僕はついに夢を掴んだ。
空気を裂く音が無数に木霊する。
眼下に視認するのは喧騒の中の人々。
蒸気機関を改造したそれはエンジンの音を唸らせて僕を後押しするようだ。
急がないと。
時間は無かった。
蒸気の雲は霧散して、僕に道を切り開く。
目標の宮殿へはあと少しだ。
と、ここで僕は当初の目的を思い出す。
どんな顔をして会えばいいのだろうか。
どんな言葉をかければいいのだろうか。
どんな思いを伝えればいいのだろうか。
別に僕は全ての悪を倒す正義の味方ってわけじゃない。
もう誰が悪で誰が正義かなんて分からない。
ただ、僕は彼女の為にここにいる。
今更足がすくんで腰にも力が入らなくなる。
肺に空気が入りづらくなって息が苦しい。
これは恐怖ではない。
だって僕は今夢を掴んだのだ。
そしてもう一つ、神に願うのならば――
――どうか彼女が笑顔でいてくれますように。
濁った雨が降っていた。
上空に存在する無数の黒い雲。そこから零れる涙のような雨は排気によって汚染され、酷く汚れている。
下水道のような汚れた水を処理する設備は当然整っているはずもなく、各家庭の排せつ物がまばらに散乱している路地に一人の少年がいた。身に纏っているのはおよそ服と呼べるのか分からない布切れのみである。少年の眼前の景色は無数の雨粒と蒸気の汚れにより生じた霧ではっきりとはしない。石畳で出来た道は石と石の間に汚れを忍ばせ、人間が足を踏み出すのを躊躇させる。濁った雨と排せつ物の二つが混ざった臭いは鼻を捻じ曲げてしまうような強烈な異臭であり、そんな状況の中を少年が何の苦もなく歩いていくことができるのはひとえに慣れの為であった。
少年の横を貴婦人と紳士らしき人物が乗車する馬車が通り過ぎる。少年のことをゴミか何かであると思っているのだろう。雨と排せつ物が混ざった汚水を撒き散らすことに迷いは無いようだった。巻き上げられた汚水は少年の体に纏わりつくように染みついた。避ける気力も無いのだろうか。少年はされるがままに道に立ち尽くしていた。
馬車に乗った紳士は少年に一瞥もくれてやることはなく、馬を引いていた。貴婦人は自分の扇で鼻を覆いながら少年を見ていた。もはやそれは人を見る目ではない。人間という感覚ではないのだ。嫌しむ視線はどぶ鼠を見る目そのもの。
少年の足取りは重かった。空腹のためか時折腹部を右手で強く押さえつけている。右足は怪我をしているようで荷物のような状態になっていた。裸足で歩いている少年は不規則に配置された石畳に足を取られ躓いた。受け身を取ることもできずに少年は地面に叩きつけられる。
石畳のベッドで仰向けになりながら、少年はこの街の空を見た。昔、両親が空は青いんだとお伽話で言っていたことを少年は思い出していた。
「嘘っぱちだ」と少年は呟いた。
雨水が顔に当たって流れ出る。
この空は青くなんてなかった。くすんでどんよりとした灰色の空。特段今日が曇り空で雲がかかっているというわけではない。厳密に言えばあの灰色の雲は機関工場から溢れだす排煙。
永遠の灰色の空。
それは少年にとって取り立てて嫌いというわけではなかった。むしろ今の自分にしてみればこうした空は丁度良いのかもしれない。少年はその瞬間、この空に見送られるのなら命を散らしてもいいのかもしれないと微かに思った。
少年はこの街の匂いを嗅いだ。
華の都、パリ。芸術の都、パリ。
この街を彩る形容詞は数多に存在するが、少年が今現在知っているのは二つだけである。芸術、流行、ファッション、様々な分野で世界の中心として、世界の先駆けとして生きてきたこの都市にも今や見る影は無いだろう。
今この街から漂うのは優しい華の香りでも、優雅なドレスの鮮やかな香りでもない。ただただ排煙と毎日の喧騒の中を懸命に生きる人々の汗の匂いだけである。
左右に立たずむ住宅の壁は排気で汚れ、薄く黒ずんでいる。少年は首を傾け、そんな景色をぼんやりと眺めた。そしてこれがこのパリの本質だと僅か十歳の思考で感じ取った。
「お腹、空いたな」
目を閉じ、少年は呟く。
ここ何日かまともに何も口にしていないせいか、空腹で目眩がしていたのだ。本能的に水分は取らないと命にかかわると理解していたので雨水を口にしようかと何度か考えたが、少年は諦めた。時折、パリに降りしきるこの雨はとても人間が口にできるようなものではなかった。少年はそれならばまだ自分の小便を口にしたほうがマシだと結論に至った。
目を閉じた少年の眼前には暗闇が広がった。パリの空よりもはっきりとした闇。その中で少年は自身の両親のことを思い出していた。少年の父は炭鉱の現場で肺炎を患い亡くなった。少年が本当に幼い頃にはそこそこ稼いでいた商人だったのだが、一度大きな失敗をしてからは下級労働者へと堕ちていった。母も同じようなものだった。とある貴族の家でメイドをやっていたが流行病で同じように死んだ。いくら重工業が発達したとしても両親を助けてくれるだけの医療は発達しないらしい。少年は闇の中でそんな皮肉を言った。
突然、少年は眼の前を影で覆われるような感覚に襲われた。目眩の感覚が未だ残る両目を何とか開き、状況を確認しようと試みる。
少年を見下ろすようにして立っていたのは少年の父ほどの年齢の男。上着の中にクラヴァットを巻いていることから少年はこの男は貴族ではないかと予想を立てた。
だがしかし、そんな予想は瀕死の状態の少年にとってはどうでもいいものであり、少年は再び闇へと戻ろうとしていた。そんな少年を引きずりあげるように男は少年に手を差し伸べる。そして、こう言った。
「――君の名は?」