「――――ふむ、今……なんと言いました?」
ヨレヨレのスーツにヨレヨレのワイシャツ。ぼさぼさの髪はある程度失礼に値しない位に整えているが、ある程度という値は彼の中だけであり、初対面の人物が見れば確実にこう言うであろう―――お前、やる気あんの?と。
そんな服装をしていながらも、男はこの神沢学園の立派な教師の一人なのだ。
例え、ギャンブル狂だとしても。
例え、万年平教師だとしても。
例え、最強なんて恥ずかしい肩書をもっていたとしても。
この男は一応、教師なのだ。
しかし、そんな教師である男は実に面倒そうに頭を掻き、それから今度は耳を穿りながら、
「俺……いや、私の耳が間違ってなければ、ですが」
もの凄く嫌そうな顔をする。
「転勤、という事ですかな?」
「そういう事だよ、加藤先生」
「嘘でしょ?」
「いやいや、本当だよ」
そう言ってぶよぶよな触り心地が良さそうな腹をした神沢学園の校長は言った。
「私は一応は人妖なんですがね」
「私だってそうだよ」
「人妖が外出ちゃ駄目でしょ?」
「最近は申請さえきちんとしておれば問題は無いんだよ」
そう言われれば確かにそうだと想った。
人妖―――正式呼称は【後天的全身性特殊遺伝多種変性症―ASSHS〈アシュス〉―】
通称【人妖病】と呼ばれる遺伝性とされる原因不明の奇病に罹患した人々を総称する言葉である。そして、人妖病になった者が送られる楽園にして監獄、普通というカテゴリから外された人々が迎えられる砦である都市が、この神沢と呼ばれた土地である。
この街に入った人妖達に自由はある。しかし、それはこの街の中の自由という意味。自由の反対は拘束であり隔離。それがどういうわけか同じ意味を持っている。
反対でもなく同意でもない。
一度入ったら余程の事がない限り、人妖達はこの街を出る事が出来ない。絶対に不可能ではないが、可能という領域か。
可能とは、決して安易という意味ではない事は誰にでもわかる。故に人妖は殆どこの街を出る事は無い。しかし、出ないからこそ安全であり、出ないからこその安住の地なのだろう。
そんな神沢という街は、この下手をすればこの世界で唯一、人妖が人妖になる前と【似た】生活を送れる場所として確立され、隔離される場所だった―――そう、かつては。
「君は【海鳴】という街を知っているかね?」
「……まぁ、人並みには」
かつては一つだった人妖都市は気づけばもう一つ増えていた。
此処、神沢が地方都市として存在するように、もう一つの人妖都市もまた地方都市(もっとも、この街よりは近代化は進んでいるらしい)として存在する。
「行った事は?」
「ありませんね」
「それじゃ行ってくれ」
「なんで私が?」
「君、暇だろ」
「暇は暇ですが……私じゃなくてもいいでしょう?」
正直、面倒でしょうがないというのが本音なのだが、
「君でないと駄目だね」
「どうして?」
「君が教師だからさ」
「理由になってませんね」
しかし、こうは言ってもこの時点で彼は覚悟を決めていた。
覚悟と言っても諦め、そして受け入れて、事情に流されると言う選択肢を選んだだけに過ぎない。
内心、これにはあの鴉少年が関わっているのだろう。なら、自分がどうこう言ってもどうにもならないと半分諦め、半分覚悟を決める。
「というわけで、君がこれから向かって貰う学校だが……」
「人の話、聞いてませんね」
校長が差し出した辞令に記されていた場所。それを見た瞬間に彼の顔は酷く疲れた顔をしたらしい。
「…………校長。これは何の冗談ですか?」
「冗談に見えるかい?」
「私は高校教師です」
「教員免許を持っている事にはかわらんさ」
「いや、変わるでしょ。だって、此処―――」
流石にこれは無いだろうといった顔で、加藤虎太郎は書類に記された文字を指差す。
「小学校じゃないですか……」
「―――――と、いうわけで海鳴に行く事になった」
「急ですね……」
「だから今晩にも発たんと行けないんだがな」
「だったら今すぐ発ってくださいよ」
「ふむ、それもそうだな」
加藤虎太郎は校長からの急な異動辞令を受けて数時間後、出発の準備もまったくせずに、かつての教え子である如月双七の家にいた。
「まぁ、あれだ。しばらくお前等とも顔を会わせられないからな。こうして久々に顔を見に来たんだが……」
「虎太郎先生が家に来るのなんて毎日じゃないですか」
「そうだったか?」
「主に給料日が近付くと、ね」
「そうだったか?」
「おかげで何故か家の家計簿には家族ではない、他人の分が存在しますね」
「そうだったか?」
双七、そして虎太郎は向かい会う。間に卓袱台、上にはお茶。そしてそんな男二人を見つめる仲睦まじい母子。
「ねぇ、かかさま」
如月双七の息子、如月愁厳は母親に尋ねる。
「こたろうとおじさまと、ととさまは喧嘩してるの?」
子供の眼にはそう見えたらしい。しかし、それも強ち間違ってはいない。母親である如月刀子は優しい微笑みで我が子に語りかける。
「喧嘩はしていませんよ」
「ほんとうに?」
「えぇ、本当です」
少なくとも、今はまだ―――と、刀子は愁厳に聞こえない小さな声で呟いた。
「さ、お風呂に入りましょう」
「はいッ!!」
騒ぎが起こる前に母は息子と共に逃亡。残された居間には一家の大黒柱とその教師だった男。
「…………」
いや、もう一人いた。正確に言えば一人ではなく一匹。子狐というには些か大きい気もするし、大人の狐というにはまだ未熟、そんな雰囲気を醸し出した狐が今の座布団の上に寝ていた。
呑気にすやすやと眠りこけている狐。名前は狐ではなく、すずというのだが―――ここで語る必要はまったくない。
例え、この狐が毎日の様に愁厳に会いにくるお姑みたいな存在になっている万年ロリ狐だとか、そろそろ働けよと双七に言われてるとか、級友であるロシア娘と毎日夜遅くまで飲んで唄ってゲロ吐いて双七の家の前で倒れているとか、そういう事はまったく関係ない。
この場で関係あるとすれば、虎太郎が双七を真剣な表情で見据え、双七がソレに対して確固たる意志を持って迎え撃つ構えがあると言う事だけ。
「――――如月」
「――――虎太郎先生」
男達は視線をぶつけ合う。
虎太郎が懐に手を入れ、双七がカッと目を見開く。
そして、虎太郎の懐から飛び出したソレ。ソレを虎太郎は双七に見せつけ、双七は顔を反らせる。
見たらいけない。
アレを見ては、何時もの同じパターンの繰り返しだ。
しかし、悲しいかな―――この場の力関係は学生時代と何も変わらない。双七が目を反らした瞬間、それを狙っていたかのような速度で虎太郎は回り込み、
「これが……今の俺の現状だ」
無駄にダンディな声で呟いた。
見てしまった。
そう、双七は見てしまったのだ。
自分の倍は生きて社会経験豊富な人間の、手合わせすれば未だに勝てない人間の、この街では最強という称号を得ている人間の、これから転勤だという教師という人間の、加藤虎太郎という人間の―――財布の中身。
「また……スったんですか」
空っぽだった。
「あぁ、また……スッたんだ」
見事に空っぽだった。
「なんで、こんな時に……」
「この街ともしばらくお別れと思ったら……最後くらいは勝たせて貰えると思って……今月分の給料を……一点買いした」
「あ、あれほど……あれほどギャンブルはしないって……しないって約束したじゃないですか!!」
「如月。男には、戦わなくてはいけない時があるんだ。それが例え、一点買いした瞬間に我に返ったとしても、だ」
「それ、完全に手遅れじゃないの……」
何時の間に起きたのか、欠伸をしながら突っ込む狐。
さて、加藤虎太郎がこうして如月家の晩餐に訪れたのは他でもない。これから転勤だというのに給料を競馬で全て失い、引っ越し代はもちろん、海鳴まで移動する為の交通費すら失っていた。
「あの、俺が言うのもなんなんですが……虎太郎先生は、そんな生き方で良いんですか?」
「まさかお前にそんな事を言われるとは思ってもなかった」
「俺も恩師にこんな事を言葉を贈るとは思ってもなかったですよ」
「成長したな、如月」
「落ちぶれましたね、虎太郎先生」
加藤虎太郎、神沢市最後の夜は教え子だった男と大乱闘という出来事で幕を閉じた。
ちなみに、金は借りれなかったらしい。
「――――そ、それで……歩いて来たんですか?」
「応、意外となんとかなるもんだ」
煙草を加えながら歩く虎太郎の隣を歩くのは、これから同じ職場で働く女教師だった。
「神沢から此処までどれくらいか知ってます?」
「知ってたら心が折れそうだったからな。とりあえず地図だけ見て、距離は見ない事にしたんだ」
スーツを肩にかけ、汗一つ掻かない虎太郎を女教師は驚きを通り越し呆れ顔だった。
「並の教師ではないと聞きましたが、まさか此処までとは」
「並の教師がこんな場所に来ますか?」
「…………来ない、でしょうね」
虎太郎、女教師は同時に上を見据える。
高い高い壁。世界を二つに分けるような巨大な壁がそこにはあった。
「アンタ、神沢の壁を見た事は?」
「ありません。逆に尋ねますが……」
「俺もこの街の壁は初めて見るな」
神沢の壁よりも良い材質だ、虎太郎は皮肉な笑みを浮かべる。
「お偉い人が考える事は大抵は似たり寄ったりだが、まさか神沢と同じ事を考える輩がいるとはね……正直、驚きよりも感心するよ」
「人妖を集める、という事がですか?」
「そういう事でもあるし、そういう事でもないな……まぁ、どうでもいい事だが」
海鳴の街をぐるっと囲むように建てられている巨大な壁は、神沢にあったソレと酷似している。当然、似ているのは光景。物や風景だけでなく、人もだった。
プラカードを掲げた犠牲者、悲痛な顔を浮かべる犠牲者、憎悪の言葉を吐き出す犠牲者。様々な人々が怒り、憎しみ、そして蔑んでいる。
「此処も変わらんな」
人妖は病気だ。感染した者もその周囲にいた者すらも不幸にする病気。同時にそれは人と人との関係すら腐らせる死の病となった。
第二次世界大戦後に初めて発病を確認されて数十年、人妖は人にとって何よりも脅威となる存在となっていた。人でありながら人ではあり得ない力を持ち、人でありながら人を殺す怪物、それが人妖と呼ばれる所以なのだろう。
「人とて、変わりはなかろうに……」
感情を表に出さす、虎太郎は煙草を加える。
「やはり、そうなんですね」
女教師は力ない笑みを作る。
「人妖は何処でも同じ様な扱い……同じ人なのに、どうしてなんですかね」
「同じ人だからこそ、だろうな」
煙草の煙が空に昇る。しかし、それはこの高い壁すら超えられず、霧散する。
「全ての人妖が悪いわけじゃない。しかし、ごく一部の人妖が悪いわけでもない。人も人妖も変わらんさ。人を傷つけ陥れ、そして殺して嬲ってゴミの様に扱う様な輩はごまんといるだろうよ」
人は人であるが故に悪がある。
だが、人妖は人妖であるが故に悪と罵られる。
「まぁ、慣れろとは言わんが……あまり重く考えるな」
そんな虎太郎の言葉は女教師にはどう届いたのだろう。
少なくとも、先程から虎太郎の眼に映る、疲れた、苦しい、辛いという気持ちを一つにまとめ、それに縋りつかれているという表情だけは消えなかった。
「海鳴だけが特別というわけじゃないんですね」
「特別なんぞないさ。特別を求めたら、教師なんてやってられんよ」
何かを諦める様な言葉。
女教師は何となく想っていた。
新しい教師が来る―――その言葉を聞いた瞬間、職場の同僚は全員が同じ事を想っただろう。
あぁ、今度はどれくらいで出ていくのだろうか……
第二の人妖都市である海鳴にだって学校があり、生徒がおり教師がいる。だが、教師は必ずしもこの街の者というわけではない。中には外の街から来る教師もいる。その教師が人妖なのか人間なのかは問題ではない。
どちらも似た様な存在なのだ、この街にとって。
仮に人であるならば、人妖という外の世界での化物を前にして普通な態度は出来ない。出来たとしても最初だけ、すぐに潰れる。潰れてすぐにこの街を出ていくのだろう。そして、人間ではなく人妖だとしても問題は変わらない。
人の世界から追い出された者が、何を教えられるというのだろうか。
人の命は尊いのだ―――なら、自分達の命は人として見られないのだろうか?
人の意思は大切だ―――なら、自分達の意思は人の意思ではなく、化物の意思なのだろうか?
人と人は手を取り合うべきだ―――なら、どうして自分達の手は振り払われるのだろうか?
外で迫害を受けた者が教える言葉は、どれもこれもが絶望に満ちている。だから外から来る教師は駄目だった。故にこの街の教師の殆どは海鳴で生まれ、海鳴で育ち、海鳴で教師になった者だけ。
女教師も、心の中で諦めている。
どうせ、アナタも数日でこの街から消えるのでしょう―――と。
ゲートが開く。
巨大な壁の向こうに見える街を見て、
「――――――綺麗な海だ」
虎太郎はそう呟いた。
キラキラと光る海を見据え、虎太郎は歩きだす。
迷いすらなく、止まる事すら考えない様に。
だから女教師は驚いた。
今まで見て来た教師達には感じられない、瞳に宿る強さというもの。
この状況を望むところとしているかのような、そんな眼だった。
「…………」
「ん、どうした?」
「あ、いえ……なんだか、楽しんでいる様に見えましたから」
楽しむ、という言葉に虎太郎は首を傾げる。
自分は何かを楽しみに此処に来ているのだろうかと考え、首を横に振る。
別に悲観した笑みを作ったわけじゃない。別に侮蔑する様な笑みを作ったわけじゃない。当然、逆境が楽しみだというわけでもない。
「初めてだからな」
「初めて?」
壁に囲まれた街の風景が綺麗だと思ったのも事実。そして、視界に宿った光景を見た人々が憎悪の言葉を吐き出すのも事実。
そんな人々を虎太郎は振り向きもせず、背中越しに指差す。
「ああいう輩はどんな場所にもいる。当然、それが同じ人であろうと人妖であるともだ。そんな輩が居る世界に生まれたガキ共をどうにかするのが俺の仕事だ」
憎悪の言葉を受け、倒れる者もいる。
憎悪の想いを受け、反発する者もいる。
憎悪に答え、憎悪で返す者もいるだろう。
世界は誰かにでも優しい作りではない。少なくとも、人と人妖を並べて人を優先する程度には優しいかもしれない。しかし、当然ながら人妖には優しい世界ではない。
この壁の向こう、ゲートの向こうがそんな人妖達が暮らせる唯一優しい世界。
故に想う。
故に想わされる。
「この世界だけ、この街だけが自分達の唯一の場所だってな……」
それは事実だろう。
「だが、それだけが可能性だなんて想わせるのは面白くない」
希望を持てとは言わない。だが、希望に縋るべきではない。
「生徒には真っ直ぐ世界を見据える力を持たせるべきだ。そして、それがでかくなった時にどう転ぶかを選ばせたい。ただ転んで大怪我するか、しっかりと受身をとって起き上がって行動するか……それを選ばせる何を俺達は教えるべきだろうな」
歩く。
教師は歩く。
「そんな事が、可能なんでしょうか……」
女教師は言う。しかし、教師は脚を止めない。
「なぁに、出来るさ」
脚と止めず、肩にかけたスーツに袖を通す。
ヨレヨレのスーツにしか見えないのに、ヨレヨレのワイシャツにしか見えないのに、キチンとした髪型なわけでもない、威厳もない、何も無さそうな、そんな男の後ろ姿。
それがどういうわけか、
「狙うは何時だって大穴だ……俺は、こっちの賭けに負けた事は無いんでね」
女教師が見て来た教師の中で――――誰よりも教師に見えた。
加藤虎太郎、次なる勤務地は私立聖祥大附属小学校――――彼が言う様に、初めての小学校勤務だった。
次回「人妖先生と月村という少女」