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[25741] 人妖都市・海鳴 (リリなの×あやかしびと×東出祐一郎) 弾丸執事編、開始
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2012/08/03 18:44
ども、散々雨と申します。
これはpropeller作品【あやかしびと×Bullet Butlers×クロノベルト×エヴォリミット】と【魔法少女リリカルなのは】のクロスです。
主人公は特にいません。
世界設定は色々と変です。
【リリカルの世界】と【あやかしびとのキャラ】のクロス、ではなく、


【あやかしびとの世界】に【リリカルキャラ】がいる、という感じです。


ですので、

キャラの性格と性能がおかしい
キャラの周囲が色々とおかしい
キャラの平均年齢が高い

という感じです。
最悪、リリなのでも、あやかしびとでもない、という危険性もあります。



人妖編・完結しました
人造編・完結しました






[25741] 序章『人妖都市・海鳴』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/02/16 23:29
「――――ふむ、今……なんと言いました?」
ヨレヨレのスーツにヨレヨレのワイシャツ。ぼさぼさの髪はある程度失礼に値しない位に整えているが、ある程度という値は彼の中だけであり、初対面の人物が見れば確実にこう言うであろう―――お前、やる気あんの?と。
そんな服装をしていながらも、男はこの神沢学園の立派な教師の一人なのだ。
例え、ギャンブル狂だとしても。
例え、万年平教師だとしても。
例え、最強なんて恥ずかしい肩書をもっていたとしても。
この男は一応、教師なのだ。
しかし、そんな教師である男は実に面倒そうに頭を掻き、それから今度は耳を穿りながら、
「俺……いや、私の耳が間違ってなければ、ですが」
もの凄く嫌そうな顔をする。
「転勤、という事ですかな?」
「そういう事だよ、加藤先生」
「嘘でしょ?」
「いやいや、本当だよ」
そう言ってぶよぶよな触り心地が良さそうな腹をした神沢学園の校長は言った。
「私は一応は人妖なんですがね」
「私だってそうだよ」
「人妖が外出ちゃ駄目でしょ?」
「最近は申請さえきちんとしておれば問題は無いんだよ」
そう言われれば確かにそうだと想った。

人妖―――正式呼称は【後天的全身性特殊遺伝多種変性症―ASSHS〈アシュス〉―】

通称【人妖病】と呼ばれる遺伝性とされる原因不明の奇病に罹患した人々を総称する言葉である。そして、人妖病になった者が送られる楽園にして監獄、普通というカテゴリから外された人々が迎えられる砦である都市が、この神沢と呼ばれた土地である。
この街に入った人妖達に自由はある。しかし、それはこの街の中の自由という意味。自由の反対は拘束であり隔離。それがどういうわけか同じ意味を持っている。
反対でもなく同意でもない。
一度入ったら余程の事がない限り、人妖達はこの街を出る事が出来ない。絶対に不可能ではないが、可能という領域か。
可能とは、決して安易という意味ではない事は誰にでもわかる。故に人妖は殆どこの街を出る事は無い。しかし、出ないからこそ安全であり、出ないからこその安住の地なのだろう。
そんな神沢という街は、この下手をすればこの世界で唯一、人妖が人妖になる前と【似た】生活を送れる場所として確立され、隔離される場所だった―――そう、かつては。
「君は【海鳴】という街を知っているかね?」
「……まぁ、人並みには」
かつては一つだった人妖都市は気づけばもう一つ増えていた。
此処、神沢が地方都市として存在するように、もう一つの人妖都市もまた地方都市(もっとも、この街よりは近代化は進んでいるらしい)として存在する。
「行った事は?」
「ありませんね」
「それじゃ行ってくれ」
「なんで私が?」
「君、暇だろ」
「暇は暇ですが……私じゃなくてもいいでしょう?」
正直、面倒でしょうがないというのが本音なのだが、
「君でないと駄目だね」
「どうして?」
「君が教師だからさ」
「理由になってませんね」
しかし、こうは言ってもこの時点で彼は覚悟を決めていた。
覚悟と言っても諦め、そして受け入れて、事情に流されると言う選択肢を選んだだけに過ぎない。
内心、これにはあの鴉少年が関わっているのだろう。なら、自分がどうこう言ってもどうにもならないと半分諦め、半分覚悟を決める。
「というわけで、君がこれから向かって貰う学校だが……」
「人の話、聞いてませんね」
校長が差し出した辞令に記されていた場所。それを見た瞬間に彼の顔は酷く疲れた顔をしたらしい。
「…………校長。これは何の冗談ですか?」
「冗談に見えるかい?」
「私は高校教師です」
「教員免許を持っている事にはかわらんさ」
「いや、変わるでしょ。だって、此処―――」
流石にこれは無いだろうといった顔で、加藤虎太郎は書類に記された文字を指差す。



「小学校じゃないですか……」



「―――――と、いうわけで海鳴に行く事になった」
「急ですね……」
「だから今晩にも発たんと行けないんだがな」
「だったら今すぐ発ってくださいよ」
「ふむ、それもそうだな」
加藤虎太郎は校長からの急な異動辞令を受けて数時間後、出発の準備もまったくせずに、かつての教え子である如月双七の家にいた。
「まぁ、あれだ。しばらくお前等とも顔を会わせられないからな。こうして久々に顔を見に来たんだが……」
「虎太郎先生が家に来るのなんて毎日じゃないですか」
「そうだったか?」
「主に給料日が近付くと、ね」
「そうだったか?」
「おかげで何故か家の家計簿には家族ではない、他人の分が存在しますね」
「そうだったか?」
双七、そして虎太郎は向かい会う。間に卓袱台、上にはお茶。そしてそんな男二人を見つめる仲睦まじい母子。
「ねぇ、かかさま」
如月双七の息子、如月愁厳は母親に尋ねる。
「こたろうとおじさまと、ととさまは喧嘩してるの?」
子供の眼にはそう見えたらしい。しかし、それも強ち間違ってはいない。母親である如月刀子は優しい微笑みで我が子に語りかける。
「喧嘩はしていませんよ」
「ほんとうに?」
「えぇ、本当です」
少なくとも、今はまだ―――と、刀子は愁厳に聞こえない小さな声で呟いた。
「さ、お風呂に入りましょう」
「はいッ!!」
騒ぎが起こる前に母は息子と共に逃亡。残された居間には一家の大黒柱とその教師だった男。
「…………」
いや、もう一人いた。正確に言えば一人ではなく一匹。子狐というには些か大きい気もするし、大人の狐というにはまだ未熟、そんな雰囲気を醸し出した狐が今の座布団の上に寝ていた。
呑気にすやすやと眠りこけている狐。名前は狐ではなく、すずというのだが―――ここで語る必要はまったくない。
例え、この狐が毎日の様に愁厳に会いにくるお姑みたいな存在になっている万年ロリ狐だとか、そろそろ働けよと双七に言われてるとか、級友であるロシア娘と毎日夜遅くまで飲んで唄ってゲロ吐いて双七の家の前で倒れているとか、そういう事はまったく関係ない。
この場で関係あるとすれば、虎太郎が双七を真剣な表情で見据え、双七がソレに対して確固たる意志を持って迎え撃つ構えがあると言う事だけ。
「――――如月」
「――――虎太郎先生」
男達は視線をぶつけ合う。
虎太郎が懐に手を入れ、双七がカッと目を見開く。
そして、虎太郎の懐から飛び出したソレ。ソレを虎太郎は双七に見せつけ、双七は顔を反らせる。
見たらいけない。
アレを見ては、何時もの同じパターンの繰り返しだ。
しかし、悲しいかな―――この場の力関係は学生時代と何も変わらない。双七が目を反らした瞬間、それを狙っていたかのような速度で虎太郎は回り込み、
「これが……今の俺の現状だ」
無駄にダンディな声で呟いた。
見てしまった。
そう、双七は見てしまったのだ。
自分の倍は生きて社会経験豊富な人間の、手合わせすれば未だに勝てない人間の、この街では最強という称号を得ている人間の、これから転勤だという教師という人間の、加藤虎太郎という人間の―――財布の中身。
「また……スったんですか」
空っぽだった。
「あぁ、また……スッたんだ」
見事に空っぽだった。
「なんで、こんな時に……」
「この街ともしばらくお別れと思ったら……最後くらいは勝たせて貰えると思って……今月分の給料を……一点買いした」
「あ、あれほど……あれほどギャンブルはしないって……しないって約束したじゃないですか!!」
「如月。男には、戦わなくてはいけない時があるんだ。それが例え、一点買いした瞬間に我に返ったとしても、だ」
「それ、完全に手遅れじゃないの……」
何時の間に起きたのか、欠伸をしながら突っ込む狐。
さて、加藤虎太郎がこうして如月家の晩餐に訪れたのは他でもない。これから転勤だというのに給料を競馬で全て失い、引っ越し代はもちろん、海鳴まで移動する為の交通費すら失っていた。
「あの、俺が言うのもなんなんですが……虎太郎先生は、そんな生き方で良いんですか?」
「まさかお前にそんな事を言われるとは思ってもなかった」
「俺も恩師にこんな事を言葉を贈るとは思ってもなかったですよ」
「成長したな、如月」
「落ちぶれましたね、虎太郎先生」
加藤虎太郎、神沢市最後の夜は教え子だった男と大乱闘という出来事で幕を閉じた。



ちなみに、金は借りれなかったらしい。






「――――そ、それで……歩いて来たんですか?」
「応、意外となんとかなるもんだ」
煙草を加えながら歩く虎太郎の隣を歩くのは、これから同じ職場で働く女教師だった。
「神沢から此処までどれくらいか知ってます?」
「知ってたら心が折れそうだったからな。とりあえず地図だけ見て、距離は見ない事にしたんだ」
スーツを肩にかけ、汗一つ掻かない虎太郎を女教師は驚きを通り越し呆れ顔だった。
「並の教師ではないと聞きましたが、まさか此処までとは」
「並の教師がこんな場所に来ますか?」
「…………来ない、でしょうね」
虎太郎、女教師は同時に上を見据える。
高い高い壁。世界を二つに分けるような巨大な壁がそこにはあった。
「アンタ、神沢の壁を見た事は?」
「ありません。逆に尋ねますが……」
「俺もこの街の壁は初めて見るな」
神沢の壁よりも良い材質だ、虎太郎は皮肉な笑みを浮かべる。
「お偉い人が考える事は大抵は似たり寄ったりだが、まさか神沢と同じ事を考える輩がいるとはね……正直、驚きよりも感心するよ」
「人妖を集める、という事がですか?」
「そういう事でもあるし、そういう事でもないな……まぁ、どうでもいい事だが」
海鳴の街をぐるっと囲むように建てられている巨大な壁は、神沢にあったソレと酷似している。当然、似ているのは光景。物や風景だけでなく、人もだった。
プラカードを掲げた犠牲者、悲痛な顔を浮かべる犠牲者、憎悪の言葉を吐き出す犠牲者。様々な人々が怒り、憎しみ、そして蔑んでいる。
「此処も変わらんな」
人妖は病気だ。感染した者もその周囲にいた者すらも不幸にする病気。同時にそれは人と人との関係すら腐らせる死の病となった。
第二次世界大戦後に初めて発病を確認されて数十年、人妖は人にとって何よりも脅威となる存在となっていた。人でありながら人ではあり得ない力を持ち、人でありながら人を殺す怪物、それが人妖と呼ばれる所以なのだろう。
「人とて、変わりはなかろうに……」
感情を表に出さす、虎太郎は煙草を加える。
「やはり、そうなんですね」
女教師は力ない笑みを作る。
「人妖は何処でも同じ様な扱い……同じ人なのに、どうしてなんですかね」
「同じ人だからこそ、だろうな」
煙草の煙が空に昇る。しかし、それはこの高い壁すら超えられず、霧散する。
「全ての人妖が悪いわけじゃない。しかし、ごく一部の人妖が悪いわけでもない。人も人妖も変わらんさ。人を傷つけ陥れ、そして殺して嬲ってゴミの様に扱う様な輩はごまんといるだろうよ」
人は人であるが故に悪がある。
だが、人妖は人妖であるが故に悪と罵られる。
「まぁ、慣れろとは言わんが……あまり重く考えるな」
そんな虎太郎の言葉は女教師にはどう届いたのだろう。
少なくとも、先程から虎太郎の眼に映る、疲れた、苦しい、辛いという気持ちを一つにまとめ、それに縋りつかれているという表情だけは消えなかった。
「海鳴だけが特別というわけじゃないんですね」
「特別なんぞないさ。特別を求めたら、教師なんてやってられんよ」
何かを諦める様な言葉。
女教師は何となく想っていた。
新しい教師が来る―――その言葉を聞いた瞬間、職場の同僚は全員が同じ事を想っただろう。

あぁ、今度はどれくらいで出ていくのだろうか……

第二の人妖都市である海鳴にだって学校があり、生徒がおり教師がいる。だが、教師は必ずしもこの街の者というわけではない。中には外の街から来る教師もいる。その教師が人妖なのか人間なのかは問題ではない。
どちらも似た様な存在なのだ、この街にとって。
仮に人であるならば、人妖という外の世界での化物を前にして普通な態度は出来ない。出来たとしても最初だけ、すぐに潰れる。潰れてすぐにこの街を出ていくのだろう。そして、人間ではなく人妖だとしても問題は変わらない。
人の世界から追い出された者が、何を教えられるというのだろうか。
人の命は尊いのだ―――なら、自分達の命は人として見られないのだろうか?
人の意思は大切だ―――なら、自分達の意思は人の意思ではなく、化物の意思なのだろうか?
人と人は手を取り合うべきだ―――なら、どうして自分達の手は振り払われるのだろうか?
外で迫害を受けた者が教える言葉は、どれもこれもが絶望に満ちている。だから外から来る教師は駄目だった。故にこの街の教師の殆どは海鳴で生まれ、海鳴で育ち、海鳴で教師になった者だけ。
女教師も、心の中で諦めている。
どうせ、アナタも数日でこの街から消えるのでしょう―――と。
ゲートが開く。
巨大な壁の向こうに見える街を見て、

「――――――綺麗な海だ」

虎太郎はそう呟いた。
キラキラと光る海を見据え、虎太郎は歩きだす。
迷いすらなく、止まる事すら考えない様に。
だから女教師は驚いた。
今まで見て来た教師達には感じられない、瞳に宿る強さというもの。
この状況を望むところとしているかのような、そんな眼だった。
「…………」
「ん、どうした?」
「あ、いえ……なんだか、楽しんでいる様に見えましたから」
楽しむ、という言葉に虎太郎は首を傾げる。
自分は何かを楽しみに此処に来ているのだろうかと考え、首を横に振る。
別に悲観した笑みを作ったわけじゃない。別に侮蔑する様な笑みを作ったわけじゃない。当然、逆境が楽しみだというわけでもない。
「初めてだからな」
「初めて?」
壁に囲まれた街の風景が綺麗だと思ったのも事実。そして、視界に宿った光景を見た人々が憎悪の言葉を吐き出すのも事実。
そんな人々を虎太郎は振り向きもせず、背中越しに指差す。
「ああいう輩はどんな場所にもいる。当然、それが同じ人であろうと人妖であるともだ。そんな輩が居る世界に生まれたガキ共をどうにかするのが俺の仕事だ」
憎悪の言葉を受け、倒れる者もいる。
憎悪の想いを受け、反発する者もいる。
憎悪に答え、憎悪で返す者もいるだろう。
世界は誰かにでも優しい作りではない。少なくとも、人と人妖を並べて人を優先する程度には優しいかもしれない。しかし、当然ながら人妖には優しい世界ではない。
この壁の向こう、ゲートの向こうがそんな人妖達が暮らせる唯一優しい世界。
故に想う。
故に想わされる。
「この世界だけ、この街だけが自分達の唯一の場所だってな……」
それは事実だろう。
「だが、それだけが可能性だなんて想わせるのは面白くない」
希望を持てとは言わない。だが、希望に縋るべきではない。
「生徒には真っ直ぐ世界を見据える力を持たせるべきだ。そして、それがでかくなった時にどう転ぶかを選ばせたい。ただ転んで大怪我するか、しっかりと受身をとって起き上がって行動するか……それを選ばせる何を俺達は教えるべきだろうな」
歩く。
教師は歩く。
「そんな事が、可能なんでしょうか……」
女教師は言う。しかし、教師は脚を止めない。
「なぁに、出来るさ」
脚と止めず、肩にかけたスーツに袖を通す。
ヨレヨレのスーツにしか見えないのに、ヨレヨレのワイシャツにしか見えないのに、キチンとした髪型なわけでもない、威厳もない、何も無さそうな、そんな男の後ろ姿。
それがどういうわけか、



「狙うは何時だって大穴だ……俺は、こっちの賭けに負けた事は無いんでね」



女教師が見て来た教師の中で――――誰よりも教師に見えた。





加藤虎太郎、次なる勤務地は私立聖祥大附属小学校――――彼が言う様に、初めての小学校勤務だった。










次回「人妖先生と月村という少女」



[25741] 【人妖編・第一話】『人妖先生と月村という少女(前編)』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/02/08 11:53
人妖隔離都市―――海鳴。

そこには一部の人間と多くの人妖が住んでいる。
国が新たに作りだした―――この場合は指定した第二の人妖都市だが、その都市を管理するのは当然国だろう。だが、国が全てを管理しているわけではない。むしろ、国はあくまで管理であり監視だ。
そこには支配という言葉は似合わないだろう。
支配―――民主主義を語る国においてはもっともあってはいけない言葉だ。しかし、多かれ少なかれ存在する事には代わりはない。
故にこの街、海鳴にも支配という言葉は存在し、生き続けている。
海鳴の街に存在する【支配者】は大きくわけて二つ。

一つは【人】

一つは【妖】

この二つが支配者となり、【人妖】を支配する。
人妖を支配する一つが人というのは些か疑問は残る。当然、それで良いのかという疑問は国からも上げられる。しかし、その疑問を握りつぶし、実際の結果を出しているのが人の領域であった。
人が支配する領域は街。
主には都市の発展や街の外との外交。鎖国状態の日本と変わらない海鳴において、人が動かす富は在らなければいけないライフラインとなる。
結果、人は街を支配する。

その人の支配者の名を―――バニングスという。

そしてもう一つ。
人が支配するのが街であるのならば、妖は何を支配するのか。
妖が支配するのは―――力。
人の力、妖の力、人妖の力。【三つ】の種族が存在この街で力を均等に、何か一つが突出しない様に支配するのが妖の役目。
現在、日本にはドミニオンという組織がある。この組織は主に【第三種】と言われる人妖を捕獲、駆逐、殲滅する事を仕事とする。故に人妖にとってはもっとも忌むべき存在であり、唯一の外敵といっても過言ではないだろう。
しかし、そんな組織ですらこの街には手出しは出来ない。そういう取決めが行われているからだ。この街の力を支配する一族との協定であり、ドミニオンの上にいる【妖怪】との協定。
人と人ではない。
妖と妖怪との協定。
それを知る者は少ない。
結果として、この海鳴は平和だ。
神沢という街が出来て数年は中々の賑わいだったが、神沢という前例であり悪例がある故に海鳴が人妖隔離都市となった時には大した騒ぎは起こらなかった。
正確に言えば、騒ぎなど起こさせなかった、が正しいのだろう。
起こさせない程の力を持った存在が、この街にはいた。

それを知らず、一人の男が海鳴へ訪れる。

人の妖と人妖が重なる不可思議な街、そんな街にある私立聖祥大附属小学校。見た目は何気ない小学校であり、その中身は何気ないわけがない場所に、一人の人妖が現れた。
生別は男、年齢はもうすぐ初老を迎えるであろうオジサンといった感じだった。少なくとも、教室に入ってきた教師を見た生徒の感想はそれだった。
ある者は興味を抱き、ある者は無関心で、ある者は敵意を、ある者は諦めを、ある者は素直な歓迎を―――様々な視線と想いを背中に受けながら、白のチョークで自身の名を黒板に記す。
「さて、今日からお前等……じゃなくって、君達の先生になった加藤虎太郎だ」
教室をぐるりと見回し、出来るだけ笑顔でそう言った。だが、どうも反応が芳しくない。というよりは、歓迎されていないという方が正しいのかもしれない。
「この街に来て一週間も経ってないから、海鳴の事は良くわからないから色々と教えてくれ。代わりに俺は君達に色々な事を教えよう」
歓迎されていない理由。それは今言った言葉一つでしっかりと確認できた。
このクラスの内の半分以上――いや、九割が同じような反応をした。
自分は【外】から来た。
虎太郎は内心で溜息を吐く。
外からの来訪者は歓迎されない。それはなんとなくは理由としてわかる。しかし、虎太郎は解せないと感じだ。否、解せないというよりは不信感に近いかもしれない。
ゲートを虎太郎と共にくぐった女教師がフォローするように子供達に虎太郎の事を紹介するが、やはり芳しくない。
それも当然だろう。
念の為、スーツは新調してきた。当然シャツも新しい。昨日の内に紳士服のコーナーに行って一番安い新社会人用コーナーに行って買ってきた新品だ―――当然、新社会人に見えない初老っぽい男への従業員の視線は厳しかった。そして何より、虎太郎が一日三箱は吸う煙草を今日は一度も口にしていない。
完璧なはずだ。
少なくとも、子供受けはしなくとも嫌われる様な要素はまるでないはずだ。
しかし歓迎はされない。歓迎されないという当然を知り、虎太郎は素直に溜息を吐く事にした。
やれやれ、まさか【子供から】こんな視線を受けるとはね。
人通りの自己紹介を終え、最初の出席を取る事になった。
「それじゃ、自己紹介がてら元気良く挨拶するように」
と言ってはみたが反応は微妙だ。名前を読んでも小さな声で「はい」というなんとも消極的な反応をされては肩すかしだ。
中には、
「アリサ・バニングス」
静寂。
「アリサ・バニングス、居ないのか?」
静寂。
女教師、生徒達がある一点を見つめる。そこにはこの日本人らしくない、金色の髪をした少女がつまらなそうに窓の外を見ていた。
予め生徒の名前、顔は頭に入っている。それでも朝の出席は取らなければならない。例え、居る筈の生徒が居ない様に振るまっていてもだ。
虎太郎は教壇から歩み寄り、アリサ・バニングスの席に近づき―――ポンッと出席簿で頭を軽く叩く。
「――――――ッ!!」
これはアリサの反応ではない。
これは周囲の反応だ。まるで自分がしてはいけない事をしてしまった、それが何なのか誰も教えてくれない、そんな居心地の悪さを感じた。
「一応、返事はしてくれると助かるんだが……」
アリサはゆっくりと視線を外から虎太郎へ向ける。
「外、何かあるのか?」
「…………」
呆、と虎太郎は自分を見つめるアリサの視線を受け、とりあえず笑ってみた。
「―――――さい」
ポツリ、とアリサは言った。
「煙草臭い」
「…………臭い、か?」
アリサは頷く。
自分では自覚は無い。念の為に女教師にも匂わないか確かめて貰ったが問題は無し。
「そうか、煙草臭いか……バニングスは鼻が良いんだな」
「…………」
誉めたつもりだが、どうも不評らしい。アリサは興味を失くした様に虎太郎から視線を外し、外を見つめる。どうやらこれ以上は会話をする気は無いらしいと感じた虎太郎は諦め、教壇に戻る。
そこからは多少は素直に出席確認は進んだ。特に虎太郎に好印象を与えたのは、高町なのはという少女だった。他の生徒がどうも元気が足りない感じがしたが、高町なのはだけは元気いっぱいに、言ってもいないのに手を上げる始末だ。
どうやら、生徒全員に歓迎されていないわけではないらしい。それに少しだけ安堵し、最後まで出席を確認し終えた―――と、思った。
「――――ん?」
このクラスの出席番号は名前の順になっている。だから、最後に確認した渡辺という少年が最後のはずだった。しかし、どういうわけか出席簿には『わ』の次に『つ』があった。
本来なら高町なのはの次にくるはずの名前。
はて、この出席簿に間違いがあるのか、そう思いながら虎太郎は口にする。
「ふむ、どうやら先生が飛ばしてしまったらしいな……」
何気なく口にする。
その名前が意味する事を知らず、あっさりと口にする。
「月村すずか」
教室の空気が微かに引き締まる。
生徒も、教師も、そして不審に思いながら虎太郎は視線を出席簿から教室へ。
唯一の空席。
出席簿に張られた写真。
あるべきはずの場所に居ない少女。居ないはずなのに存在を許された少女。
海鳴の街において、街を支配する人のバニングスと並び、力を支配する一族がいる。
その一族は古くから海鳴の街に住み。そして人妖病が世間に広まる前、【人妖病が発病する前】から海鳴にその一族の名前があった。
夜の一族と言われ、人でも人妖でもない。
正真正銘の【妖‐アヤカシ‐】

その一族の名を――――月村という







【人妖編・第一話】『人妖先生と月村という少女(前編)』







ゆっくりとした時間が流れる。
静かな時間、空虚な時間、その二つは同じ事だと思っている。何故なら、そこには一人だけしかいない。一人だけなら静かな上に空っぽだからだ。
だが寂しいとは思わない。
現は虚。
虚しいだけ、虚しいだけ、何かを望む事すら虚しいだけ。
だとすれば、自分は本当は寂しいのだろうかという疑問にたどり着き、そして思考を停止する。
現から虚へ。
視界に写すは世界ではなく文字の羅列。
本という媒体に意識を戻す。世界という現実は意識を戻すべき場所ではない。本が現実、世界が虚実、少なくとも本の世界には必ずハッピーエンドが待っている。
悲しい終わりは無い。
虚しい終わりも無い。
終わりは終わり、始まりは始まり、全てが最初から決まり切っている予定調和。だからこそ安心する事が出来るのだろう。現実は筋書きが無い駄作に近い。一分先の未来すら想像できず、想像しても裏切られる。
そして、どれだけ頑張っても楽しい、幸福な結末なんて存在しない。仮に幸福が待っていても、その後に来るのは不幸かもしれない。ハッピーエンドではない。ハッピーエンドレスでもない。エンドすら、無いではないか。
それが、堪らなく苦痛だった。
世界はこんなにもつまらない。
つまらないから孤独になる。
孤独だから逃げられる。
逃げた先は一つだけ。
現実逃避。
現実は存在しない現。
虚実の世界こそが本当。

月村すずかにとって、世界は敵なのだろう。もしくは、世界にとって、なのかもしれない。

授業と称して子供達を教室に監禁しているであろう時間に、すずかは一人で図書室にいた。時間が時間なだけに誰も居ない。居る筈の司書すらいない。彼女が図書室を訪れたのは最初の授業ベルが鳴って数十分が過ぎた辺り。普通なら遅刻とされる時間だろう。だが、すずかにはそんな遅刻魔というレッテルは貼られていない。
そもそも、遅刻すらしていない。
そもそも、授業に参加すらしていない。
そもそも、クラスにすら行っていない。
そもそも、月村の名を持つ自分が――人妖と慣れ合う事なんて出来はしない。
ページを捲る。
読んでいる物語は童話。
何度も何度も読み返した大好きな童話。
この中には一人の少女がいる。その少女には人間ではない仲間がいる。だから少女は一人じゃない。孤独じゃない。自分の様に、孤独である事はなかった。
クスリと小さな苦笑を作る。
あぁ、なんて幸せな物語なのだろう。すずかはこの物語を読み返すたびにそう想う。この中の少女を自分と投影させ、物語の中に入り込む。物語の中こそが現実、現実こそが虚実。だから自分は在るべき場所にいない。そうだ、この世界は自分がいるべき場所じゃないんだ―――なんて戯言を何度も何度も考え、その度に自分が嫌になる。
苦笑、苦笑、苦笑すら悲しい。
わかっている。
これが現実だという事は、嫌という程わかっているつもりだ。
自分は人じゃない。
自分は人妖じゃない。

自分は、正真正銘の化物。

月村、夜の一族は人妖病が初めて発病される前から存在している。つまり、人妖の前から存在する妖という事になる。
その事を聞かされた時、すずかは良く理解できなかった。
自分は人妖だ。
みんなと同じ人妖なんだ。
幼いすずかはそう思っていた。
それが、彼女にとっての救いだったからだ。
幼いながらに自分が他人とは違う事は理解していた。それを教えたのも月村という家。それを受け入れるのも月村という家に生まれた者の宿命。それが幼いながらに辛いと想った事はあった。だが、海鳴が人妖都市となった時、すずかは内心喜んでいた。
あぁ、これで自分は【普通】に生きていけるんだ、と。
この身体に流れている血は人には無い血。だが、世間ではそんな人間達が次々と生まれ、疎まれている。そんな人間達を隔離という言葉で守る為に、海鳴は生まれ変わった。なら、この街に来る人々はきっと自分と同じ様な人々なのだろう。
それが嬉しかった。
嬉しくて、嬉しくて―――――それが絶望という毒になるとは思ってもみなかった。
「月村の者は人じゃない。同時に人妖でもない」
それがすずかの聞いた、理解したくない言葉。
「生まれながらの妖。太古から存在する人でない人間、人を超えた人間、それが私達……だからね、すずか」
理解なんか出来ない。
「私達は……違うのよ」
理解を拒否する。
「この街に住む人間とは違う。この街に来る人妖とも違う」
拒否する事で最後の抵抗を示す。
「私達は――――正真正銘の化物なのよ」
姉はそう語った。
姉は他人を信用しない。
他人に心を開かない。
他人には人妖を含めた全ての人。
それ故に姉には親しい者は居ない。家族だけが姉の大切な者、家族だけが姉を見捨てない者、一族全ての中で、家族だけが唯一の心支え。
それを知っているからこそ、すずかは頷いた。
否定したいという想いにふたをして、月村の名を噛みしめる。だが、それでも憧れは捨てきれない。自分は姉の言うような化物かもしれない。だが、この街に住む人々だって普通じゃない。なら、自分を受け入れてくれるかもしれない。
そうすれば、姉だって少しは他人を信じる事が出来るかもしれない。
絶望という毒は、こうやって彼女の身体と心を蝕んでいく。

月村、その名が持つ重みを彼女は知らない。

月村、その名を聞いた者がどういう反応を示すのか、誰も知らない。

月村、その名こそが人々にとって禁忌の証。

彼女は拒絶され拒絶する。
人を拒絶し、人妖を拒絶し、一族だけが心を許せる唯一の存在。
そう割り切る事にした。
十にも満たない少女が、そう割り切ってしまったのだ。
月村すずかは孤独に時間を過ごす。
始業のチャイムを聞きながら、クラスにすら戻らず読書にふける。終業のチャイムを聞きながら、クラスに戻る事すらなくページを捲る。
昼休みを告げるチャイム。図書室には人が来るので人気の無い場所に移ってお弁当を一人で食べる。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったら再び図書室へ戻り、読書を再開。
そして全ての授業の終了を知らせるベルを聞き、彼女は帰宅する。
孤独に寂しく、それを理解しない―――理解しない様に振るまいながら、帰宅する。
それが月村すずかの毎日だった。

少なくとも、この日までは。





虎太郎は渋い顔で廊下を歩いていた。
理由の内の一つは朝から一本も煙草を吸っていないから。
超弩級のヘヴィスモーカーである虎太郎にとって煙草を吸わないという行動は、日常的生活を著しく壊す行動である。いわば、生理現象が崩れる事になる。
だが、悲しいかなここは小学校。
昨今の禁煙騒動の影響か、親達がそういう人種を差別するような働きをしたのだろう。この学校には教師専用の喫煙スペースは愚か、吸う事すら出来ないという始末だ。
虎太郎は想う、この学校は自分を殺す気なのだろうか、と。
しかし、それでも我慢は出来る。これでも初老に近い年齢、辛い事は色々と体験してきた。ソレに比べれば半日程度煙草を吸わない事など大した事ではな―――
「あぁ、無理だ……」
大した事ではないが、それが我慢できる事とは違うらしい。
虎太郎は昨日案内された校舎の中で、人気の無い場所を選ぶ。幸いな事に今日の授業は全て終了している。仮に今から吸っても問題はないはずだ―――実際はもの凄く問題があるのだが、この時の虎太郎にはそう思えてならなかった。
「とりあえずは、体育倉庫なんかが一番だな」
学生時代を思い出しながら、とりあえず一番人気のない場所を選択する。当然、その現場を誰にも見られてはいけない上に、吸っていたと知られるわけにもいかない。
その為に消臭スプレーやら何やら、吸った事がバレない事に努力するグッズを大量に持ち込んだこの男は、本当に教師なのかと疑いたくなるが、
「なぁに、バレなきゃ問題ない」
と、独り言を漏らす始末。
善は急げと体育倉庫へと訪れた虎太郎は早速至福の一服へと移る。煙草の煙を全身全霊でお迎えする紫煙に染まった肺。それだけで心がすっと軽くなる気分だった。
「…………さて、と」
ある程度心の安泰を得た状態で、虎太郎は紙の束を取り出す。
これが虎太郎が渋い顔をする原因の二つ目である。
「これはまぁ……なんとも夢の内容だ事で」
虎太郎が持ってるのは原稿用紙。作文などで使用する一マス一マスが囲まれているタイプの原稿用紙だ。それの最初の一行にはこう書かれている。
【将来の夢】
安直な課題だと自分でも想うが、まさかここまでヒットするとは思いもしなかった。と言っても、良い方向にヒットするわけはなかった。加藤虎太郎という男に良い方向にヒットするなんて事は自覚して出来る事ではない。むしろ、無自覚だからこそのヒットなのだろう。故に、これは悪い方向へのヒットだった。
「最近の子供は夢が無いとか言うけど……まさか、本当だったとはなぁ」
それが特に悪いとは言わない。夢なんて別にすぐに抱かなければいけないというわけじゃない。将来の夢はあってもなくても別に問題にはならない。しかし、これはまた何かが違う感じがした。
一人一人の作文を見ていく内に虎太郎の渋い表情は徐々に薄まり、とうとう無表情になる。
口に咥えた煙草の煙が空気中に消える様に、虎太郎の表情は完全に消えた。
「夢が無い、なんてレベルじゃないな」
現実的なのだろう。
あの程度の年齢なら将来の夢に夢想してもおかしくは無いはずだ。少なくとも虎太郎が子供の頃などはそうだった。将来の夢なんて題材が出たら、野球選手やらサッカー選手、菓子屋さんにお花屋さん。警察官に消防士。なれるかどうかもわからない、なろうと想うかどうかもわからない夢を沢山書き綴った記憶がある。
だが、先程書かせた作文にはそれがない。
酷く現実的な夢。
夢というには色合いの足りない将来。
希望も何もない、淡々と書かれた文章。
「…………」
全員分の作文を見終わり、煙草の吸殻を携帯灰皿に放り込み、身体に消臭スプレーをかける。
「やれやれ、これは違った意味で問題だな」
体育倉庫から校舎へ戻る際に周囲を見渡す。
確かに良い学校、校舎だ。神沢学園よりも新しい建築技術を取り入れた校舎なのだろう。何処となく近代的な雰囲気を感じる。しかし、それは今となっては別に意味に捉えてしまいそうだった。
冷たい雰囲気。
無色な雰囲気。
「生きてない学校、なのかねぇ」
思えば長い間、自分は神沢学園の教師をしてきた。むしろ、それ以外の場所で教鞭を振るった記憶が曖昧になる程、自分はあの高校にいた。それ故に慣れてしまっていたのだろう。あれが普通の学校であると。近くに馬鹿な事をしでかす馬鹿な高校は存在したが、アレはアレで良いものだと思っている。
だが、此処はそうじゃない。
神沢にも金嶺にもない、どこか寂しい雰囲気だった。
「流行りの学園ドラマじゃあるまいし」
一人呟きながら校舎に戻り、廊下を歩く。すると、前から金髪の少女が歩いて来た。虎太郎のクラスの生徒、アリサだった。
「よう、バニングス。今から帰りか?」
「…………」
相変わらず無機質な、冷めた視線を向ける少女に苦笑しながら、虎太郎は先程読んだ作文をアリサに渡す。
「なら丁度良いな。お前に特別課題だ」
アリサに手渡した原稿用紙には何も書かれていない。別に新しい紙を渡したわけではない。これは作文を書かせた時間にアリサに渡り、そのまま返された原稿用紙だった。
「流石に白紙は駄目だぞ。適当でもいいから、なんか書け。というかせめて題名と名前くらいは書いてくれ」
「どうして?」
「いや、どうしてって……」
手に持った白紙の原稿用紙を見ながら、アリサは言う。

「こんなの書いても意味ないじゃない」

「…………」
それは何処か嘲笑している様にも見えた。
「将来の夢……馬鹿みたい」
書く事すら拒否する、そういう態度を示す様に白紙のままアリサは虎太郎に提出した。これが自分の書いた文章であり答えだと、そう明確に示す様に。
「とうせ、私達は此処から出られないんでしょ?だったら、夢やら希望やら持ってもつまらないわ」
此処から出られない、アリサはそう言った。
それは確かにそうだろう。この街は人妖隔離都市。人妖病の人間を隔離する為に存在する街。ならば、そんな人間を外に出す事など到底不可能なのだ。無論、絶対的に出られないというわけではない。それなりの地位の人間や、仕事の人間だけは外に出る事が出来る。虎太郎とてその一人であり、神沢の地から一度も出た事が無いなどという事はない。
だが、大抵の人間――人妖達はそうだ。
出られたとしても一瞬だけ。
一日、良くて数日。それが過ぎれば元の場所に戻るだけ。
自由なんてありはしない。
夢なんてありはしない。
希望なんてありはしない。
この白紙こそが自分の未来であり、自分達の現状。
それを、この子達はあまりにも知り過ぎている。
虎太郎が全員分の作文を読んだ感想がそれだった。全員がそういうわけではないが、大半の生徒が書いた作文には【将来の夢】というテーマを嘲笑う様な内容だった。別に否定的な文章を書いているわけじゃない。子供らしい文字で、子供らしい文章だった。
ただ、そこに夢なんて甘い言葉は一つも存在しないだけ。
「なるほど、それは確かにそうだな」
「でしょ?なら―――」
「だが宿題は宿題だ」
提出された白紙をそのまま返す。
「確かに夢も希望もないだろうな。だが、それとこれとは話は別だ。いいか、作文っていう授業があり、お前はそれをサボった。なら宿題は当然だと想わないか?」
「…………」
何か納得していない顔だが、アリサは素直に受け取った。
「また、白紙で出すかもよ」
「そしたら再提出だな。お前が何か書くまで何度も何度もやるから覚悟する様に」
「―――夢も希望も無いのに」
「夢も希望も無いなら……夢と希望を想像して書いてみろ」
それだけ言って、虎太郎はアリサの肩を軽く叩いて歩きだす。
「提出は明日じゃなくても良いからな」
「…………」
その無言は肯定として受け取る事にした。
それでも最後の抵抗、もしくは仕返しとばかりに、
「――――煙草臭いですよ、さっきより」
と言うと、虎太郎は引き攣った笑みを浮かべる。
「お前、本当に鼻が効くんだな……」
その時だけは、アリサは不敵な笑みをうかべ、
「そういう体質ですから……」





アリサと別れ、虎太郎は職員室へ戻る。
どの学校でも職員室というのは騒がしくもあり、重い落ち着きを持っている。だからこそ、こういう場所ではキチンとしなければいけない、という想いが強くなるのだろう。
「お疲れ様です」
虎太郎が自分の席に座ると、珈琲の入ったカップが差しだされる。
「どうでしたか、今日一日は?」
虎太郎のクラスの副担任である女教師、名を帝霙と書いてミカド・ミゾレというらしい。堅い名前だと思ったが、霙はまだ二十代前半、虎太郎よりもずっと年下だった。
「いや、随分と疲れましたよ……」
苦笑する虎太郎に、そうでしょうと頷く霙。虎太郎は高校教師としては長年勤務してきたが、小学校となれば話は別だ。まず、高校では一つの教科を専門的に教えていれば良かったが小学校はそうはいかない。
「とりあえず、俺には音楽はまるで駄目だという事はわかりましたよ」
「それでも努力はしてくださいね」
「えぇ、努力はしますよ」
国語や算数は特に問題はなかった。だが、音楽や図工といった教科は思いのほか駄目だと気づかされた。特に音楽。ピアノなんて弾けない。歌もロクに唄えない。下手をすれば歴代の音楽家の名前すら知らない可能性すらあった。
霙のおかげで何とかその授業を乗り越える事は出来たが、ずっと彼女に手伝ってもらうなんてわけにはいかないだろう。もっとも、この学校に何時までいるかは分からないが。
「とりあえず、私が使っていた教材を貸しますので、それで勉強してください」
「了解です。いや、高校の悪ガキ共を相手にするよりも辛いですな、小学校という場所は……」
「虎太郎先生はずっと神沢で教鞭を振るってらしたんですよね」
「というより、そこ以外では教師なんてした事はなかったですがね」
更に言えば、表では言えないような事もその街以外では出来ない。
「どうですか、この学校は?」
「…………」
どうなのか、と聞かれれば当然周囲へ一瞬だけ視線を向ける事になる。自分の中でこの学校の評価はある程度固まっている。その評価をこんな場所で堂々と口にする様な事はしない。
ならば、少し遠まわしに言う事にしよう。
「―――――帝先生、少し気になった事があるんですが……」
珈琲を口に含み、出席簿を開く。
「この、月村すずかという生徒なんですが」
月村すずか、その名前を口にした瞬間―――職員室の空気が凍りつく。
ソレを感じとった虎太郎は小さく舌を打つ。
やはり、そういう扱いになるのか。
「あ、あの……月村さんの事ですが」
「確か……特別扱い、でしたよね?」
朝の出席を取る際、最後に月村すずかの名前を読んだ瞬間、教室はこの職員室と同じ空気になった。まるで、その名前を口にしてはいけない、それが何を意味するのかさえ知ってはいけないという様な、そんな重い空気。
当然、虎太郎は自分が何か不思議な事を口にしたわけではない、という事はわかっている。だが、この空気はどうも腑に落ちないのも事実。
「あの時、帝先生は言いましたよね―――『月村さんは良いんです』ってね」
「それは……」
「俺もあの時は生徒の手前、素直に従いましたがね。納得は出来ないんですよ。何故、月村の名前を出すだけであんな空気になるのか、どうして月村が出席していない事に問題が無いのか―――」
黙り込む教師一同を睨みつける様に見据え、全員に尋ねる様に言葉を吐き出す。
「どうして、月村の名前に【恐怖】しているのか……俺はそれがどうしてもわからない。わからないから納得できないんですよ」
虎太郎の問いには誰も答えない。
答える事を恐れる様に誰も口を開かない。
その姿に呆れて何も言えなかった。
だが、そんな無言の空間に言葉を漏らす者はいる。この学校の教頭である皆橋という女教師だった。
「加藤先生。差し出がましい事を言う様で申し訳ありませんが」
まるでテレビドラマに出てくる嫌味な教師だ、と虎太郎は思った。そして、その印象は実に的確だった。
「月村さんのご親族より、月村さんにはあまり干渉しないように言われています。ですので、月村さんが我が校の生徒である限り、彼女の行動を私達がどうこう言う事はできません」
「干渉するな、ですか。そいつは随分とおかしな事をいうご両親ですね。私ならむしろ干渉するべき、干渉する事が仕事だと思いますが?」
それでは月村すずかをこの学校に通わせる事事態が間違いだと言っている様なものだ。それは明らかにおかしい。干渉するなと言っているのなら、どうして月村すずかをこの学校に通わせているのか、まるでわからない。
「一つ言わせてもらいますがね、私は今日一日、月村の姿を見ていません。それどころか、誰も月村の事を話題にすらしない。教室の月村の席だってそうです。一番後ろの一番端。その席が存在する事にすら目を反らす始末だ」
プリントを配る時、最初から居ない事が前提とされた枚数しかなかった。
掃除の時間、一番後ろの一番端だけは動かされる事すらなかった。
その席には誰も触れない。触れる事を恐れ、完全に無視をしている。
「わかりますか?私達教師がそうしているなら呆れる事は出来る―――だが、生徒がそんな事をするのは、呆れなんて言葉で片付ける事は出来ないはずです」
「アナタがどう思おうと構いません。ですがこれは決定です」
「生徒に関わるな、という命令が決定ですか?」
「いいえ、生徒に関わるな、ではありません―――【月村すずかに関わるな】が決定なのです。この学校の決定であり、この街の決定です」
盛大に、そしてわざとらしく溜息を吐き、虎太郎は席を立つ。
「あ、あの……虎太郎先生」
彼女がどちらの味方なのか、この反応であっさりと理解できる。だから、せめて自分と同じ様に月村すずかが在籍しているクラスを預かる一人として、
「帝先生。俺は自分の職業にプライドやら誇りやら、そんな大層なものを持っているつもりはありません」
これだけは言っておきたかった。

「ですがね、好きではあるんですよ」

霙だけではない、この職員室にいる教師全員に言う様に、
「自分の好きな仕事だからこそ、中途半端には出来ない」
そう言って、虎太郎は職員室を後にする。




気づけば夕方になっていた。
時計の針を見て、下校時間をとっくに過ぎている事にすずかは気づいた。読んでいた本があまりにも面白かったせいか時間が過ぎる事すら忘れていた。
慌てて携帯を見ると、着信数が凄い事になっていた。もちろん、全てが家からの着信だった。
本を鞄に仕舞い、図書室を後にしようとする―――が、ドアの前で誰かとぶつかった。
「きゃっ!?」
「おっと!」
倒れそうな所を寸前で支えられた。
すずかの手を掴んだ手は石の様に堅かった。それでもどこか温かい、そんな手だった。
「大丈夫か?」
声をかけたのは眼鏡をかけた男。少なくともこの学校で見た事がない人物ではあった。だが、よくよく考えてみれば自分はどれだけこの学校にいる大人を知っているのかという話になり、結果はまったく知らないという結論になる。
つまり、誰であろうとすずかにとっては初対面であり、安易に話せるような人物ではないという事になるのだろう。
すずかはバッと手を離す。男はその行動に特に不快に思う様な事はなく、ただ苦笑する。
おずおずとすずかは男を見る。
おかしい、と思ったからだ。
この学校に在籍する生徒、教師を含めた全ての人間は自分に対して皆が同じような表情を浮かべるはずだ。少なくとも、月村の名を知っているのなら当然だろう。しかし、目の前の男は恐れるどころか、まるで自分を普通の女の子を見る様な眼で見ている事に気づいた。
「…………」
だから、反射的にすずかも相手を見る。見るというよりは睨みつけるという眼つきになってしまうが、それだけで自分がどう思っているか相手には伝わるだろう―――少なくとも今まではそうだった。
しかし、今度の相手は違った。
「ん?俺の顔になんかついてるか?」
睨まれているという自覚すらないのか、男は自分の顔を触る。
なんだ、この男は。
この男は自分を誰かと知っていてこんな反応を示すのか、それとも知らないからこんな反応を示すのか。
初めての反応に、
「あ、あの……」
すずかは男に声をかけていた。
「私、月村です」
これでわかる。
月村という名前に驚くのなら、相手は自分の事を何も知らない者。逆に知っていてるのなら何かを企んでいる者。前者も後者も自分にとっては味方にはなってくれない相手だと知っている。それどころか、姉の言葉を借りれば―――後者は敵でしかない。
「月村……すずかです」
「俺は加藤虎太郎だ」
「…………」
「…………」
「…………あの、私は月村ですけど?」
「あぁ、そうらしいな」
知っているらしい。
なら、後者。知っているからこそ普通の態度を示すという、何かを企んでいる者。つまり、月村にとって敵となる者に違いない。
「―――で?」
だが、虚を突かれた様にすずかは固まる。
この男、加藤虎太郎という男は今、なんと言ったのだろうか。
すずかは自分が月村だと答えた。
男はそれに対して知っていると答え「―――で?」と尋ねたのだ。
「だ、だから!私は月村なんです!!」
「うん、知ってるけど―――で?」
何を言ってるんだという想いでいっぱいになった。
おかしい、この男は何かおかしい。
「……何が目的ですか?」
「目的?」
キョトンとする男に短答直入に尋ねるが、
「生徒に話しかけるのはおかしい事か?」
質問に質問で返された。
「お、おかしくは―――いや、おかしいです」
この学校はすずかに対して不介入、不干渉である事は知っている。だからすずかはこうして授業を受けずに図書室に居る事が出来るし、好きな時間に登下校が可能だった。それは全て月村に干渉しないという協定によって得られた結果のはずだった。
しかし、この男は、
「おかしいか?普通だろ、別に」
「普通じゃありません」
「俺は教師でお前は生徒だ。なら話しかもするし、こうして普通に接する事もする」
「それが普通じゃない……」
不干渉こそが月村に対する全て。この街に関わる者の全てが月村対して、そういう扱いになるはずだ。
「私に構わないでください……そういう決まりなはずです」
「いや、そう言われてもな」
困った様に男は頭を掻く。そして、すぐにこう答えた。
「この街に来て数日しか経って無いし、この街のマイナールールなんて知りもしない。だから慣れるまでは俺は俺のルールでやるつもりだ」
「なら、すぐに慣れてください」
そして自分には不干渉を貫いて貰う。
「―――と、思っていたのはさっきまでだ」
「――――え?」
「慣れる気はなくした、そう言ってるんだよ」
男、加藤虎太郎は笑っていた。
「この街のルールなんて知るかって事だ。俺は俺のしたい様にする。だから俺はお前に会いに来たんだよ、月村」
ルールのはずだった。
決まりのはずだった。
それが誰の為にもなるはずだった。
「ちゃんと自己紹介しておこう……俺は加藤虎太郎。前まで神沢という場所で高校教師をしていたんだが、どういうわけか今はこの学校でお前のクラスの担任になった」
そのルールすら無視すると言った。
自分のルールに従うと、この男は言ったのだ。
「そういうわけでよろしくな、月村」
そう言って、握手を持てる様に手を差し出す。
その手は大きき、堅いと知っている。そして、それに似合わない温かさを持っていると知っている。
これは希望だ。
すずかはゆっくりと手を上げる。
希望という存在だ。
「先生は……人妖なんですか?」
「一応、そうだな」
希望という存在は、

「―――――――それじゃ、私と違いますね」

何時だって、自分にとっては毒なのだ。






「―――――――虎太郎先生!?」
気づくと、虎太郎は大の字に転がっていた。
身体中は痛い上に、額に手を当てると真っ赤な血が垂れている。
「虎太郎先生!」
そんな自分を心配そうな顔で見つめる少女が一人。確か、高町なのはという少女だった気がする。
「…………大丈夫だ、心配ない」
そう言って虎太郎は身体を起こす。起こした瞬間、頭にズキンという痛みが奔ったが問題は無い。
「本当に大丈夫なんですか……なんか、凄い勢いで飛んできましたけど」
凄い勢いで【飛んできた】と言ったのか、この少女は。虎太郎は頭を振って意識をはっきりさせる。
そして改めて見た。
改めて見て、苦笑した。
本当に今日は良くこんな笑みを浮かべる日だと思った。
それでもそのはず、虎太郎の視界にあったのは大きな穴だった。

図書室を合わせた教室六つをぶち破って開けられた、巨大な穴だった。

「あ~、高町。もしかして俺は、向こうから飛んできたのか?」
「は、はい……多分ですけど」
なのはは言った。
帰ろうと廊下を歩いていると、急に爆音が響き渡り廊下が揺れたらしい。その後に廊下に接する教室にドガッという破壊音が次々と響き渡り、何事かと教室に入ったらなんと教室の前と後ろに巨大な穴が開いてるではないか。
「つまり、教室をぶち破って吹き飛ばされたってわけか……」
ズボンについた埃を払い、立ち上がる。
「やれやれ、まさかあんな子供に投げ飛ばされるとは―――俺もやきが回ったか?」
「あの……投げ飛ばされたって」
虎太郎の言う様に、彼は投げ飛ばされたのだ。
自分よりも何倍も幼い、小柄な少女によってだ。
挨拶という事ですずかに手を差し出した虎太郎。すずかもその手を掴んでくれて、少しだけ安心した―――それが隙となったのだろう。
虎太郎の手を掴んだ瞬間、すずかの眼の色が変わった。
まるで小説の中に登場する怪物―――吸血鬼の様な黄金色の瞳。
「これ以上、私に干渉しないでください」
それが虎太郎が投げ飛ばされる前に聞いた、すずかの最後の言葉だった。
そう、見事に投げ飛ばされた。
子供だからという油断はあった。如何に相手が人妖であろうとも対応できない事は無いだろうとタカをくくっていた。それが立派な油断となった。
月村すずかの速度は虎太郎の想像よりも早い。
月村すずかの腕力は虎太郎の想像よりも強い。
月村すずかのスペックは虎太郎の想像よりもずっと上だった。
想像以上のスペック持っていたすずかの腕力で強引に投げ飛ばされた虎太郎は、漫画の様に壁に大穴をあけて教室六つ分を突き破って停止した。
「―――――こりゃ、思ったよりは甘く無い様だな」
まだ身体はズキズキするが問題は無い、と思ったが頭からギャグみたいに血が吹き出た。
「あ、グラッときた」
「せ、先生達を呼んでこなくっちゃ!それとも救急車?もしくは消防車!?」
軽くパニックになっているなのはに対して虎太郎は、
「あ、そういえば」
思い出した様になのはに向かって言う。
「高町の作文、なかなか良かったぞ」
「そんな事よりも病院に行かないと!!」
「大丈夫大丈夫、先生はこれでも頑丈だからな」
それよりもこの大穴はどうするべきなのかと考え、とりあえず逃げる事にした。あれだけ月村に関わるなと言われて置きながら、勝手に関わってこんな大穴を開けたとバレたら、給料が黒から赤に変わる事は間違いないだろう。
「よし、そうと決まれば逃げるか」
「それよりも病院に―――」
行きましょう、と言おうとしたなのはを抱えて虎太郎は逃走を開始する。
「虎太郎先生!?」
「――――高町。この街は面白いな」
自分に、そしてなのはに語る。
「俺がいた街と同じくらいに面白い街だ」
これが恐らく燃えているという状態なのかもしれない。
気に入らない事がある。
己が許せない事を強要する事が気に入らない。
そしてそれを平然とする事が許せない。
だからこそ燃えるのだろう。
まるで教育ドラマの先生になった気分だ。自分には絶対に似合わないであろう役柄だろうが、今だけはそんな気分になった。
「変わらんのさ、何処に行ったって」
自分が教師である様に、人が人である様に、生徒が生徒である様に、何処の街も何も変わりはしない。大切なのはソレに気づくかどうか、それだけだ。
教師は奔る。
風を斬る虎の様に奔る。


やるべき事が見えた虎に、立ち止まるという事はないのだろう。





それから数時間後。
海鳴のとある建築会社の電話がなる。
電話の内容はある小学校の壁が壊れたので修理に来てほしいという内容だった。
時間も時間な故に明日でも良いかと建築会社の所長は尋ねたが、早急に直してほしいという依頼だった。当然、それなりに賃金は弾むらしい。
所長は面倒だが仕事だからしょうがいないと諦める。
しかし、問題はある。
作業員の殆どが返ってしまったのだ。残っている者に声をかけても当然嫌な顔をするだろう。殆どが若者所帯な会社では良くある事だが、残業代を出すと言っても良い顔などしてくれない。
そんな時だった。
「――――所長、倉庫の整理が終ったぞ」
所長の眼に飛び込んできたのは、一年ほど前からこの会社で働いている長身の男だった。年齢は三十を超えているが、その体つきはそんじょそこらの若者よりも鍛え抜かれている。当然、力仕事をさせたらこの会社で一番だろう。それに、かなりの働き者でもある。
所長は尋ねる。
今から急な仕事が入った、最悪の場合は明日の朝までかかる可能性もある、悪いが引き受けてはくれないか、と。
すると男は嫌な顔一つせずに、
「俺は構わんさ」
了承してくれた。
「それじゃさっそく準備をするが―――その前に、ちょっと家に連絡させてもらうぞ」
そう言って男は備え付けの電話のボタンを押し、電話をかける。
所長はそんな男を見て、来月の給料は少し弾んでやろうと決め、準備に取り掛かる。
「――――あぁ、俺だ。悪いが、急に仕事が入って今日は帰れなくなった……ん、そうか、なら今日はあの子の所に泊ればいいさ。その方があの子も喜ぶ」
男は小さく笑った。
その姿を見て、所長は想う。
見てくれは怖い印象を抱かせるが、中身は優しい人間だ。だからもう少し見てくれに気を使えばモテるのだろうと考える。
人に威圧感を与える長身に白い髪。そして眼帯。とても堅気の人間に見えない鬼の様な男は電話を切って小さな溜息を吐く。
「奥さんにかい?」
「そんな関係じゃないさ……単に昔の同僚、上司といったところかな」
「それにして親しげだった気がするけど」
「俺とアンタがこうして親しげに話せるんだ。元上司とだって話せる」
なるほど、それはそうだ。
「だが、お前さんみたいな奴と付き合う人だ。一度会ってみたいな」
「別に付き合っているわけじゃないと言ってるだろ?ちなみに、普通の女性だよ。少々強情で見た目と中身にギャップがある人だがね」
「ふぅん……仕事は何を?」
「聞いてどうするんだ?」
男は呆れ顔で所長を見る。所長はいいからいいからと言って先を促す。
「家庭教師だよ……わけあって学校に行けない子供のな」
「へぇ、それでお前さんは頭脳労働ではなく肉体労働というわけか。うん、実に理にかなっている割り当てだな」
「所長……頼むから仕事の話をしよう。じゃないと、俺は今すぐに帰宅するぞ」
「はいはい、お前さんの意外と初だねぇ」
「そんな年齢じゃないさ」
所長はそれで私語と終わらせ、仕事の説明にはいる。
白髪隻眼の男は所長の説明を黙って聞き入る。





次回『人妖先生と月村という少女(後編)』





あとがき
このお話はリリカルなのは×あやかしびと、のクロスとなっております。
ですが、ぶっちゃけリリカルなのは×(あやかしびと×弾丸執事×クロノベルト)が正しいのですがね。
というわけで、ここで質問です。
この物語の今後は
1.『あやかしびと』の世界で『リリカルなのは』をする
2.『あやかしびと』の世界に住む『リリなのキャラ』で話を進める。
この二つのどちらかになるのですが、どっちがいいですかね?

具体的にな例を上げると、
1を選択すると『管理局』になり、2を選択すると『ドミニオン』になる。
1を選択すると『レイジングハート』になり、2を選択すると『ベイル・ハウター』になる。

ちなみに、二つの内一つは嘘です……多分。



[25741] 【人妖編・第二話】『人妖先生と月村という少女(後編)』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/02/08 01:21
人でもない、人妖でもない、月村という一族は妖だ。
故に慣れ合わない。
故に触れ合わない。
故に共存も共生もしなければ、歩み寄る事すらしない。しようともしない、しようとも思わない、しようとする発想すらない―――むしろ、してはいけない。
それが月村すずかの中にある己である。
それが誰かからの入れ知恵なのか、彼女自身が得た答えなのかは彼女とその一族だけしかわからない。その結果としてすずかを取り巻く周囲の空気は常に澄んでいる。
すずかしかいない。すずかの家族しかいない。誰とも触れ合わず、誰とも理解し合わない。無論、それを悲しいやら寂しいとも思わないはずはない。
何故なら、月村すずかは最初からそれを望んでいたはずがないからだ。
初めての小学校。歳の近い子供達を前に彼女の心は当然ながら期待があった。姉から自分達がどんな存在なのか刷り込まれていようとも、人間の心はそう簡単に理解などしない。むしろ、子供だからこそ反発するのだろう。
初めての入学式。
親に手を引かれて校門をくぐる子供達の顔は実に楽しそうだった。当然、すずかとてその一人だった事は過言ではない。唯一違うとすれば、彼女の手を引いたのは親でも姉でもない、月村に使えるメイドだったというだけ。それでも良かった。このメイドだって家族の一員である事に違いは無い。例え姉が人間、人妖達の集まる場所に行く事を拒否していたとしても関係はない。
月村すずかは笑っていた。
そう、笑っていたのだ―――この時だけは。

現実を知るのは意外と早かった。

周囲の眼がすずかを写す。色眼鏡で見た視線は幸喜の視線ではなく畏怖を込めた視線。畏怖の視線というものを理解する程、この時のすずかは賢くはなかった。だが、次第に気づく。どこか息苦しい、居心地が悪い、見えない重圧の様なモノを背中に感じていた。
その発端となったのは入学式が終えた後、他の生徒は教室に向かうはずなのに、彼女だけは何故か校長室へと通された。メイドにどうして自分は教室に行かないのかと尋ねるが、メイドは何も答えない。
校長室に通されたすずか。
こんな子供の自分に謙る大人。
それが気持が悪く、嫌悪感を持たせる。

違う、何かが違うと感じた。

校長の話はつまらなく、理解は出来なかった。自分に向けているはずの視線が、自分の背後にある別の存在に向けられている様な気分だった。
おかしい、こんなのはおかしい。
自分は皆と同じはずなのに、どうしてこの人は自分だけを【特別扱い】にするのだろう。すずかはそれが理解できなかった。というよりは、理解したくなかった。
結局、その日はそのまま帰宅した。
当然、すずかは教室に行きたいと言ったがメイドは首を横に振る。入学式が終わり、校長に挨拶したらすぐに帰宅するように主である姉に言われたらしい。
姉の命令、それをこのメイドは忠実に守るだろう。例え、すずかが嫌だと言っても聞き入れては貰えない。
その時だけは諦めた。
今日は駄目でも明日がある。明日になれば普通に登校して、今日出来なかったクラスメイトに挨拶する事が出来るはずだ。そうすれば自分にも沢山の友達が出来るかもしれない。歌でもある様に友達百人だって夢じゃないはずだ。

しかし、夢は夢でしかない。

人が見る夢と妖の見る夢は同等ではないと、誰かが言った様な気がした。
次の日、すずかは登校しなかった―――出来なかった。
朝、眼が覚めて学校の制服に着替え、新しい鞄を背負って鏡の前で笑った。この制服は入学式前の一週間、何度も何度も着て鏡の前に立った。鞄も同様に何度も何度も背負って、想像する幸福な時間を夢に見て、笑った。
しかし、制服を着て鞄を背負ったすずかに向けられた姉の一言は冷たく、理解できない言葉だった。

学校に行ってはならない

どうして、と尋ねた。
不必要だから、と答えた。
どうして、と尋ねた。
意味がないから、と答えた。
わからない、と答えた。
どうしてわからない、と尋ねられた。
おかしい、おかしすぎる。こんなのは変だ、間違っている。その日、すずかは姉と喧嘩した。何時間も何時間も言い争いを続け、最後に大嫌いという言葉を残して部屋に閉じこもった。
何時間も泣いて、気づけば次の日になっていた。
それから数日、すずかはずっと部屋に閉じこもり、誰とも会わなかった。
それを見かねたのか、それとも自身の考えを間違いだと思ったのか、それとも―――単に現実を知れという意味だったのか、姉からすずかに学校に行って良いという言葉を貰った。
笑った。
嬉しそうに笑った。
姉に飛びつき、この間はごめんなさいと謝った。
そして、すずかは学校に行った。
思えば、これが姉にとって、そしてメイドにとって月村すずかの最後に見た笑顔だったのだろう。
同時に、月村すずかにとって笑うという行為の最後の記憶。
その日、すずかは知った。
初めて見たクラスメイトは、明らからに自分を避けている。
登校時も、休み時間も、昼休みも、下校時も、全てが彼女の思い浮かべていた学校生活とまるで違った。
腫れものを扱うような自分への対応。教師達の謙った対応。話しかければ怖がり、話かける事すらされなかった。
全員が全員、誰も自分を見ようとしなかった。
孤独だった。
友達がいなかった昨日までの孤独とは違う。それ以上に最低な孤独感だった。
それが数日続いた。
もちろん、彼女だって頑張った。
今日は駄目でも、明日があるじゃないか。明日が駄目でも、また次の日がある。諦めなければ何とかなる。そうだ、きっとそうに違いない。諦めなければ友達だって出来るはずだ。
出来る筈なんだ―――出来る、筈だったんだ。
すずかが小学校に通って数日後。
時間は休み時間だっただろうか。
場所は裏庭だっただろうか。
その場に居たのは、すずかを含めて三人だっただろうか。
思い出せない。思い出す事を拒否してる。
それでも覚えているのは一つだけ。
自分の身体から血が流れ、相手の身体からも血が流れている。
それを見ていた少女の瞳には恐怖があり、その眼に映った自分の瞳は黄金の色をしていた。
まるで化物の様な金色の瞳。

血、

獣の唸り、

咆哮、



暴力、

反撃、

血、

鋭い牙、

血、

血、

切り裂く爪、

血、

月村すずかが最後に笑った日の記憶は、おぼろげで曖昧で、寒くて冷たい、暴力と破壊。
それ以来、彼女は笑わない。
誰とも触れ合わず、誰とも会話をしない。
誰もがそれを望み、彼女のそれを望む。
人でもない。
人妖でもない。
己は吸血鬼という妖。
この世界では居場所がない存在だと、何とも共存できない存在だと、わずか九歳の少女が知った世界のルールは、未だに誰にも壊せない。
そう、未だに誰も壊せない。

【未だに】という過去が終わり、【今】が始まるその日まで。







【人妖編・第二話】『人妖先生と月村という少女(後編)』









虎太郎は校長室に呼び出されていた。
目の前には神沢学園の校長とは反対にガリガリに痩せた骸骨の様な校長と、眼鏡をかけた教頭の二人。
「困りますね、加藤先生」
「何がですか?」
火のついていない煙草を咥え、反省の色を見せない虎太郎に教頭の額には自然と青筋が出来ていた。
当然、虎太郎だってそれがわからない程に馬鹿じゃない。
ただ、こっちのルールを無視する気が満々なだけだった。
「社会の授業で行っているのは、どういった内容ですか?」
「普通の内容ですよ。教科書に載っている内容をそのままやるだけの普通の授業です」
「それだけなら良いのですよ。えぇ、それだけならね」
校長は口を出さず、黙っている。だから一方的に話しているのは教頭だった。どうもこの女性を虎太郎は好きにはなれない。当然、向こうだって同じだろう。
しかし、虎太郎はあくまで好きじゃないだけ。教頭とて好きじゃないだけ。
嫌い合っているわけではない。
「帝先生の話によれば、アナタの授業は良く脱線するようですね」
「まぁ、退屈な授業のスパイス、みたいなもんですかね」
「スパイスですか……えぇ、それは良い事です。授業とは楽しくするのは困難でしょうから、多少のスパイスは必要です」
「同感ですな」
ですが、と教頭の視線が鋭くなる。
「そのスパイスの内容が問題です」
「なにか、生徒の教育に悪い内容でも話ましたかね、私は?」

「えぇ、話しています。特に―――この街の外の話をするのはね」

なるほど、そういう事かと、虎太郎は溜息を吐く。
「社会の授業は社会を教える授業ですよ?まさか、この街の事だけを教えろとおっしゃるのなら、それは間違ってると私は指摘しますよ」
「もちろんそうです。社会の授業は社会、すなわちこの国の事を教える授業でもあります」
「なら問題なんて―――」
「しかし、です」
何となく何が言いたいのか理解した。
「私が言っているのは、授業とは関係のない外の話をする事が問題だと言っているのですよ」
やっぱりそれか、と虎太郎はまた溜息を吐く。溜息の数だけ幸せが減ると言うのなら、自分の幸せは大恐慌時代になっているだろう。しばらく、ギャンブルは止めた方がいいかもしれないなと虎太郎は思った。
「例えば今日、アナタは何を話ましたか?」
「札幌の美味いラーメンの話」
「昨日の授業では?」
「東京タワーとスカイツリーを全力で上って、タイムアタックをした話」
「その前の前の授業では?」
「鞍馬山でクマと一戦交えた話……あぁ、この話は確かに子供に聞かせるのは不味いですよね」
「全部ですよ、全部」
虎太郎は肩をすくめる。
「全部と申しますけどね、教頭。これはスパイスですよ、スパイス」
「刺激があり過ぎるのが問題です」
「ラーメンの話もですか?それじゃ、北海道のカニが美味かったとか、青森のリンゴが美味かったとか、沖縄のチャンプルーは美味かったとか、そういう話も刺激がありすぎだと?」
無性に煙草に火をつけたくなってきたが、我慢する。とりあえず、このくだらない話を終えたらまた体育倉庫に行って一服しようと決めた、絶対に。
「北海道の名産、青森の果実の生産量、沖縄の気候、そういった社会の授業に関係のある話なら大いに結構です。しかし、アナタの話している内容はどこからどう見てもあなたが【行って、見て、実感した事】ではないですか」
「それの何処に問題が?」
あぁわかっているとも。アンタが何を言いたいのかなんて百も承知だ。それがわかっているから自分はそんな事を口にしたんだと虎太郎は口に出したくなった。
「―――――加藤先生。私はアナタが神沢から来た教師という事で、実はかなり好感を持っていたんですよ」
過去形であった。
教頭は虎太郎から視線を反らし、外を見る。
「アナタならわかるはずです。この学校を卒業し、中学に上がり、高校に通い、そこから大学に行く者もいれば就職する者もいます……ですが、その殆どはこの街から出る事はできません」
人妖だから。
此処が人妖【隔離】都市だから。
この街で生まれた人妖は、普通は外に出る事は出来ない。出る事が出来るのはごく一部の人間だけであり、大半はこの街で生まれたら一生この街の中で暮らすしかない。
外から来た者は外を知っていたとしても、中で生まれた者はそうじゃない。
一生外を知らず、中で生きて死ぬのだ。
「教頭、つまりあれですか?アナタは生徒達に外はどれだけ色々なモノがあり、どういう世界なのかという事の全てを【語るな】と言ってると解釈しても?」
「そう解釈してもらわねば困りますね」
小さく舌打ちする。
「それはどうかと思いますがね……」
「なら加藤先生はこう言うのですか?この街から出られる可能性は限りなく低いというのに、外にはどれだけの素晴らしい世界が広がっているという夢と希望を持たせるのが教育だとおっしゃると」
「問題はないはずですと、私は言いますよ」
「私は問題があると言います」
虎太郎と教頭の視線がぶつかり合う。
互いに互いを好きになれない。
互いに互いの方針を譲る気はない。
そして、教頭が小さな声で言う。

「この街で夢と希望を持たせるなんて、虐待と変わりません」

その言葉は言葉でしかないにもかかわらず、何処か重みを持っていた。
「希望を持たせるのなら、それとは限られた希望で良いのです。外に出る、外に向ける、そんな希望なんて持たせない方がマシです―――それで傷つくのは私達ではなく、生徒なのですからね」
それだけ言って、教頭は校長室から出て行った。
残されたのは虎太郎と校長だけ。
すっと校長が虎太郎に向けて灰皿を差し出した。
「教頭先生の事を、あまり悪く思わんでくれんか」
そう言って校長は自分も煙草を咥えて火を灯す。そして、その火を虎太郎に向け、虎太郎も顔を近づけて咥えた煙草に火を灯す。
「悪い人じゃないんじゃよ、あの人も」
「……えぇ、わかってますよ」
そう言うと、骸骨の様に痩せた顔が笑う。
「教頭は教頭なりに生徒の事を考えてるんでしょうね」
「私もこの学校に赴任してきたのは二年前じゃが、その時からあの人は教頭じゃった。だから、この学校の事もあの人の方が何倍も詳しい。なんでももう十年以上この学校にいるらしいからのう」
十年以上、その言葉を意味するのは、
「海鳴が人妖隔離都市に指定された年よりも前から、ですか」
校長は頷く。
「私は教頭先生からすれば新参者じゃよ。だからあの人の言う事がおかしい、間違っていると口にする事はできる……じゃが、それでも教頭先生からすれば、軽くて軽率な言葉にしか聞こえんだろう」
海鳴が人妖隔離都市になって十年以上が経った。この街の人口は増えた。もっとも増えたのはここ数年で、最初の年は元の人工の半分以下だったらしい。
当然だろう。
元々この街に暮らしていた普通の人々からすれば、人妖という奇怪な存在が次々と入ってきて、心良く歓迎するとは思わない。例え国からの援助金で街が潤ったとしても変わりは無い。
「今、海鳴の殆どが私のような人妖じゃ。そんな人妖を心良く思わない人々は去り、教頭先生の様な心に芯のある人間だけが残った」
「あの人は、最初からこの街に」
「らしいのう……だからこそ、わかっておるのじゃよ。この街に来た子供達。この街で生まれた子供達。人でありながら人と思われない子供達を何人も見てきた」
それ故に希望という言葉の重さを知っている、そう校長は言った。
「なぁ、虎太郎先生」
校長は寂しそうな眼で虎太郎を見る。
「あの人、嫌いにならんでくれ」
煙草の煙が下手の匂いを変える。たったの二本、吸った時間は五分にも満たない。だが、それでも部屋の匂いを変えるには十分だった。
「教頭先生は、教師なんじゃ」
「わかっています」
虎太郎は教頭の事を好きにはなれない。だが、嫌いじゃないわけじゃない。教頭の言い分は良くわかる。それもしっかりとした柱がある言葉。そして重みを知っている言葉だから。
教頭は教師なのだろう。
恐らく、自分よりもずっと教師を続けてきた。
「わかっていますよ……わかっているからこそ、私は―――俺はあのやり方はマネできない」
優しい笑みを浮かべる。
「あれがあの人が決めたやり方なら、俺には俺の決めたやり方がある……どちらが正しいかなんて誰にもわからない。わからないからこそ、行動するしかない」
灰皿に煙草を押し付け、消す。

「校長、放課後になったら俺は月村の家に家庭訪問に行くつもりです」

そう言うと校長は眼を見開き、すぐに納得した様な穏やかな顔になる。
「やはり、そうするんじゃな、アナタは」
どこか嬉しそうな顔。骸骨の様に痩せこけているのに、愛敬がある様に思えてしまう。
「アナタの好きな様にしなさい。私はその責任をとるだけじゃからのう」
「そこまでして頂くつもりはありませんよ」
「そう上手く事は収まらんよ。なにせ、相手はあの月村じゃからな」
月村、この街の支配者の一人。
「唯の教師一人が相手にするには大きな存在じゃよ……じゃから、今回は二人で挑むべきじゃな」
「私と、校長がですか……」
「アナタが行動する。私がその責任を持つ……こんな老いぼれに出来る事なんて、その程度じゃよ」
校長は立ち上がり、外を見る。
外では子供達が楽しそうに遊んでいる。
「私が来る前の校長はどういう人間かは知らん。じゃが、何もしなかったのは事実。そして、そういう私も何もしなかった……出来なかった」
「全て者が挑む者になるはずがありません」
「君は挑む者、挑める者じゃろ?」
「…………」
少しだけ迷いはある。
自分の行動によって一人の教師が責任を取らされる可能性がある。無論、その後は自分がその対象になるだろう。自分一人なら構わない。だが、自分の行動に犠牲になる者が出来る事を容認は出来ない。
「――――余計な事は考えんでいい」
穏やかであり、強くもある声。
「私がしている事は他人任せじゃ。他人任せにしている私じゃから、責任くらいは取るべきじゃろう?取らねばならない責任があるのなら、こんな老いぼれの首一つなんて安いもんじゃ」
「校長……」
「加藤虎太郎君。私は君を信用し、信頼する。教師が生徒を見捨てる事はあってはならない。どうにか頑張って、どうにもできない事があったとしたらある程度の免罪符は用意する。じゃが、何もしない癖に見捨てる事は許されんのじゃよ」
校長は虎太郎の手を取る。
痩せたガリガリの骨だけの手。だが、温かく、大きな手。
「―――――やりなさい。君のやりたいように。そして与えてあげなさい。夢と希望を……」
その言葉に、素直に頭が下がった。
「若輩ながら全力で挑ませてもらいます」
そう言って、虎太郎は校長室を後にした。
残された骸骨顔の校長は微笑む。
「いやはや、何とも良い教師を送ってくれたもんじゃな、神沢の若造も」
彼の脳裏に浮かぶのは、今は神沢学園の校長をしている後輩教師の事。
「今度、良い酒を送ってやるとするか……」
そう言って校長は皮張りの椅子に腰かけ、眼を閉じる。

そして、校長は深い眠りについた




「―――――あの、校長。ちょっといいですか?」
そこに若い教師が入ってきた。彼の眼に入ったのは穏やかな顔で眠りにつく校長の顔。
死んでいた。
「…………」
死んでいるにも関わらず、教師は対して驚きもせず。
「あぁ、もう……また死んでるよ。お~い、起きてくださいよ校長。毎日毎日、そんな風に死なれるとこっちも迷惑なんですよ~」
「――――――――っぬお!?」
「あ、蘇った」
「…………どのくらい死んでた?」
「知りませんよ。あ、とりあえずこっちの書類に目を通して判をください。理科の授業で使う機材の購入費の見積もりです」
「ん、わかった」
校長は書類に目を通し、判を押す。
「ありがとうございました―――愛野校長。それじゃ、もう死んでていいですよ」
「そうかい。なら、帰り際にもう一度見に来てくれんか?この間なんて死んでるのを忘れられて、三日も死に続けたわい」
「大変でしたね、あの時は―――それじゃ、帰りにもう一度寄りますんで。あ、死んでたら奥さんに連絡して搬送させてもらいますから」
「うむ、それで頼む」
愛野追人、海鳴の校長にして神沢に同じ体質の親戚を持つ人妖。
本日、二度目の死に入った。






放課後はとうに過ぎ、夕陽が沈みかけた頃だった。
すずかは家の前に見覚えるある姿を見つけ、眼を見開いた。
そこには数日前、自分に話しかけ、拒絶した男の姿があった。名前は確か加藤虎太郎。すずかが在籍しているクラスの担任だという男だった。
虎太郎は家、もはや屋敷というレベルの門の前で立ちつくしていた。
虎太郎は腕時計を確認し、チャイムを押す。
【――――はい、どちらさまでしょうか?】
「ども、加藤虎太郎です」
【またアナタですか?】
「はい、五分前と同じ加藤虎太郎です」
スピーカーから聞こえるのは月村家に使えるメイドの声だ。何時もの様に作り物染みた冷徹さを帯びているのは、相手が月村以外の者だからだろう。
【ならば、五分前と同じ回答です。忍様はアナタとお会いにはなりません】
「いやぁ、そこをなんとか……ほら、私はこう見えてすずかさんの担任ですし」
【これも五分前、正確に言うならば一時間前から言い続けてますが、とても教師には見えませんね】
「眼鏡かけてますよ?」
【眼鏡は誰でもかけます】
「スーツも着てます。安物ですが」
【安物のスーツは誰でも着ます】
「教員免許は……手元にはないので見せられませんが」
【例え教員免許があろうとなかろうと、お会いする事はございません】
そう言ってメイドは切った。
普通ならこれで諦めるものだろう。しかし、虎太郎は煙草を吸いながら五分ほど待ち、またチャイムを押す。
【―――――しつこいですね。警察を呼びますよ?】
「話をさせてもらうだけでいんですよ。そしたら警察でもなんでも呼んでください」
【なら、学校側に厳しい処分を頼むかもしれませんね】
「それも問題ありません。なにせ、あの学校の一番偉い人から許可を得てるのでね」
学校の一番偉い人。その言葉にすずかが一番に思い浮かぶのは、骸骨顔の校長の事だ。なんでも良く死ぬというわけのわからない逸話の持ち主だ。すずか自身は一度も話した事はないが、生徒の間では骸骨先生と言われて慕われているとか恐れられているとか。
「とまぁ、そういうわけでして――――」
虎太郎はスピーカーの向こうにいるであろうメイドに向かって言い放つ。
「警察でも何でも呼んでも構いません。ですがね、私はすずかさんのお姉さんとお話をするまでテコでも動きませんよ」
【国家権力に喧嘩を売ってもですか?】
「国家権力が怖くて教師なんて職業は続けられませんよ」
その言葉にすずかは素直に驚いた。
国家権力に挑むなんてよりも先に、この街に居る以上月村という名前に挑む方が馬鹿げているからだ。それほどまでに自分の家は力を持ち、恐れられているという事を理解している。だが、虎太郎という教師はそれすら相手にすると言っているのだ。
不敵に、負ける事なんて欠片も思わない瞳で、そう言い放っていた。
「ちなみに、もう私の勤務時間は終えてます。だからこれから明日の朝まで永遠に粘るつもりですよ……」
一歩も退かず、むしろ好戦的に踏み込む言葉。
そんな虎太郎を見ていたすずかは、心の底から馬鹿らしいと思っていた。
無意味なのに、と。
姉は絶対に人、人妖の話なんて聞きはしないのに、と。
だが困った。自分は家に入るのは表門を通るしかない。裏門から入ってもいいのだが、子の家の住人である自分が裏から逃げる様に帰るなんて、これも馬鹿らしい。
そして、すずかは漸く気づいた。
別にこの男だって、自分が家に入る時に強引に入ってくるような愚かな事はしないだろう。そんな事をするような男なら、最初から勝手に入って、勝手に防犯システムの餌食になっているはずだ。
そう思って、普通に門の前に歩き出す―――その時だった。
門が開いたのだ。
おかしい、と首を傾げる。
仮に自分に気づいて門を開けるとしても、それは自分が門の前にいなければならない。でなければあっさりと侵入を許すからだ。
だとすれば、
【―――――お入りください。忍様がお会いになるそうです】
「そいつはどうも……」
驚いた。
まさか、姉が会う気になるとは思ってもみなかった。
門が開き、虎太郎が屋敷に中に入っていく。
恐らく、初めてだろう。
歓迎もされていない、何度も拒絶された、帰れと言われた、しかしその全てに拒否して中に入る事を許された男。
加藤虎太郎、彼はそれを行った。
「…………」
どうしてか、心がざわめいた。
嫌な予感ではない。不可解であるか不快ではないざわめき。それを感じた瞬間、これがどういう感情なのか理解は出来ない。
しかし、同時にある想いが湧きあがった。
それをすずかは否定する。
そんな想いはとうの昔に捨てた、蘇る事なんてありはしない。
だから、これは気のせいなのだろう。
しかし、彼女が気づかなくともそれは事実だった。
心のざわめき―――それが意味するのはたった一つ。
遠い過去に置き忘れた気持ち。
入学式の前日、寝る前に思った気持ち。

人はそれを――――【期待】という。





虎太郎が通されたのは、薄暗い部屋だった。
部屋の中に数本の蝋燭が立ち並び、淡い炎を燃やして部屋を照らす。
まるで物語に出てくる何かが起きそうな部屋だ、と心の底から思った。
そして、その中にはソファーが二つ。その間にガラス張りのテーブルが一つ。その上には淹れたての紅茶が置かれていた―――ただし、その部屋の主の分だけ。
歓迎はされていない、という事だろう。
「初めまして。すずかさんの担任の加藤虎太郎と申します」
そう言って虎太郎は三人は座れるであろうソファーの中央に腰を下ろした女性へ視線を向ける。
「…………どうぞ」
細い綺麗な手で座る事を許される。勧められる、ではなく許される。部屋の主がこの場の強者にして絶対君主なのだろう。そして、虎太郎はそこに迷い込んだ愚かな男という事だ。
無論、虎太郎はそれに苦笑で返す。
ソファーに腰掛け、相手を見据える。

「月村家当主、月村忍です」

冷たい声だった。
どこか作り物めいた女性は恐らくは二十代前半、もしくは十代後半といったところだろう。だが、その年齢に似つかわしくない程のオーラを纏っている。人でない者が纏う強者のオーラ。同時に相手を威嚇する為のオーラ。
「それで、学校の先生がどんな御用でしょうか?」
短刀直入に聞いてきたので、虎太郎も同じ様に返す。
「すずかさんの事です」
「すずかが、どうかしました?」
忍の為にだけ用意された紅茶を口に含み、冷たい視線で虎太郎を見る。
「実はですね―――」
と、虎太郎が口を開いた瞬間。
「すずかの事は何も問題にしない、という約束です」
忍が遮る。
「あの子が学校で何をしても問題にはしない。それ以前にあの子に関わらない。そういう約束をした上に私はアナタ方の学校に通う事を許可しました」
「…………」
「無論、それはすずかだってわかっているはずです……アナタはこの街に来て日が浅い様なので知らないでしょうが、三年前―――すずかが入学した時にすでにそういう約束になっているのです」
「約束、ですか」
虎太郎は視線をそらさず、
「強制、の間違いでは?」
正面から受けてたった。
その態度に忍の表情に変化はない。ただ、溜息を漏らす様に呟くだけ。
「ホント、何もわかっていないのですね」
冷たい瞳は燃える。冷たい炎となって燃えている。
「アナタが神沢の土地でどのような方だったのかなんて興味はありません。私達には関係のない方ですからね。だからこそ、アナタにもそうしてほしいのです。関係ない、興味がない、これは立派な自己防衛の手段だとは思いませんか?」
「アナタ方の、ですか?」
「いいえ、アナタのですよ」
つまり、関係ないと思えと命令し、興味を持つなと命令する。それを守る限りは危害は加えない。それを守っている限りはこちらにも興味など示さない。そんな上からの言葉を忍は虎太郎に向けていた。
「―――――私はね、忍さん」
しかし、関係なくは無い。
しかし、興味を持たないわけにはいかない。
「家庭訪問に来たんですよ。家庭訪問、この言葉の意味、知ってますか?」
挑戦的な言葉に、忍の眉が微かに動く。
それを見逃さない。
喰いついた、と虎太郎は想った。
「私がどのような者で、神沢の土地で何をしてきたかなんて関係ない。私がこの地でするべき事は教育です。教師である限り、生徒と関係を持ち、興味を持つ事が不必要であるなんて事は出来ないんですよ」
「…………それが必要なのは、普通の人々だけ」
「えぇ、そうですよ―――【アナタ方の様な普通の人々】と同じ様にね」
瞬間、部屋の空気が淀んだ。
喰いついたと思ったが、想像以上に喰いつかせたらしい。
「普通の人、とおっしゃいましたね」
「えぇ、違いますか?」
「違いますね」
ピシャリと言い放つ言葉には冷たい刃が含まれていた。
「私達は普通の人々とは違います。私達は人ではない、人妖でもない。月村という一族なのです」
「それがわかりませんね。どんな一族かは知りませんが私から見れば、アナタ方も人や人妖と変わりはありませんよ」
「それは……侮辱と受け取って良いのですか?」
「そう聞こえたのなら、謝りましょう」
素直に虎太郎は頭を下げる。
「ですがね、これは本心です」
「教師、だからですか?」
「人間としての、ですよ」
そう言った虎太郎を見て、忍は虚を突かれた様な顔をして―――嗤った。
「人間、人間とおっしゃいましたか?アナタが?人妖であるアナタが人間?」
「可笑しいですか」
「えぇ、素敵なジョークです」
嗤いは止まらなかった。
なるほど、と虎太郎は想った。
想い、考えた。
考えた末に、言葉に出す事を止めた。
それを知らない忍は暗い笑みを張り付けたまま、言った。
「アナタは愚かですね」
「…………」
「愚か、愚か、愚かです……人と人妖が同じ存在だと、同じ人間だと想っているアナタは何処までも愚か―――いえ、馬鹿ですね」
「この歳になってそういう言葉を頂けるとは、想ってもみませんでしたよ」
「なら教育してあげますよ、先生」
忍は立ち上がり、歩き出す。
蝋燭の炎を前に立ち、指先で炎を一つ消す。
「人と人妖は違う。そして、私達はその二つとも違い。何故なら、私達は人妖が生まれる前から化物だった」
静かに語る声は憐れみに満ちている。
「この国では妖怪と呼ばれる存在だったのでしょうね。そして、その血縁は途絶える事なく今まで続いている。わかりますか?その時点で人ではない。遥か昔からの妖怪であり化物なんですよ、月村は―――夜の一族は」
「…………」
「当然、そんな存在を人間達が許すわけがない。だから私達の祖先はこうした人の形を取り、人の中に溶け込んで生活してきた。これを共存と呼ぶ愚かな者もいますが、私はそうは呼びません。これは立派な敗北です。祖先の皆は人に敗北し、人に見つからない方法で己の弱さを隠してきた」
また一つ、蝋燭が消える。
「でもね、先生。如何に人の眼から自身の姿を消そうとも私達は人ではない。化物なんですよ。化物である限り化物の習性は消えない。化物である事実からは逃げられない。だったらどうすればいいのか―――簡単です」
穏やかな声で、

「闘争すればいい……」

呟きは冷たく、熱い。
「闘争して自身の力を証明すればいい、そう考えた……もっとも、それを選んだのは限られた者達であり、大半の者は臆病風に吹かれてそれを拒んだ。勇敢なる者は戦いを選び、散っていった。残された愚か者達はそれを蔑んで人間に頭を垂れ、共存という敗北宣言を行った」
それが自分達の祖先だと忍は言った。
「月村はそういう愚か者の末裔なんですよ。戦いもせず、共存という逃げ道に飛び込んだ愚かな逃亡者。そんな者達の末裔である私は祖先から見ればどう見えるのでしょうね?恐らく、蔑みの眼で見られる。蔑まれ、疎まれ、そして蔑にされるであろう愚かな者」
また一つ、炎が消える。
「でも、私はそれでも良いと思ったんですよ。如何に愚か者の末裔だったとしても、今の世界を見ればそれも納得できる。世界には数えきれない人間がいる。その中に私達は一部、下手をすればそれ以下しか生存していない。なら、どう考えても人間と戦って勝てるわけがない……嘆かわしい事にね」
気づけば、部屋の蝋燭の半分が消えている。
薄暗い部屋の中に鈍く光るのは、黄金の瞳。
「生きているのは愚か者のおかげです。だから私達も愚か者らしく日蔭の下で生きるしかない、そう思っていました」
黄金の瞳が、微かに揺らいだ。
「でもある日、私は出会ったんです」
揺らいだのは、
「私達の存在を認めてくれる人……いいえ、私達が自分の存在を【どうでもいい】と想わせてくれる人に、人間に私は出会った」
恐らくは、
「名前も知らない人だった。でも、綺麗な魂を持っている人だと思ったわ。もちろん、相手の魂を見るなんて力は私にはないのだけれど―――それでも、綺麗だと想った」
その魂を感じた者に、
「綺麗だからこそ、魅かれた」
何かしらの感情を持ったのだろう。
「愚か者の末裔なんてどうもいいと想った。人じゃない存在だなんて関係ないんじゃないかって想った。そう思える程に惹かれた人だった……でもね、その頃の私はそんな自分が好きじゃなかった。人間じゃない自分に、それを認めてしまっている自分が大嫌いだった……大嫌いだったから、その人に名前も訪ねたかったし、名乗りもしなかった」
また一つ、炎が消える。
「…………そしてある日、私はその人に思い切って言葉にした。自分は人間じゃなくて、人間の形をした化物なんだって―――」
しかし、消えた炎はまた燃える。
ジリジリと皮膚を焼く様な音を鳴らし、もう一度炎を灯す。
「私は、それだけ言って逃げた。怖かったから。あの人の私を恐怖する眼を想像するだけで怖かった。拒否される事が怖かったから逃げた。逃げて逃げて逃げて―――でも、知りたかった」
その炎に照らされた忍の姿は、素直に綺麗だと思えた。
「あの人は優しい人だった。優しくて強い人だった。だから答えが知りたかった。その時の私の心はずっと希望だけを持っていた。あの人は絶対に私を裏切らない。私の希望を打ち砕いたりしない人だって……信じていた」
だが、炎は消えた。
燃える蝋燭の中心をへし折り、地に堕ちた。

「―――――あの人は消えたわ。私があの人に自分の正体を告げた、その日の内にね」

地に堕ちた蝋燭の炎は消えた。
残された炎はあとわずか。だが、それが全ての希望を現すのだとすれば、この部屋の暗闇という絶望を照らす光には程遠い。
足りないのだ。
圧倒的な闇、絶望の前に、足りな過ぎる。
「その時に漸く理解したわ……人と化物は理解し合えない。共存も何も出来やしない。そんな希望を持っても砕かれて終わるだけ」
この闇が月村忍の全てだとするならば、
「先生。私はね……そんな真実を知っているの。知っているからこそ、他人にあるアナタにどうこう言われたくないのよ」
あまりにも大きな闇。
周り全てを飲みこむ程の闇。
それはたった一つの小さな恋だったのだろう。だが、その小さな恋一つで人はあっさりと絶望できる。
それほどまでに人の心は弱く、脆い。
信じていた者に拒絶され、逃げ出され、残された彼女の心は―――闇しかなかった。
「如何にアナタがあの子に、すずかに希望を与えようとしても無駄。だって希望は幻であり猛毒だもの。希望が大きければ大きい程、毒の威力は増していく。増した結果の先には死にも及ぶ絶望。絶望は死に勝る病なのだからね」
一つだけ理解する事は出来た。

月村忍は、月村すずかの事を本当に大切にしているのだろう。

「人と共にある夢なんて見ないでほしい。人の共に暮らせるなんて希望は持ってほしくない。でも、あの子はそんな夢と希望に憧れてしまい、飛ぼうとしたわ」
クスクスと微笑む顔には、悲痛な色しかなかった。
「本当は小学校なんて行かせるつもりはなかった。行かせたらきっとあの子は絶望する。でもあの子は行きたいと言った。友達を作りたいと言った。私の言う事なんて全部間違いに決まってると言った……だから、私は勘違いしてしまったのよ」
闇の中で、忍は虎太郎にゆっくりと近づく。
「もしかしたら、本当に微かな可能性があるかもしれないってね……私の出会いは不幸な結果になっても、すずかがそうなるとは限らないじゃないかってね」
馬鹿だった、虎太郎の瞳に映った忍はそう言った。
「なるわけなかったのよ。微かな可能性なんてなかった。結果は同じ絶望だけだった。あの子は学校で力を使い、同じクラスの子を傷つけた―――これは知っているかしら?」
虎太郎は素直に首を振る。
それは知らない事だ、と。
「なら教えてあげるわ。理由はわからないわ。でも、あの子はある日学校に行って、血だらけになって帰ってきたわ。何があったのか尋ねても答えない。あるのは虚ろな瞳だけ。学校の方に尋ねてみれば答えはすんなり帰ってきた」
忍はゆっくりと手を上げ、虎太郎の首筋に手を伸ばす。
そして、シュッという音と共に指の先に人とは思えない鋭利な爪を生み出した。
「この力で、私達一族に伝わり続ける呪われた力で、あの子は人を傷つけた。相手は人妖だったから、反撃も喰らってあの子も怪我をしたけどね」
それでおしまい、と忍は言った。
「漸くあの子も知ったのよ。どれだけ頑張ろうとも、どれだけ夢を見ようとも、希望なんて存在しないんだってね。学校の生徒はあの子を恐れ、教師達は月村の力を知って子供達と同じ様に震えたわ……」
そして、孤独になった。
「もう学校になんて行かなくて良いって言ったのに、あの子は学校に通い続けた。それがどういう意思でそうしてるかなんて知らないわ。教えてもくれなかった。でも、あの子が人を拒否しているのだけはわかったから、それはそれで良いと思った」
忍の手が虎太郎から離れ、パチッという音と共に光がついた。
「もうわかったでしょう、先生?あの子は誰とも触れ合わない方が幸せなのよ。あの子の味方になれるのは私達家族だけ。家族だけが唯一の味方……人も人妖も、そしてアナタもすずかの味方になんかなれはしないのよ」
だからこそ、なのだろう。
明りがついた部屋の中で、忍の瞳には最初にはなかった想いがあった。
大切な家族だから。
大切な妹だから。

これ以上、傷つく姿を見たくない。

それは最初の冷たい瞳ではなく、一人の家族を想った姉の瞳があった。
「もう、すずかには関わらないで……おねがいします」
頭を下げた。
心の底からの願いを、言葉に乗せて。

「おねがい、します……」






すずかは知っている。
姉の想いを知っている。
だからこそ、何も語らない。
何も語らず、姉の傍にいた。
「――――すずか、今日は学校に行かないの?」
すずかは首を横に振る。
昨日の虎太郎と忍の会話を聞いていたすずか。改めて姉の想いを知り、だからこそ答えを出すべきなのだと思った。
月村邸から出る虎太郎の背中を自分の部屋から見送り、自分はあの男に何を想っていたのかも忘れた。
だから、答えを出すべきだ。
「もう、行かない」
その言葉に忍は微かに驚いた。
「学校には行かない……もう、行かない」
それが決意。
小さな少女が決めた、家族の為の決意。
「いいの?」
「うん、もう決めたから……」
すずかは笑った。
学校での事件の後、一度も笑わなかった妹の笑顔を見た忍は、心が引裂かれる様な想いだった。
昨日、あれだけ虎太郎に言いながらも、自分はこんなにも妹の笑顔に悲しい思いを抱いている。
この笑顔は、作り物だ。
何かを想い、何かを決め、何かを捨てた笑顔。
そんな想いをさせたのは誰だ―――考えるまでもない、忍自身だった。
それでも忍は静かに言葉を漏らすだけ。
「そう、わかったわ……学校には私から退学届を出して置きます」
「…………うん、お願い」
朝食の時間。
少女は決め、姉はその願いを受け入れた。
抗うべきなのか、それとも―――いや、もう遅い。
もう遅過ぎるのだ。
忍は席を立ち、電話を手にする。
連絡する先は学校だ。
学校に連絡し、それで終わる。終わった後は続く。自分達の世界が続く。誰とも関わらず、誰とも理解し合わない、し合えない世界が続くのだ。
そして、最後のキーを叩く――――瞬間だった。

爆音が響いた。

「――――――――!?」
突然の音にすずかも、忍も驚いた。
そこへメイドが焦った表情で走り込んでいた。
「大変です、忍様!!」
「どうしたの!?今の音は何!?」
音がしたのは恐らく玄関の方、もしくは門の方だろう。
「侵入者です」
「侵入者?」
月村には、夜の一族には敵が多い。外部は勿論、内部にも敵だらけだ。そのどちらかが襲撃を仕掛けたという事なのだろう。
「防犯システムは!?」
「既に起動し、侵入者を激撃に向かっています」
月村家の防犯システムは優秀だ。いや、優秀過ぎるのだ。既にそれは防犯などという言葉では生ぬるく、防衛システムと言っても過言ではないだろう。
それを知ってか知らずか、敵は中に入ってきた。
こんな朝っぱらからだ。
忍の中に熱いマグマが生まれる。
最低な朝だ。
こんな朝に仕掛けてくる馬鹿は何処の誰だ。いや、誰であろうと関係ない。相手が来るならこっちは全力で迎え撃ち、誰に喧嘩を売ったのかを思い知らせるべきだろう。
そう思い、その外の映像を目にして―――頭が真っ白になった。
当然、メイドも。
そして、すずかもだ。
案の定、破壊されたのは門だった。
まるでロケット弾でも放たれたかの様に破壊された門。
そこには、見知った者の顔があった。
見知ったなんてレベルではない。
その者は昨日会ったばかりだった。
その者の名は、

【――――ども、加藤虎太郎です】

加藤虎太郎はのんびりとした、まるで朝の挨拶をする様な声で言った。
【いやぁ、チャイム押しても誰も出ないんでね。面倒だったんで壊しちゃいましたよ】
悪びれた様子もなく、そんな嘘と吐いた。壊れるわけがない。昨日は普通に動いていたし、この屋敷のシステムは毎日の様にチャックしている。
だから、壊れるはずがない。
【まぁ、それは置いておくとして、だ】
虎太郎は煙草を咥えながら、
【お宅の妹さん、すずかさんを迎えに来ました】
そんな事を言い放った。
当然、誰も言葉を発せない。
今、この男は何と言ったのだろうか。
【とっくに始業ベルは鳴ってるのに、すずかさんが現れないんでね。てっきり寝坊かなんかで来れないのかなぁと思いまして……】
理解できない。
【電話で確認した方が早いんですが、私も結構慌てん坊なんで直接迎えに来ました】
理解できない―――否、理解なんてしない。
忍の中に生まれたマグマは、
「どういう、つもりですか……」
怒りで真っ赤に燃えている。
「昨日、私は言いましたよね?これ以上、あの子に関わらないでくださいと……言ったはずですよね!?」
しかし、相手はそんな忍の言葉をあっさりと受け止め、
【えぇ、聞きました。ですから、こうして迎えに来ました】
直球で返してきた。
「―――――帰ってください」
【そういうわけにもいかないんですよ。とりあえず、すずかさん居ますか?】
「帰ってください!!」
【ですから、すずかさんを出してくださいよ】
「…………そうですか、そういう事ですか」
理解できないが、理解はした。
この男は敵だ。
敵以外の何者でもない。
「口で言っても理解できない様ですね、アナタという人は」
【どうやらそうみたいです。いやはや、歳を取ると考え方が堅くなってしょうがないですなぁ】
「わかりました」
忍はメイドに伝える。
「防犯システムのレベルを最高まで上げなさい」
「で、ですが……」
「上げなさい。これは命令よ!!」
月村家の防犯システム―――防衛システムは通常は相手を追い返す程度のレベルに設定されている。相手が泥棒だろうと刺客だろうとむやみに殺す気はなかった。だからの防衛システムなのだ。
しかし、そのレベルを最高まで上げるという事は―――殺してでも防衛するという意味になる。
「先生……これが最後の警告です。帰ってください。防犯システムのレベルを最高まで上げました。このレベルであるなら並の人妖なら一分未満で迎撃、下手をすれば殺害も可能です」
【おや、それは怖い怖い】
「ですので、今すぐ帰るなら命までは取りません……帰ってください」
仮に殺してしまっても、隠蔽など簡単に出来る。それに、この街で自分達に逆らえる者などバニングスくらいしか存在しない。そして、そのバニングスと自分達は常に一定の距離で権勢し合っている。
だから、この男一人を消す事など造作も無い。
【――――――はぁ、わかりました】
観念したように息を吐き出し―――煙草に火をつけた。

【今からそちらに向かいます】

聞き間違いだろうか。この男は今、こっちに向かうと口にしたのだろうか―――そんな聞き間違いは初めてだった。
だが、聞き間違いなどではなかった。
【おい、月村。制服は着たか?鞄は持ったか?弁当は持ったか?忘れ物は何もないか?】
虎太郎はすずかに語りかける。
すずかは放心している。
どうして虎太郎が此処にいるのかもわからなければ、どうして自分を迎えに来るなんて暴挙を犯しているのかも理解不能。
だが、一つだけわかるのは、虎太郎は今から此処に【来る】と言っている。防衛システムを突破して、此処まで来ると言っているのだ。
【まだパジャマなら今すぐ着がえて来い。先生は――――】
しかし、すずかは勘違いをしていた。
虎太郎、加藤虎太郎は防衛システムを【突破】などする気はさらさらない。
【―――――五分でそっちに行くからな……!!】



防衛システムを――――【撃破】する気だった。








加藤虎太郎の前には何も無い庭があった。
一分前までは何も無い。だが、今あるのはただの庭ではなく―――要塞と化した庭だった。
「―――――さて、行きますかッ!!」
その要塞に――――突撃する。
電光石火の速度で駆けだす虎太郎を迎撃する為に作動したシステム。その最初の刺客は巨大なバズーカ、一昔前の大砲の様な形をした砲台だった。
その数はおよそ十五。
その十五から一斉にボーリングの球と同じ大きさの鉄球が射出される。
剛腕ピッチャーの剛速球など生ぬるい。それは最早銃弾と言っても過言ではない。銃弾の速度でボーリングの球並の鉄球が一斉に虎太郎に襲い掛かる。
その弾丸を――――迎え撃つ。
「破ッ!!」
武器は無い。
この身こそが武器。
この拳こそが唯一無二の武器。
ただの人間の拳に見えるその拳は、一瞬で人には認識出来ない速度を生み出す。並の者には拳が消えた様に見えるだろう。そして、その拳が消えた瞬間、弾丸が木っ端微塵に砕け散った。
【――――――なッ!?】
スピーカーの向こうから息を飲む声が聞こえた。
あの弾丸を砕くなんて事は不可能なはずだった。しかし、虎太郎は砕いた。それも、
「疾ッ、破ッ、砕ッ!!」
十五の弾丸を一瞬で粉々にする。
防衛システムは人間の様に驚きはしない。即座に次の弾丸を射出する―――しかし、それでは遅過ぎた。
次の弾丸が打ち出される瞬間、砲台の一つの目の前に虎太郎の姿はあった。
拳を振り上げ、砲台の筒に手を突っ込む。

爆発。

虎太郎の拳の威力に負けた弾丸が巻き戻しの様に中に戻り、砲台を破壊した。
防衛システムは一瞬で考え、一瞬で決断。
相手が如何に早かろうと、一斉撃破は無理。
ならば、一つ破壊されるであろう砲台を察知し、その方向へ向かって一斉に発射すると決めた。
それが何よりも有効な手段だと考えた。

そして、それが有効だと証明される前に、砲台は一気に七つ破壊された。

音は後から襲ってくる。
砲台に一瞬で七つの拳を痕が刻まれ、爆発する。

エラー、エラー、エラー

「機械任せも良いが、遅すぎるな」
言葉の後に四つ、破壊された。やはり音は後から、破壊は拳の痕一つ。一撃で砲台は次々と破壊され、残る砲台の一つが何とか虎太郎に照準を合わせ―――見失った。
索敵をするまでもない。
虎太郎は空から舞い降りた。
「羅ぁッ!!」
踵落しが砲台に炸裂。
一台はそれで沈黙した。

エラー、エラー、エラー

残りは言うまでも無い。
電光石火の一撃にて沈黙。

エラー、エラー、エラー

防衛システムが感知できるスピードはかなりの高速な動きまで感知できる。だが、それが誤算だった。
開発者である者は想定していない。高速は高速でもそれが自身が体験してきた敵の最高であっても、

加藤虎太郎の速度であるわけがないからだ。

故にこれから出る全てが虎太郎に対抗できるかどうかと言われれば、言うまでも無い。
エラーを起こしながらも果敢に挑む防衛システム。
巨大なボウガンが起動。
矢を全て拳で撃ち落とされ、砲台と同じ末路。
チャクラムの射出装置が起動。
拳にて粉砕。
機関銃の連続起動。
弾丸程度では被弾不能。
破壊、破壊、破壊、破壊、破壊――――破壊。
【――――う、そ……】
忍の信じられないという声が響く。
「朝の良い運動……にすらならんな、これじゃ」
煙草を携帯灰皿に入れ、即座にもう一本を吸う。それが相手に与えた準備期間。その間に月村邸の庭の芝から巨大な人型が現れる。
ロボット、というべきだろう。
「ロボットとはまた……SFチックだな」
素直に感心した。なにせ、こんなはっきりとしたロボットなど見た事がないからだ。仮に見た事があっても歩く事がやっとという程度の出来だ。しかし、このロボットは動くどころか武器を搭載し、良く見れば背中にブースターの様な物を搭載している。
「まさか、飛ぶのか?」
正解―――飛んだ。
ブースターが火を噴き、ロボットは飛翔する。
虎太郎が子供の頃に見たアニメに登場する様なロボットの登場に、彼の心は童心に帰った様に踊った―――が、しかし、
「まぁ、そんな歳でもないか」
即座に我に帰り、空から襲いかかるロボット。手に巨大な斧を構えたソレを見据える。
轟ッという爆音。
地面を揺るがす程の一撃を虎太郎は難なく避け、拳を一閃。それだけでロボットの頭部は吹き飛び、そこへ追撃の蹴り。ロボットの持つ斧よりも鋭く胴体を切断する蹴りを受けて、立っている物は存在しない。
わずか数秒。

「超合金には程遠いな」

ロボットへの感心はその言葉だけ終わりを告げた。
一体がやられ、二体目、三体目と襲いかかる―――ロボットではなく、虎太郎がだ。
二体を六撃にて粉砕。その六撃でロボットの急所を確かめ、残り全てを急所に一撃で沈めていく。

エラー、エラー、エラー、エラー

理解不能、解析不能、不能不能不能―――防衛システムを圧倒的な速度と力で粉砕する人妖に対して、システムが恐れを抱く。
後は実に簡単な作業だった。
全ての防衛装置が起動され、一斉に虎太郎に襲い掛かる。
それを全て受けて立ち、粉砕、撃砕、破砕。
【アナタ、何者なんですか……】
忍は尋ねる。
「何者って、昨日名乗ったはずですが?ただの、教師ですよ」
ただの教師に全てが破壊される。
何もかも。
守る為の要が、全て。
【――――どうし、て……】
忍は震える声で、なんとか虎太郎に尋ねる。
【理解し、て……くださったはずじゃ】
「理解?何がですか?」
虎太郎は静かに告げる。
その声には―――微かな怒りが籠っていた。
【理解してくださったからこそ、帰ってくれたんじゃないんですか!?】
それが爆発した。
【私達の事、すずかの事を理解してくれたからこそ、身を引いてくれたんじゃないんですか!?】
爆発した想いを、虎太郎は冷静に受け止める。
「昨日帰ったのは、単純です―――夜遅くまで居たら、迷惑でしょう?」
【ふ、ふざけてるんですか!?】
「別にふざけてなんかありませんよ……ただ、一つだけ言っておきましょう」
ロボットの一体を踏みつけ、屋敷の方を見据える。
「私はね、アナタの想いを知った―――それだけだ」
切り捨てる様な言葉に、忍は言葉を失った。
「……忍さん。いや、月村忍。アンタがどれだけ辛い道を歩んできたかは理解しない。したくもないからな」
迫りくる鉄球を蹴り返し、爆発。
「だから月村の一族の歴史だとかお前さんの昔なんぞこれっぽっちも興味がない」
ロボットの腕を取り、捩じり切る。
「だってそうだろ?昨日、此処に来たのはアンタ等一族の話を聞きに来たわけじゃない。俺が話したいのは月村の事だけだ」
【だ、だからあの子の事は……】
「諦めろと?夢も希望もない抱かない方が今よりも何倍も幸せだと?笑わせるな。そんなもんをお前だけの勝手な都合だろうが」
紫煙を吐き出し、睨む。目の前に居ない筈の誰かを睨み、吐き捨てる。
「お前の可愛そうな悲恋なんぞどうでもいい……俺にとって大切なのはお前じゃなくて俺の生徒の事だけだ」
【…………】
「なぁ、月村忍。アンタは月村が理解してくれたと言っていた、そう想っているらしいな。本当にそうか?本当にお前の言う様な人と違う事に絶望していたのか?」
【え、えぇ……そうよ。だってあの子は笑わない、あれから一度も笑わなくなったのよ!!】
「それだけか?」
【え、】

「お前が見てきたのはそれだけか?自分の妹が笑わなくなった。笑顔を見せなくなった。それだけか?――――【それだけしか見なかったのか】!?」

同情する価値はあるだろう。
月村忍の過去は普通はそういう感情を含めて聞けるだろう。しかし、虎太郎が聞きたかったのかそんな過去ではない。単なる悲恋話なんて興味がない。そんな話なんてその辺にゴロゴロしている。
虎太郎が聞きたかったのか、すずかの事だ。
すずかに何があり、どうしてああなったのか、それだけ。
「昨日一晩考えた。考えて末に漸くわかったよ……お前は結局、何にも見ちゃいないんだってな」
【私が、見ていない?】
「あぁ、そうだ。お前が見てきてなんかいない。月村が笑わなくなったその日、お前はずっと眼を反らしてきたんじゃないのか?」
【――――――ッ!?】
「お前の言葉も、お前の想いも、全部がお前だけ―――月村忍だけのモノだった。そして、過去のしがらみやら、人と自分達に関係やら、そんなもんに一つだって月村の事がないだろ?ずっとお前の事だ。ずっとお前だけの事だけを話ていただけだ!!」
防衛システムは既に壊滅寸前だった。それでも最後の抵抗を見せる。主の守護の為に生み出された機械の守人。それが防衛システムの全て。
しかし、身の危険だけにしか作動しないシステムに、今の忍を守る事など出来はしない。
【違う……私、は、すずかの為に――――】

「なら聞くぞ。どうして月村は―――まだ学校に通っている?」

絶望したのなら、通ってなどいない。無論、それが絶対に正しいというわけじゃない。正しい事などありはしない。正解なんて人生には存在しない。
例えばそう、あの教頭の言葉が全て間違いだと言えない様に。
「諦めなかったんだろうよ」
【諦めて、いない?】
これも正解とは言えない。
完全に人の心を知る者などいない。
人の心を読める人妖がいたとしても、それは表面でしかない。
心の表面ではなく、表面の下にある事が真実なのだから。
「心理分析なんて出来ないがな、これでも一応は教師だ。生徒の気持ちの一部でも分かったつもりならんと勤まらんさ……だから、ここからは月村、お前に質問だ!!」




すずかの肩が震えた。
忍とメイドの視線がすずかに集中する。
そこへ虎太郎の声が届く。
【なぜ、学校に来ていた?】
「…………」
何故、何故と尋ねられた。
答えは―――無い。
そうだ、意味なんてない。
意味なんてないんだ。学校に行く意味も、誰かと触れ合う意味もありはしない。それが月村の家に生まれ、月村として生きる意味。
だから答えられない。
答えなどありはしない。
それがすずかの答えだった。
少なくとも、本人も気づかない表面の答え。
【お前は本当に諦めたのか?】
「…………」
そうだ、と言えば良い。それだけで相手が諦めるはずだ。だというのに声が出ない。まるで言葉にしようとするそれが嘘で偽りだと自分自身が思っている様にだ。
おかしい。
これは変だ。
この世界は虚実だ。
全てが嘘と偽りで出来ているのなら、簡単に嘘など口に出来るはずだ―――――嘘、とすずかは思った。
今、自分ははっきりと嘘など口に出来ると思った。
つまり、本当ではなく―――嘘。
【まだ諦めてなんかいなかったんだろ、お前は……】
「…………」
【お前の心の表面は確かに人を拒絶していた。だが、それは表面でしかない。人を拒絶するのならお前は学校になんか来ないはずだ。世間から身を潜め、一人静かに絶望している様な人間が人の居る場所に来るはずがない】
それはアナタの勝手な妄想に過ぎない。
希望なんて無い。希望なんてあるはずがない。

――――――でも、本当はわかっていた。

【まだ、信じていたんじゃないのか?だから学校に来た。友達を作りたくて、誰かと触れ合いたくて、それが夢でも幻でも無いと信じていた、そうじゃないのか?】
「すずか、奥に行っていなさい」
忍がすずかの背中を押す。
「先生。これ以上すずかを惑わせる様な事を言わないで」
【お前は黙っていろ。俺は今、月村と話しているんだ】
「私はすずかの家族です。アナタは教師かもしれないけど、所詮は他人じゃない。他人が私達の事に口を出さないで!!」
メイドがすずかを部屋に戻そうとする―――だが、動けない。
「夢や希望を語るのは勝手よ。でも、それは夢も希望も手に入れられる人達だけ。私達の様な者達には関係ない!!」
【関係ない、だと?】
「えぇ、そうよ。それとも何?アナタは学校でもそんな事を言ってるわけ?一生この街を出れない子供達に、無限の可能性があるから夢を持て、何時か外にだって出るっていう希望を持てなんて言っているのなら、それは虐待しているのと変わらないのよ!!」
夢は人を殺す。
希望は人を殺す。
かつて、希望を見いだした姉は裏切られ、絶望した。
「だったら夢なんて見なければいい!!希望なんて持たせなければいい!!手に入れられないモノなんて悲しいだけじゃない!!」
悲しいだけ。
苦しいだけ。
一人、図書室で本を読んでいた時に感じたのはそれ。だから本の世界に逃げ込んだ。だからそれを与えてくれるかもしれない可能性なんてものを、与えようとしている誰かを否定して拒絶する。
【それが……そんな想いが月村をそうさせたんじゃないのか?】
「なんですって?」

【そんな想いで、お前自身がそんな事を想っているから、笑わない月村【だけ】しか見なかったんじゃないのか!?】

ドゴンッという衝撃で屋敷が揺れた。
【絶望だけじゃないはずだ。お前が月村の家族を名乗るのなら、それだけを見たわけじゃないはずだ】
ドガンッ、また衝撃が走った。
【月村は、悲しいとは言わなかったのか?苦しいと言わなかったのか?助けてくれとは言わなかったのか?言わないなら、そうじゃないかと思わないのか?悲しいと想っているんじゃないか、苦しいと想っているんじゃないのか、助けて欲しいと想っていたんじゃないのか……そんな事を想っていると、一度だってお前は思わなかったのか?】
最大級の衝撃が屋敷を揺らした。
外の映像を目にする。
そこには壊滅した防衛システムの残骸があった。そして、加藤虎太郎の姿は無い。
コツ、コツと聞こえるのは革靴の歩く音。
「月村忍……お前が勝手に絶望するのは勝手だ。お前がどれだけ絶望し、夢も希望も失ったのかは理解できない。俺は他人だ。お前自身じゃない――――だが、だからこそお前ならわかったはずじゃないのか?」
聞こえる声には静かな声だった。
「お前が絶望した時、思わなかったのか?助けてくれ、苦しい、悲しい、その想いを聞き届け、誰かに助けて欲しいと一度だって願わなかったのか?」
すずかの眼に映る忍は、口に手を当てて震えていた。
「なら月村だってそう思ったんじゃないのか?お前に助けを求めたんじゃないのか?虚ろな目をして何も語らなくっても、心の何処かで思っていたんじゃないのか?」
そして、忍の眼がすずかへと移る。
「すずか……」
その視線を反らせなかった。
「本当、なの?」
反らす事は出来ない。
一度反らしたのなら、二度目は―――反らしたくない。
「勝手に絶望するならしていろ。だが、お前が絶望したからといって、お前の妹がお前と同じだとは思うな。勝手に同じだと想って、眼を反らすな」
声は徐々に近づく。

「――――――助けて欲しかった」

すずかは言った。
「苦しかった……悲しかった……お姉ちゃんに、助けて……ほしかった」
絞り出す声には後悔があった。
あの時、言えば良かった。言葉に出来ない、出来る勇気がなかったから。そして、あっさりと希望を捨て去った姉がいたから助けを求められなかった。
自分だけ助けて欲しいなんて、言えなかった。
「お姉ちゃんは大好きだよ……ノエルもファリンも、大好きだよ――――でも……が、欲しかった……」
忍を見たすずかの眼には、大粒の涙があった。
「友達、が……ほ、ほし、かった……友達が欲しかった!!だから、助けて欲しかった!!どうすればいいかわからないから、助けてほしかったよ!!」
「すずか……」
嘘じゃない本当の言葉と想い。
どうして未だに学校に通っていたのか―――それがこれだった。
心の表面では嘘は簡単に吐ける。だが、表面の下にある本当の想いまで嘘は吐けない。

友達が欲しい。

入学式前日、沢山の友達ができれば良いなと願った想い。
それが夢であり、希望。
それを否定する事は出来ても、消す事は出来ない。
「――――俺は教師だ。教師が絶望したら子供にモノを教えるなんざ出来る筈がない」
扉の向こうから虎太郎の声が聞こえる。
「月村忍。俺は希望を語るぞ……夢だって語る。この街で夢や希望を抱け、夢に見ろという事が虐待だと言うのならは、そんなモンは既に教育でもなんでもない……そっちの方が、よっぽど虐待だ」
夜の一族、月村家当主、月村忍――――その三つの中で自分が何者か選べと言うのなら、過去の忍は一番最後の自分を削るだろう。現に自分はそれを削り、一番守らなければいけない家族の想いに、耳を塞いでいた。
自分の絶望が正しいと思いこみ、妹の絶望に手をさしのばさなかった。
それが許されない罪だとするなら―――まだ、間に合うだろうか。
まだ、自分はこの子の姉で居て良いのだろうか。
「――――ねぇ、先生。もしも私が自分の意見が絶対に間違いないと想って、すずかにそれを強制するとしたら、どうする?」
その答えは既にあっても、どうしても聞きたくなった。
もしも自分がその間違いに気づけず、我を通したとしていたら。
扉の向こうで、虎太郎は紡ぐ。
「俺は教師、お前さんは家族……当然、お前さんの方が月村にとっては親しい大切な者だろうよ――――だがな、そのお前さんがそんな自分勝手な考えを月村に植え付けるっていうのなら、教師として容認は出来ない」
そして、最後の扉が粉砕された。
食堂の扉が木っ端微塵に吹き飛び、木片が辺りに飛び散り、その向こうで左手で拳を構える教師は言った。
「なにせ、そいつは――――」
忍とすずか。
二人が初めて見た虎太郎の、



「―――――生徒の教育に悪いんでな……」



優しい笑顔だった。













「――――――おい、お嬢ちゃん」
廊下を歩いてると、一人の少女に誰かが声をかけた。
少女が振り向くと、そこには壊れた壁を直している男がいた。男は大きく、髪も白く、なんと眼には眼帯があった。
怖い人だろうかと思ったが、
「こんな時間に登校……遅刻か?」
声を聞いて、そんな事は無いかもしれないと思った。
「私、あんまり教室に行ってないんです」
だからすんなり言葉が出た。すると男は作業を止め、しゃがんだまま少女を見る。こうすると少女と男の視線は同じになるからだろう。
「もしかして保健室登校って奴か?」
「ちょっと違うんですけど……似た様なものかも」
「そうか……だとすれば悪かったな。人それぞれ、色々と事情があるみたいだしな」
そう言って笑う男に釣られ、少女は自然と笑みをこぼす。
「――――でも、ないか」
「え?」
「お嬢ちゃんの笑顔。そんな顔で笑えるんなら、今すぐ教室へ行けるだろうよ」
「そう、ですか?」
「そうだろうよ。俺が保証する―――って言っても、俺みたいな壁を直すオッサンに言われてもしょうがないよな?」
鼻の頭を掻いて苦笑する男。その動作が面白くて、少女はもう一度笑った。
「おいおい、笑うなよ」
「あ、ごめんなさい……でも、何となく勇気が出ました」
「そうか?なら良かった……」
「ありがとうございました―――――あと、」
少女が男が直している壁を見て、申し訳なさそうに男を見る。
「この壁……壊したの、私なんです」
「へぇ、そうなのかい」
「…………怒らないんですか?」
「その場合は驚かないのか、が正しいかもな」
男は大きな手をグッと伸ばし、軽く少女の頭を小突いた。痛くはなかったが、少しだけびっくりした。
「ちゃんと先生には謝ったか?」
「えっと……まだ、です」
そう言うともう一度、コツンッと少女の頭を小突く男。
「ちゃんと言わんと駄目だろうが……だが、これで勘弁してやる。なぁに、学校の先生には秘密にしておいてやるよ」
男は悪ガキの様な笑み浮かべ、指先を口に当てる。
「だけど、今後はこういう事をするなよ。オッサンのお財布は潤っても学校に迷惑をかけちゃ駄目だ。お嬢ちゃんみたいな可愛い子は特にな」
「はい……本当にごめんなさい」
頭を下げて謝ると、今度は小突くのではなく頭を撫でてくれた。
それが少しだけ嬉しくて、少しだけ恥ずかしかった。
「それで、これから教室に行くのか?」
「…………」
少女は答えない。心なしか、手が震えている様だった。
「怖いか?」
「怖いです」
少女は正直に口にした。黙っていても意味がない。言っても無意味だと想う事と同じくらい、意味がない事だと知ったからだ。
「私、みんなに怖がられてますから」
「へぇ、なんで?」
壊した壁を見る。
「あぁ、なるほどね」
男は納得したように頷く。だが、それからまた笑った。
「安心しな、こんなもんは全然怖い内に入らねぇよ」
「怖く、ないんですか?」
「あぁ、全然怖くない。この程度なんて可愛いもんさ。俺が知っている奴なんてもっと凄いぞ。一人はバカスカ銃をぶっ放す。一人は沢山の刀を操って襲いかかる。一人は何でも凍らせるし、もう一人は……コイツはいいや。あ、それとな。そいつらの親玉なんて特に怖いぞ?」
「そんな人達よりも怖いんですか!?」
素直に驚いた。
「怖い、もの凄く怖い。見た目は綺麗な女なんだが怒ると鬼みたいに怖いんだ。この間なんて給料日にちょっとパチンコして帰ったら『ギャンブルなんて馬鹿がする事だ!!』って凄い形相で怒られた」
「大人も怒られるんだ……あれ、でも家に帰って怒られたって事は、オジサンのお嫁さん?」
そう言うと、男はしばし考え、首を横に振る。
「そんな関係じゃないんだな、これが……向こうがどう思ってるか知らんが、多分そういう関係だとは思わんだろうさ」
「聞いたんですか?」
「聞くまでもないだろう」
すると、今度は少女が男の顔にポンッとチョップした。
「駄目ですよ!!そんなの駄目です!!」
「お、お嬢ちゃん?」
「言葉にしないと駄目です。言葉にしないと伝わらない事があるんですよ、絶対に」
力強く言う少女に、男は呆気に取られ―――それから苦笑した。
「そうか、そういう事もあるわな」
「そうですよ」
「でもな、お嬢ちゃん。大人には大人の都合があるんだ。お嬢ちゃんの言う事が正しくても、それが中々出来ない事もあるんだよ」
「…………オジサンは、その人の事が好きなんじゃないんですか?」
「好きだとか嫌いだとか、そういう関係でもないんだよな、これが……でも、他の女よりは好きかもな」
「む、難しいんですね」
「そうだな、大人は難しいんだよ……そして、強いわけじゃない」
男は言う。
「大人だって強いわけじゃない。それは人妖だってそうだ」
火をつけない煙草を咥える。
「大人の力は子供よりは強い。人妖の異能は人よりも強い。だが、強いって事は無敵であるという意味にはならない」
最強でも無敵でもない。
ただの人間である。
それは知っている。
だから、少女は知った。
知ったからこそ、素直に男の言葉に耳を傾ける。
「でもな、無敵じゃなくても強い奴はいるんだ。最初は弱くても、少しずつ強くなる奴だっているんだ」
「人妖より……妖怪よりも?」
「妖怪?……そうだな、妖怪よりも強い奴はいるぞ」
だが、そいつは最初から強いわけじゃないと男は言う。
「人妖の強大な力を前にしても震えを殺して踏み出す馬鹿もいる。圧倒的戦力を前にしても戦いを挑む馬鹿もいる。そんな奴は最初から強いわけじゃない。少しずつ、本当に少しずつ強くなっていくんだ。そしたら、そんな奴に恐れを抱く人妖や妖怪だっている」
「すごいですね……」
「お嬢ちゃんもそのくらいまで、強くなれるかもな」
そう言うと、少女は少しだけ弱気になる。
「私、弱虫だから……」
「弱虫でも泣き虫でも変わらんさ。大切なのは一歩踏み出す勇気と根性だ」
「こ、根性?」
「あぁ、根性だ。その二つあればどんな困難にも立ち向かえる」
男は大きな手で拳を握り、少女に見せる。
「お嬢ちゃんにも出来る簡単な自己啓発ってやつだな。勇気と根性のある奴は絶対に強くなれる……そしてお嬢ちゃんにもそれがある」
「私にも?」
拳の先を、少女の胸元に添える。
「ココに勇気と根性、それがあるからお嬢ちゃんは学校に来てるんだろ?怖がりな奴は学校にも来れない。でも、お嬢ちゃんは違う。勇気と根性がある勇敢なお嬢様だ」
だから、大丈夫だと男は言った。
後ろに開いた大穴を指さし、
「こんな大穴を開けれる力があれば怖いと想う馬鹿だっている。でも大丈夫だ。お嬢ちゃんがちゃんと向き合って、ちゃんと話せればどんな奴とだって友達になれる―――もっとも、相手が本物の馬鹿野郎の場合は話が別だけどな」
「自信は無いけど……やってみたい。ううん、やります」
「よぅし、その粋だ。大丈夫さ、なにせ俺が知る限り、人妖という人間と妖怪という妖弧が家族になれたっていう前例があるんだからな」
「ようこ?」
人の名前だろうかと少女は思った。
そんな少女の疑問など知らず、男は立ち上がる。
「いいかい、お嬢ちゃん―――堅く考えるな、暗く考えるな、後ろ向きに考えるな。出来ない事は出来る為にあるんだ。その為にどうすればいいのかを考えるのが俺達だろ?人だろうと人妖だろうと妖だろうと関係ない。全ての存在が考えるんだ。考えて考えて考えて、考え抜く。一人で考えても駄目なら皆で考える。三人寄れば文殊の知恵って言うからな」
男はやっぱり大きかった。
鬼の様に大きかった。
でも、怖くはなかった。
その顔に似合わない程の笑顔を備え、
「それでも怖いと思うのなら、お嬢ちゃんに魔法の言葉をくれてやるよ」
魔法の言葉。
意味は人それぞれ。
言葉とはそういうモノだから。
その言葉の意味は戦いの為の言葉であるかもしれない。だが、それ以外の意味にだって使えるはずだ。
想いを込めた言葉である限り、それはその者だけの意味を持っている様に。

「手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に」

その本当に意味を知る日は来るかもしれないし、来ないかもしれない。だが、この時の少女にはその言葉が、少女だけの意味に聞こえた。
「そういうわけだ。それじゃ、頑張って保健室登校してこいや」
「――――違いますよ」
少女は男に向けて言った。
「遅刻しても……私は教室に行きます」
「…………そうか。なら、行ってこい」
「はい、ありがとうございました!!」
そして少女は走り去る。廊下は走るなよ、と言おうとしたが男は空気を呼んで口を閉ざす。
開いた窓から零れ出る太陽の光。
そして優しい風。
その二つを感じながら男は壁を直す。
残り教室四つ分。
「先が長いな……」
そう言った男は、少しだけ楽しそうだった。






その日、少しだけ奇妙な事があった。
教室に入って来た虎太郎はすぐに授業を始めたのだ。授業中だから授業をするのは当然なのだが、今日は毎日の恒例であるアレがない。
まだ、生徒の出席を取っていないのだ。
霙がそれを指摘したが、虎太郎は聞く耳をもたずに授業を始める。誰もがその事に疑問を持ちながらも口にはしない。
そして、最初の授業の中盤になって―――教室のドアが開いた。
教室の中にいる誰もが息を飲んだ。
驚かなかったのは虎太郎だけ。
「――――――遅れました」
「遅刻だぞ」
「すみません」
「ほら、さっさと席につけ」
教室に入ってきた少女に全員が凝視する。しかし、少女が机の隣を通り過ぎる時に必ず眼を反らす。
それが当然の行為だろうし、少女だって覚悟していた。
でも負けなかった。
真っ直ぐに前を向き、自分の席に向かって歩いて行く。
そこには昨日までの少女にはない、確かな何かがあった。
夢も希望もありはしない―――なんて事は無い。
向かい合う勇気があれば大丈夫。
諦めない根性があれば大丈夫。
虎太郎は教壇で少女を見守る。
少女は席につき、その席から見える壊れた教室を直す男の姿が見て、少女は小さく頷き、呟いた。
「手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に」
この言葉は少女が呟けば少女だけの意味になる。
それは誰も知らない、知る必要がない。
でも、誰かの意味になる魔法の言葉。
そんな少女を見て、虎太郎は出席簿を取りだす。
「それじゃ、少し遅いが出席を取るぞ」
名前を読み上げる。
生徒は何時もの様に答える。
アリサは何時もの様に答えないが、その代わりと言う様に面倒そうに手を上げる。
なのはは何時もの様に元気良く手を上げて返事をする。



同時刻、月村邸には忍はメイドに尋ねる。
「ねぇ、紅茶と珈琲、どっち派だと想う?」
「そうですね……煙草をお吸いになりますので、珈琲かと」
「そうね。あと、灰皿も用意しなくっちゃ……」
その日、月村邸の台所に珈琲豆が置かれた。
それを見て、忍は微笑んだ。
心の中で決めた事。
その中の一つ。
今度の家庭訪問には―――あのトンデモ教師に最高の珈琲を御馳走するという事。
子供の様な楽しそうな顔をする主を見て、メイドは自然と笑みを零す。
その笑顔は、昔に失った主の優しい―――可愛らしい笑みだからだ。



そして、出席簿の最後に書かれた名前を呼ぶ。
「――――月村すずか」
名前を呼ばれた少女は、元気いっぱいとまでは言わないが、それでも確かに自分は此処にいるのだと証明するように、
「―――――――はい……」
返事をした。

加藤虎太郎がこのクラスの担任になって五日後―――初めて全員の出席を確認した。






次回『人妖先生と狼な少女』





あとがき
なんか随分と長くなったな……まぁ、いいか。
とりあず題名を変えました。

人妖都市・海鳴

になりました。
まぁ、色々と今後の展開上で必要な措置なんですよね、これが。
アンケートについてですが、とりあえず【人妖編】が終わるまでは続けるつもりです、アンケート。
ちなみに、作者は適当なのでもしかしたら結局こっちにしました、な場合もあります。
さて、アンケートの為の追加情報です。
1と2の違いよっての補正がかかるリリカル勢について。

リィンフォースについて
1を選ぶとリィンフォースは多分普通のユニゾンデバイス。2を選ぶとリィンフォースは○○になります。

フェイトについて
1を選ぶと多分バルデュッシュが武器。2を選ぶと○○が武器になります。

上記の○○には両方とも漢字二文字が入ります。
正解者にはなんと、一票が二倍になるという特典が!!正解して好きなルートを選択しよう!!……まぁ、嘘ですけどね。

今後について
若干ネタばれなのですが、人妖編は多分六話~八話くらいで終わり。その後は『あやかしびと×リリカルなのは』から『あやかしびと×リリカルなのは×弾丸執事×クロノベルト』に変化します。
弾丸執事とクロノベルトはパラレルです。何故なら、あるキャラをかなり魔改造をしてぶち込むのでパラレルじゃないと出せないから。
ぶっちゃけ、刀子ルートの世界に放り込む事が不可能なのです。

と、此処まで書いて思ったのは……あれ?なんか最終的に1じゃなくて2になるんじゃね?という話になります。
でも、アンケートはしますよ。


PS、ネタばれ大好き!!



[25741] 【人妖編・第三話】『月村すずかと高町なのは』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/02/16 23:22
汝、孤独で在れ

汝、孤高で在れ

それは少女が聞かされた父からの言葉だった。
どうして孤独である必要があるのか、と尋ねると父は言う。
孤高で在る為、と。
どうして孤高である必要があるのか、と尋ねると父は言う。
孤独で在る為、と。
幼い少女はわからない。わからないが、わかったと頷くだけ。そうする事しか出来ないと知っているから。
父もそんな娘を理解し、大きく優しい手で娘の頭を撫でる。
孤独で在れ、孤高で在れ、その真の意味を父は口にはしない。
孤独で在れ、孤高で在れ、その真の意味を少女は理解していない。
ただ、わかる事はある。
この家に生まれた者はそういう者である必要がある。
孤独で孤高で――孤立する必要がある。
それがこの家のルールであり起源であり、そして生き様なのだろう。
少女は思い出す。
父の言葉を思い出す。
思い出して、少しだけ寂しいと感じる。








【人妖編・第三話】『月村すずかと高町なのは』







月村すずかを取り巻く環境に変化があった―――なんて事はない。
孤独とまではいかないが、すずかの周囲には相も変わらず人が居ない。教室で一人席に座り、一人で本を読み、一人で空を眺め、一人でお弁当を食べ、一人で勉強して、一人で帰る――――なんて事のない変わらない毎日だと思えるだろう。
だが、彼女が教室にいるという時点で今までの三年間で一番の進歩だともいえよう。だから、すずかにとってやっと小学校という世界が始まり、三年だというのに気分は未だに一年生なのだ。
しかし、それでも変わらないのが現実だった。
現在、一時間目の休み時間。その時間ですずかに話しかけようとするモノ好きはいない―――まぁ、正確に言えば、居なかったと言えるだろう。
唯一のモノ好きは虎太郎の手伝いで次の授業の資料を取りに職員室に行っている。その間は当然の如く孤独だ。周囲は楽しそうに話をしているが、ところどころですずかを見る視線を感じる。
畏怖の視線だとすぐにわかった。
あぁ、またか、とも思った。
普通に授業を受ける様になって一週間。一週間も経っているにも関わらず、現状は巧く進んではいないとすずかは思った。もっとも、しょうがないとも思える。なにせ、自分は三年以上をこういう機会を自分から溝に捨てて来たのだ。そのしわ寄せが此処にきて一気に来ただけだと考えれば良い。
「でも、寂しいのは寂しいんだけどなぁ」
小さく呟いても、誰にも聞こえないだろう。
しかし、すずかがそう呟いた瞬間、別の視線を感じた。
畏怖でもない、何とも言えない奇妙な視線。その視線は誰にも聞こえない程の音量で呟いたはずの声に反応したかの様に、同時に感じた。
「…………」
感じる、もの凄い視線を感じる。
「…………」
すずかは合えて気づかないフリをして外の風景に目を移すが、ガンガン視線を感じてはキツイと素直に感じる以外の感想は存在しない。
そして、少しだけ横目で視線の主をチラッと見る――――ガン見されていた。
思わずブルッと震えてしまうほどの凶眼とまでは行かなくとも、猛獣の如き眼光ですずかをじっと見る――いや、睨みつけている少女は確かにいた。
見られてる、すっごい見られてる―――と、すずかは表情に出さず困惑していた。
すずかを見る少女は誰か知っている。そして、どうしてそんな睨みつける様な眼で自分を見ているのかも知ってる。
そもそもの原因は自分にあるのだろう。それが如何に三年前の出来事だとしても、そしてそれが原因で自分が心を閉ざした経緯に関係あろうとも、結局は自分が悪い事には変わりはない。
少女は悪くない。
悪いのは自分であり、少女に非は無いはずだ。
そう、非はない。
小学一年の身で既に力を常人の数倍、速さは本気を出せば車並、動体視力は弾丸程度なら見て避けれる程度の身体能力を持っていた―――はずだった。
そもそもの原因はなんだったのだろうか。
思い出そうとしても思い出せない。
三年前だから、というわけではない。むしろ、忘れようとしているのか、それとも【忘れさせるように】なっているのか、すずかにはわからない。
しかし、唯一言える事は、あの事件は大事にならず終わりを迎え、学校側もあれ以上は突っ込んだ事を聞いては来なかった。
だから真相は誰も知らない。
あの場に居た三人の内、誰かが覚えているかもしれない。だが、今はどうでもいい。
視線はもう感じない。
見ると少女は何時もの様に頬杖をついて空を眺めている。
見た限りでは普通の少女。
しかし、その中身にどれだけのスペックがあるのかを知っている者は少ない。
このクラスで少女のスペックを知っているのは恐らくは、すずか一人だけだろう。
なにせ、あの事件。
勝者は存在しなくとも、圧倒的な大差はあったのだ。
空を呆と眺める少女。
やる気の無い顔で覇気の無い瞳で、何もかもが面倒そうな顔をしている金髪の少女。
アリサ・バニングス。
あの事件ですずかと喧嘩という言葉では生ぬるい行為をして、【すずかを圧倒した相手】でもある。
その少女は今日もやる気のない顔をしている。
何時もの様に、普段の通りに。
時々感じる、すずかを見る視線以外は、何時も通りだった。



四時間目、国語の時間。
虎太郎が何時もの様に授業のスパイスと称して脱線するのは何時もの事だった。しかし、生徒達にとってこの脱線こそが楽しみでもあるのだ。
「そういえばこの間、昔の教え子に合ってな……なんでも教育実習でこっちに来るらしい」
教育実習という言葉を知らない子供達は首を傾げ、その言葉の意味を知っているすずかはおずおずと手を上げる。
それだけで教室がザワッとなる。
内心、そんな驚かなくても、と泣きそうになるすずか。
「どうした、月村」
「その教育実習で来る人って、先生の昔の生徒さんなんですよね?」
「あぁ、そうだ」
「どんな人なんですか?」
どんな人なのか、と聞かれて虎太郎は腕を組んで考える。
「そうだなぁ……ぬいぐるみを抱えていたな」
メルヘンな人なのだろうか、と生徒は思った。
「それから小さいな」
小さい人なのか、と生徒は思った。
「それから――――三角関係だったな」
「加藤先生!!」
霙がストップをかける。
「授業中になんて話をしているんですか!?」
「ん、だから今度来る教育実習生の話を……」
「三角関係なんて子供に聞かせる話じゃないでしょう!!」
「そうは言うが、帝先生。恋愛云々は教育に関係あるかと聞かれれば当然あるでしょう。保健体育然り、保健体育然り、保健体育然り……ところで、高学年になったら私が保健体育の授業を受け持つんでしょうかね?」
「んなわけないでしょう……」
「そうか、残念です」
「加藤先生?今、聞きづてならない事を呟きませんでしたか?」
「いえ、気のせいでしょう」
こんな感じで授業の脱線と共に霙との漫才みたいなやり取りも生徒の楽しみの一つである。もっとも、こんな事をしていてちゃんと授業は進んでいるかと心配になって電話をかけてくる保護者もいるが、やる時とキチンとやる男な虎太郎。無駄話をしながらも授業スピードと内容は意外と他のクラスよりも濃かったりする。
ちなみに、この教育実習生は違う学校に配属されると知って、虎太郎が少しだけ残念そうな顔をしたらしい。
そして、そんなこんなで授業が終わりを告げるベル。
「よし、そんじゃ次の授業は体育だから、昼飯食べたらグラウンドに全員集合……あ、日直はボール出しとく様に」
そう言って「あ~体育なんて面倒だなぁ」と呟き、「面倒とか言わない様に」と言われながら虎太郎は教室を後にする。
そして始まった昼休憩。
生徒たちは家から持参してきたお弁当を持ち、思い思いの場所に足を進める。人気があるのは中庭と屋上。ポピュラーなのは教室。つまり、この三つはどう足掻いても人が沢山いる場所になり、一人でいる事が自然と目立つ場所になってしまうのだ。
すずかは鞄からお弁当を取り出し、しばし考える。
当然、すずかとしては誰かと一緒に食べたいというのが本音。しかし、すずかも一緒に食べようと声をかける勇気はない。ならば誰かから誘われるのを待つという方法もあるが、それはあまりにも確立は低い。
結果、ここ一週間はずっと一人なのだ。
可愛らしいお弁当をギュッと握り、
「大丈夫、大丈夫……」
と自分に言い聞かせる。
そして、意を決して顔を上げた―――だけで終わる。
結局、すずかは教室の隅で一人でお弁当の蓋を開ける事になった。
変わろう変わろうと考えてもそうは変われない。勇気を持って行動しようとしてもそうそう変わる事は出来ない。
あの日、虎太郎が色々な何かをぶち破った日から少しだけ勇気を持てた。だが、それは一歩踏みだす勇気であり、空白となった三年間をどうにか出来る程の勇気はなかった。
結局、自分は臆病者なのだ。
月村という妖であろうとも、小さな子供である事には変わりはない。だからすずかはこうして一人で食事をする事になる。
「―――――ここ、空いてる?」
「え?」
しかし、このクラスにはモノ好きが居る事を忘れていた。
すずかの了承を得ずに、そのモノ好きは勝手にすずかの前の席に座り、お弁当をすずかの机に乗せる。
「あ、あの……」
「わぁ、すずかちゃんのお弁当、すっごく美味しそうだね!」
「え、あ、あの……そう、かな?」
「うん、すっごく美味しそうだよ」
このモノ好きの名前は、確か高町なのはとかいう名前だった気がする。
「あの、高町さん」
「ん、なに?」
既に食事を開始したなのはに対して、若干引き攣った笑みを浮かべるすずか。しかし、こうして一緒に食事をしてくれるのは嬉しい、大変に嬉しいのだが、その理由が気にはなる。
「え、えっとね……」
しかし、聞こうにも聞けない。というより、なんで一緒に食べてるの、なんて聞いたら相手は不快な気分にならないだろうか、それとも何か勘違いしているのだろうか、それとも何か他の、とにかく何かあるのではないか―――と、色々考え過ぎてわけのわからない事になっているすずか。
そこへ、
「あ、その唐揚げ美味しそう。私のこれと交換しない?」
不意打ちだった。
オカズ交換―――な、なんてお友達イベント!!と心の中でファンファーレが鳴りだしたすずか。
「ダメ、かな?」
「ううん!!しよう、すぐにしよう!!なんなら高町さんのソレと私のお弁当全部交換しても――――――あ、」
気づけば、周りがすずかを見ている。ただでさえ、すずかと誰かが一緒にいるという光景が珍しいのもそうだし、急にテンションが急上昇したすずかの皆が呆然とした顔で見ている。
当然、すずかは自分の今の現状に気づき、ボンッと顔を赤く染めた。
「あ、あぅ……い、いいい、今のは……その……」
眼がナルトみたいなグルグル眼になるという奇妙な現象を起こしながら、なんとか言い訳を考えるすずかだが、なのははクスクス笑う。もちろん、それは馬鹿にした笑みではなく、純粋に楽しんでいるという笑みだと気づく。
「すずかちゃんって、面白いね」
「そ、そうかな……」
まだ顔が熱い。
「それじゃ、はい。なんでも好きなの取っても良いよ」
弁当箱を差し出すなのは。おずおずとそこから好きな物を取る。とりあえず、卵焼きとかを取ってみた。すずかもなのはに弁当箱を差し出し、なのははそこから唐揚げを取り、一口で食べる。
「―――――うん、美味しい!」
嬉しそうに言うなのはの姿に、すずかは少しだけ落ち着きを取り戻す。なんていうか、不思議な子だな、という感想を抱くのは勿論、見ているだけで楽しくなってくる。
なのはから貰った卵焼きを食べ、
「高町さんの卵焼きも美味しいよ」
そう言ってすずかは笑った。
この時、すずかとなのはは気づかなかったが、笑ったすずかの顔を見え男子女子関係なく全員が同じ事を思った。
皆が知っている月村すずかという少女は単純に【怖い】存在だった。しかし、それはあくまで知識であり経験ではない。誰もが気付くのに時間はかからない。
自分達は誰も月村すずかを知らない。
知っているのは月村だけ。
だから、すずか本人を知っているわけではない。
「あ、そういえば私。日直だからボール出しとかなくちゃ」
「……あの、良ければ……手伝うよ?」
「いいの?」
「うん……」
少しだけ変わっていく。
一歩踏みだす勇気は、その本人にとっては踏み出すだけの勇気だったのだろう。しかし、それは本人が知らない内に周りに変化をもたらす一歩とは思わないだろう。
少しずつ変わる。
本当に、少しずつ。
ただし、それの最後にはこういう言葉は付け加える事になる。

【良くも、悪くも】である。

すずかとなのは、二人の少女が楽しそうに話している姿をじっと見ている少女がいた。その瞳には他人には理解できない、理解を求めない不思議な何かがあった。
その瞳が抱くは、【良くも】なのかそれとも【悪くも】なのかは本人しかわからない。
ただ、見るだけ。
ただ、見ているだけ。
そして、少女は孤独にパンをかじる。
味気ない、匂いもない、ただのコッペパンを―――孤独に食べる。



体育時間である。
問答無用で体育の時間だった。
「あうぅ……」
情けない声を上げるのは、自他共に認める運動音痴、高町なのは。
運動前の柔軟体操で身体を折り曲げる運動で、
「高町さん……冗談、だよね?」
すずかは「お前、マジで?」な顔でなのはを見る。
それも当然、身体を折り曲げる以前に直角三角形の形を見事なまでに崩さないなのは。すずかが背中をグッと押せども押せども曲がりはしない。むしろ、これ以上押したら割れるのではないかと怖くなる程だった。
「うぅ、これがなのはの全力なのです……」
「でも、これは流石に無いと思うけど……」
「に、人間はそう簡単に身体は曲がらない様に出来てるんです!!だったら、すずかちゃんがやって見てよ」
「はい」
「あっさり出来た!?」
「こうやって、こうだね」
「それ、どうなってんの!?」
「だから、こうやってこうやって……あれ、いきすぎた」
「人型の限界を超えてますけど!!」
何やらコントみたいなやり取りをしている二人を見ながら、
「ふむ、仲良き事は素晴らしきかな、だな」
虎太郎は満足そうに呟く。反対に霙は驚いた様に、
「月村さんは……ああいう子だったんですね」
「知らなかったか?」
「はい……恥ずかしながら、知りませんでした。三年もあの子達と一緒に居るのに」
恐らく、霙も月村に関わるなという命令を忠実に守っていた者の一人なのだろう。虎太郎自身、それが悪いとは思わない。自分が行動できたのは校長の後押しはもちろん、自分の中のルールが他のルールよりも大きかった、それだけだ。
それが普通だとは思わない。
社会のルール、個人のルール。アンケートを取ればどちらが大切かなど一目瞭然だ。社会のルールは社会の一員である故に必要な物。しかし、個人のルールはあくまで個人という自我を守るだけのルールにすぎない。いわば、勝手な理屈でしかない。
「虎太郎先生は、凄いですね」
「凄かないですよ……ただ、気づいたらこうなってただけです」
「それはそれで凄いですけどね」
「一度、神沢に来て見れば良い。此処と同じくらい良い所ですよ。喧しい上に騒がしい。毎日がドタバタ騒ぎの面白い所ですよ」
恐らく、自分が己のルールに従って行動できるのは、あの街での生活があったのも一つの要因だと想う。
元々あった個人に、あの街の何かで上塗りする。上塗りされたソレは個人を壊す事なく、消す事なく、更に堅く、そして強くする。
「疲れそうですね」
「でも、それなりの価値はありますよ」
その結果が、今のすずかにはあった。
「えっと、ね。確かゆっくり呼吸しながらやると曲がるって本に書いてあったよ」
「ホント?」
「うん、本だけにホント」
「一気に胡散臭く感じた!!」
とりあえず、あんな寒いダジャレを口にする程度には成長した様だ。もちろん、ダジャレを言った本人は顔を真っ赤にして誤魔化す様になのはの背中をぐいぐい押す。
「―――――――ッ!!」
なのはの悲痛な叫ぶが木霊する。
「―――――元気だな、高町は」
「そうですね――――って言ってる場合じゃないですよ!?なんか口から泡吹いてますけど!!」
「おや、本当だな……やれやれ、だ」
どこか楽しそうに、虎太郎は頭を掻きながら言った。




一日の予定はすべて終了。
残るは教室の清掃だけ。今まで掃除なんて殆どしてこなかったすずかは当然の如くどうすればいいかわからない。箒と塵取りを持ちながら途方にくれていた。
「すずかちゃん、私達はこっちの担当だよ」
「あ、うん……」
なのはに手を引かれながらすずかは思う。
まるで友達みたいだ、と。
もちろん、高町なのはという少女がどういう子なのかは知っている。といっても、知っているという程でもないかもしれない。
まず、すずかがどうしてなのはを知っているのかと言えば、それは三年前の事件に繋がる。
どうやらあの時からなのははすずかと同じクラスだったらしい。しかし、すずかは最初の頃はまったく授業に出ていなかった上になのはの事を知らない。そして、すずかが漸く授業を受ける様になった時に、なのははしばらく学校に姿を見せなかったらしい。
そしてあの日。
すずかはなのはを知った。あの日の、あの事件に巻き込んだという事で、その名前を知っている―――そして、それだけだ。
床を掃くなのはを見ながらすずかは思う。
自分は高町さんの事を何も知らない。話す様になったのは最近だし、向こうが話かけてこない限りはロクに話もしない。
でも、話しかけてくれるのは嬉しい。嬉しいのだが―――怖くはないのだろうかと思ってしまう。
月村という名前はもちろん、彼女は三年前の事件の当事者でもある。なら、自分の力の事なんてクラスの誰よりも知っているはず。はずなのに、まるでそんな事件の事なんてこれっぽっちも覚えていないかのように振舞う姿に疑問は残る。
「すずかちゃん、塵取り塵取り」
「………うん」
どうして、どうしてこの子は自分に関わってくれるのだろう。感謝はしている。しているが困惑もする。
わからないのだ。
本当にわからない。
この高町なのはという少女はわからない。
虎太郎という人間がどういう人間かわからない時と同じ様に、今は彼女の事が分からない。
でも、そのわからない事に不審な事を思う事はなかった。
だからこそ、わからない。
本当に、わからない。
気づけば掃除が終わり、帰りのホームルームが終わる。
皆が友達と帰り、一人、また一人と教室から生徒達が消えていく。その中で最後まで残ったのは当然、すずかだけだった。
「…………」
夕焼けは少しだけ暗い。でも、綺麗だった。綺麗だから夕陽に照らされて見える自身の影を不気味とは思わない。
この身に宿る血はこの場所にいる誰とも違う。しかし、誰とも違う事はそれほど関係が無いと想う様になった。
教室の窓から見えるのは夕陽とグラウンド―――そして、すずかが壊した教室の壁を直す男。
名前も知らない壁を直すオジサン。
「手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に」
知らず知らずの内に呟く。
「何それ?」
「ヒャッ!?」
突然声をかけられ、驚くすずか。
「あ、ごめんね……」
そこにいたのは、鞄を背負ったなのは。何時の間にいたのか、まったく気がつかなかった。
「驚かせるつもりはなかったんだけど……すずかちゃんは、帰らないの?」
「帰るには帰るんだけど」
迎えが来るのだ。
基本的に登校時、下校時にすずかは自宅の車を使う。誰とも登校も下校もしないと言う事は、常に一人という事だ。月村という一族には敵が多い。それなのに常に一人というのは危険すぎるだろうという事で自宅から迎えの車が来る。
無論、毎日がそういうわけではない。
気分が乗らない日は当然あるし、一人で考え事をしたい時だってある。そういう時は早く帰ってくる事を条件に一人で帰る事がある。虎太郎が月村邸を訪れた日も、そういう日だった。
しかし、今日は違う。
今日は一人で帰るではなく、迎えが来る。
「高町さんは、帰らないの?」
「日直だから、虎太郎先生に日誌を出してたの」
「そっか……」
虎太郎、加藤虎太郎。
彼のおかげで自分は此処にいる。
不思議な人だと思った。外から来たと言っても、あそこまでトンデモな行動をする者がいるとは思わない。あれでは外の人が全員あんな感じだと誤解しそうになる。
だが、そのトンデモなおかげで変わった。
すずかも、姉の忍もだ。
「…………ねぇ、高町さん」
だから、少しだけの勇気が生まれた。
小さな心に小さな身体。そこから生まれる小さな勇気。怖くても我慢するのではない。怖くても頑張るのが勇気だと想う。
すずかは立ち上がり、なのはを見る。
「わ、私ね……その、あ、あの……」
自分でもわかる。今の自分の顔は夕陽みたいに真っ赤になっているだろう。それでも言いたい事がある。誤魔化さず、恐れず、何度も何度もどもりながらも進める。
「…………」
そして、そんなすずかをなのはは何も言わず、待つ。
相手が何かを伝えようとしている。その相手は自分だ。なら、待つ。顔を真っ赤にしながら、何度も何度もどもりながら、一言一言を絞りだす様に。
「全然、が、学校にこ、来なかった……けど、ね……」
「…………」
「あ、学校には来てた。う、うん、来てたんだよ?……で、でもみん、なとは全然……ぜ、全然、一緒じゃな、なかった」
「…………」
「私が、私が……月村でも、ううん、月村だから……えっと、だから、その……」
駄目だ。
言葉がうまく出てこない。
頑張ろう、頑張って言葉にしようとするたびに身体が硬くなり、嫌な汗が流れてしまう。このままじゃ相手が呆れて帰ってしまうかもしれない―――そう思ったら涙が出そうになった。
「…………えっと、ね……一人、じゃなくって……あ、う……その……」
情けない。
こんなにも自分は情けないのか。
もう、言葉を続けられない。
絞り出す事も出来ない。
立ち上がった足は震え、眼はなのはから背けて、身体の力を失くして椅子に座りこんでしまいそうになる―――その動作を止めたのは、なのはだった。
小さな手が、小さな手を掴む。
「―――――あ、」
ただ、笑って。
自分は呆れない。
自分は蔑にしない。
自分は馬鹿にしない。
自分は、すずかが言いたい事を言うまで、ずっと此処にいると―――その笑顔は言っている。
震えが止まり、背けた涙を溜めた瞳を戻し、手に伝わる他人の温もりを握る。
「―――――――って、ください」
言える。
きっと言えるはずだ。
だって知っている。
この一週間、このモノ好きな少女は一人だけ自分に普通に接してくれたから。月村である自分、クラスに顔を出さない自分、周りを拒否していた自分、そんな情けない自分だったにも関わらず、まるでずっと一緒にクラスメイトだったかの様に接してくれた。
だからだろう。
「私と……」

友達が欲しい、ではない。

友達ができたらいい、でもない。

月村すずかは高町なのはに、自分の意思を、伝える。



「友達に、なってください……!!」



言いたかったのはそんな簡単な言葉。そして自分の足で踏みだす勇気の言葉。唯の他人が大切だと想えて、大切な人だと思えたからこそ、望むだけの言葉ではない。
これは月村すずかが望み、踏み出した言葉。
言いたかった言葉。
三年間、一度だって言えなかった言葉。
三年前、入学式の前日から考えていた言葉。
三年後、やっと言えた言葉。
少女の勇気の一言を受けた少女は、握った手に微かな力を増して、
「――――なのは」
と言った。
「なのはって呼んで」
と言った。
「お友達だもん……名前で呼んでほしいな」
と言った。
その瞬間、すずかの中で高町なのはを【高町さん】と呼ぶなんていう選択肢は消え去った。
「なのは、ちゃん……」
名前を呼ばれたなのはは、嬉しそうに微笑む。それに釣られて、すずかも微笑む。
夕陽に照らされた教室で、小さな出会いが始まった。

小さく、そして最後まで続くハッピーエンド無い、エンドがない関係。

それから数分後。
月村邸の電話が鳴り、メイドが出る。
そこへ外行きの服を来た忍が現れる。すずかを迎えに行くついでに、今日は外で食事でも、と考えていた。
電話を受けたメイドは驚く様な表情を浮かべ、それから一瞬だが嬉しそうな顔を浮かべて、すぐに元の表情に戻る。
「えぇ、はい……わかりました。それでは、なるべく早く―――――いえ、少しだけ道草をしてから、帰ってきてください」
なんだそれは、と忍は首を傾げる。
これから食事に行くというのに、どうして道草をして帰って来いと言っているのだろう。
受話器を置き、メイドは忍に言う。
「あの……すずか様からなのですが」
困惑している、というわけではない。
普段は冷静な表情の下に火山があり、その火山が今にも噴火しそうなのを無理矢理に抑え込んでいる、という奇妙な表情をしていた。
「すずかが、どうかした?」
「今日は迎えは要らない、と」
「……へ?」
どうしてまた、そんな事を―――と聞く前に、メイドの口からこんな言葉が出た。

「友達と一緒に帰りたいから……だそうです」

その言葉で十分だった。
忍は幸福からくる溜息を吐き、それからメイドに抱きついた。
この主には珍しい、最近ではめったに見ない姿にメイドは困惑しながらも、気づけば自分も微笑んでいる事に気づく。
今夜は御馳走にしよう―――そうメイドは思った。










許さない。
許せない。
許せるはずがない。
許すなんて選択肢は存在しない。
許す事はどんな罪悪よりも最低で最悪な悪の根源であると口にしよう。
許さないと口にする。
許さない以外は口にしない。
アレに幸福なんて認めない。
アレが幸福に誰かと過ごすなんてあり得ない。
アレは化物だ。
アレは人間にも人妖にも化物だ。
だから―――――殺す。
殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。
殺意は常に一つの意思を持ち、そして意思は一つの刃となり、そして全てはあの化物に叩きつける存在として在り。
少女はそんな妄念を抱きながら、歩き出す。
目の前には高町なのは。そしてなのはの名前を恥ずかしそうに口にする月村すずか。二人は少女の存在に気づかず家路を歩く。
海鳴の街は、名の通り海が傍にある。二人が歩いているのは防波堤に面した道路。昼間なら釣り人が釣り糸を垂らしている時間だが、夕方にもなれば家路を歩く時間になるだろう。
車は当然の様に通るが、この状況を不審に思うドライバーなどいるはずがない。
前を歩く少女が二人、その後ろを歩く少女が一人―――この状況は普通で平凡。何一つとしておかしな所など在りはしない。
これは復讐である。
月村という家に対する復讐以外の何ものでもない。
少女の口元がニヤリと歪む。
歪んだ笑みを持ったまま、腕に力を込める。
この異能を擁した身体は人を超えている。しかし、相手は月村。化物の中の化物だ。故に油断はできない。油断など出来るはずがない。一切の油断かく的確に確実に滅するべし。
相手は気づかない。
ゆっくり、ゆっくりと歩む少女。
歩幅は変わらない。
速度も変わらない。
この二つは変える必要がない。
一瞬で、この十メートル以上の距離を零にする足が自分にはある。
また、少女の口元が歪む。
金色の髪が夕陽に照らされ、キラキラと綺麗な反射をする。が、そんな綺麗とは程遠い笑みを浮かべる少女は誰が見ても、人とは呼べないだろう。
歪んだ笑みは怪物の証。
月村すずかを化物と少女が呼ぶのなら、それ対して狂気を振るう己は同じ存在だと想うべきだと、誰も教えなかったのだろう。
教えられた事など、在りはしない。
孤独である、孤高である、それ故に己だった。
誰も自分と話をしてくれない。誰も自分の事など見てくれない。なら、自分から自分を必要とする事に全てを抱き、そして他を利用するだけ―――それが少女の中の唯一の自己防衛だった。
気づけば、少女は利用される側にいた。
利用され、そして必要とされていた。
それが己。
孤立して孤高する者。
「―――――殺す」
唯一の二文字。
己を現す二文字。
燃える様な殺意を持って、全てを惨殺する。
あの化物も、そしてその化け物に笑顔を振りまく人間も。
何故、少女が恨むのか―――そう植え付けられたから。
何故、少女は許せないのか―――そう植え付けられたから。
何故、少女は月村を殺すのは―――そう植え付けられたから。
そして―――少女は駆ける。
前を歩く少女に向けて走り、狙うはその首一つ。
一瞬で斬殺するべきだろう。
飛び上がり、腕を振り上げる。
二人は気づかない。
笑顔を互いに向け合っている。
その顔に、斬殺の一刀を振り下ろす。





「――――――――ん?」
すずかは後ろを振り向いた。
誰も無い。
「どうしたの、すずかちゃん?」
「誰か、居た様な気がしたんだけど……」
「気のせい?」
「うん、気のせいだよ……あ、それでね、なのはちゃん」
二人は歩き出す。
何事も無かったかのように、歩き出す。それから二人は他愛もない話をして、次の休みになのはがすずかの家に遊びに行くという約束をした。
ただ、それだけ。
少女達にとっては、それだけ。






少女の武器は己の腕だ。
腕を刃の様に変質させ、その刃で相手を斬殺するという手法。
少女という見た目は勿論、一瞬で得物を消す事が出来るという利点あり、街中での暗殺という分野にはそれなりに需要はあったのだろう。
だが、所詮は需要が在った程度でしかない。
金髪の少女の斬撃がすずかに向かった瞬間――――それは現れた。
少女の眼に映ったのは赤い瞳。
少女の眼に映ったのは金色の髪。
少女の眼に映ったのは自分と同じ制服。
少女の眼に映ったのは、

「―――――邪魔しちゃ駄目でしょう」

斬ッという空気を切り裂く音は、襲撃者の爪からの斬撃。
すずかの脳天に叩きつけられるはずの刃を―――切り裂いた。
「―――――なッ!?」
刃を刃で切り裂かれる、という光景を目にした少女は当然混乱するだろう。こんな事は今まで一度もなかった。なかったのだ、あり得ないのだ―――ただ、そうだっただけだというのに、少女は信じられないという表情を浮かべた。
すずかが何かに気づいて後ろを振り向く。
その寸前に襲撃者の少女の首を乱暴にしめ上げ、その場から跳び上がる。
当然、すずかは何もない場所を見る。
それがすずかの今日の出来事の終わり。

後は、その裏であった場面だけあれば十二分。

襲撃者は少女の身体を森の中に投げ込む。
少女は受け身を取ってすぐに立ち上がる。
目の前に立っているのは、自分と同じくらいの少女だった。
同じ様に金髪で、同じ様に学校の制服を着て―――いや、違う。
眼の色が違う。
血の様に濁った赤い瞳。
知っている。
自分があの色を持つ一族を知っている。
「ど、どうして……」
「どうして?何が、どうしてなのかしら……」
少女はうろたえ、少女は鼻で笑う。
二人の少女。
暗殺者の少女と襲撃者の少女。
「アレは、アレは月村だ」
暗殺者の少女は言う。
「月村は敵だ!私達の……そしてアナタの敵なはずだ!!」
その叫ぶに襲撃者の少女はまたも鼻で笑う。
「勘違いしているわね。月村はバニングスにとっての敵、かもしれない。まぁ、あっちはどうかわからないけど、こっちもそこら辺は曖昧なのよね……というより、敵だと味方だの、そういう方向に周りが勝手に話を進めてるだけなのよね、これが」
そして、一呼吸置いて襲撃者の少女は答える。
「――――私は別に月村に恨みは無いし、敵だとも思ってもない。当然、アンタ等が月村をどうしようとも勝手にしなさい」
「なら、どうして邪魔をする!?」
赤い瞳は天を見据える。
「どうしてって言われてもね……知らないわ」
赤い瞳が映し出すは―――満月の光。
「今日はそういう気分だったのかもしれないし、月の光に惑わされただけかもしれない」
月光に照らされ、赤い瞳がギラリと光る。
「ところで、なんでアンタは月村を狙うわけ?」
「それが私の仕事だからです」
「なら、そんな仕事をさっさと止めなさい。はっきり言って、時間の無駄だし、アンタの為にもならないわ」
暗殺者の少女は固まる。
「何故、何故アナタが否定する?」
「それこそ何故、よ。どうして私が否定しないと思ったの?」
「おかしいです……アナタはおかしいです」
吠える声には非難の色が混ざっている。
「今日だってそうだ。アナタはずっと月村を見ていた。そして私が何かしようとする度にアレの気を引く……そうだ、今日だけじゃない。ずっとだ、私がこの仕事に入ってからずっと!!」
「私の縄張りで勝手な事をしないでほしいだけ……というより、人死になんてもっての他よ」
「人死に?はは、人死にと言いましたか?おかしいですね、人なんていない。人妖は居ても人はいない。そして、アレはそのどちらでもない!!」
暗殺者の少女の考えはこの時点ですでに固まっている。
「――――私の依頼主は誰か、知っていますか?」
「さぁ?」
「アナタの、お父上ですよ」
「へぇ、そうなんだ」



「お父上の判断に異議を申すつもりですか―――アリサ様」



襲撃者の少女、アリサは憮然とした表情を崩さない。
「それで?だから何?アナタがパパが差し向けた刺客で、その刺客の邪魔をしたのが娘の私――――それが問題なのかしらね」
「問題ですよ。アナタは敵を庇った。いや、守っている」
「敵だと思った事は別にないけど?」
「なら味方だと?」
敵か味方か、そう言われてアリサは考える。
海鳴は月村とバニングスの二つが支配している。同時に覇権争いもこの二つが争い、それに賛同するように別の派閥が入ってきているのも事実。
戦争状態なのだろう。
小さな戦争であり、静かな戦争であり、冷たい戦争であり、無言の戦争。
その最大勢力にして敵対している勢力の娘が同じクラスに在籍しているのには、当然理由があるのだろう。
その理由は知っている。
だが、関係はない。
「一つだけ教えてあげるわ」
戦争になんて興味はない。
派閥も興味がない。
どちらの家が滅ぼうと興味がない。
「どうして私があの子を助けたのか、その理由はシンプルよ」
ニヤッと嗤うアリサ。

「―――――私の【クラス‐群れ‐】に手を出されて、何もしないわけないじゃない」

それで十分。
暗殺者の少女が動くには十分だった。
「アナタは裏切り者ですね、お嬢様」
動いた。
先程よりも数段早く、アリサの背後に回り込む。無防備に晒されたアリサの首めがけて腕に生やした刃を振り下ろす。
「そしてもう一つ」
刃は空を斬る。
アリサの姿はそこにはなく、声は頭上より来襲。
「あの子を殺せってパパからの命令らしいけど……あれ、嘘でしょ?」
木の上に腰掛けているアリサを視界に捉え、跳び上がる。身体能力は並の人妖よりも格段に上だ。なにせ、そういう風に調整されたのだ。
身体から生える刃は木の一本など軽く切断する。しかし、またも目標には当たらない。
「あぁ、別にパパを信頼してるってわけじゃないから。ただね、アンタがパパか言われて来たのなら、当然知ってるはずなのよ」
今度は真下。
アリサは少女を見上げる。
「私が邪魔するのを知っているはず。知っている上でこういうはず―――【あのじゃじゃ馬が邪魔したら力ずくで排除しろ】ってね。つまり、アンタが私にパパからの命令だ云々の下りは必要ないのよ、普通ならね」
「ならば、どうする!!」
アリサめがけての振り下ろす斬手。
「バニングスの力で私達を止めるか?」

「私の力で、止めるわ」

貫手の要領で繰り出された一撃は、あっさりと避けられる。この時点で少女は気づく。目の前にいる少女は自分と同じレベルの人妖であると。
しかし、それは勘違いだ。
レベルが違うのだ。
「ただの小娘風情が……!!」
「酷い言われようね、傷つく―――わっとね!!」
グルリとアリサの身体が回転し、少女の側頭部に衝撃。
次元が違うのだ。
「私だって女の子―――よっと!!」
続いて脳天。
「これで――――フィニッシュ!!」
最後の衝撃は目の前が真っ暗になった。
最初の一撃は回し蹴りで少女の側頭部を撃ち抜き、続いて踵落しで脳天直撃。最後のフィニッシュは両足を顔面に目がけて打ち出したドロップキック。
とても少女が繰り出す技ではない様な技を繰り出し、全てを暗殺者の少女に叩きつけたアリサはスカートを抑えながら、ふわりと着地。
少女はその場に倒れる。
レベルも次元も違う。
これがアリサと少女の違い。
「…………あら、やり過ぎたかしら?」
少女の頬を叩いてみるが反応無し。死んでは無いが、このままじゃ死ぬかもしれない。
「自業自得―――って割り切っても良いんだけど……」
とりあえず救急車くらいは呼んでやろうと携帯を取り出し、ボタンをプッシュする。
その背後で、
「あ、もしもし」
少女がゆっくりと起き上がり、
「実は重傷の女の子がいるの。悪いけど、さっさと来てくれる?」
両の手を刃と化し、歪んだ笑みでアリサを見据える。
殺す。
邪魔者は殺す。
「えっとね、住所は―――――」
「キャッシャァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
少女が背後から斬手でアリサに襲い掛かり――――

「ちょっと五月蠅いわよ」

ゴギッと少女の顔面にトドメの裏拳が突き刺さった。


数分後、知らせを受けた救急隊員が到着した時、そこには気絶した少女が一人。
身体に外傷は見られないが、頭部全体に酷い傷の跡があった。特に酷いのが顔面。顔に手形がつく程の威力で打ち込まれた裏拳の型がはっきりと残されていた。
誰が犯人なのか、そして誰かが救急車を呼んだのかもわからない。
何もかも、わからないままだった。






「――――煙草臭い」
開口一番、アリサは虎太郎に向けて言った。
「もう慣れたよ」
「私は慣れたくないわね」
アリサにとって虎太郎の身体に染みついた匂いは害悪以外の何者でもない。なにせ、彼女の嗅覚は言葉通りの【犬並以上】なのだ。
他の人間からすれば気にならなくとも、アリサにとってはそうじゃない。
ぶっちゃけ、学校に来ないでほしいと想っている。
「それで、何の用?」
「用がなくちゃ話かけちゃ駄目か?」
当たり前だ、と視線だけで答えてやる。
今は昼休み。
アリサは屋上のベンチに腰掛け、一人コッペパンを食べていた。
その視線の先にはアリサのクラスの教室がある。そして、その中には仲良く机を並べてお弁当を食べている少女が二人。
「何時も一人で食べてるのか?」
「…………」
とりあえず無視すると決めた。
「おいおい、無視は止めろよな」
「煙草臭い人は嫌い」
「そうかい……なら、煙草臭い大人は退散しますかっと」
そう言ってアリサから離れていく虎太郎。
だが、ふと思い出した様に足を止め、
「そうそう。一つ言い忘れてた」
アリサは無視して教室をじっと見る。



「―――――あんまり危ない事はするなよ、女の子なんだから」



その言葉にバッと虎太郎の方を見る。だが、虎太郎はすでに屋上にはいなかった。
「まさか、見られてた?」
昨日の事を思い出す。
あの場に自分とあの暗殺者以外の気配はなかった。
なのにどうしてあの男は昨日の事を知っているのだろうか。
まて、そう言えばあの暗殺者は言っていた。
【今日だけじゃない】と。
アリサが暗殺者の少女に気づいたのは昨日だった。そして、気づいた昨日の内に邪魔をした。だが、あの少女の話からすればずっと邪魔をした事になっている。自分が、だ。昨日気づいた自分が、邪魔した事になっている。
つまり、アリサよりも早く気付いた誰かがいる、という事なのだろう。
「…………まさか、ね」
あるはずがない、とアリサは呟く。
苦笑して、座っているベンチに寝っ転がる。
今日は満月じゃない。
昨日は満月だった。
だから気づけた。
だから何となく動いた。
気づかなかったら、行動する気はさらさらなかった。
あれは偶然だ。
偶然、満月の日で、偶然気づいた、そして偶然出会った、それだけ。
「孤独であれ、孤高であれ……か」
身体を起こし、もう一度だけ教室を見る。
楽しそうに話している二人。
昨日よりもずっと仲の良い二人。
その二人を見て、アリサは小さく呟いた。

「……………………良いなぁ」







次回『人妖先生と狼な少女』




あとがき


ダイ・ガードおもしれぇぇぇぇええええええええええええええええええ!!


というわけで、アリサ無双な話になっちまいました。
この世界での現在のパワーバランスは

虎太郎=土木のおっちゃん>超えられない壁>>アリサ>>人妖少女>すずか

となっています。


アリサお嬢様の設定。
先祖妖怪【人狼】
能力・1【月の満ち欠けによって身体能力が上下する】
新月なら普通の少女。満月なら今回な感じ。

すずかお嬢様の設定。
先祖妖怪【吸血鬼】
現在は驚異的な身体能力のみで、能力は無し。


なのはさんの設定
全部不明


これが現在の設定です。
ちなみに、あくまで現在です。今後に変化がありますね、きっと。
そんなお話の次回はアリサお嬢様のお話の続きですね、多分。



[25741] 【閑話休題】『名も無き従者‐ネームレス‐』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/02/20 19:45
――――退屈なとき、もしくは少し疲れたときには、異なる世界の話をしよう。

我々とは森羅万象の法則が異なる世界、違う者達が生きる世界の話を。

しかし、どこかで繋がっている遠くもあり、近くもある世界の話を。







【閑話休題】『名も無き従者‐ネームレス‐』








「――――――君、留年ね」
小さな老人はあっさりと言った。
小さな老人は確かに小さい。人間というには頭身が短く、まるで未来から来たロボット様な頭身をしている。もっとも、未来から来たロボットというよりは、ゴブリンという種族に近いだろう。
しかし、そんな人間がいるはずがない。これは現実の話だ。お伽噺ではない。子供が夢見る様な、寝る前に母親から聞かされる様な世界の話ではない。
この世界はそんな世界ではなく、それに似てはいるがもっと凄惨であり、現実的な世界。
ファンタジーでありながりリアルな世界。

伽話の住人が住まう、リアルな世界だった。

そんな世界でゴブリンの老人の口から出たのは【留年】という実にリアルな言葉だった。そして、それを贈られた者の口はあんぐりと開かれ、
「あの、すみませんが……もう一回、言ってもらえますか?」
「君、留年。もしくは退学だね」
「なんでッ!?」
ゴブリンの座っている席はその体格に似合わない大きく高級感あふれる机だった。そして、その周囲にある者はソレに相応しい見事な装飾品の数々。まるでこの部屋の主が偉い者だと言わしめるような部屋だった―――現実問題、偉いのである。
「私頑張ってましたよね?世の為、人の為、時にはリザードマンとか巨人とか、この世界に住まう全ての者たちの為に誠心誠意頑張ってましたよね!?」
「それはそれ、これはこれ。知ってるかね?良い人だって留年するし、悪い人だって卒業する。学歴に良いも悪いもあるというのは、成績だけ……つまり、良い人である必要は綺麗さっぱりないのだよ」
「それが聖職者の言う事ですか!?」
「それも勘違いだね。此処に聖職者はいない。居るのは一流の執事を育てるという念願をもった者達だけだ。此処は普通の学校では無いのだよ」
そう、ここは普通の学校ではない。
【白手の学院‐フォレン・ソール‐】と呼ばれる養成所である。学校というには些か重々しく、それでいて神聖な雰囲気がある領域だった。この場所ではゴブリンの言う様に一流の執事を育てるという目的があり、この場所を卒業した者達は皆、それぞれの主の元へと進むのだ。
しかし、それを阻む魔法の言葉がある。
【留年】である。
「確かに君の成績は良いよ――ただし、戦闘だけ、ね」
「執事たる者、主を守る為に戦いはつきものです」
「そのせいでマナーとか一般教養とかを無き者にしていいのかい?君が実習で行った屋敷からの請求書を目にした事はあるかね?」
うッと言葉に詰まる。
「いやはや、随分と暴れてくれたものだね……なになに、とある芸術家が残した作品を掃除その際に破損。それを隠す為に燃やそうとしたら屋敷の一部を炎上。消火しようとして近くにあった樽に入った液体をぶちまけたら大爆発――――君、実は聖堂評議会の手先かね?」
「そ、それはですね……まぁ、アレですよ、アレ」
「何がアレ、なのかは聞きたくない。正直、あの時点で君を退学処分にしてもよかったんだが、君のご両親、そしてご両親が仕える【英雄の末裔‐ミスティック・ワン】の頼みゆえに君を此処に残した……私としては、さっさと退学にしたいんだがね」
泣く子も黙らせる勢いで睨むゴブリン。
それを受けた者は額から冷や汗を滝の様に流して眼を反らす。
「だが、そんな君にも我々はチャンスを与えた。失敗は誰にだってある。何もかもを最初から完璧にこなせる者なんて一人もいない」
その言葉を待ってましたと言わんばかりに食いついた。
「そ、そうです!!だから私は粉骨砕身の想いで頑張りました!!」
「ほぅ、粉骨砕身の想いで訓練教官を何人病院送りにしたんだね、君は?」
「それはあっちが弱いだけで……」
「君の戦闘訓練は既に終わっているにも拘らず、暇で身体が鈍ったという理由で新入生の訓練に乱入、戦闘、そして教官含めて総勢三十人を病院送り――――ちなみに、その内の半分は此処を去ったんだけど?」
最早言い訳は出来ない。
「す、すみませんでした……」
素直に頭を下げても、ゴブリンの顔に許すという二文字は浮かばなかった。
「問題児なんていうのはね、普通は何人もいるよ?そういう者達を我々は誠心誠意つきそい、そして卒業させてきた。でもね、君はもう問題児っていう枠組みか逸脱してるんだよね、これが」
「私は頑張ってるんですけど」
「頑張ってるのはわかるよ。でも、頑張って良い成績を出せるのも別の話だ。いいかい、我々はネームレスを育てる者だ。それ故、ソレに相応しくない者を卒業させるなんて事は絶対に出来ない。そして、そうならない為のチャンスを君に何度も何度も何度も何度も与えた――――それも限界だがね」
留年、もしくは退学。
その者に着きつけられたのは、そのどちらかだった。
「マジですか?」
「マジもマジ、大マジさ。こればっかりはどうしようもないね。というか、君みたいな執事以下の子を外を此処から卒業させる事は不可能だよ」
「そこを何とか!」
「何とか出来るってレベルじゃないよ、これ」
その場に崩れ落ちた。
「りゅ、留年……もしくは退学……」
この世の終わりだと乾いた笑みを浮かべたのは、女だった。少女というには年齢は上、しかし女性というには些か年齢が低いだろう。実際、今年でようやく十八になった彼女は世代的には立派な大人に含まれる。しかし、彼女を大人だと認めないのは、ひとえに彼女自身にある問題のせいだろう。
「あのね、ガープリング君」
ガープリングと呼ばれた彼女は、力なく項垂れたままだった。
「どうしよう……義母さんに怒られる。あ、義父さんにもだ。あ、あははは、どうしよう。来月のお小遣いも絶対に半分にされる。いや、それだけじゃない。もしかしたら全額カットかも!!」
「君、その歳になってまだお小遣いもらっとるのかね」
「義父が厳しいので……アルバイトも駄目だって」
「まぁ、それは正解だね。公僕の娘がアルバイトで破壊活動してますなんて、冗談にしてはキツイよ、これがね」
身も蓋もない話だった。
元々、彼女が此処に入る事だって両親は反対していた。曰く、お前みたいなガサツな奴が執事なんて出来る筈がない、らしい。その際、義母だってメイドじゃないか、それなら自分にだって出来る、と断言した時、義母は小さな身体で娘にドロップキックを炸裂させた。
義父の場合は特に何も言わなかったが、自分の口からやりたいと言ったのなら責任は自分で持て、と鋭い目で言われたのは今でもトラウマだ。あの人は普段は結構ぶっきらぼうのせいで色々と誤解されがちだが、強ち誤解というわけではないらしい。
そして、その二人を説得して入った此処で―――留年である。
「が、学園長~」
「泣きついても駄目。君が悪いんだよ?」
「頑張る生徒に向かってそれは無いでしょう!?」
「頑張るだけなら誰にも出来るの。問題なのは頑張って結果を出す事だよ。頑張れば報われる、評価されるなんて甘い事は社会じゃ無力以外のなにものでもない」
苛烈な一言に完全に撃沈した彼女は、蹲るどころか倒れ込んだ。
「うぅ、ごめんなさい。天国のママ。アナタの娘は世知辛い世の中を代表するクソッタレな学園長に打ちのめされています」
「ちゃっかり私の悪口言ってるね、君」
「死ね、チビゴブリン!!」
「あ、カチンときた。このクソ娘、よりにもよって学園長の私に向かって死ねってか?やるよ?本気でやっちゃうよ?ボッコボコにしてR18みたいな目に合わせるよ、マジで」
「ふんっだ。そういう作品じゃそういう役割しかないような種族の癖に、調子に乗って学園長なんかやってんじゃないわよ!!」
「カチーンときた。私のみならず、私の種族にまで喧嘩売ったね?いいよ、買おうじゃないか。買って色々と掲載出来ない様な内容にしてやるわ!!」
「上等!!」
「小娘が!!」




数十分後、学園長室は見るも無残な廃墟と化していた。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ…………」
荒い息を吐きながら、学園長のゴブリンはボロ雑巾の様に転がっている彼女の上に腰かけていた。
「この娘っ子。頭は空っぽの癖に戦闘能力だけは高いからタチが悪い」
「む、無念……」
しかし、どうしたものかと学園長は考える。
確かにこのまま彼女を退学にしてやってもいい。しかし、それでも頑張ってはいるのだ。不真面目なわけではなく、真面目に頑張って失敗しているのだ。幾ら頑張るだけでは足りない、意味が無いと言っても、それを評価しないわけじゃない。
悪い子じゃない―――それが厄介だった。
「…………ガープリング君、そんなに留年は嫌かね?」
「退学も嫌です」
でも、もう駄目だと彼女は諦めていた。しかも、あろうことか学園長にまで手を上げたてしまったのだ。留年どころか退学は確実だろう。
「―――――君の様な子は嫌いではない。だが、誰しもがそうであるわけではない。君を認める者もいれば拒む者とている……そんな中に君を放り出すのは早いと思ったからの留年だ。まして退学なんて以ての外だろうね」
「そう言ったのは学園長でしょうに」
「だからこそ、だよ。私は君の卒業してほしい。君だけじゃない。ネームレスを目指す者達を一人も例外なく卒業させ、羽ばたかせてやりたいというのが本音だ。だが、現実問題としてそれは難しい」
「―――――ごめんなさい」
力なく、彼女は謝罪の言葉を口にする。
「謝らんでいい。我々の力の無さの原因だ」
「でも……駄目なんですよね」
「難しい、というだけさ」
ゴブリンは指先を動かすと、まるで魔法を使っているかのように一枚の紙が飛んでくる。その紙を手に取り、自分が椅子代わりにしている彼女に見せる。
「これは?」

「留年も退学も嫌な君への救済処置だよ」

「救済!?」
ガバッと立ち上がる彼女。
「おっと……まったく、落着きの無い子だね、君は」
「救済って、どういう意味ですか!?」
「だから、救済処置だよ。元々は君宛の何だが、ちょっと難しいから君には見せなかったんだよ」
自分宛という言葉に彼女は首を傾げる。
「それを送って来たのは君の師匠からだ。あの方も君がすんなり卒業出来ない事を予知していたんだろうね。もしもの場合は、それを卒業試験としてくれというお達しだよ」
「トカゲ師匠から?」
「あの方をそう呼ぶのは、世界中で君だけだろうね……ともかく、それが君への救済処置だ。それを成功させれば君を卒業させる事が出来る」
紙に書かれていたのは、とある遺跡の調査依頼だった。
遺跡を調査する為に護衛を何人か雇いたいという内容で、戦闘能力高い者が多くいれる此処への依頼だった。
「元々はあの方が行く筈だったんだが、今は海の上でもう少しのんびりしたいという事でね。だったら弟子である君を行かせるのが面白そうだ、という事らしい」
「面白そうって……まぁ、あの遊び人な師匠ならやりかねそうですね」
「それだけ君を信頼してるんだろうね」
だが、気になる事があった。
「この何人か欲しいっていう個所ですけど……私以外に誰か行くんですか?」
「いや、君だけだ。なにせ、その調査を依頼してきたのは【スクライア】だからね」
スクライア―――それだけで理由は何となく察する事が出来た。
「あぁ、なるほど……【部外者】に協力はしたくないってわけですね」
小さいな、と彼女は思った。
「仕方あるまいさ。なにせ、数年前にいきなり現れた者達の一人だ。管理局とかいう連中は、次元世界とかいうのを管理する為の組織らしいが、管理される側の事なんて関係ないらしいな」
「あの時は戦争一歩手前でしたからね……セルマ様も結構忙しそうでした」
「忙しそう、で片付ける君が凄いよ。まぁ、おかげで我々の世界は管理世界なんていう下らない肩書を得られずに済んだがね」
代わりに得た肩書は【管理放棄世界】だったが、それはあっち側の呼び方で在り、こっち側の呼び方ではない。
「我々の名前は我々が決めるべきだ。勝手な一文を入れられてたまるものかって話だよ」
「まぁ、そこら辺はどうでもいいですけどね」
あっけらかんな発言に、学園長は頭を抱える。彼女のこの楽天的というか、深く物事を考えようとしない発言はどうにかした方が良いのかもしれない。しかし、それを何とか出来た事は一度もない。
「君は別に彼等をどうこう思って無い様だし、それが君が一番適任という理由だろうね」
「むしろ、どうこう思う事が馬鹿らしいと想ってますよ、私は」
そう言って明るい笑顔を向ける彼女に、学園長は自然と笑みが零れた。
彼女は確かに問題児だ。しかし、ただの問題児ではない。種族に線を引かず、弱き者を差別せず、無意味な暴力を嫌い、それを行う者には強さも立場も関係なく挑む―――まるで正義の味方の様な女性だった。
それ故に彼女は他人に嫌われる事は無いのだろう。面倒やら厄介だとは思われるが、嫌悪される事は殆どない。
「それでどうする?受けるか、受けないか」
「受けますよ。誰がどう言おうとも受けます」
はっきりと言った。
「そう言ってくれると思っていたよ……やれやれ、君が原因で戦争勃発なんて事にはならんように気をつけてくれよ」
「流石にそれは無いかと……」
「無いと言えないのが我々の見解だよ。だが、その時はその時だ。私は君を信頼も信用もしないが……認めてはいるよ」
その言葉で十分だった。
彼女は紙を手に取り、任せろと親指を立てる。立場の上の者に対してこの対応は執事の卵として間違いまくっているが、それが彼女らしいと学園長は思った。
きっと彼女は執事には向いていないだろう。しかし、もしかしたらそれ以上の何かになれるかもしれない。
学園長室を意気揚々と出ていく彼女を見送り、冗談の様な一言を口にする。

「案外、彼女みたいな者が【失われた一席】を埋めるのかもしれないな……」

英雄の存在する世界。
その中で一つだけ相手いる空席。
人間が座るべき空席を埋める者は未だに存在しない。しかし、もしかしたら彼女の様な者がそれを埋めるのかもしれない。冗談の様な話だが、冗談だから笑える。
笑って、そんな話が出来る。
その時、部屋の中に電話のベルが響く。
「はい、私だが……おや、これはシャドウフィールド様。丁度良かった。あの件はアナタの言う様に彼女に任せる事にしました。いやはや、あの鉄砲玉な娘がすんなり卒業できないというアナタの想像はばっちりですよ……えぇ、はい。そうですね。そうでしょう。他の者よりもどんな者に対しても分けへだてなく接する事ができて、そして守ろうとする彼女だからこそ、アナタの弟子であるのでしょうね」
学園長は思う。
アレは誰か個人の為に仕える執事にはならない。されど、必ず誰かの為に動く事ができ、そして守護する者となるだろう。
個人の為の執事ではなく、誰もが為の執事。
銃の様に優れているわけじゃない。むしろ、遥か昔の火縄銃の様な物だろうと考える。時代が進めば使えない武器だろう。しかし武器ではある。武器である事に変わりは無く、銃である事に変わりはない。
「彼女なら、必ずやり遂げますよ……もっとも、その前に色々な厄介事は起こりそうですがね」
冗談の様に笑うが、それが現実になる日は近い事を彼は知らない。
白手の学院、始まって以来の問題児はこれから数週間後の新聞に名を乗せる事になる。それを見た学園長は心底驚き、後悔して、それでも何とかなるだろうと思ってしまった。
新聞の内容はこうだ。

遺跡調査中に不思議な光に飲まれ、二人が消息不明。
一人は調査団のリーダーである少年、ユーノ・スクライア。
そしてもう一人は白手の学院から派遣された執事の卵。



その名を―――イチナ・L・ガープリング



彼女が巻き起こす騒動が起こるには、まだ時間がかかるだろう。
故に退屈な時に話す物語は一度終わる。
プロローグの後はお伽噺が始まる。


火の玉執事が巻き起こす、馬鹿騒ぎのお話はもう少し先故に、しばしの御辛抱を。





あとがき
この娘を出したかったんですよ、この娘をね。
世界設定としては、あやかしびとの刀子さんルート×弾丸執事の全ルートのクロスなのです。
お嬢様ルートよりイチナ。
雪さんルートより○○
ロリエルフルートより○○○
弾丸執事の世界はパラレルですので、それぞれのルートより一つ何かを持ってきます。
というか、こうしないと今後の話が出来ないんですよ。

火の玉執事VS壁直しのオッサンという話がね……



[25741] 【人妖編・第四話】『人妖先生と狼な少女(前篇)』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/02/16 23:27
少女には記憶がない。
自身の名前も知らない。
何処で生まれ、どう育ち、どうして海鳴にいるのかもわからない。わかっているのは頭の中に響く不協和音。
一つの音。
一つの声。
一つの呪。
不協和音に含まれた音は一つだけ。月村という言葉が頭に響く。頭が割れそうな程に響き、頭の中が月村という言葉によって汚され犯され嬲られ壊されていく。
痛いとは違う。苦しいというわけでもない。ただ考えたくない言葉であり否定しなければいけない言葉。
それだけが少女にある全てだった。全てというには少なすぎる自己構成はシンプルで陳腐だった。
しかし、そうなってしまったのならしょうがない。
誰にそう仕込まれ、誰が命じたのかもわからない。だが、月村という言葉を憎悪しなければいけないという使命感にも似たものがあったのは事実。
恨みはない。あるのは拒否感。
恨みは感じない。感じるのは憎悪だけ。
何もない。月村という不協和音だけしかない。
「―――――――」
自分は誰なのだろうか―――少女は考えた。
誰も教えてくれない。聞けば答えてくれる者もいない。少女の周りにいたのは白衣をきた能面の様な顔をした者達だけ。全員が同じ顔に見える程、その者達の顔は歪んでいた。
来る日も来る日も、少女の脳に刻みつける呪。
来る日も来る日も、少女の身体に刻みつける呪。
来る日も来る日も―――それがしばらく続き、少女は一つの道具として完成された。いや、完成ではない。その者達が求める物の改良版であり試作品――それが少女だった。
記憶もなく、一つの存在を殺す為だけに生み出された。生きていたはずなのに、生れていたはずなのに、生み出された。
それを疑問には思わない。
疑問に思う事を禁じられていた。無自覚に無意識に。それが当たり前でおかしな事なんて一つもないと思いこみ、少女は構築された。
「―――――――」
だが、少女は考えたのだ。
頭の中に響く不協和音を聞きながらも、月村という存在に憎悪を抱きながらも、自身という存在について考える。
自分は誰だろう。
自分は何処から来たのだろう。
自分はどうしてこんな事をしているのだろう。
疑問が疑問を呼び、ようやく一欠けらの自我が生まれた。
自分が誰か知りたい。
少女は思った。だから叫んだ。声にならない叫び。叫んでも誰にも聞こえない。それでも少女は叫ぶ。自身という音楽を奏でる様に叫び、唄い、そして望む。
「―――――――」
誰なのか、誰なのか、誰なのか、誰なのか、誰なのか、誰なのか――――私は、誰なのか。

しかし、それは誰にも聞こえないのなら、当然彼等にも聞こえはしない。

薄暗い部屋の中には誰もいない。
白い部屋、白いベッド、そして【真っ赤に染まったカーテン】。
窓辺で揺れるカーテンは誰かが掴んで引裂いたであろう跡があり、かつては白いカーテンだったソレは無残な布切れと変わらないものになっていた。そして、その下にはそのカーテンを引き裂き、赤く染めたであろう白衣の女性が倒れていた。
白衣を血に染め、胴体を鋭利な刃物で切り裂かれた女性。
その女性は看護師だった。
この病院で看護師を務めている女性は、数日前に運ばれた少女の担当になっていた。搬送された少女は顔に酷い怪我を負っていた。それ以外は外傷はなかったが、こんな可愛らしい少女の顔にこんな怪我を負わすなんて酷い人間もいたものだと憤慨していた。
少女は目覚めない。
搬送された日から数日、少女は眠り続けていた。
検査結果として少女は人妖病に感染しているとわかった。そのせいか、少女の傷の治りは早かった。無論、人妖だから傷の治りが特別早いというわけではない。人妖とて人間だ。如何に異能を身に宿しているといってもそれ以外は普通の人間と変わりはしない。しかし、少女の傷は既に治り、可愛らしい寝顔でベッドに眠っていた。
恐らく、これが少女の人妖としての能力なのだろうと、女性は【誤解した】。
そして今日、そして現在。
女性は死んだ。
惨殺された。
少女の病室を訪れ、背後から斬りつけられ、助けと求めようと声を出そうとして喉を斬られ、逃げようと窓辺に近づき、トドメの一撃。
死んでいた。
完全に死に、殺された。
そして、それを行ったであろう下手人は自身が殺した相手には興味も示さず、ベッドに健やかな寝息を奏でる少女を見据える。
「…………無様だな」
下手人は侮蔑の表情を闇の中に浮かべる。
「まぁまぁ、そう言うなや」
その下手人に声をかけるのは、この病院に勤める医者だった。正確に言えば、今日だけ病院に勤めている医者、だ。
医者は少女の顔をじっと見つめ、歪んだ笑みを浮かべる。
「無様なんてとんでもない。いくら被験体、実験体とはいえ、こんな美少女を無様なんて言っちゃ駄目さ」
「無様である事は代わりはない。ふん、一介の人妖如きに後れを取るとは……所詮、失敗作という事か」
下手人の顔は変わらない。当然、医者の顔も変わらない。
「まぁ、しょうがないんじゃない?【あっち】で現在の実験体の中では古株なんだよ、この子は。だから君が知る実験体や完成体と一緒にしちゃ駄目だよ」
「だからこんな田舎の矮小な雑魚の仕事を受けさせたのだろう?むしろ、今回がこの実験体にとってラストチャンスだった事には変わりは無い」
「それはそうだけど……にしても、意外と人妖ってのも凄いんだね。この子、普通の人妖相手じゃ負ける事なんてなかったでしょ?」
「あくまで、実験ではな。実戦は実験とは違う」
下手人の意見には医者も賛成だった。だからこそ、これが少女にとってのラストチャンスだった。実戦で使い物になったら【殺さない】。使い物になっていたのなら【更に調整】する事が出来る。
結果、少女はチャンスをふいにした。
「――――で、どうするんだ?依頼者は満足していないのだろう?ツキムラとかいう連中を殺さないと金が入らないぞ」
「金なんて沢山あるでしょうに」
「そうだな。国に帰るくらいの旅費にはなる。だが、必要な金じゃない。金なら十分にあるさ」
そう言って下手人は懐に手を伸ばす。
「殺すのかい?」
医者はもったいないという顔をする。しかし、下手人はニヤリと嗤い、首を横に振る。
「いや、殺さんよ。殺してはそれこそ本当に無意味だ―――だから、殺さず最後まで利用させてもらうさ」
下手人の手には注射器があった。
「君、それは……」
「本国からの実験の追加さ……なに、心配するな。これは無断使用じゃない。立派な実験さ」
注射器の中には真っ赤な血―――血の様に見える液体が入っていた。
「この国の極小機関が作り上げた薬を改良したモノだ。これの実験結果が知りたいというのが本国の意向だ」
「うわぁ、随分と酷い意向だね」
しかし、医者は下手人と同じ顔をしていた。
楽しみだ、という顔。
結果が知りたい、という顔。
その顔は少女の記憶にある能面の者達と同じ顔だった。
「人妖の能力を格段に上げる魔法の薬、か……いやぁ、この国の研究者も面白いものを作ったものだ。私達の国よりも人妖研究は格段に進んでいるね」
「だからこそ、だ。だからこそ許されない。我らが国がこんな無人島と変わらん島国に後れを取るなど」
そして、下手人の手が伸びた。
少女の首に注射器の針を刺す。
ゆっくりと少女の身体に赤い液体が流れ込む。
「噂じゃ、この薬のオリジナルは化物の血らしいよ?」
「ほう、それは面白い噂だ。だが、所詮は噂だ」
注射器の中が空になり、少女の首から針が抜かれる。
「――――さて、そろそろお暇するとしよう。この実験体の暴走に巻き込まれては国に帰れなくなる」
「そうだね。そろそろ本物のピロシキが食べたいよ」
そう言って下手人と医者は出ていく。
残されたのは少女だけ。

真っ赤な呪いの薬を注入された少女は静かに眠り―――そして、眼を覚ました。

「が、がぃぎゃぁぁぁ……」
唸り声を上げ、身体のくの字に折れ曲げる。
苦悶の表情に眼を見開き、口を開け――眼球から刃が飛び出し、口から刃が飛び出した。
少女の身体から無数の刃が飛び出す。少女の身体の中に植えられた種が刃という花を咲かせた。毛布を刃が切り裂き、ベッドを刃が切断する。
身体中が刃になる。
刃が身体になる。
刃が刃になる。
少女はいない。
いるのは刃。
刃が倒れ、刃が立ち上がり、刃が眼を見開き、刃が嗤う。
【つ、きむら……】
喉の奥から声が漏れる。刃と刃が擦れる様な耳障りな声だった。
【つき、むら……つきむら、つきむらつきむらつきむらつきむらつきらむつきむら】
刃が嗤う。
ギシギシと刃軋りする音が病室に響く。
【つきむらつきむらつきむらつきむらつきむら――――あ、りさ】
刃は嗤う。
【ありさありさありさありさありさありさありさありさ】
刃が名を呼ぶ。名を呼び殺す。殺す為に名を呼び、名を持つ者を殺す為に刃が嗤う。
殺すべきは月村。
殺すべきはアリサ。
【ギィギィギガキ】
それだけが唯一の存在意味。刃が刃である意味。刀匠によって打たれた刃ではなく、悪しき存在によって作り替えられた刃は歩き出す。

窓―――ではなく、廊下へ。



「―――そういえばさ、依頼主ってなんていったっけ?」
駐車場に停めてあった車のドアを開けながら、医者は尋ねる。
「ツキムラっていう連中に恨みがあって、それをバニングスっていう連中のせいにしたいってのは覚えてたんだけど……」
「名前なんぞ覚えてないな。だが、注文だけは多い奴だったな。まったく、こっちの迷惑も考えて欲しいものだ」
助手席に乗り込み、下手人は鼻を鳴らす。
「洗脳とて面倒な事には変わりがない。あんな細かい設定をあの実験体に刷り込むのに三日も使ったんだぞ?三日、三日もこんな島国の不味い飯を食った俺に慰謝料を払うべきだな、奴は」
「よっぽどツキムラって連中が嫌いみたいだね。その癖、自分に危害が加えられない様にわざわざ他人の娘の情報まで刷り込ませるなんて―――ほんと、無様だ」
「あぁ、無様だ。この国の住人に十分な無様さだったよ」
医者が車のエンジンをかけた―――その瞬間。

絶叫が轟く。

「――――ふん、始まったか」
「みたいだね……これは失敗かな?」
「構わんさ。この失敗が成功への道となる。もっとも、その為にこの島国の猿が何匹死ぬか知らんがな」
「多分だけど。今の実験体の頭の中にはツキムラって連中を殺す事でいっぱいだろうね。もちろん、それが誰かなんて判別できないけど」
「そして、バニングスという家の娘も対象だろう―――無論、誰か識別は出来ないだろうがな」
医者と下手人は嗤う。
おかしい、と嗤う。
「ねぇ、どのくらい殺すと想う?」
「さぁな。だが、せめてこの街一つくらい潰してもらわねば困る」
「それが無理じゃない?潰す前にきっと死ぬよ、アレ」
車が動き出す。
背後に聞こえる人の悲鳴。命を奪われるという悲鳴を聞きながらも、嗤いを消さない医者と下手人。
「どっちだっていいさ。どっちでも、変わらんよ」
「そうだね」
そして、二人は姿を消した。



翌朝―――病院に生きている者は一人としていなかった。







【人妖編・第四話】『人妖先生と狼な少女(前篇)』







アリサ・バニングスを周りはどう評価するのか。
例えば同じクラスの生徒。
男子女子、互いに同じ意見を口にする。
「近寄りがたい」
例えば教師。
新しい者、古い者を含め同じ事を口にする。
「良い生徒だと想う。だが、何を考えているのかわからない」
彼女を良く知る者―――残念ながらそんな者はいない。
彼女は常に一人でいる事が多かった。すずかの様に【月村】だから恐れられているのとは違う。なにせ、アリサは【バニングス】なのだ。月村と同じ様にこの街を支配する一族の一人である事には変わりは無い。
しかし、それでもある程度の慣れはあるのだろう。これもすずかと違い、アリサは学校にはキチンと来るし、授業にもキチンと出席する。学校の行事にも出れば、特に問題のある行動をする様な生徒ではなかった。結果、アリサ・バニングスという少女は基本的には無害な扱いなのだろう。
人畜無害。
それだけ、だ。
無害というのは誰にも迷惑をかけない、障害ではないという意味。しかし、彼女は誰にも迷惑をかけないのではなく、そもそも交わらないのである。当然、そうすれば障害にもならない。誰とも対立せず、表情に出して喧嘩、争いをする生徒でもなかった。
誰とも交わらず、振れ合わないからの無害。それはすずかとは違った意味での孤立に等しいのだろう。
孤立し、孤高であった。
だがアリサはそんな現状に不満を抱く様な表情もせず、常に存在する。教室では窓の外をじっと見るだけの存在であり、授業では当てられれば答えるだけの存在であり、グループ学習では自分の意見を出さず頷くだけの存在。当然、休み時間に遊ぶ事もしなければ弁当を共に食す相手もいない。
孤独であり孤高だった。
そんな彼女は、今の現状をどう思っているのかと誰かが訪ねたら、きっと彼女はこう答えるだろう。
「――――別に」
興味を抱く事なく、窓の外を眺めながら、あっさりと言い放つだろう。
アリサ・バニングス。
バニングスという存在。
誰にとっても有害であり無害。

故に【見える空気】だった。

しかし、だ。
だからといって彼女がどう思っているかは別の話だ。
生きていれば悩みもあるし、わからない事だってある。ただ、その悩みや問題を誰かに話
すという事をしない―――否、知らないだけだった。

汝、孤独で在れ
汝、孤高で在れ。

その言葉が彼女の存在意義であり、存在理由。しかし、そうはいってもアリサがまだ九歳である事が現実だ。
九歳の少女の悩みは意外なまでにシンプルであり、子供じみている。それを誰にも話さず、何時もの様に窓の外を眺め、そこから見える空を見て、誰にも知られず溜息を吐く。
アリサ・バニングスの悩みは一つ。



友達の作り方を、知らないという事だけ。



昼休み。何時もの指定席である屋上のベンチに腰掛け、匂いの少ないコッペパンを一人で食べ、匂いの無い水で流しこむ。
味気ないコッペパンと味気ない水。とても子供が好む物ではない。当然、アリサだって好きなわけじゃない。
ただ、匂いが少ないという理由だけ。
アリサは人妖だ。
バニングスが人の枠組みに含まれているとはいえ、彼女自身は人妖。それも【一族の中で唯一の人妖】だった。無論、それがおかしいとは思わない。誰も思わない、誰も思えない。そしてアリサもそれがおかしいとは思わない。
人妖は家族の一人が人妖だからといって家族全員がそうなるわけではない。神沢はもちろん、海鳴も家族の中で唯一人妖病にかかり異能を手に入れてしまった者が一人で街にいる割合は少なくない。当然、この小学校にも親元を離れて一人で来た者もいる。
人妖病は一つの差別だ。
人であるはずなのに人と同じ扱いを受けれない。好んで得た力でもないのに他人に気味悪がられ、他の人妖が事件を起こせば、まるで自分が行ったかのように見られる。
その為の人妖隔離都市。
隔離であり守護。
この街だけが人妖にとって唯一存在を許されたと思える場所だ。
そんな街を支配する【人】、バニングス。
その一族の中で唯一人妖病に発病したアリサ。
気づいたのは彼女が五歳の時だった。
ある日、彼女は社交界の場にいた。そして、急に気分が悪くなった。
異様な悪臭に気分を悪くしたのだ。
両親に気分が悪いと言って外に出たが、まだ気分は悪かった。匂いだ。匂いが鼻を刺し、悪臭としか思えなかった。その原因は一つ、自分の手を引いている母親から漂う匂いだった。
アリサの嗅覚は通常の人間では認識できないレベルの匂いすら嗅ぎとる事が出来た。故に母親が付けていた香水の匂いは悪臭以外の何物でもない。そんな悪臭を身体に吹きかけた女性が何人もいる場所にいれば、当然気分だって悪くなる。
人間にとっては良い匂いで落ち着いても、犬並以上の嗅覚を持つ彼女にしてみれば匂いがきつ過ぎた。
だが、これだけなら問題はなかった。
なにせ匂いがキツイ、というだけなら我慢ができた。人妖という人種に対しての知識はなかったが、自分の口から「ママが臭い」なんて事は言えない。子供ながらにしても言えなかった。
そしてこれは次の日になったら解消された。解消といっても昨日よりは匂わないというだけで問題は解決していない。ただ昨日よりはマシだという話。そしてその次の日は更に匂いが薄れた。その次の日もまた薄れた。徐々に薄まる匂いにアリサは一人安堵の息を漏らした。
しかし、それはある周期でまた襲ってきた。
嗅覚が普通に戻る日があれば、次の日には徐々に匂いが増していく。
一番匂いに敏感な日があれば、次の日は薄れていく。
その繰り返しだ。
繰り返し、繰り返し、繰り返し―――そして、我慢した。
我慢するしかなかった。
我慢する日々が始まった。
世界には匂いのないモノなんて存在しない。
食べ物は勿論、無機物ですら匂いを発する。
だから一番匂いを感じ取る日は食べ物を美味しく頂くという感情が壊れそうになった。口に含めば美味しい、しかし鼻に入る匂いがキツイ。だが我慢した。我慢して食べて―――誰もいない所で吐き出した。
誰にも知られてはいかない。こんな普通じゃない事は秘密にしなければいけない。幼いながらにそう思い、思いこみ、アリサは一人で我慢を続けた。だが、どれだけ隠そうとしてもバレるものはバレる。あっさりと、急にバレるものだった。
アリサが匂いに敏感になる日は、決まって身体の調子が良かった。いや、良かったなんてものではなかった。

体調が良ければ、十メートル以上ジャンプできるか――否だ。

体調が良ければ子供の手でボーリングの球を何十メートルと大遠投できるか――否だ。

匂いに敏感な日には決まってアリサの身体能力は異常を極めていた。

異常だった。
そしてバレた。
理由という出来事は彼女が六歳の誕生日の時。
出来事は言ってしまえば人助け、親孝行。
母親がアリサを連れて外を歩いていて、道端にボールが転がって来た。子供が公園で遊んいて、謝ってボールを遠くに投げてしまったらしい。それを母親が拾い、顔をあげた―――先に車が迫っていた。
飛び出した。
飛び出した勢いで地面のコンクリートが割れた。
母親の前に庇うように立った。
母親は何か言っていた。
聞こえなかったが、行動はした。
迫ってくる車。
悲鳴。
無我夢中で振り回した手。
堅い感触が手に当たり、何かが凹み、砕ける音。
ドンッという音が背後に響き、そして音は消える。
あり得ない事だった。
母親の眼に映った光景は現実ではなかった。

六歳になる娘が―――――車を殴り飛ばした。

それがきっかけ。
それだけで、終わる事もある。
人妖だとバレた時、彼女の周囲は変わった。
気づけば、彼女は孤独になっていた。
父が言った様に孤独だった。
親族の誰もが自分の事を化物の様に見ていた。優しかった叔母も叔父も、屋敷で働く使用人達も。
そして、母親も。
母親を助けた日。母親はアリサに会おうとしなかった。会おうとせずに部屋に籠って泣き崩れていた。

母の泣声を聞きながら見上げた空は―――真っ赤な満月だった。

コッペパンは味がしない。
味のしないモノを食べても美味しいとは思わない。同時に不味いとも思えない。
水は無味無臭だ。味気がなく、臭くもない。
何も無いからこそ良かった。
だから食べる物はこれと決めていた。
味があるものは駄目だ、匂いのあるものは駄目だ。
そんなものを食べてしまえば―――思い出してしまう。そして食べたいと思ってしまう。ずっと長い間食べていない母の料理の味を。




昼休み。
職員室で虎太郎は渋い顔で新聞を見ていた。
「あ、その記事ですか……」
後ろで霙が言う。
「酷い事件ですよね」
「そうですね。犯人の人妖が一夜で医者と患者、その病院にいた人間全員が死亡とは……これまた、世論が色々と捻じ曲がりそうですな」
今朝のニュースを見た段階では、その予想は大いに的中していた。ニュースを読み上げるキャスターと専門家の先生とかいう者がコメントする。
「人妖だから仕方がない、とか言いだす始末ですよ」
「えぇ、酷い話です」
ただでさせ人妖というだけで差別される世界。そんな世界で起きる猟奇殺人は異常な人間と人妖のせいだとされる。大方、今頃ゲートの外ではプラカードやら大弾幕を持った者達が鼻息を荒立たせているだろう。
「犯人はまだ捕まっていないんですよね?」
「昼のニュースを見る限り、ではね」
三日前に起きた事件。
病院という命を守るべき場所で起きた惨殺事件。
「……こりゃ、色々と面倒な事になりそうだな」
「職員会議でも取り上げられると思いますよ」
「でしょうな。犯人が捕まらないのなら、生徒の登下校の際にも私達が同行、なんて事もありえそうですよ」
「もしくは学校自体が一時閉鎖、なんて事にはなりませんよね?」
そんな事はありえないだろうと言いながらも、霙の顔には冗談という雰囲気は一つもない。
だが、それ以上に虎太郎は解せない事があった。
「帝先生。この街で起きた事件というのは、こんなに早く外でも報じられるものなんですか?」
「え?」
「……早すぎると思うんですよ。神沢は勿論の事、海鳴だって人妖都市だ。だからこそ、この中で起きた事件を外に漏らすなんて事は簡単には出来ないはずだ」
「ネットとかもありますから、そこから漏れたのでは?」
人妖隔離都市と言われても、別に外の世界との関係を完全に分けているわけではない。ネットを使えば普通に外の世界を知る事は出来るし、通販だって出来る。外の新聞はこうして読む事も出来れば、ニュースだって同じだ。
ただ、それは外から中という話。
中から外に出る情報は相当厳しくチェックされているはずだ。
「ネットを使えば簡単に外に情報を漏らす事は出来る。しかし、それ以外にも奇妙な事があるんですよ」
「奇妙な事、ですか?」
「この記事は勿論ですが、ニュースの内容を良く観てみてください―――細かすぎると思いませんか?」
細かい。
細かすぎる。
事件発生時間、現場、被害者の数は当然。それだけではない。中から外にでる情報は厳しくチェックされ、基本的には細かい情報などは調べる事が出来ない。しかし、先日から報じられている外からくる情報の全ては【細かすぎる】のだ。
「ですから、ネットで誰かがリークしたとか……」
「…………」
解せない。
解せないという感情は間違いではないはずだと虎太郎は確信している。
「そうですね、私の考え過ぎですね」
と、この場は言っておく。
「それじゃ、次の授業の準備をしてきます」
「手伝いましょうか?」
「いえ、一人で大丈夫ですよ」
そう言って虎太郎は職員室を出る。
廊下を歩き、考える。
何かがおかしい。
その何かが何かなのかはわからない。
しかし、解せないのだ。
「まるでミステリー小説を読んでいる気分だ」
小説の中で事件が起こり、被害者の身内に話を聞く。犯人は身内の中にいる。そして身内の中の誰かの言葉が自身を犯人だと言っている様なもの、という場面がある。
これはそれだ。
細かすぎるという点。
細かく報道されすぎているという点。
細かい情報をどうやって外に流したのか、は問題ではない。
問題なのは。
「誰が、流したのか」
行き着いた。
解せない理由とわからない何か。
その解決の答えは一つ。
誰かが情報を外に意図的に流した。だから世の中はこの事件について詳しく報道できる。
そして、その中には事件に関係のある者の影がある。
新聞を読み、ニュースを見る。
それだけで気づいた。
先程、自分が言った言葉。

【そうですね。犯人の人妖が一夜で医者と患者、その病院にいた人間全員が死亡とは……これまた、世論が色々と捻じ曲がりそうですな】

この言葉の中にある全てが新聞やニュースで報道されている事実だ。
しかし、よくよく考えてみればおかしいのだ。
此処は確かに人妖隔離都市。
多くの人妖が暮らす街だ。
だが、
「人間だっているだろう」
多くは人妖だが、なんの能力も持たない人間だっている。だというのに情報には【人妖が犯人】だという事が確定な事実として書かれていた。これが記事やニュースを作った者の間違い、もしくは決めつけだとすれば勘違いで済む。
しかし、人妖だと言っているのだ。
犯人は人妖。
それが真実だと知っている―――それが奇妙だった。



『―――――えぇ、そうです。確かに海鳴で起きる事件の多くは人妖が関わっています。ですが、当然人妖の住む街なので割合的には高いですね』
放課後。虎太郎は月村忍に電話をかけていた。
『ですが、必ずしも人妖だけというわけじゃありません。中には人間が起こした事件だってあります』
「そういう事件の幾つかは外には?」
『当然出ています。幾ら情報操作しようとも、ネットなんていう便利な物が在る限り、完全に防ぐ事はできませんよ』
だろうな、と虎太郎は呟いた。
いつもの体育倉庫で煙草を吸いながら、虎太郎は受話器の向こうにいる忍に尋ねる。
「今回の事件。人妖が犯人だという証拠は?」
『―――――ありません』
はっきりと言った。
『人妖が起こす事件は確かに普通の人から見れば猟奇的に見えるかもしれません。ですが、それが真実じゃない。外の事件でだって人が起こす事件は猟奇的なものが存在します』
「あぁ、それは俺だってわかっている……普通なんてものは社会一般の事実であり、真理じゃない」
『同感です。今回の事件ですが、凶器に使われたのは刃物だといのは知っていますよね?』
情報を信じる限りはそうだろう。
『刃物で人は殺せます。人であれ人妖であれ』
「なのに今回の犯人は人妖だと世間は思っている」
『えぇ、そうです。警察からの報告を聞く限りでは、刃物だけという事しかわかっていません。刃物を扱う人妖という線もありますが、必ずしも人妖である可能性は全てでは無い』
「…………なら、犯人は人間か?」
『人妖でしょうね。絶対ではありませんが、一番疑わしいのは人妖です』
絶対の真実は一つではない。だからこそ、幾つもの可能性が存在する。その中にある可能性の一つを真実として見つけるのは簡単ではないだろう。
簡単なら、警察も探偵も必要無い。
『数日前、病院に搬送された人妖がいました。本人は意識を失って目覚めていなかったので名前はわかりません。病院の方でも身元を調べた様ですが、結局分からずじまい――――そして、その人妖は被害者のリストに載っていない』
「だから犯人、か……」
『可能性としては一番高いでしょうね』
「その人妖の能力は刃物を使うのか?」
『いいえ。病院関係者の話では傷の治りが早かったので、自然治癒に優れた能力ではないかという見解です』
『リストに載っていない。だからこそ、最有力候補、というわけか』
形としては問題ない。
仮にその人妖が犯人ではない場合、なんらかの情報を持っていると想っても問題は無いだろう。しかし、現在では一番の容疑者でもある。
『――――先生はどう思います?』
「それはその人妖が犯人なのか、という意味なら可能性は十分にあると答える」
『そっちではなく、情報の流出の件です』
「そっちは間違いなく黒だろうな」
流出させたのは犯人に関係のある者で在る事は十分以上に十全だと想っている。
「理由はわからんが、愉快犯である事を願うね」
『愉快犯なら問題はありません。こっちの力で潰しますから』
偉く暴力的な発言だった。
『しかし、そうでない場合は……一種のテロと考えても問題はないかと』
「テロ、ねぇ……色々と胡散臭い話だ」
『考え過ぎで終わって欲しいですよ、私は』
「俺もだよ。騒がしいのは好きだが、これは騒がしいなんてレベルの話じゃない。むしろ、悪意がある暴力だよ」
情報という力を使った暴力。
『まぁ、その辺は私達の方でも洗ってみますよ。先生は一応は一般人なんですから、あまり深く首を突っ込まないでくださいね?』
虎太郎は苦笑する。
「そうは言うが、俺も一般人らしく危機感は持ってるんでね――――だから、」
虎太郎は煙草を握り締め、静かに言った。
「何かあったら呼べ。力になる」
『…………』
「お前は月村の家族だ。生徒の家族を守るのは教師の仕事じゃないかもしれない……だが、知人であり女であるお前を守るのは男の仕事だ」
受話器の向こうで唸る様な声がした。それから何度か咳こみ、
『先生。先生は女たらしって言われた事、ありませんか?』
「どうしてそう思うかは知らんが―――不思議と心当たりがあるのは何故だろうな?」
『はぁ、やっぱり……先生は女性には毎回そんな事を言ってるんでしょうね』
何故か呆れる様な、それでいて拗ねている様な声だった。
「毎回じゃないさ」
『信じられませんね』

「本当さ――――俺がこう言うのは、お前が【良い女】だからだ」

今度は電話の向こうで何かが爆発した様な音がした。それからゴロゴロと何かが転がる音。それから叫び声。そして破壊音。最後のトドメとばかりに「ヤッフ~!!」という奇声。
そんな音がしばらく続くと、聞き覚えのあるメイドの声が聞こえた。
『あの、加藤先生』
確か、ファリンとかいう名前だった気がする。
『あまりそういう事を私の主に言うのは止めて欲しいのですが……』
「ん?何か悪い事を言ったか?」
『その確信犯な言い方がまた……はぁ、もういいです。ともかく、しばらく再起不能な様なので、これで失礼します』
「わかった。忍が正気に戻ったら助かったと伝えてくれ」
『―――――――――この女たらし』
という言葉で電話は切られた。
「…………」
ツーツーという音が虚しく耳に刺さり、
「なんというか……アレだな」
何がアレなのかは言葉にしなかったが、どこか釈然としない虎太郎だった。




屋上は真っ赤な夕陽に照らされていた。
血の様に赤い太陽。
それは怒りか、それとも羞恥か。
太陽は何を思って赤く染まっているのか。
何に怒っているのか。
何に羞恥しているのか。
それは誰にもわからない。
わからないから、想像する。
「――――――わからない事ばっかりね」
アリサは一人呟いた。
学校指定の鞄を枕に、ベンチに寝転がっていた。
空は夕陽に染まって赤い海の様になっていた。赤い海は元々は青い海だった。穏やかな海は太陽という侵略者によって赤く染まる。しかし、空が青いというのは、同じ様に太陽による恩恵によって見られる青空でもある。
赤い、赤い、黄昏の赤。
人妖能力を使った時の自分と同じ赤い色。夕陽の様ではなく、血の様に赤いルビーの瞳はその時だけ現れる呪いの瞳だった。
自身の力を恨む事はない。
それが自然の流れ、人生の流れの中にある当然だと考えればそれも素直に納得できる。それがアリサにとっての大人な部分。子供故の大人。大人ですらないのに大人な部分を持っている。
子供という自分にもあるのだ。
そういう大人な部分が。
しかし、大部分は子供として機能している。
そんな子供な自分はきっと――――この力を恨んでいるのだろう。
もしも、この力がなかったらと考えた。
もしも、この力が生まれず、普通の子供として過ごす事が出来たのなら。
もしも―――もしかしたら、
「友達が出来たかも、しれない」
馬鹿らしい事だと苦笑する。
関係ない。
こんな力がなくたって自分が自分である事には変わりは無い。
友達の作り方を知らない少女は、最初からそうだっただけに過ぎない。
「…………でも、」
未練があった。
もしも、なんていう過ぎ去った問題に未だに未練があった。
未練、なんて嫌な言葉だ。
起き上がり、立ち上がる。
屋上のフェンスに手を添え、じっと街を見下ろす。
この街の中には沢山の人々がいる。人々は一人ではなく何人もいる。その何人はきっと自分の様に孤独ではなく、群れを持っている。
群れる事を好まない人種はいる。だが、自分はそうじゃない。群れる事は素晴らしい事だと想っている。思ってる、はずだと言い聞かせる。
時々、自分に自身が持てなくなる。
友達の作り方を知らないという事は―――そもそも、他人を必要としていないという事なのではないだろうか、と。
孤高であり、孤独である。
孤高は孤独、孤独は孤高。しかし、本当はそうじゃない。そうであっていいわけがない。
フェンスをギュッと握る。
今日は満月ではない。
普通の少女より少しだけ強い力で掴んだフェンスは微かに軋むだけ。錆びたフェンスの匂いは普通の鼻でも感じられた。その錆びた匂いが手に残り、うっすらと錆びた赤色が手に付着する。
寂しいのだと思った。
アリサ・バニングスという自分は、寂しがり屋なのだと思った。
呪いの様に自身を縛る【孤独と孤高】。その呪縛から解放されたいと思うのが半分。もう半分は諦め。
自己は生れた時からあるのかもしれない、と思う時がある。
自分自身を作るのは他人と時間、人生という長い様で短いモノだという。しかし、それは間違いで、本当は最初から作られているのではないかとアリサは思った。
最初から自分は――――他人が嫌いなのかもしれない。嫌いだから友達を作れず、嫌いだから友達という輪を作った他人を傍観し、冷めた目で見ているだけに過ぎないのかもしれない。
自分自身が信じられない。だから、他人も信用できない。そういう風なプログラムを最初から構築されているのだと思う様になった。
「本当の私は……」
どういう人間なのだろう。
劣悪な者なのか、それとも最低な者なのか。
アリサは考え、考え、何時もそこで終わる。
終わるだけで、また続ける癖にと自分で自分を馬頭する。
諦めが悪いというのだろう、一般的に。しかし、諦めも良いのが自分。
矛盾している。
全てが矛盾しているのだ、アリサ・バニングスという自分は。
夕陽がゆっくりと沈み始め、もうすぐ夜が来るであろう時間―――その時間に、背後で屋上のドアが開く音が聞こえた。
振りかえると、そこには見慣れた―――いや、嗅ぎ慣れた男がいた。
「――――なんだ、まだ残ってたのか」
煙草臭い男、虎太郎はそう言ってアリサを見た。アリサはうんざり、という表情で虎太郎を見る。
アリサは虎太郎が嫌いだ。
人間的に嫌いなのではなく、煙草という有害な匂いを発する物を好む虎太郎が嫌いなのだ。
鼻が良い日じゃなくても、何時も匂い煙草の匂い。
大嫌いな煙草の匂い。
好きになれない匂い。
「もう遅いぞ。さっさと帰れよ」
そう言って虎太郎は煙草を咥えた。
「…………校舎内は禁煙」
と軽蔑の表情をおまけで加えて言った。
「吸わないさ。ただ咥えているだけ」
「…………」
「おい、その信用してないって顔は何だよ?先生の事を信じろよ」
先生。
そう、こんな男でも教師なのだ。
「…………」
はぁ、と盛大に溜息を漏らす。虎太郎は苦笑しながら、アリサの隣に座った。
「臭い」
「酷いな」
「加齢臭が臭い」
「まだそんな年齢じゃないさ」
「嘘でしょ」
「嘘だよ」
仮に加齢臭があったとしても、煙草の匂いで消されている。とりあえず、この場で虎太郎が煙草を吸いだしたら二度とこの場所には来ないと心に決めた。だが、虎太郎は煙草を口に咥えたまま、海鳴の街をじっと見ていた。
そして、不意に呟いた。
「――――良い街だな」
本音なのか、それとも単なる社交辞令なのかは知らない。少なくとも、表情からは読み取れない。
「神沢も良い街だが、この街も良い街だ。海は綺麗だし食い物も美味い」
「食べ物なんて何処も同じでしょ」
「いやいや、その場所特有の味ってのがある。名産だとかそういう話じゃなくて、何処で作り、何処で食べるっていう意味だ」
食べ物の話は好きじゃない。
匂いのある物は嫌いだからだ。
「なぁ、この街は何が美味いんだ?」
「今、食べ物がおいしいって言ったばっかりじゃない」
「言ってみただけだよ。実際、この街に来てから殆ど仕事づくしだったからな」
「そう。良い事じゃない」
どうして自分はこんな話に付き合っているのだろう、とアリサは首を傾げたくなった。さっさと帰った方が良いのは確かだが、そうはいかない理由もある事はある。
「―――――そんなにこの街が好き?」
アリサが訪ねると虎太郎は少しだけ考え、
「好きになり始めてる、かな」
そう言った。
「良い街だとは思う。だけど好きって言える程、この街の事を俺は知らない……お前はどうなんだ?」
「嫌いよ」
即答する。
「好きになれる理由すら探したくないくらい、嫌い。なんでこの街に生まれたのか、どうしてこんな場所で暮らさなくちゃいけないか……疑問に思う事ばかりよ」
「探そうとしていないだけじゃないのか」
「探そうとする気力もわかないのよ」
ふと思えば、この街に良い思い出なんて一つも無い。
生れた時から海鳴に住んでいたが、アリサの記憶に在るのは何時だって家族と過ごす記憶だけ。この街の記憶なんて無い。家族の記憶はそういうものだと考えている。何処で何をしようと、何処で何を食べようと、何処でどういう事をしようと最終的に残るのは家族との記憶だけ。
あの時、母親はこういう顔をしていた
あの時、母親はこう言っていた。
あの時、母親はこんな風に―――自分を抱いてくれた。
場所なんて関係ない。大切なのは家族の記憶だけ。
六歳までの、家族の記憶だけ。
「周りから蔑にされている街なんて、好きになれるわけないじゃない」
これは嘘だ。
周りの評価なんてどうでもいい。
「化物の住む街。人じゃない連中の巣窟。何時か自分達に牙をむくかもしれない連中を閉じ込める為の刑務所。この街はそういう評価なんでしょ、周りからすれば」
「そうだな、否定はしないさ」
周りなど、他人など、その程度だ。
あぁ、だからか。
不意にアリサは悟った。
どうして自分が友達を作れないのか―――その理由が、コレだった。今、虎太郎相手に本心を誤魔化した事と同じ様に、コレが全部の真実だったのだろうと悟った。

家族という鎖に自分は未だに縛られている。

自分のせいで泣いた母親と自分を化物と見るような周り。アリサに大切なのは前者であって後者ではない。それが問題だった。問題という壁によって阻まれ、出る事も上る事も出来ないでいるのだろう。
「最低な街よ、此処は」
家族は一番身近な存在。その存在に傷を付けた自分が他人を受け入れる、受け入れられるはずがない。
始まりは家族。
そこから進めない自分。
家族すら満足に守れないのに、他人に構ってもらえるわけがない。
孤独と孤高。
それはまさに呪いだったのだろう。
父親が自分に巻きつけた鎖として発せられた言葉は、コレだった。
なんだ、こんな簡単な事だったのか。
なら――――簡単に諦められるはずだ。
アリサは鞄を持って立ち上がる。
「帰るわ」
「そうか、気をつけて帰れよ」
気をつけて帰るさ――――孤独に、そして孤高に。
その時だった。
不意に虎太郎が尋ねた。
「なぁ、バニングス」
アリサは足を止める。だが、振りかえらなかった。
「俺はこの街を好きになろうと思う」
どうしてか、力強い言葉に思えた。
「この街は確かに周りからは疎まれている。有るよりは無い方がマシだって言われてるだろうさ……でも、それは周りがそう言っているだけだ。周りは周りにいるだけで、内側の事を何も知らないだろ?」
「…………」
「だから、周りの連中の知らない事を知っているのは、この街に住んでいる住人であるお前だ。駄目な所なんて周りが十分に知っている。でも、良い所を知っているのはお前達だ。そんなお前達が外の事ばかりを気にするのはもったいないと想わないか?」
「…………」
「俺は神沢という場所にいた。だから海鳴の事を良く知らない。そんな俺はお前達からすれば周りとなんら変わらないだろうさ。だから――――教えてくれよ」
自然に、アリサは振りかえっていた。
「俺に教えてくれ」
虎太郎は夕陽を背に、笑っていた。
「この街の良い所をさ。周りからの評価じゃなくて、お前の評価を俺は知りたい。周りがどう言っているとかは関係ない。お前が今まで見て、聞いて、感じた事の方がよっぽど為になるからな」
「…………馬鹿?」
心の底からそう思えた。
自分の評価は先程言った様に、最低の一言だ。それだけは変わらない。この街は最低な街だ。人妖という疎まれた存在が住む、呪われた地だ。
そんな街を、
「好きなわけないじゃない」
これがアリサの下した評価だ。
だから、

「なら、これから好きになればいい」

その言葉に、言葉を忘れた。
「なんなら、これから俺と一緒に好きにならないか?俺はこの街の未経験者だが、お前は熟練者だ。けど、そんな熟練者ですら知らない好きな所が沢山あるかもしれない。見ている様で見てないかもしれない。知っている様で知らないかもしれない」
迷いの無い眼で、言葉で、想いを繋ぐ、
「そして、見ているつもりになっている事。知っているつもりになっている事を探さないか?」
見ている、つもり。
知っている、つもり。
それはまるで、アリサがたった今、悟った事が【悟ったつもり】になっていると指摘する様な言葉に思えてならない。
「馬鹿じゃないの、アンタ……」
「馬鹿かもな。でも、馬鹿でもいいだろ?馬鹿ってのは頭が悪いっていう意味もあるが、そうじゃない意味もある」
「は?」
「馬鹿である事を誇れるっていう意味だよ。馬鹿らしいと想うことを一生懸命にやる。周りから馬鹿にされても自分の芯だけは譲らない。他者の言う馬鹿と自分の中の馬鹿が同じである必要なんてない」
「意味分かんないわ」
「つまり、人それぞれっていう意味だ」
ますますわけがわからない――――だというのに、どうしてかわき上がってくるものがあった。
「言葉には人それぞれの意味があるんだ。言葉は誰かの言葉通りの意味があるかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。誰かの言葉を聞いて、その言葉を受け取るのは自分自身。だから解釈は変わってしまうかもしれない。伝えない意味を履き違える事もある。うまく伝わらない時だってある。言葉は、そういう誘惑を持ってるんだ」
誰かの言葉は、誰かに伝わるとは限らない。
どれだけ伝えたい想いがあっても、巧く伝わらず誤解を招く時だってある。
言葉の意味は一つじゃない。
受け取る者の心によって変わる。
「俺達の使う言葉には、そういう国語辞典には載ってない意味だって含まれているんだよ」
外から見た街。
中から見た街。
感じ方は変わる。
変わるから弊害も生まれる。
そこから、知るという意味が生まれる。
誰かを知り、己を知る。
外を知り、中を知る。
知る為に知り、知っているからこそ知る。
知ったら―――何かが変わるかもしれない。
「―――――ねぇ、一つ聞いていい?」
「なんだ?」
夕陽はゆっくりと沈む。
沈めば夜がくる。
「孤独と孤高」
夜は闇しかない。
「この意味は、何?」
しかし、闇しかないと知れば、闇しか知っていないと勘違いすれば、見えないモノがある。
「お前はどう思うんだ?」
「…………わからない」
だからこそ、知った時に見えるモノがあった。
「わからないから……探してるの」
夜は闇の世界だろうと。
夜に太陽はなかろうと。
「多分、俺にはわからないだろう。その言葉の意味を知る事が出来るのは、お前だけだ」
ふと気付き、空を見上げれば、
「もしくは――――既に知っているのかもしれないしな」



星と月が、輝いているのだから















血、血、血、血――――そこは血の海。
人の形をしたソレはプラモデルのパーツの様にバラバラになっていた。手足、胴体、首と分かれたパーツを見る限りは男。着ていた青い制服を見る限りは警察官だろう。警察官というプラモデルは真っ赤な塗料をぶちまけて、死んでいた。
それを見た者、まだ辛うじて人の形を保っていた者は三名だけ。その三名の内一人は現在進行形でバラバラなパーツになろうとしていた。
「―――――ぎぃあ」
奇妙な声を上げ、喉に刃が食い込む。
ゆっくりと、肉に刃が食い込む。肌を裂き、肉を裂き、その下にある骨を裂く。そして最後は切断。首から鮮血を噴き上げ、三人は二人になる。
バタリッと首のない死体が倒れる。それを見た残りの二人は声を上げる事が出来ない。この二人は人妖だった。そして死んだ二人も人妖だった。
人妖が殺された。
目の前に立つ刃によって殺された。
【――――――――――】
それは刃だった。
人型の刃としか言えなかった。
輪郭を見る限りは子供だろう。長い金色の髪を見る限りは少女だろう。しかし、刃だった。
刃が一歩踏み出す。
地面に、コンクリートに刃が食い込み、地面を斬り裂く。コンクリートは刃が歩くと豆腐に刺さる包丁の様にスッと入り込み、地面に切り傷をつける。見ると、奥の方――刃が歩いて来た場所には刃が刺さった跡が残されていた。
【――――――――――ギィ】
刃と刃が擦れる様な声を上げて、刃は嗤う。
【ギィギィギィギィギィ】
その身体は刃で出来ていた。
足には無数の刃が生えていた。足の裏にも刃が生え、足の甲にも刃が生え、踵にも刃が生え、脹脛にも刃が生え、腿にも刃が生えていた。
身体も同様。
爪は刃の様に鋭く、指は刃の様に細く、手は刃の様に煌めき、腕が刃の集合体として出来ていた。
胴体からはハリネズミの様に刃が突き出し、背中には天使の羽の様に長い刃が生えていた。
首は刃が何本も重なり合い、肌を刃と化す。
二ィッと嗤った時に見えた歯は一本一本が刃。前歯も犬歯も全てが刃。
そして、生きている二人を何よりも恐れさせたのは、刃の眼だった。
眼から刃が生えていた。
眼球を突き刺し、生えていた刃が曲刀の様に曲がっており、まるでイノシシの牙の様に眼から生えていた。
人間ではない。
あんなふうになって生きている人間なんている筈がない。
身体が刃で覆われた人間なんて―――生きているわけがない。
【ギィギィギィ―――――ギギギギギギギギ!!】
刃が跳躍した。
一人が拳銃を抜き、発砲する。
夜の闇に響く拳銃の音はキンッという鉄に当たった様な音と共に消え、発砲した一人の眼に映ったのは、発射した弾丸を斬り裂き、自身の脳天に刃を突き立てた化物の姿。
一人の脳に突き立てられた刃は頭蓋骨をあっさりと貫通し、脳を突き刺し、そして人の顔を縦に一刀した。
ピーナッツの様に人の頭が真っ二つになり、数瞬遅れて噴き出す赤い噴水。
真っ赤な噴水を浴びた刃は嗤う。
嗤いながら最後の一人を見つめる。
眼なき眼にて見据えられ、最後の一人は無線で応援を呼んだ。思えば、見つけた時からこうすれば良かったのだ。本部からは見つけたらすぐに連絡し、監視しろという命令があった。だが、四人――今は一人しかないが、四人はそれを無視して逮捕しようとした。
結果はこの様だった。

最後の一人は無線機を手に取り―――その手を斬り落とされた。

絶叫―――した口を両頬ごと真横に切り裂かれた。

恐怖と痛みによる涙―――を流した眼球を刃で構築された舌で突き刺された。

逃げ出そうと―――した足をおろし金の様な刃の肌でザリッと削られた。

背中向けに転倒―――した瞬間に背中にボディプレスの様に圧し掛かられ、胴体に生えた刃で体内の臓器を根こそぎ刺された。

打つ手なし―――という状況になって、漸く最後の一人は死ぬ事が出来た。

そして、全員が死んだ。
残った人はいない。
残ったのは刃だけ。
刃の化物は嗤う。
全てが刃と化したソレは空を見上げて嗤う。
嗤いながら、刃の生えた眼球から、



鉄が溶けた様に、銀色の雫を流した








海鳴のゲートの前に一台の車が止まっていた。
「……ふぅん、あれがウミナリね」
車内から外をじっと見つめる女性。
「らしいな」
女性の問いに答える男。
「情報は確かなの?あの街にアイツ等が居るって話は」
「多分な」
「まぁ、嘘だったら情報屋のハゲをツンドラの一部にしてやるわ」
「そうだな」
「さて、それじゃどうやって潜入するかを考えますか」
「そうだな」
「…………」
「そうだな」
「…………」
「そうだな―――――ん、どうした?」
「とりあえずそのゲーム機を仕舞え!!」
女は男の手にある携帯ゲーム機をビシッと指さす。
「ちょっと待ってくれ。今、銀色の翼龍を狩っている最中だ。仲間は見捨てられん!!」
画面の中では様々な武器を持った男が一人と女が三人。激しい激闘を繰り広げていた。
巨大な翼龍と戦士達の激闘はまさにクライマックスまじかだった。恐らく、一度目でも死ねば全てが終わるだろう。
しかし、終幕はすぐに訪れた。

「電源ポチっとな」

画面が真っ黒に染まる。男の顔は真っ青に染まる。
「NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!ボクの盟友達が!!ボクの親友達が!!ボクの妻達が!!」
電源を改めて入れ直す―――しかし、始まるのはオープニング画面だけ。最初から、途中から、という勇ましい音楽が流れるのがまた悲しい。
「最後の妻ってなによ?」
「見ろ。名前が全員女性の名前だ」
狩人仲間、というリストには全て女性(らしき)名前が記されていた。
「……兄さん、ネカマって言葉を知ってるかしら?」
女は頭を抱える。
この男、正確に言えばこの兄はどうしてこうなのだろうと本気で頭を抱えていた。
「HAHAHAHA、馬鹿だな妹よ。ネカマなんていない。この画面に表示されている名前は全て女性。故に全員が女性。そして妻、嫁、そして恋人!!一人たりとも男なんぞいない!!」
全身全霊で答る男を前に、最早言うべき言葉は無い―――つまり、ある意味でのゲームオーバーというわけだ。
「…………いや、まぁいいけどね」
投げやりな言葉を残し、女はハンドルを握る。
「とりあえず、一度ホテルに戻るわよ」
「おいおい、流石に兄妹でホテルというのは……」
「エロゲーのやり過ぎで脳が壊れましたか?だったら頭の中にウォッカ流し込んでやりやがりますよ、兄さん」
「さ、流石にウォッカで脳は洗浄できないよ」
割と本気な目で怖いのでゲーム機を懐に仕舞う。
動き出す車。
女は先をじっと海鳴の街を見る。男も同じ様に見据え、そして静かに呟く。
「悪巧みするなら自国でやれって話よね」
「まったくだ。僕の母国と冷戦してた頃が懐かしいね」
「アンタと私の母国でしょうが」
「何言ってるんだ?僕は生粋のアメリカ人さ」
「へぇ、それじゃ好きなお酒は?」
「ウーロンハイ」
「好きな食べ物は?」
「うま○棒」
「好きな歌手は?」
「水木し○る」
「全体的にアメリカ人じゃねぇ!?それと最後のは歌手じゃなくて漫画家よ!!せめて水○一郎くらいに言いなさいよ」
「お前も大概僕に毒されてきたな……僕が言えた事じゃないけど」
などと漫才を繰り広げながらも、
「それじゃ、そんな自称アメリカ人の兄さんは、目の前で悪巧みをする馬鹿野郎がいたら、どうする?」
「君と同じ意見を口にするだろうね」
男女は背筋がゾッとする様な笑みを作り、後部座席を見る。
後部座席には鉄の怪物がずらりと並んでいた。
全てが人を一撃で殺傷出来る程の威力を秘めた兵器。
そんな兵器の数々を見ながら、女はさらっと言ってのけた。

「―――――悪巧みは、盛大にぶっ壊すのが礼儀よね?」
「―――――あぁ、同感だよ……我が妹よ」






次回『人妖先生と狼な少女(後編)』


あとがき
きっと自然と2に突入しそうな勢いですね。まぁ、まだ続けますよ。今のところは2が優勢です。
さて、書いてて思った事なのですが……私、あんまり妖怪とか詳しくないな、という点。ぶっちゃけ、この暗殺者な娘の先祖をどうしようかと思ってます。しかも、あの人はアレにしようと思って能力考えて先祖を調べてみたら微妙に違うような気がするという繰り返しなんで、、少しくらい違ってもいいかな、と思い始めたっすよ。
もうあれです、筋肉マンみたいに超人大募集でもしますか。アナタの考えた人妖を感想に書くと、チョイキャラとか主要キャラで登場するかも?……なんていう妄想を抱く今日この頃です。



[25741] 【人妖編・第五話】『人妖先生と狼な少女(中編)』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/02/20 19:38
海鳴にあるそのビルは天上を突く為に立てられた、そう言う者もいる。それほどの高さを誇る高層ビルは、この街の一番の規模を誇るホテル。
街の中に一際大きなソレは、どのビルよりも高く、どのビルよりも存在感を持っている。異常であり異様なそれの最上階にあるのは、海鳴の街を一望できる展望レストラン。高級な品格を持ちながらも、一般市民も利用する機会のあるレストランなのだが、今はまったく人の気配がない。
いや、それは的確でありながら、的確ではない。
無人のテーブルが幾つも並べられるなか、ある一か所だけが無人ではなかった。その一か所にあるテーブルは全部で七つ。白いテーブルクロスをかけられた上に、このレストランの中で特別クラスと呼ばれるメニューばかりが並べられている。いや、それだけではない。一般市民でも食べる事ができるリーズナブルなメニューもあれば、誰が頼むかわからない珍妙な料理もある。つまり、そこに並べられたのはこのレストランのメニューに記された全てが並べられていた。
もっとも、そのほとんどは既に空となり、サラが山の様に詰まれていた。
そして、それを食べていたのは―――たった一人の男だった。
「…………相変わらずの食欲ね。いえ、暴食というべきかしら?」
ガツガツと一心不乱に料理を胃袋に押し込める男を、月村忍は呆れ顔で見ていた。
「こっちの胃が重くなりそうよ」
「なら、お前さんも喰うかい?」
「人の話を聞いてる?私はいらないわ。でも、珈琲くらいは貰えるんでしょうね」
忍は男と同じテーブルに着くと、背後から気配なく初老の男がすっと現れた。
「どうぞ」
男は忍に珈琲を差し出す。忍は礼も言わず、珈琲の匂いを嗅ぐ。
「毒は、無いみたいね」
「当然だ。俺は食には最低限の礼儀を持つ男だ。食に毒なんて不躾な物は入れんよ。仮に、入れるような男が俺の執事だったら、そいつはクビにする」
男はラストスパートの様にテーブルに置かれた皿を空にする。
「下げろ」
初老の男は無言で皿を片づけると共に、透明な液体が入った瓶を差し出す。男は瓶のふたを開け、一気に喉に流し込む。まるでジュースを飲む様にグビグビと飲む様子に忍はまたも呆れ顔をする。
「世界で最高のアルコール度数を持つ酒を、そんな風に飲む奴はアナタだけよ」
「これで最高だというのなら、この世界はまだ小さいんだよ」
「相変わらずの強欲だことで―――で、漸く私の呼び出しの応じてくれたのは、事を理解しているという考えでいいのかしら?」
瓶をテーブルに置き、男は頷く。
「あぁ、わかってはいるさ。俺としてはお前さんみたな美女とこうして食事する機会は多い方が好ましい。しかし、だ。こう見えて俺は世界中を飛び回る忙しさだ」
ニヤッと、笑う。
その笑みはいやらしさはない。しかし、好印象を抱かない。
「この街の中で引きこもっている月村とは違うんでな」
「この街すら満足に管理できないバニングスとは違うのよ、月村は」
「カカッ、言ってくれるよ」
またも笑う。
今度は単純におかしい気持ちからくる笑いだった。
相変わらず良くわからない男だ。忍は心の中で思った。
普通の人はめったに着ない赤い色のスーツを纏い、金色の髪を逆立て、右目に赤、左目に金という二つの色をもった男。身長はおそらく190以上はあるであろう長身。体つきはあれだけの料理を平らげながらもスマートな体格。女性としては羨ましいが、その体を隠す赤いスーツの下に隠された鍛え上げられた肉体を羨ましいとは思えない。
そして何より、男は若い。忍が二十代前半としてはかなり羨ましい美貌を持っている。それに対し、この男は【その十倍以上の年齢】だというのに、未だに二十代後半の様な姿をしている。
「まぁ、あれだ。この街は俺とお前さん達の管理によって成り立っているが、実際はお前さん達、月村が殆ど管理している始末だ。その点において俺は大人しく頭を下げよう」
「結構です。おかげ様で、この街の実権の半数以上は私達に流れていますから」
「そうらしいな。カカッ、俺もうかうかしてられんな」
忍の言葉にまったく動揺は見せない。彼女は今、この街にいる権力者の半分以上を手元に置いているといっていると言った。だというのに、この男はその事にまったく危機感を抱いていない。
「私が言うのは何だけど……アナタ、それでいいの?」
「それでいいのとは、どういう意味だ?」

「私がこの街の支配権を全て独占して、アナタを追い出す事も可能だと言っているのよ―――デビット・バニングス」

デビット・バニングス。
この街の半分、この街の【富】を支配するバニングスの一族。
この国だけでなく、世界にまで手を伸ばす財団の長。
「構わんさ。なんなら、俺はこの街を月村に譲ってやっても良いと思ってるくらいだ」
「譲ってやる、か……随分と舐められたものね、私達も」
「怒ったか?怒っていいが、あんまり怒るとストレスになるぜ?そして、お前さんが怒っても可愛いだけで、ちっとも怖くない」
舐められているのは事実だろう。だが、それはきっと違うと忍は確信している。この男は、デビットは自分を舐めているのではなく―――眼中にないのだ。
内心、怒りが膨れ上がる。
この街の支配権の半分を持っているバニングス。その歴史は深くは無い。そもそも、この街は当初、月村だけが支配するだけだった。それが十年前―――そう、たった十年で立場を半々にされた。しかも、十年前に海鳴の街に現れたバニングスは一年の足らずで三分の一を手に入れ次の年に半分まで奪い去った。
バニングス財団、十年前までそんな財団はなく、小さな会社の名前がそうだった。しかし、今では世界を股にかける程の大企業と成長したのは十年間という短い。昔の様に高度経済成長やバブルの波に乗ったというわけでもないのに、不景気の時代にたった十年で世界的な企業まで上った。
それもたった一人の男の手によって。
このデビット・バニングスという男一人の手によってだ。
「正直、この街にはあんまり興味はないんだよね、俺」
「なら今すぐ、出ていって欲しいわね」
「いやいや。それは駄目だ。なにせ、俺の夢は世界征服だからな」
本気で言っているのかと思う者が多い。もちろん、冗談と思う者が殆どだ。そして、それが冗談ではなく【それすら過程】だという事を知っているのは、少数だけだろう。
「子供みたいね、アナタは」
「大人さ。子供じゃ世界征服は出来ないから、大人になったんだよ」
「いいえ、大人になってなんかいないわ。アナタは私の数倍は長く生きている。なのに、未だに子供みたいな事を言ってるじゃない」
「夢を捨てない男なんだよ、俺はな。夢は素晴らしいぞ?夢さえあれば何でもできる。何でも実行できる。実行する為の力と金が手に入る。世界にはそういう夢と希望が詰まっているのさ、お嬢様」
「アナタが言うと反吐が出るわ」
少なくとも、あの教師の言う夢と希望とは程遠い事だろう。だからこそ、この男の夢など壊れてしまえと忍は心の底から願っている。
「酷いもんだ――――それはさておき、今日は何の話だっけ?」
男は煙草に火をつけ、忍を見る。
「今、この街で起こっている事件について」
「この街はいつだって事件だらけだ。小さいモノに構ってなんかいられんよ」
「そうね、でも小さなモノの中に奇妙なものが含まれているのが問題よ。その小さなモノはいずれ大きな火種になるわ。外と私達の争いの火種にね」
数日前から続いている連続殺人事件。
病院での事件が最初で、それから犯人は通り魔に変貌した。犯人が同一とは言い切れないが、やり方が同じという点で調査は開始されている。
「――――お、そういえばそうだったな。飛行機の中で見た新聞じゃ、珍しくこの街の事件が載ってたな。普段はこの街の危険性をばかりを載せて雑誌も、これ幸いとばかりにグチグチ書いてたよ」
「それが今の、アナタの言う小さなモノよ」
「小さいだろ、この程度。俺の取引先では今、大規模なテロが毎日起こっているぜ?多分、そろそろ戦争になるだろうな」
「それは外の話よ」
「世界に眼を向けようぜ、お嬢様。あんまりこの街に固執すると、小さい人間になっちまうからな」
男はそう言って立ち上がる。
「勘違いしてほしくないのは、別にこの街を蔑にしろってわけじゃない。むしろ、この街を大事に出来ない奴に頂点に立つ資格はない」
「なら、アナタはまさにその典型ね」
「残念。俺は違う。この街を蔑になんてしないさ――――この街も一緒に制服するつもりなんだよ、俺は」
巨大なガラス張りの窓から、外を見る。
「世界を相手にするのに、この街を蔑にするのは駄目だ。逆に、この街を相手にするから世界を後回しにするなんてのも駄目だ。何事も同時進行が好ましい。それこそ王者として相応しい行いだと想わないか?」
「どうだか。アナタのそれは単なる我儘よ、子供のね」
席に座り、今更ながら後悔した。
デビットを相手に少しながらの情報くらいは得られると思った。
少なくとも、デビットは味方ではない。だからこの事件の裏にはこの男がいる可能性だってあった。そうすれば、その事実を持ってこの街の全権を手に入れる突破口にはなるだろうと思った。
しかし、そうはうまくいかない。
「それで、アナタはこの事件をどう思っているの?」
デビットは答えない。
「カカッ、良い空だ」
関係ない答えを口にする。
「良い空だ。空は青い、雲は無い、太陽は素晴らしい輝きを持っている……やはり、この世界に生まれたからには光ある世界に生きるべきだと想わないか?」
「…………」
「この太陽の光を愛している。この身を焼き、俺を否定する太陽が大好きだ。昔から、【俺の時代の連中】はこの光を嫌っていたが、俺はそうじゃない。この光こそが俺の渇きを癒す最高の酒だ」
「…………アナタ、狂ってるわ」
「何故だ?」
忍はスッと眼を細め、冷たい声を吐き出す。
「私達、今の私達なら太陽の光は天敵じゃない。でも、昔はそうだった。そして、その昔から居たアナタは太陽を憎む側だったはず……それなのに、その光を手に入れる為にアナタは【私達】を裏切った」
「気にするな。ほんの数百年前の話だ」
「長老は、今でもアナタを許していないわ」
「あのガキはまだ生きてるのに驚きだな。いやいや、随分と長い気なガキだな。俺が若造の時なんて俺の後ろをちょこまかと走ってたガキが今や長老だ……世の中はわからんね」
忍にはデビットに対する敵意はある。だが、憎悪はない。憎悪を抱くのは彼女よりもずっと長い時を生きた者達。夜の一族が生まれた頃から存在していた者達だ。
そして、このデビット・バニングスも同じ様に【最初の者】だった。
「アナタは夜の一族全てを敵にしているわ」
「そうか、俺は眼中にないけどな。この世界の半分、夜の世界にしか興味のない若造共が俺に牙を向けるのは一向に構わんさ。その時は、丁重にお引き取り願うとするよ」
無論、とデビットは言う。

「この街に色々とちょっかい出す連中もまた、お引き取り願うさ」

「―――――やっぱりね」
忍は溜息を出す。
「どうしてアナタはそうやって大事な事を口にしないのかしら」
そう言った忍は、このレストランに来て初めて笑みをこぼす。それを見たデビットは微笑を浮かべ、
「お嬢様。あんまり敵の前で笑いをこぼさない方がいいと、アンタがガキの頃に言ったはずだぞ」
「そうだったわね、デビット叔父様」
月村忍は確かに彼に敵意を抱いている。だが、それと同時に別の感情を持っている。バニングスという敵。月村に害なす敵。その全てがデビットという男の存在だ。
だが、困った事にこの男はその全てを流すどころか受け止める。
来る者は拒まない。一切拒まない。否定するのは稀な事で、大抵は全てを受け止め、受け入れ、そして豪快に笑うのだ、この男は。
「私もね、【立場上】は叔父様と敵対しなくちゃいけないのよ」
「大変だな、若き当主様は……」
「そうでもないわ。私が叔父様の立場だったのなら、素直に降参するか、自害しているでしょうね」
一族全てを敵に回す事は出来ない。それは死を意味する事と同義。自分一人だけではなく、自分の家族すら犠牲になる可能性もある。
そんなギャンブルに手を出すなんて、とてもじゃないが出来なかった。
「私は叔父様みたいに強くないですからね」
「カカッ、そうだな。だが、気にするな。女は強くもあるが弱くもある。男は強くなければならんし、弱くてはいけない。だから男は女を守る。その逆も然り―――なんてのは、俺のプライドが許さんよ」
幼い頃。
バニングスがこの街の一部に噛みついた頃。
月村とバニングス、月村とデビットの間に激しい抗争が起こった事があった。表だった高層ではないが、アメリカとロシアの冷戦の様に全てを巻き込む大戦争が起こってもおかしくない状況が起こっていた。
その最中、忍はデビットと出会った。
抗争中だというのにデビットは忍を敵とは認識せず、実に紳士的に接していた。
色々な話をした。
色々な物を見せてくれた。
幼い忍の眼に映るデビットという男は、そういう男だった。
だが、今はそうじゃない。
デビットは変わらなくとも、忍は変わった。
姿も、性格も、そして立場も。
「私は叔父様の敵だけど、叔父様は私を敵とは見ないのね」
「見ないさ。全ての女は俺の敵じゃない。女で在る限り、お嬢様は俺の敵にはならない」
「なら、私が男だったら?」
「その時はその時だ。いいかい、お嬢様。男は臨機応変に態度をコロコロ変える権利がある。だが、その権利を持つ男は―――態度を変えても全てを守ろうとする意思がある男だけだ」
そう言って、デビットは忍の頭を大きな手で撫でた。幼い頃、こうやって撫でられた記憶がある。
「もう子供じゃありません」
「なら、キスしようか?」
「奥さんがいるでしょうに……」
「アレはアレ。お嬢様はお嬢様、さ」
でも、きっとデビットはしないだろう。そういう男だからだ、と忍は確信している。
「それはそうと、お嬢様――――なんか良い事あったか?」
突然、デビットは尋ねる。
「なんか前に会った時よりも随分と丸くなったというか、棘が無くなったというか……あぁ、さてはあれだな」
デビットは悪戯を思いついた子供の様な顔をした。
「お前さん、好きな野郎が出来たな?」
「――――なッ!?」
忍の顔が真っ赤になる。
「図星か……そうかそうか、やっとお嬢様に春が来たのか。このままじゃ、何時までたってもお嬢様がメンヘル処女で墓の下にいくんじゃないかと心配だった」
「な、なななな、何を言ってるんですか!?」
「そうか、やっとお嬢様に春が来たか……で、相手はどんな野郎だ?俺よりもカッコいい奴か?」
「叔父様には関係ありません!」
「という事はやっぱりいるんだな、好きな野郎が」
「はぅッ!?」
ニヤニヤと笑うデビット。
真っ赤になって焦る忍。
そして、



向かいのビルから飛んでくるロケット弾



爆音が響いた。
爆風が薙いだ。
レストランの美しい装飾品が一瞬にして炎に飲まれ、黒コゲになる前に粉砕される。
静かでもあり、騒がしくもなった店内は爆炎に飲まれ、黒い煙を充満させる。
ホテルの真下にいた人々は何があったのかと叫んでいる。
ホテルの中にいた人々は爆発によって一瞬呆然とし、すぐに何があったのかもわからず逃げ惑う。
そして、向かいビル。
ホテルよりも随分と低い場所にあるビルの屋上から、ホテルを見上げる者が数人。
「当たったか?」
「あぁ、命中だ」
その中の一人、サラリーマンの様な恰好をしている男は閉じた瞳をゆっくりと開ける。
「確かに見えた」
男は人妖だった。彼の能力は自身の視界を別の物に移動させるという能力を持っていた。それ故に別の一人が打った操作可能なロケット弾に視線を移し、ロケット弾を捜査していた。
「あの男に命中した」
先程までサラリーマンの男の視界に写った映像では、打ち出したロケット弾はデビットの身体に確実に命中、そして爆発。その後は視界を自身に戻したので確認できないが、あの爆発を見る限りでは確実に死んでいるだろう。
「だが、良かったのか?あの場所には月村忍がいたのだぞ」
「構わんさ。前からあのお嬢様にはデビット・バニングスと繋がっている線があった。つまり、我々を裏切る可能性とてあった」
しかし、それは建前だった。
夜の一族とて一筋縄ではない。様々な派閥はあるし、敵対する派閥もある。そして、この男達は月村と敵対する派閥が送り込んだ殺し屋。
「問題は無い。何も無い。それよりもさっさと逃げるぞ。それから当主に連絡。バニングスは死亡。そして【偶然、不幸にもその場にいた】月村忍は死亡……とな」
そう言って男達は撤収の準備をする。

「――――――それは少々困りますなぁ」

男達の視線が一か所に集中する。
「アナタ方には色々と聞きたい事があります故……あ、それはもちろん強制でも任意でもありません。私は警察でもなければ軍でもなりませんので」
初老の男が立っていた。
「これはあくまで、アナタ方の誠意によって成り立つ取引です。ですので、お手数をかけますが―――――」
老人の言葉を聞き終える前に、一人の手に拳銃が握られ、引き金を引かれた。
弾丸は真っ直ぐに初老の男に向かい、

発砲した男の首が吹き飛んだ。

「―――――あ?」
「―――――な!?」
聞こえたのはゴスッという拳が何を叩く音。その音の後に男の首が吹き飛ぶ――スイカを銃で撃った映像に似た感じで、吹き飛んだ。
それを成したのは初老の男。
男は真っ赤に染まった白手袋を脱ぎ捨てる。
「敵対行為には敵対行為で対処しますので、悪しからず。まぁ、あれですな。私とアナタ方では戦力的に差があります故、あまり無駄な抵抗をしない様にするのがお勧めです」
「お、お前……何者だ!?」
「執事ですよ。唯の執事。旦那様に仕える、時代遅れの老人のようなものです」
執事が人の頭を拳一つで粉砕するなんて話は聞いた事がない。これは漫画ではないのだ、これは現実なのだ。
現実にこんな者がいるなんて信じられない。
「人妖、か……」
「違います」
初老の男、執事はキッパリと否定した。
「私は唯の執事です。人妖でもなければ、アナタ方の様な特異な力はございません――――ですが、」
執事の眼光が変わる。
和やかな顔から、鬼の顔。
善人から悪人に変わる様な、そんな変化を前に全員の背筋が凍る。

「俺の主に手を出す愚か者を前に、牙を向かぬ執事など存在しねぇんだよ、若造共が……」

全員の手には武器がある。その身体にも異能が宿っている。だというのに手にある武器が、身に宿る異能を総動員しても、目の前の執事を相手に出来るとは到底思えなかった。
震える、恐怖からくる震え全員が思考を乱される。
だから、幻想を見た。
幻想が見えたのだろうと、全員が思った。
執事の後ろ、ビルに備え付けられている給水塔の上。

赤い色のスーツを来た金髪の男が、女性をお姫様抱っこしながら佇んでいた。

女性は気を失っているのかピクリともしない。だが、胸の上下を確認する限り、生きてはいるらしい。反対に男の方はというと、頭から血を流し、スーツをあちこちに傷があり、その傷から真っ赤な血が流れ出ている。
「―――――おい、テメェ等」
声で殺された。
戦意を殺された。
如何なる武器も、如何なる異能も、その声一つで全てが無と化した。
デビット・バニングスを前に、殺されるという想いでいっぱいになった。
「俺を殺しに来たんだろ?俺だけを殺しに来たんだろ?あの場所には月村忍がいたんだ。貴様等と同じ一族の忍がいたんだ――――なのに、どうして撃った?」
無表情な顔だったが、その額にははっきりとした青筋が浮かんでいた。それを見た男達は恐れ、執事は諭す様にデビットに向けて言う。
「旦那様。あまり気を荒立てない方がよろしいかと……」
「そう言うな、鮫島。俺はこう見えてガキらしいからな。ここは忍の言う通り、ガキに戻ってガキみたいにするべきだと思うんだよ」
「ですが、それではこの者達の上にいる者がわかりません。旦那様が相手をするという事は、殺すと同じ意味なってしまいます」
「あぁ、そうだな。でも、殺す。とりあえず殺す。女に手を出す男は死んでいい。事故なら情状酌量の処置もあるが、コイツ等は絶対に違う。忍がいたのに撃ったんだぞ?」
デビットは執事の隣に降り立ち、忍の身体を預ける。
「傷はないが、丁重に扱え」
「はぁ、了解いたしました……では、私は忍様をファリン様に」
「早く行って安心させてやれ。女が悲しむ姿は見てられん」
デビットは歩き出す。
一歩歩くごとに足下に血が堕ちるが、そんなモノはまったく興味がない様に思えた。
「―――――テメェ等に教えてやる。男ってのはどうして男に生まれてくると思う?」
誰も答えない。
答えるより前に、逃げる事を優先的に考える。
「わからない?こんな簡単な問題もわからないってか?ふん、つくづく馬鹿な連中に生まれたらしいな、テメェ等は……親の顔が見てみたい」
拳を鳴らし、赤い瞳に炎を宿す。
首を鳴らし、金の瞳に光を宿す。
金色の髪の逆立ちが、一本一本が針の様に鋭く尖り、周囲にパチパチと静電気が生まれる。
それを見た男達の中で冷静――周りの中では冷静に近い感覚を持っていた男は、それを見てバニングスの能力を電気に関係があるものか、と思った。
しかし、それは違う。
「教えてやるよ」
静電気が生まれた理由は何か、と問われれば一つだけ。
怒りという感情によって激しく発動した異能の一部が、デビットの身体に収まり切らず、周囲に漏れ出しているに過ぎない。
静電気に意味はない。
知るべきなのは、それが何を現すだけ。

「男が男として生れてくる理由はたった一つだ。それは、女を幸せにするためだ」

拳を握る。あまりにも強く握り過ぎたのか、掌の皮が剥け、血が流れる。
「男だったら女を大事にしろ。それを拒み、男が女を傷けるのなら世界を滅ぼすだけの度胸を持て。それも持てないのなら、テメェ等に女を傷ける権利は一つもありはしない!!」
恐怖が最高潮に達した。
「それ以前に―――――女に手を上げる馬鹿野郎は、殺しても文句は言えないよなぁ?」
男達は理解する。
デビット・バニングスという存在を理解する。
そして思い出す。
噂だと笑い、馬鹿らしいと一蹴した作り話という【真実】

数百年前、彼等の一族をたった一人の女の為に敵に回し、そして勝利した【夜の一族の裏切り者】

デビット・バニングス。
世間では人間と思われている人外。
金の狼。
太陽を抱く吸血鬼。
世界征服を企む大馬鹿者。



「さぁ…………鉄拳制裁の時間だ」



屋上から聞こえる破壊音を背に、鮫島という執事は忍を抱えて歩き出す。
「やれやれ、旦那様にも困ったものだ」
執事は歩く。
そして考える。
自分はとんでもない主を選んでしまった。
かつて、彼が幼い頃に出会った天狗、彼に戦い方を叩き込んだ師匠が仕える子供の姿をした妖怪の方が数倍はマシだった。
そう言えば、と執事は思い出す。
今、この街にはその師匠のもう一人の弟子がいるはずだ。自分と同じ流派を持ち、今では師すら凌ぐと言われた豪傑。
機会があれば、会ってみるのも悪くない。
「おっと、そんな事を考えている場合ではありませんな」
今すべきことは、炎上するホテルの前に呆然と座り込み、忍に仕える従者の肩を叩く事だろう。
もう一度、破壊音が聞こえた。
「――――――まぁ、ほどほどに、ですな」
答える様に、ビルの屋上が吹き飛んだ。








【人妖編・第五話】『人妖先生と狼な少女(中編)』








ある公園の前に、ビニール袋を抱えた少女が立ち止まった。
少女の名前は高町なのは。今は夕御飯の食材の買い出しの帰りだった。ビニール袋の中身を見る限り、今日の夕飯はカレーのようだった。
「…………あれ、なんだろ?」
なのはの眼に留まったのは山だった。
山といっても海鳴にある緑の山ではなく、白やら黒の山。その山を形成するパーツは色々な種類の犬であり、首輪をしているところから飼い犬らしい。そして、その首輪についたリードを一生懸命引っ張っている数人が犬達の飼い主というわけだろう。
つまり、犬が何かに群がっているのだ。
飼い主達が賢明に何かから犬を放させようと頑張っているが、犬達は尻尾を振りながら何かにじゃれる様に群がっている。
一体何に群がっているのだろうと興味がわいたのか、なのはは公園に足を踏み入れる。
「離れなさい!」とか「迷惑でしょう!」とか飼い主達が騒いでいる。なのはが近付くと、本当に沢山に犬達が何かに群がっている様に見えた。そして、犬によって出来た山の中から―――にゅっと小さな手が伸びた。
「人!?」
人の手。それも子供の手だった。なのはは急いで手を掴み、犬によって埋もれた誰かの救出を試みる。だが、大型犬から小型犬まで、様々な犬達が群がる山から人一人を引っ張りだす程、なのはには体力的なものが欠けていた。
周りの飼い主達も次第に焦りから乱暴に犬達を剥がそうとするが、まったく言う事を聞いてはくれない。
閑静な住宅街で、テレビで見る様な救出劇が繰り広げられるとは思ってもみなかった。そして飼い主達となのはとの連携プレイによって数分後、やっと埋もれた誰かが抜け出てきた。全身を犬の毛やら唾液でベトベトにされた人、少女は心底やってられないという顔で犬の群れから解放された。
「…………」
「…………」
そして、少女となのはは見つめ合う。
「え、えっと……」
「…………」
なんだ、文句であるのかという顔で少女はなのはを睨む。心なしか、自身の失態に恥じる様に頬を微かに赤くしているのが可愛らしく、胸がキュンっとなったのは本人には言わないでおこうとなのは思った。
「だ、大丈夫、かな?」
「…………えぇ、大丈夫よ」
別に何も無かったと貞操を整える様に立ち上がり、少女―――アリサはなのはと犬達に背を向けた。
「アリサちゃん!」
なのはの声にアリサは面倒そうに振り向き、
「な――――」
何よ、と言おうとしたのだろう。だが、たった一言は口にする前に止まる。というより、強制的に止められた。
再度、アリサを犬達が襲った。
襲ったという表現は些か間違いはあるのだが、この場合は襲ったという表現であっている気がした。
どうやら、この少女は随分と犬に気に入られるらしい。


「―――――犬に好かれるんだね」
「不覚だったわ」
二人でベンチに腰掛け、なのははアリサにハンカチを差し出す。アリサは一瞬躊躇したが、自分の格好に流石にコレは必要だと感じたのだろう、素直に受け取った。
先程まで犬に飲まれていたアリサの髪は何時もの様にセットされた綺麗な髪ではなく、寝起きのボサボサ頭になっていた。顔も犬の唾液でベッタリという特殊な性癖の者が見れば興奮モノだろう―――無論、そんな者は此処にはいないのが救いだった。
顔をハンカチで拭き、髪を手櫛で梳かして応急処置は完了。犬の唾液が付いたハンカチを見て、
「洗って返す」
とアリサは言うが、なのは気にしなくていいよ、と言う。それでも絶対に洗って返すとアリサは言って、なのはも素直に頷いた。
「…………」
そして、アリサは黙り込む。
まさかこんな場面を見られるとは思ってもいなかった。
犬という動物にどういうわけか異常に好かれる体質持つアリサ。その為、街を歩いて散歩する犬とすれ違えば、その犬は飼い主の命令を無視して襲いかかってくる。この襲い掛かるという表現はアリサ目線であり、犬からすればじゃれてくる、なのだ。しかし、アリサからすれば迷惑以外のなにものでもない。
そして今日、これも実に最悪だった。
学校からの帰り道、近道をしようと公園を突っ切ろうとした際、公園で遊ぶ犬達に遭遇―――後は、言うまでもないだろう。
「犬、好きなの?」
どこをどう見ればそう見えるのだろうか。
「嫌いよ」
本当の事を言えば好きだ。だが、毎回毎回あんな目に会うので、出来るだけ犬には近づきたくない。以前、ふらりと入ったペットショップでゲージに入った犬達がゲージに体当たりしてアリサにじゃれつこうとして以来、ペットショップにも迂闊に近づけない。ちなみに、アリサは知らない事だが、その時に犬達は新しい飼い主の所にいってもまったく懐く事をせず、何匹かはペットショップに返却され、今でもアリサの来店を心待ちにしているらしい。
「でも、好きそうに見えるけどなぁ」
「見かけで判断しないでほしいわ」
「ご、ごめん」
的確に言われているだけに腹が立つ。それ以前に、どうして自分はこの子と話をしているんだろうと疑問に思う。ハンカチを貸してもらったから、仕方なく話す必要なんてない。さっさと帰ってもいいはずだ。
なのに、
「…………」
「ん?どうかした?」
どうも調子が出ない。元々、人付き合いが得意な方ではないが、こうも積極的に来られると色々と狂ってしまう。
だから、なんとかさっさと会話を終わらせ、家に帰る事にしよう。そう思っていたのだが、
「――――夕飯の買い物?」
聞いてしまった。
「あ、コレ。うん、そうだよ。今日はカレーなの」
カレーと来たか、アリサは心の中で苦笑する。カレーというスパイスが効いたものは自分にとって天敵とも云える。特にカレーに入っているある食材は天敵中の天敵だ。
「ニンジンにジャガイモ、タマネギにお肉、あと福神漬」
「タマネギ……」
これだ。
これだけはどうしても駄目だ。
人妖になり、味の無い物ばかりを食すようになる前から、アリサはタマネギが天敵だった。
「そんなものは食材じゃないわ」
思わず言ってしまった。それから、しまったと想い、なのはを見る。なのははポカンとした顔で、袋に入っているタマネギを手に取る。
手に取り、
「タマネギ、嫌いなの?」
「別に……好きじゃないわけ」
「苦手なんだ」
「苦手じゃない」
「大嫌いなんだね」
「大嫌いでもないわ……嫌いでもないし、好きでもないだけ」
「それってつまり、苦手な野菜って事だよね?」
楽しそうに言うなのは。コイツは自分に喧嘩を売っているのだろうかと思ってしまう。
「意外だなぁ。アリサちゃんって何でも食べそうなイメージがあるよ」
「人をそんな勝手なイメージを植え付けないで―――あと、タマネギは苦手じゃないから」
あくまで認めない。
「――――――ほいっ」
当然、なのはがタマネギを放り投げる。それを普通にキャッチするなのは。
「あ、普通に触れるんだ」
「アンタ、人を何だと思ってるの?」
「てっきり触れない程に嫌いなのかと……」
絶対に喧嘩を売っているに違いない、アリサは確信した。
「そういうアンタは、嫌いなものは何なのよ?言っておくけど、私は別にタマネギが苦手ってわけじゃないからね」
「あくまで認めないんだね……そうだな~」
顎に指を当てて考えるなのは。数秒ほど考え、
「嫌いな物はないかな。何でも食べれる様にならないと駄目だってお母さんが言ってた」
「でも、苦手な物に一つくらいはあるでしょ?何でも食べなくちゃ駄目っていうには、絶対にあるはずよ、そういうものが……ま、私には無いけどね」
「タマネギは?」
「しつこい」
それからしばらく、アリサは逃げ出すチャンスを失い話し続けた。というより、なのはがアリサがタマネギが嫌いだと言う事を認めさせようとして、アリサがそれを拒んだので自然と話していただけに過ぎない。
しかし、それでもしっかりと二人は話をしている。
アリサにしてみれば、これはクラスメイトと初めて交わす、授業中ではない会話だった。
「…………」
胸がワクワクしているのはきっと事実だ。こればかりは経験は無くとも、事実だろう。嘘ではなくホントの感情。
「そっか、こういうものなんだ」
「アリサちゃん?」
アリサの呟きに、なのはは不思議そうな顔を見せる。
「ううん、何でも無い」
きっと、こんなに楽しいのだろう。月村すずか、なのはの友達の彼女は。そして周りにいる人達の友達付き合いというのは、こんな風なものなのだと知った。
少しだけ嫉妬しそうになる。でも、嫉妬はしない。嫉妬は出来ない者が出来る者に向ける感情だ。でも、自分はそうじゃない。
自分は出来なかったわけじゃない。しなかったのだ。努力し、自分から前に進めば出来た事をしなかった。サボっていたわけじゃない。わからなかったと言ったら言い訳になるから言わない。
だから嫉妬はしてはいけない、のだろう。
孤独と孤高。
父から受け取った言葉は言い訳には出来ない。言葉の意味はわからないが、言い訳に使って良い言葉じゃないはずだ。だが、もしもその意味がアリサの考える様な事だとすれば、自分は一生孤独に生きなければいけないのではなかろうか。
「ねぇ、高町」
「なのはでいいよ」
「それはお断り」
友達じゃないから。
「高町は……月村と一緒で楽しい?」
「え?」
言葉は詰まらせる。
困った様な、言い難い様な顔をしている。その顔を見て思い出す。あぁ、なるほど、と。この子は自分とすずかのアレを知っている。いや、知っているどころか見ているのだ。
三年前。
殺し合いと言ってもいいであろう、潰し合い。
原因はわからない。
その前後の記憶も曖昧だ。
だからきっと、何かがあったのだろう。
初めて他人に対して振るった自身の力。満月というもっとも力が膨れ上がる日だった。だから自分は恐らく勝ったのだろう―――勝って、何になるのだ。
「ごめん。言いにくいわね、私の前じゃ」
「そんな事……ないよ」
優しい子だ。
前後の記憶は曖昧でも、潰し合いの最中の事だけは覚えている。
飛び散る壁、花壇に咲いた花は散る、抉られた地面―――そして、何かを必死に訴えるなのは。
聞こえていなかったと言えば嘘になる。でも止められなかった。まるで内なる自分が戦え、潰せ、殺せと言っている様に思えたからだ。
その夜。
ベッドに入って思い出すのは、あの時の、暴力を振るった時の感触。
酷い感触だった。
味わいたくない感触だった。
そして、言いの様ない後悔が押し寄せて来た。
「いいの……答えなくて、いいわ」
「アリサちゃん……」
「―――――ホント、どうかしてたわ……」
クシャッと、紙を潰した様な笑顔だった。作りたくもない笑顔で、見せたくもない笑顔で、それでも誤魔化すような笑みは作ってしまったアリサも、見てしまったなのはも、二人とも痛いと思ってしまった。
心が痛い。
何かが痛い。
痛いのに、泣かない。
そして、泣けない。
「――――――すずかちゃんは、良い子だよ」
絞り出す様に、なのはは言った。
「凄く良い子。みんなは怖がってるけど、全然そんな事ない。優しいし、恥ずかしがり屋だし、可愛いし……笑った顔がね、とっても可愛いの」
「そう……」
どんな気持ちで聞けばいいかわからない。なのはもどんな気持ちで言えばいいのかわからないのだろう。言葉を探り探りするように、ゆっくりと紡ぎ出す。
すずかと初めて話した時。
授業でわからない所をすずかに教えてあげた時。
一緒にご飯を食べた時。
体育時間でペアになった時。
掃除の時間に一緒に机を運んだ時。
そして、すずかの口から友達になって欲しいと言われた時。
「すずかちゃんはきっと……一人は嫌だったんだと思うの」
「誰だってそうじゃないの」
自分だってそうだ、とアリサは思った。心の中だが、すんなり認められた事に驚いた。
「でもね、頑張ろうって思ったんだって。頑張って皆と同じ場所で勉強して、頑張って皆と話して、頑張って皆と友達になりたくて……それで、」
「最初の一人が、アンタだったって事でしょう」
羨ましい。
きっとすずかは、なのはの言う様に本当に頑張ったのだろう。月村である事で差別を受け、周りからは怖がられ、それでも教室に現れた。
すずかが教室に現れた時、アリサは表情こそ変わらなかったが、かなり驚いていた。きっと来ないものと思っていた。教室の一番後ろは常に空席で、その席に座るはずの少女は何時だって図書室にいた。
それが普通で、結末だと想っていた。
だが、それを打ち破った。
「凄いわよね、あの子」
「うん、凄いと思う」
だから笑えるんだろう。
三年間、笑う事が出来なかった少女は、今ではそれを取り戻す様に毎日の様に笑みを浮かべている。それは当然の権利で、当然の報酬だ。自らの殻を破り、自ら得た報酬を前に捨て去る馬鹿はいない。
「でも、皆はまだ怖がってる」
それだけが不安だ、となのは言う。

「大丈夫よ」

しかし、アリサはあっさりと言い放つ。
「クラスの連中も、なんだかんだ言って月村の事を気になってるわ」
「本当に?」
「えぇ、本当よ」
だって、見ているから。
「月村の前の席の松村。この間の数学の時間に月村が居眠りしてた時、教師にも月村にもばれない様に起こしてた。学級委員の斉藤は少しずつだけで月村と話す様になってる。この間なんか、好きな本の話で盛り上がってたわよ。水富士はちょっと月村に気があるのかもね。別のクラスで月村の悪口言ってた男子達と決闘してた―――まぁ、惨敗だったけど、後悔はしてないみたいね。柏木は月村と少し話しただけでガッツポーズしてたし、佐藤は月村の代わりに黒板消しを叩いてた」
すらすらと出てくる言葉に、なのはは呆然としてる。
「少しずつだけど、皆が月村の事を受け入れてるのよ。まぁ、あの煙草臭い教師の影響もあるんでしょうけどね―――って、どうしたのよ、間抜けな顔して」
ハッと我に帰り、なのははポツリと、
「アリサちゃん、凄いね」
と言った。
「何が凄いのよ」
「だ、だって!私もすずかちゃんも知らない皆の事を凄く知ってるから」
「普通でしょ、こんなの」
別におかしい事じゃない。
クラスメイトと話はしないが、それでも見てはいる。人間観察の一種なのだろう、男子でコイツは馬鹿だけど優しい。この女子は暗いけど心が優しい子だ。普段は仲の悪い二人だけど、片方が教師に怒られて気分を落していると、慰めていた―――こんなものは、見ていればわかる事だとアリサは思っている。
「ううん、全然凄いと思うよ!!」
何故か力強く言うはのはに、アリサは本当に不思議なものを見る目を向ける。
「凄くないわ。大体、この程度なんて全員が知ってる事でしょう?」
「私は知らなかったよ」
「…………あぁ、アンタはそうかもね。この間の国語の授業に楽しそうに落書きしてたら、授業が終わって全然ノートを取って無いって月村に泣きついてたくらいだから」
「それ、すずかちゃん以外には秘密なのに……」
「え、そうなの?」
それは驚きだった。
「そっか……アリサちゃんってやっぱり凄いんだ」
「いや、だから凄いとかじゃいでしょう、こういうのは」
「皆の事をちゃんと見てるんだもん、凄いと思うよ」
「見てるだけでしょ?誰にでも出来るわよ」
凄い事なんかじゃない。
見ているだけなら、誰だって出来るのだから。
「でも、ようやくわかったよ。アリサちゃんがどうして皆に慕われてるのか」
「はい?」
初耳だ。
自分がクラスメイトに慕われている、なんて話は聞いた事がない。そして見た事もない。
「嘘でしょ、それ」
「ううん、嘘じゃないよ……」
「信じられないわ。私って他の人には空気みたいなもんだから、誰も私の事なんて気にしてないわよ」
だが、なのはは首を横に振る。
「ちょっと近寄り難いけど、優しい子だって皆は思ってるよ」
以外過ぎる評価にアリサは驚いた。
「無口であんまり他の子と接してないけど、気づけば色々と助けてくれたりしてたよ、アリサちゃんは」
「私、が?」
なのはは言う。
アリサにしてみれば覚えのない事だ。覚えるまでもない事だった。しかし、なのははそれが皆の気持ちだと代弁するよう言葉にする。
それは小さな事から、大きな事まで。
教科書を忘れた生徒に無言で教科書を見せたという事。
教材を一人で運んでいる生徒が、教材を落してばら撒いた時に、何も言わずに手伝ってくれたという事。
体育の時間で怪我をしたが隠していた生徒を無理矢理保健室まで連行した事。
隣にクラスと喧嘩した生徒がいて、モップで相手を殴ろうとした生徒を無言で蹴りつけ、おまけに相手のクラスを睨みつけて喧嘩を仲裁した事。
どれもこれも覚えはある様な気はするが、しっかりとは覚えていない。
「アリサちゃんは皆の事を良く見てるけど、皆もアリサちゃんの事を見てるんだよ」
勿論、私もだとなのは言った。
「普段は全然喋らないし、誰かと遊んでる所も見た事ない。だからアリサちゃんがどういう子なのかきっと皆は知らない。でも、知っている事はあるんだよ――――無口で無愛想だけど、悪い子じゃない。絶対にそうだって、皆は思ってるよ」
今度はアリサが呆然とする番だった。
知らなかった。
全然、これっぽっちも、まったく知らなかった。
それ以前に周りから自分がどう思われているかなんて考えた事はなかった。精々、バニングスという名前だから避けられているんだろう、程度には考えていた。
それだけの奴なんだと想っていた。
最初、アリサがクラスメイトの事を色々と話した時、なのはは知らないと言っていた。だから周りを全然見てない馬鹿な子なのかと思っていた。だが、今はその立場が逆転していた。
周りを見ていると言う事は、周りも見ているのだ。
クラスメイトのアリサ・バニングスという少女の事を。
「―――――だから、すずかちゃんだって……」
そして、すずかの名前を口にされた。
「すずかちゃんだって、本当はアリサちゃんと仲良くしたいんだと思うよ……」
「そんな事は」
「あるよ。絶対にある。すずかちゃん、私と話している時も良くアリサちゃんの事を見てたよ。どうしたのって聞いても教えてくれなかったけど、悲しそうな顔してた」
「…………」
「アリサちゃんはすずかちゃんの事、嫌い?」
嫌いかどうか―――それはわからない。
「わからないわ」
正直に答える。
嫌いかもしれない、好きじゃないかもしれない。その反対に、嫌いじゃないかもしれない。好きかもしれない。どっちが本当なのかはアリサ自身もわからないのだろう。だから考える。どう思っているかを考える。
すぐには出ない問題。
でも、実は既に決まっている事かもしれない。
虎太郎が言う様に、わからないと想っているだけかもしれない。
わからない、という言葉の意味は、別にあるかもしれない。
好きかもしれない、嫌いかもしれない―――もしくは、誤魔化すのかもしれない。
「月村が私の事をどう思っているかなんて、関係ない」

「嘘だよ」

間も置かず、なのは言い放った。
「それ、嘘だよ」
「なんでそう思うのよ」
少しだけムッとした。だが、なのはの自分を真っ直ぐ見つめる瞳を見て、何も言えなくなった。
「だってアリサちゃん――――すずかちゃんの話をした時、凄く辛そうだった」
心の中を見透かされた気分になった。
「そしたら、今度はクラスの皆がすずかちゃんの事を考えてるって言ってた時は、凄く嬉しそうだった……すずかちゃんの事が嫌いなら、あんな顔はしないよ」
「そ、それは……」
「私は、ね」
なのはは、アリサの手を握る。
「アリサちゃんと、すずかちゃんに、仲直りをしてほしい」
仲直りという言葉に、何故か背筋が凍りついた。
「本当は嫌なんだよね?すずかちゃんと仲直りしたいんだよね?」
「違うわ。私はそんなんじゃない」
冷静に答えられたのは、きっと凍る様に身体が寒いからだろう。この感覚は知っている―――これは、恐怖だ。
「別にあの子と仲良くする義理もないし……あ、あの時の事だって、一年生の時じゃない。もうどうだっていいと思ってるのよ、私も月村も」
「嘘だよ」
またもや、はっきりと言われた。
「なんで嘘だって決めつけるのよ!」
なのはの手を振り払い、立ち上がる。
「当の本人がそう言ってるのよ!!私だけじゃない。月村だってそうよ!!あの子が私を見てるのだって、きっと私が怖いからに決まってるわ!!」
「違うよ」
「なんでそう言い切れるのよ!?」
激高するアリサとは対照的に、なのはは落ち着いた声で、

「私の当事者だもん。他人事なんかじゃない」

言葉を失う。
「あの時も当事者だった。そして、今はすずかちゃんの友達だっていう当事者……ほら、全然関係ないわけじゃないでしょ?」
ニッコリと笑うなのはに、アリサは自然と後退する。
「それに……これは私の我儘でもあるんだよ」
立ち上がり、アリサの眼を見る。

「すずかちゃんとアリサちゃん、二人が仲良くできたら……私も嬉しいから」

怖いと思ったのは、それだった。
無関心を装っていても、アリサはすずかを気にしていた。
座る者のいない空席を虚しいと感じながらも、同時にあれがずっと空席である事を望んでいたのかもしれない。
きっと自分は、すずかが学校を止めれば―――ほっとしていたに違いない。
見ているからわかった。
周りばかり見ているから、わかってしまっていたのだろう。
友達の作り方を知らない―――それは他人を必要としない。だが、それと同時に存在するもう一つの意味。
友達の作り方を知らないという意味には、もう一つの意味があった。そして、それがこうして心の底から生まれる恐怖の原因になる。
「…………無理よ」
両肩を抱き、自分で自分を抱きしめる。
「私なんかじゃ……無理、絶対に無理」
「アリサ、ちゃん?」
身体が震える。
震えてしまうのだ、自然と。
六歳の頃から封じこんでいた本当が蘇った。
誤魔化しであるにも関わらず、本当になってしまった想い。悟ったつもりになった想いが、本当に悟りになったのだと思った。
嘘は嘘でしかない。だが、嘘を突き通せば真実になる。
嘘が真実を、塗りつぶす。
「―――――嫌われるのよ、私は……」
恐怖、恐怖、恐怖―――恐怖が込み上げてくる。
「謝ったって、許してくれない。友達になりたいって思っても、なってなんてくれない……あんな事をしたのに、一緒にいてくれるはずがない!!」
助けたのに、嫌われた。
笑顔を向けて欲しいのに、泣かれた。
「そんな事は……」
母は泣いていた。
自分が泣かせた。
自分が人妖だから泣かせた。
「そんな事は無いよ」
「勝手な事を言わないでよ!!」
無い、なんて事は無い。
「だったらなんで……なんで泣くのよ?」
「泣く?」
本当でも嘘でも、嘘でも本当でも、思えは嘘にもなり本当にもなる。そして真実は消え、何もかもが嘘によって塗り潰される。
そして、それが真実になる。
「なんでママは泣いたの!?守ったのに、助けたのに、なんで私の事でママは泣いたのよ!!」
怒りを、理不尽な現実に抱いた怒りをぶつける。
「怖いからでしょ?私が、子供の私が自分よりも全然強い力があって、それが何時自分の身に危害を及ぼすのかが怖くて……それが、そんな力が自分の子供に宿ったのが悲しいから、泣いてたんでしょう!?」
家族に縛られた鎖。
人妖に目覚め、その力で母を助け―――泣かせた。
「守ったの?守ったら誉めて貰えると思ったのよ?ありがとうって、良い子だって頭を撫でてくれて抱きしめてくると思ったのよ!?でも、違った。ママは怖がるだけ。私の力が怖くて、泣いたの――――だから今度だってそうよ」
仲直りなんて出来るはずがない。
三年前、アリサはわけもわからず、すずかを傷つけた。
そんな相手にどうやって仲良くしようなんて言えるだろうか―――そんな言葉は腐って捨てればいい。
「どんなに頑張ってもどうにもならない事あるの!私みたいな奴じゃどうにもできない現実っていうのがあるのよ!!」
結局はそれがアリサの中の本当だった。
アリサの眼に映る光景が自身の全て。
この瞳が映し出す世界は、自分を求めてなどいない。
「だから、だから!!」
だから、これ以上自分を惑わす様な事を言わないでほしい。自分に構わず、一人でいる事を容認してほしい。どう足掻いても何も出来ないのだ。何も得られず、結局は堕ち込む事になるしかない。
なら嫌いなままでいい。
相手にも嫌われ、自分自身にも嫌われたままでいい。
こんな自分を好きになれるはずがない。
目の前が真っ暗になる。真っ暗な光が差し込み、アリサの世界を照らしだすようだった。光の世界なんて必要じゃない。光の世界だってアリサを必要とはしていない。
こんな奴を必要とする者なんて、存在しない。
だから堕ちるだけ。

堕ちて、堕ちて、堕ちて、光の届かない世界に向かうだけ――――

しかし、アリサは勘違いしていた。
光の世界がアリサを必要としていない。だが、それは光の【世界】がアリサを必要としていないに過ぎない。
世界とは全てという意味にではない。
世界の意味はそれだけじゃない。
世界、全て―――この二つの言葉は【個】がなければ構築されない、という意味だってあるはずだ。

「―――――全然わかってないよ」

世界という全てが見捨てても、その世界に住む個が必要としているのならば、
「やっぱりアリサちゃんは、全然わかってない」
それはまだ、不必要という意味にならない。
「さっきもそうだけど、アリサちゃんって自分の事は全然わかってないよね?」
なのはは苦笑を浮かべる。
「わかって、ない?」
「うん、全然わかってない―――アリサちゃんの言いたい事はわかったよ。でも、言いたい事がわかっただけで、そうなんだって理解はしない」
苦笑を浮かべながらも、瞳は笑ってはいない。
「アリサちゃんは自分で考えて自分だけで終わらせてるだけ……それじゃ、他の人の事なんて要らないって言ってる事と同じだよ」
「――――ッ!?」
「そんな風に思ってたら、きっとすずかちゃんの事だって全然わかってないんだよね?」
なのはは言う。
「ずっと見てたって言ってた時は凄いと思った。皆の事、良く見てるんだなって思って本当に凄いと思った―――――でも、見てるだけだったんだよね、それじゃ」
見ている、見ているだけ、それでは知っているとは言わない。
「アリサちゃんは皆の事をずっと見てた。でも、見てるだけだった。だから知らない。自分がどう思われているかも知らない。何にも知らない……アリサちゃんは、結局何にも知らないだけなんだよ」
どうして、どうしてここまで言われなければいけないのだろう。
どうして、こんな自分と同じ様な子に、こんな事を言われなければいけないのだろう。
「アンタに、私の何が分かるって言うのよ!!」
「全然わからないよ」
あっさりと否定した。
「だって、アリサちゃんとお話した事はなかったからね。私も、私達もアリサちゃんの事を見ているだけだった。色々と助けて貰ったけど、それだけで良い人だって決めつけるのもおかしかったんだ……決めつけちゃ、いけなかった」
見ているだけでは足りない。
行動している姿を見ているだけで、他人を評価する事はできない。
勿論、話すだけで分かると言うわけでもない。
人は嘘を吐く。それを本当か嘘かを判別するのは難しいだろう。だから本当に意味で他人を理解するのは難しい。
それでも、
「だから知りたいんだ。アリサちゃんの事を」
諦めて良い、今知っている事だけで良い、というわけにはならない。
「私の事だって知って欲しいし、すずかちゃんの事も知って欲しい」
なのはは自分の胸に手を当て、それからアリサの胸に手を当てる。
自分の心の音を聞き、アリサの心の音を聞く様に。
「少しだけアリサちゃんの事を知る事ができたけど、きっと足りないかな……」
アリサの胸に当てた手を放し、アリサに差し出す様に止める。
「私は、アリサちゃんと友達になりたい」
衝撃が走った。
身体中に電気が奔った様な気分だった。
それは、その言葉は、
「私、と?」
欲しかった言葉だった。
心の底から欲しかった言葉だった。
「私、なんかと?」
「アリサちゃんとだよ。アリサちゃんと仲良くしたいから、良く知りたいから、友達になりたいんだ」
でも、いいのだろうか。
これでは自分は何もしていない。
何もせず、受け入れるだけしかできない。
拒否する事でも出来るだろう。だが、それでは何も変わらない。
なら、どうする。
「…………どうして、良く知らない相手にそんな事を言えるの?」
「知りたいから、かな……アリサちゃんの事をもっと知りたいから。犬が大好きで、犬にも好かれるアリサちゃん。タマネギが嫌いなのにそれを隠しているアリサちゃん。誰かが困っていたら助けてくれるアリサちゃん……そして、本当はすごく臆病なアリサちゃん。私が知っているはこれだけだから。アリサちゃんを見て、話を聞いて、わかったつもりになったのは、これだけ」
人は欲深き生き物だと言うのなら、
「もっと知りたい」
今はそれでも良い。
それで止まる者など、進む権利は無い。

「だから、私と友達になって欲しいの……私と、すずかちゃんと」

汝、孤高で在れ。
汝、孤独で在れ。
父の言葉が蘇る。
この言葉を意味は本当に意味はわからない。だが、今の段階で知っている事は、自分がこの手を振り払う事が必要だという事だけ。
だが、いいのだろうか。
本当にこの手を振り払ってもいいのだろうか。
孤高であり、孤独である必要があるのなら、これは邪魔でしかない。
邪魔でしか、ないはずなのに。

「か、考えさせて……」

こう答えるのがやっとだった。






忍が事故にあったという知らせを受けた時、すずかは図書館にいた。
毎日たくさんの本を読む彼女は、良く学校の帰りに図書館に寄っていた。最近はなのはと一緒に帰る時が多かったので、最近はあまり着ていなかったが、今日はなのはが用事があるらしいので家に帰る前に図書館に寄る事にした。
そして、知らせを受けた。
すずかは急いで図書館を出て、タクシーに乗って忍が運ばれた病院へ向かう。メイドの話を聞く限り、目立った外傷もなく、気を失っているだけらしいが、それでも心配にはなる。家族なのだ、当然の事だ。
タクシーの後部座席ですずかは両手を握って祈る様に額に手を当てる。確かに外傷ないので心配はないが、精密検査で何か問題があるかもしれない。姉には健康で元気なまま自分の元へと帰ってきてほしいという願いでいっぱいだった。
一般道であるがゆえにタクシーの速度は平均並だ。だが、遅いと感じる。普段なら気にならないのに、今だけは歩いた方は早いのではないかと思うほどだ。
そして、タクシーの窓からふと外を見る。
夕方という事で帰路を歩く学生やサラリーマン。買い物帰りの主婦に道草をくっているすずかと同じ年の子供達。
誰もタクシーなど見ていない。道路を走る車なんて見てる者はいるはずがない。だというのに、何故か視線を感じた。
タクシーが横断歩道の前で止まった。
その時、一瞬だったが確かに感じた。
すずかの眼と、誰かの眼が交差する。
誰かは歩道から見ていた。
すずかの乗ったタクシーをじっと見ていた。
ボロボロとコートを纏った誰かの背は低く、子供の様だった。そんな子供の姿を周りは奇異の眼で見ている。そして、通り過ぎてればすぐに興味を失う。
そして笑っていた。
銀色の――まるで一本一本が刃の様に尖った歯を見せ、笑っていた。
「――――――ッ!?」
本能的に眼を反らした。見てはいけないものを見た、見てしまったような恐怖。歯の全てが刃という奇妙奇天烈な人間なんているはずがない。例え、それが人妖だとしてもいるはずがない。いたとしたら、異常な姿だ。
すずかは眼を反らしたが、視界に入れていないという事が逆に恐ろしく感じた。ゆっくり、恐る恐る視線を戻す。

そこには誰もいなかった。

安堵の息が漏れると共にタクシーが発進する。
今のは何だったのだろうか、幻の類なのだろうか、頭の中で整理するのに時間がかかりそうになる。そして、こんな幻が見えるのはきっと姉の事が心配しすぎた結果なのだろうと考えを完結させる。
早く病院に行って姉の元気な姿を見よう―――そうすずかは心に決めた。
タクシーの窓から忍の運ばれた病院が見える。
病院の前に小さな公園があった。
公園のベンチに二人の子供がいた。
「あれ?」
二人とも知っている。一人は友達のなのは。もう一人はクラスメイトのアリサ。どうしてあの二人が一緒にいるのだろうと首を傾げる。
「もうすぐ着きますよ」
運転手の声にすずかは窓から視線を外して、わかりましたと声に出す――否、出そうとした。

【―――――グィガガィィ】

ドンッという衝撃。
運転手の驚愕の声。
ボンネットの上に立つ、先程見えた幻。
刃の様な歯が見える程、歪んだ笑みを作る。
腕を振り上げると、その手には無数の刃が生えている。
その腕を―――叩きこんだ。
「ぎぃあッ……」
運転手の声と共に、その身体に腕が突き刺さる。突き刺さり、貫通し、シートすら突き抜ける。
「―――――――ッ」
声にならない悲鳴。
運転手は一撃で命を奪われ、運転する者を奪われたタクシーは蛇行運転を繰り返し、電柱に激突した。
動物的反応か、人間的反応か、どちらにせよ命の危機に出会ったすずかは本能的に身体の中のリミッターを解除した。後部座席のドアを蹴り破り、車が激突する瞬間に外へとダイブする。
アクション映画ばりのスタントを行ったすずかは地面を転がり、後に続くのはタクシーが壊れた音。

そして、地面に刺さる刃の音。

【ギィィィィギギギィィィ】
刃と刃が擦れる音が響き、視線を上げる。
そこには少女がいた。
少女だと思える何かがいた。
全身から無数の刃を生やし、眼からも口からも耳からも、全てから刃を生やしたソレは人間でも人妖でもない。
完全な、化物だった。
【ギギギィィィィギィギィ】
何を言っているかは分からないが、この化物は確実にすずかを見ていた。そして、嗤っている。刃で出来た歯の隙間から、金おろしの様な舌を伸ばし、自身の頬を撫でる。それだけで人間の肌だった部分は削り取られ、肌の下に隠されたピンク色の肉が見えた。
「―――ぅううッ!!」
悲鳴よりも吐き気が襲いかかる。
化物の肌の下には確かに肉があった。だが、その肉の下から刃がじゅぶじゅぶと音を立てて捲り上がり、肉を斬り裂き血管を断裂し皮膚を作り替える。
肌の一部が刃となった。
人の肉が刃となり、人の肌が刃となる。
それが変貌の開始だった。
最早、すずかは言葉を発せる事が出来ない。

刃が人を食っている。

人の形を刃が崩し、人の細胞を刃が奪い、人の進化の果てを刃と化す。
いや、それは進化などではない。むしろ、刃が元の姿に戻るろうとしている様に見えた。
人から刃に帰る。
人は元は刃だった。
時間が経つと共に、刃は人に化けた。
そして今、人は刃へと帰還する。



「――――メタモルフォーゼ」
医者は双眼鏡を目に当てながら、そう答えた。
「ドミニオンが作りだしたのは、人妖の力を一時的に上げる力だ。でも、それでは不完全だったんだ。僕達の国の研究では、人妖という存在は病気によって誕生した種族ではなく、【進化した形】だと想われている」
「進化?あれが、進化だというのか?」
下手人はスナイパーライフルを構えながら、信じられないと口を挟む。
「あれが人間の進化の果てだと言うのか?」
「う~ん、多分違うね。僕の考えを口にするなら、あれは進化の果てではなく【退化】なのかもしれないね」
「それも奇妙な話だな」
医者は言う。
人妖とは進化した人間ではない。人間が昔に戻ろうとして失敗したのが、人妖なのではないかと。
例えば人間は猿から進化した。猿も同じ様に元があり、その元も当然存在する。そして人妖とは元に戻ろうとする身体の行動。いわば、人間が猿に戻ろうとしている行動と同じだと言う。
「――――まさか、あの実験体の元はアレだと言いたいのか?」
「僕はそう考えるよ。ちょっとファンタジーな話になるけど、人妖の祖先はああいう人ではない存在だったかもしれない。だが、時が経つにつれて彼等は世界に適応していった。人が多ければ人の形に進化する。ほら、元は水中生物だったものが進化して陸上生物に変わった様なものさ」
「化物が俺達の祖先、というわけか」
嫌な話だ、と下手人は苦笑する。
「まぁ、あれだね。人魚姫が人間のままハッピーエンドで終わった場合。その子孫は人魚の遺伝子を持っていた、という事になるだろうしね―――そして、あの薬はそれを加速的に退化させる薬なんだよ」
進化する薬ではなく、退化させる薬。
人であった名残を根こそぎ奪いさり、怪物が怪物としての本来の姿を取り戻させる。
「この国の言葉を借りるなら、先祖返りってやつさ」
「所詮、化物は化物という事か……だが、あれは予想よりもかなり早い退化だな」
「そうだね。こればっかりは予想外だね。これじゃとてもじゃないが運用は出来そうになる。なにせ、あんな風に自我を失ってしまうほどの代物だ」
「失敗作というわけか」
「エジソンを習うなら、失敗は成功の母という話だよ」
レンズの向こうに写る姿は、最早、完全な化物だった。
少女の形をしていた刃は、その形を崩している。
現在の姿は刃で構築された獣。
衣服は破り捨てられ、刃となった肌が見える。一枚一枚が鋭い刃。振れただけで全てを切り裂き、一切の干渉を否定する盾と化している。
そして何より、骨格自体が変貌していた。
人の骨格は崩れ、二足歩行である身体を四足歩行に変化させている。それに加え、背中には刃で出来た背ビレが生え、その先に連結刀の様な尻尾が存在している。
怪物、その一言だった。
「流石にこれは効き過ぎというか、思った以上に力が強すぎたみたいだね」
「あれでは実戦では役にたたんぞ。自我どころか命令すら忘れた、ただ殺すだけに特化した生物兵器なんて使えない」
「同感だ……まったく、だからこの国から盗んだ薬で作りより、最初から僕達で作った方がよっぽどマシな物になるのに……」
まるで他人事だった。
レンズの向こうで刃の怪物によって殺されそうになっている少女がいても、二人の男はそれにはまったく感心を示さない。
「まぁ、いいさ」
「そうだね。いざとなったら廃棄処分にするだけだしね」
彼等の手によって怪物にされた少女は死んだ。あの場にいるのは少女の殻を斬り裂いて生れた刃の怪物。
その中にある意思は一つだけ。
斬り殺す。
目の前のアレを斬り殺す。
それだけしか存在していない。
医者と下手人は一つだけ勘違いしていた。
確かに今の怪物に自我は無い。だが、予め植え付けれていた記憶と命令だけはしっかりと残っている。本能と命令の二つアレを動かす衝動。そしてそれを完結させる獲物が目の前にいる。
恐らく、怪物が獲物を殺した瞬間―――怪物は本当の怪物に変わるだろう。
眼に映る全てを切り裂く、斬り殺す。
それだけが唯一の本能であり、存在理由。
哀れな少女は、完全に死んでいた。
名も消され、記憶も消され、残った自我すら消され、存在を自身の祖先によって消された。
既に少女という存在は消えた。
そこにあるべき怪物の名は一つ。
刃という怪物。
怪物という獣。


そして、この国に遥か太古に存在していた怪物の名を―――【胴切】と申す。




あとがき
うん、前後篇で終わりませんでした。そして、人妖先生が出ていない。
そんなわけで暗殺者の少女の先祖は【胴切】になりました。アイディアをくださった【ふぬぬ様】ありがとうございました。
そして、アリサパパの登場。ものすっごい人外キャラになりました。個人的なイメージではポルフェニカに出てくるレオンというキャラですね。
大体な設定は人物設定にて。
次回こそ、アリサお嬢様編の終了です。
そして、ちょっと間話を挟みますよ。



[25741] 【人妖編・第六話】『人妖先生と狼な少女(後編)』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/02/24 00:24
胴切という怪物が動くのか、すずかという少女が斬り殺されるのか、どちらが早いかと言われれば、言うまでも無い。


どちらよりも早く、風を切って奔る金がいる。


「頭下げなさい!!」
突然聞こえた声に、すずかは反射的に頭を下げる。それと同時に彼女の頭上を飛び越し、目の前にいた胴切に向かって襲いかかる獰猛な攻撃。
ガンッという音が響き、胴切の身体が吹き飛ぶ。壊れて廃車となったタクシーにぶち当たり、胴切の口から奇天烈な声が漏れる。
すずかが頭を上げると、目の前には自分と同じ制服を来た少女―――アリサが立っていた。
「バニングス、さん?」
「立てる?立てるならさっさと逃げなさい」
アリサは胴切から眼を反らさず、構える。しかし、その顔には冷たい汗が流れていた。阻原因はすぐにわかった。
すずかの眼に赤い液体が写る。それはアリサの足から流れ、彼女の履いている靴を真っ赤に染めていた。
「その足……」
「大丈夫。ちょっと思った以上に鋭かっただけよ、アレの身体がね」
タクシーが電柱に激突した音は、アリサの耳にも入っていた。
何が起こったのかはわからなかったが、本能的に何かを察知したのだろう。
アリサは即座に駆けだし、すずかと、すずかに襲いかかろうとしていた怪物を目にした瞬間―――すずかの頭上を飛び越えて胴切に蹴りを叩きこんでいた。しかし、それが仇となった。
胴切の胴体は刃で構築された鋼にも似た性質。そして、それに触れた者を問答無用で突き刺す鎧と化していた。
結果、アリサの足には胴切の身体の一部、胴体に生えていた刃が突き刺さっていた。
「それよりも早く逃げなさい……邪魔よ」
「で、でも―――」
「良いから逃げなさい!!」
アリサが叫ぶと同時―――胴切は跳び上がり、アリサに襲い掛かる。
小さく舌打ちをし、アリサはすずかを抱えてその場から跳ぶ。だが、今日は前回の時とは違い、空には半分以下の月、三日月が上っていた。
ソレが原因で彼女の脚力は胴切の身体能力の半分以下―――恐らくは、胴切になる前に少女よりも下だったのだろう。
胴切は上昇した身体能力をフルに使い、地面に斬手を叩きこむ。コンクリートで舗装された道路は豆腐の様にスッと切られた。そしてすぐに斬手を抜き取り、後方に飛んだアリサを追撃する。
アリサの腕にはすずかがおり、未だ跳んだまま。跳んだままで方向転換など出来ない事は物理的法則が教えてくれる。
故に、彼女に出来る事は跳んだまま―――すずかの身体を道路に向かって放り投げる事だけ。
放り投げた事で空になった腕で、突き出された斬手を受け止める。白刃取りの用量で斬手を両の掌で挟み込む。
「――――ぅくあ……ッ!」
挟み込んだ手の甲から刃が伸びた。胴切の斬手は掌、甲、両方に鋭く尖った刃が生えている。その手を挟みこめば、結果的にこうなる事は眼に見えていたが、あのままでは確実に胴体を突き刺されていた。
両の手に刺さった刃を抜く暇はなく、胴切は空いた片手で貫手を繰り出す。五本の指は針の様に尖り、そして長い。
斬ッと突き出される斬手。
真っ直ぐにアリサの頭部を狙ったソレを、アリサは蹴り上げる事で回避する。だが、それもまた悪手となるのだった。
アリサが蹴り上げたのは、胴切の肘。グンッと進行方向が代わり、貫手はアリサの頭部を擦るだけで済んだ。だが、蹴り上げたには更に深いダメージを負う事になった。
だが、それでも攻撃の手を緩める事は出来ない。
手に刺さった刃を抜き、蹴り上げた足を戻して頭部に踵を叩きこむ。
血が飛び散る―――アリサの足から。
これで三回。
三回の攻撃で片足は深刻なダメージを負う事になった。
だが、それは無意味には終わらない。頭部に叩きこんだ一撃で、胴切の頭部にある刃の一部を破壊。そこへ身体を回転させてのバックブロー。
拳の痛みは忘れる。
今はこの胴切をどうにかする事の方が先決だ。
だが、それでも今のアリサには荷が重いのも事実。満月のときの彼女の力ならこの程度の相手にここまでダメージを負う事はない。そもそも、満月の時のアリサの身体能力の向上は再生能力にも比例する。
胴切と距離を取り、片足に感じる激痛。満月時なら即座に回復を開始していたであろう傷は、一向に治る気配はない。
足下に真っ赤な水溜りを作る。
「これは……ちょっとヤバいわね」
苦笑できるだけ、まだ余裕はある。その余裕もハリボテであるのは明確。アリサの視界には未だにすずかがいる。そして、その後方に新しい邪魔が入る。
「すずかちゃん!!」
「なのはちゃん!?」
なのはが追って来たのだ。
今度は大きく舌打ちする。
胴切は刃で出来た銀の瞳でアリサ、すずか、そしてなのはを見る。
「な、なに……アレ?」
震える声でなのはは胴切を見つめる。それはすずかも同様だった。如何に夜の一族、月村の名を持つ少女だとしても、戦闘経験など殆ど皆無に等しい。つまり、足手まといには変わりは無い。更に、アリサが見てきた限り、人並み以下の運動能力をもってしまっているなのはもいるのだ。
「手札は最悪―――でも、やるしかないか……」
足の痛みは忘れる。
「アリサちゃん!!」
「うっさい!!さっさと逃げなさい!!」
血が漏れる足で――地面を蹴りつける。
今は二人が逃げる時間を稼ぐしかない。
胴切の身体が横に回転し、鋭い鞭の様な尻尾が飛んでくる。その一撃を頭を下げて避け、懐に入り込む。
構えるのは右手。
恐らく、撃てば刺される。
「だから――――」
しかし、迷いなどない。
「どうだってのよぉおおおおおおおッ!!」
轟ッと響く爆音と衝撃。
今の渾身の一撃を胴切に叩きこむ。胴切の口から耳障りな悲鳴が轟き、身体が宙に浮き上がる。浮き上がった身体に同じく右手でアッパーを叩きこみ。それから肘で再度追撃。空中で動きを止めた胴切を追い越す様に跳び上がり、
「潰れ――――ろッ!!」
両足で背中を蹴り抜く。
地面に叩きつけられた胴切は大きくバウンドし、そのがら空きの胴体に再度右手を打ち込む。
地面に亀裂が走り、胴切の身体にめり込む。結果、右手は完全に使い物にならなくなった。
胴切から距離を取り、動かない二人を睨みつける様に見て、
「逃げるわよ」
そう言って走り出す。
二人はその後を追う様に走りだすが、なのはは脚がもつれて転びそうになる。それをすずかが支え、二人は手を繋いで走りだす。背後で倒れた胴切を見ると、ゆっくりとたが動きだす姿を見て、二人は顔を真っ青にしながら懸命に走る。
先頭を走るアリサは周囲を見る。
こういう時は人気の多い場所に行くのは不味い。あんな化物を人の多い場所に向かわせたらそれこそ大惨事になる。だからと言って此処から警察がいる場所まで逃げるのも得策とは言わない。
走りながらも足には激痛が続く。そして、右手はそれ以上に出血している。自分の眼で見ても眼を背けたくなる程の怪我だった。恐らく、肉がズタズタになり、骨も何本か折れている。折れているだけならいいが、下手をすれば切断すらされているだろう。
「なんだってのよ、あの化物は」
とりあえずわかる事は、あの化物はすずかを狙っている事。そしてその能力は並の人妖では歯が立たないという事。そして、恐らくは最近この街を騒がせている殺人鬼はアレに違いない。
「あ、アリサちゃん。その手……足も!」
なのはの悲痛な声が耳障りだった。手の怪我を抑え、無言を突き通す。
「治療しないと」
「そんな暇はないわよ。グダグダ言っている暇があったら走りなさい!!」
背後には耳障りな刃物の音が響いている。追ってきている。自分とすずかを追ってきているに違いない。
その原因の一つは自分の足の怪我だろう。思った以上に傷が深いのか、走る度に地面に血が零れ堕ちている。コレを辿れば馬鹿でも後を追ってこれるという話だ。
だとすれば、
「高町、月村。次の曲がり角でアンタ等は左に逃げなさい。私は右に行くから」
二手に別れるしかない。そして、相手は確実に自分の方に来る。
「で、でも、それじゃバニングスさんがアレに―――」
「それが狙いだって言ってんのよ。それとも何?アンタがアレの相手をする?言っておくけど、アンタじゃ無理よ」
もっとも、今の自分でも無理だ。
「このままじゃ絶対に追いつかれる。だから二手に分かれる。アンタ等の生存確率は私よりは高いし、アンタ等が居ない方が私の生存確率は少しは上がるわ」
我ながら冷静にだとアリサは思った。
死の恐怖がないわけじゃない。ただ、こういう場面にはそれなりに慣れているのも事実。その理由はこの二人には言えないが、経験からわかる。
このままじゃ、三人とも死ぬ。
「そんなのダメ!!」
なのはが叫ぶ。
「アリサちゃんを置いて逃げるなんて……」
「そ、そうだよ!そんなのは駄目に決まってるよ!」
あぁ、五月蠅い連中だ。
アリサは二人を睨みつけ、叫ぶ。
「邪魔なのよ、アンタ等二人は!!」
そう言って曲がり角に差し掛かると二人を無理矢理右方向に押し出す。
「私の足手まといになりたくなかったら、さっさと逃げなさい!!」
二人は中々その場から動こうとしない。
まったく、なんて鈍い連中だ―――だから、
「―――――大丈夫よ」
だから、こうして笑ってやれるのだろう。
「あんな化物に殺されるほど、私は弱くないわよ」
そう言って走りだす。背後から二人の声が響くが無視する。そして、躊躇するようだが走りだす足音が聞こえた。
これで安心できる。
五月蠅い連中だ。自分の心配をする暇があったら、自分達の生存確率を上げれば良いモノをと考える。
本当にお人好しな馬鹿だ。

「だから……守らなくちゃいけないじゃない」

足を止める。
周囲には誰も居ない。
あるのは建築途中の鉄筋がむき出しのビルだけ。
そこでアリサは相手を迎え撃つ。
他人なのだ、あの二人は。
友達でも家族でもない、唯のクラスメイトに過ぎない。
そんな者の為に命を張るなんて馬鹿らしい限りだ。
孤独であり孤高。
他者と共にいるのではなく、一人で迎え撃つ。
何の為に―――守る為だ。
あぁ、わかっているとも。

わかっているから、見捨てられなかった。

自分でも認めたくない本当の自分の一部がコレだった。コレがあるから、数日前にすずかを助けてしまったのだ。
唯、満月だから助けた――言い訳だ。
唯、顔見知りだから助けた――これも言い訳。
何を言っても言い訳にしかならない。
だから正直な気持ちで言葉にするしかない。
「高町の言う通りね。私、全然自分の事がわかってないわ」
笑ってしまう。
こんな時になってようやく認める気になれた。
地面を刺す音が聞こえる。
「結局、こういう事しか出来なかったのよね……私、結構臆病なんだ」
音は自分の元に近づいている。
「何が友達の作り方を知らない、よ。ただ作る勇気がなかっただけじゃない」
音が、目の前で止まった。
「ねぇ、アンタもそう思わない?」
胴切へ話しかける。当然、相手はこっちの言葉などわからず、首を傾げている。言葉が伝わっていないのではなく、この状況で清々しい笑みを浮かべているアリサが奇妙に思えたのだろう。
「――――本当は誰かの傍に居たかった。でも、その勇気がなかった。話しかける勇気も、行動する勇気も私に無い。だから月村が羨ましくて、周りが羨ましかった」
暗い空には月がある。
手を伸ばしても届かない月。
だが、本当は届くのだ。どんなに遠い月だろうと、星だろうと、届くかもしれない。届かないものだと決めつけ、手を伸ばす事すらしない愚か者には、届く可能性すら在りはしない。
「だからなのかな……綺麗だと思った。尊いと思った。友達がいる人達みんなが綺麗で大切な者に思えてならなかった……そう思えたから―――守らなくっちゃと思った」
奪われるのも壊されるのも嫌だった。
高町なのはという友達を得た少女の笑みを、壊してはならないと思った。
だから助けた。
勝手助けて、勝手に見ていた。
「アンタはどう思う?こんな馬鹿みたいな私の事を……」
胴切は答えない。
代わりに刃で出来た舌を伸ばし、唸る。
言葉は通じない。こちらに伝わるのは背筋が凍るような殺気だけ。恨まれる筋合いはないと思うが、薄々は感じている。
アレは、目の前にいる化物は、数日前に自分が病院送りにした人妖の少女だったのだろう。
確信は無いが、そんな気はする。
「――――壊させないわよ」
意思は込める。
ガラクタな手に力を入れ、ズタズタな足に踏ん張りを利かせる。
この先は通行止め。
この先の向こうは自分やお前の様な者の歩む道ではない。
「絶対に、壊させない」
どうしてか、この時に脳裏に浮かんだのは虎太郎の言葉だった。
この街を好きになりたい。この街が嫌いなら一緒に好きにならないか。そして、言葉にある別に意味―――これは走馬灯になるのかは知らないが、今だけははっきりとわかる。
自分はきっとこの街が嫌いなのではない。この街に居る人々は外の世界と変わらず誰かと共にある。そんな当たり前の事が出来ない自分が嫌いで、それが出来ている周りが羨ましくて、だから嫌いになって―――それでも、そんな嘘には誤魔化されなくなっていた。
一緒に好きになる事なんて出来ない。
何故なら、最初から好きだからだ。
外にも出れない、外から憎悪を受ける、しかし中では生きている人々がいる。
「来なさいよ、化物……相手してあげるわ」
少女の決意に、薄らと瞳に赤い色を宿す。
本来の力には程遠い赤だが、後は意思で補うだけ。
負けは考えない。勝ちも考えない。

考え、そして守るべきは―――他者の絆。

アリサという人妖の意味。アリサという人間の意味。アリサという存在の意味。ソレを今、この場で叩きつける事にしよう。
胴切とアリサ。
怪物と人妖。



互いは互いを障害とみなし―――激突する。









【人妖編・第六話】『人妖先生と狼な少女(後編)』









虎太郎は一人家路に着く。
元々は日が暮れる前に帰るはずだったのだが、とある場所に寄っていたせいで帰りが遅くなった。しかし、その成果は上々だった。
その成果は彼のビニール袋の中に入っている代物―――言いかえれば、景品である。
軽く捻って銀の玉を飛ばして、穴に入れて抽選して、数字が三つそろって万々歳。
むふふ、と間抜けな笑みを浮かがら煙草を咥え、その笑みを隠して無表情で歩く。
周囲には誰もいない。実に静かなものだと小さく笑みを零す。だが、この静けさの裏には闇が在り、今もこの街を騒がせている。その原因となるのは謎の殺人鬼。刃物で人々を次々と惨殺する怪物。
「―――――」
家に向かう足を止め、周囲を見回す。
「―――――」
人の気配はない。
「―――――」
しかし、何かがいるという事だけはわかる。
「―――――」
これは、何だと考える。

「――――――――――――――――――俺に何の用だ?」

ヌッと背後で影が動いた。
影は虎太郎の背にある影から生まれた様に蠢き、形を成す。
ソレは影でありながら人の様に動き、人の様に嗤っていた。
『―――――加藤虎太郎さん、でよかったですか?』
聞こえたのは機器で加工したような声だった。その声は虎太郎の背後にある奇妙な影の口から洩れていた。
「そうだが……お前は誰だ?」
『誰でもいいではないですか。私はただ、忠告に来ただけです』
「忠告?」
影が頷き、虎太郎の耳元に這い寄る様に囁く。

『月村に手を出してはいけません』

なるほど、確かに忠告だと思った。
「それはどうしてだ?」
『理由は一つです。月村という存在自体がこの街に平和を崩し、全てを破壊するのです』
「全てを破壊とは、また大きく出たな」
『嗤い事ではありませんよ。私が言っているのは事実です』
「アイツ等がそんな奴等には見えんがね」
『それは見せかけです。如何にアレが人間の姿を取っていようとも、人ではない。人妖でもない。紛れもない怪物だ。月村忍という女も、月村すずかという少女も―――互いに怪物でしかない』
虎太郎は煙草を地面に吐き捨てる。
「お前、何様のつもりだ?」
そして、その声には静かな暗さが籠っている。
『私は唯の忠告者です。アナタの為、街の為にね』
「だったら大きなお世話だな。俺は俺の意思で相手を選ぶ。お前の言葉を素直に受け取って、はいそうですかって頷くわけにはいかないな」
『それはそうでしょう。ですが、それは間違った考えです……月村は化物の一族だ。アレは根絶やしにしなければ海鳴の街に未来はない』
妙に力強く力説する影。だが、それは何処か焦っている様にも見える。
『出来れば、アナタは私達側について欲しい。ですが、アナタは一般市民。唯の一介の市民に過ぎないアナタを危険な目には会わせられない―――それ故の忠告です』
「そうかい。それはありがとう―――そして、大きなお世話だ」
コレ以上は話す気はない、と虎太郎は歩き出す。
『お待ちください。私の話をちゃんと聞いていましたか?』
「あぁ、聞いていた。聞いていたからこそ、こう答える」
周囲の空気が重くなる。
それを一番に感じたの―――影だった。
影が焔の様に揺らめき、形を崩そうとしている。
「――――人の生徒を悪く言う貴様の言う事を、わざわざ聞いてやる程、俺は暇じゃない」
眼鏡の奥の瞳は、猛獣の様に鋭く光る。
『アナタは、わかっていない』
「わかってなくて結構。俺は俺の眼で見た事しか信じない。少なくとも、お前の言う事を信じよりはよっぽど自信があるぞ、俺の眼は」
『化物を庇うのですか?』
「生憎、いい女の味方なんでな」
『…………なるほど、良くわかりました。アナタはあちら側の人妖というわけですか』
「あちら側とかこちら側とか、一々線引きしないと何も出来ない阿呆とは仲良くする気はないね」
馬鹿にした発言に、影の声が微かに震える。
『私は善意で教えてあげたのに、阿呆呼ばわりですか』
正常な精神を保とうとしている様だが、虎太郎の耳に届く声からは確かな怒りが感じる。
だからそれを助長させてやる事にした。
「あぁ、阿呆だな。お前は人類最高の阿呆だ」
『………………口を慎め』
ほら、あっさりと地を出したと虎太郎はほくそ笑む。
『人が下手に出ていれば良い気になって……いいか、人妖。私はお前と違って【高貴なる者】だ。貴様の様な一人妖風情が私に楯突く様な発言をしていいと想っているのか?』
「阿呆に阿呆と言って何が悪い?文句があるなら姿を現せ。人の影に忍しか能のない阿呆の相手をしている程、俺は暇じゃない」
影が震えている。怒りによる震えは影の形を崩す。どうやら相手の力は精神の高ぶりによってあっさりと崩れ去る程の力らしい。もしくは、それを扱う事すらままならない雑魚なのどっかだろう。
『後悔するぞ』
「させて見ろ」
すぅっと影が消えた。残るのは虎太郎の影だけ。背後を見ても誰も居ない。周囲を見回しても同じだった。
「さて、まさか本当に俺に接触してくるとはな……」
こればかりは驚いた。予想外というわけではないが、こんな【迂闊な事を平然としてくる】とは思ってもみなかった。
「やれやれ、だな」
無駄な時間を過ごした、と虎太郎は頭を掻き、

「―――――ご苦労様です、先生」

その背後で静かな声が響く。
虎太郎は肩をすくめて背後を見る。
そこには先程まではいなかった白銀色の髪をした女が立っていた。
「向こうは随分とおバカさんだったようで、先生の手を借りるまでもなかったですね」
虎太郎をそう呼ぶ女は二十代前半と若い。背はあまり高くないが、スラッとした身体はモデルの様にも見えるだろう。もっとも、モデルというには少々身長は足りないし、胸の脹らみ足りない。
「そうかい、それは良かったな……」
そう言って虎太郎は手に持っていた袋の中からホットコーヒーの缶を取り出し、女に向けて放り投げる。女はそれを片手で受け取り、
「本来なら私がお礼する側なんですが」
「生憎、俺は自分の受け持った卒業生から施しを受ける気はないがね」
卒業生と虎太郎は言った。
女は微笑み、
「ですが、双七くんからは随分と巻きあげている様ですが?」
「あれはあれだ。言っておくが、別に俺がだらしない人間というわけじゃない。如月に世間の荒波に呑まれない様に鍛えてるんだ」
どの口が言うのか、女はやれやれと首を竦める。

「まぁ、それはさておきだ――――これで良いんだな、トーニャ」

「問題ありません。相手は確実にこちらの網にかかりました」
女は悪巧みが成功した子供―――どころではない。悪巧みが成功した悪徳金融の社員の様な笑みを浮かべる。それを見た虎太郎は、彼女に行った自分の教育方針は本当に間違っていないか心底不安になった。
女の名はアントニーナ・アントーノヴナ・ニキーチナ―――通称トーニャ。国籍はロシア。虎太郎が神沢学園でかつて受け持っていたクラスの卒業生である。
「―――にしてアレだな。久しぶり顔を出したと思ったらいきなり囮になれとはな……お前、教師を何だと思ってるんだ?」
「生憎、使える物は何でも使うタチでして。永久子狐からバカップル夫婦まで」
「殆ど如月家だな」
「幸せなんてぶっ壊すべきだと思いません?」
「そういう事を平然と口に出すような教育をした覚えはないんだがな」
彼女の口の悪さは昔から変わらない。というより、かつての恩師との感動の再会でいきなり、
『先生。ちょっと囮になってください。大丈夫です。危険じゃありません、全然危険じゃありません。何かあっても先生が頑張れば乗り越えられますので頑張って囮になりましょうレッツらゴー!!』
というこっちの話をまったく聞かない強引な言葉だけで虎太郎を囮にしたのだ。もっとも、それを平然と受け入れる虎太郎も虎太郎だった。
「理由はさっぱり教えてくれんようだが……なにか変な事に首を突っ込んでないだろうな?」
「変な事には首を突っ込んでいません。むしろ突っ込まれる側?いやん、先生のセクハラ~!!」
「突っ込まんぞ」
「……ッチ、これかだから中年は」
本当に自分の事を教師だと想っているのだろうか、この女は。
「まぁ、いいです。先生のギャグセンスとツッコミセンスは皆無だという事は学生時代から知っていました……先生、少しは如月くんを見習ったらどうですか?」
「それはお前の被害者になれという事だな。あぁ、それはお断りだ。お前の担当は昔から如月と如月妹の係だ」
「トーニャ係ですか……ふむ、随分とダンディな香りがします」
どの辺にダンディな香りがあるかは知らないが、こういう所は昔と変わっていないので安心する。そして、少しだけ進化している様で不安になる。
「話が全く先に進まないから、勝手に進めるが―――」
「いえ、もう少しやりましょう。学園生活が懐かしくて悶々してきました」
「女が下ネタを口にするなよ」
「え?こういう女は嫌いですか?」
「人をからかって面白がる女は好きじゃないな……嫌いでもないが」
一向に話が前に進まない。
「それで、今度はどんな厄介事に首を突っ込んでるんだ」
「いやん、突っ込むなんて先生の―――」
ゴンッと脳天に拳骨を炸裂。
もんどりをうって転がるロシア女。
「……………せ、先生。幾らなんでも元・生徒に手を出すのは如何なものかと……あと、しっかりと拳を石化しないでください」
「いい加減に話せ。今度は手加減なしでいくぞ」
割と本気な口調で言う虎太郎に、流石にふざけるのを止めたトーニャはやれやれと首を振りながら立ち上がり―――真剣な表情を浮かべる。

「――――先生はバニングスという者を知っていますか?」

バニングス―――知っていないはずがない。
「知っているか、知らないかなんて、既に調べが付いてるんだろ?」
「えぇ、不躾ながら調べさせてもらいました。お叱りは後で受けます―――逃げますけど」
「あぁ、後にするよ―――逃がさんからな」
真面目にやる気がある様にない元・生徒だが、その眼にはふざけるという態度は無い。
「数日前、この街にある機関の工作員が潜入しました。目的はある実験体のテスト、という題目らしいです」
「実験体?」
何やらキナ臭い匂いがしてきた。
「えぇ、実験体です。といっても、実際は実験体のテストではなく、その機関が極秘で作り上げた薬のテストというのが正しいのでしょうね。実験体はその薬を打ち込む為のモルモットというわけです」
トーニャの顔が歪む。
怒りという表情だ。
「実験体は機関が数年前に誘拐した少女。その少女は幼くして人妖病が発病し、国の病院に閉じ込められていました。ですが、それはあくまで治療という目的の為です。その国では人妖病を治す為の研究を進めている為、少女は酷い扱いを受けてはいません――――少なくとも、その病院に居た時は……」
「誘拐された後は違うってわけか」
胸糞悪い話だった。続きを聞く気も失せる程に吐き気がする。そういう連中は大半はマモトじゃない。自分達をマモトだと思うのではなく、人とは違う相手をマトモだと思えない異常を持っている。
「私達の調べによれば、工作員と少女はこの街に来る前にある人物と接近していました」
「それがバニングス、か?」
「正確に言えば少し違いますね。バニングスに関係のある者としかわかっていません。その者の狙いは、この街の支配者の一つである月村の令嬢、月村すずかの殺害」
殺害という言葉に、無意識に拳を握る。
「もっとも、それはどうやら失敗した様ですがね。詳しくはわかりませんが、邪魔が入って断念した様です―――ですが、それはあくまで接触した相手に理由です」
「工作員の任務は薬の実験。月村の暗殺はついでというわけか……」
「ついでというよりは、最後のチャンスだったんでしょうね。そんなチャンスを与える気もなかった癖に……」
最後のチャンスとは、想像だが工作員にではなく実験体の少女のチャンスだったのだろう。仮にすずかの暗殺に成功しても失敗しても、結果は変わりはしない。
「――――通り魔の正体は、その少女なのか?」
「恐らくは……最初の事件のあった病院を調べて見ましたが、国籍不明、名前もわからない少女が運び込まれたという履歴がありました。それを見る限り、工作員が連れて来た実験体の少女である事は確定でしょうね」
とある機関の工作員。
とある機関が開発した薬。
とある機関が誘拐した少女。
その三つが海鳴の街を騒がせている通り魔殺人事件に繋がっている。
「先程、俺に接触してきたのは、その工作員か?」
「いえ、恐らくは工作員に接触した者でしょう。詳しい能力はわかりませんが、頭の緩いおバカさんである事は明確です。今、兄さんが後をつけています」
パーツが少しずつ揃っていく。
この街で起きた事件。
詳しく、そして早すぎる報道。
バニングスに関係があり、月村を狙う者。
「……なるほど、そういう事か」
「接触した者の狙いは月村の暗殺ですが、どうもそれだけじゃない気がします。これは私の想像なのですが、月村の暗殺を皮切りに何かをしようとしているのではないかと思われます――――恐らくは、両者の激突を」
それは想像などでは済まないだろう。
必ず起きる事だ。
すずかを殺されて、その原因がバニングスにあると【勘違い】すれば確実に抗争が起きる。話だけで聞いた、十年前の冷戦などという生易しいものではなく、血で血を洗う抗争が勃発するだろう。
「十中八九そうだろうな。まったく、嫌な予感ばかり当たるのが恨めしいよ」
だとすれば時間は少ないのかもしれない。
月村は忍がどうにか抑えているが、バニングスはどうかはわからない。虎太郎の知っているバニングスは、自分が担当するクラスの生徒、アリサだけ。
下手をすれば、すずかとアリサの関係が最悪な事になる可能性だってある。
「――――トーニャ。その少女は今何処にいるかわかるか?」
止めなければならない。
その火種になる少女を。
だが、トーニャは申し訳なさそうに顔に影を落とす。
「すみません。私達は昨日ようやく海鳴に入ったばかりなので、この街での情報収集は始まったばかりなんです。ぶっちゃけ、先生に協力してもらわなかったら黒幕を探す事に難しかったのかもしれません」
「俺が月村と関係があるというのは、知っていたのか?」
「えぇ、それはまぁ………でも、実際は知っていたわけじゃありませんよ」
顔には影がある。だが、顔を上げれば写るのは虎太郎の顔。その顔を見れば微かだが希望が感じられた。
「勘、でしょうか」
だからトーニャは言う。
「先生のクラス名簿は元から入手していました。その中にバニングス、月村の名前があったら――――絶対に先生はその二人に関わっていると思っていました」
自信満々に、それを誇るべきだと胸を張る様に、

「だって、先生は私達の先生だったんですから……」

正直、そう言われた瞬間に笑みを零す事が我慢できなかった。数年前とはいえ、トーニャは自分の元から巣立った。巣立てばそこからは自分の力が無くとも世界で生きる術を見つけ、生きていくだろう。故に教師であり、生徒達に関係する事が出来るのは高校三年間だけだった。
だが、それでもトーニャは未だに自分の事を先生だと言う。トーニャだけじゃない。如月双七も、如月刀子も、如月すずも、そして、トーニャも。それだけじゃない。沢山の卒業生が自分の事を忘れていない。自分が教鞭を振るい、関わってきた過去を捨て去る事なく未来に生きている。
それを喜ばない教師はいない。少なくとも虎太郎はそう思う。
「――――まったく、嬉しい事を言ってくれる」
「ふふ、泣いてもいいんですよ、先生」
「馬鹿たれ、お前みたいなジャジャ馬生徒の言葉一つで誰が泣くか」
自分は教師だ。
すずかとアリサは自分の生徒だ。
それだけで、動く理由にはなる。
街を支配する二つの勢力の激突は、この街にとっては死活問題になっているのだろう。だが、そんな事は二の次でいい。今自分がすべき事は大切な生徒を守り、最悪なんていうクソッタレな未来を殴り飛ばす事だ。
「トーニャ、悪いが付き合ってくれるか?」
「それはこちらの台詞です。私達の問題に、首を突っ込んでくれますか?」
互いに互いの答えを知っている。
トーニャの目的はこの街に入り込んだ機関。
虎太郎の目的は月村とバニングスに抗争をさせようとする黒幕。
間に合うかどうかはわからない。しかし、絶対に間に合わせるという覚悟を持って挑む。
来て一か月も満たない街だが、これから好きになれる街だとは思う。だから動き、そして止める。
「それじゃ、とりあえずはその少女を探す所から始めましょう。黒幕の狙いは兄さんに任せます」
「あぁ、そうしよう。だったら、とりあえず忍の所に―――」
タッタッタ、と小さな足音が聞こえた。
荒い息を吐きながら、薄暗い道の先から小さな影が走ってくる。
その影は自分の前方にいる虎太郎を見て、
「虎太郎先生!!」
と叫んだ。
その声は知っている。
忘れるわけがない、知らないわけがない、アレは自分の生徒の一人だ。
「高町!?」
向こうからフラフラになりながら、なのはが走って来た。
なのは一人、走って来た。
その前にも、後ろにも誰も無い。
彼女一人だけだった。
なのはは虎太郎に抱きつき、
「助けて……」
顔を上げて懇願する。

「アリサちゃんと……すずかちゃんを助けて!!」

その言葉で十分だった。
何が起こったのかを想像するには十二分だった。
詳しい話は途中で聞けばいい。虎太郎はなのは抱き上げ、トーニャに視線で会話する。
トーニャは頷き、虎太郎と同時に走りだす。

夜の海鳴の街を、三日月が光る街を―――二人は駆ける。






アリサの身体の事がバレたのは六歳の時。
それが原因で母が泣いたのは六歳の時。
周囲の眼が変わったのは六歳の時。
周囲を見る眼が変わったのは六歳の時。

母が死んだのは、六歳の時。

覚えている。
忘れられるわけがない。
あの日の事は忘れる事なんて出来はしない。
確か、満月だった気がした。満月の光を見ながら、寝室に籠った母の大事を願った。子供の自分にはそれだけしかできない。だからアリサは神に祈る様に願った。
使用人達は忙しなく動き周り、アリサの事など眼にも入っていなかっただろう。もちろん、そんな事は良い。何の問題もなかった。だから願うしか出来なかった。何に祈る事が一番得策なのかもわからず、神という曖昧な者に頼り―――そして、裏切られた。
アリサが母を見た最後の姿は、眠る様に、もしかしたら明日の朝には眼を覚ますかもしれない、そんな清々しい寝顔だった。だからアリサは誰しもが無言の中でベッドに眠り母に歩み寄り、その身体を揺する。
何度も何度も揺すり、そして語りかける。
何と言ったのかは忘れてしまった。恐らく、他愛もない事だったのだろう。もしくは子供らしい母への願いだったのかもしれない。
絵本を読んでほしいと言ったのかもしれない―――返事はない。
怖いテレビを見たので一人でトイレにいけないと言ったのかもしれない―――返事はない。
怖い夢を見たから今日は一緒に寝て欲しいと言ったのかもしれない―――返事はない。
明日は一緒に何処かに遊びに行きたいと言ったのかもしれない―――返事は、ない。
嫌いな食べ物も残さず食べる様にすると言ったのかもしれない―――返事は、ない。
良い子にするから、我儘を言わないからと言ったのかもしれない―――返事は返ってこない。
ママを泣かせてごめんなさい、と言ったのだけは覚えている―――だが、返事は返ってくるはずはない。
母にねだった。
何でも言う事を聞く、良い子になる、勉強もいっぱいがんばる―――だから、返事を返してほしい、そう言ったのは覚えている。
母は答えない。
視界が歪み、霧がかかった様に母の姿を隠す。
揺すっても言葉をかけても何をしても母は起きない。
使用人も、医者も、母も、何も言ってはくれない。
「――――――アリサ……」
大きな父の姿あった。
走って来たのか、それとも何かの事故に巻き込まれたのか、赤いスーツはボロボロで頬には切り傷があり、頭からは血を流している。その姿を見た使用人は何かを言っているが、父はそんな言葉には眼もくれず、眠っている母と、それに縋るアリサを見た。
父はアリサを抱きしめはしなかった。母の死に涙を流す事もしなかった。
ただ、アリサに向けて一つの言葉を紡ぐ。

「汝、孤独で在れ……汝、孤高で在れ……」

そう言ってアリサを撫で、部屋から出て言った。
それっきり、あまり父は家に帰ってはこなかった。時々連絡をしてくるし、手紙だって送ってくる。
だが、本当に必要な時にはいなかった。
小学校の入学式―――アリサは使用人も連れず、一人で門をくぐった。
授業が始まり、始めてのテストで満点を取った―――それを誰にも言わず、ゴミ箱に放り捨てた。
授業参観の知らせを貰った―――海に向かって放り投げた。
運動会の日―――周りの家族の姿を見ながら一人でお弁当を食べた。
家に帰っても数人に使用人がいるだけ。それは家族でありながら家族ではない。一番欲しかったそれは既にこの手にはなく、あるのは空を切る虚しい手だけ。

そして、学校で喧嘩をした。

喧嘩なんて言葉では済まない事をした。理由はわからないし、始まりも終わりも覚えていない。怪我をさせたし、怪我もした。教師も使用人も心配をした。だからアリサは何となく電話をかけた。
父に、電話をかけた。
心配するだろうか、怒るだろうか、理由を聞いてくれるだろうか、何か言ってくれるだろうか――――電話すら、繋がらなかった。
母を助けた日から全てが変わった気がした。それは決して気のせいではない。絶対に違うとは言えない。誰かが否定しても、結局はそれだけの事で心には届かない。
だからアリサは一人になった。
父の言葉の通り、孤独になり孤高になった。
友達もいない。
学校では常に一人だ。
周りを観察するだけで、自分から行動する事なんて一度も無く、まるで川に流されている木の葉の様な気分になった。
だからわからなかった。
一人でいる事が多過ぎて、一人ではいけない理由がわからなかった。
教師や生徒が友達の大切さなどを語ってもわからない。所詮は言葉でしかなく、実際に体験もした事がないものでしかない。
現実味のない光景だった。
世界が自分を取り残した様でもあり、自分が世界から逸脱した様な気分でもあった。
その原因は誰のせいでもない。何時だって自分一人に問題があったのだ。
母を守ろうとして、嫌われた。
嫌われたから、きっと誰にも嫌われる。
嫌われる事がわかっているから、誰にも心を開けない。
自分を好きにはなれないし、誰も好きになれない。
それがアリサ・バニングスという自分自身の意味。
絶対に変わらない、最低な意味だった。

「――――――全然わかってないよ」

素直に頷こう。
自分は何もわかっていない。
わかる筈がない。
なにせ、自分は常に自分の殻にこもってばかりだったからだ。
勝手に悟って勝手に諦め勝手に荒んで勝手に堕ちて―――全てが勝手に悟り切った代償だったのかもしれない。
わかっている。
最初から間違った悟りを開いたせいで気づかなかった。
自分という個人はこんなにも馬鹿で弱くて、寂しがり屋のウサギだと思っていた。
ウサギは寂しいと死んでしまう。死ななかった原因は、寂しいウサギの皮を被って逃げていたからだ、隠れていたからだ。

ウサギの皮を被った狼は、寂しがり屋の狼だった。

同じ者達はすぐ傍にいるだけなのに、ウサギの皮を被って自分は別物だと誤魔化していた。群れる事を望んでいるにも拘らず、他とは違うと誤魔化して逃げていた。クラスという群れの中にいるのに孤独だと思い込んでいた。
だが、違った。
そう思っていたのは自分だけだった。
その代償は三年間という時間。
そのツケを払う時は今なのだろう。
誤魔化し、隠れ、そして逃げた自分の最後は―――こんなにも馬鹿らしい最後なのだと嗤ってしまいそうになる。
「……………」
空には星と月。
無限とも思える星が煌めき、その中で三日月は大きく輝いている。
見上げている自分は地面に転がり、身体からは大量の血液が失われていく。
顔を横に向ければ横倒しになった重機。砂袋の多くは破れて煙の様に周囲に砂埃をまき散らす。鉄骨の数本は綺麗に切断され、切断された一本が自分のすぐ横に転がっている。
冷たい鉄に手を触れ、身体を起こす。
動くだけで身体に激痛が走り、視界が横やら縦に、周り出す。
【ギギギギィギィギィ】
耳鳴りに似た声に視線を向ける。
刃の怪物、胴切はひび割れた身体を砂利の山に半分ほど埋もれ、出ようともがいている。あれではすぐに出てきて、アリサに襲い掛かるだろう。そして、ソレに対抗する手段も体力も、今のアリサにはない。
それでも立ち上がる。
靴は真っ赤に染まっている、両足共だ。制服のスカート部分はスリット入ったドレスの様に縦に切り裂かれ、そこから見える幼い足には何か所も刺された痕がある。立ち上がった瞬間に血が垂れ、地面にまき散らされる。
それでも立っていられるのは、どうしてだろうと考え―――わかりきった事を考えるのは馬鹿らしいと考える。
【ぃぎいぎぎぃぎぃぃぃぃッ!】
胴切は山の中から抜け出した。
両腕を上げて構えようとしたが忘れていた。自分の腕はもう使い物にならない。両の甲には風穴が開き、右手は肘から先が上がらず、左手だけが何とか動く程度。こんなにやられたのは初めてだ。
そもそも、満月の日以外で戦闘などして事がない。それ以外の日はどんな事があっても逃げるという選択肢を選んでいたはずだ。だから今まで生きてこれた。
その終わりが今日だというのなら、全部はあの二人のせいだ。
「ほんと……馬鹿よねぇ……私も」
見捨てれば良いのだ、他人だから。
たかだかクラスメイトというだけで守る必要なんてありはしない。今までもそうだったではないか、守るのは常に己一人。誰かの為に自身が傷つくなんて行為は愚か以外のなにものでもないではないか。
「でも、見捨てられなかったなぁ……」
眩しい笑顔を守りたいと思った。
楽しそうにしている姿を守りたいと思った。
自分でも気付かない内に、守ろうとなんて馬鹿な考えを起こしていた。
あの時に償いというわけではない。他人を守れば自分も幸せになれる、変われるかもしれない、なんていう自己犠牲でもない。
踏み出すのは身体が拒否する。しかし、意思を持って身体の怠慢に鞭を打つ。
「ねぇ、アンタはどう思う?」
胴切は答えない。人間の言葉を理解していないのか、ただ佇むだけ。
「私はね、思うのよ……あの子に言われるまで気づかないなんて間抜けだなって、さ」
しかし、理解しなくても困惑はするらしい。
これだけ自分に追い込まれているアリサが、笑っているからだ。
「私は……見てたのよ」
地面に血を滴らせながらも、
「皆が楽しそうにしている姿を見て、心の底から羨ましいと思っていた。あの子達が楽しそうにしている姿を見て、本当に羨ましいと思ってた」
傷だらけになりながらも、
「そう思ってたら……私も楽しくなってた……自分には関係のない他人の姿がよ?私の事なんて関係ないって感じで楽しんでいる皆を見て、なんで私が楽しんでるんだろうって、自分でも不思議でしょうがないわ」
前に進む。
後ろにさがらない。
向かうべき己は常に前。
前に進む意味は、己の意思。
「不思議なのよねぇ……壊れちゃえ、とか。喧嘩しちゃえ、とか。全然、これっぽっちも思わないのよ。思ってもすぐにどっかいっちゃうの。自分の中の暗い考えなんか、皆の楽しそうな姿を見ているだけで消えちゃって、忘れちゃうのよねぇ……なんか、馬鹿みたいだけで、悪くないと思った」
胴切が体勢を低く構え―――跳んだ。
「だから、さ……」
両の斬手でアリサに襲い掛かり―――それを、受け止める。
壊れた両手で、切れ味が鋭すぎる斬手を掴んだ。

「――――守らなくちゃ、いけないんでしょうがッ!!」

力を込めた瞬間、斬手にヒビが入った。
「見捨てられるわけがない!!見捨てていいわけがない!!誰もが見捨てて当然だなんて口にしたら、そんな連中は私が全員ぶん殴る!!」
亀裂は指先から手首まで、
「アンタがあの子達の関係を壊すような事をするなら、私が許さない!!私の眼に見えるのは私の【クラス‐群れ‐】よ、私に大切なクラスメイトなのよ!!」
胴切の口から耳障りな音が漏れるが、それは明らかな驚愕と苦痛。
「孤独が何よ、孤高が何よ、そんな言葉の意味なんて関係ない……」
亀裂が走る。
「孤独だからって守っていけないわけじゃない!!」
刃の亀裂が大きく広がる
「孤高だからって見殺しになんてしない!!」
そして――――粉砕する。
胴切の腕が割れた。指先から肩まで、皮膚の様に覆っていた刃が割れた。ガラスが割れる様な音を響かせ、破片が宙に舞う。
アリサの手の中に残った刃が悔し紛れの様に掌を裂くが、関係ない。痛みも、傷も、流れ出る血も―――全てを握りつぶす勢いで拳を握る。
「アンタに、」
拳を、弓を引く様に引き絞り、
「アンタなんかに、」
全力を込めて、壊れた拳で、未だ無傷の胴切の胴体目がけて、

「壊させて、たまるもんですかぁぁぁああああああああああああああああああ!!」

打ち出す、撃ち出す、射ち出す――――
一撃で胴体に拳を打ち、二撃で胴体に拳を撃ち込み、三撃で全力を込めた拳と云う矢を射る。
全てを討つ為に。
今まで見てきた世界に害を成す敵を、一匹残らず討ち滅ぼす為の力。
それが己の力。
己の為なら諦められるが、他者の為には諦めない己の力。
それは孤独でも孤高でもないだろう。
なら、そんな言葉の意味なんていらない。
意味に縛られ守れない方がよっぽど最悪だ。
「―――――消えなさいよ」
どちらが優勢かなど、他者の眼から見れば一目瞭然だろう。身体を砕かれようとも、身体を覆う刃が再生を始めている胴切。再生などしない普通の人間の様に傷だらけのアリサ。
見比べるまでもない。
考えるまでもない。
「この街から消えなさい……」
人の瞳には輝きがある。
赤い輝きは炎の如く。
烈火の怒りではなく、決意の炎。
満月でもないアリサの瞳は、身体の法則すら無視して輝く。
「何処にでも行けばいい。他の街で好き勝手に暴れたければ暴れれば良い……でも、この街では許さない……私が、許さない」
胴切が初めて後退する。
優勢なはずの怪物が足を前ではなく後方へ。
言い様のない重圧に逃げる様に、後ろへ後ろへと下がっていく。それでも怪物、化物という意味のない誇りの為か、胴切は咆哮する。
咆哮した胴切は再生途中の斬手をアリサに突き出す。
しかし、それはアリサの身体に届く事なく空を切る。
何故なら、



真横から弾丸の如く飛んできた―――すずかによって邪魔されたからだ。



すずかはアリサを抱え、跳んだ。だが、あまりにも勢いをつけ過ぎたのか、それとも怪我をしているアリサを庇ってなのか、背中から地面を擦る様に堕ちた。
「痛たたた……」
突然現れたすずかに、アリサは一瞬呆け、現実に帰った瞬間に、
「な、なななな、」
「なのはちゃんじゃないよ?」
「知ってるわよ!じゃなくて、なんで居んのよ!?」
「何でって言われても――――ッ!?」
話の途中ですずかはアリサの身体を抱えてその場から跳び上がる。今度はキチンと着地する。
「何でって言われても、バニングスさんが心配だったからとしか言えないよ」
当たり前の事をなんで聞くのか、と不思議そうな顔をするすずか。反対に、アリサは不思議そうな顔をすること事態に怒りを感じる。
「馬鹿!大馬鹿!!アンタってそんな馬鹿だったの!?信じられないんだけど!!」
酷い言われ様に、流石にすずかも苦笑する。
「その辺は、まぁ……うん、自覚してる」
アリサを降ろし、胴切を見ながら言葉を進める。
「でも、謝らないよ」
はっきりとした意思を込めた口調だった。
「バニングスさんがこんな無理してるのに、私だけ逃げるなんて嫌だから」
「理由になってない……」
「そうかな?」
まったく理由にはなっていない。あの場で二人を逃がした一番の理由は足手まといを増やさない事だった。アリサ一人なら戦うなり逃げるなり、色々と方法が浮かぶのだが、そこにすずかとなのはがいれば話は別問題になる。
なのはは運動神経が終わっている。これは体育の時間を見ているので確認済み。すずかは身体能力は今のアリサよりは上だろう。しかし、あの状況を見る限りでは戦闘経験は愚か、危険な目に会う事自体に慣れていない様だった。
「足手まといは要らないのよ」
「今のバニングスさんには言われたくないなぁ」
少なくともアリサは重傷だが、すずかは無傷。先程の行動を見る限りでは、確実にすずかの方が動けるだろう。
だが、それ故に逃げるべきなのだ。
胴切が動く。
瞬間、すずかの身体が硬直する。
「止まるな、馬鹿!!」
今度はアリサがすずかを抱える様にして跳ぶ。無論、自身の体重よりも重くなっている状態で跳んだため、足からの出血は更に増える。激痛を噛みしめながらも、アリサはすずかを抱えて建築途中のビルの中に逃げ込む。
「バニングスさん!?」
「騒がないで……」
限界は近い。
出血のためか頭がクラクラする。これは想像以上に身体にダメージを負っていると判断する。それでもアリサは止まる事なく鉄骨を足場に二階、三階と昇っていく。
作業用の足場に降りた瞬間、とうとう足から力がなくなり、その場に倒れ込む。
「…………ヤバ、いわね」
「酷い傷だよ……すぐに病院に行かなくちゃ」
行けるものならさっさと行きたいものだ。だが、追跡者は既にビルの中に侵入している。薄暗いせいかアリサ達の姿を見えていないのだろう。周囲を見回し、一番下をウロウロしている。
「…………」
「…………」
二人は息を殺して視線を下に向ける。胴切は二階に上がる為の足場を探しているのか、同じ場所を行ったり来たりしている。戦闘でわかった事だが、胴切は殺傷能力と防御能力は高いが、運動能力は今のアリサよりも格段に低い。だからアリサの様に鉄骨を足場にして上に登ってくるという芸当ができないのだ。
「…………此処じゃまだ低いわ。もう少し上にいく」
「わかった……」
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。手すりを掴んで立ち上がろうとするが、すぐに身体がガクンッと落ちそうになってしまう。そんなアリサをすずかが支え、
「上に登ればいいんだよね?」
と、言ってくる。
あまり頼りたくないが、この状態ではしょうがない。アリサは静かに、という指示を与えるとすずかも頷いて跳ぶ。
跳ぶというよりは飛ぶという表現が合っている気がする。流石は月村、夜の一族の末裔なのだろう。常人よりも上なんていうレベルでは無い跳躍を見せ、一気に六階の部分にまで飛び上った。
「これで少しは時間が稼げるかな?」
「そうね……」
満月時の自分には負けるかもしれないが、今の自分の状態なら負けるかもしれない。もっとも、戦闘経験の差から自分が勝つだろうがな、と意味のない対抗意識が湧きあがってきた。
「――――さっきの続き。なんで来たの?」
「だから、バニングスさんが心配だったからだよ」
またこれだ。
「アンタに心配されるほど、私は弱くないわよ」
ピンチにはなっていたが、逆転だって不可能ではない―――どういうわけか、先程から対抗意識が妙にわき上がってくる。いや、これは対抗意識というわけではない。むしろ、認めたくない何を認めてしまいそうな気分に似ているかもしれない。
「それでも心配だったから……」
「心配だったらこんな危険な所に飛びこむの、アンタは?」
すずかは苦笑して否定する。
「正直、身体の震えが止まらないよ」
そう言ってすずかは自分の手を見せる。綺麗な手は小刻みに震えている。
「怖いなら来なくていいのに……」
「――――バニングスさんは、怖くないの?」
「怖いわよ」
あっさりと言葉が出た。
「怖くないわけないじゃない。あんな化け物を相手にするなんて初めてだし、相手が例え普通の人間でも自分よりも大きければ怖いわ……怖くないのに戦えるわけないじゃない」
「怖いと、戦えるの?」
矛盾している、とすずかは言う。
確かに矛盾しているかもしれない。だが、これは決して全てが間違っているというわけではない。
「怖いから警戒するし、緊張する。初めて出会った相手に警戒も無しに突っこむ馬鹿はいないわ。相手がどう来るのか、こっちの想像の外から来るのか、そんな事を考えていると自然と緊張してくる。この緊張がないとすぐに死ぬでしょうね」
すずかはポカンとした表情でアリサを見る。
「何よ?」
「あ、あの……バニングスさんは何時もこんな危険な、怖い事をしているの?」
確かに普通は疑問に思うだろう。
人妖であってもアリサは小学三年生、九歳の少女なのだ。そんな少女が戦い慣れしています、なんて言葉を普通に言うのはおかしいだろう。
「こっちにも色々とあるのよ。自分の身は自分で守れるくらいじゃないと、逆に危険な事もあるわ」
「それって、どんな事なの?」
「アンタに言う必要はない」
冷たく突き放す態度で言うと、すずかはすぐにシュンッとしてしまった。自分は特に悪い事をしたつもりはないのだが、そんな顔をされると無性に反省してしまいそうになる。
「…………第一、アンタが心配するのは私じゃなくて高町の方じゃないの?あの子、ちゃんと逃げてるんでしょうね」
置いて来た、とか言ったらぶん殴ってやろうと思った。
「えっとね……途中まで一緒だったんだけど、バニングスさんが心配だったからすぐに戻って来たの。多分、安全な所まで行ってたと思うし、私の家の近くだったからそっちに向かって逃げれば心配無いって言っておいたの」
「それで、あの子はアンタが私の所に来る事を心配しなかったの?」
「危ないから駄目だって」
「それじゃ素直に言う事を聞きなさいよ」
「危険なのは、バニングスさんも同じだから」
「だ、か、ら!!なんでアンタが私の心配すんのよ」
話が一向に前に進まない。
すずかは恐る恐るアリサの顔を見る。
「怒ってる?」
「今すぐアンタを殴りたいくらいにはね」
「あうぅ……」
幾ら可愛い仕草で唸っても駄目なものは駄目だ。事と次第によってはタダじゃおかないとアリサは心に決めた。
「――――――謝りたかったからじゃ、駄目かな?」
「謝りたかったから?」
「うん……あの時の事、謝りたかったの」
あの時というのは三年前の事だろう。
「記憶が曖昧だけど、バニングスさんに酷い事したのは覚えてる」
「むしろ、アンタの方が私に酷い事をされたんじゃないの?」
「それでもだよ……ううん、違うね。きっと関係ない。覚えてない事が駄目だし、覚えてないから謝らなくていいってわけでもない。悪い事を悪い事だってわかってるから、ちゃんと謝らなくちゃ駄目だと思ったの」
チラリとアリサを見て、申し訳なさそうに顔を反らす。
「本当はずっと謝りたいと思ってた。でも、前までも私はそれ以前に教室で、みんなと一緒にいる勇気が持てなかった。教室に行ける様になってからも同じ、なのはちゃんが友達になってくれるまで怖くてしょうがなかった……多分、バニングスさんとこうして話す事も駄目だったんだと思うよ」
でも、今は違うとすずかは言った。
「前にね、なのはちゃんに思い切って聞いていたの。あの時の事を謝ったら、バニングスさんは許してくれるかなって」
「そしたら、あの子はなんて言ったの?」
「――――わからないって」
なんだそれは。いや、当然といえば当然の事なのだが、それでは何の解決にもなっていないではないか。
「私もわからない。なのはちゃんもわからない。許すか許さないかはバニングスさんにかわからないって……そしたら急に怖くなったの」
「普通はそうでしょうね。誰だって謝れば必ず許しても貰えるなんて保証がないんだから」
しかし、すずかは頭を振る。
「違うよ。そうじゃないの……謝る事は怖いよ……でもそれ以上に怖いのは―――そのままにしていたら、何も変わらないんじゃないって事」
変わらない事が怖いと口にした。
「変わったつもりだけど、それは【つもり】だけなんじゃないかって。頑張って教室に来れる様になって、友達も出来たのに、変わったつもりなだけじゃ、それが嘘になっちゃうような気がしたの……全部、嘘だと思う事が怖かった」
つもり、になる。
それは自分も同じだった。
悟った【つもり】とわかった【つもり】になっていた自分。それは諦める事と変わらない。自分の場合はそうであり、すずかの場合もソレに近かったのかもしれない。
「すごく自分勝手な事を言ってるのはわかってるよ……でも、それじゃ嫌だったの。言葉にしないて諦めても何にもならない、何にもならない事よりも駄目だって事を知っていたから、尚更嫌だった」
すずかがどうして教室に来れたのか、その理由はわからない。それを知っているのは本人と、多分虎太郎だけだろう。その辺の事を何も知らないアリサだが、何かがあって教室にこれたすずかの―――勇気に似た何かだけはわかっているつもりだ。
つもり、という言葉をまた使ったが、これは前までのつもりではない。
多分、この子は強くなったんだと思う。
強くなれたから、同じ教室にいて、クラスメイトになった。そんなすずかだから友達が出来て、その笑顔を見て、守りたい、助けたいと思った。
「…………」
少しだけ自分に似ていると思った。違うのは、自分よりもソレに早く気付き、気付いて行動に移し、結果を出していると言う事。
「…………羨ましいなぁ」
「え?」
「私、アンタの事が羨ましいわ。私と違って勇気があるし、頭は良いし、可愛いし……ホント、自分が情けなくなってくる」
「そんな事はないよ」
「あるのよ、そんな事もね――――でも、そんなアンタだから言えるのかもしれないわね」
そう言ってアリサはすずかの眼を見る。
綺麗な瞳だった。
汚れていない、輝き始めた宝石の様な瞳。
「―――――私も、そう思うべきだったのよね」
苦笑して、血で染まった手ですずかの手を取る。
「ねぇ、月村……まだ、間に合うかな?」
「……間に合うよ。だから私も聞きたい……まだ、間に合うかな?」
「えぇ、間に合うわ……」
そして、死が迫った状況だというのに、二人は静かに瞳を見つめ合い、小さく呟いた。
三年かかった。
遠回りもした。
勇気が足りなかった。
言葉も交わし足りなかった。
でも、遅くはないだろう。
二人は同時に、同じ言葉を口にする。



―――――ごめんなさい



そこから始めよう。
だから、始める為に生き残ろう。
「あの……バニングスさん」
「なに?」
「その、出来れば……で良いんだけど……」
モジモジしながら、すずかは小さく呟いた。
「わ、私と……その、と、とと……友達に―――」
意を決して何かを伝えようとする姿に、少しの悪戯心が浮かんだ。
「アリサ」
だから言葉を遮り、
「アリサでいいわ。そんな他人行儀に呼ばれても嬉しくわよ」
「――――――うん……それじゃ……私のことも」
「えぇ、すずかって呼ばせてもらうわ」
今はそれだけでいい。
大切な言葉は―――後に回す事にしよう。大丈夫、後悔はしない。後悔する様な結末なんて死んでも迎えはしない。
今は過去と戦うべきではない。そして未来と戦うべきでもない。今は今と戦い、過去には既に勝利を手にし、未来には想像だけで笑みが零れるような未来を想像しよう。
カン、カンと金属が上ってくる音が聞こえる。
その音は地獄から響く様に恐怖を生ませるのだろう―――だが、今は生まれない。
すずかはアリサの手を取り、アリサもその手に身を任せる。
足場も向こうから、暗闇に光る刃の塊が見えた。
【ギィィギギギギギギッギ……】
胴切が二人を捉えた。
だが、それは正しくはない―――二人が胴切を捉えたのだ。
しかし、それに気づかない胴切は手を横に広げ、手すりに斬手を擦りつける。鋭い刃は鉄の手すりを擦るだけ火花を散らし、ゆっくりとこちらに近づいてくる。恐らく、怪物の中では自分達は追い込まれているのだろう。
「アリサちゃん……良い考えがあるの」
「一応聞いておくわ……でも、何となくわかるわ」
今のアリサでは胴切は倒せない。すずかは倒せるかもしれない、という能力を持ってはいるが、戦闘慣れしていないすずかでは無理だ。
なら、戦うのではく考えるべきなのだ。
倒す方法ではなく、勝つ方法を考える。
負けない方法ではなく、生き残る方法。
殆ど言葉を交わした事のなかった二人は、一度視線を合わせる。そしてアリサが視線を反らし、その方向をすずかが見る。そこに見えたのは剥きだしの鉄骨。それがこのビルの全重量を支える一つでもある。幾つもの鉄骨は壁にもなれば足場にもなる。だが、それ以上にこれは【組み合わされている】のだ。
胴切が駆ける。
アリサはすずかに抱きつき、すずかはアリサを抱えて飛ぶ。とりあえずは二人が見た方向に飛び移る。当然、胴切もそこへ飛んでいる。空中で連結刀の様な尻尾を振りまわし、叩きつける。
それを間一髪で避ける―――鉄骨があっけなく両断され、地面に向かって落下する。
「イケると思う?」
「わからないよ……でも、アリサちゃんは出来ると思うんだよね。なら、信じる」
アリサも考えた。
すずかも考えた。
自分達よりも強い相手に勝つにはどうすればいいのか。
それを自身の力量に合わせてプランを練る。
不意に、すずかは呟いた。
「そっか……こういう意味もあったんだ」
次々と鉄骨の上を飛び回りながら、すずかは微笑む。
「手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に」
「なによ、それ」
「今の私達の事だよ」
「ふ~ん……良い言葉ね」
「魔法の言葉なんだってさ」
楽しげに会話する二人に襲い掛かる胴切の攻撃を避けながら飛び回る。ただ飛び回るだけじゃない。飛んで鉄骨の上に着地した瞬間、アリサが次の移動先を指示する。すずかも一切の迷いなくその場に移動し、胴切もその後に続く。
月夜の中、作りかけのビルの中を二人の少女と刃の化物が飛び回る。
それには二つの見方がある。
方や、怪物に追われ、逃げ惑う哀れな少女。
方や、月の光に照らされて踊る妖精。
そこには三体の人妖がいた。
吸血鬼、人狼、そして胴切。
創作された物語の中では吸血鬼と人狼は敵同士だが、ある物語によっては吸血鬼は死んだ後に人狼になる。

吸血鬼と人狼が手と手を取り合って踊る。

今宵は月夜。
空には無数の星があり、月の光と共に世界を照らす。
その光に包まれ、踊る二人の小さな人妖。
「――――アリサちゃん!!」
「もうすぐよ―――後三回!!」
腕の中にいるアリサの指示ですずかは自身の能力の最大まで行使する。六階にいた二人は徐々に下に降りて行き、残るは後二階分。
鉄骨は次々と切り裂かれ、それでも二人に当たらない胴切は苛立っていたのだろう。
胴切の身体に変化が起こった。身体の表面、肌を構築している刃物が浮き上がり、まるで華が開く様に刃がめくれ上がる。
その結果、胴切は跳んだだけで次々と鉄骨が切り裂かれる―――それが、自分の失態だと気づく思考能力は消失している。
仮にこれが薬を打たれる前、人間の少女の形をしていた時の胴切であったのなら気付いただろう。自分が次々と鉄骨を切断する度にビルが軋む様な音を響かせ、その内部だけで地震起こったかの様に鉄骨が震えている事に。
すずかは地面に着地する。
上空から胴切が襲い掛かる。
避けるか、防ぐが、
「当然――――」
アリサは残った全体力、そして現在での最高最強の一撃を叩き込む為、覚悟を決める。
「迎え撃つ!!」
すずかはアリサを降ろし、アリサは地面にしゃがみ込み、地面を足で掴み取る。
溜めて溜めて溜めて――――解放する。
この一撃に覚悟を込める。
この一撃に耐える意思を注ぎ込む。
この一撃を外しなどという可能性を殺す。
この一撃で最後とし、終幕とする。
赤い瞳が力を示す。
地面を蹴り上げ、弾丸の如く天空へと突撃する。
「これで……」
空から襲いかかる胴切は刃。
地上より突撃するアリサは拳。
「決めるッ!!」
全てを切り裂く刃はアリサの拳に突き刺さる。
全て砕く勢いで撃ち出された拳は刃に突き刺さる。

矛盾という言葉の意味を考える。

最強の盾と最強の矛。
どちらも最強が故の矛盾という言葉。
しかし、この時だけは別の意味を持つ。
矛盾とは力を比べるという意味。
矛盾とは同等の力では終わらせないという意味。



矛盾とは【盾が矛を超え、矛が盾を超える】という意味



故に、勝負は決する。
拳と刃。
砕く拳と斬る刃。
勝者は超える可能性を秘める者だけ。既に超えてしまった者にそれ以上の可能性はありはしない。それどころか片方は進化ではなく退化している。退化しているが故に協力になったが、それは後ろに戻るという意味、後退するという意味―――今の自分を諦め、過去を振り返るだけの行為に過ぎない。

刃は拳に刺さり―――刃が砕ける。

アリサの一撃が胴切の斬手を砕き、胴に突き刺さり、刃の鎧を砕き、鎧の中に隠された刃の肉に突き刺さり――――刃を天へと打ち上げる。
上空へと殴り飛ばされた胴切の眼に、中指を立てたアリサの姿が写る。アリサは下にいたすずかにキャッチされ、すずかはアリサを受け止めた瞬間に駆けだす。
逃げた、と胴切は確認する。ならば追うだけだ。今受けたダメージは今まで最高のダメージだが再生は既に始まっている。上空に飛ばされても重力が在る限り地面に落下するだけ。そしたら地面に激突するなり着地するなりして降り、それから追跡し殺害するだけだ。
そんな考えを抱き、落下する胴切。
その耳に、胴切の声以上に大きな耳障りな音を聞き取った。
戦慄する。
恐怖する。
背後―――上を見る。
上から無数の槍が振ってくる。
いや、槍ではない。
あれは鉄骨だ。
先程から胴切が切断し続けた、何も考えずに【切断させられた鉄骨】が槍の雨の様に降り注ぐ。
気づいた時には既に遅く、振って来た鉄骨の一部が胴切に激突する。それから逃げる様に鉄骨を切り裂くが、その瞬間に次の、また次の鉄骨が降り注ぐ。
鉄骨という骨組で作られたビルは倒壊していた。
骨組のもっとも加重がかかる部分を集中的に切断させられたビルは、力のバランスを完全に崩されていた。それに気づいた時にはもう遅い。幾つもの鉄骨によって胴切は地面と挟まれ、その上にさらなる鉄骨が降り注ぐ。

そして、ビルは胴切を生き埋めにしたまま―――倒壊した





胴切は呻く。
身体に感じる違和感に苦しみ、鉄骨に挟まれ、埋もれて唸る。
身体を構築していた刃は再生を開始するが、今まで違って速度が格段に下がっている。いや、それどころではない。再生した個所が錆びた様に垢色に染まり、崩れ落ちる。
異常な再生速度が死んでいく。限界まで行使した身体は怪物になったが元は人間の身体。少しの異能と微かな訓練によって作られた身体はあっさりと限界を迎えていた。
痛い、という感覚を知る。本来なら知っているはずの感覚を忘れていた。もしくは、失っていたのかもしれない。それ故に思い出した瞬間に身体を駆け巡る電気に唸り、悲鳴を上げる。
胴切は違和感を感じた。
自分の叫び声に【ようやく】違和感を感じた。
なんだ、この金属と金属を擦り合わせる様な耳障りな音は―――自分の声はこんなにも耳障りで気味の悪い声だったのだろうか。
なら、元はどんな声だったのかと云われれば、思い出す事はない。今の胴切を動かすのは単なり本能だけ。ただ相手を切り刻むというだけに特化しすぎた本能は、人のそれとは違う領域にあったのだろう。それを不思議とは思わず、最初に与えられ、植え付けられた記憶と情報も忘れた。
思い出せない。
どうして自分は他者を切り裂きたいのだろうか。
今の胴切には思い出せない。
薬を打たれた記憶もなく、最後の記憶は薄暗い部屋の中の記憶だけ。
怪物になった記憶もない。沢山の人を殺した記憶もない。無関係の人を殺して楽しんでいた記憶もない。誰を殺さなくてはいけなくて、誰を殺してはいけないか、そんな区別があったはずだが、記憶と一緒に何処かに消えた。
何もなかった。
空白で伽藍で無個性な自分。
悲しい、という感覚を思い出した。
ギィと声を漏らしたのは痛みだけではなく、心が泣いているからだろう。この身体に涙はない。流れたとしてもそれは他人の血液が頬に飛び、それが流れて涙の様に見えるだけにすぎなかった。
泣かない、悲しまない、それが怪物。
再生しない、刃が身体から次々と剥がれていく。刃で形成された肌が崩れ、その中に今までとは比べ物にならない程に柔な肌が姿を現す。
肌の色だった。
肌の色をもって小さな腕だった。
指先には刃はなく、あるのは細い指と割れた爪。指先を地面にさし、身体にかかる重圧から逃げる様に張って進む。冷たい鉄骨に押しつぶされそうになりながら、少しずつ、少しずつ前に進み―――光が見えた。
月の光だった。
星の光だった。
人の光だった。
ギィと唸る声。言葉を忘れた自分は助けを求める様に手を伸ばし、それでも届かないから自分の身体で前に進む。
ゆっくりと進み、ようやく外の世界が見えた。
満天の星空と小さく光る三日月。
その下で自分を見つめる小さな少女が二人。
驚愕していた。
だが、どこかおかしいと思った。
本能の赴くままに動いてはいたが、壊れかけた意識という部分で思い出す。それは自分が生きていて驚いているという表情ではなく、自分の姿を見て驚いている様に思えた。
別におかしい事はない。
あんな状態なのに生きていたのなら、驚くのも当然だろう―――だが、違和感があった。
「――――女、の子?」
少女の一人が言った。
「アンタ、やっぱりあの時の……」
血だらけの少女が言った。
女の子、二人は女の子と言った。自分を見て、怪物になった自分の姿の何処にそんな容姿があるというのだろうか、あり得ない、馬鹿らしい、化物の自分は人ではなく―――人ではなく、誰なのだろう。
胴切は立ち上がり、すぐに倒れ込んだ。
足が痛かった。
自分の足を見ると、そこには手と同様に人間の様な足が二本あるだけ。張って進んだせいか、膝に擦り傷があるし、足首は紫色に変色している。もう一度立とうとしたが痛みによって倒れた。
痛い、これは痛いという感覚だ。
思い出せないから知った。
知ったから、痛いと思えた。
ギィ、ギィ、ギィ――――自分の言葉は、これだけ。
何と言えばいいのかわからず、ギィギィと鳴く事しか出来ない。
自分はどうすればいいのだろうか。
殺せばいいのだろうか、切り刻めばいいのだろうか、それとも二人に殺されればいいのだろうか、誰も教えてくれないからわからない。
わからない故に唸るだけ。
唸り、唸り、唸って鳴いた。
教えて、と鳴いた。
耳障りな音で鳴いた。
口からポロポロと刃が抜け落ちる。
身体から刃が消え、身体から力がどんどん薄れていく。
まるで自分が煙の様に消えてしまうのでないかと思えるほど、身体が軽くなっていく。
あぁ、どうすればいいのだろう。
どうすればいいのだろう、どうすればいいのだろう、どうすればいいのだろう。
誰か教えて欲しい、教えて欲しい、示して欲しい、導いて欲しい。
自分は、胴切は、どすれば、何をすればいいのだろうか――――やはり、殺すしかないのだろうか。
手を上げ、腕を変化させようとする―――しかし、変化は起きない。腕も手も指も爪も、身体のどの部分も、一つして刃に変化しない。
壊れたのだ。
完全に、壊れたのだろう。
壊れたら、どうやってあの二人を殺せばいいのだろうか――――ふと気付いた。
二人の少女の背後に、誰かが立っている。
女だ。
白に似た銀色、白銀に近い髪の色をした女が立っている。
無表情で立っていて、何やら悲しそうな顔で自分を見ている。そして、意を決した様に歩き出す。女に気づいた少女は驚いたが、女は二人を見ずにまっすぐに胴切を目指す。
そして、倒れた胴切と女の眼が合った。
この女なら教えてくれるかもしれない。
どうすればいいのか、答を聞かせてくれるかもしれない。
喉の奥に異物が突っ込まれた気分だったが、小さな声でやっと一言だけ言葉を漏らす事が出来た。

―――――どうすれば、いいの?

女は首を横に振る。
「何も、しなくていいわ」
それはおかしい。自分は何かをしなくてはいけない。多分、殺すとか切り刻むとかそういう類の事をしなくてはいけないのだ。
だが、女は再度言う。
「もう、何もしなくていいのよ」

―――――何も、しなくていいの?

「えぇ、そうよ」
女は胴切を優しく抱き上げる。
良い匂いがした。
少しだけ血が混じった匂いだが、女性的な良い匂いがしたので気にならない。
何故か、目頭が熱くなるのを感じた。

――――本当に、いいの?

「本当はもっと前に助けに来れれば良かった……でも、お姉ちゃん、少し遅かったね」
胴切の頬に雨が堕ちた。
温かい、雨だった。
「ごめんね……ごめんね」

――――もう、殺さなくていいの?

「殺さなくていい」

――――もう、戦わなくていいの?

「そんなの、女の子の仕事じゃないわ」

――――怒られない?

「怒らないわ」

――――痛い事、されない?

「されないわ。そんな事は絶対にさせない」

――――痛いのも、苦しいのも、熱いのも、寒いのも……本当にされないの?

「…………うん、させない」

――――嘘じゃない?

「嘘じゃない」
安心した。
よくわからないけど、安心はできた。
覚えてはいないが、きっと自分は痛い事が嫌いだった。苦しいのも嫌だった。同じ顔、能面の様な大人達は自分が痛いと言っても、苦しいと言っても、何もしてくれない。同じ様にビリビリと何かを流し、何かを身体に流し込み、身体に何かを刺し、何かを折り、何かを壊し、何かを苛め、何かを楽しみ、何か観察し、何かを見捨て、何かを廃棄して、何かを、何かを何かを何かを何かを――――そんなものは、もう無いのだとわかった。
苦しかったのは覚えてない。でも、忘れても身体には残っていた。
「此処にはアナタを苛める人は誰もいないわ。誰もアナタを傷つけない。だから、安心していいのよ」

――――そっか、じゃぁ……いいや

眠くなってきた。

――――私、もう眠いや

「そう……それじゃ、もう眠りましょうか……」

――――起きたら、また苛められない?

「起きたら、お母さんに会いに行きましょう。きっと喜ぶわ」
お母さんとは誰だろう。
自分にはお母さんという誰かがいたのだろうか。
わからない。
思い出せない。
でも、わからない事が、思い出せない事が無性に悲しいという事だけはわかった。
どうして思い出せないのだろうか。
お母さんとは誰なのだろうか。
自分は誰なのだろうか。
どういう存在であり、どういう為に生まれ、どういう為に生きてきたのだろうか。
何もわからず、眠気だけは襲ってくる。
眠い、本当に眠い。
意識が切れる前に尋ねた。

――――お母さんって、誰?

「アナタの大事な人。アナタを一番思っている人よ」
そんな人なんて、いるのだろうか。
「ずっと待ってるわ、アナタの事を。だって、世界で一番大切な家族なんだから……」
家族、なんだろうか。
「アナタが眠ってる間に連れて行ってあげるわ。眼が覚めたら、お母さんに会えるのよ」
それはきっと―――多分、凄く幸せな事なのだろう。
「だから、ゆっくりと休みなさい」

――――うん、わかった

胴切は瞳を閉じる。
頬に当たる温かい雨が気持が良かった。多分、誰かを斬り殺すのよりも気持が良いし、安心できた。
「おやすみなさい―――――アンネ」
女がそう言った瞬間、



少女は、アンネは思い出した



自分の名前を思い出した。
自分の生れた場所を思い出した。
自分の家族を思い出した。
自分の大切な何かを思い出した。
胴切などいう名前ではなく、アンネという大好きな母親から貰った名前があった。そして、母親に会えなくて泣いていた事を思い出した。
泣いても泣いても母親には会えず、能面の大人達は痛い事ばかりをしてくる。だから助けてと母親を呼んだ。
来てはくれなかったから忘れようとした。忘れようとしたアンネの記憶を弄くり、能面の大人達はアンネという個人を消し去った。消された後は記憶が嘘という言葉にすり替わる。毎回毎回別の記憶が存在し、アンネという名前を完全に闇の奥に捨て去られた。
でも、思い出した。
意識が消える寸前、アンネは女に笑みを浮かべた。
おやすみと言ってくれた人に、おやすみなさいと言葉を返した。
そして眠りについた。
眼が覚めれば、きっと母親に会えるだろう。
それまでは眠っていよう。もしも寝過したら、この人がきっと起こしてくれる。嘘はつかないって言ってくれたから、信じて眠ろう。




静かな世界だった。
暗くはない、明るい世界だった。
何も斬らなくていい、何も傷つけなくていい、痛い事も苦しい事もない世界が其処にあった。
草原だった。
農場があった。
小さな木造の家があった。
そこで白いエプロンをつけた母親がいた。
その周りに弟と妹が遊んでいた。
父はそれを見て笑っていた。
そして、母親がアンネに気づき、こう言った。
「おかえりなさい」
アンネも言った。
「ただいま」
草原の中、牧場に農場の横に立てられた家に向かって走り、母親に抱きついた。母親の匂いを嗅ぎ、安堵の息を漏らす。
そして二人は手を繋ぎ、家族と一緒に家の中に入る。
残されたのは何も無い。
あるのは幸福だけ。
少女はようやく己を思い出し、手に入れ、家族に会えた。
現実の世界には存在しない家族。いたはずの家族はアンネをずっと待っていた。そして出会えたから一緒に向かう事が出来た。
こうして一人の少女の物語は終わる。
誰かの物語のついでだったのかもしれない。だが、少女にしては絶対無二の大切な物語だった。

世界には静寂を、家族には平穏を―――そして、少女には幸福を






そして、悪には雷の鉄槌を








さて、酷くのつまらない話をしよう。
少女がこの世を去った時と同じくして、一台の車が海鳴の街を疾走していた。運転席に一人、助手席に一人。運転しているのはガタイの良い表情の薄い男。助手席には眼鏡をかけ、白衣を着たひょろ長の男。
彼等の国籍はロシア。
所属は軍でなくフリーの何でも屋。言い方を変えれば金さえ払えばどんなに汚い事も平気で請け負うという糞ったれのド腐れ野郎である。
そんな彼等でも現在はとある機関の専属となっている。主な仕事は物資の移送と実験の手伝いである。今回、彼等が海鳴に来たのは二つ目の実験の手伝いが目的だった。廃棄処分が決定された実験体に、この島国で開発された薬のデータを貰って作り上げた試作品を打ち込み、その結果を観察、報告するというものだった。
しかし、その実験の途中に実験体は死亡した。
故に彼等は車を走らせている。
逃げているのではない―――ただ、国に帰るだけだった。
「思った以上に良いデータが取れたね」
眼鏡をかけた男の名は―――語る必要が無いだろう。当然、もう一人の男も同様だ。語るだけ無駄であり、語るだけ文字数の無駄になる。
「あれでか?アレでは本国の連中が納得しないぞ。薬は効いてはいたが、実験体は暴走状態。こっちの命令は効かず、ターゲットの事すら忘れてひたすらに暴走と殺害を繰り返す失敗……まぁ、それが依頼主にとっては好都合だったんだろうがね」
「そだね。実験と小遣い稼ぎとしては十分だったよ。あの薬は実験段階だから失敗しても当然。こっちの予想外だったのは、実験体の肉体が思っていた以上に変化に耐えられなかったという事だね。まさか、最後になって元の姿に戻るとは思ってもなかったよ」
「本来なら【戻らず融解】するはずだったんだがな……まぁいいさ。アレだけの力を出せたんだ、最後の個人を判別させない融解なんて現象は諦めた方がいいだろうな」
「そのせいで何匹も実験体を殺したからねぇ……ぶっちゃけさ、僕達が実験体を攫うのだって苦労してるって事、あっちは理解してるのかな?」
「理解はしないだろうな。だが、金を貰っている分の働きはするさ」
「はぁ、出来れば楽に儲かる仕事が欲しいね、僕は」
「俺もだよ」
そう言って二人は嗤う。暗い笑みを浮かべる。死んだ少女の事などこれっぽっちも考えず、この街の罪なき者達を殺したという点においても同様だった。
「それよりも気になったんだけど、最後に実験体と戦っていたのがバニングスの令嬢だったんだよね?」
「らしいな。依頼人も随分と驚いていたよ」
「やっぱりアレだね。相手を月村って設定しておいきながら【身内】に手を出すのは流石に不味いと持ったんじゃない?」
「正確には身内じゃないらしい。だが、限りなくデビット・バニングスに近い奴らしいぜ。なんでもバニングス家の当主、デビット・バニングスの血を引く奴らしいぞ、あの依頼人」
「へ?でも、あのお譲ちゃんが娘なんじゃないの?」
「アレは今の娘だ。デビットいう男は、世界中に女がいて、世界中に子供がいるんだよ。十年以上前からそうやって世界中に自分の子種を巻いて、認知もせずに放っておいてる羨ましい奴なんだよ」
「へぇ、酷い奴もいるもんだね」
「だが、そんなデビットも人の子らしいな。あの娘、バニングス家の令嬢だけはしっかりと認知しているらしい。なんでもよ、死んだ娘の母親、つまりは【最後の妻】だけは特別らしいな」
「そりゃあれだ、世界に散らばっている他の人達に放ってはおかれないね」
「それ故に、相続争いも激しいのさ」
だが、それも今の彼等には関係のない話だ。依頼人とは既に手は切れている上に、こちらの事を詳しく探られない内に出て来たからだ。
依頼人がどのような理由があるかなど彼等には関係はない。
「あ、次の道を横に。そこを通ると港への近道で、しかも目立たないんだ」
「了解」
ハンドルを切り、車は狭い裏路地へと進む。

そして、ライトに照らされた男を見た。

眼鏡をかけた細い男だった。
地味なスーツを着て、眼鏡をかけていた。
足下には何本も煙草の吸殻が堕ちており、口にも一本咥えている。
運転手の男はクラクションを鳴らして邪魔だと伝えるが、男は一向に動かない。それどころか、
「ねぇ、もしかして……」
ライトに照らされ、光を反射する眼鏡のレンズの奥にある瞳。
それを見た瞬間に気づく。
「あぁ、敵だな」
「うわぁ、マジで……」
敵だと認識する。
両者の距離は少なくとも五十メートル以上は離れている。そして狭い裏路地は車一台が通れば人も通れない程に狭い。つまり、目の前の男には逃げ場がない。無論、こちらには逃げる方法なんて幾らでもない。
後ろに下がって普通の一般道に出てもいい。後部座席にある銃を持って撃ち殺しても良い。
だが、二人はそのどちらも選択しない。
二人の顔に腐りきった笑みが浮かぶ。
運転席の男はアクセルを―――踏み込んだ。
車は唸る獣の様な音を響かせながら、タイヤを数秒地面にこすりつけ、イノシシの様に突進してきた。
目指すは前だけ。
障害があれば跳ね飛ばし、跳ね殺すだけ。
轢いて殺したら犯罪だが、それは警察などに捕まる阿呆だけ。
自分達は捕まらない。
自分達は強者であって弱者ではない。
奪う側であり奪われる側ではない。


もっとも、それは勘違い以外の何者でもない。


ライトに照らされた男はうろたえる事も、恐れる事もなければ、動く事すらしない。
煙草を咥えたまま、微かに腰を落とし左手を腰に据える。
迫りくる鉄の怪物。
迎え撃つは初老の男。
「別に正義の味方を気どる気はない……俺には一生縁の無い話だからな」
鉄の鎧を纏う怪物。
ただの布で出来たスーツを纏う男。
「だが、俺は教師だ。生徒を傷つけられたら腹も立つし、生徒でもない子供をあんな目に合わせて腹が立たないなんて事はない」
高速で襲いかかる怪物。
動かない男。
「そして何より――――俺の生徒に殺しの片棒を担がせる様な事をさせたお前等を許す気はもっと無い」
車に乗った二人は嗤う。
「お前らみたいな腐りきった連中はな――――――」
車と男の間の距離は、わずか数メートル。
次の瞬間、男の身体は空を舞うだろう―――しかし、それは男達の中だけで想像であり妄想だ。目の前の男を知らない男達は妄想する。轢き殺せると、殺せると、そして自分達は国に帰る事が出来ると、本気で妄想していた。
故に知る事になる。
例え、この国で彼等の行いに気づかずに法的機関が逃がしたとしても、空の上から余所身をしていた神様が逃がしたとしても、それを当然と考える愚かな連中がいたとしても―――



「生徒の教育に――――悪いんだよ!!」



加藤虎太郎という【教師】が見逃す筋合いも可能性も皆無。
虎太郎の拳と車が―――激突した。




それと同じ時間。
とあるマンションの一室にて。
子供がベランダで天体観察をしていた。天体望遠鏡から見える星空は見事の一言だった。心を奪われる程に素晴らしい光景だった。そして、母親からそろそろ寝なさいと言われ、子供は眼を離す―――その時だった。
子供の眼に奇妙な光景が写った。
「ねぇ、ママ……」
思わず母親に声をかけた。
テレビに夢中な母親は気づかないが、子供は呆然とその光景を見ていた。
「ママったら」
その光景から眼が離せないでいた。
たったの二回で子供は呼ぶのを諦めた。なにしろ、その時には既に眼に映った信じられない光景は終わっていたからだ。
夢だろうかと考えたが、きっと現実に違いない。だから明日になったらクラスメイトにこの話をする事にしようと心に決めた。
だが、恐らくは誰も信じないだろう。
子供の眼に映った光景は、まるで映画の様な現実だった。
「すごいなぁ……」
夜の街。
小さなビルとビルの屋上。

そして、それよりも高く空に舞い上がった―――車。

「車って空も飛べるんだ」
間違った認識を植え付けたまま、子供はベッドに入った。


これがつまらない話の終わり。
実につまらない。
当然の結果の話をして、面白いと思う者はいない。
それほど、当然の結果だった。
「――――相変わらず凄いねぇ」
間近で見ていたガタイの良い、背の高い男は呆けた様子で言った。
「これりゃあれだね、日本の漫画雑誌、少年が跳ぶ的な雑誌に出てくる主人公みたいだよ、虎太郎は」
虎太郎は新しい煙草を咥えながら、空を見上げる。
「俺は主人公などに向いてないさ……それで、その二人はどうするんだ、ウラジミール」
ウラジミールと呼ばれた男は笑いながら、
「ちょっと世間話をしてから解放するさ」
と、言ってはいるが眼は少しも笑っていない。
「まぁ、世間話に耐えられれば―――の話だけどね」
空か堕ちて廃車となった車の中には奇跡的に死んでいない男が二人。
「…………まぁ、勝手にすればいいさ。でもな、ウラジミール。あんまり妹のトーニャを危険な目に合わせるなよ」
「わかってるよ、虎太郎。だからかな……僕の妹を泣かせた原因の二人を、優しく囁くように世間話をする気は起きないね」
「言っている事が変わってるぞ」
「そうだね。うん、実はさっきのは嘘。こっちが本音だよ」
勝手にすればいいさ、と虎太郎は歩き出す。
とりあえず、今日は帰る事にしよう。
その前に二人を拾って、アリサを病院へ送り届けて―――
「今日は徹夜だな……」
苦笑して、虎太郎は歩く。

騒がしい夜がようやく終わりを告げる。






夜が終われば、朝が来るのも当然。そして朝の次は昼が来るのも必然。
だが、こんな時間にかかってくる電話だけは素直に驚くのは当然だろう。
「―――――もしもし、パパ?」
『おう、愛しの娘。こんな時間に何の用だ?というより、まだ昼休みには早いと思うぞ』
「そうね……さぼっちゃった」
電話の向こうから笑い声が聞こえる。
『カカッ、おい鮫島。俺の娘がとうとうグレたぞ?どうすればいいと思う?とりあえず、バイクを盗む前に最高級のモンスターエンジンを乗せたバイクを送るべきか?』
「要らないわよ、そんなの」
でも、免許を取ったら買ってもらおう。是が非でも買ってもらうとしよう。もっとも、それを成すにはまず、自分が【バニングス家の者と認めさせる】という試練があるのだろう。
「それよりも聞きたい事があるんだけど……」
『――――何だ?』
真面目な声で尋ねた娘に、父は静かに答える。
「今回のアレは、何時ものアレと同じと考えていいのかしら?」
『何時ものアレ、が良くわからんな』
「今更とぼけなくてもいいわよ―――パパが若い頃に作った私の兄妹達の事よ」
『知らないな。俺はママ一筋の愛妻家だぞ?』
「ママは死んでるわよ」
『死んだからといって愛していないわけじゃないさ。俺は死んでもママの事を愛しているし、ママが残したお前の事だってずっと愛してる』
相変わらず嘘臭い台詞だと娘は思った。だが、前よりかは信じられる様にはなった。どうやら、心の錘というものは何時の間にか随分と軽くなったらしい。
「それじゃ、他の子供達の事はどうなの?愛してないのかしらね」
『愛してるさ』
これで愛していない、なんて事を言ったら家族の縁を切ってやるつもりだった―――いや、それは少しやり過ぎだ。とりあえず、一か月くらいは口も聞いてやらない事にする―――それも少しやり過ぎだと持ったのか、とりあえず一週間、一週間だけ無視してやろうと思った。
『愛しているからこそ、俺の遺産を相続する権利は誰にでもある』
「おかげで私はそういった連中から目をつけられる始末なのよね」
『すまんな。反省はしてる―――でも、後悔はしていない』
「そうね。私も嫌だけど、後悔はしていないわ。パパの娘だって事も後悔していないし、バニングスの名を持った事も後悔していない」
だが、と娘は一旦区切り、
「それで私の周りが迷惑するのだけは、許せないわ」
自分のせいで誰かが不幸な目にあうのは許せない。自分という存在にそんな権利はない。そんな自分を狙う相手にもそれは同様だ。
「ねぇ、パパ……このつまらないゲームは何時になったら終わるのかしらね」
『お前が一言、降りると言えば終わるさ。少なくとも、お前とその周囲だけは救われる』
それが言えたらこんな話はしていない。
「それは嫌。パパの人生を、相手を潰せば手に入れられるなんてふざけた事を言い出す輩に、パパの遺産は渡せない」
『親孝行なのはいいが、パパとしてはちょっと心配だな……あと、遺産とか言うな。パパはまだ死んでない』
「大丈夫よ。私はパパの娘よ?そう簡単には死なないし、死ねないのよ。だから、パパも殺しても死なないわ」
『そうか……あぁ、そうだったな』
そして、父と娘は少しだけ今回の事件について話をした。
この馬鹿騒ぎというには悲惨すぎる事件の首謀者、父が母以外の女の間に作った子供が起こした事件だった。
自分の身体には偉大なる父の血が流れている。その父の為に敵である月村を根絶やしにしたかった。だが、それには理由が必要だった。その為に暗殺者を雇い、月村の令嬢を殺して戦争の火種にしようとした。そして、戦争が起こった時には意の一番に自分が赴き、月村を倒してバニングスに勝利を与える―――そんな妄言が理由だった。
「…………言いたくないけど、少しは教育に手を出した方が良くない?そんな偏った考えを持つ奴が誰かの上に立っていいわけないじゃないの」
『出来るもんならそうしてるけど、やっぱり女性に優しいパパは他の女性にも優しくし過ぎて、子供に会えない事が多いんだね、これが』
「全部パパの自業自得じゃないのよ」
娘の痛烈な一言に、電話の向こうで父は苦い顔をしているだろう。
「それで、ソイツはどうなったの?」
『何時もと同じさ。ぶつかり合い、闘争に負けた者に俺の遺産を継がせる気はない。だから早々に記憶を操作して、今は普通の会社員として別の国で働いているよ』
記憶の操作。
バニングス――いや、父の血を継いでいるという記憶を失えば、それは今までの全て失い、新しい誰かになるという事と同じ意味を持つ。
「もしも、もしもよ?」
だから娘は少しだけ不安だった。
「もしも私が後継者争いに負けたら―――パパが私のパパだっていう記憶も消すの?」
『…………』
父は答えない。
それが真実だとすれば、
『俺は……』
「いいよ。何も言わなくても……」
それが敗者の末路だとするのなら、

「その時は、思い出すから」

知った事ではない。
『―――――――は?』
父の呆けた声を聞きながら、娘は笑って答えた。
「勝手に思い出すわよ、その時はね。だって、パパは私のパパだもん。他の誰かのパパかもしれないけど、私のパパでもある。だったらきっと忘れないわ。忘れても思い出す。絶対に、どんな手を使っても思い出してみせる」
『…………アリサ』
「だから、だから――――安心して良いよ。私は大丈夫だからさ」

父は―――デビットは自然と微笑んだ。
「そっか……そうだな。お前は俺の娘だ。だから絶対に大丈夫だな」
『そうよ。だから今の内に私の椅子、空けておきなさいよ』
「それは駄目だな。何事も平等だ。男たるもの、平等であるべきだ。男が贔屓していいのは愛すべき女だけと相場が決まってる」
『なるほどね。それじゃ、私はその席を無理矢理にでも奪わなくちゃいけなって寸法なのよね――――上等ね』
力強い娘の、アリサの言葉を聞いて、デビットは笑みを止める事が出来なかった。
強くなった、そう思った。
少なくとも、前に電話で話した時よりもずっと強くなっている。
「――――なにか、良い事でもあったか?」
そう尋ねると、アリサはしばし無言になり、
『―――――が、できた』
小さな声で、



『友達が、できた』



そう言った。
「そうか……それは良かった」
『…………怒らないの?』
「どうして怒る必要があるんだ?」
むしろ、怒るがおかしいのだろう。
『だ、だって……パパは言ってたじゃない、孤独でいろ、孤高でいろって』
あぁ、あれかとデビットは思い出す。
「あれはそういう意味じゃない」
『へ?』
「お前はそのままの意味で聞いていたみたいだが、それはそのままの意味じゃない」
『それじゃ、どういう意味なのよ』
「それを考え、答えを見つけるのも俺の後継者の義務だな」
だが、恐らくは時間はかかるまい。
電話の向こうで混乱しているであろう娘の姿を想い、デビットは答えが近い事を知る。アリサは言ったのだ―――友達ができた、と。
それが最初の一歩だ。
それがわかれば、後は自然と答えにたどり着くだろう。
友ができたという事は、仲間ができたという意味だ。
デビットは思い出す。
それは妻が死ぬ前の晩。
デビットの妻は電話でデビットにこう言っていた。
自分は辛い。アリサがデビット同じ様な力に目覚め、そのせいで遺産の継続争いに巻き込まれるかもしれない。だから辛い、苦しいと泣いていた。
だが、泣く時間はすぐに終わる。

それでも信じていたい、と妻は言った。

アリサは自分とデビットの娘なのだから、どんな困難にも負けはしないだろう。そして、例えその身に異能が宿っていたとしても孤独にはならない。孤独になど負けず、周囲に手を伸ばす事を諦めはしないだろう―――そう信じていると妻は言った。
その時、デビットは遥か昔を思い出す。
夜の一族と争うきっかけとなった女性の事を。
その女性は自分にむかってこう言い放ったのだ。
「孤独で在れ、孤高で在れ―――そうすれば、自然と仲間が寄ってくるのよ。自身を求め、自身に縋り、自身という存在をリーダーと認める素質があると周りが理解する、理解させる事が出来る……だから私はアンタに勝てたのよ」
女性はデビットの敵だった。
女性一人では大した事の無い敵だった。だが、その数が多い。女性をリーダーとした集団、軍団がデビットを打つ為に集まり、吸血鬼という超越種を打倒した。
「群れとは、意思の集まり。種族も何も関係ない……故に群れを率いる者は常に孤独であり孤高なのよ。そんな者でなければ仲間を守れはしない。そして、仲間もリーダーを求めはしない」
自分一人の力など大した事はない。だからこそ仲間が出来た。自分から望んで作ったわけではないが、いつの間にか自然と集団ができ、軍団ができ、そして群れができていた。
そう言い放った女は、まるで狼のボスの様だった。
だから惚れた。
だから愛した。
だから夜の一族というつまらない一族を裏切り、彼女の群れの一人になった。その為に一族全員を打倒する必要があったが、苦とは思わなかった。
欲しいと心の底から思ったからだ。
孤独と孤高、この二つを持つ女性が魅力的過ぎて、他の何もいらないと想う。だから何処までも、何時までも戦えた。
その結果、彼は今の地位にいる事になる。
この事を知っているのは、生涯で二度目の愛を教えてくれた女―――アリサの母だった。
「まぁあれだな。この宿題は俺の椅子を手に入れるまでに出せばいいさ」
『実は答えなんて無い、なんてオチじゃないでしょうね』
「どうかな?」
唸る娘の声。
微笑む父の顔。
何時かたどり着く答えが存在する。しかし、その答えはきっと一つではない。あの事件を起こした子供の一人が別の答えにたどり着いた様に、アリサも別の答えに辿りつくかもしれない。
何故なら、意思とは関係なく人は動く。
デビットが知らない内に、彼の予想以上の価値を叩きだす事だって普通にある。
それが生きている者の特権であり、誰にでもある異能だ。
人である限り、歩みよる。
人で在る限り、言葉を交わす。
人で在る限り、自身の意思で誰かと共にある。
アリサ・バニングスはそういう少女になる―――もしかしたら、既にそういう少女になったのかもしれない。
群れを率いるのではなく、自ら群れを作り、群れを導き、群れを守り、群れと共に生きる。
それは今ではなく未来の話かもしれない。
しかし、それは絶対に訪れない未来なはずはない。
何故なら、言葉の意味、言葉に宿る意思は―――人の数だけ存在するのだから。
それから少しだけ電話で話し、通話は終わる。
「――――鮫島、今日は自宅に帰る」
「帰れますかね……本日のご予定では少々困難かと」
「馬鹿野郎。男である俺が、父親である俺が娘を祝ってやらんでどうする!?」
「そう言って毎回誕生日とか学校行事に行かない旦那様が言っても、説得力がないですな」
「そ、それはアレだ。そういう日に限ってとんでもないトラブルが湯水の様にわき上がって――――っていうか、鮫島」
デビットは運転している鮫島を見る。
「なんか、後ろから黒いワゴン車の群れが近付いてないか?」
「それだけではなく、前からは装甲車。上空にはアパッチが飛んでますな」
「此処、日本だよな?」
「日本は日本でも、人気の無い山道ですらなぁ……はぁ、だから普通に高速道路を選ぶべきだったんですよ」
横目に鮫島は後部座席を見る。
そこには山の様に詰まれたお土産。
「まったく、旦那様は少しばかりアリサ様に甘過ぎでございますね」
「娘が怪我した時にも帰らない父親の唯一の償いだ」
「物で釣るとは……いやはや、何とも嘆かわしい」
「お前さ、主人の事をどう思ってる?」
「尊敬しておりますよ?――――この不運の大きさに」
背後の車のドアが開き、銃を持った男達が見える。前方の装甲車では屋根の上に備え付けられた大型銃器の照準がデビットと鮫島の乗った車を狙う。
そして、上空に待機していたアパッチからは既にミサイルが発射されていた。
「―――――撃ちやがったな」
「―――――えぇ、撃ちやがりましたね」
主人と執事に一切の焦りの色はない。
むしろ、上等だと言わんばかりにニヤッと壮絶な笑みを創り上げる。
「正当防衛だよね、コレ」
「えぇ、正当防衛ですな」
それが開始の合図となった。
結果的にこの日もデビットは家には帰れなかった。
車に積んだ大量のお土産はミサイルによって灰になり、その怒りでアパッチを撃墜。そのせいで翌日の新聞に『謎の爆発事故!!他国の攻撃か!?』などという一面が飾り、日本と他国の間に戦争一歩手前の膠着状態が生まれそうになり、それを回避する為に一児の父と執事は世界中を飛び回って事件を収拾するという映画が一本取れるくらいの出来事になる。
そして、父がそんな大変な事に遭ってとは夢にも思わず、例え思っていても父ならなんとかするだろうという信頼で放置して、アリサは屋上で昼ご飯を取り出す。
この日は何時もの様にコッペパンと水ではない。
今日は久しぶりに菓子パンとジュース。
ソレを持ってチャイムが鳴るのを待つ。
数分後、チャイムが鳴って屋上のドアが開く。
そこにはお弁当を持った少女が二人。アリサを見つけて文句を言いながら、アリサの座っているベンチに腰掛ける。



菓子パンの甘い味は、まるで今のアリサの心を現す様な―――幸せな味だった。



















そしてこれはどうでもいい余談なのだが、デビットと鮫島がなんとかトラブルを収め、ちょっとアリサへお土産でも買っていこうかな~とか思って、とある街で【クラブ】なる組織が行っていたエンターテイメントに巻き込まれ、そこで異常な戦闘能力、殺傷能力持った少年と出会い共闘、そしてそのククリナイフが羨ましいからお土産にどっかで買っていこうかな~とか考えていたら、結果的に巻き込まれて戦うはめになって一国を救うってみたりしたが――――基本的に本編とはまったく関係のない話である。
ちなみにこれも関係のない話なのだが、その騒ぎが終わった後も、ククリナイフが欲しいな~とか思っていたら、某漫画家と某編集者の格好をした二人の少女と出会い、
『アナタにこのマジカルステッキをあげるよ~』
と言われて受けった瞬間に変身魔法少女(筋肉モリモリ)に変身して、警察に追われたりしたらしい。
そしてこれは少し未来の話なのだが、この時のマジカルステッキが原因で海鳴の街に死と絶叫とちょっぴり塩辛い感動もクソも無い様な事件が起こる事になるのだが―――それはまた別の話という事になる。




次回『人妖都市と休日』




あとがき
うん、長いね。
アリサ編を全部合わせるとページでは110くらいで、メモ帳だと172KBだった。今回の話だと50Pになりました(過去最高でした)。
というわけでアリサ編の終了です。虎太郎先生はあんまり題名に関係はなかったすっね。まぁ、虎太郎先生が主人公というわけじゃないから、アレですけどね。
さて、それはさておき、アンケートを適当に集計したら2が優勢という事で、もう2でいこうかなって思います。
というわけで、【リリなのキャラであやかしびと】な話になりました。というより、既にそっち寄りですね。
とりあえず、現段階で設定が決まっている方々。

クロノ
テスタロッサ家
リィンフォース

です。
次回はシリアスがほとんどない話にしようとおもっております。もしくは、ちょっと寄り道して別の話もいいかもです。それが終われば人妖編の最後、なのは編を開始します。






[25741] 【閑話休題】『朽ち果てし神の戦器‐エメス・トラブラム‐』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2012/07/03 15:08
――――退屈なとき、もしくは一つの区切りがついた時は、異なる世界の話をしよう。

我々とは森羅万象の法則が異なる世界、違う者達が生きる世界の話を。

しかし、どこかで繋がっている遠くもあり、近くもある世界の話を。

そして、以前の物語が竜人の世界の物語というのならば、今回は別の世界の物語を語るべきだろう。

遠くもあり、近くもある世界。

その世界では以前の世界と何処までも似ているのだが、少しだけ違う事もある。死ぬはずの者が死なず、生きるはずの者が死に、幸せに不幸に普通に生きている世界の物語。

これはそんな――――あるエルフの世界の物語だ。






【閑話休題】『朽ち果てし神の戦器‐エメス・トラブラム‐』







三百年が経った、今日。
魔銃にとってそれはなんとも言い難い、別れの日になった。
以前の持ち主が死んで三百年、新しい持ち主になって三百年。そして、三百年という長い月日を生き、逝くべく者となったエルフが魔銃の主。
このエルフの事は知っている。
彼女の名をヴァレリア・フォースターという。
魔銃は彼女が幼い頃から知っている。
以前の主、その主は執事であり、執事が仕えて主がおり、その主の友人が彼女、ヴァレリアというエルフだった。幼い頃から老人になるまで三百年を見てきた魔銃は何とも言えない干渉に浸っていた。
二度と目が覚めない主。
人間の数倍は長く生きるというのに、死は必ずやってくる。有機物も無機物も関係なく、終わりという死は必ず訪れるのだ。
恐らくは自分にもそういう日が訪れるのかもしれない。だとすれば、その時の自分はどんな顔―――いや、顔などない。どんな姿になっているのだろうと考える。
壊されるのか、それとも錆びて朽ちるのか、予想はつかないがきっとロクでもない様な死に様、壊れ様を晒して消えるのだろう。それが怖いとは思わない、嫌だとも思わない。ならばその最後の瞬間が訪れる時まで自分は自分の思う様に動き、銃弾を吐き出し、命を奪い、冒涜するだけだ。
なら、このかつては少女だったヴァレリアはどうなのだろうか。
死ぬ事が怖くないのだろうか。
終わる事が怖くないのだろうか。
少なくとも、怯えるような仕草はしていない。
この終わりを受け入れて、そして――――その先にある何かを楽しみにしている様だった。
死を、終わりを楽しみにしている。
そんな風に見えたから、昨日に聞いてみた。
『―――――やっぱりあれか?長い生きすると死にたくなるのかよ、嬢ちゃん』
魔銃は尋ねると、ヴァレリアは小さく首を横に振る。
「いいえ、そんな事はないわ……」
『なら、なんでそんな顔をしてるんだよ』
「そんな風に見えるかしら?」
『あぁ、見えるぜ』
黒き魔銃に顔があったのなら、きっと嗤っているのだろう。死を運び、死を与え、生を奪い、生を冒涜する魔銃にとってそういう顔が一番似合っている。だが、彼女はそんな魔銃の事などお見通しなのだろう。紅茶を啜りながら、顔に出来たシワにそっと手を当てる。
「楽しくなんてないわ。でも、特別に苦しいわけでもない。自分の終わりがこんな近くに迫っているのに、どうしてか怖いとは思えないの……どうしてだと思う?」
ヴァレリアの問いに魔銃は少しだけ考え、意地悪な声を作って言葉にする。
『それこそ、生に飽きたんだろうよ。なにせ、【アイツ等】が死んでもうかなりの年月が経ってるんだ。それこそ、生きている事が辛いだろうよ』
「外れね」
あっさりと言われ、魔銃は言葉を詰まらせる―――演技をした。
ヴァレリアもそれがわかっているのだろう。
それでも言葉にしたのはきっと、自分の今を、今までを確かめる様な事をしたかったのだろう。
「――――生きる、最後まで生きる……それが私があの人達に託された事。自分達の死を嘆いてはならない。自分達の後を追ってはいけない―――微笑んで、幸せになって欲しい」
『随分と自分勝手な連中だな』
無論、魔銃とて知っている。
あの連中がそんな事を言ったのも、死ぬ時になってそう言うだろうという事も、全てを知っている。
まったく、なんてお人好しな連中だ―――魔銃は小さく溜息を吐いた。
「でもね、正直に言えば……苦しかったわ」
『………』
「生きる事が苦しい、生き続ける事が苦しい、周りが死んでいって残される事が何よりも苦しい……胸に穴が開いているのに生きているのは、辛い事だったわ」
『だが、生きてる』
「生き汚いとアナタなら嗤うかしら?」
嗤ってやるだろう。主が嗤えというのなら、最低なジョークを交えて嗤い飛ばし、貶して陥れ―――
『嗤わねぇよ』
思うだけで、口にはこう出す事にする。
やれやれ、自分も随分と奇妙な事を思う様になったと魔銃は顔の無い顔で苦笑する。
以前の主が死んでから三百年。その間、彼女が一度だって、一発だって自分を使う事はなかった。それは以前の主からの願いを聞き届けたのもそうだろうし、彼女自身の意思でもあったのだろう。
魔銃は武器であり兇器だ。撃たない銃は銃ではない。斬らない剣も剣ではない。
だというのに、以前の主はこんな戯言を吐いたのだ。

魔銃に安息を―――

最低な言葉だと思った。
命を奪わせろと思った事もあったし、契約を破棄して別の、もっと血の気の多い奴と契約するのも悪くないと想っていた―――だが、案外こういう生活も悪くないものだと思ってしまったのだ。自分と対になって生み出されたもう一つの魔銃も同じ感想だったらしい。
『嗤わねぇよ、嬢ちゃん。第一、銃には笑うなんて機能は搭載されてねぇんだからな。俺に出来るのは敵に唾を吐き出し、唾で身体を貫いて殺す事だけだ』
「そうかしら?アナタには私とお話できるという素晴らしい機能――いいえ、素晴らしい力があるじゃない」
『こんなモンはただのオマケだろうが』
ヴァレリアはそっと魔銃を持ちあげ、優しく撫でる。
「アナタの言うオマケは、私達にとっては何よりも代えがたい力だったわ。アナタがただの無機物であったのなら、もしかしたら何かが変わっていたのかもしれない」
それは思いすごしだろう。
この身は銃という兇器。
兇器で人は変わらない。兇器を持つ者は皆が狂気を持っている。
銃は人を殺さない、殺すのは人―――そんな戯言と同じ様に、だ。
だが、きっとヴァレリアは優しく否定するのだろう。
そうしてくれるからこそ、魔銃としては珍しく、その言葉を受け取っておく事にした。
『まったく、なんて主を引いちまったのか……リックといい嬢ちゃんといい、最近はロクな主に恵まれねぇな、俺もよ』
「なら、次の主に期待するべきではなくて」
『どうだかな』
これは言葉にはしない。
これは心の中だけに、絶対に撃たない弾丸として残しておこう。
恐らく、これから先にどんな契約者がいたとしても、自分はヴァレリアと、彼女を残して死んだリック・アロースミスよりも色々と楽しめそうな契約者には出会えないだろう。
だから期待はしない。
期待はせずに、黙っている事にしよう。
口笛すら吹かず、唾すら吐き捨てず、黙ってタダの銃としている事にしよう。無論、契約者が現れれば即座に契約し、新しい殺伐とした毎日に戻るだけだ。
三百年間、長い休暇だったが、その休暇ももうすぐ終わる。
『なぁ、嬢ちゃん。一つだけ聞いて良いか?』
「なにかしら?」
もしかしたら、これが最後の会話になるかもしれない。だから今の内に聞いておく事にしよう。
こんな呪われた魔銃と、
こんな最悪な性格の魔銃と、
こんなクソッタレな事しか出来ない魔銃と、
「俺達とした三百年は、楽しかったか?」
ヴァレリアは小さく微笑む。
それだけで十分な回答だった。
それだけ聞ければ、もういい。
これが最後の会話にはならなかったが、恐らくは最後の思い出の一つにはなったのだろう。
翌日、静かな夜の中でヴァレリアは自分の家族に向けた手紙を書き、魔銃と数言だけ言葉を交わし、

眠る様に――――旅立っていった。





それから時間は経った。
三百年の休暇が終われば、すぐに何かが変わると思っていたがそうでもなかった。ヴァレリアの家族達はヴァレリアと同じ様に魔銃を使う事なく生き、そして死んでいった。三百年の休暇の後には更に百年の休暇が待っていた。そしてそこからさらに時間が経つと自分の様な銃と呼ばれる存在は、兵器では骨董品という扱いに変わる事を知った。
フォースター家から別の家へ。その家から博物館へ。博物館からとある資産家へ。とある資産家から泥棒へ。泥棒から商人へ。商人から骨董品集めが趣味な老人へ。老人から強盗へ。強盗から警察へ。警察から物置きへ。物置きからゴミ捨て場へ。ゴミ捨て場から野等猫へ。野等猫から鴉へ。鴉から森へ。森から原住民へ。原住民から祭壇へ。
そうして時間が経ち、気づけば一千年にも及ぶ休暇だった事に気づいた。最後に言葉を発したのは何時だったかは覚えていない。少なくとも、契約は愚か、使われる事すらなくなったのは確かだろう。
もう一つの魔銃は何時の間にか消えた。それに気づくのは早かったが、特に問題にあげる事はしなかった。
あっちはあっちでのんびりしているのだろう、そう決めつけた。
魔銃という存在は伊達ではなかったらしく、一千年経っても錆びる事すらしていない。もっとも、見た目はそうであっても中身は相当のガタがきているのは確かだろう。
銃としても、魔銃としても、どうかしている。
そんな事を考えていると、気づけば更に数百年の月日が流れていた。
恐らく、世界は姿を変えているのだろうが、今の魔銃の居る場所からはそれは見えない。魔銃が今居る場所は暗い闇の中。
何かの建物の中だったのだろうが、その建物は時間という寿命によって削られた命を全うし、倒壊していた。つまり、自分はその倒壊した何かの建物の中にうもっている状態なのうだ。
笑えてくる。
一千年と数百年前、魔銃はヴァレリアにこう言葉にした。
長く生きすると死にたくなる―――こんな事を言っていたのだ。
今はわかる。
あれは決して間違いではないのだろう。
『―――――壊れもしない、死にもしない』
なんて最悪な状況だ。
眠る事すら出来ず、無駄に時間をかけるだけの毎日と生涯に意味なんてない。終わらせる事が出来るのならばさっさと終わって欲しい。こんな自分でも時に弱気になるのだと気づき、苦笑する。
『なげぇなーおい』
独り言だ。
『おわらねぇなーおい』
誰も言葉を返さない。
『――――クソッタレだ』
悪態を吐くのも飽きた。

そして、更に百年が経った。
世界かは変わった。
お伽噺の世界はSFに変わる。そこから時間が経って新しい生命が生まれ、滅んだ。それでも生き残った何かは新しい種を作り、新しい種同士で争い、絶滅した。
そして、また新しい世界が生まれた。
その頃の魔銃は何処にいるかというと―――まだ、闇の中にいた。ただし、今度は建物ではない。あの建物はいつの間にか消えていたし、建物があった地形―――下手をすれば大陸ごと姿を消していた。
ならば、此処は何処なのだろうか。
魔銃は久しぶりに考えた。
自分は何処に行くのかと考え、何処に行けるのかと考え、何処にも行けない、逝ける事すら出来ないと考えつき、
『――――――――』
生れて初めて、絶望というモノに出会った――――その瞬間だった。



世界が滅びた。



世界という星が滅びた。



全てが滅びた。


滅びて、消えた。



こうして魔銃は消滅した―――――――――――――――――否、するはずだった。




魔銃には普通ではない力が宿っていた。
数千年前、不死の魔王と呼ばれた存在がいた。その存在は七人の英雄によって倒された。だが、魔王は完全に死んだわけではなく、その身体をバラバラにされながらも【力だけ】は生き延びていた。
その内の一つが魔銃に宿っていた。
魔王の力一つで世界は変わり、魔銃の力一つで命が終わる。
それほどの力を秘めた魔銃が消滅する瞬間、銃という形によって封じられた魔王の力が一瞬だが膨れ上がり―――――門を開いた。
どんな門かは知らないが、少なくとも門は門。外と内を繋げるゲートである事には変わりは無い。その門が開かれ、魔銃は放りこまれた。
門の中は嵐だった。
火の嵐。
雪の嵐。
雷の嵐。
魔の嵐
光の嵐。
闇の嵐。
不死の魔王の力すら及ばない嵐の渦に放り込まれた魔銃はあっさりと破壊された。だが、破壊されただけで消滅はしていない。幾つ物のパーツによってバラバラに分解されながらも、パーツは常に周囲にとどまりながら嵐に蹂躙された。
嵐の先も嵐、決して終わりの無い嵐。
しかし、嵐は不意に終わる。
終わった瞬間、世界が開く。
門の先ある門が開き、そこから星の輝きが写る。
魔銃だったパーツは落下する。
重力に引かれて落下し、見た事もない形の島国に落下していた。
そこで魔銃のパーツの一部が自我を持つ。魔銃だった頃の力は失っていたが、記憶だけを持ったパーツが口を開く。
『堕ちてるぅぅぅううううううううううううううううううううううう!!』
大絶叫だった。
『何か知らんが堕ちてるよ俺ぇぇぇえええええええええええええええええええ!?』
パーツは初めて高度数千メートルという高さからの落下にビビっていた。
ビビりながら――――始まりを予感していた。


魔銃だったパーツは地上に落下する。
堕ちた場所は日本という国に、何かに図られた様に全てが同じ【海鳴】という街に落下する。
撃鉄、被筒、銃把、引き金、銃剣が散らばって海鳴の街に落下する。
その光景を見ていた魔銃の記憶を持った回転式弾倉。
海鳴の街に堕ちた魔銃のパーツは全部で六つ。
その全てに異能が宿り、一つだけでも人外の力を持っている。
そして、その全てを合わせ、完成させた魔銃を、畏怖を込めて【朽ち果てし神の戦器‐エメス・トラブラム‐】と呼ぶ。
だが、それはあくまで名前ではない。
魔銃の本当の名前は一つ。
ヴァレリア・フォースターやリック・アロースミス、魔銃を知る者達は魔銃の事を、彼の事を、



【黒禍の口笛‐ベイル・ハウター‐】と呼んでいた。



こうしてベイル・ハウターは壊れ、人妖隔離都市へと落下する事になり、それが原因で巻き起こるトンデモない馬鹿騒ぎが待っているのだが―――それは別の話となる。
しかし、それがベイル・ハウターの新しい世界、そして戦いの始まりとなる。
魔銃に宿りし異能を受け入れ、魔銃に刻まれた呪いを跳ねのけ、魔銃を持ちながらも己が信念を貫き、魔銃を家族として接する事の出来る者と出会う。
この時、ベイル・ハウターはまったく想像していない。

契約する新しい主というのが、十にも満たない心優しい少女だったとは―――夢にも思わないだろう。







あとがき
というわけで、ベイルです。
このベイルさんはヴァレリアルートのベイルという事なんですが、とりあえず、いきなりぶっ壊れてもらいました。現在は弾倉だけという状態です。
ここまで書いておきながら、ベイルの契約者に色々と迷っているのですよ。
一番は主人公なんですが、それ以外にも二人ほどいます。まぁ、とりあえずは主人公です。

というわけで、レイハさんはクビ

とりあえず、現状では単なる喋る弾倉でしかないですね~
さて、弾丸執事で残るは雪ルートなんですが……ぶっちゃけ、このルートについては書く必要がないのが問題なのです。だって、役名すら無いモノですからね。
そんな感じで、弾丸執事介入編はこれで終わりです。
次回は本編、なのはさん編の開始です。
予定では三話、最悪は五話くらいで終わるかもです。
そういえば、ベイルって契約者以外でも普通の銃としては使えるんですかね?

PS(というより質問)
薫さんの持ってた銃って刀子さんルートでどうなってましたっけ?あやかしびとが手元にないので確認できないので困ってます。
壊れてたのか、壊れてないのか、というのが問題なのです。

PS2(という名の質問2)
ネットで色々と調べても妖怪、怪物に関するデータが集まらないので困ってます。
なんか、良いサイトとかあったら教えてくれませんか?
あと、『身体の中に色々と物を収納できる妖怪or怪物』っていますかね?もしくは、『物を視覚的に隠せる妖怪or怪物』でもいいのですが……

PS3
主要キャラ以外で人妖大募集!!



[25741] 【人妖編・第七話】『人妖都市・海鳴の休日』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/03/29 22:08
人生とはなにか、加藤虎太郎は考える
勝つ事こそが人生なのか、幸せになる事が人生なのか、それともそれ以外の何かが必要だという事が人生にとってもっとも必要なものなのだろうか―――否、断じて否である。
狭い室内で虎太郎は答えに行きつく。
畳の部屋、デジタル放送が始まっているにも関わらずブラウン管のテレビ。
スーツは箪笥なんて上等な物が無い為、壁にかけてある。
ベッドなんて上等な物もないので布団である。
冷蔵庫は冷凍室なんて上等な物がない扉が一つなタイプである。
そして、丸いちゃぶ台がぽつんと置かれ、その上には今日の朝食。
「―――いただきます」
しっかりと食に対する礼を行い、口を付ける。

本日の朝のメニューはゆで卵―――――以上。

「――――――いけると思ったんだがなぁ」
たった一つのゆで卵を大事に大事に大事に一口ずつ食べる姿は、なんとも哀愁が漂う光景なのだろうか。しかし、別に好きでこうなっているわけではない。
「やっぱりアレだよな……あそこで突っ込まなかったらなぁ……いやでも、きっともう少しやってたら……あ、やれる金も無いな」
単純に自業自得なだけ。
昨晩、給料日から十日くらい過ぎた頃だろうか。クラスも授業も順調だという事で、もしかして俺の運も急上昇なんじゃね?的な事を思ってしまったのが原因だろう。
帰り道。
夜の闇に輝く桃源郷。
「設定が良い台があるって書いてあったのになぁ……やっぱり、あれって店のデマなんだろうなぁ―――いや待て、店の方を信用していないわけじゃない、そうじゃないんだ」
ふらっと入ってしまったのだ。
中に入ればジャラジャラと銀色の球やメダルが多量に吐き出される音。勝つ者の雄叫び。負けた者の慟哭。まさに此処は勝つ者にとって、戦う者にとっての桃源郷なのだ。
それから数時間後。
虎太郎の財布の中に在住していた諭吉さんが全員台の中に引っ越してしまった。
「今月の給料が……」
カレンダーを見つめる瞳は完全に負け犬の眼。残り十五日という長い様で短い月日をじっと見つめ、それから最後の一欠けらを口の中に放り込む。
そして、今日の朝食は終わるのだった。
加藤虎太郎にとって人生とはなにか―――という問いの答えはたった一つ。
「白飯が食べたい……」
真っ白なゆで卵ではなく、ホカホカの白い米が食べれる事こそが至福だと思えた。
白飯と味噌汁と焼き魚、それが貧しい飯だとは思わない。世の中にはこんな風にゆで卵で休日一日をすごさなければいけない教師だっているのだ。それだというのに世間ではコンビニ弁当を食っているだけで貧乏人扱いするとは傲慢すぎる―――という様な勝手な社会批判をある程度にしておき、虎太郎は着がえる。
残りの財産は後わずか。
冷蔵庫の中にはビールが数本と卵が一パック。
「―――――負けたままでは、師に申し訳が立たない」
虎太郎の師匠である妖怪がいたら、そんな申し訳なんぞいらんと温厚な顔を般若に変化させる様な事を言いながら、虎太郎は戦地へと赴くのだった。
ギャンブルという戦い。
コレに負ければ後はないという、正に背水の陣だった。だが、そこで素直に節約して生活するという考えよりも、負けた分を勝って取り返すという発想に行く時点でアウトだと気づかない初老教師、加藤虎太郎。
人妖隔離都市である海鳴の休日での本日の予定はギャンブル一つだけだった―――無論、これが勝てるとか勝てないかは神のみぞ知る、という事だろう。





アリサは顰めた顔で腕を組んで仁王立ちをしていた。
場所は彼女の自室。
大きなベッドの上に並べられた色とりどりで様々な衣服。
アリサはそれをじっと見つめていた。いや、見つめていただけではない。それどころか、次第に額から脂汗が滝の様に流れ出し、最終的に膝をついて崩れ落ちた。
「き、決まらない……」
かつて、これほどまで悩み、苦悩した事はなかった。目の前に並べられた衣服は彼女のお気に入りばかりで、恐らく着れば似合うであろう代物ばかりだった。だが、自分に似合うなんて事は関係ない。
問題なのは一つだけ。

「――――友達が来る時って、何を着ればいいのよ!?」

本日のアリサの予定。
午前十時くらいに、なのはとすずかが遊びに来る。その後は外に遊びに出るという休日の子供ならなんて事のない普通な予定だろう。だが、問題なのはその普通な事をアリサはまったく【経験が無い】のだ。
勿論、知識としては知ってはいる。こんな事もあろうかと、少女マンガは大量に呼んでいるし、少年漫画も大量に呼んでいるし、アニメも沢山見ているし、ゲームも沢山しているし、ネットサーフィンだって沢山している―――しかし、それを見ても結局は知識になる程度でしかない。いわば、説明書を読んでいるだけで実際は一度も使った事が無い精密機械を扱う様なものなのだ。少なくとも、アリサにとってはそんな感じだろう。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう……あぁ、もう時間が無いわ」
時計の針は午前九時を指している。二人が来るまで残り一時間。とりあえず、着がえる服はこの一時間でなんとかするしかないだろう。だが、気づけば問題はそれだけではないのだ。
アリサは改めて自分の部屋を見る。
「…………これ、普通の女の子の部屋かしら?」
疑問というよりこれは恐怖だろう。
歳の近い子と接した事がないアリサにとって、周りがどんな風に生活してどんな趣味をしているかなど知るはずがない。彼女がクラスメイトを観察しているのはあくまで学校の中だけであり、中味までは完全に把握しているわけではない。
むしろ、まったく知らないに等しい。
それ故、彼女はこの部屋にある物が【女の子として正しい】のかがわからない。
大きな部屋である事には確かだろう。
だが、アリサが心配なのはその中身だ。
恐る恐る近寄るのは、天井からぶら下がっている蓑虫、ではなくサンドバック。中に砂やら砂鉄やら、ともかく重量にして百キロを軽く超えるサンドバックには、何度も破れて修復した後がある。
「サンドバックって……普通かしら?」
普通の女の子の部屋にはサンドバックくらいあって当たり前―――なんて話は聞いた事がない。漫画でもアニメでも、バトル漫画以外では見た事が無い。そして現実はバトル漫画ではないのだ。
「そうよね、これは駄目よね……あれ、でも私の私生活ってバトル漫画っぽいし、あってるのかしら」
首を捻って考えるが、答えなどで無い。
模範解答をするのなら、別にこれがあっても二人は「へぇ」程度の反応を示すだろう。ただし、夜な夜なこれを叩き、百キロを超えるサンドバックを真横にする程のパンチを繰り出せるという点では多少は引かれる可能性もある―――あくまで、可能性だが。
そんなサンドバックの後ろを見れば、さらなる疑問が生まれる。
ゆっくりとソレに近づき、
「これも、普通よね?」
山の様に詰まれているゲームソフトと機種。
東西南北、和洋西中、新旧のゲームには乱雑に積み重なっていた。懐かしい物はゲームウォッチ、新しいのはゲーム機を超えている最新機種。
「なのはもゲームとかやるって言ってたから、これは普通よ、普通」
だが、果たしてコレだけ持っているのは普通なのだろうか。
大量のゲームウォッチ専用箱の隣には百科事典の様なゲームソフト。信じられないかもしれないが、これも一応ゲームソフトなのだ。軽く人を殴り殺せそうな厚さを持っているがソフトなのだ。ハードではなくソフトなのだ。
「メガド○イブくらい、普通よね……今でも普通にやるし」
最早、普通という言葉が精神安定剤となり始めている事にアリサはまったく気付かない。それどころか、果たしてこのワンダー○ワンとかゲーム○アとか、PC○ンジンとかネオジオポケ○トとかは普通に今でも復旧してるわよね?とか考えだして止まらない。
「あ、こんなところにドリー○キャスト……そういえば、シー○ンに友達が出来たって言って無かったわね、起動起動っと――――って違うわよ!!」
かつての親友?に会おうとしている時点でこれは立派な現実逃避だと気づいたアリサ。このままでは駄目だ。最早何が間違っているのかまるでわからない。
「どうしよう、どうしよう……」
周りに聞けばいいのに、と思う人も多いだろう。しかし、基本的に彼女が今住んでいる屋敷にはメイドや執事なんて者は一人も居ない。
炊事家事洗濯など、一通りの事は出来るアリサにとって、そんな人間はあまり必要ではない。現に、この広い屋敷を休日に掃除するのが彼女の楽しみでもある―――そんな悲しい事は彼女の中では当然普通なのだが、関係はないだろう。
「って、こんな事している間にもう三十分しかないじゃない!!」
時間は刻一刻と迫っている。
部屋を見回し、愕然とする。
一般常識はあっても一般的な経験の無いアリサにとって、日々過ごしている自室はまさにカオス空間だった。
サンドバックに大量のゲームの他にも、大量に詰まれたプラモデル(何故か城が多い)とか漫画本とかDVDとか通販で買った健康グッズとかアサルトライフルとか脱ぎ捨てた下着とかAIB○とかフ○ービィーとか道端で拾ったエロ本とかスナック菓子の袋とかナイフとか冷蔵庫とか教科書とか鞄とかが散乱している。
そこで彼女は初めて致命的な事に気が付いた。
普通とは何か、とか。
子供らしいとは何か、とか。
そんな事を考えるよりも、友人を招く以前に誰かを部屋に入れる際に行う最低限の礼儀を怠っていた。

「部屋、片付けてない……」

時間は残り二十分。
アリサは持ち前の決断力を無駄に発揮して部屋を出て、掃除機を抱えて戻ってきた。こんな事なら誰か使用人を雇っておけばよかったと心底後悔したが後の祭り状態。
幸いな事に今日は半月の日。
人妖能力を無駄に発揮して尋常ではない速度で部屋を片付ける。
最早普通とかなんて知った事ではない。とりあえずは人が入ってこれる部屋にしなければ駄目だ。
最新型の掃除機の性能をフルに活用。埃などは昔ながらの叩きを使用して、雑巾で拭ける場所は全て拭く。
そうしている間に時間は午前十時。
玄関のチャイムが鳴り響く。
「――――――ッ!!」
決戦の時は来た。
アリサは部屋を飛び出し、廊下を弾丸の如く駆け抜け、二階から一階まで階段を使わず一足飛びで着地し、ドアに手をかける。
大きく深呼吸し、意を決して扉を開けた。
扉の向こうには私服のなのはとすずか。
笑顔で、
「アリサちゃ――――」
と、言葉に詰まった。
「い、いらっしゃい」
と言ったのに、何故か二人は完全に停止していた。
はて、どうかしたのだろうかと思い――――気づいた。
致命的なドジをやらかしたのだ。
先程まで部屋で何を着ようか迷いながら、色々と着ては脱ぎ、着ては脱ぎを繰り返していたアリサの現在の格好は、とても客を迎える態度ではなかった。
「アリサちゃん、家の中でもその格好はどうかと……」
言い難そうに指を差すなのは。
「えっと……今日は暑かったからかな?」
とフォローするすずか。
そして、自分の今の格好に気づいたアリサは、落着きを取り戻した。人間、最早打つ手なしな状況になって初めて冷静になれるのだと知った、九歳の春。

アリサ・バニングスが初めての友人を家に招いた時の恰好は――――下着姿だった。





「…………」
「…………」
「…………」
嫌な沈黙が部屋の中を支配する。
なのははどうしようかという顔ですずかを見て、私に聞かないでな顔ですずかが答える。そして下着姿から適当な普段着に着がえたアリサは、居間のソファーの上で芋虫になっていた。
「…………」
肩か小刻みに震えている後ろ姿を見る限り、多分笑いを堪えているのか泣くのを我慢しているかの二択なのだが、とりあえず最初で無い事は確かだった。
「あ、あのね、アリサちゃん」
意を決して語りかけたのはすずか。
何を言えばいいのかわからないが、何かを言わないと始まらない。そう、全ては言葉にする事から始まるのだ。
すずかは大きく息を吸い込み、満面の笑顔で、
「可愛い下着だったね!!」
追い打ちをかけた。
「ちょ、すずかちゃん、それは逆効果!アリサちゃん、なんか痙攣しているよ!!」
「え?あれ?」
心のダメージは肉体に及ぼすダメージよりも痛いと知ったアリサ。なんかもう、色々と立ち直れなくなりそうだった。
「今のは無し、今のは無しだよ!」
最初の軽いジャブでまさかのダウンを取ってしまったすずか。今度は失敗しない様に、言葉を慎重に選んで、
「犬さんパンツは似合ってると思うよ?」
やっぱり追い打ちをかけた。
「すずかちゃん!?」
「え、また違った?」
「全然違うよ!ほら、アリサちゃんの周囲に暗い影が……って待ってアリサちゃん、その何処から出したかわからないロープを天井に引っかけないで」
「いいのよ、なのは……私なんて、子供の癖に露出狂の変態なのよ」
「誰もそこまで言ってないよ!!自信を持って強く生きようよ!!まずは自分を認めて、そこから新しい自分を始めるべきだよ!!」
なんとか励まし、首吊りを防ごうとするなのはだが、
「――――アンタも私の事を変態だと思ってたのね」
確かに、あの言葉を聞く限りではしっかりと認めている風に聞こえるだろう。
「あれ?」
「なのはちゃんも人の事言えないね。うふふ、私と同じだね」
「嬉しそうに笑ってないで、すずかちゃんも止めて!!」
しっちゃかめっちゃかな状況は、それから十分ほど続き、ようやくアリサが冷静さを取り戻して収集された。




とりあえず、なんかこの家にいるのは色々と不味い気がしたなのはの提案によって予定を繰り上げて外に出る事になった。
「それで、何処に行くのよ」
さっきまでの醜態なんてありません、幻です、思い出すな、忘れろ、じゃないと殺すぞ的な目をしながら、アリサは尋ねる。
なのはは若干その眼に怯えながら、
「そ、そうだね……ゲームセンターとかどうかな?昨日ね、可愛いぬいぐるみがクレーンゲームに入荷されてたの」
可愛いは正義というのは誰が言ったかは知らないが、可愛いという単語にアリサも少しだけ惹かれたのだろう、
「……そうね、ゲームセンターに行きましょうか」
さっさと歩きだしてしまった。
「私、ゲームセンターって初めてなんだ」
すずかはすずかで楽しそうだった。
「なにアンタ、ゲームセンターに行った事が無いわけ?」
「うん、あんまり外に出て遊ぶ事がなかったから……だから、凄く楽しみ」
そして、三人はゲームセンターに到着。
このゲームセンターはこの辺りでは一番大きな場所で、クレーンゲームやメダルゲームと言った万人受けするゲームが多くある。
「こんな場所があったのね」
「アリサちゃんは此処は初めて?」
「えぇ。私はあんまりクレーンゲームとかしないから。主に行くのは駅前の小さな所よ」
「へぇ、そうなんだ。あの辺りって格闘ゲームとかシューティングゲームとか多いよね、筺体のやつ。もしかして、アリサちゃんってそういうゲームとか好きなの?」
「対戦ゲームはそれほど好きじゃないわね……まぁ、暇つぶし位にはするけどね」
「それじゃ、シューティングゲームとか?」
アリサは首を横に振る。
「それ以外だと……ガンシューティングとかクイズゲームとか、音楽ゲームとかあるから……う~ん、何が得意なの?」
「苦手なゲームなんて無いわよ。でも、一番やってたのはパズルゲームね」
「あ、頭を使う奴だね」
「違うわ。一人で出来る奴よ……ほら、友達いなかったし」
その瞬間、なのはの脳内で薄暗いゲームセンターの隅に置かれたテ○リスを黙々と一人でやり続けるアリサの姿が浮かんだ。
「カウンターで表示できる最高得点、何回くらいやったかなぁ……」
哀愁漂う顔で空を見上げるアリサ。その眼に微かな小さな滴があった。
「無し!!今の無しで方向でお願いします!!」
「そう?それじゃさっさと中に入りましょう。さっきからすずかがクレーンゲームに連コインしてボタンを壊しそうな勢いで連打してるわ」
「うわっ!すずかちゃん、それやり方が違うから!!」



クレーンゲームで人通り遊べば、戦利品はそれなりの量になっていた。ゲームセンターが無料で配布している袋には大量のぬいぐるみが収まっていた。
「大量だね」
「そうだね。クレーンゲームって面白いね」
「面白いのは良いけど、アンタ等どんだけつぎ込んでるのよ、特にすずか」
少なく見ても千円札が六枚以上は両替機に消えていた気がした。
「その……つい夢中になってて」
「そういうお金の使い方してたら将来に確実に浪費家になるわよ」
初心者ではしょうがないだろうと思うのだが、お金はキチンと計画的に使うべきだ。
「その反対に、なのは……アンタのアレはどうかと思うけど?」
「ふぇ?」
なのはの両手には大量のぬいぐるみ。数は十個以上はあるだろう。その数を彼女はたった千円でゲットしていた。
「ここのクレーンの弱さで、なんであんな神業じみた事が出来るのか、私は凄く疑問に思うわ」
「そうかな?この程度のクレーンの強さなら簡単だよ」
弱いクレーンに対して強さという言葉を使う当たり、この少女がどれだけ玄人なのか良くわかる。まさか、こんあ近くにあんな神業を使う者がいるとは思ってもみなかった。
「で、次は何にする?」
「そうだね……あ、あっちの方に新しく格闘ゲームのコーナーができたみたいだから、そこに行こうよ」
「私、そういうゲームとはやった事がないなぁ」
「それじゃ、アンタはどんなのならやった事があるのよ?」
すずかは顎に指を当てて考え、
「マインスイーパーとかソリティアとか……あとはルービックキュウブにジグソーパズルとかかな?」
「ねぇ、アリサちゃん。ルービックキューブとジグソーパズルってゲームなのかな?」
「ゲームと言えばゲームね。ちなみに、私はプラモデルを何分で組み立てれるかっていうゲームを一時期ずっとやってたわ。マスターグレイトなら十分で組み立てられるわね」
友達がいなかった時代の黒歴史である。今になって思えば、自分はどれだけ一人遊びで時間を潰してきたのだろうかと頭が痛くなってきた。
「なんか、二人とも色々と間違ってる気がするの」
「そうかもしれないけど、それ以外に知らなかったからね」
これ以上話すと気分が最低になりそうなので、さっさとコーナーを移動する事にした。格闘ゲームのコーナーは休日という事で見事なまでに込んでいた。
「わぁ、凄い人だね」
「暇人が多いのね。私達が言えた事じゃないけど」
そう言ってアリサは相手いる筺体を見つけるとさっさと座り、百円を投入。
「とりあえず、乱入してボコるから、空いたらどっちか座りなさい」
「アリサちゃん、なんか男前だね」
すずかが目をキラキラさせながら言うのは良いのだが、向こう側でプレイしている赤の他人がやってやるぜ、な反応を示していた。
「一分でケリをつけるわ」
予告までするアリサは、よっぽどこのゲームに自信があるのだろう。
「凄い自信だね……対人戦なのにその余裕」
「対人戦は初めてね。基本的には乱入されたら止めるし」
「へ?止めちゃうの?」
アリサは頷き、
「別に人と戦いたくてやってるわけじゃないし、巧くなりたいわけでもないわ。ただの暇つぶし。相手はコンピューターで十分よ―――その方が遊ぶだけなら効率的だからね」
ゲームの世界でまで他人と争う気はない、それがアリサの想い。故に平静を保っているが初めての対人戦に内心ではドキドキしていた。
後ろで見守るなのはとすずか。
そして試合が開始された―――――そして終了。
「――――す、すごい……」
「ねぇ、なのはちゃん。私はよくわからなかったんだけど、どっちが勝ったの?というより、一方的な虐殺にしか見えなかったんだけど」
「虐殺してたのがアリサちゃんだよ。それも凄いハメ技で相手に何もさせずに勝っちゃった」
予告通りの一分KOだった。
筺体の向こうで相手が信じられないという顔で台を立って行った。その際、対戦相手がアリサの様な子供という事に眼を見開き、崩れ落ちていた。
「まぁ、こんなもんね」
「こんなもんっていうか……勝てる気しないよ、これじゃ」
「当然ね……私にこの格闘ゲームで勝とうなんて百年早いのよ……伊達に最高難易度でノーコンテニューしてないわ――――まぁ、一人でだけど。オンラインすらやった事ないけどさ」
そう言った瞬間、アリサの顔に影が堕ちる。
「ふふふ、所詮は現実でもネットでも何処でも孤独な私よ……あ、ちょっと死にたくなった」
「っていうか、なんでアリサちゃんはさっきから自分でトラウマスイッチを勝手に発動させるの?」
とか言っている間に、画面には新たなる乱入者の文字が。どうやら、今のプレイを見てゲーマー達の魂に火を付けてしまったらしい。
「もう、アンタが変な事を言ってるから乱入されたじゃない」
「私のせいじゃないと思うけど……向こう側、凄い人が並んでるよ」
少なく見ても十人はいる。という事は、あの十人を撃破しなければ向かいの台に座る事が出来ないという事になる。
「一人当たり一分ってところかしら……なのは、すずか。悪いけど十分くらいその辺をブラブラしててくれない」
「あ、勝つ気なんだね、全員に」
「当然。じゃないと、アンタ等と遊べないじゃない」
何故か眼には炎の様な真っ赤な瞳。こんな下らない事で人妖能力を爆発させる必要は限りなく皆無なのだが、ソレに対して突っ込む者は誰もいなかった。
「……すずかちゃん、あっちでメダルゲームで遊ぼっか」
「え、アリサちゃんの応援しなくていいの?」
必要はないと首を振る。
恐らく、アリサはわかっていなかったのだろう。あの十人は少なく見ても十人であり、一人が負ければ九人になるかもしれないが、その後にまた追加されるという可能性もあるのだ。とりあえず、アリサの背後には人の群れが出来ている。
「多分、お昼頃になったら迎えに来ればいいと思うよ」
「まだ一時間以上あるね」
「一時間経って迎えに来て、アリサちゃんが勝ってたら……私、アリサちゃんに勝てる気しないよ」
そう言って、なのははすずかを連れてメダルゲームのコーナーに向かって行った。



所変わって月村家。
月村家当主である月村忍は虎太郎に完膚なきまでに敗れ去った防衛システムの改良に励んでいた。
「やっぱり先生には鉄球よりは銃弾の方がいいわね。大きさよりも質と量よ、量。米軍から安値で買い上げたライフルを改良して、ついでに対戦車砲とかも良いかもね」
ウキウキしながらキーボードを神速で打ち込んでいる姿を見ながら、メイドは虎太郎が次回来た時の事を本気で心配した。
勝っても負けても、またあの庭を直す必要があるだろう、と。
そんなメイドの心配なんぞ知ってか知らずか、恐らくは知っていて放置している忍の視線が注がれた画面に新しいウィンドウが表示される。
「あれ、メールだ」
メールの着信を知らせるウィンドウを開くと、そこには最近知り合ったアメリカの大学生からだった。
「忍様、その方は確か……」
「ハンドルネームは【チャペック】。向こうのお偉い大学に在学している天才君よ。システムのヴァージョンアップの為に意見を聞いてたんだけど――――おぉ、そういう方法がありますか。流石は自称マッドサイエンティストの卵、やる事がエグイわねぇ」
誉めているのか貶しているのか、恐らくは両方なのであろう事を言いながら、忍はメールに送付されていたデータを開き、それをシステム構築の材料に放り込む。
「チャペック様も、忍様の作ったマシーンに興味があるようですね」
「そうね。あの人型ロボットのデータの代わりに、システム改良の意見を貰ってる感じだしね」
「…………あの、忍様。お言葉を返すようでも申し訳ないのですが」
メイドが次の言葉を繋ぐ前に忍が口を開く。
「アナタが何を言いたいのかくらいわかってるわよ、ファリン」
あの人型はどこからどう見ても兵器。なら、それに興味があるとするのならば、兵器に興味があるという事であり、何らかに応用したいという事だろう。
「なら、どうしてそんなデータを提供するのですか?いくら防衛システムを改良する為とはいえ、この様な方法を取らなくとも」
「まぁ、そうなんだけどね……」
「それに、防衛システムはあくまで仮初です。この月村家の本当の防衛システムは私とお姉さまですよ」
だからなんだけどね、と忍は言う。
「え?」
「だからなのよ、ファリン。私はファリンとノエルの事をそういう目では見てないのよ。確かにアンタ達は強いけど、強いからこの家にいるわけじゃない。強いから私やすずかの家族であるわけじゃない……わかる?」
忍はファリンに眼は向けず、画面だけをずっと凝視し続ける。
「色々あって、私やアナタ達は変わったわ。特に、アナタはね」
「それは……それが、必要だからと感じたからです」
冷たい声でファリンは言うが、表情は辛い事を我慢している様な仮面に見えた。
「多分、すずかは今のアナタしか知らないわ。アナタがそういう喋り方、そういう仕草をし始めたのは、バニングスとの冷戦の頃だからすずかは知らない。だからこそ、私は――――」
「忍様」
今度は、ファリンが忍の言葉を遮る。
「これは私が決めた事です……私が姉さんと話し合って決めた事です。だから、忍様にもすずか様にも」
「どうこう言われる筋合いは無いって事かしら?」
椅子を回し、忍はファリンを見る。
何を言っても変わらない、変わる気はないという確固たる意志がそこにある。
なら、無駄なのかもしれない――――なんて思うわけがない。
忍は小さく微笑み、
「――――世界には夢も希望もない」
キーボードを叩き、メールフォルダを開く。
「それが前までの私の信条って感じだったけど……あの人のせいでそれが壊されちゃったわ。そんな時にこのチャペックに出会った。もちろん、顔も性別もわからないけどね」
クリックして開かれたファイルには、忍が初めてチャペックとメールのやり取りをした時の物だった。
「多分、昔の私ならこんな話を聞かされても、鼻で嗤ってたでしょうね」
そこには夢が書かれていた。
ロボットに託した己の夢。
夢というには些か現実的な文章だが、それでも夢と希望だけは確かに感じられる。
その文章を見ていたファリンが、ある一文を読み上げる。
「ロボットと、人が友人になれる……世界」
「良い大人、偉い大学に行ってるのに、こんな事を平気で書くのよ、このチャペックって奴はね――――でも、その夢には私も同意する事が出来る。ううん、同意したいと思った」
忍はこの文章を読んだからこそ、自宅にあるロボットのデータを送った。もちろん、これがフェイクである可能性は高い。信じる方が馬鹿を見るなんて事はざらにあるだろう。しかし、そんな可能性の話は関係無しに思ってしまったのだ。
「だってさ、こんなロマンチックな事を書かれたら―――信じたいと思っちゃうじゃない?」
「…………」
ファリンは黙り込むが、先程までの堅い表情はない。
「ねぇ、ファリン。アナタはチャペックの夢をどう思う?」
「―――――絵空事ですね」
冷たく切り裂き、
「ですが――――――とっても素敵だと思います」
そして抱きしめる。
「私や姉さんみたいな【物】に預ける夢なんて、絵空事以外の何物でもないはずです……でも、忍様の言う様に、鼻で嗤うなんて事をするよりは信じてみたいと思ってしまいました」
「でしょう?」
夢は夢でしかない。希望は希望でしかない。だが、夢と希望なんて甘い言葉を信じ、馬鹿みたいに信じるモノが出来たのなら、それは素晴らしい事だと思う。
人じゃない己もそう思えるし、いつかロボットだってそう思える気がする。
人とロボットの違い。
生きる者と機械の違い。
「私も一枚噛ませてもらう事にしたのよ、馬鹿な夢って奴にさ」
違いなど、あるのだろうか。
大きく見れば同じ。
小さく見れば違う。
真ん中で見るのは―――人それぞれ。
「ファリン……」
忍はファリンに手を差しだす。
「私は何時か、このくだらない闘争を終わらせる。私だけじゃ無理だし、デビット叔父様だけでも無理だと思う……でも、いつかきっと終わらせられる日は来ると思うも。だからね、そんな日が来たら―――」
ファリンの手が、冷たい手がそっと忍の手を掴む。
「そんな日が来たら……私もきっと昔に戻っちゃいますね」
そう言ったファリンの顔は、久しく見ていない―――あの頃の笑顔があった。







「おやおや、こんな休日にも仕事とはずいぶんと仕事熱心じゃのう」
休日の学校で、校長は見慣れた男に声をかけた。
男は壊れた壁を直す為に派遣された建設会社の社員であり、平日休日問わず、遅くまで作業している仕事熱心な印象を校長は持っていた。
「そういう校長だって、休日に出勤ですか?」
「それ以外にやる事がなくてのう……どうじゃ、これから校長室で茶でも飲まんか?」
「そうしたいのは山々なんですがね、予定よりも作業が進まなくてな。このままじゃ、期限まで終わらない可能性もあるんだ」
教室をぶち抜いて出来た穴の殆どは既に修復されている。残りは二つという所だろう。だが、予定された作業日数から換算すれば作業スピードは若干遅い。
「そりゃあれじゃろ、お前さんが一人で作業しているのが原因じゃないのか?」
「こういう仕事はついでですからね。殆どの従業員はこの間倒壊した建設途中のビルの修復に当たってますよ」
「倒壊したビルというと……あぁ、あれか」
「えぇ、あれです」
建設中のビルが一夜にして倒壊したという事件は、一時期世間を騒がせた。原因は不明だが、建設を頼んだ商社に対する嫌がらせ行為にしては派手すぎるし、作業の手抜きという点から見れば、男の務める会社は断固としてあり得ないと主張している。
「どこの馬鹿がやったのか知りませんがね。調べて見ると、鋭い刃物で鉄骨を切断して倒壊させたらしいんですよ」
「ほぅ、というと人妖の仕業というわけですかな……」
同じ人妖である校長は心が痛む。
こういう行為をする結果、世間から人妖に対する弾圧は強くなる。その弾圧がいずれ自分の生徒達に及ぶ可能性とて否定はできない。
「なんとも言えない事件ですなぁ……アナタの会社も大変でしょうに」
「それがどうでもないですよ、これがね。ビルの再建築工事をする際に、この街のバニングスっていう所から費用の立て替えをするっていう申し出があってね。そのおかげで我が社の被害は評判を下げただけに住みましたよ。ビルの建築工事も、そのまま我が社で行うって事になりましたから……どうにか食いつなぐ事が出来そうです」
「そうかい、それは良かった」
「まったくです」
壁に塗料を塗り終えた所で男は休憩に入るのだろう。鞄の中から弁当箱を取り出す。弁当箱の中には色とりどりの食材が敷き詰められ、それと一緒に白いおにぎりが三つ。
「これは美味そうですね……もしや、奥さんの手作りですかな?」
男はおにぎりに食べながら首を横に振る。
「そうやって誤解する連中が多くて困りますよ、実際」
「じゃが、アンタが作ったと言うには……些か女っぽいじゃろ」
どうやら相手が誰か聞き出すまで逃がさないらしい。男は半分諦め、半分は―――小さな事を誇らしげに言う様に、
「昔の上司ですよ。色々あって同じ屋根の下に暮らしてますが……校長の思う様な事はまったくありませんよ」
「そりゃあれじゃな。アンタが奥手なだけじゃろ?向こうはそれだけじゃ満足してないかもしれんぞ」
「俺が奥手に見えますか?」
そう言われると、校長は否定するしかない。肉食やら草食やら、そんな話では済まない様な屈強な体つきをしている男が、女一人に手も出せない軟弱者だとはとても思えない。
「あっちは元部下。俺は元上司。男と女の関係になる事なんてないだろうさ……」
だが、本当にそうなのだろうかと校長は思う。他人の生活にどうこう口を出す気はあまりないが、
「――――長生きするとな、たまにわかってしまう事もあるんじゃよ」
校長は男の片方だけの眼を、両の眼で見据える。
「相手が嘘をついている事もわかってしまうし―――相手がそれを出来ない何かを抱いている事もな」
「…………」
「アンタのそれは嘘とは思えない。じゃから、その人に手を出せない何かがある様な気がしてならんのじゃよ。それがどういう理由かはわからん。もしかしたらこんな老いぼれが口を出していい事ではないかもしれんしな」
「…………」
「しかしな、若造」
校長はしわだらけの顔でニカッと笑う。
「後悔だけはするなよ。出来ない事を出来るのは素晴らしいが、誰にでも出来る事じゃない。だが、その反対に出来る事をしないのは……悲しくもあり、苦しくもあり、そして間抜け過ぎると思うんじゃ」
「――――若造と呼ばれる歳でもないんだがな」
「ワシよりも年下なら、誰でも若造じゃい。アンタがその見かけでワシよりも年上だと言うのなら頭を下げよう。ワシが間違った事を言ったのなら―――年寄りの頑固で通させてもらうさ」
男はしばし考え、息を吐く。
「校長。校長って奴はそんなにお節介が好きなのかい?」
「お節介が嫌いなら教師なんぞしとらんよ。他人に興味が無い者に教師は勤まらん。それと同時に他人を労われん者も同様。じゃから聖職者なんて肩書が付けられるんじゃが、ワシはそんな肩書が欲しくは無いのう」
「教師は聖職者じゃないのか?」
「聖職者など、所詮は周りが勝手に付けた肩書じゃ。教師とて人間。人間であるが故に間違いも犯すし、お節介にもなる。それとも何かい?聖職者でなければ教師じゃないと、アンタは思うのかい?」
男は違うと断言する。
「先生と呼ばれる奴等が聖職者なら、俺は絶対に違うだろうな……一時とはいえ、そう呼ばれていたが、聖職者なんてモンからは一番遠い事をしていた」
「じゃろう?なら聖職者なんてモンは要らんさ。人間が人に物を教える。聖職者は人に物を押し付ける―――ワシの勝手の思いこみじゃがな」
とんでもない事を言い出す爺だと男は思った。だが、それも悪くないと思う。そういう人間が物を教える立場になってるのなら、間違いが起こっても間違いでは終わらせないだろう。
そんな風に思えたからこそ、不意に家に帰った時の事を思う。
元上司は、彼女は今頃家庭教師としてあの子の家に行っているだろう。だから先に家に帰るのは自分だ。なら、今日は自分が飯を作ってみるもの良いかもしれない。
そして、こう言うのだ。
何時も美味い弁当を食わせてくれて、ありがとう――――と。
彼女はどんな顔をするのかはわからないが、多分悪い顔はしないだろう。
そして、そんな顔をする彼女の事を自分は――――そういう関係も悪くないと想っている。




気づけば夕暮れ。
終われば楽しい時間というものは、光陰の矢の如く過ぎ去っていくものなのだと知る。それほど楽しく、嬉しく、かけがえの無い時間だと知る事が出来た事は幸運以外の何物でもないだろう。
結局、格闘ゲームはなのはの想像した通りになり、ゲームセンター開店以来の勝ちぬき数を残し、対戦をしないまま終わりを迎えた。その後は適当に色々な店に入り、何かを買ったり食べたりして過ごすというなんて事のない時間が過ぎた。
だが、楽しかったと心の底から思えた。
なのはもすずかも、そしてアリサも、帰路を歩く足取りは軽やかで、まだ遊び足りないと言う様だった。それでも今日はもう終わり。明日は学校があるし、これ以上遊んでいたら親に迷惑をかけてしまう。
アリサは基本的に一人だが、なのはにもすずかにも待っている家族がいる。なら、今日はこの辺でお開きにするのが正解だろう。
ぬいぐるみの詰まった袋を両手に抱えながら、なのはは手を振って別れる。
「それじゃ、またね、アリサちゃん。すずかちゃん」
「気を付けて帰りなさいよ」
「また明日、学校でね」
なのはと別れ、途中まで帰り道が一緒なアリサとすずかは同じ歩幅で、速度で歩く。ゆっくりと歩き、他愛も無い事を話して笑う。
当たり前な事なのだろう。
誰にでもある、当たり前すぎる事なのに二人はそれを知らなかった。一人は諦め、一人は知らないままで過ごそうと決め、結果的に出来る筈の事をしなかった。
しかし、今は違う。
「少し持つ?」
すずかの両手には戦利品のぬいぐるみと、書店で買いこんだ大量の本がある。両方を持つには些か足取りがおぼつかない様子だった。
「大丈夫だよ。でも、少し買い過ぎちゃったかな」
「買い過ぎよ、十分に……まぁ、アンタが本が好きなのは知ってるけど」
「アリサちゃんは本とか読まないの?」
「読むわよ」
基本的に漫画なのだが、すずかの買った本の殆どは童話や小説という類だ。しかも、自分の趣味ではないメルヘンなものばかり。
「それじゃ、面白い本があったら貸してあげるよ」
楽しそうに言ってくれるのは嬉しいのだが、正直な話、微妙だ。嬉しそうに進めてくるすずかを想像し、趣味が合わないから結構だとも言えない。
趣味が同じではなく、人それぞれが違うというのに友人でいられるものなのだろうかと、少しだけ不安になるが―――多分、それは大した事では無いのだろう。
何となくわかった。
朝、何を着て出迎えるとか、部屋の中の物がどうだとか、そんな事ばかりを考えていた自分が馬鹿らしいと、今なら笑える。
「そうね……楽しみにしておくわ」
例え、相手がどういう相手だろうが、どういう趣味を持とうが、今日という時間の中で苦痛だと想った事は一度だって無い。それだけ楽しかったという事であり、それだけすずかやなのはと共に過ごす時間を大事に出来たという事になるのだろう。
大切な時間。誰かと過ごす大切な時間。失ったと勝手に思いこんでいただけの、手を伸ばせばすぐにどうにかなったモノが此処にある。それを手に入れるまで三年もかかってしまった。三年、三年だ。短いとは思えない。長いとしか思えない。空白としか言えない三年は、この関係が最初の時から手に入るとは思っていなかったから失った。
「まったく、無駄な時間を過ごしたわ」
「え?」
きょとんとするすずかに、アリサは苦笑した顔で答える。
「三年、三年よ?私もアンタも、あの子と友達になるまで三年もかかったなんて、間抜けだと思わない?」
「う~ん…………うん、そうかもね」
すずかも頷く。
「もっと早く出会えたら、もっと楽しかったのかもしれない」
「今日みたいな事を、三年前から出来てたかもしれない」
三年前から三年後――それは今。
「アリサちゃん、今日は楽しかった?」
「楽しかったわよ。多分、三年間で一番楽しかったわね」
繰り返される一年を三回、その重みを今になって噛みしめる。
「あ~あ、昔に戻れるなら戻りたいわね」
「そうだね。でも、そうしたら私達はもう一回喧嘩しないと駄目だね」
「それは勘弁してほしいわ。私、こう見て非暴力主義なのよ」
「それ、嘘だよ」
「うわぁ、速攻で否定したわね」
あの時の事は互いの中で何らかの決着が付いている。
胴切という怪物―――怪物になったアンネという少女の事件の際に、あの時の事は謝った。そして、謝った上でもう一度始められれば良いと願った。
理由もわからず、記憶も曖昧なまま殺し合いに似た喧嘩をした一年の頃。それは曖昧なままにしてはいけない事なのかもしれない。本当の真実というものを探す事が必要なのかもしれないが、今はどうでもいいとさえ思えた。
ただ、こうして隣を歩いていられる。
ただ、こうして冗談を言いながら話していられる。
ただ、友達というなんて事のない、大切な関係で在り続けようと想えれば、それで十分だった。
過去は過去、今は今。
あの日に出会った三人は、漸く好ましい形になったというだけ。ただ、それに少しだけ時間がかかり、少しだけ人とは違う大げさな事があり―――少しだけ、人妖だったという事なのだろう。
不意に思い出す。
アリサが虎太郎と話した会話。
この街が好きかどうか。わからないから好きになる。嫌いだから好きになる。虎太郎は今、この街を好きになっているかはわからない。あれだけ大口を叩いたのだ、アリサがどう思おうと勝手に好きになっているだろう。
「ねぇ、すずか……アンタは、この街の事……好き?」
「好きだよ」
即答だった。
「大好き。すごく大好き」
夕焼けに染まる街が、ゆっくりと薄暗くなっていく。太陽が沈む、星と月の時間が訪れる。それからまた太陽が上がり、もう一度沈み、また上がる。
「この街には私の家族がいて、クラスメイトがいて、先生がいて、なのはちゃんがいて、アリサちゃんがいる……こんなに素敵な人達がいるのに嫌いになるわけないじゃない」
すずかの言う素敵な人達に自分の名前が挙がっている事に、なんとなく恥ずかしさが込み上げ、自然と顔が朱色に染まる。
「ば、馬鹿。そんな恥ずかしい事を平然と言わないの」
「恥ずかしくはないよ。なんなら、これから大通りに出て今の台詞を叫んでも良いよ?」
「へぇ、そうなんだ。それじゃ、行きましょうか」
すずかの手を引いて大通りに戻ろうとすると、流石にすずかも抵抗する。軽い冗談のつもりだったのだが、アリサの眼が本気でかなり焦っている。冗談が言える様になったとは言え、中味は恥ずかしがり屋の少女である事には変わりは無い。
「ちょ、ちょっと待って!?」
「待たないわ。ほら、さっさと行くわよ。アンタが街の中心で恥ずかしい台詞を言う場面を録画して、なのはに見せてあげるわ」
「勘弁してよぅ……」
変わっている様に変わっていない。変わる事は素晴らしい事かもしれない。だが、変わっていないからこそ、素晴らしいモノだってあるはずだ。
優しい心は一度は変わった。だが、変わったつもりで本当は何も変わっていない。ただ、優しい心を隠しただけ。その本質は何も変わっていない。
強い心は別の想いに変わった。だが、それは結局は最初から最後まで変わらなかった。ただ、それを受け入れる事ができなくて、変わったつもりになっていただけ。
多分、今の自分ならはっきりと言えるだろう。

アリサ・バニングスは、この街が好きだ。

虎太郎と初めてあった時、作文を白紙で出した。あの時は本気でこの街に夢も希望も無く、この街以上に最低な場所なんてあるはずがないと想っていた。想っていたはずだった。想っていようとしただけだった。
自分はすずかと同じで、この街には父がいて、クラスメイトがいて、なのはとすずかがいて―――ついでに、煙草臭い先生がいる。
大声で好きじゃないとは死んでも言えない。でも、照れくさいから嫌いじゃないとは言うだろう。その位はきっと許してくれるはずだ。
「しょうがないわね。まぁ、いいわ。その辺の事は明日学校で追及させてもらうからね」
「え、逃がしてくれないの?」
「当たり前じゃない」
「うぅ、アリサちゃんが苛める……虎太郎先生に言いつけちゃうよ?」
「虎太郎が怖くて意地悪ができるかっての」
動き出した歯車は止まらない。
止まろうとする事があっても、止まらせはしない。
一つの歯車が止まろうとしても、別の歯車が回っている。その歯車が動き続ける限り、他の歯車も休む事なく動き続ける。
歯車は自分であり、誰か。
誰かの歯車が止まろうとするのなら、自分という歯車が動かす。
自分の歯車が止まりそうな時は、誰かが動いて歯車を動かす。
そうして全て噛み合って動き続ける、一つの大きなカラクリが―――自分達の住む世界。
「それじゃ、私はこっちだから」
「うん、また明日ね」
「気を付けて帰りなさいよ」
今日は別れて、明日が始まる。
今日のさよならは、また明日という約束。
今日いう日より、明日が更に素晴らしい日で在る事を願いながら、別れの挨拶を。
「バイバイ、アリサちゃん」
「じゃあね、すずか」
そうやって、少女達の休日、海鳴という街の休日は終わりを告げる。








【人妖編第七話】『人妖都市・海鳴の休日』













そして、【魔女】が歯車を狂わせる。



幸福な日々は終わりを告げる。幸福な日々は終わりを告げろ。幸福な日々など必要がない。幸福な日々があるから終わりが来ない。幸福な日々が邪魔して不幸にならない、幸福な日々が続くから―――我らが【不死の王‐ノーライフキング‐】が目覚めない。
太陽が沈み、星と月の世界が訪れる。しかし、それと同時に闇の世界が目を覚ます。星の光は闇に飲まれ、月の光は闇に消され、静寂という深淵が口を開ける。
深淵の闇の中に沈むのは、生きる者の当然の義務。
生れた者は皆が死んでいく。
死ぬべき者も死なない者も、久しく全てが死に向かう。
【魔女】は嗤う。
ケタケタと嗤う。
馬鹿げたガキのママゴトに大笑いし、唾を吐いて、幸福をかみ砕く。
今宵は半月。
月は歪んだ笑みの様に歪み壊れ、その光を持って狂わせる。
しかし、光だけでは足りない。月の光は人を狂わせる事が可能だが、それでは駄目だ。そんなモノではきっとどうにもならない。
狂わせるのだ――――壊す為に。
狂わせるのだ――――歪める為に。
狂わせるのだ――――目覚めさせる為に。
狂わせるのだ――――幻想を砕き、真実という絶望を抱かせ、再開する。
さぁ始めよう。
再開を始めよう。

【三年前に失敗した事を再開しよう】

あの日、あの時、あの瞬間。本来ならアレで目覚めるはずの力は不発に終わった。それは確実にあの人狼のせいだろう。アレが下手な手加減をしなければ、アレが下手に強力でなければ完全に目覚めたはずだった。
だが、アレは【魔女】の失態だと素直に認めよう。
アレは単に運が悪かっただけに過ぎない。目覚めるにはアレでは足りない事はこの三年で学んだ。だからこそ、今度は的確に正確に最高に全てを進め、【魔女】は力を手に入れる。
その為に、狂わせるのだ。
【魔女】の計画を狂わせた、邪魔者を消す事から始めよう。邪魔者を消して再開を始めよう。
狂う。
狂う。
狂う。
狂う。
狂う。



「―――――さぁ、続きを再開しましょうか……月村さん、バニングスさん」



狂い、殺し合え。



「――――――――ん?」
アリサは脚を止めた。
何か奇妙な感覚を感じたのだ。それは嗅覚を刺激する様な感じでもあり、背筋を走る悪寒かもしれない。確かに感じ、明確に感じた。
振りかえり、視界に誰も写っていない事を確認して―――舌打ちする。
「今日はいい気分だってのに、何処のどいつよ」
殺意を感じだ。
黒い殺意でも冷たい殺意でもない、冷たい殺意。何もなく、人形が出す殺意という奇妙な感覚。違和感にまみれ、嫌悪感を抱かせる。人が抱く殺意よりもなお悪い、最低で最悪な殺意だった。
しかも、それと同時に奇妙な匂いを嗅ぎとる事ができた。
何の匂いかはわからない。だが、自分はこの匂いを一度嗅いだ事がある。どこで嗅いだのかは思い出せないが―――瞬間的に口と鼻を塞ぐ。
「……この匂い」
知っている。
どうしてかわからないが知っている。
この匂いは記憶として残らなくても、身体が覚えている。
嗅いではならない匂い。嗅いだら自分の中の何かを壊す毒薬。
普段なら嗅いでから判断する所だったが、今日は完全な満月ではない為、嗅ぎとるという行為よりも感情的がそれを拒否した。恐らく、これが完全状態であったのならあまりにも敏感になっていた鼻は、一息吸うだけで思考が【魅入られていた】だろう。
「何なのよ、この悪趣味なのは……!!」
常人よりも多い戦闘経験。それはこの三年間で爆発的に上がった。だからこそ、その経験が言っている。この匂いは自分を惑わし、全てを奪う匂いなのだと。
それが功を奏したのだろう。
三年という月日は決して無駄ではなかった。
もしかしたら、この時の為に三年間があったのかもしれない。
ズンッと頭が重くなる。
微かだが匂いを嗅いでしまった事が原因だろう。
気づけば周囲には奇妙な色の霧が発生していた。
血の様に紅い。
紅桜が舞い散る夜の世界。
その中に佇むのは人ではなく妖。

――――――少女が立っていた。

少女の形をした人外が立っていた。
少女の形をした化物が立っていた。
少女の形をした怪物が立っていた。
見慣れた姿で、見慣れた顔で、見慣れた髪で、見慣れた背丈で、見慣れた身体で―――先程別れた時と同じ恰好で、金色の瞳を輝かせた怪物が立っていた。
ゾッとした。
その存在に恐怖する。
その存在自体に恐怖するのではなく、その存在が自分に対して牙を向くのだと本能が悟ったが故の、恐怖した。
身体は無意識に力を宿す。
この霧に本能が引っ張られ、思考が獰猛な狼の様に変貌しそうになる。それを理性で押し留め、自我を保つ。
これも三年間で得た事だ。
やはり、この三年間は意味があったらしい。
しかし、こんな形でその成果を確認する事になるなんて、最低の一言だ。
事態は飲みこめない。だが、この状況がどんな状況なのかという事だけは理解できた。
アリサは乱暴に頭を掻き、
「あぁもうっ……!!だから気を付けて帰れって言ったのよ、私は」
相手に言うのではなく、自分に対して苛立つ様に毒吐き、
「―――――――で、冗談ならさっさと冗談だって言いなさいよ」
【魔女】は嗤う――――金色の瞳は虚ろの瞳。
「言いなさいよ、冗談だって……」
【魔女】は囁く――――金色の瞳は人でも人妖でもなく、妖の瞳。
「お願いだから……冗談だって言って……」
【魔女】は甘く命じる―――冷たい黄金。無機質な金。眩しい金色。
「……お願いだから……お願い」
怪物は、
化物は、
妖は、



――――――月村すずかは、吠えた



「■■■■■■■――――――ッ!!!!」
地面が爆発する。
距離は三十メートルは離れていただろう。だが、その距離は一瞬で零。
瞬き一つする間に、アリサの視界に狂った金色の瞳が目の前に映し出される。
「――――――チッ!」
繰り出される暴虐の一撃。我武者羅に、適当に振り回した様に動物的な一撃は人間の、少女の腕の振りでは収まらない程の速度と威力を持っていた。
ドガンッと背後にあった何かが吹き飛んだ。それが何かを確認する前に、アリサは変貌したすずかを飛び越し、背後に降り立つ。そして改めてすずかが何を吹き飛ばしたのかを見た。
「おいおい……」
呆れてしまった。
彼女が吹き飛ばしたのは―――地面だ。
地面に五つの巨大な爪痕を刻みつけ、コンクリートの地面を吹き飛ばしたのだ。その要因となったすずかの手には、先程までなかった鋭利な爪が五本、全てがすずかの手から生えていた。
しかも、それが両手に。
「■■■■■……」
すずかは口を三日月の様に歪める。そうやって歪めた事で異常に尖った犬歯が二本―――吸血鬼の様に生えていた。
「イメチェンするならもっと可愛くしなさいよ―――ねッ!!」
言い終わる前に飛び上る。地面に突き刺さる爪は胴切の刃と同じ様にスッと地面に刺さり、
「――――――ッ!?」
即座に上空にいるアリサへと伸びる。
すずかが飛び上ったわけではない。爪が伸びたのだ。十センチ程度だった爪が数メートル上空にいるアリサまで突き出す様に伸び、足を突き刺した。
爪はアリサの足を貫通し、そこから急に蛇の様に脚に絡みつき、アリサを地面に引き寄せる。
地面ではすずかが片手を、弓を引く様に引き絞り、貫手の構えを作る。
避ける事は不可能。
故に、
「■■■■■―――――!!」
「こ、のぉぉおおおおおおおおおおおお!!」
受け止める。
貫手を両手で抑え込む―――瞬間、貫手の指先が杭打ち機の様に突き出し、アリサの顔面目がけて襲い掛かる。それを寸前で顔を背ける事で避け、
「いい加減にしなさい!!」
脚に刺さったままの爪、腕を巻き込んで身体を回転させる。アリサとすずかの身体が同時に独楽の様に回転し、すずかを背中から地面に落とし、押さえつける。だが、押さえつけられると思ったのは一秒にも満たないわずかな時間。
脚を絡め取っていた爪はシュルッと元の長さに戻り、金色の瞳が深い闇の如く輝く。
「―――――ッ!?」
反射的にその場から跳ぶ。
ガキンッと歯と歯が噛み合わさる音。
一瞬でも跳ぶのが遅れていれば、確実に噛みつかれ―――最悪、首の肉を持っていかれていた。
確実に殺す一撃だった。
自分を、友達だと言ってくれた自分を殺す一撃。
「…………」

【魔女】の囁きは音の無い呪。

頭の中が自然とクリアになっていく。
恐怖や不安、焦りも憤りもありはしない。身体が自然と動き、目の前の【障害】を打倒する為に全てを作り替えていく。

【魔女】の魔法は無意識に入りこむ呪。

闘争本能が膨れ上がり、相手を敵だと身体と意識が認識する。
「…………」
相手は本気で自分を殺そうとしている。
「…………」
なら、殺そうとする事に対する報復行動に出ても文句は言えないはずだ。
「…………」
血が躍る。
頭が赤く染まる。
相手を倒し潰し殺してミンチにしてグチャグチャにしても関係ないという、殺戮衝動に似た何かが内から湧き上がる。
それは相手も同じ、むしろ自分よりも前にそれを完了させ、こうして襲いかかってきている。
すずかは獣にも似た唸り声を上げ、四足歩行の動物が如く構える。
アリサは静かに呼吸を整え、半身を前に出し腕を突き出して構える。
互いが互いを敵ではなく、倒すべき対象でもなく―――殺すべき標的として認識する。
嗤っている。
吸血鬼の歪んだ笑み。
人狼の飢えた笑み。
そして【魔女】の楽しげな笑み。
そこには何もない。
三年間という月日を我慢し、漸く得た絆という存在すら消え去った。
殺すだけ。
殺して殺して潰すだけ。
それは三年前の再現。
消えた記憶が蘇り、あの日の続きを再開する。
再開しようとする自分を受けいれる。
そして、




そんなふざけた事を肯定する己を――――全力で殴る。




ガンッという鈍い音が闇夜に響く。
その音の発生源は、紛れもなくアリサ自身から発せられていた。拳を額に撃ちたて、力を入れ過ぎたせいか、軽くのけ反る。
「――――――ふざけんじゃないわよ……」
額がジンジンする上に、力を入れ過ぎてかなりのダメージを自分に負わせてしまった。だが、こうしなければこの匂いに負け、自分自身に負けてしまう。
額は紅く染まり、微かに割れた皮膚から血が垂れる。
だが、おかげで少しだけマシになった。
澄んだ思考などいらない。本能に身を任せた身体など必要ない。相手を殺し、潰し、標的などという他人行儀な事を考える全てを葬りさる。
どういう事かわけがわからない。
だが、一つだけわかる事がある。
この感覚は知っている。
三年前、すずかと殺し合いに近い喧嘩をした時のアレにそっくりだ。いや、むしろそのものだろう。
つまり、あの出来事が三年越しに目の前に現れたという事になる。
戦闘能力的にはアリサは昔よりも今の方が劣っている。あの時は満月だったが故に圧倒的な勝利を収める事が出来たが、今日はその半分以下の力しか出せない。しかし、それを補う程の経験がある。
そして、それ以上にあの時の自分とは、違う。
目の前にいる者は誰か――――友達だ。
「あの時とは違う……」
やっと得た友達だ。
すずかだけではない、なのはだってやっと得た友達。
友達だ、友達なのだ。
三年前と三年後。
その違いは此処にある。
再度構え、友を見据える。

姿形に偽り無し。
其処に立つのはかけがえの無い絆。
それを前に握る拳は必要無し。

握った拳を開き、掌を突き出す様に構える。
「すずか……」
友に語りかける言葉は静かで強く。
「アンタも変わったんでしょう?成長したんでしょう?」
優しく、そして誘う様に、
「なら、アンタも頑張りなさいよ。じゃないと、なのはが泣くわよ」
そして、絶対に争ってたまるかという激情を抱き、言葉にする。
しかし、すずかには届かない。



されど、【まだ】届かないだけ


地面を蹴ると同時に巻き起こる嵐。ソニックブームに似た衝撃がアリサの頬を掠め、微かに血が飛ぶ。
背後に出現したすずかの攻撃は見るまでもない。
背中に迫る死の気配へ腕を差しだし、突き出された貫手を掌で受け止め、弾き、流す。
流水の如く、死の一撃はあっさりと受け流された。
その事実に驚く事もなく、即座に攻撃に移る。
「■■■―――ッ!!」
風を切り裂く爪。
地を鋭く抉る爪。
しかし、アリサの身体には届かない。
全てを掌で受け流し、体勢を崩しに崩す。何度もそれを行い、何度も隙は生れた。だが、そのはっきりと撃ちこめる隙があったにも関わらず、アリサは自身から撃ちだす事はせず、同じ様に掌を前に突き出したままの構えを崩さない。
「どうしたの?さっさと来なさいよ」
手招きした瞬間に嵐の様な攻撃は始まる。
突き出された貫手は反らされる。
噛みつきに移れば優しく顎に手を当てられ、方向を変えられる。
爪を伸ばして突き刺そうとすれば、掌を上下に合わせて―――叩き折られた。
「――――全力で受けてあげる。アンタが止まるまで、アンタが目を覚ますまで、全部防いで避けて流してね」
そして、心の中で吠える。
自分達にこんな事をさせた者が近くにいる。姿も気配も無いが、確実にその者はこの光景を見ているに違いない。
許せない。
許せるはずがない。
故に絶対に殺さない。
故に絶対に殺されてやらない。
自分は言ったのだ。
さようなら、と言った。
また明日、と言った。
それが約束の言葉だとするのなら、それを守らねば嘘になる。自分のすずかの関係も、それを作ってくれたなのはとの関係も。
そして、アリサ・バニングス自身の、これからが嘘になる。
金色の瞳を見据える紅の瞳。
三年越しのリターンマッチ。
勝っても負けてもアリサの負けになる。
すずかに負けるわけじゃない。これを仕組んだ誰かに負けた事になる。
そんな結末なんてクソ喰らえだ。
アリサはすずかを手招きし、余裕の笑みを浮かべて言い放つ。
「でも、あんまり長くは付き合わないわ」
絶望に負ける事はあっても、挑む事は出来る。
挑み、必ず勝てるとは言わないし、言えないだろう。
だが、挑むべきだ。
挑み、破れ――――それでも立ち上がり、そして希望を掴む。
綺麗事を口にして、綺麗事を手にして、綺麗事を皆が口にして、絶望を口にする事が下らないと思えるくらいに―――普通に過ごす毎日が此処にあると信じ抜く。
まだ、終わっていない。
まだ、絶望するには程遠い。
如何なる逆境も、如何なる辛さも悲しさも――――そこで終わらない限り、明日は来る。
希望を胸に、希望を明日に、孤独から手に入れた絆を携え、

「ほら、遅くなる前に帰るわよ、すずか……じゃないと、明日―――寝坊して学校に遅刻するわ」

少女は希望を口にする。
【魔女】の絶望に、希望‐絆‐を持って立ち向かう。






次回『少女‐高町なのは‐』









あとがき
七話投稿です。
アリサ編が終わって、今度はなのは編です。
前回も言いましたが、多分四話で終わります。
あくまで、予定ですがね。
それでは、人妖編の最終章、がんばって書きますぜ。



先日の地震で自分は東京の部屋にいたのですが、それでも色々な物が堕ちて若干ビビりました。
ただ、本家が秋田なので大丈夫かな~と想って電話しても中々繋がらないので心配しましたが、夜には繋がって安堵です。向こうは停電しているだけと言っていましたが、毎日のごとく雪が降る地方なので心配と言えば心配でしたが、なんとか復旧した模様でひと安心。

あとは、被災地の方々が安心できる時が来る事を願う次第です。






[25741] 【人妖編・第八話】『少女‐高町なのは‐』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/03/27 15:23
高町なのはという少女について語る事はあるとすれば、特にはない。
彼女は普通の人間だ。
人妖が大部分を占める海鳴の中で少数の人間、何の力もない普通の人間だ。血液検査、DNA検査をしても彼女を人妖だという証拠はなく、ソレを探す必要性もありはしない。
高町なのはは人間だった。
特に何かに才能がある人間でもなければ、特別な出生の秘密があるわけでもない。
そこにいる様な普通の子供、何処にでもいる普通の小学三年生、普通という言葉が似合うであろう少女だった。だが、そんな普通の少女には友達がいた。二人の人妖の友達がいる。その二人は少し前までは友達も作れず、孤立した存在だったが今は違う。
なのはという友達がいて、アリサという友達がいて、すずかという友達がいる。
二人に対してなのはが何かをして、結果的に友達になったというわけではない。それぞれの理由は個々で解決、もしくは誰かの手によって解決さて、あるべき形になって落ち着いた。
しかし、それでもなのはが何もしなかったという事ではない。
そもそも、誰かが誰かを救うという法則はなく、誰かではなく彼等、もしくは彼女達といった複数の人々によって人は救われる事もある。
アリサとすずかは、その複数の人達によって今がある。
そして、その複数の中には、なのはがいる。
彼女が欠けても問題はなかったかもしれない。だが、彼女がいなければ問題は問題のままであったかもしれない。
居ても居なくても変わらないかもしれなければ、居なければいけなかったかもしれない。
どちらが正解かなどはわからないが、それでもきっと―――きっと今の形が何よりも落ち着いた形だったのかもしれない。
高町なのは。
人間。
小学生。
そんな彼女について語る事は何もない。
何故なら、

高町なのはという少女の事を【理解】している者など―――――誰一人としていないのだから








【人妖編・第八話】『少女‐高町なのは‐』









「…………」
その日、虎太郎を見た霙は言葉を失くした。
「か、加藤先生?」
「…………」
霙の眼に映った虎太郎は、この世の終わりの様な顔をしていた。少なくとも、週末の時にはこんな顔はしていなかった。それがどういう事か、今は見事なまでに地獄を見た、という顔をしていた。
「大丈夫ですか?もしかして、どこか体調が悪いとか……」
虎太郎は酷くやつれた顔で霙を見て、
「――――ないんです」
地獄の底から響くような声を出す。
「金が、ないんです」
金がない、見事にない。
昨日、自身の全財産を賭けた大博打の結果――――彼の財布の中にいたお札は全員が全員、遊技台の中にお引っ越ししてしまった。
「お金がないって……お給料日からまだ一週間も経っていませんが。もしかして、何かあったんですか?」
「えぇ、ちょっと身内に不幸がありまして……」
「まぁ、それは大変ですね」
ちなみに、身内という言葉はよくよく考えれば自分も当てはまるのでなかろうか、という大変自分勝手な解釈であり、実際は身内の不幸などではなく、自業自得以外のなにものでない。
「おかげで昨日の夜から何も食べてなくてですね……」
「まぁ、まぁ、まぁ……」
虎太郎の身内の不幸という勝手な解釈に、見事に騙され、もしくは誤解した霙は心の底から同情する様な顔で虎太郎を見る。
「わ、私に何か出来る事はありますか?あ、少しでしたらお金を工面する事も出来ますが」
お金という言葉に即座に食いつく虎太郎。
この際、自分よりもかなり年下の教師に集るなんて行為に恥じを抱く必要はない。というより、抱く余裕もない。
「本当ですか!?」
この世の救いを見たような顔で近付く虎太郎に、若干引きながら霙は頷く。
「困った時はお互い様ですし……」
そう言って財布の中から今の虎太郎にすれば大金といえる一万円札を三枚。三枚だ、大切な事なのでもう一度言うが三枚も取りだした。
「どうぞ。少ないですが、これで次のお給料日まで持ちますよね?」
女神だ。
虎太郎の眼には、帝霙という女教師が女神に見えた。
今ならこの場で膝をついて、この人の服従を誓ってもいい。
「帝先生……」
眼鏡の奥の瞳にキラリと光る涙。
「アナタは、アナタは最高の教師です……アナタがいれば、この学校も……否、この国の教育も絶対に大丈夫に違いない!」
「そんな大げさな……でも、加藤先生みたいな方にそう言ってもらえれば、私としても嬉しいです」
担任と副担任は助け合う者。それが一般的な解釈であり、一方的な誤解であったとしても、この際は大した問題ではない。
今、問題となるのは目の前に差しだされた三万円を手にするという事。
虎太郎は振るえる手で三万円を受け取ろうとし、
「おや、虎太郎先生」
同僚の教師が通りかかり、
「昨日、パチンコ屋に居た様ですが、結果どうでした?勝ったのなら、今日の帰りに一杯奢ってくださいね」
二人の間に亀裂を作った。
「…………」
「…………」
虎太郎の手は空を切り、三万円は霙の財布にリリース。同時に霙の額に青筋がピシリと浮き出し、
「加藤先生?」
「…………」
虎太郎はこの空気を誤魔化す様に嗤い、
「――――――いや、勝てると思ったんですよ、えぇ、勝てるはずだったんですよ」
「加藤先生!!」
年下の教師に雷を落とされた。




「―――――何というか、アナタは駄目です。この学校の一員としていうか、教師としてというか、人間として駄目駄目です」
「いや、それはですね」
「言い訳禁止です!」
「…………すみません」
廊下を歩きながら説教する若い教師と、授業で使う教材を両手で抱えた初老の教師。そんな二人を見つめる生徒達の視線が痛かった。
「大体、どうしてギャンブルなんて愚かな行為をするのですか!?私達は自分の仕事に見合ったお給料をもらい、それで生活する義務があるんですよ。働いたら、それに見合った賃金を受け取る。それ以上の物が欲しければ頑張って頑張って、それに見合った賃金を受け取る様に努力するのが普通です!」
正論が故に返す言葉のなかった。
だが、生れついての賭博師である虎太郎に言っても無駄というものだろう。それでもしっかりと言う時点で、それなりに教育について考えている証拠とも受け取れる。
「アナタ、それでも教師ですか?」
教師なんです、と言えればいいのだが、今は何を言ってもロクな結果にならない様な気がしてならないので、黙っておく。
「大体アナタはですね―――――」
そこから教室に着くまで教師としての自覚とか生徒に悪影響だとか、説教を肩身が狭い想いで聞き続ける事になるのだろうか。
もうすぐ始業のベルが鳴ると言うのに、このままのテンションで授業に臨むのはキツイ。とりあえず、煙草の一本くらいは吸いたいと心の底から願う。
そんな時だった。
後ろの方からトタトタと小さな足音が聞こえ、振り返ってみると女子生徒が廊下を走っていた。
「はぁはぁはぁ」
荒い息を吐きながら一生懸命に走っているのだろが、如何せん遅い。仕舞いには脚がもつれて、
「みぎゃっ!?」
廊下に突っ伏した。
「高町さん!?」
霙が転んだなのはを助け起こす。
「大丈夫?」
「あぅ……鼻打った」
あれだけ盛大に転んで顔面強打とは、随分とギャク漫画みたいな事をするなと虎太郎は思った。
「ほら、顔みせて――――うん、怪我はしてないみたいね。もぅ、廊下は走っちゃ駄目じゃない」
「ごめんなさい」
しゅんっとなるなのは。
「その、ちょっと朝寝坊しちゃって……」
「だからと行って廊下を走って良い理由にはなりませんよ」
「遅刻して良い理由にもなりませんがね」
ちょっと口を出しただけで霙がギロリと睨む。失敬と一言言って明後日の方向を見る。しかし、随分と霙の中での加藤虎太郎の株を落したものだと苦笑する。元々尊敬される様な教師じゃない事は理解しているが、これは流石にキツイ。
「高町。とりあえず、さっさと教室に行け。俺達が行く前に席について無いと遅刻だぞ」
「あ、はい!」
そう言ってなのはは急いで教室に向かう。
「コラ、廊下は走らないの……もう、転んだらどうするのよ」
「帝先生。少し過保護じゃないですか?廊下を走って怪我する様な奴なんて――――あ、いるか」
少なくとも、目の前を走って行ったなのははその部類に入るだろう。
「はぁ、まったく。でも、あの子が遅刻するなんて珍しいですね」
「そうですね、っていう言うほど高町の事を知っているわけじゃないんですがね」
「生徒の事をもう少し知るべきじゃないですか、加藤先生」
肩をすくめて笑ってみるが、霙は眼を細めて虎太郎を見据える。どうやら、完全に加藤虎太郎という人間に信用が置けない、という感じになっているらしい。
「これでも努力はしてますよ。生徒の顔は全員頭に入ってますし、どういう子なのかも何となくは理解してるつもりです」
「それなら良いんですけどね。でも、加藤先生の場合は人間として駄目ですから」
「それ、まだ引っ張りますか?」
「もちろん引っ張りますよ。とりあえず、次のお給料日までは引っ張ります」
霙に三万円の借金をしている手前、言いかえす事が出来ない。これは来月から本気で賭博行為をやめようかと考え、一秒も経たない内に無理だと気づく。
「まぁ、あれですな。せめて生徒の前でなら教師らしくしますよ」
「してもらわないと困るのは生徒達ですよ」
「わかってますって…………そういえば、帝先生は一年の頃から高町の担任でしたね」
「えぇ、そうですよ。それが何か?」
「いえ、入学してた頃からの付き合いだと、ああも人を見る目が変わるものかと思いまして……」
今の担任は虎太郎だが、霙は自分以上にこの学校に長くいる。そして、なのはとは一年の頃からの付き合いだとすれば、やはり多少の差は感じられる。
それを明確に感じたのは先程、霙がなのはを助け起こした時。
なのはは嬉しそうに霙を見ていた。
「あんな顔、俺には見せてくれた事ないな」
「そうですか?あの子は誰にでも優しい良い子ですよ」
「それは、そうなんですけどね」
それでも差は感じる。
やはり、年季の違いというものなのか。それとも高校教師と小学校教師の違いなのか。教師になってからずっと高校に勤めていた虎太郎は、小学校教師としては新米だ。
担任として認められてはいるのだろうが、生徒達に好かれているかどうかと言われれば、あまり自信はない。
「―――――ま、これから取り戻せばいいか……」
そう自分に言い聞かせると同時にチャイムが鳴る。
なのはは多分、間にあっているだろうから、教室へと進める脚の速度を少しだけ上げる。
「その為にも、今日も一日頑張りますかね」




授業は特に問題なく進んでいく。
最初に比べれば教室全体の空気は緩やかで優しい感じがしている。
教科書を読みながら全体を見渡せば、張り詰めた空気も何もありはしない。
すずかが教室に通う様になってからはしばし重苦しい空気があったが、今はそんなものは綺麗さっぱり消えている。現に今は机をくっつけて行うグループ学習の真っ最中。
なのはとすずかは友人という事で仲良くしているが、今では他の生徒もすずかと普通に話す様になっている。いや、普通という言葉では些か味気ない。ここは仲良く話していると言っても過言ではないだろう。
すずかと同じグループになった生徒は昔の様にすずかに怯える事なく、仲の良いクラスメイトと会話する様な雰囲気だ。
もっとも、今は授業中なのであまり勝手に話されても困るのだが、それはそれとして置いておく事にしよう。
このクラスも本当に温かい空気を持つようになったものだと、虎太郎は自然と微笑む。
その主たる原因である二人もこうして普通に授業に出席している―――いや、少しだけ違う。
虎太郎は横目で窓際の席を見る。
そこには普段なら授業中であろうと関係なしに外を見ている生徒、アリサの姿があるはずだった。しかし、彼女はいない。
欠席したのだ。
今朝になってアリサから直接学校に連絡が入り、風邪をひいたから休むらしい。故に今は空席となっている。
毎日の様に人の授業聞いていないアリサに注意するのが日課となっている虎太郎としては、些か物足りないと思える事態だった。
「……ズル休みじゃないだろうな」
「加藤先生?」
「いえ、何でもありません――――さて、それじゃ此処からはそれぞれの班に発表してもらうぞ」
そう言って虎太郎は最初のグループを指名する。




すずかにとって、今日という一日は普段と変わりがない何気ない一日だった。
唯一違う事があるとすれば、アリサが学校を欠席したという事。昨日、別れた時にはそんな様子はなかったのに、風邪を引いたという事に驚いた。
「無理してたのかな……」
だとすれば、体調が悪いのに一日中連れまわしてしまった事に罪悪感が湧く。
「うん、そうかも。アリサちゃん、結構意地っ張りな所があると思うから」
誰もいなくなった放課後にすずかとなのはの二人が教室に残っていた。普段ならここにアリサが加わるのだが、欠席していない。
一人いないというだけでこんなにも寂しいのだろうかと、すずかは初めて知った。
ずっと一人だった時には知らなかった寂しさ。一人だったら知らないままだった寂しさ。だが、今はそんな寂しさを知ってしまった。そして、友達を心配する心を知った。
「お見舞いに行った方が良いのかな」
一応、メールを送ったし、返信だって返ってきている。
返信の内容はタダの風邪だから二日三日程度しっかりと休んでいれば問題ないという。だが、アリサはあの屋敷に一人で暮らしている。
「アリサちゃん、寂しくないのかな?」
「きっと寂しいって言わないと思うよ、アリサちゃんは」
一か月にも満たない付き合いだが、それでもアリサという少女の事を二人はそれなりに理解している。
こういう時には絶対に弱音は吐かないだろうし、自分達に心配をかける事を何よりも嫌うはずだ。だから仮にお見舞いに行っても会う事すらせず、追い返される可能性が高いだろう。
「…………」
「…………」
微かに重い沈黙が二人を包み込む。
心配だが、行っても迷惑になるだろうし、アリサはきっと喜ばないかもしれない。いや、喜ぶかもしれないが、結局はアリサが自分達を心配するという結果になってしまうだろう。
正直に言えば、今すぐにでもアリサの自宅に行ってしまいたい。
「心配だよ」
「うん、心配……」
すずかとなのは悩むが、どうすればいいのか答えは出ない。
「―――――――うん、決めた」
すずかは立ち上がり、
「なのはちゃん、アリサちゃんのお見舞いに行こう」
悩む事を止めた。
「迷惑になるかもしれないけど、心配だもん」
悩んで行動しないのと、行動できないのはきっと違う事だろう。そして、心配なら素直に心の赴くままに行動すればいいのだ。迷惑に思われようと、追い返されようとも、自分の中にあるアリサを想う気持ちはそれを良しとはしない。
「そうだね……うん、行こう」
なのはも頷き、立ち上がる。
「でも、急に行っても迷惑じゃないかな?」
「いきなりじゃないと駄目だと思うよ」
恐らく、アリサの事だから予めお見舞いに行くと言っても駄目だろう。最悪、会う事すら出来ずに追い返される。
「でも、すずかちゃん。いきなり行ってもお家に入れてもらえなかったら駄目じゃないの?」
「その時は門を飛び越える」
「……すずかちゃん、結構アクティブなんだね」
なのはは苦笑するが、それでもそれが一番だろうと思ったのだろう。
「それじゃ、お見舞いに何か買っていかなくちゃね」
「何を買えばいいのかな?」
財布の中にはあまりお金は入っていない。すずかとなのは、二人合わせても千円と少しくらいしかなかった。
「果物は買えるね」
「お花は無理だと思うけど……果物とかアイス、プリンも買えるね」
お見舞いの花も良いかもしれないが、とりあえずは早く良くなってもらう為に栄養のある食べ物が一番だろう。
「それじゃ、暗くなる前に行こうよ」
「うん、そうだね」
二人は鞄を持って教室を出る。




すずかとなのはがアリサの家に突撃お見舞いを計画していた頃。
忍は自室で紅茶を飲みながら無表情でパソコンの画面を凝視していた。
画面に映し出されていたのは植物の画像と、その植物に含まれた成分表。そして、それ以外のウィンドには同じ様に様々な植物の情報が映し出されていた。
「これも違うし、これも当てはまらない……」
該当しないデータを消し、最終的に残された植物を一通り見据えて溜息を吐く。
「駄目ね。どれも人を操るなんて事が出来る植物なんてない。仮にあっても【完全に】なんてのは不可能。植物じゃなくて薬品を使ったという可能性もあるけど、時間が掛るからあんな短時間では無理ね」
そう言って椅子をクルリと回転し、背後にいた人物を見る。
「残念だけど、一晩かけてもそれらしいのは見当たらなかったわよ」
「――――そう」
無表情で壁に背を預け、虚空を見つめる。
「それじゃ、あれは何の匂いだったのかしら?」
「それがわかれば苦労しないよ――――アリサちゃん」
それもそうか、とアリサは忍と同じ様に溜息は吐く。
風邪で休んでいるはずのアリサは、何故か月村邸にいた。
しかも、その姿はどう見ても風邪の症状ではなく―――むしろ、それ以上に重病、重傷という痛々しい姿だった。
右手にはギブスがはめられていた。頭には包帯が巻かれ、左目にも同じ様に包帯。右足にも手と同じ様にギブスが巻かれ、杖が無いと歩けない。着ている服の下も同様。服を脱げば胴体の六割は包帯で巻かれているが故に、気分はミイラだ。
この傷が治るまで時間はそれほど掛らないだろう。少なくとも、数日後の満月の日になれば完治する傷である事は確かだ。もっとも、既に回復は開始している為、明日には包帯は取れるだろう。流石に骨折している部分は無理だが、日常生活に影響は無い程度にはなると確信している。
「それよりも出歩いていいの?その傷、結構痛いはずだよ」
「痛いだけなら我慢できるわ。それに、身体が必要以上に傷つくのだって慣れてるわ」
もっとも、先日の怪物との対峙に加え、昨日のアレだ。
「はぁ、なんか私の運勢って、最近かなり急低下している気がするわ」
「アナタの能力も完璧じゃないからね。満月の日とそうじゃない日の力の割合がちょっと問題よねぇ」
「そうね。でも、それは言い訳。私は私の出来る範囲の事しかしないのよ」
そう言って顔を背けるアリサ。そんなアリサに忍は優しく微笑みかけ、
「なら、あの時はどうして逃げなかったの?すずかやなのはちゃんを助ける為に、半端な状態であんな怪物に挑むなんて――――言ってる事とやってる事に食い違いがあり過ぎよ」
わかっている。
そんな事は重々承知している。
「それに、昨日だってそうよ……」
忍は思い出す。
昨晩、すずかは夜の十時を過ぎても帰ってこなかった。
何かあったのか、もしかしたら事件や事故に巻き込まれたのかもしれない、そんな不安にかられながら家に住む者達だけで探した。警察や虎太郎に頼るのもありかと思ったが、先日の事件の事もあり、どこでどういった情報が流れるかわからない。
歯痒いと思った。
これが普通の家庭なら、普通の人間なら素直に他の人々を頼れるというに、自分には出来ない。したくても出来ない。
月村という家に生まれたが故に、バニングスという家と争っているが故に、出来る事すらできず、やりたい事すら出来ない。
生れた家の血筋、地位、そして力に振り回されているのだと、自覚する。
そんな想いに潰されそうになっている時だった。
家のチャイムが鳴った。
誰かを思って門の映像を見て――――即座に外に飛び出した。
門が開き、そこに立っていたのは一つの影。
正確に言えば、大事な家族を背負って立っていたアリサ。
何があったのか、想像も出来なかった。
服を真っ赤に染める程の出血をしながら、アリサはすずかを背負っていた。それだけじゃない、恐らく今日一日で買った物が詰まった袋を口に加え、今にも倒れそうになりながらも、二本の足でしっかりと歩み寄る。
「すずか……すずか!!」
アリサに背負われていたすずかに外傷はない。まるで疲れて眠っているかのように、静かな寝息を立てていた。
すずかの身体を忍に任せた瞬間、アリサは漸く身体から力を抜く事が出来たのだろう、その場に崩れおちた。
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
「これが大丈夫に見えるなら……眼科に行きなさい」
重傷としか言えない傷だった。
「まったく、アンタの妹、どんだけタフなのよ……」
「喋らないで!今すぐ病院に――――」
「駄目よ」
救急車を呼ぼうとした忍の手を掴み、止める。
「病院は不味いわ」
「どうして!?」
アリサは眠っているすずかを見て、呟いた。
「記録に残るのは駄目よ……少なくとも、この子に今日の事がバレるのは駄目」
「バレる?」
「―――――ともかく、病院は駄目。一応、こういう時の為の専用の医者は知ってから、そっちに行くわ」
そう言うと、アリサは身体を起こして立ち上がる。フラフラになりながら歩き出し、
「念の為に言っておくけど……すずかが目を覚まして、何も覚えていないのなら―――そのままにしておいて」
すずかを見るアリサの眼。
優しい瞳は彼女を労わり、慈しむ。

「あんなの、覚えてない方がいいわ」

そう言って、アリサは姿を消した。
そして翌日、アリサはこうして月村邸を訪れた。
「―――――すずかは、覚えてた?」
「いいえ、何も覚えてなかったわ。どうやって家に帰ったかも覚えてないし、アナタと分かれた時から記憶が無いみたい。一応、疲れてすぐ寝ちゃったせいで、記憶が曖昧なんじゃないのかって誤魔化しておいたけど」
疑えばすぐにばれる様な嘘だが、すずかはそれを信じた。
「そう、なら良いわ……」
「すずかを、巻き込みたくないの?」
「アンタは巻き込みたいわけ?」
「冗談じゃないわ。この子は、すずかには……」
それだけで十分だった。
忍がどれだけすずかを大切に思っているのか、それを知るには十分な想いを知る事が出来た。だから、アリサは正直に言葉を吐き出す事を選択する。
「それが良いわ。すずかは私とは違う。その気になれば、何時だって普通の生活が出来る。それを周りが許し、周りが邪魔しなければね」
「でも、周りはそれを許さない、そして邪魔をする」
だからこそ、
「そうしない為に、私がいるのよ」
アリサは言う。
「私は選んだ。アリサ・バニングスとして生きる事を選び、デビット・バニングスの娘である事を選び、バニングスである事を選んだ―――だから、私は私の出来る事をするだけ」
「その為に、そんな風に傷ついてもいいの?」
「治る傷なら幾らでも傷つくわよ」
部屋の中にある小さな写真。
最近取られたのだろう、すずかと忍、そしてメイドが二人が写っている写真があった。家族の写真、何処にでもある家族の写真がそこにある。
ソレを見て、優しい笑みは自然と生まれる。
「治る傷の為に、治らない傷を放っておくほうが何倍も嫌よ」
「…………そう、優しいのね」
「優しくはないわね。ただ、自意識過剰で傲慢で、そして寂しがり屋なだけ」
でも、優しいのだと忍は感じた。
現に昨晩、すずかは傷一つなく帰って来た。
代わりにアリサは全身傷だらけになってきた。
話を聞けば、四時間ぶっ通しですずかの攻撃を受け続けたらしい。
相手には一切手を出さず、相手の攻撃を流し、受け止める。
それを四時間の続けていた。
その話を聞いて、この子は正気を持っているのか心配になったが、アリサはさも当然という様に、
「友達を殴るくらいなら、殴られる方がマシよ」
と、何とも男前な顔で笑って言った。
後悔は微塵もなく、その行動を間違いだとは一欠けらも思わない顔。
「やっぱりアナタは、優しいと思うよ」
相手は月村の敵、バニングスの娘。
表向きはそうであろうとも、その表向きに翻弄されている自分がいる。だが、目の前の少女はそんな表向きとすら戦っている。
「もしくは――――カッコいいかな」
「それ、女の子に言う台詞?」
「いいじゃない、カッコいい女の子……うん、女の子にモテそうね」
同性にモテても嬉しくないと、アリサは顰めた顔をする。
理解はできた。
この子がデビットの娘である事を、これほどまでに理解できる事はない。
狼の群れのリーダーの様に、誇り高く、孤高であり孤独。しかし、それ故に周りを惹き付け、周りを守り、周りに守られる。
個であり群れ。
群れであり個。
「ほんと、アナタみたいな子がすずかの友達で良かったわ」
「そうかしら?案外、私みたいな奴のせいで危険に巻き込むかもよ?」
「その時はその時。大丈夫よ、アナタがどんなに危険な事をして、危険な存在だと思われても、家のすずかはアナタを嫌いになんてならないわ」
自信を持っている言える事はこれだ。
だから期待する事が出来る。
この街で行われている権力抗争。
手を取り合いたいのに周りがそれを許さない二つの家。
その手を取り合えるようにするのは、自分でもデビットでもない―――ただの友達な二人なのかもしれない。
だらこそ、
「――――――だからこそ、今回のコレは放っておく事はできないわね」
忍は自分の中にマグマの様な怒りが宿っている事を認識する。
すずかとアリサを争わせた何者かがいる。
それが何を意味して、何を目的としているかはわからないが、一番の問題はたった一つのシンプルな答えだ。
「すずかに、アナタを襲わせた奴は絶対にあぶり出すわ」
「同感ね。多分、相手は三年前のアレと同じ同一犯だと思うわ。あの時は気づかなかったし、記憶も曖昧だったけど――――これは人災である事だけはわかるわ。私の勘がそう言ってる」
三年前の事件。
すずかとアリサが校内で起こした殺し合いに近い喧嘩。
その時の記憶は互いになく、気づいた時には既に終わっていた始まりの事件。
「でも、どうやってそれをやったかがわからないのよ」
忍はキーボードを叩きながら、首を捻る。
「元々そっちの分野は専門外だけど、そんな相手を操る力を持った人妖なんているのかしら?」
「そっちの同類という線が一番だと思うけど?確か、夜の一族の力の中に相手を操る力もあったわよね」
「あるにはあるわね。そりゃ、月村といっても夜の一族の長であるわけじゃない。敵だって外にも中にもいるから、可能性がないわけじゃない―――でも、それだったらアナタにもわかるのよね?」
アリサは首を縦に振る。
「これでも一応はアンタ達の血を引いてるからね。だから相手がそういう力で操ろうとすれば何となくわかる。でも、今回は違う。あれは夜の一族の力じゃなくて、もっと別の何か」
「なら、人妖としての力?」
「可能性はあるわね。けど、なんかそれも違う気がする」
これは勘でしかない。
あの匂いとあの空気。それを作り出したのは人妖の力では無い気がする。もちろん、確証があって言っているわけではない。本当に何となく、なのだ。しかし、その何となくこそが信用に値する能力である事も知っている。
「言葉で表すのは難しいけど…………そうね、一番近い言葉で言うのなら【波長】かしら」
「波長?」
「そう、波長。人妖としての力だとか、夜の一族の力だとか、そういうのとは違う波長みたいな感じだと思う。これも勘でしかないから、確証は持てないけど」
それでも当たっている様な気はする。
アリサにとってこういう時に何よりも重視するのは経験でも能力でもない――勘、第六感、そして本能。
動物が本能的に何かを拒絶するように、恐れる様に、そして畏怖するように、本能がアリサが【知っている力ではない】と言う事を告げている。
「そんな力、あり得るの?」
「科学の分野とか医学の分野は私の担当外だけど、多分そっちじゃない」
「アナタの勘がそう言ってるの?」
「信用するかしないかはそっち次第よ。でも、私はそう思っている」
わからない事が多い。
何もかもがわからない。
まるでミステリー小説を呼んでいる気分だ。
どういうトリックを使い、何を動機として犯行が行われているのか、この二つを探すなんて物語の探偵がやるべき仕事だ。
しかし、現実に起きた事件では探偵も優秀な刑事もいやしない。
「――――――また、相手は行動を起こすと思う?」
「起こすんじゃないかしらね。前回は三年前。三年も前に行動を起こし、今になって再開した。なら、三年前よりも更に最悪な何かをしてくる可能性も捨てきれないわ」
自分で言っておきながら、アリサは頭が痛くなってきた。
どうしてこんな風に事件が立て続けに起こるのだろうか。
「なんか、あの教師が来てから変な事ばっかりが起こるわね」
「あら、私はそうは思わないわよ」
忍はおかしそうに言う。
「あの人が来てからおかしな事が起こるというよりは―――あの人が来てから時間が動き出したって気がするわね」
「時間が、動く?」
「私の時間、すずかの時間、そしてアナタの時間」
止まっていた歯車は動きだし、時計の針は進む。
歯車を動かす螺子を誰もが失くし、動かし事を諦めた歯車を回したのは、加藤虎太郎という教師なのかもしれない。少なくとも忍はそう思っている。
忍とすずか、月村の時間を動かす。それが動いた事によってすずかに友達が出来て、それがアリサとの今を紡ぐ。
連鎖的に動き出す原因を作ったのは、一人の教師。
「確かに変な事件は起こる様になったわ。だけど、動き出した事を否定する気にはならない……ううん、否定しちゃいけない」
「――――あの煙草臭い男が、ね」
「案外なんとかなっちゃうかもね、あの人がいたら」
「そんなに信頼できるの、アイツ」
「えぇ、信頼できるわ」
まるで自分の事の様に、忍は胸を張って言う。
「あの人、加藤虎太郎先生がいれば、きっとなんとかなると思うのよ、私はね」





「―――――なん、だと……」
虎太郎の顔には驚愕と絶望の二文字が刻まれていた。
彼は今、何時もの喫煙所である体育倉庫(無断使用)に来ていた。授業も終わり、生徒達は足早に家路を歩く。そうすれば教師達がやる事といったら明日の授業の準備やら会議やら、色々とあるのだが、そんな事よりも虎太郎がやるべき事は煙草を吸うという事だ。
学校唯一の憩いの場である体育倉庫。
しかし、その憩いの場は見るも無残な姿になっていた。
別に壊れているわけじゃない。別に面白おかしい姿に変わっていたわけではない。
そこにあったのは一枚の張り紙。
【喫煙禁止】
そんな二文字と、それを張り付けている教頭の姿。
「あら、加藤先生」
「あ、あの教頭……それは?」
恐る恐る指さす先にあるのは、当然喫煙禁止という張り紙。
「あぁ、これですか。ここで喫煙している者がいたようでしてね、誰かは知りませんが、一応こういう張り紙を張っておこうと思いまして」
教頭の視線が虎太郎に突き刺さる。
「まさかとは思いますが――――加藤先生ではないですよね?」
そのまさか、である。だが、虎太郎はあえて我存じ得ぬという顔を作り、
「さぁ?」
と肩をすくめてみせたが、内心では心臓の鼓動がかなりにビートを刻んでいた。
どうしてバレたのか、此処で吸う為に細心の注意を払っていたはずなのに、どうしてこんな事になったのだと頭は絶賛混乱中。
「ところで、教頭。どうして此処で誰かが吸っているとわかったんですか」
少なくとも虎太郎はそうそうバレるような事はしない。煙草を吸う際は周り、半径数十メートルに誰も居ない事を気配で調べ、吸った後は吸殻は捨てずに携帯灰皿に放り込み、念のために匂い消しを身体に振りまいていた。
バレる要素なんて一つもなかったはずだ。
「それはですね――――」
教頭が何かを言おうとした瞬間、

「―――――おや?」

背後に人の気配。
振り向くと、そこには見慣れない男が立っていた。
ツナギを着た体格の良い男―――いや、体格が良いなんてレベルではなく、鍛えに鍛え抜いたという身体をした白髪隻眼の男が立っていた。
虎太郎は見覚えはないが、教頭はどうやらあるようだった。
「あぁ、アナタですか」
教頭は張り紙を張り、男に歩み寄る。
「失礼ですが、アナタですか?最近、この場所で煙草を吸っていた方は」
尋ねると、男は素直に、
「あぁ、そうだが……ん、もしかして不味かったか?」
その言葉を聞いた瞬間、教頭は大きく溜息を吐き、虎太郎は絶句した。
「校内は禁煙です」
「あ、あぁ、そうでしたな……」
教頭の鋭い眼光を受けて、男は苦笑いを作る。
「すみません。忘れてました」
「忘れていた、では困るんです。アナタは部外者ですが、部外者とて校内に入ったらルールはちゃんと守ってください」
「いや失敬。迷惑がかからない場所なら問題なと思ったんだが……」
「迷惑がかかるとか、かからないとかの問題ではありません。壁の修復を頼んだのは我が校ですが、修繕費を払っているのも我が校です」
「仰る通り……」
一応、反省はしているのか男は素直に頭を下げた。
「まったく……確かにアナタの仕事ぶりは校長から聞いています。真面目にお一人で作業をしている姿も見ますし、クレームと付けるつもりはありません。ですが、今後も校内で喫煙行為をするようならそちらの会社にしっかりと抗議させてもらいますよ」
「…………えぇ、重々承知しました」
男は頭を掻きながら何度も頭を下げる。
「…………」
「ん、加藤先生、どうしました?」
「いえ、なんでもありません」
冷静な態度を作りながらも、心の中では大ボリュームで目の前の男を糾弾していた。
虎太郎にとって唯一の憩いの場である体育倉庫をよりにもよって部外者のせいで失う事になるなんて、そんな事があって良いのだろうか。
人間、四十を超えて多少の落着きを持ったとしても我慢できない事はある。だが、それを我慢するのが大人であり教育者であり、喫煙者。
マナーは守るべきだ。喫煙する者は与えられた場所で吸うべきだ。そんな社会の作ったルールを前に、一教師が声を大にしても聞き届けられるはずがない。
虎太郎はうらみがましい目で男を見る。
男はそんな虎太郎の視線を受けながらも、特に気にした様子もなく立ち去る。
「さて、加藤先生。とりあえず、この紙を校内に張るので手伝ってください」
「私が、ですか?」
「お暇のようですから」
そう言って教頭は喫煙者にとっての死刑宣告を記した張り紙と、これを張る場所を記した地図を渡すと、さっさと何処かに行ってしまった。
残されたのは虎太郎だけ。
体育倉庫に張られた喫煙禁止の張り紙をじっと見つめ、そして去っていく業者の大男を見つめ、
「―――――鬱だ」
その場に崩れ落ちた。




「まさか、バレてるとは思ってもなかったな」
数日前に見つけた喫煙スポットで、今日も休憩がてらの一服でもしようかと思ったが、どうやら学校側にバレてしまったらしい。元々、あの場所を見つけた時、誰かが煙草を吸っていた後があったので、此処でなら吸っていいかと思ってしまったのが間違いだった。
その結果、この学校の教師の安息の場を奪ってしまった事など知るはずもなく、男は仕方がないと諦める事にした。
男はやれやれと首を振りながら作業場に戻った。
「さて、それじゃさっさと終わらせるかな」
壁の修復作業も大詰め。残る壁は一枚のみで、恐らくは三日以内の片はつくだろう。男は作業着を腕まくりして作業を開始する。
骨組は既に終わっているので、今は壁を塞ぐ為の材料を塗り込む工程だった。白いコンクリートの様な材料を専用の工具に乗せ、それを壁に塗り込む。壁の大きさが故に時間は掛るし、人手も足りない。だが、日曜大工はそれほど嫌いではない。むしろ好きな部類に入る男にとって、この作業は苦痛とは想わない。
鼻歌交じり作業をしていると、
「あ、」
という声が聞こえた。
振り返ってみると、そこには以前見かけた少女がいた。
「あぁ、あの時のお嬢ちゃんか」
「こんにちわ」
礼儀正しくお辞儀をしたのは、すずかだった。
壁の大穴を開けた張本人であり、クラスに顔を出す様になった日に出会った程度の関係。そして今はその隣に見慣れない少女がいた。
「すずかちゃん、知り合い?」
「うん、そうだよ」
友達だろうか、と男は考え、すずかを見る。
「お嬢ちゃんの友達か?」
「はい、なのはちゃんって言うんです」
すずかに紹介されたなのはは、すずかと同じく礼儀正しくお辞儀をしながら自己紹介する。
「高町なのはです」
「高町なのは、か……」
変わった名前だなと思いながら、自分の名前も案外変わっていると思いながら、
「ん、高町?」
ふと奇妙な顔をした。
「高町……高町か」
「あの、どうかしました?」
「あ、いや……何でも無い」
ちょっと聞き覚えのある名前だった。高町なんて有り触れた名前なのだが、男の知っている【高町】はそうではない。
「気にしないでくれ」
そんな偶然はないだろうなと思う事にする。
「今から帰るのか?」
鞄を背負っているから恐らくはそうなのだろう。時間も時間だし、他の生徒が帰る姿は既に何度も見てる。そう考えれば、この二人が帰るのは少し遅いくらいだ。
「他の生徒よりも帰るのが遅いみたいだが、掃除当番とか何かか」
「そういうわけじゃないんですけど……」
「それともアレか?課題が出来なくて居残りってところか」
自分の子供の頃はどうだったか思い出すが、少なくともこんな時間まで残って勉強をする様な真面目な生徒ではない事は確かだった。無論、居残りしろと言われても絶対に途中で逃げ出していた。そんな事をするよりなら、勉強なんて速攻で放り投げ、誰かと遊ぶ方に熱心になるべきだと本気で思っていたのだ。
「流石は私立というところか。やっぱり、勉強は公立よりもレベルが高いんだろうな」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……でも、なのはは苦手科目が多くて困ってるのも確かですね」
恥ずかしそうに頬を掻くなのはだが、それをフォローするようにすずかが口を開く。
「そんな事ないよ。だってなのはちゃんは数学とか凄いじゃない」
「そうかな?」
「そうだよ」
それ以前に最近の小学校では算数ではなく数学を習うのかという事に驚きだった。どうやら、自分の頃とは何もかもが違うらしい。
「でも、数学だけだし……」
「そんな卑屈になる事はないと思うぞ。俺なんて数学なんて大っ嫌いだったからな」
正確に言えば数学ではなく算数であり、全教科に置いて嫌いだった。
「好きな科目は体育と図工だな」
「図工が好きだから壁を直してるんですか?」
「すずかちゃん、それは無いと思うけど」
案外、このすずかという少女は天然なのかもしれないな、と男は思った。
「好きか嫌いとか関係ないな。単純にこれが仕事だからやってるだけだ」
言っておいてなんだが、何とも夢の無い話だ。
確かに日曜大工は好きな部類に入るが、それを仕事にしようとは思った事はない。この仕事を選んだ理由も日曜大工で少しは出来るという事と、ギャラが良いというだけだ。
「それじゃ、オジサンが好きな事って?」
すずかが尋ねると、男は苦笑して答える。
「好きな事は――――なんだろうな。正直、あまり覚えていない」
「好きな事なのに?」
なのはは首を傾げる。
その疑問も当然だろう。
好きな事がわからない、という事は普通に考えればおかしい事だろう。特に、この歳の子供にすれば好きな事や嫌いな事ははっきりと分かれているはずだ。
そして男はそんな好きな事を覚えていないと言ったのだ。
「そういう風になる時もあるんだよ、大人には」
詳しくは語る気はない。
語ったところで意味はないし、子供に聞かせる様な話ではない。
「そういうお嬢ちゃんは何が好きなんだ?」
男は尋ねる。
なのはは少し考えてから、
「私は……すずかちゃんやアリサちゃんと一緒にいる時が好きかな」
実に子供らしい返答に、思わず笑みが零れる。
「友達と一緒にいる時間が楽しいか……なるほど、それは十分に好きな事だな」
「私も二人と一緒にいる時が好きだよ」
好きな事をしている時間。好きな人と一緒にいる時間。それは何よりも代えがたい大切な一瞬だろう。長い長い人生は時に辛く、悲しく、そしてやるせない事が多い。しかし、それだけが人生というわけじゃない。
長いからこそ、辛い事と楽しい事が両立していると思える。
「そういう時間こそが人生の醍醐味という事か……」
そう思うと、少しだけ悲しい。
男にとって人生とは何か。
長い人生。
四十年以上生きて、数年経てば五十になる。それだけの時間を生きながら、自分が幸福だと思えた時間はどれだけあっただろうか。
幸福は続かない。
幸福の次にあるのは幸福を失った不幸の時間。
そこで全てを奪われ、幸福でも不幸でもない暗い時間が生まれ、闇に飲まれた。そこから抜け出した自分はまた幸福な時間に戻ってこれたのだろうかと考えれば、答えは出ない。
幸福か、不幸か、それとも別の何かか。
「でも、アリサちゃんがいないから、寂しいです」
言葉通りの寂しそうな呟き。
確かに今、この場にいるのはすずかとなのはだけ。アリサという少女は知らないが、本来は仲良し三人組なのかもしれない。
「なんだ、先に帰ったのか?」
「いえ、風邪で休んでるんです」
「あぁ、なるほど……」
男自身、最後に風邪を引いたのは何時だったかなど考えるが、風邪を引いた事すら関係なく身体を動かし続けた記憶しかない。むしろ、自分の身体の事など二の次でしかなった。
「―――――むしろ、看病する方だったからな」
昔を思い出す。
こうなる前の自分を思い出す。
こうなる前の自分の傍にいた、大切な家族を思い出す。
だからだろう、
「オジサン……」
トーンを落としたなのはの声にハッと我に帰る。
恐らく、自分は何とも言えない顔をしていたのかもしれない。
心配そうに見つめる二人に、先程までの笑顔を曇らせてしまったという事に後悔する自分がいる。
どんな笑顔を見繕ってもどうしようもない油断。
だからこそ、言葉を紡ぐ。
「―――――なぁ、お嬢ちゃん。今が幸せか?」
男の質問に、すずかは首を傾げる。
「幸せかって言われても……」
なのはの方を見るが、同じ様に首を傾げ、わからないと言った。
楽しいことは楽しいかもしれない。だが、楽しい事が幸せかと言われてもよくはわからないのかもしれない。むしろ、そこまでわかれというのも無理な話なのかもしれない。
なにせ、男とてわからないのだ。
だから確認するように、今の自分と昔の自分、そして目の前の少女達を見て、苦笑する。
「すまん、変な事を聞いたな」
だが、それでも何となくはわかった。
自分はどうかわからないが、この少女達は幸せなのかもしれない。
「だが、お嬢ちゃん達はきっと今が幸せなんだろうよ」
「そう、なんですか?」
すずかが尋ねると、男は頷く。
「さっき、友達と一緒にいる時間が楽しいって言っていた。そして友達が一人いないだけで寂しいと感じたなら、それが多分、お嬢ちゃん達にとっての幸せだっていう事なんだろうさ」
難しく考える必要はないのかもしれない。
「寂しいと思えるのは、それだけ今が充実して楽しい、幸せだと思ってるって事だろうさ」
自分の様に無駄に歳を食って考える幸福と、この年頃に感じる幸福は同じではない。考え方が違う、知識が違い、そして経験が違う。それだけで幸福か不幸かを示す天秤の傾きはあっさりと変わるだろう。
「それじゃ、オジサンはどうなんですか?」
すずかが尋ねると、男は素直に答える。
「わからない」
本当にわからない。
今が楽しいと思う事はない。
今が寂しいと思う事もない。
「大人になると色々と複雑になってな、自分が本当に幸せなのかわからなくなるんだ」
一つの終わりを迎え、新しい始まりを手にした。
一つの命を終わらせ、一つの命を紡ぐ事を新しい始まりとした。
「オジサンは楽しくないの?」
「わからない」
だが、それは本当に始まっていたのだろうかと今頃になって思い始めた。
本当は、自分は未だに何も始まっていなかったのかもしれない。
終わっただけ。
一つが終わっただけで、終わらせなければいけないものが他にあったのかもしれない。なのに、自分はその他のものに目もくれず、一つだけを見続けて来た。



【復讐】という一つだけを、己が人生の全てとして



それは確かに終わった。それだけは確かに終わったのかもしれない。終わっていたと思う。終わったと信じている。終わって―――いるのだろうかと考えてしまった。
終わりを迎え、始まりに向かえない自分。
あぁ、だからなのだろう。
わからないから、
「わからないから、こうやって生きてるんだろうな……」
誰もが口を揃えて、復讐は何も生み出さないと言っていた。それが道徳であり、美徳だと誰もが思っているのだろう。だが、男はそうじゃない。そうは思えなかった。
そう思う事しか出来なかったのだ。
復讐に正当性などなく、復讐に道徳などなく、そして生きがいでもない。
ただ、復讐の鬼という自分に縋っていただけなのかもしれない。
そして、今は復讐の鬼ですらない。
復讐が終わって残ったのは、何もない自分。
だから始めようとした。
始める為に戦い、救い、そして生きている―――――だというのに、心にはぽっかりと空虚な穴が空いている事に気づいた。
「生きて生きて、楽しい事や幸せな事を見つけている最中だ―――こんなオッサンになった今でもな」
それを言い訳にしてる気がしてならない。
誰に言い訳しているのだろうかすら、わからない。
こうして壁を直す仕事が楽しいとは思えるが、好きというわけじゃないかもしれない。
【以前の仕事】に比べて平凡で安全かもしれないが、やりがいがあるかどうかと言われればわからない。それは今の仕事も昔の仕事も変わらない。
「お嬢ちゃん達は、こんな大人になるんじゃないぞ」
無論、きっとならないだろう。なる事があれば、この二人が人の道を踏み外してしまったという事になる。それは幾らなんでも困るし、悲しい事だ。
そして、こんな事を子供に言ってしまった事に気づいた。
案の定、二人は非常に戸惑った顔をしていた。
「―――――すまん。こんなオッサンの話を聞いても面白くもなんともないだろうな。無駄な時間を使わせてしまったようだ」
「あ、いえ……そんな事はないです」
首を振って否定するすずか。
「……私も、前にオジサンに相談に乗ってもらいましたから」
「あれが相談に乗ったという気はしないんだが……」
「でも、そのおかげで今の私がいます」
そう言ってすずかは微笑んだ。
男の眼に映る笑みは、あの時に見たすずかより、少しだけ強くなった様に思えた。
「そんな大層な事をした覚えはないんだがな」
柄にもなく照れくさくなってきた。
「いいえ、そんな事はないです……あの時、本当は教室に行くのが怖かったんです。勇気を持って行こうと思っていても、あの時間になるまで中々教室に行けなかったんですけど、オジサンと話してたら勇気が出てきて、教室に行ける様になりました」
だから、
「オジサンも、私の恩人です」
ありがとう、と頭を下げる。
「おいおい……」
本当に柄でもない。
子供にお礼を言われる様な綺麗な人間でもない。そして礼を受け取れる様な人間でもない。
「本当にありがとうございました」
顔を上げ、先程よりも尚、太陽が輝く様な笑みを浮かべ、
「オジサンのおかげで今の私がいます。勇気を持てたから、なのはちゃんやアリサちゃんと友達なれて……本当に良かったと思っています」
たった一度だけの邂逅だった。そのたった一回で変わる何かがあったという事だろう。
故に、男は素直にそれを受け取る事にする。
受け取る事で何が変わるわけでもないのに、少しだけ何かが軽くなった気がした。
「―――――どういたしまして」
こんな言葉は自然と口から零れた。
零れ―――――気づいた。
言葉にも表情にも出さず、そして【すずかに気づかれない様に】、それに気づいた。
男の視線に写ったのは―――――なのはだった。
すずかは気づかない。
なのはも見られている事に気づかない。
だから男も言葉に出さない。
「ところで、時間は良いのか?もう一人の友達のお見舞いに行くんだろ。なら、早く逝った方が良いんじゃないのか」
時計を指さす。
「あ、本当だ」
時計の針はもうすぐ四時を差そうとしている。
「なのはちゃん、行こう」
すずかがなのはに視線を移した時、既になのはは【普通】に戻っていた。
「うん、そうだね。早くしないと遅くなっちゃう」
二人は男に別れの挨拶をして、生徒玄関へと歩いていった。
その後ろ姿を見送り、男は静かに作業に戻った。
「―――――――」
だが、引っかかりを感じた。
気のせいかもしれない。見間違いかもしれない。アレは単にそう見えただけで、実際はまったく見当違いなものかもしれない。
そう思う事にする――――無論、無理だったのは言うまでも無い。
男は手を止め、もう一度二人が去った方を見る。
そこにはもう誰も居ない。子供も教師も、人の気配すらない無人の廊下が続いているだけ。静かでありながら不気味な静けさをもった回廊がある様に思えた。
「――――――ふむ」
己の眼が未だに鈍っておらず、そして感性が未だに過去のままだというのなら、アレはきっと見間違いでも気のせいでもないだろう。
微笑むすずかの隣で、高町なのはという少女は黙って立っていた。しかし、ただ立っていたわけではない。口を閉ざし、すずかと男の会話に耳をから向けていたわけでもないだろう。最初はそうであったとしても、途中からは違う。
「…………さて、あれはどういう意味なんだろうな」
男の表情は能面の様に無表情に変わる。
初めてあった相手だというのに、どうも気になる。
あの時の表情。
言葉では言い表せない奇妙な違和感を感じた。
違和感から察する少女の心。
アレは怒りか―――否。
アレは悲しみか―――否。
アレは憎しみか―――否。
なら、アレはなんだ。
アレはどんな表情だったというのだろう。
怒りでも悲しみでも憎しみでもない。ましてや善の感情ではない事は確かだ。あんな顔で喜びも何もあったものではない。
そして、男は考えた末に答えにたどり着くのはそれほど時間は掛らなかった。

「―――――――【飢え】……か」

飢えだ。
飢餓だ。
あれは何かを欲している表情だった。
己の感性が鈍っていなければ、アレはそういう表情だった。
しかし、あの少女は一体何に飢えているというのだろう。あの年頃の子供が飢えなどという感情を抱く事などあるのだろうか。しかも、飢えと言っても腹を空かせているという生理的衝動ではなく、心の衝動、何かを酷く求めている表情だった。
だとすれば、そこから生み出される感情は飢えでありながら、怒り、悲しみ、憎しみが宿っていてもおかしくは無い。
手に入らないモノがある。
あの高町なのはという少女は何かを求めている。
「…………」
考えてもわからない。
そもそも、自分が考えるようなものではない。ああいうものは自分の様な一般人、ましてや土木作業員がどうにかしなければいけないものではない。
それこそ、教師の様な聖職者と呼ばれる者達がどうにかしなければいけない問題だ―――問題なのだが、
「…………嫌なモノを見た気分だ」
どうしてあの場面でなのだろう。どうして【友達】がいる場面であの少女はあんな顔をしたのだろう。
忘れようにも引っかかる。
もやもやした気分が次第に強くなり、作業が進まない。
嫌な予感がする。
自分に関係ない事でありながら、放っておけば何かが【終わる】様な気がしてならない。その結果として傷つくのは月村すずかというなのはの友達。
男は誰も居ない廊下で静かに呟く。
その場にいない、高町なのはという少女に向けて呟く。

「お前は……何を求めている?」

疑問は疑問で終わる。
この時点で男はただの他人。
顔見知り程度の関係で在り、壁の修復作業が終われば完全に赤の他人になってしまう。だが、今の状態でも何かが出来るというわけでもない。
他人は他人。
業者は業者。
生徒をどうにかするのは教師の役目。男は教師でもなんでもないタダの作業員でしかない。
故に男は何も出来ないし、何もしないだろう。
それでも心に引っかかるのは、終わらせたはずの過去にあるのだろう。
かつて、一時だけ男は【先生】と呼ばれていた。
教師でもなんでもないにも拘らず、一人の少年の先生だった。
今ではなく、昔。
昔は今ではなく、昔。
そして、少なくとも一つだけ確かな事がある。
男は違うのだ。
男は、高町なのはの先生ではないのだ。
それだけが、唯一無二の真実だった。





【魔女】は嗤う。
ニヤニヤと嗤う。
ケタケタと嗤う。
ゲラゲラと嗤う。
声は上げないにも関わらず、耳障りな羽音を響かせて嗤い続ける。聞く者もいないのに、誰も彼もを不快にさせる声を静かに響かせ、嗤い続ける。
「あれ?」
その声はゆっくりと世界に、現実に浸透していく。汚水が真っ白なシーツを汚す様に、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと色を汚して汚し続ける。
「いないのかな……」
「部屋の方じゃないのかな。でも、流石に家の中まで入るのは無理だよね?」
「メールしてみるね」
少女達は気づかない。
誰も気づかない。
【魔女】の声に気づかず、何気ない日常を過ごしている。しかし、その日常は既に日常ではなく、壊されていく日常でしかない。それに気づかぬ者しか此処にはおらず、それに気づいた者は此処にはいない。
「――――返ってこない。電話の方は」
音は静寂。
音が奪われ静寂。
音は響かず無音にて世界を構成する。
「駄目。出ないや」
「もしかして、寝てるのかも……」
「あ、そっか……どうしよう、なのはちゃん」
「う~ん、帰るしかないかも。時間も時間だし、これ以上遅くなったらすずかちゃんのお家の人も心配するだろうし」
主の居ない屋敷の静寂は、不思議と不安を際立させる。この屋敷に住む少女が目の前に居ない事に不安を感じると同時に、言い様ない奇妙な感覚が背筋を襲う。
誰かがいるのに、誰かがいない。
目に見えない何かが自分達を見て、嗤って、そして狙っている。
「どうしたの、すずかちゃん?」
「…………ううん、何でも無い」
すずかはそう言って、屋敷に入った時と同じ様になのはを抱えて門を飛び越える。
この行為を誰かに見られたら立派な不法侵入と言う事で起こられそうだが、幸いな事に誰も無い。
だが、視線は感じる。
背筋が凍る程の視線ではない。背中に虫が入り、背中をゆっくりと舐めているような感覚。考えただけで嫌悪感が湧きあがる。
「本当に大丈夫?なんか、具合が悪そうだけど……もしかして、すずかちゃんも風邪?」
なのはは気づいていないのか、それとも自分だけが感じる違和感、もしくは気のせいなのか。
「本当に大丈夫だよ。うん、大丈夫」
自分に言い聞かせる行為にしかならない。
周囲を見回しても誰も居ない。
あるのは夕日が沈みかけた事によって生み出された巨大な自分の影。
すずか本人の身長の数倍はあろう影は顔も何も無く、あるのはのっぺらぼうの様な人であって人でない存在に思えた。
【魔女】には気づかない。
【魔女】は誰にも気づかれない。
「お見舞いは明日の方がいいかも」
「そうだね。でも、コレ悪くならないかな?」
すずかはビニール袋に詰まったお見舞いの品を見ながら、考える。
「冷蔵庫に入れておけば大丈夫だよ」
そうだね、となのはに返しながらも別の事を考える。
アリサは風邪をひいて休んでいる。
それほど酷い風邪ではないが、二日三日は学校を休みらしい。
そういう風に虎太郎は言っていた。
「――――――本当かな」
なのはに聞こえない程に小さな呟き。
それは本当なのだろうか。
虎太郎を疑うわけでもなければ、風邪を引いたというアリサを疑うわけではない。だというのに、自分の中の何かがそれは疑わしい事だと囀っている。
見落としている様に、
「それじゃ、これは家の冷蔵庫に入れておくね」
「そうしよっか。お願いね、なのはちゃん」
忘れている様に、
「学校には持っていけないから、明日学校が終わったら家に取りに帰ってもう一度来るって事でいいよね?」
「あ、それなら私の家からお菓子とかも沢山持ってこれるし、お花も用意できるよ」
まるで自分一人だけが【眼を反らしている】気分だった。
そんなつもりはないのだが、心はそうだとは言っていない。
お前は当事者であるにも拘らず、事の重大性から眼を反らしている。
周りがソレを望み、この状態こそは望ましいという願いに守られている事が現実だが、昨日の【三年前の再現】を知らない―――忘れているすずかには辿りつけるはずはなかった。
「でも、アリサちゃんが明日学校に来るのが一番なんだけどなぁ」
そうすれば気のせいで終れるのに、とすずかは願う。
「無理言っちゃ駄目だよ、すずかちゃん」
「でも……」
「風邪を甘くみちゃ駄目だよ?私だって三年前に風邪をこじらせて入院した事あるんだから」
「え、本当に?」
「うん、本当だよ」
そういえば、とすずかは昔を思い出す。なのはは学校に入学してすぐにしばらく学校を休んでいた頃があった。その時はすずかが姉を説得してようやく学校に来れた時と同時期で、一つだけ空席になっていな場所が何となく気になっていた。
「最初は大した事ないと思ってたんだけど、夜になって熱が一気に上がったんだよ。お父さんに病院に運んでもらってお医者さんに診察してもらったら、肺炎になって」
「肺炎!?」
肺炎がどれだけの病気かはわからないが、風邪から肺炎になったと言う事はそれだけで重大な病気という認識になってしまう。
「大丈夫だったの!?」
なのはは手を広げ、この通りですと言う。
「凄く苦しかったけど、お母さんがずっと一緒にいてくれたし、お父さんやお兄ちゃん、お姉ちゃんも毎日お見舞いに来てくれたから――――――」
不意に、すずかは感じ取った。
なのはの顔に奇妙な色が浮かんでいた。
なんと言ったらいいのかはわからないが、胸が微かに苦しくなる。
「大変だったけど、今は良い思い出だよ」
違う。
「そう、なんだ……」
それは違う。
「大変だったんだね」
違う。自分が言いたい言葉はそんな言葉じゃない。
なのはは笑っている。
昔の事を語りながら笑っている。
だというのに、どうしてこんなにも不安な気持ちがざわめくのだろうか。
笑っているのに。
目の前の友達が笑っているのに。
どうしてだろう。
どうしてその顔が、



こんなにも、空っぽに見えるのだろうか――――



気づいてしまった。これはもう気のせいではない。自信はないが、自分には確かにそういう風に見えてしまった。
だから、口にしようとした。
「な、なのはちゃ――――」
しかし、それは止められる。
「――――――アナタ達、こんな時間に何をしているのですか?」
聞こえた声は静かだが、微かな怒気を感じる。
「あ、」
なのはのしまった、という様な声に振り向くと、そこには教頭が立っていた。
あまり関わり合いが合った事はないが、教頭と言う事で全校生徒が知っている女性。何時も怒っている様な顔をして、生徒達からはあまり人気がない【怖い先生】という認識が占めている。故にすずかも教頭の事はそういう認識を持っている。
「今何時だと思っているの?もうすぐ日も沈むと言うのに、こんな時間まで遊んでないで、すぐに帰りなさい」
厳しい口調と眼鏡の奥にある鋭い視線に二人は自然と縮こまる。
「まったく。最近は通り魔も出るというのに……アナタ達みたいな子供なんて、そういう者の一番の標的になるのよ、わかってるのかしら?」
教頭の言う通り魔というのは、恐らくはあの怪物の事だろう。
世間的にはあの事件は現状で継続中の事件だ。しかし、その事件は既に終わっている事をすずかは知っている。
そして、その事件の結末の末に見た一人の少女の死を知っている。
だが、教頭は恐らく知らないのだろう。だからこそ、こんなに厳しい言葉を二人に向けている。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい、教頭先生……」
二人は素直に謝る事を選択した。
「―――――それで、こんな時間まで何をしていたの?」
「あ、それは――――」
「まぁ、大体察しは出来ます。バニングスさんのお見舞いですね」
そう言って教頭は光のない屋敷を見る。
「友人のお見舞いをするのは大変良い事です」
その言葉に二人はパッと顔を明るくするが、
「しかし、こんな時間まで家に帰っていない事の言い訳にはなりませんよ」
ピシャリと言われてシュンっとなる。
「で、でも……アリサちゃんが心配で」
頑張って反論しようとするすずかだが、自身が悪い事も知っているし、教頭のイメージのせいで声が上ずってしまう。
「それはそれ、これはこれです。いいですか、バニングスさんは風邪を引いて休んでいるんです。そんな状態でこんな遅い時間になって会いに来たアナタ達を見てどう思いますか?」
「それは……」
「バニングスさんは優しい子です。だから、必ずアナタ達を心配するでしょう。病人に心配されていいのですか?心配される為にお見舞いに行くのですか?」
そう言われしまっては最早、何も言えない。
最初から最後まで、教頭の言葉が正しいと思ってしまう。
「風邪をアナタ達に移したりしたら、バニングスさんが困るでしょうから、お見舞いは控えなさい。それでも行きたいのなら、学校が休みの日にする事です」
二人は素直に頷く。
「わかればいいのです――――時間も遅いですし、家まで送ります」
「そ、そこまでしてもらわなくても……」
「送ります」
文句あるのか、という視線にすずかもなのはも素直に頷く事しか出来ない。
正直、帰り道はそこそこ長い。その間、ずっとこの怖い先生と一緒に居る事を考えると胃が痛くなりそうだった。
諦めて頑張ろうと互いを慰め合いながら、二人は歩き出す。そして、その後ろを教頭が歩く――――だが、視線は二人にではなく、屋敷に向かっていた。
「…………」
じっと見つめるその視線の色は、誰にも気づいていない。なのはも、すずかも、誰もがそれに気づかない。
誰にも気づかれぬ事なく―――――教頭は、わらった。




【魔女】はホッと息を吐く。
危ない危ない、危うく気付かれる所だった。
この少女、高町なのはという少女は【鍵】なのだ。そして、月村すずかはアリサ・バニングスと同じ邪魔者でしかない――――否、少しだけ違う。
今はそうであっても、昔は違った。
【鍵】を作る為に【生贄】と【儀式】を用意した。だが、それでは足りなかった。高町なのはを【鍵】として完成させるには至らなかった。結果、学校の一部を破壊させただけに過ぎなかった。
役に立たないガキ共だと罵った。そしてもっと別の方法を考えた。だが、あの程度の【衝撃】では【鍵】は目覚めない。
ならどうするかと【魔女】は考えた。
そして気づいた。
高町なのはは人間だ。人間には色々な種類があり、小学校という場所に通う子供である。
だからこそ利用する事にした。

高町なのはの【望み】を利用する事にした。

その為に三年も待った。
三年も待ち、ゆっくりと実を育て続けた。
飢えとも思える想いを抱かせながら、穏やかな時間を過ごさせ、友という【邪魔者】すら与えさせ、それを狩り取る時がきた。
【魔女】がそれを望み、なのはもそれを望んでいるだろう。
さぁ、終わりは来た。
念願叶う、終わりという時はきた。
【魔女】は嗤う。
嗤って嗤って祈願を達成する。
その為に邪魔な二人を消そうとした。自分の手でそれを行う事も出来たが、どうせなら三年前と同じ様に互いを殺し合わせてみた。
元々、二人は最初から邪魔だと思っていた。
友達という他人がいる事が、この計画の邪魔になる。【鍵】にはそんなものは必要ない。だというのに不意に現れたこの二人をさっさと消す方が良策だと決め、殺し合わせようとしたのだが―――――【魔女】の想いとは裏腹に成功はしなかった。
まさか、アリサ・バニングスが月村すずかに一切攻撃を加えず、月村すずかが倒れるまで戦うなどという愚策を取るとは思いもしなかった。
だが、それもいい。
邪魔は邪魔だが、居て困るわけじゃない。居たら居たらで邪魔だが、絶対に自分の邪魔をする者だとは思わない。なにせ、アレは所詮は子供なのだ。子供の一人や二人が居た所で何も出来はしない。
だが、それでも邪魔な事には変わりは無い。
だから消すべきだ。
特にアリサ・バニングスはもっとも消さなければいけない者だ。
彼女が学校に来ていたのなら、帰り道に直接殺してやろうと思っていたが、彼女は姿を見せなかった。それどころか、この街の至る所を探ってもその姿を見つける事が出来ない。
ガキの癖に生意気に姿を消した事に苛立ったが、それも良いだろうと思い直す。
子供だ。
ガキだ。
何も出来やしない。
何も出来るはずが無い。
そうして【魔女】はほくそ笑み、事を進める事にした。
誰かに邪魔をされる前に、終らせよう。
時は今日から三日後、その日が【儀式】を執り行うには最も適した日だ。
【魔女】はなのはを見ながら嗤う。

下種な笑みを浮かべながら、心の中で歓喜を叫ぶ。










しかし、だ。

【魔女】は知らない。
【魔女】の想いとは裏腹に、この街にはそれを害する邪魔者がいる――――いや、むしろこう言うべきだろう。

「―――――夕飯は今日もゆで卵か……」
金欠気味な教師が一人。

「―――――はぁ、今日はコンビニ弁当か……うげぇ、タマネギ入ってるじゃないの!!」
満身創痍な人狼少女が一人。

「―――――ん、味噌汁の味を変えたのか?……いや、美味いから問題はない。むしろ、俺好みだ」
白髪隻眼の作業員が一人。




この街には――――――【邪魔者しかいない】










次回『人妖‐友達‐』













あとがき
最近、涙腺が馬鹿になってる僕です。
ボランティアで炊き出しをしている外人さんを見て涙ぐむ→首相の会見で素に戻る→震災地で頑張っている人を見て涙ぐむ→首相の会見で素に戻る→支援にきた各国の方々に涙ぐむ→首相の会見で素に戻る→震災地での人々の触れ合いに涙ぐむ→首相の会見で素に戻る、というエンドレス。
家にいようと職場にいようと、そういう光景をテレビで見ると目頭が熱くなります。
あと、ニコニコ動画でAC6の動画を見て号泣しました。ゴーゴーファイブの歌が流れる動画を見て号泣しました。そして、何故かはっぱ隊の曲を聞いて号泣した時点で……完全に僕の涙腺が馬鹿になった事に気づきました。
でも、はっぱ隊の歌は名曲です!!
にしてもあれですね。僕の中では日本って世界中から蔑にされてるか嫌われてるかのどっちかだと思ってたんですが……まさか、こんなに支援されるとは。
捨てたもんじゃなないですね、僕が生まれた国も。
どうも昔から【誰かが助けに来る】という展開に弱いんですよ、マジで。
そんな感じの僕ですが、早く日本が元に戻って助けた各国の方々に恩返しできる日がくればいいと思います。

日本、ガンバッ!!



そんなわけで、第八話です。
なのは編の開始したおかげで、謎のオッサンが漸く活動開始です。
今回は大人達が活躍する(予定)です。
にしてもアレですね。感想でも上がってましたが、アリサお嬢様の主人公化がグングン上っております。どうしよう、マジでこの子が主人公になっちゃいそうで、少し怖いっす。
そしてもう一つ。

なんか、リリカル勢の補正値が高すぎる事に気づいた。

今のところはマシなんですが、これが進む事で色々とヤバイ感じになっちゃいますね。
とりあえず、現在の力関係は
虎太郎=壁直しのオッサン=アリサパパ>>>>>>鮫島>トーニャ>超えられないアリサ壁>すずか>>>>なのは
な、感じです。
これが後半だとどういう事になるかマジで心配。
一応、人妖編が終わった後に【執事編】が始まるのですが、その前に【高校生編】が挟む事になりました。
内容は会話の中だけに登場した教育実習生のお話です。
登場人物は、
教育実習生(背は変わっていない)
最強最悪の生徒会長(白ラン着てます)
孝行娘(?)
わんこ(まったく補正を受けていない)
ブラコン(色モノ凡人)
です。
この辺で、パワーバランスは崩れますね、きっと。
そんな事態ですが、まぁどうでもいいやと割り切っていきますので、よろしくお願いします。



[25741] 【人妖編・第九話】『人妖‐友達‐』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/03/29 22:06
―――――――再度、高町なのはという少女の事を語ろう。
とはいっても、前回と同様に何か特異な点があるというわけではない。いたって普通に生れた少女は、生れも育ちも海鳴という人妖隔離都市だった。それは彼女の両親が海鳴に住んでおり、隔離都市になっても住み続けたという点に他ならない。
この街の事が好きだ、と両親は彼女に言っていた。些か奇抜な能力を持った人間は沢山いるが、それが人間である事には変わりは無いという言葉は、幼い彼女にはよくわからなかった。だが、両親がそう言うのであればそうなのだろう。そういう事にしておく事にしておこう。
ともあれ、海鳴で生まれ、海鳴で育ち、海鳴で生きる彼女の出生には特におかしな点は見当たらない。
彼女の母はこの街で喫茶店を経営する普通の女性。
父はかつては少々人には言えない危険な仕事をしていたが、彼女が生まれた辺りでそれとは手を切っている。
兄は父から剣術の手ほどきを受けて常人、下手をすれば人妖よりも強いだろう。
姉の方も兄には及ばなくとも、才能は限りなく高い位置にある―――ただ、姉の料理の味は酷いを通り越しているのは有名だった。
そんな【普通】の家庭に生まれた高町なのはは【普通】に育った。
何の変哲もない家族だ。
何の障害もない家族だ。
何の不幸もない、幸福を絵に描いた様な家族だ。
家庭の問題なんて言葉は余所の事情、この家にはまったく不釣り合いな言葉だろう。当たり前の幸福によって、当たり前に育った彼女は結果的にそこいらの子供と変わらない、【普通】の人生を歩んでいた。
月村の少女の様に、家にとらわれる事はない。
バニングスの少女の様に、闘争に足を踏み入れる事も無い。
ただただ、【普通】の少女として育っていった。
そんな少女―――なのはの人生は誰の眼から見てもおかしな所はない。
現に彼女の通っている学校の中でも特に目立つ生徒ではない。無論、他の生徒に比べれば多少優しく、多少我が強いという点では目立っているかもしれない。だが、それは精々【良い子】だと想われる程度に過ぎない。
誰からも好かれる子。
誰にも迷惑をかけない子。
誰にも嫌われず、誰も傷つけない子。
それが高町なのは。
【普通】を絵に描いた様な【良い子】の姿。
しかし、だ。
仮に、本当に仮に、なのはの過去を知る者が存在するとするのなら、きっとその者はこう言うのかもしれない。

彼女は、変わった

無論、それはきっと誰にも理解されない言葉だ。なのはの何処が昔とは違うというのか、それを証明、説明できるはずはない。子供は常に成長し、ゆっくりと人間という人格を創り上げていく存在だ。変わるのは当然だ。変わらない事が異常だ。そして、この言葉を吐く者は誰も居ない時点で、誰もそれを知りはしない。
高町なのはは変わったのだ。
彼女を知る者は【いない】。
彼女の過去を知る者は【いない】。
【普通】な高町なのはと【良い子】な高町なのはの両方を知っている者は誰も無い。
つまり、こういう事だ。
誰もが知っているのは【現在の良い子】な高町なのは。
誰も知らないのが【過去の普通】な高町なのは。
誰も昔を知らず、今を知っている――――だが、それは本当だろうか。
過去を知らないのは当然だとしても、今を知る事が当然だとは言えないのではないか。
人を知るというのは簡単な事ではない。何故なら、人を知るというのはあくまで主観であり、自身の思いこみがもっとも多い部分なのだ。それだというに、他人を知るなんて行為は出来るものなのかと考えればどうだろう。
これは屁理屈で言葉遊びに過ぎない。
だが、考えてみて欲しい。
人を知るという行為は――――それほど、簡単な事なのだろうか、と。
そして、本当の意味で人を知り、結果がプラスではなくマイナスだった時、彼女に関わる人々はどういう変化をするのだろうか。



人を知ると言う事は―――――知りたくない何かを知るという事なのかもしれない。








【人妖編・第九話】『人妖‐友達‐』














「高町さん、ちょっといいかしら?」
霙は廊下を歩いているなのはに尋ねた。
「はい、何ですか?」
「実はね、さっき教頭先生から聞いたんですけど……アナタ、昨日夜遅くまで外を出歩いてたんですって?」
なのははしまった、という顔をした。ソレを見るだけでそれが事実だという事が一目でわかった。霙は小さく溜息を吐き、手を腰に当ててなのはを見る。
「駄目ですよ、高町さん。学校が終わったら早く家に帰らないと……」
「ごめんなさい……」
「友達と遊ぶのは良いんですけど、日が暮れる前には家に帰れる様にしないと駄目です。最近、色々と物騒なんですから」
霙自身、こんな事はあまり言いたくない。だが、教師としては生徒の為を想ってこういう事はしっかりと言っておかねばならない。
本人が自覚していても、それが善意だとしてもだ。
しゅんっとなってしまったなのはを見て、霙は真面目な顔を崩し、微笑む。
「バニングスさんのお見舞いに行ったそうですね……偉いですよ」
そう言ってなのはの頭を優しく撫でた。
「友達を大切にするのは良い事です。そういう気持ちは大切ですから忘れてはいけませんよ」
自分のした事を肯定してくれた事に安心したのか、なのはは頬を紅めて恥ずかしそうにうつむく。
「今日もバニングスさんはお休みですけど、きっとすぐに元気に登校してきますから大丈夫ですよ。その為に、アナタが危険な目にあったら駄目ですからね。バニングスさんや月村さんと一緒に楽しく遊ぶ為に必要な事ですよ」
「はい、わかりました」
嬉しそうに笑うなのは。
それを見て微笑む霙。
霙はなのはが入学してから、今までずっと彼女の担任だった。それ故に霙はなのはにとって一番親しい教師という認識が強い。
「あ、そうだ。霙先生。この間、先生に教えてもらったお菓子のレシピの通りに作ったら、凄く美味しくできました」
「あら、そうなの?」
「はい!アリサちゃんもすずかちゃんも、美味しいって言ってくれました」
「それは良かったわ。それじゃ、今度はステップアップして別のお菓子を作れるようになりましょうね」
二人は楽しそうに話す。
その姿を見た他の生徒や教師は微笑ましい光景だと心の底から思った。
無論、その中には虎太郎も含まれる。
「…………お菓子か」
ただし、この男の場合は少し違う。
お菓子という単語に反応したのは空腹感のせいだった。金欠のせいで今日もゆで卵だった虎太郎にとって砂糖が沢山入っているお菓子など高級品以外の何物でもない。
腹を押さえながら、カレンダーを見る。
給料日まで残り三週間。
霙に借金して借りた三万が在るとはいえ、そう簡単に手を付けるわけにはいかない。少なくとも、豪勢な食事などもってのほかだ。
「週末……いや、日曜日になれば」
虎太郎の頭の中には一発逆転の秘策があった。
今週の日曜日、彼が大敗を喫したパチンコ店のイベントデー。
軍資金は財布の中に三万(借金)がある。
そう、この男はよりにもよって生活費という名目で借りたお金を、失った家族(お札)を取り戻す為に使おうと計画しているのだ。
「大丈夫だ。俺ならやれる、俺ならやれる……あぁ、やれるとも」
一人ブツブツ呟き続ける虎太郎。
「――――虎太郎先生、どうしたのかな?」
そんな虎太郎を見て、首を傾げるなのは。
「わかりませんが…………何やら、不審な気配がします」
まさか、自分が貸した金を早々にパチンコ台に突っ込もうとしているとは思いもしない霙だったが、それでも嫌な予感はあったらしい。
「ふふふふ、目に物みせてやる……まってろよ。今度は魚群で大フィーバーしてやる」
当然、この呟きは霙となのはにはまる聞こえだった。
魚群というのが何かはわからないが、フィーバーという言葉にピンときたのか、
「加藤先生……」
ニッコリ――――感じに直すと煮ッ虎裏な笑顔を浮かべながら霙は虎太郎の肩を叩く。空腹のせいで相手に接近に気づかなかった虎太郎は錆びた機械の様にゆっくり、ギギギという擬音を響かせながら振り向いた。
修羅がいた。
悪鬼羅刹がいた。
こめかみにバッテンマークを浮かび上がらせ、目を三角眼にした霙。
虎太郎という名前の癖に猫みたいに縮み上がる虎太郎。
それを見て苦笑するなのは。
「あ、アナタという人は……」
「いや、待て、待つんだ帝先生!」
「何を待てというのですか?先程、なにやらフィーバーという言葉が聞こえた気がするのですが――――まさか、私の貸した、私が善意で貸したお金を」
「思ってない!!絶対に思っていない!!決して日曜のイベントで魚群でマ○ンちゃんとサ○に会おうなんて、絶対に思っていない!!」
「…………」
なのはの様な子供でもわかる。
「墓穴を掘るって、こういう事なんだ」
勉強になりました。
「こ、こここここここ――――――虎太郎先生!!」
学校は今日も平和だった。






すずかの気分はとてもじゃないが良いとは言えない。
体調がすぐれないというわけではく、むしろ好調だ。最近はそう思える程に楽しい毎日だったから尚更だ。故にこういう感覚には敏感に反応してしまう。
「――――――腹減ったな」
腹を押さえながら黒板に数式を書き込む虎太郎。虎太郎をジト目で見据える霙。誰も座っていないアリサの席。そして、黒板をじっと見つめ、ノートを取っているなのは。
「…………」
高町なのは。
友達。
自分に出来た初めての友達。
月村である自分に一番に話しかけ、友達なってくれた大切な友達。
そう、友達だ。
一緒に通学バスに乗る。一緒に校門をくぐる。一緒に教室に行く。一緒に同じクラスで勉強する。一緒に休み時間におしゃべりする。一緒にお弁当食べる。一緒に掃除をする。一緒に下校する。また明日と一緒に行って、また一緒になる。
学校だけじゃない。家にいてもメールや電話でおしゃべりはする。休日は一緒に遊んだりする。すずかの家に遊びに来たりもする。
ずっと一緒だ。
ずっと一緒にいる大切な友達の一人だ。
「…………」
だというのに―――いや、だからこそなのかもしれない。
不安になっているのだ、自分は。
昨日、教頭と話している時に見せた【空っぽの笑顔】が気になってしょうがない。愛想笑いの様な作り物ではない。人間が普通に見せる普通の笑い、笑みが、空っぽなのだ。
無論、すずか自身がそれを見極める程に人生経験が豊富なわけではない。むしろ、人との関係という点においては三年もサボっていた程だ。だからこそ、あれが自分の見間違いなのか、それとも見間違いで済ませてはいけないものかの違うがわからない。
「それはこの問題を……高町、やってみろ」
虎太郎がなのはを指名し、なのはが黒板の前まで来て数式を解いていく。
なのはは理数系、特に数式を解く事を得意としている事は知っている。他の教科はすずかやアリサの方が成績はいいが、この教科では未だになのはに勝った事がない。アリサが悔しそうにしている姿は今でも思いだせる程にだ。
スラスラと問題を解いてくなのは。
「出来ました」
「ん、正解だな……にしても、アレだな。お前はこういう授業だけはしっかりしているな」
「あぅ、すいません」
「いや、別に駄目だというわけじゃない――――でも、流石にこの間の国語のテストの点数はちょっとな……得意な教科を伸ばすのもいいが、他の教科もそれなりにな、というだけの事だ」
前回の国語のテスト。
三人で点数の見せっこをした時、なのはだけが逃げ出そうとして、アリサに関節を決められて捕獲された。
あの時の点数は見事だった。
それはもう、バッテンで絵を描いているかのような見事なバッテンの嵐。
アリサは即座になのはを解放し、何事も無かったかのようにテスト用紙を仕舞いこみ、別の話題に切り替えた。
あの時のなのはの不満そうな顔とアリサのなんかゴメンな顔はしばらく忘れられそうにない。
「だかまぁ、学校で習う事なんて社会に出ると案外役に立たないんだな、これが」
「あの、加藤先生。あまりそういう事を生徒前で言わない方が……」
「……まぁ、それもそうだな。うん、今のは無し。全員、忘れる様に。忘れずに教頭にチクッたりしたら連帯責任で宿題倍にするからな」
全員からブーイングの嵐を受けながらも、平然と流す虎太郎に頭を抱える霙。
「虎太郎先生、横暴だぞ~!!」
「人でなし!!」
「女たらし!!」
「女たらしって何?」
「わかんない。昨日のテレビで言ってた」
「そうなんだ……虎太郎先生の女たらし!!」
「女たらし~」
「女たらし~」
何故か巻き起こる女たらし旋風に虎太郎も若干顔を引き攣る。
「お前等、頼むからそれをクラスの外で言うなよ。じゃないと、また俺が教頭にクドクド言われるからな――――あと、女たらしって行った奴は全員は宿題倍だ」
「やっぱり横暴だ~!!」
これは何時もの光景。
虎太郎が来る前にはなかった楽しげな、そして騒がしい光景。
すずかが自分の殻に閉じこもっていた時には知らなかった微笑ましい光景。
何時の間にか、自分もその中の一人になっていた。
皆が笑い、すずかも笑う。
誰もが笑っているのに、
「――――あ、」
やはり、一つだけの空白がそこにあった。
楽しげな笑顔だというに、何も感じていない、周りに合わせている様な空白で空っぽな笑顔。笑顔をいう仮面を嵌めているのは、自分の大切な友達だった。
「どうして……」
胸が苦しくなる。
笑っているのに、悲しい。
笑っているのに、苦しい。
笑っている事が、笑える光景があるこの場所が、その空っぽな笑顔一つに否定されている様な気分が心を占める。
そして気づいた。
どうして今まで気づかなかったのか、そう思える程に当たり前な事に気づいた。

高町なのはの笑顔は、【ずっと空っぽだった】のではないか

嘘だ。
嘘だ、そんなのは。
不意の襲い掛かる考えたくもない事実に、一人すずかは怯える。
今までの思い出や時間、その全てが嘘になってしまった気がした。
それに気づかないはずはないのに、今になってそれに気づいたのは、恐らくは人として成長してしまった事が原因だろう。
人と人との関係から目を反らしていた頃の自分なら、そんな事には気づかなかった。だが。今は他人との交流という当たり前を手に入れた事で成長してしまった心が原因だった。
人を知らないなら知らないまま。
人を知れば、知ってしまう。
すずかは成長した―――成長してしまった。
あの笑顔が、優しいと思える笑顔の全てが、仮面の様に冷たい素材で出来た嘘であり偽りであり、心の無い笑顔だったと言う事を。
確信ではないが疑問にはなっている。疑問が疑惑を生みだし、疑心を育てる。
果たして、自分は高町なのはという友達の、少女の、人間にとってどう思われているのだろうか。
わからない。わからない事が怖い。
言い様の無い不安が、友達――――友達だと信じたい【他人】を見る目にフィルターを作りだす。
月村すずかという自分は、高町なのはにとって、何なのだろう。
疑心と不安は連結し、連鎖する。
生み出されたのは、根本的な何か。
自分は自分の事を知っている。しかし、自分は他人の事を知っていない。なら、自分は友達の事を一体どれだけ知っているのだろう。
なのはは友達だ。
クラスメイトで友人―――――だが、知らない。
「私……知らない」
月村すずかは知らない。
友達である高町なのはを知らない。
得意な事を知っている。不得意な事を知っている。好きな食べ物を知っている。嫌いな食べ物を知っている。好きな動物を知っている。好きな歌手を知っている。好きな、好きな、好きな、好きな、好きな―――――なのはの好きな【情報】だけを知っている。
その中に、なのは自身の何かはまったく含まれていない。
高町なのはがどういう人間なのか知らない。
高町なのはがどういう人間が好きで、どういう人間が嫌いか知らない。
高町なのはがそういう趣向を持ち、どういう趣向を好むのかもしれない。
知らない、知らない、知らない。
知らない事ばかりで、知らない事が不安になってくる。
だからこそ、すずかの視界に写る少女の姿が、



恐ろしい化物に見えてきた。





放課後になり、生徒達は自宅に帰るが、生徒以外の者にとってはまだ仕事の時間である事には変わりは無い。
白髪隻眼の男もそれは同様なのだが、彼の片方だけの眼に映る壁はもう完成まじかという状態だった。
ようやくここまできた。長い長い戦いだった。しかし、それも漸く終わりが見えてきた。この速度なら明日の夕方にはかたはつくだろう。
工具を起き、少しだけ休憩に入る。煙草が吸いたかったが、唯一の喫煙所は自分のせいでなくなってしまった。自業自得だからしょうがないだろうと思い、煙草は諦める事にする。
その代わりに取り出したのは飴玉。しかも男の様な喫煙者にとって毒薬と同じ禁煙する為の飴だ。
正直、こんなものは舐めたくもないのだが、一緒に住んでいる女性から弁当の一緒にこれを渡された時の事を思い出す。
「…………自分だって喫煙者のくせに」
これを渡した女性も男と同じ喫煙者なのだが、最近はあまり吸わなくなった。なんでも家庭教師として通っている家の子供の為にしばらく禁煙する事にしたらしい。だが、自分だけ禁煙して男が禁煙しないというのは不公平だという。
「不公平というか……いや、不公平だな」
少なくとも自分は止める気などこれっぽっちもない。四十代も後半に差しかかろうとしているが、健康趣向なんてなよなよした思考はどうも受け入れられない。だが、それでもあの女性の提案をこうして受け入れているのは、
「まったく、他人の善意というのは……」
善意という敵。
受け入れれば心は安らぐが、反対に退ければ心が痛む。
なんて厄介な敵なのだろうか。
禁煙飴を口に放り込み、何とも言えない奇妙な味に顔を顰める。
「――――――だが、まぁ……悪くは無い」
そういう事にしておこう。そうした方が色々と気が楽になる。
強くなくていい、弱くていい。
昔と今は違う。
これからも、ここからも、この前も。
飴を舐めながら、男は新聞を読む事にした。仕事前にコンビニで買ってきたはいいが、結局一度も目を通していない。
新聞を読みながら、ふとこんな状態の自分は爺臭いのかもしれないという不安が襲いかかる。もう若くないのは自覚しているし、心なしか昔ほど身体が動かなくなった気がした。しかし、その事を女性に話すと呆れ顔で、
『アナタがそれを言うと、嫌味にしか聞こえませんよ』
という指摘を受けた。
なるほど、どうやらその部分は思いすごしらしい、と言ったら今度は、
『その歳になっても未だに【成長】している時点で、本当に同じ人間か怪しいですよ……いや、むしろ人妖の私よりも異常だよ、アナタは』
とうとう化物扱いだ。
「成長している、か」
昔ほど鍛錬を毎日の様にしているわけではないが、男の中ではそれが身体が鈍っている理由な気がする。無論、歳のせいという線は捨てる気はない。
「むしろ退化しているのだろうな、俺の場合は」
強くはならない。
弱くなった。
強いが成長していない。
弱いが成長している。
戦いから退き、平穏な日々にいる自分は確実に弱くなっている。
恐らく、これが数年も続けば自分は二度と戦えない程に弱くなるだろう。
ならば、どうすれば強さを取り戻せるのか――簡単だ。
平穏を捨てればいい。
平穏を捨て去り、闘争という日々に溺れてしまえばいい。
そうすれば強さを取り戻し、弱さへの成長を捨てられるだろう。
だが、それはあくまで考えただけで終わる。
少なくとも、
「彼女は、それを求めないだろうな」
一人なら、男が未だに孤独だというのなら、自分は真っ先に闘争への日々を選択したのだろう。だが、男はそれを選ばず、共に暮らす女性の傍を選んだ。いや、選んだと言えるほど、大したものではない。
何となくそうなり、何となく今の位置になり、何となく今の関係になっているだけにすぎない。
男の女の関係ではない。
上司と部下の関係でもない。
「ふっ、ならどんな関係なんだよ」
苦笑して、馬鹿な事を考えていると自重する。
男には過去がある様に、女性にも過去がある。その過去に繋がるのは一人の少年であり、今は一人の男、恐らくは父親になっているのだろう。
決着を付けたのは、自分だけ――――表面上は。
決着を付けれないのは、女性だけ――――表面上は。
だとすれば、こういう関係はきっと傷を舐め合っているだけに過ぎないのかもしれない。
「――――――はぁ、何を考えてるんだか」
自分で自分の事をどうこう考えるのが馬鹿らしくなってきた。
新聞を広げ、静かに読みふける事にした――――のだが、視界の隅に見覚えのある少女が見えた。
確か、高町なのはというこの学校の生徒だった。
向こうのこちらが見ている事に気づいたのか、
「こんにちわ」
そう言って近づいてきた。
こんなオッサンにわざわざ話かけるなんて、随分と変わった子供だ。
「帰りか?」
「はい。オジサンは……まだお仕事ですか?」
背中越しに壁を指さし、
「もうすぐ終わりだな。今日の分が終われば、明日でようやく解放されるだろうな」
「そうなんですか……それじゃ、オジサンとも会えなくなっちゃうんですね」
少し寂しそうな顔をするなのは。
「おいおい、こんなオッサンと会えない事に寂しがるなよ」
たった二回。その程度しか会った事がない相手に、わざわざ寂しがるなんて、随分と心の優しい子供だ―――そう思えたら楽だったのだろう。
「そんな事ないですよ。人との出会いは大切にしろって、お父さんが言ってました」
「そうか。なら、俺もそういうお嬢ちゃんとの出会いを大切にするように思うさ」
思い出すのは、昨日感じた【飢え】という子供らしくない感情。そして今は、まるで文章を読み上げているかのような空白な言葉の羅列。
本人は気づいているのかどうか知らないが、男は昨日の違和感がまったく気のせいであるというわけじゃないという事を確信した。
「それで、昨日のお嬢ちゃんとは一緒じゃないのか?」
台詞を口にする気分だった。そして、自分はこれからこんな子供の【内側】を盗み見ようとしている事に反吐が出る。
だが、このまま捨て置くなんて事は出来ない―――善意ではなく、使命でもなく、言い様のない何かによって。
「すずかちゃんは掃除当番なんで、まだ教室です。だから、私はその間ちょっとブラブラしてなくちゃいけないので」
「掃除、ね。前々から思っていたんだが、幾ら学校が拾いからといってどうして掃除を生徒にやらせるんだろうな」
何時か、世にいる馬鹿親達が学校に言いがかりつけるのではいかとずっと思っている。
「楽しいですよ、お掃除」
「好きな奴は好きだろうな……ちなみに、俺はあまり好きじゃない」
「楽しいのに、お掃除……」
「そういう奴もいるって事さ。俺は好きじゃない。でもお嬢ちゃんは好き。誰もかれもが同じなわけじゃないさ」
掃除なんて言葉は、綺麗な意味だけを含んでいるわけじゃない。男が過去の行ってきた掃除という作業は、相手の命を、掃除してはいけない命という物を世界から消し去るという行為。
手が赤く染まり、赤い色に汚れる掃除。
そんな自分がこうして子供と話している事が、許されない行為なのかもしれない。
「掃除といえば、今の掃除ってのは昔と同じ様にバケツに水を貯めて、床を雑巾で拭くタイプなのか?」
「それはしますけど……毎日やっているのは箒でゴミを掃いたり、モップをかける程度ですね。雑巾がけは夏休みとか冬休みの前に一度やるくらいですし」
「へぇ、随分と楽になったもんだな。俺がガキの頃なんて毎日の様に雑巾がけだ。教室はもちろん、廊下や体育館もな」
「体育館もですか!?」
どうやら、今のご時世に毎日の様に体育館を雑巾がけする習慣はないらしい。
「すごいですね……」
「すごくというよりは、面倒だな。特に冬なんてキツイぞ。体育館は寒いし、水も冷たい。冷たい水でしぼった雑巾で冷たい床を雑巾がけ――――まったく、思い出しただけで嫌になる作業だな」
だが、こうして思い出話に出来るというのは、本当に嫌だったというだけではないのだろう。
辛い過去を笑い話に出来るのは、きっと辛い中にある幸福を持っていたという意味になる。子供の頃の辛い事は幸福の一部。しかし、数年前までの過去、大人になってからの自分に笑い話で語れる幸福なんて一つだってありはしない。
「大変だったんですね、昔って」
「あぁ、大変だったさ。お嬢ちゃんも、そういう時代に生まれなくて良かったな」
「う~ん……でも、楽しそうですよ」
本気で言っているのなら、素直に拍手をしよう。
だが、
「本当にそう思うか?」
本気ではなく、お世辞でもなく、
「はい、思いますよ」

それが【義務】の様に話すのなら、それは間違っている。

「…………」
男は考える。
見えてはいけないもの、自分の様な人間が見えてはいけない【空っぽ】を見つけてしまった事に悩み、考える。






掃除を終え、職員室に戻ろうとした虎太郎をすずかは呼びとめた。
「あの、少し良いですか?」
「どうした、月村。授業でわからない所でもあったか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」
言おうかどうか迷っているのか、すずかが両手を握りながら虎太郎を見ては目を背け、また見るという行為を続ける。
「―――――話し難い事なら、屋上に行くか」
すずかは頷き、二人は屋上に行く。
屋上には誰もいない。
太陽が夕陽に変貌し、街に黄昏色の光を放つ。
黄昏時は人と妖怪が交わる時間。
人の時間から妖怪への時間に変わる一時、それが黄昏時。
何時も三人で使っているベンチに腰掛け、すずかは静かに呟いた。
「虎太郎先生は……なのはちゃんの事を、どう思います?」
「どう思うか……か。それは随分と難しい質問だな」
相手をどう思うかという質問に、虎太郎は微かに戸惑う。友達であるなのはの事を、どう思うかという質問をするのは、どうにも腑に落ちない物を感じる。
「虎太郎先生がどう思ってるのか、知りたくて……」
それは違うだろう、とは言わない。
誰がどう思ってるのかは関係ない。恐らく、すずかは本当に虎太郎がなのはの事をどう思っているかを知りたいのではない。
ただ、確認したいだけなのだ。
無論、それを直接指摘する気はさらさらない。
「そうだな…………まずは、真面目な生徒だな。宿題は毎日キチンとやってくるし、授業態度も良い。教師の俺から見ても高町は良い生徒って感想が第一に出てくる。もっとも、宿題をキチンとやってきても間違いは多いし、態度が良くても勉強が出来るわけでもない」
だからと言って良い悪いを決める気はない。
頭が良いなんてものは関係ない。悪いのだって関係ない。授業中の態度も同様だ。相手を、生徒をどういう基準で評価するかなど教師によって分かれる。それこそ、十人十色というものだ。
「後はそうだな。明るくて優しいっていうのを絵に描いた様な子供という感じかな」
「…………」
「――――――だが、お前が聞きたいのは、そういう事じゃないんだろう?」
すずかはゆっくりと頷く。
視線を膝に置いた手に合わせ、その手は微かに震えている。
「高町と何かあったのか?」
頭を振って否定する。それこそ、一生懸命に否定する。悲しい程に、痛々しい程に。
「なのはちゃんが、悪いんじゃ……ないんです」
一語一句を絞り出す様に、すずかは語る。
「私が……私が、わからなくなっちゃったんです」
「わからない?」
「なのはちゃんの事が、わからないんです。今まで、全然そんな風に思わなかったのに、昨日になって急に……急に、わからなくなったんです」
すずかは語る。
昨日、アリサの家にお見舞いに行った事。そこで教頭と会った事。そして教頭との会話の中で笑ったなのはの表情が、空っぽに見えた事。それが見間違いだと思っていたが、今日一日なのはの様子を見ているとそれが見間違いでも気のせいでもない様に思えたならなくなった。
わからなくなった。
なのはが何を考えているのか、何を想い、どうしてあんな空っぽな笑顔を向けているのか。そして、それ以上にどうして自分の中でなのはを見る目が変わってしまったのか。
何もかもがわからなくなった。
わからない事が怖くなった。
「今までそんな事なかったんです。なのはちゃんが笑ってるのを、あんなふうに……あんな嫌な考えで見る事なんて一度も無かったんです。なのに、急に怖くなって。ただ笑っているのに心がない人形が笑っている様に想えて――――」
友達が怖いと想えてしまった。
自身を恥じた。
自身を蔑んだ。
だが、消えない疑惑。
「私……どうしちゃったんだろう?大切な友達なのに、そんな風に思っちゃうなんて」
すずかの手に、水滴が堕ちる。
「嫌なんです……こんなの、嫌、です……嫌だよぅ、こんなの」
疑心する己が許せない。
疑惑を持つ己が醜悪に思える。
なのはの全てが偽りで、何かを騙している様に思えている事が、友達としては思ってはいけない感情である事は理解しているつもりだった。
だからこそ、情けなくて、悲しくて、苦しくて、涙が出てきた。
「……な、なのは、ちゃんの……こと、真っ直ぐ……み、みれ、なくて、お話して、るのに表情ばっ、かり見て……観察し、てるみたいで……」
手の甲で涙を払うが、止まる事はない。
止められず、流れ続ける涙。
それを止める術を持つのは虎太郎―――ではないのだろう。止めるのは己自身。己の中で大切な何かを想う心を疑い、それによって失う事が辛い。だからこそ、その感情をどうにかするのは己しかいない。
だから、虎太郎に出来るのはすずかにハンカチを差し出すだけ。
「月村。お前のその想いは間違っちゃいない」
「でも……私、なのは、ちゃんのことを」
「わからなくて当然だ、そんなものは」
無意識の内に煙草を口に咥えていた。屋上は禁煙だから吸ってはいけないのだが、そんな事は知った事ではないとばかりに、火を灯す。
「誰だってそうだ。人の心の中を覗ける奴だって人の心なんてわかりはしない。お前がそうして自分の事がわからないのなら、他人だってわからない。月村が高町の事を疑いたくない気持ち、信じたい気持が在る様に、高町の事を信じられない気持があるのも当然だ」
わかり合えないから、わかり合おうとする。
知らないから、知ろうとする。
「相手の気持ち、心なんてモノを真に理解する事は不可能だ……悲しいが、これが現実だ」
頭を殴られた様な衝撃がすずかを襲う。
当然という現実を前に、手を伸ばす事すら馬鹿らしいと言われた様な気分になった。
「―――――だがな、月村」
煙草の煙が空に昇る。
ゆっくりと昇り、自然と消えていく。

「わからないから、諦めるなんて事は出来ないよな?」

煙草は身体の害になるから止めろと言われても、止める事なんて出来ない、それと一緒だと虎太郎は思う。無論、ニコチン中毒の自分とこの話を一緒にするなんて、見当はずれな気がしないでもない。
「好きだろ、高町の事」
「…………はい」
「好きだから、怖いんだろ?高町がお前の事をどう思っているのかわからない。アイツの空っぽは自分にとっても空っぽなのかわからない。その全ては相手の事を理解出来ない事が辛いから、お前は悲しい―――そうだろう?」
「どうすれば……いいんですか?」
「わからない」
教師は万能の神ではない。
一人の人間である事には変わりは無い。
だから人として、教師という役を得た虎太郎の言葉で紡ぐしかない。
「生徒と向き合っても心の中を見えるわけじゃない。生徒と話して、相手が自分に心の一部を見せてくれて、そうしてやっと心が見れると思う様になる。当然、心の中だって見れるわけじゃない。カウンセラーだって心理学者だって、心の中を見る事が出来ないから言葉や仕草で相手がどういう状態かを想像するしかない」
教師は心理学者ではない。当然、カウンセラーでもなければ森羅万象を司る神でもない。ただし、神が人の心を見れるとは思わない。
「人も動物も神様も、誰も相手の事を真に理解できるわけじゃない。むしろ、理解できないからこそ、言葉や想いがあるんだ」
「理解できないからこそ……」
「例えば、お前が相手の気持ちや心を想像できるとしよう。そして、それが全人類がそうであったとしたら――――それは素晴らしい事だと思うか?」
すずかは考え、首を横に振る。
「それは……怖いです」
「どうして怖い?」
「自分の心の中が、相手に全部わかっちゃうのは怖い……」
「そうだな。怖いな。俺の頭の中を覗いたら、きっと皆が白い目で見るだろうな。ギャンブル好きの博打打ち。頭の中にあるのはギャンブルと煙草の事だけでパンパンだ」
心を理解する事と覗き見る事は同一ではないだろう。
人の心の中には善悪があり、欲求だってある。その欲求を相手に知られるなんてのは、知られたくない全てを相手に晒す最悪な行為だ。
「人の心の全てがわかる奴に、相手を思いやる事なんて出来はしない」
心は見るべきものじゃない、想像するものだ。
想像して、相手を理解したつもりになって、そうして相手が喜ぶと思う事を行動する。
思いやりというものは、相手を想う事。
相手を想うという事は、相手を知ろうと努力する事。
相手を知ろうと努力する者は何時だって相手の事を想い、理解しようと頑張る。
「何を考えているのかわからないなんて皆一緒だ。俺だってそうだ。お前等生徒がどんな想いで俺と接するのかわからない。実は嫌っているかもしれない。目にも止めたく無い程に嫌悪しているかもしれない―――でも、だからと言って全てを放り出す事はしたくない」
虎太郎は煙草を消し、携帯灰皿の中に放り込む。
「月村。お前はどうだ?お前は高町の事を理解できないから―――逃げるか?」
「―――――――――いや、です」
何時の間にか、涙は止まる。
「逃げるのは、いやです」
視線は下でも上でもなく、前に。
「逃げても変わらない事なんて、わかってますから……前までずっとそうやって逃げて、目を背けて、耳を閉じて、何も口にしなくて…………けど、それじゃ変わらないって、知りましたから」
目を背けては、相手を見れない。耳を閉じたら、言葉が届かない。口にしなければ想いは届かない。
「私は、知りたいです」
昔はそうでも、今は違う。
「大切で、大事な、友達だから……」
それが迷惑になったとしても、知りたくもない何かになったとしても、逃げて前に進めるわけじゃない。
「なら、そうすればいいさ」
虎太郎は立ち上がる。
「どうなるかなんて誰にもわからない。神様だってわかりはしない。仮に神が全てを知っている全知全能だっていうのなら――――そんな思い違いして、何もしない奴とお前は違う」
虎太郎の頭の中に知り合いの神様の顔が浮かんだが、あれは神であって神じゃない。というより、威厳もへったくれもないから神扱いはしない。何より、全知全能でないからこそ、自分達の上に立っているのだろう。
「少し怖いけど……頑張ってみます」
そう言ってすずかも立ち上がる。
「迷惑かもしれないけど、このままじゃ嫌ですから」
あぁ、こうやって少女は大人に一歩踏み出すのかもしれないな、と虎太郎は思った。今まで高校生を相手にしてきたが、こんな子供の頃にどんな事をして、どんな影響があって高校生になったかなど知る事は出来ない。
だが、今の自分は小学校の教師。
これから成長し、中学、高校、大学、そして社会になっていく大人の最初が此処。
自然と笑みが零れる。
最初はどうして自分が小学校の教師なんて思ったが、それこそ思い違いだ。自分なんてまだまだの半人前だ。高校生を長年相手にしてきたが、それは教師として時間を重ねて来ただけに過ぎない。もちろん、それが無駄な時間だとは思わない。
自分の生徒は成長する。
そして、その生徒達のおかげで自分も成長する。
教師と生徒の関係は、そういうものなのかもしれない。
人と人が共に支え合い、歩む様に。
教師と生徒が互いに成長し、歩む。
「やれやれ、俺もまだまだというわけか……」
頭を掻き、溜息を吐く。
「ありがとうございました、虎太郎先生」
頭を下げ、急いで走っていくすずか。
後ろ姿は、先程までの小さな背中ではなく、少しだけ背が伸びただけの、大きな背中に見えた。
「あ、そうだ」
不意に脚を止め、すずかが虎太郎を見て、



「私は虎太郎先生の事は―――――大好きですから!!」



先程、虎太郎は自分で生徒に好かれているかどうかわからいと言っていた。だから、これはその生徒からの返答。
「だから、自信を持ってください!!」
そう言って、すずかは走って行ってしまった。
虎太郎はしばし呆然としていたが、すぐに噴き出す様に笑った。
教師が生徒を励ますのならいざ知らず、まさか生徒に教師が励まされるとは思ってもみなかった。
孤独の殻に閉じ籠っていた生徒がいた。
だが、その生徒は成長した。
心を成長させ、こうして走りだした。
「まったく……これだから教師は辞められないな」
ギャンブルを止められない、煙草を止められないのとは違う意味で、こういった嬉しさがあるから教師を続けているのかもしれない。
「―――ネコマタ、これもお前もおかげだな」
かつての大事な存在の名を口にして、虎太郎はまた煙草を口に咥える。

「何をしているのですか、加藤先生?」

そして、時間が止まった。
いつの間にか、屋上のドアの前に眼鏡を夕陽でキラリとさせた教頭が立っていた。
「まさか、こんな場所で煙草をお吸いになる気ではないでしょうね?」
「あ、いや、その……」
言い逃れは可能か―――否、不可能だ。
「駄目、ですかね?」
「駄目に決まってるでしょうが!!」
生徒は成長し、教師も成長する。
だが、それでも全てが成長するわけではない。
「もしや、体育倉庫で煙草を吸っていたのは、あの業者の方だけじゃなくてアナタもじゃないんですか!?」
それを指摘するように教頭の声が響き、空の上から鴉が一鳴き。
アホ~、と鳴いた









どの様な流れでこうなったのかは知らないが、男はなのはに尋ねる様にこう言った。
「お嬢ちゃんは想いについてどう思う?」
突然の質問になのはは首を傾げる。
「想いですか?」
「あぁ想いだ」
「それは……えっと、よくわからないです」
突然そんな事を言われても即答できる者などそうはいない。そもそも、男が何を尋ねたいのかすらわからないのだ。
「それもそうか―――なら、こう言い変えようか」
男は新聞のある記事を指さす。
そこには最近起こった事件が記されていた。
内容は海鳴のあるホテルの最上階が急に爆発炎上したという事件。死者こそでなかったが、怪我人は多数でたという事件。真相は何もわからず、ホテル側はガス漏れ事故と発表している。
「この記事を読んでお嬢ちゃんはどう思う?」
「…………大変だな、とは思いますけど」
「そうか、ならこれはどうだ」
次に見せたのは海鳴ではなく、日本の外で起きた事件。
北欧にあるバレルガニアと呼ばれる小国で起きた革命という事件。そこでは終身永世大統領、コリキア・リンドマンと呼ばれる男は国を独裁していたが、革命によって男は死んだという事件。
これは新聞やニュースが大々的に報道している事件の一つだ。
「このリンドマンという男は独裁者という奴でな。自分に従わない連中を全員殺すような残虐非道な奴だったらしいな」
自分の中にある冷静な部分で、こんな話を九歳の子供にしている自分も立派な残虐非道な奴なのではないかと疑い、そして同意する。
「だが、そんな奴も市民によって殺され、この国は平和に向けての一歩を踏み出したらしい……どう思う?」
なのはは混乱しているのか、「え」とか「う」とか一つの単語しか吐けない。
「別に世界情勢を理解しろと言っているわけじゃないさ。ただ、お嬢ちゃんはどう思っているか聞いているだけさ」
聞きたいだけだ。
この少女が【心の底でどう思っているか】を聞きたいだけ。
だが、それは無理な話だ。
そんな事は男も百も承知だろう。
だからこそ、そんな【餌巻き】を終え、糸を垂らす。
「悪いな。お嬢ちゃんには難し過ぎたか」
「えっと……ごめんなさい」
「いや、いいさ。むしろ、こんなモノは誰だって興味が無い話題だ」
「そうなんですか?」
「あぁ、そうさ」
きっと、自分の顔は酷く嫌らしい顔をしているのだろう。
「だってそうだろう?」
わざとらしく、肩をすくめて、
「誰が死のうが苦しもうが、遠い国の事なんて誰も気にしないだろさ」
反応を待ち―――すぐに手ごたえを感じた。
「そんな事、ないと思います」
なのはは口にした。

【空っぽ】な顔で【空っぽ】な言葉を口にした。

「死んじゃった人は可哀想だし、そんな事件があったら悲しいです……」
【空っぽ】な言葉。
「自分に関係無くても、人が死んだら悲しいです」
【空っぽ】な悲しみの顔。
やはり、と男は嬉しくも無い確信を得た。
「どうだろうな……自分に関係の無い事故や事件。そんなものにまで重苦しい想いを浮かべるのはどうかと思うがね」
これは間違った意見だと男は重々承知している。
「所詮は他人事さ、他人事」
この事件を見た時、正直な事を言えば悲しいとは思わなかった。ただ、嬉しい事ではないとは感じた。
遠い国の事だとしても、朝のニュースで流す程度に見たとしても、微かでもそういう想いを抱く事はある。
しかし、目の前の少女は違う。
「誰かの悲しみは自分の悲しみ……そういう風に教えられました」
「へぇ、誰にだ」
「先生です」
「そうか、それは確かに正しい意見だ」
だが、そうじゃない。
その【空っぽ】にはそんな想いなんて一欠けらもありはしない。
違和感は決して違和感ではない。
この少女の表面は確かに喜怒哀楽はあるだろう。だが、男の嬉しくもない長年の経験からそれはあっさりと仮面である事を理解させた。
少女に感じた【空っぽ】と【飢え】。その内の一つはこうして暴きだす事が出来た。嬉しくも無いが。
だが、なのはは気づかない。
「オジサンは、悲しくないんですか?」
「いいや、ちっとも」
半分本音、半分嘘。
「テレビの向こう側だからな、こういうのは」
「それ、間違ってると思います」
正しさではないだろうと主張する。
しかし、見れば見る程滑稽に思えてならない。
【空っぽ】の言葉を吐き出す、【空っぽ】な仮面。
「なら、この事件もお前の悲しみか?」
「悪いんですか?見ず知らずの誰かも、知っている誰かも、嫌な事や悲しい事があれば同じくらいに悲しい気持ちになるのは……悪い事なんですか?」
「―――――意味はないな」
これは殆どが本音。
「意味はないんだよ、お嬢ちゃん。テレビで見ただけで悲しくなる気持ちも、新聞で読んだだけで悲しくなる気持ちも―――意味はないんだ。なにせ、それで悲しいと思えるのはお嬢ちゃんじゃない。その事件事故に関係のある者達だけだ。ただ見て、聞いて、感じただけじゃ、その人たちの何倍にも劣る」
この革命は確かにその者達にとっては幸福だろう。同時に悲しみも生み出す。死んだ者も沢山いる。戦う力もなく死んでいった者もいれば、戦って死んだ者もいる。
英雄なんて存在がいない現実だからこそ、そういう現実を目にする事が多い。
強いから死なないわけじゃない。強くても死ぬ者は死ぬ。反対だってある。弱いから死ぬわけじゃない。弱い者は戦う事を選ばず、逃げる事、自身を守る事を選択する。
そして、今回は両方死んだ。
強い独裁者も死に、弱い市民も死んだ。
人は死ぬ。
あっけなく、あっさり、ありきたりに―――死ぬのだ。
「そんな事、無い筈です!」
なのはは力強く否定する―――いや、そういう【演技】をしている。
「そんな考えは間違ってます!そんなの、変ですよ!!」
変だろう、おかしいだろう、間違ってるだろう。
だが気づけと男は言葉にしない言葉を想う。
「間違っているのは、おかしい事か?」
「当然じゃないですか。誰だって悲しい事は悲しいと思うべきです。間違った事は間違いだって思うべきです」
「俺はそうは思わない。少なくとも、自分に関係のない事で悲しいとはこれっぽっちも思わない」
「どうして、そんな事……言うんですか?」
男は手を伸ばす。
男となのはの距離は遠くは無い、むしろ近い。だが、男が手を伸ばしただけでは届かない。
近いのに遠い距離。
「届かないからさ」
この状態で手を伸ばしても、届かない。
「どう足掻いても、手は届かない。そして、この目に写らない者は悲しめない。ましてや、俺の人生の中になんの接点も無い国に生きる者達の為に悲しめる事も不可能だ」
最低な人間だな、自分は。
男は心の中で自分自身を殴りつける。しかし、自分の吐きだした言葉の全てが間違いだとは思う事が出来ない。
届かない手は、どう足掻いても届かない。
目に写らない事件は解決できない。
手が届かない人は救えない。
努力しても、不可能なのだ。
「俺達はヒーローじゃない。テレビみたいに悪の怪人が悪い事をして、偶然ヒーローがそれを見つけて悪の怪人を退治する。だが、普通はそういう【偶然という力】すらない。そんな力は奇跡と呼べる代物だ。全ての者達がそれを手に入れる事は出来ない」
知っている事には悲しめる。
知らない事には悲しめない。
だからと言って、悲しい事を本当に悲しめる者などいるのだろうか。
自分に関係のない世界で起こった事件を悲しめる者などいるのだろうか。
いるかもしれないが、多分この少女は出来ない。
少なくとも、今の少女には出来る気はしない。
「―――――仮に、ある男がいるとしよう」
気づくべきなのだ。
その行為がどれだけ自身を苦しめているという事を。
「その男には家族がいた。妻はいないが最愛の息子がいた。男は息子さえいれば幸せだ感じていた――――だが、それが何者かの手によって壊された」
思い出す過去。
遠い過去だというのに、心は切り裂かれる様に痛い。
「…………その男の悲しみをお前が知ったら、お前も悲しいか?」
「当然です」
なのはは即答した。
虚しい程に早い即答だった。
「大切な家族がいなくなったら、悲しいと思うのが【普通】じゃないですか」
痛々しい。
「その人が悲しい気持ちなら、それを理解して悲しいと思う事が【普通】ですよね?なら、私は悲しいと思います。悲しいとしか、思えません」
痛々しいからこそ、気づけた。
少女の姿は、まるで断崖絶壁に縋りつき、今にも堕ちそうな哀れな者に見えていた。
「…………」
訂正しよう。
この少女は【空っぽ】であると同時に【縋りつく者】だ。
縋りつく為に【空っぽ】だった。
「確かにそれは普通だろうな……だが、普通だと思うのはその男以外の話だ」
「え?」
「男にとっては―――そんなものは必要が無い」
男は静かに言葉を紡ぐ。
「むしろ、悲しい思う事自体が許せないんだろうな」 昔を思い出す様に。
手を組み、握りつぶす様に息を吐く。
「お前が悲しむのは勝手だが、別にお前が失ったわけじゃないんだろう?お前が当事者なわけでもないんだろう?」
地面を睨みつけ、

「だから…………他人のクセに悲しむなってな」

普通な感情。
普通な対応。
普通、普通、普通―――だが、それは時に人を傷つける事がある。
悲しみを分かち合う事は良い。だが、悲しみを分かち合うには【想いの重さ】が違う。誰かの悲しみは自分の悲しみというかもしれないが、本当にそうなのだろうか―――否、そんなはずはない。
何故なら、人は人の心を真に理解する事はできない。
誰かの悲しみの重さと、それを理解しようとする者、分かち合おうとする者の想いの重さは決して同質ではない。
「悲しいと思うなら、自分と同じ事をしろ。悲しいと同情するならお前も血涙が出るまで涙しろ。悲しみを分かち合うというのなら――――お前も大切な何かを失ってみろ」
それが救いとなる時だってある。
苦しい時、悲しい時、誰かが傍に居る事は確かに救いになる。しかし、それを救いと見れない者だって確実に存在する。
「仮にお嬢ちゃんがその男の悲しみを理解しようとしたら、きっと男はお嬢ちゃんを殺すだろうな」
「どうして、ですか……」
少女は理解できないという顔をする。
それだけは【空っぽ】ではなかった。
恐らく、男が初めて目にする【空っぽ】ではない少女の顔。
「簡単な事さ。人は他人と同じじゃない。同じじゃないから分かち合えない。苦しみも悲しみも絶望も渇望も何もかも、それを感じた本人じゃないとわからない」
「おかしいですよ、そんなの」
「おかしくはないさ……おかしい事なんて何もない――――それが【普通】だ」
わかって欲しかった。
なのはの言葉は全てが【空っぽ】だという事を。
なのはの言葉の全ては聞こえは良い言葉―――台詞を口にしているに過ぎない。それを言葉にする為の想いが抜けている。だからこそ【重み】を感じられない。
想いは重いのだ。
演技するような言葉に重みはない。
清々しい程の綺麗な言葉は人を癒すだろう。だが、それを理解できない者だっている。人の優しさを理解しない者は重みもない言葉に心など動かさない。人として何かが欠けている者に上辺だけの善意など届かない。
故に【空っぽ】な少女の言葉は、わかる者にとっては本当に【空っぽ】なのだ。
それを理解して欲しかった。
下手をすれば、それが大切な何かを失う事をなるかもしれないから。
しかし、
「―――――」
男は過ちを犯した。
「―――――」
そう、これは立派な過ちだ。
「―――――」
男は気づくべきだった。
自身が重みのない言葉は相手を傷つける。だからこそ、【空っぽ】な言葉を紡ぐのは止めるべきだという想いを口にした――――しかし、それは別の見方をすれば違う意味を持つ。
「―――――がう」
男は気づいていない。
「――――ちがう」
男自身の想いは、確かに男の目線からすれば真実だっただろう。
だが、気づかない。
当然だ。
他人が他人を理解出来ない様に、【自分も自分を理解していない事】だってあるのだ。
それはつまり、



男自身が―――――【空っぽ】の言葉を口にしていたという事だ。



「ちがう、ちがう、ちがうちがう、ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう
ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう―――――ちがう!!」
仮面が崩れた。
崩してしまった。
断崖絶壁に縋りつく者の、掴んでいる部分を壊してしまった。
「ちがうよ、そんなのちがうよ?」
崩れた仮面の中にある【本物】が姿を見せた。
「だめだよ?そんなのダメだよ?駄目にきまってるよ?だめ、だめ、だめだめだめだめだめだめだめ――――そんなの、駄目!!」
そこに高町なのはという少女はいない。
いるのは目を見開き、言葉の全てを否定の言葉に変えた別の何か。
もしくは、先程のまでいた偽物の高町なのはではなく、【本物の高町なのは】が現れた、とういう意味にもなるのかもしれない。
「ちがうよ、オジサン。そんなのちがう……だって、そんなのまちがってる。へんだもん、おかしいもん」
「―――お前」
「かなしいときはね、かなしいっておもわなくちゃだめなんだよ?」
嗤っている。
壊れそうな程、嗤っている。
「だれかがかなしいとおもったときはね、かなしいとおもうの。かなしいひとにはね、かわいそうだとおもわなくちゃだめだの。そうおもわないのはね、わるいこのすることなんだよ?」
善意とは綺麗なモノだと理解するべきなのだろうが、この時だけはそうじゃない。
この少女の紡ぐ呪いにも似た善意は、善意の怪物。
「だから、おじさんはわるいこなんだね……でも、だいじょうぶ。わるいこにも、しんせつにしなくちゃだめなんだよ?わるいからひとりぼっちにしちゃだめ、わるいからしかるだけじゃだめ、わるいことはわるいことだってしっかりおしえて、そしてなかよくなるんだよ?みんながなかくよくしなくちゃだめ、なかがわるいのはだめ、わるいのはだめ、わるいのはよくしなくちゃだめ……だめなの、だめ、だめだめだめだめ」
紡ぐ言葉は聞こえが良いなんてモノではない。むしろ、気味が悪い言葉だった。善意の濁流とも思える羅列は人が聞いてはいけない、理解してはいけない恐ろしい呪い。
男は漸く気づいた。
自分の行った行為が、仮面を外させてしまった行為が、どれだけ恐ろしい事なのかと言う事を。
仮面を外した少女は、化物だった。
仮面を外せば本当の少女が出てくるとばかり考えていた。しかし、仮面を外した瞬間に現れたのは仮面を付けていた時以上に【空っぽ】な存在。
「おとうさんがいってたよ?みんなとなかよくするこは、良い子なんだって。おかあさんがいってたよ?ひとのためになるこは良い子なんだって。おにいちゃんはいってたよ?やしいこにはきっといいことがある、良い子にはいいことがあるんだって。おねえちゃんもそういったよ?だからね、なのはは良い子になるんだよ?良い子になってれば、みんながしあわせになって、わるいこがみんないなくなって、良い子だけがいるせかいになるんだよね?ねぇ、そうだよね?そうだよね?そうだよね?そうだよね?ね?ね?ね?ね?ね?ね?ね?ね?ね?ね?」
人間は天使と悪魔が同居している生き物だと誰かが言った。
だが、あれはきっと嘘だと男は苦笑する。
これの何処に悪魔がいるというのだ。
悪魔がいるならまだ可愛げがある。
しかし、悪魔なんていない。
天使だった。
善意を押し付ける天使という怪物がいる。
「だから、なのははおじさんのことをゆるすよ?おじさんはわるいこだけど、なのははおこらないよ?わるいことをしたら、あやまればいいんだよ?そうすればみんなゆるしてくれるし、なのはもゆるすよ?」
「…………お嬢ちゃん、もう喋るな」
壊れる。
このままでは、この少女が壊れてしまう。
「俺が悪かった。あぁ、全部俺が悪い。だからもう―――喋るな」
誠意のない言葉の羅列だが、少女にとっては十分な言葉だった。
「ほら、おじさんもちゃんとわるいことしたって、わかってたよね?うん、ゆるすよ。ゆるしてあくしゅするんだよね?そうしたらみんななかくよくできるんだよね?そうなったら、みんな良い子になるんだよね?おじさんも良い子だし、なのはも良い子だよね?」
藪を突いて蛇を出す―――昔の人の言った言葉は強ち間違いというわけじゃないらしい。
まさか、こんな怪物が潜んでいるとは思ってもみなかった。
「あぁ、お嬢ちゃんは良い子だよ」
気味が悪い程に、という言葉は心の中だけで言う事にした。
少女はえへへ、と嬉しそうに嗤う。
「うん、なのはは良い子なんだよ?だから、ともだちもできたんだよ?すずかちゃんも、ありさちゃんも、なのはのたいせつなおともだちなんだよ?あ、そうだ!おじさんもきょうから、なのはのともだちになろうよ?ね?ね?そうしよう?そうしようよ?ともだちがたくさんいるこは、良い子なんだよ?」
喋り続ける少女。
こんな少女の姿を見たら、あのすずかという少女はどう思うのだろうか。
驚くのか、悲しむのか――――もしくは、嫌悪するのか。
「まったく、自分が嫌になる」
「ねぇ、しってる?ともだちがほしいっていうこがね、ともだちがほしいっておもってね、ともだちになってくださいっていったらね、ともだちになってあげるのが良い子なんだよ?」
どうすれば元に戻るのだろうか。
まさかこんな子供に手刀を打ち込んで気絶させるわけにはいかない。
だが、一向に戻る気配のない少女を前にどうするべきかと考えている――――その最中、男は見た。
「だから、ともだちになってあげたんだよ?」
少女の背後に、見慣れた少女の姿があった。
すずかだった。
何も知らない様に、なのはを見つけて嬉しそうに走ってくるすずか。
少女は紡ぐ―――呪いの言葉。
「わたしは良い子だから、すずかちゃんにやさしくしてあげたんだよ?」
少女は紡ぐ―――心を突き刺す刃の言葉。
「すずかちゃん、ひとりでさみしそうだから、やさしくしてあげたんだよ?」
少女は紡ぐ―――全てを否定する悲しみの言葉を。
「だからね、すずかちゃんとともだちになってあげたんだよ?」
少女は紡ぐ―――絆を破壊する絶望の言葉を。
「良い子のなのははね、ともだちになってほしいっていうすずかちゃんをね、ともだちにしてあげたんだよ?」
呪いの言葉は、すずかの足を止める。
心を突き刺す刃の言葉は、すずかの耳に突き刺さる。
全てを否定する言葉は、すずかの心を切り裂く。



「すずかちゃんのことは、べつにすきでもなんでもないけど――――ともだちになってほしいっていったから、ともだちにしてあげたんだよ?」



絆を破壊する絶望の言葉は、すずかを打ち砕く。
「なのは、ちゃん?」
呆然としたすずかの声に、少女は振り向いた。
仮面を外した【空っぽ】の【群れ‐レギオン‐】がそこにいた。
「あ、すずかちゃん」
嬉しそうにすずかを見る少女。反対に、少女を見たすずかは言葉を失くす。
アレは、誰だろう。
目の前にいる友達の姿をしたアレは、一体誰なんだろう。
「おそかったね、ずっとまってたんだよ?」
嬉しそうに嗤う誰かは、すずかに歩み寄る。
その言い様のない不気味な存在に恐怖をすら抱く。だが、身体が動くよりも先に口が動いた。
「今の……本当なの?」
「なにが?」
「わ、私の……ことが、好きでも、何でも、ないって」
言葉にした瞬間、心が悲鳴を上げる。
この悲鳴を止めるには、否定の言葉が必要だ。
魔法の様な、奇跡の様な、素敵な否定な言葉。
今のは全部嘘。何となく口にしただけの出鱈目。そうであったのなら、ちょっと泣きそうになっただけで何とかなる。何とか自分を保つ事が出来るかもしれない。
だから、願う。
嘘だと願う。

「うん、すきじゃないよ?」

嘘だと願う。

「すずかちゃんがかわいそうだったから、ともだちなったんだよ?」

嘘だと願う。

「でも、すずかちゃんがともだちになってほしいっていったから、ともだちになったんだよ?」

嘘だと、願う。

「えへへ、なのはは良い子だから、すずかちゃんとともだちになってあげたんだよ?ねぇ、なのははえらいでしょう?良い子でしょう?」

嘘だと願う―――事すら、馬鹿らしくなった。
「あれ?どうしたの?すずかちゃん、どうしてないてるの?」
自分は泣いているらしい。
これは悲しいから泣いているのだろうか。それとも苦しいから泣いているのだろうか。わからないが、涙は流れ出る。
「かなしいの?くるしいの?なら、なのはもかなしいし、くるしくないとだめだよね?まってて、わたしもなくからまっててね?」
そう言って少女は自分の頬を力いっぱい抓った。
抓った事によって痛みを覚え、涙が流れた。
身体の痛みからの涙。そこには心の痛みを理解するそぶりすらない。
「うん、なみだがでたよね?だから、なのはもかなしいんだよ?すずかちゃんといっしょでなのはもかなしいんだよ?」
「―――――もう、良いだろう」
男は漸く気づいた。
己がどれだけ愚かな事をしてしまったかと言う事を。
「もう喋るな。それ以上、苦しませるな……」
少女はわからない、と首を傾げる。
「え?どうして?すずかちゃんがかなしいから、なのはもかなしいんだよ?ほら、ないてるよ?かなしいから、なのはもないてるんだよ?」
「お前は、人の心が理解できていない」
「そんなことないよ?なのはは良い子だから、すずかちゃんがかなしいのがわかるんだよ?かなしみをわかちあってるんだよ?」
「それは冒涜だ……お前のそれは、善でも偽善でもない―――醜悪だ」
「…………ちがうよ?どうして、おじさんはそんなひどいことをいうの?だめだよ?わるいことしちゃだめだよ?良い子でいないと、だめなんだよ?」
その口を今すぐ閉じたい。
物理的に、暴力的に、少女の皮を被った怪物の口を消し去りたい衝動にかられる。
だが、それよりも早く、
「――――なのはちゃん」
すずかが少女の前に歩み寄り、

パチンッと頬を打った。

「―――――え?」
少女の視界に写るのは、すずかの姿だけ。
溢れんばかりの涙が頬を伝い、睨みつける様に少女を見据えていた。
頬を感じる痛みに、混乱しているのか、そこに居たのは怪物でも少女でもない。
「なのはちゃんなんか……」
【ソレ】に向けて、

「なのはちゃんなんか――――――大っ嫌い!!」

拒絶の言葉を口にして、逃げる様に走り去って行った。
そして、残ったのは静寂。
其処に先程までの空間は存在せず、あるのは言い様の無い不快感。後味の悪い料理が並んでいるかのような気分。
「…………」
呆然としているのは男ではない。
むしろ、男は微かに驚きの表情を浮かべていた。
「…………」
頬を抑え、すずかが走り去って行った方向を見つめる【ソレ】は、
「…………ッ」
同じく逃げる様に走っていく。
すずかを追うのではなく、すずかから逃げる様に走って行く。
その時、男の隻眼に写った【ソレ】は、今までこの場に一度として姿を見せなかった存在。
【ソレ】は何か―――言うまでも無い。
【空っぽ】ではない。
【普通】ではない。
【善意】でもない。
【醜悪】でもない。
【ソレ】は紛れもなく、



友達を傷つけた事に後悔し、泣いている【高町なのは】だった。










【魔女】は嗤う。
その光景にひたすら楽しそうに嗤っている。
あぁ、最高だ。
こんな最高な喜劇を見たのは久しぶりだ。
これでいい、これがいい、こうでなければ面白くない。
【鍵】は自分の予想以上に【鍵】として育っている。
【鍵】に友達なんて必要ない。他人との繋がりなんて必要ない。必要なのは【鍵】が望む願いと、それを渇望するが故に願う愚かな想いだけ。
「渇望せよ」
【魔女】は謳う様に、
「渇望し、捨て去れ」
呪いの唄を紡ぎ続ける。
「渇望する為に善意で在れ。渇望する為に孤独で在れ。汝が望みは必ず叶う。その為に善意で在れ、孤独で在れ、誰からも好かれる善意で在り、そして誰も必要としない孤独で在れ」
【魔女】は踊り、謳い、そして狂喜する。
日は近い。
我が望みを叶える日は近い。
【鍵】が望みを叶えし時、【魔女】の願いも叶うだろう。
あと二日。
運命の日まで、あと二日。
嗤う。
嗤って狂う。
狂って嗤い転げる。
「あぁ、愚かな【鍵】よ。お前の望みはもうすぐ叶う」
不死の王に捧げる【鍵】。
そして【魔女】が異界を超える為の【鍵】。
その為にどれだけの人間が傷つこうと構わない。あんなガキ一人が悲しんでも構わない。むしろ、もっと他の者も苦しむべきだ。
苦しみのた打ち回り、もっと自分を楽しませろ。
前夜祭としては最高の出し物だ。
あと二日。
あと二日。
あと二日。
あと二日で――――







「あと二日で、満月か……」
アリサはそう呟き、完治した傷の部分の包帯を取る。
夕陽が沈み、夜が来る。
夜は人間の時間ではなく、妖怪の時間。
それが終われば人の時間が来る。
「さっさと満月になりなさいよね……」
そうすればこの傷も治るし、全力で身体を行使する事が出来る。
「はぁ、我ながらなんて身体なのかしら」
毒吐きながら――――笑う。
笑っているが、その笑いに隠された心は噴火寸前だった。
「何処の誰かは知らないけど、この落し前はしっかりと付けさせてもらうわよ」
今は牙を砥ぐ。
この牙を突き立てる相手を探し、一切の手加減なしに突き立てる。
あと二日。
あと二日で相手を探し出し、

「―――――首を洗って待ってなさいよ……ぶっ潰してやるんだからッ!!」

狼が月夜に吠える。
子供に似つかわしくない笑顔を浮かべながら、吠える。
その遠吠えは【魔女】には届かない。



だがそれは―――――【今はまだ届かない】だけに過ぎない、些細な事だ。








次回『人間‐魔女‐』





あとがき
あれ、なのはさんが壊れた……ま、いっか。
そんな感じな九話です。
なんか書いている何時になのはさんが壊れました。展開的に問題ないんですが、ここまで壊れなかったはずなんだけど……うん、何時もの事だ。
プロット通りに書けた事なんて一度もないしね~
そんな今回は
オッサン、やっちまったぜ
なのはさん、ヤンでる化
の二本立てでした。
いやぁ、ああいうシーンを書いてるとすっげぇ楽しい!!
そんな腐れ外道な事を考えながら、次回は【魔女】の正体が!な感じになるはずです。まぁ、別に隠してすらいないんですけどね、これが。
それでは、次回までさようなら~




PS、この作品の【鬱展開のままじゃ終らねぇぜ!!】です。



[25741] 【人妖編・第十話】『人間‐魔女‐』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/04/06 00:13
――――三度目になるが、高町なのはの事を語ろう。
「――――語る唇を縫い合わせ、語るべき事実を切り裂くべき」
しかし、【魔女】によって語れない。


――――語れないのなら、高町なのはという少女を見てみる事にしよう。
「――――見る眼は潰す。見ようとする意思を潰す。汝、見るべからず」
しかし、【魔女】によって眼は潰された。

――――語れない、見る事も出来ない。ならば、彼女を表向きにも知る人々の会話を聞いてみる事にする。
「耳は邪魔。言葉は邪魔。意思を伝える意思すら邪魔」
しかし、【魔女】によって耳は削ぎ落とされた。



高町なのはを語れない。
高町なのはを見れない。
高町なのはを聞けない。
結果、高町なのはという少女を知る術はこうして消えていく。
誰も彼女を知らない。誰も彼女を理解しない。同時に誰もを彼女は知ろうとしない。誰もを彼女は理解しようとはしない。
【魔女】によって己と他人を憚られ、あるのは孤独と孤立と孤高。
誰も知らない。
誰にも知られない。
高町なのはは誰にも何にも、わからない。



――――ならば、彼女自身に語らせる必要があるのかもしれない。



思い出は何時だって綺麗な物なんだと、私は思う。
綺麗な思い出、楽しい思い出、嬉しい思い出、どれだけ、どれほど、どこまでも、考えて思い出してもそうとしか言えない。
そう言わないと【嘘】になってしまう。だから綺麗だと【思いこむ】ようにしている。
だから、思い出は綺麗なんだ。
私の思い出は綺麗で、消える事が無い程に美しく尊い、最愛の記憶達。それを汚す事は罪で、そんな事をしたら失い、消え失せてしまうに違いない。
だから私は何時だって思い出を大切にする必要がある。これは願いではなく【義務】なのだろう。私自身がそう望み、みんながそう望んでいるに違いないのだから。
思い出は何時だって素敵な物が故に守り、壊してはいけない。
それが既に無くなっていたとしても、無くなったなどと思ってはいけない。大切な物を傷つけるなんて悪い子のする事だ。良い子はそんな事はしない。
綺麗な物は綺麗と思え。
醜い物は醜いと思うな。
優しい人には優しい気持ちで接しろ。
酷い人には酷い事を言わず、優しさを伝える。
プラスとマイナスであろうと関係はない。プラスにはプラスで答え、マイナスにはマイナスをぶつけるのではなく、マイナスすら受け入れプラスにすればいい。
わかり合えない、なんてことはない。誰だって話せば思いは伝わる。伝わらないのなら伝わるまで話せばいいだけ。理解されなくても話せばいい。理解されるまで話せばいい。
理解できないと思う事は罪。
理解しようとするのが当然の行為。
なぜなら、私は良い子なのだ。
良い子でなくては、いけないのだ。

良い子じゃなくては、【取り戻せない】のだ。




朝、学校。
教室、みんながいる。
「おはよう」
と言う。
朝の挨拶は一日の始まり。
一日の始まりは大切だ。
大切だから口にする。
みんなが「おはよう」と口にする。
私は笑ってそれに答える。
挨拶が終われば、次は席につく。
席についたら、今度は鞄を置き、教科書を机に仕舞う。
昨日の宿題はちゃんとやってきた。難しいけど、頑張ってやってきた。
机に入れたら、今度は誰かと話す。
誰でも良いから話す。
一人ではなく、誰かと共にいる必要がある。
どうしてか?
簡単だ。
そうしなければいけないからだ。
話した。
話した。
話した。
沢山、話した。
ふと、視線を反らしてすずかちゃんの席を見る。
誰も居ない。
誰も座っていない席は、すずかちゃんの席。
思い出す。
昨日の事を思い出す。
すずかちゃんに、嫌いだと言われた。
あれは駄目だ。
誰かに嫌われるなんて駄目だ。
すずかちゃんは、まだ来ていない。
普段ならとっくに来ているのに今日は来ていない。
通学バスにも乗ってこない。
もしかしたら、今日は休みなのかもしれない。
なら、どうしようか。
謝るにはどうすればいいのか。
そうだ、あとでメールをしよう。
ごめんなさいと、メールをしよう。
メールを送っても返事がなければ電話をしよう。
電話でごめんなさいと言おう。
電話に出なかったら家に行こう。
家に行って直接会って謝ろう。
ごめんなさいと謝ろう。
あやまったら許してくれるかな?
許してくれないかもしれない。でも謝ろう。
謝ってもう一度友達になろう。
だけど、

私は、何に謝ればいいんだろう?

昨日の事を思い出しても、わからない。
どうしてすずかちゃんが怒ったのか、大嫌いだと言ったのか、全然わからない。
でも、きっと私が悪いんだ。
私が悪い事をしたから私が謝るんだ。
うん、すずかちゃんは悪くない。
悪いのは全部私だ。
何が悪いのかはわからないけど、謝ろう。
私の何が悪いのかは知らないけど、謝ったらきっと許してくれるに決まっている。
だってすずかちゃんは良い子だもん。
なのはのお友達だから、良い子なんだ。
別にすずかちゃんの事は好きでもないけど、友達なんだから、仲直りしなくちゃいけないんだ。
ごめんなさい。
悪いのは私です。
だから仲直りしよう?
仲直りして、一緒に遊ぼう?
大丈夫、きっと仲良しに戻れる。
アリサちゃんが来たら、これで完璧だ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
でも、どうしてすずかちゃんは怒ったんだろう?
私、何か悪い事を言ったのかな?
昨日一晩考えてもわからない。
わからないから、謝る事にした。
そうだよ、謝ったら何が悪かったのかきっと教えてくれるよ。
そうだよね、そうにちがいないよね?
そうだよ、そうなんだよね?
なのはは、良い子だからきっとゆるしてくれるよね?
すずかちゃんとなかがわるいままは、きっとだめだよね?
うん、あぶない、あぶない。あやうく、なのはがわるいこになっちゃうところだったよね?
チャイムが鳴った。
皆が席に座る。
私も席に座る。
「あ~、おはようさん」
先生がきた。
昨日もそうだったけど、今日も体調が悪そうだ。
「……出席とるぞ…………ふぅ、腹減った」
お腹を押さえながら、気だるそうに出席を取る。
「高町なのは」
私の名前を呼ばれた。
元気良く、ハイッと言った。
「お前は何時も元気だな、感心感心……はぁ、腹減った」
誉められた。
うん、誉められるのは良い事だ。
誉められたから、なのはは良い子なんだ。
嬉しいな、楽しいな。
「次は月村―――は、休みだ。月村も風邪だそうだ。最近、風邪が流行ってるからお前等も気を付ける様にな」
そっか、すずかちゃんは風邪を引いたんだ。
なら、お見舞いに行かなくちゃ。
アリサちゃんの家にはまだ行ってないけど、お見舞いに行かなくちゃ。
あ、でも最近は物騒だから家にすぐ帰らなくちゃ駄目だった。
先生がそう言ってた――――うん、止めよう。
先生が駄目って言ったのなら、駄目なんだ。
先生の言う事をちゃんと聞かないと駄目なんだ。
駄目、ダメ、だめ、だめ、だめだめだめ、だめなんだよね?
「欠席はバニングスと月村だけ。それじゃ、授業始めるぞ」
授業が始まる。
加藤先生が黒板に書いた内容をしっかりとノートに取る。国語は苦手だけど、ちゃんとやらなくちゃ駄目なんだ。
「それじゃ次の文章を……高町、読んでみろ」
当てられたから読んだ。
しっかりと読んだ。
文章を眼でなぞり、しっかりと読んだ。
でも、わからない。
この文章から誰が何を思っているのか、まるで理解できない。
「よし、そこまでで良いぞ。この文章から作者は――――」
作者が何を考えたのか、加藤先生が説明する。
でも、わからない。
どうして悲しいのか、わからない。
どうして苦しいのか、わからない。
どうして泣くのか、わからない。
悲しいより嬉しいほうが良いのに。
苦しいより楽しいほうが良いのに。
泣くよりも笑うほうが良いのに。
ノートを取りながらも考える。
どうして昨日、すずかちゃんは泣いていたんだろう?
なのはは、何かすずかちゃんを泣かせる様な事をしたのだろうか?
わからない。
わからない。
わからない事ばかりだ。
わからない事ばかりだから、勉強している。勉強してわからない事を理解していく。その点から考えれば数字が羅列する算数、数学は簡単だ。
予めある答えにたどり着けばいいだけ。答えは必ず用意されている。用意された数字に数式をあてはめ、答えにたどり着けばいいだけ。
その点、この国語という教科は大の苦手だ。
だって答えがないのだから。模範解答はあっても、それが本当の答えと言うわけじゃない。答えがあるが、それが間違いではないとは言えない。
国語は人の心を知る為の授業だと、誰かが言っていた。
なら、どうして私は苦手なんだろう?
疑問に思った事はないけど、不思議と今になってそう思ってしまう。
どうして私は国語が苦手なんだろう?
逆にどうして数学は得意なんだろう?
わからない。
わからない。
わからない。
わからない――――わからないままにしちゃ、だめだよね?
うん、そうだよね?わからないのはだめなんだよね?わからないままにしちゃ、だめなんだよね?わからないままほうっておいたら、わからないままになっちゃうからだめだよね?わからないことをわからないままにしてたら、わるいこになっちゃうんだよね?
とりあえず、授業が終わったらわからない部分を先生に聞いてみる事にしよう。
うん、それが良い。
それが良いに決まっている。
聞いてみた。



結局、理解できなかった。








真っ白な壁を見つめながら、止まる。
もうすぐこの作業も終るというのに、男はどうして作業を進める気にはならなかった。
「――――やれやれだな」
道具を放り捨て、胡坐をかいて座る。どうせなら煙草でも吸いたいと思ったが、校内は禁煙だと言われたばかりだ。仕方がないので昨日と同じ様に飴を舐めようとするが―――止めた。
昨日と同じ様に、という部分がどうして気に入らない。
「後悔しているのか、俺は?」
自分自身に問いかけ、
「当たり前だな、阿呆」
自分自身に向けて罵倒を放つ。
昨日、この場所で起きた事の原因は誰にあるのかと言われれば、それは自分にあるのだろうと男は考えた。
どうして自分はあの少女の仮面を暴こうとしたのだろう。そんな余計な事をしなければ、一人の少女が傷つく事はなかった。仮に自分が暴こうとしなくても、何時かあの少女の異常性に誰かが気づくに決まっている。もしかしたら、すずかだって気づくかもしれない。もしくは、既に気づいたのかもしれない。
だが、それを知らずに自分は暴いてしまった。いや、暴くなんて事ですらない。あれは暴くどころか暴れさせたに過ぎない。
あんな子供の中に隠された異常ともいえる善意。善意という善意の中でも最高級な善意の塊。それがあれだけ異常性を秘めた善意だとは思ってもみなかった。
男の普通ではない経験の中で、偽善者という者は何人もいた。そういう連中は言葉だけは立派でも中味はそれに伴っていない、腐った連中ばかりだった。しかし、高町なのはのアレは偽善などではない。
白すぎる善意。
人間味のない、汚れの一つもない善意。
まるで作られた様な善意が、アレだけの存在だとは思ってもみなかった。久しぶりに戦慄という感情を覚えた。力が強い相手、異能が強力な相手は幾らでも見てきた。当然、その中には心が異常な者だっていただろう。だが、その中でもあんな異常を秘めた者はいなかった。
表も裏もない――――何も無い性格というのだろうか。
「善意、か……」
時に善意は人を傷つける事がある。本人にとっては良かれと思った事でも、他人にとってはお節介にもなり、同時に傷つけるナイフになる事だってある。
なら、自分の行ったアレは善意なのかと言われれば、わからない。
ただ、暴きたいだけだったというわけでもない。
高町なのはの仮面の下に隠された、言葉の裏に隠された本音を聞きたいと思ったのは確かにある。その結果がどうなるかなど考えなかったわけではないが――――駄目だ、と男は首を振る。
どう言おうが、どう考えようが、言い訳にしかならない。
あれは間違いだった、と決めつけるしかない。
「…………」
男は窓の外を見る。
窓の外にはグラウンドが見え、生徒達が体育の授業をしている。その中になのはがいた。すずかは居ないが、なのははいた。
笑っている。
昨日のアレが、まるでなんて事のない様に笑っている。
だが、腹は立たない。
何故なら、その笑っている顔ですら【空っぽ】なのだから、怒りすら湧いてこない。
【空っぽ】の仮面の下には、異常すぎる善意。
異常すぎる善意を隠す為の仮面ではなく、他人に合わせる為に作りだされた仮面。
それをなのは被っている。
友達を傷つけたはずなのに、笑っている。そして、それを何とも思っていない善意の怪物があの中には潜んでいる。
「…………」
だというのに、何故だろう。
確かになのはは笑っている。仮面でそういう風に見せているのだろうが、どうもしっくりとこない。
その原因は恐らく、アレだろう。
昨日、一瞬だけ見せた【空っぽ】でも【善意の怪物】でもない高町なのはのもう一つの顔。
アレは確かに――――【人間】の顔だった。
友を傷つけたという後悔の顔。友に嫌われたという悲しみの顔。それをしたのは偽る事すら出来ない程、自分だという顔。
あの顔は何なのだろうか。
偽りではない、嘘ではない、本当の顔だとでも言うのだろうか。
「…………やれやれ、情けないな」
頭を掻きながら、その場に寝転がる。
天井を見れば小さな染みが幾つもある。最初は綺麗な天井だったのかもしれない。それは時が経つにつれて汚れていき、こんな染みを創り上げていく。
人は生れた時はきっと真っ白だったのかもしれない。それが成長していくにつれて自我を持ち、性格を持ち、己を積み重ねていく。だが、それによって心という己自身でもどうにも出来ない危険物を生み出し、育てる事になってしまう。
昔は良い子だった。だが、数年後には悪人になった。
今まで自分が殺してきた者達とてそうだ。
最初から悪人だった者などいない。しかし、それでも悪人になった。悪人になる為の道を歩み、悪人になり、この手によって殺してきた。
スタート地点は皆が同じ―――その言葉が酷く嘘っぽく思えてきた。
子供の頃は皆が同じ様な純粋な存在ではない。心を持った時点で純粋な者などいない。心があるから人は汚れる。汚れて平気で人を傷つける悪魔になる。
なのはをそのどちらかに当てはめるとするのなら、
「人でもなく悪魔でもなく、か」
天使とでも例えるべきだろうか。
ただし、天使は天使でもお伽噺に出てくるような存在ではない。
善意という塊を具現化した天使など、人にとっては気味の悪い存在にしかならない。
人は悪魔か、それとも天使か。
「人は人だ」
人にしかなれない。
男は頭の中で高町なのはを分析し、三つに分ける事にする。
一つ目は、今グラウンドで笑っている高町なのは。
【空っぽ】の仮面を被った唯の少女。
二つ目は、仮面を脱ぎ去った高町なのは。
善意という善意を宿した天使の様な怪物。
そして三つ目は、
「そうか、あれが三つ目というわけか……」
三つ目は、【飢え】を持った高町なのは。
一瞬だけ見せた【人間】の顔は、恐らく最初に会った時に感じた【飢え】を抱いた顔なのだろう。その顔だけが唯一彼女を人間らしいと感じた時だった。それ以外の顔は全てが偽物だとも言えるだろう―――最悪、それすら偽物という可能性もあるのだが。
身体を起こし、もう一度なのはを見る。
【空っぽ】で善意で【飢えている】少女。
高町なのはという少女。
【空っぽ】、善意、【飢え】。
その三つを持った少女を見て、
「辛くはないのか、お前は?」
届かない声を、小さく漏らした。




夕方、生徒の居なくなった校舎で虎太郎は黄昏色の空を見上げる。
喫煙禁止という貼紙あるにも関わらず、そんなものは知らんという様に煙草を咥えて空を睨む。
「――――腹減った」
情けない声を漏らしながらも、その言葉がある種の現実逃避に聞こえなくもない。むしろ、空腹感などで誤魔化せるくらいなら、幾らでも感じてやる次第だった。だが、空腹感でも誤魔化させないものが現実にある。
今日、すずかは学校に来なかった。
理由は風邪と皆に説明はしたが、真っ赤な嘘である事は明確である。一応、家に電話をかけてみたが、電話に出たのはファリンというメイド。すずかの容体はどうだという質問に対し、彼女はすんなりと口にした。
『わかってらっしゃるんでしょう?』
と、真実を口にする。
それで十分だった。
すずかは風邪で休んでいるわけではない。風邪で休んでいてくれた方がよっぽど救いがある言葉な気がする。
しかし、これは現実だ。
すずかがどういう状態なのか尋ねると、ファリンは言葉を一瞬詰まらせ、
『昨日から、部屋に閉じこもったまま出てきません』
頭が痛くなる様な現状だった。
果たして、その原因は何なのか。どういう原因ですずかが引きこもっているのか―――それを考えるなんて逃避はしない。
虎太郎はファリンに何かあったら言えと一言伝え、電話を切った。
「わかってはいたんだけどな……」
言い訳はしない。だが、こうなるとはわかっていた。いや、正確に言うのなら、こうなるとわかっていた【程度】で済んで欲しかった。
彼の手の中には出席簿があり、そこに書かれているなのはの名前を見る。
高町なのは。
わかっていた。
初めからわかっていた。

高町なのはが普通ではない事など、とっくにわかっていた。

長年教師を続けたいたおかげか、言い様のない奇妙な感覚を感じる時はある。刑事の勘ならぬ教師の勘というものだ。科学的に証明する事は出来ないし、する気もない。ただ、この感覚は決して嘘になる事は無いと言う事は承知している。
だというに、止められなかった。
自身の間抜けさに自分自身を殴り飛ばしたいという衝動にかられる。しかし、自分を幾ら痛めつけても結果は良くはならない。
「言い訳すら出来ないな」
昨日、屋上ですずかと話した時を思い出す。あの時の自分の言葉は決して嘘ではない。心の底から思った事をすずかに伝え、すずかとなのはの問題という事で助言をしたつもりだった。だが、たった二人だけの問題などという認識すら甘かった。
今日一日、虎太郎はなのはを、聞こえは悪いが観察していた。そして常に思っていた疑問が決して間違いではない事を確信した。高町なのはという少女は【空っぽ】だと言う事に。【空っぽ】でありながら、その中には言い様のない巨大な何かが潜んでいると言う事を。
それを放っておいてはいけないと心が、己自身が叫ぶ。
放っておけば取り返しのつかない結果が待っている。
だが、それは既に遅い。
取り返しのつかない事は既に起こっている。
二人の間にどういうやり取りがあったかはわからないが、すずかが引きこもり、なのはが平然とクラスにいる状態が既に異常だ。
虎太郎の眼から見てもなのはは優等生だ。勉強の面から見てではなく、性格の面から見ての話だが。
誰にも優しい。
誰にも優しすぎる。
誰とも争わない。
誰とも争えない。
そんな子供なんて普通にいるだろう。だが、普通じゃない部分が大きい。
何時も笑顔―――ただし、何処か作り物めいている。
何時も優しい―――ただし、何処か達観している。
良い子というカテゴリに当てはめるには些か納得がいかない性質を持っている。それがどれだけ巨大かはわからないが、虎太郎の読みは全てにおいて的中していた。
虎太郎とて全知全能の完璧超人ではない。だが、長年の教師としての経験と、普通ではない経験の積み重ねによって答えにたどり着く事は出来た。
想像という答えは最悪。
そして、その最悪の答えは全てが的中している。
それ故に、あまりにも遅すぎる行動を開始した。
まず一つ。
他の教師になのはの事を尋ねる。
結果、誰もが同じ回答。
なのはという少女は誰の眼から見ても、教師の眼から見ても成績以外は良い生徒という印象だった。
二つ目。
なのはの両親について調べた。
調べると言っても学校にある生徒の情報から調べただけなのだが、ある程度の情報はわかった。
なのはは九年前に海鳴にて誕生。それ以降、街の外に出る事はなく、ずっと海鳴で育ってきた。彼女の両親には高町士郎という父親と母親である高町桃子がおり、歳の離れた兄弟が二人いる。名前は兄の恭也と姉の美由希。兄が大学生で姉は高校生。
両親は喫茶店を経営しており、名前は翠屋というらしい。
その情報は全ての教師は知っていた。校長も教頭も同じ、そして三年間なのはの担任をしてきた霙も同様だった。
だが、虎太郎はある事に気づいた。
これは生徒も教師も同様の答え。
質問は一つ。
「高町の両親はどういう人なんですか?」
という質問に皆がこう答える。
「良い人らしいですよ」
なんの変哲もない返答だった。
しかし、だ。
生徒にも同じ様な質問をする。
「高町の両親はどういう人なんだ?」
生徒達も平然と答える。
「良い人なんだって」
これも何の変哲もない返答。
「…………良い人、か」
誰もが良い人だと答える。
誰もが知る良い人という情報。
それが最初の引っかかりだった。
普通は疑問にも思わないだろう。虎太郎とて最初はそう思っていた。しかし、この質問をしていくうちに、彼は間違って違う学年の生徒に質問したのだ。
同じ様に、
「高町の両親ってどういう人なんだ?」
言ってしまってすぐに気付いた。
虎太郎が質問した生徒は数日前にこの学校に転校してきた少女だった。名前は覚えていないが、確かにダンチェッカーという性を持っていたはずだ。そのダンチェッカーという生徒は平然と答えた。
「良い人らしいです」
気づいた。
言い様のない違和感が、漸く明確な答えとして姿を見せた。
誰もが皆、同じ事を言うのだ。
生徒も教師も、誰もが高町なのはの両親を良い人だと言っている。
しかし、



誰もが【知っている】が、誰もが【見た事はない】のだ。



それも転校してきて数日の学年すら違う生徒ですら、同じ答えを示す。その後、虎太郎は高町なのはという生徒を知っているかと尋ねると、生徒は知らないと首を振る。
違和感はこうしてどうしようもない程の何かを生み出す。
誰もが高町なのはを知っている。しかし両親は知っている。しかし、両親を【見た事はない】という。
あまりにもおかしい。
もう一度資料を見直すが、おかしい個所は見当たらない―――と、思っていた時、見つけた。
文面には残ってはいないが、なのはが入学した時に撮った写真があった。その日に入学した生徒全員が写っている写真には生徒の両親も一緒に写っている。その中になのはの両親らしい人物が写っていた。
なのはに似ている母親と父親。
その写真を持って今度はなのはの両親を知っていると答えた教師に尋ねる。
この写真に写っている二人を知っているか、と。
すると、
「この人は……えっと……誰だっけかな。すみません、わかりません」
知らない、わからないと答えた。
矛盾しているのだ。
高町なのはの両親が【良い人だと言う事は知っている】が【その姿を知っている者は誰もいない】という矛盾。
「どうして、誰もこれに気づかない?」
こんな事は気づいて当たり前だ。
学校で在る限り、家庭訪問という行事があるし、授業参観や親を学校に呼ぶ行事なんて山ほどある。当然、誰もがそれに来るというわけではないが、資料としてこうして残っているにも拘らず、誰も【知ってるが見た事がない】という状態は明らかにおかしい。
「おかしいおかしいとは思っていたが、これはおかしすぎる」
高町なのは。
ただの生徒ではなく、何かを抱えた生徒。
しかし、その認識すら甘かった。
高町なのはという生徒は内だけではなく、外にすら何かを持っている。
そもそも、おかしいのだ。

「あんな生徒がいて、誰もそのおかしさに気づかないわけがない」

誰もが虎太郎と同じと言うわけではない。教師でありながら教師としての行為を放棄する者だっているだろう。だが、例えそんな人間がいたとしても、なのはという人間の異常性に気づかないわけがないのだ。
気づけば、虎太郎は二本目の煙草を吸っていた。
吸わなければ頭が回らないというわけではないが、吸わなければ苛々するのも事実。しかし、今はその煙草の味すら不味く感じている。
誰も気づかない。
誰も知らない。
誰も疑問にすら思わない。
「―――――いや、違う」
気づかないのではない―――気づかせない。
知らないのではない―――知らせない。
疑問に思わないではない―――思わせない。
そう、まるで何者かが高町なのはという少女を周りに【認識できないように】にしている様な状態なのだ。
何者かが誰かはわからないが、的外れという事はないだろう。
だが、理由はなんだ。
こんな事をする理由があるのだろうか。
そもそも、こんな事をして誰が得をするというのだろうか。
「…………俺が調べられるのは、この辺までだな」
虎太郎は携帯で月村忍に電話をする。
『―――――はい、私です』
「あぁ、俺だ。虎太郎だ」
『先生……』
忍の声には覇気がない。恐らく、すずかの事で気に病んでいるのだろう。最初に会った時からそうだが、家族の事に対して色々と気を使う性格らしい。
「こんな時に悪いが……お前に頼みたい事がある」
『…………それは、今じゃないと駄目ですか?』
「今じゃないと駄目だ。というより、今を逃せばとんでもない事になるかもしれない」
何かが起きるという確証はない。だが、何かが起きる前に、既に何かが起こっていた。その原因がなのなにあり、
「それにこれは、月村の為になるかもしれん」
『すずかの、ですか?』
「確証はない。だが、それが何かわかれば月村の事に関しても何らかの解決になるかもしれない」
『――――――何を、調べれば良いんですか?』
心の中で一言詫びを入れ、
「高町なのはの両親について調べて欲しい」
『高町なのは、ですか……えっと、それって確かすずかの友達の』
疑問に思うのは当然だろう。だから虎太郎は先程自身が調べた事、それについて感じた明らか過ぎる不審な点を伝える。すると、忍の方もそれがどれだけおかしな事だという事に気づいたのだろう。
『それは確かに……えぇ、わかりました。こちらの方でも調べてみます。調べてはみますが……本当に、すずかの為になるんでしょうか?』
「わからん。結局は俺の取り越し苦労で、何にもならないかもしれない」
『なら―――――』
「だが、そうだと言って何もしない事にはならない。気づいたのに行動しなかった俺に非があるし、月村がそんな状態になったのも俺が一枚噛んでいるのも事実だ……罪滅ぼしの為に動くわけじゃないが、動かなければ俺は俺を許せないと同時に、申し訳が立たない」
すずかにも。
ネコマタにも。
そしてこの学校にいる生徒や教師たちにもだ。
「俺は教師だ。教師が生徒の為に何もしないなんて事は出来ない。そんな教師は既に教師じゃない……」
嘘偽りの無い言葉。
「俺はまだ、教師と名乗り続けたいからな……その為に、お前の力が必要だ」
『…………』
勝手な願いだとはわかっている。
それでも力が必要だった。
人間、人妖一人の力ではどうにも出来ない事かもしれない。現状で既に詰まっている様な状態なのだ。これ以上先に進むにはどうしても誰かの力が必要になる。
『…………私も、です』
電話の向こうから、忍は言う。
『私も、先生には……先生には先生といて欲しいです。すずかの担任として、私とすずかを救ってくれた加藤虎太郎先生として居て欲しいんです』
「…………」
『アナタだからすずかを託せます。あの子の最初の担任がアナタだから託せるんです。それがすずかの為でもあり、私の為でもあります……アナタが居なかったら、あの子はこうして悲しまなかったけど、アナタがいたからこうして悲しめます』
「すまないな」
『ふふ、違いますよ、先生』
忍は言う。
『そういう時は、すまないなんて言わないんですよ』
「―――――あぁ、そうだったな」
虎太郎は微笑みながら、

「頼んだぞ」

と言った。




電話を切り、忍はすずかの部屋のドアを見つめる。
昨日の晩から、学校から帰ってきてからすずかは一度も外に出てこない。
帰宅したすずかの忍は何時もの同じ様に「おかえり」と口にした。普段ならすぐに「ただいま」という言葉が返ってくるはずだった。だが、言葉は返ってこない。どうしたのかと見てみれば、すずかの瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
尋ねても、すずかは答えない。答えず自分の部屋に逃げるように走っていき、それから一度も出てこない。
何度もドアを叩いても入れてくれない。何があったのか尋ねても同じ様に返答は無し。それでも何とか話を聞こうとしても帰ってくるのは無言―――そして、嗚咽。
何があったのかわからない。ただ、大事な妹が泣いているという現実を前に、頭の隅に追いやっていた過去が怒涛の勢いで息を吹き返す。
まるで、あの時と同じだと思った。
三年前、すずかが血だらけになって帰って来た日。
それよりも昔、自分が裏切られた日。
その記憶が勝手に蘇り、身体を震わせる。
原因は何なのだ、誰のせいでああなった、などという怒りが込み上げてくるが、同時にあの時の自分とは違う事を忍は認識している。
あの時は逃げた。
言葉を交わす事から逃げ、相手の意思を知る事から逃げた。
だが、今は違う。
忍は粘った。
すずかの部屋の前で、何度も何度もドアを叩き、すずかに声をかけ続けた。
ずっと、ずっと。
取り返しのつかない事になるなんて事が嫌だから、こうして声をかけ続ける。そんな時の虎太郎からの電話。
虎太郎は高町なのはの事、その両親の事を調べて欲しいと忍に頼んできた。それがすずかの為になる可能性もあるとも言っていた。
なら、これがその原因なのかもしれない。
すずかが何時も楽しそうに語ってくれた初めての友達の事。三年間の悲しみを振り切り、今を見ながら生きている様に語ってくる内容を聞いて忍も心の底から嬉しいと思っていた。だが、それがこうして否定された。
いや、まだ否定されたわけじゃない。
否定されてすらいない。
まだ何とかなる。
なるに決まってる。
「―――――すずか、聞こえる?」
だから、こうして妹に声をかける。
「出てきたくなかったら、出てこなくてもいいわ」
ドアの向こうからは何の返答もない。
「でもね、これだけはわかって……私は、すずかの味方だから。どんな事があってもアナタを見捨てたりしない。昔の様に、アナタの全てから目をそらしたりしない、絶対に」
自分に言い聞かせる様に、言葉を紡ぐ。
「出てきたくなったら何時でも出てきていいわ。出てきても、無理に話してくれなくてもいい――――でも、これだけは忘れないで」
電話を握り締め、

「アナタは一人じゃない」

最愛の家族に向けて、
「どんな事があってもアナタを一人にはしないわ。私だけじゃない。ノエルも、ファリンも……虎太郎先生だってそう」
そして、すずかの大切なもう一人の友達だってそうだ。
「アナタを一人にさせない為に私達がいるの。だから、絶対にあの頃みたいに何もかもを諦める様な事をしないで。そして、諦めたフリをする事もしないで……」
絶対に味方で在り続けると心に決める。
「言いたい事があったら何でも言ってくれていい。愚痴でも不満でも何でもいい。私達はアナタと話がしたいの。アナタの事を知りたいの。アナタが何に苦しみ、悲しんでいるのか知りたいから……知らなくちゃ、いけないから」
知りたい。大切な家族の一人なのだから。
「じゃないとさ……お姉ちゃんとして情けないじゃない?自分の妹一人も守れない癖に、この街だけは守れるなんて、情けないからさ」
街を守る事は月村の使命だが、大事な妹を守るのは忍の願い。
返答はない―――だが、構わない。
「言いたい事はそれだけ……それだけ、だから」
ドアから離れ、自室に向かって歩き出す。
しかし、その足はすぐに止まる。
背後でドアが開く音。
振り返ると、そこには泣き腫らした眼をしたすずかが立っていた。
「すずか……」
「…………」
昨日の服のまま、学校指定の制服はシワだらけになっていた。スカートを何度も握り締めたのだろう。何度も涙に濡らしたのだろう。それでもそれが汚いとは思わない。
すずかはゆっくりと忍に歩み寄り、何も言わずに抱きついた。
まだ、泣いている。
涙が枯れないから、泣いてる。
忍はすずかを優しく抱きしめ、
「――――大丈夫。大丈夫だから……」
泣いている妹には優しい言葉を。
そしてコレを行った【謎】には最大級の敵意を。
海鳴の街に住まう者はこうして動き出す。
教師が動き、友が動き、姉が動く。
たった一つの小さな絆の為に、誰しもが動く事に疑問すら抱かず、動き出す。
そして、すずかは小さな声で語りだす。
自分と友達の間に何があったのかを語りだし、それによって忍は虎太郎からの依頼がどういう意味を成すのかを理解する。同時に、その依頼がすずかとアリサの間に起こった現象にも関係あるのではないかと思うのだった。



こうして人は、【魔女】の存在に気づきだす。




「あの、加藤先生。今から行くんですか?」
霙は不安そうな顔で前を歩く虎太郎に尋ねる。
「すみませんね、どうしても気になる事があって……」
虎太郎と霙は人気のない夜道を歩いていた。周りは夜の時間を楽しむ住宅の光が灯り、カーテンには楽しそうな家族の姿が影絵の様に浮き上がる。
そんな光景を見ながら二人は向かっている場所は、翠屋と呼ばれる喫茶店。
「ですが、帝先生。なにもアナタが来なくても俺一人で良かったんですよ?」
「そういうわけにはいきません。聞きましたよ、前に月村さんのご自宅に行った時、不法侵入が可愛く思える程の事をしたって!!」
「あれは家庭訪問です」
「どこの世界に家庭訪問で家の中を半壊させる教師がいますか!?」
此処にいるだろう、とは言わない。これでも一応は空気を読むほうだと自負している。だが、正直な事を言えば霙がいてくれた方が助かるというのが本音だ。
なにせ、彼女はなのはの両親に【会った事がある】のだ。
伊達に三年も担任を務めていたわけではないのだろう、虎太郎がなのはの自宅と翠屋の場所を尋ねるとすぐに教えてくれた。もっとも、彼女が着いてくると言ったのには少しだけ困惑した。
何も無ければ問題はない。だが、何かあった時に霙に危害が及ばないとも言えない。
「それにしても加藤先生。気になる事って何なんですか?」
「……まぁ、ちょっとした事ですよ」
「そのちょっとした事が気になるんですけど」
果たして言っていいものかどうか迷う。霙がなのはの異常性に気づいているかどうかはわからない。だが、気づいていないのなら、それを気づかせない様にした何者かがいるはずだ。
その何者かに気づかれる可能性の捨てきれない―――もしくは、既に気づかれている可能性すらあるだろう。
「気になるだけですよ、単にね」
「むぅ、加藤先生ってそういう所は誤魔化しますよね?というか、副担任である私に何の相談も無しに色々と事を進めるのは如何な物かと思いますよ」
不貞腐れる様に言う霙に、虎太郎は笑うしかない。当然、苦笑の方だ。
月村邸への家庭訪問の時もそうだが、虎太郎は基本的に誰にも相談せずに色々と事を成していた。有名なのが月村邸突撃家庭訪問だが、それ以外にも色々とやらかしているというのが実態である。その辺の事を虎太郎は全く相談なしに行う為、後になって知った霙としては溜まったものではないのだろう。
それ故、今回の行動には自分もついて行くと言って聞かないのだ。
「いい加減、話してくれませんか?」
「……後で話しますよ」
すると、霙は虎太郎の手を掴み、強引に引きとめる。
「私だって!!」
目と鼻の先、という言葉を体現するように、虎太郎の顔にグッと自分の顔を近づける霙に、流石の虎太郎も一瞬焦る。
「私だって……高町さんの、なのはさんの担任なんですよ?」
しかし、その眼にあるモノが本物の意思である事を知った今、平常心よりも先に安心感が生まれる。
「大事な生徒の為に動く事は私だって賛成です。でも、加藤先生一人の生徒じゃないんです。私の生徒でもあるんです」
「それも……そうですね」
「そうなんです!!大体、加藤先生は勝手なんですよ!!生徒の事も、授業の事も、私の一言の相談も無しに勝手に決めて、勝手に進んじゃうし―――言っておきますけど、教師歴は加藤先生の方が長くても、この学校では私が先輩なんですからね!?」
子供みたいな主張をする霙に、吹き出しそうになるが堪える。結果、なんとも言えない奇妙な顔になってしまったが故に霙は不信感を前のめりにした顔をする。
「なんですか、その顔は?」
「いえ、なんでもないです」
「嘘ですね……うぅ、もうっ!!こうなったら言わせてもらいますけどね、加藤先生が何か起こす度に教頭にグチグチ文句を言われるのは私なんですよ?そのせいで私がどれだけ苦しい目にあっているか、加藤先生は知るべきなんです!!」
その後、目的地に着くまで霙の虎太郎への文句というか愚痴が次々と雨霰の様に降り注ぐ事になるだが、長いのでかつあいするとしよう。
そして、目的地が近くなると、霙は思い出す様に周囲を見回す。
「えっと……この辺だと思うんですけど」
念の為、周囲の変な気配が無いかを探る。
周囲に誰も無い。
「誰もいない?」
それは変だ。
住宅街であるにも拘らず、誰の気配もしない。誰かが住んでいるであろう家は沢山あるにも拘らず、人の気配がまるでない。気づけば、人の声も気配もなければ、家には明かりも灯っていない。
「奇妙というか……おかしすぎる」
「え、どうかしました?」
霙はその異常さに気づいていないのか、首を傾げている。
「帝先生。この辺りは前からこんな感じなんですか?」
「こんな感じと言われましても……別に変ってませんよ」
霙の眼にはそう写るのだろう。
「聞き方を変えます――――この辺りは、前からこんなゴーストタウンになってるんですか?」
虎太郎の言葉に、流石の霙も気づいたのだろう。
明りの無い家。
人の気配の無い家。
周囲には街灯の光はあっても人の光は一つもありはしない。
明りが灯っているにも拘らず、薄暗い世界が其処にある。
「どうして、こんな……」
「俺から離れないでください」
霙を守る様に前に立ち、周囲の気配を探る。
何もいない。
敵もいなければ、味方もいない。
物音すらしない。
「――――――」
嫌な感じがする。
無音状態が鼓膜を刺激し、脳内に奇妙な刺激を生み出す。

心なしか、空気の匂いすら変わっている気がする。

「――――――ッ!?」
いや、違う。
気のせいではない。
匂うのだ。
言い様の無い、不快な匂いが鼻を刺激している。
甘ったるく、どす黒い感覚が脳内になだれ込み、思考を狂わせようと必死に何かを囁きかける。
暗示の一種か、幻術かはわからないが、こういった呪術が存在する事は知っている。伊達に鴉天狗や神に近い存在の近くにいたわけじゃない。こういうモノへの対処法すら心得ている。
心を沈め、大きく息を吸い込む。
匂いを身体に取り込むのは傍から見れば間違っている様に見えるが、取り込む事によってこれが如何に害悪のある存在なのかを身体に知らしめる。その後に呪文の様な言霊を紡ぐ。無論、虎太郎に妖怪の使う妖術など使えはしない。
これは暗示の一種だと教わっている。
人間でありながら妖怪の幻術に抗う為の方法。
「あの、加藤先生?」
虎太郎の奇妙な行動に霙は困惑するが、今は構ってはいられない。霙はこの空気、匂いに気づいていない様子を見るからに、この幻術の対象は虎太郎一人に向けられている。
「………………よし、行きましょう」
完全ではないが、ある程度の耐性を作り、虎太郎は霙の手を引いて歩き出す。目的地はすぐ近く、視界にもしっかりと捉えた。
翠屋と書かれた建物があった。
否、それは最早建物とは言えない状態だった。



翠屋は――――廃屋となっていた。






結局、今日一日まったく作業は進まなかった。
本来なら今日で作業は終わり、この時間で作業終了の連絡をいれ、撤退する予定だった。そんな予定を狂わせたのは自分であり誰かを責める事は出来ない。
「工期が遅れて、どやされるも俺の責任か」
もっとも所長はきっと自分を責めはしないだろうが、工期をきっちり守れないのは自分が原因だ。会社に戻ったら素直に頭を下げるつもりだった
男は道具を仕舞い、学校から出ようとした。
その途中、
「あら、こんな時間までお仕事ですか?」
眼鏡をかけた女教師。確か、先日男が隠れて煙草を吸っていた場所に貼紙を張っていた女性だ。
「確か……教頭先生でしたか?」
教頭は頷き、
「こんな時間までお仕事とは御苦労さまです」
男を労う言葉をかける。
「いえ、予定では今日で終わるはずだったんですがね……どうも作業が進まなくて、この様ですよ」
「あぁ、そういえば予定では今日で終わりでしたね。ですが、一応遅れの事も考えてあと三日はあったはずですから、あまりお気になさらず」
「そう言っても貰えると助かりますよ。それにしても、教頭も大変そうな仕事ですな。こんな時間まで学校に残っているなんて」
時計の針はもう八時を回っている。校内には人の気配は殆どなく、いるのは男と教頭の二人だけだった。
「校内の見回りをしておりました」
「見回り?そういうのは警備員の仕事では?」
「警備員の仕事は九時からですので、それまでは私が見回りをしているんですよ。まぁ、こんな時間まで校内に残っている生徒なんていないのですがね」
苦笑する教頭だが、男は素直に驚いていた。
「ほぅ、随分と仕事熱心だ。私も教頭みたいに仕事熱心になりたいものですよ」
社交辞令で言ったわけではないが、どこか嘘臭く感じるのは気のせいではないだろう。男自身、そう思っているからだ。
「別に仕事熱心というわけではありませんよ」
教頭はポツリと言った。
「幾ら熱心に教師という仕事をしたからといって、それが功を成す事なんてないのですから」
「そうでしょうかね?私から見れば、教師という仕事は生徒の為に働き、生徒の功を成す仕事だと思ってましたが……」
だが、返って来たのは否定的な言葉だった。
「生徒の為というのは嘘ですよ。誰だって、自分の為にしているんですよ。アナタは、誰かに感謝されたくてその仕事をなさってるんですか?」
「…………いえ、違いますね。確かに仕事を終えた後に感謝されるのは嫌ではないですが、これは自分が飯を食う為にしている事にすぎない。とてもじゃないが、誰かの為とは言えませんな」
「それと同じです。教師だから生徒の為に何もかもをするなんて事はあり得ませんよ……少なくとも、私はそう思っています」
なら、どうしてこんな時間まで校内の見回りなどしているのか、そういう疑問が浮かんできたが口にはしなかった。それよりも先に教頭が口を開いたからだ。

「私達教師は……生徒の為に何もかもを成してはいけないのですから」

「…………」
教頭は真っ暗になった学校を見据える。
「アナタは、この学校をどう思います?」
「どうと仰られても……そうですね、良い学校だとは思いますよ。この学校の生徒は私みたいな者にも普通に話しかけてくれますし、そんな生徒達を見てると良い子ばかりだとも思います」
中には、異常性を秘めた者もいるが、それはほんの一握りだろう―――そう考え、不意に自己嫌悪に陥る。
これではまるで、なのは一人を別存在とみている様ではないか。
この学校の教師の前で、自分は何を考えているのだろうか。
「そうですね。良い子ばかりです。ですが、誰だって子供のままではいられません。此処では良い子だって生徒だって時が経てば変わります。純粋な子が数年後には犯罪者になり、勉強が得意だって子は勉強のせいで自殺する。運動が得意な子はこの街では一番に慣れても外では一番になれない。それどころか、出る事すら出来ないと絶望する」
今はそうでも未来はわからない。
「私は思うんですよ。教師なんて仕事は、決して誉められる仕事ではない……いいえ、むしろ【誉められてはいけない仕事】なのかもしれないと」
「…………」
「―――――最近、この学校に新しい先生が来ました。その先生はこの街の外から来た先生なのですが、毎度毎度問題を起こす困った先生でしてね」
ふと、男は教頭の表情に気づいた。
「本当に困った教師なんですよ。暴れん坊な生徒よりも暴れん坊で、生徒よりも困った教師なんですよ、その人は」
口ではこれだけ言いながらも、
「まったく、あの人が来てから私の苦労は日に日に増すばかり……」
「教頭は、その先生の事が羨ましいんですか?」
「え?」
「いやね、その口では面倒だどうとか言いながらも、その先生の事を口にしている教頭の顔は……笑ってらしたもので」
男の指摘に、教頭は自分の顔を触る。
「笑って、ましたか?」
「えぇ、それはもう楽しそうに」
「そう、なんですか……」
どこか釈然としていない、だが不快ではないという顔をする教頭。
「そうかも、しれませんね。えぇ、きっと私はあの先生の事が羨ましいのでしょうね。自分の意思を曲げない。自分の信じた教育を貫き通す姿は、私から見れば理想と思える教師の姿でしょう」
ですが、と教頭は言葉を区切る。
「――――だからこそ、私はあの先生とは決して相容れない教師なのかもしれません」
その顔に辛いという表情はない。
あるのは教頭自身が口にした、己の意思を曲げない、己の信じた教育を貫き通すという、誰かも知らない教師と同じに見えたからだ。
「あぁ、なるほど」
男はわざとらしく口にした。
「何がなるほど、なんですか?」
「いえね、きっと教頭は気づいてないんでしょうけど……多分、それはあれですよ、きっと」
それはきっと、自分に似ているからこそ受け入れられない。

悪い意味ではなく、良い意味での同族嫌悪という想い。

「いつか、わかり合えるかもしれませんね」
「……どうでしょうね」
自然と二人は笑い合う。
笑い合えるからこそ、希望は持てる。
あぁ、きっと大丈夫だと。
こういう教師がまだいるなら、きっと希望は持てると。
「それでは、私はこれで……」
「えぇ、それでは明日もよろしくお願いしますね」
「はい、わかりました。明日には作業を終わらせ、報告書を出させてもらいますよ」
こうして男の一日は終わる。
恐らく、明日はきっと仕事は進むだろう。
心の錘が、少しだけ軽くなった感じがしたからだ。





かつて、翠屋と呼ばれていた場所は――――消えていた。
建物自体はあっても、中はもう何年も使われてないと思える程に汚れていた。
扉は錆びた金具のせいでギギギという音を立て、中に入れば床板が何枚か割れ、地面が見えていた。
ケーキやお菓子が並べられていたである場所はヒビ割れたガラスが散乱し、酷い有様となっていた。
沢山のテーブルの上には埃が溜まり、カウンターの前に並べられた椅子の幾つかは脚が折れて使い物にならない状態になっていた。
廃屋と言っても支障がないほどの朽ち果てた姿に、虎太郎も言葉を発しない。
「これ、は……」
ようやく言葉を紡いだのは霙。
手を口に当て、店の荒れ様に驚愕していた。
「どうして?どうして、こんな……」
店内を見渡した虎太郎は中の荒れ様から三年近くは放置されていた状態だと推測する。
「…………」
人の入った形跡はない。完全に誰からも忘れられた跡という様子に言い様のない嫌悪感を覚える。
忘れられたのか、忘れさせられたかはわからない。しかし、それを行った誰かは確実に居る事だけは確かだ。
それを知っているからこそ――――反応できた。
「―――――ッ!!」
反射的に虎太郎は霙を抱きかかえ、跳んだ。
それと同時に真下から、床下から巨大な腕が轟音を響かせながら出て来た。
「な、何ですかッ!?」
霙の悲鳴にも似た叫びに答えている暇はない。跳んだ瞬間、着地点からさらに別の腕が飛び出る。虎太郎は舌打ちしながら飛び出してきた腕を蹴りつけ、その勢いでカウンターの上に着地する。
「…………どうやら、当たりを引いたらしいな」

床下から現れたのは人間―――人間の形をした岩の化物だった。

まるで西洋の物語に出てくるようなそれは、ゴーレムと呼ぶに相応しい姿をしていた。
大きさは軽く二メートルに届き、身体の大きさは虎太郎の三倍はあるだろう。
そして、その数は全部で四体。
顔は岩で出来ているせいか形はなく、それぞれは様々な形をしていた。素材が同じ場所の物を使ったのだろう、色は全て同色。それに加え、身体の一か所、腰の辺りにだけ、どの土地でも、この世界に存在しないかのような丸い球体を埋め込んでいる。色は赤く、宝石の様にも見えるが、あんな毒々しい程に赤い宝石など見た事がない。
赤い宝石が鈍い光を放つと同時に、ゴーレムが動く。
その巨体に不釣り合いな程に正確で素早い動きに驚きながらも、見えない程に早いわけではない。霙を抱えたまま、窓から外に向かって飛び出す。
狭い室内で戦うのは構わないが、霙が居る状態ではそれは叶わない。
外に飛び出し、霙を腕から解放する。
「帝先生。すみませんが、ここから走って逃げれますか?」
「え、あ、はい……って、じゃなくて、加藤先生はどうするんですか!?」
「アレをどうにかしますよ」
「どうにかするって―――無理ですよ、無理!!あんな化物と戦ったら加藤先生が死んじゃいますよ!?」
心配してくれるのは有難いが、虎太郎とて負けるつもりも殺されるつもりもない。
「大丈夫ですよ。それよりも、帝先生が此処に居る方が俺にとっては問題なんです。とにかく、ここから走って人の多い場所に出てください。そうすれば、アイツ等だって追ってこないはずです」
もっとも、翠屋の壁を突き破って現れる四体の内、一体とて霙に追いつかせるつもりはない。
「――――行けッ!!」
虎太郎の声に、霙は一瞬躊躇しながらも、すぐに走り出す。その後を追う様にゴーレムの一体が脚を上げ、前に進む―――が、その脚が地面を踏むより先に、ゴーレムの身体は虎太郎の拳によって地面を踏む事なく天に向かって飛ばされた。
「行かせんよ、一体とて……」
戦闘を開始の合図は、天から地に落ちたゴーレムの落下音によってゴングとなる。
地を蹴り、一瞬で虎太郎はゴーレムの巨体に肉薄する。
零距離、拳を身体に備え、打ち出す。
ゴーレムの身体が吹き飛び、地面に転がる。
一体目を吹き飛ばし、二体目へと襲いかかる。
ゴーレムの巨椀が襲いかかる―――だが、見えている。反対にゴーレムには見えていない。それほどの速度で虎太郎はゴーレムの背後に移動し、拳をゴーレムの頭に叩きこむ。
「―――――ムッ!?」
その一撃は本来ならゴーレムの頭を砕くだろう。だが、砕くどころか虎太郎の拳はゴーレムの頑丈な肉体に弾かれる様に大きく後ろに反れる。無論、ゴーレムとて無傷ではない。頭に亀裂を作りながら体勢を崩し、その場に倒れ込む。
「堅い……というわけじゃないな」
相手の強度はわかった。その強度よりも自分の拳の方が堅いというのもわかった。だが、普段ならあの程度堅さなど一撃で粉砕できるというのに、今は出来ない。
むしろ、普段よりも力が出ない。
「まさか、あの匂いのせいか?」
あれがどういう性質をもっているかはわからないが、そんな性質をもっている可能性とて零ではない。虎太郎の知る限り、昔に請け負った生徒の一人に相手の心を和やかにする匂いを出す能力を持った人妖がいる。
「同列にするには失礼な話だよ、まったくな!!」
倒せないわけじゃない。
砕けないわけじゃない。
決して相手の力量と強度が虎太郎を上回っているわけじゃない。
ならば、退くも無し。
ならば、前に進むが当然の理。
「破ァ!!」
烈破の一撃にて撃ち込む。
やはり一撃では壊せないが、ダメージはある。
一で駄目なら二を加えるべし。
「フンッ!!」

二で駄目なら三にて決着―――それでも足りなければ、倒れるまで撃ち込むのみ。

「オラッッ!!」
拳の連撃を受け、先に根を上げたのは虎太郎の拳ではなくゴーレムの肉体。頭は割れ、胴体は崩れ、脚は粉砕される。残った赤い宝石に向けて渾身の一撃を加える共にフィニッシュとする。
ゴーレムはそれであっさりと消滅する。
塵は塵に、灰は灰に―――ゴーレムはただの土くれへと帰る。
「――――次!!」
一体撃破と共に即座に二体目へと移る。
確かにゴーレムの強度は高い。しかし、自分の敵ではない。砕けぬなら砕くまで撃ち込むのみ。壊れないのなら壊れるまで破壊するのみ。
虎の拳を前に、木偶の坊の一体や二体―――数に入らず。
もっとも、相手もただでやられているわけではなかった。最初の一体がやられた瞬間、地面が盛り上がり、そこに新たなゴーレムが出現する。
「ッチ、面倒な」
一体を倒せば、また新しい一体が生まれるというシステム。
「だったら――――速度を上げれば良いさ」
撃破、出現、撃破、出現、撃破、撃破、出現、撃破撃破撃破撃破撃破――――虎太郎の速度とゴーレムの生成速度は同じではない。いつしか、完全に虎太郎の撃破する速度がゴーレムの生成速度を上回った。
仕舞いには、ゴーレムが土の中から出現する前に虎太郎がゴーレムの頭に拳を撃ち込み―――地面ごと粉砕する。
「やれやれ、アクションゲームの次はモグラたたきか…………ふん、大得意だ!!」
打つ、地面。
撃つ、地面。
討つ、地面。
最早完全にモグラたたき状態となった戦場。撃破速度にゴーレムの生成が追いつかなくなったのか、次第に生成速度が遅くなり、
「ラスト!!」
渾身の一撃を地面に叩きこむ。
瞬間、虎太郎を中心とした半径十メートルの地面、コンクリートが宙に舞う。
地面に存在する外敵ごと、地面を粉砕する。
「――――――む、やり過ぎたか……」
虎太郎の言葉通り、その場は完全に荒れ地状態になっていた。コンクリートは砕け、地面はあちらこちらに穴が開き、良く見れば地中を通っていた水道管が破裂して水が吹き出ている現状において、
「まぁ、俺のせいじゃない。あぁ、俺のせいじゃないとも」
これは言い訳にしかならないのである。
「――――――加藤先生!!」
そんな虎太郎を呼ぶ声。
見ると霙が息を切らしながらこちらに向かって走ってきていた。
「はぁ、何で戻ってくるかねぇ」
周囲に敵はいないから問題はないが、まだ新手が来てもおかしくは無い。
「大丈夫ですか!?―――っうわ、なんか凄い事になってますよ!?」
「まぁ、アイツ等が派手に暴れましてね」
ちゃっかりゴーレムのせいにしながら、霙の腕を掴む。
「それよりもさっさと此処から退散しましょう。連中がまた来ないとも限らないんでね」
そう言って霙の手を引いて走り出そうとした瞬間、
「加藤先生!!」
背後に敵意を感じる。
霙を守る様に振り向く。
そこには先程と同じ様にゴーレムがいた。
いや、良く見れば違う。
先程のゴーレムは土から生み出されたという感じだったが、今度のゴーレムは違った。
まず、その身体が土色ではなく透明。街灯の光を吸い込み、反射する様な身体を持っている。さながら水晶で出来たゴーレム、もしくはダイヤモンドゴーレムといったところだろうか。
その大きさも先程よりも小さく、虎太郎とほぼ同じ程度の大きさもっている。
唯一土で出来たゴーレムと同じ所と言えば、胸に赤い宝石があるくらいだろう。
「こいつは、さっきよりも堅そうだな」
そう言いながらも、負ける気は一切ないのだろう。虎太郎の顔には笑みがあり、背後にいる霙に向かって、
「帝先生。とりあえず此処を動かないでください。アナタには指一本触れさせませんから」
構えを取る。
ダイヤモンドゴーレムは動かない。
ならば、こちらから仕掛ける。
地面を掴み、ゴーレムに向かって飛び出す―――――寸前、



サクッという音が、虎太郎の身体から聞こえた。



「――――――――――――紳士ですわね、加藤先生は……」
激痛。
「ですが、紳士であるのなら淑女である私の傍を離れるのは如何なものかと……でも、良いのですよ。離れるのは好都合です。だって、アナタみたいに煙草臭い方は―――反吐が出ますから」
激痛。
「あぁ、臭い臭い。本当に臭いですわ。この世界は本当に臭い。人妖だろうと人間だろうと関係なく、みんな臭い。こんな世界、さっさとゴミ箱に捨て去りたいですわ、ホントに」
激痛は、背中。
「そんなゴミ箱に住む害虫みたいなアナタ達人間が、私の可愛い傀儡に酷い事をするのは、許せませんわね。だから、これはちょっとしたお仕置きです」
激痛は、背中に刺さった、ナイフ。
「痛いですか?あぁ、痛いでしょう。でも、私の方がもっと痛いのですよ。可愛い傀儡達が害虫のアナタに壊されていく姿は、今日の夢に出てきそうな程の悪夢です。ですので、これはお仕置きと同時に二度と私の目の前に姿を現さないで欲しいというお願いです」
ナイフが背中に刺さり、グリッと押し込まれる。
「―――――ッグゥア!!」
あまりの激痛に思わず声が漏れる。
何が起こったのかを理解する前に、虎太郎は背後に居るであろう【何者】かを殴りつける―――だが、手応えはない。まるで霧を殴った様な感触。
「怖い怖い。これだから害虫は困りますわ――――害虫風情が、私に手を上げるなんてやってはいけない行為だと知りなさい」
声は後ろ。
つまりは前から。
振り向けば、
「ねぇ、加藤先生――――いえ、害虫さん。申し訳ありませんが、今すぐに私の目の前、もしくはこの世から消えてくれませんか?」
其処に立っていたのは、
「帝、先生……?」
「いいえ、違いますよ」
其処に立っていたのは帝霙という教師ではなく、






【人妖編・第十話】『人間‐魔女‐』






【魔女】は嗤う。
その手に赤く染まったナイフを持ちながら、嗤う。
滑稽だと嗤う。
愚かだと嗤う。
目の前に立つ、害虫の驚く顔を見てケタケタと嗤う。
「自己紹介は必要ですか?えぇ、必要でしょうね。如何にアナタが害虫であろうとも、私は【エルフ】なのですから」
帝霙は、帝霙を名乗っていた【魔女】の姿が変わる。
レディーススーツは霧の様に霧散し、その下から現れたのは露出度の高い黒いボンテージ。その上に魔法使いが着る様な黒い外装。そして頭にはこれも魔法使いが被る様な大きな黒い帽子。
だが、それ以上に虎太郎の眼を引いたのは彼女の耳だった。
それはまるで、童話に出てくる架空の種族―――エルフの様な長い耳。



「改めまして害虫さん。私、【聖導評議会】の一席を汚させて貰っている者――――名を、スノゥ・エルクレイドルと申します」



スノゥ・エルクレイドルと名乗った【魔女】はそう言って貴族のお嬢様の様な綺麗なおじぎをした。
「聖導評議会だと?」
「知ってます?あははは、知ってるわけないですよね?こんな臭い世界に住まう害虫が知っているわけがありませんわ――――ムカつきますわね」
スノゥは右手をかざすと、手にプラズマの様なモノが集まり、
「無知は罪と知りなさい」
それを射出した。
目の前の覆う様な巨大な閃光に虎太郎は反射的にその場から跳ぶ。
轟音と爆風。
まるで雷が地面に直撃した様な爆音が鼓膜を刺激する。
見ると、虎太郎が立っていた場所には、巨大なクレーターが生まれていた。
「あん、もう……避けないでくださいまし!!」
「お前は――――ッグゥ!」
背中から激痛。
動いた事によって背中から大量の血が溢れ出る。
「避けると傷が開きましてよ?死にたいのなら構いませんが、それは困ります。アナタは私が殺すんです。だから勝手に死なないでくださいな」
「…………お前が、元凶か」
「元凶とは酷い言い方ですわね。でも、正解と言えば正解ですわ」
スノゥは楽しそうに嗤う。その姿は虎太郎が見て来た帝霙という女性とはあまりにもかけ離れていた。
心の中で虎太郎は苦笑する。
どうやら、自分のヤキが回ってきたらしい。まさか、あんな性悪女がすぐ近くに居たのに気づかないとは。
「悪いのは害虫さんですのよ?だって、私がせっかく三年間も隠し続けてきた事に、野次馬根性を丸出しで首を突っ込むから……」
嗤い声が酷く耳障りだ。
「まぁ、私の認識の甘さも原因の一つなのですから、あまり害虫さんを酷く言えないのも事実ですわ。約束の日が近いが故に、そっちの準備に手間取って隠蔽の方を蔑にした私にも問題はあります……ですから、こうして私が直接害虫さんに手を下して差し上げた次第ですのよ」
「害虫害虫と、人間扱いはしてくれないのか?」
「人間は皆が害虫です。どの世界でも人間なんて消えて無くなるべきだと思いませんか?【英雄の末裔】も同様に、人間も消えるべきなのです」
「ふん、とんだ聖職者もいたもんだ……」
「聖職者とは侮辱ですわ。私、エル・アギアスの様な神を信じる愚か者も嫌いですし、この世界の神を信じる者も嫌いです。そうですね、害虫さんが我らが王を崇めるというのなら特別に害虫から虫くらいにしてランクアップさせてもよろしくてよ?」
「お断りだ」
視界がクラクラする。
おかしい、背中を刺されるのは確かに重傷だが、視界がこんな状態になるのが早すぎる。
「お辛そうですね」
「いや、ちっとも辛くないね――――それよりも、何故こんな事をした」
「そう言われて、素直に答えるとお思いですか?」
「いや、思ってはいないさ……だから、答えてもらうさ!!」
痛みを忘れろ。
一撃で全てを終わらせる覚悟を決めろ。
スノゥの先程の魔法の様な力は確かに協力だが、己の脚でなら一瞬で間合いに入れる。
拳を固め、石化する。
そして一気に加速し―――――目の前に、ダイヤモンドゴーレムの姿を認識する。
「――――――ッ!?」
ダイヤモンドゴーレムは虎太郎の一撃を身体で受け止める。だが、先程までのゴーレムと違ってその身体にはヒビの一つも入らない。むしろ、虎太郎の拳の方が砕ける様な激痛を感じた。
「確かに害虫さんの手は石の様に堅いようですが……まさか、ダイヤモンドすら砕く、なんて事はないですわよね?」
クスクスと嗤うスノゥ。
ダイヤモンドゴーレムの腕が虎太郎の腕を掴み上げ―――バキッと鈍い音を響かせた。
「――――ガァッ!?」
石化した腕を砕いた。
「知ってます?ダイヤモンドはこの世界では一番堅いらしいんですよ。だから、たかが石ころになる腕なんて、その通りです」
ゴーレムの腕が唸り、虎太郎の身体に拳を撃ち込む。ダイヤモンドの強度を持った拳が突き刺さり、その痛みを感じる暇もなく頭部を撃ち抜くダイヤモンドの脚。
視界が歪み、意識が堕ちそうになる。しかし、堕ちそうになる意識は背中の刺し傷が無理矢理に繋ぎ止める。
「あらあら、ボロボロですわね」
背中の傷は未だに止まらない。
片腕は折られて使い物にならない。
腹は空腹。
そして先程の一撃で身体に力が入らない。
状況的に確実にこちらが不利だった。
「それでは、私はこれから明日の夜の準備がありますので――――死んでくださいまし」
ダイヤモンドゴーレムが虎太郎の身体を翠屋に向けて放り投げる。
周囲の空気が淀む。
スノゥの上げた右手にプラズマが生み出され、それに呼応するように空に怪しい渦を持った雲が生み出される。
星が出るほど晴れ渡っているというのに、翠屋上空にだけ雲が出現した。
「特別に私のとっておきにて御退場を願いましょう……」
スノゥ・エルクレイドルは紡ぐ。

「――――雷王ガレドゥム……我が望むは天の意志による天の鉄槌、天の煮えたぎる怒り、天の荘厳たる奇跡なり……」

雲は光を放ち、雷雲へと姿を変える。

「我が敵を殲滅する為、貴公が武器――――雷槍グラルを与えたまえ……」

天の咆哮。
激しい光と共に雷が地上に向かって堕ちてくる。
しかし、落雷は翠屋に堕ちる事なく、スノゥの手元に――――巨大な雷の槍を創造する。
それはとある世界において封印指定を受ける程の大魔法。
無論、海鳴はその世界とは異なる世界が故にその威力は半減する。
だが、それは些細な問題だ。
問題なのは【威力が半減しても殲滅魔法】であるという事なのだ。
巨大な雷の槍を持ち、スノゥは嗤う。



「さようなら、害虫さん。私、初めて見た時から害虫さんが大っ嫌いでした」



槍を振りかぶり、虎太郎の居る翠屋へ向けて射出する。
弾丸の速度など相手ではない。
光の速度と同列の速度と共に討つ出された巨大な雷槍は翠屋に突き刺さり――――海鳴の街を光に染め上げる。



海鳴を巨大な地響きが襲うと同時に、翠屋と呼ばれた場所は完全に消滅した。









「――――――ん、地震か?」
仕事が終わり、食事前に風呂を楽しんでいた男はその揺れに眉を顰める。
今の揺れは一瞬地震かと思ったが、地震ではなく震動という可能性もある。それも長年親しんだ【爆発】による震動。
「ふむ……まぁ、そういう日もあるわな」
普通はないのだが、部屋のいるはずの女性が騒いでないという事は、そういう震動ではないのだろうという感想に落ち着く。
自分の気のせいと終らせ、風呂からあがる。とりあえず、今日は風呂上がりの一杯でも飲んで気分をどうにかしようと考えていた。もっとも、その前のこの部屋に共に住んでいる女性が全て飲みほしていない、という条件があるが。
頭を拭きながら居間に顔を出す。

「うひゃ~、はやてちゃんはかわゆいでしゅねぇ~」
「ちょ、ちょっと薫さん!?お願いやから正気に戻ってって何処触ってるんですか!?」

「…………」
居間に入った男の視界に写ったのは、三十○歳を迎えた女性が九歳の女の子に絡みついているという奇妙な光景だった。
「ふむ……まぁ、こういう日もあるわな」
「あるかぁ!!傍観してへんで、私を助けて!!」
「あ、そうか。そうだな」
若干の現実逃避をかましながら、面倒そうに我に帰った男は少女に絡みついている女性、もしくは物体Kを引きはがす。
「おい、いい加減に――――って酒臭いなおい」
女性の周りには缶ビールが数本―――いや、十数本ほど転がっていた。
「やれやれ、あまり飲みすぎるなというか、俺の分まで飲むなというか、俺が風呂に入っている間にどんだけ飲んでるんだ?」
「酒を飲んでも飲まれましぇ~ん!!」
「立派に飲まれてるな……」
「気のしぇい気のしぇい。ほれ、アンタも一杯どうでしゅか~?」
「生憎、絡み酒は飲まない事にしてるんで、お断りだ」
男のおかげで物体Kの凌辱から難を逃れた少女は、自分の身体を抱きしめながら涙を流している。
「うぅ、薫さんに汚された……」
「うひゃひゃ、はやてちゃんの肌はしゅべしゅべですねぇ~」
オヤジ臭い発言をかます物体Kを冷たい視線で見ながら、とりあえず少女が危険なので簀巻きにして女性の部屋に放り捨てておいた。
「い~や~、おかしゃれりゅ~!!」
「近所迷惑だ。黙ってろ」
呆れながら扉を閉める。中から未だ騒いでる様な声がするが、あの様子ならしばらくすれば勝手に寝るだろう。
寝てくれると朝まで起きないか、途中で素に戻って自分を呼ぶのかのどっちかだろう。どちらにせよ、これでしばらく酒は控えてくれる事を願うだけだ。
「大丈夫か、はやて」
「あ、ありがとうございます……薫さん、どうしてお酒が入るとあんな駄目人間になるんかなぁ?」
「適量なら良いんだがな……昔の様な状況じゃないんだ。ああいう感じにはなるだろうな」
酒と煙草に逃げる事が習慣だった昔とは違う。今の彼女には酒にも煙草にも逃げる必要はない。命が掛っている様な仕事でもないし、誰かの命を奪う仕事をしているわけでもない。
なにせ、今の彼女の仕事はこの少女、八神はやての家庭教師なのだから。
「それで、どうして今日はあんな状態になったんだ?普通の彼女はあんな状態になるまで飲まないんだがな」
「あ、それがですね」
はやては押入れの方を指差す。
「なんか押入れの整理していたら、あんなの見つけたそうで」
「あんなの?」
押入れを見ると、そこには見知った―――いや、こんなに時間が経っても未だに見慣れたコートが掛っていた。
「あれは……」
「なんかな、アレを見つけてから懐かしそうにしてたから、薫さんにそれって何ですかって聞いたら……」
そこではやては口を噤む。
「ん、どうした?」
そして男を申し訳なさそうに見ながら、
「もしかして、聞いちゃあかん事だと思ったんやけど、薫さんに聞いちゃって」
「…………そういう事か」
酒に逃げる習慣は確かにないかもしれない。だが、習慣にならないだけで、実際に逃げたいと思える程の過去が存在する。そして、彼女の場合はそれが未だに尾を引いているのだろう。
逃げる過去は絶対に逃げられない過去となっている。そして、彼女は昔ほど強くはなくなった。
身体能力の話ではなく、心の問題だ。
「ごめんなさい……」
シュンとなるはやてを見て、男は笑いながら大きな手で頭を撫でてやる。
「気にするな。どの道、アレは何時か処分しなくちゃいけないモノだ」
ただのコートかもしれない。だが、ただのコートではない。
防弾防刃の戦闘用に作られたコート。それを男はかつて纏い、そして戦っていた。
改めて己の過去を見据える。
ボロボロだと思っていたコートは、思いのほか綺麗な形で残っていた。最後に使った時に刃によってボロボロになったはずの個所は、何故かしっかりと直っている。恐らく、彼女がこっそりと直したのだろう。
「まだ、残っていたんだな、お前は……」
コートはまだ残っている。
まだ、使う時がある為にある様に。
そんな時は来ないと思っていた。だから、きっとこの先もありはしないだろう。
しかし、コートはこうして出てきた。
まるで、何かを暗示するかのように。
「運命を信じるほど、若くはないんだがな」
苦笑して、男はコートから手を話す。
「ところで、帰らなくていいのか?」
「あ、はい……でも、薫さんがあんな状態ですし」
はやての家はここから車でないと帰れないほどの距離がある。男が送っても良いのだが、はやての顔を見る限り、どうやら今日は此処に泊りたいような感じがした。
「そうか。今日は泊るか?」
「良いんですか!?」
「構わんさ。なら寝る時は…………流石に、あの状態の彼女がいる部屋では寝たくないか」
はやては音が鳴る程に頸を上下させる。
「わかったよ。それじゃ、俺の部屋で寝ろ。俺はソファーで寝るさ」
「…………一緒じゃ、駄目ですか?」
「駄目じゃないさ……ただ、」
男は心底意地の悪そうな顔を浮かべ、
「お前と寝ると、お前の寝相と鼾が酷くてかなわん」
「わ、私、そんなに寝相は酷くないし、鼾もかかんわ!!」
こうして幸福な時間は過ぎていく。
男が幸福を感じているかはわからないが、目の前の少女は笑っている。
裏も表もない。
ただの子供の様な笑顔。
無意識の内に、この少女の笑顔と別の少女を比べている自分がいた。
そんな男を見つめる様に、コートは静かに時を待つ。



男がコートを纏う――――その時を










次回『海鳴‐みんな‐』




あとがき
めだかボックスが来週でおわりそうな気がするのは俺だけですか?
どうしよう、あれがなくなったら続きを書く気が起きない。
というわけで、来週の月曜日までに残り二話を書かないと途中で打ち切りな可能性のある人妖都市・海鳴ですが、人妖編も残す所二話(予定)。
さて、今回のお話は別題として【フラグがあるよ?】です。
沢山のフラグをまき散らしながら、魔女の正体が判明!!ですが、ぶっちゃけそれほど衝撃的でもないですよね~
ちなみに、今回魔女さんが使った魔法はバレットバトラーズでお師匠様がシャア叔父様に放ったかなりの上級魔法です。威力はアレの半分以下ですけどね。
そんな感じで、最近ページ数がどんどんウナギ登りなお話も終盤、がんばりますかね
次回は、オッサンの名前登場。そして副題は【俺達のターン!!】です。

PS
僕の中でこの作品のOPはカサブタ



[25741] 【人妖編・第十一話】『人間‐教師‐』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/04/08 00:12
良い子でなくてはいけない。
悪い子になってはいけない。
どうしてそうしなくてはいけないのか、その理由は最初はわからなかった。でも、周りは良い子には優しくしてくれし、悪い子は叱られる。
そんな当たり前の事を私は普通な事だと思っていた。
なんて事はない。
私にとって良い子であろうと悪い子であろうと、どっちでもいいのだ。私という存在がどちらであろうとも、家族のみんなは私の事を家族として扱ってくれる。
問題なんて何もない。
私がどんな子でも、みんなは私を愛してくれる。
子供ながらにそんな事を想っていた。
それが間違いだと思った事はない。だから私もみんなに好かれる様になろうと思った。極端な良い子でもなければ、行き過ぎた悪い子にもならない。
つまりは、普通という一言。
それが私、高町なのはという子供だった――――気がする。
全ては過去の話でしかない。
綺麗な過去、楽しい過去、忘れる事すら出来ない過去は思い出すのではなく【想像】する事しか出来ない今、私はそんな過去に縋りついている。
過去の私は、どんな子だったのだろう?
思い出せない。
きっと普通な子だったんだ……でも、どんな風に普通だったんだろう?
わからない。
思い出せない。
頭に霞みが掛ったように何も見えなくなり、形があったはずの思い出はパズルのピースの様に細かく分かれ、崩れていく。
わからない事が怖い。
思い出せない事が嫌だ。
過去なんて嫌いだ。
今が良い。
今よりも未来が良い。
過去なんて嫌いだ。
過去は過去でしかない。今、目の前にあるモノではなく、記憶から消えていく過去なんて嫌いだ。
だからだろう。
私は今を生き、今は未来へと進み、進んだ後に残るのは過去。
過去と今と未来は常に一定のペースで進む。
私の嫌いな過去は私と共にあり、私の好きな今と未来は過去と共にある。そんなジレンマに陥りながらも生きているのは、

私が【過去から未来を奪い返す為】だ。

返して欲しい。
私の大切な存在を返して欲しい。
その為になら自分なんて要らない。
自分という存在も、周りという環境も、他人という陽炎も差し出す。
だからお願いです、神様。
「私の、大切な過去を返してください……」
祈る夜空に星はあっても綺麗に思えない。
祈る先にいるであろう神様は沢山の人を見ていても、見ているだけで何もしない。だから私は誰よりも神様に祈り、少しでも神様の心を動かす為の言葉を吐き出す。
「一人は嫌なんです……だから、返してください」
神様は何も答えない。
どうして神様は私のお願いを聞いてくれないのだろう?
どうして神様は私から大切なモノを奪っていったんだろう?
どうして、



どうして――――私の前から家族は消えてしまったのだろう?



誰も居ない。
私の周りには誰も居ない。
お父さんもいない。
お母さんもいない。
お兄ちゃんもいない。
お姉ちゃんもいない。
誰もいない。
誰一人としていない。
こんなの変だよ、おかしいよ。
だって約束したんだ。
お母さんはちゃんと言ってくれた。お父さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも、明日になったら沢山のお菓子を持ってきてくれるって。病気で入院した私の為に沢山持ってくるって、毎日お見舞いに来るって、そう約束してくれたんだ。
だから苦しいけど頑張れた。
薬は苦いし、夜は怖くて寂しい。でも、明日になればきっと家族が来てくれる。
我慢した。
我慢した。
うん、我慢したんだよ?
頑張ったんだよ?
苦いお薬は我慢して飲んだ。病院食はお母さんの料理と違って美味しくないけど、残さず食べた。お医者さんの言う事もちゃんと聞いたし、同じ病室の人に迷惑をかけない様にずっと静かにしていた。
ほら、なのはは良い子なんだよ?
なのに、どうして来てくれないの?
どうして、明日になったら来てくれるって言ったのに、どうして来てくれないの?
時計の針は朝、昼、そして夜に進む。病院全体が暗くなり、みんなは眠りだす。結局、誰もお見舞いに来てくれなかった。どうして来てくれないのかわからず、布団の中で一人で泣いた。
でも、もしかしたら理由があったのかもしれない。
きっとお店が忙しいのかもしれない。
きっとお兄ちゃんもお姉ちゃんもお手伝いしなければいけないくらい、もの凄くお店が繁盛しているのかもしれない。だったらしょうがない。だったら来れなくてもしょうがない。でも、明日はきっと来てくれる。来てくれるに違いない。きてくるよね?きてくれるんだよね?こないわけないよね?こないの?きて、くれないの?だいじょうぶ、きてくれるよね?うん、そうだよね?そうだよね?ね?ね?ね?

―――――次の日、誰も来なかった。

苦いお薬は頑張って飲んだ。病院食は残さず食べた。お医者さんの言う事はちゃんと聞いたし、病室の人に迷惑かけなかった。

――――でも、今日も誰も来なかった。

苦いお薬に慣れてきた。病院食の味は感じられなくなった。お医者さんの言う事は聞いて流した。病室の人なんて目に入らなくなった。

――――そして、今日も誰も来なかった。

薬は飲んだ。食事はとった。誰かの言う事は聞いた気がする。周りの人は知らない。

――――結局、今日も来なかった。

飲んだ。食べた。聞いた。考えなかった。

―――――当然、誰も来なかった。

わからない、知らない、聞かない、考えない。

―――――来ない。

誰も来ない。
誰も来てくれない。
私の病室には誰もこない。
お母さんもこない。
お父さんもこない。
お兄ちゃんもこない。
お姉ちゃんもこない。
誰もこない。
周りの人には誰かが来るのに、私には誰もこない。誰一人として来てはくれない。どうして誰も来てくれないのだろう。どうして誰も私のお見舞いに来てくれないのだろう。寂しい、悲しい、虚しい、苦しい、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして…………どうして、来てくれないの?
そんな事を一日中考えていた。そんな時だった。お医者さんと看護婦さんが何かを話しているのを聞いた。
看護婦さんが尋ねた。
どうして私の両親はこないのか?
お医者さんが言った。
私の両親は居なくなった。
看護婦さんが驚いた。
どうして?
お医者さんは仮面みたいな顔で答えた。
わからない。でも、もしかしたら――――
聞きたくない言葉を聞いた。
嘘だと叫びたい衝動にかられた。
お医者さんは言った。
私が聞いる事に気づかないのか、これが当たり前だと言わんばかりに口にした。

「この街では良くあるんだよ。病院に入院させた子を――――そのまま【捨てる】親がね」

捨てる?
捨てるってなに?
捨てるって、なのはを捨てるって事?
誰が捨てるの?
私の家族が私を捨てたの?
なんで?どうして?どういう意味があって私を捨てるの?わたし、何か悪い事した?わたしがわるいの?わたしがわるいこだから、捨てるの?わたしがじゃまだから捨てるの?捨てる?すてる?すてられた?わたしが?わたしが?わたしがすてられたの?どうしてわたしがすてられたの?おかあさんは?おとうさんは?おにいちゃんは?おねえちゃんは?どうしてきてくれないの?どうしておみまいにきてくれないの?すてられた?こどもなのに?おかあさんのこどもなのに?おとうさんのこどもなのに?おにいちゃんとおねえちゃんのいもうとなのに?かぞくなのに?
あぁ、そっか……嘘なんだ。
お医者さんも看護婦さんも嘘をついてるんだ。
駄目だなぁ、大人が嘘吐いちゃだめなんだよ?
だめなんだよ?
だめ、だめ、だめだめだめだめだめだめだだめ――――だめなんだよ?
私は私の家族を信じる。
誰かの言う事なんて信じない。
良い子にしていれば、きっと来てくれる。
もうすぐ退院できるんだ。それまで良い子にしてれば、きっとその日に家族が迎えに来てくるに違いない。
私は良い子になった。
何時も笑顔の子になった―――悲しい。
何時も優しい子になった―――苦しい。
誰にも迷惑をかけない子になった―――寂しい。
そうして良い子になり、退院の日を迎えた。
着がえて、荷物をまとめて、病室を出て、お医者さんと看護婦さん、同じ病室の人に挨拶した。みんなが変な顔をしていたのは意味がわからなかったけど、気にしなかった。
そして、私は病院のロビーで待った。
ずっと待った。
ずっとずっと待った。
そして、暗くなった。
誰もこなかった。
誰一人として来てくれなかった。
そこにきて、漸く気づいた。
「そっか……私、捨てられたんだ」
自分でも驚く程に冷静な思考と声。それが嘘でも偽りでもない、本当だという事を私はあっさりと認識し、受け入れていた。
なんだ、そうだったんだ。
私は捨てられたんだ。
捨てられたから、誰も迎えに来てくれなかったんだ。
笑えてきた。
嗤ってしまう。
哂って壊れてしまいそうになった。
目の前が真っ暗になり、何もかもが壊れて死んでしまえという妄想が湧きあがり、それに呼応するかのように身体の奥から奇妙な何かが浮かんでくる。それを解放すればきっと全てが壊れて、全てが死ぬ―――壊して殺せる。
なら、そうしよう。
とうせ捨てられたんだ。
壊しちゃえ、殺しちゃえ。
良い子にして何の意味もないのなら、此処で全部を壊して殺して滅して潰しても誰も文句は言わないよね?
「みんな、みんな……大っ嫌い」
そして、私は引き金を引いた。

「――――――ねぇ、どうしたの?」

だが、引き金を完全に引き絞る前に声をかけられた。
誰だろう?
知らない人だ。
でも、優しそうな人だ。
「一人?」
一人。一人というのは孤独という意味。孤独なのは誰も無いという意味。なら私は一人で孤独で誰も無いという高町なのは。私がその問いに頷くのは当然の行為だったのだろう。
だから、私は言った。
「一人なの……一人ぼっちなの」
「お父さんとお母さんは?」
「いない。私、捨てられたの」
「そうなの……」
同情するように目を細め、それからすぐに優しい笑みを作る。
「それじゃ、お父さんとお母さんに会いたいよね?」
「…………うん、会いたい」
「なら、私が会わせてあげるわ」
「本当に?」
「えぇ、本当よ。でも、それには条件があるの。それはアナタが私の言う事をちゃんと聞く、誰の言う事もキチンと聞いて、誰にも優しくしてあげられるような優しい【良い子】にならなくちゃ駄目なのよ」
できる?とその人は言った。
私は出来る、と言った。
そんな【簡単な事】でいいのなら、幾らでも出来る。
だって私は何時もそうやっていたから。この病院で家族を待つ間、誰にも迷惑をかけない良い子を【演じてきた】のだ。そんな事は今更何の問題もない。
「私、良い子になる」
「そう、よかった……それじゃ、行きましょう」
そう言って私はその人の手を取った。
「そういえば、名乗ってなかったわね。私は霙、帝霙」
「なのは……高町なのは」
「なのはさんね。うん、良い名前だわ」
こうして私は私になった。
過去を取り戻す為、家族にもう一度会う為、今の私を創り上げた。
私は良い子だ。
良い子でいなくちゃ駄目なんだ。
例えそれが、



【本当の私】を捨て去る事になったとしても











この世に奇跡なんてありはしない。
奇跡なんて言葉は綺麗に聞こえるかもしれないが、その反面として奇跡が起きない時にどれだけ人を傷つける言葉になるのか、理解しているのだろうか。
奇跡を願う人は、奇跡が起きない事に絶望する。
奇跡を信じた人は、奇跡に裏切られ絶望する。
奇跡なんて嘘っぱちで、誰もを傷つけるナイフでしかない。
そう、自分自身がそれを身を持って体験した。
「…………奇跡なんて、ない」
すずかはそう言って薄暗い部屋に座り込む。
そう、奇跡なんて存在しない。
元々、無理な話だったのだ。
自分の様な存在が誰かと共に歩み、誰かと友達になろうとする事自体がおこがましいのだろう。なにせ、自分は化物なのだ。人間でも人妖でもない、妖という名の化物。この海鳴の街の【力】を支配する月村の家に生まれた化物。
それでも夢を見ていた。
小学校に上がったら沢山友達が出来ると。
友達に囲まれて、楽しい毎日を過ごすんだと。
歌の様に友達を百人作れるんだと。
そんな甘い幻想、妄想を本気で信じていた。
しかし、それは自分の中にしか存在しない世界であり、現実というすずかを包み込む世界においては妄言でしかないと知った。
裏切られたのか―――違う。
裏切られたんじゃない。最初から、裏切る必要もないくらいに、絆というモノが存在しなかっただけに過ぎない。当然の事だ。化物と人間の間にそんな関係を結ぶ事なんて奇跡でも起きない限り―――否、奇跡が起こっても不可能な事柄だ。
奇跡は起きなかった。少女の小さな、そして大切な望みは友達だと思い込んでいた少女の言葉によってバッサリと切り捨てられ、その心を元の冷たい心に戻そうとしていた。
あの頃、ほんの一か月前と同じ冷たく、孤独で悲しい心に戻りかけていた。
誰も信じない。
自分も含め、誰も信じる事なんて出来ない。
でも、家族だけは信じよう。
家族だけを信じて生きて行こう。
姉の忍も、メイドのファリンもノエルも、自分を含めた四人さえいれば十分だ。化物は化物の中でしか生きていけない。
「そうだよ……そうするしか、ないんだよね?」
誰に問いかけるまでもない。
すずかは目の前の現実を受け入れる。
受けれて前に進めばいいだけだ。
前に進み、この小さなフィールドの中の一人として存在し続ければいい。
必要なのは自分と同じ家族だけ。家族以外の者なんていらない、必要性を感じない。
この手は化物故に孤独に、心は化物の様に孤独に、頭は化物らしく孤独の思考を

手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に

不意にあの男の言葉は蘇る。
魔法の呪文だと男は言っていた。
手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に――――どうしてか、今はこの言葉の意味がさっぱりわからなくなった。好きな言葉だと思っていた。今でも嫌いではない。だが、その言葉が今はどうしょうもないくらいに冷たく、意味のない言葉に想えてならない。
自分の手を見て、思う。
人の手に見えてるが、この手の握力は常人の握力を平然と上回る。傷つける事も、壊す事も、殺す事も簡単だろう。それが化物だ。化物としてあまりにも常識的なスペックを持っている。
ただ、あの時。
「なのはちゃん……」
あの時、すずかは感情的になっていた。
感情的になったすずかはなのはの頬を叩いた。
普通なら自分の力ならなのはの頭部を壊すくらいの事は平然と出来ただろう。だが、それをしなかった。
殺す事だって出来た。
自分の傷つけた相手を、他人を消し去る事だって簡単に出来たはずだ。
でも、しなかった。
どうしてしなかったのか、と考えた事はない。でも、無意識の内に自身にリミッターをかけていたのだろう。相手を殺してはいけない、化物である自分が誰かを傷つけてはいけない――――もしくは、

相手を、傷つけたくないという想いがあったのかもしれない

「手は綺麗に、」
この手は血に染まっていない。
「心は熱く、」
だが、あの時の自分は完全に怒っていた。
「頭は……冷静に」
それでも、その力は誰かを傷つけてはいけないと身体を止めていた。
わからない。
どうしてそんな事をしたのだろう。
いや、そもそもの話。
どうして自分は、まだその事を引き摺っているのだろうか。
忘れればいい。
化物として生きると決めればいい、というより決めたはずだ。なのに、未だにすずかの脳内ではあの時の事が鮮明に蘇る。
忘れたいのに、忘れられない。
忘れたくないと想わないのに、忘れてくれない。
自分で自分の心が軋みそうになっているのに、考えを止めようとしない。
「私、どうしちゃったんだろう?」
こんな時、自分はどうしたらいいのか――――そう考え、すずかは立ち上がる。
薄暗い自分の部屋を出て、忍の作業部屋に向かう。
こういう時は姉に相談してみよう。今のすずかにとって唯一味方である家族こそ、頼るべき存在。この先もずっと、すずかの味方は家族だけ。なら、今の内からしっかりと家族を頼り、家族に頼られる存在になろう。
そんな事を考えながら、地下に続く階段を下りる。
忍は自室の他に様々な作業をする特別な部屋がある。中には多くのコンピューターや機械類は所狭しと並んでいる為、あまり入りたいとは思わない。というより、少しは片付けろと言いたい。
そんな忍の作業部屋のドアを静かに開き、
「お姉ちゃん、い――――」
止まった。
言葉も動きも止まった。

異常な光景がそこにあった。

部屋の中には沢山のディスプレイとキーボードが置かれ、とてもじゃないが一人では扱いきれないだろう。だが、その全てが動いている。
そう、全てが【同時に動いている】のだ。
それを成しているのは姉である忍。
真剣な表情ではなく、普段は見せない必死な形相で作業をしている。
全てが同時進行。
ディスプレイには様々なデータが高速で映し出され、キーボードを叩く音がさながら打楽器だけのオーケストラの様に思えてならない。その演奏を可能としてるのは忍は滅多に見せる事がない【月村としての能力】を行使しているからだろう。
無数のコンピューターを操作するのは忍一人。だが、それを同時進行するのは不可能に近い。それも本当の意味での同時進行は不可能だ。
だが、忍はそれを行う。
見れば忍の手が―――消えている。
消える程の速度で動いているのではなく、完全に消失しているのだ。その代わりに、キーボードを叩く音は確かに忍の手。それも【宙に浮いている手】が作業を行っている。人間の様な手ではなく、まるで影が手の形を作っているかのように、それを人間の手の様に器用に動いている。
その数は十本。
影の手の全てが全力でキーボードを叩き続けている。
「お姉ちゃん……」
姉の異能を見るのは初めてではない。だが、滅多に見るものでもない。忍がそれを行使するのは己の身を守る時だけであり、こんな作業に使う事なんて一度もなかった。それ以前に一体なんの作業をしているのかもすずかにはわからない。
呆然としているずずかの存在に気づいたのか、
「あら、すずか。どうしたの?」
忍は背中越しにすずかに声をかける。その間も忍の無数の手は止まることなく、視線も沢山のディスプレイを凝視している。
「え、えっと……忙しい?」
「忙しい事には忙しいけど……まぁ、すずかと話す事くらいは出来るわ」
「本当に?邪魔じゃなかな?」
「邪魔じゃない邪魔じゃない。すずかの事を邪魔に思う時なんて一度もないわよ」
視線はすずかに合わせないが、言葉は何時もの忍と同じ優しい声だった。その姿に安心したのか、すずかも少しだけ肩の力を抜き、空いている椅子に腰かける。
「それで、どうしたの?」
「うん……あのね」
すずかは語った。
これから自分がどうするか。
どういう生き方をするのか。
それを決めたのに、どうしてかなのはの事が頭から離れない。
自分はどうしたらいいのか、どうしたらなのはの事を頭から離れるのか。
「すぐには無理だけど、ちゃんと忘れなくちゃ駄目だと思うの……でも、どうすれば忘れられるか、わからないの」
カタカタと動く指先が、一瞬だけ止まる。しかし、すぐに再開する。
「――――すずかは、なのはちゃんの事を忘れたいの?」
「…………」
忘れたい、という本音もある。だが、それが本当に良い事なのかわからない。
「忘れた方が良いに決まってるよ……だって、私みたいな子が友達なんて無理だし、なのはちゃんだってそう思ってる」
自分の事を好きでもない。でも友達になって欲しいと言ったから友達になった。そんな冷たい、どうしようもない現実を突き付けられた今、諦めて忘れるか、踏ん切りをつけるしかない。
「どうしようもないもん……しょうがないよ」



「それ、ただ甘えてるだけよ」



鋭いナイフの様な言葉だった。
「お、お姉ちゃん?」
「それは甘えよ、すずか。別に甘えるのは悪い事じゃないけど、それは誰かの力を頼ってるだけ。誰かの力だけを頼っているだけ――――そうね、今のアナタの場合は【月村という存在】に甘えているのかしら」
予想外もしない言葉にすずかは言葉を失い。
家族だからわかってくれる。
家族だから理解して力になってくれる。
少なくとも先程までそう思っていた。だが、ソレは今、掌を返すかのように裏切られた。
「確かに記憶操作の力は存在するから、アナタが本気でなのはちゃんの事を忘れたいと思うのなら、それをしてあげてもいい。なのはちゃんという子の全てを忘れ、今まで通りのアナタになる事は出来るわ。けど、それは本当にすずかが望んでいる事なの?」
「…………望んじゃ、駄目なの?」
「すずかが本当に望んでいるのなら、ね」
でも、違うだろうと忍は言う。
キーボードが叩く音が完全に止り、影の手が消えて忍の手が現れる。椅子を回転させ、視線をすずかに向ける。
「もう一度聞くけど、すずかは本当になのはちゃんの事を忘れたいの?」
家族なのに、どうしてそんな事をいうのだろう―――どうしようもなく怒りに似た感情が湧きあがってきた。
「どうして、どうしてそんな事を言うの?お姉ちゃん、昨日言ったじゃない!?私の力になってくれるって、私の言葉を聞いてくれるって!!」
叫ぶ様な声を受けながらも、忍は冷静な顔―――すずかにとって冷徹な顔を崩さない。
「確かに言ったわ。けど、別にアナタを甘やかすとは一言も言ってない。それとも何?家族なら家族を甘やかしていいっていう理屈になると思ってた?」
「違う!!そんな事を言ってるんじゃ―――」
「私にはそう聞こえるわね……そうとしか、聞こえない」
忍は小さく息を吐く。
「いい、すずか。私達は確かに人とは違う。人間でも人妖でもないかもしれない。けど、それはあくまで【存在】だけの話よ。そもそも、存在なんて言葉はすごく大雑把な言葉なのよ。良識的な存在、悪しき存在、憎むべき存在、生きるべき存在―――存在という言葉は分類出来ているようで出来ていない。どんな存在という言葉を作り出そうと、存在という一括りである事に変わりは無いの」
忍は自分を指さし、
「私は月村という存在であり、アナタの姉という存在」
それから今度はすずかを指さす。
「アナタは月村という存在あり、私の妹という存在」
そして最後に、背後にディスプレイに写っている―――なのはの写真を指さす。
「すずかに質問よ―――この子は、どういう存在なのかしら?」
すずかは言葉に詰まる。それ以上に、どうしてここでなのはの写真が出てくるのか、それ以前に一体自分の姉は何を調べているのか。様々な疑問がグルグルと頭を廻り、言葉を紡ぐ事が出来ない。
「答えられない?それとも、答えたくない?」
「…………」
「なら、代わりに私が答えてあげるわ。この高町なのはっていう子はね―――異常な存在よ」
その言葉が、心を抉る。
「い、異常……」
「そう、異常な存在。化物の私達よりも尚化物って感じかしら。この子自身に力があるわけじゃないけど、この子の周りが明らかにおかしい。それによって人の記憶やデータが次々と書き換えられ、正常なデータが存在しないくらいにおかしい存在よ」
キーボードを叩き、ある映像を出す。
「例えば、これはこの子の家族のデータ。人間っていうのは生きてるだけで足跡を残す生き物よ。近代的な時代になってからその性質は高くなる。街に住むにも住民票は必要だし、仕事をするにも個人の情報が必要になる。さらに言えば指先一つにも指紋という個人の情報があり、皮膚や髪の毛、血液にもDNAという情報が存在する―――なら、その情報が一切存在しない、もしくは書き換えられているとしたらどうする?」
簡単だ。
それは目の前にいる人物が本物であるかどうかもわからない。
もしくは、嘘で塗り固められた存在だとも言えるだろう。
「高町なのはは、正にそれなのよ。生れた時から現在まで、この子の正確なデータなんて【一つとして存在しない】のよ」
存在しない人間。
目の前に居るに存在していないゴーストの様な存在。
「これを誰が行ったかは知らないけど、随分と大雑把な事をしてくれたものだわ。なにせ、一つの情報に対して偽りが二つも三つも存在する。まるで高町なのはという存在を知った者にそれぞれ間違った情報を与えているかのような感じかしら」
忍の提示したデータは誰が見てもおかしかった。
例えば彼女の親が経営していた翠屋という店がある。
この店は数年前から経営している。いや、経営している様に見せかけている。
市への申請や光熱費の料金、食材費などは何度も何度も様々な講座に振り込まれている。だが、それが時々おかしい事になっている。
振り込まれているはずの料金が引き落とされていない。もしくは振り込まれた相手が存在しない。振り込まれる側も振り込む側も存在しない。
「おかしいでしょう?いいえ、おかしいなんてもんじゃないわ。こんな異常な状態であるのなら誰だってすぐに調べるわ。けど、調べた結果として何もなかった。【何も無かった事が無かった事にされている】のよ」
「えっと……言いたい事が良くわからないよ」
「そうね……ある店があり、その店がある事を誰もが知っている。けど、誰もその店を見た事がない。見た事がないから探す。けど探しても見つからない。だけど見つからないのに探した者は見つかったと口にする。結果、誰もその店を知らない――――正直、私も言っていてわからなくなるけど、言いたい事は一つだけ」
「おかしいって事、かな」
「そういう事。そして、そのおかしい事の中に彼女の両親も含まれている。市への登録情報として確かに彼女の両親や家族、彼女自身のデータは存在している。けど、それだけ。データはあるが本人は存在しないというおかしな状態なのよ」
連続して使われる【おかしな状態】という言葉。
よくはわからないが、とにかくおかしいという事だけは理解した。
理解したという事にした。
「まったく、こんなデータで良く今まで隠し通してこれたわね。もしくは、それを隠す為の協力者がいたのかしら?いるとしたら、私達の身内か、配下という線が一番打倒だけど……生憎、敵が多すぎて誰かまでは絞りきれないわね」
忍は言う。
高町なのはは、存在しているが存在していない存在。
彼女のデータが多すぎて、逆に全てが嘘に思えてしまう為に存在しているか怪しい。
だが、現に彼女は確かに存在している。
しかし、データ上では奇妙過ぎる。
「だからね、私としてはこの子は完全に異常なのよ。私が直接見たわけじゃないけど、データバンクに登録されたあまりにも多すぎる偽情報から、とてもじゃないけどまっとうな存在だとは言えないわね」
「…………」
嘘に嘘を塗り固め、何時しかそれが嘘であるかどうかもわからなくなった。高町なのはという少女の周囲はそういう情報によって塗り固められ、データ上では完全にわからない状態になっている。
だからこそ、最初の質問に戻る。
「こういう点から踏まえて、よ。すずか、アナタは高町なのはをどういう存在だと思ってるの?」
存在という言葉。
存在という単語を別の言葉につなげれば一つの個となる。だが、それは結局は大きな存在というモノの一つにしかならない。
「化物に見える?」
思い出す。
「私は化物に見えるわ」
思い出す、日常を。
「あんな化物じみた子を、アナタの隣に立たせていた自分が情けないわ」
思い出す、日々という今を。
「まぁ、アナタが忘れた言っていうのなら、別にいいけどね。だって、こんな化物を――――」

「なのはちゃんは化物なんかじゃない!!」

嘘だったかもしれない。
裏切られたかもしれない。
信じた自分がバカみたいで、それを裏切ったなのはを許せないかもしれない。
けど、信じたいたのは事実。
だから、大好きだったのも事実。
その事実が高町なのはの存在という意味に繋がるのなら、
「化物なんかじゃない……化物なんて、言わないで」
「ふぅん、アナタはそう思うんだ」
「なのはちゃんは……なのはちゃんは、」
思い出そうとする行為すら馬鹿らしい。思い出す前に勝手に思い出が止めどなく溢れ出てくる。
それは嘘で塗り固めた真実かもしれない――――だが、虚実で悪いのだろうか。
それは下劣な笑みを隠した仮面かもしれない――――だが、その仮面に救われたのは誰だ。
「私の……大切な友達だった――――ううん、違う。友達なんだよ」
「でも、アナタを裏切ったわ」
「それでも友達なの。友達だったなんて、そんな過去の話にしたくない」
「向こうはそう思ってないんでしょう?アナタの事なんて好きでも何でもないって言ってたんでしょう?」
「私は大好きだから」
「それはすずかだけの話よ」
それに何の問題があるというのだろう。
相手は好きじゃない。でも、自分は好き。
それに何の問題があると、すずかは姉に向かって言い放つ。
「嫌われても、好きになって貰えなくても、なのはちゃんをどう思うかなんて私の勝手だよ。迷惑だと想われても構わない。相手にされなくても構わない……顔も見たくないって言われても、構わない」
本当はそんな事を言われたくない、思われたくない。
だが、それでも構わないと自分は言っていた。
簡単に、あっさりと言ってしまっていた。
なのはの事が好きだという言葉を、あっさりと今言った様に。あの時、自分は大嫌いという言葉をあっさりと言ってしまっていた。
「確かにあの時、私は心の底からなのはちゃんの事が嫌いになったよ?でも、時間が経って、嫌いだっていう気持ちから悲しいって気持になった。悲しい気持ちが苦しくて、涙が止まらなくて……それでも、まだなのはちゃんの事が好きで……それで」
わかってしまった。
そうなればもう止まらない。止まる事なんて出来はしない。

「それで……もう一度、なのはちゃんに会いたいと思った」

「それはどうして?」
「会って話をしたいから」
「話してどうなるの?」
「どうなるかなんてわからないよ。わからないけど、逃げたくないから。今の自分から、逃げたくない。昔の自分になんて戻りたくない。昔の自分のあの気持ちを抱くよりも、今のこの苦しい気持ちを持っていた方が――――生きてるって気がするから」
月村すずかは過去も今も生きてた。
だが、今は生きている。過去は生きていた。生きていただけに過ぎない。
生きる努力は生存するという意味ではない。生きる努力をするというのは前に進むという意味だ。それを放棄していた過去の自分は死んでいるのとなんら変わりは無い。
そして今の自分は――――生きている。
「死んだ風には生きたくない。諦める事しか出来ない生き方なんてしたくない!!化物なら化物らしい領分で生きれば良いなんて諦めは、私自身が大嫌いになりたい!!」
「…………」
好きの反対は嫌いではない。
好きの反対は無関心。
すずかは小さな手をグッと握る。
無関心なんて嫌だ。目の前の人達を前に無関心でいる事を良しとする事は、自分自身を否定する事になる。
「それに……私はまだ、なのはちゃんの為に何もしてない」
確かに自分からなのはに友達になって欲しいと言った。それだけで十分だと思っていた。それだけで全てが変われたと本気で思っていた。しかし、それは違う。
言っただけ。
友達になって欲しいと言っただけではないか。
そして、それから自分は一体どういう努力をしたというのか。
何もしていない。
ただ、友達というポジションに胡坐を掻いているに過ぎなかった。
「何が出来るかなんてわからない。でも、何もしないなんて嫌。なのはちゃんの事を何も知らないままでいるのは、絶対に嫌だよ!!」
「その結果、また傷つくとしたらどうするの?」
その言葉の通りになるのは考えるだけで怖い。
「その時は……」
怖い。
怖い。
怖い――――怖いのは、大好きだから嫌われるのが怖い。怖いのは相手が自分に無関心でいられる事が怖い。
「その時は、きっとまた泣くと思う……泣いて、泣いて、泣いて――――泣き止んだら、またなのはちゃんに会いに行くよ」
その言葉に、忍は安堵する。
「そう……なら、それで良いんじゃないの?」
前のすずかではなく、今のすずかが目の前にいる。
傷つく事は怖い。拒絶される事は怖い。怖いがそこで終らない。終る事がどういう意味か理解しているから絶望にも立ち向かう。
「アナタが泣いている時は、私が抱きしめる。だから、遠慮なくなくぶつかって粉砕されてきなさい」
「粉砕するのはちょっと……」
「馬鹿言ってんじゃないの。粉骨砕身って言葉があって、これは肉を切らせて骨を断つという意味あるのよ」
「違うと思うよ!?」
二人は笑い合う。
家族として、姉妹として、笑い合う。
それは今になって手に入れた大切な宝物だ。だが、これからも宝物は増えて行く。失いもするが、得もするだろう。笑い合う相手は増えるだろう。そうに決まっている。そうであると決めつける。
一度壊れた仲は直せない。
奇跡でも起きない限り無理だ。
そんな決めつけがあるのなら、奇跡なんて随分と安っぽいモノだ。

奇跡など、この世界には日常的にあるのだから

忍は時計を見て、すずかに言う。
「今ならまだ、間に合うんじゃない?」
時計の針は四時を差している。もうすぐ下校が始まる時間で、恐らく教室では掃除の時間となっているだろう。
なら、まだ彼女は教室にいる。
「行きなさい、すずか」
「うん、行ってきます」
遅い登校時間になるが、構いはしない。
先生に怒られる事なんて怖くは無い―――いや、本当は少しだけ怖いけど、怖いという感情を前にしても、その先にある目的の方が何倍も大切だ。
だから、走る。
勢いよくドアを開け、階段を駆け上がり、家の扉を開いて外に出る。
夕暮れは近い。
今は黄昏時。
人と妖が混じり合う、特別な時間。
人に会う為、妖は走る。
友達という人の為に。
海鳴の街を、ひた走る









【人妖編・十一話】『人間‐教師‐』









学校に向けて脚を進めるすずか。
不思議と身体は軽い。
昨日からろくに食べ物を口にしてないし、あまり寝ていないとはいえ、少しも疲労感を感じない。人ごみを縫って走る事にもなんら苦痛は感じなる。
まるで周りが止まっているかの様にさえ、思えてくる。
自宅から学校までは走ってもそれなりに時間は掛るだろう。それ故に止まっている時間はあまりない。むしろ、こうして走っている時間でさえもったいない。
「早く、早く行かなくちゃ」
今日でなくてもいい、なんて考えは捨てる。
今すぐに会いたい。
今すぐに会わなければいけない。
会って自分の想いを、本当の想いをぶつけたい。
その為に走る。
繁華街を抜け、住宅街を抜け、ようやく学校が見えてきた。
だが、そこで妙な事に気づいた。今は下校時間だというのに、どういうわけか周りに帰る生徒の姿がない。それどころか、人の気配すらない。
その事に気づいたせいで、流石に脚を止めた。
進む事は重要だが、これを逃してはいけないという想いが脚を止めた。
「…………」
ざわつく。
心が不安と言い様のない感覚によって震える。
一歩一歩、慎重に歩くすずか。まるで地雷原を歩いている様な気分になる。足下には爆弾が埋まっており、どこか一つでも踏み間違えれば一瞬で身体をバラバラにさせる。
そんな言い様のない恐怖が身体を支配する。
自然と心臓の鼓動が激しくなり、冷たい汗が背中を伝う。
肌に感じる風すら生ぬるい。春だというのに冷たくも熱くも無い、丁度良くも無い。不快だと率直に口に出せるような嫌悪感を抱かせる空気に抱かれながら、すずかは目の前の学校に向けて歩く。
走れば近い、歩いても近い。
しかし、この感覚のせいで手が届きそうな距離の学校が酷く遠く思えてならない。
近づくな、と本能が言っている。
そんなはずはない。近づかなければ、学校に行かなければ、そうしなければなのはに会う事が出来ない。
自分の身体にだけ重力が数倍になる様な感覚を押し殺し、すずかは進む。
そして普通に歩けば十分もかからない距離を、気づけば二十分もかけて歩いていた。

結果、それを後悔しそうになった。

「―――――ッ!!」
校門を潜った瞬間――――昼と夜が逆転した。
外は夕焼け、黄昏時だというのに、校門を潜った瞬間に電気を消した様に真っ暗闇が襲いかかってきた。
「なに、これ?」
恐怖、その一言が心と体を支配する。
世界の時間が一瞬にして進み、その光景を自分一人が確認した。誰も気づかない。誰も気づかない以前に誰もいない。
この暗闇の校舎の中には、自分一人しかいない。
校舎には電気の光はある。だが、その光すら影という化物を作り出す為の材料であり、あの中に入った瞬間に自分の影が襲いかかる―――なんてお伽噺の様な光景を想像する。それどころか、この暗闇の学校に入った時点で、自分は化物の身体の中に飲みこまれたのかもしれない。
「…………」
それでもすずかは―――脚を踏み出す事を選択した。
もしかしたら、自分が居ない間に学校で何かが起こったのかもしれない。そして、その何かになのはが巻き込まれた可能性だってある。念の為、時間を確認する為に校舎の壁に備え付けられた大きな時計を目にして、
「――――え、八時?」
その時間を見て、言葉を失った。
すずかが家を出たのは午後四時。これは確かだ。街中を走る際にも何度か時間を確認した。確認したはずなのに、どうして四時間も時間が進んでいるのだろう。まさか、自分一人がタイムスリップをして未来に来たわけではあるまいし。
しかし、その考えがあっさりと覆される。
「―――――月村さん?」
校舎から誰かが出て来た。
「教頭先生!!」
「どうしたんですか、こんな時間に?」
そう言いながら近づく教頭は、心なしか怒っている様だった。恐らく、こんな時間に学校に来たすずかに対して怒っているのか、もしくは呆れているのだろう。無論、それは遅刻という面ではなく、野外外出という面での話でだ。
「あ、あの……これは」
「前にも言いましたよね?こんな時間に出歩くなんて危険だと。しかも、今日は前よりもずっと遅い時間に出歩いて……親御さんが心配してますよ」
叱る口調で言うが、すずかにはその言葉が巧く入ってこない。
これではまるで、本当に自分だけがタイムスリップをした様ではないか。
「教頭先生。今、四時……ううん、五時ですよね?」
「何を言ってるんですか。今は午後八時、アナタの様な子供が外を出歩いて良い時間ではありませんよ」
教頭はやれやれと首を振り、
「とりあえず、中に入りなさい。一人で帰すわけにはいきませんから、私がお自宅まで送ります。いいですね?」
わけがわからない。
すずかは混乱して周囲を見回す。
空は当然の如く星空、満月が光輝いている。
背後を見れば街には人工の光が灯り、それが完全に夜である事を示している。
「なんで……どうして?」
呆然とするすずかの手をとり、教頭は校舎の中に入っていく。
「荷物をとってきますから、ちょっと待てなさい」
そう言って教頭は職員室へ向かって行く。
残されたすずかはどうしようもない不安感を抱きながら、一人佇む。
本当にわけがわからない。
気づけば時間が進んでいる。外も暗くなっている。
「…………」
不安が大きくなる。それ故に一人で廊下にいる事が怖くなってしまった。
「あ、そうだ」
もしかしたら、という想いですずかは歩き出す。
目指す先は壊れた壁がある教室。
そこなら誰か、あの壁を直すオジサンがいるかもしれないという想いから、すずかはその教室に向かったのだが、
「……いない」
そこにあるのは、綺麗に補修された白い壁があるだけだった。まわりには何時もの様に工具などが置いてあったのだが、今日はそれはがない。完全に修復作業を終わらせたのだろう、そこにはあの男の気配は一つもなかった。
大きな溜息を吐き、仕方なく元の場所に戻る事にした。何が起こったのかはまるでわからないが、とにかく此処になのはがいないという事だけはわかった。
今日は会えない。
なら、明日なら会えるかもしれない。
「うん、そうだよね。明日、明日があるから大丈夫」
今日の勇気を明日まで継続できるかはわからないが、それでも諦める気はまったくない。自分自身に気合を入れる意味を込めて、頬をパンッと叩き、
「い、痛い……」
力を入れ過ぎたらしく、涙目になっていた。
「何をしてるんですか?」
そんなすずかを奇妙な者を見る様な眼で教頭が見ていた。
「ちょっと気合を……」
「気合を入れる意味がわかりませんが……まぁ、いいでしょう。それでは、帰りますよ」
そう言って教頭がすずかの手を掴んだ―――瞬間、



背筋が凍る程、悲鳴を上げそうな程、強烈な殺意を感じた。



「キャァッ!!」
悲鳴を上げながら、反射的にすずかは教頭の手を振り払った。
「月村さん?」
「あ、あ、あの……」
しまった。
こんな失礼な事をしてはいけない。謝らなくては、そう思って謝罪の言葉を口にしようとするが、何故か脚が勝手に後ろに下がる。
怖い。
どうしようもなく、怖い。
「どうしました、月村さん?」
怖い。
目の前の見慣れた人間が【別人の様で怖い】。
「どうしました、月村さん?」
教頭の顔は変わらない。
「どうしました、月村さん?」
能面の様に、一切の表情を浮かべず、
「どうしました、月村さん?」
同じ言葉を羅列し、すずかに歩み寄る。
目の前の存在が本当に教頭なのか。それ以前に人間なのかわからない。唯一わかる事は、手を掴まれた時に感じた圧倒的な殺意という恐怖。それだけは気のせいであるはずがない。
だから、すずかは背を向けて走り出す。
「どうしました、月村さん?」
だが、捕まった。
手を掴まれ、皮膚に感じる温度は完全に零。
氷の様に冷たく、人間味の欠片も感じられない程に冷めきった体温。
人間の温度ではない。
まるで、人形の様な体温。
「は、は……放して!!」
反射的に力を行使する。
すずかの手を掴んだ教頭の身体は浮き上がり、天井に叩きつけられ、床に頭から落下する。
瞬間、すずかはしまったという顔をした。
仮にこれが人間だとするのなら、今のは完全な致命傷。
しかし、その心配はまるで必要がなかった。
「どどど、どうしま、どうしままま、まししたたた、つきむ、むら、むらむむむらさんんんんんんんん?」
置き上がったソレは人間ではない。
首が九十度に折れ曲がり、手足があり得ない方向に曲がりながら立ち上がる。天井から糸を垂らし、それによって操られている人形の様な動きをしながら、壊れたレコーダーの様に声を吐き出し続ける。
「―――――――ッ!!」
言葉にならない悲鳴をあげた。
逃げる。
逃げるしかない。
生存本能がそう叫び、走りだす――――が、脚はすぐに止まった。
「―――――――」
目の前には人がいた。
一人ではなく、何十人も。
廊下の幅を埋め尽くし、軍隊の様に規則正しく並んだ人々。しかも、それは全員がこの学校の生徒と教師。
ただし、その全員が教頭と同じ様に人としての意識など存在せず、人形の様に―――人形その物の様に一斉に無機質な瞳ですずかを見据え、
一斉に
「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」
と、呪詛をまき散らした。
今度こそ、今度こそ、本当の悲鳴を上げた。
その恐怖に、異常性に、立つ事も出来ずに尻もちをつく。
「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」「どうしました、月村さん?」
逃げる。
立ち上がる事は出来ないが、這ってでも逃げる。だが、逃げようとした先には壊れた人形となった教頭の姿がある。
逃げ場はない。
恐怖から逃れる場所すらない。
「あ、ああああ、ああああ……」
絶望、その言葉がすずかを支配する。
どうして、こんな事になった。
自分はこんな事を望んだわけじゃない。
自分はただ、なのはと話がしたかっただけ。
話して、話して、もう一度友達になりたかった。
それだけなのに、
「た、たす……けて……」
誰でもいい。
誰でも良いから、このホラー映画の様な世界から自分を助けて欲しい。
誰か、誰か、誰か、
「誰か―――――助けて!!」
壊れた教頭の手がすずかに伸びる。
終りだ。
そう思った。
そう思った瞬間だった。
ガンッという鈍い音が響いた。
その音は教頭の背後から、鉄パイプの様な物で何かを殴打した音だった。それを証明するように、教頭の身体がグラリと倒れ、
「月村さん、大丈夫ですか!?」
倒れた教頭の背後から、もう一人の教頭が姿を現した。
「教頭、先生?」
新たに現れた教頭は壊れた人形の様に壊れては無かったが、頭から血を流し、身につけている服にまで血が付着している。それでも目の輝きは人形ではなく、人の意思を宿した光がしっかりと写っていた。
教頭が手を伸ばし、すずかの手を取る。
手の体温を、人の温もりは確かに感じられた。
「立てますか?」
そう言われ、立とうとしたが立ち上がれない。
無理だと首を振って伝えると、教頭は人形を殴った鉄パイプを放り捨て、すずかを抱えて走り出した。
「怪我はありませんか?」
「は、はい――――それより、教頭先生、頭から血が!!」
「大丈夫です。ちょっと殴られただけですから……」
問題は無いと言ってはいるが、その顔には明らかな苦痛の色が浮かんでいる。抱きあげられた事でわかったが、服に付着した血は頭から流れた血ではなく、服の下から出血している傷だった。
「わ、私、自分で走ります!!」
「腰が抜けて走れないのでそしょう?なら、私がこのまま――――」
そう言って教頭は走る。背後からはゾンビの様に人形達が追ってくる。
「何なんですか、あれは?」
「わかりません。ですが、先程まであんなモノは校舎の中にはいなかったはずです。私も職員室に戻った時、自分と同じ姿をしたアレに襲われましたが――――多分、人間ではありません」
走る度に床に血が堕ちる。それだけ重傷だということだろう。走りながら、しかもすずかを抱きながら走るという行為はそれだけで傷を悪化させる。だが、完全に走る事が出来なくなった今、すずか自身で走る事は不可能。
情けない。
心の底からそう思った。
結局、自分はまた誰かに甘えている。
こんな傷だらけの人にまで甘えて、自分でも何も出来ない。
あまりにも情けない自分に、涙が込み上げてきた。
「ごめんなさい……」
「何を謝るんですか?」
「だって、私……教頭先生のお荷物で」
すると、教頭は普段は見せない様な顔で、
「馬鹿を言わないでください……私は教師です。教師は、教師である私が、生徒をお荷物だと想うわけないじゃないですか」
「教頭先生……」
笑っていた。
こんな状況だというのに、教頭はすずかを安心させる様に微笑み、
「大丈夫ですよ。どんな事があろうと、私は【生徒の為に命をかける】なんて事はしません」
その言葉は冷たいとは思わない。
言わなくてもわかる。
これは、誰かの為に自分が犠牲になるなんて行為は絶対にしないという決意だった。
子供の自分でも、その意思はしっかりと理解できた。
だが、

「――――――随分と冷たい事を仰るのですね、教頭先生」

子供にすら理解出来る事を理解しようとしない愚かな者もいる。
聞きなれた声に、教頭は油断した。
それが決定的な油断を作る。
轟ッと廊下を駆け巡る嵐。
人の身体などあっさりと吹き飛ばす轟風によって二人の身体は宙に浮かび―――校舎の外、グラウンドに放り捨てられた。
その事を理解する間もなく、教頭は限られた理性を総動員して腕に抱いているすずかを庇う様に自分が下になり、地面に背中を打ちつけた。
「うぅ―――――ぁ」
「教頭先生!?」
「だ、大丈夫で、す……この、くらいは……」
背中を強く打ちつけた事で身体が動かないのか、教頭は転がる事も、立ち上がる事も出来ない。
そんな教頭をあざ笑うかのように――――魔女が舞い降りた。
「あはははははは、教頭先生。随分と情けない恰好ですわね」
知っている声だった。
だが、知らない声でもあった。
グラウンドの一人立つのは闇の色をした魔女。
普段の姿とはかけ離れている恰好をした女教師。
「帝先生……」
すずかに呼ばれ、
「はい、そうですよ。月村さん」

帝霙は―――スノゥ・エルクレイドルは嗤った。

スノゥの姿を見た教頭は目を見開き、すずかも同じ様な顔をする。その顔が面白いのか、スノゥはケタケタと耳障りな音を響かせ嗤う。
「痛そうですわね、教頭……痛いですよねぇ。えぇ、痛いですとも……でも、駄目ですよ?あの場で抵抗なんてしなければ、明日の朝には何時も通りの日常が待っていたのに、生徒の為に立ち上がる熱血教師ぶるなんて――――無様ですわぁ、無様無様無様……無様の一言ですわ」
「帝先生、どうして……どうしてそんな酷い事を言うんですか……」
普段の霙なら決して言わない言葉だった。だが、今の彼女こそが本当の帝霙であり、スノゥ・エルクレイドルなのである。
「酷い?あら、そんなに酷い事を言いましたか、私……う~ん、あんまり酷い事を言ったつもりはないんですのよ、私は?」
雰囲気が違った。
姿は勿論、何もかもが普段の、すずかの知っている教師の姿ではなかった。
教頭はなんとか身体を起こし、すずかを守る様に背に隠す。
「帝先生、これはアナタが行った事なのですか……だとすれば」
「だとすれば、何ですか?許しませんか?いいですよ、許さなくても。でも、許してくれると嬉しいですわね。だって、アナタ達みたいな害虫に許されないなんて、エルフの誇りが汚された気分ですわ」
エルフという言葉に二人は眉を顰める。
それはお伽噺、童話に出てくる架空の種族の名前だ。
だが、目の前にいるスノゥの耳はそれを現すかのように長く、尖っている。
「何故、こんな事をしたんですか……」
「理由は簡単です。その子のせいです」
スノゥはすずかを指さす。ここで自分に矛先が向くとは思ってもなかったすずかは、呆然と自分自身を指さす。
「私、の、せい?」
「そうです。アナタのせいですよ、月村さん。アナタが調子にのって学校なんかに来なければ、なのはさんに近づこうとしなければ、何の問題もなかったのですよ……」
なのは、という名前が出た瞬間、すずかは鈍器で殴られた様な衝撃を受ける。
「困るんですよ。今日は大切な儀式があるんです。その為にアナタみたいに希望をその手に~みたいな顔であの子に会ってもらっては困りますわ」
「どういう、意味ですか、それは……」
「そういう意味ですわ。正直に言えば、アナタの役割なんて三年前から既に無いんですけど、もしかしたら面白い事になるかもしれないから、特別になのはさんの【友達】として残してあげたんです。でも、駄目ですね。面白いから残すと、先日の様になのはさんに無駄な衝撃を与える事になってしまいます」
反省してます、とスノゥは溜息を吐く。
だが、すぐに元の不気味な笑みを作る。
「ですから、これ以上なのはさんに余計な衝撃を与えない様に、アナタの中の時間をちょっとだけ進ませてもらいましたの。気分はどうですか?疑似タイムスリップをした感想はどうですか?」
「あれは、アナタの仕業だったんですか!?」
「えぇ、その通りですわ。と言っても別に本当にタイムスリップしたわけではなく、単にアナタの意識を一時的に時間という感覚を失わせ、同時に同じ所を何度も何度も回る様にしただけなんですけどね」
カラクリは三つの暗示で十分だった。
一つは時間の感覚を麻痺させるという行為。
すずかの中で時計を見た記憶は確かにある。だが、それは何度も見たというわけではない。たった一度だけ見た時間を暗示によって【時間が進んでいない様に想わせた】だけにすぎない。
そしてもう一つは、目的地に近づけないという暗示。
これも時間の感覚を狂わせると同様に、無意識に遠回りさせる、もしくは同じ道を何度も通らせるという二つを植え付けるだけ。
「そして最後は、視覚の暗示ですかね。アナタが学校の前についた時、最初の二つの暗示は解除して、新しい暗示をかけました。それは【明るさを逆転させる】という暗示ですわ。簡単に言えば、明るい昼を夜だと思いこませ、暗い夜を昼だと思いこませるのです」
自慢げに説明するスノゥだが、二人には理解できない。
確かに人妖能力はそういった魔法の様な事を可能とする。だが、それは決して魔法の様な力ではない。
そして、スノゥの言ったソレはまさに魔法。
教頭は信じられないという様に、
「まさか、魔法だとでも言うのですか……」
「えぇ、魔法ですわ。アナタ達の様に人妖能力でしか異能を知らない方々には、少々びっくりしますでしょうけど……」
魔法は存在する。
この世界には無くとも【何処かの世界】には存在する。
そして、この魔女はその世界から来た存在。
「ちなみに、ですが……」
パチンッと指を鳴らすと同時に、校舎の中にいた人形達が一斉にグラウンドに現れた。
「これも魔法の一種。ゴーレム生成の応用というか、単純な操作魔法なので、それほど驚くべき事でもありませんわ」
「アナタは、何者なんですか!?」
「何者と言われても、通りすがりの魔法使いですわ」
当然の事を聞くなと言わんばかりに、スノゥはほくそ笑む。
「そして、そんな魔法使いの邪魔をするクソガキを恐怖に陥れて、絶望させて殺してあげようとわざわざこんなセッティングまでしたのですが――――まさか、教頭先生が邪魔をするとは思ってもみませんでしたわ」
スノゥ自身、すずかの事はどうでも良い存在だった。しかし、彼女のせいで【鍵】であるなのはに無駄な衝撃を与え、尚且つまた何かをしようとしている彼女を目触りだと思っていた。
「邪魔しないでくださいね、教頭先生。その子を殺せば、もう私の鬱憤晴らしも終わります」
「…………子供を、何だと思ってるんですか!?この子は、月村さんはアナタの生徒ではないのですか!?」
「生徒ですよ。だから【教師である私は生徒をどう扱おうと自由】なんですよね?」
絶句した。
この魔女は本気でそんな事を言っている。
本気で子供を、生徒をそういう存在としか思っていない。
「教師にあるまじき発言ですね」
「教師になったのだって、単に手に職を付ける為。というより、色々な人妖を観察する為の手段ですわ。私としては、教師というか先生というか師匠というか、そういう偉ぶっている連中が大嫌いですの」
漸く理解した。
すずかも、教頭も。
この魔女は自分達の知っている帝霙ではない。そして、自分達は帝霙という存在を一つも理解していない。
仮面の下の素顔はこんな存在。
残忍であり狡猾であり、教師という職業についてはいけない人間だということだ。
「私も、人を見る眼が無いようですね。アナタの様な人間を教師の一人だと本気で思いこんでいました」
「買被りすぎですわ、教頭先生。私、最初から教師が大嫌いで生徒も大嫌いな、ただの魔法使いですから」
「私の生徒の前で、そんな事を言うのはやめなさい」
「――――命令しないでほしいですわね」
スノゥの手がサッと上がると同時に、二人の周囲に小さな爆発が起こる。
「わかりますか?現状の優勢は私です。最初からこの先も、アナタ達が死ぬまで永遠に私が上、そっちは下ですのよ?」
ケタケタと嗤う。それに釣られた人形達も同じ様にケタケタと嗤う。
真夜中の響く人形と魔法使いの嗤い声。
背筋を凍らせるには十分すぎるほどの、怪異。
そんな魔女から生徒を守る教頭を見て、スノゥはこんな事を尋ねた。
「前々から思っていたんですが……どうして教頭先生は教師なんて下らない職業を続けてるのですか?」
「…………」
「私は三年ほど教師をしておりましたが、どうも楽しいと思えないですよ。むしろ、無駄な事を積み重ねている様な気がしてなりません。幾ら教師が生徒に勉強や人としての何かを教えたところで、生徒が本当にその通りなるなんてあり得ませんよね?」
「…………」
「無駄ですよ、無駄。教師なんて存在は無駄の一言。第一、この学校を巣立った者達が何時まで教師という存在を覚えているんでしょうね?きっと、半分以上は教師の事なんて覚えてもいないでしょうね。覚えているのはくだらない学校生活を謳歌したという勘違いと、それを邪魔する教師という厄介者。名前も覚えず、厄介者に邪魔されたという記憶しかないでしょう――――そんな存在に、価値などあるのでしょうか?」
教頭は答えない。
「教頭先生……」
不安そうに教頭の背中を見るすずか。
そんな事はないと言ってやりたい。だが、この問いに答えられるのは教頭だけ。自分は生徒であり、卒業すらしていない三年生だ。
だから、わからない。
もしかしたらスノゥの言う事が正しいのかもしれない。
でも、否定してほしかった。
そんな事は無いと、力強く否定してほしかった。
「―――――確かに、それは正論ですね」
その願いは、あっけなく崩れ去る。
教頭は苦笑しながら答えた。
「アナタの言う通りでしょうね、魔法使いさん。生徒は教師の思う様には育ってくれない。今は良い子であっても時間が立てば犯罪者になるかもしれない。そして私達の様な教師の事なんて名前すら忘れ、あんな邪魔者がいたなという程度の存在に成り下がるでしょうね」
「えぇ、そうですわ」
「教師なんてその程度なんです。勉強を教えるだけ、人としての当たり前だけを教える程度のつまらない存在。家族でも友人でもない全くの他人……そんな者を覚えている生徒なんてきっといなでしょう。特に、私の様な堅物の事なんて尚更覚えていないでしょう」
「まったくですわ。私の師匠は教頭先生の様な堅物でしたから、名前も思い出せないくらいに忘却させていただきました」
教師は聖職者ではない。
唯の人間だ。
何時から教師は聖職者などと呼ばれる様になったかはわからないが、今となってはそれは迷惑以外の何物でもない。
唯の人間が唯だの人間に何かを教える、そんな事は誰にでも出来る事はだと教頭は思っている。
「うふふ、そういう点から見れば、教頭先生は私の師匠よりも少しはマシですわね。本当に、殺すには惜しい方ですわ」
楽しそうに嗤うスノゥ。
ソレを見て悲しくなるすずか。
そして――――笑みを消した教頭。

「ですが―――――それの何処に問題があるのですか?」

「は?」
立ち上がる。
ボロボロの身体で、立ち上がる。
唯の人間、唯の教師。人妖でも魔法使いでもない。武術の心得があるわけでもなければ、何の変哲もない唯の一般人が、立ち上がる。
「良いではないですか、それで……」
嗤いには、笑いを返す。
教師は嗤わない。
教師は子供の為に笑うのだ。決してあんな下種な笑みは浮かべない。
「教師など記憶に残らなくて構わない。生徒が思い出すのは学校で培った経験と、友人との楽しい思い出、もしくは辛くとも誰かと分かち合った何か……それだけあれば十分だと思いませんか?」
教師という意味とは何か。
教頭は心の中で再度確認する。
「教師は記憶に残らなくて良い。教師は生徒が先に進む為の土台であり踏み台であり、階段であれば良い……」
どうして自分が教師になったのか、それを思い出す。
「伝えるべきは想いと言葉。それが伝えれば私達は思い出にすらならなくても構わない。アナタの言う様に、楽しい思い出を邪魔した愚か者として記憶してくれば万々歳。私はそれ以上の【幸福】を望みはしません」
一人の教師がいた。
普通の教師だったが、人妖だった教師。
皆から白い目で見られながらも、皆に何かを残そうとした教師がいた。
結局、その今日は人妖だという事で学校を辞めさせられた。
誰もがその教師を人妖としか見ようとせず、教師として見てはいなかった。
だが、数年が経ち、その時の生徒達が同窓会という事で集まった。
そして、誰かがぽつりとこんな事を言った。
『先生……来ないな』
その一言に誰もが驚き、誰もが同じ事を想っていた。
人妖だった。だが、教師だった。
教師が教えてくれた事が今の自分を作っていたのは否定できない事実。だから、今になって、それがはっきりと理解できた。
なんて様だ。
教師を追い出したのは自分達だというに、どうして今になって教師の存在を、教師を教師だと認める事が出来たのだろうか。
悲しかった。
悔しかった。
謝りたかった。
でも、全ては遅い。
心に残ったのはそんな重すぎる後悔だけ。
だから、
「忘れられて良いのよ、私は……」
自分が教師になったら、誰にも思い出されない様な教師になろう。だが、それでも教える事だけは忘れないようにしよう。
自分という教師は忘れても、伝えた事だけは忘れないでいて欲しかった。
「――――だから、私は生徒の為に命はかけない」
重みを背負わせない。
「自分の為に死んだなんて事は想わせない。だからアナタには殺されない。そして月村さんも殺させない!!」
重みを生徒に仮せる、記憶に残る教師になんてなりたくない。
これはきっと強がりだ。
あの教師、加藤虎太郎という教師はきっと自分とは違う。
この学校を育った生徒はきっと彼の事を覚えているだろう。生徒の為に動き、生徒の為を想って行動できる強い教師。あんな教師なれたら幸福だろう。だが、全ての教師、全ての人間が彼の様に強いわけじゃない。
唯の人間には、ソレに相応しい領域がある。
自分はその領域で、精一杯足掻くだけ。
大きく手を広げ、後ろにいる未来ある子供を守る。
「あの……教頭先生?私の勘違いでなければ良いのですが……アナタは私と戦う―――そう言ってます?」
心底呆れた顔でスノゥは教頭を冷めた目で見つめる。
ソレに対しての返答は決まっている。
「聞き間違いではありません。戦ってやる……そう言ってるのですよ」
「矛盾してません?」
「矛盾してるでしょう。おかしいでしょう」
自分でわかっていると、教頭は小さく微笑み、



「それでも私は――――教師ですから……」



何故、立つのかと問われれば。
何故、立ち塞がるのかと問われば。
何故、そんな思いを持って矛盾した思いを貫くと問われれば。
彼女は何度もでも同じ問いを返すだろう。
己が教師だから。
悔しい事が一つあるとすれば、きっと殺される。
あの力はもちろん、自分達を囲んでいる人形を前に力もない人間がどう足掻いても勝てるわけがない。
それでも、教師である限り―――いや、一人の大人である限り、子供だけは絶対に守る。
「教頭、先生……」
「馬鹿げてますね。心底馬鹿げてます」
スノゥの顔に笑みはない。むしろ、蔑む様な下劣な視線を教頭に向けている。
「アナタも結局は私の師匠と同じですわね。そんな押し付けがましい願いを生徒に向ける時点で、聖職者とは呼べません」
「……そういえば、私も一つだけアナタに尋ねたい事があります」
教頭はスノゥを見据え、
「先程から師匠師匠と言っていますが……結局、アナタもアナタの師匠を、先生を忘れられないのではなくて?」
「――――――ッ!?」
初めて、スノゥの顔に驚愕の色が浮かぶ。
しかし、それはすぐに憤怒の表情に変わる。
「あ、あな、な、アナタは……私を侮辱するのですか!?」
「今のアナタを肯定する所なんて一つもありません。アナタは教師失格です。そして、アナタの先生である方に詫びるべきです」
「…………えぇ、そうですか。良いですよ、良いでしょう……」
人形達が震える。
ガタガタ、カタカタと震えると同時に手が鋭い刃へと変化する。そして、その背後の地面から巨大なゴーレムが出現する。
「殺しますね?殺しますけど、良いですよね?大丈夫です、すぐには殺しませんわ。まずは手足を何度も何度も突き刺し、その後に切断してあげます。そしたら身体の内臓という内臓全てに刃を刺し込み、抉り取り、それから脳髄をぶちまけて殺して差し上げます」
最早、スノゥの顔に遊びに表情はない。
本気で殺しにかかる。
本気で惨殺の限りを尽くす。
「―――――月村さん。私が時間を稼ぎますから」
「嫌です!!」
「月村さん……」
「絶対に嫌です!!絶対に、絶対に……先生を、置いていくなんて、逃げるなんて死んでも嫌です!!」
「別に死ぬつもりはありませんよ」
嘘だ。
すずかでもわかる。
教頭の目には生きる意思はなくとも、すずかを守るという意思はある。
そして、そんな教頭に守られる自分は一体何なんだろう。
力もない。
弱虫で意気地なしな子供でしかない。
守る事もできない。
何もできやしない。
「…………助けて」
誰でも良い。
神でも悪魔でも良い。
「誰か、助けて」
奇跡の様な偶然でも良い。
漫画の中に出てくるヒーローが突然現れても文句は言わない。
この場で、自分を、教頭を助けてくれる誰かが欲しい。
それが叶うなら、もう泣かない。それを叶えてくれるのなら、努力だってする。これから先、同じ事があったら誰かを守れるくらいに強くなる。強くなって誰かを救ってやれる存在になる。
月村としてでも良い。
月村すずかとしてでも良い
この血を受け入れ、この力を否定しない。
だから、
「誰か……助けてよ!!」
叫ぶ。
「ふん、こんな時に都合の良い奇跡でも起きるとでも?残念ですが、この辺りに【人妖は近づけません】。そういう仕組みを作りましたので――――諦めて死になさい」
人形の刃が一斉に牙を向く。
その後に続いてゴーレムが動き出す。
教頭はすずかだけでも守ろうと彼女を抱きしめる。
奇跡は起きない。
奇跡は起きない様に出来ている。
如何にこの世界に奇跡が日常茶飯事にあろうとも、誰の手にもそれが預けられるわけではない。
魔女は嗤い。
教師は死ぬ。
そしてすずかも死ぬ。
それがこの世の摂理であり、運命。

現実に神も悪魔もいるかもしれないが、此処にはいない。
現実にヒーローはいるかもしれないが、此処にはいない。
此処にいるのは、魔女と教師と少女。














そして、鬼が一匹

















爆音は響く。
猛獣の様な唸り声が響き、巨大な機械の化物が姿を見せる。
それは夜の闇を切り裂くハイライトを煌かせ、校門の柵を速度と重量によって生み出された威力をもって粉砕する。
宙に舞う鉄の柵。
その真下を潜る様に疾走する怪物。
「――――――ッ!?」
魔女の驚愕。
そんな雑音など知った事かと、怪物はまっすぐに一点を目指す。
グラウンドで公演されている無慈悲な人形劇は、大型バイクの突進によってあっさりと崩壊する。人形の部品が宙に舞い、教師と少女に振りおろされた刃は無残にも砕ける。
バイクは突っ込んだ衝撃によって横倒しになるが、勢いは殺せない。地面を激しく擦りながら真っ直ぐにゴーレムの元へ向かう。
その時、バイクに乗っていた者はどうなったかと言えば。
「――――――ッハ」

【横倒しになったバイクの側面に乗り、嗤った】

男は長い白髪。
男は隻眼。
男は作業服。
それは男という人間でありながら――鬼。
鬼の笑みに命無きゴーレムは迎撃態勢を作る。
相手に武器はない。
武器といえば横倒しになったバイクだけ。あれが爆発すればそれなりのダメージになるだろうが、完全破壊は不可能。よって、その上に乗っている者を迎撃し、撃破する。
生ぬるい考え、その一言に尽きる。
横倒しになったバイクは真っ直ぐにゴーレムの元へ突き進み、その上に乗った男は一切動かない。恐らく、激突と同時に飛び降りるつもりだろうとゴーレムは推測する。
よって腕は大きく振り上げるが、バイクが激突し、爆発炎上する時に振り降ろしても遅い。この一撃を振り下ろすのは、バイクから相手が跳んだ瞬間に叩きこむ。
その瞬間は近い。
男は降りない。
男は飛ばない。
それどころか、バイクの上で構えを取る。
脚はしっかりと【バイクの上に固定】して、迫りくる巨体を隻眼にて捉える。
拳は握らない。
拳は開き、掌を突きだしている。
右手を前に突きだし、左手は弓を引く様に引き絞る。
そしてその瞬間は訪れる。
ゴーレムは腕を振り下ろさない。
男が跳ぶ瞬間は待つ。
待つ。
待つ
待つ。
待つ
待――――――跳ばない。
「阿呆が」
小さな呟きは確かにゴーレムに届く。
よって、これにて決着。



男はバイクから跳び下りず、バイクの速度と掌の速度を合わせて、引き絞った掌をゴーレムの身体に叩きこんだ。



男の掌はゴーレムの身体に植え付けられた赤い宝石に直撃する。その宝石自体がかなりの強度を持っているにも関わらず、宝石は男の一撃を受けた瞬間に―――【内部】から破壊された。
そして爆発。
男とゴーレムを巻き込みながら、巨大な炎が上がる。
「なに?自殺志望者ですの?」
当然の疑問だろう。
だが外れだ。
巨大な炎が上がると同時に――――巨大な人の影が飛び出した。
炎を浴びながら、着ている作業服を微かに燃やしながら、それでも一切のダメージを感じさせない疾風の如き疾走。
人間とは思えない速度で男は次の獲物へと襲い掛かる。
ゴーレムの次は人形。先程何体かバイクで轢き壊したとはいえ、全てではない。現に今にも教頭とすずかに襲いかかろうしている。
「させるか―――ッ!!」
演武が始まる。
まず最初に餌食になったのは教師の人形。
男の蹴りの一撃で人形の首は吹き飛ぶ。自分の首が無くなった事に気づきもせず、男に襲いかかる人形に、首を吹き飛ばしたハイキックをそのまま円を描く軌道にて、脚に叩きつける。
この人形の強度は並の人間よりはかなり高い――はずなのだが、男の蹴りは人形の脚を折るどころか【切断】した。
脚を失った人形が地面に倒れる前に次の獲物へ。
今度は学校の生徒を真似た人形。
先程の教師の人形よりは小さい。よって、脚を天に掲げ、断頭の如き踵落しを喰らわせる。
頭、胴体、股の全てを一撃で切断。踵が地面に落ちたと同時にそれを軸足として身体を回転させて体勢を低くしたままの低空掌打を別の生徒の人形に叩きこむ。
人形は吹き飛ぶ事はなかった。代わりに、震動を十割丸ごと浸透させた身体はその場で崩れ落ちた。
「な、何なんですか……アナタは!?」
蹂躙されている。
自分が作りだした人形があんなにもあっさりと蹂躙される。いや、それはまだ良い。そんな事は昨日の虎太郎の時点で大分驚かせられたので構わない。
問題は、どうしてこの男が校内に入って来れたか、という事だ。
「何故、何故!!」
「まったく、五月蠅い奴だ……」
人形の頭を掴み、握力にて握りつぶす。
「何をそんなに驚いている」
「どうやって入って来たのですか……この結界の中には入れないはずなのに」
「入れない?そうか、普通は入れないものなのか……いや、気づかなかったな」
「そんなはずは……そんなはずはないですわ!!この結界は人妖には絶対の効力持っているはずなのに―――――」
そう言って、スノゥは気づく。
まさか、あり得ないと思いながら、
「アナタまさか……人間、なのですか?」
「だとしたら?」
男は意地の悪い笑みを浮かべながら、ワザとらしく言った。
「まさか、人間程度なら入ってきても殺せる。人間程度ならあんな木偶人形の一体でもいれば余裕で殺せる――――なんて、間抜けな事を考えていたわけじゃあるまい」
正にその通りだった。
想定していなかった。
人間に、唯の人間にどうにか出来るゴーレムでも人形達でもない。
だが、現にそれはあっさりと覆された。
魔女は知らない。
魔女が知っているのは人妖という存在だけ。

【鬼】という存在など、知るはずがない

教頭、そしてすずかは漸く我に返った。
圧倒的な数を前に、圧倒的な力を持って撃破した男。
「オジサン……」
「アナタは、どうして……」
二人の質問に男はあっさりと答える。
「いやな、ちょっと忘れ物を取りに来ただけなんだが……まさか、こんな展開になっているとはな……ククッ、流石にこの展開は子供の姿をした神でも妖弧でも思わんだろうな」
忘れ物を取りに来て、校門をぶっ壊すとも思わないだろう。
「にしても、バイクはこれでオジャンか……請求書は誰に出せばいい?」
親指でスノゥを指さし、
「アレに出せばいいのか?」
「アナタ……何者ですか!?」
「何者と聞かれても……通りすがりの土木作業員だが?」
「ふざけているのですか!?名を名乗りなさい……名を、名乗りなさい!!」
男は面倒そうに頭を掻きながら、ふとある事を思い出す。
「そういえば、お嬢ちゃんには名乗ってなかったな」
ワザとらしく―――というより完全に、そして見せつける様に、名乗れと言ったスノゥに背を向け、
「自己紹介が遅れてすまない」
男は言う。
すずかに向け、己が名を口にする。



「九鬼耀鋼だ――――まぁ、今までと同じ様にオジサンでいいぞ」








次回『海鳴‐みんな‐』






あとがき
あと一話で終わるわけがない。
というわけで後二話です。
今回の主役はすずか――――ではなく、教頭先生というオチ。
そして真打ち登場。
九鬼先生、戦線復帰です。
書いてて楽しいね、こういう人って。

にしてもあれですね、この海鳴の街においてなのはさんの戸籍はかなりめちゃくちゃンになっている様です。
作中で忍が言っていた事を要約すると、
真実を隠す為に嘘を作り上げ、嘘を見破ろうとした人に嘘を見せて嘘を本当に変えたけど、見破ろうとした人だけは騙されても他の人はそうじゃなくて、そうじゃない人がそれを知ったらまだ嘘を隠して……結果、何が嘘で何が本当かわからない状態になった、高町なのはという少女

俺、何言ってんだろう?
まぁ、いいか。

というわけで、次回は前回の次回題名の『海鳴-みんな-』です。
副題は『深夜の海鳴大決戦、殲滅戦だよ全員集合!!』です。
次回は完全にバトル回です。
圧倒的なバトル回です。
討って打って撃ちまくるバトル回です。
そんな感じで、さようなら~

















海鳴のとある中華飯店。
「ほい、チンジャオロースに天津飯、ついでにチャーハン大盛りいっちょあがり!!」
スキンヘッドの店主の粋の良い声でカウンターに器を乗せる。
「にしてもアンタ、そんなに食って腹は大丈夫なのかい?」
「問題ない、なにせ一週間以上まともに食事してなかったもんで……ん、美味い」
幾ら一週間もマトモに食事をとっていないからといっても、と思いながら店主は先に出した巨大チャーハンとマーボー丼をトンデモない速さで食す男が食べたどんぶりタワーを見る。
山の様に、という言葉が似合いすぎる程の山を作りながらも、男の食事スピードはまったく変わらない。
「おっちゃん、あと餃子とラーメン追加」
「お、おう……食材持つかな?」
頭を掻きながら厨房に戻る。
厨房ではバイトの蒼髪の少女が一心腐乱にネギを斬り、その隣でオレンジ色の髪をしたツインテールの少女が中華鍋を振るっている。
「二人とも、悪いんだけど追加オーダーだ」
「はァッ!?今でも十分に大変なんですけど!!」
「そうですよ店長。これはバイト二日目の私達にやらせる量じゃないですよ……」
「それはそうなんだけどね、あのサラリーマンっぽいお客さんが偉い勢いで食べるもんでね」
蒼髪の少女は目を細めて客を見る。
「あの人、堅気の人なんですか?なんか、来ているシャツに血がついてますけど」
中華鍋を振るう少女は特に興味も無さそうに、
「止めときなさい。あんまり見てると――――取られるわよ」
「何を!?」
「あぁ、二人とも。そういうわけで餃子とラーメン追加ね」
「店長。私、今日でバイト辞めます」
「右に同じく」
「そんな事を言わないでよ、二人とも。確かに二人のバイト時間は終わってるけど、これも店の為だと思って……ね?」
必死に頼む店長だが、二人はまったくそんな気はないのか、
「これでも高校生なんですよ、私達」
「そうですよ店長。これ以上遅くなったらお父さんに外に放り出されちゃうし……」
「私は早く家に帰って兄さんの寝ているところを襲わないといけないんです」
「中島さんはごめんね。ランスターさんは……なんか、どうでもいいや」
「…………はぁ、しょうがないか。店長、残業代追加ですからね」
「これも兄さんの為。兄さんの為――――あ、思い出したら鼻血が」
蒼髪の少女は相方にティッシュを渡してさっさと餃子を焼き始め、相方はティッシュを鼻に詰めてはラーメンを作り始める。
「それにしても、変わった客だな」
見た目はどう考えても普通じゃない。
ボロボロのスーツにシャツは血だらけ。頭には応急処置な感じに適当に巻かれた包帯。とりあえず病院に行く事を進めたいのだが、
「血が足りないからな。食って取り戻すだけだ」
そう言って男は食事を進める。しかも、初めにボロボロの一万円札を三枚突きだし、
「これで食えるだけ喰わせてくれ」
と言ってきた。
「……俺としては問題ないんだが」
金は入る。
新しく入ったバイトには店の全メニューの作り方を教えられる。
幸いな事に客は男一人だけ。
「客は客だし、まぁいっか……」
結論をあっさりと出し、店主は腕まくりして厨房で調理を開始する。





[25741] 【人妖編・第十二話】『海鳴‐みんな‐』
Name: 散々雨◆ba287995 ID:862230c3
Date: 2011/04/14 20:50
さぁ、戦争を始めよう




鬼の一撃が人形を粉砕する。
粉砕された人形を足蹴にして新たな人形が襲いかかる。
人形は鬼に手を伸ばす。
鬼は人形の手を払い、掌打にて応える。
一対多の攻防は、一方的な殲滅戦へと変わっていた。
スノゥ・エルクレイドルの描いた脚本は未来はこんな事にはなかった。そもそも、月村すずかを殺すという脚本自体が適当に、そして片手間で作り上げた穴だらけの脚本だったのだ。それに完全性を求めてはいない。完全でなくとも事足りるだろうと本気で思っていた。
しかし、それがあまりにも小さな怠慢だと知る事になった。

鬼がいた。

一対多というあまりにもスノゥに有利な展開、戦場、舞台、盤面だというに、一匹の鬼の力は一対多という盤面をあっさりと覆した。
足手まといは数には入らない。
守りながら戦うのは辛くはない。
何故ならば、こんな相手を数に入れるのも、辛いと思うのも、ましてや負けるなどと思う事自体が馬鹿らしい。
「―――シャッ!!」
鬼の掌打が人形の頭を砕き、その隙に背後から襲いかかろうとした別の人形に肘を撃ち込み、胴体を砕く。
「っふん、足りんな」
人形では駄目だ、ならゴーレムなら。
しかし、ゴーレムを出した所で結果は変わらない。
砕けないだろう。
壊せないだろう。
だが、砕く必要も壊す必要もない。
鬼の、九鬼の掌打とは、
「固ければ、偉いというわけではあるまいッ!!」
身体を回転。
掌打ではなくて蹴り。
回し蹴りでゴーレムの胸元にある宝石へ。
掌打の方が【波】は相手に伝わりやすいだろう。この手、この技は岩の様に堅い身体をした人妖を相手にでき、この技の元となった武術は人外の存在と戦う為に生み出された武術。
ならば、この程度の敵。
「―――ハッ!!」
掌打ではなく、蹴りだとしても、

衝撃の波を伝える事など、苦にもならない。

「まぁ、威力は落ちるがな……だが、脆いんだよ」
九鬼の蹴りは宝石を砕き、ゴーレムの身体はあっさりと壊れる。
「まったく、そこが弱点ですと自分から言っている様な使用だな……なんだ、ここはそういうボーナスステージか?」
肩をすくめながら、隻眼にてスノゥを見据える。
「悪いが、こんなに生ぬるいステージなら最高得点なんぞ余裕で出せるだろうな……それとも何か?まさか、この程度でハードステージだと言う気じゃないだろうな?」
意地の悪い笑みに、スノゥは歯を食いしばる。
その通りだ、その通りだとも。
人間相手にはこの程度で十分だと思っていた。いや、それ以前にこれが自身の【最高戦力】なのだ。
それを、こんなにあっさりと撃破されるとは思ってみなかった。
これが人間か。
いや、これは人間なのか。
「アナタは……人間、なのですか」
「人間さ。どこからどう見ても人間だ。人間以外の何に見える?」
「とてもじゃありませんが、人間には見えませんわ。アナタが人間の基準だというのなら、人間の軍だけで神はあっさりとアナタ方に殺されますよ」
「誉めてるのか貶しているのかは知らんから、礼は言わないでおこう――――それよりも、誰か俺に説明してくれる奴はいるか?とりあえず戦ってみたはいいが、実はどっちが悪者なのかわからないんだ」
そう言いながらも、九鬼の行動は決まりきっている。
善か悪などとは知らない。
今わかるのは、この人形達と魔女のコスプレをした女が、自分の顔見知りを襲っているという理由だけ。
それだけの理由――――十分過ぎてお釣りがくる。
「さぁ、誰が話す?話す間にこの出来そこない共は壊しておいてやる。その時点でお嬢ちゃんと教頭が悪かったら仕方がないから謝ろう。お前さんが悪かったら、もうちょっとマモトなのを作れと言ってやる」
話すまでもない。
聞くまでもない。
スノゥは理解する。この男は話を聞いても関係なく【敵】になる。
九鬼は理解するつもりもない。この魔女が仮に正しくとも、関係なく【敵】にする。
言葉は要らない。
「…………どうやら、私に人を見る目も随分と甘いモノの様ですわね。まさか、アナタのような化物を見逃していたなんて」
「酷い言われ様だな。こんな唯の人間を化物呼ばわりとは―――本物の化物に失礼だぞ」
「どの口が……アナタを化物と称するのならば、それ以外の化物など化物ではありませんわ――というより、アナタは本当に人間?」
「お前さんの人間を見る眼が弱いだけだ。言っておくが、俺が知っている限り、こんな事を壁でやる人間なんてゾロゾロいるぞ。そうだな、例えば【高町士郎】という男がその一人だ」
高町という名にスノゥが反応する。
「高町士郎……ですか。その名を知っていると言う事は、アナタが此処に現れたのは偶然ではないのですね。まったく、何が忘れ物を取りに来たですか、私の邪魔をする気以外の何物でもありませんわね」
「いや、忘れ物は本当だ。あと、偶然だぞ、偶然」
「今更誤魔化しても無駄ですわ。アナタも私の邪魔をする敵だという事は明確ですのよ!!」
さて、どうしたものかと九鬼は考える。
どういうわけか話の流れ上、自分がまるで全てを知っているから此処にいる、という認識になっているのだが、
「悪いが、何の事を言ってるんだ?」
「ですから、誤魔化す必要なんてありませんわ。というより、そんな白々しい演技は辞めてくれます?不快です」
全く知らないというのが真実。
自分は本当に忘れ物を取りに来ただけで、こんな戦闘に巻き込まれている。だが、どうしてか誤解されていう現状。
「――――とりあえず、誰か事情を話してくれんかねぇ」
小声で呟き、苦笑する。それをスノゥは「ふん、お前の事なんて百も承知だ!!」という感じの笑みに見えたのだろう、忌々しい奴だと九鬼を睨みつける。
若干の認識の相違が起こっているが、現実にはあらすじをしっかり説明してくれるオプション機能などあるはずもなく、
「いいでしょう。アナタは私の敵という事にしてあげますわ。月村さんや教頭先生は敵と言うよりも獲物……つまり、その二人を殺せば私の勝ちという事ですわね」
「いや、全然違うと思うぞ。あと、俺の話を聞け」
「問答無用ですわ――――ですが、私も忙しいので、こういう手法を取らせてもらいます」
そう言ってスノゥは指をパチンと鳴らす。
音は周囲に溶け込み、空気を変える。
空気は風に溶け込み腐臭を放つ。
腐臭は周囲の地面を腐らせ、正常な地質を異質なモノに変貌させる。
這い出るはゴーレム。
創造するは人形。
先程までいたゴーレムや人形とは形が違う。今までのモノはあくまで人に似た形をしており、それを前面に出している傾向があった。だが、今度は違う。
人形の身体は完全な異形。人の形をした者は一切おらず、そのほとんどは童話やお伽噺に出てくる怪物の身体をしていた。
ゴブリン、人狼、ドラゴン、リザードマン。
そしてゴーレムも同様に土くれとは違い、強度を増したのだろう。鉄色のゴーレムとして姿を現し、胸元にあった赤い宝石は鉄色の身体に完全に隠れ、見る事が出来ない。
「これが私のとっておきですわ。悪いですが、全力で狩らせていただきましてよ」
「まるで人形劇だな……にしても、随分と沢山作ったもんだ」
その数は――――数えきれない。
無数の異形の人形は虚空の渦から姿を【現し続ける】。
鉄色のゴーレムは地面から【這い出し続ける】。
「製作費、幾らだ?」
「ハリウッドには負けませんわ」
「そうかい。なら大作だ、きっと大コケするぞ」
「製作費だけしか能のない映画監督とは違いますわ。私の場合、中味にも拘りますので。拘るからこその製作費であり、拘るからこその性能です」
スノゥは何処から取り出したのか、魔法使いが使う様な箒を取り出す。
「それでは皆様、ごきげんよう。恐らく、二度と会う事はないと思いますが、生きていたら二度とその顔を見せないと嬉しいですわ」
箒が宙に浮かぶ。
「それ、飛ぶのか?」
「羨ましいですか?」

「いや、飛ぶのなら―――撃ち落とすのが面倒だなってな」

九鬼の口元が吊り上がる。
言い様の無い不安感、もしくは恐怖が背筋を襲う。
それを否定するようにスノゥは叫ぶ。
「ふ、ふんッ!!負け犬の遠吠えなら、言うのが速いですわよ。そういう台詞は、これから死んで負けて殺されてから言いなさい!!」
箒が天高く飛び上る。
「…………本当に飛んでるな」
まさか本当に空を飛ぶとは思ってもみなかった。なるほど、どうやらアレは魔女のコスプレをしているのではなく、本当に魔女という存在らしい。
もっとも、特に驚くべき事でもない。
「妖怪も神様もいるんだ。魔女くらいはいるさ」
あっさりと受け入れ―――現実と直面する事にした。
「にしても、この数は少々面倒だな」
確かに先程まで一対多でも問題なかった。だが、どう見てもアレは一対多でも問題ないとは言えない。無論、負ける気なんてさらさら無いのだが、面倒ではある。この戦いはアレを全て倒し、すずかと教頭を守りきれば勝ち、という理屈になる。
だが、その考えではいけないと言う様に、すずかが口を開く。
「まさか……なのはちゃんの所に」
夜空を駆ける魔女を見て、すずかはそう言った。
「なのは?どうして此処であのお嬢ちゃんの名前が―――」
そこで気づく。
先程、九鬼は自分の口から【高町士郎】という言葉を出した。そして、あの少女の名前は高町なのは。
「なるほど……どうやら、人違いじゃないらしいな」
どういう事態なのかはさっぱりだ。
だが、あの魔女はなのはを狙っているらしい。
そして、それを邪魔したからこの二人と自分を殺そうとしているらしい。
「っち、面倒な事になった」
これも己が行った事に対してのツケなのか、それとも罰なのか―――知った事ではない。
己が何をしたかなど、それは自分自身の問題でしかない。自分自身の問題と目の前の問題。それが一緒くたになって襲いかかってきたというのなら、一緒に片を付けるだけでいい。
細かい疑問は置いておく。
事の状況を把握するのは後でいい。
今、するべき事は、
「おい、お嬢ちゃん」
九鬼はすずかを見て、
「助けたいか?」
そう尋ねた。
裏切った相手を助けたいか、と。
あんな事を吐き捨てた相手を助けたいか、と。
自分を傷つけて、友達の振りをした高町なのはを助けたいか、と。
【友達を助けたいか】、と。
答えは既にある。
九鬼耀鋼が尋ねる前から、魔女を目の前にする前から、最初から答えは決まっている。
「助けて……くれるん、ですか……」
「俺が助けたいかなんて関係ないだろう?俺が知りたいのは、【月村すずか】が助けたいか、と言う事だ」
どうして、とすずかは思った。
どうしてそんな【当たり前の事】を聞くのだろうと思った。
九鬼を見て、それから教頭を見た。教頭は静かに頷き、すずかに微笑みかける。
やりたいようにしない―――そう言う様に。

「――――助けたい、です……私は、なのはちゃんを助けたいです」

それを望んでいないかもしれない。もしかしたら、それはお節介以上に迷惑で自分勝手な善意の押しつけかもしれない。
でも、構わない。
あの魔女がなのはと関係がある。そして、自分達をあっさりと殺そうとする相手がなのはと一緒に居る事に危機感だって感じる。
だから、どうにかしたい。
どうにかするには、十分な理由だから。
「だから……手伝ってください」
「あぁ、いいとも」
答えは即答。
背後から襲いかかるゴブリンを一撃で蹴り沈める事で意思を証明する。
「コイツ等の相手をするのは時間の無駄だ。アレを追うぞ。」
魔女の姿はもう見えない。だが、向かっている先は想像ができる。
「お嬢ちゃんの家に向かっているのは明白だ。なら、アレよりも先に―――」
家につけばこちらの勝ちになるだろう。
だが、そんな単純でいて難しい勝利条件に、更に重荷を乗せる様に、
「あ、でも私……なのはちゃんの家、知りません」
すずかの一言。
「なら、私が案内します」
それをあっさりと跳ね返す教頭の言葉。
「知ってるのか?悪いが、職員室に戻る暇はないぞ」
「生徒の住所と電話番号なら全部頭に入っていますよ」
頭を叩きながら、教頭は言う。
「これはたまげた」
「教師なら普通ですよ、普通」
「普通、なんですか……」
「普通なんだな、きっと」
絶対に普通じゃない気がする、とはこの場の空気を読んで言わないすずかと九鬼だった。
だが、これで前に進める。
九鬼は襲い掛かる敵を沈め、二人を守りながら教頭に聞く。
「車はあるか!?脚がなければアレには追いつかんぞ」
「私の車があります」
「なら、走るぞ」
三人は走りだす。
目の前に回り込んだ小型のドラゴンに掌打を叩きこみ、同時に襲い掛かってきたゴーレムの頭部を蹴り飛ばす。しかし、先程のゴーレムとは違い、堅さが違う。
「一々相手をする気はない――去ねッ!!」
身体を低くし、足払いでゴーレムの脚を払う。体勢の崩れたゴーレムの下敷きになる様にドラゴンを入れてやり、二体は仲良く地面に倒れ込んだ。
「行くぞ、走れ」
駐車場には少しだけ遠い。
後ろには無限とも思える敵。それは時に空から、真下からと襲い掛かり、邪魔をする。それでも止まる事なく走り抜けたのは奇跡とも言える。
駐車場に一台だけ留まっていた白のワゴンカーに教頭が飛び乗り、すずかが後部座席へ。九鬼は車が動く間に敵を止める役目を負う。
エンジンが掛ると同時に車が急加速して九鬼の元に向かう。敵に囲まれている九鬼を乗せるには一度車を止めるしかないだろう。だが、車は止まらない。止まらず走り抜け―――次々と異形達を跳ね飛ばす。
「九鬼さん!!」
後部座席からすずかが身を乗り出し、叫ぶ。
「頭を下げろ!!」
そう言うやいなや、九鬼は目の前の敵の頭上を飛び、群がる敵を足場にして【走る】。
どういうバランス能力を持っているのか、そして本当に人間かと疑いたくなる光景を目にしながらも、すずかは車の屋根に飛び乗る九鬼を確認し、ドアを開く。
「邪魔するぞ」
後部座席のドアから車の中に滑り込む。
ソレを確認すると車は一気に加速して九鬼が壊した校門を抜け、夜の街へと躍り出る。
「とりあえず、これで一安心ですね」
ハンドルを握りながら教頭は安堵の息を漏らす。だが、それはすずかの一言で無と帰る。
「お、追ってきます!!」
教頭はバックミラーではなく、直接自分の眼で背後を見る。



百鬼夜行――――そんな言葉が良く似合う。



日本妖怪の姿はない。存在するのは全てが外国の化物ばかり。だが、それは全てが架空の生き物でありながら、存在してはいけない化物ばかり。その化物がこうして人々の前に姿を現し、夜の街を奔り飛び、そして謳歌している。
案の定、街はパニックに陥る。
異形達の狙いはすずかと教頭だというのが、唯一の救いとなったのだろう。異形達は自分達の姿にパニックになる人々など目にもくれず、真っ直ぐに白いワゴンカーを狙う。
「もっと飛ばせ、追いつかれるぞッ!!」
「やってます、やってますけど……」
悪い事は続くものだった。時間は既に九時を回ろうとしているというのに、どういうわけか人通りは多く、車の数も多い。飛ばそうにもアクション映画の主人公ではない教頭はアクセルをベタ踏みして運転出来る程の運転技術はない。
「こうも車は多くては」
「なら代われ。俺がやる」
九鬼はその大きな身体を奇妙に滑りこませ、助手席からハンドルを握る。
「ちょ、ちょっとアナタ!?」
「早く退け。じゃないと事故るぞ」
横からハンドルを操作する九鬼。もちろん、アクセルやブレーキは教頭が操作しているが、それでも九鬼のハンドルさばきは並ではない。そして、このハンドル捌きの前に自分は邪魔だと判断したのだろう、教頭は運転席の背を倒し、後部座席へ。九鬼は空いた運転席へ。
「――――よし、シートベルトは締めたか?」
バックミラー越しに九鬼の邪悪な笑み。
本能的にヤバイと感じたのだろう、二人は即座にシートベルトをする。
それが彼女達の命を救う事になるのは、言うまでもない。
何処にでもある白いワゴン車は、一瞬にして暴れ馬へと変貌する。
アクセルはベタ踏みの全開。ブレーキは撫でる程度に踏むだけ。車と車の間を無理矢理に進むという暴挙は、ギギギという金切り音と響かせ、車に傷を付ける。それでも速度は一向に落ちない。当然、カーブを前にしても速度は堕ちる事なく更に加速。信号が赤なら歩く通行人を避ける様に突っ込む運転。
「前、前に人が!?」
「九鬼さん!?ぶつかる、ぶつかるからスピード緩めて!!」
「私の車ですよ!?あ、今警察車両が――――お願いですからスピード緩めて」
「死にます、マジで死にます!!追いつかれて殺される前に死んじゃいますって!!」
背後で響く悲鳴は無視する。
「おい、道はこっちであってるんだろうな?」
「あってます、あってますからスピード落してください!!」
「そいつは無理な相談だな」
フロントガラスに写るのは、目の前から一直線に突っ込んでくるドラゴン。ハンドルを切ってそれを避けると、背後にいた車両に激突、炎上した。
「これだけ出しても、まだ足りんから――なッ!!」
後輪を滑らし、ドリフトを決めたカーブを曲がる。
「道路を使っているだけこっちが不利か……」
こちらは車。
道路、もしくは走れるだけ舗装された道ではないと走れない。しかし、相手は違う。ドラゴンは先程と同じ様に空から襲いかかれるし、それ以外の者達は人間には出来ない高い身体能力を駆使して車の上を移動してきたり、ビルの側面を走った取りと、反則染みた事を平気でしてくる。
「―――――ッち、今度は前からか……」
ヘッドライトが映し出すのはゴーレム。
ゴーレムの腕が天高く上がり、道路に向かって一直線に振り下ろされる。
地面が砕かれ、道が壊れる。
「道が……」
背後から聞こえるすずかの声。
道路に巨大なクレータとゴーレム。
これでは前に進めない。
「進めないものかよ」
アクセルは―――踏み込む。
急加速した。
「ちょ、ちょっと――――ッ!?」
「無理ですって!!」
「信じろ。お前の車をな……」
「私の車は国産車のもやしっ子ですから無理ですってば!!こういうのはアメリカ産の車に任せるべきはなくて!?」
「出来るさ。ハリウッドに出来て、俺達に出来ない事はない」
「一緒にしないでください!!」
「止めてぇぇぇええええええええ――――!!」
二人の脳裏にある思いが宿る。
もしかしたら、この男に任せない方がよっぽど楽に死ねたのではないか―――というか、もう死んだ方が全然マシだった。

しかし、飛ぶ物は飛ぶのだ

車はクレーターの上を飛び、回る車輪が絶妙な高度差を作り出し、ゴーレムの頭部を叩く。
結果、クレーターはクリアーした。
「ほら見ろ。国産車とて、やる時はやるさ」
誇らしげに言う九鬼を放っておき、
「きょ、教頭先生?私、生きてますよね……実はもう、天国にいるとか、ないですよね!?」
「月村さん、ちょっと私の頬を抓ってください。えぇ、夢です。これはもう夢です……だからお願い、夢なら覚めて!!」
半狂乱になっている二人を見ながら、
「やれやれ、この程度の根を上げたら、アレと戦う事は出来んぞ」
情けない、と言う九鬼に対して、二人は声を揃えて「お前が言うな」と叫ぶ。
だが、幾ら叫ぼうとも車は海鳴の街を走り続ける。
いや、走るしかなくなった。
「――――――新手か?」
バックミラーに、異形達の他に黒い車が見えた。全てが同じ色をして、全てが同じナンバーのない車。異形達はそんな黒い車を一瞥しても攻撃しない。むしろ、それが味方だとでもいう様に車の屋根にと飛び乗る。
「ここで映画なら、きっと窓が相手銃を持った連中が出てくるだろうな」
「お願いです。お願いですから、変な事を言わないでください……」
「九鬼さんが言うと、本当に起こりそうで怖いんですよ」
「というより、お嬢ちゃん。九鬼さん九鬼さんと言うが、別にオジサンで構わないと言ったはずだが?」
なんて事を言っている間に、九鬼が言った様に、黒い車から銃を持った男達が身を乗り出した。
一斉射撃。
男達の手にある銃が火を噴き、白いワゴン車に銃弾が次々と撃ち込まれる。
初めて耳にした銃の爆音にすずかは耳を押さえ、教頭はすずかの身体を覆い隠す様に抱きしめる。九鬼は九鬼で頭をさげて銃弾を避ける。
「敵は化物だけじゃないか……」
面倒な事だと言いながら、銃声が鳴り止んだ瞬間に九鬼は車のブレーキを一気に踏み込む。それによって車は激しい音を響かせながら減速し、背後にいる車の一番先頭を走っている車の横につく。
銃を持った男と目が合う。
男は九鬼を見て、一瞬怯んだがすぐに銃を構える。
「判断が遅いな、素人め」
ドアを開け放ち、銃が火を吹く前に銃口を掴みあげ、
「そら、堕ちろ」
一気にこちら側に引っ張る。銃を打つ為に身を乗り出していた男はあっさりと九鬼の方に引っ張られ、道路に落下した。
悲鳴と鈍い音と肉切り音。
運転手は驚愕し、九鬼の手に握られた銃の――マシンガンの引き金を引き絞る。
フルオートでの乱射によって運転手の身体を撃ち抜き、黒い車は操縦不能の死に馬となり、よろよろ蛇行運転をしながら黒い車の何台かを巻き込み、激突。
爆発と炎上。
「…………化物の次は人間か。どうやら、アレは随分とお友達が多いらしいな」
「大丈夫ですか、月村さん」
「は、はい……何とか」
割れたガラスを払いながら、二人は身を起こす。後ろの追手はまだ多い。だが、先程の爆発で幾らか距離は離す事は出来た。
「おい、今の内に話して貰おうか。あの魔女のコスプレをした女が誰で、あのお嬢ちゃんがどうして危ないのか」
すずかと教頭は語りだす。
九鬼は何も言わずにそれを黙って聞き入る。
結果、わかった事はアレが本物の魔法使いであり、高町なのはを使って何かをしようとしているというだけ。
「何をする気だ?あのお嬢ちゃんにそういう力でもあるとでも言うのか?」
「それは私にもわかりませんけど、なのはちゃんを狙っているのは本当だと思います。だって、あの人は私の事を邪魔だって言ったんです。なのはちゃんの傍にいるのが、邪魔だって……」
「邪魔、か」
あの少女に何があるというのか。
力があるのだろう。
あの魔女が欲する程の何かがあり、それを利用しようとしている。だが、何があるか。何に利用しようとしているのか。
「これだけの騒ぎを起こしてやる事、か」
「あの……騒ぎを起こしているのは九鬼さんだと思います」
「細かい事を気にするなよ、お嬢ちゃん。悪いのは全部あっちだ。ほら、昔から言うだろう?―――――言ったもん勝ちってな」
つまり、悪くないと言ってしまえばいいだけ。
「俺達は悪くない。悪いのはその帝とかいう教師―――じゃなくて、女だ。だからソイツに全部を押し付ければ良いんだよ」
「一応、教師の私の前でそんな悪い顔で生徒に変な事を教えないでほしいのですが……」
悪どい顔をする九鬼に、頭を抱える教頭。
「にしても、だ。人形モドキやゴーレムはわかるが、あの連中は何だ?まさか、この街の警察はあんな使用、だとは言わないだろうな」
「そんな事はないでしょうが……むしろ、どうして警察は出てこないんでしょうか?こんなカーチェイスをして被害はウナギ登りだというのに――――アナタのせいでね」
「おいおい、どうして俺のせいなんだ?だから、これは全部あっちが悪いんだよ、あっちがね」
だが、一向にこちらが不利である事には変わりは無い。
異形の襲撃に何故の男達の襲撃。敵は多く味方は少ない。ここで教頭の言う様に警察でも来てくれれば多少は楽になるのだが。
「確かに解せんな」
警察はこない。それどころか段々人通りも少なくってきている。車を運転するには非常に好ましい状態なのだが逆にそれが怪しい―――と、思ってると、
「クソッ、やっぱりそう来たか……ッ!!」
急ブレーキをかけながらハンドルを切る。
「頭を下げろッ!!」
真横にスライドする車。
その先にあるのは車で作られたバリケードと、その上に乗った銃を構えた男達。
ハンドルを舵を切る様に回し、助手席の窓に向けて銃を乱射する。
窓は砕け、銃弾がバリケードをなった車に当たり、男達も反撃とばかりに撃ち返してくるだろう。だが、銃を撃つまで間が一秒でもあれば十分。横滑りになった車は交差点を曲がり、すぐに直進を始める。その後に銃声が聞こえ、舌打ち。
「先回りされた上にコースを外されたか……おい、こっちの道からでもつくのか?」
「多分、大丈夫かと思われますが」
だが、ちっとも大丈夫とは事は動かない。
バリケードを作っていた男達は背後から車で迫り、異形もそれに続く。そして、車の向かう先、およそ二百メートル先の道にまたしてもバリケードを発見した。
挟まれた―――いや、道はある。
このまま真っ直ぐにいけばバリケードに当たるだろうが、曲がれば高速に入る。高速に入れば一時の危機は避けられるが後の危機には対処しづらく、尚且つなのはの家にたどり着くには大きく遠回りになる。
自分一人なら問題は無い。だが、後部座席にいる二人の為の危険は冒せない。
戦う為ではなく護る為。
守るが故に歯痒い想いをしなければならない。
矛盾しているが、決して違う道ではない。同じ道でありながら、歩く過程が違う道。
近道を選んで死なせるか、遠回りをして護るか。
考えるまでもない。
九鬼はハンドルを切り、高速へと車を進入させた。
当然、追撃は来るだろう。
「―――――教頭、この先の出口で降りた場合、どのくらいで着くと思う?」
「恐らく……三十分かと。高速に入ったのは不味かったと思います」
「あぁ、同感だ」
追手はもうすぐ追いつく。
打つ手はあるが危険。
カードは少ない。
少ないが、
「――――――――俺に、命を預けられるか?」
九鬼は二人に尋ねる。
カードが無いわけではない。如何に手札が敵を相手に出来ないカードしかないとしても、それで戦うしかない。そして、手札のカードが弱ければ、この弱いカードだけでなく、カードを使う為の頭脳で戦えば良い。
「……九鬼さんを、信じます」
「この状況で、信じられるのはアナタだけですよ、まったく」
了承は得た。
「捕まってろ」
車は―――――Uターンした。
高速道路でのUターンという行為に相手を驚いているだろう。ならば尚更丁度良い。相手は驚いているが、反撃はしてこないだろう。なにせ、アクセルは全開、逃げ場は向こうにあってもこちらは無い。
「さぁ、チキンレースと行こうかッ!!」
高速道路を逆走する車。
逆走をした車を負っていた車の運転手は狼狽する。
真っ直ぐに向かってくる。
アクセル全開で向かってくる。
追いかける者が自ら向かってくるのなら好都合だ―――が、これはただ向かってきているのではなく、【特攻】だ。
フロントガラスに写る運転手の顔は見えない。反対に九鬼の顔が相手には、はっきりと見える。

その顔は――――嗤っていた。

勝つか負けるかのチキンレースではなく、生きるか死ぬかのチキンレースの会場と化した高速道路。そのレース場に上がってしまったが最後。
人は鬼と戦わなければならない。
ハンドルを握る鬼は―――ハンドルを手放した。
腕を組み、アクセルを全開にして、目前の車を見据える。
運転手は焦る。
焦って―――ハンドルを切ってしまった。
結果、横を走る車に当たり、それが始まりとばかりに玉突き事故の様に次々とぶつかる車。たった一台の車に、ボロボロの車を前に、優勢であるはずの自分が逃げてしまった。
ギリギリ逃げたわけでもなければ、寸前まで待ったわけでもない。
九鬼の顔を見た瞬間に、逃げた。
目の前の状況を見据えた九鬼は、ハンドルを握りアクセル全開のまま巧みにハンドル捌きを行い、車を回避していく。
飛び交ってくる異形を何体か跳ね飛ばし、天井に縋りついたゴブリンを車体を左右に振って振り落とす。
数秒後、背後で爆音が響く。
「…………滅茶苦茶しますね、アナタは」
「良く言われる。だが、良く言われる程、大した事でもないさ」
なんて事ない風に言いながら、九鬼は高速を逆走しながら先程の入口に車を滑り込ませる。一般車両の運転手が目を見開いて運転操作を誤っていたが、それは知らない。
「よし、戻った」
「あの、九鬼さん。関係ない車がクラッシュしてますけど……気にしちゃ、駄目なのかな?」
「月村さん。ここまで来たら現実という言葉は捨てなさい。私はもう捨てました。じゃないと、この運転手に殺されそうです――――ストレスで」
「わかりました……」
何やら後ろで酷い事を言っている気がしたが、この際は置いておく事にした。それよりも、未だに追手は減らない。
むしろ、多くなっている。
異形の数は勿論の事、黒い車の数も多くなっている。異形はただ追ってくるだけだが、車に乗った人間達は頭を使う。この先の道で待ち伏せをするなり、先程の様にバリケードを作るなり、色々としてくるだろう。
「やれやれ、面倒な事だ」
九鬼がそう呟く。
すると狙い澄ましたかのように携帯が鳴り響く。
「あ、私のです」
携帯を取り出し、電話に出るすずか。
「………あれで警察に連絡した方が早かったんじゃないのか?」
「まぁ、そうですね……というか、通じたんですね、電話」
「いや、普通は通じないだろう……通じない、はずだよな」
九鬼と教頭は揃って自分の携帯を見る。
電波はしっかりと三本。
「…………」
「…………」
こういう場合、普通は携帯とか通じないんじゃね?という疑問が二人の脳裏に過ったが、どうやら色々と間違った認識をしていたらしい。
「意外とずぼらだな、あの魔女」
そんな事はさておき、すずかが電話に出ると聞こえて来たのは、
『すずか様。ファリンです』
「ファリン!?丁度良かった、お姉ちゃんはいるかな?」
『いえ、忍様は私の【近く】にはいません。ですが、そちらの大方の情報はこちらにあります―――とりあえず、運転している方と変わって貰えますか』
こちらの現状がわかっているという言葉を信じて、すずかは携帯を九鬼に差し出す。
「――――もしもし」
『初めまして。九鬼耀鋼、様で宜しいでしょうか?』
自分の名前を言っている事に若干の警戒心を抱いたが、
『まずは、すずか様を助けて頂いた事に、感謝させていただきます―――ありがとうございます、九鬼様』
「偶然だ。そこまで言われる義理もないさ……それで、どうして俺に電話を変わった?」
『情報は必要なはずですが?それとも、何も知らずに追いかけっこをしますか?』
「……聞こう」
携帯を耳に当てながらハンドルを握る。
『アナタ方が追っている者については後で言うとして、まずはアナタ方が向かうコースについてです。この先三百メートルの方向には既に新手が潜んでおりますので、次の角で右に曲がり、そこから百メートル進んだ先で大通りに抜けてください』
「遠回りにならないのか?」
そう言いながらも九鬼はファリンに言われた通り右に曲がる。
『多少遠回りになりますが、これ以上の遅れはないでしょう。その先に出たら、大通りを真っ直ぐに抜けてください』
「おい、待て。そしたらそこでアイツ等とばったり対面する事になるぞ」
『その点も問題ありません。いいですが、その大通りを進む時、絶対に右側を走ってください。いいですね、【道路の右側を絶対に外れないでください】』
妙に念を押されながらも、九鬼は素直に頷く事にする。そして、ファリンの指示した百メートルが過ぎた所で大通りに出た。
瞬間、車の屋根に何かが堕ちて来た。
「――――ッ!?」
堕ちて来たのが何かはわからない。だが、何かを確かめる前に天井を突き破って鋭い爪が現れた。
「新手か!?」
九鬼は車を左右に揺らすが、何者かは天井に手を突き刺した事で振り落とされる事はない。それどころか、もう一本の手も突き入れ、天井の穴を広げる。
穴から見えたのは人間でもなく、人妖でもない。
金色の瞳を輝かせ、異常に発達した犬歯から唾液をたらし、車の屋根の天井から後部座席にいる二人―――すずかを見てニヤリとほくそ笑んだ。
「―――――月村の妹……天誅ッ!!」
それは妖。
夜の一族と呼ばれる、妖の者。
人間離れした身体能力で車の屋根を壊そうと腕を振り上げる。片手がしっかりと天井を掴んでいるせいで振り落とす事もできない。
『そのまま真っ直ぐでお願いします』
「この状況でかッ!?」
『問題ありません』
電話の向こうにいるファリンという女性がどんな人間かは知らないが、この状況でそんな見た事もない相手の言う事を信じる程、

『【姉】が――――迎撃します……』

信じる程―――他人を信用するのも悪くないと思った。










【人妖編・第十二話】『海鳴‐みんな‐』










魔女には協力者がいた。
その協力者はこの街の深い場所に根を張る者であり、同時にこの街の住まう者の中でもっとも高位な場所にいると自負する者達ばかりだった。
彼等の事を、彼等を知るものはこう呼ぶ―――夜の一族、と。
夜の一族は世界中にその根を張っているが、その世界の中の小さな島国である日本。日本という島国の中に存在する小さな街に住まう夜の一族の末裔。
姓を月村、という。
月村という夜の一族は周囲からはあまり良い目では見られていない。何故なら、この家の現当主である月村忍は、同じ街に住まうバニングスという存在と親しい仲だからだ。もちろん、それだけではないだろうが、それも理由としては立派な理由だ。
月村を陥れ、滅ぼすという目的を前にしたら、立派すぎる理由だ。
バニングス家の長であるデビット・バニングスという男は昔、一人の人間の為に夜の一族を裏切った許すべき存在である。そんな者と親しい仲という忍は裏切り者と見られてもおかしくはない。
ただ、そう思う者は大部分でありながら、全てではない。
一族の長は、そんな争いに口は出さない。
しかし、行き過ぎた争いには口を出す。
ならば、この海鳴で行われている争いは既に行き過ぎているのではないか、そう思う者も多いだろう。それは長とて同じだった。行き過ぎた争いが故に口を出し、手を出し、一族同士が争い、朽ち果てない様にするのも長の務め。
だが、この街だけは例外だった。
世界のあらゆる所に存在する夜の一族。そのもっとも上位にいる長と呼ばれる存在ですら海鳴には手を出さない。
何故か、何故なのか。
その事について、ある者が尋ねた事のある。
何故、この争いに何も手出しをしないのか。何時ものアナタならとっくに手を出しているだろう。
長はしばし口を閉ざし、こう言った。
理由は二つ。
一つ目は、海鳴の【力】を支配する月村の当主の願い。自らの力で全てを勝ち取り、この闘争に勝利し、海鳴を一つにするという言葉を信じた事。
二つ目は、海鳴の【富】を支配するバニングスの当主の言葉。その内容を思い出して長は苦笑し、それ以上は語らなかった。
一つはわかったが、二つ目は謎。
謎は謎にしたままで良い、という事なのだろう。
そうして長は海鳴という街には手を出さない。
海鳴に住まう若き当主と、裏切り者と呼ばれた【自身の兄貴分】を信じて。

だが、それが悪い方向に繋がる事もある。

「月村、滅するべし」
「月村、滅べし」
「月村、断つべし」
「月村、討ち取るべし」
悪しき心は人の心。本人達はそれは当然だと思っていても、結局は単なり傲慢な想いでしかない。傲慢は自身よりも高い位置に居る者を恨み、妬み、陥れようとする。
その為に力を欲した。
その為に魔女に手を貸した。
数年前、突然現れた謎の力を使う魔女と呼ばれる存在。
その魔女は自分の望みを叶える為に協力すれば、何でも望みを叶えてやると口にした。
当然、そんな事は誰も信じない。だが、魔女は言った。私の言う事は信じなくてもいい。だが、代わりに我らが王の事は信じるべきだ。そうすれば無限の命と無限の力を手に入れる事が出来ない。
当然、そんな妄言を信じる者はいない。
だが、数年後の今はどうだろう。
彼等は信じた。
魔女の言葉を信じ、神ではなく魔王を信じた。
魔女の信仰する邪神の中の邪神。異世界の一つを滅ぼしかけた不死の魔王の存在を、彼等は信じてしまった。最初は馬鹿らしいと思っていた。そんな者はいる筈もなく、信じる事すら時間の無駄だと本気で思っていた。
今は本気で信じている。
「月村を断つ。そして、その命を我等が王に、ノーライフキングに捧げる」
魔王を信じる。
魔王を信じて敵を討つ。
己が正しく、他は間違っている。
そんな妄念にかられた結果、彼等は一人の少女の障害を完膚なきまで暴虐する事に協力し、一人の少女の全てをねじ曲げた。
そして、時は来た。
魔女が言っていた【儀式の日】が来たのだ。
その儀式が終われば、自分達の望みを叶えられ、その命は消える事なく不死の肉体を得るだろう。
その為に討つ。
邪魔者を討つ。
邪魔者の中には月村の一人がいる。
ならば、討つ。
討ち殺し、射ち殺し、撃ち殺して地獄に落としてやる。
そんな中の一人、夜の一族の若き男の一人が白いワゴン車の上に飛び移った。ボロボロになった車に手を突き入れ、車の屋根を破る。隙間から見えたのは殺すべき月村の一人。月村すずかという裏切り者。この少女を殺せば良いと魔女には言われている。そんな事はこちらも望んでいるから、言われるまでもない。
「―――――月村の妹……天誅ッ!!」
殺す。
この手で突き殺し、絞め殺し、刻み殺す。
そして、男は腕を振り上げ―――――何かに気づいた。
何かが来る。
嫌な予感がする。
何が来るかはわからない。
だが、何かが来るのは確かだ。
前方、何もいない。
右方向、仲間がいる。
左方向、何もいない。
後方、仲間がいる。
なんだ、誰もいない。なら、気のせいに違いない。そう思った。そう思ってしまい、周囲への警戒を完全に怠ってしまった。
そんな時だった。
男の常人よりも優れた聴覚が、運転している男の耳に当てられた携帯電話の音を拾った。
『【姉】が――――迎撃します……』
男の顔に影が差し込む。
比喩表現ではなく、本当に影が差しこむ。
今は夜だというのに、その影ははっきりと見えた。
月光に照らされ、男の真上にある満月を隠しながら、影は徐々に大きくなり、男はやっと自身の失態に気づいた。
前も横も後ろも見た―――だが、【上】は見なかった。
男は上を見る。

視界に映るのは月光を背に、腕に煌めく刃を男目がけて突き刺すメイドの姿。

男の顔面に銀色の刃が突き刺さり、男の頭部を切断する。
野望に燃える一族の一人は、こうして生涯の幕を閉じた。
死後の彼の魂は―――不死の魔王の下へは向かわなかった。





天井に衝撃。
横の窓に見えるのは顔の半分を切り取られ落下する男の死体。
そして、それから数秒遅れて後部座席の窓に映る知らないメイドのむっつり顔。
「ノエル!?なんで、此処に!?」
車内から外にいるノエルというメイドに声をかけても届かないのだろう、彼女は何も言わずに頭を上げる。
反対に九鬼は、
「アレがお前さんのいう姉って奴か?」
『えぇ、そうです。姉の名前はノエル・K・エーアリヒカイト。私は妹のファリン・K・エーアリヒカイトと申します。以後、お見知りおきを』
「了解した」
九鬼は携帯を耳から話し、運転席の窓を開け、顔を出す。
上を見ると、車の屋根の上で片手にブレードを装着したメイドが立っていた。この強風の中で、良くあんな恰好で立っていられるなと感心した。
「――――任せるぞ」
「――――えぇ、任されました」
ノエルは背後にいる敵を見据え、ブレードを構える。九鬼は運転席に戻り、後部座席にいるすずかに言う。
「お嬢ちゃん、良いメイドを持ってるな」
「メイドじゃありません……家族です」
「そうか、家族か……なら、良い家族だ」
その会話は外のノエルにも、携帯越しのファリンにも伝わっているのだろう。ノエルは静かに微笑み、受話器の向こうから微笑みの音が聞こえる。
『それでは、此処からは私がナビを務めさせていただきます。姉の事は特に気にせず、アクセル全開でぶっ飛ばしちゃってください』
「本当に大丈夫なんだろうな?」
『大丈夫ですよ。心配なら、多少の援護はしてもよろしいかと』
「この状況でどうやって援護しろと?」
『九鬼様の今の武器はそのハンドルです。そのハンドルがあれば、姉の【足場】になれると思いますが?』
なるほど、と九鬼は頷き。
「なら、それで行こう。お前等、しっかり捕まってろよ……こっからは、全力で行くぞ」
嗤う九鬼。
そして後部座席にいる二人は心の中で、まだ本気じゃなかったんだ―――と天を仰いだ。
『――――それでは、いっちょうド派手に行きましょうか』

それを合図に、カーチェイスは第二ラウンドに突入した。

背後から迫る車、そして無数の異形。その中の一台の上には人狼とゴブリンが立っており、車が近付いた瞬間に飛び上った。だが、二匹は車に飛び移る事すら出来ずに落下する。
銀光一閃。
ノエルの右のブレードによって二体は腰から上と下が永久の別れを迎える。地面に落ちた異形はただの人形となり、車に潰され無残に砕ける。
それを見届ける暇もなく、今度は上空からドラゴンが襲いかかる。
急降下してくるドラゴンを迎え撃つべく、ブレードを真上に突きだし、跳ぶ。落下してくるドラゴンの頭部をブレードで突き刺し、同時に首根っこを掴んで地面に叩きつける。道路の上で跳ねるドラゴンの上にノエルは着地し、左腕を飛ばした。
そう、飛ばしたのだ。
ノエルが左腕を突き出した瞬間、まるで腕にロケットでも着いているかのような勢いで左腕が射出され、まっすぐに白い車のトランク部分を掴む。腕と身体は中に仕込まれたワイヤーによって繋がっており、車の勢いに引っ張られる様にノエルは高速道路を滑る。
さながらサーフボードを操る様に、板にされたドラゴンは車の速度に耐えられないのか徐々に体を削られていた。
「――――――次」
冷徹な呟きと共に、サーフボード代わりとなっているドラゴンを体重移動で動かし、並走する車の一台を標的とする。
車のドアが開き銃を撃ってくるが、当たる前に両足を車の方向に向けて突きだす。それと同時にサーフボード代わりのドラゴンが、今度は盾代わりになる。
銃弾を全て受け止めたドラゴンを再度地面に叩きつけながら、体勢と低くしてブレード一閃。車のタイヤを両断する。
タイヤを斬られた事によって車は操作不能となり、道路わきの電柱に激突した。
「―――――次……ん?」
白い車を追っている車が突然横に移動し、車を掴んでいるノエルの腕のワイヤーに引っかかる。ノエルの腕の備え付けられた腕は確かに強度は高いが、決して切れないというわけでもない。
ノエルは即座に腕を放し、腕を戻す。その結果、車に引っ張られていたノエルの身体は車から離れる事になるのだが―――その前に跳ぶ。
サーフボードとなっていたドラゴンはノエルの跳躍と同時に砕け、ノエルが着地したのは敵の車の一台。当然、それを見ていた車内にいた者達は一斉に天井に向けて銃を乱射する。
当然、駄弾など当たりはしない。
天井を一足にて跳躍し、隣の車に跳び移る。天井の上にはゴブリンが三匹ほどいたが、一瞬で塵に反し、灰となって消し去る。
車内にいた男達は先程の車と同じ様に天井に向けて銃を構えようとしたが、時すでに遅く、ノエルは行動を開始していた。
ボンネットに跳び下り、エンジン部分目がけてブレードを突き刺す。
火花が散り、ボンッと小さな爆発。
それを確認して再度跳躍し、跳躍しながら左腕に右腕と同じ様なブレードを出現させる。ただし、その長さは右腕の数倍の長さをほこり、まるで光の粒子が集結して作り上げられた光の剣の如き閃光を放っている。

その刃を持って、跳び移った車を【真横から両断】する。

「…………気のせいなら良いんだが。今、あのメイドの腕からビームサーベルみたいなモノが出てた気がするんだが」
流石にビームサーベルは見た事がなかったというか、科学的にあんな事を平然と出来るのがおかしいと思った九鬼であった。
『そういう世界もあるのですよ、九鬼様』
「でも、駄目だろう。アレは色々と駄目だろう。というか、さっきはロケットパンチとかしてただろう、アイツ」
『姉も抵抗したんですが、ロケットパンチが嫌ならおっぱいミサイル。ビームサーベルが嫌ならドリルという二択を突きつけられまして……』
「……大変だな、お前等も」
『慣れました……えぇ、慣れましたとも!!』
なんだか悲しくなってきたから話を中断する。
九鬼は車を横に移動させる。ノエルの足場となる為だ。別の車をビームサーベルで両断したノエルは九鬼が寄せた車に跳び移る。
バックミラーで背後を確認し、敵の数が減った事を確認する。もちろん、減ってなどいない。むしろ、増えていると言ってもいいだろう。特に増えているのは異形。ゴブリンや人狼、リザードマンといった陸上専門を異形は減ったが、代わりに空を得意とするドラゴン、そしてガーゴイルらしきものすら出現している。
「追いつくどころか、徐々に離されてるな」
離されているという表現すら希望的観測でしかない。
もしかしたら、魔女は既になのはの家に着いている可能性が高い。
『その点は心配ないかと思われます』
「どういう事だ?」
『相手は確かに空を飛べる様ですが、所詮はそれだけ。あんな自分の証拠をあちこちに残す様な輩を捕まえるなど、容易い事ですよ』
自信満々に言うファリンだが、
「だが、どうやって捕まえると言うんだ」
『捕まえるとは言っていません。捕まえるのではなく、足止めをする、もしくは撃破するのか、このどちらかです――――現状と致しまして、我が主ともう一方の頭の中には捕まえるなんて甘い考えはございません』
何やらキナ臭く、そして妙に殺伐とした答えだった。
やれやれと首を振り、九鬼は天井をガンガンと叩く。すると、運転席の窓に逆さになったノエルがぬっと姿を見せる。
窓を開け、
「怪我は無いか?」
「………いえ、特に問題はありません」
「そうか、ならいいが……あまり無理はするなよ」
「そうだよ、あんまり無視しちゃ駄目なんだからね」
二人に言われ、ノエルは小さく微笑む。
「はい、わかりました。怪我もなく、大事もなく、すずか様と一緒に屋敷に帰りますよ」
そして、ノエルは同じ様に九鬼を見て、
「九鬼様も、無理はなさらぬ様に心がけてくださいね」
「無理はしないさ。無理をするほど若くないというのが本音だがね」
「教頭先生。九鬼さんってアレで無理してないっていうのなら、無理したらどうなるのなか?」
「わかりませんが、私達は死にますね」
「そう、ですよね……九鬼さんが無理したら死ぬよね」
「えぇ、そうです」
背後で聞こえる不気味な呟きは無視する。
「あの、九鬼様……」
不安そうな顔をするノエルに、大きな咳を一つで黙らせる。
「後ろの二人の戯言は信じるな」
「はぁ、そうで―――――ッ、九鬼様、前を!!」
そう言って顔を引っ込めるノエル。
それに釣られて九鬼も前方を見て―――今度こそ、完全に車を止めた。
ドアを開き、車から出る。
「挟み込まれたな」
「えぇ、そのようです」
前方には無数の人だかり。その全てが武器を持参した完全武装の人々。そして後方にはドラゴンという異形の種と夜の一族。
「おい、ファリンとやら。これはどういう事だ?」
『どういう事と言われましても……まぁ、予定通りという事ですかね』
まさか、という疑念が頭を過る。
しかし、その疑念を振り払うのはノエルだった。
「それは勘違いですよ、九鬼様」
車の屋根から飛び降り、両手のブレードを仕舞う。
「私の妹は裏切ってなどおりません。此処に着くのは予定通りです」
「だが、現にアイツ等はこうして待ち伏せしているぞ。その点はどう言い訳する気だ」
「ですから、それも勘違いです。我々は此処におびき寄せられたわけでも、彼等が待ち伏せしていたわけでもありません」
ノエルは静かに空を見上げ、
「全ては反対なのですよ、九鬼様」
同じ様に空を見た九鬼は―――気づいた。
「あぁ、なるほど……」
鬼とメイドは笑う。
その意味をわからない車内にいるすずかと教頭は不安な表情を浮かべ、車を取り囲んでいる男達は高笑いを上げる。
「ガハハハハハハハ、漸く観念したようだな!!」
「手こずらせやがって……」
「けど、これでお終いだな」
「男は殺せ。女もメイドも殺せ。月村は特に念入りに殺せ……」
「殺せ」
「殺す」
「死ね」
狂喜と呪詛をまき散らしながら、男達は武器を構える。
だが、九鬼もノエルもそんな男達を前にして表情を崩さない。九鬼は懐から煙草を取り出し、火をつけようとした所で横から火を差し出すノエルに気づく。
「どうぞ」
「あぁ、すまんな」
ノエルの火に煙草を当て、火を付ける。
「―――――ふぅ、ちょっと休憩したいな。やはり、老体に鞭打って動くのは疲れる」
「私には、まだお若い様に見えますが……」
「社交辞令として受け取っておくよ。だが、どうも駄目だ。同居人には成長していると言われているが、そんな気はまったくしない。ところで、こんな歳で成長するなんてありえるのか?」
「そうですね、あり得ない、とは言えませんね。そういう人間もいうと聞いた事はありますし、九鬼様がそういう人間であるという可能性も捨てきれません」
周りを無視して世間話に花を咲かせる二人。
「て、テメェ等!!今の状況わかってのか!?」
一人の叫びに九鬼は煙草の煙は吐き出しながら、
「当然だ、阿呆」
意地の悪い笑みを浮かべる。
「まったく、こいつは良く出来た仕掛けだ。確かに、俺達は此処におびき出され、お前達の待ち伏せにあった―――そう見るのが正しいだろうな、普通は」
「正しいも何も、そうに決まってるだろうが」
「だが、コイツは違う」
煙草の煙は空に昇る。
ゆっくりと、ゆっくりと空に昇り、消えていく。だが、それは消えるのではなく、隠している。白い煙が空に隠れ、白い煙を夜の闇が隠す。

「これは【俺達が連中を誘き出し、お前達を待ち伏せしていた】―――こういう理屈だな、ノエル」
「えぇ、正解でございます」

それが正解。
ジャキッという音が周囲から響く。
男達は何事かと顔をあげ―――驚愕に身を染める。
周囲には何時からいたのか、それとも最初からいたのか、完全武装の男達を上回る武装をした者達が潜んでいた。
ビルの屋上から赤外線の付いた銃が男達を狙い、地上でも同じ様に赤い線が男達を狙っていた。その数は五十を遥かに超え、夜の闇に走る赤外線が無数に存在している。
男達は動けない。だが、異形達は動ける。それが如何に殺傷能力が高い武器であろうと、死を恐れる事のない異形達には何の関係もない。
ドラゴンとガーゴイルの群れが一斉に襲い掛かる。
「――――で、さっきからこの馬鹿デカイ殺気を放ってるのは、お前さんの主様のものか?」
「それでも正解でございます」
異形に声は聞こえても、声を理解しない。彼等の脳内にある意思をプログラムとするのなら、そのプログラムは実に簡単な命令しか聞く事ができない。今の彼等の頭の中にあるプログラムはこうだ。
九鬼耀鋼、月村すずか、教頭、そしてソレに協力する者を殺害せよという命令。だからこそ、今はそこにノエルというメイドが一人加わっている。
周囲を取り囲み、一斉に襲い掛かり、



闇に喰われた



一瞬だ。
一瞬で消えた。
一瞬で喰われ、一瞬で消え失せた。
それを成したのは何者か、人間か人妖か、はたまた魔女か。
いいや、違う。
地の底より響きし唸り声は、巨大な狼の顎。黒き狼が地より顔を出し、偽りの命の事如くを地の底へと引き摺りこむ。
巨大な狼は首だけ、首だけでビルの四階ほどの高さをもっていた。その巨大な顎で異形達を食いちぎり、飲みこんだ。
「…………」
「…………」
「…………」
誰もが言葉を失くす。
その殆どは夜の一族の者だった。
夜の一族だからこそ、わかっている。あの狼の正体を、あの狼がこんなにも巨大な存在となっているのかという意味を知っている。だが、それを認めた瞬間に己の中にある柱が折れ、この行動自体が無駄に終わってしまう。
それを許せるか―――否、断じて否。
勇敢にして愚かな者は銃を手に取り、黒の狼の討伐に挑む。彼の手にあったのは人を殺すには十分な殺傷能力を持っているアサルトライフル。だが、黒の狼に挑むにはあまりにも陳腐な玩具に想えてならない。
狼の黄金の瞳が勇者を睨む。
戦う意思を持っていかれる。挑むという意思を喰い殺される。あの巨大な存在を前にして、己の小ささを実感し、それを受け入れれば死なないとさえ思えた―――しかし、悲しき事に、この者は勇者という勇気ある者、戦士という言葉が良く似合う【愚か者】だった。
「うぅ、うわぁぁぁあああああああああああああああああああああッ!!」
銃を乱射しながら狼に突っこむ。
それを止める者はいない。
男達を囲む者達も彼を止めず、九鬼もノエルも止めない。
勇者は挑む。
勇敢なる者は巨大な怪物に挑む。
愚かだが、賞賛に値する。

【――――――しかし、愚直だわ】

牙が肉を抉った。
黒い狼の牙は白く、彼の肉体を抉った瞬間に赤く染まり、彼の脊髄をかみ砕いた瞬間に血の味を感じ取り、一人の命という存在を喰い殺す。
誰もが言葉を発しない。
黒い狼の残虐なる食事風景を見ながら、誰も言葉を口にしない。
九鬼は煙草を吸いながら、人を死ぬ光景を懐かしいと感じ、溜息を吐く。
ノエルは表情を崩さずに、人が飲まれる光景を見ながら、横目ですずかを見る。
すずかは見ていない。
何かを感じ取ったのだろう。それとも【最初から知っていたのかも知れない】。教頭がすずかの眼を塞いでいた。
それに少しだけ安堵し、狼を見る。
アレは覚悟を決めた。
この力を行使して、己が敵に叩きつける覚悟を決めたのだ。
黒き狼はゆっくりと、身体が霧状の物体になって消えていく。霧は黒い霧で闇よりも尚深い暗黒の闇。闇の底より組み上げられた闇色の水が蒸発し、黒い霧となって周囲を覆う。
黒の霧は地面に降り注ぎ、真っ黒な血の池を作り出す。
その上を、一人の令嬢が歩く。
ピチャリ、ピチャリと足音を立てながら歩く。
黒いドレスに白い肌。
靴は履いていない。
裸足で黒い血溜まりの上を歩く。
口元にはべっとりと染みついた、血。
手にはべっとりと染まった、血。
その手で殺し、その口で食したという意味。
「月村……忍」
一族の男は恐怖を感じた。
アレはなんだ、と。
あんなモノが居て良いのか、と。
あんな、あんな【化物】と本気で殺せると自分達は思っていたのか、と。
全てが黒に染まる。
血は紅いかもしれない。だが、紅が染まれば次第に黒くなり、それが血で在る事すら忘れてしまうだろう。血は赤くはない。血は黒い。どす黒いソレは化物の足下に広がり続け、周囲を飲みこんでいく。
血だまりの上を歩く忍は、脚を止めて九鬼を見る。
冷たい瞳だった。
人形の様に冷たい、無機質な瞳ではなく――――決意を秘めた絶対零度の瞳。
冷たくもあり、熱くもある。
【ここは、引き受けます】
声は口から洩れるはずなのに、忍の声は不思議と脳内に直接響いた。
【私の妹を……よろしくお願いします】
「あぁ、わかったよ」
車に乗り込む九鬼を見て、それから後部座席にいる妹を見た。妹は姉である忍を見て、驚いている。いや、もしかしたら恐れているのかもしれない。
だが、構わない。
【すずか……】
忍は妹、すずかに背を向け、
【頑張ってきなさい】
そう言って、歩きだす。
「―――――お姉ちゃん……」
歩きだした脚を止め、
「お姉ちゃんも……頑張って」
振り返った時に見せた顔は、

「お姉ちゃんに任せなさいってッ!!」

化物ではなく、一人の姉の素顔。
そして、男達に見せる顔に優しさは要らない。
車が動き出すが、誰もそれを止める者はいない。
否、止める事すら忘れている。
目の前の存在を前に、目を反らさないという選択肢を取る方が何倍も生き残る確率を高める方法だった。
【…………】
視線の先には完全武装の男達。一人一人が吸血鬼としての力を十分すぎる程に有しているにも拘らず、その手には近代的な武器が握られている。
情けない、これが感想。
堕ちたものだ、これが本音。
可愛そうに、これが同情。
【貴様等は、それで我が一族の戦士か?】
情けない、情けない、情けない。
月村という存在を裏切り者と称し、己こそが上位にあると偉ぶり叫ぶというのなら、何故その手には人間の武器があり、それでいて己を恐れるというのか。
【あぁ、そうか。これは冗談なのだな?いいぞ、待っていてやる。さぁ、変身しろ。狼に変化して我が身体を噛み千切れ。霧に変化して我の攻撃を全て凌げ。蝙蝠に変化して我の血という血を飲み干し殺せ……それが出来ないのなら、使い魔を呼んで挑んでも良い。暗示で我を自殺させても良い。何でもいい。何でも構わない。どれか一つでも出来るというのなら合格だ】
だが、誰も出来ない。
堕ちたのだ、彼等は。
化物を失望させるほどに、堕ちた吸血鬼なのだ。
【出来ないのか?】
踏み出す。
踏み出して身体を蝙蝠に変化させる。
無数の蝙蝠が男達に襲い掛かる―――いや、群がっているだけだった。
それでも男達は可愛らしい悲鳴をあげた。
【まさか、この程度も出来ないのか?】
蝙蝠は突然と黒い霧に姿を変え、周囲の者の身体を取り囲む。
【初歩の初歩も出来ないのか?】
黒い霧は足下に堕ち、血の池を作り出す。その池の中から黒い狼が出現し男達をパニックに陥れる。
【―――――情けない】
目は無数に、口は無数に、耳も無数に、全てが無数に。
血の池に耳を無数に、狼の身体に無数の眼を、蝙蝠の翼に無数の口を。
【空も飛べず、身体も変化させる事も出来ず、己が身体一つで戦うどころか、近代兵器に頼るという愚劣な選択――――そんな貴様等に夜の一族を名乗る権利は無い】
言葉の一つにナイフがある。
男達の心を刺し殺すナイフがある。
ナイフは心を突き刺し、自尊心を傷つける。その傷の痛みが勇気ではなく怒りを湧かせる事に成功し、男達は銃を取る。
「言わせておけば、この小娘が……」
「裏切り者のバニングスと共にいる、誇りを捨てた貴様にどうこう言われる筋合いはない!!」
「殺してやる……ぁ、あ、こ、ここ殺して、やる!!」
【威勢だけは一人前だな……よし、わかった】
忍は大きく手を広げ、
【特別サービスだ。私はこれから十分間だけ動かない。身体も変化させないし、攻撃も防御もしない。貴様等のしたい様にすればいい。その鉛弾で私の身体を貫くも良し。ナイフで切り刻むも良し。その出来そこないの人形共に襲わせても良いし、ゴーレムらしきもので潰すのも良い―――――だが、】
ニタリ、そんな表現が似合う恐ろしい笑顔を浮かべ、忍は最終通告を選択する。



【十分以内に私を殺せなかった時は―――――貴様等、全員犬の餌だ】



忍は手を叩く。
パンッと小さく、そして絶望の鐘を鳴らす音が響き。
【さぁ、スタートだ】
悲鳴と銃声が木霊する。





「カカッ、無理しちゃってまぁ」
屋上の上、闇夜に照らされるは深紅のスーツを着込んだ金髪の大男。
男の名前はデビット・バニングス。
そして、その隣に佇むのは執事である鮫島。
「いやぁ、久しぶりに返ってきて