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[26217] とある幻想殺しの地獄巡礼(円環少女×禁書)【完結】
Name: 棚尾◆5255b91b ID:ce3a0058
Date: 2017/02/06 20:30
2016  2月6日
 
  小説投稿サイトハーメルンにも同様の作品を投稿しました。

2016 1月26日

一度投稿したものはなるべく手を入れないようにいたしますが、本文のおかしな表現は微修正していきますので、ご承知おきください。

2016 1月24日

 エタッてましてすいません。近日中に完結まで投稿いたします。とりあえず13話更新です。

 ※追記最終14話更新です。ありえないくらい時間がかかりましたが、これにて完結です。完結を機にその他版へ移行します。

2015 2月22日

 相変わらずの遅筆っぷりで申し訳ありません。第12話更新いたしました。

2014 4月29日

 今度はひと月以内に更新できました。次はまた時間かかる可能性が高いので、気長にお待ちいただけると助かります。

2014 4月

 また、一年近くかかってしまいました。申し訳ありません。あと数話でバベル再臨完結の予定ですが、いつまでかかることやら。完結するまで、どれだけ時間がかかってもやり遂げるつもりですので、ご容赦ください。

2013 5月
 
 物語も佳境に入ってまいります。
 ここから更新速度が少し遅くなりますが、ご容赦ください。

2013 4月
 
 約2年以上放置してしまい申し訳ありませんでした。投稿を再開します。
 当時読んで下さった方も、初めての方も楽しんでいだたければ幸いと思います。
 投稿は不定期になりますが、夏の終わりまでには完結させようと思いますので気長にお付き合いください。

※追記

わずかな間に、もう感想を付けていただいて、ありがとうございます。
本日二回目の更新となる第六話を投稿しました。がっつり戦闘回なのでお楽しみを。




2011 3月

 円環少女の世界《地獄》に禁書の主人公、上条さんがトリップするお話です。
 以前から妄想していたネタを円環の最終巻が3月1日発売とのことで、この機会に勢いにまかせてやっちまいました。
 内容としては、円環少女第一巻『バベル再臨』の再構成をやります。
 ちなみにクロスものは初めて書くので、細かいところは温かい目で見てもらえると作者は大変助かります。
 では、本編へどうぞ。




[26217] -1-
Name: 棚尾◆5255b91b ID:ce3a0058
Date: 2011/02/25 16:52
「ねぇあんた。超電磁砲って言葉知ってる?」

 そう言って、少女はコインを真上に弾く。回転するコインは少女の親指に乗り、次の瞬間には上条の頭の横をオレンジ色に光る槍が突き抜けた。遅れて雷のような轟音が鳴る。指から放たれたコインが音速を突破したことによって発生したソニックブームだ。
 
 上条は内心で『不幸だー』と叫びながら7月19日に起こったここ数時間の出来事を思い出す。明日から夏休みを迎えるという学生としてはハイにならざるおえない状況で、ファミレスで無駄食いでもしようかと思ったが運の尽き。もともと尽きるほどの運すら持っていない上条だが、今日も絶賛不幸街道まっしぐらである。ファミレスで不良に絡まれていた女子中学生を見かけ、助けようとしたら、トイレから不良のお仲間さん達がゾロゾロと出てきて始まってしまった追いかけっこ。
 そもそも、上条はこの目の前の女子中学生を助けようとした訳ではない。無謀にもこの少女に絡んで行った不良たちを助けようと思っただけだ。
 
 ここ『学園都市』ではそこらの街のように見た目や性別で強さが決まる訳ではなく、『能力』によって真の強さが決まる。
 この少女は学園都市でも7人しかいないレベル5の一人『超電磁砲』の御坂美琴なのだが、上条はこの一カ月程こんな風に顔を突き合わせているにも関わらず、適当にあしらい全戦全勝という結果を誇っている。
 
 例外はただの一つもない。

「こんなコインでも音速の3倍で飛ばせばそこそこの威力が出るのよね。もっとも、空気摩擦のせいで50メートルも飛んだら溶けちゃうんだけど」

 『そこそこの威力』とは冗談にしては笑えない。先ほどの一撃のせいで上条達のいる鉄橋は大きく揺らぎ、橋脚を固定していた巨大な金属ボルトが何本も弾け飛んでいる。
 平静を装いつつも上条の心臓は激しく動悸していた。あんなのが身体のどこかに掠ったりしたら、紙きれのように飛ばされボロ雑巾のようにぐちゃぐちゃになってしまう。

「なんでお前、そんなに俺に突っかかってくるんだよ」
「私は自分より強い『人間』が存在するのが許せないの。それだけあれば理由は十分」

 彼女のレベル5という強さは、持って生まれた才能のみで得たようなものではない。『頭の開発』を平然と行う学園都市のカリキュラムのもと、絶え間ない努力と『人間』を捨ててることによって辿り着いたものだ。
 それを、上条は否定した。ただの一度も負けなかったことで、どこの馬の骨ともつかない上条が、学園都市にも7人しかいないレベル5の『超電磁砲』を負かすことによってだ。

「おいおいおいおい!俺の能力はゼロでお前は最高位のレベル5だろ。どちらが上かなんて一発で分かんだろ」
「ゼロ、ねえ」

 少女は口の中で転がすように、その部分だけを繰り返す。ピシっと何やら空気が変わったような気がした。

「あん?」

 上条が空気の変化に身構える前に、少女の前髪から青白い火花が散る。火花の正体は膨大な電子が収束して加速したもの、レベル5の電撃使いはそれをいとも簡単に稲妻に編み上げる。
 槍のような稲妻が一直線に襲いかかる。黒雲から光の速さで落ちる雷を目で見て避けることが不可能なように、上条にはあれを避ける手段は無い。上条はとっさに右手を顔面を庇うように差し出した。
 稲妻の激突音は、本来の着弾から一拍遅れて轟いた。
 その膨大な高圧電流をまとった雷は、上条の身体を黒こげに焼いてしまうはずだった。
 だが、少女は犬歯をむき出しにして、雷の着弾点を睨みつけている。

「そのレベル0のはずのアンタは、今のを喰らって何で傷一つないのかしら?」
 
 雷撃の槍は、上条の右手に激突した瞬間四方八方に飛び散り鉄橋を形作る鉄骨を焼いた。
 だが、直撃を受けた上条は右手が吹っ飛んでもいなければ火傷の一つもしていない。

「まったく何なのよ。そんな能力、学園都市のバンクにも載って無いんだけど。私が三二万八五七一分の一の天才なら、アンタは学園都市でも一人きりの天災ね。何そのオカルト?それともファンタジーって奴?おとぎ話の英雄か魔法使い気どりですか」

 忌々しげに吐き捨てる少女に上条は一言も答えない。
 上条の能力は学園都市の超能力者に言わせれば魔法のようなものだ。自ら積み上げ、研鑽し作り上げてきた能力を問答無用に打ち消す悪夢のような能力。
 
 幻想殺し。
 
 その力の前では神様の奇跡だろうと逃がれられない。

「そんな例外を相手にケンカ売るんじゃ、こっちもレベルを吊り上げるしかないわよね」
「……それでいつも負けてるくせに」

 返事の代わりに、少女の放つ威圧感が増した。放出される火花の量は先ほどと比べものにならない程多く、また濃く密集している。少女の怒りに呼応して膨れ上がってくるそれは、極大の雷を作り始める。
 上条はオトナな笑みを取り繕いながらも、顔の筋肉はガチガチに引きつっていた。上条が異能の力を消せるのは、あくまでも右手首より先だけなのだ。光速で放たれる雷撃の槍を、都合よく右手で受け止めるという偶然はそう何度も起こらない。

「なんていうか、不幸っつーか、ついてねーよな」

 上条は今日一日、七月十九日と言う日をそう締めくくろうとした。
 たった一言で、本当に世界の全てを嘆くように。

 だが、上条の不幸は底を知らず、まだまだ終わらない。嘆きすらゆるさない地獄へと、深く深く、どこまでも堕ちてゆく。
 
 巨大な衝撃と共に白色の閃光が橋を包んだ。
 そのあまりの規模の大きさは、周囲一帯が一時停電してしまったほど凄まじいものだった。
 
「ちょっとなにこれ、一体どうなってんのよ」
 
 少女が光が去った橋の様子を見て、呆けたような声をだす。まったく誰が予想できただろう。美琴だけなく、学園都市を常時監視しているはずの衛星さえも何が起こったのか正確に捉えることは出来なかった。

 それは不幸な上条をさらに不幸にしたい神様の悪戯が、陰謀好きな魔法使いの思惑か。
 
 全ての異能をことごとく消すことのできるはずの人物、上条当麻の姿が綺麗さっぱり消えていた。

 物語の始まりはいつも突然に訪れ、気がついた時には変態がすぐそこにいる。不幸体質な、普通の高校生上条当麻の、比喩でも無い本当の地獄での生活が幕を開ける。

 不幸な幻想殺しと真の魔法使いが交錯するとき、地獄の物語が始まる。



 魔法使いというものを知っているだろうか。彼らの正体は、神に愛され奇跡の力を行使する神話や伝承、おとぎ話や古い文献などに痕跡を残してきた異世界人である。
 
 そしてここは《地獄》、全ての魔法が燃え尽きる神のいない世界。
 
 この世界の住人である《悪鬼(デーモン)》たちは、魔法を観測することで意図せずして彼らの奇跡を燃やしつくしてしまう。加えて、魔法使いたちは不安定な自然秩序に介入しそれを《神》が安定させることによって奇跡を行使するが、この地獄では自然秩序が完璧であり神が存在しない。
 
 それでもこの地獄には古くからたくさんの魔法使い達が到来し続けている。そして、《地獄》の《悪鬼》たちにも彼らと接触し交渉を行う機関が複数ある。
 
 その一つが関係者には《公館(ロッジ)》と略される、文部科学省文化庁に属する非公式機関、魔導師公館だ。
 
 公館の本拠である多摩川流域の古びた洋館の地下室に、聖痕大系高位魔導師にて魔導師公館の専任係官《茨姫》オルガ・ゼーマンはいた。
 普段は濃紺のエプロンドレスを身にまとい、公館の中庭で紅茶を楽しむなど深窓の令嬢の雰囲気を醸し出す淑女だが、今纏っている服装はその印象と正反対のものだ。
 オルガが纏っているものは正確には衣服ではない。丈夫ななめし革とワイヤーが一体となった拘束衣だ。露出している肌には羞恥の汗が伝い、うっすらと浮き上がる白い太ももや、肉感的に強調されただらしない腰回りが淫靡さを際立てる。だがその姿は見るものに劣情を覚えることを拒絶する。この拘束衣が、ただ効率よく苦痛を与えるために作られた拷問具だからだ。

「このしゃべるウンコたちのウンコ溜めで、こんな恰好をさせられて、わたくし、わたくし」

 彼女は羞恥に顔を紅潮させつつも、どこか興奮したような口調で「ウンコ」という言葉を連発する。彼女の言うウンコとはもちろんこの世界に暮らす住人達のことで、それは魔法使いの共通認識としてはそんなに間違っていない。

〈新しい《茨》の調子はどうかね〉

 地下室のスピーカーから響く声の主は、オルガの纏う破廉恥な拘束衣《茨》の開発者である魔導師公館嘱託の変態魔法学者、溝呂木京也のものだ。
 
 この《茨》のワイヤーには大小いくつかの針や長いネジが括りつけられており、背中に取り付けられたエンジンの駆動によってオルガの身に四十五本の杭を打ち込み全身三十二か所の骨を折る。つまり《茨》とは効率よく人体を折りたたむ目的で作られた全自動磔刑拷問機なのだ。

「博士、わたくしはいったいこれからどうなりますの」

 彼女はただの一線を越えたマゾヒストであるだけではない。彼女の使う魔法は聖痕大系。彼女は自身の痛みや触覚を索引として、そのまま魔法につなげる索引型の魔法使い。
 適切な痛みの観測が、より強力な魔法を引き出す。彼女の羞恥による血圧の微細な変化さえ計算された《茨》がそれを効率よく導くことができる。

〈今回の実験の目的は、主に出力と強度の検証だ。ギアを四速まで上げて、魔法の発動を誘発し《茨》がそれに耐えられるかを検証する。準備はいいかねオルガ君〉
「はい、博士。」
〈念を押すが決して四速以上を使ってはダメだ。それが引き起こす苦痛はまだ完全にシミュレートが終わっていない。オプションの過給器のダイヤルについても触れてはいけない〉
「どうして、『使ってはいけない』ものがたくさんこの茨にはおありですの」
〈見てみたくはないかね、苦痛の……限界を〉

 オルガがこれから始まる苦痛の様を想像して、思わず口から吐息が漏れる。溝呂木からはそれ以上何も言わずスピーカーの電源が一方的に切られた。
 溝呂木は観測することで魔法を消去してしまう《悪鬼》だ。それが彼女とのつながりを切ったということは、それはそのまま実験開始の合図となる。

「さあ参りましょう。苦痛の果てまで!」

 彼女が《茨》のエンジンを稼働させた。回転数が上がるまでの数十秒間、その不吉な振動が彼女の血を引かせる。だが、オルガの顔は淡い期待に紅潮し、愛おしそうに《茨》のなめし革を指でなぞっていく。

 ギア一速。

 エンジンに接続されたチェーンが引かれ、そこから伝達された凄まじい力がオルガの身体をねじり上げる。腕があり得ない方向に曲がり、肋骨がへし折られ全身に極度の苦痛が走る。同時に地下室全体に大きな衝撃が走った。それを発したのはオルガの魔法によって作り出された魔法生物達だ。オルガの痛みによって現れては互いに喰いあい、死んでは生み出されていく不毛な無限連鎖。その悪夢のような光景は、ここが《地獄》と呼ばれるにふさわしい混沌の様相を呈していた。

「足りませんわ。まだ、全然足りませんわ」

 それでもオルガは《茨》のポテンシャルの十分の一も引き出せていないことを直感していた。このまま徐々にギアを上げていくのもまどろっこしい。溝呂木の決めた四速でもオルガの望む苦痛と奇跡には届かないのではないかとも思える。

 ――――見たい、苦痛の限界を。

 魔法使いとしての極限を求める本能か、理性を無視した何かに導かれるまま、オルガはエンジンのシフトレバーを操作していた。

 ギア六速

 エンジンの回転数が跳ね上がる。身体に喰い込むワイヤーが肉を裂き、鉄杭が骨を粉砕し内臓をかき混ぜる。意識を落とすことさえ許さない、極限の苦痛。理性を保っていることが不思議だった。丈夫な地下実験室の壁に亀裂が走り、茨のエンジンが過度の回転に高熱をもち始める。

「ひぃあああああああああああああ!ひぃぎぎぎぎいぎぃ」

 絶頂を突き破った痛覚に、理性が踏みつぶされていく。訪れるのは悲鳴さえも呑み込んだ静かな世界。それは人間の尊厳を突破した純粋な苦痛の世界の入り口だった。
 舌を千切れんばかりに限界を超えて突き出し、肺を痙攣させ呼吸すら止まっていた。

 それなのに、オルガの身体は操作盤にある過給器の禁断のダイヤルを回させていた。

『ブースト、上昇。エンジン過加熱。心肺停止危険域まで残り30秒――――』
 
 電子音声の無機質なアナウンスが危険をつげる。直ぐに治癒魔術が発動し、溝呂木にも連絡がいくだろう。そうなれば実験は強制終了になってしまう。
 
 そのわずかに生まれた瞬間に奇跡は起こった。オルガは誰も体験することのない全てを越えた“何か”を観測した。

「はぁ、これが産みの苦しみというものですのね……」

 かくして、オルガは聖痕大系、いや全ての魔法大系にはありえない誰も到達することのなかった奇跡を達成した。


 
「クソっ一体何が起こったてんだよ」

 上条は自分に起こったあまりの出来事と、眼前の光景に思わず吐き捨てた。
 自分は学園都市の橋の上にいたはずだ。それがいつも絡んでくるビリビリ中学生のド派手な雷を右手で受け止めようとした瞬間、明らかに相手の能力以外の何かが上条の身体を捉えた。白色の閃光が視界を奪い、一瞬意識を持ってかれ、気がついた時にはこの場所にいた。

「《地獄》にようこそ。あなたもこの地でしゃべるウンコに弄ばれる贖罪の巡礼に参ったのですのね」

 もはや、不幸の一言で片づけられない状況だが、それでも上条は叫ばずにはいられなかった。

「うう、不幸だーっ!!」 

 幾万の魔法世界で、ただひとつ魔法に見捨てられた世界。ここは地獄、この世界に未だ神は降臨せず、堕ちてきたのは神をも殺す幻想殺し、神なき世界で少年が殺す幻想とは果たして、どんな幻想なのだろうか。




[26217] ‐2‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:ce3a0058
Date: 2011/03/04 17:03
「《地獄》にようこそ。あなたもこの地でしゃべるウンコに弄ばれる贖罪の巡礼に参ったのですのね」

 気がつけば、上条は《地獄》にいた。比喩でも無ければ冗談でも無い。少なくとも上条は、ここが明らかに今までいた世界と何かが違うと思わずにはいられなかった。

「……あの、あなたさまはいったいどこの誰で、ここはぜんたいどこなんでせうか」

 まず一番におかしいのが、この人物だ。
 年のころは20代も半ばを過ぎた辺りと思しき女性が、露出の多い拘束衣を着ている。しかも全身血まみれで。
 状況を無理やりまとめるとだいたいこんな感になる。
 突如として不可思議な光に意識を飛ばされ、どこかもわからない何故かぼろぼろの部屋で目覚めて、傷を負った様子もない薄幸そうな美女が血まみれでうんこと口走り、なにやら変な期待を持った眼差しを向けられている。
 いったいどこのホラーだろう。奇奇怪怪どころか、今どき都市伝説やフィクションでさえもあり得ない超展開だ。

「なにをおっしゃていますの。あなたもわたくしと同じ、魔法使いなのでしょう」
「は?」
「ここは《地獄》です。偶然とはいえあなたは私が招待したようなものですから、歓迎して差し上げますわ」

 おもむろにオルガが右手を掲げた。手首に嵌まった銀の腕輪が木材に鉋をかけたようなガシリと鈍い音とともに、肘まで移動した。
 途端に血の雨と、むかれた生皮が地面に落下する。腕輪の中に仕込まれた鋭利な刃が、彼女の右腕の皮膚を削ぎ落としたのだ。

「あ、あんた、なにしてんだよ」

 自分で自分を傷つけて、しかも何やら蕩けた笑みを浮かべるこの女性を表す言葉があるとすればマゾヒスト。
 健全な男子高校生であるならばそういう属性に多少なりとも興味を惹かれるはずだが、流石に引いた。

「ふふっ、次はあなたの番ですわ」

 言葉の意味を理解して今度は血の気が引いた。今度は上条を痛めつける気なのだ。そして、その手段を見て上条は思わず後ろに退いていた。
 オルガの右手から落ちた血と皮が混じった粘液から、異形の怪物が生まれたからだ。
 腐ったような音を立て泡立ち、顎に鋭い歯を並べた猛獣の頭部、それが口の中で同じ猛獣を産み連結する。
 その魔法生物の鎖で出来た一本の鞭を、魔女が容赦なく上条に叩きつける。
 とっさに右手を突き出して、鞭を受け止める。魔法はそこでバラバラに砕け散った。さながら、氷を砕くように、上条の右手に触れた先から綺麗に壊れ吹き飛んでしまった。
 かつて見たことも無い現象に、オルガは言葉を失った。《悪鬼》の魔法を燃やす《魔炎》とは違う魔法を殺す力。魔法の天敵、魔法使いの鍛錬と歴史を殺す力に本能的な恐怖を覚えざるを得ない。
 しかし、オルガはその恐怖をも快楽に変換できる真の魔法使いだ。

「不思議な魔法をお使いになるのですのね。その得体の知れない右手で私をメチャクチャにする気なのですのね」
「いや、そんなことしねぇけど」
「わかりましたわ。あなたもウンコまみれになる方がお好みなのですのね」
「あの……なにをどう受け取ったら、そうなるんでしょうか」

 オルガの中で上条はすっかり同類認定されていた。オルガが今度は両手から鞭を生みだし、左右同時に振り回す。
 上条は一方を右手で四散させ、もう一方を身体を地面に投げして避けるが背中を削られた。服が破けて背中が熱を持ち始める。腰の辺りまで何かつたってきたのはおそらく血だろう。

「痛みから逃げるからもっと痛くなるのです! もっと、もっと痛みを愛せば、痛みは気持ちよくなるのです」
「やばい、この人マジでほんもんだ……」

 痛みの熱で身体が火照るのと反比例して、頭だけがサーと音を立てて凍える。

「さあ、気持ちいいと言いなさい!」
「そんなこと言えるかー!!」
「もっと激しいのを、望んでいますのね。わりましたわ。ともに苦痛の限界へ参りましょう」
「もはや、突っ込みようがねえええええええっ!」

 上条の叫びも、一人で神と相対するとされる魔法使い、超弩級の変態には虚しく響くだけだ。
 オルガが《茨》のエンジンを始動する。聖痕大系は索引型でもトップクラスの出力を持つ魔法大系だ。《茨》によって引き起こされる強力な魔法の数々を右手一本で捌くのは無理がある。
 上条は覚悟を決めた。相手は落ち着いて話が出来るような普通の人間ではない。ならば、なんとかして、話を聞いてもらえる、ないし話を聞ける状態にするしかない。
 上条は右手を強く握り込んで踏み込んだ。オルガは痛みに酔っているのか避けようともしない。
 拳が、オルガを拘束する《茨》の一部に触れた。
 その瞬間だった。
 ビリッと、何かが破れた音がして、オルガを拘束する《茨》がドスンと落ちた。

「は、いやこれは偶然というか事故というか、ともかく不可抗力って奴で……」

 慌てて目を反らすが、程良い肉つきの身体やら白い肌やらがしっかり視界に入ってしまう。
 普通の女性なら、羞恥心で顔を真っ赤にし激怒するだろう。上条もそのような反撃を覚悟していたのだが。
 しつこいようだが忘れてはいけない、オルガは魔法使いであり、異世界人なのだ。

「はあはあ、見ず知らずの殿方にわたくしこんなにされてしまって。さあ、どうなりますの、どうなさいますの」

 上条には想像の範囲外だろう。魔法使いに常識は通用しない。
 《茨》はオルガから魔法を効率よく引き出す道具であり、強力な治癒魔術も手軽に扱えるそれを失うことは致命的だ。未知の能力を使う者が相手なら、なおさら心理的に追い詰められることになる。
 オルガはその状況にひどく興奮している。

「来ませんの。ならわたくしが痛くしてさしあげますわ」

 多少の恥じらいを見せつつも裸身を隠すことなく、鞭を握る。

「あー、もう何なんですかこの不幸は!! いろんな意味でひどすぎるー」 
 
 上条がもう無理だ。誰か、誰でもいいから助けてくれーとヤケクソに思った時だ。

 今まで混乱していて気がつかなかったこの部屋の扉がガチャリと開いた。

「全く、あれほど四速以上は使うなと言ったのに。正しい順序でなければ実験に意味が生まれないではないか」

 どこか弾んだ声でぼやきながら、体格の良い白衣を着た短髪の中年男性が部屋に入ってくる。
 
 その瞬間、世界が炎で包まれた。オルガの魔法で作られた鞭が、無音の悲鳴上げて燃え上がる。魔法だけを焼く《地獄》の業火、《魔炎》。
 
 魔導師公館嘱託の魔法学者、溝呂木京也。彼はこの世界の住人、観測することで魔法を焼きつくす《地獄》の《悪鬼》だ。
 溝呂木は部屋の惨状と、上条のことを冷静に眺めて一言。

「ふむ、どうやら予想外に面白い結果が得られたようだ」

 全裸で血だらけなオルガを見ても眉ひとつ動かさないあたり、こいつも似たような変態なんだなあと、上条はあきらめなんだかよくわからないため息を吐いた。




「確認します。あなたは学園都市という『超能力』を開発する機関のある場所から来たと。自らの意志ではなく、全くの偶然で」

 シンプルなスーツを着こなし眼鏡をかけたこの女性は、魔導師公館の実務上のトップである事務官の十崎京香だ。
 上条は怪我の手当てをしてもらってから、公館にある小さな会議室で事情聴取を受けていた。ようやくまともな人間に出会えたというのに、なんか事件の容疑者のようで居心地が悪い。
 しかし、とりあえずは話を聞いてもらえるので良かったと思う。先ほどまでの、話もできない、通じない、おまけに訳もわからず命の危機という状況はまさに地獄だった。

「ああ、そうそう。なんか橋の上にいたら訳のわからない白い光に包まれて、気がついたらこんなところに」
「君の右手はいったいなんなんだ。《茨姫》の証言だと魔法を破壊したみたいだが」

 この白衣の男は上条の話、とりわけ『超能力』に興味をもっているようでことあるごとに突っ込んでは話を中断させている。
 『学園都市』では『無能力』の烙印を押された上条は、自分の右手の超能力とは言えない能力について説明する機会はほとんどない。
 大人二人、しかも一人は少年のように目を輝かせたオッサンに説明するなんて、どうしたものかと、やはり戸惑ってしまう。

「えっとこの右手は幻想殺しって言って、それが『異能の力』なら原爆級の火炎の塊だろうが戦略級の超電磁砲だろうが、神様の奇跡だろうと打ち消せます、はい」
「神様の奇跡ときたか。なるほど実に興味深いことを言う」
「溝呂木さん。よろしいですか、こちらの話を進めたいのですが」

 溝呂木とは対照的に、京香はとことん冷静だ。魔法使いからも嫌煙されている公館のトップを務め『氷の事務官』と一目置かれる彼女はどんな事態であっても取り乱すことがない。

「なあ、こっちからも聞きたいんですけど『魔法』ってあれか、よくゲームとかにあるMP使って攻撃とか、回復とか死者蘇生とかやれる」

 上条が魔法や魔法使いと言われて思いつくのは、ゲームや幼いときに読んだ絵本などのお伽噺くらいだ。もっとも学園都市で『超能力』に触れてからは、そういったものに対する憧れは薄れていった。だってそうだ。そこではどんなことでも『科学』という言葉で説明できてしまう。電撃使い、発火能力者、風力使い、念動能力、念話能力などなどの『超能力』や他にも外より数十年先を行く最先端技術の数々はまるで魔法のごとし。
 適度に発展したテクノロジーは魔法との区別がつかないとは良く言ったものだ。
 だからか、『魔法』という言葉にありえないと思いつつも『科学』ではない不思議な力に少なからず期待してしまう。

「その認識はあながち間違ってはいないな。その手のものは大抵神話やおとぎ話がモチーフになっているし、強力な魔法は正に奇跡というにふさわしい代物だ」
「あなたのいた場所で『超能力』とやらが一般化されているように、ここでは公然にされていませんが《魔法》が存在しています」
「じゃあさっきのあの変態さんは、それに《地獄》がどうのって言ってたけどここは」

 変態という上条の言葉に京香が一瞬苦い顔をした。指先で軽く机を叩いて淡々とした口調で説明する。

「彼女は、我々魔導師公館に所属する魔法使いです。《地獄》とはここが文字通り魔法使いにとっての地獄だからです」
「あの……ここって日本ですよね」
「ええ、ここは都内にある古い洋館の一室です。そして、この世界には神話の時代より幾万の異世界から魔法使い達が訪れています」

 日本語が普通に通じているから安心していたが、魔法に魔法使いに《地獄》ときて、日本? どこそこ? ってなったらどうしようと思ったがひとまずほっとした。
 だが、魔法使いが随分昔から、しかも異世界から来ていて、それなのに一般に知られていないのは政府が隠していたり、魔法使いが秘密主義だったりするのだろうか。

「例えば君がさっき会った《茨姫》。彼女の扱う聖痕大系の魔法使いは魔法生物の扱いに長けている。苦痛の中で人々が見る幻覚の怪物で特に生々しいものはこの魔法使いによるものだとされているな」
「この世界の住人は観測することで《魔法》を《魔炎》として燃やしてしまう力、いわゆる《魔法消去》を持っているため魔法を直接見たり、感じたりすることができません」
「それって、つまり魔法を見ようとしても、先に自分で消してしまってるから見えない。だから普通の人は魔法を知らないってこと」

 さっき溝呂木が地下室に入った時に、世界が燃え上がったような気がした。熱さも感じない、魔法を世界から引き剥がす炎。
 上条の幻想殺しと少し似ている。本人にとっては普段の生活の役に立たない微妙な能力だが、一部に煙たがられたり突っかかれたりしそうなあたりが特に。魔法使いもしつこくケンカ売ってきたりするのかな。

「魔法を感じることのできないこの世界の住人を魔法使いは神と魔法に見放された《悪鬼》と呼び、魔法が焼きつくされるこの世界を《地獄》と呼び蔑んでいます。そして我々は魔法使いに関する様々なトラブルを扱う非公式政府機関の人間という訳です」
「こういう政府の秘密を一般人が知ってしまうってのは口封じで殺されるってパターンの死亡フラグっぽいんですけど。まさかねぇ……」
「…………」
「…………」
「その沈黙が怖い! 本気で、俺殺す気!!」

 微妙な空気が流れる中、溝呂木があからさまにため息を吐いた。京香はそれを視線で咎めてから、静かに上条に向き直る。

「認識の齟齬があるようなのでここで正しておきますが。我々はあなたを一般人だとは思っていません」

 京香が淡々と告げる内容は、上条にとってどこか憧れていたことでもあり、望んでいなかったものでもあった。

「この世界の住人は《魔法消去》を持っているはずです。ですが、あなたの右手は似たような力はあっても決定的に違っている」

 それは自分とは異なる世界のことのように聞こえた。

「いいですか、よく聞いてください。この世界に『学園都市』という場所は存在しません」

 ここは夢の世界で、目が覚めたら『学園都市』でいつもの不幸で、けれども平和な生活が始まっているんじゃないだろうかとも思えてくる。

「加えて、上条当麻なる名前の人物は、日本の戸籍や他のどの記録にも存在していません」

 これが現実だとして、まるである物語の主人公がいきなり別の物語に入ってしまったみたいに上条はひたすら戸惑うことしかできない。

「我々はあなたを異世界から来た人間、すなわち《魔法使い》だと思っています」

 用意されていたシナリオとは違っても、演者として組み込まれた限り、否応にも物語に参加しなければならない。
 
 ここは確かに今までいた世界と違う場所、《地獄》なのだ。



「わかったよ。ともかくあれだ。俺はいわゆる余所者ってやつなんだな。だけど俺自身もどうやってここに来れたのかわかんねぇ。あんたらも俺が何事もなくもとの世界に帰ってくれた方がいいんだろ」

 上条当麻は不幸な人間だ。どのくらい不幸なのかは今の状況を見れば一目瞭然、神様には完全に見放され、地獄に仏は来ない。
 けれど、上条は運に頼らない。運任せで状況が好転しないことは身を持って知っているからこそ上条は行動の大切さを知っている。
 とりあえず現状の自分は場違いな場所に来た余所者であり、ここは学園都市の中でもなければ学園都市の外ですら無い上条にとっての完全な異世界らしい。幸い基本的な言葉や常識も、一部の方々を除いては通じるようだ。『魔法』について全くわからない上条がこの状況を何とかするにはこの魔導師公館に協力してもらうより道は無い。

「なあ、だったら元の世界に帰るために協力してくれないか。こっちも出来ることならなんでもするからさ」

 上条の申し出に、京香は少し驚いていた。
 これまでこの世界を見下す魔法使いばかりを相手にしていたから、こういう真っ当なお願いのされ方は久しく無かった。なによりさっきまでは自分の状況すら理解できていなかったのに、適応が速いというかトラブルに慣れている感じもする。

「わかりました。とりあえずあなたのこちらでの当面の生活は保証します。後で担当者をよこしますので、少し外で待っていてくれませんか」

 魔導師公館は法律では取り締まれない魔法使いたちの事件を扱う。そしてその解決にはどんな血なまぐさい手段もいとわない。だから、おおよそ魔法使いらしくないこの少年が運んでくる問題によっては、最悪の決断もする必要がある。
 京香はそのやり切れない気持ちを悟られないように氷の表情の中に押し込んだ。



 上条を公館の応接室に案内した後、京香と溝呂木は会議室に戻った。

「溝呂木さん。彼のことを魔法使いだと思いますか」

 京香の印象では良くも悪くも、ごく普通の少年という感じだった。魔法使いに多い人格的な破たんも無い。

「とりあえずはそう仮定するよりあるまい。だが、そうなると彼はかなり特殊な扱いになるな。魔法を破壊する魔法など、異質にも程がある」

 魔法は不安定な自然秩序の歪みを魔法使いが観測することで行使され、直接その歪みに魔力を見出す《魔力型》とそれを索引として奇跡を引き出す《索引型》と二つに大別される。どちらにもあてはまらない例外もあるにはあるが、彼の右手はその中のどれにも当てはまらない。

「《茨》が彼の右手に破壊されたと聞きましたが」
「ああ、あれは《茨姫》が私の指示を無視して過度の負荷を掛けただけ。つまり単なる強度の問題だ。彼の右手は『異能の力』を打ち消すと言っていたが《茨》はただの装置だ。それ自体には何の奇跡も介在していない。もっとも彼の言うこと全てが真実としても『超能力』や『学園都市』の存在というのは甚だ信じられるものじゃないが」
「私もそれについては同感です。現状、彼は魔法を破壊する魔法を右手に宿した魔法使いだということでしかありません」

 上条の話は魔法使いの話よりも突飛に聞こえ、流石に信用できない。魔法使いとの長い関りの中で、そんなもの存在は全く語られたことがない。日本と言う同じ地名で異なった歴史に科学。まるでSFなどに語られる平行世界というやつではないか。

「彼は《茨姫》の魔法で呼び出された節がある。だが聖痕大系が魔法生物の扱いに長けているとは言え、あんな魔法の発現の仕方など見たことも聞いたこともない」
「異例ずくめの事態という訳ですね。まったくこんな時に」

 京香は組んだ両手に額を押し付ける。溝呂木が興味なさそうに尋ねた。

「60年振りに現れた再演大系の使い手に《染血公主》の件かね」
「それだけではありません。神音大系の神聖騎士団が十二名、首都圏に侵入しました。さらに《染血公主》ジェルヴェーヌ・ロッソは二年前姿を消す前に神人遺物である《鍵》を奪っているという告知が《協会》からありました」

 《協会》とは公館と取引のある最大の魔法勢力だ。そして神聖騎士団は《協会》と千年以上に渡って戦争を続けている神音大系の魔法使い組織で、当然公館とも敵対関係にある。
 《染血公主》はこの《地獄》でいくつもの殺人を犯した、公館が狩るべき犯罪者だ。しかし、それが神人遺物を持っているとなると事情が違ってくる。二千年前に完全に姿を消したとされる幻の魔法大系である神人、それが残したとされる魔法消去されても自力回復するという桁外れな力を秘めた魔法産物。その争奪には公館も幾度も巻き込まれ、多くの犠牲を払って来た。

「再演大系に《幻影城》の《鍵》か、なるほど何もかもお誂え向きに用意されているという訳だ」

 再演大系、60年前に滅んだとされる魔法使いを操り、過去を書き換えるという強力な魔法を行使する魔法使い。そして、その再演大系の聖域である世界最大規模の神人遺物《幻影城》とそこへと至る《鍵》。ここまで素材がそろっていて引き起こされる問題が小さくなるはずがない。

「彼もこの一連の事態に関連している可能性はあると思いますか」
「まだ、なんとも言えないな。だが彼は少なくとも《協会》圏の魔法使いではない」
「英語をごく自然に会話に混ぜていました。《協会》に問い合わせてみますがそこから素性を調べるのは難しいでしょう。溝呂木さんは《茨姫》の魔法の線から探ってくれませんか」
「了解した。だが公館にしては、随分扱いが優しいのではないか。厄介事が起きる前に処分なりすればいいものを。私はあれの魔法について実験したくてたまらないのだが」

 溝呂木は人間の人権だとか倫理など気にしない。悪鬼でありながら魔法学者になった変わり種は、とことん魔法の研究にしか興味を示さないのだ。
 京香は上条が日本人を名乗ってくれてよかったと思う。溝呂木はデータを取るためなら、拷問まがいの実験も平気でやる。

「何もわからない現状でうかつに手を出すことはできません。それに記憶の混乱や思惑があるにしても日本人を名乗る以上、むげな扱いはできません」

 彼は見た目にはまだ少年であり、おおよそ魔法使いらしい様子もなく間諜をやれるほど器用にも見えない。だが、事態が異例なことだらけなこともあり、全容を見極めるまでは慎重に扱うべきだ。
 なにより、公館は幾多の死体を積み上げ異世界人からこの日本を守ってきた。だからこそ、必要以上の犠牲を、ましてや日本人を名乗る人物の遺体を自らころがすなどということはできない。

「だが、彼が何かしらの問題を起こしたらどうするのかね」
「この世界のルールを守らない異世界人に対して、公館がすべきことは一つです」

 しかしそれも、必要ならば無視される。公館は倫理ではなく、この国を守るという目的で動く組織だからだ。
 そして、警察が関われない治安維持の間隙を闇から闇へと埋めてきた魔導師公館がやることはいつの時代も変わらない。

 魔法使いにとっての《地獄》、《公館》はその恐怖の象徴として君臨し続ける。



[26217] ‐3‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:ce3a0058
Date: 2011/02/28 20:27
 上条は儚げな、まるで妖精みたいな少女に出会った。
 夏物の涼しげなワンピースの胸元に除く白い肌と臙脂色のリボンでまとめられた艶やかな黒髪との落差は、どんな風景でもぼやけてしまう。少女はその場にいるだけで幻の世界に引き込まれたかのように錯覚させるほど可憐だった。
 少女は、両手の人差し指の間で小さな稲妻を作っていた。人差し指の次は中指、薬指と順々に稲妻を結んで、あやとり糸のように放電の弦を編み上げてゆく。
 一瞬見とれた上条だが、俺はロリコンなんかじゃないと慌てて否定して少女に近づいてゆく。

「えっと、お前も魔法使いなの?」

 メイゼルは両手をパッと放して糸を切ると、品の良い眉を不平そうに吊り上げ、上条を睨みつける。

「あたしは鴉木メイゼルよ。あんたこそ誰なの」
「俺は上条当麻って言って、なんつうかとりあえず余所者らしいんだけど。さっきやってたのって魔法か、凄いな」
「これくらい円環魔術の基本だわ。別に凄くもなんともないわよ」

 メイゼルが扱う円環大系は、周期運動するものに《魔力》を見出す魔力型の魔法だ。原子核のまわりで電子軌道を占有する電子も円環大系の《魔力》の一つであり、この魔法大系はゼウスやトール、インドラに帝釈天といった雷霆神の神話が分布となった地域で活躍していた魔法使いだ。
 メイゼルはすでに上条に興味を無くしたようで、また両手に糸を編み上げてゆく。

「これが、二次元にしか存在しないとされたリアル魔法少女!」

 そう小さく呟いた時だった。太ももの辺りに強烈な刺激が走り思わず床を転げまわる。見上げるとメイゼルが怒りに肩を震わせて、顔を真っ赤にさせていた。

「あんた、おとなしそうな顔してなんてこと言うの!!」
「痛ってええぇえ! 魔法少女はビリビリ小学生!」

 実は《協会》に関わりのある魔法使いにとって英語は最低の罵倒語でありスラングなのだ。これは仇敵である神音大系がこの百年間でアメリカの支援を受けていることから、そんな風習ができた。
 そんなこと知る由もない上条は、何で少女が怒っているのか見当もつかない。しびれて力の入らない足を抱えながら目に涙を浮かべてメイゼルを見上げる。

「全く躾がなっていないわね。そんなはしたない顔、あたしに見せてどういうつもりなのかしら」

 上条の堂の入った不幸顔に、メイゼルが嗜虐的に目を細める。
 年齢に相応しくない背徳的な蕩けた笑みに、上条はこの世界における真理を思い出した。

「変態だ。ドSだ。もう嫌だ。帰りたい」
「違うわ! あたしは、強い相手やきれいな子の泣き顔を見たい気持ちが、人よりちょっと激しいだけなんだから」

小さな魔女は薄い胸を張って傲然と否定する。でも自信満々の言葉の中には否定できる要素は欠片も無い。

「やっぱり、変態だああぁぁー!」

 叫ぶと同時に、また上条の両足を電撃が打った。床を悶絶しながら転げまわる。
 先日ある魔法使いに、お前は変態だと定義されるという屈辱的な魔法のお墨付きをもらったばかりのメイゼルは、その言葉に少し敏感になっていた。

「ごめんなさいが気持ち良くなるまでいじめたげるから覚悟しなさい!」
「……お前らなにやってんだ」

 危うく奴隷に調教されるところだったのを投げかけられた声が止めた。黒いジャケットと茶色掛かった髪に意志の固そうな眉、見た目は若いのに苦労性に見える。学校に勤め始めたばかりで子供に振り回されてばかりの新任教師を連想した。

「躾のなっていない犬におしおきしてただけよ。せんせこそ、会議があるんじゃなかったの。そんなにあたしと離れるのが我慢できなかったんだ」
「あのな、メイゼル。俺はお前と離れるのは違った意味で心配なんだ」
「せんせ、この子をおしおきしてるのは浮気なんかじゃないから安心していいのよ」

 小さな魔女がその男に腕を絡ませる。お転婆な姫様と執事みたいな取り合わせだが、姫が向ける視線は明らかに信頼以上のものがあった。しかも男の方も少女に先生と呼ばせているとは、この二人の関係はどう見たって普通じゃない。
 上条の、この《地獄》に来て短い間に培ったセンサーが、警告を告げるのが聞こえた。

「ロリコンの上にMかテメェ! 救いようがねえな!」
「何を勘違いしているのか予想できるけど違うからな。俺は変態でも魔法使いでもないからな」

 魔法使いではないと言うなら、普通の変態ってことになる。そんなの余計に犯罪だ。

「じゃあ、あんた誰なんだよぅ」

 上条は不信感むき出しで立ち上がる。男は困ったように名乗った。

「十崎事務官から説明を受けているだろうけど、俺はこの魔導師公館の専任係官で武原仁だ」
「専任係官?」
「公館が魔法使い関連の問題を扱っているのは聞いているよな。専任係官は刻印魔導師の管理や公館が立てる戦略や戦術の、いわば実行役だ」
 
 実行役との言葉に、さっき美人の事務官に言われた担当者を寄こすと言っていたことが符号する。

「じゃあ、あんたがこの子や俺の担当の人ってこと?」
「いや、……メイゼルはそうだが俺は」
「あなたは、……私の担当」
「うぉう! いきなり誰!!」

 いきなり後ろから肩に手を置かれ、上条は顔だけで振り返る。思ったより近いところに無表情な女の子の顔があった。人形のように体温を感じさせない、そして神聖な巫女のように清冽な雰囲気を合わせもった容姿はさっきの少女とはまた違った意味で視線を吸い寄せられる。彼女は頭の左右で括った長い黒髪を揺らして、上条の肩越しに手をメイゼルに延ばした。

「因達羅も、……私のとこ来る?」

 彼女の名は神和瑞希。公館が今の形になる明治以前から、《協会》と同盟関係にあった古い一族の末裔で、本人も昨年最も多くの敵対魔法使いを狩ってきた優秀な狩人だ。
 作り物のようにしわひとつない指がメイゼルに触れようとしたのを、武原仁が強引に身体を割り込ませ遮った。

「神和! メイゼルの面倒は俺が見る」
「……残念」

 声を荒げさせる仁に、神和ぽつりと呟き、さっと身を引く。
 専任係官同士のささやかな不協和音に板挟み状態になっていた上条はほっと一息吐いた。
 そのタイミングを見計らったように、専任係官のまとめ役であるはずの京香が現れ、話を始める。

「上条君の担当はこちらの神和係官です。あなたは彼女のサポートもしてもらいますから指示に従って下さい」

 上条から協力すると申し出て、こちらでの勝手がわからない以上、素直に従おうと思う。何だか新入社員の気分で、上司となる神和にこれからよろしくと握手でもしようかと手を差し出す。しかしそれは華麗にスルーされ、眼の前に指を突き付けられた。

「これも、式神として扱っていいの?」
「これって、俺には上条当麻という名前があるんですけど……」

 式神って何、とか突っ込みたいところだが、『これ』ってまるで道具のような扱いではないか。だいいち、人を指差すなよ。まだ社会に出ることのない上条だが、職場で上司にいびられるとはこんな感じなのだろうか。

「好きにしてかまいませんが、ほどほどにお願いします」
「あれぇ。俺の意見はガン無視ですか。そうですか」

 一足先に組織というものの非情さを味わい、地味に落ち込む。そんな鬱の入った上条の額を神和のチョップがぶったたいた。手加減された様子は無く、かなり痛かった。

「ぶつぶつ、言ってないで、……来る」

 神和の存外に強い力に腕を引かれるまま、上条は外に出る。日が沈み、星が輝く空は学園都市と変わらない。ここが異世界で地獄だということを忘れてしまいそうな綺麗な空だった。



 同じ時期、都内にある教会に神音大系の魔法使い組織である神聖騎士団のメンバーは滞在していた。

「此処は神なき《地獄》にあらず。最も高いものをいただく日を約束されし《約束の地》なり、神の座の空位、審判の日に終わり、受難の民は苦しみゆえに救われん」

 はるか昔《極点》を目指す巡礼の際、神音大系の魔法使いに導きの声が伝えたとされる聖句を唱え、祭壇の十字架を見上げ祈りを捧げる鎧乙女がいる。彼女の名はエレオノール・ナガン。公館のブラックリストにも載っている《協会》の幾多の高位魔導師を討ち果たした、神聖騎士団の若手最強の一角とまで謳われる上級聖騎士だ。

「祈りは終わったか。エレオノール・ナガン。出立のときだ」

 彼女がふり返ると、そこには白銀の鎧に身を固めた11人の騎士がいた。
 一隊の先頭に立つ彼女たちの指揮官、常に前線で戦い抜いてきた彼女の師匠でもある団将グレアム・ヴィエン。

「はやく動こう。いかにわしでも、誰を巻き込むかわからん場所で《協会》と切り合うのは心が痛む」

 礼拝堂の入り口を守る身長2メートルを超える黒い肌の巨漢、大人の背丈くらいはある戦斧を軽々と振り回す上級聖騎士ドナルド・デュトワ。

「エレオノール。神の声は、聞こえましたか?」

 銀縁眼鏡に細身の身体に細剣を携えた上級聖騎士ニコライ・バルトは、彼女が聖騎士になったときから共にいる最も信頼できる仲間だ。
 エレオノールは頬に落ちかかった金の髪をどけ、鉢金がわりの大きな髪留めの位置を直し、はっきりとわかるように頬をふくらませてニコライを軽くにらむ。

「もう、からかわらないでください。私もみんなと同じように、ただ迷い、すがるだけですから」

 音を観測することで索引とし魔法を行使する神音大系では、才能に極めて恵まれたものは《神の声を聞く者》であると敬意を払われる。だが、若手最強だのと大仰な名前ばかりが積み上がってゆくことは、親しい者には彼女をからかうよい種だ。

「お姉さま。お許しになって。せっかくお姉さまの隊に配属されたのに、肝心のときにいっしょにいられないんですもの」

 彼女を姉のように慕う白金色の猫っ毛の少女、リュリュ・メルルは神音世界の有力者、枢機卿の娘である。
 今回の聖務にあたり団将グレアムは、エレオノールの隊を接収した。しかし、ある理由から必要とする人員は12名であるため、リュリュはそのメンバーから外されていたのだ。
 《協会》の本拠のあるこの日本で、12人に課せられた使命は過酷で重大なものだ。精鋭部隊といえど、何人生きて帰ってこられるかわからない。
 エレオノールは胸に秘めた感慨を知られないように軽く咳払いをしてから、首にかけていた小さな楽器を外す。

「エレオノール隊リュリュ・メルルあなたに聖務を申しつけます。私たちの出立をこの聖具で祝福してください」

 置いてけぼりとなる少女の表情が役割を得て喜色に染まる。
 エレオノールが少女に楽器を渡そうとするが、籠手でつまみそこねてお手玉しそうになる。

「ほんとに、私は不器用ね」

 うらめしそうに呟くエレオノールは実は信仰と戦闘以外はてんで駄目なのだ。だが、そんなところも彼女の隠れた魅力の一つである。
 楽器がリュリュに渡ったところで全員の準備は整った。厳粛な面持ちでグレアムが直剣を抜き放つ。11人の騎士がそれに続いて思い思い剣を鞘走らせる。それぞれが握った長剣、細剣、そして戦斧の予備の小剣、12人の12本が次々と重ねられてゆく。
 団将グレアムが、朗々と戦陣の聖句をとなえる。

「神意、我らが行く手にあり。ただ最後まで生をまっとうすることを誓い、今はひとたび剣を収めん。再び抜くときは、刃を血に汚し、敵を屠るときぞ!」

 澄んだ音色が一つ、彼らの心と剣に波紋を広げた。
 リュリュが鳴らす神音楽器が奏でる神音は、人の胸に門出にふさわしい澄んだ青空の下を歩くような、晴れやかな気持ちを引き出す。
 騎士たちはそれを胸に旅立ってゆく。
 嵐の黒雲であろうとも、地の底の闇に閉ざされようとも、彼女たち聖騎士は、光を見失いはしない。
 目的は過去に神を降臨させようとして失敗した《神の門(バブ・イル)》のやり直し、再演大系に目覚めたばかりの少女を生贄にしたバベルの再臨。



 魔法にめざめたばかりの女子高生、倉本きずなはまるでおとぎの国にいるかのような気分だった。昨晩、父親に魔法を見せたことを思い出す。
 きずなの銅色の髪や、黒ではない濃紺の瞳とは似ても似つかない容姿で、トラックの運転手で楽器作りが趣味の父親。その腕前は銀座で小さなギャラリーを開けるほどだったりもする。それも十分自慢に思うが、幼いころから魔法はあると教えてくれたロマンチストな父親が彼女は好きだった。

「見ててね、お父さん行くよ!」

 ちゃぶ台に二つ折りにした広告のチラシを立てる。父、倉本慈雄はわけもわからない様子で、娘の奇行を湯呑茶碗を片手に眺めているだけだった。
 きずなが胸の前で強く握った手を引く。
 
 その動作が小さな奇跡を起こす。
 
 召喚されたのは、本来再演大系の大規模な魔法で補助に使う魔法生物《無色の手》。
 くっと胸の底につっかかるような手応えとともに、ふわりとチラシがきずなの前まで飛んできた。

「すごいな、きずなは」

 父が目を瞠り、手品だとも疑わずただ褒めてくれたから、きずなは魔法を本当に誇らしく、素晴らしいものに思えた。

「すごいでしょ!」

 わけのわからない歓喜に胸がいっぱいになって、彼女は子供に戻ったみたいに父親に抱きついていた。現実感があやふやになって、今なら空でも飛べるような気がした。
 まるで宝物の詰まった部屋の扉を開いたような不思議な幸福感に、彼女の両目から自然と涙が溢れてきていた。
 見上げると父も何故だが、眼を赤くして、鼻をすすりあげている。

「きずなが魔法使いになった記念日だから、今日はお祝いしようか」
「はいはい、ビールだね。お父さん」

 そのときは、彼女は魔法がとてもいいものなのだと思っていた。誰かに小さな幸せを手渡して、自分の周りの世界を素晴らしいものに変えてくれるものなのだと。

 だが、再演大系という呪われた魔法は残酷な試練へと彼女を導く。



 上条は眼前の光景に完全に固まっていた。

「ふはははははっはははははっははは!!」

 襖の向こうに待っていたのは、肉体を極限までに鍛えぬいたカイゼル髭を生やしたダンディな男だ。
 腕を組み身体をひねって大胸筋を強調するサイドチェストと呼ばれるポーズで、男の上条が見ても惚れ惚れするくらい見事な筋肉を見せつけていた。

 そして、当たり前のように全裸だった。

 これから訪れる快感の期待を抑えられず笑いをもらし、今にも空に飛び出そうな勢いである。
 上条も流石にわかってきたから動じない。三度目のこの場面で言うべきことが自然と口を衝いて出てきた。

「お前、変態だから魔法使いだろ」




[26217] ‐4‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:ce3a0058
Date: 2011/03/04 17:23
 専任係官、神和瑞希の実家は公館から徒歩20分ほどの場所にある。高さ3メートルに達する堅牢な石壁に囲まれ、街の一区画を完全に占拠するそれは《悪鬼》との関わりを拒否した小さな城だ。
 魔法使いにしか開かれない松材の大扉から、神和邸に踏み入れた上条は、学園都市で慣れ親しんだ高層建築とは違った古い光景に圧倒された。

「お前、絶対、私の家族に、触れるな。消去で、一族が消える」

 訥々した声でそう忠告された上条は、おとなしくうなずく。平安の時代から《協会》と繋がりのある退魔の家系の歴史の重さか作る雰囲気のせいか、普段の軽口もでてこない。
 そんな何やらもの凄く緊張した状態で、案内された部屋の襖を開けたらあの全裸がいたのだ。

「ふはははははっはははははっははは!!」

 縁側に向かってポーズを決めながら、大きく高笑いする全裸の男。上条の緊張などそこで一気に吹っ飛んだ。

「伐折羅、《染血公主》を、探す。行って」
「承知した。《魔獣使い(アモン)》どの。ふはっふははははは!!」

 全裸の身体が宙に浮く、そして飛んだ。茫然とする上条をよそに、星の輝く地獄の空へと、全てから解放された全裸が飛び出していく。

「あの、……あれは」

 上条は口を開けたままようやくそれだけ言えた。

「……伐折羅」
「ふーん、頭が禿げてるのもきっと空気抵抗を少なくするためなんだろうなぁ」

 遠い目で、全裸が飛んでいった方向を眺める上条。もう学園都市で培ってきた常識だとかの概念はめちゃくちゃに破壊されていた。

「いらっしゃい、新入り」
「いらっしゃいな、新入りさん」

 部屋の隅から輪唱するような囁きとともに現れたのは、手をつないだ中年の男女。顔つきが似ていることから、たぶん姉弟なのだろうと察する。
 同時にどんな変態なんだろうとビクビクしながら、傍らにいる瑞希に一応尋ねてみる。

「あの……この人達は」
「宮毘羅」
「だからそれがわかんないんだって。何その固有名詞、二人合わせてひとつの名前ってことですか!!」

 神和家は代々管理する刻印魔導師を式神と呼び道具として使役してきた。その習慣から、魔法使いのことを十二神将に当てはめた呼び名で呼んでいる。十二神将は仏教の信仰の対象だが、ごく一般的な日本人である上条はそんな知識は持ちあわせていない。
 神和瑞希は、刻印魔導師を道具だと思っている。そんな彼女が、式神と同じ扱いでいいと言われた上条に丁寧に解説するはずもないし、実際しなかった。替わりに後頭部にチョップを見舞うことで上条を黙らせた。

「ごちゃごちゃ……うるさい。今日はもう、寝ろ」

 スタスタと去っていってしまう瑞希を、恨めしそうに見送る上条は一人取り残された。ちらりと中年兄弟の方を見やると目があった。

「よろしく」
「よろしくね」

 すでに目つきがどこか危ない二人組に迎えられ、上条は朝まで無事にいられるのか心配になる。

「はあ。なんというか、不幸だ」

 後戻りなど出来ない。ここ以外に行くあてなど無いのだ。上条は自棄になって大声を出す。

「ああ、もうよろしくお願いします!! 上条当麻です。変態はもうこりごりです」



 あくる日の朝を、上条は案の定一睡もできないままで迎えた。あの姉弟は一晩中手を握り合い、何やら金属で出来た鋭い円輪を空いた手で投げ合っていたのだ。命の危機を感じたのは二度や三度じゃすまない。朝方に全裸男が帰ってきたことで、姉弟はおとなしくなったから安心したものの、冷や汗のせいで風邪をひきそうだ。
 疲れた身体を起こすと、全裸男が庭で凄い速度で腕立てふせをしていた。

「ふははっ。上条どの。昨日はよく眠れましたかな」
「ええっと。……まあ一応は」

 本音は違うが、男の爽やかな笑顔につられて思わず愛想を返す。全裸男は運動をした後だからか、額にうっすらと汗が浮かんでいた。見た目とは反対に、随分まともそうな印象を受ける。

「おおっと、名乗りを忘れておったな。錬金大系魔導師スピッツ・モードだ。《大気泳者(エアダイバー)》とも呼ばれておる」
「なんで全裸なんですか」
「それは、戦士だからだ」
「…………」

 当然のように即答されるが、理由にまったくつながらない。
 そんな上条の後ろで、あの姉弟が歌うようにくちずさんだ。

「全裸と言えば錬金大系」
「錬金大系と言えば全裸」

 どうやら錬金大系という魔法は全裸とは切っても切れない関係にあり、魔法使いの間での常識らしい。

「こちらの姉弟は相似大系魔導師のネリム・エンドとクラム・エンド。我らは《魔獣使い》どのに管理されている刻印魔導師だ」

 昨晩は上条が名乗っただけだったので、改めて紹介される。昨日会った魔法使いは円環大系と聖痕大系だと言っていた。上条にはわからないが魔法使いにも色々あるのだろう。

「そういえば昨日聞きそびれたんだけど、刻印魔導師ってのはなに?」
「ふむ。上条どのは何も知らないのであったな。刻印魔導師とは、もといた世界で極刑を言い渡され《地獄》へ堕ちた罪人のことだ。その罪はこの《地獄》で《協会》に敵対する魔導師を百人討伐することで償われる」
「罪人? あんたも。……この人らも?」

 明らかに怪しい雰囲気のエンド姉弟はまだしも、昨日会った小さな少女やスピッツはとても極刑を言い渡された悪党には見えない。

「そうだ。拙者は故郷の錬金世界で政争に敗れた末に地獄に堕ちることになったのだ。エンド姉弟は確か子供と女性ばかり25人を惨殺した罪であったな」
「そうだね。ふふふ」
「そうだよ。ははは」
「へー。そうなんですか。変態だけでなく悪党もデフォルトですか」

 平然と説明するスピッツに笑顔で肯定するエンド姉弟に上条は苦笑いするしかない。住む世界が違いすぎるというのが率直な感想だった。というか、そんな凶悪犯と一夜を明かして無事だったのは運がいいのか悪いのかよくわからない。

「上条どの。大体の事情は聞いておるが、言葉づかいを少し改めたほうがよいのではないだろうか」
「へ、なんで」

 短いやり取りの中でいったい何が悪かったのか、カタカナ語をはじめとした英語を普段の会話に日常的に用いる典型的な日本人である上条にはピンとこない。

 上条はまだ和製英語も含めた英語が魔法使いの間でどういった意味を持つかは知らない。

「変態!仲間!」
「仲間!変態!」

 エンド姉弟がクスクスと囃したてる。律義な性格のスピッツが、言いにくそうに説明する。

「英語は《協会》の魔法使いの間では最低の卑語なのだ。ちなみに先ほどの言葉の意味は……」

 スピッツが躊躇いながらも、小声で上条の言った『デフォルト』の意味を耳元にそっと囁く。
 妙な熱さが身体中を駆け抜け、上条は思い切り叫んでいた。

「なっ、なあぁああ!!違う違う全然そういう意味じゃないから。俺はノー……、いや普通だから!!変態じゃないから!!そんな同類を見る目で俺をみないでええぇ!!」

 汗が全身から吹きだす。涙も出そうだ。この恥ずかしさも一緒に流れてくれないかと思ったがそうはいかない。いっそこのまま脱水症状で死んでしまいたいとさえ思った。
 スピッツは軽く咳払いをすると、取り乱す上条の肩にたくましい腕を乗せた。

「上条どの。誰にも譲れないものを持っていてこそ、魔法使いですぞ」
「あれ、もしかして俺いま全裸に同情されてる」

 一生立ち直れない傷になりそうだった。不幸だ。いや、地獄だ。

「本来、刻印魔導師は公館の官舎に押し込まれるものなのだが……」

 スピッツが優しい眼差しで話を急に変えた。その気遣いが余計にきつい。

「上条どのは少々特殊な存在であるため、《魔獣使い》どのの邸宅に預けられることに決まったのだ。そこで、刻印魔導師の中で比較的まともとされる我々が上条どのの保護と世話も兼ねてここに派遣されることになったのだ。上条どのには今日からしばらく行動を共にしてもらう」

 比較的まともで全裸と殺人鬼とか、刻印魔導師ってどんなだよ。それに同情される俺ってどんなだよと心の中で悶絶する。
 だけど状況を知らないで今日のような地獄を見るのはごめんだ。だから、気持ちを強引に切り替える。

「んで、俺は具体的にどうすればいいの」
「《魔獣使い》どのには上条どのと一緒に責務を果たすように言われておる。しかし、問題があるのだ」

 スピッツの真剣な表情に上条も身を強張らせる。命の危険も怖いが精神へのダメージももっと怖い。全裸で怖いものなどなさそうなスピッツのいう問題とは、どんなものなのだろう。

「拙者は下手に昼間に外に出てしまうと《悪鬼》に通報されてしまうのだ」

 全裸で魔法使いでも、警察はやっぱり駄目みたいだった。

「服を着れば大丈夫なんじゃないかと」
「馬鹿者! 服など子供の着るものだ!!」

 真顔で断言されて、一瞬上条もその通りだと錯覚した。そして無意識にシャツの裾を握って脱ごうとしてしまったことを、まだ混乱中だということにして無かったことにする。

「我々魔法使いはこの世界の風習と合わずに変態扱いされ、果ては警察の厄介になることもしばしばだ。ただ、魔法使いらしくあろうとしているだけであるのに」

 スピッツの悔しさが、上条にもわかる気がした。今まさに、異世界との風習の違いの辛さを思い切り味わったからだ。

「故に出歩きたいのなら夜間にしてもらいたい」
「じゃあ、昼間はずっとここにいて欲しいってこと」
「さようだ。しかし、それでは上条どのも退屈であろう。そこでだ、上条どのは魔法に関しての記憶を一切失ったと聞く」

 本当はなにも知らないのだが、魔法使いなのに魔法を知らないという理屈は、記憶を失ったことにしておけば説明がつく。上条の特殊性をわずかながら軽減する効果はあるし、こういった情報を流しておけば、上条に関わりのある人物がいたとき敵であれ味方であれ、何かしらのアクションが起こるだろうという京香の処置だった。

「ここはひとつ、私たちが、魔法使いとはなんであるか、魔法使いにとってこの地獄とはなんであるのかを講義しよう」

 嫌な予感がしながらも、ここでは常識が通用しないのは明らかだった。なら、この申し出は渡りに船のはずだった。



 錬金大系魔導師、スピッツ・モードを講師とした、魔法の授業が始まった。スピッツが“先生”になり、上条は“生徒”になった。
 
 スピッツに魔法使いの常識や心構えを習った。内容はどうあれ、スピッツは真剣だった。これ以上、精神的に追い詰められたくないという思いが、上条を真剣にさせた。普段勉強が苦手で成績も下から数えた方が早い上条だが、魔法という、馴染みの科学から離れた分野に好奇心も手伝ってどんどん知識を吸収した。

「もし魔法使いと戦うことになったら、まず服を脱ぐといい。ケンカになれば全裸のほうが強いからな」
「はあ。なるほど」
「錬金大系だけよね」
「錬金大系だけだよね」

 ただ、決定的な間違いを誰も気づけていないことが、問題だった。



 昼間のうちに仮眠をとって、夜には空を飛んだ。

「ふはっふはははは。上条どの空はいかがかな」

 スピッツは“もの”と“もの”との境界に魔力を見出す錬気大系の魔法使いだ。当然、自分の体表面とそこに触れている空気の《境界》にも魔力はある。スピッツは空気の中を水の中にいるように自在に泳ぐことができるのだ。
 《大気泳者》に左手を引かれて、人気のない山間を低い高度で飛ぶ。初めはスピッツが上条の右手を持って飛ぼうとしたのだが、幻想殺しのせいかやはり墜落した。
 そのことにスピッツから『上条どのが服を着ているからだ。さあ脱げ』と迫られたが、人として大事なものを無くしそうで、さすがに拒否した。

「なあ、魔法消去ってやつは大丈夫なのか!」

 襲ってくるか風に目を細めながら、上条は疑問を叫んだ。この世界の一般人は《魔法消去》を持っていると聞いた。人気のないところを飛んでいるとはいえ、観測される可能性はゼロじゃない。

「ふははっはは。悪鬼が怖くて空は飛べませんぞ。ふははっふははははは」

 全ての魔法が燃え尽きるこの《地獄》であっても魔法使いは魔法使いらしくあることにこだわる。生まれたときから魔法が当たり前の世界で育った彼らにとって、魔法や奇跡の奮い手あることの自負は捨てられない。
 スピッツは隠すことのないその身一つで世界と相対する。全てをさらして、空を飛ぶその姿は上条の目にも清々しく映った。

「悪くないかもな。こういうのも」

 この地獄に堕ちて、上条は初めて自然に笑えていた。この《地獄》でなんとかやっていけそうな気がした。



 上条は基本的に神和邸でも指定された場所しか出入りは許されていない。幻想殺しで、魔法で姿を保っている神和家の人達を消してしまうおそれがあるからだ。だから、上条の周りにいるのはスピッツとエンド姉弟だけということになる。
 神和邸の隔離された上条達の部屋に瑞希が訪れたのは翌朝だった。
 瑞希は、どこかの高校の制服を着ていた。上条がこの地獄に堕ちた時には学園都市は7月19日と夏休みに入ったところだったからあまり気にしていなかったが、地獄ではまだ6月で、今日は月曜日で平日だった。

 ふと、学園都市にいたら今頃どうなっていたのかを想像する。たぶん補習だな。そんでもって、ベランダが何だか危ない気がする。ビリビリのせいで、またなんかひどい目に合う。たぶん平穏無事な夏休みではなくなると思うな。

「あれ、不幸な自分しか想像できないぞ」

 じゃあ、楽しかった過去を振り返ろう。とりあえずどんな学園都市の生活だったのかを思い出そうとして、失敗した。ここ数日の出来ごとのインパクトが強すぎて、うまく思い出せない。

「お前、……馴染んでる」

 上条はハッとして振り返った。部屋の隅ではエンド姉弟が不気味に微笑んでは手を握り合っている。そのすぐ近くで、スピッツが全裸で筋トレに勤しんでいる。

 こいつらと、馴染んでいるだって。

「……ないない。……俺は変態じゃない、俺は変態じゃないよな。俺はもっとまともで普通なはずだよな。“普通”だ“普通”なんだ」

 昨日のトラウマがよみがえる。自分に言い聞かせるように、“普通”という言葉を唱え、“普通”とはいったいどんなものだったのかを思い出そうとする。

 ええと確か、ケンカは全裸の方が強くて、服は子供の着るもの。俺はまだ高校生で未成年、つまり子供で服を着ているは普通だ。

 よし、問題ない。

「もう、……手遅れ」

 上条は完全に“普通”を見失っていた。

「《魔獣使い》どのは、これから新しい仕事ですかな」

 瑞希はこれから、ある高校に仕事で編入する。そこには再演魔導師倉本きずなが通っており、彼女を監視、護衛するためだ。

「うん、そう。これの面倒、よく見といて」
「これって。上条ですけど、上条当麻って名前なんですけど」
「めんどい。我慢しろ」

 上条はなんとなく『これ』扱いに納得できない。学園都市にも、無能力者を人間扱いしない、研究者や能力者はたくさんいた。だが、同じくらい大切にしてくれる人達もいた。落ちこぼれの集まる上条の高校の担任の小さな先生や、そこの友人たちを今度は正確に思い出せた。ここでこの扱いを認めてしまうのは、なんだかその人たちまでも否定してしまうようで嫌なのだ。
 瑞希はついっとそっぽを向いて、部屋から出ようとする。それをスピッツが呼び止めた。

「《魔獣使い》どのは、上条どのをどう呼んだものか何も考えていないのでありましょう」

 スピッツの指摘は瑞希の図星だった。従来の十二神将に当てはめた呼び名では、上条は分類できない。式神として扱うにしても、呼び名をわざわざ考えるのが瑞希は面倒だったのだ。

「だったら、普通に名前で呼んでくれればいいんじゃねえのか」
「それでは、我々刻印魔導師に示しがつかないのだ。《魔獣使い》どのは我々を式神として、敵を倒す道具として使役する。道具に名前など付けて、特別扱いは出来ないということでしょうな」
 
 神和家にとって、刻印魔導師は使い捨ての道具だ。同じ人間を使っていることを理解しつつも、そこに感情は宿らない。《魔獣使い》はある者との古い契約を果たすために存在するからだ。

「なんだよ、それ。あんたにとっちゃ、俺も、スピッツもただの道具ってことかよ。おかしいじゃねえか、同じ人間なんだろう。立場の違いっていうのはあるかもしれねえけど、それが道具扱いしていい理由にはならないんじゃないのか」

 上条はこの地獄に来たばかりだから、当たり前の倫理が言える。いくら奇跡をふるう力があったとしても、風習の違いに戸惑い苦しみながら、それでも自分のありかたを貫こうとしている魔法使いは、自分たちと変わらない人間なのだと思える。
 でも結局、上条は《偽善使い》なのだ。どんなに綺麗事を並べても、最後は自分が納得いかないから、喰い下がっている。無理矢理実力行使するほどの力も、この地獄に放り出されて生きる覚悟もないから、綺麗な言葉で相手が揺らいでくれることを期待するせこい悪党だ。

「式神と、私たちは、対等じゃない。……伐折羅も、余計なこと、言うな」

 上条はこの地獄に来たばかりだから、知らない。魔法使いが、《悪鬼》に日陰に追いやられて千年以上の間で、その確執は深くなり、彼らは悪鬼を人間扱いしない。そんな異世界人に対抗するために、公館が使い潰してきた刻印魔導師たちの数も、公館以前から魔法使いを狩ってきた神和家の血の歴史の暗さを、まだ垣間見てはいない。

「対等じゃないって、訳わかんねえよ」
「お前も、そのうち、わかる。お前の右手、魔法じゃなくても、力がある。力のふるい手は、その宿縁から、逃げられない」

 《魔力》型の魔法使いは、世界秩序の乱れを鋭敏に感知せずにはいられない。《索引》型の魔法使いにとって生きるとは、まるだしになった世界の索引と直面することだ。

 それでは、幻想殺しをその右手に宿した少年は、その身を何と相対することになるのだろうか。

 日ごろの『不幸』など序の口で、《地獄》での生活もまだ序章にすぎない。



[26217] ‐5‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:ce3a0058
Date: 2013/04/23 22:19
「い、いや、いやあああっ!」
 
 倉本きずなは新米魔法使いだ。だから、ついこの間に魔法に目覚めたばかりの彼女は、視界いっぱいに炎が広がるこの世界のことを、《地獄》の本当の恐怖を今まで知らなかった。
 きずなは教室で椅子から落ちそうになったクラスメイトを助けようとして、魔法を使った。
 
 ここは全ての奇跡が燃え尽きる《地獄》、魔法を焼きつくす《魔炎》は奇跡のふるい手である魔法使いを問答無用で奈落に突き落とす。
 
 まるで世界が裏返ったかのように、見慣れていたはずの教室が灼熱の牢獄に様変わりする。クラスメイトは全身に火の粉を纏った怪物に変容し、口からも炎の息吹を吹き上げる。
 涙を流すきずなに炎の怪物たちが近寄ってくる。心配して駆けよってきた友達が、きずなに触れようとしてくる。いまだに炎を上げ燃え続けるその手を、近寄ってくる友達だったクラスメイトたちを、きずなは必死に魔法で押しのけようとしていた。

「もうやめて! わたしは、あなたたちと……」

 のどが勝手に吐き出す叫びを止めることもできず、きずなは腕を振り回す。仕草が《索引》となって発動する再演大系の魔法を解き放つほど、全てが焼きつくされ、劫火の津波が彼女に押し寄せてくる。
 
 この人たちは心配しているような顔で、親切にも手助けしてくれているような顔で、必死の努力でつむごうとしている奇跡を片っ端から消去してゆくのだ。
 
 滅びゆく魔法の断末魔が炎になって全身にからみつく。まるで悪魔のはびこる《地獄》だ。

「だいじょうぶ。……こわがらない、私を、見て」

 きずなの視界で激しく燃え盛り波打つ火の海を、たったひとりかきわけて人間がやってきた。
 今週の月曜日にクラスに来たばかりの転校生、神和瑞希だった。炎の中でも涼やかな無表情をくずさない転校生が燃えていないのを、整った鼻筋や赤みの強い唇、頬のやわらかさを何度も指でなぞって確かめる。

「だいじょうぶ。……私、燃えないから」

 訥々としゃべる声に胸をたたかれ、きずなは赤ん坊のように泣きじゃくり、瑞希の胸にすがりついた。
 
 きずなは、この世界で魔法を使うことへ初めて恐怖を抱いた。
 しかし、この世界が《地獄》と呼ばれる一端に触れながらも、このときはまだ、きずなは平凡な日常に帰れるのだと思っていた。

 
 
 上条が神和邸に来てから数日が立って、上条は外に出ることも許されていた。時刻は夕方で、夜になったらスピッツと合流する手はずになっている。
 公館の仕事を手伝うと言っても、上条は右手の他には何の能力もない普通の男子高校生だ。だが、この“普通”ということは殺すことしか能のない刻印魔導師と比べても有利な点で、日常的に人手不足の公館では貴重な働き手となる。上条は完全に公館から信頼されているわけではないが、特殊性はあっても危険性は無いと判断されていた。
 上条に知らされている情報は専任係官ほど多くは無い。今のところ上条がやっているのは、公館周辺地域で見るからに怪しい人間を発見したら通報するというもの。魔法使いは悪鬼を避けて人目の少ない場所にいる。上条のやっていることはつまり、通常の不審者に対する警邏活動と変わりは無い。

「なんだかな。こんなんでいいのかな」

 上条はイマイチ釈然としない。先日瑞希に言われたこともだが、現在進行形で自分を取り巻く問題に対して具体的な解決策がないことがもどかしい。誰かの思惑とか、ケンカや事件に巻き込まれるなどのトラブルではなく、偶然に異世界に迷い込んだという原因のわからないアクシデントは、ゴールが見えず、どう行動していいかわからない閉塞感がある。

「まあ、それでもどうにかしていくしかねぇんだけどよ」

 電柱の陰を見ればお伽噺に出てきそうな妖精が佇んでいて、人が通るとそれは一瞬で燃え上がり消えてしまう。公館のある森の丘からはよく巨大な火柱が上がるが、周りの人たちは気づく様子が無い。公館の敷地内にいる、《協会》の魔法使いが、なにやら魔法の実験を行ったのだろう。故郷と違い、自然秩序が完全に安定したこの世界は、魔法使いにとっては最高の実験場なのだ。
 不思議と上条はこの《魔炎》を怖いとは思わなかった。魔法と言う異世界の法則を引き剥がす炎ということだが、幻想殺しには反応しない。それはつまり幻想殺しは魔法ではないということか、それとも幻想殺しが魔炎の干渉を無効化しているのかどうか、よくわからない。

「うん?」

 ふと、視界の端で気になるものが見えた。
 通りから一本入った住宅街へと続く道には、ぽつぽつと人影が通る。けれど、立ち止まる人間というのは珍しい。
 どこかの高校の制服に、スーパーの買い物袋をさげた女の子だ。栗色の髪に濃紺の瞳を恐怖に歪めて、《魔炎》の上がった公館の方角を見つめている。
 上条はポケットの携帯を取り出し、公館に通報しようとして、やめた。状況からみれば魔法使いだという気がするが、確信は無い。魔法が使えればそれを消去させることで《悪鬼》かどうか区別できるが、生憎と上条は魔法なんて奇跡とは縁がない。

「あの、どうかしました?」
「あ、いえ、なんでもありません。その大丈夫です。……大丈夫」

 女の子は胸の前で手を振り、何でもないと取り繕おうとするが、上条を見る瞳から恐怖の色は消えない。
 その恐怖は急に見知らぬ男の子に声を掛けられて身構えたものなのか、それとも魔法使いが《悪鬼》に対して抱くものなのだろうか。
 こういう判断はそれこそ公館にまかせるべきなのだろうが、上条は目の前で脅える女の子をほうっておくことなんて出来なかった。

「もしかして、あんたも《魔炎》ってやつが見えてんのか」
「え、なんで。いま、なんて……」

 彼女の反応で上条の推測は確信に変わった。
 《悪鬼》なら言葉の意味がわからずキョトンとする。しかし、魔法使いなら《魔炎》という言葉自体に心当たりがなくとも、魔法が燃える光景を知っていればそれを連想する。
 彼女は魔法使いだ。でも、今までみた公館の連中より、魔法使いらしくない感じがした。安心させようと、上条は精一杯の笑顔を作る。相手がだれであろうと、困っている奴がいたら助ける。独善的でも、それが上条当麻の道理だ。

「俺も、よくわからないけど、この世界の基準じゃ《魔法使い》って扱いみたいだからさ」


 
「魔法使いって、たくさんいるんですね。ほんと色々なことがあるな」

 立ち話もなんだからと上条達は、近くある公園に移動した。小さなすべり台と砂場に、ベンチがあるだけの公園に他の人影は無い。夕暮れで、お腹をすかした子供たちはもう家に帰ったのだろう。
 都会にあって、人の姿が途切れる空白の時間帯だった。

「今まで他の魔法使いにはあまり、会ったこと無かったのか」
「私が魔法を使えるようになったのは、最近のことだから」

 魔法使いは異世界人だと説明を受けて、実際出会った魔法使いはひと癖どころか、癖しかなかった。だが、目の前の女の子からはそういった雰囲気はない。制服姿で、買い物袋を下げた様子が醸し出す雰囲気はどこか優しい。

「あなたは、怖くないんですか。あの……その《魔炎》っていうんでしたっけ」
「いや、別に。最初は不思議だなって思ったけど」

 学園都市で超能力や進んだ科学技術に触れてきたからか、熱を持っている訳でもないその炎を最初は良く出来た立体映像の類のものかと思っていた。
 それがどういうものか説明を受けても、《魔炎》が直接上条に何をするでもないから、特に怖いとは思わない。《魔炎》は《魔法》の天敵だが、上条は魔法使いではないのだ。
 魔法を使えるようになったばかりの新米魔女の彼女とは、見ているものは同じでも感じているものが違う。

「私は魔法が使えるようになって、初めてお父さんに魔法を見せて、褒めてもらって嬉しかった。まるで夢みたいに魔法があって、私の生活がこれから少しずつ楽しくなっていくのかなってワクワクしてた。誰かをほんの少ししあわせにするような、そんな小さな奇跡を起こしていけるのかなって思ってた。でも、普通の人は何も知らない顔で魔法を燃やして、そんな思いだって平気で踏みつけちゃうんだ」

 魔法の断末魔で満たされる地獄の光景を思い出したのか、顔を俯かせる。彼女は、魔法を使えるようになって、世界は完全で欠け落ちたものなど何もないのだと思っていた。ここは何だって出来る自由な雲の上だと、知っていた。
 だがここは地獄で、彼女を自由にしてくれるはずの奇跡は、なす術もなく燃え尽きる。

「魔法を使うのが、怖いのか」
「怖いですよ。でも、魔法を失うことのほうがもっと怖い」

 魔法に目覚めて、今まで見えなかった世界がどこまでも広がっていることを知ってしまったのに、それを無かったことになんて出来ない。
 大空を飛ぶことを覚えた鳥は、飛ばすに地べた這いずりまわることになんて耐えられない。だけど、空へと届く翼を燃やされてしまったら、いったいどう生きればいいのだろう。

「俺は魔法が見えても、使えるわけじゃない。この右手は異能を壊すことしかできないし、魔法使いの気持ちなんてまだ全然わからない。けどよ、魔法じゃ届かなくても、他の方法なら届くだろ。魔法なんか無くても、誰かが幸せになって欲しいって気持ちが消えちまうわけじゃねえだろ。なら魔法なんかに頼らなくてもいいんじゃないか」

 上条は、魔法のような特別な力を持たない。奇跡にはまったく縁の無い不幸体質で、ケンカも少年漫画の主人公のように無敵でもなければ、頭脳も飛びぬけて優秀なわけじゃない。魔法のような力を持っていたとしても、それが全てではないのだと思う。
 もし目の前に困っている人がいて、その人を助けようとした時、たいてい幻想殺しはやっぱり役立たずだ。
 だが、それで終わりって訳じゃない。だったら、他の手を考えればいい。迷子を見かけたら保護者を一緒に探すし、友達や知り合いがピンチだって言うなら駆けつける。
 あれが駄目だったから、全部駄目だなんてあきらめないで、助けたいって気持ちを持ち続けていられるのなら、その思いは無駄にはならない。
 全てが同じように語れないのはわかっている。こんなのは偽善で、そうであって欲しいと思っているだけなのだ。だが、嘘みたいな言葉でも今は、彼女の励みになってくれるのなら、どんな言葉でも使うし、どんなことでも躊躇わない。
《偽善使い》は言葉を吐くだけで、誰かが救われればいいなんて淡い期待を抱く。それがただ一つ出来ることだからだ。

「うん、そうかもしれない。でも、私は魔法使いだから、逃げられないって」
「逃げられないって、何から」
「魔法から、私は再演大系の魔法使いだから」

 彼女の言葉に上条は何故だが背筋が冷えるのを感じた。
 今の《魔法》という言葉は、さっきまで魔法を夢みたいと語っていたときとはまるで別人が発したかのように聞こえたからだ。
 まるで、何千年と生きた呪われた怪物の、心の底から引きずりだした呪詛のように生々しく、どこまでも重い叫び。
 
 力のふるい手は、その宿縁から逃げられない。
 
 再演大系という魔法がどういうものなのか、上条は知らない。だが、その得体の知れない重圧に、息がつまりそうになる。でも、それに屈するのはまっぴらごめんだった。
 だから、《偽善使い》は精一杯に言葉を紡ぐ。

「例えそうだとしても、そこで何を選ぶかは自由だろ。誰を思うのかとか、何を大事にするかってのはさ、そんなことで簡単に決まるもんじゃねえよ」

 上条当麻は不幸な人間だ。それが右手に宿した幻想殺しについて回る宿縁というやつなら、確かに逃げられそうな様子はない。それでも上条はその不幸とやらを受け入れられている。縛られるものはあっても、それを背負っていくことを自分の意思で決めていける。

「そうかな。そうだといいな。私がどうしたいかは魔法で決められたわけじゃないものね」

 彼女は瞳を閉じて、つぶやく。自分に伝えるように、励ますように。上条は、一瞬だけ彼女がぶれて見えたように錯覚した。小さい彼女、大きな彼女、雰囲気の異なるたくさんの彼女が重なっているように見えた気がしたのだ。

「ああ!! 忘れてた」
「何、どうしたんだ」

 思わず見入ってしまっていた意識が、唐突に断たれる。

「晩御飯、はやく帰って作らないと、お父さん帰ってきちゃう」

 公園の入り口のほうまで走ったところで彼女は振り返った。夕焼けに照らされたその顔からは、強ばりが抜けていて、なんだかこちらまでほっとする気分になる。

「あの。ありがとうございました」

 律義にお辞儀をしていた彼女の背後に、あらたな人影が現れていた。

「上条どの。こんなところにおったのか」

 上条からはその正体がはっきりと見える。ダンディズム全開のカイゼル髭、一切隠すことのない見事な裸身。夕日を背負った全裸は、とびきり突き抜けた非日常の存在そのものだった。
 彼女がゆっくりと後ろを振り返る。全裸を確認後、高速で顔がもとに戻った。一瞬上条と目が合うが、気まずそうに逸らされた。顔は当然のように真っ赤で、口がパクパクと動いて発するべき言葉を探している。

「あ、ああ、えっと。別に私は何も見てませんから。全裸とか、全裸とか、変態とか見てませんから」
「わあああ、しっかり見ちゃったじゃん。っていうか、違う、違う。俺はこいつとはなんの関係ないから」

 さっきから変な汗が止まらない。スピッツがなんとか合わせてくれれば助かる。だが、魔法使いは、そんなに気を回してくれはしない。
 スピッツは爽やかすぎる笑顔で、言い切った。

「何を言っておる。上条どのと拙者とは、共に幾晩の夜を明かした中ではないか」
「だあああああ! そんな誤解しかまねかないこと言ってええぇ!」

 あながち間違いじゃないから、余計に性質が悪い。否定しきれないところが、彼女をさらに引かせてしまっている。

「その。えっと。ごめんなさい。さようなら」

 彼女は、スピッツの脇を全力で駆けていく。壮絶な誤解をされたまま、上条は茫然と立ち尽くす。

「はあ。なんというか不幸だ」
「どうした上条どの。元気が無いぞ」

 彼女とは、なんとなくいい感じで話せていた。変態ばかりで疲弊した心には、彼女の普通で優しい雰囲気がおおいに助かる。だか、この壊滅的なインパクトを持つスピッツの登場に、もしかしたら親しくなれるかもというほのかな期待をずたずたに打ち砕かれた。

「別になんでもないですよ。別に……、そう簡単にフラグは立たないってわけですか」

 未だヒロイン不在の異世界ファンタジーな物語に落胆する上条を、スピッツは訝しげな顔で覗きこむ。

「上条どのは、彼女の正体を知っていて接していたのか。親しげに会話しておいでだったが」
「いや、知らなかったけど、魔法使いだろ。その口ぶりだともしかして見てたのか」
「何を隠そう拙者は、学校帰りの彼女をずっと監視していたからな」

 スピッツは、見た目が物語るように、隠すものもやましさも無いから、全てを晒しても堂々としていられる。

 だが傍から見れば、もはや犯罪の匂いしかしない。

「監視って、お前、その格好でそんなことしたらマジ洒落になんねぇぞ。全裸と言う名の紳士って言い張っても無駄なんだぞ」
「違う! 拙者は紳士ではなく、戦士だ! そこのところ間違えてもらっては困る!」
「そこかよ! 引っかかるとこそこかよ!」

 魔法使いのこだわりは、どこかおかしい。悪鬼よりの常識を持つ上条とは、価値観がかなり違っている。だが魔法使いにとって、それは曲げることのできない己の生き方そのものだ。しかも、価値観の衝突が即殺し合いに発展する。だから、悪鬼と魔法使いに限らず、魔法使い同士の衝突も、いたるところで発生することになるのだ。
 そんな中でも、スピッツは奇跡的に順応しているほうだった。

「拙者も警察の世話になることは経験上まずいことは承知している。だから、先ほどまでは恥をしのんで服を着てたのだ」

 錬金大系魔導師にとって、服は魔法の扱いの未熟な子供や病人、衰えた老人が着るものだ。大人の彼が着ることを、この世界の恥に照らし合わせるならオムツを穿くことに等しい。
 スピッツから言わせれば最大限の譲歩だったのに、悲しいことに悪鬼や上条にはあまり理解されない。

「じゃあ、なんで今全裸なんだよ」
「錬金大系の魔導師は、“もの”と“もの”との境界に魔力を見出す。消去環境でなければ衣服を液状化して瞬間的に脱衣することが可能なのだ」
「いらんからそんな魔法。服を着てくれていたら問題無いのに」
「おおいに問題ありだ上条どの。戦士として、いつまでも恥を晒しては故郷の義姉上をはじめ、帰りを待つ一族に顔が立たん」

 遠くの故郷の錬金世界を思ったのか、スピッツは目を細めて立派なひげをなでる。刻印魔導師は極刑に等しい刑罰で、百人討伐を成し遂げた者は未だ存在していない。スピッツはその困難な道に投げやりにならず、あえて恥をさらしてでも挑み続ける。いつか故郷の土を踏むことをあきらめていない。
 スピッツの全裸の覚悟宣言に、上条は気圧されていた。

「そうなんか……。んで、何で彼女を尾行なんてしてたんだ。魔法使いだからか」
「うむ。彼女はただの魔法使いではない。彼女は再演大系の魔法使いだ」
「再演大系ってなんだ。それが、そんなに特別なことなのか」

 再演大系。彼女がそれを言葉にした時の冷たさは今も完全に消えていない。

「拙者も詳しいことは知らないが、再演大系は60年前、使い手が滅んだはずの幻の魔法大系だ。《協会》が最高の魔法大系の一つに数える強力な奇跡の担い手でもある」
「強力って、そんな雰囲気は全然しなかったぞ。こういっちゃなんだか他の魔法使いと比べて随分普通な感じがした」

 実のところ、魔法使いはみんな変態だと思っていた。初めて出会った魔法使いが弩級の被虐趣味、可憐な少女かと思ったら嗜好がサディスティック、そしてとどめに全裸である。文化の違いは凄まじく、異なった世界の住人だということ否応なしに感じさせる。
 その点、彼女は普通なのだ。魔法使いらしい厳しさというものが無い。価値観としてはこの世界本来の住人に近いものを持っている。

「彼女、倉本きずなはここ1カ月で魔法に目覚めたばかりなのだ。だからこそ、公館の監視の対象になっている。その監視は《魔獣使い》どのの仕事だ。そして《魔獣使い》どのが傍にいられないとき、代わりに尾行するのが拙者の責務だ」

 思えば、彼女と瑞希は同じ高校の制服を着ていた気がする。
 上条は立場的に瑞希の下に就いていることになっているが、そんなこと全く知らされていなかった。瑞希はたまに様子を見に来るだけで、基本的に放置されていたのだ。

「拙者とて全てを知らされているわけではない。刻印魔導師に与えられる情報は制限されているからな。専任係官から命令をうける以外にあまり勝手な行動をする訳にもいかんのだ」

 この《地獄》に来て数日が経って、色々なズレを感じるようになった。
 魔法使いがこの世界の住民を悪鬼と蔑み人間扱いしないこと、本来この世界の住民を守るはずの公館がやっていることのきな臭さ。それらの思想と現状が、あまりにもちぐはぐで、乖離している気がする。
 それが、上条を落ち着かない気持ちにさせる。

「《魔獣使い》どのもいっておられたろう。《刻印魔導師》と《専任係官》は対等ではありえない。同様に《公館》と《協会》も、《魔法使い》と《悪鬼》もまた決して友好的な間柄ではないのだ」
「またそれか。もしかして、思った以上に俺って不幸なんかな」

 状況が思ったよりシビアなのを、改めて実感する。いたるところにある溝はどこまでも深く、下手を打てば地獄の底にあっという間に引き摺り落とされる。

「上条どの、ここは魔法使いにとっての地獄。奇跡も燃え尽き、神もいない悪鬼蠢く釜の底だ。そんな甘い心構えでは、早晩命を落とすことになるぞ」
「そんな、大げさな」

 命のやり取りなんて、この世界の住人の多数や、上条には全く縁が無く、どこか違った世界のお話である。想像できないのも無理が無い。
 だが、もう日が沈む。悪鬼が眠り、人が消え魑魅魍魎が蠢く夜、魔法使いの時間がこれから始まるのだ。
 



[26217] ‐6‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:ce3a0058
Date: 2013/05/04 00:16
「従者ラグランツの血を名付けて《火花》と定義、保持済み概念《緋牡丹》と加算。……弾けぃ!」
 
 人間の身体が内部から弾け、血が花火のように飛び散るのも、それが爆発する光景も、上条は初めて目の当たりにした。
 胃が締め付けられるように痛み、強烈な吐き気が湧きあがってくるのを必死に押さえこむ。もし気がつかれたら、あの魔女の人を人とも思わない残忍な目が、こちらに向けられることになるのだ。
 奥多摩の山中で《染血公主》ジェルヴェーヌと従者ラグランツを、上空を飛んでいたスピッツが捕捉、上条が公館に連絡、瑞希と合流して状況は今に至る。
 
 ジェルヴェーヌは聖騎士と交戦状態にあった。幸いなことに、こちらの存在は気づかれていない。
 
 体重九十キロのラグランツの血液七リットル全てを爆薬にした爆発は、大地を波打たせ、あらゆる物を噛み砕き、もうもうたる白煙と土煙を巻き上げた。
 奥多摩の山間を揺るがした爆発は、悪鬼に観測されて人が集まればうやむやになるはずだった。
 だが、魔炎は上がらない。
 斜面の杉を根こそぎなぎ倒すはずの爆発を、一人の騎士が抑え込んだからだ。
 
 彼女の名を、エレオノール・ナガンと言う。

「よくも……」

 やさしい乙女の表情に戻ってエレオノールは失われた生命にではなく裏切られた信義のために、涙もなく哮る。

「……よくも、仲間をそのように扱えたものですね!」

 輝く剣を大地に突き立てたエレオノールを頂点にした三角形の範囲は無傷だ。背後の部下を守るために、彼女はあえて爆心地に自ら踏み込んだのだ。
 勇敢な仲間想いの優しい乙女の顔面は蒼白になっている。《染血公主》の魔法で変成された火薬であるニトログリセリンは、強い血管拡張作用を持ち、それを皮膚や粘膜から大量に吸収されたせいで、激しい血圧低下におそわれているのだ。

「これは夢なんかじゃない。本当に殺し合いをやってるんだよな」

 動悸が激しくなるのを、深く呼吸することで落ち着かせようとする。目の前で実際に人が一人吹っ飛んだのだ。死体は肉片ひとつ残っていない。しかし、辺りに漂う焦げた土の匂いと肉の焼けた異臭は、これが現実なのだと否応にも実感させられる。

「はやく殺したいね」
「はやく殺したいよね」

 上条たちは木々の合間で息を潜めてその様子をうかがっていた。人の命を奪う行為を簡単に歌うエンド姉弟の輪唱が、上条の青い心を刺激する。

「お前らなあ!……痛っ!」

 思わず声を荒げそうになったが、瑞希が投げた携帯電話が上条の額を打ち、落下しそうになるのを反射的に拾い上げる。
 勢いが殺がれ、文句の一つも言おうとするが、瑞希の氷のような目がそれを許してくれない。
 訥々としたしゃべり方で、極めて端的に、瑞希は殺し合いを催促する式神達に号令を発した。

「これから、割り込む。私が行ったら、後は好きにしていい」

 巫女装束をまとった瑞希の足取りは体重を感じさせないように音が無く軽い。
 エンド姉弟が、クスクスと笑い手元で戦輪を弄ぶ。シャリン、シャリンと金属の擦りあわされる涼やかな音が、妖怪たちの百鬼夜行を囃したてるようだ。

「なあ、俺はどうしたらいい」

 路地裏のケンカの経験は何度もあるし、持ち前の不幸な体質のせいで年中トラブルに巻き込まれ通しだった。そのおかげで、少しは度胸も据わってるつもりだった。
 だが、震えの止まらない足が、泣きそうになる自分の心が、こんなに情けなく頼りないものなのだとは思わなかった。無力感と悔しさが、ひしひしと身体を締め上げて、動けなくなる。

「お前には、はじめから何も期待してない。ここで……じっとしてろ」

 瑞希は上条を振り返ることなく、その弱さを見透かすようにただ淡々と、告げるだけだった。
 だがそんなことを言われて、簡単に引き下がれるほど、上条は臆病者になれなかった。
 ここは魔法使いにとっての地獄で、上条にとっては異なったシナリオを強要させる異世界だ。だが、これが幻想殺しが引き寄せる宿縁というやつでも、そこで何を選び、どう行動するかは自由なのだ。

「あんなん見て、じっとしてられるか。あの《染血公主》って奴はこの世界で人を殺して回ってるんだろ」

 ここに来るまでに、スピッツから《染血公主》のことを聞いた。魔法使いの研究機関《協会》の調整官に一代の女傑と評された《染血公主》ジェルヴェーヌ・ロッソ。二年前、同僚の魔導師六名を殺して姿を消し、その後に地獄で強盗、殺人を繰り返した。先日も資産家の男が、買い物の不足金を賄うためだけに殺された。

「死ぬのは、勝手。……でも、邪魔は絶対するな」

 瑞希は、そう言い残してふわりとその身体を宙に舞わせる。重力など存在しないかのように、木々の幹を蹴り、枝を踏み、夜の空に身を躍らせる。

「覚悟を決めろ。死ぬのが怖いからってほうっておいてられるか」

 まるで“モノ”のように、簡単に人を殺す魔法使いを止めるのなら、それは殺し合いの場に足を踏み入れるしかないのだ。誰かを殺すだなんて、上条には出来ない。だったらせめて、自分が死ぬ覚悟くらいはもってないと止められる筈がない。

「エレオノール隊。総員、概念魔弾、射撃式《残照》ッ!」

 エレオノールを庇うように前に出た細身の身体の聖騎士、ニコライがテノールを響かせる。それに呼応して、少女を除いた全員が、籠手の指輪を腕鎧に施されたくさび形文字列の浮き彫りに押し当てる。奇跡を奏でる神音を索引として観測し、魔法を行使する聖騎士たちは鎧や武器に楽器を仕込んでいるのだ。
 魔弾を斉射しようとした騎士たちには、この時、ジェルヴェーヌしか見えていなかった。

「いかんなあ、あんサンらが戦うんは妾とちがう。ここがどこやか忘れてへんか?」

 口の端を吊り上げ、二年もの時間を地獄で暮らしてきた女傑は無邪気な悪意を込めて騎士たちを嘲る。

 この地獄には魔法使いを狩る鏖(みなごろし)の悪鬼がいる。

「《染血公主》ジェルヴェーヌ、……およびエレオノール・ナガン以下聖騎士……六名、補足」

 夜空に吹く南風が雲を押し広げ、魔法使いを照らしていた満月の光が不自然に遮られた。黄金の円盤を背負って仙女が現れ、その姿が雲の船から大地の海へと、戦場へと飛び込んで行く。

 彼女、魔導師公館の専任係官、神和瑞希は魔法を消去してしまう悪鬼ではない。

 《魔獣使い》は感覚する原初の霧である《気》を操り、奇跡を織り上げる。
 足元に集中した白い霧が、青い閃光に変わり、火花を散らして流麗な下半身を覆ってゆく。大気中の埃を焼き焦がしながら、その身に膨大な電子を帯電して、仙女は巨大な高電圧の稲妻と化した。

 天から大地を割る天罰のような一撃が、騎士団の隊列に突き刺さる。

 粉塵が舞い上がり、轟音が悪鬼に観測されて、魔炎が燃え上がる。いくら公館の撃墜王である瑞希でも、《染血公主》と聖騎士を同時に相手するのは厳しい。だから瑞希は、魔法消去の影響を無視した最大出力の不意打ちで、早々に騎士たちの無力化を図った。

「《魔獣使い》、公館の鏖殺悪鬼が!」

 立ち上がれないエレオノールを庇い、前髪を焦がしたニコライが忌々しげに吐き捨てる。
 瑞希の二つ名《魔獣使い》とは、地獄だけに存在する魔力型にも索引型にも分類できない魔法のひとつを指す。悪鬼を観測者とするこの世界に、本来いないはずの例外中の例外。

 カオティック・ファクター。
 彼女は《地獄の魔法使い》だ。

 至近距離で荒れ狂う電流に聖騎士たちの身体が焦がされ、高熱に精密さを要求される神音楽器が歪んだ。正確な音を奏でられなくなった騎士たちの戦力は大幅に半減する。

「立て直せ、神意は我らとともにある!」

 戦斧を担ぎあげた、巨躯の聖騎士、ドナルド・デュトワの大音声が、膝をつきかけた仲間を叱咤する。

「天地は一つ、……《気》にして、万物は一つ、……《気》にしたがう」

 《魔獣使い》の魔法は、万物の根源たる《気》のもと、おおよそ地上に存在するあらゆる自然物を生じさせる。
 両腕を十字に組み、踏み込み一閃、空を切る。三十匹をこえる群狼が空中から灰色の滝のように続々と溢れ出し、やっとのことで剣を構えた聖騎士たちに殺到する。

「おのれ、獣ぶぜいで我らが退くと思うな!」

 ドナルドの戦斧が、まとめて数匹の狼を薙ぎ払う。間隙を補うように、残りの聖騎士が前に出て、絶え間なく押し寄せる灰色の奔流を押しとどめる。

「隙だらけだな」
「隙だらけよね」

 暗がりから、囁きとともに、二条の銀風が奔った。さらに見えない弦に引かれるように飛来したいくつもの戦輪が、群がる狼を引き裂きながら襲いかかる。血風が聖騎士たちの視界をふさぐが、歪んだ神音楽器の暴発を恐れて概念魔弾で咄嗟に吹き飛ばすことも出来ない。必然、聖騎士たちは剣での近接戦を余儀なくされる。だが、狼の群れと至近距離で殺し合って、人間が生き延びる道理など無い。

「ぬぅ。このままでは」

 聖騎士の強固な汎用防御魔術《光背》も、いつまでももつ訳じゃない。絶え間なく迫る狼の牙と爪、鋭い戦輪の刃が、徐々に《光背》を削っていく。その光景に騎士たちの焦燥が募る。

「あきらめてはなりません。神意が我ら共にあるのなら、道は必ず開けます」

 戦場にあって涼やかな、乙女の柔らかなソプラノが、文字通り空気を変えた。
 楽器に頼らず、歌で精密に発現位置を制御された高威力の魔弾が、獣の群れを吹き飛ばしたのだ。

「エレオノール!」

 神の声を聞く一人の神音歌手は仲間の危機に歌い、魔法で状況を打開した。
 エレオノールの切り開いた突破口に、二名の聖騎士が飛び出し悠然と佇む瑞希に斬りかかる。

 だが、そこに空を飛ぶもうひとりの戦士が立ちはだかった。

「ふははっ、ふはははっははははは!」

 《大気泳者》スピッツ・モードは自身の身体の境界面に触れる空気の性質を自在に操り、空を飛ぶ。スピッツが高々度から猛禽のように急降下し、飛び出した聖騎士に狙いを付けると、直上から手刀を振り下ろす。
 手刀の表面に蓄えられた、魔法で高密度に圧縮された空気が解き放たれた。激しい空気の奔流が、聖騎士の身体を弄び《光背》ごと、大地から無理矢理引き剥がす。
 
 錬金大系の魔導師は、自由に空を飛ぶ機動性と、自然のものであれば触れるだけで性質を操り切断する高い破壊力で敵を打ち砕く、生粋の戦士だ。
 
 聖騎士の中心に斬り込んだスピッツの機動は止まらない。空中に投げ出された聖騎士に間髪いれず、入射角との同様の角度で、沈んだ手刀を斬り上げる。
 初手の攻撃で、《光背》は完全に削り取られてしまっている。聖騎士の身を守っているものはもう、鎧しか残っていない。
 どんな強固な素材で出来た鎧も、高位の錬金魔導師の前では紙屑に等しい。自身の身体という“もの”と外部との境界面の性質を操る無双の肉体は、聖騎士の腕を、鎧ごとたやすく切断した。
 
 全裸が正装の錬金大系魔導師は、戦いの高揚と、空を駆ける興奮に笑いが止まらない。

「ふはははっふははは! 空を飛ばずして何の人生でしょうや! 戦わずして、何が戦士でしょうや!!」



「相変わらず。公館はようやるわな」

 背後に響くスピッツの高笑いを聞きながら、染血公主はほくそ笑む。公館の専任係官、敵対するものをことごとく鏖殺にする《鏖殺悪鬼(スローターデーモン)》と《協会》の敵である聖騎士では、目的は同じでも協力することなんてまずない。必然と衝突する。あとは混乱に乗じて逃げればいいだけだ。

「ほな、妾は消えさせてもらおかいな」
「待てよ。魔法使い」

 右手を強く握りしめ、上条は染血公主の前に立ちはだかった。異能の力を問答無用で打ち消す力、悪鬼の魔法消去と似た能力、《幻想殺し》を持つ右手。普段何の役にも立たない右手が、この人殺しの魔女に通じるのかわからない。
 上条にできることは時間を稼ぐことだ。魔女の魔法を出来るだけ捌き、右手で受け止め、瑞希たちが来るまで耐えることだ。
 そのためなら、怯えなど押し殺し、精一杯の虚勢を張ってみせる。

「てめぇの好きにはさせねぇ! おとなしくしやがれ」
「あんた、刻印魔導師かいな。なんや、威勢がいいわりには震えとるで」

 ジェルヴェーヌが、目を細めて上条を値踏みする。
 残忍な眼に射竦められて、震えていた足が凍ったように動かなくなる。

「うるせぇぞ魔法使い。お前みたいな人殺しを、この世界で野放しにできるかよ」
「なんや悪鬼のために言うとるんか。おもろいこと言いはるなあ。魔法を使えんのは人間のかたちしてても、ただの“モノ”といっしょやへんか」

 魔法使いは、悪鬼を人間扱いしないとは聞いた。だが、それをまざまざと見せつけられて、単純な怒り以上の何かが全身を駆け巡った。

「てっめぇ! 何様だ」

 地面に縫いとめられていた二本の脚が、考えるよりも早く動く。右手を、五本の指の一つ一つに、力を込めて順に折り、拳を握り込む。

「悪いけど、あんたにかまってる暇ないわ。ちゃっちゃと通らせてもらおか」

 染血公主にとって、若く修羅場をくぐってきた雰囲気も無い上条は、全く脅威の対象になどならず、路傍の石ころ程度に等しい障害としか感じない。
 宣名大系は術者自身が想起したイメージを媒介に索引を引く索引型の魔法だ。この大系の魔法は、索引行為が術者の脳内で完結してしまうため、奇跡を発現するためには、対象を術者の脳内イメージを記述した《化身》で捕獲し、名付けを行う必要がある。
 白壇の扇子を広げジェルヴェーヌは、宣名大系の《化身》、《貪欲の化身》を上条にけしかける。

「少年を名付けて《張り子》と定義す……」

 高位魔導師のジェルヴェーヌは上条の虚勢を見抜き、定義は的を射ていた。定義付けが完了次第宣名大系の魔法が上条を捉える。
 宣名大系は魔法を引きだす手順が煩雑な分、通常の防御手段が意味を成さない殺傷力の高さが特徴なのだ。
 通常の魔法防御では、宣名大系の魔法は防げない。それこそ、悪鬼の魔法消去のような、魔法の天敵でも、使えない限りはたいてい無理だ。
 上条は、異能の力を打ち消す《幻想殺し》の宿った拳を身体にまとわりつくように実体化しようとする魔法に、叩きつけるように突き出す。

「効かねえ!」

 ジェルヴェーヌが放った《貪欲の化身》が、対象を捕獲する寸前で消滅する。
 定義が外れて、対象を見失ったのではない。上条の体表面に張り付き、右手に触れた段階で《化身》自体がかき消えたのだ。

「あははは。なんや。あんたおもろいな。気ぃ変わったわ。腕の一本でも、もろうて帰ろか」

 口の端を吊り上げ、和服の魔女は楽しそうに扇子を閉じる。宣名大系の《化身》自体に干渉して消滅させるなど、予想外の事態もいいとこだ。どんな魔法大系にも当てはまらない、ありえない現象に背中がゾクリとする。
 咄嗟に浮かんだのは、魔法使いを絶望に突き落とす公館の専任係官の二つ名だ。

「《沈黙(サイレンス)》、《真なる悪鬼》かいな。いんや、魔炎も出てへんみたいやし、別もんやろ」

 《沈黙》は魔法使いにとって、数多の高位魔導師を屠ってきた地獄の恐怖の象徴だ。
 だが目の前の少年からは、得体の知れない力に多少なりともとまどいは感じても、魔法使いを真に絶望させる寒さは感じない。

 だから恐怖や、驚異よりもまず、そそられる。いったいどんな仕組みなのだろうと。

 《協会》に在籍していたときには聞いたことも無い現象だ。公館の新たな手札ならば、それを見極めないと、後々の不安要素になる。

「まあ、いろいろと確かめさせてもらおか」

 ジェルヴェーヌは手始めに、足元にある石ころ上条に向かって蹴りあげる。
 草履で蹴って、勢いもろくに出ず、目くらましにもならない石つぶてに、上条は悪寒を覚えて右手ではたき落とす。
 相手は、あらゆる物を媒介に、火薬を生成し爆破する。脳裏に焼きついた人が爆発する光景が、そのことを強く認識させた。
 魔法を使うには宣言もしなければならないようで、それだけなら対応できる。

「同じような芸が通用するかよ!」
「それ、そのまま、あんたに言えることやな」

 唐突に地面で起こった爆発が、上条の身体を掬いあげる。
 右手の届かない足元にあった、小石が爆薬に変成されたのだ。宣名魔法は、実は絶対の技量のある高位魔導師であれば、名付けを省略できる。
 地面にたたきつけられて、その勢いのまま何度も回転しながら斜面を転がり、途中で巨木に激突して、ようやく停止した。

 背中を強打したせいで息が詰まる。口の中には土砂の味が広がり、耳鳴りがして音も聞こえない。気を保とうと首を振って、顔を上げるとジェルヴェーヌと目が合った。追いつかれていた。
 心臓を鷲掴みにされたような感覚に、全身が総毛立つ。ジェルヴェーヌの手に持った扇子が一閃した。

 両手を庇うように交差して、身体を低くする。頭上を何かが通り過ぎた。
 見ると背後にあった木が半ばまで抉れていた。綺麗な切り口、ただの扇子のはずが、業物の刃と同等の切れ味を持った。これも魔法なのだ。
 ジェルヴェーヌが物足りなさそうに見下ろし、緩慢な動作で扇子を振り上げる。

「どうしたんや。もう終わりかいな」

 魔法で強化された扇子が、上条の頭を立ち割らんと打ちおろされる。当たれば頭の中身をぶちまけて死ぬ。

「余裕見せすぎだ。人間舐めんなよ。魔法使い!」

 臆せず、右手で扇子を受け止める。《幻想殺し》が魔法を破壊し、そのまま扇子を握りつぶす。魔法とわかれば怖くない。魔法に《幻想殺し》が通じるのは、もう証明済みなのだ。

 だが、魔女は上条のかすかな手応えを嘲笑で踏みつける。

「やっぱ魔法消せるんは、その右手だけみたいやな」

 魔法の無効化が悪鬼と同様のものなら、初手の爆破も無効化されてもおかしくない。
 初手のプラフに放った石つぶてを右手で防ごうとして、さらに魔法で強化された扇子の一撃を右手で止められ、強化魔法が消去された。
 ただそれだけの事実で、何が魔法の天敵なのか簡単に見えてくる。想定外のことが起こったら、それが何に起因するのか、可能性を順に潰していけばいいだけだ。
 染血公主の振りぬいた膝が、上条の鳩尾を捉えた。

「がっ―――ああ。ゲホっ、ごほっ」

「あーあ、妾の扇子を台無しにしよってからに」

 膝から崩れ落ち、四つん這いになってえずく。胃の内容物が逆流し、酸素を求めて開いた口から、酸っぱい胃液が地面に吐き出された。
 苦しさに喘ぐ中、ジェルヴェーヌの冷たい声だけが、やけにはっきりと聞こえた。

「ほんまなら、その口から血しか出えへんようになるまで弄ってやるんやけど。まあええわ、そのまま死んどき」

 立ち上がらなければ、今度こそ死ぬ。だが、身体が言うことを聞かない。

 もう、だめかもしれない。

 この異世界で、素敵ヒロインとなんのフラグも立てられないまま、かっこ悪く死ぬ。脳裏に浮かんだのは、常に全裸で笑う、一人の男だった。なんでこんな時にそんな奴のことが浮かんでしまうのか、最後の最後まで、不幸だと思わずにはいられない。

「上条どの!」

 幻聴だと思った。次の瞬間、身体が浮いて、地面がどんどん遠ざかってゆくのがわかった。スピッツが、上条を空へと引き上げたのだ。
 眼下を走るのは獣の群れと、その上を疾走する人影が見える。《魔獣使い》の魔法によって生み出された従順な使い魔たちと、それを従えた巫女だ。

「聖騎士はもう引き上げたんか。なかなか役に立たん連中やな。しゃあない。妾ももう帰ろか」

 狼の群れに囲まれても、魔女は優雅に余裕を崩さず微笑んでみせる。魔法の行使に対象化が必要な宣名魔法では、圧倒的な手数に対応するのは困難だ。

「《染血公主》……逃がさない。お前は、ここで、倒れろ」
「いややね。《魔獣使い》が群狼、名付けて《猟犬》と定義。保持済み概念《緋牡丹》を加算。派手に飛び!」

 染血公主は、一度の名付けで、狼の群れ全てを一度で照準し、爆破した。
 奥多摩の山中を、再び爆音が揺るがす。二度目の激しい爆発は、地崩れを誘発し、山の地形が変わる。
 今度は遮るもののない、正真正銘の大爆発だ。爆風で吹き飛んだ小石が、空を飛ぶ上条の額を打ちつける。

「染血公主は!」

 大地はそこだけ爆撃を受けたかのように悲惨なありさまだった。その爆心地にあって、瑞希は埃まみれになりながらも、傷を負った様子は無い。あの爆発を至近で受けて無傷なのは、《魔獣使い》の用いる原初の息吹を相手の攻撃に反応させ相殺し得るものに変換する強固な防御魔法、《気盾》が為せる技だ。

「すげぇな。あれが……魔法使い」

 上条は素直に感嘆した。一瞬であれだけの爆発を起こすのも、それを防いで見せるのも、全て魔法が為せる技だ。エントロピーや質量保存の法則すら、持たざる者の泣き言と評する奇跡の使い手たち。
 その力の衝突の単純な凄まじさに、自分が入りこむような余地などあるのだろうか。あの大爆発を見せつけられては、染血公主がいかに手を抜いていたのかはっきりわかる。

 この世界では、誰もが当たり前にもつ魔法消去に似た能力、しかも右手限定だけのちっぽけな力《幻想殺し》。
 最初に瑞希が言っていたように、自分は単なる足手まといにしかならないのではないだろうか。

 白煙が晴れて、《染血公主》の姿は消えていた。今の爆発の隙に、森の中に姿を隠したのだろう。
 遠くで、消防車のサイレンの音が聞こえる。あれだけ派手にやったのだ。直ぐに人も集まってくる。

 時間切れだ。《染血公主》は逃げおおせ、《幻想殺し》を右手に宿す少年は、その無力さを突き付けられる。

「むっ。もう降りねばなるまいか。まあ、上条どのが無事でよかった」

 全裸の何気ない一言で、泣きそうになる。この世界は相当異世界の住人には厳しく出来ているようだ。

「ああ。なんというか、不幸……だな」



[26217] ‐7‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:ce3a0058
Date: 2013/04/28 18:19
「戦闘報告は手早くに済ませましょうか。長考しても、気休めにしかなりません」

 昨晩の騒ぎから夜が明けて、公館の薄暗い会議室では今後の方針を決める会議が行われていた。参加者は事務官の十崎京香、専任係官の武原仁と、《魔獣使い》神和瑞希、そして魔法学者の溝呂木京也だ。芳しくない報告ばかりが続くなかで、会議は進み、公館のするべきことは決まっていく。
 目下の問題は侵攻してきた聖騎士と《染血公主》、ならびに所持している神人遺物の《鍵》の確保、そして聖騎士の襲撃の際に姿を消した倉本きずなの父、倉本慈雄のことだ。
 会議に一区切りついたところで瑞希が昨晩の戦闘報告に入る。公館側に特に被害は無いから、話は短く済むはずだった。

「専任係官、神和瑞希……。《染血公主》ジェルヴェーヌ・ロッソを追跡中、……エレオノール・ナガンら聖騎士六名と交戦。使った式神は、宮毘羅が二体、伐折羅が一体。……あと、あの『ウニ頭』」

 上条の式神としての呼び名を決めかねていた瑞希は、めんどくさくても報告には不便だからと、外見的特徴で済ますことにした。

「ウニ頭って、あの上条って子のことか。彼を戦闘に使ったのか」

 一応、武原仁が瑞希に確認を取る。ウニと言われて連想する人物は、あのツンツン頭の少年のことしか思い当たらない。

「勝手に戦って、勝手に死にかけた。でも、足止めくらいは役に立った」
「おい。こういっちゃあれだが、彼を戦わせるのは無理があるだろう」

 仁は、上条に魔法使いとの戦いに耐えられる力が無いとを見抜いていた。魔法使いと生身で戦うことの厳しさは、専任係官になってからの5年間で味わいつくしている。
 右手に特殊な能力があるらしいが、それでどうにかなるわけが無い。彼は未成年で、どうしようもない戦いの場に駆り出すことにも迷いがある。命のやりとりが職務になる公館だからこそ、未成年の少年を無駄死にさせてしまっては士気に関わる。公館の人員の半数以上を占める事務職員は、戦いとは無縁なただの一般人なのだ。

「武原係官、彼についてはあまりにも不確定な部分が多いのが現状です。彼はあくまで、なにかしらの“魔法使い”であると認識してください」

 素性のわからない上条が今後どう転ぶかわからないから、余計な感情を抱くなと京香が釘を指す。やりきれなくても、仕事だからと割りきるしかない。仁は公館という組織の一員だからだ。

「悪い、続けてくれ」
「溝呂木さん。彼について、何か新たにわかりましたか」

 京香が通常は会議にあまり参加することのない溝呂木に話の水を向ける。上条当麻に関しては、《公館》や《協会》の資料もほとんど役に立たない。まともな判断材料を提示できる可能性があるのは魔法学者の溝呂木くらいしかいないのだ。

「いや。全くさっぱりだ。あれから、《茨姫》を使ってなんどか実験を試みているがまったく成果が無い。彼という存在を創り出す、もしくは呼び出す索引を引いたと考えるのが妥当だが、“彼”という存在がすでにこの時間軸にいる以上、重ねて彼を創造させるのは不可能だという可能性もある」

 神音大系の魔法で《聖霊騎士》という、過去の英雄をその索引を奏でることで召喚する魔法がある。この魔法では、同じ索引を持つ《聖霊騎士》は複数同時に存在できない。
 《茨姫》オルガ・ゼーマンの聖痕大系も索引型だ。魔法構造体の生成なら、複製を創り出すことなど造作もないかもしれないが、上条当麻のような《人間》を記述する索引となると、《聖霊騎士》と同じ問題をはらんでいても不思議ではない。
 溝呂木の興味は、再現性の難しい上条当麻の召喚魔法よりも、彼の右手に宿る能力《幻想殺し》に移っていた。

「彼の右手に宿ってるものはそうだな“神”に近いものだと私は考えてる」

 あまりの突拍子の無さに会議の参加者全員が呆れ返った。そんな反応は百も承知とばかりに、溝呂木が半ば投げやりな推論を述べる。

「彼の右手は魔法を無効化した。しかも、魔炎を出さずにだ。彼の話が真実だとするとだが、彼のいる世界では様々な能力を持った『超能力者』がいるらしい。これを、単純に多様な発現の仕方がある一種の魔法だとする。魔法を許容する世界の中で、彼の右手だけがそれを拒絶する。これは彼の右手が、世界が許容できない魔法だけを選択的に拒絶するためのモノ、秩序を維持するある種の装置ではないのだろうかとも推論できる。そう仮定したとき、彼は自然秩序の調整者、《神》に近い役割を担っているということになる。魔炎が出ないのも、魔法消去とは違った秩序に則った力だと考えれば説明がつく。もっとも、そんな魔法世界が存在したとしたら、それは既存のどの魔法世界とも根本的なものが異なる法則性を持っている世界となるがね。こういう言い方は好かないが、設定自体が違うのだ」

 全ての魔法世界の共通していることは、自然秩序の歪みと魔法、それを調整する世界の秩序そのものである《神》の関係だ。上条当麻という存在や、それが語る世界はこの関係に当てはまるとは到底思えない。

「つまり……どういうこと」
「すまん。俺にも話がさっぱりだ」

 専門的な話になると、優秀だが経験不足な瑞希も、まだまだ若造の仁もついていけなくなる。なにより溝呂木の語ったことは魔法の常識とは程遠くて、ただの妄想にしか聞こえない。

「溝呂木さんはこう言いたいのですか。茨姫が、偶然彼と言う《神》に近しいモノの索引を引いたのだと。それはあまりにも暴論のような気がします」
「言っただろう。あくまで、仮定の話だ。確証は皆無に等しい。だが彼の右手、《幻想殺し》と言ったか、その力だけは確かに存在している。詳しい実験さえさせてくれれば、より正確なことがいえるのだがね」

 溝呂木も自分の考えが、妄言の類だと承知していた。それでも上条当麻という人間と、その右手に宿る能力への興味は捨てきれない。
 溝呂木は暗に人体実験の許可を催促している。倫理を平気で飛び越えようとする変態魔法学者に京香は政府機関の官僚として正当な理屈で返した。

「彼は、出自はどうあれ日本人を名乗る未成年です。それに、この世界に順応できる魔法使いを普通に暮らさせることも《公館》の仕事です」

 実験の可能性を拒否され、言葉の裏を読み取った溝呂木が皮肉気に口の端を歪める。

「なるほど。十崎君の言葉は彼に元の世界に戻ることをあきらめてもらうつもりのように聞こえるが。間違っていないかね」
「彼の言う学園都市なる場所がある魔法世界が存在する確証が無い以上、そうしたほうがより現実的だと思います」
「おい、待てよ。これは彼がいない場所で決めていい問題か? 俺たちは魔法使いから『日本人』を守る組織じゃないのか」

 武原仁は小学生の幼い刻印魔導師を管理している。必要とあらば倫理をたやすく飛び越える公館だからこそ、通すべき最低限の道理が必要なのだと思った。
 どこまでも異質な存在である少年に対する処遇は、前例も確かな方向も無いせいで内輪でも意見が割れる。溝呂木は研究者として、京香は実務家として、仁は人間としての道理を通そうとするからだ。

「現状に進展が無い以上、彼がこの世界で暮らすことも真剣に考えてもらわなければなりません。神和係官、彼の様子はどうですか」

 この厄介な問題の中心になっている上条当麻は、いったいどうしているのだろうと、全員の視線が上条を管理する瑞希に集まった。
 瑞希は訥々と、無関心そうにありのままを告げた。

「あの『ウニ』は……。……伐折羅と、かなり仲良くしてる」

 全員が微妙な表情になった。



 上条当麻は腕立て伏せをしていた。隣には肌に滴る汗を陽光に照らした全裸のスピッツがいる。
 寝起きにこの全裸の男がトレーニングをする姿を見るのが日課になりつつあった。なんとも嫌な日課だが、生活している場が一緒なのだから仕方がない。ただ今日は何故だが上条も付き合わされる羽目になってしまっている。

「ふはっふはははっ! どうだ上条どの、気持ちいいか! 鍛え上げた肉体こそが世界の声を聞き、空へと届くのだぞ!」

 魔力を見出す己の肉体を《対象》として特別視する錬金大系魔導師にとって全裸は正装だ。だからいつ見られても恥ずかしくないように身体を鍛えるし、肉体の完成度を高めることを戦士として誇りにしている。
 スピッツは幼いころ浮き船を見て以来、空の虜だ。地獄に堕ちて《大気泳者》とも呼ばれるようになっても、空を飛ぶことをためらわない。
 そんなスピッツの情熱に、寝起きからハードなトレーニングを休みなく強要された上条は息も絶え絶えで、流石にうんざりしていた。

「いや、もうなんか。それどころじゃ、ねえ」
「ふむ。それなら今すぐ服を脱げ。そんなものを着ているから世界の声が聞こえぬのだ。全てを晒し己が身ひとつで世界と対峙してみせろ!」
「そんな熱血変態の価値観押し付けられても困るわ! なんだよ、近づいてくるなよ、お前さわっただけで服脱がせられるんだろ。男にそんなラッキースケベ強要して面白くないだろ!」

 瞬間脱衣機能を持った右手なんて、ある意味男の子の夢だが、実際に被害者にされると思うとゾッとした。毒手に掛かって脱がされていくたくさんの人の幻影が一瞬見えたような気さえした。

「……お前ら、いったい何してる」

 スピッツの魔手から身をよじって逃げようとして、襖の奥から高校の制服姿の神和瑞希が現れた。いつもの無表情だが、若干、汚いものを見るような目になっているのは気のせいだと思いたい。

「《魔獣使い》どの。拙者は上条どのに、ちと魔法の指導をしていたまでのこと」
「助けてくれ、脱がされる。全裸に剥かれて俺の貞操が大ピンチ!」

 この全裸の暴走を止められるのは瑞希だけだ。一縷の望みを掛け、必死に訴える。だが瑞希は上条の願いをバッサリと叩き切った。

「別に……それはどうでもいい」
「ぎゃああ! ちょっと予想してたけど、もう少し俺に優しくして!」

 即答されて、上条は思わず叫んだ。瑞希が自分にそれほど関心を持ってないのは感づいていたけれど、こうもはっきりと示されると涙がでてくる。
 スピッツの目が熱に浮かされたように蕩けて焦点が合っていなかった。息を荒くして迫ってくる全裸の姿に、身の危険を感じて鳥肌が立った。

「上条どの、そろそろ覚悟を決めるべきだ。なに脱ぎ去ってしまえばそこに開かれるのは空を舞うように心地のいい、楽園だ」
「やめてくれ! 全裸だけはやめてくれ。俺はまだ“普通”でいたい」
「ふふふ。脱いだらいいんじゃないかな」
「ふふふ。脱ぐといいと思うわ」
「おいそこ! 何急に便乗してんだ!」

 さっきまで部屋の隅で無関係を装っていたエンド姉弟に激怒していたら、今度はどさくにまぎれて瑞希が聞き捨てならないことを言った。

「お前、元の世界に戻れないかもだから。色々、あきらめたほうがいい」
「おい待て! 今大事なことさらっと言ったよな」

 明らかに上条の今後に関わる大問題だった。
 公館にとっても上条の処遇は悩みの種だが、瑞希にとっては学校に行く方がよっぽど大事なことだった。そこにはできたばかりの『友達』がいるからだ。だから、明らかに面倒臭そうな状況を、とりあえず放り投げておくことにした。

「伐折羅、こいつまかせる」
「まかされた! 完璧な戦士に仕上げてしんぜよう」
「ぐわああ。だれか助けてくれええぇぇ」

 上条はもといた学園都市から異世界に来ても、身近な人間にどうしようもなく振り回されて、結局はいつものように悲鳴をあげることになる。

「だー、不幸だーっ!!」



 何度か意識を失って、上条はようやくスピッツから解放された。もう夕暮れだが、動く気力もわかない。枕に顔を埋めたまま目を閉じて、日本家屋の特徴でもある畳の匂いを鼻いっぱいに吸い込む。懐かしい心地よさにこのまま、眠ってしまいたかった。
 静かに縁側に続く障子が開いて、人の気配が部屋に入ってくる。倒れた上条を気遣っているのか足音も無く、その気配は上条の枕元で止まった。
 どうせ目を開けたら、全裸待機のスピッツが笑顔でいるのだろう。あの全裸はあれで、律義で気のきく男なのだ。
 薄眼を開けると、紺の靴下に包まれた細い脚が見えた。靴下に準じるものは衣服扱いだったかと疑問が浮かぶ。正体を確認しようと人影を見上げて、思わず息をのんだ。
 その少女の神様が祝福を与えたような白磁の肌は、驚くほど透き通り、完璧なほどに整いすぎた顔の造作は、どこか作り物めいていて綺麗を通り越して神秘的ですらあった。

 まじまじと見る機会がなかったから意識しなかったが、神和瑞希はとびきりの美少女だった。

 こちらを覗きこむように見ているせいで、頭の両側に縛った鞭のようにしなる長い黒髪が上条の顔にかかりそうになる。まるで人形のような瑞希だが、ちゃんと女の子の匂いがした。夕焼けが、彼女の顔にはっきりとした陰影を創り出して、薄赤く染まった頬がなんだが色っぽかった。気恥ずかしくなって視線を落とすと、今度はスカートの裾から伸びる陶器のような白い脚に目を奪われる。

「な、なっ、何か上条さんに用ですか?」

 顔が火照って心臓が早鐘を打つ。明らかに動揺していた。

「これ、お前にわかるか」

 瑞希が難しい顔でずいっと差しだしてきたのは高校の教科書だった。起き上がって受け取ると、表紙に数Ⅱとある。高校二年の範囲だ。ちなみに上条はまだ高校に上がったばかりの一年生である。

「自慢じゃないけど、上条さんの成績は学年でも下から数えた方が早い赤点補習組ですよ。それに、これ二年の範囲だろ。予知能力者でもない上条さんには無理な相談」

 自嘲気味な言葉が口を衝いてでる。本当に自慢にもならなくて、軽く自己嫌悪だが、浮ついた心を落ち着かせるには丁度いいと、自分に言い訳する。

「やっぱりお前、役立たず」
「うわっ。はっきりぐっさりと、上条さんの心を抉っていきますね、この人は」

 容赦のない言葉に上条は思わず引きつった顔になってしまう。
 対する瑞希は眉間にしわをよせて教科書を見つめたまま、淡々と口を開いた。

「……お前……元の世界に戻れないとしたら……どうするつもりだ」

 今朝、スピッツとのゴダゴダでうやむやになった話だ。元の世界に戻れないという可能性について。魔法があると言われたこの世界でも、薄々そんな気がしていた。だって上条は奇跡にも幸運にも見放された人間だから、都合よくことが運ぶ訳が無い。
 あきらめることには慣れてしまっている。けれど、現実と折り合いをつけて進んで行く前向きさを得たのだ。

「どうって。そうなったらここで生活するしかないんだろうけど。高校とかどうすんだ。それとも働き口をさっさと探したほうがいいのかな」

 何はともあれ、生活の拠点は必要だった。このままこの屋敷に住まわせてくれるならいいのだろうけど。スピッツとの同居は正直きつい。

「お前の右手は……ちょっと駄目。一族を危険にさらすわけにもいかない……だから、うちでは面倒見れない」
「そっか。なら仕方ねぇな」

 期待していただけに、ちょっと落胆した。だったら、どうするべきなのか。これはもう一度公館の十崎とかいう美人の事務官に相談するしかないのだろう。
 そんなことを、ぼんやり考えていると、瑞希がまだこちらを見ていることに気がついた。

「なんだ、まだなんかあるのか」
「今日、きずなが、お前の話してた」

 倉本きずなは以前公園で話をした瑞希と同じ高校に通う新米魔法使いの少女のことだ。タレ目で優しそうな雰囲気を持った彼女のことを思いだすだけで、変態ばかりですり減った心が温かくなって、思わずにやけてしまう。

「いてっ」

 そんな上条の頭を、瑞希がすかさずチョップした。顔に珍しく表情が出ている。怒りの表情だ。殺気も放っている。

「きずなに何かしたら、お前、大変なことになるぞ」
「大変なって……具体的にどういう?」

 ドスの利いた声に、思わずたじろぐ。発した声は少し上ずってしまった。

「伐折羅を、お前にずっと付けさせる」

 瑞希の目は本気だった。そして伐折羅とはスピッツのことだ。あの全裸が一日中一緒になる。そんなことになれば当然この世界でのまともな生活などできなくなる。

「なっ! やめてくれ、それだけはやめてくれ」
「お呼びのようですかな。《魔獣使い》どの」
「呼んでない! 呼んでないから!!」

 全裸の乱入で、また部屋は騒がしくなった。だがこの喧騒も、もう少ししたらお終いになる。上条がこの屋敷を出るということは、瑞希や、その管理する刻印魔導師達とも離れるということだ。刻印魔導師や専任係官がどのようなことをしているのか知ってしまったから、一度別れたらもう会えなくなる可能性が容易に想像できた。
 そんなことに、一抹の寂しさと不安を覚えながらも、今はこの心地良い喧騒に身をゆだねる。

 この世界にきたことには、何か意味があるのだと思っていた。でも実際には、上条当麻にできることなど、この《地獄》にはほとんどない。




[26217] ‐8‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:4977a5fb
Date: 2013/05/06 17:22
 
 上条当麻は神和の屋敷を出ることになった。
 公館との相談の結果、上条はしばらく公館の協力者の自宅に下宿することに決まった。いわゆる人畜無害な少年であるところの上条の監視に、わざわざ余計な人をかけることはないと判断され、刻印魔導師も専任係官もいない緩い監視のもとで生活することになる。
 出発を控えた昼のこと、珍しく瑞希に外出に同行しろと言われた。一体どういう風の吹きまわしか理解できないまま、上条は一軒の家にたどり着いた。
 何の前情報もなかったから、上条は迎えに出た人物を見て思わず面喰らった。

「……神和と、上条くん?」
 
 しばらく硬直した状態からようやく言葉を絞り出したのは、公館で一度会ったことがある可憐な少女を管理する専任係官、武原仁だ。
 仁の横にいる女性は、十崎事務官だった。いつものクールな姿はなりを潜めていて、瑞希に加え、上条の存在がさらに予想外だったのだろう、とっさに公館の氷の事務官に戻れずにいた。
 完全に休日モードな仁と京香に対して、上条もどう反応していいか見当がつかず、間抜けなあいさつしかでてこなかった。

「……えっと、どうも」

 ただ一人神和瑞希だけが、普段通りの表情を崩さず、仁を見据えて言った。

「先生って……、ヒマそう……」
「生徒にだけは絶対言われたくねえそのセリフ」

 顔見知りたちの予想外の会合をよそに、もうひとりの女子高生はサプライズな客人の存在にうれしそうだった。

「神和さん。それとあなたはたしか、前に公園で話した……」
「なんだ、上条くんときずなちゃんは知り合いだったのか」
「はい。前に偶然会って少し話したんです。そのとき、その……もうひとり……」

 おそるおそるといった具合に、地面と上条とその背後をきずなの視線が泳ぐ。

「あの全裸は今いないから、そんな探るような目で見ないで、俺はあいつの知りあいだけど同類じゃないから!」

 上条の悲痛とも言える叫びに、事情を悟ったのか武原仁が同情の眼差しを向け、京香は額に手を当てため息を吐き、生温かい空気が広がった。ここが冷たい論理で動く公館ではなく、“家”であるからか、上条はなんだかホッとした。
 こちらの常識を無視して行動する異世界人たちには存在するだけで頭がいたいほど振り回される。しかし、きずなを中心として不思議な方向に人間関係は回っていて、それはいいことのような気がした。

「そうだ、上条くんも今日の夕飯一緒にどうですか」
「ありがたいけど、いいのか俺なんかが居座っちゃって」

 この場での決定権を握っているのは年長者にて家主の京香だ。平静を取りもどした京香は、今は公館の氷の事務官ではなく、折角の休日を楽しみたい十崎家の主だった。

「まあいいわよ。今日は仕事じゃないしい。きずなちゃんの好きにして。仁も上条くんの相手してあげたら」

 そう言うと十崎家の主は奥に引っ込んでしまった。戻した視線で、きずなと目が合う。今日は、久しぶりに『不幸』ではない一日になりそうだった。

「いてっ」
「……にやけすぎ」

 神和瑞希は、大切な友達の近くに男っ気があるのが嫌なのか容赦しない。けれど、今日の上条ときずなの再開を計らったのは他でもない瑞希だ。
 自分は嫌でも、友達の願いを叶えようとする健気な彼女に、上条は感謝する。



 女子高生二人は、テスト勉強があるからと二階に消えた。上条はというと居間のソファに腰を落ち着けて麦茶を飲んでいる。向かいに座っているのは武原仁だ。

「そういえば、今日はあの子は?」

 初対面では、あの妖精のような少女が一緒だった。仁と少女の組み合わせが、あまりにもお似合いだった印象を受けたから、なんとなくおさまりが悪い感じがしている。

「メイゼルのことか、今日は学校の友達のところに行くとか言ってたな」

 仁がなんともなしに応えるが、手持無沙汰のようでジャケットのポケットからタバコを取り出そうとして、途中で止めた。タバコはここの家主や少女達が嫌う。

「…………」

 男二人、華もなく、話も無く、気まずい沈黙が流れる。

「……何かするか?こんなのがあるが」

 沈黙をやぶるように仁が取り出したのは、似たような大きさの直方体の積み木が詰まった箱だった。上条はこれの正体を察した。

「何故これを二人で、しかも男同士で」

 三ブロックずつの段を縦横と向きを変えて積み上げていき塔を作る。塔を構成する積み木の一部を片手で一つずつ抜き、また上に積んでいく。先に崩した方が負けという単純なルール。積み木に指示が書いてあるようなタイプもあるが、これは何もないオーソドックスなもののようだ。

「まあ、とりあえず。やってみよう」

 テーブルの上に、直方体を積んで塔を作っていく。上条のいた場所とは世界が違うはずなのに、玩具に共通点があることに不思議な親近感を覚える。世界は違えども、同じ日本だからかと曖昧な納得をして、上条も積むのを手伝う。

「じゃあ一つ条件。負けた方はどんな質問にも正直に答える。でどうですか」

 この際だから、便乗して色々聞いてみてかった。今まで身近にいたのが、瑞希と全裸だから、得られる情報も偏ってくる。一応は常識人に見える彼とも話をしてみたかった。
 仁もなにか思うことがあるのか、少し逡巡したあと了承する。

「よし、それでいい」

 ゲームが開始して、数巡は何ごともないように進んだ。
 数分経過し、だいぶ積み木が抜かれてきて、柱が揺らぎ始める。仁は慎重に様子を見極め、片側を抜かれて二本になった段からもう一本を引き抜きにかかる。
 ここが仕掛けどきだと上条は思った。

「そういえば武原さんは、なんで幼女に罵られるのが好きになったんですか?」

 仁の手元が派手に狂って塔に突撃し、積み木はガラガラと音を立てあっけなく崩れた。仁がうらめしそうに上条を睨みつける。

「質問は勝負が決してからじゃなかったのか」
「独り言ですよ。それで実際のところは?」

 このゲームは後半にいかに集中力を切らさないことが重要なのだ。卑怯だが軽い揺さぶりは戦略のひとつでもある。

「前に一度言ったよな。俺は変態でも、メイゼルの犬でもないって」

 犬だとは聞いた覚えもないのに答えるあたり、半分くらい自覚があるのではないかと思った。そして、やっぱりあの小さな異世界人に振り回されているのかと思うと親しみを覚える。
 狙い通りの勝利にほくそ笑む上条を横目に仁が塔を積みあげていく。その動作は機敏で、覚悟の決まった目をしていた。

「そっちがその気なら、こっちにも考えがある」



 男たちは、これが遊びではなく、互いの身を削る戦いであることを悟った。



「上条くんは、スピッツといい仲らしいな」

 絶妙なタイミングだった。丁度ブロックを抜いた瞬間、最後に一息つくほんの少しの抜きが粗くなり柱は揺れに揺れ、崩れ落ちる。
 仁がこの勝負に何か仕掛けてくることは予想できたが、弩級の爆弾を投げてきた。この地獄で、上条にとって一番関わりが深く、そして一番振り回された人間のことだから、動揺しないはずがなかった。

「武原さん。それは大人気ないんじゃないでせうか」
「勝負に手を抜かず、現実の厳しさを教えるのも大人の仕事だからな」

 一応の建前を作ってはいるが、意地を張ったのだ。大人は子供を守る立場だからこそ、その絶対的な優位性を崩されることをあまりよしとしない。だが仁が張った意地は、もっと単純な負けず嫌いに見えて、どこか子供っぽい。
 殺伐さがない戦いの心地よさに気を抜いていたら、仁が理解のある大人のような顔つきで、平然ととんでもないことを言ってのけた。

「伊達に魔法使いと付き合ってないからな。どんな関係でもありだと思うぞ」
「そんな超絶、凄絶な勘違いは止めて下さい。俺は“普通”の高校生ですから!」

 本気でそう思われているようで寒気がした。魔法使いとの付き合いで、常識は麻痺し、しばしば普通は失われる。



「武原さんは、年上の美人お姉さんと若い子と若すぎる子と、どの子が好みなんですか?」
「その質問は、この家で答えるには色々とやばい」

 否定せずに答えをはぐらかすのは、どの子にも下心があるからだ。その時点でやばいことは明白だが、男として気持ちは少し理解できるから上条はあえて深く突っ込まない。

「待て、人間関係的な面倒を起こさないためだからな」
「はいはい、わかってますって。若すぎる子が本命なんですね」
「なんでそうなる。あれだ、そういうのとは違うんだよ。きずなちゃんもメイゼルも京香ねえちゃんも、みんな家族みたいなものになるんだよ」

 家族だとするなら、誰かが嫁の座に座っているということだ。家庭的なきずなが本命な気がする。しかし、十崎事務官のリラックスした態度や、仁が京香ねえちゃんと呼ぶことから両者が深い仲であることもうかがわせる。そして、メイゼルはそれらを意に介さない、破壊力を持っている。
 もしこの家の女の子たちが仁に気があるのなら、この家は相当な修羅場だ。
 これ以上話が生々しくなると、上条としても気まずくなるから思考を打ち切る。所詮妄想だったが、事実だとしたら怖い。



 相手の精神を削るような質問の応酬は、もはや戦争だった。互いの弱そうな所を見出し、攻め込む。戦闘のプロである仁に上条が対応できたのは、仁の人間関係的なところの弱みがわかりやすいおかげでもある。
 厳しいようで、情に厚く、どこかロマンチストなのだ。こんな人が、何故人狩りを生業とする専任係官しているのか疑問だった。小学校の教師をしているほうがよっぽどお似合いだった。

「武原さんは、どうして専任係官になんかなったんですか?」

 思わず疑問を言葉にしていた。進んで修羅の道に行くような人ではないから、相応の事情があるはずなのに空気を読まずに踏み込んでいた。

「上条君は、スピッツや神和達と過ごして、染血公主とも対峙したんだったな」

 仁がジャケットのポケットの辺りを抑える。落ち着かない気分だった。進んで他人に話す内容ではないだろうに、仁はごまかすことはしなかった。上条の問いに真剣に返すことに決めたのだ。

「妹を追って公館に入ったんだ。妹は魔法無しでは生きていけなかったから、公館に頼るしかなかった。それで気がついたら兄妹揃って人殺しの訓練をされていた。しばらくして妹が死んで、後を継ぐように専任係官になった」

 上条は専任係官になることが、この地獄で魔法使いたちと付き合い、戦っていくことがどういうことか理解したつもりでいた。しかし、実際に言葉で聞くとその意味が重くのしかかってくる。
 これはたぶん、仁なりの義理の通し方だ。魔法使いと戦うことがどんなことか、伝えることで、上条を突き放し、遠ざけようとしてくれていた。

「妹と二人でいた高校生くらいのころは、ヒーローみたいなものになりたかった。誰もが幸せになる“いつか”に導いていけるような。まわりにそういう大人がいなかったから。メイゼルといるのも、小学校に通わせて偽教師やっているのも、そういう欲からきているんだろうな。妹を救えなかったから、その代償をあの子に背負わせているんだとしたら、俺は相当駄目人間かもしれない」

 鴉木メイゼルは刻印魔導師だ。あの可憐な幼い彼女も戦う運命を背負っている。過酷な運命を背負う彼女に対する、大人たちの偽善がここにあった。
 自嘲する仁の顔は、苦いものがあっても光を失っている訳ではなかった。スピッツが故郷に思いを馳せ、戦いに赴く姿に似ていたから、上条は苦さの反対側にある決意の重さを感じた。

「それでも武原さんは、一緒に戦っているんだ」

 本来なら、メイゼルを戦いから遠ざけることが筋だ。だがそれは、彼女の魔法使いの誇りが許さないだろうことも上条にはわかる。だから、仁は、彼女と一緒に戦うことを選んでいるのだ。一度大事なもの失った彼が、今度は決して取りこぼさないと選んだ道だった。

「そうだな。ここを地獄だと見下して、ここで生きるみんなを、その生活を壊そうとしている奴が許せないから、俺は戦うんだ。大事なもの守りたいなら、向いていなくても迷っていてもやるしかないんだよ。だから、上条君は戦わなくていい。メイゼルもきずなちゃんも、君も、俺が守るよ。ここは魔法使いの言うような地獄なんかじゃない」

 そう言い切る彼は、まるでヒーローのように見えた。この地獄にあっても、大事なものを守ろうとする仁の言葉に、上条は自分がこの物語の主人公ではないのだと気づかされる。

 幼いころからひっきりなしに訪れる不幸や、超能力の開発を行う学園都市のカリキュラムでも無能力者のままだったから、上条はヒーローに憧れていた。そしてここで特別な体験をして、特別な世界を知った。けれどそこに上条の居場所が無かった。やるせなさが無いわけではない。けれど納得できた。まるでヒーローのようなこの人を信じてみようと思えた。

「男の人が二人だけで顔突き合わせているのってなんだかあやしいと思うの。せんせは若い子なら男の子でもいいの」

 耳をくすぐる妖精の声が、二人の意識を引きもどした。居間の入り口に妖精のような少女が、こちらをいぶかしんだ様子で立っている。

「メイゼル、帰ってたのか」
「ただいま、せんせ。それとトウマだったかしら、はしたない顔だから覚えてるわ」

 はしたない顔という、微妙な印象で覚えられてしまっていた。だが、上条がメイゼルに抱いている印象も、懐かしい学園都市の喧騒に近いものがある。だから少し意地悪してみたくなった。

「よう。ビリビリ小学生、元気してるか」

 メイゼルが品のいい眉を不快そうに歪める様子を見て、満足する。にやけているとまた電撃がきそうだと身構えていたが、報復はやってこない。
 小さな姫様は、別なことに興味を惹かれたようだった。とたとたとやってきて、仁の隣に腰を下ろす。

「まあいいわ。せんせたちはいったい何をしていたの」

 メイゼルのいる円環世界にはこんな玩具はなかったのだろう。仁の説明にうんうんと素直にうなずいている。メイゼルは一通りルールを聞いた後、積み上げられた塔のてっぺんを軽くつついた。塔がふらふらと揺らぐ様子を楽しそうに眺める。

「これって進めば進むほど中心がぐらついて、まるでせんせみたいね」
「俺はこんなグラグラじゃないだろ」
「でも教室にいるせんせって、自信なさげにあたふた授業してて、わたしはいつもそれを崩したくてゾクゾクしてるのよ」

 メイゼルは嗜虐趣味をそそられたようで、ゲームに違う意味を見出し始めていた。そして我慢できなくなったのか、思い切り塔を崩してしまった。積み木が崩れる様子が何かと繋がったのか、快楽に瞳を蕩けさせていた。そして仁の顔は完全に引きつっていた。
 仁の人生が、本当にこの塔のようになるのではないかと本気で心配になった。この小さな魔法使いは、好きな人の人生を滅茶苦茶にすることに満足しそうだったからだ。

「あ、メイゼルちゃんおかえりなさい」

 上条の戦慄を中和したのは新米魔法使い女子高生だった。勉強の休憩に居間に降りてきたみたいだ。後ろに瑞希も付いてきている。

「あら、懐かしいもの出してるわね。それ」

 メイゼルの帰宅の気配を感じたのか、京香も奥から出てきた。居間の女性密度が上がり、重苦しい空気は一掃される。

「せっかくだし、みんなでやりましょう」
「勉強はどうした。もういいのか」

 仁の問いかけに、目を反らして女子高生たちは押し黙った。やがて瑞希が苦悶の表情でつぶやく。

「……手ごわい敵とは、距離をとることが大事」
「息抜きですよ。息抜き」
「あ、逃げてる。この人たち勉強から逃げてる」

 上条は思わず突っ込んでいた。使用人扱いの人間に事実を言い当てられたのが気に食わないのか、瑞希が上条に容赦のない手刀を浴びせる。

「……戦略的撤退……だから」
「痛い痛い。わかった。わかったから」

 瑞希は上条に一片の容赦もない。しかも単純な物理攻撃だから幻想殺しも役に立たない。

「ちょっときずな、勝手に始めないで。私が最初にやるんだから」

 きずながマイペースに積み木を積んでいた。一方的に瑞希にボコられていて、そろそろ誰かに助けて欲しいとこだが、そうはならない。いつもなら不幸だーと叫びたくなるが、今日はその言葉を飲み込んだ。

 ヒーローみたいな大人が身近にいて、平穏とは言い難いが緩やかな日常がある。
 
 ここはもう、上条にとって地獄ではない。





 その日の夜、刻印魔導師ネリム・エンドとクラム・エンドが聖騎士たちとの交戦で死亡した。上条当麻がこのことを知ったのは、その数日あとのことだった。



[26217] ‐9‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:4977a5fb
Date: 2014/04/29 01:20
 
 錬金大系魔導師スピッツ・モードは倉本きずなのアパートに来ていた。行方をくらましている彼女の父親、倉本慈雄の手がかりを調べるためだ。
 公館から荒っぽい手段を取らないよう注意を受けているから、面倒でも預かった鍵で扉を開ける。部屋に入ってすぐ、スピッツは魔法で脱衣した。錬金大系の戦士にとって服を着るのは拷問にも等しい責め苦だ。だがスピッツにはそれを耐え得る強い戦士の誇りがある。百人討伐を達成し故郷に戻り、己が潔白を証明すること。政争に負けた一族が錬金大系世界で復権するためなら、どんな恥でも甘んじて受けるつもりのスピッツである。
 百人討伐をやり遂げようとする固い意志、それが、スピッツ・モードが公館から信頼されている数少ない刻印魔導師として重宝される理由だった。
 倉本家の部屋には生活の名残がまだあるがスピッツは意に介さない。情に流されやすく偏執的な武原仁なら三時間はかけて終える調査を、スピッツは半分の時間でやり終えた。
 倉本きずなに幾らかの思い入れがある武原仁や神和瑞希ならいざしらずスピッツの心を動かすのは未熟な新米魔導師のことではない。戦士としての誇りと空を飛ぶこと、そして一族のことだけだ。
 そのはずだったが、スピッツの心は一人の人物に引っかかっていた。ウニ頭の少年、彼の存在は異質だ。その少年が近くにいるとスピッツは否応もなく惹きつけられる。まるで別の物語に強制的に方向転換させられているみたいだ。先日、ネリム・エンドとクラム・エンドが死亡した戦いの場にスピッツはいなかった。神和の家を出ることになった少年をスピッツが護衛を務めていたからだ。戦いの場に参加できなかったのは単純に悔しいが、次の戦いをしっかり務めればいいだけのことでもある。 
 めぼしい手がかりのないまま、最後に倉本慈雄の工房と思しき部屋に向かう。ふすま戸を開けると歯車仕掛けのオルゴールが鳴った。ふすまの開閉と同時に音が鳴る対聖騎士用の罠だ。このアパートに聖騎士たちが踏み込んでくることを警戒してのことだろう。
 部屋の中には作りかけの楽器がいくつもある。その精巧な出来に唸ると同時に、戦士の本能が倉本慈雄の実力を想像させた。倉本きずなの再演魔導師としての覚醒から始まる一連の事件の中心人物。おそらく神聖騎士団も公館も、染血公主も全て出し抜く気だ。相応の準備と実力を兼ね備えているに違いない。
 スピッツは武者ぶるいをした。地獄に落とされてもなお、義のために己が肉体を駆使し、強敵と戦うことができる。戦士としてこれ以上の喜びはない。

「ふふふっ、ふーはっはっはっは!」

 意気揚々と工房を出ると、スピッツは空気の乱れを感じ反射的に飛びのいた。自慢の胸板に強い衝撃がぶつかり吹き飛ばされる。窓ガラスを突き破り外気に身体を晒したところで、魔法で姿勢を立て直す。
 攻撃の正体は神音大系の魔弾。威力も相当に練られたもので、飛びのいて衝撃を軽減したにも関わらず肋骨が何本か折られている。スピッツは空中で静止したまま攻撃の出どころに視線を向け、二つの人影を見て、喜びに震えた。

「ふーはっはははは! これは僥倖!」

 逃した闘争が、向こうからやってきた。身体に気力が高まっていくのを感じる。

「マルクの工房で何をしていた。公館の犬め」

 豊かなバリトンを響かせるその男の正体は神聖騎士団団将グレアム・ヴェイン。その後ろに控える巨躯は上級聖騎士ドナルド・デュトワだ。悪鬼の世界で目立つことを嫌ってか剣も鎧も身に付けていない。聖騎士でも警察は嫌いみたいだ。

「犬、いや違うな、私は戦士だ! その命、もらい受けるぞ!」

 窓ガラスを派手に割ってしまったから、アパートの悪鬼達がすぐにやってくる。勝負は一瞬で付ける必要があった。
 スピッツは魔法で高速移動し、両の手を広げ薙ぎ払うように突進する。まともな勝負なら分が悪くても、無手の聖騎士など恐れるに足らない。
 グレアムとドナルドの放つ魔弾を一つ、二つと見切る。《大気泳者》とは地獄での蔑称だがスピッツの飛行能力は図抜けている。スピッツの高速の軌道にドナルドが身体を割り込ませた。生身の肉体の防御など、自身の肉体が無双の剣と化す錬金魔導師には意味がない。しかし、即座に液状化し両断するつもりが、スピッツは思わぬ足止めをくらった。ドナルドは光背の応用で両手に防御殻をまとい、吶喊するスピッツを受け止めたのだ。このままでは空中で静止してしまい、死に体となる。体勢を立て直すべきか迷ったが、戦士の誇りが後退することを許さなかった。

「うぉおおりゃああああ!」

 気合い一発。光背の防御殻ごと腕を掴み、身体の筋肉を総動員してドナルドを放り投げた。行使した全身の筋肉の緊張が一瞬緩み、ふーっと息を吐き切ったその一瞬の隙をつき、ひときわ巨大な魔弾がスピッツの全身を打った。
 魔法を使う間もなく屋外の駐車場まで吹き飛び、停車していた車に背中から激突する。肺が片方潰れたのか、咳き込む度に血を吐いた。アスファルトを穿つ血痕、口の中には鉄錆の匂いが充満する。

「ふはっ! ふはははははは!」

 大音声で笑っていた。身体に力がたぎっていくのを感じる。周囲の空気がざわめきだした。グレアムの傍らに、2mをゆうに超える巨大な猛禽が待ち構えていた。

「ふはははは! ふあっはははははは!」

 全裸の魔法使いが、己が身一つを宙に浮かべて高笑いする。百人討伐だの、戦士の誇りだの全てが頭から吹き飛んでいた。スピッツを衝き動かすのは空を飛ぶ高揚感、闘争への渇望。
 死ぬかもしれぬと理性が言う。それでも動けと、吶喊せよと戦士の本能が叫ぶ。そしてスピッツは当然のように飛翔吶喊を選択する。
 グレアムの放った魔弾は、スピッツの鍛え上げられた肉体を翻弄し粉砕するには十分な威力があった。

 魔法で紡がれた死の猛禽が全裸を喰らうその瞬間、走り込む人影がひとつあった。無節操に飛び出た黒のツンツン頭、右手を真っすぐ突き出すシルエット。

 《幻想殺し》
 それに触れた瞬間、魔法は奇跡を失い、砕け散る。



 上条が聞き覚えのある笑い声に反応して駆けつけると、そこは魔法使いたちの世界だった。血まみれの全裸の姿、それに迫りくる巨大な透明の猛禽。
 足は自然と進んでいた。そして、上条はその魔法を右手で破壊する。

「上条どのっ!」
「これで貸し借りなしだ。スピッツ!」

 染血公主と戦った時は間一髪のところを助けられた。魔法消去が一般的なこの世界でも、『幻想殺し』は使いどころさえ正しければ恩を返すくらいには役に立つ。

「上条どの、前を!」

 振り向くといつの間にか眼前に拳を振り上げた巨躯の大男、ドナルドがいた。咄嗟に身体をひねり、肩で拳を受ける。骨がきしむほどの衝撃に数メートル後退するもなんとか倒れずにすんだ。

「おかしな魔法を使う少年。貴様も公館の刻印魔導師か」
「違うな。俺はそいつの、そうだな知り合いって奴だ。いいのか、これで2対2だぜ。飛び道具は絶対に俺が潰すし、殴り合いならスピッツがいる」

 ドナルドの誰何の問いに不敵な笑みで返す。非力な上条にできるのは『幻想殺し』での魔法潰しとハッタリくらいだ。歴戦の上級聖騎士とはいえど、無手で高位の錬金魔導師と接近戦をやるのは躊躇するはずだ。上条の存在も、得体の知れなさでは良い賭け札になる。
 これは命を張った賭けだ。札は純粋な実力という、魔法使いの賭場。足の震えを懸命にこらえる上条の隣にスピッツが立つ。汗と血の混じった鼻をつく臭いに、頭がクラクラして倒れそうだ。

「潮時だ。ここは退くぞ」

 アパートの住人が警察を呼んだのか、サイレンの音が近づいてくる。魔法の時間を終わりにする悪鬼の足音だ。聖騎士たちが魔法で転移していく。

「やべえな。俺たちもとっとと逃げないと。動けるか、スピッツ」
「無論だ。しかし、上条どのこそ大丈夫か」

 殴られた肩が痛むだけで、上条はほとんど無傷だ。上条はスピッツが自分の何を気づかっているのかわからなかった。

「なに言って……」

 言葉を発して、声が震えていることに気がついた。足にほとんど力が入らず立っているのがやっとだった。
 動けない上条の腕を、スピッツが支えて歩きだす。ヒーローのように助けに入ったはずなのに情けなさで涙がでてきそうだ。

「上条どのは戦うことに向いていないな」

 上条自身もそうだと思っている。なんで命があるのか不思議だった。この世界は上条には厳しすぎて、本当に向いていない。

「そうだな。俺はこんな風に、人を死なせたり、死んだりするかもしれない場所にくるのはもうたくさんなんだよ」

 上条当麻は、右手の『幻想殺し』を除けば、ただの高校生だ。ケンカは多少やれても、命のやり取りなんてとてもじゃない。

「それでも、俺は……」

 この《地獄》で無力さを突き付けられてもなお、上条には捨てきれないものがある。



 十崎京香は、もうすぐ日が変わろうという深夜、公館に駆けつけた。倉本家の捜索に出ていた刻印魔導師、スピッツ・モードが聖騎士と遭遇、交戦したと報告を受けたからだ。しかもその場には、戦場から遠ざけたはずの上条当麻もいた。

「状況はわかりました。今日はもう遅いですから、ここに泊まって下さい。職員用の仮眠室があります」

 会議室での聴取には上条の立ち回りが気になったのか、魔法学者の溝呂木も同席した。一方的な聴取による居心地の悪さは相変わらずだった。

「待ってくれよ。俺はてんで状況はわからないんだけど、なんでスピッツはあんなとこにいたんだ」

 京香の事務的な対応に、上条は食い下がった。先日エンド姉弟の死亡を伝えられたときのような、蚊帳の外に置かれていることに苛立っていた。

「あなたは公館の職員でも刻印魔導師でもありません。これからの暮らしには不要な情報です」

 公館は上条に普通の暮らしを約束してくれた。来週から通う高校も決まっている。上条の存在は公館にとって、もうすぐ片が付く問題だ。公館は無関係な人間に、わざわざ情報を流す組織ではない。
 ならばと、上条は今までのことから現状を推測する。この世界で体験したことを思い出していく。

「神和はたしか染血公主を追っていた。あとスピッツは神和が傍にいられないときに倉本の監視をする。そして今日現れた聖騎士。するとあの家は染血公主の潜伏先か、倉本に関係がある場所ってことになるけど、倉本と今日の出来事ってどれくらい関わってるんだ」
「私からは何も言うことはありません」

 京香の徹底した事務的な態度が、逆に上条に覚悟を決めさせた。
 武原仁はまるでヒーローみたいに、みんな守ると言った。京香もその冷たい決断が、結果的に多くの命を守ってきたはずだ。公館には上条よりも有能で信用できる大人がたくさんいる。
 それでも全てを拾いきれるわけではない。エンド姉弟は死に、スピッツも命を落とすところだった。上条がこの世界で知り合った人間の内、すでに二人が死んでいた。上条だけが他人のふり決め込んで、知り合いの死をあとから聞かされるなんてごめんだった。

 自分だけが不幸ならまだいい。だが、他人の不幸をそのまま見過ごすことだけは絶対にしたくなかった。

「俺は余所者だから、蚊帳の外でも仕方ないと思う。けれど、倉本のことを俺は他人のふりなんてできない。スピッツのこともそうだし、なんなら公館の問題も同じだ。俺がそうしたいから、そうするんだ。相手がどうだとか、情報が少ないとか関係ない」
「あなたの言っていることは偽善です。しかも最も性質の悪い。あなたはただ運がよかっただけで、行動が正しかったわけではありません」

 上条の決意は偽善だ。ヒーロー願望が捨てきれていないで、自己満足にすがり我を通そうとする。そしてより現実的な対処を行う公館のような組織の足を引っ張る。
 公館は偽善のために、戦うことを止めない幼い小学生を学校に通わせている。上条当麻は、その気になれば完全に戦いとは無縁でいられる。協会とも、神聖騎士団とも、おおよそどの魔法世界ともしがらみがない上条は、まっさらな状態で暮らすことが可能なのだ。
 上条は自らそれを拒否した。魔法使いと関わることを止めないと、公館の言うことに耳を貸さず、それでも自分勝手に突き進むと宣言したのだ。
 京香の言葉は自然ときつくなる。多くの命を使い潰し積み上げた死体の重さで国を守ってきた公館が、自分の命を軽く見積もる上条を肯定できるわけがなかった。

「魔法使いはあなたと違って、魔法の治療を受けることができます。それができないあなたは、致命傷を負ったら死ぬしかない。公館に余計な気を回す余裕もありません。あなたはその偽善に命を掛けられるのですか」

 スピッツ・モードは全身打撲を負いながらも、魔法で一日もあれば回復する。一方、上条は右肩を痛めて腕が上がらない。全身の傷に対する回復魔法の多くは対象の存在そのものに干渉することが多く、上条の右手は魔法の邪魔をする。
 魔法使いとの差が上条にのしかかる。自分の無力を思い知らされる。けれども、それにはもう慣れた。学園都市での無能力者の烙印、公館の余所者扱い。上条は自分の非力さに、状況の厳しさに絶望しない。身体が五体満足に動く限り、正しいと思ったことを、自分のしたいことを突き進む。
 例え命をかけることになっても、この決意は変わらない。

「それでもだ。俺は自分に嘘をつくことだけは絶対にできない」

 それが上条当麻の、《偽善使い》の生き方だ。




「彼は武原君に少し似ているな。眼の前の問題の全てを拾おうとして、しかもそれが拾えると信じている。いや、実際は信じていないのかもしれないな。だから、なんとかしたいと、ああやって突っ張るのだろう」

 上条がいた時にはほとんど口を挟まなかった溝呂木が口を開いた。しかも魔法についてではなく上条の人となりについての雑感だ。
 京香は付き合いの長い幼馴染だからこそ、仁の人柄がよくわかる。そして専任係官を束ねる事務官だからこそ、仁の実力も客観的に評価できる。

「武原係官は大人で、彼はまだ子供です。自分の実力と置かれている立場、対処できる問題の見極めくらいできます」
「はたしてそうかな。武原君もやはり無鉄砲なところがある。ただ彼より歳を取り、現実の苦さを知っていて、それを踏まえた無茶ができるだけのことだ。本質的なところは案外似ているかもしれないな」

 上条当麻と武原仁は似ているかもしれない。上条は異世界に放り出されてもなお、他人事で済ますことのできる問題に命を掛けて首を突っ込もうとしている。仁は刻印魔導師という過酷な運命を背負った少女に人殺しをさせることも、かといって見殺しにすることもできずに、自ら守り抜く決断をした。
 自分の生き方のために、他人を優先する。傲慢で身勝手な“悪人”ともとれる思想だ。

「溝呂木さんからそんな発言が聞けるとは思いませんでした。技術的なことしか興味がないものと思っていませんでした」
「観察対象の分析も、研究者の仕事だからね。カウンセリングとなると専門外だが」

 京香の皮肉ともとれる素直な感想に、溝呂木は心外だと言わんばかりに肩をすくめた。しかし、表情には一向に傷ついた様子もないから、その仕草はかえって不自然に見えた。

「彼はそうだな、ここにきたころの武原君にそっくりだよ。最も武原君は泣き言や偽善を吐く度に王子護に現実を突き付けられて死にかけていたがね。彼は案外モノになるかもしれないな」
「専任係官としての教育をするべきというのですか」
「人が生まれ持った性質というものはなかなか変えられない。魔法使いが仕える神を選べないようにね。彼も厄介事に首を突っ込むのを止められないだろう。死なせたくないなら教育するべきだな」

 なんのために話を続けているのかと思えば、結論はこれだった。溝呂木にとって上条は興味深い研究対象だ。荒事に巻き込まれないよう遠ざけるよりか、戦力として扱えるようにして、手元に置いておけと言っているのだ。
 いたずらに上条を死なせないという点では一致していたが、京香にはどうしても受けいれられない提案だった。

「公館は常に慢性的な人出不足ではありますが、彼のような、向いていない人間に仕事をさせるほど落ちぶれてはいません」

 武原仁も性格的にはこの仕事に向いていない。危ない橋を好んで渡り、いつ死んでもおかしくないやり方で仕事をしている。しかし、刻印魔導師を使い潰すことなく、5年もの期間専任係官を務めてこられたのは、魔法使いに対して切り札となる能力があるからだ。
 対して上条当麻の能力は、この世界では半端だ。魔法消去に似た能力、『幻想殺し』は《地獄》にやってくる高位の魔法使いにはほとんど通用しない。

 必ず死ぬとわかっている人間を、どうして戦いの場に駆り出せるというのか。




 そこは夕焼けのホームで、線路の向こうは半ば見慣れた街並みだ。学園都市のように高層建築や近未来的な建物はない。目立ったシンボルもなく、駅前以外は住宅街が続くだけのどこにでもある街並み。
 上条は先日聖騎士達と戦ったアパートの最寄り駅に来ていた。気になってなんとなく来てみたが特に得られるものがあったわけではない。当ても無くふらつくのは、よほどの幸運でもないかぎり無駄に時間を潰すだけだということを、身をもって知っただけだった。組織のバックアップも無く、個人で動いて得られる情報などたかが知れている。
 道を歩けば何がしかのアクシデントに巻き込まれるのが上条当麻という人間で、今回もそれを当てに情報を期待していたのだが、幸か不幸か何も起こらない。

「そう簡単に何か起こる訳ねえよな。たく、こういうときだけ鳴りを潜めるんだよな、俺の不幸は」

 嘆息して、あたりの人影がまばらであることに気づく。都心でも人が途切れる時間は確かに存在し、そこには魔法使いのような不思議なものがまかりとおる。
 ふと、視界の端に見知った後ろ姿があった。栗色の髪、瑞希と同じ高校の制服、倉本きずなだ。きずなはただ茫然と一点だけを見つめていた。視線の先には見知らぬ男、黒褐色の長髪を後ろでまとめた灰色の瞳の中年男性が立っている。

「おーい、倉本」

 きずなは声に反応してびくっと身体を震わせ、こちらを振り向く。その顔はまるで幽霊を見たかのように驚いた表情で固まっていた。

「上条、くん?」

 きずなが二の句をつなぐ前に、優しく落ちついた声音がすっと割り込んだ。

「君は、きずなの知り合いかい」

 きずなと話していた男だ。
 男は遠目からみると冴えない風体だったが、その灰色の瞳は繊細かつ力強い。どこか職人めいた雰囲気を醸し出している。中年男性と制服の女子高生とは、なんだが不穏な組み合わせで、自然と上条は警戒してしまう。

「ええ、まあ。そちらさんは?」
「お父さんなんだ。ちょっと一緒にでかけなきゃいけなくて」

 男に変わってきずなが答える。
 似ていない親子だというのが上条の率直な印象だった。けれど、きずなはとまどいつつもおびえているわけではない。信用している様子が見て取れる。だが、きずなの父親だという男の雰囲気は異様な緊張を放ち、上条を落ちつかなくさせる。
 意味も無く、首筋を汗がつたった。どうしようもなく、嫌な予感がした。

「きずな、もう行こう」
 
 ホームに、都心から郊外に向かう下り電車が滑り込んできた。きずなの父親を名乗る男が、娘の手を引き電車に乗り込む。

「ごめんね。大丈夫だから、武原さんにも後でちゃんと連絡するから」

 きずなは初めて会った時に見せた、取りつくろうような笑顔で、上条に手を振った。
 上条はその場を動けずにいた。別に不自然さなんてない。ただ漠然とした不安だけが、心の奥にわだかまりを残す。

「何にもないならそれでいい、家族なんだから。一緒に出かけるなんてよくあることだ」

 きずな達が車両の奥に消え、ホームに発車を告げるベルが鳴る。
 仮に上条がいなくなっても、この世界とここで紡がれる物語は、問題なくまわっていくだろう。物語の主人公は上条当麻のような異世界からきた無力な少年なんかではなく、それこそ武原仁のような、ヒーローみたいな大人がふさわしい。
 だが、この場にいることに、もし、何か意味があるのなら。この物語ではヒーローのようには振る舞えなくても、とどまることで何かが起こせるのだとしたら。

 衝き動かされるままに《偽善使い》は選択する。
 ここが、分水嶺だった。



[26217] ‐10‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:4977a5fb
Date: 2014/04/29 01:16
「ほんのちょっとだけ、神様におねがいをして、そしたらみんなでしあわせに暮らそう」

 揺られた電車の中で、父はそういった。きずなの魔法には過去をやり直す力があると。彼女は新米でも魔法使いだから、本当にそれができると知っていた。世界を一冊の本として認識する彼女の魔法は、そこに記された文字を操ることで過去を書き換える。
 きずなは過去をやり直したいとは思っていなかった。しかし父親がそう言うのなら、やったほうがよいのだろうと、優しい彼女はぶつかることを選ばなかった。

 大系の違う魔法使いの親子はもう、同じ世界を見てなかった。

「お父さんとお付き合いさせてもろてます、ジェルヴェーヌ・ロッソいいます」

 辿り着いた駅のホームで、和服姿の女性は父と付き合っていると言った。うれしいような複雑な気持ちでいると、その女の人は父の胸元にすっとおさまった。
 その手に持った青みがかったペーパーナイフが、父に胸を貫いていた。

「ほんま、今まで、ご苦労さんな」

 父親がよろめいて、もたれるように駅舎のドアに倒れ込む。開いた扉の中には、血まみれの駅員たちで一杯だった。
 混乱する頭で、なんとかしなくちゃという思いで父親に駆けよろうとする。その手をジェルヴェーヌに抑えられ、声にならない悲鳴だけがあふれてくる。
 魔女の手からゆっくりと流れるように抜かれた日本刀が、父親の身体を真っすぐに斬りおろした。
 きずなの大事な家族が、血を吹き上げながら駅舎の奥に消えた。後を追おうとしたが、扉はたったいま父親を斬った魔女の手で閉ざされた。
 速くなる心臓の鼓動とはうらはらに、頭だけが冷静で、これはどうにもならないと告げていた。

「倉本ー!!」

 意識の遠くで、少年の声が聞こえた。魔法を見ることができても、使うことができない少年の声。きずなと同じように、突然新しい世界を突き付けられて、しかし全く別の道を歩くであろう少年。

「ああこれは予想してなかったはな。けれど、今はあんたにかまっている暇はあらへん」

 ジェルヴェーヌがどこか楽しそうに口の端をゆがめた。自分は、とっくに戻れないところにいたのだ。助けにきた少年の、差し出されたその右手はもう届かない。

「《染血公主》ジェルヴェーヌ・ロッソが名づく。扉を《龍門》と定義、保持済み概念《噴井》と加算、変数域に《塔前》を代入」

 開かれた駅舎の扉に広がるのは屍の山ではなく、風景を切り取ったかのような夕暮れの山林だった。
 そこがどういう場所で、自分がこれからどうなるのか、何を望んでしまっているのかわかってしまった。

 羞恥に顔を手で覆った。

 彼女は魔法という奇跡の力で世界に欲望を押し通せる。それが、どんなに傲慢で多くの人を巻き込んでしまうのかわかってしまった。過去をやり直したいという願いは、助けてくれた人たちに対する裏切りだった。

 それでも、彼女は、魔法に、奇跡に願いを託さずにはいられなかった。電車の中で弱々しく語りかけてきた父もこんな気持ちだったかと思うと自然に涙があふれた。

「倉本!!」

 出会ったとき、不安だったきずなを励ましてくれたのは、彼と瑞希だ。魔法でなくとも願いは届くと言ってくれた。奇跡が焼かれる地獄でも、気持ちまで消えてしまう訳ではないと言ってくれた。

 しかし、それでも。

「ごめんなさい」

 しかし彼女は、どうしようもなく魔法使いだった。翼を使い望んだ場所まで飛べるというのに、今さら空をあきらめて地べたを歩くことなんてできない。

「本当に、ごめんなさい」

 魔法はかくも残酷に、魔法使いを試す。



 嫌な予感に衝き動かされて、上条はきずな達の後を追って電車に乗り込んだ。電車に揺られ辿り着いた終着駅で、その惨劇は起こった。
 駅で待っていたのは染血公主で、上条がホームに飛び出した時にはきずなの父親は青いナイフのようなもので刺されたところだった。

「倉本!!」

 取り乱す彼女の隣で、染血公主が日本刀を抜いた。きずなたちとの間にあるこのわずかな距離が、ひどく遠く感じる。
 染血公主が彼女の父親を斬りおろし、駅舎の扉の向こうに追いやった。
 走ってくる上条の存在に気づいたのか、染血公主が口の端を歪めて嘲笑っていた。そして駅舎の扉を閉め、魔法を行使する。
 開かれた扉の向こうには先ほどとは打って変わって山林の風景が広がっていた。上条はそれが魔法によるもので、そこにきずなを行かせては絶対に駄目だということを直感した。

「うおおおおお!!」

 叫んで必死に右手を伸ばす。その手はいかなる幻想も打ち砕くが、きずなのところまで鳥のように速く飛ぶこともできず、上条の二本の足はもつれ、地べたを転げまわる。

 魔法使いであるきずなと上条の、これが本当の差だと突き付けられたようだった。

 扉の前でこちらを向いた彼女の涙でゆがんだ顔の唇が、こう動いた気がした。
 
 ごめんなさい。

 魔法に目覚めて、誰かをほんの少ししあわせにするような小さな奇跡を起こしたいと言っていた優しい彼女が、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、謝る必要なんてどこにもないのに、彼女は嫌でも助けてでもなく、ごめんなさいと言った。
 悔しさと怒りに頭が沸騰しそうだった。こんなこと、納得できるはずがなかった。

「それで、いいはずないだろう。こんなのいいはずねえだろうが!!」

 上条の伸ばした右手は届かず、きずなは染血公主に背中を蹴りだされ、扉の奥に消えた。
 ようやく追いつき閉まった扉に右手が触れて、奇跡が潰える。一縷の望みを掛けて開いた扉の奥には、血に沈んだ死体の山が転がっていた。
 自分への怒りを抑えられず拳を壁に叩きつけた。

「くそっ。俺は、結局こんなざまかよ。ほんとに何の役にも立ってねえじゃねえか」

 辺りに充満する血の匂いすら気にならなかった。それほどに自分の無力さが許せなかった。
 倒れているきずなの父親に近寄る。染血公主の一撃は傍から見ても致命傷だった。身体は周りに倒れている駅員と同じ様に血だまりに沈んでピクリとも動かない。
 せめて状態を確認しようと、倒れたきずなの父親の身体を仰向けに直そうとする。
 なんの気なしに右手が触れた。その瞬間、確かに血液を流し体温を持っていたその身体が、弾き消えた。

 一瞬の困惑のあと、ゾッとした。これは魔法で偽装されたものだ。では本人は、倉本きずなの父親はどこにいったのだろう。
 死体に刺さっていたナイフに手を伸ばそうとして、背後から声がかかる。

「きずなを助けたいなら、それには右手で触れないことが懸命だよ。流石に神人遺物を破壊できるとは思わないけど、まあ念のためにね」

 手が止まった。考えたくなかった疑念がふつふつとわき上がってくる。返す声が震えていた。そもそも、何故この男はわざわざ死体を偽装したのか。染血公主をだますためにしては、何かが変だ。

「あ、あんたは、なんでそんなところにいるんだよ」

 ナイフを左手で拾い上げ、声の主を見る。身体に傷一つないきずなの父親がいた。

「説明は必要かな。魔法使いでも、悪鬼でさえない少年」

 娘がさらわれたというのに随分落ち着きはらった様子だった。突然のことに呆けていた頭が、怒りを取り戻す。

「あたりまえだ。あんたは倉本の父親なんだろ。どうして彼女を染血公主にみすみす渡したんだよ」

 言いながら、上条は現在の状況を整理してみる。きずなの父親に対する怒りも、自分の無力さへ怒りも、決して消えたわけではない。けれど怒りに囚われたままでは、もっと大事なものを失う。
 ヒーローみたいな大人、武原仁は大事なものを守りたいなら向いていなくても迷っていてもやるしかないと言った。
 上条がここにいることで、もし何かが変わるとしたら、絶対に無駄にしてはいけない。
 きずなの父親は上条が先ほど右手で触れようとしたナイフを神人遺物と言った。死体を偽装したにも関わらず現れたのはこれが目的だろう。だが、もともとこれは染血公主が持っていたもので、大事なものなら使い捨てに使うはずがない。

 導かれる結論は、一つだった。この男は、染血公主とグルだったのだ。

「きずなには役割があるんだ。きずなが《幻影城》の扉を開き、そこに聖騎士が現れ役者が揃えば三千年前のバベルの舞台ができあがる」

 わからない言葉だらけだが、きずなは《幻影城》とやらの扉を開くために連れていかれたのだろう。きずなの扱う再演大系は《協会》が最高の魔法大系の一つに数える強力なものだと、以前スピッツが言っていた。染血公主も聖騎士もこの男も、きずなが引き出す魔法が目的なのだ。

「バベルの舞台には、神の降臨さえ可能な完全索引《神の辞書》が現れる。索引型の魔法使いなら、そこでどんな魔法さえも手に入れ、奇跡を起こすことが可能になる」
「じゃあ、あんたは、あんたの目的は望んだ魔法を手に入れるってことなのか」
「私はその《鍵》を使って幻影城に入り、魔法を手に入れ、願いを叶える。役者ではない裏方が勝手に舞台に上がるのはルール違反だろうけど、それでも舞台は十分に成立するんだ」

 上条の持っているナイフの正体は幻影城の出入りを自由にする《鍵》だ。これを使えば、さらわれたきずなを助けにいくことも可能だろう。だが、上条は《鍵》の使い方を知らないし、幻想殺しのせいでそもそも真っ当に使えるかもあやしい。
 《鍵》は幻想殺しを使えば壊せるかもしれない。それで、眼の前の男の目的は崩れる。しかし、それをしてしまうと、きずなを助けにいくことができなくなる。
 上条に《鍵》は壊せない。この男はそれを見越して、上条にことの真相を語ったのだ。

「状況はわかったかな。おとなしくそれを渡してほしい」

 きずなの父親はそう言うとポケットの中から金属製のカスタネットのようなものを二つ取り出し、その一つで手近にある壁を叩いた。カンっという短い音と共にコンクリが吹き飛び中の鉄筋がむき出しになる。続けてもう一方の楽器で鉄筋を叩く。金属同士がぶつかる甲高い音とたわむような余韻を響かせ、鉄筋が薄ぼんやりとした光に包まれる。同時に轟という音をたてて、辺りの気温が一気に冷え込んだ。冷気が走り、吹きだす白霧が視界をふさぐ中で、男がそれを掴んで振り回す。壁の鉄筋が赤熱する細剣に姿を変え男の手に納まっていた。

 音を媒介に魔法を引き出すのは聖騎士と同じ、神音大系の魔法だ。これが自然の因果の順序を無理矢理曲げて目的を達する概念魔魔術と呼ばれる高等技術だということを、上条は知らなかった。

 ただ自分が窮地にいるということと、《鍵》を渡してはいけないことだけは理解していた。

「本当はもっと色々準備したかったんだけどね。君のおかげで台無しだよ」

 十分な準備などなくても、魔法使いは簡単に上条のことを殺せる。だから、上条のとれる選択肢など決まっていた。

「そうかよ、そいつは残念だったなあ」

 きずなの父親に背を向けて、全力で駆けだした。
 上条に《鍵》が扱えないなら、公館の人間に頼るしかない。なんとか公館に連絡を取り、《鍵》を渡す。それが第一目標だ。

 ホームの端が見えたところで、カンっと金属の打楽器が打ち鳴らされる音がした。反射的に右手を後ろに差し出す。
 パンっと何かが弾ける音がして、衝撃が分散した。音が鳴れば魔法がくるタイミングもだいたいわかる。そして幻想殺しなら、どんなものでも触れればほとんどの魔法を破壊できる。

 ホームの端から外に飛び出す。郊外の終着駅は、もともと人影も少なく裏手も山だ。人ごみにまぎれて逃げることもできないから、魔法で攻撃される危険があっても遮蔽物の多い山に向かうしかない。

 山道を走りながら後ろを振り返り相手の姿が見えないことを確認して、木の陰に身を寄せる。ナイフをズボンのベルトに間に挟んで携帯電話を取り出して画面を確認する。山の浅い場所だからか、かろうじて電波が入っていた。数少ない登録してある番号から公館を選択してコールする。

「頼む。頼むから早く出てくれよ」

 祈るような思いでいると、数メートル先に突然すうっと人影が現れ、こちらを向いた気がした。
 見つかったと思った。
 弾かれたように木の陰を飛び出していた。同時に耳に当てた携帯電話から、声が聞こえてくる。

「よし、つながった」

 手にした安堵を嘲笑うように、唐突に、真横から衝撃が襲った。天地が逆転し地面に身体が叩きつけられ、その拍子に携帯電話が手から離れる。

「なんでだよ。もう回り込まれたのか」
「化身だよ。君が駅で見た魔法の、発展型みたいなものだね」

 痛みを堪えて立ち上がると、人影が二つ近づいてきた。片方はうっすらとまるで影のように実体がない。これが上条の後ろに突然現れた者の正体で、隠れていた上条の動揺を誘った。そして何も知らずに飛び出したところを本人が魔弾で攻撃したのだ。

「なあ、最後に一つ聞かせてくれ」

 このままでは死ねない一心で、口を開く。純粋な実力で届かないのだから、《偽善使い》は言葉を紡いで時間を稼ぐしかない。

「倉本は、その《幻影城》で、バベルの舞台ってのが終わったらどうなるんだ。あんたは倉本がその役割を終えたら、どうするつもりだ」

 舞台を成立させるにはきずなの存在が不可欠だ。だから、染血公主や聖騎士達が目的を達成するまでは生きていられる。
 だがその後にどうなるのか、魔法使いの世界を体験した今では容易に想像できてしまう。けれど、確かめずにはいられなかった。

「…………」
「答えろよ。あんたは、倉本のことを、娘を見殺しにする気か」

 相手の沈黙が、きずながその後にどうなるか、雄弁に語っていた。助けるつもりが無いからこそ、この男は娘の前で一度、死んで見せたのだ。

「染血公主も聖騎士達も、用が済んだらきずなを殺そうとするだろうね。強大すぎる力を持つ、呪われた再演の魔導師を生かしておこうとは、だれも思わない」
「あんたは、それでもあの子の親なのかよ」

 なけなしの勇気と怒りを振り絞って、上条は前に突っ込んだ。腕を振り上げ、男の顔面を狙う。
 幻想殺しで消される可能性を察したのか、化身が後ろにさがり、本人が細剣を構え上条を迎え撃つ。例え一撃をかいくぐられたとしても、今度は無防備になったところに化身の攻撃を叩き込む算段だ。
 男が細剣を引く。突き出される動作を読んで、上条は一気に身体を沈めた。
 本当の目的は、男の前に落ちた携帯電話だ。はじめから、こちらの攻撃が通じるとは思っていない。
 虚を突き携帯電話に手を伸ばした上条の眼の前に剣が落下した。地面の携帯電話はあっけなく貫かれた。剣を引いた動作はフェイントで、初めから上条の狙いは読まれていたのだ。

「残念だったね」

 間抜けにも、無防備に地面を這う格好になった上条の体が、男に蹴りあげられる。倒れた上条に、きずなの父親が細剣を突き付ける。
 口元の血をぬぐい、上条は懸命にこの状況を打破する手段を考える。
 いちかばちか、剣を右手で受け止めて破壊するしかない。魔法で作られたものなら、少しでも異能の力が関わっていれば壊せる可能性がある。

「君の右手は魔法に干渉しているのだろうけど、これは魔法で精錬されただけの普通の鉄剣で、手で受け止めても無駄だ。もういい加減にあきらめてくれ」

 単なる不幸では片づけられない、死という理不尽がすぐそこに迫っていた。《鍵》を奪われれば、きずなを巻き込む運命の歯車は止まらない。
 事態はすでに、どうにもならないところまできていた。

「こんな終わりはあんまりだろ。俺は不幸で終わってもいい。けれどこの世界や倉本まで不幸になる物語なんて、納得できるかよ」

 理性では詰みだとわかっても、このまま終わりたくないという感情が、最後までくすぶっていた。
 
上条の右手が、突き付けられた細剣を掴んでいた。その細剣は《幻想殺し》では破壊できない現実で、上条の命を奪うものだ。だから、右手は刃に傷つき血を流す。

 歯をくいしばり上条は立ちあがる。このままあきらめるなど納得できなかった。決めたことだ。ここがどんな場所であっても二本の足で地面を踏み、この拳に力が込められる限りは進み続けると、他人事にできないとのたまって、まわりのことを顧みることなく行動していくことを選んだんだ。
 勝手に行動して、勝手にあきらめたら、自己満足で終わるだけの、本当に最低の《偽善使い》になってしまう。

 そんな格好の悪いことができるわけない。

「あんたがどんな願いを叶えようとしているのか知らないけれど、そうまでして叶える必要があるのかよ。親子なんだろ」
「ここじゃない遠い場所へ、奇跡は本当にあると、そう信じて、あの娘が魔法を使えるようになるまで十七年間やってきた。今さら迷いはないよ」

 この男は上条が生きてきた以上の時間をかけて、この日を迎えた。その覚悟の程を、上条は推し量ることなんてできない。
 上条は魔法使いと悪鬼、そのどちらにも属すことのない存在だ。生き方も、拠って立つ信念も、何もかもが違っている。

 自分が場違いな場所にいることは自覚していた。

 言葉は無意味かもしれない。この右手は、誰にも届くことなどないのかもしれない。けれど、それであきらめていいはずがない。例え無力だとしても、倉本を、この世界の問題をなんとかしたいという気持ちが消えてしまう訳ではないのだから。

 だから、《偽善使い》は言葉を紡ぎ、《幻想殺し》の宿る右手を強く握る。

「倉本は、あんたに魔法を褒めてもらって嬉しかったって言ってたんだ。あんたのことを信じていたんだ。そんな信じる家族を裏切ってまで叶えなければならない願いなんて、どんなものであっても正しいはずがない。間違っている。だから、俺はあんたを絶対に認めない。俺は絶対にあんたを否定してみせる。あんたがどうしてもあの子を犠牲にしてまで願いを叶える必要があると思い込んでいるっていうなら」

 これは相手にぶつけるためでもない、自分のための言葉だ。ヒーローになんかなれなくても、残酷な世界に、無力な自分に、それでも納得いかないと突きつける。精一杯足掻いても、それでも自己満足に終わるだけかもしれない、ただの“偽善”を吐きだす行為。

 けれども、どうしようもない現実を、その全てを幻想にしてみせるために、上条はあえてこの言葉を世界に叩きつける。

「まずはそのふざけた幻想をぶちこわす!!」
 

 神なき《地獄》で奇跡に見放された少年は、それでも戦うことを選ぶ。
 その右手で残酷な世界の横面をぶん殴るために。




[26217] ‐11‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:4977a5fb
Date: 2014/04/29 01:25

 
 倉本慈雄の細剣が突き出される瞬間、上条は右手を手放した。一歩間違えれば指が千切れ、ついでに命も失うこと可能性もあった一瞬を読み切り、相手のふところにもぐり込む。
 密着してしまえば、相手は剣を振り回しにくくなる。
 ここが、魔法使いと対抗できる距離だ。
 右手を相手の顎に向かって突き上げる。奇跡も宿らないただの拳だが、上条にはこれしか頼りになるものがない。
 上体をそらされ、拳がかわされた。またか、と舌打ちしたくなる。この世界についてから、上条の拳はまともに届いた試しがない。
 男の反撃の左拳が上条の肝臓に突き刺さった。
 息がつまって動きが止まりそうになる。実力で劣っているのは百も承知だ。使えるのはこの身体一つだけなのだから、全身でがむしゃらにぶつかっていくしかない。
 手ごわい敵とはまず距離を取ると、確か瑞希が言っていた。もっとも彼女は勉強から距離を取ろうとしていたなと、場違いなおかしさが込み上げる。

 距離をとっても意味が無いことがあるのだ。
 だから上条は、ただ歯を食いしばって、男の下半身に組みつき、そのまま押し倒した。
 勢いそのままに、山の斜面を男ともつれながら転がっていく。初めて魔法使いと戦ったとき、こんな風に吹き飛ばされた。力を持つものとの差を突き付けられた、あの山中でのことだ。

 その時から、上条の力は何一つ変わっていない。けれど、身体はすくむことなく動いてくれている。心が折れていないから、戦うことができる。

 ようやく停止したとき、上条は男の上をとっていた。引き寄せたチャンスを逃さないように拳を打ち下ろす。
 拳はまたも届かなかった。男の手が、上条の手首を掴んで阻んでいた。
 男が身体を跳ねながら掴んだ腕を振った。体勢を崩した上条は、一人で地面に投げ出される。
 起き上がると同時に右手を前に突き出した。それは、ただ勘にまかせただけの動作だったが、飛んできた魔弾を一つ破壊した。
 直後に衝撃が頭を打ち据えた。続けて攻撃の前触れとなる音も無く、目に見えない衝撃が、上条の全身を襲う。地獄で戦う魔法使いは悪鬼に観測されることのない、感覚の死角を衝いた攻撃が得意だ。戦闘の素人である上条が反応できるはずがない。

「ははっ」

 額が割れ、血が口元までつたってきたというのに、上条は意味も無く笑っていた。ガタガタになった足は、それでも地面に踏みとどまってくれている。
 戦いと空を飛ぶことになると笑いが止まらなくなる全裸のスピッツのようだった。
 何故かいまさら、関係のないことなのに、この世界でのことを次々と思い浮かべていた。走馬灯のようで縁起が悪いが、嫌な気分にならなかった。

 ここは地獄だ。上条当麻に奇跡は起こらない。上条当麻はただの無力な《偽善使い》だ。
 だが、まるで魔法みたいに、力が湧いてくる。
 奇跡に届く手段が無くても、自ら道を選らんで、進むことができる。そして短い間だが背中を押すには十分な、いくつもの出会いがあった。
 初めは戸惑うばかりで、何がなんだかわからなかった。魔法使いはこちらの常識では測れない存在で、どうしようもなく振り回されるばかりだった。

 だがこの《地獄》で、魔法使いの生き方と魔法に託す願いにふれた。
 そして、魔法使いに関わるこの世界の人の決意を聞くことができた。
 でも、少しだけだ。だから、もっとこの世界に関わっていたいと思えた。
 そのためにも、上条はここで退くことなんてできなかった。自分がどうして、こんなに意地を張っているのかわかった気がした。
 せっかく特別な世界にいるというのに、何もしないままで、関わることを放棄するなんてもったいないと思った。
 自分が無力だとしても、チャンスがあるのならば、上条は手を伸ばす。その手がいつかどこかに届くと信じて、魔法使いが魔法を信じて願いを託すように、上条当麻はこの右手と自分自身に願いを託す。
 それしかできないことを、上条当麻は十分に思い知った。

「ほんとに、俺ってはた迷惑な存在なのかもしれねえな」

 迷惑で身勝手この上なく、周りのことを無視して、自分の願望を優先しているだけかもしれない。
 それでも、上条当麻は進むことを選んだ。

 奇跡なんていらない。
 この身体一つで十分だ。それで上条当麻は世界と対峙していける。

 その思いに、地獄で応える神などいない。だから、この状況で上条の身体を支えた者は、実体を持った確かな存在だ。
 その手は力強く、その身体はたくましく、その正体は不幸続きの上条がこの世界で出会った、ただ一つの幸運だ。

「そこまでにしてもらおうか、倉本慈雄。いや元神聖騎士団団将、マルク・フェルゼー」

 全裸が正装の錬金魔導師、スピッツ・モードが上条の傍らに立っていた。

「公館の刻印魔導師か。もう追いついてきているとは意外だね」
「倉本きずなを監視していたところに貴様が現れた。瞬間的に脱衣したら悪鬼の駅員に阻まれてしまったものの、方向がわかれば空を飛んで追うことなどたやすい」

 きずなたちと上条たちの電車が出た後に、駅員と全裸の壮絶な攻防が繰り広げられたと思うと、なんだかおかしな気分になった。

「錬金魔導師が服を着るなんて、考えてもみなかった。戦士としての誇りは故郷に置いてきたのかな」

 地獄に落とされた錬金大系魔導師にとって最大の皮肉だ。しかし、スピッツは熱くなることもなく、冷静に慈雄を見ていた。相手の実力を測ろうとする戦士の眼だ。

「上条どのが無事でなによりだ。途中何度か悪鬼に観測され墜落しかけたが、地獄で空を飛ぶことに関して拙者の右に出る者などいない。公館にも事態は連絡済みだ。幻影城の扉の出現地点には《魔獣使い》どのが、こちらには《沈黙》が向かっている」
「そいつはまずいことを聞いたな。公館の塵殺悪鬼、中でも《沈黙》は流石に怖い」

 《魔獣使い》と《沈黙》。公館の専任係官は魔法使いが畏怖する地獄の恐怖の象徴だ。だが、倉本慈雄はそれを相手にする覚悟はとっくにすませたとばかりに、動じた様子を見せない。
 スピッツが来ても事態はそこまで好転したわけではなかった。倉本慈雄は並みの魔法使いではない。かなりの実力者だ。

「上条どの、ここはおまかせを、早くそれを持って逃げてくだされ」
「そんなこと、できるわけないだろ! 俺はあいつをぶん殴る」

 助けてもらってばかりで中途半端な覚悟の自分はもういない。これはもう自分で選んだ、上条当麻の戦いなのだ。
 どっちみち相手が上条をすんなり逃がしてくれるはずもない。本当なら上条が慈雄を足止めして、《鍵》を使えるスピッツが幻影城に逃げるのが一番だが、上条が真正面から一人で戦っても時間稼ぎにもならない。
 時間が経てば《沈黙》という専任係官もくる。その正体を上条は知らないが、公館の専任係官がこの《地獄》では、どんな強力な存在なのかはわかる。
 ただ時間を稼ぐだけでいい。ヒーローならかっこよく敵を倒し、颯爽とヒロインを助けにいくところだが、上条には役者不足で、そんなことできないとよく知っている。
 だが、ヒーローなんかじゃない《偽善使い》でも、貫きたい意地がある。

「ふははっ、ふはは。上条どのも、ようやく“魔法使いらしく”なってきましたな」
「スピッツ、何言ってんだ。俺はただの無力な《偽善使い》だ。魔法なんか使えない。毒にも薬にならねえ言葉を吐いて意地を張るだけのただの馬鹿だよ」

 ここが学園都市とは違う特別な世界だから、自分まで特別になったように錯覚していただけだった。もともと上条は、右手の《幻想殺し》を除けばただの普通の高校生だ。
 気づいてしまえばたいしたことはない。上条当麻は奇跡も超能力も使えない無能力者だから、いつも出来ることなんてひとつしかない。

「けどな、助けたいやつがいて、ぶん殴りたいやつがそこにいる。なら、やることは一つだろ。これは俺みたいな馬鹿でもわかる。迷う必要なんて何もねえよ」

 身体にはまだ力が入る。《鍵》はまだ手元にあって、倉本を救える可能性はまだ残っている。
 スピッツが上条の横に並ぶ。上条が一人だったら、こんな可能性はなかった。上条の代わりにスピッツがいても、一人ではやはりどうしようもなかった。
 二人がこの場にいるから、運命が変わるきっかけをつかめる。

「拙者は上条どののような戦いに足る力と精神を持たないものを戦場に駆り出すことは、義のために戦う者の道理に反すると思っていた。戦場には真に戦士足り得る者だけが立てばよいとな」

 スピッツが感慨深げにつぶやく。そして全裸の戦士は、この《地獄》で共に戦う覚悟を持った者の存在がいる喜びに、心を震わせた。

「しかし、上条どの。今のそなたはもう、立派な“戦士”だ」

 スピッツは両手を広げて身体を低くし、全身に力をみなぎらせる。上条は拳を握り込み、あたりに視線を巡らせる。致命的な魔法をこの右手で叩きつぶせなければ、二人の命はあっけなく散る。

「君たち二人で止められると思っているなら、舐められたものだね」

 慈雄が静かに細剣を構え、スピッツと上条を見据える。再演のバベルの裏側で、本来はありえなかった舞台ができあがった。
 倉本慈雄は積みかさねた時間に込めた祈りと、願いを叶えるために剣を取る。彼の本来の舞台はここではないとばかりに、その瞳は遠くを見つめていた。

「元神聖騎士団団将《慈悲深き剣》マルク・フェルゼー。残念だけど、君たちとの戦いに時間を掛ける暇は、もうない」

 スピッツ・モードは、己が誇りと責務を果たすためにその身を晒す。戦いを前にして、心の底からあふれる歓喜に全身を震わせた。ここが、戦士の晴れ舞台だ。

「戦士の作法にのっとり名乗らせてもらおう。錬金大系魔導師、スピッツ・モード。推して参る!」

 上条当麻は、ただ意地を通すために、その拳を握りしめる。わずかな可能性を掴み取るために、彼は自らの意思で舞台に立つことを選んだ。

「俺は魔法使いでもなんでもねえただの上条当麻だ。だがな、お前だけはぜってえぶん殴る!」

 一人の少年の存在のきっかけに、物語は神様すら思いもよらない方向にまわりだす。幻想などない、厳しくも荒れた舞台で、それでも役者たちは願いを、祈りを込めずにはいられない。




 魔導師公館は《大気泳者》スピッツ・モードからの報告を受けて、すぐに動き出していた。
 惨劇のあった駅に設置された監視カメラには、例の少年、上条当麻が映っていることが確認された。その手に神人遺物の《鍵》を持っていることも判明している。相手は染血公主か、または倉本きずなと一緒にいるところが目撃された倉本慈雄だと予想された。
 現地のスピッツ・モードから、その後に連絡はない。そのまま交戦に入ったのだろう。専任係官《沈黙》はすでに現場に向かっているが、現場に到着するころには、《鍵》もなく死体が二つ増えているだけだという状況が十分にあり得た。
 上条当麻というただの少年を巻き込んでしまっていることも、専任係官に酷な現場に行かせることにも、京香は苦い思いで、胃が痛くなる。
 ただ上条当麻の存在をきっかけに、公館は聖騎士や染血公主に先手を打てる可能性を得られた。
 後悔しても事態の進行は止まらないのだから、打てる手を全て打つしかない。それが、魔導師公館という、大人の組織を預かるものの責任だ。

「…………」

 公舘の会議室で神和瑞希はいつにも増して不機嫌そうだった。《沈黙》はとっくに出動したというのに、瑞希は出動に待ったをかけられていた。瑞希と一緒に攻撃要員に選ばれたもう一人の男がまだ到着していないのだ。

「……もういい、わたし一人で十分……だから……」

 本当はすぐにでもきずなを助けに行きたかった。きずなは彼女にとって初めての友達なのだ。なにより、攻撃要員に選ばれたもう一人の男のことを、瑞希は好きではなかった。しかも、その男は共闘には絶望的に向いていない。

「今回は敵の抹殺だけでなく、染血公主と聖騎士が仕組んだ再演そのものを崩す必要があります。もうしばらく待ってください。溝呂木さん、例のものの準備はできましたか」
「《茨姫》の力も手伝って、ものの準備はすぐできたが、十崎君も無茶を考えるな。幻影城は神人が残した最大級の魔法遺跡だぞ」

 いつも率先してとんでもないことをやらかす溝呂木が珍しく苦笑いをしていた。それくらい京香の提案した作戦は、無茶なものだった。

「だからこそです。再演を止めるには、舞台そのものをひっくり返す必要があります。徹底的に破壊するには、この方法を使うしかありません」

 幻影城で行われようとしているものは歴史を書き換える大規模な魔法儀式だ。それは生半可な力では止めることはできない代物だが、幸いにも公館にはこういった舞台をひっくり返すことが得意な専任係官が何人かいる。

「しかし荒っぽい方法なのは確かだ。倉本きずなの救出はどうするんだね」
「首尾よく《鍵》を確保できれば、それを使うのが一番ですが、それが叶わないときは捨ておきます。我々の目標は幻影城で行われる再演の阻止、ならびに敵対魔導師の抹殺です」

 組織の論理は非情だ。常に第一目標が優先され、あとは二の次、三の次になってしまう。だが裏を返せば第一目標を達成することができさえすれば、現場の手段はいくらでも正当化できるということでもある。きずなを助けるついでに、再演も無茶苦茶にしてしまえばいいのだと、瑞希は静かに決意をつぶやく。

「……きずなは、私が絶対に助ける……から」

 瑞希の不穏な考えを察しつつも、京香はそのことにあえて言及はしなかった。現場の士気が上がることは結構なことだし、専任係官をがんじがらめに縛ることに意味はない。

「そろそろ彼が到着する時間ですね」

 会議室の扉があけ放たれ、公館の切り札、最悪の専任係官が姿を現わす。
 神和が口を紡ぎ、目をそらす。この男の前で魔法使いは声をあげることさえ命とりとなる。

「待たせたね。さあ主役の登場だ」

 キザな仕草とシャツを無駄に肌けたアホまるだしのこの男の名は《破壊(アバドン)》八咬誠士郎。
 その名は悪鬼とは異なる、もうひとつの、すべての魔法使いの悪夢。

 幻影城第一次攻撃部隊。
 専任係官《魔獣使い》神和瑞希、《破壊》八咬誠士郎。
 彼ら専任係官は、敵対する魔法使いを鏖にするまで止まらない。その力を持って、地獄の恐怖の象徴としての存在を示す悪鬼たち。ここは魔法使いにとって、どうしようもない地獄だ。




「ふはっ。ふははははははっは」

 スピッツは笑い、地面をすべるように高速で飛翔する。
 錬金魔導師は触れるものの性質を操ることで、自身の肉体を無双の武器とする。錬金魔導師の突撃を前にしては、何者も阻むことはできない。
 大気を自在に泳ぎ、あらゆる障害をなぎ倒す戦士。
 それが《大気泳者》スピッツ・モードだ。
 軌道にある草花を刈り取り、木々を次々となぎ倒しながら、屈強な肉体が空を泳ぐ。

 スピッツの突撃を前に、倉本慈雄は細剣を縦に構え、刃を指でなぞった。金属同士が擦れる金切り音とともに細剣が輝き始める。そして、刃をなぞった指先には小さな紫炎がともっていた。紫色の炎は瞬く間に燃えあがり、倉本慈雄の手を覆っていく。
 空を飛ぶ加速を乗せたスピッツの突撃を、倉本慈雄は紫炎を通した細剣ではじき返した。
 スピッツは瞠目する。聖騎士が剣の強化に使用する聖別の魔法とは、明らかに格が違っていた。倉本慈雄は細剣そのものを、高密度に凝縮された魔弾の塊に替え、その単純なエネルギーの発露でスピッツの身体を吹き飛ばしたのだ。
 倉本慈雄の手に宿って紫炎の正体は《聖霊炎》だ。その炎は大気を振るわせ音を奏でる即席の神音楽器となる。この炎を起点に、倉本慈雄は高度な魔法をいとも簡単に使いこなしていた。
 単純な筋力はスピッツの方が上回っている。魔法の力でも、接近戦では錬金魔導師が優位を誇っていたはずだった。

 だが倉本慈雄はその不利を、持ち前の技術と神音魔術の汎用性の高さでくつがえしていた。

 《聖霊炎》に軽く細剣を通すだけで、無数の魔弾が生まれた。スピッツは殺到する魔弾を振り払おうと、木々の間を縫うように飛ぶ。しかし、魔弾はピタリとスピッツと同じ軌道を描き離れない。照準魔術の精度がけた違いに高いのだ。
 倉本慈雄はまるで、弦楽器のソリストのように、細剣を弓に振い魔法をかき鳴らす。

「こっちだ、このやろう!」

 万能の即席楽器を手にした神音魔導師に、自由に魔法を使わせるわけにはいかない。上条は危険を承知で、拳を握りこみ前進する。
 同時に、魔弾を振り切るのをあきらめたスピッツが反転し突撃する。

「ふはっ、ふはははっはは」

 三者が交差するタイミングは同時だった。
 スピッツの攻撃は魔法がなくてはさばけない。そして、上条当麻には魔法を掻き消す右手がある。ひとつ処理を誤れば、致命傷を負いかねない状況を、上条達は意図せずして作りあげていた。
 だが幸運な偶然は、意図した奇跡によってあっけなく叩き潰される。
 倉本慈雄の姿が、一瞬ゆらめいた。上条は、その正体を一度見ていて知っていた。だから、これがまずい状況だとわかってしまった。

 《ゆらぎの化身》、術者自身を魔法的に記述した影。その利点は術者が増えることによる魔法の手数の倍加だ。

 突撃したスピッツの身体が化身の剣にあっけなくはじかれた。そして、倉本慈雄が準備していた追撃の魔法で、地面に叩き落とされる。地面に沈んだスピッツに、後ろから追っていた魔弾がさらに追い打ちをかけた。
 そして、上条の拳は簡単にかいくぐられた。魔法で強化した剣を右手で消される可能性を嫌ってか、反撃に倉本慈雄は上条の鳩尾に肘鉄を叩き込む。そして、身体がくの字に折れ動けなくなった上条の側頭部めがけて、流れるように回し蹴りが放たれた。上条は咄嗟に手を掲げて防御するが、足の踏ん張りが効く訳もなく、そのまま地面になぎ倒される。
 魔法が無くても、神聖騎士団団将まで上り詰めた男の体術は、一介の高校生である上条の実力を軽く超えていた。

「もう、いい加減にして欲しいね。叶わない願いをぶらさげて、勝ち目のない勝負に挑む君たちは、ひどく無様だよ」

 人数的有利も、能力的有利も簡単に覆され、二人は冷たい地面を這いつくばる。けれど、意地が、簡単にあきらめることを許さなかった。

「見下してんじゃねえよ。魔法を使えるのがそんなに偉いのか。ずっと一緒にいた娘まで魔法のために犠牲にして、叶える願いがそんなに大事なのかよ」

 上条は立ちあがり、まだ拳に握る力が残っていることを確かめる。この拳を一発叩きこむまで、倒れることなんてできない。
 上条当麻は、力を尽くしても叶わない願いがあると知っている。彼がもといた学園都市には、科学と超能力に夢を見て、叶えることができなかった人間がごまんといる。それでも、みんなが下を向いている訳ではない。そしてそれは、この世界でも同じなんだと知った。スピッツのように、地獄に落とされてもなお、絶望しない魔法使いがいる。地獄の悪鬼だと見下され、それでもここは地獄じゃないと戦う大人達がいる。奇跡があろうがなかろうが、戦う意思と意地があれば前に進むことができる。
 だが、それは上条当麻の見てきた世界だ。生まれたときから奇跡が隣にある魔法使いにとって、奇跡に見放された人間は、等しく価値がない。

「僕ら魔法使いは、願いを魔法の研鑽と犠牲の果てに掴み取ることができると知っている。だが、君が抱くような決して叶うことのない願いは、人の一生を惑わすただの幻想だ。魔法を見ることができても、その恩恵を受けることができない、幻想に振り回されるだけの君は不幸だよ」
「ふざけんな。例え叶わない願いを抱いているとしても、身の丈に合わない夢を見ているとしても、少なくとも俺は不幸だなんて思わねえ。本当に大切なものを掴みとるためには、そいつがなくちゃなんねえんだ。前に進むために、その先を掴み取るために、それでも願いを捨てるわけにはいかねえんだよ」

 魔法をつかえない上条当麻に奇跡なんて起こらないから、手を伸ばした先に掴み取れるものなんて、望んだ願いのかたちには遠く及ばないかもしれない。だからって、何もしないという選択肢はもっとありえない。向いてないからと、叶わないからと願いをあきらめたら、ただ大事なものを奪われ、踏みつぶされるだけだ。

「あんたに一発ぶちかまして、倉本を助けるっていう願いは、俺一人じゃ、決して叶わない幻想なのかもしれねえ。だけどな、俺はその幻想を壊せるかもしれないって思っている。俺は一人じゃねえからだ。そうだろう、スピッツ!!」
「ふはっ、ふはははっ、ふははは」

 笑い声とともに地面からスピッツが飛びあがった。身体を回転させ、まとわりつく土埃を吹き飛ばす。そして魔法で体表面の状態を調整し、こまかい汚れをそぎ落とした。

「よくぞ言った上条どの。このスピッツ・モード。上条殿の願いを叶えるためにともに戦いますぞ」

 禊を済ませた全裸の戦士が上条の隣に立った。たくましい肉体のその男は、上条当麻が奇跡なんかに頼らずに、きずなで結んだ仲間だ。
 上条当麻は噛みしめるように、心の底にあるただ一つの思いを吐き出した。

「俺はしあわせだ。俺は今、たまらなくしあわせだ」

 この言葉は決して偽善でも、ましてや、幻想などでもない。それはこの世界で手に入れた、願いを掴み取るために戦う舞台で、上条当麻を支える思いだ。

「そのしあわせな幻想に囚われたまま、君たちにはここで倒れてもらおう」

 倉本慈雄の正面にもうひとつ、光り輝く剣が出現していた。
 異質な空気を察知して、スピッツが地面から飛んだ。上条もまた、震える両足に活を入れて、一歩前に踏み出し、右手を前に突き出す。

 《導きの光剣》

 異なる大系の魔法に反応して文字通り光速で放たれる剣は、あらゆる回避行動を無効にして、スピッツ・モードを確実に撃ち抜くはずだった。
 だが、ただの人間では認識さえ不可能な、奇跡で織り上げられた必殺の魔法が、さらに異質な手段で阻まれていた。
 スピッツは、自慢の高速飛翔に託して、光剣を避けるために飛んだわけではなかった。もっと確実に、魔法を防ぐ手段を使ったのだ。

 上条当麻の《幻想殺し》。
 その力は神様の奇跡さえ問答無用で拒絶する。右手を前に突き出した上条の後ろにスピッツは立っていた。光剣の軌道に、上条を挟んだのだ。

「これって一歩間違えたら俺、死んでたんじゃないのか」

 光剣が右手に当たったのは偶然だ。身体中から冷や汗が噴き出る。わずかな幸運にすがるしかないほど、二人は追いつめられていた。

「上条どの、今の行動は戦士として褒められた戦い方ではなかったが、倉本慈雄の攻撃は、拙者の魔法だけではかわしきることも、まともに防御することもできない」
「まあいいさ、スピッツ。だが、俺の実力じゃあいつに一発ぶち込むのは無理っぽい。魔法だって、不幸な俺が、運と勘でいつまでも都合よく防げるわけがねえ」

 魔法使いとしての実力の差は、圧倒的だった。勝ち目がないことも、すでに二人は認識していた。だが、これが退けない戦いだということも知っていた。
 棒立ちになる二人に、嵐のような魔弾が放たれた
 スピッツが上条の身体を宙にさらった。それに応えるように、上条は身体をスピッツに預け、ただ追ってくる魔弾に集中した。
 直撃しそうなものだけを選んで右手で破壊する。上条が対応できない軌道に出現した魔法にはスピッツが自ら動き、また上条の身体そのものを振り回して魔法を防いだ。

「はは、こりゃあ俺は体のいい盾じゃねえか」
「ふはっ、ふはははは。上条殿は盾にしては、なかなか頼りになりませんな。しかし我々は“魔法使い”、ちっぽけなただの個にして世界と対峙する奇跡の担い手。だから、完成された道具ほど優秀ではなくとも、こうして戦うことができる」

 汗を滴らせながら、たくましい筋肉で上条を抱えて空を飛ぶこの男は正真正銘の魔法使いだが、上条当麻は魔法使いではない。本来この世界にいないはずの人間だ。それでも、スピッツが同じ存在だと認めてもらうことが、たまらなく嬉しかった。
 機動と攻撃に特化した《魔法使い》スピッツと、魔法を破壊する右手を持つ《幻想殺し》と《偽善使い》でもある上条。最強には程遠い矛と盾だが、見ている世界も、よって立つ足場も何もかもが違う二人が力を合わせて戦うことを選んだとき、ここが奇跡燃え尽きる地獄だとしても、彼らの心は決して折れない。

「そうだな、スピッツ。俺たちはどうしようもなく足りてねえ。だけれど、戦えないわけじゃねえ」
「ふっ、ふははっ、ふはははははは。そうだ上条どの。その通りだ。ふはっ、ふははっははっはっは」

 ひと際豪快に、スピッツが笑った。
 スピッツが上条を背中に乗せた。筋肉隆々の男の背中は、空中であっても安定感があった。スピッツが魔法で気流を制御しているおかげだった。

「これをやるのは姉上以外では上条殿が初めてだ。しっかりと乗りこなしてくだされ」
「ふはっ、そいつは楽しいじゃねえか。お前の背中に乗ってなら、俺はどこへだっていける気がするぜ」

 上条当麻も、豪快に笑ってスピッツに応えた。
 上条はスピッツに乗って、空を泳いでいた。重力に逆らい、大気を引き裂き、魔弾の嵐をかいくぐる。まるで、世界を支配していると錯覚させるほど、自由だった。夕闇の空を、今なら翼を羽ばたかせてどこまでも、願う場所へ飛んでいけそうだ。
 絶望的な戦いに身を投げているというのに、気分はかつてないほど興奮していた。ここが、魔法使いの世界なのだ。ふと、スピッツ・モードは上条を背中に乗せてどんな世界を見ているのだろうか気になった。
 闘争の熱に浮かされたスピッツの瞳は、焦点があっていなかった。二人が根を置く世界は、まったく違っている。だが、一人では見ることのできなかった世界が、確かに目の前に広がっていた。

 魔弾が途切れた隙をつき、上条を乗せたスピッツが上空から急降下突撃を仕掛けた。上条は振り落されたないように、スピッツの肩を掴み、背中に密着する。
 こらした目の先にいるのは、倉本慈雄の化身だ。完全に魔法で形成された化身は《幻想殺し》で消し去ることができる。
 化身が地面に剣を突き立てた。同時に派手に土煙が舞い上がり、視界が塞がる。

 唐突な違和感に寒気がした。

 スピッツの戦士の本能が、突撃を中断させた。降下のエネルギーを利用して、速度を維持したまま急上昇に移る。
 急上昇によって生じる強い重力に堪えているうちに、上条はあの寒気を伴う違和感の正体に気づいた。

 あの時、倉本慈雄の周りから、音が消えていたのだ。

 スピッツの身体が魔弾の直撃を受けたのか、大きく揺らいだ。上条には、その前触れを全く感知できなかった。不意の衝撃に、ボロボロになった上条の身体は、宙に投げ出される。
 地面に落ちていく上条の回りを、流れ星のような光が通り抜けた。そして、生暖かい液体が上条の身体に降りかかる。
 夜の透き通る空気を塗り替えるような、鼻を衝く汗の混じった据えた匂い。月明かりに照らされ、暗さと同化した赤褐色のそれは、戦う意思と身体を支える命の源だ。
 だから、悔しさと怒りと悲しさがないまぜになった、激情が溢れた。余計な音が消えた世界で、感情にまかせた叫びがこだまする。

「スピッツゥゥゥゥゥ!!」

 上条とスピッツの、夢のような黄金の時間はあっけなく終わりを告げる。
 空を見上げる視線の先、空を自在に泳ぐスピッツ・モードの身体を26本の光剣が貫いていた。



[26217] ‐12‐
Name: 棚尾◆5255b91b ID:4977a5fb
Date: 2015/02/22 00:01

「ここにはあなたが来ましたか《魔獣使い》。あなたとは、ゆくゆく戦う運命にあるようですね」
 
 神聖騎士団上級聖騎士にて、将来の聖騎士将軍とも期待される若手最強の騎士、エレオノール・ナガンと顔を合わせるのはこれで三度目だ。
 一度目は今と同じ場所、奥多摩の山中で染血公主との交戦中の不意をうち撃退した。だが二度目は、廃ビルの裏路地で双方予想のしなかった形の交戦のなか、瑞希は刻印魔導士のエンド姉弟を失い撤退を余儀なくされた。

「今日は……ひとりなんだ……」

 瑞希は、肩に担いだ人がひとり入れるほどの大きさの麻袋を乱暴に地面に放り投げる。幻影城攻撃作戦のために公館から持たされたものだが、聖騎士と正面切って戦うには邪魔でしかない。

「相手があなたたちのような強敵であれば、私ひとりのほうが、制限なく戦えます」

 剣を抱くように大樹の切り株に腰かけていた少女がゆっくりと立ち上がる。待ち伏せ要因に選ばれたのはエレオノールただの一人だが、彼女は時間稼ぎの盾役ではなく、確実に追っ手を屠る刺客として送り出されている。
 神意に透明な心で、彼女は十二人の仲間からの信頼を背負い、戦いに臨む。これから、人殺しをするというのに、少女の目には一片の曇りもなかった。

「じゃあ……最初っから全力だ」

 戦いに先手を打ったのは瑞希だ。公館の撃墜王の名を欲しいままにする天性の狩人は戦うことに迷いなどなく、ましてや覚悟さえも必要としない。
 《魔獣使い》の魔法が、万物の根源たる《気》のもと、天から稲妻を解き放つ。大気を光速で伝達するその一撃は、速度、威力ともに申し分のない一撃だった。
 だが、頭上に振ってきた天からの怒りを、エレオノールは《光背》を張って容易に受け止めた。
 《魔獣使い》の魔法は自然物を操るが、呼び出す動物や現象以上の威力は引き出せない。エレオノールのような高位魔導士を倒すには、絶望的に火力が足りない。
 だから瑞希は、単発の威力ではなく手数で押し切る戦いを選ぶ。エレオノールを始めとする聖騎士の強固さは身に染みていた。
 雷撃で足が止まったエレオノールに追撃をかけるべく前進、手に握りこんでおいた魔法で生成した溶岩の礫を投げつける。二千度を超える灼熱の溶岩が、エレオノールにぶつかるはるか手前で弾け飛んだ。威力の発現位置を精密に制御された、見えない魔弾で迎撃されたのだ。そして、拡散する礫の中を、爆発的な加速で放たれた刺突が駆け抜ける。
 エレオノールは剣の魔弾化を応用して、止まった身体を強引に引っ張ったのだ。予想外の反撃に瑞希は避けることもできず、刺突を《気盾》で真正面から受け止める。相手の攻撃を自動で相殺する半透明の防御壁がたわみ、衝撃で一メートル後方に吹き飛ばされた。

「流石は公館の鏖殺悪鬼。これでも貫通けませんか」

 感嘆の声を漏らすその無防備な背中を、突如の霧の中から現れた、灰色熊の獰猛な爪が襲いかかる。元々瑞希は、三段構えの攻撃を仕込んでいたのだ。
 エレオノールは振り返れない。完全に不意をついた獰猛な野生動物の一撃は、しかし届くことはなかった。
 エレオノールの背後に、重なるもう一つの影が、灰色熊を真っ二つにしたのだ。
 《ゆらぎの化身》。返り血をすり抜ける、神意に透明な彼女の心を体現したように清冽な魔法の分身。エレオノールもまた、一切の出し惜しみをしない。彼女にも、先に待つ仲間がいる。
 少女騎士の迷うことなく首を刈りに来た剣戟を、瑞希は気盾をかざして受け止める。初撃で十二層の障壁のうち半分以上が削られ、重ねて放たれた化身の剣が気盾の防御を完全に突破する。
 咄嗟に地面を飛び身体を回転させるが、かわしきれない魔剣が瑞希の白磁の頬を薄く裂く。伝った血が口に入って、斬られたことよりも、鉄錆の嫌な味にうんざりして顔をしかめる。
 エレオノールの追撃の刺突を気盾でいなし、雷撃で化身の足を止めながら、瑞希は一度距離をとる。だが、着地点に、狙いすましたように魔弾が連続で発現する。衝撃に転がされながら、瑞希は困難な状況に追い込まれていることを、より強く実感した。
 意思の統一が完璧に近い二人分の攻撃は、瑞希に反撃の隙を与えない。一撃の威力は言わずもがな、攻撃の手数も追いつかれた。
 だが瑞希は《気盾》という高性能な防御魔法だけでなく、その気になれば身体を復元することもできる優秀な回復魔法も扱える。威力は足りなくても技の多様さは、相手の攻撃を決して致命傷には届かせない。

 負けないことならいくらでもできた。しかし《魔獣使い》の魔法は、勝つには決定打が足りない。

「魔獣使い、一人きりで戦う、あなたに勝ちはありません」

 エレオノールの化身が歌い、魔法で作られた透明な鷹達が一斉に飛びたつ。視界を埋め尽くすほど大量に放たれた魔弾が、まるで壁のように迫ってくる。

「あなたも……今は……ひとり……」

 次々に着弾する魔弾を飛んでかわしながら、瑞希は言葉をエレオノールに投げつける。魔弾の壁の向こう、涼やかな声が不自然なほど、よく通って帰ってきた。

「我ら聖騎士は、積み重ねられた祈りをつなぐ人の鎖。私の剣には、仲間の神意が宿ります」

 瑞希は戦うときはいつも、一人きりだった。家族である代々の《魔獣使い》は魔法でしか身体を維持できなくなり、瑞希が前線で戦うようになってからは一緒に家から外に出ることなどない。そして使役する式神、刻印魔導士は人ではない。あれは道具だ。
 一人でいることなんて当たり前だったし、それで戦ってきた。だから、エレオノールが言うことなんて、少し前の瑞希では理解できなかっただろう。
 だが、今は違う。戦うことに覚悟なんていらないが、大切なものができた。決して勝ちを拾えなくても、負けられない理由ができた。その大切な存在は、確かに瑞希の背中を押す力となっている。

 魔弾の壁を切り裂いて、エレオノールの必殺の刃が一閃する。

 避けられるタイミングではなかった。そして、威力と速度が今までの斬撃とはけた違いだった。気盾でも受け切れないないだろうと、瑞希の狩人の勘が告げていた。
 見えない魔弾を使えるエレオノールが、わざわざ視認できる魔弾を大量に放った。それ自体が目くらましで、瑞希の動きを誘導するためのものだった。
 避けることも、受け切ることもできない必殺の一撃に対して身体が勝手に動いたかのように瑞希はただ前に一歩踏み込んで、右手を真っ直ぐに突き出す。

 胸にともる大切な思いがあったから、瑞希は臆す必要もなく、その動作はごく自然なものになった。

 この右手を捨てて命を危険に曝してでも、彼女には守りたいものがある。

 エレオノールの斬撃は気盾の障壁をあっという間に突破し、突き出した右手ごと、瑞希の身体を両断しにかかる。
 だが、踏み込んだ瑞希の行動は迷いが無かったからこそ、エレオノールの斬撃が命に届くより早かった。
 一つの攻撃でも届かず、手数でも追い抜かれた。ならば、相手の力を利用するまでだ。
 右手を犠牲にしながら、剣戟と交差するように放たれた瑞希の左の掌底が、エレオノールの光背を削り切り、顎を打ち抜く。エレオノールの高速の突撃する力も加えた捨て身の一撃だ。
 その一瞬の交錯の中、エレオノールの魔剣が爆発した。
 衝撃に身体が無理やり引き離され、瑞希の右手が宙を舞った。生きてる左手を地面につき、両足で身体を支え、吹き飛ばされながらも瑞希は地面に踏みとどまる。

「……っ……く……」

 エレオノールが膝を地面につき、顎を押さえる。骨が砕けたのか、まともに言葉を発せていなかった。顎を打ち抜かれ、脳を直接揺さぶられたにもかかわらず、意識を保っているのは直撃の瞬間、エレオノールは魔弾化した剣のエネルギーを解放させ、瑞希の掌底が意識の深いところに届く前に無理やり距離を離してダメージを軽減したからだ。
 すかさず化身が魔弾の弾幕を張り、歌えなくなったエレオノールが回復する時間を稼ぐ。
 エレオノールが直ぐに動けないと見るや、魔弾をかわしながら瑞希も吹き飛ばされた右手を拾いにいく。
 右手を捨てる気で仕掛けた攻撃でも仕留めきれなかった。カウンターを警戒されてしまえば、瑞希の攻撃はほとんど手詰まりになってしまう。

 ここで戦って、きずなを助けられるのかという疑問が頭をもたげた。

 地面に落ちた右手を拾うや、戦闘に入る前に放り投げた麻袋が目に入った。戦闘が始まる前から、不気味な鳴動を繰り返しているこの麻袋の中身は、いわば爆弾だ。幻影城の再演の儀式を破壊する、魔法に対して絶大な威力を誇る代物。だがこれが炸裂したとき、同じ場所にいる魔法使いが無事でいられる保証はない。きずなは幻影城の《鍵》を《沈黙》が入手したのちに救出する手筈になっているが、そう首尾よくことが運ぶとは限らない。
 麻袋を瑞希は担ぎあげる。決断をするのに、数秒も考える必要はなかった。
 この中身のことなど、瑞希にはどうでもよかった。彼女の大事なものは、今も幻影城で怯えているだろう、友達だ。
 麻袋をエレオノールに向かって投げつけ、瑞希は背を向ける。
 化身の魔弾が、無造作に宙に放り投げられた麻袋を打ち抜いた。
 破れた麻袋から吹き出したのは、赤黒い身体に取ってつけたような牙を顔にもった触手。《茨姫》オルガ・ゼーマンが魔法で創り出した無限増殖する凶悪な原初の怪物たちだ。波濤となって押し寄せるそれをエレオノールの化身が剣の冴えで切り伏せる。
 魔法生物のタールのように鼻をつく体液、赤黒い臓物と鳴動する肉体の壁の向こう、青白い炎が散った。それは《茨姫》の仕込んだ魔法生物と異なった、観測するあらゆるものを徹底的に《破壊》する爆弾。
 細やかに、不安定に明滅するように揺らめくその炎は、すべての魔法使いの悪夢。

「………っ……」

 その正体を見て、思わず息をのんだエレオノールが、木陰に姿を隠す。これの前では魔法使いは身をさらすだけでも命取りになる。

 カオティック・ファクター《破壊(アバドン)》

 《破壊》の魔法は、術者が観測する全てを、その青白い炎で破壊する。魔法消去に極端に弱いこの魔法は、魔法や魔法で作られた物、魔法使い、地獄の物の順番に影響力が弱まり、都市部のような悪鬼のいる地獄の環境下ではあまり役に立たない。だが悪鬼のいない山奥でその魔法を遮るものなどなかった。魔法消去環境から解き放たれた《破壊》の青白い炎は、魔法を容赦なく喰らい尽くす。
 麻袋の中身で、人間爆弾と化していたのは専任係官、《破壊》八咬誠士郎だった。肌けたシャツは魔法生物にかじられたのかほとんど破かれ、その下の肉体には幾つもの細かい傷があった。キザな性格を表していた、驚くほど白かったズボンは、魔法生物の残骸と体液で見るも無残に汚れきっていた。
 エレオノールの見えない魔弾が八咬の身体を打ち抜く。魔法に青い炎が反応するも、不安定な炎は衝撃を殺すわけでもないから、八咬は地面を転がされる。
 八咬は重く、思ったように動かない身体で、ふらふらと立ち上がる。

「まっはく、ひほいことをするなあ」

 呂律が回っていない。地面に転がったときに付いたのか口元には泥がついたままで、意識も半ば酩酊状態だ。表情も麻痺が残っているのか、わずかに引きつっていた。。
 八咬は、公館で麻酔を打たれて強制的に意識を奪われ、さらに《茨姫》の魔法生物を身体の周りに敷き詰めることで、魔法消去によらず強引に《破壊》の魔法を封じられていたのだ。
 《破壊》を封じた状態で幻影城の扉を突破し中に入り込む。そのあと麻酔が切れ、《破壊》が目覚めれば完全な魔法構造体である《幻影城》は破壊し尽くされ、再演どころではなくなる。京香が選択した八咬の人権を無視する強引な方法だ。
 それを、瑞希は台無しにした。公館の作戦では、きずなの安全性はあまり考慮されていない。
 麻酔が切れるより早い時間に強引に目覚めさせられたから、八咬の意識も《破壊》の魔法も不安定だ。観測がぶれて魔法がまともに発動していない。
 エレオノールの魔弾が八咬を弾く。《破壊》の魔法が不完全なうちに仕留めきれなければ、詰むのはエレオノールだ。

「きいへはほうきょうとひかうようだけど、ほくのやることはかわらないよ」

 魔弾に連続で打たれながらも八咬倒れない。両手を広げて身体に魔弾を受け止め、余裕を見せたいのか、ゆっくりと前髪を掻き上げる。だが、ボロボロの半裸体では、気障なしぐさがちっとも決まってなかった。
 だが、八咬の周りの青い炎が徐々に密度を増していた。
 エレオノールの魔弾が、いくつか着弾前に青い炎に焼かれた。魔弾が起こす微妙な大気の変化が八咬に観測され始めたのだ。
 《破壊》はもうすぐ完全に鞘から解き放たれる。八咬が腫れた顔のまま、瑞希を振り返らずに言う。

「ここは任せたまえ、《魔獣使い》。君も愛のために行くのだ」

 燃え上がる青い炎に振り返ることも、返事をすることもせず。瑞希は幻影城の扉に向かった。
 瑞希はちぎれた右手を魔法でつなぎ、霧から桃を作りだした。扉の前に立ち、桃の甘い匂いを思い切り吸い込む。他の生徒や先生に見つからない学校の屋上できずなと魔法で作った桃を食べた。仕事でつきまとっていただけなのに、彼女は友達だと言ってくれた。瑞希に、家族でも、同僚でも、道具でもない初めて魔法使いの友達ができたのだ。嫌われたくないと思った。泣いて欲しくないと思った。きずながそばで笑っていると瑞希は安心する。
 しあわせな思い出のにおいを嗅いで、瑞希は大事な友達と、その周りが幸せであることを願う。そこに、あのうにみたいなツンツン頭の少年も入れてあげても良い気になった。

「わたしは……ひとりじゃない……マイトリー……ともだち」

 きずなが苦しむ運命なんていらない。絶対に変えてみせる。

「必ず、助けるから」

 つないだ右手を握り感触を確かめながら、瑞希は幻影城の扉をくぐった。



 幻影城の扉をくぐった途端、足元の床が勝手ぶせりあがり、きずなはここに連れてこられた。眼下には鏡張りの、透明な水晶の舞台が広がっていた。下から柱が何本も伸びて周りを螺旋状の階段が取り巻いている。柱の間には、何本も銀色の回廊が通っていた。
 幻影城は緩やかに舞台を組み上げていた。まるで、開演前の舞台のように、完成されたように美しく静かで、だがそこに役者がそろっていないからこそ、不完全だった。
 きずなはその中でも一番高い塔の頂上にしつらえられた祭壇の前にひとり立ち尽くしていた。
 ここに来ることを望んだのはきずなだ。再演の魔法には過去を書き換える力があると、彼女は魔法使いの感覚として理解していた。けれど、彼女は新米だから、具体的な方法がわからなかった。

「私はお父さんを助けなきゃいけないの。お願い、私は魔法使いだから、それができるはずでしょ」

 彼女の願いに応えて、魔法は世界の本を開いた。父親を助けたいという願いが、彼女を衝き動かしていた。
 再演大系は世界を一冊の本として観測する。再演の魔法は本につづられている“文字”を書き換え“文”を作り、読み手が“意味”を見出すことによって“物語”を作る。世界は新たに作られた物語をオリジナルとみなすから、過去が書き換わるのだ。
 そして、その文字の正体は魔法使いだ。再演大系は魔法使いを操り物語を再演させ、己の欲望のままに世界を書き換える。
 過去にこの城では、何度も歴史改変が試みられていた。時には数千人規模からなる軍隊同士がぶつかることもあった。再演が行わる度に、幻影城は魔法使いが持ち寄る欲に応えて構造を変えた。成功も失敗も、数多くの欲望を取り込んで、この城はある。
 そして、その再演の中心には様々な再演魔導師がいた。自ら望んで儀式をおこなうもの、きずなのように、失った物を取り戻そうと縋るもの。追いつめられた末に決断を迫られるもの。歴代の再演大系の使い手達の葛藤がきずなには見えた。
 幻影城は過去の歴史を悲劇も喜劇も区別なく、知識として際限なくきずなの頭に詰め込む。魔法に抱いていた、世界が今より広がって、少しずつしあわせを積み上げていけると信じていた希望が、すべて嘘なのだと歴史に突き付けられたようだった。
 彼女の父親を助けたいとう願いが、過去に塗りつぶされた気がして吐き気がした。そして、自分がここにいる意味を理解して、頭が熱くなった。

「なんで、どうしてこんなに都合よくすべてが揃っているの」

 城の中にはきずなをここに連れてきた染血公主がいた。彼女に襲いかかった聖騎士達がいた。彼らは何をするでもなくそこに佇んでいる。まるで、開演前、舞台上に待機する役者たちのようだ。
 これに似た状況を再演魔術は自動的に世界という本から歴史を参照した。
 三千年前、聖騎士達は一つの魔法実験を行った。その日、聖騎士達は完全索引である《神の辞書》から神が降臨するための《神の門(バブ・イル》を構成する神音を引き出そうとして失敗した。
 ジェルヴェーヌも聖騎士達も、その歴史のやり直しを、バベルの再臨を望んでいる。再演魔術による儀式は、術者が生きて観測さえすれば何も知識も技術もない魔法使いでも成立する。

 ここは、生贄の祭壇だ。きずなは歴史を書き換えるための再演魔術を維持するだけの存在として捧げられようとしているのだ。きずなをここに立たせる、ただそれだけのために父が死んだのかと思うと悔しさがこみ上げた。

 これから自分がどうなるか不安だった。新米の彼女が、ジェルヴェーヌや歴戦の聖騎士達を出し抜いて父を助けることなど絶望的だった。

「いやだよ。こんなの。助けてよお父さん」

 誰か助けてほしいと、もう一度父に会いたいと思った。似ていない親子だとよく人に言われてきたが、きずなにとっては、17年間育ててくれた大事な家族だ。
 再演の本がまたきずなの願いに応えて、父の面影を追ってページをめくる。 
 悪鬼が側にいるときは魔法消去のせいで、本が虫食いになってしまうから、飛ばし飛ばしに、過去を追いかけていく。
 そして、父の足跡を辿っていて、思いもよらないものに出会った。
 倉本慈雄を中心に見た世界にきずなの姿は無かった。トラックの運転手だった父は数日に一度家に戻ると、食事の時以外は直ぐに工房に引っこんでいった。外から、眺めていると、こんなにも二人の間には距離があったのだと気づかされる。
 きずなは驚くほど呑気だった。今がそうであるように、父しか頼れる人がいなかったから、それが当たり前だと思っていたのだ。

「わたし、魔法が使えるって、もっといいことだと思ってた。それなのに、どうして、こんなことばかりするの。わたしは、ただしあわせに、もっと普通でいたかった」

 きずなの知らない場所と時間で、父はジェルヴェーヌと会っていた。そこで、当たり前のように、父はきずなの犠牲になることを認めていた。
 見たくもない過去を突き付けられて、それを真実と認めたくないから、父のことを信じたくて、きずなは本のページをめくり、運命の分岐点である少し前の時間へ、あの夕暮れのホームへさかのぼる。まだ生きていると父と、何も知らない呑気な自分を魔法で操って、未来を変えるのだ。きずなは本に向かって右手を伸ばし、過去へ干渉する。

「お願い、お父さん。私が絶対に助けるから、だから、だからもう、こんなのやめようよ」

 あの魔女に刺された夕闇の駅、電車を降りようとする父を魔法で引っ張ろうとした。未熟な彼女の魔法は不完全で、まだ物を引っ張ったりすることしかできない。だから奇跡は無残にすり抜け、何も起こらなかった。

「どうして、どうしてよ。魔法はなんでも起こせるんじゃなかったの。こんなの、こんなのってないよ」

 眼の前に広がった過去の中で、父がまたジェルヴェーヌに刺された。きずなはそこでも愚かなままで、ジェルヴェーヌにそそのかされて幻影城の扉を開く。再演大系は心を操れる訳ではないから、過去のきずなに、それが駄目なことだと伝えられない。
 涙が止まらなかった。何もかも全て無かったことにしまいたかった。
 父の“文字”を、せめて最後まで見届けようと、本を見つめる。

「え、どうして、どういうこと」 

 父の文字は消えなかった。そして、本の中では見えない“誰か”と戦っていた。そこに虫食いができている訳ではないから、その誰かは悪鬼ではない。
 それは、魔法を支える神様からの観測すら拒絶する、きずな達魔法使いとも、悪鬼とも違う異質な存在。

 きずなは、そこに否応なく惹きつけられた。その誰かの正体にきずなは心当たりがあった。初めて悪鬼に魔法を焼かれて、魔法を失うことが怖くなったとき、その人に励まされた。あの夕闇のホームで、彼は自分の名前を呼んで助けようとしてくれた。
 魔法では決して見えない、その人へきずなは右手を伸ばした。姿を捉えることはできないから、再演の魔法は術者の望みに近いものを代わりに世界の本から導き出す。
 そこでは、きずなの大事な友達が戦っていた。右手を捨てて、必ずきずなを助けると宣言していた。公館からも、様々な人間が動いていた。
 胸が少し熱くなった。こんなにも、追い込まれているのに、まだ何かをつかめるような気がして、伸ばした右手に力を込める。

 けれど、魔法が見せたそこから少し先の未来は、残酷で容赦がなかった。

 父親と、きずなを助けてくれた優しいあの人が殺しあっていた。そして、父親は血だまりの中で、彼女を思い出すこともなく息を引き取っていた。

「いやだ、こんなのいやだよ。こんな私のために戦ってくれる人がいるのに、こんなこと納得できる訳がないよ」

 こんなに裏切られて、望まぬものを突き付けられても、願いを魔法に縋らずにはいられなかった。彼女は魔法使いだ。彼女にはそれしかできない。だけど、何もできない訳ではない。

「お願い。もう一度だけ私のわがままを押し通させて。こんな終わり、私は絶対にいやだ」

 《幻影城》の扉を開いた時のように、どうしようもなくなってから、周りを顧みることなく自分のために奇跡を望んでいる訳ではない。願いは染血公主にそそのかされた時と同じだ。けれど今度は助けようとしている人達の思いもすべて拾って、それでも自分のために魔法を使う。

 きずなの魔法は過去が見えて、ただし決して心が操れる訳ではないからこそ、人の心に希望を持つことができた。世界も魔法も、きずなにとってはどこまでも残酷だけれど、決して絶望と悲劇だけがそこにあるのではない。希望もあるということを、彼女は色んな人に教えてもらっていたことを思い出した。そしてきずなの魔法は、過去に干渉して、希望を後押しすることさえできる。

 きずなはもう一度、世界という本に向き直る。彼女はただの一人で世界と対峙する魔法使いなのだ。

 そして父親と、もう一人の魔法では見えない“誰か”に右手を伸ばした。
 きずなは魔法があったから願いをあきらめず奇跡に託してつなぐことを選べたけど、彼は奇跡も魔法もなくても、決して願いをあきらめないのだろう。
 精一杯に右手を伸ばして、叶わないと知っていても願いは捨てられない。きずなからは、そこにいる彼が見えなかった。彼からも、きずなのことなんて見えないだろう。

 見えてる世界も存在も、すべてが根底から異なっていた。
 でも、どこかでつながっていることをきずなは信じた。
 



[26217] ‐13-
Name: 棚尾◆5255b91b ID:04605598
Date: 2017/06/19 20:16
 
 その男の願いは、己の身の潔白を証明し、故郷の空をもう一度飛ぶことだった。
 願いを叶えることなく、夢ついえることになる男の胸中には、確かな満足とひとかけらの後悔が同居していた。
 男は空を仰ぎ、決して届かない遠く故郷の空を思った。そして地面を見据えて、倒すべき敵と、一人の少年の姿を見出し笑った。
 男は死の瞬間まで戦士であり、世界と対峙する魔法使いであることを選ぶ。
 
 覚悟をしていたはずだった。自分に降りかかる痛みや、理不尽なら耐えられると思っていた。自分の意地に、命をかけることに迷いはなかった。
 けれども、身勝手にふるまった代償の大きさを突き付けらて、心が折れそうになる。
だが、上条はそれでも下を向かなかった。膝をついて、あきらめたりしない。倉本慈雄を見据えて、右手を握りしめ、二本の脚で地面を踏みしめる。
 
「ふはっ!ふはっふっはっはっはっはっはっは!」
 
 地獄に来て一番聞いたかもしれないその笑い声が上条の背中を押す。スピッツ・モードは運よく即死をまぬがれたが、素人目にもわかる致命傷だ。全身から血を吹き出しながら、スピッツは獰猛に笑い、空に浮く。
 高位の神音大系魔導士が周辺の環境調整に用いる《無言(しじま)の神音》によって無音に調律された空間で、倉本慈雄が放ったのは、視認不能な速度で飛ぶ二十六体の魔法生物を同時誘導する《二十六聖》と呼ばれる必殺の魔法だ。 
 スピッツ・モードはあとわずかな時間で死ぬ。少し前の上条ならその事実に足が止まっていた。今まで命のやり取りなんて縁のない世界にいたのだ。けれども、上条はただの一人で世界と対峙する魔法使いに、共に戦える戦士と認められたから、一人でも前に進む。ここで茫然としていては、今も空に浮くスピッツに顔向けができない。
 倉本慈雄は、致命傷を負ってもなお空に浮くスピッツにとどめの魔法を準備していた。
 今が好機と真っ直ぐに踏み出した上条へ、倉本慈雄の化身が横合いから割って入った。剣の切っ先は、確実に上条を捉えている。魔法で作られた化身なら、幻想殺しで掻き消せるが、不意の一撃を、今さら右手で迎撃することは不可能だ。
 
「ここまでだなんて、認めてなんてられるかってんだあああ!」
 
 必死に身体をひねっても、右手は届かない。こんなにも奇跡と縁のない、自分が悔しかった。
 だが魔法は、地獄の空でも、たとえ幻想殺しの存在があっても神に届く。そこに魔法使いがいるから、願いは魔法に宿り、奇跡を起こす。
 
「ふはっ!ふはっふっはっはっはっはっはっは!」
 
心の底からの溢れる歓喜に憑かれた笑い声が、夕闇の山中にこだまする。スピッツ・モードは、その命が尽きる瞬間まで魔法を手放さない。
 スピッツの身体から流れ出る血液が、体表面で硬化し槍となり、地面に降りかかる。それは、血の槍できた雨。スピッツ・モードの文字通り命を糧にした最後の魔法だ。
 
 それが、上条の道をあけた。
 
 剣を弾かれ体勢を崩した化身を、上条の右手が掻き消す。
 倉本慈雄がスピッツにとどめの魔法を放ったのは、それと同時だった。
 
 スピッツ・モードの運命は上条当麻のせいで、変わったのだろうか。上条当麻がいなければ、スピッツ・モードは死なずにすんだのだろうか。
 興奮状態で意味のない自問自答が溢れてくる。
 身体は動いてくれた。それが、答えだと思った。
 ぶん殴るべき相手は、もう目の前にいた。倉本慈雄はスピッツが最後に放った血の投槍を、剣で切り払ったところだった。
 右手を振りかぶればもう届く。
 
「残念だね。やはり君では、奇跡には届かない」
 
 倉本慈雄の剣が上条の腹を貫いた。腹の中をずたずたにされて、胃から食道を逆流して、口から血が溢れそうになる。、それを、歯を食いしばって必死に抑え込んだ。
 上条当麻は、もといた世界では”無能力者”の烙印を押され、数々の不幸にさらされてきた。この地獄にきても、足手まといのような扱いで、魔法使いと現実の厳しさに打ちのめされていてばかりだった。けれども、その中で一つ、張り通してきた意地がある。
 上条当麻は誰もが幸せになるハッピーエンドな物語をあきらめきれない。物語のヒーローみたいに、格好良くいかなくても、力が足りなくても、上条当麻は自分の目の前に起こる悲しいことが、すべてなくなるようにこの右手を伸ばす。
 だから、眼の前の倉本慈雄が、あの笑顔が優しい倉本きずなのことを犠牲にしてまで願いをかなえようだなんて筋書きは納得できなかった。
 
「あと一歩だろ、届けよ。掴ませろよ。無駄になんかさせんじゃねえよ」
 
 何か見えない手に、背中にを押された気がした。張りとおした意地が、どこかとつながったような気がした。
 ただ、悲劇を納得できないというだけの意地だった。ある女の子を助けたいという願いだった。自分らしく戦うという、誇りがあった。大切な友達を助けたいという思いがあった。理不尽な運命なんて、認められないという身勝手な叫びだった。
 すべての思いを束ねてつながって、今がある。これしきのことで、止まってなんていられなかった。
 
「意地があんだよ、こんな俺にだってなあ!」
 
 倉本慈雄の剣がさらに深く刺さる。上条は構わず二本の足で地面を踏ん張り右手に全体重を乗せて拳を振りぬく。朦朧とした意識で、倉本慈雄の表情がゆっくりと歪んでいくのが見えた。
 上条は笑った。奇跡なんてなくても、伸ばし続けた右手は、確かに届くのだ。
 様々な人の願いの果てに、《幻想殺し》が一人の男の妄執を叩きのめす。
 
 地面に倒れ伏す倉本慈雄を見届け、上条はその場でへたり込んだ。腹に突き刺さった剣が、光を失っていないことに気づいてぞっとした。何かの魔法が仕込まれていることは間違いなかった。
 
「でもこいつを抜いたら、流石にやばいよな」
 
 お腹の真ん中から背中まで貫いた剣だ。今は興奮状態で痛みを感じないが、出血がひどいのは、お腹を中心としたぬるっとした感覚と、身体の重さでなんとなくわかった。
 それでも、術者を失った魔法が暴発する恐怖が勝って、おそるおそる右手で剣に触れる。
 
「大丈夫か。いきなりドカンなんてのは勘弁してほしいけど」
 
 右手で触れた剣がバキンと音を立てて消え去る。ふたを失って一気に噴き出してくる血に、意識まで飛んでいきそうになったが、必死に両手で抑え込む。少しでも出血を抑えないと、あっという間に失血死だ。
 上条は少しでも気を紛らわしたくて、あたりを見た。そこらじゅうに、赤黒い槍が刺さっていた。スピッツが死の間際に放った魔法だ。
 肝心のスピッツの身体は見えなかった。もしかしたら、あの豪快な笑い声と共にひょっこり現れるのではないかと期待したが、そんな気配はない。最後まで、あの全裸の魔法使いに助けられてばかりだった。
 上条の身体も満身創痍だ。公館からの助けがこなかったら、命はない。倉本慈雄を一発殴りつけてやる。目の前の悲劇に黙っていることなどできないという意地を張り続けた代償がこれだった。
 偽善もいいところだと自覚して、泣きたくなってくる。
 気力が抜けて、身体が重さを増していく。それでも、無駄だとは思いたくなった。
 腰に差した青いペーパーナイフを見る。幻影城と呼ばれる神人遺物に入るための鍵だ。倉本慈雄が求めた、おそらく、この物語で最も大事なもの。これがあれば、囚われた倉本きずなを助けにいけるという。
 上条は彼女の優し気な笑顔を思い出して、少しを気合いを入れた。まだ、終わりじゃない。ここまで意地を張ったのだ。いや、スピッツがいたからつながった意地だった。無駄になんてできない。もう上条に力はこれっぽちも残っていないけど、次の希望につなげることはできるはずだ。
 そのために伸ばし続けたのだろうと、願いを決して幻想などでは終わらせないと右手を伸ばしたのだ。
 公館には信頼できる大人がたくさんいる。あきらめの悪さで手にした希望を託すには十分な人たちだ。
 
 ふと、後ろに人がたつ気配がした。公館の救援だろうか。専任係官で上条が知っている人物は神和と武原仁くらいだ。
 首だけで振り向いて、その姿を確かめた。
 
「君には本当に驚かされる。決して侮っていたつもりはないのだけどね」
 
 倉本慈雄の声は落ち着き払っていた。上条に殴られ赤く腫れ上がった頬を押さえながらも、目だけは穏やかなままだった。
 
「そう簡単にいかねえか。なあ、まだあんたの願いは変わらねえのか。あの子は家族だったんだろ」
 
 上条は立ち上がることもできない。首を動かすこともつらくなってうなだれる。精根付き果てて、できることは言葉を投げかけるだけだ。
 
「そうだね。一緒に暮らした時間が長いから、いろいろと染みついて困る。でもね、それを私は選べないんだ」
 
 その声音に複雑な感情が入り交じっていた。そしてそこには、家族の情愛もあった。
 たばこのにおいがした。この男も最初から、こうだった訳ではないと思いたかった。
 
「選べないってなんだよ。一人で決めたら、ほかのことが見えなくなるのは当たり前だろ。あんたは、あんたの想いを、あの子に伝えたのかよ。本当にそれしかなかったのかよ」
 
 言葉にしたそれは、上条自身にも言えることだった。一人で意地を張っても、足りなければ届かないし、願ったもののほとんどを取りこぼす。
 だが、その想いは何事にも譲れないものなのだろう。
 周りを省みることも忘れてしまうくらい、大切なものなのだろう。
 倉本慈雄の願いのあり方が、理解できるからこそ上条は悔しかった。自分で曲げられないなら、誰かがそれをへし折ってやらなければならないのに、上条には力不足だった。
 
「残念だよ。けれど、きずなのためにここまでしてくれてありがとう。君もみたいな友達がいたら、あの子はきっと、しあわせになれたのかもしれないな」 
 
 それは、今から娘を生け贄に捧げる親の言葉ではなかった。だがもう、言い返す気力もない。
 上条の腰から、幻影城の鍵が取り上げられた。倉本慈雄はわざわざ上条にはとどめを刺さない。
 それが、慈悲なのか、結局何も手に入れることができなかった少年への哀れみなのかはわからない。
 
「例え向いてなくても、迷っていても、何もしないなんてできなかった。こんなになっても、やっぱりあきらめきれねえよ」 
 
 物語はハッピーエンドであって欲しい。それが、上条当麻の願いだ。
 都合のいい奇跡なんて存在しない。もう、魔法の助けはない。
 本心からの願いも、”偽善使い”の言葉も通用しない。
 倉本慈雄には、何も届かないと知ってしまった。
 
 ただ、悔しさに涙を流し、みっともなく心の中で叫び続ける。
 
 ただ、力不足だった。もう身体も動かない。
 スピッツ・モードは何のために死んだのだろう。こんなところで、終われないと思った。
 
 倉本きずなのこれからの運命は、どうしようもなく救いがない。
 誰でもいい。助けて欲しい。この運命を変えて欲しいと願うが、そんな、都合の良いヒーローなんているわけがなかった。
 
 それでも。あきらめきれなかった。
 ただ、運命を受けいられないという思いだけが残った。
 それは、嘆きに似た祈りだった。
 
 世界が、その悲壮な祈りに応えるように、赤く裏返った。
 
 音もない。熱もない。ただ、炎が散る。それは奇跡を焼き尽くす"魔炎”。
 あたり一面に炎が舞い、そして、一発の銃声が夕闇に響いた。
 
「倉本慈雄だな。魔導師公館選任係官武原仁だ。これ以上、ここで好き勝手にさせるわけにはいかない。お前はここで倒れろ」
 
 赤茶けた髪、擦り切れたような鋭い眼光。けれども、どこか青臭さを感じる雰囲気。
 彼はヒーローみたいなものに成りたかった。大人になっても、誰もがしあわせになる”いつか”を願わずにはいられかった。そして彼は大事なものを取りこぼさないため、戦うことを選んだ大人だった。
 
「・・・・・・ああそうだよな。ここにもいるんだよな。俺なんかと違った、この物語の本物の主役がさ」
 
 魔導師公館専任係官、武原仁。
 上条に似ている、けれども彼はきっとこの物語の本当にヒーローになる。ここで、上条の願いを託すには十分すぎる相手だ。そして、上条がスピッツといたから希望をつなげたように、彼にも可愛らしい相棒がいる。
 
「あんた。覚悟しなさい。わたしとせんせが来たんだから、みっともなく鳴いても許してなんてあげないんだから」
 
 白いワンピースにジャケットを羽織り、おろしたてなのか、鮮やかで汚れひとつない赤いリボンで髪を束ねた妖精のような少女。その瞳は、力強く、小さな身体いっぱいに、魔法使いとしての誇りを溢れさせている。
 
「メイゼル。上条くんの治療を頼む。こいつは俺一人で十分だ」
 
 武原仁はそういって一歩前にでる。右手には取り回しのきく小型の拳銃を持ち、腰には剣を引っ提げている。
 
「……≪沈黙(サイレンス)≫……」
 
 倉本慈雄が忌々しげに吐き捨てる。今まで揺るがなかった表情が、嫌悪に一瞬歪んだ。
 そしてまた、仁の周囲で魔炎が散った。倉本慈雄が放った魔弾が着弾の寸前で焼かれたのだ。
 観測することによって魔法を焼く存在、この世界の本来の住人、
 彼は、魔法使いが言うところの悪鬼なのだろう。だが、違和感があった。魔炎は倉本慈雄の魔法を、無差別に焼いているのではない。まるで、魔法が見えて、それを選んで消去しているようだった。
 魔炎と幻想殺しは異なるものだ。けれども、武原仁が使いこなす魔法消去は、さらに異質なものだった。
 以前ジェルヴェーヌが、専任係官≪沈黙≫のことを真なる悪鬼と称していたのを思い出した。奇跡を認識し、それでもなお自らの意思で拒絶する。それは魔法使いにとって悪夢にほかならない。
 奇跡を焼く炎がスピッツ・モードが放った地面に突き刺さる槍を捉えた。彼が命に代えて最後に放った魔法が、いとも簡単に燃えて消えていく。
 上条は、魔炎の本質を悟るとともに恐怖した。魔法使いの願いを問答無用で焼き尽くす。その奇跡に心を打たれ、希望をつなげたからこそ、この仕打ちに背筋が寒くなる。
 これが、魔法使いが感じる恐怖なのだ。
 
「あんたじっとしてなさい。私がその傷治してあげる」
「お前、武原さんとこのビリビリ小学生」
 
 減らず口が出たのが奇跡みたいだ。どうやら、気持ちが少し浮ついているらしい。だが、まるで現実感がわかなかった。
 
「私は鴉木メイゼルよ。あんた覚えてなさい。元気になったら、とびきりひどいことしてあげるんだから」
 
 すごい顔で睨みながら、メイゼルは上条の腹に空いた大穴を確認する。歳に似合わない凛々しい顔つきに上条は引き込まれた。
 
「お前、傷も治せるのか。すごいな流石魔法使い」
「ちょっと黙ってなさい。あんた、本当に死ぬ寸前だわ」
 
 メイゼルが上条の危機感のなさをたしなめ、両手を腹の傷にあてがう。目を閉じ、上条の中から。その生命を維持する円環を魔法でとらえようと集中力を研ぎ澄ます。
 鴉木メイゼルの扱う魔法は円環大系だ。周期運動をするもに≪魔力≫を見出し魔法を行使するこの大系は、極まった魔法使いであれば生命活動そのものを円環として捉え、魔法で干渉できる。そして、メイゼルはこの歳で天才の名を欲しいままにする魔法使いだ。
 だが、魔法が上条の生命を捉えようとしたとき、パキンと音をたて奇跡が消え去った。
 
「どうして、生命の円環が捕まえられないの。何かが私の魔法をかき消している。こんなことって」
 
 メイゼルが、焦りに額から冷や汗を出す。魔法を拒絶する力は、魔炎に限らず魔法使いは穏やかな気持ちではいられない。それが得たいの知れないものならなおさらだ。
 
「どうしたメイゼル」
 
 異変に気付いたのか、倉本慈雄の魔法を消去でさばき、拳銃でけん制を加えながら、仁が声をかける。上条とスピッツたちとは違い、どこか余裕をもって戦っている。
 
「せんせ。この子、私の魔法を拒絶している。生命円環が維持できないわ。傷の表面なら魔法で干渉できるけど、血を出しすぎてるから、このまま傷をふさぐだけじゃダメ」
 
 メイゼルが言っていることは、ぼうっとした頭でも理解できた。ここでも幻想殺しが、邪魔をしているのだ。
 
「俺がこいつをすぐ片づける。それまで、なんとか持たせるんだ。死なせるな」
 
 武原仁が、魔法を消去しながら、一気に距離を詰めた。倉本慈雄は何とか隙を見つけて、幻影城の鍵を使い逃げ出したいところだったが、“真なる悪鬼”はそれを許さない。
 そして、仁の振う一刀が、倉本慈雄をけさ斬りに捉えた。
 ぼうっとした頭でも、幻想殺しのおかげで助からないのだろうと、何となく理解できた。死ぬかもしれない瀬戸際にいながら、絶望感はなかった。あきらめてしまったのか、血を流しすぎて頭がおかしくなってしまったのか、意識は自分の身体のことよりも、遅れてやってきた本当のヒーロー、武原仁に向けられていた。

 誰もがしあわせになるハッピーエンドを導くヒーロー。その姿に、ただ一つだけ引っかかりがあった。

 彼の振う剣は、放つ銃弾は命を取ることに迷いがない。彼は必要であれば割り切る大人だから、彼は命を奪うことにも躊躇いがない。
 それは、ダメだと思った。

 倉本慈雄は、どうしようもなく悪人だ。自分の願いのために、娘すらいけにえに差し出す。同情の余地なんてない。
 
 それでも。今、ここで倒されるべきではない。
 
「それでも、死んだら悲しむ子がいるんだ。あの子は、せめて、こいつが何でこんなことをしたのか知るべきだ。話あって、それでダメでも。ダメかどうかの結論はあの子が出すべきなんだ」
 
 身体は虫の息でも、口は動いた。言葉はつむげた。かろうじて両足で立つこともできた。なら、やるべきことは一つだ。
 
「武原さん。そいつは、殺したらダメだ」
「こいつがやったことは許されない。君だってわかっているはずだ。こいつの身勝手で何人が死んだ。きずなちゃんは今も一人で震えているんだぞ」
 
 武原仁はここに根を降ろす人間だからこそ、人の土地を土足で踏み荒らす魔法使いを許せない。奇跡を振りかざし、この世界の住人を悪鬼と見下す者たちと、戦うことを選んだ大人の覚悟は、とうてい上条にはかりり切れるものではない
 
「それでも、ここであなたが勝手に決めていいものなんかじゃない。倉本はたぶん、そいつと話したいことがあるはずだ。あんたはヒーローになりたかったんだろ。ヒーローなら、倉本や、俺の。その願いを叶えてくれよ」
 
 身勝手な願いだ。相手の都合も知ったことではなかった。ただ、そうあって欲しかった。そのために、相手の弱い言葉を見つけ、それを使うことだっていとわない。
 武原仁は、ヒーローみたいな大人になることをあきらめきれていない。それは、この幼い魔女をわざわざ戦場に連れまわしていることかわも見て取れた。
 卑怯だ。けれどもこれが“偽善使い”の願いの叶え方だった。
 
「もうしゃべっちゃダメ。傷がひらいて血が、止まらない。もう、これ以上は保たない」
 
 願いの代償は自分の命だ。以前十崎京香に、その偽善に命をかけられるのかと問われたことがあった。あの時の問いが、今現実にふりかかっている。
 
「ヒーローなら、簡単に割り切るなよ。すべてを掴んで、周りの人たちをすべてをしあわせにしてみせるくらいやってくれよ」
 
 止まる理由なんてなかった。いざ、直面してわかった。それが、“偽善使い”の在り方だと、冷静な頭と、熱くなっている心が肯定してくれた。
 
「ここは、本当に”地獄”じゃないって証明してくれよ。本当にヒーローはいるって見せてくれよ。頼むよ。ヒーロー。俺には届かなかった。でも、あんたなら、あんたならできるんだろ」
 
 上条当麻は願いを捨てない。自分の目に届くところだけでも、すべてハッピーエンドになってほしいという身勝手な”偽善”を捨てきれない。
 上等だと思った。それで、願いが叶うのなら、しあわせが増えるのなら、命だってかけられる。
 
 命尽きるまで、上条当麻はただ叫び、わめき続けた。
 その願いは、確かに世界に届く。願いは言葉になり、それを聞いた人々の心だって動かす。震える身体を叱咤し、擦り切れた心の奥底にしまい込んだ思いを呼び、迷いだって断ち切る。いっぽうで、捨てたはずのものに光があたる。
 上条当麻はこの言葉にこそ、奇跡を信じる。”偽善使い”と言われようと、その言葉と願いは誰にも遮られることなどないのだから。

 そして、運命が変わる。

 まるで、魔法みたいに。



[26217] ‐14‐(終)
Name: 棚尾◆5255b91b ID:04605598
Date: 2017/01/26 20:47
 上条当麻の存在は、地獄から完全に消え去った。それは、誰も観測することなく、まるで初めから存在しなかったかのように世界は振る舞い修正されていく。
 それは何かしらの神の仕業なのだろう。魔法の原理と同じく、不安定な自然秩序や揺らぎを調整するのは神の仕事だ。
 彼のしたことは、誰にも知られることなく、ましてや、人々の記憶にさえ一片も残らなかった。
 ただ、世界を本として観測できる再演大系の魔法使いだけは、その残滓をなぞることができた。悪鬼が作り出す虫食いではない。それは、少しでも身近にいたからこそ感じ取れる、本のページの間に残る小さな欠片だった。

 彼女は、自身の生きた世界の本を眺めながら、その見えない欠片に触れようとし、思い出すように語りかける。
 
「あなたを表す言葉を私は知らない。ううん、私たちの誰もが、それを持たないの。“ここ”に来て、たくさんの私と、過去に聞いてみても答えはなかった。まるであなたは、何もかも拒絶しようとしているみたい。けれども、多くのものを望んでいた。まるで、呪いみたい。あなたは諦めることができないから、何もかもから拒絶されている」
 
 “ここ”は、ただ真っ暗で、天地の差もない。≪世界という本.≫を読み終わったあとの“どこでもない場所”。再演大系の唯一魔導士に与えられる、自分のいる世界すら完全に客観視できる場所だ。
 彼女は倉本きずなだ。正確に言うなら、無数の時間分岐の中のきずなたちの一人。ここには彼女とは違う運命をたどってきたきずなたちがいる。そのいずれも共通している点は、自らの生きる世界を壊して、やり直そうとした点だ。だから、自分たちがいた世界からも弾き飛ばされた場所にいる。
 だからこそ、彼女たちは同じきずなでありながら顔を合わせようとしない。みんな、後ろめたさを抱えている。支えてくれた人たちがいながら、それを否定してしまったからだ。
 だが彼女は自らの運命を変えた存在に語りかけたかった。聞こえるはずがないのだけれど、それでも魔法では計り知れない存在であるそれに、伝えたかった。

「あなたはきっと、別の本の存在なんだよ。きっと、私たちや、他の魔法の神様たちでさえ、あなたを自由にできない。だから、魔法による観測はもちろん。神様が世界を安定させている世界では、あなたをどうしようもできなかった。
 “干渉が不可能な自然秩序のゆがみ”なんて、神様たちもどうしようもできなかったんだろうね。けれども、あなたは消え去った。命あるかのようにふるまう歪みだったんだ。神様は幸いにとばかりに、自然秩序を調整した。違和感が限りなく少なくなるように。だから、誰もあなたのことを知らなかった。ただ、結果だけが残った。神様の奇跡でさえどうしようもできない存在であるあなたは、確かに運命を変えたんだ」
 
 確かに運命は変わったのだ。彼女がそれに気づいたのは、ここにたどり着いて、自分の生きた世界を客観的に見ることができたからだ。感謝を伝えるには手遅れだけど、言葉を出さずにはいられなかった。運命を変えたのは、言葉に奇跡を信じ、ただ愚直に行動した存在だからだ。
  
「私のことを言うね。幻影城には、聖騎士たちとジェルヴェーヌさんがいて、バベルの再臨を待っていた。けれども、エレオノールさんより先に、神和さんが幻影城に乗り込んで、聖騎士たちと戦いはじめちゃった。筋書が違っていても、再演は動き出した。“神の門”の召喚の儀式が失敗したという事実が確定したから、それも歴史改変に織り込んで、始まったの」
 
 聖騎士たちが再演を試みたのは、過去に失敗した地獄に神を呼ぶための門を召喚する儀式だ。“神の門”をと呼ばれるそれは、神様であろうとあらゆる索引が引き出せる完全索引と呼ばれるものだ。ジェルヴェーヌも倉本慈雄の狙いも、そこから望む魔法を引き出すことが目的だった。
 
「儀式は、ジェルヴェーヌさん、聖騎士のグレアムという人と、神和さんが戦うところまで進んだんだけど、そこで、武原さんが、メイゼルちゃんと一緒に鍵を使って侵入し、魔法消去を使って城ごと全部壊してしまったの。儀式は失敗して私は助かった。これが、結果の一つ」
  
 倉本きずなは、バベルの再臨で命を拾った。それは、武原仁が儀式の達成の前に、鍵を手に入れられたことによる結果だ。 

「でも、あなたが、本当に変えたのはもう一つあったんだ。私ね、お父さんとちゃんと話せたんだ。事件のあとに、何でこんなことしたのって。これしかできなかったのって。他にも、お母さんのこととか、魔法のこととか、いろんなことを話したんだ」
  
 倉本慈雄は武原仁に殺されることなく、生きたまま公館に逮捕された。協会には大罪人として引き渡されることになったが、その前にきずなは面会の機会を得た。大したことではないかもしれないが、父親とちゃんとした別れをしたことは、彼女のその後の運命を確かに変えたのだ。
 
「何もかも、元通りとはいかなかったし、そのあとも私は間違えてばかりで、結果的にここに来てしまったり、あなたがしてくれたことも台無しにしてしまったけど」
 
 運命が変わっても、何もかもがうまくいくわけではない。ここにいるきずなは、運命に耐えられなくて、世界を壊してしまった。ここにたどりついてから、取り返すように、弁明するように語るのも、ただの“偽善”でしかないかもしれない。
 
「ありがとう。それだけあなたに言いたかったの。お父さんと話せて本当によかった。あなたがいてくれたから、できたの。あなたのおかげで、今の私がいるから、それを伝えたかった」
 
 きずなは顔をあげる。聞こえるはずがないのだけれど、精一杯の笑顔を作って、あなたへ届くようにと。名前も思い出したのだ。まるで奇跡みたいと思ったけれど、あなたは神様の奇跡さえ拒絶するのだから、こんなことがあっても不思議ではない。
   
「ありがとう上条くん、あなたのおかげで私は救われたよ。お父さんとちゃんとお別れできて、私はしあわせだった」
 
 その優し気な笑顔から。影が消えることはない。それでも、精一杯に感謝と、いっときでも救われたと、しあわせだったと伝えたかった。
 あなたのやったことは、決して無駄ではない。その在り方は、正しくはなくても、間違ってはいないものなのだから。
 
 そして、彼女は彼女の戦いに戻る。呪われた再演大系という魔法と運命と、戦うことを、彼女は選んだのだから。




 



 白い閃光に目を奪われて、ついでに気も失って、どれくらいの時間がたっただろうか。
 たしか、橋の上で、いつものように突っかかて来る女子中学生の電撃を命がけで、受け止めようとしていたときだったと思う。
 
「ちょっと、あんた、いいかげんに目を覚ましなさいよ。ああ、もうどうして。直撃してなかったはずだし、いつものように受け止めるかもって思ってたのに」
「うーん、うるさいぞビリビリ」
 
 頭の近くで声が聞こえた。自ら喧嘩をふっかけておいて、何であわてふためいているのだろう。これを機にやりすぎだと気づいてくれるといいなと淡い期待を抱いてみる。
 
「あれ、心配してくれてんの。目に涙なんて浮かべて、いつもの威勢がうそみたいだな。まあ、大人な上条さんは全然問題ないわけだけどな」
 
 軽口をたたいて見て、身体は本当に問題なさそうだとわかった。気を失ったの一瞬みたいだが、頭が少しいたいし、身体もお腹のあたりに違和感を感じる。
 まるで、何か長いこと別の場所にいたかのように徒労感があった。
 今、軽口の反撃に電撃が飛んできたらやばいかもと、後悔して身構える
 
「あんたこそ、泣いてんじゃん。どうしたっていうのよ。まったく、あんたこそ、らしくないわね」
「えっ」
 
 指摘されて、頬を触ってみると、確かに濡れたあとがあった。そんなに電撃にビビっていたのかと、思ったが、そういったものとは違う気がした。
 何か大切なことがあった。一言では言い表せない、中途半端になってしまった悔しさと、本当にこれでよかったのかという不安と、肯定されたことによる安堵と色々なものが混ざったもの。おそらく自分でも整理できないほどのものが、あの一瞬にあったのだろう。
 
「本当に大丈夫。変なとこ打ったんじゃないでしょうね」

 美琴が心配そうにのぞき込んでくる。年下の彼女に、これ以上心配されるのはよろしくなかった。
 ちっぽけなプライドが、口から言葉を吐き出していく。ついさっき後悔したばかりだというのに学習しない自分にあきれてくる。
 
「大丈夫、大丈夫だって。お前こそ、急に優しくなって、あれか電撃の出しすぎで悪いものが全部出たっていうなら、上条さんは大歓迎なんだが」
 
 動揺を隠すように、またいらぬことを言ってしまったようだ。起き抜けの軽口は、本当に心配されてたようで、見逃されたが、2度目はない。
 
「人が心配してやってるって言うのに、あんたねえ、ふざけんじゃないわよ!」
 
 雷撃に追い立てるように、上条当麻は駆け出す。
 こうして、1学期も終わる7月19日という日の締めくくりは、あわただしく幕を閉じる。胸の底につっかえているものを抱えながら、上条当麻は特に深く考えることもなく、眠りについた。
 何か、とんでもないことがあったのだとう。でも、それによって自分の在り方が変わるとは思わなかった。
 
 
 翌日、上条当麻は予想外の出来事に度肝を抜かれることになる。
 夏休みの初日、エアコンの故障をはじめとする電子機器の全滅の憂き目にあい、補習が待っているというどうしようもない事実に打ちひしがれながら、少しでも気分を晴らそうとベランダに出たときにことだ。
 
 そこにぶら下がっていたのは、布団ではなく一人の少女だった。不思議とほうっておけなかった。そして、とりあえず中に入れて言葉を交わして、湧き上がってくるものがあった。
 
「おなかへった」
 
 その声は、今まで聞いたことのないくらい透き通っていた。胸の底にとんと落ちていく。何かが始まる予感に胸が高鳴る。
 
「私はねインデックスっていうんだよ」
  
 まるで、物語から飛び出てきたかのように、魔術の存在を語る彼女に、上条当麻は心を引き寄せられた。憧れたヒーローの姿が胸の底からよみがえる。
 
「だったら、あなたは私と地獄の底までついてきてくれる?」
  
 自らの運命と呪いに向き合うかのような姿が放っておけなかった。
 こちらを気遣うような、笑顔が、胸の奥に残った、しあわせだったと、ありがとうと言ってくれた女の子と重なったような気がした。名前ももう思い出せないけど、大切な出来事だと思った。だから、返す言葉は自然と出てきた。何も変わってなどいない。上条当麻は、上条当麻だから。
 
「上等だ。地獄の底でもついていってやろうじゃねえか」
 
 地獄での巡礼を終え、幻想殺しは学園都市で、ある少女と出会った。
 ここは学園都市、科学にあふれたこの街で、上条当麻と、禁書目録(インデックス)が交錯するとき、物語は新たに始まりを告げる。
 それは、神様の奇跡さえ拒絶する“幻想殺し”を持った言葉を信じる“偽善使い”の物語だ。


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