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[25528] DECEMBER【天使/悪魔 現代伝奇】
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/24 15:44

【天使と悪魔の――代理戦争。】


「こまっている人がいたら、たすける」。そんな理想を掲げる高校生、藤川忍が、美しい天使に出逢い、サタンと言う存在を巡る、悪魔たちとの“代理戦争”に巻き込まれていく物語です。

普通の青年が、理想と現実に悩み怯えながら、奮闘します。

作者独自解釈・創作による魔法や魔術、天使や悪魔や竜などの幻想生物が登場します。

長いお付き合いになると思いますが、
ぜひ感想お待ちしています。活力になります。

竜月。





[25528] プロローグ
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/19 23:55
   DECEMBER

                           竜月


      ■

 崩壊は棺に眠る
 白銀の鎖に括られて
 未来永劫、絶えること無く

      ■



      0

 
 夜空には朧月が浮かんでいた。
 
 酷く朦朧とした、黄金の月だ。真黒な雲に隠れているけれど、あんなに光っていたらその場所は一目瞭然だった。
 かくれんぼだったら負けないな、と思う。俺は誰よりも上手に昏闇に隠れてみせる。
 
 俺の見上げる夜空は、丸く切り取られていた。
 
 此処は静かな静かな森の深奥(しんおう)。高い木々が生い茂る、人間のものではない世界。動物が植物か、或いは畏るべきモノ共の棲む世界。
 そこに、木々の一切が駆逐された、大きな円形の舞台があった。
 
 舞台。
 
 そう呼ぶのが正しいのか俺は知らないけれど、相応しいとは思う。
 
 真ん中には長方形の石造の祭壇、その周りに四本の樫の木が刺さり、それぞれの棒を純白の布が繋いで祭壇を四角く囲っている。その外には八人の人間。白装束を纏い手に手に小刀を携えて、祭壇に向かい微動だにせず立っている。その顔は白い布で隠されていて窺えない。
 更にその外には篝火、そして同じく白装束の人間が複数いた。ただし、手に持っているのは刀や弓などの殺傷武具だ。火が弱く見え辛いが、顔を何かで覆っていたりもしない。その輪より遠くはもう見えなかった。
 
 そしてどうやら地面にも細工が施されているらしい。
 
 地面を掘り返す要領で、この円形の広場一帯に複雑な魔方陣が刻まれていた。術式や用途は不明。俺はこの手のものには詳しくない。
 
 そんな風に造られた状況だから、俺は舞台と呼ぶ。
 
 俺を、殺すための、舞台。
 
 俺は真ん中の祭壇に裸で寝かされていた。白い布で躯中を祭壇ごと縛られている。指の一本にまで絡んだ白い布は、全身の可動機能を完全に奪い去っていた。唯一、双眸だけを残して。
 
 だから、俺は見ている。
 空だけを見ている。
 
 背の高い木々が視界に割り込んで、限りない筈の夜空は丸く切り取られキャンバスとなる。
 中心で滲むバターみたいな金色。
 気紛れな風に舞う幾枚かの深緑。
 視界の端々で己を主張する紅色。
 無機質を旨とするかの様な純白。
 それらが綯い交ぜになって昏いキャンバスに閃き、俺の世界のすべてとなっていた
 
 美しい、と思う。

 バチッ、と火花が舞った。
 圧倒的な輝きが、目前を通り過ぎた。
 

 自分を思う。
 
 散々殺してきた。
 そして殺される。
 それだけのこと。
 
 散々壊してきた。
 そして壊される。
 それだけのこと。
 
 単純なことだ。
 省みること、鑑みること、ことこの場に至ってもありはしない。
 
 それどころか、何だか酷く落ち着いた気分だった。
 一瞬の波紋もない、凪いだ水面の様な気分。
 
 この気持ちは得難いもので、その理由は解かっている。

 近くに何も殺せるものがないから。
 誰にも何にも手が届かない。
 それでは殺せない。
 そんな単純な理由。


 ――ああ、そう。
   俺は生れて初めて、何も殺さずに生きているんだ。

 
 それにしても意外。殺害絶ちなんてしたら苛々が募る一方だろうなあ、とか思っていたのに。
 その真逆でとても清々しい気持ちじゃないか。

 確かに俺は、動物を植物を昆虫を機械を血縁を運命を因縁を歴史を当惑を激昂を愉悦を悲哀を落胆を概念を世界を哲学を革命を戦争を法律を戒律を音楽を映像を物語を不思議を人間を殺したくなる。

 だけど本当は。
 本当は。

 こんな風に自由に生きたかったのかもしれない。
 
 ただ月だけを見上げて。


「「破ッ!」」
 
 
 人々が吠えた。
 空気が震えた。
 篝火が揺れた。
 
 空気に緊張が走り、風が止む。
 沁み渡る静謐さ。まるで深海の様。
 
 ずっと疑問に思っていた。何で俺一人殺すためにこの様な大仰な儀式めいたことをしているのか、と。捕まって意識を飛ばされた段階で、俺はもう死を受諾していたのに。

「「破ッ!」」
 
 その答えが示されようとしている。
 
 白装束の人間たちの視線がある一方向、森の影の昏い闇に集中する。彼らはもう俺になど興味なさげ。各々が武器を構えて戦闘準備だ。それが少し癪に障る。
 
 その姿は、玩具のブリキの兵隊に酷似していた。きっと、その所作があまりに完璧だったからだろう。
 俺の眠れる殺人衝動を疼かせる程に。
 
 しかしなるほど。俺を拘束したのは何か重要な目的の為のファクターだったのか。これでこの大層な儀式造りも、生まれてこの方、忌み嫌い放置していた自分をどうして今更捕まえに来たのかも、納得がいった。

 ではここで新たな問題が提示。
 ここまで大掛かりな準備をして、迎える相手は、一体誰――?

 ぞわり、と。

「――――――っ!?」

 全身に戦慄が奔った。

 氷柱で貫かれたかと誤認する程の衝撃。

 咽喉を拘束されていなかったら、驚愕の叫びをあげていただろう。
 
 ナニカ。
 ナニカ佳くないものが、森の闇から近付いてくる。
 
 俺だけじゃない。白装束の人間たちも、一様に驚いている。その多くが怯み、中には尻餅をついている者までいた。
 その人間に、俺は内心毒吐く。……なんだよ腰抜けが。近付いてくるナニカと敵対することは、俺は知らなかったがお前たちは最初から知っていたんだろうに。それなのに対峙する覚悟すらしていなかったのか。愚かしい。
 
 ってあれ? …………敵対?
 俺はアイツを敵と呼ぶのか?
 何かも知らないし、姿も見ていないのに?
 
 ……ハ、それこそ愚かしい。
 だって、訴えるじゃないか。
 
 俺の血が。
 俺の躯が。
 俺の魂が。
 奴の生命を停止せよ、と。
 それこそ何よりも確かな存在証明。
 
 俺の近くに立っていた白装束の人間たちの内の、一人が動いた。腰が曲っていて杖を突いているところを見るに老人だろうか。細く掠れた、しかし遠く伝わる声で命令を下す。

「総員、術式を起動せよ」

 その声に、幾人かの者は素早く反応し、音吐朗々と呪文を唱え始めた。しかし、恐怖に囚われた者たちには聞こえていない。ただの一時もその闇から目を離さないようにしながら、じりじりと後退していく。
 老人が、おもむろに手を振るった。

「……う、うわああああああああ!」

 何処からか男の悲鳴があがる。
 倒れ、地面でのたうつその男の背中には、深々と、刃が見えなくなるまで小太刀が突き刺さっていた。白装束に、紅い大輪の花が咲く。

「愚図は要らぬ。そんな輩は早々に儂が冥府に送ってやろう。――さて、他に愚図は居るかの……?」

 それは明確な脅しだった。
 怯えていた人間も慌てて詠唱を始める。
 目前の恐怖と二秒後の異怖。それらを天秤にかけた結果だった。
 
 人はいつだって、目の前の刹那が愛しくて仕方ないのだ。

「ほほ、重畳じゃ。あの男以外、愚図は居ないと見える。では始めるのじゃ。我が一族の大望(たいもう)を今――叶える時ぞ」

 詠唱が重なる。
 地面の刻印に光が奔る。
 ぐにゃり。
 ぐにゃり。
 景色がまるで金魚鉢の様に歪む。
 
 
 その時、俺は。
 月だけを見ていた。


 花を背負った男の苦悶も。
 新たに振るった老人の小太刀も。
 傍らに立つ母親の顔も。
 全く目には入らなかった。
 
 ただ、朧な月だけを見上げて。
 金色の朧な月だけを見上げて。

 詠唱が止み、金魚鉢が割れた瞬間、俺は意識を失った。




[25528] 一日目 (1) 日常
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/04/01 03:30

      ☨

 夢を視た
 酷く恐ろしいユメか、とても楽しいユメか、或いは無色透明のユメか
 そのどれかだったと思う
 けれど其のユメは、片鱗も触れぬ内に浚われて仕舞った
 天使と悪魔に、攫われて終った

      ☨



      1


      ☨

 先ずは、『彼女』の来る前の、僕の日常を語ろう。

      ☨



 「忍は寝ても覚めても寝惚けた顔をしているけど、せめて顔を洗ってシャキっとしてきなさい」と朝一番から幼馴染の痛烈な一言を浴びて、僕、藤川忍は渋々洗面所に向かった。
 廊下の途中、窓の結露を指で拭き取って外を見る。
 朝早く静かな住宅街と、高く青い空が見えた。いい天気になりそうだが、十二月に入って最近は随分と寒くなった。

 寒いのは好きだ。
 全てが内へ内へと籠もっていく気がするから。

 冷たい水に震えながら顔を洗ってリビングに戻ると、奈月はダイニングテーブルの椅子に腰かけて優雅に紅茶を飲んでいた。手には新聞、テレビからは朝のニュースが流れている。まるで彼女が家主のようだ。
 この状況を解説すれば、奈月は僕が寝ている内に鍵を開けて家に上がり込んで、暖房を入れ、紅茶を入れ、新聞を取り、テレビを点け、そして僕の寝起きを罵倒して寛いでいるわけだが、それも最早自然なことだ。例えば僕は紅茶を飲まないのに、いつだったか戸棚を開けたら一式が揃っていたくらいに。
 奈月はじいと新聞を睨んだまま。僕は特に言いつけもないと判断してキッチンに入る。
 昨日の残り物やスクランブルエッグなどで簡単に朝食を作って、奈月の対面に座った。本当なら冬は炬燵で食べたいのだが、「炬燵に紅茶と女の子は似合わないでしょう」と言う奈月の持論で朝はこちらで食べるのが習慣になっている。

「何か面白いニュースはあった?」
「何もないわ。政治の汚職、外国の混乱、殺人事件、パンダの死亡。暗いニュースばかりね」

 奈月はそう言って紅茶の入ったグラスを揺すった。

 彼女の名前は麻生奈月。僕とは小学校の頃からの幼馴染だ。幼い頃はボーイッシュで活発な娘だったが、成長するにつれてとても綺麗な大和撫子になった。長く伸ばした黒髪に目覚ましく成長したスタイル、真っ白な肌は雪のよう。
 ただどうしてか子どもの頃の明朗さはすっかりナリを潜め、吊り上がった眉と脚を組むスタイルが似合うような、シニカルで、斜に構えた少女になったのだが。何故だ。

「それより、ほら」

 奈月は片眉を顰めて、ちょいちょいとテーブルを指差す。
 ……そんな顔も似合うなぁ、とか呆けたことを考えていたから、一瞬反応が遅れてしまった。

「ねえ、聞いてる?」
「あ、ああ聞いてるよ」
「全く、すぐにぼうっとするんだから忍は。早くその朝食を食べちゃいなさい。学校に遅刻するでしょう?」

 言われて、僕は時計を見る。
 ……校門が閉まる迄、つまりは遅刻扱いになるまであと一時間半もあるんだけど。ちなみに僕の家から学校まで徒歩で三十分だ。
 そう奈月に言うと、

「あのね、忍。何度も言うようだけど私は忙しい身なの。クラスの学級委員長として日誌を付けたり花瓶の水を替えたり消耗品を補充したりの雑務を始め、生徒会副会長として冬休みの諸注意を印刷したり三年生を送る会の企画を練ったり来年の人事案を考えたり、やることが行列になって待ってるの」

 ここまでは良い? と僕に問う。
 僕は頷く。
 奈月は多くの人が面倒くさがるようなクラスの仕事を次から次へと請け負っていた。僕がやると言っても聞いてくれない。本人曰く「内申の為」だそうだけど、僕からすればそんな評価を気にしなきゃいけないような成績じゃないと思う。

「だから朝とは言え貴重な時間を一切無駄にしたくないのよ。解かる? 解かるわよね。よし、さあキリキリ食べなさい」

 奈月は腕を組んで顎で小さく促す。
 ……昔、一度だけ。「じゃあ僕を置いて一人で行けばいいじゃないか」と言ったことがあるのだが、そうしたら奈月は初めて見る顔で俯いてしまったので、それ以来僕はその言葉だけは禁句にしている。そしてそれを言えない以上、もう急いで食べるしか僕に選択肢はなかった。
 奈月が再び新聞とテレビに戻ったので、僕は急いで朝食を食べ終えて食器をシンクに運んだ。
 その後二階の自室に戻り制服に着替えて鞄を持って、リビングに戻る。
 奈月は準備万端で僕を待っていた。
 キッチンを見るとティーカップと食器が洗って干してあった。
 「さあ行くわよ」と出て行く奈月。
 僕はその後に付いて家を出た。



 吐く息は白く、後ろへ流れて行く。
 青い空は澄み、美しいなと思った。
 外は矢張り寒かった。僕は黒のコート、奈月は冷え性なので白のコートにチェックのマフラー、それにピンクのミトンまで装備。

「……寒いわね」
「そう?」

 いつも奈月と一緒に登校するけれど、その間にあまり多くの会話は生まれない。ただ、奈月の一歩分斜め後ろを僕が付いていくだけだ。
 だが、それが心地良い。
 奈月が同じように感じてくれていると良いけど
 まだ人気の少ない住宅街を抜けて、大通りに出る。通勤時間なので交通量は中々だ。車を横目に歩道を歩いて、ファーストフードから八百屋まで、幅広い年齢層を集めるが今はまだシャッター街の商店街を抜けて。

「あ、ちょっと待って」
「?」

 青信号の交差点を渡ろうとした途中、振り返る奈月を置いて道を外れた。
 そこには赤信号が変わるのを待っている三人の小学低学年くらいの子供たちが、パタパタと走り回りながらふざけあっていた。元気なのはいいことだけど、

「おうい、危ないよ」

 子供たちが一斉に振り返る。

「えー?」
「なんだよだれだよ」
「ごめんなさい」

 三者三様の反応だけど、気にせずしゃがみこんで目線を合わせた。

「車道の傍で遊んじゃダメだ。危ないだろ?」

 少年たちは無言だったが、お互いにお互いの顔を見て一応納得したようだ。走り回るのを止めた。

「あ、怪我してるじゃないか」

 一番元気な少年の膝小僧が爪の先ほど擦り剥けていた。

「待って。絆創膏持ってるから」
「いいよこのくらい!」

 そう言って少年たちは横断歩道へ飛び出した。「あっ!」と思ったが、今の間に信号は青へと変わっていたらしい。事故に遭うこともなく、少年たちはちらちらとこちらを振り返りながら走り去って行った。
 見送って、通学路に戻る。
 交差点では赤信号を背景に奈月が待ってくれていた。両手を顔の前に揃えて、吐息で暖めている。

「ごめんね」
「……まあ、いいけど?」

 横に並ぶ。
 信号はまた暫く赤だ。

「……いつまで経っても、変わらないのね」

 奈月の方を見たけれど、奈月はこちらに視線はよこさず前を向いたままだった。僕も前を向いて答える。

「そんなに簡単に変われないよ。変わる気もないしね」
「『こまっている人がいたら、たすける』なんて、小学生の発想よ? くだらない」

 思わず苦笑が漏れた。
 奈月がそれを言うかな、って。

 ――『こまっている人がいたら、たすける』って言うのは、幼い頃からの僕の信条だ。
 誰かがこまっていたら、たすけを求めていたら、何をおいてでもたすけよう。そう心に決めている。あの子たちがこまっていたかと言われれば首を傾げる部分もあるが、そこで躊躇わないよう心がけている。本当にこまっている人を、見逃してしまわぬように。間違えたって所詮僕が恥を掻くだけだから。

「なに笑ってんの」

 むっとした表情の奈月に苦笑を返す。奈月の気持ちも解かるから、返す言葉が見つからない。
 そこで信号が青に変わった。奈月はぷいと視線を切って歩き出す。僕は、やっぱり斜め後ろに続いた。





[25528] 一日目 (2) 学校
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:01

 道の先は、通称『大根坂』と呼ばれる急な坂道だ。僕らの学校はその坂の途上、随分と山の上にあるのだ。
 大きく息を吐き出して、校門に到着。
 『N県立三葉高校』
 校門から向って左側には、「授業棟」と呼ばれる、洋風で頂点に尖塔を持った四階建ての建物。中には各教室や職員室、会議室などが入っている。
 校門から向って右側には、「専門棟」と呼ばれる平たくて横に広い二階建ての建物。こちらには体育館や音楽室、調理室などが入っている。
 その二つの建物を硝子張りの渡り廊下が繋いでいた。
 比較的新しくて地元人気も高い準進学校、それが僕たちが通う学校だった。
 遠くから複数の人間のかけ声のようなものが聞こえた。たぶん運動部の朝練だ。
 下駄箱で靴を脱いで階段を上り、授業棟の二階、「2―A」の教室に入る。
 教室にはまだ誰もいなかった。

「――――――」

 誰もいない教室の空気と言うものは、とても独特だ。
 澄み切っていて、それでいて何か淀んでいる感じ。
 中に入ったその瞬間、その刹那だけ、何か這入ってはならないところに這入ってしまったような気持ちになる。
 まるで別のモノたちの世界のような。
 一瞬それと共存してしまったような。
 そんな畏れの感情。
 最もそれも一瞬だけ。すぐに教室はいつもの平凡な空気を取り戻して、僕を迎えてくれる。
 奈月は教室真ん中辺りの席に座って、僕は窓際一番後ろの席に座った。
 奈月は何をするのかな、と見ていると鞄から教科書とノートを取り出して勉強を始めた。
 驚きの真面目さだ。あれが学年トップの成績を叩き出す為の知られざる努力なんだろう。
 僕はどうしようかなと考えながら空を見ていたら眠くなって、机に突っ伏して目を閉じた。
 すぐに意識は闇に包まれた。
 夢は見なかったと思う。


 がやがやと騒がしくなってきて、僕はもそりと顔を上げた。
 教室には既に多くの生徒が登校してきていた。それぞれが雑談や読書に耽っている。
 その中で奈月は自分の席に集まった多くの女生徒たちと談笑していた。
 奈月が輪の中心になっているが、彼女自身は多くは口を開かず他の生徒の話を聞く側に回っていた。
 時折相槌をうち、一言喋り、小さく笑みを浮かべる。
 それだけで彼女が中心なのだ。
 カリスマ、或いは人気者とはああ言う人間を言うのだろう。
 目線を前に移すと、一人の男子生徒が机に伏して眠っていた。
 僕は内心驚いて席を立つ。
 ……どうしてこんな時間に学校に来ているんだろう?
 その生徒の横に立つと、僕はド派手な金髪頭に――拳骨を落とした。

「あいたあっ!」

 後頭部を殴られ更にその衝撃で机に額をぶつけて、悠は大声をあげながら飛び起きた。キョロキョロと辺りを見回して、すぐに僕と目が合って、へたりと脱力する。

「……なんだよぉ。今ものすっごい眠いんだから少し寝させてくれよ」
「厭」
「イヤって……なんでよ」
「なんとなく」
「そんな曖昧な理由で堂々と胸を張るお前に乾杯っ!」

 呆れたように叫んで、悠はのそりと身を起こして大きく背筋を伸ばした。

 彼の名前は利根川悠。悠とは高校に入ってから知り合った。入学式のその日、初対面でいきなり「あの校長ヅラだよな絶対」と話しかけられて以来の友人だ。……改めて回想しても、初対面の人間に話しかける話題じゃ絶対ないと思う。
 短く切ったド派手な金髪をツンツンに立たせ、左耳と左眉にはシルバーのピアスをしている、正直外見だけ見ればちょっと近寄り難い男だ。現に一年経った今でも「あなたたちが友達として成立しているところを見ると、異国異文化交流なんて何でもないことに思えてくるわ」と奈月に言われる。
 だが、僕は思う。
 正反対だからこそ、友達でいれるんではないか、と。
 それぞれが相手に、自分にない部分を見ているから。

「今日はどうしたの?」
「あ?」
「だから、何で悠がHR始まる前から学校にいるのさ。珍しい。いつもだったら午後から登校なのに。雪が降ったら悠のせいだぞ」
「なんか寝起きから散々に言われた!? てか雪降ってもこの時期なら妥当だし!」

 悠は「いやさー」と難しい顔をして頭を掻く。

「昨日の午前3時くらいかな、そろそろ寝るかーと思ったんだけど、目を瞑った瞬間に名曲のフレーズが舞い降りてきたような気がしてな。すぐにギター持って作り始めて……そのまま朝だよ。折角だから学校も来てみた」

 学校は折角、とかで来るものじゃないと思う。
 そう言ったら無駄に大声で笑い飛ばされた。なぜだ。
 悠は学外の友人とロックバンドを組んでいる。彼がボーカルとギター、それに作詞作曲を担当していて、この界隈では少しずつ名前も知られてきているそうだ。「将来はビッグになるんだ!」といつも言っている、実に解かり易い夢追い人だ。
 それを聞いて莫迦にする人間もいるけれど、僕は素直に羨ましいと感じる。
 僕にはまだ人生を懸けられるものが見つかっていないから。

「で、名曲は出来たの?」
「いやそれが、眠くて眠くて何書いてもララバイにしかならない」
「…………」

 それはそれは。

「じゃあ今は思う存分眠ってよ。誰もが眠たくなるような名ララバイが出来たら聴かせて。不眠に悩んだら聞くから」

 悠は机に突っ伏して、ひらひらと手を振った。僕はそれを見届けて机に戻る。
 教室の前の扉が開いた。

「アイタタタ、頭いた。おらー、全員速やかに席に着け。一番最後まで立ってた奴にはビール奢らせるぞ」

 いきなりとんでもないことを言って教室に入ってきたのは時任薫さん、このクラスの担任だ。赤い蔓の眼鏡に赤味がかったロングヘアー、更に赤系スーツの上から白衣を羽織る、と言う壊滅的な組み合わせを何とさらりと着こなしている。ただ漂うお酒の匂いだけは頂けない。何故苦情がこないのか不思議だ。
 教卓の前に立ち、全員の着席を見届けてから出席簿を開く。

「それじゃあ出席を取るぞ……うぷ」

 うぷ?
 生徒の間に無駄な緊張が走る。
 僕はまたかと頭に手をやった。
 薫さんは口元を押さえて俯く。

「……う、うううぷ。や、やばいっ。す、すまんがHRは委員長頼んだ!」

 大声で叫び、飛ぶように大股で教室を出て行く薫さん。
 姿を現してから約十秒、薫さんは白衣を閃かせて再び退場した。

「あーあ、今日はダメだったねー」
「最速記録に近いよ」
「残念でごわす」

 教室に弛緩した空気が満ちる。
 こんな風に薫さんがHR途中で退場するのは、珍しいことではないのだ。
 原因は二日酔い。彼女は無類の酒好きで、「私にアルコールの入っていない時は死ぬ時だ」などと真剣な顔で言うほどの……まあ正直ダメ人間だ。
 とは言え、あんな人でも僕にとっては恩師であり同時に姉のような人だ。だからお酒はせめて控え目にして欲しいのだが、これまでのところ芳しい成果は得られていない。だから何故苦情がこないのか。

「では代わりにHRをやります」

 指名された奈月が教壇に向かう。弛緩した空気に合わせるかのような爽やかな笑みを浮かべて。
 ……あの笑顔の数パーセントでも僕に向けてくれたらありがたいのに。
 教卓から恐ろしい視線が飛んできた気がして、慌てて空に眼を逸らした。




[25528] 一日目 (3) 授業
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:09

 昼になった。
 太陽は真上に上り、冷えた空気を黙々と暖める。
 カツカツとチョークを黒板に叩き付ける音だけが、教室に響いていた。

「では問い五の問題ですが、ここで少年は母親の頬にこびり付いた磯の塩に『なんとも言えぬ思い』を感じています。これは前述した問い四の解説で説明した通り、悲しみであると推察されます。それを踏まえれば選択肢一と二は明確に間違い、三は『怒り』と言う言葉が用いているところが違います。では残るは四と五ですが――」

 教室がこんなにも緊張感漂う静寂に満ちているのは、ひとえに教鞭を振るっている国語教師の菊田直子先生が理由だ。
 後頭部に結い上げた髪と怜悧に映る縁無し眼鏡、年中いつでもきっちりとスーツを着こなしている菊田先生は、現代に順応したスパルタ方針の教師として生徒たちから疎まれ恐れられていた。
 昔のように暴力に訴える教育は今の世の中することは出来ない。しかし彼女は、その場では何もせず飲み込んでおいて、後々成績に対して反映させる。そもそもそれが普通の教育なのだが、その反映のさせ方が実に如実で容赦ない為、先生は怖くなくとも留年・受験が恐ろしいと、多くの生徒が菊田先生の授業だけは静かに受ける。自由な校風(と言う名目のやりたい放題)が目立つこの学園で、これほど静かな授業が出来るのは菊田先生だけだった。

「最後の問題は特に解説はいらないでしょう。今までの問題の総まとめになりますから。では誰かに答えてもらいます」

 その時、ちょうど終了のチャイムが鳴った。
 解答を求められる直前だった生徒たちは一様に胸を撫で下ろし、空気は列挙して弛緩する。
 菊田先生はほんの僅か眉を顰め、

「……仕方ありません。この問題の答えは次回に、」
「ふわああああ―……よく寝た腹減った」

 どっかの莫迦が、莫迦な声を、莫迦なタイミングで上げた。

「さあメシメシ、忍は今日は学食か? それとも購買でパンか? 俺はどっちでもいいからくっついてくぞ」

 窓際の一番後ろから一個前の席、つまり僕の席のすぐ前で授業中器用に背筋を伸ばしたまま眠り続けていた悠は、条件反射のようにチャイムで覚醒して、そして空気を読めなかった。

「ん? ちょっと無視すんなよ。おい忍」

 ……こら、僕を巻き込まないでくれ。

「どうしたんだよ、忍。おい、おい、おーい! って……アレ?」

 そこでようやく教室の静けさに気がついたのか、悠はゆっくりと振り返って教室全体を見回す。
 これからの悲劇を予想して笑いを噛み殺している生徒たちと、腕を組んで自分を見つめている菊田先生を見て、悠は遅過ぎる理解を示した。

「あ、あーっ! え、えっと、あの、……寝てないっスよ?」

 えええ。今更そんな誤魔化しは無理だろう?
 見かけには解からないけれど、菊田先生の怒りは加速度的ではなく一瞬で頂点を振り切ったようだ。

「そうですか。では今の最後の問題を利根川君に答えてもらいましょう。授業をきちんと聞いていた利根川君ならば、簡単なことでしょう?」
「……え?」

 硬直する悠。それもそうだろう。だって、悠は問題集すらも開いていないんだから。菊田先生だって解かっている。だから、これはきっとある種の制裁なのだ。
 菊田先生は決して理不尽に厳しい先生ではない、と僕は思っている。理念と規則を第一に、正当性を持った厳しさで教育に望んでいる立派な教師だ。だから今回も、求めていたのは悠の真摯な謝罪の言葉だったのだろう。
 それなのに。

「え、えっと……ええっとあれどこだくそっ」

 コイツはいつも空気を読めない。
 アタフタと問題集を開いた悠は、黒板に書いてあった問題から自分が聞かれている問いを見つけたようだ。しかし、矢張り解からなかったのだろう。慌てた末に、なんと悠は僕の方を振り向いた。
 ……教えろってこと?
 当然、沈黙を貫く。これは謝罪を求めている菊田先生の教育なのだ。邪魔するわけにはいかない。て言うか、この状況で教えられるわけがないのに。
 悠はそんな僕を泣きそうな眼で見た後、仕方なく問題集を眼の前に掲げて向かい合った。
 ――ここからの悠の心情は、背中しか見えていない僕でも手に取るように解かるほど、解かり易い動き方をした。
 長い問題文に悲愴を浮かべ、選択問題と言う僥倖に喜色ばみ、それでも五択もあるのかと絶望し、ええいままよ当たってくれと的外れな強い決意をして答えを口に――

「先生」

 しようとして阻まれた。
 教室の前の方で、立ち上がった男子生徒に。

「もう終業の時間を過ぎているのですみませんが終わらせてもらえませんか? 寝ていた彼に注意をするのなら、授業の後に呼び出してじっくりとやってください。僕たちまで拘束する必要はないでしょう?」

 「ねえ、みんな」と彼は生徒たちを煽る。悠を面白がりながらも、昼前で空腹に耐えていた生徒たちはその言葉に一斉に盛り上がった。
 そうだそうだ。
 やめろやめろ。
 そうだそうだ。
 控え目ながらも明確なシュプレヒコール。広がって行く喧噪。
 先生は表情を変えず、それを見つめて。
 やがて、持っていた問題集と教科書を閉じて重ね、タン、と教壇で叩いて揃えた。その音に生徒たちはまた静まりかえる。

「……それでは今日の授業は終わります。利根川君は次週までに答えを考えて来るように」

 そう言うと、菊田先生は特に勢い込むわけでもなく淡々と歩を進めて、教室を出て行った。
 何の余計な感情も滲ませない、見事な去り際だと思った。
 ざわざわと、一気に教室に喧噪が戻る。
 結局立ちっ放しだった悠はどかっと席に座ると、何だか難しい顔をしてこちらを振り向いた。噛み切れないものでも噛んでいるかのように不満そうに口を動かして、しかし言葉は出てこない。

「良かったね。次回に持ち越しになって」
「…………」
「どうしたの? 珍しい表情をして」

 そう尋ねると、悠は小さく舌打ちをして教室の真ん中へ目線をやった。
 僕も同じようにそちらを見る。
 そこにはクラスの半分ほどが集まった人だかりが出来ていた。

「すごいね準也クン! あの菊田に文句言うなんて」
「ホントホント。俺もう腹減っててさぁ」
「見たぁ? あの菊田の顔。きゃははははは!」

 湧き上がる一同。
 その輪の中心。

「そんな、大したことじゃないよ」

 派手な容姿をした男――篠原準也は笑った。
 茶色に染めた長髪に切れ長の眼、崩して着た制服と程よく身に付けたシルバーアクセサリーは彼に良く似合っていた。
 男は微笑みながら続ける。

「みんなが困っているのを見過ごせなかっただけさ。俺は菊田の恨みを買ったかもしれないけれど、そんな些細なことに比べれば」

 一同は歓声と拍手を以って男を讃える。
 その様子を、悠は吐き捨てるように罵倒した。

「なーにが、だけサ♪ だ。菊田をとっちめて目立ちたかっただけで、そんな殊勝なこと一ミリも考えてねぇくせに」
「そうなの?」
「決まってんだろ。篠原はそう言う奴だよ」悠の断言する。「大体菊田の恨み買ったからってあいつにとっちゃどうってことねえんだよ。知ってっか? あいつの親はこの街にある有名なロボット工学系の会社の社長なんだぜ?」

 言われて思い返してみたが、篠原の名前も会社の名前も場所だって出てこなかった。知らない僕がダメなのか、知ってる悠が凄いのか。

「まあそんなだから地元への影響力も凄いんだ。その息子に、誰が文句言えるってんだ」
「へえ、そんな事情があるんだ。詳しいね悠」
「この程度は一般常識だし、アイツも隠してねえし、まあ、他にも否応なく、な」

 そう言って悠は酷く嫌な顔をした。
 あまり詳しくは聞けていないが、悠の父親も発展著しい一部上場企業の社長さんなんだそうだ。そう言ったしがらみを嫌い自由に生きる悠とは確執が絶えないらしいが、きっとそこら辺からの情報もあるのだろう。





[25528] 一日目 (4) 友人
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:21

 悠は明るい声で顔を上げた。

「そんなことより俺たちには、解決すべき問題がある」
「と言うと?」
「これだ!」

 どんと、悠は僕の眼前に問題集を突きつけた。

「この問題の答えを教えてくれ」
「ああそういえば」
「これで次回またやってありませんとか言ったら真剣にやべえからな。五分後には忘れちまうだろうし、覚えている今すぐの間に聞いておくのが吉だ。さあ教えてくれ!」
「うん。教えないけどね」
「え?」
「ふんふーん」
「…………」
「あれ? 財布どこいったかな」
「…………」
「あ、そういえば悠ってスイカの種を飲む派? 吐きだす派? それとも黒だけ吐いて白は飲む派?」
「どーでもいいわぁ!」

 卓袱台返しの要領でぽーんと放り投げた問題集が僕の頭を越えて飛んで行った。

「俺の言葉が悪かったのか、それともお前の耳が悪いのか分かんねえけど、とりあえず伝わってねえみたいだからもっかい言うぞ。……さっきのー! 問題のー! 答えをー! 教えてー!」
「ははは、悪いのは悠の言葉でも僕の耳でもなくて、ものの頼み方だよ」
「言外の土下座指令!?」
「こまっていたらたすけたいのは山々なんだけど、どれだけ頼まれても答えを教えるわけにはいかないんだよ」
「なしてよ」
「だって――」

「――私に怒られちゃうからね」

 頭の上にぽんと手がおかれる感触。
 それと同時に涼やかな声が聞こえた。
 振り返って確認するまでもない。僕の頭に手を置くのも、僕が怒られる相手も、奈月以外にはいない。
 奈月は横の馬飼さんの席の椅子を引っ張ってくると、僕の隣に運んで腰かけた。

「ほらこれ」

 さっき放り投げた問題集を悠に差し出す。

「あ、ああ。ありがとう」
「忍は放っておくとその手の頼みごとを全部引き受けちゃうからね。私からの禁止条約違反よ」
「な、なにそれ」

 そんなのあるの? って顔で僕を見る悠に、曖昧に笑みを返す。あるんです。僕も良く解からないけれど何項か禁止条約が。誰かの勉強をやってあげる、も禁止されていることの一つだ。

「大体ね利根川君、勉強くらい自分でやりなさいよ。しかも選択問題よ選択問題! 本文読まなくたって、問題文だけで二択くらいには絞れるじゃない」
「あー……」

 そんなこと出来んの? って顔で僕を見る悠に、また曖昧に笑みを返す。出来ません。少なくとも僕にはさっぱり。

「ま、それでも答えが手っ取り早く聞きたいって言うなら私が教えてあげるけど?」
「ホント!? 良かっ――」
「ただしものの頼み方は考えなさいよね」
「またしても土下座指令!? ……ねえ、キミたち。クラスメイトをなんだと思ってるのかな」

 悠はさめざめと泣いて机に突っ伏す。僕はそれを見て流石に気の毒に……はならなかったけれど。がんばれとは思った。

「まあいいわ。それよりも昼食にしましょう。私はお弁当だけど、忍と利根川君はどうするの?」

 奈月は無地のお弁当の包みを開く。
 僕は財布から三百円取り出すと、「よし飯だ飯だいったん忘れよう! 俺は購買だ」と席から立ち上がろうとしている悠の手にぽんと握らせた。

「フレンチトースト二枚と牛乳でお願いね。お釣りは取っといていいから」
「何だそれっぽっちでいいのか? 小食め。んじゃまあ、ちょちょいと行ってくるから食べないで待ってて――っておぅい!」

 一度扉の前まで行ったのに、わざわざ戻ってきて大声でツッコむ悠。愉快な奴だなあ。

「なんで問答無用で俺が行くことになってんだ!?」
「うーん、ヒエラルキー?」
「格差社会っ!?」
「む、聞き捨てならないわねその言葉。私はまだ頂点を忍に譲る気はないわよ」
「言外で俺が最下位って言ってるよね!?」

 うわーん、と泣きながら悠は購買へ駆けて行った。
 ……フレンチトースト二枚で二百円。牛乳は百十円。
 帰ってきたら何て言うのか楽しみだ。







[25528] 一日目 (5) 小夜
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:35

「ふわ、いい天気だ」

 賑やかに昼食を食べ終わると、悠は再び睡眠、奈月は生徒会の仕事に行ってしまい、特にクラスの雑務もなかったので、僕は専門棟の方の屋上に来ていた。
 ごろりと大の字になれば、視界一杯に広がる青空。
 遮るものなく吹き抜けていく風。
 この場所は、学校の中でも僕のお気に入りの場所の一つだった。
 ただその場に寝転がって、ぼんやりとした時間を過ごすだけ。それだけで、ここは特別な場所になれた。
 もっとも夏場は多くの生徒が食事や休憩に利用するので、こんな風に静かな時間を過ごせるのは今の季節だけなのだが。寒さは厚着と我慢だ。
 授業棟の方にも最上階には尖塔があって、その先端には大きな窓が四方に開いている三畳ほどの展望台がある。そちらも僕がよく時間を潰す場所の一つだった。
 
 空には、一羽の鳩が飛んでいた。
 仲間からはぐれたのだろうか。それとも孤高の鳩なのだろうか。
 ともかく、その鳩は空をひらひらと飛んでいた。

「――――――」

 ……昔、空を飛びたいと思ったことがある。
 『こまっている人がいたら、たすける』願いがあって、誰かをたすけよう、誰かのためになろうと思って生きてきた。けれど常識知らずの僕は、その度に空回って誰かに迷惑をかけて。
 そこで憧れたのが鳥だ。
 編隊を組んで、隣の者とたすけ合いながら大空を飛ぶ。
 それでいて自立していて、単独でも確かにそこに在る。
 意識でも義務でもなく仕組みのように自然と周りをたすけて、当たり前だけどそれを誇らず孤立する。
 そんな生き方に憧れた。
 今では単なる「隣の芝生は青い」的な幻想だと解かってはいるけれど、それでも、まだ――大空には憧れる。

 僕にとって飛行することは、
 誰よりも孤高であろうとする意思だから。

「お兄ちゃん」

 頭上の方からそう呼びかけられて、僕は首を上げて逆さまの視界でそちらを見た。

「探しました。こんなところにいたんですね」

 そこには困ったような笑顔を浮かべてこちらを見る小夜の姿。上下反転しているけれど。

「ああ、ごめん」

 僕は起き上がりながら答える。
 そして改めて、彼女を見た。

 肩の上でくるんと内側に丸まった漆黒の髪に大きくて円らな眼、一切着崩すことなくしっかりと制服を着た小柄なその躯は、冬に咲く一輪の花のようだった。華奢な細腕は、触れたら手折ってしまいそう。
 彼女は時任小夜。僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶが別に本当の兄妹と言うわけではない。彼女は僕が幼い頃からお世話になっている時任家の娘さん――つまり薫さんの妹で、薫さんが姉同様であると同じように小夜とは妹同様の付き合いなのだ。

「どうしたの小夜?」
「あ、うん。あの今日の夜、良ければお兄ちゃんのお家に行きたいんですけれど、予定はないでしょうか……?」

 小夜はまるですごく申し訳ないことを言うかのように、小さな声で言う。
 僕は少々呆れた心持で答えた。

「今日は何の予定もないから構わないよ。……あのね、小夜。そんなに僕に気を遣う必要はないんだよ? 僕の家に来たいなら好きな時に来て、好きなだけいればいいんだ。僕たちは兄妹みたいなものなんだから。……まあ、元々時任の家の居候だった僕が言うのもおこがましいんだけどね」
「そんなっ!」

 僕の言葉に、小夜は珍しく大声を出した。

「お兄ちゃんはお兄ちゃんです! 私のお兄ちゃんなんです。居候だなんて……言わないでください」

 大きな声を出したことが恥ずかしいのか、小夜は深く俯いて身を縮めた。さらりと髪が風に靡いて、可愛らしい旋毛がこちらを向く。
 小夜は大人しいけれど、言わなければならないことはちゃんと言えるいい子だ。
 僕は近付いて、その小さな頭を優しく撫でた。

「わっ、わわっ、お兄ちゃん」
「ありがとう、小夜」
「…………」

 さらさらの手触りは絹を思わせるほど。
 心地よくて笑みが零れる。
 制服のスカートをギュッと掴んで撫でられるに任せていた小夜は、しばらくして頭を上げて、赤く染めた頬に笑顔を浮かべた。
 こっちの心まで和やかにする、優しくて綺麗な笑顔。
 なんて得難い。
 その笑顔は、とても得難い。

 ……小夜と薫さんには両親がいない。
 事故で亡くなってしまったのだそうだ。
 その時、薫さんは高校三年生、小夜は小学校に上がりたてだった。まだ幼い、子供だったのだ。そのショックは計り知れないものがあっただろう。
 けれど、彼女たちは支え合って、こんなにも強く、美しく成長した。
 その苦労を、僕は間近で見た。
 早く大人を目指した薫さん。寂しさに苛まれた小夜。二人を支えてきたお祖父さんお祖母さん。
 数多の困難と数多の苦痛を、時任家の人たちは総動員で乗り越えてきたのだ。
 だから、この笑顔はとても得難い。
 居候のようなものだった僕は、役立たずどころか足を引っ張ってしまうこともあったけれど、微力ながら貢献出来たと思っているし、それを誇りに思う。

「あ、あの」

 僕は――こまっている人をたすけるのだ。

「お、お兄ちゃん」
「ん?」
「あの、いつまで撫でるんですか」
「おっと、ごめんごめん」

 手を離す。小夜は「べ、別に嫌だったわけじゃないんですよ?」と小さな声で弁解しながら、

「それじゃ、また今日の夜にです」

 と言って小走りで屋上を出て行った。
 僕は再び地面に横になって腕時計で時間を確認。後十分ほどの余裕がある。
 一応携帯でアラームを仕掛けて、ゆっくりと瞼を閉じた。
 ふふ。
 何に笑ったのかは、自分でも定かじゃないけど。
 悪い気持ちじゃないよ、絶対に。





[25528] 一日目 (6) 団欒
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 00:47

 全ての授業を終えて、そして放課後。
 僕は大通りを一人歩いていた。
 奈月は弓道部の部長なので部活、悠はバンドの練習があるからと早々に帰宅したので、帰り道は一人だった。小夜と待ち合わせようかとも思ったが、どうせすぐ後で会うことだし、それに少し寄りたいところもあったので先に帰ることにした。
 校門を出たところで、足を止める。
 この三葉高校は高台の上にある。
 だから、僕の住む街、挟神市を一望することが出来た。

 この学校があるのが東の端、そこから少し西に進むと商店街があって、更に進んで街の中心には、駅やビル群などのそれなりに発達した社会がある。北にはオフィス街、南には住宅街が広がっている。中心と西の間には上から下へ市を両断するように石楠花川と言う川が流れていて、その向こうは西の端まで古い民家と工場群、それに深い山になっていた。東京タワーや通天閣とは程遠い、鉄塔剥き出しの背の低い電波塔が南下した野原に突き立っている。
 それほど大きくもない、それほど都会でもない、挟神の街だ。
 坂を下って、商店街へ。
 草臥れた顔で俯き歩くサラリーマン、買い物籠を片手に店を見て回る主婦、携帯片手に器用に自転車に乗る学生、それなりに多くの人間が行き交っていた。その間を縫うように進む。
 商店街の北の端、人通りも徐々に少なくなってきた頃に、その店は見つかった。
『グルメ上等! 満点宮』
 と、どえらい挑発的なコピーの看板を掲げた、首里城みたいに鮮烈な朱色の店。看板の上部には二匹の龍が向かい合ってのたうち、窓は全て円形の格子窓になっていた。ただ全体的に薄汚れて古びた印象があって、お世辞にも栄えていそうとは言い難い店構えだ。
 『営業中』の札の掛かったドアを押し開ける。りりん、とベルが鳴った。
 店内は薄暗かった。もう夕方なのに一切照明が点いていないからだ。小さな格子窓が幾つかしかないので、採光が十分ではないことも理由の一つに上がる。
 お客さんの姿はなかった。
 キムさんは奥だろうか?

「お疲れさまで――」

 そう言いかけたところで、どたどたどたと大きな足音が。次いでホールとキッチンの間にある観音開きの扉を開け放って、猛烈な勢いでコック姿の男――キムさんが現れた。いや、飛んできた。

「いいいいいいらっしゃいませー! ようこそいらっしゃったアルね。さぁさ、ナニをタべるアルか? チャーハン、ギョーザはモチのロン、おキャクサマがごキボウならパスタやヤキザカナもダすアルよ!」

 真ん丸ででっぷりとした体型に紐のような細目、まるで日向ぼっこをしている猫が擬人化したかのような愛嬌たっぷりのその人は、その顔いっぱいに満開の笑顔を浮かべてやってきた。とんでもないチャイナチックな口調だけれど、彼は「自分は純日本人だ」と言っていた。何に影響を受けたやら。
 僕は多少申し訳ない気持ちで、話しかける。

「キムさん。僕です、忍です」

 その言葉に、右目がほんの少しピクッと開く。
 ……今まで見えてなかったのだろうか。
 キムさんはしばらくまじまじと見つめて、やがて脱力して大きな溜め息を吐いた。

「……はあ、ナンだシノブさんアルか。てっきりおキャクさんかとオモったアル。マッタく、いつもイってるでしょ、マギらわしいからちゃんとハイるトキには『おツカれさまです。ボクですシノブです』ってイってね、って」
「いや、言おうとしたんですけどね」

 言い終わるよりも早く出てくるから。

 僕は時任家を出て一人暮らしを始めた時から、一年以上この店でアルバイトをしていた。自立する為には、どうしてもお金が必要だった。勿論、学生のバイト代で全てを賄える程稼げる筈がないので今だに時任家から多大な援助を貰っているが、いずれは恩も含めて全てを返したい。その為の一歩だ。

「それはそうと、その……手の物を置いてくれませんかね」
「ムン?」

 キムさんは両手を掲げて見やる。その手にはお玉と中華包丁。
 ……そんな物持って接客に出てくるのはちょっと。

「おお、すまないアルね。イマチョウドチョウリのマっサイチュウで」

 キムさんは器用に両手でくるくるとそれら回しながらキッチンに戻って行く。
 僕も続いて中に入った。
 小さい店の癖に随分と広く作られた調理場は、食欲をそそる美味しそうな匂いで満ちていた。ステンレスの銀色がきらきら光る。キムさんはコンロの火を付けて、フライパンを振るい始めた。

「それで、よっ、キョウは、はっ、ナンのヨウジアルか? シゴトはハイっていなかったはずだけれど」
「仕事はありませんよ。今日家に友達が来るので、何か食べ物を頂けないかなあと思いまして」
「いいアルよ。ほら、そこにあるのはゼンブモってイってカマわないアルね。シサクヒンだから。そのカわりそのおトモダチにカンソウはキいてくるアルよ」

 キムさんの後ろの台には、ラッピングされた皿が幾つも並んでいた。どれにも美味しそうな料理がのっている。
 キムさんは趣味は料理、仕事も料理、生き甲斐も料理だと公言して憚らない、そんな人間だ。なので普段お客さんが入っていない時でも大量の料理を試作品として作っては、全部を自分で食べて、また料理を作って……そんな生き方をしている。だからバイトの後、或いはこうして学校帰りに店を訪ねれば、その料理を頂くことが出来るのだ。試作品とは言っているが、キムさんの作る料理はどれもこれも一級品の味だ。不味かった覚えはない。……なのに、この店が栄えないのは矢張り店構えの問題か。
 中身が違うらしい様々な色の違う餃子や、天ぷら粉で上げた鳥の唐揚げなど。並んでいる料理の中から、小夜の好きそうなあっさりとしたものを選ぶ。きっと薫さんも来るので、酒の肴になるものも持って帰ることにした。持参したビニール袋に傾かないように重ねて、水平を何度か確かめる。

「それじゃあ頂いて行きます。お皿は次のシフトの時に返しますね。……次のシフトっていつでしたっけ?」
「んー、ワからないアルね。いいよキのムいたトキにキてくれれば」

 いいのかそれで?
 ともかくキムさんにお礼を言って、店を出た。
 空は夕焼け。赤色模様。
 街はほんのりと燃えていた。
 夕焼け小焼けじゃないけれど、急いで家に帰ろうか。



「美味い。実に美味い。ルナティック美味い。私は心から宣言しよう。人間とは酒を飲む一瞬の為だけに日々無為にCО2を吐き出して生きていると」

 我が家のリビングで。
 小空間を熱心に暖め続ける炬燵に潜り込んで、冷えたグラスに冷えたビールをなみなみと注いで、それを一息に飲み干して――薫さんが発した一言がそれだった。

「絶対違うから。それと無為とか言わない」

 僕は今更指摘しても無駄だと思いながらも、自分は常識人だと見知らぬ誰かに言い訳するかのように小声で文句を挟んだ。
 小夜はもう慣れたもので、そんなやり取りを笑顔で見ながら料理を口に運んでいる。
 テーブルにはキムさんの料理プラス、小夜が我が家で腕を振るったものが並んでいた。飲み物は薫さんは前述の通りビール、小夜は桃のジュース、僕はただの水だ。三人の配置はまず壁際に薫さん、向って右に僕で左が小夜だった。

「何を馬鹿な! 忍はこの酒の一杯よりもXだのYだの縄文時代だのたけし君の気持ちだのを考えている方が楽しいと言うのか! ……ははぁん、解かった。忍はまだ酒の快楽と堕落の心地よさを知らないな? 飲め。さあ飲め。溺れるまで飲め。アル中なんて迷信だぞ?」
「ちょっとお姉ちゃん」

 並々とビールを注いだグラスを俺の頬に押し付ける薫さんを、逆側から小夜が窘める。

「お兄ちゃんはまだ未成年なんだから。お酒なんてダメだよ」
「む、何を言う妹よ。私が酒を飲んだのは二歳の時に源三にオレンジジュースだと騙されたのが最初だぞ。その時は盛大に吐いたそうだが、それを考えれば軽い軽い。そうだ、小夜も飲むか?」
「きゃっ! や、やめてお姉ちゃん!」

 ほれほれとグラスを小夜に近付ける薫さんと、いやいやと懸命に顔を遠ざける小夜。
 僕は笑いながらそれを眺めて、程よき所で薫さんを止めに入る。
 時任家にいる頃はいつも、こんな風にふざけあいながら楽しく食事をしていた。今でもこうして時々やってきては、一人で暮らす僕を気遣ってくれる。

 ――本当に、彼女たちと時任のお爺さんお婆さんには感謝してもしきれない。

 ……僕にも、薫さんや小夜と同じように両親がいなかった。
 彼女たちの両親が亡くなった事故。実はそこには知り合いだった僕の両親もいて、一緒に亡くなったんだそうだ。
 ……ここら辺の表現が曖昧なのは少し事情があるが、それはまた後ほど語ろう。
 そうして身寄りのなくなった僕を、時任家の人たちが預かってくれた。自分たちもとても大変な時なのに。
 だからこの恩は絶対に返さなくちゃならない。
 信条とはまた違う、約束のような想いだった。

「ちゃんと聞いてますか、お兄ちゃん」

 その声ではっとする。
 机の向かいから小夜が涙目で見つめていた。どうやら話を全然聞いていなかったみたいだ。

「ごめんごめん。もう一度言って?」
「ぷう」

 普段大人しい性格なのに、身内――そこに僕が入っていることはすごく嬉しい――だけには心を許して子どもっぽく膨れる小夜が可愛くて、思わず笑いそうになった。……と言うか、笑ってしまっていたらしい。

「ああ! お兄ちゃん笑った! 私のこと笑いました!」
「わ、笑ってないってば!」
「嘘です! 私見ました。ニヤってしたもん、ニヤって」
「少なくともそんな笑い方はしてない!」

 むくれる小夜と、慌てる僕。

「ああ、今日も酒が美味い」

 薫さんはそんな僕たちを見ながら、しみじみ呟いた





[25528] 一日目 (7) 不安
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 01:14

 楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。
 それが、習慣ならば尚のこと。

「それではまたな」

 あっという間に夜も更けて、時任姉妹は帰りの段につく。
 玄関先で片手を上げて別れを告げる薫さん。言葉や話し方はしっかりとしているけれど、その姿は髪はぼさぼさ、服は着崩れ、ずれた眼鏡に赤ら顔と見るも無残な程酔っぱらっていた。

「全く……」
「お、お、お?」

 ぱぱぱ、と全体の乱れを直す。髪は結い上げ直して白衣を整えてスーツのボタンを付け直して眼鏡は外して白衣の胸ポケットに突っ込んだ。
 本当ならこう言うことは小夜の役目なのだが……今の小夜はそんなことに気が回る状態じゃない。

「白衣とスーツしか着てなくて、寒くないの?」
「少しくらい寒い方がいいのさ。酔いが醒めてまた飲めるからな」
「あのね……まあいいや」

 直しついでに姿勢も正す。
 それだけで、それなりに見れる女性になるんだから、ズルイと言うべきか。凄いと言うべきか。
 薫さんは白衣のポケットから煙草を取り出して、銜えて、そして笑う。

「ふふふっ、まるで浮気ばかりするダメな夫をそれでも甲斐甲斐しく送り出すダメな妻のようだな」
「くだらないこと言ってないでお酒は控え目にしなさい。あとその煙草も」
「人生は儘ならないのさ」

 それでは、と少しふらついた足取りで薫さんは我が家を出て行った。最後に真剣な表情でちらりと小夜に目線をやったのは僕へのメッセージだろう。……言われなくても解かってるって。
 眼を転じる。

「…………」

 そこに、深く俯く小夜が立っている。
 表情は髪の毛で影になって見えない。それほど深く俯いている。

「ほら、小夜。もう薫さんは帰っちゃったぞ? お前も帰らないと」
「……嫌、です」

 小さな小さな声だったが、明確な否定。
 気付かれないように溜息を吐く。
 我が儘にウンザリしたわけじゃない。
 改善の先行きが見えない小夜の状況に、苦々しい思いで溜息を吐いたのだ。

「解かった。僕も家まで一緒に行くから。それならいいだろ?」

 小夜は数秒の沈黙の後、小さくこくりと頷いた。
 上着を取って来て、連れ立って家を出る。
 震える寒風が吹き荒ぶ。少し前まで、湧き立つような圧倒的な熱量を持っていた街は、僅か三月程ですっかりとその様相を変えて、心を鎮める神秘的な静謐を抱えていた。民家の窓に灯る光に不思議と距離を感じる。空に光る月には不思議と親近感を覚えた。

「……お兄ちゃん」

 小夜の声が耳に届いた。

「手、つないでいいですか?」
「ああ。いいよ」

 ぎゅっ、と。小さくて冷たい手が僕の手を握り締める。それは強く強く――まるで最期の時に縋るような、そんな必死さが籠められていた。
 風が痛い。
 コートの襟を引っ張って重ねる。

「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんは、いなくなりませんよね?」
「いなくなるわけないだろ」

 見上げれば、昏い夜空だった。

「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんは、ここにいますよね?」
「手をつないでいるじゃないか」

 明るい月、それしか見えない、昏い空。

「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんは、私が大切ですか?」
「勿論。すごく大切だ」

 ささやかな星の光など、月の光量で消し飛んで終っている。
 その空に、ゆっくりと流れる光を見つけた。
 最初は流れ星かと思ったけれど、その光は一向に消えずに動き続ける。
 ――あぁ、あれは飛行機の光だ。
 宵闇を一機舞う、孤高で孤独な鉄の鳥。
 それに抱えられた乗客を思い、それを駆るパイロットを思い、そしてその機体を思い。
 何だかとても切なくなってしまった。

 僕の家から時任の家までは近い。歩いて五分ほどで着いてしまう。最もその条件が無かったら、小夜は当然のこと、薫さんも時任のお爺さんお婆さんたちも、僕の一人暮らしなんて認めてくれなかっただろう。
 ともかくそれだけの距離。
 僕と小夜は、つないだ手も暖まらないまま、時任の家に着いてしまった。
 居間の電気が点いている。お爺さんとお婆さんがまだ起きているのだろう。薫さんはいつも煙草を吸いながら遠回りして帰って来るからまだいない筈だ。

「小夜。着いたぞ」

 小夜は動かない。

「ほら、もう帰らないと」

 促して、つないでいた手を、放す。
 はっと顔を上げた小夜は僕の腕に縋りついて、揺れる瞳を向けた。

「そ、そうだ! お兄ちゃん、今日は泊まって行きませんか? お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも喜ぶと思いますし、お姉ちゃんだって良いって言います。言わなくったって私が説得してみせますから! そうすればもっともっとお話して、一緒に眠って――」
「小夜」

 それだけで、小夜は息を呑んで、言葉を途切れさせる。
 抱きしめられた腕は、少し暖かくなっていた。
 僕はふっと笑って、

「また明日な」

 頭をぐりぐりと撫でた。

「…………」

 小夜はしばらくの沈黙の後、
 
「分かりました」

 笑って、僕の腕から離れた。

「また明日ね、お兄ちゃん」

 吹けば消えてしまいそうな儚い笑顔で、小夜は時任の家に入って行った。
 僕も笑顔で手を振って――扉が閉じた瞬間、空を見上げて、小さく息を吐く。

「お疲れさん」

 後ろから背中を叩かれて振り向くと、煙草を銜えた薫さんが立っていた。「ほれ」と差し出されたのは缶珈琲。僕はお礼を言って受け取る。思っていたより冷えていた躯に、缶珈琲の暖かさがじんと沁み渡った。
 薫さんと二人、時任家の塀に背中を預けて並び立つ。
 背後には時任家の居間があって、暖色系の光と賑やかな声が僕らに届いた。小夜が楽しげに今日の出来事をお爺さんお婆さんに話している。
 薫さんがふーっと紫煙をくゆらせた。

「まだ駄目みたいだな」
「そうだね」

 缶珈琲をカイロ代わりに両手で握りしめる。ほっと息を吐くと、その息は薫さんの吐き出した紫煙と同じように白い靄となって、昏い夜に溶けていった。

「全く。こんなに長い間不安病になるなんて私の妹とは思えない繊細さだな。根っからの日陰精神は気に入らないが、その根気だけは見習ってもいい」
「まるで当たり前のように『不安病』って言葉を使わないでよ。薫さんの創作なんだから」
「なんだ駄目か? 小夜のような性質を表す言葉に『剣呑症』と言う言葉があるが、私はそれよりも実に正鵠を得たと気に入っているんだが」
「……僕は好きじゃない」

 ――だって、『病』なんて付けられると、本当に小夜が病気みたいじゃないか。……小夜は病気なんかじゃなくて『特別寂しがり屋』なだけなんだ。
 大袈裟にするのは、好きじゃない。
 だから、

「小夜は病気だよ」
「―――ッ」

 一言で、息が詰まった。
 薫さんに眼を向ける。
 彼女は僕の視線など何処吹く風、ただ前だけを見つめて、

「『寂しい』『悲しい』『怖い』。それらは確かに誰もが感じる普通の感情だよ。感じる人間に何ら異常は無い。むしろ感じない人間の方が、壊滅的な異状を抱えていると言えるだろうな。でもな忍、ただ『寂しい』って感情。それも、
――往き過ぎて仕舞えば、病となる」

 紫煙が吹き散った。

「病なんだよ。あれはもう、病なんだ。認めろ忍」

 薫さんの言葉は厳しかったけれど、声はとても慈愛に満ちていて。だから僕は、何も言えずに下を向くことしか出来ない。
 何も言えずに。





[25528] 一日目 (8) 過去
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 01:17

 小夜の『不安病』が発症したのは、僕が一人暮らしを始めて暫く経った時のことだった。
 引っ越しをしたその日、小夜は僕の家に泊まって行った。
 初めての一人暮らしだ。何分慣れないことも多々あったし、それより何より寂しかったから。僕と小夜は一緒に料理をして一緒に食事をして、同じ部屋に二つ布団を引いて一緒に眠った。
 その次の日も、小夜は泊まって行った。
 時任のお爺さんとお婆さんは大らかに許してくれたし、薫さんは「お前まで移り住むつもりか」と、散々からかって笑っていた。
 更にその次の日も、小夜は泊まると言いだした。
 しかしさすがに薫さんは許さず、愚図る小夜を強引に連れ帰って行った。家に着いてから、電話だけは掛かってきた。
 それから暫く、小夜は学校終わりに僕の家に寄って、自分の家に帰ると電話を掛けてくると言うことを繰り返した。
 僕も一人の暮らしに慣れ、時任家も一人の欠損を受け止めて、小夜も場所を移した一人との付き合い方を掴まえて。
 その生活は上手く回っていた。
 否。

 ――上手く回っていると、思っていた。

 破綻の予兆は満月の日の星のように見え辛く、しかし見逃してはいけない小さな瞬きを、僕は見逃してしまった。

 六月のある日。
 僕は高校行事で、車で一時間程の森林公園にキャンプへ行った。二泊三日の、高校入学以来初めてのお泊まり行事だ。みんなでカレーを作ったり、フォークダンスをしたり、肝試しをしたりして、既に仲良くなった人ともまだ話したことの無い人とも親交を深めましょうって言う行事。
 僕は前述した経緯で仲良くなった悠と、殆ど一緒に行動していた。人付き合いが上手くない僕には、他にろくに友達なんていなかったから。悠も面白い奴だけれど、まだその内面が派手な外見の第一印象を打ち破る程浸透していなかったから、同じように友達はいなかった。奈月も一年の時は別のクラスだった。
 それでも、矢張り平時と違う異空間と言うものは、それだけで楽しかった。
 主に班の女子が作ったカレーは美味しかった。肝試しで怯える悠に笑った。夜、悠が「女子の部屋に行って来るぜ!」と出て行ったから鍵を閉めて眠った。
 そんなキャンプの時間はあっという間に過ぎて。
 帰りのバスの車内、圏外になっていた携帯の電波が戻った時。

 ――僕は、自分の間違いに気が付いた。

 小夜からの着信――32件。
 小夜からのメール――119件。
 メールの内容は「今なにしてますか?」から始まって、なかなか返事が返って来ないことに不安になったのか、「事故とか事件とかに逢っていませんよね?」とか「充電が切れちゃったんでしょうか」とかの内容になり、不安に比例して徐々にその頻度が増していき、最後は「私を嫌いになりましたか?」などと言う飛躍した内容のメールが届いていた。
 バスの中だったけれど、すぐに隠れて電話を掛けた。
 小夜は、1コール鳴り終わるより早く電話に出た。
 僕の呼びかける声に、小夜は暫く無言だったけれど、ようやく喋った第一声は「どうして」だった。
 そこから僕はずっと事情の説明。決して忘れていた訳でも面倒だった訳でも、ましてや嫌いになった訳でもなく、単純に携帯が圏外だっただけなんだ、と。
 そして、バスがそっちに着いたらすぐに会いに行く。
 この三日間の話を詳しく聞かせる。
 と言う二つの約束をして、電話を切った。
 その頃には、バスは学校に着く所だった。

 その日、小夜は僕の家に泊まって行った。充血した瞳に薄い隈と酷く憔悴した様子の小夜は、一時も僕の傍を離れようとしなかった。さすがに眠る時は説得して別々にしたが、僕の腕の裾の部分はずっと握りしめられていて、深い皺が刻まれた。
 深夜、小夜が余程疲れていたのかぐっすりと寝静まった後、僕はそっと部屋を抜け出してリビングに向かった。
 何も約束なんてしていなかったけれど、そこにいる筈と解かっていた。案の定リビングの電気は点いていて、扉を開くと、いつもの定位置の座布団に薫さんは座っていた。テーブルには缶ビールが置いてあったが、あまり手をつけている様子は無かった。
 お互い無言のまま。僕はいつもの薫さんの左側に座る。目の前には普段小夜が座っている。今は、誰もいない。

「……様子がおかしいと気が付いたのは、お前がキャンプに行った次の日の朝だ」

 薫さんはこちらを見ること無く話し始めた。

「いつまで経っても小夜が起きてこない爺と婆が心配してな、私が部屋に様子を見に行った。珍しく寝坊でもしたかな、と思って。
 最初はああやっぱり寝坊だ、と思った。カーテンが閉めてあって起きている様子がなかったから。だから起こそうと思って部屋に入ったら、小夜の部屋は……。知ってるだろ? 小夜は綺麗好きだから。部屋だっていつも片付いてた。なのにあの日は、酷い散らかりようで……。
 ベッドに、ベッドに誰かが布団に包まって座っているのが解かった。……正直ちょっとビビってな。小夜、って呼びかけても動かないし返事も返ってこないんだ。もしかしたらそこに泥棒でもいるんじゃないかって思って。
 けど布団をめくればそれはちゃんと小夜だった。安心して、そうしたら次は怒りが湧いてきてな。この部屋は一体なんだー、ってな。小夜、って呼びかけながら肩に手を置いて――そこでようやく小夜の尋常じゃない様子に気が付いたんだ。
 小夜は私の方を見ていなかったし、私の手に反応もしなかった。見ていたのは携帯電話。抱えていたのは、家族の写真と、私とお前と小夜で写った写真だったよ」

 薫さんは缶ビールを一気にあおった。そして、机に叩き付ける。

「くそっ! ……どうして気が付けなかったんだ。予兆は、三夜と香子が死んだ時からあった筈なのに」

 三夜と香子とは、薫さんと小夜の両親の名前だ。僕は死んでしまってから時任家に引き取られたから、会ったことはない。
 薫さんの手に力が籠もり缶を握りつぶす。少しだけ中身が零れる。俯いた薫さんの表情を垂れた髪の毛が覆い隠す。
 僕は薫さんの手にそっと自分の手を被せた。

「僕のせいだ」

 薫さんは顔を上げた。

「僕のわがままで一人暮らしを始めて、それが小夜にとって良くない方向に、こんなことになってしまった」

 そう、小夜は上手く生活していたのだ。両親が死んだ喪失を、その後にやって来た僕で何とかして埋めて。
 それなのに、僕が勝手に家を出たから――

「違うさ」

 逆に、僕の手がぎゅっと握られた。

「小夜のあんな不安定な精神に気付けなかった私たち全ての責任、そして小夜自身の責任だ」

 薫さんの手は暖かかった。
 怖かった。そもそも小夜がどう言う状態なのかも解からない。普段の小夜とのギャップに戸惑う僕たちが慌て過ぎなのかもしれない。……けれど、もっと慌てた方がいいと言う可能性もないとは言えない。
 慰め合って、前に進むようだった。
 その後、僕もビールを一本付き合ってから部屋に戻った。
 小夜はすーすーと穏やかな寝息をたてて眠っていた。
 僕も布団に入る。すると小夜はすぐに僕の腕の裾を掴まえた。
 起きているのかと思ったけれど、小夜は凄く安らかな表情で眠り続けていたので、僕もゆっくりと眠りに落ちた。






[25528] 一日目 (9) 理想、はじまりとおわり
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/20 01:20

 凍てつきそうな風に吹かれて、肌寒さが舞い戻る。
 俯く僕の頭に薫さんの手が置かれた。

「そう悲観するな。時間は掛かっているが、少しずつ良くなってきているじゃないか。素直にお前の家から帰るようになったしな」

 確かにそうかもしれない。
 当初に比べれば今の小夜は十分健康な状態だ。医者にももう通っていない。
 だけど、こんなに時間が掛かると思ってしまうことがあるのだ。

 ――小夜の病は、不治の病なんじゃないかって。

 ポン、と頭を軽く叩かれて、思考が中断する。

「無鉄砲なところと我が身を省みないところとごちゃごちゃ考え過ぎるところはお前の欠点だな。二十歳までには治せ」

 薫さんは薄く笑って、僕の背中をそっと押した。

「ほら、早く帰れ。もうすっかり夜も更けた」

 そう言って、薫さんはもう一度塀に背を預けた。どうやら薫さんはもう暫くここにいるようだ。
 僕は別れを告げ、その場を離れた。
 
 そして、一人になる。
 風が強い夜だ。
 寒々しい風にコートが靡いて、黒いコートが闇に溶ける。その冷気は心の隙間に忍び込んで、僕自身を撫で上げた。
 不安。孤独。恐怖。
 囚われそうになって、夜空を見上げる。
 金色の月もささやかな星も孤高の飛行機も、そのどれも姿は見えなかった。分厚い黒雲が隠してしまったのか。それとも堕ちて仕舞ったのか。
 コートの襟を合わせて、胸元を握り締める。
 そして僕は、過去を想う。


 ……僕には、小さい頃の記憶がない。
 朧気で曖昧で繋がりのない記憶の断片の中で、覚えている初めての記憶は、病院で目覚めた時のものだ。
 窓から燦々と光が差し込んで、世界は何もかもが白く見えた。その白の中から滲み出すように白衣を着たおじさんがやってきて、僕の様子を観察して、僕に色々と質問をしてきた。この人が医者だと気付くのはずっと後になった。その質問の中身は記憶に無い。
 次に眼を開けた時、世界はまた白に輝いていた。何時間、或いは何日経過したのかは解からない。この場所は常に純白の世界なのだろうか、それとも世界から夜は無くなってしまったのだろうか、と錯覚したことは覚えていた。
 その視界に、赤色が割り込んできた。
 その赤色の正体は、赤っぽい髪にセーラー服を着た女の子で、つまり若かりし頃の薫さんだった。その時が初対面だった。薫さんが僕に何を言ったのかは覚えていない。けれど、何種類かの感情を混ぜたような複雑な表情だけは、覚えている。
 次の記憶では、僕は、時任家で暮らすようになっていた。
 その頃は何故なのかなんて気にもしていなかった。自分のことも他人のことも世界のことも、興味が無かったのだろう。だから、全ての記憶が希薄で脆弱だ。
 ただ解かったことは、僕は両親と一緒に交通事故に遭ったそうで、両親は死んでしまい、僕は助かったけれど記憶を喪ったってこと。それと僕の名前が藤川忍だってこと。そのくらいしかなかった。そして、それに対して思うことも、特に無かった。

 麻痺していたんだと思う。きっとどこかが。
 壊れているんだと思っていた。あの日まで。
 その呪縛を解いてくれたのは、奈月だった。

 小学校に転入して、しかし僕は矢張り何にも興味を持てず、よく一人で校庭の端に生えていた桜の木の根元に座っていた。
 そんな僕に話しかけてきたのが、奈月だった。
 その時の詳細は矢張り記憶にない。どうしてこんな所にいるの、とか、一緒に遊ぼう、とかだったと思う。奈月ならきっとそんな風に呼びかける。
 僕は返事を返さなかった。そうすることで、彼らはすぐに去って行くと経験で学んだから。
 けれど、奈月はしつこかった。いつまでもいつまでも隣にいて、ずっと僕に話しかけ続けていた。
 根負けしたのは僕だった。

「……どうして?」

 ――これが、僕の記憶にある最初の会話だ。

「それでねそれでね……、え?」

 ――いつまでも胸に焼き付く、原初の会話。

「どうして僕にはなしかけるの?」

 そう聞いた。僕にとっては最大の疑問だった。
 久々に発した言葉は掠れて小さかったけれど、奈月はちゃんと聞きとって、そして笑顔で、桜みたいな笑顔で、答えた。

「なんかこまっているみたいだったから! こまっている人がいたらたすけるのがとうぜんなんだよっ!」

 ――その時、世界が拓けた。
 その言葉。
 その笑顔。
 その彼女。
 青空と白雲、そして新緑の木の葉が視界で踊り、彼女はとても美しかった。
 初めて、美しいと、そう思ったんだ。



 大きく息を吐き、思考から醒める。
 あの幼き頃の誓い、「こまっている人がいたらたすける」。
 僕は今果たせているのだろうか。あの頃の自分に胸を張れるのだろうか。眼の前の小夜一人、満足に救えていないのに。
 きつく胸元を握り締めて、誓いを繰り返す。
 「こまっている人がいたらたすける」
 「こまっている人がいたらたすける」
 「こまっている人がいたらたすける」
 そうでないと、何かが溢れてきそうだから。
 寒風が耳元で吹き荒れる。
 夜は遅々として明けない。
 孤独。個毒。
 喪失。葬室。
 暗闇。昏病。
 静寂。死縞。
 不安。歩暗。
 恐怖。狂負。
 一人。独り。
 言葉が脳内を廻り廻る。
 意味のない言葉たちだ。
 「こまっている人がいたらたすける」。
 それが僕の誓い。
 これが僕の誓い。
 繰り返し、繰り返し。
 夜は遅々として明けない。
 我が家はもうすぐそこだった。

      ☨

 思えばあの時、僕は不安に包まれていたのかもしれない。
 今の日常を、或いは何か別のものを失って仕舞いそうな。
 そんな破滅めいた予感に。

 事実、穏やかを装っていた日常は今日を限りに終わりを告げ、新たなる世界が幕を開ける。
 全ては運命の廻り逢わせ。
 始まりはずっとムカシ。
 その行方は。
 その終焉は。
 今はまだ、誰も知らない。

      ☨




[25528] 二日目 (1) 偽善と偽悪
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/02/07 12:38


      ☨

ココロは硝子に似ている
彼の者はうたうように脆く、ねむるように幼い
垂れた一滴の血液で、その運命を滲ませる
では、此処で問う
其れは、不必要と云う結論に帰結するだろうか
――答えは勿論、否である

      ☨
 
      2


      ☨

 月の光の美しい夜。

「わたしは熾天使ミカエル。“神の御前の姫君”。天界より遣わされた、運命の守護者よ」

 枯れた木々たちの森の中。
 密やかな世界には僕たち以外存在していないようで。
 そんな風に舞台がとても神秘的だったから。
 ――僕は、彼女の言葉を、すんなり呑み込んでしまったんだと思う。

      ☨


 放課後。
 昨日と同じように悠はバンド活動、奈月は弓道部に行き、僕も用事があるので帰り支度をして昇降口に向かっていた。まだ授業が終わったばかりで、通り過ぎながら横目で見る教室には多くの生徒たちが残っていた。窓から望む校庭にも部活動に打ち込む生徒たちが見える。寒空の中、情熱の青春とでも言おうか。何かに熱中出来ると言うことはそれだけで一定の尊敬に値すると僕は思う。
 下駄箱で靴を取り出し、暖かい室内から寒空の下に出た。小さく震えて身を縮める。

「ん?」

 その時、視界の端の生徒たちが眼に留まった。
 遠くから見ても解かるような派手な色の頭をした生徒が一人と、他にも何人かが、体育棟の裏へと入って行った。
 ――特別なことではないけれど、何かが気に掛かった。
 僕は足の向きを変えた。


「おい、黙ってんじゃねえぞ!」

 林を抜けながら後を追いかけて、僕はそんな声を聞いた。声のした方に近付いて林の影から覗き見る。木々の向こう、体育棟の壁際に四人の男の姿が見えた。

「だからさ、とーっても貧乏で可哀相な僕たちに少し援助をしてくれって言ってるだけじゃないの」

 今、気持ち悪いくらいの猫撫で声を発したのがニット帽の男。その前に怒鳴ったのが見るも鮮やかな金髪の男だった。どちらも壁に手を付いて、その真ん中にいる誰かを囲んでいる。その誰かは金髪の男に隠れて詳しくは見えなかった。制服から、男であることは窺える。

「まあまあ。そんなに大きな声を出しちゃ、優等生くんが怯えちゃってるじゃないか」

 そしてもう一人。独りだけ三人から少し離れた、まるで指揮者のような位置に男がいた。
 えーと、名前は……そう、篠原準也だ。
 茶色の長髪に指に光るアクセサリー。しかし、教室で見た人の良い笑顔とは全く違う、弱者をいたぶる嗜虐の笑みを浮かべていた。
 なるほど。あれが悠の言っていた、篠原の「本当の顔」か。
 準也は手遊びに銀色のルービックキューブを弄りながら、三人に近づく。

「悪い悪い。コイツすっげえ短気でさあ、ちょっとしたことですぐキレちゃうんだよね。もし次キレちゃったら俺でも止められないかも」

 準也は金髪の男を見やる。金髪の男はニヤニヤと笑いながらポケットから刃物を取り出して、見せびらかすように掲げた。
 ……刃物か。少し、対策が必要かな。
 僕はポケットからある物を取り出す。
 囲まれている男の右腕が、震える左腕を押さえるのが見えた。
 準也も目敏くそれに気づき、口の端を吊り上げる。

「素直に財布だけ渡してくれれば、コイツも気を鎮めるだろうしさ。だからほら……おい、なんだよその眼は」

 準也が更に男たちに近付く。
 ――そろそろ行くか。
 僕が林から身を乗り出そうとした――その時。
 囲まれていた男が、自ら一歩前に踏み出した。
 僕の瞳が、初めてその姿全てを捉える。
 夜のような黒髪に静謐な瞳、身長はそれほど高くはなかったがその躯は鍛え上げた一振りの日本刀のような痩躯だった。
 彼は眼の前の人間もナイフも恐れていない。一目でそう感じた。先ず纏っている空気が違う。ちょうど知り合いに、これに近い空気を持った人がいる。彼は強く気高いが、男の纏う空気はより一層冷たく刺々しかった。

「贋者が」

 痩躯の男はそう言った。
 男たちに空白の思考が流れる。人間、予想していなかった言動や事態には、それが予想外であればあるだけ思考も行動も停止するものだ。

「疾うに飽いた。消え失せろ屑」

 痩躯の男はその空白に言葉を差し込む。
 その声、矢張り怯えてなんていなかった。威風堂々と、腕を組んで背後の壁に寄り掛かる。
 その姿に、男たちが黙っている筈がなかった。

「あぁ!? なに言ってんだテメェ」
「調子にノってくれちゃってるじゃないの」

 一触即発の空気。
 二人は許可を求めるように篠原を見る。
 篠原は愉しげに表情を歪めて、

「……やっちゃえよ」

 軽く手で合図をした。
 男たちが待ってましたと獰猛に笑う。
 篠原は横目でつまらなそうに見やる。
 痩躯の男がポケットに両手を入れる。
 こんな風にひりついた空気は苦手だ。
 だから、

「あっれえ?」

 彼らに背を向けて、間抜けな大声を上げて立ち上がった。

「―――っ!?」

 驚いた表情でこちらを振り返る男たち。否、痩躯の男だけはまるで知っていたかのように静かにこちらに視線をよこした。
 僕は視線を意識しながら、気付かない振りで男たちに近付いて行く。このまま何かを探す振りでもしつつ、程よき所で気付いて見せようと思っていたのだが、

「おい」

 向こうから声を掛けられたのなら仕方ないか。
 僕に声を掛けたのは篠原だった。金髪とニット帽をそのままに、ルービックキューブをポケットに仕舞った篠原だけが僕に近付いて来る。他二人は痩躯の男を隠すように僕の視界を遮った。成程、篠原がいち早く声を掛けた上にわざわざ近付いてきたのは現場とあの男に近づけさせない為か。雰囲気でどんなことが行われていたのか察せられない為に。

「藤川。こんな所に何の用だい」

 その表情や口調は、先程までのものとは違い教室で見たソレに近い。爽やかで、気障だった。

「ああ。実は昼に此処に来たんだけど、さっき財布を失くしたことに気が付いて。もしかしたら此処じゃないかと思って探しているんだ」

 僕は嘘が大の得意だ。
 相手を意識的に騙そうと思って露見したことは只の一度もない。
 篠原は一瞬怪訝そうに眉を寄せたものの――それだけでも僕としては驚いた――納得したのか明るい表情を見せた。

「災難だね。でもここらへんで財布は見なかったと思うよ」
「そっか……何処いっちゃったのかなぁ。ところで、篠原たちはこんな所で何を?」

 現状に気付いている素振りなんておくびにも出さない。ただ何となく聞いてみた、と言う態度で質問する。
 これで多少揺さぶってみようと思ったのだが、

「んー? わ・る・いことだよ」

 篠原は一切の動揺を見せず、冗談めかして言い放った。
 ――こいつめ。抜け抜けと。
 僕は慎重に発言を考えて、

「……そう。それじゃ、さっきのは聞き間違いじゃなかったんだね」
「え?」
「財布を出せとかどうとか、さ」
「…………」

 篠原の表情が変わる。
 どうやら後ろの男たちにも聞こえたらしい。顔を見合せて、次にこちらを見た時にはナイフみたいな眼になっていた。

「……ふうん」

 一瞬表情を強張らせた篠原だったが、すぐに余裕の笑みを浮かべると両手を大きく広げた。

「それで? 俺たちがもしもそんなことをしていたとして、藤川はどうするって言うんだい? 教師にチクる? 尻尾巻いて逃げる? それとも俺たちを倒してアイツを助けるって? ハッ、美しい正義感だね。けれどダメさ。どれも許さない。お前は今ここで喋る気が無くなるまで痛めつけて――」
「喋り過ぎると底が知れるよ」

 篠原の表情が歪む。

「この野郎っ!」

 上がった大声に反応して視線をずらす。僕の挑発に、金髪の男が憤怒の表情で走って来るのが見えた。これも聞こえてたのか。耳が良い。まだ。まだ距離は遠い。大量の思考を巡らせる時間がある。
 同じように声に反応した篠原は、すっとその場を退いて金髪の男に場所を空けた。嗤っている。
 足元、上空、周囲に障害物はなし。此処にいる者以外の声は聞こえない。先程の対策は間に合わないようだ。
 ニット帽の男に動く様子はなし。嗤っている。
 痩躯の男に動く様子はなし。無表情。
 十八もの思考の末に、やっと金髪が射程まで辿り着く。
 特に構えることはしない。
 金髪が走りながら右拳を振りかぶる。
 あれを何処にぶつけるつもりだろう――顔――腹――顔と判断。

「おらぁっ!」

 正解。
 躯ごと左――金髪の男の躯の外側へと避け第二撃を遅らせて、再び距離を取る。

「チッ!」

 金髪はまた走って来る。
 右拳から上腕にかけて力が籠もるのを確認。先程と同じ攻撃? ――同じと判断。
 正解。
 右拳が振りかぶられる。
 この攻撃は二度目だ。
 一度目から、容易に位置を予測出来る。
 目測。
 行動。

「おら――っお?」

 金髪の男が最後に着く左足。その足が地面に着くギリギリで、僕の右足がそっとそれを払った。
 空振りするエネルギーは行き場をなくして。

「がっ!」

 金髪の男は倒れて強かに背中を地面に打ち付けた。苦しそうに呻いているがそこまでのダメージはないだろう。きっとすぐに起き上がって来る。
 追い打ち――それは否。
 僕は、誰かを助ける為にいるんだから。
 視線を巡らせる。
 篠原は茫然としていた。痩躯の男は静かに見ていた。ニット帽の男はポケットからナイフを取り出して、こちらに走ってきた。
 次はこっちか。しかも学校で凶器とは。
 射程まで接近、右手に握ったナイフが僕の胸目掛けて突き出される。――しかし不思議だ。彼は自分の行為が齎しかねない結果に覚悟があるんだろうか? そんな関係ない思考が一瞬巡る。
 さっきと同じように腕の外側、左側へぐるりと回転しながら回避し、ニット帽の男と背中を合わせるように同じ方向を向いて手首を取る。
 その手首を掴んでほんの少し前に押し出して態勢を崩させ――一気にしゃがみ込んだ!

「え――うわあっ!」

 ニット帽の男は前につんのめる。最後にフォローを加えて一回転させて地面に倒した。
 危険なので最中にナイフだけは取り上げておいた。刺さりでもしたら一大事だってのに、こんなもの持ち出すな。

「てめえ――」

 歯噛みしながら起き上がる二人。先程よりも遥かにギラついた瞳でこちらを睨んでいる。
 困った、余計にヒリついた空気になってしまっている。
 僕はナイフの刃をしまいながら思考。男たちを警戒しつつ、背後に耳を澄ませた。
 眼の良さと耳の良さにも自信がある。だから解かった。
 ……どうやら対策が間に合ったようだ。

「篠原」

 無言で返される。
 構わない。
 こちらは言うべきことを言うだけだ。

「このことは黙っておくから。もう行ってくれないか」
「…………なんだって?」
「だから、」

 ――おおい、どこー? 忍ーっ!

「早くこの場を離れろ、って言っているんだよ」

 奈月の声が聞こえた。僕の背後、まだ遠く木々に隠れて見えない所から。しかし、その声は徐々に大きさを増して近付いてくる。

「こんな場面と、それにこんなもの見られたらまずいんじゃないか」

 取り上げたナイフをひらひらと振ってみせる。

「お、おい!」
「ヤバいじゃないの」

 焦る金髪とニット帽の男たち。すぐに身を翻して逆方向へ逃げ始めた――が、途中で揃って立ち止まった。
 なぜなら、

「準也! 早くしろって」

 篠原が動こうとしなかったから。

「…………」

 仲間の呼び掛けにも篠原は沈黙を保ったまま、僕の顔をじっと憎悪の瞳で見ている。小さく舌打ち、揺れた長髪が片目を隠す。

「覚えてろよ……!」

 そんな捨て台詞を残して、背中を向けた篠原は仲間と共に木々の向こうへ消えて行った。何だか、ノスタルジーさえ感じる言葉だな、と場違いな苦笑を洩らす。
 そして、僕と痩躯の男が残された。
 奈月を呼ぶ前に少し話をしておこうと、僕は彼に近付いた。

「大丈夫ですか?」
「…………」

 彼は体育館の壁に寄り掛かったまま、静かに俯いている。両手はポケットに入ったままだ。
 黙ったまま返事を返してくれない。もしかして篠原の言葉通り、少しは動揺していたのだろうか。怖がっていたとか怯えていたとかは無いと思うけれど……。
 彼が顔を上げた。
 改めて彼と向かい合う――


 その瞬間、怖気立った。


 否。否。否。否。否。否定。否定したい。否定したい。否定したい。コレ。コレはいけない。コレは存在してはならない。コレは許してはならない。否定。否定。否定。もしも。それが叶わないのならば――いっそ

「偽善者」
「―――ッ!?」

 夢から醒めるように、思考の海から引きずり出された。
 眼の前には痩躯の男。辺りは校舎裏の森の中。
 風景は何も変わっていない。
 一体、何が起きたのか。
 さっきまでの意識は何だったのか。彼の言葉で打ち消されたそれらは、今では何を考えていたのかも、何処から湧き出でたものなのかも解からない。掴むことの出来ない霧のよう。最早不可解しか残っていなかった。
 それよりも――そう。今彼は何と言ったか。

「何だって?」
「偽善者と言ったんだ贋者め」

 静かだった彼の瞳から、何がしかの感情の迸りが見えた。

「押し付けの偽善を振り撒いて自己満足か贋者。愚かしいを通り越して嘆かわしい。それに自分で気付いていないのが更に酷い」

 やおら彼は壁から背を離し、篠原たちが消えて行った森の方へ歩いて行く。僕は、掛ける言葉も見つからずただそれを見送る。
 森の手前で彼は立ち止り、背中を向けたまま言葉を並べた。

「お前が偽善を旨とするのなら、俺は偽悪を旨としよう。そしてお前の偽善を否定する。――さよなら偽善者。またいつか、逢わないことを希う」

 そして、彼は姿を消した。
 と同時に、奈月が現れる。

「あ、いた。もう返事しなさいよ」

 文句を言う奈月は袴姿にポニーテールで、どうやら弓道部の練習中に抜けて来てくれたようだった。
 携帯片手に隣にやってくる。

「それで? この『緊急事態』ってお騒がせなメールはなんなの。先生と来てって書いてあったけれど、近くにいなかったから私しかいないわよ? ……って、ちょっと忍! なにぼうっとしてるの」
「ん? ああ、ごめん」

 全く、と怒る奈月の声を聞きながら、僕の瞳は痩躯の男が消えて行った方をじっと見ていた。
 彼の言葉の意味を考えながら。






[25528] 二日目 (2) 道場
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/21 06:28

 石楠花川の川縁を歩く。
 東にある三葉高校から西へ真っ直ぐ街を横断すると、中央と西地区を分断している石楠花川に突き当たる。この川は隣の市から来て、そしてまた隣の市へと抜けて行く、幾つもの市を跨いだとても長大なものだ。
 僕はその傍を歩いていた。木々の緑が眩しい並木道だ。河原にはスポーツの出来るグラウンドや落ち着けるベンチが整備されていて、冬空の下でもサッカーに興じる小学生や愛を語らう恋人たちが元気に利用していた。
 流れる川面に太陽の光が煌めき、僕の視界を鮮やかに彩る。
 僕は、先程のことを思い出していた。
 ――偽善者。
 そう言った彼は、偽悪者として去って行った。
 結局彼が何を言いたかったのか理解できないままで、だから僕は感情を持て余している。
 彼は僕に何を言いたかったのか。
 何が偽善で、何が偽善でなかったのか。
 何が偽悪で、何が偽悪でなかったのか。
 思考が渦を巻いて、巻いたまま脳内の深い所で澱む。そもそもどんな答えを求めているのかが解かっていないのだ。そんな僕の頭から、大切な何かなんて生まれる筈がない。それでも考え続けてしまうのは、僕の悪癖だろう。
 偽善とは、なんだ。
 そうこうしている内に、石楠花川に架かる橋に辿り着いた。この橋の向こうの狭神市西地区には工場群と古い民家の住宅街があり、西の端一帯は森になっていた。
 橋を渡って、更に歩く。洋風の趣は消え、数多くの時代を見送ってきた古い家屋が目立ち出す。
 やがてそんな古い住宅街の中でも一際大きな、歴史を感じさせる平屋が見えた。高い塀に囲まれたその家は、所々で朽ちてしまいそうな木々を晒しながら、それでも尚清楚な雰囲気を敢然と湛えていた。門には『古賀』の表札が掛かっている。
 開いている門をくぐって敷地内に入ると、玄関の扉には向かわずに回り込むように裏手へ向かった。途中、縁側があった。たまに此処に奥さんが座ってお茶を飲んでいることがあるけれど、今日は誰もいなかった。
 家の裏に着く。そこに横に倒した長方形のような形の建物があった。
 此処は古賀道場。古賀流白禅道、と呼ばれる武術を教えている道場だ。僕は中学に上がった頃から四年間と半年程、この道場で武術を習っている。
 『こまっている人がいたら、たすける』。その誓いを貫く為には、護る力が必要だから。
 扉の前に立って、一つ深呼吸。首を左右に振る。
 それは自分の中のスイッチを切り替える、儀式のようなものだ。
 ――日常を生きる、普段の僕では戦えないから。

「お願いします!」

 両開きの引き戸を開けて、挨拶とともに頭を下げる。中からは沸き立つ熱気と程好い緊張と、板張りの床を踏み締める音が響いた。
 道場には既に二人の人間がいた。その内の一人が中に入った僕を振り返る。

「来たか忍。早速着替えて来い」

 威厳あるはっきりとした声で僕にそう言ったのは、背の小さな七十歳程のお爺さんだ。豊富な白髭を蓄え、生え際は少し頭頂部へと後退している。しかしその年齢には比例しない、袴の上からでも解かる程の分厚くしなやかな躯をしていた。
 お爺さんの名前は古賀修禅。現在の古賀流白禅道の承継者にして僕の師匠にあたる人だ。僕はその強さ――心においても武術においても――に憧れている。
 靴を脱いで、冷たい板張りの床を踏む。
 古賀道場の広さは一辺が二十メートル前後。高さは割かしあって六メートルはある。古賀流白禅道の特性上、薙刀のような長物も扱うのでこれくらいの高さは必要、なのかもしれない。良くは解からないが。
 壁にはたくさんの武器が掛かっていた。木刀、日本刀、小太刀、薙刀、槍、棒、手裏剣などなど。
 古賀流白禅道は修禅師匠の五代前の祖、古賀白禅が拓いた武術である。当時、天真正伝香取神道流と言う武術を学んでいた白禅氏は齢四十程の時に新たな武術を創るため道場を出て野に下った。その後様々な武術に触れ、多くの武芸者と戦い、道場を出てから八年の歳月を経た時、彼は古賀流白禅道を創り出したそうだ。それからこの武術は一子相伝、代々古賀家の長男に伝えられてきたらしい。
 古賀流白禅道は、正に総合武術。剣術、居合術、槍術、薙刀術、棒術、柔術、太刀術、手裏剣術、果てには兵学まで学ぶ。実践に役立つありとあらゆる物を取り入れている武術だ。

 掲げられた理念は『美しさ』。
 ――人を殺める殺人術であればこそ、美しくあれ。

 それが白禅氏の思想だったそうである。
 最初にその理念を聞いた時、僕は震えを覚えた。
 理念でありながら概念と相剋する。
 その様が恐ろしくも美しくて。
 ともかく、古賀流白禅道の技は『美しさ』の理念に沿って創立されている。
そして正にその理念を、道場の真ん中で木刀を振るう古賀伊織は体現していた。
 腰から横凪ぎに振り抜かれる刀。剣先は伸ばした右腕の先でぴたりと止まり、静けさを切り裂いて一層の静けさを齎す。制動する伊織先輩の頬を一筋の汗が伝う。その眼は、ただ一心に眼の前に創り出した仮想の敵を睨み付けていた。
 彼の名前は古賀伊織。道場主の古賀修禅師匠の孫で、この道場での僕の兄弟子にあたり、更には学校での一個上の先輩にもあたる人だ。
 すっかり鍛錬に熱が入っている。僕も早く着替えて来よう。
 併設された更衣室へ。手探りでスイッチを押して電燈を点ける。六畳程の室内には幾つかの葛籠が置かれていた。その内の一つに脱いだ服と私物を放り込んで、白と黒の袴に着替える。
 更衣室を出て、修禅師匠の元へ向かった。

「お願いします」
「うむ。早速、今日は此れじゃ」
「はい」

 差し出されたのは木刀だった。遠目で見た時から既に師匠が杖のようにして木刀を持っているのが見えていたので、予想通りと言えばその通りだった。
 受け取って、伊織先輩の邪魔にならないところに立つ。
 古賀道場の鍛錬は、まず修禅師匠に今日の課題を渡されるところから始まる。そしてその武器なり柔術なり徒手空拳なりを、自己鍛錬で磨いて行くのだ。修禅師匠は何も言わない。自分一人で、武器の特性や間合いを掴まなければならない。いきなり手裏剣を渡された時は戸惑ったものだ。
 とは言っても、既に数十度目の課題で、自分用の物すらある木刀だ。
 一振りすれば手に馴染み、間合いは持つ前に解かっている。
 故に考えることは、一つだけ。
 ――如何に古賀伊織を打ち倒すか。その一点。
 古賀道場では自己鍛錬の後、その武器を用いた試合を行う。この道場には現在門下生が僕と伊織先輩の二人しかいないので、必然的に僕は伊織先輩と打ち合うことになるのだ。
 武器にも因るが、僕が伊織先輩に勝つことは極めて稀だ。
 だから、如何にして打ち倒すか。如何にして意表を突くか。木刀を振るいながら考え続ける。

「止め!」

 すっかり寒さも忘れた頃、修禅師匠がようやく鍛錬を止めた。

「それでは試合に移る」

 息を整える時間を取るどころか、一所に僕と伊織先輩を集めることすらもせずに試合開始の宣告をする。それこそが戦いと言う理念であり、この道場の日常だ。
 僕と伊織先輩は、これから試合を始めると言うには随分と離れた距離で目線を合わせた。
 ……わあ。人を殺せそうな視線とはああ言うことかな。
 僕も少しでも息を整えて、集中。
 戦いの要素以外を五感から除外する。
 ――木刀とは言え、一歩間違えば生死に関わる怪我をするかもしれない。しかも伊織先輩は僕より数段上の実力者だ。勝てないんじゃないか。負けたら怪我をしないだろうか。退いても――断絶。
 余計な思考。掠める恐怖。
 殺ぎ落として、戦いに専心する。
 切り換わる。

「始めっ!」

 音と同時に疾走した。
 相手は僕よりも上の実力者だ。ただ素直に斬り合うなんて無策はしない。愚策はしない。
 本来上位者と戦うならば、隙を見て不意を打つか策を張り巡らせて迎撃するかのどちらかを選びたいところだけれど、道場での試合ではそうはいかない。
 ならば、速攻――!
 伊織先輩は涼しい顔で剣を構える。動く気配はない。どうやら僕の攻撃を受けきる覚悟のようだ。それは読み通り。先輩はそう言う戦術を選択すると思っていた。

「うおおおっ!」

 気合いの咆哮。左足を床に踏みこんで、勢いそのままに右上から袈裟に斬りつけた。
 伊織先輩は一歩下がってかわす。
 僕も一歩前に追いかけて、左下の木刀を同じ剣線をなぞって逆袈裟に斬り上げる。
 先輩は再び一歩退く。
 剣先は風圧を感じる程の至近距離を抜けて、ほんの数瞬前まで伊織先輩がいた空間を薙いだ。
 ――古賀白禅流は『美しさ』を求めて、そして独特の連撃思想に辿り着いた。
 一の太刀を、外れたならば再び一の太刀を。それを繰り返す同時代の剣術に対して、可能な限り幾つもの種類の太刀を連続で繰り出す剣術。それが古賀白禅流。
 一太刀ではなく、二太刀。
 二太刀ではなく、四太刀。
 四太刀ではなく、幾太刀も。
 それが『美しさ』であり、強み。
 だから、この程度では止まらない。

「はあっ!」

 振り上がった木刀を頭の横に構え直し、伊織先輩に向けて突きを繰り出す。剣は、彼の者の心の臓を狙っている。
 伊織先輩はそれをも、横にずれるだけであっさりといなした。一級の実力を持つ先輩の、その中でも防御に関しては超一級品だ。この程度は、先輩は何の苦もなくかわしてみせる。
 かわしてみせる――が、
 それこそが、狙い。
 突き出した木刀から左手を離して、右手一本に。
 僕の今までの三撃は、全てこの四太刀目の為にあった。
 三撃をよけ続けて、先輩は僅かながらも体勢を崩している。そして先輩が今避けたばかりの剣は彼の躯の超至近距離にある。そこからの、無理矢理の横薙ぎ。
 伊織先輩がほんの少し顔を強張らせる。

「おおおおっ!」

 全力で木刀を振り抜いた。
 カンッ―――。
 甲高く、響き冴える快音。
 全身を打つ衝撃と手応え。
 僕の振るった木刀は、僕の予想通りの結果を示した。
 そう、予想通り。だからこそ――嬉しくて悔しくて堪らない。
 僕の木刀は、大きく振り上げるようにして逆さまに脇腹に添えられた伊織先輩の木刀に、難なく防がれていた。
 流石は伊織先輩。難しい体勢と構えでの防御を、いとも容易くやってのけた。
 まったくもう。
 とんでもなく悔しい。
 そんで嬉しい。
 尚且つ楽しい。
 困ったもんだ。
 先輩との戦いは、やっぱり楽しくて仕方ない。
 けれど、そんなことを言っている暇などありはしない。
 彼が、そんな時間を与えてくれる筈がないから。

「往くぞ」

 呟くような声。
 伊織先輩の眼が、この戦いで初めて僕を睨み付ける。
 その瞳は、置いてきた筈の恐怖が頭を掠める程の殺気に満ちていた。

「――――――」

 静かなる咆哮。けれどそれは、向かい合う者には確乎たる声として。
 鎬を削り合っていた僕の木刀が、強烈に撥ねのけられた。

「くっ!」

 急いで両手に持ち直し、相手の間合いから退こうとする。しかし、伊織先輩は素早い出足と巧みな足さばきで僕を間合いの中に取り込んでしまう。どれほど下がろうとも、いなそうとも、決して抜け出せぬ間合いの牢獄。
 そして降る、雨あられの剣閃。
 僕に反撃の隙など与えない、打ち下ろし、払い、薙ぎ、切り上げ、突き。
 上から下から来たる攻撃を、懸命に捌きながら後退する。

「―――ッア!」
「ぐうっ!」

 しかし、道場の壁間際まで圧し込まれたところで、遂に僕の木刀は大きく弾き飛ばされて、無防備に尻餅をついた僕の頭に先輩の一撃が――、

「それまでっ!」

 響く師匠の声。
 最後の意地で見開いていた僕の眼の前で、風圧すら感じる鼻の先で、伊織先輩の振るった木刀は停止していた。射竦めるような残心の後、木刀がひかれる。
 僕は止めていた息を大きく吐き出して、脱力した。
 ……やっぱり強い。完敗だ。
 でも、だからこそ、目指し甲斐、倒し甲斐がある。

「二人とも、此方へ」

 修禅師匠に呼ばれ、僕と伊織先輩はその前に並んで正座する。
 修禅師匠は伊織先輩の方を向いて、

「先ずは伊織。お主は矢張りどの武器においても防御に秀でている。それに関しては儂からも言うことはない。しかし、その影響で戦いの序盤、相手の攻撃を見てしまうことが多い。今回は受け切ったが、相手によってはそうはいくまいて。自分から攻めて、崩し、決める。そんな鍛錬を積むのじゃ」
「はい」
「次は忍」

 修禅師匠がこちらを向く。
 僕は師匠の眼を見て、耳を澄ませる。

「伊織に負けはしたが、今回の試合は中々に良かったぞ。最初の四連撃。あれも理に適っていた。ただ最後の片手での攻撃が残念ながら筋力不足だったの。お主も解かっておるとは思うが」

 師匠の指摘通り、そのことは僕も解かっていた。
 片手で剣を振ると言うことは大変に難しい。木刀であっても剣は見た目以上に重いもので、片手のみで剣に威力をのせ、太刀筋を揃えることは、相当の筋力と技術が必須なのだ。
 僕にはそれが足りていない。だから、最後の一撃は易々と伊織先輩に防がれてしまったのだ。

「伊織が三つ目の突きをもっと大きくかわしていれば或いは加速して威力を上げることも可能だったやもしれぬが、まあそれは伊織を褒めるしかないの。……そうじゃな、丁度良い、忍はこれから二刀流の鍛錬をすると良かろう。その鍛錬が威力向上と、ひいては戦いの選択肢の幅へと繋がっていくじゃろう」

 頷いて、師匠の言葉を受けた。
 そして僕と伊織先輩は師匠のアドバイスを課題に、再び個人鍛錬に移る。
 片手で振るう剣は覚束ない軌跡を描き、空間を滑っていく。
 試しながら、確かめながら、自分と剣と向き合う内に、ふと昔のことを思い出した。
 この道場に来た、四年前――。
 理想だけを掲げて、何一つ実現する力を持たないまま奈月に護ってもらっていた自分を。
 まだ届いていない。
「こまっている人がいたら、たすける」
 理想には、まだ届いていない。
 だけど、鍛錬で簡単に息が切れなくなった自分が、何だか嬉しかった。



 鍛錬を終えて更衣室に入ると、伊織先輩はもう着替え終わっていた。黒のセーターにジーンズ。隣の家に住んでいるから薄着でここまで来たようだ。

「お疲れさまでした」
「ああ」

 僕の方を見て、少し口角を上げる。
 学校でも道場でも普段からクールに見えて口数の少ない伊織先輩だけれど、本当の性格は爽やかで体育会系でとても面倒見が良い人だ。曲がったことが嫌いで、誇れる力と揺るぎない正義を持っている。
 ただ言葉数か少なく、学校などではそれが表に出てこない。僕も道場で鍛錬を積み、伊織先輩と試合をするようになって初めて解かった。
 戦いと言うものは、多くを語る。

「今日も勝てませんでした」
「当然だ。俺はお前よりずっと長く此処にいる。そう簡単に負けてたまるか」

 伊織先輩はそう言って挑戦的に笑う。
 僕も苦笑して隣で着替え始める。

「しかしな」
「はい?」

 僕は着替えながら耳を傾ける。

「今日の木刀は良かったよ」

 え? その言葉に驚いて袴から片腕を抜いたところで動きを止める。

「他の武器と比べて攻撃の精度も密度も桁違いだった。どうやら忍は剣の才があるらしい」

 僕はぽかんと口を開ける。そんな風に伊織先輩に褒められるのは初めてのことだった。
 いつでも伊織先輩は自分に執拗に厳しく、そして他人にも同程度とは言わないまでも、高い誇りと志を求める。だから鍛錬の後、試合で気になったことについて厳しい指導を受けることは多々あった。
 しかし褒められたことなんて……。

「剣だったら、俺から一本取る日も近いかもな」
「い、いやそんな!」
「莫迦。俺は負けない」

 それじゃあな。そう言って、伊織先輩は更衣室を出て行った。
 残された僕も急いで着替えて、電気を消して更衣室を出た。
 更衣室の扉が、閉めた自分でも驚くような大きな音を立てて閉まった。道場に残っていた修禅師匠が何事かとこちらに視線をよこす。
 どうやら僕は、かなり嬉しいらしい。






[25528] 二日目 (3) 傲慢と悪徳
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/22 15:44

 ネオンが煌めく夜の街。
 その中でも最も輝いているのは、並ぶタクシーのヘッドライトや天気予報とCMを流す大型ヴィジョンなどが目映い狭神駅前だった。
 硝子張りのエスカレーターに改札前の幅広のコンコース、街全体を見渡せる展望フロアまであってかなり大きな造りなのだが、合流している線路は七線とそれほど多くなく、利用者も見込まれていた数には届かなかった不遇の駅だ。狭神の街にはちょっと背伸びしている印象が強い。
 それでも日が沈んだばかりの今の時間、会社帰りのサラリーマンや遊ぶ若者で駅前は賑わっていた。

 道場から帰宅している時、駅前で篠原準也を見かけた。向こうもこちらに気づいたようで、僕は片手を上げて挨拶をする。すると篠原は、信じられないものを見たように驚いて、次いで憎しみのこもった表情を浮かべた。
 どうしてそんな表情を浮かべるのか。
 その表情の意味が僕には解からない。
 篠原は周りの友達――良く見れば、放課後に出逢ったニット帽と金髪もいた――に何か一言言うと、僕の方へとやってきた。
 僕から声を掛けた。

「やあ、こんばんは」
「…………」

 篠原は制服姿のままだった。放課後に別れた後、あのまま街で遊んでいたのだろうか。

「ごめん呼び止めて。別に用事があったわけじゃないんだ」

 だからもう友人たちのところに戻ってくれていいよ。そう言外に込めたつもりだった。しかし、準也は僕を睨みつけたまま動こうとしなかった。何か用事があるのだろうかとも思ったけれど、それでいて、何か話しかけてくるわけでもない。
 僕はとりあえず黙って準也の行動を待った。
 暫くの沈黙の後、

「どうして」
「え」

 静寂を破った声は、まるで自分に問いかけるかのように小さな声だった。

「どうしてお前は、俺に話しかける」

 準也の表情は変わらない。強い視線で僕を睨んでいる。

「今日の放課後、あんなことがあったばかりだろう。なのに何故お前は」

 しかしそれとは対照的に、声は脆弱だった。薄く細く、吹けば飛びそうなタイトロープ。視覚と聴覚のイメージの差異は、僕に虚構の夜の摩天楼を幻視させた。真円の月が光り、影絵のように街は出来、スポットライトが輝くような、ハリボテの街。
 僕は普通に答えた。

「だってクラスメイトだから」

 それだけ。
 だってそうだろう。
 それ以上もそれ以下も、ある筈がなかった。話したのも今日の放課後が初めてなんだから。
 何故篠原はそんなことを聞くのか?
 ただただ不思議だった。

「…………ッ!」

 歯軋りの音が聞こえた気がした。
 僕は驚いてしまった。
 篠原の表情が、あまりに、左右非対称に歪んでいたから。

「な……なんなんだよてめえは!」

 人混みに怒声が響き渡る。多くの人がこちらに眼をやったけれど、立ち止まる人はほとんどいなかった。

「落ち着き払ってふざけた眼ぇしやがって! くそっ、気持ち悪りぃんだよ!」
[お、落ち着いて」

 近付いて、肩に置こうとした手を――強く撥ね除けられる。
 僕はその豹変にまた驚いて、絶句し数歩下がる。
 叩かれた手首の骨が、じんじんと痛んだ。
 その頃には異変に気付いた篠原の友人がこちらにやってきていた。その内の二人――金髪とニット帽は僕を見て躯を仰け反らせる。
 篠原の友人たちは事態を把握しかねているようで、篠原を見たり僕を見たり、「どうした?」と声をかけたり、混乱している様子だった。
 しかし、篠原はその全てを無視して。

「この――偽善者が!」

 周りの友人たちを振り払って身を翻すと、早足で雑踏の中へと消えて行ってしまった。「おい、準也!」友人たちは戸惑いながらも急いでその姿を追う。その友人たちも、すぐに見えなくなった。
 そして後には、僕だけが残された。
 人が行き交う道の真ん中で、僕は篠原が消えて行った方向を見つめたまま、考えていた。

 ――今日は一日に二度も偽善者と呼ばれた。
 篠原は、敵対していた痩駆の男と同じことを言った。
 だけど解からない。
 何が偽善なのか?
 誰が偽善なのか?
 善とは何を以って善なのか?
 偽とは何を以って偽なのか?

 どれだけ考えても解からない。
 答えは出ない。何せ心当たりがないのだから。
 だけど、骨の痛みはしぶとく残留している。
 心の奥に、暗い錘のようなものを感じたのは、確かだった。
 見て見ない振りは、出来そうにない。

      ☨

「くそっ、くそくそくそくそくそくそくそぉ!」

 夜の公園に、怒声と何かが倒れ散らかるような音が響いた。
 騒音の主は篠原準也。彼が罵声を吐きながら金属製のゴミ箱を蹴り飛ばしたのだ。ゴミが周囲に散乱し、中身が残っていたアルミ缶から紫色のジュースが零れる。液体は垂れて流れて、遊歩道に黒いシミを広げていく。
 近くのベンチに座って愛を語らっていたカップルが、そそくさとその場から逃げ出す。準也はその二人なんて気にもかけずに、結果空いたベンチのど真ん中に乱暴に座った。

「……くそっ」

 ポケットから煙草を取り出して、火を点け、深く吸い込む。しかし、準也の心は一向に落ち着かなかった。
 原因は、つい先程の藤川忍との邂逅。
 そもそも準也は、藤川忍と言う人間について、随分と前から計りかねていた。

      ■

 篠原準也は、祖父は文部省官僚、父は会社社長と言うエリート一家の次男坊として生まれ育った。
 幼い頃からの英才教育で、勉強をやらせれば常にトップ5に入り、部活のサッカーでは原動力として県大会優勝に導き、ピアノや絵画と言った芸術方面にも長ける、そんな優秀な人間に育っていった。
 しかし、それは単に努力と時間と金の賜物であった。
 彼自身の才能は、望まれたような天才ではなかった。
 それは奇しくも、兄が証明することとなる。
 兄は、勉強は全国トップクラス、部活でも準也と同じサッカーで全国ベスト4、芸術も全般に長けたが、中でもバイオリンにはとびきり非凡な才能を発揮した。
 優秀だった父親はその才の差にすぐに気が付き、兄に自分の次を担う者として全幅の期待を寄せた。そしてそのことに、準也自身もすぐに気が付いてしまった。
 準也が非凡だったのは、ただ一つ。
 それは場の空気を読む眼。人の心を推測する眼。
 その観察眼だけは、厳しい社会で揉まれた父親にも天才の兄にも勝るものを持っていた。
 目の前の人間は何を求めているのか。
 この場ではどんな行動を取るのが相応しいのか。
 そう言ったことを、準也は幼い頃から考えながら行動していたのだ。それは彼が家族から見放されるのが怖かったから。落ちこぼれとして放逐されたくなかったから。そんな童心の必死さから身に付いた哀しい力だったのかもしれない。
 そんな素晴らしい観察眼を持ったからこそ、父の信頼が自分から離れていくのを敏感に感じ取ってしまい、深く絶望してしまったのは皮肉である。
 そうして準也はエリートコースから外れ、進学校とは言え、ただの公立の高校に入学した。
 道を外れたとは言え、英才教育を受けてきた元エリート。公立高校の中では彼は全てにおいてトップクラスだった。
 クラスの面々は皆彼を尊敬し、崇め、集った。準也もそんな彼らの気持ちを敏感に察して気を良くしながら、完璧な人気者の“演技”を披露し続けた。
 しかし、ほんの数人だけ、彼の演技で踊らない人間がいた。

 一人は、利根川悠。
 準也は暫く知らなかったが、彼は優良企業の社長の息子だった。それしちゃああの恰好は、とも思ったけれど。
 彼は準也と同じように街で遊んでいるらしいし、こちらを睨むような目線を向けられたこともあった。もしかしたら正体を把握しているのかもしれない。そう考えて、準也は自らあまり近付かないようにしていた。

 一人は、麻生奈月。
 クラスの中で男子の人気者は準也、では女子は誰かと言えば間違いなく奈月だった。
 当然準也はすぐに声をかけた。彼女と仲良くなれば自分の評価ももっと上がると思ったし、付き合う相手としては顔も性格も悪くないなとも思った。
 最初から付き合えるもんだと考えている辺り、彼は矢張り入学以来のちやほやで、相当の天狗になっていたのだろう。
 しかし、実際話しかけてみると彼女の対応はとても素っ気なかった。準也はそれを照れているもんだと判断して、より積極的に話しかけ続けたのだが――ある日。

「いい加減にしなさいお坊ちゃん」

 特別教室の片づけを二人きりでやっていた時、ちょっとしたスキンシップ、と肩に手を触れて、返ってきた言葉がそれだった。
 準也は絶句し、硬直した。
 その間に、奈月は今まで付きまとわれたことに対する文句や説教を散々ぶちまけて、あっという間に教室を出て行ってしまった。
 こんな性格の女だったのか、と。準也が自慢の観察眼で読み違えた人間は、彼女が初めてだった。
 それ以来、逃げたと思われぬように声は掛けつつも、心中では一定の距離を置いていた。

 そして最後の一人。藤川忍。
 クラスメイトだった忍に対して、準也は特に何とも思っていなかった。気付いていなかったと言ってもいい。それほど、準也はクラスの中心にいて、忍はクラスの外にいた。
 しかしある日。奈月に手酷い扱いを受けた後。
 いつでも奈月の傍にいる男は一体何なのかと気になって、奈月がいないタイミングを見計らって、準也は初めて忍に話しかけた。

「なあお前」
「ん?」

 少し眼にかかるくらいの黒髪に中背の身体、遠くから見た印象通り特に目立つ部分のない男だった。彼の驕り高ぶった精神は、自然と彼を見下げ始める。
 より深く観察しようと、忍の眼を覗き込んで。

 ――墜ちて終いそうになった。

 準也の観察眼は非凡である。
 その優秀な観察眼は、扉を開けて、表層を潜って、暗がりを舞い踊って、大地を駆け抜けて、そして忍の深層を目指す。
 どこだ。
 どれだ。
 お前の本当の姿は――。
 そしてようやく大地の終わりを見つけて、準也はその先に忍の正体があると思って飛び込んで――しかし、大地はそこで唐突に終わっていた。
 大地の突端から臨む景色は、昏闇しかなかった。
 眼下を覗き込んだ準也は、その闇に魅入られて。
 そのまま、深淵に墜ちて終いそうに――

「うわあっ!」

 声を上げて後ずさる。
 ガタガタッと後ろの机に当たったことも、それでクラス中の眼を集めていることも気にせずに、準也はらしからぬ怯えた瞳を忍に向けた。
 それは、初めての経験だった。
 今まで準也の観察眼は、ありとあらゆる感情を捉えてきた。父に向けられた諦観、兄に向けられた嫌悪、男の嫉妬、女の求愛、悠の疑念、奈月の侮蔑。
 しかし忍は。
 準也が声を掛けた時。
 黙って眼を合わせた時。
 そして今、うるさく後ずさった時。
 どれにも薄く表情を動かしはしたけれど、その本質を映す眼は、如何なる感情も映してはいなかった。
 つまり、自分のことを何とも思っていないのだ。
 空っぽ。
 空虚。
 失われた伽藍。
 そんな人間を、準也は初めて見た。

「なに?」

 忍に話しかけられても、もう準也に語る言葉はなかった。
 ――アイツはとびきり変人だ。
 準也はそう言う風に結論付けて、すぐにその場を離れた。
 けれどもそれは、恐らく得体のしれないモノへの、根元的な恐怖だったのだろう。
 プライドの高い準也は、そんなことには気付かない。

      ■

「くそ……」

 火を点けた煙草を一本吸い切る頃になっても、準也の心は波立っていた。
 ――放課後あんなふざけた真似をしておいて、更にその日のうちにもう一度のうのうと姿を見せるなんて、ナメているとしか思えない。もしかしたらわざと姿を見せて挑発してきたのかもしれない。
 準也はそんな風に感じていた。
 加えて、どちらの時も準也から先に――まるで逃げ出すように――現場からいなくなっていたことが、より一層プライドを傷付けていた。
 チリチリと何かが準也を焦がしている。
 準也は、忍が自分を見下し、嗤っている幻覚を視る。
 ――あそこを離れたのは、アイツがくだらないことばかり言うからだ!
 準也は幻視する忍に心の中で叫んだが、勿論誰にも届く筈はなかった。
 準也は幻視する。
 中学卒業の日、「好きな所へ行け」と言った父親を幻視する。
 自分を無視して通り過ぎた過日の兄を幻視する。
 おまけを見るような眼を向けた父の知り合いを幻視する。
 公立への進学を告げた時の担任の顔を幻視する。
 嫌悪の籠もった奈月の顔を幻視する。疑念の籠もった悠の顔を幻視する。
 
 そのどれもが、
 自分を指差して嗤っているように見えた――

「くそがああっ!」

 煙草を地面に叩き付ける。まだ灯っていた火が大地で弾けて、赤い火花が、暗闇に場違いな程美しく散った。
 準也は思う。
 こんなもんじゃない。
 俺はこんなもんじゃない。
 あんな屑共とは違う。
 生まれた時から違う。
 誰よりも気高い。
 誰よりも賢しい。
 誰よりも――強い。
 あいつらにそれを解からせないと、気が済まない!
 準也は知っていた。
 自らの力を知らしめる為にはどうすればいいか。
 父の姿を、よく見てきたから知っていた。

 ――力を知らしめる為には、
  矢張り力が必要なのだ。

「力……チカラだ」

 モノローグは遂には言葉になり零れ出す。
 それはとてもとても小さな声。
 暗闇すら震えない粘ついた声。
 此処は誰もいない公園だ。
 その声は誰にも届かない――その筈だった。
 しかし、


「チカラが欲しいのカ?」


 返答はあった。

「なっ!?」

 周りに誰もいないと思っていた準也は驚き、そして恥を掻いた気がして辺りに怒声を投げかける。

「誰だこの野郎!」

 前後左右を見回すが、誰の姿も見えない。そもそも準也の周りはすぐ傍の外灯のお陰で明るかったが、夜に堕ちた公園全体は少ない外灯では照らし切れず、視界が著しく悪かった。隠れられたら見つけられない。
 準也はその闇を仇のように睨み付ける。

「何処だ。姿を見せろよ!」

 ぐるぐると回る視界。
 ぎらぎらと輝く両眼。
 誰も見つからない。
 しかし、そんな彼に再び声がかかり、

「こっちだヨ」

 その声は頭上から聞こえた。
 準也が見上げた、その先に。
 果たして、姿はあった。
 ――影。
 準也は最初そうとしか見えなかった。なぜならその人物は唯一光の届かない外灯の上に立っていたから。三日月を躯で隠してしまっていたことも、その理由に当たる。
 だがすぐに眼が慣れて、準也は、その異形を視認した。
 ――ソレは、外灯の上にしゃがみ込んでいた。
 顔半分を覆い隠すように分厚い前髪が垂れて、その髪は鉛のようなくすんだ色をしていた。覗く片方の顔は痩せ細り頬骨が浮き出ていて、眼はらんらんと輝き、唇は大きく裂けている。手脚も不自然に長いようで、しゃがんでいるソレはどう見ても四肢を持て余していた。
 躯は真っ黒。黒い塊のようにしか準也には見えなかったので服装は解からなかったけれど、ジャラジャラと全身に鎖が巻き付いているのは見えた。
 そして。そしてだ。
 どうしても眼を逸らせない事実。
 それを準也は見る。
 見たくなくても、視てしまう。
 ソレは、全長四メートルはありそうな、一対の黒い羽を背負っていた。

「う、うわああああっ!」

 悲鳴を上げて、尻餅をつく。準也は怯えた瞳でソレを見上げながら、懸命に後ずさる。

「オ? まあ待てヨ」

 ソレは外灯から飛び降りて、準也を跨ぐように着地した。

「ひっ!」

 準也は息を呑み、蛇に睨まれた蛙よろしく動けなくなってしまった。
 ソレはぐっと躯を前に倒すと、自分の貌をくっつくほどに準也の顔に近付けて、そして囁いた。

「ハナシくらい聞いていってくれヨ? 寂しいじゃないカ」

 そして、続ける。

「オレの名は悪魔ベリアル。“反基督(アンチキリスト)”。オマエがオレに協力してくれれバ、オレはオマエの望みを叶えることが出来ると思うゼ? 秩序を壊す形で」

 キシキシキシキシッ!
 ベリアル、と名乗ったソレは、鋼を擦り合わせたような耳障りな声で笑った。
 準也の視界にはベリアルの貌。そして三日月。そしてひらひらと舞う黒い羽根。
 準也は、震える唇で、震える声を紡いだ。

「オ、オマエは……何だ?」

 べリアルは口を大きく裂いて嗤って――

「オレは―――」

      ☨




[25528] 二日目 (4) 運命の彼女
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/23 14:05
      ☨

 運命が呼んでいる。

 駅前でいきなり篠原に罵倒されて、そしていなくなって、僕は考え込んだまま家路を辿っていた。
 まだ駅からそれほど離れていないけれど、人通りはぐっと減った。車はまだ走っているけれど、矢張りこの街はこんなもんだなと思う。店も次々ネオンを落としていた。
 そんな静かな街で、僕は考える。どうやら答えが見つかりそうにないことは解かっていたけれど、それでも、考え続けることが必要だと根拠もなく感じていた。いつか答えと、そして問いに出会えるような予感があったから。
 考えに没頭している僕の耳に、

「……いいじゃんか。ねえ」

 風に乗って、男の声が届いた。
 そちらを見ると、ビルとビルの間の路地裏で四人の人間がたむろしていた。姿は暗くてよく見えないけれど、

「遊ぼうよ。暇なんでしょ?」
「…………」

 あまりいい雰囲気ではなさそうだ。
 暫く注視していると、どうやら壁に寄り掛かる女の子を囲むように男三人が立ち、そして真ん中の男が女の子を再三に亘って誘っているようだった。女の子は囲まれていて姿は確認出来ないけれど、何も喋らない。怯えているのだろうか。
 何とかしなきゃ、と一歩踏み出して、思わず苦笑を漏らした。
 ――昼間と全く同じシチュエーションだ。もしかしたらこれが『偽善』ってやつなのかな、と思って。
 だとしたら、確かに僕は偽善者なのかもしれない。
 男たちまで後四メートル。
 その時、真ん中のサングラスの男が何も喋らない彼女に痺れを切らして、「ねえ!」と手を伸ばした。
 その手が肩に触れて。
 僕が一歩踏み出して。

 ――甲高い音が僕の耳朶を叩いた。

 僕も周りの男たちも、驚きを表情に浮かべる。
 肩に置かれた男の手を、女の子が打ち払ったのだ。それも男が顔をしかめてうずくまる程、強烈に。
 そして、呆ける僕たちを尻目に、彼女は壁から背を離して、堂々と胸を張って言い放った。

「下がれ下朗」

 綺麗な声だった。
 夜明のような。
 月夜のような。
 深遠の水面のような声。
 彼女を月明かりが照らし出す。
 そして、僕は彼女の姿を見た。

「貴様たちのような者がこの私に触れることは許さない。早々に立ち去れ。それなら今の無礼は見逃してやろう、下賤の者よ」

 彼女は街には場違いな空色のドレスを着ていた。胸の白薔薇のコサージュが暗闇の中で浮かび上がるように映える。とても繊細な金髪はさらさらと揺らぐ光のようだった。
 とても美しい人だ。
 そして僕は、気が付くと走っていた。
 ものの二秒で路地裏へ。

「うわっ」
「なんだ!?」
「キャッ!」

 一人目の男の肩を突き、うずくまる男を蹴り倒して、奥の男を右手で退ける。そして彼女の手をしっかりと掴んだ。長手袋に包まれた手は、すべすべで冷たかった。
 僕は彼女を連れて路地裏の奥へと走り出した。
 暗く細い路地裏を障害物を避けながら走る。
 もうすぐ抜ける、と言うところで後ろから「な、なんなの!?」「待てこらあ!」と、二つの声が聞こえた。僕はそのどちらにも答えずに、彼女を先へと誘ってから路地裏に積んであった段ボールの山を思いっ切り突いて崩す。狭い通路を覆うように崩れたそれは、男たちを少しくらいは足止めしてくれるだろう。
 大通りへ出て、僕はまた走り出す。
 右に行こうか左に行こうか悩んで、僕は結局右へと走り出した。左は僕の家の方向だが、人通りも少なく、それに家まで付いて来られたら面倒なことになる。再び駅前へと戻る道を駆け出した。

「ちょっと!」

 このまま駅前まで行って人の波に紛れ込めば逃げ切れるだろう。それとも今すぐまた横道に逸れた方が良いだろうか? それはそれで彼らは見失う気がするけれど、矢張り人の多い所に行こうと思った。周りに人がいる状況では、たとえ追い付かれたとしても揉め事は起こしにくいだろう。
 よし、じゃあこのまま――

「だから、ちょっと!」

 行こうとしたところで左手を強く引っ張られて、僕はがくんと動きを止めた。振り返ると、左手の先の彼女が両手で懸命に僕の手を掴んで引き止めていた。
 僕は少し荒れた息を整えながら問う。

「なに? 急がないとあいつら追って来ちゃうよ」
「そうじゃなくて! なんなのよ貴方」

 彼女はそう言って僕の手を振り払うと、腰に手を当てて怒った表情と素振りを見せた。
 初めて彼女と向き合った。彼女は僕と同じくらいの身長でとてもスタイルが良く、そしてむっとした顔でもやっぱり息を呑む程綺麗だった。ドレスは見たこともない鮮やかな空色をしていた。初めて見る色だ。群青と純白が混じり合って、時々ゆらゆらと揺らいで、風に流れているように見えた。
 僕は首を傾げた。

「なにって……どういうこと?」
「だから、貴方は何者でいきなりどういうつもりってこと!」

 言われて考える。そう言えば、已むを得なかったとは言え何も告げずに乱暴に連れ去ったのだから、彼女は僕も警戒して然るべきだった。

「ええと、僕は藤川忍。怪しい者じゃありません。君がさっきの男たちと何かトラブルみたいだったから一応助けようと思ってるんだけど」
「……ああ!」

 彼女は少し考えた後、納得したように手を打った。

「そっかそっか、助けてくれたんだ。ありがとうね、シノブ」

 彼女は笑顔で僕の手を握り締めて、上に下にぶんぶん振って感謝の言葉を述べた。僕は彼女のくるくる変わる表情に何だか圧倒されっ放しだ。

「わたしはミカエル。よろしくね」

 それを聞いて思ったことは二つ。いい名前だなってことと、外見で解かっていたけれど外国人ってのがこれではっきりした、ってことだった。どちらもどうでもいい。

「それにしても……凄い格好してるね」
「そうかな?」

 彼女はスカートの裾を摘まみながらくるりと回る。空色のドレスの裾がふわりと膨らんで、本当に青空のように見えた。こんなドレスで街中を歩いていたらそれは目立つだろう。しかも金髪で、そして美人だ。絡まれるのも無理はない。……さっきから綺麗だの美人だの、心の中でとはいえ言い過ぎて恥ずかしくなってきた。
 場を濁すために質問する。

「ミカエルさんはこんな所で何をしてるの?」
「さんなんていらないよ。わたしはね――」
「待てやこらあっ!」

 怒声に僕とミカエルは振り返る。あの三人組がこっちへ走って来ているのが見えた。サングラスの一人が他の二人に比べて足が速いらしく、突出している。
 僕はミカエルを背にして、身構えた。
 後三歩。
 かなりのスピードだ。接近してきても減速は軽微である。
 後二歩。
 両腕を伸ばしてきた。勢いそのままで掴みかかって来る気か。男に武道の心得はなさそうだ。順当な選択だろう。
 後一歩。
 袖を取って、袖釣り込み腰……いや、却下。背中にミカエルがいる。同様の理由でスピードを利用するような投げ技は全部NGだ。
 後零歩――。
 両手が目前まで迫る。そのタイミングで男が最後に踏み出した、否、踏み出すべきだった足を、足払いで刈り取った。放課後にやったことと同じだ。争わず、怪我も負わさずに無力化するにはこれ以上ない技術だ。ついでに言うと実は僕のお気に入りでもある。
 悲鳴を上げて、男は背中から地面にぶっ倒れる。その際頭だけは打たないように後頭部は手で支えてフォローしておいた。これで怪我の心配はない。

「行くよっ」
「へ? きゃあっ!」

 ミカエルの手を握って、もう一度走り出す。走りながら後ろを振り返ると、倒れた男が手を借りながら苦しそうに起き上がるところだった。まだ追い掛けて来るだろうか。
 それにしても、

「意外と根性のある不良だね」

 少し和ませようと、息を切らしながら話しかける。
 けれど、ミカエルから返答はなかった。
 疑問を感じて、僕は繋いだ手の先を振り返る。

 ――そして僕は、眼が離せなくなってしまった。

 彼女はじっと僕を見つめていた。
 喜んでいるわけでも、怒っているわけでも、哀しんでいるわけでも、楽しんでいるわけでもない。
 ただ、まるで仮面のような表情で。
 じっと僕を見つめていた。
 そして何だかそれが、少しだけ怖かったのだ。
 理性に反して感情が、その手を離そうとするほどに。

「ねえ」

 彼女が口を開く。

「どうして逃げるの?」
「え」
「貴方、もしかして格闘技とか武術とか習ってるんじゃない?」

 確かにその通り。僕は小さく頷く。
 この頃には、もう走っているとは言えない程度のスピードになっていた。

「だったら戦えばいい。倒しちゃえばいい。戦って倒して、彼らを乗り越えてこの場を去ればいいわ。貴方は彼らより強いんでしょう?」

 それは静かな恫喝に聞こえた。
 彼女は決して強い口調で言っている訳ではない。けれど、その言葉には託宣のような導きの力を感じた。まるで感情が籠もっておらず、問題文を読み上げているかのような冷徹さ。
 僕は息を呑み、そして遂には立ち止まる。
 辺りはシャッターの閉まった店の建ち並ぶ道で、この地域のこの時間としては良くあることなのだが、今は不気味と感じるほどに人通りはなかった。
 彼女に正対するには、何故か勇気が必要だった。
 彼女の突然の変貌に、思考は若干混乱していた。
 けれど――、

「どうしたの? ようやくやる気になった?」
「いいや」

 間髪入れずに否定の言葉を重ねる。
 質問への答えだけは、僕の中でクリアーだった。

「やらないよ。僕は、そんなこと、やらない」
「どうして?」
「戦って、良いことなんて本当は一つも無いんだよ」

 僕は『解かったようなこと』を言う。
 まるで世界の全てを知っているような、『解かったようなこと』を、平気で言う。
 だけど、たとえこれが理想でも妄想でも偽善でも、甘ったれの若輩者の夢物語でも、確乎たる僕の信念であることだけは強固で無垢で、確かだった。
 信念は、誰にもケチ付けさせない。

「僕の求めてきた力は、『誰かを護る為の力』だよ。『相手を倒す為の力』じゃない。だから僕はそんなことをしないんだ」
「それは単なる戯言遊び。どんな修飾布を付けたって、結局はどちらも同じ、破壊し撥ね付けることしか出来ない力でしょう?」
「違うよ。力を持っている者の、心が違う。心が違えば、それは違う力だ」

 握り合う手にぐっと力が籠もる。

「戦いは悲劇を生む。悲劇は感情を傷付ける代物だから、力では護れない。だったら、悲劇を生まないようにするのが僕に出来る最善の護り方だと思うんだ」
「じゃあ、相手が自分や大切な人を傷付けようとしていたら、貴方はどうするの?」

 それが一番難しい質問。
 僕が抱えるパラドックス。
 解かったようなつもりでも、解からない未来。
 だから。

「それはまだ解からない」

 けれど。

「誇れる自分で在りたいと思う」

 僕はそう、正直に応えた。
 ミカエルの瞳を見つめ返す。
 彼女は無表情で僕を見定める。
 その青い瞳が僕を射抜いて、

「あはははははっ!」

 大笑いした。
 …………。
 ――え?





[25528] 二日目 (5) 誓約
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/24 13:31

「え?」

 彼女の雰囲気が急に変わる。
 戸惑う僕を尻目に、ミカエルは満面の笑みで僕の肩をばんばんと叩く。痛い、んだけど混乱していてそれもあまり感じない。

「あはははは! 貴方良い。良いわシノブ。すっごく良い」
「ま、待って。痛いイタイよ。何なのさ?」
「――好きよ」

 …………え!?
 な、何を突然。

「シノブのその考え方好き。わたし、とっても気に入ったわ」
「あ、ああ。そう」

 僕はドキドキした胸を押さえる。こんな綺麗な人にいきなり「好き」だなんて言われたら、びっくりするじゃないか。

「好きだけど……けれど、戦わないといけない時ってあるわ」
「うん。あるだろうね」

 例えば小学校の頃、僕はいじめと戦わなければならなかったのだろう。奈月に任せることなく、自ら拳を握って。

「わたしにとっては、今がそうなの」

 そう言ってミカエルは、僕に手を差し出す。

「協力してくれないかしら?」
「え?」
「わたしはこれから戦わないといけない。避けられない、大きな戦いがあるの。ただそれには協力者が必要で、そこで貴方に協力してもらいたい」
「戦いって? それに、協力者って……」
「ごめん、詳しく話している時間はないみたい」

 ミカエルの目線を辿って振り返る。
 まだまだずっと遠いけれど、あの三人が走って来るのが見えた。本当に根気のある不良だ。どうしよう、ちょっと好感持ってきちゃった。

「協力してくれれば、さしあたりあの三人からはすぐ逃がしてあげられるわ」
 
 言われて、少しだけ考える。
 ゆっくりとは言え随分戻った。もうちょっと行けば人通りも出てくるだろう。そうすれば彼女によく解からない協力するまでもなく逃げられるが――いや、そうだな。
 そう、考えるまでもないことだった。

「解かった。協力するよ」

 ミカエルの手を取った。
 思考が決着したのは、つまりこう言うこと。
 僕は――『こまっている人がいたらたすける』のだから。
 手を取られたミカエルは眼を丸くする。

「えっ!? いいの?」
「なんだよ驚いて。言ってきたのはそっちからでしょ」
「そうなんだけど……こんなにあっさり了解してもらえるとは思ってなかったから」

 ミカエルは少し照れたように笑う。さっきまでの綺麗だったイメージとはまた違って、とても可愛らしく見えた。

「じゃあ、はいこれ」

 ミカエルはドレスのポケットから何かを取り出して、僕に差し出した。
 それは、指輪だった。
 無色透明の宝石、おそらくダイヤモンドの填った銀色の指輪。宝石に詳しくなんてないので本当のところは解からないけれど、本物だとしたら絶対に高価なものだな、と思った。

「着けて」
「こんな高そうな物いいの?」
「ええ」

 ミカエルの手から指輪を摘み上げる。宝石には素手で触ってはいけないと何となく聞いたことがあるような気がしたので、触れないように遠慮がちに持った。
 左手の薬指、とミカエルに指示されてその通りに填める。不思議とサイズは合っていてすんなり嵌まった。
 月明かりに掲げる。ダイヤモンドは内部で光を反響させて、月明かりよりも清廉な光を抱えた。とても美しい、見惚れるような輝きだった。男の僕でもいつまでも眺めていたくなるような、そんな気持ちになる。

「ほら、ぼうっとしている暇はないわよ」

 ミカエルに窘められて、僕は名残惜しみながら手を下げる。
 そこで聞こえてきた怒声。
 後ろを振り返ると、肩で息をしている不良たちが膝に手を付いて休みながら、それでもこちらを睨んでいた。いや、ホント頭が下がります。

「どうしよう。あと少しなのに」

 ミカエルが困り顔をする。周りを見るけれど矢張り僕たち以外の人影は見えない。狭神の夜はこんなものだ。

「しかたないね。僕に任せて」

 僕はミカエルに一つ頷いて、彼らの元に向かう。
 金髪の男は息を切らせながらも虚勢を張った。

「はあ、なんだこの野郎……! はあ、はあ。やる気か!?」
「やる気はないよ。だから少しだけそこで待ってて」

 手のひらをぐっと相手に突き出す。相手はぽかんと僕を見ていた。
 よし。僕はミカエルの元に戻る。
 なぜかミカエルもぽかんとしていた。

「はい、時間取れたよ」
「…………今のでいいの?」

 どう言う意味だろう?
 色々と納得いっていない様子だったけれど、彼らが言葉通り仕掛けて来ないことを見て、再三首を傾げながら言葉を続けた。

「それじゃあ今から言うわたしの言葉を複唱して。ちなみにシノブ、英語は話せる?」
「アイキャントスピーク」
「コラ、ふざけない。じゃあ日本語で」

 ミカエルは眼を瞑り、胸に押し当てるようにして両手を重ねる。大きく深呼吸をして夜空を仰ぐ。
 細くて真っ白な首筋が顕わになり、僕の眼に留まった。皺一つ無い滑らかな首はまるで陶磁器のようで、真夜中に輝いて見えた。大きく浮き出た鎖骨も、ドレスをなだらかに持ち上げる胸も、空色に揺れるドレスも、全てが神秘的な程に美しい。改めて、僕は息を呑む。
 ミカエルが眼を戻した時に眼が合って、僕は慌てて俯いた。

「始めるわ」

 指輪を填めた左手を取られて、身を固くする。
 気付くと彼女は繋いだ右手だけ長手袋を外していた。
 彼女の冷気が、僕の熱を奪っていく。
 僕の熱が、彼女の冷気を解いていく。
 頬の火照りだけが熱い。
 彼女の唇が紡ぎ出す旋律を、僕は盲目で複唱した。




 大天使ミカエルの名に於いて神に盟約す

 我フジカワシノブは 大天使ミカエルと誓約を結ぶ
 我は器
 強靭なる憑代として 彼の者の叡智を顕現す
 彼は剣
 いと高き天眷として 我と世界の生を守護す
 
 深遠の水面に映る神の御霊よ
 許諾の意志を金色の光と示せ




 唄うような、謳うような。
 奇異なる響きの言の葉だった。
 上空から吊り上げられているかのような浮遊感を躯に感じる。
 ただそれ以上に異常だったのは、僕の唱える言葉が最後に近付くにつれて、左手の宝石が眩く輝き始めたことだった。
 最初は仄かに。
 遂には劇的に。
 辺り一面を黄金の色に染め上げる。
 まるで、優しい太陽のようだった。

「ミカエル! これは何?」
「成約の光よ。貴方がわたしの契約者となった証」

 一つも意味が解からない。
 そんな説明では解からないよ、と言おうとしたが、ミカエルに「今から大事な話をするわ」と先手を取られて言葉を呑みこむ。
 宝玉は輝き続けている。

「今からわたしは一時的に姿を消すわ。聞かないで。今は説明している時間はないみたいだから。そうしたら、貴方にはこう言って欲しいの。『―――』。そうすれば、あの三人から争わずに逃げることが出来るわ」

 僕はミカエルの言葉に耳を傾ける。
 その途中、そう言えばいくらなんでも不良の皆さんが静か過ぎるな、と思って視線を向けると、彼らはお互い顔を見合せて困惑と異怖の表情を浮かべていた。「なんだよあれ」との声が聞こえる。
 この黄金の光に怯え驚いているのだろう。
 気持ちは解かる。
 僕だってそうだ。
 彼らと同じで心を震わせている。
 違うのは、左手の温度だけ。

「準備はいい?」
「ああ」

 その手が離される。
 けれど、もう冷たさは僕の手の熱と混じり合って宿っていた。

「貴方に神の加護があらんことを」

 ミカエルはそう言って――消失した。
 最後に微笑みを残して、僕の眼の前から、溶けるように。
 黄金の光も、一息の間に収束して消えた。
 右を左を。
 確認する。
 けれど眼に映るのは夜の街ばかりで、本当に、何処にも姿は見えなかった。
 一瞬、夢なのかもしれないと思った。彼女に出逢ってから今までのことが全て夢で、僕はずっとこの道端で、自失して呆けていたのではないか、と。
 僕は左手を夜空に掲げる。
 月明かりが目映い。
 ――ああ、そうだ。
 この左手が、全てを証明しているじゃないか。
 高貴なる宝石が。
 残留する冷気が。
 確かに、彼女の存在を。
 僕は落ち着きを取り戻したけれど、不良たちは理解の範疇を超えた事態の連続に、いい加減に限界を迎えたようだった。
 彼らは「なんなんだよ!」と叫びながらこちらに走って来る。
 僕は動かない。
 構えたりもしない。
 内なる声の響きに沿って。
 ミカエルの言葉を信じて。
 左手を握り、そして一言。


「ミカエル」


 気が付いたら空だった。

「え?」

 躯に感じる浮遊感と風。
 夜空に包まれた全視界。
 眼の前にあった筈の不良たちとシャッター街と地面は遥か眼下に遠のき、更にそれらは急速に離れて行っている。
 不良たちの眼を丸くした表情が見える。
 きっと、僕も同じような表情をしているだろう。
 止まらない。
 止まらない。
 僕は、空へ、浮き上がり続けている。
 それをたっぷりと時間を掛けて認識して、そして中空で叫んだ。

「……うわああああああああぁぁぁっっ! 死ぬーっ!」

 僕の叫びは、空に溶けた。






[25528] 二日目 (6) 夜空の純白
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/26 00:02

「うわーっ! 落ちるーっ! 止まれーっ! 待ったでも落ちるなーっ! ……はあ、はあはあ」

 浮かび上がって行く自分を止められず、恐怖と混乱の極みで叫び続けていた僕だったけれど、いい加減疲れて息切れとともに脱力した。
 もう何さ。意味解かんない。僕高い所とか割とダメだから。降ろして。お願いだ神様。地上大好き。
 暫くすると上昇は止まったようで、僕は同じ高さを仰向けでフワフワと漂っていた。横を見ると電波塔が見える。あの電波塔はこの街で一番高い。
 ……下は見えないけれど、その事実だけで恐怖を通り過ぎて何だかもうガックリした。

「あー……どうなってんだろ。どうしよっかな」

 空には三日月が輝いている。
 当たり前の話だけど、地上より空に近くて地上より光の少ないこの場所からは、たくさんの星が瞬いて見えた。
 暗い夜空に散らばった宝石の美しさに、僕は一瞬だけ自己の危機を忘れて陶酔した。

『おちついた?』

 耳元で突然声が聞こえた。
 その声はついさっき聞いた覚えのある声で。

「ミカエル!?」
『わ、わ、あわてないあわてない』
「うわわっ」

 慌てて動いたせいで体勢を崩しかけて、わたわたと安定を取り戻す。
 再び仰向けに落ち着いたところで、またミカエルの声が聞こえた。

『もう、危ないじゃない』
「ミカエル、どこにいるんだ?」

 周りをきょろきょろと見回すが、当然誰の姿も無い。けれど、彼女の声はすぐそばから響いている。

『ここよ、ここ』

 そう言った時、僕の左手の薬指の指輪が、ぱあっと黄金色の光を灯した。更に光は緩やかに明滅を繰り返す。暗い夜空に、まるで星のように。

「え……?」

 まさかそんな。
 左手を眼の前に持って来て、まじまじと見つめる。
 そんな僕の行為を肯定するかのように、宝石はより一層煌びやかに光を放って輝いた。
 眼が眩むほどの光量に、左手を顔から離して眼を瞑る。
 そして再び開けた時、光はすっかり消え去っていて、夜は夜のままの姿でいた。
 僕が呆然としている中、ミカエルの声は再び響く。

『そう正解。わたしはその“誓約の宝玉”の中よ』
「“誓約”……?」

 聞き慣れない言葉。
 けれど、ミカエルの明るい口調からでも歴然とした重みを感じる、そんな言葉だった。
 だけどそんなことの前に、僕には聞かなければならないことがあった。

「それは良いんだけど、ミカエル! 何で僕は飛んでるの? これは君のせい? だったら今すぐ降ろして欲しいんだけど! 怖い!」

 いつまでもこんな空中をなすがまま浮かび続けるなんて真っ平だ。空を飛ぶのは人間の夢だ、なんて言うけれど、それはあくまでも飛んでいることの根拠とある程度は落下しない安心があっての話だと今気が付いた。

『そ、それは、うーん、まあわたしのせいかと言われればその通りなんだけど……』

 ミカエルははっきりしない答えを返す。
 ただ僕は必死だったので、だったら早く降ろしてくれ、と左手の薬指に向かって体勢を崩さない程度に暴れ騒ぎ倒した。
 ――思えば僕も混乱していて必死だったのだろう。
 いくら彼女が不思議な存在感を持っていても、人体消失を見せられても、発光する宝石を渡されても、挙句空を飛んでも。
 それを彼女のせいなのか、と考えていること自体が馬鹿げた話だった。
 常識も根拠もロジックも、何処かで死んでしまっている。
 けれど。

『シノブ。ちょっと振り返ってみてよ』

 この時ばかりはその直感が大正解だったようで。
 僕は言われるがまま首だけで後ろを振り返った。

「…………?」

 最初、予想と違う光景が見えて思考が停止した。
 暗い夜と、その夜に沈んだ街が見えると思って振り返った僕の視界には、それとは真逆の、真っ白な、とびきり真っ白なナニカがいっぱいに映った。
 進化の過程で手に入れた優秀な双眼は、即座にそれにピントを合わせて認識する。
 羽根。
 羽。
 白い羽。
 それは、羽だった。
 幅広の鳥の羽とは違う、細くて長い長大な羽。
 羽の先は僕が精いっぱい手を伸ばしても遥か届かない程の距離にあり、恐らく目算で二メートルはありそうだった。
 そんな羽が、片側に三翼。合わせて計六翼。
 僕の躯を支えるかのように、ゆっくりと空を漕いでいた。

「…………」

 それらを認識した上で、僕は再びの思考停止状態に入る。
 羽根?
 羽?
 白い羽?
 とても綺麗な羽根。汚れ一つない純白。見惚れてしまう程……いやいや、そう言う問題じゃない。羽根? 羽? いや、なら何が問題だ? ミカエルの声が聞こえる。『あ、あははは』。笑っている。ああ、なんて綺麗な羽根。触わったら、きっと気持ちが良いだろう。
 僕は無意識に羽に手を伸ばす。
 手から伝わるのは高級な絹のような滑らかな手触り。すごい。サラサラだ。
 腕を伸ばして羽を伝うように撫でて行き、そして、腕を捩じってその根元の方へ。
 上質な手触りが、突然安物の荒い生地に変わった。
 触り慣れた感触に、脳はすぐに答えを導き出した。
 ブレザーだ。
 羽を撫でていたその手が、ブレザーに触れたのだ。
 あれ? コートは?

「…………」

 そして僕は、現実思考へと帰還を果たす。
 背中へと続く羽の感触。
 伝って行った、その先のブレザー。
 コートは捲くれ上がっているようだ。
 そして、いつの間にかブレザーに空いているらしい破けた穴の感触と、その中に消えて行く絹の手触り。
 おおい。
 嘘だろ。
 マジかって。
 僕は首元から、背中に手を突っ込む。
 冷たい手が背筋に触れて鳥肌が立つけれどそれどころじゃない。指先で伝って撫でて行った先、僕の手は背中に癒着している絹の手触りにぶつかって止まった。
 ほお、どうやらこの羽は、僕の背中から生えているようだ。
 うんうん。
 なるほど。
 よおし。
 息を一杯に吸い込んで。

「……ぅうわああああぁぁっ! なんじゃこりゃーっ!?」

 二度目の叫び声も、結局夜に溶けた。






[25528] 二日目 (7) 天使
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/01/29 16:38


『はい、そんな感じ。力まずに、りらーっくすりらーっくす。いいよいいよ』

 みるみる地表が近付いて来る。
 速すぎると感じた僕は少しだけ強く羽ばたいて勢いを殺すと、立ち並ぶ禿げた木々を避けながらゆるやかに着地した。
 踏み締めた落ち葉と地面の感触に、心休まる。矢張り人間は大地を二本脚で歩く生き物だな、と強く感じた。空はあくまで非日常の世界なのだ。
 だけど、心休まることばかりではない。最大の懸案事項が僕の背中に乗っかっている。比喩ではなく。

「さて」
『う…………』
「黙ってないで出てきなさい」

 僕は腕を組んで、左手の指輪に話しかける。
 暫くの沈黙の後に宝石がぱあっと光輝いて、思わずそむけた眼を戻すと、そこにミカエルは立っていた。
 少し俯いて気まずそうに、ちらちらとこちらの様子を窺う彼女はさっきと同じ空色のドレス姿。この寂れた森にはそぐわない格好だ。白薔薇のコサージュは、この森唯一の花だろう。
 そこで、ふと気付く。
 背中に感じていた異質な気配がすっかり消え失せている。
 振り返ると、先程まで威風堂々とその存在を主張していた六翼の羽がすっかりなくなっていた。まるで、純白溶け失せる初雪のように。
 まるで夢と錯覚するような消失。
 けれど、それが確かにそこに在った、と言うことは僕のブレザーの背中の穴が証明していた。
 ますますミカエルに聞かなければならないことが増えた。

「ミカエル」

 ドレスの裾をイジイジやっていたミカエルは僕の言葉にビクッと震える。

「説明して貰うよ。何で僕の背中に羽が生えたのか。あの契約は何だったのか。この指輪は何なのか。そして――、君は一体何者なのか」
「ええっと、やっぱり説明しなきゃダメ?」
「だめ。当たり前」
「わたしあんまり説明って得意じゃないんだけど」
「……説明してくれないんだったらすごいことするよ?」
「そ、それって?」
「この指輪を全力で放り投げる」
「…………」

 小さくミカエルが「せ、せこい」と呟いたのを僕は見逃しはしない。
 ミカエルは大きく溜め息を吐いた。

「解かったわよ。ぜんぶ説明する。でも長くなるから歩きながらにしましょう」

 そう言って彼女は僕に背中を向けて歩き出した、けれど、すぐに立ち止まって振り返った。

「最後の質問だけは、いま答えておくね」

 ――彼女の先に黒い影の木立ちが、その先に夜空と、三日月が見える。

「――――――」

 言葉を失う。
 形容出来ない、解からない感情が、僕を戒めている。
 清輝を背負って影を抱いた彼女は、とても美しくて、とても妖しくて、とても清らかで、とても怖くて、とても神々しくて。
 だから。
 きっと。


「わたしは熾天使ミカエル。“神の御前の姫君”。天界より遣わされた、運命の守護者よ」


 彼女の言葉も、すんなり心に入ったのかもしれない。






[25528] 二日目 (8) ミカエル、語る
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/02/03 13:37


 僕らは山を下って、人気も民家も少ない工場街を歩いていた。
 着地した山は狭神市の西地区の端にある名も無き森、通称ナナシの森と呼ばれている山だった。
 ここから家に帰るにはつい夕方道場に通ったのと同じように、旧市街を抜けて石楠花橋を渡り、そして街の中央を抜けて住宅街へと向かわなければならない。
 相応の時間が掛かるけれど、「じゃあ空飛んで行かない?」とのミカエルの言葉は全力で却下した。
 またあの羽を生やす覚悟も飛ぶ覚悟も出来ていなかったし、何より今はミカエルの話を聞きたかった。
 自らを天使だと言う、彼女の。

「だから、本当にわたしは天使なんだってば!」
「それはもう解かったって。一応そう言うことにして話は聞くから、早く続きを話してよ」
「いちおう、ってなによいちおうって! わたしは天使だって言ってるでしょー! 相当エラいんだからね熾天使って!」

 ミカエルは腰に手を当ててぷんぷんと怒りながら、僕の斜め後ろを付いて来ていた。僕は思わず吐いてしまう溜息を背中で隠す。
 早く話を聞きたいのに……。自分が天使だと言うことを僕が信じないのがお気に召さないらしい。
 ――正直言えば、僕の心はもう彼女の存在を信じている、かもしれない。背中に羽が生えて、その上それで空まで飛んでしまったのだ。積極的肯定とはいかないが、否定する材料は弱い。
 それにもう一つ――、ミカエルの時折見せる、明らかに異質な圧倒的存在感。
 あの憂い。あの佇まい。あの神々しさ。
 それら全てをひっくるめて、僕は本当に彼女は天使なのかもしれない、と思っていた。
 まだ推定が入るのは、十数年生きてきた僕の常識感が「そう簡単には負けないぞ」と土俵際で踏ん張っている為だ。
 ともかく僕は彼女をほぼ信じている。だからいい加減話を進めたかった。

「もう解かった! 信じる、信じるから。ミカエルはれっきとした高名な天使さまなんだね」
「むう。ホントに信じてる?」
「そりゃあ勿論! わあ凄い。まさかキミがあの有名なミカエルだなんて。サインちょうだい」
「む。そこはかとなくあしらわれているような気がするけれど、その言葉は苦しゅうないわね。もっともっと褒め称えなさい」

 わーきゃー。
 わーきゃー。
 美辞麗句。
 …………何だこの茶番は。

「あははっ! 最初からそう言ってよー」

 何にせよ機嫌を直したらしいミカエルの様子に胸を撫で下ろすと、僕はようやく話を促した。

「さあ、話を聞かせて貰える? 天使だと言う君が何故ここにいるのか。それに、僕に羽が生えて空を飛んだのは何故なのか」

 どれから話そうかしら、とミカエルは顎に指を当てる。

「そうねえ。まずシノブが空を飛んだのは、わたしの力を貴方が使ったからよ。その指輪」

 ミカエルが僕の左手を指差す。僕は左手を眼の前に掲げた。

「その指輪は“誓約の宝玉”。さっき唱えた呪文が“誓約の呪文”。わたしがその指輪のなかに入ることで、誓約を交わした貴方は天使ミカエルの力を使えるようになるの」
「……天使の力?」
「羽もそうだし、まあほかにもいろいろね」

 ミカエルは詳しい説明は笑ってはぐらかした。それはどこかにまずいところがあると言うより、ややこしい説明をするのが面倒くさいと言う風に見えた。
 信じられないようなファンタジーな話だが、まあ僕が空を飛んだ理由は――彼女の荒唐無稽な話を鵜呑みにするならば――解かった。
 でも、まだ解からないことだらけだ。

「何故そんなことを?」
「それは簡単。天使はね、地上じゃ本来の力を使えないの。
 天界と地上はすぐ近くに在るけれど、隣あっているわけではない。まったく異なる位相、『異相』に在るの。だから世界を脈々とながれる理がちがう。わたしたちはこの世界にとっては“異物”なのよ。力を使おうとすると世界が、地上の理が邪魔をする。だから協力者として貴方を仲介しないと力を使えないの」
「理……」
「そんなにむずかしい話じゃないのよ? あるところまで温度が上がれば火が点くだとか、重力が万物に働いているだとか。そういう世界の決まりごとみたいなもの」

 夜の工場街はひっそりと静かだ。
 音が空気を伝わってやってくると言うのも、その理とやらに当たるのだろうか。

「じゃあそもそも、何故そんなまどろっこしいことをしてまで、地上に来たの?」

 唐突に、ミカエルの歩みが遅くなった。
 置いて行ってしまいそうになって振り返る。

「ミカエル?」
「……シノブの聞きたいことを全て話すには、ことの始めから順を追って話していかなければいけない。とても長い話になるわ。でも、そうね。聞いてほしい。シノブには聞いてもらいたい。貴方はわたしの契約者なんだから――」

 頷いて、彼女と歩調を合わせる。
 ミカエルは夜空を見上げながら、ゆっくりと話し始めた。

「すべての始まりは遙か昔。一体の天使が、神への反逆を企てたことから始まった」

      ☨

 ――――――。
 見上げれば白く光る空。
 見下ろせば白く漂う雲。
 空には一際強く輝く恒星があって、雲は柔らかながらもれっきとした大地。喇叭の音が響き渡り、一瞬たりとも闇が落ちることはない。
 此処は天界。
 神と、その僕たちが住まう世界。
 天界は目映い純白と平穏に満ちていた。
 設えられた神殿では天使たちが各々与えられた使命をこなし、絶対神はいと高く遠い何十層もの天幕の奥の神居に座していた。
 天界は完成していた。
 誰が見ても過不足のない神秘的な形で。
 天界は完璧に在った。
 必要な物は手を伸ばせばそこに触れた。
 天使たちは満足と言う言葉も知らず、満たされた世界で只使命を全うしていた。
 世界に安息を。
 世界に試練を。
 世界に調和を。
 只それだけを。
 だけど。
 ただ一つだけ、天界に問題があったとするならば。
 それは皮肉にも完成し過ぎていたことだろう。
 天界の完璧とは、決して全てがある、と言う意味ではない。むしろその逆、ありとあらゆる余分を排除して、全てがないからこそ完璧だったのだ。
 上位の天使たちは完全で在るが故に、それに疑問も不満も持つことはなかった。
 しかし、下位の天使たちは識っていた。
 他の世界を。この世には、完全などとは程遠い、余分なものが溢れていることを。
 そして彼らは。
 その不完全に。
 ――惹かれて仕舞った。

      ☨

「彼らは、勝手な行動をとるようになったわ。勝手に下界に降りて人間と交わったり、あたえられた使命を怠ったり。わたしたちはそのたびに戒告をあたえてきたんだけど……ある日彼らは暴挙に打ってでた」
「暴挙?」
「神を裏切り、全天使に対して戦争をおこしたの」

 ミカエルの眼が、思い描くように遠くを見つめる。

「彼らを率いていたのは……ルシフェルという名の大天使だった。彼は全天使の三分の一もの天使を味方につけて、神に挑んだの。わたしたち神の僕たる天使も命を受けて迎撃したわ。長くて激しい戦いで、天界は紅く染まり空は割れた」

 ミカエルの言葉は物語をなぞるような平坦なものだ。けれど、彼女の眼から表情から全身から、真剣な悲痛が伝わってきた。

「戦いは天使側が劣勢に追いこまれたんだれど、最後はわたしが敵の総大将、ルシフェルを討ちとって戦いを終わらせたの。すごいでしょう」

 お茶目に笑うミカエルだったけれど、僕の眼にはそれは素直に映らなかった。
 話してくれた物語に思いを馳せる。
 上がる鬨の声。空が割れる音。天を翔る無数の天使たちがぶつかり合う。猛り苦悶する声。鋼の混じる音。白い世界は燃え上がる。
 変わり果てた天界で、白の天使と白の天使が向かい合う。
 空色の彼女が黄金の剣を高々と振り上げて、もう一人の天使が防御と掲げた剣を、易々と斬り裂いた。
 眉間から臍まで。白い天使の中心線から血が滲み出る。
 まるで何かの生き物が、天使の躯を割り開いて飛び出して来るかのようで。
 少し鳥肌が立った。

「その後どうなったの」





[25528] 二日目 (9) サタン
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/02/07 12:36


「神は彼らを断罪する。神による裁きの場所をもうけて、まず首謀者であるルシフェルを裁くことになったんだけど――、その時に大問題がおきてね」
「それは?」

 ミカエルは一度溜める。
 記憶をなぞっている。

「……彼、ルシフェルの中に、彼とはまったく別の存在――“サタン”がひそんでいることが発覚したの」
「サタン……って、大魔王とかそんな奴だっけ?」

 『サタン』と言うのはとても良く聞く名前で、けれど知識はその程度しかなかった。
 ミカエルは首を横に振る。

「サタンが魔王だったり、ルシフェルの別名だったり、あるいは全悪魔を統率する階級名だったり、そういうふうに地上では広まっているみたいだけど、それは誤解。サタンは天使や魔王どころか、そもそも存在ですらない。本当のサタンは、零体であり悪霊、イビルスピリット、つまり『悪意』なのよ」
「――『悪意』?」
「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。貴方たちが七つの大罪と呼ぶ罪の源。総じて『悪意』。サタンにとり憑かれてしまった苗床は、そういう負の感情を大きく大きく、自己処理できなくなるまでに育まれてしまう。そうすると脳で自動的に掛けてるリミッター、タガがはずれちゃって、自らを省みない凄まじい力を発揮する。いや、発揮させられるの。もちろん、『悪意』にもとづいてね」

 『悪意』を育てる悪霊サタン。
 いや、ミカエル曰く存在そのものが『悪意』だと言う。
 形もなにも全然解からなくて、天使や悪魔のように簡単に想像は出来なかった。

「でも」

 ――それだけ? 
 僕はそう言う感想を覚えた。名前やバックボーンから感じるほどの脅威を感じなかったからだ。
 言葉の続きが顔に出ていたらしい。
 ミカエルは苦笑して口を開く。

「イメージしにくいか。そうよね。……例えば、人間だったら誰でも大きかれ小さかれ心に大罪、『悪意』、悪い気持ちを抱えてるでしょう? 本来は完璧な善性をもっていた天使も、人に触れる機会の多かった下位天使だけは人間の『悪意』に似た気持ちを、ほんの少しだけもってしまっていたの。サタンはそういう『悪意』から生まれて、『悪意』に惹かれる。
 そしてとり憑かれてしまうと彼らの心の一部分だったはずの『悪意』がいっぱいに広がって、生き方、在り方のすべてと力の上限を変えてしまう。とり憑かれた存在が大きな力をもっていればもっているほど、たいへんな悲劇を生むわ」

 強力な天使にサタンが寄生して、それで天界は滅びかけたんだから。
 ミカエルはそう結んだ。
 僕は考える。例えば僕がサタンにとり憑かれてしまったら、一体どうなるのだろうか。内なる感情が育まれて、猛るのだろうか。嘆くのだろうか。大それた悲劇を生むのだろうか。
 『悪意』なんて、想像もつかなかった。

「それから?」
「反逆した天使はすべて神格を剥ぎ取られて堕天使となって、天界からたたき堕とされた。その辿りついた先が――地獄。彼ら堕天使はそこを住処として、悪魔になったわ」
「悪魔って天使だったの!?」
「うん、そうよ?」

 初めて聞いた事実に眼を丸くする。
 ミカエルは話を続ける。

「サタンにはまた特別の処置がとられた。すべての霊魂や魂魄は天界にやって来たあと、神から受肉――つまり再び肉体を与えられてまた地上へと還っていく、そう言う輪廻のシステムがあるんだけど、サタンは反逆への処罰として、受肉を受けずに地上へ堕とされたの。だからサタンは一生輪廻の輪には戻れず、地上を彷徨い続ける。『二度と還らない霊魂』になった」
「言い方は悪いけれど、その……彼らを生かしたんだ?」

 無宗教の僕の中の勝手な神のイメージでは、信仰者には優しく不信仰者には厳しい。完璧なる善性で、無慈悲。そう言うものだった。だから堂々と逆らった罪をそう簡単に許すとは思わなかったのだ。
 そう聞くと、ミカエルはとても言い難そうに顔を歪める。

「……生かしておいたのは、許したわけでも受け止めたわけでもなくて、天界の都合によるものなの」
「どういうこと?」
「堕天使たちを生かしたのは、彼らを厄災の象徴とするためよ。地上で何か良いことが起きた時、人は神に感謝する。けれど何か悪いことが起きた時、人は神を疑い始める。だから悪いことの根源、象徴として地獄と悪魔を利用したの。神への信仰を護るために」
「なるほど……それじゃあ、サタンは?」
「……サタンはそもそも概念、霊魂のようなモノだから容易に殺せないのよ。たとえ万全の準備でどうにかして滅しても、誰かの心に『悪意』がある限りいずれまたどこかで生まれてしまう。そこで天使たちは考えたの。――このまま天界で殺してしまうと、また天界のどこで復活するか解からない。封印して置いておくのも不安がつきまとう。地獄へ堕としてしまうと、再び悪魔たちにとり憑いて天界の脅威となるのは間違いない。どちらにせよ天界の崩壊の種となる。ならば――例え誰かにとり憑いたとしても被害の少ない存在ばかりの、地上へ堕としてしまえ、と」
「――なっ……! それって、」
「そう。つまり、わたしたちは畏るべき存在を人間に押しつけたのよ。それも、完璧な善行、間違いない選択のつもりで」

 僕はなんと言うべきなのか迷って、結局言葉を失った。
 天使はサタンが齎す被害の総量を比べて、そして最も被害が少ない合理的な選択をした。きっとそう言うことなんだろう。
 世界の遍く全てを省みて。
 直面する者たちは省みず。
 正直言えば、怒りは湧かなかった。具体的にサタンが何をどうしたかなんて僕は知らないから。怒り方が解からない。
 けれど、この話を聞かされた人間代表としては怒らなければならないんじゃないか、なんてくだらない義憤の思いもあり、僕は口を噤んでしまう。

「間違っていた」

 ミカエルは断言した。

「わたし自身も、最善の選択のつもりでサタンの地上への放逐に賛成したの。天界のシステム、世界の秩序を守らなければと思って。でも間違っていた。地上に来て解かった。この世界や人間はたしかに未完成なところはあるけれど、天界よりもずっと楽しくて美しいところもあるって」

 これも堕天かしら、とミカエルは悪戯に笑った。
決然と真実を語り、自身の関与も語った彼女は、フェアで高潔な天使で、同時に間違いを素直に認める心はとても真っ直ぐだと思った。
 その上で、きっと彼女は待っている。覚悟している。
 人間である僕から、責められることを。
 僕は口を開く。

「ひとつだけ聞かせて。君はそのサタンはどうにかするために来たの?」
「…………」

 本当に小さく、ミカエルは頷いた。
 ああ――。心にすっと落ちる。
 それだけで満足してしまった僕は、果たしておかしいのだろうか。

「解かった。僕はミカエルを許すよ」
「え……?」
「全ての人間の意見じゃあないし、全ての天使たちを許すなんて言えないけど、僕は君を許そうと思う。そう決めた」

 こんなミカエルなら、せめて僕一人くらいは許してあげてもいいんじゃないかって。僕なんかの許しで少しでも気が楽になるのなら、そのくらいはしてあげるべきじゃないかって。
 そう思ったんだ。
 思ったんだから、仕方ない。
 ミカエルの驚いた表情と、そして強い光を灯した瞳が印象的だった。あまりに綺麗で。
 ミカエルは、ふっと表情を緩めた。

「やっぱり、シノブは変な人間」
「君も相当変な天使なんじゃないの?」
「……ふふっ」
「あはははっ」

 夜の街。工場街。笑い合う人間と天使は、空から見たら随分と滑稽かもしれない。
 けれど、僕は彼女と少し繋がった気がした。





[25528] 二日目 (10) 代理戦争!
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/02/14 02:46


「さて、話の続きを聞こうかな」

 一頻り笑い合って、僕たちは再び歩き始めた。

「ええと、サタンが地上へ堕ちたところまで話したよね。そのつづきから。天界はたしかにサタンを放りだしたけれど、決して見はなしたわけじゃなかった。ちゃんと保険はしてあった。また天界に被害を及ぼしては困るからね。
 まず一つは、見張り。巡って来た世界が巡って行く世界になるまで、太陽がおわりそしてはじまるまで、いついかなるときでも常時三名の天使が、地上を遷ろうサタンを監視していたわ。目視じゃなくて、感覚としてだけどね」

 感覚として、と言う意味が良く解からなかったが、ミカエルの話では何でも日がな一日中神殿の隅でジーッと瞑想して、地上でのサタンの動きをイメージとして見張る部署、なんてものがあったそうだ。美しく明快らしい天界で眠りもせずそんな地味な仕事を……僕なら御免こうむる。

「もう一つは、もっと直接的な方法。サタンのもつ『悪意』の概念に、言の葉で呪いをうちこんでおいたのよ」
「まじない?」
「力をもった言葉みたいなもの。相手は概念体だから直接物理的に縛ったりはできないんだけど、言霊ならほぼおなじ位相に存在するモノだし、そこそこの効果は望めるわ。だからその力を使って、サタンに“憑依の制御”と“悪魔祓い”をかけた」
「それはなに?」
「“憑依の制御”はサタンが何かにとり憑けないようにする言葉の縛りよ。これは鉄壁だし、かなりの効果があるわ。天使のなかでも群をぬいて呪いの力をもっていた天使たちが数人選抜されて、これでもかってくらい何重にもかけられたからね。
 “悪魔祓い”はその名のとおり悪魔を撥ね退ける呪い。天界や地獄から地上に行くのは簡単じゃないんだけど、けっしてムリなわけじゃないからね。わたしがここにいるみたいに。だから、悪魔がサタンに易々と手をだせないようにしておいたの。
 この二つの呪いがかかっていれば、理論的には悪魔とサタンは絶対に干渉出来ない。
 そうそう、一応のフォローで人間もサタンに触れないように“人間祓い”の呪いもかけてあったんだけど、堕ちてから数か月で人間たちは遷ろうサタンを見つけて、人間ってかしこいわね。いくら殺してもいずれ復活する『悪意』が丁寧に天使の呪いで縛られているのに、わざわざ滅して解放するなんてことはしない方がいいだろう、ってあっという間に正解に気付いちゃったの。『悪意には触れず』。そういう統一見解が発見から数年でできあがったみたい」

 そう言うコミュニケーションの素早さにはホント感心しちゃう、とミカエルは言った。

「監視はそれから七百年間以上、百年に一度監視役を交代しながらつづけられた。サタンは零体のままふわふわ漂っているばかりだったし、悪魔も何度かちょっかいだそうとしたみたいだけど、高度の呪いではじかれていたから、監視役はなにもおこらない地上をずうっとながめつづける単純作業だったわ」
「……でも何かあったんでしょ?」

 だから天使が、ミカエルがここにいる。
 ミカエルは重々しく頷いて、

「今から十年前、ずっと感知されつづけてきたサタンの存在が、とつぜん消えてしまったの」
「……なぜ?」
「解からない。時間経過とか魔術の類とか、何かの要因で呪いが緩んでだれかに寄生したのならたしかに反応は消えるんだけど、十年間『悪意』に因っていそうな事件は確認されていないし、じゃあ誰かが滅したのか、って言うとそんなことをする者に心当たりもなければ、復活の兆しもないし、自ら消滅を選んだのかって言えば、たんなる『悪意』でしかない概念体がそんな真似をするとも考えにくいのよ。つまり解からないの。なにが起きているのか全く解からない。なにも起こらないのもおかしい。
 その沈黙が、天界はとても怖かったの」

 天使。悪魔。サタン。憑依の制御。悪魔祓い。人間祓い。消えたサタン。騒がしい沈黙。そしてミカエル。

「わたしたちはそれを調べるために地上へきた」

 ミカエルはそう言って長い説明を一先ず区切った。
 僕はミカエルの言葉を咀嚼する。
 つまり天界は地上へ放逐したサタンの様子がおかしくなったので確認にきたと言う訳だ。それ以上のことは考えても解からない。問題は解かるところだけ汲み上げて、シンプルにまとめる。
 そこで幾つか引っかかった点に気付く。

「わたし……たち?」
「ええそう。いま地上にはわたしふくめ五人の天使が降りてきているわ。彼らもそれぞれ契約者をみつけているはずよ」
「五人……」

 それが多いのか少ないのかは、何となく微妙なところ。

「それともう一つ疑問が。サタンの反応が消えたのは十年前なんだよね? どうして今頃になってやってきたの?」

 ミカエルは思考をまとめるように、指を一本立ててくるくる回した。

「それは五人って言う人数にも関係するんだけど、天界から地上に来るって言うのはとても大変なのよ。月齢や星の配置、その他諸々の事情がたくさんからんできて、自由には行き来できないの。それで、十年前から数えて最も早く地上に来れる日がいまだったの」
「ふうん」

 解からないってことが解かった。
 辺りは未だ工場街。
 説明しながらされながらで歩みが極端に遅かったため、まだ石楠花橋にも着いていない。大型トラックがすれ違えるように広く造られた道路の両側は、大きなシャッターを持つトタン屋根の工場がずっと続いていた。積まれた資材や何かの工具、鉄管の絡まったような機械を見ても、何の工場かは解からない。
 静かな夜。
 人のいない街。
 獣の哭き声が聞こえた。
 僕はふと眼を落として。

「ねえミカエル。もう一つ聞きたいんだけど」
「ん?」

 ミカエルに左手の甲を向ける。

「この指輪、なんだっけ“誓約の宝玉”だったっけ? これをしていれば僕は天使の力が使えるんだよね?」
「うん。まあホントの天使みたいに、ってわけにはいかないんだけどね。本当の天使の力を人間が使おうとしたら、それこそ意識か肉体か狂っちゃうし。だからその“誓約の宝玉”でできるのは、羽で空を飛ぶことと、基礎身体能力のアップと、特別な武器を出すことくらい」
「武器って……なんでそんなもの」
「わたしとシノブはそんなことにならないようにするけれど――戦わなきゃいけないこともあるから」

 静かな夜。

「戦うって、誰と?」



「オレとだよ――天使サマ」



 獣の哭き声が聞こえた。
 しゃらんと鎖の擦れる音。

「――――――ッ!?」

 誰もいないと思っていた。
 誰もいない筈だったのに。
 心臓を掴まれたような感覚に、声のした方向、右の工場のトタン屋根の上を見上げる。
 そこに、一匹の獣が座っていた。
 年の頃は十三、四くらいだろうか。癖っ毛の茶髪にカーキ色のファー付きジャケット、片膝を立てて座る彼のジーンズにはパッチワークで継ぎはぎがなされていて、ウォレットチェーンがじゃらじゃらとぶら下がっていた。
 彼は肉食獣のような鮮烈な笑みを浮かべて。

「オレの名前は小鳥遊真人(たかなしまさと)。十四歳。性別男。身長はまだまだ伸びるから今は秘密。猛禽類に憧れる現人間だ。アンタの自己紹介はいらねえよ。殺す奴の名前はバラストにしかならねえからな」
「……なんだ、君」

 声を出して、気が付いた。
 喉がひりついてくっついている。声が上手く出ない。躯も強張って思うように動かない。何故? なんだこれは。なんだこれは。殺す? 誰が? 誰を?
 ミカエルが叫ぶ。

「下がってシノブ!」

 呆然としている僕を、ミカエルが押しやって後ろに下がらせた。彼女は僕を背中に庇ったまま、少年――小鳥遊真人を睨み付けている。
 僕は喉を無理やり広げて大声で尋ねた。

「ミカエル! 彼は誰?」
「……はやすぎる」

 ミカエルは答えない。
 ただ、何かに焦っていることは伝わる。
 小鳥遊は不満げに口を尖らせる。

「んー? あんだよ、知んねえの? しゃあねえな。んじゃあ殺す前に説明してやるから鼓膜存分に振るわせて、聞け」

 薄いトタン屋根の上で立ち上がった。
 その後ろに大きな三日月が見える。
 まるで、夜を背負っているようだ。

「アンタが天使の契約者(ジャスティス)なら、オレは悪魔の契約者(パブリックエネミー)さ。『悪意』サタンと三角関係で殺し合うのがオレらの決まり事だそうだ。お互い天魔の代理人として、いざ尋常に“代理戦争”を始めようじゃねえか」

 少年は、高らかに吠えた。




[25528] 二日目 (11) ケモノと竜
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/02/21 08:53

 今、彼は何と言ったか。

「……悪魔、だって?」
「嗚呼。オレは悪魔の契約者だ」

 小鳥遊は左耳にかかっていた髪をかき上げる。その耳には、彼には不釣り合いな大きな青い宝石のピアスが付いていた。そしてまるで視線を感じたかのように、その宝石は青く強く輝いて脈動した。

「“誓約の宝玉”……!」

 ミカエルの言葉に、僕も自分の左手に眼を落とす。
 つまりこの指輪とあのピアスは同じものってことか? それはつまり――何を意味する?

「おっと。アンタも天使サマを晒してるんだから、オレも見せてやらねえと不公平だわな。おい。……嗚呼? ごちゃごちゃ言うなさっさと出てこい。さもねえと丸焼きにして尻から二つに裂いちまうぞ」

 小鳥遊は誰かと言い争っていて、その言葉に合わせて宝石が青く輝いていた。やがてまるで小鳥遊の言葉に納得したのかのように、その脈動が消える。
 と、同時に轟音が夜を叩いた。
 薄いトタン屋根が激しく軋む。
 そして、小鳥遊の背後に黒い山が現出した。
 否、闇に眼が慣れてくれば。
 それは山などではなかった。
 夜空を埋め尽くす黒い影。黒い巨躯。二十メートル強の体躯を四足で尊大に見せつけ、深く裂けた口元からは一本でも人の頭を丸々削ぎ取りそうな牙がずらりと並んでいた。
 ソレは竜。
 漆黒のドラゴン。
 幻想幻譚に生ける架空生物。
 全身に密集する鋼の鱗はギチリギチリと触れ合って削り合って、屋根の淵を掴む爪は易々とトタンを貫いている。長い尾が蛇のようにゆらゆらと撓って夜空に影を刻んでいた。

「――――――」

 足元が覚束なくてよろける。
 言葉が出ない。
 呼吸も儘ならない。
 黒々とした巨躯の中で唯一爛々と光を反射する両眼。冬空に白い靄を描く強烈な息吹。
 その全てが、何よりも解かり易い畏怖の象徴だった。

「レビヤタン!」

 ミカエルの驚愕の叫びが聞こえる。
 だが僕の方がもっと驚いている。僕はミカエルに縋るように説明を求める。

「な、なんなの。なんなのアレはっ!?」
「……あれは竜種の中の地竜。レビヤタン。まぎれもない悪魔よ」
「あ、悪魔!?」

 ――どうしてそんなものが?
 僕は改めて小鳥遊とその悪魔レビヤタンを見上げる。
 小鳥遊はレビヤタンの鋼の首に触れて、強烈に笑んだ。

「嗚呼、これがオレと契約した悪魔レビヤタンだ。そんなに喚くなって。デカイ蜥蜴みたいなもんさ。ほら喋れ」

 ぺちぺちと鱗を叩く小鳥遊。
 レビヤタンはむずがるように小さく身動ぎして、

『全く……戯れが過ぎようぞ主』

 低い唸り声は何故か人語となって耳朶を叩いた。

『我は天竜が位階弐位、レビヤタン。最も今は“海軍大提督”レビヤタンと云う壱介の悪魔に過ぎないがの』

 レビヤタンと言う竜は鋭い両眼を動かしてミカエルを見た。

『丗に誉髙い熾天使ミカエルと見えるとは。光栄であるな』
「ふん。竜種にして初めて悪魔入りした話題の新鋭悪魔が、白々しい。竜種にとってわたしは天敵のはずだけど?」
『天敵であり、尊敬に値する強者と云う亊だ。竜種は誰であろうと力を認める種族なのでな』
「あら怖い」

 おどけた風を装っているけれど、ミカエルの表情は硬かった。
 彼女のこんなに真剣で強張った表情を見たのは何度目だろう。最初に見た時の彼女には冷徹な美しさがあった。過去の回想を視る彼女には清廉な憂いがあった。けれど、強張っている表情と言うのは初めてかもしれない。
 ――そして、あまり見たくないと思った。
 惹かれるように、僕はミカエルの手を取っていた。僕が彼女に縋りたかったのか、彼女を少しでも楽にしたかったのか、どっちなのかは解からないけれど。
 ミカエルは驚いた表情で一瞬こちらを見た後、少しだけ微笑んでくれた。
 それだけで不安がなくなってしまったのが、少し恥ずかしい。
 僕とミカエルは揃って彼らに向き直った。

「わたしは“神の御前の姫君”ミカエル。そして彼はわたしと誓約を結んだ人間、藤川忍。それで悪魔さん御一行がわたしたちになんの御用?」
「おいおいおい。つまんねえ冗談。今さらそんな鈍ら刀はカンベンしてくれよ。やることなんてハナから決まってんじゃねえか。天悪双方の契約者が出逢ったなら、瞬間、戦って殺し合うしかないだろ?」
「…………」

 ――は?
 疑問が顔に出ていたのだろう。
 小鳥遊は僕よりもぽかんとした表情を浮かべた。

「え? い、いやいやいや。え? まさかマジで大マジでなんも知らねえの? いやいやいや。そんなバカな。ええー? 引くわー」

 君に言われたくない。
 殺すだのなんだの言われる方が引くわ。

「ちょっと待っててレビヤタンの契約者。わたしが説明する」

 と、ミカエルが振り返った。
 竜たちから眼を離していいのだろうか。危なくないのだろうか。

「それで待っててくれるの?」
「あ、あの、貴方の真似よ?」
「僕はそんな危ないことしない」
「えー」

 ごほん、と一つ咳払い。

「さっき説明した月齢や星の並びは、天界だけじゃなくて理の似ている地獄にも影響しているの。天界が地上に五人天使を送れたように、地獄も五人悪魔を送ってきているのよ。反応の消えたサタンを求めてね」
「それでも別に戦う必要はないんじゃ……?」
「うん。そうかもしれないんだけどね」

 ミカエルは口ごもる。

「例えば……いざサタンを見つけた時にどうせ争いになるからとか、先に見つけられて再封印でもされたら堪らないからとか、いろいろ理由はあるんだけど。そもそも、さっき話したみたいに天使と悪魔には因縁があるから、あまり理由とか関係ないのよ」
「そんな!?」

 それじゃあ、まさか。
 鼓膜。
 震える。
 雷が落ちたかのような音がした。

「「―――ッ!?」」

 身を竦ませて、ミカエルと僕は振り返る。
 視線の先、工場のトタンの屋根は剥がれ落ち、壁はひん曲がって罅が入り、全体が斜めに傾いてしまっていた。やったのは竜、レビヤタンだろう。しかし、やらせたのは――、

「……俺はいつまでもおあずけ聞いとくほど躾のなった獣じゃねえぞ」

 強く踏み出した右足はレビヤタンとシンクロするようにトタン屋根を踏み曲げている。
 宵闇に、二対の双眸が輝いて。

「戦え。今すぐに」
「ちょ――」

 あ。
 ああ。
 解かっちゃった。
 無理だ、って。
 話なんて通じない、って。
 一瞬で解かってしまった。
 小鳥遊と視線が合った時。
 肉食獣の眼に射られた時。
 人間の僕では、獣である彼と話し合いなんて出来っこないって。
 詰まるところ、僕らの間に許されるコミュニケーションなんて最初から一つしかなかったんだ。
 狩るか狩られるか。
 喰うか喰われるか。
 そう言う自然界不文律の掟しか。
 ……人と、獣。
 深呼吸、首を左右に振る。
 そうと理解した瞬間に、僕の中の意図的に作り出したスイッチが切り換わった。OFFからONへ。ONからOFFへ。眼の前の暴力に備えて、思考と躯が研がれていく。
 僕の日々の鍛錬は、このスイッチの素早い切り替えのためにあったと言っても過言ではない。さっきまでグダグダ言っていた僕を無理やりに心の奥へ押し込める。泣きだしそうな心を縛りつけてその辺に捨てて置く。
 眼を開いて、眼を瞑るんだ。
 いかに自らの身を守るか。いかにこの獣を捕らえるか。それだけに専心しろ。

「ようやくやる気になってくれたか」

 小鳥遊はこれでもかってくらいとびっきりの笑みを浮かべた。
 右手をゆっくりと真横に伸ばす。少年大で小さかった筈の影が、巨大に揺らぐような錯覚を見る。
 ――間違いない。明らかに彼の力は強大だ。静かな伊織先輩とは種類が違い過ぎて比べられないけれど、少なくとも僕よりは強い。子どもと思って油断したら、いや油断しなくても危ない。
 そう言う前提でもって、より気持ちを引き締めた。
 戦いに専心する。専心する。専心する。
 ……しかし――、考えないようにしても考えてしまうのは、こんな幼い少年がどうしてこんな力と在り方を持っているのか、と言うことだった。

「レビヤタン」
『応』

 ふ、っとレビヤタンの巨躯が消えて、夜空を背負った小鳥遊の右手は月を掴んでいるように見えた。左耳の青い宝石がぼんやりと暗闇を照らす。
 解かる。皮膚感覚で感じる。眼の前の死が高まっていく。
 小鳥遊の口が、短く小さなフレーズを、紡いだ。

「水斧(レビヤタン)」

 音も無く。
 しかして、ソレは顕現した。
 伸ばした右手の先に顕れた、長く細い棒のようなシルエット。その手を頭上に掲げる内にそれはゆっくりと回転して、頂点に掲げ切った時、そのシルエットは本当の姿を顕した。
 それは二つ目の三日月。
 遥か遠くの宇宙空間で孤高に浮かぶ三日月と似た、けれど性質の全く異なる鋼の塊。
 小鳥遊の身長よりも遥かに大きな斧だった。
 両手持ちの柄の片側には巨大な三日月型の刃が、逆側にはそれと相似形の小さな刃が付いている。柄は白く滑らかで、石突きから先端にかけて幾何学的な薄い水色の脈動が見えた。
 意思に関係なく、唇が小さく震えた。
 相手の年齢がどうだ、なんて悩む気持ちすら一切死んだ。
 固めた決意すら容易に揺らいだ。
 全身に強烈な寒気と恐怖が奔る。
 あれはいけない。
 あれは危ない。
 なんて重量感。なんて分厚い刃。なんて凶暴さ。触れたら斬れる前に圧し潰されてしまうんじゃないだろうか。それほどの脅威をあの武器に覚える。

「いけないっ、シノブ逃げるわよ!」

 その危うさをしっかり感じ取ったのだろう、ミカエルが僕の手を掴んで元来た方へと逃げようとする。
 けれど、僕は力を籠めて逆に彼女を押し留めた。
 慌てた様子でミカエルが振り返る。

「どうしたの!? いそがないと危ないわ」
「無理だよ」

 僕は小さく首を振る。

「彼からは、もう逃げられない。今背中なんて向けたらただの餌になっちゃうよ」

 僕は小鳥遊から決して眼を切らない。視線を合わせたまま、少しずつ慎重に後退った。
 小鳥遊はまるで小川の水流のようにゆったりと水斧を動かしていた。頂点から、躯の前を通過して下へ降ろす。加速も加重も加えず、羽根のようなタッチでトタン屋根に刃を置いた。すると水斧は鋼の重さと重力だけで、バターのように易々とトタンを斬り裂いた。
 まるで準備運動だ。跳びかかる直前のチーターのよう。
 ミカエルも彼を見て、そして覚悟したようだ。握り合った手に、ぎゅっと力が籠もった。

「……全く、どうしてこんなことになるのよ」

 彼女は不満げに唇を尖らせる。
 僕は心の中で「それは僕のセリフだよ?」と無理やり苦笑しながら、この場を乗り切る方法を全力で考え始めた。





[25528] 二日目 (12) 猛る、そして
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/02/22 14:14

 まずどうにかして、ミカエルを逃がさなければならない。
 彼女は天使だけど今は力は使えないそうだし、あんな化け物相手では勝負にならないだろう。……まあ僕もなんだけど。
 だから僕がその時間を稼ぐ必要がある。
 その為には武器だ。
 あの凶暴な水斧に対抗出来るだけの強力な武器がいる。
 僕はゆったりとした舞を続ける小鳥遊を警戒しながら、注意深く辺りを観察する。
 木材、話にならない。触れるだけでもイカれてしまう。
 鉄管、重すぎて太すぎる。せめて鉄パイプだったなら。
 どこかの工場に押し入ればちょっとした刃物くらいはあるだろうか。いや、あっても小物が精々、後は大型の工具だろう。
 どうやら選択肢はとても少ない。大体こんな工場街で、あんな化け物相手に満足のいく武器などあろう筈もなかった。
 ならば矢張り木材だろうか。軽さと短さで懐に入って攻める。鉄管にしたところでどうせ水斧の攻撃を受け止めることなんて一度も出来っこないのだから、木でも然程変わりはない。

「…………」

 ほんの僅か視線をずらして、右の小鳥遊の立っている工場の外、彼の死角になる位置に木材が積まれているのを見る。角ばっているので持ち辛そうだが、贅沢は言ってられない。
 工業トラック用の広い道路の真ん中にいるのが悔やまれる。あそこまで目算で八メートル五十、取って構えるまで時間にして三秒から四秒掛かるだろう。
 震えるな脚。
 溺れるな体。
 臆するな心。
 ――行くしかない!

「ミカエル、僕が動いたら全力で逃げて」
「え? ちょっと待っ――」
「GO!」

 地面を蹴り飛ばして駆ける。
 辿り着くまでに相応の時間は掛かるけれど、小鳥遊の位置的には僕の姿はすぐに死角になる筈だ。跳びかかられても、その動線を遮って二回に分けてやれば間に合う筈。
 しかし、予想に反して小鳥遊は動かなかった。
 理由は解からないけれど、これならいける! と思った。

 ――いや、勘違いした。

 死角に飛び込む、その直前の刹那。
 僕は強烈に膨れ上がる殺意と、水斧を振り上げる小鳥遊と、そして自らの失敗を悟った。
 得物まであと数メートル。
 けれど獲物まであと数秒。
 耳が痛い、鼓膜を劈く金切るような音が鳴って、次の瞬間、工場上部が弾け飛んだ。

「なっ!?」

 信じられない、
 まさかただの一撃で工場を倒壊させたのか!
 ばらばらと空を踊る破片。ぐにゃりと拉げてこちらに倒れてくる工場全体。煙や埃を舞い上げて、それらはちょうど工場横に滑り込もうとしていた僕に殺到した。

「シノブ!」

 ミカエルの声が聞こえる。全く、逃げろって言ったのに。
 スロウ映像のようにゆっくりと、眼の前の景色が流れる。
 トタン。硝子。漆喰。危険なものとそうでないもの。木材。漆喰。工具。トタン。目前に迫る脅威に、防衛本能が躯を丸くしろと言う指令を全身に飛ばす。しかし――ダメだ! 防衛よりも強い生存への本能が、指令への従属を強く拒んだ。
 目前の脅威を超えて、空の向こうの脅威を透かし見る。
 鉄骨と木材の隙間、透明硝子の向こう側に。
 空を飛ぶ百獣が見えた。

「――――――」

 頭脳より先に、反射で四肢の筋肉が動きだす。
 保身より先に、反射で破片の海へ身を投げる。
 硝子が頬や服を傷付けることも厭わずに。
 数瞬後、僕がいた地面に、流星のように降って来た水斧の石突きが深々と突き刺さった。小鳥遊は水斧の上に立っていた。元々の超重量と小鳥遊の体重、そして重力を用いた乱暴な一撃は、土の地面なんて易々と爆砕した。

「うわあっ!」

 強烈な爆風が辺りの破片もろとも爆心地から僕を吹き飛ばす。
 体勢を整えられない。辺り一面真っ白で上下が解からない。無様にごろごろと転がって行った先で、僕は何か柔らかい感触に顔を埋めるように受け止められた。
 躯中に奔る痛みと鼓膜の痺れに耐えながら、埃塗れの世界で薄く眼を開く。

「大丈夫?」
「……逃げろって言ったよ?」
「ごめんね。日本語ってむつかしくて」

 埃の中でも一際眩い金色の天使は、悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を見た。
 彼女は膝立ちになって僕を正面から受け止めてくれたらしい。一瞬、すべてひっくるめて包まれるようなあまりに優しい感覚に忘我しそうになったけれど、すぐに緊張感を取り戻して立ち上がる。
 小鳥遊は、深く刺さってしまった水斧を抜くのに悪戦苦闘していた。がしがしと頭をかきながら、墓標のようになった水斧の周りをぐるぐる回っている。
 少し時間が取れそうだ。

「今のうちにミカエルは逃げるんだ」

 僕がそう言うと、ミカエルは何故か肩を落として大きく溜息を吐いた。

「あのね、シノブ。わたしの説明聞いてた?」
「は?」
「わたしたちは契約したのよ。協力者なの。シノブはわたしのなんだったっけ?」

 それは、最初に交わしたあの不思議な言葉の話だろうか。

「えっと……、器だっけ」
「そう。そしてわたしは貴方の剣。わたしたちは二人でひとつなの」

 ミカエルはどんと胸を叩く。

「わたしが力を貸す。だからシノブはそれを使って」
「それって――」
「だらああああっ!」

 叫び声が響いて振り返る。視線の先、小鳥遊は水斧の両刃を両手で握って、頭上に掲げていた。深く埋まった水斧を無理矢理地面から引き抜いたようだ。それにしても……掴むところが酷過ぎる。
 再び肉食獣の嗤いを浮かべた小鳥遊の掌からは、鮮烈な血液が滴っていた。

「さあ、続きだ」

 水斧の柄の脈動を伝って、石突きから血が垂れる。けれど小鳥遊はそんなこと気にもかけていなかった。

「たらたらたーたらたーたー」

 上機嫌に寂しげなメロディを口ずさみながら、ぶんぶんと頭上で水斧を振り回す。強烈な風圧と、それに乗って飛ばされてきた血液が頬を叩いた。拭った手の甲が赤く染まる。
 赤。
 なんて鮮やかな。
 赤。
 麻痺させろ。
 愚鈍にしろ。
 僕は瞼の裏の叫び出しそうな自分を殺し続けている。そいつは強くて、不死身で、大きくて。
 す、と背中に手が触れた。

「――――――」
「大丈夫」

 柔らかい、てのひらの感触。
 僕は後ろを振り向けない。だから彼女とはほんの少しも眼を合せていないのに、どうしてだろう、触れあった先から彼女の慈しみが十全に伝わってきて、僕を包んだ。
 ミカエルは耳元で囁く。

「わたしを信じて。貴方は一言――って言ってくれればいい」

 大丈夫。シノブはわたしが守るから。

「行くぜ! 頼むから簡単に喰われてくれるなよ!」

 大きく膝を曲げて身を屈め、四つん這いに近い体勢になった小鳥遊は、愉快だと言うかのように嗤う。
 きりきりと張り詰める緊張。
 僕と小鳥遊の視線が交わって。
 ――ああ。
 ああなんて愉しそうな。
 血液の匂いのする笑顔。
 眼に痛い。
 羨望。
 耳に痛い。
 静寂。
 心に痛い。
 何か。

「ァアアアッ!」

 ――来る、と思って僕が身構えたその数瞬前に、彼は動いていた。
 小鳥遊の両脚に力が籠もって、地面に反発するように凶暴な兵器は放たれる。
 地面を滑るように一直線で獲物――僕の元へ。
 掲げた鋼が三日月を食して、黒い月が昇った。
 無防備な僕へ、振り下ろされる水斧。
 それでも、僕はその場を動かなかった。
 さっきまで感じていた背中の温もりはもう感じない。手のひらの感触は残っていない。けれど一人じゃない。
 やるべきことは、きっと一つ。
 言うべき言葉は、きっと一つ。
 左手の指輪に、あの温もりは宿っている――!


「聖剣(ミカエル)!」


 黄金の光が世界に溢れた。
 食された月の代わりに、それ以上に、昏闇の街を照らしだす強烈な黄金。まるで満月が落ちてきたかのようだった。
 やがて、緩やかに光が収まって――。





[25528] 二日目 (13) その名は聖剣
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/02/25 15:36

 小鳥遊は嗤った。

「……――ハハ、ハハハハハッ! よかったよかった」
「…………」
「武器も持ってない奴を殺したって、面白くもなんともないもんなあ!」

 巨大な水斧の刃は、虚空で止まっていた。
 止めたのは、剣。
 僕の持つ、剣。
 黄金の刀身と、白い柄と蒼い鍔を持った、西洋剣。
 鋼を打ちあわせて、僕は後ろに飛んで距離を取った。と、何故か躯が驚くほど軽くて、浮かぶように十メートルほども飛び退ってしまう。びっくりして少しよろけた。
 僕は改めて手の中の武器を眺めた。
 細い両刃の剣だ。黄金の刀身には一点の曇りもない。濃い蒼色の鍔には小さな宝石が無数に輝いていて、白い柄は段々の渦のような握りになっていた。
 不思議だ。まるで長年扱ってきた武器のように、しっくりと手に馴染む。

「これは――」
『貴方の武器よ、シノブ』

 声が聞こえた。ミカエルの声。僕は指輪を見る。

「僕の、武器?」
『そう。言ったじゃない。天使の力を貸し与えるって。そのときに武器もだすって』

 そう言えば、そんなことを言っていた気がする。入って来る情報が多すぎて忘れていた。

「じゃあこれが、天使ミカエルの力なの?」
『いいえちがうわ。契約であらわれる武器は天使と契約者のマッチングで変化する。だから、それはまぎれもなくシノブの武器、オリジナルよ』
「僕の武器……」

 その言葉になんだか心が熱くなる。争いごとは嫌いだけれど、美しい武器に心昂るのは男の性だ。
 いるじゃないか、眼の前に。そんな感情の塊みたいな奴が――。
 小鳥遊は確かに子どもみたいな裏のない笑顔を浮かべた。

「いやあ、安心したぜ。これで楽しく美味しくお前を喰らえる」
「……ずいぶんと余裕だね」
「あん?」
「君の言う通り、僕はこうして武器を手に入れた。もう喰われるだけじゃ終わらないぞ」

 これは虚勢だ。
 眼の前の少年は、どんな武術を修めているのか知らないけれど、明らかに僕よりも上の実力を持っていると僕自身が感じている。
 喰われるだけじゃ終わらない――それは死ぬ間際に窮鼠の一噛みくらいは出来るかもしれないけれど、所詮その程度しか出来ないと言うことだった。
 そこまで考えて、改めて身の毛がよだつ。
 なんだよ「死ぬ」って。そんなもの、身近に置いておくものじゃないだろう。
 しかし、

「嗚呼、最高だ! 久々に俺にそんな口をきく奴と会った。悪魔と契約してマジでよかったぜ」

 彼は、「死」を抱きしめて尚笑った。何故だ。何故その年齢で、何故人間でありながら、そんな境地へ。
 そんな彼に一層の恐怖を抱く。
 ――くそ、スイッチの切り換えが上手くいかない。

「話はおしまいだ」

 はっと顔を上げた。
 視界いっぱいに、弾けるように迫る小鳥遊。振りかぶられた水斧が僕目掛けて真横に薙がれる。

「ぐうっ――うわあ!」

 聖剣で受け止めたけれど、その一撃は容易に僕の足を地面から浮かせて吹き飛ばした。

「がッ!?」

 倒壊した工場とは反対側の工場のシャッターに、強かに背中を打ち付けて座り込む。耳触りな音を立てて、シャッターはぐにゃりと曲がった。呼吸が詰まる。けれど躯は痛んでいないようだ。これが身体の強化と言う奴だろうか。

『シノブ前!』

 言葉に従い前を見る。
 さっきと同じように再び飛んでくる小鳥遊の姿。
 危険だ。一時的に止まった酸素が四肢の反応を鈍くしている。動けこの馬鹿足! 動かなきゃ死ぬぞ!

「うおおおりゃあああ!」

 咆哮が迫る。

「――羽よ!」

 振り抜いた水斧と、咆哮の勢いそのままに工場に突っ込んでいった小鳥遊。
 破壊。破壊。破壊。
 なんとたったその一撃で、さっきまで自立していた工場は斜めに傾いで、砕けた破片が空を舞い、竜巻に呑みこまれたかのような半壊状態になってしまった。

「……狂ってるなアイツ」

 無残な姿の工場と立ち上る砂煙と埃を、僕は上から眺めながら一人ごちる。
 僕の背中には三対の白翼が空を掴んで揺れていた。
 小鳥遊に蹂躙される直前、僕は咄嗟に羽を顕現させて空に飛び上がった。まだ二度目の異物感だったけれど、思ったより上手くいった。

『怖い子ね。あんなに小さいのに』

 指輪から聞こえるミカエルの声も驚きに満ちている。ただ気持ちは解かるけれど、とりあえずその『小さい』って言葉はホントに小さい奴にとって禁句であることがままあるから、小鳥遊の前で言うのは止めて欲しい。あれ以上切れられたら堪らない。

「それにしてもあんな攻撃を続けられたらそう何度も持たないよ。どうすればいい?」
『…………』
「ミカエル?」
『……わたしは正解を知ってるわ』
「教えてよ」
『――殺すの』

 …………。
 もうもうと巻き上がる埃で、小鳥遊の姿は、まだ、見えない。





[25528] 二日目 (14) 覚悟
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:2e399848
Date: 2011/03/02 21:04


『“誓約の器”は、エデンの東の樹木で長い時間をかけて創りだす神の宝物。地獄においても煉獄の窯で魂魄を醸成して生みだされる魔の産物。その有り余るパワーと気質は天使悪魔でも持て余すほどよ。だから御しきるために、ひとりひとつしか持っていないのよ。絶対に、ひとりに、ひとつ。
 だから不可逆不可侵の契約を結んだ者を殺されれば、新しい“誓約の器”を持ってこなければあらためて誰かと契約を結びなおすことはできない。そして、この地に渡ることが可能な月齢はもう崩れている。一度帰れば、それはこの戦いからの離脱を意味するの。
 天使や悪魔は独りで地上に居座ることはできない。人間との繋がりのなくなった『架空種』は異物として世界の理に追いだされてしまうから。……つまり、契約者さえ殺せば、この戦いが終わるどころか一人の悪魔が退場する。万事解決なのよ』
「…………」

 夜が、また静寂を取り戻してきた。
 小鳥遊は、まだ、出てこない。

『解かってる。解かってるわシノブ』
「……なにが?」
『貴方には、殺せない』

 僕はまだ何も言っていない、どころか何も考えていないかもしれないのに。
 ミカエルはそんなことを断言する。

『貴方の理想は優しすぎる。貴方は戦うことなんて出来ない。それどころか、いきなり「殺す覚悟」を持て、なんて出来るはずがないわ。出来たと思ってもそれは勘違い。真実じゃない。だから逃げるのよ。「殺す覚悟」を持っている人間に、「殺す覚悟」を持っていない人間は太刀打ち出来ないわ』

 それは実力以前、前提の話よ。
 結ばれた。
 ミカエルの言葉は、僕の心の底で、何度かバウンドした。かーんかーん、と空しい音を立てて、何度もバウンドした。
 少し違った。
 ミカエルは僕に「殺す覚悟」を持つことなんて出来ない、と言ったけれど、それは少し違った。
 僕には想像が出来ないだけだ。自分が、悪意を持って、誰かを殺すと言う姿を。
 それはあの空に昇る月の孤独を知ろうとする行為に似ていた。

「……まあ、結論は一緒か」

 なんにせよ、僕に「殺す覚悟」は出来ないと言うことだ。そしてそれが招く結果も概ねミカエルの言う通りだろう。
 意識し認識した上での「殺す覚悟」は、その難しさ故に、得た時には圧倒的な力を発揮する。一振り一振りに籠もる意志が違うのだ。僕は白禅師匠で学んだ。
 生半可では勝てない。戦えない。
 けれど。

「僕は逃げないよ」
『どうして!?』

 ミカエルの声は思いの外大きくて、僕は驚いた。
 心配と、焦りでだろうか。
 それが僕の胸を打った。

「ここで僕が小鳥遊を止めないと、彼は他の人に手を出すかもしれない。そうすればその人が救えない。もし反撃にあって小鳥遊が傷つけば、今度は小鳥遊が救えない」
『え―――』
「僕は困っているひとをたすける。僕の手が届くのなら、太陽だって救うんだよ」

 それが僕の在りかた。
 心に刺さる理想の楔。

『そんな……そんなのってない』
「もちろん君もだよミカエル」
『え?』
「小鳥遊を止めて、君の願いを叶えなきゃ」

 それが彼女との約束のはずだ。
 だから僕としては当たり前のその言葉だったのだが、ミカエルは何故か息を呑んで、そして黙り込んでしまった。長い沈黙に、どうしたのかと指輪に眼を落とす。

「ミカエル?」
『…………』
「ねえ、どうした――」
『……――もう我慢できないわ!』
「うわっ」

 急にぴかぴかと強い光を発する指輪。
 続いて、ミカエルの怒った声が頭の中でがんがん響いた。

『なにが「困っているひとをたすける』よ。いちばん困ったちゃんなのはシノブじゃない! 赤の他人どころか敵まで心配しちゃってさ。言わせてもらうけどね、そんな理想を理想だって解かっててなお信じているなんて、破滅的もいいとこよ。……理想は自分を強くするけれど、けっして救ってはくれないんだから!』
「お、落ち着いてミカエル」
『うるさい!』

 僕の制止も通じず、ミカエルは言葉を吐き続ける。
 シノブは人を信じすぎだとか、私は天使だなんて言うやつがいたらもっと疑いなさいだとか。
 それを君が言うの? と言葉を挟む隙間を探しながら彼女の話を聞いていて、

「―――ッ」

 指輪を手で包みこんで光と話を遮った。

『わ! ちょっとなにするのよ』
「ごめんミカエル。話はあとで。……来るよ」

 ゆっくりと治まって来ている埃の表面が、ゆらりと渦を巻くように揺らぐ。
 僕が注視しながら剣を構え直した、その瞬間、漂う埃を台風の眼のように吹き飛ばして、小鳥遊は飛び出してきた。

「ハハハハハハハハハハハハッ!」

 手には巨大な鋼鉄の月。
 背には漆黒な一対の羽。
 ジャケットの背を破って突き出していた。
 悪魔の羽は黒いのか。そんなことを頭の片隅で思いながら、思考を研ぎ澄ましていく。
 小鳥遊はミサイルのような前傾姿勢のまま、水斧が横に思いっきり振りかぶられる。
 接近、そしてお互いの間合いに入る。射程距離だ。武器の長さは向こうのが上だけれど、腕の長さも含めてリーチには不利と言えるほどの差はない。そもそも、もしかしたらあの武器にはリーチは関係ないのかもしれない。
 小鳥遊の攻撃の選択肢は――横薙ぎほぼ一択。
 オレの選択肢は、攻撃か防御か回避か。
 ……一つだけ確かめたいことがあった。
 腕の筋肉を固める。

「死ねやぶっ飛べ!」

 予想通りの軌道で迫る水斧を、僕は聖剣で受け止めた。
 鋼がぶつかる。
 左手で柄を握り、右手で刀身を支える。足が地面を噛めない代わりに背中六翼全てを全力ではためかせて、対抗の推進力を稼ぐ。躯各所の筋肉が盛り上がり、骨と骨の強度と結合を高める。
 しかして、僕は僕を振り絞った。
 けれど、

「ぐううっ!」

 彼には遠く及ばなかった。
 加速度を増した水斧とそれを受け止めた聖剣は一瞬均衡を保ったものの、圧の差は歴然だった。
 勿論、僕の負け。
 指先から手首を通して上腕まで、衝撃を受けた全ての骨が軋む。やわな筋肉が断裂する音がする。

「おっしゃあっ!」
「うわああああ!」

 小鳥遊はホームランをかっ飛ばしたスラッガーのように水斧をストローク。
 僕は空を飛ばされてしまった。

「くそっ!」
『大丈夫!?』

 ぐるぐると回る視界。やはりまだ慣れなくて難しいけれど、羽で上手に前後を取り戻す。ただし留まることはせずに空を飛ばされ続ける。少し離れて考える時間が欲しいからだ。
 確かめたかったのは、僕が彼の攻撃を受け止めることが出来るのかどうか。戦術の幅に大いに影響するから。
 これで解かった。不可能だ。
 僕は彼の攻撃を受け止めることは出来ない。
 もしも力の逃がせない地面であの攻撃を受けてしまったらただじゃすまないだろう。
 ……大丈夫。それならそれで、やりようがある。

『シノブ、“誓約の器”をねらって』

 急にミカエルがそう言った。

「え?」
『さっきも言った通り“誓約の器”は貴重なもの。替えのきかないもの。だからあれを壊しても悪魔は戦えなくなって、戦いは終わるわ。契約者の最大の弱点なの。的は小さいけどね』
「なるほど……」

 確か小鳥遊の左耳に輝いていた蒼いピアス、あれが“誓約の器”だったはずだ。

『でもひとつだけ約束。逃げるチャンスがあったら絶対に逃げて。相手は、枷だらけのシノブが勝てる相手じゃない』
「解かった。……ごめんね。ありがとう」
『まったく!』

 ぷいっとそっぽ向くミカエルの姿が見えた気がした。

「よし!」

 ばさばさと羽をはためかせて空中で停止する。
 相手は小鳥遊真人!
 標的は“誓約の器”!
 目標はどっちも無傷!
 理想を賭けて大勝負!

「どこからでもかかってこい!」





[25528] 二日目 (15) 激昂
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/03/15 22:19

 ………………。
 …………。
 ……。
 ……あれ?

「おかしいな。来ないぞ」
『上!』

 はっと自分のいる空の、さらに上空を見上げた。
 暗い夜空よりなお昏い、獣のシルエットが――。
 僕は僅かな羽ばたきでバックジャンプ。その数瞬後、明け渡した場所を唐竹割りのごとく振り下ろされた水斧の暴力が薙いだ。すぱっと空気が割れた、と言うよりも、空気に大穴が開いたように見えた。

「チィッ! ちょこまかとちょこざい!」

 急降下してきた小鳥遊はまるで四つ足で踏ん張ったかのように空に着地する。
 両眼を吊り上げて歯を剥いて、口から熱い息を吹き出す小鳥遊。躯中と精神が燃え滾っているようだ。
 ――戦闘狂、と言う言葉が自然と頭をよぎった。

「こんにゃろう!」

 小鳥遊は再び一直線で突っ込んでくる。

「さっさとォ! 喰らってェ! 殺されろォ!」

 乱暴な叫びと共に、水斧が右に左に無造作に振り回される。その一撃一撃全てが死に至る威力だけれど……。
 難しいどころではないが、出来る限り直近の死の緊張を忘れて、眼の前の攻撃を視ることに集中する。
 随所の動作を見るに、小鳥遊には矢張り何らかの武術の心得があるのだろう。それも少年にも関わらず僕なんかより遥かに円熟したものが。プラス、あれだけの鋼の巨塊を振り回すパワーがある。通常であれば太刀打ち出来るわけがない。
 しかし、小鳥遊は熱くなりすぎていて、攻撃の一つ一つが相当大振りになっていた。ちゃんと視ることが出来れば――恐怖で躯を固めることがなければ――避けることが出来る!
 今まだ僕が生きていることが証明だ。
 ……――ただ一つ気がかりがあるとすれば。考え抜いた作戦も磨き上げた武術もへったくれもない、ただ躍動する恒星のようなあの姿こそが――まるで彼の本来の姿のように見えるところだ。

「おらァ! おらァ! おうりゃあァ!」
「ふっ、はっ、――っ!」

 かわす。かわす。かわす。
 振り被る方向を良く視て、そこから軌道を先読みして回避する。時折スレスレを掠めて行く刃に躯中から汗が噴き出すけれど、脳内は死の恐怖が積み重なり過ぎて既に飽和状態だった。それ自体は都合が良い。
 暫くはそのまま、麻痺していてくれ。
 躯は反射で動かそう。
 繰り出される水斧の、その向こうの小鳥遊の、更にその左耳を僕の眼は追う。耳にかかる茶色の髪が靡いて、チラチラと強い蒼の輝きが点滅して視えた。
 あれを壊さなければならない。
 あれだけを壊さなければならない。
 数百キロの重量を持つ台風に突っ込んで。
 あの小さい標的を壊さなければならない。
 …………ってどうやってだ!?

『わっ。シノブどうしたの?』
「とりあえず逃げる!」

 小鳥遊に背を向けてグライダーよろしく滑空飛行、全力で逃走する。地上から五メートル程の高さをキープして、工場街を右に左に飛び抜けた。髪が靡いて、冬の寒い風圧が痛い。人に見られたら僕は天使扱いだろうか。それとも変わった鳥扱いだろうか。
 僕は風に負けないように大声で叫ぶ。

「こんな大きい武器でピアスだけ斬るなんて無理だよ!」
『でも……、“誓約の器”は聖剣じゃなきゃ斬れないわ』

 小鳥遊は僕を信念で殺す。
 僕は小鳥遊を信念で殺せない。
 それ自体は悔いても恥じてもいないけれど……これが「殺す覚悟」を持つ者と持たざる者との差の一端か。

「待ちやがれこんにゃろうっ!」

 大声で響いた怒声に、僕は速度を保ったまま、首だけで後ろを確認する。バトルマニアとしては逃げると言うのが許せないのだろう。小鳥遊は先程よりも一層怒り狂った表情で、同じように羽を広げて追って来ていた。
 小鳥遊は徐々に僕との差を詰めながら、追いついた瞬間に喰ってやろうと右手で横に目一杯水斧を振りかぶっている。
 より強い力の籠められたそれは、一撃で真っ二つにされるどころか粉砕されそうな気がした。
 ――その瞬間、僕に、恐怖と、そして戦術が舞い降りる。
 さっきより力の籠められた水斧。
 見るからに苛立っている小鳥遊。
 威力の上がっている分、軌道は一層単純で――。

「ッ!」

 僕は躯を起こして、風と羽の力で急制動をかけた。そのまま宙返り一回捻りをうって、後ろを振り返る形で空に停止する。

『シノブ!?』

 剣を躯の前で構える。
 雑念から意識を閉じる。
 集中。
 集中するんだ。
 視界を狭く、塞いで、研ぎ澄ませ。
 飛んでくる小鳥遊と眼が合った。
 ぞわりと、彼の獣性が爆発的に高まった。

『ダメよシノブ、逃げて!』
「ハハハハハッ! いい度胸だ死ねエ!」

 獣が速度を殺しながら目前に迫って。
 射程距離に収まったところで、放たれる水斧。
 小鳥遊の右からの、横薙ぎ。
 軌道は解かっていた。水斧のリーチも解かっていた。
 後は度胸と正確さ。
 迫る水斧。
 やってやるさ。
 僕は受け止めるように見せかけていた剣を下げて、後ろへ上半身を逸らした。腹筋に力が籠もる。
 そうして空けた数十センチのスペース。
 そこを、水斧は通り抜けた。
 目前を通り過ぎた水斧は圧倒的な風圧を僕に浴びせて、弛んだ制服の一部も切り裂いて行った。
 けれど、かわした!

「お、おわっ!」

 今まで超重量の水斧をコントロールしていた小鳥遊だったけれど、この時ばかりは遠心力に振り回されるように体勢を崩した。
 その姿を視た瞬間に、僕の中のスイッチがオールグリーンに切り換わる。
 躯を跳ね起こして、西洋剣を振り被った。
 小鳥遊は右脇腹から背中の辺りを無防備にこちらに晒している。フードのファーと肩越しに小鳥遊と眼が合う。驚いているのだろうか? 口元が見えないから判断がつかない。
 構うな。今しかない。

「ふッ――」

 この隙を見逃さず、僕は蒼い光を目掛けて剣を抜き放って――、

「……え?」

 人形のような小鳥遊。大きく晒されて隙だらけの右半身。和毛の襟足。暗いカーキ色のジャケット。白いファー。ジャラジャラと鳴るウォレットチェーン。
 蒼い光。蒼い光。蒼い光はどこに?
 ――ダメだ!
 聖剣を抜き放つ直前で押し止めた。
 間髪入れずに大きく距離を取る。

「くそっ」

 攻撃は失敗だ。
 大きなチャンスを逃してしまった。死の存在を垣間見てまで得た機会だったと言うのに。しかし、あの体勢では左耳のピアスは見えなかった。……残念だが、仕方がない。そう思わなければならない。気落ちしてしまわないように、再び深呼吸で気を張った。

「…………?」
『なんなの?』

 けれど、すぐに訝しむ。
 小鳥遊が、中途半端に背を向けた状態から動かない。しかもまるでマリオネットのように無防備に、全身を脱力していた。
 獣らしからぬ。
 まるで獣らしからぬ。
 今まで渦を巻くように小鳥遊の周囲を沈滞していた暴力の気配が、すっかり消え失せてしまっていた。終始感じていたプレッシャーから解き放たれて、けれど何故か一層の緊張感が僕の心を包む。
 そう、予感させる。
 海の汐のようなものだ。
 引いて行った海は、必然、満ちるために帰って来る――。

「なんでだ」

 俯いて、振り返る小鳥遊。
 儚い小さな声。
 ああ、これも汐。
 ユラユラと揺れる汐。
 最初が儚いならば。

「なんで武器を止めやがったクソッタレがァッ!」

 次に来るのは魂だ

「致命傷を負うはずの隙だったぜ。だからギリギリ戦闘不能にならねえための回避を試みた。斬られた瞬間、そのまま斬り返して殺してやろうと思った。そんなヒリヒリした戦闘……てめえは、その全てを、ゴミにした」
「…………」

 眼を剥いて、歯を剥いて、小鳥遊は憎しみをぶつける。
 ――実は、この時点で、ミカエルは指輪を通じて僕の心に、何度も何度も呼びかけていたらしい。

『今すぐ、逃げなさい』

 その言葉を、何度も何度も。
 けれど眼の前の獣に呑まれてしまった僕は、それを固まった心で聞き逃してしまっていた。
 逃して、しまっていた。





[25528] 二日目 (16) 終わりの気配
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/03/21 23:57

「ゴミにしたんだよ穢れ無き闘争を! 錆びついたクソみてえな偽善で!
 ……生き物にとって殺し合いは単なる会話だが、生存競争は本能だ。誰もが生きるために生きているし、生きているから生きている。生きる理由なんていらない。殺されそうになれば人は全てを曝け出す。だから、どんな怪物相手だって、人は命を諦めない。――俺は、その全霊のぶつかり合いがしてえのに。
 ……興醒めだ。全く興醒めだ。折角、六年振りの精一杯楽しい戦いだったのによ。もういいよ。もういい。終われよ。終わっちまえ。死ね」

 彼の姿が消えた。
 心臓の鼓動が一瞬で跳ね上がる。僕の眼は彼の姿を見失った。けれど、死の危険だけはひしひしと感じて、急いでより大きく距離を取ろうと後ろへ飛ぶ。
 熱を感じた。
 冬の寒さに負けないくらいの灼熱を、左手の甲に。

「ぐッ!」
『シノブ!?』

 思わぬ刺激に眼をやると、左手の甲が一筋切り裂かれていた。バックジャンプをした時に、最後にその場に残っていた左手だ。あと少しでも遅かったなら、僕は手とさようならをするところだ。

「ミカエル!」
『ダメ。わたしも見えなかった!』

 くそっ、一体どうやって斬られた?
 周りを見渡すけれど、小鳥遊の姿は見えない――いや、待て。風を感じる。冬に吹く筈のない、熱を持った風だ。それが僕の周りを縦横無尽に取り囲んで、そして渦巻くように舞っている。
 反射的に身を捩った時、僕の左太腿がまた熱を帯びた。手で触れると、ぬらりとした感触を覚える。見なくても解かった。立て付けの悪い蛇口のように、僕の生命がぽたぽたと溢れ出している。張り詰めた薄皮を食い破って。
 理解した。彼の姿が視えない理由は、単純なものと技巧的なものの二つがある。
 先ず速度が桁違いに上がっている。真っ直ぐ突っ込んできた彼は途轍もないパワーを誇っていたけれど、今の彼は眼で追い切れない程素早かった。黒い羽も夜空に紛れて、視認し辛さに一役買っている。
 そしてもう一つ。さっきまでの彼は真っ直ぐだったのだ。いつだって正面から、二次元的な方向からの攻撃しかしてこなかった。それに対して今は、主に斜め上からや斜め下、或いは背後から、そう言う三次元的方向から攻めて来ている。
 なるほど、これが空で羽を用いての戦いの特性か。
 そして、道場で地面に足をつけて戦っていた僕では、この戦いに満足に対応しきれなかった。

「――痛ゥ! くそっ」
『もう、もうダメ。何とかして逃げて! 逃げてよ! おねがいシノブ!』

 避けている。ぎりぎりで避けてはいる。
 けれど、理解の範疇外である頭上や真下からの度重なる攻撃で、躯中に細かい切り傷を負って、付随して制服もぼろぼろだった。ミカエルが慌てる気持ちも解かる。僕の傷はもしかしたら、傍目から見たらそれなりにヤバいんじゃないかって気がするから。
 けれど――ハハ。こんな状況なのに、この制服を見て明日の学校のことが一瞬心配になった自分が可笑しい。
 今はとにかく、早くこの戦いに対応するしかなかった。

 ――けれどそれは、意外な形で決着する。

「ダリい」

 そんな声が聞こえて、小鳥遊は一陣の風から人の姿となって僕の正面に現れた。手を伸ばしても届かない、けれど剣を伸ばせば届いてしまう、そんな距離だ。しかも、水斧を構えているわけでもない。気だるげに肩に背負っているだけだった。
 驚きで、僕の躯は固まる。

「ちょこまかすんのもされんのもウンザリだ。どっちでもいいけどさっさと死んで済まそうぜ」

 そう言って小鳥遊は、ゆっくりと頭上に水斧を振りかぶった。
 きっと、その動作が余りに穏やかだったから。僕はのんびりと、自らの死を見送ってしまったんだろう。
 ゆっくりと、僕の眼が余すことなく追える程にゆっくりと。
 何の技巧もなく。裏をかくこともなく。ただ、どこまでも、普通に、掲げられた水斧が、夜空に昇った。

『シノブ!』

 ――刹那、スロウになっていく視界認識をよそに、高速思考が廻り廻る。
 戦慄が奔る。
 二人の間は、剣を伸ばせば届いてしまう距離だ。
 だから、信じられない。
 だから、抑えられない。
 僕は全身に奔る震えを止められない。
 ――だって、斬れるんだ。斬れるんだよ。
 今なら間違いなく彼を斬ることが出来る。
 心得のない素人だって斬ることが出来る。
 僕ならきっと――殺すことだって出来る。
 だから、信じられない。
 小鳥遊はそれも全て承知の上で、水斧を掲げていた。
 僕がどうせ斬れないだろうとか、死ぬことはないだろうとか、そんな打算で動いているわけじゃない。
 斬られも構わない。
 死んだって構わない。
 ただ、お前を殺したい。
 そんな感情が伝わってくる。
 確かに僕は小鳥遊の首でも胸でも胴体でも、好きなところを斬ることが出来る。けれど、僕が彼を斬ると言うことは――同時に僕の死をも意味していた。
 なぜなら、きっと止まらないから。
 喉笛を裂かれたくらいで、この獣は止まらない。
 たとえ命を絶たれても、この獣は残された本能で最後の一撃を振り下ろすだろう。
 そうすれば、僕は死ぬ。
 僕も死ぬ。
 水斧は頂点で、月影に揺らめく。

「――――――」

 どうする。どうするんだ。そもそも僕は彼を殺せないじゃないか。それならば考える余地はない。いや待て。本当に僕は殺せないのか。殺せるんじゃないのか。暗闇で眼を瞑っているだけじゃないのか。そんなはずはない。僕は殺せない。第一殺してどうなる。そうすれば殺されて、僕も死ぬんだ。死ぬ? 死ぬ。誰が、死ぬ? 
 誰が。
 それは、死に至る隙。

「感じねえ殺し合いだ」

 水斧が、振り下ろされた。
 惑ってしまった愚かな僕は、既に進退窮まる状況で。取れる選択肢はもう、聖剣で受け止める外になかった。
 空より迫る鋼に、黄金が重なってクロスを描く。二振りは僕の頭上で衝突して、劈く甲高い音を立てた。
 聖剣は劣らない。曲がらず怯まず、水斧を弾き返そうとする。
 けれど、僕のスペックが大きく劣っていた。

「――アッ!?」

 ほんの一瞬の圧し合い。
 聖剣を握る腕の筋肉が次々と断裂していく。
 羽が限界を超えて羽ばたいても及ばない。

「堕ちろォ!」

 小鳥遊の気合いとともに水斧は振り切られて、僕は地面に隕石のように墜落した。
 コンクリートに背中を強かに打ち付けた。
 息が、出来ない。
 躯が、動かない。
 手が、聖剣を上手く握れない。
 眼だけが、活きている。
 空には金の月と、鋼の月。
 金の月には兎が、鋼の月には獣が乗っていて、鋼の月はその尖端を真下に向けて、コンクリートに張り付けられて動けない僕へと、自由落下を開始していた。

『避けて! 避けてシノブ!』

 縋るような涙目で僕を見つめるミカエルが、視えた気がした。
 そうは言ってもさ、ミカエル。躯が言うことを聞いてくれないんだよ。まともに呼吸も出来ないんだ。
 ジャケットを風に翻しながら、小鳥遊が、つまらなそうな表情で、僕を見下ろしていた。

「BYEBYE。俺が死んだら、あの世で復讐にきな」

 僕も、唯一活きている眼で見返す以外、他になかった。

■□■



[25528] 二日目 (17) 姉妹
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/03/25 22:43
      
      ■□■

 その、数刻前のことだ。
 西の工場街の広範囲に亘る戦場を、余さず睥睨する南の電波塔に。
 数キロ先の忍と小鳥遊の姿を見つめる二人の人間の姿があった。
 一人は愉快そうに。
 一人は無表情で。
 遥か遠い戦況を見つめている。
 歌が響いていた。

「~♪ ~~♪ ♪~♪~ むふふ。むっちゃ楽しそうに戦う悪魔だにゃ」
「…………」
「むおおお!? あぶねー。すんごいすんごい! 狂っちゃってるよアイツ」
「……お姉様」
「にゃははは。こわこわ」
「……お姉様」
「む? なにかな妹」
「……このまま放って置くと、あの天使、死にますよ? それとそれ以上身を乗り出すとお姉様が先に死にます」
「にゃんですと!? ってうわー、あちしあぶねー! さすがのあちしも五十メートル超えたら着地はムリな気がするぜ。というか着地しちゃいけない気がするぜ。生き物として!」
「……とにかく助けます。いくら貧弱とは言え、序盤で天使の契約者を喪うのは損益ですから」
「よーし一発かましたれ妹! 外すなよー?」

 そう言って、にゃーにゃーと騒がしかった女の子はお腹に両手を重ねて、ナニカの唄を歌い始めた。

「~♪~~♪~♪♪~」

 夜を爽やかに跳ねるような唄。
 夜を縫いつけるように滑る唄。
 不思議な響きを持つその唄は、夜に沁み渡った。
 すると、停滞していた空に勢い良く風が流入して、二人の周囲に波紋を描き始めた。その風は、冬にも関わらず生命力を宿したような暖かさを持っている。

「……誰に言っているんですか」

 静寂の女の子は、戦場に対して半身になり、掴み取るように左手を伸ばす。
 ――左手首に、蒼いブルーサファイヤの嵌まった、ブレスレットがあった。
 その手に唐突に顕れるは、二メートル半程の大理石のような質感の弓。しかし、振動でしなやかに撓るそれは確実に石とは異なる素材で出来ていた。
 次いで彼女は右手を伸ばす。
 空に掲げられた右手は、渦巻く風の中で何かを掴み取って。

「……我、過たず」

 それは、矢だった。
 いや、矢のようだった。
 彼女が弦にかけて引絞っているソレは、透明で、不可視で、何もないように見える。
 けれど、彼女の手は確かに矢を掴んでいる形をしていて、そこには強烈な風が渦を巻いていた。
 世に比類なき、圧し固めた風の矢――。

「……ッ!」
「いっけーっ!」

 風は空を突き破る。

      ■□■





[25528] 二日目 (18) 赤い感情、風の空
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/03/28 20:16

 すぐそこに、死がある。

 僕の眼は死を目前に活発化して、スロウに変わる映像を余すことなく捉えている。
 だから、気が付いた。
 真っ直ぐ落下しながら僕を睨んでいた小鳥遊の視線が、ふと彼方の空に逸れた。
 怪訝な表情だ。何を見ている? ナニをミている?
 瞬間、理解出来ない感情が沸騰した。
 ――許せない。
 意識も視界も真っ赤に染まる。
 僕を殺す直前に、よそ見だと?
 ――ふざけるな。
 最後、片手間に殺されるのか。
 自分でも出所の解からない真っ赤な感情が、萎縮している血管を、細胞を、心臓を蹴っ飛ばした。
 避けられるまでには回復しないけれど、聖剣を握る右手に力が戻る。良かった、僕の躯はまだ生を諦めていないようだ。
 やってやる。獣と鋼の横っ面を弾き飛ばしてやる。
 小鳥遊はまだよそ見だ。見てろ。その顔を、すぐに驚愕に染めてやるから。
 やることは突進してくる恐竜を捻じ曲げるようなものだ。
 だから全身全霊。
 すべて全身全霊。
 水斧に向かって聖剣をぶつけに――、

「―――ッ!?」

 いこうとした。
 それは僕と小鳥遊、どちらの驚愕だったか。
 結果として水斧は軌道を曲げるどころか大きく弾き飛ばされて、小鳥遊は彼方の地面に着弾した。
 けれど、僕は何もしていない。聖剣も地面を離れていない。ただ木偶のように地面に寝っ転がっていただけだ。
 ようやく躯を起こして立ち上がる。
 躯中が痛かった。細かい切り傷は最早痛くない。けれど、一撃を受け止めてしまった両腕が酷い。聖剣を持ち上げるのも辛い。
 だがそれも、死ぬのに比べればなんてことはなかった。

『平気!? シノブ』
「ああ大丈夫だ。だけど今のは……」
『ええ。なにかしら』

 あの瞬間、僕は確かに見て聞いた。
 水斧が何かとぶつかって弾けるように逸れた様を。そして甲高い衝突音を。
 小鳥遊は深い四つん這いで道路に張り付いて、辺りを注意深く警戒している。あまりの前傾故に、ファー付きのフードが頭にすっぽりと被さっていた。まるで猫のようだ。孤独に慣れた黒猫が、自分以外の全てを睨み付けるかのよう。
 小鳥遊が唐突に跳ねた。

「――っ! ……なんだ?」

 一瞬、防御体勢を取った僕だったけれど、すぐに必要のないものと解かり拍子抜けしてしまう。
 小鳥遊は僕から距離を取るように後ろへ跳ねたのだ。
 ――あの肉食獣が何故?
 僕の疑問は、直後より複雑になる。
 ――ガガガン、と鈍い三連音が鳴った。
 見ると、先程まで小鳥遊が伏せていたアスファルトに、三つ、拳大ほどの円形の穴が穿たれていた。ぽっかりと開いた空洞は暗くて深い。精緻な円形はドリルで刳り抜いたかのようだ。
 なんだ? 一体何が起きた?
 その後も異変は続く。
 小鳥遊は踊るように跳ねるように、羽を交えて縦横無尽のダンスを舞う。その後に続いて、アスファルトや建造物に例の拳大の穴が開いた。
 僕はようやく解かった。
 小鳥遊は避けているのだ。
 僕には視えない何かを。
 そしてその視えない何かが、拳大の穴を幾つも穿っているのだ。
 僕がどうしたらいいか解からないまま戦況を見守っていると、小鳥遊が見事な宙返りで地面に着地して、そして僕の頭の上、南の空を睨んだ。あの、肉食獣の笑みで。まるで僕越しに誰かと眼を合わせるように。

「ハ。どこのどいつだか知らねえが、その殺意気に入ったぜ!」

 水斧を横に振りかぶる。
 その時、僕は初めて後ろから高速で迫る何かの存在を感じた。キィィンと鳴る甲高い音と、強い風圧。思わず振り向いた僕とすれ違うように、そのナニカはあっという間に小鳥遊へと至った。

「破壊ッ!」

 振り回した水斧が暴風を巻き起こす。
 その時、圧でナニカが弾け飛ぶのを、僕ははっきりと視た。
 小鳥遊は仁王立ちで攻撃に臨む。

「さあ出て来いよ! その攻撃は俺にゃ通用しねえ。お前とならもっと楽しい戦いが出来る。もっともっと、肉と骨がぶつかって死に沈む戦いをしようぜ!」

 高らかに叫ぶ小鳥遊、しかし夜は静寂を保って答えない。

「どうした、出て来い! 俺の渇きを癒してくれよ! ……あ? なんだレビヤタン。今やっと楽しくなってきたんだ。邪魔すんじゃねえ。……だからうるせえって言ってんだろ! 黙りやがれ!」

 誰かへと呼びかけていた小鳥遊は、突然視線を落として苛々と怒鳴り始めた。どうやらピアスの宝玉の中のレビヤタンと会話をしているようだ。和やかな雰囲気ではない。

「うるせえ。うるせえんだよ。その戯けた口を閉じろレビヤタン。二人だろうが三人だろうが関係ねえだろ。俺は強え奴と存分に戦えるっつうからお前と契約したんだ。不履行は認めねえぞ」

 小鳥遊の耳の宝石がうわんうわんと蒼い輝きを放つ。
 しかめっ面でその光を睨み付けていた小鳥遊は暫くそのままだったが、程なくして、大きく息を吐いた。

「……くそったれ。解あったよ。まだまだ戦争は始まったばかり。大一番の晴れ舞台まで、お前の顔を立てといてやるさ」

 ばさりと黒い羽で羽ばたいて浮かび上がる。
 小鳥遊はこちらを見下ろして言った。

「今夜はこれでお終いだとよ。俺は全くもって不本意なんだが、まあ少しくらいは相棒の悪魔サマの顔を立ててやらねえとな」
「…………」
「と、は、言、え。こんな一方的な通告じゃお前もスッキリしねえだろ?」
『主――』
「うるせえ黙ってろ」

 諌めようとしたレビヤタンの言葉を遮る。

「だからお前が続きをやりたいってんなら構わんぜ。散々逃げる奴を罵って殺してきた俺にゃ断る権利がねえからな、しゃあなしで付き合ってやんよ。どうだ?」
「…………」
『シノブ……』

 僕は何も答えない。答えられない。
 戦いなんて真っぴらだ。それが僕の本心のはず。
 けれど何と答えればいいのかも、何と答えたいのかも、何で答えられないのかも、何も解からなかった。
 僕は何も答えない。

「けっ。なんてな」

 小鳥遊はそんな僕の気持ちを見透かしていたかのように、つまらなげに呟いた。いや、実際に見透かしていたのだろう。僕自身でもよく解からない感情を、たぶん僕よりも正確に。何故かそんな気がした。

「よっと」

 水斧を消して、より一層高くへと飛び上がる。
 少しずつ、小鳥遊は昏い夜に溶けて行く。
 姿が消える直前に言葉が聞こえた。

「――次に俺と逢うまでに俺を殺しておけ。何度も何度も殺しておけ。頭の中で殺しておけ。寝ると同じに殺しておけ。食べると同じに殺しておけ。そうしてやっと、お前は狩人になれる――」

 精々気張れよ、草食動物。
 その言葉は夜空に反響して、僕の耳朶を嫌らしく叩いた。






[25528] 二日目 (19) ほどける
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/04/01 03:22

 暫く、小鳥遊の姿が目視出来なくなってから数十秒経っても、僕は緊張状態で夢遊状態だった。聖剣を握る手が、緩まない。空に視線が縫いつけられている。

『シノブ。ねえ、シノブ!』
「――あ……」

 頭の中でミカエルに何度も呼びかけられて、僕はようやく現実に回帰した。
 途端に力が抜けて、重い西洋剣を持っていられなくなる。手から零れ落ちてしまった聖剣は地面に迫って、

「っ!」

 僕は反射的に眼を閉じたが、いつまで経っても想像していた音は鳴らなかった。
 代わりに、ふわりと柔らかい感触が僕の両頬を包む。
 驚いて眼を開けると、そこには眼にも眩しい空色の、天使ミカエルが立っていた。
 距離が、近い。
 吐息を感じる程の。
 僕たちの身長は同じくらいだから。
 まるで――キスするみたいで。

「シノブ?」
「ミカエル……」

 くだらない妄想も、きっと戦いの余韻の忘我状態だったからだろう。
 頬に触れる手のひらと、直に耳に聞こえたその言葉で、僕は改めて安堵に包まれて、気が付いたらその場にへたりこんでしまった。

「きゃっ、大丈夫!?」
「大丈夫だよ。――あ痛ぅ! いったいな……」

 冷たいアスファルトに寝転がる。避け切れず斬られた傷と無茶をさせてしまった筋肉がとても痛かった。痛む場所を把握しようとして――すぐに止めた。右腕のように特別に痛い箇所はあっても、痛まない箇所は存在しなかったから。体中を、脈打つ痛みと鈍い疲労が包んでいる。
 ふわりと頭が暖かいものに包まれた。

「え……?」
「ありがとう。がんばってくれて」

 ミカエルの顔が視界の中で逆さに映る。
 つむじがほんわり温かい。
 どうやら僕は初めての膝枕と言うものをされているらしい。
 いつもの僕だったら、恥ずかしがって抵抗するとかむずがるとかしたかもしれない。けれどミカエルの慈愛の表情と声に、先程以上の安堵が湧き上がるのを感じて、僕は溶けるように身を委ねた。

「ミカエル」
「うん」
「疲れたよ。体中痛い」
「うん」
「血とか出てるし」
「でてるね」
「なんなんだアイツ。天使とか悪魔とか殺すとかさ。すごい……怖かった」
「うん」
「でも」
「?」
「止められなくて……ごめん」
「……バカ」
「いてっ」

 軽くおでこを叩かれる。
 全然痛くないおでこを押さえながら、僕とミカエルは小さく笑い合った。
 ――嗚呼、僕は生きている。
 温もりも、安堵も、痛くないおでこも、全部生きているからこそ味わえる。考えようによってはこの痛みだって。
 そう、僕は生きてるんだ。
 ……だからさ、今頃になって震えないでくれよ、僕の躯。
 ミカエルもすぐに気が付いた。

「シノブ」
「大丈夫。大丈夫だから。すぐに止まるさ。ちくしょう、恥ずかしいな」
 
 ミカエルの視線から逃げるように顔を逸らす。
 もう戦いは終わったって言うのに、突然始まった右手の震えが止まらなかった。躯を起こして小さく丸まって、手に白い吐息を吹きかける。温かいけれど、震えは止まらない。

「くそ、止まれよ止まれ――」
「いいのよ」

 不意にミカエルに後ろから抱きしめられた。首に巻き付くように腕が回って、頬に彼女の吐息を感じる。そして背中も目一杯温かくて柔らかい……うわあ。

「ちょ、ちょっとミカエル!」
「こーら、暴れないの」

 逃げようとした僕をミカエルは窘めて、抑えるために更に腕に力を籠める。ぎゅっと巻き付く腕の拘束が強まって、結果的にさっきよりずっと密着度が増してしまった。
 温かいわ柔らかいわいい匂いはするわ、しかも力は相当強いわで、抵抗出来ない。僕は彼女の吐息が当たるのとは別の頬の火照りを感じていた。

「ミカエル、はなして」
「んー? まだダメー」

 ミカエルは何が楽しいのか、僕を抱きしめたままフンフンと鼻歌を歌っている。声と吐息が耳元で混じってくすぐったい。けれどそれで身を捩ろうとすると、また彼女の腕に力が入って密着度と温かさが増すので動けなかった。
 まな板の上の鯉の境地で、為すがまま。そんな思いが伝わったのか、少しだけ拘束が緩んで柔らかくなった。

「どう?」

 うあ、耳元で喋らないで!

「震えは止まった?」

 はたと気が付く。
 そう言えば震えは、もう随分前から止まっていた。

「もう。どうして隠そうとするのよ」
「だって……」

 恥ずかしいじゃないか。そう言うことも恥ずかしい。
 ミカエルが頬笑みを浮かべたのが、息づかいで解かった。

「震えたって、怖がったって、泣いたっていいの。それもぜんぶ生きている感動よ? 恥じることなんてなんにもないわ。めいっぱい出しちゃえばいいんだから」

 生きている感動。
 この気持ちが、生きていること。
 ミカエルから伝わる温かさも、それに当たるのだろうか。

「……それにね」
「?」
「貴方がその感情を隠してしまったら、わたしはどうやって慰めればいいの?」
「え、いやそんな」
「慰めさせてよ。それが貴方を戦わせてしまった、巻きこんでしまったわたしの責任。天使っぽいでしょ? そのくらいさせて」
「…………」
「――そ、れ、にー、不安そうなシノブってちょっと可愛いんだから」
「…………ッ!」
「こらこらー、暴れないの」

 冬の寒さはすっかりどこかへ行ってしまった。



[25528] 二日目 (20) ふたりめ
Name: 竜月◆b3f8a5e0 ID:7cc77a5c
Date: 2011/04/05 02:27

 そんなこんなで暫くして。
 ようやく解放された僕は立ち上がり、頬の火照りを冷たい夜風で覚ましながら、南の空を眺めた。ミカエルも横に並ぶ。

「さて、もう一つ解決しとかないと」
「ええ」

 僕を助けてくれた(と思われる)地面を穿つ視えない攻撃。あの攻撃の主はおそらくこの南の方向にいるのだろう。不可思議な風をあちらから感じたと言うこともさることながら、小鳥遊がそちらを睨んだと言うのが大きな理由だった。
 あの獣は、きっとそう言うところを間違えない。

「いったい何者だと思う?」
「推測はできるけど……どうやら本人に聞いたほうがはやそうね」

 言われて空を見上げる。
 視線の先の夜空に、大きな白い花が咲いていた。
 僕と同じ、六翼の羽。左右に三翼ずつ閃くその羽は、まるで黒い背景に花のように白く咲き誇っていた。

「油断はダメよ」
「ああ」

 それは白い羽とは言え、気を抜くなと言うこと。
 彼の者はゆっくりと空から近付いて来て、僕の十メートルほど先の地面に着地した。

「……初めまして」

 その女の子はまだ幼い、小鳥遊と同じくらいの歳ほどに見えた。可愛らしく美しい桃色の着物に濃度の高い同系統の色の帯、長く艶やかな黒髪はサイドを三つ編みにしてカチューシャのように頭の上に乗せている。皮膚は人形のように真っ白で、感情を読み取れない無表情もその印象に拍車をかけた。

 と、そんな彼女の後ろからもう一人、良く似た背格好の女の子が現れた。

「ふにゃ、怖かった。落ちたらどうしようかと。あの高さから落ちたら生きてちゃいけないもんね。にゃ? あ、どうもこんちは元気ですか?」

 その女の子も同じくらいの年齢で、彼女はセーラー服を着ていた。白いセーラーに真っ赤なリボン、それに焦げ茶色のカーディガン。とても短いスカートに紺色のソックス姿で、寒くないのだろうかと思う。ぴんぴんと外に向かってはねる癖っ毛は猫のようだ。にこやかにこちらに手を振るから、思わず振り返しかけたらミカエルに怒られた。

 彼女たちはどうやら姉妹のようだ。顔立ちの雰囲気が似ている。年がほとんど同じくらいに見えるから、もしかしたら一卵性ではないだろうけど、二卵性の双子なのかもしれない。
 ただ、間違いないことが一つだけ。三つ編みカチューシャの彼女の背には今だ白い六翼が閃いている。つまり、少なくとも彼女がこの天使と悪魔の代理戦争に関係したポジションにいることは確かだった。
 ミカエルと眼を合せて、頷き合う。
 僕はこう言うことで、小細工や駆け引きが出来るほど器用な性格じゃない。正面から正直に尋ねよう。

「あの、君たちは――」
「……私たちが何者か、と言うお話でしたらお答えしますので聞いて頂かなくて結構です。ですがこう言う時は、まず自ら名乗るのが礼儀では?」

 いきなり躓いた。三つ編みカチューシャの彼女は僕の質問を先読みした上で遮って、更にこちらに質問を返してきた。話上手だ。こう言う相手との討論は僕には荷が重い。

「あ、ああ。僕は藤川忍。彼女が」
「熾天使ミカエルよ。よろしくね」

 僕たちの自己紹介を、三つ編みカチューシャの彼女は相変わらずの無表情で、ピンピンの癖っ毛の彼女は「ふんふん。忍とミカエルね。よし覚えた!」と手のひらに指で文字を書きながら聞いていた。

「……では私たちも。私は九条梓。そしてこっちが」
「九条楓! お姉ちゃんだぜ!」
「……です。私たちは退魔を生業とする魔術一家、七色の姓『九条』の本家一員であり、私はその次期当主です」

 ――この時の僕は、それがその筋ではどれだけのビッグネームなのか、何も解かっていなかった。

「はあ、どうも」

 またよく解からない単語と話が幾つも飛び出してきた。どうやら理解出来たらしいミカエルに助けを求めると、「つまり魔術で仕事してますってことよ」とざっくばらんに過ぎる答えが返って来た。ホントにそんな要約でいいのか? 梓と名乗った少女の顔が少し引き攣らなかったか? て言うか魔術ってなに?
 とにかく、最も確認しなければならないことを聞いておこう。

「梓ちゃんに楓ちゃん。君たちは」
「……私たちが天使の契約者なのか、と言うお話でしたら聞かれなくてもお答えしますが、その前にその不快な呼び方を改めてください。『九条』の次期当主をちゃん付けとは。分不相応な行為です」
「え、えーとじゃあ九条の姉妹さん」
「……私をお姉様とまとめて呼ぶのは止めていただきたいです」
「じゃあお姉ちゃんと妹さん」
「……燃やしますよ?」

 怖っ!
 最終的に二人のことは「梓」「楓」と呼び捨てで呼ぶことになった。呼び捨てには僕と梓が難色を示したのだが、ミカエルと楓の「もうなんでもいいよ」と言う声と空気に負けて渋々決定した。梓も「妹」よりはマシだったようだ。

「……では質問にお答えします。私たちは天使の契約者か、と言う質問ですが、はいといいえの二つの解答を提示します。先ず私、九条梓は天使の契約者です。大天使ラファエルと契約しています」

 彼女が示した左手首には、蒼い宝石の嵌まった銀色のプレスレットがかかっていた。
 宝石が強く瞬いて眼が眩む。
 再び視力が回復した時、姉妹の横には見たことのない綺麗な女性が立っていた。

「どうも初めまして。“守護天使”ラファエルと申します」

 腰まで届く金髪に、白いベールを何重にも折り重ねたかのようなワンピース。肩から透き通るようなシルクを羽織っている。身長は高校生男子平均くらいの僕よりも高く、大きな瞳は濡れた翠色をしていた。
 ミカエルが笑顔を向ける。

「ラファエル!」
「ミカエル……貴方」

 ラファエルは口元に手を当てて、驚いているようだった。
 ミカエルは彼女の手を取る。

「こんなにすぐ、また逢えるとは思わなかったよ」
「私も驚いたわ」

 ミカエルの太陽みたいな笑顔に、ラファエルも声を出さず上品に笑い返す。
 立ち居振る舞いにも上品さが漂って、彼女を表すには「美しい」と言う言葉が凄く似合った。
 まさに天使。多くの人がこう言うイメージを持っていると思う。
 ラファエルがこちらに向き直った。

「藤川さん」
「は、はい!」

 緊張で声が裏返った。恥ずかしい。

「私たちの事情に協力して頂きありがとうございます」
「いえそんな」
「色々ご迷惑かけると思いますが」
「いえいえいえ」
「良いのよラファエル、お礼なんて。シノブはこう言うことが大好きみたいだから」

 ミカエルが言った。
 何を言うんだと顔を見ると、彼女は悪戯に頬を膨らませていた。その眼を見て――ああ、どうやら僕の在り方への皮肉めいた冗談なんだな、と気が付いた。
 戦いの時に怒鳴った言葉を、覚えていたのだろう。
 なんだか子どもっぽくて可愛いな。
 出逢った時よりも、彼女は自分を見せてくれるようになっている気がする。そんな彼女に親しみを覚える。
 僕は小さく笑ってしまった。
 ラファエルはそんな僕をじっと見つめて、柔和に微笑んだ。

「良かったです」
「え?」
「ミカエルが見つけた方がとても良い人みたいで」

 僕は何とも言えず「はあ」と頭を掻く。
 ラファエルはずっと微笑んでいた。




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