DECEMBER
竜月
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崩壊は棺に眠る
白銀の鎖に括られて
未来永劫、絶えること無く
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夜空には朧月が浮かんでいた。
酷く朦朧とした、黄金の月だ。真黒な雲に隠れているけれど、あんなに光っていたらその場所は一目瞭然だった。
かくれんぼだったら負けないな、と思う。俺は誰よりも上手に昏闇に隠れてみせる。
俺の見上げる夜空は、丸く切り取られていた。
此処は静かな静かな森の深奥(しんおう)。高い木々が生い茂る、人間のものではない世界。動物が植物か、或いは畏るべきモノ共の棲む世界。
そこに、木々の一切が駆逐された、大きな円形の舞台があった。
舞台。
そう呼ぶのが正しいのか俺は知らないけれど、相応しいとは思う。
真ん中には長方形の石造の祭壇、その周りに四本の樫の木が刺さり、それぞれの棒を純白の布が繋いで祭壇を四角く囲っている。その外には八人の人間。白装束を纏い手に手に小刀を携えて、祭壇に向かい微動だにせず立っている。その顔は白い布で隠されていて窺えない。
更にその外には篝火、そして同じく白装束の人間が複数いた。ただし、手に持っているのは刀や弓などの殺傷武具だ。火が弱く見え辛いが、顔を何かで覆っていたりもしない。その輪より遠くはもう見えなかった。
そしてどうやら地面にも細工が施されているらしい。
地面を掘り返す要領で、この円形の広場一帯に複雑な魔方陣が刻まれていた。術式や用途は不明。俺はこの手のものには詳しくない。
そんな風に造られた状況だから、俺は舞台と呼ぶ。
俺を、殺すための、舞台。
俺は真ん中の祭壇に裸で寝かされていた。白い布で躯中を祭壇ごと縛られている。指の一本にまで絡んだ白い布は、全身の可動機能を完全に奪い去っていた。唯一、双眸だけを残して。
だから、俺は見ている。
空だけを見ている。
背の高い木々が視界に割り込んで、限りない筈の夜空は丸く切り取られキャンバスとなる。
中心で滲むバターみたいな金色。
気紛れな風に舞う幾枚かの深緑。
視界の端々で己を主張する紅色。
無機質を旨とするかの様な純白。
それらが綯い交ぜになって昏いキャンバスに閃き、俺の世界のすべてとなっていた
美しい、と思う。
バチッ、と火花が舞った。
圧倒的な輝きが、目前を通り過ぎた。
自分を思う。
散々殺してきた。
そして殺される。
それだけのこと。
散々壊してきた。
そして壊される。
それだけのこと。
単純なことだ。
省みること、鑑みること、ことこの場に至ってもありはしない。
それどころか、何だか酷く落ち着いた気分だった。
一瞬の波紋もない、凪いだ水面の様な気分。
この気持ちは得難いもので、その理由は解かっている。
近くに何も殺せるものがないから。
誰にも何にも手が届かない。
それでは殺せない。
そんな単純な理由。
――ああ、そう。
俺は生れて初めて、何も殺さずに生きているんだ。
それにしても意外。殺害絶ちなんてしたら苛々が募る一方だろうなあ、とか思っていたのに。
その真逆でとても清々しい気持ちじゃないか。
確かに俺は、動物を植物を昆虫を機械を血縁を運命を因縁を歴史を当惑を激昂を愉悦を悲哀を落胆を概念を世界を哲学を革命を戦争を法律を戒律を音楽を映像を物語を不思議を人間を殺したくなる。
だけど本当は。
本当は。
こんな風に自由に生きたかったのかもしれない。
ただ月だけを見上げて。
「「破ッ!」」
人々が吠えた。
空気が震えた。
篝火が揺れた。
空気に緊張が走り、風が止む。
沁み渡る静謐さ。まるで深海の様。
ずっと疑問に思っていた。何で俺一人殺すためにこの様な大仰な儀式めいたことをしているのか、と。捕まって意識を飛ばされた段階で、俺はもう死を受諾していたのに。
「「破ッ!」」
その答えが示されようとしている。
白装束の人間たちの視線がある一方向、森の影の昏い闇に集中する。彼らはもう俺になど興味なさげ。各々が武器を構えて戦闘準備だ。それが少し癪に障る。
その姿は、玩具のブリキの兵隊に酷似していた。きっと、その所作があまりに完璧だったからだろう。
俺の眠れる殺人衝動を疼かせる程に。
しかしなるほど。俺を拘束したのは何か重要な目的の為のファクターだったのか。これでこの大層な儀式造りも、生まれてこの方、忌み嫌い放置していた自分をどうして今更捕まえに来たのかも、納得がいった。
ではここで新たな問題が提示。
ここまで大掛かりな準備をして、迎える相手は、一体誰――?
ぞわり、と。
「――――――っ!?」
全身に戦慄が奔った。
氷柱で貫かれたかと誤認する程の衝撃。
咽喉を拘束されていなかったら、驚愕の叫びをあげていただろう。
ナニカ。
ナニカ佳くないものが、森の闇から近付いてくる。
俺だけじゃない。白装束の人間たちも、一様に驚いている。その多くが怯み、中には尻餅をついている者までいた。
その人間に、俺は内心毒吐く。……なんだよ腰抜けが。近付いてくるナニカと敵対することは、俺は知らなかったがお前たちは最初から知っていたんだろうに。それなのに対峙する覚悟すらしていなかったのか。愚かしい。
ってあれ? …………敵対?
俺はアイツを敵と呼ぶのか?
何かも知らないし、姿も見ていないのに?
……ハ、それこそ愚かしい。
だって、訴えるじゃないか。
俺の血が。
俺の躯が。
俺の魂が。
奴の生命を停止せよ、と。
それこそ何よりも確かな存在証明。
俺の近くに立っていた白装束の人間たちの内の、一人が動いた。腰が曲っていて杖を突いているところを見るに老人だろうか。細く掠れた、しかし遠く伝わる声で命令を下す。
「総員、術式を起動せよ」
その声に、幾人かの者は素早く反応し、音吐朗々と呪文を唱え始めた。しかし、恐怖に囚われた者たちには聞こえていない。ただの一時もその闇から目を離さないようにしながら、じりじりと後退していく。
老人が、おもむろに手を振るった。
「……う、うわああああああああ!」
何処からか男の悲鳴があがる。
倒れ、地面でのたうつその男の背中には、深々と、刃が見えなくなるまで小太刀が突き刺さっていた。白装束に、紅い大輪の花が咲く。
「愚図は要らぬ。そんな輩は早々に儂が冥府に送ってやろう。――さて、他に愚図は居るかの……?」
それは明確な脅しだった。
怯えていた人間も慌てて詠唱を始める。
目前の恐怖と二秒後の異怖。それらを天秤にかけた結果だった。
人はいつだって、目の前の刹那が愛しくて仕方ないのだ。
「ほほ、重畳じゃ。あの男以外、愚図は居ないと見える。では始めるのじゃ。我が一族の大望(たいもう)を今――叶える時ぞ」
詠唱が重なる。
地面の刻印に光が奔る。
ぐにゃり。
ぐにゃり。
景色がまるで金魚鉢の様に歪む。
その時、俺は。
月だけを見ていた。
花を背負った男の苦悶も。
新たに振るった老人の小太刀も。
傍らに立つ母親の顔も。
全く目には入らなかった。
ただ、朧な月だけを見上げて。
金色の朧な月だけを見上げて。
詠唱が止み、金魚鉢が割れた瞬間、俺は意識を失った。