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[25761] 源平剣豪伝(魔改造歴史剣豪物)
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/02/01 20:13

ひとつめ 『京の鬼。剣の鬼。京の夜叉。』







 京の都に、鬼がでる。
 その鬼、巨大な体躯にて数え切れぬ武具を背負い、五条の橋にと現れるという。

 京の都に、夜叉がでる。
 その夜叉、痩躯に似合わぬ太刀を背負い、京の夜を彷徨い歩くという。

 鬼も夜叉も、目的は同一である。
 ただ、平氏の強者との邂逅のみを求めているのだと。
 そんな噂がいつしか流れ始めていた。



 鞍馬の山より源氏の牛若が逃げ落ちてきたのは、折しもそんな噂の流れる時期だった。





 女が歩いている。

 黒。

 闇に融けるような艶やかな黒髪を後ろで結わえ、櫛も通さず無造作に垂らしている。

 その女の姿は、京の都を歩くには些か奇抜すぎた。
 全身が黒いのである。
 黒い髪、黒い衣、黒い手甲、黒い足袋。その姿全てがまるで墨を落としたかのように黒い。
 そして極めつけは、その背に背負う黒鞘だった。その刀は分類としては太刀に属するだろう。だが、明らかにその太刀は他の物よりも長い。それは馬の首すら一閃しかねぬ代物だった。比較的小柄なこの女が背負うには、あまりにも非常識な大太刀。

 そも、女性が太刀を佩くこと自体が珍しい世である。いつの世も武士でありたいと心の内で思う女は数少ないながらも無くなりはせぬが、それでもこの様な異装はしまい。

 野宿でもしていたのだろうか。黒い衣のあちこちに泥や埃、ほつれや傷跡なども見える。本来は白いはずである肌も、埃や煤に紛れるように薄汚れている。
 その中で、ただ唇だけが血の様に紅かった。

 女は歩き続けている。
 その歩みは迷い無く、早くもなく遅くもなく、ただ夜に消え入るように進んでゆく。
 時折、何かに耳を傾けるように止まり、また時折、駆け出したりもする。かと思えば、夜空を見上げ、そこにある月を陶然と見上げていたりもする。

 まるで、年端もいかない童のよう。

 事実、女は少女と言っても良いような相をしていた。年の頃、十四か五か。その程度の年齢にしか見えなかった。

 夜の月を見、少女は嗤う。

 嫣然と嗤うその様は、その美しさと相まって人ではなく化生の類。

 そして少女は駆けだした。
 足音もなく、気配もなく、呼気もなく。

 夜の闇を寄せ集めて人の形にしたようなものが、京の通りを駆けてゆく。
 ふと、その足が止まる。

 前方から三人。歩いてくる者がいた。
 その者達を見て、黒い少女はただ。

 嗤っていた。






「ねえ、そこの」

 最初、大塚左門義家(おおつかさもんよしいえ)は空耳だと判断した。

 大塚は二人の従者と共にある場所へと向かっていた。
 夜遅く通りを歩くのはわけがある。大塚は平氏に与する武士であった。彼は大安の世であっても武士(もののふ)は武芸を常に尊ぶべしとの考えを持っており、源義朝と平家の決戦の折にも、常に兵たちの先頭に立ち敵を切り伏せている。

 早い話が剣狂い。それが、大塚左門義家を一言で表すに相応しかった。

 今日も自ら部下達と剣を交え、叩き伏せる。敵兵は決して遠慮をしてくれぬとの価値観から、手加減無く木剣にて部下を叩きのめすその姿は、まるで鬼のようだと常々評価されていた。

 近頃、京女達の間で交わされる他愛もない噂話。五条の大橋に出るという大鬼と、大太刀を背負うという夜叉。共に、平氏の武士のみを相手取るという化生。

 大塚はそれを眉唾とばかり思っていた。平氏の世を嫉んだ者達が、その様な在りもせぬ幻想を作り上げ、噂として流したのだと。現実で勝てぬのならばせめて夢想の中で勝たせようとの、弱き者達の精一杯の抵抗。大塚はそう思っていた。先日、部下の一人が橋の麓に屍となって転がっている姿を見るまでは。

 どの様な凶器にて殺されたのだろう。戦場での死体というものを見慣れている大塚にすら、その姿から想像も出来なかった。

 刀、ではない。

 腹の部分を胴丸ごと吹き飛ばされた様に両断されている屍。それは太刀で作れるような傷痕ではなかった。そも、如何に腕の良い者が揮う太刀とて、甲冑に叩きつければ刃は通らぬ。甲冑とは刃を防ぐためにあり、鋭いが細い太刀でその防御を完全に貫くことなど、生半な者には出来はしなかった。

 殺された部下は大塚の弟子の中では一番の使い手だった。ただ無防備に胴を薙がれるはずがない。確かに、優れた者が持つ太刀は胴丸ごと敵を切り伏せることも出来うるかもしれない。だが、それは胴丸を持つ方も同じだった。薙がれる際に刃筋が立たぬ様に自ら刃へと胴丸を押し当てる。それにより刃は物を切る適切な角度がずらされ、胴丸の表面を掠り逸れて止まる。それは、大塚が幾たびもの戦で編み出した極意であり、当然、殺された部下にもその極意を伝授していた。数いる部下の中で最も腕が立つ者だったので、それもまた当然だった。

 相手の刃を甲冑で受け止め、逸らし、その隙に太刀で鎧の隙間を突く。自らの負傷を最小に抑え、立ち塞がる敵には必殺を。それが、大塚左門義家の剣理。

 しかし、その剣理は明らかな敗北の形となって、大塚の目に映っていた。

 胴丸ごと吹き飛ばされた男。断じて、太刀などではなかった。もっと巨大で、圧倒的で、重厚な、そんな見たこともないような凶器。それが、部下の身体を二つの骸にした物だろう。

 身震いした。
 大塚の中に潜む剣鬼が、まだ見ぬ強敵の確かな存在に、悦びの声を上げているのである。

 五条の橋の大鬼。数えきれぬ程の武具を背負うという、化生。

 戦ってみたかった。しかし、大塚にも立場という物がある。まさか、甲冑姿で京を徘徊するわけにはいかなかった。

 ならば、夜。人々が眠り、草木も眠り、魔性が騒ぐ丑三つ時。

 思えばあの部下も、同じことを考えていたのではないかと今さらになって気付く。だからこそ、完全な戦具足のまま、屍となって打ち捨てられていたのだと。

 そして、腹心の部下を従者として連れ出し、大塚は夜の都へと出た。他ならぬ、五条の橋へと向かうために。

 例え今宵大鬼が現れなくても大した問題ではなかった。それならば丑の刻参りの如く、毎夜でも通い詰めよう。そんな決意と共に歩いていたのだが。

「あんた、平家の侍?」

 何もない闇から、鈴のような声をかけられた。
 空耳などではなかった。距離にして三間(凡そ5.5㍍)。その先に、妙に青白い何かが浮かんでいる。

――生首?

 大塚にはそう見えた。儚げな中にも凛とした刃を秘めた、そんな印象を持つ生首が、三間先に浮かんでいると。

 だが、それが誤っていることに、大塚は気付いた。全身を黒で塗り固めた様な姿をした者が、そこに佇んでいるということに。

 愕然とした。かつて、これほど近間まで何者かを気付かずに近寄らせた事など、果たしてあっただろうか。それほどまでに大塚は武芸に秀で、目の前の存在は幽鬼じみていた。

「何者か!!」

 漸く、従者の二人が正気を取り戻したのだろう。主である大塚を護るべく前に出て、大音声で問いかける。

 しかし、その問いがなくとも、大塚は答えを知っていた。ここは未だ、五条の橋ではない。ならば、目の前の化生は大鬼ではなく。

「京の夜叉か」

 もう一つの噂、大太刀を背負った夜叉に違いなかった。

 そして、太刀を抜く。
 従者二人もそれに倣い太刀を抜き、三者が共に、八相に構える。右手が上、左手は下。切先は天。太刀を立てて体の側面に。攻守に堅い青眼でも、威力の勝る上段でもなく、八相。それは、相手に先を取らせ甲冑にて防ぐという戦法のために大塚が出した結論だった。通常の八相よりも右に傾いだ大塚達の構えは、彼の剣の極意である。わざと無防備に近い左半身を晒すことで、左方からの斬撃を誘う。左方には鞘があり、胴丸があり、肩当てがある。目立ちすぎることを避けるために兜までは用意できなかったが、これだけあれば大塚達は相手の剣を確実に防ぐことができる自信があった。

「話が早い。行くよ」

 鈴のような声。京の夜叉とは少年であったかと、今さらながら大塚は思う。
 そして、夜叉が背中の大太刀を抜く。柄拵えから鞘までも黒く、その姿を見ることも困難だった大太刀は、月光を跳ね返す煌めきとなって初めてその存在を主張する。しかし、太刀の長さは測れない。夜叉が刃を脇に構えたためだった。

――右、脇構え。なるほど、刃の長さを測らせず、一太刀にて勝負を決める所存か。

 距離は変わらず三間。しかし、二人の従者も黒き夜叉も、摺り足にて距離を詰める。

 じりじりと。じりじりと。

 この瞬間が大塚は好きだった。相手と自分を、文字通り命を賭けて比べ合う一瞬。それに至るまでの無限に思える時間。この時のみが、大塚に至福を与えてくれる。
 数の理はこちらにある。だが、これほどまでに世間を騒がせた夜叉が、たかだか三対一の数の差に呑み込まれるかどうか。やはり、この時間が堪らなく愛おしい。

 そして二間。状況に代わりはない。未だじりじりと両者は進み続けており、その刃はまだ一度として交わっていない。



 しかし、大塚の聴覚はその音を聴いていた。



 ヒュゥと。妙に甲高い音が、前方から聞こえていた。大塚はこの音を知っている。その人生の中で、幾度となく聴いてきた音。

 人が、喉を切り裂かれた状態でなお、呼吸をした際に立てる音だった。

 やがて、従者二人が前のめりに倒れ伏す。

 意味が解らなかった。いったいいつ、あの二人は斬られたのか。夜叉は未だ、変わりなく立っているではないか。あの大太刀を脇に構えて。

 そしてようやく、大塚は気付いた。いつの間にか、右に構えていた夜叉の刃が、左側へと移動していることに。

 左構え。つまり、夜叉は右から左へと刃を振り、そのまま左脇に構えていたのか。

 見えなかった。恐らく、斬られた二人すら気付いていないのだろう。それほどまでに今起こった出来事は常軌を逸している。

「いいのかい。その位置で」

 唐突にかけられた、声。

 そして気付く。いつの間にか夜叉は大塚から一間の距離に居た。信じられぬ。一体いつ如何なる間に入り込んだのか。

 “間”とは“魔”でもある。それを大塚は熟知していた。間は扱いをしくじれば魔へと変貌し、容易く牙を剥いてくる。しかし、その魔を上手く操ることが出来れば、相手の攻撃すら自由自在に操ることが出来る。大塚はそう心得ていたはずだった。今この瞬間、ありとあらゆる魔を夜叉に操られるまでは。

 しかし機は大塚に味方していた。大塚の構えは右側に構えた八相。対して、夜叉の構えは左脇構え。即ち、大塚にとって右側に刀があることになる。夜叉がその構えから最速の斬撃を繰り出すには、必ずや八相に構えた大塚の太刀が邪魔になる。先程の二人のように、一瞬で首を裂くなどということは出来はしない。
 もし、構えを変えようとの動きを見せたのならば、その瞬間にこちらが最速の一撃を叩き込む。
 脇構えは防御が弱い。夜叉が青眼に切り替え防御に回すよりも、必ずや八相の構えからの一撃の方が早い。その筈だった。

 距離は一足一刀。相手の間合いまではわからない。あの大太刀がどれほどの長さなのかはわかっていない。しかしその緊張が、大塚に至福の時を与え続けている。命どころか来世の生すら削りかねない至福の時を。

 踏み込めない。踏み込まれない。

 相手が動かぬということは、その刃はまだ届かぬのか。
 しかし既に、そんなことは大塚の脳裏からは消えている。ただ確実な後の先をとるためにのみ、大塚は立っていた。

 時が流れる。
 汗が止まらない。自然と呼吸が荒くなる。
 だが、夜叉の方は汗こそ見えるが、呼気は見えない。目を瞑るとまるで何もない闇が広がっているかの様に、その存在感が全くない。それほどまでの静謐。

 不意に、月が翳った。
 流れる雲が月光を遮ったのである。



――動!



 夜叉の手の動き。今度は見える。身体ごと捻るように一歩を踏み出し、独楽のような回旋と共に神速の一撃が襲い掛かってくる。

 しかし見えている。大塚は必死の想いで刃を動かすと、自らの首と大太刀の間を遮る絶対の壁として君臨させた。



――勝機ッ!



 身体ごと叩きつけられた大太刀の切っ先は、恐らく凄まじい重さと勢いを持って大塚の刀を襲うだろう。しかし、それに耐えたとき、この大振りへの代償が、夜叉を襲う筈。必至の隙という形として。そこを――――殺る。



 だが、大塚は目にしてしまった。一歩を踏み出した夜叉の左足。その足が、その膝が、滑らかな動きで沈み込む様を。



 その絶妙な運足は、振り抜かれる太刀筋へと多大な影響を与えていた。刃は大塚の予測位置より遙かに下段を通り過ぎ、その左手の筋を籠手ごと断ち切ってゆく。

 大きく地を踏む音が聞こえる。夜叉の回旋はその、地に憎しみを叩きつけるかのような運足により急停止し、大太刀の切っ先は真っ直ぐに大塚の首へと伸びてくる。

 大塚は痛みと驚愕のために為す術もなくその刃を睨み続けていた。防御など、間に合うはずもない。だが、例え致命の刺突からも目は逸らさなかった。自らを殺すであろう宿命であろうとも、決して退かぬと叫ぶように。



――見事。



 自らの首に刃が埋もれてゆく中で、大塚は声にならぬ賞賛を目の前の夜叉へと告げていた。剣に狂った男が、剣に敗れたからこそ洩れた、心の底からの賛辞であった。

 名を知らぬのが、残念だな。

 思った刹那に引き抜かれる刃。引き抜く際に夜叉の足で腹を蹴られていたがために、大塚の身体は後方に倒れ伏す。

 強かに頭を打ったはずだが、今の大塚にとってそんなことはどうでもよいことであった。

「ぁ……は……」

 名は何という。
 そう口にしたはずなのに穴の空いた喉ではそんな言葉すら紡げない。

 しかし夜叉は、その思いを正確に汲み取っていたらしい。

「シヅカ……。それがあたしの名前だ」

 倒れ伏す大塚に鈴のような声で名乗った夜叉。その眼差しにはどこか賞賛の様なものが含まれているような気がする。

――何と。おなごであったか……。名の通り激しくも静謐な太刀筋であった。まさに、剣に生きた儂の最後に相応しい。

 それが、大塚左門義家の最期の思考だった。







 十八ヶ月。
 それが、男がこの世に出ることを拒んだ時間である。

 意味を求めていた。
 自らがこの世に生まれ出でた意味を。

「鬼め」

 生まれてすぐ。人であることを否定された。

「鬼め」

 人と会うたびに、人であることを否定された。

「鬼め」

 何かを成し遂げるたびに、人であることを否定された。

「鬼め」

 そして、今も尚、否定され続けている。

 男はその肉体が母の胎内にあった頃より、自意識という物を持っていた。
 男が未だ胎児であった頃から、男は誰よりも聡明であったのだ。

 自らの異常さを誰よりも噛み締め続けていた胎児は、生まれ出でる以前からもただ一つのことだけを願っていた。

 愛されることがないことを知っているが故に。求められることがないことを知っているが故に。否定されることを知っているが故に。

 私をこのまま死なせてくれ、と。

 しかしその願いは、叶うことなく。
 男は世に生まれ出でてしまった。







 夢を見ていたらしい。遙か昔の夢。未だ自らが名という物すら持っていなかった頃の。
 橋の中央にまるで仁王の様に立ち尽くしながら、鬼はそのまま過去へと思いを馳せる。

 山を下りて幾年。鬼は願い続けた。どうか、自分の存在に理由を与えてくだされと。そのためならば他には何もいらぬのだと。愛もいらぬ。友もいらぬ。敵も味方も隣人他人あらゆる者もいらぬから、ただ異形に生まれた自分に生きていても良いという理由を、と。

 初めに殺したのは僧だった。

 殺すつもりなどなかった。ただ、自分に信仰という物の素晴らしさを教えてくれた僧を、感極まって抱きしめたくなっただけだった。そして、抱きしめたら恩人は死んだ。

 次に殺したのもやはり僧だった。

 恩人を殺し茫然としていたところを、棍で思い切り打擲された。なんてことをするのだ、と。しかし、その棍は肩に当たって砕ける。そんなつもりはなかった。あの人を殺すつもりなどなかったと、そう言い訳したかった。その際に相手を振りほどくように払った腕で、その男の頚はへし折れた。

 鬼が未だ十になったばかりの頃の話である。

 その後、鬼は自ら寺を出た。僧を殺してしまった以上山には居られない。そもそも鬼は、恩人をその手にかけてしまったことに酷く後悔していた。やっと得られたかもしれなかった存在理由を、自分ですら制御できぬ力により破壊してしまったことは、鬼にさらなる絶望を与えた。

 山を下りた鬼はまず、力を求めた。誰かを打ち倒す力ではない。自らの異形を制御できる力。矛を止めると書いて武という文字となる。ならば、達人とまで呼ばれる人物の武ならば、鬼に自らの矛を止める術を与えてくれるかもしれぬと。

 しかし、漸く探し求めた達人は、鬼の姿を見るなり襲い掛かってきた。その、人にあらざる巨体は、達人の危機感を煽ったのかもしれぬ。その、薙刀を持った達人は、結局鬼が身を守るために繰り出した拳により果てた。

 この圧倒的に巨大な鬼の身体では、誰かに教えを請うことすらままならない。ならば、自ら武を鍛え上げるしかない。達人の亡骸を前に決意した鬼は、その薙刀を拾い、彷徨うこととなる。

 誰かを屠ると武器が残る。ただその場に打ち捨てられた武具をそのままにしておくことは、鬼には出来なかった。これは、自らが殺した者の悔恨の念そのもの。それが地に落ち朽ち果てるのを見捨てることは出来なかった。その意味を失くした武具が、意味を持たぬ鬼の境遇と重なるがために。鬼はそれら全てを背負い生きてゆくことに決めた。

 そうして十数年が過ぎた。

 既に、目的は変わっていた。鬼は数多の修羅場を超えて、自らの力を制御できるだけの武を手に入れることが出来た。もう、この力に振り回されず生きてゆくことが出来る。そう確信できる頃には、集めた武具は三百を超えていた。

 しかし、それでも鬼が鬼であることには変わりなかった。

 意味が欲しかった。だが、鬼は人とは程遠いが故に、誰からも恐れられ遠ざけられ続けた。誰よりも理知的な鬼は、鬼であることに耐えられなかった。孤独であることならば耐えられる。人に恐れられるのも耐えてゆける。しかし、自分の存在が無意味なのではないのかという疑問には、彼は耐えることが出来なかった。

 役目が欲しかった。誰よりも強い肉体を持って生まれ、誰よりも武を修めた自分にしかできない使命が。
 しかし、それは誰からも与えられることはなかった。なぜなら彼は鬼であったのだから。ただ、誰かに恐れられるだけの鬼なのだから。

 人でありたかった。人ならば使命を与えられるやもしれぬ。人から生まれたにも関わらず、なぜ自分は人ではないのか。それは、闇のように深い絶望だった。

 そして鬼は、幼き頃の教えを思い出す。自らの剛腕で絞め殺してしまった、誰よりも暖かな言葉をくれた大恩ある僧を。僧は言っていた。祈ることに意味があるのではない。祈り続けることにより意味が出来るのだと。一の祈りでは叶わぬかもしれぬ。ならば十。それでも届かぬのならば百度祈れと。

 百という数は特別な意味を持つ。意志弱き人間には辿り着けぬその数。全身全霊を籠めて百度も祈れば、神や仏も見てくれるだろうさと。

 だが、自らは鬼である。人ではなく鬼という存在が、誰よりも厚かましい願いを神仏に祈るのだ。百ではたりぬ。その倍あっても恐らく届くまい。

 ならば、千。

 千という数は人には辿り着けぬ。千に至るまで命を懸けて何かを貫き通すことは、人の領分を超えている。自分は今まで三百もの悔恨を背負ってきた。ならばあと七百。千もの想いと呪いを背負う意志さえ持てれば、鬼である自分にも神仏の慈悲は与えられるやもしれぬ。

 数多の悔恨と絶望の果てにその様な答えに辿り着いた鬼は、さらなる修羅場をくぐる決意をした。時には武士を。時には山賊を。十名以上の敵と戦い、重傷を負ったことすらあった。しかしそれでも鬼は生き残ってきた。その巨躯と膂力が故に。

 鬼は集めた武具を一本一本山の頂へと突き刺してゆく。山とは一つの生命である。数多の命が混じり合い、巨大な一つの生命となったそれは、時に神として崇められる。鬼は神にその武具を奉じていたのである。

 やがて、捧げた武具が九百を超えた頃、鬼は京へと辿り着く。平家にあらずんば人にあらず。その様なくだらぬ噂が飛び交うほどの魔境と化した京へと。

 平家の武士。世を統べた彼等ならばまた、神に捧げるに相応しき力量と武具を備えているやもしれぬと。

 だが、その期待は外れてしまう。世を統べたとはいえ、所詮彼等は人であった。鬼である自分に抗えるほどの力量を持つ武士など、数えるほどしかいなかった。

 京に辿り着き心躍らせた出会いは三つだけ。一つは名も知らぬ大鎧の男。一つは二十もの兵との戦い。そしてもう一つは。



「今夜はたぶん来ないよ。大鬼殿。あたしが三人斬っちまったから」



 この、幼き女夜叉との出会い。

「三人とはまた、奮発したものよな。夜叉殿」

 正面より出でた黒い影。大太刀を背負う女夜叉。三人を斬ったというその貌には、微かに血の飛沫の様なものがかかっている。返り血。

「たぶんね、あんたの所に行く連中だったと思うんだ。三人が三人とも、まるで戦にでも向かうような具足姿だったからさ。横取りするのは悪いと思ったんだけど、すまないね。我慢できなかったんだ」

 この夜叉は、七尺(凡そ二㍍十㌢)をも超えようとする鬼に対しても、この様な口調で話す。決して、自分に対して畏れを抱いていないその在り方は、酷く眩しく映る。

「で、まだ集まらないのかい。あたしは楽しみにしてるんだけど。千本目はあたしとやるって約束だろ?」

 鬼が今まで集めた武具は、未だ九百九十五。後五本で千に届くというところで、鬼の脳裏に迷いが浮かんでしまう。この様に容易く達成できる試練で、本当に神仏は我に慈悲を与えてくれるのだろうかと。

 しかし、その迷いは目の前の夜叉と出会うことにより霧散した。これが、これこそが最後の試練なのだと。自分とは違う類の物の怪。自らが鬼の力と姿を持って生まれたのならば、目の前の夜叉は悪鬼が如く業(わざ)を持って出でた物の怪なのだと。それを打ち倒すことにより、我が祈祷は完遂するのだと。鬼は彼女を見た刹那より、そう確信していた。

「すまぬな夜叉殿。恐れをなしたのか夕刻以降は誰もこの橋を通らなくなった。四日ぶりの武士も、そなたに奪われてしまったようなのでな。もしそなたが奪わなければ、今頃はそなたと仕合えておったのかもしれぬが」

「ふざけんな。大体あんたが馬鹿みたいにでかい図体しているから、誰もが恐れて近寄ってこないんだよ。あたいの所為にするなんてお門違いじゃないのかい」

「まったくもってその通り。しかし、今宵は随分と楽しんでこられたようだな。夜叉殿」

 目の前の夜叉の様子はおかしかった。酷く高揚している。普段はもっと冷静冷酷な雰囲気を纏っていたものを。
 余程の強敵と出会えたのだろう。酷く羨ましく思うと同時に、彼女が生きていたことに安堵すらしている。矛盾である。鬼自身が殺そうとしている相手が死ぬことを、鬼自身が許せない。それほどまでに鬼は目の前の夜叉に惹かれている。

「ああ、あの三人は最高だった。たぶん今までで一番の使い手だ。少しでも気を抜いたら自分の首に太刀が刺さっている姿が思い浮かぶんだから。特に、最後の一人になんて、思わず名乗っちまったよ」

 名乗った? 夜叉には名があったのか。出会ってから十日近くなるが、お互い名乗りあったことはない。互いが互いに、名など無いとでも思い合っていたのかもしれぬ。

「あたしにだって名前くらいはあるさ。けど、今のところ死人になる奴相手にしか名乗ったことはないけどね」

「なるほど。ならばワシの死に様にはその名を土産にもらいたいものだな」

「変なの。そんなものが土産になるとは思えないんだけど」

「なに。冥土に持ち込める物はあまり多くはない。末期に聞いた言葉などは、その数少ない中の一つだろうよ」

 そういうもんなのか。首をかしげながら夜叉は歩き出す。向かう先は橋の下。水を浴びて血飛沫を落とすのだろう。以前など、鬼の前で素裸になりそのまま行水まで始めたほどだ。市井の女に見られるような羞恥心や常識など、夜叉にはありはしなかった。

「水浴びも良いが、もうじき日が昇る。早く戻った方がよいかもしれぬ」

「じゃあ、先に戻っていてくれるかい。火でも熾しておいてくれると助かるよ」

「承知した」

 二人が出会ったのは八日ほど前。その折に、あろう事か夜叉は、橋の下に棲んでいた鬼を自らの棲処へと誘ったのだ。いずれ殺し合う定めにある相手であることを、判っておりながら。

 鬼と夜叉の棲処。それは荒れ果てた廃屋だった。どこぞの武士の家だったのだろうが、度重なる乱により主を亡くしたのだろう。手入れする者のいないままに数年が過ぎ、打ち捨てられていたところを夜叉が棲みついた。山の麓にほど近いため、鬼や夜叉は食料に困ることはなく、未だ他の者に見つかってはいない。昼間は一切外出せず、ただ獣の様に眠るだけ。そして夜になると徘徊を始める。二人してその様な生活をしているのだから見られていなくとも不思議ではなかった。

 鬼は歩き出す。後ろを振り向くことすらしない。背負った巨大な七つの武器を揺らしながら、五条の橋を去ってゆく。

 今宵の夜叉の笑顔。それが心から離れない。生まれ落ちて二十余年。最も美しいと思ったものが、年端もいかぬ少女の血にまみれた笑顔などとは。つくづく己らしいとも思う。人ではなく鬼。人ではなく夜叉。共に化生。だからこそ惹かれるのか。

 だが、数日後にはどちらかの命が潰える。それは間違いがなかった。鬼は相手の武具を求める。例え逃げ出そうとする相手からも、武器だけは奪う。その信心と祈祷のために。しかし夜叉にとって背中の大太刀は唯一無二のかけがえのない物であろう。その命がある限り、決して鬼に渡そうとはせぬはず。さらに夜叉が鬼に与えられた試練である以上、他の者では代わりにならない。

 つまり、化生同士の命懸けの共喰いを避けることは決して出来なかった。そもそも夜叉の目的は、強者を斬り殺すことなのだから。いつしか鬼を切り伏せる時を、夜叉は誰よりも楽しみにしているのだから。

 ままならぬものよな。心からそう思う。

 千に辿り着き、神仏に願う。己に人としての意味を与えてくだされと。それは鬼が十数年以上も抱き続けた、悲願。

 しかし、鬼にとっては夜叉と出会ってからの数日が、かけがえのないものへとなってしまっていた。夜叉は鬼を恐れない。それは夜叉自身の強さによるものか、それとも同じ化生であるが故か。畏れを抱かぬ夜叉の態度は、鬼に懐かしいものを抱かせてくれる。あの大恩ある僧と共にあった、たった数日の出来事。涙を流すほど感極まった、あの満たされた刹那。その温かかった何かに近い物を、鬼は今、胸の内に感じることが出来る。

 “今”が“無限”に続けばよい。そんな浅薄な考えすら浮かぶ。

 本当に、ままならぬものよ。心からそう思う。

 鬼若という名の鬼が、その人生を賭けて求め続けた瞬間。
 千に辿り着くという、何よりも求め続けた瞬間が、永遠に来ないことを鬼は願っているのだから。









[25761]
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/08/15 11:45

ふたつめ 『清盛。知盛。牛若。弁慶。静。』






「なぜ父上はそこまで牛若を気にかけるのだ」

 その疑問は、常に平知盛(たいらのとももり)に投げかけられる。如何に己の兄とはいえ、同じことを何度も繰り返す暗愚さを備えてしまっている平宗盛(たいらのむねもり)の事を知盛は疎ましくさえ思っていた。

 事の因は七日ほど前に遡る。鞍馬の山に源氏の残党が潜むことが発覚。幾度となくあの、“紗那王”と接触していると。
 その話を耳に挟んだ宗盛は、即座に鞍馬山へと人を遣った。その結果がこれだ。“紗那王”、牛若丸の鞍馬脱走。

 愚かなことだ。そう知盛は思う。兄の判断は決して間違ってはおらぬ。だが、最善とは決して言えなかった。ただ誤りではないとのだけで、最善ではない行動を行う。その短慮さがいつか平家に災いをもたらさねば良いが。

 此度のことは父である清盛にすら黙って行われている。兄・宗盛の独断。恐らくは得点稼ぎでもしたかったのだろうが、これではただの失態である。そも、とうに父は気付いているのだ。あの平清盛の目の届かぬ所で暗躍できる様な器量は、宗盛には存在しない。

「そもそも、災禍の芽であることがわかっておられるのならば、さっさと殺してしまえば良かったのだ。父上はいったい何をお考えか」

 くだらぬ。愚かな兄を持つことは多々ある知盛の悩みの一つであったが、ここまで来ると逆に憐憫すら誘う。己の失態を事もあろうに主君である父に転嫁しようとまで腐っているとは。少しは長兄・重盛(しげもり)の姿を見習ったらどうだ、とすらも思う。

 しかし宗盛が長兄を見習うことはありえないという事は、知盛にとっては既存の事実であった。宗盛の心の内にあるのは、出来過ぎた兄に対する劣等心なのだから。幾度となく功を立てた長兄に対し、宗盛に目立った功はない。無能に生まれたが故に有能を羨む。その心はわからなくもないが、平家一門に生まれた男児の在り方ではないと、常々知盛は感じていた。

「そもそも牛若が鞍馬より逃げられたのは、あ奴等が無能だった故だ。断じて、儂の所為ではない」

 あ奴等。自身の部下すらも無能と曰う男。実にくだらぬ。まさかこの男は父上の前でもこの様な弁明を見せる気であろうか。あの魔王の化身と見紛うばかりの平清盛相手に? 馬鹿げている。殺されても仕方があるまい。

「兄上、私めに対して洩らすのは結構ですが、どうか相国殿の前でその様な態度はやめていただきたい。あの御方は、失態を冒した者に容赦をなさる方ではありませんからな」

 幼き頃から知盛は見続けていた。父に逆らい死罪を言い渡される者。父の期待に応えられず死罪を言い渡される者。明らかに無実だと分かり切っているにも関わらず死罪を言い渡される者。

 最も知盛が記憶に残したのは、他ならぬ牛若丸に対する父の態度である。源義朝(みなもとのよしとも)の側室であった常磐が、三人の息子と共に父の前に引き立てられたとき、父から発せられた言葉はただの一言だけだった。『殺せ』。

 恐ろしかった。年端もいかぬ子供が母に縋り付き泣き叫んでいる様を見て、その様な言葉を容赦もなく言い放つ事が出来る存在が。そして、同時に知盛の根幹に叩き込まれた事象。己が生き続けるためには、父・清盛と同じ存在にならねばならぬと。あらゆる者に容赦なく、慈悲もなく、迷いもなく。利用できるものは利用し尽くし、敵対するものは鏖とす。さもなければ己は、他の誰よりも先に己が父に殺される。あの光景を目にした知盛が抱いた物は、十数年経った今でも己を縛り続けている。

 幼き頃はなぜ宗盛が父に殺されずに済んでいるのかと疑問に思ったものだが、数年前に父と会話した折にその疑問は氷解した。結局、宗盛が生きているのは予備に過ぎぬ。長兄・重盛が何らかの事故により死した場合の予備。知盛が生まれつき病弱でなければ、あの様な無能者は謀殺していた所だと、父は真顔で言ったものだ。その際に父に言われたことは未だに覚えている。宗盛を傀儡とせよ。貴様が糸を握り裏で操り続けよと。

 以来知盛は、その父の言葉を忠実に守り続けている。常に宗盛を立て、知盛自身は陰に潜み、その実すべてを支配する。だが、その様な日々が続いていると、思ってしまう。もしかしたら。考えたくもないことだが、もしかしたら。

“誰かを操る側だと思っている自分自身でさえも、あの父・平清盛の操り人形に過ぎないのではないか”

 それが脳裏を過ぎった瞬間、知盛に浮かんだ考えは一つだけだった。何のことはない。幼い頃からそうであれと教育され続けていた行動原理。己の根幹に叩き込まれた事象。ただ、それらが答えを出しただけだった。自らをないがしろにし、操り続けている魔王。平清盛を殺せ、と。
 その考えはいつ如何なる時も消えることはなかった。兵法を学んでいる時、食事をしているとき、剣を学んでいる時、そして、平清盛と会話をしている時すらも。
 ただ殺すのではない。暗殺。謀殺。抹殺。いずれにせよ、殺害後に自らが失脚することだけは避けねばならない。共倒れになるつもりなどは毛頭なかった。“平清盛”に造られた、“平知盛”を完遂する。それは、平清盛に成り代わるということ。それが出来てこそ、知盛は自身を完成させることが出来る。そう、信じていた。

「そ、その様なつもりではなかったのだ。知盛よ。ただ儂は、責があるのが儂ではないと言うことを……」

「存じております。兄上」

 頭を下げたまま、宗盛が望むであろう言葉を返す知盛。知盛は常々、この器の小さき兄の眼を直視しない様に心懸けている。宗盛にとって知盛の無機質な瞳は耐え難きものであり、また知盛もその眼に侮蔑を浮かべぬ自信がなかった。故に、彼等の視線が交わったことは、ここ数年間一度もない。

「さて、相国殿の許へ参りましょうぞ。兄上」

 今の宗盛にとって、父たる清盛はさながら閻魔の如き存在なのであろう。考えると、歪んだ自らの心にも清々しき風が吹く様な錯覚を受ける。父が閻魔なら、自分は冥府の鬼か。魔王の子には相応しいではないか。

 そして知盛は歩き出す。いつしか魔王清盛をその手にかける光景を想いながら。






 京に降りてから、十と五人、斬った。
 皆、大したことはなかった。己の身に刻みつけられた術理。その魔性の業の前に、京の武士は皆須く倒れ伏した。

 初めは、彼等を斬ろうとしたことに他意はなかった。生まれて初めて山から下りた少女にとっては、その全ての光景が珍しく、眩しく、輝かしいものだった。深い山中でただ父を相手に剣を振り続けた人生。少女は、生まれて初めて姿を目にする父親以外の人間に、ただ純粋に感動を受ける。

 しかし世の倣いなど何も知らぬ少女。彼女は己が黒衣とその背に背負う大太刀が、人目を集めるものだとは思ってもいなかった。

 そして奇異な姿をした少女に、当然の如く群がる下卑た男達。武士(もののふ)というものを自らの父親しか見たことのなかった少女には、その男達が武士であるとはとても思えない。本当にこの男達は侍なのだろうか。本当に、あの狂うほどに厳格だった父親と同種の者なのだろうか。

 些細なことから発生した争い。既に陽が落ちかけ、人の流れがまばらであったことは、武士達にとって数多い不運の一つだったのだろう。彼等が平氏に与する者達で、昼間から行われていた酒宴により酒臭い呼気を発していたこともまた、彼等の不運の一つだった。

 平家にあらずんば人にあらず。既に彼等には武士としての誇りはなく、ただ酒に任せた獣欲だけがその場にはあった。奇怪な姿をしているが妙に美しい少女を前に、彼等の自制は霞の様に霧散する。それも当然。彼等にとっては平家以外のものは人ですらないのだから、明らかに平家と係わりがない少女を相手に持つ遠慮など存在しなかった。

 それが、彼等の命運を決めた。

 一人目。下卑た笑みを浮かべながら、少女の腕を掴もうとする。直後、少女は反転し、背を向ける。彼はそれを、逃避行動だと判断した。せっかくの獲物を逃がすつもりは彼にはなく、少女の肩を掴んで引き寄せようとする。しかし、喉に衝撃。後ろに蹌踉めく。少女に殴られたのか。生意気な小娘だ。こらしめてやらないと。それが、彼の人生最期の思考。

 二人目。背を向けた少女を強引に引き寄せようとした男の、喉からほとばしる赤い紅い朱い激流。それが何であるのかわからない。何が起こったのかわからず、ただ背を向けた少女を見る。ひるがえる、髪。目が合う。なぜ。少女は背を向けていたのでは。赤い飛沫を浴びながら彼を見つめる少女。笑っていた。嗤っていた。なんて美しい。それが、彼の最期の思考。

 三人目。彼は辛うじて状況を把握することが出来た。順に追う。まず、焼けるような夕暮れに、人型に切り取った闇の様な黒い影を見つける。不審人物。詰問するつもりで近づく。その背からは黒い柄。だが、佩刀しているにも関わらず、明らかに武士ではない。山賊野盗の類か。さらに近づく。向こうは一人、こちらは三人。酔いこそ回っているものの、あれほど小柄な相手に後れを取ることなどないだろうと判断。さらに近づく。一間。逆光故にようやく、貌の判別が付く。女。薄汚れてはいるが、美しい。思考を満たす獣欲。仲間と目を合わせる。意思の疎通。一人が手を伸ばす。少女の反転。いつの間にやら少女の右手に大太刀。いつ抜いた? そして、大量の血液が飛沫となって宙に舞う。赤い雨。血の雨。見れば、そいつの首は皮一枚を残して切断されている。勢いよく吹き出る血液により、頭部が背面に。しかし、そいつはまだ立っている。少女を掴もうと、前方に体重を傾けていたためだろう。おかげで、そいつの身体は前を向いているにもかかわらず、頭部のみ天地逆さに後ろを見つめているという状態に。そいつは一体どんな景色を見ているのだろうと刹那の思考。もう一人の、声。断末魔。自我を取り戻す。太刀に手をかける。抜く。そして絶望。眼前に切っ先が迫っている。灼熱。右目。熱い。熱い。熱い。それが最期。

 瞬く間に三人を切り伏せた少女は、彼等のあまりに呆気ない死に様を嘲笑する。こんな、ろくに戦うことも出来ぬ存在が太刀を佩き、我が物顔で歩いている。なんてくだらない世の中。嗤うことぐらいしか出来ない。きっと、侍にも当たりと外れがいるのだ。こいつらは、大外れに違いない。

 血の海に嗤う黒い少女。長い前髪を流れる大量の血液。その髪を伝い唇へと垂れたそれを、ぺろりと舐める。甘い、と呟く。その様はとても幼い少女とは思えないほど妖しく、淫らで、美しかった。

 夕暮れの惨劇は一瞬で終わり、返り血を拭おうともせず少女は歩き出す。その血に濡れた大太刀をヒュンと一振り血振るいすると、黒衣の袖で刃を拭い納刀する。その、あまりに現実離れした光景。夕刻。それは、逢魔が刻。その少女を目にした者は後に一様に口にする。あれは人ではないと。あれが、人であるはずがない、と。女の姿をした鬼。美しき般若。女夜叉。京の夜叉の噂は、こうして始まった。






 武士を三人も斬り殺した少女は、用心のために夜間のみ出歩くこととした。また同じような輩に出会うのはたまらない。斬り合いならば構わないが、とるに足らない輩をただただ斬り続けることは、少女の望みではなかった。少女が切望していたことはただ一つだった。血反吐を吐きながらもなお狂わんばかりに研ぎ澄まし続けた技を、存分に振るうこと。そのためならば少女は、人を棄てることすら厭わない。

 京で出会う太刀を佩いた男達は、皆が皆平家の武士であった。時折僧兵などもいないことはなかったが、今は亡き父がふとした際に、猟師や僧などと親交があったと語っていたことを思うと、少女にとってあまり気の進む相手ではなかった。その点、平家の武士は気兼ねなく斬れる。よもや全ての侍が大外れということはなかろう。稀に現れるだろう当たりが出るまで、少女は斬り続けた。夜叉のように。



 そして、その邂逅は訪れる。



 陽が沈む。夜が来る。少女は目覚め、夜叉の時間がやってくる。
 朽ちかけた家屋の中、身体を丸め膝を抱え蹲るように眠っている少女。太刀こそ利き手より放していないが、髪を解き薄衣一枚で眠っている姿は年相応のあどけなささえ感じる。この姿を誰が見ても、毎夜血飛沫を浴び続けている少女だとは思わないだろう。まるで無防備。夜叉ではなく少女としての本当の姿が、垣間見える。

 しかし彼女は覚醒する。今宵もまた、命を削り削られあうために。

 髪を纏め、黒衣に身を窶す。寝ている時すら片時も手放さなかった大太刀を背負えば、少女は夜叉となる。いつもの嗤みに貌を歪め、歩き出す。

 妙に美しい月夜だった。いつか、あの月すら斬ってくれる。少女はそんな事すら思い浮かべていた。

 ふと、歩みが止まる。前方の街道。五条へと続く通りを、何やら集団が歩いている。中心には籠を担いで進む四人の男。間違いなく、平家に関わる人物が乗っていると、少女の思考。

 ざっと二十人。籠を担いでいる者と、籠の中にいるであろう者を含めると二十五人か。
少女夜叉は思考する。目の前の集団。恐らくは平氏の名のある武士を乗せた籠を襲うかどうかを。

 戦いを挑めば恐らく自分は死ぬだろう。五人までなら無傷で斬り捨てる自信が夜叉にはあった。しかし、それ以上の数を相手にするのは危険どころか、自殺行為にしかならない。あの集団に戦いを挑むとする。数で圧倒的に優る相手に手段は選ぶつもりはない。背後からの不意打ち。最後尾にいる二人を仕留める自身の姿。集団がこちらに気付く。恐らく後方に位置する三人が斬りかかってくる。しかし、その三人を斬り捨てる場面までなら想像することが出来る。問題はここからだった。こちらは無傷、相手には五人分の屍。この状況を見て、敵の思考からあらゆる油断が消えることは想像に難くない。となればどうなるか。実に簡単な結果。残る二十人による包囲波状攻撃により、夜叉はその命を失うだろう。如何に夜叉の剣理が常軌を逸しているとしても、押し包まれる様にして多数に斬りかかられれば敗北は否めなかった。

 しかし、確実な敗北が見えていても夜叉は彼の集団へと飛び込みたい衝動を堪えきれずにいた。刃でありたい。剣でありたい。太刀でありたい。鋭く、細く、研ぎ澄まされた。全てを断つ刃。刃に保身などは関係がない。ただ、刃は何かを斬るために存在し、剣や太刀は敵を斬るために存在するのだから。その身が錆びて折れて打ち捨てられるまで、己という刃を振るい続けたい。それが、夜叉の魂にまで刷り込まれた本能。

 その本能が言っている。その魂が言っている。強き者を斬れ、と。戦いという炎に己という刀身をくべ、斬り合いという鎚で打ち鍛えよ、と。

 背中の太刀に手をかける。音もなく影の様に歩き出す。美しき貌には嗤い。決死の覚悟なるものは夜叉には存在しない。なぜならば、命などというものは初めから彼女には無いも同然なのだから。ならば如何に此度の斬り合いで業を振るうことが出来るか。夜叉の思考にはそれしか残らない。ただ、一振りの刃であり続けることが出来れば、夜叉自身は生きていなくともよかったのだから。

 闇に融けるような歩法。音も気配も、ともすれば姿すら見失いかねないほど夜叉と闇は同質だった。歪んだ静謐。殺意はなく、しかし狂気じみたものすら感じる。そして夜叉が集団に接近しようとしたところで。



「そなたらは平家の者か?」



 声が、聞こえた。

 声の主は、五条の通りへ向かう橋を塞ぐかのように存在していた。巨大、だった。とても人とは思えない。この光景が夢であると言われた方がまだ信じられる。それほどまでに現実離れした存在が、そこに仁王立ちしていた。

 ただ、身の丈が高いだけではない。例え衣の上からでも、鋼のように引き締まった筋肉が全身を覆っているのがわかる。その歪な盛り上がりは、薄皮一枚下を何匹もの蛇がうねっているかのよう。腕も、脚も、首も、胴も。全てが黒鉄の如き筋肉に覆われている。二の腕など、夜叉の胴ほどはあるだろうか。全身がとてつもなく太く、獣よりも遙かに無駄のない肉体。まるでそびえ立つ仁王像が、異形の存在としてそこにある。そんな有り様。

「な、なんだこいつは」

 集団が色めき立つ。恐怖に竦む。二十を越える集団は、ただ一つの存在に呑まれていた。蛇に睨まれた蛙などという表現では、生温いほどに。

「まさか……五条の大鬼……」

 五条の大鬼。それがあの存在なのか。夜叉にとっては初めて耳にした言葉だが、どうやら自分以外にも京を騒がせている存在があったらしい。なるほど、大鬼とは言い得て妙だ。あの姿を見て、果たして人だと思う者が一体どれほどいるのだろうか。薄汚れた衣裳の、巨大な鬼。背にはいくつもの凶器を背負い、右手にはあまりにも巨大な薙刀を構えている。
 七尺近い鬼よりもさらに長大な薙刀。どれほど重いのか見当もつかない、鉄塊じみた凶刃。果たしてそんな物をどの様に振るうのか。

「どうやら、平家の者、らしいな」

 鬼の言葉。あまりにも平静で平坦で、目の前にいる者達を敵と認識しているのかどうか。
 あの鬼は、あんな表情で誰かを殺すのか。まるで鬼ではなく悟りを開いた菩薩のような安らかな貌で。自分とは、夜叉とは明らかに違う。

「かかれ、かかれ……かかれぇぃ!」

 籠の中から、声。恐怖に裏返った声でも、この場にいる武士達の主君の声なのだろう。集団の中の誰もが、恐怖を押しのけるかのように抜刀する。

 じりじりと、集団が前に出る。扇状に包囲をする魂胆なのだろう。ゆっくりと、ゆっくりと。

 ドン、と。耳を聾す地響き。
 鬼が、巨大な薙刀の石突きを大地に突き刺し、手放した音だった。

――なに?

 夜叉にはその光景が信じられない。あの巨大な鉄塊をどの様に振るうのか、夜叉の脳裏にはそれしかなかった。まさか自ら薙刀を手放すなどと。



 だから、まさか、あの鬼が、あんな凄まじい手段に出てくるなどとは、思ってもみなかった。



 肉塊が、舞う。

 胴体から吹き飛ばされた上半身。驚愕の表情のまま右腕を失っている侍。半ば吹き飛ばされ、血煙をあげている、籠。

 それは、巨大な一つの凶器が、凄まじい速度で通り過ぎた際にもたらした被害だった。

 鉞(まさかり)。それも尋常の形状ではなかった。握り近くまで伸びた長大な斧の刃は、肉厚で重厚な鋼の鈍い光を放っている。片手斧をそのまま巨大化させたような、まるで釣り合いの取れていない怪物じみた大鉞。あの鬼は背負っていたそれを、悪鬼が如き膂力で投擲したのだった。凄まじい勢いで放たれた凶器は、二十余名の集団の内、実に七名を殺傷した後、路傍の岩石すら粉砕する。

「ォォォ――――――」

 鬼の、咆吼。巨大な薙刀を右手に。背中より取り出した大槌を左手に。集団の中へと飛び込んだ。

 後はただ、一方的だった。

 鬼は濁流であり、雪崩であり、嵐である。巻き込まれた者達は皆、人の形すら留めることなく死に絶えるしかなかった。ひしゃげ、消し飛び、押し潰され。より強く、より速く、より鋭く、より重く。鬼の破壊は止まらない。

 悲鳴を上げる暇すらない。逃げようとした者へ大槌を投げつけたかと思えば、左手の鉤手甲――手甲の先に鋼鉄の熊手を取り付けたかのような――で死骸を貫き、鈍器として振り回す。加減などどこにもなく、ただ全身全霊を持って殺戮を行う鬼の姿がそこにある。

 惨劇は、瞬く間に幕を下ろした。

 後に残るのは血と屍の海に立ち尽くす大鬼と、陶然とその光景に見入っていた夜叉だけであった。

「そなたも、平家の者か?」

 それが、人を外れた者達に訪れた、最初の邂逅。







[25761]
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/08/15 11:45
 平家が憎かった。
 だから、抗い続けると誓った。

 平家が憎かった。
 だから、自身の命を賭けると誓った。

 平家が憎かった。
 だから、他者の命すら、賭けると誓った。

 平家が憎かった。
 だから、あらゆる人間を奈落に堕としても、鏖(みなごろし)にすると、誓った。



 平家が憎かった。
 だから、人を辞めることさえ、厭わなかった。



 追われているのは小柄な少年だった。
 脇差しを片手に駆けてゆく。平坦な道ではない。そも、道など見当たらぬ漆黒の闇の中を、彼は真っ直ぐに駆け続けていた。

 憎い。

 背後には松明の炎がゆらゆらと。その数は二十にも近い。たかが童一人に対する追っ手にしては、あまりにも多すぎる。

 憎い。

 少年は止まらない。息は乱れ、汗は噴き出し、筋肉は痙攣すらしている。しかしそれでも熱に浮かされているかのように、その足は止まらない。

 憎い。

 そもそも、ここは山の中である。何故光一つ無い闇の森の中を、少年は走り続ける事が出来るのか。常人ならば、恐怖に竦み動く事すらままならない。辛うじて歩く事が出来たとしても、すぐさま足を根に取られ倒れかねない。そんな漆黒の森の中を、猿(ましら)の如く少年は駆け進む。

 ふと、少年は立ち止まる。振り返る。確認する。鷹のように鋭い眼が、松明の炎を睨んでいる。表情が歪んだ。逃げ切れぬと察しての諦観ではなく。彼の端整な顔立ちは、まるで獲物を前にした狩人のように。にたり、と邪悪な嗤いに歪んだのだった。

 身を伏せる。それはまるで、蜘蛛のような姿勢だった。脇差しを口に咥え、四肢を伸ばし、蟹のような節足動物や昆虫を彷彿とさせる姿勢で微動だにしない。その姿はとても人に見えず、見る者によっては獲物を前に待ち伏せる狼のような、そんな印象すら抱かせていた。

 憎い憎い憎い憎い憎い憎い。

 少年は知っていたのだろう。松明の炎。その内の三つほどが、こちらに向かってくる事を。
 嗤いに歪む。移動する。いつの間にか呼吸は整い、音もない。草を掻き分け藪の中へ。人ではなく獣の姿。
 哀れな獲物の、声が聞こえてくる。

「彼奴め……一体どこへ行ったのだ」

「気をつけろ。既に何人も殺られている」

「なぁ、あれは、本当に人なのか? 奴らの亡霊じゃないのか? だって見ただろう。あんなこと人間に、ましてや小僧なんかにできることじゃない……」

 暗い森の中に声が響く。松明を手に持つ者が三人。声を出しているのも三人。しかし、足音は五人分。地に伏せた少年は、彼等の気配を確実に感じ取っていた。

「“紗那王”め」

 男達の一人が、忌々しげに吐き棄てる。“紗那王”。それが、少年の名前だった。源義朝が九郎。九郎とは、九番目に生まれた子という意味である。幼名は牛若丸。彼は、紛れもない板東武士の頭領の血筋であった。

 彼は異様な少年だった。平清盛に生かされ、鞍馬の山へと僧となるべく放逐される。普通の子供ならば、この時点で諦めるであろう。ただ、己の運命を掻き乱す世間の残酷さに怯えながら、それでも受け入れ生きてゆくしかなかったはずだ。しかし、紗那王は違ったのだ。彼は、紛れもなく“普通”とは縁遠い子供だった。

 言ってしまえば、彼は既に、狂っていたのかもしれない。

 源氏の頭領の息子として生まれながらも、彼は父のことを憶えてはいなかった。それもその筈、彼が未だ物心つかぬ頃に、父は帰らぬ戦へと出陣していったのだから。だから、彼にとって父親の事など、本当にどうでもよいことであった。

 彼には幼き頃の記憶がなかった。だが、それでも彼は気にしなかった。それこそどうでもよいことだったからだ。彼にとっては過去などどうでもよく、如何に憎しみを保ち続けるかが願いだったのだから。

 彼の誕生は、憎しみの誕生であった。少年の記憶が始まる瞬間。少年の人生が始まった原風景。それが、後の彼の人生を決めてしまったのだろう。不幸な事に。幸福な事に。

 覚えているのはただ、自分達兄弟のために必死に命乞いをする母の姿と、その母に縋り付くように泣いていた兄たちの姿であった。その姿を見て、彼は思ったものだ。なぜ、母や兄が気が狂わんばかりに涙を流さねばならぬのだと。

 彼の世界は狭く、そして小さかった。母と、歳の近い兄と、源氏に仕える使用人。それだけに過ぎない。時折しか顔を見せぬ父も、幾千といる父の配下達も彼には何も関係がなかった。彼にとっては、この狭い世界が幸福に満ちてさえいればよかったのだ。



『殺せ』



 狂わんばかりに命乞いをする母と、咽び泣く兄たちを前に、あの男はただの一言、そう言った。

――ああ、壊されようとしている。自分のための世界が。小さな平穏の世界が。あの平清盛という男によって。

 それが、少年の原風景。彼はその時、己の奥底に刻みつけたのだ。自分達を価値もない物としか見ぬ、あの驕りに満ちた魔王の眼差しを。あれを、憎み続けるために。

 狂気の人生は、その時より始まった。

 半ば幽閉される形で鞍馬の山へと送られた少年は、紗那王という名を授かる。だが、そこで彼を待っていたのは、僧になるための修行などではなかった。

 如何に僧達とはいえ、その時々における時勢という物には影響されるのであろう。既に天下の趨勢は平氏の色に塗りつぶされており、源氏の血を引く幼子など、厄介者でしかなかった。僧達による陰湿な責め苦が、彼を何年もの間襲い続ける事となる。



 そして、あの“行者”との出会いと、“禍津伏(マガツフセ)”の法。



「それにしてもあの傷痕、いったいどうすればあんな事が」

 地に伏せている少年からおよそ二間ほど。松明を持った男が、仲間を振り返りながら問う。

 傷痕。

 男が言っているのは先程見かけた仲間の姿だった。まるで、喉笛を大きく剔りとられたような――――

 仲間を振り返るということは、地に伏せ身を隠している少年に背を向けることでもあった。当然、少年はその隙を逃したりはしない。

 音もなく地を這う。肉食の獣のような歩法は生い茂る繁みの中でも何故か音を立てることが無く、背を向ける男の元へ到達する。

「かっ」

 男の口から洩れる呼気。
 そして、完全な沈黙。

 後に残されたのは、地に落ちた松明だけ。松明を所持していたはずの男の姿は闇に紛れ、もうどこにも見えない。

「な―――!?」

 しかし残る四人の男達の行動もまた、水際だったものだった。突然の事態に対し瞬時に仲間へ目配せすると、彼等は背中合わせに密集する。彼等はどこまでも冷静で、闇の中での戦闘にも長けている。だからこそ不意を衝かれぬように背と背を合わせ少年を警戒したのだが。

 それはまさに、彼の思う壺といったところだった。

 匕首(ひしゅ)という武器だった。
 鍔はなく、長さに至っては三寸(凡そ9センチ)程度しかない。少年の手の裏にすら隠れる程度の小さな凶器は、氷雨となって男達へと降り注ぐ。そう、文字通り刃の雨となって、樹上から幾多の匕首が彼等に向け降り注いだのであった。

 次々と洩れる苦悶の声。それに混じり微かに聞こえた、猫のような着地音。少年はいつからか潜んでいた樹上から、男達の輪の最中へと飛び降りる。一人目は気付くことすらなく、その延髄を降り注ぐ匕首に貫かれて絶命した。二人目は着地した際に振り抜かれた脇差しで、左腕脇下の動脈を断ち切られている。返す刃で三人目。振り向こうとした顔面を一閃した脇差しは、彼の意識と命を完全なまでに奪い獲った。

 そして、四人目。

 二人目の動脈を断ち切られた男は、決して助からぬ深手を負ったにもかかわらず、即死することはなかった。だから、死に向かうまでの僅かな時に、その光景を目にしていた。

 四人目の男は降り注ぐ匕首に対する負傷も軽微で済み、また、背後での仲間達の呻き声にも即座に反応することができた。男は痛みと恐慌がもたらす“振り向きたい”という衝動に必死で抗った。背後を突かれた奇襲に対し、足を止めれば即座に命は終わる。男はそう判断し、またそれも誤ってはいなかった。丸まるように頭を抱え、身を投げるように前方の繁みに飛び込む。距離を取り、刀を構え、振り向き。



 そこで目にしたものを、何と表現すればよいのであろうか。



 人ではない。

 それは断じて、人のものではなかった。
 夜の闇にさえ白く輝くそれは、人がまだ獣であった頃の名残。人が食物を咀嚼するための歯ではなく、獣が獲物を絶命させるための、牙。

 簡単な仕事の筈だった。逃げ出した源氏の稚児。未だ若い少年である稚児一人を、数十人で追い詰め捕縛するというだけ。なぜ、それで、こんな目に遭う? なんでこんなに痛い? なんでこんなにも寒い? なんでこんなものを見なければならない? 仲間が訳のわからぬ獣に喉笛を噛み破られ喰い殺される様を見る羽目になるなど……。

 そしてゆっくりと、大量に失われてゆく血液に彼は意識を奪い取られ……死への数瞬だけが彼に残された。

 果たして五人の屍からいくつかの武器を物色すると、少年はまた闇の中を走り出す。追っ手はまだまだ残っている。ここで立ち止まるわけにはいかなかった。目指す場所は京の都。未だ彼の狭く小さな世界が無事であった頃、大切な筈だった母君の元へ。

 母を救おうなどとは、思ってもいない。彼は既に人を辞め、ただその憎悪に身を焦がすだけの修羅と成り果てていたのだから。だから、母を救おうなどとは、思っていなかった。

 しかし。
 もし彼の母君も、少年と同じような責め苦を味わわされているとしたら。

「せめて、我が手で……」

 それは修羅道に堕ちた少年の、まごうことなき愛の形だった。

 あの温もりを憶えている。あの優しさを憶えている。あの微笑みを憶えている。あの眼差しを憶えている。
 柔らかな手は幸福をくれた。いつ如何なる時も彼のことを想ってくれた。母が微笑を浮かべれば彼も何故か嬉しくなれた。強さと優しさを兼ね備えた眼差しは、憧憬さえ覚えていた。

 だから。

 鞍馬の山での生活を思い出す。あれはとてつもない痛苦だった。僧達に与えられた所行も、自ら望んだ修行も、“行者”に施された修法も。狂わんばかりの憎悪がなければ決して耐えられるものではない。

 憎悪。それが彼の全てだった。

 他の者など何も求めず、他の物など何も求めず。ただひたすら憎しみの炎に薪をくべ続けた日々。
 残されたのは傷痕にまみれた少年の躰と、虚ろになった心だけ。

 その心が言う。あの優しさを、温もりを、強さを。万が一にでも穢されているのならば。

 狂気の決意を新たに、少年は京へ向かう。その身をより深く煉獄の底へと堕としながら。






 出会った二人が打ち解けるまで、そう時間はかからなかった。

 夜叉はただ純粋に鬼の武芸を賞賛し、鬼もまた夜叉の異常を察することが出来た。互いが互いに理解したのだろう。目前の相手は、己を上回るかもしれぬ武芸者であることを。

「あんたみたいなのは、正直嫌いじゃないさ」

 夜叉の言葉である。
 仄かに少女らしい感情をその鉄面皮から滲ませながら、夜叉は鬼に対してそう言ってのけた。

 これがまた、鬼にとっては予想外だったのだ。
 その様な言葉をかけられたことは、今までの人生であっただろうか。わからない。あの恩師以来かもしれぬ。自らのことを認めてくれた存在は。

『そなたも、平家の者か』

 あの時、そう夜叉に声をかけたあの時、鬼は自らに流れた感情を理解することが出来なかった。

 それはいつも鬼が懐かれ続けていたことで、しかし決して他者に対して懐くことのない感情。恐怖という名の、人の根源。

 嗤ったのだ。その蓬髪を血で濡らした、あまりにも巨大な存在である鬼を前にして。あの少女は、言い様もなく怖ろしい笑顔を浮かべたのであった。

 人では有り得ない。そう直感した。己と同じ人外。人から生まれた人で無き者。恐怖に震えていた。歓喜に震えていた。生まれて初めて目にする同類を相手に、鬼はただ悦びを感じていたのかもしれない。

 少女が歩み寄る。真っ直ぐに、揺れもせず、ただただ前に進むための歩法。歩行という、人が人である事を示すもっとも基本的な行動。しかし、夜叉の歩みは鬼が持っていた常識の枠を踏破していた。一切の無駄が、削ぎ落とされている。完璧に保たれた正中線。上体は常に正面を。骨盤を中心に整えられている重心。ここまで完全なる前進を、鬼は目にしたことがなかった。今までに相手にしたどんな達人よりも、目の前の少女が怖ろしく思える。

 背中の太刀に手をかけながら、少女はただただ歩み寄る。その目線は真っ直ぐに鬼の目を貫いてくる。決して揺れない。歩む度に上下するはずの頭部も、その肩も、常に一定の高さで微動だにしない。

 距離が、縮まってくる。

 鬼はただ静かに、背中の凶器に手をやった。
 それもまた、一つの異形だった。鋼鉄で出来た重厚な鉈のような何か。四尺ほどの長さを持つ、巨大な刃。鉈との差異はただ一つ、鮫の牙のように凶悪な形状の鋸刃である。片刃の大鋸。並みの野太刀よりも長大な鋸は、鬼の巨体と見比べても遜色ない凶器であった。

「へぇ」

 少女の、声。
 笑みが深くなる。太刀を抜き放つ。少女の背丈とほぼ同等の長さを誇る大太刀。鬼の凶器が重厚な異形ならば、少女の太刀は研ぎ澄まされた異常であった。

 掌を天に向けた左手を前方に突き出し、太刀を持った右腕を側方に水平になるまで持ち上げる。刃を寝かせ、切っ先は真横に。目一杯横に伸ばされた右腕は、その異常の刃と一体に見えるかのように細かった。

――なんのつもりか――

 鬼の脳裏を疑問が奔る。あの様な構えは、今までに見たことすらなかった。あの状態からは横薙ぎの斬撃しか放てまい。あの大太刀の長さも間合いも、あの構えからは容易に推測できる。どう考えても、少女の利が少なすぎる。前方に突きだした左腕で何かをするのだろうか。鬼には想像もつかなかった。

 少女の歩みは止まらない。決して迷わず、躊躇せず。鬼に恐怖を、見せもせず。

――五尺は、あるか――

 太刀の長さである。真横に構えられた少女の太刀は、その全貌を鬼の前に表していた。背中に負った大太刀を、少女はどの様にして抜いたのか。本来ならば少女の背丈では、あの異常を抜けるはずもなかった。鞘に何か特別な仕掛けがあるのだろうか。



 間合いが近づく。二匹の魔が邂逅する。



 攻撃は、鬼が先手だった。



 投擲。背中の大鋸を、少女に。

 それは、嵐であった。巻き込む物全てを切り刻む、鎌鼬によって出来うる嵐。地を這うように大気を裂き、怖気の走る回転と共に少女の胴を吹き飛ばそうと――

 鬼は、確かに目にしていた。

 突き出された少女の左腕が、高速で回旋を続ける嵐の中に伸ばされ、正確にその柄を掴み取った様子を。

 無論、少女の細腕で掴まれたとしても、嵐は止まらない。未だ回転し続ける死の竜巻は、容易く少女を呑み込み、巻き込み、振り回し――――――気付けば、少女は鬼の目の前に立っていた。

 それは、奇跡のような技法であった。

 如何に凶悪な嵐でも、その実体は、巨大な刃物が回転しながら向かってきているだけである。ならば、刃に触れなければ斬れはしない。自ら嵐に呑み込まれたようにさえ見えた少女は、その実、回旋の中に身を投げ出し、巻き込まれ、柄を握った左腕を支点に“嵐と一体化”することにより、確実な死をやり過ごし、尚かつ鬼の眼前へと一瞬で辿り着いたのであった。

 無論、原理が判っても出来うる者などいるはずもない。圧倒的速度で回旋する物体の柄を、僅か下方から一瞬の迷いも遅滞もなく掴む。同時に下前方へと倒れ込むように身を投げ出し、掴んだ左腕に渾身の力を込め流れに逆らわず宙を舞う。そうして刃をやり過ごした後に、絶妙の拍子で手を離す。回旋の勢いに弾かれたように見えた少女は、その実、嵐さえも味方にして五間もの距離を一瞬で潰し、鬼の前へと身を運んでいた。

――信じられぬ――

 避けるのならば納得がゆく。地に伏せる。天に跳ぶ。どちらでも良い。それが如何に難しきことであるかは、鬼自身が誰よりも知っている。しかし、あの少女ならばそれも出来るだろうとふんでみれば。見せられた物は軽業師の如き……しかし比べ物にならぬ神業であった。敵手の技すら利用し一瞬の間に間合いを詰める神業。それを成し遂げたのは十代半ばの少女。鬼が確信を持って言えることが一つだけある。それは、明らかにこの少女が、人としての枠を逸脱しているということ。

 目標を外された大鋸が何かに激突する。それは、合図であった。二振りの刃が、互いの命を奪い合うための合図。

「シャゥ―――――――」「ぬぅん―――――――」

 同時に漏れ出す呼気。片方は切り裂くように鋭く、もう片方は押し潰すように重い。
 薙刀が振り下ろされる。大太刀が薙ぎ上げられる。

 激突。

 しかし、鬼が想像していたような轟音はなかった。少女は左前方、即ち鬼の懐へと、薙刀の力を受け流すかのように潜り込んでいたからである。

 逸れた大太刀。潜り躱された薙刀。互いに互いの首を狙った二つの凶器。大太刀は胴へ、薙刀は地へ。

 趨勢は決したかのように見えた。このままでは少女の大太刀は、鬼の胴を薙ぎ払う。そう、“このまま”では。

 決して慌てず、心が揺れることもなく。
 鬼はその左腕を、向かい来る刃へと叩きつけた。



 それが、二人の出会いだった。



「それでな大鬼殿。そこでそいつがやってきたのはな?」

 所変わって廃屋の中。鬼はただただ困惑していたと言えよう。
 火を熾し、昨夜の内に捕獲しておいた兎と山菜による汁を作る。夜叉の分まで作っているのは、彼女のあまりの食生活を見かねた鬼の善意であった。料理がなければ、夜叉はそのまま“生”で喰う。血抜きすらしない。あの美しき顔や手が兎などの血に染まるのである。あまり見ていられる物ではなかった。

 血を抜き、皮を剥ぎ、食べやすく切り分けられた兎。脂の多い部分を鍋に押し付け、そこそこと流れ出たところで塩をふった肉を焼いてゆく。焦げ目が付いた辺りで汲んできた水を入れ、茸や山菜を放り込んだ。元より細かい調理法など鬼の興味からはかけ離れているため、実に大ざっぱなものだった。それでも鬼の姿を知るものからすれば、鬼が調理をしている様を見るだけで絶句するだろう。

 果たして程よく鍋が煮立ったところへ、水浴びを終えた夜叉は帰ってきた。しかし、どうにも普段とは雰囲気が異なる。上気した肌に、嬉しそうな笑み。この様な夜叉の姿は目にしたことがない。

 食事の最中に鬼が理由を聞いてみると、何のことはない。今宵の相手はそれほど素晴らしかった、半時もかけてそう語り尽くした夜叉はまるで、ただの少女のようにさえ見えた。

「間合いの判断も独特だったし、体勢を崩さずに寄ってくる摺り足も見事だったんだ。もう殺されるかと思った。死ぬほど楽しいって言うのはきっとああいうことを言うんだね」

 それは恐らく違うのではないだろうかと、鬼は心に秘めておく。この様に誰かと話した経験など、鬼には数えるほどしかない。どう受け答えればよいのかもよくわからず、さりとてこれほど上機嫌な少女の意識に水をかけるわけにもいかない。聞き流すこととした。

「でさぁ大鬼殿……、って聞いてる?」

 いつの間にかぼうとしていたらしい。刃の角度の適切さ、鎧の強度と上腕筋の緊張までならば記憶に残ってはいるのだが。鬼にとって今宵の夜叉は、どうにも調子が狂う。

「恐らく八相に構えた状態から突きへの移行が狙いだった。の所までなら聞かせてもらったが?」

「そうそう。それでね大鬼殿。あたしはしてやったわけだ。まあ、一種の賭けには違いがなかったんだけど、前に立った二人を“クラミ”によって何とか斬ってさ。逆方向の脇構えに……」

 そう口にしながら箸を太刀のように振り回す夜叉。娘か妹でもいればこの様なものなのだろうかと、鬼は一人宙を見上げながら、思う。

 しかしこれも、悪くはない。いずれ斬り合い殺し合う定めにある二人の、心休まる蜜月か。気付けば、目の前の少女を見守るような、そんな暖かな笑みを浮かべている自分がいる。

――きっとこの少女は、寡黙なわけではなかったのだ。餓えていたのだろう。自分の“同類”とこの様な話をすることに――

 それが今宵の夜叉を目にした、鬼の感想だった。

「そういえばさ、大鬼殿」

 ふと、鋭い目をした夜叉の表情が映る。
 何を聞くつもりであろうか。鬼にはそれがわからない。

「大鬼殿には、名って、あるのかい?」

 それは、何か畏れを抱くように口にされた。






 名には、深い意味が出来る。
 少女はそう父から教わっていた。名とはその人物の魂を顕すのだと。

 だからこそ少女は、少女自身の名を気に入ってはいなかった。

 シヅカ。父は何を想ってこんな名を付けたのだろうか。彼女にはそれがわからない。

 少女は、この名を嫌っていた。自らの名に対して憎しみすら抱いていた。
 少女の魂を顕す。まさにその通りであった。彼女はこの名が決める通りの人生を送ってきた。きっと今後も送り続けるのだろう。

 なぜならば、この名を少女に与えた父ですら、その名の示す通りになってしまったのだから。

 先程、冥土への土産に私の名を持ち帰った男を思う。強かった。楽しかった。怖かった。震えるほどに。奮えるほどに。あの男は私の名を聞いて、どう思ったのだろうか。嘆いたのだろうか。落胆したのだろうか。それとも?

 そしてふと気になったのだ。

 大鬼殿。

 先程の男よりもさらに強く、さらに厳しい研鑽を積んでいるであろう武芸者。
 鋼の狂信と大地のような強さを兼ね備えた、どこか父親を彷彿とさせる人物。
 まるで山だ。大鬼殿と刃を交えた刹那、夜叉が感じたのはそれだった。巨大な山岳そのものを敵に廻せば、こんな気分になるのではないかと。

 だから、思ったのだ。目の前の大鬼殿は、一体どんな名を、生まれて初めてかけられる“呪い”を込められたのだろうかと。

 少女はただ、そう思ったのだ。




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Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/08/15 11:46
みっつめ 『そして、五条の橋にて化生共が狂い舞う』








 初めてソレを見た時、この上なく欲しいと思った。



「義経と名乗れり」

 それが、元服の儀であった。
 修羅に堕ちた少年の危惧とはかけ離れ、母は安寧の中に暮らしていた。新たに母に与えられた夫・一条長成は、彼女のことを誰よりも大切にしていた。

 これならば良い。少年は心底そう思う。母はここで生き、ここで死ぬ。幸福の中で。平穏の中で。もう残された危惧はない。後はただ、復讐のために走ればよいと。

 果たして少年は笑顔という仮面をかぶる。誰もを騙す笑顔を。醜い憎悪を、己を、須く隠し騙し通す仮面をかぶる。

 一条屋敷に侵入する際、彼はごく平凡な町民の姿をしていた。追手の血にまみれたままの姿では母に会うことは出来ぬとの配慮からである。無論、その服は道すがら通り魔的に襲い気絶させた町民のものを奪った物であった。頭髪は布を巻いて隠しており、誰も彼が源氏の稚児だとは気付かなかった。そう、母以外は。

 それは、一種の奇跡であったのかもしれない。幾年もの間、この顔を見ていない親が一目でその正体を察するなど。少年の小さな世界の残り火は、未だここに美しく輝いていた。

 闇の中、母・常磐と長成の立ち会いの下、元服の儀を行う。少年は美しき月に誓う。今より自ら修羅道を進み、必ずや平家を、と。

 だが、その様な思いは微塵も見せぬ。常磐と長成からは、奥州に落ち延び骨を埋めよと。それが彼等の愛の形であることはわかっている。だが、数えきれぬ夜を越え、尚も抱え続けた憎悪の炎は、決して消せはしなかった。

 だからこそ仮面を被る。微笑の仮面。道化の仮面。穏やかに、母を思い煩わせること無きようにと。

 髪を断ち切り、想いを断ち切る。この瞬間、彼は人を辞め修羅となった。

「義経……良き名前です。義朝殿の字を戴いたのですね」

 母の声。優しさに溢れた、母の声。
 その声は彼の決意を揺るがす。斯様な優しき言葉をかけないでくれと、彼は苦悩する。何よりも彼のことを想い続けた母を、その愛を、彼は裏切らねばならぬのだから。

 奥州に逃げよと言った母は、彼に戦いなど望んではいなかった。仇を討つことも、世を乱す平家を誅することすら望んでいない。ただ、彼が平穏無事に生きてくれることを願ったのだ。彼の手は既に朱黒き返り血と狂気にまみれているというのに。

「母上。長成殿。お世話になりました。秀衡殿にはよしなに伝えておきます故」

「すまぬな義経殿。この程度のことしか出来ぬ儂の無力が不甲斐ない。せめて、奥州までの護衛をとも思うのだが、目立つ真似をすればそれこそ清盛の目に留まる。儂には義経殿を守ることすら出来ぬのだ……」

「何を言われるのですか長成殿。貴方はこの私のために尽くせる限りの手を尽くしてくれた。これ以上、返せぬ恩は望めませぬ」

 父と子、ではない。母の夫と、妻の息子。所詮二人は他人である。しかし、長成の表情には間違いなく、己の無力を噛み締める苦悩が浮かんでいた。例え他人であろうとも、長成は義経を真剣に想っていたのである。

 この男ならば、母を任せられる。

 長成ならば間違いなく、母を幸福にしてくれるだろう。義経は悟る。彼の小さな最後の世界は、長成に任せておけばいい。己はただ走り続ければよいのだと。血を吐こうとも。腑を吐こうとも。

「それに、些かですが腕には自信があります。例え清盛の追っ手が来ようが、逃げ切ることなら出来るでしょう」

 義経の言葉を長成や常磐は、若き自身を少しでも大きく見せようと思う虚勢だと判断した。とても、目の前の少年が戦えるとは思えない。二人にはそう思えた。これほど華奢な少年が腕に自信を持つと言ったところで、それは所詮大海を知らぬだけなのだと。彼が既に人を棄てた化生へと成り果てていたなどとは、考えさえしなかった。

 そして義経は笑う。母と長成の安息を、心から祈って。その姿を、魂に刻みつけるかのように。

 微笑に隠した懊悩は、誰にも読み取られることはなく。
 ただ彼は、この世で最も孤独な修羅となった。







 五条の橋に、鬼が立つ。
 今宵もまた、千の悲願を果たさんために。



「鬼若と申す」

 そう、鬼は自らの名を口にした。
 結局、夜叉の危惧していた通りだった。名はその人物の魂を顕す。鬼もまた、その在り方に相応しい呪いを与えられていたのであった。

 シヅカ。それが夜叉の名である。夜叉の父が生涯を通してその身に刻みつけた剣の理を、幼少の頃からの鍛錬――否、それはすでに鍛錬の範疇を越えている――により烙印の如く肉体に刻みつけられた少女、それが夜叉であった。

 幼少時、少女には名などなかった。それは当然。夜叉の父にとっては少女は人ではなく、例えるならば歌人がその歌を残すために書き記す竹巻の様な、己の技を後世に伝えるための書と同程度の存在だったのである。少女に名が付いたのは、九つを過ぎた頃だった。

 名付けられた名は、“死塚”。父は何を想いこの名を娘に付けたのか。自らの技を全て伝えた墓標という意味なのか。少女に切り捨てられる者達の墓標という意味なのか。その答えを知る術は、父の死と共に永久に失われている。

 鬼の似姿であるから鬼若。これもまた、夜叉の危惧していたとおりのカタチ。予想通りの“呪い”の顕現である。

 死塚に鬼若。なぜ互いにこうなったのか。このような名を付けられたからこそ人から外れたのか。人から外れることがわかっていたからこそこのような名を付けられたのか。夜叉には判断がつかない。ただ、どこかやるせなさのようなものを感じている。

 もし、自分の名がもっと真っ当なものだったとしたら―――

 意味のない仮定である。
 だが、その意味のなき仮定が、少女の心の奥底で燻り続けている。
 名が真っ当なものだったとしたら、自分も、鬼も、もっと真っ当な生き方を選べたのではないのだろうか、と。

 普通の町人として。または武士やその娘としての生き方を。
 意味のなき仮定である。

―――――――忘れるな。

 夜叉の脳裏に響く声。

 己は人ではない。“死塚”という名の、一振りの刃――女夜叉。それが、己なのだ。それを忘れるな。
 剱(つるぎ)たれ。太刀であれ。何よりも細く鋭く、研ぎ澄まされた。森羅万象全てを断つ刃で在り続けよ。



 それが、“わたし(貴様)”の宿命。



 そうして少女は孤独という名の死病から逃げ続ける。弱き部分を心中深く沈め、ただ夜叉であり続けることに陶酔する。

 そうやって生きてきた。
 そうやって生き続けるはずだった。
 ここ数日間の大鬼との触れ合いで手に入れてしまった、温もりというものを、知らぬままでいられたのならば。

 “今”が“ずっと”続けばいい。そんなことさえ少女は思う。
 このまま鬼の悲願が果たされず、“家族”のように温かで平穏な日々が―――



「ありえてたまるか。そんなこと」



 かぶりを振る。振り払うように太刀を抜く。一閃する。
 まるであらゆる事象が制止したかのような、そんな太刀筋。
 迷いや悩みを全て置き去りにし、少女はここに、夜叉となる。
 夜叉は言う。研ぎ澄まされた刃は言う。あれほどの武人と斬り合える。信仰と信念と祈願の怪物。それと命をぶつけあうのだ。まさに至福の時ではないか。それ以上の物がどこにあろうか。

 そうして夜叉は廃屋を後にする。
 大鬼の後を追い、五条の橋へと。







 時は日中までに遡る。

「それっていうとなんだ。噂の大鬼やら夜叉やらが、源氏の手の者だってのか?」

 妙な若者だった。
 身分の高い者なのだろう。身に纏った直衣も見事な拵えではある。佩刀もまた、一目で大業物と見て取れる代物。
 背も高く、姿勢も良く、肉付きも良い。歩法も明らかに武芸を研鑽した者のそれだ。遠目から見れば見事な武人としてみられるであろう。その表情や仕草さえ目に入らなければ、であるが。
 飄々とした笑みと伝法口調。さらにまだ日中であるにもかかわらず酒臭い呼気と赤らめた顔が、見事なまでに好印象を破壊している。

「そうではあるまい。だが、結果としてそういうことになる」

 隣を歩くは清盛が四男、平知盛である。若者に比べ細身な体格。生真面目そうな風貌に、うっすらと笑みが張り付いている。その笑みが、まるで生きた能面のような印象を与えている。

「ああ、なるほど。そういうことかい。さすがあんたもあくどいねぇ。しかしそれじゃあ頼政の狸爺あたりが黙っていないんじゃねぇのかい?」

 頼政とは、源頼政(みなもとのよりまさ)のことである。
 保元の乱、平治の乱で紆余曲折を経て源義朝と決別し、二条天皇擁する清盛側についた人物であった。現在では平氏政権下で正四位についている。内実共に乱により疲弊した源氏の長老といっても良い人物だった。

「源頼政は現状に満足を得ていない上昇志向の激しい男だ。しかし我ら平家へと忠誠を誓っており、源氏残党の抑え役としての高い利用価値故に相国殿も重用している。従三位に任命される日も遠くはあるまい」

「それで?」

「父上にとってはそれで良いのであろう。平家にとっても良きことかも知れぬ。しかし、それでも尚、私にとっては“目障りに過ぎる”」

 源頼政が現政権にて発言力を高めるということは、無能な兄・宗盛を立てなければならぬ自分にとっては間違いなく害になる、そう知盛は考えていたのだった。

「くかかかかか! 大変だねぇ支配者の一族っていうのも。あんた、そのうち重盛の兄者も追い落とすんじゃねえか?」

「必要とあらば、そうするまで」

 必要ならば兄をも殺す。躊躇いもなくそう宣言した知盛は、間違いなく魔王清盛の息子であった。
 だが知盛は知っている。兄・重盛もまた、必要ならば知盛を抹殺することに躊躇いを持たないであろう事を。
 平家に生まれるということは、あの男の息子として生まれたということは、そういうことなのだ。人としての生ではなく、肉親の血肉すら啄む化生として生きねばならぬ。それが、平家の一員であるということなのだと、知盛は誰よりも思い知っている。

「おお、怖い怖い」

 そう言って大袈裟に身を震わせた若者は、未だあどけなさの残る少年のようにも見えた。
 しかして、その眼光は明らかに肉食獣のそれである。詰まるところこの若者もまた、人でなしの平家の化生なのであった。

「鬼共の始末は任せた。貴様には大いに期待している」

 知盛の言葉に若者は破顔する。嗤ったのだ。まるで、幾人もの人間を喰い殺してきた虎か何かのような表情である。
 否、虎ですらない。それはもっと恐ろしいもの。禍々しいものの笑み。

「あいよぉ。知盛の兄者。そういう荒事は俺に任せておきな」

 この、平教経(たいらののりつね)になぁ。

 そう言った若者は、悪鬼羅刹の如き笑みを浮かべていた。





[25761]
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/08/15 11:46
 妙に静かな夜だった。こんな夜は珍しい。人の声はおろか、獣や虫の声すら聞こえぬ異常な静謐。まるでこれから起こる凄惨な時間を、京という都そのものが畏れているような。そんな静けさだった。

 その静謐の最中、鬼はただただ前方を見つめていた。

 何かが、来る。予感がする。確信がする。今宵こそ、千の祈祷は果たされると。
 思えば長い道程だった。どれほどの夜を過ごしたのか。あの日の決意は遠い記憶の彼方にあった。死を覚悟したこともあった。敵手に殺されるだけが死ではない。寒さに震え、食料もなく、冬の山中で凍えかねない時すらあったのだ。だが、それでも、鬼は前に歩み続けた。千の祈りを完遂し、人間としての役割を、己が生まれてきた意味を手に入れるために。そのためならば、数多の死すら乗り越えて見せよう。そう気を吐いて生き延びてきたのだった。

 しかしそれも今宵に終わる。あの凄まじき業を持つ女夜叉との決着によって。

 夜叉の強さ、それは鬼の知る強さとは一線を画すものだった。今まで鬼は、あのような種の強さと出会ったことがない。

 鬼の知る強さとは実に単純である。速ければ強い。重ければ強い。ただそれだけである。

 どれほど力強い武士の一撃であろうが、先を取ってしまえば問題にならない。人外の膂力を振り絞った超重凶器の投擲は、あらゆる技法の先手を取った。また、どれほど守りに身を固めようとも、圧倒的な質量の凶器を大鬼の膂力で叩きつけられれば、そこに待つのは逃れようのない死である。いかなる技術も無為にする、暴威そのものが鬼の武であった。



――――――それを、あの夜叉は凌ぎきった。



 あの日あの時、夜叉に懐に潜り込まれた刹那、鬼は夜叉の大太刀に向けその左腕を振るっていた。左腕を覆うは鋼の手甲と熊手の如き鉤爪である。瞬時に鬼はその全体重を左手に乗せ、あの大太刀をへし折ろうとしたのであった。

 しかして夜叉は、それにも反応した。明らかに斬撃を放っている最中であるにもかかわらずに。
 瞬時に返された刃。絶妙な手首の捻りが、大太刀の刃を手甲鉤へと立てる。同時に、耳を聾する踏み込みの音。胴を薙ぎ払おうとしていた夜叉の刃は、角度を変えて手甲鉤の刃を滑る。



 鈴鳴りが、聞こえた。



 鈴の音だと思われたそれは、鋼で出来た鉤爪の断末魔であった。人体すら貫通する鋼鉄で出来た凶器が、夜叉の技量と大太刀の前に根刮ぎ斬り飛ばされていたのであった。

「ぬぅ!」

 それはどれほどの魔技か。人には成し得ぬ化生の業。それを目にした鬼は、襲い来る悦びに全身が震える様を止めることさえ出来なかった。今まで保っていた平静さなど、瞬く間に消し飛ばされた。鬼の中の化生が、夜叉の中の化生に共鳴したのである。

 一瞬の空漠。互いの攻撃が凌がれた故に出来た、極至近距離での刹那の間隙。

 視線が、合う。

 見下ろす視線。見上げる視線。
 笑っていた。嗤っていた。夜叉も。夜叉の瞳に反射した大鬼自身の貌でさえも。
 夜叉が怖い。少女が恐い。それでもこの全力を出し切れる時間の、なんと甘美なことよ。よもや自らの役目とは、ここで夜叉と出会い果たし合うことにあったのではないか? そんな思考さえも浮かんでいた。

 地に落ちた薙刀を振り上げる。

 容赦など無い。加減すら無い。手心など、加えようはずが無い。
 それはまさしく瀑布の如き一撃である。数多の敵手を冥府に送った、必滅の一撃。
 しかしてそのような一撃を繰り出しておいて尚、鬼は思う。この程度で終わってくれるな。もっとだ。もっと。我に全力を振るわせよ!!

 いかなる時も、鬼は力を出し切ることが出来なかった。全力を出すには人の身体は脆すぎる。撫でただけで殺してしまう存在相手に、どうすれば渾身の力を振るえるというのか。
 しかし違う。目の前の夜叉は違う。撫でれば死ぬような脆い肉体でありながら、想像を絶する技巧によって鬼と渡り合う。鬼は待っていたのかも知れない。千を目指す祈祷の果てに鍛え上げられた、人外の武をぶつけられる相手を。

 天に向かう死の瀑布を迎え撃ったのは、女夜叉の左脚だった。夜叉は跳ね上がる薙刀を見た途端、虚空へと一歩を踏み出していたのである。

 その一歩は、吸い込まれるかのように大薙刀の柄を踏み、そのまま夜叉は全体重を左足に乗せ、力の限りの蹴りをはなった。

 夜叉は跳ぶ。

 自らの脚力と、大鬼の膂力さえも利用して、凄まじき勢いで後方へ。一気に六間ほど飛び退る。

―――見事、見事見事見事見事見事! これも防ぐか同類よッ!!―――

 視線が絡む。夜叉が笑う。鬼も笑う。嫣然と。豪快に。

 豪快な笑みを浮かべながらも、鬼の肉体は遅滞なく動いている。背後にまわされた左腕。新たに掴み取る武器―――先端が大きく二つに分かれた捕縛槍、大刺又(おおさすまた)。

 躯を捻る。投槍の構え。発条のように螺旋の力を肉体に蓄え、開放の時を待つ。
 夜叉が歩く。完璧に保たれた正中線。鬼が今まで目にしたこともない、異様にして完全なる前進。

 気付けば空が啼いていた。

 ぽつりぽつりと雨が降る。かと思えば、雨は瞬く間に強まってくる。
 夜叉は前進する。鬼は筋力を引き絞る。まるで時間が凍結したかのよう。制止した刻の中でただただ間合いだけが縮まってゆく。



 強くなった雨脚が、土砂降りと言えるようになった頃、得物を下ろしたのはどちらが先であったろうか。

 気づけばただ、武器すら構えず互いを見つめ合っていた。

「水入りかい?」

 夜叉の問い。まるで無邪気な童のよう。

「どうやらそのようだな」

 応えた大鬼の顔も、静かな微笑に満ちていた。

「あのさぁ」

「どうかなされたか?」

「このままじゃお互い冷えちまう。どうだい? 行く場所がないならあたしのねぐらを貸してあげるけど?」



 それが、化生二匹の邂逅の結末である―――――――



 鬼は思う。自らの強さの根源が速さと重さであるのならば、夜叉の強さの根源は、見切りと動作の正確性にあるのだろうと。
 どのような攻撃をも夜叉は見切ることが出来るのであろう。高速で回旋しながら飛来する鋸(のこぎり)の柄を掴むなどという世迷い言を、現実のものへと出来る見切りの良さ。自らの思い描いた行為を実行する肉体の反射。ただ目がよい、ただ動きが速いというだけで出来る程度の小技ではない。あれはもっと、別次元の……人を棄てた化生にこそ許される何かだ。あの美しき少女にのみ許された業。

 しかし、少女。そう、少女なのだ。悪鬼が如き技量を誇るあの女夜叉は。

 鬼は昨夜の夜叉の仕草を思い出す。年相応の少女といっても過言ではない態度。
 あれが少女の地金なのだろうか。それとも夜叉の方が? 少女が夜叉という仮面を被っているのか、夜叉が少女という仮面を被っているのか、鬼にはそれが判らなくなっていた。
 もし、彼女が本性が年相応の幼い少女だったとしたのならば……

「斬り合うべきでは、ないのかもしれぬ」

 鬼が今まで相手にしてきた者達は皆が武士や賊であり、戦えもしない女子供をその手にかけたことは一度たりとてなかった。だからこそ、このまま夜叉を相手にしてよいものか、鬼は逡巡しているのである。
 だが、少女はただの女子供ではない。少なくとも鬼の目にした限りでも五人。躰に染みついた血の芳香から考えるに、二十人近い人間を斬っている。
 そして間違いなく、夜叉も、鬼自身も、あの邂逅の続きを、確実なる決着を望んでいる。
 矛盾である。千に至るまで屍を積み上げてきた鬼は、千に届くと確信を得た今その時に、最後の試練に挑むべきか逡巡しているのであった。

 果たして鬼が懊悩している間にどれほどの時が経っていただろうか。
 雲が途切れ月明かりが五条の橋を照らしたその時、鬼はその目を疑った。



 ぽつりと、橋の中央に、小柄な人影が、あった。



 有り得ぬことであった。
 いくら鬼が思考に集中していたからといえ、よもや正面からこの距離に近づかれるまで気づけぬなど。否、こうして橋の麓から見つめているこの瞬間さえ、何一つ気配を感じられぬなど。
 まるで幽鬼のような人影であった。

 姿形はそれこそおなごのようである。被衣をかぶった女房装束。どこぞの名家の娘が火急の用で五条の橋を通らざるを得なかった、そう判断できなくもない。十間の距離にありながら微塵も気配が伝わらないことを考慮しなければ、だが。

―――ここまで見事な“気殺”。夜叉殿ですら使えるかどうか―――

 気配を殺すと書いてケサツと読む。優れた山人や森人などが狩りの際に用いるそれを事も無げに見せる存在が、ただの娘であるはずがない。
 ましてその娘の左手に見えるあれは、脇差しでは無かろうか。
 間違いなく目の前の存在は、鬼の敵手たり得るのだ。

 なればこそ、鬼がするべきことは一つ。

「そなたは、平家の者か?」

 強大な圧力を放ちながら、鬼はその重圧を人影に解き放った。
 例えどのような存在であろうとも、全身全霊を持って相手をして見せようと。

「否」

 しかして娘の返答は、鬼の想像の埒外にあった。
 否、娘ですらない。被衣を脱ぎ捨てながら、脇差しの刃を抜いた存在は、一見すると少女にさえ見える少年の姿で。

「私の名は、源義朝が九郎。義経」



「そなたの主となる男ぞ」



 お前を我が物にしてみせると、修羅が宣誓した。







「あんたら、平家の侍?」

 声をかけたのは夜叉である。
 大鬼を追って五条の橋へと向かう最中、早足で歩く集団を発見した。
 その数六人。一人図抜けて体格の良い男もいるが、先日やり合った大塚左門義家たちの様に具足姿というわけではない。しかし、全員が全員太刀を佩いている。ならば夜叉にとっては何の問題もない。
 今宵もまた、夜叉は刃を抜く。命を削り削られ合うために。
 背から抜いた大太刀は、月光を反射して妖しく光る。だらりと刃を下げながら、男達に歩み寄る。あまりに自然なその動作は、歩くと言うよりも闇の中を滑っているようにさえ見えた。男達の答えを待つまでもなく、隙あらばそのまま斬り捨てて見せようという気概が見て取れる。

「もう一度訊くよ? あんたら、平家の――――」

「その通りだとも!」

 夜叉の言葉を遮ったのは、明らかな歓喜の声である。
 六人の中で図抜けて大柄な男であった。風上から流れてくるその男の気配。酒宴の帰りなのだろうか。どこか酒の薫りが漂ってくる。しかして明らかにそれだけではない。少女の中の夜叉が、夜叉の積んだ武芸が、男に対し最大限の警戒を訴え始めていた。

「あんたが京の夜叉か! 会いたかった。会いたかったぞ!」

 大音声である。

「我が名は教経。平清盛が甥、平教経である!」

 錯覚した。大気が燃え上がったかのように。
 見事な名乗りと同時に発せられた鬼気が、灼熱の敵意を撒き散らす。悪鬼羅刹の笑みを浮かべ、男は実に楽しそうに太刀を抜いたのであった。

 大物だ。清盛の甥という血筋がではない。その技量と、異常さが、自らに匹敵する怪物であることを、夜叉は瞬時に思い知らされた。

「古来より物の怪が跳梁跋扈すると言われる京の都であったが、俺はそんなものなど見たことすらなかった。だからこそ貴様等の噂を聞いた時、俺がどれほどの悦びに包まれたことか!」

 教経は捲し立てながら歩み寄る。まるで一つ言霊を口にする度に、周囲の温度が上昇してゆくかの如き錯覚である。

「斬ってみたかった! 斬ってみたかったぞ! 人を、鬼を、化け物を! さあやろう、今やろう、ここでやろう、死ぬまでやろう。涅槃の果てに辿り着くまでの斬り合いを!!」

 そう言って、教経は“もう一本”の大太刀を抜く。右手に大太刀、左手に大太刀。左右共に長さは四尺(約120cm)。尋常の剣の理より外れた、異常の剣。若くして戦場で鍛え抜かれた技術がここにある。

 嬉々として前に出る教経を見て、慌てたのが従者達である。主君の腕は知ってはいるが、敵対するは京の夜叉。彼の武辺者、大塚左門義家さえ斬り倒した武芸者である。今にも一人で斬りかかりかねない主君を止めなければならない。さもなければ、彼の源為朝(みなもとのためとも)のように腹でも切らねば申し訳が立たぬ。そう考えるのも無理はなかった。
 しかし、慌てて太刀を抜き参戦しようとした彼等の行動は、僅かに遅かった。彼等従者の機先を制したのは、対する夜叉ではなく、守るべき主君であった。

「一騎打ちだ。手ぇだすんじゃねぇ」

 ぼそりと、振り向きもせず告げられた一言には圧倒的な熱量が篭もっている。従者達は蹌踉めくように後退るしかなかった。まして、型破りとはいえ主命である。武士として破るわけにはいくまい。



 そして夜叉は、夜叉に巣くう剣理は、今宵最大の驚愕を目にしていた。



 大上段。悪鬼羅刹の化身たる教経がとった構えである。それだけならばどこにでもある構えだった。切り下ろす際にまず刃を振り上げねばならぬ青眼に比べ、初めから振り上げた状態にある大上段は速度に優る。欠点は、胴ががら空きとなることにより守りに向かない構えであるという点。
 しかし、教経がとった構えは通常の大上段ではなかった。



 二刀・大上段。



 二刀であることの利点は、守りが堅い点にある。相手の斬撃を防ぐことの出来る刀が両の手にあるのだ。力負けさえしなければ、左右どちらからの攻撃にも対応することが出来、そのまま対の刀で隙を突くことが出来る。堅守自在。それが二刀の利点であった。
 しかし、教経の構えは違う。
 それは潔いまでに一切の守りを棄てた、攻めの形。使い手の魂そのものを表したかのような構え。
 灼熱の剣気を撒き散らす異常な存在に、相応しいとさえ言える構えだった。

 それを見て、夜叉の貌に浮かんだのは壮絶な笑みである。
 こいつは本物だ。間違いようのない本物の武士だ。気が狂うまでに厳格な武芸者であった、父と同じ匂いのする奴らだ。

 夜叉の取る構えは脇構えである。こちらもまた、守りよりも攻めに偏重した構え。
 距離は六間。走り寄るには近く、跳び込むには遠すぎる。よって、両者共にじりじりと間合いを詰めてゆく。

 圧倒的な緊張感が夜叉を満たす。いつしか夜叉の心は叫んでいた。劔たれ。劔たれ。鋭く、細く、研ぎ澄まされた。全てを断つ刃たれ。戦いという炎に身を投げ出し、斬り合いの中で研ぎ澄ませよと。

 先ほどまでの少女としての懊悩など、もはや微塵も見られない。剣に生き、剣に死ぬ。迷う事なき剣鬼の姿がそこにある。

「嬉しい。嬉しいぞ夜叉よ。あんたのその構えを見るだけで、どれほどの使い手なのか見て取れる。こんな斬り合いを待っていた! こんな戦いを待っていた! 俺はずっと待っていたんだ!!」

 一言ごとに燃え上がる敵意。夜叉のような研ぎ澄まされた殺意ではなく、大鬼のような押し潰すかのような重圧でもない。ただあらゆる者を焼き尽くす灼熱の敵意を教経は放っていた。

 同感だ。
 夜叉は思う。あたしもずっと待っていた。こんな斬り合いを。戦いを。待っていたんだ。
 まったくここは何という場所なのだろうか。昨夜の大鎧の三人。大鬼殿。挙げ句の果てにはこの男。どれほどの好敵手が京には潜んでいるのだろうか。まるで人外魔境。夜叉にとってはそれが面白くてたまらない。

 じりじりと。じりじりと。間合いは少しずつ詰まってくる。

 狙うべきは一瞬だ。先の先。相手が動くよりも早く、ただ一太刀にて勝負を決める。振り下ろす隙さえ与えない、完全なまでの先制攻撃。刹那でも遅れれば相打ちとなり、もう刹那遅れれば一方的に斬り負ける。そんな選択肢を夜叉は取る。

「戦場に出て何人斬ろうが、これほどの昂揚は得られなかった! 奴らは皆弱すぎた。俺の渇きを潤す敵は、今までどこにもいなかった!!」

 もはや悪鬼羅刹の言霊は周囲の温度を地獄と見紛うほどに高めていた。大焦熱地獄。あらゆる罪人を焼き尽くす地獄がここに顕現したかのように。

 間合いが、近い。

「感謝する夜叉よ! これほど強くあってくれて!!」

 ああ、同感だ。それには同感さ。
 ふと、夜叉が微笑んだ。
 それは剣に狂った夜叉の笑みではなく、まるで少女のような儚い笑みで。



 刹那、命運を分ける一閃が交錯した。









[25761] 幕間壱
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/06/06 16:17


幕間 『母と少年』




 義経という名の少年と、常磐(ときわ)という母親の話をしよう。

 少年の幼名は牛若丸。平家に全てを奪われた人間だった。
 平治の乱にて平家に敗れた父・源義朝(みなもとのよしとも)は、家人の裏切りに遭い命を落としたという。享年38歳。武家の頭領たる源氏の長は、そうしてこの世を去ったのだった。

 少年の運命が決定したのは、もしかしたらこの時であったのかも知れない。

 源義朝の訃報を聞いた少年の母・常磐は、京を出奔し身を隠すことを決意する。常磐は、謀反人として討たれた義朝の側室である。このまま都に残れば源氏を抑え大勢力となった平氏の清盛に、何をされるか判らない。そう判断したのであった。

 頼ったのは大和に住む伯父だった。義朝という後ろ盾を失った常磐が最後に頼れたものは、肉親の情だけであったのかも知れぬ。季節は冬。未だ幼い三人の子供。上の二人は歩けるようにはなっているが、末子の牛若はようやく歩けるようになった程度の幼子(おさなご)である。命を賭した逃避行になるであろうことは、女である常磐でも理解できていた。

 しかし、都に残っていても同じことである。
 板東武士は鬼のように強い。それが世間一般の評価であった。ならば、その板東武士の頭領である義朝を下した平清盛は、一体どれほどの武人なのか。鬼をも屠る魔物の王、平清盛。あの男に人の持つ情など欠片もないのではあるまいか。まだ見ぬ清盛という存在への恐怖に常磐の心は恐れ震えていたのである。

 斯くして命懸けの逃避行は始まった。

 籠を使うことなど出来ない。馬もまた、同様である。雑仕女という庶民であった常磐は、それらがどれほど目立つものであるかをよく知っていたのである。
 したがって、利用したのは商人達であった。
 大和国は京から比較的近いところにある。しかしそれは、武士や商人達にとってであった。幼子を抱えた女が子連れで踏破するには、あまりにも遠すぎる距離。

 そこで常磐は、ちょうど京から大和国に向かうという商人達の一団に同行することを選んだのだった。
 同行とはいっても、荷車や馬車に乗せてもらえるわけではない。幼子を抱えた常磐は、気丈に歩き続けていたのだった。

 一団には旅慣れた商人や屈強な護衛達しか居らず、女は常磐だけであった。まして常磐は都中の娘達の中から義朝の側室になるために選ばれたという、絶世の麗女である。その事実は強烈な危機感を常磐にもたらしていた。だが、それでも。

 例えここで、男達の慰めものになろうとも、子供達だけは守ってみせる。

 それは紛れもない、母の愛であった。常磐は、己の身や命よりも、幼き子達の無事を願っていたのである。

 ―――その温もりを、少年は今でも覚えていた。

 寒さで凍えそうな夜も、疲労に押し潰されそうな時も、常磐は子供達を抱きしめ続けた。

 ごめんね。ごめんね。寒いよね。辛いよね。私がもっとしっかりしていればこんな目に遭わさずにすんだのにね。本当にごめんね。許してなんて、言えないよね。

 一人一人の名を呼びながら、少しでも寒さから逃れようと抱きしめる。口から零れるのは謝罪の言葉。源の子として何不自由ない生活を送らせてきた子供達に、こんな苦境を味わわせてしまった自らの不甲斐なさを悔いた言葉である。

 あのまま京の都に残れば自らはともかく、子供達がどうなるかはわからない。武士達の中で立ち回るのは慣れている。従順に、それでいて凛とした光と月のような陰を持ち、時には蠱惑的に、時には乙女のように、また時には男慣れせぬ生娘のように、捉えきれぬ“女”という幻想を男達に見せておればよかった。源義朝の側室となるために千人の女の中から選りすぐられた常磐には、彼等の求めるものが手に取るように理解できる。

 しかしそれでは駄目なのだ。助けられるのはあくまで自分の命のみ。愛すべき子供達は、平家にとって宿敵であった源義朝の息子達を助けることは叶わぬやも知れぬ。

 だからこそ、我が子の命を救うため、常磐は逃避行を決意したのであった。
 それは確かな母の愛。幼子である牛若にさえ伝わった、強く優しき母の愛。



 ―――残念ながらその母の愛が報われることは、一度としてなかったのだが。



 辛苦の末に辿り着いた伯父の家で待っていたのは、なんと平家からの使者であったのである。
 常磐は気づくことが出来なかったのだ。同行した商人のうち一人、吉次という男が平家に常磐親子の行動を逐一密告していたということに。

 平家の使者よりの言づては、“平清盛のもとへと出頭せよ。さもなければ捕らえている母親を死罪とする”とのこと。これを聞いた際の常磐の絶望は、果たしていかほどのものであったのだろうか。清盛は常磐が頼る者が大和にいる伯父しかいないことを見抜いた上で、常磐に絶望を味わわせるために泳がせていたのであった。



 ―――そして、牛若の原風景が始まる。彼の憎悪の始まりが。



 引き立てられた常磐御前。不安に震えている二人の兄。子細見守る平家の武士達。そして、魔王の如き容赦なき視線で見下ろしている、平清盛。

 それはまるで、幼き牛若にとっては地獄のような光景であったのだ。

「久しぶりだな、常磐よ」

 清盛が声。その場にいる全ての者を威圧する、凄まじき重圧に満ちた声。
 常磐は声一つ上げるどころか顔を上げることさえ出来なかった。恐怖は人を縛る。あまりの威圧に常磐は意識を保っていることがやっとであったのである。

「ふむ。それらが、あの男の息子ら、か」

 魔王の睥睨。長兄・乙若。次兄・今若。そして、牛若。
 感情一つ篭もらぬ瞳で幼子達を順に見遣った後、ふと清盛は視線を止める。

 その目はただ、牛若を見つめていた。

 睨み付けていたわけではない。むしろ清盛は、牛若を観察するかの如き視線で見ていたのである。
 原因は牛若の視線である。
 二人の兄は地に伏し顔を上げることすらままならぬというのに、牛若は逆に清盛を睨め付けていたのである。その眼差しに憎悪をすら込めて。未だ歩き出したばかりの幼子が、である。

「さすがに、あの男の、息子よ、の」

 清盛の言葉からは明らかな感心が洩れていた。幾度も清盛と鎬を削り続けた源義朝を、清盛は誰よりも認めていたのである。そして、その板東武士としての血を誰よりも色濃く継いでいるであろう牛若丸の才すらも。
 そして無論、魔王清盛が災禍の芽を見逃すはずもなく。

「殺せ」

 と、云った。

 その言葉に誰よりも反応したのは、他ならぬ常磐であった。
 このままでは殺される。愛すべき子供達が殺される。自らの命などはどうでもいい。ただ子供達だけは救わなければ。その一心に叫び立てたのである。

「お許し……下さいませ!」

 場内に響く凛とした声。
 その言葉は、周囲を満たした魔王の威すらも払い除ける力強さに満ちていた。
 常磐はもう、ただ恐怖に震えているだけの力無き娘ではなかった。愛しき我が子を守ると誓った、この世で最も強い“母”という存在であった。この場において真に凄まじきは、魔王清盛の威でも、牛若丸に流るる源氏の血ですらなく、ただただ子を思う母の愛であったのかも知れぬ。ただ一言において、場の大気は確実に凍結していたのだから。

「わたくしの命ならば構いませぬ。どうか子供達だけは助命してくださりませぬか?」

 清盛の前に跪きながらも、常磐の視線は真っ直ぐ清盛を見つめている。魔王の重圧を纏った男の視線を、常磐は正面から見つめ返していたのである。
 周りの家人すらも口を挟めぬ凛とした覚悟が、その姿から滲み出るかのよう。
 常磐を見る清盛からは逆に嗜虐の笑みが浮かんでいる。追いつめられた常盤が一体どのような言を発するか楽しみにしているかのように。



「また、ここでわたくし共を処罰することは、平家のためにもなりますまい」



 それが常磐の言であった。
 同席する将も家人も、開いた口がふさがらぬ。まさか源氏の頭領の側室如きが、平家の未来を語るとは。口が過ぎるにもほどがある。

「ほう?」

 清盛から洩れたのは魔王の嗤みである。殺意という言葉すら生温い、極限の重圧。周囲の諸将ですら震えを隠せぬ、魔王の発する殲滅の威。人は皆、巨大なものには畏怖を抱く。巨大な山。巨大な大河。巨大な城。そして巨大な人の器にさえも。
 まして、そんなものに害意を向けられれば、死を確信するほかない。この場にいる者達の心は皆、生存本能の発する恐怖に震えていたのである。

 しかしただ、常磐だけは、魔王の威圧に真っ向から向かいあっていた。
 決して負けぬ。負けられぬ。愛しき我が子を守るために。

「このままではあなた様の名は、後世まで末永く語り継がれることになるでしょう」

 身を正し、凛とした姿勢で清盛を仰ぎ見る。透徹とした表情には不退転の意志があふれ出ている。命を賭して子を守ると誓った母親というものは、ここまで強く美しくなるものか。清盛をしてそう思わせるほど、常磐の美貌は浮世離れしていた。

「子を庇い命を捨てると申した女を、赤子もろとも殺した血も涙もなき鬼である、と」

 そう言った常磐の、うっすらとした蠱惑的な微笑み。周囲の者共はもはや唖然とするしかない。この女はどれほどの胆力を持っているのかと。

 しかし常磐には一切の余裕など無かった。ただただ、己に出来る最善の行動を計算し尽くした上での挑発である。
 平家の、そして清盛の悪名が後世に残るというのは所詮ただの建前である。常磐の目的はその先にあったのであった。
 ここで我が子を救うには、ただ理を持って諭すだけでは足りぬ。相手はあの平清盛である。小賢しいだけの女が許されるとは思えない。ならばどうすればよいか。常磐には一つしか思い浮かばなかった。

 女としての武器を最大限に使うこと。それが常盤の出した答えである。

 自らを清盛に売り込み、この場で見初められることさえ出来たのならば、自ずと子供達の命も救われよう。

―――たとえこの身がどれほど穢れようとも、あなたたちだけは守ってみせる。

 それが常磐の覚悟であった。
 我が子のためならばどのような地獄も耐えられる。それが常磐の、母としての覚悟。

「そしてそのような主となれば臣下の者や民の心が離るるも仕方がないと存じまする」

 そう笑みを浮かべ締めくくり平伏する常磐を、清盛は面白いものを見たとでも言うような表情で見下ろしていた。普通ならばこのような話し方をするものは、どこか賢しさを前に出したような表情を浮かべる。しかし常磐の顔はどこまでも澄み切った美しさで満ちている。清盛の気を惹くための常磐の仕草は、傾国の美姫にすら劣るまい。

「たかだか敗将の、側室如きが、まるで一端の参謀の如く、語りおるわ」

 清盛の言である。
 苦虫を噛み潰したような表情と共に、魔王の重圧が和らいでゆく。

「良き女よの。あの男には、勿体なかった、か」

 清盛はそのまま立ち上がり、屋敷の奥へと。慌てて後を追おうとする従者達。立ち去る間際に清盛の言葉。

「我に仕えよ。それならば、許す」

 常磐は平伏したまま、賭に勝った安堵に包まれていた。
 隣で清盛を憎悪の視線で睨み続けていた牛若丸に、最後まで気付くことすらなく―――







 こうして常磐は清盛の愛妾となり、娘を一人産む。
 乙若と今若は僧となるために寺へ。牛若は幼子であるが故に常磐の下で育てられた。




 そして六年。




 牛若は紗那王という名を授けられ、僧となるべく鞍馬の寺へと預けられた。。
 その身に深き憎悪を宿していた少年は、しかし、同時に無力でもあった。
 板東武者の頭領たる源の子とはいえ、彼は平氏の監視の下に武芸などとは縁遠い生活を送らされたのだ。肉体的な強さなど誇れるはずもない。

 そして、鞍馬の山の僧達の、陰湿な責め苦。

 僧達は皆、時勢に従い平家につくものばかり。同じ年頃の子供はおろか、大の大人からも振るわれる嗜虐の暴力。しかしそれは、紗那王にとっては悪いことばかりではなかったのかも知れぬ。

 なぜならば。
 平家への憎しみを、絶やすことなく抱き続けることが出来たからである。



 ある冬のことである。
 断食の行という名目で冬山へと放り出された少年が、何をするべくもなく思索していた時であった。
 考えている内容はいつも同じであった。“どのようにすれば平家を滅ぼしうるか”。それを空腹で気を失う寸前まで考え続けるのが彼の日課である。

 冬山へと放り出した僧達は、彼が逃げるなどと考えてはいなかった。正確には、山から下りられるだけの体力が残されているとは考えていないだけである。彼等が陰湿なまでに少年に振るってきた暴力は、それほど過酷なものであった。

 彼等鞍馬の僧達は、少年の生死に驚くほど無頓着であった。むしろ積極的に少年を害そうという気さえ見える。それもそのはずである。他ならぬ平清盛自身から、少年を成人させることなく修行中の事故に見せかけ殺害せよとの指示が出ているのだ。彼等はその命に忠実に従っているに過ぎなかったのである。

 ふと少年は己の手の平に目をやる。なぜ私の手はこんなに小さいのだろうか。力無き手では太刀も満足に振ることも出来ず、かろうじて脇差しを持つことが出来る程度。それも、振りかざせばその重さに蹌踉めく始末。斯様な有様でどうすれば平家を討てるというのか。

 獣はよい。そう少年は考える。
 生まれた時より牙を持ち、爪を持つ。四足で地を駆けるその速度は、人のそれなど及びも付かぬ。
 なぜ自分は獣ではないのか。なぜ自分は人なのか。なぜ自分はこれほど非力なのか。

 彼の平家に対する憎悪は、近頃では自分にさえ向いていた。自らの非力を、彼は気が狂いかねないほど悔いていたのである。

「強く、ならねばならぬ」

 独り言である。誰に聞かせるわけでもない、独り言のはずであった。
 ―――その言葉に返答が来なければの話であったが。



『ならば、その強さのために人を棄てることは出来うるか?』



 その声は、まるで森そのものが発したのかとさえ思われた。
 気配などない。呼吸の音も衣擦れの音も、およそ人が発するはずのあらゆる音が聞こえてこない。
 しかし、その声の主は圧倒的な存在感を持って、少年を見下ろしていた。

「何奴か!」

 少年は振り向き様に問う。母から受け取った義朝の形見である脇差しを抜き、樹上の男を睨み付ける。
 そう、声の主の圧倒的な存在感は、まるで天狗か何かのように生い茂る樹木の上から伝わってきていたのである。

『俺の名か? 確かにそうよな。呼び名がなければ困るものよなぁ』



『俺の名は、法眼(ほうげん)。この山に棲む行者……陰陽師よぉ』



 それが、鬼一法眼(きいちほうげん)と名乗る行者と、少年の出会い。
 そして少年が、人を棄て修羅となるための、宿命と言ってもよい出会いであった。



[25761]
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/08/16 04:48
「どこだ……ここ……」

 まるで泥の中から浮上するような錯覚を覚えながらも、意識を取り戻した少女。慌てて周囲を見渡すと、そこは見知らぬ屋敷の中であった。
 起きあがった拍子に少女の額から濡れ手拭いが落ちる。すぐそばには水の入った桶がある。どうやら誰かによって看病されていたらしい。

 くらりと、視界が回る。
 どうやら体調は万全ではないらしい。
 休息を促す肉体の欲求に従い、少女はそのまま仰向けに倒れるように寝転がる。
 絶妙な硬さの枕が妙に心地良い。そんなことを思いながら、思考の海へ。

 しかし、何故―――?
 自分は確か、あの悪鬼羅刹のような男と斬り合いを――――

「ぬ……ぐぅ……」

 思案を断ち切って聞こえてきたのは吐息、それも寝息である。
 それはまさに少女のすぐそばから聞こえてきていた。

 そして、気づく。
 少女が枕だと思った物体がその実、鍛えられた男の腕であり、少女のすぐ隣には、今まさに思い浮かべたその男――教経が、まるで同衾している男女のような体勢で、泥のように眠っていることに。

「は―――――?」

 腕枕で、あった。

「意味……わかんねぇ……」







よっつめ 『夜叉と羅刹と。』







「なんだ……これ……。どういう状況だ……?」

 意味が、わからなかった。
 何故こうなったのか全くわからぬ。
 確か、斬り合いの果てに互いに手傷を負い、それでもなお決着を付けようと―――

「おお、目を覚ましたか京夜叉よ!」

 少女の気配に気づいたのだろう。むくりと起き上がった教経が、喜色を浮かべて顔を寄せてくる。……思わず殴りそうになっていた。

「なんで……殺さなかった?」

 少女の口から洩れたのは、当然の疑問である。
 こんな見知らぬ屋敷で寝かされていたと言うことは、己は負けたのであろう。それならば、良い。勝敗がつくのは戦いの常。己の未熟が相手に届かなかっただけなのだ。それならば納得がつく。
 だが同時にいただけない。情けをかけられ生かされたという事態は。

「あたしはあんたに敗れたんだろう? なら何で殺さない。まさか情けでもかけたつもりか?」

 少女からしてみれば当然の疑問である。

 まさか手込めにでもされたかとも思ったが、衣こそ着替えさせられているもののそのような様子はない。それどころか、傷の治療まで施されていた。
 手込めにすることが目的ではないのならば、なぜ少女を生かしたのか。その疑問を少女は教経に問いただそうとしていたのだ。

 しかし少女はそこで意外なものを目にしていた。
 教経は少女に対しばつの悪そうな表情を浮かべると、そそくさと布団から抜け出し距離を取り、そのままそこへ平伏したのである。

 土下座であった。

 平家に名を連ねる武士の所行とは思えぬ、一介の少女に対する土下座。
 ありえぬことであった。

「すまぬっ!!」

 頭を畳にこすりつけたまま、教経は大音声で謝罪した。
 少女には状況が飲み込めない。なぜ勝者であるはずのこの男が、敗者であるはずの自分にこのような謝罪を行うのか。

「なんのつもりだ……?」

 少女の表情は険しくなる一方である。生き恥をかかされた挙げ句に、身に覚えもない謝罪を受けているこの状況は、剣に全てを託して生きてきた少女の誇りを汚されたようにも感じてしまう。

「すまぬ……」

 だが教経は頭を下げ続けるのみである。
 その様が、ひどく少女の――夜叉の癇に障った。

「なんのつもりだ。まさか黙って同衾したことに対する謝罪じゃあるまいな」

「もちろんそれもあるっ!!」

 即答である。それもまた大音声。
 それがいかにもこの男らしかった。

「んなことはどうでもいい! じゃあ他にどんな要件であんたはあたしに頭を下げる必要があるってんだ! 勝ったあんたが負けたあたしに、一体なぜ謝罪する!」

 しかしその夜叉の詰問に対し教経はようやく顔を上げたと思えば、有り得ぬことを聞いたとばかりの表情を浮かべていた。

「まさか……覚えておられぬのか? 京夜叉よ」

「何のことだ――――?」

 教経の言い様に少女は、明らかに狼狽する。
 事の顛末を自分が覚えていなかったからではない。
 夜叉を見上げた教経の表情が、あまりに悲痛に満ちた様へと変化していったからである。

「俺は…………あの戦いを、あの一騎打ちを穢したのだ」

 そう言って、教経は語り始めた。
 まるで泣いているような表情であった。







 瞬きすら許されぬ刹那の出来事であった。

 先の先。
 それが夜叉が選んだ選択肢である。
 脇構えは防御が弱い。速さにおいても上段に劣る。重力を味方に付け振り下ろす上段は、その分において速度に優る。

 だからこそ、刹那の拍子を見切ることが出来なければ、夜叉は確実に敗北する。

 夜叉の大太刀と教経の大太刀。五尺と四尺。両者の体格を比べても尚、間合いに置いて夜叉は教経を凌駕している。
 ならばその間合いを最大限に活かし、彼奴の斬撃を繰り出させる前に息の根を止める。そのための細工も流々だった。

 夜叉の使う技法の一つに、“ジザイ”という技法がある。ジザイとは、自在……つまるところ“如意”を意味する。大陸の斉天大聖が使うとされる如意金箍棒から名を取ったその技法は、自在に伸縮するという故事の通り、間合いを操る業(わざ)であった。

 ジザイを構成する要素の一つは、脚捌きにある。黒衣の袴に隠されたその足指が、まるで尺取り虫の如く前に進む。後世にてふくみ足と呼ばれる歩法と、通常の歩法を織り交ぜたそれは、確実に相手の距離感を幻惑する。

 さらに、持ち手にも要訣が秘められている。通常の剣術ならば、利き手を鍔の付近に、もう片手で柄頭付近を掴み、利き手で押し、もう片方で引くことにより梃子の原理を利用して剣を振るうのである。しかし、夜叉の持ち手は交差するように逆になっている。何故ならば―――

 そして、夜叉が、踏み出した。

 間合いは近い。
 しかして尋常ならば決して届かぬ距離。夜叉の体格から試算して少なくともあと五寸(約15センチ)、間合いが足りぬ。

 しかしそれでも届かせる。それが業だ! それが魔技だ! この身に染みついた、夜叉という名の剣理だ!!

 そして夜叉は片腕を放す。斬撃を放ちながら利き手である右腕のみで大太刀を支える。
 否、斬撃を放つ一瞬、大太刀を支えていたのはたった三本の指であった。親指、人差し指、そして中指。その三本の指がまさに柄頭に喰い込み、荒れ狂う遠心力をもものともせず大太刀を握り離さない。

 肩を入れる。前傾したまま踏み出す。腰ではなく膝を中心にして円を描くように大きく太刀を振るう。

 距離感の掴めぬ歩法により幻惑し、柄頭を尋常ならぬ握力の指で掴むことにより太刀の長さを最大限に活かし、さらに倒れ込むように前傾した踏み込みで極限まで間合いを伸ばす。

 そうしてジザイという技は成る。



 成るはずであった。



 教経の、悪鬼羅刹の如き一太刀が、振り下ろされてさえいなければ。

 無論、この教経の一撃は届かない。
 間合いに優る夜叉がさらなる剣理を振り絞ってようやく届く距離である。
 すなわち、何もない空を教経の太刀は切ることとなる筈であった。



 夜叉が教経を斬るために大きく踏み出していなければ、であったが。



 それは対の先。必殺を期した交差法。確実に夜叉を迎撃する、悪鬼羅刹の一太刀である。

 夜叉は必死に踏みとどまる。このまま刃を繰り出せば、間違いなく教経の太刀がこの身を斬ろう。だが、踏みとどまることさえ出来ていれば、教経の一太刀は間違いなく空振りする。その隙を突くことが出来ればよい。斬撃を繰り出す刹那の間に、少女の中の夜叉はそう判断していた。

 ひとたび振るった刃を止める術はない。しかし踏み出そうとしている足を止めることならば、かろうじて間に合う。止めろ、止めろ、止めろ止めろ止めろ!

 体勢を崩しながらも足を止めた夜叉の寸前を、教経の刃が通り過ぎる。そして夜叉の繰り出した一太刀もまた、教経の胸元を浅く切り裂くに終わる。

 夜叉は間髪入れずに踏み込んだ足とは逆の、後ろに残した足を大きく持ち上げる。
 崩れそうになる体勢を立て直すには、跳ね退けるほどの踏み込みが必要である。全体重を乗せた震脚が、耳を聾する音となって大地に響き姿勢を立て直すと―――

 それを遙かに上回る震脚が、轟音となって五条の通りを揺るがした。



 悪鬼羅刹の牙は、二本ある。



 振り下ろされた右の一太刀目は牽制にすぎない。言うなれば、相手の脚を噛み止める為の牙。
 命を奪い、喉笛に喰らいつくための本命の牙は、捨て身と言っても過言でないほど大きく踏み込んだ、左の一太刀。

 目にした途端、顔が歪む。それは夜叉の命を奪うに余りあるもの。恐怖に歪み、歓喜に嗤う。絶対の死が、夜叉に迫る。

 刹那、夜叉は無傷での生還を諦めた。

 立て直したばかりでの体勢では、横に避けるは叶わない。だからとは言え後ろに下がる道も、捨て身に近い教経の踏み込みにより封じられている。
 夜叉の脳裏に、両断された己の肉体が思い浮かぶ。清々しいまでの一刀両断を、あの勢いの一太刀ならばやってみせるだろう。肉体ごと吹き飛ばす大鬼ともまた違う必殺である。

 しかし、運はまだ夜叉に向いていた。

 体勢を立て直したのは何のためか。距離を取るためか? 横を駆け抜けるためか?

 否。

 前に進み追撃を加えるためである!

「ァァァッ――――――――――!」






 月を見るのは好きだった。
 いつかあの月すら斬ることの出来る使い手になる、と。
 子供心にそんな事を思っていた。


 それから、五年。


 未だに天にある月は、いくら手を伸ばしても届かぬほどに遠かった。






 閃光であるやと思った。

 瞬時に交錯した三本の剣線。それを見ていた教経の家人達は、その剣線を閃光と見違えたのである。

 そして、その閃光を放った二匹の化生は――――



「ぐっ――――!!」「ぎっ―――――」



 互いが互いに苦悶の声を上げ、弾かれるようにして距離を取っていた。

「がぁぁああっ!」

 灼熱である。
 夜叉の脳裏に浮かんでいたのは、ただただ灼熱の炎に右腕を焼かれるか如くの光景。
 堪えきれずに右腕を見やる。



 腕は、未だに、ついて、いた。



 そのことに夜叉は、安堵よりも先に驚喜に歪んだ微笑みを浮かべていた。
 ああやはり思った通りだった。この男は極上の武人だった。今まで父にしか負わされたことのない手傷を、初めてあたしに与えたのだから。

 太刀は鍔元に近ければ近いほど切れ味が鈍る。
 あの一瞬、教経の刃を躱しきれないと踏んだ夜叉は、自ら前に踏み出し身を投げ出すことに活路を見出したのだった。

 結果、夜叉の右肩に命中したのは、刃ではなく大太刀の鍔であった。

 それはまさに捨て身の選択。死中に活。命を捨てて生を拾う。夜叉の狂気じみた本能が、刹那の間に選んだのである。たった一つしかない生存への道程を。

 さらに夜叉は、ただ踏み込み生を掴み取るだけでは飽きたらず、その踏み込みの勢いを過分無く乗せた柄頭による一撃を、教経の胸部に撃ち込んでいた。
 捨て身というにもあまりにも無謀な、狂気の交差法である。

 夜叉は無事に動く左手だけで太刀を握ると、今度は切っ先を敵手に突きつけ、まるで弓を引き絞るかの如く水平に引く。これもまた、夜叉の得意とする必殺の刺突の構え。

 右腕はもう動かない。教経の一撃は夜叉からその片腕を奪っていた。
 鎖骨はへし折れ、右肩は無惨にも脱臼までしている。

 対して教経は、喉の奥から大量の血を吐き出すと、またまた大上段に構えを取る。
 灼熱の如く剣気を発する、教経得意の二刀・大上段である。
 しかしてその構えも安定しない。時折大きく息を乱し、噛み締めた口の端からは血泡が滲み溢れている。
 紛れもない夜叉の一撃は、教経の肺腑を傷つけていたのだった。

 それでも二匹は嗤い合う。

 互いの苦悶に歪んだ表情を見て、互いの嗤いに歪んだ相貌を見て。
 なんとも凄まじい敵意/殺意を浮かべ合っていた。

 全てを焼き尽くす悪鬼羅刹の灼熱の敵意。
 森羅万象を断ち切る夜叉の研ぎ澄まされた刃の殺意。
 大気が歪む。二人の剣気にまるで大気が悲鳴を上げているかのよう。
 二匹の化生は、傷ついてからその本領を発揮しだしたのだった。

「く……くふふふふ、くかかかかかかかか!!」

 教経の哄笑である。
 二本の大太刀を大上段に構えた教経は、血泡を口から吐き出しながらも、面白くて堪らぬとでも言わぬばかりの笑い声を上げ始めた。

「やるじゃねぇかっ! まさかまさかまさかまさか! 俺の“虎口斬り”をあんな方法で凌いだだけじゃなく、置き土産まで残してくるとはなっ!! 噂通りじゃねぇか、京夜叉よ!!」

 虎口斬り……ねぇ?
 まさにその技は悪鬼羅刹の化身たるあの男に相応しい技ではあったが、もっと捻った名前を付けられなかったのか? などと無為なことを夜叉は考える。

「教経……どの、だっけか?」

「その通りだ京夜叉よ!」

 声がでかい。肺腑がやられてるんだからもっと静かに喋ったらどうだ。
 一瞬浮かんだ夜叉の思考は、それこそとりつく島もない。

「あんたが強くて良かった。ようやくおかげで目が覚めてきたよ。今までにないくらい醒めてきたんだ。それこそ、こんなに冷めたのは剣を握ってから初めてだっていうくらいに」

 だから。



「次は、外さない―――――――――――――――」



 凍り付いた。
 全てが、である。

 夜叉の一言ともに発せられた刃の剣気は、その一瞬にあらゆる事象を断ち切っていた。
 大気も、刻も、教経の心胆さえも。

 教経の放つ鬼気により灼熱に燃え上がっていたはずの大気でさえ、一瞬にして断ち切られ凍り付く。それほど研ぎ澄まされた殺意は、一体どのような異常か。

 刃たれ。刃たれ。何よりも鋭く研ぎ澄まされた、触れる物全てを断ち切る刃たれ。

 夜叉の極限の自己暗示は、ただの一言でありとあらゆる事象を切り裂く刃となった。手傷を負うことにより顕れた夜叉の本性。あまりに薄い白刃の様なそれが、今宵初めて表に出始めていた。
 目覚め始めた真の才能。あらゆる剣理と一つとなることの出来る力。武に狂った男が夜叉に植え付けた執念。その狂気の徒花が、教経という強敵を前にすることにより咲き始めたのであった。

 対する教経の身体が震え始める。
 がくがくと。武者震いなどという話ではない。まるでてんかんの発作を起こした末期の病人のような、歯の根も噛み合わないほどの凄まじい震えであった。

 恐怖なのか歓喜なのか、もはや教経自身にもわからない。ただ、紛れもなく己を上回るであろう剣気を発した相手に、言い表せぬ感動を受けていたのである。
 恐怖がある。歓喜がある。両手に掲げた大太刀すらも、教経の心情を受けて大きく震えている。だがその恐怖も歓喜も糧と呑み込み、煉獄の炎はさらに激しく燃え上がる。

「くっ、くっ、くかかかかっ! 見事な殺意、見事な剣気よっ!! 斬られずとも死んだと思う、そんな経験は今までなかった! 何という恍惚、何という法悦よ!! これが生くるということ、これが死ぬるということか!!」

 咳き込みながら、血泡を口から飛ばしながら、それでもなお悪鬼羅刹は燃え上がる。氷の如く冷たく鋭い刃の殺意に、呑み込まれぬ為に。

「では往こうか、京夜叉よッ!!」

 言葉を合図としたのか、それとも限界を超えて堪えきれなかったのか、悪鬼羅刹は駆けだした。先ほどのように躙り寄るのではなく、炎のように蹂躙すべく駆け寄ってゆく。大焦熱地獄の火は、あらゆる者を焼き尽くそう。

 その様を見ても夜叉は揺るがない。鮮烈に透き通った殺意が、切っ先から一直線に教経へと伸びる。まさにその軌道を大太刀がなぞると宣言しているかのよう。

 教経の選択は単純である。左の牙で夜叉の突きを叩き落とし、右の牙で首を獲る。ただそれだけに全身全霊を懸けている。

 距離が狭まる。生死の境が錯綜する。

 きりきりと引かれた夜叉の左手は、まるで引き絞りすぎた弓の弦のよう。

 そして必殺の矢は放たれる。

 流星と見まごうその切っ先は、悪鬼羅刹の牙に先んじる。
 先ほどの意趣返しと言うにはあまりにも無情で鋭すぎる、完全なる対の先。

 教経は瞠目する。あれが死だ。自分を殺す鋼の刃だ。振り上げた刃を振り下ろすことすら叶わぬ、絶対にして確実な死だ。
 悪鬼羅刹の心の臓を喰らい破るべく奔るその流星は、確実なる死を教経に約束する。
 それはもう教経どころか夜叉にすら止めることの出来ぬ絶対の運命。今宵ここに、悪鬼羅刹は夜叉の前に敗北する。



 はずであった。



 ばさりと、そんな音が闇夜に響いていた。
 直後に教経が目にした光景は、なぜか前のめりに倒れてゆく夜叉の姿と。

 顔色一つ変えることなく、背中から少女を斬り捨てた、従兄・平知盛の姿であった。



「トモモリぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!」



 教経の慟哭が、京の都にこだました。



[25761]
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/08/15 22:07
 少年から見た鬼一法眼という男は、とても異様な姿をしていた。
 似ているものをあげるとすれば、それは僧形であろう。しかし、その姿は鞍馬の寺で少年がよく目にする姿からはかけ離れている。

 なるほど確かに法眼はこの山に棲んでいるのであろう。比較的小柄な体躯は里にいる者と比べ明らかに鍛え上げられている。山での生活が、法眼の肉体を自然と鍛えたのであろう。伸びた髪は乱れに乱れ、装束は綻び泥や土埃、あるいは樹液などにこれでもかと言うほど汚れている。しかし異様なのはその点ではない。

 派手なのである。赤や黄色、黒といった原色ばかりを使用したその装束は、汚れ色褪せていようがとても目立っている。

 少年には存ぜぬことであるが、それは山伏装束と呼ばれているものであった。

 山伏とは、修験道を実践する修行者のことである。各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り行を積む。厳しい行により“験力”を得て衆生の救済を目指すことを目的としている宗派であった。

 しかし、鬼一法眼は陰陽師とも名乗っている。

 この時代、陰陽師とは歴とした役職である。位階にして従七位上。物事の吉凶を占い方位を見ることを仕事とする、歴とした官吏なのであった。
 しかして鬼一法眼は山伏でもある。山伏は山に篭もるからこそ山伏である。普段から山を棲み家とし、都へ下りぬ者が果たして官吏を続けられるのか、少年には判断が付かない。

 ただその素性の怪しさだけは感じ取っていた。そして己が、この怪しげな男に頼るしかないという現実も。



 そして、狂気の鍛錬が始まったのである。







いつつめ 『五条の橋の、その上で。』







 橋の麓に大鬼が、中央には修羅が立つ。
 修羅は言う。我が物になれと、大鬼に。
 ならば大鬼は何と返すのであろうか。

―――そんなものは決まっていた。

 我が力が欲しければ、その器を見せてみよ!!

 こうして、後世に謳われる、五条大橋の決闘は開始されたのであった。

―――京の五条の橋の上、大のおとこの弁慶は、
   長い薙刀ふりあげて、牛若めがけて斬りかかる―――(童謡・牛若丸より)






「源、義経? 源家の稚児……? 我が……主に?」

 目の前の少年の発言は、鬼の予測の範疇を越えていた。
 今この時勢の京において、源家を名乗ることの意味。それが理解できていないとはとても思えぬ。
 狂人ではない。確かな理性の輝きが、少年の双眸に見て取れる。

「その通りだ、“鬼若”殿」

 何故―――――――
 今度こそ鬼は、確かな驚愕を覚えていた。
 我が名を知るものは非常に限られている。京においては間違いなく、あの少女夜叉しか知り得ない。そしてあの少女が誰かに鬼の名を漏らすなどとはとても思えぬ。ならば。

「そなたは叡山ゆかりの者か?」

 かつて鬼が身を寄せていた比叡山。そこの僧達ならば、まだ鬼の名を覚えている者もいたのかもしれぬ。なぜなら鬼の圧倒的な巨躯は、例え十年経とうが忘れられるようなものではないと、自身ですらそう自覚していた。

 しかし少年は首を横に振る。
 否、と。
 鬼の言葉を否定した。

「私はあなたの同胞(きょうだい)だ。鬼若殿。“鬼堕人(おにおちびと)の法”により造られた、うつつならざる化生よ」

 ずくん、と。
 鬼の心臓の鼓動が、大きく乱れていた。

 耳にしたことがある。聞いたことがある。確かに己は、その言葉を知っている。

 鬼堕人の法。

 それはもう鬼の記憶が定かではない、とても幼き頃の話。
 生まれた時より歯が生え揃い、肩まで髪が伸びていたという赤子の頃。
 思い起こすことすら出来ぬ幼き頃の記憶の切れ端に、確かにその言葉が残っていた。

「そなた、何を知っておる」

 果たして内心の動揺を押し殺すと、その大薙刀を構えながら警戒の姿勢を取る。

 目の前の少年は、異常だ。

 大鬼の発する圧力は、如何なる者の心も押し潰す。例え歴戦の武人であろうと、例え技を極めた達人であろうと、本能が鬼を懼れるのだ。巨大な山岳が人を象ったかのような鬼を目にするだけで、あらゆる生命は恐怖におののく。

 それはあの夜叉であろうと変わりはなかった。それが鬼にはわかっている。あの夜叉は鬼に対し恐怖を覚え、その恐怖を誰よりも愉しんでいたのである。だからこそ、あのような嗤みを浮かべて―――

 しかし、少年は違う。

 鬼に対する恐怖というものを微塵も感じていないようにさえ見える。それはなぜか。何故か。決まっている。己の中の異常の方が、鬼の中の異常よりも優れている。少年の形をした修羅は、そう思い込んでいるのであった。

「その問いには、あなたが私の家人となった後に答えましょうぞ。鬼若殿」

 少年はそう言って、あまりに澄んだ微笑みを浮かべていた。
 そう、あまりに透き通りすぎて、何かが壊れているのではないかと窺いたくなるような微笑み。

 その表情を見た途端、鬼はようやく少年に抱いていた違和感の正体に気づいていた。

 鬼とあの少女夜叉の間に共通しているものが一つある。
 それは、二人が二人とも、人であることに憧れている、ということであった。
 この無限に続く斬り合いの果てに、いつしか人になることが出来うるならば。化生として生まれた自分が、いつの日か人となれるのならば。そんなことさえ、鬼も、少女夜叉も想っている。

 しかし、少年は違う。
 彼は肯定している。心の底から、自らが化生であることを願っている。
 人の心など省みもしない怪物。まごうことなき修羅の有り様。

 それが、鬼が少年に抱いていた違和感の正体であった。

「なるほど」

 納得がいった。少年が紛れもない修羅であることも。修羅として大鬼自身を存分に利用しようとしていることも。
 そして、千に届くほどの戦いを続けた武芸者の本心が、眼前の修羅の武を確かめたがっていることにも。

「そなたならば存じておられるかも知れぬが」

 みちみちと音が鳴る。
 ぎりぎりと骨が軋む。
 あまりに巨大な鬼の体躯に、その剛力を溜め込んでいるためであった。

「我は千に近い死線を乗り越えてきた」

 身体を捻る。それだけで仁王のように鍛え上げられた肉体が唸りを上げる。
 薙刀を持たぬ左手は、背中の凶器を握り締める。

「その際にも当然、配下にならぬかと問うてきた者もおった」

 ぎちぎちと体躯が叫ぶ。
 みりみりと筋力が轟く。
 その人外ならざる膂力が、開放の時を求めて荒れ狂っている。

「その度に我は言うたものよ」

 明らかなる鬼の臨戦態勢に、少年は僅かに身を屈めて対応する。
 いついかなる方向にも迅速に動くための脱力。先ほどまでの微笑は消え、狼の如き視線でひたすらに鬼を鋭く貫いている。

「我が力が欲しければ」

 右手には岩をも断ち切る巨大な薙刀。
 そして左手には。
 あらゆる命を刈り取る、あまりに巨大で禍々しい大鎌である。





――――――その器を見せてみよッ!!――――――













 嵐である。

 それは紛うことなき嵐であった。
 斜めに傾いだ鋼の大鎌による、苛烈にして必滅の死の嵐。
 圧倒的な初速と回旋を持って投擲されたそれは、もはや常人には防ぐことも避けることさえも出来ぬ破壊の渦であった。

 しかして真に注目するべきは飛来する死の大鎌ではなく。

 右手に薙刀、左手には新たに取り出した大鉞(おおまさかり)を握り締め、瀑布の如く迫り来る大鬼の姿であった。

 並みの相手ならば大鎌のみで片が付く。

 しかし鬼は、いかなる相手にも決して手を抜かぬ。千の祈祷のために全身全霊で殺戮を行うのである。
 かろうじて大鎌を避けることが出来たとしても、続く大鬼自身が避けることによって出来た隙を確実に取ってみせる。怒濤の如き連続攻撃であった。

「素晴らしい」

 しかし。
 迫り来る死を前に少年は、そう言って牙のような笑顔を剥いてみせる。

 そして。
 有り得ぬものを、鬼は見た。

 獣のようで、あった。



 跳躍である。



 ただの跳躍ではない。

 少年はまるで弾かれるかのように、地面と平行に側方へと跳んだのである。
 それはまるで放たれた矢の様な勢い。そのまま橋を越え遠く川面へと飛び出すのではないかと思われるかのような跳躍。

 人は決して、あのようには跳べぬ。そのようには造られておらぬ。

 両脚どころか両腕も含めた、四肢全てを使った移動術などと。
 少年はただ跳躍したのではなく、瞬時に四足獣の如く前傾し、凄まじい反射で撥ね跳んだのであった。
 それは人の範疇ではなく、明らかなる四つ足の獣の動作。

「ぬぅ!」

 大鬼はそれにも反応する。右手に飛んだ少年に向け、左手の大鉞を擲ち……否、全身の筋力を振り絞り、致死の勢いで射出した。

 かつてこの橋の上にて七名もの武士を惨殺した鉄塊は、その威力を過不足無く発揮し、圧倒的な初速と重量を持って少年へと迫る。

 しかし少年は、修羅は、まさにありえぬことをしてみせ対処せしめたのだ。



 走る。



 五条の橋の欄干を。

 少年はただただ走ることによって、大鉞を回避して見せたのである。
 問題は少年が足場に使った部位である。
 欄干の上を駆け抜けたのならば鬼がそこまで驚愕することはない。
 しかしながら少年は。

――側面を走るかッ!!――

 跳躍の勢いそのままに欄干の側面に着地すると、地面と平行の体勢のまま駆け抜けたのである。
 投げつけられた大鉞が欄干を文字通り粉砕する。
 同時に少年は宙で身を捻り横回転。まるで傾いだ独楽のようなその動きと共に、幾多もの煌めく流星が鬼に向かって放たれていた。

 匕首(ひしゅ)。
 義経得意の暗器投擲術である。
 額。喉笛。心臓。下腹。股間。左右両膝。
 計七本の刃が大鬼へと飛来する。正確無比に人体急所へと放たれたそれは、驚愕に身を止めた大鬼へと容赦なく襲いかかる。

「ぬぉぉぉぉぉぉオオオッ!」

 裂帛の咆吼と共に風車のように回転した大薙刀。一つ、二つ、三つ四つ五つ六つ。流星の如く飛翔する匕首は、ただの一本を残して払い落とされる。五十斤(約30kg)もの重量の薙刀を小枝の如く振るうその技と剛力は、なるほど人外の大鬼に相応しい。

 しかして残された一本は、大鬼の喉笛へと真っ直ぐに向かっていた。

 ガキリ、という音がした。ギシャリ、という音だったかも知れない。
 それは決して、人が発することが出来るあらゆる音声ではなかった。
 一生の間にその音を聞くことの出来る人間が、果たしているかどうか。そういう類の音である。



 金属で作られた鋼の刃を、強靱極まりない歯で噛み砕いた音。



 それが、大鬼の口元から鳴り響いたのである。
 刃の破片で口内を切ったのであろうか、だらりと口元から血を垂らしながらも、大鬼はそのまま口中から刃の破片を吐き捨てていた。

「なんとまあ」

 大鬼が匕首に対処している間に、欄干の側面を駆け抜け、いつしか橋の中央へと降り立っていた少年の貌に浮かんでいたのは、紛れもない賞賛である。

「私とて牙の鋭さには自信があったのだが。あなたの前では形無しであるな、鬼若殿」

 そう言って少年は、はにかむような微笑みを浮かべていた。
 全身全霊を懸けて命を奪い合うこのような場において、場違いとも言えるほどに人を惹き付ける。そんな微笑であった。

 対する大鬼も笑う。仁王が笑顔を浮かべるのならばこんな表情になるのではないか、そう思わせるような凄まじき笑みである。

「お褒めにいただき、真に……」

 身体を捻る。背中の凶器。紛れも無き投槍の構え。
 仁王の如き肉体が連動する。
 大きく踏み込む左足。
 踏み込みによって発生する力を余すことなく胴体に伝える大腿筋。
 その力に更なる回旋を加える腰関節。
 力を支える腹筋に、打ち出す力を追加する後背筋。
 そして……

「重畳ォォッ!!」

 鞭のようにしなる左腕から、雷光の如き凄まじさを持って、大刺又(おおさすまた)が擲ち放たれた。
 そのあまりの投擲速度に、さしもの少年も目を見張るしか無い。
 それはまさに剛雷である。人の手には負えぬ、鬼の生み出す超力である。

 少年は咄嗟に取り出した脇差しの鞘で大刺又を受け止める。人智を逸した速度で迫り来る剛雷に、反応できただけでも少年の凄まじき技量は目を見張るものがある。

 しかして。



「な――――――」



 気づけば空を、舞っていた。

 その凄まじき威力の前に、宙高く撥ね飛ばされるという結果は、果たして少年の予測の範疇にあったのだろうか。
 暴れ馬に子供が跳ね飛ばされたとて、ここまで高く宙は舞うまい。そう思わざるを得ないほど、少年は宙高く打ち上げられていた。

 確かに、受けると同時に後方に跳躍し、その威力を受け流そうとはしていた。
 しかし果たしてその対処は本当に正しかったのであろうか。
 例えば、冬山にて迫り来る雪崩を前に、人はただ飲み込まれぬよう雪崩を避けるしか術がないように、あの大鬼が投げ放った大刺又も、ただ回避するしか対処する術がない、そういう代物だったのでは無かろうか。
 受け流したはずのその衝撃が、圧倒的な威力を持って少年の全身を痺れさせてしまっていることからもその事実が伺える。

 宙にある翼無き物は、皆すべからく地に堕ちる。

 ドウ、と激しい音を立てて。

 少年は、修羅は、義経は、まるで意志無き人形のように墜落した。








 まず法眼は、どこからか犬を一匹連れてきていた。
 子犬である。
 どこかオオカミを思わせる姿からも、猟犬として使われてきた犬種であると推測できた。
 恐らく近くの山に住む猟師の飼う猟犬の子を、一匹分け与えてもらってきたのであろう。

「まずはだな、紗那王」

 法眼は言う。

「武士の頭領の一族としておぬしは、臣下を持つ術を知らねばならん。平家を滅ぼすと言うことは、平家と戦をするということ。平家と戦をするということは、その戦のために人が死ぬということ。つまりだなぁ、ぬしは臣下の者達にとって、ぬしのためならば死んでも良いとまで思われなければならん」

 人を食った口調ではあるが、その言葉は違えようもなく正鵠を射ている。なればこそ少年――紗那王は、これ以上なく真剣に法眼の言葉に耳を傾けていた。

「そこでだ。こいつがぬしの最初の臣下だ。これからいつも共に過ごし、名を授け、臣下として……、まあ猟犬であるな。猟犬としてしかりと育て上げろ。それが、いつしか源の名を背負って立つおぬしの、最初の仕事だ」

 そう言って法眼は、紗那王の小さなその腕に、連れてきた子犬を強引に抱かせていた。

「そいつがまあ、おぬしの背負わなければならない命の重さだ。けして忘れるでないぞ」

 初めて抱いた命の重さは、少年にはずしり重く、そして、泣きたくなるほど暖かかった。








 力無く地に堕ちたと思われた少年は、かは、と息を吐いたかと思うと、遅滞なく脇差しを抜きその切っ先を大鬼へと向けていた。
 少年は未だ立ち上がることも出来ぬ。かろうじて片膝立ちにて身を起こせた有様である。

――身を起こすよりも先に切っ先を突きつけ戦意を見せたことを褒め称えるべきか――

 大鬼の思考である。十間ほど吹き飛ばされた少年を油断無く見据えていた大鬼は、そのまま新たな得物を背中から取り出していた。
 敵手に戦意があるのならば、それが例え満身創痍であろうが、全身全霊を懸けねばならぬ。それは大鬼自身が自らに戒めた信仰のための戒律であった。

 神仏よ、我を見よ、千にも及ぶ我が祈祷を、人ならぬ目でしかと見よ! なればこそ我が祈祷が完遂せし暁には、我に人たり得る役割を与えたまえ!

 そうして鬼は間合いを詰める。開きすぎた距離は大鬼の投擲術の間合いですらなかった。敵手の動向を注視しながらも、油断無く前進する。
 そのためであろうか。遠く離れ聞こえるはずのない少年の呟きが、確かに鬼の耳に聞こえていたのは。

「懐かしい……夢を見ていた……」

 陶然と。
 焦りもなく、苦痛もなく、人として大切な何かも足りない。そんな響き。

「あの時と、同じだな……クロォ。ならば、私がここで膝をつくわけにはいかないよな……」

 クロォ? クロウ、九郎……? 追い詰められた故に自らの名を呼び鼓舞しているのであろうか? 否、そうとは思えぬ。あれは何か、もう二度と届かぬ誰かにかける声。

 脳裏に浮かんだ疑問に答える者は当然おらず、この場に置いて熟考するわけにも行かぬ。
 ただただ微塵の油断もなく大鬼は少年に歩み寄る。

 あと十歩。
 それがあらゆるものを巻き込み惨殺する鋸歯で出来た嵐の間合い。大鬼の誇る投擲術の間合いである。

 あと七歩。

 あと五歩。

 あと―――――――――



 そこで大気が、変質した。



 ぞわりと。
 身の毛もよだつような妖気が、この場を埋め尽くしていたのである。

 思わず身を、引いていた。

 なんだこれは。このようなものは知らぬ。見たことも、聞いたことすらない。この全身に絡みつく怖気の震う戦慄は、一体何がもたらしているというのだ。

 それは、恐怖であり恐怖でないもの。
 それは、畏怖であり畏怖でないもの。
 それは、嫌悪であり嫌悪でないもの。
 それは、憧憬ですらあり、憧憬ですらないもの。
 その一瞬にして大気を埋め尽くした気配を放った少年に対し、鬼はその全ての感情を浮かべていたのである。



「ああ……、憎い……」



 それはまるで、地獄の底の亡者が上げるような、怨嗟の声。



「平家が……憎い……」



 その言の葉により、鬼は周囲を埋め尽くす妖気の正体を知った。

 それは憎悪。
 只一人の少年という器に収まりきれず溢れ出す、呪詛じみた憎悪。
 理性という枷を引き千切り、本能すらも喰い尽くした、人ならざる修羅の憎悪であった。

「武士が憎い、民が憎い、源氏が憎い、公家が憎い、京が、神が、仏が、世の成り立ち全てが」

 いつしか少年は、まるで何事もなかったように立ち上がっている。
 しかして鬼の目には、そこにいた者が先程までと同じ人物としては映っていなかった。

 そこにいたのは紛れもなく阿修羅の姿。阿修羅とは、闘争の神。あらゆる辛苦と憤怒をその身に呑み込み、その妄執のために終始闘い続ける者。

「なれば――――――なんとすればよい―――――?」

 くるくると。
 阿修羅が回る。阿修羅が舞う。
 儚ささえ感じさせる女房装束の裾が、まるで阿修羅の六臂(六本ある腕)に見える。
 それはまさに、闘神の舞。

「――――――知れたこと」

 寒気の走る憎悪の中を、美しき阿修羅が舞っている。
 目を奪われる。身動きが取れぬ。どこまでも、どこまでも惹き付けられる。



「全てを打ち壊し、新たに作り出せばいい」



 阿修羅は嗤う。
 憎悪全てを、糧にして。

 こうして、少年の裡に眠る異常は曝けだされた。
 ここから先は、鬼と阿修羅の血で血を拭う闘争である。




[25761]
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/10/18 20:47





 鮮血が、舞う。
 倒れてゆく。斃れてゆく。ようやく出逢えた相手が、ようやく出逢えた強き者が、ようやく出逢えた愛しき敵が、無情にも己以外の刃によって倒れてゆく。その様をただ教経は、絶叫を上げながら呆然と見送っていた。

「これでまず一匹目と言ったところだな。教経」

 背中から少女を切り捨てた知盛は、右手の得物を大きく血振るいする。舞い散る血しぶきが、まるで花のような切なさをはらんで見えたのは教経の錯覚だったのであろうか。優れた武人とは思えぬ優雅さが知盛にはあった。

 前のめりに倒れ込み地に伏せた少女は身動き一つしない。大きく背中を袈裟懸けに斬られた少女からは、少なくない血液が流れていた。

 知盛は倒れ伏す少女を一瞥もしないままに手に持つ得物を鞘へと。そのまま優美に懐へ。知盛の得物は太刀ではない。鋼で出来た肉厚の刃。遠く海の向こうから流れ着いたという金色鬼から伝わった“だがぁ”と呼ばれる諸刃の短刀である。長さは一尺三寸(約40cm)の大業物。その鈍く黒光りする刃で、少女を背中から斬り捨てたのであった。

「とも……もり……。あんた……何を……してくれやがるッ……!」

 ぎりりと。そんな音が聞こえそうなほどに強く歯を噛み締めながら、まるで目の前の男を喰い殺さんとばかりに凝視する教経。両の手に持った二刀の持ち手が、その強靱すぎる握力によって歪みかねないほどに力が入っている。悪鬼羅刹は今、従兄である知盛への殺意を懸命に抑えていたのである。

「さっさと答えぬか知盛よ! なにゆえ手を出した! なにゆえ夜叉を斬った! なにゆえ―――――」「貴様の闘争を穢した……か? 教経よ」

 教経の激昂を止めたのは、幽鬼のように冷たく鋭い視線と、ぞっとするほど冷ややかな刃のような声である。それでいて皮肉げに口元を歪めると知盛は、

「無論、大事な弟分が窮地に陥ったようなので助太刀をしただけだが?」

 などとまで、言ってのけた。
 実に効果は覿面であった。その言葉はまるで、火中に注がれる油のように、悪鬼羅刹をさらに燃え上がらせたのである。

「あやつにならば――――あやつにならば喩え斬られようとも良かったのだ! ようやく見つけたのだぞ! 俺の命全てを燃やし尽くせるほどの相手を!!」

 それが、教経の本心からの慟哭であった。
 今日の今日まで研鑽し続けた武を、それ以上に鍛え上げられた武を持つ誰かに破られる。そうして訪れた死は、武人の本懐と言っても良いようなものではないのか? あの時、あの刹那、教経も、夜叉ですらも、たとえ相手に斬られようが、決して相手を恨みはしない。むしろ感謝の念すら抱いたであろう。互いが互いに武の本懐に辿り着いていたと、教経はそう確信していたのである。

「知らぬ。貴様に死なれると平家のためにならん。恨むなら不覚を取った自らの力量のなさを恨め」

 真実口から血を吐くほどの教経の叫びさえ、知盛は意に介さない。花のように優美であり、氷のように冷徹であり、刃のように鋭利である男。それが平知盛という男であった。

「しかし、な」

 知盛は興味を無くしたかのように教経から目をそらし、倒れ伏す夜叉へと近づいてゆく。

「この者はなかなかに勘が良い。いや、すでに勘が良いという次元ですらあるまい。斬られる寸前まで私の存在に気づいていなかったにもかかわらず、よもや“斬られながら”身を躱し致命を避けるなどとはな。人とは思えぬ反射の早さよ」

 そのまま知盛は夜叉の身体の下に爪先を入れ、そのまま蹴り起こす。知盛の蹴りによって仰向けに反転させられた夜叉は、あどけない少女の顔を苦痛に歪ませながら、か細く呼気を吐いていたのである。

「生きておるのか!?」

 目を見張ったのは教経である。教経とて知盛の技量は知っている。平家の武士でありながら、太刀ではなく短刀を使い、背後より敵を斬ることすら良しとする。武士でありながら武士ではない戦いをする男。教経が敵に回したとして、勝てるかどうかすら判断の付かない男。それが、知盛であった。

「無論、長くは保つまい。かすり傷とて致命傷だ」

 矛盾である。かすり傷が致命傷に至るはずはない。しかし、その矛盾の正体を教経は存じている。

「毒まで使ったのかあんたはッ……!」

 ぎりぎりと食いしばった歯が鳴り響く。悪鬼羅刹の灼熱が、再び京の夜を支配し尽くしてゆく。これには傍観していた教経の配下の者達も堪ったものではない。主君である教経が、平家の頭領・清盛の四男である知盛へと刃を向けているのである。事が起こればまず間違いなく、知盛の配下である自分たちの命どころか、妻子を含む一族の命すらも危うい。たとえこの場で教経に斬り捨てられようとも、いざというときには教経を止めねばなるまいと駆け寄ってくる。
 しかして教経は忌々しいとばかりに歯を食いしばったまま二刀を納刀する。そのまま少女を横抱きに抱え上げると、知盛から背を向けた。

「如何様にするつもりだ?」

 知盛の言葉である。刃のように鋭く冷たいその声が、教経どころか駆け寄ってきた小者達をも貫く。しかして、教経は取り合わない。まるで貴重な宝物を扱うかのように細心の注意で少女を抱え、歩き出していた。

「殺さぬのか? 教経よ」

 再度投げかけられた知盛の声に、ようやく教経は歩みを止めていた。
 しかし、振り返ることはない。教経は背を向けたままである。

「あんたの事は――――」

 その声は、悪鬼羅刹の化身たる教経のものとは思えぬような響きを持っていた。

「あんたの事は尊敬している。その武も、知謀もだ。あんたの言うことは常に正しかった。あんたは常に正しい道を選択してきた。あんたは常に正しい道を示してくれた。だからこそきっと、今回のこともあんたは正しいのであろう」

 澄んだ声であった。
 先程までの灼熱の炎を内に秘めた声ではない。激しい憤怒を理性で自制された、まことの武人の声であった。

「しかし今は、顔も見たくはない」

 それが、別れであった。
 教経は去ってゆく。知盛の許を。
 慌てて配下の者共も教経を追う。幾人かは知盛を気にかけてはいたが、一礼をすると教経の後に続いていった。
 教経は振り返らない。
 その様を、平知盛は透徹するかのような眼差しで見届けていた。

「若いな。羨ましいものだ、教経よ」

 知盛から洩れた言葉は、ただそれだけであった。








 そして事は教経の屋敷へと戻る。

「まあいいさ。そんなことより腹が減った。飯の支度でもしてくれ」

 それが、事の次第を教経から聞き終えた少女の一声である。
 これには教経も閉口するより他になかった。何せ教経自身は激昂した夜叉に斬り殺されても構わぬとまでの覚悟で夜叉に頭を下げていたのである。あの戦いは、一騎打ちは、果たし合いは、間違いなく夜叉の勝利に終わるはずであった。教経の刃は夜叉には届かず、夜叉の刃が教経の心臓を貫く。その未来は確定していたはずなのだ。教経に助太刀さえ入らなければ。
 助太刀として名乗りを上げるならばともかく、背後から斬りかかり、さらには毒まで使う。それはもう武人として恥ずべき事であると、教経は思う。

 教経の屋敷には典医はいない。平家に連なる人間とはいえ、教経は武の道に全てを差し出した武辺者である。公家や貴族の真似事を行っている他の平家の者達と違い、どちらかと言えば質素な暮らしを好んでいた。したがってあまり大きな屋敷を構えているわけではない。教経にとってはわざわざ貴重な典医を屋敷に住まわせるほど贅沢な暮らしをしていたわけではなかったのである。そこで教経は、自らの手で少女の治療を行ったのであった。
 傷口を洗い、酒をかけて消毒する。毒の知識など教経はおろか家来の者も持っていない。ならばひとまず傷をふさごうと、慣れぬ手で少女の傷口を縫い上げたのであった。

 時が経つごとに熱を失いゆく少女の身体を、教経は自らの肌を寄せることにより温めていた。まるで傷ついた獣が傷を舐め合い寄り添い合って傷を癒やすように、教経は少女を抱きしめ続けた。苦しげな吐息、青ざめた顔、震える身体、滝のように止まらぬ脂汗。教経の前にいるのは比類無き神業を使う夜叉ではなく、ありのままの少女の消えゆく命そのものであった。その現実に教経はこの上なく打ちのめされていたのである。こんな少女に、己は、己等は、不意打ちをした上で毒まで用いたのだ。と。神でも仏でもいい。叶うのならばこの己の非道の所為で死に往くこの少女をどうか救い給え。と。

 果たして教経の祈りが神仏へと届いたのであろうか。少女の容態が安定したのは、夜が明け昼を回ってからであった。
 しかし少女は、呼吸が整い肌に血色が戻ってからも目を覚ましはしなかった。まるで冬眠する獣のように眠り続けていたのである。
 教経はその間、律儀に肌を重ねていた。決して邪な気持ちがあったわけではない。男女の間にある情愛があったわけでもない。この小さな少女の命が、目を放した隙に失われてしまうかも知れぬ。斯様な恐怖に襲われて教経は少女を抱きしめ続けていたのである。

 果たして少女が目を覚ましたのは、三日三晩経ってからであった。

 そして先のやり取りである。目覚めた少女との触れ合いで教経は悟らざるを得なかった。少女はどこまでも年相応の少女であり、そして練達した夜叉という名の剣鬼でもあるのだということを。か弱き少女である内面を、剣に全てを託した夜叉という名の鎧が覆っているのだということを。

「平家の御曹司だというからには、もっと豪勢なものを食っているのかと思ってたけど、案外普通なんだな」

 そう言って粥と粕漬けをかき込む夜叉は、どこからどう見てもただの少女にしか見えない。いや、ただの、ではない。廃墟暮らしで薄汚れた夜叉の身体は、教経自身と家人の娘によって丁寧に磨き上げられていたのだ。長い黒髪にも櫛が通り、艶やかなツヤが見違えるように少女を飾っている。身に纏っているのも既にぼろ同然となった黒装束ではなく家人の娘の着物である。そこにいたのは少女のあどけなさと女の艶やかさを兼ね備えた、実に美しい娘であった。

「仕方があるまい。あんたも俺も、三日三晩ろくにものを食っておらぬのだ。そこに豪勢な食事などとってみよ。間違いなく胃の腑がやられて地獄行きだ」

 教経もまた、少女に言葉を返しながらも粥を口にする。粗暴な武辺者に見えても、姿勢を正し礼儀に則り食事をとっている姿は、剣をとった教経を知る者からすればどう見えようか。少なくとも今までこの男に対して抱いていた印象が脆くも崩れ去るのは間違いがあるまい。決して粗暴な力のみの男にあらず、礼儀作法を兼ね備えた武人であると。

「なぁ、教経殿」

 神妙な、実に神妙な声であった。
 少女は粥の入った椀を置き、姿勢を正し教経に向き直る。

「知盛殿だったか? あたしを背中から斬った丈夫(ますらお)は」

 教経の表情が変わる。即座に後ろに下がり、地に頭を擦りつけようとする。未だ教経は一騎打ちを汚してしまった己の不覚を、心の底から悔いていたのである。

「ああ、やめろやめろ。やめてくれないか教経殿。頭など、いくら下げられたところで何も変わりはしないのだから」

 道理である。謝罪に価値がないとは言わない。しかし、頭を下げられたところで少女が得る物など何もない、それを教経は少女の言葉に気づかされたのである。

「ならば……ならば如何様にすれば俺はあんたに報いられるというのだ」

 それは普段覇気に満ちている教経らしからぬ問いであった。次々と貴族じみた行いに傾注してゆく平家の人間の中にあって、教経はただ一人武人であることを望んだ者である。武人でありたいのではない。武人であらねばならぬという、強迫観念にさえ近い思いを教経は抱いているのだ。平家が全て貴族となってしまえば、一体誰が戦にて指揮を執るというのだ。武家の頭領ですらなくなった貴族の命令を、本気で武人達が聞くと思うているのか。それが、教経の根底に流れる思いである。
 しかして教経は、武人にあるまじき手段を使って一騎打ちを汚した。そこに自らの意志があったかなどは問題ではない。ただ一騎打ちの最中に騙し討ちを行ったという事実だけが残るのだ。平教経は果たし合いに負けそうになると、腕の立つ従兄に縋り付き背中から斬りかからせる武人にあるまじき男であるという事実が。そんな男の、どこが武人だというのか。

「教えてくれ京夜叉よ。俺は如何様にすればいい。首が欲しいというのならば差しだそう。自決せよというのならば腹を切ろう。俺はあの戦いに負けていたのだ。負けていなくてはいけなかったのだ。命など、あの時すでに奪われていたはずなのだ。首を差し出すことに、なんの躊躇いなど持たぬ!」

 あらかじめ言い含めていたのだろう。その言葉と共に教経の背後の襖(ふすま)が開かれ、太刀を持った家人が一人現れる。白装束。悲痛に耐える表情。無念を噛み殺しているかのように食いしばった歯。教経配下のこの家人は、他ならぬ主である教経の首を刎ねるためにここに来たのである。

「首などいらないよ、教経殿。しかしまあ、そこまで言うなら一つ頼みがあるのだけど」

 首はいらぬ。その言葉を聞いて安堵したのは、教経ではなく配下の家人であった。さもあろう、誰が敬愛する主の首を落としたいと思うだろうか。

「俺の聞けることならば、どのようなことでも」

 しかし教経の声は未だに極度の緊張を含んでいる。当然だ。もしこの夜叉が、教経ではなく知盛の首を差し出せなどと言えばどうなるか。差し出せるわけがない。既に袂を分かったとはいえ、教経は命を懸けて知盛を守らねばならぬ立場にある。何としても己の首で満足してもらわねばならぬのだ。

「ああ、そんな気張らなくていい。別に大した用件じゃないよ教経殿。ちょっとしたお節介みたいなものかな」
「お節介……と?」
「ええと、一息ついたらでいい。そうしたら話に聞く知盛殿とやらに、頭を下げてきてくれないか?」
「は―――――?」

 少女が何を言っているのかわからない。教経にはわからない。何故教経自身が知盛に謝罪せねばならぬのか。あの男は、知盛は、あの命を懸けた果たし合いを汚した張本人だというのに。
 しかし少女は、夜叉は、教経の思いも寄らぬ事を口にしたのである。

「アレはあたしの過失だ。背中から斬られるということに気づかなかったあたしが悪い。剣に全てを捧げた者ならば、気づけて然るべきだったんだ。教経殿が怒るのはお門違いってやつなんだよ」

 自分が悪いのだと、夜叉は言った。ひとたび斬り合いの中に命を投げ出したのならば、そこで起こることは全て自らが責を負うべきなのだと、夜叉は言った。その後に教経と知盛が仲違いする必要など無いのだと。教経の抱いているその憤怒と慚愧の念はお門違いなのだと。それほどの覚悟で夜叉は斬り合いに臨んでいるのだと、教経に言い放ったのである。
 教経は愕然としていた。夜叉と自身の抱く覚悟の違いにである。夜叉にとって、京の都とは即ち敵陣と同様なのだ。味方など一人もいない。平家の兵どころか都に住む民達であろうと夜叉にとっては敵と同一であろう。夜叉はこの命の価値が低い時代(いま)を、何にも依らずただ一人で戦い生きようとしているのであった。
 対して教経はどうであろうか。いつ如何なる時も家人や兵達に護られている自分。夜叉や大鬼と戦いに赴く時でさえ、配下の者達と共に行くことを疑問にすら思わなかった。武人として、果たし合いに出向くというのにである。
 何たることであろうか。誰よりも武人であるべきだと考えている教経が、明らかに年下の女子(おなご)に武人としての覚悟の段階で敗れていたのである。果たし合いに勝てぬのもまた当然であった。

「だからさ、教経殿とその知盛殿が袂を分かつ必要なんてないんだよ。理解したらさっさと頭を下げて仲直りしてきな」

 そう口にしてにこやかに笑う少女。血飛沫のような夜叉の嗤みでなく、年端もいかぬ少女としての微笑を、教経は初めて目にしていた。
 何という女であろうか。教経さえも心胆寒からしめるほどの技倆を持つ思えば、先日果たし合いをしていた相手の立場を思いやる発言までしてのける。この様な女とは出会ったことすらなかった。教経は己が昂揚してゆくのを自覚する。

「京夜叉殿……」

 口から洩れたのは、妙にかしこまった言葉である。

「考えてみれば、俺は未だにそなたの名を知らぬ。知らぬのだ。せめて名を教えてはいただけぬか……?」

 教経らしからぬ、何かに怯えたような、実にかしこまった口調。少女はそれに頭を捻るが、特に思い当たるところもない。自らの名にはあまり良い思いを抱かぬ少女ではあったが、ここまで言われては名乗らぬわけにもいくまい。

「ああ、シヅカだよ。シヅカって呼んでくれればいい」

 名乗りを聞いた教経は、口中にてシヅカと一言呟くと、神妙な顔をしてこんなことをのたまった。「なんと……美しい響きだ……」と。

「は――――――?」

 これに焦ったのが少女である。自らの名は“死塚”。この言の葉のどこに美しさなどあろうものか。

「いや、教経殿、いったい何を言っ」「シヅカ殿ッ!!」

 言い返そうとした少女の言葉を遮ったのは、例の如く大音声である。
 凄まじき勢いで教経が迫る。膳も椀も全てを蹴倒し、教経は少女の面前に迫っていた。

「の、教経殿? どうしたんだ」

 焦るのは少女である。これが教経に殺意があったのならば少女の中の夜叉が反応し反撃を行っていたかも知れぬが、今の教経には悪意も敵意もない。その凄まじき勢いに気圧されるしかなかったのである。

 そして。

「この平教経! まっことシヅカ殿に惚れ申した!! どうか嫁に来てくだされいッ!!」

 京の都全域に響くような大音声で、あった。

「へ……、あ……、な、に……、え、えっと、よ、よめ……?」

 少女の思考は、まさに大混乱といったところで、あった。



[25761]
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:fe64f262
Date: 2012/12/01 10:20
 それは遠い昔の記憶。義経という名の少年が紗那王と呼ばれていた時の記憶である。
 少年は最初の臣下である猟犬に、“クロウ”と名を付けた。自らの名に因んだのは、主家の人間が自らの子や従者の子に、自身の名から文字を送るという慣習にならったためである。そして、少年・紗那王と、猟犬・クロウは出会い以来文字通り寝食を共にしていた。

 鬼一法眼のつける修行は、実に徹底したものだった。
 それは少年が法眼に師事する前に思い描いていたような剣術の修練ではない。
 法眼がまず少年に対し行ったことは、その肉体の力を徹底的に振り絞らせることにあった。

 走らせたのである。

 それも、平野をではない。
 あまりに険しい鞍馬の山中を、法眼は一切の加減すら許さず、少年を全力で走らせ続けたのである。
 それはあまりに危険な行為だったのかもしれない。
 当然のことながら、傾斜の険しい山中である。多数の樹木により視界が制限され、地面には多数の木の根や岩石が点在し、平らな場所などどこにもない。

 そんな場所を、人が全力で駆け抜ければどうなるか。当然、真っ当には走れまい。あるときは無様に転び、あるときは樹木に激突し、あるときは崖から転げ落ちる。

 そのような危険極まりない修行を少年が無事生き延びることができたのは、天性の才が源氏の血を引く少年に流れていたということと、いついかなるときも少年の前を走り道を切り開いていた、クロウという名の猟犬の存在があったからに他ならぬ。

 汗も、涙も、血液も、絞りだせるものを全て幼い体躯から振り絞りながらも、およそ一年もの間、少年はクロウと共に鞍馬の山を駆け抜けたのであった。

 やがて、貧弱であった少年のその肉体が、山野を駆ける獣のごとき強靭さを身に着けてくると、法眼はようやく戦う術を教授し始めた。

 少年の父、義朝の形見である脇差を使った小太刀術。六韜という大陸から伝わった兵法。およびに匕首や微塵、千本に角指、果てには鉄扇と言った少年が今まで見たことも聞いたこともないような暗器を使った戦闘術など、真っ当な武士の戦い方とは思えぬ代物まで、法眼は少年に教え込んだのである。

 少年もまた、それを卑怯とは思わない。なぜならば、武士として源氏を盛り立てることが目的なのではなく、ただただ平家を討ち倒し、復讐を果たすことこそが目的なのだから。

 憎め。法眼はことあるごとに少年にそう言った。

 憎むことこそが力となる。憎悪こそが人を殺す。一切の躊躇もなく、あらゆる手段を用い、効率こそを最優先した上で敵を討ち滅ぼすためには、底知れぬ憎悪こそが必要だと。

 少年は、小さなその身体の中で、一心不乱に憎悪を育て上げていた。
 いや、むしろ憎悪こそが少年を育んでいたのかも知れぬ。

 修行のときも憎み、兵法を学ぶときも憎み、飯を食らうときでさえ憎み、床に就くときさえ憎んだ。少年にとって、生きるということは憎むということと他ならぬことにさえ、なっていったのである。

 しかし、安らぎもまたあった。

 猟犬・クロウと共に過ごす時である。
 少年にとってクロウは、どこまでも自分に忠実で、他の誰よりも頼りになり、決して自分を裏切らぬ、家族よりも信頼できる唯一無二の存在となっていたのである。
 それはもう、少年にとっては、己の半身といっても過言ではない存在であった。
 
 やがて、数年が経つころには、少年は強さというものを手に入れていたのである。

「遮那よ。人は、人の領分というものを越えることができると思うか?」

 ある日の法眼の言葉である。
 この頃には不気味なまでの迫力を宿し始めた少年を、半ば放逐するかのごとく、鞍馬寺の僧たちは山中へと追い出すことが多くなった。冬山の厳しい環境ならば、この不気味な少年すら生きてはいられまい。そんな短慮さから出た行動である。もう、幾年もの間、断食と称して少年を冬山へと放り出し、それでも死にはいたらなかったというのにかかわらず。
 結局僧たちは、この容姿こそは麗しいが、心底不気味な少年に、関わりあうことを避けていたのであった。

「人の領分、でありますか?」

 法眼の問いを、すっかり大きく成長したクロウを傍らにはべらせながら、少年は熟考していた。

 領分。どういう意味であろうか。
 たとえば武士ではない農民ですら、武具を持てば武士を殺すことはできよう。それは間違いなく、農民という領分を逸脱した行為である。
 しかし、そうではあるまい。法眼の問いたいことは、決してそのようなことではあるはずはなかった。

「人は、どれほど望んでも空を飛べぬ。人は、そこな犬のように臭いで獲物を追うこともできぬ。四つ足の獣のごとく素早く駆けることさえ、人にはできぬのだ」

 訥々と、法眼は語る。
 法眼がこのようなことを口に出すのは珍しくない。決まって夜空の月が明るく大地を照らす時期。満月へと差し掛かる手前で、法眼はその内にある澱のようなナニカを、少年に向かって少しずつ零すのである。

 あるときは天に座する星々の運行だった。またあるときは現人神である天皇家の血筋への考察だった。またあるときは、海の潮の満ち引きが月齢に奇妙に連動しているのは何故かという、少年には理解することさえ及ばぬ疑問であったりしたのである。

 この鬼一法眼という男を、強すぎる月の光が狂わせているのではないか。そんなことさえ、少年は考えていた。

「俺は過去に様々な角度から、人の領分というものを如何にして乗り越えられるか、そんなことばかり考えていた。獣のように四つ足で走れば、馬よりも速く人は走ることができるのではないか。山中に住む熊とまったく同じ生活を送れば、熊のごとき剛力を得ることができるのではないか。両手に羽をつけて力強く羽ばたけば、鳥のように空を飛ぶことができるのではないか。そう思ってな」

 法眼は語る。一見して子供の妄想とも言えるその内容を、実に真剣に。
 それはまるで、少年に聞かせるというよりも、自分自身に対して語りかけているかのようだった。

「しかし無理なのだ。人は決して馬にはなれぬ。人は決して熊にもなれぬ。まして、鳥になることなど決してできぬ。所詮、人はどこまで行っても人でしかない。それを悟るのに、俺は二十年もかかった」

 実に、愚かなことだろう? そんな法眼の呟きさえ聞こえてきそうなほど深いため息が、大気を白く染めている。

「しかしながら、それで良いのではないのですか? 人はどこまで行っても人である。ですが、馬にも熊にもできぬことを、人は成すことができる。だからこそ人は人なのです。法眼殿」

 そう、所詮人は、人でしかない。
 クロウという半身を得て、少年はそれを実感した。少年にはクロウのような嗅覚も、聴覚も、その鋭き牙でさえ、手に入れることはできなかったのだから。

「それが、我慢できぬのだ」

 そう腹の内から呟いた法眼のその言葉には、明らかな狂気が入り混じっていた。

「人は、知恵ある生き物だ。その知恵ゆえに人は大地を埋め尽くした。一人死ねば十人で学び、一丸となって人はその死因を取り除く。そうして人はこの広大な大地を我が物とし尽くしたのだ。なればその人が、たかだか畜生がごときに劣っている部分があるなどと、俺にはとてもとても、我慢ができぬのだ」

 それは、鬼一法眼という男を動かす原動力。妄執という名の狂気であった。
 陰陽師であり、山伏であり、武芸者であり、兵法者であるこの男の本性は、実は“狂人”という二文字であらわすことができるのではないか。
 師である者に抱くべきことではない思いを、少年はこのとき脳裏に浮かべていたのである。

「しかしな、遮那よ。人は人の領分を越えられぬ。しかし逆に、“堕ちる”ことはできるのだ」

 そう言って法眼は、実に嬉しそうに、如何とも形容しがたいおぞましき微笑を浮かべていたのである。
 少年が、牛若が、遮那王が、九郎義経が、終ぞ生涯忘れることのできなかった微笑みを。

「遮那よ。明日だ。明日、貴様に最後の奥義を叩き込む。その試練を見事生き抜くことができるのならば、貴様はきっと、平家すらも滅ぼすことができうるであろう」

 狂気に満ち溢れた法眼と、その弟子となった少年を、蒼褪めた光を放つ月が照らしていた。

 今宵の月は小望月。
 翌日には、満月であった。











 ―――くるくると、クルクルと、阿修羅は回る。くるくると。その度にひらひらと女房装束は揺れ、まるで優れた舞を見ているかのよう。
 縦横無尽に舞う曲輪舞。その現実離れした美しさに大鬼は目を奪われそうになっていた。
 だが騙されるな。あれは心を奪う舞などではない。あれは命を奪う武技なのだ。

「鞍馬八流――――――銀閃流舞」

 阿修羅の口から微かな呟き。ひらりひらりと幻惑するかの如き動き。放たれしは刃の流星。
 複雑怪奇な軌道を描いて回転しながら匕首が飛ぶ。同時に放たれた八本の匕首は、交錯しながら見当違いなばらばらの方向に飛び去ったかと思うと、なんと大鬼の前方で床や欄干に当たって跳ね返る。計算し尽くされた殺意が、四方八方から大鬼へと降り注いでゆく。

「ォォォォォォオオオオ!!」

 鬼の口から漏れたのは、もはや言葉ですらなかった。
 咆吼である。鬼は覚悟を決めたのだ。八方から襲い来る匕首を無傷でやり過ごすことなど出来ぬ。ならば活路はどこにある。下段及び側方から飛び来る弾幕の最も薄い場所。それは――――真正面に他ならない。そうして腿力全てを跳躍へと注ぎ込もうとしたところで、大鬼は目にしていた。

「連環―――追の飛燕」

 捻りに捻った体勢から、凄まじき速度で匕首が射出される様を。
 それは先程の大鬼の刺又に優るとも劣らぬ、凄まじき投擲術であった。

 鬼のそれが剛雷ならば、阿修羅のこれは彗星か。
 信じられるぬ事に先に放たれた八本の弾幕と同時に鬼へと到達しようとしている。一直線に心臓を穿たんとする殺意の刃である。

 ――――――躱し切れぬ!

 ならばこそ。
 更なる覚悟を決めよ!

 腿力の限りに跳躍する。前方、前方へ。
 生きるために。生き抜くために。
 千の試練を、乗り越えるために――――










 鬼一法眼に連れられて少年が向かった先は、今まで法眼によって立ち入りが禁止されていた洞穴であった。
 鞍馬の山の中腹にある岩山に、ぽかりと空いた洞穴である。

「今宵、我が鞍馬八流の奥義を貴様に伝授する。場合によっては死に至ることもありうる行だ。ゆめゆめ覚悟せよ」

 鞍馬八流。他ならぬ鬼一法眼が興した兵法流派である。
 体術、剣術、兵法術から学術まで、多岐多様に渡る実戦本意の流派であった。
 法眼の高弟である八人の僧侶と共に研鑽を重ねていたという事柄から、法眼自ら、流派の名前に“八”の文字を入れたとされている。

 その、実戦本意の兵法の奥義を、これより伝授されようとしているのが、遮那王という名の少年であった。

 しかして、少年には緊張は見られない。
 頼りになる半身である猟犬・クロウを付き従え、母ゆずりの麗しき微笑みを浮かべた少年は、これより受ける試練に対して、何の気負いもしていないようにすら見えた。

 否、気負っていないのではない。なぜならば、少年にはそもそも気負うなどという余裕はありはしないからである。

 憎いのだ。何が、とは言わぬ。ただただ憎いのだ。
 もはや少年自身にも何を憎んでいるかすらわからなくなるほどに、ここ数年の修行にて、少年は己が憎悪を育て上げたのだ。

 結果が、この有様である。
 武家の棟梁である源氏に生まれ、何不自由のない人生を送るはずだった少年は、もはやその腸(はらわた)で育て続けた憎悪によって、明らかな変質を果たしていたのである。

 ああ、憎い。とてつもなく憎い。
 すべてが、全てが、総てが。

 少年にとって今や信じられるものは、母・常盤と、半身である猟犬・クロウ。そして兵法の師である鬼一法眼ぐらいのものだった。
 逆に言うのであれば、少年はその信じられるもの以外のすべてを、狂わんばかりに憎しみ抜いていたのである。

 試練の洞穴を見つめる少年を前にして、忠実なるクロウが、くぅんと一鳴きする。
 まるであの洞穴の奥底に、なにやら危険なものを感じ取り、主人へと自らの不安を伝えているかのような仕草であった。

「どうしたクロォ。何かを感じるのか?」

 そうした忠犬の機微に、少年は敏感である。
 犬の持つ感覚に、人は遠く及ばぬ。少年はそれを知っている。

 ならば、そのクロウが不安に思うのならば、そこにはまず間違いなく危険があるのだ。師である鬼一法眼が、少年に命を賭けさせるほどの危険が。

「わかっているよクロォ。この洞穴に危険があるということは。でも駄目なんだ。私はここへ入らねばならぬ。だから、どうか、共に来ておくれ」

 その内側を憎悪に満ち溢れさせた人間とはとても思えぬ優しげな言葉をクロウにかけ、その手で体を撫でてやる。そして、伝えるのだ。己はここで命を賭さねばならぬと。決して、退くわけにはいかないのだと。

 主人のその覚悟が伝わったのか。
 忠実なる猟犬は、力強く主の前に立つ。立ち塞がる危険すべてを、主のために噛み砕かんと、その背中で語りながら。
 そのさまを、法眼はただ満足そうに見つめると、少年に向かい言葉をかける。

「昨晩、貴様に言ったな、遮那よ。人は人を越える事はできぬ。しかしながら、人は“堕ちる”ことはできると」

 その声に込められていたのは、普段の法眼からは感じ取れぬ、底知れぬ感情であった。
 奇妙な違和感が、少年を包み込む。

「以前に俺は、それを知った。そして、実行したのだ。人より堕ちた化生を、この世に生み出すために」

 なんだ? この感情は何だ?
 この言い知れぬ感情は、いったい何を示している?
 少年にはわからない。常々、師である法眼のことを、狂気染みているとは思っていたものの、それでもその言葉にこれほどまでの不安を抱いたことはない。

「もし貴様が生き延び、平家と戦うときがくるのならば、その化生は必ず貴様の役に立つであろう。少なくとも、武という単純な力において、彼奴に優る者を俺は知らぬ」

 化生、と言った。魑魅魍魎か、妖魅の類か。
 しかしながら疑問は残る。人は、果たして人は、本当にそんなものへと成る事ができるのか、という疑問が。
 それができぬということは、法眼自身が二十年もの研鑽で思い知ったのではなかったのか。

 浮かべた疑問が法眼に伝わったのか、法眼は自慢げにその疑問への回答を口にする。

「呪をな? かけたのよ。鬼堕人(おにおちびと)の法という名の、呪をな?」

 鬼堕人の法。今まで法眼の口から語られたこともない呪法である。
 過去に法眼は様々な戦術や式占術を少年に語っていた。大陸に伝わる英雄、太公望の編み出した戦略論から、修験者や仙道者の間に伝わるまじないまで、実に様々なものをである。
 しかし、鬼堕人の法などという呪術に関しては、聞いたこともない。

「その鬼堕人の法というのが、これから伝授される奥義の名ですか? 法眼殿」

 だからこそ、少年は思ったのだ。
 それこそが奥義なのだと。鞍馬八流の秘奥にして、我が師、法眼が編み出し粛々と護り続けた秘術であると。

「うぬ。まあ似たようなものよな。楽しみにしておれ、遮那よ」

 そうして法眼は、洞穴へと向かうように少年を促した。
 少年もまた、法眼の仕草にひとつ頷くと、猟犬・クロウを引きつれ洞穴へと入ってゆく。
 その一人と一匹の後姿を、鬼一法眼はただただ見つめ続けていた。

 まるで三日月のように大きく裂けた、おぞましい笑みを浮かべながら。










 五条の橋に、鬼の咆哮が響き渡る。
 阿修羅の放つ九つの殺意を、その迫力をもってして退けるかのような、鬼の魂すべてが込められた咆哮である。

 負けぬ。負けられぬ。負けるわけには、いかぬのだ。
 未だ千には到達していない。未だ夜叉と立ち会うという約束さえも果たせていない。
 だから負けられぬ。たとえ目前の丈夫(ますらお)が、我を超越する化生であったとしても。

 阿修羅の殺意が到達する。
 床を跳ね、欄干を跳ね、阿修羅によって自在に操られた匕首が、殺意となりて襲い掛かる。

 逃げ場などない。回避すらできない。
 右足に一本左足に一本右脇腹に一本左脇腹に一本右肩に一本左肩に一本頭部に二本。
 さらには心の臓へと彗星のごとく飛来する一本。

 しかし、鬼もまた、尋常の武人ではありえなかった。
 心の臓に迫る流星に左腕の籠手をかざし、最低限の急所だけを守ると、なんとそのまま他の匕首を完全に捨て置いたのである。
 心の臓さえ貫かれねば、死ぬことはあるまい。
 それが、咄嗟に鬼が下した判断であり、

 なお凄まじきことに。

「ギッ、ガァァァァァア!!」

 鬼は身体中を刃が切り裂いてゆく感触を今まさに味わいながら、反撃に転じたのであった。

 大薙刀。

 鬼の持つもっとも信頼するその武具を、阿修羅に向かい全力で投じたのである。
 それは先ほどの再現。阿修羅・源義経が躱すこともできなかった大刺又(おおさすまた)での剛雷を、そのまま大薙刀で放ったのである。

 刺又はあくまで捕縛武器である。
 鋼で鍛えられた武器ではあるが、殺傷するための刃は無い。
 しかし、このたび鬼が放ったのは薙刀。捕らえるためではなく、斬って捨てるための武具。
 阿修羅は先ほどの技を全力で放った隙を晒している。
 避けることも防ぐことも適うまい。それが鬼の判断である。
 そして、避けられぬのならば、防げぬのならば、後は死ぬことしか許されていない。

 投槍の反動で身体中から霧のように血飛沫を吹きながら、鬼はこれで終わってしまうことを明らかに不満に思っていた。

 全力。全力だ。
 あの時と同じ。夜叉との立会いと同じく、我は今、全力で闘っている。
 なれば、もっと、もっとだ。この力を、この膂力を、この渾身を、どうか我に出させてくれ。
 我が全力を、渾身を、行き過ぎた武を、受け止められる者がこの世にいると、我にどうか知らしめてくれ。
 そなたもまた人では無き化生であるならば、どうか我を、孤高という名の孤独から、解き放ってくれ。

 それが、鬼の本心であったのかもしれない。

 人になりたい。人としての使命が欲しい。そう言いながらも、鬼はただただ耐えてきた。この世にただ一匹の生き物であるという孤独を。
 そして、鬼は京の町にて夜叉と出会った。
 夜叉は、鬼と同類であった。
 生まれついての人外の膂力を持っていた鬼と、生まれついての人外の剣才を持っていた夜叉。
 だからこそ共に孤独。共に人に憧れ。惹かれ合った。
 再戦を誓い、共に過ごし、数日後、どちらかの命が確実に潰えてしまうことを悟り、決着のときが永遠に訪れなければ良いなどと、夜叉との生活を惜しみまでしたのである。

 だからこそ、鬼は惜しむ。
 千を目指す祈祷の果てに鍛え上げた武に、少しでも抗える者の命を。

「我が主人となるのならば、この程度の窮地、笑って乗り越えて見せよ!! 源義経よ!!」

 全身の傷跡から血を迸らせながら、鬼は少年に、修羅に、義経に、阿修羅に向けて、喉が千切れんばかりに叫んでいたのである。

 死が迫る。
 十間もの距離を瞬く間に貫き、阿修羅に向かい剛雷の速度で死が迫る。

 そして、鬼は見た。見てしまった。

 迫りくる死を前にして、
 まるで三日月のように大きく裂けた、おぞましい笑みを浮かべている、少年の姿を。



[25761]
Name: 空鞘◆67e173aa ID:7c0d7088
Date: 2013/05/22 19:15
むっつめ 『鬼一法眼。』




 洞穴の中を、一人と一匹の主従が進んでゆく。
 暗い。
 それが始めに少年が感じたことである。

 松明に火をつけ洞穴の中へと入ったは良いが、炎によって赤々と岩壁が照らされているにもかかわらず、まるで押し潰すかのような闇が少年を包み込んでいる。
 黄泉への入り口とは、このような場所ではないだろうか。闇に包まれそうになる少年の心は、知らず知らずのうちに不安に苛まれてゆく。
 だがその不安も、あながち的外れなものではないのだ。
 鬼一法眼は言ったのだ。場合によっては死に至る試練だと。ならばこの洞穴を生きて出られなければ、それは黄泉に行くということと他ならないではないか。黄泉への入り口だと感じたことも、間違いではあるまい。

 生きて出る。

 それが脳裏に浮かんだ瞬間に、脳裏に浮かんだ不安は微塵も残さず消え失せた。
 そうだ。生きねばならぬのだ。死ぬわけにはいかぬのだ。平家を、清盛を、血族一人残さず討ち果たさねばならぬのだ。それまでは決して、この命を失うわけには行かぬ。

 憎悪によって恐怖を塗り潰す。死の恐怖を、苦痛を、全て憎しみ通すことで忘れ去る。
 それは修練によって少年が得た、もっとも特筆に価するであろう能力であった。
 どれほどの労苦であろうが、どれほどの苦衷であろうが、憎悪は全てを忘れさせる。苦しければ、憎めばよい。その憎しみは、力となる。過ぎた憎しみは、容易く人の限界を忘れさせる。

 憎悪に陶酔せよ。法眼はそう言った。
 痛みがあるのならば憎め。それは奴の仕業だと。
 恐怖があるのならば憎め。奴を殺せば恐怖は消えると。
 何事もなくともまずは憎め。蓄えた憎悪は必ずや、貴様の敵を殺すであろうと。

 そうして、少年は己という存在全てを憎悪に預ける方法を知った。意志が少年を動かすのではない。溢れんばかりの憎しみが、少年を余すことなく操作するのだ。
 食うことも、寝ることも、呼吸をすることさえも、平家への……否、ありとあらゆる事象への憎しみが行わせるのである。

 果たして少年は、生きながらにして修羅道へと堕ちようとしていた。

 人は人を越える事はできぬ。しかしならば、“堕ちる”ことはできる。
 法眼の言葉が少年の脳裏を駆け巡る。その言葉の意味を、少年は今ならば理解できるような気がしていた。
 修練を始める前には、きっと微塵も理解できなかったであろう。
 非力な自身の力を憎み、誰よりも力を欲し、欲しながらも諦観さえ抱いていたあの頃には。
 憎悪だけは、人一倍だなと、法眼は少年を評価した。
 そして、その憎悪だけをさらに磨き上げたのだ。
 魂に刻まれた憎悪を糧に、更なる力を求め続けていたのである。
 もっと。もっと力を。この憎悪ですら焼き尽くせぬほどの圧倒的な力を。
 着々と、そう着々と鍛え上げた。憎悪に相応しき力を。力に相応しき妄執を。

 そして、少年はここにいる。
 半身たるクロウと共に、薄暗き洞穴の中を歩んでいるのである。
 師・法眼から鞍馬八流の奥義を授かり、己の憎悪を完遂するための力を得るために。

 だからこそ少年は気づかない。
 師として尊敬の念すら抱いている法眼の、少年を見る時の眼差しに。
 少年以外の誰もが気づくであろう、その瞳に宿った輝きに。
 ぎらぎらと力強く輝いている、妄執という名の狂気の光を、少年に向けていたということに。
 だからこそ。
 少年は、牛若は、紗那王は。
 今この時、この試練に向かい進むことを心に決めたその時に。
 戻ることの出来ぬ修羅道へと踏み出すことを、決定づけられてしまったのであった。






「ここは……」

 少年が足を止めたのは、松明の明かりが映し出す洞穴の光景に明らかな変化が窺われたからである。
 先程までは長い時間をかけて自然が作り上げた、ごつごつとした岩肌が剥き出しの洞穴であった。
 しかし、少年の目の前に広がる光景は違う。
 先程より少しずつ細く狭くなっていった洞穴は、まるで人の手によって整備された通路のような様相を持って少年を迎えたのである。剥き出しの岩肌であったはずの地面も、壁面も、天井すらも、たいらに削られならされている。正面には分厚い樫で出来た扉が半開きになっており、開いた隙間からはやはり岩石を削って作られた部屋らしき光景が伺える。
 明らかな天然自然の洞穴を、人間が、自然の力と比べればまるで塵にも等しい人間が、人工的な空間へと作り替えていたのであった。

「驚いたか」

 気づけば背後から法眼の声。
 まるで闇のような男である。先程までは確かに自分とクロウしかいなかったはずなのに、心に這い寄る闇のように、気づけば背後に立っている。

「ここはな、古の先人達が作りし場所でな。石室というやつよ。古来より位の高い者の墓所などに使われる場所でな。中には即身仏となった僧がおられた。その姿があまりに見事で、それでいてどことなく哀れであったからな。身勝手とは思ったが、この場所を我が鞍馬八流が使わせて頂くために、手篤く埋葬させて頂いた。そんな次第よ」

 闇が語る。法眼が語る。
 その言葉にはここで朽ちた僧に対する敬意があった。少なくともその言葉には敬意を意味する単語が交ざっていた。
 しかし……少年は思う。本当にこの男は即身仏となった僧への敬意など抱いているのか? そもそもこの陰陽師は、修験者は、そんな殊勝な人間だったのか? あの、狂気に歪んだ表情を、闇で見えぬ今この時さえも浮かべているのではないのか?
 それはとても師に抱く思いに相応しきものではないのかも知れぬ。しかし、昨夜と、先程のあの狂気を垣間見てしまった今となっては…………

「今回行うのはな、紗那。今より一月に渡る闇行(あんぎょう)である。闇は、恐怖を司り、また、恐怖をさらけ出す。あまりにも長く真の暗闇の中にいるとな? 闇は人の心を蝕み、汚し、壊し、砕き、やがて殺してしまうのだ。闇の中では時間感覚も方向感覚も狂い、ありとあらゆる感覚を信ずることすら出来なくなる。目を見開いても何も見えず、見えぬと言うことに不安を感じ、心は幻覚を作り出す。やがて幻覚は幻聴を生みだし、幻聴は幻痛や幻触さえも発生させる。そうして、心が死んでゆく。自らの感覚を現実のものと受け入れることが出来ず、人は人として生きることを諦めてしまうからだ」

 ごくりと。生唾を飲み込む。
 一月。一月である。この石室の中に明かり一つ持たず入り、一月もの間この中で過ごさせるという。
 孤独であることには慣れている。一人であることも、耐え続けることにも。
 しかしならば、目を凝らしても何も見ることの出来ぬ真の暗闇の中、一月もの間ただただ生き抜くなどという経験は、今までに一度たりとも無かったのである。

 そこでふと、少年は気づいたことを法眼に問う。「食糧は一体どうすればよいのですか?」

「安心せい。飯を食わねば貴様も僧と同じく即身仏になってしまうであろうからな。もちろん用意してある。ただし、狂った時間感覚で暴食すれば、待っているのは飢え死にだ。また、一月もすれば飯は腐る。それでも食わねばなるまい。腐る前になるたけ食い、体力を残して最後の数日を耐え抜くか、腐った飯を食いつなぎながら一月を過ごすか。どちらでも良い。貴様が選べばよい。紗那」

 なるほど。それもまた試練であるのだ。
 そこで少年は、隣に侍る忠犬・クロウに目をやる。
 ここから先は奥義伝授のための闇行である。例え半身と言っても過言ではないクロウとて、連れて行くわけにもいくまい。
 愛おしそうにクロウの顔に頬を寄せる。頭を撫で、首筋を撫で、注げる限りの愛情を注ぐ。クロウもまた、少年の顔や頬を舐め、親愛の情を現していた。

「では法眼殿。クロウのことをお頼み申す」

 一月もの間クロウと離れるのは初めてだな。そんなことを思いながらの言葉に返ってきたのは、予想外の言葉である。即ち、「何を言っているのだ?」と。

「無論、クロウも連れて行くのだ。我が鞍馬八流の奥義である“禍津伏(マガツフセ)”の法の伝授には、クロウの存在が不可欠なのだからな」

 “禍津伏”の法。
 それがたった今初めて聞いた、自らに伝授される奥義の名であった。先程聞いた鬼堕人の法という名の呪法とはまた違う名である。

 果たしてそれは一体どういうものなのであろうか。
 禍津伏という言葉の、禍津とはまず間違いなく禍津日神(マガツイノカミ)に関するものであろう。
 禍津日神とは、黄泉より帰りしイザナギが、禊ぎを行い穢れを払った時に生まれ出でたとされる、災厄を司る神である。
 一説には不合理をもたらす悪神であると言われ、また一説には素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒魂であり、悪を悪だと断ずるための判断力を司る神であると言われている。

 禍津を伏せる。つまり、己の裡の穢れや悪を調伏し、何時如何なる時にも己を見失わぬ判断力を得るための行ということか? 己の受ける試練がどのような物なのか、少年なりに見当を付けて法眼を見やるが、洞穴の暗闇の中、この闇のような男の表情を見透かすことなど、出来うることではなかった。

 石室に取り付けられた樫の扉には、鋼で出来た閂(かんぬき)が取り付けられている。外側から閂をかけられれば、間違いなく少年の力では扉を開くことが出来ぬであろう。今より一ヶ月。この闇に閉ざされた石室の中で過ごすことになるのである。

 法眼のことだ。如何に暗黒の恐怖に負けた少年の気が狂い、泣き喚き叫び続けたとしても、決して石室の扉を開こうとはしまい。なぜならば、少年がそれを悟れるほどに、法眼が今まで少年に与えた試練は、一つ間違えば死に至りかねないほどの過酷なものだったからである。

 しかし、大丈夫だ。
 少年は思う。
 自分一人では暗闇の孤独に耐えることが出来ぬやもしれぬ。
 だが、自分には相棒がいる。子犬の頃より自らが育て、艱難辛苦を共にし、時には命を助け、または助けられ、半身とも言えるほどの付き合いとなった猟犬、クロウがいる。
 クロウと共にならばどんな試練にも乗り越えられる。それは既に少年にとって、自信ではなく確信であった。
 もしや、師は、鬼一法眼は、この禍津伏の法の伝授のために、少年にクロウを育てさせたのではないか。そんなことさえ、少年は考えていた。

 すると、法眼はおもむろに、背負っていた桐の大箱を地面へと下ろす。松明に照らされたその箱は、妙に瀟洒な宝飾で飾り立てられている。間違いなく、一流の職人の手によるものであることが、少年にも見て取れる。

「この箱の中に一月分の水と食糧を入れておいた。しかし、すぐに開けるでないぞ? それでは修行にならぬからな。合図を待つのだ。紗那よ」

「合図、とは?」

「今回の行は、半ば断食の行に近いものでもある。まずは三日三晩、五穀どころか水や肉すら断ち、その身を体内から清めねばならぬのだ。四日目の朝が来れば、外より鐘を鳴らす。鐘の音が聞こえてからでなければ、その箱を開けることは罷りならぬ」

 なるほど、と思う。さすがに奥義の伝授というだけのことはある。
 闇は心を責め立てる。飢えは躰を責め立てる。これは、人としての尊厳を極限まで責め立てる、危険極まりない試練であった。

「では行くがよい紗那よ。見事この闇行を乗り越えて見せよ」

 法眼の言葉に少年は強く頷くと、松明を法眼へと預け、ずしりと重い食糧箱を背中に背負い、クロウと共に石室の中へと入ってゆく。
 漆黒の闇の中、樫の扉の閂が下ろされる音が響く。
 もう、法眼が開けぬ限り、扉は決して、開かない。

 そして、扉の向こうから、法眼の声。
 歌うような、口ずさむような。読経とはまた違うこの拍子は、法眼がよく口にする真言(マントラ)である。

『臨める兵。闘う者。皆、陣裂れて。前に在る』

 九字護身法。九字切りとも呼ばれる呪術の一つであった。
 少年は、神仏や呪術に価値があるとは思えない。
 なぜなら神も仏も少年の人生において、何かを成してくれたわけではなく、呪術や呪法と言ったものが、本当に物事に影響を与えるとは思えぬからである。
 そして、鬼一法眼もまた、少年のその在り方を知っている。

 だからこそ思ったのだ。
 少年は、牛若は、紗那王は。
 この真言が、法眼なりの激励であると。そう思っていたのだ。

―――法眼殿。お心遣い感謝いたします。必ずやご期待に備えると、ここに誓いまする。

 そんな少年の有様を、愛犬クロウは、儚げに寄り添いながら見つめていた。
 まるで、今にも淡雪のように融けて消え去ってしまいそうな表情であった。






 闇である。
 目を開けど何も見えぬ、心まで押し潰されそうな漆黒である。
 灯りなどどこにもない。光すら何処にもない。この暗黒の石室に籠もり始めてすでに半刻。目はとうに闇に慣れているはずなのに、その目には何も映すことが出来ないでいた。

 少年は、何も見えぬ暗闇の中、心安らかに瞑想をし、時を過ごすことと決めていた。
 厳かに床に腰を下ろし、座禅を組み、真言(マントラ)を唱える。
 真言などと言えど、それはただの言葉である。言葉には何の力もない。噂に聞く化生共の妖術のように、火を付けることも出来ぬし、大岩を動かすことも出来ぬ。それはただの言葉であった。

 しかし、ただの言葉であるはずの真言は、他ならぬ鬼一法眼の手によって、少年の在り方そのものを変質させる恐るべし言葉となっていたのである。

 憎悪、であった。
 ひとつ真言を唱えれば、心に浮かぶのは憎悪の種子である。
 種子は即座に憎むべき怨敵、平清盛(たいらのきよもり)の相貌となり、やがて触手のように根を広げ、少年の心の裡へと広がってゆく。
 憎い。憎い。憎い。憎い。
 再び真言を唱えれば、清盛の表情が苦痛に歪む。少年の根幹を成す狂気の憎悪が、その精神世界において、清盛の鏡像を引き裂き、切り裂き、砕き、剔り、貫いているからである。

 心の裡で悶え苦しむのは、何も清盛ばかりではない。少年の原風景、命乞いをする母、力無く咽び泣く兄達、そして、何も出来ずにいた少年自身。
 それらがまた、憎悪の種子から花開き、おぞましき勢いで根を広げる。
 それもまた、三度唱えた真言により、剔り貫き砕き引き裂かれ、そして、悶えてゆく。
 それが、少年の瞑想である。
 少年は法眼の許での修行で、水面のように安らかな心のまま、あらゆるものを憎み尽くすという、異常極まりない精神状態を手に入れていた。

 天地自然と一体化し、花のような微笑を浮かべながら、幽鬼のようにおぞましき存在。それが、源義朝(みなもとのよしとも)の九男である、紗那王であった。

「くぅん」

 愛犬、クロウの声である。
 何も見えぬ闇の中、狂気の瞑想に浸る少年の頬を、いつの間にかクロウが舐めていたのである。
 まるで、零れ落ちるはずであった涙を、少年の代わりに拭き取ってくれたような仕草であった。

「こら、クロウ」

 他ならぬ愛犬によって瞑想を邪魔され、形ばかりの叱責をあたえた少年の顔に浮かぶのは、呆れたような苦笑である。

 どれほどこの世を憎んでも、どれほど人を憎んでも。
 この半身たるクロウを憎めたことは、一度もない。

 あらゆるものを憎んできた。憎むことこそが力となる。憎悪こそが人を殺す。有り余る憎しみが、己の本懐を達成させる。師である法眼のその言葉は、少年の根底を構成している。
 平家を憎んだ。武家を憎んだ。公家を憎んだ。源家を憎んだ。民を憎み、京を憎み、日ノ本を憎み、己すらも憎み尽くした。
 しかして、この精悍で、妙に愛嬌のある愛犬を前にすると、どうにも憎悪が霧散してしまうのである。

 よくないことだと、思う。
 憎悪こそが人を殺す。憎悪こそが本懐を成す。
 ならば、その憎悪を阻害するクロウの存在は、いずれ自身の障害となるのではないか、そんな思いすら、ある。
 しかし―――

「くぅぅぅん」

 心の裡の悲哀を見透かしたかのように、少年にその身を擦りつける愛犬の存在は、どうにも憎むことができぬのであった、

「仕方がないのかも知れないな。クロウ」

 漆黒の闇の中、はにかむような微笑みを浮かべ、ここ数年でたくましくなった愛犬に身を寄せると、少年はゆっくりと眠りについていた。
 その表情は、母・常磐と共にいた幼き頃のような安らぎに満ちていた。







 目を覚ました少年を襲ったのは、やはり漆黒の闇であった。
 どれほどの時間眠っていたのかも判断が付かない。何の変化もない、暗黒である。
 洞穴の外は昼間なのか、それともとうの昔に日は落ちて夜闇に包まれているのか、それすらも判別が付かぬ。

「これは、なかなかきついものだな……」

 誰に聞かせるわけでもない少年の独白である。
 鞍馬の山に来て以来、少年は常に雄大な自然と共にあった。
 美しき朝焼けに、力強き夕焼けに、降り注ぐような星空に。今覚えば、一体どれほど癒やされていたのかと思う。

 あの日あの時、清盛とまみえた時、優しき世界は死んだと思っていた。母と、兄達と、少年の、小さくも優しい世界は、あの日滅びを迎えたのだと。
 連れてこられた鞍馬寺では、少年はあらゆる者達に害され続けた。修練と称して殺されそうになったことも、一度や二度ではない。
 この世はとても残酷だと、少年が悟るには十分な苦痛である。少年の心は残酷な世界によって散々に打ちのめされていたのである。

 しかし、そこで鬼一法眼と出会った。

 強さのために人を棄てうることが出来るか。法眼はそう問うた。そして、少年は、牛若丸は、紗那王は、その問いに対して、静かに首を縦に振ったのである。
 きっと私は地獄に堕ちる。冥府魔道をさまよい歩き近づく者全てを闇に誘う悪鬼として生きることになる。そのような覚悟さえ、抱いたというのに。
 法眼と共に歩いた鞍馬の山は、そんな少年の心を容易く呑み込むほどに、雄大に在り続けたのである。

 古来より、山とは神の住まう場所であり、また、神そのものであるとさえ言われている。
 山は人間などかえりみない。幾多の生命を内包しながらも、ただそこに在り続けるだけである。
 自らの一部となった人間が、どれほどの憎悪を抱き、左道を歩む鬼であろうが、山は全てを受け入れる。
 美しいものも、醜いものも、山は全てを風景の一部として呑み込んでしまう。
 その雄大な鞍馬の山の風景に、一体如何ほど、少年の心は救われてきただろうか。

 しかし、変化と無変化に満ち溢れたこの鞍馬の山にも、ひとたび腑(はらわた)へと踏み入れば、そこには狂気を誘う暗黒が潜んでいる。
 その暗黒に、早くも少年の心は、恐怖を感じ始めていたのである。
 まるで、巨大な山岳に丸飲みにされたかのような錯覚。食糧もある。友もいる。それでも闇は、ひたひたと少年を浸食する。

 この生活を、一ヶ月。
 何処までも暗く、何処までも渇いた石室で、一ヶ月もの時を過ごす。
 果たして自分は、正気を保っていられるのか。ひたひたと這い寄る不安が、闇のように少年の心を覆い尽くそうとする。

「負けられぬ、な……」

 声に出して呟く。闇と静寂に慣れた中で発した声は、石室内を反射し、激しく少年の耳朶を打つ。ただ呟いたはずの声ですら、這い寄る恐怖によって増幅され、考えていたよりも大きな声音になっていたのであった。
 何かが動く気配がある。他ならぬ愛犬、クロウである。
 忠実なる猟犬は、主人の心の不安を読み取ると、顔色一つ見えぬ闇の中で、少年の膝に擦り寄ってきていたのであった。

「くぉぅん」

 明らかに少年をいたわる鳴き声。鼻先を優しく少年へと擦りつける。
 それだけである。
 しかしながら。
 ただそれだけの行為に、暗黒の恐怖に襲われていた少年は、一体どれほど、救われたであろうか。

「そうだな。負けられぬな。クロウ」

 再び呟いた声は、恐怖ではなく、暖かい慈愛に満ちていた。






 鞍馬の山に、鐘の音が響き渡る。
 荘厳な鐘の音である。山の静寂を、重く厳かな鐘の音色が掻き消し、そして新たな静寂を生んでゆく。
 その鐘の音は、石室に篭もっている少年の耳にも届いていた。

「三日三晩、経ったと言うことか……」

 少年は酷く衰弱していた。
 極度の空腹による栄養失調に、脱水症状。師の言いつけを守り、食糧の入った桐の箱を開けずに瞑想し続けていた結果である。
 猟犬であるクロウも、三日三晩の断食に、どことなく弱々しい様子を見せる。
 しかし、これからだ。師に言い渡された断食の行は終わり、ここから先は食事が許される。
 一月に渡り、飢えて死なぬようにクロウと食糧を分配し、計画を立てて食わねばならない。空腹に負け多量の食事を摂れば、恐らく食糧は最後まで保つまい。

―――ならばまずは、一口だけ、水を飲もう。それからだ。それから本当の試練は始まるのだ。

 そして、少年は桐の箱を開き、慎重に手を入れ、そして、中にあった物に触れた。そう、触れてしまった。

 結論から言うと、そこにあったのは、食糧でも何でもなく。

 触れただけで皮膚を切り裂きかねないほどに鋭く研ぎ澄まされた。

 ナタのように巨大な、一本の包丁であった。




[25761] 人物紹介。
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/05/29 02:24
戦国時代に比べて源平合戦はマイナーなため、登場人物紹介を入れておきます。



シヅカ=夜叉

本作の主役。魔改造キャラその壱。黒髪ポニーテール(笑)。
剣豪物を書きたいと思ったら何故か抜擢された人。
後の静御前(予定)。静御前は源義経の嫁さんだと思っておけば大体あってる。



鬼若=大鬼殿

本作のメインヒロイン(爆)。魔改造キャラその弐、と言いたいところだが彼の伝説そのものがもうこんな感じだったりもする。
後の武蔵坊弁慶。源義経の第一の家来で忠義の人である。



紗那王=源義経(みなもとのよしつね)

云わずと知れた有名人。魔改造されすぎたキャラ。歴史において奇襲に関しては天下一品の人だったので、その方面に改造したらやりすぎてしまった人。
史実といい色々と不幸な人である。



平知盛(たいらのとももり)

平清盛の四男。彼が平家を継いでいれば義経は勝てなかったのではないかというほどに高評価な人。後に源平合戦で無能なトップに苦しむ可哀想な人である。



平教経(たいらののりつね)

知盛のいとこ。魔改造キャラその四。
前述の人達と違う個性を出そうとしたらなぜかこんなのに。戦争狂。台詞の少ない本作において色々と喋る人。
歴史では源義経の良きライバルとして活躍する、色々と格好いい伝説を持っている人。某所では能登どのとか呼ばれている(笑)。



大塚左門義家(おおつかさもんよしいえ)

第壱話のみ登場のオリキャラ。静御前の鮮烈デビューのために散ってもらった人。
格好いいってこういうことさ!を目指して描かれたオジサマである。



平清盛(たいらのきよもり)

平家の繁栄を築いた大人物。平家版の信長とかそんな感じのイメージを持ってくれれば問題ないかも。



平宗盛(たいらのむねもり)

無能として有名な平家次期当主。本作でもそんな扱い。
彼が平家を継いだばっかりに……。
実は家族思いとして知られている。



源義朝(みなもとのよしとも)

義経の父親。本作開始前に清盛に戦で負け死亡した人。
名前だけはちょくちょく出る人。



母=常磐御前

義経の母親。ちょくちょくと登場予定。
本作にてなぜかナウ○カっぽいモノローグが使われてしまった人。
宮崎駿先生大好きです。



源為朝(みなもとのためとも)

義経の叔父。色々と伝説を残した凄い人。日本で初めて切腹で自害した人らしい。



鬼一法眼(きいちほうげん)

陰陽師。義経の戦術のお師匠様らしい。
愛娘を義経に寝取られて大切にしていた巻物を奪われたとかの悲しい伝説がある少し可哀想な人。


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