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[25409] 雲の彼方【ファンタジー スチームパンク】
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 15:45
どうも、おはこんにちばんは。

U4と言います。

この作品はよくあるファンタジーですかね。
友達にはベタすぐるといわれてしまいましたが、どうでしょうか。

感想意見諸々、多謝と共にお待ちしております。





[25409] プロローグ
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:45
 僕はついに夢を掴んだ。

 空気を裂く音が無数に木霊する。
 眼下に視認するのは喧騒の中の人々。
 蒸気機関を改造したそれはエンジンの音を唸らせて僕を後押しするようだ。
 急がないと。
 時間は無かった。
 蒸気の雲は霧散して、僕に道を切り開く。
 目標の宮殿へはあと少しだ。
 と、ここで僕は当初の目的を思い出す。
 どんな顔をして会えばいいのだろうか。
 どんな言葉をかければいいのだろうか。
 どんな思いを伝えればいいのだろうか。
 別に僕は全ての悪を倒す正義の味方ってわけじゃない。
 もう誰が悪で誰が正義かなんて分からない。
 ただ、僕は彼女の為にここにいる。
 今更足がすくんで腰にも力が入らなくなる。
 肺に空気が入りづらくなって息が苦しい。
 これは恐怖ではない。
 だって僕は今夢を掴んだのだ。
 そしてもう一つ、神に願うのならば――

 ――どうか彼女が笑顔でいてくれますように。






 濁った雨が降っていた。
 上空に存在する無数の黒い雲。そこから零れる涙のような雨は排気によって汚染され、酷く汚れている。
 下水道のような汚れた水を処理する設備は当然整っているはずもなく、各家庭の排せつ物がまばらに散乱している路地に一人の少年がいた。身に纏っているのはおよそ服と呼べるのか分からない布切れのみである。少年の眼前の景色は無数の雨粒と蒸気の汚れにより生じた霧ではっきりとはしない。石畳で出来た道は石と石の間に汚れを忍ばせ、人間が足を踏み出すのを躊躇させる。濁った雨と排せつ物の二つが混ざった臭いは鼻を捻じ曲げてしまうような強烈な異臭であり、そんな状況の中を少年が何の苦もなく歩いていくことができるのはひとえに慣れの為であった。
 少年の横を貴婦人と紳士らしき人物が乗車する馬車が通り過ぎる。少年のことをゴミか何かであると思っているのだろう。雨と排せつ物が混ざった汚水を撒き散らすことに迷いは無いようだった。巻き上げられた汚水は少年の体に纏わりつくように染みついた。避ける気力も無いのだろうか。少年はされるがままに道に立ち尽くしていた。
 馬車に乗った紳士は少年に一瞥もくれてやることはなく、馬を引いていた。貴婦人は自分の扇で鼻を覆いながら少年を見ていた。もはやそれは人を見る目ではない。人間という感覚ではないのだ。嫌しむ視線はどぶ鼠を見る目そのもの。
 少年の足取りは重かった。空腹のためか時折腹部を右手で強く押さえつけている。右足は怪我をしているようで荷物のような状態になっていた。裸足で歩いている少年は不規則に配置された石畳に足を取られ躓いた。受け身を取ることもできずに少年は地面に叩きつけられる。
 石畳のベッドで仰向けになりながら、少年はこの街の空を見た。昔、両親が空は青いんだとお伽話で言っていたことを少年は思い出していた。
「嘘っぱちだ」と少年は呟いた。
 雨水が顔に当たって流れ出る。
 この空は青くなんてなかった。くすんでどんよりとした灰色の空。特段今日が曇り空で雲がかかっているというわけではない。厳密に言えばあの灰色の雲は機関工場から溢れだす排煙。
 永遠の灰色の空。
 それは少年にとって取り立てて嫌いというわけではなかった。むしろ今の自分にしてみればこうした空は丁度良いのかもしれない。少年はその瞬間、この空に見送られるのなら命を散らしてもいいのかもしれないと微かに思った。
 少年はこの街の匂いを嗅いだ。
 華の都、パリ。芸術の都、パリ。
 この街を彩る形容詞は数多に存在するが、少年が今現在知っているのは二つだけである。芸術、流行、ファッション、様々な分野で世界の中心として、世界の先駆けとして生きてきたこの都市にも今や見る影は無いだろう。
 今この街から漂うのは優しい華の香りでも、優雅なドレスの鮮やかな香りでもない。ただただ排煙と毎日の喧騒の中を懸命に生きる人々の汗の匂いだけである。
 左右に立たずむ住宅の壁は排気で汚れ、薄く黒ずんでいる。少年は首を傾け、そんな景色をぼんやりと眺めた。そしてこれがこのパリの本質だと僅か十歳の思考で感じ取った。
「お腹、空いたな」
 目を閉じ、少年は呟く。
 ここ何日かまともに何も口にしていないせいか、空腹で目眩がしていたのだ。本能的に水分は取らないと命にかかわると理解していたので雨水を口にしようかと何度か考えたが、少年は諦めた。時折、パリに降りしきるこの雨はとても人間が口にできるようなものではなかった。少年はそれならばまだ自分の小便を口にしたほうがマシだと結論に至った。
 目を閉じた少年の眼前には暗闇が広がった。パリの空よりもはっきりとした闇。その中で少年は自身の両親のことを思い出していた。少年の父は炭鉱の現場で肺炎を患い亡くなった。少年が本当に幼い頃にはそこそこ稼いでいた商人だったのだが、一度大きな失敗をしてからは下級労働者へと堕ちていった。母も同じようなものだった。とある貴族の家でメイドをやっていたが流行病で同じように死んだ。いくら重工業が発達したとしても両親を助けてくれるだけの医療は発達しないらしい。少年は闇の中でそんな皮肉を言った。
 突然、少年は眼の前を影で覆われるような感覚に襲われた。目眩の感覚が未だ残る両目を何とか開き、状況を確認しようと試みる。
 少年を見下ろすようにして立っていたのは少年の父ほどの年齢の男。上着の中にクラヴァットを巻いていることから少年はこの男は貴族ではないかと予想を立てた。
 だがしかし、そんな予想は瀕死の状態の少年にとってはどうでもいいものであり、少年は再び闇へと戻ろうとしていた。そんな少年を引きずりあげるように男は少年に手を差し伸べる。そして、こう言った。
「――君の名は?」



[25409] 一章 1
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:50
 アルフォンス・ぺノーの理論に耳を傾けようとする者はいなかった。
 当然である。木でも布でもない金属の塊で空を自由自在に飛ぼうというのだから、夢物語と揶揄されたとしても仕方が無いことだった。アルフォンスは飛行機技師であった。だが、一般的な飛行機技師とは違い、彼は少々風変わりな男である。
 通常、飛行機に囚われず機関技師というのは大きく分けて国に雇われ、独自に研究を続けるか――この場合は殆どが缶詰状態となり自由などは与えられない――もしくは民間の企業に雇われて完全なる営利目的で研究を続けるかだ。企業によって研究された成果として未だ一般庶民の所有率は低いものの蒸気電話の開発などが大きく挙げられたのだろう。今やパリはロンドンを凌ぐ蒸気機関都市として世界に名を馳せるほどになったのだ。
 アルフォンスが専攻している飛行機も度重なる蒸気革命によってその形を示し始めてきたところである。だが、それは殆ど飛行機と呼んでいいのかどうかすら憚られるようなお粗末なものであった。少なくともアルフォンスはそう思っている。
 それは蒸気エンジンを乗せて、ただ宙に浮いただけのものであったからだ。それはアルフォンスにとって飛行機とは言えなかった。例え空を飛んだとしてもそれは高度が低く、とてもではないがあの灰色の空を超えていくことはできなかった。そもそもアルフォンスに言わせれば飛行機にとって蒸気エンジンというのは相性が最悪であったのだ。過去の偉人達によって軽量化は進み、改良は為されてきた。その結果が今やパリ市内を走ることも珍しくなくなった蒸気自動車の誕生であることも否定はしない。
 だが、どうにもこうにも馬力が足りないのである。蒸気エンジンの馬力では軽い素材、つまり木材などでしか機体を設計することができず、それでは自由自在に空を飛ぶことなど到底叶わないことなのだ。
 アルフォンスが提唱する新型のエンジンならば――提唱するとはいっても、まだ誰にも教えてはいないのだが――馬力は十分であり、安定した金属の機体で飛び立つことが可能なのだ。
 そんなアルフォンスは国のお抱えの機関技師というわけではなかった。ほぼ独学で機関科学を学び、若干十八歳のアルフォンスを抱えるほどフランスに酔狂な人間は宮廷にはいないのである。
「眩しいな」
 微かな明かりに反応してアルフォンスは鬱陶しそうに独り言を言った。
 アルフォンスは飛行機のような金属の塊の下で今日も眠りこけていたらしい。いつものことではあるが、さすがに不自然な体勢で眠っていたせいか背中が酷く痛かった。
 埃っぽいアルフォンスの工房。借り物のその場所は最早アルフォンスの家と化していた。至る所に工具や金属のパーツらしきものが散乱していて整理整頓がまるっきりされていない。コンクリートで固められただけの地面は夏にはとても熱く、冬には凍えるほど冷たい。必要最低限の物しか置かれていない工房は正にアルフォンス専用であった。
 コンクリートの地面に背中を擦りつけながらアルフォンスは機体の下から脱出を試みる。幸い今の季節は春だったので背中が大変なことになるということはなかった。
 機体の下から抜け出してアルフォンスは立ちあがった。少々幼いその顔には黒い煤が転々と付着していた。くう、と身体を天へと伸ばし、胸一杯に思い切り空気を吸い込んだ。そして、自分が制作している飛行機を舐めるように見まわしてから満足そうな表情を浮かべた。
「もう少しで完成だな」
 金属で作られた二人乗りの機体。ガラスの窓からは朝日など溢れてくることはないが、それでも真夜中よりは多少明るい。アルミニウムと銅を混ぜ合わせた合金によって出来たその胴部はアルフォンスにとって自身から光を放っているようにも見えた。知り合いの職人から貴重なアルミニウムを譲ってもらうのは大変だった。恐らくアルフォンス一人では門前払いされてもおかしくはなかっただろう。
「もう朝だぞ、アル」
 飛行機の機体を眺めていたアルフォンスは大きな扉から聞きなれた声がしたので振り向いた。
 扉の端に腕を預け、寄りかかるようにしてアルフォンスと同じくらいの年齢の男が立っていた。貴族風の服装である。ジュストコールを華麗に着こなすその姿は一般庶民から尊敬の眼差しをきっと向けられるだろう。だが、アルフォンスの眼前にいるシャルル=アンリ・サンソンは決して貴族などではなかった。
「シャルル、おはよう」
 呑気な声でアルフォンスは言った。シャルルは呆れるような表情で溜息をついた。そして、アルフォンスの前へと歩き出す。
「おはよう、じゃないだろ? またこんな所で眠って。いつか身体を壊してしまうよ?」
「いや、かなりいいところだったから止める機会がなくて」
 煤で汚れてしまった手でアルフォンスは頭をかいた。アルフォンスが黒髪だったせいもあり、煤の汚れが目立つことはなかった。シャルルはアルフォンスの前まで辿り着くと何も言わず、空いている方の手を無理やり掴んだ。
「ちょ、ちょっと、シャルル。一体どうしたの?」と驚きながらアルフォンスは尋ねた。「僕はまだもうちょっとやることがあるんだけど――」
「いいから、今日はもう飛行機のことは忘れた方がいい。それよりも僕の用事に付き合って欲しいんだ」とシャルルは言った。「この工房を貸しているんだ、それくらいは何とかなるよね」
 シャルルは戸惑うアルフォンスに笑顔を向けた。それはアルフォンスにとって太陽のように眩しかった。
 アルフォンスには分かっていたのだ。シャルルが自分のことを心配してくれているのだと。そうでなければ人間は好奇心が勝る。空を自由自在に飛び回る飛行機の完成に興味が行ってしまうに決まっているのだ。
「それにしても」とシャルルは言った。「本当にあんな金属の塊が空を飛ぶのかい? 少し重そうにも見えるんだけど」
「人が自由に空で動くためには少しだけ固い素材が必要になるんだよ。木材なんかだと脆すぎるんだ。僕のエンジンならそれも可能だよ」
「僕にはよく分からないな、機関のことは。人のことならよく分かるんだけどね」
 アルフォンスには何も答えられなかった。彼には分かっていたのだ。それがシャルル自身による自嘲であると。
 外の空気はやはり、澱んでいた。

 アルフォンスが連れてこられたのは工房――つまり、シャルルの家からほど近い少しだけ開けた広場だった。噴水でも中央に鎮座していれば見栄えもよく、目の保養にもなったのだろう。だが、そんなものは下級市民が多く暮らすパリの端にはあるはずも無かった。
 その代わり、多数の屋台が賑々しく商売を行っていた。装飾の凝らされた屋根やのれんが温かい雰囲気を醸し出していていかにも庶民の街といった様子だった。
 そして、シャルルがここへやってきた用事とは屋台を見て回る事などではない。
「あ、ありがとうございました」
 シャルルは年老いた女性からお礼の言葉を受け取った。適当な上着を身に纏うその女性はもちろん身分は低い。
「いえ、後は薬を飲んでゆっくり休んでください」
 シャルルの言葉を受けて女性は恭しく頭を下げた。本来ならば彼女がこのような医療行為を受けられることは高いお金を用意しない限りまず無い。
 シャルルは医者でもあった。
「今日も頑張るね、シャルル」とアルフォンスが言った。「でも、こんな薬とか治療を無償でやったりして大丈夫なの?」
 シャルルの後ろで控えていたアルフォンスは心配そうな声で囁いた。
 広場の中心でシャルルの周りは一番活気があった。病気や怪我の治療を受けない人であっても関係がない。シャルルはとても尊敬されていた。特にこの身分の低い市民たちからは。
「僕はお金だけは沢山あるからね。最低限生きられればいいんだよ。後は、君のために使う分かな」
「これは一本取られたな」
 シャルルは資産家であった。そうでなければこんな誰とも分からない自分に工房を貸し与えるだけの余裕はないだろう。アルフォンスはそう思った。そしてシャルルが資産家であるのは彼の本業による収入からきている。シャルルが今やっている医療行為というのはその副産物でしかない。
 本当に医者として生計を立てようと思うのならば医療費もまともに払えないような下級市民など相手にしない。上流貴族や宮廷の皇族ならば金に糸目はつけないのだ。
 シャルルは人が苦しみ、命を落とすところを見たくない。ただ、それだけなのだ。
「サンソンさん、今日もありがとうございます」
 アルフォンスとシャルルの前に筋肉質な体躯を持つ男が立った。深々と頭を下げるその姿は世の中に不満を持つチンピラには見えない。
「いえ、構いませんよ」とシャルルは言った。「僕が勝手にやっている事ですから」
「それでもお礼を言わせて下さい。私は何だかんだでこの辺りに住む連中の長みたいなものをやっていますが、サクソンさんがいなければ今頃沢山の奴らが死ぬか、そうでなくとも苦しんでいたでしょう。あなたのお陰です」
 男ははっきりとした視線でシャルルを見ていた。アルフォンスには彼が瞳に涙を浮かべているようにも見えた。背筋をしっかりと伸ばし、顎を引いて話しているその姿からアルフォンスは軍人を連想した。
「そんな恭しい態度は悲しくなってしまいますよ」とシャルルは言った。「人の命を救おうというのはそんなに特別な事なのですか? そこに金銭や利害関係がなければ不自然なのですか? 僕はそうは思いません。だから、気にしないで下さい」
 そう言ったシャルルは少し悲しそうであった。どこか切なそうでもあった。
 男は驚いたような、ハッとしたような表情を浮かべた。そして表情が変化する。自分の考え方が間違っていたことに気が付いたのだろう。そう、アルフォンスは思った。
「そうでしたね。失礼しました。それではこれからも機会があればよろしくお願いします」
 男はそう言って踵を返した。その動作は一つ一つがきびきびとしていて美しいなとアルフォンスは思った。
「今の人、右腕を怪我してるみたいだね」とシャルルは言った。そして、右手でその男を指さした。
 アルフォンスはその言葉を訊いて男を注意深く見てみた。が、そんな様子は見て取ることができなかった。
「僕には分からないけど、そうなの?」
「うん、今はわざと動かさないようにしているけどきっとそう。多分、あの人は軍にいたんだろうね。それが、あの怪我の影響で退役軍人になった。そして、今はここでこんな生活を送っているんだ」
 シャルルはアルフォンスに振り返らず、そう語った。
「シャルルでも治せない?」
「あれはちょっと難しいだろうね。恐らく腕の腱が切れているだろうから。それ以前にあれだけきびきびとした動きが出来る人ならよっぽどのことでは国も手放さないさ」
 シャルルはそう言うと、ゆっくりとした動作で自分の荷物をまとめ始めた。今日の治療はもう終わりらしかった。
「軍人として何もできないなら、こんな生活を送るしかないってことなのかな」とシャルルは言った。「国はなんの援助もしないで生きていけと放りだしたってことなのかな」
「それは仕方ないんじゃないかな」
 その言葉に反応してシャルルはアルフォンスへ振り返った。疑問符が頭の上から浮かんできそうな顔色であった。
「何でそう思うの?」
「今、フランスは合衆国に支援金を送ったりして大変なんだよ。国を守るためには外交だって大切さ、そういう意味だよ」
 シャルルは何も答えなかった。
 雨の臭いが鼻孔を擽った。もうすぐあの雨が降るようだ。






 訝しむような視線を一心に受けて、マリア・アントーニアは教会へ向けて歩を進めていた。
 空には平和の象徴である鳩が放たれた。が、背景の空は灰色であり、絵にはならなかった。静かな雰囲気の絵画に無理やりピンクを持ってきたような、そんな違和感がマリアには感じられた。
 天に向かって聳え立つ塔は他のどの建物よりも高く、その先につるされた鐘は下から見ても分かるほどに磨きあげられていた。先ほど抜けた立派な門は、いかにも開け閉めが難儀そうな重厚な木の扉で、数え切れないほどの鉄の鋲と板で補強されていた。どれほどの悪魔の大群が押し寄せてきても跳ね返せそうな代物だ。
 建物は一つ一つが大きな石で造られており、正面入り口の扉の上には聖典の一節を現した彫刻が施され、慈悲深そうな天使がその門をくぐる者たちに優しげな視線を注いでいた。
 見るものを圧倒する、とは正にこの事だ。
 そんな素晴らしい教会であっても、今のマリアの眼にはまともに入ってはこない。絶望と緊張で頭も心も一杯であった。歩む足は不自然なほどにゆったりとしていて視線は常に下を向いていた。
 マリアの左右には優雅なドレスを身に纏う上流階級の女性。大きな羽のついた赤い帽子を被った紳士の男性。フランスの中心人物たちとも言える貴族や皇族の人間が餌を求める動物のようにマリアのことを凝視していた。
 ある者は期待の眼差しで。
 ある者は羨望の眼差しで。
 ある者は嫉妬の眼差しで。
 マリアはその視線の大半が三つ目のものであるように感じてならなかった。そうではなくとも自分のことを値踏みするような。そう、自分のすぐ左隣を歩くこの男に相応しい女なのかを。
 フランス国王、ルイ=オーギュスト。
 蒸気革命によって世界一の技術国となったフランスの王位継承者。一説によればフランス一の美丈夫とも言われているらしい。が、現教皇も負けず劣らずのようで詳細はマリアには不明だった。マリアと同じブランドの髪は透き通っている。端整な顔立ちで、立ち居振る舞いも上品で優美。くすみの無い、澄んだ青い瞳はまるで青空のようだった。
 青空――
 マリアは心の中でその言葉を連想し、自嘲を抑えられなかった。
(そんなもの、あるわけない)
 心の中でそう呟いた。そもそも何故、青空などという言葉が浮かんできてしまったのかマリアには皆目見当もつかなかった。
 昔、信じ切っていたお伽噺でしかない。妖精のようなものである。いつの間にか、その存在は心の中に居場所を失い、闇へと消える。青空もそういった類のものであるはずだった。それが今、頭の中に浮かんでくるということはどうやら自分は少しどうかしているようだ。そうマリアは結論付けた。
 何故なら自分は――今日、この男の人と結婚するのだから。
 逃げ出したかった。
 出来ることなら、今すぐに長ったらしいドレスを引き裂いて走り出したかった。そう考えるとマリアは涙が溢れ出てきそうだった。が、涙腺は決壊寸前のはずなのにどこか心は虚ろなままだった。
 仕方が無いことなのだ。
 これは数年前から決まっていた結婚の約束。今更寸前になって無碍にすることなど出来るはずもないし、両親の名前にも傷が付く。もう、覚悟はできていたはずなのだ。これは自分だけの問題ではない。フランスの全てにかかわるような問題なのだ。だから、自分が犠牲になればいいんだ。そう、マリアは思った。
 何気なく、自分の左隣にいる男をマリアは一瞥した。見上げたその姿は美しかった。そして、マリアのことなど見向きもしていなかった。それを見てマリアは再び、視線を自身の下へと戻した。
 交す言葉もないだろう。許嫁ともなれば何度か面識があってもおかしくはないが、相手は一国の皇太子であったのだ。そう簡単に会えるものではない。マリアの父も二人を対面させることに意味を感じることはなかったようだ。故に、今マリアは初めて自分と一生を共にする男性をその眼で見たのだ。それはマリアの左隣にいる男にも同じことである。彼がどんな気持ちでいるのかはマリアには分かるはずもなかった。
 マリアは俯いていたせいか、自分がもう既に教会の内部へ足を踏み入れていることに気が付かなかった。そこは俗世界とは一線を画した場所であった。極彩色の絵の具で聖典の一節の場面が描かれた丸型の天井と、見たこともない奇怪な生物たちが刻まれた柱や梁があった。その一番奥には壁一面に巨大なステンドグラスが鎮座していた。そこには過去の教皇と思われる男と巨大な十字架を抱える聖職者の姿が映し出されていた。それはあまりにも大きくてあまりにも美しかった。マリアは一瞬、息を止めた。
「すごい……」
 知れず、マリアの口からは声が漏れていた。
 元々マリアは宗教というものに興味がなかった。毎日聖職者の説教を訊くために教会に行かなくてはならなかった。が、マリアは上手くそれから逃げ延びていた。神様なんているわけがない。そう幼いころのマリアは思っていた。だからこそ、これほどまでに素晴らしく巨大な教会の敷居に足を踏み入れたことなどなく、マリアは圧倒されていた。
 驚くマリアを尻目にマリアの婚約者は歩を進めていく。マリアはそれが視界に入り、内心少し慌てながら後に続いて行った。ステンドグラスの袂には一人の男がいた。銀色の宝冠に赤いマント。右手には聖職者が持つような大きな杖を持っている。マリアは実際には見たことがないが、噂話でその男の存在を知っていた。
 教皇ヨハネス――
 現段階で教会のトップに立っている人間。今この場にいる理由は言うまでもなく、マリアたち二人のことを祝福するためである。それ以上にマリアは噂話の真相を確かめようと虚ろであった目を凝らした。
(綺麗……な人……)
 少々薄暗いこの教会には彼の存在は似合わない。マリアは思った。深紅の大輪が咲いたように麗しく、白銀の雫を纏ったように光り輝くその容姿は、何者も近寄らせない神々しさに溢れていた。空気さえ澄み渡るような気がする。男であることが不自然であるほど彼は美しかった。マリアのぽかんと見つめる視線に気が付いたのかヨハネスはにっこりとマリアに笑いかけた。マリアは何故だか急に羞恥を覚えてしまい、顔を伏せた。
 マリアたちは教皇の前まで歩み寄り、彼の言葉を待った。教皇は二人を交互に見まわして言葉を紡ぐ。
「今日、このような場に立ち会えたことを私は幸福に思います。それでは、新郎ルイ=オーギュスト。あなたはマリア・アントーニアを生涯の伴侶とし、病める時も健やかなる時も変わらず愛することを誓いますか?」
 笑顔で、満足げにマリアの前の教皇は尋ねた。周りの空気は枯れたように静まり返っていて誰も言葉を発しようとはしなかった。
 マリアはその瞬間、視界の端に左隣の男がこちらを向いた姿を捕えた。
 申し訳なさそうな、悲しい眼。
 マリアは彼が何故そんな瞳でこちらを見るのか理解できなかった。それで自分が憐みを受けているようでマリアは許せなかった。美しい蒼い双眸を彼は申し訳なさそうに下へ落とす。そして、言うべきことをその口から発する。
「……誓います」
 凛とした声。彼の言葉は静謐な教会の中に深く響いた。次はマリアの番であった。
「それでは、新婦マリア・アントーニア。あなたはルイ=オーギュストを生涯の伴侶とし、病める時も健やかなる時も変わらず愛することを誓いますか?」
「誓います」とマリアは言った。
 そして、マリアは自分自身に驚いていた。この大事な言葉をこんな簡単に口にできるなんて思ってもみなかったのだ。自分の感情を押し殺すことでマリアはそれを可能にした。
 マリアの澄んだ声が響いて教皇が軽く頷いた。それに呼応するかのように美丈夫の男は歩み出て、マリアにリングピローを差し出してくる。
「それでは指輪の交換と誓いの口付けを」と教皇は言った。
 小さな指輪はマリアの左手薬指に通し、手に同じものが通される。小さなダイヤがいくつも散りばめられているだけでシンプルなものなのに、酷く重い。重さだけが実感としてある。それ以外はマリアには分からなかった。
 ヴェールを上げられると、マリアは怯えるようにその瞳を閉じる。
 怖いのかどうか、マリアには分からなかった。
 触れた唇からは何も伝わってこなかった。温度も、思いも、愛も。ただ、もしかしたら――この人は申し訳ないと思っているのかもしれない。そう、マリアは思った。
「神の名の下に、この二人をただ今より夫婦として認め、広く世に宣誓します。若き二人に幾多もの幸せと、神の加護がありますように。アーメン」
 教皇の言葉はマリアの中に深く染み込んだ。今日の今を持ってマリアの命と人生は彼女一人のものではなくなった。



[25409]
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:47
 川の畔はアルフォンスにとって何処か寒々しく感じられた。セーヌ川の色合いは、まるで泥水のようで、澄んだ青とはお世辞にも言えないものだった。蒸気機関によって駆動する巨大な船が本来美しいはずであるセーヌ川を我が物顔で蹂躙している。近くに整列するようにして植えられている木々も数年前から冬の如く枯れてしまい――これも蒸気機関の発達による蒸気病の一種だろうとアルフォンスは考えていた――その意味を失っている。確かにその木々もセーヌ川も灰色の空には似合っていた。だが、もしこの風景を絵にしようというのなら、それはとても寂しく悲しい絵になるに違いない。そうアルフォンスは思った。
「偶然だなあ、アルフォンス・ペノー君」
 セーヌ川の傍をゆっくりとした足取りで歩いていたアルフォンスは煙草をふかし、ベンチに座りこんでいた男を見つけた。
「ラザールさん。こんにちは」
 ラザール・カルノー。痩せすぎずの体躯に、だらしなく着こなしたコート。顔に生えている無精髭に彫が深いその容姿は何となく三十代の年齢を連想させる。が、その腰に携えたサーベルの重みは本物であり、彼が生粋の軍人であることを示していた。
 ラザールは口から煙草を離し、煙を吐き出した。足を組んで灰色の空を見上げる。そして顎の無精髭を撫でるように触った。
「いつもラザールさんは顎鬚を触りますね。癖なんですか?」とアルフォンスは言った。
 ラザールはアルフォンスの言葉を訊くと、ハッとしたように右手を顎から手放した。
「おっと、こいつは失敬。少し失礼だったな。考え事をしていると無意識の内にな。年を食うと考えることが多くなってしまって大変なのさ」
「いえ、僕はそこまで気にしていませんよ」
 ラザールは煙草を吸い終わったのだろか。それを口から吐き出し地面へと落とした。右足ですり潰すように火を消して顔を上げる。
「煙草は嫌いだったかい?」とラザールは言った。
「そこまで好きでもないですね。ただ、最近は空気の臭いなのか、それとも誰かが吸っている煙草の臭いなのか判断に困ります」
「ふっ、それは仕方ないだろうな。最近では国が経済に介入することもなくなって自由で活発な活動が目立ってきている」とラザールは言った。「資本主義というのは自分の利益の為に行動をするということだ。誰も気が付かないのさ、今のこの状況がおかしいとにな」
 ラザールはそう言って自身の右斜め後ろに振り向いた。
「ほら、見てみな。あの貨物船だって速さと一度に乗せることのできる荷物の量のことしか考えていない。黙々と排煙を出すのはいいが、それは明らかに過剰さ」
「ラザールさんは今のパリについてどう思うんですか?」
 アルフォンスが尋ねると少々の笑みを浮かべてラザールは答える。
「俺は一軍人だからな。望むものはパリとフランスの平和さ。それは別に俺や君、つまり一市民の視点から見たものじゃない。国や都市の規模で、だ。だから、国に使える身としてはあまり言及は出来ないな」
 ラザールはそうして言葉を濁した。肝心な事をこの人はいつも言わないのだ。アルフォンスはそう思った。
 そもそも、アルフォンスが今飛行機を呑気に制作していられるのも眼の前の男、ラザールのお陰であった。アルフォンスの飛行機作成というのは大まかな部分をシャルルの援助によって賄っている。あの工房を貸してくれているのもシャルルであるし、アルフォンスはシャルルの家に寝泊まりしているのだ――時折、アルフォンスは工房で作業をしていてそのまま寝入ってしまうということも多々あるが――。
 だが、それだけではまだ貴重な金属などを満足に得ることはできない。ラザールはこの国の王、ルイ=オーギュストに進言をしてアルフォンスの研究に興味を持たせたのだ。今では国王が個人的にアルフォンスを支援するという形で制作に勤しんでいる。
 アルフォンスは深く考えたことが無かった。が、もしかすれば王に進言できるほどの発言力を持っているということは眼の前でだらしなくベンチに腰掛ける男はかなり身分が高いのではないか。アルフォンスはそんな懸念を抱いた。
「ラザールさんって実は結構偉い人なんじゃないですか?」とアルフォンスは尋ねた。
「人を見かけで判断するものじゃないぞ、少年。俺はせいぜい少佐程度かな、それ以上はいくら頑張ったって無理さ」とラザールは答えた。「偉くなったっていいことばかりじゃない。理不尽な命令に従わなくてもいい代わりに責任という枷が常に付きまとう。俺はそういうのが嫌なのさ」
 ラザールは二つ目の煙草を懐から取り出して静かに火を点けた。この前会った時、アルフォンスは気が付かなかったが、どうやらラザールはかなりのヘビースモーカーのようである。輪っかのような煙を吐き出した。
「そう言えばアルフォンス君。“執行人”の彼は元気かい?」
 ラザールは煙草を吸いながら何の気なしに尋ねたに違いない。が、それはアルフォンスにとって聞き捨てならないことであった。
 執行人――
 それは略称である。何の略称かといえば、それは勿論『死刑執行人』のそれである。ラザールの言う彼とは、アルフォンスの友人であり後見人のシャルルのことである。
 死刑執行人という立場はとても特殊なものであった。その言葉は死神と同義であり、パリに住む殆どの人間に対して欠かせない存在である。なのに、同時に殆どの人間に対して蔑まれる。
 何という皮肉であろうか。誰もが犯罪者に対して死刑を望み、喝采する。それと同時に死刑を行う人間を避けて、侮蔑するというのは愚かなことである。アルフォンスは常々そう思ってきた。面倒で、汚らわしくて、危険で、最も忌み嫌われる職業。それが死刑執行人なのだ。ある意味『社会の底辺』と言ってしまっていいかもしれない。それほどにシャルルの立場というのは危うく、崩れやすいものだった。
「僕は、シャルルのことをそういった名称で呼ぶのは好きではないです」
 ぽつぽつとアルフォンスは静かに言葉を紡いだ。声を荒げるほどのことではないにしろ、そういった偏見でシャルルを見られることはアルフォンスにとって許せないものだったからだ。
「またしても、失礼をしたようだ。確かに彼を執行人という職業名で呼ぶことは偏見かもしれない」とラザールは言った。「だが、君も受け入れなくてはいけない。彼が執行人であるということは事実だし、それは変わらない。もう既に本人は受け入れているだろうな。でなければ君に笑顔を向けることなんてできるはずが無いんだよ」
 言って、ラザールは吹かしていた二本目の煙草の火を右足で掻き消した。アルフォンスはラザールに何も言い返せなかった。ラザールはそんな落ち込んだようなアルフォンスの様子を察してか、言葉をかける。
「俺も少々言い過ぎてしまったかな。けど、彼のことを一番の友達だと思うのならそういった所が大事なんだと俺は思うね」とラザールは言った。そして、おもむろにベンチから立ち上がり、その大きな背でアルフォンスを見下ろした。「君も別に何の気なしにここを歩いていたわけではないだろう? 俺も付き合うさ」

 アルフォンスには毎週のように訪れる場所があった。出来れば毎日、といきたいところだったが、そこへ行くためには少々のお金がかかるのだ。アルフォンスは今、シャルルに依存するような形で生活をしているのでそんな我儘はとても言えなかった。
「君は時々、ここに来るのかい?」
「ええ、そうです」とアルフォンスは言った。
 緑の木々と広い芝生の群れ。週末には紳士や淑女の姿も見られる。かの国王ルイ十四世によって整備されたこの庭園のことを人々はテュイルリー庭園と呼ぶ。パリで穏やかな時間を過ごしたいのならばここしかないだろう。まだ機関化されていない新緑の楽園。中央にはきらきらと光り輝く水を放出する噴水が飾られ、外の灰色の雰囲気とは一味違っていた。
 でも、誰でもこの庭園に足を踏み入れることができるというわけではないのだ。
「俺はわざわざ金を払ってまでここに来たいとは思わないな」とラザールは言った。そして、煙草を口に咥える。「それにどこかの物理学者が、あれは健康を害する、なんていう論文を出したそうじゃないか。俺は煙草が吸えればそれでいい」
 ラザールはそう言うと咥えてあった煙草に火を点けようとする。アルフォンスはその煙草を無理やり取り上げて、ラザールを眼で諫めた。
「この庭園内は禁煙ですよ。知らないんですか? 少しでも排気を少なくしようってことでそう制定されたはずです」
「分かってるさ、冗談だよ。この庭園の売りが消えてしまったら洒落にならないからな」
 ラザールはそう言って皮肉めいた笑いを浮かべた。
 この庭園には別名があった。即ち――聖地。
 ここは別に一般に開放されているわけでも、国が管理しているわけではなかった。教会の独占状態が今も続いているのだ。
 それには理由があった。
 アルフォンスは煙草を取り上げた手を下ろし、天を見上げた。そして、それを見た。
「綺麗ですね……」とアルフォンスは感嘆の声を漏らす。
 ――美しい、光。
 このような現象は世界各地で報告されているらしい。灰色の雲の間から太陽の光が漏れる。無数の光の剣は庭園にいる人間の心を暖める。誰もがここに来れば天を見上げ、神を連想する。それは教会が一番にそう思っていたらしく、この日差しが降り注いできた瞬間に原因を神に委ねた。
 教会はこの庭園に入場料を設け、一般人が簡単に入ることができないようにしている。が、その真意はアルフォンスには分からなかった。
 奇跡、といってもいいのかもしれない。
 パリの中で、フランスの中で太陽の日差しを見ることができるのがここだけなのだから一層その感覚が強くなる。
 そしてアルフォンスはその向こうにある青空を一目見ようと眼を凝らすのだ。
「やっぱり見えませんね」
「何がだい?」
「青空、ですよ。ラザールさんは信じないんですか?」
「ふっ、君がそれほどまでロマンチストだとは思わなかったよ」とラザールは言った。「だが、男なんてのは案外女よりもそういうものさ。女のほうが現実を見てる。男なら夢を追うのも悪くないんじゃないかな」
「夢なんかじゃないですよ。きっとあります」
 アルフォンスはラザールのことを見て、そんなことを言った。アルフォンスにも確証なんて言うものは無かった。ただ、信じたかったのだ。青空というものを。
「なるほどね……おっと」
 ラザールは自分の懐を漁り、そこから蒸気電話を取り出した。耳に付け誰かと会話をする。アルフォンスはただそれを見ていた。
「すまんね、急に用事が入ってしまった。今日のところはさよならだ。君の飛行機の完成を楽しみにしているよ」
 ラザールはそう言うと、足早に庭園を出ていってしまった。アルフォンスはまだ、光を見ていた。





 結婚式の後、パーティーのようなものを催すのは貴族皇族にとってもはや通例の出来事だった。掻い摘んで言えば新たな花嫁、花婿のお披露目会というわけだ。
 マリアは皇族が住むべき宮殿へ馬車で移動し、パーティーに向けての準備を施されていた。馬車の外の景色はマリアを酷く陰鬱にさせた。暗く、灰色で、空気が汚くて。こんな私利私欲に溢れた都市に未来なんてあるのか。たった今皇女になったばかりのマリアは思ってはいけない懸念を抱いていた。
 宮殿に着くと、マリアはもう精神的に疲労困憊といった様子だった。これから自分がどうなるのか。あの美丈夫の王とは上手くやっていけるのか。そんな不安だけしか頭になかった。が、現実逃避する時間は終わりを告げたのだ。もう自分はこのヴェルサイユで生きていくしかないし、そう決めたのだ。マリアは心の中でそう誓った。
 ヴェルサイユ宮殿は外から見ればそこまで豪華絢爛というほどではなかった。赤みがかったレンガでできた壁面は重厚でどこか重々しい雰囲気を醸し出していた。それはとても巨大で近づきすぎていたマリアは一望できないほどであった。何度か訪れたことはあったのだが、こんな感覚でヴェルサイユを見るのはマリアにとって初めてだった。
 ヴェルサイユの内部は、言うまでも無く財の髄が惜しみも無く使われて光り輝いていた。天井には様々な壁画が何枚も何枚も貼りつけられており、壁紙と見間違えるほどである。無数にぶら下がっているシャンデリアはまるで夜空に輝く星のように点々としている。マリアは改めてこの宮殿が別世界なのだと実感した。
 マリアが通されたのは沢山の衣装が並べられている一室だった。話を訊くと、どうやらここでパーティー用のドレスに着替えろということらしい。赤や金を基調に花をあしらった装飾や調度はきらびやかで女性的な雰囲気。それほど大きな部屋ではなかったが、着替えるだけには十分すぎた。
 部屋に入る前は金魚の糞のように沢山ついて来ていたメイドも今やたったの一人となっている。どうやらこういった習慣らしかった。名前も知らないメイドとマリアが話すことなど限られていた。必要最低限のこと、服のサイズ、髪型をどうするか、香水は使用するか、例えば――
「これでよろしいでしょうか后様」とメイドは言った。
 マリアはその瞬間、自分が人形であるかのような感覚に襲われた。身体に触れられ何かをされているのだが、感覚が宙に浮く。他人事のようにマリアはそれを俯瞰していた。
 名も知らぬメイドの声は心地のいいものだった。安心できるような感覚をマリアは抱いた。
「あの、ちょっと派手すぎないかしら。私にこんな光るものは会わないと思うのだけど」
「そうでしょうか? 私にはこれでも后様には不十分なように思われますが」
 メイドはマリアのお色直しを行いながら、言った。スパンコールが妖しく周囲を照らすようなそのドレスはマリアにしてみれば確かに過ぎたものだった。まるで周囲に自らの存在を振りまいているような。それは本来のマリアの望むところではなかった。
 それでもこのメイドはマリアのことを似合っていると評価してくれた。今までは気持ちがどこかに行っていたせいか目も虚ろになっていて彼女の顔も視てはいなかった。
(なんだ、私なんかよりずっと綺麗じゃない。笑顔なんて特にそう)
 メイド服を着ているのが勿体無いと思われるほどの容姿だった。流れるような黒髪は酷く美しく、繊細な彫刻のようであった。鏡越しにみる彼女の顔はそんな感想が漏れるほどのもので。マリアは自分が酷く矮小なものに思えた。
「そんな、私なんかよりあなたのほうが似合うと思うわ」
「后様。そのようなことを私以外の下賎な者に言ってはいけませんよ。后様の威信が疑われてしまいます」とメイドは優しい声でマリアを諫めた。そしてその手でマリアの髪をとかす。
 マリアにとってそれはとても心地よかった。
「私、あなたの名前が知りたいわ。教えてくれないかしら」
 メイドは数刻驚くような顔を覗かせてこう囁いた。
「……セリスと申します。記憶の片隅にでも覚えておいていただけるのならばこれ以上のことはありません」
「セリス、なんだか優しい響きね。これからも私のお世話をしてもらえないかしら。私、あなたといると安心できるの」
「もったいないお言葉です」とセリスは言った。
 それから二人の間をしばらく沈黙が支配した。もともと身分の違う二人に話すべきことなどそれほどありはしなかった。マリアはもう普通の人間ではない。この国の命運を背負う皇族の仲間入りをしたのだから。
 それがまた、マリアの心を孤独にしていた。
「后様。后様は今、不安ですか?」とセリスは言った。
 マリアの口からは驚きの声が漏れた。そして、マリアにはその言葉の真意を読み取ることはできなかった。
「后様が思っておられるよりもオーギュスト様はよいお人です。后様を無下に扱ったりすることもないでしょう。それに私も居ます。ですから安心してください。――あなたは一人ではないのです」
 マリアは何も答えることができなかった。
 涙を堪えることで必死だったから。

 衣装の着替えを終え、マリアは舞踏会用のホールへと入った。未だこのドレスには不安が残るものの、セリスが薦めたものだったので止むなく了解をした。
 ホールからは陽気な管絃楽の音が、抑え難い幸福の吐息のように、休みなく溢れてきていた。装飾は踊りやすさを意識したせいか、それほど過剰なものではなかった。部屋の奥に配置された二枚の絵画。淑女と紳士であろうか。装飾と呼べる装飾はその絵画とシャンデリアくらいのものであった。そうしてまた至る所に、相手を待っている婦人たちのレースや花や象牙の扇が、爽やかな香水の匂の中に、音のない波の如く動いていた。皆同じような水色や薔薇色の舞踏服を着たてていて、中には同年代らしい少女もいた。
 鮮やかな雰囲気であるそのホールはマリアにとって目に毒でしかなかった。シャンデリアが照らす光は妖しく見え、自分自身を含めたドレスの全ては見苦しい拘束具のように見える。ここはマリアにとってお世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
 そんなマリアの想いとは裏腹にパーティに集まっている者たちからは感嘆の声が漏れていた。賑やかな歓談の中にそんな声がちらほらと混じっている。
「これはまた……」
「画になりますわね」
 ひそひそと囁きあう声が木霊するが、無意識の内にマリアはその音を遮断する。いつの間にか先ほど口付けをかわした男が横に立っていた。相変わらずの美しさでノエルは自分の場違いさを改めて認識した。
 手を差し出される。
 オーギュストの手は思ったよりも傷ついていて、マリアは手を取るのを一瞬躊躇ってしまう。もうすぐ王座につこうとする人間の手がこんなに汚れているなんてマリアは思ってもいなかった。そして、こんなことも知らなかった自分を選んだ運命に嫌悪感を抱いた。
 手を取り、中央にぽっかりと空いた人ごみの中の穴をマリアたちは目指した。舞踏会用のドレスには慣れていないはず、それなのに自然と歩を進められることはマリア自身を驚かせた。拍手が連鎖し、マリアたちは受け入れられる。
「果報者ですな、オーギュスト様。こんなに美しい后をめとるとは」
「きっとお子様も美しいことでしょうね」
 マリアは好き勝手に様々な言葉をかけてくる来席者たちに苦笑を交えながら応答していく。そして、自分など美しくもなんともないと心の中でそう思った。
(子供を作る? 私が? 何で? 何で?)
 それはつまりマリアがオーギュストと契りを果たすということ。マリアにとって受け入れがたい現実がそこにはあった。
 心が軋み、マリアは適当に受け答えをしている自分自身を殺したくなった。
「これはこれは、マリア様。初めまして」
 いつの間にかマリアはオーギュストとはぐれてしまい、パーティの渦の中に飲み込まれていた。声を掛けてきたのは参列している中でも一際目立つドレスを身に纏う女性だ。ブロンドの美しい髪に紅い双眸が印象的あった恐らくはどこか有名な家の人だろうとノマリアは思った。
「初めまして……あの、あなたは?」と何の気なしにマリアは尋ねた。それが彼女の機嫌を酷く損ねたようであり、表情は驚きから苛立ちへと変化していった。
「申し遅れました。わたくしはエレーナ・アラゴンといいますの。それにしても意外ですわ。これよりハロルド様の正室になろうとするお方がアラゴン家の顔であるわたくしの事を存じ上げていないだなんて前代未聞ですわね」
 ――何が言いたいの。
 嘲笑交じりに言葉を紡ぐその女性にマリアは純粋な怒りを覚え始めていた。それでもあくまでマリアは冷静に対応しようと心がけた。面倒事は御免だったのだ。
「申し訳ありませんでした。何分世間には疎いものですので」
「構いませんのよ。わたくしはそこまで短気ではありませんし」とエレーナは言った。「それにしても、何故あなたのような人がオーギュスト様の正室なのでしょうね」
 エレーナの言葉に悪意を感じたマリアは強い眼で彼女を睨みつけ、言葉を紡ぐ。
「それはどういう意味でしょうか」
「いえ、他意はありませんのよ。ただ、どんな事情があったのかな、と。少々気になったもので」
 マリアはエレーナの皮肉めいた言葉、仕草に自分の怒りを抑えきれなくなっていた。そして言ってはいけない言葉を呟く。
「――あなたがやればいいじゃない」とマリアは言った。言ってはいけなかった。
「今、なんと仰いましたか」
 言葉の端を微かに訊きとったエレーナはマリアに確認を求めた。いつものマリアならばよかっただろう。が、今のマリアは我を忘れてしまっていた。
 声を荒げてマリアは言い放つ。
「私はっ――」
「失礼をいたしましたエレーナ嬢。私の妻がとんだご無礼を」
 現れたのは背の高い美丈夫、オーギュストであった。マリアは何故か自分自身の怒りが急速に醒めていくのを感じた。
「オーギュスト様……いえ、わたくしの方こそ行き過ぎてきました。申し訳ありません」とエレーナは言った。
「今後ともあなたとアラゴン家とは親密な関係でありたいと所望します」
 オーギュストは手を取り、エレーナのそれに口付けをする。その動作の一つ一つがノエルには宝石のように光り輝いて見えた。
 エレーナと名乗った女性は女性らしく頬を赤らめる。真っ赤になった頬に片手を当てるその仕草はマリアにとって素直に可愛いらしいものだった。
「オーギュスト様……」
 先ほどまでの貴族の子女という雰囲気は薄れ、今のエレーナはマリアにとってただの恋する少女にしか見えなかった。そして、マリアはエレーナの言動の意味をおぼろげながら理解した。
「では、失礼します。マリア様、またお会いしましょう」とエレーナは言った。
 にこやかなその笑みの中に鋭い敵意が隠れていたことをノエルは見逃さなかった。踵を返すその動作すら綺麗でノエルは自分自身が不思議な感情に支配されていくのを感じた。
 怒りは変換され、自嘲へと移り変わる。落ち込むというよりは開き直るといった感覚であった。
「……すまない」
 表情は見えなかった。
 ノエルはハロルドがそう言った気がしただけ、それだけだった。








 ラザール・カルノーは王への報告書を届け、ヴェルサイユ宮殿の廊下を歩いていた。
 モノクロのタイルが敷き詰められた床は綺麗に整えられていて、ふと視線を落とすとしばらくの間見入ってしまいそうである。廊下は全体がアーチを描くようになっている。壁面はただの灰色であり、ヴェルサイユ宮殿のイメージからはかけ離れていた。天井からはカンテラがぶら下がり、辺りを薄く照らしていた。窓の反対側には聖人の像がいくつか並んでおり、この国の将来を案じているようだった。
 ラザールが報告した事柄とは最近、パリを中心に発生している連続殺人事件についてであった。事件の詳細は至って単純だった。紳士淑女を問わずに行われた無差別殺人。それがこの事件の真理であった。同一犯だと結論付けた要因はその犯行の手口である。体躯の至る所が切り刻まれているが、共通している点が一つあった。
 それは死因である。連続殺人の全てにおいて心臓を的確に打ち抜かれて皆殺されていた。直接の死因はこれであった。絶対に素人では不可能なほど正確な切っ先が被害者たちのそれを穿っていたのだ。
 工業的な発展によって一気に霧の都と化したパリではこういった悪夢のような事件は大きな噂になりやすい。陽が落ちれば唯でさえ濃霧によって視界が悪いパリは薄気味が悪いのだ。そこに連続殺人鬼ともなれば人々が恐れを抱くのは当然である。ラザールはなんとしてもこの事件が大事になる前に処理をしてしまいたかった。
 しかしながら有効な手がかりが皆無と言っていいほどなかった。本来、普通の殺人事件ならば被害者の周辺を漁り、殺してしまいそうな動機を有している人物を容疑者として立てるのが筋である。が、無差別殺人ともなれば話は一変する。被害者たちには何ら関連性を見出すことはできないし、そもそも無差別殺人を起こした犯罪者にはまともな動機など存在しないのが殆どなのだ。
 殺人を楽しんでいる愉快犯や、神に求められたのかは分からないがそういった意味で狂っているなど。ラザールはこういった人間たちの考えることなど理解できなかったし、したくもなかった。であるが為に今回の事件の捜査は行き詰っていたのだ。
 ラザールはため息交じりにヴェルサイユ宮殿の廊下を進む。それもそのはずである。王に対して吉報を報じるべき報告書には『進展なし』としか書けなかったのだから。少々視線を下へと移していたラザールは近づいてくる人影にようやく気が付いた。
「気分でも悪いのですか。ラザール殿」
 線が細いながら鍛えられた印象が強い体躯。何よりも人の目を引くのは紅い瞳に紅い髪。ラザールと同じくフランスに使える軍人である男が目の前にいた。
「アンリ殿、奇遇ですね」とラザールは嫌々しそうに言った。
 アンリ・デジレ・ランドリュー。
 ラザールとは別の所属ではあるがラザールは彼の噂をよく耳にしていた。何でもフランス軍一の剣術使いだとか、先の戦争で千人切りを果たしただとか――後半の話は半分嘘であるとラザールは思っているが――。とにかく軍の中でも剣の腕が立つのは確かである。ラザールも剣の腕はそれなりであり、時たまラザールと彼でどちらが強者であるかの議論がなされたりしていることはラザールの知らぬところであった。
 アンリは右の親指の先を舐めながら、ラザールの身体を下から上へ見回した。ラザールはその仕草がどこか気持ち悪くてアンリから一歩後退した。
「ラザール殿はやはり身体を鍛えてらっしゃるようだ。無駄のない、それでいて強い。これは剣術の動きもさぞ素晴らしいことでしょうね」
「……それはどうも、ありがとうございます」
 ラザールはあくまで控えめにそう答えた。
 アンリは相変わらずラザールのことを見回しており、ラザールは背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
「今度ぜひ、俺と手合わせ願いたいですね」とアンリは言った。「歯ごたえのある戦いができそうだ」
「私もそれは常々思っておりました。あなたの腕がどれほどのものなのか、私も興味がありましたので」
 アンリはラザールの言葉を訊くと気味の悪い笑みを浮かべた。まるでそれは暗闇に潜む悪魔のようであった。
 ラザールがアンリに対して悪い印象しか抱けないのはラザールの悪い噂の存在が大きかった。剣の腕は確かに立つが、戦争で捕虜とすべき人間を殺しただとか、本来殺さなくてもいい犯罪者を一存で殺してしまうだとか。とにかく、いい噂もあれば悪い噂もあった。そんなアンリはラザールにとって信用の置けない人物であった。
「アンリ殿、最近頻発している殺人事件について何か情報はありませんか?」とラザールは尋ねた。
 信用の置けないアンリではあったが、ラザールは今どんな些細な情報であっても必要であった。自分の好みで眼の前の手がかりを見捨てることなどラザールはできなかった。
「……いや、何も訊いてないですね」
 少々頭の中を整理したのだろうか。アンリは数刻置いた後、答えた。相変わらず親指の先を舐めているアンリにラザールは眼を細めた。
「そうですか、ではまた機会があれば」
 そうしてラザールとアンリは会釈をし、すれ違った。その間、アンリの足音が皆無だったことにラザールは気が付いた。相当鍛えられた人間でなければ無意識のうちに足音を消すなど出来るわけがない。ラザールは改めてアンリに畏怖のようなものを抱いた。
「やはり、あいつに訊いてみるしかないか……」
 ラザールはそんな独り言を零した。ラザール自身もそれは最後の手段として残しておきたかった。が、今はもう予断を許さない状況であり、手段を選んではいられないのかもしれなかった。
 夜が満ちてパリに暗い夜がやってくる。





 パリの酒場とは案外いつも賑わっているものだ。シャルルはそんな感想を抱いていた。
 上流階級の人間は決してこのような場所は利用しない。挙って集まってくるのは汗水を垂らして肉体労働をし、そのなけなしの銀貨を一杯の葡萄酒に変えようとするブルーカラーの人間たちである。礼儀作法など関係なしに和気あいあいと歓談をする彼らをシャルルはいつも微笑ましく見ていた。
 軽く汚れている木材でできたテーブルやカウンターはどこか暖かい印象を人々に与えている。明かりは何個か吊るしてある小さなカンテラのみであり、酒場の雰囲気を強調していた。歓談の中にジョッキを叩く音と葡萄酒の香りが混じり、シャルルにはそれがとても心地よく感じられた。
「お待たせいたしました」
 女給が葡萄酒を運んで来てそれをシャルルが座っているテーブルへゴトリと置いた。葡萄酒の甘い香りが鼻孔を撫でて、シャルルはその味を空想する。女給はさらにこんがりと焼きあがった鶏肉が乗せてある皿をテーブルへ乗せた。シャルルは鶏肉などは頼んでもいなかったので戸惑いの表情を隠せなかった。
「あの、僕はこんなもの頼んでいないんだけど」とシャルルは女給に尋ねた。
 女給はシャルルに顔を近づけて軽くウインクをし、「シャルルさんにはサービスですよ。いつもお世話になってますから」と言った。皿とジョッキを乗せていた盆を胸に抱えて女給は踵を返す。その足取りはどこか軽かった。シャルルは苦笑いをしながら葡萄酒に口をつけた。鼻を軽く抜ける爽やかな酸味に、舌に両側からしみ込む葡萄の甘さ。強烈さが売りのラム酒もいいが、シャルルは葡萄酒や蜂蜜酒といった甘いもののほうがよかった。
 酒場に来るのは殆どが下級市民ばかりであったが、中には別の人間もいたりする。何かしらの情報を求めてくるものもいれば気まぐれな貴族の人間もたまにいたりする。そういった人間はこの酒場では一目見れば分かるように浮いてしまうものだ。彼らと同じようにこの酒場で毎日を過ごす人間にも強い同族意識のようなものがあった。自分たちは自分たちに頑張ろう、そういった決意の表れかもしれない。
 シャルルはため息をつきながら、この酒場には少々風変わりな人物がテーブルに着くのを容認した。
「……またあなたですか」
「どうも」とだけその男は言った。
 強靭な筋肉によってその体躯にその外装は一見似合わない。赤いガウンを身に纏う男はしかしながら、落ちついた雰囲気と貫録に満ちていた。
 シャルルはこの男のことを知っていた。
 ジョルジュ・ダントン。
 何度かこの酒場でシャルルと席を同じくしたことがあるが、シャルルにとって彼の話す言葉はとても訊けたものではなかった。
「サクソンさん、決心はしていただけましたか」
「何度言われても僕の意思は揺るぎません。あなたの言葉は正しい部分もありますが、今の僕にはとても無理です」
「何故ですか? あなたはこの国がおかしとは思わないのですか?」とダントンは言った。
 シャルルはダントンの言葉に半ばうんざりしていたのだ。ダントンは身を乗り出すようにしてシャルルに詰め寄る。
「今この国には変化が必要なのです。それも大きな、とても大きな変化が。それはつまり――革命です」
 ――革命。
 ダントンがいつもシャルルに対して口にする単語である。それはつまり非合法な方法により、しばしば暴力的な手段を伴いながら、政府と社会の組織を抜本的な変更する政治権力の行使を指す。つまりは現時点での政治体系、王政の全面的な否定であった。
「今この間にも飢えで苦しみ、仕事も何もなく、明日の日の出を絶望でしか迎えられないような人間が沢山いるのですよ? あなただってそれは分かっているでしょう。市民たちに支持のあるあなたの言葉は私よりも大きいです。だから――」
「僕はそういった暴力での解決は望まないと言っているんです」とシャルルは言った。「確かにあなたの言葉は魅力的かもしれない。でも、その革命の動乱の中で皆が命を落とすかも知れないと思うと、僕は気が気ではいられません」
 ダントンはその言葉を訊くと頭を抱え、目を閉じた。シャルルはダントンが何を言っても気持ちを変えるつもりはなかった。
「大きな変化の中には多少の犠牲は付き物です。歴史はそうやって作られ、塗り替えられてきました。分かってくれませんか」
 ダントンは身ぶり手ぶりを加えながらシャルルに訴える。だが、シャルルの心は揺るがない。
「そんな言葉を話すようでは、いくらあなたの信念が素晴らしくてもメシアにはなれません。あなたに市民を率いる資格はない」とシャルルは鋭く告げた。
「では、あなたは今飢えで苦しんでいる市民を見捨てるというのですか」
「そんなことはさせません――僕が助けます」
「どうやってですか」
「僕がパンをその人たちに与えます」
 ダントンはシャルルの言葉を訊くと薄ら笑いを浮かべて、言葉を紡いだ。
「何を莫迦な。あなた一人の財力で一体どれだけの人々を救えるというのですか。それにそれは一時凌ぎにすぎない。いずれはフランスという大きな闇に呑みこまれますよ」
「それでも、僕が助けます」とシャルルは力強く言った。
 ため息交じりにダントンは首を振る。
「詭弁ですよ、サクソンさん。あなたの『力』があればなんだってできるんです。あなたが首を縦に振りさえすればフランス国民の大半は救われるんです。あなたは現代に蘇ったジャンヌ・ダルクになるのですよ」とダントンは言った。
 その言葉を訊くとシャルルは辟易してしまい、席を立った。銀貨を一枚テーブルの上に置き、酒場を後にしようとする。
「僕は英雄になんてなれません。僕は人間に絶望しか与えられないんですから」とシャルルは去り際に呟いた。
「サクソンさんっ! 全てはあなた次第なのですよ!」
 ダントンはテーブルを叩き、シャルルに訴える。酒場の雰囲気が一変して閑静なものになるが、そこにシャルルの姿はなかった。



[25409]
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:47
 マリアはパーティーの後宮殿の中にある自分の部屋へと通されていた。先ほど山のように衣装が置かれてあった部屋はどうやらマリア専用のものらしかった。赤や金を基調に花をあしらった装飾や調度は相変わらずで、入った瞬間にマリアは羽根つきの大きな寝具が嫌に目に付いた。
 どう頑張っても今夜のことを想像してしまう。マリアは自分自身に嫌気がさしていた。
 皇族の夫婦が結婚式の夜にするべきことなど決まっている。それは別に皇族に限ったことではないだろう。当然の如く、ベッドの中で夫婦の契りを果たさなくてはならないのだ。マリアはそのことを考える度、酷い頭痛を覚え、吐き気を催した。
 気分が重いままマリアは薄い夜着を身に纏った。先ほどの嫌らしいようなドレスはセリスに手伝ってもらい、今はもうクローゼットの中であった。その際にセリスが「夜着は必要ないかもしれませんね」と言っていたのをマリアは思いだした。そして、それがどういった意味なのかマリアには分からなかった。
 少し前の浴槽に浸かっている時間はマリアにとって永遠のように感じられた。浴槽の中に体育座りで顔の半分をつけ、色々なことを考える。子供の頃のこと、先ほどのセリスの言葉の意味。そして子供の頃に出会った彼――そんなことは今、何の意味も成さなかった。
 マリアの実家の浴槽は横たわらなければ全身がお湯に浸からないのでこういった浴槽があることは素直に嬉しかった。薔薇の香りが無造作に浴室を満たし、ノエルはこのまま眠ってしまいたいとまで思った。
 マリアの部屋にある扉はマリアにとっての婚約者、オーギュストの部屋へと繋がっており、後はそれを潜るのみだった。
 全く自覚のない素晴らしいプロポーションを持つマリアは恐る恐るその小さな扉をノックする。
「入れ」
 聞き覚えのある声が転がってノエルはドアノブに力をかける。自分自身も驚くほどに手は震えていた。カタカタと金属を打つ音が木霊してノエルは自分自身が酷く情けなく思えた。
 ノエルは体の中にある力を振り絞ってドアを解き放った。
 部屋は基調こそ違うが、ノエルのそれの左右対称といった様子で驚くところはなかった。
 バスローブを着たハロルドはノエルから見ても艶やかで美しかった。
 薄く濡れた髪。綺麗な肌。強い瞳。
 普通の女性ならばこの段階で参ってしまうだろうとノエルは思った。
 ――怖い。
 背筋に残った水滴が走り、体は強張る一方だ。これから何をされるのだろうと考えただけで凍りつきそうだった。ハロルドが自分が座っているソファに招き入れる仕草をしたのでノエルは恐る恐る近づく。ハロルドの瞳に憂いの色が見えたのさえノエルは気づかなかった。緊張は頂点に達している。ノエルは少しでも触れられようものならここから逃げ出してしまいそうなほどであった。
「別に何もしない」とオーギュストは呟いた。
 ――え?
 言葉が漏れる前に力が抜けた。
 結婚初夜ならば当たり前にするだろうものをこの男はやらないというのか。ノエルの胸にはは戸惑いと安堵と二つの思いが去来していた。
「な……何で?」
 ノエルは茫然とした表情を浮かべたままオーギュストに尋ねた。ソファに腰をかけていたオーギュストはその視線を落とす。
 自分に魅力がないからか。そんな思いをマリアは抱く。
 様々な推測がノエルの頭の中を行き来する。元々女性に興味が無いのか、それとも――
「疲れているから、明日からはまた忙しくなるから遅くなる。好きに部屋は使っていい、寝ていても構わない」とオーギュストは言った。
 オーギュストはマリアの部屋にあるベッドを指さしながらそう言った。瞳の色は動かずにまるで虚空を眺めているようであった。
 悔しかった。
 いっそ、思い切ってやられていたほうがマリアにとっては気が楽だったのかもしれない。部屋に入るまでは恐れを抱いていたものが今となっては自分はどういった存在なのかという自問に囚われていた。
「……はい」
 そう答えるしかマリアにはなかった。
 マリアが頷いたのを見てオーギュストが立ち上がる。進む先は大きなダブルベッドだった。
「寝よう」
 そうしてマリアたちはベッドの中に横たわる。ベッドは想像以上に大きくて背中が合わさることはなくて。マリアはオーギュストが何を考えているのか全く持って理解できなかった。
 ベッドの中は存外寒かった。二人が中にいるはずなのに一人しか存在しないような気がしてマリアは荒んだ気持ちになる。
 オーギュストが蒸気灯を消して辺りは光を失う。
 夜が堕ちてきていた。






 光の教会――と名付けるのが正しいのかもしれなかった。
 パリの中で一番大きな教会。もちろん、フランス国王、ルイ=オーギュストの戴冠式や結婚式も行った場所である。そこの上階にあるとある一室で聖職者ゲロルトはその愛読書を読みふけっていた。辺りはまるで無音であり、ゲロルトが本のページを捲る音しかそこには無かった。
 ゲロルトがいた一室は彼にとってお気に入りの場所であった。壁面は灰色のコンクリートで固められており一見無機質にも見える。置かれているテーブルや椅子の類は全てが漆黒であり、暖かい印象は見いだせなかった。
 だが、一つだけ見たものの目を引くべきものがあった。南側の壁面、その向こう側には部屋は存在しなく、そのまま聖地と呼ばれる庭園――テュイルリー庭園がそのまま広がっていた。
 その南側の壁面がまるで、そう十字架を描くが如く切り取られていた。切り取られた個所からは外の景色を一望でき、時間帯が良ければそれは光の十字架と化す。
 聖地から零れる光が溢れてきて、ゲロルトが居座る一室を鮮やかに照らすのだ。ゲロルトはこの光が誰よりも好きで昼間に時間があれば、いつもここに来て読書に時間を費やすのだ。
 最高の贅沢だ、そうゲロルトは心の中で零す。ゲロルトが聖職者の道を志す前に一度だけこの教会のこの部屋を垣間見たことがあった。本来は高位の聖職者しか立ち入りを禁じられているこの部屋だが、幼いころのゲロルトはお構いなしに教会の中を駆け巡り、この部屋に辿り着いたのだった。その時の感動をゲロルトは一生忘れることはないだろう。それほどまでにこの部屋の光の十字架は美しかった。その後、ゲロルトがこっ酷く叱られたのは言うまでも無いだろう。
「ここにいたのですか、ゲロルト」
 温かみのある声色がその耳に届いて、ゲロルトは本のページを捲る手を止めた。そして廊下へと続く扉の方向へ振り向く。
「ヨハネス様……」
 紅の唇から洩れた声はまだ、ゲロルトの耳に残っていた。銀色の宝冠に赤いマント。右手には聖職者が有する大きな杖を持っている美しい――人。
 この教会で誰よりも上に立ち、
 この教会で誰よりも美しく、
 この教会で誰よりも気高い――人。
 ゲロルトはヨハネスに対してそんなことを思っていた。いや、それだけでは語りつくせないだろう。
 ゲロルトはヨハネスの姿を見ると堪らず立ちあがった。栞を本の中に挟むこともなくテーブルの上に投げつけるように置いた。
「ヨハネス様――」
 ゲロルトは驚きを隠せなかった。
 彼が言葉を紡ぐ前にゲロルトの視界は真暗なものへとなった。それもそのはずである。ヨハネスがゲロルトの元へと駆け、彼に抱きついてしまったのだ。
「ゲロルト……」とうっとりした声でヨハネスは言った。
 ゲロルトは案外この抱きつかれている感覚が嫌いではなかった。せめてもの不満を言うのなら、ゲロルトの身長は平均よりも低く、ヨハネスのほうが背が高いのでまるで大人と子供のような状態になってしまうことだった。
 ゲロルトの唯一のコンプレックスであり、欠点。そう、彼は思っていた。
 流石に息苦しくなったのか、ゲロルトはその小さな手でヨハネスの身体を自身から離した。
「ヨハネス様、少し苦しいです」
「あ、ごめんなさい、ゲロルト」とヨハネスは言った。身体が離れた反動で頭に被っていた宝冠が床に音をたてて落ちた。
 美しく、長い髪。
 何も知らない人間が見れば、この二人は同性愛者なのかと勘違いしてしまうだろうが、そうではない。これはゲロルトだけが知っている秘密である。
「今日も綺麗です、ヨハネス様」
 ヨハネスは――女性だった。
 長い金髪は光を孕んで背中や肩に滝のように落ちかかっている。元々が女性なのだからフランス一の美丈夫などと噂をされても仕方がなかっただろう。ヨハネスは自分が女であることを隠していた。知っているのは本当にゲロルトのみである。元来、教皇の椅子というのは男性が代々継いできたものである。それは別に不思議なことではなく、自然な事だっただろう。人間の歴史の中で女性は虐げられてきたことが多かった。もはやその扱いは男性の物、として見られていたのだ。
 神聖な教皇の座にそんな女性を座らせることなど人々の頭には欠片も浮かんでこなかった考えである。ヨハネスは幼少のころから父の下で宗教のあらゆる問答や教理を学んだという。その優れた才覚と皆に慕われる性格を持ってヨハネスはここまで上り詰めたのだ。自分が女であるという事実を隠して。そうしてまでも彼女にはやりたいことがあったのだ。
 ヨハネスは少々屈んで、ゲロルトはつま先立ちになりながら、二人は唇を合わせた。
 息のかかる距離。ほのかに甘かった。ヨハネスの唇は恐ろしいほどに柔らかくて、熱くて、感覚が麻痺する。冷たいこのパリの中でこの箇所だけが暖かかった。ゲロルトはつま先立ちになっている自分に屈辱を感じていたことも忘れ、ただ今の快感に溺れていた。
 二人は名残惜しく唇を離した。
「愛しています、ヨハネス様」
「私もです、ゲロルト」とヨハネスは言った。そして、小さな体のゲロルトをもう一度抱きしめた。
 いつだったからかは、もうゲロルトの記憶の中にはなかった。ゲロルトはヨハネスのことが好きだったのだ。これが許される愛ではないことなど百も承知であるし、ヨハネスにとってもいいことではないことは分かっていた。が、彼は本当にヨハネスのことを愛していたのだ。
「とりあえず、ヨハネス様。ここに来た理由をお話下さい」
 ゲロルトの言葉を訊いて、ようやく我に返ったのかヨハネスはその手を離した。
「そうでしたね。あなたに訊きたいことがあったのです」とヨハネスは言った。「あの少年のことです」
 先ほどまでの甘い空気は消え、ヨハネスは教会の一番上に立つに相応しい落ちついた雰囲気へと移り変わっていた。視線は鋭いものへとなり、ゲロルトは一瞬動きを止めてしまう。
「あ、執行人の方が匿っているという少年のことですか」
「そうです」とヨハネスは言った。「彼が実用的な空を飛ぶ機械、飛行機というのでしょうか。それを完成させてしまえば、ということです」
「確かにそれは教会として危惧すべき話題でしょうね」
 ゲロルトにもその重大性ははっきりと理解できていた。件のその少年が飛行機なる物を完成させてしまえば教会にとってどのような不都合が生じるか。それは、聖地の存在価値である。
 もしも、あの厚い蒸気の雲を超えて飛んでいけ、限りなく実用性が高いものが完成されてしまえば、微かに漏れる光を独占するが如く存在している聖地は特別な場所ではなくなってしまうだろう。教会の資金は信仰の厚い市民からの寄付と聖地へと侵入する市民、貴族から受け取る税によって大きな部分を占めていた。あの雲の向こうにはもしかしたら――青空などというものがあるのかもしれないが、それよりも飛行機の完成は教会にとって不利益しかもたらさなかった。
「奇跡とは、起こらないから奇跡なのです。頻発する事象はやがて常識へと変化するでしょう。それはなるべきならば避けたいことです」
 ヨハネスは言葉を紡ぎ、光の十字架へ手をかけた。その憂うような表情すら美しくてゲロルトは彼女に見とれてしまっていた。
「……そうですね。ですが、まだ大丈夫です。彼の完成には今しばらく時間がかかるようですよ。それよりもヨハネス様が仰っておられた玩具ですが、もうすぐにお手元に届けられると思います」
「そうですか、それはよかった」
 ヨハネスの体に光が当たり、まるで彼女が光を発しているかのような格好になった。ゲロルトはまたしても言葉を失ってしまった。
「やはり、私も死神の彼と会ってみなくてはいけないのかも知れませんね」
「死神というと、執行人のあの方のことですか?」とゲロルトは尋ねた。
「ええ、同じ死について最も触れあう者同士、分かりあえることもあるでしょう」
 ゲロルトはヨハネスのその言葉を訊いて、慌てて彼女を諫めた。
「いけません、ヨハネス様っ。相手は死神なのですよ? 何をされるか分かったものではありません。そういった汚れ役は私にお任せ下さい」
「ゲロルト、あなたは優しいのですね」とヨハネスは言った。「ですが、だからこそ、あなたを好きでいるからこそ、あなたばかりに無理をさせられません。私は自分のために、ひいてはあなたのために行動しているのです。そのあなたがいなくなってしまっては私はどうすればいいのですか?」
 悲しそうな表情でヨハネスは言った。ゲロルトはそれ以上、彼女に言及することができなかった。
「死とは汚く、醜いものばかりではありません。そのことを分かっている彼ならば大丈夫です。きっと大丈夫です」
 ヨハネスの言葉は光の中へと消える。






「今日も付き合ってもらって悪いね、シャルル」
 少し古めの蒸気自動車に揺られながらアルフォンスは言った。
 隣に座っていたシャルルは「どうってことないさ」と返事をしようとしたが、危うく舌を噛みそうになっていた。
 二人が乗っていた蒸気自動車は型だけ見ればかなり古いものである。それでも、屋根付きで自由自在にパリの道を走る金属の物体。それも馬の力を借りずにそんなことができるものが開発された時にはフランス全土で驚きと称賛を隠せなかったらしい。らしいというのはまともな蒸気自動車が開発されたのはアルフォンスが生まれる前であり、どんな気持ちだったのかは想像もできなかったからだ。
 それはつまり、あの空についても同じであろう。アルフォンスが生まれてきたときにはもう既にパリの空は灰色であった。それが当たり前だったし、不思議だとも思わなかった。アルフォンスは蒸気自動車の窓から空を見上げ、そんなことを思った。
 蒸気自動車の運転手は無口に、ただ黙々とハンドルを回していた。古い型とは言ったものの、この蒸気自動車でさえ一般庶民が普通に所有するようになるには、あと何年かかるか分からないとアルフォンスは思っていた。自家用車としてこういった代物を持てるのは貴族、皇族といった人間のみである。
 アルフォンスたち二人はアルフォンスの作っている飛行機の材料となる金属を求め、下町の金属工の元を訪ねていた。アルフォンスはいつもそこにいる職人のお爺さんに材料の調達をお願いしていた。が、何分そのお爺さんは頑固な職人気質であり、アルフォンスの訳のわからない研究に貴重なものを与えることはできないとアルフォンスは何度も跳ね除けられてきた。
 そんな職人気質のお爺さんでもシャルルの言葉があれば態度は一変した。「サクソンさんの頼みならば断れませんね」と職人のお爺さんは言っていた。アルフォンスはその姿を見て、シャルルがこのパリで下級市民の人間たちにいかに慕われているかを改めて実感した。
 死刑執行人としてのシャルル。
 お金のない人間を無償で助ける医師としてのシャルル。
 どちらも彼であり、アルフォンスはどちらも欠けてはいけないのだと思っていた。ある日、シャルルが死刑を執行して家に帰ってきた時があった。アルフォンスは初めて人を殺した後のシャルルを見た。
 荒んだ瞳。
 何かがとり着いたように重い足取り。
 震えが止まらない両手。
 そこにはいつもアルフォンスに対して明るく振る舞ってくれているシャルルの姿はなかった。シャルルはその日、アルフォンスに対して何も語らなかったのをアルフォンスは覚えていた。
「これで、君の研究がまた一歩進むんだろう? ……アル?」
「え、ああ、そうだね」
 過去を追憶していたアルフォンスは一瞬シャルルの言葉に気が付かなかった。そして、慌てて返事をした。
「シャルルがいなかったら、あのお爺さんも首を縦に振ってはくれなかっただろうからね。助かったよ」
「僕は何もしていないさ。君の熱意が伝わったんだろうよ」とシャルルは言った。
 弱弱しく天井を叩く音が自動車の中に響き始めた。どうやら外では雨が降り始めたようだ。それに呼応するかのようにフロントガラスをワイパーが撫で始める。
「ねえ、アルは雨って嫌い?」とシャルルは呟いた。
「僕は嫌いかな、なんか昔のことを思い出すからさ」
「昔のこと?」
「父さんと母さんが死んだ日も酷い雨だったからさ」
「そっか……」
 そこから先の言葉はアルフォンスもシャルルも出すことはなかった。暗い雰囲気となってしまったシャルルを案じてアルフォンスは言葉をかけようとする。
「僕はね、雨が好きなんだ」とシャルルはアルフォンスに先んじて言った。「雨は汚くてとても直接は受けたくないけど、そうすると色々忘れられるんだ。忘れられるって言い方はおかしいかな。僕自身で勝手に贖罪っていうか、そんなことを感じるんだ」
 シャルルは自分で言いながら、何を言っているのかよく分かっていないようだった。贖罪とはつまり死刑によって殺してしまった人たちに対してだろう。そこに一切の罪もシャルルは背負う意味はないのだ。アルフォンスはそのことだけは強く思っていた。
 誰も悪くない。
 世の中にはそんな状況の悲劇が多すぎるとアルフォンスは思った。それは虚構、たとえば小説の中で往々にして起こる。すれ違いや勘違い、人間の不完全性がもたらす悲劇。
 シャルルに罪はないのだ。
 窓の外の雨はそんなことを謳うかのように降り続いていた。

「じゃあ、ありがとう。僕は工房に一回寄ってから帰るから」
 パリの大きな十字路の道端でアルフォンスはシャルルにそう告げた。相変わらず雨が降り続いていて、アルフォンスは厚手の傘の上から少々けたたましい雨音を感じていた。
 十字路から抜け穴のように伸びる路地への道を行くとシャルルが貸し与えてくれる工房があった。
「分かった。僕も一度寄る所があるから、ここでね」
 シャルルはそう言い残すと、蒸気自動車のドアを閉め、手を振った。アルフォンスもそれに合わせて手を振り、シャルルを乗せた蒸気自動車は雨の中のパリを走り抜けていった。
「早く終わらせて帰ろう」とアルフォンスは言った。
 傘越しに響く雨の音が酷くなっていた。これ以上強くなったらさすがに傘だけではまともに歩けないとアルフォンスは思った。気持ち足早にアルフォンスは裏路地を歩いた。
 そこは酷く暗かった。空はもうすでに真暗になっていて雨粒の形もはっきりとは見えない程である。その路地にはたった一つしかない街灯が薄く、とても薄らと辺りを照らしていた。両脇に犇めくレンガで出来た建築物はアルフォンスにとってやけに狭く感じ、とても圧迫されているようだった。流れ出た雨はまるで泥水のように足元に絡みつく。
 少しだけ、いつもと違う場所のようにアルフォンスは感じた。
 この路地は何度か歩いたことがある。パリの大通りを向けて直接工房を訪ねるのならば、この道が近道だったからだ。
 人通りがやけに少なかった。クラブや、酒場から帰る男たちの姿も、逞しく駆け回る浮遊時の姿も。数分に一度、遠目に人影を見る程度。こんなことは初めてだったとアルフォンスは思った。シャルルの先ほどの言葉を訊いたせいだろうか。気持ちとともに景色まで変わってしまったような感覚にアルフォンスは襲われた。
「……切り裂き魔」
 そんな単語がアルフォンスの口から洩れた。今は何時だろうかとアルフォンスは不安を感じた。懐に忍ばせておいた懐中時計を取り出して確認する。もう、十一時を回っていた。時間的には頃合いだった。
 切り裂き魔。
 先ほど、アルフォンスに口から洩れた言葉。まだ、本当かどうかは分からない。そんな話をシャルルから訊いたことがあるだけだった。パリの市内にて老若男女を問わず、無差別に殺害する連続殺人鬼。心臓を一突きにした後、気が済むまでその死体を切り刻む――そんなことはあり得ないとアルフォンスは結論付けた。そんな物はお伽噺に等しいだろう。人間は本来、人を殺すことを恐れるものである。それを覆すことができるのは強い動機。それが無い無差別殺人など普通に考えればあり得ない。もし、出会ってしまったとしたら、それは天災に見舞われたことに等しいだろう。
 ただの噂。
 そう、心の中で反芻して、アルフォンスは震える体躯を温めようと試みる。新聞の表紙は一生飾ることはないだろう。その程度の話だった。雨に足を取られてか、それとも恐怖のためか、どちらのせいかは分からなかったがアルフォンスの足取りは確かに重くなっていた。
 そしてアルフォンスは思い出してはいけない事がらを記憶の片隅から見つけ出した。そう、切り裂き魔が現れるのは――こんな、酷い雨の日だったと。
「な……ッ!」
 雨に混じって血の臭いが漂ってきていたことをアルフォンスはわざと頭の中から追いやっていた。が、眼の前にある絶対的な情報によって今や鼻孔は完全にその臭いに支配されていた。
 闇の中に二人の人影が見えた。一人は立ちつくしているが、もう一人はうつ伏せに倒れている。うつ伏せに倒れている人影はピクリとも動かなかった。それがなんなのか。それがどういう状態なのか。アルフォンスはすぐに理解した。
「死んでる……?」
 濁った血溜まりの中に清楚な淑女が倒れていた。表情はよく見えなかった。血溜まりの中に埋められていたからだ。アルフォンスは自身でも気が付かない内に持っていた傘を落としていた。その音に反応したのか死体の脇に立っていた人影がこちらを向いた。
 紅い髪に紅い瞳。線が細いながら鍛えられた印象が強い体躯。舐めるような視線がアルフォンスを刺した。
「……ははっ」
 薄気味悪い笑い声がアルフォンスの鼓膜に届いた。恐らくは男であろうその人影は右の親指の先を舐めながら、アルフォンスの方向へ歩き出した。
 アルフォンスの心臓は早鐘のように鳴っていた。
 手足は震え、背筋に冷たいものが走る。
 アルフォンスはとっさにポケットに忍ばせておいたナイフを震える右手で掴んだ。シャルルが護身用にと貸してくれていたものだった。
「街に現れて人を襲う怪物」と紅い男は言った。「それはまるでお伽噺のように、紅い瞳を光らせパリの街を彷徨う。狙われたら最後、誰も、どんな貴族でも助かることはない――それが、切り裂き魔の噂の締めさ、分かるかい? アルフォンス・ペノー君」
 男は足を止め、アルフォンスに尋ねた。それ以上にアルフォンスは驚きを隠せなかった。
「な、何で僕の名前……」
「知っているさ、君は有名人だからね。だが、本当に君がここに現れるとは思わなかった」
 男は笑いを堪え切れないと言った様子で言葉を紡ぐ。腰に携えたサーベルから血のようなものが滴っていることにアルフォンスはようやく視線がいった。そして、思考が鮮明になる。
「そのサーベルは、パリの正規軍の――」
「楽しいお伽噺の時間は終わりさ。人は無知を恐れる。だからこそ、全ての現象を解明したがる。お伽噺だってそうさ、現実味が欲しいんだよ。例えそれが、とても虚言のように見えてもね」
 紅い男はそう言い残すと闇に溶けるが如く、消えていった。アルフォンスの耳にはまだ、彼の言葉が残っていた。
「あ、待て――」
「貴様っ。そこで何をしている!」
 紅い男に夢中になっていたアルフォンスは背後から迫る無数の足音にまるで気が付かなかった。レインコートを身に纏った複数の男たち。その出で立ちから、アルフォンスは全てを理解した。
「貴様、最近パリで起こっている殺人事件の犯人だな」
 いわれのない言葉を投げかけられてアルフォンスは慌ててそれを否定する。
「ち、違います! 僕は――」
「だったら何だ、そのナイフは! 言い訳は後で訊かせてもらう」
 もう既に、正規の手段で解決できるレベルの話ではないとアルフォンスは悟った。中心になって会話をしていた男が歩み寄り、アルフォンスを拘束しようとする。アルフォンスは今、捕まるわけにはいかなかった。
「――――!」
「あっ、待て! 逃がすな!」
 アルフォンスは夜のパリへと駆けだした。雨で視界がままならないが、それでもアルフォンスは走ることを止めなかった。
 死体の双眸がアルフォンスの足元を見つめていた。



[25409]
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:48
 朝日の眩しさを感じることは無かった。マリアの瞳には何も映ることはなくて。目覚めたのはただセリスによって体を揺さぶられたから。ただそれだけ。シーツと身体がまるで鉛のように感じ、マリアはとても起きられるような状態ではなかった。
 セリスを困らせるわけにはいかないからと無理やりに体を起こす。数日前から朝起きてからすることと言えば入浴と決まっていた。マリアは当初、一つの部屋に一つずつ浴室があるということに驚いていた。が、今ではそんなことも無くなって。着替えを手伝ってくれるセリスの美しさには今も見とれていて。マリアは自分が酷く取るに足らない存在に思えてならなかった。
「どうされましたか? どこか元気がないようですが」
「……そうかしら。私は大丈夫よ」
 セリスの滑らかな指によってマリアの着替えは進んでいく。
 本来ならば愛すべき花婿とは結婚式の夜から一切顔を合わせてはいない。明日からはまた忙しくなると言ったオーギュストの言葉は本当で、ほとんど缶詰状態で仕事に当たっているそうだ。
 すべてセリスの言葉の中で頭の端に残っていた情報をつなぎ合わせただけなのでマリア自身にとっても信憑性はなかったが。
(会えないのならその方がよかった)
 マリアは一人、そんなことを思った。今、オーギュストに会ったとしてもマリアは何を語ればよいか分からなかったのだ。
 マリア自身も薄々とは気づき始めている。彼はそんなに悪い人間ではないと。まだ、何を考えているかは分からないがきっと自分を無下に扱ったりはしないだろうと。
 眼を見れば分かった。
 声を聞けば分かった。
 自分は恐らく、憐れまれているんだと。
「左様ですか。オーギュスト様より言付けが、『庭師に頼んで花壇を一つ作ったから好きにすればいい。ヴェルサイユはそれほど空気の汚染も進んではないから花も育つだろう。書斎にも小説などが充実しているはずだ』とのことです」
「そうなの」
 マリアはそれだけを呟いた。
 マリアの心は張り裂けそうだった。見ず知らずの男に憐れまれて自らの運命を切り開くこともできない。そんな自分が嫌だった。
 自分がとても恵まれた存在だということは自覚している。本来、花などはこのフランスでは滅多にお目にかかることはない。日光も満足に降り注がず、空気が悪いこの国では一定の条件を満たさない限り自然などは有り得ない。代わりに存在するのは工場の煙突などの人工物だ。
 オーギュストの心遣いは妻に対するものとしては至極自然だ。が、二人の関係というものはそれほど単純なものではない。
 自分は一体、彼にってどのような存在なのか。マリアはいつもそんなことを考えていた。政治的な道具としてしか見ていないのかもしれない。
 マリアの実家であるロートリンゲン家はフランスでも五指に入る名家であった。さすがにアラゴン家には及ばないもののこの国の経済に大きな影響力をもたらしていたのは誰の目にも明らかであった。
 そんな名家の娘であるマリアが次期国王であるオーギュストに娶られるというのはもっともな流れである。が、そんな政略結婚には赤い糸など存在するわけもなく、マリアは今に至っていた。
 セリスはマリアの気持ちを悟ったのか悟っていないのか、淡々と着替えを進ませる。マリアは未だに彼女の心が読めなかった。
「今日のご予定ですが、午後よりアラゴン家のエレーナ様とのお茶会が控えております」
「えっ? 今日は家庭教師の方とお勉強だとこの前……」
「エレーナ様からの直々のお頼みでしたので。ノエル様、これも皇女としての務めとお知りください」
 嫌な予感がノエルの頭をよぎった。

 マリアにとって社交はあまり興味を注がれるものではなかった。
 元々マリアの実家であるロートリンゲン家はマリアを直接社交の場に出そうとはせず、半分箱入り娘のような形で溺愛していたというのもその一因だった。血筋にもあまりとやかく言わない家系だからだろうか。よく庶民の出の女性をめとっていたし、後を継がない女性は庶民の家に嫁いだりすることもたまにあったらしい。マリアもいずれはそうなるのだろうかと考えてはいた。が、王室からのお誘いである。断る理由もないし、意義もなかった。
(最近、笑顔を作るのが難しくなった。そう思う)
 マリアは薄々感づき始めていた。自分は軟禁されているのではないか、と。
 セリスにそのことを遠回しに聞いてみてもやんわりと誤魔化されてしまう。が、マリアには確信に近いものがあった。実際に数少ないお茶会といえばこの宮殿で行われるものだけだった。皇女として政治的な会談に臨むこともあるだろうと思っていたのだが、それは全て愛すべき伴侶の判断でキャンセルされているらしい。
 マリアはオーギュストが一体何を考えているのか。自分をこんな広い宮殿に私を閉じ込めて何かいいことがあるのか。全く持って理解できなかった。
 現実を見よう。マリアはそう思った。実際にこの数週間、宮殿から一切外には出ていないし、セリスはそのことについて深く触れようとはしない。
 自分はここで生きていくしかないんだと、マリアは再認識した。
 現在ノエルは宮殿のテラスにてお茶会の真最中であった。セラエノでは貴重な緑が溢れる庭を臨み、小鳥たちの囀りも聞こえてきそうな暖かさであった。もっとも、そこまで日差しが溢れているわけではないが。
 周りに座っている同い年かそれより下の令嬢たちは明るい笑い声をあげてお互いに好きなものを飲み、噂話に余念がない。けれど、誰一人マリアには話しかけてこない。それはこの会を主催したエレーナも例外ではなかった。
 いつものことだ、そうマリアは自分を納得させこの状況に耐えようとする。王家に嫁いで一ヶ月、どうやら『夫』を狙っていた令嬢は予想以上に多かったらしくこのような地味な嫌がらせをされている。
 酷いものになれば、そう例えば――
「――っ!」とマリアは小さな悲鳴を上げた。
 マリアの隣に座っていた令嬢がグラスごとワインをマリアの方向へと落としたのだ。音を立ててグラスが割れる。
「あら、ごめんなさい。ちょっと手が滑ってしまいましたの」
 明らかに悪意がある眼である。手が滑ったとはいうまでもなく偽りであり、マリアの膝の上にはワインの葡萄の香りが漂う。悪意があったかなかったか、そんなこと今はどうでもよかったのだ。
(私はただ耐えるだけ)
 マリアは心の中でそう思った。
「い、いえ、大丈夫です。すぐに着替えて来ますので……」
「あら、よろしいんではなくて?」
 声の主はマリアの対面、一番奥に控えていたエレーナであった。相変わらずの派手なドレス姿にマリアはいやらしさしか覚えることはできなかった。
 嫌味、皮肉を含んだ声色でエレーナはこう続ける。
「そんな安っぽいドレスですし、濡れた部分だけ破ってしまえばよろしいではありませんか」
「そ、そんな……」
「誰もあなたの足なんて見ようとは思いませんからお気になさらずに。私たちは気にしませんのよ?」
「――っ」
 マリアは声を忍んで唇を噛んだ。ぐっしょりと濡れたドレスを強く握る。周りからは同情の視線など送られてはこない。静かな笑い声と笑みが伺える瞳だけしかなかった。
「大丈夫です。このままで」とマリアは言った。
「ふうん、そうですか。まあ、風邪をひかないようにご注意なさいませ。あ、もしかしたらわざと風邪をひいて旦那様に看病してもらうおつもりですか? まあ、いやらしい」
「ち、違いますっ。私はそんな……」
「頑なに否定するところを見ると怪しいですわね。どうでしたかハロルド様の胸板は。その淫らな体を生かして陥れたんでしょう? 怖いですわ」
「……違います……」
 マリアはそう呟くことしかできなかった。自分が耐えればいいだけ。そうすれば全てが上手くいくのだから、そんな下らないことをマリアは考えていた。
「ふふ、そういえば失礼ながらあなたの事を少し調べさせていただきましたの」とエレーナは言った。
 マリアはその言葉を訊いてハッと視線を上げた。緩んだ瞳のエレーナが言葉を紡ぐ。
「なんでも、あなたは婚約の一年前まで身元もよく分からないような同年代の男性を屋敷の中にはべらせていたとか」
「――なっ」
 エレーナの言葉にマリアは思わず立ち上がりそうになった。否定する言葉が頭の中で連呼するが、それを口に出すことは無かった。「不潔ですわね。もしかすればオーギュスト様との前にもう乙女ではなくなっていたのかも」
 他の令嬢から蔑むような歓声があがる。マリアは怒りにうち震えていた。だが、しかしマリアは――
「――知りません。そんなこと記憶にありません。エレーナ様の勘違いではないでしょうか」
 マリアは少々微笑みながらそう返した。
 心が荒む。軋む。
 自分自身が酷く信じられなくなる。
「……そうですか。あなたがそこまで言うのなら勘違いなのでしょうね。あなた……笑顔がとてもお似合いですわ。特に今のそれが」
 ノエルは怒りのせいか、それが今日最大の皮肉だと気付くことができなかった。






 鬱蒼と生い茂る芝生の上に無数の白い十字架が突き刺さっていた。規則正しく並んだそれは教会の組織としての隠匿性を示しているようである。一つ一つが天に召された誰かのために立てられたものであり、軽視することはできない。
 雨が降りしきる教会にシャルルは一人、傘も差さずに立ちすくんでいた。その視線の先には一つの十字架が鎮座している。刻まれたその名前にシャルルは見覚えがあった。
「お墓参りですか。殊勝な心がけですね」
 シャルルは声のする方向へと視線を移した。見ると、白い傘を手に持った美しい美丈夫が立っていた。澱んだ雨の中で紅いマントがたなびいていた。
「あなたは……」とシャルルは呟いた。
「現教皇のヨハネスです。初めまして、サンソン殿」
 シャルルはヨハネスの言葉に何も答えなかった。
 罪人を冥界に送るべき執行人と罪人を弔うべき聖職者。何かしらの繋がりがあってもいいような関係であるが、シャルルに限ってはそれがなかった。それはシャルルの行動が大きな原因であった。
「それは、あなたが死刑を執行した人間の墓標ですね。罪の意識でも感じていらしたのですか?」
「違います」とシャルルは冷たく言った。
「それならば通夜に顔を出してくれればよいのです。その方が、そのお方も喜びます」
「僕にはできませんよ」とシャルルは言った。雨がシャルルの髪に当たって滴る。「そんなこと、できません」
 シャルルは執行した人間の通夜になど行ったことがなかった。それはシャルルの心の問題だった。何をもって通夜に行こうというのかシャルルには理解できなかったのだ。
「あなたと僕は違いますから」
「死者を冥界へ送るあなた、死者を弔うべき我々。一体何が違うというのですか。死について関わる者同士、私たちはその点で同一なのです」
「関わり方の違いです。あなたはその手で人を救うことができるかもしれない。ですが僕はこの手で悲しみを与えることしか出来ないんですよ」
 シャルルはそう言って、自分の右手を眺めた。そしてその手を強く握る。
「知っていますか、ヨハネス様。僕のこの手にはスティグマが焼き付けられているんです。国家から与えられた使命を遂行するために付けられた焼印。もうこの手は取り返しのつかないほどに汚れているんです」
「あなたはもしかして、死にたいなどと思っているのではありませんか」とヨハネスは尋ねた。
「……ああ、もしかしたらそうかもしれません」

 ――なあ、無抵抗の人間を殺すってのはどんな気分だ?

 シャルルは昔の言葉を思い出してか、手が震え始めたことを感じた。喉は乾ききり、寒さとは関係なしに身震いした。
「ですが、今はそう思いません。大事な友達がいますから」
「あなたの友達ですか、噂には訊いていますよ。確か、そのお方は機関技師なのだとか」
「ええ、そうです。僕にはよく分かりませんがとても優秀だと思います」
「それはよかったですね。私は平気ですが、あなたのことを良く思ってはいない人間もこのパリには大勢いるでしょう。それを考えればとても貴重な存在でしょうね」
 社会関係としてのスティグマは、スティグマを負わされる人に対する他者の行動によって決まる。そして、「身分の低下」「身分の否定」「人間性の否定」の順に、スティグマは深刻化する。シャルルが受けている影響は最後のそれにまで達している。だが、それは少数の人間、皇族や貴族たちにのみであり、それ以外の人間にはそれほどでもないのだ。
「死について携わるあなたにとって、死とは一体何ですか」とヨハネスは尋ねた。
 シャルルはしばらく考えるように黙り込んだ後、こう答えた。
「死とは、恐怖からの離脱です。人はその豊かな想像力のあまり、死を恐れてしまいます。それは生き物として自然なことです。その大きな原因は可能性の消失です。死は人のあらゆる可能性を奪い去ります。人はそれが怖いのです。あなたたち教会の人間は死の恐怖を死以外の方法で模索する哲学者です。僕はそう思います」
「それもある意味、真なのかもしれませんね。哲学と宗教は根本的な部分で似通っていますから」とヨハネスは言った。そして、その傘をシャルルに差し伸べた。「あなたがいなければこのフランスは成り立ちません。深く考える必要も悩む必要もありません。あなたには大切な友達がいるのですから」
 言葉は雨とともにシャルルの心へと染み込んだ。

 墓地の近くの道で蒸気自動車を拾って、シャルルは家路についた。ヨハネスが何故自分と会いたいと思ったのかシャルルには最後まで分からなかった。ヨハネスは最後の言葉を残して近くにあった教会へと歩き、帰って行った。その背中にシャルルはどこか憂いのようなものを感じた。
「ふう」とシャルルは一つ溜息をついた。呼吸ほど軽くないそれは一瞬にして白い形となる。
 シャルルの部屋には必要最低限のものしか置かれていない。資料整理のための机と椅子。唯一の趣味とも言っていい読書のための本棚。シャルルの身体がすっぽりと入ってしまいそうな小さなベッド。大きな物で言えばこれくらいしかない。屋内の暖かさを感じていなければとても冷たい印象を感じる場所であった。
 無人のままで夜を迎えていた自室はひんやりと冷えていて、シャルルは部屋に入った直後に壁に備え付けてあった機関式のヒーターを動かした。機械染みた音が鳴り始めて冷たかった部屋が暖まり始めた。
 一般的には暖炉のほうが好まれているが、手入れが大変なせいでこのヒーターに頼ってしまう。本当は色々な事を自分でしたいのだ、シャルルはそう思う。自分の食事を作ることも部屋の掃除も、雇っている家政婦に頼まないで全部でやってしまいたいのだ。
 ――でも。
 でも、シャルルは知っていた。部屋の掃除も食事の用意も、食事の用意ならば一人でもできるかもしれない。が、それは一日の殆どの時間を割けばの話であり、現実的にはかなり厳しい。
 誰かの力を借りなければ自分にできることなんて限られているのだ。シャルルは思う。例えば――
 嫌な事を連想してしまい、シャルルは自分の首を左右に大きく振った。先ほどのヨハネスとの会話が糸を引いているらしかった。そして、ヨハネスの会話の中で出てきた親友のことを思い出した。
「あれ……?」とシャルルは呟いた。
 まだ冷たさが残る部屋の中にいつもはいるはずの親友の姿がないことに気が付いたのだ。
 シャルルは記憶を追憶した。確かアルフォンスはパリの十字路で工房に行くからといって分かれたはずだった。工房に行く――そう言ったアルフォンスはたまにシャルルの家に帰ってこないこともある。というより、そのほうが多かった。いつもならば、あまり気にしないことだが、シャルルは何処か嫌な予感がした。
 左のポケットから蒸気電話を取り出してアルフォンスへとコールをかける。が、何度呼び出し音が鳴ってもアルフォンスがでることはなかった。
「何で……?」
 たとえ工房にそのまま泊まり込んだとしてもアルフォンスは必ず、シャルルに対して電話を一度入れてきたものだった。偶然かもしれない、自分の勘違いかもしれなかった。それでもシャルルは自分の体を留めておくことができなかった。シャルルはたまらず、自分の部屋を飛び出した。
 行くあてもなく、シャルルは走りだす。つけっぱなしのヒーターが一人声を上げていた。






 人影が全く見られないパリの路地裏でアルフォンスは荒い息を吐いた。それはすぐに白い蒸気へと姿を変える。
「はあ、はあ……」
 力が抜けたようにアルフォンスは壁に身体を預けた。どれくらい走ったのかそんな思考も追いつかない程にアルフォンスは走った。気がつかないうちに僕の膝小僧からは鮮血が溢れ、足がひんやりと冷たかった。匂いもなく、痛感もない。五感も鈍り始めているようだ。
 ふと、アルフォンスは前方に真黒い猫がいることに気が付いた。射るような視線がアルフォンスを突き刺す。まるであの猫が何かを語りかけようとしているようだった。
「猫にまで心配されたら終わりだな」とアルフォンスは独り言を呟く。
 黒猫は微動だにせず、アルフォンスのことを見つめていた。アルフォンスが走り、逃げている内に雨はもう止んでいた。雨の匂いが鼻についた。
 アルフォンスは力なく石畳の地面に腰を下ろした。息が切れてしばらくは走れそうもなかった。頭が酷く痛かった。
 アルフォンスは常に恐怖に支配されていた。いつ自分の背後から自分のことを追っている人間が現れないとも限らない。が、その恐怖よりも、とにかく今は身体が言うことを訊かなかったのだ。
「ここまで逃げれば、大丈夫かな……」
 アルフォンスは自分で言いながら酷く自信がないことに気が付いていた。視線は既に黒猫から離れ、前方に薄らと見える大通りの方向に釘づけである。大通りは既に暗闇に支配されていて白く影のように伸びる蒸気の線がやけに恐ろしく見えた。
 アルフォンスは息を潜め、身を隠そうと身体を起こす。身体中が鉛のように重く、痛かった。全身の力を振り絞って足を上げる。飛行機の作成に没頭していたアルフォンスにとってこれほど身体を動かしたのは久しぶりの出来事だった。
「やっぱり、工房に籠りきりだといざという時に困るな」
 自嘲を洩らしながら、アルフォンスは言った。立ちあがった途端にくらくらと目眩がしてアルフォンスはまた、たまたず壁に身体を預けた。そして、アルフォンスは空を見上げた。何も見えはしなかった。アルフォンスはお伽噺の中で夜空には星、というきらきらと光り輝く点のようなものが見えるという話を思い出していた。
「暗いな」とアルフォンスは言った。
 パリの夜空は今のアルフォンスにとって暗すぎた。昼間に垣間見える灰色の空がまるまる闇に呑みこまれ、アルフォンスの希望を打ち消しているようだった。こんな空は見たくない、そうアルフォンスは視線を足元に落とした。青空のお伽噺と同じである。所詮は昔の偉人たちが残した空想の寓話。が、アルフォンスはそれを否定することができなかった。

 ――私、青空って本当にあると思うの。

 遠い記憶が蘇って、アルフォンスの脳裏に映りこんだ。アルフォンスの行動の原点がそこにあったのだ。
 突然、アルフォンスは自身の右肩を掴まれる感覚を覚えた。視覚から襲う触覚にアルフォンスは焦りと戸惑いを隠せなかった。
「――――!」
 反射で、その手を振り払った。そのまま走り出そうとアルフォンスは思った。が、その両足は自分の制御を離れ、今や体重を支えるだけの棒と化している。
 逃れられる術がないのならいっそ、刺し違えてでも戦おうとアルフォンスは覚悟を決めていた。
「あれ……ラザールさん?」
 だが、そこにいたのはアルフォンスにとって予想外の人物であった。痩せすぎずの体躯に、だらしなく着こなしたコート。顔に生えている無精髭に彫が深い顔をした男。ラザール・カルノーがそこに立っていた。
 ラザールは苦笑いを浮かべながら頭をかいた。まさかその手を振り払われるとは思ってもみなかったのだろう。
「いやあ、驚かせてしまったようだね。元気かい、アルフォンス君」とラザールは言った。
 アルフォンスはその言葉を嫌みだと解釈してムッと顔をしかめた。
「全然元気じゃないですね。もう足なんて言うことを訊きません」
「何だ、そんなに怒らなくてもいいんだぞ。別に嫌みで言ったわけじゃないんだ」
「ラザールさんはこんな所で何をしているんですか」
 訝しげな視線を浮かべながらアルフォンスはラザールに尋ねた。ラザールは相変わらず苦笑いを浮かべながらアルフォンスの質問に答える。
「何って、仕事さ」
 短い言葉の中にアルフォンスは全てを悟ったような気になった。ラザールは元々フランスの軍人であるし、今の自分はお尋ね者の立場である。そこから導き出される結論は酷く単純なものだった。
 アルフォンスは力が上手く入らないその右手でナイフを手に取った。カタカタと金属がうち合うような音がした。
「たとえラザールさんといえど、ここで捕まるわけにはいかないんです」
 アルフォンスはその切っ先をラザールの喉仏へと向けた。アルフォンスはこんなことが本当に出来るのかと自分自身に驚いていた。
「はは、君の飛行機に対する情熱はすごいね。でも、俺は仕事とはいっても君を捕まえる仕事をしているわけじゃないんだよ」
 ナイフを持つアルフォンスを小馬鹿にするかのように両手を小さく挙げながらラザールは言った。アルフォンスは言葉の真意を測りかねて、そのナイフを持つ手を下した。
「……どういうことですか?」
「俺たちの仕事はあくまで真犯人を捕まえる事さ。俺は君が犯人ではないと思うから、これは仕事の範疇には入らない。そういうことさ」
 ラザールは両手を下げながらそんなことを言った。カタカタと静かな音を立てながら近くにあった街灯が明かりを灯し始めた。アルフォンスが気づかぬ間に黒猫はどこかに消えてしまっていた。
「じゃあ、もしかしてラザールさんは僕を助けに……?」
「ああ、そういうことになるな。表で警官隊が莫迦みたいに騒いでいたから、ちょっと気になったんだ。切り裂き魔は俺も追っていた獲物だったからね。だが、それは君じゃない」とラザールは言い切った。
「何でそう思うんですか。もしかしたら本当に僕が犯人かもしれないのに」
 アルフォンスの言葉にラザールはしばらくの間、黙り込んでしまった。その間、ラザールは先ほどの黒猫のような視線をアルフォンスに向けていた。アルフォンスはそれ以上何も口にできなかった。
「君は、人を殺したことがあるかい?」とラザールは尋ねた。アルフォンスはしかし、何も答えることが出来なかった。
「人を殺すっていうことは、自分の中の何かを殺すっていうことさ。罪悪感っていうものが段々薄れていくんだ。まるで霧のようにそれは消えていく。そして最初の頃に感じていた死の感触は永遠に消えていくことはない。人を切り刻んで、その首を跳ねて、普通の神経じゃ出来ない事さ。そんなことが君に出来るのかい?」
 アルフォンスはその言葉を受けて一瞬怯んでしまった。そして、彼は一番最初にシャルルのことを連想した。恐らく彼は眼の前の男よりも数多くの人間をあやめてきたのだろう。そんなシャルルのことを想うとアルフォンスは酷く心が痛んだ。
「まあ、そんなに脅すつもりはなかった。だけど君の友人はいつもそんな感覚で仕事をしているっていうことさ、忘れないでくれ。さあ、行こうか」
 そう言うとラザールは踵を返し、アルフォンスを手招いた。アルフォンスはその行動の意味が分からなかった。
「あ、あの、どこへ行くっていうんですか?」
「俺たちの秘密基地さ」

 アルフォンスが連れてこられた場所は路地裏に店を構える小さなバーだった。店を構える位置こそ貧相なものの、内装はアルフォンスが思っていたよりもずっと豪華なものだった。整えられた木材でできた壁面はかなり綺麗なもので、純白なテーブルクロスの上に置かれた蝋燭はこのパリにおいて中々に高価なものだった。
 こんな所に何の用があるのかと、アルフォンスはラザールを問いただそうとした。が、ラザールは訝しげな視線を投げかけるアルフォンスを無視するかのように店内の奥へと歩を進めていった。ラザールは店主と一言二言言葉を交わしたかと思うとアルフォンスの方向に振り向いた。
「さあ、こっちだ」
「こっちって、ちょっと、一体」
 ラザールは有無を言わさず、勝手に奥へと進んでいってしまった。アルフォンスはそれに釣られるかのようにラザールの後を追った。
「な、これは……!」
 バーの奥には石畳でできた階段が控えていた。それはまるで地下の闇の底へと続いているようだった。その中にラザールは躊躇いも無く入り込んでいった。アルフォンスは恐る恐るそれに続いていき、そこで感嘆の声を漏らした。
 秘密基地、というラザールの言葉は正しかった。
 階段を下って行くとそこには広々とした空間が広がっていた。大きな木でできた円卓の上には一本の蝋燭がつらつらと炎を燃やしていた。辺りには銃器やサーベルといった武器の類が規則正しく纏められていて、ここが普通の場所ではないことを示していた。
「君には言ってなかったが……いや、言えるわけも無かったんだが、俺は公安委員会の人間なんだ」
「公安委員会?」とアルフォンスは尋ねた。純粋にその言葉の意味が分からなかったのだ。
「ああ、これだと上手く伝わらないか。つまりは秘密警察みたいなものさ、これで理解出来るかい?」
「秘密、警察」
 アルフォンスは自身で呟きながらその言葉の意味を理解した。その言葉は最近読んだ本の中に出てきていたからだ。秘密警察とはつまり、反体制分子や外国のスパイの監視・摘発などを専門に扱ういわゆる政治警察のこと。フランス以外の国では過去に存在していたという話も訊いたことがあるが、まさか自国にそんなものが存在しているだなんてアルフォンスには思いもよらなかった。
「そんなものが必要なんですか。このパリに」
「必要さ」
 ラザールはそう言い切った。そして言葉を続ける。
「最近、この国がどんな状況だとか考えたことはあるかい?」
「いえ、あまり……」
「過去の絶対王政が全盛期を迎えた時期、そのつけが今この瞬間に襲いかかって来ているのさ。国庫はもうすでに風前の灯さ、国民に対して何かしら援助をしたいのは山々だが、如何せん金がない。君もそんな状況を目の当たりにしたことがあるだろう」
 アルフォンスはその言葉に返事もせず、シャルルと供に市民の治療をしていた時のことを思い出していた。
 生活が苦しそうな彼らの姿を見ていたアルフォンスにとってラザールの言葉は重く心に残った。
「それは、あります」
「そうだろう。そんな環境の中で一番恐れるべきなのは――革命という動乱さ。俺たちは本来、それを予防するために存在しているんだ」
 ――革命。その言葉を訊いてアルフォンスは言い知れぬ不安を覚えた。つまりそれは今現在の絶対王政という制度を全面的に否定し、それを廃するということだ。その改変の中で渦中の王族はただではいられないかもしれない。それは――
「――そんなことにはなりません! いや、させません」
 アルフォンスは言い終わってから、自分が何を言い放ったのかを理解した。それほどまでにアルフォンスは動揺していた。
「す、すいません」
「どうやら君はフランスという国を愛しているようだね。それは俺たちも一緒さ。いつもならこの場所には結構な数の人間がいるんだが、今は切り裂き魔事件が急展開を迎えたというからね。皆、その調査に出ずっぱりなのさ」
 ラザールは言いながら、部屋の一面を見渡した。確かにラザール一人で使用するには少々大きすぎるようにアルフォンスには感じられた。
「急展開、というのは僕が容疑者として浮上した、という意味ですか?」とアルフォンスは尋ねた。
「ああ、つまりはそういうことさ。でもね、俺たち公安委員会は君を犯人だとは思っていない。むしろそれは完全なる間違いであり、君を助けたいと俺たちは思っている。そのための調査さ」
 ラザールはアルフォンスの肩に手を置きながら、そう言った。優しい男性の声色は雨の中のパリを走り続けていたアルフォンスには暖かすぎた。アルフォンスは油断すると涙が零れてしまいそうなほどに気持ちが緩んでいた。
「ラザールさん……」
「だけど、安心するのはまだ早いぞ。アルフォンス君」
「え? それはどういうことですか」
 言葉の真意を測りかねてアルフォンスは尋ねた。
「俺たちの組織、公安委員会は隠匿性が命なのさ。パリの中の誰にもその存在を知られないように動かなくてはいけない。まるで影のように」とラザールは言った。「君の無実を証明することができるような証言者が見つかったんだ」
「そ、それは本当ですか!?」
 図らずとも自身の頭上に差した希望の光にアルフォンスは喜びを隠しきれなかった。笑顔がアルフォンスに蘇る。
「ただ、俺たちが安全に君を送り届けるというわけにもいかない。何故なら俺たちは公安委員会だからだ、言っていいる意味が分かるね」とラザールは言った。
 アルフォンスはまたしても自身の知識を漁り始める。公安委員会とは常に秘密裏に存在している。それは先に積み重ねた読書によって既に持っている知識だ。公に行動を起こしてはいけないのだ。そうアルフォンスは思った。加えてラザールの立場は秘密とはいえ、一警察官であり、容疑者である自分に肩入れするわけにはいかないのだろうと、そういった所までアルフォンスは理解した。
「分かりました。それで、その目撃者というのは一体誰なんですか?」
「物わかりが良くて助かるよ。目撃者はとある上院議員だ。名前はヴェリアムというらしい」
 ラザールは言葉を濁しながらそう言った。アルフォンスh¥はどこかそれが引っかかった。
「らしいというのはどういうことですか?」
「何分こちらも情報が錯綜していてね。これが本当に正確な情報なのかは分からないんだ。だが、信頼できるとは思う。地図を書くからそれを手がかりにしてくれ」
 ラザールはそう言うと、部屋の隅にあった机から紙と羽ペンを取り出して地図のようなものを書き始めた。幸い雨も既に上がっていたはずなので大丈夫だろうとアルフォンスは思った。
「……こんなことしかしてやれなくてすまないな」とラザールは呟いた。
 アルフォンスにはその背中がどこか寂しげに見えた。
「恐らくこの一件は君の飛行機の作成をよしとは思わない人間が仕組んだことだと思う。ほとんどは俺の責任だ。俺が君のことを陛下に進言しさえしなければ君は平和な日常を送れていたかもしれない。恨むのなら俺を恨んでくれ」
 羽ペンを走らせながらラザールは淡々と語った。アルフォンスはしばらく、そんな彼にどんな言葉をかければよいか考えていた。
「そんなことはないですよ」とアルフォンスは言った。「僕は自分で飛行機を作りたいと思ったんです。ラザールさんの責任じゃないです。むしろ、これくらいの逆境なら乗り越えて見せますよ。僕は――絶対に飛行機を完成させなくてはいけないんです」
 それは決意に満ちた眼だった。
 ラザールはアルフォンスの言葉を訊くとペンを走らせる手を止め、振り向いた。そして、はにかみながら言葉を紡いだ。
「そうか、そうだったね。じゃあ、これが上院議員の邸宅までの地図だ。俺は同行できないからそのつもりでいてくれ。幸運を祈っているよ」
 アルフォンスは一度首を縦に振ると、その地図をラザールから受け取り、夜のパリへと駆けだした。一人残されたラザールは椅子に体重をかけ、小さなため息をついていた。



[25409]
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:49
 大きな机が印象的な執務室の中でオーギュストは机にかじりつくようにして羽ペンを走らせていた。メイドであるセリスはそのオーギュストの背後、影のように静かに立っていた。
「オーギュスト様。どうしてあそこまでマリア様を軟禁されるようなことをなさるのですか?」
 この国の王であるオーギュストに対して一介のメイドであるセリスは臆することなく尋ねた。彼女は執務に追われる背中を見て、そんな疑問を吐露せずにはいられなかった。
「言葉の意味が分からない」
 セリスの温かみのある言葉とは対照的にオーギュストの言葉は酷く冷たくて機械的だった。抑揚もなく背中越しに見る彼は何も変化が無かった。
「もう少し、マリア様にも分かりやすく説明をしてあげればいいのではないか、という意味です。さすがに私から見ていても今のマリア様は辛そうですので」
「あれの予定は全てキャンセルしてあるんだろう?」
 オーギュストの発言にセリスは態度を濁すようにして答える。
「いえ、陛下に言われてからはほぼ全てをそうしてきましたが……」
「ほぼ、とは?」
「エレーナ嬢からの申し出だけは断ることができずに、申し訳ありません」
 セリスはオーギュストが見ていないにも関わらず頭を下げた。心底申し訳ないと思っているに違いない。それだけ、マリアの付き人というのは荷が重いのだ。
「ああ、あのアラゴン家の我儘娘か。まあ、仕方がないだろう。気にすることはない。それよりもセリス、マリアとは親しくなったか?」
「そうですね。マリア様は私のことを頼ってくれていると思いますよ。行動や表情からそういったことは読み取れますので」
「そうか……」
 セリスは見えはしなかったがハロルドが背中越しに笑みを浮かべている。そんな気がした。
「なら、お前だけはあれの味方になってやってくれ。愚痴を聞いてやってくれ。私はそういったことはできないだろうからな」
「御心のままに。そういえばマリア様はよくこんなことを仰っていられますよ。わたくしに『あなたのほうが綺麗よ』と。よほど自身の容姿に自信が無いようで、その言葉を聞くたびにわたくしは微笑ましくなってしまいます」
「その位がちょうどいいのだろうな。もし自分の容姿に絶対の自信を持ってしまえば神話のナルシスのように花になってしまうかもしれない。私個人としてはあれの容姿は大変優れていると思うが」
「それをマリア様に申し上げていただければ大変お喜びになると思いますよ、陛下」
「言っただろう。そんなことをする資格は私にはないんだ。軟禁は続けてくれ。それが、あれのためだ」
 オーギュストの言葉はとても寂しそうに執務室に響く。
「……御心のままに」

「体の調子はどうですか? マリア」
 貴婦人らしいゆったりとした口調で放たれる言葉が蒸気電話から溢れる。声の主はマリアの実の母であった。マリアは母の言葉を聞いただけで涙が溢れそうなほどに嬉しかった。が、心配させたくないからと明るい声で常に話していた。
 ――私は大丈夫だから。
 そう思わせなければいけなかった。母上や父上だけは自分のせいで不安にさせたくはなかったのだ。
「ええ、宮殿の暮らしは不自由もなくとても充実しています」
「あなたが嫁いでからもう一ヶ月にもなるんですね。私は今でもあなたが旅行にいっただけなんじゃないかと思う時があるんですよ」
「ふふっ。母上、もう私も子供ではないんですよ?」
 偽りの笑み。
 マリアは自分に嫌気がさす。これは自身への嘲笑か。
「オーギュスト様とは仲良くやっていますか? 私はそれが一番の心配なんですよ」
「……ええ、あの人はとても優しくてとてもいい人ですよ。母上と父上のように毎日楽しく過ごしています。あまり心配なさらないで下さい」
 ――嘘。
 本当は一度も優しいなんて思ったこともないし、毎日楽しくなんてない。一週間の中で会うこととのない日のほうが多いし、何より今の今までちゃんと話せたという実感がない。未だにオーギュストのほとんどをマリアは無知のまま過ごしていた。
「そうですか。たまには手紙も書いてよこして下さいね。私はそれがないと寂しくて仕方が無いのですよ。
 マリア、来年になったら私たちの家に里帰りしてきて下さいね。もちろん父上も私も待っていますから」
「はい」
 力強く頷いて受話器を元あった場所へと戻していく。カチャン、という音が鳴りいつものように二人分の部屋の中にマリアは一人きりになる。
 こうして自分は永遠に嘘を積み重ねていくんだ。マリアはそう確信した。
 家族と電話ではあったとはいえ話せることはマリアにとって泣きそうなほどに嬉しいことであった。感情の高ぶりを抑え、いつもの様子で話すことでさえマリアにとっては大変神経を使うことである。
 一人部屋の中で紅茶を飲みながらマリアは小さく溜息をつく。時折一緒に時を過ごすことになるオーギュストと一緒にいるよりはこうしていたほうが気が楽だったからだ。オーギュストとマリアが二人で部屋の中にいるとき、セリスは隣の部屋で待機しているのが常のことであった。それは言わずもがななことである。夫婦で、しかも新婚の二人の部屋に呼ばれもしないのに入るのは忍びないものがあるだろう。
 そこまで考えてマリアは苦笑する。
 幼い頃に中睦まじい両親を見て、母を自分に父を顔が分からない将来の伴侶に置き換えて毎日空想を繰り返してきたものだったが、現実は顔も見たことのないような男に嫁ぎ、家族を悲しませてしまっている。
(いや、私が悲しみさえしなければ父上も母上も悲しむことはないだろう。こうして、嘘をつき続ければいいだけ)
 自己嫌悪に陥りながらマリアは俯く。
 それと同時、扉が開いて慌てて顔を上げる。見るといつものように少し疲れたオーギュストが立っていた。
 マリアは勇気を振り絞ってオーギュストの前に立ち塞がるようにしてその瞳を見据える。
「……何だ?」
「聞きたいことがあるの」
「言ってみろ」
「何で私は外に出られないの? エレーナ様とのお茶会以来ずっとそう」
 またこうしていつ会えるのかは分からない。だから今その理由を問いただす必要があった。
「意味が分からない。何か不自由な点でもあったのか?」
「自由とか不自由とかそういう問題じゃないでしょ? 私はあなたの妻としての役割をきちんとやっているじゃない」
 大臣を含む国の重鎮には可愛がられ、パーティの場では寄り添い仲の良い夫婦を演じてきたはずだった。マリア自身も落ち度はないと確信していた。オーギュストにとって不満な点はないはずだった。
「……答えられない」
「どうしてっ!?」
 思わず、叫ぶ。
「国のために家族を悲しませてまで好きでもない人に嫁いでっ! どうして閉じ込められなきゃいけないのよっ!」
 床にへたり込む。
 オーギュストが顔を覗いてくるが、こんなくしゃくしゃの顔を見られたくはなかった。そしてオーギュストの顔もマリアは見たくなかった。
「人形は黙って従っていればいい」
 言葉に反応してマリアは顔を上げる。
 蒼色の瞳が冷たくマリアを見下ろしていた。
 ――人形?
「分からないか?」
「あ……」
 体が震えた。
 マリアはその言葉の意味を、深く静かに理解した。そして、力なく返事をする。
「はい……」
「わかるならいい……立てるか?」
「いら……ないわ……一人で……」
 手を振り払い、立ち上がる
 オーギュストはさっさとベッドに潜り込んでしまう。蒸気灯に手を伸ばして明かりを消すとマリアは隣にあるベッドに潜り込む。
 逃げ出すなんて考えることもしない。
 仕方のないことだと必死に言い聞かせる。
 睡魔は全く訪れない。
 結局明け方にようやくうとうとしはじめてセリスにまた心配をかけてしまうと思いながら眠りに就いた。






 目標の邸宅は案外あっさりと見つかった。時間にして三十分程度、アルフォンスはパリの市内を風のように走り続けた。警官隊が大通りに張り込んでいたため、裏路地を点々としながら動く。
 セーヌ川からアルフォンスの感覚では徒歩で五分程度、ラザールが言っていた上院議員の邸宅は聳え立つように存在していた。
 それはまるで小さな城であった。庭園と比べれば小さいが、それなりに大きな敷地の大きさであり、闇に完全に塗り替えられた噴水の水が高く高く宙に舞っていた。敷地とパリを隔てる門からはそんな様子が伺えた。屋敷の周りには外壁が張り巡らされていて、アルフォンスにはとてもではないがよじ登れそうにも無かった。門の前には二人の衛兵と思われる男が二人、煙草を吹かしながら居座っていいるのをアルフォンスは気づかれぬように見つめていた。
「これは厳しいかな」
 背後の気配を敏感に感じながら、アルフォンスはそんな独り言を漏らした。さすがに見ず知らずの自分を不用心に邸宅に入れてくれる道理もないだろうと、アルフォンスは困り果てていた。ぐずぐずしていれば警官隊に見つかり、二度と自分が作っている飛行機を見ることは出来ないかもしれない。心だけが焦り、アルフォンスは知らぬ間に自分の爪を齧っていた。
 一度、あの衛兵二人と交渉をしてみようかとも考えたが、そんなことは不可能だとあっさり諦めた。今のアルフォンスの立場は警官隊に追われているお尋ね者である。もしかすればあの二人にもその話が届いているかもしれないし、危険な賭けであることには変わりがなかった。
 何か手掛かりがあるかもしれないとアルフォンスはラザールからもらった地図をもう一度見直した。世話好きなラザールのことである、どこか秘密の抜け穴の情報でも書き記してくれているかもしれないと、そんな淡い期待をアルフォンスは抱いていた。
「ダメか、それはそうだよな」
 見直したところで何も進展はありはしなかった。地図は確かに丁寧に書いてくれている。大通りから行く、一番近い道のりだけではなく、警官隊に見つからないようにとわざわざ遠回りをする道のりまで完璧であった。が、所詮はそれ止まりである。邸宅に侵入するという根本的な解決法までは書かれてはいなかった。
 アルフォンスはポケットに地図を仕舞いこみながら頭を抱えた。解決策は一向に見えてこないからだ。いっそ強行突破してみようかとも考える。それしか手は無いのかもしれないと諦めのような感情がアルフォンスの頭の中で大きくなり始めていた。
「こんな所で何をされているのですか?」
 背後から突然、幼い少年のような声が轟いた。
 アルフォンスはそれに既視感のようなものを覚え、すばやく振り向いた。
「なっ、あなたは……」
 アルフォンスは思わず身構える。そしてその後、声をかけた人物を改めて視覚に捉えた。
 少々ぶかぶかな緋色の聖職者服を身に纏うその男は背が小さく童顔で少年のようも見えたが、そんな訳はないとアルフォンスはその考えを一人、棄却した。
「私はゲロルトと申します。神に使える聖職者です。あなたが一人、頭を抱えて困り果てているのを見かねて声をかけたのですよ」
 ゲロルトと名乗った聖職者は礼儀正しい言葉遣いでアルフォンスに語りかけた。闇の中でも映える緋色の聖職者服はアルフォンスの瞳に焼きつく。
「聖職者様でしたか。し、失礼しました」
 ほっと、アルフォンスは心の中で息を一つ吐いた。まさか聖職者にまで自分の話が通っているとは思えなかったし、眼の前の男は悪い人間には見えなかったからだ。
 が、アルフォンスはこのゲロルトという男に細心の注意を払っていた。自分は背後を強く警戒していた筈だった。なのにこの男はまったく気配を感じさせずにアルフォンスの背後に立っていた。恐らくただものではないのだろうとアルフォンスは思っていた。
「いえいえ、構いませんよ。それでどうされたのですか?」
「いえ、あの上院議員様の邸宅に用事があったのですが、門番の人に追い返されてしまうと思って一人途方に暮れていたのです」
「上院議員の方に用事とは、何か公式なものですか」
「いえ、かなり個人的なことでして、とても取り繕ってはくれないだろうと」
 ふむ、とゲロルトはアルフォンスの話を訊くと一人考え始めた。小さな体躯を丸めて考える姿はアルフォンスにとって本当に少年のように見えた。
「では、私が門番の二人に話をつけてみましょうか」とゲロルトは言った。
 アルフォンスは思わぬゲロルトの提案に驚きを隠せなかった。
「そんな、本当によろしいのですか?」
「ええ、構いませんよ。困っている人を助けるのも聖職者としての務めですから」
 ゲロルトはそう言うと、アルフォンスのことを追い越して門の方向へ歩き出す。その足に迷いはなかった。
「あなたの態度を見ると、重大そうな用事なのでしょう? ならば私が力を貸しましょう」
「あ、ありがとうございます」

「少々よろしいでしょうか」
 ゲロルトはアルフォンスとともに門の前まで歩き、辿り着いた。ゲロルトが話しかけると門番の二人はもったいなさそうに吹かしていた煙草を地面へと擦りつけた。
「どなたさまでしょうか」と門番の一人は言った。「ここはヴェリアム上院議員の邸宅です。よほどの要件がない限りお通しすることはできませんが」
 門番の二人は面倒くさそうに言葉を紡いだ。煙草の火はまだ消えておらず、煙が宙に舞っている。
「教会からヴェリアム様にお話があるのです。お通ししていただけませんか。緊急のお話なので、お急ぎいただけると助かります」
「…………」
 ゲロルトの言葉を訊くと門番の二人は顔を見合わせて何かを話し始めた。ゲロルトの聖職者服は紛れもない本物であるし、細かい重要な話ともなれば門番の二人にも判断は難しいのだろう。
「そちらのお方は?」と門番は言った。そして、その双眸をアルフォンスの方向へと向けた。
「これは私の連れです。一人でパリの夜道を歩くというのも寂しいものがありまして。彼は教会の人間ですので心配はいりません」
 門番はゲロルトの言葉を訊くと訝しげな視線をアルフォンスに向けた。途中で喫煙を中断させられたイライラからだろうか、一度小さく舌打ちをしてゲロルトの言葉を受け入れた。
「分かりました。ではお通しいたします。ヴェリアム様は二階の一番奥の部屋にいらっしゃいます。私どもはついていくことはできませんので」
「構いません。では行きましょうか、アルフォンスさん」
 門番は緩慢な動作で邸宅への道を開けた。ゲロルトはアルフォンスに有無を言わさず、中へと入って行く。アルフォンスはただただそれについていくだけだった。
 門の奥、噴水の辺りまで歩くと門番の視界の中に二人は入らなくなっていた。そんな所でゲロルトは突然その足を止めた。
「さて、これであなたのお悩みは解決されましたか?」とゲロルトは言った。
「え、ええ、ありがとうございました」
「そうですか、よかったです。では私の役目はここまでですね。あとはあなた一人で頑張ってください。神への信仰をお忘れなきように」とゲロルトは言った。そして踵を返し、この場を立ち去ろうとする。
「あ、あの」
「どうかされましかた?」
「どうして僕の名前を?」
「あなたはよく聖地にいらしてくださいますよね」とゲロルトは言った。「教会は聖地にいらして下さる人間のことを歓迎しています。あなたは常連ですから名前も知っていますよ」
 ゲロルトの言葉を訊いてアルフォンスは納得したようなしないような、不思議な気分になった。確かに聖地に入る際には名前といった個人情報は記入すべき場所に記入していたので、その可能性も無くはないが。
「そうですか……」
 アルフォンスは渋々ゲロルトの言葉に納得した。ゲロルトは再び門の方向へ歩き始めた。
「では、これで」
 闇に溶けるが如く、ゲロルトは噴水の向こう側へ。色々と気になる点はあった。が、今は問題が解決し、活路が開けたのだ。いつまでもゲロルトのことを気にしているわけにもいかなかった。こうして立ち止っている間にも追手が迫っているかもしれない。アルフォンスは迷っている場合ではなかった。
「行くしかないか」
 アルフォンスは覚悟を決めて邸宅の中へと入っていく。豪奢な邸宅もパリの闇の中では不気味な屋敷にしか見えなかった。

 邸宅の中には誰もいなかった。メイドか執事か、この大きさの屋敷ならばそういった人間が控えていてもいいようなものだとアルフォンスは思った。が、そんなものは影も形もありはしなかった。明かりも最低限のものしかつけられておらず、印象的に見えた絵画はただただ不気味なものだった。
 ホールのような場所にあった階段を上り、二階へとアルフォンスは上がって行った。コツコツとアルフォンスの足音だけが響き、アルフォンスは内心どこか怯えるように一段一段上っていた。赤い絨毯が敷き詰められた廊下をゆっくりとアルフォンスは歩く。点々と配置されている装飾品が何故かアルフォンスの心を怯えさせていた。
 そしてアルフォンスは二階の一番奥の部屋のドアの前へと辿りついた。明らかに他の一室とはドアの造りからして違っていたため、門番の話は嘘ではないとアルフォンスは確信した。ここに目的の上院議員がいるはずだった。
「ここか」
 後はこの中にいる上院議員を説得して証言をしてもらいさえすれば、アルフォンスの無実は証明されるはずである。
 アルフォンスは静かに、そのドアをノックした。一回、二回、ノックする音が館内に木霊するがドアの向こうからは返事がまるでなかった。アルフォンスの心の中で不安がさらに大きくなる。それを打ち消すかのようにアルフォンスはドアノブにその手をかけた。
「軽い……?」
 鍵がかかっているという感覚は到底持てないものだった。そしてアルフォンスはそのドアを解き放った。
「――――っ!」
 既視感、つまりデジャブのような感覚をアルフォンスは抱いた。
 部屋の中に足を踏み入れた途端に感じたのは鉄のような血の臭い。光の無い瞳を完全に開いたままアルフォンスが見たことも無い男は仰向けになり――死んでいた。
 自分の血を最後のベッドとするかのように。
「な、何で……?」
 服装は一介の市民、はたまた執事のようなものではなく、恐らくはアルフォンスが探しに探していた上院議員だろうとおぼろげながらに理解した。亡くなってからしばらく時間が経過しているのだろうか、腹部の刺されたと思われる個所からは血の噴出が止まっていた。
 アルフォンスは動揺して今の状況を理解することで精一杯だった。何故こんなことになっているのか。これで全てが解決するはずだったというアルフォンスの淡い希望は完全に打ち砕かれていた。
 ――故に。アルフォンスは今の状況が自分にとって芳しくないものだということに全く持って気が付いていなかった。
「――――!?」
 けたたましい足音がアルフォンスが立ち尽くしていた部屋まで轟いた。それによってアルフォンスの思考は一気に現実へと引き戻された。
 勢いよく、他のものとは別格の美しさのドアが解き放たれて激しい音が鳴り響いた。そして、そこに見えたものは今のアルフォンスにとって最悪なものであった。
「何だ、これは……貴様! これも貴様がやったんだな」
 先ほど路地裏で見たようなレインコートを身に纏った複数の男たちがアルフォンスを睨みつけていた。言い訳することすらアルフォンスにとっては馬鹿馬鹿しかった。そんなことをするくらいなら、とアルフォンスは窓の方向へ駆けだした。
「貴様、待てっ!」
 警官の制止も訊かず、アルフォンスはガラスの窓から飛び出した。ガシャンと激しい音が鳴り、鮮やかに光を反射した。二階だから大丈夫だろうと高を括っていたアルフォンスは空中にいる最中、その高さに恐怖した。
「い……った……」
 言葉にならない悲鳴がアルフォンスから漏れた。
 地面に辿り着いた途端にものすごい衝撃がアルフォンスを襲ったからである。足の骨が折れたかもしれないと要らぬ懸念を抱くほどのそれは激痛と呼ぶに相応しいものだった。
 先ほどいた二階の一室からは警官隊の騒がしい声が届いていた。痛みはあったが足を止めるわけにもいかなかった。
 街灯の光がアルフォンスの瞳にやけに染みた。






「マリア様、いらっしゃいますか?」
 コツコツとノックの音が転がった。
 侍女の声に夫妻のための居間にある揺り椅子でうつらうつらとしていたマリアは目を覚ます。それと同時に膝にのせていた本が滑り落ちて、毛足の長い絨毯に沈んだ。
「マリア様?」
「いるわ、入って」
 本を拾い上げ、返事をするとセリスが入ってくる。
「どうしたの?」
「奥様からお茶のお誘いがございます」
「お義母様が? もちろん行くわ」
 立ち上がり、服装を見る。
 気楽な実家と違い、皇室であるのだから常にきちんとしたドレスを身につけなければならなくて。もちろん、身体が楽なようにいろいろと工夫はされているが、マリアにとってそれはさほど影響しなかった。
「大丈夫ですよ、服はそのままで」
「そう。髪だけ整えるわ」
「梳きましょうか?」
 むしろ梳かせてほしいという雰囲気のセリスにマリアは苦笑する。
 母に憧れて伸ばした髪はマリアにとって大切にしている部分で、家族だけでなく、セリスも、義母も感嘆を洩らして誉めてくれた。
 綺麗だと誉められるとマリアはとても嬉しかった。
「お願い」
 嬉しそうに櫛を持ち、髪を梳いていくセリスを見ながらマリアは考えを巡らせる。
 この一ヵ月、いくら広大な敷地を持つヴェルサイユ宮殿とはいえ、庭にすら出られないという状態は非常に疲れがたまっていて。最近は実際に体調がすぐれないことが多い。とはいえ、おそらく外に出られるようになれば治る程度のものだとマリアはわかっていた。顔色を隠すために化粧を少し濃いめにしているから、気付かれてはいないはずだった。
 問題は、周りの態度である。
 普段は部屋に籠もっているから、セリスが不審に思うことはない。ただ、侍女は自分が元気だということはわかっているはずだ。義母も、本当に伏せっていると知っているなら呼び出す人間じゃない。
(お義母様とセリスは理由を知っている?)
「さあできましたよ、奥様がお待ちです」
 いつのまにやら結いあげられてしまった髪に、マリアは何も言わずに立ち上がる。お茶を飲むのだから、小さいお菓子ぐらいは出てくるのだろう。それを考えると確かに結いあげたほうがいい。
「お供します」
 にこにこと笑うセリスは、自分が軟禁状態に置かれると聞いて怒っていたのに、今は何も言わずにつき従っている。呆れるほど長い廊下を通り、自分達のために作られた一角を抜けて奥へと向かう。一番奥に当主夫妻の部屋があった。
「奥様、マリア様をお連れしました」
 セリスがノックをしながら告げると、中からメイドが扉を開く。
「まあマリアさん、待っていましたよ……セリス、ご苦労様、またメイドに送らせるわ」
「失礼します」
 侍女が一礼して出ていき、義母がにこにこと椅子を進め、マリアはその椅子に腰掛けた。
「今日はね、おいしい紅茶が入ったから是非マリアさんと一緒に飲みたいと思ったのよ」
 よい香りの紅茶とおいしいクッキーを前に二人は他愛のない話をした。嫌がらせもなにもされない生活は気楽だけど、どうにかして軟禁される理由をマリアは知りたかった。
「お義母様、私、宮殿での生活も素晴らしいのですが、他のところも行ってみたいのです……体調もいいですし。この時期に聖地に咲く綺麗な花があるのです。その花を見てみたくて……」
 思い切ってそう切り出すと、義母は一瞬固まって、すぐにいつもの柔らかな笑顔を浮かべる。
「オーギュストに頼んでみるといいでしょう。夫婦の決めたことには口出ししたくありませんから」
 違う、私の意志は無視されているのに。
 喉元まで出てくる言葉を押し込めて、マリアは微笑んだ。
「ええ、そうしてみます」
 そう言って、また他愛無い話に戻り、見送られてマリアは部屋に戻った。
 よくよく考えれば義母は王妹。小さい頃から様々な権力争いに巻き込まれていたはずだ。そのために要求をを交わす術を持っていてもおかしくはない。
(セリスは、どうかしら)
 そう考えてため息を吐く。明るくて元気なセリスはその性格にひかれ、言い寄る男から上手に逃げ出す場面を見たことがある。聞いてもうまくかわされるだろう。結局部屋から本を持ってきて、揺り椅子にこしかけマリアは続きを読み始めた。それと同時に扉が開いて慌てて顔を上げる。
 オーギュストが立っていた。
 その顔色は悪く、隈が濃い。
「っ……」
 その表情と、寝室での冷たい表情と言葉を思い出して怯え、一歩下がろうとして、自分が座っていることを思い出す。立ち上がると本が床に落ちた。一ヵ月顔を見ない間、ずっと仕事をしていたのだろうか。
 ここでもう一度問い詰めようか。
 けれど、マリアはこれだけ顔色の悪い人を問い詰めたくはない。それになにより怖かったから。
「いたのか」
 その言葉に一瞬むっとなる。誰のせいだと思っているのか。
「いるわよ」
「そうか」
 そのまま寝室に向かうオーギュストをマリアは見送る。その足取りはまるでお酒を飲んだかのようにフラフラとしていて、先ほどまでの怒りの感情も簡単に胡散してしまった。扉の閉まる音がして、マリアは再び一人きりになった。
 正直言って、あまり気が気ではないが。あんなフラフラな、一応自分の夫である男性をただただ放っておくことなどマリアにはできなかった。
(国の中枢にある人間を倒れさせたら)
 それだけ、仕事が滞る。ため息をついて寝室の扉を開いた。
「何の用だ?」
 寝室の扉を開くとよく分からない書類を手にしたオーギュストが振り返った。マリアはてっきり、もう既に眠りについたものだとばかり思っていたので正直驚いていた。
「そんなフラフラな状態で大丈夫なの? もう休んだ方が」
「眠れないんだ」
 え、とマリアは言葉を漏らした。オーギュストはマリアにとってほとんど完璧な人間に近かった。そんなオーギュストが眠れないなどと弱音を、それも自分の前で吐くなんてマリアには想像もできないことだった。
 マリアはその言葉を訊いてハッとしたようにクローゼットからオーギュストの寝巻を取ってくる。意外にもオーギュストは大人しく着替えてくれ、ベッドに潜ってくれた。けれど言ったとおり、何度も寝返りをうってなかなか寝付けないようだった。
(どうしよう……)
 マリアは椅子ベッドの近くにある椅子に座りこみ、どうしたものかと思考を巡らせる。マリアはそうして小さい頃の思い出にすがろうとする。自分がまだ幼い時は母によく子守唄を歌ったものだったとマリアは一人思い出していた。マリアはオーギュストの手を握り、必死に思い出しながら、歌う。
 母が歌ってくれたようには上手く歌えないけれど、十分子守歌にはなったようで、穏やかな寝息がしてきたことにマリアは安堵する。布団からのぞいた顔は眠っているからか、自分に近い年齢に相応しいように幼いものだった。
 よく考えれば、夫婦となってもう二ヵ月以上たつ。なのに、マリアはオーギュストのことはなにも知らななかった。結婚直後から仕事でずっと城に泊まり込んでいたし、パーティの時は仲のいい夫婦を演じる以外はなにも話さなかったからである。まともに話したのは、一ヵ月前の、宮殿の客室内が初めてかもしれない。
 ふと顔を上げるともう夕方を過ぎて夜になろうとしている。この人の明日の予定はどうなっているのだろうか。そんな思考をマリアは巡らせる。
 立ち上がろうとすると、腕に痛みが走った。いつのまにかしっかりと手が握り返され、動けなくなっていた。まるでしがみつくようなそれを引き剥がすのもマリアは気が引けて、座り直す。もぞもぞと彼が動いて、オーギュストの口元が動く。そっと耳を寄せると、小さく、けどはっきりと呟いた。
「……ごめん……あと少しだから」
 その言葉にマリアは首を傾げるしかない
「ほんとうは……したくなかった……」
 自分との結婚のことだろうか。マリアはそんな仮説を立てた。それ以降彼は発言することはなく、メイドたちも気をつかっているのか、ノックをされることもない。静かな部屋に聞こえるのは規則正しい寝息だけである。マリアは何となく食事を取ろうとは思わなかった。屋敷の中だけで過ごしていると、自然と食欲が落ちてくるから。
 ぼんやりとしているうちに眠くなってきて。そのまま、オーギュストの身体のうえに突っ伏してマリアは眠りに落ちた。



[25409]
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:49
 途方に暮れるとはまさにこのことだろう。そんな言葉を内心呟きながらアルフォンスは夜のパリをとぼとぼと歩き続けていた。
 最初は誤解からだった。
 路地裏を歩いていたときに偶然間違われて殺人犯扱いされる。逃げ回り、手がかりも無く手の打ちようがないときにラザールが想定外の助け船を出してくれた。その手がかりを元に、あと一歩まで辿り着いたのに、もうこの件は解決したと思ったのに。結局は振り出しに戻っただけである。むしろ、当初の状況よりも悪化しているだろう。二人も人間を殺してしまえば極刑は免れない。
 だが、もしもそうなったとしたら――
「シャルルにやってもらうんだな……」
 アルフォンスは心が少し弱くなっていた。先ほどまでならそんなことは微塵も考えずに追ってから逃げていたのにも関わらず、今はこの有様である。二階から着地した際、痛めた左足が酷く痛かった。むしろここまで走って逃げてきたことのほうが素晴らしいとアルフォンスは自分自身を評価した。
 先ほどの雨の影響か、パリの市内は一層霧が濃くなっていた。視界もおぼつかず、街灯の光が牡丹雪のように見えた。足を引きずるようにしてアルフォンスは歩く、もう打つ手はないのかもしれなかった。

 ――私は、信じるわ――

 アルフォンスは聖地にたった一つだけ存在する花畑を背景に笑いかける少女の面影を思い出していた。遠い昔の記憶である。アルフォンスは飛行機の作成の際、困った時や悩んだ時、それ以外でも大きな悩みがあった時、彼女の笑顔を思い出すことに決めていた。
 それが、アルフォンスの生きる最大の糧だったからだ。
「――マリア……」
 右は茶色がかった緑、左は青といったオッドアイにブロンドの美しい髪。笑顔がとても印象的で可憐な少女。今彼女はどうしているのだろうか、アルフォンスは走馬灯のようにそんなことを想っていた。
 が、そんなアルフォンスの幻想する時間は脆くも崩れ去ることになった。
「――っ。お前は……」
 霧の向こう側。微かに映る人影にアルフォンスは見覚えがあった。だらりと垂らした両手がアルフォンスにとって妙に恐ろしく見えた。
「――ははっ。奇遇だねえ、アルフォンス君?」
 紅い髪に紅い瞳。先ほど路地裏で人を殺していた真犯人。この一件の元凶。
 紅い男は右の親指の先を小さく舐めた。そして、右手には妖しく光るサーベルを握りしめていた。
「お前、何で……?」
「何で、ここにいるのかって? いい質問だよ。その答えはね――君を殺したいからさ」
 ――ゾクリ、とアルフォンスは背筋が凍った。
 全身に恐怖のあまり鳥肌が立ち、知らず知らずの内にアルフォンスは一歩後ろに下がっていた。心臓は早鐘のように鳴り響き、手には嫌な汗が流れた。にやりと笑う男の瞳がアルフォンスには酷く恐ろしく見えた。
「殺すって、な、何で……」とアルフォンスは言った。恐ろしさの余り言葉が言葉にならなかった。
「君のことはね、まだ殺すなって言われてたんだ」と紅い男は言った。そして、右手に持ったサーベルを舐める。「でも、もういい。結果的に良くなればいいんだよ。だから――死んでくれ」
 ドン、と男は地面をその両足で穿った。そして、一気にアルフォンスとの距離を詰めようと試みる。
「くっ――!」
 アルフォンスは、その震える右手で懐から手持ちのナイフを取り出した。そして、その切っ先を紅い男へと向ける。どうせ逃げ切れないのなら、そんな諦めの行動が生んだ最後の抵抗であった。
「ははっ! 無駄無為ぁっ!」
 アルフォンスは男の一太刀を小さなナイフで受けた。いや、弾き飛ばされたナイフから見て、その表現は相応しくはなかった。
 もの凄い衝撃がアルフォンスを襲い、たまらず石畳に尻もちをついてしまう。男はサーベルの切っ先をアルフォンスに向け、ニヤリと口元を緩めた。
「残念だったね。でも、筋は悪くない。相手悪かっただけさ。これから君はどうなると思う?」
 アルフォンスは何も答えられなかった。そして、サーベルが睨みをきかせていたため身動きもとることができなかった。
「まずは、心臓を一突きされて絶命。君の人生はそこで終わりだろうけど、そこからその首を跳ねるんだ。そうして全て終わり。本当に全て終わりさ――」
 男は手持ちのサーベルを振りかざす。アルフォンスはたまらず、その双眸を強く閉じてしまう。
 アルフォンスがその瞬間、頭の中に思い描いたのは、やはり遠い昔の記憶に居座る少女のことだった。

 ――マリアッ!――

「――アルッ!」
 訊きなれい声がしたためか紅い男は振りかざしたサーベルを紙一重の所で止めた。アルフォンスは中々襲ってこない斬撃に反応して、恐る恐る瞼を開けた。そして、声のする方向を一瞬垣間見た。
「シャルル……」
 ここまで全力で走ってきたのだろう。全身を大きく振るわせ、息を切らして立ち尽くしているシャルルの姿がアルフォンスの視界に飛び込んできた。
 紅い男はゆっくりとサーベルを自身の端へと戻していった。そして、シャルルの方向へと正対する。アルフォンスはまだ尻もちをついたままであった。
「お前、そこから離れろ」
 アルフォンスにとってその言葉は訊きなれないものだった。あの温厚なシャルルが今は怒りにうち震えるが如く、冷たく、しかしはっきりとした口調で紅い男にそう言った。その両目ははっきりと男のことをさしていた。
「ああ、君は確か……そうか、そういうことか。いやあ、こんな事になるなんてね」
 紅い男はクク、と笑いを堪えることで必死なようだった。そして、サーベルを今一度その下で舐めまわす。
「君がここに来るなんて思ってもみなかったよ」
「――黙れ」とシャルルは言った。
「あの人も中々味なまねをするね。そう思わないかい?」と男はシャルルに問いかけた。
「――黙れ!」
 空気を劈くような叫びがシャルルから漏れた。アルフォンスはこんなシャルルを今まで見たことがなかった。
「僕の親友を殺そうとしたこと、死で償ってもらう――」
 シャルルがそう言った瞬間、紅い男も一瞬怯んだのだろうか、この三人の間の時が止まったような感覚をアルフォンスは抱いた。
 その刹那。時刻にして一秒か二秒。
 シャルルの影が、本来あり得ない方向にねじ曲がっていた。
「ハハッ。いいねえ」と紅い男は言った。
 影は男の方向、即ちアルフォンスと男の間に瞬く間に入り込んでいった。男は飛び跳ねるようにして後ろに下がった。
 アルフォンスは知っていた。これが何を意味するのかを。この影が何なのかを。
 ――こんなことをするシャルルをアルフォンスは見たくなかった。
「――出ろ」
 シャルルの影が揺らめく。
 シャルルの影が不気味に伸びあがっていく。
 そして、それは具現化する。
 意思を持っているかのように。
 それは影だ。影が変じて鋼鉄と化す。
 それは、気高く。
 それは、強く。
 それは、美しい。
 ――その名は少女。その名は聖人。
 ――その鋼鉄はシャルルと一心同体である。
 ――気高きもの。
 ――その名は、ジャンヌ・ダルク。
「我が友にして、我が力。鋼の騎士――ジャンヌ・ダルク!」
 ぐにゃり、とシャルルの影がねじ曲がり鋼鉄で出来た人形のようなものが浮上する。アルフォンスはその人形に見覚えがあった。
「機械人形……」とアルフォンスは呟いた。
 蒸気都市パリが生んだ唯一と言っていい失敗作。誰かが考えたのだ。それは人間の思考として当然かもしれない。自らが機会に人間と同じ、全く同じことをさせてみたい等と。
 その姿形までほぼ一緒のものを作ろう等と。
 それはしかし、幻想にしか過ぎない。人間の行動原理というものは蒸気機関のように単純明快ではないのだ。
 そんな甘い考えは脆くも崩れ去り、モデルとして作られた人形が廃棄処分とされたとアルフォンスは訊いたことがあった。シャルルが召喚した影はまさしくそれであった。
「死霊術」と紅い男は言った。「まさか本当にそんなものが存在しているなんてな。この眼で見るまでは信じられなかったよ」
 オカルトの類である。死者と言葉を交そうなどと、そんなものは一見幻想でしかない。が、現実としてシャルルはそれが可能なのだ。シャルルは――死霊使いであった。
 アルフォンスだけが知っていた事実。あの紅い男はそれを知っているのだろうか。アルフォンスの頭に小さな懸念が生まれて消えた。
「死者の魂と契約し、それを人形の中に宿す。そんな人間が教会の中にいるっていう話を訊いたことがあったのさ。所詮は都市伝説さ、現実にはあり得ない。パリの中ではそんな話も流行りやすい。が、俺は信じていたさ。君が死霊使いであるということ以外はね」
 この国の中で誰が一番死と直接触れあっているのだろうか。訊くまでもない、死刑執行人であるシャルルである。そのシャルルが死霊術を使うのだ。何となくアルフォンスは過去に納得していた。そして、悲しくなった。
「もう、お前の言葉は訊き飽きた。お前に残された選択肢はたったの一つだ。ジャンヌの槍に貫かれろ」とシャルルは言った。
 アルフォンスは、そんなシャルルに何も言葉をかけてあげられなかった。もう人を殺してほしくないだとか、そんな感情よりもアルフォンスは今、自身の身を案じていたからだ。
 鋼鉄の身体がゆっくりと動き出す。片手で持っていた朱色の槍を両手で抱える。そして、その切っ先を紅い瞳へと向けた。
「まさか死ぬまでに伝説の騎士様とお手合わせ出来るとはね。さあ、来いよ。その鋼鉄の身体、微塵に切り裂いてやる」
 紅い男はだらんと両手を垂らして構えをとった。シャルルはもう待っている気はないようだった。
「――貫け」
 鋼鉄の体躯は石畳を穿つ。
 一瞬にして紅い男との距離を詰める。
 朱色の槍が振りかざされる。
 紅い男はその軌道を察知したのか、ひらりと身を翻してその一撃を受け止めた。
 つばぜり合った剣と槍との衝撃にアルフォンスは息をのんだ。
 男は槍の一撃を上手く受け流し、ジャンヌの懐に入り込もうとする。槍の最大の弱点はそのリーチの長さである。小回りの効く剣使いに近づかれれば、状況が悪化するのは必至だった。
「これで、どうだッ!」
 男は力の流れに逆らわず、回るようにしてジャンヌに斬撃を食らわせる――かと思われた。
「――ッ!」
 まるで身体の一部であるかのように朱色の槍が半回転する。胴を一刀両断にしようと放たれた男の剣はその刹那、弾かれてしまう。
 男は軽く舌打ちをして、もう一度ジャンヌと間合いを取った。これは戦闘の形として男にとって不利と言ってよかった。
「流石にジャンヌ・ダルクともなると桁違いだ。今ので普通なら一刀両断されているはずだよ」
「…………」
 男の言葉にシャルルは何も答えなかった。それよりも苦戦しているジャンヌにシャルルは苛立ちを隠せないようだった。
「ジャンヌ! 早くその男を黙らせろ! 何故本気を出さない」
 答えるはずのない鋼鉄にシャルルは問いかけた。いや、シャルルには分かるのだ。死霊使いであるシャルルだけが、ジャンヌの言葉を訊くことが出来る。
「これは正義の戦いだ。その男は悪だ! 君の罪は僕が引き受ける。だから、今は――本気で、殺せ」
「シャルル――」
 アルフォンスはシャルルに言葉をかけようとした。が、その判断は遅すぎた。
 まるで瞬間移動でもしたかのように、鋼鉄の体躯は男との間合いを自分の槍が届く距離まで詰めた。それは先ほどまでとは比べ物にならない速度であった。
 風が唸り、男はようやくその状況を理解した。
「な……に……!」
 音も無く、素早く、その槍は真っすぐに男の心臓へ放たれる。
 ぐおん、と空気が曲がるような音がしてそれは男まで辿りつく。
「ぐ、ぁ……あァ……ッ!!」
 が、男はその切っ先が心臓へと触れる瞬間、身体を微かに動かしてギリギリのところで急所を外していた。アルフォンスにはそう見えた。
「シャルルッ!」
 アルフォンスは堪らず両手でシャルルのことを抑えつけた。
 もう、見たくなかったのだ。シャルルが人を殺す所など。
 シャルルがアルフォンスに押さえつけられると鋼鉄の体躯はそれに呼応するかのように動きを止めた。
「離してくれ!」とシャルルは叫んだ。
「もういいんだ、もう人を殺さないでくれ。そんなシャルルを僕は見たくないんだ!」
 アルフォンスがそう叫んでいる間に紅い男は勝手にその槍を抜き放ち、ジャンヌとの距離をとっていた。紅い血が、その髪によく映えていた。どくどくと流れだす個所を右手で強く押さえつけながら男はフラフラと立っていた。
「どうやら……分が悪いようだ。今日はお暇させてもらおう」
 男はそう言い残すと、怪我をしているとは思えない機敏な動作でパリの闇へと身を翻した。
 その間にアルフォンスは腕の中でシャルルが力を抜いていくことを感じ取っていた。そして、アルフォンスは呟く。
「うん、分かっているよ。だから、大丈夫」
 ジャンヌの体躯はシャルルの影へと溶けていった。






 大きな花瓶に色とりどりの花ががいけてあって、マリアはその香りに笑みを浮かべる。外に出たいと、聖地にのみ咲いている花が見てみたいとお茶に誘われたときに義母に話していて。義母がマリアのために庭師に言っていくつかの花を部屋に届けさせてくれた。
 マリアはこの花が好きだった。この香りを嗅いでいると昔のことを思い出した。自分を慕ってくれていた少年のこと――
 オーギュストのことはあまり考えないようにはしていたけれど、マリアはやはり心配になっていた。一週間前、彼を子守唄で寝かしつけ、手が離れなくてそのまま身体の上に突っ伏して眠ってしまった。にもかかわらず、翌朝起きるとマリアの身体はベッドの中であった。隣に彼の姿もなく、あれほど顔色が悪かったのにと心配になって慌てたものだった。
 が、昼食で一緒になったは義母何も言わなかった。だから、たぶん大丈夫だろうとマリアは思うことにした。
(顔色、悪かったわ……)
 花を弄る手を止めて考えているとノックの音がして、返事をするとともにやや乱暴に扉が開かれ、息を切らしたセリスが入ってくる。
 幼い頃からメイドだという彼女の所作とは思えないほどの乱暴さに首を傾げていると、ようやく息がおさまったセリスが口を開いた。
「マリア様、オーギュスト様から使いがありまして、手紙を」
 マリアは渡された手紙の封を切り、便箋を広げる。
『長い間閉じ込めてすまなかった、明日訳を話すから待っていてほしい』
 筆跡はよくわからないけれど、セリスがちゃんと相手を確かめて受け取っているのだから間違いはないだろう。そうマリアは思った。
「セリス、ありがとう」
 手紙を届けてくれたセリスにマリアはお礼を言った。そして、部屋から出ていこうとするセリスをマリアは引き止める。
「セリスは……事情を知っていたの?」
 そう問うとセリスは困ったように微笑んだ。
「事情は存じております。オーギュスト様は人を思いやることができる方です。私が口が堅いことを知っているからと掻い摘んで話してくださいました。マリア様には話すなとおっしゃられて。奥様も事情ご存じかと」
「そう……」
 結局事情を知らないのは自分だけかとマリアは溜息をついてしまう。
「隠していて申し訳ありません」
 謝るセリスに微笑んで、気にしないようにとマリアは告げた。
 
 翌日、セリスが案内してくれた部屋へとマリアは歩いていた。一体何の話をされるのだろうかと身構えながら目的の部屋へと辿り着くと、セリスとは別のメイドが一人恭しくお辞儀をして奥の方へと誘ってくれる。皇族の執務室が並ぶ場所へつくと、メイドがそのうちの一室の扉をノックする。すぐに返事があって扉が開かれると、オーギュストが一人椅子に座りながら書類を読み漁っていた。マリアが部屋に入るとオーギュストはそれに気が付き、口を開いた。
「急に呼び出してすまない」
「いや、その、大丈夫よ」
 何となく、今日のオーギュストはマリアにとってどこか違って見えた。言葉が優しいというかそんな感じ。マリアはそう思った。
「一ヵ月以上も閉じ込めて申し訳ないと思っている。このとおりだ」
「え? あ、頭を上げて。何でこんな……」
 オーギュストが急に頭を下げて謝ってきたせいでマリアは一人慌てふためく。自分の身になにかとても恐ろしいことが起こっているような気がしてマリアは軽く腕をさすった。
「私は……謝られるよりもどうして閉じ込められたのか聞きたいの、あなたは、何も教えてくれなかったでしょう」
「すまない……」
「謝らないで教えて、お義母様もセリスも知っていたのに」
 頷くと、オーギュストは口を開いて説明を始める。
「簡単に言うと、君の暗殺計画が発覚したから閉じ込めた」
 ――暗殺計画が発覚したから。
 何度も頭の中で反芻し、マリアは意味をようやく理解する。
「わ……たし……」
 冷静に考えれば考えるほどマリアは恐怖の感情に支配されていった。身体は震えが止まらず。動揺が隠せなかった。
「落ちついてくれ。今はもう安全なんだ」
「どう……して……」
 震えながらもマリアは続きを促した。
「君が私と婚姻したことをよしと思わない人間が大勢いたということだよ。君がいなくなれば自分の娘とあわよくば、そんな下らないことを考える貴族も少なからず存在するんだ」
 やっぱり、とマリアは恐怖にうち震えながら一人納得していた。未だに自分が何故オーギュストと結婚することになったのかマリアは理解できていなかったのだ。そんなことが起こっても不思議ではないとマリアは思っていた。
「この一ヶ月間、ずっとその貴族の動向を追っていた。が、もうすでに末端まで捕えた。もう安心だ。君の自由は約束されたんだ」
 マリアはその言葉を訊くと身体から力が抜けていくことを感じた。それだけマリアはこの一ヶ月不安で一杯だったのだ。それが解消された今、そうなるのは必至なことだった。
 オーギュストの言葉の後、室内は静かになった。
(どうしよう……)
 マリアはオーギュストに何から話せばいいのか分からなかった。当然だろうとは思う。まともに話したのは数回しかないのだから。
 落ちつかなげに紅茶のカップを弄りながらマリアは覚悟を決めた。
「……ごめんなさい」
 小さく、謝罪の言葉をマリアは放った。そして、その小さな頭を垂れる。今はこうしたほうがいい、マリアはそう思った。
「……いきなりどうしたんだ?」
「あなたが……私を閉じ込めたのは、私が殺されないようにでしょう? なのに、私はあなたにひどいことを言ったから」
「私は、別に君にひどいことを言われた覚えはないけどな」
 マリアはその言葉を訊いて驚いた。
 自分はかなりの言葉をオーギュストに発したはずだ。それなのに気にしていないだなんて。マリアはオーギュストを見つめた。
「だって、私は、あなたを問い詰めて……」
「……ああ、『好きでもない人に嫁いで』って言葉か?」
 マリアはその言葉を訊いて小さく頷いた。オーギュストはそれを見ると小さくため息をついた。マリアはそれが自分を莫迦にしているように見えて少し、ムッとする。
「お互い様だから気にするな、と言うしかないかな」
「そう……」
「それよりも、謝るべきなのは俺の方だけどな」
「え?」
「『人形は黙って従っていればいい』なんて言ってすまなかった」
「けど、それは」
「私は君のことを人形なんてこれっぽちも思っていない」
 オーギュストはきっぱりと言い切った。その瞳はまるで濁りがなくてその言葉が真実であるとマリアは確信した。
「……信じても、いいのね?」
「ああ」
「わかったわ……あの」
 マリアは恥ずかしさのあまり、一瞬口籠ってしまう。今更こんなことをするなんて、マリアはそう思った。が、そんな気持ちもすぐに胡散する。
 立ち上がり、マリアはお辞儀をした。それも、貴族の令嬢がする中では一番相手に対しての礼儀をあらわしたものを。
「助けていただき、ありがとうございます」とマリアは言った。「けど、もう無茶はしないで。あの時、顔色が物凄く悪くて、なのに翌朝にはもういなくて心配になったわ」
 マリアがそう言うとオーギュストは言葉を詰まらせた。恐らくオーギュストが一番よく分かっているのだろう。自分が無理をしていると。
「わかった、気を付けるよ」
 そう言うと、オーギュストは表情を緩め、微笑んだ。マリアは初めてオーギュストの笑顔を見た。本当の笑顔。作り笑いなどではない、本物のそれ。その笑顔にマリアはみほれてしまう。オーギュストは心から笑っていたから。
「本当に、ありがとう……オーギュスト」
「名前」
「え?」
「初めて呼ばれたな」
「あ……」
「……もっと早く話せばよかったな」
 室内に光が舞った。



[25409] 断章
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:50
 ――瞼を、開ける。
 そこは見覚えのない部屋だった。当然僕の元いた屋敷にはない部屋である。広さは人一人が滞在するのには十分でベッドが一つドアの真向かいにある窓に沿うように置かれている。それにテーブルと椅子が一つずつ。
 真っ白な部屋だった。壁も床も天井もみんな白い。そんな、遠近感が狂ってしまいそうな部屋の中に僕は一人取り残されていた。
 自身の記憶を探る。記憶の断片をつなぎ合わせ状況の整理を試みる。雨の降りしきる路地裏で僕は倒れてそして……。
 そこからの記憶はなかった。ベッドは想像以上に柔らかくて体を起こすのが億劫になってしまう。
「――っ」
 膝小僧から酷い痛感が伝わってくる。そういえばフラフラと歩きまわっているうちに転んだような気がする。よく見てみればまたも真っ白い包帯が怪我をした場所に巻きつけられておりどうやら手当をされたようである。
「何だこれ、一体……」
 僕は大きな疑念に囚われていたがその間に部屋の中に一つだけ存在するドアがノックもなく開かれた。思わず僕は身構える。
「あ、もう眼が覚めたんだね。怪我の具合はどう?」
「…………」
 部屋の中に入ってきたのは僕と同じくらいの年齢の少年だった。基調のよい服装に僕は貴族の嫡男という言葉を連想した。少年は僕に有無を言わさず、持ってきていた皿をテーブルの上へコトリと置いた。それにはフルーツが乗っており、僕の為のものだろうかと、一瞬そう思った。
 少年はベットの横に置かれていた椅子に腰をかけ、言葉を紡ぐ。
「君は雨の中、倒れていたんだよ。父上が君のことをここまで連れてきてくれたんだ」と少年は言った。
「君は……?」
 僕の言葉を訊くと少年はハッとしたような表情を浮かべ、頭をかいた。
「そうだったね。まだ、自己紹介をしていなかった。僕はシャルル――シャルル=アンリ・サンソンだよ」
「サンソン……?」
 僕はその名に訊き覚えがあった。あれは確かそう、父上の言葉である。そして、その言葉を心の中で反芻する。
 ――死神。
「くッ……!」
 僕は少年の言葉を訊くと思わずその身を背後の壁へと寄せた。父上は言っていたのだ。
 サンソン家の人間は死神だと。近づいてはいけないと。触れてはいけないと。人を食する家系であると。
 僕は恐ろしさの余り、口が上手く回らなくなっていた。
「来るなっ! ぼ、僕を食ったって美味しくなんてないぞ。こ、来ないでくれ!」
 僕は闇雲に手を振り回し、少年を恐れるように避けた。瞼を閉じて僕は現実から逃避する。もうすぐ自分は食べられてしまうんだと、僕は心の中でそう思った。
「……そうだよね。やっぱり、僕のことが怖い、よね」
 僕は少年の呟きを訊いた。掠れるような小さな声だった。僕はその言葉を訊いて恐る恐るその瞳を開いた。少年は椅子に腰かけながら顔を伏せていた。
 僕はそれを見て驚いた。死神が何でこんな表情をするのだろうか、僕にはさっぱり理解できなかった。
「いいんだ。分かっていたことだから。でも、これだけは分かってほしい。僕と父上は君のことをとって食ったりはしないよ。そんなことあり得ないから」と少年は言った。
 その言葉を訊いて僕はどうしたらいいのか分からなくなった。眼の前の少年は死神のはずだ。死刑執行人の家系に生まれた人間は皆、人を食するのだと父上も言っていた。
 ひょっとしたら――
「僕のことを食べたりしないって……本当に?」
「本当だよ。死刑を執行しているのは本当だけど、父上も僕も本当はそんなことしたくないんだ」
「信じて、いいの……?」
 僕がそう言うと少年は宙に浮いていた僕の手を強く握った。僕は驚いて少年のことを凝視する。
「信じて。僕は君のことを助けたいんだ」
「う、うん、分かったよ……」
 渋々といった様子で僕は少年の言葉を飲み込んだ。少年は僕の言葉を訊くとホッとしたように胸を撫で下ろした。
「よかった……僕ってこの家の子供だから、友達とか一人もいないんだ。よかったら、君が僕の友達になってくれるのなら凄く嬉しい」
 僕はそう言った少年の顔をまともに見ることが出来なかった。先ほどまで死を覚悟していた僕にとって少年の瞳は眩しすぎた。そして、何故かは分からないが恥ずかしさのあまり顔を背けたくなる。
「い、いいよ。僕でよかったら……」
「ほ、本当ッ!?」
 ガタン、と大きく椅子の動く音を出して、少年は立ちあがった。嬉しさの込み上げる表情を浮かべながら少年は僕の手を強く握った。
「ありがとう。凄く嬉しいよ。君の名前は?」
「えっと、アルフォンス、アルフォンス・ペノーだよ」
「アルフォンス。うん、いい名前だね。それでお家はどこなの?」
「あ、えっと……」
 少年の言葉に僕は思わず口ごもった。帰る家なんて無かった。父上も母上も死んで、僕は浮遊児だったのだ。
「お家は、もうないんだ。父上も母上も亡くなって、帰る場所なんて僕にはもう……」
 僕の言葉を訊くと少年は静かに僕の手を解き放った。そして、その双眸を気まずそうに地面へと向ける。
「あ、ご、ごめん……」
 嫌な沈黙が部屋の中へ流れた。僕は何か言葉を切り出そうかとも思ったけれど、先ほどまで死神だと思っていた少年に何と言葉をかければよいか僕には全く分からなかった。
「あ、あのさ」と少年がようやく口を開いた。「良かったら僕の家に来ない?」
「え?」と僕は思わず訊き返してしまった。
「父上も僕の友達だって言えば納得してくれると思うし。僕の家っていらないお金だけが沢山あるんだ。だから、君のこともきっと大丈夫だよ」
 僕にとっては願ってもない話だった。帰る場所もなく、明日何を食べればいいかすら覚束ない。そんな自分に天からの恵みが降り注いできたのだ。だが、ここは死神の一家が暮らす邸宅である。僕は一瞬、そのことを考えて躊躇する。
 そして僕は少年のことを一瞥した。くすみの無い瞳が僕の快い返事を待ち望んでいた。
 死神だとか、人を食らうだとか、そんなことは今の僕には関係なかった。だって、眼の前の少年はとても誠実でその瞳に嘘は無かったからだ。
「……いいの?」
「うん、絶対大丈夫だよ。これからよろしくね、アル」
「ありがとう……シャルル」
 白い部屋に僕の言葉が零れた。


 結局僕はシャルルの家に引き取られることとなった。最初の頃は死神の家という感覚が拭いきれずに戸惑っていたものだった。が、シャルルもシャルルの父も僕にとても優しくしてくれていた。僕はそれが、とても嬉しかった。
 シャルルの家は僕の予想に反して資産家であった。そこらの貴族と比べても遜色のないほどに。僕の父上が生きていたころを連想してしまい、一瞬だけ悲しくなったが、それもすぐに消えていった。考えてもみればシャルルの父に多大な報酬が与えられるのは当然のことだった。死刑を執行するだなんて誰にだって出来るわけではない。きちんとした知識を持って、罪人をなるべく苦しませずに殺すことの出来るのは今の所、シャルルの父だけなのだ。
 特別な仕事にはそれだけの報酬を、それが世の中の摂理だ。医者は医者だけが出来ることをやっている。政治家は政治家にしか出来ないことを。皆特別な何かを持っているから敬われるのだ。が、シャルルの父は敬われているかといえばそうとも言い切れない所もあった。
 シャルルの家での生活は僕にとって快適なものだった。料理はおいしいし、邸宅は立派。シャルルはいい友達であるし、シャルルの父上もいい人だ。だけど、僕はそんな生活が少しだけ嫌だった。嫌だった、というのは少し語弊があるかもしれない。ただ、無償でこのような生活を与えてくれているシャルルたちに僕は申し訳の無さを感じていたのだ。
「僕も、働いてお金を稼ぎたいんだ。シャルル」
 邸宅の一室でいつものようにシャルルと二人きりで遊んでいた時、僕は思い切ってシャルルに打ち明けた。いつまでもシャルルに頼り切っているのは嫌だったのだ。
「アル、別にいいんだよ、そんなことしなくたって。お金は十分にあるし、君にそんなことはさせられないよ」
 僕とシャルルはベッドに腰掛けて話語りをしていた。シャルルは僕をいなすように言葉をかけた。が、そんなことで僕の決意は揺るがなかった。
「だめだよ。こんなシャルルに頼りきりの生活じゃ、僕はきっとだめになってしまう。僕も何かしてみたいんだ」
「アル……」
 僕の言葉を訊くと、シャルルは考えるように俯いた。数刻、僕とシャルルの間に時間が流れたように思う。シャルルはようやく顔を上げ、口を開いた。
「分かったよ。今度父上に言ってみるからさ」
「ありがとう、シャルル。僕の我儘を訊いてくれて」


 僕の要望は意外にあっさりと受け入れられた。シャルルの父は僕の話を訊くと快くそれを認め、雇ってくれるであろう職場を紹介してくれた。
 何でもシャルルの父が知り合いの貴族の邸宅ならば、きっと僕のことを雇ってくれるらしい。僕は半信半疑でシャルルの父の話を訊いていた。そもそも一般的に死神と恐れられているシャルルの家の人間と交流がある貴族など考えられないし、さらに言えばこんな身元も分からない子供の僕を雇ってくれるのかがとても大きな疑問だった。
 と、色々な思考が浮かんできたが、とにかく紹介されたのならば行ってみるしかないと僕はシャルルの父から貰った地図を片手にパリの市内を歩き回っていた。そして、ようやくそれらしき邸宅を僕は見つけた。
 貴族の邸宅にしては小さなものだと僕は思った。家族全員と使用人が入ってなんとか間に合うくらいのその程度のものだった。外界と隔てる門も無ければ、噴水が鎮座する庭すらない。一見すれば成功した商人の家と間違えてしまいそうな、そんなものだった。
 教会のような円形の天井の邸宅に僕は意を決して入って行く。とにかく僕は今の現状を変えたかったのだ。誰かに頼り切っているのは嫌だったから。
「こんにちは……」
 恐る恐る玄関の扉を開け、僕は邸宅の中へ入る。扉を開けた途端に聞こえてきたのはけたたましい足音と慌てふためく複数の男女の声だった。
「何だ……?」
 玄関の扉を開けるとそこには大きなホールが広がっていた。紅い絨毯が敷き詰められて中央には大きなシャンデリアが垂れている。奥に進むと枝分かれして伸びる階段が見えた。ここは典型的な貴族の邸宅だなと僕は思った。
 僕はその騒音にただただ驚いていて、扉の脇に立ち尽くしていた。そうしているとかなり焦っている様子の執事服の老人が階段から駆け降りてきた。僕はこの人が僕を迎えに来たのだと思い込んで声をかける。
「あ、あの……」
 執事は僕の言葉を訊いてようやく僕の存在に気が付いたのか、おお、という言葉を発して僕に駆け寄ってきた。僕は全く意味が分からずにただただぞの執事を凝視していた。
「はあ、はあ、君は雇われたいと言っていた少年だね」と執事は息を切らしながら僕に言った。
「は、はい。そうです」
 僕は緊張気味に口を開いた。とにかく仕事がしたかった。何でもいいから雇って欲しかったのだ。だから、第一印象はきっと大事に違いない。が、今のは失敗しただろうか。そんな不安が僕の心を満たしていた。
「そうか、良かった。では、君の最初の仕事だ。出来るかい?」と執事は僕に尋ねた。
 ようやく自分でお金を稼げるのだ。僕は嬉しさで心が一杯だった。
「はいっ、大丈夫です。それで、一体何を?」
「この屋敷の中にいる女の子を探すんだ。ほら、急いで」
「女の子?」
 屋敷の中の喧騒は全く衰えを見せなかった。


 最初は小さいと思っていたこの屋敷も自分が走り回ってみると案外広くて嫌になるものだった。僕は息を切らし、屋敷の中を駆け回る。
 あの執事の人が言っていたことを整理してみると、つまりはこの屋敷の中に隠れている貴族の女の子を探し出せというのが僕に与えられた最初の仕事らしかった。執事の人が言う、その女の子の特徴は右は茶色がかった緑、左は青といったオッドアイにブロンドの美しい髪。そして『可愛らしい』女の子ということだった。執事の人は僕にその部分を強く強調して説明していたものだから、僕の記憶には嫌でもそんな印象が強くなっていた。
 所々でいかにも高価そうな装飾品が置かれている廊下を僕は走る。が、さすがに息が切れてきて立ち止ってしまう。闇雲にこの屋敷を走り回ったとしても見つけられる保証はない。もっと頭を使ってみよう。
 両手を膝の上に置きながら僕はそんなことを考えた。そして、辺りを見回した。
 普通に考えてみれば見渡しのいい廊下に隠れるという可能性は皆無である。となれば、何処か部屋の中の小さく僕と同じくらいの少女でも隠れられるような所、例えば――
 僕は答えのようなものを自分の頭の中で弾き出して適当な部屋の扉を開いた。高価な家具や装飾品には目もくれず、僕は一つの方向を目指して歩く。そして、その目的の場所――大きなクローゼットの前へと辿り着いた。
 恐らくここだろうと僕は確信のようなものを抱いていた。何故ならば、自分も隠れるならばきっとここを選ぶだろうと思ったからである。
 僕はクローゼットの扉を勢いよく開けはななった。ほらね、と僕は心の中で呟いた。クローゼットの中の光景は僕の予想とまるっきり一致していたからである。確かに執事の人が言っていた少女の姿は見当たらない。だが、本来ハンガーにかけられ、規則正しく並んでいるはずの衣類が何点か外され、一か所に山のように積まれていた。きっと彼女はここにいるはずである。僕はその衣類を数枚取り払った。
「ここでしょう?」
 衣類を全て取り払うと、やはり僕の予想通り女の子がいた。それも先ほどの衣類を布団代わりにして眠っていた。
 歳はおそらく十歳くらい。人形のように整った顔立ちで、陶器のようになめらかな白い肌がひどく印象的だった。目鼻立ちには幼い柔らかさがあるのだが、同時に端麗な容姿が持つ、鋭利な硬さ──不可侵の気品のようなものが、薄っすらと漂っている。美しいオッドアイが今はよく見えなかった。美しい少女だ。僕は今までの目的を忘れ、ただただ眼の前の少女に見惚れていた。
「うん……」
 少女は一度寝返りを打って、眼を覚ましたようだった。僕は少女に見惚れていたせいか上手く口が回らなかった。僕は何故だかは分からないが少女から一歩距離をとった。少女は右手で眼を擦りながら眠たそうな眼で僕のことを見た。
「あなた……誰?」と少女は僕に尋ねた。
「あ、いや、僕は……」
 僕は何か少女の美しさに恐れのようなものを抱いていたのかもしれなかった。そうでなければ、こんなにも慌てふためくわけがない。僕はそう思った。
 少女は僕の言葉を訊くと寝起きの頭で思考を整理し始めたようだった。うーん、と唸りながら答えを探し、やっとそれに辿り着いたようだった。明るい声と表情で少女は僕に言った。
「あ。もしかしてあなた、今日から家で働くっていう男の子でしょ?」
「は、はあ、まあ……」
「あは、やっぱりそうなのね!」
 少女は表情を輝かせ、そう言った。僕はまだ少女のその気持ちについていけていなかった。
「ふふ、私マリア。この家の一人娘なの。今日からよろしくね。えっと、君の名前は?」
「僕は、アルフォンスです」
「アルフォンスか、アルって呼んでいい? いいよね?」と少女は僕に尋ねた。
 僕はその言葉にただただ頷くことしか出来なかった。
「よかった。じゃあ、アル、今から何をして遊びましょうか?」
 僕は少女の言葉に疑問を覚えずにはいられなかった。僕はここに働きに来たのであって、女の子と遊ぶために来たわけではないのだ。僕は自分の気持ちを否定されたような気分になって少しムッとした。
「遊ぶって……僕は別にそんなつもりで……」
「執事たちから訊いてないの?」
「何を、ですか?」
「君のここでの仕事は私と遊ぶこと。そう言っていたよ」
「は?」
 僕は少女の言葉の意味がよく分からなかった。が、心の中で何度も繰り返していく内にようやく理解出来てきた。こんな何の役にも立たない僕が一発で雇われた理由。
 それは眼の前の少女と同年代の僕に遊び相手をさせたいということだろう。僕は全てを理解した。そして、大きくため息を吐き出した。
「ねえ、アル、何をする?」
 少女の言葉が、今は苦痛だった。


 とにかく、僕にってマリアと遊ぶというのはとても苦痛な事だった。
 僕に与えられた仕事は僕にでも出来る軽い雑用と、大きな部分はマリアの暇を潰す遊び相手というものだった。マリアはその綺麗な容姿とは対照的にとても活発な女の子だった。眼を離せば一瞬の内に屋敷の中を駆け回ってどこかへ行ってしまう。走る速度は女の子とは思えないほどに早くて、体力もあった。下手な仕事よりもよっぽど疲れるのではないかと僕は思っていた。
 そんなマリアは一つ自分の中でお気に入りの場所をもっていたらしい。今日はそこに外出していた。屋敷の使用人が数名とマリアと僕。この少ない人数で訪れていたのは俗に聖地と呼ばれる庭園。テュイルリー庭園だった。パリの中で唯一といっていい緑が溢れる庭園には今日も少なからず、人で溢れていいた。その殆どは貴族と思われる紳士、淑女であったが。
 それも仕方がないだろうと、僕は心の中で思った。緑と太陽の光を楽しむためだけにお金を払うなんて僕には理解できないことだった。所詮は金持ちの道楽だ。そんな悲観的な感情を僕は抱いていた。
 僕はそんなことを想いながら右隣に立っていたマリアを見た。感嘆のため息を洩らしながらマリアはとても明るい表情を浮かべていた。そんな表情を見ると、僕が先ほど持っていた偏見は一瞬にして消え去った。僕は純真無垢なマリアに憧れたいたのだ。
「うわあ……やっぱり何度来ても綺麗」
 そう言うと、マリアは光の剣が突き刺さる庭園の中央に駆けだした。芝生を踏みしめる音が僕にとって少々心地良かった。
「ちょ、マリア!」
 勝手に駆けだしたマリアを制止しながら、僕は背後に立っていた使用人たちに振り向いた。僕は彼らにマリアを止めて欲しかったのだ。勝手に動き回られて一番困るのは僕だったから。
 が、僕の願いも虚しく、使用人たちは朗らかな表情を浮かべながら僕にマリアの後を追えと手で示してきた。僕はそれを見て、少々マリアのことを甘やかし過ぎなのではないかとも思った。が、今はそんなことを思っている場合ではなかった。マリアは既にかなりの所まで進んでいて僕はその後を追いかけるしかなかった。
「ちょっと待ってよ!」
 僕はそう言って駆け出した。噴水から吐き出される水が光を反射して僕の目に飛び込んできた。僕は一瞬だけ眼を細めたがマリアの姿だけは見失うことはなかった。彼女は、とても可憐だったからだ。
 マリアは庭園の中央、光が一番降り注ぐ場所で制止していた。そして、天を仰いでいた。何でこれだけ走っても息が切れないのかと僕は思った。マリアの傍に辿りついた時、僕は思わず膝に手を付いてしまったからだ。
「はあ、はあ……もう、勝手に走り回らないでよ」と僕は言った。
 マリアは僕の言葉が聞こえていないかのようにずっと天を仰ぎ、光を見ていた。
 僕はそれを見て、自分が無視をされているのだと思い、憤りを隠せなかった。
「ちょっと、マリア、訊いてるの?」
「あったかいね」
「へ?」
 本当に無視をされているらしかった。マリアの返事は僕の言葉と完全にそぐわないものだったからだ。僕は半ば諦めたように適当な返事を返す。
「……そうだね」
「パリの中で、ここだけは特別。アルもそう思わない?」
 特別。
 特別といえばそうだ。ここにしかない奇跡が本当に存在しているのだから。僕はただただその言葉に頷いた。
「うん、まあ、特別だね」
「む、本当にそう思ってるの?」
 僕が適当な返事をしすぎたせいか、今度はマリアのほうが御立腹らしかった。
「思ってるよ。だって、ここだけにしか陽射しが届かないんでしょ?」
「そうだけど、それだけじゃないの。ここからしか、青空は見えないのよ」
「青空?」
 僕はマリアの言葉を思わず繰り返してしまった。昔両親が話してくれたお伽噺。かつてこのパリの空全体を覆っていたという青い空。が、今や誰もその存在を信じる者はいなかった。そんなものはあり得ないのだ。永遠に続く灰色の空がそれを否定している。
 少なくとも、僕にはそんなものあるとは思えなかった。
「マリアには見えるの? 僕には降り注ぐ陽射ししか見えないけど」
「ううん。私にだって見えないわ。でも、私は青空って本当にあると思うの」とマリアは言った。そして、もう一度光を仰いだ。
「そうかなぁ。僕には信じられないんだけど……」
「私は、信じるわ。あの厚い灰色の雲の向こうにはきっと美しい青空が広がっているの。ねえ、素敵だと思わない?」
 光を仰ぎながら、マリアは言った。その言葉には迷いがなくて、僕は一瞬その言葉を信じそうになってしまう。
 進んだパリの技術力を持ってしても未だ、空を自由に飛び回る機会を作ることは叶っていなかった。僕はそんな話を訊いたことがない。が、いずれはそれが出来るのかもしれない。その時こそマリアの言葉が真実かどうか証明されるのだ。
「うん、そうだね。いつかはきっとそんなことも出来るようになると思うよ」
「――いつかじゃ、だめ」
「へ?」
 突然、マリアの声色が暗くなったような気がした。僕はそれを訊いて気の抜けた言葉を返してしまう。瞳には憂いの色が映り、僕はマリアになにかあったのかと心配になってしまう。
「ねえ、アル。青空を見せて。君の、君の力で、その腕で。そうしたら、私……」
 マリアはそう呟いて俯いた。マリアの影が光によって一層伸びた。僕はまだ、マリアが何を考えているのかよく分からなかった。
 ただ、こんな悲しい表情を浮かべているマリアを僕は見たくなかった。だから、僕は分かり切ったような虚言を吐いた。
「うん、分かった。絶対に見せるよ。青空」と僕は言った。
 嘘。
 というより、僕にできるはずがない。機関の知識が何もない僕に。が、マリアはそんな僕の言葉を訊くと僕に向けて、とても幸せそうな表情を浮かべた。僕はそれを見ることが出来ただけで満足だったのだ。
「本当? 絶対、絶対だよ。何年かかってもいいから、絶対ね」
「う、うん……分かったよ」
 僕はマリアの言葉に押される様に首を縦に振った。それほどまでにマリアは必死だった。
「約束、しよ」
 そう言うとマリアは右手の小指を立てて、僕に差し出した。どうやら指切りをしたいらしかった。僕は一瞬、それに躊躇した。僕なんかにそんなことはできるわけもなかった。適当な約束で彼女を悲しませてしまってもいいのだろうか。そんな気持ちが僕の心の中を支配した。
 ――そんな下らない打算よりも、僕は今咲いている彼女の笑顔を崩したくはないと、そう思った。
 僕は何も言わず、マリアの小指に自分の小指を絡ませた。マリアの指は小さくて柔らかくて、とても気持ち良かった。僕は永遠に触れていたいとも思った。が、無情にもその指は離れていった。
「……じゃあ、帰ろう、アル。あっちまで競争だよ」
 先ほどまでの憂いの表情が嘘かのようにマリアは駆け出した。僕は苦言を呈しながら一生懸命にそれを追いかけた。そうして、僕は思い込んでしまった。さっきのマリアの違和感は気のせいだったのだと。僕はそう思ってしまった。
 光はまだ、降りやまなかった。


「もうここに来なくてもいいって、どういうことですか?」
 僕は少々荒々しげに尋ねた。僕に解雇通告を言い渡してきた執事は僕の言葉に顔をしかめた。
 いつものようにシャルルの屋敷から仕事場であるマリアの屋敷まで歩いてきた僕は屋敷の玄関の前で執事に呼び止められ、今のような言葉を投げかけられた。僕には全く意味が分からなかった。別に、仕事で大きなミスはしていない。たまに行う雑用は話をよく訊いて行っていたし、マリアの見張りもマリアに振り回せながらも一生懸命にやっていた。仕事を首になるような要因は僕には見つけられなかった。
「分かってほしいんだ、アルフォンス君。君は何も悪いことはしていない」と執事は言った。
「だから、何でなんですか?」
 僕は執事を問い詰めた。とにかく理由を知りたかった。何で自分が首になるのか、僕には納得いかなかった。そして、こんなことでマリアと会えなくなるというのは僕には耐えられないことだった。
 執事は言葉を選ぶようにして、僕に真実を告げる。
「……マリア様と皇族の方との婚姻が決まったからだよ」
「なっ……!」
 思わず僕は言葉を漏らした。
 婚姻。
 マリアが、結婚する――
 マリアはそんなこと一言も言っていなかった。僕は今執事が言ったことを理解することで精一杯だった。そして、そんなことは理解したくもなかった。
「君にも何となくは意味が分かるだろう? 婚姻が決まったマリア様と君みたいな同年代の男の子が一緒にいるというのは状況的にはよくない事なんだ。分かってくれるね」
 執事は僕をいなすように言葉を紡いだ。
 執事の言葉は正しかった。そして、僕はそれを受け入れるしかなかった。いくら、マリアのことが――好きだったとしてもそれは受け入れられないことだった。
 でも、僕は納得できなかった。
「で、でも――」
「それが、マリア様のためなんだ。君も紳士ならばそれくらいは分かるだろう? 何が正しいのか。君がマリア様の傍にいることは必ずしもマリア様のためにはならないんだ。マリア様のことを想うのなら、ここには二度と来ないでほしい。勝手なことばかり言ってすまないが、君が一人の男だというのなら私の言葉を受け入れてくれ」
 そう言って、執事は僕に頭を下げた。僕はそれを見て、自分がどうしたらいいのか分からなくなった。
「あ……」
 ――マリアの、ため。
 そんな言葉が僕の頭の中で反芻される。そして、それは僕の中の正義になりつつあった。
 マリアの、ためなのだ。僕が身を引けば全てが丸く収まる。マリアは皇族の妻となって幸せな人生を送るのだ。それが一番いいことなのだ――
「わ、かりました……」
 切れ切れの言葉で僕は執事に返答した。執事は僕に何も言わなかった。僕はそう言い残して、踵を返そうとした。その前に、最後に目に焼き付けておこうとマリアの屋敷を僕は一瞥した。見た目は小さな屋敷。この中に僕の一番好きな人が住んでいる。が、もう二度と来ることはあるまい。
 僕はフラフラとした足取りでパリの市内へと歩き出した。
 今日はいつもよりも空気が汚れているようだ。だって、僕の眼の前はくしゃくしゃになっていて何も見えなかったから。



[25409] 二章 1
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:51
 愚痴を零しながらはジョルジュ・ダントンいつもの酒場で酒を浴びていた。
 今日はお目当ての人物――つまり、シャルル=アンリ・サンソンの姿は見られない。ダントンの計画の核となるシャルルを口説けない内はダントンは一歩も前に進むことが出来なかった。
「何故なんだ」
 ダントンは言いながら頭を抱えた。いつもは美味しいはずの酒の味も今はよく分からなかった。
 何度交渉したとしても結果は同じであった。ダントンが掲げる革命の理論、それはダントンが想うには完璧なはずだった。革命が終わった後、このフランスをどのように統治していくのか、それまでを事細かに説明したとしてもシャルルは首を縦に振ることはなかった。
 ダントンにはシャルルの考えていることが全く持って理解できなかった。シャルルも少なからず、その目で見ているはずだった。飢えに苦しみ、国から十分な補償も受けられず、ただただ死んでいくような人々のことを。シャルルはそんな人たちを全て自分が助けると言っていた。
 そんなことは不可能だ。ダントンはそう思った。一時的な保養だけでは何も根本的な解決にはなっていない。それはただ、壁に空いた大きな穴を薄っぺらい紙で隠しているようなものであり、見かけ倒しでしかない。彼らを救うためには革命しかない。ダントンはそう信じて疑わなかった。
 先ほど頼んだ葡萄酒を一気に飲み干し、ダントンは深く息を吐いた。
 自分に何か間違いがあるのか。確かにシャルルの意見はとても綺麗である。非暴力をもって何かを救おうとする。が、ダントンに言わせればそんなものは偽善でしかなかった。そんなことを考える人間は結局は誰も救えはしない。その類の人間には迷いがあるのだ。
 例えば、そんな思想の人間は五十人か四十人の人間、どう頑張ってもどちらかしか救えない状況に立たされた時、迷いを抱き結局はどちらも救えないのが関の山である。ダントンはそう思っていた。が、ダントンは違う。そんな状況に立たされたのならば、ダントンは迷わず、五十人のほうを選ぶ。正義とは自分の信念を貫くことである。多くの人間が救えるのならば少々の犠牲は仕方がない。
 シャルルの思想は所詮は幻想である。一人の人間に出来ることなんて限られているのだ。だからこそ、ダントンは革命のための秘密結社を結成したのだ。その名をカルボナリという。秘密結社、とは言ってもそれほど膨大な人数がいるわけではない。結局カルボナリのするべきことは救われない市民を導くことだ。それが出来さえすれば革命は必ず成功する。ダントンはそう信じて疑わなかった。
 が、その為にはやはりダントンとは思想の型が違うシャルルを口説かないことには始まらなかった。シャルルはその死刑執行人という背景も影響してか市民からかなりの羨望を抱かれている。加えて、シャルルの持つ力――死霊術は革命の際に起こるであろう闘争の中で大きな戦力になりえるはずである。ダントンが市民を率いる上で一番に危惧していたのはそこであった。正規の軍隊と素人の市民。いくら戦力に差があったとしても状況をひっくり返されるような可能性は多々あったのだ。ダントンはそれを恐れていた。ならばこそ、シャルルの賛同は革命にとって絶対的な条件だったのだ。
「どうすればいい?」
 何度頭を抱えた所で、ダントンの悩みに答えらしい答えは見えてこなかった。そもそもダントンにとってシャルルと話をすることは苦痛に近いものがあった。ダントンはシャルルの言葉が理想論でしかなく、ただの偽善であるとしか思えなかったからである。
 元々考え方が根本的に違うのだ。交渉が座礁に乗り上げてしまうのも必然だっただろう。
 何をそうすればいいのかダントンには全く持って分からなかった。
「お隣、よろしいでしょうか?」
 右の方向から幼い声が耳に届いて、ダントンは慌てるように顔を上げた。
 そこに立っていたのは少々ぶかぶかで緋色の聖職者服を身に纏う少年のような男だった。子供か、ダントンは一瞬そんなことを考えたが、その聖職者服の緋色が目に入った瞬間にその思考を投げ捨てた。あまり多くの人間、とくにこの酒場に酒を煽りにきたような人間には知られていないが、聖職者服の中でも緋色のものというのはかなり位が高い人物しか着用することを許されてはいないのだ。そんな人間が少年とはダントンには考えにくかった。そして、この男がただものではないと、ダントンは本能的に理解した。
「ええ、構いませんよ」
 ダントンはそう言うと、快く聖職者の男を相席させる。女給に男の分のラム酒を注文した。ダントンは宗教のことにはそれほど詳しくはなかったが、聖職者に葡萄酒を勧めるのは何だか気が引けてしまう。
「聖職者様が、こんな酒場にどんな御用ですか?」とダントンは尋ねた。
 至極当然な疑問である。位の高い聖職者がこんな場末に近いような酒場で酒を飲んでいるなど、ダントンには理解できなかったからだ。男は女給から注文されたラム酒を受け取ると一口それを飲み干してから、口を開いた。
「酒場に来る目的なんて決まっています。私だってお酒を飲みたくなることくらいあるんですよ。それともう一つ、あなたに会うためです。ジョルジュ・ダントンさん」と男はダントンに語りかける。「あなたにとっておきの話があるのです」
 酒場の喧騒は今、最大のピークであった。空いている席などはダントンが見る限りどこにもなく、明るく楽しげな声が木霊している。中には席に着かず、立ったまま酒を飲んでいる男までいた。
 ダントンの眼の前に座る男はニヤリと口元を緩め、言葉を紡ぐ。その先に待っていたものはダントンが予想だにしない言葉だった。
「あなたの思想を我々が買いましょう」


 真夜中のパリの大通りはゲロルトにとって、とても物悲しい場所であった。
 生気がまるで感じられない。昼間になれば多少は人通りも増えるものの、無理をしてまでパリの市内を歩こうとする人間はそれほど多くはないのだ。パリの市内には眼にはよく見えないものの、いつも汚れた蒸気が空気中に漂っている。意識をしなくとも人は呼吸をする。そうして、その汚れた蒸気を吸い込んでいく。そうした経緯によって発病するのが蒸気病だ。蒸気病とはいっても平たく言えば肺炎のことである。
 空気が汚すぎて、ただただパリの市内で息をするだけでも病気に罹る可能性が浮上してくるのだ。
 そんなパリは夜になると一層人気がなくなる。街灯の明かりによって透かされ、汚れた蒸気がはっきりと視認できるようになる。一見霧のようにも見えるそれはただの毒だ。そんな所をわざわざ道楽のために歩こうとする人間はそうそういないのだ。
 ゲロルトの耳に聴こえてくるのは彼の静かな息遣いと、足音だけであった。石畳を叩く音は軽快に鳴り響く。音はなかった。視界は蒸気の霧によってぼやける。
 先ほど、ゲロルトは目的の酒場に行きついてジョルジュ・ダントンという男に話をしてきた。ゲロルトにとっても、ダントンという男にとっても有益な話。引いては、そう――ヨハネスのため。
 全てが上手くいっているようにゲロルトには感じられた。ダントンとの交渉も上手くいった。唯一のイレギュラーはあの紅い殺人鬼の男ぐらいであろうか。が、所詮はそれも想定の範囲内だとゲロルトは口元を緩めた。街灯の明かりがもうすぐ切れそうなのかチカチカとゲロルトを照らす。
 そして次にゲロルトがやらなくてはいけないことは人に会う会うことであった。その人物の名は――
「こんな夜更けに聖職者様が外出とは、何の御用ですかな?」
 背後から低い男の声が聴こえたため、ゲロルトはゆっくりと立ち止り、振り向いた。
 そこにいたのは痩せすぎずの体躯に、だらしなく着こなしたコート身に纏う男。顔に生えている無精髭に彫が深いその容姿は何となく三十代の年齢を連想させる。ゲロルトはその男の名を知っていた。男はその胸に殺気を隠し持ちながらゲロルトに語りかけてきた。
「わざわざあんな場末の酒場に酒を飲みに来るとは考えにくい」と男は言った。そして、その腰に据えたサーベルに手をかける。
 ゲロルトは鼻で軽く笑うと、男に返答する。
「私だってたまにはこんな場所で酒を飲みたくなることぐらいあるんですよ。ラザール・カルノーさん」
「…………」
「これもいい機会だ。私もあなたに用事があったのですよ」とゲロルトは言った。そして、首にぶら下げていた十字架を右手で掴む。「教会の人間としてね」
「ならば、俺が公安委員会のトップであることもご存じなはずだ。あなたがあの酒場でカルボナリの人間と接触していたことは分かっています。神に真実の心を持って使えているのならばご同行願えませんか?」とラザールは言った。
「それには同意しかねます。まずは私の用事を訊いてからだ」
 ゲロルトの言葉を訊くとラザールは視覚で分かるほどに怒気を張り巡らせた。ラザールの周りだけ、空気が張り詰めているようにゲロルトには感じられた。
「子供はもう寝る時間だ。あなたに自由に動き回られるとこちらとしても都合が悪い」
「……その言葉、後悔させてあげますよ。私の用事というのはそう――あなたに死んでほしいのだ。ラザール・カルノー!」
 ゲロルトはそう言うと、その右手をラザールの方向へと伸ばす。それと同時に、ぐにゃりとゲロルトの背後にある影が蠢いた。
 ゲロルトの右手はどう頑張ってもラザールには届かなかった。かわりに――かわりに別の右手がゲロルトの背後から顕現する。暗闇の中へと延びる手は鋼のそれ。軽快に関節を鳴らしながら鋼の騎士はその姿を現す。
 ゲロルトは右手を真横へと振りかざした。それに呼応するように、彼の影は立ちあがった。
 人のように。あるいは、壁のように。
 鋼鉄の手は暗闇を裂くように伸びる。手から順番に鋼の騎士は段々と影からその姿を変貌させていく。
「――来い!」
 ゲロルトの言葉と同時、鋼の騎士はその姿をはっきりと顕わした。人ではない、鋼の体躯を持つ何か。それは人形。だが、ただの人形ではない。ゲロルトの意志とともにそれは動く。ゲロルトが命じるままにそれは動く。
 その名は――
「偉大なるガリアが王、ウェルキンゲトリクス!」
「――――!」
 鋼の体躯は叫び声を上げた。それはパリの闇を切り裂くが如く轟いた。ラザールの二倍もある巨大な人形は身体を震わせながら、その腰に据えた剣を抜き放つ。
 鋼の騎士の半身はあろうかという巨大な剣はパリの闇の中で妖しく光り輝いていた。その身のこなしは最早、獣。
 ゲロルトはもはや余裕の笑みを浮かべ、ラザールを目視した。ゲロルトは先ほど、ラザールに背が低いことを指摘されたことで少々腹が立っていたのだ。
「光栄に思うことです。偉大なるガリアの王と剣を交えることなんて今後一切あなたにはあり得ないことなのですから」とゲロルトは言った。「いや、もうあなたは剣も握れない。ここで死んでもらいましょう」
 ラザールはゲロルトの言葉を訊くと手をかけていたサーベルを抜き放ち、それを両手で抱えた。
「子供ほど、そうやって叫びたがるものだ。悪いが俺は腕が立つ。伝説の騎士だろうがなんだろうが、負ける気はさらさらない」とラザールは言った。そして、構えをとる。
 鋼の体躯か、生身の人間か、どちらかが動き出せば勝負は始まる。
 命をかけた戦い。いや、命をかけるのはラザールだけであろう。鋼の体躯には生気などない。かわりにあるのは殺したいという衝動か、ゲロルトへの忠誠心か。ゲロルトには分からなかった。
「――殺せ」
 ゲロルトはそう鋼の体躯に命じた。彼は命じられたまま、その身体を震わせ、ラザールの方向へと飛び跳ねた。
 まるで獲物を狩る肉食動物のような速度で彼は行く。片手に玩具のように持つ剣がゆらゆらと揺れる。ラザールはそれを見てもまるで微動だにはしなかった。サーベルを顔の前に掲げ、神に何かを祈るが如くラザールは動かない。ゲロルトはそれを見て、ラザールはもう半分諦めているのだと確信した。
「神への祈りは済ませましたか? ラザール・カルノー!」
 鋼の体躯は振りかざす。まるで短剣のように持ち合わせた剣を。
 それは、パリの闇を切り裂くように。
 ラザールの眼前へと迫る。
 ゲロルトは信じて疑わなかった。このまま勝負の決着がつくものだと。そして、これで全てが終わると。
 ――だが。
「俺は、神へは祈らない」
 言葉と同時、ラザールはサーベルを素早く、そして小さく動かした。ゲロルトはそれが暗がりのせいでよく見えなかった。であるがゆえに、彼の剣が受け止められたことに驚きを隠せなかった。
「何……!?」
 ラザールと彼の剣は打ちあい、相克した。パリの空気が叫び声を上げる。鋼の彼もラザールの動きは予想していなかったのか、届かない己の剣をただただ見ているようだった。
「何故受けられる。そんなはずはない。ウェルキンの剣を受けられる人間なんて存在するはずがない!」
 鋼の彼はつばぜり合っている自身の剣を一度ラザールから離す。そして、もう一度それを振りかぶりラザールに放った。
 が、結局は同じ結果だった。
 そして、何度もそれを繰り返す。
 鋼と鋼が交差して、離れる。
 激しい音が鳴り響く。
 ゲロルトにはラザールが難なく鋼の彼の剣を受けているように見えて仕方がなかった。そして、それは時刻にして数秒だったがゲロルトには何時間にも感じられた。それほどまでにラザールは強く見えた。
 が、鋼の彼には分かっていた。自分が限りなく優勢に立っていると。
「くッ――!」
 無言で剣を振るっていたラザールはこの戦いの中で初めて悲鳴染みた声を漏らした。そして、今までは受けに回っていた自身の形を崩してまで強引に攻めに出た。
「――ッ!」
 今までの冷静な剣の筋からは想像できない強引な攻めをラザールは行った。無駄な力を多く入れ、自身の剣を振り回すような。そんな一撃が放たれた。
 当然、そんなものは鋼の彼に掠りもしなかった。難なくその一撃を交され、鋼の彼はラザールから距離をとった。
 そうして両者の間にしばしの沈黙の時間が流れた時、ラザールはぶらりとその右手を垂らした。両手で持っていたはずの剣は今や片手で支えるのみである。
 ゲロルトは一瞬それを見て驚いたが、すぐにそれを否定した。まるで人形のように垂れ下がった手には全く持って力が入っていなかったようだったからだ。
「クク……そうか、やはりそうだ。ウェルキンの剣を生身の人間が受けられるはずがなかったんだ。もうその右手はウェルキンの剣を受けすぎて使い物にならなくなっているのでしょう?」とゲロルトは言った。
 鋼の彼は唸り声のようなものを上げている。
「さて……それはどうかな」
 掠れる声でラザールは言った。今度こそ、今度こそゲロルトは勝利を確信した。
「そんな右手なら、もういらないでしょう? だから――こうするんですよ」
 ――紅い血が噴水のように舞った。
 それは、ラザールの右肩から噴出した。
 先ほどまでと同じ速度だった。が、右手が使い物にならないラザールには反応しきれるものではなかった。
 スパン、とまるで紙のように両断された右手は石畳の上にゴトリと落ちた。
「ぐぁ……ッ!!」
 ラザールはたまらず、小さな悲鳴を上げ、片膝を石畳についた。もうラザールは鋼の騎士と戦える状態ではないことは明白だった。
「あなたの敗因を教えてあげましょう」とゲロルトは言った。「それは何もかも一人で解決しようとしてしまう心です。どうせ、今回も公安委員会の誰にも言わず、私を追ってきたのでしょう? それは大きな間違いだ。私たちにたった一人で勝てるわけがない。人に頼るというのは必ずしも悪いことではない。煉獄にてそのことを反省するのです――」
 ゲロルトはそう言うと、自身の右手を振りかざした。それに呼応するように鋼の騎士も剣を振り下ろす。
 が、それよりも先にラザールは石畳の上に崩れ落ちた。右肩からは血がとめどなく溢れており、ゲロルトはそれを見て鋼の騎士の動きを止めさせた。ラザールはピクリとも動かない。こんな人間をもう一度切り裂くというのはゲロルトにとって酷く心が痛んだ。
「……まあ、いいでしょう。どうせ出血多量で死ぬのですから……」
 ゲロルトはそう言うと、ラザールから名残惜しそうに踵を返す。今までゲロルトは何度となく死と向き合ってきた。教会に使えているのだから当然である。だが、何度それに触れたとしても慣れることはなかった。こんなことだから自分は子供だと揶揄されるのだとゲロルトは自身を叱責した。
 鋼の騎士は静かにゲロルトの影に溶ける。これで全てが上手くいくのだ。
「これで、いいんだ……」
 パリの闇の中でゲロルトは一人呟いた。



[25409]
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d
Date: 2011/01/13 02:51
「な、何これ……」
 オーギュストとマリア、二人のために用意された客間。そこで毎日のように配達されてくる新聞を読みながらマリアは驚愕した。そこに書かれていた文面はマリアにとって存在するはずのないものだったからだ。
 大きく一面を飾っている記事にはマリアのことが書かれていた。
『フランス王妃が驚愕の発言“パンがなければお菓子を食べればいいじゃない”』
 マリアには全くこの記事の内容に身に覚えが無かった。そして、自分がこんなことを言うわけがないと怒りの感情も覚えた。怒りで紙面をくしゃくしゃにしてしまいそうになる。が、それは理性で何とか抑え込み、その後に小さい文字で詳しく書いてある部分を凝視する。
『今月某日に編集部はヴェルサイユ宮殿にいる現フランス王妃マリア・アントーニア様にインタビューをすることに成功した。
 我々が問うた内容はフランスの今の現状について。現在飢餓で苦しんでいる一般市民が多数発生し、さらに蒸気病が蔓延しているこの状況をどう思うか、である。
 我々のインタビューに対してマリア・アントーニア様はソファの上で身体を横たわらせながら先の見出しのような言葉を述べた。その様子には現状に対する焦燥などはまるで見られず、世論の動向が注目されるだろう』
「こんなの――」
 マリアは小さくそう叫び、新聞記事をぐしゃぐしゃに丸めて壁に投げつけた。
 そもそもマリアはヴェルサイユ宮殿の中で新聞記者からインタビューを受けたことなど一度もないし、こんなことを口走った記憶も一切ない。
 嘘っぱちであった。
 この記事そのものがまるまる嘘。だが、マリアは同時に心に残った冷静な部分でこれほど取り上げられた話題ならばきっこの新聞は売れるだろうとも思った。
 マリアは何をしようか考えもまとまらないまま座っていた椅子を立ちあがろうとした。だが、それと同時、いつものようにノックもなくドアが開け放たれオーギュストが部屋の中へと入ってきた。
 その足取りはマリアが見るにいつもの彼のそれではなかった。ドカドカと足音を踏みならしながらオーギュストはマリアに詰め寄るようにしてこう言った。
「今朝の新聞はもう見たか?」
「見たわ」
 マリアはそう言うと、先ほど丸めて投げつけた新聞記事を指さした。オーギュストはそれを一瞥すると何故か小さくため息を漏らした。マリアにはその意味が分からなかった。
「ねえ、私あんなこと言ってないわ」
「分かっている」とオーギュストは言った。そして、その視線をマリアから外す。「君の行動は私も把握している。君が今月中、宮殿内で新聞記者と接触したという事実はない」
「だったら――」
「だが、事はそう簡単な話ではない」
 オーギュストはきっぱりと言い放った。そして、マリアはその時のオーギュストの眼に見覚えがあった。あれはいつの頃だっただろうか。まだ二人が結婚したての時に見せた感情の無い瞳。オーギュストの眼はまさにそれであった。
「どういうことなの? すぐに訂正させて。私は絶対に言ってないの」
「それはできない」
「何で!?」
「それは王権による表現の自由の否定だ。私にはそんなことはできない」
 マリアにはオーギュストの言っている言葉の意味が理解できなかった。正しいことをしようとしているのにそれが出来ないというのか。マリアはオーギュストの言葉を受け入れるわけにはいかなかった。
「私は間違っていないわ。間違っているのはこの新聞記事のほうよ。何で正しいことをしちゃいけないの!?」
「正しいことが全て正解であるとは限らないんだ。君も何となく気がついてはいただろう。今のパリは合衆国へ資金援助をしている関係上、国庫が限りなく少ない。そんな状態では一向に有効性のある政策も出せない。蒸気病の件についてもそうだ。下手に排気の量を制限する法律を設けて、パリに存在する企業や貴族との関係が悪化すれば政は成り立たない」とオーギュストは言った。「今のパリは正直に言って一触即発の状態にあると言っても過言ではない。ここで無理に王権を行使すれば状況が悪化するのは必至だ」
「そんな……」
 マリアはそうして俯いた。確かにマリアも気が付いていた。今この国がおかしいことに。だが、あのオーギュストがこれほどまでに追いつめられているだなんてマリアには想像もつかなかった。
「君がこんなことを言うはずはないと私は分かっている。だが、この問題は君個人のレベルで解決できるようなものではない。私に任せるんだ、いいね」
 オーギュストはマリアに言い聞かせるようにしてその双眸を見た。マリアはただただオーギュストの言葉に頷くほかなかった。
「……分かったわ」
 部屋の中に飾ってあった花が一片、ゆっくりと床へ落ちていった。マリアがそれに気が付くのは随分後になってからであった。






 金属で出来た機体が昼間の薄らとした明かりに照らされる。アルフォンスが作り続けてきたこの機体はもうほぼ完成といっても過言ではないくらいの完成度まで達していた。アルフォンスはその機体の下から身体を這い出して、そんなことを思った。そして、小さくため息をついた。
 この前に起こった切り裂き魔の一件。それ以来、アルフォンスは罪に問われることをずっと恐れていたものの何も無かった。少なくとも警官隊から事情聴取か何かはあるのかとも思ったが何もない。その不可解さが、アルフォンスの心を不安にさせた。心なしか、機体を整備する速度も落ちてきているような気がする。
 アルフォンスの心配事は自身のことだけではなかった。あの一件以降、シャルルに元気がなかった。表面上はいつもと変わらない。普通の人間が見ればどこが変わっているのかと疑問を持たれそうなものだ。が、何年もシャルルと時間を共にしてきたアルフォンスには分かっていた。会話をしている合間に時折見せる陰鬱な表情。陰る瞳。
 そんなシャルルをアルフォンスは見たことがあった。それは彼が仕事を終えて家路についた時。その時のシャルルはいつも瞳にパリの闇を纏っていた。そして、そんなシャルルをアルフォンスは見たくなかった。
「今度、訊いてみようかな……」
 どうしてそんな表情をするのか。原因は恐らく自分にあるとアルフォンスは思っていた。だが、もう警官隊はアルフォンスに何の行動も起こしてこない。だから、心配しないでくれとアルフォンスはそう言おうと決心した。

「どうしたの、シャルル?」
 いつものようにシャルルの邸宅で朝食をとりながらアルフォンスは尋ねた。
 邸宅の食卓はいつも豪華であった。高級な食器を載せたテーブルの中央にはいつくかの蝋燭を伸せた家具が鎮座している。蝋燭は高価だ。特に、この暗いパリではそう。パリは夜になると暗くて何も見えはしない。そんな夜の中、作業をするに当たって蝋燭は非常に重要だ。富裕層と一般市民の大きな違いはここにあるとアルフォンスは考えていた。一般市民は夜になれば何もできない。だから、ただ眠るだけである。貴族の令嬢が趣味の一環として夜な夜な行う読書も。商人が今日一日の稼ぎをにやにやしながら数えるということも。できはしない。
 食卓に並んだ食事もアルフォンスにとっては過ぎたものに感じられた。メインディッシュである鴨のローストも風味が効いていて凄く美味しかった。が、そんなことよりもアルフォンスはシャルルのことが気がかりだった。食事をしていても全く楽しそうではない。こんなことは稀だった。少なくとも自分と一緒にいるときのシャルルは笑顔が絶えず、気持ちのいい人物であったとアルフォンスは思っていた。後ろに数人控えているメイドたちもシャルルの変化に気が付いていないのか、何も言ってこなかった。
「え? 何が?」とシャルルは言った。
「いや、何か元気がないなって思って。料理美味しくない?」
「そんなことないよ。うん、とっても美味しい」
 そう言ったシャルルはいつものシャルルであった。笑顔が絶えず、明るい彼。だからこそアルフォンスはその違いが不安だったのだ。
「そう……」
 アルフォンスにはそれ以上言及することが出来なかった。シャルルが大丈夫だと言っているのだ。だから、きっとそうなのだ。アルフォンスはそう思うことにした。アルフォンスが気づかぬ内にシャルルはもう食事を終えていたようだった。シャルルはアルフォンスに先立って席を立った。
「じゃあ、僕は仕事があるから先に行くね。アルはゆっくり食べていていいから」
 シャルルはアルフォンスにそう言った。アルフォンスはただ返事をすることしかできなかった。もっと訊くべきことがあったのに。アルフォンスは心の中で自身を叱責した。
 シャルルはそれ以上何も話さず部屋を出ていった。食事もほどほどにアルフォンスは黄昏る。シャルルのことが気がかりだが、アルフォンスにはどうしたらいいのか分からなかった。
「ん……?」
 ふと、アルフォンスはゴミ箱に投げつけるようにして捨てられてあった新聞記事に眼がいった。何故気になったのかは分からない。が、アルフォンスの邸宅で新聞がこんな風に乱雑に捨てられている所をアルフォンスは見たことがなかった。
「あれはどうしたの?」とアルフォンスは背後に立っていたメイドの一人に尋ねた。
「先ほどシャルル様がお読みになっていたのですが途中でそれを丸めてお捨てになってしまい」
 メイドの言葉はアルフォンスにとって想像しがたいことだった。シャルルが怒りのあまり新聞を投げ捨てるなんて。
「何でか、分かる?」
「いえ、そこまでは」
 アルフォンスは徐に座っていた椅子から立ち上がり、件のゴミ箱へと歩み寄った。そして、その中に捨ててある新聞を取り出した。見た目の通りくしゃくしゃになっていたそれを何とか読める程度まで引き延ばしてその内容を確認する。
「……な、これは……!?」
 そこに書かれていた内容はアルフォンスにとって信じがたいものだった。
 かの王妃、マリア・アントーニアの失言について。だが、そんなことはあり得ない。あるはずがない。アルフォンスは強くそう思った。そしてシャルルと同様にその新聞を丸めてゴミ箱へと投げつけた。
 あり得ないのだ。あのマリアがそんなことを言うはずがない。活発で明るくて綺麗な少女。そんなマリアが、貧困で苦しんでいる人に? 考えれば考えるほど、アルフォンスの心の中では否定の心が強くなっていった。そして、シャルルがこれを見て怒りを感じたのだとしたら、早急にそれを否定しなくてはいけないとも思った。
「今日のシャルルの仕事って何?」とアルフォンスはメイドに尋ねた。
 そのメイドはアルフォンスの行動を見て動揺を隠せなかったのか、返事をする速度が少々遅れていた。だが、彼女もこの記事を見ればそれに納得するだろうとも思った。
「……あ、お仕事ですか? いえ、そのようなものは今日ありませんが……」
 アルフォンスはそのメイドの言葉に驚いた。シャルルが自分に嘘を言うなんてアルフォンスには考えられないことだったのだ。そして、そのメイドにアルフォンスは詰め寄るようにして言う。
「そんな、だってさっきシャルルは仕事だって言ってた!」
「は、はい。私も先ほどシャルル様の言葉を訊いて不振に思ったのですが、本当に今日シャルル様の仕事は予定されていなのです。お二人の話に口を挟むのも憚られたので……」とメイドは申し訳なさそうに呟いた。
 どうしてなのか。アルフォンスはそのことだけを考えていた。自分に仕事だと嘘をついてまで。あの新聞記事を読んでからシャルルがしようとすること。
「ッ――」
 アルフォンスは小さく舌打ちをして食事をしていた部屋を飛び出した。扉を勢いよく開け放った途端に立てかけてあった蝋燭の火が勢い良く消えていった。
 嫌な予感だけがアルフォンスの頭の中を駆け巡っていた。


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