音は例え全曲できなくとも、そこでステージを降りるつもりだった。演奏が許容できるレベルを越えてしまえば、おしまいである。それは事前に話合いで決めてある。
 リハーサルの時は、まともにできていたが、体調のことばかりは本人次第なのだ。
 それでも、不安はなかった。仮に用意していた曲を披露できなくとも、それでもいいと皆が思えたのだ。
 その代わり、全力。力を抜かず、全力で楽しむ。
 ずっと掲げ続けてきた誓いだけを忘れずにいよう、と。
「なんか、もうそろそろ終わりっぽい」
 ステージに目を向けた律の一言で、各々が小さく反応する。息を呑む澪、胸の前で手をくんだムギ、気合いを入れるように息を荒くする。
 一同は自然と円陣を組んだ。
「俺が何を言うかもうわかってると思うけど」
「楽しもう、でしょ?」
「そのとーり。客の顔は見なくていいよ。俺達がこれからするのは、究極のマスターべーションさ」
「お、おまっ! お前そんな顔して何を口走ってるんだ!?」
「りっちゃん、マスターなんとかって?」
「分かってしまう自分が汚く思えてきた……」
 この大事な瞬間にとんでもない単語を放り投げてきた夏音にその場は騒然となる。主に、常識に近い位置にいる律と澪の両名が慌てる。
「言葉の選択には気をつけないとね」
「しれっと言うな!」
「とにかく。最高の演奏は俺達が楽しまないとできないのさ。早く演奏して、他のバンドの演奏聴いて、とっとと帰ろう。帰ったら焼肉だ!」
「うおぉーー!! 肉!」
 肉の言葉に反応した唯が息を荒くする。
「何、そのスポーツ少年団の監督が試合に勝ったら焼肉だ、とか言って子供を奮起させるみたいな感じ」
「終わったら打ち上げしないと! 何のためにライブすると思ってんのりっちゃん!?」
「言っとくが打ち上げのためではないからな!」
 円陣を組んでから随分と時間が経っている。ぎゃーぎゃーとまとまらない高校生達をにやにやと見守っているスタッフの視線がそろそろ生暖かくなってきた。
「ゴホンッ。ここは部長の私が締めないとな」
 不肖、田井中律が、と咳払いをする。
「けいおんぶー」
 わずかな溜め。
「ファイトー!」
「え? あ、ふぁ、ふぁいとー!」
「おー」
「イェー!!」

「………………………………」

「何でこんなに締まらなすぎるんだ!?」

 全員の心が一致した。


★                 ★

 最高潮に達した歓声と拍手を後に、モノグロのメンバーはステージ袖に帰ってくる。彼らはこれからすぐに出番を迎えることになる少女達に近づき、激励の言葉を送った。
 少女達はぎこちなく笑い、周りのスタッフが慌ただしく動き始めた雰囲気に押され、ステージへと向かっていった。
 転換の為に薄暗いステージの上。薄い幕が張られ、彼女達の姿は観客には見えない。もうすぐ、目が眩みそうなほどの光を浴び、未だかつて味わったことのない数の視線に曝されることになる。
 それまで、幕の向こうにうごめく人の気配。熱を帯びた観客の呼吸だけが伝わってくるのだ。
 既にステージから捌けた者達は、自分達がかつてその身で味わった感覚を全身で思い出していた。
 今も鮮明に蘇るあの緊張感。今は自分達の物ではない。
 彼らは、やがて自分達の後続となるかもしれない少女達を見詰める。
 そつなくセッティングをする姿はそつがない。これから彼女達を襲う出来事に、興奮を覚える。
 今日、ここでどんな化学反応が見られるのか。
 それを間近で味わえる贅沢に身を震わせながら、ステージの脇で待つ。
 準備を整えた少女達の合図によって、アナウンスが場内に響き渡る。歓声が膨れあがり、爆発の瞬間を待っている。
 幕がステージを横切り、ステージと観客を隔てている壁を取り払う。
 ヴォーカルの少女が後ろを向いて何かを言うために口を動かした。次の瞬間、照明は暗く、幻想的な色合いが重なり合う。
 歓声の隙間から、微かな音が縫うように現れると、会場はしんとなる。美しい音の壁が幾重もの波となって会場全体に広がっていく。心臓の鼓動のようにバスドラが刻み始め、キーボードがそれらを丸ごと包み込むようなオルガンを奏でる。
 目立たぬように支えるベースが、いつの間にかそこにいる。
 中央に立つ人間のシルエットが腕を大きく広げる。まるで、そこから飛び立ってしまいそうな動作。
 もったいぶったようなドラムのフィルが突き抜けてくる。気配が変わる。
 くる。
 そこで生まれた爆音と同時に、少女達の姿は全て光の嵐に呑まれていった。


 ※更新が遅すぎたくせに、変なところで終わりました。

  爆メロの本番の描写は第二章に行うという構成をとりました。次話以降は、ちょろっと二年生までの閑話があってから、二章になります。



[26404] 第二十四話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/10/30 04:14



 少女は一人、見知らぬ土地に立たされていた。
右を見て左を見て、眉を寄せて溜め息をつく。
 既に街灯が灯り始め、顔を上げると西の空は茜色の残光を留めている。既に夕刻。
果たして自分は目的地まで辿り着けるのかと、そろそろ真剣に不安を覚える段階になってきた。辿り着けたとして、オープンの時間はとっくに過ぎてしまっている。
「はいコレ!」と友人から渡された地図はあまりに大雑把で地図の役割を果たしていなかった。その場で破り捨てたい衝動が起こったが、ゴミのポイ捨てはよくないと思いとどまる。
 事がこうも上手く進まないと、いい加減に帰りたくなってくる。物事が滞ると苛々してしまうのは短所だが、それでも最後までやってみようとするのは少女の長所であった。
途方に暮れていても仕方がないので、少女はとりあえず歩き出す。少女の歩みに合わせて、ゆらゆらと二つに分けた髪が揺れる。解けば、同性によく羨まれる長い黒髪。背丈がない分、実際の長さはそうでなくても腰までゆったりと流れるロングヘアーになってしまうのだ。
 友人が徒歩で十五分と言っていたのを思い出す。少女は自分換算で、それは二十五分くらいだろうと捉えている。歩幅が他人より狭いので、誰かの言う徒歩○分の一・五倍から二倍の時間がかかってしまうのだ。
 要するに、他人より「ちょっとだけ」控えめな身体なのが原因である。あくまで、そう。「ミニマム」だとか「3/4スケール」等と影で呼ばれていたりなどしない。
常々、世の基準は不便であると少女は嘆く。
 歩いている内に、見るからに堅気ではない風貌の方々が同じ方向へと歩いていくのが見えたので、そちらについていく。天に反り立つ赤いモヒカンの人間が向かう先など、知れている。
それに、この辺りでイベント施設といえば限られているので、おそらく彼らも同じ目的地に向かっているのだろうと確信した。
 一つの不安が消えたところで、少女はそもそもの目的について考えてみた。
 ライブハウス、と呼ばれるものに足を運ぶ機会は滅多にない。その時点で、物珍しさもあって今日このような運びになっているのだが。とはいえ、今日自分がそのライブハウスで目にするのはプロのバンドではない。
 十代の少年少女によるアマチュアバンドの演奏なのだ。いずれはプロになる器だとして、洗練された音楽を提供できるとは思えない。
 少女は、昔から両親の影響であらゆる音楽に触れてきた。主にジャズ、ファンク、フュージョンなどを好んで聴くが、本当に良いと思える音楽に対してはジャンルを問わずに触れてきた。
 逆に最近のポップスなどには疎く、クラスメートと初対面で話が合うことなどはない。その例外として、今回のイベントに誘ってくれた友達がいる。
 去年のことだ。ふと昼休みの放送で流れたジョン・コルトレーンの「say it」に反応した自分に「知ってんの?」と話しかけられたのがきっかけ。
 CDをバリバリ食べてしまうくらい音楽が好きな彼女とは会話が弾み、三年生になってクラスが別れてからも、時折CDの貸し借りなどを続ける仲である。
 少女自身が楽器をやっており、高校に入学したら楽器を演奏する部活に入りたいと話していた折に、外のバンドなどに興味はないのかと尋ねられた。
 少女は、ロックバンドは演奏する上ではあまり馴染みがないし、学校以外の活動はなんだか面倒くさそうなので今のところ興味はないと答えた。すると、その友人はバンと机を叩き「もったいない!」と悲鳴をあげた。
 ぽかんと口を空けたままの少女に、「爆メロ」と呼ばれるイベントを強引に押しつけてきたのだ。
 いわく。これを見て、十代の少年少女の熱いロック魂を体感してみよ、と。
 そこにかける青春を感じ、高校に入学した暁には参考にしてみるといいというのだ。
 正直、半信半疑であった。どうせ荒削りの才能、などともてはやされるバンドが増えるだけだろうと侮ってすらいた。
 もちろん、なかには目を瞠ってしまうような技術を持った人間もいるかもしれない。口や頭では何とでも捉えることはできる。やはり何としても直に目にしてみるのもいいかと思ったのである。

 そして、着いてしまった。
 こんな大きいライブハウスなど、お目にかかるのも初めて。少女は誰が見ても明らかなくらい驚きの表情を隠さなかった。
 しばらく、そのままでいると中年の夫婦らしき人間に「お嬢ちゃんのお母さんかお父さんはどこかな? はぐれたんだねーだいじょうぶだよー」と声をかけられた。
 とんだ屈辱を味わった。
 言わずもがな、誤解を解いてライブハウスの中へと逃げ込む。
 既に、オープンの時間は過ぎている。それどころか、スタートの時間すら。スケジュールを確認すると、開始時刻は三十分前に過ぎていた。
 どうりで入り口付近の客の姿が少ないと思ったのだ。恐ろしい風貌の若者が至るところにたむろしているのを別とすれば、売店などもがらがらであった。
 少女はワンドリンク代を払い、束になったパンフレットを受け取って中に進んだ。オープニングにはプロのバンドが来るらしいが、間に合わないかもしれない。
それでも、既に会場の中から漏れてくる音が少女の胸を高鳴らせる。

 そっと防音の扉に手をかける。

 扉が開かれた時、少女は鼓膜を震わせる轟音に思考が奪われた。会場は暗い。ステージはまだ遠い。目の前には立ちはだかる観客の背中。
 だが、この空間を隙間なく埋めているのは人ではない。
 音。振動。空気が震えている。
 振動、というものがここまで影響があるとは思ってもいなかった。少女が今まで味わってきたものとは違う。
 バスドラの一発がお腹に響く。床がびりびりと揺れている。
 前に立つ客に阻まれステージの上を視認できないが、音を聴けば分かる。二本のギターが放つ音圧が膨れあがっていくのを。
 こみあがってくる。
 この音を生み出している者たちが示唆するところを、少女は感じ取っていた。
(くる!)
 気が付けば、少女はその姿を目に収めようと人の壁を押し分けて歩いていた。その瞬間だった。
 全ての視界を強烈な光が押し潰していた。光だけではない。
 世界が変わっていた。
 迫り来る音の壁と光の大洪水。
 身体に電流が奔る。放たれた圧が、少女の全身に襲いかかっていた。体が後ろに押し戻されてしまいそうな錯覚。
 鼓膜が痛いくらいに震え続けている。なのに、心地良い。世にも美しい旋律が爆音といっていいくらいの音量でこの場に、あるのだ。
 少女は、自分の中の何かが真っ白になっていくのを感じた。
(何コレ、何コレ!?)
 無我夢中でその感覚の正体を探った。体ごと投げ出されてしまったような。音を、捕まえようともがく。無重力の中を漂うような、どうしようもない浮遊感。
 全ての楽器が調和し、その中を一際鮮烈な音が駆け抜けていく。生であんなに美しいギターの音色を聴くのは初めてだった。
(それにしても、何で……っこんなに、背高い人ばっかりなのー!?)
 一行に進まないことに苛立ちを覚える。この場合、周りが成人男性ばかりだったのはあくまで原因の一つであった。少女は人の波をかき分けていくには、些かパワーが足りなすぎたのだ。
 諦めた。前に進むより、この音楽を味わうことが先決である。そう割り切って少女は目を閉じた。
 やがて現れた歌声が耳に入った瞬間、少女は泣きそうになった。
 何て、伝わるのだろうか。
 繊細で、でも力強くて、聴く者が決して逃げることができない声。ストレートに語りかけてくる歌声は、今にも壊れそうなくらいの妙なる響きを持っていた。
 この曲は、何か想像を超えるほど大きなものを歌っているような気がしたのだ。
 あまりにインパクトが強すぎたのか、少女がある程度の冷静さを取り戻すのにはバンドが二曲目を終了させるまでの時間が必要だった。
(はっ! もう二曲終わったの?)
 時間が一瞬で飛び去っていく。二曲目はMCを挟まず、とんでもない音が飛び出してきた記憶がある。一瞬、ベースの音だと気が付かずに、圧倒されていた。あんなにエグい歪みが効いたスラップは頭をガツンと叩くような衝撃だった。
 拍手と歓声が全方向から押し寄せる。
 この会場にいる人も、圧倒されたに違いない。少女は少し遅れてから、拍手を重ねた。
 次の曲にいくまでにここでMCが入るのだろうと思った少女は、会場が少しざわめき始めたのに眉を顰めた。
(どうかしたのかな?)
 MCが入るでもなく、演奏が始まる様子もない。
 何かのトラブルだろうかと疑ったが、いかんせんステージの様子を見ることができない。少し恥ずかしかったが、ぴょんぴょんと跳ねるようにつま先立ちをしたが、意味がなかった。身長150センチの世界は、容赦がない。
「ギターの子、なんかヤバそうじゃない?」
 そんな会話が横にいる二人組から聞こえてきた。
(ギターの人がどうかしたのかな)
 機材のトラブルか。もしくは、体調的な問題だろうか。
 中途半端な情報が入ってきたので、余計に気になる。そういえば、ギターの人の機材などが大変気になるなと思った。
「ごめんなさい! あと一曲で終わりでーす!」
 あの声。間違いなくヴォーカルの人の声で、そんな言葉が与えた衝撃は計り知れなかった。
(え! もう終わりなの!?)
 三曲しかやらないことになる。このイベントは、バンド同士で争うような形だったはずだ。持ち時間を残して立ち去ることがどれだけマイナスになるか、分かったものではない。
 会場中から「えーー!?」と不満を訴える声が響く。
「本当にごめんなさい! あと一曲、全力でやるから! 楽しんで!」
 甘く響く声は非常に申し訳なさげだったが、あまりに快活な調子なので、会場の人間は大きな拍手でそれに応えた。
 少女は、意を決した。あと一曲で終わるならば、あのステージの上に立つ人達の姿を何としてでも確認しなくては。
 逆転の発想をすればいい。この身の機動性を発揮するならば、人と人との僅かな隙間を縫っていけばよいのだ。
 自分だからこそ、できる。少女は素早く行動した。中腰で、身をかがめてみたら、進むことこの上なく、先ほどまでの努力は何だったのだろうかと泣きそうになった。すいすいと進み、少女は急にもわっとした空気に包まれたことに驚いた。
 気が付けば、だいぶ前方までやってきたらしい。前と後ろでここまで熱気に差があるとは予想していなかった。それに、何だか前の方の人が放つ空気がコワイ。
 目がぎらぎらしているというか、皆汗だくで輝かしい笑顔を放ってはいるものの。
 そう。例えるなら、準備運動が済んだアスリートのような。
「The next song is………School Days!!!」
 4カウント。
 少女の身体は吹っ飛んだ。
(な、な、な、んなっ!!?)
 何が起こったか分からなかった。四方八方に押されまくり、意識が飛びそうになる。
 少女は、モッシュという言葉を単語としては知っていた。まさか、自分がそれを体験するとは思ってもみなかったので、詳しく知る機会はなかったのだ。
 ライブハウスの前方は、戦場であると。
 スクールデイズと名のついた曲は、いったいどんな学校生活だと問いただしたくなるほど激しい一曲だった。
 世紀末覇者が集う学校だろうか。もしくは、古式ゆかしいヤンキーが跋扈する不良学校かもしれない。
 もみくちゃにされながら、ぼんやりとそんなことを考えていた少女はこれでは音を聴くどころではないとしゃかりきになった。
 少女の魂に火がついた瞬間である。
(絶対に見てやる!)
 その姿を拝むまで死ぬものか。
 鬼気迫るオーラを纏った少女は向かってくる力に抵抗することを、まずやめた。力で向かっても勝ち目はない。
 押してくる瞬間、ひく。相手の力を利用する合気道の要領で少女は自分にぶつかってくる魑魅魍魎をいなし続けた。
 たまに肘が背中に入って呻いたりしたが、「ウキャー!!」と気合いを発して意識を保った。
 先ほどから誰かの足が顔の横を通り抜けていることに戦々恐々としていた少女は、幾人もの男の人達がボロボロになりながら人の上を泳いでいることに目をつけた。
(これが、ダイヴ!)
 本能で理解した。
 そして、あんなに重そうな男性が乗れるならば、とアドレナリンが爆発する。
 きっと目を眇めた少女。燦然と輝く瞳がたまたまそばにいた男を捕らえた。
 目があった瞬間、二人は分かり合った。その男性は分かっている、とばかりに頷き、少女に向かって両手を組んで差し出した。
 正しいダイヴの仕方など知る由もなかった少女は、その両手に微塵の迷いもなく足をかけた。
 少女は飛んだ。比喩ではなく、本当に飛んだ。
 少女が軽すぎたのか。男性の力加減が間違っていたのか、それは定かではない。
 とにかく、少女は飛んだ。
 その刹那、多くの観客が逆光によってシルエットと化した小さな少女が尋常じゃないくらい飛び上がったのを目撃する。あまりに綺麗なシルエットだったので、自然と視線がそちらに吸い寄せられる。
 一方、自分が注目を浴びていることなど頭にない少女は予想外に高く舞い上がったことに悲鳴を上げていた。
「ニャーーーーー!!?」
 人の上に落ちる。下で自分を支えてくれる人達がいることに安心し、少女はやっとステージの方を仰ぎ見た。
 ちょうどステージの奥に設置されたライトがこちらを照らしており、ステージ上の人物の姿は確認できない。
 それでも、少女は次第に人の上を流れていく身体をよじってステージの方を向こうとする。
 照明が向きを変えつつあるその時、
「………あ……」
 正面に立つ人物の姿を一瞬だけ、捉えた。宙に翻る長い髪が目に飛び込む。しかし、その後すぐに少女は頭から地面に墜落した。


 その後のことはあまり記憶にない。頭から床に落ちた少女はかろうじてそばにいた人によって救出され、ふらふらになりながらも安全地帯へと連れていかれた。少女を気遣ってくれた人にお礼を言うと、その人は大きく頷いてからまた戦場へと特攻していった。なんとも勇ましい後ろ姿だった。
 いつの間にか演奏が終わり、万雷の拍手。口笛に、誰かの叫ぶ声。
 壁際にもたれて何とか立ち上がってステージを見ると、既に白いカーテンのようなものがステージを隠してしまっていた。
 それから全てのバンドが終わるまで少女は壁際で演奏に耳を傾けていた。全てのバンドの演奏を聴いて思ったことは、一つ。
 自分の知らない世界が、こうまで凄まじいものだったとは思わなかった。正直、彼女は十代の人間の実力を過小評価していた。まさに青天の霹靂である。
 上には上がいる。世界は広い。
 どのバンドが優勝してもおかしくはなかった。一番衝撃を受けたのは、初めのバンドだったが、結局優勝したのはトリのバンドだった。
 3ピースで、ジャンルはよく分からなかったが、新しい何かを開拓しようとしている姿勢が曲の端々から伝わってきた。
 少女自身は、大人たちに混じって演奏することもあった。しかし、自分と年が近い人間の演奏を間近で知る機会はなかった。
 自分の基準で、タカをくくっていた。
 まさに脳髄をガツンと叩かれたようなショック。
 会場を出て、駅までの道をふらふらと歩きながら、少女は胸に宿った微かな気持ちを抱いていた。
「ギター弾かなきゃ」
 今すぐ、家に帰ってギターに触れたかった。いても立ってもいられない。
 まだまだ、自分はやらねばならない。
 歩きながら、ふと携帯を取り出す。電話をかけるのは、少女を爆メロに誘った友人である。
『もしもしー。あ、行ってきたのー?』
「うん。すごかった……私、本当に今日来てよかった」
『あー、そう? ならよかったさ。誘っておいて行けなくてごめんねー。急なブッキング入っちゃってさ。速報で優勝バンドチェックしてたんだけど、やっぱねーって感じ』
 彼女はバンドをやっている。急に先輩バンドの穴埋めをしなくてはならなかったらしい。
「どれもすごかったけど……私は一番目のバンドが好きだったな」
『一バンド目? なんだっけクレイジーなんとか?』
「うん、そんな名前。途中でメンバーの体調が悪くなっちゃって、リタイアみたいな形になってたけど」
『うわー。それ、かわいそーだねー』
「それでね……私、高校に入ったら絶対にバンドやりたい!」
『おっ。さっそく影響されちゃったわけだ』
「それは、だって……」
 あんなのを見せつけられたら、誰でも影響されるに決まっている。
「とにかく! 私、全然今のままじゃだめだと思う! ギターもっといっぱい練習しないと!」
『気合い十分だね。バンドは楽しいよー。うちのギターやんない? ちょうど二本にしたかったんだよねー』
「うん、それはいい!」
『即答拒否?!』
「だって、あんなにたくさん音楽聴いてるのに、メロコアなんだもん。メロコアはちょっと……」
『メロコア馬鹿にすんなー! やっか、オラー!』
 電話口で憤慨している友人にくすりと笑ってから、少女はあらたまった口調になる。
「誘ってくれてありがとね。本当に行ってよかった」
『あ、いやいやそれほどでも……ってごめん! トラブル! 切るわ!』
 電話の向こうで何やら騒がしくなったと思いきや、唐突に切られた。一瞬、「ビニーーーール!!」という怒号が聞こえた気がするが、気のせいだろうか。
 鞄に携帯をしまい、少女は顔を上げた。
「よーーし!」
 そのまま、小走りで家路を急ぐ。
胸が躍る感覚がやけにくすぐったく、少女は新たな目標ができた喜びを抱えたまま、今日の練習に向けて気合いを入れるのであった。



※幕間、にするか悩みました。どの人の視点かはおわかりかと思います。

 



[26404] 第二十五話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/11/10 02:20



 どうしようもなく、ぼけーっとしている。
軽音楽部。その部室はついこの間まで満ちていた緊張感などとうに見る影もなく、脱力系オーラが充満する空間と化していた。
 イージーゴーイングと言うには聞こえは良いが、そろそろまずいなとその住人の一人、立花夏音は思い始めていた。
 簡易ソファーに寝そべって雑誌を顔の上に乗せたまま。
まあ、極論を言えばのんべんだらりと過ごすのも悪くないのだ。カチャカチャと茶器が立てる音に部活仲間達の姦しい話し声をBGMにして、微睡む最高のひと時。
 改めて自分を棚に置いてしまうことになるが、流石にこのままではいけないということは夏音にも分かっているのだ。
 あの日。あの爆メロのステージに立った日から、今日まで。
 二週間と経っていないにも関わらず、色々とあった。色々、の打ち明けを思い出すだに、なんと運の悪いことかと嘆くばかりである。
 結果から言うと、軽音部が爆メロで優勝することはなかった。あの時、唯が二曲目を終えるあたりで限界が来てしまい、三曲やっただけでステージを降りることになったのだ。
 ステージから控え室に戻るまで、興奮が収まらなかった。たった今まで、千人以上の観客の視線が自分達へと注がれていたのだ。そして、彼らを沸かせていたという事実はまさにその身に刻まれていた。自分達の演奏で、観客との一体感を生み出したことがまざまざと脳裏に蘇る。彼女達にとっては、あの場所で起こった全てが初体験で、ステージが終わった直後は誰もが興奮に打ち震えていたのだ。
 しかし、控え室に入ってからすぐのことだ。

「ごめんね……ごめんねぇ」
 床に崩れ落ち、歯を食いしばりながら涙を零す唯の姿があった。

 自分のせいで、と悔し涙を流す唯を責める者は誰一人としていなかった。むしろ、その状態で三曲やり通したことを称賛さえした。正直、軽音部の演奏は想像の何倍も良いものだったのである。
 夏音が掴んだ感触として、この結果は相応のものだったと思われる。優勝したバンドは堂々としたステージング、演奏力も含めて光るものが多かった。仮に軽音部が全曲をやり通せたとして、優勝することは難しかっただろう。
 唯が自分を責める必要はないし、楽しかったのだからいいだろうと諫め続けるうちに、彼女は何も言わなくなった。理性の上では、納得したのだろう。
ライブが終わってからすぐに彼女を病院に連れて行き、診断を受けさせたのはライブを観に来ていたさわ子であった。軽音部のステージを観ていた彼女はすぐに一同に連絡してきて、事情を知った彼女は「アナタ達が会場を離れるわけにはいかないでしょ」と車を出してくれたのだ。久しぶりに教師らしい一面を見せた瞬間だった。
どうやら唯はただの風邪ではなく、インフルエンザを患っていたらしい。病院で熱を測った時には四十度近い高熱だったことが判明して、あのまま無理をしていたらと考えると、自分達は正しい判断をしたのだと思えた。
 万が一、億が一の可能性を考慮して優勝した場合のことを考えて結果発表まで残った一同だったが、優勝バンドの発表があった瞬間、そそくさと荷物をまとめて帰る準備を済ませた。その一方で一同は唯の妹である憂に事情を話し、取り乱して泣き喚く彼女を宥めなくてはならなかったりした。
 当然のことだが、当日打ち上げなどできるはずもなく、唯が元気になったら皆でぱーっと盛り上がろうということにして、その日は全員が大人しく家に帰った。
 夏音が高熱を出して倒れたのはその翌日のことである。
 まさかと思って病院へ駆け込んだら、案の定インフルエンザだった。よく考えてみれば、唯とずっと一緒にいたのだからウイルスが体内に入っていても不思議ではない。
 幸いインフルエンザに罹ったのは夏音だけであったが、軽音部に襲いかかった不幸はこれだけに留まらなかった。
 うっかり階段から落ちた律が左手首を捻挫、腰を強かに打って絶対の安静を余儀なくされる。次いで、自宅で料理に挑戦していた澪が熱湯の沸き立つ鍋を零し、両手に火傷を負った。
 ムギに関しては、更新したばかりの定期を落としたくらいだった。それもすぐに見つかったので大事ない。
ちなみに彼女は、皆に降りかかる不幸ラッシュに動転したのか「風邪ってどうやってひくのかな」などとち狂ったような発言が多かった。
 さらに仕上げとばかりに、全回復したはずの唯はようやく病床から抜け出せたことではしゃいでいたのか。
 転んで、突き指した。
 間抜けの極みである。過保護な妹によって、必要以上の日数をベッドの上から動けなかったからといって、スキップでこけるとは。
このように最後に至っては、完全に自己責任だが。とはいえ、いったいこの事態はなんとしたものかと誰もが慄然としていた。
 誰か、どこぞの神のご神体に無体を働いたのではないかと。一番疑わしき人物がその祟りの被害に遭ったのではないかという話が上がったが、本人は全力で否定した。
「じ、神社は近くにあるけど! そんなはずは……っ! いや、小さい時は……でも!」
 あまりに必死に否定するので、「お前がする悪事なんてたかが知れているから大丈夫」と安心させた。
そして待ち望んだ打ち上げは一週間以上経った後に行われた。何となく満身創痍の様相を呈した一同は互いの不幸を思い切り鼻で笑い合った。開き直ったともいえる。
 その夜は大いに盛り上がった。憂、さわ子、和、そして何とめぐみを呼んで全員で騒いだのである。ちなみに夏音は七海を呼ぼうと目論んだが、断固拒否された。
 他にはこれといったエピソードもなかった。ただ単に、楽しかったくらいである。
 要するに問題はその後だ。これほどにまで問題が積み重なったのに、まだ問題があるというのか。
 それは積み重なったが故に現在進行形で起こっている事態である。


 それぞれの理由によって、一同は楽器に触れる時間が短くなってしまった。今まで爆メロに向けて過酷な強化練習を行っていただけに、元の生活に戻った途端に練習時間が短くなることは仕方がない。それに加えて、それぞれが楽器を弾くことができない怪我をしてしまったのだ。
 夏音は練習をすることが当たり前なので、病床で暇な時間も練習に費やしていた。ムギに至っては、よく分からない。
 澪、律、唯の三名。火傷、捻挫、突き指。楽器を弾かない時間がぽっかりと現れたこと。今までとのギャップ。
 その間、彼女達は何をやっていたのか。
 何もやっていなかった。
 夏音は、ここ最近で彼女達に襲いかかった病気の名にひっそりこう名付けた。
 
『燃え尽き症候群』

 それまで精力的に向かっていた目に見える目標が無くなったことで、何となくモチベーションを下げてしまう現象が、軽音部に起こってしまったのだ。
 特に怪我をした三人は、楽器に触れることができない期間があったため、その影響が如実に現れている。
 久しぶりに楽器を手にした者が共通して感じるのは、自身の腕がなまっているということだ。楽器は一日弾かなければ、三日分は腕が後退するという論がある。与太話ではあるが、実際にそれくらい衰えを自覚することがある。
 弾けたはずのフレーズに詰まってしまう。指や体が上手く動かない。もちろん個人差があって少しくらい楽器を弾かなくても問題ないという者もいるが、一日弾かないだけでも腕がなまってしまうと気を張る者も多い。
 長年弾いていなかったわけではないので、再び弾いているうちに何ともなくなるのだが、久しぶりに楽器を弾いた瞬間。そのギャップに驚いて、敬遠してしまう人間もいるのである。
 三人の中でも、ドラムの律はそのギャップに最も衝撃を受けていた。ちょっとしたフィルでもたついてしまい、曲の最中でスタミナが尽きる。ずっと安静にしていただけに、体力が落ちてしまったのだ。
 澪は久しぶりに弦に触れ、水ぶくれができたことにショックを受けていた。さらにピッキングに歯切れがなくなり、思い通りに動かない左手に苛々するばかり。
 唯に至っては、アンプを通してギターを弾くのも久しぶりといったレベルであった。
 そのような状態の時、楽器から遠ざかっていく者もいるくらいである。それを危惧した夏音が絶対に個人練習をするように言いつけてはいるのだが。
 練習のモチベーションが上がらない上、軽音部が決断したあることによってこの緩やかな空気が加速してしまった。
 爆メロが終わった後、軽音部ことCrazy Combinationは人々の噂となった。三曲だけで去ったガールズバンド。ネットで検索してもHPを持っておらず、今までライブハウスに出演したこともない。あまりに情報がないので、彼女達を捜し求めるスレッドが某掲示板に立ったが、その行方は杳として知れず。
 謎のガールズバンドとして、一部の人々の中で有名になっていた。
 何より、どこぞのレーベルの人間がバンドの所在を探しているという噂がまことしやかに囁かれていたのだ。
 その流れを知った一同の反応は、意外なものだった。
「すごいけど……なにか恐ろしい」
 夏音を除いた四人の意見である。彼女達は突然、自分達が求められることに困惑を露わにしたのだ。
 以前は、優勝だの有名になるだのと騒いでいただけに、夏音にとってはその反応は意表を突くものだった。
 しかし、よくよく考えてみれば、彼女達の心理を理解できるようになった。
 彼女達は尻込みしているのだ。何者でもなかった自分達が急に知らない人間に期待を寄せられること。自分達も知らない人達が一方的に自分達を求めることへの気後れより、その期待というものがあまりに未知のものだったのだ。
 本当にプロを目指しているのであれば、「何を甘えたことを!」と怒るところだが、夏音はあえてそうしなかった。
 口では武道館などと吹いてはいるが、彼女達のスタンスはそばにいる彼が一番分かっていたのだ。
 彼女達は、それを「いつか」のことにしておきたいのだ。どう言い訳したところで、甘いとしか言いようがないのだが、ただ覚悟がなかっただけの彼女達を責めることのできる者はいない。
 その権利をどうするのも彼女達の自由なのだ。例え、この先いつか彼女達が本気でプロを目指すことになり、このことを後悔する日が来たとしても。
 その選択の責任を負うのは彼女達自身であるのだから。
「外でバンドやるのもいいけど、もう少し落ち着いてからでいいんじゃないかな」
 夏音は狼狽える彼女達に、救いの選択肢を用意した。
 いわば、保留。先送りにすることである。
 夏音の提案に彼女達はすぐに賛成した。興味がないわけではないが、まだ軽音部として部活動をやっていたい、と。
 それに学年が上がり、後輩が入ってくる可能性もある。そちらを先決にして、落ち着いてから改めて考えてみるのもいいのではないか、と。
 夏音は意気揚々と後輩についての話題で盛り上がる彼女達を静かな瞳で見守っていた。
 何故なら、彼は舵を切る人間ではない。決まった道を進むために先導することはある。ただ、船の航海を助けるために尽力することはあっても、彼が行き先を決めることはないのだ。
 本当に大事なことは、彼女達に決断させてきた。
 彼は自分の影響力。自分ができることをよく知っていたから。
 そもそもレーベルだのという話が現実的なものになれば、夏音が一緒にバンドをやるわけにはいかない。
 
 そんな風に過ごしているうちに、入学式が目前という話らしい。

 ところで、ムギのお茶入れスキルが跳ね上がっている。彼女が淹れる紅茶の薫り高いことこの上なく。鼻腔をつく芳醇な香りについうっとり。
 日によって茶葉を変え、それに合わせた茶菓子を用意する。この茶菓子もまた格別な味なのだ。舌がとろけるような絶妙な味わい。
 紅茶とのコラボレーションに軽音部一同はよりいっそうティータイムの虜となっていたのだ。
 このマッタリ加速については、確実にムギに非があると夏音は信じている。桜高のティーインストラクターは日々、腕を増しているのだから。

「あー。この一杯のために生きているといってもいいわー」
 入学式の準備などで忙しいらしいさわ子が部室に居座って一時間は経っている。基本的に長くても三十分ほどで部室を去る彼女にとっては長居しすぎなくらいであった。
「さわちゃん仕事にもどんなくていいのかー?」
 顧問が長い根を張りつつあることを察知したのか、律がそんな言葉を口にする。
「いいのいいのー。私、ずっと仕事してんのよー? ちょっとくらい休憩したっていいじゃない。男の先生なんてすーぐにタバコ休憩って冗談じゃないわよ!」
「うわー。コリャだいぶたまってんねー」
 触らぬ神にたたりなし、と思ったのか。律は、このまま居酒屋の親父よろしくくだを巻きかねないさわ子を放っておくことにしたらしい。
「つーか入学式も明日かよー。もう春休みも終わりかー」
 律の言葉に雑誌を読みふけっていた澪が顔を上げる。
「そもそも、学校始まる前に来ているのに。何をするでもなくダラダラしすぎだろう」
 爆メロ以降、春休みに一度も軽音部で練習をしていない。今後のことを話すために、と学校が始まる数日前に集まろうと言い出したのは澪だった。
 気が抜けているのは澪も一緒だったが、根がまじめな彼女は今後の軽音部の方針に気を揉んでいたらしい。
「んー。話合いしてんじゃん」
「昨日もただ駄弁って終わっただけだろうが」
「いやー。つってもさー。一年生はすぐにオリエンテーションとかで合宿行くじゃん? まだ新歓ライブまで余裕あるしょ」
「部長がそんなだらけてどうするんだ!」
「まあまあ澪ちゃん落ち着きなさい」
「先生も何も言わないのがおかしいんですよ!」
 藪から蛇が出てきた。火の粉が自分に飛んできたところで、さわ子は席を立った。
「さー仕事もどらなくっちゃ!」
 電光石火の動きで部室を去っていった。
「見ろよ。あの見事なまでの逃げっぷり」
「大人って色々あるんだと思う……ってことにしておこう」
 そう口にする澪は苦笑が様になっているあたり、大人への階段を順調に登っているようだ。
 雑誌をひょいと上げた隙間からその一連の様子を眺めていた夏音はゆっくりと体を起こした。そのまま立ち上がると自分の席に座り、大皿に載ったクッキーを一つつまんだ。
「新歓ライブなんだけどさ」
 おもむろに口を開いた夏音に視線が集まる。
「やる気は……あるんだよね?」
 瞬時に視線が移動する気配がした。夏音は誰と目を合わせるわけでもなく、ぼんやりと机の上に目を向けた。
「も、もちろんやるに決まってるだろ。このまま後輩が入ってこなきゃ軽音部が廃部になっちまう!」
 律が話した内容は、一年の時には意識することがあまりなかったことだ。重要な案件に違いないのだが、なまじ自分達だけで成り立っていたので、思考の外に放り投げていたのだ。
「和ちゃんが言ってたんだけど、運動部とかは既に部活に参加してる子もいるんだって」
「マジ? まだ入学もしてないのにすげーなー」
「推薦で来た子たちじゃないかしら?」
「あーなるほど。まあ、入ることが決まってるなら何も悪いことじゃないしな」
 他の部活動との差がありありと分かるような話である。何となくバツが悪くなったので、全員が同じタイミングで茶をすする。
 また沈黙。
「と、とにかくさ! 新歓ライブもばーっと盛り上げて新入生がつーんと入れちゃおうぜ!」
 我らが部長が無責任な発言をかました。
「はぁー。そう上手くいったら苦労しないだろ。うちは人気ある部活じゃないんだから」
 澪が溜め息まじりに言う。
「え。人気ないの?」
 改めて言われれば、驚愕の事実である。夏音は思わず目を丸くして澪を見詰める。
「音楽とかはみんな好きだけど、自分で演奏するとなったらな……そもそも、人気があるんだったら廃部寸前になってるはずないと思うし」
「そりゃそうだな」
 澪の言葉にうんうんと頷く律。自分がその廃部寸前の部活を救ったのだと思っているのかもしれない。
「そんなものなの?」
「そりゃあね。楽器弾く自分って想像できないし、楽器を買ったりとかで気軽にできるってイメージがないだろう」
「なら新入生にはレンタルさせればいいんじゃないかな?」
「誰が楽器貸すんだ……ってまさか?」
「はーい俺俺! 貸すほどうちにある!」
 びしっと手を突き上げて主張する夏音だったが、それに対して猛烈に反応したのはそれまでぼーっと話を聞いていた人物だった。
「ちょっと待って! 私の時は誰も貸してくれる気なんてなかったと思います! 不公平だよ!」
 そういえば、そうだったなと全員が思い返す。全員でアルバイトしてまで、購入を薦めた記憶がある。
「だって……これから入ってくるのは後輩だし?」
「それなら夏音くんより私一つ後輩じゃん! 一つ下! 一つ上!」
 自分、年下。ユー年上。普段、あまり誰も触れようとしない部分にずばずば踏み込んだ唯に呆れた眼差しが突き刺さる。
「お前なーこの馬鹿たれ」
 流石にフォローの言葉が出なかった律は唯を軽く睨み、それからおそるおそる夏音の顔を窺った。
「と、年上だけど? だ、だから何、だけど? なにそれなら唯は俺が年上だったからって敬ってくれるのだけど?」
 予想以上に地雷だったらしい。
 それから日本は儒教の精神によって云々かんたらと語り出した夏音に唯は速攻で頭を深々と下げた。
「ごめんなさい! もう言いません!」
 狼狽えた夏音の肩にそっと手をやった律の目にはありったけの優しさが浮かんでいた。
 すかさず紅茶のおかわりを注ぎにムギが横につき、澪がそっと茶菓子の皿を夏音の方へと寄せる。見事な連携プレイである。
「まーまー。このタルトもなかなかいけるから、さ」
 さ、と言って洋なしのタルトを手掴んだ律がそれを夏音の口に突っ込む。
「ゴフッ……………」
 一瞬咽せかけたが、大人しく咀嚼する夏音を皆が見詰める。その間、無表情でもぐもぐし続けていた夏音はごくりと嚥下すると、紅茶を一口流し込む。
「んまーーーい!!」
 顔を輝かせる夏音に一同はほっと息をついた。そして多くの者が天然の恐ろしさを実感していた。
 気を取り直すように、澪が真面目な表情を作った。
「やっぱり楽器は自分で買わなくちゃいけないと思う。楽器ってさ、毎日自分で弾いて一緒に成長していくものじゃないかな」
 澪の言葉に皆が「おぉー」と感心する。澪は顔を赤らめて俯いたが、夏音はその言葉に全面的に同意だった。
「そうだね。弾きこんでこそ、その楽器のことがわかってくる。それに弾き続けてれば鳴りもよくなるしね」
 ものによるけど、と付け加える。恥ずかしがっていた澪も夏音の意見には顔を上げて頷いた。この軽音部の面々の中で、夏音に次いで楽器と向き合っている彼女は楽器選びについてはそれなりの意見を持っている。
「その人の選ぶ楽器にもよるけど。やっぱりギターは木だからな。毎日の手入れによってはダメにもなるし、逆にきちんとしていれば持ち主に応えてくれるように鳴ってくれるものだから」
澪は初めに買ったベースを使い続けているので、よりいっそう実感があるはずだ。彼女の使用するフェンダージャパン製のJB62は、これくらいの価格帯のものにしてみれば、作りがしっかりしている。USA製とどちらが良いかというのは使い手の好みにもよるが、メイドオブジャパンの名は伊達ではなく、細かい仕上げなどをとってもコストパフォーマンスが良い。中級者以上であったり、パッシヴのベースを初めて使ってみる場合などにぴったりである。
加えて、購入してから数年の間欠かさずに弾き続けられた彼女のベースは、購入時と比べて格段に鳴るようになっている。
 このように、愛着をもって所有楽器を弾くことは軽んじるべきではないことなのだ。僅かな鳴りも、ずっと触り続けているからこそ、気がつける。
 それが他人から借り受けた物と、正真正銘自分の物とではどちらが愛着を込めることができるかなど決まりきっている問題なのだ。
「鳴りかー。あまり気にしたことなかったや」
 ぼんやりと話を伺っていた唯がぽつりと漏らす。
「唯はまだまだだよ」
「うぅ……言い返せない」
「まあ、もう一度みんなでバイトすればいいんじゃね?」
 律が気軽に放った一言で、それもそうだねーと楽器についての話題は終わった。その時、ムギが机の下でぎゅっと拳を握り込んだことには誰も気が付かなかった。


 入学式の当日において在校生は休みである。
 保護者も大勢訪れて校内が慌ただしいだろうというよく分からない理由で軽音部は休みとなった。
 だからこそ、急な仕事を頼まれても夏音は二つ返事で快諾することができた。昨日、ジョンを通して急なレコーディングが入ったのである。ところが、もし仮に今日が登校日だったとしても夏音はこの仕事を断ることはなかっただろう。
 依頼者の名は、ポール・アクロイド。夏音が以前、在籍していたSilent Sistersのヴォーカルその人である。
 親日家の彼はしょっちゅう日本を訪れているが、レコーディングも日本で行うとは夏音にとっては意外な出来事であった。聞くところによると、今回の彼のソロアルバムを製作するにあたって、絶妙にマッチするプロデューサーが日本にいたらしい。そのプロデューサーは業界では著名であり、その仕事ぶりや音の好みを知るだに、「彼にやってもらいたい」と人づてで仕事を依頼したという。
 レコーディングは順調に進んでいたが、トラックダウン直前でポールとそのプロデューサーの意見が対立した。
 問題となったのは一曲。その曲のベースがどうしても気に入らないからやり直したい。ポールがそう言うと、プロデューサーはミックスでどうにかすると返す。
 だが、そこでポールは「この曲はベースの生々しい質感が大事なんだ。エフェクトでどうにかなる問題じゃない」と断固拒否。
 プロデューサーはそこまで言うならば録り直そうとしたが、その曲を担当したベーシストはどこぞのアーティストのツアーに同伴していってしまったらしい。代わりのベーシストを探そうとしたところ、夏音が日本にいることを小耳に挟んでいたポールがジョンを通じて連絡を入れてきたのだ。

 プレイ・バックを聴き終えて、夏音は「すっげースンナリいけた」と手応えを感じた。コンソール内でベースを録っている最中は周りに人が集まりすぎて視線が煩わしかったが、そこはプロの精神でカバー。ヘッドフォンから流れるポールの歌声に引っ張られるように、すぐに集中することができた。
 背後のソファに座っていたポールが「Excellent!!」と呟き、満面の笑みで夏音を見詰めた。
「君に連絡がつけることができて本当に幸運だったよ」
 琥珀色の瞳が好意的な光を湛えて夏音を見詰めている。
「こっちこそ、わざわざ俺を選んでくれるなんて光栄なことだね。久しぶりにポールと仕事ができるって聞いて大興奮だったよ!」
そう言って立ち上がった夏音は久しぶりに会った友人と握手を交わした。がっしりと握り替えしてくる手に懐かしさを覚える。
 同じバンドをやっていた同士とはいえ、父と子くらいに年が離れた二人である。今日、数年ぶりに夏音と再会したポールは髪の気が真っ黒になった夏音を見て「誰だかわからなかった!」と腹を抱えて笑った。そのままハグして持ち上げようとして驚いた様子で「大きくなったな」と頭をぐしゃぐしゃにした。その様子は知らない者が見たら親子の交流のように見えたことだろう。
二人は再会の喜びを分かち合うのもそこそこにして、ミーティングを始めた。様々な意見を交換した後、すぐにレコーディングに移ったのであった。
「今日は慌ただしかったからゆっくり話したいな。この後は時間あるのかい?」
「もちろん。俺は学生だからね。まだ春休みなんだ」
「本当に日本のハイスクールに通っているんだって? 聞きたいことは山ほどあるから今日は逃がさないよ。ドラムのタクヤから東京の良い店を聞いたからね」



ポールは都内の高級ホテルに泊まっているという。何回も日本に来ているが、その都度違ったホテルに泊まるのが好きらしい。日本のホテルの質は世界でもトップレベルらしく、いつ来ても最高だと言う。
「旅館は? 日本の畳部屋も最高だよ?」
「ああ、前に温泉に行った時に体験済みだよ。あそこで呑むサケが実にうまいんだ」
 酒豪で知られるポールは日本酒もいける口らしい。夏音は既にワインやビールをたらふく飲み干し続けている彼の様子を見て相変わらずだと嬉しくなった。夏音は運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、懐かしい友人と会話に華を咲かせていた。
「それで、君は本当にその部活でギターを弾いてるって?」
「そうだよ。俺もまさか自分が日本の学校で音楽をやるなんて思いもしてなかったよ」
「友達はたくさんできたのかい?」
「あー。少数精鋭の頼もしい仲間が、ね」
「そうか……それはよかった」
 何とも言えない表情で柔和な空気を醸し出すポール。何を考えているかは手に取るようにわかる。
 昔から夏音は同年代の友達を作ることが壊滅的に下手だった。特にポールとSilent Sistersを始めてからは学業も含めて友達と交流する機会が激減したことから、ポールは気に病んでいた節がある。ポールの息子は夏音の三つ下で、息子と同じような年の夏音についてはメンバーから外れてからも気に掛けていたらしい。
「僕は君を加入させたことには一切後悔していないんだけどね。ごく普通の楽しみも覚えて欲しいとは思っていたんだ。友達と湖に行ったりだとか、集まってスーパーボールを観たりだとか。ああやって僕たちがガキの頃やってたことは馬鹿なことも含めてとても大切なものだと思っているからね」
「俺も後悔なんて微塵も感じたことないさ。それにその心配は無用だよ。俺はちゃんと友達もいるし、学校生活も順調だよ」
 夏音が心からそう言っているのだということが分かると、ポールは頬をゆるませた。すると、隣でウイスキー片手にニヤニヤと話を聞いていた男が舌っ足らずな英語で話に入ってきた。
「まさかカノン・マクレーンが日本で高校生やってるって冗談だろって思ったね、俺は」
 スタジオミュージシャンで至る所でドラムを叩いているこの男こそがこの店を紹介したタクヤである。テクニカルで歌心があるドラムを叩くこの男は夏音と初顔合わせだったが、ポールを通してすぐに打ち解けた。夏音は彼を知らなかったが、向こうはカノン・マクレーンをよく知っていたらしい。
「マジで可愛すぎてションベン漏れるかと思ったぜ。うっぷ」
「飲み過ぎじゃないかタクヤ?」
 かく言う自分も常人の数倍もの酒量を入れているのだが、ポールが眉を潜めた。
「ちょっと失礼」
 顔がほんのり赤いタクヤはもう一度口から粗相を漏らした挙げ句、トイレに立った。夏音はそんな彼に苦笑してポールと面白そうに目を見合わせた。
「ああいう大人になるんじゃないぞ」
「心配なく。うちの家系はみんな酒に弱いんだから」
 両親とも家系的には酒豪らしいのだが、譲二もアルヴィもてんで酒に弱い。昔、それで大失敗をおかしたという共通経験があるらしく、家でも滅多に酒は飲まない。たまに嗜む程度に呑むことはあるが、譲二などはすぐにべろんべろんになってしまうので妻の目が常に光っている。
「ジョージとアルヴィともしばらく会ってない。今はどこにいるんだ?」
「たしか昨日はイギリスにいるって言ってたよ」
 どこに出没してもおかしくない両親である。
「相変わらずのようだな」
 懐かしそうに目を細めるポール。
「ところでタクヤが帰ってくる前に耳に入れておいて欲しいことがある」
 途端に真面目なトーンに落とされた口調に夏音は背を伸ばした。
「なに?」
「今すぐっていうわけではないんだが…………またベースが抜けるかもしれない」
 その一言が夏音に与えた衝撃は計り知れない。うっかり「ヘ?」と間抜けな声を出してしまったくらいだ。
「僕は君の今の生活をよくは知らない。だが、先ほどのベースを聴いて改めて思ったよ。今のバンドに必要な音は君が全て持っているとね」
「そ、それって……ちょっと待って。今の………なんだっけ名前」
「バーバ」
「そう、バーバ・オーブリー。彼はどうするの?」
「別にクビにするってことじゃない。ただ、もともと彼は長くやってくれるわけじゃないってことは承知していた。彼には彼のやりたい音楽があって、それを引き留めるつもりはない」
「つまり、その後釜に俺を?」
「そうなるな。いや、後釜って意味じゃ彼の方が君の後輩だよ」
「でも………」
「いや、すぐに答えを出してもらうつもりはない。ただあらかじめそういう意思が僕達にあるのだろ知っておいてもらいたくてね」
「マークはそんなこと一言も……」
「久しぶりの再会にこんな話は無粋だとでも思ったのかもしれない。そもそも、僕だって考えの一つにぼんやりと会ったくらいなんだ。この二年ほどで君がどんな風になっているか明確に知らなかったしね」
「それで今日の俺を見て、この話を出してもいいと?」
「その通りだ。技術は言うまでもなかった。けど、そうじゃない。君は実にユニークな音を出すようになった。それが何なのかまではつかめないが、もっと人を惹き付けるような……そういうものが強くなったと思う」
 思いもよらぬべた褒めの嵐に夏音はたじろいだ。尊敬するミュージシャンにここまで言われると謙遜の心が生まれてしまう。かつてポール率いるバンドでプレイしていた時、夏音はしょっちゅう他のメンバーから演奏面での注意を受けていた。まともに褒められたり、ベストアクトだと評価を受けることなどごく稀だった。
「ありがとう。俺はまだまだだけど、そう言ってくれると自信になるよ」
 こういう控えめな感想を言ってしまうあたり、日本に長くいるんだなと実感する。手放しで喜ぶことに抵抗が芽生えてしまうのだ。
 いや待てよ、と思い返す。思えば、自分が尊敬するミュージシャンは皆控えめな受け答えをしていた気がする。誰かの格言でこんな言葉があった。
 ステージの上では自分が誰よりも上手いと思え。ステージの下では自分が誰よりも下手だと思え。
 そう考えると、自分の態度は間違っていないと夏音は思い直して気が楽になった。
「ちゃんと考えておくよ」
「そう言ってくれると思ったよ。ずっと日本にいる気はないんだろう?」
 何気ない一言だったと思われる。しかし、夏音はその疑問にすぐ答えることはできなかった。心臓を刃で斬りつけられたような、鋭い一言だった。
 夏音がしばし何も言えずにいると、ポールは何かを察したようだった。追加の注文を頼み、夏音にデザートを勧めてきた。夏音は日本語が読めないポールの分もケーキを頼み、気まずい気持ちのまま黙っていた。
「タクヤはずいぶんと長いトイレだな。日本のレストランのトイレはシャワーもついているのかな」
 そんなジョークに愛想笑いを浮かべてまた、夏音はこんな表情が身についてしまった自分、すぐに気の利いた返しをできない自分を不思議に思った。
「おそるべき日本……」
 ぽつりと日本語で呟いた夏音に「What?」と首を傾げたポールに何でもないと答えた。
自分でも気付かないうちに随分とこちらの習慣が身に染みこんでしまったようだ。それとも自分に混ざる日本人の血のせいかしらと夏音も首をひねった。
 だいぶげっそりとしたタクヤが席に戻ってきて、そろって不思議そうな顔つきで佇む二人を見て彼もきょとんとしていた。


 ★                   ★

「いたっ」
 よく見ると左手中指の内側に水ぶくれができていた。
「やっぱりこうなるか……」
 澪はつい最近克服したばかりの痛みに顔をしかめた。澪はスラップ時に基本的に人差し指のみを使ってプルをする。しかし、色んな教則動画や身近なプロの人の演奏を見ているうちに一本だけでは実現できないような表現に感化されてしまい、こうして中指でプルをする練習をしていたのだ。
「早めに潰さないと………ヒィっ!!?」
 自分で想像しておいて悲鳴をあげるあたり、とんだヘタレであると自覚せざるを得ない。自らの経験上、分かっているのだ。この水ぶくれは放っておくとやがて硬くなり、何かに触れるだけで痛むようになる。そうなれば、この部分を使って弦を弾くことなどとうていできはしない。久しぶりにベースを弾いてできた水ぶくれがやっと治ったばかりで、その辛さは卑近なものである。
 対処法としては、まだ水ぶくれが柔らかいうちに針などを使って破いてしまう必要があるのだが。
 分かってはいるのだ。
「けど……ムリ」
 ヘタレオブザクイーン。と律に言われたことがある。よく考えればそれはヘタレの女王ではなくて、女王のヘタレではないかと思うがどっちでもいい。
 幼なじみの言葉はしゃくに障るが、こうしてヘタレを曝してしまう以上、仕方がないのかもしれない。
「こういう時、夏音はどうするのかな」
 ふと頭に浮かんだその人物ならば、素敵で痛くない対処法を教えてくれるかもしれない。澪は携帯を手に取り、電話をかけた。
『もしもし』
 そこでハローと言わないあたり、彼奴も日本に馴染んできているのだろう。
「あ、夏音。ちょっと聞きたいことがあって」
『ベースのこと? 何?』
「水ぶくれができた時ってどうすればいいんだろう?」
『潰しなよ』
「潰す以外で」
『切る?』
「痛くない方法で!」
『そんなこと言われても……昔水ぶくれできた時は………とにかく弾きまくっていつの間にか潰れてたかなー』
 おそろしく参考にならない。
「チッ」
『え、いま舌打ちした? まさか澪が自分から電話しておいて舌打ちなんてするはずが』
「あ、ごめん。ちょっと電池なくなりそうだから! 自分で何とかするからありがとうさようなら!」
 通話を切った。最低だ、と思う。
 しかし、自分には時間がない。
 せっかくパソコンがあるんだからと同じような悩みを持つ人を検索してみた。
【なんとかなるさ】
 判を押したようにこんな一言ばかりだった。どの人も、必死に尋ねてくる相手に対して「あるあるー。あるよねー」とか「弾いてるうちに何とかなるから。いつか硬くなるまでがんばれ」「ベーシストの宿命じゃね?」などと言うばかり。
 そんなのは百も承知なのだ。もうすぐ新歓ライブもあるというのに、こんな状態でその日を迎えるなど考えられない。
 澪は深い溜め息をつくと、ベースをスタンドに立てかけ、しばらく呆けていた。
 すると、天啓だろうか。最も単純で合理的な答えが降ってきた。
「中指でスラップしなきゃいいだけだ」
 普通に弾く分には特別必要のない部分だ。ピッキングの角度に気を遣えば、何とかなる。
 それでも釈然としない。胸の内にもやもやしたものがわだかまってくる。
 爆メロという特別な体験をした後。数日間は気が抜けたように練習から遠ざかり、我に帰って練習をしようとした途端に腕にやけどを負ってしまった。
 それでも、何とか持ち直してきたのだ。自分達のバンドが話題になっていると耳に挟み、心に再び火が灯った。
 あまりに自信のない自分。今すぐその期待を背負ってバンドの世界に飛び込むことへの躊躇など、臆している証拠である。
 こんな自分がいつ自信というものを掴むことができるかなど想像がつかない。とりあえず、ひたすら練習する以外に方法が思いつかない。
 しかし、とまたもや立ち止まりそうになる。
 所詮はその繰り返しになってしまうのではないか。澪の知る立花夏音という人間は、自分より遙かに上手いくせに、練習量においても澪を凌いでいる。
 そのうえで自分はまだまだ、と口にするのだ。澪はそんな存在を身近にして、どうしようもならない気持ちになってしまう。
 一歩一歩登った先に自分の求めるものがあるのだろうか。
 近頃はそんなことを考える時間が多かった。考えているうちに階段を下っているような気すらした。
 だから、彼女は新たな力を手に入れようともがこうとするのだ。上を睨めつけるように。ガムシャラにやろうとした瞬間、この現状である。
「はぁ」
 とりあえず、傷を負ったばかりの中指には休んでいてもらおう。ベースでできることは無限にあり、自分が試みたことはごく一部の表現方法でしかないのだ。
 気持ちを切り替えて、次に。
 心の中ではっきりとそう呟いてみる。そうすることで、奮起しなければいけない。
 自分は、まだまだなのだ。夏音がまだまだなら、自分なんかまだまだまだまだまだなのだ。
 これから後輩が入ってくるかもしれない。その中にベースを弾く子がいて、もしかして自分より腕があるかもしれない。
 先輩である自分が後れをとるわけにはいかないのだ。
 そう考えたからこそ、新たな武器が欲しかった。それでも、やるべきことはたくさん残されている。
澪はぱしんと頬を叩いて気合いを入れ直した。
 自分の愛機を引き寄せると、その慣れ親しんだ重みが実に頼もしい。メトロノームのクリックを再開させ、弦を弾いた。


★                ★


「よいっしょ……っと!」
「姉ちゃんおっさんくせー」
「うっせー」
 生意気な弟に短く応える。最近まで腰を痛めていたので、立つ時に声を出すのが癖になってしまった。
 もう痛みはないのだが、今でも痛みが襲ってきそうで怖い。腰や膝を痛めた者は分かるだろうが、体重を支える部分が痛いと何をするにも堪える。立ち上がるという動作にも通常時の何倍も時間をかけてゆっくりとこなす必要がある。
 特に腰という部位は人間において非常に重要だ。座っているだけでしんどいので、どうにか楽な姿勢を探して動くのも億劫になってしまう。
 ならばドラマーにとってはどうなのか。
 大事なんてものではない。腰はドラムの基点になる。始めたばかりの人で、上半身だけで叩いているような者が多いが、ドラムは全身を使う楽器だ。使わない部分はないし、ある意味ではアスリートのように自分の身体を管理する必要がある。腰を痛めやすいドラマーはそういった管理を怠っている可能性があるくらいだ。
 律はドラムを叩く前に簡単なストレッチをするくらいだが、プロドラマーのように人より長くドラムを叩くような職業の者は職業病といっていいくらい腰痛持ちが多く、しっかりと身体に気を遣って徹底したストレッチを行うドラマーも少なくない。
 全く無頓着な人間が多いのも事実だが。
 そもそも、ここ最近はあまりに腰が痛くて椅子に座るのも辛かったのだ。
おまけに手首を捻挫してしまい、スティックも持てなかった。そんなこんなの理由で律はまともな練習をしていなかった。
 昨日は久しぶりにドラムを叩いた。まだ誰も来ていない部室で、ただ一人だけで。部室にドラムセットを置いている上、学校にもしばらく行っていなかったので、ドラムを叩くのもしばらくぶりという始末である。
 見事に身体がついてこなかった。重みのないバスドラ、自分の根本的な部分がふにゃりとなってしまったような気がした。
 長く叩いていられなかった。ブランクがあるのだから、それこそ目一杯叩いて空白の期間で落ちこんだ腕を取り戻すべきなのは理解している。
 ただ、気力が湧かないのだ。
 目の前には新歓ライブがあり、人の前でこのドラムを披露しなくてはならない。このままではいけない。
 ところが、如何せんやる気がでない。甘ったれているなと自分でも思う。
(合わせるの不安だなぁ)
 まだ一度もバンドで合わせていない。鈍りきった音を鳴らすことへの不安もあるが、気持ちの面での変化がそのまま露見してしまわないか。腑抜けた自分を曝すことが怖くてたまらないのだ。
 とはいえ、そろそろ本気でバンドの練習を再開しなくてはならない。新歓ライブまでは一週間とない。ここで四の五の言っている暇はなく、状況がそれを許さないのだ。
 弟の聡がゲームに夢中になって時折「うわぁ!」「よっ」と呻くのを横目に律はパソコンを起動させた。特にすることがない時はネットの海に潜り込む。
 何気なくお気に入りを探り始めると目に付く某動画サイトのリンク。クリックして飛ぶと、やや画質が悪いながらも楽器を手に持つ人間が画面に映し出される。カノン・マクレーンのコンサート映像だ。
「ちょー金髪じゃん」
 その人物は今や同じ部活で黒い髪をなびかせてギターを弾いているが。何も考えずに動画を見ていると、その人物の六弦ベースからドラムの音が飛びだした。シンセを使っているのだが、何度見ても気持ち悪いと思う。
「ばっかだなー」
 とハッキリ口にしてしまう。彼が弾き出すリズムのパターンをドラムで再現してみろ、と言われても律には不可能だった。
 別の楽器を得手としているのに、これはない。悔しいとかの次元を越えて、無力感に打ちひしがれる。
 しかし、そんな動画をお気に入りに入れている理由もある。
 しばらくして「きちんとした」ベース音に戻した動画のカノンは、ドラムと二人きりでセッションを始める。
 ドラマーの方は、誰もが知っているジャズドラマー。変態的なテクニックの持ち主で、律も好きである。
 中盤に律が気に入っているパートが訪れる。曲の中でも一際ドラムとベースがフレーズ的に絡む部分で、グルーヴ感が半端ない。
「はぁ」
 つい、うっとりして息が漏れる。
 これはどれほど遠い世界なのだろうか。こんなグルーヴの中に居たら、どんな気持ちになれるのだろうか。
 同じフレーズを叩くことは、できるだろう。そこまで難しいテクニックを要するものではない。
 無論、この動画の通りに再現することは不可能だ。細かい部分に入るゴーストノートや、そもそものノリが違う。
 どれだけ、やればいいのだろう。道のりは果てしなく長く、目に見えるものは何もない。
 音楽なんてそんなものかもしれない。気が付けば手の中にあり、後ろを振り返れば明確な道筋が。自分が来た道に徴が点々と浮かんであるだけ。
 これから手に入れることができるものは、どんなものだろうか。ふと気が付けば憧れのキース・ムーンのようなドラミングが可能になっていたりするのだろうか。
 そもそもツーバスなんか今の律にはできない。実際に夏音からは手を出すなら貸すと言われたことがある。現在あるオリジナルの中にもツーバスができたらな、というシーンが幾つかあった。
 動画を閉じ、律は比較的良心的な値段とサービスを提供することで有名なオンライン楽器屋のサイトを開いた。



★              ★

 あの光の中にもう一度立つことはあるのだろうか。今も瞳を閉じれば脳裏に焼き付くあの強烈な光。体に刻み込まれたあの音の振動。
 身が竦みそうなくらい浴びた視線の数。記憶のほとんどが朧気に揺れていて、今でも夢幻だったのではないかと思うほどだ。
 それでも、終わった後の悔しさだけはハッキリと覚えている。ステージから控えた後はしばらく私のせいで、と自分を責め続けていた。
 興奮しきった皆が心から唯を励ましてくれたことに救われたことも。その時に遅れてやってきた高鳴りが唯をぼろぼろと涙させたことも、記憶の中にちゃんとある。
 また、あそこへ行きたい。そう心に願い病院に連れていかれたのだった。

 それにしても、ある一つの問題がしつこい油汚れみたいに唯の頭から離れない。
 どうにも世に言う突き指とは名前だけで過小評価されている、ということだ。
 部活の仲間たちに「突き指しちゃったよ~」と言った時のことだ。
きっと自分の怪我を心配してお見舞いの言葉が飛び出してくるかと思いきや、「なんだとこの馬鹿」「ドジっ娘もほどほどにな」などというありがたくもない言葉を頂いてしまった。友の友情を疑わざるを得ない扱いであった。自分はギタリストなのに。
 指の腱が伸びて云々と説明すればよかったと後悔した。
 多くの人が想像する突き指は関節が内出血で青くなり、腫れてしまうような軽度のものだろう。別名、捻挫と言うがこの時点でその名を聞いた人が想像する怪我の度合いが違う。
 実際に唯はこの捻挫をしてしまった。靱帯も少し伸びてしまったそうだ。医者は、唯がギターをやっていると知ると「絶対にしっかり治した方がいい」と念を押してきた。
 過去に言うことを聞かないで中途半端に治療を受けた男性は、靱帯が元通りにならずに指を曲げると、関節から先が変な方向に曲がるようになってしまったという。おかげで、ギターをやっていたその男性は「速弾きができなくなったー」と頭を抱えたらしい。
 その話を聞かされた唯は青くなって絶対の安静を心に誓ったのであった。せっかく病床から抜け出せたと思えば、またもやギターがおあずけのようだった。
 とはいえ、怪我をしたのは左手の中指。いたって健康そのものの右手と、余った左手の指でどうにかできないかと悩んだ末、小指と薬指だけを動かす地味な練習に励んだ。つい中指も動いてしまうので、激痛が走ったが、それをこなしていく内にそこそこスムーズに動くようになった。
 いざ、捻挫が治ってしまうと驚きだ。運指が段違いに上達していた。
 それも小指と薬指だけ。そればかりやっていたから当然のことなのだが。
 人差し指と中指は急遽出張ってきた新米たちに取り残されてしまったのだ。ぐぬぬ、と悔しげに固い動きを繰り返す二本の指はすっかり鈍ってしまったようだ。
「んー。なんかバランスが悪くて……」
 コードはかろうじて押さえられるのだが、やはり釈然としない。苦手だって小指と薬指の運指が上達したことで、今までにできなかったテクニカルなフレーズに手を出したいところだったのだが、世はままならないものだ。
 一歩進んだと思いきや、二歩下がったのかそもそも進んだのかも記憶に危ういくらいだ。
 唯は自分の進歩を褒めてくれる人物に何と申し開きをするか頭をひねった。
実は、彼にはこの二週間あまりを無為に過ごすことだけは許さないと言われてしまったのであった。
つまり、何かしらの上達を見せなければ彼は怒ってしまうに違いない。それは活火山のごとく怒るだろう。音楽が絡むと、彼は鬼のごとく恐怖を与えてくるのだ。
 鬼コーチ。そんな単語が浮かんでぷっと噴き出すが、本人はあくまで真面目なのだから、冗談抜きに笑うことはできない。
 唯は、あの眼力で人を殺せるのではないかと疑っていた。
「どうしよ……どしよ……」
 居間のソファに倒れ込んだ唯に、顔色が優れないと憂が声をかけてきた。何でもないとやんわりと答え、夕飯の支度に追い返す。
 近頃は連続で体調を崩したり怪我したりと心配ばかりかけている。やや過保護気味になっている妹は、唯が咳とくしゃみをコンボするだけで張り付いて看病を開始してしまう。
 本日、入学式を終えて高校生になったばかりの妹。自分と同じ制服に身を包み、来週からは中学の時みたいに一緒に登校することになる。
 唯は両親と一緒に入学式に出席した。父兄という立場で去年の自分達と同じようにドキドキ胸を躍らしているだろう後輩達の姿を見ると、不思議な気持ちになった。
 彼ら彼女らと同じ場所にいたのだ。あっという間に一年が経ち、学年が上がる。
 中学の時はもう少し時間がゆったりと過ぎていた気がするのに、この差は何だろうか。
 思い当たるのは、やはり部活動に身を置いていることだ。それも一年前の自分が想像もしなかった軽音部。未知の分野に戸惑うことも多かったが、思いがけずのめり込んでしまっていた。
 憂はまだ何かの部活をやるとかいう予定はないようで、来週から友達に付き添って部活動見学をするのだという。
 その中で特別気に入ったものがあれば考えるが、平沢家の家事を取り仕切る彼女は時間を長く拘束されるような活動は難しいかもと言った。
 軽音部などがぴったりだと思うのだ。妹には自分と同じように素晴らしい音楽の時間を味わってもらいたい、姉として。
 後輩が増えることにも繋がるし、友達を誘ってわいわいと部活をやるのも楽しいかもしれないと唯は考えた。
 そう思って何度か誘っても「うん、考えとくね!」の一言で済まされてしまう。もしかして、全く興味が無いのかもしれない。その割には、よく唯が語る軽音部での出来事をうんうんと頷いて聞き入ってくれるのだけど。
「後輩かー」
 次の新歓ライブでこの部活に入りたいと思わせるようなモノを見せなくてはならない。何にしろ、この先の軽音部の存続がかかっているのだ。
 練習しなくては、と思ったが吉日。否、即行動の人、平沢唯はがばっとソファから立ち上がると、どたどたと自分の部屋に駆け上がっていった。
 鈍りきった人差し指と中指に渇を入れなければならない。その前に瞳をもう一度そっと閉じてみる。
 あのステージでの興奮がほんのりと体に広がった気がする。もうすぐ夕飯だということはとうに頭の中から消えていた。


★                ★


「お嬢様。こちらでよろしいですか?」
「うん。ありがとう」
 彼らは琴吹家の経営する会社の社員。今日はムギが前から購入しようとしていた機材を運び入れてくれたのだ。
 ムギは新しく加わった自分の仲間に近づき、そっと木目の表面を撫でる。
「でも、これ学校に運ぶのは難しいかも」
 そもそも、使いどころが難しい。何とか手に入れたこの一品こそ、レスリースピーカー「147」である。
 ムギはハモンドオルガンの音が大好きだ。楽曲の中でも主に使用するサウンドであり、様々なミュージシャンに愛されている。
 ムギはまだ自身をシンセサイザー使いとしての経験が十分ではない、と捉えていた。同じ部には自分より遙かにシンセに精通した人物がいる。ある時、彼女は自分がこの分野に一番特化していなくては、と思ったのだ。
 その第一歩として、シミュレートされた物ではなく、本物のロータリーサウンドを耳に覚えさせておきたいと父を通じて手に入れようとしたのである。
 他にも、自分が知らなかった小室哲哉なる人物を調べてみた。この人物が参加したアーティスト、手がけたものを全て確認して、衝撃を受けた。これほどの人間を何故知らなかったのか。あの時、自分が何も考えずに「知らない」と放った一言がどれだけ恥ずかしいことだったのかを思い知らされた。
何と無知なことか。ムギは何かに取り憑かれたようにあらゆるキーボーディストを調べ、その楽曲はもちろんのこと。使用機材やそのバックグラウンドにある音楽など、自分が取り入れるべきものを徹底的に探した。
今さら遅いのだが、レスリースピーカーは今すぐ必要だったのかと言われると疑問が浮かんでしまう。現在の段階で、ムギが購入を検討している機材は幾つかあった。
幾らでも欲しくなってしまう気持ちにブレーキをかけるのは至難の業だ。欲しければ、叶ってしまう身分を容易く利用してはならない。身近なプロの少年は以前こう言っていた。
『俺達は自分に必要なものを探しだし、活用していく。機材はコレクトするものじゃない』
 ただ鑑賞するためのものではない、ということを言いたかったのだろう。その気持ちをムギはようやく理解した。
 あまりに多くの機材を手に入れた後、それを使いこなせなければ意味がないのだ。宝の持ち腐れであり、次第に無用の長物と化してしまう。
 既に増えていく機材を持て余し気味のムギは、ここらでストップしなければならないと何とかブレーキを踏むことができた。
 このスピーカーを最後に、ムギは手元に集まった物とじっくり対話していくことになる。
 自分次第で軽音部に新たな音が加わる。皆が求めるものに近づいていける。
 そのことを考えると、わくわくが止まらない。
 最近ではソフトシンセによる新たな音源を試行錯誤していたりする。持ち運びが大変になるが、自分の音楽が良くなるならそれも厭わないという姿勢だ。
「わー! この音おかしい」
 ムギは新しいおもちゃを与えられた子供みたいに昼夜問わず、のめり込んだ。自分の知らない音使いを動画などから学んでから、すぐに真似てみる。
 クラシック畑から出てきた自分が知らないフレーズ、例えばファンクやジャズを聴いてみたりもした。
 爆メロが終わってからの二週間。これはムギの人生にとって一番音楽に真面目に向き合った瞬間だったかもしれない。自ら、ここまで積極的になったことは初めてだった。

 本物のレスリースピーカーの揺らぎが心地良く耳に響く。ムギは鍵盤から手を離して、ふうと溜め息をついた。
「みんなどうしてるのかな」
 この二週間、無事だったのは自分だけだった。
 自分を除く全員が、何らかの怪我や病気をしてしまうという異常な事態の中、のけ者にされたような気がしてしまう。
「風邪くらいなら、いつでも歓迎なのに」
 どこかズレた発言をぽつりと独りごちて、ベッドに倒れ込んだ。
 明日は、やっと待ち望んだ練習だ。あのステージ以降、一度も合わせていない皆との演奏。
 心が弾み、ベッドの上に投げ出した足をぱふぱふと動かす。
「夏音くんびっくりするかしら」
 急に二段に積まれたキーボード。目の前にはマックのノートパソコン。プチ要塞を築くキーボーディストに目を丸くするかもしれない。
 むしろ「やっとここまで来たか……」と偉そうに微笑むかもしれない。他の皆の反応も楽しみだ。
 もう一人のギタリストは飛び跳ねて驚きを表現してくれるだろう。物静かなベーシストは手放しに褒めてくれるかもしれない。部長兼ドラマーは何と言うか想像がつかない。
「楽しみだなあー」
 今年はどんな一年になるのだろうか。勉強は少しだけ難しくなるかもしれない。その前にクラス替えがあるし、もしかして軽音部の皆が一緒のクラスになる可能性だってある。
 心配することなんて何一つない。視線の先はスッキリしている。
 ムギは自分にできることを、ただやるだけだ。
 眠る前に明日のお菓子とお茶をどうするか決めなくてはならない。
 ムギは執事と相談するべく、のろのろと部屋を出た。


※ すっごい中途半端なところで終わったような気がします。ここで第一章的な部分が終わってすぐに二年目、って感じにしたいです。

 次の本編は完全に二年生になってからの話です。その前に幕間で一話ほどいれたいですね。


 やりすぎHTTになりそうで不安です。



[26404] 「男と女」
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/12/07 00:27
 ※掌編となります。二年目に入る前に二本ほど、一年生時のエピソードを追加で入れようと思いました。これは本編ではありません。
 

「男と女」


「あの噂マジだったっぽいぜ」
「うそー!?」
 いつものティータイムの最中、律と唯が声を潜めて何かを囁き合っている。クスクスと笑い合う二人が非常に気になったので夏音はその会話に何気なく加わった。
「ねえ何の話?」
「いやー実はねぇー」
 にやけ面の唯が嬉しそうに反応してきた。
「うへへ。一組のうしおちゃんとうちのクラスの順平くんがね……なんと付き合っているそうなのです!!」
「な……なんだって!?」
 二組の斉藤順平なら、夏音も知っている。中学ではバスケットをやって体を鍛え、さらに当時はエースだったというスポーツ少年の順平は、好青年らしいサッパリとした性格の持ち主だ。クラスにおいて比較的初期の段階から夏音にも友好的に接してくれていた人物である。
 今や二組の男子は皆友達のようなものであり(断言はできない)彼とはよく話す。しかし、夏音にとってこの場合問題なのは、友人にとってのそんな重要な話を一切知らなかったことである。
「つーか何で夏音が知らないんだよ? 結構仲良さげじゃんか」
 ちょうど思い浮かべていた事をぐさりと律に突かれてしまった。しかし、夏音にもささやかなプライドはある。精一杯の強がりでこう言い返した。
「そういうのはプライベートな問題だから、友達だからと言ってかならず明かす必要はないと思わないか?」
「あら~? 仲間外れの匂いがぷんぷんしゅるんでちゅけどー」
 憎たらしい顔をするものである。夏音は、目の前で思い切り自分を馬鹿にする女に殺意を覚えた。
「そんなことないもんね!」
「そうかなー? だってこの情報って何を隠そう馬場っちから入手したんだけどなー」
 お前か、馬場。と夏音から低い呻き声が漏れる。二組の男子・馬場やすしもまた夏音の友達のはずであった。
「や、やすしは順平と……そう、アレだ……マブダチだからね!」
「え? その時一緒にいた男子の奴らもみんな知ってたけど?」
 決定打である。律は笑いを堪えるように夏音を見ている。その顔には「知らないのはお前だけみたいだな」と書かれてある。
「…………ソウカ」
 しゅんと肩を落とした夏音が紅茶をすする音すら虚しい響きがした。
「ちょっとりっちゃん言い過ぎだよー。夏音くんウソだよウソ! たしかに馬場くんから教えてもらったけど、本当は慶子ちゃんから聞いちゃったんだ」
「………そうなの?」
「うん! たぶん男の子は馬場くんくらいしか知らないんじゃないかな?」
「チッ」
 唯の言葉を聞くほどに明るい表情を取り戻していく夏音を見て、律が舌打ちをした。
「まったく律は。性格悪いって言われるぞ?」
 そう言って話に参入してきた澪もやはり女の子だったらしい。あまり上がることのない恋愛話に耳をダンボにしていたに違いない。手元の雑誌のページは全く進んでいなかった。
 幼なじみに窘められたものの、律はこれといって反省する素振りはない。おどけたように「ごめんちゃーい」と言った。
「そんなあなたに制裁!」
 夏音は律が食べようとしていたタルトに素早く手を伸ばすと、彼女が抵抗する間もなくかっさらっていった。
「ああッ!?」
 少し遅れて反応した律だったが、時すでに遅し。一口でいくには少し大きすぎるように思えたタルトは夏音の口にすっぽり詰まっていた。
 もぐもぐと咀嚼する夏音は勝ち誇った様子で律を見返す。
「ゆ、許さんっ!」
 立ち上がった律はまだ咀嚼を続ける夏音の背後に回り、その首を絞めるように腕を絡めた。
 怒りのチョークスリーパーが決まると、夏音は口の中の物を吐き出しそうになる。何より呼吸ができないので、たまったものではない。
「りっちゃん新しいのあるから!」
 夏音を救ったのはムギの一声であった。箱からもう一つタルトを取り出したムギに律は素早くそちらに飛びつく。
「ゴホッウボェッ」
 ぐちゃぐちゃになったタルトを衆目の前に出すわけにはいかない。夏音は口の中の物を紅茶で流し込んで咽せた。
「さいあく」
 冷め切った澪の一言は意外に効いた。
「それでそれで?」
 その場を見事に収めたムギがきらきらとした瞳で話の続きを望んだ。お嬢様もしっかりと気になっていたらしい。
「こないだ手をつないでデートしてんのを目撃したんだってさ!」
「きゃー!」
 と唯とムギが悲鳴を上げる。
「それってラブラブってやつですかね琴吹さん?」
「そのようね平沢さん」
 真面目ぶった口調で戯れる二人は興奮しきっている。
「でもそういう話ってあまり今までなかったよなー」
 律の感想に確かにと頷く。共学化したとはいえ、桜高は男子生徒の数が少ない。他の高校のように浮いた話というのがなかったのだ。
「なるほどねー。青春って感じだねえ」
 男女の付き合い、というものは青春を構成する上で重要なファクターであるに違いない。自分はそういうものに縁遠いと思っていた夏音も他人の恋愛話には興味がある。
「付き合う、かー。中学の時は結構まわりにカップルいたよね」
「唯ちゃんは男の子と付き合ったことってある?」
「ない!」
「威張ることじゃないけどなー」
「そう言うりっちゃんはどうなのさ!? そこんとこよろしく!」
 一気に注目を浴びた律は少しぎょっとした様子で、慌てたように否定した。
「ないない! 中学ん時って今以上に男子も友達って感じだったし」
「律はこれでも結構モテてたんだぞ」
 澪が出した新事実にその場が一気に色めき立つ。夏音は思わず姿勢を正して、律の方を向く。
「それは真かな?」
「余計なこと言うなよ澪!」
 少し顔を赤らめた律が澪に抗議する。その時、ムギと唯、夏音の三名の瞳からきらりんと怪しげな光が放たれた。
「ほほーう。りっちゃんがモテてたとな?」
「これはゆゆしき事態ね」
「神妙に語るがいいさ律!」
 眉間に皺を寄せて自分を見詰めてくる三人に、律は怯んだ。
「そんなことないって! ほんとに! 誰かとそういう感じになったこともないってば!」
「りっちゃん……本当のことを言うのです。おいちゃん、本当のこと言ってくれないと困るんだよー。おいちゃんを早く帰らせてくれよ、なー?」
 取り調べのつもりだろうか。律の真横に立ち机に手を置いた唯。心なしかドラマで見るような取り調べ室の頼りないデスクライトの光が見えるようだった。
「私、やってません!」
「証言があるんだ! ここで言い逃れようとしてもいつか分かることだぞ? ん? 腹減ったか? 何か取ってやろうか?」
「ハイ! カツ丼! 私、カツ丼がいいです!」
 ムギが挙手して訴える。
「いや、何でムギが頼むんだよ」
「えへー。一度、やってみたくて」
 ムギのボケによって取り調べ室の空気が一瞬で霧散してしまった。何故か途中までノリノリだった律は観念したように思い切り溜め息を吐いてから苦々しげに語り出した。
「別に本当に何でもないんだって。何か一回だけ告白? みたいなのされただけ」
 だけ、と言うのが言い終わらないうちに「うそーー!?」という大声で唯とムギが律に向かって身を乗り出した。
「告白されたのりっちゃん!? すごーい!」
「その男の子って格好よかった? 年上? 年下? 何て言われて告白されたの!?」
 大盛り上がりである。バツが悪そうにする律は嫌そうにそれらに答えた。
「いや、普通に。付き合ってみないかって言われたけど」
 ムギは頬に手を当てて「まあー」と。唯は「うほおー」とよく分からない感嘆を漏らす。
 じっとそれらを聞いていた夏音もショックだった。せっかく律に告白する男の子がいたというのに……
「律……もったいないことを」
「どういう意味だよー!?」
 夏音はさっと目を逸らした。まさかこの先、もう無いんじゃないかとは言えなかった。
「ふん。律のこと全然知りもしないのに、何となく告白しただけって感じだったよ。好きになった理由が可愛いし元気だから、だって。そんな理由で付き合うなんて馬鹿みたい」
 それまでムスっと黙っていた澪がぺらぺらと口を開きだした。
「澪ちゃん……」
 ムギが何故か嬉しそうに横にいる澪を見る。
「な、なにその目は! 私は別に! 親友が変な男にひっかからないかなって心配なだけで!」
「澪しゃん……」
 ニヤニヤして澪を見詰める唯の視線に堪えきれなくなったのか、澪は手元の雑誌で顔を隠してしまった。
「い、いやー。澪に心配されんでも普通に断ったしなー」
 先ほどより、今の方が百倍恥ずかしいと言わんばかりにオロオロする律だった。
「り、律は男にも気安すぎるんだ。だから変な男に告白されちゃうんだからね!」
 雑誌の影から続ける澪だった。
「なんだかお父さんみたいね澪ちゃん」
「つーか澪にソッチ方面で心配される律ってのが最高に面白いだけど」
 好き放題言われてぷるぷると腕が震える澪。今、隠されたその顔は羞恥によって真っ赤に染まっているにちがいない。
「わ、私の話はもーこれでおしまい! そうだ夏音! お前こそ何かないのか?」
 自分にお鉢が回ってくるとは、と夏音は軽く後悔した。今まで律を面白く責め立てていただけに、復讐を誓う彼女の瞳は爛々と輝いている。
 女子とは怖い、と思うのはこういう時だ。
「ひ・み・つ」
「で許されると思ってないよな?」
 即答してきた律は根に持つタイプに違いない。
「ねえ、どう思う? 俺が……女の子と二人並んでる姿を想像してみてよ。どこでもいい、ショッピングモールでも、クリスマスの街でもいい。女の子と手を繋いで歩く俺の姿を、想像してみてよ」
 懇々と話す夏音の言う通り、一同は想像してみた。
 しかし、脳裏に描かれたその風景はどう見ても……。
「…………………ごめん、夏音」

 仲が良い女の子同士が二人歩いているようにしか見えないや、と言うだけの勇気は誰も持ち合わせていなかった。



[26404] これより二年目~第一話「私たち二年生!!」
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/12/08 03:56

 始業式の当日、学校は大変な賑わいであった。部活動に所属していない生徒は実に一ヶ月ぶりの登校となり、そうでない生徒も春休みをまたいで再会する顔ぶれを見て気分が高揚しているようだ。
 日本の高校は教室が固定され、クラスという概念が大きい。アメリカのようにどんな授業でも教室を移動して受けるものではなく、授業を受けるために教室を渡り歩くといった風景はあまり見られない。授業の組み合わせによっては一日の全ての授業を教室で受けることもあるくらいだ。
 授業と授業の合間は次の教室へ移動する時間ではなく、休み時間と銘打たれて次の授業に向けての休憩する時間である。座席も固定され、生徒は固定された教室の中でさらに固定された空間に自分を置くのだ。
 例えば、両隣に座る人間が生理的に受け付けることができない輩だったら? はたまた、教室内に誰一人として知り合いがいなかったら?
 それを苦痛という。
 一年間もその状態が続くのかと思えば、ぞっとするものがある。
 シャイな心根を抱えた日本の生徒諸君はこの新学期という門をくぐり抜ける時、否応なくそんな懸念を持っているであろう。一方で期待に心が躍っている者、やはりその一方で胸がざわつく者も等しくいる。
 自分の、これから一年間を左右するかもしれない運命の采配をその目で確認するために、多くの生徒はとある場所に集まっていた。


 下駄箱をくぐり抜けると、生徒の海。
「また一緒だねー!」「赤井先生が担任かぁ~」「友よー!」などという言葉がそこいらで聞こえる中。
 ただ一人、声にならない悲鳴を上げたまま夏音はふらふらと人の波に揉まれて後退していた。やっと開けた場所に辿り着いた時には膝をついて崩れ落ちた。

「What`s the fuck…….」

 ぼそぼそと口をついて出た驚愕を表す一言は誰の耳にも届かず。ぽん、と肩に手を置かれた彼は「ほっといてくれ」と慰めてくれた誰かに内心呟いた。

「その気持ち……ワカル」

 おや、と顔を上げると悲痛な表情を浮かべて自分を見下ろしているのは見慣れた顔だった。

「澪も?」

「………私、一組」

「俺………俺……三組」

 孤独な二人はがっちりと互いの手を握りしめて頷いた。

「……………っ」

 頷き合ったところで、別に何の言葉もなかったのだが。何かシンパシーを感じたことは間違いないので、両者は仲間がいたことを素直に喜んだ。

「寂しくなったらいつでも遊びにきてもいいんだよ! うるうる……」

 胡散臭い効果音を口で言いながら澪の肩に手を回した存在がいた。

「私は小学生か!」

 手を振り払った澪は偽りの涙を浮かべて口許をにやつかせている幼なじみを睨む。

「律こそ私と離れて大丈夫か? もう宿題見せてやれないぞー?」

 精一杯の強がりを見せた澪を応援する気持ちで夏音も大いに頷いてやった。

「へっへーん!」

 澪のささやかな反撃は相手に微塵も効いていなかった。得意気に鼻を鳴らした律はムギの手を取り、偉そうな口調で言い放つ。

「こっちにはムギがいるもんねー!」

 確かに、それは随分と頼もしいことである。夏音は「ぐぬぬ」と悔しげに唸る澪を不憫に思ったので、反撃の一手を打つことにした。

「そっちがそうならもう律には英語の宿題手伝ってあげなーい!」

「んなっ! 夏音は関係ないだろー!?」

「お友達がたくさん近くにいるんだからそちらさんを頼りにしたらどうだい! えー!?」

「ガキかっ!」

 ご尤もな反論である。だが、どちらもレベル的には変わりがなかった。

「みなさーん! おはようございます!」

 低次元な争いが繰り広げられる中に爽やかな挨拶を引っ提げて登場したのは唯の妹の憂であった。

「あはっ! 似合ってる似合ってる!」

 にこやかに着慣れない制服に身を包む憂をそう評価した律の言葉に夏音も同感だった。

「初々しいわね」

 微笑ましそうに憂を見詰めるムギからも同じような言葉が出ると、「そ、そうかな」と俯いて頬を染める憂は可愛らしかった。

「憂だけに初々しい、か……ふ、ふふ」と呟いた夏音の言葉は華麗にスルーされた。


 HRの予鈴がなったところで憂とは別れることになった。学年が上がると教室も変わるので、一同もうっかり間違いそうになりながら教室へ向かう。

「あれ、二組って二階だっけ?」

「そうだっけ。ま、いかにも上級生って感じだよなー!」

 高らかに笑いながら階段を一歩一歩踏み上がる律はさらに余計な一言を残していった。

「じゃなー。一階・一組と三組のお二人さーん」

 こちらを見ないで背中越しに手をひらひら。無駄に気取っているその仕草に夏音はいらっとしたのだが、それよりも背後の澪が纏った怒りの気配に戦慄した。律のからかいに対してすぐに激昂してしまう彼女にしては、重く、暗い怒りのようだ。

「………夏音……」

「はい」

「一階の私たちも教室へ向かうぞ」

「はい」

 無理をして笑っているのが分かるが、非常に恐ろしい。夏音は今日の部活は荒れるかもしれないと思わず唾を呑み込んだ。
 それに、いつか彼女達も気付いて羨むだろう。一階の方が楽であると。


 澪と別れてから夏音は新しい教室へ足を踏み入れた。間取りは一緒でも、やはり全く別の部屋に思えて仕方がない。
 わいわいと騒がしい中、座席表を確認してから自分の席へ向かうとちらちらと視線を感じた。
 この類の視線は慣れっこだった。いつだって、どこでだって自分に纏わり付くこの視線。
 気にしていても無意味だし、ほとんどが他愛もない好奇の目であることが多いのだ。
 夏音は現在、ぽつんと特に何もせずに佇んでいる。耳に入ってくるのは新しいクラスメート達が話す声。

「まーたお前と同じクラスかよー!」「んだよー。こっちの台詞だっつの」

「ねーねー担任やばくない?」「え、誰だっけ」「後藤だよ後藤ー。ごっちーん!」「マジー!?」

「なんか一組の人ばっかよね」「ねー」

「えーとねー。あたしぃーヨシくんとぉ一緒でよかったぁ!」「僕もだよみゆきちゃん!」

 ヨシくん死ね、と思いながら夏音はそれらの会話に何となく耳を向けていた。というかそれ以外にすることがない。
 知っている顔が全くといって、いないのだ。一年生の時は同じクラスの人間とは仲良くやっていたと思われる。学校外で遊ぶような仲になったのは軽音部の人間くらいだが、校内で会うと挨拶を交わすこともあり、教室で他愛無い話をすることはあった。
 だから、一人でも知り合いがいれば救われると思っていたのだ。しかし、いくら周りを見渡しても知っている顔はいない。
 これが、孤独か。また友達を作るところから始めなくてはならないのか。思い描いていた一年がほんの少しばかり暗く色彩を落としたように感じた。
 頬杖をついてぼうっとすることしばらく。

「あれ、君も同じクラスだったんだね」

 耳慣れた声。飄々としていながら、どこかすっと耳に入ってくるこの声の主は。

「な、な、な、」

「な?」

「七海―――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!」

 完全に夏音の理性は飛んでいた。ただ、独りぼっちの自分に救いをもたらした人物のことで頭がいっぱいになってしまったのだ。
 騒がしい教室の空気を切り裂くようによく通る声。抱きつかれた七海は相手の勢いに負けて後ろの机を吹っ飛ばして倒れ込んだ。
 教室中の人間が唐突に叫んだかと思いきや大きな音を立てて同級生を吹っ飛ばすという所業にしんと静まりかえっていた。
 この場にいる全ての注目を浴びていると自覚しながら押し倒された七海はぎゅっと自分に抱きつく相手の肩をぐいと押し返した。

「し、新学期早々なんなんだよ君は! 一年と変わってないな!」

「俺は大丈夫だぁ!」

 ガッツポーズを決める夏音に「志村けんかよ」と呟き七海は吹っ飛んだ机を綺麗に並べ直した。幸い、というか当然のごとくその座席は無人だった。

「俺、みんなと離れちゃったんだ」

「軽音部の? へー」

 それが大問題であるかのように語る夏音に七海は短く応える。七海にとっては、そのことがどう現状につながるかの釈明を求めたいところであろう。

「七海がいなかったら友達誰もいないよ」

「これから作るんだよ。そういう時は」

「ハードルたけー」

「何で変なところでヘタレなのかな君は。一度なつくとうざったいくらいなのに」

 夏音は七海の言葉にきょとんとして目を瞬かせた。

「そういう七海はずいぶんと辛辣な口になったねー。何かあったの?」

 夏音は純粋に疑問として七海に問うたのだが、痛いところを押されたように七海は顔をしかめた。

「ま、色々とね……この一年は色々ありすぎたし。それに僕もいつまでも弱腰じゃだめだと思って。こんなんじゃもうじき入ってくる後輩になめられちゃうからね」

「後輩? 生徒会の?」

「そう。今年こそは男子をたくさん入れるんだ。どんな子が入ってくるか分からないけど、ぜっっっったいになめられるわけにはいかない」

 一大決心をしたようにきゅっと口を引き締めた七海は以前より精悍さが増している気がする。あくまで気がするだけだが。
 そういえば、七海は生徒会で相当の苦労を強いられていると聞く。自分の一年が色々あったように彼にも色々と成長を促すようなものがあったのだろうか。
 七海といえば、春休みに入る前の個人的ないざこざに巻き込んだ一件があった。完全にアウトサイダーの七海は夏音に寄り添ってくれようとしたのだが、結果的には彼の好意は思わぬことが原因で台無しになってしまったりした。
 最終的に事情を全て説明することになり、夏音に関して軽音部の面々が持つものとほぼ変わらないだけの情報を七海は受け取ることになった。
 それを踏まえた上で、こうして変わらない付き合いを続けてくれている。夏音はそんな些細なことが嬉しくてたまらなかった。

「七海ー。同じクラスで本当によかったー」

「わかった。わかったからべたべたしないでくれ」

 何故か絡みつこうと動く夏音の手を流し、七海は変わり者の友人を呆れた目つきで見る。

「こう……学年が上がったんだから落ち着きとか持ってほしいね」
 
 年下の友人から言われる台詞じゃないな、と少しだけ落ち込んだ夏音だったがすぐに気を取り直した。

「まあ、何にせよだよ! 一年よろしくね!」

 満面の笑みを向ける夏音から目を逸らした七海はぼそりと「こちらこそ」と呟いた。




 昼休みになるとメールで示し合わせて全員が軽音部の部室に集まった。新しくできた友達の話や担任がどうのこうのと盛り上がった。

「あぁ~もう! 新入生の子たちが初々しくて可愛いよー」

 そう言って身悶える唯は無類の可愛いもの好きである。可愛い、と思う対象の範囲が広すぎて他人を置いていくこともあるが、今回は割とまともに共感することができた。

「そうねー。どこかオドオドしてて、上級生とすれ違う時にちょっとだけ緊張してるのがわかるの」

「向こうにとっちゃ高校の先輩だもんなー。私らもあんな感じだったのかもな」

「確かに。中学の時もそう思ったけど、先輩方ってやけに大人って感じがして少し怖かった気がする」

「ふーん。そんなものなんだ?」

 それぞれの話を聞いても夏音には少し理解しがたかった。アニメやマンガから学んだ「先輩・後輩」という言葉。日本でどのように使われている言葉かを知識として学んだはいいが、それを自分の持つ概念とそっくりそのまま置き換えることはできなかった。
 アメリカの学校でも年上の存在はそこまで気安いものではなかったが、日本ほど上下の関係というものが意識されることはなかった。どちらかというと年上にとって年下はからかいの対象であったりして、小学校の時などはスクールバスなどで意地悪をされることなどはあった。今となっては懐かしい思い出で、所詮は子供のやることだと納得している。

「そっか。夏音は先輩後輩っていうのあんまわかんないんだ?」

 律が感心したように夏音を見る。

「わからなくはないけど、みんなとは捉え方が違うかな。学年が一つ違うだけで道を譲ったりとか、何でも言うこと聞かなきゃ、みたいなのは信じられないもの」

「んー、そういう極端なのはあまり無いと思うけど。ここ元女子高だし」

「でも男の子の上下関係ってなんか厳しそー。先輩ちゃーっす! 焼きそばパン買ってきましたー! みたいな?」

「んなベッタベタな」

 唯のとぼけた発言にその場が笑いに包まれる中、ただ一人夏音だけは青い顔をして震えていた。

「……三分ルール………焼きそばがダメならかつロールでも可……」

 膝を抱えてぶるぶると揺れている夏音に驚愕の眼差しを向ける一同。

「え、と……なんかヤバイ過去を思い出させちゃった?」

 夏音の空白の過去に何があったのか。その詳細まで知らされてなかった一同は夏音の様子から壮絶なものを感じて、各々のおかずを一品ずつ与えるのであった。
 しばらくして夏音が回復してから、話題は真面目な方へと転換した。

「つーか新歓ライブどうしよっか……」

 滅多に使われないホワイトボードの前に立った律が口火を切る。

「構成は爆メロと同じでいいんじゃないの?」

 せっかく、あれだけ練習を積んだのだ。完成度の高いものを見せてやりたいという気持ちから唯が提案した。

「そのことなんだけども」

 異論を挟んだのは夏音である。

「音圧命の曲は本番のセッティングじゃ迫力が足りないと思うんだ。高出力のアンプはあっても、どでかいスピーカーの準備までは手が回らない」

 毎度のごとく、校内で行うライブはスピードが求められる。与えられる時間は少なく、僅かな時間の中を素早く準備に動く必要がある。全員が全力で動き回ってやっと、である。

「それで考えたんだ。今回はヴォーカル俺じゃなくていいかな?」

「はぁっ!?」

 夏音の発言に驚きの声が上がる。当然の反応だと覚悟していた夏音は先を続けた。

「今回は新入生を楽しませるっていう目的もあるんだし、8ビートの観客が乗りやすい曲を中心にした方がいいと思うんだ」

 四つで割れない拍が連続するような曲だと観客が疲れてしまう。そういう音楽に慣れない者が大半を占めであろうことが予想されるので、その主張はあながち外れていない。

「俺達のライブの目的。そして聴いてくれる人達の目線を思い出してよ。あまり音楽を深く知らないような子もいるだろうね。楽器演奏にどこか難しいイメージを持っている子だってたくさんいるはずだよ。ただ格好良いなーって圧倒させるだけじゃだめなんだ」

 あくまでも、歓迎するためのライブ。そして、興味を持ってもらうためのライブである。自分もあの輪の中に入りたい、そう思わせなくてはならないのだ。

「セットリストをほぼ一新させよう。個人的にはクマは残そうかなと思うんだけど、どうだろう」

「ちょ、ちょっと待て。言いたいことは分かるけど、肝心のヴォーカルを代えるってのはどういうことだよ?」

「澪か唯。どっちかにやってもらいたいと考えてる」

 指名された二人はたまらず驚愕の叫び声を上げた。

「む、む、無理ー!」

 脊髄反射のごとく素早さで拒絶を表したのは澪であった。その脳裏には去年の学祭のトラウマがまざまざと蘇っていることだろう。すぐにガクブルし始めた澪であったが、一方の唯は口を大きく開けたまま固まっていた。

「わたし? なじぇ?」

「唯は最初ギター弾きながら歌えなかったよね」

「ほぇ」

「でも特訓で歌えるようになった。今や唯のコーラスは欠かせないくらいだし、これを機会にメインで
歌ってもいいんじゃないかと……せっかくだし」

「せっかくって何じゃらーーーっ!?」

 少し遅めのパニックが訪れた。頭を抱えておろおろする唯と同じように震える澪。
 両者の反応を見た律が困惑した様子で夏音に訊ねた。


「二人ともこんなんだし、無理じゃないか?」

「んー。無理かなーいけると思うんだけどな」

「私もそれは急すぎるかなって思うかな。新歓まで時間が少ないし、そういう案も面白いと思うけど、今回は今まで通り夏音くんが歌うようにするのではどうかしら?」

「ムギっていう手もあるんだけど?」

「えぇー!?」

「まー冗談はさておき。爆メロでやったような曲はどれも俺が中心になって作った曲がほとんどじゃな
い? でも、俺が今回のライブにぴったりだなって思うような明るくてノリノリな曲ってほとんど俺のアイディアじゃないんだよね」

 軽音部で最初に作った曲、ふわふわ時間含めてムギが提案したアイディアが元になっている曲は少なくない。

「曲自体があまり難しくないから、少し練習すれば本番に出せると思うんだ。それに、せっかくなんて言ったけど二人に歌ってもらいたいって前から思ってたのは本当」

 その言葉と真剣な面差しに泡食っていた澪と唯が顔を引き締めた。

「二人って全然違うタイプの声質なのに、絶妙に噛み合うんだよ。この二人でツインヴォーカルってアリかなって考えてたんだ」

「それ……本気なのか?」

 訊くまでもないと分かっていても、澪は確認のために夏音に訊ねた。

「もちろん冗談では言わない。考えておいて欲しいって言うには時間が少ないから、できれば今答えが欲しい」

「私は……私はヴォーカルっていう柄じゃないと思う」

 人一倍臆病で、アガリ症であることを自覚している澪。歌は、バンドの全てと言って差し支えない。誰もが歌を聴き、歌う者に視線を送る。
 目立つことが好きな者ならいざ知らず、自分のような消極的な人間にはつとまらないだろうと澪は考えていた。

「今のままでバランスが取れてるんだから、いいんじゃないのか?」

 伏し目がちに視線を送ってくる澪に夏音は少し表情を曇らせた。くっと眉間に皺が寄るが、すぐにそれを崩した。

「唯はどうなんだい?」

 何か真剣に考え込むように腕を組む唯に矛先を変えた。唯は夏音に話を振られても、しばらくじっと黙ったままだった。やがて、それを辛抱強く待っていた夏音に答えを出した。

「私、やりたいっす!」

 力強い眼差しだった。ふんすっと息を放つと、唯は自分の決意を語り出した。

「私歌うの大好きだし、ほんとはヴォーカルもやってみたかったんだよ。でも夏音くんがいるのにやりたいなんて言えなくってさ。なんか諦めかけてたし、そんな希望からどんどん離れていっちゃってる気がしてたもん。ていうかコーラスでもいいから歌ってるからいいや、って思ってたくらいだし」

 すらすらと語られる唯の言葉は意外や意外と誰もが目を丸くして聞き入った。

「えへへ……夏音くんに褒められるとなんかやれるかもって思ったけん」

 照れ隠しなのか語尾がおかしかったが、どうやら唯はやる気十分らしい。夏音は顔を輝かせて唯を見詰めた。

「唯!」

 一つの決断をした唯に夏音は尊敬の念を抱いた。なかなか思い切ることができない人が多いだろうに、彼女はこうもすんなりと自分の意見を受け入れてくれた。そして彼女の言葉に自分への信頼を感じ、誇らしくも思った。

「ありがとう……恩に着る!」

「どえらい語彙が出たなー」

 思わずがくんとこけそうになった律だった。

「あたぼうよってやんでい!」

 二人は何かと波長が合う二人だったりする。感激する夏音が今にでも唯の手を取ってくるくると踊り出しそうな勢いだった。
 一方、話がどんどん先に進んでいく中を取り残されたような気持ちでいたのが澪だった。
 唯は夏音の期待に応えると言った。澪は逃げようとした。
 こうも重大なことをさらりと決断してしまう唯の度胸は純粋にスゴイと思わざるを得ない。喜びの輪ができあがっている中に、自分はいないと澪は感じていた。

「さー。唯は承諾してくれた。後は澪なんだけども」

 一歩退いた位置から気まずげに見守っていた澪は「へっ?」と間の抜けた声を出した。テンションゲージを収め、一転して冷静な口調で話を戻した夏音は作戦を変えることにした。

「こうしよう澪。とりあえず……とりあえずだよ? もしものために澪もヴォーカルの練習をしておこう。いつでもヴォーカルができるように。唯の喉が潰れるかもしれない。ついでに俺もなんか歌えなくなるかもしれないね? そういう時のためにもう一人歌える人がいればいいし。それに澪の心が整った時まで待つからさ、ヴォーカルをやってくれないだろうか」

「と、とりあえず? 新歓では歌わなくていいのか?」

「もちろん。とりあえず、だからね。とりま、ね」

 夏音には最近覚えたばかりの日本語を使いたがる傾向があったりする。

「とりま!?」

「うん、とりま」

「と、とりまか。とりまなら……」

 とりあえず。その魔法の言葉の響きにぐらりときた澪であった。後回し、というコマンドは誰しもが魅力的な選択肢の一つとして懐に抱えているものである。
 夏音はその弱い部分を巧妙につっつくことにしたのだ。
 現に澪の内心は揺れまくっていた。
 唯があれだけ度胸を見せた後で、自分が頑なに否定し続けるのは空気が読めていないような気がする。だが、「ハイじゃあ次からお願い」というのも素直に諾と言い難いものがある。
 ただし。ちょっとずつ慣れていった上で「いつか」歌うことくらいあってもいいのではないか、そんな風に思い始めてしまっていた。

「そ、それなら……そこまで言うなら、や、やってみるのもやぶさかじゃない……かな」

 いつの間にか肯定の言葉が自分の口から出ていることにも気付かず。

 澪は結局、まんまと夏音の提案を呑み込んでしまったのだ。

「じゃあ決定ー!!! そういえばドラムとキーボードのお二人さんはなんか意見はありますか!」

「いや……私は特にないけど」

「澪ちゃんと唯ちゃんのツイン……最大の絡み所に現れる私のコーラス………ありかも」
ぼそぼそと呟くムギの隣でそれらを耳に入れてしまった律は「ムギ……」とがっくりうなだれた。

「じゃあ早速今日から練習だね!」

「おーっ!!」

「でも、何か忘れてない?」

「何だっけ」

「何かあった気がするんだけど……ってあーっ!」

 澪が唐突に叫び声をあげた。

「新入生勧誘のチラシ配りっ!!」

「………あっ」



「うわー。人でいっぱいだー」

 部室を飛び出して一同が訪れたのは一年生の教室が並ぶ廊下。既に上級生の姿が至るところに見られ、勧誘活動が行われて大盛況である。

「やっぱり大きい部活は手際が違うのねー」

 ムギが感心したように漏らすと、律はその言葉にカチンときたようだ。

「軽音部だからってなめられてたまるか! 澪! チラシは!?」

「い、いちおー作ってきたけど」

 澪が自信なさげに差し出したチラシを律は奪い取るように手に取った。

「……すっげーフツー。地味。なんもそそられない」

 ずばずばとストレートな感想に澪は白目を剥いてショックを表した。最近、こういうリアクションがズバ抜けてきているな、と夏音は思った。

「澪に頼んだ責任は律にあるんだからそう言わないの」

 おまけにフォローにまわった言葉も遠回しに澪を傷つけた。

「なんかパンチがないっていうか……セールスポイントが全然ない!」

「でも軽音部のセールスポイントって……」

 一同、首を傾げて唸る。

「即答できないあたりが悲しいね」「ねー」

「いやいや! お茶とお菓子はおかわり自由! 素敵なスイーツライフを共に!」

「音楽はどこいったんだよー!?」

「プロのミュージシャンの演奏をBGMに素敵なティータイムをいかが、とか?」

「何でティータイムがメインだよ! ていうか俺がセールスポイントの一つってのも何だか照れるなあ……いやあっへへへ」

「気持ちわりーなこいつ。ただの例えだよ例え! 正直、私にもよくわかんねーんだわセールスポイント!」

 部長が堂々と言う台詞ではなかった。軽音部に入るメリットは、と問われるとどう答えようもないのは事実だったりする。
 音楽が好きなら、自分でたくさんCDを集めればいい話だ。楽器が身につく、というのも微妙だったりする。実際に楽器は自分の努力次第だったりセンスということもあるので、途中で匙を投げる者も多い。
 それらはどの部活にも言えることかもしれないが、一番の問題はバンドということへのイメージだろう。

「バンドってあまり人気がないのかな?」

 夏音がふとした疑問を口にすると、澪が難しい顔をする。

「んー。あまり自分でやるものっていうイメージはないかも。私だってベースやってたけど、最初は文芸部に入ろうとしたくらいだし」

「それは初耳だけど。でも、そうか……楽器経験者でさえ、学校の部活でバンドっていう風にはならないものか」

「私はバンドも面白そうだなーって思ったけど」

「ムギは合唱部に入ろうとしてたもんなー。そういえば、唯は何で入ろうとしたんだっけ?」

「わ、私は……その……軽い音楽だから、私にもラクショーかなーと……はい、ナメきってました完全に」

「はは! 唯らしいわそりゃ」

 場が和んだところで、夏音はハッとして思い出した。

「ていうかこんな所で突っ立って話してる場合じゃないね。早く配らないと!」

「あ、夏音くんダメだ」

「何がダメだって?」

「あと一分で授業始まる」

 唯の言葉に辺りを見渡すと、既に部活勧誘の人々は姿を消していた。

「とりあえず明日は絶対にやろう」


 とりあえず、は後悔をも薄めてくれる魔法の言葉だった。

※ちょっと行間とか考えてみました。台詞は離した方がみやすいかなーと思ったのですが、どうでしょうか。
 この方がいいや! と意見が出た時は頑張って今までのやつも修正する所存です。現時点で54万字……だけどやりますたい。



[26404] 第二話「ドンマイ!」
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/12/08 23:48


「あ、メール。唯からだ」

 律の携帯からメール着信音が響いたと思えば、他の三人も一斉に自分の携帯を手に取った。送信者はいずれも平沢唯。一斉送信で送ったらしい。

「なになに。『ねべうしましたちょっとおくるます』……寝坊しましたちょっと遅れます?」

「焦ってるのが丸わかり。多分走りながら打ったんじゃないか?」

「ったく。唯はしょーがねーなー」

 パタンと携帯を閉じた律が溜め息をつく。せっかく早朝に集まって練習することにしたのに、ぱっと始まることがないのが軽音部らしい。



 昨日の放課後はチラシを配ろうと思って一年生の教室前に向かったのだが、肝心の一年生はとっとと目当ての部活動の見学に行ってしまったらしく。
 チラシも配っていない軽音部の見学に誰か訪れることもなかった。
 しかし、編成を大きく変えたことでもっと練習時間が必要だったので、ちょうど良かったかもしれない。それから放課後はずっと練習して終わった。
 唯のヴォーカルは可もなく不可もなく、といった具合であった。歌は下手ではなかったが、夏音からしてみれば発声の仕方や細かいアーティキュレーションの付け方など課題は山積みに思われた。
 しかし、夏音は唯の声が持つ個性を大きく買っている。耳を素通りするようなつまらないヴォーカルとは違い、聴いた後も耳にずっと残っているような、それでいて全く不快ではない歌声だ。これはヴォーカリストが求めたところで努力で得られるようなものではない。さらにかなり高い音域まで歌えるだけでなく、普段の彼女からは想像がつかないくらい滑舌もいい。
ギターを弾きながら歌う際の不慣れな感じは仕方ないとして、これからヴォーカルをやっていく上で磨かれていけば、化ける可能性が大いに秘められていた。
 一方、澪は「唯が歌う」ことによる環境の変化をかなり意識しているように見えた。コーラスを合わせる相手が変わるというのもあるが、自分にも渡された選択肢の先を一足早く進んでいく唯に焦りを覚えているのかもしれない。
 どちらにしろ、良い傾向だと夏音は認識していた。
 とはいえ「イケるかも」という感想はあくまで長い目で見た時のものでしかない。これを今すぐ出せる完成度ではなく、さらに練習が必要だったのだ。
新歓ライブまで時間がないため、最低限必要な練習時間を確保するために朝練を決行したのだが。

「ゆーいーまだかなーゆーいまだかなーゆいかなー」

 ぶつぶつと呟いていた夏音だったが、次第に童謡風に抑揚がつけられて歌と化している。

「おい……夏音めっちゃキてるよ……これ、今日は唯地獄だろうなー」

 ぶつぶつと足を踏み鳴らしながら唯を待つ夏音に背筋を何かが駆け抜けた気がした律であった。
 その十分後、遅れて部室にやってきた唯は「っごめんなさい!」と扉を開けた瞬間に土下座をかました。
 美しく無駄のない速攻に誰もがつい許してしまったという。



「いや~朝っぱらの学校って不思議な感じだね~」

「朝っぱらって良い意味で使うっけ?」

 練習が終わり、HRまで時間が余ったので恒例のティータイムを過ごしている。

「でも、なんか分かるなソレ。しんと静まりかえった廊下に射し込む朝の光……」

「おお! 詩人だね澪ちゃん!」

「何でそういうのを歌詞に応用できないんだろうね」

「何か言ったか夏音」

 夏音はジャムを塗りたくったマドレーヌにかぶりついて聞かないフリをした。夏音の心は至極穏やかだった。
 確かに朝から活動するのは気分もさっぱりして非常に爽やかである。練習の最中には少し血圧が上がったが、そのおかげか眠気など微塵の欠片もなく吹っ飛んでしまった。

「そういや、なんか運動部はもう一年生っぽい子が朝練に来てたみたいだなー」

「一年生か~。何人くらい入ってくれるかな~?」

「案外ゼロだったりして……」

「え、そんなのいや! 私、先輩って言われてみたいもの!」

「せ、先輩………」

 夏音はその響きに身悶えた。もし、直接そんな風に呼ばれたらと考えると万感の思いに死んでしまうかもと思った。

「せんせー夏音くんがなんだかエロイこと考えてまーす」

 ふるふる震えている夏音を見咎めた律がからかう。

「えー夏音くんいったい何を考えたの!?」

「いや唯。マジレスされると困る」

 夏音は唯が眩しすぎて直視できなかった。

「夏音くんも男の子なのね~」

「律、お前がこの場を何とかしろよ」

 勝手に誤解を始めたムギに夏音はお手上げとばかりに両手を上げて律を睨む。そんな夏音を律はどこふく風で無視した。

「後輩、かあ」

 そんな戯れに参加せず、澪はふと呟いた。

「後輩ってどんな感じなんだろう」

「あー。澪は中学で部活やってなかったし、初めての後輩かー。つーか私もだけど」

「実のところ俺も後輩ってよくわかんないんだよね」

「きっと可愛いのよ~」

「私、先輩でいいのかな……」

「その前に勧誘活動しないと入る子も入らんけどなー」

「じゃあ昼休み、だね」

「いったん部室に集合しましょう」

 かくして昼休みは訪れる。




「やっぱりインパクトがないよなーこのチラシじゃ」

「だから何度も言うな!」

 部室に集合して配るチラシを確認する。確かに律が心配するようにチラシ自体のインパクトは小さい。しかし、必要なことは書いてある。要は受け取ってもらえるか否かの問題なのだ。

「インパクトがないならつけるまでよ!」

 インパクト云々の議論に一石を投じてきたのは、予想外の人物であった。

「さわちゃん先生!」

 この後、一同は秘策があるというさわ子の言葉を鵜呑みにしたことを後悔することになる。



「おい……これのどこが秘策だよ」

 そのくぐもった声は豚の着ぐるみから発せられた。ただの豚ではない。デフォルメされた着ぐるみのくせに、顔のパーツがどれも微妙なのだ。普通、デフォルメするならば可愛い仕様となるはずなのだが、この着ぐるみは子供の落書きをそのまま着ぐるみにしてしまったような不細工さ加減を呈している。
 同じような着ぐるみがあと四体も並んでいることの不気味さといったら、通り行く新入生達だけではなく全ての人間が自然と避けていくのが見える。

「そんで何で私が豚なんだよ!?」

「だって余ってたんだからしょうがないじゃないか」

「夏音。お前に至っては版権とかって問題ないのか! つーか何で持ってるんだよあの人!?」

 心なしか豚面が憤っているような気がしてくる。夏音に渡された着ぐるみは某球団マスコットにそっくりなのだ。人によっては「バク転してー」と声をかけてくる可能性があるくらい似ている。

「えー可愛いと思うけどなー」

 真っ赤なトサカがついていることから鶏と思しき着ぐるみが言った。言わずもがな中身は唯である。完全にグロテスクな装いをいとも感嘆に可愛いと言ってしまう彼女の感性を律は疑った。

「くそー。何で犬のやつが使えないんだよ」

「破れちゃって縫合待ちだそうだ」

「馬面がよ~く似合ってますことよ秋山さん」

 真面目に答えてあげた澪(in馬)に当たる律。相当気が立っているらしい。

「みんなよく似合ってますニャー」

「ムギ……」

 ベストと思われる猫の着ぐるみはムギである。本人がノリノリなので、とやかく言う者はいなかった。
 各々言いたいことはあったが、喋っている余裕はなかった。他の部より出遅れているだけに、こうした活動が新部員獲得につながっているのだ。不承不承ながら、チラシ配りを開始することにした。

「け、軽音部でーす」

「明日新歓ライブがありまーす。是非来てくださいニャー」

「バンド楽しいよー……って俺のやつって鳴き声どんなの?」

「興味のある人は放課後に音楽準備室に来てください……ブ、ブヒー」

「美味しいお菓子もいっぱいあるよーコケー!」

 こんな具合にぬるりと始まった勧誘活動だったが、どう考えても道行く人に不審者を見詰める目で見られていた。

「ね、ねえ澪ちゃん?」

「な、なにっ!?」

 突然、隣の不気味な鶏に話しかけられて澪の肩が跳ね上がる。自分も相当不気味だということは置いといて、本人達でさえこの有り様だった。

「これって逆効果なんじゃ……」

 言われるまでもなく、誰もが気が付いていた。

「私も思っていた……ずっとね」

 むしろ、始まる前から。

「ちょっとお前ら! 恥ずかしがんなよ声小さいぞ!」

 豚の着ぐるみが澪と唯に怒鳴る。

「このままじゃダメだな。もっとアクティブにいかないとチラシ受け取ってもらえないぞ! ほら、全員散った散ったー!」

 この状態でスタンドプレーに移行しろという律の言葉はだいぶ無茶であるように思えた。羞恥心とかいう段階を越えてやけくそになっているのかもしれない。
 律の指示通り、一同はバラバラに動くことにした。
 


 ★                ★


「楽器弾けるようになりたくないですかコケー!?」

「毎日のティータイムで満たされませんかニャ!?」

「音楽好きな人は是非見学にヒヒンー!」

「明日のライブに来てくださーいド○ラ!」



 少女は友人との昼休みの散策を楽しんでいた。桜高の校舎は珍しい木造建築で、全体のレイアウトは観賞用にしても美しい。特に校務員の仕事が素晴らしく、庭師ではないかというくらい校庭のデザインが凝っている。外でお昼を食べる生徒の姿もちらほらとあり、その中を散歩するだけでも気晴らしになりそうだ。

「………何アレ」

 そんな心穏やかな時間をぶち破ってきたのは、得体の知れない着ぐるみ達の姿だった。どの着ぐるみも可愛いさとはかけ離れており、夢に出てきそうなくらい歪な形成は醜怪きわまりない。

「なんか軽音部って言ってるよ?」

 一緒に歩いていた友人の一言に少女は目を丸くした。

「え? アレが!?」

 この学校の音楽をやる部活動の一つが、アレ。やはり普通のセンスとは違うのだろうか。あのような勧誘の仕方はいわゆるロックなのだろうかと本気で頭を悩ませたところで、少女はぎょっとする。
 着ぐるみの一つと目が合ってしまったのだ。無機質な豚の瞳が自分を真っ直ぐ見詰めている。

(ちょ……何なのアレ。何でこっち見てるの何で見てるの!? あの瞳は何なの何が宿ってるの何考えてるの!?)

 少女はパニックを起こしていた。あの目は尋常ではない。あり得ない垂れ方をした目は何かよからぬことを考えているに違いないと思った。

「い、いこうよ」

 友人の声が少女を少し落ち着かせてくれた。

「う、うん」

 しかし、視線を外すことができない。野生の熊に出くわしたら、一目散に逃げてはいけないとテレビで観たことがある。一度合ってしまった目を逸らすことなく、ゆっくりと後退していかなければならないのだ。
 それと同じで、この瞬間に視線を外して退散しようとしたら何が起こるのか。
 考えるだけで恐ろしかった。

「ちょっと! どうしたの?」

 友人は急かすように少女の腕を取って引っ張った。少女は友人の短慮な行動に舌を打ちそうになった。
 彼女はまるで理解していない。ここで自分が取る行動如何によって、無事に昼休みを終えることができるか懸かっているのだ。
 額から汗が流れ落ちる。

(何てプレッシャー)

 あの無機質な瞳は今も尚こちらを見据えている。逃すつもりはないらしい。蛇に睨まれた蛙の気持ちを少女は味わっていた。

「そんなに気になるならチラシ貰ってくればいいじゃない」

 友人の言葉など、既に耳には入らない。
 動く。そう予感が走った瞬間のことだ。
 豚がこちらに歩みを進めたのだ。

「!?」

 走るわけでもなく、ゆったり歩くわけでもない。小走りのような速度でこちらを目がけて足を進めている。

「うわっ。なんかこっち来るよ?」

「お、落ち着いて! 大丈夫だから私に任せて」

「何を任せればいいの?」

 動揺のあまり口が震えてしまった。少女は自身の足の震えを感じていた。
 今すぐ逃げ出したい。しかし、一生懸命走っても追いつかれてしまったら……。
 豚は着実にこちらに向かっている。
 どうするべきか。
 進むべきか退くべきか。

「あのー。ちょっとごめんねー軽音部なんですけど、もし興味があったら―――」


「きゃあああぁぁあぁああぁぁああぁああぁあぁあぁ!!!」



 それまでの内心の葛藤など全て吹き飛んだ。
 迫り上がる恐怖は一瞬で少女の心を塗りつぶし、少女が取った行動は一目散に逃げることだった。

「ちょっ逃げることないじゃん!」

「どうしたのりっちゃーん!?」

「なんか逃げられた! 追うぞ唯!」

「ガッテーーン!!」

 豚が追いかけてくる。背後のプレッシャーに負けて、ちらりと振り返る。

「って増えてるーーーーっ!!?」

 増援部隊だろうか。これまたグロテスクな鶏が自分を追いかけてくるではないか。あの勇ましさは雄鳥だろうか。何故かどうでもいいことまで思考がまわる。

「カノーーーン!! その子引き留めて!」

 豚が叫ぶ。さらなる増援かとぞっとした瞬間、

「OK!! Come on!!!」

 二足歩行のコアラっぽい何かが少女の正面に両手を広げて待ち構えていた。

「イヤー!」

 少女はふいに目の前に現れた生物を避けることができなかった。勢いのままに両手を突き出して、突っ込む。

「Ouch!!」

 まるで外国人のようなリアクションでそのコアラっぽい何かが転倒する。勢いで少女も転びそうになったが、何とか踏ん張って足を動かした。
必死に逃げる少女は友人を置いてけぼりにしたことも忘れ、何とかそのまま校舎まで逃げ切ることができた。
 ローファーを脱ぎ、上履きを持ったまま昇降口まで走ったところで少女は崩れ落ちた。呼吸は乱れ、ハァハァと荒い息を吐く。
 どうやら豚と鶏、そしてコアラっぽい何かは追ってこない。
 背後から友人の悲鳴が。
「梓のアホーッ」と聞こえた気がしたが、必死だった少女にはどうしようもなかった。

「ごめんね………」

 後でジュースでもオゴろうと決める。
 汗でYシャツがべっとりと肌につく。その不快な感覚に冷静になってきた。

「何で私、あんなに逃げたんだろ」

 それほどまでにあの着ぐるみがインパクトがあったことは間違いないが。

「バカらし……」

 それから遅れて少女を追いかけてきた友人は明らかに怒った様子で手に持っていたチラシを少女の顔に貼り付けた。

「だ、大丈夫だった? 何かされなかった?」

「されるか! ていうか私を置いてくとか意味不明! 着ぐるみはあんなだったけど、普通の人達だったよ」

「ご、ごめん! ちょっと自分でも魔がさしたというか……ごめんね」

「別にいいよもー気にしてないし。明日ライブだってさ。行ってみれば? 高校ではバンドもやってみたいんでしょ?」

「うん」

 友人の言葉に少女は素直に頷く。
少女は―――中野梓は、心に決めていたことがあった。高校に入ったら何か音楽の部活に入りたいと。
ジャズは自分のルーツとなる音楽だからジャズ研も魅力なのだが、もう一つの選択肢との間で揺れている。
 それが軽音部。バンドをやる部活。
 梓は、とりあえず明日のライブを観てみることにした。




★             ★

 息も絶え絶えになった着ぐるみ一行は音楽準備室まで引き上げてきていた。全員が肩で息をしており、着ぐるみの頭部を外した状態で床に座り込んでいる。
 顔から噴き出る滝のような汗のせいで頭に巻いたタオルはびしょびしょ。全員のを絞ったらバケツ一杯になりそうだ。

「つ、つらいばかりであまり受け取ってもらえなかったね」

 そう言って水を一気に飲み干した唯の言葉に一同はそろって頷く。

「着ぐるみで走るとか、まじ地獄だー」

「お前たちが追いかけるから逃げたんだろう」

「あ、でもお友達っぽい子にはチラシ渡せたからよかったね」

 先ほど、澪は律と唯が急に走り出したと思いきや、女の子を追いかける光景を見て絶句した。その光景は変質者と逃げる少女、にしか見えなかったのだ。
 絶叫しながら逃げる女の子の先にはとどめとばかりに一級不審人物にしか見えない夏音が待ち構えていたものだから、夏音がその子に突き飛ばされて腰を打ったとしてもそれは自業自得でしかない。

「いてて……」

 今も腰をさすっている夏音は汗まみれでもその美しさが壊れるようなことはなかった。この男に不様という言葉が似合う日は来ないのだろうかと澪はついでに悔しい気持ちになった。

「でもバイトみたいで楽しかったー」

 唯一、涼しげな顔で佇んでいるムギが事も無げに言い放った。汗一つかいていないあたり、他の者にとって彼女の人間としてのスペックの底はますます知られざるものとなった。

「ムギちゃんバイト好きだねー」

「えへへ」

 昼休みも残りあとわずかとなったので、急いで制服に着替える。

「これはもう二度と使わないな」

 陰干し状態の着ぐるみを眺めて律が言った言葉を否定する者はいなかった。

「とにかく気持ちを切り替えて明日のライブで取り戻すしかない!」

「律……!」

「いい事いうじゃないか!」

 夏音と澪は部長による部長らしいその言葉にうっかり感動してしまった。

「あのー……こんな服も作ってみたんだけどー」

 そろりと現れた顧問に誰もが(ムギを除く)ブチギレ寸前で何とか拳を収めたという。



「一年生くるかなー」

「インパクトはあったけど……ねえ」

 放課後になって部室に集まった一同は、部活見学に訪れるかもしれない新入生を待っていた。歓迎の意を示そうとホワイトボードには「ようこそ軽音部へ!」から始まる多彩な落書きがいつもの三割増しほどで埋め尽くしている。

「それよか……ベースアンプの調子が悪いんだよね」

「ウソっ!? ギターに続いてまた!?」

 ソファに寝そべっていた律が跳ね起きた。
 先日、アンプのヒューズが飛んだばかりだ。そちらはすぐに直ったが、ベースアンプはギターアンプに比べて滅多に壊れることはない分、不足の事態への用意が疎かになったりする。

「どうにかなりそうか?」

「んー。見てみないとわかんないや。時間も無いしぱっぱと見ようかね」

 夏音は準備室と音楽室をつなぐ部屋に道具を取りに行った。

「マジかよー。明日本番なのにトラブル続きだな」

 律の顔に不安が現れる。

「大丈夫だよりっちゃん。もし直らなかったら小さいアンプでやればいいんだし」

「ま、それもそっか」

 それ以上考えるのをやめにしたらしい。再び寝そべる律に、のんびり紅茶をすすり始める唯。


「ってダラダラしすぎだー!!」


 急に立ち上がった澪が一喝を入れた。ずっと黙ったまま紅茶を飲んでいたのに唐突に大声を上げた澪にビクっとなった唯が激しく咽せる。

「いつ一年生が来てもおかしくないんだからもっとしゃんとしなさい!」

「えー来たらするよ」

 律が面倒くさそうに返す。

「第一印象が最悪だったら入ってくれないかもしれないぞ」

 腰が重たい幼なじみにさらに興奮した澪が何か言い募ろうとした時、部室の扉がバンと音を立てて開かれた。

「澪ちゃんの言う通りよ!」

 いつもこんなタイミングで現れる我らが顧問だった。

「びっっっくりしたー。一年生かと思ったじゃんまぎらわしい!」

 寝そべっていた律も流石に一年生が来たらそんな姿ではいられないと思ったのだろうか。扉が開いた瞬間、さっとソファに座り直していた。

「さっきは私の計算ミスだったと認めるわ。私の目から見ても粒ぞろいの精鋭が揃ってるというのに顔を隠すなんて……今回はあなた達の容姿を活かしていこうと思うの」

 真剣な表情で部室の中央に歩み出たさわ子は持ってきた紙袋からある物を取り出した。

「じゃーん! これで完璧よ!」

 自信満々に出されたのはメイド服。それも生半可な作りではなく、細部にわたってデティールが凝っている。この顧問はしょっちゅうお手製の服を軽音部のメンバーに着せたがるという特殊な趣向の持ち主だった。
 おそらく自信作を彼女達に着せる機会を虎視眈々と狙っていたのだろう。

「うわ~! かわい~!」

 唯が吸い寄せられるようにメイド服を手に取る。

「確かに凝ってるけど……」

「これ先生が手作りしたんですか?」

「まあねー。久々の大作で腕がなったわ」

「すごーい」

 尊敬の眼差しを向けるムギと唯の反応にさわ子は身をよじって喜んだ。

「ああさわ子……褒められて伸びる子」

 自分で言っていれば世話はない、と律は思った。喜ぶ二人とは裏腹に律は自分がこういう女の子らしい格好が似合うと思っていなかった。
 去年の学校祭の時もそうだったが、場の流れ的に仕方なかった時はあっても、彼女にとって自ら進んで着たいと思うようなものではないのだ。

「そ、そ、そんなの無理だよ!」

 しかし、自分以上に拒否するだろう存在がいたことを思い出した。律は獲物を狙う目つきになったさわ子を止めようか迷ったが、放置しておくのが一番面白いだろうとあえて静観の姿勢を取ることにした。

「ふふふふ~澪ちゃん。何を隠そう、これはあなたの為の衣装だと言っても過言ではないのよ! メイド服が似合う女の子はいねがー!?」

 軽く理性が飛んでいるのだろう。さわ子は顧問という立場もぶっ飛ばして、自分の欲望を叶えようと澪に襲いかかった。

「イヤーーーーーーッ!!」

 軽音部ではよく聞く澪の悲鳴であるが、今回ばかりは一段と凄まじい。一連の流れの中、ベースアンプのチェックに勤しんでいた夏音はここで初めて顔を上げた。
 そして、メイド服を抱えて喜ぶ唯とムギ。メイド服片手に澪に襲いかかるさわ子の姿を確認して迷惑そうな顔をした。

「また何やってんだか」

 自分は絶対に着ない、と心に誓って作業を進める。

「これも相当長く使ってるからなー……っと。もしかして~………コーンがまずいことになってるのかも」

 問題となっているキャビネットは一発大口径十八インチの物だ。リコーンするとなれば、道具が足りない。
 まだ何とも言えないが、リコーンする必要が出てきたならば、どのみち今日中にどうにかなる問題ではない。今日は下校するまでいつ新入生が訪ねてくるか分からないので、ずっと部室にいる必要があるのだ。
 幸い、出力は小さいもののベースアンプの代わりはある。

「夏音くん。これ可愛くない!?」

 作業中の夏音に唯が遠慮もなく話しかけた。顔を上げた夏音の目の前にメイド服を自分の身体に合わせて立つ唯の姿があった。

「そうだね。いいと思うよ」

 忙しい夏音は非常に素っ気ない。

「一年生が来たらこれでおもてなそうかねー。ふふふー」

 夏音は常に前向きな唯の性格は嫌いじゃない。ただ、人の邪魔さえしなければ。

「そうだね。おもてなしにはメイド服がぴったり。あの子もこの子もメイドさんにやられてハッピーだろうさ」

「じゃあ私、着替えてくるね!」

 そう言って唯はムギと律を引き連れて物置と化した連絡通路に去っていった。



「じゃーん!」

 と言って再び夏音の前に現れた三人を見て、夏音は思わず手元のドライバーを落としてしまった。

「Holy shit……」

 夏音にとって予想外だったのは、今まで自分がメイド属性では全く無いなどと思いこんでいたこと。そして、自分と一緒に部活をやる少女達が実は器量に恵まれていることに気付かされたことだ。

「素晴らしい!」

 つい口に出てしまうほど、やられてしまったのだ。

「メイドってこんなに良いものだったんだなあ。ああさらば今までのバカな俺。欺瞞に満ちた俺は今日でおさらば」

「何言ってんだお前?」

 しかも難しい言葉知ってんなー、と若干ヒキ気味の律が怪訝そうに夏音を見る。しっかりポーズを取っていた程度にはノリノリだったみたいだが。

「で、澪はどこだ?」

「今頃どこかで死闘を演じてるんじゃない?」

 着替えにいったのは律と唯とムギの三人だけで、肝心の澪はさわ子と揉み合う内に部室の外へ出て行ってしまったようだ。

「よーしこれで新入部員獲得に一歩近づいたぞー!」

「おーっ!」

「おぉー」

 夏音は何気なくその様子を見ていて何か違和感を覚えた。

「あ、ツッコミ役がいない」

 いつもボケが飽和してしまう寸前の軽音部であった。



★                   ★


「すみませーん」

 しばらくしてから、部室の扉から顔を覗かせた者がいた。あまりに誰も来ないのでだらだらムードになりかけていた部室に緊張が走った。

「あ、憂ちゃん!」

 顔見知りだったことから肩の力を抜いた律が、嬉しそうに身体を起こす。憂は律をはじめ、軽音部の皆に可愛がられている。
 このデキル妹の鑑のような存在なくして唯が軽音部にかけただろう迷惑は想像するのも恐ろしい。

「いらっしゃいませ~」

 律に続いて気が抜けたような声で出迎えたのは実妹の訪問に大喜びの唯だ。

「お、お姉ちゃん!?」

 そして妹はメイド姿でばっちりめかし込んで目の前に現れた姉にぎょっとして肩を跳ね上がらせた。

「律さんも紬さんまで!?」

 軽音部の見学にやって来たのにメイド服姿の人間がいるとは予想だにしていなかっただろう。普通の人間だったら目を疑って、そのままUターンをきめてもおかしくないくらいの有り様だ。

「さー入って入って! 歓迎するよーん!」

 戸惑いを隠せない憂に満面の笑顔で応対する律。ムギはすぐにお茶の準備に取りかかっていた。

「ほらこっち~」

 唯は妹の手を引っ張って中へ招こうとしたが、そこで後ろに誰かが控えているのに気が付いた。

「あれま。憂の友達も来てくれたんだね!」

「は、はあどうも……」

 未だに目を白黒させているのは憂の友人らしい。扉を開けただけで異次元に迷い込んでしまった人のように困惑した様子だ。頭がついていっていないようだが、唯はお構いなしに二人もろとも強引に中へ引っ張っていく。
 二人を椅子に座らせると、唯はムギがお茶の準備が終えるまで少し時間がかかるということでニコニコと二人に話しかけた。

「いやー。クリスマス以来さわちゃん先生みんなに服着せるの癖になっちゃったみたいでさー」

「そ、そうなんだあ」

 クリスマスと聞いて即座に頭をよぎった光景に「あの先生なら、まあやりかねない」と憂は納得していた。そして、隣にいる友人がもじもじと落ち着かない様子でいることに気付いた。

「あ、えっと。私のお姉ちゃんで、唯です」

 とりあえず自分との関係も分からない状態では話が進まないだろうと考えた憂。友人が見学したいというのを聞いて付き添いで来ていただけなので、友人に積極的に関わってもらおうと思った。

「平沢唯です!」

「あ、これが話に出る憂のお姉ちゃんなんだ!」

「お姉ちゃん。こちら、私の友達の純ちゃんだよ」

「鈴木純です」

 憂に言われて頭を下げる純を見て、唯はつい顔をほころばせた。

「純ちゃんかあ。可愛いなぁ……」

「は?」

「いや、あのね……あ、ちょっと待ってて。いまお茶持ってくるから」

 唯はちらりとムギの方へ視線を向けてお茶の準備が整ったのを確認した。

「これ持ってけばいいんだよね」

「暑いから気をつけてね」

 二人分のティーカップの中にはなみなみ赤琥珀色の液体が注がれている。

「うぉあっち!」

 少し傾けただけで跳ねた紅茶が指にかかり、思わず悲鳴を上げた。

「大丈夫?」

 いつものことなので軽く心配の声をかけただけのムギだったが、家では姉に給仕というものを一切させたことがない憂は一瞬で顔を青くした。

「お、お姉ちゃん!?」

 憂はまるで我が子の初めてのお手伝いを見守るような心境で姉が危なっかしくトレーを運ぶのを見守った。
 聞いているだけで不安になる茶器のこすれる音。ガタガタと響く音がだんだんと大きくなっているような気がして、終いにはどうなるかが想像できてしまう。

「お、おお……」

 同じくして隣の純も固唾を飲んでいた。

「あ、あ、ああ……っ!」

 憂の我慢の限界が超えた。


「もーお姉ちゃんは座ってて。あとは私がやるから」


 本能の妹スキルが発動してしまったようだ。何故か憂が座っていた場所に座らされた唯は今の立場が自分でもよく分かってないのか「そ、そお?」と困惑気味だった。にへらと笑う唯にくすりと微笑む憂。
 これで姉の面目がどうやって保たれているのか、軽音部の中でも平沢姉妹に関する最大の謎だった。

「ゆ、唯オマエ……」

 それら一連の流れを眺めていた律は呆れ果てた。まさか、ここまで唯が使えないとは思ってもいなかったのである。
 夏音は先ほどからアンプのチェックに余念がないし、澪は消息不明である。このまま唯に任せていたのでは、見学が成り立つはずがないと悟った律はゆっくりと腰を上げた。

「あ、律さん。純ちゃん、この人は律さんっていうの」

 憂の紹介にあずかった律は、緊張した表情で自分を見詰める新入生を見下ろした。

「どうもー。部長の田井中律です!」

 部長、を強調しつつ反応を待つ。律の予想通り、部長という言葉に大きく反応を示した純に律は大変気をよくした。
 部長という肩書きのすばらしさを再確認していると、部室の扉をすごい勢いで開けて入ってきた者がいた。
 今日は勢いよく扉を開けるのが流行っているな、などと暢気なことを頭に浮かべた律は訪問者の顔を見て若干顔を引き攣らせた。

「ちょっと律!」

「げ、のどか……」

 大股で近づいてくる和の勢いに律は嫌な予感を覚えた。こんな顔をしている彼女は確実に生徒会役員の仕事で来ているのだ。そもそも、生徒会の用事でもないと部室に来ることもないが。

「講堂の仕様申請書また出してないでしょ!? 明日ライブできなくなっちゃうわよ?」

「そ、そうだったー!」

「まったく……何度言えばわかるの? 何故か先生達に文句言われるのは私達なんだからね。特に七海くんなんて―――」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 ごめんなさいラッシュは恥も外聞もかなぐり捨てるべし。少し前まで後輩の前で格好つけていた律の姿は微塵も残っていなかった。
 一方、突然のことで訳が分からないと顔に書いてある純を見かねて憂は新たに紹介すべき人物に注目を促す。

「この人が琴吹紬さん。綺麗でしょー」

「はじめましてー。騒がしくてごめんねー?」

 やっとまともな人が現れたかとほっと安堵の息をついた純だった。

「優しそうな人だね」

 つい嬉しくなって隣にいる憂に耳打ちする。和と律がぎゃーぎゃーと揉める姿を見て何やら顔を赤らめている気がするが、気にしない。

「そしてあちらにいるのが立花夏音さん!」

 部室に二人が訪れても一切言葉を発することのなかった夏音に注目する純。

「あ、あの夏音さーん?」

 紹介されたというのにアンプの前に座り込んで作業に没頭していた夏音はようやく自分が呼ばれていることに気が付いた。
 立ち上がり、振り返った夏音を見た純は思わず息を呑んだ。

「う、うあうあ……」

 その口からは言葉になっていない呻きが漏れてしまっている。
 初めて夏音を前にする人はこのような反応をすることがある。西洋人にしか見えないだけでなく、滅多にお目にかかれないような超一級の美貌に尻込みしてしまうのだ。
 そして、その実態を知るにつれて免疫ができ、耐性が強くなっていくのが一般的な流れである。

「あ、ごめんね。作業に集中しちゃってて」

「に、日本語しゃべった!?」

 おまけにどう見ても日本人には見えないという特徴から、「ただ日本語を喋る」だけで驚かれてしまうことがある。

「じゅ、純ちゃん失礼だよー」

 憂は夏音がそういった反応を取られることを好ましく思わないだろうと友人をたしなめた。

「はは! 別にいいよ慣れてるし。軽音部へようこそ二人とも。ここに来たってことは音楽に興味があるんだよね?」

「あ、はいっ! 高校では音楽の部をやろっかなーって思ってまして」

「そうか! じゃ、今すぐ入ろうか!」

「えぇーっ!?」

 平然とした顔で必要なプロセスをいきなり数段階吹っ飛ばされた夏音に驚愕する純だった。

「夏音くん。それは早いんじゃないかしら」

 ムギが注意するように夏音に言った。すぐに出された助け船にほっと胸を撫で下ろす純。

「まずこの子に似合うあだ名をつけましょう?」

「そうか。まずは親しみをこめて呼び合うべきだよね」

「そ、それも違うと……」

 敵艦隊が増えただけだった。憂は皆まで言うことができなかった純を不憫に思った。何しろ個性的な人達だとは知っていたものの、こうして複数人を固まって相手するとなると対処しがたいものがある。
 ムギと夏音。二人とも片親が外国人のダブル。ムギは日本人寄りの顔立ちをしているが、それでも目鼻立ちはくっきりとしている。おまけに二人とも趣が違うものの、透き通った青い瞳なのだ。
 こうして二人並んで立った時の迫力は侮れない。

「あれ、澪はどこ行ったの?」

 ムギとの不可解な会話を中断して部屋を見渡した夏音が疑問を口にした。

「あー澪なら拉致られたままだな。それにしても遅いな」

 いつの間にか和の叱責をなんとか逃れた律が腕を組んで言った。少し息が荒く、髪が乱れている。

「あ、あのー。それはあちらの方でしょうか……?」

「ん?」

 純がためらいがちに指し示した方には部室の扉から半分だけ顔を覗かせた澪がいた。警戒を露わにこちらを窺う様子は臆病な野生動物にしか見えない。

「最後にあの人が秋山澪さん。とっても恥ずかしがり屋なの」

 彼女も例に漏れず、メイド服に身を包んでいるのが分かる。注目を浴びてなお出てこない理由を説明された純はぽかんと澪を見詰める。

「どうしたんだよ澪。そんなとこにいないで早く入ってこいよ?」

 律に促されるも、澪はぶんぶんと首を振った。

「いや。絶対に笑うもん」

「笑わないって」

「だってそこにいる奴がにやついてる」

「くぉら夏音!」

 口許を緩めていた夏音に責めるような眼差しを向ける律。夏音は「おっと」とおどけたように口許を覆った。

「笑いませんよ。似合ってますし!」

 すかさずフォローを入れた憂の言葉に澪の表情が少し明るくなる。

「ほ、ほんと……?」

 他意のない純粋な言葉におそるおそる部室へ足を踏み入れる澪。気恥ずかしそうにはにかむ美少女メイドの姿に純と憂は思わず「可愛いっ!」と叫んだ。

「やっぱり一番似合ってるよねー澪ちゃん」

 唯がどこか羨ましげに呟く。

「だろー? 私は常々思ってたんだよ。メイド服は澪のために生まれてきたってね。そう思うだろう二人とも」

 何故か誇らしげに言う律に憂と純は曖昧な笑みで応えた。

「そういえばさわ子先生は?」

「私をこんなにして満足したら職員室に帰っていった」

 さわ子の名前を出しただけで青ざめる澪。相当、ひどい目に遭ったのだろう。

「さ、て、と! 全員揃ったことだし二人のために演奏しようぜ!」

 和は生徒会で忙しいらしく、早々に部室を立ち去った。明日のライブ場所が確保できたところで、お茶にしようというわけにはいかなかった。
 せっかく軽音部の見学に来たのに演奏が聴けないのでは見学の意味がない。律の言葉に皆頷くと、それぞれが自分の楽器を取り出す。

「うわーかっこいいかも!」

 部室に来て初めて軽音部らしいところを目撃した純が期待に瞳を輝かせる。

「澪、今日のところはこっちのアンプ使ってよ」

 夏音はスピーカーを取り外した状態のアンプを示してから、もう一つのアンプをぽんと叩いた。普段使っているものより小型だが、この部屋の広さを考えれば十分使えるものだ。

「みんなも今日はボリューム抑えめでね」

 出力に差が出る以上、ベースが出せる音量も限界がある。ドラムは仕方ないが、簡単に音量を調節できるギターとキーボードの二人にその辺りのことを気にかけるよう要求した。
 それから夏音も自身のストラトを取り出して機材を迅速にセッティングし始めた。

「んー。澪ちゃんこれストラップが肩に……」

「うん……私も」

 メイド服を着込んだ弦楽器の二人は肩の装飾が邪魔なようだ。

「裾がジャマー」

 律も長い裾がペダルを踏むのに差し障って苛立たしげに呟く。あまりに煩わしいのか、皆口々に文句を言い始めた。キーボードのムギは特に影響もないようで、その輪の中に入れないことにしゅんとした様子である。
 一人だけ普段の制服姿の夏音はぱっぱと用意を終えて音出そうとする。他の者が誰一人としてセッティングが捗っていないのを見て、核心をつく一言を繰り出した。

「邪魔なら脱げば?」



「やっぱりジャージのが動きやすいなー」

 晴れやかな表情でバスドラを踏む律。結局、全員がジャージに着替えてしまい途轍もなくダサくなった。

「つーか何で夏音まで着替えてんだよ?」

 ちゃっかりジャージに着替えていた夏音は弱々しく言い返した。

「だって一人だけ格好が違ったら仲間外れみたいだから」

「さっきまで一人だけ制服だったじゃん」

「それとこれとは別」

 男心もなかなか難しいものである。

 今回はマイクのセッティングはしない。「歌は明日のお楽しみってことでここは一つ」と唯が歌うことを拒否したのだ。妹の前だからかもしれないが、往生際が悪い。
 他の人間がその案を受け入れたのは、明日のライブで同じ曲を演奏するので唯の言うことも一理あったからである。
 全員が視線を上げると、演奏する前の空気になる。少しだけ張り詰めた雰囲気に見学の二人はごくりと息を呑んだ。

「それでは一曲………スクールデイズ」

 律が構え、カウント。狙い澄ましたベースのグリッサンドが一足先に前に飛び出た。全ての音が絡み合って速度を増していく迫力に互いの血管が暴れ出そうとする。
 しかし、二番に入ってサビが始まる前に事件が起こった。
 不安そうな顔の唯が救いを求めるように周りを見渡したかと思えば、見事なまでにコードを間違えたのだ。
 その瞬間、律の表情が驚きに満ちて、そのまま混乱してしまったのだ。唯が進行を間違えたことで律はそれにつられてしまった。

「こ、この曲歌がないとわかんなくなるよ~」

 唯の悲鳴が加わった演奏はさらなる混乱に陥っていった。
 軌道修正しようと澪が律と顔を合わせると、律はベースの音に集中した。その一刹那、目前に迫ったブレイクの存在が頭から消えた律。
 計算された空白に入り乱れる不協和音。個々の音がバラバラに響いた時の不様さと言ったら、ない。
 既に演奏は崩壊寸前だった。
 夏音がリードのフレーズを諦め、音量を上げたままヴォーカルのメロディラインに切り替えたことで元に戻ったのはいいが、まともな演奏に戻ったのは曲が終わる寸前だった。

「×××××××××××××××!!!!!!!!」

 曲が終わった瞬間、夏音がブチギレた。表記できないような言葉(英語)で怒声を上げる夏音にこの世の終わりみたいな表情の一同。
 普段ならこのまま夏音の叱責が飛び続けるところだが、ふとしたタイミングで冷静さを取り戻した夏音はハッとした表情で固まった。
 そして、おそるおそる後ろを振り返る。
 どん引きした表情と怯えた表情が入り交じったままの二人の見学者の姿があった。

「や、やっちまったー」

 この状況の半分ほどは確実に自分のせいであると自覚した夏音は力無い声で呟いた。



 その後、気まずい空気が流れる中で「か、かっこよかったです!」と声をかけてくれた二人はできた人間であった。

「こ、これはまだ本気じゃなくて……私達の3%くらいの実力なのだよ!」

 と苦し紛れを放った唯だったが、どう考えても負け惜しみにしか聞こえなかった。
 何に負けたのかよく分からないまま惨敗した気分で肩を落とした一同は力無く見学の二人を見送った。
 そして現在、唯、律、夏音の三人は地べたに崩れ落ちていた。中でも床に土下寝の体勢で突っ伏していた唯が「うぅ~」とうなり声をあげた。

「格好もださければ演奏もぼろぼろ……もう生きていけないよ~」

「生きろー」

 演奏を崩した原因である唯が泣きっ面で嘆く言葉にとりあえずテンプレートの返しをした律も相当落ち込んでいた。
 彼女はドラマーとして、バッキングの人間がミスした程度で慌てふためいたことが悔しくてたまらないのだ。

「歌が無いとダメって唯……お前が歌う曲なのにそれでどうするんだよ」

「うぅ、ごめんなせー……面目ねえ」

 澪の辛辣な言葉に床にもう一度突っ伏す唯。ごつんと額が床に当たる音が虚しく響いた。

「絶対怖がられた……ああ、怖い先輩ってイメージが着いちゃったらどうしよう」

 演奏面で失敗はなかった夏音だったが、こちらはこちらで落ち込んでいた。あの時、純と憂の怯えた表情が忘れられないのだ。

「もーいやー。全ていやー。もーずっと俺達だけでよくない?」

「どれだけ投げやりになってるんだよ! お前がしっかりしないでどうするんだ!」

 基本的に失敗のなかった澪は先ほどから意気消沈している三人を叱咤していた。澪がこのような役回りになることは少ない。普段は誰よりも落ち込みやすい性格なので、まるで立場が逆転していた。

「練習の時はちゃんとできていたんだからきっと大丈夫よ」

 気遣うように声をかけるムギ。彼女は皆のためにお茶を淹れ直して机の上にティーカップを並べた。

「とりあえずお茶しよ?」

 その一言が魔法をかけたかのようにムクリと身を起こした三人はすたすたと座席に座った。

「ま、なんとかなるっしょ! かんぱーい!!」

「今日のうちらドンマーイ!」

「明日がんばろー」

 各々、表情が一転して明るいものに。

「切り替え早っ!」

 置いてけぼりをくらった澪は「まったく……」と少しふてくされながら同じく席に着いた。

 明日は本番である。今日の分の失敗は明日取り返せばいい。

 軽音部はこの一年の間でずいぶんとポジティブさが増していた。








[26404] 第三話『新歓ライブ!』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/12/09 20:51

 そっと朝陽が射し込む室内には幾つもの音と匂いが溢れている。テレビから流れるニュースキャスターの威勢の良い声。コーヒーの匂い。食器が擦れ合ってカチャカチャと立てる音。パタパタと誰かの足音。新聞をめくる音。話し声。

(父さんたち帰ってきたのかな)

 夏音はそっと瞼を開いた。白くぼやけた視界には、空気中に舞う埃が窓から射し込む光に透かされている様子が映り込んだ。
 頭が半分しか起動していない状態でそれらをぼんやりと眺めていた夏音は、手元にあった枕をぎゅっと引き寄せて顔を埋めた。
 眠すぎて起きる気にもなれない。自分が何でこんな場所にいるのか分からないが、昨夜はリビングで寝てしまったのかもしれない。全てがどうでもよく、妥協してそう結論づけた。
 そうは言っても、色々とおかしな点があった。
 いや、ありすぎた。
 一瞬、意識が覚醒しかけた夏音の五感が得た情報はのんびりと集合して一カ所に集まろうとする。眠たがりの主人の脳みそ目がけて、それは衝撃を伴って、断片的な情報が集合する。

「ってええーーーーーーっ!? Where am I!!?」

 絶叫。
 文字通りがばっと飛び起きた夏音は一体ここはどこかと慌てた。自分の周りを見渡すと、そこには夏音の知らない人が二人。
 唐突に叫び声をあげた夏音を笑顔で見詰めてくる女性。その柔和な顔つきはどこかで見たような気がするのだ。おや、と夏音が首を傾げると向こうも同じ角度に首を傾けた。
するとスタートに遅れた記憶がやっと追いついてきた。
 昨日は放課後いっぱいまで練習して皆で一緒に帰った。いつもの場所で唯とムギは別の方向へ帰るのでそこで別れるはずだったのだが、その日の帰りにスーパーで買い物をする予定だった夏音はそちらの道を選ぶことにしたのだ。近所のスーパーより、そちらの方が安い。日本に来て、より安く物を買うことの心地よさを覚えた夏音は、日本語の復習ために買って以来ずっと購読している新聞に挟まってくるチラシのチェックにも余念がない。
 そこまでは、いい。
ムギと駅で別れてから唯と二人でのろのろと歩いて、スーパーの前で別れようとした時に唯が「私も行く~」と言ってついてきた。特売品を得てほくほく顔でスーパーから出て、今度こそお別れと思った時である。

「あの! ヴォーカルの特訓に少しばかし付き合ってくれやしませんか!」

 と頭を下げてきたのだ、あの唯が。「あ、これお礼ね」と言って買ったばかりの飴を手渡してきたのをつい受け取ってしまった夏音には断る理由がなかった。
 かくして夏音は平沢家の敷居をまたぐことになった。
 そこまで思い出したとこで夏音はゆっくりと見知らぬ大人の顔を眺める。
 特に女性の方。誰かに似ていると思えば、平沢姉妹にそっくりではないか。

「あら起きたの? おはようー」

 笑顔で夏音を見詰めてくる女性は自分がここにいることを特に気にした様子はない。それどころか親しげな笑顔を向けてくるので、かえって冷静になった夏音はひとまず頭を下げた。

「おはようございます」
「ふふ、寝癖すごいわよ。あなたもご飯食べてくでしょ?」
「はい?」
「ごめんね。外国の子が普段どんなもの食べるかわかんなくってこんなのしかないけど」

 そう言ったテーブルの上に並べられたのはご飯と味噌汁、焼き魚に漬け物と豪勢である。

「すごいなー。朝からこんなに食べることってないかも」

 起きたばかりの夏音は大抵意識が朦朧としているので、まともに朝食を口にすることは滅多にない。
 いらっしゃいな、と言う女性に招かれて言われるままにテーブルに座る夏音。そこで隣に新聞を広げた男性に意識を向けた。
 コーヒーを食パンといったシンプルな朝食を前に熱心に記事を読んでいるこの男性はおそらく――。

「ん、ああ君は……。グッモーニン」

 夏音に気付いた彼は朗らかな笑みを浮かべて朝の挨拶をしてきた。何故か英語で。

「あ、はい。おはようございます」
「よく眠れたかい?」
「起きた時に前後不覚に陥るくらいには」
「はははっ。そうかそうか。あ、冷める前に食べちゃいなさい」

 ほくほくと湯気が立つご飯を前に、夏音は腹をくくった。

「いただきます」

 両手を合わせて言ってから丁寧に魚の骨を取る。すると女性が「行儀いいのねー」と感心したように頷いた。日本のどこでこれをやっても多くの日本人は同じような反応をする。
 和食大好きな夏音にとっては箸を使うことも朝飯前だ。

「ところで……」
「はい?」
「あなた、どちら様?」





「説明くらいしておいてよ」
「あはは! ごめんごめん~すっかり忘れてたよ~」

 にへらと悪びれもせずに笑う唯に夏音は苦笑すると共にため息をついた。
現在、夏音は平沢家からの登校という世にも珍しい体験をしている。しかし、謎に包まれていた唯の両親との対面自体がレアであり、ドタバタしていたが今日は良いことがあるのかもしれない。

「ていうかまったく意識失った記憶がないなあ」
「練習終わってご飯食べて、また練習した後に憂と三人でテレビ観てたら、いつの間にか夏音くん寝ちゃったんだよ」
「起こしてくれればよかったのに」
「すっごく気持ちよさそうに寝てたからなんか悪くて」

 起きた時、枕と毛布がかけられていた。実際に泊まるとなったとしても、女の子の部屋に泊まるわけにはいかなかったので、夏音にとってはリビングがちょうどよかった。

「あー。そういえば俺、唯のお父さんとお母さんに会っちゃったんだ!」

 仲間内ではおしどり夫婦として未だにラブラブ夫婦だと噂の唯の両親だ。いたって普通の方々だったが、この子にしてこの親あり、といった感じで確実に家族共通の独特の雰囲気を持っていた。
 特に唯の母親は天然そのもので、それは平沢家の長女に濃く遺伝したに違いない。

「みんなに自慢しよーっと」
「ええー? 自慢することなんてないのに」

 唯の両親は共働きで家を空けることが多いそうだ。だから自然と憂が家事をやることになっており、家庭が成り立っているようなものだ。
 家を空ける両親という点で夏音は自分と同じ境遇だと思ったが、何故だかシンパシーは全く感じられなかった。
 そして、自分の後ろで仲良く歩く唯と憂の姿を見て何となくその理由を知った。



「すっごい人だねー」
「人でいっぱい……」
「そりゃあ新入生歓迎会だからなー」

 口だけでなく手も動かしながら機材のセッティングに勤しむ一同。自分のセッティングが終わったムギがドラムセットの組み立てを手伝いながら緊張する澪に微笑む。

「いつも通りやればいいだけ」
「で、で、で、で、で、も」
「ナイススクラッチ」

 どもる澪に夏音がぼそりと呟いた。夏音は軽音部のライブでは初めて上手でギターを弾くことになる。それとは逆に今まで上手にいた唯はステージの中央に立っていた。
 ヴォーカルマイクの前で呆けたように突っ立っている唯。下手に立つ澪はマイクの高さを何度も調整して、そわそわと落ち着かなかない。

「そういえばさっき百円拾ったんだよーいいでしょ!」

 再び口を開いたかと思えば、唯は緊張のきの字も見当たらなかった。

「初めてのヴォーカルだってのに変わらないなー」

 呆れたように律が笑う。これはこれで頼もしいので、自然と一緒にいる自分の肩の力も抜けてしまう。
 律はフロアタムの上に置いたセットリストを記した紙を再度確認した。

「ふわふわタイム。クマさんMC挟んでのスクールデイズ。カレーのちライス……一貫性のないタイトルだなー」
「澪のセンスが際立ってるね」

 こそこそとからかわれていることにも気付かないで澪はそわそわしている。部員の中で緊張した様子なのは彼女だけだ。

「おーい澪。そんなに緊張すんなよ」
「す、するものはしちゃうんだもん!」
「爆メロん時と比べたらどうってことないだろー」

 あの人という人で埋め尽くされた客席から放たれる視線の嵐。あれを一度経験してしまえば大抵の人間は耐性がついてしまうだろう。

「うおー。なんだか私わくわくしてきたよ!」
「おらもわくわくすっぞ!」
「あ、それ知ってる~!」

 律の声真似にきゃっきゃと笑うムギ。昨日の練習で土壇場のアレンジを加えたいと提案するくらいムギには余裕が見られた。
 夏音は春休みが終わってからムギが「秘密兵器があるのー」と嬉しそうに零していたのをふと思い出した。何か新しく機材でも買ったのかと予測していたのだが、これといっていつもと変わらぬ機材のままだ。
 アレンジの幅が広がったのは確かだが、何のことを示していたのだろうかと気になったので後で聞こうと心に決めた。

「あなた達、準備はいい?」

 舞台袖から現れたさわ子が腕を組んで偉そうに一同に声をかけた。

「さわちゃん先生」

 つい先ほどまで衣装がどうのこうのと軽音部と揉めていたさわ子は、最終的に制服でライブするという皆の主張に不満顔だったのだが。

「さっきは色々とあったけど、みんなには一つ言っておくわね」

 真剣な口調に思わず耳を傾ける五人。

「制服も意外とイイ!!!!」

 イイ、イイ、イー、イー……とリバーブがかかる。講堂内は音が響きやすいので、おそらく幕の向こうの新入生達の間にも響き渡ったことだろう。一瞬静まりかえった後、ざわめきが一段と強くなった。

「早く舞台袖にスッ込んでてください」

 そう笑顔で言った律は額に青筋が浮いていた。


『次は軽音楽部によるクラブ紹介と演奏です』


 放送部によるアナウンスが終わる。

「あ、出番だ」

 そそくさとドラムの前に座った律。ガッツポーズを決めて気合い十分のムギ。がたがた震える澪は平常運転である。

「みんなー」

 幕が上がる寸前、夏音は声を潜めつつ言った。

「楽しもう!」

 その言葉で笑顔になった彼女達は無言で頷いた。




 ★                  ★


「え、もう決めちゃったの!」
「ごめんね。ジャズ研にすっごい格好良い先輩がいてさ」

 教室の前方で交わされたそんな会話は自然と梓の耳に入ってきた。特に気になる単語が出てきたので、そのまま教科書を鞄に仕舞う作業を止めてしまう。
 どうやら同じクラスの鈴木純はジャズ研に入部することを決めたらしい。梓としてはジャズ研の中にそこまで惹かれるような人はいなかった。
 それに言葉は悪いが、吹奏楽の延長上みたいな人ばかりで、梓が慣れ親しんできたジャズとはニュアンスが違う。あの部活だったら、ジャズに関してはおそらく自分の方が造詣が深い気がする。少なくともカッティングの名手は、と聞かれて十人以上ぱっと出てくるような人はいなさそうだった。
 残る選択肢は一つしかなかった。昨日、ジャズ研のミニ演奏つき説明会を終えて拍子抜けしていた梓は軽音部の部室へと自然に足を運んでいた。明日のライブを見てからにしようと思っていた場所だが、もやもやとした心がそこに行くのだと呟いたのだ。
 音楽準備室を部室がわりに使っているという軽音部。梓がその部室の前にいくと、中から楽器演奏の音が聞こえてきた。
 個々の技術は悪くないように思えたが、演奏がばらばら。はめ込み窓から部室を覗くと、例の鈴木純と平沢憂がいた。
 二人とも困ったような顔つきで、苦笑ともおぼつかない笑みを貼り付けていた。

「なんか困ってない?」

 梓の頭の上から同じく部室を覗いていた友人の言葉に頷いた。

「うーん。あまり真面目にやってる部活じゃないのかな」

 こちらもまた拍子抜け、といった感じでがっくり肩を落とした梓はそのまま部室に入ることなく階段を下りていったのだ。



「じゃーね」
「う、うんまたねー」

 二人の話は終わったらしい。どこか寂しげな様子の平沢を不思議に思いながらも梓は教室を出ようとした。

「あ、あの!」

 背後から声をかけられ、振り返る。梓は特に今まで話したことのない平沢憂に声をかけられたことに驚いた。

「こ、この後もし暇だったら新入生歓迎会行きませんか?」
「え?」
「うちのお姉ちゃんが軽音部でライブやってるの。よかったら、どうかなって」

 なんと、あの軽音部のメンバーの妹だったらしい。梓は昨日、彼女が軽音部の部室にいた理由を察した。

「うん。私もちょうど行こうかなって思ってたんだ」



「憂でいーよ」
「あ、じゃあ私も梓で」

 梓は高校に入って初めて新しい友達ができた。平沢憂は前から人当たりが良さそうな子だなと思ってはいたが、まさにその通りだった。相手に緊張を強いるようなことはなく、初めて話すというのにすっかり打ち解けてしまっている。
 講堂までの道すがら、梓は軽音部にいるという姉のことを尋ねた。

「憂のお姉ちゃんはパートどこなの?」
「ギターだよ」
「へ~! ギターなんだ!」

 そのことに少し興奮を覚えた梓は、ふと昨日の放課後を思い出した。とちりまくっていたギターが一本あった。
 はめ込み窓からは演奏している人が見えなかったので、一体どちらの人だろうかと考えた。
 聴いた限りではもう一人のギターはしっかりしていた。かといってそれを憂に訊くわけにもいかない。
 どちらにせよ、これから観にいくのだ。自分の目と耳で確かめようと思った。
 講堂の前には新入生歓迎会と銘打った看板があった。中からずんずんと演奏の音が漏れている。

「うわー。結構いっぱいいるねー」

 扉を開けた憂に続いて梓も中に入る。憂の言うようにこの場に集まっているのが全員新入生ならば、一学年まるごと揃っているのではないかという人の多さだった。
 梓は人を観に来たんじゃないやとハッとして耳を演奏に集中させようとしたが、ちょうど曲が終わる瞬間だった。

(あれ、どこかで聴いたことがあるような……)

 曲の最後の1フレーズに聞き覚えがある。記憶の底からむくむくと蘇るのは、何故か猛烈な興奮の記憶と痛み。何かを思い出しそうになるのだが、あと一歩のところで引っ込んでしまった。

「うわー。お姉ちゃんヴォーカルなんだー」

 隣で感激した様子の憂の言葉に梓はヴォーカルの人を注目した。遠目だが、ギターを構えたその少女はどことなく憂の姉であると分かった。
 そこかしこで新入生の子が「かっこいー」とか「すごいねー」と囁き合っている。

「キャー! 秋山さーん!!!」
「こっち向いて立花さーん!」

 何だアレは。梓は客席の前方に陣取っている集団からあがる黄色い声に目を白黒させた。全員が法被を着て、うちわやらを振り回して舞台上の人間に喝采を浴びせている。
 一昔前のアイドルのおっかけのような。二つの派閥があるのか、異なる法被を着たグループ同士の押し合いに殺気が混じっている気がする。
とにかく熱気がすごい。周りとの温度差が視覚化しているレベルだ。

「次の曲で最後です! カレーのちライス!!」
「1・2・1・2・3・4!!」

 何だその曲名はと突っ込む間もなく曲が始まった。アップテンポの曲、キーボードのフレーズがたまらなく格好良い。ぶりぶりなベースが前に出すぎている気がするが、これは音響の問題のような気がした。
 歌詞の意味は全くといって頭に入ってこなかったが、ヴォーカルのふわふわした声は何故か脳みそにがつんと響く。
 コーラスワークが秀逸で、リードギターを弾く人はあれだけ忙しなく手が動くのにきっちりとヴォーカルに合わせている。
 それにしても、精一杯背伸びをしないとそれらのことを確認できないのは煩わしい。ライブ会場というのは前に行かないと演者が見えないものなのだろうか。自分の身長がうらめしいばかりだった。
 おまけにギターソロが始まってしまった。どんなエフェクターを使っているのか確認したい気もする。

(ワウの使い方が格好良いなー!)

「前に行く?」

 ぷるぷる震えながらつま先立ちをする梓に耳打ちしてきた憂の気遣いに梓は恥ずかしくなった。

「だ、だいじょうぶ!」

 その提案に乗るにはプライドが邪魔をする。
 アウトロのキーボードのソロは圧巻であった。オルガンのサウンドが暴れまわるように躍り出ると、他の楽器を押しのけて駆け回った。
 梓が驚いたのはソロだというのに、キーボードを弾く少女はぴょんぴょんと跳ねて楽しそうなのだ。普通、あんなソロ・フレーズを奏でる時は格好つけたりするものではないか。
 心底、楽しそうに弾くのだ。
 梓がぼーっと観ているうちに、いつの間にか曲は終わっていた。

「ありがとうございましたー!」

 皆が拍手を送る中、頭を下げた演奏者達の姿は降りてきた幕の向こうに消えた。


「すごかったー! お姉ちゃん格好よかったなあー」

 それから憂は興奮しっぱなしだった。講堂を出て一緒に帰ることになって、その帰り道中ずっと自分の姉を褒めちぎっているのだ。
 彼女の姉というのはギターヴォーカルをやっていた人らしい。裏にまわったバッキングは豪快そのもので、曲に勢いをつけていた。肝心の歌も上手で、確かにあれなら自慢の姉と言ってもいいかもしれないと梓は思った。

「梓ちゃんはどうだった!?」
「えっと……一曲しか聴けなかったけど、すごかった!」

 梓の正直な感想だった。あの時の興奮には足りないが、それでも生でバンド演奏する場にいただけでもわくわくしてしまった。

「私、軽音部に入部しようかな」
「ほんと!? それがいーよ!」

 自分のことのように喜ぶ憂に微笑み返すと、梓は早速明日の放課後に部室へ行ってみようと思った。


 ★                  ★

「お疲れ様ー!」

 カチャリと五つのティーカップが重なる。部室に戻った軽音部一同はライブも終わってやっとひと息ついたところだった。

「ふへー。ステージの上でギターと一緒に歌うのって思ったより疲れるね」

 初めて人前でメインヴォーカルを務めた唯はへとへとに疲れ切っていた。今にも椅子から滑り落ちそうで、そんな唯を他の仲間は微笑ましく見詰めた。

「初めてなのに堂々としてたよ。頑張ったね、唯」

 惜しげのない褒め言葉に唯は頬をだらしなく緩めた。

「そうかなー。私、やれたかな?」
「一瞬、澪に助けられてたけどなー」

 律がからかうような目を澪に向ける。その視線を受けて澪がむきになって言い返す。

「あれは唯が歌詞忘れたから仕方なかっただろ!」

 二曲目の途中で完全に歌詞を頭からすっ飛ばした唯の代わりに咄嗟に歌ったのは澪だった。あの時は夏音もマイクの前から離れていたので、澪がすかさず歌わなかったら事故になっていた。

「でも澪ちゃんもとても上手だったよ。練習してたの?」

 称賛の眼差しを向けるムギの言葉に目を逸らす澪。その頬にほんのり朱がさしたのを見て、一同はクスクスと笑いを漏らす。

「な、なによ」
「いやぁー。影で努力した澪しゃんは偉いなーと思って」

 直球できた律に今度こそ顔を真っ赤に染めた澪だった。負けず嫌いの彼女はヴォーカルを拒否する一方でもしもの時のことを考えていたのだろう。その準備が即実を結ぶとは思ってもいなかっただろうが。

「あそこの英語むずかしいんだよねー。澪ちゃんいなかったら今頃笑ってられなかったよ~」

 てへ、と舌を出した唯に、

「お前は少し反省せんかい!」

 こつんとそんな唯の頭を小突いた律だった。

「新入生の子は来てくれるかしら?」
「大丈夫! 来るに決まってる! だって私ら格好よかったもん!」

 その自信がどこから沸き上がるのか分からないが、律の言葉は何となく説得力があった。理由はなくても「そうかも」と思わされる力がある。
 力強く頷き返した一同は、新たに自分たちと歩む仲間がきっと現れると信じて待つことにした。


「来なーいじゃーん」

 あれだけ自信満々だった律は一時間ほど経った時点でやる気を失っていた。

「お前らもほどほどにしとけばー」

 そう言って律が向けた視線の先には部室の扉の前に陣取って新入生を待ち構える澪、唯、夏音の三名の姿があった。
 少しだけ開かれた扉から外を覗き続けて小一時間ほどが経過した。期待を裏切るかのように見学者の一人も訪れることはなかった。

「おっかしいなあ。一人も来ないなんてありえない」

 心底不思議だとばかりに唸る夏音。顎に手をあてて悩む夏音の下には唯がいた。

「せっかくライブ盛り上がったのに~。あ、やっぱり私が失敗したからかなあ?」
「大丈夫。唯以外も失敗してたから」
「そっかー」

 何気ない会話の中でそんな二人の背後にいた澪はびくりと反応した。他意は含まれていないだろうが、自分のことを言われた気がしたのだ。
 気を取り直して、彼女もこの現状に至る理由を頭の中で探した。

「部員が少ないってのも原因なのかも……」
「むしろ人が少ない方がよくない? 団体戦とかあるわけじゃないんだからさー」
「そうだよ。レギュラー確実だよ!」

 人数が増えすぎたらバンドを増やせばいい。どんな人数になろうと、やっていけるのが軽音部というものだ。
「むぅ~」と三人同時に低い声で唸る。相変わらず視線は外に向けられており、実際階段を上った先に、じっと扉の隙間から覗く三対の瞳と遭遇した者は不幸だ。

「そんなに睨んでたら来る者も来ないんじゃ……?」

 至極まっとうな指摘をしたのはムギだ。とっくに飽きてしまった律の前にお茶を置いた彼女は茶菓子が入っている箱を開けて、扉の前の三人に声をかけた。

「お茶入りましたよ~」

 すっとその声の元に集まってくる三人にムギはくすりと笑った。お茶という単語には素早く反応するのだ。

「ふぅ……私達の熱いロック魂はいまの子たちには通じなかったんだね……」
「ぶふっ!」

 お茶をすすった唯が儚げに呟くと、それを耳にした周りはつい噴き出した。

「わー。唯ちゃんかっこいー」
「そう受け取ってあげるのはムギくらいだよ」

 そう言ってハンカチで零したお茶を拭き取る律。他に噴き出してしまった者も同じで、うんうんと頷いた。
 誰より唯が言うには無理があるように思われる。

「ひどいなーみんな。私のロッケンローを見くびってるよ」

 口を尖らせてぶつぶつと変な声を出す唯にひとしきり笑い終わった夏音は「最高のジョークだ」と笑顔でばっさり斬った。それからポケットに手を入れて何かを取り出そうとした夏音だったが、

「あ、携帯アンプの上だ」

 立ち上がり、ギターアンプの上に置いたままの携帯を取りに行く。
その時だ。
 ゆっくりと扉が開き、その向こうから少女が姿を現したのは。



「あのー」

 突然のことに目をぱちくりさせて固まる夏音。
 少女は偶然、扉の近くにいた夏音に小さな声で尋ねた。



「入部希望なんですけど」


 





[26404] 第四話『新入部員!』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/12/15 18:03
第四話『新入部員!』


「入部希望なんですけど」

 どれほど扉が開かれるのを待ち焦がれていたことだろうか。それがやっと。おっかなびっくりといった様子で現れたのは人目で新入生とわかる新品の制服に包まれた少女であった。
 その少女の第一印象は「小さい」だった。腰くらいまで長く伸ばした髪を二つに縛っているこの髪型はツインテールと呼ばれる。
 小学生と言われても違和感がないくらい幼く見える顔立ちは緊張で強張っていて、あどけなさが占めていた。
 これは何と言う生き物だろう。夏音は後輩というのは、かくも幼く見えるものだろうかと衝撃に狼狽えていた。ただでさえ幼く見える日本人の中でも、この少女はとびっきり幼く見える。まるでトールキンの小説に出てくるホビットのようだと思った。
 じっと見詰める夏音の視線にたじろいだ少女は、堪えかねるように俯いた。その仕草や様子は夏音の胸の直球ど真ん中に突き刺さった。

「愛でたい……」

 つい、本音が零れた。

「は?」
 
 少女の表情が一変、怪訝なものになる。
 胡乱な目つきになった少女に慌てふためいた夏音は誤魔化すように後ろを振り返り、部室の奥に向かって叫んだ。

「い、いや! めでたい! おーいみんな! めでたいぞー!」
「めでたいのはお前の頭だろー……って!? その子!?」

 まったりとティータイムに没頭していた者たちは、ようやく訪問者の存在に気が付いたようだ。

「あ、どうも」

 少女は自分が一斉に注目を浴びていることにおどつきながらも頭を下げた。

「か、か、か……」

 感動のあまり言葉が上手く出てこない律は潤んだ瞳で少女の元へと近づいていく。

「か?」

 謎の擬音らしきものを口にしながら、近づいてくる先輩の一人に少女はきょとんとした。その無垢な反応を目の当たりにした律は、予め用意していた言葉や態度など諸々を自ら捨て去ってしまった。

「確保~~~~~~~っ!!!」
「キャーーッ!」

 よりによって咄嗟に選んだ行動が奇声を発しながら抱きつくという変態さながらの所行だとは本人ですら思ってもいなかっただろう。もちろんハッと我にかえった律はすぐさま少女を解放した。
 急にその小さな体を圧迫されて咽せる少女の肩にそのまま手を置いて、

「もしかして入部希望!?」

 輝く瞳はまっすぐに少女に向けられる。

「けほっ。ハ、ハイいちおー」

 勢いに呑まれて目を白黒させる少女。その応えに律はガッツポーズをした。

「うおーっしゃー! やっと来たよー! カノーン!」
「律!」

 たまたまそばにいた夏音の名を呼んだ律。呼ばれた夏音も気持ちは一緒だった。

「イェー」

 何故かしかめ面で低い声を出し、がっしりと腕をぶつける二人。軽音部で普段からたまに勃発するアメリカのストリート仕様のノリである。ちなみに少女は一瞬たりともついていけてない。

「ほら~こっちこっち! 座って!」

 夏音と律がふざけている間に唯が少女の手を取って席に引っ張っていく。座席をすっとひく澪、椅子に放り込む唯、手早く新たなティーカップを用意してお茶を注ぎ終えたムギの連携によって少女は一瞬の内にもてなされる態勢となってしまった。
 当惑したまま、いつの間にか周りを囲まれた少女は出されたお茶に手を出すことも許されないまま質問責めにあった。

「お名前は何ていうの?」
「あ、中野です」
「ほんとに高校生?」
「え、それはどういう――」
「パートは何やってんの?」
「あ、えっと――」
「好きな食べ物は!?」「中学どこ!?」「ちっちゃいネー」「あだ名つけていい!?」

 こんな具合に矢継ぎ早に四方八方から繰り出される質問を捌くこともままならない状態だった。

「落ち着け、お前ら」

 そう言ってくれた一人の先輩に、少女は心から感謝した。


 お茶を飲んで落ち着いたところで、改めて少女の自己紹介を聞くことになった。

「えっと、一年二組の中野梓と言います」

 少女の名は中野梓というらしい。外見とは裏腹に落ち着きのある声でしっかりと答えた。

「パートはギターを少し」
「おっ。ギタリストか! よかったなー唯」
「よろしくお願いします。唯先輩」

 そう言って丁寧にお辞儀した梓だったが、自分の言葉が予想すらしない威力を放ったとは気付かなかった。

「ふぉ~。せ、先輩……唯先輩! 唯先輩だって……」

 梓はその「先輩」という響きに陶酔する唯の姿に何が起こったのか分からないといった様子だった。

「おーい帰ってこーい」

 その純粋な反応に微苦笑を浮かべる律は絶対に後で自分も呼ばせようと心に誓った。

「そだ。ギター弾けるんだよね? とりあえず何か弾いてみて」

 そう言って自分のレスポールを梓に渡す唯。重そうにそれを受け取った梓はぎこちなくストラップを肩にかける。

「ふ、ふふ……」

 その一見初々しい仕草を見て漏らした唯の忍び笑いは全く忍んでいなかった。そんな彼女に物言いたげな他の部員達の視線などに気付かず、唯は不気味な笑いを止めない。

「愛いの~くくっ」

 他の者からしてみれば、梓の振る舞いは他人の――それも分かる人には高級だと分かる――ギターに対して慎重な扱いをしているように見えるのだが、唯にとっては違った見え方がしているらしい。

「あの、私まだ初心者なので下手ですけど」

 少し緊張を見せる梓に唯はどーんと胸を叩いた。

「大丈夫! 私が教えてあげるから!」

 どこからその自信が湧いてくるのだろうか。そう思った者は少なくなかったが、それよりもできたばかりの後輩にはしゃぐ唯の態度は共感できるものもあった。

「ほーう? 早くも先輩風吹かせてるな?」

 茶化すような澪の言葉にも「えへへー」と締まらない笑顔を返した。

「ほんとだよ。いつから人に教えられるくらい上達したのかな」

 夏音の場合も同様にひやかすつもりの発言だ。とはいえ、少なくともこの一年である程度の自信を持てるくらいには唯の腕は上達している。まだまだ初心者の域を出ないが、おそらくこの新入生の言う初心者という言葉にすっかり自分が上と思い込んでいるのだろう。
 まだその実力の程が明らかになっていないというのに。
「そ、それじゃあ」と言ってギターのネックを握る梓。身体に見合った小さな手にはピックすら持て余されているように見える。
 誰もがその様子を微笑ましく見守っていた。きっとその心にはお手並み拝見、といった言葉が浮かんでいるだろう。
 そして、どんな演奏が飛び出てきても先輩としての大らかな心で受け止めよう。

 そんな心づもりでいたのだが。

 梓が持つピックが六本の弦を滑るように弾いた瞬間、鋭くキレのある音が鼓膜を殴りつけてきた。
 続いてスティーブ・クロッパー、ナイル・ロジャースなどのカッティングの名手を彷彿させる歯切れの良いカッティングが怒濤のように続いていく。時にパーカッシヴに弦を叩きつけ、また撫でるように優しい音へとダイナミクスをつけている。
 時間にして三十秒も弾かなかったと思われる。
 梓が弾き終わり、その演奏に拍手を送ったのは夏音のみだった。彼女は夏音から送られる拍手に照れたように頭を下げたが、他の先輩が揃って口を開いたまま固まっているのに気付いた。

「あ、あの……」

 目を丸くしたまま表情一つ動かさない四人に、梓はだんだんと動転していく。

「すすすみません! やっぱり聞き苦しかったですよね……」

 沈黙に耐えられず、つい謝罪してしまう梓に澪は慌ててそれを否定した。

「あー、いや。そういうワケじゃなく!」

 予想以上に上手すぎてびっくりした。そんな風に言うつもりだったのだが、隣でぎゅっと強く腕を組んだ唯がとんでもない発言をかましたのだ。

「ま、まだまだね!」

「ええーっ!?」

 つい驚きの声があちこちで上がる。本気かこの女、と誰もが唯の顔を見ると、かなり無理して笑顔を作っているのは明らかだった。
 目が疲れないかというくらいに泳いでいる唯の内心など、直に聞かずとも明白である。

『ヤバイ、どうしよ』

 実際、後でその通りの台詞を口にする唯だったが、その堂々としたダメ出しをくらった梓は気を悪くするどころかパァッと表情を輝かせた。

「うわー! 私、先輩のギターもすごいと思いました! もう一度聴きたいです!」

 それは憧れの人を見詰める時の目だ。疑うことを知らない真っ直ぐな瞳に晒された唯は「うっ」と声に出して怯んだ。ついでに二、三歩ほど後ろに退く。

「おい、唯。いつまで見栄はってんだ?」

 流石にこれ以上は面子が保たないだろうと判断した律が唯に耳打ちする。どこかで溜め息をつく音が聞こえ、そちらを見ると夏音が肩をすくめていた。

「あ、あの……」
「はい?」
「ライブの時にぎっくり腰になったから……また今度ね」

 苦しい言い訳だった。後に退けぬ状況にも関わらず強引に退いてしまう姿はむしろ潔かった。
 一瞬、何を言われているか理解できなかったのか梓は「?」マークをまだ頭上に飛ばしていた。この場で唯にとって幸いだったのは、彼女の言葉を梓が理解する前に「もういいから。お前どいてろ」と冷たい言葉とセットで律に放り投げられ、別に注目を移されたことだ。

「そういうのだったら、こいつの方がぴったり。夏音なんか弾いてやれよ」

 ぽんと夏音の肩に手を置く律。心得た、と頷いた夏音は梓から唯のレスポールを受け取ると、梓が弾いたようなものとは趣が違うテクニカルなフレーズを叩き出した。

「う、う………ま」

 それからしばらくしてギターを弾き終えた時には、若干キメ顔で佇む夏音がいた。
 梓は今見た物が信じられないといった表情で目をぱちくりさせる。

「どうだー? うちのリードギターの実力は! なんたって―――」
「おい律。わかってて言うなよ」

 自分のことでもないのに自慢気に言い切った律に澪が心配そうな顔をした。

「あー、そうか。ごめん、このことって今は言わない方がいいんだよな」

 こそこそと言い合う二人によく分からないといった顔を向ける梓。しかし、彼女はそれどころではなかったようだ。

「せ、先輩すごすぎです……」

 口をついて出た賞賛の言葉。心の底から沸き上がる凄いという感情が彼女を埋め尽くしていた。

「っせ、先輩……いま先輩って言われた!」

 今まさに褒められた男は思わず口を覆った。ふらふらと膝をつきそうになるのをこらえ、机に手をつき息を整える。

「変態が割れるぞー? 気をつけないと」

 マイガーと叫んで悶える夏音に素っ気ない言葉を投げかけた律は、気を取り直して梓に笑顔を向けた。

「あー、とにかく入部してくれるってことでいいんだよね?」
「はい! 新歓ライブのみなさんの演奏を聴いて感動しました! これからよろしくお願いします」

 そう言って再び頭を下げる梓。あくまで礼儀正しい態度は好感を得るものであり、軽音部の人間はそんな後輩を眩しそうに見詰め、

「うぅ、眩しすぎて直視できません!」

 一方でわめく唯に「こいつはダメだなあ」と呆れた。

 頭を上げた梓は何か思い出したのか「あっ」と声を上げるとポケットから白封筒を取り出した。

「これ入部届です」

 差し出された封筒には入部届と記されていた。

「うん! 確かに受け取ったから。明日っからよろしくね!」
「はい! それじゃあ失礼します」

 首尾一貫して礼儀正しく、梓は部室を後にしていった。姿が見えなくなっても手を振っていたムギが頬に手をあてて嬉しげに笑う。

「はぁ~。初めての後輩できちゃった~。可愛い~」

 今にも蕩けそうな笑顔につられて皆うんうんと頷く。

「良い子そうだったな」
「よかったなー澪。おっかない男子部員とかが来なくて」
「別に私は興味を持ってくれたなら男の子でもいいよ……ガラが悪いのとかはやだけど」
「だーよなー。ま、この学校だったらいないっしょ」
「でも、せっかくだから男の子の後輩もいいかも~」
「あの……ワタクシという男子部員の存在を忘れておりませんか」

 初めての後輩に皆、興奮してきゃいきゃい盛り上がっていた。その輪の中から外れた場所で呆然と立っていた存在が怖々と口を開く。

「ヤバイよ……私どうしよう!?」
「練習しとけ」


 平沢唯の特訓の日々が明けようとしていた……かはこれからの本人次第である。



★               ★


 昨日の放課後、梓が帰った後のことだった。

「とりあえずお前に言っておくことはただ一つ! 自重しろ!」

 びしっと指を突きつけられたのがしゃくに障ったので、夏音はその指をくいっとひねった。

「ほぇー?」
「いだっ! 暴力ふるいながら唯みたいな声出すな」
「暴力って……内側に曲げただけじゃん」
「オマエ握力強いんだよ」

 大袈裟な、と思った夏音だったが続きを促した。

「つまりだな。私らはこの一年でお前の音楽に対してだけ急に悪魔のように厳しくなる姿にも慣れてる。ただ、昨日の今日で入ってきたばかりの後輩ちゃんにはきついものがある!」
「はあ……」
「むしろ、アウトだアウト。いきなりこわーい先輩に怒鳴られたらすぐに退部しちゃう危険もある」
「な、なんだって!?」
「こわーい先輩いやー。もー無理ありえなーい。今日でやめまーすってなもんだ」

 梓の声を真似ているのだろうが、全く似ていない。しかし、夏音にとってそんなロークオリティの声真似に突っ込む余裕すらなかった。

「こ……こわい先輩?」

 つい最近のトラウマが蘇る。つい見学に来た後輩の前で普段通りの自分を見せてしまい、どん引きさせしまったのだ。あの時、自分を見詰める瞳の中にあった恐怖の色は今でも忘れることができない。

「ど、どうすれば?」
「だーかーら。自重。じちょー、この日本語わかる? んー?」
「ジチョー。ジチョ、シマス」

 律の完全になめた口もスルー。片言の外国人のような体になった夏音の顔はすっかり青ざめていた。

「いいか夏音。こういうのは最初が肝心だ。少しずーつ、だんだんと調子を上げていった方がいい。そうすれば、お前の本性を知っても耐性がつき始めてるから大丈夫なはずだ」
「そ、そうか。一級の暗殺者は幼少の頃から毒に耐性をつけるために、毎日の食事に少しずつ毒を―――って誰が毒やねんっ!?」
「お前………成長したなあ」

 夏音のノリツッコミ。日々、日本を学ぶ夏音であった。珍しい物を見たなあと目を丸くした律だったが、気を取り直して続けた。

「だから最初は私達が演奏をちょっとくらい失敗してもとやかく言わないように」
「わかったよ……せっかくできた後輩にやめてもらいたくないからね」


 半分以上、自分のための言葉だった気がするが、素直に頷いた夏音であった。

 確かに夏音は自分でも音楽に対しては厳しく当たる節があることを理解していた。そのことがきっかけで起こった軽音部での諍いも記憶に新しい。

(自重かあ。できるだけ気をつけたいけど、咄嗟の時だったら自信ないなあ)

 それでも、やるしかないのだ。怖い先輩と思われないために。
 自分にとっての初めての存在をこんな所で失うわけにはいかないのである。



(とりあえず冷静にならなきゃ。何かあっても落ち着いて……)

 昨日の出来事を思い出していた夏音は改めて気持ちを引き締めて部室の扉に手をかけた。

「こんなんじゃダメですーー!」

 扉を開けると、そこは修羅場だった。
 部室の中から響いた怒声に驚いて入ると、まだ耳慣れない声の持ち主が怒鳴っていた。何が起こったのか、夏音には全く把握できなかった。
 ぽかんとした表情で、ひとまず状況を把握しようとした。
 全員総立ちで後輩に怒られている、というこの状況は如何にして起こったのだろうか。そもそも、自分が怒ることを自重しようとした矢先に肝心の後輩が怒っているとは思いもしなかった。
 皆、呆然とした顔つきで憤激すさまじく声を張り上げる小さな少女を見詰めている。
 昨日入ったばかりである梓が怒っているらしい内容に耳を傾けると、何やら部室でティータイムを決め込むばかりの軽音部の姿勢に憤っているらしい。

「それだけは堪忍して~」

 涙ながらに泣訴するのは顧問のさわ子であった。

「何で先生が言うんですかァッ!?」

 怒り心頭はなかなか治まらないようだ。むしろ余計に火を点けただけのが顧問とはこれいかに。

「ま、まあとにかく落ち着い――」
「これが落ち着いていられますかーっ!」
 
 再び、同じ台詞で怒鳴る梓。宥めようとする律の言葉にも噛みつく梓。
 子猫が必死に毛を逆立てているように見える。
 すると、その時。
 背後から忍び寄った唯がぎゅっと後ろから抱きすくめて頭をイイコイイコしたのだ。それは幼子の癇癪を諫める母のような包み込み。

「そ、そんなことで治まるはずが」

 澪は言いかけた言葉を引っ込めた。
 猛牛のごとく怒り猛っていた梓は安らかな表情で怒りを治めていた。
 それら一連の流れを見守っていた夏音は一件落着した様子にほっと胸を撫で下ろした。


「取り乱してすいませんでした……」

 しゅんと落ち込む梓に誰もが気にしていないと慰めた。

「まあ梓が言うことにも一理あるよ」

 場が上手く収まったところで、澪が皆に言い聞かせるように言った。

「私達ももっとやる気出していかないと! わかりましたね!?」

 ぽかんと後ろで突っ立っている教師より教師らしい言葉に一同は「はぁ~い」とやる気なさげに返した。
 先が不安になる返事だった。




 土日を挟んで三日後。再び、放課後の時間となった。
 夏音はいつも通りのティータイムを楽しむ面々を尻目に、ソファにごろんと横になっていた。

「結局、いつもと変わらないじゃん」

 それを咎める気はないが。それよりこの現状を目にした梓がまだ噴火しないかが心配であった。

「こんにちはー」

 そんなことを考えていた途端、梓がやって来た。やいのやいのと騒いでいた者達は梓の声に明らかに「びくっ」と肩を跳ね上げた。
 机の前にやって来て、じとっとした目で見詰められた唯を筆頭とする律とムギは慌てて楽器を取り出した。
 夏音は彼女達がいつでも梓が来てもいいように楽器を後ろに控えさせておいたのを知っていた。その小賢しい策が全く意味を成さなかったのを見て、呆れた眼差しを向ける。
 しかし、夏音以上に呆れているのは梓だろう。つい先週、言ったばかりなのにこの体たらくである。

「い、今から練習するところだったんだよ! ほんとだよ!?」

 誤魔化すには些か遅すぎたようだが、唯は普段では考えられないほどの迅速な動きでギターを肩に掛けた。

「ふんっ」

 大きく鼻を鳴らして腕を振り上げた唯だったが―――、

「あぁ~いや~」

 音色だけでなく、本人ごとへろへろと床に崩れ落ちた。

「やっぱケーキ食べないと力が出ないよ~」

 言い訳にしてもひどい、と梓は思っただろう。それでも夏音はその言葉が概ねその通りであることを知っていた。
 ケーキ一つでギターの腕が上下するなど普通はありえないのだが。
 一口、ムギが差し出したケーキを口に入れた唯はシュタッと立ち上がると猛然と弦をかき鳴らした。
 技術だけではない、何か底からわき出る力がこもった迫力に満ちた演奏に梓は驚愕を隠せない。

「う、うまーいっ!」

 全力で先輩の威厳を見せつけた唯は、にやりと微笑んだ。

「梓ちゃんも食べてみなよ。美味しいよ~」

 部室でケーキを食べることを否定する梓に、ケーキを薦める。
 それは悪魔の囁きだった。

「はい、あーん」

 フォークに突き刺したケーキを梓の口許に近づける唯。たじろぐ梓の視線は目の前のケーキに釘付けであった。

「あ、でも……」

 理性が邪魔をするのか、なかなか口を開かない。そんな梓にもう一押しとケーキを近づける唯だった。

「ほれ」
「………あむ」

 仮にも先輩の差し出す物である。観念したのか、梓はケーキを口に入れる。

「お、おいしい」
「ん~? なんだって~?」

 ふと零れた言葉を聞き逃さなかった律がニヤニヤ笑いで梓をからかう。思わず素直な感想を口に出してしまった梓はぱっと顔を赤くして苦し紛れを吐いた。

「お、惜しいって言ったんです!」
「ふふ~ん」

 結局、梓も甘い物が大好きな女の子だったと言うことだ。
 これもまた、夏音が関わることなく一件落着した。



「な、何でもかんでも否定するのはよくないと思いまして!」
「へぇ~」

 梓なりにこの超短期間で思い直すところもあったらしく、それらしい理由を説明したところでニヤニヤと聞く先輩組には全てお見通しだった。
 バツが悪そうな顔をする梓だったが、既に誰もそのことを気にしている者はいなかった。

「ねえ。梓ちゃんはいつからギター始めたの?」

 頬杖をつく唯が気になっていたらしい質問を投げかけた。以前、その腕前を皆の前で披露していたことから梓の実力は全員の知るところである。
 あのテクニックは一朝一夕で身につくものではなく、長年堅実にギターを続けていた証拠である。

「えっと。小四くらいからです。親がジャズバンドをやっていたのでその影響で」
「へぇー」
「全然初心者じゃないじゃん!」

 夏音はその会話に思わずドキッとした。
 ジャズをよく知っている人間ならば、自分を知っている確率がぐんと高くなるのだ。ずっと隠すつもりもないが、自分の素性を話すタイミングを決めかねていたところであった。
 なし崩し的にバレるのは避けたい。どうせなら面白いタイミングで、と決めていた。

「あ、唯先輩がギター始めたきっかけって何ですか?」
「えっ」

 思わぬ角度から責められた唯はぎょっとしてケーキを取りこぼした。皆、一様にはっとなって唯の顔を凝視する。何故ならこの場で知らない者はいないのだ。
 唯が軽い音楽と書いて軽音部だから小難しいことはやらないだろうと思い込んで入部してきたということを。さらにはカスタネットが得意だったから入部したなどとは先輩のプライドが絶賛芽生え中の唯には口が裂けても言えないだろう。

「あ、えっと……あ、そうそう! とにかく新入部員が入ってよかった!」
「なんか誤魔化した!?」

 会話のねじ曲げ方には定評がある唯にしては強引な手段だった。方法を選んでいる余裕すらなかったのだろう。

「あ、そういえば」

 切り替えが早いらしい梓はずっと黙ったままの夏音の方を真っ直ぐ見詰めてきた。

「そういえば、まだきちんとお名前うかがってなかったですよね?」
「え、そうだったの!?」

 夏音は驚きに声を張り上げた唯に「つ、ついうっかりだぜ」と挙動不審になった。
 夏音がミュージシャンとして活動する時の名前はカノン・マクレーン。いわば芸名のようなものだが、実際に夏音のフルネームの「Kanon・M・Tachibana」のファミリーネームを省いただけだったりする。
 読み方が同じという時点で気付かれる可能性はぐんと上がる。

「立花……と言いやす。よろしく」
「あ、下の名前は……」

 当然の質問を返してくる梓に夏音はどうしたものかと慌ただしく視線を宙に漂わせていた。

「夏の音って書いて夏音って言うんだよ。良い名前だよね!」

 夏音の代わりにあっさり答えてしまったのは唯だった。

「こ、こら唯!」
「へ?」

 こら呼ばわりされる理由が見当たらなかった唯はきょとんとする。

「夏音先輩、ですか。すみませんもう何日も経ってるのに」
「そ、そうだね。いや、別に気にしてないよ」

 梓が特にこれといって引っ掛かった様子がなくて安心した夏音だったが、

「あの、すいません。失礼ですけど、どこかで会ったことってありませんか?」

 束の間の平穏だったようだ。じっと夏音の顔を覗き込む梓は何かを思い出すように首をひねっている。

「いやー? 会ったことないと思うよ?」

 上擦った声はどうしようもなく動揺している証拠だったが、梓は諦めた様子はない。

「絶対にどこかで見た覚えが……」
「お、おいおい梓ー。それじゃ一昔前のナンパだぞー? 古風だなー」

 意外なことにフォローを入れてきたのは律だった。夏音の意志を汲み取った彼女はからかうように声をかけてくれた。

「そ、そんなつもりじゃ! あ、違いますからね夏音先輩!?」

 そう言って顔の前でぶんぶんと手を振った梓を見た夏音は、何とか誤魔化せたことに胸を撫で下ろすと、功労者へとありったけの感謝の念を送った。

「あ、そうそう! 私、梓ちゃんにプレゼントもってきたんだった!」

 唐突に話題を変えたさわ子がごそごそと懐を探る様子に梓は嬉しそうに顔をゆるめる。プレゼント、と聞いて悪い気がする者はいないだろう。ましてや部活動の顧問が入部のお祝いをくれることなど珍しい。

「ぱんぱかぱーん!」

 百%のドヤ顔のさわ子が差し出した物を見た瞬間、梓の顔が引き攣る。

「こ、これなんですか?」
「何って……ネコ耳だけど?」

 何を当然のことを、と言わんばかりにきょとんとするさわ子だった。

「それは分かるんですけど、これをどうすれば?」

 皆目見当が付かないといった梓であったが、瞬時に背後にまわったさわ子に心臓の鼓動が跳ね上がる。

「ひっ!?」
「ふっふっふっふ」

 耳の近くで響く低い笑い声に戦々恐々として、助けを求める視線を彷徨わせたのだが、
「あ、大丈夫だよ。儀式みたいなもんだから」

 あっけらかんと律に言い放たれ、愕然とした。

「何の儀式ですかーっ!?」

 思わず叫んだ梓は肩に置かれたさわ子の手を振り払って逃げる。さわ子は過敏にネコ耳に拒否反応を示す梓にやれやれと肩をすくめた。

「もう恥ずかしがり屋さんねえ」
「あ、当たり前ですっ! 先輩方だって恥ずかしいですよね!?」

 再び救いを求めて振り返った梓は、そこで改めて自分が未だかつて味わったことのない未知との遭遇を果たしているのだと理解した。
 わいわいとネコ耳を交互につけ合って楽しんでいる上級生の姿は、日本にいながら異民族と接しているような錯覚すら覚える。
 カルチャーショックに膝をつきそうになった梓は震える身体をぎゅっと抱き締めて後ずさった。

「あ、あはは……私がおかしいの?」

 あまりのショックにおかしいのは自分ではないのかと絶対的アウェーにおける逃避反応が出ている。するとネコ耳でひとしきり楽しんだ唯が梓に渦中のネコ耳を差し出した。

「はい。次、梓ちゃんの番だよ?」

 迷いのない声だった。それが当たり前で、それ以外ないと言っているように聞こえるのだ。
 梓は長い時間を使って逡巡したが、自分はこれからどう抗ってもこのネコ耳をつける運命にあるのだなと諦めた。
 ゆっくりとソレを頭に持って行き、それでも躊躇う心を押さえつけてそっと頭に着地させた。
 何の感情の所以かは分からないが、呻き声が止まらない。頭に載せた瞬間の予想外のフィット感に驚きもあったが、それ以上に羞恥心がかつてないぐらいに燃えさかって頬を赤くしている気がした。

「おぉーっ! すごく似合ってるよ!」
「私の目に狂いはなかったわね」

 瞳を爛々と輝かせて見詰めてくる先輩と顧問に梓はもじもじと俯く。気分は公開羞恥プレイである。

「軽音部へようこそ!」

 律、ムギ、唯、さわ子の四人の口から初めて歓迎の言葉が飛び出た。

「ここで!?」

 しかし、これも高校生になったことへの洗礼だろうかと心に浮かべた梓はいきなり自分に抱きついてきた唯にぎょっとした。

「うふ~っ! 梓ちゃん可愛い~っ!」

 すりすりと身を寄せてくる唯に困惑のあまり動けなくなった梓だった。

「ねえ! にゃー、って言ってみて! にゃー!」

 無茶ぶりを平然と口にしてくる律。先輩の言うことなので、梓は恥ずかしげにそれに応じると、

「あはーーーーんっ!」

 身悶える四人の姿に、この部活動に居てよいのかと真剣に検討を始めた自分がどこかにいたという。

「あだ名は“あずにゃん”で決定だね!」
「えぇー……?」

 しかも、とんとん拍子にあだ名が決定されてしまった。この怒濤の急展開に梓の頭はとっくに活動を停止していた。


 その後もあれよこれよと着せ替え人形にされていく梓を蚊帳の外から見守っていた夏音は心の底から初めてできた後輩を不憫に思った。
 澪はいつものごとく音楽雑誌を黙読しており、こういう騒ぎに参加することは少ない。場合によっては夏音も他の部員達と共にはしゃぐのだが、今回は事が事である。
 我が身可愛ければ、コスプレに近づくことなかれ。夏音は郷に入りては郷に従えの精神で「なむ!」と合掌した。


※劇場版けいおん! のOP、ED、挿入歌のシングルCDがいつの間にか発売されていたので借りてきました。久しぶりにコピーでもするかーと思ったら、ウンメイは~がびっくり。もうトムさん好き放題やってますね。あの人の作る曲のベースってなんかハマりきらないんだよなあ……でも弾いてて楽しい。超ツッコミ気味にがんがん前にいける感じですね。けど、好きなベースラインではない。面倒くさいから。だが、スケールの外し方とかはすげーなーと思う。
 とにかく面倒くさいベースです笑
 とりあえず半分くらいコピって放り投げました。
 唯ヴォーカルでの難易度はウンメイ>>マニアック>>ウタウヨ=カガヤケ、って感じですね。
 どれも個人ではできても、バンドとしてやるには難しいって感じでしょう。これでバンドスコアとか発売されて、初心者にさーコピれ! っていうのは酷な話ですよね。



[26404] 第五話『可愛い後輩』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/03/16 16:55
 軽音部の皆(主に律、唯、ムギ)の梓への歓迎の気持ちはどんどん増していっているようだ。
ひっきりなしに話題が振られ、お茶が空になればすぐになみなみ注がれる。唯がモンブランの栗をあげたことは驚天動地に値する出来事であった。
下校する際には唯の自宅付近にあるアイス屋へ連れて行き、三段アイスをご馳走(梓の分は全員でワリ勘)した。
 その中で終始困惑した様子の梓を気に掛けた澪がそっとフォローしていたようだが、その戸惑いの表情がだんだんと曇っていかないかと夏音も不安であった。初後輩に色めき立つ軽音部だったが、夏音はというとその輪の一歩外でそれらを静観している立場だった。
 自分の素性をどこで話すべきか、そもそも隠しておくべきなのだろうかということから始まり、律から自重を命じられていてどう振る舞えばいいか分からないといった悩みによってがんじがらめになっていたのだ。
 おそらく、非常に真面目な子なのだろう。正真正銘、音楽をやりたくて。音楽に打ち込みたくて軽音部の門戸を叩いたに違いない。
 聞けば、ジャズ研に入会することも候補に入れていたらしいが、悩んだ挙げ句に選んだのが軽音部だったということだ。
 思い返してみれば、今の軽音部には初めから音楽に情熱を掲げて入ってきた者は皆無だ。根本的には音楽が好きで、楽器を演奏することに喜びを見出す人種なのだろうが、如何せんモチベーションが低い。
 そのやる気のなさが始まった当初から発揮されていたあたり、自分達と梓を比べるのは間違いだ。夏音とて、高校の部活で真面目に音楽をやろうなどと思っていたわけではない。
 引き摺られるように勢いで入部して、音楽をやってもやらなくてもどちらでもかまわないといったスタンスのまま半年過ごしたのだ。
 そんな自分達とは正反対の梓にとって、この有り様を目の当たりにした時の衝撃は大きいはずである。
 もちろん音楽意外の部分で大切なものもあるとはいえ、このままで良いわけがない。どこかで今後の方針を固めて、軽音部の名に背くことのない活動を開始する必要がある。
 問題は、それを言い出す機会を夏音は一歩退いた状態で窺っていることだ。自分がうだうだと迷っている間に深刻な事態にならなければいいが、もしもの場合は後悔だけが残ってしまう。

(そろそろ、みんなに練習するように促さないと)

 小さな決意を胸に秘め、今日も夏音は口数を減らしてばかりいた。


「ちゃんと活動計画を立てた方がいいんじゃないか?」

 先に言われてしまった。新入部員がやって来たというのに、いつまでもダラダラとやるのはまずいのではないかと澪が切り出したのだ。澪もほとんど夏音と同じような立ち位置から彼女達の様子を見ていたので、似たような懸念を抱いたらしい。
 この、のんびりとした空気が馴染まないという人間もいるのだ。今のところは大人しく受け入れている梓だが、澪はその本質をこの数日間にじっくり観察していた。

「このままじゃ梓やめてしまうかもしれないぞ」

 その発言はまるで予想外だったのだろう。他三人の顔が青ざめる。

「そ、そんな~!? あずにゃんがいなくなるのはやだ!」

 泣きそうな顔の唯が悲鳴を上げる横で、深刻な顔つきの律は差し迫った様子で立ち上がった。

「くっ。何か梓の弱味でも握らないと!」

 何に使うのか、デジカメを取り出して今すぐにでも部室を飛び出していきそうな律の背後に回った澪が拳骨を落とす。

「計画ねえ」

 夏音がふと呟く。ほとんど行き当たりばったりで日々を過ごす軽音部にとっては一年の計画を立てることほど難しいことはないだろう。皆、首をひねって自分達の活動方針に考えをめぐらしていた。

「あ、じゃあさ!」
 痛みから素早く回復した律は天啓が降りたとばかりに自信満々に言った。

「明日は梓の歓迎会をするか!」
「お、いいねえ~!」
「楽しそ~」

 澪が止める間もなく、話が固められていく。夏音が自分も何か言うべきだったのではと気付いた時には既に口を挟む隙間は与えられていなかった。


★                       ★


 翌日、学校近くの公園に揃って集まった軽音部一同は中野梓歓迎会と称して思う存分遊ぶことになった。
 文字通り、遊ぶだけである。休日の公園には家族連れも多く、犬の散歩に訪れる人などで溢れかえっていた。芝生の上を駆け回る女子高生の集団はそんな風景の中に紛れ込み、よもや彼女達が高校の軽音部で、これが部活の一環だとは誰も思わないだろう。
 梓は自分の歓迎会という名目に恐縮してばかりいて、先輩達が次々と出してくる遊び道具に目を回していた。少なくとも、全力で楽しんでいるようには見えなかった。
 小一時間ほど公園をかけずり回った後、ムギが用意してきたランチボックスを広げて昼食を摂る。
 それらの遊びにも参加せず、沈黙を守っていた澪がついにキレた。

「こ~ら~!!」

 しっかりとその手元には食べ終えたケーキのフィルムがあったのはご愛敬だ。

「結局、いつもと変わんないだろう!」

 しかし、そんな澪の訴えは後輩に夢中の少女達の耳には入っていなかった。皆、初孫を可愛がる祖父母のように手を休めることなく梓に構い尽くしている。次から次へと手ずからお菓子を与える様子は餌付けに見えなくもない。
 鯛焼きを頬張り、まんざらでもない様子の梓に澪はしおしおと怒気を治めた。

(……まんざらでもない?)

 ご満悦といった梓の笑顔に少しだけ癒された澪は、本人がそれでいいのならと黙り込んだ。ふとして隣で同じく黙々と食べ物を口に運び続けている夏音を見た。
「なんだかずっと大人しいな夏音」
 時には誰よりも騒ぎまくる男が大人しい様子に違和感を覚える。ひっそり控えめで前に出ることのない夏音はただの深窓のお嬢様みたいである。

「いま失礼なことを考えなかった?」
「べ、別になにも」

 澪は変な部分で鋭い夏音に慌てた。はむはむと何かしら咀嚼し続けている夏音に再び何かを話しかけようと思ったが、何故だか躊躇われた。絶妙にタイミングを外されたような気がして、澪は釈然としないまま自身も口を閉ざした。
 昼食を摂った後にまた遊びを再開した律、唯、ムギだったが、梓は少し疲れたからとそれを断った。木陰で休む澪と夏音のそばに体育座りのまま、フリスビーに戯れる三人をぼうっと見詰めていた。
 澪は持参した雑誌に目を落としながら、どうにも居心地の悪い時間を過ごしていた。時折、梓の方をちらりと窺っては夏音の方へと視線をずらす。
 両者ともその表情から読めるものはなく、何を考えているか分からない。沈黙を守る二人を気にしながらも、澪は亀のような速度で雑誌を読み進めていた。

「あの、夏音先輩は外でバンドやったりしないんですか?」

 ふいに沈黙を破ったのは梓だった。木陰でごろりと寝転びだした夏音に遠慮がちに話しかけると、夏音はすっとその青い瞳を梓に向ける。

「しないね。俺はここでは他にバンドをやるつもりはないな」

 その答えに、澪は自分の心臓の鼓動がぐんと跳ね上がるのを確かに聞いた。迷いもなく放たれた言葉にどきどきとしてしまう。
 あまりにはっきりと答えられたせいか、梓はその理由を訊こうとしなかった。面食らったように口を開けて夏音の顔を窺っていたが、すっとその視線が澪に移る。

「澪先輩は、どうなんですか?」
「わ、私? んんー、外バンも面白そうだけど……私も外でやるつもりはないかな」

 少し考えたが、結局考えは夏音と一緒であった。今さら全く知らない他人とバンドを組むつもりもないし、今いちやる気のない部員ばかりということ以外は不満はない。
 梓は澪と夏音の答えを聞いて、何か喉に物がつっかかるような表情をした。腑に落ちないと言いたいのが目に見えたので、澪は向こうで遊び呆けている者達のフォローをしてやるかと口を開いた。

「普段はあんなんだけど、やる時はやるから」
「…………なんか、説得力が」

 言っておいて、澪もこの言い草はまるで「やればできる子」と一緒ではないかと思った。目に映る現実が澪の言葉を軽々と叩きつぶしてしまうのだ。

「だ、大丈夫だよ。そろそろ、きちんと活動するから」

 そう言うのが澪の精一杯である。梓は疑わしげな顔のままだったが「わかりました」と頷いた。

「ボートのりたいなー」

 するとその時、身体を起こした夏音が出し抜けに言った言葉に澪と梓は揃って目を瞬かせた。
 夏音の視線の先には、公園の池にのんびりと浮かぶボートがあった。

「乗ろう!」

 ばっと立ち上がった夏音は二人を交互に見ると、微笑を浮かべて言った。

「何でボート?」

 思わず疑問が澪の口から出た。

「そこに、あるからさ」
「あ、あの! ボートってお金かかるんじゃ?」

 梓がおずおずと訊ねたが、夏音は思い切り鼻で笑うと偉そうに言った。

「後輩が気にしない! 先輩に任せなさい」

 一度決めたことにはトコトン強引な男である。二人の了承を得る前にすたすたとボート乗り場の方へと歩いていってしまう。
 残された二人は顔を見合わせた。
「澪先輩はどうしますか?」
「せっかくオゴリって言ってるんだし、いいんじゃないか?」
 手持ち無沙汰にしていた梓の気分転換にもなるだろうと思った。あの三人のハイテンションから遠ざかるのにも丁度良い。
 二人は向こう側で騒ぐ三人に気付かれないように、さっさと先に行ってしまった夏音の後をついていった。

「ラッキーボートとボートってどう違うんだろう」
 料金の案内の前で首を傾げていた夏音の言葉に澪は船着場を見た。

「あれじゃないか? 手こぎのボートと足こぎの違いだと思う」
「あ、なるほど………手こぎでいこう」

 ぎらりと何か瞳に宿った夏音が即断した。先に料金を払い、係の者に案内されてボートに乗り込む。

「うっ。ちょっと狭いな」

 澪は先に乗り込んでオールを握った夏音の対面に座った。そうなると自然に澪は梓と並ぶことになる。隣にちょこんと座る梓の身体を自分の身体が否応なく比較されて、テンションが下がったのは秘密である。主に尻のサイズ的な意味で。

「いよーし! 夏音、いっきまーーーす!!」

 早速、ネタを口走る夏音はふん、とオールを回した。

「うぅ……意外に重いな」

 ぼそりと呟かれた一言が澪の心を突き破った。

「わ、悪かったな重くて!」
「あ、違うよ。そういう意味じゃなくて」

 慌てて否定するが、既に遅い。澪は、もし隣に座る軽量小型の生物だけだったならもっとすいすいと漕げたに違いないと落ち込んだ。

「大丈夫。俺、男だから。大丈夫!」

 そう言って夏音はオールを回す速度をアップさせた。驚くことにぐん、とスピードが増したボートは速度自体はゆっくりでも、体感的には不思議な疾走感を感じさせた。

「すごいです!」

 非力に見える夏音が意外にも力強いことに感激した様子の梓に、夏音はふん、と鼻を高くした。

(これがやりたかったのね)

 男としての力強さ、先輩としての頼もしさをアピールしたかったのだろう。ここに来て、夏音の狙いを察した澪はやるせなくなった。
 池の半ば程までやってきた夏音はゆったりとスピードを緩めた。周りには同じようにボートでのんびりと過ごすカップルの姿が見られた。

「………ちっ」

 そんな周りを見回した夏音が舌打ちした。気持ちは分からなくはなかったが、その秀麗な顔を歪めて悪態をつく姿は見たくなかった。
「うわー。カモ可愛いです」
 幸か不幸かそんな先輩の姿に気付いていない梓はボートの側に列をなして泳ぐカモの親子を見て顔をほころばせていた。親ガモの後を必死についていく小ガモの姿は確かに可愛らしい。澪はすかさずカメラを取り出してその愛らしさを写真に収めた。

「あ、ここから唯達が見える」

 向こうではしゃぐ三人の姿が遠目に見えた。

「あの。皆さん、本当に練習してくれるんでしょうか」

 遠くの三人を見た梓が俯きがちに漏らす。

「んー。たぶん」

 曖昧に返した夏音はやけにそわそわしていた。

「私……高校ではいっぱいバンドやろうと思ったんです。私がバンドやりたいって思うきっかけになった人達がいて、あんな風に誰かにすごい! って思わせるようなバンドをって……それで皆さんの新歓ライブの演奏を聴いて、この人達とならって思ったんです」

 その言葉の裏にある気持ちは聞かなくとも分かった。

「がっかり……させちゃったのかな」

 澪は核心に触れてみた。今も澪は梓の内心を想像でしか捉えておらず、実際に彼女が思うところがどんなものかを本人の口から聞いてみたかったのだ。
 意外なことに、梓はふるふると首を横に振った。

「皆さん、本当はすごいんだなって思うんです。けど、私ばっかりが気負っているのがおかしいのかなって思い始めてしまって」
「ううん。梓の態度が本当はあるべき姿なんだと思うよ」

 どことなく、スタンス的に共通点があると思った。澪はいつも放っておくとだらける部員の尻を叩いて練習に向かわせる役割を担っていた。時には、いい加減にしろと怒鳴りたくなる瞬間もある。この一年でそのさじ加減を少しは覚えたつもりではあるが。
「皆さんが私のこと考えてくれてるのは分かるんですけど、流石にずっとこのままじゃ……」
 そう言った梓の顔が曇る。澪は正面の夏音に視線を向けて、何か言葉を待った。夏音はオールをゆったりと動かしながら、真剣な表情で梓を見詰めていた。何か言いたげで、それでも口に物が挟まってじりじりするような表情。

「今は――」

 ぼそりと呟く夏音の声に梓が顔を上げる。

「今は分からないと思うけど……大丈夫」

 根拠のない台詞なのに、どこか説得力がある。梓は夏音の言葉をじっと聞いていた。

「ちゃんとしたこと言えないけど、きっと梓はこの部活を好きになる」
「…………」

 梓は根拠のない「大丈夫」を口にする夏音からさっと視線を外した。揺れる水面に視線を落とした彼女はひどく不安そうだった。


 しばらくして夏音が疲れたと言うので、ボートは早々に終了となった。それでも、三十分くらいは経ったはずである。
 残してきた三人の元に戻ると、いつの間にかさわ子がやって来ていた。
「梓ちゃーん」
 良い笑顔で衣装ケースを構えている担任に梓の顔はさっと青ざめていた。


★                 ★

 昨日の歓迎会の最後に他の部員達の態度に抑えきれなくなったのか、澪が絶対練習宣言をした。本気で怒った彼女の様子に呆気にとられながら三人はぶんぶんと光速で頷いていた。

「忘れてると思うけど、うちは軽音部だから!」
「いや忘れてないから」

 昨日の今日で澪の台詞を完パクした律はきりっとした態度で皆を集めてこう宣言した。澪はそんな図太い神経の幼なじみに呆れていたが、これで練習をやっと再開するのだと言葉を呑み込んだようだ。

「長かったな……」

 梓が入部してから二週間にもなる。話すべきことが山積みだったというのに、それすらも怠っていたので、まずは今後の活動について話し合うことになった。

「梓はギターだから……すでに二人もギターがいるからなあ」

 首をひねる律の言葉に唯がはっと顔を青ざめた。

「も、もしかしてクビとか……」

 自身について危惧するところがある唯の発言に夏音は笑った。

「それはないよ。ギター三本となればバンドの音がかなり変わる。今後の音楽の方向性にも関わるから、みんなとしっかり話し合いたかったんだけど……なあ?」

 ちらりと視線を向けられた三人の少女はびくりと反応した。話し合いたくても遊びまくっていた自分達のせいで土壇場で悩むハメになっているのだ。三人が氷の視線にびくびくと縮こまっていると、澪が提案を述べる。

「とりあえず、何曲か一緒に演奏してもらえばいいんじゃないか?」
「おお、そうだな。だとしたら梓には唯のパートを弾いてもらうか」
「はうっ!? りっちゃん! 私、やっぱりクビなの!?」

 わなわなと口許を震わす唯に律は声を立てずに笑った。

「ちがうちがう。ひとまず練習の時だけピンヴォーカルで歌ってもらうだけだから。ライブの時どうするかは置いといて、まずは練習する必要があるってことだろ?」
「律の言う通りだよ。アレンジで何とかなる曲もあるし、まずは梓に今ある曲を覚えてもらわないとね」
「まあ、夏音が歌うってのもアリだけど。梓、リード弾ける?」
「い、いえ! 先輩のパートはちょっと荷が重いです」
「と、いうことだ。だから梓にはまず唯のパートを覚えてもらおうぜ」

 律の説明に唯はほっと息をついた。同時に他を見回した律は誰も反論の声が上がらないのを確認すると、威勢良く叫んだ。

「よーし! じゃあやるぞー!」



「ごめんね。この曲はライブの音源しかなくって」

 最初に覚える曲を梓に聴かせることになり、カノンはラジカセにセットしたCDを再生する。
 流れてきたのは、ふわふわ時間である。この曲のギターは難易度が低い上、アレンジの幅も大きく残されている。手始めにコピーするにはもってこいだろう。

「いけるかい?」

 CDを止めた夏音がじっと耳を澄ませていた梓に問う。

「はい。これなら大丈夫です」

 梓は満面の笑みで答えた。

「頼もしいね。他には、これなんかはどうかな?」

 後輩の頼もしさについ笑顔が零れた夏音が続きを再生する。イントロのベースが流れてきた瞬間、梓の表情が大きく変化した。

「え……あれ……これ」
「どうかした?」
「いや、ちょっと聴いたことあるような気がして……すごく最近のことだったと思うんですけど」
「俺達のライブで聴いたんじゃないかな? 二曲目にやったんだよ」
「いえ。私、ちょうど三曲目が終わる瞬間に行ったので」

 それは、おかしい。この曲は去年のと併せて学校祭の音源しか存在していないはずである。後は、一般の手に渡るはずがないが爆メロでの―――、

「梓。もしかして、君は―――」

 夏音が続きを口にしようとした時である。

「このギターは……ちょっと難しいです」

 ギターのソロの掛け合いに差し掛かり、梓の眉間に皺が寄る。

「ああ、ここね。大丈夫たいしたことしてないから」

 その日は梓に曲を覚えさせる作業を延々と夏音が担った。飲み込みがよく、彼女はすぐに覚えていくので一日で二曲をモノにしてしまった。


 結局、今日はバンドとしての練習はなしだった。ムギが家の用事があると早退することになり、律も弟の買い物に付き合うとのことで同じく先に帰っていった。
 そんな中、残された唯は梓と夏音がギターを構えて向き合う様子を横目で眺めており、どこか居心地が悪そうだった。実力のある後輩というのは彼女にとって予想外だったのだろう。
 唯もこの一年で実力を挙げていることは間違いないが、基礎が梓と比べるとまだまだである。未だ感覚的に弾いている唯と違い、梓は理論をきっちりと頭に入れた上での演奏が巧みなのだ。
 だが、どちらも悪いことではない。この違いが後々に良い結果となって現れてくれることを今は願うばかりである。

「あの、夏音先輩。今日はありがとうございました」

 小さい頭のてっぺんがこちらを向いていた。夏音は自分が頭を下げられていると気付くのが遅れ、ふっと笑うと手を振った。

「大したことじゃないよ。そんなに丁寧にならないで」
「はい!」

 学校からの帰り道はいつもの顔ぶれではなかった。そそくさと帰っていった唯とは違って澪は部室でそのまま自主練習を続けており、夏音と梓と澪の三人での下校となった。

「どうだ、梓? やっと軽音部らしい活動ができたな」

 澪が梓に話しかけた。

「なんか、ここまで道のりが長かった気がします」
「確かにな。でも、これから梓も曲を覚えてみんなでバンドできるぞ?」
「はい! あの方々がやってくれるかが問題ですけど……」

 思い浮かぶのはキャーキャーと騒ぐ三人組の姿。おそらく、彼女の中では律と唯とムギの三人のイメージは相当浮ついたものになっているだろう。

「だ、大丈夫! 私がちゃんと言って聞かせるから!」

 自信満々とは程遠く、苦し紛れのような形で澪が強く言った。夏音は彼女がその役目をこなせた機会が幾つあっただろうかと記憶を探ったが、むなしくなってやめた。

「あの……こないだと似たような質問になってしまうんですけど。お二人はどうして軽音部にいらっしゃるんですか?」

 夏音は隣を歩く澪と素早く視線を合わせた。その言葉の端から伝わる梓の気持ちを同時に感じたのだ。

「お二人の実力なら、どこのバンドだろうと引っ張りだこじゃないですか。高校の軽音部にこだわる理由がわからなくて……こんな質問、すごく失礼だってわかってるんですけど。やっぱり気になってしまって」

 どう答えたら良いのか分からない様子の澪は言葉を詰まらせている。歩く速度を緩めず、夏音は紫がかった空を見上げて考えた。

「どう答えたらいいのかなー」

 何気なく、考えているうちに自然と言葉が口から滑り落ちる。

「俺も何回も答えを見つけようとしたけど、いつの間にかどうでもよくなってたりするんだ。それで……どうでもよくなってる時って、たぶんすごく満足してるんだよね。考え出したらキリがないことって、考えないでいる時の方が楽しいよね」
「は、はあ?」

 夏音の返答に困惑の声を返す梓だった。夏音は深く息を吐くと、前髪を払った。

「そうだねえ。わかんないや……コレだ! って答えが見つからない。だけど、これだけは言えるよ。今は軽音部のままがいい」

 ぱっと後ろを振り返って、そのまま歩き続ける夏音。梓はやはり納得した様子はないが、その表情を見て夏音は嬉しそうに笑った。

「君にもきっとわかるよ。ていうか、分かってほしいな」

 夏音の笑顔を真っ正面で受けた梓は思いがけず言葉を失ったようだ。

「私……憧れてるバンドがある……って前にも話したと思うんですけど」

 二人は何か意を決したように顔を上げた梓の言葉を黙って聞いた。

「憧れてるっていうか……純粋にすごいなって思うバンドなんですけど。年も近いのに、あんなに圧倒されたの初めてで。なんか、やんなきゃ! って思わされたんです。あんな風に堂々と大勢の人の前で音楽をやりたいって。いてもたってもいられないってあんな感じなんですね。だから、高校では絶対にバンドやりたいと思ったんです」

 徐々に梓の語り口調に熱が帯びる。瞳を輝かせて、語るそのバンドに如何に影響を受けたのか。二人の前でそれを話す梓はそれを語る目的も忘れたようにバンドについて話し続けた。
 しかし。語られるうちに出てくる「爆メロ」「途中で終わった」という単語にはっと顔色を変えた澪と夏音は視線を交差させた。

「あ、あのさ……そのバンドの名前ってなに?」

 おそるおそる澪が尋ねると、

「Crazy Combinationっていうバンドです」

 返ってきた答えに、澪と夏音は青ざめた。



「で、緊急会議ってなんじゃい?」

 翌朝、軽音部に皆を集めた夏音と澪に他三名の代表として律が尋ねた。朝早く集められたことへの不満が顔に滲み出ている。

「梓はとあるバンドに影響されたことで軽音部に入ったらしい」

 重々しく、夏音が口を開く。

「そのバンドに憧れてるといってもいい。自分もあんな風にバンドやりたいなって思っているらしいんだ」

 夏音の説明を黙って聞く三人。まだ話をつかめていない様子で、曖昧な表情で頷いた。

「そのバンドは年が近くて、最近大きな舞台でライブをやったバンドだ」
 小出しに情報を出す夏音に焦れたような表情を見せた律は、ある瞬間に「え?」と何かに気付いた様子で、
「ま、まさかだよな」

 半ば確信に近い問いかけを夏音にぶつけた。その視線を受けた夏音はそっと首を縦に動かした。

「そのバンドの名前、Crazy Combinationっていうんだってー」

 どこか他人事のように響いた夏音の言葉に悲鳴が起こった。

「み、見られてたのか!?」
「あずにゃんが私たちのファン!?」
「まあまあまあ」

 三者三様の反応に対して夏音は隣で気難しい顔の澪に視線を送った。その視線に気付いた澪は困ったように眉を顰め、口を噤んでいた。

「律、見られてたっていうけど、まるで悪いことみたいに言うなよ」
「そういうつもりじゃないけどさ。なんか、全然信じられなくて。私らが呼んだ人以外に知り合いが見てたなんて思ってもいなかったじゃん」

 あれだけの人が集まっていたのだ。知り合いがいてもおかしくはないのだが、彼女達はあのイベントのことは完全に外での話だという意識だった。自分たちの外の世界での出来事として捉えていただけに、あの場にいた人間がほぼ全て他人だと思っていたとしても不思議ではない。

「もしかして、他にもあの場にいた人がいるかもしれないね。でも、考えてみたらそれこそありえない話ではないよ。ていうか、今は誰が俺達を見ていたかじゃなくて、梓が俺達のバンドに対して思ってることなんだけど」

 問題は、そこである。興奮を抑えきれないまま、三人はとりあえず口を閉ざした。夏音と澪はわざわざこれだけの話に皆を集めた訳ではないのだ。

「俺達、軽音部と一致してないんだよ。彼女の好きなバンドとさ」
「え、それって……」

 その事実に与えられた衝撃の大きさは夏音にとっても並のものではなかった。純粋に喜んでよいものか迷う事態である。夏音に告げられたことに三人は戸惑いを隠せない様子であった。

「私達の演奏、聴いてたんじゃないの?」

 一体、どうしてそんな事態に陥るというのか。純粋に疑問を浮かべた唯に夏音は昨日梓から詳しく聞いたことを説明する。

「周りの人間が大きすぎてステージが見えなかったんだってさ。あの小さい身体で人波をかきわけて、何とか前列まで辿り着いた時には俺達のステージが終わる寸前だったそうだよ。ダイブまでして姿を確認しようとしたらしいんだけど、床に落ちてだめだったらしい……ウケるんですけど~」
「全然ウケない!」

 ぽつりとクラスの女子の真似をした夏音に律はかっと目を見開いて突っ込んだ。
「あぁ~。なんかすっごい飛んでた子がいたけど、もしかしてアレかな」
「たしかにすっごい飛んでたわね~」

 一瞬のことなのに、ステージから眺めていた一同の記憶にしっかり刻み込まれていた。最後の曲にとんでもない高さまで飛んだ人の姿。

「でも、曲とか聴いて分からないもんかねー」

 腕を組んだ律が唇を尖らせた。仮にも、姿を見られなかったとはいえ、曲はしっかりと聴いて
いたはずである。

「新歓ライブはセットリストもだいぶ変えたし、まず俺達の構成が違うでしょ」

 ヴォーカルが別の人間になるだけで、かなり曲の印象は変わる。爆メロと同じ曲は二つしかやっていないだけでなく、彼女は最後の曲しか耳にしていない。

「クマさんの音源を聴かせた時は何か引っ掛かった様子だったけどね。でも、音源と実際に聴くのとじゃ印象も違うし……何より、気付く要素がないんじゃないか」

 最後に触れた部分こそ、夏音が議題にしたいことだ。

「純粋に憧れてるバンドがさ。まさか、こんなゆるーい人間ばかりだなんて、思いたくないだろう」

 息を詰まらせる三人に、ようやく澪が口を開いた。

「みんな、どうするつもりなんだ。梓、もう軽音部から心が離れかけてると思う」
「え?」
「少しも自覚なかったのか? みんながちゃんと練習しないから、梓も呆れっぱなしだぞ」

 そう口にする澪の口調にも若干呆れかえっているようなニュアンスが含まれていた。

「もし、本当のこと聞いたらショックかも」

 その言葉に言い返せる者はいなかった。澪自身も他人事ではなく、悔いているのだ。現状は、皆の責任である。

「で、でもさ。先輩方が憧れのバンドだったなんて! ってなるかもしれないだろ?」
 楽観的な意見が律から出ても、賛同の声は上がらない。おそらく口にした本人も、それはないと気付いていた。

「ていうか、何で爆メロに出たことを誰も言っていなかったんだろう」

 ふと口に出した夏音。

「俺達、あの子に隠してばかりじゃないか」
「そ、それは……もっと軽音部に馴染んでから、色々明かしていこうって話し合ったじゃん」
「話し合ったけど、なんでそれで納得しちゃったんだろうって……今さら思ったんだ」

 立派なバンドとしての実績である。誇るべき点しかなく、隠すべき理由など本来はないのだ。

「それは……あの時のバンドのことで騒がれるのはいやだねって」
「俺のこともあるし、へたに声かかったりしないようにって、そう決めた。でも、それって梓のことを最初から信用してないってことなんだよね」

 夏音は顔を曇らせ、俯いた。

「俺のことだって……隠してばかりだ」

 沈黙。

「歓迎してるつもりで、仲間にしようとしてないじゃないか」

 沈黙は続く。痛々しく肌に触れるような沈黙を、少女達は打ち破る術がなかった。それぞれの胸に最近の出来事が鮮明に蘇る。
 歓迎と称して、梓を振り回して楽しんでいてばかりだったこと。楽しく、早く打ち解ければ良いとやっていたことが、梓にとってどんな仕打ちだったのかを思い返す。
 誰もが無言でいた中、顔を上げた唯がこんな提案を口にした。

「あのね、それなら―――」

 唯の提案を聞いた一同は、少しだけ明るい顔に戻り、力強くその提案に賛同した。



★        ★

「はぁ」

 手を休めた途端に口から漏れる溜め息は梓の気力ごと床に落ちていったような気がした。赤いボディの相棒をスタンドに立てかけ、梓は力無くソファに埋もれた。
今日、夏音から教わった曲の復習をするためにギターに触れていたが、どうにも力が入らない。
これからのことを考えると、どうにも気力が湧かないのだ。
 梓にとって幸運だったのは、立花夏音と秋山澪。その二人の先輩が自分を音楽をやる部活に所属していることをきちんと自覚させてくれること。つい、うっかりすると目的を見失ってしまいそうな現状で、自分の立ち位置に楔を打ち込んでくれる。
 軽音部に入部して二週間に届くこの時分、ここが潮時かという思考が膨らむのをずっと抑えている。あの部活で嫌いな人はいない。ただ、仲が良いだけでは音楽は続かないのだ。そもそも、音楽でつながった試しが未だにない。

「あ、そういえば音源貰ったんだ」

 新歓ライブの時に録音した音源を家でも聴けるようにと夏音が手渡してくれたCDがある。
 実際にコードやテンポを思い出しながら弾くよりは数倍も効率が良いに決まっている。そうと決まれば、鞄から無機質なCD―Rを取り出した。
 部屋にあるオーディオ機器はどれも洗練されたデザインのハイエンドな物が取りそろっている。完全に親の趣味によって増えた機材が梓にお下がりという形となって所有するきっかけとなったのだが、お下がりとはいえ十分高級機材である。
 シュイン、と音を立てたこれまた細部にまで洗練された造りのコンポがトレイを開いて待つ。
 全てで五つのトラックが収録されてあるが、全ての曲をきちんと聴いたことがない。これも良い機会だと、ソファにゆったりもたれながら梓は流れてきた曲に耳を集中させた。

「え……?」

 もう一度、曲を確かめる。確認作業。しかし、間違いはなかった。

「うそ……やっぱり。先輩達が、あのバンドの曲……を!?」

 梓は何度も自分の間違いではないかと、祈るような気持ちで曲を聴き直し続けた。




「どういうことですかっ!?」

 全員が揃い、梓を待っていたところであった。お茶を囲み、会話も少なめに構えていた一同は部室に現れて開口一番でCDをテーブルに叩きつけた梓に瞠目した。

「あ、梓? どうしたのかな、そんなに荒れちゃって」

 そっと尋ねた夏音をきっと睨んだ梓は猛然と噛みついた。

「先輩、わかってたんですよね! 私が好きなバンドの話したもん! これ、先輩達なんですよね!」

 すかさず、額を手で覆った夏音の反応に梓は「やっぱり」と何かを確信した様子だった。

「こんなのって……こんなの、ひどいです……私、先輩達の演奏に憧れて軽音部に入ろうと思ったのに……」

「あ、梓ちゃん?」

 ぎゅっと拳を握りしめ、震えだした梓の肩にムギが手を置こうとするが、梓は勢いよく振り払った。

「もっと、真剣に音楽やってる人達なんだって思ったのに! 追いつくためにもっと頑張らなきゃって思った私の決意がバカみたいじゃないですか!」
「………………」

 誰一人として梓の決意に対して返す言葉がなかった。

「とにかく落ち着け、な? そのことについてはちゃんとこれから話そうと思って梓を待ってたんだ」
「私が……私が全然ダメだから、バカにしてたんですか。先輩達のバンドに入れないくらい下手だから、わざと練習もしないで……」

 それは絶対に違う、と誰もが即座に心に浮かべたものの、じわじわと梓の目に溜まっていく涙に息を呑んだ。

「最初から相手にされてなかったんですか……私なんか……っ!」

 誰が何を言う間もなく、梓はその小柄な身体を俊敏に動かして、

「梓っ!」

 部室を飛び出していった。

「あずにゃーーんっ!!!」

 床にぺたりと倒れ伏して必死に両手を伸ばす唯の叫びは虚しく響いた。


★           ★

「はあ。勢いで飛び出してきちゃった」

 梓は学校を出てから勢いのまま、帰り道とは違う方向に歩いていた。ふと冷静になってしまえば、取り乱して喚き散らした自分が恥ずかしくなる。

「もう顔出せないよ……」

 部を辞めるにしろ、あんな風な態度をとってしまえば後味が非常に悪い。もう少し理性的に話を切り出すべきだったと梓は後悔していた。
 梓は勢いのまま歩いていたものの、ふと思いついてとある場所を目指していた。学校からしばらく歩いて、パチンコ屋の隣に突然現れるライブハウス。梓の友人がよく出演しているハコで、割とプロ志向のバンドが集まると聞いている。
 ライブハウスの前に置かれた看板に、今日のブッキングが書かれており、どのバンドも知らなかったが、梓は自然とその中に吸い込まれるように入っていった。
 出演者でもないのにギターを背負った少女が浮いてしまわないか不安だったが、誰も気にする様子がないどころか、同じように楽器を背負った人間の姿が見られた。
 当日チケットは前売りより少し高くなる上、ワンドリンクのお金も合わされば、決して安いとは言えない。しかし、そんなものは気にもならなかった。
 梓は、一つの決意を胸にこの場所を訪れたのだ。
 外のバンドでやるということに対して、淡い覚悟しか抱いていなかった。やはり部活動としてやった方が身動きも取りやすいし、時間が多く取れる。外でやることの難しさも考えれば、軽音部というのは都合が良かったのだ。
 それでも、その軽音部がだめならば。選択肢は一つしかない。

(外なら、私を受け入れてくれるバンドが一つでもあるかもしれない)

 その前に、外バンの空気というものを味わってみたいと思ったのだ。
 最前列に陣取った梓は、一つ目のバンドが始まると、ぐっと眉間に皺を寄せ、食い入るようにその演奏を見詰めた。

「ちがう……」

 二つ目のバンドも、その次のバンドも演奏レベルは高い。演奏のテクニックは、個人レベルでは軽音部の人間を上回っている人もいる。 
 それでも、何も感じなかった。あの時、自分を呑み込んだ凄絶な音の感触がない。この人達は何も与えてくれない。

「上手いのに、何で……」

 周りの人間との温度差が違うことに気付く。すると、自分はこの場においてひどく場違いな存在なのではないかとぞっとした。
 演奏の途中なのに、逃げるようにライブハウスから出た梓はふらふらとした足取りで家に帰った。



 それから三日後。この数日、梓は放課後が近づくにつれて気分がどんどん憂鬱になっていた。軽音部に顔を出さなくなってからの間、部室に行くか行かないかの選択肢の間でふらふらと気持ちが揺れているのだ。その二つがどちらにせよ自分の意志表示となってしまうことは分かっていたのだが、梓は黙ってサボることを選んだ。
 このままけじめをつけずに自然消滅するという方法は考えていない。
 それでも、

「このまま逃げちゃうってのも、いいかな」
 梓は知れず零れていた自分の声に驚いてしまった。ふと頭をよぎっただけの考えを実際に口にすると、後ろめたさが噴き出てきたのだ。

「(でも、このままじゃいけないのは分かってる)」

 物事に白黒つけなくては気が済まない。自分の性格は自分が一番理解している。やはり、自分が軽音部を去ることになったとしても、退部届は先輩方に直接渡すべきだと思う。それに登下校の最中や移動教室の度に先輩と顔を合わせないかどきまぎする生活は精神的によくない。

「でも、今日はちょっと……」

 さらっと部活に顔を出せるほど面の皮が厚くはない。
 とりあえず今日も先輩にメールして休むことにしよう。そんな風に納得して、教室を出た時である。

「確保~~~~っ!」
「お攫い御免っ!」

 聞き覚えのある声と共に梓の体はひょいと担がれる。

「え、え!? キャーーーッ!!」

 二人がかりで梓を江戸時代の駕籠かきよろしく、えんやこらと運ぶ犯人の予想はつくが、現在進行形で拉致られている身としては天井と向かい合って運ばれている状態は恐ろしい。
 視界の端に見える同級生の驚いた顔を置き去りにして、びゅんびゅんと移動する犯人達がどこに自分を連れていこうとしているのか。
 考える間もなく理解した梓は目を閉じて、大人しく運ばれていった。

「到着! 梓が軽くてよかったー」
 やっと下ろされたことで、そっと目を開けた梓。自分が部室の風景を前にしていることがどこか非現実的であった。気まずさもあってしばらく拝むことはないだろうと思っていた景色だ。
 実際にはそんな気持ちなど感じる暇も与えられないまま、運ばれてきたわけだが。

「梓っ!」

 ぽかんとしている梓の名を呼んだのは、まさに自分をここまで運んできた夏音だった。

「最近、体調が優れないみたいだけど元気だった?」

 その質問を聞いて何て白々しいのだろうかと梓は呆れてしまった。誰がどう見ても仮病だと分かるメールの文面を頭から信じているとでも言うのだろうか。

「は、はい……すみません」

 そんな夏音と目を合わせることができず、顔を逸らして答えた梓に夏音は満足そうに「そっか!」と笑った。

「あのね! あずにゃんのためにムギちゃんが専用マグカップ買ってきてくれたんだよ!」

 横から唯が弾むような口調で声をかけてくる。ぎこちない笑みを浮かべて梓がようやく顔を上げると、心から嬉しそうに目を細める五人の顔が目に入ってきた。
 まだ嫌われたわけじゃない。その笑顔にほっとする反面、三日前の出来事が頭をよぎってしまう。

「あ、あの……」
 自分から何かを言い出さなくてはならない。梓がもごもごと言葉を探していると、ぽんと肩に手を置かれた。

「あずにゃんもう部室に来てくれないのかと思ったよ~」

 以前と変わらず抱きついてくる唯の言葉に、強引に連れてきた張本人のくせにと思ったが、その温もりが何だか懐かしくなってしまい、何か言おうと思っていた言葉が引っ込んだ。

「そうだぞー? あれからちゃんとバンドの練習するってとこだったのに」
「本当だけど、律が言うとすごく嘘っぽく聞こえるな。でも、あれから私達も気が引き締まったっていうか、気合いを入れ直されたっていうか」
「キアーイって俺達ほど似合わないバンドもないけど、おおむねそんな感じかな」

 絡みついていた腕を解き、唯が梓の瞳をぐっと覗き込んできた。

「あのね。あずにゃんが私達のバンドを好きだって思ってくれてたの、すっごく嬉しかったんだ
よ。だから、私達の演奏を聴いて欲しいの」
「え?」
「いや、かな?」
「いやでも無理矢理きかす! 部長命令で梓はそこに座れーい!」

 律の威勢の良い声に梓はびくりと肩を揺らした。返事をする暇もなく、ふらふらとベンチに座らされた梓は先輩方が既に楽器のセッティングが済んだ状態であることに気が付いた。
 梓が息を呑み、ヴォーカルマイクの前に立つ夏音に視線を吸い寄せられた。

「(あれ、夏音先輩がヴォーカル……?)」

 ふと思い返す。軽音部が自分の知るバンドだったなら、あの時聴いたヴォーカルの声が唯のものではないことは確かだ。ということは、本来のヴォーカルは夏音だったということなのだ。
 また新たな事実だと純粋に梓は驚いた。
 アンプはいつも無造作に置かれている配置ではなく、まるで誰かに向けて音を飛ばすように、梓が座るベンチの方へと揃って向けられていた。
 頷き合い、一斉にこちらに視線を送ってきた五人の姿に梓は言いしれぬ高揚感を感じた。されるがままにこの場に連れてこられ、言われるがままに大人しく座っているわけだが、これから始まる演奏にドキドキと心臓が高鳴るのがわかる。

 あの演奏が、目の前で。この自分だけのために。

 しんとなる。

 五人の間に何か、目に見えない繋がりができた気配。アンプに近づいた夏音と唯が音を、滑り出すように生まれてきた音が膨らんで、音の圧が窓をびりびりと震わせる。
 ごくりと唾を呑み込んだ梓は改めて至近距離で感じる音の実体に驚いた。ライブハウスのスピーカー越しの爆音とはまた違って、目の前で生まれたギターの音はこの狭い空間でダイレクトに梓へと伝わる。
 考える前に感じているとはこういうことを示すのだろう。凄い、や上手い、をびゅんと後に置き去りにして、ただ一つだけ。
 これがいい。
 ああ、これがいいんだと梓は納得した。外のライブハウスで見たオリジナルバンド。彼らに足りなかった物の正体はまだ分からないが、はっきりと言えるのは、この人達の演奏は確かに自分を惹き付け、今も尚こうして梓を音の虜にしている。
 律のドラムや唯のギターはその辺のライブハウスにはもっと上手い人はいるし、澪のベースもよく聴けば、ミスをしている部分もある。だが、そういった一つ一つから彼女達が放つ演奏の生の息遣いに触れているようだ。
 真っ直ぐと梓を見据えて歌う夏音の鮮烈な輝きが梓の目に映える。宙に翻る長い髪、逆光の中で舞うようにギターを弾き、その力強い声であの広い空間を切り裂いていた。イメージが蘇る。ステージで梓が束の間とらえた人の正体が分かった。
 今まではっきりとした姿が見えていなかった。今こそ、梓は自分の好きなバンドを、その全貌を目撃しているのだ。
 聴いていて、雄大なのにどこか切なくなる。自分の中にある感情のどこかをちくちくと刺すような痛みを包み込む音。
 全てを包み込んで、その気になれば梓を押し潰してしまいそうな、そんな音。
 伝わる。音のはどこまでも広がっていくのに、気持ちは直線上の動きでクる。
 ああ、この曲はこういう進行だったのか。何ていう曲なんだろう。何をテーマに歌っているのだろう。誰が作曲したのだろう。
 訊きたいことが、たくさん溢れてくる。
 ソロを弾く唯の姿はぽわんとした得体の知れない不思議系女子の面影を潜め、梓の目線を釘付けにした。
 それを見て、悔しさが沸き上がる。自信が無いような態度を見せておいて、こんなギターを弾くなんて。梓が持っていないものを持っているではないか。
 リズム隊は突っ込み気味な律を抑える澪とのコンビネーションが絶妙で、曲のグルーヴを支えている。キーボードは全ての音を包み込むように荘厳。
 アウトロが終わり、揺らぐギターの残響がまだ頭に残る。
 演奏を終えた五人が梓を見る。

「あ、ああああああ梓?」

 途端に泡を食ったように梓の名を呼ぶ夏音に梓は首をかしげた。

「大丈夫!? どこか調子悪いの?」

「え、いえ。調子なんて……」

 思わず頬に手を当てて、硬直した。

「え?」

 頬が濡れている。思えば視界がぼんやりとしていて、瞬きをするとぽろりと涙が零れた。

「も、もしかして私達の演奏が泣くほど気にくわなかったとか?」

 不安を口にする律がドラムセットから出てきて梓の前でしゃがみ込む。

「あ、そうじゃなくて……その、演奏、ありがとうございます」

 頭がこんがらがって、梓は今の演奏に対して惜しみない拍手を送った。
 一同は顔を見合わせ、晴れない顔をする。

「も、もしかして辞めるとか言わないよな?」

 青ざめた顔の律にどよめく場。

「あ、あのッですね!」

 まずい、何か言わねばと梓は口を開く。何かを、言うのだ。

「わ、私感動して……これ、そういう涙です。多分」

 涙を拭って鼻水声のまま、梓は語り出した。

「私、分からなくなって……ここ数日どうして軽音部入ったんだろうって……どうして新歓ライブであんなに感動したんだろうって………しばらく一緒に居てみればきっとわかると思って一緒にやってきたけど……」

 その「けど」の後に続くだろう言葉に五人は顔を落とした。しかし、梓は四人の予測を裏切って全く別の話を始めた。

「外のライブハウスで外バン観たり、こんな自分でも受け入れてくれて、ちゃんと練習してるような………でも、だめなんです。私、軽音部じゃなきゃだめなんです! 先輩達の演奏に一目惚れしちゃったんです! ダメダメだけど、それでも! 一緒に音楽やるなら先輩達とじゃなきゃ……やです」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を真っ赤にして、梓は本当の気持ちを明らかにした。梓自身、まとまりがつかない複雑な気持ちを持て余していたのに、先ほどの演奏は梓にそれらの感情を固めさせたのだった。

「梓ちゃん……」

 ムギがティッシュとハンカチを駆使して梓の顔を拭っていく。「ずびばぜん」と大人しくなった梓を呆然と見詰めていた一同は、自然に溢れてきた笑顔で万歳と抱き合った。

「梓が帰ってきてくれたぞー!」
「よがっだよ~~~よがっだ~~あずにゃん」
「やっぱり、やればできると思ってたよ私は」
「調子に乗るな!」

 そうして笑い合うその風景を横目に見た梓は、ほんのり微笑んだ。こういう空気はあまり得意じゃなかったけど、これからずっと付き合っていくもの。先輩方のやりとりが微笑ましく感じてきたのだ。

「あ、それはそうと。この件はひとまず一件落着、ってことで」

 急に平静に戻った律が切り出すと、側にいた夏音が頷く。夏音はごそごそとベースアンプを前に出してきて、いそいそと動き回りだした。

「あのな、梓。もう一つ私らから重大な発表というか、告白があるんだ。とある男の正体についてなんだけど」

「へ? 何の話ですか?」

 全く話についていけない梓は困惑する。

「本人も、私らもさ。本当はもっと前から教えようと思ってたんだけど、タイミングっていうのがさー。わかってくれるよなー梓なら」
「は? え、ええ、まあ?」

 全く分からない。言っていることの半分以上も分からない。とりあえず肯定しておいたものの、それより梓はベースを構えてセッティングをしている夏音が気になって仕方がなかった。

「Good」

 と一言呟いてアンプをいじり終えた夏音が梓の方を向く。気が付けば、狭いベンチには他の四人が押し合いへし合いで座っていて律などは「待ってましたー」などと声援を送っている。
 一体、何が始まるのだろうかと梓はそわそわした。流れから推察すると、これから夏音がベースを弾くということなのだが。

「では、1stアルバムの一曲目から。Blue Shows」

 一発目の音を聴いた瞬間、梓は顎を落としかねない勢いで口を開けて固まった。
 何だこれは。
 急にこの部室が別次元に引っ張り込まれてしまったような錯覚。音の吸引力が梓の聴覚をぐいぐいと引っ張っていく。もっとよく聴かせろと脳みそが耳から飛び出してしまいそうになる。
 何より。
 この曲を梓は知っている。どこで聴いたか思い出そうとすると、父の顔が浮かんだ。はて何故だろうと記憶を辿ると、父が持つレコードにこんな曲が入っていたような気がするのだ。
 あと少しのところまで出かかって、思い出せない。だが、梓は確かにこの曲を覚えているし、もっと重大な何かを思い出そうとしている。
 しかし、そんな思考も演奏に気を取られて引っ込んでしまう。
 ダイナミクスの付け方が人間離れしている。電気を通しているのに、こんなにも伝わる音。音の粒一つ一つの表情がここまでハッキリと聞き分けられる演奏など、聴いたことがない。
 テクニックなどは言わずもがな。ベースとは、こんな音も出せたのかと驚愕させられるばかりで驚きすぎて一転して冷静に演奏に集中することができるようになった。

「(夏音先輩、ベースもやるって言ってたけどここまでなんて……夏音先輩は……あれ? カノン……)」

「えっ!?」

 つい、声が漏れた。

 先ほどから頭の中でバラバラに蠢いていた思考が急につながったのだ。

「うそ……カノン・マクレーン……何で?」

 思い当たる人物はただ一人しかいなかった。カノン・マクレーンという名のベーシスト。アメリカで活躍していたプロのミュージシャンの名だ。
もはや確信だった。梓は夏音の顔をじっと眺めて、過去に映像で観た人物と相違ないことを確認した。

「(完全に本人~!?)」

 思えば、何故気付かなかったのだろうか。名前も一緒で、ただ苗字が立花という日本のものだったというのもある。
 名前が違う。髪の色が違う。日本語を喋るとは思っていなかった。そもそも日本で学生をやっているなどと思ってもいなかった。
 だが、一番の理由は、

「女の子じゃなかったのー!?」

 たまらず叫んだ梓の台詞に夏音はぴくりと反応したが、そのまま演奏を続けた。少し演奏が荒くなったのは気のせいだろうか。



 演奏が終わり、四人分の拍手が鳴り響く。夏音はぺこりと頭を下げ、ずっと立ったまま自分の演奏を聴いていた梓の方を見たのだが。

「あ、あぅ、あぁ……」

 奇妙な呻き声を漏らしながらガクガクと震える姿があった。

「あ、梓?」

 予想していた反応と異なり、困惑した夏音はそっと彼女に近づいた。そんな彼女の様子を不思議に思ったのか、律が声をかけた。

「あのな、梓。こいつは実は―――」

「あ、あのっ!」

 律の声を遮って駆けよってきた梓に夏音は「は、はい!」と声が上擦る。

「ほ、本物だッ!! 本物だ本物だ!! 何でどうしてカノンが!?」

「はあ!?」

 その後数分間、部室は騒然となりパニックに陥った梓はそんな彼女達を置き去りにして大層喋った。

「あ、違うんです! あのサインください!」「いや、私じゃなくて父が!」「ていうか何で!?」「これで男性だったなんて!」などと連射砲のごとく繰り返していた梓だったが、深呼吸をして落ち着かされてから、ようやくゆっくりと語り出した。

「私、気付きませんでした!」

 否、いまだに興奮は冷めやらぬ状態だったが。くりくりとした大きな瞳を輝かせて、じっと自分を凝視してくる梓に夏音はとりあえず落ち着くよう再度促した。

「と、取り乱してごめんなさい。あの、夏音先輩は、カノン・マクレーン……さんで間違いないんですよね?」
「そうだよ。もしかして梓なら知っているんだろうなって思ったんだけど、なかなか言い出せなくて」
「いいいいいえ! いいんです! 私こそ気付かなくってごめんなさい! あの、先輩のことは父がファンで。前に付き合いでレコード聴いたり、DVD観たりしてたのに、いざ現実に目の前にいるなんて思ってもいなくて」

 そりゃそうだろうなーと同じような経験のある澪がうんうんと頷いた。

「私、まだ年の近い女の子が凄いことやってるんだなって思ってて。純粋にすごいし、曲も大好きだし、憧れてっていうか刺激になってて」

 つっかえながら話す梓の言葉はきちんとまとまりきっていないが、その思いはよく伝わってきた。

「でも、女の子だと思ってたし! まして自分の学校にいるなんて考えてもいなくて! とにかく好きなんです! 尊敬してます!」

 十分すぎるほどに、伝わる。言ってから顔を真っ赤にして恥じらう梓の手を取った夏音はそれをぐっと握りしめた。

「ありがとう。とっても嬉しいよ」
「はぁ~」

 梓は握りしめられた手の感触に恍惚の笑みを浮かべている。まるで憧れの人物と出会った時のリアクションそのもので、夏音としてはやっぱりこういうリアクションを見るのは久しぶりなので悪い気はしない。
 時折、道ばたなどで自分を知る人と出会うことはあるが、ここまで熱烈なのは久しい。

「とにかく、梓。何で外でバンドやらないのかって前に俺と澪に訊いたよね? 俺が何でこの場所で音楽をやるのか。きっと梓にも分かってくると思う」

 その特殊な立場の人間が、あえてこの高校の部活動に身を置くことの意味。普通に考えて梓には信じられない話であった。しかし、夏音の話を聞くと不思議と納得できそうになる。
 まだ梓がつかめていないものの正体を、彼は知っているのだろう。

「もっと俺達、向き合おうよ。いっぱい音楽やって、楽しく過ごしてさ。そうやって軽音部、やっていかないかな」

 その一言がとどめだった。

「ば、ばいぃ」

 再び梓の涙腺は決壊した。


 ※年末年始と忙しくてPCに触れる暇がありまえんでした。定期更新目指してまた今年も頑張ります。



[26404] 第六話『振り出し!』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/02/01 01:21
 中野家では、父も母も音楽を愛する人間である。大学のジャズ研究会で知り合ったのがきっかけで付き合いが始まったというくらいで、その音楽的嗜好はジャズを初めとするブラックミュージックによっている。
 そのような両親に育まれた彼女は生まれた時からマイルス・デイヴィスやチャーリー・パーカー、ルイ・アームストロングといったジャズの巨匠達の音楽に触れてきた。
 もちろん他ジャンルの音楽にも広く触れるようにしてきた。彼女の父は月にレコードを十枚以上も買い込み、その半数が続出する最新の音楽。古いものだけにとらわれず、常に新しいものを求める姿勢は父から学んでいる。
 そんな父が一時期からとあるミュージシャンに執心するようになった。父だけではなく、母も引き摺られるようにハマっていった。いわゆるお熱ってやつである。
 二人のハマりっぷりは日本のアイドルに心酔する人々と重なる程だった。梓はそんな良心の特定のミュージシャンに関連する物を一挙に買い求めていく姿が珍しく、自身も興味を持った。
 その人物の名はカノン・マクレーン。アメリカを拠点に活動するミュージシャンだ。
 クリストファー・スループの秘蔵っ子。スループ・ファミリーの寵児。業界でスループ・ファミリーの名を知らぬ者はいない。いたらモグリ。ジャズの女性歌手ナターシャ。サキスフォンのモーリス。ピアニストのスコット。ウッドベースの名手・コーディ。名を挙げていけばキリがない。
 梓とは二つしか年が違わないのに、幼い頃からプロの第一線で活躍しているというそのミュージシャンは梓の意識に強くひっかかった。
 世の中には子供の頃から天才と呼ばれ、大人に混じってプロの世界に身を置く者がいる。だから、カノン・マクレーンもそのような特別な存在なのだろうと捉えていた。
 心のどこかで対抗心はあった。育つ環境も異なれば、そういう道を歩む人間がいてもおかしくはない。
 子供ミュージシャンなんて呼ばれてもてはやされているだけの、ちょっとだけ、他より上手いだけの存在。自分と根本的に違うということはないだろう。自分も努力さえすればそのような場所にいけるはずなのだ、という認識だった。
 そんな自惚れは曲を聴いた途端にバラバラに砕かれた。
 打ち負かされた。
 ああ、これは違う。根本的に同じ、なんて間違いであった。
 何かが根本的に違うのだ。梓は幼いながらもその立場にいる者には、それなりの理由があるということを理解した。
 それからは、競い合うといった意識は切り捨て、単純に自分の励みにするようにした。追いつく、追いつかないといった問題などではなく。
 自分もやらねば、といった向上心に結びつき、成長の糧へと。そして、一種の憧れへと変化した。
 とはいえ。
 梓が尊敬するミュージシャンは世の中に大勢いる。カノン・マクレーンばかりに執心することはなく、それでも尊敬するミュージシャンの名を挙げてみよと問われれば、迷いなくその名を挙げるだろう。
 カノン・マクレーンの存在は梓にとってそんな位置に収められた。
 相変わらず両親はファンとして彼の活動を見守り、梓はその横でそれとなく、けれどしっかりとカノンの音楽を耳に入れる。
 ある日、カノン・マクレーンが活動を休止すると聞いた時は純粋に驚いた。
 やはりまだ十代だから、他にもやるべきことがあるのかもしれないと推測した。必ず戻ってくるという告知があったらしいので、いつかまた戻ってくるのだろうと確信めいたものを感じていたから、両親のように嘆き悲しむようなことはなかった。
 それから二年ほど経った現在、その名前は梓の記憶の中に埋没するでもなく、特別浮き上がってくることもなかった。

 そう、あの瞬間までは。

『サインください!』
『弟子にしてください!』

 実際に有名人に会ったら人はどうしようもなく、ミーハーになってしまうのだと梓は心から学んだ。

「で、でもしょうがないよね」

 と言葉で言いつくろっても、何のフォローにもならない。今思い出しても顔から火が噴き出そうなほど恥ずかしい。
 梓はあの日、一つの壁を乗り越えることができた。自分が軽音部としてやっていくための、最初の難関を突破したのだ。そう安堵した途端、心のもやがすっきりと晴れた気がした。ここ最近、ずっと胸につっかえていたものがなくなったのだ。
 涙を浮かべてぐずる自分を、先輩達は温かい笑顔で受け入れてくれた。
 心が解放されるとはあのような感覚なのだろう。
しかし、畳みかけるようにあんな告白が用意されているなどとは夢にも思わなかったのである。
 油断したところに、ズドンだ。何の覚悟もなしに、一番どでかい事実をあっさり打ち明けられた梓が混乱してしまったのも無理はない。
 という慰めを自分に施した梓である。
とにもかくにも、羞恥のあまり部室を飛び出した梓は、事の原因である張本人様に追いかけられ、あっさりと部室に連れ戻された。

「(普通、全速力で追いかけてくる?)」

 昔観た、ターミネーターを思い出させるくらいの恐怖だった。
 その日、すごすごと部室に連行された梓はニヤニヤと擬音が聞こえる気がする、あまり直視はしたくない笑みを顔に張り付けた諸先輩方の中で居心地の悪い時間を過ごすことになった。

 翌日。登校中に昨日のあんな事やこんな事を思い出していた梓は顔を真っ赤にしたり青くしたりと大忙しだった。

「(それでも)」

 背中には数日ぶりに学校に背負っていくギターケース。たった数日のことなのに、この背中の重みや、この少しだけ歩きにくい感覚が懐かしく感じてしまう。
 通学路には同じ制服の生徒達。ほとんどの生徒は自分と同じように楽器を背負うことはない。
 この中で、楽器を背負っている自分が何だか誇らしかった。自分は軽音部なのだと胸を張って歩けるような気がするのだ。
 梓の歩調はだんだんと陽気なリズムに乗っていく。わくわくと静かに高まってくる感情のせいで自然と頬が緩む。

「あっ」

 梓はふと顔を上げた先に見つけた人物を見て、小走りで近づいていく。

「夏音先輩おはようございます!!」

 後ろ姿だけでもすぐにわかった。桜高の男子の制服を着ている人で、あんな長髪の人物はいない。その前に、梓と同じように背中にギターを背負っている時点で気が付く。

「あの……夏音せんぱっ――」

 梓はたった今元気に挨拶した相手から寸とも応答がなかったので不思議に思い、顔を覗き込んだ。
 そこには、平時の美貌の三分の一も面影がない立花夏音の寝ぼけ面があった。

「せ、先輩?」

 ひどい顔、という至極率直な感想が浮かび上がった瞬間、梓は頭に浮かんだ言葉を記憶の彼方に叩きつけるという力業を成し遂げた。
 まさか尊敬する人物にそのような失礼な感情を抱くはずがない。
 しかしこの時、梓はそれが自分の中の大切な何かを守るための防衛反応だったことに気付くことはなかった。
 気を取り直した梓は爽やかな笑顔で何事も無かったかのように再び夏音に声をかけた。

「先輩おはようございます!」

 良い笑顔だった。その笑顔を受けた相手は「うぅっ」と呻くと、眩しそうに顔を覆った。やがてその限界まで細められた目が徐々に開かれていく。今の今まで隠されてあった透き通るようなスカイブルーの瞳が現れた。

「あ、梓……おはよう」

 声に覇気は無かったが、やっと相手が自分を認識してくれた。そのことに満足した梓は、そのまま夏音の横に並んで歩いた。

「先輩、大丈夫ですか? どこか体のお加減がよくないとか」
「いや、そうじゃないんだ。ごめんねこんなんで……朝、弱いんだ」
「………そ、そうなんですね! 私も起きるの苦手なんですよねー」
「そうかそうか」
「は、はい。そうなんです」
「ねむい……」

 会話が長続きすることは無さそうだった。梓は夏音の意外な一面を知って、軽く驚いていた。別段、驚くようなことでもないが、この人物も当たり前のように自分と同じ人間なんだということが新鮮に思えたのだ。
 そのまま、特に会話を交わすこともなく歩いた。梓はこれはこれ、と静かな時間を楽しんでいたのだが、途中で出現した律が夏音の懐に掌底を入れたことによってその静謐な空気はぶち壊されたのだった。
 夏音は良いのを一発喰らった後に一気に意識が覚醒したようで、律に憤慨し始めた。その横で一連を見守っていた澪が知らん顔で梓に挨拶をしてきたので、梓は顔を寄せて澪に尋ねた。

「あ、あの。あれ止めなくていいんですか?」
「ああ、いつものことだから」
「そ、そうなんですか」

 若干引いた梓だったが、すぐにぶんぶんと頭を振って「こんなことにいちいち引いてたら軽音部になじめない!」と意識を改めた。
 が、しかし。「いや、本当に改めて良いものだろうか」と咄嗟に理性がブレーキをかけてきたことは彼女にとって幸いなことだった。


 放課後になり、部室へと直行した梓は元気よく扉を開けた。

「こんにちは!」
「ああ、梓。早いな」

 まだ部室には澪の姿しかなかった。彼女は一人、ゆったりとソファに腰掛けて雑誌を膝の上に広げていた。

「律たちはみんな掃除で遅れるってさ」
「あ、はい」

 掃除ならば、仕方がない。梓はギターを隅に立てかけると鞄をベンチに置いた。
 それから梓がきょろきょろと部室を見回していると、再び澪が話しかけてきた。

「どうしたんだ梓。きょろきょろして」
「いえ、改めて見ると……すごい機材ばかりだなと」
「ああ。確かにそうだよな。私はもう慣れちゃったけど、普通に考えれば普通じゃないよな」

 梓はそう言ってどこか遠い目をする澪を不思議そうに見詰めた。

「これってやっぱり……」
「ああ。ほとんど夏音の私物だよ」
「やっぱり、そうなんだ……」

 改めて、すごいと思った。おそらく自分がどう頑張っても手が出せないような機材など幾らでも持っているのだろう。
 現にこんな高級アンプを学校の部活に持ってきているくらいなのだ。これが彼の機材の一部だと考えて間違いないのだろう。

「びっくりしちゃうよな」
「澪先輩は最初から知ってらっしゃったんですか?」
「ううん。最初は私も気付かなくて。カノン・マクレーン自体は知ってたんだけどさ」
「すっごくわかります。だってこんなところにいるなんて思わないですもん」
「ははっ、そうだろ? 私なんか初めて生で聴いたあいつの演奏に嫉妬してしまったくらいだしな。今考えたら上手くて当然だったんだもん」

 澪はそこで一つ息をつくと、雑誌をたたんで横に置いた。

「それからほぼ一年間くらい、カノン・マクレーンのことは私とあいつの間の秘密だったんだよ」
「え、他の方々は知らないままだったんですか?」
「そう。夏音もかなり悩んだみたいなんだけど、言い出すことができなかった。私は少しでも自分が信頼されてるんだって思うと、誰かに言うつもりにもならなかったな。一緒に軽音部で過ごして、たまにベースを教えてもらえる関係に何も不満はなかったしね」

 梓は、目の前の少女が一年間もあのカノン・マクレーンにベースの手ほどきを受けていたのかと思うと羨ましかった。

「あれ、でも皆さんもうご存じなんですよね?」
「うん。もうみんな知ってる。まあ、いろいろとあって知られることになったんだ」
「やっぱりいきなり聞かされると驚いてしまいますよね」
「そうそう。あれはすごいタイミングだったなあ。なんていっても夏音の両親とあのマーク・スループが一度に押し寄せてのカミングアウトだったんだから」

 梓は寸でのところで呼吸が止まるところだった。マーク・スループの名が突如としてこの会話に出てくるとは思いもしなかったのだ。
 やはり、とんでもない名前がぽんと出てくるあたり、とんでもない世界に関わっているような気がしてきた。ふと、違う世界に繋がってしまったような感覚はワクワクすると同時に少しだけ恐ろしい。

「夏音先輩のご両親って。あの……」
「そう、あの……」

 先を言う必要はなかった。偶然にも二人して俯く。

「ま、まあ。こういうのも次第に慣れていくよ。それに、私達が相手をしているのはあくまで立花夏音なんだから」

 澪は割り切っているような口ぶりだが、実際に彼女が心からそう思っているかは定かではない。梓は、少なくとも自分はそんな風に簡単に割り切ることはできないだろうと思った。

「そう、ですよね」

 昨日、夏音がまだ混乱する梓にこれだけは覚えておいて欲しいとことわってきたことがある。

『ここにいる俺は、君が知っている人じゃない。立花夏音だよ』

 梓は今もって彼の事情を知らない。ミュージシャンとしての彼の側面に当たる光の部分だけを知っているだけである。
 彼の過去も、ここに至るまでの話もまだ聞かされていないのだ。彼の性格すら、まだ出会ってから間もない梓が「知っている」というには不十分だろう。
 だが、その言葉の意味は何となく察した。常識的に考えれば、同じ部活で付き合っていく者がいつまでも一線引いたような振る舞いを続ける訳にはいかないだろう。
 どんな理由があろうとも、彼は一人の高校生としてこの場所にいるのだ。大勢に自らの素性を明かしていないことから、梓が取るべき態度は分かるのだが。

「私、まだ信じられなくて。まだ、どうしても畏まっちゃうかもです」
「うーん。それはしょーがないかもしれないな。私の場合は不思議なんだけど、すぐに慣れちゃったんだ。結構人見知りだから、そういうのに時間がかかるくらいなんだけど、いつの間にかって感じ。でも、頑張ってそうする必要はないと思うぞ」
「そう、でしょうか」
「うん! ゆっくりでいいから、慣れていけばいいよ。それに変に意識してる方が疲れちゃうぞ」
「はいっ!」

 それから他の三人が部室にやってくるまで、澪と二人きりの会話は続いた。



「あ、あの……練習はいつするのでしょう?」

 全員が揃った瞬間、梓は胸の鼓動が再び高まっていくのを感じたのだ。これから、やっと軽音部で練習ができるのだと思っていた。
 しかし、彼女達は当然の流れだと言わんばかりにお茶に取りかかった。なし崩し的にお茶をするハメになったことで梓は思い切り出鼻をくじかれた。

 気が付けば、いつものティータイムだった。

「あ、あのー。皆さん、練習はこの後するんですよね?」

 おそるおそるといった体で梓が口にした言葉に、全員の動きがぴくりと止まった。

「や、やだなー梓。あったり前だろ!?」
「そうよ梓ちゃん。腹が減っては戦はできぬって言うでしょ? はい、まだタルト食べるでしょ?」
「ムギちゃん私もおかわりー」

 激しい既視感に襲われた。もうこの手には乗るまい、と思いつつも目の前に差し出された苺のタルトの誘惑に負けて何も言い返すことができなかった。仕方なくちまちまとタルトを口にした。
 良い具合に暖かい部室は確かにのんびりとさせる環境ではあるが、こんな緩みきった空気からどうやって練習まで持って行くというのか。
 いまだにメリハリをつけて練習とティータイムに向かう先輩方の姿を目撃したことがない梓は疑心暗鬼に陥りかけていた。

「(ううん。あんなに良い演奏する人達だもん。きっと練習の時はびしっとやるに違いない)」

 演奏だけは確かなのだ。そう信じることにしたのだが。

「夏音先輩は何をやってるんですか?」

 目線の先にある夏音の姿に梓は目を疑った。
 いつの間にか夏音の手元には携帯ゲーム機が握られていた。先ほどからリズミカルにボタンを押す夏音は完全にゲームに集中していて、梓の言葉など耳に入っていないようだった。

「ああ、だめだめ。夏音はゲームやりだすと全く喋らなくなるから」

 横から入った律からの情報に唖然とした。

「そ、それってかなりダメな系の……」

 家で一緒にゲームをして遊んでいても全く楽しくないタイプの相手だ。よっぽど集中しているのか、一つのことをやりながら口を動かすことができないほど要領が悪いのか判断に困るやつである。
 よく注意して観察していると、どうやら何かの音ゲーに熱中しているらしい。

「(プロのミュージシャンが音ゲーって……)」

 決して悪いことではないが、どこか釈然としない。

「(あっ、もしかしてこうやってリズム感を鍛えるのかも!)」

 よくよく考えればそんなはずはないのだが、梓はどこか夏音について何でも好意的に解釈しようとしていた。

「夏音先輩。それ、私もやってみたいです!」

 身を乗り出して夏音に叫んだ梓だったが、その直後に夏音がバンッと机にゲーム機を置いた音でびくりと肩を跳ね上げさせた。

「Damn it!!! パーフェクト逃したっ!! ゲームの最中に話しかけないでくれないかな!?」

 端整な顔立ちが怒りの形相になって自分に向いている。梓は予想外に目の前の相手を怒らせてしまったことに狼狽して、じわりと涙が浮かぶのを止められなかった。相手の主張が子供レベルでくだらないとかは頭からすっぽり抜けて。

「す、すみません! わ、私……私も特訓したくて……」
「くぉら夏音っ!」

 瞬時に横合いから伸びてきた拳が夏音を机に沈めた。言わずもがな、軽音部最後の良心である澪だ。

「そんな下らないことで後輩泣かすなっ!」
「ご、ごめんなさいごめんなさい!」
「私に謝らないで梓に謝れよ」
「ごめんね梓っ! 俺、ゲームのことになると頭に血がのぼっちゃって……許して欲しい、この通り」

 と言う夏音は机に突っ伏したまま梓に謝罪を表した。

「い、いえ。そんな気にしないでください」

 別の意味で泣きそうになった梓は、力無く椅子に座り込んだ。
 ショックで呆然としている間にいつの間にか時間が経過し、気が付けば下校時刻まで一時間を切っていた。

「はっ! またこの流れ!?」

 我にかえった梓が目にしたのは、「もうこのゲーム飽きた~」と伸びをする夏音の姿とよく分からない話に耽っている唯と律。食器を洗うムギ。そして、ひどく申し訳なさそうに梓を見詰めてくる澪の姿だった。

「ま、まあ。ゆっくりやってこうよ」

 澪がぎこちない笑みを浮かべて言った言葉に、やっぱりダメかもしれないと思った梓だった。



※あら、短い。

 まさに表題の通りに振り出しに戻る、ですね。前とは違うんですが、基本がダラダラという。

 大丈夫です。おそらく。



[26404] 第七話『勘違い』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/02/01 15:32

「やあ七海。いつにも増してげっそりしてるね」

 夏音は廊下の向こうから危なげな足取りでやってきた七海に心配そうに声をかけた。新年度が始まって以来、ずっと忙しそうな夏音の友人は目許に立派なクマをこさえ、姿勢は常にうなだれ気味である。一見、ハードワークを重ねるサラリーマンに見えなくもない。

「ああ、君か。ちょっと生徒会も色々あってね。まあ生徒会だけじゃないんだけど」
「そういえば新しい子に男の子はいるの?」
「頑張って三人ほど獲得できたんだけどさ……まあ、問題児がいてね」
「へえー。問題児って?」
「……そのうち分かると思うよ」

 七海は暗い顔でそれだけ言い残して、去っていった。遠ざかる背中から放たれる侘びしさに何故か夏音は胸がしくりと痛んだ。
 首をかしげて友人を見送ると、夏音は再び歩き出したのだが。

「あ、夏音さんっ!」

 今度は桜高に二つとない豪華縦ロールをぶら下げる堂島めぐみが満面の笑みを浮かべて夏音に近づいてくる。

「新入部員が入ったんですってね!」
「ああ、そうなんだよ。もっと入ってくれるかと思ったんだけど、一人だけだったんだ」
「ええ、ええ。それでもイイことだと思います! うちの部は経験者も結構入ってくれて、二年生が青い顔して必死になってますよ」
「そうか。バトン部みたいなのは人数の制限があるんだよね」
「個人は関係ないですけど、団体となると……はい!」
「そう考えるとうちの部はそういう心配はないから気楽でいいや」

 夏音が暢気な笑いを漏らすと、めぐみはふと首を傾げた。

「でも、なかなかバンドで六人っていないですよね」
「うーん……あまり知られてなかったりするけど、いないわけではないんだよ。それに、ほら。大勢でやるのは慣れてるし」

 夏音が含みをもたせて言うと、めぐみは「ああ!」と納得したようだ。

「こういうロックベースのバンドサウンドだと難しいかもしれないけど、色々とトライしてみるつもり」
「そうですか。頑張ってくださいね! 我々ファン倶楽部も応援していきますので!」

 ぐっと握った拳を振り上げためぐみに夏音は苦笑した。

「とりあえず、うちのベースの方のファン倶楽部と仲良くね……」
「別に仲が悪いってわけではないですよ? 結局のところ、軽音部を応援するって部分で同じ理念を持ってるんで、いがみあったりとかはないです。何ていうんですかね。ライブの時、どれだけ盛り上がってるかとか、声出してるとか。曲完璧に覚えてるとか、そういうのでライバル? みたいな感じです」
「へ、へえー。全く分かんないけど、それならそれでいいんだ」

 彼女達には彼女達の世界が築かれているのだろう。その場で深くは追求せずに、夏音はめぐみと別れた。



 夏音は、歩きながら思った。この生活に順応している自分のことや、ごく自然な振る舞いでいられるこの空間のことを。
 軽音部以外にも年の近い友人が出来た。ただ教室で言葉を交わすだけの人もいれば、挨拶するだけの関係の人もいる。
 それでも、夏音にとって全てが真新しい世界だったのだ。そんな世界にもいつの間にかすっかり溶けこんで早一年が経つ。二年生になって一年の時のクラスメートと離れたことで不安もあったが、次第に打ち解けつつもあった。友人の友人はまた、自分の友人となり得るのだった。
 この場所の居心地が良すぎて忘れがちになるが、夏音は自らの立場のことを深く考えないわけにはいかなかった。
 自分がどういった存在であるか。立場や、それを継続するために成すべきことがあるのだ。
 現在の夏音は、自分の築いた地位をかろうじて保っている。日本に来る以前に比べて仕事の量は十分の一以下。演奏する機会も断然、減った。
 幾つもバンドを掛け持っていた夏音は、その活動範囲の広さで特徴を持っていたミュージシャンである。かつて所属していたSilent Sistersのようにレーベル所属でコンスタントに活動をすることもあれば、プロジェクトとして参加するような場合もある。
 特に夏音は一介のベーシストというより、音楽製作、つまりはプロデュースの才能を発揮していたこともあって、仕事の間口は非常に広かった。夏音の年齢を考慮するとなかなか考えられないことだ。
 ベーシスト個人としての、様々なメーカーとの契約もある。
 流石にそれら全てに関わる業務を個人でやることはできないので、間にジョンのようなエージェントを置くことになるのだ。
 ジョンは某有名楽器メーカーのやり手営業だったが、既にほぼ夏音の専属と化している。ジョンがいないと、夏音のミュージシャン人生は即座に終了するだろう。
 ショウビズの世界は一度落ちたら、なかなか這い上がるチャンスはない。現在も、夏音がこうして遠く離れた地で生活していられるのも、これまでの功績や積み上げたこうしたキャリアの特殊性が大きく関わっているのだ。
 作曲なら、どこにいてもできる。高校生を続けながらも、密かに仕事をこなすことの厳しさは身に沁みているが、夏音は何でもやるつもりだった。
 それでも、この生活は期限つきだということは初めから承知している。ずっとここに留まることはできないし、また以前の生活に戻ることを夏音の周りも理解しているからこそ、目を瞑ってもらっているということも。
 周りというのは、あくまで夏音のこれまでの関係者であって、新たに知り合った人々ではない。
 彼女達は、いつか夏音がいなくなることをどのように考えているのだろうか。
どうしても自分がいなくなった後のことが頭をよぎってしまう。
 一時、留まっているに過ぎない自分がいなくなることを悲しんでくれるだろうか。
 流石にこれまで自分が彼女達に全く影響を与えなかったとは思っていない。自分が与えた影響を実際に目に見えて発揮する彼女達を知っているからこそ、予想がつく。
 きっと皆、悲しんでくれるのだろう。
 ショックを受けて、ひょっとしたら引き留めようとするかもしれない。それでも夏音は戻らなくてはならない。
そうなったとしても、彼女達は自分がいなくなった後も音楽を続けていくのだろう。
 結局のところ、この生活から抜け出す覚悟ができていないのは自分自身なのだ。
人は、大切な人が死んでも、生きていく。どれだけ悲しみに打ちひしがれても、それでも前に進むものだ。
 それならば、ただ夏音が別の場所で生きていくことになった程度で、彼女達の生活から大きく失われるものはないのだ。
 夏音は潮時を探っていた。探しているというより、その瞬間が視界に入ってこないようにしたいのだ。怯えて、葛藤している。
 春休みにポールに出会ったことは夏音の中で大きな心境の変化を起こしていた。かつての自分を色濃く思い出すきっかけとなる人物からの突然の誘いは、夏音の心を大きく揺さぶった。
 彼は今すぐではないと言っていたが、おそらく「その時」が訪れるのはそれほど遠くないだろう。世の中は自分にばかり都合よくまわってくれない。
 夏音が心から納得できる未来は来ないだろう。そんな確信に近い予感があるのだ。
それが決まったわけではないが、自分に優しい未来を想像してはいられない。
 軽音部には新入生が入った。今年はただ一人だけの入部となったのだが、五人いれば軽音部は存続できるし、来年になれば新たな新入部員が入るかもしれない。
 去年までとは状況が違い、夏音がいなくなることで軽音部に迷惑をかけることはなくなった。
 夏音からしてみれば、梓はダイヤの原石だ。しかも才能だけではない。自分で自分を研磨することができる逸材である。
 彼女ならば、夏音が作った曲のギターもいつか弾きこなせるようになるだろう。
 ヴォーカルは唯と澪に任せた。強引な決定に彼女達は戸惑っていたが、やらせてみれば形が見えてきたことで、自信にもなったはずだ。
 これで、バンドは成り立つ。

「さあ。さよならの準備だけは整えておかなくちゃ」



★          ★

「これ、譜面だよ」
「わあ! ありがとうございます!」

 前から渡すと約束していた曲の譜面を手に取って梓の顔が輝く。軽音部のオリジナル曲が一つできるまでには、様々なパターンがある。
 誰かがふと紡いだメロディから押し広げていくこともあれば、夏音やムギが曲の骨子をほとんど作り上げた上で肉付けしていくといった作業になることもある。
 前者の方は、譜面を用意しない場合が多い。共同で少しずつ曲の構成を練っていく作業はまた刺激的で面白いものだ。後者に至っては、譜面を用意した上で変更点などを書き込んだり、とどちらかと言えばこちらの方が「らしい」感じはする。
 譜面が読めない者がいるので、結局は耳で覚えさせることになるのだが。
 夏音が梓に手渡した数曲分の譜面は、夏音がそうした変更点などもまとめて手を加えた完成版といっていいだろう。

「これで一気に曲が覚えられます!」
「それは楽しみだね。一度コピーしてみたら、自分のやりたいように変えてみてもいいよ」
「え? でも、変な風に変えちゃったら……」
「そういう時は俺達もちゃんと意見を出すから大丈夫だよ。特に唯は時々変な手癖あるからね。譜面の上が正解ってわけじゃないよ」
「はいっ! 頑張ります!」

 元気な返事に夏音は口許を緩めた。意欲もあり、努力家であろう彼女は言葉通りすぐに曲を覚えてくるのだろう。彼女に一度吸収されたフレーズがどんな色がついて出てくるのか、夏音は楽しみにすることにした。

「ねえ夏音くん。ちょっといいかしら?」
「なんだいムギ?」
「あのね。まだそういう時期じゃないって分かってるんだけど……一応、新曲のデモ、作ってみたの」
「本当!? 聴かせてよ!」
「うん。ちょっと今回は今までより変わった音色が多くなってるから、変かもしれないけど」

 そう言ってムギは自分のiPodから伸びるイヤホンを夏音に差し出した。夏音は両耳にしっかりとイヤホンを装着すると、ムギに頷いた。
 頷き返すムギが再生ボタンを押した。

「Wow……」

 思わず、漏れてしまった感嘆の声。
 確かに、初っぱなから聞こえてきた電子音は今までのムギからは想像できないほど「かっ飛んで」いた。

「ねえムギ。これ、機材増やした?」
「やっぱり分かるの夏音くん! すごーい!」
「TORITONに入ってないエフェクトがっつりかかってるんだけど、タッチがムギっぽいからかな。ワーミーでも導入したの?」
「そうなの! 私も色々やってみたいなーって」
「そ、そうか」

 ニコニコとおっとり笑顔の彼女がとんでもない引き出しを開きつつあるのではないかとぞっとした夏音であった。

「この曲、また今までとは雰囲気が違うね。飛び道具とかたくさん使えそうな感じなのに、爽やかっていうか。デモの時点でこの爽やかさとエグさが相反し合ってるのが恐ろしいよ」

 実際に曲をつけていく光景が思い浮かばないレベルである。夏音は、まさかムギがこんな曲を持ち込んでくるとは思ってもおらず困惑したが、単純に面白いとも思った。

「今度みんなでやってみよう!」

 夏音が力強く返した返答にムギは嬉しそうに目を細めた。

「おーおー! お二人さん盛り上がりやがってー! 私にも聴かせろー!」

 突然割り込んできた律がムギの肩に手を絡ませる。ムギは急に体重をかけて背後から抱きついてきた驚いたように目を大きくしたが、すぐに楽しそうな笑い声を上げた。

「りっちゃん重いよー」
「なにをー!? この羽根のように軽い私に何を言うか。これが澪だったらムギは今ごろ床に沈んでるぞ」
「何だと律っ!」

 いつもの戯れを夏音は微笑を浮かべながら見守っていたが、ふと律が持ってきていたペダルケースに注目した。

「あれ、律? そのケースってもしかして」
「あん? ああ、これね。そうそう実はこれ買っちゃったんだよねー」

 途端に嬉しそうな声を出す律。注目の中、律はもったいぶったような動作でケースを開けた。

「あ、ツインペダル!」

 澪が驚きの声を上げた。その反応に気をよくした様子の律は腰に手をあててふんぞり返った。

「私のし・ん・へ・い・き。まあネットで安かったから買ってみたんだー。好きなドラマーが昔使ってたっていうし、レビュー観ても今の私にはぴったりなやつ選んだつもりなんだけどさ」

 間近で真新しいツインペダルを覗き込んでいた唯が慌てたように立ち上がった。

「り、りっちゃん!」
「なんだー唯? うらやましいのか?」

 ギタリストである唯がツインペダルをうらやましいと思うはずないのだが、そんなツッコミがなされる前に唯から衝撃の言葉が飛んだ。

「これ、何!?」

 その言葉に一瞬で足の力が抜けた律は机に頭をゴツンとぶつけた。

「さすが唯だなあ。予想の斜め上をいく」
「ま、まあ。唯はあんまり機材とかに興味ないから」

 苦笑を浮かべた夏音と澪が全くフォローになっていない言葉を紡ぐ間にふらふらと立ち上がった律はきょとんと首を傾げる唯を恨めしそうに睨んだ。

「そうだった……お前はテレキャスとストラトの違いも分からないような機材音痴だったなコノヤロウ!」

 それは、機材音痴というよりただの無知ではないかと夏音は思った。
少し離れた所でこの様子を傍観していた梓は、唖然とした表情で突っ立っている。若干呆れかえっているような表情だが、その視線は律のペダルに釘付けになっていた。
 どんなことを考えているのか見当も付かないが、少なくとも梓の中では律に対する評価が上がったに違いない。
 新たな機材を求める裏には、向上心があるものだ。財力にかまけて次々と機材を揃える者がいる中、普通の高校生である律にとっては安い買い物ではなかったはずだ。
 夏音も、密かにそんな律を見直していた。
 目を閉じると、一年生の時に交わした会話を思い出される。

『この曲、本当はツインのフレーズでやって欲しいんだけどな』
『えー? ツインペダルなんて持ってないし、難しそうじゃん』
『まあワンペダルでも足がもたっちゃう律には難しいか』
『なにをーっ!?』

 彼女も、確実に前へと進んでいる。
 一年前とは実力も違う彼女は、いつもそれを買う機会を窺っていたのだろう。新しい武器を求めて。
 爆メロ以降、やる気を失ったように見えた彼女達もきちんと自分なりの模索を続けてきたのだ。
 そう考えると、たまらなく夏音の中のやる気が燃焼し始めた。

「じゃあ律! 新曲に早速それ入れてみよう! それで今までの曲のべードラもちょっと変えていこうか!」
「えぇー! ちょっ、いきなりは無理だって!」
「やれ」
「いきなりエ○ァネタ絡めんな!」


 その後の練習は滞りなく進んだ。今までの曲のおさらいをすると同時に、梓が覚えた曲を本人も参加して行った。
 唯のレスポールに代わって入った梓のムスタングの音。違和感こそあるが、曲はすんなり通った。

「音作りも変えていかないとな」

 顎に手を当てながらぽつりと漏らした夏音だったが、演奏してみて好感触を得ていた。梓のギターがどうしても浮いてしまうのは、今後の課題である。
それも、これから練習を重ねて試行錯誤を繰り返していけばいいだけだ。絶対に良くなるに決まっている。それは夏音の中では希望ではなく、決定事項だった。

「あぁー。慣れないツイン。だるー」

 練習が終わった途端、いち早く機材を片付けた律はどさっと音を立ててソファに倒れ込んだ。ただでさえ短いスカートなのに、人目を気にしない振る舞いは男の子として夏音の目には刺激的だ。

「律……いい加減に男の前だってことを自覚してくれよ」

 夏音が常日頃から抱えている悩みである。眉を顰めて苦情を出してきた夏音に律が鼻を鳴らして笑んだ。その笑い方が何となく艶めいた風に感じられて、夏音は「律のくせに」と心で吐き捨てた。

「夏音くんのえーっちいー」

 その言い方にいらっとしたのは夏音だけではなかったことは間違いない。

「調子にのるなっ」

 よく律のことを「はしたない!」と注意する澪が黙っているはずもない。割と真剣な口調で言われたことで律は口を尖らせて「何だよ~」と不平を漏らす。

「なんか、澪先輩。お母さんみたいですね」
「お、お母さんっ!?」

 後輩が発した感想に澪はとてつもないショックを受けたようだ。もちろん梓は律をたしなめる澪の行動を評して言ったのだろうが、澪にとっては「お母さん=年配」といったネガティブなイメージがわき上がったのだろう。

「梓はすごい逸材だなー。ナチュラルに澪にダメージを与える才能があるぞ」
「ええっ!? わ、私そんな変なつもりで言ったんじゃありません!」
「いくら澪ちゃんが大人びてるからってお母さんって感じはないよねえ?」
「そうねー。私も澪ちゃんはどちらかというとお姉さんって感じかも~?」

 仲間達のフォローもあってか、澪は何とか立ち直った。

「でも、律と澪の関係って友達っていうか親兄弟みたいに思える瞬間があるよね」
「そうかー?」

 律が夏音の言葉に曖昧に笑って返す。

「あーたしかにそうかも。友達よりもっと近い感じの時あるよね」

 唯も何だかんだで他人を観察しているようだ。夏音も同意見で、この二人の関係は基本的に親友、幼なじみといった言葉が当てはまるのだろうが、時折彼女達のやり取りや会話の空気感から、身内に対するような気安さを感じるのだ。

「あの、澪先輩と律先輩は昔っからのお知り合いなんですか?」
「おいおい知り合いなんて他人行儀なんてもんじゃないぞ梓~? 私と澪はそう……ベストフレンドってやつだな」
「べ、ベストフレンド!」

 言葉の響きに感銘を受けた唯が顔を輝かせて繰り返した。

「ステディな関係ともいう」
「律、たぶんそれ違う」

 律の発言にぶっと色々噴き出した澪に代わって、夏音が律の勘違いであろう発言を正す。

「まあ、りっちゃんたら……」

 何故かムギがぽっと頬を染めて律を見詰める。どういうわけか、その眼差しには妙な熱が込められていた。

「そ、そうだったんですか。私……そういうの別に、あの……お二人がよければ、いいと思います……たぶん」

 若干ヒキ気味なのを隠せていないが、梓は先輩方に現れた新事実に何とか適応しようとしていた。思い切り勘違いなのだが、こういうのを呑み込めてこそ大人の階段を上るんだと自分に言い聞かせている心の葛藤が駄々漏れだった。

「あ、梓! そんなんじゃないから! この馬鹿は言葉の意味わかってないだけだからな!?」

 あらぬ方向に視線を逸らし続ける梓の肩を掴んで必死の形相の澪に、ようやく律は自分の発言の威力に気付いたらしい。
 ぽりぽりと頬を掻いて、白い歯を見せてあっけらかんと笑った。

「あー……なんか、珍しい語彙を出したくってさ……すまん!」
「すまんで済むかー!」

 普段、その鉄拳で律を沈める澪だったが、怒り心頭のあまり滅多に拝むことのできない伝家の宝刀・上段回し蹴りが律の懐に炸裂した。
 実際には足が上がりきっていないので、腰あたりに入った澪の蹴りに律が白目を剥いて倒れた。

「み、みお…………せかい、ねらえるよ」

 不思議な言葉を遺して、律は逝った。

「り、りっちゃーーん!!?」

 最近、よく叫ぶ唯は泡を吹いて倒れる律に駆けよるとその上体に手を回した。明らかにグロッキーな律の顔に視線を落とした唯は、ふるふると首を横に振って、天井に向かって慟哭した。
「りっちゃん……りっちゃーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!」
 

「やれやれ」

 展開についていくことが面倒くさくなった夏音はさっさと帰り支度を進めることにした。

※なんか日常回みたいのが多いですね。もうすぐ、お話進みます。



[26404] 第八話『カノン・ロボット』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/02/25 15:31



「ひ……ひぃっ!!」


 梓は、何で今さらそんな反応が自分から出てしまったのか理解に苦しんだ。
 実際に「事」が起こったのは、起こり始めたのは三十分以上も前の話なのに。
 ぶるりと体を震わせる梓にちらりと視線を向けた澪の眼差しは慈愛に満ちていた。

 あれは、そう。とっくに何かを受け入れている目だ。

 梓は視線をずらして律を見た。
 この「事」に関して、専売特許を誇ってしかるべき彼女は口を固く閉じて押し黙っていた。つい今の今まで他愛無い話に没頭していたはずの彼女は、やや顔を青ざめさせ、先ほどから絶え間なく聞こえてくる音に耳を傾けていることが雰囲気から分かる。
 テンポコントロールが命のドラマーからすると、余計考えたくない事態なのだろう。
 この場に唯とムギはいない。唯はお隣のおばあちゃんが育てている野菜の収穫を手伝う約束だとかで部活に顔を出さずに帰った。ムギは家の用事らしい。
 二人がこの場にいれば、単に感心するだけのような気がした。
 澪の手元にある一つのメトロノーム。そのボリュームのノブを回したばかりの澪の手は、そのままの形で固まっていた。
 いくら慣れている澪でさえ、平静ではいられないようだ。

 絶え間ないベースの音。楽譜に表したらオタマジャクシ同士の隙間が皆無であろうフレーズを繰り広げている中、それを弾く人間の様子はまさに揺るぎない。
 こんな超絶フレーズをずっと集中して弾き続けていられることでさえ、驚嘆に値するというのに。
 弾き始めてから、一切テンポが変わっていないのだ。
 BPM一つ分のズレもない演奏は、音の連鎖としか言いようがなく、人の奏でる音とは思えない。

「ほんと……機械仕掛けだよな」

 律が苦々しげに言った言葉が一番ふさわしく思えた。
 梓が軽音部に入ってから驚かされることは多々あったが、その中でも群を抜いている。むしろ、これ以上驚くことはないと思っていた心を抉るような攻撃だ。

「あいつ本当に体内にメトロノーム入ってるんじゃないか?」
 未だに演奏を止める気配のない夏音を指さして、律がげんなりしながら呟いた。
「もし、そうだと言われても驚かないな」
「バケモンだな」
 仲間を指して化け物呼ばわりはあんまりだが、梓はその呼び名に納得してしまった。

「これ、の意味って何でしたっけ」

 三人だけに微かに聞こえる程度の音で正確なテンポを刻む電子音。電子メトロノームは自らの仕事を忠実にこなしている。
 どちらが機械か、分かったものではない。


 事の次第は、こうだ。

 四人がお茶を囲んで話しているうちに、ふとリズム感の話題になった。そこで各々の練習に関して話が広がり、特にメトロノームを使った練習について律が饒舌になった瞬間、夏音が鋭い一言を放った。

「律はどうしてそんなにやってるのに、リズムキープが甘いんだろうなあ」
「うぐっ」

 直球で痛いところを刺し貫かれた律は、なけなしのプライドで反論した。

「そういう夏音はどれだけ完璧だってんだよ」

 そんなのは愚問だった。一年間、共に音楽をやっていたら目の前の男がリズムやテンポといった部分で失敗することなどなかったことくらい分かっていた。
 いわば、子供が返す言葉がなくて「じゃあお前はできんのかよ!」と口にするようなものだった。
 しかし、律の意志は相手には伝わらなかった。
 彼女にとっては、そのまま冗談を言い合って終わらせてくれればよかったのだ。


「ふーん。それなら、君たちにはまだ見せたことなかったよね。ヒューマンメトロノーム」
「ひゅ、ひゅーまんめとろのーむだとう!?」
「良い反応をありがとう。じゃ、今からやるよ」


 夏音がやったこと。まず最初に指定したBPMでベースを弾き始める。
 そのBPMに設定したメトロノームをボリュームを絞った状態で開始させる。行儀が悪いが、足で本人がスイッチを入れた。
 この時点で、自分の演奏が指定した速さと一致しているか、一致していたとしてもそれがずっと変わらずに続いているか確認することはできない。
 それから、そのメトロノームは机に座る三人の手前に置かれる。
 自分は練習がてらずっとベースを弾いているから、好きなタイミングでボリュームを上げてくれ、と夏音は言った。
 どんなタイミングでも良い、と。
 一時間後でも、三分後でも。
 
 梓は椅子に座りながらも、夏音のベースに耳を奪われていた。普段の彼のプレイとは違ってどこか表情が乏しい音だったが、その超絶技巧だけでずっと聴いていられそうだった。

 澪と律の二人は夏音の言葉に甘えて、何気なく会話を始めた。梓はとてもではないが、その会話に混じることなどできなかった。
 すぐ側にあるメトロノームが気になる上、夏音の演奏をただの会話のBGMにしておくなどもったいなくてできない。
 飲み終えたマグカップを手で弄りながら、メトロノームと夏音を交互に見る。

 そして「ふぅ」と息を漏らした澪が、緊張した様子でメトロノームのボリュームを上げていく。

 梓と律はメトロノームに顔を寄せ、耳を澄ませた。


 そして冒頭に戻るわけである。


「ふう」

 ベースを置いて梓の正面に戻ってきた夏音はしれっとした態度で冷め切ったお茶を啜った。

「夏音先輩は……」
「うん?」
「いえ、何でもないです」

 先程の演奏は、むしろメトロノームが彼の演奏についていっているような錯覚を覚えるほどのものだった。機械的に動いているのはメトロノームなのに、どこか健気に思えたのがおかしい。
 本当におかしいのは、目の前の男なのだが。

「と、こんな風にできても実際の演奏が百倍よくなるってわけじゃないんだけどね。一人でやってる内はいいけど、他人と一緒にやるとどうしても微妙な揺れが出ちゃうから。そこが面白かったりするんだけど」

 流石、一流のミュージシャンは言うことが違うと梓はその言葉を一言一言噛みしめた。得意気に語っていた夏音だったが、あまりに真剣に頷く梓を見て口を噤んだ。

「あの、梓……瞬きしないと目乾くよ?」
「え? すみません」
「熱い視線だったなあ」

 からかいの言葉を投げかけてくる律の言葉に梓は赤面した。じっと凝視しすぎていたようだ。

「梓は勉強熱心だよな」

 澪が感心したように言う。梓は真っ正面から褒められて、何だか気恥ずかしくなってきた。

「あんまりこいつの言葉をまんま呑み込まない方がいいぞー? もう感覚が一般とはかけ離れてんだから」
「相変わらず口悪いなー」
「なんだよ褒めてんじゃん」

 律がどんなつもりで言ったか定かではないが、確かに一理あると思われる。自分のような人間とでは、何もかも感覚が違うというのは納得できる。
 梓は努力を積み上げても機械のように性格なリズム感を手に入れるまでかかる時間は相当なものだと思った。
 夏音曰く同じことをできる人が世界には何人もいるのだそうだ。絶対音感が才能によるところが多いとするならば、こちらの方は確実に努力で手に入れられると豪語した。
 絶対音感も後天的に手に入れる人もいるらしいが、確かに音感だけはどれだけ努力すればいいと言われても腑に落ちないところがある。

「別に俺は最初から細かい音の違いとか分かってたわけじゃないよ。音感はやってる内に身についたけど、こんな風に寸分違わないリズム感を手に入れるまではかなり時間がかかったもん」
「夏音先輩も……?」
「ははっ! 何言ってるんだよ梓。当たり前だろ?」

 快活に笑う夏音の笑い声が何故か耳のすぐ側で響いたような気がした。目から鱗だった。
 最初から上手い人はいないのに、どうしてか自分より完成されている人を見れば、その人が同じ道筋の遠い先にいるだけだということに気付きにくい。

「私も、できるでしょうか」
「え? 梓、さっきのやりたいの?」

 律がきょとんと目を瞬かせて梓を見詰める。

「夏音先輩みたいに弾けるでしょうか」
「俺みたいに? それは無理じゃないかなー」

 返す言葉にぐっさり心臓が射貫かれた。
 お世辞や取り繕うような言葉が欲しかったわけではないが、こうきっぱりと言い切られてしまったら立場がない。
 梓がどんよりと暗いオーラを出して落ち込むと、夏音はそのまま真剣な口調で続けた。

「俺の音は、俺しか出せないもん。単純にテクニックなんて磨けば誰でも身につくよ。梓が俺の年になるまでに、今の俺と同じだけのテクニックを身につけることは難しいかもしれないけど」

 それは自惚れではない。慢心ではなく、自信。彼が築き上げてきたものが彼に持つことを許すプライド。
 梓は、彼が生まれてからずっと重ねてきた努力に一朝一夕で追いつけるなどとは、微塵たりとも思わない。

「それに、俺だってまだ自分だけの音を探してる途中だもん。いっぱい試して少しずつ模索してる最中だよ。言ってしまえば、俺は……俺自身でさえ、自分だけの音を弾けてないんだ。本人が辿り着けてないのに、他の人に真似できるはずないだろ?」

 気が付けば、澪と律も真剣な眼差しで聞き入っていた。夏音の言葉はそれほどまでに他人の関心を惹き付ける。
 彼の語る言葉は何故か聞かずにはいられないのだ。彼の生き方や考えが滲み出た言葉は、未知との遭遇を果たしたような、未見のものに出逢えた時に感じるような鮮烈な感覚を与えてくれる。
 やっぱり、周りにこんな人間はいなかった。
 ぞくぞくと背筋に伝わる電流みたいな衝撃。こんな感覚を自分はあと何度味わうことになるのか。
 鳥肌が立ってしまった。

「あー、ムギがいないからお茶が美味しくない」

 誰も返す言葉がない中、夏音は冷め切ったお茶に対して顔をしかめた。今日、淹れたのは言っている張本人だったが。
 そのおかげか、場の空気が少し和らいだ。不和が起こったりしたわけではないが、どこか空気が張り詰めていたようだったのだ。
 ふと、梓は気付いてしまった。
 隣り合ったままの澪と律。二人がどうしてずっと黙っていたのか。
 おそらく。今まで何回もこのような空気になってきたのだろう。
 そして。それでも。二人は慣れていない。
 雰囲気を元に戻すのは夏音の役目。彼女達は、こういった時に彼に返す言葉が見つからないのだ。素直に褒め称えることがおためごかしのようになってしまわないか、一丁前に自分の意見を言い返すほどの自信もない。無理に口を開いても虚勢を張っているように思われないか不安。
 そんなことがいちいち梓の頭によぎる。
 誰も夏音の言葉の後に続くふさわしい言葉を持ち合わせていない。
 悔しい。自分の中に確固たるものが無いことが恥ずかしい。
 おそらく、梓は自分がぎこちない笑みを浮かべているだろうなと思った。このように曖昧に笑うことがあらゆる感情を表さない方法だと自然に分かっているのだ。
 尊敬もしていて、夏音という男に傾倒しているのに。こんな心の動きは不思議な矛盾だった。

「さ、さすが夏音は言うことが違うなー。私も見習わないとな」

 その時、澪が上擦った声で言った台詞が梓を驚かせた。澪の声は少しだけ震えていて、その言葉を口にすることに尋常ならぬ思いを忍ばせているように思えた。

「やっぱりそれだけ考えてないとやっていけないものなんじゃないか? 私なんて音楽やるのにそこまで深く考えてないけどなー」

 澪の言葉を援護するように律が次の言葉を紡ぐ。

「律はもう少し真剣に考えた方がいいんじゃないか?」

 夏音が笑い混じりに律に言うと、律は目をぐわっと見開いて反論した。

「私だってアレコレ考えとるわ! まず、ドラムは手足をよく使うだろ? 体も動かすし代謝がよくなって老化防止に―――」
「そんな理由かっ!?」

 澪が思わずキレのいいツッコミを入れる。

「ついでにあまり太らなくなるな」
「…………」
「澪。今、ちょっとだけ『私もドラムやってみようかな』って考えただろ」
「そ、そんなことない」
「秋山さんも演奏中にもっと体動かしたら~!? 上半身を振りまくってこうバインバインで客を―――」
「ひっ!?」

 調子に乗った律が澪の胸部にいかがわしい視線を浴びせると、澪は悲鳴を上げて胸を覆い隠した。そして、その様子を意図せず眺めていただけの夏音をきっと睨む。

「か、夏音っ! どこ見てるんだよ!?」
「え? いや、別に何も……」
「もぉ~夏音くんもおとしごろね~。ね~?」

 律の冷やかしに夏音は勢いよく椅子を後方にぶっ飛ばして立ち上がった。

「何で律はいつも俺を変態に仕立てあげようとするのかなっ!?」
「え? 後輩にじわじわと印象づけるためです」

 急に真顔に戻った律。

「たち悪いなっ! ほんとヤメテくれよもう! 梓が勘違いしちゃうだろ?」
「かん……違い?」
「何、そのガチで驚きましたみたいな態度」
「いや、別に……いずれ分かるだろうし」
「だから何が!?」
「夏音は……破廉恥だ」

 涙目の澪がぽつりと呟いた言葉に梓は思わず大声を出してしまった。

「は、はれんち!?」

 その語彙のいかがわしさ。けれど、ひらがなで発音するとどこかポップでキュートな印象になる。
 そんなことはどうでもいいが、先程から急展開を見せた会話内容に梓は愕然としていた。

「か、夏音先輩が……そうなんですか?」
「チガウよ梓。チガウ!」
「まあ、直接的な害はないから安心していいよ?」

 律の爽やかな笑みとセットで出てきた言葉に梓の表情が青くなっていく。

「ほんとヤメテ。お願いだから、梓も真に受けないでよ」
「そ、そうですよね。冗談に決まってますもん!」

 結局、人は信じたいものを信じるのだ。梓は律の言葉がただの戯れの一つだということで納得しようとした。

「まあ、半分冗談だけど。でも、一年の時にさ。クラスの男子で固まって話してるから何だろうと思って近づいてみたんだよ。なんと、真っ昼間の教室で猥談だよ! そして、その輪の中にちゃっかりいたのがこの男」

 人差し指を向けられた夏音が激昂するかと梓は思ったが、意外にも気まずげにすっと視線を逸らした。

「ええーっ!?」

「馬鹿やろう! 男だったら猥談の一つくらいはするさ!」
「あ、開き直った」
「開き直ったな」

 何故かキレ始めた夏音は堰を切ったように捲し立てた。

「忘れてないと思うけど、俺だって男だよ! 女の子にめっちゃ興味あるよ! 今まであんな話する相手がいなかったからついつい楽しくなっちゃったよ! 恥ずかしがってたらクラスの友達がこう言ったんだ。『カマトトぶってんじゃねえ! お前も男ならこういう話が好きに決まってる!』ってね」
「その友達はどうなんだろう……」
「そしてこう言ってくれたんだ。男なら、嗜みの一つだってね」
「………あぁー……そうか」

 律は何か言おうとして言葉を探ったが、ふと表情を落とすと一言だけ返すに留まった。

「あの、どういうことなんですか?」

 訳知り顔で同じように気の毒そうな顔をしていた澪に声を潜めて訊く梓。澪は梓の耳元に顔を近づけて、こう言った。

「ほら、あいつって外見があんなだろ? だから『男』っていうのにやたらとこだわっていてさ……男だったら、っていうのに弱いんだよ」

「へ、へえー」

 それを聞いても何て反応してよいのかわからなかった。ちらりと夏音の方を窺ったが、耳が良い彼は明らかに聞こえているはずなのに、知らん顔してあらぬ方向に顔を向けていた。
 何だかその姿が痛々しく思えて、梓はうっかり涙しそうになった。

「まったく。人を貶めようとするなんて性格悪いな律は」

 腰を下ろして腕を組む夏音の態度はどこか尊大な感じがしたが、その鋭い目線の矛先にある律はどこふく風とばかりに聞き流していた。
 ふんと鼻を鳴らすと夏音はティーポットから新たにお茶を自分のカップに注いだ。顔をしかめながら、まずいと評したお茶をすする。
 梓は急に言葉が消えた空間に気まずそうに身動ぎした。しばらく様子を窺っていると、大きな欠伸を漏らした夏音が目尻に涙を浮かべながら言葉を発した。

「することないし、帰らない?」

 軽音部としての根本を覆すような台詞だったが、他二人の先輩はあっさりとその意見に賛同した。

「まあ、ムギも唯もいないしな。そうするか」
「あ、律。私、今日は本屋寄って帰りたい」
「いーよー」

 梓が唖然としている間に、三人はぱっぱと後片付けを済ませて帰る支度を整えてしまった。

「ん? どうした梓?」
「あ、いえ。別に……」
「………?」

 しばらく不思議そうに梓を見詰めた律だったが、はっと顔色を一変させた。

「も、もしかして『チッ、今日もこれかよ。やっぱ軽音部やってらんねー』とか思ってるんとちゃうか!?」

「律先輩の中の私は一体どんな人間ですか! ちがいますよ!」

 思わず勢いよく立ち上がり否定する梓に明らかにほっと胸を撫で下ろす仕草をする律。

「よかったー。また振り出しに逆戻りかとヒヤヒヤした」
「今日はムギ先輩も唯先輩もいらっしゃらないのでしょうがないって分かってますよ」
「本音は?」
「………ちょっとくらいは練習したいです」
「そういうのさ!」

 いきなり指さされた当の本人は当惑した様子で返した。

「はあ?」

「そういうの、どんどん言ってくべきだな、梓は」

 一人納得する律に梓だけではなく、周りも眉を顰めた。

「いったいお前は何の話をしてるんだ?」

 流石の幼なじみでもその意図はくみ取れなかったらしい。友人の謎の言動に首を傾げている。

「だーかーら! 梓は私らに対して遠慮がちすぎるんだよ! もう、せっかく仲間になったんだからもっとこう、ガンガン意見するべきなんだよ! 後輩だからって自分を押し殺していても何も……そう。何も! 建設的じゃない!」

 だんだんと熱がこもる演説に耳を傾けていた一同だったが、知れずと溜め息が漏れた。それも特大の。

「まさか律の口から建設的なんて言葉が……」
「このあいだ国語のテストに出たんじゃなかったっけ?」
「そこ二人! 茶々を入れない!」

 澪と夏音は目を合わせると、目を眇めた。

「この不穏な感じ、わかるかな?」
「そうだな。律がいきなりこういうこと言い出した時は大抵ろくでもないことになる」
「ほんとに失礼な奴らだなあ」

 少なくとも一年間は共に過ごしてきた仲間達の言葉に少なからず傷ついた顔をする律だったが、それらを横で見ていた梓は、それこそ二人の言葉は付き合ってこそわかる部分なのではないかと考えていた。
 そして、自分にとっても、この少ない期間で培われた部長への評価としてはあながち違わない。

「梓」
「は、はい?」

 失礼なことを考えていた矢先だったため、急に名前を呼ばれて声が震えてしまった。しかし、そんな些細なことは気にしないのか、律は構わず続きの部分を梓へとぶちまけてきた。

「ほら。見ての通り、私は寛大だぞ? どんなことでもすぐに意見してくれてかまわなくてよ」
「は、はい。その時は、そうします」
「そうか。梓は良い子だなー」

 この会話は何だろうと律を除いた全員が感じていた。

「それは、ともかく。梓が練習したいなら、俺は残って付き合うよ」

 夏音の言葉に梓の顔が見違えるように輝く。

「梓はまだ全部の曲を覚えていないだろうし。直接教えた方が手っ取り早いしね」
「そ、それなら私も残ろうかな」

 本屋に寄りたいと言っていた澪までもが残ると言うので、律は面白くなさそうにぼそりと呟いた。

「私一人だけで帰るのもつまんないなぁ」
「寂しいなら寂しいって言えばいいのに」

 耳ざとくそれを聞いていた夏音の言葉に律は若干キレ気味に言い放った。

「一人で帰るのが寂しい!」
「威張ることか」
「まったく素直なのかそうでないのか……」

 呆れた様子で呟いた澪と夏音だったが、どちらも半笑いである。何だかんだと二人とも律のこのような勝手気ままな性格を悪く思っていないらしい。
 結局、その日は夏音が梓へと曲を教える傍ら、他の二人も個人練習をして終わった。驚いたことに律がメトロノームを使ったリズムトレーニングを淡々と行ったのだ。あんな離れ業を見せつけられた後だったからこそ、彼女の中に火が付いたのかは定かではないが、普段のおちゃらけた態度を一切封じ込めて練習に集中する姿は、彼女の知らなかった一面を見せつけられたような気がした。
 夏音が梓につきっきりになっている横で澪はスケールに沿ったアドリブの練習をしており、時折夏音に意見を求めたりする姿は本当に真面目にベースをやっている人間なんだなと改めて評価するに至った。
 帰り道の途中、夕暮れの照らすアスファルトをぼうっと見詰めながら歩く梓は今日の一日で自分が感じた不思議な感動の正体を探っていた。
 いつもとは違う部活動だったからかもしれない。まともに練習した充実感のようにも思える。
 しかし、それとは別の小さな感動。
 それは、おそらく。今日一日で発見できた夏音や律の意外な一面だったり。夏音に直接ギターを指導してもらえたことだったり。
軽音部の空気の中に、ほんの少しだけ溶け込めた気がする自分に気付いたからかもしれない。


※ 持病……この短さで投稿しても良いのだろうか病。投稿期間が開いた後に短いお話がくると、なかなか投稿する勇気が生まれない。そして、遅れるという負の連鎖。



[26404] 第九話『パープル・セッション』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/02/29 12:36


「あ、ぐぅ……ぐ! いたいいたいいたい!」

 苦悶の表情で叫ぶ律は相手の腕をばしばしと叩いた。

「いたっ。俺の方が痛いよ」
「やめろって言ったのに!」
「やめろとは言ってないよ」

 涙目で睨んでくる相手に冷静に切り返した夏音だったが、彼女も相当切羽詰まっていたのだろう。叩いてくる力に一切の容赦がなかった。
 おそらく痣ができているだろうなと思いながら夏音は叩かれた場所をさすった。
「夏音くん……」

 若干引き気味に夏音を見詰めてくる唯に夏音は焦った。唯の頭の中では、普段の姿からは想像できないくらい女の子女の子した様子で痛がる律をいじめた男の子、という構図ができあがっているだろう。

「唯。これは違うんだ。律が俺の握力がなんぼのもんだと言ってくるから」
「それでも女の子なんだよりっちゃんは!」

 珍しく倒置法を駆使してきた唯の言葉に夏音はぐうの音も出ない。確かにここまで痛がるとは予想していなかったとはいえ、仮にも男の自分が律より力があることは当然なのだ。ここぞ男を見せる好機と調子に乗った自覚はある。

「ごめんなさい」
「なら、よし!」

 素直に謝った夏音に一瞬で気が済んだのか、唯は早くも別の物へと興味を移して去っていった。

「あの薄情者~」

 未だに痛がる律はうっすら涙を浮かべながら唯の後ろ姿を睨む。ほんの一瞬だけ味方がついたかと思えば、謝罪の一言を貰うだに律の心配をやめたのだから。

「うぅ~、マジで冗談抜きに痛かった」
「だから、ごめんってば」
「いや、別にもういいけど。それよか本当にその細腕からは想像つかんくらいの握力でびっくりしたわ」

 自分を痛めつけた犯人である夏音の手をまじまじと眺める律。この手は、立花夏音という全体から比べれば、異様なパーツではある。
 細いというより華奢といっていいほど細い夏音だったが、その腕から手の先にかけては少しだけ質感が異なるのだ。
 二の腕はホッソリと締まった無駄のない筋肉で覆われ、その手首から先だけ見ると男と言っても通じるだろう。
 極端に太かったり、ごついわけではなく、むしろ全体で見ると調和が取れているのだが。この手だけピックアップすると、やはり夏音の物であるとは信じがたいものがある。
 このアンビバレンツな感じが、今回律が夏音と握力勝負をすると言い始めたきっかけだったのだが。

「思えばベース弾く人の手ってみんながっしりしてるよなー」
「んー……言われてみれば、そうかも」

 律の言葉を聞いて思い返してみた夏音だったが、ベーシストだけに限らす楽器を弾く人は大抵がっしりとした手だった記憶が……と考えたところで、周りのミュージシャンは大人ばかりだったで、余計そう見えただけかもしれないと思い直した。

「でも、すごくほっそりして綺麗な手の人もいるよ?」
「綺麗じゃないってことでもないんだよな。現に、悔しいけどお前の手って綺麗じゃん」
「そ、そうかな? 何回も爪が割れたし、てきとうに補修してそのまま弾きまくったりしてたから、そんなに綺麗だとは思わないけど」
「なんか歴戦の証って感じでかっこいいよ」

 夏音の手をじっと見詰めながら喋る律の口調は至って真面目である。夏音はあまりにじっと見られるものだから、途中で気恥ずかしくなった。
 自分の手を、形として褒められることはあまりない。豆ができたら弾いている内に潰れ、また新たな豆ができる。やがてタコができ、自分のプレイに役立つ。指が太くなるのも、弾いているうちに当然のように起こることだ。しかし、この手が作り上げられるまでに努力してきた形が目に見えるという点で、律の言葉に悪い気はしなかった。

「私なんかたまに手に豆ができたり、皮むけるからさ。いかに綺麗な手を保ったままドラムを上達するかっていうテーマがあったりするんだけど」

 律らしい発言に夏音は思わず吹き出してしまった。

「最初の内は仕方がないと思うけどな。ちなみに俺の友達のドラマーにすっごく綺麗な手をしてる奴がいてね。それで事ある毎に周りに自慢してるのが腹立つけど、きっと律にもできるんじゃないかな?」
「そっかな」
「たぶんね」
「今度秘訣でも聞いといてよ」
「ヒケツってなに」
「………特別な方法、みたいな?」

 夏音は時折、知らない難しい単語の意味を問いただすことがあるので油断ならない。実は周りの人間はその度にドキドキしていたりする。

「おや、澪。自分の手を黙ったまま見詰めたりして」

 梓とお喋りをしていたはずの澪はじっと自らの両の手を凝視していた。

「何でもない」

 温度の無い声に、これは何かあるなと夏音は思ったが放っておいた。触らぬ神にたたりなしだ。

「澪のことだから『私の手、みんなより大きい』とか悩んでんだろ」
「さすが律だね。澪のことなら何でも知ってる」
「幼なじみだからなー」

 飾ることなく言う律は薄く微笑んで澪に目をやった。その先には梓との会話を中断したまま、梓が上目遣いで戸惑いの視線を全力で投げかけていることにも気付かないで、わなわなと震える澪の姿。
 見ていて面白い。
 しばらく澪を観察していた二人だったが、楽しげにムギと話していた唯がそんな二人の前にじゃんと飛び出してきた。

「りっちゃん見て見て! ほい!」
 そう言って右手を二人の前に振りかざす。よく見ると、指が隣の指に重なって輪っかが作られている。

「ひねしょうが!」
「おおー!」
「すごいな唯! ていうか気持ち悪っ!」

 自慢気な唯に律は大袈裟に驚き、夏音はついつられて驚いたが、その形のえげつなさに眉を顰めた。

「で、これってギターの上達につながるかな!?」
「どうだろう……俺はできないけど」

 夏音は困惑したまま、唯の質問に答えた。

「えー、せっかくできたのに」
「いいや唯。こう考えたらどうだ? 指を器用に動かせるようになることで、脳みそが活性化するだろ?」
「うんうん!」

 まじめくさって語り出した律の言葉に頷く唯。続きを促すように律の顔をじっと見詰める。

「そしたら唯の頭が良くなるわけだろ?」
「そ、それで!?」
「するとだ。どうしたらギターが上手くなれるかって方法をちゃんと考えることができるわけだ」
「すごいよりっちゃん! ん……あれ? すごいのそれ?」
「ああ。世紀の大発見だ!」
「そ、そっか! やったね」

 その会話を微笑ましく見詰めていた夏音やその他によって部室は生暖かい空気に包まれた。

「あの……ボケのためとはいえ、りっちゃんに馬鹿にされてることくらいわかるんですが」

 心の底から唯の反応を受け入れていた一同に対し、流石の唯も自身のイメージの行く末を心配したらしい。

「まあ、そんなことしてる暇あったら練習しなよ」
「正論でばっさりきた!?」

 間を開けた夏音のツッコミに床に崩れ落ちる唯。しかし、そこはかとなく嬉しそうである。

「唯も梓を見習えよー?」
 続く澪の言葉に突然名前を出された梓はびくりと肩を跳ね上げさせると、一気に頬を赤くする。

「あ、あずにゃん」
「は、はい」

 ふらりと立ち上がった唯は梓に音もなく近づいた。瞬間移動といってもいい速度で詰め寄られた梓はうっかり椅子ごと退いた。

「あずにゃんはええこだね~。小さいのにギターもがんばって」
「小さいのは関係ないですぅー!?」

 頭をぐしゃぐしゃに撫で回されながら、その胸に抱き潰される梓。その状態にストップをかける人間は不幸なことか、この部室にはいなかった。
 既に恒例となりつつある二人のスキンシップは、部室の風景の一部になりつつあるのだった。

「お茶入りましたよ~」

 職人の技量でこれまで黙したまま茶の用意をしていたムギの声で、やっと梓は解放されたのだった。最近では梓のムギ好感度は急上昇だ。


「さっきの唯先輩を見てふと思ったんですけど、皆さんは家ではどんなトレーニングしてらっしゃるんですか?」

 隣に座る唯への警戒を緩めない梓の疑問に、全員がきょとんとなる。

「自分の楽器のってことかしら?」
「はい。私はもっと速く弾けるようにするために指のストレッチとかするんですけど、皆さんはどうしてるのかと思いまして」

 至って真面目な質問に対して三者三様の反応が返る。

「私は今まで習った練習曲をやったり、色んな曲を聴くことかな」
 とムギ。ピアノといえば何百年と続くノウハウが散りばめられた練習曲が分かりやすく手に入る。様々な技巧を磨くには、一番の道と言えよう。
「私は家に本物のドラムがないからなー。パッドを使った練習とかしかやらないな」

 実は電子ドラムの購入を検討していた律だったが、その前に思い切ってツインペダルを購入したことで資金難だという。自宅では地道にパッドを使ったトレーニングくらいしかやることがない。

「まあ、雑誌を積んでやったりもするけど」

 部屋にはあえて処分していない雑誌類が山のようにあるので、律は練習にそれらを使う。雑誌だけでなく、実際のドラムの機材の役割を考えて、それに似たようなニュアンスで響く道具を使うこともある。

「澪先輩はどうですか?」
「私は、そうだな。基本的にはスケール練習やリズムトレーニングだけど、課題をやったり―――」
「課題?」

 ふと出てきた単語が気になり、そのまま返した梓に澪は困ったように笑った。

「あ、ああ。課題っていうのは……」

 どうも歯切れが悪い。歯に物が挟まったようにキレの悪くなった澪の代わりに、夏音が引き継いだ。

「俺が澪に出した課題だよ。はいコレやれー、じゃあ次はコレって感じにね」
「あ、そういえば澪先輩は夏音先輩に教えてもらってるって言ってましたね」

 一気に澪の頬が朱色に染まる。周知の事実だとしても、改めて言葉にすることが恥ずかしかったらしい。

「それで、唯先輩は……」
「何でそこで諦めたような顔をするのあずにゃん!?」

 既に梓の中での唯に対する扱いが固まりつつあるようだ。この面子の中では最も真面目とは縁遠いような存在に見える唯。普段の彼女の姿から、家で一人ギターの特訓に励む姿は想像しがたいのは確かだ。

「私だってやるときはやってるんだよ? スコアだって何冊か買ったし、夏音くんから教えてもらったバンドの曲をやったり」

 唯が語る内容を聞くにつれ、梓の表情が大きく変わる。思わぬ事実に目を大きく押し広げ、感嘆の息を漏らした。

「そ、そうですよね。唯先輩あんなに上手いんだし、真面目にやってるに決まってますよね」

 何故か自分に言い聞かせるように呟く梓に、夏音は苦笑いを収められなかった。

「買ったスコアなんて結局読めなくて放置しただろう」
「だって意味わかんないんだもん。セ、セ、セニョリータ? がコーダさんに戻るとかなんだかもー」
「なんか全てごちゃごちゃだし、まずセニョリータなんて記号はない。誰だ何人だそれは」

 夏音の冷静な声に「ああぅ」と背筋をぞくぞくさせた唯は、ふと梓へと顔を向けて後悔した。

「そんなことだろうと思いました」

 高低のない機械的な声。胡乱気なものを見詰めるように細められた眼。

「あ、あずにゃん? 確かにスコアは放置したけれど、練習してるのは本当だよ?」
「そうですか」
「本当だからね!」
「必死すぎるな」

 後輩の肩を持って詰め寄る唯の姿に苦い笑いが出る律だった。

「まあ、唯が練習してるってのは本当だよ」

 先輩としての株が急降下しかけている唯に助け船を出したのは夏音だった。

「唯のギター聞けば、すぐ分かるよ。唯は練習サボったらすぐに演奏に出るからねー。前に出来なかったことが出来たかと思えば、前まで出来てたことをミスしまくったりね」

 上げているのか下げているのかよく分からない援護である。

「唯は耳が良いからさ。耳でのコピーが早いんだよ。普通は逆なんだろうけど」
「確かに耳コピの早さは異常だな」

 実際に何度も目の当たりにしたことなので、澪も強く頷く。澪の場合は譜面を見た方がコピーがはかどるのだが、耳コピとなると何倍も時間がかかってしまう。
 ただでさえ耳がよく、かつ絶対音感という兵器を持っている唯は、すぐに音を拾ってしまうのだ。

「それをすぐギターで弾けるかっていうと違うんだけどね」

 夏音が指摘しているのは、単純な技術の問題である。聴き取れたからといって、すぐにそれを再現できるかは個人の腕次第だ。そもそも、唯は音を聴き取れるものの、細かいニュアンスなどについてはてんで素人である。
 フルピッキングにすべきか、そのフレーズ内で開放弦を使う意味、音のテンションなど。気を遣うべき部分がまだまだある。

「皆さんの言葉を聞くと、唯先輩のすごさが伝わってきます」
「私の言葉は信じないの?」

 唯の一言は華麗にスルーされた。

「唯は梓が持ってない良いところ、いっぱい持ってるよ」

 夏音のにやりと笑んでの言葉に梓がぴくりと反応した。

「そういえば、実際に梓は唯の演奏はあまり聴いたことないよね」
「あれ、そうだっけ?」
「そうだよ。唯ってばいつも遊ぶかお茶飲むかお喋りするかで、部活でギター弾かないだろう」
「い、いたた……お腹痛ァー」

 咄嗟に仮病で誤魔化す唯に対して咳払いを一つした夏音が話を戻す。

「最近の梓はちゃっかり唯の座を狙ったりしてるからなー。流石に唯がかわいそうだから、先輩の沽券ってやつを披露させてやろうかとね」
「へ?」
「か、夏音先輩! 私唯先輩の座なんて!」

 目を白黒させる唯に、慌てて否定する梓だったが。

「前にリードのフレーズ練習してたよね? 結構悔しそうに、何度も何度も」
「あ、あ、あれは……」

 梓の脳裏に蘇る練習風景。他の部員がまだ一人もいない時間にこっそりとギターを弾いていたことは何度かある。覚えたてのフレーズ、唯のソロの部分を練習したことも。

「あれ、唯ってリードギターなんだっけ?」
「律……うちは一応、ツインリードってことになってるだろ」

 今さらすぎる律の疑問に澪は信じられないとばかりに溜め息をついた。確かに唯はバッキングが多いが、上達するにつれてフレーズをどんどん変えていったり、リードばりの仕事をこなすようになっていた。

「ゆ~い~」
「な、なにかな夏音くん?」

 嫌な予感をひしひしと胸に感じた唯は、がっしりと夏音の瞳に捉えられた。
「後輩にかましたれ」
 おまけに良い笑顔でサムアップ。
 
「ひ、ひどい無茶ぶりっ!?」

 膝に手をつき、震える唯とは対照的に、梓はそのくりっとした両の瞳にぎらつく炎をたぎらせていた。

「受けてたちましゅっ……受けてたちます!!」
「あ、噛んだ」

 うっかり口に出した唯の一言に顔を真っ赤にした梓。誤魔化すようにギターを取り出すとアンプの前に突っ走っていった。

「後輩はやる気みたいだよ?」

 焚きつけた張本人である夏音はすました顔で唯に視線を送る。了承もしていないのに勝手に事態が進んでしまったこの時点で投げかける質問にしては意地が悪い。

「こういうの苦手なのに~」

 口ではそう言うものの、唯もギターを取り出す。へろへろとした足取りでアンプの前に立つ。ボードを広げ、それらを接続するとアンプを立ち上げて音を出す。

「あ……唯先輩、本当にチューナー使わないんですね」
「え、チューナー? 私、よく分かんなくて使ってないや」
「やっぱり、この人すごい」

 無自覚なところが、やや腹立たしいという点があるが。ぱっぱとチューニングを済ませた唯はフラットな状態でセッティングを完了させた。
 同じくして音の準備を整えた梓は、唯と向き合う形でギターを構えた。

「あの、夏音くん~? これからどうすればいいの?」
「テキトーにやっちゃって~」

 事の発端となった人物は随分とやり投げであった。その返答に困ったように眉を下げた唯に、梓はおずおずと意見を出す。

「何かの曲の中でソロ回しという形でどうでしょうか?」
「おおっ! そういう感じなんだ! 何の曲をやるの?」
「そうですね。唯先輩は何かないですか?」
「ソロ回し………あっ!」

 唯の頭にあるフレーズが唐突に舞い込んできた。聞き覚えのある3コードを弾く唯に梓は「ああ」と納得した。

「スモーク・オン・ザ・ウォーターですか。あれなら同じようなことをやってる人達もいますね」

 あの曲ならソロ回しで幾らでも持つ。テンポ的にも丁度良いと梓は考えた。

「おおっ! その曲にするんだ! 律、ドラム!」
「ええ~っ?」

 きらきらと輝きを放つ夏音に嫌そうに口を尖らせる律だったが、仕方なしとスティックを持ってドラムセットに向かった。

「演奏があった方がいいのよね。それなら私も~」

 無邪気に小走りで。重そうなキーボードを軽々しく抱えてきたムギに梓は眉をぴくりと痙攣させた。

「そ、それなら私も―――」

 流れから外れることはいや。そんな心情の澪が動こうとした瞬間、

「俺もやりたい!」

 空気を読まない男は部室の倉庫に常備してあるベースを取り出してきた。唖然とした表情でそれを見送った澪は、腕を抱えながら冷静を保とうとした。

「(落ち着け私。夏音が空気読めないのは今に始まったことじゃない。でも、私より夏音が弾いた方が何倍も良いに決まってるし、私も混ざりたいとは……)」

 葛藤している内に、夏音が棒立ちの澪に声をかけた。

「あ、澪もやる?」
「べ、別に!」
「どうせだから、みんなでやろうよ」
「ベースなんて一人で十分だもん」
「なに頬を膨らませてるのさ。今回は唯と梓の勝負なんだから、お祭りだよ!」

 よく分からないことをのたまう夏音を睨む澪だったが、その無邪気な笑顔に目の力を緩めた。

「そこまで言うなら」

 そして、ごそごそとベースの準備に取りかかったのだ。



★         ★

「思えばさ」

 全員の準備が終わるのを待ちながら、唯がこんなことを言い出した。
「私達って最初から、この曲ばかりだね」
「そういえばそうだな?」

 思い返せば、この曲を機に軽音部の音は始まった。そして、軽音部がバラバラになりかけていた時に繋ぎ止めてくれたのもこの曲だった。

「何だか、思い出深い曲だよな」
「私、この曲大好き」

 と、にこにこと笑うムギ。

「最初は全然思い入れなんてなかったのにな。すっごい叩いていて馴染むんだよなあ」
「基本的なドラミングで済むんだけど、オカズのセンスが光る曲だもんな」

 律、澪もはにかみつつ言葉を重ねる。
 その様子を見て、梓は何とも言えない気持ちになった。
 自分だけ、この会話の輪に入れない。その気持ちを共有することができないことへの寂しさだろうか。
 何かの予感がする。この五人が積み重ねてきた音が、これから自分を襲うのではないかという恐怖。
 四人の演者はただ、自分達のギターを支える演奏に徹すると言った。四人と、唯と梓。そんな構造のはずなのに。

 はたして、

「(今から相手にするのって唯先輩だけ?)」

「さーあずにゃん! やるよー!」
 唯がピックを持った手を梓に向けてポーズを決める。

「あ、はい。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げた梓。こういう部分の礼儀正しさは勝負を前にしては興が削がれるものだが、殺伐としたギター対決というわけでもなし。それを受けた唯はにへらと笑み崩れ、「こちらこそ~」と返した。

「ソロはどっちから?」

 夏音が確認のために問う。

「先輩からで!」

 すかさず答えた梓は、自分でもどうして先手を唯に譲るような発言をしたか分からなかった。言ってしまってから、相手の出方を見たいという慎重さというより、どこか怖じ気づいているような自分を発見した気がして、気を引き締めねばと思った。

「よし。じゃあ……」

 ベースを携えた夏音が言葉をしまう。
 言葉にも行動にも出さないその何気ない立ち振る舞いだけで、まるで侍が言葉の代わりに一振りの刀を抜いたような。淡い緊張感が漂う。

 何かが切り替わったのを肌に感じたのは、全員が同じだった。

 唯がリフを刻む。

 そのリフにハイハットが絡み、軽快なスネアが混ざると。ベースが加わることでアンサンブルを生み出す。
 二小節過ぎたところで、もう一人のベースが加わる。どこか上品な、ハイミッド抜けが良い低音。重厚すぎず、かつ軽薄でもない。
 互いが絶妙なバランスを保っている演奏。最後にオルガンが控えめに寄り添ってくると、それで仕上げだった。

 そう、見事なまでの仕上がりだ。

 梓はこのアンサンブルの中にどうやって踏み出せばよいのか、迷った。

 一度迷えば、踏み出せない。入る隙間を探しても、どうすればいいのか分からなくなってしまうのだ。
 すると、ベースの複弦音が耳に響く。少しだけ、調和から外れたその音は梓に呼びかけてきた。

 その音の後を追いかけるように梓の手が動く。
 気付けば、梓は唯と同じメインリフを奏でていた。
 顔を上げると夏音がウインクを一つ。それでいいのだ、と言うように。
 少しキレがよすぎる自分の音は浮いていたので、梓は音の長さを調整する。

 丁度良くなった。

 不思議な心地であった。先輩方の輪の中に入った自分の溶けこみ具合に驚愕である。

 そう何度も全員で合わせた記憶はないのに、意外なことにもはまっているのだ。
サビが終わるまでの間は、どちらのギターもこのアンサンブルを楽しむ時間だった。
 拍終わりにチョーキングを入れて手慣らしに自分のニュアンスを入れていく唯。負けじと梓もヴィヴラートを細かに入れて違うニュアンスを出す。

 サビが終わる。

 唯のソロは緩やかに始まった。ハイポジションで伸びる高音からいきなりピッキングハーモニクス。指板の上を細かく動く唯の指の動きはそれだけ見ると、日頃の本人の物とは別の物に思えた。
 そのソロを耳にして、梓は唯のプレイするギターの歌心を感じた。ソロを紡ぐ上で必要なのは普段、いかにスケール練習をしているかという問題がある。しかし、彼女の場合は自身が持っているメロディを紡ぐ力によるものだ。
 どういった音を出すのか、その瞬間までは自分でも分かっていないのだろう。気付けば、自然にそのフレーズが生まれている。
 あまりに特殊で、天性の才能だ。
もちろんフレットのどこにどの音があるかを把握している必要がある。
 想像より遙かにぶっ飛んだソロを序盤から放ってきた唯に対し、梓は対抗心を燃やしている暇はなかった。
 自分の持つ、ありったけの技術とアイディアを出し尽くさねばならない。まるで武道の試合に臨むような正々堂々の心が彼女を満たす。
 梓は自分の番になると、トリルを駆使した三連符でこれでもかと攻める。そこからまだ得意ではないライトハンドが成功すると、自分でもエンジンが良い感じに温まってきたことを感じた。
 いける。
 確信に近いものを感じる。ハーフ・チョーキングを連続して決めると、畳みかけるようにピッキング・ハーモニクスを連射する。一発でも外さない。できた。
 してやったりと顔を上げると、正面の唯は驚いたような、それでいて嬉しそうな表情でこちらを見ていた。
 その口が、「あずにゃんすごい」と動いたような気がして、梓はさっと頬を染めた。恥ずかしくなり、すぐに手元に視線を落とす。
 少しだけ図に乗った梓をたたき落とすように、二小節分まるまる使ったチョーキング。伸びる、どこまでも貫いてくる音に、呼吸を止められた。
 どうしてそこまで強靱な音を出せるのか。
 梓はやはり自分はこの先輩をどこか見くびっていたのだ、と思い知らされた。立花夏音の影に隠れがちになるが、「このギター」にも自分は圧倒されたのだと思い出した。
 すると、それまで唯の音にのみ集中していた意識がぱっと広がった。
 自分達のソロを支える音がすぐそばにあったことに気付く。
 走りがちと評価される律は、やはり前のめりに突っ込んでいるものの、それをガッチリと抑える澪のベース。
 支えることに専念した夏音のバッキング。それら全てを見越して、一切のアンサンブルを包み込むオルガン。
 それだけではない。
 唯と梓が二人で勝負をしている傍らで、彼女達は密かに楽しんでいたのだ。
 互いが目配せを交わし合って、小粋なオカズを入れて笑い合う。
ムギが手をクロスしてオルガンを弾くと、すぐに反応してクロスハンドでタッピングを開始する夏音。それを見た澪が吹き出す。
楽しげなやり取りだった。

「(いいな……)」

 うらやましい。梓は純粋にそう思った。
 それにしても、と唯のギターに向き直る。よくもまあ、そんなフレーズが出てくるものだと感心せざるを得ない。
 スケールという概念を覆しかねないフレーズがばんばん飛び出してくる。唯個人が持つアイディアの力か、とにかく梓からは絶対に生まれてこないような音が盛り沢山である。
 梓は自分の限界を思い知った。堅実な練習ばかりこなしてきた梓は、所詮自分はどこかで耳にしたような演奏しかできないのだと自嘲する。
 今、唯と自分の間にある差が目に見えた瞬間だった。この辺りに自分が閉じこもっている殻なのだろう。
 それでも。
 梓はネックを握る力を強めた。唯が持っていないものだってある。
 ワウを踏み込み、限界の速度のカッティング。膨らんでいくギターの音圧。少しだけ音を外した。力みすぎ。
 唯のようなアプローチはどう足掻いても出てこない。無いものは出せない。だから、梓は自分が持っているもので勝負をする。
 自分が小節の最後に放った音が遠くに飛んでいく。それを抜き去って、ペダルを元に戻した梓はクランチ気味に設定した音でカッティングを続ける。
 ソロだと言って抜きんでるつもりのないプレイ。梓はこれだと確信する。
 やっと自分らしさを出せた。
 三連を上手く混ぜて自分のリズムに全体を巻き込んでいく。
 この曲の中でこれを行うのはある意味では異端に思える。しかし、やったもの勝ちである。
 ある意味、開き直った梓の目論みは成功した。
 周りはすぐに合わせてくれる。心強いバックがこの場にはいるのだ。
 原曲など、知らない。曲調がガラリと変わり、先程までのギターソロバトルといった雰囲気は霧散してしまった。
 それでも、おそるおそるといった気持ちで顔を上げると、安心した。皆、心からの笑顔で自分を見てくれていた。
 バスドラが入る位置が変わり、自分に合わせてくれているのが分かる。ファンキーなスラップは夏音のものと分かる。
 ムギはオルガンの音色からピアノへと素早くチェンジして、澪は拍の裏を狙ったプレイとなる。
 対する唯は戸惑ったような表情を一瞬だけ浮かべると、バッキングにまわった。
 ものすごくやってしまった感があるが、梓は最早突き進むしかなかった。
後々、よくあの場面で自分はあんな事をしでかしたなぁ、と苦笑いを浮かべることになるが、この時ばかりは梓は心置きなく自分のプレイに徹した。
 梓のパターンを変えたカッティングに対し、唯はわりとゴリ押しのプレイ。梓は唯が苦手な演奏が思わず明らかになったことで、少し口許をにやつかせた。
 唯がそれにむっとしたような気配。
 何か仕掛けてくるのかと思ったが、それから唯は演奏が終わるまでの間は終始一歩退いたプレイのままだった。
 そんなことより。
 えらいことになったのは、むしろ周りの方だった。
 梓がしでかしたことによって、周りの方々のスイッチが入ってしまったようだ。
 ムギなどは音色を幾つも変えて、ピアノからブラス、果ては解読不明なスペーシーな音を撒き散らす。
 夏音に至っては、何をどうやっているのか見ている側には一切理解不能な超絶プレイ。文字通り楽器の端から端までをふんだんに使い、どうやったらそんな音を出しているのか、というプレイで対抗する。
 それぞれのソロ回しの中、ドラムの律は度重なる上物部隊の暴挙にやけになっていた。最早、合わせるというより自由奔放にやっていた。しかし、夏音や澪がそれに上手く合わせるので、成り立つ。
 大人しかった澪までもが普段の彼女のイメージからはかけ離れたアグレッシヴなベースを奏でた。それでも上品さを崩さないベースに梓は魅了される。
 楽しい。梓はこの演奏を、音楽を分かち合っていることが楽しくて仕方がなかった。
 こんな経験をしたことは今までなかった。大人達のセッションに混ざることはあったが、いつも必死に間違わないように弾いていただけだった。
 これが、軽音部の音楽なのだ。
 普段、あんなに適当な人達なのに、一緒に弾いてみればこんなにもすごい演奏をしてしまう。
 理屈ではない。
 だって、こんなにも音を合わせることが楽しいのだ。



「あずにゃん、あれは反則!」

 演奏が終わると、すぐに唯が言った。汗だくになった彼女は演奏の途中で梓がやったことに文句の一つを言いたくてしょうがなかったのだろう。

「す、すみません」

 文句を言われても仕方がないので、梓は素直に謝った。

「まあまあ。楽しかったからいいじゃん」

 笑顔で唯を諫める夏音の言葉に他の者も頷く。

「いやー。まっさか梓があんな風に仕掛けてくるとは思わなかったなー」

 顔中に汗を浮かべる律。こちらもすっきりしたような笑顔を梓に向けてきた。

「梓ちゃんやっぱり上手ね」

 と、ムギ。

「唯なんか途中からただのゴリ押しだったからな」

 澪が冗談っぽく言う。それに対し唯は「はーつかれたー」とわざと相手にしないようにしていた。

「でも私、唯先輩にはまだまだ及ばないって思いました」
「ほぅ?」

 きらりと怪しい光を放つ唯の瞳。しかし、思わず褒められたからか、その口許はだらしなく緩みきっている。

「はい。私なんかまだまだって本当に思ったんです。普段はちょっと適当だけど、影ではすごい練習してるんだなって」
「だってさ」

 律はにやりと笑い、梓の口から次々出てくる言葉の反応を促した。

「そ、そうだねー。私、やればできるタイプだから」

 目線を泳がせながら挙動不審に答える唯に梓は首を傾げた。

「梓は素直だなあ」

 夏音は微笑ましそうにそんな梓を見詰めてくる。

「何がですか?」
「唯は本当に気まぐれだから家で真面目に練習してるなんて嘘だよ、嘘。服着せたり一緒に寝てる時間の方が多いんじゃないかな」
「え?」
「たまーに火が付いたように弾くけど、それも本当に気分次第……」
「ええ!?」

 追加される真実に梓は驚愕した。

「ギターに服……一緒に寝てる!?」

 その真実は相当なカルチャーショックを梓に与えた。

「ギターに何てことを……」
「ち、違うんだよあずにゃん! 家でちゃんと練習してるよ! それにどうせなら可愛い方がギー太も喜ぶし」
「ギー太?」
「あ、これギー太。『あずにゃんヨロシク~だぜぇ~フゥー!』」

 声音を変えてギターの声を代弁してみせる唯に梓は返す言葉が思い浮かばなかった。

 しかし。ただ、一つだけ。

「さっきの言葉を返してください~!」


※しつこいくらいに湖上の煙!

 慣れた曲の方が……でしょう? と言い訳してみる。

 



[26404] 第十話『澪の秘密』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/03/02 22:34

 一学期の試験が終わり、軽音部の部室でも恒例のごとく悲鳴が巻き起こったりした。悲鳴の主は言わずもがなである。
 夏音は今回の試験の結果は上々と踏んでいた。
 日頃から真面目に授業を受けている彼は特にこれといって試験勉強をすることはなかったが、今まで好成績をおさめ続けてきた。数学や英語はもちろんのこと、国語も人並み以上の成績をキープしている。
 しかし、例外もある。古典や日本史といった分野は、日本人以上に日本語を習得しているといってもいい夏音にとっても複雑怪奇な内容であった。
 見たことも聞いたこともない漢字ばかりで、それをひたすら詰め込んでいくという作業は非常に苦しいものがあった。

「とか言ってんのにいっつも高得点じゃんか!」
「サギだサギー!」
「勉強を頑張ってる人にサギとは」

 夏音は口を尖らせて野次を飛ばしてくる唯と律に肩をすくめてみせた。
すると、その会話を聞いていた澪がそんな二人を無視して、夏音に尋ねた。

「夏音はどの教科も良い成績だから、意外だな。私でも知らない言葉とか普段から使ってるし、そういう教育も受けてるのかと思った」
「そんなことはないよ澪。もともと数学は得意だし、化学とか物理も仕組みさえ分かってしまえば大丈夫なんだ。それに国語はたまに知らない言葉を覚えればすむんだけどさ。古典や漢語なんてさっぱりだったよ」
「それでも普通にできちゃうのがすごいよな」
「そうは言ってもテストの範囲のところしか出ないんだから、何とかなるよ」
「だってさ。お前たち夏音の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだ?」

 深く感じ入った様子で夏音の話を聞いていた澪がそう言って唯と律に視線を送る。二人は腕を組むと反抗的な態度で反論した。

「ふーんだ。どうせワタクシ達は夏音ちゃまとはデキが違いますもんねー」
「そうだそうだ。ちょっとは物事に手を抜かないとハゲると思いまーす!」

 彼女達は素直さをどこに置き去りにしてきたのだろうか。夏音は果たして入学当初の二人はこんな感じだっただろうかと頭をひねった。

「梓ちゃんは今回のテストどうだったの?」

 特に会話に参加する気もなくお茶を飲んでいたムギが同じようにしていた梓に話しかけた。

「最初のテストだったので大丈夫でした。でも次回からのテストは全然むずかしいって聞いたので、どうでしょうか……?」
「梓ちゃん真面目そうだから、きっと大丈夫よ」
「そうでしょうか。もし分からないところがあったら教えてもらってもいいですか?」
「もちろん! ふふ、私こういうふうに後輩に勉強を教えるって憧れだったのー」
「そうなんですか? でも、ムギ先輩ってすごく優秀そうだから頼もしいです!」

 そんな穏やかな会話を交わす二人を見た唯は面白くなさそうに眉を寄せた。むむむと唸る唯に気付いた梓は不思議そうに唯にたずねた。

「あ、あの唯先輩どうかしましたか?」
「私もあずにゃんに勉強教えたいよ!」
「は、はあ……? じゃあ、その時がきたらお願いします」

 ムギという心強い人間がいるので特にいらないはずなのだが、社交辞令としてそう答えた梓は非常にできた後輩だった。

「なんなら今からでもいいよ」
「いえ。今は特にこれといって困ってないので」
「そ、そう。なら、いいのさ」
「……はい」

 会話が終了した。
 梓は最後まで不可解といった様子だったが、気にすることを止めて目の前のお菓子へと意識を戻した。

「あれ、もうなくなってる……?」

 つい今しがたまで存在していたクッキーが消えていたのだ。その声のトーンは少しばかり悲しそうに落ち込んでしまう。
 傍目にも分かるくらいしゅんとなった梓に対し、目に見えて落ち着きを無くした人物がいた。

「みーおー。美味しいのは分かるけど、あんま食べ過ぎると―――」
「わかってるけれど!」

 顔を真っ赤にした澪がぷるぷると震えていた。それでも先輩としての威厳を保とうとしているのが悲しい。

「ご、ごめんな梓」

 澪の搾り出すような声に梓はどもりながら答えた。

「い、い、いえ! 全然私はもう! お腹いっぱいですから!」
「そ、そうか。いや、梓はもっといっぱい食べて大きくなるんだぞ」

 滅多に見ることのできない澪の様子に、取り繕いようがないくらい震え上がる梓であった。
 梓にとって引き攣った笑顔の澪はなかなかプレッシャーのようだ。夏音はそんな二人の空間に何気ない笑顔で一石を投じた。

「夏も近づいてきたから、澪も頑張らないとね!」

 ぴしり、と空間が歪むような音がした。
 梓を除く誰もが「あちゃ~」という表情を浮かべる。

「それは、どういう意味だ?」

 夏音は言ってしまってからまずかったと気付いたが、後悔は先に立たず。

「それは……どういう意味なんだ夏音?」

「ごめんなさい」

 素直に頭を下げた夏音だったが、これで終わるとは思っていなかった。自分に襲ってくる圧迫感が全く消えないのだから。

「ごめんって何が? 私はどういう意味か訊いただけだよな?」
「特に、意味はないよ」
「頑張れって言ったよな。何をどう頑張ればいいのか皆目検討もつかないんだ。教えてくれたら嬉しいな」
「わー良い笑顔。澪はすでに色々頑張ってるから、あんまり頑張らなくてもいいかも……ね?」
「私がいつもそういうの気にしてるってわかってたよな?」

 最早、夏音の言い訳は耳に入っていない様子だった。笑顔を張り付けた澪の顔は今や般若のような様相を呈している。
 それを目にした瞬間、夏音はばっと立ち上がり、素早く―――、

「おっと! 土下座なんてさせない!」

 腕を掴まれ、阻止された。夏音は土下座阻止という新たなパターンに顔を真っ青にさせた。

「ど、どうすれば助かるのかな俺は?」

 顔を背けて助けを求めるが、さっと目をそらされてしまう。

「確かに私は人よりちょっとだけ太りやすいよ」
「ちょっと?」
「ん、なにか言った?」
「いいえ」
「自分でも分かってるからこそ! 日頃から頑張ってるの! わかるよな」
「もちおん。澪さんが常日頃から弛まぬ努力を継続なさっていることは承知しております」
「夏音はやっぱり敬語使いが上手いなー」
「そ、それはどうもー」
「それで、だ。ちょっとこっちに来てもらおうか―――?」

 夏音の腕を掴んだまま、澪は部室の隅の方まで夏音を引っ張っていく。全てを諦めた様子で夏音は大人しくそれに従った。ちらりと唯達の方を振り返るその姿はまさにドナドナ。
 取り残された者は耳をダンボにして、隅でぼそぼそと何かを話す二人の会話を聞き取ろうとした。

「ええっ!? だって、こないだはブフォッ―――」
「声が大きい! はい、そうですなんて言えないだろ!」

「すっごく気になる……」

 律の呟きに全員が無意識のうちに頷いていた。見ている限りだと、特に澪が夏音をシメているようには思えない。
 一体、何を話しているのか。一同は気になって耳をそばだてていた。
 そのままこれといって荒事もなく、二人は無言のまま席に戻ってきた。何を話していたの、と訊ける雰囲気でもなかったので、他四人は気にしないフリをして他愛無い話をしていた。
 夏音が挙動不審で目をそらし続けていたあたり、一体どんな会話がなされたのか。四人は事実を知ることがないまま、数日を過ごすことになる。



「こ、こんなことやめましょうよ!」
「嫌なら梓だけ帰ってもいいんだぞ?」
「わ、私は別に―――」
「こういうのなんかドキドキするね! 探偵さんみたい」
「やっぱり二人並んで見ると、澪ちゃんって……」
「しっ! 唯、その先は言うな!」

 唯、律、ムギ、梓の四人は誰がどう見ても怪しい集団と化していた。端的に言ってしまえば、彼女達が行っているのはストーキングである。
 隠れられる場所を移り歩き、ターゲットの様子を窺う。息を潜め、決してバレないようにする。
 前方のターゲットに集中するあまりか、自分達の様子を周りがどう見ているかということまでは気が回っていない様子だ。
 ターゲットというのは、言わずもがな夏音と澪である。先日の件から、どうにも澪の様子がおかしかった。時折、腰やら腕をさすって「いたっ」と口にするのだ。
 どうかしたのかと問えば、しまったと顔に出て誤魔化し、怪しさは増すばかりであった。
 律が「これは有罪だな」とよく分からない決めつけをしたので、こうして二人の後を尾行しているわけである。

「律先輩、唯先輩が何言おうとしたかわかったんですか?」

 その無垢な質問に律は苦しそうに答える。

「二人の後ろ姿を見たら、どう考えても夏音の方が……ってやつだ」
「ああ……先輩、細すぎですよね」

 何となく、思わぬところで軽音部におけるタブーを知った梓であった。

「それにしても、これってやっぱり……そういうことかな?」
「え、なになに? どういうこと?」

 何故か声を顰めるムギと唯は心なしかうきうきとしている。そんな二人の様子とは裏腹に、律は眉間に皺を寄せて真剣に二人を見詰めている。梓は対照的な反応にこちらも一体どういうことだろうと首をかしげた。

「あれ。これって夏音くんの家に向かう道だよね?」

 と唯の発見に、

「や、やっぱり!?」

 途端に声が弾むムギ。年頃の彼女達はやはりこの手の話題が大好物らしい。

「澪のやつ……夏音め……」

 脇でぶつぶつと呟く律のあまりの余裕のなさに若干たじろいだ梓だった。
四人が見守る中、案の定二人は夏音の自宅の前まで来た。躊躇うことなく一緒に家へと上がる澪に四人は息を呑んだ。

「…………あれじゃない? いっつも夏音くんの家でベース教わってるって澪ちゃんが言ってたし」
「そういえば、そうね」

 太い眉をきりっとしたまま、顎に手を当てるムギ。探偵のまねごとなのか、その眼光に鋭いものが奔る。

「…………思えば、それが一番怪しくないか?」

 それに加わった律がいっそう張り詰めた口調で疑問をあげた。

「年頃の男女が誰もいない家で二人きり……これって……」
「ま、ま、まさか! まだ私たち高校生だよ!?」

 顔を赤らめた唯が慌てて言うと、律は舌打ちで返す。

「バカヤロー唯ッ! むしろ高校生だからこそだろ! 欲望を持て余したヤツがどんなことを考えてるかなんか血を見るより明らか!」
「先輩、火です」
「夏音くんってそんな感じじゃないと思うけどなー」
「唯! 甘い! お前は! 夏音は実はなぁ!」
「勝手に先輩をねつ造しないでくださいね律先輩」
 冷静な口調で梓に釘を刺される律。ねつ造する気満々だったため、思わず言葉を失って黙り込む。

「まあ、ここはさ」
「うん」
「突入しようぜ」
「え……?」

 落ち着いたように思われた律から出てきた提案にマジに驚く他三名。若干、引いている。

「なんか女子高生という時期の私達ってさ。最終的に何やっても謝ればOKな気がする」
「りっちゃん、それ人としてかなりダメな領域にいってると思う」

 意外なことにこの中でも、友人の将来を憂いて忠告した人間は唯だったりした。唯のマジトーンにここ最近で一番落ち込んだ律だった。


「り、りっちゃん押してよ~」
「ええぇ~っ? 唯が押せよ~」
「言い出しっぺが押すべきだよ!」
「こういうのは後輩がやるべきだろう。梓、押せっ!」
「な、卑怯です!」

 玄関前でぐだぐだと誰がチャイムを押すかでもめていた。

「あれ、何か前にもこんなのなかったっけ?」
「あ、デジャビュってやつ!」
「それを言うならデジャヴュじゃないですか」
「いや、すごい身に覚えがある感じ……この後、ムギが―――」

 ピンポーン。

「何の躊躇いもなく!?」
「そうだ! ムギがそうだった!」

 にこにこと満面の笑みを浮かべるムギがさっとチャイムを押していた。

「それで、あの時はたしか―――」

 ムギが嫌な予感と共に記憶を探っていると、

「ハァーイ。あら、久しぶりね~。今日はいっぱいお友達来る日ね!」

 夏音の母、アルヴィが華やかに登場した。

「お、お久しぶりです」

 経験者三人の背筋がぞっとなった。



 リビングに通された一同。既に律、ムギ、唯の三人は全てを思い出していた。

「ま、まさかアレがまた出てくるのか?」
「どうしよう~」
「………」
「ムギちゃんも何かしゃべって!」

 三人の先輩が顔色を悪くしている様子を不思議そうに見ていた梓だったが、その彼女も若干顔色が優れない。

「あずにゃんどしたの?」
「ほ、ほ、本物だ……どうしよう」

 彼女の中で、夏音の母であるアルヴィはプロのヴォーカリストとしてのアルヴィとして捉えられている。思わぬ大物の出現に梓は度肝を抜かれていた。

「そういえば夏音先輩の家なんだからいてもおかしくないのに!」
「だ、大丈夫か梓?」
「全然大丈夫じゃないですよもう! よく先輩方は平静でいられますね!?」
「いや、私達が平静に見えるなら眼科にいってもらおうか」

 どういうことか怒っている後輩に冷たく返した律であった。
きっちり四人とも顔色が悪くなったところで、お茶を携えてアルヴィが現れた。

「ごめんなさい。私達もさっき帰ってきたばかりで何も用意してないの」

 トレイには紅茶が注がれてある小洒落たティーカップしか載せていなかった。
 梓は三人が分かりやすいくらいに心の底からほっとしているのが理解できた。対する自分は、アルヴィに緊張を解くことはできない。

「あなたは初めて会うわね? もしかしてあなたが梓ちゃん?」
「ど、どうしてご存じで!?」
「あの子からよく話を聞いてるの。可愛い子が後輩になったってね」
「あ、あぅああ~」

 梓は顔を真っ赤にして俯いた。

「頭から湯気が出てるね、あずにゃん」
「梓からしてみればすごい人なんだろうさ」

 アルヴィはガチガチに固まった梓に近づくと、ぽんと肩に手を置き、

「ごめんねー」

 一言ことわると、ぎゅっと梓を抱き締めた。

「くぁwせdrftgyふじこlp;@:!!!!????????」
「カノンから聞いてたのよ。目の前にしたらぎゅっと抱き締めたくなるような子だって。会ってみたら本当でびっくりしちゃった! あらがえない~」

 誰よりもびっくりしているのは抱き締められている本人だと思ったものの、口にはしなかった三人だった。


「や、やわ、やわ……ふたちゅ……でかくて……やらかくて……」
「梓、大丈夫か?」

 その後、梓を解放したアルヴィは『あの子たちならダーリンと一緒にスタジオにいるから行ってみなさい』と教えてくれた。
 意識が朦朧としている梓を引っ張ってスタジオまで来た一同だったが、相当なダメージを喰らったらしい梓は傍目にやばそうだった。

「それにしても夏音が梓を抱き締めたいと考えてたなんて思わぬ収穫だな」

 それを元にからかう予定である律はにやりとした。例のごとくスタジオ前にやって来た一同ははめ込み窓から中の様子を窺った。


『そうそう! そんな感じだ! ビリビリきてるぜ嬢ちゃん!』

 そこから見えた光景に一同は目を疑った。

 現役のプロドラマーである立花譲二がいる。それだけではない。
 聞こえてくるドラムの音、そのドラムを叩いていたのは。

「澪(ちゃん)がドラムを叩いてる!?」

 汗だくになりながら、ドラムを叩いていたのは軽音部所属のベーシスト・秋山澪その人であった。
 律はあまりの衝撃にスタジオの扉を勢いよく開けて中に突入した。

「り、律!?」

 手を止めていきなり雪崩れ込んできた友人の姿に澪は目をまん丸にして驚いていた。

「あ、こ、こ、これは……!!」

 澪は急いで顔を隠すが、何の意味もなかった。そんな友人に対して律は肩で息をしながら、ぎろりと睨み据え、叫んだ。

「軽音部のドラムは私だーーー!」

「何コレ。青春?」

 一人だけ空気を読まない譲二が目をぱちくりして、誰に問うわけでもなく呟いた。



「みんな、いらっしゃ~い」

 空気を読まない親子の片割れ、夏音がぎこちない笑顔で皆に声をかけた。

「夏音! これはどういうことか説明せんかいオンドリャァ!」
「まあ落ち着きなよ律。ていうか梓、どうしたの? 顔変わった?」

 両手で律を制しながら、後ろでぽてりと座り込む梓を見た夏音の感想にムギが説明をした。

「梓ちゃんの許容量を超えることが起こり続けちゃったから」
「あぁー。これがデフォルメ顔ってやつかな?」
「それも、ちょっと違うと思うけど……」

 いきなり話がそれたことで、律は夏音を頼りにすることを諦めた。すたすたと澪の前までいくと、腕を組んだまま、じっと見詰めた。
 じぃっと見られた澪は居たたまれない様子で、俯く。

「そういうことか……」
「え、なになに!? りっちゃんすやって自己完結はよくないよ! 悪い癖だよ!?」

 そこに割って入った唯も絶妙に空気が読めていなかったが、険悪なムードにはならなかったので、良い仕事をしたと言えよう。

「ち、違うんだよ律。これは、そう………………………………………………………」
「その沈黙の長さはもはや誤魔化す余地はないと思うよ澪ちゃん!」

 二人の間を取り持つ唯はどこか必死になっていた。

「唯っていつの間にかツッコミ役になってること多いよなー」
「先輩は基本的にボケのはずなのですが」

 何とか復活した梓と夏音がそんな会話を繰り広げる。それどころじゃないドラム周辺だったが、その中で浮きまくっていた一人がついに声を出した。

「あのよ」

 その一声で、ぴたりと空気が止まった。気軽に声をかけただけなのに、低くどっしりとした声は耳によく響いた。

「ひとまず落ち着こうや。頭に血がのぼってちゃー話にならないだろう?」

 律は、そこで初めて夏音の父がその場にいるのだということを思い出した。最初に視界に入っていたものの、優先すべきものに視線が向かったので今まで放置だったのだ。

「す、すいません! いきなり現れてから騒がしくしてしまって!」

 あわあわと頭を下げた律。実は親しい人以外への礼儀はしっかりしている彼女は慌てて譲二へ対応した。

「いやーそんな気にしないで。騒がしい方が好きだし、青春って感じで大好物」
「は、はぁ……」

 苦笑いの律は落ち着いた様子で澪に尋ねた。

「急に思い出したんだよ。前に唯とムギが部活休んだ時に話したのをさ」
「ま、待て律! お願いだから言わないで!」

 澪が立ち上がり律に懇願するが、律は少し口許を上げると言い放った。

「ドラムやったらあんまり太らないってな!」

 スタジオがしんとなった。静まりかえった空間の中で、唯一ドラムセットに崩れ落ちて顔を押さえる澪の呻き声だけが響く。

「え、どういうこと?」

 ぽかんとしている唯が首をかしげて説明を求める。

「最近ちょっとお肉が気になり始めた澪は、何か良いダイエット法はないかなーと思ったに違いない。それで私の言葉を思い出して、こう目論んだ」

『ドラムを叩いてダイエットしよう』と。

 特に否定することもなく、真っ赤に茹で上がった顔を押さえたままの澪。律は続ける。

「私に相談するのも恥ずかしいし、絶対にバレたくない。ドラムを叩きたくても実物を持ってるヤツなんかいない……そこで気付く。自宅にドラムセットを持ってるヤツがいるではないか、と」

 律の推理が進み、皆の生温かい視線が澪へと注がれていく。

「そういうことなんだな、澪」

 律が核心をつく質問を澪に投げかける。

「いっそ殺して……」

 最早、顔を上げられず。虫の息で答えた澪だった。



 その後のてんやわんやは割愛される。主に澪がここぞとばかりにからかい尽くされてしまったわけである。

「それにしても、ダイエットなんかのために夏音の父さんにドラム教えてもらうとかうらやましすぎなんだよ!!」

 この点について、律は納得がいっていなかった。昨年の出会いがあってから、譲二は律の中で尊敬するドラマーとなっていたのだ。
 動画サイトに上がっている本人のプレイを見尽くしたといっても過言ではないくらい、彼のファンになっていた律である。
 ドラマーでもない澪が手ほどきを受ける(しかも不純な動機)ことほど羨ましいことはなかったのだ。

「教えたって言っても基本くらいさ。足のパターンなんか教えてねーのに出てくるわ出てくるわ。普段よく聞いてんだなって思ったよ。良いベーシストになるな」

 その言葉にさっと顔を赤らめたのは律と澪。澪は純粋に褒められたことに、律は自分のドラムが澪の中にしっかりと刻み込まれているという事実に。

「俺は滅多に家いないであけてること多いんだが、嬢ちゃんさえよければ教えてもいいぞ」
「え?」

 譲二から出てきた言葉に律が呆気にとられる。

「タイミングが合えば、な。遊びにこいよ」
「ほ、本当ですか!? 本当に教えてもらえるんですか?」

 飛びつくように譲二に詰め寄る律。譲二はそんな律の反応を面白そうに見て、鷹揚に頷く。

「よかったねりっちゃん!」

 まるで自分のことのように喜ぶ唯に律は思わず抱きつく。

「す、すごい……」

 梓は目の前の出来事を呆然と眺めていた。これは世界中のドラマーに恨まれてもおかしくないほどの幸運なのだ。
 一方、澪はそれを複雑な表情で祝福していた。きっかけがきっかけなだけに、手放しに喜ぶのはプライドが邪魔をするというものだ。

「ところで息子やい」
「なんだい父や」
「この中でお前のガールフレンドは誰だ?」

 唐突な発言に空気がぴしりと音を立てて固まった。

「い、いないよ! 何いきなり言っちゃってんの馬鹿じゃないの!」
「は、反抗期か!?」

 息子に馬鹿呼ばわりされたことで譲二はアルヴィに泣きついた。

「息子が! 息子が!」
「はいはい。みんなシャイなのよ。あなた本当に日本人なのかしら」

 夫の背中をとんとんしながら苦笑するアルヴィ。その視線の先にはえらく気まずい様子でわなわな震える息子の姿が。
 アルヴィはこの空気の落とし前をつけるだろう息子の未来を想像して少しだけ不憫になった。



[26404] 第十一話『ライブ at グループホーム』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/03/11 23:02



 夏音はふらふらとした足取りで早朝の道を歩いていた。肌に触れる空気はやや水気を孕んでひんやりとしている。ここ最近は気温が一気に高くなってきたので、このくらいが丁度良い。
 鳥の鳴く声、車の音、清浄な空気の中でいっそう響く。夕空みたいな空の色が目に沁みる。
 狭い世界にぎっしりと色んなものが詰まった見慣れた風景、それら全てが眠りに就いているような気がする。一日がまだ動いていない世界。皆、眠そうで口を噤んでいる。
 早朝というのも悪くない、と大きな欠伸をしながら夏音は思った。
 現在、夏音は夜通しかかった仕事明けであった。打ち合わせ半分、残り半分で都内夜遊びツアーに強制的に連れ回されていた夏音は酒こそ飲まなかったものの、既に身体はへとへと。体力は底をつきそうだった。慣れない街を周遊するほど疲れることはない。
 夏音は車で行かなくてよかったとほっとしていた。この眠気を抱えたまま運転でもしていたら、確実に事故でも起こしていただろう。
 それにしても、あと数時間で学校である。
 歩いているうちに通学路に差し掛かったが、流石にこの時間から登校する生徒の姿はない。大通りを外れて歩けば、車の通りもまばらで、通行人も老人やサラリーマンだとか夏音と同じように徹夜明けの人ばかりだ。

 そんな時、夏音は思いがけない人物に声をかけられた。

「オハヨー!」
「あ、おはよう姫子。朝早くから珍しいね、朝練?」

 クラスメートの立花姫子。新しいクラスで仲が良くなった女の子である。垢抜けた雰囲気の彼女はいわゆるギャルと呼ばれる人種なのだろうが、話してみるとさっぱりとした性格で人懐っこい。
 彼女とは名字が一緒ということもあって、妙に仲が良くなった。

「そ。昨日の夜ちょっと降ったからグラウンド心配だなー」
「水はけ悪いもんね」
「そうなんだ。ソフト部の使う側って特にね。ていうかそっちこそ珍しいじゃん。朝弱いって言ってたのに」
「あぁー。いや、ちょっとね」
「すっごい目、赤いよ? 青いけど」

 姫子は自分が言ったことがツボに入ったのか、くすくすと肩を震わせる。夏音は力無くそれに愛想笑いを返した。

「うっすらクマもできてるし。もしかして夜遊び?」
「まあ……そんなところ?」

 本当のことを言うよりいい、と思って適当に答えた。

「意外だねー。アメリカだったらわりと普通なのかな」
「そんなことないよ。むしろ日本の方がすごいよ。それに俺が住んでた所とか夜出歩くなんて考えられない」
「へぇー。でも、これからだったらあまり寝れないんじゃない?」
「そうだねー。あ、コンビニ寄りたいんだけど、姫子はどうする?」
「奇遇だねー。私も飲み物とパン買ってくつもりだったんだ」

 二人揃ってコンビニに入り、各自の買い物を済ませて出てきた。缶コーヒーを買った夏音は、それを無言で開けると、舌打ちをした。

「俺、コーヒー飲めないんだった……よかったらあげる」
「え、じゃあ……」

 夏音に色々と言いたいことがありげな顔をした姫子だったが、黙ってそれを受け取る。

「あの、さ。姫子」
「なに?」
「俺、帰るわ」
「あ、そう。また後でねー」
「それなんだけど、今日は寝るよ」
「え?」
「絶対に起きる自信がないんだ。むしろ、今日学校行く意味がわかんない」
「そ、そう」
「たぶん先生に『立花は休みー』とか言われるけど、気まずくならなくていいからね」
「な、なんないと思うわー」
「よし、なら何も問題ないね。おやすみなさい」
「お、おやすみ………ゆっくり休みなよー?」
「ありがとー」

 そして、ふらふらと通学路とは真逆の方向へ去っていく夏音を見送った姫子であった。しばらくその後ろ姿を見送っていた彼女だったが、コーヒーを一気に飲み干すと、コンビニのゴミ箱にそれを捨ててから歩き出した。


「夏音、一年の最初から比べるとサボる回数が増えたよな」
「うーん……わりと真面目に来てたはずなんだけど」

 律と澪。早朝に夏音からメールで堂々とサボるという内容を送られた二人は、少しだけ最近の夏音の学生生活に疑問を持った。

「ていうか今日、初めて立花さんと話したよ私」
「一年生の時、ムギと一緒だったよなあの人」

 軽音部の部室に向かう前、ムギと合流したところで立花姫子がムギに話しかけてきたのだ。
『今朝、カノちゃんと会ったんだけど。眠いから寝ますだってさ』

 そう笑いながら教えてきてくれたのだ。

「意外に良い人っぽかったな」
「澪。すぐ人を外見で判断する癖よー」

 軽く咎めるような内容だが、間延びした律の声。

「だ、だって。すごいイケイケな感じだったもん」
「イケイケって。ギャルとかに弱いよなーお前は。少しでも化粧濃かったら怖いんだろ」
「そんなことない!」
「絶対、澪って渋谷とか一人じゃいけないなー」
「……行けるもん」

 くく、と短く笑うと律は澪への追撃を止めた。まだ三人しかいない部室をぼうっと眺めていると、ふと澪が口を開いた。

「仕事、とか。忙しくなってるのかな」
「どうだかなー。むしろそれって喜ばしいことじゃないか? 今まであまり日本で仕事してなかったんだから、いい感じじゃん」
「でも、学校と両立できないなら本末転倒だろう」
「……むー。どうなんだろうな、そこんとこ」

 律は頬杖をついて、目を伏せた。実は人より長い睫毛が影を作る。

「どっちが本業かって聞かれたら、やっぱりあいつは音楽をやる人だろ。学生って身分ではあるけどさ」
「でも、あいつのスタンスはもう私達も知ってる通りだと思うぞ」
「それも、どうなんだろう。すぐに周りの状況も変わるし、気持ちだけじゃどうにもならないことってあるのかもな」
「どうしたんだよ律? 珍しいな」

 らしくない、と澪は冗談っぽく笑う。

「やっぱりさー。無理してんのかなー、とか考える時あるんだ」

 真面目なトーンを崩さず、律は続ける。

「実際あいつの大変さとか、知らないし。よく分かんないんだけど、掛け持ちって楽じゃねーよなー」
「まあ、生半可なものじゃないだろうけど。夏音は中途半端なことにはしないだろうな」

 一年間、仲間として見てきた上で澪は夏音をこう評価する。

「自分の限界を見極めるのもプロの仕事ってあいつが言ってた。その上でちょっと無茶するくらいが丁度良いって。だから、どっちつかずになる前にあいつは絶対に判断するよ」

 何を、とまでは言わなかった。
 二人とも無言のうちに、お互いが言葉に出したくないものの正体を理解していたから。

「おいーーっす!」

 唯が元気よく部室に入ってきたことで、二人の会話は打ち切られた。

「おーっす。今日は夏音がいないからお菓子パーティーだ!」
「いいねー!」

 夏音不在の軽音部はだいたいこんな感じであった。



 ★         ★
 
 翌日、何にもなかったかのように登校してきた夏音だった。皆には風邪と伝えられたので、体の具合を心配してくれるクラスメートに罪悪感を感じながら無難に答えていった。
 放課後になり、全員が集まったところで夏音はこんな話を持ちかけた。

「七海から頼みたいことがあるんだってさー」
「聞こうか」
「何でそんな偉そうなんだよ」

 律は腕を組み、椅子にふんぞり返って話を促した。

「この近くにグループホームがあるらしいんだけど、生徒会のボランティア活動の一環として老人と触れあう催しをするみたいなんだ。そこで軽音部で何か演奏してみないかってさ」
「それっていつ?」

 少しだけ興味が湧いたらしい唯が聞く。

「今週の土曜日」
「急だな」

 律が難しい顔になる。

「まあ急だけど。何とかなるんじゃない」
「それで、まだ受けたわけじゃないんだろ?」
「うん。今日中には返事が欲しいって言うから、相談してみたの。みんな予定とかある?」
「私は澪と買い物する予定だったけど、別にその日じゃなくてもいいし……」

 律はちらっと澪の方を窺ったが、澪も軽く頷く。

「だいじょうぶでーす!」
「おじいちゃんおばあちゃんの前で演奏かーわくわくするなー」

 ムギと唯も問題はないようである。

「梓は?」
「私も大丈夫です! あの、もしかしてこれって初ライブですよね?」
「あー、そうだね。梓にとっては初めての……」

 そこまで言ったところで気付いた。
 初めてのライブが老人ホーム。悪いことではないが、どうにも申し訳なさが溢れてきた一同だった。

「え、何ですか?」
「初めてのライブがこんな特殊なのでいいのかなって」
「そんなことないです! すっごく楽しみです!」

 その純粋な瞳に覗き込まれた夏音は眩しそうに目を細めた。

「じゃ、じゃあ出るって返事するよ」
「おっけー」


 急遽決まったライブ。ライブと分類してよいのか分からないが、早速一同は準備に取りかかることにした。

『まあ枠とかも特に決まってないらしいんだけど、あんまり長いと疲れちゃうから二十分くらいを目処に頼むよ』
「機材とかはどうしようか」
『歩いてもすぐだから台車で運べるとは思うんだけど。でも、うちの顧問の先生が車出せるみたい』
「そう。他には何かないの?」
『あんまりうるさいのは、ちょっと……』
「了解」

 通話を終了した夏音は自分をじっと見詰めていた面々に言った。

「やっぱりアンプは小さいので十分みたい。そういえば、いっそのことお年寄りに受けそうな曲をコピーしていくってのも手だと思ったんだけど」
「お年寄りに受けそうな曲?」
「津軽海峡・冬景色とか?」
「お前、何でそんな曲知ってるんだよ」
「演歌とか……それってカラオケでいいんじゃないか」
「まあ若い人とお話できたら何でも嬉しいと思うよ!」
「一番腹黒い発言が唯から出てくるとは思わなかった」

 律の引き気味な意見に「?」を浮かべる唯。無意識とは時に恐ろしい。

「確かに聞く相手によって構成を変えるのも大事ですよね」

 梓は夏音の意見に真面目に耳を傾けていた。

「この際、知ってる曲にとらわれる必要もないのではないでしょうか」
「そうかな。それなら少し落ち着いた曲を中心に考えようか。自分達の曲をアレンジしてもいいんだし」
「といってもあまり時間もないだろ」

 悩ましげに返した律に頷いた夏音は良い笑顔で言い放った。

「何とかする」

 梓はそれを受けて頼もしいと感じ、それ以外はその笑顔が恐ろしいと感じたという。


 二十分という枠組みの中で五曲もやれば十分だろうということで、セットリストを考えた結果、
 滝廉太郎の花。美空ひばりの川の流れのように、東京キッド。ふわふわタイム。キャンディウォーズ。

「異色のセットリストだな、おい」

 改めて書き出したタイトルを見た律の感想である。

「実際、ほぼアレンジだね。ムギには一番がんばってもらわないと」
「わ! が、がんばるね!」
「思ったんだけど、これって軽音部じゃなくて合唱部とかのほうがよかったんじゃないか?」

 確かに、と思わないでもなかった。ピアノ伴奏だけでお年寄りにも一緒に歌ってもらえるような曲を選べばいいのだ。むしろ、そちらの方が手軽である。

「それでも俺達が選ばれたんだから」
「まあ、それは嬉しいけどさ」

 その真相は七海が手始めに日頃から親しくしている夏音に声をかけようと思っただけのことだったが、最後までその真実が明るみに出ることはなかった。
 こうして人前で演奏する機会が訪れたことで皆のやる気に火がついた。


「唯、もっとピッチ安定させるように」
「梓、ここはもっと柔らかいピッキングを心懸けてやってみて」
「律はどうしてそううるさくなるのかな」
「澪、ニュアンスがとち狂ってるよ」
「ムギはもたつきすぎ」
「あと俺もミスったごめんなさい!」

 指摘の嵐が吹き荒れていた。
 慣れた者は「久々だなぁ」と顔をしかめていたが、免疫のない梓は目に見えて落ち込んでしまった。

「梓。音ちゃんと聞いて!」
「は、はい!」

 何とか持ち直そうとするのは分かるのだが、すぐに違うところで簡単なミスをおかしてしまう。一つのことに集中するあまり、他が疎かになる。失敗しないようにと強く構えることが裏目に出てしまうのだ。
 曲が終わった瞬間、梓はうなだれた。

「梓はもっと肩の力を抜いて弾くべきだなあ」

 軽い気持ちで言った夏音だったが、言われた張本人はびくりと肩を揺らすとぐっとネックを強く握った。

「あ、あずにゃん大丈夫?」

 それを見て心配になった唯が梓に声をかける。

「す、すいません……」

 そう答える声は震えており、次第に様子がおかしいと思った唯が顔を覗き込むと、梓はぽろぽろと涙を零していた。

「ご、ごめんなさい! 私が足引っ張っちゃって……」

 嗚咽混じりに謝る梓に対して、夏音はばつが悪そうに頭を掻いた。

「泣かせるつもりはなかったんだけど。きつく言い過ぎちゃったかな」

 それでも夏音を責めるような視線は一切なかった。どちらかというと梓に対して同情的な眼差しである。

「あのなー梓。できることからやっていけばいいんだから。夏音は無理なこと言ってるか?」

 涙を両手で拭いながら、いつになく柔らかな口調で聞いてきた律に首を振る。

「梓ならできるだろ? 言われたこと、あまり頭に入れすぎないでやってみろよ」
「頭に入れすぎない、ですか?」

 ぐずりと鼻をすすり、梓が聞き返す。

「そんなに頭で考えて演奏するんじゃなくてさ。こう……曲にノるんだよ」
「そうだな。周りの音を聞きながらそれに合わせるようにするんだ。梓、自分にばかり意識がいって今とかちゃんと聞いてなかっただろ? 今の演奏で律がとんでもないミスをしたこと分かった?」

 澪の指摘に梓ははっとした。ドラムのビートに沿って演奏していたというのに、律がそんなミスをしたことにさえ気が付かなかった。

「澪が『あ、ヤバイ!』って顔したところとか気付いた?」

 お返しとばかりに律が言う。

「いえ……私、なんにも」
「みんなミスとかはしてんだからさ。梓がどこを気をつけようとしてるのかくらいはドラムの私でも分かるよ。ちゃんと梓の音、聞いてるんだからよ」

 そう言って笑う律に梓の心は不思議と落ち着いた。

「律先輩……!」
「それにね梓ちゃん。夏音くんはあまり同じこと言わないのよ? 一度言ったことを私達がどうにかしようとしてるって分かってるからなの」

 ムギが付け加えるように言った。本人が指摘されたことを何とかしようとして頑張っているのに、同じ指摘を繰り返せば水を差すような形になる。
 すぐに改善されなくても。夏音はしっかりとそれを見ているのだ。

「まあ、たしかにそんな感じでやらせてもらってるけどもはい」

 おどけたように彼女達の言葉を認める夏音。

「すいません。私、全然演奏に溶け込めてませんでした」

 皆からの指摘はまさに青天の霹靂であった。いかに自分が必死だったか、バンドで演奏しているという自覚がなかったかを思い知らされる。

「じゃ、とりあえず頭からもう一回」

 夏音の言葉に律のカウントが始まる。今度こそ、と梓は目を見開いてバンドの調和に入ろうとした。


★      ★

 グループホーム・涼花は桜高の近隣にある。昭和中期に建てられた公共団地が建物の老朽化によって建て壊された後に出来た施設である。都会から程よく離れた上で交通機関へのアクセスもばっちり、という物件にすぐに入居の申し込みが舞い込んだそうだ。
 軽音部一行は九時に学校に集まり、そこで部室から機材をさわ子の車に運び入れる作業をした。本来なら生徒会顧問が車を出して監督に務めるはずであったが、軽音部の活動だからとさわ子がその任を担うことになった。
 そこにどんな裏事情があったのかは定かではないが、不機嫌な態度で「明日、私が行くから」と連絡してきたあたり、想像に難くない。
 バラしたドラムセットと各アンプをさわ子の軽自動車に詰め込むと、一同は歩きで施設へと向かう。

「ここがグループホームかあ」

 普段、あまり足を踏み入れることのない場所だけに、誰もが物珍しそうに建物を眺める。一見、普通のアパートのような造りである。
 スロープを上がり、中へ入ると入り口に差し掛かる。小さな入り口は施設というより、やはり一般家庭を彷彿とさせるこじんまりとした玄関であった。

「なんか……普通の家、みたいな感じだな」
「ねー」

 律が正直な感想を漏らすと、周りで頷く者が多い。引き戸になっている玄関を覗き込んでいた一同が勝手に入っていいものか迷っていると、後ろから声をかけられた。

「一応、ここのコンセプトが“暖かい我が家”らしいのよ」
「あ、さわちゃん」
「できるだけ『施設』って感じないようにデザインしてあるみたいよ。やっぱり認知症の方だと色々あるみたい。警戒したり、自分が何かの病気で入院したと思って不安になったりね」
「へぇ~。先生くわしいね」
「ここの方に聞いたのよ」

 夏音が素直に感心して言うと、さわ子は衒うことなくあっさり返した。

「さっ。あまり時間が無いからさっさと荷物を運ぶわよ」

 大荷物というほどでもないので、セッティングは十分もすれば終了した。セッティングを進めていた際、この不思議な空間に一同はそわそわしていた。
 この大型のテレビが置かれた広いスペースは談話室のようなものだろう。陽の光が射し込む室内は静謐に包まれている。ソファに座り、テキパキと準備をする若者をぼうっと眺める入居者の姿もある。
 この空間は時間がゆったりと流れており、一同はその中で細々と動く自分達は不自然の塊であると感じていた。
 そんな中、

「ミヒロかえ?」
「は?」
「ミヒロもよー育ったね」
「い、いや。私、ミヒロじゃないです」
「あ~? 何だって?」

 ふらりと現れた老婦に梓が絡まれていた。

「もー。高橋さんっ! ミヒロちゃん来てないよ! きょうここでお歌うたってくれる学生さん!」

 さわ子と共にやって来た施設の関係者らしき女性が老婦に言い聞かせる。

「学生さん?」

 小首を傾げて聞き返す姿は無邪気そのものであった。

「そ! 学生さん! 演奏してくれるんですって!」
「ほ~。立派なもんだね」
「ほんとねー。ほら、もうすぐ歌ってくれるからここで聞きましょうね!」
「ぷろふぇっしょなるかい?」
「そうそう。プロの人たち!」

 耳が遠いことへの配慮からか大声なのはいいが、堂々と嘘をつかないでもらいたいものである。

 そのやり取りを苦笑しながら眺めていた律だったが、ふいに悪戯めいた笑いを浮かべ、梓へと顔を向けた。

「ミヒロちゃん。緊張してな~い?」
「もう! からかわないでください!」

 即座にからかう律に梓はむっとして答えた。

「しっかし梓は真面目だよなあー。あんなんテキトーに答えとけばいいのに」
「だ、だって勘違いしてるんですもん!」
「うわー。お・こ・ちゃ・まー」
「何でですか!」

 緊張はしていないようだと夏音はほっとした。
 それにしても、と辺りを窺う。ちらほらと広間に人が集まってくるのだが、見事なほどに高齢者である。そんなもの最初から分かっていたことだが、こういう場での演奏は夏音にとっても初体験である。
 いったいどんな反応が返ってくるのか、分かったものではない。
 耳が遠いものは楽しめるだろうか。バンドとしての音の輪郭が甘い軽音部のサウンドでどれだけこの場の人達へと届くのだろうか。
 ちらりと唯の様子を窺う。軽く発声練習をしており、緊張した素振りは欠片も見当たらない。
 歌う際の滑舌の悪さが唯の短所なので、その辺りを意識するように練習させたつもりである。最後まで直りきらなかったのは仕方がないとして、ただでさえ音を聞き取りづらいであろう高齢者に歌詞が届くか。
 律は生音の強弱が甘い。ドラムだけ浮いてしまわないだろうか。
 そんな心配事を幾つも抱えながら、幕は上がった。


 三曲があっという間に過ぎた。
 弱々しい、それでも心のこもった拍手がまばらに響く。演奏者を讃える気持ちがしわくちゃな笑顔に、輝く瞳に宿っているのが分かる。
 やはり、昭和の歌姫・美空ひばりと日本人なら誰もが知るところの滝廉太郎は大いにウケた。
 ムギは音源通りの音で挑もうと随分と手こずっていたようだが、エレキの音が混じる時点でモダンな音になってしまうのは仕方がなかった。
 じんわりと汗をかいた唯が弾けるような笑顔でそれに頭を下げた。

「ありがと~!」

 夏音はここまでホンワカとした雰囲気のライブは味わったことがなかった。
内輪のノリで行うライブはいくらか経験したが、それとはまた違う空気に自然と笑みが漏れてしまう。
 今にも眠ってしまいそうな者もいれば、孫を見るような温かい眼差しで軽音部を見守る者。一緒に口ずさんでくれる者もいる。
 始める前まで不安だったことが、いつの間にか全て吹き飛んでいた。

「今やった曲は私達より皆さんの方が詳しいと思いますが! 全然聞いたことなかったんだけど、ひばりさんってすごい人だったんですね~」
「ひばりちゃ~ん!」「ヨッ! 御嬢ーー!」

 飛んでくる声援に唯もにこにこと満面の笑みで返す。年寄りを前にした唯のMCは無敵だった。
 計り知れない孫オーラを放つ唯が何を喋っても老人の笑みを誘うのだ。皆、ご満悦の予ご様子である。

「じゃあ次からは私達のバンドが作ったオリジナルです! あれ、オリジナルってわかるかな……おり…じなる……?」
「そのままで伝わるだろ」

 すっとぼけた唯の発言に夏音が思わず突っ込む。

「外人さんかい~。可愛らしいお嬢ちゃんだこと」
「はは、thanks!!」

 最早、訂正する気も起きない夏音だった。

「じゃあ聞いてください! ふわふわタイム!」

 唯がタイトルを言い終わる瞬間にかぶせて、夏音のストラトが歯切れ良く鳴り出す。現在の構成は唯がピンヴォーカルなので、普段リードを担当していた夏音が唯のパートを弾くことになっている。
 夏音が整えたリズムに全員が乗っかることはいとも容易く、一斉に同じタイミングで入った瞬間、それぞれの楽器は一つのまとまりになった。
 夏音のブリッジミュートが爽やかな疾走感を醸し出し、興に乗ったムギが跳ねるようなアドリブを入れる。
 一方、澪はこの曲で自身も歌わなければいけないからか、肩の力が入りっぱなしであった。
 次の小節が終われば澪が歌う。
 次の瞬間、
 そこで。
 一発目の音を外さなかったことで安堵したのか、徐々に歌に力が籠もっていく。
 会場は手拍子をする人でいっぱいである。車いすに座るお婆さんまで軽快なリズムに頭を揺らしている。
 観客がこうも温かいと、演者ものびのびとやれるものである。緊張しがいもなく、心配の種であった梓も気負うことなく、むしろ余裕さえ見て取れた。
 ある意味、最初のライブがここでよかったかもしれないと夏音は感じていた。これだけアットホームな会場も珍しい。
 何より、この場所には歓びがある。自分達の演奏を聴いて、素直に歓びを表してくれるオーディエンスの反応ほど嬉しいものはない。

「次で最後です! キャンディウォーズ!」

 ふわふわタイムのエンディングからドラムだけ取り残される。裏に入るオルガンに重ねるようにギター二本がユニゾンを醸し出す。
 この曲のテーマはバカ騒ぎ。お菓子をめぐる女子高生の破天荒な争いを描くような曲だが、言ってしまえば軽音部の日常風景でもある。曲自体が、各パートが最初から最後まで自分で考えたフレーズで成り立つ。
 いわば、皆のアイデアが存分に散りばめられた曲なのだ。
 どの拍ともズレてるような、それでいて絶妙な位置で鳴らされるギターのバッキングは唯そのものみたいであり、時折噛み合う時に超絶的に格好良いフレーズへと変貌する。
ドラムはひたすらパワフルで停滞することはない。やたら手数を意識したドラミングはその実、律の手癖が満載であるが、それに対して合わせることで一つ一つの表情を違った形で魅せる澪のベース。
 夏音は夏音でそれらを全体から俯瞰した上でメロディを組み立てていく。歌を邪魔することなく、曲の雰囲気を壊すことなく、確実に自分の音色をねじ込んでいく。全てをつなぎ合わせて、曲の世界を魅せつける力。
 不思議と耳に残るフレーズを生み出すのは難しい。CDなどでふと口ずさんでしまうメロディは大抵ヴォーカルの歌だが、時に印象的なギターのフレーズだったりする。楽器を嗜まない一般人の耳にもくっきりと残るくらいの強烈な印象。
 Cメロに突入すると突然ハーフテンポへと落ち着き、マイナーキーへと変調する。夏音のリバーブがかかったギターのスラップによる味付けに物悲しい歌詞が重なる。

 私のねいちばん大事な とっておき あのこだけはだめ なのに
 あーとられちゃ だまってらんない よろしい戦争ね

 ドラムのロールが高まっていく。おどろおどろしい恨みをこめて唯の歌声が爆発する。お菓子を取られた女子の怒りに塗り固められた攻撃的なリフが刻まれていく中、ベースでスライドチョーキングを連発する澪と律のクラッシュがぶつかり合う。傍らではキーボードがソロばりのフレーズで暴れ回り、それらの喧噪を梓の高速カッティングのリズムが引き締める。
 お年寄りの和やかな手拍子をぶっちぎって加速する曲。演者は一瞬の躊躇いもなく、最後まで突っ走っていった。
 曲のエンディング、律がシンバルを力の限り打ち鳴らしていく。夏音のチョーキングが頂点まで駆け上がると最後に振り下ろされる律の腕がピリオドを打った。
 束の間の静寂に観客の溜め息と拍手が広がっていく。
 誰もが演奏が終わった瞬間にどうしようもなく『ヤッテシマッタ』感を抱いたのだが、予想を裏切るように目の前一杯に広がる笑顔に面食らった。

「ありがとうございます! 桜高軽音部でした!」

 唯が頭を下げるのに合わせ、全員が礼をする。一同は、より大きく膨らんだ拍手に包まれた。
 乱れた呼吸を整えながら、少女達は顔を見合わせた。そして満ち足りた表情でお互いを見詰め、それは嬉しそうに笑い合うのだった。


「ではでは! ライブの成功を祝してかんぱ~い!」

 律の音頭でコップを重ねる音が響く。機材をさわ子に全て託した一同はファミレスへ移動して、打ち上げをしていた。
 打ち上げの飲み物がドリンクバーというあたり、高校生らしい。乾杯を終えると誰とも無く、全員が一斉に息をついた。
 あまりに同じタイミングだったため、思わず笑いが起きる。

「普通のライブするより疲れたね」

 だらんと机に寄りかかり頬杖をつく夏音が溜め息まじりに今日のライブの感想を言った。

「ああいう曲、今まで一回も手つけてこなかったからきつかったよ」

 ストローを口にくわえながら律が同意と頷く。
 僅か数日の間に三曲のコピーならぬアレンジをするはめになり、皆が悲鳴を上げていた。
美空ひばりや滝廉太郎などはほぼムギの独壇場だったが、バンドアレンジを加えるために慣れないことに挑戦したのだ。
 特に律は最も苦労したといえる。ミディアムテンポの和製ジャズにドラムをつけるために彼女は当時の音楽を漁るように聴いて、それでも分からなかったために夏音と相談しながら、そして最終手段としてジャズドラムの神髄を知る夏音の父・譲二を頼った。
 ちょうど家を空けていたために電話越しのアドバイスとなったが、そこで律が聞いたありがたいお言葉が「昔、バンドでやってたのあった気がするなあ。今だったら動画サイトとかにあんじゃないか?」だった。
 頼みの綱だった譲二からの言葉に計り知れないショックを受けた律だったが、その言葉通りに某動画サイトで探した中に、あった。

「こ、こ~れだぁ~い!」

 以上が律の苦労話である。練習の終わりに調子に乗った律が「これで私もジャズドラムを覚えたってことかなー」と漏らした折、それを聞いていた梓が一切の表情を変えずに「先輩がジャズの何を知ってるというんですか」と呟いて空気を凍らせたのは余談である。
 澪は普段はあまり経験しない完全後ノリやウッドベースのニュアンスを出すことに四苦八苦していたが、こちらは流石というべきか短い期間である程度仕上げてきた。
 夏音はクラシックギターを使い、梓はそれっぽいメロディを適当に入れるというギター陣の臨機応変さもうかがい知れるところとなった。

「梓、初めてのライブはどうだった?」

 澪は先程からあまり喋らない梓に笑顔で質問した。はっとして顔を上げた梓はぱちくりと目を瞬かせ、申し訳なさそうに眉を下げた。

「す、すいません。ぼーっとしてて……もう一度言ってもらえますか?」
「初ライブはどうだったって聞いたんだよ」
「すごく楽しかったです。何て言うか……やっと皆さんと同じステージに立てたってこともそうなんですけど、誰かに楽しんでもらうような演奏って初めてで……すごく暖かくて……また、ライブやりたいって思いました」

 その答えに皆の頬が緩む。特殊なライブに誰もが緊張していた中、初ライブの梓の心境は決して穏やかではなかっただろう。
 こうして軽音部として初のライブを乗り越えられたことに改めて安堵する一同であった。

「ライブっていいだろ?」

 目を細めて聞く律に、

「はい!」

 満面の笑みで応えた梓。
 この時、皆がライブの感想を言い合い、わいわいと談笑するなか、夏音のにこやかな笑顔に少しだけ寂しさがまぎれていることなど誰も気付かなかった。

※ 何かが足りない気がする……ひとえに私の力不足なのですが。
 老人ホームで交流、っていうのは昔やったことがあるのですが。演奏は未知の領域。想像で描いた上に、配慮の足りない描写があるかもしれません。そういった部分を発見されたら、是非指摘していただけると助かります。



[26404] 第十二話『恋に落ちた少年』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/03/12 23:21
「もっとさ。こう、川のせせらぎを感じるような……それでいて、下流に向けて流れてくの。時に強く、堅実に。細くなって、別れて……わかるかなぁ」

 そんな無責任な言葉の羅列に夏音はげんなりとした。
 お前の想像している川がどんなものかなど知ったことではない、と内心に思う。
 よくもこんな男がプロデューサーを名乗れるものだと呆れたのはもうだいぶ前の話だ。今や諦めの境地である。
 ふと視線をスタジオの袖の方にやると、自分の仕事をまるで盗られたディレクターの苛々がそろそろスタンドになって出てきかねない。夏音と目が合うと、申し訳なさそうな顔になるが、夏音は眉を上げて共感を示した。
 ついでに夏音はちらりとコントロールルームの時計を見る。夏音がスタジオに入ってから二時間は経っていた。

「……All right.」

 夏音は本音を呑み込み、ベースを構える。少しだけヘッドフォンから流れるオケの返しを大きくした。
 今回の仕事を受けなければよかったと何度も後悔をした。こんなのは端仕事である。自分を起用しようと考えたことが不思議でならない。
現在の技術であれば打ち込みで済むのに、わざわざ生の音を選んだ理由すら見えてこないのである。
 三曲録り終えて、思う。
 ソロデビューしたアイドルの楽曲ということだが、プロデューサーのヴィジョンが甘い。ただのアイドル上がりではなく、実力派として売っていくつもりだというだが、だからといって楽曲製作への力のこめ方を間違えている気がする。
 おまけにディレクターとの意思疎通も弱い。夏音はこれほど信頼できないチームを見たのは初めてであった。
 費用にも限度があるだろう。夏音は自分のネーム・バリューを理解していたつもりだが、ネームの大きさに比べた時のギャラの価格なども含めて都合が良いと思われたのだろうかと考え、気落ちした。
 それに今日のプロデューサーの態度を見ても、なめられている気がしてならなかった。所詮は十代の子供と侮られているのではないか。
 親切価格とはいえ、安くはないはずだ。それでも自分が起用された理由とは何であろう。
 自分を安売りする気はないが、そうも言っていられないのが現状。かつてのように放っておいても仕事が舞い込むような身分ではない。ある程度、営業に近いことを求められる瞬間もある。夏音をサポートしてくれるジョンやその関係者には頭が上がらない。
 今回のような仕事は正直、夏音にとっては不本意なものであった。
 等々、考えることは色々ある。ぐるぐると頭の中を回って、混乱に陥れようとする。

 それでも一度受けた仕事で手を抜くわけにはいかない。

 イメージがあるのならば「こういう音!」と具体的に示してもらいたいものだが。「こう……あのアルバムのあの曲のあいつの音、わかる? ちょっとシンセっぽい音」のように頼まれる方がよっぽど楽である。
 やりづらい。
 正直な感想だったが、そう言っていても仕方ない。
 気持ちを切り替え、夏音は目の前の曲に向かった。
 何にせよ、自分の音が欲しいと言われたのだ。相手がどうあれ、期待以上の仕事をするのがプロである。最終的には、文句のつけどころのないものを突きつけてやればいいだけのこと。
 短く息を吐き、そっと弦に指が触れた。



「顔色悪いけど、大丈夫か? 吸血鬼みたいに真っ青だぞ」

 夏音を心配するような声をかけてきたのはクラスの友人の一人である飯島裕也であった。一限目の体育ほどきついものはない、と夏音は思う。
 眠たい体に鞭を打って走らされる準備運動の段階で夏音は足をふらつかせてしまったのだ。

「眠い」
「そうか。それはいつも通りだな……にしてはやっぱりヤバそうだけど」
「どれくらいヤバそうに見える?」
「そのまま棺桶に入っていても違和感ないレベル」

 それは相当に悪い顔色なのだろう。今朝、夏音は鏡をあまり確認せずに学校へ登校してきたので、自身の顔色に気付くこともなかった。

「早退すれば? それか保健室とかさ」

 本気で心配してくれる友人に夏音は感動した。感謝の気持ちでいっぱいになり、微笑んでそれを表す。

「ありがとう」
「………気持ち悪いこと言うけどすまん。いつもならドキッとしちまうような仕草なんだけどさ。今のお前に微笑まれてもなんか……逆にコワイ。いやー」

 うっすらと引いている様子が分かる。夏音は久しぶりに容姿のことで傷ついた。

「あ、ごめん。悪い意味じゃなくてさ」
「じゃあどういう意味?」
「本当……顔が整ってるからマジで吸血鬼みたいってこと」

 どんどん墓穴を掘っていく友人に夏音は溜め息をついた。走りながら会話することもダルイのだ。相手にするのをやめよう。そう思っていた時、

「あの……さ」

 ふいに真面目なトーンで話し出す裕也に夏音はぴくりと耳を寄せた。

「ちょっとお前に相談したいことが」
「今?」
「いや、今じゃなくていい。後で、っていうか時間作ってくれたらありがたい」
「いいよ」

 夏音はあまり相談事を持ちかけられるタイプではない。せいぜい英語の授業についての質問が押し寄せるくらいである。
 あんな真剣な様子の裕也が自分に相談したいこととは一体なんであろうと夏音は首を傾げた。
 何にせよ同級生が悩んでいるということだ。力を貸すことを惜しむつもりはない。

 放課後、部活へ行く前に中庭に呼び出された夏音。そこには既に裕也の姿があった。

「お待たせー。掃除長引いた」
「あ、うん。全然、こちらこそ」
「それで相談ってなに?」

 夏音はくだけた態度でぼすんと裕也の隣へ腰掛けた。

「あの、さ……」
「うん」

 もごもごと口を動かす裕也に夏音は「おや?」とひっかかった。この雰囲気。自分が未だかつて味わったことのない空気に夏音はぞくりとした。

「そ、その……好きな人っている?」
「それは恋愛として?」

 嫌な予感をひきずりながら夏音が確認すると、裕也はこくりと頷く。

「そうだね。今のところはいない」
「そ、そうか。いや、お前は軽音部入ってて女子に囲まれてるじゃん? だからそういう感じになってるのかなーって」
「そう? たしかに俺しか男がいないけど。だからといって必ずそうなるってのは安直すぎないかな」

 夏音のこういう遠慮のない物言いは最初こそ面食らう者は多かったが、次第に慣れていった。裕也も特に気にした様子もなく「そうだよなー」と軽く反応した。

「それでさ……」

 また口籠もる。はっきりとしない態度に夏音は少しだけ苛ついた。歯に物がはさまったような喋りを長く続けられることは好きではない。日本人には多いが、人を呼びつけておいてぐだぐだと要件をはっきりしないのは失礼だと夏音は思った。

「はっきり言って、何なの?」
「悪い。ちょっと勇気がいて……でも、言うよ。俺、秋山さんのこと好きなんだ」

 世界が止まった。
 ほっとしたような、それ以外にも複雑な感情が瞬時に夏音の頭をめぐった。実のところ、夏音は万が一にでも自分がそういった感情を向けられているのではないかと危惧していたのだ。
 夏音の容姿は人並み外れている。これまでも同性にそういった視線を向けられることがあり、実際にその想いを伝えてくる者もいた。街中でのナンパも数え知れない。
 全て同性から、というのが悲しくも残酷であったが。
 夏音が安堵したというのは、その部分において。残りの、夏音の中で沸き上がった感情。夏音はそれを明確に自分の中で形づけることができなかった。
 いずれにせよ、自分にとってハッピーなものだとは思えなかった。

「そ、そうなんだ~?」

 とりあえずそう言い返すのが精一杯だった。その反応をどう受け取ったのか、裕也は暗い表情になる。

「やっぱり俺なんかじゃ無理だとは分かってるさ。でも、気になってしょうがなくて。夜も眠れないんだ!」

 どうやら裕也は澪に対する熱い想いを日夜持て余しているようだ。熱のこもった口調に夏音はかえって冷静になった。

「本気なんだね」
「ああマジさ!」
「それで、俺に相談ってことは裕也は俺にどうにかして欲しいってことかな?」
「いや。別に夏音に具体的にどうこうしてもらうってことじゃないんだ。自分の色恋のことまで他人に世話焼いてもらうのも違うだろ?」

 立派な言葉だが、ではどういう意図があって自分に打ち明けてきたのだろうと夏音は疑問を持った。

「まあ、俺って秋山さんと関わりなんてないだろ? 一年の時にクラスが一緒だったって言ってもほとんど話したこともないし」

「そもそも澪はほとんど男子と話さないしなあ」
 澪は生来の引っ込み思案に加えて、人見知りである。初対面の人間には固い態度を崩さないし、それが男が相手ともなると終始俯いて終わりだ。

「そうなんだよ。秋山さんって男が苦手だったりするのかな?」
「んー…………そんなことないと思うけど。ほら、俺だって男だし」
「例外に言われてもなあ」

 渋い顔で言う裕也。夏音はカチンときた。

「じゃ、部活行くね」
「待て待て! ごめん言葉のあやだから! 待ってごめん!」

 その場を去ろうとした夏音の腕をつかみ、そのまま土下座しかねない勢いである。必死すぎる裕也を夏音は憐れに思った。向き直って裕也の顔をじっと見詰める。

「分かればいいのだよ。それで、単刀直入に言ってもらいたいな。俺に何を相談したいの」

 実は覚えたての難しい言葉を使ってみた夏音。だが裕也はそこに引っ掛かることもなくもじもじと腕をもむ。

「あ、秋山さん好きな人っているのかな~? なんて……」
「乙女か!」

 もじもじ。赤面しながら俯きがちの一言。これが美少女だったら何と健気で初々しいのかと悶えるところだが、男子高校生がやっても些かさむいだけだ。

「だ、だって中学は共学だったんだろ? 彼氏の一人くらいいたり……ていうか付き合ってる人とかいないよな?」
「落ち着きなよ。澪が彼氏持ちのはずないだろ」

 クラスの男子との接し方を見ても、男慣れしていないのは丸わかりだ。そんな過去を聞いたこともないし、澪が普通に男と恋愛するような光景は想像できない。

「そっかぁ……とりあえず安心した」

 その言葉を聞いて小心者、と感想を抱いた夏音であった。例え澪に彼氏がいたとして、それで諦めるくらいの想いなのか、と完全に自分棚上げの他人事として考えていたりした。

「なあ夏音。俺、どうやってアタックしたらいいだろう」

 盛大な沈黙が二人の間に落ちる。しばらくしてゆっくりと口を開いた夏音がゆっくりと諭すように言った。

「俺に、聞かないでくれ」

 切実な響きに流石に裕也も何かまずいことを言ったのだろうかと気付いたらしい。顔色を変え、慌てるように腕を振った。

「ご、ごめん。なんか……ごめん」

 マジなトーンで謝られる方がこたえるものだ。恋愛経験のない夏音にとってその手の話題自体が自分のジャンル外なのだ。その上で恋の駆け引きのアドバイスなどできるはずがない。そもそも始まってもいない恋である。

「すぐにどうこうするつもりはないんだ。けど、気持ちが抑えられなくて……ちょっと本気で軽音部に入ろう、とか考えたりもした」

 ぴくりと夏音の目が引き攣る。これは夏音にとって聞き捨てならない台詞であった。

「裕也は楽器を弾くの?」
「俺? まあ一応、小学校の頃からドラムやってるよ。中学まで吹奏楽部だったし」

 意外な新事実に夏音は「へぇ」と純粋に驚いた。裕也の外見はどちらかというと今風、悪く言うならチャラい。顔は悪くないが、むしろしまりのない感じが誠実さを削いでしまっている。
 第一印象ではウケないタイプなのだ。内面はこの通り正々堂々とした純情青年であるのだが。
 真面目に吹奏楽部、というイメージとはかけ離れている。

「そうか……本当に音楽をやりたいなら俺は歓迎するよ」

 夏音はそう言った後、続けざまにこうも言った。

「本当に、音楽をやりたいならね。けど……このタイミングで君に言われても、俺は戸惑ってしまう。もしかして音楽を恋愛の道具にするんじゃないかってね」
「そ、そんなことは」「ないの?」

 否定の言葉を紡ごうとした裕也にかぶせるように言った。

「そうではない、と言われても俺にはどうとも言えないよ。純粋に裕也が澪にアタックするなら、応援する気もある。けれど、音楽に絡められるとだめだ……俺は、そう来られたら素直にうんと言えない」

 真剣な夏音の瞳に裕也はたじろいだ。こんなにも意志をこめる瞳に、そうそう出会うことはない。
 青い瞳は静かな感情を宿している。その言いしれぬ感情の奥を覗き込むことが躊躇われるほどに。軽はずみに触れてはいけない領域に手を出したのだと裕也は息を呑んだ。

「ごめん。俺、学校の部活で本気で音楽やりたいって気持ちはない。ドラム叩くのは好きだけど、軽音部に入ってやるってのは違う……自分でそう決めたから、入学した時に軽音部に入らなかったんだ」

 神妙に語る裕也。根が真面目で素直な彼は、すぐに自分の過ちを認めることができた。そんな彼の態度に夏音もすぐに態度を軟化させる。

「いや、こっちこそ熱くなっちゃったね。裕也が音楽をやりたいなら、全然かまわないんだよ」
「うんや。それは俺も割り切ってるからさ。うん……ていうか自分でも決めてることなのについ変なこと口走っちまった。要するに俺が言いたいのは、秋山さんと関われるナニカが欲しいってことなんだ」
「ナニカ?」
「きっかけって言うのかな。メアドでもゲットできればいいんだが……」
「澪のアドレスなら本人が良いって言ったら教えてあげるけど」
「それじゃだめなんだ! だって……いきなり普段話さないやつがメアド知りたいなんて下心あるって思われるだろ?」

 面倒くさい、と思い始めた夏音だった。

「じゃあ、どうすんの?」
「それを思いつかないから相談したいんだよ! なあ秋山さんの趣味ってなに? 普段、どんな音楽聴くのかな?」
「それ、全部自分で聴きなよ」

 教えた記憶がないのに、相手が自分の趣味を把握していたらコワイ。

「くっそー。どうすんだよー……あっ」
「そういうのは自分で悩むのがいいんじゃないか。そもそも澪のどこを好きに……ん、どうしたの?」
「あ、秋山さんだ」

 わなわなと戦く裕也の視線の先にはベースを背負った澪の姿がいた。学校の鞄も携えた上で一人で歩いていた澪はこちらに気付いたようだ。夏音が手を振ると、そろそろと近づいてきた。

「どうしたの澪。帰るの?」

 そんな話は聞いていなかった夏音が尋ねると、

「ああ。ちょっと具合悪くて、ってメールしただろ?」
「あ、本当? 話に夢中で見てなかったよ」

 慌てて携帯を確認して、受信メールを見た夏音が頭を掻いて笑った。

「あ、どうも」

 隣で固まっている裕也に目を向けた澪は小さく頭を下げた。澪は相手が誰であれ、このように最低限の社交性は持ち合わせているのだ。
 話しかけられるとは思っていなかったのか、裕也はぴしりと音を立てて直立不動の姿勢を取ると、そのまま九十度の角度で腰を曲げた。

「お疲れしゃーーっす!!!」

 どこの体育会系だ、と夏音は目を眇めた。

「あ、ああ。飯島くんだよ、ね?」

 勢いに気圧された澪だったが、奇跡的に会話は続いた。

「お、覚えていてくれたの!?」

 猿のように喜ぶ裕也は今にも澪の腕を握りしめかねない気迫をまとう。

「そ、それは同じクラスだったし」

 なにしろ数少ない男子生徒である。むしろ一年間も同じクラスで名前と顔を覚えられない人間とはいかなものか。

「そ、そうだよな。ハハハッ! 俺、何言ってんだろ……あっ! ていうか、秋山さんさ。前に教室で誰かと会話してる時にunkie好きって言ってたの聞こえたんだけど」
「う、うん。律と、かな? 飯島くんも好きなの?」
「す、好きだよ!」

 二人の会話を聞いていて「こいつら一発で日本語を話し出すことができないのか」と思った夏音である。裕也は力が入りすぎ、澪はその裕也の勢いにあてられてやや萎縮して見える。しかし、裕也が出したunkieなる単語に澪が食いついたのが見てとれた。

「俺、城戸さんって大好きなドラマーなんだよ」
「へえー。私はベースの人が好きで、ていうかもしかして飯島くんってドラムやってる?」
「やってるやってる!」

 おや、とこのあたりから夏音は首を傾げた。
 会話が弾んでいるではないか。その後、バンドの話で少しだけ盛り上がった二人であったが、裕也は体調が悪いと言っていた澪のことを気遣う発言をして、最後にこんなことを言い放った。

「あのさ。もしよかったらでいいんだけど、メアド交換しない? こういうマニアックな話できる人って周りにいなくてさ」
「え? ああ、うん。私も邦楽だとあまり趣味が合う人っていないからな」

 こんな会話を交わして、二人は赤外線を使って連絡先を交換し合う。澪は二人に別れを告げ、去っていった。

 それを見送りながら、夏音はぽつりと隣にいる裕也に呟く。

「う、うまいこと……やるやんけ」
「なんで関西弁!?」

 しかも、割とイントネーションも完璧である。

「何だろう。さっきまで裕也のことヘタレなのかなーとかしょうがないなーとか思って他のに。いざとなると、まんまとアドレスを受け取ったりして……これが持てる者と持たざる者との違い?」
「後半何言ってるかわかんねーけど、前半オイッ!」

 突っ込むワリには気にした様子がない裕也。今なら幾らでもののしっても寛容な心で許してくれそうである。

「まあ……よかったじゃないか」
「ああ、ありがとうな。夏音!」
「俺は別に何もしてないけど」
「いや! お前がいなかったらきっかけなかったし! 本当にありがとう! 感謝してる!」

 夏音の両手をぶんぶんと振る裕也。しかし、夏音は彼に実に重大な事実を伝えなくてはならなかった。

「でも、まだ付き合うって決まったわけじゃないよね」

 予想外のダメージだったらしい。今まで天に昇る勢いではしゃいでいた裕也は地面に倒れ伏してぶつぶつと何事かを呟く。

「そうだよなあ……何調子に乗ってたんだろ。あ、もしかして内心ではウザイって思われてたのかも。終始なんかヒキ気味だったし……俺、痛い子?」

 痛い子というより、その状態を見たら可哀想な子だ、とは夏音は口に出すことはできなかった。

「でも、澪の連絡先知ってる男子って俺と七海以外は聞いたことないなあ。結構、珍しいんじゃないかな」

 澪の口から学校の男子の話題を聞いた記憶は皆無である。アドレス帳の中身もそこまで多いわけでもないことも知っている。そんな彼女のアドレス帳に載っている男の連絡先は稀少といってもいいくらいなのだ。

「ほ、本当?」
「うん。そのはずだけど」

 夏音の言葉に希望の光が裕也の瞳に宿る。立ち直りが早い、というより感情の起伏が激しすぎる。夏音は友人の意外な一面に驚いてばかりであった。
 飯島裕也といえば、これといって目立つものもないが、比較的物静かな性格だったはずだ。騒ぐ時は騒ぐが、放っておくと静かに携帯をいじっているような人間。
 しかし、目の前の人間は恋に燃える情熱の男であった。

「俺、頑張ってみる」
「おおー、がんばれー」

 ぐっと拳を上げて意気込む裕也に夏音は応援の言葉をかけたのであった。

「(澪に恋愛するキャパシティーがあるとは思えないんだけどなー)」

 決して口には出さず、彼の恋の行く先は果たしてどうなるものやらと考えながら夏音は部室へ向かった。



★      ★


「あ、夏音くん! 聞いて聞いて! あのね! 今日、男の子から告白されちゃった!!」

 部室に入りざまに飛んできた唯の台詞に夏音は顔面からこけた。痛みに呻き、それから鼻をおさえながらふらふらと立ち上がった夏音は搾るような声で唯に尋ねた。

「そ、それで……唯はどうしたの?」
「え? ごめんね! って」

 それを明るく楽しそうに話すあたり、恐ろしい子だと夏音は思った。どうせ、あっさりと今と変わらないようなテンションで答えたのだろう。その男子生徒に若干の同情を禁じ得なかった。

「テンション高いよなー。そんなに嬉しいのかね?」

 部室の奥に座る律が呆れたように声を出す。その斜向かいでは何故かムギはやや不満気にお茶を啜っていた。

「あ、でもね。実はムギちゃんもこないだ告白されたんだって」
「What!?」

 思わずムギを見る。夏音の視線に気付いたムギは、にっこりと笑った。
 その笑顔を見た夏音は背筋をぞくりと冷たいものが走った気がした。笑顔なのに、般若のように見える不思議。

「で、律はそういうのないの?」
 こうなれば取り残された律にも聞かねばなるまい、と夏音は律に問うた。

「あー私? 私はそういうの告られる前に止めてるから。めんどい」
「りっちゃん悪女だね!」
「………………マジか」

 夏音はついに膝から崩れ落ちた。

 頼みの綱だと梓に顔を向ける。気まずそうに眉を落とした梓に顔をそらされる。

「嘘だろ……」

 夏音の衝撃は計り知れなかった。軽音部の女子全員が、告白されるという事態。その内三人は夏音のあずかり知らぬところで行われたという。
 何をいきなりサカりだしているのだろうか男子共。
 しかし、一体この感情をどう表現すればよいのだ。

夏音はたまらず叫ぶ。ある一点において、言っておかねばならなかった。

「そんな……梓は犯罪だろう!!」


「何がだ?」
「あれ?」

 奇妙なことだ。目の前に見えるのは天井である。

「こ、これは……何事!?」
「いやお前が何事だよ」

 先程から冷静に切り返してくる律の声に夏音は息が止まる。そして自分の状態に驚いた。部室のソファに体を預けて横になっていたのだ。

「夢……か」
「おいおいどんな夢見たんだよ。梓が犯罪だーとかなんとか?」
「いや、忘れた」

 身体を起こした夏音は嫌な汗をかいたと顔をしかめた。夢から醒めたばかりの混乱はいつになっても慣れないものだ。
 しかし、すぐに眠る前の記憶が戻ってくる。部室でお茶とお菓子を楽しんだ後、先程まで忘れていた疲労が一気に押し寄せたのである。
 少し横になろうとソファに頭を横たえた瞬間から記憶がない。

「夏音くんいびきかいてたよ」
「でも可愛いいびきだったね~」

 くすりと笑って言った唯とムギの言葉に顔を赤らめる。いびきなど、人には聞かれたくないものだ。

「相当疲れてんじゃないか? 超熟睡って感じだったぞ」

 律が夏音を気遣うような言葉をかけてくる。時々こういう風に優しい律にも慣れた。夏音は額の汗をぬぐい、気丈に振る舞った。

「ううん、平気。ちょっと眠ったらすごく身体が軽いんだ」

 それをアピールするようにぐるぐると肩を回してみせる夏音だった。

「あれ、梓はどうしたんだっけ」
「用事だってー」
「そっか」

汗をかいて喉が渇いた夏音はムギにお茶の余りはあるかと尋ねた。

「あ、ごめんね。もう温くなっちゃってると思うから淹れるね」
「いや、それでかまわないよ。すぐ飲める方がいいよ」

 温くなったお茶が旨いはずがないが、余計にムギの手を患わせたくない。ティーポットに残るわずかな紅茶を飲み干した夏音は、少しだるい寝起きの体をこきりと鳴らした。
 その時、ちょうど各々の会話が止んで静けさに包まれていた。夏音はふと頭に浮かんだことを皆に尋ねてみることにした。

「みんなは恋バナとかってするの」
「えー、なんだ急に? そりゃあ女子だったら普通にするけど」

 すぐに反応を返した律は夏音の口から登場する話題にしては珍しいと目を大きくする。

「いや、何となく。ちらほらとこの学校でも恋人がいるみたいじゃないか。みんなにはそういう話がないのかなってね」
「残念といえばいいのか、まあ今のところは無いかな。特に彼氏欲しいーとか正直ないし」

 あっさりと言ってのけた律にムギがぴくりと眉を動かした。

「えーりっちゃんモテそうなのに。中学の時だって告白されたんでしょ?」
「いつの話だよー。そりゃあ欲しくないかって聞かれたら欲しいけどー……今はなんかいーやって感じ」
「彼氏、かあ」

 ぽつりと呟き、遠くを見詰める瞳になる唯。

「え、なになに。唯も彼氏とか欲しいの!?」

その反応に食いつかない花の女子高生・律ではなかった。

「んー。ラブラブってしてみたいよねー」

 その一言にキャッと短い悲鳴を漏らすムギ。夏音は何故だかこのテンションについていくことが憚られた。

「誰か気になるヤツとかいないのかよ?」

 こちらも面白いものを見つけたと好奇の視線を送る律が水を向ける。

「そんなのいないよ~。あ、夏音くんは?」
「そこで俺に飛ぶ!? いないよ! 律は!?」
「た、たらい回しにすんじゃねえやい! ムギ!」
「え? 何が~? 何を~?」

 堂々と聞こえないふりをするムギ。純粋な瞳で小首を傾げてみせるその女子スキルに一同は思わず口を閉ざした。
 勢いが削がれ、何となく沈黙が落ちてしまう。

「まあ、この手の話題って澪とかがいないとなー」
「落とし所がねー」

 決して本人には聞かせられない言葉であった。

「正直に言うけど。みんな可愛いのに、びっくりするくらい男っ気なさすぎだよね。少しも浮いた話がないって逆にすごい」

 夏音が盛大にぶっちゃけた。

「か、可愛いなんて……それほどでも~」

 デレデレに照れる唯以外は沈黙していた。律とムギの反応にもの問いたげな様子の夏音。両者の間にぴしりと歪みが生じる。

「お前に言われると嫌味に感じる」
「否めません」
「ええっ!?」
「自分より綺麗な男に何言われてもなあ」
「夏音くんってそういうところありますよね」

 どうして責められなければならないのか。夏音は理不尽に対して声を高らかに宣言した。

「もう絶対に褒めねー」




※ いや、モテたいから音楽やるって人もそりゃあいるんですけど。全然それでいいんですけど、自分が本気で音楽やりたいって思ってる時にモテたいんだ! ってヤツとやる気にはならないですよね。
 そいつが間違いない腕をもっていても、モチベーションが合わなさそうだし。
 夏音もそういう理由を根っから嫌っているわけではないです。

 え、それはそうとして、澪はどうしたと?
 今回は恋愛を絡めたお話でした。普通に考えて高校生ってアレコレあるでしょう。むしろ、粒ぞろいの軽音部の子たちが誰一人としてそういうアプローチをかけられないなんてありえないです。
 たぶん女子校とは雰囲気がガラリと変わるんでしょうね、共学って。
 というわけで澪はどうなるのでしょうか。裕也のアプローチは彼女に届くのか!
 コテ入れみたいに登場したキャラですが、書いてるうちにあまり嫌いじゃないなコイツ……と思いました笑
 噛ませ犬臭もちょっとだけにおう彼はどうなるんでしょうかね。もともと幕間的に淹れようと思っていたエピソードなので、穏やかな気持ちでごらんになってください。

 仕事に関して。夏音は日本のスタジオ・ミュージシャンみたいな仕事をすることを好んでやっている訳ではありません。



[26404] 第十三話『恋に落ちた少年・Ⅱ』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/03/15 20:49

※そ~っと。そ~っと。

 何だか、すごく投稿するのが気まずかったりします。あ、あのー私、一応、このサイトに去年からおりましたーのでー……って感じ。及び腰でサササと席に座る感覚でございます。






「むぅ~」

 夏音はごろごろしている。ふかふかのソファに埋もれながら投げ出した足を組んでうなり声を上げていた。
 ある悩みが夏音を苛ませていたのだ。
 恋とは何だろうか。考えなかった日はない。
 夏音は自分に足りないものを知っている。人を愛した経験がない自分。
 愛を歌うのに。愛を曲に乗せて世界に発信する存在なのに。
 そんな曲を作り出す張本人が愛を知らないという矛盾に思うところはあった。
 言葉に出して指摘する者もいた。
 美しい旋律に愛を感じる。その色合いと恋人同士の息遣いを、視線のすれ違いを視る。しかし、それ以上の深みを感じることができない。
 その言葉は夏音にとって己の限界を知らしめられているような気にさせた。
 周りはいつも大人ばかりで、恋をする暇はなかった。ドキッとする女の子はいたが、恋心につながるものを得られずに終わってばかり。
 あくまでも擬似的に。夏音は恋を騙る。
 共感を得るようなものでなくてもいいと割り切っていた。普遍的なものを表現したい。けれど平凡なものではなく、ありふれたものをありきたりに捉えたくはない。
 恋を知らない者は恋を表現することはできないのだろうか。世界はイマジネーションであふれている。夏音はイメージして、目に見えるものを捕らえて表現する。
 物語に出てくる他人の恋で十分だと思っていた。それは今でも変わらない。
 しかし、最近になって思うのであった。
 自分と年が近い少年少女たちが営む恋のエピソード。肌に感じられるほどリアルで、ありきたりと言われるような失恋の話でも、今まで触れたことのない現実としてそこにある。
 昨日まで彼氏という称号だった友人がそうでなくなっている。ミスター彼氏はそれまで彼氏ではなかったのに、その称号を失ったすぐの彼はどこか人が変わったようになるのだ。
 彼らのちっぽけな恋物語に友人やただのクラスメートが巻き込まれることもある。
 そんな日常のストーリーに接して、夏音はこのような出来事が世界中のどこでも、あちらこちらで発生しているのだと改めて気付いた。

 自分がひっそりと息をしている世界に初めて外からの刺激があった。夏音としは友人に良い出来事が訪れればいいと思う。
 しかし、今回ばかりはそれが叶えば他人事ではいられない。
 万が一にでも澪と裕也が恋人という関係に収まったら、それまで当たり前だったことがずれていく気がした。
 毎週、夏音の家を訪れてベースを教わりにくる澪。客観的に見れば、男と二人きりという状態で密室にいる時間である。
 自分の彼女がそんな習慣を持つことをどう思うのだろうか。鷹揚な裕也のことだから、特に気にしないかもしれない。
 とはいえ、何だか後ろめたいものになりかねない。
 やることは今までと変わらないのに、物事の性質がまるで変わってくることの不思議である。
 ただ一人の立場が変わるだけで、こうも容易く変容してしまう。
 軽音部と他数名が共有している秘密もある。自身の秘密についても、どう取り扱えばいいのか。
 本来なら澪と裕也の問題であるはずなのに、取り巻く環境が二人だけの問題とすることを許さない。
 面倒くさいと一蹴していいかとも考える。だんだんと思考の深みにはまっていき、抜けることができなくなることは問題だ。
 他人のために時間を取られることは合理的ではないのだから。
 とはいえ。考えずにはいられない。


「××××。裕也め……」

 確実に相談相手を間違えていると夏音は思った。澪に親しい男は確かに夏音だが、そういうのは女友達を経由するのが定石なのではないだろうか。
 しかし律を攻略するのは困難だろう。意外に澪に対して過保護な面を見せる律が裕也に協力的になるとも限らない。
 夏音は澪とよく話す女子生徒の顔を思い浮かべた。よく考えると、それはあまり現実的ではない気がした。

「はあ……」

 溜め息を一つ。広いリビングに横たわっていた夏音は勢いをつけて起き上がることで思考の海から抜け出そうとした。
 食器の片付けもまだ済んでいない。風呂の用意もしていない。ついでに洗濯物も溜まっている。
 こういう事は放っておくと積み上がっていく一方なので、さっさと済ませるにかぎる。
 とりあえずキッチンを片付けるかと立ち上がった瞬間、メールの着信があった。

「あれ、裕也だ」

 用件は想像できる。夏音は少しだけ心臓の鼓動が早まったのを感じた。

「何だろうね」

 受信箱を確認して、メールを開く。その内容を見て、夏音は両の目を見開いた。


 件名:サラバ\(^o^)/青春オワタ

★          ★

「っ自爆クソ野郎!」
「そうさ……俺はクソ野郎だよ!」

 自嘲気味に呟いた裕也に夏音は額に井桁を浮かべる。ついつい言葉が汚くなるのは仕方がなかった。

「勢いあまってメールで告白したって何? ゆとりか! 今時の子供か!」

 はたして何様なのか。どこ目線なのかは知らないがとにかく夏音は憤慨していた。というのも昨夜、裕也からメールで報告があったのだ。
 メールでの会話が思いもよらず弾んだことで、早まった裕也は何を思ったのか「今! いける!」と勢いのまま告白メールを送ってしまったそうなのだ。
 結果は、惨敗。ごめんなさいの一言に動揺した裕也はそこで改めて自分がしでかしたことの重大さに気付き、壁に頭を叩き続けたという。腫れ上がった額が生々しい事実を示している。


「くそ……俺のバカ野郎! 裕也と書いてクソ野郎だよ! とんだ早漏野郎だ! 死んじまえばいい!」

 全力で自分を罵る裕也の目にぼろぼろと浮かぶ涙に夏音も心に落ち着きを取り戻してきた。その様子があまりに憐れだったというのもあるが、昨夜あんなにも悩んでいたことが馬鹿らしく思えてきたのだ。
 しかし、

「俺の悩みを返してよ!」
「え、何だっておまえが悩むんだよ?」
「悩んださ! 裕也が好きだって言うから、こっちも悩んだんだよ!」

 ざわり。

「ちょっ!? 立花くんお声が大きいわよ!? 多大な誤解がガチで生まれそうだから!」

 廊下にいた生徒が二人を見てひそひそとどん引き模様。小さく「うわぁ……」「まじ?」「え、これなんて愛憎劇?」「朝っぱらからやるなー」

 裕也は赤面を通り越して真っ青になっていた。誤魔化すようにわざと声を立てて「夏音くんにはー、えー、相談にのっていただいたことに非常に感謝しております!」
 政治家のようなトーンで声を張り上げる裕也。
 何だよ、とつまらなさそうな反応がちらほらと見えたので裕也は胸を撫で下ろした。
 そんな裕也の心境などかまわず、夏音は腕を組んでむすっとしていた。
 実を言うと、夏音は裕也からのメールの後すぐに澪から電話相談を受けていたのだ。

『あの、夏音………飯島くんから告白された』

 静かにパニックを起こしていたのだろう澪の声は震えていた。夏音はその時ばかりは「あちゃー」と友人の愚挙に頭を抱えた。

「何て言うか裕也、さ」
「うん」
「無理じゃないか?」
「言うなよ~!」

 わっと顔をおさえて泣き崩れた裕也。夏音は複雑な心持ちでぽんと肩に手を置いてやった。
 色々あったものの。この後の澪に対するケアなど諸々が面倒ではあるものの。
 こんな風に男の友情を育むのも悪くない。そんな自己満足に浸っていた夏音であったが、だんだんと裕也のそれが本気の涙だということが分かったので、面倒くさくなった夏音は彼を放置して教室に戻るのであった。友情とは時に儚いものである。





「いやー。昨日澪から『告白された!』って聞かされた時は、しかし大それたヤツがいたもんだなー、」

 当然のごとく話題になったその事柄に対して律は感心したような口調で切り出した。

「とか思ってたら裕也って……どう反応すればいいのか困ったわ」

 苦笑して、笑い話にしようとする。一方、澪の表情は暗い。どん底に落ち込んでいるとまではいかないが、暗い顔をしたまま律の言葉に耳を傾けていた。

「びっくりしたのは私だよ。だって、あまり話したこともないのに急なんだもん」
「澪ちゃん美人だからね~」

 唯が的外れなのかよく分からない発言を挟んだ。

「それってぶっちゃけ顔が目当てってことだろ。あ、澪の場合は顔以外にもお目当てのものが……へっへっへ」

 好色親父のようににたりと笑う律に澪は鋭い視線で切り返す。冗談抜きで睨んでくる親友に律はさっと視線を逸らした。

「まあまあ。こういうのはお互いの気持ちが大事ってやつで―――」

 夏音が差し障りのない言葉でその場を濁そうとするが、女性陣に「わかってないなー」という眼差しを送られて怯んだ。先程から好き放題言っていたのに自分だけこの仕打ち、と夏音は匙を投げかけた。

「澪ちゃん元気出して?」

 ムギが澪の皿の上に苺タルトをのせて、はげましの言葉をかける。

「うん、ありがとう。別にもう終わったことだからいいんだけど、やっぱり悪い気がして」
「はぁー。やっぱり澪はすかぽんたんだな」
「すかぽんたんってどんな語彙だよ」

 深い溜め息と共に出てきた単語に夏音は思わず反応した。律は夏音に取り合うことなく、真剣に諭すように澪へ語りかけた。

「あのな。ふったことで気まずいのは分かるけど、それって誰が悪いってなる問題じゃないぞ? 別に裕也に悪いところがあるわけでもないし、あいつの気持ちに応えられなかった澪が気にすることなんて何もないんだし」
「そうだよ澪ちゃん。私なんて男の子に告白されたことなんてないよ?」

 唯の明かした事実に、意外なようで納得した一同だった。

「そうかな」

 周りから送られる励ましに澪も思うところがあったようだ。

「そうだよ。よくある話さ」

 夏音がまとめるように言うと、澪の表情が少しだけ明るくなってきた。

「うん、飯島くんには申し訳ないけど。もう気にしないことにする」

 やっとその言葉を聞けて、四人はほっと息を漏らす。ただし、夏音はこんなにも早くフッた相手のことを忘れるものなのかと女子のたくましさというか切り替えの早さに戦々恐々とした。友人に幸あれ、と十字を切った。

「あ、ところで。澪は何て言って断ったんだ?」
「え? ごめんなさい。飯島君のことはそうやって見れないから友達でいましょう、って」
「うわー。ヒデェ! お友達発言っていちばん傷つくって話だぜ?」

 律はかつてのクラスメートのことを気の毒に思った。異性をフる上でのテンプレートとなっているが、その言葉に含有される絶望と希望の響きはフられた人間をずたずたに傷つけるという。友達だから、もしかしたら今後の展開次第ではと思うか。友達だから、それ以上の関係になるつもりはないという拒否を突きつけられているのか。どう受け取るかによるが。

「こんにちは! 遅れてすいません!」

 梓が部室にやって来たところで、この話はおしまいになった。



「あの皆さん! 次のライブっていつにするんですか!?」

 全員に菓子とお茶が行き渡り、一服ついた途端の梓の発言にそれを受けた上級生たちはぽかんと顔を見合わせた。期待に満ちた瞳から満遍なく放たれるキラキラにある者は「うっ」と眩しそうに目を細める。

「次……ねえ?」

 ちらりと窺うような視線が誰かに向けられると、「ねえ……?」それを橋渡しするようにまた別の者へ。ねえ、あなた? 子供に微妙に答えづらい質問をされた奥様方が旦那にまるっとぶん投げるソレを彷彿とさせた。

「ねえ……?」

 最終的に梓への返答義務をめぐった視線の受け渡しは案の定、夏音へと回ってきた。次へ回すのは不可能。何しろ全員があらぬ方向へ視線を泳がせて阻止している。
 仕方ないと諦めた夏音はウキウキした様子の梓に薄く微笑んだ。

「次のライブは……未定です」
「え。じゃ、じゃあこれから話し合うんですね!?」
「話し……合う予定を、これから立てようかなと検討してたり……」

 予定を決める話合いの予定を話し合う予定だった。こんな理屈があるはずがない。夏音の煮え切らない返答に眉を顰めた梓。彼女の周りに浮遊していた光は灰色のモノトーンへと様変わりした。

「する気……ないんですか」
「そ、そんなことないよ! バリバリあるよ!」

 唯の取って付けた回答に見向きもせず、梓はじっと視線を律へと見定めた。その冷え切った眼光の鋭さに律の額にたらりと一筋汗が通る。

「律先輩」
「な、なんじゃー?」
「軽音部の活動計画ってどうなってるんですか?」
「あ、計画? 計画~ケイカク~は、と。計画は順調だよ」
「どこがですか!? 一度もその計画を聞いた覚えがないんですけど!」

 梓の指摘は最もである。誰もがそんな計画を立てた覚えがない。

「ライブしたいなーとは思ってるんだけども。なかなか場所がなぁー」

 苦し紛れに律が吐いた言い訳に梓は冷静に返す。

「それならライブハウスでやるというのはどうでしょう?」
「ライブハウス?」

 あまりピンとこない様子でムギが首を傾げる。

「ライブハウス、か」

 隣の澪もその言葉を反芻してみせるが、どこか浮かない様子であった。梓はそんな二人の反応に何か失言だったかと口を押さえた。

「あ、あの。何かダメな理由があるんでしょうか?」
「いや。ダメではないけど……学校の部活動として外のライブハウスっていうのがしっくりこなくてな」

 それに賛同するように律が頷いた。

「ノルマ代とかもあるし、部活動って感じじゃないよなー。毎回部費でやるわけにもいかないし」

 大抵のライブハウスではチケットノルマが存在する。ギャラを貰って演奏する立場でない以上、バンド側に発生する課題の一つである。売れているバンドであれば、全てのチケットを捌いた上で追加分が売れたらバックとして返ってくることもあるが、軽音部が今すぐライブハウスに出演したとしても、それは叶わない。

「高校生だから安くしてはくれるだろうけど、頑張っても月に一回かな。みんなでお金を出し合ってライブするって感じだろうし、簡単に踏み出せないんだよなあ」

 さらに律は小遣いも限界あるし、とぼやく。
 大勢の反対を受けて梓が肩を落としかけた瞬間、夏音が決定的な言葉を放った。

「ていうか何より俺は絶対にいやだよ。お金を出してライブハウスでライブ……それは、いや」

 お金を貰って演奏する側にいた夏音。そのワガママとも取れる発言は彼のミュージシャンとしての矜恃なのだと思われた。

「いや!」

 じっと見詰めただけでこの過剰反応である。
 一番強引だが、説得力のある言葉に梓は完全に諦めることになった。

「たまにノルマ代ない時とかもあるらしいんだけどさー。それって相当そのライブハウスの常連バンドとかじゃないとダメらしいし、私らには現実的じゃないっしょ」

 締めくくるように律が言って、議論は終わりに。
 なるかと思ったのだが。

「でも、ライブハウスでなくてもライブはできますよね」
「わぉ。あずにゃん、そのハングリーな精神はいいと思う! ナイスハングリー!」
「茶化さないでください!」

 唯に厳しい視線を浴びせ、梓は続けた。

「学校でやるのとかはどうですか? あんまり長くはできなくても、二曲くらいなら……」
「えー。お昼食べたーい」

 早速ブーイング。梓はその小さな拳を握りしめ、ぷるぷる震えた。

「お昼くらい早弁したらいいじゃないですか!」
「梓ちゃん……女の子の発想としてそれはちょっと……」

 流石に物申したムギであった。ちなみにそう言う本人は早弁に憧れた末、一年の時に体験済みだったりする。周りに笑われて恥をかいた経験からの説得力に、梓も黙ってしまった。

「よしよし。わかったよ梓。梓がライブしたいのはよ~くわかったから! ちゃんと話し合おう! な? 冷静に! 落ち着いて、さ」

 長引きそうな気配を察知した律がそう言って梓をとりなだめる。不承不承といった態度で梓は大人しく椅子に座り、次の律の発言を待った。

「じゃあ、これを飲み終わったらこれからのライブ予定を決めようか」
「はいはいさんせー」
「今日はお茶請けをたくさん持ってきたの」
「あ、PSP充電しよっと」

 その後、何だかんだとダラダラと過ごし続けた軽音部。ずるずるとティータイムを引き延ばす上級生組の圧倒的な才能に梓は結局、再びライブの話を言い出すことができなかったという。
 だらける才能において、軽音部の右に出る者はいない。



 ※短くてすみません。本当は前半部分は前回に入れるはずだったのですが、予想以上に長くなったので二つに分けました。

 



[26404] 第十四話『ライブハウス』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/05/09 00:36

 軽音部という部活は常に誰かが口を動かして会話が途絶えることはない。演奏が途絶えることがない、という点が実態を表しているようなものであるが。
 ティータイムが始まると同時に律や唯といったお喋り好きの人間が会話の端緒をこじ開けるのである。
 話題はその日に学校で起こったことや、昨晩のテレビ番組の話であることが多い。
 例えば今日などは、律が友達の惚気話に色をつけて捻くれた解釈を述べ始めたことから、それに対して唯がとぼけたことを返し、勝手に盛り上がり始めた。
 一方、そういった話に気軽に参加することができない澪は、梓や夏音と真面目な音楽な話をすることが多い。音楽雑誌から話題を見つけ、それに関して話を振ると、当然のように乗ってくれるのがこの二人だ。
 意外にも日本の音楽シーンについても二人は博識である。梓は基本的に洋楽に傾倒しているが、日本の音楽事情についても情報吸収に余念がない。
 勉強熱心な彼女は、インディーズシーンにも手を出しているというから恐れ入る。友人にバンドをやっている子がいるらしく、自分と無縁だと思われる音楽ジャンルに触れる機会が多いのだと言う。

「その子も結構色んな音楽聴いていて、もともとジャズとかそっちの話で盛り上がって仲良くなったんです」

 ということらしい。その友達のバンドもそれなりに有名になってきており、梓は今週の土曜にあるライブに行ってくるのだそうだ。
 澪は自ら進んでライブハウスに足を向けることはないので、その話に興味を抱いた。ライブハウスで演奏したこともある身だが、まだ澪にとってライブハウスという場所は一人で赴くには敷居が高いものであった。
 自分で興味を持ったバンドのライブにふらりと行けるようになりたい。そんなことをぼんやりと考えていると、梓が「よかったら澪先輩も行きませんか?」と誘いかけてきた。

「いいのか?」
「全然いいです。むしろ、人が増えた方が向こうも喜びますし」

 確かにチケットノルマを抱えるバンドとしては自分のところからチケットを買ってくれる人数が多いにこしたことはない。

「そうか。それなら私も行ってみようかな」

 チケット代のことなど諸々気になる点はあったが、後輩と一緒にライブを観に行くという体験も悪くない。

「本当ですか!? なら、すぐに友達に連絡しておきますね! チケット代は1500円プラス1ドリンクです。初めての人なら安くしてくれると思うので、聞いてみます!」

 梓は澪がこうもあっさりと首を縦に振るとは思っていなかったらしく、ぱっと顔を輝かせると、いそいそとメールを打ち始めた。
 自分はそんなに付き合いが悪そうなイメージなのだろうかと澪は首をひねった。日頃から付き合いは良い方だと思っていただけに、その反応に驚いた。
 しかし、話の流れとして自分が誘われたものの、他の者にも声をかけるべきだろうかと、とりあえず澪は真正面に座る夏音に目を向けた。
彼の姿が目に飛び込んできた瞬間、瞬間に固まってしまう。
 目の前に絵画から飛び出してきたような美貌はいつでも心臓によくない。
 美人は三日で慣れるとは言うものの、ふいにその姿を目に収めた時につい漏れるため息を抑えることはできない。
 すっと通った鼻梁。彫りの深い顔は物憂げに俯いており、邪魔にならないように髪を耳にかける姿に目を奪われる。
 最近、また色が抜けていたと言っていた髪は部室に射し込む陽光に透けて金色めいている。彼の髪の色は画面を通して知ってはいるが、実際に目にしたことはなかった。
 彼と自分達の間にちょうど薄透明な膜があるような気がした。それは少しだけ黄金を溶かしたような色がある。
 夏音と、その他を分け隔てる膜。その膜の向こうにいる彼は違う世界の人間みたいに見える。
 ちょうど背後からの陽光が後光のように見え、空間そのものから浮いているような、それなのにどこか一体となっているような美の顕現。
 とことん不思議な存在である。こんなにも見とれてしまう容貌なのに、澪は彼がその美貌を活かしたところをお目にかかったことがなかった。
 せっかくの美人を無駄にしている。最近読んだ少女漫画に無駄美人という言葉があったが、この男にピッタリな形容だろう。
 いつの間にかじっと観察しすぎていたのか、澪の視線に気付いた夏音がこちらに目を向けてくる。

「どうしたの?」

 何でもないように聞いてくる声を聞いた瞬間、はっとなった澪は何か取り繕うべき言葉を探し、つい話していた話題を持ちかけた。

「今週の土曜日に梓とライブを観に行くんだ。夏音も忙しくなかったらどうだ?」

 土日は基本的に忙しいという夏音が誘いを受ける可能性は非常に低かった。言うだけ言ってみただけだったのが、

「ごめん。その日はやっぱり打ち合わせで……」

 極めて申し訳なさそうに手を合わせる夏音に澪も気が咎めた。

「いや、そうだろうと思ったよ。こっちこそ悪いな」
「ううん。それで、どのバンドを観に行くの?」
「梓の友達のバンド」
「へえ」

 澪の回答に感心したような視線を梓に向ける夏音。特に梓に感心したわけではないだろうが、そんな視線を向けられた梓は気恥ずかしそうに頬を赤らめた。

「あ、いえ。友達が中学からやってるやつで……せっかくなので」

 ちぐはぐな言葉を紡ぐ梓だったが、予想以上に夏音は興味を持ったらしい。

「そうかー。どんなバンドなの」
「基本的にメロコアで……ちょっとずつ色んな音楽の要素を混ぜてまして。クロスオーバーって言われると、そこまで大したものじゃないですけど」
「へえー。俺、そこらのライブハウスとか絶対に行くことないから、ちょっと興味湧いてきたかも」

 発言に他意はないだろうが、妙に説得力があった。そこらのハコにふらっと立ち寄るカノン・マクレーンの姿は確かに想像ができない。

「どうしようかな……何時から?」
「え?」
「そのバンド、何時から出番なの?」
「確かチケットには、7バンド出演のスタートが18:00で……出番はトリなので、九時前後でしょうか」
「へえ! トリなんだ」
「はい。というより、友達のバンドが企画してるんで」

 梓の言葉に澪は軽く目を丸くした。企画ライブ。夏音はその単語を聞いてもぱっとこないようで首を傾げているが、これは駆け出しのバンドではなかなかできないものだ。
 まさにバンドが企画するイベントを指すが、対バンを集めるのも自分達なので、それまでに対バンで知り合ったバンドとの信頼関係が築けておらねばならない。何のコネもないバンドにとっては無謀な試みなのだ。
 他の出演バンドを聞いても澪はピンとこないが、梓曰くこの近辺のライブハウス界隈では有名なバンドもいるらしい。

「そのくらいの時間なら俺もいけるかな。チケット俺の分もお願いしてもいいかな?」

 夏音の口からその言葉が出た時、耳を疑った。興味を抱いている素振りは見せたが、まさか仕事終わりに時間を割いてまで行くとは思わなかったのだ。
 そんなに興味があるのだろうかと首を傾げていると、そんな澪の疑問を察知したのか、夏音はこう述懐した。

「やってるバンドにすごく興味があるわけじゃないけど、そこらのライブハウスってやつに興味があってさ。せっかくだから友達と行きたいでしょ」

 その回答に澪は軽く目を見開いた。まるっきり考えていたことが一緒だったのだから。

「えー。ライブ行くの~? 私もいきたーい」

 耳ざとくこちらの内容に食いついてきたのは唯だった。いつの間にかお喋りを止めた三人がそろってこちらに目を向けていた。

「ライブハウスかー。久しぶりに行きたいな」

 と親しげな笑みを浮かべる律。彼女の友人もバンドをやっている。そちらは共通の知り合いではあるが、澪はさほど交流があるわけではない。律は中学の頃はよく誘われてライブに行っていたらしいが。

「じゃあ、みんなで行くか?」

 この際、人数が多い方が心強い。あまり女の子が少数で行きたい所ではない。
 すると、一人だけしょんぼりと俯くムギの姿が目に入った。

「どうしたムギ?」
「ごめんなさい。その日、用事があって行けないの」
「あ~、そっか。まあ、別にその日限りってわけでもないんだし、また誘うから一緒にいこうぜ?」

 すぐに律のフォローが入るが、ムギは皆が参加するようなイベント事を誰よりも強く楽しみにしている。一人だけその輪から外れるのは心苦しいことこの上ないのだろう。

「じゃあムギちゃんのためになにかお土産でも買ってくるね」
「ライブハウスに土産物売ってるかい。あっても物販だろ」

 続く唯の発言に律が冷静に突っ込む。

「えっと。じゃあムギ先輩以外は行くということでよろしいでしょうか?」
「うん。俺は遅れるけど、先に楽しんどいてよ」

 こうして軽音部一同はムギをのぞいて土曜日はライブ鑑賞をすることに決まった。



「ちょっと疲れちゃったかも」

 四バンド目が終わったところで唯がすっかりくたびれた様子でへたり込んだ。どこかで聞いたようなメロスピバンドのSEが会場を満たす中、弱々しい唯の言葉を聞き取った澪はちょうど空いていた長椅子へと唯を連れて行った。

「大丈夫か? いったん外にでも行く?」
「ううん、大丈夫。なんでかなーいつもより疲れるね」

 そう言って弱々しく笑う唯の言葉に澪も共感を覚えた。確かに、狭い空間の中で絶えず爆音に身を委ねているのは気力がいることだ。基本的に立ちっぱなしで、もはや音というより身体中を震わす振動を味わっているようなものである。それだけでなく、煙草の煙が充満していて、あまり気分の良いものではない。
 かつて軽音部でライブをしたペニー・マーラーほどのキャパシティとは違い、このライブハウス「リリース」は規模的にも半分以下である。
 これは純粋に慣れの問題もあるだろう。共にやって来た梓や律は平然としている。

「そういえば、まだドリンク貰ってなかったな。何か持ってくるけど、何がいい?」
「あぁー。水とかあったら嬉しいな」

 1ドリンクというのはいわゆるチャージのようなものだ。チケットとは別にライブハウスに入場する際にドリンク券と引き替えに払う。
 もちろん未成年なのでアルコールは頼めない。ソフトドリンクのメニューの中から選ばなくてはならない。
 中には明らかに未成年といった若者もいるが、彼らは素知らぬ顔でビールを呷っている。澪はそれに倣う気もないので、とりあえず唯の分もあわせてミネラルウォーターを頼んだ。
 ペットボトルを二本受け取り、唯のもとに戻る。その内の一本を手渡すと、唯は少量だけ口に含ませてから澪に礼を言った。

「それにしても音、すっごいねー」
「そうだな。前のライブハウスもすごかったけど、これだけ狭いとやっぱり音の圧力が違うよ」

 ドラムのキックが波動のように体を貫き、ベースの重低音が床を揺らす。澪はお腹のあたりをぶるぶると震わせる音に、改めてベースの魅力に心を奪われた。

「そういえば夏音くんどうしたの?」
「仕事が長引いて来られないってさ」

 先程メールが届いて、急遽入った別件の打ち合わせに赴かねばならないという内容であった。急にチケットをキャンセルしたお詫びに、物販のCDを買っておいてと頼まれた。もちろんお金は立て替えである。

「あ、物販みておこう」

 売り切れになるということはないだろうが、早々に用事は済ませておきたい。澪は唯に物販を買いに行くことを伝えて、物販スペースに足を運んだ。
 物販スペースでは売り子の人間が煙草を吸いながら何やら談笑している。基本的に店番は暇らしい。
 澪は怖々と物販が並べられた机の前に立ち、目的のバンドの品に目を落とした。CDの他にもバッジやTシャツといった小物まであり、どれもロックテイストなデザインとなっている。
 興味深く手に取って見ていると、背後から声をかけられた。

「澪ちゃん?」

 振り向いて現れた人物に澪は目を丸くした。

「キョウちゃん!」

 驚いた。目の前で澪と同じくぽかんとした表情を浮かべているのは、同じ中学の同級生である菊池京子であった。

「久しぶり~! ナニ! 何で澪ちゃんがこんなとこいんの!?」
「私は後輩の友達がやってるバンドを観に来たの。それよりキョウちゃんこそ、だよ!」

 澪の記憶にある彼女はライブハウスに足を運ぶような少女ではなかった。どちらかというと流行のJポップやらアイドルに熱中するような、悪い言い方をすればミーハー女子の代表のような子だった。

「ていうか、今日あたし出るもの!」

 笑い混じりに答えた京子に再び目を丸くした澪。つい声に出して驚くと、彼女はヘヘヘと照れ笑いをする。

「意外でしょー? 高校入ってすぐにバンド誘われてさ。あたしって無駄に歌だけはいけてた方だったから、引き抜かれたんだ」
「どのバンド? まだ出番じゃないだろ?」
「トリ前のCTVっていうバンド。正式名称はクリエイト・ザ・ヴァイオレンス!!」
「そ、そのバンド名は……」

 若干引いてしまうネーミングセンスである。澪の反応に心当たりがバッチリあるのか、自嘲の笑いを漏らす京子がぼそぼそと呟く。

「だってあたしが入った時にはもうバンドとして長かったんだもん。本当はこういう高校生企画とかに出ないんだけど。ていうかうちのベースなんて29のオッサンだから」

 29でオッサン扱いされる男性が気の毒になったが、そう言って朗らかに笑う彼女を見て、やはり澪は変わったなと思う。
 中学までの彼女はこんなに垢抜けた笑顔を浮かべることはなかった。たった一年バンドをやっただけで、こうまで人が変わるのだろうか。

「キョウちゃんのバンドは物販出してないの?」
「んー。前の人の時に作ったCDとかはあるんだけどね。あたし的には、ちょっとオススメしたくはないっていうか。どうせなら、澪ちゃんにはこれを持ってって欲しいかな! はい!」

 ガサゴソと手持ちのバッグを漁った京子が手渡してきたのは、むき出しのCD-Rだった。
 おそるおそる受け取ると、彼女はにっこりと笑って言った。

「それ。あたし歌ってるやつ。まあプレスじゃないし、本当こんなんでーすって紹介程度。今度ちゃんとレコーディングするから、そっちの方は買って欲しいな。よろしくぅ!」
「え、これ貰えるの?」
「もちろん! 無料デモだもん! むしろ、こんなのに金出せってほうが恥ずかしいシロモノだし」

 その言葉に手元のCDに目を落とす。それにしても、むき出しのままというのはいかがなものか。

「最後まで観てくの?」
「うん。トリのバンドが目当てなんだ」
「へー! すごいつながりもあったもんだね。じゃあ、あたしご飯食べてくる。また今度ね!」

 澪が言い返す前に京子はだだっとライブハウスの出口に向かって歩み去ってしまった。
 嵐のような女の子だ。
 もう澪が知る彼女とは随分と変わってしまったのだろう。澪はむき出しのCDをハンカチで包み、慎重な手つきでバッグにしまった。
 SEが止まり、次の爆音が澪の身体を震わす。早速、律に報告しようと思っていたのだが、後回しになりそうだった。



★        ★


「キョウちゃん超よかった~!!」
「ほんと~? ありがとう! りっちゃんステージの上から見てもソッコー分かったよ! あのおでこはりっちゃんしかいない!」

 ライブが終わり、律と京子が熱い抱擁を交わし合いながらじゃれている。澪は彼女達との温度差にそっと距離を置き、辺りを窺った。
 ライブ終わりのライブハウス前というのは何とも言えない雰囲気がある。
 先程までステージの上に立っていた人達が、至る所で立ち話をして笑っている。ファンらしき人間と気軽に言葉を交わし合う姿を見て、客と演者の距離の近さに驚いてしまった。
 そういえば演奏中も普通に演者がその辺にいた。
 澪は、拍子抜けに近い感情を抱いた。澪の中では、ステージに立つ者とそれ以外、という関係はもっと遠いイメージだったのだ。
 もちろん、彼らはいずれにしろアマチュアである。ファンはいたとしても、個人で関わりを持つことを忌避しなければならないような存在ではない。
 しかし、逆に言えばこういう関わり方ができるのが今のうち、ということでもある。
 もしもこの中のバンドのどれかがメジャーデビューを果たし、全国規模で人気が出た場合、こんな光景はお目にかかれなくなるだろう。
 びっくりしたが、考える内にこういうものかと受け入れる気持ちになった。

「澪先輩。私の友達のアミです」

 ぼーっと立っていると、梓の声が澪の注意をひいた。振り向くと、梓の隣には先程のトリバンドでベースを弾いていた少女が立っていた。
 少しだけ色が抜けた髪にTシャツにパンツという出で立ちはいかにもラフなメロコア少女といった感じがする。

「今日はどーもです。CDまで買ってもらったみたいで。ほんと良い人!」

 ぺこりと頭を下げて少しハスキーがかった声で礼を言うアミ。すると梓が目を釣り上げて彼女の肩を叩いた。

「失礼な言い方しないでよ!」
「え~!?」

 急にどつかれたアミは顔をしかめて梓を睨む。

「ま、まあまあ」

 根っからの生真面目さは等しく友人にも発揮されるようだった。

「澪先輩もベースですっごく上手いんだから!」

 梓が少し鼻を膨らませて言うものだから、澪はもう限界だった。顔を真っ赤にして、まごついてしまう。
 その後、ライブの感想を二言ほど話したところで彼女はファンらしき男性に話しかけられ、そちらにかかりきりになってしまった。
 見知らぬ男性との会話に割って入ることもできず、梓と一緒にそこらでうろうろしていた唯と律と合流した。
 ライブは全体的に三十分ほどおしていたので、既に時刻は夜の十時をまわっている。
 駅まで歩いていると、唯がふわふわとした足取りで鼻歌をならした。先程のバンドの曲だろうか。澪は既にそのメロディが遠い記憶になっており、朧気にしか思い出せない。

「なんか耳遠いや」
「すごい迫力だったなー。あれだけ爆音でやれると気持ち良さそうだな」

 澪も律の感想には同意だった。自分達の音が空間を占めている感覚は何よりも快感である。

「私達がライブハウスでやったらどんな感じなんだろうね」
「まあ、前にやったのとは別物って感じだろーな」
「でも皆さんの演奏も大迫力でしたよ!」

 この中で唯一あの時のライブを客観的に見ていた梓が強く力を込めて言った。彼女が一度その演奏を聴いただけで惹かれたという軽音部の演奏。後輩からのストレートな評価に澪は密かににやけてしまった

「もうあんな大きなとこで演奏できないのかなー」

 その時、唯がぽつりと呟いた内容に律が過剰に反応した。

「なーに言ってんだよ! 私ら、武道館で演奏するんだろ!? あんな
んまだまだ狭いわ!」

 ペニー・マーラーほどの大きさのライブハウスを狭いと言い放つ傲岸不遜っぷりに澪は呆れるのを通り越しておかしくなってしまった。

「何笑ってるんだよ」

 若干据わった目を向けられる。

「いや。そういえば、前にもそんなこと言ってたなって思い出しちゃってさ」
「こちとら本気なんですけどー!」
「え、律先輩。本気でそんな無謀な目標を……」

 澪としては未だに律が冗談半分なものだと思っているが、梓にとっては初耳だったのだろう。
 身近な人間がそんな大望を抱いているなどとは思いもしていなかったのだろう。とりわけ、それを掲げるのがあの律である。
 ぽろりと本音が漏れたとしても仕方がない。

「無謀かどうかはやってみないとわかんねーだろー? 梓ちゃんよ」
「そ、そうかもしれないですけど」

 絡まれる要因を作ってしまった梓は明らかに面倒くさそうな表情だが、それに気付かずに律は梓の首に腕を絡ませて言う。

「ほれ、うちの部にはそういうのがいるし。別に、私らができないってことはないって思っちゃうじゃん」
「夏音先輩は別物だと思います」

 そういうの、が誰だかすぐに見当がついたらしい梓は冷静に切り返した。

「別物っちゃー別物だけど。同じ人間じゃん」

 言葉の端に真剣なトーンが滲み出た。

「そういう世界の人間ってどこか違う人種なんだって思ってたけど。それこそ月にでも住んでんじゃねーの、って勢いでさ。けど、あいつ見てると音楽と無駄に恵まれてる容姿と多少の器用さ取ったらほとんどダメ人間なんだよな」
「そ、その言い草は……」

 流石にひどくないかと澪が口を挟む。律は冗談めかした口調のまま、続けた。

「努力、してんだよなー」

 溜め息を吐くように言った。

「私だってもっともっとやれば、いつか……」
「律先輩……」

 澪はその台詞を口にする律の表情をあえて見なかった。既に前を見て、元の歩調に戻ってしまう。
 何故だか今日の律はおかしい。酔っ払いが管を巻いているような。言っていることは理解できても、すぐに彼女に賛同することができない自分がいることに澪は驚いていた。
 こと音楽に関しては、澪は律と似た視界を共有していると思っていただけに。
 背後では、梓が「いい加減に放してください。歩きづらいです!」と叫ぶ声がする。すぐにおどけた幼なじみの声が続き、先程まで妙に張り詰めた空気は消えているに違いない。

「(私は、まだ考えてるだけだ)」

 律みたいなことを。考えるだけで、行動に移していない。
 律もそうなのかもしれない。
 何故なら澪も律も、他の軽音部の皆は同時に見たから。そういう世界が、何かしらヴェールのようなもので覆われていた不思議な世界が、ふとした風によってその向こう側をこちらに見せてきたのだ。
誘うように。挑発するように。
 それは罠かもしれないと頭の冷静な部分が判断している。だからこそ、澪は踏み出せない。小さな一歩すら。
 彼女は、そんな自分が少し嫌だった。
 それから駅につくまでの距離だけで、身体がじっとりと汗ばんでしまった。ねっとりとした風が頬を撫で回していき、不快になる。
 そろそろ梅雨がくるな、と澪は心の隅で思った。


 ※死ぬほど投稿あいてしまいました。繁忙期って恐ろしいですね。
  これからも頑張って投稿したいです。



[26404] 第十五話『新たな舞台』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/06/16 00:34

 コツコツ、じゃない。ミシミシ、でもない。
 木造の建物を歩く音というのは何とも不思議な響きだ。合成樹脂の床材を塗りたくられた他校にはない温かみがあって、律にとってこの学校を選んで良かったと思えることの一つであった。
 人の気配が少ない廊下は全ての窓が開け放されてあり、放課後のチャイムが鳴ると同時にグラウンドに繰り出した運動部の喧噪が流れこんでくる。
 それと同時にじめっとした生ぬるい風も侵入してきて、そいつが頬を撫でる感触が煩わしい。
 古い校舎は趣があって良いとはいえ、やはりこうしてエアコンの一つも入っていないこの施設は少しばかり近代化の風を取り入れてもいいのではないかと思うのだ。いや、これは切実に全生徒が願っているはずだ。
 一方、職員室に入った途端に涼やかな人工風を感じた瞬間など、殺意が芽生えなくもない。
 この時期、どうとでもない用事をつくり出して職員室に向かう生徒が増えるのはそういった理由だ。

 全身が湿った不快感を振り払うような早歩きで律は木造廊下を進んでいた。
 部室までの階段に苛々しながら何とか上り、勢いよく部室の扉を開ける。

 足を踏み入れた瞬間、目に止まった人物に律は辟易としてしまった。
 面倒くさい臭いがぷんぷんと漂ってくる。

 立花夏音が何だか腑抜けていた。


 ★      ★

「おぃーっす」

 目下のところ華やかな少女達の集団にはそぐわないオーラを発する人物を無視して、律は既に揃っていた仲間たちに声をかける。

「あ、りっちゃん。今日は芋羊羹だよ」

 第一声が食べ物のこととは、唯は外さないなと感心した。荷物をベンチに放り投げ、いつもの座席に座って携帯を取り出す。
 ムギがすぐに冷茶と切り分けた羊羹を小皿に置いて差し出してくれる。
 あまりに自然で、かいがいしさ満点のムギに「サンキュー」と礼を言う。
うふふ、とお嬢様スマイルで返してくれる彼女を嫁にできる男は世界一幸せ者であるに違いない。

「ふぅ~」
「律、なんかジジくさい」

 澪が薄く笑ってそんなことを言ってくれた。ここでババくさい、と言わないあたりがツッコミ所なのだが、律はあえて何も言わなかった。

「はぁ~。生き返る~」
「ほんっと暑いよね~」

 うんうん、と共感するように頷いた唯がパタパタと胸元を仰ぐ。仮にも男の前であるが、ソレの存在は眼中にないらしい。

「Tシャツに着替えちゃおっかな」
「ソレ、体育で着たやつじゃないのかー?」
「うん。今日は家に持って帰ろうかなって」
「ってオイ。今日はってどういうことだ? 普通、体育ある日は持って帰るもんだろ?」

 聞き捨てならない唯の発言に、つい律はだれていた身を起こして反論した。

「え? だってそんなに汗かかなかった日とかは、もったいないでしょ?」
「はぁ!? じゃあ、お前は今まで一度汗かいたTシャツをもう一度着ながら体育やってたってのかい!」
「別に一日くらい平気だよ~。あ、もしかして臭うかな?」

 そう言ってくんくんと自分の体臭を気にする唯であったが、もはやそれ以前の問題である。

「お、お前なぁ。仮にも女子なんだから、そのへん気を遣えよ~?」

 唯とて体臭には気を遣う立派な女子である。デオドラント用品常備は当たり前。馬鹿な男子からは「なんか女の子って甘い匂いがするよね~」等と思わせる程度には女の子をしている。
 しかし、脇が甘いのだ。

 仮にも男子の前で、平然と口にするあたり。

 いや、と律は冷静に考え直した。
 これは唯が無頓着なだけではない。もう一つの理由があるではないか。

「そういえば、コレ。さっきからどうしたの?」

 律はさらりと存在を無視していた人物を指摘してみた。

「あ、夏音くん。そういえば、いたんだね」

 ここまで鮮やかな手並みで空気を固まらせる人間もそういまい。

 皆、故意に夏音に関わらないでいたというのに、彼女だけは本当に彼の存在を忘れ去っていたというのだ。

「………夏音、思い切って聞くけど。どうした?」

 律は話題の中心になっているにも関わらず、いまだに焦点が定まっていない夏音に問いかけた。

「え?」

 ぼけっとした声で律に顔を向けてきた夏音に律は眉をひそめた。気が抜けきっているどころか、魂までどこかにお出かけしているようだ。

「だから。さっきからぼーっとして、どうかしたかって聞いたんだよ」
「ああ、ごめんよ。ちょっと考え事をね」
「そりゃー考え事してたんだろうけどさ。悩みでもあんの?」
「何でもない」

 律は珍しく優しい態度で接していたのだが、かえってきた反応は素っ気ない。それどころか、ぷいっとそっぽを向かれる始末だ。
 律の額に青筋が浮かぶ。

「あー煮え切らないなあ! なんかお前の周りだけ空気が重いんだよ! 無駄に顔の出来がいいんだから、なんかこえーの!」

 後半は半分やっかみである。だが事実、無駄に整った顔が彼の放つどんよりオーラに拍車をかけている。

「昨日、仕事だったんだろ?」

 昨夜、軽音部で梓の友達のライブを観に行く予定だったのを、この男は仕事を理由にキャンセルした。
 仕事が長引いたということは分かるが、その内容まで想像に及ぶはずがない。
 何かあったと考えるのが妥当であった。

 律だけではない。他の者も気に掛けていたのだ。全員の視線に負けたのか、夏音はぽつぽつと語り出した。

「ちょっとね。自信をなくしたっていうか」

 頬を掻きながら、野暮ったい口調で言った彼に驚きの感情がその場に流れる。
 何せ、常に自信に満ち溢れているこの男が自信をなくしたと口にしたのだ。
 律は何か重たいものがずしりとお腹に沈んだ気がした。周りの反応を気にせず、彼は続ける。

「普通に打ち合わせだったんだけどさ。ちょっと今回一緒に組むことになったドラムの人とね、遊び半分でセッションすることになったんだ」

 それから彼が語ったのはこういうことだ。

 都内の某スタジオに入り、朗らかな雰囲気でセッションを開始したところまではよかった。
互いに上機嫌で、特に相手のドラマーは大ベテラン。夏音は彼のことをまるで知らなかったが、向こうはこちらをよく知っていたという。
楽しみだと口にする彼に好感を持ち、自身もわくわくしながら音を合わせていったのだが。
 どうにも、絡みづらい。たった十二小節進んだだけで、そんな風に感じたのだそうだ。
 互いのノリを見極め、呼吸を合わせるように進んでいくはずのものが、夏音を否定するようにゴリ押される展開に夏音は不快感を隠せなかった。
 遊び心のある人で、咄嗟の変拍子などは慣れっこである。思いもよらないことを仕掛けたり、そのまた逆があってこそセッションは面白い。
 しかし、これは違うと夏音は確信していた。
 夏音が合わせようとすると、相手はすかさず逃げるようにリズムを変えていく。こちらが差し出した手を振り払うような態度。
 こちらを見る眼が豹変して、悪意が伝わる。
 彼が逃げる時の僅かな隙間は、埋めようのない隔たりに感じるのだ。
 喧嘩のようなセッションならのぞむところだ。
 だが、それは喧嘩などではない。正々堂々なんて言葉が入る余地もない全否定。

 夏音は動揺もしたが、それ以前に自分が何か彼に嫌われるようなことをしたのかということを疑った。
 自分の考えやスタイルが誰かとぶつかることがないとは思わない。
 先程までの打ち合わせでは、これといった諍いもなかった。

 それだけに、相対する彼が自分に向ける嫌悪の正体が分からなかったのだ。

 敵意で相手を削ぐようなセッションは三十分ほど続き、終わりは唐突だった。
 彼が「あー疲れた」と言って、スティックを放り投げたのだ。夏音は流石にそんな終わり方になるとは予想もしておらず、面食らったまま動けなかった。
 固まっている夏音に対して、悪辣な態度で彼は言った。

「こんなもんかよ。あんだけ騒がれた天才くんも大したことねーな」

 セッションする前とは人が変わった様子に夏音は息を呑んだ。剣呑な瞳に敵意や侮蔑が浮かび上がっており、こちらを見ている。

「お前のベースじゃドラムは叩けねーわな」

 ぼりぼりと頭をかきながら、彼はそのままスタジオを出て行ってしまった。
 取り残された夏音は呆然と突っ立っているしかなかったそうだ。


「それで? 今の話からすると、悪いのって相手の方なんじゃないか?」

 話を聞き終えた途端、澪が瞼をひくつかせながら夏音に問うた。律には彼女が表面上は平静を装っているが、内心ではらわたが煮えくり返っているだろうこと分かった。

「うん……そうなんだけどさ」

 意外なことに、あっさりと認めた夏音であった。

「じゃあ、何が問題なんだよ? 暴言吐かれたからか?」
「いや、それもちょっと違うんだ」
「だったら何でよ?」

 わずかに語気が荒くなっていく澪がヒートアップしていることに気付いたのか、夏音は慌てて取り繕うように返した。

「俺、ああいう感じの久しぶりだったからさ」
「久しぶりって?」

 きょとんと目を丸くした澪がそのまま聞き返す。

「ほんと一握りだったんだけどね。音楽家にも意地悪な人がいてさ。似たようなことされたんだ。昨日みたいに露骨ではなかったけどね」

 さらりと出てきた内容にその場にいた者は身を強張らせた。
 出る杭は打たれる。アメリカにいた頃の夏音はまさにそれを体現するような出来事に遭っていたという話は聞いていた。こうして改めて本人の口から聞かされると、また生々しい印象をもたらされるのだ。

「彼もプロには違いないんだけど。やっぱり何で今さらこんな若造と組まされるんだろうって腹立たしかったのかもしれない。それに、俺が彼のことを知らなかったっていうのもプライドを傷つけたのかな?」

 淡々とした口調で語る彼はそのこと事態にはさして気にしているわけではなさそうだった。

「彼は本当に上手かったよ。彼が気持ちよく叩く時は、そりゃあ周りも気持ちよいんだろうさ。けど……何か気が抜けちゃったっていうか。調子に乗るなよって言われてるみたいで、それで改めて自分の立場を思い知らされた感じなのかな。ごめんねなんか腑抜けちゃってさ。色々考えて眠れなかったってのもあるんだけど。それより、昨日のライブの話を聞かせてよ」

夏音が強引に話題を変えようとしたのが分かった。むしろ、そのやり方が下手すぎて気付かなかった者はいないだろう。
 それでも、誰もがこの話題を続けることが得策だと思えなかったのだ。
 一度固まってしまった空気はなかなかほぐれなかったが、その後はそれぞれが興奮気味に語るライブの話に放課後の時間は費やされていった。



 ★      ★

「というわけで。外でやるのも、結構いいかなって思ったんだ」

 夏音は向かい合って座る澪の話をじっと聞いていたのだが、「というわけで」の一言でまとめられて呆れるように笑った。

「なるほどね。そんなに感動したんだね、そのライブ」

 基本的に目の前の少女は物事に影響されやすいことは短い付き合いの中で分かってきた。それは軽音部の他の面子にも同じことが言える。
 同年代の少年少女たちの活動に心を動かされてしまったのだろう。あの時は周りを見渡す余裕がなかったものの、爆メロの時も大概が三つか四つも年が離れていない人間が同じステージに立っていたのだ。
 普段、自分がいる世界とは離れた場所で与えられる刺激というのはまた格別である。良くも悪くも、自分の世界では得られない刺激に満ちている。
 そこに憧れることがあってもおかしくはない。

「それで、その意見は澪だけのもの?」

 夏音は練習を遮ってまで長話を繰り広げた澪に対して含みを持たせながら、訊ねた。何故か自分を除いて部の仲間から意見がある時は、代表して澪が伝えてくることがある。

「いや。これは私が個人的にそう思ってるだけで、みんなが同じように考えてるかは分からない」

 その言葉を額面通りに信じるのであれば、ここで話は終わりなのだが。

「でも、澪がそう思うってことはみんなもそうなんじゃないかい?」

 他人より慎重な澪は何か新しいことに手をつける時は最初の一歩が遅い。何かと先に待ち構える可能性を幾つも検討してしまう癖があるのだ。
 カマをかけただけなのだが、澪は夏音の問いかけに思うところがあったらしく、顔を背ける。
 こういう反応は、実に彼女らしい。
 隠し事が下手な部分は、夏音にとってもやりやすい。

「ふーん。そうかー……ライブハウスねー」

 夏音は大きく息を吐きながら、膝に置いていたベースをギタースタンドに立てかけた。気難しげに腕を組んでみると、澪がじっと自分の挙動に意識を向けるのが分かる。
 自分の動作や表情がどんな印象を与えるか、そういった手管のようなものに精通しているわけではない。
女優だった祖母がよく他人に対してやってのける言葉にしない表現というものを夏音はいつの間にかできるようになっていた。祖母のように完璧なものではないし、意識してコントロールできるわけではない。
しかし、この話の流れから夏音が取った動作はいかにも賛成しかねる、といった印象を澪に与えたことだろう。

 目に見えてあわあわし始めた澪に夏音は笑いをこらえた。

「や、やっぱり夏音はライブハウス反対だもんな。や、わかってたんだけどさ。ああやって活動する場もあるんだなって感心したんだ」
「むー」
「軽音部は軽音部らしい場所でやるべきだよな!」
「軽音部らしい場所って?」
「え、それは……やっぱり講堂とか、体育館とかかな。音楽室の方でもやれるだろうし、こないだみたいにどこかの施設でっていうのも」
「そうだねえ。やっぱり学校の部活動だからね」

 高校生の部活動で、ライブハウスというのは大っぴらに認められるものではないだろう。
 これは夏音がライブハウスで演奏することを認める以前の話だ。仮にも酒を提供する場所である。
 時間帯も夜の営業が多い。
 公式に私立の高校が認めることは難しいはずだ。

 少し現実の面を見せたところで、澪が一気に肩を落とす様を楽しんだ夏音は用意していた妥協案を提示してみることにした。

「ま! 反対はしないけどね! でも、それは軽音部で活動する場合だよね」
「え……どういうこと?」
「だって結局自分たちの責任下でライブするわけだよね。チケットを売って、ノルマなんかもさ。学校がそれらを面倒見てくれるはずないし、それなら軽音部じゃなくていちバンドとして出ればいいんだよ」

 まさか夏音の口からこんな肯定的な意見が出てくるとは思ってもいなかったのだろう。青天の霹靂といった体で目を見開く澪はおずおずと口を開いた。

「でも、夏音はそれでいいのか?」
「いいも何も、バンドとして出るってことは軽音部じゃないってことだよ」
「うん?」
「あのさ。これは本当に申し訳ない話なんだけど……もし、ライブハウスでやることがあってさ。その時は―――」

 澪はその言葉に続く台詞を予想していたのだろう。固まった表情は、その先を聞きたくないと訴えかけてくるようであった。
 それでも、夏音は口にしなくてはならない。

「俺を抜かした五人で出てくれないか?」

 その台詞をしっかりと耳にしてしまった澪はそっと俯いた。


★      ★

 ライブハウスに出るのは、目的でもあり手段でもある。根本的にライブハウスという場所は演者がステージに立ち、観客に対しショーを提供する空間だ。
 そして、演者はステージに立つことでギャラを貰う。
 そのように成り立っているはずなのだ。しかし、ライブハウスで演奏する者達が必ずしもギャラを貰えるわけではない。
 システムの問題である。ライブハウス側はライブ毎に演者に対してノルマを課す。チケット何枚で何万円、といった具合にそのノルマは必ず払わねばならない。
 例えばバンドが全てのチケットを売り切ったとしよう。それどころか、ノルマ分のチケットを上回る集客が叶ったとしたら、その分はバンドに還元される。
 そこで初めて金を貰って演奏する、という図式になる。
 駆け出しのバンドがバックを生みだすことは到底あり得ない話であり、軽音部でライブハウスに出るようになっても、そうした状況が続くことは容易に想像できるのだ。

 故に、夏音はライブハウスに出ることはあり得ないと考えていた。
 彼女達と軽音部の活動をするのは良くても、これだけはダメなのだ。譲れない一線があり、夏音はそれを破ることはない。

「別に大袈裟な話にしないで欲しいんだ。澪たちはもっとライブの経験を積むべきだと思うし、外で活動するのは賛成なんだ。実際に客というのを相手にして、考えることも増えるだろうしね」

 澪は夏音の考えの内を十分に把握しているつもりだった。それでも、軽音部は一人でも欠けて欲しくないという想いが彼女にあるからこそ、ショックは訪れた。
 分かっていたはずなのに、この答え合わせに動揺してしまった。
 澪が何も言えずにいると、夏音は続けた。

「そんな悲しそうな顔しないでよ。俺だってできることなら、って思ってるんだよ。嘘じゃない。けど、これだけは意地を張らせてもらうよ」

 そう口にしながら、夏音は本当に心を痛めている様子だった。澪だって分かっている。
 これは彼なりの苦渋の決断なのだと。
 彼の中でもせめぎあっているのだと知れただけで、澪は少しだけ救われる。彼の出す答えとは反対の意見も、彼の中にはあるということなのだから。

「いや、夏音はそう言うと思ってたよ。これから実際に外でやるかは話し合わないと分からないけど、軽音部としての活動が疎かになるようなことはしないつもり」
「ううん。きっと、いや……絶対に君たちは外に出て行くよ」

 神妙な顔つきで発せられる言葉は妙に澪の中に入り込んできた。
 確信的な口ぶりに、まるでこれから観る映画のネタバレをされているような感覚を覚えた。
 それは、きっと起こるだろう先の話。
 誰も分かるはずのない未来をこの男は何故か自信満々に言い切ってしまう。
 澪は「ああ、そうなんだ」とどこか他人事のように受け取った。ああ、そうか。自分達はこれから外のライブハウスで活動するのだな、と。

「自分の姿を見て欲しい。音を聴いて欲しい。たくさんのライトのまばゆさに、その熱に惹かれていくよ。絶対にその事実を諦めきれない。一度味わったら止められない甘露を、みんな既に味わってしまったんだから」
「何か、重みがあるな。無駄に」
「そりゃあ、経験者の言葉だもの。それなりに実が含まれてないとね」

 簡単に言ってのけるのが彼のにくいところだ。しかし、それでいて嫌味ではない。

「澪の中にも、ずっと息づいているはずだよ。隠れているけど、抑えきれなくなりそうにならないか?」

 何を、と聞かずとも澪は理解した。自分がこれまでにないくらいの視線に晒されているのに、それが直接肌に火をつけるように熱く押し寄せてくる感覚。それがあまりに心地良くて、いつまでも味わっていたい、あの興奮。
 あの鮮烈な記憶を思い出すだけで、自分の五感が沸騰していきそうになる。
 大人しいはずの自分が、そんな風になってしまうことを恥ずかしく思う気持ちがあるのだけど、どこか受け入れてしまいたい。
 澪はずっとその情動を閉じ込めていたクローゼットを軽く開けられてしまったような気がしていた。
 ライブハウスの空気が、澪に与えたものは決して小さいものではなかったはずなのだ。

「みんなと話してみるよ」
「うん、そうしなよ。たぶん反対するだろうけど、そこは澪が強引に押しきってね」
「そういうの、得意じゃないの知ってるくせに」
「だってこれは澪がやろうと思ったことじゃないか? なら、せめて最初の一歩は澪が踏み出さないとね」

 冗談めいた口調で話すが、澪は彼が決して悪のりしているわけではないことを知っている。
 立花夏音という人間は難題をふっかける時でも難しげな雰囲気は出さない。いとも簡単そうに言ってのけてしまう。
 これは短いのか長いのかよく分からない付き合いの中でもはや慣れっこであった。

「分かった。話すのは私からにする」
「うん、頑張って」

 簡単にそれだけ返されて、澪はこの件に関する会話が終わったのだと気付いた。

★      ★

「何で夏音くんが出ないの!?」

 その言葉が返ってくることは初めから予想できていた。そして、誰が口にするのかも。

「だって前は一緒に出たじゃん」
「前は前。今度は全く別物なんだ」

 唯の反論に澪は落ち着いて、言い聞かせるように諭した。

 早速、ライブハウス進出に関して澪は他の四人に提案をした。第一声で反対する者はいなかったが、やはり夏音を抜かした面子で活動するという話をした時点で表情が曇るのであった。
 何故、一緒に出ることができないのか。その理由は夏音が以前にも語ったことがある。
 唯も当然その際に頭に叩き込んだはずなのだが。

「せっかくなんだし、ていうか夏音くんいないと色々つらいよー」

 主にどちらかのギターにかかる負担が増えるという点で。意外に打算的な動機だったもので澪はほんの少しだけ呆れて笑ったが、真面目な顔をつくり直して言った。

「それは唯が頑張ればいい話だろ。そもそも今ある曲をやらなくちゃいけないって決まりもないんだし、そんなに難しくない曲もあるだろ?」
「でもー」

 唯はそう言って頬を膨らませる。彼女はまず考えるということをしないのだろうか。すぐに物事を難しく捉えて悩む自分とは違い、本能のままに感情を露わにできる唯を澪は少し羨ましくなった。

「唯先輩。夏音先輩は特殊な事情があるんですからワガママ言っちゃだめだと思います」
「おおう。後輩から痛烈な言葉が!?」
「梓は物分かりがいいなあ」

 後輩からたしなめられてショックを受けた唯には触れず、夏音は何故か嬉しそうな声を出した。
 澪としても、言いたいことを代弁してくれたおかげで梓の株が少し上がった。

「おほん。そういうことだから、夏音は外には出ません。それはみんな承知してると思うけど、夏音が出れないのは事情があるの」

 再び説明を始めた澪の言葉に唯以外の人間は理解を示すように頷いた。しかし、その表情はどれも心の底から納得しているわけではないことを表していた。

「それは幾ら話してもしょうがない話だから、今は置いておこう。私が言いたいのは、みんなはライブハウスで演奏するってことをどう思うかってこと」

 本題に戻る。澪の提案は以前からも案として出ていたものである。皆、少なからず外での活動というものに興味を持っているはずであった。
 軽音部の経歴として、唯一にして最大のものはやはり爆メロのステージに立ったことだ。あれが軽音部として初めてライブハウスのステージに立った経験であり、それを最初で最後の機会とするのは納得しがたいものがあった。
 いつか、また出たい。そんな気持ちが燻っていたのは、皆同じなはずであった。

「私はやりたいね。実際に友達にもライブハウスに出てる子がいるし、できないなんてことはないだろ」

 仄かにぎらついた瞳になった律が澪の提案に乗っかった。澪は律であれば、まず反対することはないだろうと予想していた。
 最近の彼女は以前にはなかった向上心や積極性が見られる。親友の心境の変化に気付かない澪ではなかった。

「私は最初っから出たいと思ってました!」
「私も賛成でーす」

 もともと外バン嗜好の梓は言わずもがな、ムギも易々と手をあげて賛成を示した。ムギの場合、イベントごとに懸念を示した例などないから、これも想定内である。

「唯は?」
「もちろん出たいですっ!」

 真っ直ぐに手を上げた唯。これで意見は揃ったわけである。
 澪はすんなりと意見がまとまったことに息をついた。それと同時に、これで自分達が外バンと呼ばれる存在になるのだという事実にお腹の下あたりがぐっと重くなった。

「がんばろー」

 お気楽な声を響かせた人物は、ただニコニコと彼女達に笑顔を向けていた。澪は何故かその笑顔を見ていたくなかった。


※時間が空いたワリに中途半端な場所で終わりました。きららで大学編が完結となりましたが、色々とひどかった。



[26404] 第十六話『練習風景』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/06/23 13:01

 指先に火が奔ったような感覚に梓は眉を顰めた。

「いっ!?」
「あ、あ、あずにゃんダイジョブ!?」

 梓の音が途切れた瞬間に演奏が止まる。互いの音に敏感な少女達はすぐに互いの異変に気が付いてしまう。
 梓は自分のせいで曲が止まったことに舌打ちしたい気分だった。
 自分の指に目を凝らしてみると、何てことはない。
 火など起こるはずもなく、実際には弦をスライドした時に薬指が摩擦でこすれただけで、ついでに指の皮が破けただけだった。

「そう、破けただけなんですよ」
「あずにゃん誰に向かって話してるの?」
「す、すみません。平気ですから! 唯先輩だって指の皮剥けたりするじゃないですか?」

 梓はいまだに心配そうに自分の指を覗き込もうとする唯にどぎまぎした。正直、演奏の手を止めてしまってから、じんじんと痛みが訪れてきている。
 やましいことはないが、心の底から心配そうな顔をする唯に指の現状を見られるのはいやだった。

「うわー、ちょっと血でてるよ!?」

 こうやって余計に騒ぐからだ。唯はポケットからハンカチを出すと、それで梓の小さな手をそっと覆った。

「ど、どーもです」

 そのハンカチは清潔なのかと頭をよぎったが、好意からの行動だと理解できるので、素直に礼を言う。
 それでもずっと手を握られるのは居心地が悪いものだ。少し身動ぎする梓をじっと見詰める視線も原因だろう。

「み、みなさん。そんなに大したことじゃないですから! それより演奏止めてしまってすみません!」

 皆、一様に心配気な顔なものだから、梓はかえって恐縮ものである。
楽器をやっている人間であれば手先の怪我や痛みはお馴染みのものだし、誰もが通る道だ。
 あれだけ演奏できる彼女たちがその痛みを知らずにここまでやって来たとは思えないのだが、基本的にお人好しの集団だから、他人の痛みには過敏に反応してしまうのだろう。

「梓ちゃん。絆創膏とかあるよ?」
「いえ、絆創膏してたらかえって弾きづらいので」

 せっかくムギがかけてくれた気遣いだが、丁重に断った。事実、絆創膏をしていれば最初こそ滑りがよくなったような気もするが、後々邪魔になる。
 それこそ、演奏中に外れかけたりすると集中を遮ることにもなりかねないので、ここは我慢するしかないのだ。

「これくらい大丈夫ですよ! いつものことです!」

 これ以上、心配させてはならない。そう思って気丈な振る舞いを見せた梓だったが―――、

「あ、あずにゃ~んっ!!」

 飛びつかれた。犯人は言わずもがなである。

「な、なんですかぁ~っ!?」

 認めたくないものの抱きつかれるのはもう慣れた。けど、唯はいつも人の死角から襲いかかってくるので、油断ならないのだ。
 たった今まで側に姿を認めていたのに、意識の隙をつく攻撃に梓はパニックに陥ってしまう。

「痛みにじっと耐えるあずにゃん……ぷらいすれすっ!」
「じぇいしーびー♪」
「はぁ……」

 唯のとぼけた発言に高らかな歌声で合わせる律。
梓はその暢気な様子に若干イラっとした。

「おい律」

 そこですかさず物申すのは二人のストッパーを担う澪。前者の二人がやりすぎずに住んでいるのは、というより軽音部がまともに成り立っているのはこの人がいるおかげであると梓が常日頃から確信しているその人である。
 梓はそんな澪に信頼をこめた視線を力一杯投げかけた。

「それ、マスターカードだろ?」

 良い笑顔だ。何回かに一回の確率で澪も敵に回ることがある。梓はぎゅっと力強く抱き締められた腕の中でがっくりと肩を落とした。

「澪ちゃんっ。私っ、」

 ああ、と。梓は項垂れてしまう。
 この次に入ってくるのは確実にムギのとんでもない発言なのだ。組み合わせ方によっては薬にも毒にもなる琴吹紬という少女。
 火力は最大級。お嬢様の一手は凡人の十歩先を行く。

「お腹すいちゃった」

 きゅぅ、と可愛らしい音が響いた。ほんの少しほっこりした。


★       ★

 ある意味救われた梓はせめて休憩の間だけでも、と貼られた可愛らしいキャラクターが描かれた絆創膏に目を落としていた。
 それにしても、自由奔放は平沢唯という自由人の特許かと思ったが、ムギという伏兵がいたことには驚かされた。
 最近、先輩の知らなかった一面を見る機会が徐々に増えてきている。
 とはいえ、あんな行動の末にも一切の可愛らしさを損なわないムギに梓は脱帽である。

「ケーキどれだけ持ってきたんだ~?」

 と言いつつ、膝を組んだ格好でチーズケーキを突っつく律。呆れたような声を出す彼女だったが、幸せそうに緩んだ頬はまんざらでもないことを物語っている。

「今日はたくさん練習すると思ったから、甘いものが必要だと思ったの。たくさん練習して、たくさんお茶できるように」
「たくさんお茶すれば、ただのいつもと変わらないだろ」

 ムギの言葉にまともに返す澪。冷静なツッコミができるのはこの先輩の美点である、と梓は思う。
 時と場合によるが。
 梓とて理解しているのだ。自分が唯に抱きつかれるという光景がもう既に彼女達の中では日常風景と化してしまっていることを。
 こんなはずじゃなかったと心の中で呟いたことは数え知れない。

「それにしてもあずにゃんは頑張り屋さんだなあ~」

 つい今しがた、梓の精神をかき乱した人物が発した言葉にその場にいた人間が揃って頷き始めた。

「たしかに。もうすでに指の皮が硬いはずの人間がすりむくなんて相当だもんなー」

 律が感心をこめて梓を見る。梓は滅多にそんな視線を向けられない人物からの賛辞に頬を赤らめてしまう。

「ギターの弦って細いから切れやすそうね。あ、ギターを使えばゆで卵とか簡単に切れそう!」

 真面目くさった表情の割にぶっ飛んだことをさらりと言いのけたムギに梓は言葉を失った
 ギターを、ゆで卵に? よりにもよって神聖な楽器をキッチン周りにあったら便利だな、くらいの道具と同列に扱われ、梓の中の大事なものがヒビ割れそうになった。

「それなら百均行った方が早いって」

 苦笑を浮かべた律がまともな発言で、どこか他人とずれたお嬢様の荒唐無稽な発想をおさえてくれた。
 直後にすっと真顔に戻り、かすかに心配の色を浮かべた表情で梓の顔を覗き込んだ。

「でも、そんな指で大丈夫か?」
「痛いですけど、平気です!」

 ぐっと小さな握り拳を作ると、梓は溌剌と言い切った。本当はじんじんと指先に血が通る度に痛むのだが、そんなことは言っていられない状況なのだ。
 やせ我慢でも、押し通すべき場所だと梓は考えている。自分が足を引っ張るつもりがないのもあるし、普段やる気のない先輩方がせっかく練習に向かっているのを中断したくなかったからだ。

「なら、今日は軽めに合わせてやめるか」

 律がそう言うと、周りから「さんせ~」と気の抜けた声が上がった。
 食器を片付け始めたムギを手伝い終えると、それぞれの楽器の場所へ戻っていく。
 どこか力が抜けているような少女達が、楽器を持った時にふと印象が変わる。大きく変わることはないが、微細な変化だ。
 彼女達が持っているのは、武器だ。そして、自分が握るこのギターも。
 さっきまで握っていたのに、メイプルのネックに触れる感触が何とも待ち遠しかったような気がする。
 何で一時でも離れていたのだろうと思ってしまうくらいに、先程までの自分とギターは一体だったのだ。

「じゃあ、通しで一回ね」

 全員のチューニングが終わったタイミングを見計らって、律が声をかける。全員が無言で頷くと、律がすっと息を吐く。
 この瞬間、梓は律のことが好きだ。
 吸うのではなく、吐く。普通、何事かをする前やかしこまった時は息を吸い込むのだが、彼女は吐くのだ。
 カウントに入る前の、わずか一秒弱の出来事。ほんの一瞬、短く吸い込まれた息。
 次に乾いたスティックの音が鳴る。普段はおちゃらけた先輩が格好良く見える。
 既にビートに乗っているカウント。
 驚くべきことに、軽音部の演奏では基本的に曲に入るタイミングがずれることはない。それは当たり前のことなのかもしれないが、わずかにでも呼吸がズレてしまうと曲がしまらない。
 集中している時の律は、そのカウントで皆の呼吸をまとめてしまうのだ。
 梓は自身のリフから始まるような曲が苦手である。自分のビートに自信がなく、心細くなってしまうのだ。
 だから、平然と曲を始めてしまう彼女は、それがドラマーにとってごく当たり前のことだとしても、素直にすごいと思う。
 一度曲が滑り出した後もテンポのコントロールが絶妙かと問われると、大いに首を傾げてしまうのだが。
 とにかく、梓は出だしに関してはこのドラマーを信用している。テンションがぐっと上がって走り出せるような気分にしてくれるのだ。

 パワフルなドラマーには頼りになるベーシストがついている。律のドラムの勢いを殺さず、時には抑えて曲全体をコントロールする影の立役者がリズム隊の片割れがいて、この演奏が成り立っている。
 上物の自分は曲を煌びやかに彩り、跳ね回る。自分に与えられた役目や、自分にしかできないことを梓は探す。
 キレのあるリフさばきには自信があるが、どうにも音の迫力が弱いと言われる。キレだけではない、ピッキングの速さだけでは片付かない何かがそこにはあるはずなのだ。
 ピッキングの速さが音の大きさに関わると言われるが、隣でヴォーカルをしながら手元でゴリゴリと図太いバッキングで刻んでいる少女はどう説明すればいいのか。
 力業で強引に出しているにしても、難解な力強さだ。
 楽器の底力というのも信じやすいが、それ以上に存在感がある。一番音がずれるのも彼女なわけなので、より目立つ。悪い意味でも。

 仮歌だけのはずだった曲だが、Aメロが終わった時点で唯がハッキリと歌詞を、日本語として紡ぎ始めた。


 この道を駆け出していく
 先が見えすぎるよ つまんない音楽はドブに捨てて
 見たくないものばかりあるから
 共感しなくていいから きけ

 命の終わりへ! こんな自分じゃいられない
 がつがつ生きていたい マジこんなシートベルト外して
 異常な事態 現実自体辞退
 口内炎痛い 故意に恋したい



「ストーップ!!!」

 サビの途中で突然止んだドラムに誰もが楽器を弾く手を止めた。

「唯、その歌詞はボツだ!」

 椅子から立ち上がった律がスティックを向けて言い放った一言に、唯の口から喉から息がひゅぅ、と漏れた。その表情は真の驚愕に満ちていた。

「な、なんで!? 今まで仮歌だったから歌詞つけてって言ったから考えてきたのに!」
「さっきまで仮歌だったのに、急に歌い始めやがって! 何だその途轍もない厨二臭ただよう感じ。最近、何聴いた唯?」
「何って。こないだ裕也くんに借りたやつだけど」
「あ、『ほくろギャルズ』!? めっちゃアングラなやつじゃん! ていうか思いっきし影響されまくってんじゃねーか!」

 そうでなくては、唯にあんな歌詞が書けるはずがない。梓も演奏の途中で入ってくる言葉の数々に耳を疑ったくらいだ。

「よくわかんねー。以上」

 律の辛辣な感想に唯は抗議の姿勢で臨んだ。

「待ってよりっちゃん! 私、この歌詞じゃないと心こめて歌えないよ!」
「お前はどんな人間やねん! 唯一ホントっぽいのは甘い物食べ過ぎで実際に口内炎になってるとこだけだろ!」
「うぅ~。いつも痛くて辛いんだよ~? 好きな物食べても嬉しさが半減するんだよ!?」
「そうだ。唯の歌詞には美学が足りない」
「いきなり入ってきた澪ちゃーん。今日のお前が言うな……ヲホンッ! あー、梓はどうだ?」
「へ? 私ですか?」

 いきなり振られるとは思わなかったので、素っ頓狂な声を上げてしまった。急に意見を求められた梓は言葉に詰まりそうになりながらも、正直に意見を述べた。

「私は嫌いじゃないですけど、なんていうか……あまり私達にしっくりこないと思います。雰囲気のあるバンドとかが歌うなら許せる気もするんですけど、唯先輩の声でコレは……」
「うぅっ。後輩なのに遠慮がないのねあずにゃん」

 ずばりと言われたことで怯んだ唯が泣きそうな目で梓を見る。その表情に罪悪感が芽生えた梓は、すっと顔を逸らした。

「ムギちゃんはどう思うの?」

 最後の救いをムギに求めた唯。大抵のことには肯定で返してくれるムギだったが、今回ばかりはそうはいかなかった。

「んー、私もあんまり……ごめんね」
「そ、そんな! ムギちゃんまで!」
「私達らしいってことにそこまでこだわる必要があるかは分からないけど、確かにこれは違うなって思うの。何て言うか……ちょっと背伸びしてしまっている感じかしら?」

 ムギが口にした言葉はその実、的を射ていると梓は思った。自分ではその言葉にまとめることができなかったが、「背伸び」という表現がぴったりである。
 あの平沢唯が社会や人生に対して斜に構えてみたり、反骨精神を出すなんて考えられない話である。
 まだ反抗期にすら到達していなさそうなのだ。ありえたとしても、半世紀後くらいだろう。

「唯の声にはなんか似合わないよ」
「むぅー。そんなに言うなら澪ちゃんが歌いなよ」

 膨れた顔で澪に投げ遣りな態度をふっかける唯だったが、梓はそれもよいかもしれないと密かに考えていた。
 ツインヴォーカルなのだが、実際によく分からない役割分担の二人だが、それぞれの特徴はハッキリと分かれている。
 唯は高音に優れた歌い手であり、hiFの音域に達するパートは彼女くらいしか出来ないだろう。逆に澪は唯ほど高音が出ない代わりに低音域に優れている。普段大人しい彼女の姿からは意外なほどにロックを歌わせるとハマるのだ。
 今回、唯が勝手に歌詞をつけた曲は、本当は澪が歌うべき曲であったはずなのだ。
 梓は以前その意見を口に出そうとしたところで、やめた。それが本番直前で問題になるとは知らずに。

「まあまだ歌詞すらできてない曲だし、それもアリか?」

 唯の意見も一理ある、と腕を組んでうなる律だった。このように真剣に悩む姿は最近になって板についてきた。
 近頃の律は頼もしいという評価が梓の中で芽生えつつあった。
 原因はそれまでバンドを取り仕切っていた人物の不在であることは間違いなかった。
 本来であれば部長が担うべきポジションに収まっていた人間がいないことで、思いの外リーダーシップを発揮し始めたのだった。

「実は私、この曲は澪ちゃんじゃないかしらって思ってたの」

 ここぞという時に場を動かす意見を出すのがムギである。色んな意見を聞いた上で紡がれるのは大抵が根拠のある主張だ。
 ムギは澪の音域や声質などに対して幾つか言及した。実際に彼女の言葉が決め手となり、澪をヴォーカルに据えて再びやってみることとなった。

 演奏を終えて感じたことは、一つ。

 これでよかった。

 一つの正解を見つけた時の歓びは格別である。唯の時にはしっくりと来なかったものが、噛み合ったような感覚。パズルのピースがカチリカチリとはまっていき、全体像が見え始めたような気がした。
 この曲は音域的にも澪のおいしい部分が満遍なく出る構成であり、それに合わせて少しばかりのアレンジは必要になるが、唯ヴォーカルというのは既に意見として埋没していた。
 ヴォーカルを外された唯も特に気分を害したということもなく、受け入れている様子である。

「じゃあ澪ちゃん頑張って! あ、歌詞は使ってくれてもいいよ?」
「また作詞しないとな」
「さらっとひどいよ!」



★       ★

『やっぱり澪でいくことにしたんだ?』
「まーな。ていうか最初からそのつもりで作っただろ?」
『そうだね。コレは澪が歌うって意識して作ったかも』

 律は帰宅後、まだ仕事中であろう夏音に練習の報告を行っていた。特に報告する義務も筋合いもないのだが、何となく知りたいだろうと思ったからだ。

『みんな思ったよりしっかりやってるみたいで安心したよ」 

 その言葉通りに、電話越しに聞こえる夏音の声から安堵感が伝わる。
 律はベッドに寝そべりながらその反応に微笑んだ。

「いくら私らだって本番直前はこんなもんだろ」
『そういえばそうだね』
「おっかない誰かさんがいるからな」
『ハハハッ! 誰のことだろうか』

 そうやって、お互いに笑い合ったところで律は声の調子を落として言った。

「ライブはもちろん行くよな?」
『もちろんだよ。金曜日だろ? その日は大丈夫』

 夏音の回答に律はほっと息をついた。そのまま枕元の時計に目を移すと、既に今日が終わるまで三時間を切っていた。
 電話の向こうはやけに騒がしい。外にでもいるのかもしれない。少なくとも律に分かることは、まだ彼が帰宅していないということだ。
 網戸もせずに開け放された窓から少しだけ涼しい風が吹き込んできた。
 高い湿度の中に充満する青い草木の匂いが部屋に入ってくる。律が感じる、夏の匂いだ。

「あの、さ。夏音?」
『なに?』

 直に聴けば、耳にすっと入り込む彼のクリアヴォイス。電波に乗ってやってくるその声はふと聴けば彼のものだと分からないかもしれない。
 目の前にいなくても、彼とこの瞬間つながっていることを思い出す。
 この後、自分が切りだそうとしている話題が彼にどんな影響を及ぼすのか。同じ空間にいないから、麻痺しそうになる。
 うっかり口に出してしまうことだけは、避けねばならない。

「あ、いや。何でもないわ」

 ギリギリで口を噤んだ。すぐに話題を変えようとしても咄嗟には思いつかない。
 左耳に入り込む蝉の鳴き声と、片方の耳に残る静寂が自分をどうにかしてしまいそうだった。

『あ、ごめん。ちょっと電話切る。何か話あるんだったら後でかけ直すよ』
「いや! そんな大した話じゃないから大丈夫だよーん。つーか今日は早く寝たいから。それに夜の十時以降は乙女に電話をかけてはいけません」
『何言ってんだよ。電話かけるどころか俺の家に泊まったこともあるくせに』
「それとこれとは別の話だよ、ボーヤ」
『はいはい。じゃーね。また明日』

 本当に急いでいたのだろう。律の返答も聞かずに通話終了の音が響いた。
 ツーツーと人を突き放すような音をしばらく聞きながら、律はそっと通話終了のボタンを押した。
 考えがぐるぐるとまわる。下ろした髪が目に入ってきて、前髪が伸びたことや、どのタイミングで網戸を閉めようかとか。
 下らなくて、いま考えなくていいことばかりが前面に出てくる。

「どーしよっ」

 腹筋の力を使ってベッドの上に起き上がり、あぐらをかく。

「、かなー」

 窓の外にはすぐに隣の家がある。オレンジ色の電気が漏れる窓の奥で人影が横切った。律はすっかり暗くなった外に目をやり、溜め息をついた。
 何とも言い難い気分だった。
 いてもたってもいられない、という気分。今、自分は何をしているのか。自分が何者なのか。
 どうしようもない問題を頭のどこかに抱えているのに、その正体を具体的に形にしたくない。
 だから、深く考えたくない。
 どうあってもまとまってくれそうもない思考に苛立ちを覚える。
 こんな時は、今すぐカーテンを閉めるべきだった。カーテンを乱暴に閉めた律は外の世界をシャットアウトして、その辺に放置してあるスティックに手を伸ばした。
 ドラムセットを部室に置いてきているから、自宅で本格的なドラムの練習をすることはできない。
 そもそも、住宅街で生ドラムを打ち響かせるのは現実的に厳しい。消音パッドをつけても、バスドラのキック一つで家族から苦情がくる。
 アメリカみたいにガレージで練習、なんていうのも憧れだが、田井中家にあるのはホンダのセダンが一台入るだけで精一杯の車庫だけだ。
 だから、練習用のパッドやら雑誌を積み上げてドラムセットを模した物にスティックを打ち付けるのが限界なのだ。
 パッドの上にリズミカルにスティックを叩きつける。メトロノームのクリックを感じながら拍を変えながら、三連などもまじえる。
 ふとしてから、律はメトロノームの電源を切った。こんなムシャクシャした時は正確なリズムなんて必要ない。
 加熱していくビートに歯止めをかける存在はいらない。
 ブラストビート。徐々に速度を増す。限界まで打ち付けていく。
 いつの間にか呼吸が止まっていたことにも気付かず、ギリギリまで律は二本の棒を動かす。
 スティックが滑って壁まで飛んだことで、集中が途切れた。
 汗だくになった頬に長い前髪が張りついている。乱れた呼吸を整えようともせず、律はそのままベッドに寝転がった。

「ドラム叩きたい」

 全身を使ってドラムを鳴らしたい。静かなものなど一片も入る余地のない空間に身を寄せていたい。
 そのまま、ぼーっと天井を見ていたが、濡れたシャツがベッドを湿らせていることに気が付き、慌てて体を起こした。

「うーん」

 うなりながら、何かを探るように。立ち上がり、部屋を何となく一回りしてから律は「あっ!」と声を漏らすと、慌てて携帯を手に取った。

「あ、澪? 今から遊びにいっていい? え、やだ? そんなこと言わないでさ~。う~ん。そうそう! 大丈夫だって! 澪の好きなアレ買ってくからさ! そう、アレだよアレ! 駅前の! ちがう駅前じゃない? 店舗によって味が違う? わーかったから! はいはい。ほいじゃ、あと三十分くらいしたら行くから! ばいちゃー!」

 田井中律。色々と感じ入ることを持て余している少女は、とりあえず明日が締め切りの宿題の存在を思い出した。

 悩み事は多いが、一つ明確に立ち向かうべき敵を見つけた少女は実に晴れやかな表情だった。





[26404] 第十七話『五人の軽音部』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/07/08 18:31


 もうすぐ六月も終わる。アメリカにいる知り合いのミュージシャンが、ニューヨークで行われるゲイ・プライド・パレードに向けていかに自分が気合い十分かを証明するビデオ・メッセージを送ってきて初めて気が付いた。
 ちなみに、彼は全身ピンクのタイツに星形のサングラスという格好でサックスを吹きながら五番街に赴くそうだ。

 どうか彼の素性がバレないように。夏音はその一点だけ祈ることにした。
 ひょんなことから、もう暦上では半年が過ぎたことを知った。
 日本とアメリカだと季節感に差がある。例えば、日本は学校も四月から始まるが、アメリカは九月から新学期である。
 学生は、もうじき始まる長い休暇に胸を躍らしているような時期だ。
 夏音のような職業の場合、人々が休む時こそ動くことが多く、演奏する機会も増えるので、それほど悠長な気分でいられたわけではないが、バカンス半分で全米を渡る演奏旅行は楽しい想い出がたくさんある。
 何もない夏を過ごすのはこれで三度目だ。
 遠く離れた土地に向かう時の高揚感は、どんなものだっただろうか。
 知らない人間が沢山いるこの土地で三年も過ごしているのだ。
 楽しいことが大半だが、嫌なこともある。この国の人間は、時折ひどく面倒くさく、態度や言動の裏に巧妙に物を隠すのが上手い。
 まるで詐欺師みたいに、気付かなかったお前が悪いとでも言わんばかりの駆け引きの上に生きている。

 正気じゃない。

 ただ楽器を弾くだけの仕事にありついて、顔色を窺うような仕草を抑えながら、それでも相手の目線が気になるようになった。
 カノン・マクレーンが遠い。鏡に映る自分が少しだけクマのできた顔で自分を見詰めていた。
 そのまま鏡の中の男が何か言葉を紡ぎそうで、目を背けた。


★      ★

 太陽が西へ傾き、空にグラデーションを描き始めていた。涼しげな景観とは裏腹に、蒸し蒸しとした空気がお暇する気配はない。
 しつこい蒸し暑さの中に漂う排気ガス。大通りは仕事終わりなのか、車通りが激しい。少し坂になった道の先は淡い陽炎になって揺れている。

「なんか、みんな上の空だね」

 前を歩く少女達の様子をずっと眺めていたが、ついに声をかけた。まるで徹夜明けの人間みたいにふらふらとしていて、見ていて危なっかしかったのだ。

「すっげー不安」
「あれ、やけに素直」

 すかさず返ってきた律の返答に夏音はきょとんとした。一番荷物の少ない律だが、誰よりも気が重そうだった。

「やっぱドラムってさ。自分のやつでできないじゃん」
「ああ。それが心配なんだね」

 弦楽器隊やキーボードは、使用するアンプが違っても、肝心の楽器は自前である。
 自分の手に親しんだ感触でプレイできる他の楽器に比べて、ドラムはライブハウスに置いてあるドラムセットを使用することが多い。
 自分のセットを持ち込む者もいるが、通常のブッキングライブだと転換に時間を費やす上に、PAとの絡みもなかなか容易にはいかない。
 つまり、今日これから律は触れたこともないドラムセットで本番を迎えることになるのだ。それが不安で仕方ないらしい。

「大丈夫。爆メロの時だって違うやつだったでしょ」
「そうだけどさ」
「律がそんなにあからさまにナーバスになってるのって珍しいな」

 そんな会話に横から入ってきた澪が意外そうに言う。その発言に夏音は「そうか?」と首を傾げた。
 記憶の中の田井中律は、人並みに緊張しいである。誰よりも神経質で、抱え込みやすい。それ故の衝突を夏音と起こしたのも彼女だった。
 でも、長年の付き合いである澪にとっては律の様子は珍しく映ったらしい。

「なんか澪のくせに余裕しゃくしゃくなのが腹立つー」

 ついには他人にあたりだした。

「馬鹿言うなよ! 私だって、さっきから足の震えが止まらないんだ」

 澪のすらりとした脚を見てみると、小刻みに揺れていた。その横では先程から一言も喋らない梓が思い詰めた表情で歩いている。
 皆、似たようなものらしい。この中で平然としているのは唯とムギ、そして今回は完全に外野にまわる夏音だけであった。

「つーかお前の格好はなんだよ」
「え、どこかおかしい?」

 一度帰ってから着替えてきた夏音は、ハンチングにサングラスとどこぞの芸能人のお忍び姿のようだった。
 「はい、変装(笑)変装(笑)」と律が鼻で笑う。
 逆に目立つのではないかと思われるその格好は、むしろ様になっているのだが、制服姿の女子高生に紛れるにはふさわしくない。

「堂々としてた方が案外バレないんじゃないか?」

 ふと真面目に指摘してきた律の言うことにも一理あるかもしれない。実際に日本で声をかけられた経験は稀であった。もともと日本のメディアに露出することはほとんど無く、一般人の認知度は高くない。パパラッチの心配も低いし、そもそも自分を付け狙うパパラッチは遠い海の向こうに置いてきた。
 とはいえ、これから向かう先は常人よりどっぷりと音楽に浸りながら生きる人間達が集う場所なのだ。
 万が一、ということも考えられる。

「まぁ、バレたらバレたで何とかなるでしょ」

 正体が割れたからといって何だと言うのだ。夏音はそう割り切って、笑った。

「暑いねー」
「バーベキューにでもなった気分だ」
「いいねバーベキュー。今度やろうよ」

 

 電車を降りてからバスで二駅分と聞いていたライブハウスは道沿いにあった。控えめな看板には『グルーヴィン』と印されてある。

「ここですね」

 先頭を切って歩いていた梓が立ち止まり、看板を見上げる。見たところ出入り口は一つしかない。
 中に入ると、ホコリとヤニ臭さが鼻をつく。正面にある受付で女性が煙草を吸っていた。

「あの、すみませーん」
「あ、おはようございます」

 女性は一行に気が付くと、すぐさま火を消してこちらに歩み寄ってきた。立ち上がった女性は澪より頭一つ分ほど背が高く、どう色を入れたのか砂色の髪にサイドが緑のメッシュ。グランジ・ファッションの中にパンキッシュなエッセンスが感じられる。
 なかなか強烈な出で立ちであった。
 少女達がすっかりその女性の容貌に呑まれていると、女性は軽く頭を下げて笑った。

「おっと。君ら、マキちゃんの知り合いの子かな?」
「ひゃ、ひゃいっ!」

 女性は迫力に押されている様子の律をおかしそうに笑いながら、懐から名刺を取り出した。

「私、ここのオーナーのジーンって言います。よろしくお願いします」

 女性がジーンと名乗ると、「じーん?」と横で唯が不思議そうな声を出す。

「あ、こ、こちらこそ! 本日はい、いくひさしくよろしくお願い申し上げます!」

 夏音は律が発した言葉の意味が理解できなかったが、それを聞いたジーンは耐えきれないといった様子で爆笑し始めた。

「っ、ご、ごめんねー! めっちゃツボった……っ!!」

 おかしな人だ、と夏音は体をくの字にして震えるジーンを眺めた。自身の発言が彼女の笑いのツボを刺激したらしいことだけは察した律は苦笑いともつかない笑顔で困惑している。

「い、幾久しくって! ゆ、結納じゃないんだから! アーーッハッハッ! おもしれーこん子! マキちゃんに言っとこ」
「す、すいません! それだけはご勘弁を!」

 報告されて何が困るか分からないが、とりあえず自分の不利になりそうな予感。ジーンは最後に「うふっ」と怪しく笑うと、真面目な顔に戻った。

「次、リハでしょ? ここ初めてだもんね。とりあえずそこの階段降りてホール行って、荷物とかはてきとーにそこら辺置いとけばいいよ。もう他のバンドも入ってるから、まあてきとーにやって」

 どれだけ「てきとー」にやればいいと言うのか。彼女は、ここのオーナーと名乗ったが、これで経営が成り立っているのだろうかと少し心配になった一同であった。
 言われた通りホールに向かうと、他のバンドがリハーサルの最中であった。
 先程から演奏の音が漏れていたが、今は静かだ。ステージの上ではフロントの三人が何やら肩を寄せて話し合っていた。

 一同は、邪魔にならないようにしながら荷物を壁際に置いた。ぼそぼそと聞こえてくる話し声に、ホワイトノイズの音だけが存在する空間。
 息を潜めて立っていると、ヴォーカルと思しき少女がPAに向かってマイクを通して言った。

「大丈夫です。これで本番よろしくお願いします!」
「はい、お願いしまーす」

 それにPAが平淡な声で応え、リハーサルが終わったようだ。弦楽器隊の者はアンプのセッティングを携帯で写真に撮ると、機材を片付け始めた。

「次だね」

 ホールには他のバンドもいたが、機材を持ってきていないことから、既にリハーサルを終えたバンドだと思われる。
 逆リハで軽音部の出番は最初なので、リハーサルも最後となる。

「次、放課後ティータイムさんお願いします」

 マイクを通したPAの呼びかけに、軽音部のメンバーはぴくりと肩を揺らした。
 『放課後ティータイム』とは、今回ライブハウスに出演するにあたって考えられた軽音部のバンド名である。
 話合いでは、爆メロに出場した時のバンド名『Crazy Combination』は控えるべきだという意見が一致した。ともすれば、代わりの名前を考える必要がある。

 様々な案が出て、議論はいつも通り平行線を突き進んでいたのだが、いつまでも決めかねている少女達に業を煮やした山中さわ子が強引にも、

『あぁーもう煩わしいわね! こんなのテキトーに決めればいいのよ! 貸しなさい!』

 バンド名は律の友人にメールで教えなくてはならなかった。律の友人がライブハウスとの橋渡しをくれることになっていたので、彼女にメールした内容が決定となる。
 メール作成画面を開いていた律の携帯を奪うと、さわ子は驚くべき速さでテンキーに指を滑らせる。

『はい送信、と』

 勝手に送ってしまったのだ。その傍若無人の振る舞いに対して非難の嵐を浴びせた少女達。
 顧問は涙ながらに『だって、お茶が静かに飲めないじゃない!』と逆ギレしながら部室から逃げ出していった。
 送信ボックスを見ると、そこには『放課後ティータイム』の文字が。

『意外に当たってる?』

 釈然としないものの、とりあえずは受け入れたのであった。


 ステージの上から機材を撤収しながら、前のバンドの少女達は軽音部に向かって「お疲れ様です!」と声をかけてきた。

「あ、どうもどうも!」

 律はにっこり笑って手を振る。隣では澪が「失礼だろ!」と嗜める姿が目に入った。
 夏音はステージから人がいなくなると、少女達を促した。

「ほら、リハーサルは30分しかないんだから」

 すると、彼女達は慌てたように機材を持ってステージに上がるのであった。

 それから夏音はリハーサルを見学しつつ、外の音に対して幾つか指摘をする役目を担った。
 このハコの特性を考えながら、ブーストしすぎるベースをカットするように指示したり、音量などについて口を挟んでいく。
 傍から見れば、一緒にいる夏音は何者だろうと思われているかもしれない。
 本来なら客として観るつもりであったが、それではあまりに他人事ではないかと思って考え直した。
 それに、聞くところによるとアマチュアでもマネージャーやカメラマンがいるバンドもあるらしく、演者以外の人間がリハーサルの段階からいるのは珍しい光景でもないらしい。

 ステージの上での『放課後ティータイム』を眺めていると、不思議な気分になる。
 唯がヴォーカルで、ステージの中央にいる。そこは自分がいた場所であり、その役割の半分を梓が請け負っている。
 それ以外は何も変わらない。けれども、何故か胸がしくしくと痛む。
 この光景を面白いと思う気持ちがある一方、あまり見たくなかったと思う気持ちもあることを感じていた。

「本番よろしくお願いします!」

 元気いっぱいな唯の声に続く少女達の声がリハーサルの終了を告げた。
 緊張が解れない様子なのがまる分かりだが、何とか無事にリハーサルを終えることができたようだ。
 出番が最初なので、機材はそのままにしてステージを降りる。皆、汗をハンカチで拭いながら、既に疲れ果てた様子で夏音に近寄ってきた。

「いやー、やっぱりステージの上は熱いねー」

 本番は、もっとあつくなるよ。夏音は心の中そう呟いた。
 ただ、何も返さずに笑っていると他の者も次々にリハーサルの感想を口にしてきた。まるで小さな子が、外であったことを親に必死に報告するようだ。

「音は良い感じだったよ」

 夏音の感想に少女達はほっとした顔つきになる。実際に音のバランスは悪くない。PAの腕がよいのか、ステージ上のモニターの音もやりやすかったそうだ。

「もうちょっとで本番かあ~」

 律が時計を見て、言った。あと20分でオープン。その30分後にはスタートが迫っていた。

「うわー。あと、ちょっとじゃん!」

 唯が大事だと言わんばかりに叫ぶ。

「お茶する時間あるかな」

 心配の種はそこだったらしい。唯の発言にずっこけさせられそうになり、場の空気は和らいだ。

「控え室でお茶にしましょう!」

 そうして持ってきていたらしいティーセットを掲げるムギにほとんどの者は唖然とするしかなかった。


★     ★


 楽屋に向かうと、既に他のバンドが勢揃いだった。今回の出演は5バンド。楽屋は、軽音部を除く4バンドが楽屋にいるというのに、まだ余裕がある広さである。
 おそるおそる中に入っていくと、幾つかの視線が軽音部に向けられた。「ひっ」と声を上げた澪につられたのか、ごくりと唾を呑み込む一同。
 今日のブッキングはガールズバンド限定らしく、どのバンドも女性しかいないのだが、それぞれ独特の雰囲気を醸し出している。中にはメンバー全員が煙草を吹かしているバンドもあり、場慣れしていない少女達にプレッシャーを与えてきた。
 律を先頭に楽屋に入った一同が尻込みしていると、奥のソファに座っていた少女がすたすたと近づいてくる。
 ツナギにオレンジのパーカー、頭にはでかでかとしたサングラスという格好の少女は律に一直線に向かう。
 すると、律はその人物に心当たりがあるのか「あっ」と漏らすと、その少女の手を取った。

「マキちゃーん!」
「りっちゃん久しぶりー!」

 二人して手を取り合い、抱き締め合っている。もしかして、彼女が律の友人なのだろうかと夏音は黙って二人のやり取りを見守っていると、律が「あ、紹介するね」とこちらを振り返った。

「こちら中学の友達で、Love Crisisのドラムのマキちゃん! 今回、ライブに誘ってくれた人!」

 紹介されると、マキと呼ばれた少女が会釈してくる。

「はじめましてー。よろしくねー?」
「マキちゃんは律のドラムの先輩でもあるんだよ。ドラム始めたての律にドラム教えたのも彼女なんだ」

 後ろに控えていた澪がぼそりと説明を挟んでくる。

「へー」
「いやいや、教えたって言っても触りだけじゃん」

 マキはそう言って少し照れくさそうに笑った。それから澪に親しげな眼差しを向けた。

「澪ちゃんも久しぶりだねー。いやー! 澪ちゃんもベース上手くなりすぎで、びっくりしちゃったよ!」
「そ、そんなことないって!」
「これはホントだよ。うちのアヤなんてすっかりファンになっちゃってるんだよ?」
「う、うそ!」

 こういった賞賛の言葉に弱い澪がしどろもどろになっていると、いつの間にかマキと同じく、オレンジのパーカーを着た少女がマキの横で瞳を輝かせていた。

「み、澪さんだあ」

 じっと澪の顔を覗き込みながら限界まで目を見開いている少女。澪は興味津々に自分を見詰める少女にたじろいだ。

「あ、この子。ベースのアヤ。実は爆メロ観に行っててさ」
「え、ほんと?」

 まさか爆メロの名前をここで聞くとは思わなかった。澪が驚いて目を丸くすると、目の前の少女はうんうんと大きく頷きを繰り返す。

「マキちゃんの友達があのバンドだって知って、もう! 今日楽しみでしょうがなかったんです!」
「あ、そうなんだー」
「はい! 私、あの時は皆さんに票入れたんですよ!」

 アヤは興奮を抑えきれぬようで、鼻息を荒くして訴えかけてくる。意外なところにファンがいたものだ。

「なんか格好いいですよねー。あのバンドは誰だ!? ってネットで騒ぐ人けっこーいたんですよ?」

 アヤの言葉に後ろの方に控えていた梓が大きく頷くのが見えた。
しかし、そんなことは軽音部一同、承知している。だからこそ、こうして名を変えて出演に臨んでいるのだ。

「まあ、色々あってさー」

 苦笑いでお茶を濁した律だった。その後、立ち話もなんだからとテーブル周辺に座った一同はムギの淹れたお茶を囲って話すことにした。

「放課後ティータイム、だっけ。すると、あのバンドは解散したの?」

 律から細かい事情まで聞いていないのだろうか、マキも気になっていたらしい。そして、先程から一言も言葉を発していない夏音をちらちら見てくる。

「いやー解散っていうか、ねえ?」
「アレはあの時にテキトーに決めた名前だから」

 律と澪の説明にマキとアヤは揃って「ふーん」と唸った。

「それで、さっきリハちらっと見てたけど、こちらの人は出ないの? あの時のヴォーカルの人だよね?」

 マキが何気ない口調で核心をついてきた。途端に口籠もる律を不思議そうに見詰めながら、彼女は夏音の顔に視線を向ける。
 探るような眼差しを受けて、夏音はどう答えたものかと迷った。既に軽音部が爆メロに出場したことは知っているようだが、自分のプロフィールまで知っている様子ではない。

「残念ながら俺は出ないんだよ」

 ありのままをシンプルに口にした。変に誤魔化しても意味のない話だと考えたからだ。夏音の答えにマキは残念そうに言う。

「へえー。すごかったのにもったいないなー」
「はは、ありがと」
「ていうか、俺って言った? 見かけによらずボーイッシュなんだね」

 彼女はすぐに別の部分に興味をそそられたらしい。感心をこめて笑うその笑顔に夏音は苦笑をこぼす。

「ボーイッシュっていうのは女の人に使う言葉だよ。俺は男だもん」

 この、空気が固まる音は耳慣れたものだ。夏音がこう言うと、多くの人間が同じような反応を示す。

「う、うそっ!? 男!? 何で?」
「何でって言われても困る。君は性別に理由を求めるのかい?」
「いやー、っつわれても……うん、気を悪くしたらごめんよ。度肝抜かれたっていうか、久しぶりにこんな驚いたよ」

 夏音にとっては驚かれる筋合いもないのだが、他人からして見れば、こうするのが当然なのだと言わんばかりの人間の方が多い。
 特に気を悪くするということもなく、夏音は事務的に彼女に対応していた。

「やっぱり夏音くんは誤解される運命なんだね。それだけ綺麗な男の子っていないからしょうがないよね!」

 唯が明るい調子で言うと、部の仲間が口々に「そうだそうだ」と賛同する。自分の容姿についてイジられるのは慣れたもので、夏音は「はいはい」と軽くあしらった。

「あ、もうオープンの時間だ。ごめんね。私、物販のとこ行かないと!」

 マキが時計を気にして、両手を合わせて言った。自分達で作ったCD等を物販に出しているらしく、バンドの貴重な収入源でもある。

「また後でね! あ、そのサングラス前もしてたけどイカしてるよ!」

 最後に夏音にウインクを残して、嵐のように過ぎ去っていった。一同はラブ・クライシスの面々が楽屋を出て行くのを呆然と見送り、ひと息ついた。
 楽屋には、先程まで出演バンドの人間がいたのだが、気付けばほとんどの者が姿を消していた。

「みんなホールにでも行ったのかな?」
「さあ。マキちゃん達みたいに物販の場所にいるのかも」

 一方、軽音部は売りたくても売れるものがない。以前作ったデモCDを複製して持ってこようかという話も出たが、ヴォーカルが違うという点で却下された。

「そろそろ出番だなー」

 オープンの時間が過ぎ、ホールにはSEが流れ始めていた。かかっているのは、日本のロックンロールで、歌詞はよく聴き取れないが、なかなかイベント序盤の空気に馴染んでいる気がした。

「流れも確認したし、SEの音源もばっちり」

 律が確認するように呟く。

「わ、私ピックどこにやったかな」
「落ち着いてください澪先輩。さっきベースの弦に挟んでたの見ましたよ」
「そうだっけ?」
「ヘッドの上にも置いてたわよね」

 急に慌て始めた澪にくすりと笑った唯とムギが返す。

「そ、そうだった! 本番ピック落としたらどうしようって思って取りやすいところに……あぁ、本番ピック落としたらどうしよう」

 自身が施した対処法を全否定する弱音を零し始めた。澪が本番前にこうなるのはいつものことだ。
 唯などは「落ち着いて澪ちゃん。手の平にヒトって書いてのむんだよ!」とおそろしく古典的なことを口にしている。
 いつの間にか梓はぎゅっと膝を合わせて座り、熱心に指のストレッチに取り組んでいた。
 夏音はそんな彼女達の様子をぼんやりと眺める。
 自分が出ないライブで、彼女達が緊張しているのが不思議でたまらない。他人事のようで、そうではないことが。
 何よりこの中で一番気持ちが落ち着かないのは自分だという自信がある。
 夏音は、自分が出演するライブより緊張していた。
 彼女達の緊張が伝染したのかもしれない。しかし、緊張というより他に胸に疼く感覚の正体を彼は知っていた。
 それは「不安」という。
 彼女達が大きな失敗をしないか。客に否定されて、傷ついてしまわないだろうか。
 ライブ経験値の低い梓は緊張にやられて上手く弾けない可能性だってある。人一倍頑張り屋なのに、神経質な梓のことだ。終わってから沢山悔やむだろう。

「(何だろうこの気持ち……まるで、)」

 少女達をぐるりと見渡して、夏音は確信する。

「(まるで子供の学芸会を観に行く親の気持ち?)」

 うちの子、失敗したりしないかしら。
 そんな情景が目に浮かぶ。

「んなアホな」

 同時に、夏音はソファに沈み込んだ。

「お母さんかい……」
「なにが?」
「何でもない」

 耳ざとく夏音の独り言を拾った唯が首を傾げたが、夏音は首を振って答えた。
 確かに、この感じは我が子が舞台の上で恥をかかないか心配する親のようである。自分が彼女達の親だなんて思ったこともないし、思いたくもない。
 よりにもよって、こんな例えを思いつくなんて、と夏音は自己嫌悪に陥った。そして、それがさほど間違っていないような気もして、余計に落ち込んだ。

「(俺は保護者になった覚えはない!)」

 こんな面倒な連中の世話をするなんて考えたくもない、と夏音は粟立つ腕をぐっと押さえた。
 しかし、と冷静になって考える。
 保護者になるということは最後まで見届けるということだ。
 自分で手一杯な夏音が彼女達の何を見届けられるというのだろうか。
考えるうちに自嘲したい気分に陥った。自分は保護者になる資格なんてないのだ。
 気付かなくてもよかったことを、また一つ発見してしまった。
 会場の方は人の話し声によるざわめきが増している。SEに負けないくらいの人の気配。
 彼女達の気分が手に取るように分かる。爆メロの時とは違い、人の視線が近い。
 それは、全く別種のプレッシャーを彼女達に与えるだろう。
 「見届ける」。その行為がいつまで続くのか、夏音は分からない。
それが叶わないなら、自分はどうあるべきなのかも、迷い続けている。
 ただ、見届けること。もしかして、この胸の疼きの何割かは、たったそれだけのことを諦めようとする夏音の罪悪感かもしれなかった。
 そのために敷いてきたバンドとしての布陣。
 夏音が自分の代わりにしようと梓に託したポジションは少し荷が重いだろう。でも、いつか彼女なら立派に果たしてみせるはずだ。
 夏音が準備していたことが、これから形になる。それが叶えば、この先は大丈夫なのだと夏音は確信できる。

「夏音、さっきから具合でも悪いのか?」

 澪が自分の心配もよそに、夏音の顔を覗き込んでくる。気遣う目に夏音は淡く微笑み返した。

「ありがとう、平気」

 本番前の彼女達にいらない心配をかけたくはない。
 夏音は立ち上がり、ドアの方に歩き出してから振り返った。

「じゃあ、俺は客席の方に行くよ。今夜はお客さんみたいなものだから、ただ聴いてればいいもんねー」
「チクショー。他人事みたいに言いやがって~!」

 恨みがましく律が言った言葉に笑いが起きる。確かに、と夏音は思う。
 勝手に少女達の手を引っ張って連れていったくせに、今はその背中をどんどんと押しているのだ。
 そんな工程の最中で、彼女達は夏音の思惑に気付いてなどいないのだろう。

「じゃ、頑張って。楽しんでおいで」

 いつもの台詞だけ残して、夏音は楽屋を後にした。

 ホールに続くドアをくぐり抜けると、誰かが吐き出した煙草の煙が淡くステージを照らすライトの中を漂う光景が目に入った。
 満員とまで行かなくとも、客入りは悪くない。
 ホール自体が狭く、箱詰めされた石鹸のように人を並べて立たせても150人が限界だろう。
 丁度良い人の隙間があり、夏音はその中をすいすいと抜けていく。  ホールの一番後ろの壁際に向かうと、壁によりかかった。
 整列させる必要もない。まばらに空いた人と人との間にできたスペースが印象深かった。
 この場にいる人間はどこまでも自由に音楽を楽しみにきているのだろう。いつ出て行ってもいいし、好きな時に煙草を吹かして酒を飲んでいい。
 狭いのに、窮屈な感じは不思議としない。

「(これがライブハウスか)」

 アメリカでも行ったことはあるが、日本のライブハウスはペニー・マーラー以外に知らなかった。
 客の顔ぶれを観察してみると、若者ばかりである。それも高校生くらいの人間が多いように見えた。
 今日のライブが高校生バンドが多いのも理由にあるのだろう。しかし、中にはガチガチのパンクファッションに身を包んでいる年配の人間もいる。

 照明が暗くなる。ステージ脇から出てくる部の仲間達の姿に夏音は目を凝らした。暗くてあまり見えないが、明らかに緊張しているのが分かる。
 演者がステージに上がったというのに、歓声も拍手もない。SEと混じるざわめきが収まることはなく、彼女達の存在を認識しつつも、聴く姿勢になる者は少ない。
 急に出演することになった名も知らぬバンドに期待している者などいないのだ。
 おそらく、客のほとんどが他の出演バンドを目当てに来ている。
 中には、対バンになど興味はないので早く目当てのバンドを見せろと思っている人間もいるだろう。
 だからこそ、夏音は笑いを抑えきれなかった。
 こういったシチュエーションは嫌いじゃない。あの場所に自分が立っていたならば、あまりの嬉しさに同じように笑いをこさえていただろう。

 自分がこれから放つ音楽で、お留守になっている耳を鷲づかみにしてやればいいのだ。
 一斉に自分の音楽に捉えられた人の顔というのは忘れられない。

 しかし、今夜それを実行できるのは自分ではない。夏音が託した少女達の音だ。

 ただの高校生バンドだと思っていればいい。
 SEがそっとフェードアウトする。
 静まる客。遠くからきこえてくるようなギターの音色。
 ヴァイオリンのように小刻みに揺れるトレモロ。膨らんでいくフィードバックは美しく、スピーカーから放たれる振動が身体を大きく震わせていく。

 夏音は酔いしれるように、そっと目を閉じた。


★        ★

 三曲目、澪ヴォーカルの「クマ」が終わると、すぐにアンプの上に置いていた水を飲む唯。その間に生まれた沈黙に、澪が身動ぎした。
 唯が黙るとMCが静かになる。

「今の曲はクマちゃんって曲でした! この曲は私達が二番目に作ったオリジナルなんです!」

 それに対する客の反応は薄い。けれども、しっかりと唯の言葉に耳を傾けており、好意的な笑いを浮かべている人が多かった。

「真摯な森のクマさんが森を破壊する歌です!」

 途端に爆笑が沸き起こった。ほんわかした唯の口から語られるのがシュールで、夏音でさえもくすりと笑ってしまった。
 もちろん曲の概要はおおまかに言うと、その通りだ。それだけではないのだが。

「あ、でも森の破壊はよくないですよー。木をいっぱい採りすぎると、森のバンビさんやリスさんとかが住めなくなっちゃうってテレビで言ってました」

 さらに続く唯の天然トークにくすくすと笑いが漏れる。唯の堂に入ったMCは聴いていて面白いのだが、ふとした拍子に予想のつかない場所へ着地しそうで恐ろしい気もする。
 着地どころか、クレーターをこさえて周りに被害を及ぼす可能性もある。

「あ、でもよく考えたらこのギターも木なんですよね」

 肩から提げるギターに目を落として、今気が付いたかのように呟く。かのように、ではなく、本当に気付いたばかりなのだろう。

「じゃあギターの木だけ、採らせてくれればいいです!」

 そうくるか、と夏音は膝の力が抜け落ちそうになった。他にもツッコミ所が満載な唯のトークだったが、後ろの方で咳払いをした律がそれを止める。
 残り数曲を唯の喋りで終わらせてしまうのは、笑えない。

「あ、じゃあ残り二曲聴いてください! 次、カヴァーの曲で、『Autumn Shower』」

 その曲名を聞いた瞬間、夏音の唇が震えた。心臓を鷲づかみにされたような衝撃。どっと汗が背中を伝う。
 彼女達がカヴァー曲をやることなど初耳である。それだけではない。 その曲名は誰よりも自分が知っているものだった。
 それは、夏音が最初に出したアルバム内の一曲の名だった。
 おそらく、この曲を知っている者はこの場にいないだろう。
 しかし、夏音にとっても想い出の曲だった。一部の人間には、背伸びした子供の鼻歌のようなものだと酷評されたが、それでもこの曲の美しさを夏音は誇りに思う。
 コード進行は非常にシンプルであり、中盤で二転する転調を挟む部分以外は目立った展開はない。
 ただし、和音の組み合わせをいかに美しく聴かせるかがポイントであり、歪んだギターの音色で表現するには些か無理がある。

 落ち着いたオレンジ色の照明に照らされたムギが鍵盤に手を置く。
 鍵盤の音がしっとりと、低音から立ち上っていく。水の音、深海を思わせる音をその上に重ねる。
 そういう解釈なのかと夏音は驚いた。原曲に無い音。それはムギが捉えたイメージによる色づけに他ならない。夏音にとって、イントロのメロディは朝霧を思い起こす調べだが、ムギには別の世界がみえたのだろう。
 実は人より馬力のある彼女だが、そのタッチはきわめて繊細だ。鍵盤に触れる指使いは、彼女が小さい頃から培ってきた練習の重みを感じる。
 導入部の穏やかなピアノにベースが追いついていく。いつの間にか、隣にいるのだ。まるで、それまで巧妙にいないフリをしていたかのように。
 八小節後に全ての楽器が歩みを寄せる。
 そこから展開される、誰よりもなじみ深い音楽。
 自分の曲をカヴァーするために、彼女達はCDを何度も聴いたのだろう。
 カヴァーだからまるまるコピーしているわけではないが、そこに妥協はない。彼女達なりのアレンジが散りばめられた演奏に夏音は夢見心地で体を揺らしていた。
 どういったつもりで彼女達がこの曲を演奏しているかは定かではない。
 それでも、この短期間でよくこの曲を覚えたものだと素直に感心させられる。
 それぞれのパートのソロもあり、誤魔化しがきかない曲だ。多弦のベースで鳴らすパートは別の楽器が補い、形にしている。
 いつの間に、彼女達はこんな曲を弾けるようになったのだろう。
 夏音の記憶に存在する彼女達はこんな音を奏でたことがあっただろうか。巧みにハーモニクスを鳴らす梓と澪のユニゾンはとても美しく、溶け合うように優しい。
 他の客も、先程までとは打って変わった音楽を受け入れている。
 自分の音楽が、彼女達を通して伝わっているのだ。
 六分弱の演奏がぴたりと止まった瞬間、放課後ティータイムはひときわ大きな拍手に包まれた。

「ありがとうございました! この後も楽しんでってください!」

 それまでの空気を切り裂くようなドラムのビートに乗っかった唯が声を張り上げ、少女達は最後の演奏を全速力で駆け抜けていった。



 皆がステージから捌けるのを見計らってから、夏音は楽屋へと赴いた。すると、各々の機材を床に置いて抱き締め合う彼女達の姿が飛び込んできた。

「楽しかったー!」
「お疲れ様~! ミスりまくった~! アハハハーッ!」

 興奮冷めやらぬ状態で、汗だくになっている唯と律が肩を組んで騒いでいる。その側にムギがいて、胸の前で腕を組んで笑っている。
 その輪を薄く微笑みながら見守りつつ、澪と梓は機材の片付けに勤しんでいる。
 だが、二人とも同じように満足気であった。
 膨れあがったエネルギーの残滓を、彼女達から感じる。
 少しだけ、眩しかった。おそらく、それはステージから持って帰ってきた輝きのせいだった。

「お疲れ様!」

 夏音はその喜びの輪に入っていき、ねぎらいの言葉をかけた。

「あ、夏音くんどうだった!?」

 笑顔の夏音に気が付いた唯が今にも飛びつきかねない勢いで身を乗り出してきた。

「最高。この一言だね」

 幾つもミスもしていたし、完璧とは言えない。しかし、そんなことは関係なかった。最高だった。それ以外の感想は持ち合わせていなかった。

「ほんと!? 夏音くんの曲、上手くできてたか心配だったんだー!」

 ほっと胸を撫で下ろす仕草の唯に同意するように周りが頷く。

「先輩の曲、昨日ぎりぎりまでアレンジしてたんです!」

 梓がぐっと小さな握り拳をつくって夏音をきらきらとした瞳で見詰めてくる。

「そうだったんだね。すごいよ! みんなこれからもライブするべきだよ!」

 夏音が力をこめて言うと、皆の顔に照れ笑いが浮かぶ。

「うん! すっごく楽しかった! またライブハウスでライブできたらいいな」

 ムギは今夜のライブに強く胸を打たれたらしい。彼女はステージの上で、誰よりも楽しんでいた。
 抑えきれないように鍵盤を叩く彼女は今までにないくらい活き活きしていたように思えた。

「私ら、結構イケてたよな!?」

 律が調子づいて言った言葉にも反論する者はいなかった。少女達がまんざらでもないように頷いていると、そこに新たな声が加わった。

「お疲れー! いやー超かっこよかったよ!」

 楽屋に飛び込んできたマキだ。ラブ・クライシスの面々も揃って軽音部の演奏を褒める言葉をかけてきた。

「さっすが爆メロ出場したバンドだね!」
「いやあ~それほどでも~」

 マキは、ぐにゃりと頬を緩ませる唯に「アハハッ」と笑った。

「でも、ほんとによかったよ。また対バンして欲しいんだけど、どうかな?」

 その提案に驚く一同は、マキをまじまじと凝視した。

「今度、別のハコでうちらの企画あるんだけどさ。まだ二バンドくらい空きあるんだ。みんなさえよかったら、出てくれない?」
「是非、出てください!」

 その隣でアヤが後押しの言葉を重ねてくる。その視線は澪に固定されているようだが。
 思いもよらぬ早さで次のライブの話が舞い込んできた軽音部だったが、誰も即答する者はいなかった。
 互いに顔を配らせ、どう答えるべきか探り合っている。気乗りしないわけではないものの、まだライブハウスへの進出へは手探り状態もいいとこの軽音部である。
 ライブの誘いは魅力的だったが、答えを出すには話合いが必要だった。
 一方、答えあぐねている状態の彼女達を見たマキは明るい調子で言った。

「あ、急だから今すぐじゃなくていいんだ。流石にフライヤーとかポスターとか刷る関係もあるから、二週間前には決まって置いて欲しいけど」
「ちなみに、いつライブなの?」

 律が代表して肝心な日程を訊ねる。「来月の二十二日。土曜日だよ」と即回答が返る。

「あー。一応、ちょっと話し合ってからにするね」

 申し訳なさそうに言う律に頷くと、マキは「じゃ、よろしくね!」と言うと楽屋から出て行った。

「出た方がいいんじゃない?」

 他に楽屋に残る者が軽音部以外にいなくなると、夏音が開口一番でそう言い切った。

「う、うーん。出たい気持ちは十分なんだけどさ」

 歯切れの悪い律の隣で、唯は淀みなかった。

「またタダでライブ出れないかな~」
「そう何度もできるわけないだろ? 今回だって特例なんだから」

 意外に金汚い唯を嗜める澪。金銭の話になると、何だか後ろめたい空気になるが、実際問題はそこだ。

「でもなあー。これからライブ出るにしても、誘われるライブ全部にほいほいと出るわけにもいかんだろー」
「月に一回ないし二回が限度だな」
「たしかに……お小遣いじゃまかないきれないですね」

 そう言って現実的な問題に唇を曲げて悩むのであった。
 ノルマ代を払い続けるのも一苦労である。バイトをするというのも手だが、その判断は彼女達次第だった。

「毎回抜け目なく無料で出れる機会を狙うバンド……なんかセコいな」

 言い出してから嫌そうにうなだれた律。ちなみに、その意見には夏音も同感である。

「あ、ていうか! 次のバンドのライブ始まった!」

 唯が発した一言で楽屋に隣接しているステージから響いてくる振動に気付いた。

「まあ、また学校で話し合うか」

 とりあえず、そう結論づけてから一同は急いで楽屋を出て行った。


★      ★


 結局、その日のライブが終わって帰れたのは二十三時を過ぎた頃だった。
 門限つきのムギは律の家に泊まるという話をつけていたらしく、澪と律にくっついて別れた。

「そういえば誰も知り合いを呼ばなかったんだね」

 唯の妹である憂や、和。他にも各々の友人を呼ぶものだと思っていたが、一人もいなかった。

「うーんとね。今回は実験みたいなものだったから、私達だけでやってみようってことにしたんだ」
「へえ。それまた、どうして?」
「だって夏音くんに観てもらいたかったから」
「え?」
「今回は夏音くんだけに見守ってて欲しかったんだ」

 唯の口から出てきた意外な理由に夏音は瞠目した。

「でも、本当はそんなに深い理由はないよ? 最初のお客さんにぴったりなのは夏音くんだよね! って話してて、友達とか呼ぶ? って話になった時に『最初だから、とりあえず様子見で……な? そうしよう!?』って澪ちゃんが言い出したからなんだけどね」
「そういうオチなんだね」

 続いて聞かされた話に夏音はどっと肩の力が抜けた気がした。今夜の彼女達はとても良い演奏をしていたのだが、不安でいっぱいだったのだろう。
 夏音は自分を見くびるつもりはない。自分が抜けたことで生じる穴の大きさも理解はしている。
 少女達はバンマスである夏音抜きでライブをする重圧をくぐり抜けた。
 大切な人に不甲斐ない演奏を見せる可能性があると思った以上、気軽にライブに招待することをしなかったのだと思われる。
 しかし、それも今回までの話だ。彼女達も重々承知しているだろうが、これからは客を呼ぶためのことを考えねばならない。
 夏音はそれを口にしなかった。
 彼女達のバンドだ。もう、自分の問題ではない。
 一線を引きたくはないが、バンドに関しての決め事を話し合うのはあの五人でなくてはならない。
 意見を求められるのはかまわないが、舵を切るのは彼女達以外の人間を挟んではならない。
 そう思ったからこそ、夏音は今回のライブに向けての準備も任せきりにした。セットリストも、アレンジも知らぬまま、純粋に夏音は客として皆の演奏を聴いたのである。

「でも、先輩とライブできる機会が減るのはなんか寂しいです」

 夏音の後ろを歩いていた梓がぽつりと言った。

「そうかな。軽音部としてライブをいっぱいすればいいんじゃないか?」
「それは、そうなんですけど……」
「あずにゃんは心配性だなあ」
「ひ、人が真剣に話してるんですよ!」
「まあまあ。今までのライブ頻度がおかしかったって思えばいいじゃないか。これからは、たくさんライブをしようよ。そういうのを考えるのも楽しいでしょ?」

 夏音は努めて明るく梓に語りかける。

「そうですよね。学校でもライブ三昧、ですね!」

 元気を取り戻した梓の言葉に唯は頬を引き攣らせている。きっと練習浸けの毎日を想像しているのだろう。

「あ~、もうお腹すいた~」
「ほら、あとチョットなんだから頑張ろうよ」
「なんで夏音くん車で来てないの~」
「そういう発言は信用なくすよ」
「機材が重くて腰が……」
「じゃあケースだけ持つから」

 唯の漏らす不平不満を夏音が涼しい顔であしらっていると、そんな二人を苦笑して見詰めていた梓がぽつりと小さな声で呟いた。

「あれ……? でも、先輩はどこのパートをやるんだろう」

 夏音は、ハッキリと耳に入ったその疑念の言葉を聞こえないふりをして歩き続けた。



※にじファンが閉鎖らしいですね。きっと、すぐにそうなるだろうと思っていましたが、ついに来ましたねー。

 この騒ぎの中で投稿するのは少し躊躇ったのですが、投稿いたしました。
 こんな作品ですが、読んでくださる方もいらっしゃるので、更新しても気付かない間に流れていくんでは、と不安もあります。

 



[26404] 第十八話『ズバッと』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/08/05 17:24


「ねえねえ。これからの行事ってどんなのがあるんだっけ?」

 部活が始まった途端、出し抜けにそんな話題が振られた。そこにいた人間はそろって唐突に投げかけられた疑問に首を傾げた。

「これから? 何かあったっけ」

 一瞬だけ間が空いたが、律はすぐに反応してみせた。首を傾げて近々行われる行事などを思い浮かべてみたが、改めて訊かれるとどうにも思い当たらない。

「う~ん……あ、学生証を見ればいいんじゃない?」

 顎に手を添えながら上品に悩んでいたムギの閃きに「あっ」という声が同時にあがった。
 律などは、最初に手渡されて以来、一度もまともに中身に目を通したことがなかったため、学生証に年間行事が記載されているという結論にすら辿り着けなかった。

「さっすがだなムギ~?」

 からかい半分に言ってから、律は「どれどれ」と隣で澪が取り出した学生証を覗き込み、

「あー、この話題はよそう」

 即座に目を伏せた。最初に目に飛び込んできた文字のせいで、律の瞼がひくひくと痙攣する。

「え、なにさ! りっちゃん?」

 唯が急変した律の様子に何かを感じ取ったらしい。律は意味深な笑みを唯へ送ると、そっと首を横に振った。

「だめよ、唯。これは私達にとってパンドラの筺。決して開けてはなりませぬ」
「一番近い行事は期末テストかな」
「ほら言っちゃったー!! 澪のアホーー!!」
「え、そうなの? 澪ちゃん何てことをしてくれたの!?」

 訊ねられたことを親切にも調べ、その結果を述べただけの澪に対する二名の罵声。澪はぴくぴくと目を引き攣らせ、とりあえず隣にいる律の頭をぶん殴った。

「べふっ!?」

 あくまでもクールに。
 青筋を立てて激怒する澪は過去のもの。最近の澪は律に対するツッコミが冷たいという噂がまことしやかに囁かれ、それを直に味わっていた律は正直、物足りなさを感じていた。

 痛みに呻きながらも、律は冷静に思考する。

「(なんつーか……私のことを全力で見なくなった、みたいな? たぶんそんな感じ?)」

 無防備な額に入った一撃がじんじんと痛みに変わって律を苦しめる。しかし、この痛みこそが澪からの愛である……と心の底から思ったら色々とまずい気がしている律だったが、やはり釈然としないのも確かだ。
 今やこの痛みすら、もどかしさを増幅させるものでしかない。
 あくまでも人に対して手を上げたというのに、澪はもう律に対しての興味を失っている。最早、というより叩く時点ですら興味はないのではないかとすら思える。
 律はこの時点で確信を得ていた。

「(やっぱり、おざなりになってきてない?)」

 それは許されないのだ。いついかなる時でも澪には全力でかかってきて欲しい。最近の澪には自分に対する全力感が薄いと嘆かざるを得ない。
 幼なじみ兼親友として、そこだけは譲れない一線である。
 だからこそ、動かなくてはならない時がある。


 もにゅり。

 柔らかすぎず、適度な弾力。律の小さな手には余るたわわな感触に頬が緩む。
 夏服という防備の薄い態勢が見事に災いしている。律にとっては幸いでしかないが。
 律は知っていた。
 澪の防備。薄手のシャツに脇汗パッド、そのさらに奥地に潜むのは、いつかの澪曰く『私のサイズだと、あまり可愛いのないんだ……』なものがあることを。
 手の平を介して脳髄を刺激してくる犯罪的なまでの快感は何であろうか。
 夏の暑さの中、この気温よりあつきものなどあるまいと思っていたのだが、実際は律の手の中にあった。
 あつい、というよりあたたかいと表現するにぴったりであった。

 周りが絶句してから、十秒ほど経っただろうか。

 あまりに反応が無いものだから、少しだけ指を動かしてみた。
 おどけるように、律は笑う。澪も笑う。
 今まで見たことのない酷薄な笑み。真夏が真冬に変わってしまったと思うくらい、背筋が凍った。

「どうして、揉んだ?」
「そ、そこに乳があったから」
「いつまで触ってるつもり」
「そ、そっスよねー。いやー、なんつーかありゃーととござっしたー」

 おずおずと手を引っ込めた律に対して、澪は静かに立ち上がった。

 律は全力で逃げた。




「律が旅立ったところで、誰か俺の切り出した話題を進めて欲しいんだけども」

 その茶番の成り行きを見守っていた夏音は努めて冷静な声で仕切り直した。ちなみに、扉の前で巨大なタンコブをこさえて倒れている少女の存在は無視されている。

「ああ、ごめん。行事、だったよな? 期末テストがあって、進路ガイダンス、終業式、かな。それからは夏休み。夏休みが終わったら修学旅行……これは三年生だな。それが過ぎればいよいよ学園祭だな!」
「修学旅行!?」

 夏音は澪が読み上げていく単語の一つに驚愕する。
 修学旅行。日本人であればなじみ深い響きであるが、ずっとアメリカにいた上に歪んだ日本文化を学んだ夏音にとっては、

「伝説だと思ってた。修学旅行」

 画面の向こうにしか存在しないモノを多く見てきたせいか、疑り深くなっていた夏音だった。
 そんな夏音に唯はおかしそうに笑った。

「あるよー。中学の時も行ったけど、すっごく楽しいんだよ!」
「修学旅行……」

 夏音は、その響きにうっとりであった。しかし、来年の話だというのだからやるせない。
 来年の今頃まで、ここにいる保証もないというのに。
 浮かれつつあった心が急に冷え込む。急に黙り込んだ夏音を不思議そうにする少女達に気付き、夏音は乾いた笑みを浮かべた。

「あ、ありがとうね澪。これからの予定を組みたかったから、簡単に頭に入れておきたかったんだ。それにしても夏休みかー。今年も合宿するの?」
「そうだ合宿だよ! 今年はどこ行く!?」
「去年は海だったから、今年は山かしら」
「またまたムギはぁ~。幾つ別荘もってんだよー」
「りっちゃん、いつの間に復活を……」

 急に方向転換した話題で進む場に夏音は内心ほっとしていた。そのまま合宿の話で場が盛り上がっていこうとした時、梓がふと素朴な疑問を唱えた。

「あの、その前にすいません。合宿って、そんなの軽音部でやってたんですか!?」

 青天の霹靂だと言わんばかりの驚きっぷりである。確かに、世間一般のイメージで語られる合宿にはそぐわない面子である。
 しかし、それはあくまでも世間一般で言うところの部活動の「合宿」である。
 もちろん、そんな真面目な雰囲気からかけ離れていることは梓を除く全員の知るところだ。
 可哀想なことに、梓は未だに軽音部に対する幻想を捨て切れていないらしい。
 勝手にイメージを膨らませ、「そうですよね! 先輩達も真面目にやる時はやりますもんね!」と軽く失言する様子を前に、上級生の五人は実際の合宿の詳細を語るのが憚られた。
 真面目な軽音部を妄想する梓の目の前で、半分以上が遊びであるなどとは口が裂けても言えなかった。

「合宿ですかぁ。なんかワクワクします!」
「なんか、あずにゃんって随所で空気読めないよね」

 ぼそりと耳打ちしてきた唯に夏音は「唯にだけは言われたくないと思う」と後輩をフォローしておいた。「えー? そうかなー?」と軽くむっとした様子の唯を放っておき、夏音は澪に教えてもらった予定行事を頭で整理しておいた。
 今学期にはさして重要なイベントもない。問題は、その後だということがわかった。
 今年の夏休みは、何か自分にとって重要なものが待ち構えている。そんな予感がする。


★     ★


「ジ、ジーザス……」

 今日、ここで自分の人生が終わるのだと確信した。呼吸が荒く、身体も熱が上がっていき、汗が噴き出している。
 世界がぐるぐると周り、安定しない。地球が上下を忘れてしまったみたいに、はちゃめちゃな運転を続けているようだ。
 割れるように押し寄せる頭痛。目からは止めどなく涙が溢れ、水分が失われていく。
 もしかして、このまま乾ききって死ぬのかもしれない。
 水が欲しい。
 喉が渇いたのだ。
 しかし、それを実行に移すことはない。今、何かを口に入れたら、とんでもなくまずいことになる気がする。

「なーにが神様ー、だよ。お前クリスチャンだったか?」

 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、先程から夏音の背をさすってくれている人物がいた。夏音はそんな彼に対して何一つ対応することができず、反論するための言葉もなかった。
 口をむやみに開くわけにもいかない。
 ゼェゼェと荒い呼吸をしながら、夏音は朦朧とする思考の中の冷静な部分に少しだけ逃げ込むことができた。
 自分が彼に対してひどく迷惑をかけていることは分かる。
 しかし、こうなったのは自分のせいかと問われれば、夏音はいつだって首を横に振るつもりだ。
 むしろ、夏音は被害者と言ってもよい立場なのだ。
 そこまで考えながら、夏音は胃のあたりが疼いた瞬間に感じた。
 次の波だ。

「う、また……っ」

 日本で代表的な擬音で表現すると「オエエエエエエエエエエッ」である。あまりにひどく、生々しい響きをもって夏音は胃の中の物を便器にぶちまけた。

「ったくよォ。高校生の分際でこんなに酔いつぶれやがってよ。お前が呑んだやつ、どんだけ高ーとおもってんだよ」

 後ろから文句があがるが、夏音の耳には入らない。実際には入っているのだが、それどころではない。

「うぅっ。もう吐くものないよお~」

 吐瀉物の中身がグロテスクだった時代はとうに過ぎた。後はひたすら酸っぱい胃酸を大量に呑んで薄めた水を吐いているだけである。

「も~~タクさんありえねえ! あの人、体育会系にもほどがあるって。こんな外国からやってきたガキに何求めてんだっつの!」

 苛立たしげに呟かれた言葉に、夏音は生理的に滲んだ涙を拭うこともせず、彼を見上げた。

「タイイクカイって?」
「お前みたいな惨状に陥る奴を大量生産すること」
「そうなの。それは、あまりよく、ない……ねェッップ」

 後半から、夏音がどうなったかは言うまでもない。
 再び、冷たい便器と顔を合わせ合う夏音を見て、青年は再び酔っ払いの背中をさすり始めた。


 その日、夏音は夜から始まる打ち合わせに参加していた。皆、忙しい身分のミュージシャンばかりだったが、その日の夜は驚くほど全員の予定が空いていた。
 だから、その場にいる者は酒宴に強制連行されたのだ。
 夏音は未成年だからと言って断ったのだが、誰も夏音の訴えを聞いてくれなかった。

 先程から夏音を介抱してくれているのは、Renという今回のレコーディングでギターを弾くスタジオ・ミュージシャンである。
 見た目は地味だが、音楽に関しては夏音も業界では一目置かれている実力派であり、まだ二十代後半で若手扱いだが、名だたるミュージシャンのレコーディングに呼ばれているほどの人物なのだ。
 口や態度は悪いが、顔合わせの時から未成年の夏音を気遣ってくれていた。挙げ句、こうして最後まで面倒を見てくれている。

「おれ……おれ、だめだぁ」
「大丈夫だあ」
「なにそれ、誰かのモノマネ?」
「お、やっぱり知らんかあ。最近の若ぇのは……ていうかお前はアメリカにいたんだから知らなくても当然か」

 勝手に何かを納得したようだったが、夏音はそれ以上の興味を持てずに何も返すことはなかった。

「ほら、そろそろ吐くもんもねーだろ? いつまでもここに居ついていてもしょうがねえからよ。いったん出よう、な?」

 優しい口調でこの場を離れることを促されたが、夏音はいやいやと首を振った。

「やだ。ここでいい」
「んだよ。ここに住むつもりか? ベッドもシャワーもねーけど、お嬢様育ちにはちょっとばかしアメニティが足りねえんじゃねえか?」
「Oh…fucking yuck…holy crap night. Yeah……」
「おいおい。いきなし英語で話されてもわかんねーよ。こちとら日本人だぞなめんな」
「何でこんな夜になっちゃったんだろ。俺は打ち合わせ終わったらすぐ帰りたかったのに」
「まーまーまー。わかるぜ? その気持ち。だけど、これが日本で仕事するってことなんだな。職場の付き合いってやつだ。お前も日本で仕事するならちょっとくらいこういう習慣に慣れておいた方がいいぞ?」
「Bullshit!!」
「だぁーかーらーよー。セイーッセイージャパニーズ!」

 こんなやり取りを数分続け、夏音はようやくトイレから出た。打ち上げ会場に戻ると、とうに魔の酒宴は解散になっていたらしく、会計も済んだ後だった。
 水を貰ってから、何とか店の外に出ると眠らない街の喧噪が立ちはだかった。光るネオンの光に再びこみ上げるものがあったが、何とか我慢する。

「あ……小さいなぁ」
「あん?」

 ふと夏音が呟いた一言にRenが咄嗟に聞き返してくるが、夏音はふらふらと勝手に歩き始めた。Renが後ろで大きな溜め息を漏らしたのが耳に入ったが、かまわず歩いて行く。
 街の中はよく分からない臭いで充満していた。どこをどう立ちのぼってきたのか分からない。しかし、それら一つ一つに目を凝らすこともできないし、存在を追っていくこともない。
 これは、街の臭いなのだ。決して夏音を快適にするものではないことだけは確かだ。煌々と街を怪しげに照らすネオンの光に目眩がしそうだ。

「おい、夏音! タクシー捕まえたから、お前これでとっとと帰れ」

 腕を掴まれた。Renが指し示す方向には左後ろのドアを開けたまま停車しているタクシーがあった。

「一人で平気か?」
「大丈夫。それほど子供じゃないよ」
「ばーか。口ばっか大人ぶってんの。人に迷惑かけてるうちはガキだっつの」
「こうなったのは俺のせいじゃ、ない」

 少しむっとして言い返すと、Renは夏音の反論を一笑に付した。何だかその余裕のある態度が気にくわなかったが、夏音は実際に迷惑をかけたばかりなので、つい顔をそらした。

「そういえば帰る方向一緒か。途中まで俺も乗ってくかな」

 拒否する理由もなかった。夏音は後部座席の奥に放り込まれると、程なくして意識を失った。


★      ★


「What`s the fuck……?」

 見慣れた自室で目覚めた夏音が第一に思ったのが、「何じゃコリャ?」である。
 自分は何故ここにいるのだろう。混濁した記憶はいくら探ろうと思っても、混乱しか生まれない。
 大抵、朝起きた時というのは、昨夜は何時くらいに寝て、寝る前には何をしていたのか把握しているものである。
 しかし、いくら整理しようとしても思いつかない。ただ、ハッキリしているのは自分がいつも通りに寝て、目覚めたのではないということだ

「気持ちわる……」

 混乱する頭はズキズキと痛み、胸や胃の辺りが気持ち悪い。肌はべたべたとしているし、髪の毛が煙草臭くて不快なこと極まりない。
 ベッドの脇にあるデジタル時計は平日ならとっくに遅刻している時間を示している。幸い、日曜日らしいので、安心した。
 再び寝る気分にもなれず、夏音は部屋を出てリビングに降りた。

「………誰?」

 夏音は自宅のリビングのソファでいびきをかきながら気持ちよさげに寝ている人物の前で首を傾げた。


「いちおーお前に了解もらったんだぜ?」

 トーストを頬張りながら、低いテンションで彼は言った。

「ごめん……だって昨日の記憶ほとんどなくて」

 夏音はあまりにも申し訳なくなり、肩を縮めて謝った。この時になると、うっすらと思い出してくる昨夜の記憶。
 あまり思い出したくなかったが、この男に死ぬほど世話になったことだけは覚えている。
 タクシーに乗せられた夏音は、車内でもやってしまったらしい。何を、とは言われなかった。
 走行中のタクシーの窓から後ろに流れていくソレを見たのは初めてだとRenは笑った。

「そうだよー。Ren様のおかげで無事に生還できたんだからな」

 だから、他人の家で朝食を無遠慮に食べていても文句あるまいとでも言わんばかりに、彼は三枚目のトーストに手を伸ばした。

「あ、コーヒーおかわりいる?」
「お、サンキュー……じゃなかった。セェンキュゥー」

 発音を直しても余計にひどくなっただけだ。夏音は彼の変な茶目っ気にくすりと笑った。
 正直、夏音はこのRenという男のプロフィール以外の詳しい素性をよく知らない。正確には、昨日までは知っていたのかもしれないが、覚えていないのだ。
 おまけに初対面にも関わらず、これだけ迷惑をかけたのだから、不思議と気を遣ってしまうのだ。

「つーかこんな広い家に一人暮らし? やっぱ稼いでる奴らはすごいねー」
「いや、両親と住んでるよ。二人は仕事で家を空けてるだけ」
「ふーん」

 あまり興味なさそうな返事だ。会話が途絶え、夏音もカリカリに焼いたトーストの端をかじる。何か胃に入れたら戻してしまいそうだが、何か食っておいた方がいいとRenに忠告されたので、それに従っている。
 食事に夢中のRenはこちらを見向きもしないが、夏音はそっと彼の様子を窺っていた。
 昨夜、自分はこの人とどんな話をしただろうか。何か真剣な話をした気がするが、記憶の湖の底に沈んでしまっているようだ。

「昨日のこと、あんまり覚えてない」

 溜め込んでいるのは性に合わない。夏音は正直に、彼に打ち明けることを選んだ。

「あ? ああ、そんなもんだろ。俺もよく合ったなー。朝起きたら知らないベッドの上でよ。さらに右隣にはマッパの女、左隣には胸毛ぼーぼーのオッサンっつーミラクルなこともあったよ」
「そ、そうなの」

 流石に自分はそんな事態になっていなくてよかったと心から思う夏音であった。

「まー、お前は悪くないさ。悪いとかの前に、俺らがよくないことさせたんだから気にすんな。むしろ、謝るのはこっちだな」
「え、何で?」
「何でってオマエ……未成年連れ出してこんなにさせたら話になんねーだろ。よくわかんねーけど、アメリカだったら普通に訴訟とかなってそうじゃね?」
「ありえなくはないけど……でも、」
「デモも革命もねーんだよ。俺らダメな大人がすべて悪いの。すまんかったな」

 Renは真面目な表情をつくると、夏音に向かって頭を下げてきた。

「だが、まあ……ちょっと釈明させてもらうとよ。みんなオッサン達だからさ。ああいうノリしかできないんだわ。自分達が通ってきたやり方でいいって思ってるし、こういう業界だからさ。当たり前みたいな風潮だからさ」
「あの、どういう意味かよくわかんないよ?」
「あー、そうだよなー。向こうとこっちじゃかなり業界の雰囲気も違うだろうしなあ……何て言うか難しいんだが、こっちじゃ付き合いってのが結構重要なんだよ。オマエもその辺はわかってると思うから、ああやって参加したんだろうけどさ。何ていうのかな……体育会系? ってコレは昨日も説明したか……要するに、ああいうノリは諦めるしかないんだわな」
「言ってることがよく分かんないけど、何となく分かったよ」
「ほんとかー? 俺も自分で意味わかんないって思ってんのに」
「要するに、俺は悪くないってこと?」
「いや……そうなんだけどよ。ざっくりまとめたなあ」

 そう言って笑うRenに夏音もつられて笑った。

 後から話を聞くと、Renの本名は「蓮沼涼太」と言うらしい。名字に使われている蓮という漢字は、蓮とも読めるらしく、ミュージシャンとして活動していく上での名前にしたらしい。
 彼は小一時間ほど夏音の家で過ごし、「嫁さんが怒るからそろそろ帰るわ」と出て行った。朝帰りした時点で怒られるのではないかと思う。
夏音は、彼を玄関先まで見送ってから、ふと溜め息をついた。

「疲れたな」

 玄関の鍵を閉め、シャワーを浴びようと考えた。もたつく足をひきずるが、その足は浴室へは向かわない。
 先程までRenが使っていたソファに倒れ込むと、そのまま沈み込む体を起こす気力は湧いてこなかった。

「つかれた」



★     ★


「立花くんは体調不良でお休みです」

 朝のHRで担任が告げる事務的な報告に所々から心配の声があがる。それを聞いて、七海は心配するより「いつの間にかこんなに愛されてるんだなー」と暢気に考えた。
 友達甲斐のない奴だと思われるかもしれないが、心配していない訳ではない。
 しかし、もとより繊細な外見をしている彼のことだ。ちょっとしたことで体調を崩しても納得してしまいそうになる。
 心配するクラスメート達とは違い、七海は夏音がその見た目とは裏腹に強靱な精神の持ち主で、その辺の日本人より遙かにバイタリティに富んだ人間であることを知っている。
 そんな彼も二年生に進級してから休む機会が多くなった。彼の両親は家を空けることが多く、ほぼ一人暮らしのようなものである。
 栄養のバランスなども、七海のように実家暮らしの人間のようにはいかないのかもしれない。
自分のことを全て自分でやっているのだと考えると見上げたものである。
 だが、七海は夏音が休む理由に思い当たるものがあった。一年生の終盤に、立花夏音という人間のことを詳しく知るきっかけがあった。
 軽音部のいざこざに巻き込まれたついでに明かされたような事実だったが、七海にとって衝撃的なものであったことは確かだ。
 実際に深く知ろうと思わなかったので、プロのミュージシャンの生態など知る由もなかったが、最近はちょこちょこと仕事をやっていると本人から聞いた話で、それがどれほど過酷なものか知ってしまった。
 過酷さで言えば、七海が所属する生徒会も相当厳しい環境であるが。それと一緒にするのは失礼かもしれない。
 お金を貰う仕事。確定申告という単語になじみ深い高校生など周りにいない。
 HRが終わると、七海は彼にメールを打った。彼が本当に体調が悪いのかは定かではないが、体調を気遣う文面を作った。
 七海の隣の席は空席のまま、一日が過ぎる。彼がいるといないのとでは、やはり学校の一日が違う。
 彼が休むたびに、そんなことに気付かされる。教室の空気の中に彼がいるだけで、違うのだ。
 上手く言葉にすることはできないが、七海は彼のそういった面を認めている。存在感、という言葉が正しいのかもしれない。
 七海は好きではない単語だが。
 心の奥で納得してしまう。
 だから、やはり違う人種なのだと理解してしまう。脳に刻み込まれたみたいに忘れられない差というものを把握してしまったのだ。
 もちろん表面に出すことはない。普段、自分が思考する深さがあるなら、それよりもっと深いところにしまってある。
 考えても詮のないことだから、七海はそうした方がよいと思う自分の判断を正解だと思っている。
 彼は人間だ。自分と同じ、人間。タイプが違っても、同じ人間なのだ。
 見た目がすごくて、音楽の才を持っている。それだけの違いなのだ。
 こうやって割り切ることで、上手くいく。
彼との付き合い方を変えようと思ったこともない。出会った時から、彼は立花夏音であり、カノン・マクレーンではない。
 少なくとも、七海はそう割り切った。
 一日中、彼のことで思い悩むことなんてない。でも、ふとした時に思い出す。やはり、立花夏音という人間はその空間にいるだけで色濃く存在を示すのだと思う。
 そこにあったはずの強烈な色彩がふいに消えたような、そんな違和感を残している。
 繋がっているようで、希薄な関係。
 どちらかというとネガティブ寄りな思考は自分と彼の関係をそんな風に位置づけたがる。面と向かって聞く勇気もないから、どっちつかずだ。
 何と厄介な人間なのだろうか。
 こうして、学校終わりに見舞いと称して彼の自宅に足を向けている自分の行動に七海は改めて驚いていた。やはり、彼は自分に対して「らしくない行動」を誘発するような厄介な人間だ。
 相変わらず豪勢な住まいと前にすると、たじろいでしまう。世の中はこんな家を持てる人間と、そうでない人間に別れている。
 七海は、自分はきっと前者になることはないだろうと思う。
 手ぶらで見舞いと言い張るのは失礼だと考え、ここに来る前に寄ったコンビニで買ったスポーツドリンクとゼリーを引っ提げ、七海は立花家のドアベルを鳴らした。
 少し時間を置いてインターホンが繋がる音がする。インターホンのカメラ越しに覗かれている気配。
 ブツリとインターホンが切れる音がして、すぐにドアが開いた。
 怪訝な表情を浮かべてそこから顔を出した相手に、七海はぎこちない笑顔を浮かべて言った。

「や、やあ」
「やー?」


 実は初めて上がらせたもらった夏音の自宅は、驚くほど生活の匂いがしなかった。七海が遊ぶ同級生の家は、大抵その家の匂いというものがある。
 洗濯物の匂いだったり、線香の香り。よく分からないかび臭さがこの家にはない。地区何年なのだろうか、とか会話のきっかけになりそうな話題が頭に浮かぶが、それを口にすることはなかった。
 今、七海の斜向かいに座る男は七海を快く家に迎え入れたあと思いきや、1リットルのコーラをそのまま二つテーブルの上に置いた。
 アメリカ人、という感想が浮かぶ。あまりにステレオタイプだが、何となく納得してしまう。

「わざわざ、ありがとうね」

 蓋を開けてコーラをぐいっと呷ってから、夏音はにこやかに礼を言った。

「いや、最近なんだか調子悪いみたいだからさ。学校も休むこと多いし、大丈夫かなって」
「うん。なんとか」

 そう言って笑った彼の笑顔はくたびれたような印象である。

「(少し痩せたな……)」

 じっと観察していた七海の感想だった。相変わらず麗しい外見を続けているが、一年以上の付き合いにもなると、こうした些細な変化にも目がいってしまうみたいだ。

「そうかー、なんとかね。あ、今日はノートとか持ってきたんだ。全教科のは無理だったけど、よかったらコレ」

 七海が差し出したのはここ数週間の授業ノートである。あまり綺麗に取れている自信はないが、こうやって彼に気軽にノートを貸せるような間柄の人間は多くないだろう。

「ワオ! ありがとう! 助かるよ」

 七海の心遣いに、彼は心から喜んでくれたようだった。夏音の授業態度は真面目であり、模範生と言ってもいいくらいである。
 授業中に寝ることもなく、欠かさず熱心にノートを取る彼の姿勢は教師陣にも高評価なのは七海も知っていた。
 しかし、改めて彼にノートが必要なのかは分からない。何故なら七海は知っているからだ。
 彼が真面目に取り組んだところで、授業で得られる経験や知識が彼の将来にはほとんど役に立たないことを。
 全てが役に立たないとは思わない。無駄なものなどない、と考えるならば、いつ学んだことがどこで役に立つかなど誰にも分からない。
 しかし、三角関数や二次方程式が彼のキャリアにどれほど影響があるのだろうか。
 益体のないことを考えたらキリがないので、とりあえず七海は彼を見舞う上であつらえ向きなものとして、それを彼に差し出した。
 素直に喜んでくれているようで安心したが、見舞いの品を渡したところで七海がここに長居する理由はなくなってしまった。
 何となく会話が途絶えると、夏音の方から口を開いた。

「あのさ」
「ん?」
「俺、臭くない?」
「はぁ?」

 いきなり問いかけられた内容に素っ頓狂な声で返してしまった。いったい全体どんな会話の切り口だ。

「いや、シャワーも浴びたし色々とケアはしたんだけど、まだ臭いかなって」
「ごめん。何の話か全くみえてこないんだけど」
「い、いや。分からないならそれでいいんだよ。でも、もし気を遣ってるのなら正直に言って欲しい」
「うん。ここ最近なんかおかしいなと思ってたけど、思い違いだったな。このすっとぼけた感じ、まさに君だ」

 自分が何を喋っているのか、その内容を相手に全く理解させようと努力しない部分など、いつもの夏音である。
 七海はたまに彼が宇宙語でも喋っているのではないかと感じる瞬間がある。
 バツが悪そうに薄笑いを浮かべる夏音に、七海は肩の力がどっと抜けてしまった。
 気を張っていた自分に少しだけ馬鹿らしくなった。

「まあ、元気なようでよかったよ。最近、なんだか元気なかったし。じゃ、そろそろ帰るね」
「え、もう帰るの?」
「いやいや。仮にも調子が悪くて休んだんだろ? 長居するわけにはいかないよ」
「調子が悪いのは午前中に治ったんだ」
「都合が良い体調不良だね」

 俗に言う仮病とやらではないかと勘繰ってしまった。七海の胡乱げな視線に動じることなく、夏音は何故か必死そうに七海を引き留めようとした。

「ほら! 俺の積みゲー消化するのとか手伝うとかさ! 友達なら、そういうのやるじゃない?」
「やんねーよ! 積みゲーとか、勝手にやんなよ」
「面白いのもあるよ?」
「僕だって暇じゃないんだからさー」


 しかし、その一時間後にはそのままリビングでゲーム画面をぼうっと見詰めている七海の姿があった。

「あのさ」
「何? あ、飲み物なら勝手に冷蔵庫から持ってきていいよ」
「何で……ギャルゲーやってんの僕たち」
「え、何が何でなのかわかんない」

 大画面に広がる二次元キャラの立ち絵、その下を流れる文章。時折、口を動かすだけのアニメ調のキャラが甘ったるい声を出すのを聞いているうちに、七海は思わず確認してしまった。

「君がオタクなのは百も承知だけど、これはあまりにひどすぎないか?」

 ストーリーはあまりに陳腐なもので、平凡をこよなく愛する冴えない男主人公がどういった訳か学校中の美少女に好意を向けられるというもの。
 次から次へと絶え間なく現れるキャラに七海はげんなりとしてしまった。
 さして特徴のない男子高校生という共通点がある主人公だが、七海はここまで自意識過剰ではない。
 こんなに歯切れの悪いしゃべり方もしないし、うじうじとした奴がどうしてこんなにモテるのだろうか。
 そういった理由も含めて、一切の共感がない上に腹立たしくなってきた。

「あ、もしかして七海はこういうの嫌い?」
「その質問は一時間前にして欲しかったな」

 そもそも、友達の家で控えた方がいい行動ランキングに入っているだろう「ゲームでソロプレイ」を迷うことなく選んだ夏音は変わっている。
 お国柄の違いかと思ったが、本来の性格故なのだろう。
 彼は友達が少ない。

「もう、我慢できなくてさ。これが最後のルートなんだよね」
「そっちの世界の話はいいよ」
「きびしーな」

 やはり彼が何を言っているのか分からない。夏音は素早くセーブをすると、ゲームを止めた。

「あのさー七海は知ってるよね。俺の仕事」
「う、うん」

 まさかゲームを止めた瞬間、核心に迫るような発言が彼から飛び出てくるとは思いもしていなかった。
 七海が本当に知りたかったこと。驚いて固まった七海に構わず、彼が続けた。

「それで聞きたかったんだけど……日本人って何でこんなに面倒くさいんだろう」
「ん?」

 何故かその時、核心から遠のいたような気がした。

「俺が上だぜー、みたいな人多いよね。年齢とか、キャリアとかさ。向こうにもそういう人いっぱいいたけど、何か性質が違うんだよね。こう……インケンっていうか。日本の夏みたいにじっとりしてるっていうか……」

 しまった、と思った時には遅い。
 七海は基本的に受けの姿勢であり、他人の相談事に最後まで付き合ってしまうタイプである。
 つまり、唐突に始まった夏音の愚痴を正味二時間ほど聞かされるハメになったのであった。


★      ★


「あー、なんか色々喋ったら少しすっきり」
「そりゃーよかったよ……」

 溌剌としている夏音とは反対に、七海はげっそりしていた。色々と刺激の強い話ばかりであった。
 学生の身分では体験できないようなことばかりで、仮にも彼が大人に混じって仕事をしているのだということが垣間見えたような気がする。
 しかし、全てを聞き終えた七海はやはり相談事を受けた身として、言っておかねばならなかった。

「そんなに辛いんなら、やめてもいいんじゃない?」
「……え?」
「だからさ。日本での仕事。いい加減なこと言うつもりはないけど、君の話聞いてる限りじゃ全然楽しそうじゃないよ」
「…………」
「僕の知らない世界だし、頓珍漢なこと言うかもしれないけど、いい?」
「あ、はい」

 口を開いたまま、絶句していた夏音は姿勢を正す。それを見て、七海は頷くと怒濤のごとく口を動かした。

「僕も君のことちょっとは勉強したよ。どんな風に活動していたのかとか、君がやめた後のこととか君の口から聞いたし、そういう事情とか勝手に頭の中でくっつけてどんな状態なのかとか想像してみたりもした」

 彼の音楽に対するスタンスや、取り巻いていた環境。どんな理由で日本に来たのか、日本に来てからどう生きていたのか。
 後半は夏音自身に教えてもらった情報で、それはそれで七海にとって衝撃的なものであったが、とうに受け止めていたことである

「最近、君がこっちでの仕事に熱を入れているって知ってさ。何かが君の中で変わったんだって思ったよ。けど、それはきっと良いことなんだって勝手に思ってた。音楽をやってるのが楽しいんだなって。
けど、そうじゃなかったのかな? 君の話聞いてると、まるで、ちっとも音楽をやってるんだって言うような話じゃないもの」

 七海はズバズバ言う。顔に似合わずに辛口だと評価されたこともあるくらい、七海は遠慮が無い。
 人畜無害で都合の良い人間で、こいつは文句も言わずに愚痴を聞いてくれるだけの相手とタカをくくって相談する人間は、大抵の場合は彼の言葉に頭をうなだれるハメになる。
 黙って七海の言葉に耳を傾けていた夏音は小さく肩を震わせた。

「そ、そんなこと言ったって。音楽は楽しいことばかりじゃ、ないんだよ」
「君の口からそんな台詞が出てくるとは思わなかった。君は軽音部では、必ずこう言うそうじゃないか。『楽しもう』って。君は、音楽が楽しいんじゃないの? プロってプロだから、お金貰ってるから楽しいことばかりじゃないんだろうけど。そんな社会に出て疲れたリーマンみたいなこと言っちゃうような音楽ってやつに君は何を賭けてる?」
「何って……」

 言葉が続かない。何か反論したくて、その言葉を必死に探す彼の気配は手に取るように分かった。
 七海はいったん落ち着くと、声のトーンを変えて続けた。

「偉そうなこと言ってるのは分かってるよ。でも思ったんだけど、君にとって音楽ってただの仕事なの?」

 音楽家、ミュージシャン、バンドマン。彼らがお金を貰えば、仕事として分類されるはずだ。
 けれど、それは社会的に記号として分類せざるを得ない訳であって。
 それを行う本人たちの心意気は別のものだと信じたい。
 稼ぐためにミュージシャンをやっている者もいるだろう。もちろん仕事と割り切る人もいるだろう。
 けれど、七海は夏音にはそんなスタンスで音楽をやっていると言われたくなかった。
 あんなにステージの上で生きる人間を、七海は知らない。
 軽音部にいても、彼女達の音と調和していても、どうしても浮き立つ存在が、金を喰ってあの場所で呼吸しているのだと信じることはできない。
 語っていく内に、不思議と熱くなっている自分に気が付いた。
 冷静に喋っているはずが、抑えきれない想いが湧いてきてしまった。
 ふと、自分はこんなに熱血だっただろうかと振り返ったところで、目の前で自分の説教を受けていた人物が床に崩れ落ちていることに気が付いた。

「って、ええ!?」

 どうやら、七海の言葉は夏音をノックアウトしてしまったようだ。これには七海の方が慌ててしまった。

「ご、ごめん言い過ぎた! 僕なんかに言われる筋合いないよね! ほんと偉そうにごめん!」

 かがみこんで両手を合わせた七海に夏音はゆっくり首を振った。

「いや、あまりに正論なもので……七海にこんなこと言われると思ってなかった」
「……ごめん」
「謝らないで」

 短く言い切った夏音は俯いた顔を上げぬまま、口を動かした。

「それはさ、図星ってやつだよ。ほんと痛いところに突き刺さったよ……はは、そういえば七海って顔に似合わないでズバズバ言う人だもんね」

 抑揚のない声に七海は胸が締め付けられた。こんなに弱った彼を見ていることが辛い。でも、それ以上に彼の心が傷ついていることが分かってしまったから、尚更どうしようもない想いにかられた。
 七海にできるのは、せいぜい傍から見た事実を客観的に述べるくらいである。そこから先、彼にどうするべきだと教えることもできない。
 自分が指摘したことが彼の脆い部分に無遠慮に触れてしまったことに今さらながら気付かされた。

「ありがとう」

 彼の内省など、七海は知ることもできない。そのありがとうは何に対して言ったものなのか、本当のことは分からない。
 たった今、夏音の中を複雑怪奇にめぐった思考とか、そういう物の内訳を語ることもないまま、ただ口に出したその言葉は、七海にはハッキリと引かれた線に見えたのだ。

「うん、こっちこそ……なんか……」

 そこから先。ごめんなのか、ありがとう、なのか。
 どちらの言葉を返せばよいのか分からずに、七海の言葉はどこかに消えてしまった。


 夏音の家からの帰り道、七海は言いしれぬ敗北感を背負って歩いていた。
 自分という存在のあまりの無力さ加減にどこかへと逃げ出したくなった。自分が最適な答えを出してあげられる人間だったならば、と思う。
 きっともう少し年を食って、色んな経験をしてだいぶ大人になった自分であったならば、もう少しましな結果に辿り着いたのかもしれない。
 あまりに、ままならなすぎて。七海はきつく歯を食いしばった。そうしていないとこみあげるものがあった。
 結局、七海がしたことは夏音を見舞うついでに、彼を深く傷つけることだった。
 自己嫌悪を超え、自分に不足しているものを思い知らされたみたいで、どこか深い穴にでも埋まっていたくなった。
 実際に七海一人が埋まっていられるほどの大穴なんかどこにもなく、帰り着いた自宅のベッドの中に埋もれることしかできなかった。
 夕飯に呼ぶ母の声も、明日までに終わらせる必要のある宿題たちも、全てがどうでもよく、お腹にくるこの重みから逃げ出したかった。



※意外に難産でした。
 アルカディア、大変な状態でしたね。
 にじファン、潰れるとは思っていたけど、案の定でしたね。
 管理人の舞様に、感謝を。

 けいおんのブルーレイが届きましたが、まだ開けられていません。仕事がお盆前に忙しくなるので、もうちょっとの辛抱。



[26404] 第十九話『ユーガッタメール』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/08/13 23:47


 照りつけてくる日射しに肌が焼ける。夏音の白い肌は紫外線に負けやすく、すぐに赤くなってしまうから、アルヴィには常日頃からUVケアを厳命されている。
 そんな母親の言いつけのことなど頭になく、晒された肌がひりひりしてくる。
 夏音はただ道を彷徨っていた。
 髪を揺らす風すらなく、厚く盛り上がった雲はいつまでもそこから動こうとしない。どこを目指すわけでもなく坂道を上っていると、耐えきれなくなった。

「ハァ……何やってんだろ」

 薄汚れたガードレールの上に腰を下ろして、乱れた呼吸を整える。汗まみれになった体にTシャツが張りついて、気持ち悪い。
 学校は今日も休んでしまった。まだ進級の心配をする段階ではないはずだが、それすらも夏音にとってはどうでもよくなっていた。
 卒業に意味を見出すのは、とっくのとうにやめた。自分の履歴書に載せることのできる資格の重みなど、夏音にとっては価値の薄いものでしかないのだ。
 坂の途中で休むうちに、また深い思考に捕らわれてしまう。
 自分という人間が、今までどれほど考え無しに生きてきたのか思い知らされた。きっかけは七海の言葉でも、彼の言葉によって引き出されたのは自分がうっすらと気付いていた事実だった。
 表側に出さないようにしていた感情を掬い出されてしまっただけで、七海に責はない。
 自分が傷ついたように、同じだけ、もしくは自分以上に傷ついただろう七海の顔が忘れられない。
 地味だが、あんなに他人に対して懐が広い人間は珍しい。桜高で送る学校生活で彼に助けられた場面は数え切れない。
 本人はそのことの重大性を欠片も認識していないが。
 日本で出会った良心、と七海を捉えていた夏音だったが、甘えすぎたようだ。痛いしっぺ返しをくらってしまい、こんな体たらくに陥ってしまっている。

「今度こそ呆れられちゃったかな」

 自嘲気味な笑みを浮かべるも、すぐにそれは引っ込む。数少ない友人は、夏音以上に夏音を見ていたのだ。
 彼の言葉はほとんど正しくて、それだけに痛かった。
 正解のフリップを一気に剥がしてしまわれたような、彼の才能なのだろう。周りをよく見ている眼は、正解を探す能力に長けている。
 そんな人間が側にいることが夏音にとってありがたかった。
 だから、彼に対して伝えた「ありがとう」の言葉は心から出たものだった。あのタイミングで不思議と出てきた理由は分からない。
 余計に彼を落ち込ませてしまったかもしれないけど、それは意地悪から出たものでもなく、また伝えねばならないと考えている。
 それがいつになるかは分からないが。

「帰ろうかな」

 独りごちて、立ち上がる。帰り道は分からないが、元来た道を歩いて行けばなんとかなるだろう。
 しばらく歩いていると、後ろから来た黒のセダンが夏音を少し通りすぎたところで停車した。すると、車から降りてきた人物が夏音に近づいてくるではないか。

「おい立花。こんな所で何やってるんだ?」
「あれ堀米先生?」

 堀米はやや非難がましい目つきで夏音を見詰めてきた。桜高で古文を受け持つ教師であり、桜高の中でも古株といっていい存在である。

「今日はお休みです」
「お休みです、じゃないだろーが」
「体調不良なんです」
「そうは見えんがな」
「薬買いにきたんです」

 すらすらと言い訳が出てくる自分に驚いたが、それなりに教師経験の長い人物は易々と騙されてくれなかった。

「あのなあ。お前みたいのはごまんと見てきた俺にそれが通用すると思うかあ? 体調不良ってのはな、俺がさっきまで助手席に乗せてた人間みたいのを言うんだ」

 馬鹿にするような口調で夏音にぐいと顔を近づけてきた。こういった距離感が不人気な人物だが、夏音は怯まなかった。

「体調不良ったら体調不良です。顔、真っ白でしょ。あと人生に迷ってます」

 目に力を込めて言い返すと深い溜め息をつかれた。

「これだから軽音部は……」

 その台詞の九割以上は自分達の責任じゃないと思った夏音であったが、聞かないフリをした。
 さわ子いわく、堀米はヅラだとか口うるさいから注意とか悪い噂ばかり聞かされていたが、夏音から見ればそこまで悪い人間だとは思えない。

「もういい、わかった。とりあえず家まで送るから乗りなさい」

 夏音の言葉を鵜呑みにした訳ではないだろう。どうやら諦めたらしく、こうして面倒を見てくれるあたり良い教師の鑑といっていいはずだ。
 それから夏音は自宅まで送ってもらい、礼を言って車から降りた。

「ねえ先生」

 運転席側に回った夏音は、ふと堀米に尋ねてみた。

「先生は俺のこと誰に見える?」
「はぁ?」

 突然の質問に堀米は思いきり眉を顰めて怪訝な顔をした。こうした質問を受け流す大人もいるが、堀米はいちいち真面目に捉える人間らしい。

「誰って……立花夏音だろう? お前はそういう質問をするが、自分が誰だか分からないのか?」
「ちょっとね。そのへん迷ってるんです」
「なら、それは他人に決めさせちゃいかんだろう」
「……そうですね。それもそうです」
「まあ頼りないかもしれんが、何か悩んでいるなら山中先生に相談してみろ。俺でも構わんが、一応顧問だからな」
「そうしてみます。送ってくれてありがとうございました」
「おお。ちゃんと安静にしてろよ。あと、お前はサボろうとしてもいやでも目立つんだからな。警察になんか補導されてみろ? ヤキ入れるぞ」
「はいはい。了解です」
「じゃあな。お大事に」

 そのまま発進した黒いセダンを見送り、夏音は家に入った。そして、一日以上ベースを弾いていないことに気付いてスタジオに向かった。


★     ★


「浮かばないよ~浮かばないよ~」
「おいおい。今週も明後日で終わりだぞ大丈夫かー?」

 頭を抱えて机に突っ伏した唯に苦笑する律がぽんと肩に手を置く。

「ムギちゃんヘルプー!」
「残念でしたー! ムギヘルプモーツッカエーマセーン!」

 律が両手でバッテンを作っておかしげに笑う。虚しく伸ばされた手が自分へと向かっていることに申し訳なさそうにするムギ。律の言う通り、そういう風に決めたルールであった。

「りっちゃんなんて作曲すらしないじゃん!」
「私はドラムつけるのが仕事だもーん!」
「ずるい! 不公平だよ! あずにゃんも何か言ってやってよ!」

 そして、混ざりたくないはずの会話に強制的に引きずり込まれた梓は眉を下げて困り果てた。

「えっと……」

 律の方をちらりと窺うと、じっと見詰め返してくる瞳があった。しかも、それは何か期待する眼。
 度々、このように面白さを求めてくる空気に梓は弱い。

「そ、そんなことより!」
「そんなことだってりっちゃん! あずにゃん冷たい」
「まあこの子ったら素っ気ないわね!」

 そうは言うが、自分は面白いことなど言えないし、求められても困るのだ。
 梓はすかさず澪に助けを求めた。

「澪先輩は何かアイディアありますか?」
「うーん。私も自分から曲を作るのは苦手だからなあ」

 そう言って腕を組む澪だったが、梓は彼女が作るベースラインが好きだ。基本的に前に出すぎず、曲を支えるベースを好む澪だが、時に攻めることもあり、そうしたギャップも好みにどんぴしゃりとはまる。

「でも、この目論みって開始二週間で見事に詰まってるな」
「面白い発想だと思ったんですけど」

 一週間に一度、曲を作って持ってくるという企画。一人ずつ交替でローテーションを決め、曲を持ってくるというアイディアは、発案当時はよさげに思えたのだ。
 既存曲を練習するのも大事だが、新曲を作ってなんぼという見解で一致したことで、こうして週一ノルマが決められたのである。

「先週はムギ先輩だったからすんなりといきましたけど、今週は……」
「あずにゃん? それはどういう意味かな?」

 にっこり微笑む唯に梓は慌てて澪に視線を戻した。

「こ、今週は今までの曲を練習するってことでいいのではないでしょうか!?」
「それでもいいんだけどな」

 梓の案も間違いではない。新曲に費やす時間も大切だが、既存曲を詰めることも等しく大切だ。

「じゃあ新曲は追々やるとして。次のライブのセトリ中心にやるとしますか」

 律が立ち上がると練習に向かう空気になった。梓も嬉々としてアンプに電源を入れ、準備に取りかかる。
 最近の軽音部はお茶の時間もそこそこに練習をする日が増え、梓としても充実した軽音部ライフが送れて大変ご満悦であった。
 しかし、姿勢が変わったことは喜ばしいのに、足りないものがある。

「先輩は明日こそ来てくれるんでしょうか」

 チューニングをしながら梓が発した言葉にすかさず答える者はいなかった。しばらく微妙な沈黙が流れると、澪が素っ気なく言った。

「さあな。それは私達には分からないよ。スケジュール知らないし」
「そんなにお仕事いっぱいなんですかね」
「そうみたいだな」

 何だかこの話題を避けているような気がしてならなかった。澪だけではない。淡々とセッティングを進める他の者さえ、どこか気まずい表情を浮かべているように見える。
 梓の中では、夏音が音楽の仕事に時間を取られてしまうのはごく自然なことのように思われている。
 むしろ、日本国内でも引く手数多なのだと驚嘆すべき事柄でしかない。
 やはりどうあっても、夏音という存在は梓の中では芸能人のような位置から離れることはない。
 部活動の先輩であり、いち個人として見ることのできる部分と、どこか遠い世界の人として存在する部分が半々であるので、一年の時間を共にしてきた先輩達と同じ考えには至れていないのだろう。
 彼女達の代には、色々と突っ込めないことがある。後輩という立場もあるが、やはり過ごしてきた時間が違うのは大きい。
 溝、というほどではない。しかし、共有している物の差というのは歴然と間に聳えているのだ。

「何から始めますか?」
「あずにゃんは何やりたい?」
「そうですね。最初は手慣らしにゆったりなのがいいのですね」
「あ、なら『Autumn Shower』やる?」
「あ、それいいね!」

 前回のライブで披露した夏音の曲。梓が口にした「ゆったり」としたテンポである。
 そして五人で合わせて曲が終わると、誰もが浮かない表情であった。

「なんか……ダメダメじゃない?」

 正直な感想が唯の口から漏れると、全員がそれに頷く。

「何がダメだったんだろ?」

 律が首を傾げる。

「ちょっと間延びしすぎてたかも?」

 ムギが言うと、澪がバツの悪そうに顔をしかめた。

「ごめん。ちょっと違ったかも」

 澪が申し訳なさそうにする理由は、軽音部の曲のノリはベースである澪が握っているからだ。
 澪が曲のノリ、タイム感といったものを示す指針になって曲を進めていくのが軽音部の音楽であり、各々が微妙なタメを持っていても中心となるのは彼女である。
 それに対してドラムの律が合わせるのであり、梓の聴いた限りでは、律は澪にしっかり合わせていたように思えた。

「やっぱりこの曲ってすごく難しいですね」

 梓は改めて感じた。雰囲気重視の楽曲なだけに、各々の技量が存分に発揮できなければならない。
 指が速く動くとか、気の利いたオカズがどうこうという話ではない。

「よくあの時できたもんだ」
「ねー」

 律の言う通り、よくこんな曲を人前でやろうと思ったものだ。この曲をやると決めた時は何とかなる精神で押し切れたが、こうして振り返ると無茶としか言いようがない。
 夏音は高評価をくれたが、改めて真に受けない方がよかったのかもしれない。

「この曲作ったのって確かあいつが十歳にもなってない時なんだっけ? どんな子供だーって感じだよなー」
「早熟の天才っていう評価もあながち間違いじゃないよな」

 本人がいないだけに素直な賛辞がぽんぽんと出る。梓にとっては、既に色々と規格外な人間としか思えないので、彼が何歳で何を成し遂げていようと今さらな話だ。

「まあ手慣らしだし、もうやらないかもしれない曲だしな。他の曲やろーぜ」

 律が仕切り直して他の曲をやっているうちに調子が出てきた。リズム隊の絡みもキレており、唯の声もだいぶ伸びてきた。

「なんか……なんだろ」

 一時間ほどぶっ続けでやった後、唯がぶつぶつと言い始めた。周りが耳を傾けると、唯は勢いよく顔を上げて言い放った。

「お腹空いた」



★        ★


 練習はいつも通りに終わった。日が長くなって、十九時になってもまだ辺りは明るい。夏は特に夕方を過ぎたあたりからもわっとした熱気が襲ってくるが、こうした点だけ好ましい。
 やはり夜は寂しいから、日は長い方がいい。
 学校を出てみると、外は少しだけ湿気が低くて比較的過ごしやすい夜になりそうだ。朝方降った雨のせいだろうか。
 日中の湿気は気になったが、照りつける太陽が珍しくまともな仕事をして空気をカラカラにしてくれたのだろうか。
 楽器を背負っての登下校というのは厳しいものだ。ギグケースにはギター本体だけではなく、シールドやら小物が詰まっているし、それに加えてぎっしりとエフェクターが詰まったペダルボードに教科書その他もろもろが入った鞄。
 全部を持って移動することなど、力のない自分には無理だと梓は早々にギブアップを済ませていた。
 梓は生来の真面目な性分のせいか、置き勉という所行を忌避して中学まで過ごしてきた。
 体育があると、必ず汚れたシャツやジャージを持ち帰り、その日の復習や明日の予習のための教科書類は欠かすことなく鞄に詰め込むのだ。
 しかし、高校にもなると教科書や資料集等の数も増え、このまま全てを持ち帰ると筋肉のための強化書類になってしまう。
 冗談ではない。運動部でもないのに筋肉痛をこさえて登下校などたまったものではない。
 置き勉の誘惑を払いきれなかったのは、軽音部にも責任がある。
 部長の律を筆頭に、何と全員が置き勉常習者だと知った時はカルチャーショックだった。真面目な澪やムギ、夏音までもが当たり前のように部室へと教科書を置いていっていた。
 これがロックの道なのか、と疑ったが、しばらくしてこれが当然の帰結なのだと知った。
 身軽になったとはいえ、機材だけでも辛いものは辛いので、カートを買うことを真剣に検討している。

「あずにゃ~ん。荷物持ちジャンケンは~じま~るよ~」
「ええっ!? そんなのいやです!」

 唯が勝手に喚きだした言葉に悪寒が走った。通学路での鞄持ちジャンケンと言えば、男子がよくやっているのを見たことがあったが、あんな可愛いものではないだろう。
 総重量で自分の体重を超えるだけの荷物を前にして、それは拷問といってよかった。

「先輩のギターは特に重いんですから無理です!」
「ね~? も~ダイエットさせよっかな~」

 また、とんでもないことを口走った唯に戦々恐々としながら、梓は唯から少しだけ距離を空けた。
 早歩きで澪の横まで歩くと、「ん、どうしたんだ?」と澪が訊ねてきた。
 こういう気の配り方など、心がじんとしてしまう。やはり通学の最中は澪の隣に限ると梓は思った。

「いえ。唯先輩が荷物持ちジャンケンなんて言い始めたので逃げてきちゃいました」
「どう考えても無理だろ。まあ放っておけばいいよ」

 彼女は唯に対しての経験は長い。経験故の言葉は信用に足りるので、梓は大人しく頷いておいた。

「思えば、私達の機材ってどんどん増えていきましたよね」
「そうだなー。全部自分のじゃないってのがちょっといたいけどな」

 澪の返した言葉に梓は押し黙ってしまう。
 全部が自分達のものじゃない。
 その通りだ。
 梓のペダルボードの中身は高校生が易々と揃えられるものではない。全て、立花夏音の物だ。
 名目上、レンタルというものである。
 唯も、澪も同じように何らかの機材を夏音から借り受けている。全てが高価なものという訳ではない。
 必要に応じて、選ばれたものであるが、本来であれば梓一人で作れるセッティングではない。
 それを考えると、今自分が出している音は誰の音なのだろうかと考えてしまう。自分の音の根っこの部分は、どれ程その中で存在を示しているのだろうか。
 些細な問題なのかもしれない。
 後ろで騒いでいる唯などはこんな悩みに捕らわれていないだろう。彼女はアンプ直の音を愛している傾向があるし、仕方なくエフェクトを噛ませているように思えた。
 それはそれで、本当に唯が出したい音なのか疑問が残るが。
 でも、もしも急に夏音が「全部かえして」と言ってきたとして、彼女は何も困らないだろう。
 夏音がそんなことを突然言ってくるとは夢にも思えないが。
 梓は澪の何気ない返事に深く考えこみそうになり、はっと我に返った。

「どうした梓?」
「い、いえ何でも」
「お人好しっていうのかな」
「え?」
「夏音のこと。考え無しなのか、大らかすぎるのか」

 澪は視線をこちらに寄越さず、前だけ向いている。その瞳はどこか遠いものを見詰めているように見えた。

「こんなに機材をほいほいと貸しちゃう奴っていないよな。財力の違いってのもあるかもしれないけどさ。けれど、あいつはそういうの抜きにして純粋に音を追い求めることが第一なんだよな。私が出したい音や、あいつが欲しい音が手に入らないだけで我慢できないんだよ」
「そうなのでしょうか。やっぱりプロだから、音には貪欲ってことですか?」
「そんな風に言葉にして言い切ってしまうのとはちょっと違う気もするな。なんていうか、梓にも分かると思う。もう少し付き合いが長くなれば」

 音に貪欲という話に間違いはないと思うのだが。梓は澪の話す内容に頭をひねった。
 必要だから、高い機材がプロには必要になる。
 エフェクターを揃えれば、良い音になると考えるではない。揃えることに意味があるのではない。
 素人との大きな違いはそこにあるだろう。
 梓も大量のエフェクターを使いこなせているとは思っていないが、全て必要なものだけ詰め込んでいるつもりだ。
 それぞれの特徴を理解して、どのような音を出すかを計算して実践する。
 彼にとっては、どれとどれを揃えればどんな音になるか計算ができていたのかもしれない。数多ある機材の山から選んだのは梓だが、それらをアシストしたのは夏音だ。
 思い出すと、夏音の助言に従って今のセッティングになった気がする。
 澪が話しているのは、そういうことなのだろうか。
 夏音が思い浮かべた音を、自分が出している。いや、出させられているような。

「梓。あんまり深く考えちゃだめだぞ。梓が持ってるそのケースは、梓に必要な重さなの。ずっしりと重くて持ち運びが大変だけど、大切なものだからな」
「……はい」

 何て返せばよいのか上手い言葉が出てこなくて、ただの返事になってしまったが、梓は今度こそ澪が何を言いたいのか理解できた気がした。
 一瞬、自分でも何を考えかけたのか分からない。あまり考えちゃいけない方向に思考が逸れてしまったようだ。

「でも、落としたりしないように必死です。これ全部なんて弁償すること考えたら……」

 頭の中でそろばんが弾ける。円マークの後ろに並ぶ総額がぱっと思い浮かべられて、顔が青ざめてしまった。

「うん、わかる」

 澪は目を細めて笑うと、梓に顔を向けた。

「私もそればっかりは恐ろしくてたまんないよ」
「今度、カートを買おうかなって思うんです」
「ああ、それいいな! 落とす心配もないし、だいぶ楽になるぞ」

 こうしてその日の帰り道は澪との音楽談義でも充実して、意気揚々と帰宅した梓であった。
 梓は家に帰ると機材を二階の部屋まで運び、まずはギターを取り出す。取り出されたギターはギタースタンドに置かれる。
 こうしておかないと、いざ安らいでしまってから、いちいちケースから取り出すのが億劫になってしまうからだ。
 汗をびっしょりとかいたので、帰宅早々にシャワーを浴びることにした。今日はたっぷりと時間をかけて湯船にまで浸かり、その日の疲れを流した。
 風呂を出ても、長い髪がすぐに乾くことはなく、梓は半分ほどタオルドライと自然乾燥に任せることにしている。
 そうしてぽっかり出来てしまった空き時間はメールのチェックなどに使う。
 だから、寝間着に着替えてソファに横たわったまま新着のメールを確認していたのだが。

「え………?」

 携帯を持つ手が震える。思わず取り落としそうになった。

 携帯の画面には、信じがたい文面が。簡素な文脈は見間違えようもないくらい、簡潔であった。
 自分の目を疑いたいくらい、ハッキリと送信相手が伝えたい情報は伝わった。
 何度見ても、同じ。
 あの人が、

『立花夏音』
『件名:♪こんばんはー♪』
『本文:とても急でごめんなさい。俺、いったんアメリカに帰ることになりました。今は急いでいるから詳しいことは後で連絡します。アーバヨ! かしこ(←これどういう意味?)』

 いなくなる。



※堀米先生、ここで出してしまった。ベテランの先生に昔送ってもらった時、色々と思ったことがありました。
 まず、真っ赤なRX7だし。車の中汚いし。灰皿が容量オーバーだったし。
 教師も人間なんだなあ、と実感。
 まあ、どうでもいい話ですね。



[26404] 第二十話『Cry For......(前)』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/08/26 23:44


「それで、誰かその後の連絡もらった人は?」

 珍しく戯れも一切混じらないトーンで律がもの問うが、誰も首を縦に振れる者はいなかった。
 時刻は深夜といっていい時間帯。ムギをのぞく全員が平沢家に集合していた。
 全員が同時に夏音からのメールを受け取り、連絡を取り合って集まることになったのだ。顔を合わせた時、誰もが混乱を隠せない様子だった。重苦しい雰囲気ではなく、むしろショックのあまり興奮気味だったと言える。
 こんな夜分に家に上がることを唯の良心は快く受け入れてくれた。人数分の夜食まで用意してくれたくらいで、とりあえず腹に物を収めたことで少しだけ落ち着くことができたようだ。

「あの、私ニュース見たんですけど」
「ニュース!?」
「夏音くんの!?」

 梓が切り出した話に飛びつくような反応。梓は「いえ」と首を振って続けた。

「いえ。日本のニュースではあまり大きく報道されてなくて。ジャズ専門のニュースサイトっていうか、そこのデイリーニュースをチェックしてたら私も驚いちゃって……たぶんコレだろうっていうか。それしかないなって確信しました」
「おい、それじゃ何が何だかちっとも分かんないって」

 梓の説明はどこかちぐはぐで、おそらく本人も冷静でいないのだろう。

「すみません。ジャニス・コット・スループというジャズの歌い手が亡くなったんです」

 まだ彼女の説明は要領を得ない物だったが、それでもその場にいる人間はぴんときてしまった。

「スループって……あの?」

 律が確認するような眼差しで梓を見る。梓はこくりと頷いた。

「夏音先輩とは旧知の仲、なんだと思います。詳しいことは知りませんが、何回もセッションしてますし、彼女のアルバムのベースを弾いたこともあります」
「じゃあ、その人が死んだからお葬式ってことか?」
「おそらくは」

 固い表情の梓の答えに沈黙が降りる。そして、その沈黙を破ったのは律の深い安堵の溜め息だった。

「なんだぁ~。びっくりして死ぬかと思ったあー」

 しかし、その様子に目を釣り上げた澪が厳しい口調で彼女を咎めた。

「なんだじゃないだろ。夏音の大切な人が亡くなったんだぞ」
「あ、いや。そういうわけじゃ」

 体を起こして姿勢を正した律がいたたまれなさそうになる。

「今頃、てんやわんやになってるんじゃないか? 荷造りとか、飛行機のチケットも取らないといけないし」

 澪が痛々しげに顔を歪めながら言う。

「確か彼女はメンフィスに在住していたので、夏音先輩も今頃はそちらに向かっていると思います」
「メンフィスってどこ?」

 唯が訊ねると、

「テネシー州にある都市です。忌野清志郎が名誉市民だったり」
「わりとどうでもいい情報の類じゃないか、それ?」
「おい清志郎なめてんの?」
「き、清志郎を馬鹿にしたわけじゃないもん!」

 どうして清志郎でそこまで熱くなるのか理解に苦しみながら、梓は先を続けた。

「夏音先輩が住んでたのはLAですから、今回は帰省って感じにはならないでしょうね」
「ていうか梓さ。どんだけ夏音のこと知ってんの」
「こ、これはいちファンとして! いや、ウィキペディアにも載ってるくらいで!」

 何故か慌てふためいた梓だったが、こほんと咳払いをすると神妙に喋り始めた。

「先輩も色々と大変みたいですし、連絡があるまではあまりしつこくしないようにしませんか?」
「そうだな。そもそも携帯通じるのかもわかんないし」
「落ち着いたら追々かかってくるだろ」

 梓の提案に反対する者はいなかった。現状を知ったことで、先行きの不安が解消された気がしたからだ。

「めっちゃテンパっちゃったな。夜中に唯の家まで押しかけてさ」

 今度こそ脱力しきった律が笑いながら言うと、それに返すように皆の笑顔が取り戻されていった。

「そうだな。長居するのも失礼だから、そろそろお暇しようか」

 澪が立ち上がると、唯が不満そうな顔をした。

「えー? 泊まってかないの?」
「そこまで迷惑かけられないし、明日も学校だろ」
「そんなあ~」

 子供のように駄々をこねる唯に苦笑が漏れる三名だったが、何となく今夜は一人でいたくない気持ちは理解できた。
 不安は全て去ったとは言えない。しかし、深く考えてしまえば余計に不安が押し出てくる。
 唯を諫める言葉を吐きながら、誰もがそれを自分に言い聞かせるようだった。


 各々が帰宅して、唯は一人部屋の中でベッドに寝転がりながら天井を見詰めていた。
 初めて耳にした名前の女性。唯の知らない音楽を歌っていただろうその人は、もうこの世にはいないらしい。
 その女の人がいなくなって、夏音はどう感じたのだろうか。
 きっとすごく悲しんでいるに違いない。
 日本に来て以来、ずっとアメリカに帰っていなかった夏音。久しぶりの帰国がこんなきっかけというのが不憫すぎた。
 夏音の心境を予測することしかできない自分は、彼と連絡を取ることもできずにこの小さな部屋にいる。
 唯は、いてもたってもいられないという気持ちを切実に覚えた。もどかしい気持ちは何も行動につなげることはできず、ぶつけられるものもない。
 試しにギターを手に取っても、何のコードを押さえてよいかすら分からなかった。

 もやもやとした気持ちが晴れることはなく、この感情の処理の仕方を唯は知らない。
 顔も知らないミュージシャンを悼む気持ちと、大切な友人がひどく落ち込みすぎていなければいい。
 ただ、そう祈ることしかできなかった。


★     ★

 離陸してしばらくしてから、夏音は飛行機に乗るのがだいぶ久しいことに気が付いた。すぐに両親や向こうにいる知人。他にも多くの関係者に連絡を入れ、急いで荷造りを済ませた。何を持っていけばいいのか、冷静に考える暇もなく、適当に詰め込んだキャリーケースを抱えて家を飛び出した。
 何とか座席を確保してもらい、搭乗口をくぐるまでの記憶は朧気だ。
 周りの乗客がシートベルトを外して席を立ち、機内サービスが始まったあたりにようやく心が落ち着きを取り戻したらしい。
 携帯の電源はオフにしており、今さらながら日本にいる友人達に詳しい報告をするのを忘れていたことを思い出す。
 あまりに突然すぎてびっくりしているだろう。もしかして、自分が日本から出て行ってしまったと考えるかもしれない。
 実際に日本からは出た訳だが。
 アメリカに戻るということに今さらながら驚いてしまう。実はとんでもないことをしているような気がした。
 壮大なドッキリでも仕掛けられているような、何故か騙されているのではないかと疑ってしまう気持ちもどこかにあった。
 何と言っても、あれほどアメリカに帰ることに悩んでいたのに、こうもあっさりと日本を離れてしまったのだ。葬儀が終わり、少し落ち着いてから戻るつもりだが、どこか腑に落ちない。
 これから向かう先がハッキリと認識できているのに、その先を想像できない。
 自分はひとまずシカゴに降り立ち、そこからメンフィス行きのフライトへと乗り換える予定である。
 長旅といっていい旅程だが、一刻も早く目的地に辿り着くことが命題なのだ。
 夏音は仕事柄、葬儀に参加したことは幾度もある。人間は必ず死ぬものだし、関わる人間が多ければ多いほどそういった場に出席する機会も増える。
 そういえば日本にいる間に冠婚葬祭の場に顔を出したことはなかった。それは喜ばしいことのようで、それだけ自分が日本の中で人との関わりをもてなかったということでもある。
 日本ではたまに見かける喪服の集団。風俗もまるで違う土地の葬式をまったく他人事として見送っていたが、たまに街中で見かける彼らは揃って黒い服を着ていた。
 日本のマナーなのかもしれないが、ふと自分に置き換えて考える。

「(喪服は……レンタルでいいか)」

 急ぐあまり礼服の類が頭からすっぽ抜けていた。そもそも、どういった服装で参列すればよいのかも決めていない。
 一般的に黒やダーク系のスーツで出るのが間違いないが、夏音の知り合いの葬式は必ずもそうとは限らない。
 基本的に変わり者の音楽家たちは、やっかいな遺言などを遺していったりする。
 例えば、自分の葬式には全員が赤い服を着てくれというものだったり。
 頼むからあいつだけは参列させてくれるな、というものや。他にも式の細かい部分に対する注文だったり、やれこの曲をかけろだの、その度に付き合う参列者達も大概だったが。

「(さて、ジャン。君はどんな風に送られるんだろうね)」

 夏音の頭の中で彼女が笑う。豪快にまとめあげたドレッドヘアーの下で白い歯を見せ、陽気に「私を埋める時はマイケルのスリラーを爆音かけてもらうわ!」と言う。
 そんな馬鹿な、と呻きそうになったが、彼女のことだから本気で言いそうだ。もしかして、本当にそのまま棺から出てきて踊り出すかもしれない。
 いつの間にか口許が笑みの形を作っていた。彼女を思い出す時はいつも笑い出しそうになってしまう。
 そんな想い出ばかりよぎる。
 すぐ目の前に現実があるのに、やはりどこか夢のような感覚から抜け出すことはできなかった。
 自分は彼女の葬儀に出るためにメンフィスまで何百キロもの距離を移動している。けれど、飛行機から降りた先で、陽気な彼女が自分を笑いながら抱き締めるような気がしてならない。
 頭の芯が麻痺している。
 できれば、この感覚から抜けない方がいい。そう感じた。
 長いフライトになる。夏音は少しでも寝ておこうと、アイマスクをつけて座席を全開に倒した。
 ビジネスクラスの最後部。最高の席に滑り込めたと言えよう。
 耳に挿し込んだままのイヤホンからは彼女の歌声が流れ続けている。自分とやったあの空間が、脳裏に蘇った。
 彼女はよく自分とルーシー・アン・ポークの曲を演奏したり、エルヴィスのモノマネをすることが大好きで、心の底から楽しい音楽の時間を生み出す天才だった。
 夏音も彼女の陽気さにあてられ、ふざけたアレンジなどをして笑い合ったものだ。スループ一族は基本的に陽気な人間しかいないが、とりわけ彼女は親戚一同が集まれば中心にいた気がする。
 一回り以上も年の離れた姉のような存在。彼女が持つ温度はその場にいる者を温め、幸せにしていたのだ。
 もう、彼女はいないらしい。
 これ以上、考えてはならない。そう思った。
 しかし、イヤホンを耳から取ることもできず。遠い昔から響いてくる彼女の歌声と、自分のベースの音が離してくれなかった。

「Jan……」

 嗚咽が漏れる。毛布を頭から被って誰にも顔を見られないようにした。
 夏音は人一倍よく泣く人間であった。しかし、できることならば人前で涙を見せることが恥ずかしいという気持ちは人並みにある。
 けれど「ジャニスの前ではよく泣いていたっけ」と思い返す。それも可愛らしい泣き方ではなかった。泣いた理由は思い出せないが、ぎゃんぎゃん吠えるように泣いていたように思う。
 そんな時、彼女はルイ・アームストロングの「What a wonderful world」を歌ってくれた。その度に、優しく囁くように歌う味わい深い歌声に夏音は安心して眠ってしまっていた。
 耳をぎゅっと押さえつける。
 ただ、もう自分より先に眠ってしまった彼女が恋しくて、胸が痛かった。


 シカゴに着いた時は、日本とはまるで暑さの質が違うと感じた。アメリカの大地を踏みしめ、夏音が第一に抱いた感想がそれだった。
 約二年半ぶりの母国だが、どうも帰ってきたという気にはなれない。周りに日本人の姿が少ないという点では、「ああ、ここは日本ではないな」と感じる程度であった。
 空港というのはある意味どの国においても異国のようなものであって、懐かしさを感じることなどないのだ。
 むしろ、久しぶりのシカゴという印象でしかなかった。いつ来てもこの空港は広すぎて、人も多い。あまり長居したい場所ではない。 
 乗り換えまで時間に余裕があったが、まだ連絡を取る先が山ほどある。それ以前に諸々の面倒臭い手続きやら、国内線のターミナルまでの移動が待ち受けている。
 国を移動することの煩わしさを改めて思い出した夏音であった。

「What!?」

 夏音は思わず叫んだ。しっかりと英語で叫べたあたり、血肉に沁みているのは英語なのだとしみじみ思ってしまった。
 しかし、そんな暢気にしている場合ではない。
 とっとと荷物を受け取って移動をしようとした矢先、預けていた荷物がロストバゲージした。

 少しの間だけ途方に暮れていると、隣にいた親切そうな老婦人が夏音に話しかけてきた。

「どうしたのかしら?」
「ちょっと俺の荷物が迷子になっちゃったみたい」
「あらまあ」

 それから夏音はきょろきょろとあたりを窺った。それからある物を視界に入れると、気の毒そうに目を垂らす老婦人に優しく微笑み、一つの方向を指さした。

「見つかったみたい」

 その指し示す先には、ビニールや緩衝材でぐるぐる巻きになったハードケースがあった。老婦人はそれを確認すると、にっこりと笑い、「Have a nice day」と言い残して去っていった。


「こいつを何故か持ってこないではいられなかったんだよなあ」

 日本を大急ぎで発つ時、何を持って行こうと考えた時に真っ先に思いついたのがこのベースだった。
 まるでそうすることが当たり前かのように、夏音の背に背負われていたベース。持って行かないことが嘘のような気さえした。
 普段、夏音が軽音部で弾くのとは違う。特別な一本だった。

「あぁ、そうだ。アルにも連絡しないと」

 夏音のローディー、ギターテックと呼ばれる人物。また一人、要連絡者の顔を思い出して頭を抱えたくなった。夏音はターミナルを移動したら、真っ先に彼に電話を入れることを心に誓った。

「ご飯も食べてないし、トイレも行きたいし。ああもう! アメリカって何でこんなに広いんだよ」

 久しぶりに自分の育った国の広さを痛感し始めた夏音。独り言にしては声が大きい美形の少年が、いつの間にかその場の注目を浴びていたことに本人は気付かない。

「みんなに会うのも何年ぶりだろう……胃が痛くなってきた」



★      ★


「夏音くん。連絡取れないような場所にいるのかなぁ?」

 部室のソファの上で膝を組んだ唯が気の抜けた声を出した。普段はこのソファを持ち込んだ人物がでん! と寝転がっているが、ここ数日の間に唯が陣取っていた。
 本人曰く、ふかふかで最高だそうだ。持ち主の居ぬ間に乗っ取ろうという魂胆が見え見えだった。

「電波悪いんじゃね? アメリカってなんか電波通じづらそうだし」

 まるで見当外れの答えを出した律に呆れた顔を向けた澪だったが、特に何も口を挟むことはなかった。
 電波に関しては日本が後進国だということは有名である。
 おそらく、やんごとなき理由があるのだと澪は考えていた。理由なく、連絡を途絶えさせたまま放置されるほど自分達と夏音の絆は薄いものではないはずだ。
 余裕ができた時に一通でもメールをくれればいい。そんな心持ちでいることにした澪は、他の者よりは事態を冷静に見ていた。

「ていうか! ここで心配してたってどうにもなんないって。あいつしっかりしてるし、年上だぜ? 何も心配することないだろ」
「でも大事な人がいなくなるってすっごく大変なことだよね。夏音くん泣いてるかも」

 という風に唯に心配されていることを本人が知ったらどう思うだろうか、と若干気の毒になった澪であった。
 余計なお世話だ、と眉を吊り上げるかもしれない。とはいえ、澪としても夏音が泣いている姿は用意に想像できた。
 普段は大人ぶる場面も多いくせに、自分の感情にとことん素直な人間だから、悲しい時に我慢することはない。
 大切な人が死んだら、誰だって泣くに決まっている。
 厳しい言い方だが、澪にとってジャニスという女性歌手は何の思い入れもない人間である。あくまで、澪にとっては。
そこが何とも問題だというのに。
 澪は、夏音の内心を慮ることもしたくない。何となく無粋な気がしたからだ。
 長いとも言えない付き合いの中で、澪は色々と彼のことを学んだ。
 おそらく、今回のことがあっても。日本に帰って来た時、何も表に出さずに自分達と変わらず接しようとするはずだ。
 これだけ周りをかき乱すくせに、何も無かったかのように振る舞う夏音は勝手すぎる。澪はそう非難する心を持て余し、苛立ちさえ覚えている。
 最近の態度も、周りに全く影響を及ぼしていないとでも考えているのだろうか。出会った頃から、その場に混ざるだけで誰かに与える影響を本人が自覚していない。
 彼の態度や行動からうっすらと見える思惑に気付かないはずがない。一年半の付き合い。一年半という数字で表すと非常に微々たるものに見えるが、その濃度までは表せない。
 澪なりに彼を理解してきたつもりであり、彼の行動心理なども朧気ながらも想定できる。
 何故、彼が軽音部で急にヴォーカルをやめたのか。梓が入ったことでリードギターのポジションを譲り、そのための新曲にアコースティックギターをまじえた。
 まるでお茶を濁すような突貫作業。それでも即席で煙に巻かれてしまう彼の力量にだまされてしまっていた。
 ふと気付いてしまった。
今の軽音部をバンドとして考えるならば、いつ彼がいなくなっても、そのまま続けていける。
 そんな風に仕組まれていることに。
 もう部活動から心が離れてしまったのだろうか。趣味や遊びの域を超えなくても軽音部での音楽の日々は、澪にとってはかけがえのないものだ。
 澪にとってはそうでも、彼はいつまでも遊びのままではいられない。いつか区切りをつけて彼の舞台へと戻る日が来てしまうのだ。
 プロとして生きる彼の領域に澪を含め、軽音部の皆はなかなか踏み込めない。仕事のことに口出しすることもないし、しつこく質問することもない。
 彼が小出しにしてくる話をただ受け入れているだけである。
 それも巧妙な手口だったとさえ思えた。
 詳細は分からなくても、彼が何らかの準備を進めていることくらいは分かる。

 いつか、その準備が整ってしまった時。
 彼との別れが来るのだと、確信していた。それが今じゃないとしても、こんなに大きく状況が動くのは心臓に悪い。
 澪は、その心境をただ一人抱えていることにストレスを感じていた。自分と同じようなことに気が付き、悩む者が他にもいるかもしれないが、なかなか打ち明ける勇気が湧かない。
 これは彼女の勘だが。皆、言葉に出さなくてもうすうすと勘づいている気がするのだ。
 そもそもの前提として、卒業という区切りまでこの部活に在籍しているかも確かでない夏音が、ずっと共にいる保証などない。
 何かが変わってしまいそうで、恐ろしかった。そして、それを止める力など自分には無いことを澪は知っていたのだ。
 為す術もなくなるような出来事が、そっと近づいている。そんな予感が当たらなければいい。
そう思いながら、澪は今や遠い土地にいる友人の顔を思い浮かべていた。この場所に、彼の心はどれほどあるのだろうか。


★     ★


「狂ったように暑いわ」

 夏音は母親がFワードを吐き捨てるように言うのを横で聞きながら、ミネラルウォーターをがぶ飲みしていた。

「日本よりましだよ」

 ペットボトルから口を離し、一言。
 この時期のテネシーは死ぬほど暑いが、日本の蒸し暑さに比べたらまだマシと言える。
 夏音は奇跡的にメンフィス空港でアルヴィと合流することに成功していた。タクシーを拾おうかと思っていたところ、迎えが来てくれるらしいのでそれに便乗していくことになったのだ。
 一週間と三日ぶりに再会した母は、再会の挨拶もそこそこに大荷物を乗せたカートを目の前の人々を轢き殺す勢いで爆走し始めた。
 その後ろを彼女ほどではないが大荷物を抱えた夏音が追う。

「ねえ父さんは?」
「ジョージなら後から追ってくるから大丈夫よ。式の日取りは少し余裕を持たせたっていうもの。今ごろプランを練るのに必死じゃないかしら」

 本来であればすぐに葬儀を執り行うべきなのだが、ジャニスの場合は集まるであろう人の数も多い。
 全世界、またはアメリカ全土から三々五々と人が押し寄せるに違いない。生前よく彼女が口にしていた。
自分の葬式は盛大にやってもらわないと困る、だそうだ。
 日本の場合は葬儀が終わり、納骨までの期間は短い。しかし、アメリカは必ずしもその限りではない。
 防腐処理をしっかりと行い常温でも遺体が痛まないように処置を施し、遠くから集まる親類達が間に合うことも可能だ。
 
 彼女は正式に遺言を遺していたらしく、詳しい話はしてもらえなかったが親族一同の中の一部は「我々は何がどうあっても最高の式にしなくてはならない」と意気込んでいるそうだ。

「さあケニー。いい? 視界に入る車の中で一番ぶっ飛んで趣味の悪い車を見つけ出すの」
「もしかして迎えに来るのはローリーおじさん?」
「大きい車が必要じゃない?」

 その返事の意味は肯定ということらしい。ローリーおじさんというのは、夏音の実際の叔父ではない。
 母の従姉妹の夫という、関係図にしてみれば他人のようなものだが、何故か彼は夏音に「uncle Laurie」と呼ばせるのだ。
 アルヴィはそれを不気味がっていたが、夏音は何の疑問もなく彼をそう呼ぶ。今さら返るのも違和感があるので、変えることもない。

「おじさんって車何台持ってるんだったっけ」
「さあ~。あそこの家の子供の数より多いのは確かね」

 おじさんの子供は五人だ。この不景気の中、随分と羽振りがよい。
 アルヴィはああ言ったが、おじさんは車の趣味が悪い訳ではない。
 まともな車に特殊な加工を施す才能が皆無というだけだ。

「見つけたわ」
「うん。俺にも見える」

 車の前半分が真っ赤で残りがコバルトブルーという配色のハマー。さらにサイドには路地裏の落書きのような悪趣味なペイント。
 さらに驚いたことに左側の側面には黄色いエルヴィスの肖像画が。メンフィス仕様ということだろうか。
 窓を全開にしてこちらに手を振っている中年の男の白い歯がやけにまぶしい。

「さあ。あれに一時間以上閉じ込められる拷問を受ける覚悟はいい?」

 アルヴィが心の底から嫌そうに呟くのを聞いて、夏音はそっと溜め息をついた。


「まさかケニーがこんなに大きくなるなんて。顔つきだってもう大人みたいじゃないか、なあ?」

 ミラー越しにおじさんと目が合う。彼はあの後、車から降り立ってから夏音を目にすると悲鳴を上げた。それから「アーメン!」と天を仰ぐと、夏音を盛大に抱き締めた。
 おじさんはハグの力加減を知らないようで、いつも夏音は抱き潰されそうになる。

「髪だって真っ黒だ。ジョーとおそろいだな!」
「黙ってよ! 夏音の髪は私と同じなの!」

 助手席に乗るアルヴィが不機嫌そうに鼻を鳴らす。彼女は自分と同じ髪の色を持つ息子が髪を染めたのが気に入らないのだ。
 それを特別に指摘することもないのだが、他人に言われるとしゃくに障るらしい。

「ハハハ! 髪が黒いくらいどうってことないさ! どこからどう見ても君たちは親子だからね」

 豪快に笑いながらハンドルを叩いてみせるおじさんだったが、速度のメーターが70マイルを振り切りつつある。
 夏音は久しぶりに視界に入るアメリカの風景をゆっくり眺めることもできずに、座席にしがみついた。

「エレンは元気?」
「ああ、そういえばご無沙汰だよね。最近はよく分かんないダンス教室に通ってるし、腰回りも健在さ。相変わらずセクシーだよ」
「そう言うあなたはどうなの。フットボールクラブは続けてるの?」
「いやー。最近は息子達とのドライブが楽しすぎてね。てんで顔を出せてないよ」
「やっぱり。見ない間にお腹のあたりがずいぶん立派になってるもの」
「そうなんだよ。だから最近始めたダイエットがある。君はコンニャクというものを知ってるか?」
「あら、何年日本にいると思ってるの」

 そんな二人の会話を聞き流しながら、夏音は後部座席で隣にいる幼児の熱い視線と戦っていた。
 見覚えのない女の子だった。青い瞳がこちらをじっと見詰めて離すことはない。
 まだ紹介はないが、おそらくおじさんの娘である。
 夏音はにっこりと微笑みかけて手を振った。すると、向こうもとろけるような笑顔になる。

「ヤバイ。超可愛いんですけど」

 ついうっかり日本語が出てしまった。彼女は何を話しかけられたか理解できなかったようで、首をかしげている。

「ねえおじさん! このレディーの紹介はまだなの?」
「ああ、いけない。ごめんよ! ケニーの登場に驚きすぎて忘れてたよ。娘のリリーだ。先月四歳になったよ」
「あら、知らなかったの?」

 聞いていない。おじさんに新たに娘が生まれていたことなど、知らされていなかった。
 軽い疎外感を覚えつつ、それでも隣の生物の魅力に夏音はマイってしまった。

「ハイ、リリー」
「ハーイ」
「俺はカノン。君の親戚、いや……オジ、だよ」
「ノ~」

 関係を説明するのが面倒くさくてオジということにしようと思ったら、ダメだしをくらった。彼女は得意げに夏音に言った。

「You are aunt!!」
「ハッハッハッハ!!」

 リリーの衝撃の発言とおじさんの笑い声に夏音は固まった。こっそりと噴き出すアルヴィの姿もあって、夏音は当分立ち直れなかった。

「あれ、ここはどこかな?」

 結局、おじさんが迷いに迷ったせいで到着予定の時間を一時間オーバーしての到着となった。
 陽気な天気とは裏腹に、先行きが不安でならなかった。


 ※変なところで切ってすみません。

  アメリカ編があと二話ほど続きます。
  ちなみにメンフィスといえば、エルヴィス・プレスリーで有名。他にもキング牧師が死んだモーテルとかもありますね。他にも有名なものはありますが、何故か清志郎が名誉市民って言われた方が我々日本人にとってはびっくりな気がしますよね。

  ケニー、カヌー。ニックネームって難しい。
  ちなみにローリーおじさんは、ローレンス。
  リリーはリリアンヌです。

  難しいお話ですが、頑張ります。



[26404] 第二十一話『Cry For...(中)』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/12/03 00:10



 メンフィス郊外、グレースランドはエルヴィス・プレスリーの邸宅があり、年中多くの観光客が訪れる場所だ。メンフィス空港の西に位置して、車でもすぐに辿り着ける距離である。
 ジャニスが住んでいたのはメンフィス空港より四十キロほど北に位置するウィルバーン・アベニューの通り沿い。
 メンフィス空港を出てから、国道240号線、アブロン・B・フォーゲルマン・エクスプレスウェイを真っ直ぐ北上し、サム・クーパー・ブールバードへと合流。その後にノース・パーキンズ・ロードへと降りるという道順を辿ればよい。
 しかし、一度ならず幾度となく通っている道のはずなのに、今年で五十歳になるローレンス・B・ワトキンソンは、意気揚々と悪趣味な車でハイウェイをかっ飛ばした挙げ句、見事に道を間違えた。
 本来の道とは真逆の位置にあるはずのガーナー湖を横目に通り過ぎるあたりで気づかなければ、と思うと恐ろしい。

「いやー色々あったが着いた着いた! 人生万事うまくいくものだね!」

 何も気にしていないような調子で朗らかに微笑むドライバーに長旅でへとへとの二人は恨みをこめた視線を送った。
なんにせよ、元の道に戻ることができれば、もう迷うこともない。
通行人の誰もが目を大きくして二度見する外装の車は、よろよろと目的の住宅街に入っていった。
 通りに面したジャニスの家は、お世辞にも慎ましいとは表現できない規模を誇っている。その広さに比べて豪邸と言うほど家自体が巨大な訳ではないが、有する敷地面積は日本の住宅街が三区画分ほどすっぽり収まってしまう広さだ。その広大な庭はジャニスの夫であるスコットが趣味半分で管理しているので、いつ行っても刈りたての芝の甘い匂いがするのだ。
 真夏は外でバーベキュー。だだっ広い敷地内にステージを作っては、好き放題に演奏をする日々。歌って、弾いて、騒いで過ぎていった時間が夏音の瞼の裏を通り過ぎた。
 それは、決して色褪せることのない記憶である。いつも彼女の家の門をくぐる時はその先に待ち受けるだろう出来事に胸を高鳴らせていた。
 知らずうちに思い出に浸っていた夏音は、いざ見覚えのある門の前に広がる光景に眉を顰めた。
 通りに入ったあたりからちらついた路上駐車をするヴァンに大きな機材を背負った人々。
 報道陣の姿だった。

「やれやれ。やつら、ずっと張り込んでるんだよ」

 ローリーおじさんは苦々しい口調で言う。ど派手なハマーの登場に報道陣が一斉にこちらに注目する。報道陣でなくとも、注目するに違いないが。
 どうやら彼らは雇われたセキュリティに阻まれ、ある程度の距離までしか近づけないらしい。住宅街の中で道を塞ぐようなことは迷惑行為なので、彼らは招かざれる客だ。
 夏音は他の弔問客への対応はどうするつもりなのだろうかと気になったが、急に襲いかかってきたフラッシュの嵐に身体が強張ってしまう。
 ローリーおじさんは近づいてきた警備の者に二言三言話しかけると、アクセルを踏み込んで一気に門の中に入っていった。
 しかし、夏音はその直前に確かに見た。
でかでかとした垂れ幕が異様な存在感を醸す。

「Happy Funeral - Janis C Sloop -…….?」

 夏音が唖然としていると、アルヴィが手を叩いて笑った。

「ふふっ! 何かわくわくしてきちゃうフレーズね!」

 夏音はアルヴィの言った言葉に途轍もない違和感を覚えた。自分は、これからジャニスの死と対面するのではなかっただろうか。
 いや、ジャニスの葬式という時点でしめやかなものにはなるまいと予測はしていたが、これは些か不謹慎ではないかと目を疑った。
門をくぐると左手の方に駐車スペースがある。既に何台か車が停まっており、見覚えのある車もちらほらと確認できる。
 夏音たちは、この滞在中はホテルで寝泊まりをすることになる。今日もこの場所に立ち寄った後にホテルに向かうので、最低限の荷物だけ下ろし、家がある方へ歩き出した。
 S字カーブを幾つもくっつけたような小道があり、樫の木がその道を挟んでいる。わずかに吹いた風で葉擦れの音が一斉に響いた。
 この小道を進んだ先には一本だけ桜の木が植えてある。強い日射しが木漏れ日となって降り注ぐ道。風に砂が舞って埃っぽい匂いと、刈りたての芝生の青々強い香りに包まれて思い出す。
 通り過ぎていく風景を五感が覚えている。たまらず懐かしさを覚え、夏音は長旅の疲れも忘れて懐かしいものに再会した喜びと、そこに紛れ込む哀愁に包まれた。
 小道を少し歩いただけで、すぐに家は目視できる。
 そして、そこにはもう一つの再会が待ち受けていたことに夏音は気が重くなった。

「あら、だいぶお揃い? よく考えたらずいぶんと懐かしい顔もいるわね」

 暢気な声を上げるアルヴィ。彼女が手を振る方には懐かしき顔ぶれが揃っていた。早速、家の前に大量のテーブルやパラソルを持ち出していた。明らかに一杯やっている。
 近づかずとも分かった。誰も彼も見覚えのある顔。
 夏音は束の間、立ち竦んでしまう。
 どうやってこの輪に入っていくか。再会の言葉は何から始めればいいのか。
 知らずうちにノロノロとアルヴィの後ろにくっついて歩いていた夏音は、唾をのみこんだ。
 第一声はどうすればいいだろうか。彼らは、自分をどう受け入れるか。心拍数が上昇していくのが自分でも分かり、これでもかというまで鼓動が速まる。
 そんな夏音の内面を易々と打ち破る陽気な声が響いた。

「ジーザス! 誰かと思えば、ケニー!」

 座っていた中の一人が立ち上がり、夏音に近寄ってきたかと思いきや、力強く抱き締めてきた。

「ひ、ひさしぶりだね。ジミー」

 抱き潰されながらもなんとか夏音はくぐもった声を出す。ジミーは夏音から体を離すと、夏音の顔をじっと覗き込んで白い歯を見せた。

「カーターのやつと賭けてたんだ! お前は絶対に来るって信じていたさ!」

 人を賭け事に使うな。そう文句の一つでも言ってやろうかと思った夏音だったが、次々に頭をもみくちゃにされてそれどころではなくなった。

「相変わらずでかいね」
「さあさあ。長旅だったろう。駆けつけ一杯!」

 片手に握られていた酒瓶を夏音に押しつけてきたジミーに夏音は苦笑した。

「もう、そいつは当分カンベンなんだ」

 つい最近、痛い目にあったばかりだ。夏音が酒を断ると、彼は「そうかい? サイダーもあるよ」と気にした様子もなく、夏音の肩を組んで集団の輪に引っ張っていった。

「どうだい皆!? 見てみろよ! こいつを誰だと思う?」
「しっかり見えてるよジミー。そんな年じゃない。しかし、大きくなったなあ」

 しみじみと、感慨深げに顔に皺を寄せたのは、ウェイトンだ。トランペットの名手として知られる彼と会うのは実に五年ぶりである。もともとスループの繋がりの中でも頻繁に顔を合わせる人物ではなかったため、夏音も懐かしさが沸き上がってきた。

「ウェイトン。元気そうでなによりだよ。この間までヨーロッパに行っていたと聞いたよ」
「そうともさ。俺ぁ若いのとやるのはそろそろ厳しいな。ツアーの日程の組み方からして、年寄りのことを考えちゃくれないんだ」

 溜め息混じりにそんなことを零すウェイトンだったが、まだまだ現役なのは誰もが知っている。今年で五十四になる彼だが、その力強いペットの音は衰えを知らない王者の風格で世界中のファンを魅了し続けている。
 夏音は幼い頃、室内に響いた彼のトランペットの音圧に飛び上がるほど驚いたせいで椅子から落ちて、毎回笑われていた。

「違うよ。彼は初日にホテルに女性を呼んだのだが嫁にバレたんだ。ニューヨークでレコーディング中だったソフィーはそれを知って何をしたと思う?」
「おい。それ以上口を開いたら分かってるだろうな?」

 こんな軽口をたたき合う空気に夏音は思わず頬をゆるめた。同じようにニヤニヤと二人の会話を肴に酒を呷る皆の顔は、まるでジャニスの葬儀のために集まったとは思えないくらいに明るかった。
 夏音も、うっかりこれからホームパーティーでもやるのかという気分になってしまいそうだった

「アルヴィ。君たちはどこに泊まるんだい? 隣町だけど、よかったら俺の家が一部屋空いているよ」

 ゆったりとした口調で声をかけてきたのはラースだった。彼もまたスループの姓を持つサックスの名手である。ウェイトンとジミーのやり取りにくすくすと笑いを零していたアルヴィは少しだけ眉を下げた。

「ごめんなさいラース。せっかくだけど、もうホテルを取ってあるの……ああっ! どうせなら空港から荷物だけ送ればよかった! あと、お土産を車に忘れてきちゃった!」

 言っている側から思い出したらしく、途中から悲鳴に変わったアルヴィの言葉に爆笑が起こる。
 ラースは相変わらずのアルヴィの性格に苦笑めいたものを浮かべると、夏音に軽く手を振ってから、大人しく引き下がった。
 何のきっかけだったのか、再会を喜ぶ温かな雰囲気にそっと静けさが差した。

「さて……それで、彼女は?」

 アルヴィが口にする彼女が誰のことを指しているのかは言うまでもない。それまで笑顔を浮かべていた面々の表情に影が差したのを夏音は見逃さなかった。

「ああ。まだこっちには戻ってきてないんだ。今日の夕方くらいに連れてきてくれるらしい」

 穏やかな口調でジミーが言うと、アルヴィは「そう、そうなの」と何度も頷く。そして、少しでも静寂を置いてはおけないとばかりにパチンと手を叩いた。

「そうね。それまでにちょっと休まないと。きっとこれから大変よ。他のみんなは中に?」
「女性陣は仲良く料理中さ」
「ほんと? みんなして働いてるのなら私だけ休んでなんていられないわね。ちょっと顔出して手伝ってくる!」

 そう言うと彼女は、それこそ袖を捲って―――袖のない服にも関わらず―――みせると、とんでもない勢いで家の中に向かっていった。それを黙って見送った男性陣は、重苦しい沈黙をその場に落とさざるをえなかった。
 そして、やっと口を開いたジミーが厳かに夏音に対して重大な指令を下した。

「アルヴィを止めるんだ」

 言われるまでもなかった。夏音はこれ以上、誰も不幸にならないために、何より自分のために母親を全速力で追いかけた。


「ああ、カノン! ちょうど良い所に! アルヴィから包丁を奪って、そしてここじゃないどこかへ連れていってちょうだい!」

 数年ぶりの再会を果たした瞬間に必死の表情で夏音に懇願してきたのはマークの姉のソフィアであった。
 お互いにかけるべき第一声が他にもあったことは重々承知していたが、この場合は視線の一つだけで全てを心得られるだけの「経験」が二人にはあった。二人だけでなく、関係者であれば誰もが身に刻み込まれた恐怖を回避しなくてはならない。
 夏音は心を鬼にして母親から包丁を奪い、有無を言わせずに母親をキッチンから強制的に連行した。
 キッチンを出て行く夏音の後ろでは安堵の溜め息と拍手が起こっていたことは言うまでもなかった。

 子供のように憤慨していじける母を宥め、夏音がリビングでぐったりしていると改めてキッチンから出てきた人々に歓迎された。

「やだ。ちょっと背伸びてる!」
「ますますアルヴィに似てきたわね。あなたたちは昔からそうだったけど、まさに瓜二つよ」
「ニホンのガールフレンドはできた?」
「こっちにはいつ戻ってくるの?」

 口々に夏音に対して話しかけてくる女性達。順にナターシャ、カッサンドラ、レイラ、ジュリア。
 懐かしい顔ぶれに夏音は疲れも忘れて彼女達と抱き合った。

「みんなと会えるなんて!」

 夏音が自身の感激を口にして伝えると、レイラに頭を撫でられた。

「ところで、一つ訊きたいんだけど。表のスローガンはなんなの? 新手の葬儀屋のものみたいだよ」

 夏音が門のところで目撃した『Happy Funeral』の文字のことだ。夏音がそのことに触れると、四人はふいに真剣な表情になって夏音に言った。

「そうよ。これから第三回目の作戦会議が行われるの。あなたにも参加してもらうわ」
「バナナブレッド作ったの。それでもつまみながらね」


★      ★

「まず、visitingは明日に迫っている。それまでに我々は準備を終えねばならない」

 悠揚とした口調で話し始めたのはこの場で最年長であるヴィクターだ。サンフランシスコからメンフィスまで一目散に駆けつけたらしい彼は、今回の葬儀に際して最も気合いが入っているらしい。
 現在、ジャニスの自宅に集まったのは先ほど到着した夏音達を含めて十五人。天気が良いので全員が屋外に集まって話合いが行われることになった。
 顔ぶれとしては、スループ一家の血縁関係だけでなく、夏音やアルヴィのように特別親しい者や、葬儀屋の姿も混じっていて、その誰もが真剣な表情でヴィクターの話に耳を傾けていた。

「彼女の遺言だ。まあ、これは彼女がいつも口にしていたから知っての通りだが……」

「「「「私の葬式で涙はなし!」」」」

 その場にいた者が一斉に声を揃えた。ふと笑いが広がるのを見て、ヴィクターの顔にも深い皺が寄る。

「その通りだ! 我々は、盛大に! 景気よく! 華やかに……あと、なんだ?」
「最高にハッピーに!」
「そうとも。史上最大にぶっ飛んだ葬式をやらねばならない。そして、彼女の希望をまとめたものがここにある。彼女のお抱え弁護士であるトニー・テイラーが後生大事に保管していた一品だ」

 ヴィクターは隅っこで涼しげに立つ男性を指し示した。夏音は彼がいったい誰なのかと悩んでいたが、ジャニスが懇意にしていた弁護士だったらしい。

「さて、読もうか。どえらいリストだぞ、これは」

 ジャニスが自身の葬儀に関して作った要望リストは何行にも渡って彼女らしさが滲み出ていた。
 もちろん、既に葬儀屋と決めておかねばならない部分は実行済みらしい。棺の種類や、牧師は誰にするか、おおまかな日程などだ。彼女は土葬を望んでいたので、既にエンバーミングの処置は終えてあるらしい。

 棺に入れるもの。流して欲しい曲。式の中で絶対にやって貰いたいこと。
 何より一番は、

「歴史に残る音楽葬を頼む、か」

 音楽家だから、死ぬまで音楽に浸るわけではない。有名なミュージシャンでも死んでからは葬儀もあっさりと済ませてしまう者も少なくはない。
 ジャニスはどこまでも音楽を愛していた、だけではなくとんでもなく派手好きな人だった。

「確かニッピーの葬儀に対抗心を燃やしていたような……」

 ふと誰かが呟く。すると、「ああ!」と手を打つ者が何人もいた。

「さて、日程としてはこうだ。明日は大量の弔問客がやってくる。メディアは家には呼ばないが、葬儀の時は盛大に生中継してもらう手筈だ」
「はあ? カメラが入るの!?」

 これに強く反応したのは、先ほど夏音たちより遅れて到着したばかりのジュリアだった。彼女はマークと同い年で、夏音を可愛がってくれている姉のような存在だ。

「誰が好きで見るのよ?」

 この意見に対し、会った時から常に酒瓶を離さないエディが鼻で笑った。

「おいおい。ジャンが死んでどれだけの人間が悲しみに暮れると思うんだ? アメリカ全土からこのメンフィスに押し寄せたい奴らがどれだけいると? まあ、既に表にちらほらと花やら似顔絵やらを置いて帰るファンもいるんだが、くそっ、あんな高い酒を放置して帰りやがって……俺がこっそりそいつだけ頂こうとしたらカメラのフラッシュに阻まれる始末だ」
「お酒の話をしたいの!?」
「ああ、すまない。そうだみんなが彼女を送ってやりたいんだ。けれど、易々と来られないだろう? アメリカ中からミュージシャンが参列するんだからな。一般には入場規制がかかる。せめてもの教会の表に集まりたくても、それすら叶わない人だっているんだ。そいつがテレビで見られるなんて最高じゃないか」
「でも、不謹慎って言う人もいるよ!」
「知ったことか! 少なくとも、このことで訴える権利がある奴なんていない。スコットだって賛成してるんだ」

 ジャニスの夫であるスコットは、黙ってウィスキーの入ったグラスを掲げた。元々、寡黙な方だが、彼もまた祭り好きなスループの一員であることには違いない。
 喪主が昼間から呑んでいる時点で常識から何百マイルも離れている人間だ。
 彼は、ジャニスの最愛の夫であり、最大の共犯者といってもいい。
 エディの言う通り、親族から夫までもが賛成する中で止める者はいない。
 ジュリアはまだ納得がいっていない様子だったが、大きく肩をすくめると背もたれに勢いよく倒れ込んだ。
 そして、片手を振って続きを促す。完全にいじけたようだ。

「この無駄に広い庭にテーブルと椅子を並べる。業者を呼んでステージも作ってもらおう。料理は女性陣の手では到底足りないから、プロに頼もう。後は、いいか? 最大の目玉は教会を出てから墓地へ移動するまでのパレードだ! 荘厳でハッピーな調べで街中を突っ切りジャニスを墓地に届けるんだ。それが終わったらこの場所へ戻り、関係者を根こそぎ集めた盛大なパーティだ。色んなプレイヤーを集めて、朝まで音楽を鳴り止ませることなく、彼女を送る」

 誰かが「nice」と零した。夏音はこれから自分達がやろうとしていることの全貌を聞かされ、心臓がどくりと大きく跳ねたのを感じた。
 確かに、これはとんでもないことになる。自分が想像していたよりはるかに。
 鳥肌が立った。
 やはり、スループ・ファミリーという集団が一堂に会した時に起こる強烈な化学反応は心臓に悪い。
 興奮しすぎてくらくらする。
 それと同時に押し寄せたのは燃えさかった火が萎むような不安だった。
 彼らと演奏するのはあまりにも久しい。呼吸と等しく音楽を紡ぎ出せる集団であり、確かに自分も数年前はその輪の中にいた。
 それが、どうだろうか。夏音は今の自分に自信を持てない。
 やはり、夏音は自分が歩みを止めてしまっていたのだと感じた。
常にあったプライドや、自信といったものがこうして揺らいでいるのが証拠である。不安なんてものが自分と、彼らを結ぶ距離の中に現れることなど夢にも思っていなかった。
 自分以外にも一流のベーシストはいる。まだここには姿を見せていないが、カート、オスカー、デレク、ロバート、コーディ。
 そして……、

「ところでクリスはまだなのかい? 早く彼と話し合いたいな」

 何の気なしにラースの口から飛び出てきた名前に夏音の心臓はさらに鼓動を跳ね上がらせる。
 絶妙なタイミングだっただけに、表情にも出てしまったかもしれない。
 すっと夏音に向けられたラースの眼差しは夏音の心を見透かすような光を湛えていた。

「カノン。彼は、君の顔を見たらたいそう喜ぶよ」
「それこそ、その場で棺桶がもう一つ必要にならないといいけどな」
「ハハハ! 違いない!」
「おい、年寄りを馬鹿にしていると痛い目に遭うぞ!」
「ヴィクター。あんたは殺したってまだまだ死なないから安心しろよ」

 流石にそれは失礼だろうと思った夏音だったが、よく考えたらクリストファーは今年で六十五歳になる。
 今、会ったらどんな風に変わっているだろうか。夏音は数年という歳月を彼と会わずに過ごした自分に今さらながらガツンと頭を殴られたような衝撃を受けていた。
 こんなにも時が経つのは早いらしい。時間は残酷で、足を竦ませてしまうだけの恐ろしさを持っているのに、どうして気付かなかったのだろう。
 ふと、表情が暗く陰った夏音だったが、一人だけ辛気くさい顔をしているのもこの場にそぐわない。すぐに切り替えて笑顔を作った。

「俺も彼に会うのが待ちきれないよ」


★       ★


 結局、作戦会議と称した集まりは全員が好き放題に発言し過ぎるのでただのお喋りの場と化してしまった。
 女性陣は夕食を作りに家へ入る。残った男性陣はプレイルームに向かい、ビリヤードやダーツ、カードゲームなどに興じて夕食までの時間を潰していた。
 夏音はその中に混じることはできなかった。リリーを始めとした子供軍団の相手をするハメになったのである。
 子供達は勝手に遊んでいればいいものを、物珍しい夏音から離れようとしない。中には夏音もよく知る子もいる。
 最年長のグレッグは最後に会った時は小学校の高学年で、あまり相手をしてくれない兄弟達の代わりに夏音やマークによく懐いていた。
 ここでも夏音は年月が恐ろしいと感じた。まだ声変わりも済ませていなかった少年が、すっかり身長も手足も伸び、夏音を見下ろすようになっていたのだから。

「俺はいつも思うんだ。このモンスターみたいな子供達がいつか俺みたいに大きくなって、また同じような悩みを持つなんて信じられない」

 フルパワーで向かってくる子供達を適度にいなしながら、苦笑するグレッグに夏音は寂しい胸が切なくなった。
 また、いつの間にかそんな表情を身につけていた彼の成長っぷりに感動したのも事実だったが。
 遊んでもらう側が、遊んであげる側になったらしい。

「ねえケニー。あとでジャムろうよ」
「おっ? いいね。どれだけ弾けるようになったのか楽しみだ」
「きっと驚くよ。この間は中学生のジャズ大会に出たんだ」
「なるほど、それで?」
「個人の部で優勝さ」

 得意気に笑うグレッグに夏音はびっくりして穴が空くほど彼を見詰めてしまった。

「それって……その、」
「カリフォルニアの州大会さ」
「マジで?」

 お世辞にも彼は上手いプレイヤーではなかった。親が一流であっても、その子が一流とは限らない。少なくとも、三年前までのグレッグは小学生にしては弾ける方、といった分類だった。
 それが州の大会で一位になるとは誰が想像しただろう。

「あれだ。男子三日会わざればってやつだね」
「なに言ってるかわかんない。それニホンのことわざ?」
「子供の成長ってすごいってことだよ」
「自分だって子供だろ? 俺より小さいくせに」
「なんだって?」

 鋭い視線がグレッグに突き刺さる。グレッグはびくりと跳ね上がって表情を一変させたが、遅い。
 夏音は自分に纏わり付く子供達に厳かに命じた。

「さあ、このすっかり生意気になったグレッグをやっつけるんだ」

 子供は素直なもので、夏音の命令に従った子供達は数人がかりでグレッグをもみくちゃにした。


 夕食が始まると話題の中心になったのは夏音であった。この数年、日本で夏音がどうやって過ごしていたか気になって仕方がないらしい。
 日本という国のこと。そこで出会った人々のこと。今は学校の部活で音楽を続けていることを皆がいちいち神妙に聞くので、夏音はどこか居心地が悪かった。
 すると、突然斜向かいに座っていたライアンが口を開いた。

「なあ日本では偉い人が通るとみんな土下座しなきゃならないって本当か?」
「そうだよ。何で知ってるんだい」

 神経質そうに瞼をぴくぴく動かすライアンは、夏音の返答に余命宣告を受けた人のように口をぽかんと広げた。

「やっぱりな。何かの本で読んだんだ。俺は知ってたさ」

 皆が彼を見詰めてにやにやしていることにも気付かず、ライアンは「おそろしい国だな」と深く染みいるような声音で呟いていた。ぶつぶつと一人呟く彼は自分の世界に入った。これはいつものことで、誰も気にした様子はない。

「おぉ、お出ましだ!」

 ふと、ヴィクターが門の方から近づいてくる人物に気付いてにやりと笑った。皆がそちらに目を向けると、手を叩き歓声を上げる。

「戻ったぜアメリカ!!」

 その場にいた全員がわっと立ち上がり、次々と抱擁を交わしていく。譲二は夏音の姿に目を止めると、大袈裟に腕を広げた。

「二週間ぶりの父親にハグもなしかい?」

 夏音は微苦笑を浮かべて父に駆けよった。



★       ★

 時刻が十八時をまわる頃、夕食を済ませた一同はそれぞれが近くに座る者と思い思いに会話を楽しんでいた。
 普段は遠くの土地に住む者たちだ。それぞれが忙しく、なかなか会う機会もない。積もる話があるのだろう。
 子供らは、そんな大人の会話の中でじっとしていられるはずもなく、庭の木から垂れるブランコで遊んでいる。
 夏音はそんな喧噪から少し離れた場所、家の入り口横にあるベンチにジュリアと腰掛けながら互いの近況を報告しあっていた。

「そう。日本で楽しくやってるのね」

 彼女は嬉しそうに微笑む。その表情にはどこか寂しげな色が混じっていた。夏音の三つ年上の彼女も、少しの間見ないうちに一気に美しく成長していた。
 このように憂いをまじえた難しい表情が似合う、大人の女性へと変貌してしまっていた。

「何か浮かない顔だけど、気分でも悪いのかい?」
「ううん。複雑な気持ちだけど、大丈夫。ちょっと自分の心を掴んでいられないの、いま。わかる?」
「ああ、わかると思うよ。こんな時だから、仕方ない……」

 彼女は夏音が言わんとしたことを理解して、浅い溜め息をついた。

「色々と下らないことも頭をよぎるのよ。私が今回で落とすことになった単位とか、ぶん投げてきた五つのレポートのこととかね」

 自分で言っていて、おかしそうに笑う彼女につられて夏音も軽く噴き出した。
現在、カリフォルニア大学バークレー校に通う彼女は、そこで心理学を学び、将来的にはそこから伸びる幾つかの道を進んでいくのだと言っていた。このスループという集団は、根本的に音楽で繋がっていることは間違いないが、その誰もが音楽を生業にしているわけではない。
 無論、例外はなく誰もが何かしらの楽器を人並み以上に扱う腕を持ち、音楽の才を持っているのだが。ジャニスの夫であるスコットもプロとして活動していたのは二十年も前の話だが、そのピアノの腕はぴかいちだ。
 何とも宝の持ち腐れだろうと思うが、彼らは総じて音楽との付き合い方を熟知している。
 音楽との関わり方でもがく夏音とは違い、彼らのあり方そのものは実に自然なのだ。
 目の前にいるジュリアもそうだ。
 一年のほとんどを勉学のために費やす彼女は、友人たちの集まるパーティーやイベントごとには必ずといって呼ばれ、そこで歌を披露するそうだ。
 隣町で催されるイベントからお呼びがかかることも稀ではないらしい。
 才能を認められ、それを発揮できる環境とチャンスがあったのにも関わらず、彼女は現在の道を毅然として歩いている。
 その凛としたスタンスに夏音は、いつも不思議な気持ちを抱いていた。こんなに素晴らしい歌手を知っている人が、世の中にはこんなにも少ないということ。
 浮ついた中身のない歌に酔いしれる人たちは、彼女の歌を聴けばいいのだと思っていたのだ。
 けれど、彼女はそんな疑問を口にする夏音に決まってこう言った。

「いい? カノン。人はそれぞれの生き方を選択することができる。私はたくさんの選択肢を与えられた幸運な人間なの。どの選択肢も私にとっては最高に魅力的だと思うわ。でも、あれもこれもという訳にはいかないの。一つ選んで、他を羨む。そんなことは許されないの」

 諭すように言う彼女に夏音は訊ねた。

「誰が許さないっていうの?」
「うーん……わかんない」

 茶化すように言う彼女は満足そうだった記憶がある。

 そして、夏音はそんな過去の自分とは違う心境で彼女に聞いてみたいことがあった。

「前にもこんな風に二人で話したと思うんだけど」
「そうね。たまにマークもいたわ」
「人には色んな選択肢があるんだって君は言った」

 夏音は真っ直ぐに見詰めてくるジュリアの瞳から目を逸らすことなく、続けた。

「その通りだと思ったよ。確かに俺達には選択する自由と、権利があるんだって。前はジュリアが何を言ってるか本当はよく分かってなかったんだけど、最近ようやく分かってきたんだ」
「大人になったってことよ。人生、時間が経てば分かってくることの方が遙かに多いのよ」
「でも、こうも思ったんだ。選ぶってことは、そう容易いことじゃない。こんなにも苦しいことだなんて、知っちゃったよ」

 夏音は目を伏せ、顔を歪める。ジュリアは口を挟まない。

「欲しいものが多すぎて、でもやっぱり欲張りは許されないんだ」
「そうね、何故か許されないの。誰かにね」
「本当にそうなんだよ。誰かに、許されていないんだと思う」
「きっとそいつはとんでもなく狭量なのかも」
「そうに違いないね」

 互いにくすりと笑いが漏れる。遠くで叫ぶ子供達の声がやけに響いた。

「でもね、そうじゃないかもしれない」

 ジュリアの口から滑り出すように現れた言葉に夏音は何故かしら吸い込まれるような心地になった。
 そっと顔を上げた夏音に、柔らかな微笑を向けたジュリアは夏音の手を包み込むように自分の手を重ねた。

「そうやって苦しむことは悪いことじゃないの。今、苦しんでるあなたには堪ったものじゃないだろうけどね」
「若い時の苦労は買ってでも、ってやつ?」
「別に老いぼれた後のことを言ってるんじゃないって。例えば、そう。恋なんて、胸が張り裂けそうになるじゃない? でも、その恋が終わってしまえばなんてことはない。そして次に向かう時にそれは私の助けになる」

 恋愛をしたことがない夏音にふさわしいたとえ話ではなかったが、言いたいことは分かる。
 けれど、いつか割り切る時のことを考えて済むならこんなにも悩まない。

「音楽ってもっと、完璧なものだと思ってた。音楽が全部ハッピーエンドに連れていってくれるだなんて、本気で信じてたんだ」
「そうね。完璧なものなんて存在しないわ。簡単に気づけそうなことなのに、なかなか気づかないことよ」
「俺から音楽を取ったら、何が残るっていうんだろう。そう考えたら、たまらない」
「そんなことはないわ。自分の美徳に気付いていない人は多いし、音楽以外にもあなたの素敵なところはたくさんあるじゃない」
 彼女は具体的なことは口に出さなかった。夏音はなんと返せばよいかわからない。ただ、わかった風に頷いて顔を上げた。
 会話の先を続けることはできなかった。
 思い思いに過ごしていた人々も同じであった。彼らがずっと待ち望んでいた人がついに到着したからだ。



★      ★

 靴を脱ぎ、ベッドの上に寝転んだ夏音は大きく息を吐いた。部屋に入るなり、休息モードに移った息子をみたアルヴィがたしなめる。

「そのまま寝ないでよ。ちゃんとシャワーを浴びて着替えなさい」

 夏音は低くうなるように返事をして、やはり目は閉じないまでも、すぐに動く気にはなれなかった。
 おそらく夏音の心身はあまりにも多くのことに疲弊しきっていた。突然の訃報に加え、長距離の移動、そして・・・・・・、

「眠っているみたいだった」

 夏音がぼそりと呟いた独り言に部屋の空気が少しだけ重たくなった。そっと近寄ってきた両親が夏音を挟み込むようにベッドに腰掛ける。一気に沈み込んだベッドが軋む音を立てる。

「こうして一緒に誰かの葬儀に行くのは、いつ以来だったかしらね」
「そうだな。たしか日本に行く前に・・・・・・トーキーの親父さんの時じゃなかったかな」
「アレもまたよいお葬式だったわよね」
「ああ、見方によってはね」

 両親の会話を聞いて記憶をたどった夏音は、最後の最後に親族が泥酔して耳を覆いたくなるような故人の暴露話を始めた光景が脳裏によみがえった。

「(どんな見方をすればよいお葬式だったんだろう)」

「最高の式にしてやろうな」

 父が自分の顔をのぞき込んで言った。夏音が声を出さずに頷くと、二人は夏音の頬を撫でてから、腰を上げて着替え始めた。
 父が「さー明日から忙しいな。とっとと寝るか」と言うのを耳にした夏音は再び、独り言を、自分ですら聞き取れないほどのボリュームで口にした。

「でも、ちっとも想像つかないよ。明日からのことすべてがさ」



★     ★


 明くる朝。夏音は久々に再会した人物からぴかぴかの状態の機材を見せびらかされた。

「どうだい? 完璧だろう」

 誇らしげに胸を反るフィルに夏音はありったけの感謝の言葉をかけた。彼は夏音の機材を管理している、いわゆるギターテックと呼ばれる存在だ。ローディー、ボウズ。日本で言うとそのように呼ばれる人々の役割。
 しかし、一言で彼の職業を言い表すのには相応しくないようにも思える。
 彼と夏音は契約で結ばれる仲だが、それ以上に旧知の仲であった。夏音がアメリカを離れる際も、夏音が戻るまで細心の注意をもって機材を預かると涙ながらに約束してくれた人だ。
 夏音はさっそく幾つかのベースに触れ、実際に触ってみた。手の握ってみた感じ、弦高、鳴り響き方までもがしっくりとなじむ。
 どれだけ彼がこの数年間かかさずに自分の機材を徹底管理していたのか、わかってしまった。

「君はやっぱり最高だよ」

 二十も年の離れた相手から受けた賛辞にフィルは心の底から嬉しげに笑い、鼻の下を掻いた。
 そして、夏音が久々の再会を果たしている横で譲二とアルヴィが真剣な表情で話し合いをしていた。

「でも、あなたのセットを運ぶのはいくら何でも無茶よ。あれはドラムセットじゃないわ、要塞よ」
「しかし、考えてもみてくれ。俺の全力をぶちかまさないとジャンに失礼だろう?」

 どうやら会話の内容は譲二のドラム機材の話らしい。クレイジー・ジョーで知られる譲二が自分の全力を出すフルセットを用意するとなれば、それはまさしく要塞と呼んで遜色ない規模だ。
 シンバル、タム類を分解してもいくつドラムセットが組めるのだろうかと考えるのも馬鹿らしい数だ。
 さらに信じがたいことに、それらの機材の一つ一つは見た目のためではなく、実際に必要だということだ。
 平行線をたどりそうな議論に夏音は自分のほうの用事が済んだことで口を挟んだ。

「父さん前に言ってたよね。三点で聴かせられないやつはど素人だ! って」
「いや、それはそうなんだが。そう言われてしまえば、どうしようもないじゃないか」
「この子の言う通りよ。誰かをスイングさせるのなんか太鼓一つで十分だってよく言うじゃない」
「オーライ、わかったよ。そこらのレンタルでもいいや、もう」

 いきなり投げやりになった父に苦笑を浮かべた。
 着々と準備が急ピッチで進められていくのを感じた。もう何が何だかわからないまま突き進んでいる気がするが、もう流されるままどうにでもなれといった気分だった。
 今日はジャニスを訪ねて、多くの人があの家を訪れる。自分はどちらかというと出迎える側にいるのだろうが、そのビジターの顔ぶれがとんでもないのだ。
 どうしても葬式本番に参加できない者たちが中心だが、俳優や映画監督、著名なプロデューサーの名がすでに挙がっている。
 直接関わったことのある人も中にはいるのである。
 会ってなんと言葉を交わせばよいか、考えるだけで憂鬱になるが、もうどうしようもない。
 そんな複雑な気持ちを抱えながら、一日は始まっていたのだ。



 スコット邸に人が溢れかえってから久しく、夏音は次々に訪れる知人と挨拶を交わし、無難に時が過ぎるのを耐えていた。
 意外にも夏音の顔を見た人々の反応はまず最初に驚愕、それから好奇心を湛えた瞳が自分の近況を探りだそうとする。
 悪気も感じないし、夏音を批難する視線もなかった。
 それが夏音には拍子抜けだったのだが、よく考えてみると自分は具体的に何を恐れていたのだろうか。
 皆、ジャニスの死に心を痛めてこの場にいるのに。
 自分だけ、正体不明な恐れを抱いて、自分のことばかり考えている。
 そう思うと非常に情けなかった。
 すっかりへとへとになってしまった夏音は母に休むと告げ、二階にあるオーディオルームに向かった。
 より多くの人を入れるために、ほとんどの部屋は開放されていたが、この部屋だけは休息地帯の一つとして関係者以外が入ることはできなかった。
 部屋には誰もいないかと思った。
 夏音は扉を開ける前から気を緩め、ふかふかなソファにいったん横になろうと思って入ったのだ。

「カノン?」

 いないと思いこんでいた先客が、夏音の名を口にした。
 その声を聞いた夏音は体をこわばらせた。目がこぼれそうになるくらい、目を見開き、息をのみ込む。

「ケニーか・・・・・・? おまえさん、本当に・・・・・・?」

 探るような声音に夏音は自身も目の前にいる人の姿を凝視してしまった。
 彼が本物かどうか。こんな不意打ちな形で、再会した人が、

「クリス?」

 震える声を出した夏音に、温かい笑みが向けられる。ずっと見たかったその笑顔に、夏音は泣き笑いのような表情になった。


★        ★


 夏音にとってクリストファー・スループという人間は他の誰よりも特別な存在だった。夏音の現在までの人生を形成する上で、最も重要な部分を作り上げたのがこの男といっても間違いではない。
 ミュージシャンの両親を持てば、必ずその子供も同じ道を辿るとは限らない。同じくして、周りがミュージシャンだらけだからといって世間に認められるミュージシャンになれるとも限らない。
 夏音が現在の評価、地位を得たのはそういった環境を最大限に使ってきたというのもあるが、その根源にあるものはこのクリストファーという男によって作られた。
 音楽の楽しさを、そこから得られる世界を教えてくれたのはこの人だった。
 彼は夏音の祖父のような存在であり、恩師であり、目標であった。夏音の目指す先にいる人間であった。

「髪を・・・・・・黒くしたんだな」
「うん。日本で金髪は目立って仕方がないからね」

 すると舌打ちが返ってきた。すねたように口を尖らせるクリスが夏音に厳しい口調で言う。

「母さんの色じゃないか。誇りをもてばいいんだ。周りの目など気にする必要はない」
「うん、そうだね。でも、これはこれで気に入ってるんだ。父さんの色だもの」
「おお、たしかに! ジョージのやつは喜ぶな。これはこれで親孝行か」

 ふふっと皺を寄せて笑うクリスにつられて夏音も笑った。
 気持ちが温かさに満ちていくのがわかった。彼と同じ空間にいて、緊張や不安といったものが長続きさせるのは難しい。
 昔から、変わらない。人を穏やかにさせるオーラを持ったクリスは一緒にいて誰もが心地よくなってしまう。

「風の便りに聞いていた。年の近い子供たちと音楽をやっているんだろう」
「うん。高校のクラブなんだ。みんなよくしてくれるよ」
「楽しいかい?」
「もう一年半ほどの付き合いになるよ」

 それが答えだった。夏音が同年代の友人たちと一年以上の交流を持ったことはない。たいていは一週間とか、そこそこ続いて数ヶ月。
 新しく結んだばかりの交友関係というのは、それなりのメンテナンスが必要だ。周りの子供たちは驚くほど刹那的で、その時を楽しく過ごせたとしても、すぐに遠くに行ってしばらくたつと、夏音を継続的な輪の中に迎え入れようとしてくれる子供はいなかった。

「そうか。そいつはいい」

 クリスは満足そうに頷いた。彼はそれから夏音の近況を詳しく聞こうとはしなかった。それよりか、どこのホテルに泊まっているか、疲れていないか、といったことを訊ねられて夏音は少々困惑してしまった。

「あのね、クリス」

 夏音が改まって話し始めようとすると、彼はそっと夏音の肩に手を置いてそれを遮った。そっと静謐を湛えた瞳は夏音を見つめた。

「カノン。いいかい。今は、彼女のためにすべきことをしようじゃないか」
「するって、何をさ」

 お祈りならこれといってない程した。そして、それ以外にできることなど思いつかない。
 夏音の心を見透かしたように笑ったクリスが、茶目っけをたっぷり含んだ眼差しで夏音に向けて言った。

「さあ、いこう。さっきから思っていたんだが、下があまりにも静かすぎると思わないか?」
「静かって、そりゃあ・・・・・・」

 階段を下りた先は弔問客と親族がひしめき合っており、自由に話しているものだからざわざわとうるさいが。
 彼の言っていることの要領を得ないまま、夏音はクリスに付き従った。階段を下りたクリスはすれ違う人々がしきりに彼と話そうとするのにもかまわず、プレイルームまで一直線に向かった。
 そこまでついて行くと、夏音は彼の意図することがやっと理解できた。

「さて、久々の再会を祝そうじゃないか」

 プレイルームに放置されたたくさんの楽器の中から、クリスは自分の愛器を手に取った。ここに着いた時に一緒に持ってきていたのだろうか。
 誰もが見慣れたフォルムのジャズベース。
 それに対して夏音は、日本からわざわざ持ってきた自分の特別な一本をケースから開けた。
 持ってきてよかったと心から思った。

 そこから会話はなかった。互いにすべきことが分かっている。彼は珍しい二段積みのアコースティックアンプに向かい、夏音は少し奥まったところにあった自分の使用機材の中でも筆頭の位置を占める有名なアンプに電気を通した。

 目立つ二人組だが、特に夏音とクリスが一緒にいるといやでも人目を引く。そんな二人がそろってプレイルームに向かったと聞いた人々が徐々に集まってきていた。
 興味深げに二人を見守り、またたっぷりの好奇心を含んだ視線を向けてくる。興奮のあまりか、甲高い声を上げてはやし立てる者もいる。

 周りの様子は気にならなかった。夏音は向かい合って座る人に全てを集中させていた。
 こんな光景の中にいることが怖くもあり、待ち遠しかったのだ。
 滑り出すように奏でられた音はどちらの音だったか分からない。
 夏音はクリスの息づかいを感じながら、彼が編み出す美しいフレーズに寄り添った。
 いつの間にかその場にあった調和が物語る。
 再会の喜びと、音に乗せて交わし合う意志の疎通。
 自分が持つ全ての経験と併せ持つ情景が、重なり合う。言葉にして自分を表現することは、音によってなされるそれより容易いことのように思える。
 しかし、自分たちは違う。
 音が雄弁に語ってくれるその人の有様。人の根源にある風景を、自分たちは楽器によって余すところなく伝えることができるのだ。

 技術は問題ではない。夏音とクリスの間には技術的には大きな隔たりがある。単純な実力で拮抗することのない二人が、彼ら二人でしか表現することのできない音を出している。
 聴衆は聞き惚れていた。
 この二人の組み合わせを生で見るのは、誰にとっても久しぶりのことであった。以前は当然のようにあった風景は、色あせることなくこの場所に帰ってきた。
 色あせるどころか、より研ぎ澄まされた二人の演奏は優れたミュージシャンたちすらも唸らせていた。
 この年にして、後退を知らないベーシスト、クリストファー・スループは揺るぎなく。常に尊敬を集め続ける超一流の威厳をもっている。
 しかし、もう片方の少年こそがこの場にいる人間の耳目に強烈な一撃を与えてきた。
 アメリカを離れ、音楽の世界から遠のいたように思われていたカノン・マクレーンはどこでどのように過ごしていたのか。
 その技術は衰えるどころか、確かな実力を携えて戻ってきた。技術的な面は言うまでもなく、彼の表現は新たな風をまとっていた。
 実に多彩な表現を評価されていたカノン・マクレーンが得たものは何なのか。
 彼の音を聴き、その正体までをも看破する者はいなかったが、確かに彼らは感じた。
 単純であるが、夏音ほどの年頃の人間に対して抱く感情としては実に特別なもの。

『成長した』と。

 常に上り続ける存在として、この少年がどこまで行ってしまうのか。未来への期待は聴く者の心をいたずらにくすぐってくる。
 彼を見ていたい、彼の音を聴いていたい。
 そう思わせる魅力がカノン・マクレーンには備わっていた。

 うっとりと甘く、繊細な音が打って変わり、陽気な世界を展開する。二つのグルーヴが跳ねて、抑えて、緩やかに疾走する音の気配に、お淑やかに聴き入っていた聴衆は即座に演奏に対応した。
 プレイルームはダンス会場と化した。
 笑い声が溢れ、ステップを踏む足が床を打ち鳴らす。
 たまらず飛び出てきたミュージシャンたちがその辺にある楽器を持ちだし、演奏に加わってきた。
 サックス、トロンボーン、ピアノ、ドラム、と賑やかになっていく音がこの場が本来ならばしめやかなものだということを吹き飛ばしていった。
 プレイルームは集まった人で満杯になり、熱気がこもった。
 誰もがフォーマルな格好を汗でびしょびしょにしながら、白い歯をみせていた。
 死人が飛び起きてきそうなほど騒がしく、ハッピーな空間だった。

 曲が終わると、拍手がわき起こる。互いがこの空間を共有していることを喜び、讃え合う。
 夏音もクリスと目を交わし、笑み崩れた。

「(なんでこんなことになってんだろ)」

 そう思う気持ちも懐かしさには勝てなかった。ふと自分は、こういう場所にいた人間だったのだと思い出したのだ。
 基本的に皆ノリがよすぎる。誰かの手拍子一つから馬鹿騒ぎができる。
 根っからのお祭り好きであるのは間違いない。
 皆、今がどんな状況だったのか忘れているのではないか。根っこがまじめな夏音は楽しいと思う反面、ジャニスがどうなっているか気になった。
 立ち上がった夏音はクリスと抱擁を交わし合うと、早く次やれよ! という視線から逃げ切ってプレイルームから抜け出した。
 やはり、プレイルームに人が集まっているだけにどこもかしこもがらんとしていた。
 ジャニスの亡骸が安置されているのは彼女の寝室である。そこへ行くと、彼女の近くに控えていたのは彼女の夫であるスコット、や譲二とアルヴィ。他にも弔問客が数名しかいなかった。

「大騒ぎが始まったわね。あなたが犯人かしら?」

 アルヴィが面白そうに瞳を輝かせ、夏音を見つめてきた。汗だくの夏音はそんな母親に肩をすくめて言った。

「みんな変わりないね」
「騒ぎたがりなの。いつどこだろうとね」

 呆れが混じった母の言葉には、どこか楽しげな雰囲気が含まれていた。彼女も、彼らのそうした陽気さが嫌いではないのだ。
 もしかしたら、今にでもあのプレイルームにかけだしていきたいのかもしれない。
 しかし、それをしない理由は何となく察することができた。

 アルヴィとジャニスは特に仲がよかった。親友のような、姉妹のような関わり合いを長年続けていたのだ。
 それこそ、夏音が生まれる前からの付き合いだ。
 ジャニスのそばを離れたくないのだろう。
 同じくらいの付き合いになる譲二も、妻と心境は一緒のはずだ。次々と訪れる弔問客の相手をする役目を負いながら、一度もこの部屋を出ていない。

 夏音は何となく、彼女の棺の近くに立って棺の中をのぞき込んでみた。真っ赤な棺の中に、生前彼女がここぞという時に好んで着ていた真っ赤なドレスに包まれたジャニス。
 化粧が施され、まるで眠っているかのような姿に夏音はやはり不思議な気持ちだった。
 現実でないような、しかしどこかで目の前の出来事を受け入れている。
 棺の中には彼女がリクエストするあらゆる物が所狭しと詰まっている。
 その中に、自分と彼女が一緒に写る写真が含まれていることに気がついた。
 その写真は確か、クリスの誕生日に一族が集まった時だ。毎年恒例の行事で、特別なものではないはずなのだが、彼女はこの写真を大切にしていたらしい。
 今より若い、いっそ幼いといっていいくらいの顔立ちの自分。五年ほど前の自分はいかにも子供といった顔立ちで、今の自分より少しだけ頬が丸い気がする。
 ジャニスはそんな自分を後ろから抱くように腕をまわし、満面の笑みを浮かべている。

「この写真、覚えているか?」

 横に立った譲二が写真をのぞき込んで話しかけてきた。
 
「あまり撮った時の記憶がないな」
「お前がその年にアルバムを出しただろう? 確かその写真を撮った一月ほど前だったと思う。クリスの誕生日の時、彼女がアルバムの中でお気に入りの曲をやってくれとせがんで、それをお前が演奏したんだ」
「ああっ! そうだった!」

 すっかり忘れていたことだが、この年は夏音が二枚目のアルバムを出した年であった。適当にセッションをしていた時、彼女が自分の曲をリクエストしてきた。「Hot River」という曲で、とびきりファンキーなその曲を彼女は聴きたがった。
 ベースを重ねて録っている曲だったが、それでも構わない。聴かせてほしい、と彼女は言ったのだった。
 夏音としても惜しむ理由もなく、リクエストに応えたら、彼女はそのまま一人で踊り始めた。
 彼女を中心として、すぐにダンスが繰り広げられていく光景をまざまざと思い出した。今の今まで忘れていたというのに。

「ジャンはいつも人々の中心にいたね」
「彼女ほど人を惹きつけ、愛される人間はいない。何より、彼女ほど深い愛を持った人物を知らないぞ、俺は」

 譲二の語る彼女は、もういない。目の前にいるのに、やっぱりいないのだ。
 目の前にあるのは亡骸で、すでに彼女はいない。

「君がいなくなると、さびしい」

 考えもせずに口からついて出た言葉にアルヴィがしゃくり上げる音がした。すぐに譲二が肩を抱く。
 ジャニスは言った。自分の葬儀で泣いてはいけないと。
 皆、それを守ろうとしている。誰だって、自分だってそうだ。

「けど、君は本当に楽天家だよね。君を失った俺たちが暢気に笑ってられるはずないじゃないか・・・・・・っ!」

 頬を伝い始めた熱いものを、止める気などなかった。周囲にいた者が、つられて嗚咽を漏らす。

「ひどいな、ジャン。俺の嫁と息子を泣かせてよ」

 譲二が震える声で、つとめて陽気にしゃべりかける。彼の目に涙はない。必死に堪えようとしているのか、顔が歪んでいる。

「ちょっとくらいは、構わないだろう? ちょっとくらい・・・・・・」
「ジャンなら何でも許してくれるわよ」

 くすりと笑いを漏らしながら、アルヴィはハンカチで目を拭う。それから、直立不動で涙を流し続ける夏音の頬に布をあてた。

「ほら、ここに人がいない間に引っ込めないと」

 夏音は「それでも止まらないものは、止まらない」とある種、開き直りながら母親にされるがままになっていた。
 すると、その時までジャニスの横の椅子に座り、ずっと黙したまま存在感を消していたスコットが立ち上がった。
 もともと寡黙な彼が何かを言うのかと、その場にいた者が注目する。しかし、彼は何かを言うでもなく、黙って部屋の隅に置かれたアップライト・ピアノの前に座った。
 カタリ、と蓋をあけておもむろに鍵盤を叩く。
 その旋律には聞き覚えがあった。
 ジャニスの曲だ。『Fly to the moon』。一昔前のジャズメン達の間で大流行した曲だ。
 彼女が書いた歌詞はとりとめのないようなものであって、ただ最後は「月にいってみたい」と連呼して終わる歌だ。

「スコットのピアノ、久しぶり」

 アルヴィの涙はいつの間にか引っ込んでいた。それは、その場にいた者全てにいえる。あまりに唐突だったが、彼の出す音はすぐに彼の世界に引っ張り込んでしまう。
 すでにピアニストとしてのスコットを知る者は少ないが、やはり圧巻であった。長年培った凄みとも言うべき何かが、間近に伝わってくる。

「wish i had a perfect day in Newark...」

 歌が重なる。もしや夫の奏でるピアノにジャニスが生き返って・・・・・・と一瞬だけ驚いたが、そんなはずはなかった。
 アルヴィだ。
 夏音は、この母親の歌声にはいつも敵わないと思う。どうしても身震いしてしまいそうになり、肉親ながら、歌手として最も尊敬する人物の一人と捉えている。
 二人の音楽は五分ほどで切り上げられ、その五分の間、家中に響いた音楽の力はプレイルームでどんちゃん騒ぎをしていた者たちをおびき寄せるのに十分だった。
 途方もない熱気をまといながら姿を現した集団は、アメイジング・グレイスを口ずさみながら行進してきた。
 曲に対して、ずいぶんと・・・・・・最高に、楽しそうだ。
 これには夏音たちも堪えきれなかった。
 腰を折って爆笑した。集団は夏音達ごとジャニスの棺を取り囲み、大合唱へと巻き込む。
 下から上まで、ありとあらゆる音域を持つ人間達が好き放題に歌っていた。本職の人間だらけだから、その声量から放たれる音圧で部屋が震えているようだった。
 スコットの伴奏が加わり、曲の初めに歌詞が仕切り直される。

アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる

「'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved,」

この曲を歌えない者は、この場にはいない。というよりも、この曲を知らないアメリカ人はいないだろう。
 この集いのなんとすばらしき所よ。全員が調和というものを知っている。ハーモニーを
生み出すことを呼吸することに等しく、体が覚えている者たちであった。
 いつの間にかきっちりと歌うメロディのパートが分かれ、それはまさに合唱の美しさを  その場に顕現させていた。
 女性陣が歌い、合いの手を男性陣が。
 時に重なり、慈しむように歌われる荘厳で美麗な旋律に笑顔以外の表情は存在していなかった。

「「「「We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.」」」」

 曲が終わった途端のことである。ピアノが暴れ出した。スコットがニヤリと笑むと、アップテンポのピアノに手拍子が混ざる。

「にくいぜ、こんちくしょう! 最高だ! スコット!」

 誰かが叫ぶと、それを肯定するように叫ぶ声が上がる。

 やはり、こうなった。
 夏音は集団の意志の中に溶け込み、先ほどまで泣きじゃくっていたことなど忘れて喉をふるわせた。
 隣にいるものと肩を組み、テキトウにステップを踏む。つい先ほどまでいなかったマークもいつ到着したのか、アコギを携えてこの輪の中にいた。どこから持ってきたのか、ウッドベースを担いで駆け込んできたクリスも加わり、リフレインするフレーズは永遠に続くかのように思われた。

「What in the hell!!?(いったい何と言うことだ!?)」

 プロの歌手数人の声にも負けじと響いた牧師の怒声によって、素晴らしい音楽の時間は終わった。
 もちろん牧師の怒りにすごすごと終わったわけではない。とりあえず牧師を輪の中にぶっ込んでしばらく歌い尽くした後、大拍手のもとに突如として始まった合唱は終了したのであった。


★      ★


 牧師が到着したことで、一時間ほどで「Wake(※日本で言う通夜のようなもの)」は終了した。
 後は持ち寄りの食事や、出前などが並ぶと立食パーティーだった。
 懐かしい顔ぶれが増えると、それだけ笑顔も増える。ジャニスの葬式という場ではあるのだが、それとは違う。彼らは生きているから、その喜びを精一杯に噛みしめているのだ。
 夏音も特に仲の良い者たちで固まっていた。
 マークやジュリア。グレッグに、エイミー、ブルース。
 話題は尽きず、互いの近況を全て語るには少し時間が足りなかった。明日に向けて、そろそろ本格的に準備をしなくてはならなかったからだ。


「いいなあ。俺は参加できないんだってさ」

 各関係者を交えて本格的に行われたミーティングの後、グレッグがすっかり拗ねた口調で言う。明日の葬儀で行われる墓地までの音楽パレードに参加するメンバーとして、彼の名は挙がらなかった。
 流石に集った者を全員オープンカーに乗せて演奏する訳にはいかなかったのである。
 楽器ごとの組み合わせを決め、誰がどの位置に配置されるかを決めなくてはならない。管楽器の者は身軽で良いが、ドラムやピアノといった機材を人ごと運ぶのは難しい。そこで用意されるのが、巨大な荷台をもつトラックである。
 そこにドラムが三台連なり、ピアノが並ぶ。もはや小さなステージといって良いくらいの規模である。
 ギターが九人。ベースが八人。ドラム三台。パーカッションが二人。トロンボーン・トランペットが六。サックスが九人。ピアノが四台。クラリネット一人。フルート二人。歌い手が八人。
 その他、コーラス。
 明日、町中を行進する音楽隊の編成である。
 通常の編成とは異なるが、それで構わないのであった。何でもできるバンドのできあがりであった。
 驚くべきことに、交通整備をする関係上こういうのは届け出が必要なのだが、彼女の死が明らかになった翌日にはその手続きを強引に済ませたというのだから、企画者のヴィクターの行動力はすさまじいものなのだろう。
 未だかつて成したことのない所行であるが、不安はなかった。失敗というものが存在しないのだから。
 何をやってもいい。それを言い換えると、何でもできてしまう集団なのだ。
 曲を決めるのは、今夜。譜面を起こしたり、パートごとにすりあわせをして曲を完成させる作業が続いていく。
 ここにいる誰もが、プロであった。作業が滞ることはなく、すいすいと進んでいく光景の中で、彼らは改めてお互いへ向ける尊敬の念を確かめ合った。
 それらを纏めるのはヴィクターである。彼は年齢を感じさせないタフネスを見せつけ、少しも休むことなく、明日に迫る舞台を整い上げようとした。
 たった一日、これだけの計画を纏め上げようとするのだから、彼の才気は常人とは桁外れなものである。
 意外にも、クリスはヴィクターに口出しすることなく、他のプレイヤーと同じように振る舞った。とはいえ、他のセクションの様子を見て調整をしたり、ベーシスト七人が最高のパフォーマンスができるように仕立て上げる姿は流石としか言いようがなかった。
 時刻が深夜を回らんとした時には、各セクションは仕上がった。曲目を頭にたたき込んだ彼らはリハーサルに臨んだ。
 実際に演奏する時間は一時間ほどである。だが、リハーサルはその倍の時間がかかった。
 移動をしながら演奏するということは、その時がくるまで何が起こるか予測不能である。風が強すぎたら、音が流れてしまう。また、誰かのトラブルの際にそれをフォローするための作戦がその場で練られた。
 深夜三時を回る頃には、くたくたになった一同は「また明日」と口にして解散したのであった。

「ところでカノン。今さらだけど、君はいいのかい?」

 さて、自分も帰るかと両親の姿を探していたところにヴィクターから声がかかる。何を聞かれているのか分からず、首をかしげる夏音にヴィクターが重たく口を開いた。

「明日は全米に君の姿が映し出されることになる。もしかしたら、大々的ではないにしろ、日本のニュースにも流れる可能性だってある」

 なるほど、と夏音は頷いた。夏音はミュージシャンとして、つまりあらゆるメディアに映し出される存在としてのカノン・マクレーンを休んでいる。そんな夏音の現状を配慮してくれているらしい。
 しかし、夏音の心に憂いはない。悠然と構えた様子でヴィクターに言った。

「それがいやだったら、とっとと尻尾を巻いて逃げているさ。心配してくれてありがとう。俺は、大丈夫」

 力強く見つめ返す夏音の瞳をのぞき込んだヴィクターはどこかほっとしたように表情を緩めた。

「そうか。なら、いいんだ。今日はすぐにでも休んだ方がいい。アルヴィとジョージならもう表にいる」
「そう。ありがとう。おやすみなさい」

 そう言って夏音はヴィクターと抱き合うと、表に出た。途中、まだ残っていた人々に声をかけられながら、夏音は自分を待つ両親の許へと歩み寄っていった。



★      ★


「一切の連絡なし」

 厳しい表情で腕を組む律は先ほどからずっと苛立たしげである。そんな彼女の態度が伝染しているのか、不安そうに眉を落とすムギが珍しく給仕に失敗した。
 ティーカップから照準を大きく外れた琥珀色の液体が机の上に広がっていく。

「ふ、ふきんふきん!」

 一人慌てるムギは即座にテーブルを拭き始める。そんな彼女の動作にもこれといった反応がない。
 このような居心地の悪い静寂は軽音部にとって異常事態であった。

「私、ニュースをずっと追ってみたんですけど」

 そんな事態を打ち破る鶴の一声が梓の口から発せられた。ガタリ、と音を立てる勢いで前のめりになる四人の反応に梓はちょっとだけのけぞってしまった。
 餓えた獣のような四対の目線は恐ろしい。

「ジャニス・コット・スループの葬儀は、音楽葬になるらしいです」

 梓はこのことが示す重大な出来事が先輩達に伝わると思った。どうだと言わんばかりに放った発表の後、しばらく反応がないことに「あれ?」と慌てる。

「え、だから?」

 素で問い返された梓はまるで信じられないものを見るように、律に視線を返した。

「おい、何だよその目は。失礼な感じだな」
「い、いえ。そんなことは・・・・・・」

 少し上から目線だったのは認めるが、些細なところに敏感な律は油断がならない。もごもごと口ごもって誤魔化す梓に、澪が優しく尋ねてきた。

「梓。それって、つまり・・・・・・あいつもそれに出るってことだよな?」
「その可能性はあります」

 頼みの綱の、頼もしさに救われた梓は理解者がいることで水を得た魚のようになった。

「音楽葬といえば、ニューオリンズだと有名な伝統だったりします。著名なミュージシャンなんかだと、よくニュースになるくらい壮大な音楽葬を行ったりして・・・・・・近いところでいえば、ホイットニー・ヒューストンの葬儀が中継されたりして。スティーヴィー・ワンダーを筆頭とした色んなミュージシャンが出席してましたね」
「ああ・・・・・・そういえば」

 ニュースを見ていれば、記憶に引っかかるくらい有名な出来事だ。思い出したのか、話題に近づけたのが嬉しいのか、唯が参戦してきた。

「そのジャニスさんのお葬式もテレビになるのかな?」
「どうだろう。ホイットニーほど有名じゃないだろうし、日本のニュースに挙がることはないんじゃないか?」

 日本のメディアは、「大衆」の関心にないものにはとことん消極的である。たとえ、それが界隈で有名な人物であろうと、あくまで「無知な者としての視点」から視聴者に伝えようとする。
 彼女の考察はそこまで外れたものではなかったが、梓は首を横に振った。

「いいえ。彼女はアメリカではそれなりに有名です。グラミー賞の舞台の上に立ったこともありますし。むしろ、知名度やCDの売り上げなんかを抜きにして、かなりの人気者ですよ」

 ジャニス・コット・スループは玄人受けが特別良いわけでもない。彼女が持つ求心力は、同じ業界の者や関わる人々をことごとく魅了してきたのだろう。

「葬儀に参列する人たちの名前、とんでもないことになってますよ」

 梓が英語の海外サイトにまで手を伸ばして集めた情報である。梓もそこに連なる名前を確認した時は驚愕した。
 これだけの有名人を集めて、何かの授賞式でも行うのかと問いたいくらいの面子だったのだ。

「それでも、日本ではあまり大きく報道されていなかったんですが・・・・・・なんと、生中継しちゃうみたいです」
「生・・・・・・? マジで?」
「すっごいねー」

 葬式の生中継。通常では考えられない事態である。日本でも芸能人同士の結婚式を生中継した例はあるが、あれも特例の一つであろう。
 ここに来て、彼女たちはジャニスというミュージシャンの死が、別の世界ではとんでもない関心事だったのだと理解した。

「もしかしたら、こっちでも先輩の姿がニュースで出るかもしれませんね」

 ほんの一瞬だけかもしれないが、全国で流れるニュースを知り合いが目にする可能性は否定できない。
 それこそ梓が危惧していることの正体であった。

「あれ、これ夏音くんじゃなーい? うっそー! 夏音くんって何者ー!? みたいに軒並みバレる可能性があるってことか?」

 ざっくばらんに流れをまとめてくれた律は、ふんと鼻を鳴らして即座に否定した。

「あのなー。ホイットニーの時のニュースだって、日本でどれくらいの扱いされたかくらい覚えてるぞ。あそこで映ってた人なんて本当にトップクラスで有名な人ばかりだったじゃん。夏音なんてひょいっと画面の端に見切れるくらいじゃないか?」
「せ、先輩に失礼ですよ! ていうか、どれだけ先輩のことナメてるんですか!」

 思わず語気を荒げてしまう梓であった。確かにネガティブに考えすぎているかもしれないが、律の考えはあまりに楽天的すぎる。
 客観的に考えると、「ここ数年姿を消していた天才少年ベーシストのカノン・マクレーンの姿もあります!」くらいに報道される可能性は十分ある。
 梓はそこまで考える自分は夏音のことを特別視しすぎているか、とふと冷静に考えてもみた。

「どうだろうな。まあ、映ったなら映ったでいいんじゃない? この桜高で話題になるとも思えないしな」
「澪先輩までそんな!」

 幼なじみの悪い影響か!? と目を疑った梓だったが、こんなに熱くなっている自分を冷静に見つめ返す余裕もあった。
 オホン、と咳払いをすると続けた。

「とにかく、先輩は名だたる演者たち、それも名手と呼ばれる人たちと一緒にいるわけですが。先輩がテレビに映る可能性は大です!」

 言い切った梓に「おぉ~」と感嘆のため息が漏れる。

「夏音くん、すごい!」
「全然分かってない!」

 瞳をきらきらと輝かせる唯に梓は腰の力が抜けてしまった。へにゃりと机にへたり込んでしまった梓の頭を撫でるのは、がっしりとした掌の大きさで何となく澪だと思った。
 慰めるだけじゃなく、この人達をどうにかしてください、と切に思うのであった。

「そんな友達がテレビに出る~、みたいなレベルの話じゃないっていうのにこの人たちは・・・・・・」
「私は、分かるから梓」
「うぅ~」
「まあまあ梓。私が思うに、お前はちょっと心配性すぎるな。よく取り越し苦労とかしてそうなタイプだろ、お前」
「余計なお世話です! 私が取り越した苦労についてどうこう言われる筋合いはありません!」
「いや、梓? なんかそれで日本語合ってるのか分からないけど、そういう問題じゃないだろ? 落ち着け」
「す、すみません・・・・・・失礼しました」

 反抗的な後輩の態度にも、律は特別気を悪くした様子もなく面白そうに目尻を上げている。
 それが余裕の態度に見えて、余計に梓は気恥ずかしくなってしまった。

「私が言いたいのはだな。あいつに関しては心配しすぎても無駄。空回りするだけだから、なるようになれーくらいに考えた方がいいのさ」
「まあ、たしかに。そういう所はあるな」

 間を置かず頷いてみせた澪に、ムギも楽しげに同意する。

「ね~。夏音くんって初めはミステリアス! なんて思ってたけど、ほんとただの男の子って感じよね」
「んーと、ムギはつまり何が言いたいんだー?」
「こっちが勝手に振り回されてるような気でいちゃだめ、ってことかな?」
「おお、言い得てしっくりくる。そんな感じだわ、ほんとに」
「ていうか夏音くんがテレビにちょっと映ったら何か大変なの?」

 やはり、彼女たちは違うと梓は実感した。さらっと繰り広げられる立花夏音の人物像は、彼女たちが一年と半年の歳月を共に過ごして得た実感値なのだ。
 わずか半年足らずの自分と比べ、その語る内容はやっぱり大凡正しいのだろう。
 逆に鼻息荒くしている自分がばからしくなってしまうではないか。

「はぁ・・・・・・そうですか」

 少しだけ肩を落とした梓の様子を目敏く見ていた律が「おお、元気ないじゃねーか!」と明るく絡んでくる。
 ズズ、とハーブティーを口にした梓は今や遠くの土地にて悲しみに暮れているかもしれない先輩を想った。

「(早く帰って来てください先輩。私では負担が重すぎます)」


★      ★


 日本から一万キロ以上離れたメンフィスの土地にて、朝から盛大なくしゃみを放った夏音は、母親に心配の声をかけられながら、目をこすった。

「いつの間に寝たんだろ」

 もう少しで夜明けといった頃合いに帰ったのは覚えている。そこからの記憶がない。

「それとあなた。必ずシャワーを浴びたほうがいいわよ。夕べは部屋に入った途端に死人みたいにベッドに向かってそれっきりなんだから」

 すでに身支度を完了させつつあるアルヴィにそう言われ、夏音は慌ててベッドから跳ね起きたのであった。

 一時間で身支度を終え、入念に身体をほぐした。ホテルのサービスで朝食を部屋まで運んでもらい、濃いコーヒーをブラックで飲んだ。

「あれ・・・・・・?」

 自分はコーヒーが嫌いだったはずなのだが。
 無意識に差し出されるがままに口に含んだ液体はそれほど嫌な感じはしなかった。
 ここ二日間、家族三人で朝を迎える新鮮さも、慌ただしい準備に追われて味わう暇はない。基本的に全員がギリギリのラインで生きる人間である。
 行き当たりばったりといってもいいが。

「すてきよ、ケニー」

 借りたものだが、夏音が母から受け取った洋服は・・・・・・・・・真っ赤だった。

「はぁ・・・・・・何でまともな服で葬儀に出られないんだろう」

 夏音がまともな(少なくとも、世間一般常識的に)服装で葬儀に出た回数は少ない。音楽関係者というのが全員ぶっ飛んでいるとは考えたくもないが、自分が出た葬儀はたいていの死人が口うるさい遺言を遺していく。
 本来、黒かグレーのスーツでも借りようと思っていたところにこの仕打ちである。

「なかなか着られないわよ、こんな色。アメリカン・ヒーローっていう映画があってね・・・・・・」
「おお、懐かしいな! ウィリアム・カットが主演だったな。劇中の曲がなかなかイカしてた覚えがある」

 中年の思い出話には興味がなかった。夏音はこんなに目立つ服装を親子三人でおそろいで着込むということに抵抗があった。
 いくら彼女の遺言とはいえ。

『私の家族たちは赤く染まって私を送ること』

 はた迷惑な遺言だ。

「心配するなって、息子よ。どうせ会場に行ったら真っ赤な奴らばっかなんだ」
「あんまり想像したくないね。目が痛くなりそうだ」
「大丈夫。この色を着こなせる人はそういないわ。つまり、一蓮托生ってこと」
「いいや、俺には君に相応しい色の一つだと思えるがね」
「まあ、あなた!」

 隙あらばいちゃつく両親を置き去りにして、夏音は素早く部屋を出た。
 過ぎ去る人にじろじろと見られた。

 早く会場に着きたいようで、着きたくない。
 そんな気持ちだった。





※ひっそりと更新。最後の更新から離れすぎていて、びっくりしました。
 中編が長すぎますね。



[26404] 第二十二話『Cry For...後』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2012/12/24 17:39
 ※注意~長いです~


 夏音がアメリカを離れる前の話だ。夏音にとって思いがけぬ人間の醜さを知る忌まわしい出来事が起こったばかりのこと。
 周囲の人間は、その時ばかりは陽気でなどいられなかった。胸が張り裂けそうになるくらいの悲しみと、世界が真っ赤に染まったかのような怒り。
 多くの人間が同じ気持ちを抱き、夏音を想った。
 夏音は自分の身に起きたことがよく理解できていなかった。人間の中に備わる防衛機能が働いていたのかもしれない。
 周囲の人間が怖い顔をして、自分をそっと抱きしめてくる日々が続く。ずっと曇り空の中にいるような気分だった。
 彼らの表情が再び輝くのを待っていた気もする。ただ、ずっと目の前を通り過ぎる事象がどこか他人事のようであり、疼くような胸の痛みを抱えて過ごしていた。
 自分の見えない所で、忙しなく動く両親の姿。一切の余裕もない両親が時たまに夏音に向ける笑顔はぎこちなく、初めて両親との間に距離を感じた。
 誰も彼もが戸惑っていたのだ。愛すべき存在が穢されたことへの怒りを、やり場のない感情を持て余していたのである。
 傍目から見た夏音は、きっと簡単に壊れてしまいそうなほど繊細に見えたに違いない。
 そんな時、音楽は救ってくれなかった。自分と、世界と、彼らをつなぐ絶対の存在はこの問題に介在していなかった。
 まるで世界が停滞したように感じていた最中、きっかけを作ってくれたのは、人の心であった。
 誰もが協定を結んだかのように同じ接し方をしてくる中、ジャニスは違った。
 彼女は彼女の中で沸き立った感情を包み隠すことなく、爆発させた。事件があってからしばらくしてから姿を現したジャニスは、夏音の目の前で泣いた。
 なかなかお目にかかれないくらいの大号泣であった。目の前で彼女に泣かれた夏音がぽかんとしていると、華奢な夏音の体をこれでもかと抱きしめたのである。

『ケニー! ああ、カノン! よく顔を見せてちょうだい。好きよ・・・・・・ずっと愛してるわ』

 片耳の聴力を失っていた夏音だったが、彼女の声はすっと体の中に入ってきた。

『ジャン・・・・・・久しぶり。いったいどうしたっていうの、ジャン?』
『あなたに不幸なことが起こらないように。毎日祈ってるの。神様はいつもご覧になっているはずよ・・・・・・こんなにも、天使のような子に不幸が訪れていいはずがないもの!』

 彼女はかなり興奮しているようだった。彼女が唸るように放った言葉はほとんど頭に入らなかった。
 それより、天使みたいと言われて気恥ずかしくなってしまった夏音は、彼女の腕の中でもじもじとした
 ややあって夏音を腕の中から解放した彼女は、はっとしたような表情をした後に、にっこりと笑った。

『あら、やっぱり天使みたいな男の子がいるわ。ほら、キスはどうしたの?』

 おかしげに片眉を上げて見せたジャニスに、いつもなら夏音は無邪気に彼女にキスを送っていただろう。
 しかし、夏音はその時は自分の心に迷いを持っていた。

『最近、お母さんとお父さんはあんまりキスをしてくれなくなったよ』
『そう。あの二人が、そんなひどいことするの?』
『ううん。ひどくなんかないよ。でも、どうしてかな? 俺、すっごく気持ち悪いオッサンにべたべた触られたんだ。たぶん、汚れが移ったんだと思うんだ。みんなには分かるのかな? 俺は汚い大人にはなりたくないな。だから毎日きちんと体を洗うし、シャンプーだってしてるんだ』
『あなたが汚い訳ないじゃない。大人になるとね、瞳の方に汚れが出ちゃうの。だから、汚く見えちゃう人もいるのよ』
『そうなの? みんなの目も汚れてるのかな』
『いいえ? みんな綺麗よ。ただ言わせたもらうけど、問題があるのは心の方ね。そろいもそろって腰抜けばかり。専門家とかいうアホの戯言をまじめに受け取っちゃって。
 わかる? これはゆゆしき事態ってやつよ。スループの名が泣くじゃない。アイダホのじゃがいも畑にでも埋まってればいいのに』

 彼女はよく夏音の前でもスラング混じりの言葉を躊躇なく使った。おかげで語彙が広がったのは確かだが、教育にはよろしくない単語ばかりである。

『みんな怖いの。あなたが傷つくんじゃないかって、びくびくしてるの』
『なんで? そんなヤワじゃないよ』
『男の子だからね。それがみんなわかんないみたい』
『ふーん。そうなんだ』
『さあ、ケニー。時間がないから手短に言うけど』

 彼女はそう宣言してから、本当に手短に言い切った。

『私は今からある男のキ○タマをアメリカンクラッカーみたいにしてから、すり潰してくるんだけど、これだけは覚えておいて。
 どんな手段を使っても、あなたは穢れないわ。誰よりも強い心を持っていて、誇り高く、純粋であってちょうだい』
『それから、カラテを習うの。知り合いにロシアでブラックベルトを取得した奴がいるの。ドウジョーをロスで開いているから、紹介しておくわ』
『いつでも電話するのよ。いいわね』

 番号が書いたメモを夏音に握らせて、もう一度夏音を抱きしめた彼女に圧倒されながら、言われたことを反芻しようとしていた時、

『ジャン! 何でいるの!? 絶対に来ないでって言ったじゃない!』
『Shit...!! ねえ、アル。何か問題でもある?』
『暴走機関車注意報がスコットからきたの。あなた今はメキシコにいるはずじゃなかったの!?』
『私がどこにいたって勝手じゃないさ』
『もう・・・・・・! 今のこの子にはもっと慎重に・・・・・・』
『お黙りよ! あんたがそんなんでどうするの!? あなたはもっと賢いと思ってたわ』

 ジャニスは怒りをあらわにアルヴィを睨み付けた。

『前から言いたかったことだけどね。あなた方はすべきことを放棄している。夫婦そろって二人とも、ずっとこの子と離れないでいるべきよ。確かに特殊な環境だと思うわ。でも、どんなに恐ろしいことがあっても、あなたとジョージがそばにいるだけでいいのよ。それがどうして分からないの?』
『そばにいるじゃない。最近はずっと一緒にいる時間をとってる』
『同じ空間にいればいいってわけじゃないの。過保護にしていればどうにかなると思ってるのならおめでたい頭だわ。少し考えてみなさい』

 冷たく言い放ったジャニスは再び夏音をぎゅっと抱きしめ、頬にキスをした。

『また一緒に歌いましょう。私はここを離れるけど、来週にはまた戻ってくるから。そういえば、ニューヨークでランディーの舞台が千秋楽を迎えるわね。よかったら一緒に行こうと思うんだけど、どうかしら?』

 彼女は保護者であるアルヴィにではなく、夏音に向かって誘いをかけてきた。夏音は彼女と出かけることが大好きなので、一も二もなく頷いた。

『と、そういうことなので悪しからず。じゃあまた来週に』

 腕を組み、黙ってジャニスを睨むアルヴィに手をひらひらと振ってジャニスは帰って行った。まるで嵐のような人である。
 怖い顔でしばらく俯いていたアルヴィは、ふいに夏音を抱き上げて、「ごめんなさい」と呟いて離してくれなかった。
 その日から、アルヴィと譲二は多くの予定をキャンセルして夏音といる時間を増やすようになった。
 後から聞いた話だが、ジャニスは夏音と別れた後、その足で夏音に迫った男のもとに殴り込みにいったそうだ。
 もちろん、事前に気がついた関係者の全力の阻止に阻まれたそうだが。
 言うまでもなく有言実行の人だった。彼女がもう少し冷静な人物だったら、きちんとした計画を立ててその男に復讐を果たしてしまっていたかもしれない。
 誰よりも烈しく怒った彼女の劇場を諫めるのに、ずいぶんと多くの人間が精神を削られたそうである。
 夏音はアメリカを離れるまで、十回ほどジャニスと過ごした。宣言通りにニューヨークに芝居を見にいき、モンタナまで行っては湖の湖畔でキャンプをした。
 周囲の反対など気にせず、夏音をさらっていくジャニスに両親は相当まいっていたようだが、それでもあの頃の夏音にとって彼女と過ごすことが救いになっていたのは間違いない。
 今になって自覚できることが多すぎて、幼かった自分を恨めしく思うこともある。
 与えられていたものに、気づかないで後悔することがたくさん増えた。
 人の視線の意味に、言葉にして伝えない空白にどんなメッセージがあるのか。
 彼女は数年間、音信不通だった自分をどう想っていたのか。
 何故もっと早く帰らなかったのか。遊びに来いと言われていたのに。
 どれも、もう過ぎてしまったことだが。取り返しのつかないことを、呑み込むことがこれほどにも痛みを共にすることなど知らなかった。
 今日という日で、自分の中で渦巻く色々な問題に一つの区切りがつく気がする。
 夏音は、そう感じていた。




 ホテルの前に止まっていたのは、いつぞやのド派手なハマーではなかった。幸いにも、と言い切るにも微妙なリムジンではあるが。黒塗りの「いかにも」な雰囲気を醸し出す車に夏音は微妙な心持ちであった。

「まあ、貫禄ってのも必要なんだ。近頃じゃハイブリッドカーでアカデミー賞に現れる俳優もいるみたいだが、何と言っても民衆が有名人に期待するのはこういうのだってことは間違いない」

 居心地が悪そうにシートに収まる息子を見て、悠々と足を組んで構える譲二が言う。

「俺はどうしたって分からないよ。何だってこんなに長くする必要があるんだ」
「さあ。長ければ長いほど良いのかしらね?」

 そんな他愛のない会話をしながら、車はすぐに目的地へと到着する。

「さて、さて」

 譲二が胸元から取り出したサングラスを装着すると、アルヴィもそれにならう。そんな二人をじっと見つめていた夏音に譲二が豪快に笑った。

「何だい息子よ。俺が007にでも見えたのか?」
「あら、それなら私がボンドガールね?」

 脳天気な両親である。どう見ても真っ赤なスーツを着込んだ譲二は、カンフー映画のやられ役の方がお似合いである。
 そんな息子の残念そうな視線に気づかず、窓の外の風景に目をやる譲二。優しい息子は何も言わず、両親と同じようにサングラスをかけた。
 車を降りた瞬間に浴びせられたフラッシュの嵐。あの音は、非常にうるさい。一つ一つなら大したことはないが、ああも数多くのカメラが連写してきたら、それは喧しいのだ。
 懐かしい感覚である。けれども、懐かしいと感じるのは一瞬で、こうやって撮られることも、五感が捕まえてくる情報にも慣れてしまうのだ。

 人、人、人である。あまりの人の多さに酔いそうになるくらいの人だかりだ。報道陣だけでなく、教会の前に集まったのはジャニスのファンだ。
 ぱっと見ただけでも三千人くらいはいるだろう。
 流石というべきか。夏音もこの光景の中で、なんとか堂々と振る舞うことに成功していた。
 内心が揺らいでいても、外面を取り繕って有名人の殻を作り出す。
 譲二やアルヴィも同じだ。実に怖めず臆せず、彼らの存在感を周囲に解き放っている。
 幾つかの取材陣に対し、軽く応答しながら、三人は教会の入り口まで進んでいった。途中には、友人たちが取材を受けている姿も確認できた。
 そこらでレポーターやジャーナリストといった人種が群がって好き勝手話しているものだから、もはやノイズにしか聞こえない。

 夏音はとっとと教会内部に入ろうとした。しかし、思わぬ邪魔が入ってしまった。

「やあ、カノン。カノン・マクレーン? Courtyard TVよ。元気そうで何より!」
「・・・・・・ハイ、ありがとう」

 気さくに話しかけてきたのは、マイクを持った女性である。彼女の後ろに控えるカメラはまだ回っていないことを確認する。
 彼女の名前は夏音も知っていた。彼女は年中どこぞのお城みたいな豪邸の中庭でミュージシャンを出演させる番組の司会のメアリー。夏音は過去に二回、出演したことがある。
 一度は一人で、最初に出た時はクリスのおまけみたいな扱いだった記憶がある。

「ここで会えるとは思ってもみなかったから、驚いたわ。よかったら少しだけ時間をくれないかしら?」

 取材の申し込み。といっても、五分ほどだという。夏音は両親の顔をちらりと窺ったが、二人とも別の取材陣に囲まれていた。
 夏音もいっぱしの芸能人の一人で、親に決めてもらう年でもない。受けるも受けないも自由なので、少し考えた後に了承した。この映像が夕方のニュースに流れるかもしれない、と思いなが気さくな青年の皮をかぶった。
 カメラが回り、メアリーの雰囲気が一変する。誰にでもフレンドリーな陽気なお姉さんになった彼女は、夏音の全身に大げさに視線を巡らせてみせた。

「・・・・・・赤い! わね」
「そうだろう? 今日はみんな真っ赤さ。世界一赤が似合わないマーク・スループだって仏頂面して着込んでるよ」
「さっきここを通り過ぎたわ。あんまり早く通り過ぎるものだから、誰も彼を捕まえることができなかったの。次の就職先はシカゴ・ベアーズという噂を?」
「彼なら優秀なタイトエンドになれるだろうね」

 マークは、カメラの前でもいじれる存在として夏音の中で位置づけられている。ファンであれば、夏音とマークの仲を知っているから、遠慮もいらない。

「ジャニスの死は、我々にとって途方もないくらいの喪失です。もちろんあなたにとってもそうでしょう」
「そうだね。彼女を失う者は、あまりに多くを失うことになると思う」

 頷くメアリーの目を見て、夏音は続けた。

「けれど、それ以上に彼女が置いていったものは大きいと思うよ。彼女がいってしまい、悲しいし、ぽっかりと穴が開いたようだ。けれど、ジャンからもらったものは言葉じゃ言い表せないくらい、たくさんなんだ」
「分かるわ。あんなに偉大な女性はいないと思う」
「そういう表現は彼女は好まないだろうけど、偉大というのには同意だね。けど、彼女の何をもって偉大というのかは人それぞれだよ。みんな彼女に色んな形でもらったものがある。
 だから、ここに集まっているんだ。見える? こんなにばらばらな職業の人間が集まったよ。平日だっていうのに、こんなに人がいる。彼女を送るためにみんな集まったんだ。これが全てだと思わない?」

 インタビューというのも忘れ、一方的に話してしまった。夏音は余計な相づちを打たれなくなかった。
 テレビの前でいちいち反論することはしたくなかったからだ。様々な解釈があってもいいだろうが、自分に同意を求めることはされたくない。
 ジャニスのことをすでに美化してまとめないで欲しかった。しかし、夏音が言ったことは真実をついていた。
 この場所で見えるものこそが、答えの一つであった。
 参列する者たちの表情。
 泣きじゃくる者もいるが、多くの人間は非常に穏やかな顔をしていた。ファンの多くはメッセージを書いたボードを掲げている。
『SIP! Sing In Peace』『Thank you Jan!!』『Love You』
 でかでかと。
 感謝の言葉が書き殴られている。
 彼女の曲を歌い始める者たちもいた。献花台はすでに花で溢れ、彼女の写真にキスを送る者。笑顔で。
 ジャン、と叫ぶ者。嗚咽まじりに歌い続ける人。何でこの場所にいるのか、よく分からない人。

「今日はあなたのプレイがまた聴けると思っていても?」
「それは後で分かるよ」

 インタビューが終わると、夏音はさっさと教会の中へ入った。そこで思いがけない人物の顔を見つけた。

「ポール!」

 彼の、ポール・アクロイドの全身真っ赤なスーツ姿というのはなかなか衝撃的だった。いざ声をかけたはいいが、絶句したまま気の利いた台詞が浮かばないでいた夏音に、彼は苦笑いを作る。

「何も言わなくていい、カノン。君も立派な共犯者さ」
「さあ、何のことかな?」

 そう言って笑い合って、彼の隣に並ぶ。教会内部は非常に広く、大聖堂と言われても遜色ない程、立派な建物だ。
 荘厳な建築、あらゆる所に浮かびゆらめくキャンドルの火に、巨大なステンドグラス。
 久しぶりに教会に訪れた夏音は、また一つ自分の中から抜け落ちていた物が戻ってきた気がした。

「教会なんていつ以来だろう」
「おや? 君は日本ではミサには行かなかったのかい?」
「何でだろう。思いつきもしなかったよ。もともと足繁く通っていたわけじゃないけどさ」

 そもそも熱心なクリスチャンでもない。
 そこらに著名人がいる光景をふらふらとした足取りで進んでいく。この空間に潜んでいる不思議なパワーは、教会の壁に刻まれ、染みこんでいる歴史の息づかいに感じた。
 なるべく人工的な光がないようにされているのだろう。しかし、だからこそ目につく。
 数カ所に置かれたカメラ。集音マイク。
 この葬儀には、莫大なお金が関わっている。
 用意された警備員の数は250人。パレードのための交通規制や、演奏に必要なスタッフ。その他、諸々。

「これは、彼女が望んだことなんだけどさ。やっぱり、見たくないものも見えてしまうんだよね。俺の我が儘なんだけど」

 夏音が小声で言うと、ポールはぽんと肩を叩いてきた。

「よく分かるさ。君の気持ちも、みんなの気持ちも分かる。彼女のことをよく知り、愛した僕たちにとっては、こんな風に送り出すのは本望ではない。違うかい?」
「だいたい、あってる」
「彼女らしい。彼女らしすぎて、納得してしまうんだけどね。もっと親しい人だけで、集まりたかったと思ってる?」
「それについては仕方がないとあきらめてる」
「その通りだ。仕方がない。僕たちは、きっとそうすることが許されないんだろう。式に関しては、親族の自由だからもっとこぢんまりとすることもできたろうけど。ジャンはちゃんと自分というものを理解して、受け入れていたんだろう。自分の存在が意味することを。
 自分以外に自分という存在を占めている存在たちを無視することができなかったのさ」

 ポールの言わんとしていることは、ほとんど理解できた。心のどこかが納得していないだけである。自分ではどうしようともできない部分で、それはほんの少しだけ表に出てきている。
 彼女を愛する人間はあまりに多い。ファンとの付き合いは、彼女の半生そのものであった。
 きっと、自分の葬式の時にはこんなことにはならない。夏音はそれだけは確信をもって言える。

「彼女が選んだことだ。そして、これが間違いかどうかはこれから決まる。そして、これもわかりきっていることだが」

 ポールは片頬をあげ、クールな笑顔を向けてきた。

「最高な時間になる、僕たちがそうするんだ。そうだろう?」

 この人は、本当にどこからどこまでも格好良すぎる。彼の言う通りである。見守るだけではない。自分たちが証明するのだ。ジャンの生きた証を。
 夏音はわかりきっていたことを再確認させられ、屈託ない笑顔を返した。

「そういえば、そうだったね」

 最高な時間に。人生に一度だけの、今後は二度と起こりえない今だけの出来事。これから始まるのは、非現実的で、まるでファンタジーのような気さえしてきた。
 根本的なことを忘れかけていた。

「ジャンが寂しくならないように。ちょっとがんばらないとね」
「その意気だ」

 ポールは嬉しそうに手を叩いた。満足そうな表情の彼と拳を合わせると、間に割ってはいる人物が現れた。

「ヘーイ! ハレルヤ! どうだい調子は? ケニー。久しぶりすぎて誰だか忘れてたぜ」
「ねえ、ポール。このハゲは誰だっけ」

 つい今までご機嫌だった夏音の声は冷気を帯びていた。そんな夏音に乗っかったポールが肩をすくめる。

「さあ。僕も海兵隊の知り合いはいないんだが、どちら様だろう?」
「おい、ふざけんなよ! お前はともかく、俺はこの美少女ちゃんに冷たくされる覚えはないぜ」

 大袈裟に手を広げて抗議してくるこの男こそ、「Silent Sisters」のドラマーであるレヴィ・ストリンガーである。
 メンバーの入れ替えが多いバンドの中で、初期の頃からポールの相棒として長年連れ添っている男だが、夏音も実力は認めている。
 しばらく無表情を向けていた夏音だったが、耐えきれずに吹き出した。レヴィも破顔一笑して、夏音の顔をじっとのぞき込んでいた。

「どれ、少し背が伸びたな。元気そうで本当に安心したぞ」

 おふざけの雰囲気を消し、真摯な言葉を送ってきたレヴィとがっしりと抱き合った。夏音としても、懐かしさで胸がいっぱいだった。
 最初のやり取りは、夏音とレヴィの中では割と定番のものである。

「俺はてっきり、お前はもっとガリガリにやせっぽっちになると思ってたんだ。今でも十分にやせてはいるが、まあその顔にはちょうど良い感じだな」
「相変わらず失礼なお口だね。レヴィはちょっとお腹出てきたんじゃない?」
「なんだと? この場でそんなことはないと証明してみせようか?」
「ハハハッ! 遠慮しとく」

 自分の発言が引き金になって公衆猥褻物をさらすのは忍びない。ひとしきり笑い合った後、ポールが場所を移動しようと言った。
 立ち話をしている間に続々と人が入ってくる。三人は前列の方に向かった。
 最前列はスコットを並びとするジャニスの家族が座るが、その他の親族や関係者があまりにも多すぎる。
 前列付近のどこかその辺、といった認識でいた夏音だったが見慣れた顔が座っているあたりに腰を落ち着けた。
 ポールとレヴィは何故か遠慮したのか、夏音のちょうど後ろの列に着席した。なので、自然と夏音は後ろを向いて二人と話すことになった。

「こんなに異色な葬式は久々だな」

 しっかりと赤いジャケットを羽織ったレヴィがおかしげに言う。がっしりとした彼はジャケットが似合うのだが、どうにも首から上とマッチしない。
 隣に座るポールは曲がりなりにも、色男である。キャラクターにはそぐわなくとも、しっかりと着こなしている風なのは流石であった。
 そんな夏音の内心を見抜いたのか、レヴィが眉をひそめて鋭く言ってきた。

「俺の頭はな、剃っているんだ。昔からな」
「なんで今それを言うの?」
「いや、何となくだが」
「彼は昔、ライブの最中に髪が燃え尽きてしまったんだ」

 マジか、と夏音が目をむくとレヴィが盛大に舌打ちをする。

「その話は半分は正解だ」
「え、嘘。ホントなの?」

 彼の頭に関する真実が明かされた瞬間であった。大して興味があった訳ではない上、そこまで大した情報ではないので、今まで知らなかっただけであるが。

「火が吹き出る装置に突っ込んだのが原因だが、一部が燃えすぎたみたいでな。毛根の幾つかが悲劇的な死を迎えたそうだ。以降、俺の頭皮の一部は息を止めたのさ」
「不毛の大地になったわけだ」
「不毛だけに、と? くくっ」

 もう無理だった。腹がよじれるほど笑ってしまった夏音であった。声を立てて笑う夏音を何事かと見てくる者がいたが、そんなことはお構いなしに、レヴィは夏音の首を締め上げてきた。

「また生意気な口が育った、な! このやろう!」
「アハハ! やめてよレヴィ! それに言ったのはポールだよ!」

 ポールは素知らぬ顔で締め上げられる夏音を見守っていた。夏音がやっと解放されたと思いきや、またもや彼は爆弾発言を落とす。

「そういえば、君の毛根の葬式がまだだったな。ついでにやるかい?」

 夏音は、どうしてポールがレヴィからぶん殴られないかが不思議で仕方がなかった。


 それからすぐにアルヴィと譲二がやってきた。少し離れた場所で、さっきからずっと夏音たちのやり取りを無視していたマークの隣に座り、なにやら楽しげに話している。
 後ろを振り向くと、席がほとんど埋まっている。
 来場者の波が落ち着いた所で、式が始まる予定だ。二時間半以上の長いスケジュールに沿って行われる予定だが、どこか浮ついた気分だった。
 ざわめきは収まることはない。
 そこら中で再会を喜ぶ姿があり、抱きしめ合う人々。
 前方の真ん中に置かれた棺に目を向ける者の表情は、筆舌に尽くしがたかった。彼らがどんな想いを抱いているのかは分からない。
 親しげな笑顔と、寂しさが入り混じった表情は、何とも言えない気分にさせられる。
 棺には白い花が添えられていた。
 会場が真っ赤なだけに、その白さは際立つ。あの花も、彼女の希望なのだろうか。何の花か分からないが、その花の白さも彼女を表すものの一つだと感じた。
 腕時計を確認したら、予定の時間があと僅かにせまっていた。
 合唱隊が入場してから、牧師が壇上に現れる。
 気がつけば静けさが広がっていた。
 誰かの息づかいさえ聞こえてきそうな静寂の中、長い長いサヨナラの儀式が始まった。


 ★     ★

 合唱隊のゴスペルから式が始まった。それからの流れはこうだ。
 牧師によって聖書の中の言葉が読まれ、祈りの言葉が唱えられる。ジャニスと関係のあった者のスピーチ、選ばれたミュージシャンによる歌が終わると、また別の者が壇上に立つ。
 音楽レーベルの会長、ジャニスと親交が深かったプロデューサー、かつての恋人、友達。
 様々な人が彼女を語った。
 それは面白おかしく、腰がくだけるほど笑わされるものであったり、思い出を語るうちに涙を誘うものもあった。
 誰もが彼女との関わりの中で得たものを惜しげもなく口にした。彼女が与えたものに感謝をした。
 破天荒なジャニスのエピソードは知っているものから、ここに来るまで誰にも話されることはなかったものまで。彼女と一緒に働いた数々の悪事を暴露する者もいた。
 自分たちが知る彼女がどんな人間だったのかを確かめ合うように、尽きることがない話で溢れていた。
 そうして次々に壇上へ立つ人の中に、アルヴィ・マクレーンがいた。
 いつもより濃いめの化粧をした母は、眼下にある棺にそっと視線を落とした。
 しばらく何も言わないでいるアルヴィに、激励するような言葉や拍手が投げかけられた。
アルヴィの姿を見ていると、名付けようのない感情が押し寄せた。あそこに立つアルヴィの姿があまりにも心細くて、心がしくりと痛んだ。

「Twenty one Years」

 透き通った声が響く。一瞬でしん、となった教会の中で彼女の言葉は続く。

「21年よ。私は、あなたと21年前に出会った。そうね、場所はラスベガスだった。私は赤いロングドレスを着ていて、あなたの服と思いっきりかぶったの。初対面の人間の前で、それも会った瞬間に自分のドレスを引き裂いてみせた女は後にも先にもあなただけよ、ジャン」

 簡単に想像できるエピソードに会場が笑いに包まれる。

「信じられる? そのドレスのデザイナーがちょうど彼女の隣で卒倒しかけているのに、私に向かって歩いてこう言ったのよ。『こっちのがイカすでしょ。ご心配なく。脚には自信があるの』ですって! その後の展開は知ってるかもね。丈が短くて、裾がまばらなシャギーになったドレスが流行ったのよ」

 拍手が割れんばかりに大きくなる。立ち上がる者まで出てきた。

「その時の私の印象は『変な女。関わらないようにしよう』だった。けれども不思議。私の人生には欠かせない親友になったわ」

 アルヴィの声が少しだけ震える。だが、すぐに持ち直した彼女は言葉を止めなかった。

「それからはいつだってあなたは私の親友で、私の姉妹だった。時には私を叱ってくれて、導いてくれた。あなたがいなかったら、ここにいなかったって思うの。
 それほどあなたは、私の人生でかけがえのないものだった。
 私は、あなたと、生きた。そうでしょう? 私はあなたの中で生きたし、あなたは私の中で生きて、これからも生き続ける」

 愛しているわ。そう呟いた。
 繰り返し、確かめるように。「Love you」と。

 アルヴィは十分ほどで弔辞を終えた。そして、徐ろにマイクを手にする。
 壇下に用意されたピアノにはスコットが座っていた。今回、彼は全ての伴奏を担うという。
 弔辞を行わない、という彼の頑なな意志は皆に渋々ながら受け入れられた。

「All right. 私はスピーチは昔から苦手なの。こっちがいいわ」

 流れるメロディーは聞き覚えがありすぎた。アルヴィの曲で、彼女がデビューした時によく歌っていたカヴァーソングである。

「Today is your day. I`ll song for you darling.」

 どうしてアルヴィがその曲を選んだのかは分からない。歌詞の中身も、何の変哲もない恋歌である。
 別れを連想させる要素など、何一つないのに。しかし、彼女こそは本物の中の本物であると確信させられる。
 それだけの力を振る舞える彼女は、世に認められるシンガーであり、今はただ一人の人物のためだけに歌っている。
 そこには口で語るよりも何倍もの感情が詰まっていた。最初こそ聞き惚れていた人々は、途中から一緒に口ずさみ始めた。
 有名な曲である。合唱隊が即興でコーラスに入り、いつの間にか教会が揺れるほどの大音声にまで脹れあがっていた。
 アルヴィの声は巧妙に、ほんの少しだけ調和を避けて浮遊していた。どんな音の中にも埋もれず、貫くように響き渡った声が、やがて最後の音を手放すのを見届けた聴衆は、温かい拍手を彼女に送った。
 涙を堪えきれなかったアルヴィが席に戻る。途中、多くの友人達に抱きしめられ、肩に優しく手を置かれながら、彼女は譲二に抱きしめられる。肩を震わせ泣くアルヴィを譲二は優しく包み込んでいた。
 それから引き続いて壇上には代わる代わる知り合いが立った。ヴィクター、クリストファー、ジュリア、ウェイトン、カウント、マーク、ソフィア、コーディ、ナターシャ。その内、何人かが彼女の曲や、自分の曲を披露した。
 そして。
 夏音は立ち上がり、壇上に上った。あまりに多くの視線が自分を貫いてくる。ライトが当たり、そして真下には彼女が眠る棺があった。閉じられた棺の中に彼女がいるなんて信じられなかった。
 けれど、これが現実であることをそろそろ夏音は受け入れなくてはならなかった。

「ハイ、カノン・マクレーンです。お久しぶり」

 まずは、出だしはこれだろうと決めていた。夏音の姿を長らく見ていない人も多い。それは夏音も同じことで、予想以上に大きな拍手が返ってきたことに目を大きくしてしまった。
 もっとがちがちに緊張するかと思ったが、何のことはなかった。まるで夏音の体を覆っていた薄い衣が滑り落ちるように消えてしまった。
 ありったけの慈悲と、寛容と、親身な視線を感じるのである。夏音はちょっとだけ微笑むと、滑らかな口調でしゃべり始めた。

「僕と彼女の付き合いは、それこそ生まれた瞬間からだ。この世で三番目に僕を目撃したのが彼女という話だからね。出産の時にそばにいたのは父さんじゃなくて、ジャニスだったんだ。さらに言うなら、僕をこの世で一番最初に抱きしめたのは彼女らしい。むちゃくちゃだよね」

 生まれたての赤子を、細心の注意をもって産湯に浸からせる役目を負った看護士は急に飛び出てきた黒人女性にその役目を奪われ、呆然としていたらしい。
 破天荒もいいところだろう。
 会場にいる多くの人間は、夏音がジャニスやスループ達とどんな関係なのかを知っている。だから、今さら自分と彼女の関係性を説明する気はなかった。

「ジャン。君はいつだって子供の僕を温かく慈悲深い目で見守ってくれた。お茶目な君に振り回されることも多かったけど、そういうのが楽しくてしょうがなかったよ」

 語りかけるように、夏音は思い出を、大切に綴るように披露した。夏音が関わると、特に彼女はクレイジーになったらしい。
 この場に座る者は皆、夏音の言葉に耳を傾けた。一人の少年が関わってきた彼女の姿を思い浮かべようとしていた。
 今日、壇上に立った人の語る彼女の姿はまるで脳裏に浮かぶようなほどリアルで、また新たな発見の連続であった。
 十五分ほど夏音は語った。語り尽くすことができないほどの思い出があり、どこかで打ち切らなくてはならないことは理解していた。用意された時間もある。
 先ほど、母がどうして途中で照れた笑いを浮かべて歌に入ったのか、その理由が分かった気がした。

「このパターンが続いて申し訳ない。今日はスコットの伴奏がつくって聞いたんだ。滅多にないからね。
 ジャン。君がよく僕に歌ってくれた歌があるだろう? たくさんあるけど。その中の一つが昨日の夜、ふと頭に浮かんだんだ。その歌詞の中の言葉が好きなんだ。スコット頼むよ」

 夏音がマイクを持つ。遺族なのに、一番働いているだろうスコット。彼と目を合わせると、温かくも頼もしい視線が返ってきた。

「You and I must make a pact....」

 夏音の大好きな曲でもあった。ジャニスはたくさんの歌のレパートリーを持っていて、惜しげなく夏音に聴かせてくれた。
 この歌のメロディーはとても繊細で、幼い頃にこの曲と出逢った時の衝撃はすごかった。
 人前でこの歌を歌うことになるとは思ってもいなかった。

 「「「I`ll be there」」」

 幾つも跳ね返ってくる。そのことに少しだけ不意を突かれた。
 はっきりと聞こえてくる親しい人々の歌声が、夏音と寄り添って曲を浮かべてくれている。
 マークがギターを弾き、ドラムをフィリーが。ベースはヴィクターが担当してくれている。
 今回、伴奏につく人は自由である。この曲をやると言って、昨日の話し合いの中で「これ、やってよ」と選んだのだ。
 四人の息はぴったりで、それぞれの表現が優しくダンスしている。

 
 私の夢であなたを包みましょう
 あなたに会えてよかった
 
 どんな事にでも力になろう
 私はあなたの味方だから


 歌っている内に感情がこみ上げてくる。背後から体を震わせてくる合唱隊のコーラス。プロのシンガー達の個性豊かな歌声と共鳴する自分の声。
 感動せずにはいられなかった。
 このやり取りに鳥肌が立たない者がいるだろうか。伸びやかな声を持つ夏音も負けてはいない。
 本来、歌の方は本分ではないと思っている夏音であったが、彼の歌を耳にした者であれば、彼もまたシンガーと名乗ることを許されると評価するだろう。

「I`ll be there.」

 そこにいる。私はそこにいる。

 これから生きていく中で、彼女を感じ取れるだろうか。世界に散らばった彼女の意志は、人々の中で生きていくだろう。
 そして、思い出は自分たちの胸の中に。彼女と過ごした場所では、そこで彼女の息遣いを。視線のきらめきを思い出すのだろう。
 きっと、彼女を感じて生きていける。希望はまだ残っている。そのどれもが、いつかは必ず薄れていってしまうものかもしれないけれど、夏音はまだ目の前で輝いている希望の方をずっと見ていたいと思った。
 そんなことを考えながら、夏音は心に染み入るものを、ただ受け入れながら歌った。

 曲が終わり、拍手の中にいると、何とも言えない見覚えのある高揚感が満ちていた。マイクを置き、壇上を去る。
 席の戻る途中で前列のほとんどの人が夏音に駆け寄ってきて、代わる代わるに抱きしめてきた。
 最後に両親の元へ向かうと、譲二はぽんと夏音の頭に手を乗せてきた。アルヴィは涙でぐしゃぐしゃに顔を濡らしながら、夏音を胸の中にぎゅっと抱き寄せて離してくれなかった。
 家族なのだ。自分は、大きな大きな家族の中にあるのだということを思い出した。
 元の席に何とか戻った時にはポールとレヴィが迎えてくれた。二人とも実にご満悦な表情で夏音を讃えた。
 この二人に褒められるのは、どこか恥ずかしい。それと同時に誇らしかった。
 それから多くの人間が語り、時間はあっという間に過ぎていった。別れの時は近づき、最後の大役を果たすため、夏音は大きく息を吐いて気合いを入れた。



 やがて、出棺の時がきた。全員が立ち上がり、棺の運び手が彼女の棺の横に並び立つ。

「お願いがある。ちょっとだけ静かにしてくれ」

 その時、クリスが壇上に立って喋ると、会場がしんと静まりかえって彼を見つめた。

「その時がきたのだ。皆はもう分かっているだろう。彼女の鮮烈な人生をそばで見てきた我々は、その最期までもを見届けなくてはならないだろう。彼女が描いてきた軌跡はいまだ途切れることなく、ここまで続いている。生前、彼女はこの時のために我々を頼ると言った。
 任されたのだ。
 その最期の軌跡を描くべく、集った家族たちよ。
 準備はいいか?」

 そこで動き出した者がいた。
 ウェイトンである。
 愛用のヴィンセント・バック社製のトランペットを手に持った彼は、ゆったりとした動作で棺の前に立つ。入り口の方を向き、棺を先導するかのように。

「ありがとう、ウェイトン」

 クリスは続けて、高らかに宣言する。

「さあ、ジャニス。お別れの旅路に出発するよ。我々は、決して最期まで君を一人にはしない」

 王者の音色が爆誕した。

 空間を丸ごと揺さぶるかのような音圧である。

 子供の頃、いつでも彼の吹くトランペットに圧倒されていた。夏音はつい笑ってしまう。

「(いつだって最高だよ、ウェイトン。変わらず、あなたの音は王者の風格だ)」

 彼に追いつこうとする若者達に幸あれ。この揺るぎない第一線の音に並び立てる者など、そうはいない。
 普通ならば、だ。
 その稀少な例が、この場所にはいる。怪物みたいな実力を持つ人間がこれでもかと集っているのだ。
 ウェイトンの隣にすっと並び立ったジョナサン、トミー、ローランド。四人のロングトーンが途切れた時、教会の扉が開け放たれた。
 先頭を切る四人に続いて、棺が運ばれる。行進が始まった途端、会場に手拍子が起こった。
 しめやかな雰囲気など、四人の音が簡単に消し飛ばしてしまった。重厚なのに、どこか軽やかな音を放つ四人に先導されて、棺は表へ向かう。
 夏音たちも棺が完全に教会の外に出るのを、ただぼうっと見ているわけではない。決められた順番通りに整列して、棺の後を着いていく。

 稀代のパレードの始まりである。


★       ★


 世界中がそのパレードを見つめていた。ネットやテレビの前の人間は、カメラが捉える映像を見て、自分の胸が躍り始めるのを感じていた。

 教会の扉が開き、悲鳴混じりの歓声が飛び交う。それらを打ち消すほどの音量が、先頭に立つ四人から発される。
 そこには、ありとあらゆる感情が嵐のように渦巻いていた。悲しみも、その反対に喜びや興奮も等しく吹き荒れている。
 ジャニスの棺を挟むように黄金に輝く管楽器を手にした奏者たちが歩みを進める。周囲に爆発する感情と呼応するように、上へ下へと振り回す音の指揮がそこに集まる人々を先導した。
 棺が車に納められるその一瞬まで、音は鳴り止まなかった。
 霊柩車のドアが閉ざされ、ファンの感情は爆発した。
 幾つもの別れの言葉が彼女へ向けて叫ばれる。これで、終わりなのだ。彼らファンにとっては、すでに死んだとはいえ、自分たちの愛する彼女がこの世の姿をとどめているこの瞬間こそが、別れなのである。
 理屈を並べても、それは取り返しのつかないことを意味する。感情の整理が追いつくはずがない。
 彼女はもうすぐ埋められ、もう笑顔を振りまくこともない。
 それがこの瞬間になって、本格的に理解せざるを得なくなる。

 しかし、これではいけない。

 関係者達は、理解していた。彼女を涙涙で送らせないために、自分たちが何をすべきか。それをよく分かっているから、自分たちは立ち上がったのだ。

 いよいよもって、動き出した音楽家たちに歓声が沸き起こった。道路に並ぶ、トラックやオープンカーが異様な佇まいのまま、用意されていたことに誰もが気づいていた。
 これらの車の用途も、誰がそこで何をするのかも。

 様々なフォーメーションが用意されている。ブラスセクションで固められた車や、歌い手とギターが二人だけの車。ドラマー達は二台のトラックに別れている。
 皆、耳にはワイヤレスのモニターイヤホンを装着している。さらに、それらの音響をコントロールするための音響スタッフが乗り込むトラックもある。
 常に移動しながらの演奏は、彼らの腕が何よりの生命線である。普通なら経験することのない舞台に、超一流の技術者達が集ってくれた。道を歩きながら、音を聴き、ミキサーに指示を出す者とのコンビネーションは必須で、本番中の微調整がかなり重要だった。
 しかし、彼らに不安はなかった。
 ロケーションは最高で、風もなく、泣きそうなくらいの青空だ。

 演者たちが、表に出てきた時。彼らは知らず、涙がこぼれそうになった。これからなそうとしていることが、あまりに尊く、偉大なことであり、この計画を成り立たせる人の心があまりに美しいと感じたからだ。

『Everybody. Check one two...』

 無線にノイズ混じりの声が入る。それは、スタッフ側としてリーダーの立場にいる男の声だった。

『こんな時、なんて言えばいいのかな。今、この場で打ち震えていない者はいないだろう。これから一つの歴史が生まれるのを間近にしているんだから当然だ。
 だが、あえて言っておこう。僕たちは裏方で、表で輝く彼らを全力でサポートすることが僕たちのベストだ。ああ、ごめんよ。これは口にするのも馬鹿らしかったかもしれない。
 やっぱり、こう言おう。誇りに思うよ。ここにいること、全てを。やってやろう。
 あのスーパーヒーロー達の音をまともに鳴り響かせるのは、至難の業だ。でも、僕たちはできる。やってやろう。ジャンのために』
「ジャンのために」「ジャンへ」「ジャンのために」

 心は一つに向かっていた。近づいてくるラッパの音が、最高のエンジンになる。


★      ★


 ベースを受け取った夏音はトラックの振動を感じながら、若干不安になっていた。

「転ばないか不安だなあ」

 のろのろと牛のような速度での行進だというのは分かっているが、足下が不安定なのは気になってしまう。
 イヤホンの感度をチェックして、アンプから出る音を確かめる。
 同じトラックには、クリスとディレクの二人のベーシスト。ドラムは譲二とフィリー。トロンボーンのデイジー。トランペットのジョナサン、トミー。サックスのエディ、アルバート、チャールズ。オルガンのカウント。
 歌い手はアルヴィとソフィア、クリフの三人である。
 一番巨大なトラックは、通常はアーティストのツアー機材を運搬するような規模のものであり、それを宛がわれた自分たちは一番注目を浴びるだろうと確信していた。

「どうだい、壮観だろう?」

 話しかけてきたのは、エディだった。この後、序盤から長いソロをとる予定の彼には緊張の気配は微塵も感じられない。
 どこまでも気楽な様子で、数千人分の視線を楽しげに浴びている。

「久しぶりで緊張してるだろ?」
「まさか」
「ジャンが棺の中で頭を抱えてしまうようなミスはしないでくれよ」
「それこそまさか、だよ。彼女は俺がミスする度に最高に楽しそうだった」
「そういえば、そうだったか? 性格悪いな」
「違うよ。俺がステージから帰った後に悔しくて泣くだろ。それを慰めるのが好きだったんだって」
「ひねくれてやがる」

 ハッ! と笑い飛ばしたエディに夏音も「同感だね」と声を立てて笑った。

 群衆のざわめきは、マイクを通したヴィクターの声によって止んだ。

「準備はいいかい」

 喝采が飛ぶ。手を大きく天に振りかざし、オーディエンスとなった人々の気配が変化する。
 こうした感覚には覚えがあった。
 そして、これからさらに懐かしい世界に身をゆだねることになる。

「世界で最も騒々しい葬儀だ! 一緒に来るかい?」
 
「イェーー!!」合わさった意志が彼らの瞳にはっきりと見える。

「オーライ、マーク」

 マークを名指す。前に出てきた彼はじっくりと聴衆を端から端まで見渡した。

 それは唐突だった。教会の前に歪んだギターの音が鳴り響くのはあまりに違和感がある。
 そのような感覚すら追い抜いて、マーク・スループのギターは音楽の世界の扉を一瞬のうちに大きく開け放った。
 その扉の奥から大洪水のように押し寄せた音の波に、聴衆は慌てた。

 自分たちは何を突っ立っているのだ。離される訳にはいかない、と。

 最初は小さな揺れが、すぐに伝播していき、巨大なグルーヴの波打つダンスの群れをつくった。
 DULFERのStreet Beats。原曲の原型もないほどアレンジされ、一瞬でアクセルを踏みきるのにふさわしい疾走感を持っていた。
 すぐに始まるエディ、アルヴァート、チャールズのソロの掛け合い、もとい奪い合い。ルールなどない。彼らが競い合う姿は、あまりに激しく、魅力的だった。
 アグレッシヴなサックスの荒々しい歌声が熱狂を生み出していった。
 夏音のベースは譲二のキックとタッグを組み、グルーヴの根底を完璧に支配していた。単調なリフの繰り返しなのに、中毒性のあるループ感を生み出している。
 やがてソロをとる人間は移り変わっていく。音の中心を独占していた五人が一瞬で影に潜むと、別の車の上で立ち上がるボニーとルーシーがクラリネットとフルートで仕掛ける。
 音の質感ががらりと変わり、暴れ回るクラリネットとフルートが力強く絡み合う。
 やがて二人が一礼して楽器から口を離すと、割れるような拍手が送られた。

「ルーシー・フェイザー! ボニー・ミッチェル!」

 ヴィクターがマイクの前で二人の名を叫ぶ。それからは楽器隊のイントロデュース・ソロに続き、やっと全員分のソロが終わったところで曲が終わった。
 鳴り止まない拍手というのも、実に圧倒されるものである。誰もがこの演出を認めてくれた証拠だ。

「さあ、出発だ」

 いよいよ車が動き始めた。先頭には警察が先導し、この列が途切れたり止まってしまうことはない。
 町中にはファンや見物人が歩道を埋めつくした。それだけでなく、教会からずっとついて来る人々を引き連れ、音楽隊は止まることを知らなかった。


★      ★


 世界一騒がしい葬儀の最中。その現場から十五時間ほどの時差がある日本では、少女達が深夜にも関わらず、パソコン画面に釘付けになっていた。
 軽音部の面々が互いの家に集まることは稀である。夏音の家か、唯の家以外に気軽に遊びにいくといったこともないのだが、今回ばかりは珍しい場所にいた。
 梓の自宅である。軽音部一同が中野家に集まったのには理由がある。ジャニス・コット・スループの葬儀を見ようと唯が言い出したことがきっかけだった。
 話が進むと、すぐに日本のテレビ局では流れないことが判明した。
 そこで、中野家がアカウントを持っているサイトだと、生中継の様子が見れることを知った一同は、これを利用しない手はないと梓の力に頼ることにしたのだ。
 梓の自室には高品質なオーディオが揃っており、PCと接続されている外部スピーカーもハイエンドなものであった。
 インターネット回線も速く、ディスプレイの解像度もばっちり。まさにうってつけの環境だったのだ。
 滅多にない娘の懇願に梓の両親は彼女たちを泊めることを快諾してくれた。

「ごめんな、梓。急に押しかけることになっちゃって」
「いいえ! いいんです。私も気になってましたし、どうせなら皆さんと一緒に見た方がいいです」
「ごめんねあずにゃん・・・・・・成長期なのに」
「どういう意味ですか唯先輩」
「夜更かしさんは大きくなれないんだよ」
「一日くらいでそんなに変わりません!」

 中継が始まると、騒がしさもなりを潜めた。
 教会内部の様子が固定カメラに映り、自分たちの知り合いらしき人物の姿を確認できた時は誰も声を発さずに吸い込まれるようにその様子に見入っていた。
 当然ながら夏音は英語で語り、その場にいる人々と空気を共有している。自分たちには何が何だか分からないが、感動的な場面であることだけは察した。

「あ、これ。ジャクソン5です!」

 スピーチの後に夏音が歌い始めた歌に梓が反応する。他の者でその曲を知る者はいなかったが、友人の歌声に感じるものがあった。

「素敵な曲ね。私、この歌好き」

 ムギが素直に感想を述べると、澪も頷く。

「マイケルの曲は知ってるけど、昔のはあまり知らなかったからな。今度聴いてみようかな」
「でも、なんだか哀しくなってくるね」

 唯が別の感想を口にする。

「夏音くん、あんなに良い表情で歌ってるのに、どうしてこんなに哀しくなるんだろ」

 唯の疑問は純粋に心に浮かんだものだったかもしれない。その疑問すぐに応えられるものはいなかった。

「抑えているんだろうな。あいつは」

 少し経ってから澪がぽつりと零す。誰も反応しなかったが、澪は続けた。

「昔、あいつが言ってたんだ。ステージの上でスポットライトを浴び、歌う者は決してそこで泣いてはいけないんだって」

 夏音は、かつて澪に語ってみせたことがある。

『幾人もの聴衆を涙させる曲を歌う人は、いつも泣きじゃくりながら歌うのかな? 悲しい曲、切ない曲だ。その歌詞には悲哀がある。涙がある。その詩はたんと儚くて、主人公は泣いちゃうほどの想いを募らせていているんだろうね。
 でも、歌い手は泣かない。音楽は抑制しなければならない。本当の意味で、真に剥きだしのものを芸術と呼べるのは稀だよ。涙をこらえて、あふれる一歩手前。そこから悲しみは伝わるんだと想う。泣きながら歌う歌手を見て涙腺を緩める人は歌の力に酔っているわけじゃない。ただの同情とか、それに近いものだろう』

 長々と夏音が語る内容は彼の持論の一つだったのだろう。彼は自分が暴れたり、鬼気迫るベースプレイの際には、観客には彼の野生が本能のままに暴れていると思わせ、その実はとても冷静なのだという。

「感情とか、想いを純粋に音楽に乗せて伝えられるってすごいよな」

 どのラインからなのだろう。どこまでいけば、その境界線を越えるのだろうか。格好良いと思わせるのは存外、難しいことではない。
 だが、人の感情を揺さぶる力は理屈ではない。

「画面越しなのに、ってか・・・・・・」

 両膝を抱きしめた律が言った一言に沈黙が流れる。じっと画面に視線が集まり、歌う夏音の姿に見とれる。
 それからは誰も喋らなかったが、それも式が終わるまでだ。
 カメラの映像は教会の内部から外に移り、そこで唐突に始まったパレードを映し出した。

 それは少女達の知らない世界だった。数多くのミュージシャンが車の上で演奏を繰り広げ、その場にいる者たちは彼らの音楽に応えている。まるで、祭りのような光景は葬儀の最中だとは思えなかった。
 惜しげもなく披露される超人的なソロばかりではない。バンドが一つの生き物のように交わし合う音の扱いが桁違いなのだ。
 彼らの間には、明確な繋がりがあって、同じ呼吸をしているかのように変化する。変幻自在に広がっては返り、上へ行っては急降下。
 誰かが抑えると、そこには次の展開の完成形が用意されている。

「すっご・・・・・・ここにいられたらどんなにいいか」

 羨ましいと視線が訴えている梓がぎゅっと手を組んで震えている。梓にとって、彼らの音楽はルーツそのものであり、その光景は喉から手が出るほど羨ましいものなのだろう。
 ブラック・ミュージックに傾倒している梓以外の人間は、曲名すら知らないものばかりだったが、本物の演奏に心を打たれているのは間違いなかった。

「この曲、なんか聴いたことあるな」

 律が首をひねって新たに始まった曲に反応する。

「sing sing singです。うわぁー。このメンバーでやっちゃうんだあ」
「なんか目が怖いぞ梓」

 深夜の時間帯にテンションがおかしくなっているのだろうか。梓の興奮はもはや隠しようのないほどだだ漏れであった。

「だって、もう二度と聴けないですよこんなの! うわぁこの構成でやるんだー!」

 聞き覚えのある曲に図らずもテンションが上がった一同だったが、梓の温度との差があるのは確かである。

「吹奏楽とかでやってるイメージだよねー」
「ああ、映画でも使われてたんじゃなかったか?」
「この曲は私も知ってる!」

 聴くだけでノリノリにさせられてしまう魅力があった。画面の中の演奏者達は心から楽しそうに踊りながら演奏している。

「うわ、このドラムソロやばっ!」

 クレイジー・ジョーこと立花譲二のドラムソロは圧巻であった。彼本来の要塞のようなドラムセットではなく、非常にシンプルなドラムセットに収まる彼は幾つ手足があるのだろうと耳を疑ってしまうほど多彩な音を鳴らす。
 一つ一つが的確で、自在。律は言葉を失い、一分にものぼるソロに吸い込まれていた。

「この人にドラム教わったのか、澪」
「・・・・・・・・・・・・そうみたい」

 何とも気まずそうに小さくなる澪。不純な動機から譲二にドラムの教えを受けた澪は、非常に身の置き場がなかった。幼なじみからさりげなく突き刺さる視線に耐えきれなくなったのか、誤魔化すように画面を指し示した。

「あ、夏音が映った!」
「さっきからちらほら映ってんじゃん」

 夏音の乗るトラックが中心に映るので、先ほどから夏音の姿は画面に入る。メインはヴォーカルの女性達だが、その中には夏音の実母であるアルヴィ・マクレーンもいる。

「ところで、このパレードはいつまで続くんだ?」
「たぶんお墓に着くまでじゃないでしょうか? ファン達がどこまでついて行けるのかは分からないですが」

 パレードが開始されてから三十分は経っている。これは墓地に彼女を埋葬するまでの道なのだが、このペースで進むのであれば、いつたどり着くのか分からない。
 少女達が持ち寄ったお菓子や、梓の母親が差し入れてくれた夜食はとうに腹に入れてしまった。育ち盛りの少女達が夜中まで起きているとなると、小腹が空いてくるのは当然だ。
 ついに誰かの腹の音が鳴る。

「みおちゃん・・・・・・」

 唯がしたりげな声で澪を見る。

「今のは私じゃないからな!」
「うんうん。お腹すいちゃったよね。もう持ってきたのは全部食べちゃったし」
「あ、下から何か持ってきましょうか?」

 澪が「私じゃないのに・・・・・・」とぶつくさ言っているのは華麗にスルーして、皆はぐっと体を伸ばす。
 ずいぶんと集中して中継を視聴していたので、すっかり体が固まってしまったらしい。

「いや、それは悪いな。近くにコンビニあったよな?」

 律が提案すると、梓が不安な目つきで律を見つめ返した。

「でも、こんな時間ですし」
「だーいじょうぶだって! みんなで行けば怖くない! 私だってたまに夜中にコンビニ行くし」
「律先輩は大丈夫かもしれないですけど・・・・・・」
「んだとコラ」

 しかし、時刻はすでに三時半にせまっていた。この時期ならば、もう少しで日が昇ってくる時間である。
 歩いて五分ほどの距離なので心配ないと律が言い張るので、一同はコンビニに買い物に出かけることにした。
 中継に関しては、少しくらい外していても終わったりはしないだろうと意見が一致した。


 すでに就寝している梓の両親を起こさないように、こっそりと音を立てずに玄関を出た。セミの音がやけに響き、熱気が襲いかかってきた。
 気温は高いが、湿気は意外と低い。薄着の少女達は梓の両親に見とがめられることなく家を出られたことでほっとして、目的のコンビニまで歩き出す。

「私、こんな風に夜中のコンビニに行くのって初めて」

 ムギが途端に言い出したことに、この少女の特異性をすでに認めている軽音部一同は「なるほどな」と思った。
 お嬢様であろう彼女が夜中に家を抜け出すことは難しいだろう。きっと、セキュリティが張り巡らされた邸宅では、夜中に庭に下りた瞬間に警報が鳴るのかもしれない。
 勝手な想像が巡ったところで、うきうきとはしゃぐムギの姿は癒しになった。


「それにしても、肩いたー」
「そういえば、ずっと同じ姿勢で見つめっぱなしだったもんねー」

 じっと何時間も画面を見ていたら肩や首が凝る。しかし、夜中のナチュラルハイにかかっている少女達は、それでも足取りは軽かった。

「はぁーあー」
「どうした梓。乙女の身空でそんな重苦しいため息」

 梓が漏らしたため息に律が反応する。

「あそこにいれたら、どんなに幸せなんでしょうか」
「ああ、そういうこと。ああいうの、お前にとってはど真ん中なんだよなー」
「もちろん! 夢のような曲目でした!」

 拳をぐっと握り、力が入る梓に律は苦笑した。

「でもよかったのか? こんな風に外出ちゃって。ずっと見てたかったんじゃないのか?」
「ああ、いえ。それなら大丈夫です。実は、あの番組って有料会員は録画できるんですよ。色々と縛りはありますが」
「は・・・・・・?」

 ぴしりと固まった律に、梓は気づかずに続ける。

「何でもアリでしたね。モータウンに、スィング・ジャズ。西海岸だろうが東海岸だろうが、バップだろうがフュージョンだろうが、関係なしにぽんぽんやっちゃうんだもんなあ。流石ソウルミュージックゆかりの土地・・・・・・ロックが生まれた土地。やっぱりエルヴィスの曲もやったし・・・・・・」

 彼女の心は今、アメリカ南部にトリップしているらしい。完全に独り言の域にある言葉は止まらない。梓にとっては、それほど感動的な内容だったということだ。
 およそブラック・ミュージックとカテゴライズされる音楽。また、そこから派生した音楽が好きな梓にとって、思わず涎が垂れてしまいそうなセットリストだったらしい。

「あーずーさー。楽しかったんだねよかったね、って言いたいところだが! 録画できるんなら、わざわざ夜中に集まらなくてもよかったじゃねーかー!!」
「・・・・・・・・・あっ」
「『あっ』じゃねー」

 がしっと梓の首に腕を回し、しめ落とそうする律を澪が宥める。

「コラ。後輩をいじめるな」

 そして、律を梓から引っぺがすと腰に手をあてて、言った。

「それに、唯が見ようとか言い出して、『そうだなー。生中継だっておもしろそー。みんなでみようぜー!?』とか強引にまとめたのはお前だろうが!」
「いや、ほんとにみれるなんて思わなかったし~?」
「ずっと夏音くんから連絡なくてハラハラしてたのが丸わかりだったよね!」

 唯から発された言葉に律が「うっ」と怯んだ。天然娘がついてくる図星は、時折こうして律の痛いところを平気で貫く。

「いや、心配とかっつーか? 友達の晴れ舞台だし、みとこーって。普通だろうが、ああん!?」
「うわ。今までみたことないキレ方してる」

 律のキャラにそぐわない反応に、澪が珍しそうな表情をする。そんな律をみて、くすくすと笑いを零すムギ。
 律は少しだけ赤らめた頬を隠すように、ずんずんと前に進んで歩いていってしまった。

「先輩って、意外にかわいいんですね」

 梓が目を丸くして、ぽつりと呟くと澪もそれに同意した。

「基本がまじめで良い奴なんだ。かなり心配性だし、面倒見もいいからな。けど、ああやって本音が出ることを嫌うんだ。なかなかヒネくれてるだろ」
「はあー。複雑ですね」

 それこそ、乙女心と呼ぶのだろうが。梓にしてみれば、律の意外な一面を目の当たりにして予期せぬ発見であった。

「アイス~アイス~きみを愛す~」

 ムギに負けないくらいウキウキと、遠足に行く小学生のように小躍りする唯に澪は眉をひそめた。

「こんな夜中にそんなもの食べたら大変だぞ」
「え、なんでー?」
「なんでって、そりゃあ」
「私よく夜にアイス食べるよ。それに夜に食べても太ったりしないんだー」
「・・・・・・・・・」

 梓は近くの二人から静かに立ち上る殺気に身を震わせた。

「で、でも! もう皆さん夜中にお菓子とか食べちゃってますから! この際、いいのではないでしょうか?」

 必死に口から出た言葉に澪は「それもそうか」とあっさりと怒気を収めた。

 それから十分ほどですぐにコンビニから出てきた少女達は、ビニール袋に軽食を詰め込んだ袋を手にしていた。

「あ、空! 明るい!」
「おー、ほんとだ」

 唯が声を上げて指さした空に目がいく。東の空が微妙に白み始めていた。

「朝だねー」
「朝ねー」

 嬉しそうに笑い合う唯とムギは、何がそんなに嬉しいのか。手を取り合ってはしゃいでいる。

「おっそるべき徹夜のテンション」

 律が半笑いで彼女たちの様子を言い表した。体はへとへとで疲れているのに、頭と目が冴えている。
 どこか非日常にずれてしまったような感覚に気分が高揚してしまうのである。

「どうせだから、ここで食べちゃうか?」
「え、でもそういうのはマナーが悪いだろ」

 律の提案に澪が難色を示す。店の前でたむろされたら、コンビニの店員にも迷惑になる。あくまで良識に従う澪の意見に律は「じゃあ、どこかそのへん」と言った。

「すぐそこに公園がありますけど」

 何故か外で食べる方向に話が進んでいるが、このままコンビニ前で地面に座ることになるよりはましだろうと考え、申し出た。

「うん。じゃあ、そこにするか」



「警察に見つかったりしたら、補導されますよね。まちがいなく」
「そん時はそん時だって」

 女子高生がこんな時間に外出しているのは世間的に問題だ。警察だけでなく、近隣住民から通報される可能性もないとは言い切れない。となれば、学校側に連絡がいってしまうことになる。
 しかし、ほとんど彼女たちはそんなことに気を回していなかった。梓も口では心配してみたものの、正直どうでもよいとさえ思っていた。
 何とでもなれ、というべきか。大袈裟にいえば、無敵感が今の彼女たちにはついていたのであった。

「もうほとんど明るいわね」
「そうねー」
「夕焼けみたいで綺麗!」
「おまえら朝焼けに謝れー」

 日が昇ってくるその遙か先で、自分たちの友人がベースを弾いて、聴く者を踊り狂わせている。
 もしかして、一緒に歌っているかもしれない。あんなにも音楽に溢れている空間があるのに、この場所にあるのは、セミの鳴き声と夜明けの静けさ。
 騒々しさとはかけ離れた空気の中、ゆっくりと明るくなっていく世界の中に自分たちはいる。
 変な時間に腹を満たし、誰が喋るわけでもなく、静寂に身を任せている。沈黙は苦痛にならない。不思議な時間だった。
 そばの道路を走るカブは、新聞配達の帰りだろうか。すっかり空になった籠には、数部の新聞が残ってる。
 犬の散歩をする老人には、訝しむような視線を投げかけられた。

「ふぁ~」

 大きなあくびが唯から漏れる。それが引き金になり、見事に連鎖していったあくびに思わず笑いが起きる。

「まあ、帰るか」

 律がそう言って立ち上がると、皆それに続いて立った。

「続きは録画で見るかな。あたしゃー、そろそろ寝たいよ」
「私も~」
「あずにゃんのベッド~うふふ~」
「唯先輩は床です」





★         ★



「もう笑いがとまらんよ!」

 相当できあがっているヴィクターが叫び、そんな彼の肩を叩く者が大勢いた。
 バシバシと叩きすぎて少しむせたが、それでも周りの笑いは止まらない。

「いや~傑作だ。こんな経験をしたのは初めてだ! これでジャンも浮かばれようよ!」
「ジャン! ジャーーン!」
「ハレルヤー!」「愛してる!」

 この人達の盛り上がりの頂点はいったいどこにあるのだろうかと本気で疑問を抱いた夏音であった。
 パレードが終わり、聴衆を置いて速度を上げたトラックは墓地にたどり着いた。それからは、特に語ることもない。
 彼女を埋葬して、終わりだ。
 やれ、終わったと全員が不思議な充足感を味わっていた。とてつもない大きな仕事をやり終えた時のような心地よさ。疲れはあれど、それを上回るものに酔いしれていた。
 しかし、本当の意味でジャニスを送る一日は終わっていなかった。夏音はすっかり頭から抜けていたのだが、ジャニスの家に戻った後にパーティーが待っていたのだ。
 昨日ぶりに訪れたジャニスの家は、夜半にかけてひっそりと組み立てられた小規模だが立派なステージ。そこら中にテーブルと椅子が並べられ、フェスティバルがやって来たかのようであった。これに観覧車やメリーゴーランドがあれば完璧だった。
 流石に目の前に広がる光景に夏音は唖然としてしまった。

 その会場には大勢の人間がいた。流石に近所付き合いのあった人間は例外として、一般客は入ることはできなかった。メディアもだ。
 ヴィクターいわく「このパーティーは、完全にジャンと私たちが楽しむためだけのものだ」そうだ。
 重役から解放されたヴィクターはいささか羽目を外しかけている気がする。よほど大変だったのだろう。
 皆、先ほどから代る代る彼を労り杯を交わしている。

 夏音はというと、何故か関係者の間をたらい回しにされていた。集まった音楽関係者はほとんど知り合いだったし、交流のある人もいた。皆、久々に現れた夏音の姿に揃って驚いては気をよくした。
 あちらこちらへと挨拶をしては、「ヘイ、ランディー! ちょっと来てみろよ! カノンがいるんだぜ!」といったように、次へ回される。
 見世物にでもなったような気分だったが、久々に再会した人々は皆温かい笑顔で夏音を見つめてくれた。それは決して悪い気分ではなかった。

「ポール。モテてるね」

 ようやく「カノン回し」が終わったところで、解放された夏音はたまたま目についたポール・アクロイドに話しかけた。
 彼は、子供たちに囲まれていた。両膝や脇を占領され、どうにも動けないでいる彼の様子は実にシュールであった。

「そうだな。僕の魅力に年齢制限はないらしい」
「流石だね。じゃあ、あとで」
「ま、待てよカノン。そろそろ君が弾くべきじゃないか? 僕も一回くらいはステージに上がれと言われているんだ。ちょうど良い」

 彼は子供たちを丁重に体からひっぺがすと、夏音の肩を組んできた。

「さあ、マークとレヴィはどこだろう。ついでにジャックも探そうか」
「ジャックはさっき酒瓶持ちながらブランコで遊んでたよ」

 ジャックは今年で三十八歳になるスコットランド人だ。スタジオ・ミュージシャンで鍵盤使いである。

「何をやろうかって言っても、決まってるよね」

 Silent Sistersのメンバー三人、プラス一人は元メンバーが集まっているのである。

「そのためのジャックさ。彼は幾つか僕たちの曲を覚えているから、誘うんだ」
「あのさ、ポール。例の話なんだけど・・・・・・」
「ヘイ、ジャック! お楽しみか!?」

 夏音が何かを切りだそうとした矢先、ポールはブランコに収まるオッサンの姿を見つけて声をかけてしまった。

「ああ、ポール。こうしていると、懐かしい気分になるんだ。おっと、気をつけてくれよ。その辺はさっき俺のションベンが通過したところだ」
「ファ×ク。子供たちには見せられないな、こんな大人の姿は」

 ポールに同感である。こんな男が凄腕のピアニストだと誰が思うだろうか。

「これからステージで何かやろうと思うんだが、どうだい?」
「おお、それはいい。さっきから俺は自分がただのションベン製造機なんじゃないかと思い始めてたんだ」

 もう色々とひどい。こんな大人にはなるまいと思える人間も周りにいると、彼らは実に良い教師になる。反面教師ともいうが。
 夏音は悪影響が及びそうな環境で自分がそれなりにまともに成長できた原因の一つをしげしげと見つめた。

「ちゃんと演奏できるの、この人」



★        ★


「パイはいらないの?」

 誰も聞いちゃくれない。アルヴィは先ほどから自分がパイをすすめた途端に全員が難聴になる現象にへそを曲げていた。
 いつの間にか、テーブルには誰も手をつけないパイが長時間放置されていた。よく見るとほんの一切れが欠けている。
 勇気ある者か、はたまた無知なる者が迂闊に手を出した結果が、家のトイレの中に現在も確認できるという。

「いつどのタイミングでしこんだというんだ」「何で他人の葬式で死人が出なければならないんだ」「ジョージが止めないから」「あいつはあっちで潰れかけてるよ。酒弱いくせに」

 ぼそぼそと囁かれる会話は、もちろんアルヴィの耳に入っていた。アルヴィは陰口が嫌いである。
 すぐに立ち上がると、こそこそと会話していた人物に近づいた。

「もう! 誰もとらないからなくならないじゃない。あなた達、どう?」
「い、いや。遠慮しておくよ・・・・・・もう腹がいっぱいでね」
「そうとも。それに酒に甘い物は無理なんだ私は」

 嘘おっしゃい、と内心で舌打ちしたアルヴィは短くため息をつくと、大人しく席についた。自分のパイを一切れかじる。

「なかなかの出来だと思うんだけど」

 パーティーが始まって一時間ほど。代る代るステージに上がり、演奏が繰り広げられる中、アルヴィは騒ぐような気分ではなかった。
 色々と思うところがあるが、それ以前に疲労がたまっている。普段から長距離の移動はライフワークの一つとなっているし、今回のような旅程も珍しくはない。
 しかし、どうにも体は正直だ。今日、自分は精魂こめて歌い尽くした。いつものステージの数倍もの気力が抜け落ちていた。
 こんな時は酒でも飲まずにはいられない。普段は極力アルコール度数の高いものは入れないようにしているが、今夜くらいはと思い、その辺にあった瓶をおもむろに取って開けた。
 そして、そのままラッパ飲みである。

「おおっ! アルヴィも良い飲みっぷりだ!」

 騒ぎ立てる者の声を無視して、アルヴィは瓶から口を離して吐息を漏らす。早くも酔いが回ってくるのを全身で感じる。もともと酒に強いわけでもない。
 足を組み、ぼうっとステージを見つめていた。
 彼女の思い出語りも、急遽クリエイターに頼んで制作したメモリアル・ビデオもすでに終わった。
 飛び入りのミュージシャンの演奏は真夏の夜に気持ちの良い風を呼んでいる。酒で火照った体に心地よい響きと共に、アルヴィは穏やかな夜を感じていた。

「おおっ。ケニーがやるみたいら!」

 エディが最早ろれつの回らない口調で叫んだ。ステージ視線が一瞬で集まった。
 アルヴィもこれには少し驚いて、とろんと落ちかけた目を押し広げた。
 夏音がステージに上がることはさして驚くことではないが、一緒にいるメンバーが意外だったのだ。
 ポール、マーク、レヴィ、ジャック。新旧のSilent Sistersが集まっているではないか。その内、一名はただの酔っ払いであるが。

 口笛の音が何カ所かで甲高く響いた。それは、明確な期待のサイン。

「ハイ、ジャンのために何曲かやらせてもらうよ」

 ポールはいつもステージでは手短に喋る。基本的にMCが少ないバンドとして有名だが、こんな所でもそれは変わらないらしい。
 果たしてどんな曲が飛び出してくるか。曲の幅広さには定評のあるバンドは、世のメタラーを唸らせるような激しい曲から、甘いバラードまで様々な顔を持つ。

 始まりは驚くことに、ポールの歌声のみだ。

 まるで明かりが何倍にも増えたような錯覚に陥る。それも目映い明かりではなく、隅々まで照らすが、それは淡い月光のような冴えた青色に見えた。
 穏やかに響き、聴衆を黙らせる歌声は見事としか言いようがない。
 アルヴィは、自分も同じように歌声を武器にしている者として、彼のような才能を持った人間を心の底から尊敬せざるをえない。
 アカペラで始まった曲は、聞き覚えのあるものだ。まさか、彼がジャニスのヒット曲のカヴァーをするとは誰も予想しなかっただろう。
 ワンコーラスまるまるを一人で歌いきったポールに楽器の音色が重なる。曲が生き物のようにしなやかに躍動し始めた。彼の世界に輪郭が伴った。
 形の次は色彩が。その先に見え始めた情景に息をのみ込むことすら忘れそうになった。

 彼らは、まるで一枚の巨大な鏡を作ってしまったかのようだった。彼らが発する全てが自分の中の何かを引っ張り出して、そこに映し出すのだ。
 ジャニスとふと交わした会話だったり、出逢った頃のこと。今日一日の中で何度も浮かんでは消えていた光景が胸の中にしっかりと留まっているのである。

 アルヴィは次の曲が進む中、また別の気持ちが胸の中に表れていた。
 ステージに立つ息子の姿を見たのはいつ以来だろうか。今日は一緒にステージに立ち、それもたまらなく懐かしさを覚えたが、傍目から見た夏音は彼女の知っている息子の姿とは少し違った。
 この数年を日本で夏音がどう過ごしていたのか。アルヴィは何も見ていなかったのだと思い知らされた。
 自分たち大人にとっての三年と、十代の少年の過ごす三年の違いを理解していなかったのだ。
 子供の成長を感じる瞬間は、いつでも親の元から離れていく瞬間と重なる。少しずつ自分の知る子供ではなくなってしまう夏音が、まるで別人のように思えて、切なくなった。

「(知らないわ。こんなの。いつの間に、こんなに)」

 いつしかジャンにも言われた。自分たち夫婦は何も見えていない、と。彼女の言葉の多くは正しくて、その言葉もやはり的を射ていたのだ。
 アルヴィは、夏音が音楽から離れても構わなかった。息子が成長していく過程で、音楽は自然であり、必然だった。
 プロとしてのデビューも良い悪いなしに、それが当然だとすら考えていた。
 息子が犠牲にしていることにも気づかずに。自分のことばかり考えて生きてきた者が親になっても、こうしたボロが出てしまうのだろう。
 周りの人間も、特殊すぎる。アルヴィと譲二のそうしたスタンスに苦言を呈してきたのは、いつも少数の人間だけ。
 アルヴィは彼らの言葉がやっと胸に響いてきた時には、息子は思春期を迎えようとしていた。そんな矢先に起こった事件は一つのきっかけにもなった。
 夏音を音楽から離そうと考えたわけではない。しかし、息子が普通の男の子のように生活することで、結果的にかつての地位を失っても問題はないと考えていた。
 日本に行ってからも、夏音には辛いことが起こった。アルヴィは、普通の息子の育て方を知らなかったのだ。
 学校で起こる小規模で深い問題に対処する術も知らなかった。夫婦が取った対策は仕事を減らして、息子と共に過ごす時間を増やすことくらい。
 日々を自由に過ごす息子の様子が安定した気がして、新たな高校に送り出してみたりもした。結果的に、それが幸いしたのだろうか。
 顔を合わせる息子の瞳は輝いてみえた。ようやく安心したと思っていた。
 なのに、息子はやはり音楽に導かれていく。どうあっても離れることはできないのだ。
 最近は音楽の仕事を増やし始めていた。それがどう転がるかは分からない、だが息子が選んだことには反対はできない。
 結局、全てを夏音の手にゆだねることしかできないのだ。選択をさせることが何より大事だと考えていた。
 今、ステージの上に立つ夏音を見て思う。自分たちがしてきたことが間違いだったのかどうか。
 はっきりしているのは、今の夏音がここ数年でつかんだその姿に、自分たちは関与していないということ。
 あんな息子を、アルヴィは知らない。
 知らないことが、何よりも辛くて悲しかった。羞恥が平手を受けるような衝撃でアルヴィに襲ってきた。

「立派になったものだ」

 いつの間にか、クリスが隣に腰掛けていた。ステージの夏音を眩しそうに見つめる彼の言葉には、幾つもの感情が込められている気がした。

「どんな風になっているのか。それがずっと不安でならなかった」

 静かに一人語りのように話す彼の声は、不思議と耳に入ってくる。アルヴィは彼の顔に目を向け、黙って話を聞いた。

「私は君から聞く話や、マークが実際に見て感じたものだけを受け取ってあの子の姿を想像するしかなかった。おおむね安心していたが、やはりこの目で見ない限りはどうも、な」

 こうして語っている間も彼の視線は夏音の姿から外されることはない。その瞳に刻み込もうとしているかのように。
 それと同時に遠くのものを目を凝らすかのように見えた。

「あの子は、まっすぐなままだった。全て、これで良い」
「ほんとにそう思う?」

 とっさに口を挟んでしまった。常に賢明な光を讃えた真っ黒な瞳がアルヴィを映す。少しだけ言葉をなくしたアルヴィは瞳を伏せて、訴えかけるように話し始めた。

「これで良かったって思えないの。だって、私たち何もあの子にしてやれなかった。ジャンに顔向けできないわ」
「どうしてそう思うね?」
「反省して、それなりにやることはやろうと努力したけど。どうしても私たちには上手くできないの。あの子はいつでもたくましいし、一人ですっと立ち上がっている。私たちが手をさしのべる余地なんて、ほとんどないの。あの子が折れかけても、最近だって何かに悩んでた・・・・・・。苦しそうなのに、迂闊に手を出せないの。これって親失格にもほどがあるじゃない」
「私の周りで子育てが上手かった奴なんて数えるほどだがね。それに比べたらよくやってると思っていたが・・・・・・」
「どこが!? いや、そう言われればそうかもしれない」

 滅茶苦茶な人間ばかりだ。音楽の才はあっても、人間的に成熟した大人と言えるかと聞かれれば非常に首をかしげる者ばかり。
 アルヴィが目を白黒させて真剣に考え込むのをクリスは声を立てて笑い飛ばした。

「もうすぐひ孫まで生まれる私から言わせるとだね。子供なんて一人で勝手に成長するものさ。父親なんて特にそうだ。知らない間に追いついてくる子供に何度やきもきしたことか」
「そう言われると説得力があるけど」

 釈然としない。この人を例にして良いものかと悩むが、少しだけ得たものはある気がした。

「おごってはならないよ。自分の思い通りに育ってくれるはずないだろう。こっちが知っているなんてタカくくってるうちに、あっという間にいっぱしになってるんだよ。それが自然の摂理だ。見てご覧。あれが君の育てた息子だ」

 アルヴィは盛大なソロで客を沸かせている夏音の姿に目をとめる。自分によく似た息子は、大人びた表情でベースを握りしめている。
 かつて、多くの人の前で演奏をした息子の姿とは重ならない。

「私は、すべきことをちゃんとできていたのかしら」

 知れず漏れていた言葉にクリスは鷹揚に頷いた。

「そうに違いない。子は親の背を見ている。君に似て、あの子もまっすぐだ」

 少しだけ、背が伸びた。大人に混じって演奏していた子供は、その堂々たる姿で、彼の表現を世界に放つ。
 かつて、ポールとレヴィの音に埋もれそうになりながら必死に食らいついていた姿はもうない。
 彼らの音に匹敵する凄みを身につけた。それがどんなに途方もないことか、アルヴィは知っている。

「負けん気の強いところは譲二にそっくりよ」

 マークとの速弾きの応酬を始めた夏音を見てくすりと笑いが漏れてしまう。クリスは不敵な笑みを見せ、そんなステージを評価した。

「すぐに速さに頼るところは、まだまだ若いがな」

 この老練されたベーシストに言わせると、まだまだらしい。



 パーティーは日付が変わっても続いた。近所が物理的に遠くて助かったと思われる。
 音楽は途絶えることなく、彼女が関わった楽曲すべてが演奏された。これだけのミュージシャンが一堂に会すことなど滅多になく、珍しい組み合わせのセッションや、その場にいた映画俳優が思わぬ美声を震わせるといったシーンもあった。
 すっかり朝になり、東の空から日が昇る。群雲にかかるオレンジの光はただ美しく、流石にグロッキー状態の半死体となった多くの者はその光景に言葉を失っていた。
 誰かが帰ると、皆抱き合った。
 これから仕事に戻る者もいる。彼らはまた、遠い場所へ戻らなくてはならないのだ。一人、また一人とこの場を去る中、夏音はぼんやりと芝生の上に寝転がっていた。
 清浄な光を全身で浴びているのに、辺りは酒のにおいが充満している。汗をかいては乾き、ボロボロになった服。疲労の限界を超えて、どこか体が軽い気さえしてくる。
 なかなか抜けきらない。一日で身体に収まったとてつもない熱量が、まだ自分の中で暴れているようだった。

「夏音」

 目を閉じていてもその人物が誰か分かった。隣に寝転んできた譲二は何も言わずにじっと夏音の隣にいた。

「死ぬほど疲れたよ」

 喉から漏れるように出た言葉は弱々しく、そのまま地面に落ちてしまいそうだった。

「良い式だったな」

 譲二が確信に満ちた声で言う。それは言うまでもなかったことだ。夏音はとくに返事をしない。

「夏音」
「なに?」
「俺は、そろそろここに戻ろうと考えてる」

 唐突だった。あまりに唐突すぎたが、何故か驚きは少なかった。アメリカに戻ってからの数日の間で、何故かそうなる気がしていたのだ。

「そう」

 言葉短く答えただけだった。

「すぐに、ではない。どんなに早くても来年以降の話になる」
「うん」
「実は、昨日考えたんだって言ったらどう思う?」
「だって父さんはそういう人じゃない。今さらだよ」
「それもそうか。だが、これはただの報告みたいなものだ。相談とか、決断を迫るものじゃない」
「わかった」

 色々と面倒なことができてしまった。今は深くそのことについて考えたくはないし、父の言葉を額面通りに受け取るのも何か違ってならない。

「俺は、俺のやりたいようにやるからね」

 この宣言だけは横に置いておけなかった。アメリカを離れた時、自分は自分の意志で答えを出した。祖父からの手紙もあったし、ジャンの影響もあった。
 けれど、夏音にはアメリカに残るという選択もあった。この父は夏音に選択肢を残しているようで、その裏にある心を息子に読み取られていないと思っている。
 本当はついて来て欲しいと思っていることなんて、火を見るより明らかなのに。

「そうか」

 夏音の返答に譲二は軽く笑うだけだった。その声がどこか寂しげだったことに夏音は気づかないふりをした。

「さあ、まずは日本に帰ろうか」
「そうだね。日本に・・・・・・・・・・・・ジーザス」
「む? どうした」

 夏音は、がばりと体を起こして驚愕に目を見開いていた。わさびを初めて口に入れた時以来の狼狽を表している。

「連絡、忘れてた・・・・・・」

 何千キロも遠い地にいる友人たちの顔を思い浮かべて、体が震える。

「父さん。息子の相談に乗ってよ」
「なんだ? 嘘の付き方を知りたいなら、俺よりもっと相応しい奴らがさっきまでそこら辺にいたぞ」
「女性の機嫌をとる方法」

 きっぱりと言った夏音に譲二の目がにたにたと笑う。昨日から伸びっぱなしの無精ひげを撫でつけ、内心の喜びが漏れている。
 息子から思春期の子供らしい相談を持ちかけられたことを喜んでいるらしい。
 しかし、その問いは男ならば誰しもが悩み続ける問題である。譲二は少し悩むと、言った。

「最終奥義を授けてやろう」
「ほんと!?」

 夏音の瞳が輝く。父の持つ知恵袋に頼る機会は滅多にないが、この時は父親らしい譲二を頼もしく思った。

「日本人である俺、そしてその血を受け継ぐお前ならやれる。日本には古来から伝承されている由緒正しき謝罪の奥義があってな、その名をドゲ―――」
「もういいよ」

 息子は、それをすでに会得していた。瞳の輝きは失われ、父を見る目が冷えていく。

 苦し紛れに出した答えに息子の落胆を知った譲二は、誤魔化すように笑った。

「まあ、たいていは何か物をあげてれば勝手に機嫌がよくなってるんだが」
「あげるって何をさ」
「それは自分で考えるんだよ。年頃の女の子だろう?」
「んー・・・・・・お菓子、とか・・・・・・CDとか、かなあ・・・・・・うーん。現金?」
「それだけは、やめておけ」

 決して見えづらい部分で歪んでいる息子を心配になった父であった。


 ※これでお葬式編、終わりました。自分しか見えないあたり、夏音も大人にはほど遠いですねー。ちょっとアルヴィが卑屈っぽくうつりすぎないか不安です。
  クリスとの絡みは、もっと別のところで描きたいところです。今回はちょっとできませんでした。



[26404] 第二十三話『進むことが大事』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2013/01/01 02:21

 友人・知人からの鬼電鬼メール(とくに堂島めぐみによる熱い文面)に、色んな意味で少しだけ涙した夏音は、夢を見ていたような感覚を早々に脱ぎ捨てなくてはならなかった。
 成田空港の国際線ターミナルの中を歩いていても、まだそこが日本だと実感できなかったが、やがて見慣れた街並みを目にした瞬間、日本に帰ってきたのだと理解した。

「蒸し蒸ししてるし、蝉がやかましい。まちがいなく日本である」

 別に蝉しぐれを嫌うわけではないが、この独特な大合唱はここが日本だという何よりの証拠に他ならない。
 自宅についてまもなく、ようやく決心がついた夏音は軽音部全員に順繰り電話をかけた。帰国の報告と、大雑把な事情をかいつまんで話したが、驚くことに誰一人として夏音の事情を知らぬ者はいなかった。
 それどころか、中継を皆で見ていたというのだから、まるでみぞおちにカウンターを食らったみたいに息が止まってしまった。

 律いわく、『おー。見てた見てた。テレビで見てた。やっぱりテレビに映るとちょっとだけ太く映るってほんとなんだなー』であり、澪は『マーク・スループと共演してたよな。あの時の音があそこで流れてるんだと思うと不思議だったよ』とのんびりした口調で言い放った。
 他も同様。唯やムギにはテレビ出演に対する感動を言い表すコメントを集中的に浴びせられた。
 同級生がテレビに出た、というのは事実としては正しいが。友人がバラエティ番組にたまたま出演した時のような反応に何とも言い難い気分にさせられてしまった。
 とはいえ、何の連絡も入れずに放置していた非礼が夏音にはあった。
 この件についての謝罪だけはきっちりしておかねばならない。
 幸いにも夏音の詫びの言葉に対しては、これといって咎めるようなリアクションはなく、ようやく夏音は人心地がついたのである。
 後はお詫びの印として、何かスイーツでもたんと見舞ってしまえばよい。


★      ★


「夏音くんさ。僕の勘違いでなければの話だけど、ニュースに出ていなかったかな」

 七海はおそるおそる訊ねてきた。
 帰国した次の日、午後から登校した夏音を発見した彼は、誰よりも先に声をかけてきた。
 前回あんな事があったのに、長らく休む夏音を心から思いやる長文メールを送ってきた友人をないがしろになどできなかった。
 帰国の知らせはしたが、具体的な話はまだ何一つしていない。

「そうかな? こっちのニュースはチェックできなかったから。もしかしたら、そうかも」
「かもって・・・・・・お葬式って言ってたけど」
「うん、そうだよ。ジャニスは俺の古くからの知人なんだ。学校の先生は俺がアメリカにとんだことは話したんでしょ?」
「うん。向こうの親戚が亡くなったから、一時的にって話。クラスの中でちょっと話題になったよ」
「突然だったから、持つものも持たずに飛び出たよ。それでメンフィスまで行ったんだ。すると、そこで集まったミュージシャン達で世にも盛大な音楽葬をやろうって話になっていてね。気がついたら車の上でベース弾いてた」

 簡潔的に話したつもりだが、七海は明らかについてきていない。ぽかんと口を開き、埴輪のような表情で固まっていた。

「度肝が抜かれたよ」
「どういう意味だい、それ」
「びっくりしたってこと。じゃあ、やっぱりアレは見間違いなんかじゃなかったんだね。ニュース自体は三十秒くらいだったし、君の姿も一瞬しか映らなかったけど。やっぱり普段見慣れた人の姿っていうのは、見逃さないものだね」

 何故か感心したような口調で言った七海だった。日本での彼女の扱いがどんなものかは知らない。遠い土地で行われた葬式が日本のニュースに流れるのは、どこか不思議な気もした。

「でも、もしかしたら他にも気づいた人がいるかもしれない。君はできるだけそういうの広まって欲しくないんだろ?」

 気遣うような視線に夏音は少しだけ頬を上げる。こういう心遣いが純粋に嬉しい。

「ううん、もう大丈夫。そんなに気にしてないんだ。今の俺がどこから来ていようが、何をやっていようが、変わりないだろうさ。ねえ、考えてみてよ。ビリー・シーンの名前にぴんと来る人がこの高校にどれだけいると思う? それより遙かに知名度が低い俺なんか、って感じだよね考えたら。
 そりゃあ、ちょっとは話題の人になれるかもしれないけど、それもすぐにおさまるだろ。だから、大丈夫! 気にしていないよ。ありがとう七海。そのことが気がかりで話してくれたんだろ?」
「・・・・・・・・・何か、あれだね」
「なに」
「ちょっと変わった気が・・・・・・うーん、それもおかしいか。吹っ切れた感じがするね」

 七海の目はごまかせないらしい。夏音は、面白くなって聞き返した。

「へえ、見ただけでわかる? どれくらい?」
「ううーん。こう、ひしひしと感じるよ。吹っ切れたオーラが」

 どんなオーラだ、と突っ込みたくなったが、彼はいたって真面目である。茶化すのも憚られて、大人しく首肯した。

「おっしゃるとおりだよ。ちょっと前までうじうじと悩んでたけど、全部吹っ切れた。こないだは悪かったね、七海」
「僕の方こそごめん。ずけずけと君の事情に突っ込んだこと言っちゃって」
「そういう所が七海らしいんじゃない。気にしないでよ」
「ううん。やっぱり僕は口だけな部分が多いし、正しいこと言った気で人のこと傷つけちゃうような子供だと思う。あの時の君は確かにうじうじとウザかったし、じめじめしてた」
「じ、じめじめ?」
「もうキノコ生えるんじゃないかってくらい。なんか耐えられなくなって、ちょっと怒ってたかも」

 確かに物言いはきつかった。やっぱりあの時は怒っていたのかと納得する。

「他人のために怒れる人ってそういないよ。ましてや本人に対してね。やっぱり君はすごいよ」
「そう言う君も相変わらずこっぱずかしいことを平然と口にするなあ。こっちはシャイな日本人代表みたいなものなんだから」
「ふふっ。だから、だよ」
「君、やっぱり僕のことからかうの楽しくてたまらないんだろ?」
「わかった?」
「このやろう・・・・・・」

 こうしてささやかな諍いは終着した。

 一つ抱えていたものが肩からおりて、夏音は気が楽になった。だから、このままの勢いで残りの方を片付けることにした。



「俺、みんなと一緒に卒業できない」

 大事な話がある、と放課後に集められた軽音部の面々は出し抜けに放たれた言葉に愕然とした。
 夏音は一人だけ席につかずに、机の前に立っている。誰もその内容に対して口を開けないでいる内に、彼は続けた。

「結論からはっきり言うべきだと思って。びっくりさせたと思うけど、たぶん俺はこの学校を卒業できないと思うんだ」
「た、たぶんってどういうことだ?」

 驚愕を顔に貼り付けたまま、澪がようやく質問をした。

「それを今から説明するね。俺はこの先、学生っていう身分になることはないと思う。絶対、と言い切ることはできないけど、つまりはそういう道に進むってこと。実は、ずっと前からポール・・・・・・Silent Sitersというバンドのヴォーカルをやっている人にバンドに誘われているんだ。前に俺が加入していたバンドなんだけど、それは決して悪い話じゃない。
 彼とは一昨日の夜に電話で話して、俺の意志を伝えたよ。もちろん入りたいといってすぐに加入できるわけじゃない。彼も俺の事情を最大限考慮してくれるつもりだし、まだ確定ではないけど正式に加入するのは再来年くらいかな」
「そんな先の話・・・・・・」

 律の呟くように漏らした一言を夏音は拾う。

「そんな先の話、なんだ。バンドは今も活動中で、今のベーシストだっている。アルバムを制作する時期、ツアー。そういう予定を考えた上で、その時期がベストなんだってさ」

 あまりに現実味のない話に、皆一様にぼんやりとした表情をしていた。アメリカから帰ってきたばかりの友人が、突然デビューの話を持って帰ってきた。
 つい先日まで、軽音部のライブの話や、これからの合宿の話などをしていたこの場所で。
 彼の語る全てが何かのイレギュラーとすら感じるのであった。
 夏音は、皆がついてきていないと分かっていても、なおも話を続けた。

「ギリギリまで学校に残っていたとしても、卒業できるか怪しい。学年末のテストも受けられないだろうし、出席日数だってどうだか。まだ本気で検討したわけじゃないけど、それならいっそ潔くって考えもある。だから、たぶんって言ったんだ。
 それで、俺はカノン・マクレーンとしての活動も再開するつもり。こんな俺でも待ってくれている人が確かにいて、いきなり別のバンドのベーシストとして復活っていうのはおさまりが悪い。だから、順序としてはこちらが先だろうね」
「でも! そんな二つ同時に活動なんてできるんですか?」
「そうだね、梓。とても難しいだろう。無茶に違いない。けれど、俺はやらなきゃ。俺は休みすぎたから、どんな手でも俺が復帰したことを大々的に知らせるには、これが一番なんだよ」

 夏音が言っているのは、こういうことだ。カノン・マクレーンという単体で復活するより、話題性のある出来事と一緒に活動を再開した方がよい。極端に受け取ると、バンド加入をえさにすると言っているようなものである。

「汚いって思う? でもね、これはポールがくれたチャンスなんだ。俺以外にも彼のお目に叶うベーシストなんて山ほど・・・・・・はいないかもだけど、いるんだ。俺が特別飛び抜けているってわけじゃない。それでも、彼は俺を選びたいと言ってくれた。
 俺は、その気持ちに応えたい。生半可な覚悟じゃできないけど、俺は、やりたい。やれることなら、何でも」

 その声に、逆らえるものはいなかった。すでに覚悟を決めた人の意志を、覆すだけの言葉を少女達は持っていない。
 唇を噛みしめて、どうしようもない感情を横にやることもできずに、黙っていることしかできないのだ。

「ちょっとくらい忙殺されるだけで不可能ってことじゃないよ。実際にバンドとソロを幾つも掛け持ちしている人は少なくないしね」

 何のフォローにもなっていないが、それを聞いた一同は「そうなのか」とほんの少しだけ納得してしまった。
 頭が混乱していて、彼女たちには彼の話が何も具体的ではない。たたみかけるように押し寄せる情報に対して、それぞれの感情が出入りして、それどころではないのだ。

「ちょ、ちょいターイム!!」
「はい」

 大声でしんとした空気を打ち破った律に、ぎょっとした夏音だったが、かろうじて頷くことはできた。
 律は立ったままの夏音に複雑な目つきを投げかける。

「ま、まあさ。色々と、さ。とりあえず座って話さない?」


 ムギが淹れてくれたお茶を飲んだところで、誰かがほっと一息ついた。

「ふう」

 そのため息が、ある意味その場の人間の気持ちを見事に表していた。探るような気配に少しだけ疲れていた時分、律は絶妙なタイミングで場の空気を変えたといえよう。

「それで? 夏音は再来年からプロ活動に戻る。そして、卒業はできない(未定)ってことか」
「あってます」
「永遠の中卒ってこと?」
「そう言うと聞こえが悪いけど・・・・・・あれ、俺って中卒になるの?」

「「「「「いま気づいたんかい)」」」」」

 驚いてつい立ち上がった夏音だったが、わなわなと震えた後、座り直した。額に手をあて、瞠目している。

「マジか・・・・・・中卒・・・・・・考えてなかった。流石になー、中卒は・・・・・・いや、別に学歴が関係ある世界じゃないんだけど、それでもやっぱり」
「おーい、そろそろ自分の世界から帰ってきてくれー」

 律が呆れまじりの笑いを浮かべて夏音を肘で小突く。

「やっぱりどーこか抜けてるなー」
「夏音くんらしいよね」
「唯に言われたくないよ!」
「なんで私に!?」

 それについては、さもありなんと思った一同だったが、先ほどまで揺るがない意志のオーラを放っていた人物の姿が立ち消えてしまったことに少しだけ気が緩んだ。

「ねえ。夏音くん来年いっぱいはここにいるってことなの?」
「おお、そうだムギ! そこらへんきっちり吐いてもらわないと」
「別に隠すつもりもないし、しばらく吐きたくはないよ。それも説明するつもりだったけど、ていうかここからが本当に伝えたかったこと」

 一度切り、紅茶を飲み干した夏音はすっと背筋を伸ばした。

「俺は、必ずいなくなる。少なくとも、みんなが卒業してから後・・・・・・梓は在学してるだろうけど、その時はカノン・マクレーンとしてどこかのステージの上にいると思う。だけど・・・・・・それまでの間、ずっとここから離れたくない」

 真っ直ぐな瞳が順番に少女達の顔を捉えていく。

「もう、後悔したくないから。今、手元にあるものをもっと大事にしたい。本当にここが大事なんだ。できれば、ずっとこのままでなんて考えたこともある。それくらい、この場所が好きだ」

 そのストレートな表現に、動揺が波のように広がっていく。全員が固まっているのにもお構いなしに夏音は口を閉じない。

「自分に酔って言ってるわけじゃないんだ。心の底から、ここへの愛着が抑えきれない。俺は途中でいなくなる。それは今までみたいに、いつ起こってもおかしくないことじゃなくて、ここを去る時を決めたから……しょうがない我が儘だってことくらい理解してる。でも、図々しいかもしれないけど、それまで俺をここにいさせてくれないかな」

 そう言って夏音は頭を下げる。

「できるだけ、軽音部の立花夏音でいたいんだ」

 こんな風に頭を下げることではないのかもしれない。夏音は、こうして彼女たちに自分が去ることを告げる瞬間を何度も、それこそ数え切れないくらい想像したことがある。いつしか癖になってしまうくらいに。
 その、ほとんどのイメージは最悪なものだった。想像の中の自分は、常にやましい心を内に持っていて、こんな風にすがすがしい気持ちで打ち明ける瞬間など来ないと思っていた。
 自分の言葉で語れる。信念のもとに偽ることなく、自分の決断を彼女たちに告白することができるその瞬間が、目の前にある。

「は、は、はずかしいやつ・・・・・・」

 澪が顔を真っ赤にして震えていた。その半分は怒りの色とも取れたが、口をぱくぱく動かすだけでどうやら続きが出ないらしい。
 澪の反応をどう受け取っていいやら夏音が戸惑っていると、律が夏音の頭にチョップを入れてきた。全く痛くない、ただ触れるような勢い。

「と、澪閣下はお怒りだ」
「怒ってたの!?」

 若干、涙目である。そういえば怒ったら少し泣くタイプだったか、と夏音が暢気に思っていると、次の手に意識を奪われる。

「夏音くん考えすぎよ」

 ムギがにっこり目を細めて笑いかけてくる。その笑顔にどこかうすら寒くなるようなものを感じた。

「だめよー、もう? 夏音くんっていっつも独走っぷりがすごいんだもの。そっちの意味で、ついて行けなくなりそう」
「そ、それはどういう意味かな」
「独断プレイで先突っ走ったあげく、自爆するタイプってこったろ」
「りっちゃんそれは言い過ぎ、かも?」
「言い過ぎってことはニュアンス的には合ってるってことだろー?」

 女子二人の会話が恐ろしかった。そんな風に思われていたのかとショックなのと、先ほどから律のチョップが激しさを増してきていることに耐えられなくなった。

「痛いってば!」

 夏音が強めに言うと、ぴたりと止んだ。

「でも、私もムギの言う通りだと思うし。いつも勝手に盛り上がって落ち込んでたりするし。進歩なし!」
「り、律先輩が辛口だとすごく新鮮です」
「なあ、梓もそう思うだろ!?」
「わ、私ですかぁ!? いや、私としては・・・・・・先輩の復帰は喜ばしいことだと思いますし、一緒にいられる時間が増えるのは良いことではないかと・・・・・・」
「はぁーあー」
「あ、あからさまなため息を!? 私、何かいけないこと言っちゃいましたか!?」

 狼狽する梓に律は苦笑して手を振った。

「いやいや。まずくないし、合ってるよ。私らだっておんなし意見なんだけど、さ」

 ちらりと夏音に視線をやってから、面白くなさそうに鼻を鳴らす。

「懲りない男をもう少しいじめないと、腹がおさまんねーって感じ?」

 律の言うことをいまいち理解できなかった梓だったが、他の先輩達が揃ってうんうんと頷くのを見て、首を傾げた。

「どういうことですか?」

 無理もなかった。梓は、夏音との関わりも他の者に比べて薄い。たかが一年かと思えば、そうではない。軽音部は、彼女たちは非常に濃い一年を過ごしてきた。
 何度も衝突もあった。その度、彼女たちは学んだのだった。
 夏音は、以前から一人で抱え込むタイプの人間だった。抱え込むことで、他者との問題が発生することを学んだはずだったのに、またしても同じことを繰り返している。
 そのことに彼女たちは腹が立っているのだ。

「何かあるなら最初から話してよねー夏音くんってやっぱり秘密主義だなんだもん」

 唯にまで批難される始末。夏音は、どんな言葉が返ってきてもよいと覚悟していた身でありながら、だいぶ打ちのめされていた。
 どこかで、彼女たちは受け入れてくれるという甘え考えが微塵もなかったとは言えない。
 しかし、自分の想像以上に彼女たちは物事を深く考えていたらしい。

「夏音くん、私にヴォーカルやらせようとしたよね。何で私? って思ったし、褒められたから何となく続けてたんだけど。やっぱり、どこかおかしいなーって思ってたんだ。あずにゃんが入ってきて、ギターが増えて、澪ちゃんは相変わらずベースで。夏音くんはギターやったりベースやったりで忙しくて・・・・・・えっと、つまりね」

 言葉に詰まる唯に助け船を出したのは澪だった。

「気づかれてないとでも思ってたのか? お前がいつ軽音部を抜けてもいいように、私と唯にヴォーカルやらせようとしたこと。それで、梓にはリードのポジションをやってもらって完璧だ! とでも考えてたんじゃないのか?」

 図星をつかれた時のショックは大きい。その発想が思い浮かんだ時の自分の喜びの声すら言い当てられ、言葉を失ってしまった。

「私も、アレンジに無理があるかなーって思うことがあったんだけど。やっぱりそういうことだったのね」
「確かにムギの音数減らしたりしてたもんな」
「ここはアコギの方が、とか無茶言ってたよな」
「あ、それは私も思いました。それでもきちんと良い曲になるから凄いんですけど、やっぱり私が入ったから構成が難しいのかなって・・・・・・」

 夏音は観念したように、天を仰いだ。自分はどうやら想像以上に甘かったと気づいた。

「ま、まさかそこまでバレてるなんて」
「ばれるもなにも」
「隠しちゃアカンぜよ」

 唯と律に重ねて言われ、夏音は静かに「はい」と返事した。

「四方から攻撃がくるとは・・・・・・」

 少しだけいじけたくなった夏音だったが、立場を思い出してぐっと堪える。

「でも、ま。これまで通りによろしく」
「え?」

 律がさらりと言った言葉に思わず間抜けな声が出る。

「だから! これまで通りにって言ったの!」
「お、おおう」
「微妙な反応だなー。何を気張ってきたのか知らないけど、本当に私らがそれでお前を追い出すって思ったんじゃないだろーなー? もしそうなら、田井中指点心流秘奥義の餌となってもらうが・・・・・・」

 パキパキと腕を鳴らす律。何の漫画の影響かは知らないが、どこか不吉な響きである。

「いや、何だかんだで受け入れてもらって終わりかと・・・・・・」
「あっまーい。夏音くんあまーい!」「唯に言われるとむかつくなあ」「え、今なんて?」

 そんなやり取りをする三人を温かい目で見守っていた澪、ムギ、梓は大人しく紅茶をすする。

「男ってそういうとこあるよな」
「ああ、何となくわかるかもしれません」
「そうなの?」
「あるある。もう、いらん所で突っ張って結局まわりに迷惑かけるし」

 最早、夏音というより男という生き物への文句である。年相応な意見かどうかは怪しいが、彼女たちなりに男に苦労をかけさせられた覚えがあるらしい。

「でも、すごく楽になった。そっちもだろうけど」

 律がくだけた笑顔でそう言ってくれた。その通りである。
 夏音は、楽になりたかった。ずっと秘密を抱えたり、隠し事をするのは負担になる。自分でもなかなか気づかないうちに積み上がっていった不安が、最近では目に見えていた気がする。
 隠し事をするにも、自然と態度に出してしまう未熟さが悔しくて仕方がなかった。
 いっそ全て話してしまいたい。夏音は、この生活の中で、自分が抱えていた最も重たい荷物を肩から下ろしてしまいたかったのだ。
 打ち明けると決めた時は、不安はなかった。何か大きなものに背中を押されているような安心が心に満ちており、もやがかかった未来へ踏み出すのに躊躇いはなかった。

「まだ先の話っぽいけど、これからも今まで通りによろしく!」

 気取らない笑顔で言う律に夏音は少しだけ涙腺が緩むのを感じた。やはり、何の心配も必要はなかったと知る。
 こうやって自分に向けてくれる笑顔が、待っていると信じていた。
 その人の顔を頭に思い浮かべた時の表情を、実際のその目で眼に入れた時の喜びは何物のにも代え難い安堵をもたらす。
 短い付き合いの中で、夏音は彼女たちの様々な表情を見てきた。その中で、思ったことがある。
 この笑顔でずっと付き合えるような、そんな時間を過ごしていきたい。そう遠くない先に終わってしまう時間でも。

「お、おいおいおい! な、なんで!? 私、なんか悪いこと言っちゃった?」

 律が急に慌てるので、不思議であった。よく見ると、他の者も何故か泡を食ったように立ち上がっては、夏音に詰め寄らん勢いで凝視している。

「ど、どうしたのさみんな?」
「どうしたって……夏音、ないてゆ」

 動転のあまりか、律が噛んだ。

「泣いてる?」

 その言葉の意味が少し遅れて届き、手を頬に当ててみる。

「あれ……ほんとだ」

 目頭が熱くなったとは思ったが、まさか泣いているとは思わなかった。気づかない自分も大概だが、周りの慌てようにもどうかと思う夏音であった。

「ごめんごめん。そんなつもりは一切なかったんだけど、勝手に出ちゃったみたい」
「勝手に出るものかよー? ほら、ティッシュ」
「ありがとう」

 律に差し出されたティッシュを受け取り、鼻をかむ。

「いや、お恥ずかしい」
「夏音くん泣き虫ー」

 唯の言葉に笑いがあちこちで漏れる。もう面目など、夏音には残っていなかった。これだけ恥ずかしい所を見られているのだから、何も取り繕うべきものはない。

「あの、それでまだお願いしたいことがあるんだけど。俺、もっとみんなとライブやりたい。俺も外のライブハウスでやりたいんだけど、どうでしょう?」

 虫が良すぎる気もした。つい、こないだ「俺は元プロだからね。お金払ってまでやりたくないよ。君たたちだけでやったらどうなんだい?」と言ったも同然なのだから。
 おどおどしながら、彼女たちの回答を待つ夏音に対して、少女達は互いに顔を見合わせた。
 それから、誰ともなく小さく吹き出す。

「夏音くん、おかしーい」

 ムギが笑い混じりの声を出した。きょとんと目を瞬かせる夏音に今度は澪が、こちらは少し呆れたように夏音にきつい眼差しを向けた。

「やっぱり分かってないじゃないか」
「ほんとーあずにゃんもなんかガツンと言ってやりなよ」
「え、私がですか!? あ、えと……夏音先輩、僭越ながら言わせて頂くと……先輩少し頭がおかしいです!」
「え」
「あ、じゃなくて! 私、そんなこと言うつもりじゃ! 先輩がそんなこと頼むなんて、逆で! こっちこそお願いするくらいなのに、なんておかしいことを言うんだろうって、あれ? 私、やっぱり失礼なことを!?」
「さ、流石に落ち着け梓ー!」

 律が笑いをこらえながら梓を宥める。こういった反応が面白くて仕方がないという本音が丸見えだが、テンパって目を回す梓に場が一気に和んだ。
 これが後輩パワーか、と梓をのぞく全員がちょっとだけ感心してしまった。

「ほーら、梓でも分かることなのに、鈍いやつめ。何でもかんでもさー私らがいつ『だめ!』って言ったんだよ? もう、なんかやりづらくてしょーがないわ! 我が儘で、隠れ俺様で、永遠の末っ子気質のお前がいちいち下から窺うように接してくるのとか、何の冗談って感じだよなー」
「うん、それは何となくわかるな」

 澪が大きく頷く。一人っ子の上に、実際に常に年下の扱いを受けて育ったのだから、仕方ない話ではあった。
 自覚があっただけに、その指摘に胸に痛い夏音である。しかし、ただ言われるがままも納得できず。

「り、律に我が儘って言われたくないな」
「アラ口が減らないでちゅねー」

 かすかな反論も、軽くいなされるだけであり、夏音は膨れた。

「何、じゃあやってもいいってこと!?」
「なんで半ギレなんだよ!?」
「もう夏音先輩のキャラがもう分かりません……」

 めまぐるしい展開に梓の混乱もピークに達したようだ。「うきゅ~」と机にうつぶせになった梓の頭に澪の手がぽんと置かれる。数少ない良心とその優しさが染みいる瞬間であった。
 夏音はどうやら自分がまどろっこしい選択をしていたことを、ようやく理解した。

「じゃあ、やるよ。やるからね」
「あいあい。じゃあ、もっかいヴォーカルたのむなー」
「いいえ。ベースをやります」
「はあ?」
「俺、ベース、やる」
「ま、待って! それはだめ!」

 澪が猛然と抗議を入れる。当然である。彼女にとってベースという楽器への執着とこだわりは自他ともに認めるところだ。

「わ、私の立つ瀬がないじゃないかー!」
「大丈夫だよ。二人でやればいいじゃん」
「そんな簡単に言うけどな。ツインベースのバンドなんて探したって数えられるくらいだろう! 音楽性もどんな風になるか!」
「音楽性も何も、まだ方向性だってあやふやじゃないか。それに、せっかくやるんだし普通じゃつまらないよ」

 こともなげに言ってのける夏音に、澪は言葉を詰まらせる。同時に周りの反応も似たようなものだった。
 この自信過剰とも言える男は、どこからその自信が沸くのだろうか。どこまで物事を考えているのか、時折分からなくなる。
 頭が悪いわけではない。実際にはきちんとした理由が裏に潜んでいるのが大概だが、本人の頭の中にしか浮かんでいないビジョンを、すぐに共有しろというのは無理である。

「俺がやれるって言うんだから、責任持つさ。もし、みんなが納得できないものにしかならないのなら、大人しくマラカスでも振ってるよ」
「な、なんでマラカスかわかんないけど、いつにも増してたいそうな自信を感じ取った! 責任取るっていうなら、とりあえずやってみよーぜ? って思うんだけど」
「りっちゃんに賛成~」
「私はみんなと一緒にステージに上がれるなら、何でもいいわ」

 三名の同意を得て鷹揚に頷いた夏音は、残り二人に視線を配る。

「二人はどうなの」

 硬直していた梓がはっと意識を取り戻し、首をぶんぶんと縦に振った。

「私はいいと思います! それはそれで面白いと思いますし……全然想像できないですけど」

 その返事に頬を緩めかけた夏音だったが、残る澪を見て顔を引き締めた。周りが醸し出す賛成ムードの中、彼女だけが硬い表情で俯いていたからだ。

「澪は、あまり歓迎って感じじゃないみたいだね」

 眉を寄せて黙っている彼女だが、どこか戸惑いも表れていた。気持ちが上手く片付かないような、そんな顔をしていた。

「いい、とは思うんだけど。やっぱり想像できないし、私の技量で夏音とベースをやるってのは……」
「だから、とりあえずやってみるって気にはなれないかな?」
「うん……」

 どう聞いても色よい返事ではない。夏音も眉を落として、がしがしと頭をかいた。

「気にくわないなら、そう言ってよ。俺の思いつきなんだから、いくらでも調整できる。数ある選択肢の中から俺が面白そうだと思って出した案なんだからさ」
「わ、私は! ベースがごちゃごちゃしすぎてるのって、す、好きじゃない」

 必死に言い切った澪の言葉に、夏音は嬉しそうな笑い声を立てる。澪の反論に対する夏音の反応に、周りは首を傾げたが、その中でも律だけは微妙な表情で澪を見つめていた。
 律に視線をやった夏音は、その理由に心当たりがあった。自分が抱いている考えと、ほぼ同じ考えを律も持ったのだろう。

「分かってるよ、澪。俺だって馬鹿じゃない」

 夏音はしたりげに言ってみせた。夏音は、プロである。初めて彼女のベースをしっかりと聴いた際、澪の好む音楽を手癖やベースラインの雰囲気から想像することは容易かった。
 様々な音楽に触れ、技術やフィーリングを磨いた澪だが、やはりその根本に存在する好みというのは、なかなか離れるものではない。
 彼女の根本にあるのは、支えるベースだ。静と動を併せ持ちながらも、バンドの屋台骨になる存在。時にアグレッシヴになることもあるが、ベースが主役になりすぎることを彼女は好まないのである。
 そんなことは、とうに理解していた。澪が多種多様な音楽に対して貪欲でありながらも、派手な技法、魅せるベースを取得しようとする一方で、その根本の音楽的価値観を崩していないことも。
 律は、澪と同時に音楽を始めた仲だ。一番、彼女と付き合いが長く、音楽の趣味趣向が一致している部分がある。ドラマーとして、最も近くに寄り添ってくれる存在であるベーシストの好みなど、とうに熟知しているはずだ。
 澪は戸惑いの中に、恐れを抱いているのだろう。未知に対する懸念。躊躇いの感情を拭うことができず、それでも他を押しのけて主張するような性格ではない彼女が、その不安を主張した。
 音楽のために、彼女は震えながら意見している。

「分かっている。よく分かっているよ、澪」

 夏音は安心させるように、優しいトーンで語りかけた。ずいぶんと大事になったと自分でも思いながらも、目の前に立ちはだかった問題に全力で対処することに集中した。

「君のベースへの気持ちは知ってるさ。少ない音で、多くを語る。澪は、そんなベーシストだよね」
「そ、そんなことは……」

 ベーシスト、と言い表して評価されたことに澪は慌てた様子である。しかし、事実に対する否定を夏音は許さなかった。

「それ。否定するのは謙遜とは違うよ。澪はそうやってハーモニーの中に身を置こうとしている人だ。俺はそういう音も好きだし、個性だと思う」

 実に気の利いたフレーズばかりでなくてもいい。周りをよく見て、音の歩みを調整する澪の姿勢は一つの道を立派に進んでいる。

「澪は、そのままでいいよ。俺が入ることで君の音を変えることはない。だから、それだけは安心して。俺は、俺のやり方でやるけど、これだけは誓う。悪いものにはしない」

 一呼吸置いて、夏音は言いきる。

「絶対に、すげーバンドにする」

 息をのむ音と、目をぱちくりさせる人間。沈黙が十五秒。

「夏音って詐欺師になれそうだな」
「はあ~?」

 言うに事欠いて、なんて失礼なと夏音は脱力してしまった。対する澪は完全に肩の力が抜けた様子で、朗らかに笑っていた。

「だって、夏音の言うことなら信じそうになっちゃうもんな。理由とかなしに、信頼を寄せてしまいそうになるから、危ない」
「あ~……なるほどなー。詐欺師ってよく知らんけど、こんな感じなのかも」

 律がよく分からないままに澪に同意した。そこで納得されても困る、と思った夏音だったが、自信は少し揺らいだ。
 しかし、詐欺師と言い表されたのは初めてかもしれなかった。

「はぁ~。もう、好きに言ってなよ。じゃあ、澪は了解ってことでいいの?」
「やってみる価値はあると思う」
「さっきまで言ってたこと、ちがくね?」

 少しおざなりな口調になってきた夏音だったが、壁を越えられたことに安心した。
 これで、形が見えた。これからの自分達の形が。

「ぃよーし! 珍しく澪が自分通したってことで、乾杯するかー!」

 律がやや意味不明な宣言をして、すっかり冷め切ったお茶が入るティーカップを掲げた。葬式帰りの人間の前で乾杯はどうかと思ったが、夏音もそれに従い、カップを両手で持った。

「それじゃ、今後の軽音部の活動を祝してかんぱーい!!」

 先は見えていて、それでも明るい未来なのだと信じて。少年と少女達は次の一歩を疑いなしに踏み出した。


※こんな詰めの甘いのが詐欺師になれるはずないですが、うっかり信じてしまいそうになる奴っていますよね。



[26404] 第二十四話『迂闊にフラグを立ててはならぬ』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2013/01/06 00:09

「これが最後の機会だぞ夏音。いいのか……? ほんとにやっちゃって」

 こんなに重苦しい声を律が出すのは珍しかった。ぴりぴりとした緊張感が漂うその場には、軽音部の面々が固唾をのんでその様子を見守っていた。

「うん、やって」
「でも! もし失敗したら!」

 演技がかった口調で律が言う。傍らには唯が「むむむ……」といつになく真剣な表情で唸っていた。

「いいんだ! 早くやってくれ! どうなっても文句は言わないし、いざとなればその時さ!」
「……わかった。じゃあ、いくぞ……」

 律はごくりと唾を飲み込み、えいやと夏音の髪をつかんだ。

「……っ!! ッッッカァーーー!! 塗っちまったよーんー!! もうわたしゃ知らんからなー!」

 吹っ切れたように、プラスチックの皿の上に盛られたカラー剤の山にブラシを突っ込んだ。
 それを夏音の長い髪に塗りつける。その繰り返しであった。

「どうせなら美容院でやってもらえばいいのに……」

 唯がぼんやりと作業を見ながら言った。

「なんだか、もったいない気がしてならないです」

 梓が残念そうな声を落とす。その隣で頬に手をあてたムギがため息をついた。

「学校で何か言われないかしら?」
「でも、元の色に戻すだけなんだから大丈夫じゃないかな」
「一回色を抜かなきゃいけないし、大変そう」

 背後で他人事のようにそんな会話を繰り広げる仲間たちの方へ振り向いた律が、たまらず叫んだ。

「暢気に話してないで、手伝え~!」

 うっすらと涙目なのは、ブリーチの刺激臭のせいである。立花家の風呂場にこの面子が揃うことは初めてだ。
 事の発端は夏音が、「頼みがあるんだけど」ともの申したことがきっかけだ。一同はその頼みとやらに「また、何か突拍子のないことだろう」と考えを浮かべたが、まさに当たっていた。
 休日に夏音の自宅に呼び寄せられた少女達は、「これこれ!」と並べられた道具に目を奪われた。
 それは、少女達の目からしても何を行うために必要な道具かは一目瞭然だった。
 ゴム手袋、アームカバー、ケープ、ヘアクリップ、コーム、ブラシ、イヤーカバーにラップ。浅いプラスチックの皿が重ねられ、何よりも存在感を醸し出すチューブ容器。

「はぁ……なーにをさせられんでございましょ」

 気の抜けた声を出した律の肩越しに、それらの道具をのぞき込んだ唯が「イメチェンでもするの?」と質問をした。
 夏音は唯を見つめ、しかりと頷いた。

「イメチェン、というのが正しいのか知らないけど。カノン・マクレーン・カムバックキャンペーンの一環です」

 沈黙しか生まれなかった。流石に五人分の苦笑を返された夏音は、気まずく目をそらす。

「調子乗ったっス。俺、髪の色を元に戻そうと思ったの」
「まあ!」

 ムギがぽんと手を叩いた。何かを閃いた時の輝きが瞳に宿っている。にこにこと微笑んで、夏音を見つめた彼女に視線が集う。

「それで、カムバック! なのね?」
「……ハハ」

 乾いた笑いが左右で起き、夏音の顔が真っ赤に染まった。

「自分で言ったけど、恥ずかしい……」

 流れたはずの傷手を抉られた気分だった。流石、天然。おそるべし天然、などと思われていることに気づかないムギは「?」と周りの反応に首を傾げていた。

「ようするにカラー手伝えってことだろ? めんど」

 ばっさりと切り捨てる律の反応は想定内だ。そして、夏音は彼女たちの扱いを心得ていた。

「ただとは言わない。ただより怖いものはないっていうだろ?」
「まあ……頼む側が使う言葉じゃないけど」
「冷蔵庫に、ケーキが1ホール入っている。どこのケーキか、気になるだろ?」
「ど、どこのか……聞いてあげよう」

 ごくりと唾を飲み込んだ唯に、夏音は厳かに言い放った。

「TAKAーMAーGAHARA」

 それは魔法使いが放つ幻惑の魔法のような響きを少女達にもたらした。

「我ら一同、お引き受け申し上げるゥゥゥ!!」

 跪く勢いでいの一番に叫んだ人間が誰だったかは、想像に任されよう。



「うん! こんなところかな? 後は時間待って流すだけだな」

 澪の言葉を聞いて、夏音は心底ほっとした。
 先ほど、ブリーチをしている間は色々とひどかった。
 あまりの痛みに耐えかねて、洗い流そうとした所を取り押さえられることから始まったのである。
 そして、夏音はそれどころではなかったが、薬剤が効果を発揮するのを待つ間はまったりとお茶の時間となった。
 昼のバラエティ番組を見ながら、目当てのケーキにありついた少女達はとても幸せそうだった。
 うっすらと涙目の夏音が同席しようとすると、「臭いからあっちで食べて」と追い払われ、本格的に泣きそうになったりした。
 肉体的にも精神的にもつらい時間が過ぎ、ようやく見事に色が抜け落ちた髪を確認できた時は歓声が上がった。
 地味な作業を強いてしまったが、彼女たちにとってもこうしたカラーリングの経験は物珍しく、興味深いものだったようだ。

「すごーい! ほんとに落ちてるー!」
「ははっ。なんか、漫画のキャラクターみたいだな」
「髪痛んでるわー。トリートメントしないと」
「は~」

 各員の反応、そしてしばらくおもちゃにされる時間をじっと耐え、痛みから解放されたことへの喜びを噛みしめた夏音であった。

「さ、次いこうか」
「え、もうやだ」

 次の薬剤が四方から、間髪入れずに夏音の頭に塗りたくられた。


 終わってみれば何ということはない。最後にトリートメントを洗い流した夏音は、風呂場を出てから、そそくさと髪を乾かした。
 この長さとなれば、髪を乾かすのも一苦労である。その作業を淡々とこなす間は何も考えない。黙々と髪が乾ききるのを待つ。
 視界に入ってくる自分の髪の色に、少しだけぎょっとしてしまい、苦笑する。以前は、当たり前だったのに、おかしな話だ。
 髪を黒くしてから、ずいぶんと長い時間が経っていたようだ。
 手触りで、だいぶ乾いたと判断した夏音は思い切って顔をあげた。

「………久しぶり、かな」

 そこには、数年ぶりに出くわした自分がいた。苦笑いなのか、照れ笑いなのかよく分からない表情を浮かべて立つ少年。
 たとえ、日本ですれ違った人がカノン・マクレーンを知っていたとしても、よほどのことがない限り、気づかなかっただろう。
 それほど、髪が黒いのと金髪とでは印象が違う。別人と言ってもいいほど。

「夏音くん、もーういーいかい?」

 唯の声が扉の向こうから聞こえた。

「もーいーよ! たぶん」
「ではでは~。お披露目ターイ……む?」

 いの一番に脱衣所に飛び込んできた唯が、固まる。

「サイヤ人みたい!」

 その感想に夏音はずっこけそうになる。続いて入ってきた律が物珍しそうに夏音の髪に触れる。

「へー、どれどれ。ほぉー! 思ったより綺麗に入ったなー!」
「これって夏音くんの元の髪色に近いのかしら?」

 次々と髪に触れては、感嘆する少女達であった。夏音は、改めて鏡に視線をやって自分を観察する。
 記憶の中の自分は、確かにこんな髪色をしていた気がする。

「うーん……上手くいった、のかな?」
「なんで疑問系?」
「ちょっと自信がなくてさ」
「あ、先輩。そういえばテーブルの上に置きっぱなしだった携帯着信がすごかったですよ」

 梓が夏音の携帯を持ってきてくれたらしく、夏音に手渡す。

「誰だろう……げっ」

 明らかに顔をしかめた夏音は、着信履歴に表示される人物名に寒気を感じた。

「なんか気になる反応だな。誰から?」

 澪が訊ねるが、夏音は深刻な顔つきで動かない。そして、無言のまま脱衣所を出て居間へと向かう。
 きょとんとした表情の少女達は黙って彼について行き、ソファに力なく腰掛ける夏音に問いたげな視線を送る。

「やっぱり……電話しなきゃだめか……」

 ひどく億劫そうに呟いた夏音は、着信履歴の人物へとコールバックした。1コールが鳴るか鳴らないかのうちに、相手は電話に出た。

「あ、鈴木さん? 電話してくれたみたいだけど―――」
『鈴木って呼ばないで! ちょっっとォッ! もうやっちゃったんでしょ? きっとやっちゃったに違いないんでしょ!? あれだけ言ったのに……さっさと写メ送りなさいよ!』

 電話を三十センチ離しても聞こえてくる大声に、夏音は眉を下げる。どうにもこの電話の相手は得意になれないのだ。

「写メ、ね。分かった……ちょうど色を確認してもらいたかったし、ちょっと電話切るね」

 相手の返答も待たず、夏音は電話を切った。そして、何が何やら訳が分からないと目線で訴える少女達に向けて言う。

「ごめん、ちょっと写真撮ってくれないか」
「写メって言ってたやつ? その人に送るの?」

 唯が夏音から携帯を受け取り、カメラを起動する。撮った写真を夏音が確認して、そのままメールを送ってから数十秒後。

『ちょっと! 全然違うじゃないの! 何なのよ、もう……だから言ったのに。私に任せなさいって……ひどい! ひどすぎるわ!』

 電話越しの声から、相手が泣いていることが分かった。夏音は、うんざりとした表情で天を仰いだ。
 何せ、電話から響いてくる声は、

『てめぇ、そんな頭で表れてみろよ! タダじゃおかねぇからなァッ!!』

 野太い、男性の声なのだから。
 いつの間にか近くで耳をそばだてていた少女達は、電話から漏れた怒声に飛び上がった。

『あら、そこに誰かいるわね? もしかして、あなたの髪を染めた奴? 前に話してた女子高生ね!?』

 電話越しの空気だけで、何故そこまで分かるのか。彼(彼女?)の超能力めいた空間察知能力に、夏音はびくりと肩を揺らした。

『ちょっとかわってちょうだい! 小娘どもにあなたの地毛がどれほど繊細な色をしているか説いてやるわ!』
「あー、彼女たちはさっき帰ったよ。今度寄るから、その時にね。バイ」

 一方的に電話を切った夏音はすっきりとした顔で少女達に向き直った。

「お疲れさんです」

 その何とも言えない表情に、少女達は黙って頷くしかなかった。この世には、少女達の知らない世界がまだまだ息を潜めているらしい。


★     ★


「あら、良い色入ってるじゃない」

 顧問であるさわ子が夏音の髪を見た時の反応は、意外にもあっさりとしたものだった。

「あなたの場合、地毛だから心配ないんじゃないかしら? うるさく言う先生方も、流石に地毛にまでどうこう言うわけにはいかないしね」

 学校的には問題はないようだが、実際に夏音の変貌っぷりに色めいたのは生徒達であった。

「うわー夏音くんどうしたの!? 反抗期!?」
「誰かに振られたの?」
「うん、似合ってる似合ってる!」
「私も染めよっかなあ」
「おい、夏音。それってあっちの毛までぐふぅっ!?(殴打)」

 教室は朝、登校してきた夏音の姿を目にした途端に騒然となった。次々に近寄ってきたクラスメートが物珍しげに夏音に声をかけてきて、口々に好き勝手な感想を述べていく。

「へえー。地毛なんだー」

 夏音が、これが本来の色であることを説明すると皆は納得した。

「そういえば、まつげとか金色だったよね」

 逆に、周りの人間がどうして気づかなかったのかが不思議なくらいであった。
 クラスにとびっきりの話題をもたらした夏音であったが、放課後までには生徒達の目にも慣れてしまったらしい。
 珍しい動物でも見るかのような好機の視線もおさまり、これまた一段落と思っていた矢先。
 また騒動が向こう側からやってきた。

「夏音さん……夏音さん……うふふ」

 背筋が凍る瞬間とはこういう感覚を表すのだと夏音は知った。軽音部の部室へと続く階段。その途中で、一度見たら忘れない縦巻きロールをひっさげた堂島めぐみが、怪しい眼光を放ちながら夏音を待ち受けていた。

「や、やあ。久しぶりだね」
「おひさしぶりですぅー」

 一段一段を踏みしめるように下りてくる彼女の姿は、魔王のような邪悪な光が纏わり付いているように見えた。
 思わず一歩下がってしまった夏音である。

「生中継みてましたー。素敵すぎて、もう……永久保存です」
「そ、そう」

 最近では、割と大人しくなってきたと思っていた彼女であった。例の一件以来、彼女への見方が変わり、案外まともな人だと分かって以降、彼女との仲は非常に良好だった。
 彼女率いるファンクラブとやらとも上手くつきあっていたつもりだった。

「夏音さんが何だか素敵に吹っ切れたオーラを感じましてね。私も何となくほっとしたんですー……って、なんで後ずさってるんです?」
「い、いや何となく」

 いつの間にか壁際まで後退していた夏音はごまかし笑いを浮かべる。彼女はきょとんとした表情になったが、すぐに続けた。

「うちの子たちも、夏音さんの今後益々のご活躍をお祈り申し上げる次第なんですよ」
「ちょっと、企業活動でもしてんの君たち?」

 大袈裟すぎて、もはや手に負えない団体になっていないか不安になる。めぐみは、不安な顔つきを隠さない夏音を見て、ぷっと吹き出した。

「やだやだ。冗談ですよ! 夏音さんの活動について知らなかった子たちも、本当に心から感心してました。たぶんですけど、本格的にファンになっちゃった子も少なくないですよ?」

 それは嬉しい報告に違いないのだが、素直に喜べないのは何故だろうと夏音は想った。それよりも、どうしてめぐみが部活に向かう夏音を待ち伏せていたのかが気になった。

「それで、夏音さんにちょっとお願いごとがあったんです」
「お願い?」
「ええ。立ち話でお願いするようなお話じゃないので、すごく恐縮なんですけど」
「あ、それなら部室で話そうよ。立ち話もなんだし」

 部室への鍵は夏音が持っていた。ということは、今は部室に誰もいないということである。
 一番乗りで準備室へと入った夏音は、鞄を置いて彼女を机へと案内した。

「あ、お茶でも淹れようか」
「いいえ、お構いなく。他の子が来る前に済ませたいので」
「そう? じゃあ、さっそくだけど」

 夏音はめぐみに向かい合う形で腰掛け、彼女の話を聞くことにした。

「髪、元に戻されたんですね」
「そうなんだ。色々と心境が変わってさ」
「やっぱり、夏音さんはそちらの方がお似合いです。でも、正直に言うと早く本当の色を取り戻してもらいたいですね」

 めぐみの素直な感想に夏音はやや苦い笑みを浮かべる。

「しょうがないよ。黒いのからいきなりこんな風に染めたんだから」
「そうですね。すみません、変なこと言って」

 目をそらしてはにかんだめぐみは、コホンと咳払いをした。

「では、本題の方に移りますね。クラブの子のお父様が幾つかバーを経営されているそうなんです。それで、来月のアタマに新店がオープンするらしく、そこで誰かプロの演奏家を呼んで演奏してもうらおうと考えているそうなんです」
「ああ、つまり……俺にやってもらえないかってことだね?」

 深く考えるまでもない。要するに、新店のこけら落しの役目を担って欲しいということである。

「それは、かまわないよ。ちょっと予定を確認してみないと正式に答えることはできないけど、たぶん大丈夫だと思う」

 夏音が色よい返事を返すと、彼女の顔がぱあっと明るくなる。

「ありがとうございます! きっとあの子も喜びます!」

 何度も頭を下げて、心底嬉しそうに笑う彼女に夏音も微笑んだ。なんだかんだと、問題が多いように見えるめぐみだが、実際には面倒見の良い人間である。
 後輩や同級生からも慕われているようだし、真面目な部分も多く見える。出会いこそ素っ頓狂なものだったが、彼女とも「なあなあ」で済ませておける関係とは言えなくなっていた。

「ところで、言ってなかったけど」

 そう言い置いて、夏音は背筋を伸ばす。夏音が真面目な話をしようとしていると感づいた彼女もまた、すっと姿勢を正した。

「俺、プロの活動をまた再開することにしたんだ」

 つかの間、沈黙があった後、目の前で満面の笑みが広がっていく。

「おめでとうございます!」
「あ、ありがとう」

 あまりに素直な反応である。彼女のことだから、どんな過激なリアクションを取ってくれるものかと期待していた面もあり、かえってこちらが面食らってしまった。

「本当に……おめでとうございます。それは、いつになるのか聞いてもいいですか?」
「まだ正式じゃないけど、再来年か、それより前か……昔やってたバンドに再加入することになってね。その前に合わせて個人の活動も再開する予定なんだけど、バンドの方は再来年の夏とか、それくらいになるだろうって言われてるから……三学期の途中か、年明けくらいだろうね」
「そうですかあ。じゃあ、私が卒業するまでは在学されるんですね」
「うん。そうだね」
「そっかあ……」

 彼女は笑顔を抑えきれないといった様子で、そんな反応に対して夏音は恥ずかしさを覚えた。
 まるで自分のことのように喜ぶめぐみは、本当に自分を応援してくれているのである。改めて、彼女の気持ちに感謝の念が沸いた。

「君は来年で卒業だね。進路はもう決まってるの?」
「私ですか? そうですね。普通に進学するつもりですけど、ちょっと興味がある分野が絞れなくて」
「へー。やりたいことがたくさんあるって素敵じゃないか」
「そうは言っても、本当にやりたいことがやれるかは別ですけどね。ただ、これでも成績は悪くないですし、推薦も狙えるって先生が言ってくれて」

 成績優秀で素行も悪くなく、バトン部の部長。さらにファン倶楽部の長を務める彼女のキャパシティはとことん広いのだろう。
 何となく、彼女は上手く進んでいく気がした。物事に絶対はないが、彼女が受験に失敗する姿が想像できない。

「それで、私が卒業したらファン倶楽部も解散すると思います」
「え? そうなの?」
「はい。もともと私が勝手に始めたものですし、それに私ほど上手くやれる子はいないと思うんです」

 彼女が何をどう上手くやってきたのかは定かではないが、彼女なりに苦心してきた部分があるということだろうか。
 しかし、夏音はファン倶楽部の休止という自体が思った以上にショックを受けていることに驚いた。

「それに、最初から分かっていましたけど。あなたはとっくに私達のものなんかじゃないんよね。すでに世界中の人々から大切にされているんですもの。ファン倶楽部だって比べようもないほど大きなものがありますし」
「それはそうだけど、でも……」
「大丈夫です。なくなったって、あなたを応援する気持ちはなくなりません。形が少し変わるだけです」
「そうなのかな。ごめん、何と言っていいか……」
「とっても幸せですよ、わたし。ずっと憧れていた夏音さんとこんなにもお近づきになれて、あなたを待ちわびてるファンから恨み殺されるんじゃないかって思いますもん」

 思い出を一つ一つ噛みしめるように言うめぐみが、どこか儚く見えた。こういう風に何かを振り返る人間は、きっと次の階段に足をかけている。
 少ない人生経験上、決まって過去を振り返るタイミングとはそういうものだった。

「もう夏休みが来て、その間は夏期講習で。夏が過ぎたら全て最後のイベントが怒濤のように押し寄せてきて、その一つ一つにいちいち寂しくなって、気がついたら卒業……なんだと思います。部活もこないだの大会で引退ですし、ホント後は受験生に徹するだけですよ」
「受験……」

 夏音は受験というものを実感値を参考に推し量ることはできない。高校三年生という短い時間のほとんどを受験に奪われると聞いているだけである。

「受験戦争ってやつです。私は推薦狙う分、他の人とは違う苦労をするかもしれませんが、やっぱり半端なことはできません。だから、すっぱりとファン倶楽部の活動はやめるつもりです」

 瞳は雄弁に語る。彼女の意志は固い。もともと夏音がどうこう口を挟む問題ではないのかもしれないが、彼女の決断を揺るがすものは何もないのだと理解した。

「そうなんだ……月並みで申し訳ないけど、今までありがとう。最初は戸惑ったけど、こんな風に俺のことを応援してくれる人がそばにいたことは、支えになったよ。かつて君が俺の音で救われたというのなら、俺がこの世に存在して、音楽を続けることには意味がある。そう思えるようになった。君のおかげだ。だから、ありがとう」
「どういたしまして。こちらこそ、です」

 潤んだ瞳を隠すように目を細めためぐみの表情は満足そうに見えて、夏音はこの少女との思い出も、きっと自分の中で大切なものとして抱えていこうと強く思った。


★    ★

「うーん、やっぱりパサパサするんだよねえ」

 染めたばかりの髪をいじりながら、夏音がティータイムの話題を提供する。もともと染色を繰り返していた上、だいたんに脱色までしてしまった夏音の髪はお世辞にも綺麗な髪とは言い難い。
 間近で見ると枝毛が目立つし、何より髪にコシや艶といったものがない。

「髪が相当傷んじゃってるみたい」

 夏音の髪を触らせてもらったムギが太い眉を寄せて診断した結果を口にした。そして、髪を一房持ち上げて目を眇める。

「特に先のほうね。これって切れ毛もすごいんじゃない?」
「そうなんだよね。枕元に毛が落ちてたりするし、シャンプーの時にも毛がたくさん流れていっちゃってすごいんだよ」

 おまけにカラーがシャワーで流れ、色々とひどい。自分の思いつきの結果なのだが、もう少し慎重になるべきだったかと軽く後悔を感じ始めていた。

「それなら、ついでに髪も切ればいいんじゃないかな」

 唯がそんなことを言い出して、夏音の方へと身を乗り出す。

「私、切ってあげる!」
「唯があ?」

 ものすごく不審な物を見るような目つきになった夏音。他の者も唯を胡乱気に見つめていた。

「先輩に任せるのって、ちょっと勇気がいるような……」

 後輩としては勇気のいる発言であったが、最近の梓は唯に対しては割と遠慮が薄れてきている。しかし、そんなことを気にする唯ではなかった。
 疑惑の目を向けられていることに対し、唯は胸を張って言った。

「こう見えても、前髪とかは自分でやってるんだよ! ほとんど、お母さんか憂に頼むんだけど」

 後半に登場した憂ならば、何でも器用にこなしてしまいそうだが、本人の口から言われてもいまいち信用がない。
 その場にいる女性陣は、短い付き合いなりに唯の女子としてのスキルを大体把握していたので、どうせ夏音が遠慮するだろうと誰もが思ったところだった。

「うーん。じゃあ、せっかくだしお願いしてみようかなあ」
「!!?」

 思わず姿勢を正して夏音を凝視してしまった一同。そして、同時に思った。

 とち狂ったのか、と。

「いいよー。じゃ、ハサミもってくるね」

 唯は鞄から工作用の鋏を取り出して、シャキシャキと鈍い音を鳴らした。

「こ、工作用のかい!」

 たまらず叫んだ律に、唯は首を傾げた。

「だって他にないんだもん」

 よく見ると、「ひらさわ ゆい」と消えかけている名前が書いてある。小学生からの愛用の物だと予想できる。
 しかし、「今、この場」で切るとは頼んだ張本人である夏音ですら思っていなかっただろう。案の定、夏音は顔を強ばらせて冷や汗をかき始めていた。

「あ、どうしようかな……やっぱ、いいかも。俺も母さんにやってもらうか、自分でやったりしてたし、ね」

 今さら危機感を抱いたのか、夏音は唯に任せるという浅はかな選択を撤回しようとしていた。

「えー? 大丈夫だよ。先っぽちょっと揃えるだけだし。後ろとかは自分じゃやりづらいと思う」
「俺も最初はそう思ったから、なんだけど。俺の中で非常に危険だと何かが囁いているんだ」
「何ソレ、意味わかんないよー。だーいじょうぶだってば」

 その大丈夫は信頼に値しないのである。好意からの行動なので、思い切って否定することも憚られる。
 中途半端にお人好しな夏音は、助けを求めて視線をさまよわせた。

「ムギ! ムギはどう? 器用なんだし、こういうのイケるんじゃない?」
「私? ごめんなさい。全部やってもらってるから……」
「じゃあ、律。前髪とか、いっつも絶妙に整えてるんでしょ?」
「いや、ふつーに美容院いってるけど」
「梓」
「私、そこまで器用じゃないんで」
「澪!?」
「そこまで嫌なら美容院いけばいいだろうに」

 縋りつく勢いの夏音に若干ひきながら、澪はもっともな科白を吐いた。そこで機嫌を大いに損ねたのが唯である。

「みんなひどくない? 私だってやる時はやるんだよ。じゃあ、ちょっと試しに切らせてよ」
「試しにって何なんだよ!? 怖いよ、やだよ」
「夏音くん男の子なのに男らしくないなー」
「……何だって?」

 唯が呟いた自分勝手な言葉が夏音の心の琴線に触れた。いや、それは心の琴線というより触れてはいけない部分だったのかもしれない。

「そこまで言うならやってもらおうじゃないか。俺は男だから」
「なんか、全く持って意味不明だぞー。ていうか、聞いちゃいねー」

 傍から冷静に観察していた律が口を挟むが、夏音の耳には入っていない。夏音がどっしりと腕を組んで「さあ! Do it!!」と唯を睨む。
 唯は目の前の男が唐突に態度を変えた理由に疑問を浮かべたが、特に気にせず、ただ鋏をシャキリと鳴らした。
 新聞紙を床に敷き、ポリ袋に切り込みを入れてクロスがわりにした夏音は、戦国武将のようにどっしりと構えた。
 一同が息を呑んで様子を見守っているうちに、唯は準備が整ったことに満足そうに頷いた。
 「ふんす!」と鼻を鳴らし、注目の一刀を入れる。

 はらり、と髪が床に落ちる。静まりかえった部室は異様な緊張感に包まれていた。
 抑えた呼吸がやけに響く。チョキ、チョキ、と軽快とはほど遠い不規則な音が続く中、視線が自分に集まっていることに夏音は嫌な汗をかいた。
 自分は「男なのに」とか「男だったら」というワードに弱いことは承知していた。すぐに頭に血がのぼってしまい、判断を誤ってしまうことは今までもしばしばあった。
 そして、今回はわりかしすぐに冷静さを取り戻してしまった。
 鏡を見ながらではないので、自分の髪がどうなっているか確認することができない。
 言うなれば、自分のヘアースタイルを唯に握られているわけである。恐ろしくないはずがなかった。
 何故か全員がぎらぎらとした目を向けている分、言葉を発することもできずにいたが、無言でいることにも限界がきた。
 この重苦しい空気を少しでも和らげたいという気持ちもあったのだろう。
 夏音は、フラグを立てるということがどんなに恐ろしいことか、身をもって体験することになった。

「ね、ねえ。今どんな感じ?」
「え……す、すごい感じ」

 律がどこか落ち着かない口調で夏音に返すが、その一言が余計に不安に陥れてくる。すごい感じ、とはどんな感じなのだろうか。

「ゆい……? そんなに切らなくていいよ?」
「ああっ! ちょっと喋らないで。集中してるんだから」
「今、どこをどんな感じにしてるのかなって気になって」
「うーん……よくわかんない」
「切ってる本人がどういうことソレ!?」

 激昂しかけた夏音だが、激しく頭を動かす失態は犯さなかった。唯のことだ。手元が狂ってしまっても、夏音に文句をぶつけてくるのだろう。

「いや、いいんだ。もう好きにやってくれ……」

 口では言うものの、絶対に美容院へ行こう、と夏音はこの時すでに心に決めていた。だから、ちょっとくらい彼女が失敗してもいい、という寛容の精神が働いたのである。
 ついでに気が緩んでしまったのがいけない。

「あ、これってよくアニメとかでもあるよね。切ってる人がくしゃみとかして、それでバッサリ髪を切っちゃうやつ」
「お、おい。そんな恐ろしいこと言ったら……」

 よもや切られている張本人からそんな科白が出てくるとは思っていなかったのか、澪が顔を蒼くする。その隣では、反対に律がくすりと笑った。

「おいおい、夏音。それってフラグってやつだろ? ま、これでホントにそうなったら笑えるけど」
「むぅ~。ちょっとさっきからみんな失礼だよ。いくらなんでもそんなベタなことするわけないじゃん」

 唯がむくれて言うが、そんなミラクルを平気で起こしてしまうのが平沢唯である。冗談半分の会話だったが、半分以上は冗談の気持ちではなかったのがその場にいる全員の本音だった。

「よっと。これで枝毛とかはだいぶなくなったけど、後はどうしようかな」

 どうやら、ある程度の工程は終了したらしい。いったん手を止めた唯の言葉にほっとした夏音は、気の抜けた声で唯に言った。

「いや、もうそれくらいでいいよ。ありがとうね」

 解放される喜びもあってか、素直にお礼を口にした夏音だった。しかし、その直後に襲ってくる悲劇を乗り切る術は夏音にはなかったのだった。

「うーん、もうちょっとできると思うんだけどなあ……ここを、こう切ったら……ん、ふぇっ……ふぇっ」

 急に唯が珍妙な声を出した。背後に立っているので、その表情や仕草まで確認できない夏音は「ふぇ……?」と疑問符を浮かべた。
 そして、正面に並んだ梓、澪、律、ムギの四人の表情が緩やかに恐怖を帯びていく様子がやけに目にとまった。
 スローモーションの世界に突入してしまったかのような錯覚に、夏音は何かを口にしようと思った。
 その瞬間は、ただ感じることしかできなかった。

「ぶぁっっ……クシュン!!!」

 クシュン、クシュン、とリフレインが耳元で鳴り響く。一陣の風が吹いたかのような戦慄に、身体中の皮膚が粟だった。
 一度に色んな感覚が襲いかかってきて、夏音はその全てを放棄した。
 ジョキン、という不吉な音や、頭皮に感じた急激な痛み、今まで見たこともないくらいに口を大きく広げて固まる目の前の少女達の顔だったり、
 実は全てを刹那に理解しそうになった思考回路など、諸々すべて。

 蝉時雨が世界のBGMの中で最前列に飛び出してきた。虚しさを演出する、世界のはからいだろうか。
 それ以外の音が止んだ部室は、時が止まったかのようであった。

 その中で最初に動き出した人物も、実は何が起きたのか理解していなかった。左手に感じる微かな重みの正体を、ゆっくりと眼前まで上げていき、そこで理解した。

「は、はわわ……ふぁわわわわ」

 今まで発したことのない音が口から漏れ、手がガクガクと震え出す。
 唯が持ち上げた一房、にしては大きめの髪の束に、少女達は視線を吸い寄せられた。
 その髪の存在だけで、何が起こったのかを少女達に正しく認識させる程の威力があった。

 止まったこの空間に、現実が追いついてくる。

「ど、ど、ど、」

 唯は壊れたおもちゃのような動きで自分と目が合っている仲間達に問いかけた。

「どうしよふ……」

 その問いは、少女達が答えるには難題すぎた。

 フラグを容易く現実のものとしてしまう少女。夏音は、平沢唯の恐ろしさを身をもって体験することになったのであった。

「ど、どうする?」

 どうもできない。容疑者と被害者以外の少女達は何故か自分達が対応を迫られていると感じた。
 目の前の被害者は思考が働いていないのは明白だった。真っ白に燃え尽きてそのまま灰となって飛んでいきそうな様子である。
 静かに立ち上がった少女達はそのまま夏音の後ろに回り込み、小さく悲鳴を漏らす。

「おいたわしや……」

 時代錯誤な科白だったが、梓が悲痛な呟きを漏らす。一掴み分ほどの髪が、肩口までの長さになっていたのだ。

「これは……揃えないと無理だな」
「夏音くん、しょ、しょーとも似合うとおもうよ?」
「どの口が言うんだアホッ!」

 唯が間に入れたフォローに律が怒鳴る。流石に唯も平静ではいられないようで、涙目で「ごめんなさい~」と崩れ落ちた。

 周りが騒ぐ中、被害者の瞳に光が戻ってくるのは、しばらく後だった。


※鈴木さん、その正体は後ほど分かると思います。
 



[26404] 第二十五『イメチェンぱーとつー』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2013/03/03 23:29

「……よくもノコノコとやって来られたわね」

 野太い低音にうすら寒さを覚える。その声を発した人物を見上げた夏音は怯える鹿のように細かく震えた。色んな意味で、恐怖が体中を支配している。

「久しぶりデス」
「久しぶりデス……じゃないっ!! 何なのその頭!? 言わんこっちゃないでしょ!」

 声の出し方が変わった。地声の荒さは消え、甲高い男の声が夏音を責め立てる。ぐいっと迫り来る相手に夏音は思わず一歩下がる。

「これには深い事情があるの! だから、やばいから……鈴木さんのとこにきたんじゃないか。タスケテ」

 夏音も必死だった。ここまで来るのに幾つもの葛藤があったが、ついに足を運ぶことにしたのである。

「フーミンって呼んでって言ってるでしょ!!」

 本名、鈴木博文ことフーミンは女性の心を持った男性である。今年で三十路の階段をのぼる人気メイクアップアーティストだ。
 その容姿は幾重にも重ねられた化粧と日々の努力によって、どこからどう見ても女性にしか見えない。初対面の人間は、少し骨太な女性なのだろう、という印象を受けるくらい、彼(彼女?)はその道のプロであった。

「あんたら親子の色はほんっっっとーに貴重なのに……おまけに何をどうやったらそんな風になるのよ?」

 肩を落として夏音を見つめるフーミンの声は哀しみに震えていた。悲愴な面持ちで近づくフーミンから夏音は目をそらした。

「まったくもう……ほら、さっさといらっしゃい」

 やけに色っぽいため息をつくフーミンが夏音を手招きする。夏音が訪れたこの場所は、彼のサロンであった。
 サロン、といってもマンションの部屋にある彼の事務所である。日頃から飛び回って仕事をする彼は一定の場所に店を構えるといった美容師とは違う。
 ただ、もともと美容師をしていた彼の腕を慕う者は多く、彼の時間が空いた時のみこの場所で施術して貰えるシステムなのだ。
 何人も弟子を志願する者が絶えず、東京近郊だけでなく、日本全国からレッスンに訪れる人間がいるらしい。
 そんな希少価値の高い時間を彼が夏音に割いてくれる理由は、アルヴィが彼と友人であるからに他ならない。
 どんな縁で知り合ったのかまでは聞き及んでいないが、夏音はアルヴィに連れられて、ここで髪を切ってもらったことがある。それ以来、どういう訳か「髪をいじる時は私以外にやらせないことっ」と命じられている。あまり真剣に守ったことはないが。

「さーて。どうしてやろうかしら」

 鏡の前に座らされた夏音は、自分がこれからどう料理されてしまうのかと戦々恐々としたが、一分ほど悩んだフーミンはニッコリと笑って言った。

「よし、決まったわ。どっちにしろ地毛に合わせていこうと思ってたし、短い方がかえって好都合だものね」
「フーミンの腕は信用してるけど、何を納得したのかぐらいは教えて欲しいな」
「今の色、写真で見た時よりマシね。元の色に戻そうとしたんでしょ? これから生えてくる髪の毛と徐々に色を合わせていった方がいいと思うのよ。それならショートの方が手っ取り早いってワケ」
「ショート……どれくらい短くなるのかな」

 長い髪に特別なこだわりはなかったが、長年続けていた髪型を手放すのは名残惜しい。初めは周囲が長いのがいいと推すものだから、それに従っていたのだが、この感触には愛着があるのだ。

「大丈夫。あなたならどんな髪型でも似合うから。それに短いのには短いなりの魅力があるのよ?」

 ウインクと共に出された言葉は不思議と説得力があった。夏音は彼の一流の腕には強い信頼がある。だからこそ、その言葉は疑いようもない。
 どのみち、ざっくりと間引かれた髪は不自然きわまりなく、このまま放置するわけにもいかない。
 逆に考えれば、良い機会だと思うことにした。

「ま、覚悟はしてたし。あんまり悩んで時間を取らせるのも悪いから、お願いするね」

 フーミンはそれを聞いて満足気に頷いてから、夏音に真っ白なクロスをかけた。ハサミを手にした瞬間、表情が変わる。

「じゃ、やっちゃうわね」

★      ★


「イメチェンもこう重なると、新鮮味が薄れると思ったけど……すごいな」

 目をまんまるに見開いた律が素直に感想を漏らす。他の者もバッサリと髪が短くなった夏音に賞賛するような視線を送ってきた。
 フーミンの手によってカットされた夏音は、背中まであった長さを肩口にかかるくらいで切りそろえていた。
 実際に、髪を短くしたことによってここまで印象が変わるとは自分でも思っていなかったので、夏音は鏡の前に立つ度に物珍しげに自分の姿を観察してしまうくらいだ。

「一つ言えることは、髪を短くしても顔は変わらずってとこだな」
「モデルみたいになったね」

 漢らしさは、髪型とは遠い関係性にあることも学んだ夏音であった。二段階の変身をした夏音に対して周囲の人間は次々に驚きを表してくれたが、唯一そんな夏音の変化に素直な反応を示せなかった者がいた。

「唯。どうよ、新しいヘアースタイル?」

 気まずげに身を揺らしていた唯に声をかける。びくりと肩を跳ねさせた唯がこわごわと夏音を見つめた。

「い、いいね」
「そう? 俺も気に入ってるんだ。これも唯のおかげだね」
「うぅ……す、すいませんでした」
「別に皮肉で言ってるわけじゃないってば。唯が起こすトラブルなんて今までいくらあったと思ってるのさ? 髪なんていくらでも生えるんだから、気にしないでよホント」
「か、かのんさま……」

 合掌。潤んだ瞳で夏音を拝む唯に苦笑を浮かべたところ、夏音の耳は不快な音声を拾った。

「『髪は女の命なのにぃ~』だもんなあ?」

 ボソリと呟いた律をじろりと睨むと、まるでどこ吹く風で口を尖らせた。その台詞は、唯がやらかした時に動揺した梓がうっかり漏らしたものであった。
 すぐに真っ赤になった彼女に平謝りされたが、ネタとして引きずられているのだ。

「ハイハイ! もう俺の髪型はどうでもいいから、練習しよ! 練習!」
「へーい」

 気のない返事に肩をすくめて、夏音は練習に意識を集中させるのであった。




 夏休みが迫り、夏期講習の締め切りも過ぎた。もとより受ける気がなかったので、夏音には関係のない話だったが、澪やムギは受講するらしい。
 夏休みにまで勉強をするとはどれほど勤勉なのだろうと感心してしまう。絶対に真似できない。

「だって、来年には受験だってあるし」

 と澪はアイスコーヒーの氷を鳴らして答えた。夏音の純粋な疑問に彼女の答えは優等生のものだった。

「でも、来年だろう? 今から楽しいことを減らしてどうすんのさ」
「別に好きで受けるんだからいいだろう?」
「いいや、よくない。せっかく、これからって時なんだよ。勉強より練習。そして、遊び。それを実現できる時間が有り余っているのが夏休みというものじゃないか!」
「お気楽でいいよな、お前は」

 澪のトゲのある一言に夏音は押し黙る。確かに、受験とは縁遠い自分の発言は無責任すぎると思った。しかし、心の底から夏期講習は邪魔だとも思う。

「合宿、花火大会、お祭り、海、プール、温泉、バナナボート、ドライブ」

 呪文のように繰り出された単語の数々に澪の眦がぴくりと動く。彼女とて、本当は遊びたいのは間違いない。
 どこから発生するのか、その自制心をもって勉強に寄り添おうとする澪は、少しくらいはっちゃけるべきだろうと夏音は考えている。

「夏ってのは短いんだよ、澪。ただでさえ短い日本のヴァカンスなんだもん。普段からしっかり勉強していればいいだけの話だよ」
「う、うう。いや! だって、もう申し込みしちゃったもん! それにヴァカンスだなんて、ここは日本だぞ」
「そんなのテキトーにでっちあげてしまえばいいさ」
「たとえば、どんなだよ?」
「聞くまでもないだろ? 旅行とに行く、でもいいし」
「どうせ部活で学校にいるのに、バレたら大変だぞ」
「教師もいちいち覚えてないって」
「まったく。楽天的すぎるのも考え物だな」

 ため息を落として、勝手に夏音との会話を終わらせた澪は雑誌に目を落としてしまう。少し揺らぎかけた気持ちは、すぐに落ち着きを取り戻したらしい。
 それを見てとった夏音は、小さく舌打ちをして背もたれに寄りかかった。

「はあー。夏休みか……待ち遠しいな」



「企画らいぶ?」

 ムギが不思議そうな顔つきで耳にした言葉を反芻した。

「うん! こないだマキちゃんが言ってた企画ライブ!」
「マキちゃんってりっちゃんの友達の子だよね? たしか……らぶくらふと?」
「惜しい、唯! ラブ・クライシスだ。そんでそろそろ返事が欲しいって言われたんだけどさ」

 律が珍しく乗り気である。そして、軽音部がやる気になるのは、大抵がが外部からの刺激によるものだったりするので、これを逃す手はないと意見が一致した。

「出るのはいいけど、曲はどうするんですか?」

 梓がもっともな疑問を提示した。外でやるバンド活動において、こないだの夏音加入後の形はまだ定まっていない。
 既存の曲をアレンジするのか、方向性の問題も未解決であった。

「ああ、それね。夏音、どうすんの?」

 当然のように夏音に丸投げした律だったが、これには無茶な提案をしたのだから、動きだしは張本人がある程度のアイディアを出すべきだろうという考えによるものだった。
 もちろん夏音も自分が案を出さねばならないと理解しており、その幾つかの案はすでに形となっていた。

「これ、ちょっと聴いてみてほしい」

 夏音は取り出した音楽プレーヤーをミキサーに繋いだ。

「それ、なにー?」

 立ち上がった一同が練習機材がある側へと集まる。唯は夏音がやろうとしていることを訊ねた。

「デモを作ってみたんだ。きちんと処理してないし、雰囲気だけつかんでくれればいいなって感じかな」

 再生ボタンを押す夏音。すると、すぐに設置された二台のスピーカーから音が聞え始める。
 不思議な音色が包み込むように漕ぎ出す。オルガンのようだが、ストリングスのようにも聞こえる音色であった。

「あら……?」

 そこで、ムギが声に出して困惑を表した。
 夏音はその理由を知っていた。すぐに気づけた彼女はやはり優秀である。ぼうっと聴いていれば分からない、彼女の領域の問題だからこそ、浮かんだ疑問。
 しかし、夏音はその疑問に答えることはなかった。
 力強い四つ打ちのバスドラにタムのビートが雄々しく炸裂し、ひどく歪んだゴリゴリのベースが攻撃的に響く。
 上には怪しげに揺れているギターの音色が潜み、BPM156の疾走がざく切りのカッティングの翻弄を受ける。
 そこで疑問が浮かぶ。このカッティングの音色はギターのものではない。太く、不可思議に主張するのは、何なのだろうか。
 キーボードは一瞬、破調とも取れるようなスケールのウォーキングを八分で進行している。そこに時折重なる音が、それを正常のものへと変換して送り出してくるのである。

 曲が終わった瞬間、ため息より何より歓声が生まれた。それはオーディエンスとして受け取った少女達が、純粋にこの曲から感じ取ったものへのリアクションだった。

「す、すごい格好良い! いいよ、これ!」

 律が興奮を抑えずに拳をぐっと握った。他の者も同様に息を呑んで硬直していた状態から解放されたように瞳を輝かせる。

「すごいです……お互いの音が邪魔しないようになってる……!」
「でも、音作りすごく大変そうだな」

 梓と澪の言葉に夏音は黙って頷く。澪が口にしたことが最大の難関であるのだ。唯は感想を言わないまでも、その表情からこの曲に心を動かされたことが読み取れる。
 しかし、どこか浮かないのはギターの難易度が高いからだろう。

「練習あるのみ、だね。唯」
「難しいよ~」

 泣き言を言うが、夏音は軽快に笑って流した。それより、もっと複雑そうな顔をするムギが気になったのだ。

「ムギはどうだった?」
「素敵だと思うんだけど……私、あんなに沢山の音を一度に出せないかも。腕が足りないの」

 曲の最初でムギが気づいたことは、正しい。夏音はそのことを説明しなくてはならない。

「俺が出す音が混じってるんだから、当然だよ」
「え?」
「俺は一定の音色を出さない。つまり、こういうことだってことを今から見せるね」

 そう言った夏音はこのために持ってきた荷物を取り出した。ギターケースから取り出したのは、ベースだった。
 しかし、その本体に驚きの声が上がる。

「あれ……? それ、ギター?」

 唯がじっと目を凝らして夏音の抱えるベースを見つめるが、夏音は首を横に振った。

「違うよ。これはベース。六弦のね」

 唯は初めて目にしたのだろう。そもそも、なかなか実物にお目にかかることは少ない代物である。楽器屋に並ぶ姿を見たことがあっても、それを実際に使う人口は比率的に多いとは言えない。
 近年は多弦ベースを使う者が増えてきたが、スタンダードと言えるほどではないものである。

「六つ弦があるベースだよ」
「へえ~、初めて見た~。ぼってりしててかわい~」

 唯の感想に何と反応していいのか分からず、夏音は苦笑を漏らした。続いて取り出したのがエフェクターケースだった。

「今後のことを想定してシステムを組んでみた。何といっても一番の目玉はこれだね」

 指し示す機材が注目される。

「ベースシンセなんだ、これ」

 夏音はこの技術にずっと以前から注目していた。自分の表現の幅をもっと広げたいと思っていた時、この発想と出くわしてから虜になっていた。
 しかし、実際にステージの上でも何度か使用したことはあるが、自分の中で主戦力からは外れていた物である。
 一部では、ベースだけで勝負しないのは逃げという意見もあった。確かに、その意見にも一理ある。
 ベースによる表現はまだまだ無限の可能性が秘められており、それを開拓していくのもまた、ミュージシャンの道であるということ。
 夏音の最も尊敬するクリストファー・スループはおそらく、こうした技術に頼ることはないのだろう。
 だが、他人は他人。自分は自分である。夏音には、そうした新技術への拒否感はなく、むしろ自分が古式ばった考えに囚われて可能性を潰すのはありえないという考えを持っている。
 だから、この技術は夏音にとって武器の一つなのだ。

 仕組みは簡単である。ベース本体に取り付ける独自のピックアップと、それのコントローラーを装着する。そこからシンセ本体に入力された信号が処理されて出力されるシンプルな内容だ。
 これを使うと、ベースの音をオルガンやエレキギターの音として出力させることが可能であり、他にも様々な楽器の音が音源として内蔵されている。自分で音を組み合わせたり、作ったりできる。
 その名の通り、シンセをベースで使用するというのだ。
 口で説明するより、実演した方が早い。夏音はセッティングを済ませて、弦を弾いてみた。

「ええっ!?」

 彼女たちが驚くのも無理はない。ベースから、出るはずのないオルガンの音が飛び出たのだから。夏音は皆が驚いている間にも、次々と音色を変化させていった。
 ヴァイオリン、尺八、三味線、バンジョー。はたまたストラトの音で速弾きをした時など、唯と梓の顔が青ざめていた。

「こういうことができる機械なんだ。これを取り入れて、俺はやっていこうと思いまーす!」

 威勢良く宣言した夏音は、まるで夏休みの予定を発表する小学生のよう無邪気さで皆を見渡した。

「ちょ、ちょっと待って! ついて行ってない! 唯がついて行ってないから!」
「ん?」

 見ると、頭から煙をもくもくとはき出す唯が澪の腕に抱かれてばたんきゅーしていた。



「そっか唯には難しかったか。何も難しいことないよ。とりあえず、俺のポジションがあんな感じだよって伝えたかっただかだから」
「夏音くんはベースなのに、ベースじゃないってこと?」
「そうそう。そう思っておいて」

 唯に用語を用いて説明することの無意味さを知る夏音は、唯ならば感覚的に覚えていくだろうと予測している。
 一通り機能の説明をしてから、一同はひとまず席に戻った。

「でも間に合わすのは大変そうだな」

 ラブ・クライシスの企画ライブまでは二週間を切っている。バンドを一から作り替えるといっても過言ではないのだ。
 全て新曲で臨むとなれば、それなりの準備が必要である。

「今ある曲をアレンジできないのでしょうか?」

 梓が小さく手を上げて発言する。その意見は、実際に誰もが頭に浮かべていたので、前向きに検討された。

「たとえば、トリビュートはどうかな!」
「私もあの曲好き! アレンジなら少し考えてみたんだけど……」

 このように議論は順調に進んでいった。この作業は非常に悩ましいものがある。
 桜高軽音部は、トータルで見てみると非常に脱力系の集団なのだが、その実績を見てみると、実に勢いのあるバンドとして見て取れる。
 第一に、そのオリジナル曲が生まれるペースが一定的でありながら、さらに速い。ブッキングライブで出演者が貰える時間内では収めきれない数の曲を抱えた彼女たちは、どうしても曲を絞らなくてはならないのである。
 勢いのあるバンドは新曲がどんどん生まれる。曲が生まれず、消えていくバンドも少なくない中、非常に恵まれたことなのだと少女達は気づいていなかった。

「とりあえずギリギリの戦いになりそうだなー。ほんと、私たちってこういうの多いなー」

 口だけは文句を言うが、律の目は嫌とは言っていなかった。他も同じく、その目に闘志が宿っている。
 この少女達は、つまり、こういうことなのだ。目標が明確に定まり、やるべきことが形になった時に誰にも負けないくらいの集中力を見せる。
 普段は他に散らせる気が多すぎて、なかなかまとまらないのだが、いざという時に強固に結び目が固く引き締まる。
 まとまっていく。誰もがその空気を肌で感じ取っていた中、ただ一人の後輩である梓はぼんやりとその光景に目を奪われていた。

「(すごい……こんなに真面目なんだ)」

 梓は、それなりに先輩方を知ったつもりであった。彼女たちの実力は認めるところであったものの、どこかその姿勢に疑問が消えずにいたところに、この光景は小さな衝撃であった。
 場を引っ張るのは、律。発言に一切の躊躇がない彼女は、議論という場を前方へ押し出していく重要な存在であった。唯は場をかき乱しながらも、議論に一石を投じて予想外の意見で皆を驚かせたり、本当に稀にまっとうな意見を出すことがある。
 夏音は揺るぎない姿勢で静観することが多いが、ここぞという時に出てくる彼の見地からなる一言は大きな修正力を持つ。
 ムギはあまり口を挟まないのだが、譲れない部分では大いに意見を放つ。そして、澪はよほどのことがない限り否定はしないのだが、その姿勢が実にクールだと梓は憧れを強めた。
 そんな中で、梓は自分の意見をぽつぽつと出しているのだが、どこか出遅れている気がしてやまなかった。
 あまり有意義な意見を出せていないような。
 いつも練習や音楽に対して口うるさい自分が。音楽にだけは一家言あるような振る舞いをしていながら、こういう場面で押しの弱い自分が嫌になると思うのであった。

「梓ー? 梓はどう思う?」
「え? あ、すみません。ちょっとぼうっと……」
「おいおい。軽音部の重要な会議だぜ~? しっかりしてくれタマエ!」
「む……すみませんでした」

 ちょっとだけ本気でしゅんとなる梓であった。しかし、律は冗談めかして言ったことに対する梓の反応に目を瞠ると、にっと笑った。

「梓参謀。略してあずさんぼう。おぬしの意見がききたい」
「ああ、梓。いま話してたのは、当日の衣装についてだよ」

 澪が淡く微笑んで梓へとフォローを入れる。梓は肩をびくりと揺らして彼女に小さく頭を下げた。

「あ、ありがとうございます。衣装の話ですか。前回みたいに制服でいいんじゃないでしょうか?」
「チッチッチ。これからの放課後ティータイムの方向性がそこに表れるんだぜ。そんな手抜きで済ませましたどうせ女子高生ってブランドだし、みたいな考えじゃだめだー!」
「い、いや……後半って女子高生の発想じゃないですよね」

 自分達をそこまで高尚な生き物だなどとは考えていない梓は、その考えにはあまり賛同できなかった。だが、制服とは便利なもので、場によってはフォーマルな装いになるし、高校生が制服を着ていてもおかしいとは誰も思わない。
 穢れなき心を持つ梓には、理解できない世界があることを彼女は初めて知るのであった。

「馬鹿言わないで! JKの制服をそう安売りするものじゃないわ!」
「って、先生っ!? いつの間に!?」

 颯爽と登場したさわ子に、一同驚愕。影もなくその場にいた彼女は、まるで初めからそこにいました、とでも言わんばかりにソファでくつろいでいた。
 さっと立ち上がったさわ子は少女達に近づき、びしりと指を突き立てた。

「私に、任せなさいな」

 自称・軽音部のトータルコーディネーターは、懲りない女であった。

「いや、そういうのいいです。本当にいいんで」

 その日、肩を落とし、暗雲を背負いながら廊下を彷徨う彼女の姿が何人かの生徒に確認されたという。


「まあ、制服は確かに妥協かもな。一部のマニアには受けるかもしれないけど」
「その発言もどうかと思う」

 じと目の澪の突っ込みを無視して、律は真剣に唸り始める。

「ていうか、それってこんなに時間をかけて話すことでしょうか?」
「いや、違うと思うよ」
「うん、ないな」
「えー? だって衣装だよ? 私達の姿がお客さんに―――」
「まあ、これは後日」
「異議なし、です」

 異議なし四つ。可決。


★          ★


「へえー。ちょっと細いんだな、これ」
「全部特注だからね。かなり我が儘言って無理させちゃったけど」

 澪は夏音のベースに興味津々で、手にとってみて細部まで観察している。六弦フレットレス。夏音は付き合いの長い大手メーカーとは別の、親交のある新鋭メーカーのクラフトマンに声をかけた。
 前から「いつか君のベースを作るよ!」と熱い声をかけてくれていた相手だったが、唐突なリクエストに対して即座に対応してくれた彼には、もう足を向けて寝ることができない。
 六弦ともなるとネックが太くなるのが必定だが、そこをなるべく細くしてもらった。さらに通常の六弦ベースより弦のゲージが細いものを使用。ある程度、弦高を下げてもテンションが確保できる仕様を考えてもらい、できたのがこの一本である。外装は非常にシンプルに仕立てられてある。

「やっぱり音は少し薄くなるけど、ボトムを支えるのにはなんら問題はないと思う。それに、底を支える役目は澪がメインだと思うし、かなり満足してるよ」
「全部特注かぁ……思ったより軽いんだな、これ」
「これを作ってくれた人が言うには、人生で一番の工夫をこらした一本だそうだよ。価格はそれなりにしたけどさ」

 ここにいる高校生達には間違っても漏すことのできない出費であった。とはいえ、このベースは夏音の今後を左右する可能性も秘めている。
 ここで将来に出資していると考えれば、安いものだった。

「なー夏音! ここのトコ、ちょっと聞きたいんだけど!」
「今いくよ」

 現在、軽音部は各々の個人練習の時間だった。夏音の持ってきた曲をひとまず全員が覚えようというのだ。
 コード進行や構成を覚えた後、個人でアレンジを加えつつ、楽曲を完成させていく作業。数々のオリジナル曲を作ってきたメンバーにとって、それは慣れ親しんだ作業である。

「そこはベースのアクセントに合わせてみて。ワンペダルだったら難しいと思うけど、両足使えるんだから、できるよ」
「んー、練習しないと」

 苦い顔でそう言った律に笑顔で頷き、夏音は他の様子を観察してみた。ムギは譜面を書き出して、使う音色に四苦八苦しているようだし、唯は耳が拾う音に手がついていかないことに悲鳴を上げていた。
 黙々と曲を覚えていく梓は流石なもので、微妙なエフェクトの具合に引っかかると夏音に質問してきていた。
 肝心の澪は、何と既にコピーを終えていた。一時間半ほどの時間で、一曲を通せるくらいにコピーした彼女はアレンジ部分で夏音とミーティングを求めた。

「ここ、私が歌うんだったらもっとシンプルにしたいんだよ」

 ベースヴォーカルとして、澪は多少難しいラインを弾きながらも歌えるのだが、本音を言えばなるべくシンプルなベースラインの方が良いらしい。
 ベースが二つあるのだから、夏音に負担を割り振るという考えは合理的である。

「わかった。なら、ここは俺が弾こう。じゃあ、ここも俺にしようか―――」

 書き殴った譜面にさらに書き足していく。

「夏音くん。ここの音なんだけど、どうしたらいいかわからなくて」
「ああ、そこは俺が弾くとこ。これはね、イーボウの音にストラトを三度上で―――」

 夏音は大忙しであった。自分が持ち込む曲は今までも多々あったが、これまでにない試みをふんだんに盛り込んだ曲なので、皆がおそるおそる手をつけているのは分かった。
 どのみち、今日中に物にできるとは期待していない。疑問点をできるだけ浮かび上がらせて、後は自宅で個人練習をしてもらう以外ないのである。

「じゃあ、今日はこんなところで。明日、曲として合わせたいからみんながんばってね」

 笑顔でさらりと言い放つ夏音にじっとりとした眼差しが向いたのも無理のない話であった。


★     ★


「げ、弦が切れた。切れおったぞッ!!」
「誠にござるか!?」
「こやつ、このワシに向かって歌舞伎よったわ! 存外、図太いではないか! アハハハ!」
「殿……しかしながら申し上げまする。六弦の替えなんて誰も持ってないんじゃない? どうすんの?」
「ヌハハハ……どうしよう……マジで」

 妙なテンションから一転して現代口調へと戻した二人組の男女の間に乾いた風が吹く。今日は不快指数上限値振り切れ状態の真夏日であり、西部劇の舞台に吹いていそうな風は吹くはずもないのだが。
 そんな男女のやり取りをぼうっと眺めていた飯島裕也は、ぽつりと呟いた。

「恋ってのはさ……どうしてこうも胸を切なくしやがるんだろうな」
「暑さで頭やられてるよコイツ」

 さらにこの場の全てを外側から冷静に観察していた男がげんなりとした表情で呟いた。
 まとまり、という言葉には程遠いこの空間は、ライブハウスと呼ばれる。さらに彼らが立っているのは、ステージという。

「なあ、馬鹿野郎ども。まともに音作りさせてくんねーなら、もう終わらせっぞ」

 マイクを通したPAの男が辛い口調で言う。しかし、ステージの上の人間達はそんな苦情を意にも介さない。

「今、ここで六弦が切れるってどういうこと? なんか今日はよくないことが起こる前触れとしか思えない。それよりもなんていうか、恥ずかしくてどうしたらいいのかわかんない」
「もじもじしないでよ気持ち悪い! ヒト様の企画ライブのリハなんだから、もっとシャキっとしろ!」

 全体的にダメそうな集団にも、まとめ役はいるものだ。ベースを担いだ背の高い少女は、形の良い眉を寄せながら、上手側の二人を怒鳴る。

「もうしょうがないから、借りるしかないでしょう? すみませーん! ほんっっとーに申し訳ないんですけど、今だけでいいんでうちの馬鹿にギター貸してくださる方はいらっしゃいますか!?」

 ベースの少女が、客席側にいる他のバンドに声をかける。その様子をにやにやと見守っていた人間達はすぐに反応した。

「私の、ストラトなんだけどいいかな?」

 ステージに近づいた少女に注目がいくが、そこに透き通るような声が割って入った。

「唯。彼はレスポールだし、唯のを貸してあげればいいんじゃないかな」
「え、ギー太? ええ~……いいよ!」

 逡巡も一瞬で、唯は夏音の提案に笑顔で頷いた。ケースからギターを取り出し、ステージに向かう。
 驚いた顔で唯からギターを受け取った青年は、唯に土下座をした。

「いや、ほんっとに! すみませんねーほんとに! これ、絶対リハ終わったら返しますから! ポリッシュかけて、綺麗に磨いて! 無事にお返しいたします!」
「私のギー太……少しの間の辛抱だからね」
「あれ。なんか、やっぱり嫌々じゃないっすか?」

 実際にほんのりと涙を浮かべる唯に、ぎょっとする青年だったが、自分のトラブルのせいでリハーサルが押していることもあり、すぐにセッティングをし直した。

「すいません! じゃあ、一曲フルでやります!」


 やっとステージ上のバンドのリハーサルが開始された。それを見学しているのは、本日のライブに出演するバンドたちだ。
 放課後ティータイムもその内の一つ。律の友人が所属するバンド、Love Crisisの企画ライブは総勢で6バンドが参加する。
 企画主である彼女たちが交友の深いバンドを集めたらしく、年齢層は若い。しかし、どのバンドもプロを本気で目指しているだけあって、気合いの入った人間ばかりであった。
 その中で、クラスメートの飯島裕也が所属するバンド「Broken aegis」と出逢ったのは偶然としか言いようがなかった。
 夏音は彼がドラマーとして外のバンドで活動していることを聞いていた。彼のバンドは定期的にライブをして、着実に知名度を上げている勢いのあるバンドだとか。
 有名なコンピレーション・アルバムに参加したこともあり、地方の小さなフェスにも出演していて、人気もじわじわと出ているのだという話だ。
 しかし、放課後ティータイムと彼らの出会いはとある人物にとっては穏やかではなかった。
 一同がライブハウス入りして、楽屋に荷物を置きにいった時のことだ。

「おはようございまーす……って……あれ?」

 いの一番に楽屋に入った律が元気よく挨拶をすると、中にいる人物を見て驚きの反応を見せた。
 彼女と視線が合った少年もまた、目を見開いて固まっていた。

「た、田井中! どうして!?」
「あれ? 裕也じゃん。そっちこそなんで?」

 律はさも意外そうに、思わぬクラスメートに反応したが、裕也はそれどころではなかった。

「も、も、も、もしかして! 田井中がいるってこたぁ!?」
「おはようござ……あっ」

 続いて楽屋に入室した澪が固まる。

「あれ? 裕也の知り合い?」

 裕也の隣に座っていた少女が変わった様子の二人を交互に見て、首を傾げる。そこには深い事情が挟まっているのだと、知る者はそっと目を伏せた。
 その後の楽屋は一部、緊張を漂わせる者を覗いてほんわかとしていた。それぞれのバンドが自己紹介をして、飲み物を間に談笑が続いた。
 そして、そうこうしている内にリハーサルの時間を迎えたのであった。


 リハーサルを終えた裕也は、それまでの勇ましいドラマーとしての影をステージに置き忘れたのか、幽鬼のようにふらふらと楽屋へと去っていった。
 彼の様子をずっと観察していた夏音は、手持ち無沙汰にしている澪に耳打ちした。

「ねえ、なんか裕也に話しかけてきなよ」
「な、なんで!? 今さら私から話しかけるのも悪いだろう?」
「いや、でもさ。このままだとあいつがあまりにも不憫で……」
「話しかけるにしたって、なんて言えばいいんだ?」
「そこは何でもいいさ。ドラム上手いね、とか。お疲れ様、でもさ」
「それって私の義務かな……?」
「義務だよ! ふった以上、そこまでアフターケアしてもバチは当たらないさ」

 偏った意見を口にしている自覚はあったが、夏音とて男。木っ端微塵に粉々になった恋心の行方を初めから見守っていた身として、さらに男友達として裕也を少しでも救ってやりたかったのだ。
 澪は浮かない表情だが、仕方なしと頷いた。

「分かった。けど、お前もついてこいよな」

 こうして二人は自動販売機でジュースを買い、軽く休憩する体裁で楽屋に足を踏み入れた。

「いやーお疲れさまでーす。ちょっと疲れたから座りたいわー」

 わざとらしい振る舞いで楽屋の奥へと進んだ夏音を軽く睨んで、澪は大人しく後についていった。
 裕也は近づいてくる夏音を見て、ほっとしたような表情で声をかけようとしたが、後ろに従う澪に目をとめて顎を落としそうになっていた。

「ああ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、秋山さんっ!」
「は、はいっ!?」

 突然、立ち上がって澪の名を呼ぶ裕也。

「ほ、本日はお日柄もよく! おおお足元も悪く! よくぞいらっしゃった!」
「ぷっ! ハハハハハハハ!!」

 即座に腰を折って爆笑した夏音はうっすらと涙を浮かべていた。夏音にとっては彼の珍プレーは反則級の威力を伴っていた。

「か、夏音! 笑うな! 何がおかしいっ!?」
「ふ、フハハハァ! 鳥肌が立ったよ裕也」

 顔を真っ赤にする裕也の肩をぽんぽんと叩き、「まあ座りなよ」とソファに押し戻す。楽屋には、リハーサルのために他のバンドの姿は少なく、裕也の隣には彼のバンドメンバーの少女がいるだけであった。
 裕也のバンドのヴォーカルの少女だった。髪は傷みきったアッシュブロンドで、何と腰より下まで伸びた長さをどうやって保てているのか不思議でならなかった。切れ毛が凄そう、というのが夏音の彼女に対する第一印象だった。
 少女は三人の様子を興味深そうに見つめていたが、裕也が落ち着いたのを見て、肘で小突いた。

「ねえ、裕也の友達? 紹介してよ」
「ん? ああ。クラスメートの立花夏音と、別のクラスの秋山澪さん。二人とも軽音部なんだ」
「へえー。あ、はじめまして。私、こいつと一緒にバンドやってる針山朱音って言います」

 針山朱音はそう言ってぺこりと頭を下げた。

「あ、どうも。秋山です」
「立花夏音です。よろしく」

 相手に習って挨拶を返す。挨拶が終わったところで、彼女はぱっと目を輝かせて二人に食いついてきた。

「ねえねえ! 何でこいつさっきから、こんなんなの!? あなた達と何かあったの!?」
「お、おいアカネ! いきなりウザキャラに変貌すんなっ! 二人ともどんびいてるじゃない!」

 言うまでもなく、澪は引いている。初対面の相手に対しては平常時から一歩ならず二歩と退いてしまう澪に対して、最初からがっついてはいけない。
 ぴしりと硬直してしまった澪の様子が分かった夏音は苦笑して、話題を変えた。

「さっきのリハーサルを見てたよ。すごくパワフルな歌声だった。本番も楽しみにしてるよ」
「あ、どうもです。えっと、立花……さん? なんかすっごく見覚えがある気がするんだけど、どこかで会ったことありましたっけ? あれ、私すごく手の古いナンパみたい?」

 じっと自分の顔を凝視してくる針山朱音に、夏音は藪をつついてしまったのかと内心落ち着かなかった。
 穴が開くのではないかというほど見つめられたが、自分を挟んでなされるやり取りに裕也が変な声をあげた。

「ちょっとお二人さん。初対面でいきなり見つめ合うとか、なんかついていけないんだけど。朱音も俺の友達に因縁つけんなよー?」
「因縁なんかつけてないじゃない! ちょっと見覚えがあったから……んー、まあいっか。ごめんね、いきなり」
「いや、気にしてないよ。今日はよろしく」
「こちらこそ!」

 そう言って針山は夏音と握手を交わしてから、「ちょいトイレ」と言って楽屋を出て行った。
 部外者はいなくなり、裕也が分かりやすいくらいに挙動不審になった。

「あ、秋山さんもよろしくね。今日は、ほんとアレだから……」
「言いたいこと決めてから喋んなよ。アレってなんだよアレって」
「うるさい突っ込むなよ! お前、仮にもアレだべや!」
「中高年かよ」

 埒もあかない。夏音はテンパる裕也も面白いと思ったが、先ほどから置物と化している澪に水を向けた。

「そういえば、澪は裕也がドラムやってるって知ってたのかい?」
「え? 一応知ってたけど、あんなに本格的にやってるとは思わなかったな」
「俺も同感だなー。裕也のドラムは上手いと思った」
「そ、そう? そうかな」

 照れ笑いを浮かべる裕也。ちらちらと澪の顔を窺う様子がいじらしかった。

「ああ、飯島くんのドラムって全部の音がすっごくクリアで芯がしっかりして聞えるんだ。シンバルの鳴らし方がすごく綺麗だな」

 澪の賛辞はお世辞などではなく、心からの評価のようだ。聞いたところ、小学生の頃から真面目に打ち込んでいるとあって基本がしっかりしっている上に、的確さや力といったものや、独特のフィーリングが存在するドラミングは、ある程度の高評価を避けられるものではなかった。
 それほどまで、音楽に打ち込む人間が身近にいることに、澪は感心すら覚えている様子だった。
 手放しで褒められた裕也はデレデレと頬を緩めた。

「いやー。そんなに言われると照れるなあ」
「うちの律にも見習わせたいくらいだよ」
「ええ? 田井中だってそりゃあたいそうな腕だと思うけどナー」
「それ言うとすぐに調子乗るから、本人には言っちゃだめだな。あ、そろそろ私達の番かな?」

 リハーサルの順番は最後だから、もう少し時間に余裕はあったが、夏音は澪がこの気まずい空間を抜けだそうと助けを求めていると気づいた。
 時計を見て、頷くと裕也に「また後で」と声をかけてから、楽屋を出た。

「なんていうか、死ぬほど歯がゆい空間だったね」
「じ、自分から仕向けておいてなんて勝手な奴だ……そりゃあ、そうなるだろうう!? つい、こないだまであんなことがあったっていうのに!」
「それを乗り越えないと強くなれないと思って」
「飯島くんが、だろ!」

 夏音をひと睨みしてから、少し機嫌を損ねた澪はさっさとホールの方へ行ってしまった。つい立ち止まり、その後ろ姿を見送った夏音は肩をすくめて後を追った。


★       ★


 ライブにおいて出番というのは非常に重要である。トリのバンドが最も注目が高く、人気を集めることが多いのは言うまでもない。
 その逆にトップバッターに任命されるバンドは、様々な事情によって選ばれるのだ。まだ新米バンドであったり、名も知られていない故に、早い出番が回ってくるケースもあれば、その日のイベントに火をつける勢いあるバンドとして任されるケースであったりする。
 軽音部、放課後ティータイムは、まだ名の通っていない新米バンドである。だからといって、企画主であるLove Crisisの面々は、安易な気持ちで出番を決めたワケではない。
 純粋に彼女たちは放課後ティータイムを認めてくれており、自分達が主催するライブの幕を開ける役目を任せてくれたのだ。
 その期待に応えないわけにはいかない。
 とても珍しい編成のバンドにPAは少し戸惑っていたが、リハーサルでは音作りに大半の時間をかけた。少ない時間の中、満足する音に仕上がったかどうか問われれば不安であるが、このバンドの持ち味を殺さない程度の音にはなっているはずだった。
 客の集まりは上々。本日、出演するバンドのどれを目当てにきているかは判別できないが、この企画はLove Crisisの企画。ライブハウスのキャパシティの九割を埋めている人の姿に彼女たちがいかに勢いのあるバンドかが理解できる。
 新米バンドがこれだけの客の前で演奏できる機会に恵まれるのは幸運なのだ。軽音部のように、これより遙かに大人数の前で演奏した経験があるのは例外中の例外だ。

 流石にプロのように、全くの暗闇から演奏と共に登場というのは難しい。知らないSEがかかる中、薄暗闇のステージに表れた夏音達は、とっとと楽器を手にとってスタンバイする。
 このようなステージでも、一応は演出というものを考えてみた。全員でセッティングを今一度だけ確認して、今すぐ演奏ができる状態でひとまずステージ脇にはける。
 SEの音量が小さくなっていくと、客がしんと水を打ったように静かになる。ステージに目を向け、出演者を迎える準備が整う。
 ステージの両脇に備えられた巨大なスピーカー。コーンが振動して、ミキサーから送られた信号によって音が鳴る。
 徐々に聞こえてくる音色に聴衆は耳を寄せる。いったい、何の音だろうか。よく聞くと、ヴァイオリンのピッチカートのような、さらに分かる者にはそれがハープの音だと判別できる。
 どこか牧歌的な旋律にバグバイプが加わる。のどかな雰囲気に会場が包まれたところで、二人の出演者がそっとステージに姿を見せた。
 まだ薄暗いステージ。二人の影は自分の楽器に触れて、互いの呼吸を探り合った。ぼんやりと二人の演者がライトによって照らされていく。
 明かりに反射する髪の色が眼に入る。その瞬間、六弦ベースを抱えた人間が不可思議な音を立てた。
 ベーシスト、立花夏音が最初に出したのはまるでベースの音ではなかった。二種類の楽器の音色をシンセサイズした音は、聴いただけでふわふわと地面から足が離れていくような感覚を起こす。
 長いサスティーンがゆったりとメロディになる。何となく異国の香りを漂わせる曲の世界に聴衆は息を呑んでいたが、音の世界にさらに奥行きをもたらすオルガンが雰囲気を急変させた。
 大らかで、荘厳なのに怪しげな響きを奏でるキーボードがもたらす緊張感を味わうのもつかの間。
 残りの演者が、さっとステージに集まった。
 SEとクロスフェードするバンドの音が会場の床を震わせた。聞こえてくる音の情報量が多すぎて、一瞬だけ客の耳が混乱する。
 しかし、その混乱をぬぐい去るようにドラムとベースが雷のようにじぐざぐと強烈な進路を示した。
 レフティのベースで今にも飛び出していきそうな暴れるリフを弾く澪は、客のにはクールビューティーな女性ベーシストとして映る。
 ドラムの律は、トレードマークのカチューシャを外して、ほぼ前髪で顔が隠れた状態で力強いドラミングを続ける。それもまた野性的な印象を与えているのだが、本人いわく「前見えなくて、やばい」らしい。
 暴れる音、抑える音、知らんぷりな音、支える音。幾つものキャラクターが同じ時間軸の上で、重なり合っている。
 いつ破綻してもおかしくない均衡が、とてつもない緊張感を発している。たまらない音圧が、暴力的なまでの引力を生んでいる。
 誰も気づいていなかった。客達は、自分達の足がほんの少しだけ前に進んでいたことに。逆に退く者もいた。
 まるで準備していていなかった身体に襲いかかってきた音圧と、重圧感。その急襲に耐えかねた者は、一歩退いた。
 PAが「まじギリギリ」とぼやいたくらい、限界まで音圧が上がっている。
 今日、これから最後までライブハウスに残った者は、確実に急性の難聴になることだろう。
 放課後ティータイムというふわふわした名前に似つかわしくない演奏に、既に心を持って行かれている者は少なくなかった。
 このバンドには、惹かれるものが多すぎるのだ。まずは、バンドメンバーの容姿である。外れなし、と誰もが口を揃えてしまうくらいに全員の容姿が整っていた。
 見た目よし、は人気を呼び寄せるファクターの一つであるが、第一にその部分をクリアーしているか否かは大きい。
 そして、その魅力に上乗せされる確かな演奏力。六人という大所帯、ツインベースという編成。
 爆音の中で埋もれないそれぞれの音。常に相乗効果するフレーズの嵐は、興味関心をこれでもかと引っ張り続けた。
 飽きることのない展開は、引き出しの多さを物語っている。知れずと、世界観が見えてくる気がするのだ。
 それらの中で一際、眼を奪う存在がいた。その独特な位置づけもあるだろうが、珍しい楽器を操る夏音は目立ちに目立った。
 刻む澪のベースに対し、躍動感のあるフレーズを弾く夏音は、時には「全う」なベースの音でいる時もあれば、全く異なる音色に切り替えて楽曲の表情をぱっと変化させてしまう。
 手も、足下も忙しなく動いて、一秒のズレでもあったら崩れてしまうような動作をさらりとこなしてしまう芸当は、傍から見ている以上に難しい作業である。
 しかし、彼はそのプレイを難なくこなしている風に見せる。必死に、食らいつくような印象を与えることなくやってのけるので、安定感すらあるのだ。
 一曲が終わるとMCなしで、二曲目へ映る。縦ノリのグルーヴに、頭を振ってノる客が現れ始めた。
 ここで客が「おや」と思う出来事が起こる。一曲目のヴォーカルを担っていたギターの少女ではなく、レフティベースの少女が歌い始めるのだ。
 唯と澪。ツインヴォーカルの形態をとるバンドだからこそ、それぞれの声の特徴を活かした曲が作れる。
 澪の声は切れ味の良い日本刀のように冴え渡った響き。曲に集中する彼女は怜悧な眼差しで客を見る。
 その視線に胸を高鳴らせてしまった者は意外にも女性にも多かった。照明の効果もあるが、切れ長の瞳は同性から見ても格好良い。
 シンセサイザーを操る少女は先ほどからパーカッションを担当しており、小刻みに身体を動かしながら楽曲の脈動を感じている。
 時に鍵盤を叩きつけるようにして打楽器のニュアンスを出すムギは、普段の彼女を知る者がいたら口をあんぐりと開けて固まってしまいそうなくらい、本来の姿からかけ離れていた。
 心から曲に浸透している彼女の気持ちは、うっすらと淡い微笑みとなって表れており、少し日本人離れした顔と相まって、貴族的な格好良さを与えていた。
 ギターの少女は、対照的な音を出しているが、役割分担がしっかりしている。飛び道具的な効果をまじえながら、しっかりと曲を引き締めるカッティングを繰り出す梓に、力強いバッキングや、ダイナミックなフレーズで突っ走る唯。
 彼女たちは、完璧な演奏をしていない。実際にフレーズごとに分解して見ていくと、さほど技巧派と呼ばれる人達に比べて難しいことはしていない。
 実際に一番難しいことは「格好よくみせる」ことである。3コードだけでいい。格好良いと思わせたなら、それは勝ちだ。
 夏音は曲中に散りばめた仕掛けが形になって、客の耳をがっちりと捉えたことを確認して笑った。
 自分達のベストパフォーマンスが、評価されることへの喜びが湧き上がってくる。
 プロである自分。そこにあったプライドを無くしたわけではない。少しだけ自分というものへの捉え方を、変えてみた。
 その先にあった結果に、夏音はおおむね満足だった。
 あっという間にバンドの時間は過ぎて、はっと気づいた時には楽屋でソファに座っていた。


「すごおおおい! 私、いまジュース買いにいったら話しかけられたよ! 次のライブいつですか? だって!!」

 唯が飛び跳ねながら楽屋に突っ込んできて放った報告に、一同色めきだった。

「ほ、ほんとか!? 私も外出てこよ!」

 律がカタパルトのような飛び出しを決めようとしたが、ふらりとよろめいて床に膝をついた。

「あ、ダメだ。足にきてる」

 プレッシャーと闘いながら、気力と体力を振り絞って叩いていたのだろう。彼女の筋肉は、緊張感から解放されて「ヒャッホー!」な気分ではなかったらしい。
 乳酸におかされ、「もう動けないもんね!」とへたっている。

「まあ、よくがんばったね律。後半の方がリズムキープちゃんとしてたよ」
「あ、それは本当。私も四曲目になって、おっ? って思った」

 ドラマーにとっての相棒、ベーシスト二人に褒められて律はニヤニヤと崩れる頬を隠しながら照れた。無駄に長い前髪に隠れてにやつく律は低い声で「へっへっへ」と笑った。

「これでファンとかできるかかなあ?」

 ほわんっと柔軟剤のような声で、空気を弛緩させるムギが暢気に笑って言った。

「でも、何にも用意してないよね私たち」

 唯がほんのり気むずかしい顔で言うのを聞いて、梓がもっともだと頷いた。

「普通は音源を用意できていなくても、フライヤーくらいは作ってきますよね。ホームページとかも、今なら携帯サイトとかですぐに作れちゃいますし。せっかく興味をもってくれても、何の情報もないバンドなんて、すぐに忘れ去られちゃいますよ」
「とは言っても、本当に何の用意もないんだし」

 そう言った細々とした管理には向かない律が言い返す。いつの間にかカチューシャをセットして、いつものデコ見せスタイルに戻った彼女は、やはりその方が自然体に見えた。

「音源くらいなら、すぐに作れちゃうけどねえ。デモCDみたいのでいいんでしょ?」
「あのなあ夏音。普通は、音源が一番難航する部分なんだからな、一応言っとくけど」

 澪が呆れた顔になる。夏音が口にする「デモCD程度」は、一般的なデモより遙かにクオリティが高いものになることは間違いない。
 プロ仕様のレコーディング機材を自宅のスタジオに所有する上に、彼は基本的に凝り性だ。
 てきとーでいいや、といじっている内に熱が入ってミックスのために徹夜など平気でしてしまいそうだ。

「けど、考えてみると音源が無いというのも寂しいというか、もったいないというか」
「そうだな。前に一度作ったやつは、すっごく感動したよ」

 爆メロに応募する際に作成した音源を聞いた軽音部一同は、自分達の演奏を客観的にCDで聴いた時は大騒ぎしていた。
 やはり、自分達から創造されたものが確かな形となってこの世に誕生するという快感は忘れられないものだ。

「じゃあ、作ってみる?」

 夏音が軽い気持ちで問うと、「作りたい!」と威勢良く賛成の声が跳ね返ってくる。
 軽音部に、また一つ目印ができたところで、次のバンドの演奏が始まる音が聞えた。せっかく他のバンドの演奏が聴ける機会を逃す手もないので、一同は楽屋を出ることにした。


★      ★


 企画ライブに出演したバンドは、どれも見事なパフォーマンスを披露した。裕也のバンド、Broken Aegisはメタルとスクリーモを融合させたような迫力の音楽だった。
 律は、裕也の高速ツインに圧倒されたらしく、帰り際もずっと悔しそうに「裕也のくせに、ぐぬぬ」と呻いていた。
 主催であるLove Crisisの演奏もまた、人気を裏付ける実力を惜しげもなく軽音部に見せつけてきた。
 噂によると、既にインディーズでCDを出す話も決まっているそうだ。
 夏音はその話を聞いても、「ふーん」と聞き流したのだが、他の者は違ったらしい。夏音のように出逢った時点でプロだったパターンとは違い、同年代の少女達がデビューするという話は受け取り方が変わるようだ。

「すごいねー。同い年なのに、CDデビューなんてすごいや」

 あの唯までもが、どこか遠くを見るような顔つきで言うのだから、よほど衝撃的だったのだ。
 インディーズでもメジャーバンド並か、それ以上に売れる者はいる。しかし、二つのレーベルの違いを探り出していっても意味はない。
 少女達にとって重要なのは、デビューという大きな言葉なのだ。
 夏音は、やっぱり自分は彼女たちと同じ感覚を持つことができないのだと理解した。彼にとってプロであることについての考えはあるが、プロになることへの感慨というのはどこを探しても浮かんでこない。
 だから、きっと少女達の心に浮かんだ気持ちをすくい取って、理解することはできないだろうと思った。
 君たちだってその可能性は大いにあるのだ、と口にするのは簡単だ。けれども、その言葉は自分が思っている以上の効果を巻き込んで少女達に届くのだろう。
 だから、夏音は口を閉ざして彼女たちを見守る。

「まあ、私達はいずれ武道館に行くんだけどな」
「りっちゃん、最初っからそれだよねー」
「なんだよ唯ー。私は常に本気も本気だぞい」
「律は大言壮語って言葉を辞書で引いてみた方がいいよ」

 澪は言葉ほど突き放した感じではなく、口だけは立派なことを言う幼なじみにどこかほっとしているような印象。
 梓などは、おそらく武道館など夢のまた夢と考えているだろう。ムギに至っては、最後まで目標は「みんなと一緒にいること!」とか言いそうである。
 彼女たちが、将来どうなるか想像できない。だが、夏音は、自分で定めたこの時間の終着点を見据えながら、驚くほど悲しい気持ちにならなかった。
 こんなのんびりとした彼女たちがいずれプロの舞台で演奏するような未来も面白い。その未来の中には自分はいないのに、それを想像するのは嫌いではない。
 彼女たちに残せるものがあるなら、できるだけ残す。
 とりあえず彼女たちと外でバンドをやる、という目標を達成できたことは夏音は満足していた。もちろん一回やれば満足、ではないので今後も継続していきたい所存であった。

「あーあ。お腹すいたー。打ち上げ出ればよかったねー」

 腹をさすりながら力無い声を出す唯。実は、ライブ後に催される打ち上げに軽音部一同も当然誘われていたのだが、時間が遅いことを理由に断ったのだ。
 唯とは違った意味で、同年代のバンドマン達と、深い音楽話ができただろうに、と悔やむ思いを捨てきれない澪もその言葉に不満げに頷いた。

「私、綾ちゃんともっと話したかったな」

 綾ちゃんとは、澪のファンである、と公言しているLove Crisisのベースの少女である。澪は開いた時間で彼女と雑談する中で、ちょっとした音楽談義に熱が入ったそうだ。
 投げかければ当然のように答えが返ってくる男より、同じように悩み、試行錯誤をする年下の少女との会話の方が弾むのだそうだ。
 さらりとディスられた気がした夏音だったが、夏音とて熱い音楽談義に花咲く時に気持ちが高ぶるのは共感できる。
 確かに、軽音部の少女達は同年代の者とそういった話をすべきなのかもしれない。バンドをやる上で考えになかったメリットが発見できた。

「またライブ誘われましたし、その時こそ参加しましょう澪先輩!」

 三度の飯より音楽談義! と言わんばかりの梓も名残惜しさを胸に隠していたらしい。澪は「そうだな!」と大きく鼻息をはき出すと梓とがっちりと腕を取り合った。
 熱い二人をよそに、ムギは相変わらずそれらの様子を目を細めて見つめている。取り残されたような気分の自分とは違い、ムギはそうやって眺めていることが楽しくて仕方が無くて、自然体なのだろう。
 キーボードを二台も持ち歩いて辛いだろうと思ったら、全く堪えた様子もなく、余裕綽々で歩く彼女のポテンシャルは計り知れない。
 機材が増えていくと、移動も徒歩と交通機関だけでは厳しくなる。その点、軽音部は車を保有できてかつ運転できる夏音の存在は実に大きかった。
 ライブハウス近くの有料駐車場にとめたハイエースに乗り込んだ一同は、そそくさと帰宅の途につくのであった。

「しっかし、あれだけ音楽好きが集まってんのに、誰もお前のこと気づかなかったなー。ほんとに人気あったの?」
「ぐぬぬ……」

 律の何気ない言葉に深く心を抉られ、一日が終わった。



★        ★


「合宿ってどこでやるんですか?」
「ムギん家の別荘だよ。すごいぞー? こう、広さは東京ドーム何個分って感じでなあ」
「すごいです! そこで音楽漬けになるんですね!?」
「い、いや……そんな漬け物にはなりたくないなあ」

 後輩の熱い瞳から全力で視線をそらした律は、そのまま梓から距離を置いた。あまり真っ当に触れあっていると、自分が汚れているように思えるから、適度な距離感が必要。

「アレだね。梓は。これからこの集団がどこに行こうとしてるか知らないでついてきちゃってるね」
「まあ、梓には気の毒だけど……」

 澪は、既に乗り気もいいとこで十メートルほど先をスキップをかましながら進む唯とムギを見た。
 そこに小走りで混じっていく幼なじみの姿も視界に入り、さらに気分が下降していく。

「誰がどう見ても遊ぶ気満々なんだけどね」
「今年も海なんだよな」

 昨年に引き続き、軽音部には夏休みの間に合宿という一大イベントが目前に控えていた。山か海かで意見が割れ、多数決で海に決まったのが先々週。
 外でのライブも間に挟まって、合宿のことが頭から遠ざかりかかっていたのだが、合宿地の提供者であるムギは、既にその手筈を完璧に整え終わっていた。
 よくよく考えれば、機材面で何より充実している立花家に集まる方が「軽音楽部の合宿」としてはこれ以上ない程の充実っぷりを保証されている。
 しかし、それを理解しつつも、選択肢にすらあげなかった少女達の魂胆は見え見えだった。
 遠出、行楽、夏休みの思い出。音楽のことより、青春の1ページを彩る楽しい風景しか頭にないのだ。
 十代の少年少女の思考としては、健全である。
 梓には全貌をひた隠しにしているのは、合宿の半分以上が遊びに占められると知った彼女が猛反対するのが目に見えていたからだ。
 真面目すぎる後輩は、練習が大好きだ。ストイックすぎるその姿勢を責める者はいないが、正直に言うと唯や律は、可愛い後輩に発言させる気はなかった。
 合宿に向けてのミーティングでは、真面目ぶって議論を進めているように見せかけて、日取りを確定させ、最低限の軽音部的な目標を決めて、後輩の目を誤魔化すことに必死だった。
 もしも「先輩、合宿のスケジュール表とか作らないんですか?」などと素朴な疑問を呈そうものなら、すかさずに「馬鹿ヤロー梓ッ!! そんな時間に縛られたあり方で、ロックな合宿ができるもんか!」と反論して、強引に口を封じる有様。
 しっかりと意見を言う割には、先輩には逆らわない梓は何となく迫力に押されて、合宿直前まで至ってしまったのである。
 そんな純真な心を持つ後輩を引き連れ、合宿前の準備と称してショッピングに来た一同がまず最初に目指したところは、水着売り場だった。

「な、なんで水着が必要なんですか?」
「そ、そりゃー海に行くから、じゃない? ほら、梓もせっかくだから選んだら?」
「去年のがあるから大丈夫です」

 呆然とした梓に投げかけられた疑問にぎくりとしながら答えた夏音だったが、どうにも気まずいシチュエーションであるのは間違いない。
 デパートの水着売り場とはいえ、彼女たちといるこの場所は「女性用の水着」が所狭しと並んだ一角なのだ。
 同年代の女の子達が、地肌に直接身につける薄布を手に取る様子を眺めているのは、思春期の少年にとっては刺激が強い。
 そして、夏音は疑問を浮かべる。
 何故、女性というのは毎年のように水着を買い求めるのだろうか、と。成長期とはいえ、たった一年の中の短い時期に身につけるだけの物を、どうして毎年チェンジするのだろうか。
 決して安い物ではないだろう。去年の物が入らない程、成長とは著しいものではないはず。
 どこが成長するのだろうか。そこまで考え、何か答えが浮かんできそうな気が、身長でもなく、腰回りでもなく、少女達が成長するのは―――、

「お、俺は変態かっ!」

 思考を無理矢理に止めた。顔に血が集まってきて、その大理石のような白い肌を赤く染めていることだろう。

「せ、先輩? 何か今……先輩がとんでもないことを口走った気がするんですけど」
「お、オォゥ!?」

 隣にぽつんとたたずんでいた梓の存在を忘れていた夏音は、外人っぽく驚いた。しかし、見た目を裏切るくらいに日本人っぽかったことに、梓は少し眉を顰めたのに夏音は気づかなかった。

「あ、ああー。梓よ」
「はい」
「ここにいても、俺はどうすることもできないし、何よりとても気まずいんだ」
「それは……」

 周知の事実です、と心で唱えた梓。「羞恥」ともかけるくらい、夏音がおろおろしているのは真横で感じていたのだ。

「どこかで休んでようか?」
「そうですね」

 最初は渋々だったが、意外にも真剣に水着選びに勤しんでいる澪に声をかけて喫茶店で待っていることを断って、二人は仲良く喫茶店のバナナジュースをすすって時間を潰すのであった。


「ぃよーし。もうだいぶお金も使っちゃったし」
「うん、帰ろうか」
「楽しかったね~」

 全身から満足オーラを放ちながら、そのまま去ろうとする三人を梓は目を眇めて見送っていた。
 流石に気まずくなっている澪は、どう取り繕うべきかと冷や汗をかいていた。

「あ、梓。あのな……合宿では、水行を取り入れてるんだ」

 唐突に無茶苦茶をのたまった尊敬すべき先輩に対しても、梓は疑りの視線を向けずにはいられなかった。
 まさか、よりにもよって自分が梓からそんな視線を照射されるとは夢にも思わなかった澪は、思い切り狼狽える。

「そ、そんなっ!」

 自分だけはどこか特別、と心の奥で思っていただけにショックは大きい。しゅん、と小さくなった澪の様子を滑稽だと笑っていた夏音は、今日一日で梓の中の自分の株がぐいっと上がったのを確信していた。
 否、周りが下落していただけかもしれないが。

「まあまあ澪。まーまー。まーまー」
「まーまーうるさい! 女性が本当に美しく、そしてしっとりと甘く生きるための知恵と情報を、厳選してお届けする雑誌か!?」
「み、澪先輩がそんな事細かな突っ込みを!?」

 澪が突っ込む様に目を瞠った梓に、夏音は困惑したように首を傾げた。

「何を驚いてるの? 澪って完全に突っ込み役じゃないか。たまに度が過ぎて、ぶっこみ役になってるけど」
「そ、そんな風には普段みえないですが」

 彼女の瞳には、日常で律突っ込む澪の姿がどう映っていたかは疑問である。何か美しいものへと変化するフィルターがかかっていたに違いない。

「梓の観察眼もまだまだってことだね。いやーそれにしても今日は疲れた。何にも買い物してないし、ただくっついてただけなのにね」
「私もくたくたです……」

 夏音に同調するように肩を落とした梓。心なしか、その言い方には夏音に対してくだけた感じが出ている。
 目敏く感じ取った澪が、不思議そうに二人を眺める。
 こうして二人で並んでいると、とても仲が良く見えるのだ。自分が先輩としての地位を落としているうちに、地道に点数を稼いでいたらしいと澪は勝手に納得して、面白くない気分になる。
 最近、少し失いかけていたクールな自分(?)を取り戻すことを一人心に決めていた澪になど気づかず、さっさと歩いて行ってしまった二人の後を、澪は慌てて追うのだった。



 夏休みが直前に迫る最後の登校日。
 目前に迫った楽園の日々(仮)に心震わせ、夏を全力で疾走するための準備をする生徒がわんさかとあふれていた。
 教室では、夏休みの間の互いの予定を確認し合い、「こことここ! 一日フリーよろ!」とか「かきこうしゅうってなあに? うめーの?」とか「今年は有明で死ぬって決めたんだ」等と浮かれている。
 最早、クラスに溶け込んで久しい美貌の青年は、何故か周りにクラスの男子共が集まって暑苦しい夏休み話を繰り広げている光景に辟易としていた。
 柳眉を寄せて、「ファックオフ」と呟いてみても、「今、何語しゃべった?」と跳ね返される始末。

「いいよなーお前は。軽音部でイベントが目白押しなんだろ? どこのハーレム系主人公? 爆発しろ」
「今年こそは海行きたいなー。毎年、なんだかんだでプールですませちゃうし」
「旅行とか予定立ててみるか?」
「お、いいねえ。どうせならチャリで行けるとこまで行くってのは!?」
「やだよ暑苦しい。野郎だけだとテンション下がるわー、おいらパス」
「その顔面でよくほざけんな」

 どうして自分の机の周囲に寄ってきては、死ぬほどどうでもいい話で盛り上がるのだろうか。まるで誘蛾灯に誘われる蛾のようにわらわらと。彼らがまき散らすのは毒々しい鱗粉ではなく、高い代謝によって止まることのない汗、汗、汗。
 ワイシャツが濡れたといって、タンクトップ一枚になる輩も続出。脇毛を盛大に疲労しながら、汗の始末をせず、女の子のようにこまめにデオドラントという習性がない生物たちは、一角に集まるだけで不快指数を跳ね上げていた。
 夏音は、いらいらと額に青筋を浮かべながら秀麗な顔を怒りに歪めていた。

「あのさー夏音」

 ある男子生徒が先ほどから一言も会話に加わらない夏音にうざったらしい声をかける。改めて、自分に何を申すのか。
 夏音はその生徒に視線をやることもせず、黙々と昼飯を口に運んだ。

「それよ、それ」

 そう言って彼が指し示すのは、夏音の本日の昼食。
 夏音は何がおかしいのかと首を傾げた。
 この真夏という季節にぴったりの内容である。まずは白米。シソを千切りにしてご飯に散らし、真ん中には大粒の梅干しをのせている。おからのサラダに、じゃがいものそぼろ煮にたこウィンナー。魚の味噌煮はお隣さんに昨夜お裾分けされたものを一切れ。これでは、少し色彩にかけると思い、ほうれん草のごま和え端っこに。
 さらにデザートにフルーツを、と考えたのだが、この時期に弁当に入れるのは至難の業だ。
 仕方なく、頂き物の落雁を緑茶と一緒に食すことにした。
 なるべく水分の少ないものを、と考えて主婦の料理ブログ等をめぐってそのアイディアを有り難く頂戴して、拵えたご自慢の軍団である。
 知恵も、何もかも頂いたものを活かした隙のない弁当のはずであった。
 何をもってこの秀作を愚弄するのか、夏音の中で彼の発言に対してちらりと許し難いあまりに怒りの炎があがった。

「自炊してんだっけ? なんかさー。笑えるくらいに日本人! って感じじゃん。ザ・日本。もう美青年ハーフっていうイメージを自ら粉々にしてるよなーアハハハ!」

 あはは、じゃねー。
 きれた。
 たこウィンナーを突き刺していた爪楊枝を哄笑を貼り付けた男の鼻に突き刺す。

「ッッッッッギャァーーーーーッ!!」

 絶叫が教室に響き、「え、なになに?」と注目を浴びる。同時に周りの男共が腹を抱えて爆笑していた。

「だ、だっせぇー。つーか失礼すぎんだろ! 夏音をキレさせるとか、どんだけ!」
「逆に俺はこれだけ自分で作れるこいつを尊敬するよマジ」
「いつでも嫁にこいよな」

 勝手なことをほざく者どもに、ぐるりと勢いよく首を回して鋭い睨みを飛ばす。流石に、顔の隅々まで整いきった夏音が怖い顔をつくると迫力がある。
 愛想笑いを浮かべながらそっと視線をそらす連中に鼻を鳴らして威嚇して、床に突っ伏してもだえるアホを見下ろす。

「自分で弁当の一つも作ってこれない愚か者がよく言ったもんだ」

 あまりにも正論だったので、鼻をおさえながら涙目でふらふらと立ち上がった男は「じょ、冗談じゃんかよー」と細い声で反論した。
 夏音は、一矢報いることができたとご満悦の表情で席に腰を下ろすと残りの食材をぱぱっと腹に詰め込んだ。

「ごちそうさまです」

 何故か夏音の昼食を見守る会と化していた場だったが、それが終わると元の議論が再開された。
 終わることのない不毛な話し合いから抜けるべく、夏音はさっさとその場を離れた。
 歩きながら、思う。
 日本の夏休みはアメリカに比べて短いが、学校がない状態で放りだされてしまえば、時間が余ってしまう者も多いのだろう。
 自身の夏休みの予定を思い浮かべてみると、軽音部の皆と過ごす予定がちらほらとあるものの、空白が目立つ。
 しかし、そんな空白も夏音にとっては積みゲーを消化したり、アニメの全話を一気に鑑賞する時間などに充てられる有意義な時間に思えてならない。
 趣味があるということは、いいことだ。明日から訪れる毎日に今さらながら胸が高鳴ってきた夏音は、ご機嫌のあまり鼻歌をすさぶ。

「ご機嫌よう、夏音」

 高原のお嬢様が言うには何の不自然もない挨拶だが、あまりにも似つかわしくない声と、それを放った人物がセットでアホにしか思えない。
 夏音の前に立ちはだかって通せんぼしてきた友人に、夏音は眉を顰めた。

「裕也。そこ、どいて」
「冷たいねえ。やっぱり思うんだけど、お前ってどこか性格悪い気がするんだけど」
「人を捕まえておいて悪口ってさいてーだと思います。トイレ行きたいんだ」
「お、なら俺もいこうっと」

 この校内で、夏音に連れションをもちかける男はこの男くらいであろう。

「何の用さ」
「あれ、トイレいかねーの? それならいいんだけどさ。俺たち、夏休みにツアーやることになってるんだけど」
「へえー」

 授業がある時は実現が難しいツアー。彼のバンドはこの夏、全国津々浦々バンドツアーを敢行することにしたらしい。
 だからといって、そのこと自体に興味を覚えるわけでもない夏音はいたって平淡なリアクションである。
 もう少し反応を期待していたのか、裕也はやや残念そうに眉を曇らして続けた。

「それでさ。ツアーの一発目を地元でやろうと思うんだ。そのライブに出ないかって話だよ」
「ああ、なるほど。ライブのお誘いか!」

 しかし、これは夏音の一存では決められない。ライブの予定は今のところ入っていないが、ぽんぽんと出られない事情がある。
 要するに、金銭の問題なのだ。
 出演するたびに高校生にとって安くない金額が財布から消えていく。それもバンドマンの性、と諦めるには軽音部の少女達はけちだった。

「じゃあ、みんなに話してみるよ。日程とか、メールしといて」
「おう! 前向きに頼むぜ! こないだの演奏聴いて、マジでうちの奴らが気に入ってたんだよ」
「ありがとう。それじゃ、またね」

 褒められたのに、心から喜べないのは何故だろうと思いながら、夏音は裕也と別れた。ひょんな所からライブの話が転がってきた。
 精力的にライブができない状態なのに、裕也のようにツアーに出るという日々は、自分達には来ないのだろうなと思った。
 だけど、気兼ねなく音楽のことを考えられるようになったこの時間が楽しくて仕方がなかった。
 ゆっくりと踏みしめるように、この時間を無駄にしないように。今年の夏は何をしようか考えながら、早くいつもの階段を上りたかった。



[26404] 第二十六話『また合宿(前編)』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2013/04/16 23:15


 アスファルトを焼く日射し、乾いた車のタイヤの音。遠くの風景が霞む陽炎に目を奪われる。外では、気だるそうだったり、気合い十分だったりする運動部のかけ声。
 効果は乏しいが密かに頑張っている空調の音、働き者の室外機が立てる音。一服の涼をもたらす葉擦れ、蝉しぐれ。
 ああ、夏の音がする。夏音は自分の名前の由来を、日本に来て初めて知った。父親が日本を飛び出すまでに聞いて育った日本の音、いま自分が聴いているこの音こそが、父にとっての夏の音なのだと思う。
 湿気がひどくて、うだるような暑さ。暑いのには耐性があるが、湿気がプラスされると少し厳しい。日本の夏。
 窓際でじっと耳に入ってくる音に感じ入っていた。

「そこの窓際でたそがれてる男! 会議にちゃんと出欠しなちゃい!」
「はーい」

 部室で行われているのは、最終ミーティング(それも三回目の)だ。最後の最後、と言いつつも何だかんだと時間を持て余す連中がこの部室に集まってしまうからである。

「まあ、もう話すことなんて何もないんだけどなー」

 そんなこと、誰もがわかりきっていたことなので、真面目に会議などしているはずもなかった。ホワイトボードはネタというネタで埋め尽くされ、良い感じに梓と澪のツッコミが響くのどかな空間を作り上げていた。
 合宿の場所、日程。持ち物、各自の役割分担。夏休みのライブの日程と練習の日程。その他のお遊びの予定などは一学期のうちに決まってしまった。
 夏休みに入った途端、先生方の顔色は余計に悪くなったように見えた。気むずかしい教師は、普段より倍ほど険しい皺を眉間に貼り付け、いまだに我が校では新米ポジションなさわ子などは、そうした周囲の同僚達が放つ居心地の悪い空気に堪え忍びながら、ひたすら自らの外面をキープしているのだろう。
 暑さで汗と一緒に厚化粧もろとも剥がれ落ちる日がくればいいのに、と夏音は祈っている。

「ごめん。俺、ちょっとヤボヨウを思い出した」

 あまり使い慣れていない単語を出した夏音に視線が飛ぶ。確かに既にぐだぐだ空間だったので、誰かが帰ると言い出してもおかしくはなかった。

「野暮用って、なに?」
「おっと。プライベートなことだよ澪」

 誤魔化し笑いで澪に返すと、荷物を持って部室を出た。まさか、これからクラスの男子達と格ゲー大会だなんて言えるわけがない。



★       ★

「飯島くんの~、下心ばくはツア~」
「ばかやろうっ! 人聞き悪いことのたまってんじゃないよ!」

 顔を真っ赤にして夏音の口をふさいだ裕也は、きょろきょろと辺りをうかがって人の目を気にする。

「だから、純粋にバンドとしてのお願いだって言ってんだろう。ほら、琴吹さんもこころよく許可してくれたんだしさ!」
「そうだね。厚かましいよね」
「へん、素直じゃないなあ。なんだかんだいって快諾してくれたくせに」
「むぅ」

 今回の合宿にいたっては、去年とは異なる面子が混ざることになった。
 その面子というのが裕也のバンド「Broken Aegis」のメンバーだ。
 この夏、初のツアーに意気込む彼らは、一日単位で区切られたスケジュールでひたすらライブをこなすことになる。
 合間にスタジオリハを挟む予定だった彼らだが、とある地方でのステージに至ってはライブハウスの演奏ではなく、お祭りのステージに出演することになるそうなのだが、その街には練習スタジオというものがないそうだ。
 そこで渡りに船。今年の軽音部が訪れる合宿場所、つまり琴吹家の別荘がライブ会場がある町へと向かう途中に位置するそうだ。
 練習環境完備、風光明媚な海の別荘で、夢のバカンスを過ごす(裕也のイメージ)軽音部の存在を知っていた裕也は、一時間でいいからスタジオを貸してくれと頭を下げてきたのであった。
 別にそれくらい何でもない、と二つ返事で引き受けるにも、他の同意が必要だったので訊いてみたところ、全員一致で了承された。
 一、二時間程度なら他の用事で時間を潰せるし、困っているのであれば助けるべき、というのが彼女たちの意見だった。
 これからライブハウスで対バンする可能性が大いにあるバンドなので、ここで恩を売って、仲良くしておくことはマイナスではない。それ以前にお人好しの人間しかいない。断る理由は端からないのだ。

「しっかし、最近あいつとよく関わるよな~」

 律がぽつりと口にした疑問に澪がぴくりと反応していたが、それはさておき、決定事項は揺るがない。

 こうして、あっという間に合宿の当日を迎えた。

「あー今年は唯がトラブル起こさなくてよかったな~」
「うぅ、やっぱり言われると思った」

 律の棒読みに対してバツの悪い表情になる唯。
 全開にした窓から入る爽やかな風を浴びる律はそれでもご機嫌な様子だ。昨年の合宿開始時を思い出して少し憂鬱になったのは夏音も一緒である。半端なく、辛い所行であったのだアレは。
 誰もが認める軽音部のトラブルメーカーは、一年間で起こしたトラブルは数知れず。それも致命的なものが多いのが救えない。最近は、それでも最終的にはどこか憎めないキャラで綱渡りするギリギリの人として認識されつつある。
 もうあんな思いはしたくないと決心し、いっそのこと最初から車移動を選んだのである。
 アメリカではもっと長距離を運転することもある。島国日本がなんぼのもの、と高速道路を軽快にぶっ飛ばしている。
 ちなみに、軽音部で夏音が運転する車の速度云々について、とやかく言った者はいない。ハンドルを握る男の感覚が常人とはズレていることを知っているからか、もしくは彼女たちの神経も人とは違うからかは謎だ。

「やっぱり。先輩、どこかしらでトラブル起こしてるんですね」

 後輩からの冷たいツッコミに心を抉られた唯は、誤魔化すように梓にしなだれかかる。

「あずにゃん~うひひ~」
「やめてくださいっ! ただでさえ暑いのに!」

 梓が本気で苛立ちをにじませた声で体をよじる。クーラーを入れているのに「気分だ!」と窓を全開にしている輩のせいで、車内はやや蒸している。涼しいのは窓際の人間だけ。

「それにしても、サングラス率が高い車内だね」

 唯が梓の必死の抵抗を受けながら、ひょいと顔をあげて言った。運転手の夏音だけでなく、ツバ付きの帽子をしてきた律も、おろしたての淡いブルーのサマードレスに身を包んだムギも、助手席で車内の喧噪にノータッチを決め込んだ澪も含めてサングラス常備である。
 一種異様な光景である。それぞれが似合っているところが、また人目を引くであろう。
 夏音は白人特有のフィット感があり、澪や律はカジュアルな装いが芸能人のお忍びのような雰囲気であるし、ムギはどう見ても避暑中のお嬢様である。

「いいなー。サングラスいいなー。私もしよっかな、サングラス。あまってないの?」
「あまらんだろーふつー」
「いや、あるよ」
「あるんかい!」

 夏音はごそごそと片手でアームレストの小物入れを探ると、後ろ手に目当てのものを唯に渡す。

「わあー、ありがとー!」

 ミッシェル・エノーのサングラスは、譲二が車内に忘れたままずっと放置されていたものである。

「別に使わないし、なんならあげるよ」

 サングラスなら、売るほどある。コレクションしているわけでないのに、出かける先々で父がなくすからだ。たいていは後日、カバンから発見される。

「え、いいの!? わーい! へへへー、どうあずにゃん!? 似合ってる!?」

 さっそく装着してみせた唯が梓に顔を向けるが、梓は微妙な表情で顔を逸らして「……お似合いです」とさえずった。
 明らかに後輩になめられているのに、唯は気づかずに満面の笑みだ。

「ほぉ~……私、けっこうイケてるかも」

 手鏡で確認して自画自賛する唯に向けられた生温かい視線はしばらく続いたが、ムギだけは「唯ちゃん格好いい! 面白い!」と褒めちぎっていた。
 そんな微笑ましい車内風景を繰り広げながら、幾つもの峠を越えて三時間半。途中のスーパーで大量の買い出しを済ませ、正味四時間で目的地に到着した。

「腰、いって」
「いつも、大変ご苦労様です」

 軽音部一同に拝まれたところで、別荘のお披露目であった。
 毎度のことながら、広大な敷地にたたずむ広壮とした建物。そのスケールのでかさに呆然とする軽音部の面々に対し、ムギが申し訳なさそうに一言。

「ごめんね……今年も一番大きいところは借りられなかったの」

 どっひぇー。声なき声が揃った。
 車を建物の横に置き、トランクも開けて荷物を全て建物内に運んだ。ムギの案内を受けながら、はたして一つの空間が何畳あるのか数えるのも馬鹿らしいくらいに広い屋内に一同は圧倒された。おそらく一行が訪れる前に清掃が入ったのだろう。今年に入って利用するのが自分たちが初めてだと聞かされていたが、内装の至る所までもがぴかぴかに輝いていた。
 機材が勢揃いのスタジオに直行すると、そこは完全に演奏目的で作られた防音仕様で、まさに音楽合宿にふさわしい充実っぷりである。
 荷物を置いてから、まずはお茶を淹れて落ち着いたところで何をするかという話になった。

「れ、れ、練習しましょうよ! ほら! あんなに立派なスタジオがあるんですから! 私、さっきのぞいてみて、すぐに練習したくなっちゃいました! ね、いますぐに!」

 いつもの調子、というには中毒症状が出ているみたいに瞳を輝かせた梓が提案すると、「やれやれ」とため息まじりに声を出した律。
 彼女は、素早く唯を視線を交わすと、無駄に色っぽい仕草で「するり」といきなり肌着を脱いだ。
 夏音は思わず固まった。梓も同様で、突然ストリップを始めた二名の先輩に目を白黒させている。
 べつに彼女たちは裸族になったわけではない。しっかりと中に水着を着込んでいた。いつ仕込んだのだろうか。四時間ほどのドライブ中、ずっと下に着込んでいたなら相当に蒸れたはずだ。
 つまり、最初から彼女たちの心はすでに海にあるということだ。
 何故かどや顔で梓に笑いかけた二人は、豪快に鼻で笑ってみせると、颯爽と表へ飛び出していった。

「まずは大海原で心を洗い流そうぜー!」
「お待ちになってェー! アハハハハ!」

 馬鹿笑いの二人が止める間もなく海へ繰り出していったのを、梓は愕然と見送るしかなかった。
 一方、他の者はあまりに予想の範疇で、驚くこともなかった。

「まあ、まずは遊ぶ以外の選択があるはずないよね」
「どこがロックな合宿ですか・・・・・・なんだかとっても嫌な予感がするのですが」
「うーん。まあ、おおむねその勘は鋭いと思うよ」
「や、やっぱりィーっ!?」

 梓の叫びもむなしく、とっとと水着に着替えた一同は二人の後を追ってビーチで一日を費やすはめになるのであった。
 始めこそゴネていた梓だったが、遊びにつきあっているうちに誰よりも夢中になって楽しんでいた。年相応の無邪気さで戯れる梓に癒されたり、地面に埋められたりしながら、時間は過ぎていった。

「夕日が沈んでいく・・・・・・今日が、終わっていくんだね」
「ああ、今日が終わって明日がくる。おお、過ぎ去りゆく太陽の国よ。明日の私たちは、笑えて生きてるのだろうか」

 死ぬほどくさい台詞を吐いた律と唯に、全員が吹き出してしまう。二人の三文芝居はともかく、完全に貸し切りのプライベートビーチで、ぼんやりと沈む太陽を眺めていると、心が穏やかになる。
 ここにある、すべて自分たちがつけた足跡。波際の跡は波にさらわれ、形もない。先ほど一時間かけて作成した砂の城も、潮が高くなってきたのか、ぼろぼろの崩れていた。
 不思議と感傷的にはならないのは、おそらくこの面子だからだ。この軽音部では、あまり陳腐な感動が起こりづらい。
 空気が緩んでしまうからだろうか。少女たちの胸にあるのは、めいっぱい遊んだことへの充足感。皆、それぞれ幸せの余韻を感じているのだ。
 こんな時間になるまで、全力で遊んでしまった。夏音はこうなることをあらかじめ予測していたし、三泊四日の合宿はまだまだ続いていく。
 一日目の夕日でこんなセンチメンタルな空気に浸ってよいはずがない、と思った。
 つまり、現実逃避の時間もそろそろ終わりだった。そろそろ現実に戻すための言葉を誰かが掲げなくてはならない。その役目を担うはずの部長が、自分の世界に入り込んでいる以上、誰かがやらねば。

「(まあ、俺しかいないんだよな)」

 基本的にものぐさ集団なのだから。

「さてと。ご飯食べたら、練習しなくちゃね」
「唯! 明日に向かって走りだそう!」
「ういっす! りっちゃん!」

 二名、逃亡。三十分の放置の後、すごすごと浜からあがってくるツーショットの写真は、なぜか無駄に格好良い奇跡の写りで、長らく部室に飾られることになる。


★     ★

 合宿初日の風呂。少女達は一日の疲れをほぐしながら、まったりとした時間を過ごしていた。

「体にしみるね~」
「風呂は~い~い~」

 体を伸ばそうと、泳いでみようとも、いっこうにかまわない。商業施設ばりの広さを誇る風呂ひとつとっても、以前の別荘より明らかにグレードが上であった。
 やはり風呂好きの琴吹家当主の意向だろうか、建物の中でも最もこだわりが感じられる。
 自慢の風呂では、各々が一日で溜まった疲労をほぐすように憩いの時間を楽しんでいた。
 濡れた髪をそのままに肩まで浸かる律は、ジェットバスに身をゆだねて完全に単独リラックスモード。唯は目を閉じて鼻歌を口ずさんで、憩いの時間を楽しんでいる。
 ムギと澪は洗い場で、今日一日でたっぷりと海水と紫外線を浴びた自慢の髪をケアするのに余念がない。ただでさえダメージに気を遣っている乙女にとっては、少しの油断が敵となるのだ。
 一方。そんな先輩方の様子を湯船の真ん中で立ち尽くして眺める梓の様子に目を留めた唯が、そんな彼女に近づく。

「あずにゃん、お湯が熱いのかな? こーいうのはね、いっそひと思いに入っちゃったほうがいいんだよ!」

 先輩らしさを見せようとでも思ったのか、なかなかお湯に体を浸けない後輩の行動の意図を探る間もなく、その小さい肩をひっつかんだ唯は、そのまま梓をお湯に引きずり込んだ。

「イッッッッッ!!!」

 しばらく、声にならない悲鳴を上げた梓はじんわりと沁みるお湯に涙を浮かべた。決して愉悦のあまり出た反応ではない。

「し、しみます~!!」

 お湯の中でジタバタと足を動かして悶える梓に、

「おっ! 梓もそう思うか! しみるだろー」

 梓の言葉の意味をはき違えた律が嬉しそうに良い笑顔を向ける。何より、奔放な本能のままに苦痛を与えた張本人は、相も変わらぬ暢気な笑顔で納得していたようだ。

「お湯がヒリヒリしますぅ~!!」
「あ、日焼けが痛かったのね。ごめんね」

 梓は、半日の間にこんがりとウェルダン梓へと変貌した。人間が一日でこんなに日に焼けてよいのだろうかと目を疑ってしまうくらいにこんがりと小麦色の肌ができあがっている。
 まるで日焼けサロンに通ったかのように綺麗な仕上がりに思わず拍手が起こったくらいで、昔から紫外線に弱く、日焼けしやすいことがコンプレックスだった梓にとっては、まさに泣きたいくらいの醜態をさらしているのだ。

「それにしても、いーっぱい遊んだよね~あずにゃん♪」
「わ、私はちゃんと練習しますもんっ! 先輩こそ、練習しに合宿にきたってわかってますよね!」
「わかってるよぉ~。あずにゃんマジメ~」

 不真面目の塊に言われるとしゃくに触るものである。しかし、いちいち取り合っていても徒労に終わることを学んだ梓は話題を切り替えた。

「ところで、夏音先輩はお風呂どうしてるんでしょうか」
「ん~? たしか風呂はここだけだから、この後に入るんじゃないか?」
「それなら、あまり長湯するわけにはいかないですよね。私、そろそろ出ます。練習の準備もありますし」
「梓はほんっとに真面目だなー」

 もはやオッサン化している律の戯言だと思い、梓は聞き流す。もともと熱いお湯は苦手で、どうしたことか軽音部全員がちゃきちゃきの江戸っ子肌で、お湯の温度は高めに保たれていた。
 いわく「お湯は熱くないとね! 草津はこんなものじゃなかったよ!」だそうだが、同じ部活動で過ごしていれば嗜好も似通ってくるのだろうかと首を傾げる部分である。

「ずっと運転でしたし。ほんとは一番にお風呂に入りたいはずですよ」

 梓がもっともなことを口にすると、髪を洗い終わった二人も湯船に入ってきた。梓は二人の発育のよろしい肢体に目を奪われる。

「そうだな。今日みたいな日に長湯するのもよくないと思うし、私もすぐ出るよ」
「何回でも入れるしね」

 いろいろと実り豊かな二人がいっせいに視界におさまったことで、梓の脳みそは沸騰しそうになった。

「あ、お、お二人は何を食べたらそんなに・・・・・・」
「ん? どうしたんだ梓?」

 湯に浸かった解放感からか、普段より浮き浮きとした弾んだ声で澪が笑いかけてくる。

「あ、いや何でもないです。なんか、ありがとうございます」

 ごにょごにょと口ごもって澪から体ごと背ける。梓は、心技体そろった先輩をもって幸せなのである。邪念を払いながら、お湯に顔半分をつけてぶくぶくする。

「みーおーっちゃんっ!」

 助平親父が現れた。声からして、エロいことしか考えてないような人間の顔が目に浮かぶ。

「な、なんだよ律。気色悪い声だすなっ!」
「げへへ、おっぱい触らせて~!」
「おお、りっちゃん。ストレートだ」

 包み隠さない欲求のまま、下衆な笑いを浮かべた律が澪に襲いかかった。水しぶきが盛大に飛んで、さらに澪が暴れるものだから、風呂場中に反響する悲鳴も相まって大騒動になった。
 じゃれつきあう先輩の姿を横目に、梓はそっとお湯から上がった。

「澪先輩はどうして律先輩とうまくやってこれたんだろう」

 スウェットにTシャツという軽装で、梓は脱衣所を後にした。まだ風呂場では騒がしい声が響いている。
 こういう時、梓は少しだけ気まずい。先輩方のああいった絡みや、やり取りはおもしろいし決して不快にはならない。
 自分も時たまに巻き込まれて、それはそれで居心地の良い空間だ。しかし、自分がその中で調子を崩してずっといるのは、あまりよくないことなのだと思うのだ。
 やはり根が真面目すぎるからだろうか。自分には物事を四角四面に捉えようとばかりして、変に悩む性質があるらしいことは知っている。

「まあ、性格だからしょうがないケド」

 髪はまだ濡れているが、少し自然乾燥させる。ただでさえ長い髪を本腰入れて乾かそうと思ったら、平気で十五分や二十分はかかってしまう。
 気温は高いし、風邪をひく心配もないので、もう少しそのままで。
 テラスの方へ出ると、ちょうど心地よい風が吹いた。潮の匂いがまじった、海の風だ。潮騒の音と、蝉の声。
 火照った体を冷ますのに、ちょうど良い。

「おや、梓。もう上がったのかい?」

 そこには、先客がいた。テラスに並べられた籐椅子に腰かけて、飲み物を片手に涼んでいたのは夏音だった。

「あ、夏音先輩。ほかの皆さんはもう少し浸かっていかれるそうです。私、あんまり長湯できないので、先にあがっちゃいました」
「そうかそうか。梓はあまりお風呂とか好きじゃないのかな」
「そういうわけではないんですけど。昔、のぼせてから長湯はあまり得意じゃなくて」

 言いながら、夏音の隣に座る。これまた籐の小さなテーブルには、南国風な色鮮やかなドリンクが置かれていた。

「先輩、これどうしたんですか?」

 ねだるつもりはないが、非常に気になったので尋ねてみる。

「自分で作った。綺麗でしょ。この家、ムギのお父さんがお酒好きなのかな。カクテルの材料とかもたくさんあってね。パイナップルジュースとグレープフルーツジュースとココナッツミルクをてきとーにシェイカーで混ぜてね、砕いた氷をたっぷり入れたグラスに注いだんだ。飾りとか、あった方が雰囲気でるし。うまそうだろ?」
「へえー。器用ですね」

 やはり、凝り性なのだろう。自分で楽しむだけのドリンクなのに、グラスにパイナップルやらお花やらが刺さって、無駄に豪華な見た目だ。
 その見た目は、風呂上がりの人間にとっては大変に魅力的であった。

「すっごく欲しそうにみるね。いいよ、すぐ作れるし待ってて」

 声を立てて夏音は豪快に笑うと、立ち上がってキッチンへと向かった。

「あ、先輩。そんな物欲しそうになんかみてません!」

 梓がはっとなって言い訳する時には、夏音はすでに中に入ってしまっていた。何かキッチンでごそごそとやってた夏音は、本人の言ったとおりにほんの数分で戻ってきた。

「はいよ。特性のトロピカルなんとかジュース」
「せめて最後までネーミングしてください」

 さっと手渡されたグラスはよく冷えていた。二本も突き出たストローに口をつけ、先輩直々のジュースを味わう。

「お、おいしいですっ!」

 口にして、本当に驚いた。パインとグレープフルーツの酸っぱさの裏に、ココナッツの甘みがすぐに寄り添って、溶けている。
 あまり味わったことのない味である。しかし、文句なしに美味い。早く風呂はあがってみるものだと気分が良くなった。
 それから二人してチューチューとドリンクをちびちびすすりながら、静かな時間を過ごした。
 梓は自分からあまり話すほうでなく、夏音もわりと物静かな時間が多いので、会話が起こらなかったのだ。
 それでも居心地が悪いということはなく、ただ波の音を聴いて過ごすだけの時間があってもいい。そう思えるような時間だった。
 風呂上がりの女子数名がやってくるその瞬間までは。



★      ★


「うん。律、良い感じに力が抜けてるね。キックの歯切れもなくなってるけど。なんか、そろそろ死にそうだな」

 ふにゃん、と力尽きた軟体生物と化した律がスティックをスネアの上に置く。虫の息の彼女はそのまま幽体離脱してしまいそうなほど弱々しく声を震わせた。

「もーだめだー。オラ、もう力がでないだ」
「あれだけ全力で遊んでたらな」

 呆れてため息をつく澪も、疲労が声に滲んでいる。長時間、車に揺られながら潮風をいっぱいに浴びて海水浴。夕食の準備やらでへとへとになっていたのは、律だけではなかった。
 皆、まぶたが半分に落ちかけており、唯などは実際に演奏中に寝ていた。

「一日目だしね」

 この中で一番疲れている自信がある夏音だった。今の気持ちとしてはそこまで練習を優先させる理由も見当たらないので、寝たい。
 練習終わりにとってある風呂にも早く入りたいし、やっぱり寝たい。

「もう、今日は終わり。もうベースとか持ちたくない。重いし」
「仮にも世界的ベーシストが、こんなこと言ってしまうくらい疲れてるってことか」

 しゃきっとしているように見えて、体がボロボロなのだろう。リズムを取っているかと思えば、ぶっ倒れる寸前だったりする。

「よし、風呂はいってくるわ!」

 ついに限界が訪れた夏音は周りの意見などはなから聞く気もないといった態度で、強制的に練習を終わらせた。とくに反対意見もあがらず、一同は楽器を置いてふらふらとスタジオを後にしたのであった。


★   ★

 夏音が風呂に行っている間、女子五人はアイスを食べながらテラスで涼んでいた。緩やかな女子トークに華やいでいたところ、ふと顧問の存在を思い出したらしい梓が澪に尋ねてくる。

「今回の合宿は山中先生はいらっしゃらないんですか?」
「一応は誘ったんだけど、どうかな。場所は伝えてあるし、暇だったら来るんじゃないか」
「そ、そんな投げやりにされるのもどうなんでしょう」

 仮にも顧問が。責任者としているべきなのでは、と普通なら考えるのだが、この集団にはそんな常識も当てはまらないのかもしれない。

「明日は飯島先輩・・・・・・でしたっけ? そのバンドの方々が来られるんですよね」
「そうだな。お昼過ぎに一時間ほど、ってことらしいけど」
「ツアーってすごいですよね。たくさんお金もかかりますし、ぜんぶ車で移動するのだって過酷でしょう」
「ずいぶん思い切ったことだよな。ある意味、修行みたいになるんじゃないかな」

 梓が感心したような口調で言うのを澪はおとなしく聞いていた。各地で多くのバンドや客と関わり、飛び回る生活。それは大変だろうけど、きっと楽しくてしょうがない。そんな時間になるはずだ。
 同い年の少年が、バンドに全力で打ち込んでいる姿は、妙に生々しい。夏音という存在は、次元が違うので比較にならない。
 もっと近い。そう、たとえば自分と同じ位置にいるような人間が先に進んでいく姿をまざまざと見送るような、そんな感覚だ。
 今の軽音部・・・・・・澪は、そこまで明確な目標がない。しかし、突き動かされるような気持ちは確かに胸の中にあるらしいのだ。競争心とか、そういった感情が芽生えているのだと自覚はないが、澪の中には「このままではいられない」と焦りがあった。
 それは、後ろから何かが迫っているからか。前にあるものを追いかけなくてはならないからなのか、よく分からない。
 ただ一つだけ言えることがある。ずっと同じ歩幅ではいられないということだ。どこへ進んでいるのかも分からないのに、ずんずんと進むことは怖い。
 けれど、のたのたとしていてはいけない。何故なら、自分たちには既に確定してしまっている期限がある。
 最近、胸の奥でうずくように奔る感情は、少しずつ大きくなっている。
 梓を見つめる。彼女は、とことん音楽に対して真摯で、誰よりもひたむきで、まっすぐだ。

「梓は、将来はプロになりたかったりするのか?」

 唐突な質問だったが、ふと訊いてしまう。こんな時だからこそ、だ。いつもと違う空間、違う時間が流れるこの瞬間だからこそ、普段なら恥ずかしいと思ってしまうような話をできる。
 梓は澪からふられた話題に少し驚いたみたいだったが、少しうなってからよどみなく答えた。

「とくに考えていないです。将来やりたいことって訊かれても漠然としてます。両親が二人とも音楽にどっぷりな人ですから、大人になってもあんな風に音楽に関われたらいいな、とは思うんですが、お金をもらって、仕事って感じは想像できないです」
「そうかー。梓なら、そういうの狙ってるのかと思ったよ。けっこう自分のスキルアップとかに熱心だしさ」
「それは、うまくなりたいですから。演奏を磨いて、たくさんの人の前でギターを弾いても恥ずかしくない。そんなギタリストになりたいんです。けど、そうですね。澪先輩の質問のように、プロになりたいかどうかって訊かれたら、よく分からないって思うんですけど。プロとかプロじゃないとか関係なしに、いつでも自分の音楽を誰かに聴いていてもらいたいとは思います」

 澪は目の前の小さな後輩の言葉に、正直なところ圧倒されていた。一年下の後輩、数ヶ月前まで中学生だった少女の中には、これだけ明確で太い芯がきちんとあった。
 自分はこんな風にすらすらと、音楽に対する関わり方を言い表せるだろうか。自分にとって音楽とは、などと殻にこもって考えるようなテーマに挑んで、恥ずかしくない答えは出てくるのだろうか。
 澪がぼうっとそんなことを考えていると、梓は当然のように聞き返してきた。

「澪先輩はどうですか? プロを考えてたりするんですか?」
「私? いや、私は・・・・・・」

 とっさのことすぎて、言葉につまずく。そして、澪は一度知ってしまった目標との彼我の距離について思い出す。

「ちょっと、遠すぎるよな」

 見据えた先には、一つの到着点でしかない答えがあった。澪にとって、これだけのことができるのがプロ、というラインである。
 それは、一つの例でしかないのだが。実例、というものを味わったら、それはいつの間にか基準となってしまう。
 澪にとっての基準は、とある男のせいで高く設定されてしまっている。

「夏音先輩ですか? 先輩は、また特殊な方ですし」

 澪の考えをさらっと読み取ってしまったのか、梓が遠い目でうなずく。澪もうなずく。よくわかる、と。

「だって考えてみてくださいよ。その辺でプロって、メジャーバンドって名乗ってる人たちだってど下手くそな人がいるんですよ。わりとゴロゴロと。純粋な技術だけじゃはかれないものがあるんですよ、きっと」

 言いたいことは分かる。澪もその考えにおおむね賛成である。さすがに「自分のほうが上手い!」と口にすることはないが、素人の耳にも「下手だよね」と評価されるプレイヤーもいる。
 バンドとしてデビューしたなら、全員がプロとして名乗れるだけの実力を伴っているとは限らない。
 だからといって、自分たちがプロになれるわけではないのだが。

「ねー、さっきから何の話してるのーお二人さーん?」

 長い籐椅子に横になって微動だにしない死体と化していた律は、ぼんやりと二人の会話を聞いていたらしい。
 基本さびしがりやなので、会話に混じりたがるのだ。澪はそんな幼なじみに苦笑して、「真面目な話だよ」と返した。

「澪はよー。武道館いくって言ったの忘れたんかーこらー」

 覇気のこもらない口調で言う律に、澪はその瑞々しい唇を寂しげに上げた、

「武道館、か。十年後とかは、どうだろうな」
「遅い! うちらは高校卒業と共にデビュー。なんやかんやで三年以内には異例の武道館公演って決まってんだ!」
「てきとーだなあ。なんやかんやってなんだよ」

 しつこいくらいに武道館、と口にする律だが、本人は言うほどこだわってはいない気がする。景気づけ、というか。お約束みたいに。自分たちを奮起させるような魔法の言葉なのだ。

「そういえば夏音くん遅いねー」

 ムギと先ほどから楽しげに話していた唯が言うので澪は時計を確かめた。気がつけば一時間ほど経っている。

「夏音先輩、お風呂で寝てたりしてないでしょうか?」

 梓が心配そうに眉を落とすが、そんな後輩の発言を笑い飛ばす律だった。

「ありえる! あいつ長風呂しそうだしなー。まず日本に来て、温泉に激ハマリしたらしいよ」

 一人、温泉宿で悠々と暮らしていた時期があると話していたことがある。あの西洋人形みたいな容姿から「ああぁ~」とオッサンみたいな声が出ている姿が目に浮かぶようだ。
 とことん自分の姿形を裏切る中身だ。
 風にあたりすぎるのもよくないとムギが言い出し、一同は中に入った。何となく夏音を待つように駄弁っていたが、どちらにせよ寝るだけだったので、そのまま寝室に向かってしまった。
 皆、疲労の限界がきていて、布団に入ってからのお話もなし。波の音を聞きながら、熟睡するまで何か考えていた気がするが、忘れてしまった。


★      ★


 翌日の朝は、こなかった。
 正確には、朝と呼べる時間帯は等しく全員に訪れなかった。

「んん、いま何時ー?」
「うふふ、十二時」

 全員、寝坊。

「いやいや。まさか全員が寝坊するとか思わなかったね!」

 夏音が食パンにジャムを塗りたくりながらのんきに笑った。この中で、最も怒りそうな人物が朗らかに笑っているのだ。もう、誰もが笑うしかなかった。

「すっごく損した気分・・・・・・」

 暗い表情でうなだれる梓は、早起きしそうなキャラの割に、誰よりも遅くに起床した。それは可愛い寝顔で、よだれで枕をぐしょぐしょにしながら爆睡していた。本人を除く全員の携帯で撮られた写真に証拠として保存されている。

「旅行とか行って寝過ごした感じ?」

 律が梓の心境を例えてみたが、梓は返事すらしない。ふがいなさに落ち込むところは、彼女の真面目さを表しているのだが、他が脳天気すぎてやや浮いている。

「もう飯島くんたちが到着するかしら?」
「お昼過ぎって言ってたから、そろそろかもね。迷ってなかったら」

 この別荘への道は、国道を外れた道からさらに二、三度曲がるのだが、少し分かりにくい。
 もしも道に迷ったら連絡がくるだろう。

「どうせ、あと二泊あるんだから。今回は遊びも考えた日程なんだから、気楽にいこうよ」
「そうだよな! こんなの、ぜんっぜん問題ない」
「だねー。明日のお昼は冷やし中華にしようよ」

 どんな事態でも、まるでへっちゃらな先輩達の姿に梓も少しは持ち直したようだ。あまりに楽天的な思考に引きずられただけだろうが、「あ、それでもよい気がしてきた」となってしまうのが、集団の恐ろしいところだ。

「じゃー、あいつが来るのをお迎えしてから、遊ぶかなー。個人的には山の方にも行ってみたい気分」
「せっかくだし山もいいなー」
「私、そう思って虫取り網もってきたよ」

 こうして、軽音部合宿二日目が始まった。



 いつまで待っても一向に現れない裕也たちにしびれを切らした夏音が裕也の携帯に電話をした。

『あ、もしもし!?』

 電話越しに聞こえる気の抜けた声に少しいらっとしてしまった。

「ずいぶんと遅いから電話したんだよ。今、どのへん?」
『いやー。すまんすまん! ていうか、もう着いてる!』
「は?」
『海! ごめん、海だわ! もう辛抱たまらんくて! 海にいんの!』

 海! アハハハハー! と言い残して通話を切った相手に、夏音は苛立ちが殺意に変わる瞬間を知ったという。
 浜辺の方へ行くと、そこではパン1で海と戯れる集団の姿があった。とりあえず夏音は買い込んであった花火の中から『三十連発!』と書かれた細い筒状のものを選んで、着火した。

「うわちゃちゃちゃ! あぶっ! あぶっ!?」

 真夏のビーチ! な光景は阿鼻叫喚の間抜けな地獄絵図に変貌した。

「いやー、グラサンかけたお前が両手に手持ち抱えてる姿みた瞬間はターミネーターに見えたぜ」
「どうして目的地をスルーしてビーチで遊んでるのかな。こっちは時間あけて待ってたっていうのに」
「すまん。それには、抗えない理由があった」
「一応、きいてあげる」
「海がさ。もうさ。呼んでんの。逆に訊くけど、いつ入るの? 今でしょ」
「どうして裕也は裕也なの?」
「すごい。直接馬鹿にされてないのに、何よりも否定されてる気分だ」

 こんな馬鹿な会話をしている間、祐也のバンドメンバーは軽音部と打ち解けていた。

「へー。これ全部プライベートビーチなんだね。こんなお嬢様って漫画の世界だけかと思ってた」
「こないだはギター貸してくれてありがとうね」
「ううん。指紋ひとつ残さずに拭いて返してくれたから、大丈夫です」
「あれ、やっぱり嫌われてるのかな。覚えがないけど」

 和気藹々といっていい。夏音の説教を受ける祐也はそちらをうらやましそうに眺めていて、その表情は待てをくらった犬のようで、夏音はいっそ哀れに思えてしまった。

「まあ、いいや。俺らもダラダラ遊んでただけだし。スタジオに案内するよ」

 彼らBroken Aegisは、男女四人組の編成である。祐也は最年少で、唯一の高校生。ヴォーカルの朱音は十九歳のフリーターで、あとの二人はともに成人している。
 リーダーをつとめるベースの女性――砂子貴子――は、高校生といってもおかしくないほど瑞々しい容姿なのに、社会人経験もある年齢らしい。
 自然と彼らのお目付役となっているようだが、暑さと長距離の運転でぐったりとしていて、三人の暴走を抑える元気がなかったらしい。
 面目ない、と年下の少女たちに頭を下げる彼女は、常識人なのだろう。夏音は「気にしないでください」と笑顔で返した。

「あの・・・・・・もし、勘違いでなければいいんだけど。カノン・・・・・・マクレーンさん、ですか?」
「え」

 こちらを窺うような視線に、夏音は驚いて相手を見つめ返した。対峙する瞳は、自信と不安がおりまじった色をしている。

「俺のこと、知ってる・・・・・・?」
「ていうことは! 本物なんですね!?」

 ぱぁっと花咲く笑みで、彼女は夏音との距離を縮めた。きらきらと眩しい笑顔に、興奮を隠さずに手を差し出してきた。

「とりあえず握手してください!」

 ぽやーっとしてしまった夏音は、すっとその手にこたえる。力強く握り返してくるその手が伝えてくる意志に、夏音はようやく意識を取り戻した。
 心がつーっと一筋の涙をこぼした。

「や、やっと! 俺のこと、こんな風に! 最近、自信なくて・・・・・・そりゃあ、日本だったらそんなかもしれないけど。たまに気づいてくれる人もいて! でも、俺にだってファンがたくさんいたもの! 本当だもん!」

 いきなり泣き言を繰り出してくる有名人に、普通の人間だったら戸惑ってしまうだろう。しかし、懐が深かった砂子貴子という人間は、おおらかな包容力をもってして夏音を抱き寄せた。

「大丈夫、大丈夫」

 おそらく夏音が何を言ってるかよく理解はしていなかったのだろうが、とりあえず軽音部の少女達が持ち得ない母性的な何かで夏音をなだめることに成功した彼女の手腕に、遠巻きに様子を見ていた者達は温かい拍手を送った。



「え、立花が!? プロのベーシストだって!?」
「驚き方が凡庸だね」
「この俺に対して何が気にくわないのかわかんないけど、毒ばっか吐く男が!? Silent Sistersのベース!? もう世界は俺の斜め上だよ!」

 頭を抱えて大げさに天を仰いだ祐也。「空が、青い」と訳の分からないことを言っている。

「へー。やっぱり、どっかでみたことあると思ってたんだよね」

 朱音が興味深そうに夏音を見ながら言った。企画ライブの控え室で、たしかに彼女は「どこかで会ったか」と尋ねてきた。

「まさかこんなトコロでフツーに高校生やってるなんて思いもせんよ。ていうか、さっきから何で涙ぐんでんの?」

 それから場所を移して、彼らの機材をスタジオに運ぶのを手伝う。セッティングをしながら、やっぱり話題は夏音のことから離れなかった。

「へー。そっかー。あんまり想像できないけど、すごい奴だったんだな」

 祐也は何様のつもりか知らないが、それでも素直に受け止めている。夏音はクラスメートである彼に打ち明けることができて、少しだけほっとしていた。
 こんな風に、驚きながらも何一つ変わることのない態度に救われるような、大げさでなくそんな気分であった。
 祐也は自分のスネアをチューニングしながら、他の機材をセッティングしていく。律がその側で珍しそうに見守っている。時折、「これ、どう使うの?」などと質問して、それに祐也が答える。
 ライドシンバルと、スプラッシュにチャイナ。基本的にシンプルセッティングの律に比べて、ドラムセットが豪華に見える。
 他のメンバーも、各々のセッティングを軽音部の人間に見守られながら進めている。

「で、これからリハーサルさせてもらうわけなんだけど」

 準備が整い、いつでも始められる状態になったところでベースを構えた貴子が夏音たちに意味ありげな視線を向ける。
 それに気づいた夏音は、「ああ」と頷いた。

「お邪魔かな? 外に出ていようか」
「いや、別にいいんだ。貴重な時間を私たちに恵んでもらってるわけだし。よかったら、見ていかない?」
「え、いいのかい」
「うん。お客さんがいた方が張りも出るし。ね、いいよね?」

 貴子がメンバーに問いかけると、あっさりと全員が了承したので、そのままリハーサルを見学することになった。
 Broken Aegisというバンドを評価するなら、世界観をしっかり持っていることが最も印象的である。
 ヴォーカルの朱音はハスキーな地声が歌うとなると、多彩な色を纏うのだ。クリーンパートでは、清涼感を与えるような歌い方と、艶を出すような歌い分けをやってのける。特別に広い声域を持っている訳ではないが、無理をせず、自分の一番おいしい部分を把握しているのだ。
 夏音がひっそりと評価している祐也のドラムは、粗もあるが安定した演奏が根幹にあり、何よりフレーズやたたき方も含めて、魅せるドラマーだ。律にはない部分がたくさんあり、演奏が始まってから、ずっと律は祐也のドラムに釘付けだった。
 ベースの貴子は職人気質である。基本的に出過ぎず、支えるベースに徹している。しかし、バンドマスターは確実に彼女だ。バンドの指揮棒を彼女が振っているといってもいいくらい、優秀なベーシストであることは疑いようもなかった。
 最後に、ギターの男。

「(彼は、ちょっと違うのかな)」

 夏音はじっと演奏を聴いていて、考えていた。ギターの男は、おそらくこのバンドには合わない。
 技術や音作り、フレーズともに良いギタリストと言えるのだが、バンドの中でみるとやはり浮いている。
 夏音はこう考える。彼は、もっと別の音楽を求めている。
 別々の畑から出てきた者達が集い、バンドとなる。そこには可能性があって、ぶつかり合って起こる化学反応がより良いものへと変わることもある。
 しかし、いつもそうとは限らない。
 水が合わない、といえばいいのだろうか。自分の培ってきた音楽が出せない、または単純に好みではないような時。
 一つだけ、どうしても混ざりきれない色は、傍目にすぐに分かってしまう。
 手癖をみると、彼がどんな音楽に影響されてきたのか予想できる。それが、現在のバンドの音楽に浸透していないことも。
 曲が終わるたび、拍手が起こる。やがて六曲の演奏が終わり、軽音部の面々は興奮気味に次々に感想をまくし立てた。

「すごかったです! やっぱり近くで聴くと迫力ですね!」

 梓がぎゅっと拳をにぎりしめて感想を口にする。上気した頬は薄紅色に染まっており、今の演奏に心から感動したのだと分かる。
 他の者も爛々と瞳を輝かせていた。確実に彼女たちには良い影響を与えてくれたのだろう。
 少なくとも、夏音は演奏中の祐也が格好良く見えてしまったことが釈然としなかった。だが、音楽と人間性は全く持って比例しない事実をよく知っていたので、受け入れることにするのであった。

「せっかくだから、あなた方の演奏も聴けたらって思ったんだけど」
「あ、そうそう。もう一度聴きたいってずっと話してたんだよ!」

 断る理由もなかった。合宿にきて二回目の演奏が、他のバンドの前とは思わなかったが。手早く準備を終えて、四人の客を前に遠慮なしの音圧を叩きつける。
 とはいっても、ドラムの音量に合わせる必要があるので、ライブハウスで感じるような迫力はない。
 しかし、同じ目線、間近の距離。ライブハウスでもフロアライブでもないと味わえない感覚が得られる。
 軽音部の音楽を例えることは難しい。様々な思想や価値観が入り交じって曲ができて、それぞれの個性がこれでもかと反映している。その上で上手い具合にまとまっているという、危なげなバランスの上で成り立っているような印象を与えるのだ。
 調和、というものを良く使いこなしているといってもいい。時に前に前に出る音があれば、溶け合うように一体となることも。
 こんな音楽をやってのけるのが、まだ高校生だということに改めて驚愕していたのが貴子だった。
 彼女は表情を変えずに腕を組みながら間近に迫る音の衝動を感じていた。時折、口をにやつかせたりとめまぐるしく展開する曲を楽しんでいるように見える。
 他の者も興味深そうに軽音部もとい放課後ティータイムの演奏に釘付けになっていた。特に同級生達の演奏に祐也は真剣な表情で、とりわけ同じドラマーである律に視線が固定されていた。
 公平な評価をするならば、祐也の方がドラマーとして優れている点は多い。しかし、確実に祐也にはないものを田井中律という少女は有している。
 勢いのあるドラムは前に前に倒れるだけでなく、しっかりと周りの音を拾いながら曲の原動力としての役割を果たす。特にベースに対する集中力が並々ならぬものであることは、分かるものには分かる。
 やや力に頼っている感は否めないが、いわゆる曲のツボを抑えたダイナミクスのつけ方は秀逸としか言いようがない。
 さらにリズム隊のベース。ツインベースという特殊な形態にも関わらず、曲の土台を確固たるものにしている。澪の安定感は目を瞠るものがあるし、プロである夏音がこなす仕事は次元が異なる。
 バンドすべてを見回してみても、驚きの連続であるのに、これが個としてではなく、群れとなって完成されている様はバンドとしての完成度を物語っていた。
 終始、目と耳を奪われながら、Broken Aegisの面々は演奏が終わるや否や歓声と拍手を惜しむことはなかった。

「やっぱ、すげぇや」

 祐也が率直な意見を漏らすと、それに同調するように貴子が頷いた。

「やっぱり、洗練されてる感じがすごいわ。やっぱりカノンさんが曲を作るの?」
「ううん。曲の骨子は俺がやることは多いけど、みんなで固めていくね。半分以上は共同作業で完成させる感じかな? ムギとか梓が持ってくる曲もあるし」

 曲の元があっても、結局は各々の個性が出る形となる。夏音はプロデューサーのような役割を果たしている面もあって、最終的に夏音の色が加わることはあるが、それが曲全体に根本的な色を変えるわけではない。
 現在の軽音部が揃える楽曲は、まさに「みんなの曲」といっていい状態だ。以前のように夏音の意見ばかりが押しつけられたようなものではない。
 だから、曲をほめられると純粋にそれが全員の評価につながるといってもいい。

「今度、レコーディングもする予定なんで。できたらすぐに渡すよ」

 律が照れくさそうな顔を引っ込めようとしながらも、祐也に言った。祐也はそれを聞くと、「うおお!」と雄叫びをあげた。

「買うわ。買う買う! 何曲入りにするの? 今やったやつとか全部入る?」
「い、いやあ。まだその辺はちゃんと話してないんだけどさ」
「あ、俺たちもCDとか出してるんで。よかったら、もらってってよ」

 物販はバンドの重要な収入源であると同時にライブに次いで、名を売るためのアイテムだ。バンドの結晶と言ってもいい。

「それなら、こっちも買わせてもらうよ。お互い様だしさ」
「え、マジ? 全部で四枚あってさ。一番目玉なのが、これ。7曲入りで2000円ね。マジ高くついたけど、個人的には超良い出来。次にこれが五曲で1000円。そんで残り二つが三曲入りで500円。この三枚は残念ながら流通されてないんだ」
「「「「「・・・・・・・・・・・・」」」」

 数人分の沈黙は、「た、たけえ」である。CDショップの相場しか馴染みがない少女達にとっては、言葉は悪いが「アマチュアバンド」のCDに対する価値としては、高く捉えられてしまうのだ。
 しかし、少女達の沈黙をさらりと脇によけた二名の富裕層は平然と、

「あ、安いね。全部ちょーだい」
「私もくださいな」
「毎度あり!」
「毎度あり、じゃない! スタジオ貸して頂いてる分際でお金とるな!」

 リーダーにぶん殴られる祐也であった。
 穏やかな(?)やり取りが終わったところで、彼らはもう出発しなくては間に合わない時間となっていたので、大急ぎで機材をしまって車に積み込んだ。
 ここから車で一時間半と、さほど遠い場所ではないらしい。
 しかし、名残惜しむように貴子が夏音を離さなかった。

「あ、あの! それで、あの曲の時に使ってたエフェクトなんですけど! いや、それより『Field of white idiot』の展開なんですけど、アレってどんな音楽聴いたらああなるんですか!?」

 勉強熱心なことは良いことだ。しかし、欲のあまり外面をぶん投げてしまうのはやや問題だ。

「はいはい。ほら、いくよ。夏音に迷惑でしょうが」
「つーかー。タカちゃん運転なんだからさ。亀みたいな速度しか出せないんだから、早くしてよ」

 他の面子が羽交い締めにして彼女を運転席に押し込むまで、夏音は律儀に質問に答えていたのだが、勢いに押され始めていたところだったので、このときばかりは祐也に心から感謝したという。

「じゃーなー! ほんとにありがとう! 今夜はぶっかましてやっからよォ!」

 ハコ乗り状態で調子に乗る祐也の姿に、思わず皆で笑ってしまった。嵐のように過ぎ去った彼らだったが、確実に良い刺激を運んでくれたと誰もが確信していた。

「よっし。練習でもするか!」

 律が率先して言い出すくらいだ。モチベーションは上がっていた。この熱が冷めてしまわないように。
 のそのそと揃ってスタジオへと足を向ける一同。歩く最中、ふと立ち止まってぼんやりと空を見つめた律に夏音が声をかける。

「どうしたの?」
「ん? いや、なんっっか忘れてる気がするんだけど・・・・・・忘れちゃった」
「そりゃー忘れてるんだもの。なんか律がそう言うと怖いんだけど」
「いや、それもそれで聞き捨てならないんだが。私の勘だと、そこまで大したことではなかったと思うんだけど・・・・・・うーむ。でも、何かを忘れているってことが分かっているのに思い出せないって気持ち悪いなあ」
「そういう時は気にしないことが一番だよ。律は頭に余計なもの詰まってないほうが良いドラムたたけるんだから」
「やっぱり失礼だよな、お前って」

 しかし、彼らは知らなかった。この時、律が引っかかった事柄を忘却の彼方に吹っ飛ばしたことで、二日目から合流予定だった彼らの女顧問をガチ泣きさせることになるとは。







[26404] 第二十七話『また合宿(後編)』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2014/08/05 01:53

「先生、この事は一生忘れない」

 たっぷりと恨みがこめられた視線に罪悪感でいっぱいになった律は「いやぁ、ハハ」と引きつった笑みを浮かべる。
 少なくとも教え子に向けていい目つきではない。
 猛暑のせいか、おそらく出掛けには完璧であったろう化粧は程よくはがれ落ちてしまっていた。
 そのことが余計にぶすくれた表情に迫力をつけてしまっていることは本人も気づいていない。

「迎えにきてくれるって言ったじゃない! メールも電話も無視するし。ていうか途中から電波なくなるし! 虫いっぱいいるし、仕方ないから歩いたら迷うし!?」

 バンバンとテーブルを叩くイイ大人の泣き言に対して、かけるべき正しい言葉など誰も持ち得ていなかった。何か悲運に打ち拉がれている風(?)の顧問に対して、これ以上の放置は収集がつかなくなると考えた夏音は、そっとさわ子の肩に手を置いた。

「まーまー。ご苦労様でした。夕飯はあらかた食べ尽くしてしまったけど、とりあえず風呂にでも入ってさっぱりしてくださいよ」
「・・・・・・お風呂? 広い?」

 ぐずっとしゃくり上げたまま、夏音を見上げるさわ子。泣く子に対して慈くしむような微笑みを返した夏音は首肯する。

「ええ、泳げるくらいには広いかな」
「そう、そうね。いつまでもぐちぐち言ってられないわね。ええ、大人として」

 今さらー、と無言の意見の一致が起こったが、それを無視して夏音は顧問を立たせる。

「なんか余り物で軽くお腹に入れられる物でも作っておくので、どうぞどうぞ」

 基本的に切り替えが早いらしい。ぐずっていた子がぱぁっと良い笑顔を浮かべた。

「なら、お言葉に甘えようかしら~。みんなはもうお風呂はすませたの?」
「あ、お風呂なら夕食前に頂いてしまいました」
「そ。なら、一人で入ってくるとするわ。はぁ~汗だくで気持ち悪いったらないわー」

 ぐるぐると肩をまわしながら去った顧問を見送ったところで、複数のため息が発生した。

「律、お前はどうしていつもそうなんだ?」
「今回はちょっとさわちゃんがかわいそーだよね」
「だいたい律先輩はズボラすぎるんですよ」
「お背中でも流してきた方がいいかしら?」

 一部をのぞいてフルボッコである。自分が悪いという自覚がある以上、律は唇を噛みしめながら「ぐぬぬ」とうめくことしかできない。
 夕食は外でバーベキューだったが、火の始末はとっくに終えてしまった。肉と野菜がまだ余っているので、軽食を作ろうと夏音は台所に立った。
 茄子をニンニク、オリーブオイルで炒めて、塩コショウで味を調えたものを一品。また、冷凍の枝豆は小さめの鍋で塩ゆでにする。
 生野菜はそのままサラダにまわすことにする。昨日のカレーで余っていたじゃがいもを利用してポテトサラダにしてしまった。

「後は・・・・・・ご飯は確か冷蔵庫に少しあったかな」

 明日の朝にでも食べようと冷蔵庫にラップした状態で保冷していた白米。卵や調味料もあったので、炒飯にすることにした。
 火力と腕の振りが命。パラパラの炒飯を作るために、立花夏音は腕を振るう。

「って、ぜんっぜん軽食やないがな!?」

 台所を覗き込んだ律のツッコミが響いた。


「あら、あらあらあら。ずいぶんとしっかりしたのが出てきたわね。夏音くんが作ってくれたの?」
「残りものかき集めただけですよ」
「お風呂上がりで火照った体に涼しい海風。冷えたビールもあって、枝豆・・・・・・私の人生の意味はここにあるかも」

 どんな人間でも、もう少しマシな人生があると思う、と夏音は心に浮かべたが口には出さない。
 とりあえず顧問の機嫌は完全に回復したらしい。
 功労者である夏音に感謝しつつ、ほっと胸をなで下ろした軽音部女子一同であった。




「おら、早う酌せんかい!」



「どうしてこうなったんや・・・・・・」

 何の躊躇もなく三缶目のビールに手を出した顧問に、未成年達は何とも言えない表情を作って顔を見合わせた。


「先生。ちょっとペース早くないですか?」
「ええー? いいじゃなーい。今日、一日汗だくだったんだもん。ごほーびもらってもいいじゃーん。それに大丈夫よ。私、そんなに弱くないから♪」

 というやり取りがあってから、僅か一時間後の話であった。



「めんこいのう、めんこいのう。こんなにも愛くるしい教え子に囲まれてお酒を飲めるなんて幸せ~。ほーぅら梓ちゃーん。先生のコ・コ。あいてるよー?」
「ひ、ひぃっ。先生が壊れてらっしゃる!?」

 据わった目を向けられ、小動物のように震えた梓は、自分の中で音を立てて崩れていく美人顧問へのイメージにガチの涙目だった。
 人間、外面を一枚はがしただけで、こんなものである。それをこの若さで悟っていた悲しい少年少女達は、後輩の受けた衝撃に心から同情した。
 既に経験済みだったものの、校内でも美人教師として名高いさわ子の醜態には、目をそらしたい程ぐっとクるものがあった。

『何とかせいよ』

 すかさず無責任な軽音部部長から、夏音に送られる視線言語。敏感に感じ取った夏音は、責任の所在について考えを巡らせた。
 酒を出したのは自分だが、そもそも飲み過ぎた顧問が悪いに決まっている。しかし、日頃から色々と溜めているからこそ、酒に溺れてしまったのかもしれない。
 今日のストレスがとどめになったとみてもいい。

『律が責任を取りなさいよ』
「はあん? 何で私が?』
『律、いつも泥酔したお父さんの始末は自分の役目って言ってるだろう? ここは、いつも通りにちゃちゃっとやってよ』
『澪までも!? くそぅ、余計なこと話すんじゃなかった』

「ムギちゃんやらかくて、あったかーい。今夜の抱き枕けってーい」

 この熱帯夜に迷惑な話である。

『あの、みんな。このままだと、先生が私から離れてくれないかも』

 現在進行形で顧問の餌食と化していたムギからヘルプの視線が加わる。
 そんな中、視線だけでやり取りを始めた先輩の様子に目を白黒させていた梓は、何だか置いてけぼりをくらったような心持ちになった。
 ならば私も、と思い切った。

『・・・・・・・・・・・・』
『お、おい。梓、何でそんな目を私に向けるんだ? 私、そんな親の敵を見るような目つきを向けられる覚えはないんだけど』
『・・・・・・・・・・・・・・・』
『え、梓。ガチなの? そんなに私のこと、アレなのか。無言の圧力で押しつぶそうとしているのか?』

 悲しきかな、まだ付き合って日の浅い梓には、軽音部の高度なコミュニケーションは早かった。
 軽音部の独特な波長にチューニングするには、もう少し時間が必要なようである。
 しばし睨み合っていた両者だったが、ここで思わぬ人物がすっと立ち上がったのである。

「ほらー、さわちゃん酔っ払いすぎだよー」

 唯が、さわ子の肩に手を置いて諫めたのである。その上、手元に危なげに持っていた缶ビールをそっとテーブルに戻し、ムギを魔の手から解放してやるという離れ業までやってのけた。

「ん~。唯ひゃーん。あなたもやらかいねー」
「えへへー、憂にもよく言われるんだよねー。ほら、さわちゃん立って立って~」
「んっふふー。はーい立っちまっした~」
「さわちゃんえらいねー。じゃ、こっちだよー」

 びったりと自分に張り付いてくる顧問を、そのまま部屋の外に連れ出した。おそらく、そのまま寝室に行くのであろう。
 そのあまりの手並みの鮮やかさに一同は声を失った。もともと黙りこくっていたが、陸に揚がった魚のように口をパクパクとさせて呼吸を求める。

『あの、唯(先輩)が!?』

 と心は一つ。
 軽音部一、否、学校一ぼんやりとしていて、のろま娘の評価を一身に浴びる唯が。
 酔っ払いをいなすという経験豊かな人間にしか成し得ないことを、さらりと。

 後に唯は語った。温厚で優しい両親は、平和な家庭の象徴といってもいいくらい、普段からぽんやりしている。そんな二人の遺伝子を次ぐ娘がぽんやりしているのが至極真っ当であるくらい、両親もほんわかしているのだが、二人とも酒癖が異常に悪い。
 くだを巻いたり、乱暴になるといったことはない。だが、しかし二人とも共通して幼児退行する。
 駄々をこねたり、必要以上に人にひっつこうとする。
 べつに誰にひっつかれても、何も構うところのない大らかな長女も、限度を超えたひっつきには手を焼いていたのだという。
 数をこなしていく内に、両親を寝室に放り込む技術が上がるのは当然のことだった。

「唯は意外に介護士とか向いてるかもなー」

 酒の匂いがひどい居間の換気のため、窓を開け放つ。涼しい潮風が室内にふわり。滑りこんできては、肌を撫でていく心地よさに窓辺に立つ少女たちの目が細くなる。

「今日寝て、明日が過ぎたら終わりだね」

 夜は人をセンチメンタルにするのだろうか。唯が神妙な雰囲気で言うだけで、共感したような息づかいが広まる。
 十代の少女達にとっては、こうして仲間達と過ごすしんみりとした空気は、どこかこそばゆい。ただ、言葉にせずとも感じ合う時間は嫌なものではない。
 それぞれが異なる思いをこの静寂に託していても、きっと明日からも歩く道のりは一緒なのだと、ただそれだけが確信的なことであると、誰に教わるでもなく皆信じているのだ。

「うぅ~」

 と、そんな沈黙を破ったのは梓だ。ふらふらとしたかと思えば、隣にいた澪に倒れかかったのだ。

「どうした梓? 眠くなっちゃったの?」

 小さな後輩の体を支えながら問うが、どうにも様子がおかしい。うぅー、と低い呻き続ける後輩は、ひょっとして体調を壊してしまったのではないかと心配になった時、澪は「うわっ」と顔をしかめた。

「なんか、梓が・・・・・・酔っ払ってる?」
「はぁ!? 誰も飲ませてないだろ」

 ふにゃんと軟体生物みたいに力の抜けた梓は、気がつけば顔が真っ赤になっており、澪の支えがなければ今にも床に突っ伏しかねない有様だ。

「もしかして、お酒の匂いだけでやられちゃったのかしら?」

 拘束されていたムギも被害者であったが、その隣に座っていた梓もまた被害者であったということだ。
 顧問が吐く息の酒臭さたるや、アルコール耐性のない未成年には毒であった。

「ったく、あの顧問はまったくもって、ろくなもんじゃないな」
「先輩が二人いるー。ぐるぐるしてるー。えへへへ」

 相当キマってる梓にはすぐに水を差しだして飲ませる。夏音は率先して梓を背負うと、寝室まで運んだ。

「まったく。いくら多めに日程をとったからといって、気がゆるみすぎじゃないか?」

 澪がぷんぷん怒りだすのは、いつものこと。対して夏音はあくびを噛みしめながら、返した。

「まあまあ、いいじゃない。合宿っていっても、練習浸けじゃあ気が滅入るよ。俺は今回の合宿では、こう思うようにしたんだ。遊びのついでに練習でいいじゃあない」
「いつの間にか夏音がアチラ側にいってる!?」

 唯、律を筆頭に常に遊びたいグループと、澪、梓、夏音を中心とした練習を求める真面目ちゃんグループは程よいバランスの上に成り立っていた。ムギはその時々で態度を変えるので、彼女こそが鍵だったのかもしれない。
 そのバランスが崩れてしまった今、この部活はどうなってしまうのか!? と澪が恐怖に震えだしたところ、律が夏音の発言に対して息を呑んで固まっていたことに気がついた。

「あのさ、夏音。もしかして・・・・・・」

 だが、言いかけてやめる。夏音は、何か重大な感情を必死に口の中で噛みつぶすように出すまいとしている律の気持ちを察した様子で、一瞬だけ苦い顔を作ったが、取り繕うような笑顔ですぐにかき消した。

「来年は、山かな」
「え?」
「来年の合宿は山もいいな、って思っただけだよ。いっつも海が近いからね。たまには山でもいいかなって思うよね」
「・・・・・・そ、そうだな。あ、でも山だと虫がすごそう」

 澪が合わせるようにぎこちない笑顔で返した。

「えー? 海沿いだって変わんなくねー? もう五カ所くらい刺されてるんだけど」
「ふふー。りっちゃんのお肌ってあふれんばかりの健康美だからー、ついつい吸い付きたくなっちゃうんだよねー」
「うひゃぁっ!? マジで吸い付くなアホウ!?」

 じゃれついてきた唯から、わりと本気で逃げる律。「いけずー」と唇を尖らせる唯に、緊張しかけていた場の空気が緩んでいく。

「それにしても、今年もこんがりと日焼けしちゃったなー」
「でも、りっちゃんキレイに焼けてると思うよ?」
「そういうムギは・・・・・・全くもって純白もち肌ですねうらやましい」
「唯もあんまり焼けないよね。俺、肌が弱いから赤くなっちゃうんだよなあ」

 暑さには強いが、太陽の日射しに対して、純白の肌はガードが弱い。ほぼ同じお肌条件のはずのムギは、パラソルの下にいることが多かったためか、あまり日焼けはしていないようだ。
 全力で日光の下で遊んでいた夏音は、首筋から両手まで赤くなった肌をさすった。

「あえて梓に触れないあたり、おんしらもなかなか意地が悪いよのう」

 律がいたずらっ子の表情で言うと、皆が梓の姿を思い浮かべる。
 梓は既に誰よりもこんがりと仕上がっていた。

「全てギンギラギンな太陽が悪いんだよ」
「おぉ、太陽は罪なやつってやつだね」

 律の発言にどっと笑いが起こった。そんな会話が行われていることなど知らず、寝室で酔いつぶれていた梓が「うぅー、こんな部活・・・・・・」とうめいたことは誰も知らない。



 皆が寝静まった夜は、いつも一人で起き出してしまう。立花夏音は基本的に夜型の人間なので、ふと目が冴え渡ってしまうことが多いのである。
 時計の針は、深い夜のちょうど真ん中を指し示している。ちょうどテラスからは、浜辺へと続く道が見える。月明かりの道や、先にある頼りない光が揺らぐ海は、何だかこちらを誘っているような気がしてならない。
 ギターを片手に月明かりの下、つま弾くのも悪くないが、夏音はぼうっとしていることを選んだ。
 自然の音しかない世界が、最高に居心地がよいのだ。夏音は自然から、多大なる感性の源となる何かを受け取っていると自覚していた。
 表現が音楽を通して世界に繋がる手段であるならば、表現を生み出すのが自然である。ふとメロディが浮かび上がる時に感じる匂い、光の感触が、一つの匙となって、自分の中へと入り込んでくる。
 そして、優しくかき混ぜるのである。自分でも気づかなかった、あるいは忘れてしまうくらいに奥にしまい込んでいたものを表面に浮かび上がらせる。

「夏音先輩ですか?」

 遠慮がちに後ろから声をかけてきた人物のことは、そろりと近づいてくる音から察していた。

「こんばんは梓。気分はどう?」
「うぅ、少しふらふらします。汗いっぱいかいちゃったみたいで、ちょっと起きてしまって・・・・・・お水を飲みに」

 やや口ごもったが、夏音はそこに気づかないふりをする。自分の質問が少し気が利かなかったと反省した。

「俺たちの住んでるとこも、都会とは言えないけどさ。ほんとに自然しかないところだと、全くもってちがうよね」
「ちがう、ですか?」

 首を傾げた彼女は迂闊に同意しない。後輩だからといって相手の顔を窺い、多くの日本人と違って、適当にやり過ごそうとしないところは夏音が好きな彼女の美徳の一つだ。

「うん、ちがう。こう自然の濃さっていうのかな・・・・・・あれ、何か言いたいことが上手く出てこないな。気配っていうか」
「気配・・・・・・私、夏音先輩みたいにすごい感性とかもってない身で、こういうのもなんですけど、分かる気がします。田舎のおばあちゃんのお家に行った時って、すごくこう・・・・・・お腹のあたりがきゅんってするんです。どうしてでしょうかね」
「ああ、それはノスタルジーだね。そうか、それかも」

 こんな時間に、良い曲が浮かぶんだよ、と夏音が言うと梓は感心して頷く。

「私は・・・・・・自分で良いフレーズが浮かぶ時。インスピレーションが降ってくる時って、時も場所も選ばないかもしれないです」
「そうだね。確かに、とんでもない時に降ってくるものだね。バスに乗ってる時、ゴミだらけの裏路地を抜ける瞬間、学校の授業中、なんてものもある」
「先輩は、そうしたインスピレーションをどうやって処理してるんですか?」
「できれば、すぐ曲に起こしたいけど。そうも言ってられない時は、そうだな。簡単なメロディをメモったり、携帯のボイスメモに吹き込んだりかな。後で聴いてみると、なんだこのださいフレーズは!? ってなることも多いけどね」

 あまり聞くことのない、プロの曲作りの秘話を明かされ、感動した様子の梓はそれから矢継ぎ早に夏音に曲作りについて問いかけた。
 夏音も面倒くさがることなく、それらの質問に一つ一つ答えていく。

「とまあ、俺の場合はこんな感じだけど」
「すごく勉強になりました。ありがとうございます」

 小さな頭を下げる梓に夏音はそっと笑みを含める。お互い話に夢中になってしまったせいか、ずいぶんと時間が経ってしまった。

「もうすぐ朝ってくらいの時間かあ。今日で合宿も大詰めってところだね。ねえ、梓は軽音部に入ってよかった?」
「ええ、最初はやっぱり少し不真面目なところがあってどうしようかと思いもしたんですけど、こうして先輩達と音楽をできるのが楽しいです。不真面目なところは相変わらずですけど」

 付け足した一言に夏音は吹き出す。

「そうだね。でもねえ、音楽ってとことん真面目になればいいってものじゃないんだよね」
「不真面目なほうがいいってことじゃないですよね?」

 突然、夏音が繰り出した内容に訝しげに返す梓。その言葉には真意があるのだと探るような眼差しを受ける夏音は変わらぬ口調で続ける。

「そう、不真面目がいいってことでもない。真面目でいいってわけでもない。つまりは、正解なんてないってことだよ」

 ナチュラルなトーンで夏音は背を預けるソファの上で伸びをした。流石に身体は疲労を溜めているのか、ついあくびも出てしまう。

「俺は、こういう性格だから。どっちの血を受け継いだのかわかんないけど、きまじめな性格になっちゃったじゃない?」

 じゃない? と確認されて、一瞬考えこんだ梓だったが、すぐに頷く。軽音部内ではトップレベルで真面目な人間である。
 細かい気配りや、物事を進める上での手順など。
 確実に同年代の人間よりも、大人な人格も有している。

「正解なんてわかんないけど、自分たちが形にしたものを誰かが受け入れてくれて、そういう受け入れてくれる人が沢山増えたら、それは一つの答えなんじゃないかな。それが正解か不正解かなんてどうでもいいでしょ。そうやって全てのミュージシャンが栄光を手に入れたり、その後に転落してったりもした。
 両手で数えられるくらいの人数しかお客さんがいないストリートミュージシャンの方がテレビに出ているドラマーの何十倍も良い音を鳴らしていることだってある」

 梓は次第に熱を帯びていく夏音の言葉をじっと身じろぎもせずに聞いている。おそらく、夏音の話す事が意味あるかないかは関係ない。
 饒舌に話す夏音の一言一言を逃したくないのだ。

「軽音部は、これでいいんだ。深く、そう思うよ。彼女たちはプロの音楽をやらなくてもいい。楽しんで、音楽をやっていればいいんだと思う」
「でも・・・・・・先輩達は、いつか武道館って言ってますけど」
「それは、その時さ。まだまだ先の話だよ。本当に武道館でライブできるようになったとしたら、その時は彼女たちは今の彼女たちとは全く別の音を奏でるようになっているんだろうねー」

 ほんのりと、かすめるように感じてしまった夏音の寂しさに梓は目を伏せた。

「先輩は、まるで他人事みたいに言うんですね」

 思わず、詰問するような内容に、梓は自分ではっと驚くように顔を上げたが、発言を撤回することはなかった。
 それに対する夏音は「くくくっ」と悪役のような笑みを漏らした。

「だって、その時の俺は、彼女たちの中にいることはないもの」

 でもさ、と夏音は続ける。

「それって、悪いことじゃないでしょう?」

 以前、アメリカから帰ってきた夏音は、軽音部とは途中で別れることになると宣言した。夏音がプロとして再び舞台に上がる頃、おそらく互いの人生はまるで別のものになるだろう。
 それでも、つながりがなくなるワケじゃない。
 友達として、かつての仲間として会うこともあるだろう。
 万が一の事態が、それこそ奇跡のような確率で、いずれ有名になった彼女たちと一緒に音楽を再びやることができるかもしれない。
 その時は、ミュージシャン同士として。そんな未来が訪れることがあれば、それは夏音にとって幸福なことである。
 そんな夢のような話を、夏音は半分程度の希望を、胸に秘めていた。

「梓。勘違いしないで欲しい。俺は軽音部が好きだよ」

 何も言えなくなってしまった後輩に、夏音は身を前に寄せながら、ゆっくりと聞かせる。

「いずれ、梓にも分かると思うよ。人生で、決断しなくてはいけない時がくる。遅かれ早かれ、誰にでも訪れるんだ。そうだね。日本で学生をしていても、あるだろう?
 たとえば、進路はどうするか、とかね。自分は将来、どうなりたいのか。そのために、遠い土地にいかなくてはいけない。友達と離れるけど、夢とどっちを取るのか、とかね?
 俺は比較的早い段階で、決断をしなくてはいけない人生を送ってきた。それは、これからも変わりない。常に天秤にかけるような人生さ」

 波の音が先ほどより激しく聞こえてくる。月の光は弱々しくなり、東の空から白く輝いていく光が空を変化させていた。

「でも、後悔だけはしないよ。梓も、後悔だけはしないようにね」

 そう言われた時に梓はこみ上げた感情を何とかフラットに抑えるように、拳をぐっと握りしめてから、口を開いた。

「先輩、ありがとうございます。短い間でも、先輩みたいな人と一緒にいられること、本当に嬉しいんです。口にするのは恥ずかしいけど・・・・・・それこそ、この時間が、これからの私の人生の中で本当に重要な時間になる気がします」

 それから夏音の目を見据えて、少し赤くなった瞳をぶつけた。

「先輩がいる間は、できるだけ色んなことをぬす・・・・・・教えてもらいたいと思ってますから、これからもバンバンとご指導お願いします!」

 下ろした長髪が翻るくらいの勢いで頭を下げてきた後輩に、夏音は苦笑して頭をかいた。

「わーお。梓ったら、ほんとにノリが体育会系・・・・・・」

 それでも、悪い気はしないものだ。ぽん、と梓の頭に手をのせて軽く撫でた。

「君の役に立てるように、頑張るよ。先輩は後輩を助けるもの、なんだろ?」



 三泊四日の合宿はあっという間に終わった。適度に練習をまじえて遊び尽くしたといってもいい。
 夏といえば、というお題目の中に書かれるほとんどを済ませてしまったのではないかというくらいの濃度であった。
 肝試しは、毎度のごとく絶叫と共に意識を失う人間が現れたり、花火やカードゲームに興じながら、話すことはいつもと一緒だった。

「いやー、今年も満喫したなー。合宿」
「そだねー。もう、今年は海はいいかなー。あ、でもプールってまた別腹な感じだと思わない!?」

 帰りの車内、室内に吹き込む涼やかな風に髪を遊ばせながら、お気楽コンビが笑う。背もたれを緩やかな角度に倒し、足を組む姿は良いご身分といったところか。

「先生、運転代わってくれて、ありがとうございます」
「ううん。私ができることなんて、少ないもの。これくらい、なんてことないわよ」

 夏音は帰りの運転は、と申し出る顧問の言葉に甘えることにしたのだ。正直、炎天下で遊び尽くした上に、長距離の運転は厳しかった。

「あ、でも先生も疲れたらすぐに言ってくださいね」
「大丈夫よー。こう見えてドライブは好きなんだから」

 そう言われて夏音は、顧問がドライブする姿をうっすらと想像する。隣の席に座る人影が浮かぶか浮かばないか、はたして居るのか居ないのか、と考えたあたりでやめた。
 あまりに不憫すぎるし、失礼な妄想である。

「もー、先輩たちはほんとに遊んでしかいなかったじゃないですか」

 そんなお気楽コンビにしっかりと釘を刺すのは、毎度お約束のごとく梓だった。苦言を呈してきた後輩に対して、律と唯はお互いの顔を合わせて、眉を落とす。

「あーずさー。お前、もうほんっとに可愛いやつだなー」

 前のシートから身を乗り出してきた律が梓の頭をがしっと掴むと、「ひゅあっ!?」と小さい悲鳴が上がる。

「お前がー、いちばんー、楽しんでたやないかーーーい」

 しゅるりと後部座席に移った律は手加減しながらのチョークスリーパーで梓を抱え込んだ。

「りっちゃんずるいー。あずにゃん抱っこ、次ね」

 さらりと恐ろしい事を言い放った唯に、梓は冗談抜きにびくりと身を強ばらせた。

「なんか・・・・・・唯先輩がだんだん怖くなってきました」
「あーん? あんなん、いつものでしょうが」
「というより、あのスキンシップになれ始めてきた自分が一番おそろしいというか・・・・・・」
「人間、あきらめが肝心よん」

 先輩と後輩の穏やかな会話に、隣で眠ろうとしていた澪が不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「律、梓も疲れてるんだからちょっかいかけるな」
「へーい」
「律ってドラム叩いてる時へばるくせに、こういう時に体力あまりまくるよねえ」
「うるせー金髪」


 合間に誰かが寝落ちしては、起きる気配。車内に小さく流れていた持ち込んだCDによるBGMはいつの間にか、ラジオに切り替わっていた。

「ん・・・・・・」

 夏音はうつらうつらと舟をこいでいたが、ふいにパチリと意識がはっきりとした。今、どの辺を走っているのだろうとさわ子に確認しようとした時、

『じゃあ、宵越しゼニガッツさんからのリクエストで、Silent Sistersのカウントダウン』

 ラジオのDJが口にしたバンドと曲名に「あっ」と声を出して驚いてしまった。

「あら、この曲懐かしいわね」

 ハンドルを握るさわ子の方を見る。

「たしか・・・・・・かなり昔の曲だったと思うな」
「・・・・・・私の学生時代の曲ね」
「・・・・・・そ、そんな昔の曲じゃなかったなあ。ハハハ」

 失言というのは、予期していないからこそ、失言というのだ。夏音は乾いた笑みで誤魔化し、スピーカーから流れる軽快なリフに静かに耳を寄せた。

「この頃は、もうこういうPOPな曲もやり始めてたんだよね」
「そうねえ。昔はもっとゴリゴリのメタルって感じがしたかもね」
「この前のアルバムがハードロック感がすごかったんだよねえ。というか、ポールは節操がなさ過ぎるんだよね。色んなものを取り入れすぎてるから、ジャンルがあっちこっち行くんだよ」
「あら、けっこう辛辣な意見ね」
「そこが良いって人もいるしね。といっても、曲の表面は色んな表情を出すけど、根っこの部分だけは変わらないから。本当に昔からのファンほど、離れていかないんだ。上っ面しかさらわない人ほど『大衆に媚びたなポール・アクロイドめ!』って罵倒するんですよ」

 数多くいるミュージシャン。その中で尊敬する人間は少なくないが、中でもとびきり夏音がリスペクトしているのがポールだ。
 そんな彼のバンドへと身を置くことに。以前とは、全く違うものになるだろう。想像もできないのに、近い将来に迫る出来事に、改めて身が震えてしまった。

「ねえ、夏音くん」
「なんです?」
「きっとこれからの教師生活の中でもあなたみたいな有名人が生徒になるなんて経験、ないんだと思うわ。元々有名で、これからもっと有名になる夏音くんは、すごく大人びてるし、言い方は悪いけど、その辺の子たちよりよっぽど頑強な精神を持ってるんだと思う」

 怒濤の褒め殺しにたじたじになった夏音だったが、さわ子の話の続きを待った。

「でもね。そんな私の目から見たら、やっぱりあなたは、ちゃーんとした子供よ。自覚してないだろうし、そう見せないようにしてるみたいだけど」
「子供・・・・・・ですか?」

 夏音は自分のことを子供だと思っていない。年齢や身分といった部分を度外視すれば、既に収入や考え方も大人のソレだと自負していた。
 だからこそ、こう正面から子供だと言われて間の抜けたような表情を作ってしまった。

「べつに馬鹿にする意味じゃないのよ。どこか危なっかしいというか、たぶんあなたよりずっと多くのことを経験してきた人にしか見えない部分だと思うんだけど。
 つまりね。あんまり一人で抱え込んじゃだめよ。適度に荷物を預けることが上手な人が大人なの。自分で抱えた荷物に押しつぶされるようじゃ、まだまだ子供ってこと」
「・・・・・・さわ子先生は、やっぱり大人だ」

 さわ子の話を聞いて浮かんだ率直な感想を口にした。さわ子の言ったことに特に気を悪くすることはなく、何となく納得してしまう部分が多かったのである。

「どんなに荷物を抱える力が強くても、ね。いつかダメになるの。私はそういう経験はないけど、こういう年になると一人や二人、そういう風になっちゃう人を見てきたしね。
 そうそう、日本には下駄を預けるって言葉があってね。それこそ、丸投げしちゃうことだって許されるのよー時にはねー」
「じゃあ先生は下駄を預けられまくってるってことですか?」
「言うじゃない・・・・・・ふふ。そうよ、あのクソッタレの学年主任は年中裸足なのよ。頭もね」

 黒いことを生徒の前で言うさわ子は、だいぶ素の状態なのではないかと夏音は感じた。後ろの席の少女達は皆、寝静まっている。
 子供じみた言動や態度が多いさわ子も、ある程度は生徒との間に一線を引いているのは分かる。
 こうやって、親身に助言をくれようという気になってくれたということは、夏音なりに嬉しいことであった。

「ありがとう、さわちゃん先生」
「いーえ。年長の小言とでも思って」

 それから会話はなくなった。窓を開けるとちょうど良い風である。あまり風に当たりすぎるのも良くないが、少しだけ風が欲しかった。

 窓の枠に身をもたれかからせて、肘をついた。

(やっぱり大人はすごいや)

 さわ子のような人間は、やっぱり教育者であり、立派な大人の一員なのだろう。夏音の本質を見抜いて、助言をくれたのだろう。
 ふと気を抜けば、重大なことを一人で抱え込もうとするのが夏音の悪い癖だった。肉親に対してでさえ、そうしてきたのだ。
 隠し事ができない人間、というのが世の中には必ずいる。
 夏音にとって、その内の一人は今は亡きジャニス。彼女の前で隠し事は不可能であった。最近では、そんな風に自分のことを分かってくれる人間が増えたかもしれない。

「噛めるかあー、こんなん・・・・・・噛めるかあ」

 ふと律が漏らした意味不明な寝言に、おセンチな気分は吹き飛んだ。



※後書きお知らせ
お久しぶりでございます。

全くもってエターナルしておりました作者です。
自信の詳細を語る場ではないので、あえて割愛します。

やっと小説を書けるモチベーションと環境が整ってきた、といったところです。
本当はオリジナルもバンバンやりたい身ではあります。

ただ、未完のこの作品は完成させてから先に進みたいと思います。


予告ですが、本編自体は間もなく完結です。

残りは短編や、番外編として出すことが多いでしょう。

もともと短編が集ったようなものが原作ではありますが、それを成長物として長編にしておりました。
 
いったん、完結すべき点が見つかりましたので、そのようにさせて頂きます。

詳しいことは、また次回以降に(完結時にでも)

では、今後もよろしくお願いします。


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