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[25400] 【完結】 ゼロの境界面 【Fate/Zero 再構成】 epilogue追加
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/12/07 22:51
 男はただ、平和を願った。
 白銀はただ、祖国の救済を望んだ。

 男はただ、己の歪の正体が知りたかった。
 彼らはただ、唯一人の己が知りたかった。

 男はただ、一族の悲願の為に杖を執った。
 黄金はただ、己の持ち得ない宝物を求め召喚に応じた。

 少年はただ、正当な評価を求めた。
 赤銅はただ、確固たる己の肉を求めた。

 男はただ、とある少女を救いたかった。
 狂乱はただ、罪に対する許しが欲しかった。

 男はただ、華の人生に栄光を添えたかった。
 魔貌はただ、真の忠義を貫きたかった。

 青年はただ、この世で最も美しい色が知りたかった。
 凶気はただ、心魂を捧げた乙女と今一度巡り逢いたかった。

 誰もがただ、己の求め欲するものに命を賭した。
 そしてその祈りはただ、誰一人にすら救いを与えなかった。
 これはただ──それだけの話だ。










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作品コンセプトはzeroを下敷きにsnで語られた第四次の情報を出来る限り拾い上げる事。
キャスト変更はありませんが、zeroとは一部性格や事情の異なるキャラがいます。
これはsnの方にすり合わせた結果です。ご了承ください。
以上、お楽しみ頂ければ幸いです。



[25400] Act.01
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:fed6f826
Date: 2011/10/10 21:22
/0


 視界いっぱいに広がる蒼穹。
 何処までも続く水平線。
 大地へと降り注ぐ太陽の輝きは、何をも差別する事無く遍く全てを照らしている。

 風を受けて木々が揺れ、砂塵が舞い、自然の薫りが鼻腔を擽る。
 海風に煽られて真っ白なシャツは羽ばたき、潮の匂いが心を満たす。

 醜い争いはなく、島民は皆互いを助け合い、自然と共に生きて死ぬ。
 それが当たり前で、それは当然の事。

 此処には何もなく、故に全てがある。

 穏やかな時間。

 止まってしまったかのような緩やかな時の流れ。
 その微温湯に溺れながら、少年もまた島の皆と同じく生きて死んで行く。

 こんな時間がいつまでも続けば良いと思った。
 こんな時間がいつまでも続くと思ってた。

 生まれ故郷を離れた遠い異国の地であろうとも、この島が好きだったから。

『ケリィはさ──』

 この島で出逢った少女が歌う。
 優しい声で、僕の名前を呼んでくれる。

 君との会話が好きだった。
 それはきっと、初恋だった。

『──どんな大人になりたいの?』

 少女の何気ない問いかけに、少年(ぼく)は────……


/1


「…………っ」

 微睡の中で夢を見た。
 それは酷く懐かしい、自分にとっての原初の記憶。

 少年は少女になんと答えたのだったか、今はもう思い出せない。思い出す事は出来そうにない。

「──もし」

 未だ完全に覚醒していない瞳を、斜め前方へと投げかける。そこには相席していた名も知らぬ老紳士の姿があった。

「気分が優れないのですかな? もしそうなら──」

「いえ、お気遣いなく。ちょっと、夢見が悪かっただけなので」

「ああ、なるほど。これはとんだ失礼を。失礼ついでに、どんな夢だったのか、お聞きしても?」

「……酷く懐かしい(ふるい)夢を見ましてね。いや、今はもうそれがどんなものだったのかさえ、曖昧だ」

「良くありますな。夢は所詮夢、微睡の中に消えていくもの。
 しかしそれで良いのかもしれません。夢は見る者に甘美か苦痛か、そのどちらかしか味わわせてはくれませんからな」

 ならば今見た夢は、そのどちらなのだろうか。

 それは懐かしむべき見果てぬ夢か。
 それは忘れ去るべき苦悩の悪夢か。

「いやはや、本当に失礼でしたな。老人の一人旅は寂しいものでして。つい余計な事を窺ってしまった」

 こちらが顰め面をしていたせいか、老紳士は取り繕うように言った。

 ここはとある列車の車内。
 流れ行く風景は後ろへと消えていき、目的地目指して直走る。

 窓の外に広がる景色は何処か懐かしさを覚えるもの。その景色と列車の揺れが、あの微睡を誘発させたのかもしれない。

 何れにせよこちらも時間を持て余していたところだ。
 後少しで目的地に到着する。それまでは、老紳士の戯言に付き合うのも悪くはないかと口を開く。

「その気持ちは分かりますよ。僕も何かと移動の多い日々を過ごしていまして。手持ち無沙汰になる事は良くあります」

「ほ、ならば丁度良い。爺の戯れに付き合ってはくれませぬか」

「僕でよければ」

「では。先ほど一人旅と申しましたが、ちょっとした私用で出掛けておっただけでして。今は妻を待たせている我が家への帰路なんですよ」

「僕は逆ですね。これから旅の目的地に向かうところです」

「ほう。それにしては持ち物が少ない。旅慣れしておる証拠ですかな?」

「はは、元々物を余り持たない主義でしてね。仕事に必要なものは先に現地で待たせている連れに預けておいたので、手荷物はこれくらいしかないんですよ」

 必要最低限の衣服を詰めた旅行鞄。その連れに預けるわけにもいかなかった一抱えもありそうな木製の箱。
 この男がどんな目的で何をしに何処に向かうか不明瞭ながら、旅に不釣合いなその木箱が気に掛かった老紳士だったが、余計な詮索はせず次の話題に移った。

「しかし、そちらはどちらから?」

「ああ、ちょっと北欧の方から」

「それはそれは結構な遠方からのお越しだ」

「驚かれるのも無理はありませんね。
 僕の風貌は何処からどう見ても日本人のそれですし、自分でもこんな格好で海外から来る人間は珍しいと思っていますよ」

 黒いぼさぼさの髪に黒い瞳。肌の色は黄色人種のそれ。着古したコートの様を見れば、とてもそんな遠方からの旅行客とは思えまい。

「すると御実家はこちらに?」

「生まれはこっちですけどね。子供の頃に海外へ出たきり、戻ってくるのは久しぶりなんです。妻と子──娘も向こうに残しての、単身赴任のようなものですよ」

「それは寂しい事でしょう」

「まあ、長くても半月で終わる仕事です。それが終われば当分の暇を貰えそうなので、最後の踏ん張りどころというヤツです」

 互いの旅の目的を話し合ったところで少しだけ間が開いた。どちらも初対面、余り突っ込んだ事を聞けないが故に話題を探すのに時間がかかった。

「ところで少し、お伺いしたい事があるのですが」

 そう、着古したコートの男が言う。話題に詰まっていた老紳士は快い笑みを浮かべ問いを受け取る。

「何ですかな」

「この世界から、争いを失くす事は出来ると思いますか?」

「…………」

 余りに唐突な話題の飛躍。しかも世界規模の問いともなれば、老紳士の瞠目と沈黙の理由も致し方ないと思えよう。

「ああ、すみません。自分よりも人生経験の豊富な方に、一度訊いてみたかったものですから」

 老紳士の年の頃を思えば、戦争経験者であってもおかしくはない。世界規模の戦いをその身で体験した者に、一度その問いを投げかけてみたかった。どんな答えが返って来るか、知りたかった。

「世界から争いはなくせるか……でしたな」

 老紳士は真摯に考えを巡らせている。こんな突飛で荒唐無稽な問いかけを、真剣に思案してくれている様は、この御老人の心根の良さを物語っているかのようだった。

 沈黙する事一分弱。老紳士は下げていた顔を正面に戻した。

「それはとても、難しいでしょうな」

 そしてそんな、当たり前の言葉を口にした。

「同じ人種で構成されるこの国の中でさえ争いはなくなりません。多様な人種、多様な文化で構成されている国もありますが、その中ではより多くの問題を抱えていると聞き及んでおります。
 であれば、国と国、文化と文化、価値観の違う人間同士が、完全に手を取り合う事の難しさは、考えるまでもないでしょう」

 それは歴史が証明している事実。人の歴史は争いの歴史。一時静寂に包まれても、時が流れれば当然のように人は争いを始める。
 人は違うという事を許容出来るようには造られていない。個人間であれば話は別だが、地域や国のレベルになれば、そこに絡む利権や権力、欲望の限りが尽きる事は有り得ない。

 究極、誰だって自分が一番だ。好き好んで不遇の道を歩きたい者などそうはいまい。故に争う。故に奪う。
 闘争は欲望の別の呼び名。その悪が尽きぬ限り、人という種の根本が変わらない限り、その歴史は幾度でも繰り返す。

 自らの滅びか、自らの住まうこの星の全てを喰らい尽くすその日まで。

「……そうですか」

 ──安心した。

 この世界より争いはなくならない。そう聞いて、コートの男は安堵した。

「それでも私は、この国が好きですがね」

 老紳士は快活に笑いそう言った。

『間もなく────』

 丁度良く流れる次の停車駅を告げるアナウンス。コートの男は旅行鞄と木箱を手に立ち上がる。

「有意義な時間をありがとうございます。これで仕事に打ち込めそうだ」

 小さく目礼をし席を出て行くコートの男。
 老紳士はその背に、最後の問いを投げかけた。

「差し支えなければ教えて頂きたい。貴方は、どんな仕事を──?」

 その問いにコートの男は──衛宮切嗣は、子供のように朗らかに笑って答えた。

「──僕はこれから、世界を救いに行くんだ」



+++


 冬木市。

 その都市は日本の地方都市の名だ。海に面し山に囲まれた、冬でも温暖な気候に包まれる新興都市。
 市の半分を占める古くからの町並を残す深山町と今現在目覚しい発展を遂げている新都の二つの町と街で構成されている。

 コートの男──衛宮切嗣がその都市に降り立ったのは、老紳士と別れてから更に幾つかの列車を乗り継いだ後、あれから数時間後の深夜だった。

 あのまま列車に乗っていればこの都市の駅も通過した筈だが、切嗣はわざわざ無用な乗換えや遠回りをしてこの都市に乗り込んだ。

 その道程だけで切嗣が一般的な観光客でない事などすぐにも知れよう。

 切嗣がそんな無駄を好んだ理由の一つは深夜の到着を目的とした事。もう一つは尾行を警戒してのものだった。
 はっきり言ってしまえばそのどちらも取り越し苦労、無駄骨に過ぎなかったが、それはもはや切嗣の習性のようなものだった。

 まともに日の当たる場所を歩けるような人生を歩んできたわけじゃない。闇から闇へ、そしてその暗闇の中を蠢く外道共を刈り取って来たからこその警戒心。衰えたとはいえ、心は既に全盛期のそれに回帰している。

 平常に、無心に、周囲に何も気取られる事なく闇に溶け込み街に沈み込んでいく。

 新都駅前パークから見上げる星空を、建設途中の摩天楼達が覆い隠している。発展目覚しい新都の目玉の一つとなる予定の高層建築物──通称センタービルがそのお披露目をするにはもう少しばかり時間が掛かりそうだ。

 少し奥まった位置にあるオフィス街に目を配れば、駅前よりも多くのビルが乱立し、鎬を削るように天を目指してその背の高さを競っている。

 新都の発展は冬木市全体に多大な利益を齎す事だろう。深山町に古くから住む人々やそちらで商売をしている人間からすれば憤懣やる方ない思いの者もいるだろうが、個人の意思で都市の発展を妨げる事は出来ない。

 しかしそれらはもう少し先の話で──その時まで、この都市が残っていれば、の話だ。

 切嗣は手荷物を持ち駅前より少し離れた位置にある路地に向かう。そこに待っていたのは闇に浮き上がる白いワンボックスカー。黒いフィルムが窓の全てを覆い隠している点を除けば、何処にでもあるただの一般車両だ。

 そのワンボックスカーの助手席側に回り足を止める。すると黒塗りのウィンドウが少しだけ開き、ハンドルを握る女性と目があった。

 それだけで二人の意思疎通は完了した。切嗣は手荷物を後方の扉から車内に乗せ、自身は助手席に滑り込み、ものの一分足らずで新都駅前パークよりその姿を消し去った。



+++


「簡単にでいい。近況の報告を」

 互いに挨拶もなく、切嗣はそう切り出す。

「現在参加の確認されている遠坂時臣、言峰綺礼、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの三名は既にこの都市に身を潜めている模様です。
 現在地の確認されているマスターは遠坂時臣のみで、彼は自身の屋敷から外出した様子はありません。念の為使い魔で監視も続行していますが、目立った変化は今のところありません」

「流石は御三家の一角か。堂々とした居直りだな。自分の陣地がこの都市で一番安全だと確信しているらしい。それが砂上の楼閣の天頂に立っている事にも等しいと、気付いてすらいない。
 他のマスター連中の情報は何もないのか?」

「はい。時計塔からの情報によると、ロード・エルメロイが用意した聖遺物を紛失したという情報はかなり前に入手しております。
 もしこれが盗難によるものであれば、その何者かがマスターとしてこの都市に潜伏している可能性はあるかと」

「推測の域を出ない話だな。間桐に関しては?」

「頭首である間桐臓硯より正式に今回の聖杯戦争に間桐からの参加者はない、との表明が提出されたようです」

「……きな臭いな。間桐の頭首は妖怪じみた存在だと聞き及んでいる。全てを鵜呑みにするにはまだ早いか」

「現在判明している情報は以上です」

「そうか」

 流れ行く夜景を見ながら、切嗣は嘆息する。

 聖杯戦争。

 妻と娘を遠く異国の地に残し、参戦を覚悟した魔術師の祭典。
 七人の魔術師(マスター)と七騎の使い魔(サーヴァント)による闘争の宴。

 冬木市を舞台に行われる、六十年に一度の殺し合い。始まりより明確な勝者なく、都合三度繰り返した戦争の、その四度目。
 万物の願いを叶えるという聖杯を賭け、互いの生と死を賭して臨むバトルロイヤル。

 勝者にはその祈りを叶える祝福を。
 敗者はその命を散らし無残な死を。

 たった一人の勝者が決するまで、決して終わる事のない無慈悲な殺し合い。他の六人の祈りを退け、その命を奪い取り、なお我が祈りこそを叶えよと傲慢に言ってのけられる者だけが、聖杯によって祝福される。

 切嗣はその争いに身を投じた。六人六騎の敵を殲滅し、他に比するもののない己が祈りを叶える為だけに、この死線へと踏み込んだ。

 愛しきものを守る為。
 胸に抱いた理想を貫く為。

 世にはありえぬ──争いのない世界を築くその為に。
 矮小なその身を賭して、子供じみたその夢想を現実とする為だけに銃を執る。

「間もなく到着します」

 外を眺めていた瞳を車内に向け、ハンドルを握る女性を見る。

 黒い髪の切れ長の目を持つ妙齢の女性。中性的な容姿でありながら、何処かナイフのような鋭利な雰囲気を身に纏うその女性の名は久宇舞弥。

 衛宮切嗣がこの戦いに臨む以前──未だ世界には救いがある筈だともがきながら戦場を渡り歩いていた頃に拾った戦争孤児。

 それが今や衛宮切嗣の片腕にまで上り詰め、彼女のサポートなしでの任務遂行など切嗣自身も考えられなくなるほどに成長した。

 その成長が、果たして彼女にとっての幸福なのかは分からない。
 これまで続いた戦いの日々が、彼女にとっての正しい未来であったかなど、切嗣には判じ得ない。

 そんな事を想う事さえ、きっと許されて良い筈がない。

 切嗣は舞弥を自身のサポートの道具として生き永らえさせ、完成させた。
 彼女は切嗣の命令に唯々諾々と従い行動し、命令があればたとえ幼子とて機械の如く精密に容赦なく殺害する。

 切嗣は彼女の在り方に疑問を抱かない。そう造り替えなければ、この男の隣に居つづける事など不可能だったのだから。

 だから此処にあるのは事実だけ。久宇舞弥はその命散らすまで衛宮切嗣に尽くし、果てるのみ。
 彼女の人生について口を出す資格も権利も切嗣にはなく、その問いを封殺したまま、この最後の戦いを共に駆け抜けるだけだ。

 やがてワンボックスカーは停車する。新都より冬木大橋を超え深山町へ。その一画、日本家屋の立ち並ぶ道路で停車した。

 車から降りると目に留まるのは古び鄙びた門構え。結構な敷地面積を持つ武家屋敷へと何の感慨もなく二人は入っていく。
 正面の入り口からではなく横道に逸れて中庭へ。手入れなど行き届いていない草木の生い茂った庭を突っ切り、縁側に荷物を置いた。

「全ての機材の搬入は済んでいるな?」

「滞りなく。銃火器の整備や調整(メンテナンス)も最終確認(チェック)も既に」

「ならば早速召喚を行う。手伝え」

「はい」

 切嗣が戦闘に用いる各武装はこの冬木へと渡る以前、常冬の森で一度全てのチェックを済ませている。魔術師衛宮切嗣の愛銃も、この戦いの為に調達されたものも全て。

 この都市は戦場だ。その場所に踏み込むにあたり、切嗣と舞弥が何の準備も済ませていないなんて事は有り得ない。
 十年近くのブランクも、出来る限りの射撃訓練と肉体強化で取り戻した。戦場における感覚のようなものまでは完全に取り戻せてはいないが、今の切嗣は戦場を駆けずり回っていたあの頃と比べて遜色はない筈だ。

 いや、迷いを抱えながら、自問自答しながら銃を握っていたあの頃を思えば、やるべき事が明白で、そしてこの戦いが全てに決着を着けるものと理解しているのだから、その意志力は過去に勝る。

 今の衛宮切嗣は、この戦いに勝利する為に鍛え上げられたもの。その心は鋼の如く何にも揺るがず、ただ聖杯の頂を目指して邁進するのみ。
 その過程で踏み躙る事になるであろう全てのものにさえ、躊躇はない。世界の全てを、六十億の人間を救う事に比べたら、この街一つ犠牲にしたところでお釣りは余るほどくるのだから。

 庭の片隅に打ち棄てられたように立つ古めかしい土蔵の中で、その作業は進められる。

 月明かりだけを頼りに露出した地面に特殊な塗料と切嗣の血を混ぜ込んだ液体で陣を構成する。ものの数分、たったそれだけの作業で、後に残すは最終工程──契約の呪文を唱えるのみ。

 これから喚び出されるもの、そしてその後に待ち受けるであろう展開について軽く話し合った二人。切嗣は土蔵に残り魔法陣の正面に立ち、舞弥は然るべき準備の為に屋敷の中へと赴いた。

「さて──」

 ──始めるか。戦いを終わらせる為の、最初の儀式を。

 言葉にはせず、代わりに口から紡ぎ出されるは契約の祝詞。
 サーヴァント召喚の為の呪文は朗々と、高らかに歌い上げられ、発光する魔法陣と差し込む月明かりの中に溶けていく。

 その声に澱みはなく、澄んだ祈りにように木霊する。
 衛宮切嗣がその胸に抱く、余りに清い祈りのように。

 この世界は争いに満ちている。
 そしてその争いの中に響くのは慟哭と怨嗟の歌声。

 権利や利権といった一部の者の私欲を満たす為だけに、無辜の人々は嘆きの声を張り上げる。ただ平穏に暮らせればいいのに。ただ健やかに生きられればそれで満足なのに。人の悪意は、そんな祈りを許さない。

 一つ手に入れればまた一つ。十を掴めば更に十。人の欲望に際限はない。手に掴めば掴むだけ、もっともっと欲しくなる。その渇きを潤せるものは徐々に減り、最後には他者より奪う他になくなる。

 故に争いは起こる。いつの世も。いつまでも。永遠に。永劫に。人が人である限り、その連鎖は止まらない。神なんてものが存在するとするのなら、人は最初からそう造られているのだから。

 ならばその醜い連鎖を食い止めるにはどうすればいいか。

 そう考えた切嗣の行動は単純で、より多くの人を救う為に少数の人間に犠牲になってもらう事だった。

 別にその犠牲が権力者である必要はない。要は争いの火種になりそうなものを事前に刈り取ることで、より大きな野火を防ごうという考え。
 戦火を出来る限り小さくする為に、全く無関係な人間を手に掛けた事もある。けれどそうする事でより多くの人間を救う事は出来た。

 自分自身を天秤に変え、その両皿に載る命の多寡だけで討つべきものを決定する。そこに貴賎はなく切嗣個人の価値観も先入しない。
 あくまで計るのは命の量。事実、切嗣は彼自身の大切な人でさえ、その手に掛けた過去を持つ。

 しかしそれでも、そこまでしてもその行いはあくまで負の連鎖を食い止めるだけ。断ち切る事は決して出来ず、ましてや人間一人の手で出来る事なんて限られていた。
 衛宮切嗣が救った人間の数は、彼の関係しない場所で死んだ者の数には到底及びもしないものでしかなかった。

 だから──だからこそ切嗣は救いを求めた。

 人の身では為しえぬ奇跡。人の手で届かぬ終焉を掴む為に──

 この地の聖杯にはそれだけの力がある。
 たとえその杯が神の血を受けぬ偽物であったとしても、それが真実祈りを叶える代物であれば、それは間違いなく聖杯と呼べるものなのだから。

「────告げる」

 膨大なエーテル流が乱舞し、荒れた土蔵の中を乱流する。
 砂塵が舞い、目も開けられぬほどに激しく猛る風の中、切嗣は決してその瞳を閉じる事無く最後の言葉を謳い上げる。

「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ────!」

 此処に契約の呪文は完了する。
 声は此方と彼方を結び、言葉は彼の地より願い宿す英霊を喚ぶ道となる。

 衛宮切嗣が喚ぶべき英霊は最優のクラスに座する最強の剣の使い手。
 マスターたる切嗣が持ち得ない、確固たる強さと誠実さを併せ持つ至高の王。

「問おう──」

 その身は遍く騎士達の導であり誇り。
 十の戦場を越えて不敗。
 ただの一度の敗走もなく。
 手に掴み取るは約束された勝利のみ。

 星の輝きにも似た光──今なお信仰と栄光を語り継がれる御伽噺の主人公。

「──貴方が私のマスターか」

 幾千の時を超え、騎士の中の騎士が、今宵現世へと熾天より舞い降りた。



+++


 月の雫に濡れる金砂の髪。
 宝石のように美しく煌く翠緑の瞳。
 目も醒める蒼で彩られたドレスと、その身を覆う白銀の甲冑。

 そして目の前にするだけで感じられる威圧感。

 手の甲が灼熱し、刻まれていた令呪が赤く燃え上がる。
 目の前の存在こそが人にあって人ならざるヒトだと告げている。
 この『少女』がおまえのサーヴァントだと、明確に告げていた。

「…………」

 切嗣をして一瞬、我が目を疑うほどの衝撃。
 歴史上男性であると語り継がれている筈の存在が、年端もいかぬ少女の姿で現れたとすれば、切嗣の驚愕は驚くほど小さなものだと言えよう。

「マスター……?」

 怪訝な瞳で見つめてくる少女の瞳を見つめ返し、目の前の存在が本当に望んだものであるか確認すらしようとせず、淡々と、冷静に、

「──告げる」

 当初の予定通り、その命令を下した。

「その素性、状態にまつわる一切に嘘偽りなく全てを述べよ──令呪を以って命ずる」

「なっ──!?」

 召喚完了直後の灼熱にも劣らぬ熱が切嗣の手の甲を焦がし、三画しかない絶対命令権の一画を空に昇華させて、その意図の読めない命令は発動した。

 召喚の直後、互いの名を交換するその前、目の前に現れたその瞬間とも呼ぶべき間隙。その隙を衝いて発動された命令は白銀の少女の身体を縛りつけ、強制的にその口より命令に沿った言葉を吐き出させた。

 己の素性。
 来歴。
 その最期。
 祈りの正体。
 クラス名。
 真名。
 能力値。
 保有スキル。
 宝具。
 現在の状態。

 ありとあらゆる情報を洗い浚い澱みなく喋り続けるセイバーと名乗ったサーヴァント。その表情は疑問と苦悶に濡れ、瞳は土蔵の隅に捨て置かれていた木製の箱に腰掛けて耳を傾けている己がマスターを睨み付けている。

 切嗣は少女から発せられる怒気にも一切関知する事無く、瞳を閉じたまま黙し続ける。

「………です。はっ──、か、はぁ、……っ」

 およそ半刻。休みなく喋り続けていたセイバーの弁が止まり、その声は苦しみを伴い音を吐き出す。
 それも当然、それだけの長い間話し続けて苦しくない筈がないのだから。

 たとえその身がエーテルで編まれた仮初のものであったとしても、確かにこの世界に存在する以上、痛覚は痛みを知らせ酷使された肉体は現実の枷に縛られる。
 ならばつまるところ、セイバーが次に発する言葉もほぼ予測可能という事だ。

「マスター……!」

 枯れかけの声をそのままに、セイバーのサーヴァントは詰問を開始する。

「何故、このような事に、令呪を……!」

 令呪はマスターに与えられたたった三度の命令権。絶対遵守の戒めだ。それは理の外に身を置くサーヴァントを縛り付ける事も、一時的な強化をも可能とする聖杯戦争における一つの切り札。

 切嗣はその切り札をサーヴァントの素性を知るその為だけに使用したのだ。たった一画とはいえ、余りに無駄な浪費。これで他のマスターより一つ不利な立場になったと言わざるを得ない。

「その程度の質問、問われれば答えていた! 令呪を使ってまで、今問うべき事ではないだろう!?」

 セイバーの怒りは当然だ。

 この戦いに喚ばれるサーヴァントもまた聖杯に託す祈りを抱えている。その祈りを叶える為にマスターとの共同戦線を繰り広げていくのだ。

 しかしこの程度の事に無為に令呪を使用するマスターと共に戦っていけるのかという疑問が生じる。
 疑問は猜疑を招き、二人の関係に罅を入れる。罅だけならばまだいいが、これが完全に壊れてしまえば、もはや聖杯を手にする事など不可能だろう。

 だからセイバーが問うのは当然のこと。この令呪にどの程度の意味があるのかを知らねばならない。本当に無知で蒙昧な理由であったのならば、今後の関係に多大な影響を及ぼしかねないのだから。

 セイバーの憤怒の声にも射殺さんばかりの視線にも動じる事無く、切嗣は重い腰を上げ口を開いた。

「では逆に問おう。今おまえが述べたその全て、ただの質問で一つも余さず逃しもなく答えられたか?」

「それは……」

 きっと無理、だろう。素性や真名、宝具などはともかく自らの抱える祈りやその最期について、何の隠し立てなく述べられたかと問われれば、きっと首を縦に振る事は出来ない。それほどのものを、このセイバーは抱えているのだから。

「そしてもう一つ。おまえは新しい剣を手にする時、その剣の正しい情報を把握しようとは思わないのか?」

 剣の製作者や作られた年代。切れ味や秘めたる能力について、知りたいと思わないわけがない。切嗣のそれは行き過ぎてはいるが、間違ってはいない。

 サーヴァントとは、聖杯戦争におけるマスターの手にする剣だ。その正しい運用方法を知る為には、まずその素性の全てを完璧に把握していなければ話にならない。

 互いに言葉を交わし、時間をかけて良く知るというのも一つの方法だろう。だが切嗣はそれを否とした。そんな時間はないと断じた。
 最善にして最短、最効率の運用を最初から行う最良の方法が、このやり方であったというだけの話。

「別に納得しろとは言わない。ただ理解しろ。おまえも祈りを抱えこんな時の果てにまで迷い込んだのだろう。ならばその祈りを叶える為に最善の方法を模索しろ。最良の手段を選択しろ。それだけ出来れば他には何も必要ない」

 信頼も手を取り合う事も背中を預ける事も不要。ただ聖杯の頂を目指しその瞬間に応じた最善を行い続けろと切嗣は言う。
 口にするのは簡単だ。行動に移すには困難で、他者に理解を求めるのは更に難解だ。

 それでも胸に抱いた祈りが本物ならば清濁併せ呑むしかないと理解に至ると確信する。この少女の祈りは、それほどまでに強固で揺るがし難いものである筈だから。

「……非礼を詫びますマスター。貴方の言う事はもっともだ。
 しかし一つだけ確認したい。我々は既に令呪の一つを失った。これは他のマスターにアドバンテージを自ら捧げたようなもの。それでなお、聖杯を手にするその頂まで勝ち抜くだけの自信があるのですね?」

「当然だ」

 一瞬の迷いもなくそう口にする。

 揺るがし難い祈りを抱えているのは何もセイバーだけではない。切嗣自身もそうであるのなら、この令呪の使用も作戦工程の一段階に過ぎない。
 全ては勝利の為。その手に聖杯を、奇跡を掴み取る為の布石。ならばその意志に迷いなどあろう筈がない。

「それを聞いて安心しました。ならば我が剣、如何様にも使って頂いて構いません。
 誓いを此処に──我が身我が剣はマスターの剣として盾として、共にこの戦いを勝ち抜く事を誓いましょう」

 一画を欠いた令呪が発光する。灼熱ではない温かな輝き。それはマスターとサーヴァントが互いを認め合った事に起因する、合図のようなものだった。

 此処に契約は完了した。
 魔術師殺しの衛宮切嗣と最優のセイバーとのタッグが、この夜結実をみた。



+++


 契約の完了と共に差し出されたセイバーの掌。白銀の手甲に覆われたそれは、誓いの握手を望んでのものだろう。
 しかし切嗣はそれを一瞥しただけで黙殺し、今後についての話を始めた。

「僕達の採るべき作戦は簡潔にして明瞭。互いが最善を尽くせる戦場に身を置き、各々が倒すべき敵を討つ。それだけだ」

「……口にするのは簡単ですが。そう上手くはいかないでしょう」

「いかせるさ。その為のセイバー(おまえ)だ」

 切嗣は懐に手を忍ばせ、掴み取ったものをセイバーへと放り投げる。容易く掴み取ったセイバーは、見慣れぬものに目を白黒させていた。

「これより先は別行動だ。後の指示はそれに従え」

「は……? まさかマスター、貴方は一人で戦場に挑もうというのですか!?」

「何度も言わせるな。互いが最善を尽くせる戦場に身を置くと。僕とおまえでは戦いの舞台が違いすぎる。同じ戦場にいてもまるで意味がない」

 別行動には別行動の利点がある。マスターとサーヴァントの戦場が違うという事も理解は出来る。
 だがそれは、共に行動する事のメリットさえも放棄するという事に繋がる。

「…………」

 いや、ほんの短い時間とはいえ、衛宮切嗣という男に触れたセイバーは、その身に宿る直感を信じる事にした。
 この男の言に嘘はない。全ては勝利の為の行動であり作戦。祈りの成就は全てにおいて優先される事項であると。

「承知しました。御武運を、マスター。御身が窮地に陥りし時は、必ずや駆けつけます」

 その激励にも応えず、切嗣は背を向け土蔵の外へと歩き出す。

 ──ああ、駆けつけて貰うさ。何度でもな。そうでなければ勝利はない。

 心の内にその言葉を秘め、月明かりの降る庭園と躍り出た。そこに待機していたのは事前に頼んでいた準備を終えたであろう舞弥の姿。

「必要なものが少しだけ増えたようだ。手配は任せる」

「はい。既に何件か当たっています」

 本当に手回しが良い。
 これならば背中に憂慮は一つとしてありはしない。

 今夜最後の作戦行動を開始した舞弥の背を見送りながら、切嗣は庭園で月を眺めた。
 月光に濡れながら、懐より取り出したのは煙草のケース。一本を引き抜いて、安物のライターで火を灯す。

 肺を満たす紫煙に懐かしさを覚えながら、今後の展望に想いを馳せる。

 既に知れている敵はどれも強敵ばかり。未だ情報のない連中も、そう易々とは勝たせてはくれまい。
 それでも戦うと決めた。この祈りを叶える為に、他の何を犠牲にする事も厭わないと覚悟した。

 この地で流れる血を最後に、この世界より争いを失くす為に。
 そんな子供じみた夢想を後生大事に抱え、男はこの地に辿り着いた。

 聖杯よ、我が祈りを受け取れ──そして世界を光で満たしてくれ。

 叶わぬ願いをその手に掴む為。
 まずはその手で刈り取るべき敵手達を撃滅する愛銃を再び手にすべく、切嗣は屋敷の内へとその姿を消した。



+++


 切嗣が姿を消した土蔵の中で、セイバーは受け取った機器を装着した。それは小型に改良された通信装置。耳に装着するだけで遠方との通話を可能とする代物だ。

 セイバーはその事情により霊体化が出来ないという失点を逆手に取る手段。
 現代の魔術師は機械を軽んじている傾向にある。これで少なくとも念話を行い傍受される可能性は潰えた。

 機器を耳につけてから数分。

『聞こえますか、セイバー』

 切嗣のものではない女性の声が、セイバーの耳朶に響いた。

「貴方は……?」

『私は切嗣の助手を務める者です。そしてこの戦いの間、貴方のサポートを行う者でもあります』

「…………」

 切嗣が単独で戦場を駆けるつもりならば、なるほど、バックアップ要員は存在して然るべきだ。ただでさえマスター単独での行動はリスクが付き纏うというのに、そこにサーヴァントであるセイバーの行動方針の指示まで並行して行うのは無理がある。

 一瞬の油断が死を招く戦場を横行しようというのだ、まず考えるべきは自身の安全。切嗣の敗北はセイバーの敗北を意味するのだから。

「分かりました。私は貴方の指示を切嗣(マスター)の指示として受け取れば良いのですね?」

『理解が早くて助かります』

「一つだけ訊いておきたい。貴方の名前は?」

『それを述べる必然性はありません。
 私は切嗣と貴方をサポートする為だけに存在するもの。ただのオペレーター(NPC)として扱って頂いて構いません』

「……なるほど」

 流石は切嗣がその背を預ける者だ。この女性もまた、無駄な行為が嫌いらしい。

「それで、私は今後どう動けば?」

『指示はその都度行います。今夜に関しては、この屋敷の中から出なければ自由にして頂いて結構です。
 明朝、霊体化の出来ない貴方の下に必要な物資を届けますのでそれまでは待機でお願いします』

「承知した」

『では良い夜を、セイバー』

 プツン、と音を立てて耳元の機器から音が消える。今夜はこれ以上の指示はない、という事に間違いはなさそうだ。

 セイバーも切嗣に倣い土蔵の外に出る。
 先ほどまではあった切嗣ともう一人の人物の気配もこの屋敷の中には既にない。それぞれの目的の為の行動を開始しているのだろう。

 セイバーには特別やるべき事はない。待機を命じられた以上不用意な行動をするわけにいかなかった。

「────」

 だからセイバーは、縁側に腰掛けぼんやりと空を仰いだ。蒼白い月の輝く綺麗な夜を、ただじっと見つめていた。
 彼女は星見による占いのようなものを多少なりとも心得ている。しかし今夜は月の光が余りに強く、そして美しいが故に星見には適した夜ではない。

 それを差し引いても、白銀の騎士は自らのこれからの命運を占おうとは思わなかった。これより先の道程は自らの手で切り拓くものだ。
 艱難辛苦に塗れて、それでもなお這い蹲ってでも進まなければならない過酷な道。ならばこの一時、最後とも呼べる休息の時間を、穏やかに過ごしたいと思った。

 何より。これほどの美しい夜空を前に、そんな無粋な事をしたいとは思わなかったのだ。

「どの時代から見る空にも、貴方はそこにいるのですね」

 夜を照らす丸い月。冴え凍る輝きを煌々と地上に降らせ続けるその月を、懐かしむように眺めている。
 セイバーにとって見ればそれは数分前の出来事。でも確かに此処は、あの時代より遥かな未来だ。

 時の彼方で願うは祈りの成就。何をおいても叶えなければならない尊い祈り。他の六人六騎を退け、セイバーは願い叶える聖杯を必ず掴む。

「その為にこの場所へ来た。その為に──この身は剣となった」

 今やその身は王ではなく騎士でもなく、ただマスターの為に振るわれる剣だ。
 そう諦観し、そう覚悟し、そうであれば何を犠牲にしても心を痛める事はないと自分に暗示をかける。

「何を踏み躙っても、誰を傷つけてでも、私は必ず──聖杯を……」

 空へと手を伸ばす。掴み取れそうな月へ目掛けて手を伸ばす。
 幾ら伸ばしてもその輝きは掴めず、掌は虚しく空を切るだけ。

 その手が掴むべきは空に浮かぶ月ではない。
 屍の上に輝き、血で満たされる黄金の杯なのだから。


/2


 戦いは何時如何なる時に起こり得るか、それは誰にも予期し得ない。
 予期出来るのは自ら騒乱を巻き起こそうとする者か、戦場になり得る全ての地点を監視している者だけだろう。

 前者は予期するとは言い難く、後者はそんな芸当をやってのけられる者は限られる。
 故にウェイバー・ベルベットという若輩魔術師にとって、目の前に起こった全ての事象が予期しえないものだった。



+++


 彼は歴史は浅く、魔術の薫陶も未だ持ち得ない未熟な魔術師だ。

 鳴り物入りで時計塔に入学したと思っていたのは当然本人だけで、事実、入学後の彼に対する周囲の扱いは冷め切っていた。

 魔術を司る協会における最高学府である時計塔において、もっとも重視されるのはその血統であり歴史。血の濃さは魔術師の力量を如実に表し、歴史の深さは脈々と受け継がれてきた刻印の密度を物語る。

 ほとんど魔術を聞きかじった程度でしかないウェイバーに、誰もその目を向けない事はある種の必然だった。

 それでも彼は努力した。血や歴史など才能と経験と努力で覆せるものであると信じて疑わなかった。それがたとえ、持たざる者の醜い嫉妬心からの頑なさであったとしても、それは彼の心を支え続けた唯一のものだった。

 しかして当然、彼の血の滲む努力は徒労に終わる。

 血と歴史。それが何代も続く経験と努力の賜物であるのなら、四半世紀も生きていない小僧の血の滲む“程度”の努力で覆す事など不可能にも近い。
 あるいは。彼に本物の天賦の才があったのなら、また別の行く先もあっただろうが、虚しくもウェイバーには人並程度の才能しか、この時はまだ持ち得なかった。

 周囲から向けられる嘲笑。
 蔑みの目。
 当然のような冷遇。

 深められた血統と積み重ねられた歴史だけが全てであるこの魔窟に反感を抱き書き上げた論文。

 それは現状の閉塞感と腐敗の原因。そしてその打開方法を論理的かつ合理的に書き上げた──と少なくとも本人は確信していた──代物であり、魔術界に新風を齎すと意気揚々と提出したレポートは、今を輝く時計塔の花形講師に破り捨てられ、彼の心はそれでも折れなかった。

 諦めない事に才能があるのなら、彼はその才は間違いなく持っていた。

 耳に届いた、憎き講師がこれより参戦する大儀礼の名。
 聖杯戦争。
 万物の願いを叶える願望機。
 七人七騎の殺し合い。
 偶然にも手にした聖遺物。

 渾身の論文を破り捨てた講師への幼い復讐心。
 そして勝者となった暁に齎されるであろう栄光。

 幾重にも重なり渦巻く感情を胸に、少年は極東の地日本へと飛び──

 そして最高の手札を引き当てた。

「なのに──」

 ならば一体、目の前の光景は何だというのか。

 手綱を握るのも困難な気性の荒いサーヴァント。マスターとサーヴァントの関係をまるで無視した豪放磊落にして破天荒な王を名乗る者。燃えるように赤い鬣と真紅のマントを靡かせる大巨漢。

「ぬぅ……!」

 繰り出される赤き閃槍。間断なく繰り出されるそれを迎撃する無骨な剣。
 ただただ視界に光る槍閃を受け、流し、回避し続けるウェイバー・ベルベットのサーヴァント。

 こんな筈じゃなかった。こんな予定じゃなかった。なんで──

「おいっ! なんで、おまえっ、圧されてるんだよっ!? そんなヤツに、あんなヤツのサーヴァントなんかに──!」

 槍を振るうサーヴァントの遥か後方、余裕の笑みを浮かべる一人の男の姿があった。
 ウェイバーの論文を流し読みしただけで破り捨てた憎き男。

 濃密な血と深い歴史、そして類稀な才能──その全てを持ち合わせた神童が、三日月の笑みを浮かべ笑っていた。



+++


 事の起こりは偶然。もしそれが偶然でないのなら、全ては因果に則った筋道だったのだろう。

 ウェイバーにはまだこの戦いの意味が理解できていなかった。勝利の果てに手に入る栄光にばかり目が眩み、その場所へ辿り着くまでの困難さを、彼は真実理解していなかった。勝利の為に流れる血は、何も相手のそれだけではないという事を。

 此処は冬木教会の膝元にある外人墓地。その場所で赤き槍を担うサーヴァントと、紅い巨躯のサーヴァントが対峙していた。
 痩躯でありながら必要十分な筋肉を持つ槍の英霊は、乱立する十字架を軽やかに躱し、足場にし、盾にして戦闘を有利に進める。対する巨躯のサーヴァントは手にした無骨な剣で相手の槍を受けるばかり。

 その巨体に似つかわしくないスピードを以ってしても、槍の英霊のそれに比べれば児戯にも等しい。故に無駄な翻弄を良しとせず、どっしりと構え迎撃の態勢で致命傷だけは確実に避けていた。

 しかしそんな様は、戦場に立つのは初めてで、ましてやそれが常軌を逸した殺し合いであると知れるのなら、ただの若造でしかないウェイバーには、自分のサーヴァントが一方的な防戦を余儀なくされているようにしか映らない。

 響く剣戟の音。耳を劈く鋼の応酬。闇夜に咲いては消えていく火花の雨。その戦いの行方を、二人のマスターが後方より俯瞰する。一人は額に汗を滲ませ焦燥に駆られながら。一人は余裕の笑みを口元に浮かべながら。

「何故、か。むしろこちらが聞きたいな、ウェイバー君。君は何故、私のサーヴァントに対抗できると思ったのかね?」

 ウェイバーにとって憎き男──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが謳う。

「サーヴァントのパラメーターにおける基本ステータスを決定付けるのはマスターからの魔力供給量だ。君のそれと私のそれ、どちらが多いと思っている? よもや自分がそのサーヴァントに相応しいマスターだとでも思っていたのかな?」

 ケイネスの口は軽やかに回る。当然、自身と相手の力量差が分かりきっているからだ。

「ならば勘違いも甚だしいな、ウェイバー・ベルベット。ああ、君が私の聖遺物を盗んだ事など瑣末な事だ。どれだけ高位なサーヴァントを呼ぼうとも、マスターが木偶では意味がない」

「うっ……」

 反論のしたいウェイバーだったが、目の前の現実がそれを押し止める。圧しているケイネスのサーヴァントと圧されている自分のサーヴァント。
 そして自身の内包する魔力量が、ケイネスのそれの足元にすら及ばない事も理解が出来てしまうから。口を衝く言葉が何一つ浮かんで来ない。

 もし強引に口を開いても、出てくるのはきっと、ただの負け惜しみに過ぎないのだから。

「しかし一応は訊いておこうか。貴様は何故、私の聖遺物を強奪した」

「…………」

 奪おうと思って奪ったわけじゃない。偶然にもそれは転がり込んできて、そして血統と歴史に取り憑かれ腐敗し切った時計塔で勝ち取る栄誉よりも、この地で掴む栄光の方が華々しいと、そう思っただけに過ぎない。

 聖杯を巡る闘争において、ケイネスが持つような経歴や肩書きは何ら意味を為さない。戦場にあるのは実力のみ。ただ己の力のみが全てを証明する。その野蛮さを良しとして、ウェイバーは冬木へと乗り込んだ。

 だがウェイバーは侮った。見縊っていた。ケイネスの肩書きや経歴が、一体何に裏付けられているのかを。
 そして彼の講師が、ただ一つの聖遺物を紛失した程度で、その輝かしい経歴に添えるべき最後の花を諦めるような男ではないという事を。

 故にこの対峙は必然であり、この時の出会いは全くの偶然。けれど合い見えた以上、どちらも退く足を持たない。

「ハァ────!」

 マスター達の会話を余所に、墓地の中心で踊るサーヴァントの戦いは激化する。もはや視認すら不可能な速度で赤き槍は繰り出され、致命傷を回避する事のみを念頭に置かねば巨躯のサーヴァントには打つ手はない。

 これは序盤戦における緒戦の初戦。どちらも互いに様子見の体を残してはいる。現に槍の英霊は手にした赤き槍に呪布のようなものを巻きつけその真価を覆い隠し、巨躯のサーヴァントは無銘にも近い剣を振るっているに過ぎない。

 どちらもが切り札を隠し持っている。彼らがかつて英雄と呼ばれた時代、そのシンボルとして用いた武具、あるいはそれに類するもの。
 英霊の半身とも呼ぶべき宝具を。切ってしまえばその真名さえ知れてしまう、けれどそれに見合った威力を持つであろう絶対の切り札を。

「さぁどうするねウェイバー君。このまま君のサーヴァントが嬲り殺しにされるのを黙って見ているつもりかね? マスターとしての役割を果たしてはどうなんだ? ああ、失敬、そんな頭を持ってはいなかったか」

 憐憫を滲ませた嘲笑が戦火の中に混じり溶ける。馬鹿にされた少年は、それでも奥歯を噛み締めるしかない。それも当然、彼は知らないのだ。己がサーヴァントが如何なる宝具を所有しているかを。

 現有する戦力を正しく把握していない以上、下せる命令は曖昧模糊。何に対してどう指令を出せば良いか、分からない。そもそもの話、戦いを経験した事のないウェイバーが、下せる命令など何一つとして有り得ない。

 いや、ある種何も命令しない事がこの場合の最善ではあろう。無闇矢鱈に適当な命令を出して場を乱すよりは、戦いの全てをサーヴァントに預けてしまう方が利口だろう。
 ただウェイバーは、それを意識して行っているわけでも、無意識に行っているわけでもなく、ただ、何をどうすれば良いか分からないだけなのだが。

 何かをしたかった。何かをしなければならないと思った。
 碌にサーヴァントを支援出来る魔術も習得していない。戦場における心構えだって出来ちゃいない。奔放な王者に振り回されるだけの、未熟なマスター。今の自分が置かれている現状を確かに把握し理解して、そして納得する。

 何も出来ない。
 ウェイバー・ベルベットには、何を為す術もない。

 それでも何かをしたいと願ったウェイバーに今出来る事。それは、

「おいっ! おまえは強いんだろっ! 世界を手に入れるんだろ!? だったらそんなヤツさっさと倒せよ! なあ────!!」

 腹の底から声を上げ、ただただ己がサーヴァントの勝利を願う他になかった。

「ふぅぬぅぅぅぅん……!」

 雷光の速度で放たれた赤き閃槍を、両手で握り締めた渾身の一撃で以って弾き返す。速度を重視した槍は圧倒的な怪力に弾かれ、一瞬ばかりの隙を生む。けれど槍の英霊は焦りもなく軽やかなステップで後退し場を仕切り直した。

「ったく煩い坊主よなぁ全く。こう真後ろでぎゃあぎゃあと喚かれちゃ戦いに集中出来んではないか、なあ槍使い(ランサー)」

「…………」

 無駄口を叩く事を許可されていないのか、あるいは主の手前無駄な問答などするつもりなどないのか、槍の英霊は静かに佇む。己がマスターの指示を待つ。

「煩いって……だ、誰のせいだと思ってンだ!? おまえがそんなヤツに負けそうになってるせいだろっ!?」

「誰が負けそうだこの阿呆。彼奴も彼奴のマスターもこの場で余を討ち取ろうなどとは微塵も思っておらんよ。貴様を挑発してこっちの宝具(てふだ)を晒させるのが目的よ」

「ほう、腐っても私が喚び出そうとしたサーヴァントだ。その程度、看破出来て当然か」

「本気で余の首を獲ろうというのなら、そんな小細工はさっさと外しておるだろうさ。なあ槍兵」

 巨躯のサーヴァントの視線の先には、赤い槍に巻きついた呪布が風に靡いている。

 槍に記された何らかの刻印を覆い隠す為のものか、槍自体に付与された能力を制限する為のものなのか、判然とはしなかったがどの道全力での戦闘に制限を課しているのは間違いのない事だった。

「加えて槍兵よ。貴様、何か妙だぞ? それだけの腕を持ちながら何処か違和感を感じさせる槍捌きだ。
 何がおかしいのかは分からんが、貴様の槍は妙……いや、読み易すぎる気がするぞ?」

 ウェイバーには己がサーヴァントが何を言っているのかまるで分からなかったが、相手のサーヴァントと、そしてマスターの眉間に僅かばかりの皺が寄るのを見て取った。何か相手の隠しているものに触れたらしかった。

「ふん、流石は王を名乗る者。良い目をお持ちだ。で、それでどうする? その読み易い槍をすら防戦とするしかなかった貴方に一体何が出来ると?」

「貴様らに勝てる」

 振り上げられたキュプリオトの剣。暗闇に輝く鋼の刃は、風を斬り闇を断ち王者の手によって振り下ろされた。

 瞬間──その異常が顕現する。

 振り下ろされた剣閃から滲む膨大な魔力。剣の辿った道筋は、何もない空間をこそ断ち切った。顎門を開く虚空の洞。開かれた門より出ずるは、王がその手にした剣で戒めの楔を断ち切った雷神の戦車──

「活目せよ。これが余の宝具──『神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)』である!」

 主の命に従い参上した御者台を牽く二頭の神牛が嘶いた。
 地を掴む蹄は力強く。上げる雄叫びは夜を裂いて余りある咆哮。彼らの声に呼応するように、雷光が一瞬火花を散らした。

「…………」

 現れた強壮な宝具を見やり、ケイネスは目を細める。ウェイバー・ベルベットが彼の聖遺物を盗んだとするのなら、召喚される者の真名は知れていた。
 だが一体どのクラスに招かれ、どのような宝具を所有するかは、想像は出来ても確信は持てなかった。

 英雄が所有する武具は何も一つとは決まっていないし、クラスの制限に引っ掛かれば持ち込めない宝具もあるかもしれない。だから招かれた英霊の真なる実力を把握する術は実際にその目で能力と宝具を見極めるしかないのだ。

「……ふむ」

 その為にケイネスはわざわざランサーの能力に制限を課し、戦闘においても様子見を徹底させた。こちらが最初から本気を出せば相手もそれに応じるだろうが、他のマスター連中が盗み見ていないとも限らない。

 故にこちらが切る手札は最小限に、相手により多くの札を切らせるのが彼の目的であり──

「見て取ったぞ騎乗兵(ライダー)。貴方の宝具、そしてクラスをな」

 その目論見は成功を収めたと言える。

「ほう、そりゃ良かったな。余は別に隠し立てはしとらんぞ? 天地に憚るものなど何もない。この征服王イスカンダルにはな────!」

 誰が何処で聞き耳を立てているとも知れぬ戦場の只中で、巨躯のサーヴァントは自らその真名を謳い上げた。ウェイバーとて呼ばぬよう細心の注意を払っていたというのに、何たる様か。

「オ、マ、エェェェェェェ! なんで自分で真名バラすンだよッ!?」

「何を言う坊主。知られたところで何かが変わるか? 何か不都合があるか? たとえあったとしても捩じ伏せよう。余の征服の前に立ちはだかる悉くを打ち倒し、余の祈りの礎に変えるまでよ!」

 それは御三家の構築したサーヴァントシステムに喧嘩を売るにも等しい行為。真名は秘匿して然るべきもの。
 名を知られてしまえば如何様にも対抗策を講じる事が出来る。だからクラス名でその名を隠し、宝具の能力もまた極力制限して戦っていくのだ。

 しかして征服王イスカンダルはあえてその全てを晒して戦う事を良しとした。名を隠し切り札を隠して戦う事など性には合わぬと。そしてそれらを知られ対策を講じられても問題など何一つとしてありえぬと。

 それは己に絶対の自信を持つが故の無謀。余りにも馬鹿馬鹿しいが、こうまで突き抜けてしまえば逆に清々しささえ感じさせる。

「く……ククク、……クハハハハハハ…………!」

 闇に響く高笑いはケイネスのもの。

「ああ、全く。こうまで豪胆な王だとは思いもしなかった。良かったなウェイバー君。ここまで強大な自我を持つサーヴァントなら、君が手綱を握る必要もあるまい。したいがままにさせるが最良だろう。
 そして感謝しようではないか。こんな王だと知っていれば、私は貴方を召喚しようなどとは思わなかっただろう。いや、こればかりは救われた気分だ」

 正しく魔術師であるケイネスにとって見れば、御し切れぬ可能性を持つサーヴァントなど論外もいいところだ。
 もしこの赤毛の王を召喚していたらと想像するだけで怖気が走る。

 マスターとサーヴァントの関係は、正しく上下でなければならないとケイネスは思っており、ならば従えるべきはマスターを君主と仰ぐ騎士であるべきなのはある種の当然と言えよう。

 自身を王と仰ぐ者を傅かせる困難さを、どうやらケイネスは見誤っていたらしい。

「余としても貴様のようなマスターに招かれんで幸いよ。確かに坊主がマスターであるよりも十全な力を発揮出来よう。しかしな、一方的な物言いで上から抑え付けるだけの奴がマスターでは窮屈だ。
 それならば、まだ坊主の方が余は心地良い」

 別段ウェイバーは好きで赤毛の王を自由にさせているわけではなく、出来る事なら上下関係を正したいと心底思っているのだが、こうも堂々と憎きケイネスよりもマシだと言われては、毒気も多少は抜けていくというものだ。

「さぁて、ランサー。第二幕と行こうじゃないか。単なる近接戦闘では余は貴様やそれを得意とする連中には及ばんだろうが、余には余の戦術というものがある。
 世界に覇を唱えし征服王が軍略──その身で受けきる覚悟があるのなら、いざ尋常に掛かって来いッ!」

 啖呵を切り、そして手にした剣を握り締める王者と、それに呼応して地を蹴り始める二頭の神牛。対するランサーもまた膨れ上がる戦闘の気配を察し、手にした赤き魔槍を両の手に担おうとして──

「良い。今宵はこれまでだ──退くぞランサー」

 呟きと共に闇夜に生じる霧。それはやがて濃霧となりケイネスとランサーの姿を覆い隠していく。

「ぬ、逃げる気か」

『ああ、逃げるとも。何故わざわざ真正直に戦ってやらねばならない? 真名とクラス、そして宝具が知れたのなら、これ以上の戦闘には何の意味もない。
 まだ戦いは始まったばかりなのだぞ? そう急かずとも何れ決着は着けてやるさ。なあウェイバー・ベルベット』

「────っ」

 魔術による撹乱か、声の発生源は不明で、それでなお背筋をも凍らすほどの敵意を滲ませた音がウェイバーの耳朶に木霊する。

『何れ雌雄を決しようじゃないか。サーヴァント同士は無論の事、私と君のそれもな』

 それだけの言葉を残し、僅かにあった気配もまた消えていった。そして霧が晴れた時、墓地に残されたのはウェイバーと不満げな顔をした王だけだった。

「ふん、逃げ足の速い奴らめ」

 それは悪態であり、そして賞賛であった。

 敵の情報を知り、そして相手が宝具に訴えた以上、こちらもまた宝具によって応じなければならなくなるのはもはや必定。
 であれば、未だ七騎全てが揃っているかも不明な現状、無駄に手札を明かす事を良しとせず、素早く撤退に移ったのは戦略として正しい。

 赤毛の王も生前は数多の騎士を率い戦場を馳せた者。退く事は決して臆病ではない。それが理に適った撤退であるのなら、それは何ら恥ずべき事でもないのだから。

「すまんな、わざわざ呼び出しておいて骨折り損とは。次こそは必ずやその力、借り受けるぞ」

 二頭の神牛に労いの言葉を掛け、ゼウスの仔らは嘶きを以って王の言葉に応えその姿を虚空へと消していった。

「なぁにを呆けておる坊主」

「あっ……え……?」

 そこでようやく、ウェイバーは戦いが終わったのだと気が付いた。そしてそのまま、崩れ落ちるように膝をついた。

「ま、最初の戦場ならば最後まで立っておっただけでも及第点だ。褒めて遣わすぞ」

「な、んだよ、偉そうに……くそっ、これじゃあこっちは損しただけじゃないか」

 真名を知られ、クラスを知られ、宝具を知られた。そして相手のサーヴァントについての情報は一切合切得られなかったでは、余りにも無残な敗北だ。それも自分のサーヴァントが自分から暴露しまくったせいなのだから尚の事始末に負えない。

「損しただけ? そりゃ違うだろ。坊主、貴様はこの夜何を得た」

「え」

「貴様はこれまで戦場とは無縁の日々を送っておったのだろう? そしてこの夜初めてその場所に立ったのだろう? それで何も得るものはなかったか? 何一つ知ったものはなかったのか?」

「────」

 そんなわけがない。戦場という特殊な環境に身を置く困難さ。ただ立っているだけ気圧されてしまう自分の弱さ。
 勝利による栄光にばかり目が眩んで、その過程における過酷さを侮っていた。戦場に立つ本当の恐怖をこの夜初めて思い知った。

 これが戦い。
 これが殺し合い。

 これは、戦争なのだ。

 命の遣り取り。
 一瞬の交差で命は儚くも散る戦場。
 流れる血は等しく、勝利はただ一人の手にしか掴めない。
 それが聖杯戦争で、自らが足を突っ込んだ地獄の名だ。

 そう理解するだけの時間を得て、実感を得て、ようやく、身体に震えが走った。

「逃げ出したくなったか? 怖くなったか? 良いぞ、それを誰も責めはせぬ。弱さを恥じる事はない」

 優しげな目でウェイバーを見下ろす赤毛の王。

 確かに怖い。たとえウェイバー自身が戦わずとも、これだけの恐怖を味わったのだ。ならばもし、自らが戦わなければならない時が訪れたら、戦えるのか? この王の隣に立ち、死力を尽くせるのか?

 あのケイネス・エルメロイ・アーチボルトに、歯向かえるのか──

「────んな」

「おぅ?」

「ふざけた事、言ってんじゃねぇよ。ボクはオマエのマスターだ! そのボクがオマエに全部任せて後ろで震えてるなんて真っ平だ!」

 この戦いに臨むと決めたのは、そこに輝かしい栄光があったからだ。ただそれは、誰かに与えて貰うものなんかじゃ決してない。自分の手で掴み取るべきものなのだ。
 だからこの威風を纏う王の陰に隠れ、この男の戦果を分け与えて貰うだけなんてのは、この上なく気に食わない。

 魔術師として死を観念していたとしても、戦場での死の恐怖を克服したわけじゃない。だから怖い。本物の殺意を向けられて、恐怖した。

 それでも嫌なのだ。

 他人のお零れに預かるなんて無様だけは、絶対に許容出来ない。それを許しては、あの時計塔で貴族連中に媚び諂っていた奴らと一体何が違うというのか。

 この場所で戦うと決めたのは自分の意志で。それを曲げる事なんて出来はしない。してはならない事だと思うから。

 ウェイバー・ベルベットは──己が足で立ち上がる。

「ほぉ……」

「分かったか!? ボクは逃げないぞ。マスターとして、戦うんだ!」

「言う事は一人前だが。足の震えは隠せてないぞ?」

「うるさいッ! このバカッ! 怖いものは怖いんだ! それの一体何が悪いッ!」

「フッ、悪くはないさ、むしろ良い。恐怖を知り、痛みを知り……そしてその後に勝利を知れ坊主。そうすれば、貴様は真っ直ぐに伸び行こう」

 自分自身の痛みを知らない者は、他人の痛みもまた理解出来ない。それはとても悲しく愚かな事だと王は歌う。

「フン、全く以って心地良いぞマスター。余のマスターは共に戦場を馳せる勇者でなければな。少しばかり背丈が足らん気がするが、その分心根の清さは十分だ」

「背丈は関係ないだろこのバカッ! 自分がでかいからっていい気になるなよ!?」

「はっはっはっは、良い良い。まっこと余は気分が良いぞ」

「あ、くそ。頭掴むんじゃねええええええええええええ!」

 ──こうして緒戦の幕は閉じる。

 未熟な少年魔術師と赤毛の王はそれぞれの信じた道を征く。
 今は未だ遠き聖杯の頂を目指し、矮躯と巨躯の主従は共に戦場を駆け抜けていく──



+++


 聖杯戦争における緒戦──それは火蓋を切って落とす狼煙のようなもの。
 当然、それを監視していた者は存在する。

 久宇舞弥。

 彼女は切嗣からの指示を遂行し、セイバーにこの夜最初で最後の指令を伝えた後、休む間もなく活動を再開していた。

 切嗣と舞弥がコンビを組む時、後方よりのバックアップが舞弥の主な任務だった。それはセイバーというもう一人の味方を得ても変わる事のない役割分担。

 舞弥が探り暴き、切嗣が仕留め排除する。

 故に舞弥の戦闘能力は決して高い部類ではない。それでも魔術師が忌み嫌う科学の力を用いる事によってある程度は善戦出来るだろうが、切嗣のように戦闘に特化したものを持たない舞弥の不利は否めない。

 よって舞弥が表立って戦場に立つ事はまず有り得ない。あるとしてもそれは切嗣からの指示があった場合のみの、影としての役割を負うだけだ。正面から合い対し、敵と切り結ぶような場面は数えるほどしかない。

 舞弥の戦場は切嗣らが立つ血みどろの戦いの渦ではなく、その遥か後方──情報戦というの名の戦場だ。

 情報は戦いにおいて最重要に位置付けられるほどに重要性のあるもの。相手の素性を知り武器を知り、隠れ家を知り、行動の予定までをも把握出来ればまず間違いなく勝利は手に出来る。

 逆に相手の情報に踊らされた場合、こちらが一気に不利になるのは否めない。

 彼女は切嗣よりその情報戦における一切を託されていた。彼女の情報を信頼し作戦を構築し実行に移す。もし舞弥が致命的なミスを犯せば、死ぬのは彼女ではなく切嗣なのだ。

 故に舞弥には一つのミスも許されない。僅かな情報の誤差が何れ大きな歪みとなり切嗣を襲う可能性を否定する事など出来はしないのだから。

 それ故か、彼女が習得した魔術は諜報に特化したものばかりで戦闘向きのものは極端に少ない。切嗣よりの指示があっての魔術教練なれど、舞弥はそれ以上に打ち込み才能など持ち得ない事を努力のみで覆した。

 結果、今現在冬木市において彼女の死角は存在しない。

 とあるホテルの一室に持ち込まれた無数の機材は現代における情報を最効率で取得できる電子機器の類。
 切嗣が入国する遥か以前より舞弥はこの都市に侵入し、ありとあらゆる場所に電子の瞳を設置した。

 しかしそれだけでは都市一つを監視するには足りず、舞弥がもっとも習得に優先を科した使い魔を無数に放ち、全てを監視包囲している。

 先のケイネス、ウェイバー両陣営の戦闘も無論の事監視をしており、ケイネスが手に入れた情報とほとんど同等のものを傷の一つもなく手にしていた。

 更にこれから帰路に着く両者の行動を備に監視し続ければその隠れ家も発見出来る。敵に所在を知られる事の不利を知らぬ愚か者はいまい。
 故に、今や情報戦の全てを制圧していると言っても過言ではない舞弥を抱える切嗣の陣営は、圧倒的に有利な状況下にあると言えよう。

 右の瞳で随所にばら撒いた使い魔の瞳を借り世界を俯瞰し、左の瞳で電子の瞳の映す世界を把握する。更に指先はキーボードを叩き続け、ケイネス、そしてウェイバーの素性に探りまで入れている始末。

 これまでの経歴は当然として、入出国の履歴や出立日。冬木市への進入経路から拠点を割り出す助けとする。時計塔に置いている協力者からも情報を引き出し、切嗣とセイバーが僅かでも動きやすい状況を作り上げる為、舞弥は不眠不休で情報の全てを網羅する。

 両名についてのある程度の情報の整理が終わった頃、ふと、舞弥の指先が止まる。

 右の瞳の見る……一匹の使い魔の目が捉えた映像が舞弥の行動を停止させた。
 人気のない、闇に染まる街中を歩く一人の男の後姿。ロングコートにも見えるそれは神父服に間違いはない。
 特に異常なところは何もなく、ただその様こそが逆に異常だと告げていた。

 その人物は言峰綺礼。

 此度の監督役──言峰璃正の実子にして遠坂時臣に師事し、後に決別を果たしたとされる男。聖堂教会、魔術協会どちらにも足を突っ込んでいる異端者であり、今回の聖杯戦争の参加者でもあるこの男。

 そんな男が一体何を目的としてこんな深夜に街を徘徊しているのか。敵を求めて? それにしては悠長な足取りだ。隠れ家に帰る途中? あるいは何か他の目的が? ならばどちらにしろこのまま監視を続行すべき。

 そう舞弥が判断を下した瞬間──

 ──言峰綺礼は、使い魔の瞳(こちら)を直視した。

「────痛ッ!?」

 刹那、舞弥の右目に走る激痛。同時に映し出していたヴィジョンが断絶された。

「馬、鹿な……」

 たった一匹使い魔を潰された程度で舞弥の肉体にフィードバックは起こらない。ならば何故今、舞弥の瞳に異常が起きたか、答えは余りにも簡単だった。

 右の視界のチャンネルを回しても、映る映像は一つしてなく。室内に響くのは砂嵐のような音。

 結論──

 冬木市に放っていた使い魔の全てが、全くの同時に、潰された。
 それだけではない。舞弥の耳朶に届くのは監視モニターより流れる機械的な雑音。電子の瞳の全てもまた、その機能の一切を破壊されたようだった。

 故に舞弥の驚愕は当然であり妥当だろう。一体あの男──言峰綺礼は何をした? どのような手段に寄れば使い魔の目と機械の目、その二つの全てを同時に破壊出来るというのだろうか。

「切嗣に……報告を……」

 これは捨て置いて良い事態ではない。たとえもう一度使い魔ないし機械を設置したとしても恐らくはまた潰されてしまうだろう。
 これでは舞弥を抱えたアドバンテージがまるで確保出来ない。情報戦の有利を言峰綺礼ただ一人に奪われてしまう。

 それは余りに巧くない。切嗣の想定する作戦行動には、舞弥のバックアップが当然のように組み込まれているのだから。

 夜は深まり朝へと向かう。

 陽が昇り、新しい一日の到来と共に戦火はより拡大していく。
 戦いの火蓋は切って落とされ、賽は既に投げられたのだから。

 それぞれの思惑を胸に、戦いは錯綜し混迷を極めていく────


/3


「言峰綺礼……か」

 明朝。

 陽の昇り始める頃合に舞弥より連絡を受けた切嗣は安ホテルのベッドに腰掛け、片耳に通信機を取り付けたまま思案に耽っていた。

 切嗣が現在拠点にしているホテルは舞弥が滞在するホテルとは別であり、この夜を越える為だけにチェックインを済ませた仮初の宿である。
 舞弥は数多くの機器を扱う為に容易に拠点の変更は出来ないが、身一つで行動する切嗣には何の制約もない。故に必要があれば適当なホテルに泊まるし、なければ不眠で夜を越す事も辞さない。

 セイバー召喚を行った屋敷はまだ必要のない拠点だ。アインツベルンはそれとは別の拠点も有しているし、今までほぼ無人だった屋敷に頻繁に出入りしてはいらぬ勘繰りを受けかねない。
 あの場所はセイバーの為に、サーヴァントを召喚する為だけに用意された場所だ。少なくとも今はまだ、あの屋敷で骨を休める必然性は存在しなかった。

 サーヴァント召喚直後のマスターに降りかかる多大な疲労を睡眠によって養った切嗣は、覚醒した思考を現状の把握、そして対策に割いた。

 使い魔と電子機器の全てを一瞬にして破壊し尽くしたと思われる言峰綺礼。他のマスターの関与は認められていない。少なくとも潰される直前に把握していた瞳は他の参加者を捉えてはいなかったからだ。

「……気になるのは、何故こんな真似をしたのか、だな」

『……? どのような手段を用いたか、ではなく?』

「現状、手段については推測の域を出ない。生身の人間一人には不可能な芸当である以上考えられるのはサーヴァントか、複数人による仕業かだが。どちらに絞っても意味がないし時間の無駄だ。
 どうせ考察するのなら手段ではなく理由の方が遥かに意義がある」

『単純に私達の優位性を排除するのが目的ではないと?』

「それもあるのだろうが、この早期に全てが暴かれ破壊されるのは想定外だ。これは手段に通じるが、人外の力が関与している可能性が多分にある。
 そしてそんな芸当が可能ならば、当然諜報能力に関しても相手はかなりのアドバンテージを有していると考えられる」

 一呼吸置き、切嗣は続ける。

「そこで問題になるのは、こちらは向こうについては何一つ把握していなかった事だ。こちらの監視網を放置していては何れ露見する可能性があり、早期に手を打ったとも考えられるが、これは同時にこちらに相手の異常性を知らせるシグナルになる」

 今こうして議論している事がその証左だ。参加表明のされた連中に関しては全員の素性を洗ってあるが、言峰綺礼はそこまで警戒に値する人物ではなかった。

 魔術師(マスター)としての位階を比べるのならケイネス・エルメロイ・アーチボルトや遠坂時臣の方が遥かに高位だ。
 言峰綺礼自身のマスター適正は低くとも、サーヴァントは充分に警戒に値する。いかなるサーヴァントを召喚したのかは不明ながら、舞弥が入念に準備し設置した監視網を早々に暴き、破壊するだけの諜報能力を有すると考えられる。

「何よりだ、監視網を把握しているのなら破壊する意味がない。自分はその網に掛からないように動き他の参加者より優位に立ち続けるだけで充分だ。こんな真似をしては、僕達の標的にしてくれと言っている様なものだ」

 ──あるいは。それが目的か?

 言葉にはせず、そんな思いを胸中に沈み込ませる切嗣。

 こちらのアドバンテージが完全に潰され、相手にそれを上回るほどの諜報能力があると知った以上、これを放置して他のマスターを狩りに行く理由がない。そちらに現を抜かすという事は、言峰綺礼に背中を見せるのと同義なのだから。

『何か手を打ちますか?』

「…………」

 打たなければならない。打って来いと、言峰綺礼は言っている。だがまだ、考えるべき事がある。

 言峰綺礼の目的が見えない。切嗣を誘き出す真意が読み切れない。こんな挑発的な真似をしてまでも、切嗣を釣りたい理由が言峰綺礼には存在するのか。あるいは、第三者の差し金か……?

「……言峰綺礼は確か、遠坂時臣に師事していたんだったな」

『はい。教会で幾つもの部署を転属した後、教会から出向という形で遠坂に弟子入りしています』

 敬虔な教会の信徒であればおよそ有り得ない出向。主を第一に考え、神の御業を掠め取り扱う魔術師を敵と断じる教会において、一時的とはいえ敵側に所属するなんて事は不可能にも近い所業だ。

 しかし、かつて見た言峰綺礼の経歴からは、そこまで敬虔な信徒である印象は受けなかった。信仰の僕であるのなら、エリート街道を外れてまで血生臭い実戦部隊になど志願はしまい。

 ……そう、どちらかというのなら。言峰綺礼は神の愛を疑っている節がある。

 いや、今はこの男の経歴などどうでもいい。重要なのは遠坂時臣に師事していたという事実。そして令呪の発現によって袂を別つ事となったと公表されている点。

 もし未だ綺礼と時臣の間に繋がりがあり、これが時臣の策略の一環であるのなら、辻褄は合う。言峰綺礼に利のない挑発も、時臣自身に利する行動であると考えれば納得はいく。だがそれも、完全に鵜呑みにするわけにはいかないが。

「ならば一つ、こちらも仕掛けてみるか」

 どちらにせよ言峰綺礼の有する諜報能力を放置するわけにはいかない。敵の掌で踊らされるのは御免だが、そうする以外に道がないのなら受けて立とう。どの道何れ全ての敵を倒すのだ、順序に理由は必要ない。

「舞弥、僕は少し動く。それに合わせて手駒(セイバー)を動かしてくれ」

 脳裏に描いた作戦行動を通信機越しに舞弥に伝える。全てを伝え終えた後、切嗣は古びたコートを羽織り部屋を後にする。

 稀代の魔術師殺しは、最初の標的を見定めた。



+++


 言峰璃正は冬木教会を預かる敬虔な信徒であり、第三次聖杯戦争より引き続き監督役を拝命された神父である。

 戦時下という特殊な状況に置いても恙無く粛々と監督役の任を全うした手腕を買われての歴任。特に今回に限っては、璃正本人も天秤の役回りだけに納まらず個人としての思惑も内包している。

 交友のある御三家の一角、遠坂の当主時臣と実子たる綺礼の参戦。三度目の戦いでは終ぞ聖杯は現れなかった。教会に所属する者としては何処ぞの者とも知れぬ輩に掠め取られ意図不明な思惑に使用されるくらいなら、誰の手にも渡らないのが僥倖だ。

 しかし今回は違う。聖杯を──贋作であるそれを魔術師として正しく使用すると確信できる友がおり、息子もまたその勝利に秘密裏に手を貸しているのだ、これで聖杯が顕現しなければ永劫誰の手にも渡らない方がいいとさえ思えるほどの布陣。

 凡才なれどその思想と努力によって培われた手腕は一級品。召喚したサーヴァントもまた最強に相応しい力の所有者。そこに綺礼のサポートがあれば、敗北など有り得ない。あってはならない。

 元より監督役に公平なジャッジなど期待されていない。彼らが行ってきたのはただの尻拭い。世間に神秘が露呈しないよう裏工作をするだけの存在だ。

 同じ魔術師が采配を振るえば公平は期待できない。しかしそれは、教会の者であっても変わりはしない。元より完全に平等で公平なジャッジなど、人間には土台無理なものであるのだから。

 だがそれでも璃正は敬虔なる神の僕なのだ。そこに偽りは許されず、嘘は神の愛に背を向ける背逆の行い。故に戦いの幕が開いた今、表立っての支援など論外だ。彼に為せる事はこうして神前にて祈りを捧げる事だけ。

 友の実力を信じ、友の勝利を祈る。無論、息子の安否をも。

 その時、軋む音を耳朶に聴く。祈りを捧げていた祭壇より振り返れば、門扉を開き姿を見せる一人の男の姿。

「…………」

 璃正は一目見てそれが参拝に訪れた信徒ではないと、確信した。擦り切れたコートを羽織り、ぼさぼさの黒髪には手入れの後など見られない。言ってしまえばみすぼらしいの一言に尽きる身なりの壮年の男性。

 その様だけを見れば人生に疲れ路頭に迷う人間が神の棲家に一晩の宿を借りに来たのかとも思ったが、それも違う。男の瞳が語っている。黒く深く渦を巻く底知れぬ闇を内包した力強き瞳が、ただ視線だけで男の生き様を語っていた。

「例年、この場所へ参加登録を行いに来る者は少ない。しかし、訪れた者を歓迎するだけの意思が常にこちらにはある。歓迎しよう、第四次聖杯戦争(ヘブンズフィール4)に参戦したマスターよ」

「話が早くて助かるよ、言峰璃正神父。僕は衛宮切嗣。アインツベルンの後ろ盾を得て参戦したマスターだ」

「衛宮……アインツベルン……」

 監督役である以上、参加表明のされたマスターについては璃正もまたある程度把握している。千年の歴史を紡ぐ大家アインツベルンが誇りを擲ち、勝利の為に招聘した悪名高き魔術師殺し──それが目の前に立つ衛宮切嗣だ。

「…………」

 魔術師の中にあっての異端。請け負った依頼の全てを標的の殺害で完遂するフリーランスの殺し屋。それも最悪に部類されるほどの。

 およそ魔術師であっても彼らには彼らなりの美学があり誇りがある。だが目の前の男にはそれがない。殺しの手段は多種多様で取り止めもなく、女子供とて容赦はしない。それどころか、標的を抹殺する為に旅客機ごと爆破したと噂されるほどの男だ。

 この男の殺しの基本的な手段は暗殺だ。故にマスターの中でも決して姿を見せない類の者であろうと思っていた璃正は、度肝を抜かれたと言ってもいい。
 そして同時に疑問が生じる。暗殺者が何を目的にわざわざ教会などに足を運んだか、という一点。

「何か警戒されているようだが、必要ない。ここは一応の中立地帯なんだろう? 貴方を殺したところで僕に利点はないし、教会に目をつけられ無意味なペナルティを負わされるのは御免なんでね」

「ならば、何用で当教会に参られた」

「何、少しばかり訊きたい事があってね。ああ、言峰神父。ここは禁煙なのかな?」

「神の御前だ。出来れば控えて貰いたい」

 そう言われ、切嗣はコートの内へと滑り込ませていた手を何も取らずに引き抜いた。

「じゃあ用件だけを伝えよう。貴方の実子、言峰綺礼とその師である遠坂時臣──二人は今も繋がっているな?」

「────」

 冷徹な瞳。鋭利な視線は全てを見透かすように璃正を見る。ここは神の棲家でこの立ち位置は神前。そして璃正は敬虔なる信徒。問われたものに答えないわけにはいかず、虚偽は決して許されない。たとえ神が許そうと、璃正が己を許せはしない。

「何をおかしな事を。綺礼と遠坂時臣氏は既に切れていると公的に発表されている。故に二人が内通しているなどという事実は、何処にもない」

 だが、だからこそ、璃正はその言葉を紡ぎ出した。

「……そうか」

 それで話は終わりだと言うように、切嗣は背を向ける。

「邪魔をしたな言峰神父。教会による正しい運営を期待する」

 心にもない言葉を述べ、魔術師殺しは教会を去った。

 後に残された神父は数秒、訪問者の消えていった扉を眺め続け、

「おお……神よ、我が罪を許し給え」

 嘆きと共に振り返り、跪いて祈りを捧げた。

 時臣と綺礼は現在も繋がっている。その事実を知りながら、神の御前で言峰璃正は嘘を吐いた。許されざる罪を犯した。
 けれど神父は己の不義を嘆きはしない。神がこの身に罰を下すというのなら甘んじて受けよう。それ以上の裁可を望もう。

 全ては友の勝利の為。我が子の勝利の為。

 その為ならばこの非才の身がどれほどの過酷に突き落とされようと嘆きはしない。悲しみはない。恨みを持つなど以ての外。これまで敬虔に神にのみ尽くしてきた男が犯す、最初で最後の過ち。

 それも全ては今この戦地で戦う者達の勝利を願うゆえ。
 璃正は一人、神前で長く祈りを捧げ続ける。その祈りが、無意味なものと気付かずに。



+++


「決まったな」

 遠坂時臣と言峰綺礼は内通している。そう切嗣は確信した。

 璃正についても粗方の素性は調べてある。何処までも神に忠節を尽くす信徒。そんな男が嘘を吐いた。
 神父が嘘を口にする一瞬、ほんの一瞬だけ目が泳いだのを切嗣は見逃さなかった。確証など無論の事どこにもないが、切嗣の観察眼と勘があの言葉は嘘だと断じた。自らの判断を今更疑うような男ではない。

 故に二人は繋がっているものとして行動する。

 当面の問題は綺礼のサーヴァントだ。しかしこれが時臣の策略にしろ綺礼の思惑にしろ切嗣をここまで挑発してきたのだ、ならば今度はこちらから挑発をし返してやる。
 相手の目的が切嗣、ないしセイバー、あるいはそれ以外であろうとこちらを狙っているのは間違いない。ならば逆に誘い出す。無防備な背を晒し、襲い掛かって来いと挑発する。

 紫煙を吹かしながら見上げた空は赤から藍へと変わり行く時分。時間も丁度いい。これより深まりゆく夜の最中、サーヴァントを連れず無防備に街を歩くマスターがいれば襲わない手はない。

 切嗣ならばそれが誘いであっても奇襲する。それを打破するだけの手札は既に揃っているのだから。

「それにしてもあれほどの信徒に嘘を吐かせる遠坂時臣ないし言峰綺礼はそれほどの傑物なのか……? まあいい。敵は全て殺す。ただ、それだけだ」

 コートの裾を翻し、魔術師殺しは夜に没する街中へと消えていく。彼にとっての最初の戦いが、今此処に幕を開ける。


/4


 闇に没した深夜の新都。

 行き交う人々は疎らで、せいぜいが駅前パークが少々賑わっている程度。閑静な住宅街は完全に音を失い、オフィス街には点々と明かりが灯るだけの、深海に沈んだかのような街並の中を蠢く影が一つ。

 月の明かりの届かない摩天楼の片隅を跳梁する黒衣と白面。
 此度の聖杯戦争において暗殺者(アサシン)の座(クラス)に招かれたサーヴァントが暗闇の中を駆け抜ける。

 今宵、彼に与えられた命令はただ一つ。昨夜行った挑発行為を受け、行動するであろう敵マスターの排除。

 この身はサーヴァント。人外に位置する怪物だ。生身の人間でしかないマスターを討ち取る事など容易く、そしてそれを生業にするが故の警戒心を持ち合わせている。

 闇の中に身を潜め、対象を探し出し、付け狙い、相手が気を抜いた瞬間を狙い撃つ。暗殺とは、見敵必殺の心得だ。こちらの気配を一つとして見せず、相手が刺されたと気付いた時には全てが遅い。それをこそ、真の暗殺と言えよう。

 故に彼は細心の注意を払っていた。対象を発見して半刻。当て所なく街を徘徊する対象を備に観察し続けた。周囲から人の気配が消えるのを待ち続けた。殺しに最も適した一瞬を待ち焦がれた。

 降り注ぐ月の明かりが雲間に遮られ街は完全な暗闇へ。周囲に人影はなく、標的は孤立無援。仕掛けるのなら、今──!

「キッ──!」

 攻撃態勢へと移ると同時に、これまで彼の存在を覆っていた気配遮断のスキルはほとんど意味を為さなくなる。故に暗殺者は漏れ出す殺気を留めようとせず、むしろ撒き散らし標的に向けて加速した。

 闇を滑る影。手には闇色に塗られた短刀(ダーク)。黒に浮かぶ白き面貌は、標的がこちらの殺意に気付き振り向く姿を目視した。
 だが遅い。相手がこちらを目視するよりも早く、この手の短刀がその首を両断する──!

「キェェェェアァァ──!」

 繰り出される短刀。黒衣の腕より放たれた不可視の刃が標的の首を貫く──そう思われたが、狙われた獲物は異常な速度でその一撃を回避した。

「……?」

 今、一体何が起きたのかと訝しむ暗殺者。だがそれよりも早く敵が動く。今はただ、殺し損ねたという事実だけがある。
 敵はホルスターに手を忍ばせ、引き抜いた銃で渾身の一撃を見舞ってくる。しかしただの銃弾が霊的存在であるサーヴァントに通用する道理がない。手にしたダークで弾き飛ばし、今一度敵手の首を刈り取らんと身体を沈み込ませる。

 相手はただの人間だ。必殺の一撃を躱した事は賞賛に値するが、マスターがサーヴァントと対峙して勝てる可能性は皆無に近い。
 見敵必殺。姿を見られた以上、もはや撤退の文字はない。その首を刈り取らなければ彼のプライドに傷がつく。

「キェ────!」

 姿が露見してしまった以上、投擲では確実な殺しは出来ない。ならば手ずからその首を刎ねるまで。
 銃弾を撃ちながら後退する敵に向けて影は走る。敏捷性においてアサシンの追随を許す者などそうはいまい。瞬く間に距離を詰め、今必殺の刃を振り下ろす。

「オワ、リダ……!」

 振り上げられた短刀。舞い散る鮮血。夜を染める赤が、一面を染め上げた。ぐるぐると回る、彼の視界の中で。

「キ……?」

 そこでようやく、彼はおかしな事実に気が付いた。手にした短刀はまだ相手の首を刈ってはいない。振り上げただけで、振り下ろしていない筈だ。
 ならば今、彼の視界を染める赤は、一体何処から噴出した血だというのか。そして何故彼の視界は、宙を舞うように回り続けているのだ……?

「敵の背を狙ったのはそちらが先だ。よもやこの奇襲を卑怯などとは言うまいな?」

 聞き慣れない声を聞く。ぐるりと視線を動かせば、先程まではいなかった筈の存在を目視した。白銀の甲冑と蒼のドレスを身に纏った黄金の髪の騎士。不可視の何かを振り下ろした姿勢で、彼女はこちらを見据えていた。

 ああ……オレは今、殺されたのか。

 彼はやっと、自分が首を刎ねられたのだと理解した。同時に、宙を舞った頭蓋は路面へと打ち付けられ小気味の悪い音を響かせた。
 彼が最後に見たものは、暗殺者を暗殺してのけた少女騎士が、相手を殺した感慨もなく背後に立つマスターであろう男へと振り返る姿だった。



+++


 切嗣の作戦は完了した。

 自らを囮にし敵を誘き寄せ、セイバーに打倒させる。そう言えば単純な作戦だが、こうも巧く行くとは思っていなかった。いや、逆に簡単に事が済みすぎて、余計に猜疑の念が沸いてくる。

「敵サーヴァントの排除を完了しました……マスター?」

「舞弥、言峰綺礼は?」

 セイバーの報告を無視し、予備として拵えてあった使い魔の眼を借り戦場を俯瞰している舞弥に問う。相手がアサシンであった以上、セイバーが相手では話にもならないのは分かりきっていた事だが色々と解せない点が多すぎる。

 あの程度のサーヴァントに舞弥の監視網が破られたのか? 仮にそうだとしてもあの一体でどうやって全ての眼を潰したというのか?
 思考に意味はなく、迷路を脱す解はない。回答を齎せる者がいるとするのなら、それは言峰綺礼以外に有り得ない。

『対象を捕捉。新都の奥……南方に向けて疾走しています。恐らく、冬木教会が目的地かと思われます』

 サーヴァントを失ったマスターが教会……監督役に保護を求めるのは至極当然だ。サーヴァントを失ったとしても再度はぐれサーヴァントと契約する可能性はゼロではないし、そんな可能性を内包する敵を生かしておく理由はない。

 だからサーヴァントを失ったマスターは教会に保護を願い出る。その地以外に、脱落者の安全を約束する場所はないのだから。

 それは裏を返せば、教会に保護されてしまっては手が出せないという事だ。中立地帯を謳う教会での戦闘行為は御法度なのだから。

 言峰綺礼を捕らえるには彼が教会に辿り着く前に確保しなければならない。たとえこの一連の戦闘が茶番であったとしても、事実としてサーヴァントは消滅したのだから言峰綺礼は教会の保護対象者だ。

 ……キナ臭すぎるな、言峰綺礼……!

 胸中で吐き出し、舞弥よりの報告を受けると同時に切嗣は駆け出した。

 何より行動が迅速すぎる。まるでアサシンが敗北する事を事前に知っていたかのような撤退の早さだ。これで疑うなという方がおかしい。

 距離的に考えれば追いつくのは難しいだろう。この状況を見越しての行動なのだとすれば尚の事だ。それでも追わない理由はない。追いつける可能性がある以上は。

「マスター? 何処へ……」

『セイバー、敵マスターを捕捉。逃走中です。追走し撃破して下さい。進路は南東、標的の逃亡先は住宅街を抜けた奥にある冬木教会です』

「了解した……!」

 切嗣が駆け出した後、事態の把握出来ていないセイバーだったが、直後に舞弥からの通信を受け、疾風の速さで追随する。

「先行します。地理が不明なのでどちらが速いかは不明ですが、とにかくあの丘を目指します」

 言ってセイバーは地を踏み、ビルの壁面を蹴り上げ、空高く舞い上がった。ビルの合間を抜けていくよりはビルを飛び越えていく方が速いと判断したようだ。
 切嗣も置いていかれるわけにはいかない。切嗣がこの地点でアサシンに襲撃されたのは何も偶然だけではない。逃走用の経路確保として、足を用意していたからだ。

 疾走していた足を止め、ビルの陰に止めてあった車へと乗り込む。現代の技術を組み込みカスタマイズしてあるメルセデス・ベンツ300SLクーペのエンジンは既に温まっている。
 切嗣が乗り込むと同時に踏み込んだアクセルの加速を受け、夜の闇を斬り裂く疾走を開始した。



+++


 かつて代行者であった時代、言峰綺礼は狩る側の立場だった。

 主の教えに背く異端者を追い詰めその命を刈り取る。協会側と小競り合いがあったとしても、一方的に追われた事などそうはない。あったとしても、逃げ果せるだけの算段は常にあった。

 けれど今は違う。綺礼を追いかけるのは人外の極地に位置するサーヴァント。そして魔術師殺しと恐れられた暗殺者なのだ。
 いつ背後より足音が響くかと警戒を緩める事は許されず、サーヴァントならばそれこそ眼前に降って沸いても何らおかしくはない力を有しているだろう。

 捕捉されればそれで終わり。綺礼はサーヴァントを失った事になっている(・・・・・)。故に誰からの助力も期待は出来ない。
 ただ己のみを頼りとし、追い縋る悪鬼と羅刹から逃げ切り教会に駆け込む。そんな聖杯戦争の敗北者を演じなければならない。

 駆け抜けた時間は五分か十分か。踏破した距離はどれほどか。綺礼にとってみれば永遠にも等しい時間駆け続け、ようやく、目的の場所へと辿り着く。

「止まれッ!」

「────っ!?」

 瞬間、闇に木霊する清廉なる声音。振り仰げば、風を纏い空を走ってきたのか見紛うほどの速度で白銀の少女騎士が姿を現す。
 止まれと言われて止まる者などそうはいない。事実綺礼も追い縋るサーヴァントを目視した瞬間、より強壮に足を衝き動かした。

 既に教会の敷地内に入っている。後数十メートルの距離、逃げ切る事が難しい筈がない。

 直後、滑り込んでくる切嗣のメルセデス。急ハンドルを切り車体を流しながら、開かれたウィンドウから差し向けられる黒の銃身。激しい揺れの中、定められた照準に寸分の狂いすらなく、綺礼の姿を射線状に捉え撃鉄は撃ち落された。

 メルセデスが乗り込んで来た刹那、綺礼は後ろを振り向かないまま僧衣の裾に腕を滑り込ませ黒鍵の柄を引き抜き、発砲音を聴いた直後に十字の刃を投擲した。

 切嗣が不完全な姿勢、それも車中からの最悪の状態から完全に綺礼を捉えた事が極技であるのなら、発砲音だけを頼りに寸分の狂いなく銃弾に黒鍵を当てて見せた綺礼のそれは絶技にも等しい。

 弾け飛ぶ銃弾と黒鍵。綺礼の足は止まらず、だがここにはもう一人──最警戒すべき敵がいる。

「やぁああ……!」

 黒鍵の投擲による時間のロス。その間隙を衝き、セイバーはとうとう間合いに綺礼を捉えた。振り上げた視えざる剣が敵を両断すると思われた瞬間──

 教会の門扉は内側から開き、綺礼は間一髪その隙間に身体を捻じ込ませ、セイバーの振り下ろした剣は木造の扉を破砕するに留まった。

「何やら騒々しいと思えば。ここは我ら教会の管轄地にして聖杯戦争における唯一の中立地帯だ。これ以上の戦闘行為は監督役として止めなければならない」

 璃正神父が姿を見せ、そう説いた。セイバーはその鋭き眼光で数秒見やった後、剣を何処かへと消失させた。

 璃正が内側から扉を開けなければ、綺礼は倒せていた。だがそこまで追い詰めながら倒せなかったのはセイバーの落ち度であり、綺礼に僅かばかりの運気があっただけの事。たとえそれが、予め取り決められていた策略であったとしても。

「失礼しました。標的が保護対象になった以上我々にこれ以上の戦闘行為の意思はありません」

「そうか。では私は脱落したマスターの手続きがあるのでな。これで失礼するよ」

 言って璃正は教会の門扉を閉じた。破砕され痛々しい傷痕を残した扉から、立ち上がった言峰綺礼が振り仰ぐ。
 その視線はセイバーを超え、その遥か後方──メルセデスの運転席に座する男へと向けられていた。

『────』

 無言の交錯。二人が初めてその視線を交わした時。

 どちらともが理解した。理性による理解を超越した所にある、言わば本能のような芯が全くの同時に二人の胸中に警鐘を鳴らした。

 ──この敵は。
   おまえにとっての仇敵であると──

 言葉など交わしていない。戦闘と呼べる行為ですらまともに行っていない。
 にも関わらず、ただ視線の交錯だけで二人は互いが互いにとってのあってはならない存在だと感じ取った。

 綺礼が先に視線を切る。今はまだ、脱落したマスターを演じなければならない。たとえ今後、あの男と対峙する機会があったとしても、今は関係はないのだから。

 切嗣もまた、綺礼を倒し損ねた以上この場に留まる理由はないと断じたのか、メルセデスを駆り街中へ向けて消えていった。セイバーもそれに追随するように消え去り、教会前の広場はようやく静寂を取り戻した。



+++


 その後、教会内でサーヴァントを失った事による保護を求める宣誓を行い、璃正もまたそれを了承し、綺礼は教会の奥にある客間にて、ようやく胸を撫で下ろした。

「ふぅ……茶番にしてはえらく骨の折れる仕事だった」

 事実、あと少しでセイバーに両断されるところだったのだ。璃正の機転がなければ綺礼は本当の意味で脱落していたのだから。

『すまないね綺礼。君には苦労をかけてしまった』

「導師……聞いておられたのですか」

 彼の目の前にある真鍮で形作られた宝石仕掛けの通信機が起動している事に気が付かなかった。それほどまでに、この場所に来て気を抜いてしまったのかと綺礼は今一度自身を引き締め直した。

『ああ、楽にしてくれて良い。君の当面の役割は終わりを告げたのだ、後はそこで保護されている振りをし続けてくれればそれでいい。無論、君の手駒にはもう少しばかり働いてもらう事にはなるがね』

「承知しております。その為にこんな猿芝居を打ったのですから」

 聖杯戦争においてまず最初に警戒するのはアサシンの存在だ。影に潜みマスターの背を穿つ暗殺者が跋扈していては他のマスターは自由に動けない。動こうとしない。そんな開幕直後の硬直を打ち破る為のもの。

 それがアサシンの『一体』を犠牲にする事で綺礼を、そしてアサシンを脱落者として扱わせる策略。それはここに功を奏した。
 これで綺礼は表向きサーヴァントを失ったマスターでしかなく、アサシンもまた姿を消したと思われ他のマスター連中は動きやすくなる。けれど存命中の『他』のアサシンは影で暗躍する。そういう仕掛けだった。

「しかし衛宮切嗣らを騙し切れるとは思いません。であれば、あの追走は有り得ない」

『いいのだよ。疑われる事など承知の上だ。どれだけ疑おうと所詮推測の域を出る事はないし、今宵の茶番を盗み見ていただけの輩には、背中を狙い撃たれては厄介なアサシンが早々に消え去ったようにしか映りはしない。
 何より──衛宮切嗣を挑発したいと言ったのは君だろう、綺礼』

 時臣の最初の策では彼自身のサーヴァントにアサシンを倒させるつもりだったが、それでは余りに茶番が過ぎると標的を変更した。
 あわよくばマスターの一人でも狩れればいいと期待していたが、流石にそこまでは高望みだった。それを置いておくとしても、時臣にしてみれば相手は誰でも良かったのだから、綺礼のその提案を退ける理由はなかったのだ。

『それで、感想は。件の魔術師殺しを君はどう見る?』

「噂通りの男のようです。人を殺す事に何の躊躇いも覚えない殺人者。手段を問わない戦いであれば、あれほど厄介な相手もいないでしょう。
 あの男には理念がない。あるのは勝利への執着だけなのですから」

 あるいは勝利への執着心こそが、あの男の理念へと通ずる何かなのかも知れないが。今の綺礼には分かりはしない。

「そして……恐らくはセイバーであろうサーヴァントも充分以上に警戒が必要でしょう」

『それは、私のサーヴァントを直に見た上での台詞かな?』

「はい」

『……ふむ。アインツベルンが誇りを金繰り捨ててまで聖杯を獲ろうという気概だけは、正しく本物なのだろうな。私に言わせれば、手段を選ばなくなった時点で彼らを同胞とは思えないがね。
 だが同時に、形振り構わない相手がいかに厄介かは、私自身良く知っている』

 時臣は正調の魔術師でありながら、凝り固まった魔術師然とした思考をしていない。時に柔軟に、時に大胆に。誇りと血統だけを重んじ他を侮蔑する無様は行わない。誇りを捨ててまで何かを得たいと考える連中の思考を理解するだけの頭がある。

『とりあえずはまあ、様子見と行こう。未だ所在の知れない敵も多い。足場は出来るだけ固めておきたいからな。
 アサシンの消滅を知った事で『見』に回っていたマスター達も動き出すだろう。我々の勝利の為には綺礼にはまだまだ働いてもらう事になるが、今はとりあえず羽を休めておくと良い』

「はい、導師」

『用件があればこちらから連絡する。綺礼──重ねて言うようだが、私の指示があるまでは無用な動きは謹んで欲しい』

「承知しております」

 それで通信機は動きを止めた。綺礼は伸ばしていた背筋をソファーへと凭れさせた。

「言われずとも動きませんよ。動くだけの理由が、私にはないのだから」

 言峰綺礼には戦う理由がない。未だ聖杯が何故こんな異物をマスターとして選んだのかと疑問に思い続けている。



+++


 遡ること聖杯戦争の始まる三年前。

 その時既に、綺礼は世界の全てに絶望していた。二年前に死病に憑かれた妻を亡くして以来、無為な日々を過ごしてきた。ただ淡々と、黙々と、下される命令に従い動いていただけの木偶だった。

 別段、妻に対して愛情があったわけではない。その後の人生全てを投げやりに過ごすだけの価値があの女にあったとは思っていない。
 しかし綺礼は妻の死の直前、己の闇を垣間見た。世界に紛れ込んだあってはならない異物だと、自分自身を理解した。

 それは自分を殺してしまいたくなるほどの異常。正視に耐えられない塵のような有様。それでも綺礼は自分を殺さなかった。殺してはならないと思ったのだ。
 だってここで綺礼が死んでしまえば、あの女の死が無価値なものになってしまうから。それを無価値にはしたくないと、心の何処かで思ってしまったのだから。

 それは全て過去に置き去りにした記憶。
 水底の奥に沈めたモノ。
 この時の綺礼はその当時の事を思い返さない。
 しかし自身が歪んでいる事だけは、把握していた。

 トリノにある遠坂家の別邸で父親である璃正に初めて遠坂時臣を紹介して貰った日。令呪の発現したその翌日の話。
 そこで綺礼は聖杯戦争に纏わる概略を聞いた。だからこそ、こんな己が聖杯に選ばれたなどという時臣と璃正の説明には納得がいかなかった。

「ならばこういうのはどうだろう。遠坂を勝者足らしめる為にその友人の息子である君が選ばれた」

 師はそう冗談交じりに言い、

「理由がない、なんて事はない。それは恐らく、君自身の心の奥底に眠っている祈りを聖杯が感知したのだろう。それは君が望む願いなのか、望まざる願いなのか、そこまでは私には分からないが」

「望まざる願い? それは願いと呼べるものなのですか?」

「人間の心というのはそう簡単なものではないのだよ。それを悪い事と知りながら、心の中で憧れている、なんて話は何処にでも転がっている。
 望まざる願いの全てが唾棄すべき悪だとは断じ得ない。単に自分には相応しくないというものも、これに含まれるだろう」

「…………」

「何れにせよ分からないのなら探してみればいい。無為に時間を過ごすよりも、有意義にはなると思うよ。無論、勝利は譲らないがね」

 朗らかに笑いながらそう謳い上げた。

 この令呪の発現に意味がある。綺礼の闇を知らない時臣の言葉には、すぐには同意出来なかった。
 たとえこの印に意味があったとしても、それはきっと世界にとって、この己以外の全てのものにとって唾棄すべき邪悪なものではないのだろうか、と。

「…………」

 とはいえ、綺礼には時臣と璃正の頼みを断るだけの理由がない。教会の意思に従うのも時臣に師事するのも変わりはない。
 誰かの意思によって動いている間は何も考えなくて済む。何かに打ち込んでいれば自らの歪さから目を逸らす事が出来る。

 既に主の教えとは決別した身だ、魔術師の門徒となる事に抵抗などない。

「一つだけ、お願いがあります。どうせ魔術を覚えるのなら、治癒系統のものを覚えたいのですが」

「ふむ。教会ではそれは特に異端とされる代物だが、何か理由でも?」

「いえ……」

 さしたる理由などない。あるとすれば、それはきっと、記憶の奥底に仕舞い込んだ筈の誰かの顔を、思い出してしまったからなのだろう。

「まあ、構わない。君が習得したいというのなら助力しよう。その他の魔術についても相性を見て覚えてもらう事になるが、構わないね?」

「はい」

「ならばこれで一時、私と君は同門だ。魔術師は他者に辛辣だが、身内に対しては甘いところがある。かと言って鍛錬に容赦をするつもりはないが。
 では────歓迎しよう、言峰綺礼。君はこれより、我らの同胞だ」

 そうして綺礼は、遠坂家へと招かれた。



+++


「今もってなお私には理由がない。戦う理由も、聖杯を求める理由も」

 時臣の支援に徹しているのは彼が父の友人であるからで、綺礼個人の意思ではない。戦う理由がない以上、時臣のサポートを行う事にも疑念の差し挟む余地はない。

 順当に戦いが進めば勝利するのは時臣だろう。最強にも近いサーヴァントと彼自身の実力を以ってすれば、時計塔の花形講師とて打倒し得ない敵ではない。

 もし時臣が敗れるとすれば……

「衛宮……切嗣……」

 視線を交わしただけで理解が出来るほどの異端。アレは、何処か自分自身と似ていると感じた。胸に渦巻いた感情が嫌悪であるのなら、それは同族を見初めたからなのかもしれなかった。

 六十億の人間の中にあって、自分唯一人だけ壊れていると思っていたのに、まさか他にもいるとは思ってすらいなかった。自分を特別だと思った事など一度もない。何かの間違いで生まれた異端者が、二人もいるなどとは想像もしなかっただけだ。

 衛宮切嗣が言峰綺礼と同じ闇を抱える外れた者であるのなら──

「私の心底が求めているという答えを齎すのは、おまえなのか……?」

 言葉は音となり空に消え、返る言葉は有り得ない。問うべきか問わざるべきか。聖杯が見出したという綺礼の祈りは、彼自身が知るべきものなのか。

 その解答は未だなく。
 解答を求めるかどうかすら定かではなく。

 言峰綺礼の迷いは、更け行く夜の中に今もこうして埋もれている。



[25400] Act.02
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:1d7b9b37
Date: 2011/10/10 21:22
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 明くる日。

 日も昇らない頃合より、切嗣は一人当て所なく街を彷徨い歩いていた。

 瞳はぼんやりと彼方を見つめ、明け行く空を映している。吐き出す息は寒さからの白ではなく、銜えた煙草より立ち昇る紫煙の灰色だった。

 思い返すのは昨夜の事。言峰綺礼のサーヴァントと思しきアサシンを倒し、脱落者となった綺礼を追い詰めながらに逃がしてしまった事だ。
 殺し損ねた事はまあ、いい。良くはないがとりあえずは置いていく。今考えるべきは一昨日から続いた一連の行動が何を意味しているか、という事だ。

 あれが演技であったのなら、綺礼は完全な安全地帯に身を隠した事になる。そしてアサシンもまた存命しているとすれば、厄介な事この上ない。
 セイバーが両断したアサシンは間違いなく消滅した。それを切嗣自身が確認している。だがどうしても、あれでアサシンが消え去ったとは思えない。

 未だ不可解なままの、舞弥の監視網を暴き破壊した手段。余りにも弱すぎたアサシンの異常性。段取りであったかのような綺礼の逃走の早さ。
 解せない点が余りにも多すぎる。こうして疑わせる事が相手の狙いなら、なるほどこちらはまんまと罠に嵌ってしまっている。

 何れにせよ、解の出しようのない問いかけだ。ならば当然、綺礼は未だアサシンを従えるマスターであるものとして行動すべきだ。

「ここまで全てが敵の目論見通りであるのなら……」

 言峰綺礼は今後、少なくとも今日一日は大々的に動かない。

 動いてしまっては昨日の策略の意味がまるでない。あの作戦を取った意味を想像するのなら、脱落者を装い自身は安全な場所に身を置きながらサーヴァントだけは自由に動かすという事。

 この時サーヴァントが他のマスター連中に姿を見られてはならない。見られてしまえば綺礼あるいは時臣の打った策が完全に暴かれてしまうから。

 今後アサシンの取るべき行動は隠密に徹し敵マスター、敵サーヴァント両者の情報を徹底的に収集し、確実な勝機を約束する事だろう。敵の背中を狙い撃つとしても、不用意には仕掛けはしまい。
 あるいは綺礼と時臣が繋がっているのなら、時臣のサーヴァントが勝てるだけの情報を集めさえすればそれでいい。

 そんな状況下、切嗣の取るべき選択肢は二つ。時臣と綺礼に固執し目下面倒となるこの二人の排除を優先するか。
 あるいは綺礼らの策を逆手に取り、相手が策に縛られている間に他のマスターを討つか。

「…………」

 小一時間ほど街中を彷徨ったが、やはり相手からのアプローチはない。呆けている様を装いながらその実周囲に糸を張ってみても掛かる獲物は一つとしていない。こちらには今、セイバーがいないにも関わらず。

 仮に今現在、アサシンが生存しておりこちらを監視しているとしても、やはり諜報に徹しているに違いない。舞弥が今一度使い魔を放とうとも不用意には破壊しない。破壊しては、意味がない。

 ならば────……

「手札(セイバー)の実力を把握しておくには良い状況か……」

 アサシンを一刀の下に葬り去ったセイバーだが、あんなものは戦闘を行った内にも入らない。
 戦いが両者の実力がある程度拮抗していなければならないのなら、昨夜のあれは虐殺にも等しい強襲だ。実力を判別するには物足りない。

 手にする剣の性能を確かめるには、相応の相手が必要だ。幾らそれが名剣の誉れを受けた業物だったとしても、それを己が目で見なければ切嗣は信用しない。

 昨日の一件は必要に駆られたからで、仮にセイバーが使い物にならなかったとしても切嗣一人が逃げ切る算段くらいは用意していた。そういう意味で言えば、今現在のセイバーに対する切嗣の評価は悪くはない。

 無論、それは道具の有用性としての評価だが。

 切嗣は昇り来る朝日を見つめながら、通信機に手を掛ける。無論のこと、相手は久宇舞弥だ。切嗣以上にこの街の現状を把握している彼女に問うべき用件は唯一つ。

「現在、拠点の判明している敵は」

 早朝にも関わらず間髪置かずに答えは返ってくる。

『御三家が一角遠坂時臣、教会に保護を受けた言峰綺礼。そしてロード・エルメロイことケイネス・エルメロイ・アーチボルトです』

「確か僕がセイバーを召喚した日、ロード・エルメロイは戦闘をしていたんだろう。その相手の所在は?」

『掴みきれておりません。ロード・エルメロイは追跡の結果、方角からある程度の目処をつけ周辺ホテルの名義を確認したところ、本人の名義でチェックインをしていたので簡単に割り出せました。
 もう一人の方──ウェイバー・ベルベットとそのサーヴァントは深山町方面へ飛行宝具で向かい、その途中に言峰綺礼に使い魔を破壊されてしまい、その後の追跡は不可能でした』

 おかしな話だ。ウェイバーなるマスターは外来に違いはない。その後に続いた舞弥からの説明によれば彼はケイネスの門下生であるという。ならばそんな外来の魔術師が、どうして深山町へと向かう。

 御三家のようにこの街に拠点を持たない魔術師の大概はホテルを使う。魔術師として土地を購入する場合、セカンドオーナーといらぬ悶着になりかねないからだ。
 過去にそういった例もあったと聞くし、切嗣自身も深山町にわざわざ一軒家を購入しているからそうであってもおかしくはない。

 しかしベルベットという聞いたこともない家系に果たしてそれほどの資金が用意できるのか。舞弥の話によればこの少年がケイネスの聖遺物を盗んだ可能性が高く、ならばそれは計画的な行動ではなく思い付きにも似た突発的な行動ではないのか。

 いずれにせよ詳細は不明。それ以外に考えられるのは、廃屋にでも身を潜めるか、住民の家を借用するか。

「…………」

 切嗣は少しばかり思案し、

「そのウェイバー・ベルベットというマスターについても、ある程度の拠点の絞込みは出来ているんだな?」

『はい。細心の注意を払い監視もしています。未だ網に掛かった様子はありませんが』

「ならばいい。今はまだ、な」

 遠坂時臣に仕掛けるのはまだ早い。奴を相手にするという事は言峰綺礼をも敵に回すという事。現状、詳細不明な相手を二人も敵に回すのは巧くない。ウェイバー・ベルベットについては言わずもがな。

「決まりだな。次の標的はロード・エルメロイだ」

 今を輝く時計塔の花形講師。生まれついての天才。名門を背負いし神童と謳われた一級の魔術師。典型的な魔術師としての思考をし行動をする男。それ故に読みやすく、同時に侮る事は許されない。

 わざわざ自身の名義でホテルに滞在しているのは自信の表れであり、ケイネスの人となりを表す指標の一つと考えられる。
 舞弥の話によればホテルの最上階一フロアを貸切にしているらしい。ならばその階層は既にケイネスの魔術工房へと姿を変えているに違いない。

 魔術師が他の魔術師の工房に迂闊に踏み込めば死を覚悟しなければならない。これはどれほど位階の高い人物であっても忘れてはならない魔術師の暗黙のルールの一つ。
 他人の領域に土足で踏み込む輩には、相応の報いを。研究成果に手を出そうものなら死よりも苛烈な地獄が顎門を開いて待っている。

 だが此処に在るのは魔術師殺し。工房に引き篭もった魔術師を殺害した事など、幾らでもある。

 けれどケイネスほどの高位魔術師の工房に挑もうというのなら、切嗣とて相応の準備が必要だ。しかし切嗣には時間がない。時臣と綺礼が『見』に回っている間に事の全てを済ませてしまいたい。
 そう考えれば、やはり猶予は一日──後二十四時間。

「…………」

 正攻法では、難しいか……?

 そう考え、切嗣は小さく笑みを零した。それは酷薄で、非情な冷笑。

「世界の全て、六十億を救う為ならば──」

 それが必要な犠牲であるのなら。
 ──僕はこの手を、無辜の人々の血で染め上げよう。



+++


 衛宮切嗣がサーヴァント召喚を行った屋敷に、その少女の姿はあった。

 手入れなどまるで行き届いていない庭園。打ち捨てられたかのような土蔵。埃が薄っすらと積もる母屋と離れ。彼女の姿はそのどれでもなく、道場にあった。

 セイバーがこの場所にいるのは単純に、この道場がもっとも汚れていなかったからだ。他の場所がほとんど掃除されていないのに対し、この場所は切嗣が買い取る以前の所有者が使用していたのか、さほど汚れてはいなかったのだ。

 彼女は今、戦闘装束とも言うべき甲冑を身に着けていない。

 霊体化が出来ないと判明したその夜に、舞弥はセイバーの為の衣類を手配し翌朝には屋敷へと届けていた。サーヴァントは現界しているだけで魔力を消費するし、具足もまた魔力で編まれている。
 余計な消耗はマスターに負荷をかける。何より、夜ならばともかく昼にあの格好のまま出歩いては、出歩かなくとも姿を見られては不審者として扱われかねない。

 その為、セイバーは舞弥が用意した衣類の入ったアタッシュケースからダークスーツを取り出し、身に着けていた。

 セイバーが身に着ければ男装にも見えるダークスーツ。切嗣と共に戦場を渡り歩いていた舞弥には今現在の日本のファッションなど理解出来る筈もなく、セイバーもまた衣装にそれほど頓着する性格でもなかったので、男装をした少女の違和感に異議を唱える者は皆無だった。

「────」

 広い空間。一面の床張り。冬の気配がしんと空気を凍らせる。その空間の片隅で、少女は一人瞳を閉じて瞑想に耽る。

 セイバーは自身を剣と断じている。マスターからの指示がない以上、むやみやたらと外出するのは巧くないし、そうする意味もないと思っている。

 たった一度の作戦行動──あれを共闘と呼べるかどうかは不明ながら、彼女と切嗣は巧く噛み合った。互いが持ちえぬものを補い合い、会話すらまともになくとも上々の結果を出して見せた。

 セイバーが剣であるのなら、切嗣は担い手だ。剣は主を認めた。彼ならば、この剣(わたし)を巧く振るえると。

 かつて彼女が戴いた称号を思えば、その扱いに憤慨を覚えても何ら違和感などない。しかし彼女自身がその境遇を受け入れている以上、否はない。

 ──この身は剣でいい。誰かの手によって振るわれ、敵を断つ刃であれば。

 王という称号はこの時代、この戦場に全くの意味を齎さない。やたらと自尊心を振りかざせば、待っているのはマスターとの軋轢くらいだろう。

 聖杯を手に入れる。

 その利害が一致している間は、彼と彼女の間に摩擦はあってはならない。不和は勝利への道を遠くする。

 是が非でも聖杯を。
 必ずや掴み取る。
 そうでなければ、彼女がこの時代に迷い込んだ意味がない。

「────」

 何かを考えていても、瞼の裏に蘇るのはいつも同じ光景。

 落日の丘。
 血と夕焼け、そして屍が染める紅の終着点。
 その戦いに勝者はなく。
 ただ血と涙だけが流された。
 戦いの終わりは凄惨にして苛烈。
 そして誰もが望みもしない結末で終焉を告げた。

 彼女はそれが、許せなかった。こんな結末を望んで選定の剣を引き抜いたのではない。個を犠牲にして王となったわけではない。

 誰かの笑顔が見たかった。皆が笑ってくれていればそれで良かった。だから嘆きと悲しみに彩られた終わりを、決して容認する事は出来ない。

 万物の祈りを叶えるという聖杯。その力を以ってして──

「私は必ず、祖国を救う」

 言葉にし、祈りをより強固なものとする。

 たとえその結末(ユメ)を、彼女自身が見る事を叶わずとも……
 この身が世界の戒めに囚われようとも……
 今の自分という存在の全てが、消えてなくなったとしても────……

 万難をその身で耐え、汚辱と苦痛に塗れてなお。
 彼女の決意に揺るぎはない。
 どんな言葉も彼女の心を震わせる事はない。

「聖杯を掴み、我が祈りを叶える」

 その為に必要な犠牲であるならば。
 ──私はこの手を、無垢な人々の血で染め上げよう。

 その時、セイバーが耳につけたままだった通信機に連絡が入る。同時に彼女は、閉じていた瞼を開き真っ直ぐに前を見据えた。

『次の作戦が決定しました。只今より作戦概要を説明します』

「はい」

 彼女の瞳に迷いはなく。
 視線は遠く──此処ではない何処かを見つめていた。


/2


 ハイアットホテル。

 その建造物は今現在、冬木市において完成している建物としては最大の高さを誇るホテルの名だった。
 無論、最大であるのは高さだけでなく、人員の質、内装、料理、金額。そのどれをとっても名実共にこの都市最高級のホテルと言える。

 未だ建造途中であり、完成の暁にはハイアットホテルの標高を抜き新都の目玉になると言われている通称センタービル。彼の摩天楼が積み上げられるまでの最上位。その至天──つまりは最上階に、彼らの姿はあった。

 上質なソファーに身を預けた男は血のように赤いワインを燻らせながら、遥か眼前に眩く輝く夜景を俯瞰していた。その様はまるで遊行に赴いた貴族のよう。彼からは、この戦場に身を置く者が持つべき緊張感がまるで感じられなかった。

 しかしてそれも当然と言えば当然だ。この階層(しろ)は彼の手によって創造された工房(ようさい)であり、傍らにはサーヴァント。何より己自身の才に全くの疑問を抱いていない。たとえ襲撃があろうと完膚なきまでに返り討ちに出来る算段があった。

 それがこの男──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの比類ない自信だった。

「ねえケイネス」

 彼の対面で同じくワインを傾けていた女性が口を開く。彼女はケイネスの許婚であり自身も名門であるソフィアリ家の出自を持つソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。その麗しい美貌には翳りが見えている。

「貴方の聖遺物を奪ったって子と接触して以来、ずっとこのホテルから出ていないけど。戦う気はないの?」

 許婚からの詰問。戦火舞うこの戦いの舞台で、穏やかにワインで喉を潤す男に問う。問われた男は、泰然自若の様を崩さぬまま軽やかに答えた。

「勿論あるさ。だが闇雲に戦火を広げたところで不利になるのはこちらだよ。他の連中の情報は完全ではないし、わざわざ出向いてやる理由はない。向こうから来るのなら別だが」

 戦えば戦うほど、晒さなければならない手札は増す。何処に盗人の目が光っているかも分からないままに無策で戦うほどケイネスは愚かではない。
 手札が暴かれ尽くしてしまえば、後に待つのは死でしかない。ならば日和見も時には必要だ。

 ウェイバーとの邂逅は偶然の産物であり、所詮は様子見。戦場となる冬木の調査と、相手が奴であろうとなかろうとサーヴァントの性能を見る程度で済ます心積もりであった。

 真に戦うのなら自らの用意した舞台でなければならない。必勝を確約した時でなければそれはただの蛮勇であり匹夫の勇。つまるところの無謀の極み。
 勝算もなく誰彼構わず相手取ろうとする連中の心中など、ケイネスには理解が出来ない。

 魔術師であり研究者であり、そして探求者であるが故の慎重さ。それを是と出来るだけの器がケイネスにはある。

 故に今現在、彼が戦闘を行うのならこの城でなければならないと考える。外で戦う時期ではなく──

「…………」

 ケイネスは僅かに視線を横に滑らせ、姿の見えない従者を見やる。

 彼の危惧するは彼自身のサーヴァント。本命ではない次善。そしてその逸話に過ちを犯した過去を持つ男。ケイネスは己がサーヴァントを信用していない。いや、その実力を妄信していないというべきか。

 緒戦、ランサーはウェイバーのサーヴァントとの戦いを優位に運んだが、あんなものは当然の結果。赤毛の王自身が言っていたように、王たる者の剣が騎士の槍の上を行くとは限らない。上を行く必要がない。

 見るべきものが違い、戦うべき相手が違うのだ。戦略を扱う君主と戦術レベルでの戦いを得手とする騎士とでは。

 それでもランサーの槍は優秀だろう。他のサーヴァント連中とやりあったところで、一方的に押し切られるという可能性は極めて低い。低いが、それは決して絶対ではないのだ。

 未だ姿すら見せぬサーヴァントの中に完全に格上の相手がいないとも限らない。そんな相手との戦いを想定しなければならない以上、手札は晒すべきではないのだ。

 格上に挑むのなら、未知という唯それだけの事柄が武器になる。

 だから今、戦うのなら他の連中の目が届かず、自分の実力を遺憾なく発揮出来るこのテリトリーで。他の連中が互いの尾を喰らい合う様を眺望しながら、向かい来る蝿を払えば当分は良い。

 そう既に決めているケイネスはソファーに身を埋める。

「……不満そうだな、ソラウ」

 対面の女性の顔に滲むそれ。ケイネスは聞かずとも良い事を、聞く必要のない問いを投げかける。

「そうね。私の置かれている状況を思えば、慮ってくれるのなら、むしろその不満も理解してくれるんじゃなくて?」

 ソラウの置かれている状況──それは彼女がこの場所に存在する唯一つの理由が、サーヴァントへの魔力供給の為、であるからである。

 ケイネスがマスターでありながら──令呪を宿しながら──魔力供給をソラウに行わせるという本来ならば有り得ない状況を組み上げたのは、無論の事ケイネス自身である。

 サーヴァントの基本ステータスを決定付ける要因は、マスターからの魔力供給量でありその多寡に比例する。最低限パスさえ繋がっていれば問題はないとはいえ、送り込める魔力が多ければ多いほどサーヴァントはその能力を底上げ出来る。

 しかしサーヴァントへの供給量を増やせば、当然術者本人が使用出来る魔力の量は減少する。聖杯戦争はマスターとサーヴァントの二人一組の戦争だ。そのバランスが傾けば、どれだけの強者であろうと脆くも崩壊する破目になる。

 故にケイネスはこの策を打った。サーヴァントへの魔力供給をソラウに任せ、自身は十全の魔力を温存する。ケイネスと他マスターが戦闘を行った場合、どちらがより有利かはこの時点で既に明白。戦うその前よりケイネスは相手の優位に立つ事が出来るのだ。

 この策に弱点があるとするのなら、それはソラウ自身に他ならない。彼女は名家の出とはいえ、その薫陶を授かれなかった者である。身に宿した魔の宿業は培われる事なく、ケイネスの人生に添えられる花として飾られるのみ。

 もし彼女が敵に狙われれば、彼女自身が身を守る術はない。最低限の礼装を持たせてはいても、そんなものは不慮の事故を防ぐ程度の意味合いしかない。明確な殺意と敵意に晒されてしまえば為す術もなく殺されてしまうだろう。

 だからケイネスは彼女の身の安全を案じた。案じたが故に、彼女の自由を束縛した。ならば彼女の不満と鬱憤も、頷けるというものだ。

「籠の鳥も構わないけれど。こういう生き方を受け入れてはいるけれど。だからといって私は置物じゃないの。この部屋から一歩すら出るな、なんて事、耐えられるわけがないじゃない」

「ああ、分かっている。分かっているとも。だがこれも全ては君の為だ。この階層は私の工房であり、万全の布陣を敷いてある。それでもそれは完全というわけではない。
 私の傍であり、サーヴァントの傍。そこが君の安全を完全に保障する場所なんだ、分かってくれ」

 君の為、そう言いながらケイネスの言葉の全ては自身へと向けられている。本当にソラウの身を案じるのならこんな戦地に連れて来る必要がない。こんな愚にもつかない戦いにそもそも赴く必要がないのだ。

 ケイネスに悪癖と呼べるものがあるのなら、それはこうした超越者としての自負。幼き頃より世界の全てを醒めた目で見る事を許された者だけが感じる虚無感。その穴を埋める為の享楽。

 何でも手に入り、全てが思うがまま、彼の想像の外に出る事無く続いた人生への、反感とも呼ぶべき童心。
 この戦いへの参戦は、そんな人生への反逆なのだ。この戦いですら、彼の埒外に相当しないなら、彼の人生はそういうものなのだと納得が出来る。そうせざるを得ない。

 この未だ明確な勝者なき戦いの勝者という栄光を、その栄光に塗れすぎた人生の最後の華として飾り、ケイネスはこれまで通りの完璧な自身のままその道程を終えるだろう。時計塔の歴史にその名を刻むだろう。

 だが願わくばこの戦いで、己の思惑を超えるものと出会いたい。
 そう、掛け値なしの天才……ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは思い──

 彼の理解を超えた怪物の足音は、もうすぐそこまで近づいていた。



+++


「……ソラウ。フロントに何か注文を入れたか?」

 ケイネスは不意に、何の前触れもなくそう問い質す。

「ええ。ホテルのレストランもエステも使えない、使うなって言うんだから、せめて食事くらい私の好きなものを頼んでも構わないでしょう?」

「ああ、それは構わないが……姿を見せろ、ランサー」

 音もなく従者はその姿を虚空から現す。若草色の戦闘服と、端正な面貌。目尻の下に輝くは、彼の命運を狂わせた魅惑の黒子──

「サーヴァントの気配はあるか」

「いえ。少なくともこの階層にはありません」

「ケイネス……まさか、敵?」

「ああ。どうやらそのようだ。巧く化けているが、私の網からは逃れられんよ」

 このホテルハイアットの最上階がケイネスの城であるのなら、当然この空間全てが彼にとって手に取るように分かる。

 階下との齟齬が出ないよう、またソラウの勝手にも対応出来るよう人払いの類は仕掛けていない。故にこの城は一般人でも容易に侵入は可能であれど、監視カメラより強力な目を張り巡らせているケイネスの視線からは逃れられない。

 つい今し方エレベーターより台車を伴い最上階へと踏み入れた者──このホテルの従業員の服装を纏った男を、けれどケイネスは敵と断じた。

 従業員の顔など把握しておらず、他の参戦者についても最低限の情報しか仕入れていないケイネスがそう判断を下した理由──それは彼の勘である。

 ケイネスは自身の直感を疑わない。研究者としての観察眼が捉えた、常人とは明らかに違う身のこなしや鋭すぎる眼光も、直感の前には霞んでしまう。いや、それらを全て含めた己の勘であるのなら、そこに疑う余地はない。

 これまでもそうしてきたように、ケイネスは自身の信じるものをこそ真とする。

「ふむ……この早期に敵の工房へと挑もうという輩がいるとは。それは果たして蛮勇か、それとも……」

 呟きながらケイネスは立ち上がる。ソファーの脇に置かれている壷が僅かに揺らめいた。

「敵はどうやらマスターだけのようだ。だがそれが囮ではない保障はない。ランサー、ソラウの守護は任せる。警戒を怠るなよ」

「御意に」

「では客人の出迎えへと赴こう。ディナーの前の良い運動になりそうだ」

 立ち上がったケイネスの後を追うように、巨大な瓶より銀色の液体が流れ落ちる。それは意思を持つかの如く自律し蠢き、

「Automatoportum(自律) defensio(防御) : Automatoportum(自動) quaerere(索敵) : Dilectus(指定) incursio(攻撃)」

 ケイネスが扉を開くその直前に唱えた起動の術式を受けて球体となり、僅かに跳ねた。

 数多の術式と罠を仕掛けたこの階層のどれよりもケイネスが信を置く礼装──

 それがこの『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』に他ならない。

 廊下へと躍り出たケイネスはそのまま視角外の目が捉えた台車を押す従業員へと視線を向ける。これより客室へと赴こうとしていた相手の男は、突然の遭遇に足を止めた。彼我の距離は裕に十メートルは離れている。

「その程度の変装で私の目を誤魔化せると思っていたのなら、少しばかり落胆せざるを得ない」

「…………」

「我が城へようこそ。歓迎するよ魔術師。だが魔術師の城へ足を踏み込むというその愚行の意味を解さぬわけでもあるまい?」

「…………」

 相手は何も答えない。これが本当にただの従業員であるのなら、ケイネスの詰問に目を白黒させ右往左往してもおかしくはない。無言、何の反応も示さないということはつまり、逆に己がこの状況に動じない者であると明確に告げている。

「ふむ……だんまりか。魔術師同士の決闘である以上、正々堂々と行うべきとこうして姿を見せてやったが……会話すらする気のない相手では意味もなかったか」

 たかが一魔術師を相手にする為に、わざわざケイネスが姿を見せる必要性はない。敵と断じた以上、工房内の術式を作動させればそれだけで粗方は終わらせられる。
 ケイネス自身が言ったように、こうして姿を見せたのは魔術師同士の決闘を行う上での最低限の礼儀であり、そして敵の工房に無謀にも──勇敢にも戦いを挑んだ相手への賛辞でもある。

 しかし相手がケイネスの意思に同調せず、魔術師としての礼を欠くのならば是非もない。ただ目前の敵を打ち倒すのみ──

「……良く回る舌だな」

 唐突に、これまで無言を貫いていた男が音を発する。

「ようやく喋る気になったかね? 人のテリトリーに土足で踏み込んだのだ、礼を欠かぬよう挨拶でもしてみせてはどうだ」

「ああ。これが僕の──僕流のやり方(あいさつ)だッ!」

 男は押していた台車を蹴り飛ばす。勢いを得た料理を載せたままの台車は車輪を回しケイネス目掛けて一直線に直走る。

「フン──scalp(斬)」

 ただそれだけの言葉で傍らに転がる銀色の球体へと指示を飛ばす。球体は一度跳ね、その形を変容させ、薄くしなやかな刃となり襲い来る台車を真っ二つに斬り裂いた。

 稚拙な挨拶だと思ったのと同時──後方にて爆音。月霊髄液が台車を斬り裂く音を掻き消すように、遥か後方の窓ガラスが大きな音を立てて破砕される。

 対衝撃の結界を敷設してあるこの工房は生半可な魔術では傷の一つもつけられない。魔術師がそれを成そうと言うのなら、相応の術式と時間が必要だ。しかしそれは──この工房の全ては、対魔術師を想定してのもの。

 その上を行く怪物達(サーヴァント)の攻撃に対する備えはない。そんな備えは物理的に不可能であり、そして無意味である事を、ケイネスは理解していたから。
 それでも結界は上等。たとえサーヴァントが相手であろうと突破は容易ではないレベルの城を構築した自信はあった。

 けれど誰が予想しよう。

 冬木市で現在最も高いとされる建造物の、それも最上階の窓を突き破り、都合二十四層にも迫る多重結界を一刀の元に打ち砕き襲い来る真正の怪物がいようなどと──!

「くっ──ランサー!」

 ケイネスが振り仰ぎ、敵の姿を目視すると同時に従者を呼ぶ。
 それよりも速く、若草色の英霊は扉を粉砕し回廊へと躍り出て、現れた白銀の鎧の剣士と己が主の間に立ち塞がる。

「はぁぁあああ……!」

 それをお構いなしとばかりに白銀の剣士──セイバーは視えない剣を振り上げる。
 同時、従業員を装った男──切嗣は目深に被った帽子を放り捨て、懐より一丁の銃を引き抜いた。

 セイバーが剣を振り下ろしたのと、切嗣が撃鉄を撃ち落したのはほぼ同時。

 セイバーの振るった剣は手にしたその剣を不可視にせしめている暴風を解き放ち、回廊中を蹂躙し──闖入者の登場に気を取られて切嗣への注意を疎かにしたケイネスの背を目掛けて魔銃の弾丸は放たれた。


/3


 剣の英霊の巻き起こした風により、工房の内装は無残にも粉砕され、破片と噴煙が立ち昇る。けれどセイバー侵入からの騒音は階下には漏れていない。未だ生きている遮音の結界がその役目を果たしているからだ。

 噴煙の中心に立つ魔術師──ケイネスは静かな声で、セイバーの風を二対の槍で受け流し、主を守護した従者に告げる。

「あのサーヴァントの足を止めておけ。倒せずとも構わん。優先するべきは、ソラウの守護だ」

「御意。マスターの健闘を祈ります」

「フン──誰に対してものを言っている。私はロード・エルメロイだ」

 主の言葉を受け、双槍の騎士は白煙の彼方へと姿を消す。

「さて──」

 これまで背を向けていた相手へと振り返る。ランサーがセイバーの相手を務める以上、ケイネスの敵は決まっている。
 背後からの銃弾を自動防御した水銀の礼装が形を崩す。どのような命令にも対応可能な球形を形作り、主の命を待つ。

 晴れていく白煙の先に立つ男の姿を、素顔をようやく目視する。

「ほう、貴様の顔は何かで見た覚えがあるな……確か、そう、魔術師殺しと呼ばれた男か」

 鷹の如き双眸がケイネスを射抜いている。握られた右手には白煙を上げるトンプソン・センター・コンテンダー。衛宮切嗣を魔術師殺し足らしめる魔銃。排莢は素早く、装填は秒を切る速度で行われた。

「噂でも聞いている。およそ魔術師らしからぬ手段で殺しを行う異端者。おまえを都合良く使う人間もいたようだが──」

 決闘など以っての他。狙撃を始め、毒殺、公衆の面前での爆殺、対象の乗った旅客機ごと爆破と切嗣の殺しの手段には枚挙に暇がない。しかしその全てに共通するのは、それらはおよそ魔術師の用いる手段ではないというもの。

 魔術師でありながら魔術を用いず、代用出来るものは科学の力で補う。純血に近しい魔術師ほど科学を忌み嫌い、その隙を衝くが如く衛宮切嗣は殺しを達成する。

 異端と呼ばれるのも当然だろう。本人はそんなもの、歯牙にもかけていないのだろうが、正しく純血たるケイネスにとっては忌避すべき敵に違いない。

 しかしだからこそ、ケイネスは今この状況に少しばかり違和感を覚えた。

「悪辣な手段で殺しを行う暗殺者風情が、どうして今回ばかりは姿を見せた? 貴様のやり方を慮れば、それこそ闇討ちが上等だろうに」

 そもそもの話、敵魔術師の工房に真正面から踏み込むという暴挙自体が理解不能。並の魔術師ではしない、出来ない事をするという点で裏を掻くつもりだったのかもしれないが、それでもやはり釈然としない。

 姿を晒したがる暗殺者などまずいない。せめて順当に考えるのなら、セイバーを囮に使い切嗣自身はケイネスの背を狙える位置に誘き寄せるべきだろう。それが切嗣のやり方だ。しかし今の状況は、切嗣自身が囮となっての決死行だ。

 ケイネスが工房内の仕掛けを最初に発動させていたのなら。
 有無を言わせずランサーを差し向けていたとするのなら。

 理に適わない行動、それも自身の生死に直結するものだからこそ、理によって稼動する魔術師であるケイネスにとっては不可解であり、同時に興味深くあった。

 故に思う。マスターとサーヴァント。どちらを使い潰すべきか、潰しの利くものかわからぬ男でもないだろうに。ならばその行動の真意を問う。

「そんなに自分が殺される理由が知りたいか」

「何……?」

「おまえはただの試金石だ。『今』の僕の性能を試すに丁度良い、な」

 差し向けられた大口径の銃口から放たれる弾丸は、またしても水銀の自動防御により阻まれる。磨き上げた鏡面のような球面を弾丸は滑り、壁の一角に穴を開ける。

「く、くは……」

 どろりと溶ける水銀の奥から漏れ出す吐息。

「くははははははッ!」

 それはケイネスの口から零れた哄笑だった。

「この私が、試金石……? このッ! ロード・エルメロイを指してッ!?」

 時計塔にその名を知らぬものはおらず。その勇名は轟くばかり。純血と確かな才を持ち合わせた生まれながらの天才を指し、外道に堕ちた魔術師が放って良い言葉ではない。

 ケイネスから見ればそれは何処までも思い上がり。一笑に附すか憤怒を以って襲い掛かって然るべき暴言。けれど──

「──面白い」

 彼は、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、それをこそ望んでいたのかもしれない。

「私の名を知る者、力量を弁えている者は、まず私と争おうなどとは考えなかった。私の人生の中で魔術師同士の決闘を行った事など数えるほどしかない」

 そうして挑みかかってきた連中の全てを返り討ちにし、ケイネスは自身の名をなお轟かせてきた。

「私に挑んだ連中は彼我の実力差も測れない無能ばかりだった。だがこの私を試金石(ふみだい)と呼んだのは、貴様が初めてだよ魔術師殺し」

 無能は無能なりに、ケイネスが自分より位階の高い者だと弁えてはいた。彼らの無謀に理由があるとするのなら、ケイネスを倒した先にある栄光に目が眩んだか、自身の力を過信したか、そのどちらかだ。

 けれど切嗣はケイネスを下に見た。魔術師の位階が上であると知りながら、それでも切嗣はケイネスを自身の力を試す為の踏み台だと言い切った。
 暗殺者が真っ向勝負でも勝てる『程度』の相手だと、そう言ったのだ。

「これを面白いと言わずして何と言おう。このロード・エルメロイ──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトを我が魔城で相手取り、打倒し、あまつさえ生還せしめるという、その蛮勇。私はそれを勇猛と讃えよう」

 ケイネスの瞳が妖しく鋭く眼前の敵手を射抜く。高まる魔力の波動、立ち昇る殺意の嵐は戦場たるこの魔城を包み込んで余りある。漏れ出す魔力に充てられたのか、銀の球体がその表面を波立たせた。

「しかして知れよ魔導の何たるかを弁えぬ愚か者。その勇猛をすら叩き伏せるからこそ──私はロード・エルメロイなのだ」

 それが合図だったのか、水銀が勢いよく跳躍する。中空に浮かんだそれは、まるで触手のように一筋の刃を標的目掛けて伸ばし、突き殺さんとばかりに肉迫する。

「…………」

 一直線に放たれるだけの刃。それはどれだけ鋭利であろうとも、目視可能で直線的な攻撃ならば回避など造作もない。
 そう判断し、半身をずらし攻撃の隙を衝くが如く左手に携えたサブマシンガンを放とうとして──

「scalp(斬)」

「……ッ!」

 主の命令を忠実にこなす従者のように、水銀は物理法則すら捻じ曲げて、鋭角にその刃を折り曲げた。

「ほう。躱してみせるか」

 鞭の撓りの如く伸び切った水銀は球体へと戻っていく。その刃先に付着した血液は、衛宮切嗣の肩口を斬り裂いた証明だった。

 もしケイネスの命令(コマンド)もなく水銀が自律して切嗣を狙うものであったのなら、それこそ頚動脈を切り裂かれていたかもしれない。
 切嗣が反応出来たのはこれまでに培った戦闘経験の賜物と、ケイネスが未だ様子見の体を残しているからに過ぎなかった。

 ──しかしここまで予定通りだ。ケイネスは余裕の体を崩していない。

 己の城で、自身の能力を信じているからこその過信。それも相手がまともな手段で戦わない外道であり、それが正面切って挑んで来たとすれば、その余裕はむしろ当然。そしてそれは切嗣の予想の通り。

 セイバーが強襲した際に放った魔風により、この階層に仕掛けられた呪的トラップは大半が損耗ないし停止している。
 ケイネスほどの魔術師が構築したものだ、それは精緻であり緻密だろう。しかしそれは裏を返せば、機械と同じように精密であればあるほど外的要因に脆いという事だ。

 遮音や人払いなどの破壊されては支障のあるものならばともかく、獲物を嬲り殺しにする為の仕掛けはケイネスがとことん手を入れている筈であり、故にそれらは既に沈黙している筈。

 ここがケイネスの城であろうとも、現在警戒すべきはあの水銀の礼装のみ。ケイネス自身が絶対の信を置き扱うあの礼装にだけ、今は注意を払えばいい。

「どうした? 仕掛けて来ないのか? 来ないのならばこちらから行くぞ」

 ケイネスの踏み込みに同調し、水銀もまた攻撃態勢へと移行する。

 まず切嗣が行うべきはあの礼装の性能分析。種さえ割れてしまえばどんな強力な礼装とて子供騙しの手品でしかない。
 そして何より、この戦いは勝利が第一条件ではない。切嗣が自身で発言したように、ケイネスを試金石とした己の性能を確かめる事がまず第一。

 セイバーが真に強力なサーヴァントであるのなら、相手が三騎士の一角たるランサーであってもそれほど猶予はない。
 限られた時間の中、切嗣が行うべき事は数多い。けれどその全てをこなし、この第一目標を突破する。

「固有時制御(Time alter)──二倍速(double accel)」

 衛宮切嗣にとっての真の緒戦。
 聖杯へと至る戦いの物語の幕が、今此処に開かれた。


/4


 衛宮切嗣とケイネス・エルメロイ・アーチボルトが対峙する場所より後方。
 未だ煙る白煙を、手にした紅の長槍で一薙ぎに払い、その双眸が見据えるは白銀の少女騎士。

「地上数百メートルに位置し、しかも我が主の多層結界が張り巡らされたこの魔城。如何にして突破した、サーヴァント」

「近場のビルより跳び、加速して一息に斬り裂いただけの事」

 近場とはいえランサーの知覚外からの跳躍であるのなら、数十メートルでは足りないだろう。百メートル以上離れた場所の、しかもハイアットホテルより背の低いビルより跳び、この多層結界を突き破るだけの加速を得て一刀の元に薙ぎ払った。

「なるほどな。その程度、楽にこなせてこその最優の剣の英霊(セイバー)か」

 相手が手にするは不可視の得物。刃渡りどころか柄さえも目視できない。それでもランサーは目の前の少女騎士をセイバーと断定した。

「私がセイバーだという保証はないぞ? この手にする得物、あるいは槍かも知れん」

「ハッ。今代のクラスにおいて、槍の御座に招かれしはこの俺唯一人。別段クラスに拘りなどないが、それは譲れん」

 ランサーは手にする二本の槍を翼のように広げる。紅の長槍と黄の短槍。対するセイバーもまた、下段に構えた不可視の剣の握りを強くした。

「最後に一つ、訊いておこう。セイバー、貴様の今宵の襲撃の目的は何だ」

「可笑しな物言いを。我らサーヴァントは聖杯を賭けて合い争う間柄。殺し合う以外に余地はない」

「そうではない。貴様は我が主の首級を奪いに来た一介の襲撃者なのか、俺の首を獲りに来た一人の決闘者なのか」

「…………」

 どちらも結果は変わらない。ケイネス・ランサー組の脱落を狙うという結果には何も違いはない。発端が奇襲であったとはいえ、こうして一対一で差し向かい合った以上、互いに剣を交える事は必定だ。

 しかしセイバーの目的がランサーの打倒ではなくケイネスの殺害であるとすれば、それはランサーには許容出来ない。主の剣となり盾となり忠誠を誓う従者。真に忠節を尽くす事。それこそがランサーの求めしもの。

 されど相手が騎士の礼儀に則り剣を執るのであれば、こちらもまたその礼節に応えなければならない。騎士を標榜する者として。騎士道の体現者として。

 故に問い質した。
 汝は我が槍の誉れを受け取るに相応しい勇者か。
 ただ首級を求めし英雄の成れの果てか。

「…………」

 セイバーは僅かに沈黙し、一瞬だけ瞳を閉じた。瞼に浮かぶ殺戮の丘を追想した。あの光景を覆す為ならば、手に執る剣の閃きに迷いなどない。あってはならない。
 たとえこの身が遍く騎士達の羨望を集めた身であったとしても。胸に秘めた祈りと天秤に掛けるのなら、その片皿は容易く傾く。

「私は勝利の為に剣を振るう。我が道を邪魔立てする者、その悉くを斬り捨てるのみ」

「……そうか。残念だなセイバー。貴様となら、尋常の勝負を競えるものと思ったのだが」

「名も明かせぬ戦いに尋常も何もないだろう。ランサー、私の道を阻むというのなら、まずはその首を落とさせて貰う」

「抜かせ。我が槍の閃きをその身を以って知ってなお、その大言を吐けるものなら吐いて見せろ──ッ!」

 風が奔る。全七騎のサーヴァントにおいて最速の男が疾風をすら置き去りにしてセイバーの喉元へと迫る。繰り出す一手は加速に物言わせた赤槍の刺突。
 黄槍よりもリーチの長いその槍で以ってして、サーヴァントの急所を一撃の下に抉り取らんと赤い閃光は迸る。

 目にも止まらぬ──否、目にも映らぬ神速の一撃。回避など以っての他。迎撃すら許さぬその渾身の一刺しを──

「──はぁっ!」

 セイバーは振り上げによる一撃で容易く撃ち落し、どころか即座に反撃に打って出る。

「ッ──!」

 鋭い踏み込み。振り上げた腕を強引に引き戻す。姿勢も十全ではなく、力に物言わせた単純なまでの、けれど圧倒的な暴力。その一撃でセイバーはランサーが防御に回した左の黄槍を弾き飛ばした。

 神速の初撃を難なく迎撃されたという事実に対する間隙。そしてセイバーの細腕からは考えられもしない程の膂力で振るわれた一刀は、後手に回らされたランサーの虚を衝くには充分すぎた。

 弾き飛ばされた黄槍が壁面に衝突した瞬間、忘我したランサー、無理な一撃を見舞ったが故の硬直を強いられたセイバー、どちらもが刹那をすら置き去りにする瞬きの停止状態から脱し、動き出す。

 ランサーに黄槍を拾うという選択肢はない。今眼前にあるは時に名を残し歴史に謳われた英傑だ。たとえそれが聖杯の奇跡に魅せられた類のものであったとしても、決して油断を見せて良い相手ではないとたった一合で理解した。

 片翼をもがれたランサーの一手は後退。セイバーが一歩踏み込んでいる以上、その場所は槍の間合いではない。己の得意とするフィールドへ、そして単槍となった赤槍を両の手で担う為の一手。

 対するセイバーは当然の如く攻めの一手。相手の武装を剥いだというこの好機をむざむざと逃すわけには行かない。

 ただ不可解なところがあるとすれば、それはランサーの得物。槍をそれぞれの手で担うという異端も異端の極地。そこに目を瞑るわけには行かない。しかしそれでも、セイバーに後退はない。

 前へ進むと決めた。後ろを振り返ればそこにある、惨劇を回避する為に。少女騎士は頑なに一歩を踏み込み死地にて舞う。

「はぁあああ──!」

 最速の後退を追う最優の前進。

 セイバーはその細腕に膨大なまでの魔力を上乗せして猛威を奮う。ランサーの黄槍を吹き飛ばすに足る膂力の正体こそが彼女の魔力放出のスキルに他ならない。
 単なる筋力ではセイバーはおそらく他のどのサーヴァントにも及びはすまい。けれど彼女が身に宿す膨大な魔力の加護を上乗せした一撃は、他のサーヴァントに引けを取らないどころか上回りさえもする。

「ぐっ──!」

 その証拠にランサーはセイバーと撃ち合う度に苦悶の表情を張り付かせている。刀身が見えず間合いが測りづらく、見誤れば致命を被りかねない。吹き荒れる魔力の風がちりちりと皮膚を擦過し威圧感を撒き散らす。

 そして何より繰り出される一撃の重さ。速度は重さとなり、魔力の密度は何処までも膨れ上がる。一刀一刀が必殺。何処までも強力無比な暴力。
 ランサーに奇策を講じさせるだけの思考時間さえ与えない絶え間ない連撃は、決して広くはないホテルの回廊を余波により無残なものへと変えていく。

 せめて間合いに踏み込ませぬよう、得物のリーチを活かし捌きに捌く槍の騎士。だが絶対的な不利は否めない。一槍であるが故に防御はこなせても、地形が槍を完全に振るうには狭すぎる。
 長槍である赤槍の利点が、この一時に限っては欠点として浮き彫りになる。

「──ふっ!」

 幾十幾百重ねたか分からない撃ち合い──否、一方的な攻防の中、セイバーは更に一歩を踏み込んだ。身を沈ませ、矮躯を最大限に活かした潜行。上段にて一撃を防がせた隙を衝く吶喊。

 その場所は剣の間合いであり槍の間合いの外。ランサーが槍を引き戻す間もなく剣の騎士の一撃がその身に見舞う──

「せぁあああ……!」

「……っ!」

 槍を引き戻し防御に当てる時間も、一歩を退く思考をも奪い去ったセイバーの一手。
 それに応えたのは最早本能の為せる業としか思えない、槍の騎士の見舞う躊躇のない踏み込みだった。

 槍の間合い(ミドルレンジ)。
 剣の間合い(ショートレンジ)。

 その内側。
 その場所は拳の間合い(クロスレンジ)。

 ランサーの槍は無論、セイバーの剣とて十全に振れぬほどの近接距離。防御は許されず、退く事も叶わなかったランサーの魅せた奇策。
 これならば、セイバーとて退かざるを得ない。そして後退すべく跳躍を果たした時、ランサーの槍は逃げる胴を薙ぎ払う。

「見事な剣捌きだ、セイバー。槍使いの俺にこの間合いまで迫ったのは、もしやすればおまえが初めてやもしれん」

 互いが攻め手を封じあった密接距離。鼓動の一拍さえも感じられるほどの間合いで美貌の槍騎士は嘯いた。

「確かに。私としても、まさか槍の担い手がこの距離に踏み込んでくるとは露とも思いはしなかった」

 口にするはどちらも賞賛。裂帛の連撃を繰り出したセイバー、捌き切ったランサー、そして策の読み合いもこうして膠着状態に持ち込まれたとするのなら、それは当然にして与えられる誉れだろう。
 名を明かす事も叶わず、勝利は己が為ではなく主の為のもの。栄誉も名誉もない戦場の只中、けれど二人はそれぞれの薫陶に敬意を払った。

「さて、どうする少女騎士。退けば我が槍がその身を斬り裂くは容易いが?」

 セイバーの魔力放出の加護を以ってしても、ランサーの初速を上回る事は難しい。中途半端に退けば今一度詰められ、大きく退けば槍の追従が待っている。

 攻守は此処に逆転した。戦いの主導権はランサーにある。セイバーに残された手はどう足掻こうが後退しなければならない。しかし──

「ならば私は、何処までも前に突き進む。まかり通るぞ、ランサー……!」

「っ!?」

 剣の騎士の総身から放たれる魔力の風。それは嵐となって吹き荒れ密接状態のランサーに対し猛り狂う。
 魔力放出はそれ自体が外付けのロケットエンジンのようなもの。セイバー本人の足場の状態の有無に関わらず、強引な加速を可能とする。

 ハイアットホテルに飛び移った時に、空中で無理矢理な方向転換、そして加速を行ったように。先の初撃を捻じ曲げ放ったように。今度は、セイバー自身を加速する……!

 強引かつ急激な加速はセイバー自身を後押しし、当然ランサーをもその加速に巻き込み膠着状態を打開する。半歩分の間合いが開けば、足場も充分に事足りる。セイバーは確かな踏み込みで渾身のタックルをランサーに見舞う。

「っく、はぁ……!」

 不十分な体勢でその直撃を被ったランサーは臓腑より息を吐き出し踏鞴を踏む。その隙を逃すまいと踏み込むセイバーに対し、ランサーは今度こそ後退を強いられた。

「此処は通さんぞセイバー! 貴様の剣を折るはこの俺の槍だ! 我が主に刃を差し向ける事など断じて許さん……!」

 後方への跳躍、そして反転。放たれた剣戟に応えるは激情に満ちた痩躯の槍。そこに僅かな違いがあるとすれば、赤槍に巻かれていた呪布が解き放たれているという事。セイバーの剣を利用し、ランサーは主に命じられ封じていた呪を解き放った。

 ──どうかお許しください我が主よ。
   けれどこの敵の剣は我が本領にて応えなければ御身の喉元に届きうる。

 今此処で、確実に仕留めておかなければならない……!

「はぁ───!!」

 真価を振るうことを許された赤槍が風を切る。撃ち合おうとしたその瞬間、セイバーの脳裏に閃いた直感は漠としていながら確かな現実感を以って未来を垣間見せる。

 振るわれた剣は中空で停止し、けれど繰り出された赤槍は止まる事はなく、剣を覆う風王結界に触れた瞬間、

「っ!?」

 吹き荒れる風。解け掛かった風の封印。槍の直撃こそ刀身で防いだものの、セイバーはその異常にとうとう後退せざるを得なかった。

「ようやく退いたか。何処までも愚直に前に突き進むその姿勢は好ましいが、度が過ぎれば猪のそれと違いはないぞ?」

「…………」

「そして見て取ったぞ。汝の振るうその剣の刃渡り。そしてその輝きを」

 風王結界にて剣を覆い隠しているのは何も間合いを欺く為だけではない。それはどちらかと言えば副次的な作用だ。
 真に隠したいもの──それは少女の手にする剣そのもの。余りにも有名で、余りにもその名が世に知られてしまっているその宝剣。

 それはその名を知るどころか、見られただけで真名まで解き明かされてしまう可能性が高い代物なのだ。事実、ランサーは一目見ただけでセイバーの剣と彼女自身の真名に理解を示したようだった。

「光栄だな、よもやあの伝説の王とこうして槍を交えられるとは。騎士の冥利に尽きるというもの。
 しかし貴様は言ったな、己の前に立ち塞がる悉くを斬り捨てると。なればこの戦いは決闘ではなく死闘。敬意は払おう、賞賛もしよう。だが決して、この俺の槍を折る事無く我が主に近づく事は許さんぞ」

 この首を刎ねる事無くケイネスの下へは行かせない──その一念のみでランサーは奮い立つ。主は言ったのだ、この敵の足止めをしておけと。既に一度封を解くという命令違反を犯してしまっているのだ、これ以上は決して譲れはしない。

 そしてその違反に許しを乞うとするのなら、手土産にこの敵手の首級を持っていかなければなるまい。

 間合いが開いた今、ランサーは赤槍をしかと構えなおす。刀身が掴めた以上、後手に回るつもりはない。魔力放出による一撃の重さは厄介なれど、やりようは幾らでもある。

 対するセイバーもまた封を纏った剣の握りを強くする。

「戦場がこの場所であった事に感謝しよう」

「何……?」

 この場所はケイネスの魔城。セイバーの襲撃により瓦解しかかっているとは言ってもそれでもあのケイネス・エルメロイ・アーチボルトが作り上げた城なのだ。
 ならばここには監視の目はない。他のマスター、サーヴァントはこの戦いを目撃できていない。つまり──

「貴様を倒せば私の真名は秘匿出来る。ランサー、やはり貴様には此処で脱落して貰う」

 ほとんど緒戦に近いこの一戦で真名を暴かれる事態になるとは、彼女自身思ってもいなかった。見られてしまったものは仕方がない。知られてしまったものはどうしようもない。だがここで知った者を倒してしまえば、後の戦いに影響はない。

 当然、自身がこの戦いで敗れるとは考えず。先だけを見据え続ける。
 それが彼女の強さ。
 脆さを覆い隠す為の、覚悟と意思。

「フン、何度でも言うが。我が閃槍を破ってから大言を吐け。では、第二幕と行こう。今度はこちらが機先を貰う──!!」

 若草色の風が奔る。
 両者の戦いの終わりは未だ遠く。

 もう一つの戦場の影響が、この戦地に届くのはもう間もなくの事だった。



+++


 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが衛宮切嗣に驚愕を覚えたのは、まさに戦闘が始まった直後の事だった。

 繰り出す水銀の刃は、先ほどは容易く捉えられた動きが今度は悉くが躱された。一目見ただけでそれと分かる異常。先ほどのこの男と比して、今眼前に舞う敵は明らかにその動きが違いすぎた。

 ──筋力強化? いや、そんな生半可なものではない。これは行動の加速……!

 時間操作。大魔術に相当するそれを衛宮切嗣が我流にて戦闘魔術へと昇華させた秘奥──固有時制御。
 自身の体内時間を外の世界の時間から切り離し、倍化鈍化と自在に操る固有魔術。

 今の切嗣は二倍速。ケイネスから見ればそのまま二倍の速度で動いているように、切嗣から見れば世界の全ての速度が半減したかのように感じられる。

 球形から伸びる呪操水銀の刃は既に五本を越えている。それら全てが変幻自在、縦横無尽にホテルの回廊を走り標的である切嗣目掛けて殺到する。
 けれど切嗣はその全てを回避してみせる。最初に斬り裂かれた肩口以外、怪我など一つとして負う事無く。どころか衣服にすら触れさせぬまま踊り続ける。それは舞い。ケイネスを嘲笑う演舞のよう。

「…………ッ、」

 狂ったように踊っていた切嗣が、回避に専念していた切嗣が、唐突に唇を噛み左手に携えていた短機関銃を乱射する。
 敵意に反応したのか、水銀は攻撃の手を止め即座に防御に回る。ケイネスには弾丸の一つとして届かぬよう、皮膜のように広がり盾となり全ての銃弾を叩き落した。

 その間に切嗣は二歩三歩と後退し、マガジンの再装填を済ませた後、自身を倍速化させている魔術を解除した。

「────制御(Release)、解除(alter)」

 同時、襲い来る激痛。固有時制御最大の欠点はこの使用後に来る反動だ。体内時間が外の時間に摺り合わされる時に起こるフィードバック。世界からの修正とも言い換えてもいいそれは、使用者に身の軋むほどの痛みを強いる。

 故に切嗣といえど可能な加速は二倍まで。三倍以上の加速を行えば、骨が砕ける程度では済むまい。やるとしても、それは後先を考えない最終局面以外では有り得ない。

 間合いを広げた切嗣は軋む身体の痛みに耐えながら、現状を観察する。ケイネスにしても自慢の礼装がこうも簡単に対処されてはすぐさま打っては出て来れまい。思考の時間は僅かながらにある。

 まず一つ。ケイネスの月霊髄液の性能評価。基本設定は自動での攻撃、防御。こちらの動きに反応して自在に姿形を変えての攻防を可能とする。ケイネスの命令があればそれを最優先に設定されている模様。

 固有時制御発動下ならば回避は容易。現状以上の攻撃手段がないとするのなら、距離を詰める事も可能。倒す事は決して難しくはない。こと相手が魔術師であるのなら、切嗣にとって敵などそうはいないが。

 第二に自身の性能評価。身体は動く。かつての自分と遜色のない程度には動けている。八年のブランクは、覚悟と舞弥との過酷な戦闘訓練で勘を取り戻せている。これならば、たとえ不得手の相手とて遅れを取る事などそうはない。

 そして第三──

 切嗣は胸に押し当てて動悸を抑えていた掌を見る。

 ──やれる。これは想定の通り。
   かつての自身にはなく、今の自身にはあるこの状態ならば、恐らく────

 魔術師殺しが思考している間、ケイネスもまた現状を備に観察していた。

 暗殺を生業とする男が姿を見せた理由。ケイネスとの直接対決に臨んだ理由に得心が行った。
 行動の加速。動きの倍化。常人を遥かに上回る体術を可能とするこの魔術があるのなら、大抵の魔術師を翻弄することなど決して難しくはないだろう。

 魔術師など所詮研究者だ。魔術を手段とする戦闘者を相手取ること自体が、そもそもの間違いなのである。それも衛宮切嗣ほどに死線を渡り歩いてきた者ならば尚の事。故に単純な殺し合いでは、ケイネスは切嗣に及ばない。

 それを理解し納得する。ケイネスは誇りよりも理を重んじ、決して目の前の現実を見誤らない。

 だがしかし──それでもケイネスは退く足を持たない。彼は研究者であり探求者。それが戦闘者に勝てないと、一体誰が決めたのだ?
 全てを観測し観察しろ。動きの隙間を縫うが如く。一筋の活路を見出すが如く。ケイネスが唯一切嗣に対抗出来るのは、その頭脳に他ならないのだから。

「ふむ……なるほど。理解し、そして了解した。魔術の薫陶を踏み躙り、下賎な手段に貶めた貴様だが、その能力には敬意を払おう。並の修練では、それほどの魔術は習得することなど出来はすまい」

 時間操作は大魔術。およそ戦術レベルでの運用など期待出来ない代物だ。それを戦闘魔術に昇華習得したその発想と応用力。その為に注いだ心血に、ケイネスは畏敬の念を以って応えた。

「だがそれでもまだ私を愉しませるには足りないな。想定の範囲内。私の認識を逸脱するにはまだ足りない。奥の手を持っているのなら早めに見せてくれ。でなければきっと殺してしまうぞ」

 ケイネスの右腕が標的に向けて動く。同時に跳ねた水銀の球体から馬鹿の一つ覚えのように刃が奔る。体内に鈍痛を残したまま、切嗣は固有時制御の呪文を口にし、襲い来る刃を回避した。

 直後──

「────なにッ!?」

 後方。全く意図していなかった方向から伸びた刃を回避せしめたのは、固有時制御を使用して以降、ケイネスの顔に張り付いていた渋面が、今や三日月の笑みを形作っていたからだった。

 厭な気配。そう呼ぶしかないものに反応出来たのは、かつての己を取り戻していた切嗣だからこそ出来た芸当だった。

 そして脳裏に過ぎるのは今の攻撃はどうやって行われたのか、という一点。セイバーの魔風に破壊されなかったトラップが未だ残っていたのかと勘繰って、視線だけを後方に向ければ、そこにあったのは銀の球形。ケイネスの繰る呪操水銀。

 当然、今なおケイネスの脇には先の一撃を見舞った水銀が転がっている。そして切嗣の後方には、全く同じサイズの月霊髄液が、いつの間にか存在していた。

 ──これほどの礼装を二つ同時に使役しているだと?

 手動で発動するタイプの礼装よりも、自動で機能する礼装の方が格が高い場合が往々にして多い。一々命令を下し発動するものに比べて、自動タイプのそれは複雑な命令系統と行動認識を設定しなければならないからだ。

 たとえそれが単純化された命令であったとしても、それを意のままに発動し切るには相応の維持魔力、そして煩雑な命令系統を完璧に制御下に置く才能が必要になる。

 流動物を自在に操るケイネスの特性は風と水。その複合属性を水銀に応用し高度な命令系統を自動で発動させている。そこに矛盾はなく、美しくすらある。

 だが解せない。ケイネスほどの魔術師が信を置く礼装。当然それは生半可な魔力運用では賄えない。彼がマスターであり、サーヴァントに魔力を供給している以上、そしてそれが今現在戦闘中であろうランサーに容赦なく吸い上げられているであろう魔力を鑑みれば、二つ目の月霊髄液など存在する筈がない。

 しかしそれは確固として存在し、二つの水銀は切嗣を挟み込む形で攻撃の瞬間を待ち望んでいる。

「悪いが種明かしなどする気はないぞ。何処ぞの三流魔術師ではあるまいし、自ら手の内を晒すほど私は愚かではない」

 言いながらケイネスは胸元へと手を伸ばし、掴み取った三本の試験管を見せ付ける。細い試験管の中に満ちるは銀の水。そのどれもが、ケイネスの繰る呪操水銀──!

「そら、躱し切れるものなら躱してみせろッ────!」

 砕かれる試験管。空中で踊り球形を形作り三つの小さな水銀球は地に落ち跳ねた。

 都合五球。大が二つに小が三つ。ホテルの回廊の中、その狭い通路の中で五つの水銀液が所狭しと舞い踊る。いかに倍速化していようとも、所詮は人間の為す事。動きには幾らでも制限はあるし、ただ速いだけでは躱し切れない死角が必ずある。

 究極──動きを縫い止めてしまえば如何に速く動けようが関係がないのだ。

 そして先の舞いの最中、切嗣がケイネスの礼装の性能を看破したように、ケイネスもまた固有時制御の限界を見定めた。加速していられる時間には限界があり制限がある。その時間が終わった時こそが魔術師殺しの末路だと了解する。

 しかして舞姫が踊りつかれるのを待つほどケイネスは悠長ではない。五つの水銀球から放たれる無数にして夢幻にも等しい刃の嵐の中、必死に回避し続ける切嗣を見やり、合図を送るように指を鳴らす。

 直後、二つの大きな呪操水銀が波立ち、津波の如くその身を堆く広げ被膜を形作る。包囲していた切嗣を包み込むように。

「…………ッ」

 銀の球体に捕らえられた切嗣に、為す術はない。動きが極度に制限された状況下では、固有時制御の倍速化など微塵の役にも立ちはすまい。

 この敵を以ってしても、ケイネスの理解の外には及ばなかった。しかしそれでも構いはしない。未だ敵手は五人五騎。その内の一人くらいは当たりがあれば構わないと、止めの一撃とばかりに水銀に被膜の内側への攻撃──さながらアイアンメイデンの棘の如くの千本針を見舞おうとした瞬間──

 ────それは起きた。

 ずん、という鈍い音。一瞬遅れた後に、襲い来る鳴動。振動は床を震わせ、天井に吊り下がる明かりを揺るがせ、回廊全体──否、このハイアットホテル全体をこそ大きく揺るがした。

「なに……? まさか────!」

 そう──ケイネスはこの一時、目の前の敵の悪辣さを見誤っていた。
 尋常ではなくとも、正面切って挑んで来た事を不可解に思いながらも、何処かでそれを当然と受け入れていた。

 だが忘れるな。
 目の前の敵手は衛宮切嗣。
 最悪の殺し屋。

 ターゲットを殺害する為ならば、旅客機ごと──その乗客ごと爆破しかねない男なのだ。

「貴様……このホテルごと爆破する気か────!」

 爆破解体(デモリッション)。

 主に高層建築などを解体する際に行われる発破技術で、横ではなく縦に、外ではなく内に倒壊させることで周囲への被害を最小に抑えながらの解体を可能とする高等な技術。
 要所の支柱をピンポイントで破壊する事で、建物の自重により崩落するそれは、地上より天上に昇る爆破の連鎖。

 小規模の爆破が連鎖的に支柱を破壊し、数十秒もあれば地上百五十メートルに及ぶこのハイアットホテルを破壊して余りある。

 最上階であるこの階層が揺れた意味──それはもう、残された猶予時間はほとんどないと告げていた。

 そんな刹那の中、ケイネスの思考は巡る。一秒を引き伸ばし、永遠に偽装して、自身の現状の把握に努めようと躍起になる。

 このホテルには未だ宿泊客が存在する。セイバーの襲撃の際に砕かれた窓ガラスは地上に落ちず自動修復されており、その際の爆音も遮音の結界により完全に遮断されていた。
 階下の人間にこの階層の異常を知る術はなかった。今置かれている現状ですら、地震かと思う程度であろう。

 ケイネスとて目の前に立つ敵が衛宮切嗣でなければ、崩落に巻き込まれていた可能性は低くはない。

 しかしそれでもそこまではしないと思っていた。何故ならば、衛宮切嗣自身がこの場に存在するからだ。まさか敵ごと宿泊客どころか、自分すらその爆破に巻き込もうとするなど思うまい。

 狂気の沙汰だ。
 常軌を逸している。

 敵を倒す為、聖杯を掴む為、この男は──衛宮切嗣は、その命すら賭して戦っている。

 決定的な覚悟の差。
 自身の命を勘定に入れない敵の存在など、本物の死地を経験した事のない天才は想定していなかった。出来る筈もなかったのだ。

 ケイネスが今為す事、為すべき事。それは自身の安全確保。そして許婚であるソラウの身を守る事。

「令呪に告げる! ランサー、ソラウを守護せよ!」

 戸惑う事無く三画しかない令呪を惜しみなく消費する。右手の甲に集う赤き魔力。令呪の一画を焦がし昇華させ、その命令は放たれた。

 ケイネスには月霊髄液が存在する。この礼装を以ってすれば、地上百五十メートルからのダイブとて無事着地してみせる。
 切嗣を覆っていた被膜が解け、五つの水銀球は一つに合わさりケイネスを包み込む最硬の盾となる。

「────」

 そして、この時を待ち望んでいたように。
 ケイネスが自身の身を守る為、魔力回路を最大限に励起させ月霊髄液を最大戦力で運用するその瞬間をこそ、切嗣は待っていた。

 トンプソン・センター・コンテンダーに篭められていたスプリングフィールド弾は刹那をすら置き去りにする速度で排夾され、次いで篭められたものこそ魔術師殺しの秘奥──起源弾。

 魔術師殺しという異名は切嗣が対魔術師戦においてその全てを対象の殺害で完遂した事実から名付けられたもの。
 しかしてその異名の真の意味──衛宮切嗣が魔術師殺しである本当の理由は、この魔弾にこそあった。

 その魔弾は、魔術師を殺す為だけの礼装。魔術師を魔術師足らしめる魔術回路を、完膚なきまでに破壊する事に特化した魔術師に対する銀の弾丸。

 ケイネスは呪操水銀の盾を展開し、令呪によってランサーをすら自らより遠ざけてしまった。故に今、彼は完全なまでの無防備。最硬の盾を纏おうとも、そんなもの、切嗣の前では紙屑も同然だ。

 今宵の戦い、切嗣の目的は敵の打倒は最終目標であっても作戦工程における一段階でしかなかった。最も確かめたかったもの──今の自身の性能を実戦の中で試す事が第一だったのだ。

 その為にわざわざケイネスの攻撃を受け続けた。反撃の暇は幾らでもあったが行わず、ただただ防戦に回り続けた。
 結果として得たものは確信。戦えるという確信だ。これでこの戦い、切嗣に憂いはない。

 後は確実に──敵を殺すだけの事。

 たった一人のマスターを殺害する為に、ハイアットホテルとその宿泊客を犠牲にする。それに心を痛める事はない。

 衛宮切嗣はこの戦いの後、六十億の人間を救うのだ。その為の犠牲として、数十人の無関係な人間が無意味に死んだとしても、天秤の針は揺るがない。片皿に載った大を救う為ならば、小を自らの手で殺し抜く事を、切嗣はとっくの昔に誓っているのだから。

 その犠牲により生まれる怨嗟も憎悪も悪意も全て。背負うと決めた。正義の味方であり続けるには、こんな生き方しか出来なかったのだから。

 ──全てを背負う。たとえそれが欺瞞に満ちたものであったとしても。

 引鉄を引き、撃鉄を落とす。撃ち出された弾丸は、展開する水銀の盾の中心に寸分違わず命中し、励起していた魔術回路に極大の負荷を掛け、完膚なきまでに破壊し尽くした。

「……ッ、…………がぁ!? ……、ぁ────……」

 事態が理解できないまま、ケイネスは身の内側から襲い掛かった激痛に苦しみ、血反吐を吐き、気を失い、水銀は崩れゆく床に波立ち落ちた。

 魔術師が、魔術によって敵の魔術を防御する。その当たり前の行動で敵の命脈を絶つ切嗣の秘奥は、予備知識がなければ防げない。
 けれど起源弾の性能を知る者は切嗣と舞弥以外に存在しない。魔弾の標的になった者は全て、既にこの世には存在していないのだから。魔術師然とする者ほど、魔弾の格好の餌食なのだから。

 此処に一つの戦いが終息する。
 後は崩落を始めたハイアットホテルを脱出するのみ。

 固有時制御の加速ならば、この最上階が地上に衝突する前に脱出する事など容易だ。
 水銀の海に崩れ落ちた『試金石』には目もくれず、衛宮切嗣は主を失った魔城より離脱した。



+++


 切嗣による爆破解体が引き起こされるその少し前。

 セイバーとランサーの演舞は未だ続いていた。互いに繰り出した剣刃は既に幾合を数えたか定かではなく、彼らの中心に咲く火花は無数にして無尽。百花繚乱に狂い咲き、終わる事無く尚堆く衝突を繰り返す。

 勝負は拮抗しているかに見えるが、その実優勢なのはセイバーだ。
 魔力の後押しを得た剣戟の威力は十全の威力を発揮出来ないランサーのそれを上回る。これが撃ち合いである以上、ものを言うのは一撃の重さだ。

 無尽に繰り返される乱撃の中、セイバーの重く強烈、それでいてなお手数で劣らない連撃は、ランサーの体力を徐々に奪い、その身体に傷痕を残していく。

 速力でこそランサーが上回るものの、その他全てのパラメータがセイバーの方が上。基礎スペックで他を圧倒する、奇策など必要としない強さ。それがセイバーのクラスが持つ強みである。

 戦場がこの狭い空間内で、自慢の足も得物のリーチも十全に活かせない戦場では、セイバーに分があるのは当然だ。

 しかしてそれを拮抗に見せかけているものこそ、ランサーの赤槍の放つ特殊能力。触れたものの魔力を断つ破魔の槍。
 時折セイバーの鎧を掠める時、その矛先は鎧の強度を無視し、彼女の身体を抉り取る。

 魔力で編まれたもの、魔力で維持されたものの全てが、あの槍の前では丸裸にされてしまう。風王結界も今や完全に解かれている。剣先と矛先とが触れ合う度に風が巻き起こってはまともに戦う事も出来はしないし、無駄な魔力を消費するだけだからだ。

 主の下へと向かわせない。防戦による足止めに専念するランサーだからこそセイバーの猛攻を押し止められている。
 この状況を打開する術はある。この槍騎士が担うは破魔の赤槍だけではない。初撃にて弾き飛ばされた黄槍。それが今、戦闘の余波を受け転がり、手を伸ばせば届く距離にまで近づいている。

 しかしその黄槍に意識を向けた瞬間、セイバーはその隙を見逃さずランサーに渾身の一撃を見舞うだろう。仮に致命傷は避けられても、絶対的なダメージは避けられない。

 起死回生の一手を打つ為に決死の策を弄するか。
 このまま足止めに終始し主の命令に従うか。

 二者択一の選択を迫られているその時、その振動は階下より響き渡った。

 両者は訝しみながらも振るう手は止めず。けれど直後、ランサーの身に起こった奇跡に、どちらともが瞠目した。

『令呪に告げる! ランサー、ソラウを守護せよ!』

「何ッ……!?」

「……これは!?」

 令呪による強制命令。防戦に終始していたランサーは意の外からの命令により渾身を超える一撃でセイバーの剣戟を弾き飛ばし、瞬間、その身は戦場より消失した。

「……ここは……何が…………」

「ランサー!?」

 短距離の跳躍。次元の壁を超えて行われたそれは小規模の奇跡とも言える令呪の為せる業。ランサーが理解を得ぬまま踏み締めたのは主の部屋。ソラウが身を隠していた部屋だ。
 そして雷鳴のように総身を包む絶対遵守の命令が、ランサーが次に取るべき行動を否が応もなく決定させた。

「ソラウ様、今は一刻も早くこの場を離脱します」

「何? 何が起きているの? この振動は何?」

 こうして話している猶予などない。既に崩壊は起こっている。今にも足場が崩れても何らおかしくはない現状なのだ。

「失礼。無礼をお許し頂きたいッ!」

 ランサーはソラウの肩を抱き、抱え上げるようにその身を腕の中に収める。従者の突然の所作にソラウは目を白黒させながら、それでも美貌に宿る苦悶の表情を見やり、任せるままに腕を大きなその背に回した。

 ソラウを抱えたランサーが地を蹴り、外へと身を躍らせようとしたその瞬間、

「待てッ!」

 爆音を轟かせ、セイバーは俊足の踏み込みで部屋へと押し入った。

 如何にセイバーの知覚範囲が狭くとも、ここは同じ階層に存在する場所だ。令呪の奇跡によってその身を消失させようとも、出現と同時にセイバーはランサーの消えた先を感知しその後を追いかけたのだ。

 先の振動、そして迫る崩落の足音。ランサーの様子を見る限り、これは彼ら陣営の策ではない。ならばそれは切嗣の弄した策。敵マスターを葬る為の、確実に抹殺する為のものに違いない。

 ならばこの己もまた、敵であるランサーの首級を易々と逃がすわけにはいかない。

 ランサーはソラウを守護せよと令呪によって命令されている。そして彼女を抱えてる現状でセイバーの相手など務まる筈がない。故に逃げの一手。悔しくとも、情けなくとも、この場は撤退以外に有り得ない。

 しかし────

 刹那にランサーの総身を舐めたのは、主の火急を告げるシグナル。ケイネスは自身の安全を確保した後にソラウを守る為ランサーに命令を下した。
 しかし今、ケイネスは予期せぬ事態に襲われ、衛宮切嗣の魔弾に撃たれ、その命を最大の危機に晒していた。

「はっ、──かぁ……!!」

 言葉にもならぬ絶叫。ソラウを守れという令呪は未だ生きている。故にケイネスは即死ではない。だが眼前には最優を誇るセイバーがいる。この敵を退け、ソラウを守り、令呪に逆らいケイネスを助ける? この、一秒をすら争う状況で?

 不可能だ。

 そう理解した、理解してしまったが故の声にならぬ叫び。自らに課した役割を全うできぬ事に対する慟哭。吼え上げたい声を抑え付け、血の涙を流しながら、その美貌に憤怒の鬼を宿し騎士は射抜く。

「覚えておけセイバー……おまえは、貴様だけは、この俺が必ず殺すッ!」

 セイバーが踏み込みを躊躇するほどの怒気。何処か涼やかな風を纏っていた槍騎士に、今やかつての面影は微塵もない。
 主の最期の命令を守る為、その主の命を犠牲にしなければならないその矛盾。忠誠を誓いし主に背を向け、若草色のサーヴァントは夜の闇の中に消えていった。

「…………」

 後を追うように、セイバーもまた戦場を去った。
 その胸中を推し量る事は、誰にも出来なかった。



[25400] Act.03
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/02 20:47
/1


 闇を斬り裂く赤い光。
 夜を引き裂くサイレン。
 響き渡る誰かの怒号。
 何事かと群がる野次馬。
 統制を取り、状況を鎮めようとする公僕。

 繰り返される安否確認。
 呼ばれる名前。
 応える声は、当然にして無い。

 待機している救急車に搬入されるのは偶然にもホテルの倒壊に巻き込まれず、不運にもあの時、あのタイミングでこの場所を通った通行人ばかり。
 『事故』に巻き込まれた者、当時ハイアットホテルに宿泊していた宿泊客の中に生存者などいなかった。

 倒壊当時、ホテルの中にいて生存しているのは、仕掛けを行った張本人である衛宮切嗣と人外であり脱出可能だった二騎のサーヴァント。そしてその内の一騎に抱えられ離脱したソラウ・ヌァザレ・ソフィアリのみ。

 ランサーのマスターであるケイネス・エルメロイ・アーチボルトについては未だ生死不明ながら、その生存は絶望視されている。

 彼の相手があの衛宮切嗣であった事、そして彼女──今こうして武装を解き、野次馬に紛れながらハイアットホテル『跡』を見つめるセイバーが最後に見たランサーの姿を思えば無理からぬ事だった。

「…………」

 ダークスーツに身を包んだ少女は無機質な瞳で空を見上げていた。かつてその場所にあったものを、回顧するように。
 そして唇を強く噛み締めた。自らの為した事、自らのマスターが為した事。その意味を考えて。

 かつて彼女が王であった頃、これと同じ事を為した事があった。
 海の向こうより襲い来る蛮族共を迎え撃つ為、戦支度の為に村の一つを潰すほどの徴税を行った。

 結果戦いは勝利に終わる。大局的に見ればそれは国というより大きな母体を守る為に小さな犠牲を強いただけ。それでもその村で暮らしていた民の生活を、命を犠牲にした事には変わりがない。

 彼女に仕えた騎士の中には、その犠牲を是としない者も多かった。犠牲などなくとも我らは勝利し得ると。

 確かにそうだったかもしれない。
 犠牲など払わずとも勝利出来たかもしれない。

 しかし王であった彼女には、理想で在り続ける事を望まれた王には些細な過ちさえ許されなかった。

 僅かでも勝利する可能性を上げられる手段があるのなら講じるべきであり、そうしない王など暗君だ。国を保ち多くの民を守る為ならば、その民の少数を犠牲にする事は決して間違ってはいない──

 大儀の為に少数を斬り捨てるその行為。規模の大小、程度の差こそあれ、衛宮切嗣のやり口と生前のセイバーのやり口は一緒だ。

 それを誤った事だと思ったことは無い。そうする事が最善だと考えて、行動に移しただけだ。そこに悔いや迷いを残しては、犠牲となる者に向ける顔がない。

 誰に咎められ、誰に罵られようと、歩みを止める事はなかった。彼女には為すべき事があったから。
 今もそう──聖杯を手に入れるという大義名分、祖国を救うという大いなる免罪符があるのだから、この程度の犠牲に心痛める必要など何処にもない。

 ──ああ、ならば何故、この私は目の前の光景に、こうも胸を締め付けられるのだろう。

 誰かが泣いている。誰かが喚き散らしている。倒壊の犠牲者に知り合いか家族でもいたのだろうか。
 彼ないし彼女らの想いは誰に届くこともなく葬られるのだろう。このホテルの倒壊は恐らく、教会の手によって揉み消される。

 正確には、事実は歪曲され世に出る事になるのだろう。真犯人は捕まらないし、事故の原因は全く無関係の誰かに押し付けられる。今も現場で動いてる人間の幾人が、あるいは全員が、教会の息のかかる者であってもおかしくは無い。

 ならば彼らの嘆きは何処に消えていくのか。行き場の無い想いは、誰が受け持つと言うのだろうか。

 これが切嗣の独断による策略でなく、セイバーに了解を得てのものだったならば、また違う感慨もあったのかもしれない。
 事前にそうと分かっていれば、幾らでも覚悟を決められる。かつて自身がそうだったように。

 しかし今回に限っては、セイバーは何も知らされていなかった。切嗣のサポートを務めるという女人からはハイアットホテルに強襲をかけるまでの作戦工程しか聞かされていなかった。

 ああ、そんなものはただの言い訳に過ぎない。衛宮切嗣のやり口を思えば、残虐ではなくとも、冷酷で冷徹で非情なあの男ならば、この程度やってのけてしまっても不思議ではなかった。

 彼の祈りをセイバーは知らない。人からは洗い浚い聞き出しておきながら、自分は何一つとして語らない。
 しかしそれも許容しよう。セイバーは彼をマスターと認め、自身は剣であると断じたのだから。担い手のやり方に、決定的な断絶が生まれない限りはケチをつける気など毛頭ない。

 最終的に聖杯が手に入るのであれば──それで構いはしないのだ。

 無意味な犠牲を強いるのならば反発も有り得るが、犠牲の上に結果が成り立つのなら否定のしようとてない。
 戦いには犠牲が生まれる。幾多の犠牲の上に勝利がある。かつて国を守る為に戦った時もそうであったように、この戦いとて無血での勝利など有り得ない。

 出来る限り犠牲を抑え、最大限の結果を生む。聖杯を手に入れる代償に流れる血が、自分自身だけのものだなんて傲慢だ。こんな街中が戦場になっている以上、決して流れ零れる血は少なくないのだ。

 しかし──ああ、それでも。いや、だからこそ。

 屍の上に輝く勝利という名の栄光を前に、セイバーはその輝かしさにではなく、血に濡れる屍の嘆きにこそ心奪われた。

「…………」

 かつて自らの行った所業。
 勝利の為に犠牲を強いるその行い。
 それをこうして客観的に見たのなら。

 目の前にあるこの光景を、嘆きを。
 王としてではなくただ一人の少女として見つめたとするのなら。

『王は、人の心がわからない』

 そう、かつて理想の王に、理想で在り続ける事を望まれた王に吐き捨てた騎士の事を、少しだけ思い出した。

 追想は刹那に消え、少女はすぐに剣へと立ち返る。
 未だ敵手は健在。戦いの趨勢など全くといっていいほど定まっていない。

 緒戦にして手応えは上等。この身は他の英傑と比してなお劣る事は全く無い。戦える。勝利を掴み得ると確信した。故に歩みを進めよう。屍の丘を踏み越えて、その上に輝く聖杯を掴み取る。

 この手を誰かの血で染めて、心を嘆きに塗り潰されながら。それでも彼女は原初の決意を違う事無く、ただ前を見据えて進んでいく。

 その時、彼女の耳元で電子音が鳴り響く。切嗣とセイバー両名を繋ぐ中継役。少女はその名を知らないが、舞弥からの通信が届いた。

『セイバー』

「はい」

 雑踏を離れながらセイバーは応える。名も知らぬ彼女からは先の戦いにおける労いの言葉もない。それを当然と受け入れて、少女もまた無機質な声を返した。

『これより指定する場所に移動してください』

 無駄のない、ただそれだけの指令。恐らくは切嗣の言葉を代弁しただけのものだろう。セイバーもまた無意味な返答はしなかった。何故、どうして。そんな疑念を差し挟む余地などないと理解していたから。

 彼女のマスターは残虐でなくとも非情で冷酷で冷徹な男だ。
 そんな男だと知っているから。
 そんな男が、ケイネスの命一つ獲ったところで満足する筈がないと思うから。

「了解した。この夜の内に一組、脱落させましょう」

 生き残った者達の命に幕を引く。
 詰まるところこれはただの、残党狩りだ。


/2


 冬木ハイアットホテルのある新都駅前広場より北方。回転する灯台の明かりが照らす、暗闇の海を臨める埠頭近くの廃工場に、その主従の姿はあった。

 闇に紛れて戦場より離脱して数刻。ランサーは無論の事、未だ事態を正確に把握出来ていなかったソラウもまた、あのホテルより他の場所に当てなどなかった。

 故に槍騎士はせめて人気の少ないところへと、こんな寂れた場所に身を隠す事にした。

 ケイネス、ソラウのかつての生活環境を思えばこんな煤と埃に塗れた場所など拒絶されても仕方の無いものと思っていたランサーだが、ソラウはすんなりとこの場所に身を潜める事を了承した。

 そこに僅かな不可解こそあったものの、言葉にはせず、二人は工場内の一室でようやくの安堵の息を吐いた。
 その後、従者は主の顛末をその許婚に語り聞かせた。あの戦場で起こった事の全て。およそ己の知り得る全てを吐露した。

「…………」

 聞き終えたソラウはただ、呆と虚空を眺めていた。そこにどんな想いがあるのかは、ランサーには計り知れない。

 ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリにとって、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトとの婚姻は半ば約束されたものだった。ソフィアリ家の家督を継げぬ一子など、所詮は政略の道具でしかないと彼女自身弁えていた。

 魔術の薫陶は授かれなくとも、魔術師の家系に生まれたが故の達観を持っていた。それを悲観する事無く、ソフィアリの繁栄とケイネスの人生を彩る華となる事を、彼女は始めから受け入れていた。

 婚姻が両家による取り決めだったとしても、ケイネスは真実ソラウを愛していた。完全無欠の天才が、唯一言葉を紡ぐ事を躊躇するほどにソラウの姿はケイネスの心を捕らえて離さなかった。

 故にケイネスはソラウに愛を囁いた事はない。彼女を前にすると言うべき言葉が消えて失せる。どれだけ難解な論文の朗読とて、多くの学徒を前にしての講義でさえも言い淀んだ事の無い男が、彼女を前にしてはただの恋に焦がれた少年のようだった。

 募る想いは言葉にはならず。衝いて出る言葉は僅かに的を外したものばかり。この想いを酌んでくれよと心中に想いながら、ケイネスは常に理想の魔術師で在り続けた。

 しかしそんな彼と彼女だからこそ、齟齬は生まれ積まれていった。情熱に心を燃やすケイネスであれど、それは言葉にしなければ伝わらない。並の女が相手なら、ケイネスの経歴だけを見ても歓喜に打ち震えただろう。

 約束された勝者の人生。その隣に在れるのだから、たとえそこに恋心がなくとも打算に塗れて媚を売ろう。

 けれどソラウはそうはならなかったししなかった。彼女の心にあったのは諦観と享受。自分は誰かを彩る美しい花。愛でられ手折られ、そしていつか朽ちていくだけの薔薇。
 そう諦観し、ただ流されるままに状況を受け入れ、心を凍らせることで全ての事象から目を逸らした。

 ケイネスに食って掛かった事もあったが、それも彼女が彼女であり続ける為の処方に過ぎない。名家に生まれた貴人としての振る舞いを刷り込まれたが故の傍若無人。彼女が心底から何かを欲した事など、ただの一度としてありはしない。

 故にその身はただの花。美しいだけの花なのだ。花は自分で何かをしないし動かない。花はただ、自身を美しく保つだけなのだから。
 いつの日か、朽ち果てるその時まで。命の限り美しく咲かせ続けるだけなのだから。

 ────そう、これまで彼女は確かに、花だったのだ。

「ランサー、私を救い出してくれてありがとう」

「いえ、礼には及びません。私はただ、主の下命を守り抜いただけなのですから。どうか我が主にこそそのお言葉を掛けて頂きたい」

「……そうね。ケイネスにも勿論、感謝しているわ」

 主命を守り抜く。その代償として主の命を救い出せなかった事は、彼の心に最大の軋轢を齎している。主命は至上。しかしそれも、主の命あっての物種だ。しかし主は、主の愛しき人を守れと言われたのだ。

 どちらかしか救えなかった。どちらをも救いたくとも、あの状況下ではどう転んでも不可能だった。たとえこの身を差し出せば両者の命が救えていたのなら、何も悩む事無く命を投げ出し、笑顔のままに死ねたというのに。

 主と従者は決して良好の主従関係を築けていたとは言えない。ケイネスにとってランサーは次善。ウェイバー・ベルベットに聖遺物を奪われていなければ、あの赤毛の王こそが彼の従者となっていた筈だから。

 それ故か、主の従者に対する扱いは常に辛辣だった。短い時間しか共に在れなかったとはいえ、その中でケイネスは決して騎士にその心を許さなかった。

 何よりも騎士が持つ愛の逸話ゆえに。主の許婚を婚姻の場から掻っ攫った男を、同じ許婚を持つ身としては決して信用する事など出来はしなかった。

 あの時、あの瞬間。ハイアットホテル崩壊の予兆を感じた時、ケイネスは戸惑いもなく令呪に訴えソラウの救出をランサーに命じた。
 信の置けぬ従者に許婚の命を預けるその所業。たとえサーヴァントとしての力量をこそ評価していたとしても、ケイネスの人となりを思えば決して下せぬ筈の命令。

 それをこそが、ケイネスの愛の深さを語っている。自らの信を曲げてまで、彼には守りたいものがあったのだ。
 たとえその想いが彼女に届かなくとも、誰に理解されることが無くとも。彼の恋心は本物であったのだから。

 ランサーがケイネスの本心を理解していたかは本人にしか分からない。ただそれでも彼は思ったのだ。
 決して重用はされなかったこの身、望まれていなかったこの身を捧げるべきは主の為。己の意を曲げてまで誰かを救いたいと願った心を無駄にしてはならないと。

 だから騎士は選んだのだ。主命を守り、その恋人を守る事を。

 主が己の命と比してなお、守りたいと願った命を守る事。ランサーは主命を守ったのではなく、主の心をこそ守ったのだ。

 ああ、だからこそ────

「ケイネスは、もう……」

「はい。私と主の間に交わされた契約の繋がりが感じられません故……」

 従者が握り込んだ拳の中で爪を立てる。心に苛立ちと不甲斐無さの腫瘍が出来たよう。掻き毟れるものなら血が溢れるほどに引き千切りたい程の衝動だった。

「でも私と貴方の繋がりは消えていない。そうよね?」

 ケイネスはマスターとサーヴァントの間にある繋がりを二つに分けた。一つはマスターの証たる令呪に繋がるもの。もう一つは魔力供給に使われるものとに。

 本来二つで一つである繋がりを分けられたのはケイネスが特級の術者であったからに他ならない。そうする事で彼は十全の魔力を十全のまま使用可能とし、サーヴァントもまた戦闘に耐え得るだけの供給量を確保した。

 そして今、ケイネスが持っていた令呪への繋がりは断たれた。それはマスターの死を意味し、本来ならばそのサーヴァントであるランサーもまた、とうに消滅していなければならない。
 しかし彼は生きている。彼とソラウの繋がり──魔力供給のラインは未だ繋がったままだからだ。

 切嗣の誤算は今この状況。本来ならば、ランサーはとうに消えていなければならない。言峰綺礼が真に脱落者であったのならまだ可能性は残されていたが、はぐれのマスターがいない現状では、ランサーに再契約が見込める筈などないのだから。

「はい、ソラウ様。私と貴女の間にある繋がりに綻びはない。ケイネス殿の手腕は見事と言う他ないでしょう。
 しかし私は、この契約を長く続けるつもりはありません」

「何故っ!?」

 氷の心を持った女が激昂する。腰掛けていたスプリングの壊れているソファーより腰を浮かし、面を伏せるランサーの瞳を覗き込む。

「我が主は言われたのです、貴女を守れと。私が傍にいる事、この聖杯戦争の場に身を置き続ける事。それ自体が貴女の無事を脅かす。
 主の最後の下命を守るのならば、俺は貴女の傍にあってはならない」

「なんで……? ランサー、貴方は聖杯が欲しくてこの戦いに臨んだのでしょう? 契約は続いている。
 ケイネスは死んでしまったけれど、令呪はなくなってしまったけれど。私の魔力が貴方を存在させ続けている。ならば貴方は、私の従者として続く戦いに臨むつもりだったのではないの?」

「いいえ。元よりこの身は聖杯など欲していない。ただ欲したものは真の忠。主君への終わりない忠義こそ、俺が欲し求めたもの。
 主は俺の不甲斐無さ故に亡くなった。でも、だからこそ私は最後の主命を守り通したいのです。御身の無事を守りたいのです」

 戦場に身を置き続けるのなら、いつかきっと彼女の無事は脅かされる。激烈化する戦いの中心点に居続けるには彼女の存在は軽すぎる。
 真に安全を願うのなら、そも戦場を離れてしまえばそれでいい。彼女は元よりケイネスの付き添いとして冬木に赴いただけなのだ。聖杯に賭けるだけの願いもなければ戦うだけの力もない。

 言うなればその身は一般人のそれと変わりがない。ケイネスの庇護がなければ容易く摘んでしまえるだけの花に過ぎない。
 そしてランサーはその花を守ると誓った。主君の命じた言いつけを、たとえこの身が砕けようとも守ると決めたのだ。

 主君に誓いし忠誠の形。その終わりがこんな形なのは不本意だが、それはきっとケイネスも同じ。ならばせめて、彼の大切なものを守り通すのだと。

「はっきりと言わせて貰えば、ソラウ様を主と頂く事は出来ません。私が今代にて忠誠を誓いしは後にも先にもケイネス殿のみ。鞍替えなど以ての外、たとえそれが許婚であるソラウ様であったとしても、折れることは有り得ません」

「たとえそれが……貴方が消滅する事となっても?」

「はい。主の主命、守り通す事が出来たのなら悔いは何もありません」

 その言葉は嘘だった。悔いはある。無念もある。ケイネスを守り切れなかった、聖杯に手を掛ける事が出来なかった。主の道を途絶えさせてしまった事こそ不明の至り。
 この己が死んで償えるものなら幾らでも死のう。腹を割き、眼球を抉り、四肢の全てを差し出そう。

 けれど結末はもう変えられない。己の不覚は拭えない。永遠の澱として、この心に残り続ける。だからせめて、主の花を守るのだ。そうする事でしか、もう己は動く事さえ出来ないから。

 そして彼女の無事を確保したのなら、悪鬼羅刹、修羅畜生となってこの戦場を駆け抜けよう。この身が砕け散るその時まで。髪の一房が消え去るまで。一滴でも多くの血を、主の墓標に捧げる為に。

「…………」

 ソラウは彼の譲れぬ想いを前にして口を噤む。どんな言葉を掛けようと、どんな願いを祈ろうと、この男の心は折れまい。折ってはならないと知っている。

 端正な面貌に宿る魅惑の黒子。居並ぶ女子を虜にし、愛の奴隷に変える彼の呪い。彼の命運を狂わせ続けた不実の祝福。
 それは今確かに、凍れる女の心を溶かしていた。達観と諦念に生きていた女の心に慕情を宿らせた。

 それが本当に魅惑の呪いによるものなのか、彼女自身の内より湧き出たものなのかはこの際関係がないしどうでもいい。真実として彼女はこれまで何一つ動じなかった己の中に、その感情を見出したのだから。

 彼と共にいたい。彼と共に在りたい。そう願うほどに募る想い。ケイネスの死とて彼女の心を揺さぶらなかったというのに、彼の魔貌はただの一目で永久凍土にも等しい彼女の氷を溶かしていった。

 ああ、彼の忠誠は美しい。ケイネスの死を悼む心とて持ち合わせている。ただそれでもこの心を焦がす想いには、何一つとして及びはしない。
 この輝きに比べれば、他の全てなど唾棄すべき路傍の石と変わりない。この想いこそが至宝だと、やっと見つけた人生の価値だと信じて疑わない。

 彼女は決して悪女ではない。
 ただどうしようもなく、純粋で純真であっただけの話。

 だから彼女は口にする。
 許されぬ想いを。
 彼の忠義を踏み躙る、何処までも甘美な響きを伴った恋の音を──

「────ソラウ様」

 自らに生じた初めての想いを吐露しようとしたその瞬間、まさに間隙を縫うようにランサーは諌めの言葉を吐き出した。
 それが偶然であったのなら、運命とはかくも残酷だ。

「ランサー? どうかしたの?」

 彼は決してソラウが吐露しようとした想いに予測がついて諌めたわけではない。それを証明するように、彼の瞳はここではない何処か遠くを見据えている。

「この場所に近づいてくる気配を感じます」

 足取りは確か。こんな寂れた廃工場に用のある者など他に検討のしようがない。

「……居場所がばれたとでも言うの?」

 ハイアットホテル倒壊からまだ夜明けにすら至っていない。あの騒ぎから離脱する中、誰かに見られるような不手際をした覚えはないし、そもケイネスの死を知っている者ならば追撃こそが有り得ない。

 先にも述べたように、通常ならばランサーは既に消滅している筈なのだから。ソラウ単独を狙う価値などないと誰もが知っているだろうに。

「何故露見したのか、何故追撃されているのか。この際それはどうでもいい。ソラウ様、迎え撃ちますので傍を離れないで下さい」

 逃亡も可能だろうがそれでは問題を先送りにしているだけに過ぎない。敵の狙いはこの首級。ならば迎え撃つ事で為せる事もあるだろう。
 そして敵がケイネスを討ち取った者であるのなら、ソラウを潜ませるという選択は下策に等しい。サーヴァントの傍。恐らくはその場所以上に安全な場所などこの街にはないのだから。

「分かりました。貴方に全てを任せます」

 憧れた背に追随する。
 想いはいつでも口に出来る。伝える事が出来る。この戦いを超えた後、たとえ彼の全てを踏み躙ってでもこの想いを伝えよう。愛でられるだけの薔薇は散り、人となった己自身の言葉でと。

 その浅ましくも尊い祈り。
 彼と彼女を破滅へと誘う想いの引鉄は、決して引かれる事はない。

 想いはいつでも伝える事が出来る。
 そう出来なかったケイネスの死を軽んじたソラウには、永劫語れる想いはもうないと、彼女はこの時知る術などなかった。



+++


 冷たい夜風が身を引き裂く。秋の終わりにして冬に程近いこの季節、たとえ温暖な気候下にある冬木といえど真夜中ともなれば何処までも冷たい風が吹き荒ぶ。

 身切る夜風を引き裂いて、黒衣の男は姿を見せた。

 その出で立ちはハイアットホテルの時とは違う。ケイネスの城に侵入する為、従業員に扮装していた衣装を脱ぎ払い、男は黒のコートに身を包んで現れた。その裾を風にはためかせながら。

 闇夜にてなお黒々と光る瞳が待ち構える二人を射抜く。何処までも澄んだ黒。闇をすら凌駕する漆黒の奥に爛々と炎を滾らせながら、何処までも静かに衛宮切嗣は一人立つ。

「止まれ」

 ランサーの言葉に切嗣は足を止めた。それ以上近づけば彼の手にする槍が颶風となってこの身を切り裂く事を予見出来たからだ。

「如何にしてこの場所を特定したか、そこに興味はない。訊くべき事は唯一つ。貴様の用件は」

「当然、おまえの命だ」

 聖杯戦争はマスターとサーヴァントの二人一組でのバトルロイヤル。どちらかを打倒したところで終わらない。令呪を持つマスターならば主を失ったサーヴァントとの再契約が可能だし、その逆も然り。

 しかし実際のところはどちらかが討たれればほぼ詰みだ。過去何度かあったらしい再契約もそのほとんどが偶然に頼ったものであり、そんな即席の主従が勝ち抜けるほどこの戦いは甘くもない。

 故に今、切嗣の目の前にあるのは例外だ。本当ならば消えている筈のサーヴァント。それが十全の気力を有したまま立っているのは異常に等しいが、それでも彼はその可能性をほぼ確定のものとしてこの場所に辿り着いた。

 ケイネスは月霊髄液の多重展開について一切を語らなかったが、切嗣には予測が出来ていた。有り得ない魔力運用、戦闘の役にも立たない許婚を戦場に連れて来た理由。二つの点を繋ぎ合わせて出来た線。

 故に目の前の光景に驚きはなく、けれど続く言葉にこそ疑念を抱いた。

「成る程、道理だ。分かった、この首欲しければくれてやる」

「ランサーッ!?」

 ソラウの縋りつくような声ほどではないものの、切嗣もまた訝しむ。たとえ主たるケイネスが死んだとしても、存命し続けている以上聖杯獲得に拘るのが筋であろう。この世に招かれる英霊にも、聖杯に縋るだけの祈りがある筈なのだから。

 ランサーの真意など知らない切嗣は当然にして不可解に思うしかない。そしてそれはランサーも分かっていたのだろう、言葉を続ける。

「但し一つ条件がある。彼女の無事を確約しろ」

 そう、ランサーにとってこれは道理だ。彼の願いは主の最後の願いを守る事。即ちソラウの身の安全の確保。
 敵に背を晒したまま逃げ続けるには限界があるし、戦いを挑むのも論外だ。元より聖杯になど興味はないのだから、戦う事に意義を見出せない。

 忠義の限りを尽くし主の祈りを達成する。その為ならばこの身の命など惜しくはない。欲しいのならば幾らでも差し出してやる。

 セイバーとそのマスターへの復讐が果たせないのは心残りだが、主の願いに比するのならば天秤の針は容易に傾く。
 たとえそれが自己欺瞞と自己犠牲に塗れた忠義であっても、この道を踏み外す事は出来ないと、騎士は謳い上げたのだ。

「馬鹿げた交渉だ」

 それを、切嗣は一笑に附した。

「何だと?」

「そんな交渉は成り立たない。僕はおまえを信用しないしおまえは僕を信用しない。その上でどうやって彼女の安全を保障する。
 彼女が国外脱出するまで見逃せと? それがこの場を逃れる為の虚言でないと言い切れるか。いや、言い切ったところで意味もない。僕はおまえを信用していないのだから」

 契約の上で必要なのは互いの歩み寄りだ。
 絶対に信の置けない相手といえど、その契約が有益であるのなら可能だろうが、切嗣は契約自体を意味のないものと切り捨てた。

 ランサーの死を対価にソラウを逃がす。なるほど、マスターですらないソラウを逃がしたところで切嗣に損はなく、むしろランサーが勝手に自害してくれるのならかなり有益な内容だろう。

 しかしそれでも切嗣はこう言うのだ。
 非情で冷酷で冷徹な暗殺者は血を流せと。

「おまえには消えて貰う。そして当然、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリもまた死んで貰う」

 聖杯戦争に参加した者。関与した者。魔術師としての適正を持つ者。それを切嗣は逃がさない。
 ソラウはただの傍観者だが、それがマスターに変わらない保障はない。

 今後の展開ではぐれマスター、サーヴァントが出るかもしれない。その時に起こるのが令呪の再分配だ。聖杯に見初められた者、未だ祈りを宿す者を戦場に誘う敗者復活。それは御三家が最優先、次に脱落者、最後に他の適格者と続く。

 順序で言えばソラウがその時選ばれる可能性はほぼゼロに等しい。そもそもの話として令呪の再分配が行われるかどうかも不明瞭で、更に言えばソラウを逃がせばそれだけで可能性は無くなるのだ。
 故に可能性としてはゼロ。一パーセントを超える事もない不確かなものの為、衛宮切嗣は好条件を袖にして死地に向き合う。

 それが衛宮切嗣のやり方だから。犠牲となるものを定めた以上、それには絶対に消えて貰わなければらない。自らが聖杯の頂に駆け上がる為の障害を、世界を救う為の邪魔者を、微塵たりとも残さない。

 たとえゼロの可能性とて、それが衛宮切嗣の天秤を脅かすものであるのなら、何人たりとも逃がしはしない。

 ホルスターより魔銃を引き抜く。装填されている弾丸はおよそ携行する上で最上の威力を保障するスプリングフィールド弾。生身の人間が喰らえば骨砕け、内臓は破裂し致命に足る威力を持つ。

 無論、サーヴァントにただの銃弾は効かないし届くまい。狙うのは、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。

「理解が出来ない思考だな魔術師。貴様は自ら死地に踏み込むか」

 マスターがサーヴァントに敵う道理はない。人の身の極地に至り世界に召し上げられた英雄に、どれだけ人殺しが巧かろうと唯人が届く筈は無い。

 銃口から庇うようにランサーはソラウの前に立つ。たったそれだけの行動で、切嗣はソラウを殺す術を失った。

 この距離では届かない。
 ランサーの防御を貫く事は艱難に過ぎる。
 ならば──

「固有時制御(Time alter)──二倍速(double accel)」

 常人を凌駕する加速を以って、その神域に肉迫する。

 しかしそんなものでは届かない。音速の槍を振るう彼らが、その速度以下の動きを捉え切れない筈が無い。
 愚直なまでの吶喊。無意味な加速。その程度でサーヴァントに迫れると思い上がっているのなら、その無知諸共薙ぎ払うと槍を構えたその瞬間──

 ──本物の颶風が、横合いよりランサーを捉える。

「っ、セイバーァァ!!」

 まるで計ったかのようなタイミング。これ以上ないというくらい完璧な頃合に、セイバーはマスターの加勢に応じた。
 爆発的な加速によるランサーの知覚外からの突撃。認識した時には既に間合い。視線を向けた時には相手の間合い。故に身体を向けた時、繰り出された斬撃を防御する以外に道はなく。

 その刹那を縫い上げて、魔術師殺しは槍騎士の背に庇われた女の腕を万力の如き暴力で捻り上げ、引き摺り倒した。

「げぇっ……!」

「ソラウ様ッ!」

 肺に溜まった空気を無理矢理に吐き出させられたソラウの嗚咽とランサーの鬼気迫る声とが重なる。
 鍔競り合う剣の騎士と槍の騎士。火花散る鋼の硬直の中、呪詛の如く言葉は紡がれる。

「見損なったぞセイバー! おまえの主がいかに非道であろうとも、おまえは高潔であると信じていた!」

 セイバーは勝利の為に手段を選ばないと宣言しながら、それでもランサーを相手に尋常に立ち会った。
 たとえそれがサーヴァントは打倒しなければならないものと思っての行いであったとしても、手にする黄金の輝きに偽りはないとランサーは敬意を込めた。

「だと言うのにこれは……この様は……そうまでしてでも聖杯が欲しいのかッ!」

 だが現状はどうだ。ランサーから見れば切嗣は自身を囮にしセイバーはそれに加担、奇襲を行いソラウを人質に取ったようにしか映らない。

「…………ッ」

 『真実がその真逆』であったとしても、ランサーから見た現状に揺るぎはなく、セイバーの弁明は何一つとして意味を成さない事を物語り、故に彼女は無言を貫く他なかった。

 引き倒したソラウの腕を背後に取り、手にした銃口をその薔薇のように美しい髪に突きつける。

 ランサーの主が愛した人。
 守り抜くと誓った人。
 それが今、醜悪な意思により、死に晒される。

「ら、ランサー……私っ……!」

 真実彼女は人質だ。
 だが彼女に人質としての価値は無い。

 ケイネスが生きていれば違ったであろうが、ソラウの命を引き合いにランサーから引き出せるものはない。というよりも、引き出す必要がないのだ。

 何故ならば──彼女が死ねば、それでランサーもまた消え去るしかないのだから。

 死者に手向ける言葉もなく。
 命を摘み取る事に何の感慨も浮かべることもなく。
 衛宮切嗣は静かに、その引鉄を引いた。

「あああああああああああああああああああああァァァァァァアァァァァッッ!!!!」

 ランサーの魂切る絶叫の中、薔薇が咲く。
 血の色をした薔薇が咲き誇り、一人の女の命を枯れ散らす。

 枯れ落ちた恋人は地に落ちて、暗闇の中にその死骸を晒した。

「アアアアアアアアアアア……! 赦さん! 貴様らは断じて赦さんぞォォォ……ッ!」

 魔力供給が途絶えた今、力を振るえば振るうだけランサーに死期は迫る。それを構うものかと魔貌の騎士は槍を振るう。その端正な顔を鬼気に歪めて。魔人の如き奮戦で、やり場の無い怒りと敵意を込めて振るい続ける。

 しかし悲しいかな、十全の力を帯びたセイバーと、力尽きる事を決定付けられたランサーとの間にはその差を埋めるだけのものがない。
 憤怒や憎悪、猛々しい雷鳴の如き奮迅も、絶対的な差を補うには足り得ない。

 セイバーとて今の状況を良しとはしていない。その証拠に彼女の面貌には痛々しいまでの悲痛の色が浮かんでいる。ランサーにはもう、その真意を測る余裕も気もないが。

「呪われろ。呪われろ呪われろ呪いよあれ! 聖杯に呪いを! 祈りに穢れを! 卑賤な輩に災いあれ!
 赦さんぞ……俺は決して貴様らを赦しはしない……貴様らの勝利なぞ、俺は断じて認めはしない……!!」

 血涙を滂沱と零しながら、誰何と世界を呪う呪詛を撒く。清廉なる槍騎士の姿はそこにはなく、ただ憤怒と絶望に囚われた鬼がある。

 既に振るう槍に力は無く、爪の先から光となって消えている。それでもなお悲劇の槍騎士は己の悲憤にではなく、彼の主とその許婚の為、守れなかった誓いを果たそうと力尽き果てるその時まで手にした槍を振るい続け……

「地獄の底でこの俺の名を思い出せ……貴様らを呪うこの身を思い出せ……そしてその果てに俺以上の絶望を味わい崩れ落ちろ……ッ!
 我が名はディルムッド。ケイネスとソラウが騎士──ディルムッド・オディナ……! 主らの為、貴様らを永劫呪い続ける魔人なり…………ッ!!!!」

「…………ッ!」

 これ以上は見ていられない。

 その余りの痛々しさ故に、セイバーは力強く剣を振るい一刀に断つ。黄昏の残照を掻き消す黄金の剣閃は狂いなく、消えゆく憤怒の徒を斬り裂いた。

 その最期まで忠義の騎士としての意地を貫き、魔貌の槍騎士はその本懐を遂げる事無くその身を霞みと消え去った。

 後に残ったのは晒された死骸、ソラウの死体のみ。ランサーの流した血涙は、欠片も残る事無く消滅した。

「…………」

 じゃり、と音を立ててセイバーは具足を鳴らす。向き直ったのは当然、己が主の方だ。

「これが貴方のやり方か、切嗣」

 事情を知らないものから見れば、ランサーの言は正鵠を射ていると言えるだろう。
 切嗣は己を囮に使い、セイバーの加勢によってランサーを分断、ソラウを捕らえた。そう映るだろう。

 だが真実は違う。

 囮になったのは切嗣自身。
 だが囮になったのは、ランサーに対してではなくセイバーに対してだ。

 あの状況の真実を語るのなら、セイバーは加勢『させられた』。その一言に尽きる。

 セイバーには祈りがある。何を差し置いても叶えなければならない尊い祈りが。その為に手段を選ばないというのは本当だし、悪辣でも理に適ったものなら清濁併せ呑むと覚悟している。

 そしてそんな覚悟を切嗣は利用した。

 聖杯に至るにはマスターの存在が必要不可欠。サーヴァントが聖杯を掴む為には己の現世への楔であるマスターの生存が第一条件なのだ。
 マスターが死ねばサーヴァントも程なく消える。ランサーのように。そうならない為、そうさせない為、セイバーはあの時、切嗣に加勢せざるを得なかったのだ。

 事前に綿密な打ち合わせがあったわけではない。切嗣の作戦を聞いた事すらもない。セイバーが舞弥に指定された場所に辿り着いた時、状況は既に切迫していた。
 無謀にも敵サーヴァントに挑むマスターの姿を見たのなら、その従者の取るべき手段など一つしかない。

 よってあの状況下、セイバーが切嗣に加勢しないという選択肢は有り得なかった。そして今後、同じ状況になったのなら、同じ選択をし続けなければならない。し続ける他に道は無い。

 聖杯の頂に駆け上がるとはそういう事。
 他者の祈りを踏み躙るとはこういう事だ。

 ただ己の祈りをこそ叶えよと、聖杯に願うのなら。
 こんな展開は、何度だって繰り返される。
 六人六騎、都合十二の祈りが駆逐されるその時まで。

「…………」

 セイバーは二の句が継げなかった。糾弾の思いはあったが、それをして一体何になると囁く己がいる事も自覚した。
 覚悟した筈だ、この手を無垢の血で染め上げると。先のハイアットホテルでの戦闘に比べれば、この戦いはより犠牲を少なく終結している。

 いや、この戦いがあの延長線上にあるとするのなら、あの倒壊に巻き込まれた者の命を犠牲に、ケイネスの一派全てを葬りされたと考えるべきか。
 これで一つ、確実に聖杯に一歩を進めた。犠牲に報いるには、この歩みを止める事は許されない。

 流血は避け得ない。ならばせめてその犠牲を最小に。担える血は己が担うと、そう覚悟したのではなかったか。

 あの惨劇の丘を回避する為。
 滅び行く祖国を救済する為。

 この心が悲鳴を上げても、立ち止まる事は許されない。

 セイバーに掛ける言葉もなく、去っていく切嗣の背中。
 その背を見つめる彼女の瞳には、一体何が映っているのか。

 それは本当に、悪逆非道の男の背中だったのだろうか。
 その背に宿る刹那さは、悪であれと呪われるほどに強いものなのか。
 とても儚く映るのは、彼女の目が狂っているせいなのだろうか。

 明確な判断を下せないまま、彼女はその背を見送り、男は闇に紛れて姿を消した。
 吹き荒ぶ夜風とて、彼女の心の澱を払い去る事は出来なかった。


/3


 底には闇だけがあった。無明の闇ではなく、水底に沈み込む程に濃縮された闇。手を伸ばせば触れそうな、黒く渦を巻く闇のカタチ。

 その中心には小さな光があった。
 水晶球。

 占いで用いられるような十数センチほどの球形。街中に雑多に溢れる紛い物の占いでは何も写さない水晶も、真実のまじないの元であれば光を灯す。

 透明な球形に映る光景は暗い海と闇。
 そして回転する光と、血の赤だ。

 それは衛宮切嗣とセイバーが、ランサーとソラウを亡き者とした直後の光景だった。

「スッゲェ……今の、マジもん?」

 食い入るように水晶を見つめていた一人の男──青年と呼んで相違ない年齢のその男は埠頭で行われた戦いを備に見つめ感嘆の息を漏らした。
 常人であれば吐き気を催してもおかしくはない筈の光景も、彼にとっては日常茶飯事。しかも自分の殺しよりも鮮やかなそれは、彼の心を掴んで離さなかった。

「そっかぁ、銃って選択はなかったなぁ。日本じゃそう簡単に手に入んないんだもんなぁ。
 でもいいなぁ。一瞬のマズルフラッシュとその後に咲く血の花。一回間近で見てみたいなぁ、つーか自分でやってみたい。あーでもやっぱり殺した瞬間の手応えがないのはどんなもんかなぁ」

 狂気の沙汰としか思えない思考を口端に上らせ、そして話題は次に移る。その後に行われた人外としか思えぬ者達の舞踏。片方が半死の状態であったとはいえ、一般人の目から見れば充分に異常で彼の心はなお異常だった。

「ねえ旦那、今のどう見ても旦那の同類だよな!? 旦那もあんな風に斬ったり舞ったり出来んの!? それか空飛んだり? あ、もしかして魔法みたいの使えたりして!」

 この青年は魔術とは全く無縁に過ごしてきたただの一般人だ。そんな青年がこうも目の前の現実離れした非日常に適応出来ているのは、彼が余人の過ごせぬ乖離した日常で生きてきたからだった。

 雨生龍之介は殺人鬼だった。

 殺しに特に理由はなく、ただ享楽と快楽、そして好奇心の為に殺し続けている。画面の向こうのホラーやスプラッターにはない臨場感、人の見せる死に際の色めきは彼の心を満たしてくれた。

 純粋な死への関心──それが龍之介の行動原理で殺人原理。

 もし画面の向こう側にある死と血と絶叫が真に迫るものであったのなら、彼は殺人鬼になどならずに済んだのかも知れない。
 それでも彼は現実に人を殺している。それもただ殺すだけでなく、生から死への変遷を余す事無く愉しみながら。さながら研究者が実験動物を弄繰り回すかのように。

 幾つもの街を転々とし、殺し観察し続けてきた彼が辿り着いたのはこの場所──冬木だった。

 殺しのバリエーションが減りモチベーションが低下していた頃に地元に戻り、蔵の中で手に入れた一冊の古文書が、彼をこの闘争の渦に誘った。
 雨生は遡れば魔術師の血筋に当たる。当人たる龍之介は無論そんな事は知らないし、理解してマスターとなったわけではない。

 いわゆる儀式的な殺し方を実践している時に、偶然にも選んだ悪魔召喚の陣と呪文が聖杯戦争のそれであり、偶然にも彼は魔術師の血を引き適正を有しており、偶然にもサーヴァントを召喚したというだけの話。

 一度ならば偶然で、二度ならば必然。三度重なった偶然はこう呼ぶべきだ。雨生龍之介は運命によりこの戦いに巻き込まれたのだと。

 彼はそれを悲嘆しない。聖杯の何たるか、戦いの何たるか、魔術の何たるかをまるで理解出来ていなくとも、彼がサーヴァントの殺しの美学に心酔してしまった以上、その狂気は最早疾走を続ける他ないのだから。

 龍之介が旦那と呼んだ者──傍らにて水晶に戦いの光景を映し出していたサーヴァント・キャスターは、マスターの言葉にも何も答えず、ただ茫洋とした瞳で遠くの風景を覗き込むばかり。

「……旦那?」

 龍之介が訝しんだ時、まるで爆発のように声は響き渡った。

「────叶った!」

 間近にいた龍之介の鼓膜を裂くほどの絶叫。狂乱の歓喜を内包した歌声は、闇に木霊し彼の心を震わせた。

「おお……おお……我が願望、我が祈りは既に通じた。つまりこれは、我が手には既に聖杯があるという事!」

「え? 旦那、そんなもの持ってたっけ?」

「目に見える見えないなど関係がないのですよリュウノスケ。我が祈りが叶った事。これが全てを証明している。
 ああ、我が愛しの乙女よ。御身をまたこの目で見る事が叶うとは、この不肖青髭、歓喜の極みに至りまする!」

 野暮ったいローブから腕を伸ばし天を抱く。ぎょろりとした瞳からは、一筋の雫が零れ落ちる。
 二度とは叶わぬと思った悲願。奇跡に希う他永遠に巡り合えぬと慟哭した追憶の日々。悠久の絶望は終わりを告げ、希望に満ちた光が降り注ぐ。

 自らを青髭と名乗ったサーヴァントの宿望──聖処女の再臨は此処になった。

「へぇ、あれが旦那の女なの?」

 龍之介の見つめる先には白銀の騎士──セイバーの姿。青髭が愛しの乙女と呼んだ彼女の姿。

「彼女こそは我が光。彼女こそは我が導き。彼女が私に命を与えた。我が人生に意味を齎した……」

 言葉にしながら激情は更なる落涙を促した。感極まるとは正にこの事。永劫の果て、刹那にも等しいこの逢瀬に、青髭は感謝した。
 感謝の対象は決して神などではない。乙女の信奉を仇で返した神の愛などに感謝を捧げる謂れはない。

「おお……おお……我が愛しの乙女……聖処女の復活……ああ、ああだが……ッ!」

 心酔するかのような歓喜は、一瞬の激怒によって塗り替えられた。

「ああ、なんと嘆かわしい。あのように卑劣、あのように愚劣な手段で手を血で染め上げるとは、彼女はそれほどに神を憎んでおいでなのか。あの終わりが、清らかだった彼女を絶望で染め上げたというのか」

 それを許しがたいと、青髭は口を結ぶ。

「彼女の身を焦がすは我が愛でなければならない! 神の愛で穢れた彼女など正視に耐えるものですかッ!」

 此処に狂気は発露する。

 清廉である乙女を信奉しながら、己の愛で穢れる事を希い、神の愛と存在を否定するその矛盾。
 神への祈りによって清らかだった乙女であるのなら、その否定は彼女の根本への否定に相通ずる。

 それをこの怪物は気が付かない。狂気にて錯乱。狂い咲く花の如き感情の奔流は理の通る道など押し流し閉ざしてしまう。狂気にて狂喜し凶鬼なるもの。それがこのサーヴァントの本質である。

 故に常人には理解し難いその思考を理解出来るのは──

「えーっと、つまり旦那はあの女の事を愛してるって事だなっ!」

 ──同じく狂気にて生きる者に他ならない。

「分かるよ旦那。そうだよな、自分の女(もの)を神様(たにん)になんか穢されちゃぁ、そりゃ腹も据え兼ねるよ」

 うんうんと頷く龍之介。

「おお、流石は我がマスターですねリュウノスケ。私のこの想い、理解して貰えますか」

「当然さ。で、旦那。そうと決まれば当然花嫁(かのじょ)を奪い返しに行くんだよなっ!?」

「ええ、無論。こうして奇跡により我らは再び巡り合う機会を得た。けれどそれはかつての乙女ではなかった。たとえそれが穢れてしまった彼女であっても、神に見捨てられたのだとしても、この私は貴女の前で跪きたい」

 ならば奪い返すが当然と、二人は狂気に頷きあう。彼らにしか理解し合えぬ理に拠って。

「我が道行きを阻む者、その悉くを駆逐しましょう。我が女神との逢瀬に邪魔者は要らぬ」

「クール、クールだぜ旦那! 全部蹴散らしちゃおうぜ! そんでもって、旦那の美学をもっともっと俺に魅せてくれ!」

 闇の中に木霊する二人の哄笑。
 真に彼らが理解し合えているのかは余人には分からない。ただ目的は違えど彼らの目指す先は同じ場所なのは間違いのない事だった。


/4


 言峰璃正が安堵の息をつけたのは、夜明けも程近い時間だった。

 一夜の間に起きた戦闘によって引き起こされた事後処理に奔走させられ、年老いてなお壮健を誇る璃正も流石に疲弊しているようだった。

 聖杯戦争を取り仕切る監督役。その下につけられる教会スタッフはこの街のいたるところに配置され、市井に紛れその姿を隠している。
 どんな結果、どんな状況にも即応し、何を置いても神秘の露見を確実に防ぐ事を義務付けられた彼らは当然にして皆が腕利きだ。

 そんな彼ら、第三次より引き続いての監督を任された璃正の采配を以ってして、この夜に起きた一連の出来事は完全に隠蔽し切る事など不可能だった。

 そもそもの話、あれほどに巨大な建築物を爆破解体されてはどうしようとも隠し通せる筈がないのだから。

 故に璃正達の奔走は神秘の露見を防ぐ事にだけ終始した。駆けつけた警官、救急隊員、その他スタッフ全てが教会の息が掛かった者。
 押し潰されたとはいえケイネスの工房を形作っていた魔術、使用された魔術の痕跡の全てを完全に消し去るには、それほどまでに人員を動員する他なかったのだ。

 深夜未明から行われた現場検証という名の神秘の隠蔽。それ自体はつい先ほど終了し、後は一般の人間の手に引継ぎを済ませてしまえばそれで終いだ。
 ただその過程で見つかったものを、璃正は保護の名目で匿っている綺礼、そして時臣に伝える為、老体に鞭打ち身体を休める事をいま少し引き伸ばした。

『それで璃正さん。見つかったのですか?』

 声の主は遠坂家頭首である遠坂時臣その人だ。蓄音機めいた宝石仕掛けの通信機から声は届く。優雅を信条にし体現する彼が、このような時間にしかも夜を徹して推移を見守り続けた事。それがこの一夜の壮絶さを物語っている。

「ああ。しかし損傷激しく誰に見せられるようなものではなかった。魔術の使用痕、衣服の切れ端、その他幾つかの符号を以って、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの死を確定のものとした」

『……そうですか』

 時計塔の花形講師。生まれながらの天才。その存在を御三家の一角として疎ましく思いながらも、手強い相手と認識していた時臣にとって、彼のこの早期の死は予想を大きく裏切るものだった。

『魔術師殺し──それほどの者か』

 時臣とて魔術師だ。敬意を評するに値する実力と経歴を兼ね備えた魔術師の死を悼みもしよう。けれど未だ戦いは序盤戦。目を向けるべきは既の死人にではなく生き残った方。勝ち残った者だ。

 魔術師殺しの異名は時臣も聞いた事があったし、警戒もしていた。しかしケイネスがこれほどの序盤に倒されるほどの実力者だとは決して思わなかった。
 あの男は時計塔で正統に魔術を学んだ者ではない為、実力の程については神童のようには測れない。

 それでも言える事はある。魔術師殺しは魔術師としての力量でケイネスを圧倒し勝利したのではない。

『建物ごと敵、無関係な一般人のみならず、自分自身すらも崩壊に巻き込んだ。魔術師にあるまじき戦い方でありやり方だ。好きにはなれんし理解も出来ない。
 しかしそれが強力な手段である事は認めよう。およそ魔術師である限り、あの男の戦法を推測する事すら難しい』

 ケイネスの城で行われた戦いについての詳細は時臣にも知り得ない。アサシンの気配遮断スキルを以ってすればあるいは侵入も可能だったかもしれないが、万が一にも露見してしまう可能性を考慮し、外からの監視に留めさせた。

 結果、知り得たのは崩壊から脱出した切嗣とセイバー、ソラウとランサーの行方のみ。ケイネスの死が確定したのはつい先程であり、それに先んじて埠頭での戦いもまた監視し結果を見届けている。

 衛宮切嗣はその悪辣な手段で一夜の内にケイネス、ソラウ、ランサーを討ち取った。

『これで表向き、脱落者は二組。ロード・エルメロイの死は予想外だったが、我らの策に綻びはない。だが──』

 衛宮切嗣は究極、神秘の露見には加担していない。建物の倒壊により多くの魔術痕は消され、事故の規模の大きさから教会スタッフの動員も速やかに行われた。世間に魔術の業は毛ほども漏れてはいない。

『それでも奴は無関係な人々を巻き込んだ。私はそれが許せない』

 正調の魔術師──遠坂時臣。
 彼はケイネス・エルメロイ・アーチボルトほど完璧な魔術師ではない。

 その才は凡庸、ケイネスには大きく劣る。彼が今の地位を手に出来たのは、血の滲むほどの研鑽の結果だ。
 決して辛さを表に見せる事無く、優雅の自負を揺るがせぬまま、それでも気の遠くなるほどの努力を為して彼は高みへと上り詰めた。

 そのせいか、彼は魔術師が持つべき冷徹な側面が薄い。逆を言えば情に厚く、人間味があると言うべきか。
 魔術師がまず最初に排斥する感情の数々を、時臣は持ち合わせたまま高位の魔術師として完成している。

 魔術の為に他の全てを蔑ろにする事は出来ない。
 それでも魔術を至上としてあり続ける。
 つまりは人でありながら魔術師である事。

 それは矛盾にも等しい結晶。彼が唯一誇る事の出来る宝石だ。

 故に目的の為手段を選ばない衛宮切嗣が許せない。魔術師として最低限の規律を守ろうとも、あの男は人として外れすぎている。

 魔術師として。
 人として。
 この地を預かる者として。

『綺礼、言峰さん。済まないが私は、この激情を抑える事が出来そうにない』

 最初の策では当分の間穴熊を決め込む腹だった。綺礼の繰るアサシンに他の参加者の情報を徹底的に暴かせ、必勝の環境を作り上げる為に。
 けれど今、あってはならぬ悪を見た。こんな奴が自分の預かる霊地にのさばっている事を放置出来るほど遠坂時臣の気は長くない。

「しかしどうするつもりかね時臣くん。監督役の権限を実行し衛宮切嗣に対する罰を制定するかね?」

『それには及びません。これは私の我侭だ。それに言峰さんの手を煩わせるわけにはいきません。
 そして最終的な勝利──聖杯獲得も見据えなければならない以上、綺礼の手を借りる事も出来ません』

 アサシンと綺礼の擬似脱落より未だ一日。当然の如く情報収集は完全には程遠い。姿を見せぬマスターとサーヴァントも存在する現在、消えた筈のアサシンの影を手離すには惜しすぎる。

 時臣自身が言ったようにこれはただの我侭だ。聖杯獲得という第一目標を達成する為ならば動く時ではない。
 それでもなお動こうと言うのなら、己が身一つで戦場に馳せ参じなければならない。一時の激情に流されて、本流を見失っては本末転倒もいい所なのだから。

「勝算はあるのかね?」

『魔術師殺しの土俵、つまり奴が先手であった場合、後手に回らされる者はその掌で踊らされ続ける。ならば──』

 これまで切嗣の行った先の先を奪えばいい。アサシンの打倒にしろケイネスの打倒にしろ切嗣の基本戦略は奇襲や強襲だ。先行を奪取し相手の裏を掻いて撹乱し、予想だにしない札を切る。ただそれだけに過ぎない。

 それを可能としているのは切嗣の魔術師にあるまじき手段とセイバーの戦闘能力。どちらかを剥奪出来れば勝機はある。

「聖杯は必ず、君が手に入れなくてはならない。あのように悪辣な手段で聖杯を求める者に獲らせてはならない」

『その通り。聖杯はその用途に沿った使用を行うべきだ。世界の外へと至る道を開き根源へと到達する事。遠坂の悲願を叶える為の礎に』

 聖杯を本来の用途として使おうという輩はこの遠坂を置いて他にいない。聖杯の成す奇跡に善悪はない。ただ願われた祈りを叶えるだけの機構。故に邪悪なる者が手にする事だけは避けなければならない。

 正統にして正調たる遠坂に勝利を。
 綺礼と組んでいるのもその為で、最初から仕組まれた出来レース。

 それでも決して平坦ではないその道を、なお過酷な道を往くと時臣は言う。先代と友誼のあった璃正にとって、ならば友人の息子の行く末を案じ祈るのが己の役目。

 諌め叱咤を必要とする子供ではない。時臣の勝利を信じているから、彼の道を妨げてはならないのだ。

『分かった。時臣くんの健闘を綺礼と共に見届けさせて貰うとしよう──綺礼……?』

 これまでこの場にありながら、一切の言葉もなく沈黙に身を埋めていた綺礼。彼は師や父のやり取りを聞きながら、その瞳は虚空を見据え続けていた。
 父に名前を呼ばれ、ようやく忘我から立ち直ったように、落ち着いた声音でこう言った。

「私もまた師の健闘を見守らせて頂きます。ただ、一つ。御身のサーヴァントについてですが……」

 時臣の腹は既に決まっている。しかしその最後の障害となる存在について、綺礼は切り込んだ。

 時臣のサーヴァントは召喚以来、屋敷に留まり続けた事が一度として無い。保有する高位の単独行動のスキルを用い時臣からの魔力供給すら遮断して遊興に耽っている。およそ聖杯に招かれ聖杯を求めるサーヴァントとは思えない。

 はっきりと言えば手に余る。格としては最上位。過去現在未来を見渡してもおよそ最強と呼んで相違ない力を有するサーヴァントであっても扱い辛い事この上ない。
 気性荒く何が切欠でマスターにすら牙を剥くか分からない爆弾のような男──その男をやる気にさせねばそもそも切嗣とセイバーに立ち向かえる道理はないのだ。

 だから綺礼は問うた。
 あのサーヴァントを御するだけの策があるのか、と。

 その問いに答えたのは時臣ではなく。

「ああ、良いぞ。この我の供を許す」

 その声は綺礼のすぐ傍から。何時の間にそこに居たのか、聞こえる筈のない音を響かせるは原初の黄金。それはまさに黄金としか称しようのない青年だった。

 装飾華美な黄金の甲冑。燃え立つような金色の髪。血のように赤く輝く双眸は、この世の全てを見下している。けれどその輝きに下卑た感情はなく、有無を言わさぬ力があった。その佇まいとて同様。纏うオーラは王者の放つ王聖だ。

 彼が黄金である所以は何もその常軌を逸した風貌を指したものではない。彼はその魂こそが黄金なのだ。
 たった一人でありながら、十数万の人間の総和をも凌駕する魂魄の色。人々の畏怖をその身に宿らせた唯一人の王者。

 何者にも揺るがぬ強大な自我。
 天上天下に我唯一人のみ尊しと言って憚らぬその荘厳。

 それこそが、遠坂時臣がサーヴァント──黄金の騎士アーチャーだった。

『これは王よ。何故そちらにいらっしゃるのかはまあいいでしょう。今の言葉の真意をお聞かせ願っても?』

 時臣はアーチャーに対し臣下の礼を取っている。黄金の王者は誰であれ、己に並び立つ者を良しとしない。故に時臣は自分を下に置く。マスターでありながらサーヴァントを上位に置く事を良しとした。

 真実この黄金には敬意を払っているし、時臣自身もまた貴族足らんとする信条を持つ。ならば王者に傅く事も然程無理のない対応である。
 そして黄金の騎士と自身が共に聖杯戦争を勝ち抜く為には、そうする事が最善であると弁えていた。

「言葉の通りだが? 時臣、おまえはセイバーとそのマスターを討つというのだろう? ならばその道程、我も供をしおまえの供を許すと言ったのだ」

『……これはこれは』

 その恭順にはさしもの時臣も声を失った。綺礼が危惧していた通り、この黄金は他者の指図には決して従わない。唯我の極みに立つ者だ。それを思惑通りに動かす為にはどうするべきかという思案を、王自らが乗り気であった事に驚愕は隠せない。

 聖杯にすら拘りを見せず、物珍しさから遊興に耽っていた男の琴線に触れたものは一体何なのか。

「我の心変わりの原因は何なのか、それを知りたいと見えずとも顔に書いてあるぞ時臣。だがそう急くな。未だ我とて半信半疑なのだ。
 アレは我が愛でるに足る宝石なのか。それとも、そう見せかけただけの贋作なのか、な」

 真偽の程を覆い隠した言い回しで、何が言いたいのか今一つ要領を得ない。けれどこの黄金の王が聖杯戦争に参加するだけの意義を見出した。それだけは確かだった。

『では王よ。王の歩む道、私も同道させて頂きます』

「構わん。ああ、そうだ時臣。敵を見定めておきながら、よもや居所を知らぬとは言わぬよな?」

『ええ、無論。衛宮切嗣はアインツベルンの子飼いの魔術師。ここまで派手に暴れ、自らに衆目を集めた奴が次に取るべき行動を慮るのなら。その策略に適した居城はこの街に唯一つ──』

 冬木市郊外に広がる樹海。
 通称アインツベルンの森。
 その中心に座す古城に、奴は必ずいる。

「フン。ようやく我が出るに足るものを見出した。落胆させてくれるなよ」

 黄金の王が立つ。
 他を寄せ付けぬ圧倒的王気を纏い、遂に今宵出陣する。

『魔術師殺し。その横暴、この私が止めてみせる』

 その傍らには紅蓮の魔術師。
 魔術師でありながら人である、異端の魔術師が今その信念に従い聖杯戦争に参戦する。

 第四次聖杯戦争における最有力候補──正調の魔術師遠坂時臣と黄金の騎士アーチャーが戦場に馳せる。
 彼らの行動がこれよりの戦局に嵐を齎す事は、疑いようのない事実だった。



+++


 出立は夜明けの後。

 そう通信機越しにやり取りをした時臣とアーチャーの会話を聞き終えた後、璃正は客室を辞し自室へと戻った。
 綺礼と黄金の王の手前、疲労は表に見せなかったが、夜通しの指揮運営はその老体に堪えた事だろう。その心労を慮って余りある。

 残されたのはソファーに腰掛け腕を組み、虚空を睨んでいた綺礼と黄金の武装を解いたアーチャーだけであった。

「おまえは此処で一体何をしているアーチャー。時臣師は今頃出立に向けての準備をしているだろう。おまえもせめて遠坂の屋敷に戻ってはどうだ」

「なんだ、我がこの場にあっては何か不服か?」

「別段不服などない。だがおまえはようやく聖杯戦争に参加するだけの意義を見出したのだろう。ならばサーヴァントはサーヴァントらしく振舞ってはどうだ」

「分を弁えろよ雑種。我はサーヴァントの前に一人の王だ。そして時臣は我に臣下の礼を取っている。何処に臣下の下準備を共に行う王がいる。奴がその支度とやらを済ますまで、我は奴が崇める王らしく振舞うまでよ」

「……おまえの言う王らしいとは、人の酒蔵を開け勝手に漁る事を言うのか」

 綺礼の対面に座り尊大に居直るアーチャーの手には血のように赤いワイン。綺礼が個人で収集し私室の蔵で眠らせていたものを、この青年はわざわざ探し出してこの客室に持ち込んだのだ。

「この世遍く全ては我のもの──であるのなら、この酒とて無論我のものであるのは道理だろう? フン、数こそ少ないが時臣の酒蔵のものより上質なものが揃っているとは、とんだ坊主も居たものよな」

 傾けた杯から血色の液体を一息に嚥下するアーチャー。その表情に酔いが回った様子はなく、けれど何処か酩酊めいた雰囲気を漂わせている。彼の心を酔わせているものとは、件の宝石か。それとも。

「それで、用件は」

 綺礼は表情を変えぬままそう嘯く。アーチャーの奔放な性格を考慮すればそれこそ気紛れの類でこの場に居座っているとも考えられたが、綺礼は黄金の見透かすような視線が気に入らずそう言った。

 自分自身すら分からぬ男の心底を覗き込むかのようなその瞳。紅蓮の宝玉の輝きが、酷く心をざわつかせていた。

「用件……用件か。ああ、そうだな。今はそういう事にしておくか」

「なに……?」

「気にするな、何れ貴様も知るだろう」

 意味深な言葉を述べ、手酌で注いだ酒を一息に煽るアーチャー。空に干したグラスをテーブルに戻し、片肘をついて射抜くようにこう言った。

「貴様はさきほどこう言ったな。我が聖杯戦争に参加する意義を見出したと」

「ああ」

 聖杯の寄る辺に招かれながら、そんなものに興味はないとばかりに遊興に耽っていた黄金の王者。彼にとって聖杯など真実取るに足らないものなのだ。
 遍く全ては遡れば原初の一点に集約される。ならば当然、その一点において頂点であった王の蔵にはこの世の全てが収められている筈だ。

 聖杯と呼ばれる代物も探せばその蔵の中にあるだろう。『既に手の内にあるもの』にこの黄金は興味を示さない。手に取るに足る理由がなければ散逸したものになど微塵の関心も寄せはしない。

 黄金の求めるもの──それは未だ見ぬ宝物。

 人の願いを束ねた聖杯などよりもこの醜悪さに満ちた世界の有様を見聞する方が余程心地良い。度し難くはあっても、唾棄すべき進化だと思っても、彼はその無様には愛でるだけの価値があると考える。

 そしてそんな世界の在り様よりも彼の心を掴んだもの──それこそが戦いに参じるに足ると決意させた宝石なのだ。

「我は見出したぞ。この戦いに価値をな。未だ趨勢は見えんが、まあそのくらいの方が面白い。ならば貴様はどうだ? 時臣の腰巾着のままで満足か?」

「……何が言いたい」

「我を前に言葉を濁すな、無意味だぞ。はっきり言わねば分からんのなら言ってやろう。言峰、貴様は聖杯戦争に参加する意義を未だに見出せずにいるつもりか」

「…………」

 アーチャーに内心を話した覚えなど勿論ない。師から聞き出したような素振りもない。何を根拠にそう言い放ったのかは分からないが、勘や戯言のような不確かな物言いではないのは確実だった。
 ならば本当に、この青年は言峰綺礼の心を見透かしているのか。

 ──この、世界の在り方に真逆の心を。

「見出す見出さないの問題ではない。真実として理由がない以上、見出せるものなどある筈がない」

 御三家にも匹敵するほどの早期に令呪を宿した綺礼ではあったが、自身が聖杯という奇跡に選ばれる理由に心当たりなどなかった。
 生まれてこの方奇跡になど頼った生き方をした覚えはないし、縋るほどに渇望する祈りもない。

 何故なら言峰綺礼は妻との死別を以って完結している。

 生れ落ちたその時より心で燻る違和感。父に倣い信仰の道を志しながら、何処かで善や正と呼ばれるものに嫌悪を感じるこの心の在り方。その軋轢の正体について綺礼は既に理解を得、納得している。

 この己は世界の在り様に反する邪悪だと諦観し、観念している。美麗なものが醜く、醜悪なものこそが美しいと。
 人々の悲嘆、憤怒、憐憫、悔恨。負の想念に心引かれて止まないのだ。それを見たいと思ってしまい、けれど正常のあるべき倫理観がそれは駄目だと吼えている。

 心が完全に壊れていたのならまだ救いがあったのかもしれない。しかし言峰綺礼という男の心は正と邪の狭間で揺蕩っている。それは綺礼の克己心ゆえのものだろう。

 邪悪な倫理で正常な心理を抑え付ける日々。そんな無様で無意味な生を今なお続けている理由は決して答えが欲しいからではない。
 こんな異物が産み落とされた意味。生きている意味。存在を許容しているもの。そんな答えは欲していない。欲してはならないのだ。

 ただそれでもこうして生き永らえているのは、この己が無意味に死んでは、その心を暴き立てた者の死が無価値になってしまうという一念ゆえに。

 心に硬く蓋を閉ざし、目を背け続けて生きている綺礼にとって、それら追憶は既になきもの。
 ただ己の邪悪さだけを理解し諦念し、生き足掻いているだけの俗物に過ぎない。

「存在しない理由を搾り出せとは難解な事を言う。私は時臣師を勝者とする為だけにこの戦いに臨んでいる。そこに私個人の感傷が入り込む余地などない」

「それは本当か? 本当に貴様はこの戦いに意義はないと? 一筋たりとも有り得んとそう言い切れるのか」

「……ない」

「あって欲しくないと望んでいるから見えぬだけではないのか。もしそれを直視してしまえば二度とは瞳を逸らせぬと理解しているが故に」

 望まざる願い。それはいつか師が言っていた言葉だ。本当に理由がないのなら、こうまで躍起になって反論するだろうか。幾度となく言葉を重ねるその様は、まるで駄々を捏ねる稚児のよう。

 黄金の王の言葉が綺礼を惑わす。ないと断じる理由から目を逸らすなと退路を塞ぐ。それでも綺礼は声を絞り出す。そんなものは、ないのだと。

「それは太陽に目を焼かれぬよう逸らすようなものだぞ言峰。その眩さ。その輝き。その黄金の光に恋焦がれながら、焼き尽くされてみても良いのではないか」

「くどいぞ英雄王。私の意志を捻じ曲げるな」

「捻じ曲げているのは貴様自身だろう言峰綺礼。これまでの戦いの全てを観測してきた貴様が目を奪われたもの。心に泥のように染み入った一滴の感情をなかった事にして目を背けるな。
 今なお貴様はその存在に心奪われている筈だ。気が付けば、目でその行方を追っている筈だ。まるで恋に焦がれる童のようにな。さあ、己が心に今一度問いかけろ」

「何を──」

「これで終いだ。言峰綺礼──貴様が焦がれている者の名を思い出せ」

「…………っ」

 衛宮切嗣。

 アーチャーの確信に満ちた物言いから、綺礼の脳裏を過ぎったのはその男。その男の横顔だった。

 事前に時臣が収集していたマスター候補の情報を見せて貰った時、綺礼の目に止まったのはその男の経歴だった。

 フリーランスの殺し屋として暗躍しながらその裏で紛争地帯への介入を幾度となく、そして並行に繰り返していた。
 準備や正確性を期すのなら決して出来ない戦地での奮闘。己自身の命すら勘定に入れていない、まるで強迫観念に衝き動かされているかのような異常な経歴。

 それが路銀を得る為だけのものだとどうして言えるのだろう。自分の命すら惜しくないという男が、些細な金銭を得る為に身を焦がす事など有り得ない。

 ──ならば奴を衝き動かしたものとは何なのか。

 それを見定める前に切嗣は戦地より姿を消した。アインツベルンに召し抱えられる事でそれまでの奮迅が嘘のように静寂に消え去った。

 もし仮に。

 衛宮切嗣が戦場で『何か』を探していたとしたら。
 日常では決して見つけられない『何か』を求め己自身の命を燃やし続けていたとしたら。

 後に訪れた静寂は、きっとその『何か』を得られたからに違いない。
 硝煙と血風、怨嗟と嘆きが渦巻く戦場ですら決して見つけられなかったものを、衛宮切嗣は冬の一族の元で手に入れたのだ。

 そして恐らくは。
 その『何か』を手離してまで、この戦いに臨んだ理由こそ────

「っ…………!」

 忘我の思索から脱した綺礼が見たものは、愉悦に口元を歪めた黄金の面貌。喜色満悦、我が意を得たりとばかりの表情に言うべき言葉が見つからない。対する黄金は、さも当然のように言い放つ。

「どうした言峰。何がそんなに可笑しい?」

「なに……」

「分からぬか。貴様今、喜悦に顔が歪んでいるぞ」

 何を馬鹿なと窓ガラスを覗き込めば、確かにそこには嗤っている言峰綺礼が存在した。

「馬鹿な……」

「何が可笑しなものか。言峰よ、貴様は元よりそういう人間だ。愉悦に善も悪もない。何より貴様のそれはもっと単純な欲求だ。知りたい──人であれば、そう願う事に何の遠慮が必要か」

 何かを知りたい。それは本能に準じる欲求だ。生きている上で決して避けて通ることの出来ないもの。
 隣人の趣味が知りたい、好悪を知りたい、己に対する評価を知りたい。そして何より、裏の顔が知りたい。

 己自身の知らぬもの──無知であることを許容出来る者はそうはいない。瑣末な事であれば目を背ける事も可能だろうが、それこそ存在の定義にすら関わる程に重大なものであるのなら、決して目を背ける事など出来はしない。

 たとえそれが、どれほどの闇を孕もうとも。

 これまで綺礼はその克己心と誰かへの誓いの為、その欲求を封じてきた。
 だがこの眼前の全てを見透かす慧眼の王と、そして何よりあの男と巡り合ってしまったから。

 あるかないかも知れぬものを命を賭して探す男。
 その果てに『何か』を見つけた男。
 そして手にしたものをかなぐり捨てて、奇跡に祈りを捧げる男。

「衛宮、切嗣────」

 今確かに、言峰綺礼は衛宮切嗣を見定めた。
 この戦いの果てに見出すべきものを直に見つめた。

「どうやら見出せたようだな言峰。貴様のこの戦いに臨む理由を」

 くつくつと嗤いながら肩を揺らす眼前の王者。未だ動揺の渦中にある綺礼は、それでも搾り出すように声を吐いた。

「……アーチャー、おまえの目的はなんだ」

「目的?」

「わざわざ私を焚き付けて、おまえに一体何の得がある。おまえは時臣師の……遠坂時臣のサーヴァントだろう。別のサーヴァントを従えるマスターを煽り、私の叛意でも促しているつもりか」

 言峰綺礼が真に勝者足らんとする時、当然今の同盟関係は破綻する。勝者がただ一人でなければならない以上、決別は当然に訪れる。
 アーチャーの狙いは綺礼の排除か。最強の自負を持つこの黄金にとって、間諜を張り巡らせる己は邪魔者にしかならないと。

「思考としては下の下だな。先も言ったが今は知らずともいい事だ。そら、そう言われると尚の事知りたくなってきただろう?」

 喜悦の表情を変えぬまま、黄金の王者は席を立つ。既に用件は果たしたというように。

「後は貴様次第だ言峰。このまま時臣に頭を垂れ続けて心の闇の蓋を今一度閉ざすか。それとも──」

 続く言葉は虚空に消え、綺礼の耳朶には届かない。響いたのは、部屋を閉ざすドアの音だけだった。

「…………私は」

 一人になった綺礼は今一度己に問いかける。

 切り開かれた心の闇。
 曝け出された醜い劣情。
 求める事を放棄した筈の答えを求めてもいいのかと。

 王者は告げた。その欲求は、誰しもが持つ当たり前の感情だと。世界の真逆の男とてそれは当然に持っている筈のものなのだと。その身を満たす愉悦──識る事の喜びから、逃れる事など出来はしないと。

 目を背け続けた心の闇。
 それと向き合う時が訪れたというのか。

 今この機を逃せば恐らく二度とは手に入らぬ答え。
 同じ闇を抱え、そして辿り着いた男に問うべきものとは。

「────」

 言峰綺礼はじっと虚空を見つめた。
 視線の先に揺らめくは燭台の明かり。闇の中で揺らめく小さな炎だった。


/5


 翌朝の朝食時、ウェイバー・ベルベットは手にした新聞の一面に躍った文字を食い入るように見つめていた。
 その記事の内容は冬木ハイアットホテル倒壊の記事だ。事故原因は依然究明中、そして確認された死傷者の名も片隅に記されていた。

 そしてその名の一つに、吸い寄せられるように瞳が滑る。

「ケイネス・エルメロイ・アーチボルト……」

 茫然自失としたまま朝食を食べ終え、寄生している家主たるマッケンジー夫妻の心配も柳に風と受け流し、ウェイバーは自室へと重い足取りで戻っていった。
 その部屋に居座るは赤銅の巨漢。ウェイバーがサーヴァント、征服王ことイスカンダルである。

「おうどうした坊主。死人のような顔色だぞ。寝不足か?」

 実際寝不足だ。ウェイバーとてこの聖杯戦争の参戦者の端くれ、昨日の戦いの結末であるところの埠頭での戦いは使い魔の目を借りて一部始終を把握している。

 ケイネスの居城については把握していなかったので、ハイアットホテルでの事はほとんど何も知らない。
 ただケイネスが従えていたランサーが消滅した事実から、もしやという思いで今朝の朝刊をグレン翁から掻っ攫って記事を読めば、予想は見事に的中した。

 事実確認は出来ていない。一般に流通する新聞の記事を何処まで信用していいのかは不明だ。だがそれでも、ランサーが消滅したのは事実なのだ。埠頭での戦いの場にケイネスが居なかった事は事実なのだ。

 物事の筋道を立て辿る事に長けている──と本人は気付いていないが──ウェイバーはほぼ確信にも近いものを心の底で感じていた。

「なあ、おまえがこの間戦った相手、覚えてるか」

 力なく椅子に腰掛けながら、やおらウェイバーはそう切り出した。

「応とも。ランサーの奴だろう?」

「ああ。そのランサー、殺されたみたいだ」

「おう……それも先に聞いた」

 埠頭での戦いを見届けた後、この巨躯には既に伝えていた。今のはただの確認だ。

「そのマスターも……死んだみたいなんだ」

「そうか。で?」

 大した感慨もなく赤銅の王はそう嘯く。

「でって何だよ。死んだんだぞ、殺されたんだぞ。おまえと戦ったランサーも、そのマスターも!」

「だからどうした。これは聖杯戦争、殺し合いの宴であろう。殺し殺されるは共に覚悟の上のもの。よもや貴様、まさか本当に殺されるとは思っていない、思っていなかったなどと抜かさんよな?」

「…………っ」

 ウェイバーは声を喉に詰まらせた。答えるべき声が出なかった。だってそうだろう、たとえ魔術師であったとしても、死を身近に感じていても、こうも呆気ないものだなんて思わなかった。

「あの男は言ったんだ、何れ雌雄を決しようって。それが……こんなあっさりと……」

 約束はもう叶わない。時計塔の花形講師。生まれながらの天才。血統と実力を兼ね備えた男が、こうもあっさりと死ぬなんて思うわけがないだろう。

 まだ何一つ見返してやれていない。何一つ認めさせていない。あの男を平伏させる為にこんな戦いに臨んだというのに。時計塔の連中に正当なる評価をさせる為にこんな僻地にまで来たのに。

 あれほどの実力者を以ってして、呆気なく死ぬ。それがウェイバーの心に澱のように蟠って離れない。

 死ぬのは怖くない。魔術師である以上死は観念して然るもの。何よりも怖いのは、塵のように消えてなくなる事。
 誰にも理解されず、誰にも覚えられず。時が過ぎ去れば風化するかのように誰の記憶からも消え去る事。それが何より恐ろしい。

 誰かに認められたい、見返してやりたいという想いはその具現だ。
 ウェイバー・ベルベットが生きた証がないままに死ねば、この身は一体何の為に生まれてきたのか分からない。

 この戦いにはその死の観念が渦巻いている。道半ばで倒れればそれこそ跡形もなく消え去るしかない。今頃時計塔の連中はウェイバーの事など頭の片隅にも残していまい。彼らの記憶に己を刻み付けられるのは勝利だけだ。

「逃げ出したくなったか。怖くなったか」

 ウェイバーの心を見透かすように赤銅の王は嘯く。

「前にも言ったがそれを恥じる事はない。死は誰にとっても平等であり、その恐怖の前には何者も抗えん。
 実際の死を前にして怖くないとか言う奴は、そりゃ頭がいかれてるってもんさ」

「……おまえも、怖かったのかよ」

 生前、道半ばで倒れたこの王にも死の恐怖はあったのか。そうウェイバーは問いかけた。

「そりゃそうさ。余の場合はどちらかといえば怖いというよりも悔しいだな。世界の果てを見る事が叶わなかった。ただそれがどうしようもなく悔しかった。こうして化けて出るくらいにな」

 呵々大笑と自らの死を笑い話に出来るのはきっとこの王くらいのものだろう。胸に宿した志、それを遂げる事無く死ぬ事に未練を抱かぬ者はいまい。
 ケイネスやランサーとて同じだった筈だ。聖杯を手に入れ祈りを捧げるその前に、崩れ落ちた悔しさは想像して余りある。

「死を恐れよ。されど決して目を逸らすな。目を背けた時、死はその首を掻き切り来るぞ」

 命を賭すのと死を恐れないのは全く違う。死を受け止め、死をあるものとして受け入れその上で覚悟する。それが命を賭すという事。
 ただ無闇矢鱈に死に急ぐ事を、死からの逃避だと思ってはならない。それはただ、目を背けているだけなのだから。

「それで、坊主。どうするんだ」

「え?」

 突然の問いかけに困惑する。

「貴様は死を知った。その呆気なさをな。その上で問うておる。このまま戦いを続けるか否か」

 このまま戦い続ければ死ぬ可能性はかなり高い。唯一人の覇者以外が駆逐されるというのなら、残り五人中四人が脱落する筈なのだから。

「怖いのなら此処で待っておれ。余は一人でも聖杯を勝ち取って見せよう」

 豪放磊落の王は唯一人でも聖杯を掴むという。彼にはそれだけ強く聖杯に託すべき祈りがあるのだ。
 サーヴァントが元より死んだ身である、というのは理由にならない。この世で死ねばそれは二度目の死に他ならない。

 だから赤銅の王はこう言うのだ。
 一度ならず二度までも、志半ばで斃れる事は出来ないと。死と比してなお尊いと誇れる祈りを叶える為、我が身一つで天地に挑む事に相違はないと。

「……前にも、言った筈だ」

「ぁん?」

「戦いは怖い。死ぬのは怖い。でもッ! 此処で膝を抱えて待ってるだけなんてのは真っ平だ! おまえが勝ち取ったもののお零れに預かるなんてのは耐えられるもんか!
 この戦いは僕の戦いだ。僕が戦うと決めたものだ! この意思を曲げない。曲げられないッ! それを曲げてしまったら──」

 もう──生きている価値すらない。

「僕はおまえのマスターだっ! だからおまえと共に行くッ!!」

 零れ落ちてきた栄光に縋りついて何になる。栄光は、勝利は。自らの手で勝ち取るものだから。
 この足で立って歩く。赤銅の王の隣を歩むと決めたのだ。違える事の出来ないその決意こそが、ウェイバー・ベルベットを奮い立たせる。

「はっはっは。うむうむ、余のマスターたる者そうでなければな。だが、事実としてこの戦い、生半可なものでは行きそうにはなさそうな雰囲気だ。ちょいと本腰を入れてやる必要があるな」

「え?」

 どかりと落としていた思い腰を上げ、赤毛の王は背筋を伸ばす。天まで届けと言わんばかりに。

「とりあえず、まずはそのランサーを討ち取ったマスターとサーヴァントの面でも拝みに行くとするか」

「はぁぁぁあ!? な、なんでわざわざ出向くんだよ! あいつらもうアサシンとランサーの二騎を討ち取ってるんだぞ!? 真正面から突っ込んで何になるんだよ、やるならこっちもちゃんと作戦立てて──ぴぎゃっ!?」

「えぇい喧しい坊主だな。さっきまであんなに神妙な顔をしとったくせにもうこれだ」

 そのささくれだった野太い指でウェイバーの額を弾き飛ばした赤銅の王は続ける。

「おまえさんの言うその作戦とやらも相手について知らねば立てようとてないだろう。
 それに奴らはこれだけ派手に立ち回りおったのだ、他の連中もさぞかし気になっておるだろうよ」

 公的には既に二騎のサーヴァントを撃破した主従。誰もが聖杯獲得を狙う以上、これが気にならない筈がない。そして他の連中も同じ思考をしているだろう事に行き着けば、自ずと答えは導き出せる。

「今を生き残っておるマスターとサーヴァント。その多数ないし全員が奴らの首を狙っておるぞ。残る連中が一堂に会す機会など二度あるかないか、この機を逃す手はあるまい」

「な、なんなんだよ……漁夫の利でも得ようって──ひぃ!?」

 伸びた指先から額を隠しながら若輩の魔術師は情けない悲鳴を上げる。どれだけ決意を固めようと本当の戦場を一度体験しただけ、死の真の意味を理解しただけのヒヨッコだ。赤銅の王と同じ器量を持てなど無理にも程がある。

「この戦に参じるは世に名を馳せた英雄豪傑だぞ? 無双の戦士共だぞ? 彼奴らと戦える機会なぞそうあるもんでもない。既に二騎討ち取ったというセイバー……ふふん、そそりよるなぁ」

 獣じみた笑みを浮かべ、立派に蓄えた顎鬚を撫で擦る。一人の戦士としての高揚。胸の高鳴りを抑え付ける事など出来はしない。

「つまり……ええと、一網打尽の腹積もりって事か?」

 言ってそれがどれだけ無謀な事かと頭を抱えたくなったウェイバーだったが、この豪放な王の様を見ていてはそれも出来てしまうのではないかと錯覚してしてしまう。それだけの力強さがこの赤銅には備わっている。

「そう巧くいけば良いがな、腹に一つや二つ何かを抱えている連中ばかりだろうて。それでも得られるものはでかいだろうよ」

 彼の言うように他の連中もまたセイバーとそのマスターの下に集うのなら、それを遠巻きに見る方が安全であるのは明白だ。わざわざ死地に赴く必要はない。
 ただ、現場でしか得られないものもあると思うのだ。たった一度とはいえ、戦場に立ったウェイバーでもそう感じる何かが戦いの舞台にはある。

 何れにせよここでこそこそと様子を窺っては先の決意に水を差す。戦うと決めた。覚悟したのだ。戦場を前に尻込む事などあってはならない。

「……分かった。行こう」

 決意を言葉に変え、此処に一つの主従が空に馳せる。
 天を裂き現れた強壮なる雷神の戦車(チャリオット)に乗り込み、向かう先は決闘場。生と死が鬩ぎ合う戦場だ。その中で生きると決めた。生き残るのだと強く強く願うから。

「ところで坊主。セイバーとそのマスターの居所、ちゃんと掴めてるんだろうな?」

「…………」

「おい」

 彼らの道行きは前途多難だった。


/6


 深緑の闇。
 昏い昏い底の底。
 闇を縛り付ける為の檻。
 育む為の揺り籠。

 深い緑の闇という奇妙な闇色の中にそれはいた。

 キャスター達の棲む闇から見れば充分に明るい暗がり。しかしそれ以上の昏さがこちらにはある。あちらの闇が純粋無垢な黒であるのなら、この闇こそは様々な色の溶けた黒緑。幾億もの色が溶け混じり合い、おどろおどろしい深淵を作り上げている。

 蠕動する深淵の中、それは自らを掻き抱くように吼え上げる。

「…………ッ、ァァァァァ!」

 声にならぬ声。音にならぬ音。喉は正常な機能を忘れ、ただただ震えるだけのものとなりつつある。

 その身を焦がすは果てなき憎悪。二重螺旋を描く狂おしいまでの憎悪だ。二つの憎悪は一つの中で鬩ぎ合い、弾け、溶け、交じり合い、そして互いを喰らい合う。
 表出するのは二つの内のどちらかだけ。身を焼くほどの憎悪の応酬の果てに吐き出されるものは怨嗟を込めた呪言に他ならない。

「と…………、ぉ……ぃぃぃぃぃいいい!」

 肉より溢れる黒い霧。それは形となった憎悪だろうか。それを包み揺らめくは、この深淵と比しても遜色のない黒で満たされている。昏い地の底で、瞳だけが妖しく赤く、血の紅色に輝いている。

「…………、────ァ!!」

 止まる事のない憎悪の念は肉の檻を食い破り、弾け出したいと暴れ狂う。憎しみの縛鎖は輪のように円環し循環する。

「A…………、ッ……t……r…………ッ!!」

 狂い吼え猛る慟哭の叫び。炎のように血のように、憎悪は何処までも何処までも美しい赤と黒の螺旋を描く。

 キィキィと蟲が哭く。
 何処かで蠢き嘶いている。

 それはきっと、肉の内側からだろう。

 生み出される憎悪を喰らい魔力を精製し、魔力は肉を駆動させる。駆動する肉は憎悪を生み出しそれをまた蟲が喰らう。

 呆れるほどの無限円環。命を糧に廻る無間回廊。但しその代償はそれの命だ。生命力が尽き果てるその時まで止まる事の許されない疾走の円環。

 ひたすらに走り続けるのは、偏にその憎しみを成すが為。

「ォォォォォォッォォォォオオオオオオオオオオオ…………!」

 絶叫と共に己を捕らえる縛鎖を引き千切る。揺り籠を必要としないまでに成長した魔人は今、遂に解き放たれた。
 自らを閉じ込める深緑の檻を食い破り、獲物を探して這い出ずる。互いに違う獲物を見定めながら、その想いは両者に一つ。

 復讐を。

 この己を闇を突き落とした者に復讐を。
 この己が味わった絶望を、貴様もまた味わうがいい。

 闇に復讐の魔人が跳梁する。

 その手を血の赤に染め上げたいと。
 この牙をその肌に突き立てたいと。

 此処に最後の一人が戦場へと疾走を開始した。
 唯一つの負の想念──己の身を焦がす憎悪を糧に、全ては復讐を果たす為に。

 そして檻の深奥。
 食い破られた深緑の闇の主は呵々大笑と嘲笑う。

「さぁ踊るがいい。お主はアレを救いたいのであろう? ならば殺せ。全てを殺せ。
 滅尽滅相──その疾走を阻む全てを食い散らかして駆け抜けぃ。走り抜けた荒野の果てにこそ、お主の求める理想郷があるのじゃろうからの」

 キィキィと蟲が哭く。
 掌の上で踊る鬼を眺めながら。

 その行く末を興味深くも眺めながら────



[25400] Act.04
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/10 13:40
/1


 衛宮切嗣は当時、絶望の渦中にいた。

 幾多もの戦場を駆け抜け、外道を往く魔術師共を駆逐する。
 悪名高き殺し屋──魔術師殺しがその全盛を誇っていた頃、彼の内心は虚無で埋め尽くされていた。

 殺せど殺せど尽きぬ悪性。
 救えど救えど消えぬ嘆き。

 当然だ。人一人の手で為せる事など高が知れている。一人殺せば十の悪が世界の何処かで産声をあげ、一人救えば百の嘆きが遠い戦場で生まれている。

 手繰り寄せる事の叶わぬ鎖。
 決してその終端を見る事の出来ない綱渡り。

 それでも切嗣には殺す事しか、救う事しか出来なかった。
 そうする以外の術はなく、それ以外の選択肢など遥か過去に置き去りにしている。

 いつか救えなかった誰か。
 彼女の犠牲を無価値なものにしたくなくて、切嗣はただただ人々を殺し(すくい)続けていた。

 それも最早限界が近い。

 理想の破綻ではなく、現実問題としての肉体の限界。並行して行う戦場の横行。その裏で繰り広げられる魔術師殺しの業。碌な睡眠時間も食事もなく、ただ淡々と黙々と自らに課した役目を遂行していた切嗣の身体も、心ほどには強固ではなかったのだ。

 いや……その心にしても程なく限界を迎えていただろう。尽きぬ悪性。掬う端から零れていく命。心に刻んだ誓いも最早、磨り減り磨耗し欠けている。

 こんな事を続けても意味はないと。無意味だと。絶望という名の砂漠の中で、希望という名の砂粒を探すような無理難題。
 これまで心が壊れなかったのは、偏に切嗣の意志の強さ。そうする事しか出来ないという生き方は、彼の心を鉄の如く強固にした。

 それでも頭の端にはいつも過ぎっていたのだ。この世に救いはない。手を伸ばし欲する平和という名の平穏は、この世の何処を探しても見つからないと。この手一つで成し遂げるには、世界には余りにも嘆きが多すぎる。

 そんな絶望がじわじわと切嗣の鉄の心を蝕んでいた時、その依頼(さそい)は訪れた。

 聖杯。

 曰く──それを手にしたものは如何なる願いをも叶えられると。

 眉唾ものの空想。そう切り捨てるには、その誘惑は余りにも甘美であり。そして魔術師である以上、そんな奇跡はないと言い切れなかった。

 ──あってほしいと、切嗣は願ったのだ。

 このまま戦場を横行したところで全てを掬い切る事など到底不可能だ。ならば一縷の望みのその奇跡に希いたいという想いは、決して誰にも否定など出来ない。

 そしてアインツベルン──冬の一族の誘いに乗り、より詳細な内容を聞く。

 聖杯戦争。
 七人の魔術師。
 七騎の使い魔。
 殺し合い。

 唯一人の勝者にのみ聖杯は与えられる。

 聞けばその争いの歴史は既に二百年にも届くという。それほどの昔から準備用意された周到な儀式。これが虚偽ではないのは明白だ。
 何よりアインツベルンという血の系譜を重んじる典型的にして古い魔術師の家系が誇りと矜持を金繰り捨てでも勝利を欲するというのは、魔術師という生き物を良く知るが故に切嗣にはその覚悟の程がこれ以上なく理解が出来た。

 先にも述べた通りにこれは誘いであっても勧誘ではない。
 アインツベルンから魔術師殺しへの正式な依頼だ。

 これより十年の後に開かれる第四次聖杯戦争(ヘブンズフィール4)にて勝利し、聖杯を獲得する事。

 正確性を期せば聖杯の家系の悲願である第三魔法を成就させる事。それが成されるのなら他の全てなどどうでもいい。その余波で生まれる無限大にも等しい魔力の渦を、切嗣の祈りの成就に使用する事も黙認する──と。

 魔法という言葉にはさしもの切嗣も内心で驚きを示したが、彼にとってはどうでもいい代物だ。
 世界の外側の理になど興味はない。魔術師ではなく魔術使いである切嗣にとって、魔術とは目的に達する為の手段に過ぎない。

 全てを叶えるほどの膨大な魔力。その恩恵を受け、純粋無垢な祈りを捧げれば、この想いは必ず届く。世界の全てに伝播する。

 目指すべきは恒久の平和。
 争いのない世界。

 一度は膝を折りかけたその祈りを叶える術がある。
 自らの手一つでは掬い切れない嘆きでも、正真正銘の奇跡であれば全てを救える。

 その為ならば、この身この命。
 尽き果てるまで燃やし尽くす事に何の遠慮が必要か。

 鉄の心に火が灯る。
 消えかけた理想の灯火が最大級の炎を燃え上がらせている。

 此処に契約は成された。
 衛宮切嗣は聖杯戦争に参戦し、その他全ての参加者を殺戮し、聖杯の頂に駆け上がる事を誓ったのだ。

 ──そしてその後。

 北欧に居を構える冬の一族の牙城にて、衛宮切嗣は巡り会った。

 石柩を思わせる地下室。
 中心に聳える培養槽。
 満たされた液体の中に浮かぶ人型。

 人と呼ぶには余りに美しく、人形と呼ぶには余りに生気を帯びた人のカタチ。

 美しい銀糸の髪が揺蕩っている。
 肌理細やかな肌は鮮やかに。
 案内され、近くまで足を運べば、それは閉じていた瞳を僅かに覗かせた。
 紅玉かと見紛うほどの真紅の瞳が、見上げる切嗣を見つめている。

 これが彼と彼女の出逢い──衛宮切嗣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンの逢瀬だった。



+++


「────……」

 微睡より目を覚ます。覚醒は一瞬、いつかのように残影を引きはしない。
 それでも懐かしい夢を見た事を覚えている。あれはまさに契機の瞬間。今の衛宮切嗣を形作った一つの出会いだった。

 そんな夢を見たのはきっと、この場所のせいだろう。

 石造りの古城。遥か北欧に居を構える冬の一族の牙城と全く同じ造りをしたこの城で、一夜を過ごした事がきっとその原因。
 あの冠雪と針葉樹の森に置き去りにした、誰かの記憶。

「女々しいぞ、衛宮切嗣。僕はもう、それを捨て去ったというのに」

 自嘲するように呟く。聖杯を手に入れる為、取り戻した鉄の心。アインツベルンでの十年間で絆された心の鎧は今再び覆われている。しかしそれが鎧であるのなら、僅かな隙間からその奥を見通す事も出来るだろう。

 これはそんな、温かな日々の追憶。
 決して手に入れる事の出来ない──手にしてはいけないと自戒していた温もりの在り処。

 より心を鉄に変えろ。
 冷たく冷たく。
 何処までも凍るように。

 この身は歯車。理想という機械を廻す為のただの動力。そうでなければ立ち行かない。悪鬼共が集う魔窟冬木での闘争を勝ち抜く事など到底出来ない。

 聖杯を掴み祈りを叶える。その一念の為、全てを捨ててきた。あの常冬の森に置いて来たのだ。
 原初の誓いを違える事は、衛宮切嗣の崩壊を意味している。理想を成す──その夢の為の歩みを止める事は出来ないし、するつもりもない。

 今の切嗣にとって、アインツベルンでの十年などただの茶番。
 聖杯を掴む資格を得る為の必要条件に過ぎない。あの温もりも、冬の翁との契約を遂行しただけに過ぎない。

 ああ……それでもこの掌は、あの温もりを覚えている。

 アインツベルンからの条件提示は聖杯の獲得。
 切嗣からの条件提示は成就の余波によって生まれる魔力の行使権利を得る事。

 そしてもう一つ──戦いにおいて必勝を約束する為に切嗣が提示した条件。
 それこそがこの世から失われたと目される、伝説の騎士王の鞘を発掘する事。

 英霊を召喚し使役すると聞いた時、思い浮かんだのはその王の伝説だった。

 切嗣のような影から影に跳梁する殺し屋が持ち得ない、純粋無垢で圧倒的な力を持つ騎士の王。並み居る英霊を真正面から打ち倒し得る力量を持つ者。そんな存在が必要だと思ったのだ。

 マスターとの親和性という観点から見るのなら、アサシンやキャスターこそが有用だったのだろうが、あえて切嗣は正統派の英霊を望んだ。
 自分自身の力量を弁えている切嗣にとって見れば、同位の存在の持つ強みとそして弱みさえも理解が出来たが故に。

 確かに暗殺者や魔術師の英霊を引き当てれば序盤は優位に事を運べるだろう。だが後半になるにつれ、敵は減り強者だけが生き残る。
 当然にしてそんな奴らは警戒心が強いしマスターにしても同様の力量を持つだろう。そんな連中相手に背中を狙うしか能がない英霊は役に立たない。

 究極、最後の一騎を討ち取るという段になってセイバーないし三騎士クラスが残っていては、アサシンやキャスターでは役者不足に過ぎるのだ。いかにマスターを狙い撃とうとしても、サーヴァントが足止めにさえならないのなら勝機はゼロだ。

 故に求めるべきは自身の持ち得ない正統にして最強の力を持つ英霊。過去三度の戦いにおいて常に上位に在り続けたセイバーのクラス。そしてその剣の座においておよそ最強に近き王。

 ブリテンの赤き竜──アーサー・ペンドラゴンこそが勝利する為の最上の駒である、と。

 そして彼の王だけでなく、その鞘がなくては確実には勝利し得ない。そう翁を説得し、切嗣は無理難題とも言える条件を呑ませる事に成功した。その代わりに提示されたものは、冬の聖女──アイリスフィールとの間に子を生す事だった。

 錬金術の秘奥を以って製作されたアイリスフィール・フォン・アインツベルンの身体は人のそれと遜色はない。違いがあるとすれば成長の速度、人としての感情の機微。子を生す事にどちらも関係はない。

 まさしく最初は茶番だった。人の形をしているとはいえ、人と変わりはないとはいえ、その身は人形。だが切嗣には人形と交わる事にも抵抗はなかった。
 理想の為。契約の履行。凍てついた心を未だ持っていた切嗣にとっては、目的を遂行する為に身体を重ねる行為も銃の引き金を引くのと変わりない所作だった。

 ──では何時からなのだろうか。

 彼女との会話が、楽しいと思ったのは。
 こんな日々が何時までも続けばいいと思ったのは。

 そしてこの掌で、生れ落ちた幼子を抱いた時──衛宮切嗣は涙を零した。

 幼少期、大切だった少女を殺せ(すくえ)なかった時以来の、涙。

 衛宮切嗣の守りたかったもの。
 手に入れたかったもの。
 ずっと続くと思っていた、この温かな日々こそが────……

「────くだらない」

 切嗣は自らの追憶を、その一言で遮断した。

 それは思い返してはいけない記憶。
 浸り続けてはいけない微温湯だ。
 だから置いてきた。
 捨て去ったのだ。

 この心を焦がすのは凍てついた炎であればいい。溶けない氷のように何処までも固く凍りつき、何処までも高く燃え上がれ。微温湯は必要ない。理想を成すのに不必要な全ては捨て去ってしまえばいい。

 懐に手を伸ばし、煙草を一本引き抜いた。付属品だったライターで火を灯し、紫煙を胸いっぱいに吸い込み吐き出した。
 懐かしい味。心を焦がす味だ。この煙と臭いをアイリスフィールは苦手だと言っていた。

 硝煙と血と煙草。魔術師殺しであった頃の切嗣を象徴する三つの要素。その全てが今や手の内にあり、一度は掴んだ温もりは、とうに手離し捨て去った。

 この手に担うは黒鉄の銃身。乱れ舞うは血の風。胸を焦がす紫煙だけが、この心を癒してくれる。

「…………」

 一度瞳を閉じ、開いた時。既に切嗣の瞳は冷徹な色を宿していた。昨夜、ロード・エルメロイの一派を惨殺し尽した時と同じ、闇色の黒を。

 背を預けていた壁から身を起こす。身体状態を一通りチェックし、ある筈がないと確信している異常を今一度と走査した。結果、身体に異常はない。固有時制御により生じた痛みも欠片も残っていない。万全の状態。不備はない。

 視線を僅かに揺らし壁の向こうを覗き見る。実際に透視をした訳ではない。レイラインにより結ばれている存在の居所を窺っただけだ。

 契約により互いの居場所をある程度知覚出来るマスターとサーヴァント。切嗣のサーヴァントであるセイバーもまた、この古城の何処かに移動して来ている。

 昨日の作戦行動の後、舞弥を通してセイバーには次の作戦の為の手筈を伝えていた。

 誇り高い騎士の王が、こうも悪辣な切嗣のやり方に碌な反論もなく従っているのは彼自身僅かな不可解を覚えたが、使えるのならそれでいいと割り切った。
 昨夜の別れ際、何かを言いかけていたが飲み込んだ事も含め、彼女には彼女なりの目的があり確固たる意志がある。

 彼女の祈りを知っている。切嗣のそれと酷似した清い祈りを。その祈りの成就の為、彼女もまた修羅の道を歩むと覚悟しているのだろう。互いに会話はなくとも理解している。やるべき事を納得している。

 聖杯を掴み取る──この絶対の利害が一致している間は、二つの歯車に齟齬はない。

 ならば我らの間に言葉は不要。
 ただ行動によってのみその意志を示そう。

「さて……」

 室内には舞弥に運び込ませておいた銃火器の数々。全てのチェックは既に終えており、いつでも使用可能。
 当の本人である舞弥はこの城にはいない。切嗣の作戦通りに事が進めばこの森に今を生き残る連中が集う筈だが、そうはならない可能性も考慮し舞弥には冬木市内の監視を任せてある。

 この森にまでは舞弥からの通信も届かない。セイバーと会話をする気のない切嗣は、文字通りに言葉を交わす事無く彼女を扱わなければならない……

「その必要もないか。手筈は既に済ませてある」

 休んでいた部屋を辞し、一階ホール横にあるサロンへと赴いた。そこに待っていたのはセイバーではなく、白い装束を身に着けた、アインツベルンの侍従である。

「おはようございますエミヤキリツグ様」

「挨拶など必要ない。現状を報告しろ」

 彼女はこの古城──六十年間無人であったこの城の整備を任された侍従である。前回よりほとんど放置に近い状態で捨て置かれた拠点を今回再び使えるようにする為だけに派遣されたホムンクルスだ。

 その甲斐あってか古城の内部はかつての栄華を取り戻している。それこそ廃城にも近かった惨状を彼女一人で整備を済ませた事は驚嘆に値しよう。

 そして彼女に与えられた役目はもう一つある。

「はい。現在の所侵入者の気配はありません」

 テーブル上に置かれた水晶球は目まぐるしく写し込む風景を変え、幾つもの場所を監視している。

 アインツベルンの森に張り巡らされた結界は、彼の血脈に連なる者にしか起動使役出来ない。冬の一族に招かれたとはいえ切嗣は所詮雇われの身だ。錬金術の大家である彼らの術式の一切を伝授などされていない。

 電子機器や使い魔の瞳で監視の代用は出来たであろうが、森の広大さを思えば非効率に過ぎる。アインツベルンのアドバンテージであるこの拠点を正しく扱おうというのなら、彼女のような補佐役が必要不可欠だったのだ。

「……セイバーは?」

「森を俯瞰出来る最上階の一室にいらっしゃいます。この場に居ては、キリツグ様の邪魔になるだろう、と」

「…………」

 彼女は彼女なりに自分達の在り方について理解している。余計な干渉は相互にとって不利益しか生まない。いや、切嗣が干渉を拒んでいるのなら、彼女もそれに倣うという事か。剣としては上出来な考えだ。

 もし切嗣のようなマスターでなければ、彼女もまたそれに合わせた在り方を示したであろう。仕えるマスターによって色を変えられるサーヴァント。なるほど、最優のクラスは伊達ではない。

「キリツグ様」

 その時、水晶球に映り込んだ風景に異変が生じる。

「来たか」

 森の監視網に引っ掛かった哀れな獲物。入り口付近での観測ゆえにまだ距離はかなり離れている。それでも万全の準備を整えるだけの猶予を得られるのは、この拠点ならではの利点だ。

 そしてこれまでの作戦行動が実を結んでいるとすれば、もう一つ利点が生じる筈だ。

「セイバーには待機を命じておけ。後は勝手に判断するだろう。それを終えれば監視ももう必要ない。巻き込まれたくなければ何処へなりと消えてくれ」

 敵がこの城を目指して森に踏み込んでいる──それを観測出来ればそれでいい。後の仕事は衛宮切嗣の領分であり領域。

 森にマスター達が集うのなら、当然にして彼らはこの城を目指す。その過程で他のマスターとかち合う可能性は低くない。城に近づけば近づくほどにむしろ高くなる。

 彼らは決して共闘関係などではない。ただ単純に今一番目障りな切嗣の陣営を始末しようと乗り込んで来るだけだ。ならばその過程で他のマスターとエンカウントすれば、当然戦わざるを得ない。

 ──互いに尾を喰い合え狩人共。僕はその背を狙い撃たせて貰うまでだ。

 獲物を求めて森に踏み込む狩人を狩る暗殺者。

 此処は狩人が狩られる森。
 また一つ首級を奪い取る為──稀代の暗殺者は行動を開始した。


/2


 冬木市郊外に広がる森には一つの噂がある。

 曰く──その森の深奥にはあやかしの城があると。

 現実問題としてこの航空機の発達した現代で、いかに背の高い木々が軒を連ねる森であろうとも、城と呼称される程に巨大な建造物が存在しているのなら上空より観測されないというのは有り得ない。

 地図の上でもそんな城は存在しないし、所詮は噂の域を出ない眉唾物の風評。それが世間一般の認識だ。
 それでも年に数人この森に迷い込み、あやかしの城を見たと吹聴する輩は後を断たない。

 そもそも発展目覚ましい冬木においてこれほど巨大な森がなお健在であるのは不可解と言える。緑生い茂る森というわけではなく、どちらかと言えば死んだ森ならば尚の事。
 枯れた木々、乾いた土、日の光の届かぬ深いだけの森がなお公的機関の手が入る事を免れているのは、この一帯が私有地であるからだ。

 アインツベルンという北欧の一族が所有しているこの森。噂に流れるあやかしの城。その実在は、彼らと同位の者にしか知られていない。
 錯覚による認識の齟齬という簡易な結界を、けれどこの広大な森林一帯に展開し続けているその実力。千年の研鑽と血統を今なお保つ純血の一族。同じ魔術師であればこれに敬意を抱かぬ筈がない。

「まあそれも、部外の血を取り入れた事で地に落ちてしまったかな」

 優雅な足取りで森を往くは正調の魔術師遠坂時臣。彼の足取りに迷いはない。常人であれば認識と感覚を狂わせるこの森において目的意識を持って歩き続けるなど不可能に近いが彼もまた優秀な魔術師の一人。

 広大であれど程度の低い認識阻害の結界など取るに足りぬと足取りには迷いなく森を踏破する。

 その傍らには黄金の姿。目に眩い煌びやかな鎧を纏い、時臣の後を追随する。

「王よ。今更ではありますが、御自ら歩かずとも良いのでは?」

 サーヴァントとは霊体だ。マスターからの魔力供給を自発的に遮断すればその身は実体を失い霊体となる。魔力で構成された肉体であれど疲労はあるし何より意味のない実体化はマスターにとっても不利益だ。

 これより戦いに臨もうという時に余計な魔力消費を抑えたいと思うのは魔術師であれば当然だ。そしてこの黄金の性格を慮れば、時臣に道案内だけをさせ自らは高みからの俯瞰を決め込んでも良さそうなものなのに。

「何、気にするな。これは我が好きでやっている事だ。どうせ現界したのなら仮初めとは言え肉の身体がある方が心地良い。
 それになあ、時臣よ。もし仮に我が霊体化している隙を衝かれては、貴様には為す術などあるまい?」

 それは決して時臣の身を案じての言葉などではないだろう。黄金が見初めた宝石と巡り会う為に、魔力供給源である時臣に今死なれては少しばかり面倒になる、程度の認識しかあるまい。

 アーチャーが如何に単独行動のスキルを保有していたとしても限界はある。マスターからの供給なしでの全力戦闘、長期間の現界はこの黄金を以ってしても不可能なのだから。

「王がそう言われるのであれば構いません。やがて城の尖塔でも見えてくる頃合。それまでどうか──」

 言い差して、時臣は正面に向けていた視線を右方に投げる。

「気付いたか。どうやら貴様の読みは当たっていたようだな」

 衛宮切嗣があれほど大々的に動き回ったのは敵の排除は無論の事、今この時を見据えてのもの。
 未だ隠れ潜むマスター連中を引き摺り出すには衆目を集め厄介な敵であると認識させ、同時に早期脱落を狙わせなければならない。

 ある程度の知恵が回るのなら、この程度は読めて当然。そして他の者達も同じ思考に至ると考えるのなら後は単純、世俗の目の届かぬこの森は大規模戦闘を行う上で誂え向きの戦場だ。

 誰に憚る事無く戦える上、他の連中が集う以上は己もまた参じなければならないと思わせる。此処で様子見をしては、英雄としての格を疑われるからだ。

 数多の英雄豪傑が集う決闘場に馳せ参じ得ない臆病者なぞ誰にも相手にされはすまい。ここまで周到に用意された戦いの舞台に背を向けた者は、二度とは同じ高みに立てぬと宣言されるようなものなのだから。

 だから少なくとも英雄の自負を持つ者はこの森に既にいる筈だ。それぞれ違う目的を携えていたとしても、その芯は同じ熱を宿しているのだから。

 ただ今時臣とアーチャーが見咎めたその存在は、果たしてそんな英霊の矜持を持つに足る者なのか。

 梢の向こう──緩やかな歩みで城に惑う事無く邁進していた厚手のローブ姿のサーヴァント。
 その異様……とてもアーチャーと同格の英霊とは思えない。何より奇怪なのは、そのサーヴァントは幾人もの子供を引き連れ森を練り歩いていた事に尽きる。

「おや……」

 時臣達が気付いたように、向こうもまたこちらに感付く。ギョロリとした双眸が無遠慮に二人を舐め回した。

「ほうほう、これはこれは。ああ、なるほど。あなた方もまた、彼女の威光に心奪われた者なのですね」

 そんな意味不明な言葉を述べながら、時臣達のいた僅かに開けた場所へとそのサーヴァントは姿を現した。

「ええ、ええ、分かりますとも。彼女こそはこの醜悪な世界に生れ落ちた最後の光。比するもののない至高の煌きだ。その輝きに惹かれ、火に飛び込む蛾のように誘われるのも致し方なき事ですよ」

 奇妙とも呼べる笑みを浮かべながらローブのサーヴァント……時臣はキャスターと当たりをつけた者を見やる。

「おまえは一体……何を言っている?」

 当然、錯乱にも等しい状態にあるキャスターの言は常人には理解し得ないものであり、時臣にはとてもではないが同じ言語には聞こえない。
 うわ言戯言妄言。そんな言葉ばかりが脳裏に過ぎる。そしてこんな英霊とも似ても似つかない怨霊めいた者がサーヴァントとして現界している事に酷く憤慨を覚えた。

「語る言葉を持つのなら問いに答えて欲しい。おまえの後ろにいる子供達……それは一体なんだ」

 キャスターの後を夢遊病患者のような足取りで着いて来ていた十名余りの子供達。彼らは無論、この戦いとは無縁の一般人だ。恐らくはキャスターの術中に落ち、こんな場所にまで連れて来られたのだろう。

「この聖杯戦争に招かれるは世に名を馳せた英傑達。御身がその末席に座する者であるのなら、その矜持に則り無垢な子供達をこんな争いに巻き込むな」

 そんな外道は衛宮切嗣一人で充分だ。その言葉は口にせず、眼前の怪奇なる英霊を見据えた。

「ああ、なるほど。彼らの身を案じておられると。心配などいりません、私とて無用の犠牲を払う気はありませんとも。彼らは私と聖女との邂逅に必要な贄。手土産──と呼ぶべきですかねぇ」

 キャスターが僅かに右手を上げる。その仕草に応じたのか、一人の少年が両者の間に歩み出る。ぱちん、と指を鳴らせば、びくりと身を竦ませた少年は次の瞬間、その頭蓋を破裂させ赤い血飛沫を撒き散らした。

「貴様────ッ!」

「おお、やはり人の血は美しい。子供のそれは特に格別だ。これほどに美しい花束であるのなら、きっとジャンヌもお気に召してくれるでしょう」

 ジャンヌ……? それはジャンヌ・ダルクの事を言っているのか。

 救国の英雄、オルレアンの乙女。神の声を聞いたとされる、人々を導きし聖女。異端審問に掛かり数々の拷問陵辱を受け、その最後は火刑に処されて失意の内に死んだとされる気高く美しい乙女。

 彼女の事を言っているとすれば、この眼前のサーヴァントはそれに連なる者であろう。セイバーがジャンヌ・ダルクであるという確信は持てないが、少なくともこのキャスターは聖女を知る者には違いない。

 いや、今はそれはいい。目の前の外道の真名に触れる一端を知れたのは僥倖だが、それよりも今、目の前で展開された事態にこそ目を向けなければならない。

「……これは一体どういう了見かなキャスター。無意味な犠牲を出さないと口にした直後のこの所業……貴様、本当に英雄か」

 英雄という存在に幻想を抱く者は数多い。高潔であり気高くあり芯に強い意志を秘めた存在。それが英雄と呼ばれるものだ。
 多くの人々の賞賛と羨望を集めただけの何かを持ちえる者でなければならない。こんな外道が英雄であるなどと、そんなものは受け入れられる筈がない。

「いいや、時臣。彼奴は充分に英雄だぞ。ただその芯がおまえの認識と決定的に違っている──という点を除けばな」

 これまで沈黙を貫いていた黄金が一歩前に歩みである。目の前の怪奇なる英雄を睨め付ける。

「彼奴はその目を焼かれた光しか見えていない。他の全てが二の次だ。至高と信ずるものの為、全てを覆す芯を持つ。
 たった一つの為に全てを捨て去り、心魂を捧げた光の為に命を賭ける。そしてそれだけで座の高みに上り詰めたのなら、そら、それは充分に英雄だろう」

 唯我を誇るこの黄金は、決して他者を認めぬ狭量ではない。世界最古の王。英雄と呼ばれる者達の頂点、先を行く者であるのなら、当然にしてその下にいる者共を認めない理由がない。

 眼前の怪物を前に、如何に狂い、如何に錯乱し、如何に潰れた瞳で偽りの輝きを見ていようとも、その身は英雄には違いないと。

「ほぅ……中々の慧眼の持ち主のようだ。この青髭めがジャンヌとの再会に際し、邪魔立てする者ならばこの場で駆逐するのも吝かではない思っていましたが、貴方ならば同道を許しても構わないやもしれません。
 貴方もまた我が光に恋焦がれた者なのでしょう? ならば共に迎えに上がりましょう。我らが乙女を。神の愛に穢れてしまった彼女を救い出すのですッ!」

「自惚れるな雑種。それとこれとは話が違う。アレは貴様のものなどではない。アレは我が手に入れるものだ」

 瞬間、黄金の背後に浮かび上がる無数の渦。黄金の輝きを湛えた泉から湧き出るは鋼の刀身。そう認識した直後、鋼の剣群は射出されて空を切り、キャスターの従えていた子供達の心臓を違う事無く貫いた。

「王よ! 何を……!」

「あの稚児共はどうせ助からん。生きたまま奴の慰み者になるくらいならば、我は死を遣わす。それが慈悲というものだ」

 先のように無益に命を散らされキャスターの傀儡になるのなら、黄金はその前に彼らの命を断つ。
 そこに救いはない。この場に連れて来られた時点で子供達の命脈など既に尽きている。どの道助からない命であるのなら、せめてもの慈悲として我が手に掛かり死ね──そう彼は告げたのだ。

 全てを救おうとして足掻き、結果浅ましい末路を迎えるくらいならば何も知らぬ内に死んだ方がまだ救いはある、と。
 それがこの黄金の王の持つ慈悲。己の信ずる善により混沌を為す者。無意味な生よりは価値ある死をこそ望むのだ。

「お、おお……おおおおおおおおおおおおおッ! なんという……なんという事を! 我が乙女に捧げるべき花が、血が、贄がっ!
 度し難い……度し難いぞサーヴァント! 私と乙女の邂逅を邪魔立てするつもりならば容赦はしないッッッッ!」

 キャスターは怒りも露にローブの内より一冊の本を取り出した。分厚い装丁の、見る者が見れば分かる人の皮で覆われた魔道書を。

「戯言は良い。さっさと来るがいい。我とて貴様などと共に愛でるべき宝石の下に赴こうとは思っていないのでな。此処で死ね」

 魔術師の英霊の詠唱完了と黄金が剣群を展開したのはほぼ同時。つい今ほど刃に貫かれ絶命した少年少女の屍肉より、生まれ出ずるは異界の理。キャスターの手にする魔道書の力によって召喚された異界の魔物共がその腸を食い破り姿を現した。

 見るからに醜悪、度し難い程に奇天烈な異形の魔物共を見咎め、憤慨も露に黄金は命を下す。彼の背後で王の号令を待つ宝剣宝槍に。

「我の庭たるこの世界に、よくもそんな穢らわしいモノを産み落としてくれたな。万死に値するぞ雑種────!」

 世界を自身のものと言って憚らない王者の逆鱗に触れた者の末路など考えるまでもない。
 せいぜいが死するその時まで舞台の上で踊り狂い足掻けと、王者の咆哮と共に戦いの幕は此処に上がった。


/3


 古城の最上階。その一室に彼女の姿はあった。

 窓辺に寄り添い眼下に広がる灰色の森を見下ろしている。その瞳に映るのは、果たして本当に深海のような森なのだろうか。

「戦いが……始まっている」

 戦闘の余波はここまで届いている。最上階から見下ろしてすら背の高い木々に阻まれ戦場は見通せないが、確かにその気配は感じ取れた。

 セイバーは何も戦鬼というわけではない。戦いに明け暮れる事をよしとする戦闘狂いではないのだ。

 彼女が剣を執るのはいつも理由があった。国を守る為。国を救う為。その為ならばこの手は如何に敵の返り血で塗れようとも構わなかった。守りたいものの為に剣を執る事に迷いなどなかった。

 だからと言って彼女が戦いを好んでいたかと訊かれれば、当然にして答えは否。必要に駆られなければ剣を執る理由はないし、争う事をよしとしない。
 孤高の王であっても、その身と心はその成長を止めた頃より変わっていない。少女は何処まで行っても所詮少女でしかないのだから。

 もし仮にセイバーの祖国が平穏な治世であったのなら、彼女は賢君として世に名を残していただろう。あの騎士達とここまで大きな軋轢は生まれなかっただろう。

 奇しくも世は戦乱の時代。求められたのは力による治世だ。少女の身であった彼女が──如何に魔術師の力を借り男性だと偽っていたとしても──他の騎士達に認められる為には勝利を齎す以外に有り得なかった。

 一度でも膝を屈せば非難は矢のように降り注ぎ玉座を追われていただろう。だが彼女は戴冠してからの戦い全てに勝利した。一度たりとも膝を屈さず、幾度追い返そうとも襲い来る蛮族共をその度に追い返し続けた。

 王のやり方に難色を示す者はいたが、結果として勝利を約束し続けた以上は非難の声も小さかった。
 国が維持され民の平穏が守られ続ける限りは、誰一人として王の治世に口を挟む事はなかったのだ。

 そう──あの時までは。
 あの、理想の騎士が王城を去るその時までは。

「…………」

 零れそうになる言葉を飲み込んで、セイバーは窓硝子に手を添え広がる樹海に視線を落とした。

 今もこの森の何処かで戦いが行われている。主の代行者として戦う為に喚び出されたサーヴァントならば、今すぐにでもこの城を飛び出す戦場に参じるべきなのだろう。一つ首級を奪えばそれだけ目指す聖杯の頂は近づくのだから。

 しかしそれは別段セイバー自身がなさなければならない事ではない。他のサーヴァント同士が互いに殺し合う事を止める謂れはないのだ。
 より簡略に言えば、何も全てのサーヴァントにセイバーが手を下す必要はない。他の連中で鎬を削りあうのだから、無用な戦いに臨む必要はないのだ。放っておけばこちらが手を下さずとも幾人かは脱落してくれる。

 特に今、この森の現状を思えば静観こそが重畳。この拠点まで辿り着いた者だけを相手にすればそれで済む話なのだから。

「切嗣もおそらくは、私にそれを望んでいるのでしょうから」

 この城を管理しているという侍従に待機を告げられたのはつまりそういう事。未だ素性の知れぬマスターとサーヴァントは複数存在している。切嗣は今頃戦場を監視し敵戦力の把握に努めているだろう。

 おそらくはこの森で敵を討ち果たす心積もりはあるまい。切嗣の餌に誘き寄せられた連中の姿形と能力の把握を最優先とし、討伐は各個撃破が最善だ。
 セイバーもかつては騎士を率いる王として戦場を駆け抜けた者。戦いに関しては一過言を持つ。

 戦いは乱戦になってしまっては趨勢が読めなくなる。特に今、セイバーが目下最大の敵と目されている以上、全てのサーヴァントが敵に回りかねない。
 そうなってしまえば後は撤退が最上であり、如何にして戦場を離脱するかに終始する他なくなるのだから。

「それでも私にも、譲れぬ一線がある」

 英雄としての矜持。奇襲強襲は認めても、騙まし討ちは好まない。騎士としての誇りを持つのなら、今眼前に広がる決闘場から目を背ける事は出来はしない。

 ランサーとの決着をあのような形で終えるしかなかったというのは、彼女の心を甚く傷つけた。
 騎士道精神に則るつもりはない。これは殺し合いであり試合ではない。正々堂々戦うだけが全てではない。勝利を。栄光を。聖杯をこの手に。

 その為ならば清濁併せ呑むと決めている。それでも騎士として戦いを挑んで来た勇者をあんな形で斬ってしまった事は後悔に余りあるのかもしれない。

「ふふ……騎士に怨嗟の声を投げかけられるのも慣れてしまっている身であるのに、なんと女々しい事かアルトリア」

 今一度己を戒める。譲れぬ一線。獣と人の境界線。その境界線上に立ってなお、聖杯を掴むのだ。罵詈雑言も汚泥とて、飲み干す覚悟があるのなら。何より優先すべきものがあるのだから。

 その時──森の彼方より怒号が響く。

『この世に招かれし英雄豪傑よ、この地に集いし兵共よ! その身に英雄としての誇りを宿すのなら、こそこそせずにその姿を見せるがいい!
 我が声を聞き届けながらに姿を見せぬ臆病者は、この征服王イスカンダルの謗りを免れぬものと知れぃ!!』

 森を斬り裂く大咆哮。天地に向けて謳われたその宣誓は、この森に踏み込んだ全ての者に届けられた。

『特にセイバー!! これまでの獅子奮迅ぶりが偽りでないとするのなら、早く姿を現さんか! 誰もが貴様の登場を望んでおるぞ! それでも姿を見せぬというのなら、この森ごと平らにして晒し者にしてくれよう!!』

 剛毅にて快活。嫌味のない大言は、まさに王者の空言だ。英雄の矜持を持つのなら決して耳を塞ぐ事を許されない挑発。
 それを馬鹿げたものだと一笑に附せたのなら、どれほど楽だった事か。

「……すまない切嗣。私にもまだ、一握りの誇りが残っているらしい」

 瞬間、ダークスーツを覆い包む青のドレスと白銀の甲冑。戦支度は一瞬であり、伸ばした腕は窓を開く。
 城の巨大さに応じた窓枠に足を掛け、滑るように城の壁面を降り、下降の力と魔力放出を相乗し、セイバーは壁面を蹴り上げ宙を舞った。

 自らに残った一握りの誇りを胸に秘め、此処に赤銅、黄金に次ぐ白銀の王が戦場に向けて空に舞った。


/4


 時間は僅かに遡り、戦端が切って落とされた直後。
 森中心部での戦闘──アーチャーとキャスターの戦いは既に泥沼の様相を呈していた。

 黄金の繰り出す剣槍の投擲はまるで爆撃のように森の一帯を薙ぎ払う。それに巻き込まれるようにキャスターの生み出した怪魔達は爆散し弾け飛ぶ。問題は、それだけの攻撃を受けてなお怪魔の数が減らない事。

 いや、むしろその数は増している。剣斧の投擲により弾け飛んだ怪魔はそれでなお活動を止めず、千切れた己が肉を媒介に更なる怪魔を産み落とす。
 それはさながらどれだけ分裂しようと増え続けるアメーバのよう。単細胞生物の如く、ダメージを意に介す事無く増殖し続けている。

 その無限増殖に拍車を掛けているのは、他ならぬアーチャー自身の手抜きだった。

 彼の戦闘能力を思えば、ただ増え続けるだけの低級の魔物など一瞬で蹴散らすくらい容易い筈だ。それをこの黄金はせず、まるで出し惜しむかのように宝剣宝槍を一挺二挺と繰り出すばかり。

 当然、そんな光景を横で見ている時臣は気が気ではない。
 自身の招来した最強の自負があるサーヴァント。それがこんな英霊もどきを相手に梃子摺るなどあってはならない。そんな事があってしまっては、時臣の描いた未来予想図が早くも瓦解してしまう。

「──王よ。戯れはこれまでに。どうかその財の限りを尽くし、あの英霊にあらざる者に誅罰を」

「そう慌てるな時臣。我は何よりも愉悦を尊ぶ。吹けば消し飛ぶ程度の輩であるのなら、相応の力で相手をしてやるのが重畳だ。
 我が庭たるこの世界に異物を持ち込んだ輩であるのだぞ? 瞬きの間に消し飛ばしてしまっては貴様の言う誅罰足りんではないか」

 ────せめてその死に様で我を愉しませよ。

 そう口にはせずともこの王の言いたい事は時臣にも理解は出来た。無論、納得など微塵も出来はしなかったが。

「ゲテモノの方が味は良いという。この世にはないモノであるのなら尚の事。
 出し惜しむ事無く全てを尽くせサーヴァント。我の意に叶わぬその時は、無残な死に様をくれてやろう」

 一挺一挺が爆撃並威力を放つ宝剣宝槍の射撃は戦場を制圧している。王は口元に余裕の笑みを浮かべたまま一歩すら動く事無く趨勢を握っている。
 対する青髭を名乗ったキャスターの面貌に張り付くは狂気の形相だ。

 心酔し信奉した乙女との逢瀬を邪魔立てされたのみならず、こうまで小馬鹿にされては如何にその身が狂気に侵されていようと怒髪は天を衝いて余りある。

 彼は手にする魔道書──『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』の魔力炉を最大励起させ使役する。

 キャスターは自身が有能なサーヴァントではない。手にする友より賜れたスペルブックこそが真骨頂なのだ。
 無論、その能力を最大限に引き出せる狂気があってのものである以上、彼以上にこの魔道書を使いこなせる輩はあるまい。

「さあさあさあ! 出でよ湧き出よ我が子らよ! 我が愛する乙女との邂逅を邪魔立てするあの神の差し向けた刺客を打ち滅ぼしなさいッ!」

 俄然、勢いを増し増殖を続ける怪魔の群れ。今やそれほどの広さのない戦場を埋め尽くさんばかりにその勢力を増大させている。
 見るもおぞましい異形。繰り出される宝剣の爆撃は並み居る怪魔を飛び散らせ、結果より多くの怪魔を生み出す手助けをしている。

 鼓動の如く揺らめき増え続ける様はまるで増殖する臓腑のよう。奇怪に波打つ異形はその位置取りを刻々と変化させ、戦場を埋め尽くし、気が付けば時臣とアーチャーを包囲していた。

「さあ! どうするのですサーヴァント! 貴方が小馬鹿にした我が子らは遂にこの戦場を制圧した。貴方が如何に優れた英霊であろうとも、この数に襲われてはひとたまりもありますまい!?」

 気勢の逆転を見て取ったか、キャスターは狂気乱舞と声を上げる。彼の指先一つで怪魔の群れは一瞬でアーチャー達に襲い掛かり喰らい尽くす。
 腹を空かせた異形の食事は恐らく凄惨に余りあろう。少なくともこの世のものとは思えないほどにおぞましい食事になるだろう。

「…………」

 そんな状況の中、黄金は己を包囲する汚らわしいモノを睥睨する。瞳を合わせれば腐り落ちそうな程気色の悪いそれらを見やり、

「この程度か?」

 そう、まるで無感情に憚った。

「……何ですと?」

「我は言った筈だが。出し惜しむ事無く全てを尽くせと。ならばこれが貴様の全力か」

 数こそ多いがその全ては低級の魔物の群れだ。一魔術師であっても抵抗する事は不可能ではないレベルの怪異に過ぎない。
 怪魔の特性はあくまでその異常な生命力と再生力、そして繁殖力だ。数に物言わせた集団での嬲り殺し、持久戦が真骨頂。故にこの状況は怪魔を扱う上で最大の状況であるのは間違いない。

 そんなものを無論知った上で黄金は憚った。この程度か、と。この程度の異形しか産めぬ木偶なのかと。

「興醒めだ。我を愉しませるに値せぬ輩は疾く死ね」

 黄金の王の右腕が水平に伸びる。刹那、包囲する全ての怪魔に照準を合わせたかのように無数の──否、無尽の如き数の宝剣宝槍、数多の武装が展開される。

 怪魔達の蠢く地平が全てを飲み込む夜の闇であるのなら、黄金の展開した剣群は夜を照らす星明かり。
 駆逐されるのは果たしてどちらか、その裁断を下す王の号令が今、下される───

「お待ちください、王よ」

 その気勢を削いだのは、他ならぬ時臣だった。

「何故止める? 理由なき諫言ならば相応の報いを以って遇すぞ」

「何、理由は単純です。この程度の低級の魔物など、王の手を煩わせるまでもない」

 言って、時臣は手にした樫材のステッキを回転させる。天頂に象眼された極大の紅玉(ルビー)が炎のようにその彩を輝かせる。

 黄金と青髭の対峙を時臣はただ呆と眺めていただけではない。彼は彼なりに戦場に意識を張り巡らせ、第三者の視点から俯瞰し、冷静に場を見つめ続けていた。
 それと同時に身体に刻み込んだ魔術刻印の回転数を徐々に上げ、黄金の爆撃と怪魔の増殖の合間に密やかに術式の構築を進めていたのだ。

 この森には現在多くのマスターとサーヴァントが潜んでいると時臣は睨んでいる。ならば今こうして戦端を切ってしまった我らを監視する者の目を気にしておくべきなのだ。

 聖杯戦争における情報の重要性を見誤ってはいけない。一枚でも切るべき手札は少なくしておくべきなのだ。特にこの黄金の能力について、看破される事は時臣の敗退を意味しているも同然なのだから。

 如何に最強の自負があろうとも、対策を取られては不味い。究極的に言えば、複数組で同盟でも組まれては不敗でいられるかどうか分からない。
 最強を最強のまま運用しようというのなら、最強である事を秘し、能力の一端においても秘せる情報は秘すべきなのだから。

 故に今、明かすべきは己自身の情報で必要十分。この程度の低級の魔物の群れなど、我が炎にて焼き尽くして余りある──!

「我が敵の火葬は苛烈なるべし(Intensive Einascherung)」

 瞬間、戦場全域に浮かび上がる巨大な魔法陣。地より天へと逆上る炎の柱が顕現し、幾百の怪魔共を一匹残らず飲み込んだ。
 その中心に立つ時臣とアーチャー以外の全ての存在を灰燼に帰せ、とばかりに炎は猛り狂い、並み居る怪魔を灼熱の舌は捕らえて離さず、異形の者共の悲痛な絶叫をすら消し炭と化して、太陽の輝きは夜の闇を払拭した。

「お気に召して頂けましたかな、王よ」

「ふん……」

 天へと消え去った炎の柱の後に残されたのは、更地となった戦場と無傷の時臣とアーチャー。そして難を逃れたキャスターのみであった。

「お、お、お、お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 戦慄くキャスター。よもやサーヴァントではなくたかだか人間の魔術師程度に己の使役する怪魔を殺し尽くされるとは夢にも思っていなかったに違いない。

 しかしこの手には今だ魔道書は健在。このスペルブックがある限りキャスターの魔力の多寡に関係なく、それこそ無尽に異形を喚び寄せる事は可能なのだ。
 より強い魔物を産めばいい。より悪逆な異形を喚べば良い。この先に待つ乙女の為、死力を尽くしてこの敵を乗り越えなければならない。

「なるほど……」

 そしてキャスターは、その狂気なる思考を以って奇妙な結論に達した。

「今此処に理解した。貴様こそは私と聖処女との邂逅を邪魔立てする為に遣わされた、神の使徒なのですね」

「何?」

 時臣の問いなどまるで無視してキャスターは続ける。

「生前、どれだけ悪逆を尽くそうと、倫理を犯そうと、禁忌に手を染めようと終ぞ神は私の前には現れなかった。
 我が愛しの乙女の信仰をあのような結末にて踏み躙った憎き神に問おうと、この手を血と狂気と快楽で染め抜いてなお神は姿を現さなかった。それどころか、神は私を罰する事さえなかった」

 キャスターを罪に問い罰を処したのは同じ人間だ。神は何もしていない。何一つしなかった。

 神の教えに背くありとあらゆる行いを以ってなお罰がない。
 これはつまり信仰という名の狂気(いのり)は無為であると証明されたのだ。
 神の不在は確かに証明されたのだ。

 それでもキャスターはきっと、心の何処かで思っていたのだ。神は、存在していて欲しいと。
 でなければこの憤りは何処に向かえばいいのか。彼女の──ジャンヌの信仰は、敬虔な生き様はなんであったのかと狂ってしまうから。

 そして今、遂にその姿を見咎めた。気の遠くなる永遠と刹那の狭間において、唯一つ望んだ祈り──愛する聖女との再びの邂逅。

 その奇跡を前にして邪魔立てする、立ちはだかる存在を神の試練と、その存在を神の使徒と言わずして何と言う。

 今更になって、今ようやく神は己を見つけ出したのだ。信仰に背いた者に罰を。主の教えに背いた者に咎を。
 悪逆に耽溺したこの己の罪に対する最大級の罰──それは最早語るまでもない。

「御身を超えずして我が乙女との邂逅が叶わぬのなら、宜しい。是が非でも乗り越えて見せよう」

 朧と霞んで行くキャスターの総身。実体を喪失し霊体へと移行する。その意味するところはこの場からの撤退に他ならない。

『貴方は言いましたね、自分を愉しませろと。このジル・ド・レェ──ならば次に巡り会うその時こそ、神の下したその試練を達成し乙女との邂逅に臨むとしよう。せいぜい楽しみにしておくといい──』

 気配の残滓すら残さず魔術師の英霊は戦場を去った。

 討ち取れた筈の敵手を逃がしてしまった事は時臣としても釈然としないが、アーチャーが追わないサーヴァントを追撃する事は出来ない。
 キャスターの生み出した怪魔は倒せても、奴自身を打倒しろと言われては些か以上に荷が重い。

 英霊とはただ存在するだけで一級の神秘なのだ。それを生身の魔術師が撃破しようと言うのなら相応以上の準備が必要だ。今の時臣では難しい。

 ──とりあえずはこれでいい。本命はこの奥だ。

 時臣がこの森に踏み込んだのはあくまで外道衛宮切嗣を討ち取る為だ。その他の連中を深追いする必要はない。

 館を辞する際に綺礼にはアサシンを動員し全マスター、サーヴァントの動向を探るよう言い含めてある。この森の出入り口付近は当然見張っているであろうから、その拠点についてもいずれ知れる。

 今はまず衛宮切嗣とそのサーヴァント・セイバーだ。キャスターも十分に外道だが、二兎を追って両方を逃がす末路は避けたいところだ。

 そこでふと、時臣はアーチャーの姿に異変を認めた。
 キャスターが消失した直後──否、その前より、この黄金は空を睨んでいる。

「如何されましたか、王よ」

「天に仰ぎ見るべきこの我を、見下ろしている輩がいる」

 その意味するところは第三の存在。時臣が警戒していたこの森に侵入した他のマスターとサーヴァント。
 全く予期していなかった空に敵が滞空しているのでは、気付けずとも無理はない。それに気が付いたアーチャーの慧眼こそを誇るべきだろう。

 当のアーチャーはその眦に憤怒の色を浮かべている。先の言のようにこの男は見下される事を良しとしない。度し難くも空より見下ろす存在に向け、黄金は一切の容赦なく五挺の宝剣を差し向けた。

 地上より天空に降る流星。五つの光線は螺旋を描き飛翔する。空にいる下郎を撃ち落す為に。
 それに応えるは────

「AAAALaLaLaLaLaie!!」

 軍神の鬨の声を上げ、地上へと墜ちる巨星。紫電を纏うそれは強壮なる戦車(チャリオット)。

 足場なき無空を踏み締め駆け抜ける二頭の神牛は主の声に力強き嘶きで応え、襲い来る五つの宝剣を迎え撃つ。

 宝剣の威力が爆撃であるのなら戦車の走りは蹂躙だ。その道を阻む悉くを捻じ伏せる堂々たる制覇。
 神牛の率いる雷神の戦車は脅威の加速で雷光の盾を成し、天へと降る五つの光その全てを駆逐した。

 戦車はその勢いを微塵も落とす事無く地上へと着陸する。接地直後に轟音を響かせ、無理やりな急旋回からのブレーキングで、焼け焦げた大地を更に無残なものとした。

「居所の分からぬセイバーを探して空を彷徨っておると感じた戦の気配。こうして辿り着いてみれば、なんとも手荒な歓迎ではないかアーチャーよ」

 手荒な歓迎、と言いながらも赤毛の王には別段怒気はない。むしろそれをこそ歓迎しているような気配だ。

「如何なる理由があろうとも、この我を見下ろす理由にはならぬ。この大地に犇く有象無象ならば、地に這い蹲るのが似合いの姿だ」

「ほぉ? この征服王イスカンダルをすら、その有象無象と憚るか」

「…………」

 告げられた名に驚きを示したのは時臣だ。サーヴァントの真名は秘め隠すもの。それをこうも堂々と謳われては、驚愕の隠しようとてない。
 気になる点があるとすれば真名の暴露は裏付けのあってのものなのか。ただ単純に馬鹿なだけなのか……

 そして時臣が眇める視線で見やるは御者台でひっくり返っている一人の少年──マスターたるウェイバー・ベルベット。

「お、ま、えぇぇぇぇぇぇ。なんでそう何度も自分で名前ばらしちゃうんだよ……これじゃ意味が────」

「この戯けぃ。天地に憚るものがないのなら、名を隠し通す事など無為であり無意味であろう。
 秘匿せねばならぬものなどこのイスカンダルには微塵もない。この身一つで我が道に立ちはだかる全てを蹂躙し尽くすまでの事よ」

 その気性は豪放にて磊落。手綱を握られる事を好まないというのは目の前の黄金と変わりないが、その在り方が決定的に違いすぎる。

「そんな余を指して地に這い蹲る有象無象と言ってのけた貴様は当然、自らの名を明かす事に躊躇はあるまいな?」

「──王よ」

 小さく、けれど絶対的な言霊を乗せて時臣は己がサーヴァントに諫言を告げる。こんな安い挑発に乗る必要はない。乗ってはならないと。

「……我が面貌の拝謁の栄に浴してなお心当たりがないのなら、貴様などに名乗る価値もない。我を差し置いて王を僭称するのであれば尚の事。そのような有象無象は早々に消えてしまえ」

 黄金の右腕が上がる。それは無尽蔵の財宝を内包した宝物庫の扉を開ける合図。その仕草を遮るように赤毛の王は口を挟んだ。

「まぁ待てアーチャー。余も戦場を求めておったゆえ貴様と戦り合う事に異存はないが、未だ主賓を迎えておらんのは頂けんと、そうは思わんか」

 この森に踏み込んだマスター達の目的は衛宮切嗣とセイバーだ。先のアーチャーとキャスターにより戦端は開かれてなお剣の英霊は姿を見せない。
 ならば当然、森の主達は今も何処かでこの戦場を俯瞰している筈だ。踏み込んだマスターとサーヴァントの情報収集。そして必勝の機会を窺っているに違いない。

「聞く所によればセイバーのマスターはどうにも好かん気性の持ち主のようだがセイバー自身はそうではなさそうだ。ちょいと誘ってやれば乗ってくるやもしれん」

「……ふん。好きにしろ」

 黄金の王は上げた右腕を下ろした。彼にしてもまた聖杯戦争に見出した価値を見定める為にこの森に踏み込んだのだ。これ以上余計な些事に煩わされるのは鬱陶しいと、そう思っているに違いない。

 イスカンダルの誘いに応じたのがその証左。呼べるものなら呼んでみろと、そう場を取り成した。

「意外に話が分かる奴だな貴様。まぁ良い。では────」

 巨躯の王は御者台にて立ち上がり背負うマントを翻す。腰に佩いだキュプリオトの剣を天高く掲げ、空に向かって吼え上げた。

『この世に招かれし英雄豪傑よ、この地に集いし兵共よ! その身に英雄としての誇りを宿すのなら、こそこそせずにその姿を見せるがいい!
 我が声を聞き届けながらに姿を見せぬ臆病者は、この征服王イスカンダルの謗りを免れぬものと知れぃ!!』

 空を割り、木々を千切る大咆哮。同じ御者台にいるウェイバーのみならず時臣までもが耳を塞がなければならないほどの大音量。本当にこの森一帯に轟いているのではと疑いたくなる程の声音だ。

『特にセイバー!! これまでの獅子奮迅ぶりが偽りでないとするのなら、早く姿を現さんか! 誰もが貴様の登場を望んでおるぞ! それでも姿を見せぬというのなら、この森ごと平らにして晒し者にしてくれよう!!』

 この男なら本当にそれくらいはやりかねない、と耳を塞ぎながらなお聞こえてくる己がサーヴァントの挑発に辟易とするウェイバーだった。

 大演説の後、無音が数秒世界を支配した。ウェイバーが何だよ、結局来ないじゃないかと思い始めた時──風合いが頬を撫でた。

 次の瞬間、瀑布の如く突風が吹き荒れ広場を襲い、巻き上げられた落ち葉と共に軽快な着地音が鳴る。
 舞い落ちる枯れ葉の向こうに、具足のかき鳴らす音と共に白銀が舞い降りた。

「ほぉ……」

「────」

 赤銅とウェイバーは所見、黄金と時臣は二度目なれど、その凛とした立ち姿にこの場にいた誰もが目を奪われた。
 それほどに美しく、同時に力強い輝きを放つ存在。それこそがこの少女──

「サーヴァント・セイバー、この身に宿る誇りに従い参上した。これで文句はあるまい征服王?」

 セイバーに残る一握りの誇り。何物にも変えがたい祈りと比せば取るに足らないものであれ、決して無碍にしていいものではない。
 誇りを失した戦いは獣にすら劣る畜生のそれだ。人の先を往く英霊なれば、譲れぬ一線というものがあるのだ。

 しかしこれでこの戦場には三者が居並ぶ形となった。セイバーの危惧した乱戦の体を為している。他の二人の標的になりかねないセイバーは不用意に動く事は出来ない。

 そんな拮抗状態を知ってか知らずか、赤毛の王は誰彼なく憚る。

「こいつは聞きしに勝る女子だ。よもやその細腕で既に二騎のサーヴァントを屠ったとはとても思えん」

 蓄えた顎鬚を撫で擦りながら白銀の騎士を睥睨する赤銅の王者。そして彼の放つ次なる一言こそが、この三者を切っても切れない鎖で絡め取った。

「ハッハ! この戦、聖杯戦争なるものには世に名を馳せし益荒男共が集うと聞いた。ならばさぞ楽しめるものと思っておったが、まさか余の他に二人も『王聖』を持つ者がおるとは流石に思いもよらんかったぞ」

「────っ!」

「…………」

 その言葉に白銀、そして黄金の二人が視線を揺らす。共に見やるは赤銅。剛毅なる巨躯を睨めつける。

「……なあ、王聖って?」

「なんだ知らんのか。王聖とは、王たる者が持つ資質のようなものよ。王の器、と言い換えても良い。これなくして真なる王にはなれん。なれたとしても暗君か、良くて平穏な世を治める統治者がせいぜいだ」

 生まれ持った王者の資質。それが王聖と呼ばれるものだ。これを持つ者は王になるべくして王になる。必然という名の運命により王者足る事を求められる存在だ。
 その真贋を計ることは容易ではないが、この赤銅の王者はどういう理由からか白銀と黄金を王聖を持つ者と見定めた。

「……この身がかつて王であった身だとしても、貴様に何の関係がある?」

「大いにあるとも。余は王者の道──すなわち王道は二つあると考える。一つは求道。自らの理想を以って国を成す者。理想に殉じ、理想に生き、そして理想に死する者。
 一つは覇道。自らの行いに拠って民を導く者。民は王の在り方に憧れを抱き、胸に火を宿しその背を追う。自らもまた王足らん、とな」

 求道は聖者の理であり、覇道は暴君の業だ。

 国を守り民を守る。その為に私を滅し王である事を自身に課す生き方。
 国を喰らい民を喰らう。その為に私も王も飲み込みただ覇を謳い続ける生き方。

 どちらが優れているというわけではない。

 弱小の国であり常に外敵に脅かされているような状態では求道が求められ、国力があり国土を広げる余地があるのなら覇道が相応しい。
 これは王としての在り方を示す一つの指標に過ぎない。何の為に王になったか、その違いでしかない。

「……それで、その求道覇道がいったい何だと言うのだ」

「余は無論、覇道を征く者。ならば、なぁ、その背には多くの従者が必要だ。強き兵が必要だ。余と共に夢を綴り成し遂げる、今代における朋友がな」

 たった一人では叶わぬ夢も、多くの者が集えば成し遂げられる。赤銅の王者もかつては己が野望の為に邁進し、その背に多くの朋友を引き連れ夢の彼方を目指したのだ。
 その夢は志半ばで倒れ届かなかったが、ならばこそ今代で成し遂げて見せようと。その為にこの二度目の生を得られる聖杯を賭けた戦いに臨んだのだから。

「故に余は朋友を求めている。なぁセイバー、そしてアーチャーよ。貴様ら余の軍門に下らぬか。共に聖杯の奇跡を分かち二度目の生を手にし、この世界にその名を轟かせようではないかッ!!」

 両の手を大きく広げ天を抱くように高らかに宣誓を謳い上げる。

 聖杯が真に万能の願望機であるのならたった一つしか願いを叶えられないなどという道理はない。二度目の生を共にする朋友と共に確固たる足場を手に入れ、かつて夢見た世界征服を今一度──

 それをこそが祈り。征服王イスカンダルの純なる祈りなのだ。

「──断る」

 だがそれを、セイバーは一刀の元に断ち切った。

「これでもかつて王であった身の端くれ。他の誰かの軍門に下る気はない。何より、聖杯を手に入れ祈りを叶えるのはこの私とマスターだ」

 決して譲れぬその祈り。他の誰にも聖杯は渡さない。なればこそ、そんな勧誘は斬って捨てる以外に有り得ない。

「ふぅむ……そいつは残念だ。貴様ほどの剛の者ならば是が非でも臣下に加えたいところであったが、ならば後は雌雄を決する他あるまい。それで、貴様はどうだアーチャー?」

 セイバーが姿を見せて以来無言を貫いていたアーチャーに問いが投げかけられる。黄金はセイバーに向けていた視線を赤銅へと移し、失笑した。

「はっ、求道覇道と下らぬ道を謳っているが、そんなものは所詮雑種の理だ。身命を賭さねば国を守れぬ? 朋友がなければ夢を成せぬ? ククク、それで良くも王を名乗ったものだな征服王」

「ならば貴様は王として如何なる道を征く者か、聞かせて貰おうではないか」

「真の王者たるもの他者など要らぬ。貴様の言いようを真似るのなら、我は我だけの道を征く者。即ち我道。
 王とは孤高なる者。王とは超越せし者。全てを支配し君臨する者をこそ、真に王と呼ぶのだ」

 それはまさに絶対者の理だ。求道の王よりなお孤高の存在でありながら、覇道の王よりなお貪欲に国を喰らう者。全てを自身ただ一人を崇め奉るためだけの供物程度にしか見ていない。
 ただ一人己だけで完結している存在。それをこそを王であると、この黄金は謳い上げた。

 理想に生き、理想に殉じた白銀の王。
 人々の羨望を集め、共に夢を見た赤銅の王。
 唯我の極みに立ち、絶対者として孤高に君臨する黄金の王。

 彼ら三者は決して交わらぬそれぞれの王の道を征く者。
 三つの点を描く正三角形だ。

 ならば当然、言葉によるやり取りなど最早不要。どれだけ言の葉を連ねようと自身の道を絶対とするのなら折れる道理はないのだから。
 決着はただ刃鳴散らす戦場の只中で。その果てにのみ答えが待っている。

「まぁそれは良い。王を僭称している時点で知れた事。せめて自身に譲れぬ道を誇ってなければ王という称号を戴くには足りん。
 いや、我が道を征く者として問うておくべきか。なぁ────セイバー」

「…………ッ!?」

 アーチャーの視線を受けセイバーは身構える。別段殺気の類は感じられない。それどころか敵意すらも見えていない。その視線に宿るのは艶やかな色のみ。まるで子女が宝石を前にして夢見るような色だけが込められていた。

「セイバー──我は貴様を気に入った。故に我のものとなれ」

「なに……!?」

 それはまるで予期していなかった言葉。イスカンダルの勧誘の比ではない真剣さがその言葉には込められている。
 だがだからこそ理解が出来ない。何を理由にそんな事を言うのか。セイバーの何がこの黄金の琴線に触れたのか。

 何れにせよセイバーの返答は決まっている。

「何を馬鹿な事を。今ほど征服王にも言った筈だ。私は誰の軍門にも下らないと」

「誰が軍門に下れと言った。我は我のものとなれと言ったのだぞ?」

「……それに一体、何の違いがあると言うのだ」

「大いに違うさ。先にも言ったが我に臣下や朋友は必要ない。ただ我は気に入ったものは愛でる性質でな。喜べセイバー、貴様は我の眼鏡に適ったのだぞ。我が財宝と比してなお貴様は手に入れる価値があると」

 セイバーにしてみればアーチャーの言葉は全て妄言の類にしか聞こえない。イスカンダルの勧誘は駄目元という念を含んでいたがアーチャーの言葉にはそれがない。既に決定事項であるかのように語るのみ。

「王としての責務や理想など捨ててしまえ。貴様はただ愛でられるだけの女であればそれでいい。
 女に生まれた幸福とは男子に組み伏せられる事であろう。貴様はそこらの有象無象にくれてやるには惜しい女だ」

「……それは、いや……その言い方ではまるで……」

「はっきりと言わねば分からんのなら言ってやろう。貴様は我が妻となれ」

「────っ!?」

 泰然と述べられた告白。それは求婚の言葉。黄金が白銀に何を見出しているのか定かではないが、その言葉に込められた意思に偽りはない。
 天地に唯一人我のみを尊ぶ黄金はこの白銀を見初めたのだ。王の道を共に歩むには足りぬまでも、王の寵愛を受けるだけの資格があると。

「剣を棄て、祈りを捨てろセイバー。そんなものは貴様を縛り損なうだけだ。これより貴様は我だけを求め、我の色に染まるがいい。さすれば万象の王としてこの世の快と悦の全てを賜わそう」

「断るッ────!」

 黄金の口上を聞き終える前にセイバーは不可視の剣を具現化し、疾風の加速を以って肉薄し一刀の下に断ち切るつもりで剣を振り下ろした。
 それを防いだのは黄金の右腕。セイバーの圧倒的な斬撃を受けながら傷の一つもつかない黄金色の鎧の前に初撃は沈黙した。

「そのような戯言、虫唾が走る! 我らは聖杯を求め合い争う為に招かれし者。胸に秘めた祈りがあるのなら、英霊としての矜持を持つのなら……そのような言、侮辱以外の何物でもない────!」

 烈気火勢の斬撃を上下左右から無尽に見舞うセイバー。彼女は剣と祈りの為にこの戦いに臨んだのだ。それ侮辱されてなお泰然としていられる程淑やかではない。
 泥に塗れる事を誓ったのはセイバー自身。だが他者に被せられる泥を浴びる謂れはないのだ。

 怒涛の如き斬撃がアーチャーを襲い、されるがままの黄金は、それでも自身の言葉を撤回しない。むしろ気の強い女を組み伏せるのも一興であると言うかのように口元に笑みを浮かべる。

「ああ、良いぞ。別段貴様の答えなど聞く気もないのでな。これは既に我の下した決定だ」

 露呈している頭部を守る事に終始していた黄金は襲い来る斬撃の隙を衝き、後方の何もない空間より一本の剣を引き抜き次の一撃を迎撃する。
 その剣は黒く禍々しい剣だった。滴り落ちる程の血を帯びた赤黒い刀身を持つ剣。

「──、がっ……!?」

 不可視の剣と血染めの剣とが衝突した瞬間、セイバーは後方へと弾き飛ばされた。アーチャーの迎撃がセイバーのそれを上回っていたわけではない。単純に、セイバーは自身の斬撃の威力を跳ね返されて弾き飛ばされたのだ。

 ──攻撃の反射!? いや、これは呪い。復讐の呪詛を持つ魔剣か……!

 地を滑ったセイバーは体勢を立て直し付け入る隙を探そうとする。そして同時に、この場にいるもう一人にも警戒を怠らない。

「…………」

 御者台に座したまま腕を組み趨勢を見守っている赤毛の王とそのマスター。アーチャーのマスターはというと苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべたままこちらも沈黙を保っている。

 時臣にすればこの状況、不可解にも程があった。もとより己の従える……臣下の礼を取っているサーヴァントの気性を理解出来ているつもりなどなかったが、この一幕は最早慮外にも等しい。

 サーヴァントの身でありながら他のサーヴァントに求婚などと……理解をしろという方が難しい。
 しかしこの場からの撤退の進言はなお難題。今のアーチャーが時臣の諫言を聞くとは思えないし、ならば令呪の強制以外に選択肢はない。

 かといってそんな強行は今後の展開に支障をきたすし、何よりイスカンダルの行動もまた読めないのだ。
 あの男の行動いかんによっては撤退の最中、アーチャーをして劣勢に追い込まれる可能性がないわけではない。それでなくとも宝具の真価を見せざるを得なくなるかも知れない。

「…………ッ」

 どの道も八方塞。そして更には、恐らくはこの戦場を監視しているであろう衛宮切嗣の動向もまた、警戒せねばなるまい。

 未だ状況は膠着状態。
 アーチャーはいざ知らずセイバーは攻め手を決めあぐねている。

 この場を上手く切り抜けるには偶然が必要だ。誰もが予期し得ない、第三者の介入という偶然が──

「王だなんだの酷く詰まらない話をしているじゃないか」

 ざり、と土を噛む靴の音。偶然と呼ぶには出来すぎたタイミングでその男は現れた。森の広場に踏み込んできたのは未だ姿を見せなかった最後の一人……

「間桐、雁夜!?」

 時臣の驚愕は当然だ。
 七人目のマスターがあの男である筈がないのだから。

 間桐という家に生まれながら魔道に背を向けた男。そんな男が何故この場にいる。目深に被ったパーカーから覗く面貌にかつての雁夜の面影はない。
 髪は色素を失い白く変色し、半面は罅割れ恐らく目も見えてはいまい。どのような過酷に遭えばあんな無様な姿に成り果てるのか。

 しかし時臣の驚愕の正体はそこではない。間桐雁夜が如何に変貌していようと関係がないし知った事ではない。
 雁夜がこの場にいる、ただそれだけの事実が解せないのだ。

 ──何故ならこの戦い、間桐からは参加者は出ないと正式に通達が渡されている筈なのだから。

「何故だ、何故おまえが此処にいる!? 間桐雁夜──!」

 優雅を常とする男の激昂の意味を知る者はこの場にはいまい。知れるとすれば雁夜自身だが、彼にはそんな言葉に応える音は持ち合わせていない。

 今の間桐雁夜という男はただの器に過ぎない。復讐という怨念を増幅し垂れ流す円環に過ぎないのだから。

「……ようやく見つけたぞ遠坂時臣。俺はおまえに復讐を成す為にこの戦いに臨んだ。おまえを殺す事で桜ちゃんは救われるんだ」

「……桜?」

 間桐へと養子に出された遠坂の次女。その名を聞き、時臣は僅かに動揺した。瞳が揺れた程度でしかない揺らぎだったが、雁夜はそれを目敏く見咎めた。

「おまえに桜ちゃんの身を案じる理由はないだろう、時臣。
 他ならぬおまえが、この戦いに間桐からの参加者を出さない代わりに、あの子を臓硯へとくれてやったくせにッ!!」

「なっ…………!?」

 時臣の動揺は今や明確になる。
 雁夜の言葉に如何なる真実が隠れていたのかは不明だが、時臣には覿面だったらしい。

 二の句の継げない時臣に成り代わってか、不遜な態度に嫌悪の視線を乗せてアーチャーが雁夜を見やる。

「五月蝿いぞ雑種めが。今は我とセイバーの婚儀の最中だ。口を慎み身の程を弁えろ下郎」

 アーチャーの背後の揺らめきより二挺の魔剣魔槍が撃ち出される。神速の勢いで射出されたその一撃は到底生身の人間が防ぎ得るような威力ではない。
 しかし未だ雁夜のサーヴァントは姿を見せず。剣が雁夜を撃ち貫く刹那に、その男は口元を狂気に歪め、その身体より黒い霧を立ち昇らせた。

「ハッ────!」

 瞬間、轟音。爆発。

『………………』

 そしてその異常を見咎めた誰しもが、目を奪われ意識を乱された。

「なんだと……」

 アーチャーをして訝しむその異常。爆発の余波によって生まれた煙が晴れた時、その場所に雁夜の姿は健在だった。

 半面は罅割れ髪は白く色を失っている。
 口元には狂気が浮かび、手には先ほどアーチャーの撃ち出した魔剣が一振り。
 総身より立ち昇るのは黒い霧。
 霧状の、そして膨大なまでの魔力の渦──

「坊主……こりゃあ──」

「アイツ、サーヴァントだ。人間のくせに、サーヴァントだ!」

 ウェイバー自身何を言っているのか分かっていないがその言は真実のみを表している。

 今、間桐雁夜はサーヴァントにしか迎撃の出来ない一撃を、いや……サーヴァントですら回避の容易ではない一撃を躱し、あまつさえ空中で剣を掴み、身を捻り僅かな時間差のあった二撃目である魔槍を打ち払ったのだ。

 神域の曲芸とも評するべき圧倒的な武錬。無論、かつての間桐雁夜は武道など修めていないただの一般人……魔道に生まれただけの一般人だ。
 今の芸当は到底そんなただの人間に出来るものである筈がなく、故にウェイバーの言は真実なのだ。

 ──今の間桐雁夜はサーヴァントである。あるいはそれに近しい状態にあるのだと。

 ウェイバーの目には、時臣にもまた今の雁夜をマスターとしての透視能力を以って見ればそのステータス状態を見て取れる。

 ただ分かるのは雁夜がサーヴァントであるという一点のみで、本来ならば読み取れる基礎能力、ある程度まで把握出来る特殊スキルに至る全てがまるで揺れる水面のように揺蕩って一切が読み取れない。

 まさにそれは正体不明の第七の存在。戦乱をより混沌へと突き落とす地獄よりの使者だ。

「ほう……成る程な。面白い召喚の仕方もあったものだな」

 何に得心がいったのか、アーチャーが愉快そうにそう呟く。そして次の瞬間には濁流の如き感情が烈火となって乱れ狂う。

「その汚らしい手で我が宝物に触れるとは何事か。それはこの我のみが所有する事を許されたものであるぞ!」

「は、ははハは、ヒィヤァハハハハハハハハハハハハハハハ…………ッ!」

 撃ち出される宝剣。手にした魔剣で打ち払う雁夜。続く爆撃の悉くを迎撃する。

 狂ったかのような哄笑を上げながら黄金の撃ち出す無数の剣群を捌きに捌く雁夜。常軌を逸した人間離れした体術で躱し、受け止め、弾き、奪い取る。
 他者の干渉を許さぬ間断なき爆撃は、けれど終ぞ雁夜の首を跳ねるには至らず戦場に惨状と猛煙のみを齎した。

 憤懣やる方ないのは黄金だ。セイバーとの婚儀を邪魔立てされた挙句、下郎の首は討ち取れず、終いには己が財を奪い取られる始末。憤怒の余りその形相に先程までの余裕は微塵もない。

「手癖の悪い狂犬もいたものだな……! そうまでして死に急ぎたいのなら全力で相手をしてやろう。死してその後に悔い改めろ──ッ!」

「────王よ。どうかその怒りを鎮めて頂きたい」

 黄金の背後に浮かび上がる文字通りの無尽の揺らめき。数えるのも馬鹿らしいほどの数の刀剣斧槍槌鎌戟。古今東西のありとあらゆる武装が展開され、その発動を押し留めたのはただの一言。

 時臣は絶対の意思と決意を込めて進言する。右手の甲に宿る令呪の一画は言の葉と共に昇華され、赫怒に染まる王の総身に戒めを施した。

「……時臣。我に令呪の戒めを施したその意味──無論理解していような?」

「無論です。王に忠言を申すのも臣下の務め。この場は御身が死力を尽くすに足る戦場ではありますまい。ならばどうか、その怒りを鎮め撤退を」

「…………」

 確かにこの場は既に泥沼の様相を呈している。四者四様のサーヴァントが入り乱れ趨勢は全く読めないものとなっている。
 セイバーへの求婚についてもこんな状況ではにべもない。全てのサーヴァントを駆逐し改めて愛でる事も叶わぬではないが、既に興は削がれている。

「……良かろう。この場は貴様の顔を立てて引いてやる」

「逃がすと思っているのか────!」

 狂いながらに理性の全てを手放してはいない雁夜の言葉に黄金は失笑を返す。

「貴様になど興味はない。放って置いても自滅する蟲などにはな」

 展開される無数の剣群。全力のそれには程遠いまでも十分にサーヴァントの足を止めるに足る数だ。雁夜は奪った武器で追撃を掛けるが、後退する時臣とアーチャーに近付く事すら叶わず足止めを余儀なくされる。

 黄金の掃射を捌き切っただけでも十分に驚嘆に値する成果なのだ。その上でなお撤退する彼らに肉薄しようというのなら命を投げ出す程が覚悟が必要だった。

 雁夜はまだこの場で倒れる事を良しとしない。この身は成し遂げなければならない祈りがある。
 身体を弄くり回され、死ぬ思いで掴み取ったマスターとしての権利。そして身に宿したあの男──時臣を屈服させるに足る力。

 あの魔術師が地に這い蹲る様を眺めなければ救われない。雁夜自身と、そして煉獄に突き落とされたあの少女が。

 故に雁夜もまたこの場は引いた。
 深追いをして想いを遂げられないのでは本末転倒。
 今はそう、あの男が雁夜を前に逃げ去るという事実だけで充分に溜飲は下がるのだから。

「セイバー、次に見えるその時までに心を決めておけ。まあもっとも、我の決定は変わらんがな」

 宝剣の爆撃を置き去りに黄金と時臣は森の奥へと姿を消した。
 後に残ったのは墓標のよう居並ぶ剣群のみ。
 それも時を待たずして風に透けるように消えていった。



+++



 爆心地のような戦場に残されたのはセイバー、ウェイバーとイスカンダル、そして雁夜の四人だ。

 セイバーにしろイスカンダルにしろアーチャーと雁夜の戦いに剣を挟み込む余地などなかった。人の身でありながらサーヴァントである、という異常に身を置いている雁夜の存在を未だ正しく認識出来ていないのかもしれない。

 そして何より、両者の戦力を測るにはああして見守る他になかった。

 アーチャーは湯水のように宝具を持ちその真名を特定する事が出来ず、雁夜はステータスから一切の情報が読み取れない。そして姿形からもまたサーヴァントの正体を知る事が出来ない。

 ならばせめてその戦闘能力について把握しておくべきだというのは必至と言える。それでもなお未だ核心に至れる情報は何一つとして得られていないが。

「さて、どうするね間桐雁夜とやら。貴様が執心しとった連中は去ったわけだが、次は余かセイバーと戦うか?」

 先の狂騒状態を思えばこの男に宿るサーヴァントはバーサーカーのクラスなのだろう。理性を保てている理由は不明だが、話が通じるのなら手っ取り早い。

「いいや、止めておく。あんたらと戦う理由は俺には────」

 その時。どくん、と跳ねる鼓動。背を折り呻きながらに胸を掻き毟る雁夜。視線は雁夜の意思とは裏腹に、セイバーを見やる。

「はっ、──そう、か。“俺”にはなくとも“私”にはあるのか……!」

 一際大きな魔力の渦が雁夜の体内より溢れ出す。総身を包み天まで昇るほどの濃黒の憎悪の色。

「ォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオ──────!!」

 狂気渦巻く嵐の中、密度を増した霧は先よりもなお濃く雁夜の姿を覆い隠し、今やその姿を視認することすら難しい。
 直視してなお影と揺らめき、まるで蜃気楼でも見ているかのようだ。よくよく見れば漆黒の鎧めいたものが見え隠れしているが、それも陽炎の如き儚さだ。

 その中で唯一見て取れるのは、赤く輝く双眸の色。スリット状のラインの奥に燃え盛るのは憤怒に取り憑かれた炎の色だった。

「A…………th……!」

 声ならぬ声を上げ、雁夜だったものはアーチャーの爆撃によって破砕した木の枝を掴み取りセイバーへと襲い掛かった。

「なっ……!」

 常軌を逸したその行動。たかだか木の枝が英霊の手にする武具に太刀打ちできるわけがない。しかし今やこのサーヴァントにそんな常識は通用しない。ただの木の枝で、バーサーカーはセイバーと斬り結ぶ。

「…………っ!?」

 セイバーはその異常に驚愕するしかない。並大抵の武具ですら英霊と打ち合えば寸断されるものを、ただの木の枝で抗し得るなど不可能だ。ならばそこには理がある。彼だけに許された賜物が。

 手にしたものを宝具へと変える宝具。研ぎ澄まされた武錬と類稀な逸話により具現したこの特性はおよそ武器と視認した全てを凶器へと変貌させる。

 バーサーカーが握ればただの木の枝とて木の枝のまま宝具へと変わり、宝具としての属性を帯びる。
 そこに強度の有無は関係なく、先に概念のみが存在する。その概念を打ち砕かなくてはこの狂気の発露を止める手立てはない。

「────errrrrrrrr……!」

 意味の通らぬ声を上げながらバーサーカーは無尽の如き連撃を見舞う。魔力放出の加護を持つセイバーをして拮抗に留めるのがやっとの膂力。そしてなお厄介なのは、その類稀な技量だった。

 狂化してなお失われていない卓越した技術。ただ力任せに打ち込んでくるのなら如何様にも対処のしようがあったがこちらの剣の動きを読み、躱し、攻撃に転じるという当たり前の行動を常人に倍する力で行うのだから始末が悪い。

 本来ならば力と引き換えに失う筈のものを持ち合わせているというのは、言葉は悪いが卑怯以外の何物でもない。
 それを可能としているのが外法によるトリックなどではなく、生前の修練の賜物であるというのなら、そんな物言いは的外れにも等しいのだが。

 ──ぐっ、だが、これは…………!

 今までアサシンにもランサーにもアーチャーにさえも遅れを取らなかったセイバーが初めて圧されている。
 自身に匹敵する力量を持ち、かつ上回る膂力を持ち合わせているこの狂戦士は、更にもう一つの不可解を孕んでいた。

 ──何故だ、何故こうも簡単に読まれる!?

 セイバーは決して素直な剣を用いてはいない。フェイントやブラフを織り交ぜ緩急をつけた攻めを行っている。だがその全てが有効に働かない。それはまるで先を読まれているような不可解。

 不可視の剣とて同様。初見の相手にはほぼ間違いなく効果を発揮する刀身なき斬撃をこの黒色のサーヴァントはまるで知っているかのように受け止め回避する。

 宝剣の刀身を晒したのはランサーのみ。
 それもあの魔を破却する槍あっての物種であり、ハイアットホテルでの戦いを覗き見られた筈もないのだから不理解は此処に極まる。

 秘め隠した聖剣の刃渡りを知る術は二つしかない。不可視のまま脅威の心眼を以って戦闘中に看破するか。生前に一度でも聖剣の実物を見ているか。

 この狂乱の英霊は初撃から既に刃渡りを見て取っていた節がある。
 ならば後者でしかなく、そしてそれ以上にこの狂いの御座にある英霊はセイバーの剣を読み尽くしている。

 ……いや、これは読まれているというよりも──

 『知られている』という方が正しい気がして。

 そしてこの太刀筋を──

 ──私は『知っている』ような気がするのだ。

「AAAALaLaLaLaLaie!!」

 突如白銀と狂乱の戦場へと突貫する赤銅の繰る騎乗戦車。
 共に離脱が早かったお陰か、イスカンダルが手加減でもしていたのか、どちらも傷を負わぬままに距離を離した。

「この余を差し置いて二人で楽しむのは関心せんなぁ。交ぜて貰おうか」

 距離を置いた二人の間に居座る赤銅の王。今再び戦場は混迷の様相を呈し始めたが、

「グッ………ァァァァ……ッ!」

 狂乱の檻に囚われし戦士が呻きを上げて膝を屈する。バーサーカーというクラスは力を得る代償に多量の魔力を浪費する。他の六騎に比べその消費量は膨大と言っても過言ではない量の魔力を湯水の如く喰らっていくのだ。

 如何なる仕掛けと目的で人とサーヴァントの融合などという愚策を犯したのかは知らないが、それが彼らの寿命を縮めている事に間違いはあるまい。

 たった一戦、それも半刻にも満たない時間戦っただけでこれなのだ。後どれほどの時間保つのか……長くはない事だけは確かだった。

「…………、────ッ!」

 声ならぬ声を上げ、間桐雁夜でありバーサーカーである半人半霊は逃走した。獣の如き疾走を止める術などなかった。

「……何故助けた」

 戦場に静寂が戻った後、セイバーはイスカンダルに向けてそう問い質した。

「別に助けたつもりなどないんだがな。勝手に二人だけの戦場を作っとったのが気に入らんかっただけだからな」

「…………」

 実際セイバーは助かったのだろう。あのまま斬り結んでいてはどうなっていたか分からない。

 卓越した剣術。
 研ぎ澄まされた武錬。
 人を超えた身のこなし。
 こちらの手の内を知っていなければ対応出来ない筈の先読み。

 あの騎士の剣を知っている。
 それでも心の何処かでそれを認めたくないと吼える己がいるのを、自覚した。

「──それで、どうする征服王。私と戦うか」

「うぅむ……いや。今日はもう止めておくか。連戦続きのお主を討ち取った所で誇れもせんだろうしな」

 それがこの男なりの矜持なのだろう。
 セイバーにしても助かる話ではあるのだが。

「今日の所は身体を休めておけセイバー。次に見える時、互いの王道を賭けて死合おうではないか」

 決して交わらぬ王の道。ならば雌雄を決するのは互いの剣で。

「承知した。それと、征服王。貴方はその名を明かしている。ならば私も騎士の礼に則りその名を明かそう」

 他の連中がいてはリスクが大きすぎたが今ならばまだマシだろう。真名を明かす必要はない。だがそれでも、背いてはならない道があるのなら、私はその道に殉じたい。

「私の名はアルトリア。ブリテンの王──アルトリア・ペンドラゴンという」

「ほぉ。噂に名高き騎士王がよもやこんな小娘であったとは」

「……それが侮辱であるのなら剣を執るがいい征服王」

「ええぃ、ちょっとした冗談だろうが。まぁ良い。余の覇道と貴様の求道。決して交わらぬ道であれど互いに王を名乗るのなら是非もない。どちらがより優れた王であるか、雌雄を決しようではないか」

「…………ああ」

 差し出されるキュプリオトの剣。それに応えるは黄金の宝剣。秘蔵されていた風の封印を解かれた刀身は暗い森を照らして余りある。
 その宝剣の輝きを眇め心奪われぬ者はない。太陽よりも苛烈に、星よりも優しく、月よりも静かに輝く光。それがこの比するもののない最強の聖剣なのだ。

「ではな騎士王。その首、他の連中に奪われるでないぞ──!」

 手綱を振るえば神牛が嘶き空に馳せる。紫電を放ちながら強壮たる雷神の戦車は空の彼方へとその姿を消していった。

「…………」

 後に残されたセイバーは聖剣に今一度風王結界にて風の封印を施し消失させた。
 英霊が四騎も集う戦場に最後まで立っていられた事を誇る余裕もなく。セイバーはその顔に悲痛の色を浮かべ唇を噛み締めた。

「王として……か。王である事を否定した私に、その資格があるのでしょうか」

 ──どうか教えて欲しい、サー・ランスロット。

 かつて朋友と呼んだ男の名を思い出す。
 理想の騎士と謳われた騎士の中の騎士を。

 アーサー王の治世に亀裂を生んだ張本人。
 裏切りの騎士と蔑まれた男の名を。

 戦場に背を向け白銀の少女は去る。
 その背に宿るせつなさを、誰も知る事はなかった。



[25400] Act.05
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/16 19:15
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「────げぇ……、っぁ……!」

 アインツベルンの森での戦いから数時間が経過した現在。夜を染める暗黒の空と僅かな星明りだけが世界を照らしている。
 戦いの折、自壊衝動に襲われた間桐雁夜はどうにか海浜公園へと辿り着き、水飲み場で頭から冬の冷水を被りながら血反吐を吐いていた。

「はっ……なんて無様だ。何が英霊の力に耐え得る性能だ……こんなもの、付け焼刃よりも性質が悪い」

 身体に軋んでいない箇所はなく、鈍痛は随所で痛みを訴えている。外がその状態であるのなら中身はなお酷い。
 臓腑が正しく機能している事が奇跡としか思えぬほどに腹の底から熱が湧き出し、灼熱する憎悪の炎は燻る事無く猛り続けている。

 英霊としての力を行使して以来、抑制がまるで効かない。視界は明滅し手には無意味なまでの暴力が無意識に込められている。

 全てに破壊を。
 怨敵に復讐を。
 疾走を阻む悉くを殺し尽くせと内なる声が吼え上げる。

「うるっ、さいんだよ……俺は、俺だ……! 決して私(キサマ)なんかじゃない────!」

 今の雁夜は人ではなく魔術師ですらなく、ましてや英霊でもサーヴァントでもない。そしてその全てを内包した半端極まりない存在となっている。
 それを強化と呼ぶか弱体と呼ぶかは難しい判断だが、一年前までただの一般人だった雁夜が他の正当な魔術師達と覇を競い合うにはこうする他に術はなかったのだ。

 いや……一年とはいえ命を削るほどの過酷を耐え抜いた雁夜の性能は付け焼刃であれそれなりの仕上がりだった。順当な英霊を順当に召喚していれば、些か劣るにしても健闘くらいは出来ただろう。

 しかし雁夜の欲したものは勝利だった。唯一人の勝者となり聖杯を掴む事だった。そうする以外にあの子を救う手立ては思い浮かばなかったし、それ以外の選択肢など遥か昔に置き去りにしていた。

 故に求めたのは他のマスターと対等以上に渡り合える暴力。その為に狂化の楔を打ち込んだのだ。

「思えば最初から俺は、臓硯に踊らされていたんだろうな……」

 そして今なおその掌で踊り続けている自覚がある。それでもそうする以外に道がないのなら、何処までも疾走を続けよう。

 たとえそれが、奈落への転落を意味していようとも。
 この手に掴めるものがあるのならそれで構いはしない、と────



+++


 遡る事数日。
 それはケイネス一派が全滅した頃の話。

 間桐雁夜が参戦するに及びサーヴァント召喚の儀に臨んでいた時の事だ。

「お主にはバーサーカーのマスターとなって存分に働いてもらおうかの」

 そう告げたのは間桐の翁──間桐臓硯に他ならない。雁夜に一年間の教育を施し魔術師として仕上げた張本人だ。

「今更ではあるが訊いておこう。雁夜、止めるのならばこの時が最後じゃ」

「くどい。そんな言葉は聞き飽きたんだよ。やるならさっさとやってくれ」

 遠坂より間桐へと迎え入れられた少女──桜を救う為、本来ならば雁夜自身が身に受ける筈だった業を一身に浴びた彼女を救う為に、雁夜は一度は背を向けた魔道に今再び向き合った。

 その決意に今も昔も変わりはない。これより訪れる過酷に足を竦ませ怯える程度の意思ではないのだ。
 自身が魔道に背を向けた為に、謂れなき辱めを受ける事となった桜に救いの手を差し伸べる為には、こうするしかないのだから。

「それよりいいのか臓硯。アンタは既に教会に間桐からの参戦者は出ないと、そう通達したんじゃないのか」

 雁夜が間桐に舞い戻る以前の話だ。後継者はなく、雁夜の兄である鶴野ではマスターたる資格も得られない。ならば遠坂の子女を迎え入れた後、次々回の戦いにこそ目を向けるべきであると判断し、今回を見送る決断をしたのだ。

「何、貴様が気にする程の事でもない。その程度の戯言など幾らでも用意してやろう。これより戦いに臨む息子の為じゃ、爺の口も良く回ろう」

 ……本当、食えないジジィだよアンタは。

 権謀術数において、この二百年の時を生きる老獪を出し抜く事は至難を極める。口八丁手八丁で自身の都合の悪い事など煙に巻いてしまうだろう。
 今の言にしても雁夜の為だと謳いながら、その本心は結局自身の為に他ならない。

 聖杯が手に入るのならそれでよし。入らずとも構いはしないという程度の事でしかない。

 この妖怪は雁夜の事など見ていない。
 その結果に微塵の期待も寄せていないのだ。
 倍率の振り切れたルーレットにベットするチップは一枚もないのだから。

「さあ、さっさと始めてくれ。戦いは既に始まっているんだろう、暢気に話している時間もなければこれ以上話すことはない」

「そうか。では教えたとおり呪を紡ぐがいい。後は勝手に聖杯が執り成そう」

 蟲共の血と肉で描かれた召喚陣の『中心』に立ち、雁夜は記憶した呪文を朗々と謳い上げる。規定に沿った呪文。それを言い終え、臓硯に言われたサーヴァントに狂化のスキルを付与する呪文を綴る。

「──されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者……」

 そして最後の詠唱へと続けようとした瞬間──

『──呪詛の鎖は我と汝を繋ぐもの。ならば我もまた狂乱の檻に囚われし者なり──』

 ────何っ!?

 その驚愕は雁夜のものだった。狂化を付与する二節を言い終えた直後、彼の口から彼の意思のものではない呪が紡ぎ出されたのだから。

 それは臓硯が雁夜に伝えなかった最後の小節。狂乱を手繰り、そして自身もまたその檻に身を置く誓約を成す呪文。

 令呪という英霊さえも縛り付ける規格外の戒めを作り出した間桐臓硯だからこそ可能だった禁術。その真なる意味はマスターとサーヴァントの同化。無論成功例もない行使自体が初めての試みだ。

 即ちそれは間桐雁夜という人間を使った、臓硯の実験に他ならない。

「汝、三大の言霊を纏う、七天────!」

 既に詠唱を止める術を失っている雁夜は終わりまで紡ぐしかなく。そして今、契約を成す最後の一小節が謳い上げられ、此処に狂気は発露する。

「オ、オ、オ、オ、オォ……アアアアァァアアアアアアアアアァァ……!」

 召喚陣の中心に立つ雁夜を覆っていく黒い魔力の奔流。吹き荒れる魔風は狂気と復讐の念で薄汚れている。

 本来ならば召喚陣の前に立ち、サーヴァントはその中心に姿を現す。中心に立たされた時すでに臓硯の術中。今雁夜が立つ場所に英霊の魂が顕現し、その身体と魂は融合を果たすべく鬩ぎ合う。

 それは互いに主導権を奪い合う闘争だ。本来ならば生身の人間が耐え切れるような代物ではない。
 だがそこには臓硯の仕掛けた罠がある。狂乱の檻、狂化に付随してくる狂気という名の呪詛の念は、同じくその呪詛を持つ者に良く馴染む。

 雁夜が如何に桜の為と謳おうと、その本質は利己的で欲に塗れた願望だと知っている。自責や救済も嘘ではないが、その底にある黒い膿のような、ヘドロのような感情を臓硯は雁夜自身より深く知っている。

 この翁こそが間桐の原初。マキリという家に生れ落ちる人間の下種さを誰よりも理解しているのだから。

 雁夜の底に潜む闇の正体は遠坂時臣への復讐の念だ。自らの愛した女を奪っていきながらその娘共々奈落へと突き落とした魔術師への報復の念に他ならない。
 どれだけ上澄みが美しく綺麗な色をしていようとも、その底に堆積する汚泥は容易く純水を飲み込み駆逐する。

 これはそれを発露させ馴染ませる為の荒療治。

 本来狂化とは弱い英霊を強化する為のものだ。雁夜程度のマスター適正ではそんな普通では最強には届かない。故に格としては上位に位置する英霊に狂化を付随する。それでもまだ届かないと臓硯は判断した。

 バーサーカー使役について最大の懸念である魔力供給。その問題を解決する為の融合だ。

「受け取るがいい雁夜。これが父から息子へのせめてもの情けだ。お主に賭けるチップは一枚とて持ち合わせておらんが、それでも出来る限りの事はしてしんぜよう」

 雁夜が間桐であるのなら、この臓硯もまた間桐なのだ。

 ここで壊れてしまうのならそれも仕方なし。あくまで次々回こそが本命であり、急遽舞い込んだ格好の実験材料で将来の為の布石を打っているだけだ。

 人とサーヴァントの融合──果たしてそれは可能か否か。

「────ァ、ッ……ァアアッ!」

 吹き乱れていた魔力の渦は収束しその中心にいた雁夜は今、死力を尽くした後のように倒れ伏していた。

 ────死んだか?

 そう思った臓硯であったが、直後雁夜の肉体から再び立ち昇る魔力の霧。立ち昇るというよりは煙る程度の弱々しいものではあったが、どうやら生きてはいるらしい。

「ほぉ……存外にしぶといな雁夜よ。お主の心は桜と比してなお脆弱であったが、その器は思った以上に頑丈であったようだな」

 英霊の力と想念をその身に宿してなお食い破られていない。
 如何に互いが馴染みやすい色をしていたとしても、それは絵の具の黒と夜を塗り潰す暗黒ほどに違いがある筈だ。

 それほどに強固な意志をこの雁夜が宿しているというのか。
 間桐という家に生まれながら、その領域を逸脱して余りある意思の力を。

「はっ────、なん、だ……これは……」

「……ほぅ」

 狂化した魂をその身に受け入れながら完全には狂っていない。理性が完全に剥奪されたのならば言葉を発する事すら出来ない筈なのだから。
 これは臓硯にとって誤算という他ない。ただ復讐の為に暴れ狂う魔人が生まれるものと思っていたが、読みは外れてしまったらしい。

「あた、まが……割れそうだ──!」

 未だ完全には馴染んでいないのだろう。そして完全に馴染みきってしまった時、果たしてこの英霊を宿した魔人を臓硯は御しえるのか。

 雁夜の体内に埋め込まれた刻印蟲は臓硯の支配下にあるが、英霊の肉体を操作した事など勿論ない。雁夜が反旗を翻した時、対抗し得るのか。

 ならば摘み取るべきは臓硯への反逆の意思。そんな些事を考えられない程に復讐に狂ってしまえばいい。

「そう言えば雁夜よ。一つ言い忘れておった事があった」

 雁夜は頭を抱え呻き苦しんでいる。臓硯に視線を向ける余裕さえない。内なる狂気に侵されぬよう抵抗しているのだ。

「何ゆえ桜は間桐の家に預けられる事になったか、その真相を語っていなかった」

 びくり、と雁夜の身が竦む。
 桜、という言葉に反応したのだろう。

 そして臓硯は雁夜を決定的に狂わせる呪詛を吐いた。

「此度の儀──第四次聖杯戦争(ヘブンズフィール4)において間桐からの参戦者は出さない。その約定に基づき遠坂家頭首である遠坂時臣は、間桐に桜を差し出したのじゃ」

「────────」

 臓硯の言を鵜呑みにするのなら、時臣は自身が聖杯を掴む為に衰退の一途にあった間桐に契約を持ちかけ、自身の娘を売り飛ばしたと、そういう事になる。

「────ォ」

 もしそれが事実であるのなら、見過ごせるものではない。そして更なる追撃のように、臓硯は雁夜の心に刃を突き刺した。

「魔術師の家系において二子を成す事は争いの火種を生むのと同義じゃ。お主ら不出来な兄弟ならともかく、二人が共に稀有な才を有しているのなら尚の事。
 遠坂の長女は優秀な質を持って生まれたと聞き及んでおる。ならば何故──桜は生まれたと思う?」

「────ォォォォォ……」

 その先を聞いてはならない。聞いてしまっては、最早戻れる道はなくなる。そう理解してなお塞ぐ耳を持ち得ない。そんな力はまだ、この身には戻っていないのだ。

「分かるか雁夜よ? 遠坂桜は、間桐に売り渡される為に生まれたらしいぞ?」

「ォォォォオォァァアアアアアアアアアアアア…………!!」

 それは声にもならぬ絶叫。血の涙を流しながら喉を潰してなお天に向けて吼え猛る雷音だった。

 雁夜の内から湧き出る黒い魔力。膨大なまでのそれは蟲倉の底を吹き荒れ、この奈落に住む蟲共を飲み込み自身の血肉へと変えていく。
 その暗黒に込められた想念は黒でしかない。復讐。呪詛。怨念。狂気。全てを呪う邪悪の権化。

 雁夜の心にあった上澄みは汚泥に完全に飲み込まれ溶け込んだ。表層に浮かぶ黒色は、ただ復讐の悪意をだけ孕んでいる。

「とぉぉぉきおおぉぉみぃぃぃぃいっぃぃ…………!!」

 呪うべき対象を謳い上げ、その者に勝ち得るだけの力を受け入れる。自らの内で渦巻く狂気を共に成す為に。

「Arrrrrr……thuuurrrrrrr…………!!」

 内なる獣もまた自らの怨念を向けるべき対象の名を吼え上げる。

 此処に一つの狂気が完成する。二つの黒は二重螺旋を描き相克する。一つの器の中で復讐の黒と血の赤とが溶け混じり、たった一つの負の想いを成し遂げる為、破滅への疾走を開始した。

 昏い蟲倉を駆け上がる半人半霊。
 道を阻む全てを踏み砕き蹴り飛ばし破砕し粉砕しながら地上へと邁進する。

 その疾走を止める手立てはない。
 雁夜の目にはもう臓硯の姿すら映っていまい。

 ただ胸に渦巻く復讐を成す為に走る円環。
 黒に溶け込んだ僅かな上澄みだけを後生大事に抱えながら、命尽き果てるその時まで止まらない魔人が今、この地上に誕生した。

「さぁ踊るがいい。お主はアレを救いたいのであろう? ならば殺せ。全てを殺せ。
 滅尽滅相──その疾走を阻む全てを食い散らかして駆け抜けぃ。走り抜けた荒野の果てにこそ、お主の求める理想郷があるのじゃろうからの」

 蟲倉の主は嗤う。掌で踊る鬼を眺めながら。
 果て無き奈落を往く魔人の行く末を、興味深くも眺めながら──



+++


 その後、雁夜は標的を求めて彷徨い、アインツベルンの森で時臣とそのサーヴァント、そしてセイバーと対峙する。

 駆け抜けた時間の分だけ闇は馴染み溶け込んで、理性が取り戻されてゆく。今海浜公園で血反吐を吐いている雁夜の頭は幾分冷静だ。身体の苦痛も徐々に引いている。

 人とサーヴァントの融合──その最大の恩恵は擬似的な受肉状態にある。

 本来ならばマスターが精製した魔力をサーヴァントが喰らうが、バーサーカーは並大抵の供給力では維持出来ない。その破綻を解消する術としての融合だ。
 人でありサーヴァントである雁夜は自身で生み出した魔力を自身で喰らう事で内なる英霊を維持している。

 復讐の想念を糧に魔力を生み出し、生み出された魔力を喰らう。喰らった端から生まれる負の想念は、更に多量の魔力を生み出していく。

 それは一つの永久機関。肉体と生命力が枯れ果てるまで廻る無限回廊。その身と同じく止まらぬ疾走を続ける円環だ。

 過度の戦闘を行えば当然消費する魔力は増大する。森での戦いのようにたった半刻ほど酷使しただけで悲鳴を上げる肉体だ。
 それでも通常のマスターとサーヴァントの関係よりはマシだろう。マスターへのダメージはサーヴァントの修復力が回復してくれる。

 本来ならば今頃雁夜はのたうち回るほどの痛みに耐えていなければならない筈だ。

 そして何より、この身は二心同体。マスターとサーヴァント、どちらかが敗れては終わりの戦いである聖杯戦争において両者が一つである雁夜は、弱点の一つを克服しているに等しい。
 脆弱なマスターを狙われる、という事態が発生し得ないのだから。

 傷の修復も大分終え、呼吸も取り戻してきた雁夜は自らの掌を見る。
 この手はあの宝具を湯水の如く持っていた時臣のサーヴァントと対等以上に戦えた。あの憎き魔術師に撤退の一手を打たせたのだ。

「ククク、アハハ……クハハハハハハハハ──!」

 それを歓喜せずして如何にする。真っ当に戦えば地に這い蹲るのは雁夜の方だ。それがあの男に辛酸を舐めさせた。苦虫を噛み潰させたのだ。

 零れる笑いは止まらず夜空に哄笑となって響き渡る。

「やれる……戦える……あの男を、這い蹲らせる事など何も難しいものじゃない……!」

 胸に蟠るどす黒い劣情。
 勝利の愉悦。
 手にした力の恍惚感。
 まるで夢のような狂気。

 ああ、この力を手に入れた事だけは、あの妖怪に感謝しても良いのかもしれない。

「待っていろ時臣……次に逢う時は必ずおまえを殺してやる──!」

 その決意は今なお黒く淀んでいる。
 そしてその滾りに水を差す使者は、もうすぐそこまで迫っていた。


/2


 遠坂時臣はその時地下工房にて思索に耽っていた。

 思い返すのは森での一戦。自らの矜持の為、およそ愚策とも呼べる正面突破を敢行しながら目的は果たせなかった。
 外道衛宮切嗣は終ぞその姿を戦場に見せなかったのだ。

 これまでの自身を囮にしての強行作戦を思えばそれは些か不可思議ではあったが、あそこまで乱戦の体を為していては介入も難しかったに違いない。
 その為、情報収集に専念して今頃標的の見定めと対策を講じている事だろう。この遠坂時臣と同じように。

 森での戦いでは目的は果たせなかったが収穫もそれなりにはあった。今時臣の頭を悩ませている懸案事項は二つ。

 一つは外道キャスター。無辜の子供達を生贄にする事を厭わない英霊にあるまじき亡霊は誅罰の対象として過分ない。

「それで、綺礼。キャスターについての情報は集まったのかな」

『はい。彼の者──青髭を名乗ったジル・ド・レェとそのマスター──雨生龍之介についての報告をさせて頂きます』

 曰く彼らは人目を憚る事無く早朝より民家に押し入り親を惨殺し子供達を攫っているらしい。それが神の試練とやらに必要な生贄だというのは聞き耳を欹てたアサシンが聞いたという。

 そしてマスターである雨生龍之介。こちらは昨今、紙面を騒がせている殺人鬼であるらしい。
 キャスターの凶行を止めるどころか加担し快楽と享楽で殺人を犯す外道。
 マスターとしての役目、魔術師としての責務の一切を放棄した──否、知りもしない偶然に招かれた参戦者であるのは最早疑いようのない事だった。

「こんな輩だと知っていれば、もっと早く対策を講じられたものを……」

 それは詮無き悔恨だ。森での一戦までその拠点どころか姿形さえも捕捉出来ていなかったのだから。

 しかしこれで情報は出揃った。悪逆を謳う外道を討ち取る事に何の躊躇もない。誅罰を下すのはこの遠坂時臣だ。

「では綺礼。君と、そして父君に一つ頼みがある」

『はい、なんなりと』

「キャスターは森での一戦の時、アーチャーを指して神の使徒と憚った。最愛の乙女との邂逅の前に超えるべき試練である、とな」

 その思考回路は理解し難いが、分かる事もある。つまりキャスターはアーチャーを敵と認識している。自らの祈りの前に超えなければならない仇敵であると。

「だから君と父君の力でキャスターを炙り出して欲しい。拠点が判明しているのならこちらから仕掛けたくはあるが……」

『なるほど。あの奔放なサーヴァントは今も何処かで遊び歩いていると』

「頭の痛い話ではあるのだがね」

 時臣が屋敷に戻った直後、アーチャーはすぐさま姿を消した。
 その行き先など分かる筈もない。魔力供給のパスを向こうから遮断されては追跡のしようとてないのだから。

「アーチャーの目的は既に絞られている。あのセイバーへの求婚、という方向に」

 こちらもまた頭痛の種ではあるのだが、まだ救いはある。アーチャーがその愛を成す為には聖杯の力が必要だ。所詮サーヴァントなど聖杯の加護がなければ消える身。その実体を維持し続けようというのなら聖杯に希わなければならない。

 ならば今、あの黄金は時期を見定めているのだろう。
 自らが手の下すに足る輩の選別と、セイバーとの邂逅を劇的なものにする為の演出。

 それなら当然、世界を自身の庭と豪語する王者の逆鱗に触れかねないキャスターは、少し突けばその姿を現しアーチャーを挑発してくれる。

『つまりは監督役の権限を用いキャスター討伐の下地を作り、他のマスター連中に誘き出させアーチャーに討たせると、そういう事ですか』

「理解が早くて助かるよ」

『……ですがそれならばわざわざ他のマスター達を使わずとも、我がアサシンにやらせれば済む話では?』

「いや、アサシンには別件で動いて貰いたい。そして他の連中を使うのにもちゃんとした理由がある」

『…………』

 一旦会話に間を置き綺礼に思考の時間を与える。数瞬の後、綺礼はこう言った。

『他のマスターを使う理由。それは牽制であると同時に標的を絞らせる意図がある……』

「ああ、流石は私の弟子だな。良い着眼点だ。付け加えるのなら、牽制の最たる対象は衛宮切嗣だという一点」

 あの男を野放しにしていい事などない。ロード・エルメロイごとハイアットホテルを爆破した手腕を思えばいつこの屋敷がその対象に据えられてもおかしくはない。
 故に戦場に一定の指向性を持たせ、視線を時臣ではなくキャスターに向けさせる。その為に監督役の権限による討伐の褒賞が効果を為す。

 餌に釣られてキャスターを誘き出したところで、その裁きを下すのはアーチャーであり褒賞を受け取るのは時臣だ。
 何から何まで時臣の描いた出来レース。掌で他の連中を踊らせ旨い所は自身が掻っ攫っていくという算段だ。

「どうだろう綺礼。やってくれるか」

『はい。導師の頼みとあらば私に断る理由はありません。ただ──』

 一拍を挟み綺礼は声色を変えず言った。

『アサシンを使わない理由。別件の方も教えて頂けますか』

「ああ、構わない。こちらも君の力を借りるのだから筋を通すのは当然だ」

 それこそが時臣を悩ませるもう一つの種。間桐雁夜の存在だ。

 戦いが幕を開ける以前に間桐の頭首である臓硯より此度の儀において間桐からの参戦者は出ないと正式に通達が出されている。
 であるのなら、雁夜の存在を容認していい筈がない。それは契約の不履行、反故に等しい暴挙だ。

 魔術師同士の取り決めとして交わされた契約を一方的に破ったのなら、当然その報いは受けてしかるべきだろう。

「と言ってもまだ完全に間桐の翁の考えが読めていない。私が疑問に思う事をあの老獪が思い至らない筈がない。ならばますその裏にある思惑を知らなければならない」

『……導師自らがその臓硯という者と会談を持つと?』

「ああ、向こうに負い目がある以上こちらの要請は断れまい。もし断ったのならそれこそ監督役の鶴の一声で全ては丸く収まるだろうが」

 そうはなるまい。

 あの怪物がそんな愚挙を犯す筈もない。
 断ってくれたのなら令呪の剥奪、マスター権限の剥奪という最良の結末で雁夜を脱落に追い込めるが、その程度を読めぬ木偶ではない。

 時臣ですら気を抜けばその話術の前に首を縦に振ってしまいそうになる古狸だ。交渉という場においてあの男を出し抜くのは至難を極めるだろうが、他の誰にも任せられない役目である。

「ついては綺礼。私が臓硯氏との会談を持つに当たり、アサシンの何体かを護衛として借り受けたい」

 アーチャーを連れ立って行く方が安全であるが、あの奔放なサーヴァントに首輪をつけるのは臓硯との対峙以上に難しい。
 森で既に一画の令呪を使ってしまった以上、無用な諍いを起こすのは避けたいのだ。

 時臣は後一度しかアーチャーに対して絶対遵守の命令を下せない。最後の一画の用途は既に決まっているのだから。

「アーチャーを伴っては刺激が強すぎる。仮に雁夜が屋敷に逗留していた場合、狂化状態のあの男がアーチャーを目視した時点で襲い掛かって来ないとも限らない」

『それは導師にしても同じ事では。間桐雁夜はアーチャーではなく導師をこそ目の敵にしていると思われます』

「それでもだよ。仮に雁夜が襲い掛かって来たのならこちらも令呪を使用しアーチャーを呼び寄せる。
 その補填はまあ、言峰さんに期待したいところだ」

 先に契約を反故にしたのは臓硯の方だ。
 その約定違反の正式な調査が行われる前に間桐との戦闘になった場合、不慮の事故として処理され時臣は被害者として扱われよう。

 監督役に上申し、聖杯戦争のあるべき形を逸脱した輩を討つ為に致し方なく令呪の使用に訴えたとあらば、監督役の持つ余剰令呪の一画を貰い受ける事になんら負い目を感じる必要はない。

 アサシンを護衛に望むのは戦いになる前に、戦いの体裁を為す前に殺される可能性を考慮してのものだ。一瞬でいい、気を引き付けてさえ貰えば令呪に訴える事は難しくないのだから。

『導師の考えは分かりました。私からこれ以上の質問はありません』

「そうか。では、やってくれるだろうか」

『はい、私は元より導師を勝者とすべくマスターとなった身。その為の要請を断る理由はありません』

「ああ。委細についてはそちらに任せる。こちらも臓硯氏に連絡を取りすぐにも会談の場を設けるとしよう」

 宝石仕掛けの通信機を切り、時臣は深い溜息と共に背凭れに身を預けた。

 時臣にはやるべき事が数多い。マスターとして戦場に立つだけでなく、こうして戦いの場を整え戦況を導く管理者としての役目。外道を討つ一魔術師としての責務もまたその身に宿している。

 そしてもう一つ。彼は人であり人の親である。

「桜────……」

 あの森で雁夜に投げかけられた言葉。桜を救う、という言葉が脳裏にこびり付いて離れない。

 何故雁夜はあんな事を言った。狂化状態における錯乱と切り捨てるのは簡単だが、もしあの言葉に何か時臣の知らない真実が隠れていたとしたらどうする。

 魔術師の家系に生まれた者は、とりわけ強い才覚を有する者はその庇護なくして生きていけない。そして優秀な芽を花開かせる事なく埋没させてしまう事はその者の未来を摘み取る事と同義だ。

 故に時臣は桜を養子に出した。凛と桜、どちらも稀有な才能を有していたが為にその芽を摘む事を嫌ったのだ。

 それは断じて利己的な想いではなく我が子の未来を案じてのもの。凡庸な人生を生きるよりは、その身に応じた道を往くべきだという親心。

「私は何か……間違えたのだろうか……」

 時臣は自ら魔道を往く事を望み選んだ。凡庸な才しか持ち合わせずとも魔道に生まれた者の誇りに従い父の跡を継ぐ事を覚悟したのだ。
 覚悟は強い意思となり、強固な自我を形成した。血反吐を吐くほどの修練と自らに課した誇りの結果、時臣は今の地位を手に入れたのだ。

 ただそれは、時臣は自らで選んだ事。たとえ他の選択肢のない岐路であっても、その道を自らの足で歩む事を自身で決断したのだ。

「ならばあの子は……凛は、桜は……私と同じようにその道を往くという考えは……」

 時臣の独り善がり──傲慢ではないのか。

「…………」

 沈思黙考は答えを導かない。思考は既に袋小路に突き当たっている。どれだけ考えようと自身に都合の良い楽観しか生まれない。その先を望むのなら、行動を起こさなくてはならない。

 幸いにも間桐の翁と会談を持つ理由があり、間桐の屋敷に赴く理由がある。桜の置かれた深層にある真相を探るには、丁度良い契機であろう。

 間桐雁夜が人でなく魔術師でなく英霊でなくサーヴァントでなくその全てであるのなら。
 遠坂時臣は人であり魔術師であり管理者であり親であるのだ。

 全てに背を向け中途半端に成り下がった雁夜が持ち得ない強さ。全てを背負う時臣の芯は今熱く燃える炎を宿している。

 向き合うべきものは己の咎であり責任という名の十字架。為すべきのものの形は朧げながらに見えている。

 ならば行動に移せ。
 この足で我が道を往き、この眼で全てを見届けなければならない。

 遠坂時臣は此処に一つの覚悟を宿す。
 胸に抱いたその想いを形にする為に、正調にして異端の魔術師は行動を開始した。



+++


 時臣との通信を終え、自室へと戻った綺礼を出迎えたのは極彩色。
 無機質であり物もほとんどない綺礼の自室。揺れる蝋燭の明かりが照らすのは、なお眩い輝きを放つ黄金の王──アーチャーだった。

「邪魔をしているぞ言峰」

 ソファーに寝転がりながらワインを燻らせその芳香を愉しんでいるアーチャー。
 何時ぞやの光景を思い出した綺礼は、憮然とした態度のまま散らかされた酒瓶を片付け始めた。視線を合わせぬまま、義務的に言葉を紡ぐ。

「おまえはここで何をしているアーチャー」

「見て分からぬか、酒の面倒を見てやっている」

 この男が上機嫌である正体は、おそらくセイバーの存在ゆえのものだろう。世界の全てを手にした万象の王が見初めた未だ見ぬ宝石。
 自らの蔵に納めた数々の至宝よりもなお手に入れるだけの価値があると憚った、あの少女騎士を愛でる事を想うだけで満たされている。

 その愉悦に比べれば異物を持ち込んだ凶気や噛み付いた狂犬など取るに足りぬもの。歯牙にも掛けぬとこの黄金は怠惰に身を埋めている。

「おまえのその奔放さ故に時臣師は甚く苦労している。何故おまえはわざわざ私の元へと訪れる? 酒が飲みたいだけならば全て持っていってくれて構わん。遠坂の屋敷で存分に飲めば良い」

「未だ貴様は我の心尽くしに気付かぬと見える。なあ言峰。おまえ自身が言ったように我は誰にも縛られぬ。
 それが何故こうもおまえに執着しているか、考えたことはあるか?」

「…………」

 考えたところで分かる筈もない。時臣の思惑は充分に人の範疇だったからこそ答えは導き出せたが、この黄金の思考など常人には理解出来ない。
 綺礼が如何に逸脱しているとはいえ、それでも狂っているのはその嗜好だけであり正常な思考を有している。

 異常を異常と思わぬこの黄金の思考を読めというのは、どんな難題よりも難しい。

「歯に衣着せた物言いはいい。言いたい事があるのならさっさと言えばいい」

 それに嘆息を零した黄金は、手にした杯に満ちた血色を飲み干し身体を起こした。酒瓶を集め終えた綺礼は立ち上がり黄金の王を睨む。

「我は我を見下す者を良しとせぬ。おまえの無礼を許しているのには、二つの理由がある」

「なに……?」

「一つはおまえの在り方だ。それに我は興味がある。世界を統べる者として、初めから逸脱している貴様の在り方は見ていて飽きぬ」

 同じような雑種ばかりが蠢く現代において、言峰綺礼唯一人がずれている。人の業を愛でる王者にとって見れば賢しいだけの者など見飽きている。
 彼が興味を抱くのは見初めた宝石か、今まで見た事のない異物のみ。前者はセイバーであり、後者は綺礼に他ならない。

「自分が世界に受け入れられていないという苦悩。その苦渋を舐めればさぞや舌を痺れさせるであろう。
 だから我は貴様に拘っている。この世にあってはならない異物。キャスターのそれが異界の理の賜物であり招かれただけの塵であるのなら、貴様のそれは最初からこの世に芽吹いた萌芽だ」

 この世界に産み落とされたものならば、全てこの黄金が愛でるに足るものである。如何に壊れ破綻していようとも、世界の内にあるのなら親身になって当然だと。

「……戯言もそこまでいけば度し難い。貴様に私の何が分かる。知ったような口を利くな」

「ああ、知っているとも、貴様に足りぬのは愉悦だ言峰。その甘さを知りながら、揺るがぬ克己心で己を戒め続けているだけではその先へは届かんぞ。
 貴様は知りたいのではないか? 何故己が世界に許容されているのかを」

「…………」

 主の教えが絶対であるのなら、こんな異物は生まれない。ならばそれは間違っているのだろう。そう理解した時、言峰綺礼は主の御元を去っている。

 それから身を置き続けたのは戦場の只中。教会の教義に背く異端共を狩り取る代行者として戦場を駆け抜けた。
 笑い種だ。神の教えを信じぬ討たれるべき悪が、その走狗となって程度の低い異端を狩り続けたというのは、皮肉以外の何物でもない。

 それでも綺礼はその時確かに救われていた。考える間もなく襲い来る異端者共に手を下している間は、苦悩から目を逸らす事が出来たから。

 そんな現実逃避は長くは持たず、やがて令呪の兆しを受けて魔術の門扉を叩いた。
 教会が異端と認定するそちら側になら、求め欲する解があるやもしれぬと淡い期待も抱いていたが、結果は無残なものでしかなかった。

 聖杯とは願望機だ。勝者の願いを叶えるだけのものであるなら、それは綺礼には無用の長物。望んだものしか齎さない万能の釜では、綺礼の苦悩に明確な答えを吐き出しはしないのだから。

 希ってもそれは綺礼が『こうであって欲しい』と思う祈りでしかない。それでは駄目なのだ。そんなものは、何の慰めにもなりはしない。

 ただそれでも──綺礼は目を離せぬものを知っている。もしかすればこの解に答えを齎すかもしれない存在を知っている。

 衛宮切嗣。

 あの男ならば、戦場で苦悩に苛み続けたであろうあの異端者ならば……あるいは。

 意識を現実に引き戻した綺礼を見つめる一対の瞳。紅蓮の炎のようであり、ルビーの輝きのようでもある血色を湛えた視線が綺礼の総身を舐めている。

「おまえは一体私にどうしろというのだ。私は私の敵を見定めはしたが、それと貴様のいう愉悦に関連性はないだろう」

「いいや、あるとも。貴様はまず自身を正当化しろ。自分は狂っているのだと心の底から認めろ。その上で、その原因を探すところから始めるべきだ」

「……そんな事を出来るのなら、私は生まれ落ちてから続く苦悩に侵されてはいない」

「その為に愉悦を知れと言っている。今の貴様の立場はその為には非常に都合が良い」

 黄金の王者は眇めた視線に愉悦を乗せて語り続ける。今この時が言峰綺礼が生まれ変わる瞬間であると。

「これまで自身にのみ打ち込んできた貴様であるのなら、これからは他者を操り導き転落させろ。
 人が崩れ落ちる時に生まれる嘆き──それを口にする事がおまえにとっての本当の意味での初めての食事となろう」

 そしてその転落の結末を自身の手で後押ししたのなら、その甘美は何倍にも膨れ上がるだろう、と王者は結んだ。

「…………」

 そう言われたところで簡単に頭を切り替えられるものではない。先にも述べたようにそう出来ないからこそ綺礼は苦悩し続けてきたのだから。

「まだ納得出来んと見える。ならば視点を変えてやろう。
 貴様が唯一敵と見定めたその者──その男との邂逅に邪魔になる者全てを排除する為に動け。ただそれだけで充分だ」

 それならばまだ理解し得る。
 衛宮切嗣とは必ず見えなければならない。問わねばならない。それは綺礼が唯一この戦いに見出しだ光だ。

 その為に他者を排除するのは問題ない。邂逅は全てが決着するその時で良い。他の誰の邪魔も入らぬその刻限こそが、我らの逢瀬に相応しい。

 綺礼は黄金の前にテーブルを挟み座り、腕を組んで口を開く。

「……その理論を達成するには、当然時臣師やおまえの排除も含まれているが構わないのだな?」

「クク、出来るのならな。セイバーは強力なサーヴァントだぞ? アサシンでは些か役者不足ではないか?」

「かと言って他の駒を奪うというのも難しいだろう。
 バーサーカーは間桐雁夜と融合しているし、ウェイバー・ベルベットは征服王の傍を離れない。キャスターは論外だ」

 綺礼が切嗣との邂逅を望むのなら、その時セイバーとも対峙を余儀なくされる。如何にアサシンが稀有な能力を有していようとも真っ向からの戦いで剣の英霊に勝ち得る事など想像すら出来ない。

 あくまで彼らの役目は間諜であり暗殺だ。マスターを殺す以外に使い道は限定される。しかし切嗣との邂逅という目的の前には、マスターの暗殺を生業とする暗殺者はものの役にも立ちはしない。

 ゆえにセイバーを抑えられるだけの駒が必要だ。ただその心当たりがない……

「──ああ、そういえば言い忘れていた事があった」

 瞬間、黄金の王は視線すら傾けぬまま横合いから繰り出された短刀(ダーク)の一撃を何処からか呼び寄せた盾で防いだ。

「綺礼様を誑かす者──容赦はしないッ!」

 虚空より具現化した暗殺者。

 綺礼のいるこの場所は当然にしてアサシンが監視守護していない筈がない。これまでは綺礼が仕える時臣のサーヴァントと黙認してきたが、主を惑わせる蛇であるのなら殺し尽くす事に依存はない。

 主の命なき戦闘行為。如何なる罰則にも甘んじる覚悟で暗殺者は黄金に弓引いた。だがそれは、どうしようもない程の愚策であった。

「この我を今一度この世界に招きし者──それは時臣などではない」

 ゆらりと立ち上がった黄金は武装すらせず剣群のみを生み出し射出した。

 アサシンの宝具である『妄想幻像(ザバーニーヤ)』は単一でありながら複数に魂を分離させそれぞれがサーヴァントとして具現化する事を可能とするもの。
 気配遮断のスキルと合わせ諜報と暗殺を生業とする者にとって有用な能力ではあるが、当然にして欠点もある。

 細分化した個人はそれぞれの思考を有し嗜好を持つ。分裂した分だけ全の能力を個で分け合うのだからただでさえ低いステータスをより低下させる。
 更に言えば個であるが故に彼らは完全な意思疎通を可能としない。今此処でアサシンが倒れようともその死を彼らは知覚出来ないのだ。

 いや、知覚出来ようともその死因や状況までを把握出来ないと、そう言うべきか。

 無意識による分裂さえも有り得る不安定な能力。正しく使用すれば有用この上ない力であれど、戦闘者としては最弱と言わざるを得ない。
 ならば最強の名を欲しいままにするこの黄金に抗う手立てなど、初撃を防がれた時点で存在しなかったのだ。

「ガァ────……!」

 無数の剣群に貫かれたアサシンは仰臥し、串刺しのまま血の跡すら残さず消えていった。

「他にこの教会を見張る輩は?」

「いない。他のマスターの監視と時臣師の護衛に全て回しているからな。よもや内部に敵がいるなどとはさしもの私も思わなかった。手痛い失態だ」

 綺礼という男にあるまじき失笑。皮肉とも呼べるそんな物言いをこの黄金は気に入った。

「これで私達の会話を盗み聞きする輩はいない。仮にアサシンの一体が討たれたと感知出来たとしてもこの場所に辿り着くには数分の猶予があるだろう」

「ならば賊は賊らしくさっさと去るとするか」

 二人の面貌に宿るは笑み。こんな茶番じみた空言を、けれど愉悦と嘲笑う。

「最後に聞かせて欲しい、英雄の王よ。おまえを喚んだのが時臣師でないというのなら、何処の誰がその身を招いたのだ」

 分かり切っている問い。ただの確認事項を綺礼は謳う。黄金は背を向けたまま、床に転がるワイングラスを踏み砕く。

「そんなものは決まっているだろう。おまえだぞ言峰綺礼。おまえこそがこの我を世に招きし召喚者。それが我がおまえに拘う二つ目の理由だ」

 アーチャー召喚時には綺礼もまたその場に立ち会った。けれど召喚の祝詞を謳い上げたのは時臣だ。綺礼ではない。

「世界で初めて脱皮した蛇の抜け殻の化石……? 度し難い、そんなものでこの我を喚べるものか。
 我を喚ぶに値するのは我に愉悦を齎す者だ。我が召喚に応じたのは、あの俗物の声ではない。時臣は臣下の礼を尽くしていたが故これまで付き合ってやったが、そろそろあるべき形を取り戻すべきであろう?」

 それは何かの間違いで起こった誤解。本来マスターとなるべき者が他のサーヴァントを既に従えていたが故に起こった召喚事故だ。
 それが間違った形であるのなら元に戻すべきだと黄金は言う。本来の形、マスターとサーヴァントのあるべき姿を。

「今暫く待って欲しい英雄王。アサシンは手放すにはまだ早い。使い潰してからでも遅くはあるまい。それと、一つ欲しいものがある」

 綺礼は用件を告げ、黄金は快諾した。無道を往く者が初めて口にした欲望であるのなら、叶えてやる事に吝かなどない。

「ああ、後は好きにするがいい。我はただその時を待つのみよ。貴様の采配でこの退屈な戦いが如何なる刺激に溢れるか、それを高みの見物とさせて貰うとしよう」

 黄金はその姿を朧と消していく。

 此処に一つの密約は交わされた。
 黄金の王者は真なる召喚者を認め、綺礼はセイバーに抗し得るだけのサーヴァントを手に入れる。その契約の調印が為されたのだ。

 剣と鞘は互いに一つ。
 間違った鞘に収められて窮屈な思いをしていた剣は、ようやく自身の鞘を見つけ出したのだ。

「さて……」

 そして言峰綺礼が遂にその重い腰を上げる。
 唯一つの宿望──衛宮切嗣との邂逅の為に、幾重もの策謀を巡らせ始めた。


/3


 静寂に閉ざされた闇に響く轟音。エンジンの織り成すメロディは誰に届く事無く木霊している。

 左右を森に囲まれた公道を煌々と光るヘッドライトが過ぎっていく。他の通行者などまるで存在しない夜の帳をメルセデスは貫き引き裂き疾走する。

 その魔改造された自動車のハンドルを握る衛宮切嗣は、口元に煙草を咥え闇の向こうを見つめていた。

 アインツベルンの森での一戦、切嗣は終始観測に務めた。戦場から遠く離れた梢の隙間に身を隠し、狙撃銃のスコープと各所に放った使い魔の目を同時に観測し、戦場の把握とその場に集った連中の情報収集に専念した。

 隙あらばマスターの背を狙う事も辞さなかいつもりだったが、戦いは乱戦の体を為し混迷を極めた。
 常に周囲を警戒していた時臣、征服王の繰る御者台に身を隠していたウェイバー、そして英霊との融合という異常を発現した雁夜とでは、どのマスターも確実に殺せるという確信が得られなかった。

 暗殺の極意は一撃必殺。敵に姿を見られるその前に心臓を撃ち抜く事に他ならない。あの状況の中、照準は合わせられようとも引き金を引くに足る直感は切嗣の脳裏に閃かなかったのだ。

 狩人が狩られる森で一人すら討ち取れなかったのは誤算だが、当初の目的である全サーヴァントの姿の確認、そしてキャスターのマスター以外の連中の目視も達成出来た。

 サーヴァントの幾つかの能力も見て取れたし、何よりセイバーをして厄介な敵があれだけ雁首を揃えている事を確認出来たのは大きい。

 真正面からセイバーと連中を戦わせるのはリスクが大きい。よもや負けるとは思えないがそれでも万全を期すのならこちらも策を巡らせるしかない。

 異界の魔物を喚び寄せるキャスター。
 湯水の如く宝具を所有していたアーチャー。
 雷神の戦車を駆るイスカンダル。
 そして手にしたあらゆる武器を宝具と化す異端のサーヴァント。

 どれも一筋縄では行くまい。ただそのマスター達とその因縁を利用してやれば、如何様にも戦局を誘導出来る。

 街の明かりが近づいてきた辺りで車を停車させ、切嗣は外に出る。アインツベルンの森は深い樹海。電波も届かないような僻地だ。舞弥と連絡を取るにはある程度街に近づく必要があったのだ。

 携帯電話を取り出し通話を行う。取り決め通りにツーコールで舞弥は応答した。

「僕だ」

『はい、無事でなによりです切嗣』

 簡単に意味のない挨拶を交わし用件へと入る。

「街に戻った他の連中……どれだけ掴めた」

『既に居所の判明している遠坂時臣、言峰綺礼を除けば今現在捕捉出来ているのは間桐雁夜のみです』

「やはり征服王の追跡は難しいか……」

 空を自由に飛び回り高速で移動するあの騎乗戦車を追走するには舞弥の使い魔では速力が足りない。他の連中にも監視を割かなければならない以上、余り多くの使い魔を動員できないのもその原因だ。

『それでも深山町に彼らの拠点があるのは間違いない模様です。前回、そして今回もその近辺で消息を見失いましたので』

 明確な拠点が判明していなければどの道打てる手は少ない。あの若輩魔術師ならば簡単に嵌められると思うのだが、その辺りはあの赤毛の王が補っているようだ。

 あれで中々バランスの良いコンビなのだろう。少なくとも切嗣達や時臣達よりは余程パートナーとしての体を為している。

「まあ、奴らについては今はいい。未だ底の知れない相手だが、ウェイバー・ベルベットという弱点が存在する限り負けはない」

 セイバーが瞬殺されるほどの力量をあの赤銅が有しているのなら話は別だが、そんな異常は有り得ない。最優の座に君臨するおよそ最強に近きセイバーであるのなら尚の事だ。ある程度時間を稼いでくれればウェイバーはいつでも殺せる。

「キャスターについては何か情報は」

『拠点らしき場所までの追跡は可能でしたが、そこから先の行方が掴めていません』

「その場所というのは?」

『未遠川上流にある下水道です』

 そこから先も追跡を行おうとしたが、下水道内に犇いていた怪魔に使い魔が飲み込まれてしまい断念したと舞弥は告げた。

「…………」

 ならばそこがキャスターの工房なのだろう。マスターとしての透視能力で見たキャスターの能力値では陣地形成のスキルはBランク相当。
 ロード・エルメロイの魔術工房も大概異常だったが、キャスターのそれは輪を掛けて異常だろう。

 あの時のようにセイバーに強襲を掛けさせるにしても脅威の再生能力と無尽と見紛う程の数を有する怪魔と剣一本で戦うセイバーとでは余り相性が良くはない。
 時臣のように広範囲を攻撃する魔術を習得していない切嗣も助勢には足り得ない。

「やるのなら誘き出すしかない……が」

 キャスターは無辜の子供達を犠牲にするような輩だ。それを見咎めた遠坂時臣が何かを仕掛けないとも限らない。ならばそちらの一手を待ってから行動に移す方が幾らか実りがありそうだ。

 時臣が如何なる策を巡らせているかは定かではないし推測の域を出ないが、奴に対するアドバンテージを獲得しておくに越した事はない。

 現状、厄介なのは時臣と雁夜だ。工房に引き篭もったキャスターは面倒であっても外に誘き出しさえすれば倒す手段はある。
 そのマスターもそれほど優秀な魔術師ではないだろう。でなければ、キャスターをあそこまで野放しにはすまい。

 目下注視すべきは時臣の動向。あの異常な数の宝具を有していたサーヴァントの強力さは驚嘆して余りある。正面からの戦いは挑むだけ愚策だ。雁夜が健闘出来たのは相性の良さでしかない。

 だが、対抗出来るというのはそれだけで充分に使える。

「舞弥、監視は遠坂邸と教会だけで良い。後の使い魔は全て間桐雁夜を見失わないように追跡させてくれ」

『キャスターの拠点と思しき場所の監視は必要ないと?』

「ああ。居所が知れただけで今は充分だ。奴に対しては僕以外の者も対策を講じているだろうからな」

 今見失っては不味いのは、動向の読めない雁夜だ。この男を使い時臣に対して罠を仕掛ける。

「それともう一つ頼まれて欲しい」

『はい。なんなりと』

 遠坂の人間とそして間桐の人間の経歴についてはどちらも洗ってある。間桐から参加者が出ないという通達が出されているのに雁夜が参戦しているのは不可思議だが、その追及を行うのは切嗣ではない。

 遠坂時臣と間桐雁夜。この二人の因縁についても多少は情報を得ている。時臣の経歴を洗っている時に零れ落ちた程度のものだが、この二人の男は一人の女性を巡り対立した過去があるらしい。

 雁夜の引き際を思えばそれは対立と呼べるものだったかは分からないが、今なお雁夜は時臣という男に対し浅からぬ負い目を抱いている。あの尋常ではない狂気の源泉はおそらくそこにある。

 その因縁の糸を手繰り煽る。それだけで切嗣の望む舞台は完成する。

 だから冷酷に。
 無慈悲に。
 最小の犠牲を認め。

 最善の選択を下した。

「舞弥────遠坂葵を攫え」


/4


 明朝。

 冬の気配がしんと空気に溶け込む肌寒い朝。淡い陽光は雲間から降り注ぎ、流れる風の早さが雨の予兆を告げていた。

「それで綺礼。私は手筈通りに招集をかければ良いのだな?」

「はい父上。師はキャスターを外道と認定し誅罰を下す決定をされました。
 まずはあの神秘の漏洩を厭わず無辜の人々を犠牲とする、衛宮切嗣よりも悪辣な者達を討つべし、と」

 新都冬木教会。荘厳な空気が漂う礼拝堂にてこれより行う儀礼についての最終確認を、父である璃正と共に進めていた。

 教会内の監視はかつてないほどに強固に補強されている。昨夜の賊の襲撃はアサシンに伝播し、事情は彼らにだけ内密に告げられている。

『教会を襲撃した賊はアーチャーだ。アーチャーの独断専行も考えられるが、この一件により私は師への猜疑を強くした。趨勢の如何によっては私自ら師に問い質す事も辞さないつもりだ。
 その間、おまえ達にはこの件については黙認、そして他言を禁じて欲しい。そう……それは我が父に対してもだ。古くからの付き合いである師と父に、内通の疑いがある以上は当然の処置だろう?』

 かつての綺礼ならば考えられもしない言葉の数々。実直が服を着て歩いていた男が、よもやこんな戯言を口にするようになるとは。

 それでも言葉の中に一切の虚偽が混じっていない事が、綺礼の芯を表している。必要がなければ口にせず、問われなければ答えないが、問われた以上は真実を口にする。言峰綺礼は今も昔も変わらずそんな男だ。

『それはつまり……綺礼様が自ら聖杯の獲得に乗り出すと、そう考えても宜しいのですか』

 その問いかけにも当然、綺礼は嘘偽りなく答えて見せた。

『聖杯には別段興味はない。だが私には私なりの戦う理由と目的がある。その為にはこんなところで膝を屈するわけにはいかない』

 それは綺礼が自ら立つ事を宣言したのと同義だ。これまで時臣の手足となる事に何の不満も抱いていなかった綺礼を思えば歴然だ。
 綺礼のサーヴァントであったアサシンにしても同じ。臣下の臣下という立場に甘んじていたのはいつか綺礼が立つ時が来ると信じていたからだ。

 このアサシンとて聖杯に託す祈りがある。ただ主に従い続け命を無為に散らす事を良しとはしない。
 思考の分散、魂の分化という業を宝具で具現化した彼らはその恩恵と共に不利益も被っている。

 生前であれば如何に人格の一つが反発しようとも肉体が一つであった以上横暴は許されなかったが、肉体さえも分化した今は違う。
 求め欲し手に入らなかった自分だけの肉体がある。仮初めとはいえ誰に憚る事のない足がある。その喜びは、常人には理解し難いだろう。

 そしてそれを確固のものとしたい。
 あるいは唯一人の己だけを見出したい。

 そんな願いを聖杯に託す以上、時臣の下に居続けてはいられなかった。
 なんとなれば時臣を暗殺しようという過激派も存在していたが、綺礼自身が立ち上がるのなら話は別だ。

 これより先に望む戦いと祈りがある。
 なれば我らは主の影となり、その敵を討つ蜘蛛となろう。

 それがアサシン──百の貌のハサンの総意。
 歴代のハサン・サッバーハの中でも異端中の異端である彼らの戦いは、今始まったのだ。

 そんな決意を知らぬ綺礼は内心でほくそ笑む。
 今の綺礼にとって見ればアサシンなどただの手足。場を監視し撹乱する上で有用な駒でしかない。

 駒は従順であればあるだけ都合が良い。
 綺礼の宣言を聞き恭しく礼を取ったアサシンは、その時浮かべた笑みの正体を知らない。
 おそらくは知る事はないだろう。

 その命脈が──尽き果てるその時まで。

「父上」

 時臣から受けた指示の全てを璃正に伝え、手筈についても確認した後、綺礼はより真剣味を帯びた声音で実父を呼んだ。

「なんだ綺礼。何か不備や不満があったか」

「いえ。父上の手筈に問題などありません。そう……問題があるのはこの私の心の在り方です」

「なに…………?」

「父上に頂いたこの名──綺礼の意味。そして我らが信仰の対象とする神の教えが、私には何一つ分からない」

「────」

 その突然とも言うべき告白。いや、告解の全てが璃正には理解が出来ない。目の前の息子は何を言っている? 何故今、この時にそんな事を言うのだろう、と。

 それでも璃正という男の心は揺るぎはしない。鉄の克己心で己を戒め続ける齢八十を超えてなお壮健を誇る神の僕は、静かな声で問い質す。

「綺礼、それはどういう意味だ」

「言葉以上の意味はありません。主が教え、貴方が説いた世界の在りよう。ただ美しくあるべしと願われ、如何なる時も我らの傍にあるこの大地、木々、空、そして人々の心。その全てのものが、私には酷く醜く見えるのです」

 風光明媚な自然とて綺礼から見ればただの環境。心を震わせる何かを得られることなど有り得ない。
 誰もが美しいと賛美するもの。それが何故美しいのか理解が出来なかった。

 真っ当な道徳と良識を持ち、善である事の正しさを理解しながら、その正反対のものにしか興味を持てなかった。

 優雅に羽ばたく蝶よりも。
 身を焼かれると知りながら火の中に飛び込む蛾を好み。

 美しく咲く薔薇よりも。
 自身に害為すものを殺す毒を秘め持つ毒草を好み。

 正と善に尊ばれるものよりも。
 負と悪に染まるものにこそ心を惹きつけられて止まなかった。

 生まれつき善であり、悪徳の悦びに魅入られ道を踏み外すのならまだ救いはある。それは今一度善へと戻る事を赦されているからだ。

 しかし最初から悪であったものが生れ落ちたのなら。
 善という観念に対する赦しを一度として持たぬまま生まれてしまったものがあるとするのなら。

 それは一体──ナニモノなのか。

「…………」

 綺礼の告白を黙したまま聞き届けた璃正は、搾り出すように息を吐いた。

「ならばおまえは、これまで私を……神を。欺き続けてきたというのか」

「いいえ。それは私よりも父上自身がよく知っておられる事でしょう」

 良き息子として綺礼は成長し、父の期待の全てに応えてきた。ただ自身の愉悦の為に欺き通すにはその年月は余りに長く、課された試練は過酷を極めている。道化が片手間にこなせるようなものでは断じてない。

 故に綺礼の信仰は本物だった。
 その姿勢に嘘と偽りは一つとしてなかった。

 ただ──打ち込んだ全てのものが無為に終わった。
 綺礼という男の価値観を変えるには至らなかった。

 これはただそれだけの話だ。

「…………」

 璃正には最早掛ける言葉が見つからない。
 当然だ、神の信徒としてこれ以上の男を綺礼は知らない。主への忠誠をただ現す為に、月まで届く距離を歩き続けられる男なのだ。

 この世の善を体現した男に、この世の悪を体現した男を理解など出来る筈がない。

 言峰綺礼が善の正しさを理解出来ぬように。
 言峰璃正には悪の正しさを理解出来ないのだ。

「綺礼、とりあえずは日を改めよう。今は為すべき事がある」

 召集の手筈は既に整っている。悪逆非道のキャスターをこれ以上野放しにするわけにはいかない。

「はい、父上。申し訳ありません、余計な手間を取らせてしまい」

「何を言う。息子がようやくその心の内を明かしてくれたのだ、これに真摯にならぬ親などいまい。
 綺礼、おまえの本心、確かに聞き届けた。その在りように驚かされはしたが私はおまえの味方だ。共にその心を正していこう。おまえにも必ず見出せる筈だ、私と同じものが。他ならぬ──私の息子なのだから」

 儀式の準備へと入った父に目礼をし、綺礼は礼拝堂を辞する。
 まさか脱落した筈のマスターが堂々とこの場に居合わせていい理由などないのだから。

 客室へと戻る道すがら綺礼は考える。

 この胸の内を告解した時の父の顔、その苦渋の色の美しさに確かに心奪われた。

 これまでずっと自身と同じく主の教えを信じ、正しさと善の徒であると信じて疑わなかったが故の苦悶。
 想像すらしなかった筈だ、綺礼がこんな化物であるなどと。

 それでもこの己と向き合おうとしてくれた父の優しさ。
 その寛容。
 無私の信仰が、綺礼には酷く気持ちが悪い。

 何故こんな己を受け入れようとするのか。今まで璃正の信仰してきた世界に泥を塗ったも等しい告解を、どうして否定してくれないのか。

 それが美しいものなのか。
 綺礼の理解出来ない、人が美しいと思う心の在りようなのか。

 だとすればやはり──この己は世界と相容れない。

 その確信をより強固なものとして、綺礼はそれでも感謝した。世界に爪弾きにされた己を受け入れようとしてくれた父に。こんな自分だと知ってなお、変わらぬ愛を貫いてくれた父に。

「礼を言わせて頂きます、父上。貴方の愛は本物だった」

 そして別れを。

 ────それでもやはり、私は貴方を愛せない。

 これが言峰綺礼にとっての決別の瞬間。
 これまで苦悶の渦に囚われ続けてきた己との決別の瞬間だった。

 最早迷う事はない。道の先にあるものは見えている。ならば後はただ、この果て無き荒野を駆け抜けて、あの男に答えを問うのみ。
 苦悩の果てで答えを見つけた筈の男。そしてその答えを捨ててまでこんな愚にもつかない戦いに命を賭した男に。

 ──この執着が愛の裏返しであると言うのなら。

 それはまさに、失笑ものの荒唐無稽だ。

「まずは一つ……この誘いに乗ってくるか」

 既に布石は打ってある。
 人を嵌める事に長ける魔術師殺しの手腕を逆手に取る為の罠を。

 この誘いに乗らない筈がないという確信はある。
 あの男が綺礼の想像通りの人物であるのなら。
 何をおいても自らの信念を曲げられない、それ以外の生き方を知らないというのなら。

「さあ、私の掌の上で踊れ──衛宮切嗣」

 神聖なる教会の中で、俄かに悪意の芳香が薫り始めていた。



+++


 その信号弾が空に上がったのは、それから半刻の後だった。

 霊的仕掛けを施されたそれは魔術に精通するものにしか聞こえない音を発し天に轟き木霊した。この街に集うマスター達、そしてサーヴァント達の誰しもに聞こえるように打ち上げられたのは、召集を告げる合図である。

 事前に用意していた隠れ家の一つでこれからの準備を進めていた切嗣は当然にしてまず疑問を抱いた。

「監督役からの召集だと……?」

 そしてすぐさま答えは導き出される。

「なるほど、遠坂時臣の入れ知恵か」

 この趨勢で監督役が全マスターに召集を掛ける理由などそう多くはない。全てのマスターにとって都合が悪い状態。つまりは聖杯戦争の行く末に関わる事案が発生したと、そう読むべきだ。

 そしてその事案とは何か。最早考えるまでもない。

「キャスターの横暴」

 切嗣が他者を横暴と評するのは皮肉が過ぎるだろう。被害を考えない、という観点からみれば切嗣も同等程度には無辜の人々を犠牲にしている。
 決定的に違うのは神秘の秘匿に努めたかどうかだ。ハイアットホテル爆破時はその規模と破壊の度合いにより隠蔽は完全であった筈だ。

 でなければ今頃、切嗣こそが監督役の名の下に討伐令を出されている。

 魔術協会と聖堂教会。その両者が唯一利害の一致するものは神秘の秘匿。
 この一点のみが、水面下で闘争を繰り広げている両者をギリギリのところで繋ぎ止めている。

 それほどに神秘の漏洩は重い罪だ。度が過ぎれば聖杯戦争そのものを中止せざるを得なくなる程の。そうはさせない為の召集。あるべき闘争の形を取り戻す為に布石を打つのが狙いだろう。

「…………」

 遠坂時臣の打った一手に対し切嗣はどう対応すべきか。こちらも既に一つ手を打ってはいるがその効果が出るには今しばらくの時間が掛かる。

 それに別段、切嗣はキャスター討伐の指令に反対はしていない。むしろ他の連中が奴を討ち取ってくれるのならそれでも構わないという心積もりだ。

 とりあえずはこの召集に応じないという選択肢はない。切嗣の推測も所詮は推測。
 もしかすれば与り知らぬところで別の事件が起こり、それについての対策とも限らないのだから。

 ……そんな不測を避ける為に舞弥を街に残していたんだ、ある筈はないだろうが。

 現に舞弥からそんな通達はなかった。何よりあの森に現在存命中のサーヴァントが全て存在していた以上、有り得ない。

「いや……そういえば一騎いたな」

 アサシン。

 切嗣はこのサーヴァントが本当に消滅したとは思っていない。緒戦の夜に行われた茶番を忘れていないのだ。
 あの夜以降、これまで影も形も捕捉出来ていない。隠密に徹したアサシンを見つけ出すのは偶然という力に頼る他ない。

「アサシンは見つけられないが……そのマスターに牽制は掛けられるかもしれない」

 言峰綺礼。
 最初の脱落者。

 今なお冬木教会に保護の名目で滞在している筈の男。

 時臣と綺礼が内通しているのなら、当然その父であり監督役である璃正もまた承知している筈。これは最初から仕組まれた出来レース。遠坂時臣を勝者とすべく二人のマスターと審判が結託するゲームなのだ。

 この召集に時臣が噛んでいるのは間違いない。そしてそこに彼の描いたシナリオが存在しているとするのであれば、その破綻を目論むべき切嗣の行動は、想像の斜め上を行く事に他ならない。

「ならばここは一つ、魔術師殺しの流儀でいかせて貰うとしよう」

 時臣のシナリオを狂わせ、綺礼に対する牽制を行う。
 そんな奇策を切嗣は巡らせ実行する為、行動を開始する。

 それが誰の掌の上であるのかを、考えるまでもなく……



+++


 信号弾の打ち上げから更に半刻。
 静寂に閉ざされた教会内で、言峰璃正は息を呑む光景を目にしていた。

 衆目に姿を晒したがるマスターはいない。故にたとえ監督役からの召集とはいえ話を聞くだけならば使い魔で充分だと考える者が大半だ。
 わざざわ陣営の弱点たる己の身を晒す愚を犯すマスターはいない。そう思っていた。

「どうした言峰璃正神父。既にキャスター以外のマスターの目と耳は揃っているだろう。さっさと話を始めてくれ」

 そうさも面倒臭そうに言ってのけたのは無論、衛宮切嗣に他ならない。
 正道のマスターならば決して冒さない危険を、この男は当然にして踏み越える。

 この場に姿を現す利点など考えたところで一つもない。
 会談の内容を聞くだけならば使い魔で事足りるし、仮に意見が言いたいが故のものだったとしてもリスクと天秤に掛けるのならその重さは段違いだ。

 何より不可思議なのは、切嗣がセイバーを伴っていない点に尽きる。

 姿を晒す事に何かしらの意図があろうとも、己がサーヴァントを連れていないというのは誰にとっても理解出来ない事柄だ。
 今の切嗣はどうしようもない程の無防備。背中を自ら曝け出しているも同義だ。

 仮に今から他のマスター達がこの教会に向けてそれぞれのサーヴァントを刺客として放ったのならば、その首は容易に討ち取れるだろう。

 悪辣なやり口を主とする魔術師殺し。
 真っ当な戦闘では無類の強さを発揮するセイバー。
 この強力無比なコンビを倒す絶好の好機。

 だが同時にその行動への警戒は余りある。

 何かの罠ではないか。姿を見せ、背中を晒し、そして最優の剣を手にせずとも、何ら問題はないという何かしらの確信が、あの男にはあるのではないか。
 あるいはその晒した背を狙い撃つ瞬間にこそ、こちらの背が狙われる事になるのではないか……

 衛宮切嗣という男を知れば知るほどに警戒心と猜疑の念は鼠算式に増えていく。

 相手のリスクに付き合いこちらもリスクを背負う必要はない。今はそう、静観こそが最善ではなくとも無難な一手だ。

 この男と見えるのなら、相手の土俵に上がっては勝ちを拾えない。そう評したのは確か遠坂時臣だったか。その理屈を今、ウェイバーもまた感じている事だろう。

 切嗣は自らの身を晒す事で逆に安全を手に入れた。魔術師殺しという異名、これまでの実績のみで他のマスターの行動を封殺してのけたのだ。

 切嗣に唯一不確定要素があるとすれば、この教会の何処かに身を潜めている言峰綺礼の存在。その牽制の為わざわざ教会に足を運んだが、この結果がどう展開するのか、その先までは読み切れていない。

「では、此度の召集についての話をさせて貰う」

 その内容は概ね切嗣の予想の通りだった。

 神秘の漏洩を省みないキャスターとそのマスターの討伐を当面の最優先事項とする事。
 その為それ以外のマスター同士の戦闘は原則として禁止する。
 そしてキャスター討伐の褒賞として、監督役が所有する未使用令呪の一画を譲り受ける事が出来る。

「何か質問があれば受け付けよう」

 この場で人語を発せられる存在は璃正と切嗣のみだ。

 使い魔とは言うなればテレビやカメラのようなもの。遠くの景色を見る事は出来るし現地の音を聞く事もできる。ただしこちらの声は届かないし、匂いに関しても感じる事は不可能だ。

 見る事と聞く事。それ以外の機能の全てをシャットアウトした存在。それが使い魔と呼ばれるもの。
 故に使い魔越しにこの教会の中を見ていたほかのマスターには、その異常を感知する事が出来なかった。

「いや、特にはない」

 事務的にそう返答した直後、切嗣の鼻腔を擽ったのは甘い香り。脳髄を刺激する、劇薬めいた倒錯感だった。

「…………っ!?」

 即座に口と鼻を塞ぎ信徒席から立ち上がる。そして匂いの発生源を探して視線を彷徨わせる。いや、そうしようとした刹那────

「ハァ────ッ!」

 圧倒的な踏み込みからの一撃。内臓を破壊するに足る必殺の奇襲が切嗣の身体を捉えた。

「……がっ──!」

 予期せぬ一撃。よもや敵だとすら認識していなかった言峰璃正からの攻撃により、切嗣は無様に壁に叩き付けられ喀血した。

「────」

 無言のままに息を整える璃正。彼が何故いきなり切嗣に襲い掛かったのか、その真実を知る者はこの場にはいない。そしてその理由さえも。

「……やってくれる」

 ガラガラと崩れ落ちる壁面から身体を起こし、目の前に現れた『敵』を認識する。

 とても高齢とは思えぬほど引き締まった肉体。八極拳と思しき体術の型には素人目から見ても一切の狂いがない。
 身体の芯は揺るがぬ直線を描き、指先の動き一つとっても無駄がない。鍛え、洗練された型。お手本よりもなお教本となる見本にして基本の究極。

 基礎の基礎を鍛え極める事は何事にも通ずる至天への確かな道だ。言峰璃正はまさにその体言。一糸乱れぬ型は基本に忠実であり完全。ならば当然、その型より生まれる剄は同様の威力を発揮するだろう。

「……まさか立ち上がるとはな。一撃で仕留めるつもりで打ったのだが」

「生憎とそう簡単に倒れるつもりはないのでね。僕を仕留めたいというのなら、まずはこの心を折って見せろ」

 胸元より引き抜くは魔術殺しの愛銃。その照準はぶれる事無く璃正の胴に狙いをつけている。

「先に仕掛けて来たのはそっちだ。ならばこれは、正当防衛だろう」

 構えられた銃。構えられた拳。互いに一瞬の隙を探り合う、緊張の刹那。

「父上────!」

 先の一撃による物音を聞き、駆けつけたのだろう綺礼が祭壇の裏より姿を見せる。同時、璃正の意識がそちらに一瞬だけ逸れる。
 引き金に掛けられた切嗣の指は、敵と定めた者の秒にも満たない隙を当然のように衝き、死へと誘う弾丸を撃ち出した。

「がっ……、は、ぁ────」

 そして決着は一瞬。撃ち出された弾丸は過たず璃正の心臓を貫いた。

 璃正の型は完璧であれど戦闘に適していない。あくまで礼に則ったものであり、修める事を目的としたもの。
 先の一撃は切嗣が無防備であったからこそ決まったものであり、互いに敵と認識しあっての戦闘行為においてその型に微塵の有効性もない。

 何より璃正は戦場を知らない。傍で見つめた事や体験した事はあっても、実際に命を掛けての死闘に臨んだ事などないのだ。
 彼はあくまでも神の信徒。何かを殺める事を忌避する者。信仰の裏にある教義を黙認してはいても、自身がそれを為す事を嫌っている。

 誰よりも、そして何よりも信仰に身を置く者。それが言峰璃正であり──それ故に、戦場の機微を理解せぬが故に、こんな予期せぬ争いによりその命を落とした。

「父、うえ……」

 仰臥した璃正の元へと駆け寄る綺礼。璃正の僧衣は今や赤黒く染まっている。魔術の門扉を叩き身につけた治癒魔術とて、死の確定した者を救う事は出来ない。

「き、れい……」

「父上っ! まだ意識が──」

「すまぬ綺礼……儂はおまえの苦悩を、知る事すら、出来なかった」

 知ろうとすらしなかった。誰よりも敬虔に信仰を学び、誰よりも過酷に試練に耐え抜いた綺礼の煩悶を、璃正は息子が告白してくれるその時まで知る事が出来なかった。
 目に映るものだけを真実とし、息子の心の内にあるモノについて微塵の関心も寄せられなかった。苦悩する綺礼に、手を差し伸べる事が出来なかった。

 ──それが悔しいと、璃正は死に行く身体で息子に告解した。

 言峰璃正は命散らすその時まで。
 息子の身を案じた父のまま、その息を引き取った。

 その最期に。
 息子の力になれるようにと、せめてもの遺言を残して……

「…………」

 自らの指先が撃ち落とした撃鉄により、命を奪った父を抱く息子を見る切嗣。その胸の内に渦巻く猜疑の念は消えていない。むしろより強くなっている。

 何故璃正は乱心した。乱心する直前、感じた匂いと関連性があるのか。そんな疑問を浮かべている間に、綺礼は父の亡骸を横たわらせ、立ち上がった。

「……今この場に集うマスター達に、告げておかなければならない事がある」

 綺礼は何事かを呟き、直後その右腕が赤く煌き輝いた。同時に璃正の腕もまた輝きを満たし、その力強さはやがて綺礼の右腕へと移っていった。

「父璃正はその最期に私に遺言を残し、監督役の権限を委譲された」

 僅かに袖をめくり、綺礼はびっしりと腕に描かれた赤い紋様──十数画に及ぶ令呪の証をこの場にいる者達に見せ付けた。

「これがその証である余剰令呪だ。キャスター討伐の折に諸君に賜れるものでもある。
 私は父璃正の跡を継ぎ、この第四次聖杯戦争(ヘブンズフィール4)における監督役代行を担う事を、この場を借りて宣言する」

 綺礼は表向き既にサーヴァントを失ったマスターだ。その手に令呪の輝きもなく、教会に保護されているだけの元マスターに過ぎない。ならば綺礼が父の跡を継ぎ、監督役に納まるというのも無理からぬ話だ。

 ……当然それが全て事実であったのなら、という前提付きだが。

「父の跡を継ぐ以上、まずは父が最期に発令したキャスター討伐の任を、引き続き続行とする。諸君らは褒賞の為、そして神秘の秘匿に携わる者として、彼の者を討つべく行動して欲しい。
 何か質問があれば受け付けるが……?」

 そして綺礼は此処でようやく、切嗣の目を直視した。

「…………っ」

 切嗣に紡ぎだせる言葉はない。綺礼は間違いなく未だアサシンを従えている。だがその証拠はない。先の余剰令呪を見せられた時も、仮にその中にアサシンを従える為の令呪が存在していたとしても切嗣には分からない。

 アサシンを討った夜に追走劇を演じたものの、切嗣が見たのはほとんどが後姿。それも切迫する状況下であったのだから、わざわざ相手の手の甲にある令呪など一々確認している時間などなかったのだ。

 言峰璃正の乱心が綺礼の仕業であり。
 アクシデントに見せかけて切嗣に璃正を殺させる手筈であったのだとすれば。
 そして璃正の後釜に自分が座る為の、全てが猿芝居であるというのなら──

 ──やられた。今回ばかりは完全に僕の負けだ。

 綺礼は切嗣の行動を読み利用し、唯一人この招集に応じるマスターだと踏んでこの策を講じた。如何なる仕掛けにより璃正を狂わせたのかは知らないが、そんなものはどうでもいいのだ。

 結果として璃正は狂い切嗣の手に討たれ、綺礼は難なく監督役という立場を手にした。未だサーヴァントを従えるマスターのままに。

 利用された切嗣は、最早臍を噛むしかない。

 だからせめて、皮肉を込めて言ってのける。

「……ここは中立を謳う冬木教会だ。そこで戦闘行為に及んだ僕に対する制裁は?」

「ない。これらは全てアクシデントに過ぎない。監督役の殺害を目的として招集に応じたのなら別だが、先に仕掛けたのは父の方だろう。ならば当然、その被害者に対する罰則など設けられる筈がない」

「…………」

 視線に込めた殺意を、綺礼は軽く受け流す。
 それはまるで、まだ我らの雌雄を決する時ではないだろうと、そう告げているかのようだった。

「他に質問事項がなければこれで解散とする。諸君の健闘を祈る」

 引き上げていく使い魔たちの気配。
 そして切嗣もまた教会を去る。

 この場で出来る事はもうない。完全にしてやられた以上、この上更にあの男の掌で踊ってやる謂れはないのだから。

 ただしこれで、綺礼同様切嗣もまた己が敵を見定めた。

 最初に警戒すべきと断じ、これまでもその疑いを常に続けてきた因縁の相手。

 その身に何一つ情熱を宿す事無く、何かを探し続けている男。
 あの男こそが切嗣の敵。聖杯を手にしようとするのなら、必ず超えなければならない仇敵であると見定めた。

 これより紡がれる策の全ては、あの男と再び見える為のもの。
 未だ残る他のマスター全てを駆逐したその先にこそ、奴との再会が待っている。

 そう切嗣が感じたように、綺礼もまた感じている筈だ。

 何処までも決定的に違いながら、違うが故に二人は惹かれ合う。太陽と月、白と黒、背中合わせの鏡のように。

 ──いいだろう、言峰綺礼。おまえとの決着は聖杯の目前で。
   余計な邪魔の一切入らない、その刻限にて雌雄を決しよう。

 その決意と共に魔術師殺しは道を往く。
 此処に最悪のタッグが完成する。
 共に再会を呪い願う、正義と無道が無意識の共闘により、他の全てを消し去る為に動き出した。



[25400] Act.06
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/21 01:07
/1


「──────」

 冬木教会。その一室で遠坂時臣は目を伏し胸に手を当てていた。
 彼の眼前に横たわるのは、先の一幕でその命を落とした言峰璃正に他ならない。

 時臣もあの時使い魔の目を通して一部始終を見ている。使い魔越しでは何故璃正が乱心したのかは分からなかった。結果として衛宮切嗣の手で殺害されたというその事実しか分からない。

 璃正は父の朋友であり、自身にとっても歳の離れた、腹を割って話せる数少ない友人だった。
 死なせるべきではない、惜しい人を亡くしてしまった。それもこんな納得の出来ない終わりでは、彼の人生が報われない。その悲嘆だけが時臣の心の中で渦巻き、けれど声に出す無粋はしなかった。

 この場に足を運んだのは、まさに心からの追悼を送る為。聖杯戦争の最中、アーチャーも連れず、自らの思惑すらも中断しての訪問。それをこそが、時臣の人となりを表す指標と言えるだろう。

「…………綺礼」

 長らくの黙祷の後、時臣は同席していた友人の息子に語りかける。

「はい」

「すまない。彼を死に追いやったのは、この私も同然だ」

 遠坂時臣を勝者とする出来レース。それに加担させたばかりに、死なせるべきではない人を死なせてしまったと、時臣は悔いた。

「いえ……導師のせいなどではありません。父は自らの意思で導師に力添えをする事を決断し、死するその時まで力を尽くしていた筈です。
 その死が悼むべきものであったとしても、決して嘆くものではない。父ならばきっとそう言うと思います。
 そして、導師が立ち止まる事を望んでなどいないと、そう思います」

「君は強いな、綺礼……」

 ──私などよりも、きっと辛い思いをしているだろうに。

 そう心の中で述懐する。

「綺礼、事が落ち着き次第言峰さんの遺体を手厚く葬ってあげて欲しい。私もその時は参列させて貰いたい」

「はい、父も喜んでくれるでしょう」

「では、少し場所を変えようか。話がある」

 最後にもう一度目礼し、時臣はその死に別れを告げた。惜しみのない感謝と、数え切れない礼を込めて。



+++


 場所を客室に移して二人はテーブルを挟み腰掛ける。蝋燭の明かりだけが頼りなく二人の横顔を照らしていた。

「話の内容については分かっているかもしれないが、言峰さんが乱心した理由についてだ」

 どのマスターの仕業であれ、放って置いて良い問題ではない。
 使い魔越しでは分からなかった問題も、あるいはその場に立ち会った綺礼ならば分かるかもしれないと、尋ねた。

「はい。まずはこれを」

 そう言って綺礼の差し出したものは手の平大の黄金の壷のようなものだった。中に何かの灰が満たされている。

「父の死後、マスター達が去った後、これを礼拝堂にて発見しました。何らかの呪具ではないかと見ているのですが」

「これは……」

 その豪奢な意匠。この世のものとは思えないほどの甘い香りの残滓。その残り香に当てられただけで気がおかしくなりそうだった。

「これは呪具などというレベルではない。宝具にも値するものだろう」

 何処のなんという代物かまでは見当がつかないが、およそ人の手の意匠とは思えない。あるいは神代の頃のものなのだろうか。

「恐らくは父もこの香りに当てられ乱心したものと思われます。そしてこれの所有者を考えて見たのですが……」

「……ああ。こんなものを持っていそうな英霊など、彼をおいて他にいない」

 アーチャー。およそ世界の全てを手にした黄金。その蔵の中にある財宝は彼の認識をすら凌駕し、ありとあらゆるものの原典が収められているという。
 恐らくはこの香もその一つ。人の心を惑わせ狂わせる、そんな代物に違いない。

 そして問題は何故こんなものが礼拝堂に転がっていたのかという一点。アーチャーが璃正を殺害ないしそれに相当する行いをして何の得があるというのだろうか。

「……あの男の考えなど常人には理解し難い。考えるだけ無駄なのかもしれないな」

 これまで奔放な王者に振り回されてきた時臣の結論は早かった。あの黄金は常識などでは測れない。というよりも彼には彼なりの理があり、それが余りにも常人と隔絶しているというべきか。

 故にどう足掻いたところでその真意を知る事など出来ないし、どんなに疑おうとも時臣が勝者になるには黄金の力が必要なのだ。

「私はね、綺礼。英雄王ギルガメッシュには掛け値なしの崇敬を抱いていた。だがサーヴァント・アーチャーに対しては違う。
 今回の所業、もはや王の為す事ではない。彼が王としての責務を放棄し一介のサーヴァントに成り下がるのなら、当然その報いを受けて貰わなければなるまい」

 これまで尽くして来た臣下の礼を仇で返したサーヴァントには、微塵の情けもかけはしない。時臣が聖杯の頂に駆け上がるまで利用し、その最期にはサーヴァントらしく聖杯にくべる贄となって貰う。

 時臣は右腕の甲に宿る令呪を撫でる。残り二画の赤い印。その最後の一画を使用する事に一片の躊躇もなくなった。

「…………」

 その正面で綺礼は内心の想いをひたすらに覆い隠す。鉄面皮の如き無表情の裏で、自身の思惑の通りに事が運んでいる事実に笑みを零す。

 アーチャーが黄金の香を礼拝堂に転がしていったのは事実だが、そうさせたのは他ならぬ綺礼だ。切嗣の動向と璃正の死を利用し自身はサーヴァントを従えたまま監督役の枠に収まる事。

 そして義に厚きこの男に、己がサーヴァントに対する不信感を抱かせる事に成功した。

 時臣が正調の魔術師であるのなら、その結末は変わらない。自らの目的、聖杯の獲得、根源への到達を成す為にアーチャーを犠牲にする事は最初から決まっていた事だ。それでも時臣ならば最期まで臣下として忠を尽くしただろう。

 しかし今、二人の間に軋轢が生まれた。僅かではあっても猜疑が生まれた。これで時臣はアーチャーを必要以上には重用しないし、出来る限り自らが打って出なければならない事態を避けようとするだろう。

 この正調と黄金に足並みを揃えられては衛宮切嗣とセイバーを以ってしても打倒するのは難しいと綺礼は見ている。
 アーチャーが既にセイバーを見初め、時臣を見限っている以上はそんな配慮は必要ないとも感じていたが、念には念を。

 言峰綺礼と衛宮切嗣が再び巡り会う為の障害は、出来る限り少ないほうがいい。

 それにこれは綺礼が今の地位を手に入れる為に付随していた副産物に過ぎない。時臣がアーチャーに疑念を抱いた、その事実があればそれで今は充分。
 そして今なお時臣は綺礼を疑っていない。疑いの眼差しはアーチャーを見ている。それは綺礼にとっても都合が良い。

「まあ、今はとりあえずその事実が分かればそれでいい。どの道今アーチャーに対して出来る事はないのだからな。
 だから綺礼、言峰さん──璃正神父の無念を晴らすのはもう暫し待って欲しい。私がこの祈りを叶えるその時、君の心も晴れる事だろう」

「はい。それで、これからの事なのですが──」

「ああ。言峰さんの死は予想外だったが、君が監督役代行の任に就いたのは、不幸中の幸いだ。本来ならば監督役とこうして会談を設ける事など論外なのだが、それはそれ、この地を預かる管理者として引継ぎ役を見定める為の訪問、という事にしておくか」

 ──そして何より、父の友人の死を悼むのに何の躊躇が必要か。

 そう言って、時臣は深く背を預け腕を組んだ。

「これからの事、と言ったか。それならば私はこの後臓硯氏との会談を予定している」

「取り付けられたのですか」

「ああ。無碍に断る事はあちらにこそ非があると認めるようなものだ、要請を断る事は出来ないという予想は当たったな。
 それで、君はどうする綺礼。未だアサシンを従えるマスターでありながら監督役の地位を手に入れたのだ、君の指先一つで趨勢は思いのままだ」

「ご冗談を。以前も申したとおり私は導師を勝者とする為に参戦したようなもの。ならばその采配を振るうのは私ではないでしょう」

「ふむ……」

 しかし別段、時臣は今現在監督役に頼みたい用事もない。強いて言えば正しい聖杯戦争の運営を期待するというところか。
 時臣が完全に監督役とグルになり勝つ事だけを目的とするのなら、余剰令呪の全てを不正に貰い受けて強制権の乱用で一夜の内に戦いを終わらせる事も出来ただろう。

 だがそんな勝利をこの男は望んでいない。

 あくまで勝つのなら対等の立場で。向かい来る全ての敵を薙ぎ倒し斬り伏せ、優雅に聖杯の頂へと上る事。それが遠坂時臣の思い描く勝利だ。
 自らに課すべき責務を放棄してただ欲望のままに喰らっては、それは獣の行いだ。人であり魔術師である以上、その勝利は誰もが認め得る形でなければならない。

 監督役、引いては秘密裏の共闘関係による情報提供は認めても、アサシンによる暗殺や監督役権限の乱用は時臣の好むところではない。

 情報提供においても基本はこの地を預かる冬木の管理者(セカンドオーナー)として正しい聖杯戦争を運営する為のものだ。断じて私利私欲に塗れたものではない。

 だから今のところは監督役に動いて貰うべき事案はない。

「今のところは静観で構わない。キャスターについては既に通達が出された。後は衛宮か征服王辺りが焙り出しをしてくれるだろう」

 その後にアーチャーに討たせるというのも、あくまでこの地でのさばる外道を管理者として誅罰するというだけの事。その後に付随してくる褒賞はまあ、あくまでオマケのようなものだ。

 全マスターに通達の行われた事であるのだから、時臣が受け取らない道理はない。

「では私は、とりあえずは父からの引継ぎに関してを取り纏めたいと思います」

「ああ、言峰さんの代わりを担おうというのだ。その重責、察して余りあるが綺礼ならば充分に果たせるだろう。それと──」

 言って、時臣は腰元より一本の短剣を鞘込めのままに取り外し、テーブルにおいた。

「これは……?」

「聖杯戦争の開幕などでごたごたしていたからな。すっかり渡しそびれていたのだが、君に送る見習い卒業の証のようなものだ。
 名をアゾット。遠坂家伝来の宝石細工であり、魔力を込めておけば礼装としても使用できる。見習い卒業の証としては無論の事、私から君へ送る信頼の証だと思って受け取って欲しい」

 差し出されたそれを綺礼は受け取り、鞘を外した刀身をじっくりと見つめた。凝った意匠の瀟洒な剣。殺傷能力よりも儀礼用としての趣きが強い短剣。
 それでも充分に人を殺せる威力を持つ。心臓を一突きでもすれば、それでどんな人間だろうと殺せる威力を秘めている。

「…………」

 時臣から賜れる信頼の証。
 それをこそが綺礼に対し何の疑念も抱いていないという証左だ。

 約三年間の日々を共に過ごし、その在りようを見てきた時臣からすれば当然の信頼だ。実直で直向き、愚痴の一つも零さず魔術の修練に明け暮れ、良く成長し良き弟子としてあり続けた。

 それは事実なのだろう。あの頃の綺礼はまさにそんな男であった筈だ。ただこの戦いがこの男に契機を齎し、その結果何が変わったかを時臣が理解出来ていないという、ただそれだけの事。

 言峰璃正さえ綺礼が告白するその時まで気が付かなかった歪み。なればこそ、三年を共に過ごした師であっても、その異常に気付けという方が無理なのだろう。

 この言峰綺礼の心を解すのは後にも先に衛宮切嗣唯一人。死別した妻の記憶を水底に沈めている以上、あの男こそが綺礼の見定める最初で最後の敵である。

「綺礼。言峰さんの事はまことに遺憾だったが、私はこれまで通り、遠坂と言峰の友好を続けていきたいと思っている」

「はい。父も自らの死で我らの仲が引き裂かれる事を望んでなどいないでしょう」

 綺礼は剣を今一度鞘に戻す。

「感謝するよ。それと、暇が出来たら一度我が家へ訪れてくれないか。君にはもう一つ、伝えたい事、頼みたいことがあるんだ」

「畏まりました。それでは、全てが終わったその時にでも」

「では、後は頼む。これからの君の采配、期待しておくよ」

「尽力させて頂きます」

 そうして時臣は教会を去る。父の朋友の死を悼み、息子との友誼を固く結び、師としての信頼を強く寄せて。

 言峰綺礼はその背を見送り、手にした短剣を弄ぶ。この刃であの男の命を奪う事など簡単だった。絶大の信頼を寄せている綺礼がよもや反旗を翻すなどとは微塵たりとも考えていないと分かるほどの無防備さだった。

「これからの私の采配に期待すると、そう仰いましたね。ならばその期待、存分に応えて見せましょう。私がこの戦いを終焉へと導く一端を担う事で」

 時臣の心臓を背後から刺すのはまだ早い。あの男にはまだ利用価値がある。その価値を存分に使いきった後、この手で終わりを告げよう。その厚い信頼を、胸に秘めたままで。

「さて……おまえはどう動く、衛宮切嗣。おまえの采配が生温いようでは、私自ら打って出るぞ……?」

 綺礼の関心は既に切嗣にのみ向けられている。二人の認識は既に同じ。終局をこそ見据えている。
 ならば当然、あの男もまた自らの策を弄し敵を葬る算段をつけている事だろう。故に綺礼は傍観に徹する。先の一幕で切嗣の心に火をつけただけで充分に場を整える事が出来たのだから。

 後は放っておいても切嗣が全てのマスターとサーヴァントを駆逐するだろう。だが未だ生温い考えを抱いており、手緩いやり方で道を往こうとするのなら、綺礼自らが手を打つ事も辞さない腹積もりだ。

「さあ、魔術師殺しの真骨頂を私に見せてくれ」

 時臣が綺礼に寄せる信頼以上の信頼と期待を切嗣に寄せて、綺礼はソファーに身を深く埋め瞳を閉じた。


/2


 遠坂葵という女性は時臣の妻であり、凛と──そして桜の母である。彼女の旧姓である禅城、つまりは生家に今現在娘の凛と共に身を寄せている。

 夫が戦いに臨むに際し、妻と子という存在が邪魔になる……足手まといになる可能性を考慮してのものだ。貞淑たる妻である葵は時臣の命に黙って頷くのみだった。
 娘の凛は、口にせずともその内心で父と離れ離れになる事、兄弟子である綺礼だけが屋敷に残る事に不満を感じていたようだったが。

 夫を立てる事を第一とする古き良き時代の妻であり母である葵にとってみれば、時臣の言葉の全てが神の一声にも等しく、口を挟む事の出来ないものだと考えている。

 それ故に、次女たる桜が間桐に養子に出される折も、ただ心の内を秘め隠し時臣の決定に従うだけだった。

 魔道に連ならない禅城の娘が遠坂家に入るに際し、彼女もその心を決めていた。人とは違う理を往く者、生よりも死を尊ぶその観念。常人には理解し難い摂理であるのなら、ならば当主の決定には従うの当然だと葵は了解し覚悟した。

 それは彼女の強さなのだろう。逆に弱さとも受け取れるか。自らの意思を秘め、誰かに意思を預ける事。それを信頼の形と呼ぶべきか、ただの依存と受け取るべきか。

 何れにせよ葵は心の底から夫を愛していたし、通常の魔術師とは些か赴きの異なる時臣にしても葵を良き妻であり最愛の人であると常々想っていた。

 ただそれでもやはり、桜を養子に出した事──それだけが葵にとって今なお心に澱の如く蟠っている。
 口に出す事はなくとも、家を離れたあの子の未来に幸あれと、常に祈りを捧げている。

 そんな彼女の元に届けられたのは、死を告げる足音だった。

 凛を学校へと送り出し、いつもの通りに家事に勤しんでいた葵。洗濯物を干す傍ら、空を見上げればどんよりとした雲がその裾野を伸ばしている。

「一雨来るかも知れないわね……」

 そう呟いた時、玄関から来訪を告げる音が鳴り響いた。

「あら……? どなたかしら」

 今現在家主たる禅城夫妻は家を空けている。娘の凛も学校だ。つまり今この家には葵しかいない。誰かが来るとも聞いていないし、ならばそれ以外の客向きか。
 何れにせよ、居留守を使うという選択肢がなかった以上、葵は家事を中断し玄関へと赴いた。

 もう一度鳴らされるインターホン。葵は扉を開けぬまま問いかけた。

「はい、どちら様でしょうか?」

「荷物をお届けに上がりました。遠坂葵さん宛てのお荷物です」

「あ、はい」

 何かを頼んでいただろうかと思いながら、ドアノブに手を伸ばしたところでその手を止めた。

 ──なんで、私宛の荷物がこの家に届くの……?

 遠坂葵への荷物であるのなら、それは遠坂の家に届けられなければならない筈だ。禅城に戻っているのは一時限りのもの。戦いが無事に終われば遠坂家へと戻る事になるのだから転居届けなど出していない。

 故に葵宛ての荷物がこの家に届く筈がない。仮に届けられるとすれば、それは葵がこの家に滞在している事を知っている者──

 キィ、と葵が鍵を開けるまでもなく外側から開かれる扉。その向こう側に立つ黒ずくめの女の手には、なお黒い銃身が握られ、その銃口がこちらを向いていた。

 彼女は死を運んできたのだと、そう葵は無理矢理理解させられた。

「遠坂葵ですね。貴女に届け物を。ああ、サインは必要ありません。その身柄を頂くだけの事ですので」

 一歩を踏み込こまれ、ドアを閉める事は出来なくなった。此処で背を向ける事や逃げ出す事、大声を上げる事は許されなかった。この身は遠坂時臣の妻、ならば如何なる時も毅然とした態度で臨まなければならない。

「一つ訊きますが、貴女の要求は私の身柄を拘束する事。それに間違いはありませんね?」

「はい。不在の禅城夫妻にも、遠坂の長女である遠坂凛にも用はありません。私が指示を受けたのは貴女の確保だけですので」

 人質を増やす事は必ずしも有利になるとは限らない。多ければ多いほど見張りの人員が必要になるし、警戒も散漫になる。真に人質を取るのなら一人でいい。その人質に価値がある以上は、相手は要求を呑む以外にないのだから。

「……分かりました。貴女に従います。ただし書き置きを残させて下さい。私が理由なくいなくなった事を知られるのは、そちらにとっても不利益でしょう?」

「許可します。書き置きの内容は検めさせて貰いますが」

「結構です」

 舞弥にしてもこの対応は予想外だったが、結果として身柄の確保を出来るのならそれで構いはしない。後は切嗣が良いように取り計らうだろう。

 葵は舞弥の監視の下、家の中に戻り、紙にペンで『時臣に呼ばれ、少し家を空ける』とだけ書き記した。そこに魔術的な痕跡はない事を確認した後、舞弥は素直に従う葵に拘束を施し、邸宅前に駐車した車へと連れ込んだ。

「────」

 黙したまま目を閉じている葵。その従順さは不可解だが、何をしようとも舞弥には意味がない。如何に魔術師の子を成す上で最適な母体であったとしても、彼女自身に魔術の薫陶はなく、ただの一般人に過ぎないのだから。

 遠坂葵はその心中で己の不甲斐無さを呪っていた。しかし此処で無意味な抵抗をしては父母や凛に魔手が伸びる。
 舞弥の思惑は知れないが、大体の想像はつく。葵に人質としての価値がないと見限られては、最愛の娘を失いかねないのだ。

 これ以上子を失いたくない──その一心で葵は自らの身を捧げる事を良しとした。

 ────ごめんなさい、時臣さん。

 そう懺悔しながら、それでも愛する夫に絶大な信頼を寄せ、葵はただただ祈りを込めて願うのだった。



+++


 禅城の邸宅での一幕とほぼ同時刻。

 時臣は間桐邸の前まで赴いていた。

 用件は勿論、間桐雁夜が参戦している事由についてを問い詰める事だ。
 魔術師同士が紙面上で正式に契約を行ったもの反故にした理由。その真意を質さなければならない。

「……しかし、これは」

 教会へ赴く時は別段気にもしなかったが、間桐邸の庭園へと一歩を踏み込んだ瞬間、異界の如き光景が目の前に現れた。
 広大な敷地に立つ邸宅。その三分の一ほどが、瓦解し脆くも崩れ落ちている。

「よう参った遠坂の」

 ふと視線を玄関口に向ければ、そこに立つのは皺枯れた老人。杖を付き、背を折り曲げた矮躯。誰ならぬ──間桐臓硯その人だ。

「此度はこちらの要請を受け入れて頂き、有難う御座います」

「何、気にするほどのものでもない。遠からぬ内に通達は来るだろうと、そう思っておったところじゃ」

「それでもですよ。遠坂と間桐の間には不可侵の条約が締結されている。その上でこうして招いて頂いたのですから、礼を失するわけにもいきません」

「ほっほ。合いも変わらず義理堅い。そういうところはお主の父君とそっくりじゃよ。
 さて、立ち話しもなんじゃろう、屋敷の中へと参ろうか。少々荒れておるが、気にせんでくれぃ」

 屋敷が破壊されている原因についても説明すると、その背で語って臓硯は屋敷の中へと時臣を招いた。

 まずは軽い挨拶だ。こんな程度でどちらも能面に浮かべた笑みを崩す事はない。
 時臣は手にしたルビーを象眼したステッキを僅かに揺らめかせながら、臓硯の後を追いかけた。

 通されたのはリビングだった。元より曇天の空であっても、なお日差しの届かぬ薄暗い一室。水気をその根源とする間桐だからこそのじっとりとした闇。ただそこにいるだけで心を蝕まれるかのようだ。

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 差し出された紅茶を淹れたのは間桐家長子たる鶴野だ。彼は魔術師の家に生れ落ちながらその才覚は凡庸をすら下回った。結果、彼の成した子には魔術回路すら宿らず、他家より養子を迎え入れる他なかったのだ。

「早速ですが用件に入らせて頂きます」

 淹れられた紅茶には手をつけない。此処は敵地だ。そんな場所で出されるものを口にするほど時臣は愚かではなく、そう知っていながらわざわざ鶴野に淹れさせたのはあくまで社交辞令。礼儀の一種だ。あるいは、臓硯の嫌味とも言える。

「約一年前。当家と間桐家の間で取り交わされた契約を、覚えておいでですかな」

「無論。此度の戦に参戦者を出さぬ事を条件として遠坂の養子を貰い受ける事。そしてそれに付随する両家の不可侵についての取り決めだと、記憶しておる」

「……誤解のないように言っておくのなら、間桐の要請に応じ桜を養子に出した事。それに伴い代わりの条件として今回の戦いを辞退する旨を臓硯さん自らが提示した。そこをまず確かなものとしておきたい」

「カ、そうだったかのぅ? いやはや、この歳になると頭の巡りも悪くなる。儂の勘違いがあったのなら、そこは謝罪させて貰うとしよう」

 目の前の妖怪は断じて頭の巡りなど悪くなっていない。ただ空惚けているだけだ。
 常に狡猾に立ち回り、自らに利するものを貪欲に喰らう蟲。それが間桐臓硯の正体なのだから。

「ついてはその不戦の約定の反故に関してです。単刀直入に訊きましょう──何故間桐雁夜が参戦しているのです?」

 目に力を乗せて臓硯を見る。けれどこの老獪の視線には一切の揺るぎがなく、揺らぎがなく、何をも見通せぬ黒を描いている。

「ではこちらも結論から述べよう。雁夜の参戦は暴走の結果であるとな。先にお主も見たであろうが、この屋敷を破壊し出て行ったのじゃよ雁夜は」

 故にこちらもまた被害者であると、臆面もなく臓硯は憚った。

「では貴方はこう言うのですか。約一年前に取り交わされた契約の後、雁夜は『偶然』にマスターとしての権利を手に入れ、『偶然』にバーサーカーを招来し、結果狂いこの屋敷を破壊し勝手に出て行ったと」

「相違ない」

「……ふざけているのか」

 そんな道理が通るわけがない。雁夜が魔道に背を向けた事を知っている。一度棄てたものを何故拾い、どうやって力を手に入れた。雁夜個人の力で僅か一年未満の期間でマスター足りえる能力を得ることなど到底不可能。
 ならばそこに間桐家当主たる臓硯の暗躍があると疑わない筈がないだろう。

 全てを偶然と切り捨てるには余りにも疑いが多すぎる。だが問題は、

「と、言われたところでどうしようもあるまい。それが事実である以上、儂に語る事は何もない」

 そう、何一つとして証拠がないのだ。

 臓硯が雁夜に教育を施したという証拠がなければ、雁夜が自力で魔の業を背負ったという証拠もない。全ては臓硯の手の内であり、時臣から探る事は出来ない。既に全ては過ぎ去った事。ならば今更探ったところで意味もない。

「だが疑いを持たれ続けるというのは儂にとっても不本意じゃ。雁夜が招来したバーサーカーの正体、教えて進ぜよう」

「なに……」

 バーサーカーのステータスについては全て隠蔽されている。マスターとしての透視能力を以ってしてもその能力値を測る事が出来ないのだ。
 正体不明にしてアーチャーと拮抗を可能にする異能の所持者。その正体について心当たりがあると、臓硯は言う。

 もし臓硯が雁夜の勝利を願い、時臣を欺き通すつもりなら、こんな事を言う筈がない。
 勝者とすべき雁夜の秘密を明かす事は、彼の戦力を削ぐも同等の意味を持っているのだから。

「雁夜を倒す一因を担う事で、今回の事態における儂の潔癖を証明したい。どうじゃ?」

「…………」

 その老骨の邪な笑みを見やり、時臣は得心がいった。

 ──なるほど。この妖怪、雁夜の勝利など端から信じていないようだ。

 そう思えば納得がいく。雁夜が参戦した事に臓硯が絡んでいたとしても、付け焼刃の薫陶と消えかかった命、そして手繰る事の困難なバーサーカーのマスターという三重苦ならば雁夜の勝利は見込めないと、そう確信しているのだ。

 この男にとって雁夜が何らかの奇跡により聖杯を手にするのなら良し。そうでなくとも一向に構わないという算段なのだ。
 だから自らの保身の為、雁夜を差し出す事に躊躇がない。むしろ手助けしてやったものを仇で返す犬に着せる恩はないと、そう言っている。

 ──何たる邪悪。これが、私と同じ魔術師だと言うのか。

 魔術師の常識から見ればどちらも異端。時臣は人に傾倒し過ぎているし、臓硯は自身を優先し過ぎている。
 魔の道を往く者は個ではなく総体。血の系譜という名の巨人であるべきだ。だがこの目の前の悪鬼は、自分唯一人だけが良ければそれでいいと考えている節がある。

 自らが生き残る為に自らの家を、子を食い潰す魔人。これをこそ間桐臓硯という名の狂気だ。

 ────哀れなものだ、この男もかつては、清い志を抱いていたのだろうに。

 長く時を生き過ぎると、人とはこうも醜くなるのかと、時臣は哀れみを抱いた。

「分かりました。既に雁夜はマスターとして参戦し戦いを始めている。今更その手綱を繰る事も難しい。
 ならばその情報提供を以って、今回の一件は終わりとしましょう」

 正体の割れたサーヴァントなど脅威にも値しない。元よりバーサーカーなどという規格外のサーヴァントと異端とも言うべき融合を果たしているのだ。
 放っておいても雁夜は長くは持たない。その心の一片までも狂ってしまった時が、その終わりだと時臣は見定めた。

「それは重畳。この老骨には何かと荷が重い話じゃった。せいせいするわい」

「いいえ臓硯さん。話はまだ終わっていない」

 今までの話がこの地を預かる管理者としてのものであるのなら、此処から先は遠坂時臣個人の話だ。

「戦場で雁夜と出会った時、彼はこう言った。自分は桜を救うと。その為に戦うのだと」

 その真意を問わねばならない。底の見えてきたこの妖怪の手にある桜の身を、案じずにはいられなかった。

「私はね、臓硯さん。才ある者がその才覚を芽吹かせぬまま潰えて行く事ほど悲しいものはないと思っている。
 魔道に生まれながら、どちらもが優秀な芽を持つ子であったとすれば、どちらかの芽は摘まなければならない。我が子の未来を閉ざさなければならない」

 親の身勝手で子の未来を殺す事。それをしてはならないと時臣は考える。魔術は常に一子相伝。二子に分ける事はよほど特殊な家系でもなければ有り得ない。

 どちらとも共に愛で、成長を促した先に待つのは家門の分裂、そして破滅だ。欲を掻いて滅んでいった魔術師の家系など腐るほど見てきている。
 故に時臣は己が子らの才の優秀さが確定した時点で世継ぎを決めている。その決定が覆る事はない。

 しかしそれを理由に桜の可能性を摘んでしまうのは余りにも不条理だ。生まれるのが遅かった、ただそれだけの理由で魔術の薫陶を授かれないのは、余りにも報われないものであると。

 魔術の庇護なくして生きていけない身であるのなら、その庇護のあるべきところで生きて欲しい。故に臓硯からの要請は天啓に等しかった。御三家に連なる者であり聖杯に縁故を持つ者。

 そして衰退の一途にある家系を継ぐのなら、その恩恵は全て桜のものとなる。その才を摘む事無く育てる事が出来るのだと。

 ──そう、かつてまでの時臣は思っていた。

 いや、今もその思いは変わらない。自らの子により良い未来を生きて欲しいという親の願いに相違はない。

 問題はこの心に染み込んだ一滴の墨汁。澄んだ水面のようだった時臣の心に、雁夜が黒い絵の具を混ぜ込んだ。
 間桐という家の在り方。それに口出しする権利は時臣にはない。その為の不可侵条約でもある。

 だが考えてしまった。

 もし間桐の家が臓硯の掌の上であるのなら。
 桜を利用する為に養子に迎え入れたのだとするのなら。
 あの子の未来に、幸あれと願った未来に不幸しか存在しないというのであれば──

「──間桐臓硯。私はおまえを許さない」

 明確な敵意を込めて、時臣は宣戦を布告した。

「…………」

 その視線を真正面から受けた臓硯は、

「呵々!」

 と、腹の捩れるものを見たとばかりに大笑した。

「いやいやすまぬ。取り乱してしもうた。余りにも可笑しな事を言うのでな、我を忘れてしもうたわ」

「何がおかしいと言うのです」

「全てじゃよ。魔道を往くという事は、その身に業を宿す事。その修練の苛烈さはお主自身もよく知っておる事であろう?」

 如何に稀有な才能を有していたところで修練の過酷さは変わらない。血の滲む思い、身を引き裂く苦痛、血反吐を吐くほどの熾烈と共にある。

「間桐の業は少しばかり峻烈での。それも他家から招いた子であるのなら、まずは間桐の色に染め直さねば話にならぬ。
 その様を見た雁夜が、余りの惨さにそんな淡い希望を抱いたとしても不思議ではあるまいて」

 赤い色をより強い赤で染める事は簡単だ。しかし赤を青にしようというのなら、混ぜ込む色は量を増し、塗り潰すほどのものになる。
 それはかつての自分自身を塗り潰されるも同義。新しい色の自分を形成する為にかつての自分を殺しているのだ。

 その過程は苦痛を伴わない筈がなく、その痛みは余人には理解出来まい。

「儂は正しく桜を教育しておるよ。今も工房にて励んでおる事であろう。その苦痛は察して余りあるが、こればかりはどうしようもない。
 ────のう遠坂の。よもやお主、そんな事も知らなかったとは言わぬよな? 蝶よ花よと愛でられるだけが魔道などと、生温い事は言ってくれるなよ?」

「…………」

 言えないし、言える訳がない。同じ色により強い色を上乗せする苦痛でさえも、時臣の心を砕くに足る激痛を伴うのだ。
 未だ少女の身で桜が侵されている闇の色は、その比ではない。そして魔道の継承を第一とするのなら、その行程を止める理由が時臣にはないのだ。

 だが時臣とて、譲れぬ一線というものがある。

「お話は分かりました。魔道継承の為の修練であればそれを止める謂れはない。それでも一つだけ確認させて欲しい。
 その修練は間違いなく、桜自身に齎される恩恵であると。貴方の掌で踊る人形ではないのだと、確約してくれますか」

 それが桜の未来に繋がる痛みであるのだと、そう信じさせてくれと、時臣は憚った。

「無論であろう。今桜の身を蝕んでいるのは将来の為。あの子に間桐の秘奥を継いで貰う為の布石よ。
 その恩恵は必ずやあの子の身に返るであろう。儂が利する為のものなどと……儂は間桐の繁栄だけを願っておる身よ」

「…………」

 信じがたく、鵜呑みにするのは難しい言葉の数々。だがこれ以上の言葉を引き出そうというのなら、それこそ桜と面と向き合う以外に手はあるまい。桜の現状を直接見た上でなければ踏み込めない。

 それが両家の間にある不可侵の条約。共にその秘奥を明かす事はなく、工房を覗くなど以ての外だ。
 だから此処が分水嶺。この先へ往く為には自らの命を投げ出す覚悟、聖杯を諦める程の覚悟が必要だ。

「……分かりました」

 今此処で死ぬわけには行かない。この身にはまだ成すべき事がある。だから今は、納得出来ずとも引くしかない──

 ──だが何れは必ず桜に逢う。そして我が子に問わねばならない。

 その決意を胸に秘め、時臣は会談を打ち切った。



+++


 バーサーカーの情報も聞き出した後、時臣は間桐邸を去る。底を見通しながら、更なる底を覗かせる悪鬼臓硯。
 やはり交渉ではあの男に太刀打ち出来ない。伊達で二百余年を生きてはいない。若造にも等しい時臣の口車など柳に風だろう。

 それでも得たものはある。
 バーサーカーの真名とその宝具。
 桜の置かれた現状。

 時臣には成すべき事がある。まだ立ち止まる事は出来ないのだ。

 そして間桐邸を辞し、その足を次なる目的地へと向けようとした矢先、空より飛来した一匹の使い魔が時臣を更なる騒乱の渦へと導いていく。

「これは……」

 鳥の屍骸を触媒にした使い魔。綺礼の報告によればアインツベルン陣営の使い魔であると聞いている。その使い魔が時臣の下に放たれた理由──それは足首に巻きつけられた一通の手紙にあった。

『遠坂葵を預かった。返して欲しくば今夜零時、海浜公園へと来い』

「…………っ!?」

 簡潔な、それでいて在り来たりな文章。けれど明白な意図と用件だけを告げている。

 葵を人質に取られた。
 それもあの悪名高き魔術師殺しに。

「…………くそっ」

 時臣にしては珍しい悪態。優雅の欠片もない所作だ。それほどの失態を犯したのだと、心の中で後悔の念が渦巻いている。

 あの男の手に落ちたのならそこに容赦は微塵もあるまい。指示された場所に赴かなければ葵は間違いなく殺される。そして代わりの人質とばかりに凛に、そして時臣の親族知人へとその魔手は伸びていく事だろう。

 時臣が要求を呑むその時まで、何度でも悪辣なやり口で迫ってくる。それがあの唾棄すべき外道の手口だ。

 だからこの要求は呑むしかない。幸いにもサーヴァントは連れてくるな、とは書いていない。ならば綺礼に連絡し、手筈を回さなければならない。

「いよいよ私も焼きが回ったか……」

 衛宮切嗣への牽制としたキャスター討伐の指令がまるで意味を為していない。あの男にとって追加の令呪など必要ないという事か。
 他の連中の目がキャスターに向いている今を狙って、時臣の首を獲りに来ている。

「…………」

 それでもやれる事はやるしかない。打てる手の全てを打って、あの殺し屋に一泡吹かせてやらなければならない。

「待っていてくれ葵。今、助けにいく……!」

 強靭な意志の下、時臣は妻を救うべく行動を開始した。



+++


 深夜。

 夜の帳の降りた刻限。約束の午前零時。
 時臣はアーチャーを伴い海浜公園へと赴いた。

 アーチャーを見つけ出したのは綺礼の従えるアサシンだ。
 居場所を突き止める手段のない時臣は綺礼に連絡をいれ、アサシンを動員して捜索を行って貰ったのだ。

 結果としてアーチャーは見つかり、そして時臣の頼みも一つ返事で了承した。

 時臣にしても今のアーチャーを完全に信用するには値しないが、そんな猜疑を上辺にも出しはしない。切嗣の従えるセイバーと対峙しようというのなら、アーチャーの存在は不可欠なのだから。

 当のアーチャーが気前良く時臣に従ったのにも、無論理由がある。今この黄金は綺礼の采配を見届けようとしている。ならばこの案件にも綺礼が噛んでいる以上、乗ってやるのが筋だろう。

 我が身を愉しませる事のない下らぬ企みであったのなら興醒めだが、彼にしても予感があった。

 見上げる空を包む曇天。灰色の蓋。今にも降り出しそうな空は、これより迫る風雲急を告げている。
 今宵行われる戦いの熾烈さを物語るように。

 ──さて、今夜で一体どれだけ脱落するか。

 戦いは既に佳境。
 この辺りで一山あると思っているのは、この黄金だけではないだろう。

 そして約束の零時。

 二人の前に姿を現したのは────

「間桐、雁夜……?」

 空を奔る稲光が、雁夜の割れた半面に宿る憤怒の色を、鮮やかに映し出した。


/3


 時間は遡り黄昏時。

 灰色の空の隙間から差し込む僅かな茜色に染められながら、間桐雁夜はその身を壁に預けていた。
 人気のない路地裏。四角く切り取った狭い空。ぼんやりと何をするでもなく、流れ行く雲を見つめている。

 バーサーカーの魂をその身に宿す雁夜の肉体は、常に悲鳴を上げている。サーヴァントの修復力と崩壊とが拮抗し僅かに前者が勝っているに過ぎない。
 ガリガリと削られては復元していく骨。千切れては再生していく筋繊維。狂気の熱を帯びている時なら何でもなかった痛みが、今は酷くこの心を蝕んでいく。

 気を抜けば心の底から憎しみの念が溢れ出そうになる。それを促すかのように脳裏にはいつも呪詛の声が木霊している。

 何をしている、さっさと殺せ。
 その木偶のような足を動かし全てを壊せ。
 復讐を。復讐を復讐を。
 その身に宿る狂気を成す為、我が憎悪を受け入れたのではなかったか──

 そんな声が響いている。心の隙間に染み入ってくる。
 何もせぬのなら変われと。
 貴様に成り代わり、私が全てを滅ぼそう、と。

「うる、さい……! 俺は、何かもを壊したいんじゃないッ……! 俺は、俺はただ────!」

 そう──たった一人の少女を救いたかっただけ。
 奈落の底で蹲り、助けてとさえ言えないあの子の手を掴みたかっただけだ。

「ああ……」

 その祈りを覚えている。
 この願いが胸に残っている限り、まだ壊れてはいないのだと安堵する。

 たった一つの消せない想い。この想いが復讐の憎悪で塗り潰された時、間桐雁夜は終わるだろう。この肉を明け渡し、真に不滅の亡霊へと成り下がる。

 それはけれど今じゃない。まだこの心は戦える。肉体の檻を明け渡すその時までは、この身体の主導権は間桐雁夜にある。

「でも……」

 ──どうやって、桜を救うつもりだったのか。それをもう、思い出せない。

 桜を救いたいという願いを守る為に、他の全てを手放した。
 多くを抱え込んでなお立ち上がれるほど、この身は決して強くなく、そして宿る復讐の念は余りに強すぎる。

 心を焦がす闇の色。その中心に浮かぶまっさらな白を守る為、濁った他の全ての色を捨て去るしかなかったのだ。

 それでも大丈夫。まだ大丈夫。桜を救いたいという想いがこの胸に残っている限り、何度だって立ち上がれる──

「さあ、行こう……また戦いの時間が始まるんだ」

 よろめく身体を壁を支えに立ち上がる。いざ戦いが始まればこの身体にも力は戻る。復讐こそが我が源泉。憎悪こそが我が力。ならばその狂気に身を委ねる限り、折れる芯はないのだから。

 それでもただ──胸に抱いた無垢な想いだけは守り通すと、間桐雁夜は立ち上がる。

「──誰だ」

 そんな彼の下に訪れたのは戦乱を告げる使者。誰ならぬ、衛宮切嗣本人だった。

「間桐雁夜だな」

 雁夜も一応は衛宮切嗣の存在を知っている。未だ英霊を召喚する以前、悪辣な手段でロード・エルメロイとランサーが倒される様を見ている。

「魔術師殺し──サーヴァントも連れず、何の用だ」

「これを見ろ」

 臆する事無く言ってのけ、切嗣は懐より取り出した一葉の写真を風に乗せて雁夜の足元へと届けた。

「…………ッッッッ!?」

 その写真に写ったものを見た瞬間、雁夜の脳内は白熱し、思考の全てを奪われた。

 写真に写っていたのは遠坂葵。後ろ手に拘束され足もまた束縛され、轡を噛ませた姿。頼りなく揺れる瞳が、こちらに視線を投げている。
 その写真には事実だけが写っている。遠坂葵は衛宮切嗣の手に落ちた。人質にされているのだと。

 ────あの遠坂時臣(クソやろう)は何をしているッ!!

 ここで彼女の夫に非難を浴びせても何の意味もない。それでも胸中で吐き出さずにはいられなかった。この苛立ちを、ぶつける拠り所のない想いを。

 顔を上げ、睨んだ魔術師殺しの貌には何も映らぬ無表情。圧倒的なアドバンテージを得てなお無情に戦局を見つめている。

 言葉の取捨選択を間違えば、おそらくすぐにも葵を殺される。そしてその魔手は次なる獲物に伸びるだろう。それは凛か桜か。あるいはそれ以外の誰かなのか。

 何れにせよ雁夜はこう応えるしかない。

「……要求はなんだ」

 桜を救う──その為に葵を犠牲にしては意味がない。かつて彼女を取り巻いていた環境を取り戻させる事。それが雁夜の祈りに近い。
 そしてそれ故気付かない。その矛盾に。心を焦がす憎悪の矛先、遠坂時臣への復讐の念はその祈りと決定的に矛盾している事に。

 それに気付いては雁夜はこの場で崩壊する。言うなれば自己保身。桜を救うという一念以外を捨て去ったが為になお残る自我だ。

「話が早くて助かるよ。狂化に侵され話も通じないのではどうしようもなかったからな」

「…………」

「そう警戒しなくていい。おまえに対しては、良い知らせを持ってきたんだ」

 次いで、切嗣は本命の要求を突き付けた。

「間桐雁夜──おまえにはその本懐を遂げさせてやろう。今夜零時、海浜公園に来い。その場所で遠坂時臣と決闘に臨むが良い」

「なっ────!?」

 遠坂葵を人質にして雁夜に自害でも迫るのかと思えば、それは思いもしなかった要求……いや、それ以外の何かだった。

「何を考えている……」

「遠坂時臣にも同様の脅しをかけている。奴がこの要求を断れば当然遠坂葵には死んで貰うが、まあそうはなるまい。
 故におまえはその場、その刻限で遠坂時臣とそしてアーチャーと戦って貰う。おまえにしても悪くはない話だろう?」

 間桐雁夜の標的は遠坂時臣唯一人。その狙いをこの男は看破している。そして葵を含めた三者の間にある因縁さえも。

 だがそれは無論雁夜に利する為の提案などではない。雁夜と時臣を争わせ、消耗したところを自身が討ち取る算段……あるいはどちらかが討たれたところで介入し両者を共に葬る為の悪辣な手段だ。

 聞こえの良い言葉で雁夜を惑わし、時臣と争わせ、漁夫の利を得るのは他ならぬ切嗣自身だ。自陣の消耗を最低限に抑え、結果として二騎のサーヴァントを消し去る悪魔のような策略。

 全てがこの男の掌の上。

 だがそれ故に、踊る以外に道はない。

 葵を人質に取られた時点で詰んでいる。時臣は間違いなく助けに来るだろうし、雁夜が来るとは思うまい。雁夜が葵を犠牲にしてでも断る選択肢を持たない以上、その戦いは避け得ないものである。

「……いいだろう、おまえの掌で踊ってやる」

「物分りが良くて結構だ」

 それで用件は終わったと、立ち去ろうする切嗣の背に投げ掛けられる声。

「ただし、一つ条件がある。時臣は俺の獲物だ。おまえが利する事を止めはしないが、せめて俺とアーチャーの戦いが終わるまでは邪魔をしないでくれ」

「……人質が僕の手の内にあると知りながら、要求を突き付けるとは良い度胸だな。おまえがそんなものを口に出来る立場だと思っているのか?」

「この間合いなら、一息で貴様を殺す事も出来るだろう」

「脅しならもっと上手くやってくれ。殺す気があるのなら全てを金繰り捨てて不意打ちするぐらいの気概を見せて欲しいところだ。
 それにそうする事で人質がどうなるか、予期できないほど狂ってはいまい。そしてその目論見が失敗した時、どうなるかもな」

「…………」

 雁夜が二の足を踏んでいる理由は切嗣のこの得体の知れない自信にある。人の身でありながらサーヴァントと同等の力を得た雁夜を前に一つも怖気づいていない。
 あるのは揺るがぬ強大な意思。教会で見せた不遜と同じ、セイバーなどなくともこの場を切り抜けられるだけの算段があるという、そんな有り得ない傲慢だ。

 しかし雁夜にはそれがハッタリであるかどうかなど分からない。もし本当に何らかの策ないし手段を用意しているとすれば、そして事が失敗したのなら、その結末は無残なものにしかならない。

 何処までも冷酷で非常な殺し屋。この男には微塵たりとも揺るぎがなく、雁夜以上の覚悟を以ってこの戦いに臨んでいる。
 自らの命すらを天秤にかけ、綱渡りのような細い道を駆け抜けている。これが覚悟。これが意思。これが全てを捨ててでも叶えたい祈りがある男の末路だ。

 結局要求を呑ませる事が出来ないままに切嗣は路地を去る。

 と思われたが、

「まあ僕とてそれほど無情じゃない。おまえがアーチャーに対し優勢である限りは手出しはしないでおこう。
 その命の炎を燃やし尽くし、アーチャーに一矢報いるが良い。それがせめてもの、僕からの温情だ」

 それは温情などではない。雁夜が競り負ければすぐさま事態に介入し趨勢を変えると言っているに等しいのだ。
 見方を変えれば雁夜に利する為の介入とも受け取れるが、それは逆にアーチャーの強大さを見誤っていない証拠でもある。

 崩れ行く命の炎を削りながら戦う雁夜では、如何に相性が良くてもあの絶対の君臨者には勝つ事が出来ないと。
 その身に宿した刃が届くとすれば、命の全てを燃やし尽くした先──燃え尽きる直前に輝く最期の焔だけであると。

 路地裏に一人残された雁夜は空を見上げる。四角く切り取られた狭い空。この心のように鈍色に染まる空を見つめ、呟いた。

「ああ、上等だ。俺はこの身に宿る炎に焼かれながら、無様に死んでいくだけなのだから」

 ならばその最期までこの炎を燃やし尽くそう。焼き尽くすべき怨敵を灰燼へと帰す為、一片の命すらも炎に代えて手にする刃を振り抜こう。

 じくじくと心を焦がしていく闇の炎。
 それはまさに、無垢な祈りにさえ、その魔手を伸ばし始めていた。


/4


 そして二人は再び巡り会う。

 吹き荒ぶ風が冷たく身体を通り過ぎていく。頭上に広がる暗雲は、空を奔る稲光を呼び起こす。今にも降り出しそうな空の下、遠坂時臣と間桐雁夜は対峙した。

「……何故おまえが此処にいる? 間桐雁夜」

 アーチャーを侍らせた時臣は目の前の不可解な存在に首を傾げる。あの脅迫状の差出人は間違いなく衛宮切嗣だ。ならば此処で待つ者は彼の男とセイバーである筈……

「なるほど……趣味の悪い手を」

 少し頭を巡らせるだけで得心がいった。時臣への脅迫と同様のものを雁夜にも施したのだろう。
 雁夜にとっても葵は幼馴染であり子供の頃からの友人だ。まだその身に理性を宿しているのなら、人の情に拠ってこの場へ赴く筈。魔術師崩れの目の前の男に、非情を理解しろという方が難しい。

 それが理解出来ているのなら、桜の為などという理由でこんな愚に付かない戦いに臨む筈はないのだから。

 ……同様に私も妻の身を案じてこの場にいる以上、そんな追求は出来ないが。

 尋常の魔術師とは違う時臣は、内心でそう呟いた。

「事情は理解出来たようだな。その上で問おう、遠坂時臣。何故おまえは、彼女を守らなかったッ!」

「その言い方には御幣があるな。私は妻と娘を充分に遠ざけていた。無論、我が家に仕える侍従もな。それを看破し居場所を突き止め、易々と攫った魔術師殺しの手腕をこそ褒めるべきだろう」

「貴様……!」

 この舞台が衛宮切嗣の用意したものであるのなら、弱みを見せる事は出来ない。心を凍て付かせ、無情の魔術師を演じなければならない。
 奴の隙を衝き、葵を取り戻す為に打てる布石は全て打っておくべきだ。

「私にはおまえの行動が理解出来ないよ雁夜。何故奴の誘いに乗った? おまえは別段要求を突っぱねる事も出来ただろうに」

「そんな事を出来るのなら、この身はこんな無様を晒していない……!」

 雁夜の身体から染み出す黒い霧。それは狂気の源泉だ。憎悪を糧に生み出される漆黒の魔力。ただ一時、人の身を英霊へと押し上げる魔性の剣。仇敵を討ち滅ぼす魔の権化。それがじわりと溢れ出す。

 ……ある意味で、この状況は時臣にとっても利点がある。ならば少し、雁夜に鎌を掛けて見るか。

「桜を救いたい、葵も救いたい。度し難いな間桐雁夜。おまえの手はそんなにも大きなものか? 自分すら抱えられぬ分際で、なお二人の女を抱きしめたいなどとどの口が言う。身の程を弁えろ」

 桜の置かれている環境。それを探るチャンスである。
 今の雁夜は半ば狂気に侵されている。ならばその言葉に虚偽はなく、真実のみを吐き出すだろう。

 ──さあ、教えてくれ雁夜。桜は本当に、その未来に絶望しているのか。

「娘一人を守れなかった貴様が、それを言うのか……」

「私は桜の未来に幸あれと望み、間桐に養子に出した。それは魔道にある家系の当主として当然の決断であり、魔道に生まれた者ならば決して抗えぬ道だろう。
 魔道に背を向けた弱者に、逃げ出した貴様に、その誇り高き薫陶を理解しろというのも無理があるか」

「は、はははは、ハハハハハハハハハ…………!」

 突然雁夜は笑い出す。空に響けと哄笑を轟かせ、その身体から滲む魔力の量は刻一刻と増していく。

「何がおかしい?」

「全てだよ遠坂時臣ッ! あの子の未来に幸あれと願った? クハハハ、貴様は知らないからそんな事が言えるんだ。あの地獄を、あの奈落を、あの絶望を──!」

 今や雁夜を覆い尽くすほどの魔力の渦。その姿を正常に視認する事は難しく、ただ闇よりも深い黒を湛えた隻眼だけが浮かび上がっている。

「あの子の声にならない慟哭を知っているか……? 叫びを上げる事さえ許されず、呼吸さえも許可がなくては行えない煉獄を知っているか……?」

「…………」

「助けを求めたところで誰も手を差し伸べてくれず、手を伸ばした分だけ次の過酷が増えていく。だからあの子は心を閉ざした。そうする事で最後の一線を守ったんだ。絶望の檻に閉じ篭る事で、自壊だけを避けたんだ」

 それは余りに悲痛な叫び。想像を絶する地獄の形。

「あんなものが幸福の形であるものか……あんな地獄の先に明るい未来があるものか。間桐臓硯の慰み者になるだけの身体に、世継ぎを産むだけの胎盤に、あの子が笑っていられる未来があってたまるかァ────!」

 間桐雁夜の憎悪は此処に最高の怒りを発露する。何も見えてない愚図の分際で、あの妖怪の何をも知らぬ分際で、誰の幸福を願うのか。
 口先だけの取引を信じ込み、後は知らぬ振りをしている時臣に、桜の痛みが分かる筈がない。この身と同じように、あの子と同じように。あの無間地獄を体感していない者にその声は届かない。

 だから雁夜が立ち上がった。この戦いに死を賭して臨んだのだ。

 余命幾ばくもないこの命。その全てを燃やし尽くしてでもあの子を救うと。ただその為だけに間桐雁夜はその身に憎悪を受け入れた。

「だから邪魔だ……邪魔なんだよ時臣。貴様がいてはあの子が救われない。貴様ではあの子は救えないんだ。
 このままあの地獄に居続けては、遠からぬ内に崩壊する。あの子の心が如何に強靭であっても、あの悪鬼が壊し尽くす」

「…………」

「だから俺が桜を救う。もう一度陽の光が当たる場所に、あの子を連れ戻すんだ。ああ、邪魔だ時臣。貴様がそこにいちゃあの子が戻れない。
 貴様が生きていては、あの子は陽の当たる道を歩けないッッ────!!」

 漆黒の魔力をブーストとして雁夜が駆ける。手にした何でも鉄くれは、今や夥しい魔力を帯びて赤い光を発している。手にする全てを己が宝具にする異能。それが発現し、時臣の頭蓋を叩き潰すと振り上げられる。

「ふん──」

 これまで傍観に徹していたアーチャーが一歩躍り出る。右腕の僅かな動きで五挺の宝剣を呼び起こし、躊躇いもなく撃ち放つ。

「ハァァァァァ!」

 狂化された肉体にものを言わせて雁夜は鉄くれを振るい初撃を打ち上げ弾く。次いで迫る二挺を回避し、その後の二挺を落下してきた一本目と鉄くれとで迎撃した。

「ときに時臣──」

 放った全てを迎撃されてなお黄金に揺るぎはなく。むしろ当然と受け止めて、未だ己がマスターである時臣に問いかける。

「この狂犬との対峙は貴様にとっても不本意なのだろう? セイバーのマスターに踊らされた結果である故」

「ええ」

「では無論、打開する策の一つや二つは持っているのであろうな? よもや無策で戦いに臨んだわけではあるまい?」

「当然です」

 このまま衛宮切嗣の掌で踊り続ければ雁夜諸共に共倒れだ。漁夫の利を得るのは魔術師殺しだけであり、他の誰もが救われない。そんな結末は認めない。
 故に時臣は幾つもの策を巡らせている。幸いにして時間はあったのだ、打てる手の全ては打ってきたつもりだ。

 そして何より、雁夜の心からの慟哭を聞いてしまった以上、この場で倒れる事は許されない。やはり間桐臓硯は悪鬼の類だ。間桐家の繁栄とは即ち彼の者の存命。つまりは自らに利する事だけを目的として暗躍している。

 そんな化生に愛娘を預けておく事は出来ない。
 幸あれと願った未来に絶望しかないのなら、この身を賭して桜を救いに行こう。

 ……まずは謝らなければな。桜に、凛に、そして葵に。

 私は間違えてしまったのだと。魔術師としての上辺の取引に傾倒し、その奥底にあるものを見ていなかった。
 傍にあった誰かの笑顔が、失われている事にさえ気付かなかった。

 桜はこの手で救い上げる。その為にはまず、目の前の魔人を打倒し、そして魔術師殺しの罠をすら突破しなければならない。

 ──この窮地が自らの招いた失態であるのなら、その責任を取るのは私自身だ。

 ならばこの身もまた、その闘争の渦へと身を委ねなければならない。

「策はあります。ですがまずは目の前の敵の打倒を。衛宮切嗣を引き摺り出すにはそれしかない」

 頭は冷静に、心は冷徹に。魔術師としての己を此処に変革する。無謀を勇気と履き違える無様はしない。間桐雁夜は遠坂時臣が打倒すべき敵ではない。倒すべきはあの男──衛宮切嗣。

「まあ良い。では我は我で愉しませて貰うとしよう。そら狂犬よ、いつまで隠れているつもりだ」

 白煙の彼方に揺らめく黒の影。その手に輝くは赤と青の煌きを宿した剣。アーチャーの放った宝剣だ。

「本当に手癖の悪い犬よ。人のものを奪うは悪事であると、稚児とて知っておろうに」

「悪党からものを奪って何が悪い。それにただ死蔵しているだけではコイツらが泣いているぞ」

 雁夜の手にする一対の剣がその煌きをより強くする。

「盗人の分際で我に説教とは。ハッ、片腹痛いぞ狂犬が。その死を以ってその不敬を懺悔しろ──!」

 生み出される無数の泉。黄金の泉より湧き出る宝剣宝槍は数限りなくその総数を増していく。

「ハッ────」

 対峙する雁夜は狂いながらにその思考は冷静だ。本能のままに暴れては、この黄金には届かない。狂化による身体能力の強化と本来なら有り得ない思考の存続の両方を酷使しなければ届かない。

 人の身に英霊を宿した異常。有り得ざる融合は恐らく──この時の為にあったのだ。

「貴様は此処で斃れろアーチャー。俺の道を阻むものは全て殺し尽くす──!」

 揺るがぬ黄金と狂気に染まる漆黒の激突が幕を開けた。



+++


 初撃。

 出し惜しみはなしだとばかりに二十に及ぶ剣群が雁夜目掛けて殺到する。如何に超人に等しい力を以ってしても、それだけの数を一度に捌き切るのは不可能だ。

 故に雁夜は、その身に許された異能の更なる奥底へと踏み込んでいく。

「はぁ……!」

 手にした青き煌きを湛える剣を何を思ってか地面に突き刺す。瞬間、迫る剣群と雁夜との間に巨大な氷壁が姿を現した。
 二十の爆撃はその悉くを分厚い氷の壁に阻まれ推力を落とし、突破した幾本かは赤い煌きを帯びた剣によって撃ち落された。

 雁夜が宿す宝具の一つ。自らの手にしたものに宝具としての属性を付加する異能。ただの枝とて武器になり、鉄くれとて宝具と撃ち合えるようになる。
 ならば元より宝具であったものを奪い取ったのなら、それはどうなる。

 手にしたものを己が宝具とするのなら、当然元が宝具であったものも例外ではない。それに加え、この異能の真の能力は自らがその武器の担い手となる事に集約する。

 鍛え上げられ研ぎ澄まされた無窮の武錬の賜物であり、彼自身が成し遂げた逸話により具現化した能力。ありとあらゆる全ての武器は彼の手により彼のものとなり、その真なる力を発揮する。

 それはこの黄金の宝物とて例外ではない。

 ただ撃ち出される武器もそれぞれ異なる能力を宿している。無銘故にその担い手のいない宝具の担い手となる事を、この漆黒の騎士のみが許されている。まるでこの黄金に挑む為だけに存在するかのような力。

 絶対の君臨者を孤高より引き摺り下ろす為だけに、この身はこの力を宿している。

「手癖の悪さもそこまで行けば大したものだ。しかしそれで王の宝物に触れた罪科が購えるとは思うなよ」

「御託はいいからさっさと来い。如何にその蔵が無尽蔵だろうと底はある。貴様自身さえ知らぬ底、この俺が暴いてやる!」

「ハッ、よくぞ吼えたな狂犬。では試して見るがいい。人の認識を超越する我が宝物庫の底の底、我自身も見て見たいものよ!」

 撃ち出される爆撃は数限りなくその数を増していく。捌く雁夜は手にする得物を換え、剣に宿る能力を駆使し捌き切る。
 もはや瀑布の如き怒濤の連撃。雷鳴の如く轟く鉄と鉄の奏でる不協和音。炎が踊り氷が舞い、風が荒れ狂って大地が隆起する。

「ッ────、は……!」

 呼吸を刻む事すら惜しい刹那。身を捻り躱し、奔る血濡れの魔剣を掴み取る。

 奪い取った復讐の呪詛を宿す剣で迫り来る弾丸を切り払う。その威力を持ち主に返すこの呪いは当然、物理現象などまるで無視してアーチャー目掛けて飛翔する。しかしそれも次なる弾丸との切っ先の衝突により弾け飛ぶ。

「はぁ、は、は……!」

 人の身では決して届かぬ英霊の頂。それに対抗出来ている。拮抗出来ている。剣を斧に持ち替え槍へ戟へ杵へ。
 古今東西ありとあらゆる武器ですら、手にしてしまえ我がものだ。それを最初から知っているように振るえるのなら、力を引き出す事とて造作もない。

「っくは──、まだまだァ……!」

 視界の全てを埋め尽くすに足る宝剣宝槍。その全てが必殺の威力を秘め持ち雁夜だけに殺到する。
 一撃貰えばそれで終わり。後は身体の全てを貫かれて斃れるのみ。一瞬の油断は串刺し以外の選択肢を排除する。止まる事無く足を動かし、腕を振るい、知恵を絞って目に焼き付けろ。

 これが英霊に挑む人の姿。絶対的な力に歯向かう意思の力だ。

「ぐっ……!」

 一体何合、何十、何百と刃と刃を重ねあったか定かではない。雁夜の肉体は悲鳴を上げ腕を振るう度に激痛が走る。それでなお生まれ出ずる剣群に底は見えない。黄金は余裕の笑みを浮かべ次々と繰り出す剣を呼び起こす。

 ──本当に底なしか、この男……!

「そらどうした。もう音を上げるか? 我の財が底をつく前に貴様の魔力が底を尽きそうではないか」

「おああああぁぁぁぁァァァ……!!」

 憎め憎め憎め。目の前の敵に憎悪しろ。我が泉は憎悪のそれ。ならば溢れ出る負の想念こそが魔力を生む。
 この黄金のマスターが何をしたか忘れたか。あの子に何を背負わせたか忘れたか。忘れるな忘れるな忘れるな。

 ────■の絶望を忘れるな……!

「────────え?」

 思考の停止の隙間を縫うが如く、十の魔剣を撃ち払った直後に飛来した一本の剣が、吸い込まれるように雁夜の肩を貫いた。

「がっ……ぁ──!」

 爆撃めいたその一撃を喰らい雁夜は吹き飛び無様に地を滑った。

「はっ、ぁ……」

 震える腕に力を込める。突き刺さった剣を引き抜き杖にして立ち上がる。まだ立ち上がれる。まだ戦える。目の前の敵の底を見るまでは、この身は斃れる事は許されない。

 だってそうだろう。あの男は言ったのだ。雁夜が劣勢になれば介入すると。■■を討ち取るのは俺だ。俺なんだ。ああ、でも──

 ────俺は誰に憎悪し、誰を救いたかったのか……

「存外にしぶといが……その目から狂気が薄れているぞ?」

「っ、く……はぁ……」

 違う。違う違う違う違う。まだ忘れていない。まだ思い出せる。この身はあの子の為だけにあるんだ。それを忘れるわけがない。忘れていい筈がない。
 黒く塗り潰されていく心の中から掻き集めろ。無垢な色だけを拾い上げるんだ。そうすればほら、

「さく、ら──────」

 ああ、まだこの心は覚えている。なら大丈夫。戦える。

「さあ、続けよう。俺はまだ……戦える」

 手にした剣を突き付ける。折れぬ心を見せ付ける。憎悪に染まった心でも、未だ残る温もりを、最期の時まで守り通す為に。

 その意思と覚悟に水を差すように、彼らは現れた。

「……ようやく姿を見せたか」

 アーチャーと雁夜の激闘を後方で眺めていた時臣は右方より姿を見せた一団へと視線を投げる。
 衛宮切嗣とセイバー、その後方に控える葵とそれを拘束する舞弥。役者はこれで全て出揃った。

 ……ここからが本番だ。

 雁夜の奮闘は驚愕と賞賛に値するが、時臣が倒すべき敵は衛宮切嗣だ。あの男よりまず葵を取り戻さなければ話にならない。

「っ……、ぁ──」

 口から零れ落ちる血を飲み込んで、憎悪に目を血走らせて現れた闖入者を見やる雁夜。

「邪魔をするな……! これは俺の戦いだ、アイツは俺が殺すんだ……!」

 雁夜の吼え声にも無関心に冷たい瞳を向けるだけで済ませる切嗣。彼からすれば今の雁夜は既に満身創痍。
 セイバー達より先行し身を潜めて覗いていたからこそその激烈さを知ってはいても、あの身体では届かない。

 もし雁夜の身体が英霊の重みに耐え切れるほど強靭であり、潤沢な魔力供給を確保出来ていたのなら芽はあったのかもしれないが、今のままでは無理だ。
 アーチャーの視線が語っている。このまま時間を食い潰すだけで、狂気の騎士は自壊すると。その終わりは近いのだと。

「ふむ……」

 一旦の場の硬直の中、アーチャーは戦場を睥睨する。無論、己が見初めた宝石にも熱い視線を送る事は忘れない。当然のように無言の怒気を返されたが、この男はそれをすら愛でるだろう。

「時臣よ。この状況、おまえならばどう切り抜ける?」

 形の上では三つ巴。しかし戦力的には数で言えばアインツベルンの陣営が頭一つ飛び抜けており、更には葵を人質に取られている。
 手を後ろ手に縛られ轡を噛まされている。縛った手は舞弥に握られ万が一にも逃がす気はないらしい。

 ここでアーチャーの力技に訴えればセイバーや雁夜諸共に吹き飛ばせるかもしれない。当然それは、葵の救出を度外視してのものだが。

 何より時臣は今、この黄金に対し僅かではあれ猜疑の念を抱いている。何をしでかすか分からないこの王に趨勢を委ねるような事は避けたい。璃正のように、偶然に見せかけて葵を殺さないとも限らないだから。

「……王は雁夜の足止めを。アインツベルン(あちら)は私一人で充分です」

 切嗣が姿を見せたのなら最初からそう告げる事を決めていた。これならば黄金の邪魔は入らないし、切嗣に対しても牽制になる。
 後は時臣一人で切嗣を出し抜きセイバーを躱し葵を救わなければならないが……

「それはまた大胆な事を言う。勝算はあるのか?」

「十二分に」

「ハッ──良いぞ時臣。その気概、もっと早くに見せていれば我の心も変わっておったやもな」

 言ってアーチャーは一歩前に出る。

「さあ狂犬。もう少しばかり遊んでやろう。我を退屈させたその時が貴様の終わりだ。せいぜい我を愉しませよ。その命尽き果てるまでな──!」

「ァァァァァァァァァアアアアアア…………!」

 たった一欠片だけ残った温もりを抱え、憎悪の騎士は剣を執る。何故自分が剣を手にしているかを解さぬままに、何故戦っているかを忘却しながら、それでも救いたいと願った少女の為に命を燃やし疾走する。

 その疾走を止めるブレーキは既に壊れてしまっているのだから。



+++


 その激突を見届けて、時臣は単身切嗣達の元へと近づいた。

「止まれ」

 制止の言葉を聞き、当然足を止める。相手の手には人質がある。呑める限りの要求は呑むしかない。

「こちらの用件は言わずとも分かっているだろう?」

「……アーチャーと雁夜を戦わせ、消耗し生き残った方をセイバーが倒す。あるいは今の状態なら、私を殺してアーチャーを消し去り、その後に満身創痍の雁夜を討つ……と言ったところかな」

 それは大体読み通り。単純に時臣や雁夜単独に脅しを掛けるのならこんな回りくどい真似はしない。衛宮切嗣は最小の犠牲で最大の結果を望んでいる。自らの傷は少なく、アーチャーとバーサーカーを消し去る事。それが本命だろう。

 しかしアーチャーには高い単独行動のスキルがある。ここで仮に時臣が無抵抗に殺されたとしても数時間、あるいは数日の間の現界を可能とする。

 それでは時臣を殺す意味がない。故に────

「それだけでは足りないな。遠坂時臣、その令呪を以ってアーチャーに自害を命じろ」

「そう言って今度はアーチャーは無論、私や葵も殺すのか? あのロード・エルメロイ達のように」

 自らの身を犠牲に主の許婚を救おうとしたランサーの忠義を踏み躙り、ソラウ諸共殺した事を忘れたとは言わせない。
 あんな悪辣な真似をする輩を相手にどうしてその言葉を信用出来るのか。アーチャーに自害を命じたが最後、時臣と葵も間違いなく殺される。

 この殺し屋は確実にそれを遂行する。情けなど一片たりとも掛けはしない。

「おまえにそんな口答えをする権利があると思っているのか……?」

 時臣の視線は切嗣達の後方へ。後ろ手に拘束されている葵に突き付けられる舞弥の手にするナイフ。鈍色の空を映す白銀が、その柔らかな頬に押し付けられる。

「これは取引じゃない、一方的な命令だ。今一度言おう──遠坂時臣、令呪でアーチャーを殺せ」

「断る────!」

 刹那、闇に紛れて放たれた一刀の刃。黒塗りのそれに反応出来たのは、切嗣とセイバーのみ。先に動いたセイバーは不可視の剣を呼び起こし、火花を散らして撃ち落す。

「何者だ──!」

 セイバーの声に誘われ闇に浮き出る一枚の白面。白々と浮かぶそれはまさしく、アサシンの面。

「馬鹿なっ!? 貴様はあの夜、私が斬り捨てた筈──!」

「さてな。そんな事は知らんよセイバー。だが少々お相手願おうか。
 卑賤なこの身だ、もし請け負わぬというのなら、一体何処に刃が飛ぶか分かったものではないぞ?」

 闇に紛れて雑木林へと姿を眩ますアサシン。こちらへ来いと誘っている。

 如何にアサシンが最弱に等しいサーヴァントであっても、生身の人間には対抗する手段がない。舞弥は無論、切嗣とて難しいだろう。サーヴァントにはサーヴァントをぶつけるしかない。

「マスター、私はあのサーヴァントを追います。もし何かあれば、その時は令呪を」

 切嗣の返答など期待していないのだろう、セイバーは返事を待つ事無く闇に紛れたアサシンを追い雑木林へと入っていく。

 これでこの場には切嗣と舞弥、それに葵と時臣だけが残る。

「…………」

 アサシンの生存は確信していたからやはりという思いだが、此処で時臣に加勢するとは切嗣も流石に思わなかった。
 あの男は既に終局を見据えている筈。切嗣と対峙するその時を夢見ている筈だ。ならば何故時臣を生かす真似をする。あの男にしてもこの正調の魔術師は邪魔な筈なのに。

 ……なるほど。これがおまえのやり方か。

 この程度の敵、超えて来なければ意味がないと。この程度の敵に破れるのなら、私の見込み違いであったと、そういう事か。

 綺礼には綺礼の思惑があり、切嗣には全てを読み切れないが概ね間違ってはいない。未だ時臣と協定関係にある綺礼はその手を貸さないわけにはいかず、そして時臣が斃れるのは今少し早いと見ている。

 それもセイバーの手に掛かっての終わりなど認めない。せめて魔術師殺しとの闘争を経てからでなくては、

 ──この身の愉悦は満たされない。

 それが綺礼の偽らざる本心であり、本心から時臣に協力している。綺礼の助勢を得た時臣を倒し、私のところまで来いと、そう綺礼は言外の想いを込めている。

 ……いいだろう。だがそんな誘いに簡単に乗ってやるものか。

 未だ切嗣の手には人質がある。これを使わない手はない。正面切っての戦いなど最後の手段だ。

「それで、どうするつもりだ遠坂時臣。まさか遠坂葵を見捨てて僕に勝負でも挑むか?」

「……魔術師たるもの、その身にまず宿すべきは死である」

 時臣は手にした樫材のステッキ、自らの礼装を強く握り締め横薙ぎに振るう。

「ならば当然、その妻たる者も同様の覚悟を持つべきであり、私の妻はその覚悟を宿している」

 生まれる炎、夜を焦がす灼熱の輝き。
 周囲に蟠る冷気の全てを燃やし尽くして猛り狂う。

「だから私はこう言おう──葵、私の為に死んでくれ」

 それは人質を見捨てるにも等しい言葉。ここまでのお膳立ての全ては切嗣を逆に罠に誘う為の恭順であったと、そう時臣は言ってのけた。

「────っ、……ぁ!」

 噛まされた轡を振り払い、葵は精一杯の声を上げる。

「はいっ! 時臣さん、私────っ」

 続く声は舞弥が葵の足を払って引き摺り倒した事で掻き消された。

「…………」

 煌々と猛る炎。それを冷厳に見つめながら切嗣は思考を回す。

 魔術師は他者に辛辣である分身内には酷く甘いところがある。それを利用しての誘拐であり人質だったが、こうまではっきりと死ねと宣言し、葵もまたそれに応えたのならもはや人質に価値はない。

 だからと言って手放すつもりはないが、時臣の意思が本物であるなら、切嗣も相応の対処をしなければならない。即ち──

「剣を執れ衛宮切嗣。これは私とおまえの決闘だ。横槍はもはや入らないし、おまえの奇策が通じる場面でもない。
 その身に一欠片でも魔術師としての誇りを宿すのなら、尋常の勝負を行え──!」

 時臣にしてもこれは半ば賭けである。

 真実として葵を犠牲にしたいと思ってはいないし、助けたいと願っている。だが葵を人質に取られた状態でそんな弱みを見せればそこを付け込まれて全てが終わる。

 故に時臣は自身の想いを封殺し、冷酷な魔術師として立ち向かう。如何に身内に甘くとも自らの悲願と比せばその天秤は容易く傾く。それが本来の魔術師だ。

 時臣が外れた魔術師であってもそれを対外的に見せた相手はあの臓硯以外にいない。ならば当然、切嗣の知る時臣はそんな魔術師である筈だ。

 これは時臣にとって一世一代のハッタリだ。葵を救う──その為に巡らせた策の最後の仕上げだ。

 ──さあ、乗って来い衛宮切嗣。

 乗る以外に道はない。葵を殺せばそれこそ時臣は容赦なく全ての手札を使い切る。令呪に訴えてでも切嗣を殺す。

「……いいだろう」

 魔術師殺しは愛銃を引き抜く。

 最悪の想定としてこの展開を想像しなかったわけではない。ただ単純に、綺礼と見える前に手札を晒したくはなかっただけの事。

 綺礼もアサシンという札を切って来たのだ、ならばこちらも一枚くらいは見せねば状況を打開出来ない。

「ならば僕も魔術師として立ち会おう。そして知れ、魔術師殺しの異名の意味を」

 此処に舞台は完成する。

 三つの戦場に分散し、それぞれの戦いが繰り広げられる。
 そして遥か遠方──冬木大橋を挟んだ向こう側に、未遠川に覆滅された龍神の如き威容が姿を現し、戦いは更なる混迷を極めていく。



[25400] Act.07
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/25 01:31
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 海浜公園より西方、それ程の広さのない雑木林を抜け、セイバーがアサシンに導かれたのは闇に沈んだ住宅街。点々と浮かぶ街灯の明かりが頼りなく揺れ、木々が風にざわめいている。

 闇に紛れ影に潜み、夜を跳梁する暗殺者の英霊。なるほど、この月明かりのない薄暗い闇と死角の多い街中、そして無辜の人々が大勢いるこの場所を戦いの舞台としたのは正解だろう。

 マスターの援護がなく、人払いの結界の類も張られていないこの場所では、派手に暴れる事は難しい。セイバーの本領たるその圧倒的な暴力も、他者を巻き込まないという前提ならばなりを潜めざるを得ない。

 ──セイバー(わたし)に挑もうと言うのだ、戦場を整えて当然か。

 かたや最強の一角たる剣の英霊。かたやマスター殺しを常とする暗殺者の英霊。
 アサシンがマスターを狙うのはまともにサーヴァントとかち合っては勝ち目などないからだ。

 敏捷のみに特化し、気配を消して背中を取る以外に能がないアサシンが、全ての敵に対し真正面から立ち向かえるセイバーなど、どれだけ有利な戦場に誘い込もうとも倒せる道理はない。

 それほどに両者の力には隔たりがある。余程の奇策があるのなら別だが、現状、セイバーの有利は揺ぎ無い。そしてそれはアサシンも分かっている筈。ならば暗殺者の狙いは何処にあるのか。

 ──私の足止め、だろうな。

 マスターが敗れてしまえばどれだけ頑強なセイバーとて持って数時間の命。故にアサシンはセイバーとマスターを分断し、互いの戦場を整えた。この身が最強の足を止めている間にそちらの決着を待つ、と。

 しかし不可解なのは斬り捨てた筈のアサシンが生存している事。そして切嗣と対峙していたマスターは、ならばどのサーヴァントのマスターなのか?

 アサシンが足止めに動いている以上はあのマスターの関係者には違いない。そしてアーチャーがならば彼のサーヴァントなのか。

 海浜公園での一幕では切嗣と時臣の交渉においても距離を取っていたからその内容までを聞いていない。
 そうさせたのは他でもない切嗣で、実際の指示を出したのは舞弥だが。

「……答えは得られない、か」

 自らを剣と断じ、マスターとの交流も最低限。二人を繋ぐ女人とも先程顔を合わせたばかり。当然にして敵マスターとサーヴァントなど一致する筈がない。セイバーには知らない事が多すぎる。

 それでもいいとセイバーは断じている。真にセイバーが知るべき事であるのなら、切嗣なり女人なりが伝えてくるだろう。それがないという事はセイバーが知る必要のない事。無意味な事だ。

 この身はただ一振りの剣。敵を断つ刃であればいい。

「だがそれでも──」

 後方より風を切る音を察知し振り向きざまに切り払う。閃光の如き火花を散らし黒塗りの短刀を地に落とす。

「──貴様が今なお跳梁しているその理由くらいは暴かせて貰うぞ……!」

 切り払った直後、捻転の力を利用して後方に跳躍。魔力放出の加護を得たセイバーの加速はランサーにさえ匹敵する。
 投擲の直後、離脱しようとしていたアサシンへと肉薄する。が、一歩早く敵は角へと身を隠し、直後、有り得ぬ角度から刃が飛来した。

「…………っ!?」

 身に迫る死の危険を察知した直感のままに繰り出された一撃を薙ぎ払う。手にした剣を下段に構え、姿を消したアサシンの影を探す。

 ……なんだ、今のは。

 角に姿を隠したアサシンを追いその角を曲がった直後、全く予期していなかった方向から攻撃された。
 どういう理屈でそんな曲芸を為したのかは知らないが、恐らくそれがこのアサシンの宝具に繋がる何かなのだろう。

 そして斬り捨ててなお生きている理由もまたそれに通じている筈。

「……とはいえ、そう易々とは暴かせては貰えないか」

 それから同じような攻防を二度三度と繰り返す。

 セイバーの死角から投げられるダーク。攻撃の方角から予測した射出地点へと全速力で迫り、肉眼で確認した直後、アサシンは物陰に姿を隠し、その後を追えばあらぬ方向から攻撃される。

 不意打ちをいなした後、追いかけた影を探してもそこには暗闇しかない。

 ……負けはしない。だが、これは千日手もいいところだな。

 ただセイバーの足を止める為だけに、アサシンは切り札を切った。それをこそが互いの明白な力量差を表している。
 けれどこのアサシンは分を弁えている。自分にはセイバーを倒せないと誰よりも知っているから深追いをして来ないし、必要以上に躍起にならない。

 セイバーがこの戦場から離脱しない程度に気を引き、詳細の分からない能力を使って自らの姿を隠匿している。
 攻撃態勢へと移らないアサシンの気配を察知するのは難しい。アサシンの居所を暴く手段はあるにはあるが、それなりの破壊を撒き散らす事になるだろう。

「…………」

 さて、どうするか。

「……考えるまでもなかったな」

 またもや風を切る擦過音。今度はそれを迎撃ではなく躱し即座に加速する。今の速さで届かないのなら、なお速く駆け抜けるまで……!

「はぁあああ……!」

 剣を封じる風王結界の封印を僅かだけ紐解いて、溢れ出る風に指向性を持たせてより速く踏み込む。

「……っ!」

 先程よりもなお近い距離まで黒衣の白面へと肉迫。相手もその異様に気が付いたか、形振り構わず逃げの一手。此処で逆に仕掛けて来てくれれば楽に刺せたが、流石にそこまで甘くはない。

 地を滑るかのような速さで角の向こうへと消え行こうとするアサシン。このままではまたもや僅かに届かない。ならば此処で打つ手は一つ。

「ふっ──!」

 最大の踏み切りからの跳躍。塀を越え、屋根を超え、電信柱の高ささえも軽く凌駕し、角の向こうへと消えたアサシンの姿を頭上より視認する。

 ──さあ、ここからどうやって仕掛けてくる!

 直後、セイバーの追っていたアサシンが霊体化したのか視界から消え、

「なっ……!?」

 刹那、真後ろに気配を感じ振り仰げば、消えた筈のアサシンがそこにいた。

「キェ────!」

 完全に不意を衝かれたに等しいセイバーはしかし、強引な捻転と溢れる魔力と風の力を用い繰り出された短刀の一撃を弾き飛ばす。必殺の奇襲を防がれたアサシンは無論深追いなどせずすぐさま離脱する。

「ちぃ……!」

 姿勢制御を捨てて防御をした為、アサシンを追撃する事叶わずそのまま自由落下する。くるりと空中で一回転した後、銀の具足は確かに大地の感触を踏み締めた。

「ふむ……なるほど。なんとも奇異な宝具を持っているようだなアサシン」

 首こそ獲れなかったがその能力について大分掴めて来た。

 角に姿を消したアサシンを追った直後、あらぬ方向から不意打ちを受けた事。
 霊体化した事を視認したにも関わらず、刹那の内に背後にいたアサシン。
 そして緒戦の夜、斬り捨てた筈の敵が今なお健在である理由。

 それら全てを線で繋げば、自ずとその概要も把握出来る。

「見切らせて貰ったぞアサシン。その身が持つ宝具──それは分身の類だな」

 単なる残像を作るものではない。質量を持った個、分裂という方がしっくり来る。一つの座の枠には当然一人の英霊しか座れない。
 しかしそれが分身、あるいは分裂の類であるのなら可能だろう。唯一つの全を複数の個に分割しても、それはあくまで全である。

 それが全である以上は何も矛盾はしないし、そう考えれば全ての事に納得が出来る。一人殺したとしても他に何人かのアサシンがいる。アサシンという全を殺さなければ、個を幾ら殺したところで──限界はあるだろうが──意味がない。

 ……しかし、これは……

 そう考えた時、その厄介さの方に目が向いた。今この場に何人のアサシンがセイバーを包囲しているのかは分からないが、その全てを殺す事の難しさは至難を極める。あくまで彼らの目的はセイバーの足止め。

 宝具を看破された事で姿を現してくれるのなら楽だったのだろうが、反応の一つすらもない。彼らは究極的な影だ。
 私を殺し、無我に至り、ただ目的だけを遂行する機構。狂う事のない歯車だ。

 一体どれだけのアサシンの分身体を倒せば終わりが来る? そもそもこの場にいるアサシンで全てなのか? 完全に倒したと確信した直後、その背を刺されない保証が何処にあるのだろうか?

 更に言えば、こうして足止めされている間に切嗣がアサシンに襲われているのかもしれないのだ。

「くっ──!」

 マスターの身を案じ戦場を離脱しようと加速したセイバーに差し向けられる四方からの投擲。それを躱し捌いた直後、正面には白面が踊る。

「行かせはせんよセイバー。貴様にはこのまま私と踊り続けて貰おう。今暫し愉しまれよ」

「邪魔をするな────!」

 斬り捨てると踏み切った直後に背後より迫る刃。的確に心臓だけに狙いを定めた投擲を跳躍によって回避する。
 その間に目の前の髑髏は後退し、影に身を埋めようとしている。そして左方──浮かび上がる髑髏の面。闇の中で白々と踊るそれは四つに及ぶ。

 繰り出される都合八の刃。その全てが僅かにタイミングをずらし、完璧なまでのタイミングで相手の攻め手を封殺する目的でのみ放たれる。

 空中という逃げ場のない虚空に身を置いたセイバーは迎撃するしか手はなく、その全てを撃墜し終えた時、白面の全ては闇の彼方に姿を消していた。

 影に潜み逃げに徹し、こちらの利点を封じる戦場において、相手の足止めのみを目的とするアサシンがこれほど厄介であるとはセイバー自身思いもしなかった。これが本来の彼らの正体。揺るぎのない実力だ。

 負けはしない。殺される事はない。時を重ねればいずれ追いつき全てを倒す事は可能だろう。だが彼らが真にマスター殺しを肯定した場合、その脅威は察して余りある。そうしない理由がなく、そうされた場合苦戦は免れない。

 遠坂時臣の下についた言峰綺礼のサーヴァントに甘んじていた頃の彼らとは、何もかもがまるで違う。真の主を認め、聖杯に至る覚悟を得た暗殺者の真骨頂は、今此処にその脅威を発露させていた。

「いいだろうアサシン。ならばこちらも全力で行かせてもらう」

 敵を討つ事を目的とするのでは恐らく、この戦場では勝ち目がない。時間を掛ければ可能だろうが、今は一分一秒が惜しい。
 勝利条件はアサシンの討伐ではなく海浜公園へと戻る事。アサシンの正体を知った今、マスターの下へと戻らざるを得ない。

 如何に切嗣の実力を知ってはいても、サーヴァントには抗えない。ならば死を賭してマスターの下へと駆けつけなければならないのだ。

「ふっ────!」

 もはや迫る刃にも踊る白面にも目をくれず、一直線に海浜公園へ向けて駆け抜ける。自らに宿る直感を信じ、致命傷にはなり得ないものは完全に無視する。擦過していく黒塗りの短刀に身を削られてもその速度は落とさない。

 風よりも疾く闇を斬り裂く銀光となり、セイバーは疾駆する。

「行かせはせんと、そう言った────」

 前方の虚空に現れた白面が何かを言い終わるのをすら待たず、今持てる最大の一撃を見舞う。

 セイバーは剣士であり近接戦闘こそが真骨頂。故にアサシンは一定の距離を常に取り、セイバーに間合いへと踏み込ませはしなかった。
 しかしセイバーには一つ隠し手がある。剣を覆う風の封印。それを解き放つ事で一度限りの遠距離攻撃を可能とする。

 それはある種の居合い斬り。風という鞘込めから放たれる疾風の一斬。聖剣の刀身が露になる事をすら厭わず、セイバーは風の斬撃を繰り出した。

「はぁあ……!」

 それはセイバーの魔力も同然の一撃。同レベルの対魔力を持たねば防ぐ事叶わぬ魔性の一斬。
 故に黒衣の白面はその身を守る事すら出来ず、一刀の下にその胴を両断された。

 刹那、周囲を包囲していたアサシン達に走る戦慄。分体の一人が討たれた事は驚愕に値した。しかし彼らは暗殺者。動揺とは無縁の存在。一瞬の狼狽を強固な自我で抑え込み、疾走を止めぬセイバーの足を止めるべく刃を放つ。

 それでなお止まらぬセイバー。勢いに乗った彼女はまさに弾丸だ。四方八方から迫る刃の全ての隙間を潜り抜け、避けきれないものだけを弾き飛ばす。その読みはもはや読みのレベルを超越している。

 研ぎ澄まされた無我の境地は彼女に超直感を齎している。

 二十を超える刃の全てを致命傷を負う事無く、速度を落とす事無く捌き切ったセイバーは全力で踏み切り跳躍。近場の街灯を足場に更に高く飛び上がり、海浜公園へと繋がる雑木林をすら飛び越える。

 それを追おうとするアサシン達に、

『そこまででいい。後は放っておけ』

 念話で語りかけるは彼らのマスターである言峰綺礼だ。

「しかし宜しいのですか」

『ああ。あちらも既に状況が動いている。おまえ達は充分にその役目を果たした。それに──』

 綺礼の一瞬の沈黙。同時にアサシン達もまた大気を震わせるほどの魔力の胎動を感じ、全員が同じ方向へと視線を向けた。

『今夜の一戦、この事態はもはやこの場だけでは済まない規模になりつつある。が、後は任せておけばいい。おまえ達は持ち場に戻れ』

 生まれようとしている怪異に対し、アサシンが出来る事はないと、そう言い切って綺礼は念話を切った。
 自らの分を弁えている彼らは主の意を汲み取り散開し、それぞれの持ち場──マスターの監視へと戻るべく闇に同化していった。



+++


 同刻。

 海浜公園での戦いは激化の一途を辿っていた。

 夜気を染め上げるは紅蓮の炎。灼熱の吐息は時臣の振りかざすステッキに呼応して龍の如く舞い踊る。
 衛宮切嗣の手にする短機関銃からの乱射を受け止める盾となり、その身を喰らう剣となって炎は戦場を乱舞する。

 ……厄介な能力だ。

 戦場を駆け回りながら切嗣はマガジンを入れ替える。初弾、コンテンダーで一撃を見舞ったがそれは当然の如く防がれた。
 時臣の操る炎の熱は銃弾をすら溶かし尽くす。炎に触れるその直前で既に融解を始め、標的に到達する前に銃口より放たれたスプリングフィールド弾を溶かす程の超高温。

 鉛玉を主武装とする切嗣が唯一相性の悪い属性である炎の術者。それもこれほどの炎熱を容易く操るとあっては致命傷を与える事は難しい。

 更には遠坂の魔術は宝石魔術。長い時間を掛け宝石に蓄積した魔力を、起動の為の僅かな魔力と呪文があれば発動を可能とする。

 魔術回路と直結しないタイプの魔術は起源弾と相性が悪い。ケイネスの月霊髄液のように常時術者が魔力を送っているものと違い、外部に溜めた魔力を活用しているだけの宝石魔術では魔術回路までフィードバックが起こらない。

 狙うなら起動の瞬間に術者本人の身体に直接撃ち込む必要があるが……

 そう出来ているのならこうして戦場を駆けずり回ってはいない。牽制の為の短機関銃の乱射で相手の防御を誘発してはいても、鉛玉では一向に効果がない。
 撃ち出す銃弾全てが灼熱の顎門に食い散らかされ、時臣本人へはただの一度もダメージを与えられていない。

 対する時臣も今現在、有利に戦いを運んでいる確信がある。が、それでもまだ人質は切嗣の手の中にある。僅かに戦場を離れた場所に葵は舞弥に拘束されたままだ。
 そちらに炎を差し向ける事は難しくないが、切嗣の妨害と、そして何より炎の規模が大きすぎて葵をすら焼き尽くしてしまう可能性を考え手が出せない。

 最悪の場合、切嗣と舞弥は葵を盾にして時臣の攻撃を防ぎかねない。
 そしてその虚を衝いて命を狙ってくるだろう。それくらいの事は間違いなく行うと時臣は確信している。

 人質に余計な手出しをしては目的である葵の救出を果たせなくなる。こうして戦いには持ち込めたが、此処から先が至難を極める。
 魔術師殺しを出し抜き、葵を救出する方法を探る為、今はこうして戦闘の体裁を取り繕っておく他ない。

 その膠着。時臣が圧しているように見える戦場において、先に仕掛けたのは切嗣だった。

「────っ、あぁっ!?」

 戦場の後方、葵と舞弥のいる方向。そちらからの悲鳴を聞き、時臣は炎の手を緩めぬままに視線を投げる。

「なっ……」

 そして見たのは自らの妻の腕に突き刺さるコンバットナイフ。抉るように差し込まれた傷口からは、濁々と血が零れていく。

「葵……! 衛宮切嗣……貴様!」

「どうした遠坂時臣。自ら死ねと命じた妻の身を、今更になって案じるか。それともさっきのやりとりはやはり芝居か」

「…………っ!」

 業炎と唸る炎が時臣の代弁を行うかのように荒れ狂う。
 頭上より降り注ぐ業火を間一髪の側転で回避した切嗣に、時臣は懐より取り出した別の宝石を繰り出す。

「──Anfang(セット)」

「固有時制御(Time Alter)──二倍速(double accel)」

 互いの詠唱はほぼ同時。投擲が必要な分だけ時臣が出遅れ詠唱が間に合い、横薙ぎに迫る炎を切嗣は倍速化した時間の中を駆け抜けて回避する。
 そのまま離脱し間合いを取り、解除の呪文を口にして、世界よりの修正により生じたダメージを噛み殺す。

 揺らめく炎の向こうに時臣の貌を見る。その表情には無感情などではない、れっきとした赫怒の色が見て取れる。

 やはり時臣は完全に遠坂葵を見捨て切れていない。そう確信を得た切嗣は、停滞した場に一石を投じた。

「さて、今度は取引だ遠坂時臣。全ての令呪を使い切ってアーチャーを自害させ、今後一切聖杯戦争に関わらないと誓うのならば、おまえとその妻には一切の手を出さない。
 無論おまえは僕の言葉など信用しないだろう。必要ならば自己強制証文(セルフギアス・スクロール)で誓約を行っても構わない」

 自己強制証文。それは違える事の出来ない誓約。呪術契約の中でも最上位に位置づけられる呪いだ。破棄など持っての外、解呪さえも不可能。制約を誓ったが最後、死してなお続く永劫の呪縛。

 それを引き合いに出すという事は、魔術師として最大限の譲歩を意味している。

「…………」

 その契約が真に交わされたのなら、時臣と葵の身は完全に保護される事になる。勝利の破棄と引き換えに妻の無事を取り戻す事ができる。
 切嗣にしても、証文を引き合いに出したのはそれほどアーチャーを警戒しているからだろう。此処で時臣と葵を見逃す事でアーチャーを確実に葬れるのなら安いものだと、そんな打算があるに違いない。

 問題は。

 そんな不可逆の提示をされてなお、この衛宮切嗣という男を信用出来ない事に尽きる。

 仮に契約内容を吟味熟読し、一片の不備がない事を確認してすら時臣は安心出来ないという確信がある。目の前の男は敵と定めた者は必ず殺す男だ。犠牲となる者を見定めたのなら間違いなく死んで貰う筈だ。

 時臣ですら予期しない誓約外の何がしかで殺される可能性を捨てきれない。切嗣という男と取引を行う事自体が間違っている。

 しかしそれでなお迷う理由は一つ。葵の無事を確保する術がない。

 先の刺された傷は一応の治癒魔術で治療されているようだが、必要とあらば何度でも葵に傷を付けるだろう。時臣の心の内を暴かれたも同然の今、その芯を折る為に外道はより悪辣な手段に訴えかねない。

 此処が譲歩の限界。こちらの歩み寄りを断るのなら、当然として報いは受ける覚悟があるのだろう? と、そう魔術師殺しは言外に訴えている。

 乗るか、反るか──その逡巡の輪から抜け出す前に、

「時臣さん、私を殺してください」

 そう言ったのは、他ならぬ遠坂葵その人だった。

「なっ……葵!? 何故……!」

「私は貴方の足を引っ張る為に妻となったのではありません! 貴方を支える為です! ならば今、もう貴方の役に立てない私など見捨ててくれて構いません──っあぁ!」

「人質が喋る事を許可していません。貴女に許されているのはただ悲鳴を上げ続ける事だけです」

 無情にも今一度刃を突き立てる舞弥。その言葉にも慈悲というものが一切見られない。彼女は機械だ。切嗣よりもなお精巧な機械仕掛け。
 衛宮切嗣を回す一つの歯車。切嗣の命令に従い任務を遂行する機構。切嗣が命令するのなら、何の罪のない幼子ですら躊躇なく殺すだろう。

 その冷徹。その揺るぎのなさ。それ故に隙がなく──しかし彼女が思う以上に、遠坂葵という女の意思は強固だった。

「これはっ……! 貴方の、遠坂の悲願を叶える為の戦いでしょう!? 何を躊躇う事があるのです、何を思い煩う事があるのです! 女の命一つ──捨ててでも成し遂げなければならない事でしょうッ!!」

 その吼え声は時臣をして思考をまっさらにして余りある言霊を秘めていた。彼女がこれほどの大声を出した事を聞いた事すらなかった。
 貞淑な女であり、夫を支え娘を愛す良妻賢母。時臣の知る彼女は古き良き時代に取り残されたような女だった筈だ。

 しかし思えば、彼女はずっと前からその強靭な心の影を見せていた。
 愛して止まない娘を養子に出す事を、異論の一つさえ挟まず従った。それを時臣は彼女の妻としての夫を立てる性格ゆえのものだと思っていたが、違う。

 彼女は彼女なりに魔術師というものを理解し、その道に殉じる覚悟を決めている。誰に話す事もなく、けれどその心の内で静かに自らの死生観を固めていた。
 遠坂に嫁ぐ事の意味を誰よりも理解し、魔術師の家系に組み込まれる無情を誰よりも諦観している。

 辛くなかった筈がない。悔しくなかった筈がない。愛する娘を手放さなければならない事に、深い悲しみを覚えなかった筈がない。それでも彼女は強く在り続けた。魔術師としての夫の判断を肯定した。

 彼女は時臣よりもその在り方が魔術師に近い。魔術の薫陶など一切受けていない身でありながら、魔術師という生き物を時臣以上に理解していた。
 先の時臣のハッタリも、彼女からすればそれは当然と受け止められる事実でしかない。そして何故そうしないのかと夫に詰問したのだ。

 その精神性は常軌を逸している。幾つもの矛盾を孕みながらも確固とある自我。その脅威を、時臣をして今初めて知る事となった。

「ぎぃ……は、ぁあ……!」

「葵……!」

 今一度振り下ろされるナイフ。耳を劈く悲鳴は噛み殺され、それでも苦悶の表情までは拭えない。

「さてどうする。遠坂葵の覚悟は予想外だったが、状況は何一つとして変わっていない。あくまで決めるのはおまえだ遠坂時臣。
 まあもっとも──時間を掛ければ掛けるだけ彼女に傷は増えていく事になるし、その命も保証はしないが」

 幾度となく振り上げられ、振り下ろされる白銀の刃。簡易な治癒をすら凌駕する無慈悲な暴挙。血は止め処なく流れ大地に赤い斑点を描いていく。

「……っ、はぁ────!」

 それでも葵の瞳には揺るがぬ意思が宿る。此処で死ぬのは怖くない。ただ恐ろしいのは自らの身が夫の足枷になる事だけだと、そう訴えている。

「…………っ」

 ギチリと奥歯を噛み砕き、時臣もまた自らの逡巡に決着を着ける。

「分かった……葵。私は君の覚悟を尊ぼう──」

 振るうステッキに煌くルビーは今、極大の輝きを抱いて夜を照らす。生み出された業炎は大気をすら呑み込み、自らの輝きをより強大なものとしていく。

「…………」

 魔術師殺しもまた交渉の決裂を見て取ったか、魔銃コンテンダーに秘奥たる起源弾を装填し、決死の戦場に身を投じる。

「決着を着けよう、衛宮切嗣。妻の覚悟を受け入れ、私は此処に勝利を願う」

「…………」

 切嗣の内心では葵の処遇をどうするか、それを決めあぐねていた。本当に時臣が覚悟を決めたのなら葵はもはや邪魔な存在。しかしそれがブラフであるのなら、まだ使い道は残っている。

「────舞弥」

 切嗣は銃口を時臣に向け、

「遠坂葵を殺せ────!」

 最後の激突に至る号砲を告げる。

 それは刹那の攻防。切嗣が葵の名を呼んだその瞬間に時臣は炎の腕を最大に振るった。巨人の掌のように覆い被さる極大の炎は、切嗣は無論、舞弥と葵すらも捉え逃がさない。

 同時、時臣は駆け出した。自らの身に宿る魔術刻印を総動員しての身体能力の強化。自ら炎の中に吶喊するにも等しい無謀を瞬きの間に行った。

 ──やはりか遠坂時臣!

 時臣には葵を見捨てられない。彼女ほどこの男は冷徹な魔術師ではないのだ。それは魔術師としての欠陥であり致命傷。決死の戦場において妻を救う為に駆け出した先が冥府に繋がる三叉路だと気付いていない。

 此処が冥府への岐路であるのなら、その分岐点に立つのは死神だ。魔銃の顎門はぶれる事無く標的のみを捉えている。

 そして舞弥は当然にして切嗣の命令を遂行する。自らに降りかかる火の粉などまるで見えていない。迫る死の足音に頓着すらせず、ただ告げられた命令をこなすべく、腰元より拳銃を引き抜き葵の頭部に押し付けようとした。

 その予備動作。確実性を欠くナイフから拳銃に持ち替える刹那の間隙を衝き、葵もまた暴挙に出た。

 後ろ手に拘束されたまま、血を失いすぎた頭を精一杯振り被っての頭突き。当然にして対象は久宇舞弥。押し付けられようとしていた銃口をすら捻じ伏せ、まさに渾身の頭突きを見舞う。

「ぐっ────!」

 一瞬の虚を衝かれた舞弥は拘束していた腕の力を緩めざるを得ず、葵はとうとうその身の自由を手に入れた。
 駆け寄ってくる妻の姿を見て取った時臣は、これで憚るものはないと、今宵最高の炎の煌きを夜に輝かせて、切嗣を灰も残さず焼き尽くさんと振り下ろした。

 ただ既に引き絞られた魔銃の顎門は、既に時臣を射線上に捉えており、限界を超えた魔術行使を行った時臣に避ける術はなく────

「はっ────、ぁ、ぁ、あ……」

「あお、い────」

 銃弾は射線上に飛び出した葵の胸を寸分違わず貫通し、その命の炎を消し去った。

 同時。

 勢いを倍加した事で炎の檻から逃れる術を失した切嗣は、突如目の前に現れた黒い女に目を奪われた。

 ──何故だ。

 そんな思考とすら呼べない疑問を浮かべた刹那に、女──舞弥は力の限り切嗣を突き飛ばし、自ら炎の中に消えていった。



+++


 此処に戦いは決着する。

 切嗣も時臣も互いに無傷。炎の舌は魔術師殺しを絡め取る事が出来ず、魔弾は標的を撃ち貫く事が出来なかった。

 しかし炎は久宇舞弥を飲み込んだ。
 しかし銃弾は遠坂葵を撃ち貫いた。

 男達の戦場に割り入った女達の犠牲を以って、この場の闘争は完全な決着を見た。

「葵……」

 炎が炸裂した衝撃に乗じ、葵を抱えて戦場から離脱した時臣は、自らの腕の中でぐったりと横たわる妻の顔を見た。
 蒼白な色。血の気というものが薄れ、生の鼓動が感じられない。命の灯火の小ささを表すかのように、全ての色が失われていっていた。

「ぁ……あな、た……」

「葵!」

「無事で、なにより、です……」

「なにを……何を馬鹿な事を……」

 この身が何故死を賭したと思っている。誰の為に命を懸けたと思っている。全ては葵の為だ。彼女を救う為に、時臣は魔術師殺しに立ち向かったのだ。
 それがこの結果だ。愛した女一人を守れず、それどころか庇われたとあっては立つ瀬がない。

 守りたかったものに守られた。守られてしまったのだと、その姿が胸を打つ。

「泣かないで、ください……あなたはあの子達の、父親ではありませんか……」

 零れる涙は止め処なく。葵の頬を濡らしていく。その涙こそが彼の愛の証。腕に抱いた妻に対する偽りのない心の在り処だ。

「ほら……しゃんと、して、ください。えりが、曲がっていますよ……」

 伸ばされた腕に力はない。頼りなく揺れる腕は時臣の首下に届く事無く崩れ落ち、それを止めたのは他ならない時臣だ。妻の手を握り、その身を抱きしめながら、言葉にならない思いを吐露していく。

「なぜだ……なぜ君は、そうまでして私を守ったのだ……?」

「そんな、もの……決まっているじゃありませんか……私はあなた、の妻で、あなたはわたしの夫だから、ですよ……」

 ──貴方が私を守りたいと思ったように、私もそう想ったのです。

 そう、震える唇で伝えて、葵は口元より血を零す。

「葵ッ!」

 時臣の治癒魔術は決してレベルが高くない。死に往く女を救ってやれるほどの効果は望めない。せいぜいが痛みを軽減してやる程度。幾許もない余命を、ほんの少し引き伸ばせるに過ぎない。

 消えていく命。
 救えない祈り。
 もはや避けようのない別離を前に、時臣は葵に問いかけた。

「葵……何か、何か望みはあるか。なんでもいい、私に出来る事なら叶えて見せよう」

 この身は葵によって救われた命だ。ならば彼女の最期の願いを聞き届ける義務がある。いや、そうしたいのだ。そうしてやりたいのだ。
 これまで献身を尽くして来た葵に対し、時臣は決して立派な夫であったとは自分自身思っていない。彼女を悲しませた。凛を、桜を悲しませた。

 愛する者達に涙させる男など、碌なものではない。

 だからこそ、せめて最期にその祈りに報いたい。彼女の為に出来る事をしたいのだ。

「なにも……こうして、あなたの腕の中で、あなたに看取られて、死ねる、のなら……わたしはそれで、満足です……」

 ただ──と、

「本当に、願いを叶えて貰えるのなら……ああ、あの子に、桜に、もう一度だけ、会いたかった────」

 それをこそが遠坂葵の純真無垢な祈り。魔術師の妻としてではなく、唯一人の母として願った叶わぬ願い。

「時臣さん────」

 吐く息は白く。
 空より零れ落ちる雫が、雨となって降り始めた水粒が、死に往く女の頬を滑る。

「愛しています────いつまでも……ずっと」

「ああ。私もだ、葵。わたしはいつまでも君を愛している」

 その言葉に偽りはなく。
 二人は最期の愛を唇で交わし、女は愛した男の腕の中でその息を引き取った。

「…………ああ」

 男は天を仰ぎ見る。失ったものの大きさに、ぽっかりと胸の中心に穴が開いてしまったよう。
 降り頻る雨もこの心を癒してはくれない。ただ無情に肌を冷たく打つだけだ。

 凍えるほどの寒い夜に、男は一人涙する。

 愛した女を強く腕の中で抱きしめながら。
 行き場を亡くした慟哭を、嗚咽に変えて────



+++


「何故、僕を庇った」

 切嗣は炎に焼かれた舞弥を腕の中に抱きながら、そんな疑問を投げ掛けた。

 久宇舞弥は機械だ。切嗣の命令なくして動く事のない人形だ。彼女に人並の情など一欠片もなく、ただ任務を遂行するだけのもの。

 そのように彼女を造った。切嗣が造り替えたのだ。

 戦場を未だ横行していた際に拾った子供。
 安価な爆弾代わりに使われていた少女を拾い、育てた。何故そうしようと思ったのかは切嗣自身もう思い出せない。

 ただこの拾った少女の命一つで、より多くの命を救える時が来たのなら、死んで貰うつもりだった事だけは覚えている。

 それがこの様だ。
 舞弥はその命で救ったものはただ一つ。
 切嗣自身の命だけだ。

 いや────

「今の僕の性能なら、あの炎の中ですら生き残れた筈だ。それを、おまえも知っていた筈なのに──」

「勝手に……身体が動いたのです……」

「……舞弥」

 か細い息。喉を焼かれたのか、声はただの音に成り下がっている。腕の中にいるから聞こえる程度の声量で、それでも舞弥はそう確かに呟いた。

 それは舞弥の在り方を思えば異常な行動だ。

 戦場に常に身を置いていた切嗣と共に行動するに至り、少女は機械である事を余儀なくされた。たかが爆発で怯えたり、銃声で混乱に陥っては使えない。そうなれば捨てていくと言い、捨てられる事を恐れた少女は自らの心を殺す事で道を共にした。

 喜怒哀楽を学ぶよりも先に人の殺し方を覚え、感情を理解する前に銃の扱いを覚えた。そうしなければ生きていけなかったと言えばそれまでだが、それでも彼女は切嗣が思うよりも常軌を逸し過ぎた。

 切嗣が今のようになったのが物心ついた後であるのに対し、舞弥は物心つく前から戦場にいた。
 一人の人間を戦士に育てるよりも子供に銃を持たせて突撃させる方がコストが安い──それに気付いた権力者の捨て駒として彼女は戦場に放り込まれた。

 同時期に攫われ銃を持たされた子供達。彼らが死んでいく傍ら、舞弥は生き抜いた。その心を既に壊されていた彼女は、人を殺すことに感慨も躊躇もなく忠実に戦果だけを上げていった。

 それは主が切嗣に変わっても変わらなかった。やっている事は同じ。引き金を引き、標的の頭蓋を撃ち抜くだけ。より凄惨に、悪辣に、人を殺す機械として完成した。彼女の精神性は切嗣をすら凌駕する。

 だからこそ不可解だ。切嗣の命令がなくば動かない人形が、何故勝手に動く。人を殺す事しか知らない機械が、何故人を助ける真似をした。

 ──ああ、そうか。

 この女は、死に場所を探していたのだと、切嗣は思った。

 誰かの為になる事。それがきっと、彼女が宿した唯一の願い。血で濡れ、消せない咎を烙印された掌で、誰かの為となりたかった。
 どれだけ心を凍て付かせようと氷にはなれない。どれだけ機械だと思い込んでも、人は本物の機械になどなれないのだ。

 彼女の心の奥底に残っていた人としての想い。彼女自身理解出来てなどいなかったであろうその感情が、あの時舞弥を衝き動かしたのだ。

「──良くやった」

 だから掛けてやるべきは労いの言葉。この身の為に生涯を費やした彼女に、せめてもの夢を見せてあげなければ。

「舞弥のお陰で僕は無事だ。これからも続く戦いに、何の支障もありはしない」

「はい……」

「だからもう休むといい。もう僕の無茶な計画に付き合う必要はないんだから」

「そっか……うん、でもそれは……悲しい、のかな……」

 衛宮切嗣の部品となった少女。その末路は身を呈して本体を守り抜いた。その事実に間違いはなく、そしてこの別離は彼女との出会いから、決定付けられていたものだ。

 初恋の少女を殺し、師と仰いだ人を殺した。そして今、片腕とした少女をも、自らの理想の犠牲とする。
 それに罪悪感を覚えない。覚える事は許されない。ただその死と罪だけを背負い、果てのない荒野を歩いていく──それが切嗣に許された贖いだ。

「私は……きりつぐの役に、立てたかな……?」

「ああ」

「そっか……ああ、うれしい、な────」

 その最期に。
 人としての感情を手にして、少女はその双眸を深く閉じた。

「…………」

 また一つ命を犠牲にした。
 理想を叶える為の轍とした。

 それに感慨を覚える事はない。
 決まっていた結末が、思いの外長い時間持っただけの話だ。

 だってほら、この身は涙さえ流せない。もっとも長く傍に置いた女を失ってすら、何の悲しみも覚えていない。
 ただ一抹の後悔があるとすれば、彼女を犠牲にして救えたものが、余りに少なかったという寂寞だけ。

 なんという無情。度し難いほどの無感情。自らを天秤に見立てた切嗣にとって、片方の皿に載せる命の多寡に、貴賎も感情も差し挟まない。
 だから今失ったのはただ一つの命。それ以上でも以下でもない、厳然とした命の一つを失っただけに過ぎない。

 それでも腕の中にあるぬくもり。
 消えていく温かさが、彼女が今まで生きていたのだと伝えていた。

 降り出した雨。
 肩を打つ雨音。

 そして遠く──遠雷のように轟く狂獣の慟哭。
 その遥か彼方には、山の如き居様さえも見えている。

「まだ戦いは終わっていない。僕はまだ、何一つ犠牲に報いていない」

 失ったものに報いる為には、この歩みを止める事など許されない。
 どれほどの過酷だろうと、踏破しなければ意味がない。

 ならばこの戦いを終わらせよう。
 その果てに輝く奇跡に手を伸ばそう。

 心を硬く鉄に変える。
 何処までも硬く。
 何よりも堅固に。
 揺るぎのない意思の力で、全ての敵を殺し尽くす。

 間もなくセイバーも戻るだろう。
 戦いの二幕は既に始まっている。

 戦場へと歩みを進める。
 止める事の出来ない歩みを、何処までも続けていこう────


/2


「ァァァァアア……!」

 迫る死の予感を渾身の一撃で弾き飛ばす。二撃目を後退で回避し、大地を抉った槍を撓りを利用し振り上げる。迫る三撃目と四撃目を同時に撃墜し、五挺同時の爆撃を、両手に担った得物で切り払う。

「ぁ……あぁ────!」

 もはや言葉は声にならず、過剰に酷使された腕からは血が滲み出している。足には力が入っているのかさえ分からない。それでも痛みを感じない。内から湧き出す黒い情念が全ての痛みを覆い尽くす。

「生き意地が汚いな狂犬よ。そうまでして……そんな無様を晒してまでどうして貴様は剣を握る?」

 それは賞賛にも等しい疑問の投げ掛け。真に興味のないものならこの黄金は即座に殺し尽くしている。王の財に手を出す不敬は許し難いが、これまで耐え凌いだその強靭な意志には興味が沸いた。

 それ故の問い。人の身でありながら英霊の魂を宿してまで求め欲するものとは何か。そうまでして叶えたい祈りとは何なのか。
 憎悪に身を焦がしてまで手を伸ばすその無様──人の業を愛でる王者にとって、それは寵愛に足る滑稽なのかもしれない。

「貴様は賢しいだけの夢を見る屑よりは幾分マシだ。そして人の手では掴めぬ星──それに手を伸ばすのならば良い。
 だが貴様はそうではない。貴様は何を夢見る? その血に染まった手で何を掴みたいと欲するのだ」

「…………」

 自らが何を求めてこの戦いに臨んだか……そんな記憶などとうの昔に欠落している。
 灼熱する腕を振るい、憎悪に心を焼かれる事は、雁夜自身の命を消費しているにも等しい愚挙。

 この黄金に拮抗するにはそれ以外の道がなかった。ただ魔力を消費し憎悪に焦がれているだけでは届かぬ高み。英霊の頂点に手を掛けるにはその峰は余りに高く、間桐雁夜の全てを擲ってようやく指を掛けられた。

 されどそれも既に限界。雁夜の身体の内からはパズルのピースの如く多量の欠片が欠落している。この戦いに挑む以前の記憶を一番に捧げ、無用な連中の名前が削げ落ち、仇敵とした男の名とその男への嫉妬すらも力へと変え消し去った。

 この胸に宿るのは最後の残光。欠片にも満たない小さな灯火だ。救いたかった女の子がいる。手を取りたかった女の子がいる。
 彼女の為だけに──名前さえもう思い出せない彼女の為だけに、それでもこの身は戦いの果てまで疾走を止めない。

「それは、本当か────?」

 弛まぬ覚悟で剣を支えに立つ雁夜へと投げ掛けられる王の声。愉悦を浮かべた口元を隠そうとすらせず、雁夜自身さえも忘却した深淵を覗き込む。

「貴様が命を擲ってまで戦うその祈り。果たしてそれは、本当にその娘とやらの為か?」

「何が……ッ、言いたい……」

 僅かに残った理性を総動員し、未だ背後に無数の剣群を従える王者を見る。裕に二百は捌いた筈の財宝。けれどその底は未だ見えず、雁夜は既に満身創痍。
 立っているのが不思議なくらいの自壊の規模。王の財の直撃を被ったのは後にも先にも一度きり。後の傷の全ては剣を振るう度に入る亀裂によって創られた自傷だ。

 英霊の修復力を上回る程の酷使を以ってなお、この黄金には届かない。
 然り──英霊である限りその王たる者に勝てぬのならば、初めからこの戦いこそが無謀であったのだ。

「思い出すがいい狂犬──いや、英霊をその身に宿した人間よ。貴様の原初を思い出せ。この戦いに臨むと決めた、その初めの想いを思い出せ。
 何、消えてはおらんさ。消えている筈がない。何故なら貴様は──と或る少女の為と謳いながら、その本心では別のナニカの為に剣を執ったのだからな」

「────」

 一体この黄金は何を言っている。雁夜さえ忘れたものを、何故貴様が知っている。そんな疑問には意味がない。きっとこの黄金には他者に見えない何かが見えているのだろう。そういうものだと理解する以外にない。

 その上での疑惑。黄金の言う雁夜の原初。少女の為にこれまで剣を振るい続けてきた。彼女を陽の当たる道に連れ戻してやりたくて、こんな無様を受け入れた。
 どこまでも愚かしい自己欺瞞。少女の絶望を笠に着て、恩着せがましくも正当性を謳い上げた。

 黄金の言う原初とはそうするに至った理由──少女を今一度陽だまりに戻してやりたいと願った理由に他ならない。最初から少女を救いたかったわけではない。彼女の置かれた境遇を知り、そしてその子の為に全てを捧げる覚悟をした。

 その以前……少女の悲痛を知るに至った理由。
 少女の身を案じていた誰かの姿。

 零れた涙を止めたくて、俺は────

「…………っ、あおい、さん」

 そう、彼女こそが雁夜の原点。彼女の涙を止めたくて、悲痛に歪むその顔を見ていられなくて、男はその手に剣を執った。
 好きだった人。ずっと昔から焦がれ続けていた人。その夫に対する嫉妬も、娘に対する愛情も、全ては手に入れられなかった彼女への恋慕の残滓に他ならない。

 彼女の幸せを願い身を引いた。その結果に零れ落ちたものが愛した女の涙なら、他に剣を執る理由など必要ない。
 この身を賭して戦う事に、他に何の理由が必要か。

「思い出したか? 自らが戦う理由を。この我を前にして譲れぬ祈りを」

 彼女の夫のサーヴァント。それは許せる筈がないものだ。彼女に涙を零させた男の従者を前に譲れる事など有り得ない。
 それが敵わないと知ってなお必死で食い下がった理由。今なお剣を支えに立ち続ける覚悟だ。

「ああ、良いぞその目。ただの狂犬には出来ぬ目だ。意思の力を宿し、命の炎を燃やし尽くす事でしか輝かせる事叶わぬ色だ」

 ガラス細工よりもなお精巧で美しい輝き。
 世に遍く宝石と比してなお尊いと確信出来る、凍れる炎の如き不条理。

 しかしその脆さもまた、この王者は知っており──人の業を愛でる黄金は、人の身の破滅をこそ愛している。

「その輝きで見るがいい。貴様の後ろ、遥か彼方で起こった悲劇の結末をな」

 未遠川沿いに広がる海浜公園。今の雁夜とアーチャーの戦場は最初のそれより随分と逸れている。黄金の言う雁夜の後方──そこにあるのは最初の戦場。そして今なお時臣と切嗣が戦っている戦地。

「…………」

 見てはいけない。
 そんな確信が胸に広がる。

 振り返ってはならない。
 そこにあるのは二度とは戻れぬ道への転落。

 そして同時に──見なければならないという強迫観念さえもその心に内在している。
 今振り返らなければ、きっと後悔すると。

 この瞬間を逃せば決して見られないものがあり、そしてそれは雁夜の心に残った灯火を消し去るに等しい絶望を与えるだろう。
 それでも振り返らなければならない。振り返り、そしてこの目に焼き付けなければ後悔さえも出来ない。

 愛した女の終わりを見届けなければ、間桐雁夜はその疾走を止められないのだ。

「────、ぁ……」

 そうして雁夜は振り仰ぐ。絶望が待つ深淵の底を自らの意思で覗き込む。英霊化による視覚聴覚の鋭敏化。黄金に抗する為に全てを傾けてきたその能力を、振り返った先へと集中する。

「あっ────」

 夜霧を染めて猛る炎の嵐。揺るがぬ死を向ける魔銃の銃口。交錯は刹那。互いに死を賭した必殺の攻防は、

「ああ……っ!」

 男を守り炎の中に身を投げた女と。
 夫を庇って撃たれた妻の死を以って。

 戦いは誰にも救いを与えぬ決着を見た。

「あああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ……!!」

 天を貫く狂獣の咆哮。愛した女性が憎き夫を庇い死んでいく様を見て、間桐雁夜は完全に自壊した。彼女の涙を止めたかった。その雫を掬い取りたかった。だがそれはもはや叶わぬ願い。

 雁夜の想いに気付かぬまま、葵は愛する夫の腕の中で息絶えるだろう。
 君の涙を拭い去る為だけに、こうして命を懸けた男の結末を知らぬままに────

 剣を支えに立っていた膝は折れ、腕はその衝撃であらぬ方に折れ曲がる。間桐雁夜の身を衝き動かしていた狂気の源泉が枯れ果てた。湧き出る事のない泉に意味はなく、ならば当然にしてこれは定められた帰結。

 後はその身に宿った英霊に血の一滴までもを喰らい尽くされて、絶望の中に死んでいくだけ。

「ふむ……思ったよりは、詰まらぬ結末であったな」

 自ら雁夜の破滅を導きながら、それでも黄金にとっては足りぬという。雁夜程度の絶望では、黄金の王の心を満たす事は出来ないと。

「やはり我を満足させられるのはセイバーだけか。ああ、それがいい。今なお我に歯向かうのなら、あの顔を苦痛と絶望で歪め、然る後にこの世の全てを与えよう」

 妻とする女の駄々に応えてやるも夫の務め。
 ただしこの我の躾は少々厳しいぞ──

 この戦いの結末にある邂逅を心待ちにする王者。その恍惚に水を差すかのように、その咆哮は放たれた。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!!」

 死に体となった雁夜の身体から噴き出すは黒き憎悪の霧。枯渇した筈の魔力の泉の底を穿ち、内なる獣が遂にその真の姿を現す。

 未だ存命の雁夜は狂獣に持っていかれた狂気の代わりに冷静を取り戻す。既に雁夜には力がない。何を成す為の意志の力が欠けている。
 その身に行動理由がある限り、消えぬ復讐の火が燃え続ける限り、決して折れる事のない力を宿しながらに膝を屈した。

 行動すべき理由を失った。守りたかった女を守れなかった。彼女の為だけに剣を執ったのなら、手放すのも当然だ。

 だが……雁夜に宿る英霊には未だ消えぬ意志がある。復讐の炎を燃やす理由がある。だから猛り吼え上げる。そこをどけ。貴様がこの身体をいらぬというのなら、この私が貰い受けると──

「はっ──あぁ……、っ……いいぜ」

 こんな身体で良ければくれてやる。
 復讐の炎に身を焦がせばいいと、雁夜は内なる声を受け入れた。

 此処に主従は逆転する。

 一つの身体に二つの魂。その異様な在り方ゆえに反発しあってきた二つの意思は今此処に一つに混ざり合う。
 間桐雁夜の自意識が薄れ、英霊の意識が表面化する。今まで狂気でしか訴える事のなかった獣は、主の理性を借り受け真の魔人へと変貌する。

 元より高いステータス値を狂化によって底上げしながら、別の所で理性が存在するその矛盾。
 自己の魔力による自己の維持という無限円環。止まる事のない疾走の理は、際限なくその速度を増していく。

「ァァ…………」

 黒い霧が逆巻き天へと猛る。影に覆われたその向こう──間桐雁夜だった肉体に宿る英霊の肉。全てを覆い尽くす漆黒の鎧。赤い眼光煌くスリット以外を覆い隠したフルフェイスヘルム。

「ァァァァァ……」

 黒い風にたなびく無数のライン。狂戦士は屈した膝を大地に着け、折れ曲がった筈の手を支えに立ち上がる。
 スリットの奥に輝く眼光は、目の前に立つ黄金の王者ではなく──

「アァァァァァァサァァァァァ……!!」

 ────遥か彼方より来る清廉な風、自らの仕えた王をこそ見据えていた。

「……ほう」

 闇の甲冑を身に纏い立つ復讐の魔人を眇めながら、黄金は嘯いた。

「貴様の名を知っているぞ狂犬。なるほど、貴様セイバーの昔馴染みか。ああ、ならばじゃれ合うが良い。
 そうして心を折られれば、我への恭順の心も芽生えるやもしれぬ」

 黄金など眼中にないと走り去るバーサーカー、そしてアーチャーもまた自らを無視した魔人への関心の一切を捨て、強大な魔力の胎動と共に生まれた、山の如き威容を遥か彼方に見る。

「異界より我の庭に異物を持ち込む事、度し難いと言った筈だぞ雑種。これが我を遇する為の贄ならば、貴様は何一つをすら見えていない」

 直後、振り上げた腕の先に生まれる巨大な黄金の泉。数々の剣群を生み出した源泉より現れたるは、黄金の船。空を翔る翼持つ古代遺物だ。その中心に鎮座する玉座へと至り、王は見えない舵を切った。

「奴の目的が我を越えた先のセイバーにあるのなら、それは少しばかり面倒だ。
 なあキャスター、今は躾の最中だ。無粋な横槍を入れるつもりであるのなら、この我自ら相手をするぞ?」

 王は黄金の船を駆り空を往く。
 有象無象を間引き、その果てに待つ逢瀬を心待ちにしながら────


/3


 時を遡る事約一日。
 話はアインツベルンの森での戦いを終えた頃に戻る。

「ん~、なんだかなぁ。ちょっと違うんだよなぁ、これじゃないんだよなぁ……」

 深くヘドロのような闇の底。纏わりつく闇に頓着する事無く雨生龍之介は手にしたメスをくるくると回す。刃先にべっとりとついた赤い血の色が頬に掛かった事も厭わず、空いた左手でがりがりと後頭部を掻いた。

 青髭を名乗ったキャスター……龍之介のサーヴァントの戦いを水晶球で観戦した後、その熱情に中てられてメスを執った。

 キャスターの心情を思えばそれは敗戦であり屈辱に塗れたもの。しかし龍之介にとってはそれが紛れもない現実であり、スクリーンの中ですら見れないと思っていた本物の輝きであった事は疑いようもなく。

 日常に耐えられず非日常に手を染めた青年にとってそれは感涙に咽ぶに足る感動。生で見れない事だけが悔しかった。

 そして彼がメスを手に執ったもう一つの理由、間もなく帰って来るキャスターに自分も負けない作品を見せたかったからだ。

 あれほどのスペクタクルを、エンターテインメントを見せられたのだ、ならば同志としてはただ呆けて見ていましたと告げるのでは芸がない。
 青髭が驚嘆するような作品を作ってみたい──そう思い、キャスターが残していった幼子の腸を掻っ捌いて色々と試行錯誤して見たものの、どうにも上手くいかない。

 死なないように呪を施されているので、青髭と出会う以前、壊さないように愉しんでいた自分ひとりでは思いつきもしなかった、思いついても試せなかった諸々についても試みてみたものの、やはりしっくりと来ない。

 腹の上を滑る白銀。ぱくりと割れた先に望む臓腑の色。心臓の鼓動に合わせて蠢く命の煌き。その輝かしさは素晴らしくはあっても、いや、素晴らしいからこそ勝てないと、そう結論するしかなかった。

 これは既に芸術品。他人の手を加えてどうこう出来るものではない。完成した絵の上に素人が筆を重ねては、それは単なる冒涜だ。
 龍之介が知恵を巡らし技巧を加えてなお、この完成した芸術に勝るものを生み出せない。

「そりゃそうだ。こちとら足がけ数年程度の殺人鬼。
 向こうさんはそれこそ億年の時をずっと筆を走らせ続けている大先輩だ。ああ、そりゃ勝てねえ……そりゃ無理だよ」

 まさしく匙を投げるが如く手にしたメスを後方へと放り、からんと大地を滑った後、闇より湧き出たかのような威容の足元で止まった。

「ああ、旦那。おかえ……り?」

 ぬう、と身を乗り出して龍之介の隣へと歩み出たキャスターの双眸、ぎょろりとしたその瞳が憎々しげに、忌々しいものを見てしまったと歪んでいた。そしてその奥底には、かつて求めたものと遂に出逢えたという歓喜もまた綯い交ぜになっていた。

「……旦那? どしたの?」

 遠見の水晶球では音までを拾えない。故にキャスターと黄金のサーヴァントのやりとりについて龍之介は関知するところではなかった。

「リュウノスケ……」

「ちょ、旦那顔近いって!?」

 がしりと肩を掴まれ瞳の奥を覗き込むように間近に顔を寄せられて流石の龍之介も動揺する。そしてその動揺を更に揺さぶるかのように、青髭は滂沱の涙を零し始めた。

「リュウノスケ……おお……おお……私は遂に巡り会った……どれだけの悪徳を積み重ねてなお我が前に現れなかった彼奴が、遂にその姿を現したのですッ!」

「え、ええと……その言い方じゃあ旦那の彼女じゃないんだよな……えー、じゃあどこのどちら様?」

「神ですッ!」

「え……?」

「疑うのも無理はない。信仰の薄れたこのような世界だ、貴方もまた神の存在など信じてはいないのでしょう」

「いや旦那、神さまはいるでしょ?」

「え?」

「え?」

「…………」

「…………」

 互いの間に横たわる認識の齟齬について、青髭は僅かに首を捻った後、こう言った。

「生前、私は貴方が行って来た悪徳など及びもしない涜心を積み重ねた。我が聖女の信仰を、敬虔を、まるで無にした神に問う為に。
 罪に罪を重ね、悪に悪を上塗れば、いつかその暴挙を見兼ねて我が前に現れるものと」

「…………」

「しかし神は終ぞ私の前には現れなかった。我が大罪に裁きを下したのは人間の欲得……私の悪逆を善性により止める為ではなく、私の所有していた富を奪う為に、彼らは私を捕らえたのです。
 私はその時確信した。この世に神などいない。故に彼女は神に見捨てられ、人の悪意により殺されたのだと」

 それでも心の何処かでは信じていたのだ。
 神は在って欲しい。
 神は在らなければならない。
 でなければ──その信仰に身を焼かれた彼女こそが救われない、と。

「そして私は遂に見つけた。あれは神の如きものではあっても神そのものではないのかもしれない。しかし私と愛しの乙女との邂逅を阻むそれを神の試練と呼ぶのならば、あれこそが神の使徒に違いないと」

 聖杯に約束された聖処女の復活。
 我が身との邂逅を果たす為の永劫の時を超えた逢瀬。
 その巡り会いを邪魔するものが、神の試練でなければなんだと言うのか。

 故に神は在る。
 かつて存在しないと断言したものは、今此処にその姿を現したのだと。

 このジル・ド・レェとジャンヌ・ダルクの邂逅を阻む為に。
 青髭の唯一の願いを、今一度踏み躙る為に。

「その上で問いましょうリュウノスケ。何故貴方は神の存在を信じるのです? 信仰もなく奇跡も知らぬ貴方が、何故そのように迷いなく神の存在を肯定できるのです?」

「そんなのは簡単だよ旦那。だって神さまってのはこの世界を作った奴の事でしょ? ならそいつは確実にいるし、今も俺達を何処かで見てるよ。
 自分の造った箱庭で起こる喜劇と悲劇。感動と慟哭に溢れたスペクタクルなストーリーをずっとずっと見続けているんだ」

 銀幕の中ですら起こりえない、この世界にだけ溢れる奇なるもの。それが人の采配では為し得ない、神の御業と呼ぶべきものなら、ならば当然神はいる。
 そして自分の造った世界の中で起こるヒューマンドラマを百年、千年、万年の間見続けている。

「だってそれにほら、見てくれよ。この血の鮮やかさ、決して人に出せる色使いじゃないだろ?
 神さまの仕業さ。人間が血や腸に惹かれるのだってそりゃ仕方ないよ。こんな色──俺は人の血を見るまで、あるなんて知らなかったんだ」

 龍之介が快楽殺人に走った事の発端はその鮮やかさを知ってしまった事に尽きる。もっと色鮮やかな血が見たい。もっともっと。血色よりもなお血玉の如き赤を探して、龍之介は人の中身を覗いてきた。

 神の造り出した芸術。人の手の入る余地のない至玉。

 ああ、ならば神さまはきっと最高のストーリーテラー。
 喜劇も悲劇も感動も慟哭も、全てを自ら手掛ける超一流のエンターテイナー。

 人の数だけ物語があり、その全てに少しずつ、神さまの色が宿っている。
 世界の全てが人の手では為し得ない奇跡で描かれ、同じように色鮮やか。

 ──だからきっと、この世界は神さまの愛に満ち溢れている。

「旦那が神様の試練を見つけたんなら、こっちも見返してやろうぜ。エンターテイナーはアンタだけじゃないんだって。
 自らを至高だと信じて疑わないマス掻き野郎に一泡吹かせてやろうぜっ!」

「……リュウノスケ」

 それは神という至高の存在を認めながら愚者と同列に置くという矛盾。崇拝も礼賛も悪逆も冒涜もまた同じ。全ては神様への祈りであり反逆。神の悪辣さを認めながら、その崇高さをも認めている。

 青髭にとって龍之介の信仰はまさに瞠目に足るものだった。己が神を憎むのも、同時に神の存在を願ったのも、全てはその掌の上。神は青髭を道化と笑い、そして青髭もまた神を道化と笑うべきだ。そう龍之介は言ったのだ。

「クク……クハハ……クハハハハハハハハハ…………!!」

 これ以上はないという大声を響かせ、腹を抱えて哄笑する青髭。

「ああ……ああ……なんと素晴らしい事かリュウノスケ。流石は我がマスター、この不肖の身では考え付きもしなかったその信仰の形……恐れ入った」

「いやぁ、そんな大層なもんでもないけどね」

「この青髭、ならば我がマスターの信仰に沿い、神への反逆を行うとしよう。無論それはただの悪逆では詰まらない。
 何処までも鮮やかに。何処までも華やかに。世界の全てを睥睨する神が、私だけに注目する──そんなオペラをご覧頂こう」

「お、旦那ッ! 今度はもっとスゲェでかい事やるんだね!?」

「ええ。何か要望があれば賜りますよ? 私では思いも浮かばぬアイディアがあれば是非賜りたい」

「うーん……」

 そう言われて頭を悩ませても龍之介には思いつかない。つい先程神さまへの敗北宣言を行ったばかりの身だ、それに対抗しようなんて案は当然にして浮かばない。

「アイディアつーか要望っつーか……お願いみたいなもんでもいい?」

「ええ。私の心に光を齎してくれたリュウノスケの願いを叶えるに否はありませんとも」

「じゃあさ、俺は──この世でもっとも鮮やかな色が見たい」

 それが龍之介の心よりの祈り。この世界でもっとも美しいと尊べる色。誰もが知らぬその彩を知りたいと、龍之介は口にした。

「ま、漠然とし過ぎたお願いだからそこまで気にしなくていいよ。旦那が魅せるオペラにも期待してるからさ」

「ふむ……もっとも鮮やかな色、ですか」

 この青髭にとってもっとも美しい色とは、聖処女の身を覆うあの鮮烈なる輝きだ。あの輝きに目を焼かれ、一生を捧げる覚悟をした。あの光をもう一度見たい──その為だけにこの身は聖杯戦争に馳せ参じたのだから。

「貴方の言うもっとも鮮やかな色が私のそれと同じであるのなら……可能かもしれません」

「ホント!? 旦那ってばマジクールだぜ!」

「私はあの輝きよりも鮮やかな色を知らない。仮にリュウノスケにとっての一番ではなくとも、一度は見ておくべき光には違いない。
 ですがまずは我が舞台を演出しましょう。神の試練を超えなければ、その光を垣間見る事さえ出来ないのでね」

 その前祝に、少しばかり愉しみましょう──そう言って、二人は腹を掻っ捌かれたまま放置されていた幼子へと視線を移す。

 此処に狂気は結実した。
 神を遇する歓待を以って、その試練を踏み越えよう────



+++


 そして現在。

 闇に没する未遠川上流。街の明かりの届かない川面の中心で、己が宝具を開帳してキャスターは術式の構築を進めていた。

 周囲をさざめく戦の気配。遠く冬木大橋の向こう側で既に戦端が切られている事を知っている。しかしその場に乱入するのは芸がない。神を魅せようというのであれば、まずはこの戦いに招かれた英霊どもを魅せなければなるまい。

 誰もが目を離せぬ歌劇の舞台。それを作り上げてしまえば、後は勝手に役者が集おう。そしてその舞台の上でこの身は最上の悪役を演じるのだ。
 神を貶し、貶め、足蹴にするも等しい悪逆を尽くす化身として。ならば当然にして敵方は正義の味方。悪を討つべく闇夜を斬り裂く光だろう。

 ああ、それは素晴らしい。
 神に仇名す闇色を、神の走狗たる光が相手取る。

 古代より使い古された勧善懲悪。
 故に王道たる物語。

 しかしそれでは芸がない。それだけでは、天上で我らを見つめる神の心を鷲づかみにするには些か足りない。

 ならば当然にしてその常道を外さねば。神の走狗は光ではなく、真の光と闇が出逢う邪魔をする悪意。神の名を騙った偽者だ。

 そんな偽者を駆逐して、闇は遂に光と再び巡り会う。
 彼女の前で、この膝を折るのだ。

 ──お迎えに上がりました、我が姫よ。

 そう傅き、彼女の手をとって口付けをするのだ。

「ああ、そうとも。この程度の台本ではまだまだ稚拙。神の眼を釘付けにするには物足りない。しかし──」

 役者が至高。

 たった一人──聖処女ジャンヌ・ダルクの輝き一つで、その舞台は絢爛豪華な歌劇場へと変貌する。

 それほどの光。それほどの輝き。このジル・ド・レェが死してなお恋焦がれる光であるのなら、神もまた直視せざるを得まい。
 そして泣き咽べ。己が如何に美しい光を見捨てたのかを。彼女の信仰を無為に落としたその下賎を悔いながら、神もまた彼女に平伏するがいい──

 キャスターの総身を覆っていく魔力の渦。異界より招かれし怪魔共が渦巻き蠢きその肢体を覆い尽くしていく。
 彼の手にする強大な魔力炉であり独自の術式を行使するスペルブックの能力を最大限に引き出し、その制御をすら厭わず異界の邪神を喚び招く。

 やがて未遠川に聳え立つは、かつてこの川に調伏された筈の龍神の如き威容。冬木大橋の高度を裕に越える巨大さを誇る大海魔。

 それは既にキャスターの手を離れた怪物。キャスターからの魔力供給で今なお現界を保っていても、これほどの規模、巨大さを維持しきるのは相当の困難だ。
 いずれ限界に達し、自力で餌を求めて街を彷徨い始める事だろう。既にこの地に集う英霊達も大海魔の存在に気が付いている筈。

 ならば後は時間との勝負。
 この怪物が街一つ飲み込むのが早いか。
 英霊達がこの身を討つのが早いか。

 微かに残った理性を総動員し、キャスターは開幕を告げる歌を言祝いだ。

「さあ──これより物語るは、と或る一人の騎士と聖女の物語……彼と彼女が、死したその後に再び巡り逢う恋物語」

 篤と御照覧あれ。



[25400] Act.08
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/30 20:08
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 夜霧を引き裂く白銀の風が吹き抜ける。

 住宅街でのアサシンの足止めを突破し、雑木林を文字通りに飛び越えながら、セイバーは遥か遠方に聳える威容を見て取った。

「っ……なんだ、あれは……!」

 裕に数百メートル以上離れていてなお感じる強大な魔力の波。身を凍らせる夜気を熱砂舞う砂漠の風に変えるほどの濃密な魔の気配。
 常軌を逸し、それ故に異常。あんな化け物がその姿を現しては神秘の隠蔽も何もない。幾ら人気のない真夜中とはいえ、完全な無人ではないのだから。

 そしてあれほどの魔の恩恵に、何一つ知らない一般人が中てられたらどんな結果を齎すか分からない程の愚か者が、分かっていながら行える狂人がこの聖杯戦争に紛れ込んでいるらしい。

 これまで出逢ってきたサーヴァントではない。ならばあの怪物を使役しているのは未だ見ぬ敵──キャスターに他ならない。

 あれは倒すべき敵だ。このまま野放しにして済むような危機ではない。人目に付くだけでは飽き足らず、あれはいずれ街を呑み込む。
 キャスターがどれだけ大量の魔力を内包していたとしても、一人の魔術師だけで到底維持できる規模の怪物ではない。

 腹が空けば手当たり次第に魔力の源を求めて動き出す。倒すのなら今。この手にある聖剣の輝きを以ってすれば、あの怪物とて一撃の下に消し去ってしまえよう。

「しかし──まずは……」

 マスターとの合流を果たさねば。如何に切嗣がこれまでセイバーとの交流を断ってきたとはいえ、あんなものが顕現した以上は是非もない。必要があるのならこちらから幾つかの提案も辞さない。

 幸いにしてセイバーの最大の危惧であった、自身が足止めをされていた間にマスターが窮地に陥ったという事態はなかったようだ。火急を告げるシグナルもなければ、今現在もマスターの存在を知覚出来る。

 故にまずは合流を。そして然る後に対策を立てなければ。

 跳躍というよりも飛翔というべき時間を空で過ごし、見事な着地と共にセイバーは海浜公園へと帰還した。

「これは……」

 しかしその場にマスターの姿は既になく、戦闘を行った痕跡として焼け焦げた大地だけがその凄惨さを晒していた。

 これほどの戦いを経てなお切嗣が無事であった事は安堵すべき事だが、ならば彼は何処に消えた。

 それほど遠くない場所に気配を感じていても、その詳細な場所までは掴めない。闇雲にマスターを捜す為に駆け回るか、マスターの判断を仰がず単身であの怪物の下へ向かうか。その決断を決めあぐねている間に、

 ────ソレは、いつの間にか其処に存在していた。

「…………ッ!? 貴様は……!」

 闇。そうとしか形容できない、されど人の形。溢れる魔力の渦は正体を包み隠し、僅かに垣間見れるのは黒い甲冑と爛々と輝く赤いスリットのみ。セイバーの剣を覆う風王結界と同等かそれ以上の隠蔽を為す不詳の能力。

 加えてこのサーヴァントには本来バーサーカーには備わらない筈の技巧を有している。アーチャーを相手に撃ち出された宝具を掴み取り奪い、自身のものとする異能を以って拮抗した。

 それだけならばまだ救いはあった。狂戦士として異常の枠にあっても、それだけならばまだ如何様にも対処法はあった。

 だがこのサーヴァントは……
 バーサーカーの剣技は……
 この男の正体は……

「……口の利けぬ輩に問うのは無意味ではあるが、あえて言わせて貰おう。今、この場で私達が戦う事はあの怪物を見てなお優先されるものと言えるのか」

 未遠川上流に聳える大怪物。その出現から既に数分、もしかしたら既に一般の市民の目に留まっているかも知れない。セイバーが海魔を危惧したのと同様、他のマスターやサーヴァントも同じく怪物を最優先討伐の対象に据えている筈だ。

 しかしこの理性なき狂戦士だけがあの威容よりもセイバーを討つべくこうして立ちはだかっている。

「私の言葉を解すだけの理性が御身に残っているのなら、どうかこの場は引いてくれ。まずはあの敵をこそ討つべきだ」

 それは英霊として正しい形。この一時に限っては聖杯を賭けた死闘という名の戦争もまた形を失している。大海魔はこの戦いの根底を揺るがしかねないもの。明確な悪と断じられる存在。

 ならば世界に祀り上げられた英雄の一騎として、その矜持に則り世界を侵すあの悪意を打倒しなければならない。

 そう口にしてセイバーは自嘲の笑みを釣り上げる。
 この私が、誇りを蔑ろにしてでも叶えたい願いを持つこの私が、そんな上辺だけの綺麗事を口にした事自体が嘲笑に足る。

 その綺麗事の底に蟠る闇は何だ。目を背けている汚泥の正体は何だ。決まっている──セイバーは、このサーヴァントと戦いたくないのだ。

「ァァァァァァァアアアアアアアアア……!!」

 走る狂気の具現。セイバーの言葉になど耳を貸さず、花壇を囲う鉄柵を引き千切り、自らの宝具に変えて疾走する。
 対するセイバーもまたこの強力なサーヴァントの目を盗み大海魔の下へ向かう事は困難と判断し、迫る暴風を迎撃する為剣を構えた。

「アァ────!」

「────はぁ!」

 弾け飛ぶ火花。
 夜の闇を焦がして幾重もの火の花が咲き誇る。

 アインツベルンの森での戦いでは気圧されたが今は違う。如何に強力な能力を持ち、他を圧倒するステータス値を誇ろうとも、それが『見知った』相手の剣戟ならば、捌けぬ道理がない。

 森で不覚を取ったのはその事実が逆に作用した為。この狂気がセイバーの良く知る騎士であって欲しくないという無様な嘆願ゆえの失態だ。

 そんな愚にも付かない願望は既に捨て去った。最後の希望を込めた先の言葉も、狂乱の檻に囚われたこの騎士には届かなかった。
 ただ負の想念を鎧に満たし、自らの憎悪を覆い隠すもの。剣戟に込められた復讐の狂気は辛辣な重さとなってセイバーに降りかかるが、それでもこの剣を折るには値しない。

 十、二十と剣を重ね、それでなお共に致命に至る一撃は被らないし与えられない。互いの手の内を知っている。何処から剣が来るか身体の芯が理解する。生前より速くとも軌跡が同じなら対処は容易。見えぬ剣とて意味を為さず。

「……そのような闇で己を覆い尽くすとは、貴公らしくもない」

 剣と剣とがぶつかり合う狭間、覚悟を決めたセイバーは敵に向けて言葉を発する。

「かつての清廉な剣戟はどうした。最強を謳った剣の冴えが濁っているぞ。あの威風を纏いながらに涼やかだった面持ちを、何故隠す。
 そのような闇に隠れず、己が心を打ち明けてみせよ──湖の騎士(サー・ランスロット)!!」

 繰り出された一撃を全力で撃ち払った直後の大上段から必殺の太刀が闇を払う。
 間一髪、身体の軸を後方にずらした狂戦士の身体には傷はつかず、けれど風の刃が素顔を覆い隠す兜に亀裂を刻んだ。

「それは貴方も同じだ無謬の王(キング・アーサー)。貴方の剣もまた、迷いが見える──!」

「…………っ!?」

 セイバーの驚愕は底知れないものだった。狂気に侵されたが故の狂化能力。それは理性を剥奪し言語を失う代償に力を得る筈のもの。それが今、心に渦巻く闇に囚われながら、この狂戦士は言葉を解し、そして発したのだ。

 あまつさえ繰り出された一撃は最強の一振り。宝具化していた鉄柵を放り捨て、自らを覆う闇をその右手に集め束ねて一振りの剣と為した。

 当代最強の剣士のみが振るう事を許された剣。セイバーの担う聖剣と同じく湖の貴婦人より賜れた神造兵装。彼の聖剣が星の輝きを束ねた剣ならば、この剣こそは水面に映える月の雫を凝縮した剣。

 その軌跡は鮮やかに。
 決して毀れる事のない、月の輝きを束ねた聖なる剣……

 ──其の名を無毀なる湖光(アロンダイト)

 今は憎悪に焼かれた担い手に呼応するかの如き魔性を帯び、聖剣としての格を失し魔剣として顕在していても、その切れ味には微塵の衰えもなく。

「くっ……!」

 狂戦士が言葉を発した事に対する一瞬の驚愕、そして狼狽を衝くが如く振るわれた魔性の剣。必死の後退を以ってしても完全には避けきれず、セイバーはその頬を僅かに血で染められた。

 同時、バーサーカーの面貌を覆っていた兜が割れ地に落ちた。その貌にかつて遍く女性を虜にした甘いマスクは見る影もなく、狂気と復讐、負の想念によって歪められた赫怒の色が宿っていた。

「お久しぶりです我が王よ。幽世の果て、時の彼方にてこうして巡り会えた事、真に光栄の極み」

「……ランスロット……貴方は……」

「ああ、狂化していながら理性を保っている事が不思議ですか? それは恐らく召喚の際の不手際……いえ、こうなる事を狙って行われたもの。故に私にはその理由など分かりませんし、実のところどうでもいい」

「…………」

「どうしても問い質したいのなら我がマスターに問うて欲しいところですが、彼は既に私の中で息衝くのみ。その声を聞き届ける事すら叶いませぬ。
 ただ私はこの状況を喜ばしく思います。狂化しながら理性を保てた事。御身がこの戦に招かれた事。その全てが私にとっては至福なのです」

 胸に渦巻く狂気に囚われながら、こうして生前仕えた王に──復讐の対象と言葉を交わせる事が嬉しいと、完璧と謳われた騎士は口にする。
 そこに彼の生前の生き様を見る事が出来ない。遍く騎士達の理想の権化、崇拝にも等しい礼賛を浴びた男の影など何処にもなかった。

「狂化せねば為し得なかった復讐……なれどただ暴力で押し潰してしまっては余りにも呆気がなさ過ぎる。故に王よ、どうか我が祈りを聞き届けて欲しい」

 今の彼は後世、汚名を被り侮蔑の対象となった裏切りの騎士そのものだ。

 王の妃と不義を交わし、円卓に連なる者達を斬殺してまで一人の女を救おうとした背徳の騎士。理想の王の治世に修復出来ない亀裂を刻み込んだ、円卓を引き裂いたにも等しい堕天の騎士。

「恥を忍んで申し上げる──我が王よ、どうか御身の剣で我が罪を裁いて欲しい」

「なっ……!?」

 幾度目の驚愕だろうか、セイバーにはもう分からない。

 何故この騎士はそんな事を口にする。その身が復讐という狂気の表れであるのなら、その言葉は真逆だろう。罪を裁くのは汝の剣であり、裁かれるべきはこの不肖の王だ。この男にはそれを為すだけの理由があり、為していい権利がある。

 セイバーとて簡単に胸に秘めた祈りを折る事は出来ないが、それでも復讐という名の後悔を受け止める腹積もりであったのに。

 狂気に囚われてまで復讐を果たしたかった筈だ。かつての涼やかな佇まいを金繰り捨ててまで渇望した筈の呪詛の如き怨念だった筈だ。それをこの身は受け止めなければならないと覚悟したというのに。

「何故だ……何故貴方はそんな事を言うのだ? 貴方の復讐の対象は私だろう、ならばその剣を突き立てるべきは我が胸だろう!? それを……!」

「ただ狂気に囚われていたのなら、あるいはそうだったかもしれませぬ。しかし今、この身には刹那にも等しい時間と言えど理性が灯っている。
 それにこれは充分に貴方に対する復讐でありましょう。何せ理想の王である事を望まれた貴方に、私情で剣を振れと強要しているのですから」

「…………っ」

「しかしそれでは貴方の心も晴れはしないでしょう。どうせこの身は器の壊れた砂時計。今も我がマスターの肉体は悲鳴を上げ、苦痛に苛まれている。
 故に残された限りある時間、どうか手合わせをして欲しい。この命尽き果てるその時まで貴方と語らいたい」

 ──それが私に残った最期の祈りです。

 そう告げて、裏切りの騎士は手にした魔剣を構えた。

「サー・ランスロット……貴方は……」

 そのような身に堕ちてまで、なお心の奥底に清純なる輝きを灯しているのか。理性がなければ身を任せられた狂気になお抗い続けるのか。

 それは復讐と呼ぶには余りに狂おしく、そして切ない祈り。たった一欠片残った理性を握り締め、憎悪の形を歪めている。
 その影にチラつくのは理想と謳われた騎士の姿。王の傍らに常に在り続けた理想の騎士の姿だ。

「……いいだろう」

 今この時、この場でこの男を超えねばセイバーの理想は遂げられない。この男の闇から目を背けては、この先常に胸に痛みが蟠る。

 頭の片隅に燻っていた遠く聳える威容の姿を完全に消し去り目の前の敵手にだけ意識を向ける。他の何かに囚われて、越えられるほど楽な壁ではない。
 眼前の敵手はセイバーが知る限りにおいて最強の剣士。太陽の加護を得た彼の騎士(サー・ガウェイン)とすら真っ向から拮抗出来る馬鹿げた実力の持ち主だ。

 円卓最強。王を差し置いてその名を欲しいままにした騎士が、更に狂化されているとすればその実力たるや考えるだに恐ろしい。
 それでも超えなければならない壁である。生前に残した悔いの一つが、こうして亡霊となってまで立ちはだかったのだから。

「ランスロット。ならば私も貴方の剣に王として応えよう。それがこの身に許された、王としての責務であると受け取った」

 鋼の心を再び纏う。揺るがぬ意思、鋼鉄の決断力で国を治めていた理想の王が此処に具現する。ただ一振りの剣ではこの男の迷いを断ち切れない。
 騎士がその胸に刃を突き立てて欲しいのは、セイバーではなく王であるアルトリアだろうから。

「王としての責務……なるほど、それが御身の剣に感じられた迷いか」

 ならば当然にして応えるのは狂戦士ではなく理想であり裏切りの騎士の剣。生前語り尽くせなかった言葉をただ剣に乗せて語らおうと、黒き刃を突きつける。

「……少し変わられましたか王よ。生前の貴方から感じられなかったものを感じます」

「自分では分からない。ただ一振りの剣である事を望まれたから、そう振舞っているだけなのかもしれない」

 王としての頑なさは形を潜め、主の意に沿う為の剣となった。それが変化と呼べないほどの微々たるものであったとしても、生前を知る彼から見れば何かが違って見えたのかもしれない。

「──では我が王よ」

「ああ、来いランスロット。御身の負の想念、我が身一つで受け止めてみせる──!」

 聖剣と魔剣がその魔力の高鳴りをより強大なものへと変えていく。

 降り頻る雨。
 しかし消せない熱を帯びた二人の前に、雨粒など視界にすら入っていない。

 此処に理想の王と理想の騎士とが激突する。
 生前果たされなかった想いを、共に剣に乗せてぶつけ合う為に────


/2


「……こりゃまたどえらいのが出てきたな」

 未遠川遥か高空。

 神威の戦車を駆る征服王イスカンダルとそのマスターであるウェイバー・ベルベットは突如川面に現れた威容に目を奪われていた。

「な、な、何なんだよあれっ!? あんな怪獣がこんな街中に居座ってちゃ神秘の秘匿も何もあったもんじゃないだろっ!?」

「キャスターか。ちっ、もう一足早ければこんな所業を止められたというのに」

「…………」

「ん? おお、別段貴様を貶めておるわけではない。むしろ良くやった方だろう。キャスターの根城を潰し捕らえられていた幼子達を救出し、監督役に通報した。充分に誇るべき成果であろうよ」

 キャスター討伐令が出された今朝方よりウェイバーはこの奔放な王を御する為の追加令呪を欲し、調査を行っていた。

 街の中心部を流れる川の水に試薬を用い、魔力の痕跡を探り出す。ウェイバー曰く下策であるその手段で、確かにキャスターの根城であった上流に位置する下水道内の工房を発見する事が出来たのだ。

 ただタイミングが悪かったらしく、工房の中には犇く海魔と弄ばれた幼子達の亡骸。そして牢の中で震えていた数名の無事だった子供らだけであった。

 工房の主もそのマスターの姿も影も形もなく、捕らえられてなお生き延びていた幼子達を見捨てるわけにもいかず、監督役に通報する事で無事に保護する事が出来た。

 赤毛の王が言うとおりそれは充分に誇るべき成果、大金星だ。キャスターを放置し他のマスターを罠に掛けていた切嗣の所業を思えば魔術師として真っ当なのは間違いなくウェイバーである。

 ただそれでも悔しさは止められない。もう少し早く敵の拠点を突き止められていれば、自分に力があればと歯を食い縛るしかなかった。

「失ったものを数えるな、救ったものの数をこそ数えよ」

「え……?」

「坊主は確かにあの幼子達を救ったのだ。もし余らが工房をぶち壊さなければ、今頃あの子らもまたその犠牲になっておったやもしれんのだ」

「…………」

「胸を張れ。自らが掴み取ったものをこそ見よ。余は坊主がマスターであった事、真に誇りに思っておるよ」

「……うん」

「そしてなお誇りを得たいのならば、まずはあのデカブツをどうにかせねばなぁ。でなきゃかつてないほどの被害が出るぞ」

 キャスターがこれまで手に掛けた命など、あの大海魔の振るう触手の一薙ぎで簡単に上回ってしまうだろう。
 その暴虐を止めようというのなら、この場で確実に仕留めなければならない。今はまだ川面の上だが、あれが街に上陸してしまえばそれこそ全てが終わってしまう。

「ああ、今はあれを止めよう。で、おまえあれを止められるのか?」

「うーむ……ま、とりあえずはやってみるか」

「なんでそんな自信なさげなんだよ……」

「何でも何もありゃちぃとばかしデカすぎる。
 余の宝具たる神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)の全力走法を以ってなお完全に仕留め切れる自信はない。それでもま、やるだけはやって見ようぞ────!」

 強く手綱を引いて戦車を率いる神牛に喝を込める。遥か高み、雲間を突き破る空の彼方より降る雷神の槌。その体言の如く、神威の戦車は稲光を纏って大海魔の横っ腹へと突っ込んだ。

「いざ馳せよ──遥かなる蹂躙制覇(ヴィア・エクスプグナティオ)……!」

 雷神の戦車最強の蹂躙走法を以っての吶喊。
 それは蠢き犇く大海魔の横っ腹に風穴を開け、開けた空へと今一度舞い戻る曲芸走破を成し遂げた。

 しかし……

「なんなんだよ……あれは……あんなのありかよ」

 ウェイバーの独白よりも速く再生を開始する大海魔。戦車による蹂躙と雷撃による二重ダメージをいとも容易く再生させている。
 それも空中で反転してからの次撃を見舞うよりもなお速い超速再生。神威の車輪が高空に舞い上がった時、既に風穴の大部分が修復されていた。

「こりゃ本格的に拙いかもな。デカイだけでも厄介だと言うのにあの再生能力。それこそあの巨体を纏めて一撃で吹き飛ばすほどの威力がなければ倒せん」

 更にはダメージを与えただけ大海魔は魔力を消費し再生する。それは無闇な攻撃は逆に上陸を早めかねないという事実を内包している。

 手を出さねば止められず、手を出してもより上陸を早めるだけ。神威の車輪ではあの異形を止める事は難しい。
 いや……足を止めるだけならば策はある。しかしそれも根本的な解決には至らない。

「どうした征服王、それが貴様の全力か?」

「おぅ?」

 遥か高空の更に上。雷光渦巻く積乱雲を背にその黄金の船はそこにあった。その中心にある玉座に優雅に腰掛けた王者は、同じ王を名乗りながらに苦戦を強いられているイスカンダルを嘲笑った。

「おう金ぴか。わざわざ余よりも更に上の高みからの御登場とは、そんなにも天辺が好きなのか」

「当然だろう、この我は天に仰ぎ見るべき存在よ。それにしても随分とあの汚物に梃子摺っているようだな」

「まぁな。そういう貴様は高みの見物をしに来ただけか? その口ぶりならあのデカブツを仕留める手段くらいは持ってそうだというのに」

「無論だとも。あの程度の小物など、かつて我が見えた獣と比べれば小さいにも程がある」

 天より遣わされた雄牛。

 夜空に輝く星座をそのまま地上に降ろすという神の御業によって遣わされた雄牛に比べれば、橋の標高を越す巨大さを誇る大海魔も霞んで見える。
 如何な超速再生も一撃でその総体を吹き飛ばされては再生する暇もあるまい。黄金の王の手の中には、それを為す至宝の剣がある。

「ならさっさと何とかせんか。あれを野放しにしてはどうなるか、分からぬ貴様ではあるまいて」

「それは貴様の言う覇道の理屈だろう。我は我だけの道を征く者。なぁ征服王、この世には雑多な塵が多すぎる──そうは思わんか?」

 黄金が君臨した世界に比べ、今の世界の在り様は変わり果てすぎている。かつては奴隷の一人でさえ貴重なものであったというのに、今の世では履いて捨てるほど人間が犇き蠢いている。

 その気色の悪さは眼窩の大海魔と何ら違いなどありはしない。人か異形か、そのどちらであってもこの黄金にとっては、

「多い──それはただ、それだけで気色が悪い」

 世界という形を歪めるほどに増殖した人間。セイバーを妻として迎え、今一度この世に君臨する事を考えるのなら、多すぎる人間は間引かれるべきであろう。

 王の統治下で生を許されるのは必要充分な数で良い。五十億も六十億も世界に犇いていては、王の眼に塵が映り過ぎてしまう。
 故に海魔が人を食い魔力を得、更により多くの人間を喰らい尽くしてくれるのならばそれもまた一興だと、黄金は謳い上げた。

「貴様……それでも英雄の端くれか」

「そう怖い顔をするなよ征服王。それにこの我を指して端くれとは随分な物言いだ。既に語った筈だぞ、我は天に仰ぎ見るべき存在だと」

 英雄達ですら見上げるべき存在──それをこそが英雄の頂点。遍く英霊達の先を征く者。

「まあ我とてアレに全てを喰らい尽くさせるつもりはない。アレが暴れ尽くしては聖杯が現れる前に戦いそのものが瓦解しかねんからな」

 かつては意義を見出せなかった聖杯も戦いも、セイバーとの出逢いにより確かに意味を得ている。聖杯に有用性があり、ならばそれを邪魔立てする海魔を野放しにしておく道理はない。

「それに────」

『令呪を以って奉る──英雄王よ、御身の至宝を用いてキャスターを誅罰せよ』

 聞こえる筈のない声を、この黄金のみが聞き届ける。

 遥か遠方、何処かからこの戦場を俯瞰しているのだろう遠坂時臣がその令呪に訴えアーチャーに絶対遵守の命を下した。

「気に食わぬな時臣よ。一度ならず二度までも……諫言ならばいざ知らず、今度は我を顎で使うとは────ハッ」

 しかしそれを良しとして、黄金は玉座より重い腰を上げた。

「ああ……これが貴様の末期の祈りであるのなら、受け入れてやるも吝かではない。貴様の臣下の礼に報いる我の下賜を噛み締め、そして死ぬが良い」

 黄金の泉が一つ、アーチャーの背後に生まれる。その泉より湧き出すは、およそ剣とも呼べぬ奇怪な刀身を持った一振りの剣。
 異様としか形容出来ないその剣を手にした直後、刀身である三つの円柱が互い違いに回転を始め、遥か高空の冷たい風を巻き込んでいく。

「なぁ……!?」

「ぬぅ……! 坊主、しっかりと掴まっておれよ!」

 足場なき無空を踏み締める神牛、そして強壮な戦車自体をも揺るがすほどの暴風。それがあの一振りの剣によって引き起こされているという事実に、ウェイバーとそしてイスカンダルが驚愕する。

「巻き込まれたくなければ離れておけよ征服王。まあもっとも、我はこれで貴様が死んだとしても一向に構わんがな」

「ふざけた事を──ええい、ちょいと荒っぽいが離れるぞ! このまま此処にいては巻き添えを食いかねん!」

 そんな無様な終わりは認められないと、赤毛の王は神牛の手綱を繰り戦線を離脱する。黄金の手にする覇者の剣の圧倒的な暴威から逃れる為に。

「さあ起きろエアよ。我自身おまえの出番などないと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしいぞ」

 何処までも回転数を上げ、天空の雷雲をすらその刀身に巻き込み、より脅威なる死の風を吹き荒らす至宝の剣。

 それをこそが英雄王ギルガメッシュが持つ覇王の剣──名をエア。

 無銘ばかりが溢れる王の蔵にあって、たった二つだけ名を与えられた宝具の一つ。かつて世界を天と地に分けた風。神の名を冠する他を寄せ付けぬ、最強をすら凌駕する絶対の剣の名だ。

 それが今、眼窩を蠢く大海魔を消し去る為だけに振るわれようとしている。

「知っているかキャスターよ。肥大化した怪物の終わりを。いつの世も等しく、化物は英雄の手によって討たれるのだと────!」

 天が絶叫し地が鳴動する。
 かつて自らを分けた原初の風に世界が軋みの声を上げている。

 そして今再び──天地創造の伝説が、この冬木の地に具現化する。

「微塵に消え去れ、天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)────!」

 死を運び地獄を謳う創生の風が、その真なる名の解放と共に空と大地を貫いた。


/3


「すげぇ……マジスゲェよ旦那……!」

 大海魔の生誕より数分。未遠川沿いの川縁には無数の人影があった。その誰もが天を衝く威容を見上げ、目の前の存在が信じられぬと凝視していた。
 逃げ出す者、喚き散らす者、現実逃避を始める者。皆それぞれに違いはあれど、誰もに共通しているのは、自らの目が、頭がおかしくなったのではないかと言う焦燥だ。

 だってそうだろう、彼らの日常(にんしき)にこんなモノはいなかった。居たとしてもそれは画面の向こう、銀幕の彼方、作り話の中だけだ。
 現実に、目の前に。突如としてこんな巨大で何とも知れぬモノが現れたなどと、普通の人間がすぐさま理解も納得も出来るわけがない。

 故に結論は簡単だ。己は今、夢を見ているのだ。

 そう認識を狂わせなければ彼らは誰一人として立っていられない。自らの傍らに聳える死の具現を、望む事さえ叶わない。

 そんな恐慌に駆られる人々の中、唯一人──雨生龍之介だけが興奮に目を見開いていた。

「流石だ旦那ァ! こんなの俺今まで見た事ねぇよ! もっと……もっとだ! 神さまだって見てるんだからさァ! ダンナァ! もっとド派手にやっちまえぇ──!」

 こんな現実が見たかったんだ。銀幕の中で見られる紛い物じゃないスペクタクル。

 周りの奴らを見てみろよ、何が起こったのか分からないって顔してやがる。これが現実なんだ、おまえらの知らない現実なんだ。
 神さまのオモチャ箱には、こんなにもおぞましい色が紛れている。それを探して探してようやくこの場所で見つけたんだ。

 ああ、きっとこの向こうに龍之介の望む色がある。血よりも紅く赤い色。この世でもっとも美しいと信じられる色が、この現実の向こうに待っている。

「さぁ殺してくれ! ぶち殺してくれよ旦那ァ! 殺して殺して殺し尽くして、俺の探す赤色を見つけ出してくれ!」

 歩みを始めた大海魔。
 その先に待つのは血の詰まった無数の肉袋。
 その中身をぶちまけて、紅くて赤い色を見せてくれ。
 この街を、美しい赤で染め上げてくれ。

 目くるめく殺戮と血の饗宴が、今此処に開かれたのだ。

「雨生龍之介──キャスターのマスターだな」

「え……?」

 ずん、と龍之介の胸元と貫く極大の衝撃。声を掛けられ振り仰いだ瞬間、狙い違わず大口径の魔銃より、心臓を吹き飛ばす魔弾が撃ち出された。

「ぁ…………」

 声にならない音を発し、膝から崩れ落ちる龍之介。霞んで行く視界の中で、探し求めた色の名残りを幻視した。
 待ってくれ、後少し、後少しだけでいいんだ。そうすれば探し求めた色が見られる。ずっとずっと知りたかった色が、今この手を染めている。

 しかし無情にも撃ち出される二発目の弾丸。それは龍之介の頭蓋を吹き飛ばし、思考も視界も──そして探し求めた色さえも消し飛ばした。

「…………」

 周囲より上がる悲鳴。未だ聳える大海魔よりも、彼らにとっては目の前の惨劇の方が刺激が強かったらしい。
 しかしそれも次の瞬間、天より降り注いだ赤い稲妻──エアの放った世界を分かつ断層の風が大海魔を貫く光景に、その場の全ての人間が目を奪われた。

 既に死亡した雨生龍之介と、その加害者である衛宮切嗣を除いて。

 遥か天空からの大斬撃を背に、切嗣は人知れず戦地を去る。
 この場に居合わせた人間の全てには後日何らかの対処が為される筈だ。神秘の秘匿を原則とするのなら、目撃者は一人たりとも逃すわけにはいかないのだから。

 その過程において、切嗣の所業もまた闇に葬られる。

 雨生龍之介の死亡は公表されるかもしれないが、元よりこの男は猟奇快楽殺人者。一般の市民からすれば生きていられるよりも死んでくれる方が都合の良い類の人間だ。そしてそんな記憶もいずれ風化する。

「これで残りは……後二人」

 懐から煙草を取り出し火を灯す。灰を満たす紫煙を吐き出し、風に流れ行く様を見やりながら、切嗣は迫る決戦の時へと思いを馳せた。

 後少し。ほんの少しで聖杯に手が届く。これまで犠牲にした全てのものに報いる事が出来るのだ。
 残る敵は強大だが、その全てを踏み越えて奇跡の峰へと駆け上がる。その為にこの手を血で染め抜く事も厭いはしない。

 戦場を去る男の背に灯る決意の炎は、揺るがぬ意思をも宿していた。



+++


 天より降る紅の稲妻。その風に身を切り裂かれながら、キャスターことジル・ド・レェは思った。

 これをこそが神の雷槌。
 古代、人々が恐れを抱いた神鳴だ。

 神への挑戦だと書き上げた稚拙な台本。しかし至高の役者が舞台に上がれば、それで全てを覆せると信じていた。
 なんという楽観。どうしようもないほどの茶番。役者に頼った拙い演出ならば、当然にして役者が舞台に上がらなければ意味を為さない。

 彼が求めた至高の光は、未だその姿を舞台上に現す事無く。このジルとの邂逅をすら果たせていない。

 我が愛しの乙女は何をなさっておいでか。このジルの作り上げた芸術程度では、御身の心を震わせる事すら出来ないのか。
 そんな嘆きも遂には届かず。光は彼を見ていない。彼は光を見誤っている事にすら気付いていない。

 自らの内部を渦巻き裁断していく断層の風。巨大な海魔の肉を微塵に砕きながら、その風は大地を目指し駆け下りていく。

 なんという機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)。認めた台本の全てをただの一撃で無為に落とす、まさに神の鉄槌。全てをなかった事にせしめる、無情の陣風。

 ────ああ、なるほど。神は私の脚本を、御気に召さなかったか。

 役者が良ければ芝居は至高。

 しかして神は自らを至高の役者と謳う道化であるのなら、彼にとってこの結末は誇らしい終わりであり。ジルにとっては嘆きに咽ぶ他のない終わりであった。

 神が真のエンターテイナーであるのなら、御自ら舞台に上がる事を、想定すらしなかったこの不肖の身の破滅は最初から決定付けられていたも同然だったのだ。

「ああ……せめて……」

 せめてこの身を貫いていく風が、彼女の光であったのなら。
 私はその終わりを愛する事が出来たというのに。

 そう、ジル・ド・レェは神への復讐ではなく、乙女との再会でもないものをこそ望んでいた。

 かつて彼女と出逢った日──宮廷で初めて彼女の尊顔を仰いだ瞬間、この心は焼き尽くされた。余りの輝きに。これまで怠惰に過ごしてきた自らの生を恥じ入らねば顔を向ける事すら出来ない、その光に。

 その時より決めたのだ。この身は彼女にだけ尽くすと。我が生涯は彼女と共にある事こそが誇りであると。

 オルレアンでの戦い。領土の奪還。ランスでの戴冠式。アルス・ノヴァの奏べと共にステンドグラスより降り注ぐ淡い光。白く輝き降り注ぐ福音──その中でさえ、私は彼女を見つめていた。

 私は彼女に恋をした。
 叶わぬ恋慕を抱いていた。

 そう──私はただ、あの彼女(ひかり)に、この身を抱き締めて(やきつくして)欲しかったのだ。

 その最期に。
 自らの求めたものを見つけ、そして終ぞ叶わなかったその祈りを胸に秘めたまま、救国の英雄──ジル・ド・レェは原初の風の中に消え去った。


/4


「何故貴方はあの時、この身を裁いてはくれなかった!」

 慟哭を乗せた斬撃。心の内より湧き出る嘆きを言葉と剣とに込め、湖の騎士ランスロットは問い質した。

「裁く理由がなかったからだ。あの時既に円卓には亀裂が走っていた。国を守る為、民を守る為、内に敵を抱え込むくらいならば、貴方と共に出奔してくれる方が良いと判断した。それだけの事だ」

 それに答えるのは無情の声。そこに人らしい感情はなく、ただ国を利する為の選択だけを行う王という名の機構だけがあった。

 元より彼女は望まれて王となったわけではない。前王の実子なれど、その身は婦女子。王の選定を行う際も未だ年若い少女に過ぎなかった。

 誰も抜けなかった選定の剣を引き抜き、王権を手に入れた。それでも騎士達は認めなかった。たかだか剣を抜いただけの者に、王が務まるものかと誰もが思った。魔術師の支援を受け玉座に着いた後も騎士達の疑惑は払拭されなかった。

 だから彼女は私情を殺した。誰もが認めざるを得ない完璧な王、理想の王である事を自身に課した。

 幾度の戦いを経て不敗。老いる事のない神秘を宿す少年王。国を守り、民を守り続ける限りにおいて、騎士達も渋々ではあれど王を認めていた。

 されど些細な行き違いは徐々にその溝を大きくしていった。募る内心の不満は、彼の裏切りの騎士の誕生と共に炸裂した。

 目に見えてはいても誰もが目を逸らし続けた王と騎士との行き違い。その間に横たわる認識の齟齬。騎士は民を犠牲にせずとも国を守る事など易いと言い、王は万全を期す為に最小の犠牲を是とした。

 私情を殺し王として振舞う彼女と、私情を圧し王に忠誠を誓う騎士。

 軋轢は当然で、犠牲もまた同様。王が完璧であるが故に、人でしかなかった彼の騎士は吼えなければならなかったのだ。

「では王よ、この身を朋友と呼んだ事すら、ならば国政の為の空言と謳うのですか……!」

 熾烈を極める黒の斬撃。受ける白刃は逆巻く風の防壁を以ってすら凌ぎ難いとぎちぎちと軋む。

「王の為、国の為と自らの身を差し出した彼女の犠牲を、その影で流れた涙を当然と受け入れられるのですか……!」

「無論だランスロット! 王は国の為にあり、騎士もまた国を守る為の礎。ならば王妃とて同様。理想の王の傍らには理想の妃が必要で、そうであれと望まれるのならばそれは必要な犠牲だッ!」

「アーサー王ッ!」

 鍔競り合う聖剣と魔剣。
 清廉なる風と黒く淀む霧。
 手にする二人の面貌もまた対照的だ。

 王は無情に剣を握り、騎士は私情で剣を執る。

「彼女一人の涙で民が理想とする王の形が完成するのであれば、それは必要な犠牲だ。それでも私は王として彼女を愛そうとしたし、愛していた。王と王妃という形でしかなかったかもしれないが、その言葉には偽りはない」

「…………」

「彼女を壊したのは他ならぬ貴方だろうランスロット。理想と理念という細い糸で繋がれていた我らを引き裂いたのは貴方の愛だ。身を焦がすほどの熱情を知りもしなかった彼女に人並の感情と愛情を教えたのは貴方だ」

 王妃ギネヴィアは幼少時より自らを省みない人生観を培われ育ち、自身が女である事や男女の性差などに関心を持つような人ではなかった。
 ただ単純にアルトリアの在り方を崇拝し、敬愛し、憧憬しその生き方に倣おうと務めた。

 しかし彼女はそれでも人だった。アルトリアのように民に望まれる完璧な存在にはなれなかったのだ。

 そうして涙に暮れる彼女に恋をした騎士がいた。理想と謳われ、騎士道の体現者と賞賛され、多くの騎士達の夢として存在した完璧なる騎士。

 王の理想に賛同し、国を守る為に身を粉にし、自身もまた騎士の理想で在り続けた男。それでも彼もまた人だった。騎士という生き方に縛られながら王妃を愛してしまったのは、偏に彼の弱さゆえだ。

「どれだけ多くの民を守れようと、国の平穏を維持出来ようと、愛した女一人救えなかった私が理想などと謳われる資格がない。故にこの身は裏切りの騎士。王の理想を砕き、彼女の涙さえも止められなかった唯一人の愚者だ」

 それゆえに狂気に身を委ねようとした。騎士としてでも男としてでも人ですらなく、獣としてならば王に牙を向けられると。

 それが何の間違いか、狂気に侵されながら理性を灯していた。今にも消えそうな火でありながら、それでも煌々と燃えている。それはさながら、蝋燭が燃え尽きる最後に見せる火花のように。

「……やはり貴方は王なのですね。その強固な意思と何物にも動じない鋼の心で、国を導いた」

「…………」

「だから私は、今一度貴方にこう言いましょう──アーサー王は、人の気持ちが分からないッ!」

 セイバーは全霊を込めた斬撃を受け止め、地滑りするほどの衝撃に耐え抜く。

「私の心と彼女の想いを、そんな理屈で語らないで頂きたい! 誰もが貴方のように完璧だったわけじゃない……理想と謳われたこの身でさえ、一皮剥けばこのように、おぞましい憎悪を渦巻かせている!」

 ランスロットの身体より溢れ出すは憎悪の形。黒い魔力の霧は行き場をなくして周囲を漂い、やがて彼の手にする剣へと呑みこまれて行く。

「貴方には人の苦悩が分からない……行き場のない想いをぶつけたいという憎しみ。全てを金繰り捨ててでも手に入れたいという願い。誰かを想う心を、御身は宿していないと言われるのですか」

「……ああ。個人を想う事、それは王の仕業ではない。王は国を想い、民を想う。ただそれだけでいい。誰か一人を想ってしまえば、王という機構は瓦解する」

 王は理想であり民にとっての偶像。平穏を維持し国を守るだけの防衛機構。その中に生きる民一人一人を想う気持ちはない。それら全てを想ってしまえば、王は王としての機能を果たせなくなる。

 だから必要のないものを削ぎ落とす。国に仇名す者ならば、たとえそれが朋友と呼んだ者であっても斬り捨てる。湖の騎士を斬り捨てなかったのは先にも述べたように彼の離反で円卓の膿を切り取れると判断したからだ。

 王妃と騎士の不義を暴き、円卓を乱した者。王の玉座を簒奪しようと汚点を暴こうとしたその時点で、既に円卓には消えない亀裂が刻まれていたのだ。

「ランスロット。貴方の離反は確かに決定的な亀裂を刻んだのかもしれない。しかしそれより以前から、既に国の崩壊の芽は芽吹いていた。国を維持する為の王という機構でしかなかった私は、それから目を背けていただけだ」

 望まれぬ王。ならばその終わりは必然として決定付けられていたもの。どれだけ完璧であろうと、完全であろうと、真実として望まれていなければ──そんな王は、最初から必要なかったのだ。

「貴方の憎しみは理解した。彼女の涙の為に剣を執る貴方を責める事は出来ない。それは今も昔も変わらない」

「王……」

「だがそれでもこの身には譲れぬ祈りがある。このような時の彼方に迷い込んでまで、果たさなければならない王としての最後の責務がある」

 突きつけられる星の聖剣。
 胸に秘めた願いの為、憎悪に身を狂わせた理想の騎士を断つと、理想の王は宣言する。

「だから私は貴方を超えていく。その亡骸を踏み越えて、聖杯の下に辿り着く」

「…………」

 黒騎士の胸に去来する痛み。無情に非情に采配を振るい、国を守り続けてきた王。私情を殺し心を殺し、民の為に尽くして来た王。
 ならばその行いに報いるものは何なのか。カムランの丘での終わりが、彼女に衝き付けられた報酬であったとしたら、それは余りに救われない。

 故に彼女は求めている。聖杯を。生前幾度も探索を行いながら、終ぞ手に入れられなかった聖杯を、この遥か時の向こうで掴み取る為に剣を握っている。その手を血で染める事を厭わず、犠牲となる全てのものを踏み越えて。

「さあ、剣を構えろランスロット。その身の復讐を果たしたいと欲するのならば、剣を執り私にぶつけて見せろ!」

 しかし湖の騎士は剣を構えず、儚げに微笑んだ。

「……申し訳ない、我が王よ。どうやらその願い、果たせそうにはありません」

 掻き消えていく憎悪の波。揺らめく黒き魔力は霧散し、彼の手に握られていた魔剣は地に落ちた。からん、と音を立てた後、湖の騎士はその膝を折った。

「ランスロット……!?」

 その異常が罠であるなどとは思いもせず、セイバーは駆け寄り仰臥した騎士をその腕に抱いた。

「これは……」

「ええ。とうに限界など過ぎていたのです。英霊の魂をその身に宿すには、我がマスターは脆弱に過ぎた」

 蟲に嬲られ仮初めの魔の業を手に入れた代償は余りに大きすぎた。一月程しか残らなかった余命を、たった三度の戦いで使い切るほどに酷使し過ぎた。
 特に先のあの黄金との戦いが尾を引いた。まさに死力を尽くした筈の命。湖の騎士がこうして戦えた事自体が、既に奇跡にも等しい偶然だったのだ。

「ああ……こんな終わりとは情けない。貴方の剣に応えたかった。この胸を、貴方の剣で貫いて欲しかった」

 求め欲したのは贖罪と赦し。理想の王の治世を破滅へと追い込んだこの身を、彼女の涙を盾に王に憎悪したこの身を切り刻んで欲しかった。
 報いを受けろと。罪を償えと。そうすれば、彼も……そして彼女も、もっと別の道を模索出来ていたかもしれないのに。

「既に詮無き夢だ……貴方の剣に背き続けた私には、そんな赦しを請う事自体が罪だったのです」

 アーサー王の死の間際になってようやくその決心がついたのだ。それももう一人の朋友の手に阻まれ叶わなかったが、なればそれをこそ報いと言うのだろう。

「王よ……最後に一つだけ聞かせて頂きたい。貴方は聖杯を掴み、何を願うのです」

 この身はこの王の事を誰よりも知っている。英霊となり、それでも彼女が王であり続けるのなら、その願いは王としての願いに他ならない。彼女個人の意思はそこにはない。彼女の祈りは、有り得ないのだ。

「決まっている。この身は国に身命を捧げたもの。故に願いは唯一つだけ──祖国の救済だけだ。あの選定の剣を引き抜いたのが私でなかったのなら、きっとあんな結末にはならなかった筈だ」

 だからもう一度やり直す。誰にも望まれなかった王ではなく、誰もの羨望を集める王ならば、アルトリアよりも上手く国を治めるだろう。カムランの丘での悲劇は無く、国は二つに割れる事無く、滅びの道もまた無かった筈だからだ。

 そして腕の中で死に往く男の悲劇もまた、なかった事に出来るだろう。

「ああ────」

 それは余りにも美しい自己犠牲。他の国を治めた暴君達から見れば狂気の沙汰としか思えない、そんな歪な祈りの形。

「ランスロット……何故貴方は泣くのだ……何を想い、その涙を流すのだ」

 人の心が分からない王には、騎士が涙する理由もまた分からない。理想と謳われた騎士は今、王の為に慟哭の涙を零している。彼女の祈りが余りにも痛々しくて、涙せずにはいられなかった。

 彼女は皆が言うほど完璧な王などではなかった。心を殺さなければ王として振舞えなかったのだ。真に理想の王であるのなら、そもそも心すらあるまい。彼女の理想とする王はそれこそ統治の為の歯車だ。

 しかし彼女はそこまで完全にはなれなかった。人の心が分からないのは、そんな余裕などなかったからだ。自身を王という機構に造り替えそれに殉じるには、そんな余分を抱えていられる余裕など微塵たりともなかったのだ。

 それでも彼女には心がある。民を想い、騎士を朋友と呼んだ心があったのだ。

 ──ああ、今更になってそんな事に気付くなんて、遅すぎる。何もかもが、遅すぎた。

 もしきちんと言葉を交わせていたら。
 王と向き合えていたら。
 円卓は、今なお永遠に語られる、絆で結ばれた朋友の集いであったかもしれない。

「王は……そんな悲しい生き方を、今なお貫こうと言うのですか」

「貴方がその最期まで騎士である事に殉じたように、私も王である事に殉じるまで。そこに否はないし、誰にも口を挟ませはしない。
 私は祖国を救い、王であった私を消し去り、この世から消え去ろう」

「貴方は私とは違います……私は騎士である事を捨てられず、王妃の涙を見捨てられず、王の朋友である事すらも捨てられなかった、そんな強欲な騎士なのです。
 貴方はただ一つの祈りを、最初に抱いた想いをずっと胸に秘め続けている。その在りようは羨ましく、そして同時に眩し過ぎた」

 理想の王の背に焦がれ、この身は理想の騎士として在り続けた。その眩さに目を焼かれながら、同時に疎んでもいたのだ。
 人である事を簡単に捨ててしまえる王が憎いと。そうまで理想に殉じられる王が羨ましいと。

 人であり男であり騎士であった彼にとって、王である事だけを望み続けた彼女は憧憬と憎悪の対象だったのだ。
 そんな強さが自分にあったら、彼女の涙を止められたかもしれないのに、と。

 それこそが狂気の具現。形振り構わずぶつけたかった、この騎士の本心だ。

 しかしそれも今や霧散した。この王の在り方を、その末期の祈りを聞いた今、どうして憎悪など出来ようか。どうして敵意を向けられるだろうか。

 彼女はその最期まで国に尽くしていた。奔放で気ままな騎士達を纏め上げ、噴出する不満を戦果によって抑え込み、ただ民の理想とする王で在り続けた。
 なぜ我らは彼女を助けられなかったのか。何故その力になろうとすらしなかったのか。円卓は、その為にあったのではないのか。

 誰も彼もがバラバラだった。王が余りに高潔すぎて、人であった騎士達から見れば襲い来る異民族と何ら変わらないものに見えていたのかもしれない。畏怖の対象、理解の出来ない存在だと。

 誰も王の心を知ろうとはしなかった。

 王は人の心が分からない──ならば同様に、騎士もまた王の心を解してなどいなかったのだ。

 今更になって王の真意を知った。知ってしまった。無念と後悔が胸で渦巻き、それでも声を上げる力すら、もうこの身体には残っていない。

 この身にまだ力が残っていれば、諌めの言葉を掛けたいのに。
 それは駄目だと。
 その祈りは間違っていると。

 王として生き、王として死んだ貴方は、ならばその誇りを胸に抱いて眠るべきだと──

「王よ……どうか……」

 願わくば、彼女の迷いを断ち切る者が現れますように。
 この身では叶わぬ願いを叶えてくれる者よ。
 どうか、彼女を救って上げて欲しい。

 ────その心に、誇り(ひかり)を……

 搾り出した声は後に続かず、総身を覆っていた黒き魔力は吹き荒ぶ風に攫われ、後に残ったのは死に体にも等しい間桐雁夜の肉体だけだった。

「ランスロット……」

 その最期まで騎士の本心を知る事無く、王と呼ばれた少女は腕の中で息絶えた朋友を見送った。

 腕に抱いていた雁夜を横たえる。未だ息はあるようだが、もはや戦える……否、生きられる身体ではない。
 数分もしない内に息を引き取るだろう。死者に鞭打つ趣味は無い。

「さあ……行こう」

 剣を支えに立ち上がる。折れぬ意思がこの身に宿り続ける限り、アルトリア・ペンドラゴンは止まらない。止まる事を赦されない。

 無辜の人々を犠牲にし、自らの祈りを叶える為に、同じく聖杯に祈りを託す者達を踏み越えてきた。今もまた、かつての朋友をその轍の一つとした。
 ならばどうして止まれようか。どうして歩みを止められようか。せめてこれまでの犠牲に報いる為に、聖杯を是が非でも掴み取らなければ。

 遠望の彼方に既に大海魔の威容は無い。ランスロットとの戦いに全力を傾けた結果、その消滅を見過ごしてしまったが、構わない。
 残っているサーヴァントから考えるのなら黄金の王か赤銅の王のどちらかの仕業であり、そしてこれより踏み越えなければならない強大な敵である。

 後少し……後少しで聖杯に手が届く。

 ならば行こう、その先へ。
 全てを叶える、星の下へ────



+++


 セイバーが戦場を去った後、間桐雁夜は意識を取り戻した。バーサーカーに肉体を捧げていた間の記憶はない。ただこうして自意識が戻ったという事は、身に宿した英霊は敗れたという事だけは理解出来た。

「はっ……、ぁ──」

 声にならない声。視界は虚ろ、音もまた聞こえない。身体中を這い回っていた刻印蟲は既に全て死滅している。バーサーカーに魔力だけでなくその身すらを食い潰され、雁夜の肉をも食い荒らされた結果だ。

 それだけの犠牲を払ってこの手に残ったものは何も無い。愛した女は別の誰かを庇って死に、助けたかった少女はそんな女の涙の為でしかなかった。

「ごめ、んな……さく、ら……ちゃ──」

 忘れていた名前が胸に戻る。ああ、あの子の名前をまだ思い出せた。それだけが、雁夜にとって救いになった。

 一年の間、蟲倉で修練を共にし、苦痛を分け合った。この身以上の苦痛に苛まれている彼女を救い出したくて、命を捧げる覚悟をした。

 ならばそれはきっと嘘じゃない。最初は確かに誰かの涙の為だったかもしれないが、いつしかその理由も変わっていた。いや……桜を救う事も、雁夜を衝き動かす確かな力となったのだ。

 一つの願いでしか動けないなんて、そんな道理は何処にもない。
 雁夜はずっと好きだった葵の涙を止めたくて、そしてその涙の原因となった桜をも救いたかった。

 ならこの胸に残った彼女達の名前だけが、雁夜にとっての救いの形。天に手を伸ばしても何をも掴めぬ掌で、拭いたかった涙の理由。

「ああ……」

 枯れ落ちていく命の音を聞きながら、雁夜は静かに瞼を閉じた。

 伸ばした掌で掴めなかったものを幻視しながら……。
 拭い去りたかった涙の理由を、その胸に抱きながら……。


/5


『令呪を以って奉る──英雄王よ、御身の至宝を用いてキャスターを誅罰せよ』

 その命令を下し、遥か未遠川にて天から降り注いだ至宝の一撃によってキャスターが消滅した事を見届けた後、時臣は自宅への帰路に着いていた。

 あんな怪物が出現し、アーチャーの一撃で更なる衆目を集めた以上、今夜の戦闘続行は不可能だ。それは今を生き残る誰しもが理解している筈であり、あの衛宮切嗣さえも例外ではない。

 歩みを進める時臣の腕の中には葵の遺体はない。魔術師の妻となる事を覚悟した以上、一般人と同じように墓の下に入れるとは思ってはならない。

 魔術師の肉体は魔術刻印を剥奪されてなお格好の実験素体に成り得る。故に墓の下に入るとしても骨すら残されず焼き尽くされるか、そもそも墓になど入らない。

 葵は魔術師ではないが、その身体の特異性──魔術師の子を宿す最適な母体であるという事を、もし他の魔術師に知られてしまえば死してなお誰かの慰み者にされかねない。それを嫌った時臣は、自らの炎で葵の遺体を焼き尽くした。

 灰も残さず塵も残さず、ただこの胸の中で生き続ける事を望み、誰かに玩弄される事を何よりも嫌悪した。

 葵は時臣の妻だ。それを他人に触らせるなど我慢ならない。実験に使われる事などあっては、魔術師としてのルールを逸脱してでも、弄んだ誰かを殺し尽くしてしまいたくなるだろう。

 ────永遠の眠りを、我が腕(ほのお)の中で……

 それが時臣が葵に送る、一つ目の祈り。

「…………凛?」

 自宅へと帰りついた時臣を迎えたのは、玄関の扉の前で膝を抱えている凛だった。

「お父さま!」

「……何故おまえが此処に……いや、それよりも何故こんなところにいる? 中に入っていればいいものを」

「慌てて出てきてしまったので、鍵を忘れて……」

「…………」

 普段はしっかりしているくせに、ここ一番でポカをする凛らしいと言えば凛らしい失態だが、この呪いめいた体質がこの子の未来に致命的な災いを齎さないか、それだけが心配だった。

「とりあえずは中へ入ろう。今夜は冷える。どれだけの間待っていたか知らないが、こんなにも手を冷たくしてはいけない」

「あっ……」

 娘の手をとってその冷たさに驚き、そして手を取られた事に驚いた凛を見て、もう一度驚いた。

 ……そうか。私はこの子の手を握った事など、数えるほどしかなかった。

 父親が娘に行う親愛表現をどれだけ怠ってきたか、今更になってようやく知った。



+++


 凛を自宅に招き入れ、暖めたリビングで温かな紅茶を啜る。猫舌なのか必死に冷ましながらこくりこくりとカップを傾ける様は、我が娘ながらに愛らしかった。

 一息ついた後、時臣は凛に自宅前にいた理由を問い質した。曰く葵の残した書き置きを見つけ、その後を追いかけてきたらしい。大体が時臣の予想通りではあったが、それは魔術師としては不始末だ。

 今この街がどのような状況下にあるか、凛も知っている筈だ。それを知るからこそ母を捜して街を彷徨う事無く自宅前で膝を抱えていたのだとしても、やはりそれは許容出来る事ではない。

 下手をすれば戦いに巻き込まれていたかもしれない。戦う力も術もない凛では、抗う事無くその命を散らしていただろう。巻き込まれなかったのはただの幸運。結果論で話してはいけないと、凛を諫めた。

「……はい、申し訳ありませんお父さま」

「いや、済まない。私も少し気が立っていてね、辛辣な物言いになってしまった」

 そして凛は忙しなく周囲を窺っている。その理由は無論、葵を捜してのものだろう。母を追って冬木に来たというのに、巡り会えたのは父親だけ。ならば母を何処にいると、言外に凛は告げている。

「凛──良く聞いて欲しい。葵は戦いに巻き込まれ、そして私を庇いその命を失った」

「え…………」

 隠し立てする事に意味は無い。どうせすぐにもバレてしまう事なのだ。そして聡明な凛ならば、その意味を受け入れてくれるだろう。

「そう……ですか」

 目に見える落胆。納得など決して出来ていない返答。当然だ、幾ら魔術の薫陶を既にその身に宿しているとはいえ、まだ十にも満たない子供なのだ。母親が死んだ、だから受け入れろで済む話ではない。

「凛。これが戦いであり、魔術師というものだ。自らだけでなく、周囲をも傷付けかねない茨の道」

「…………」

「私とて葵の死を悔いている。私がもう少し気を配っておけば……そもそも禅城ではない何処か別の住処を用意しておけば……」

 くしゃりと髪を掻き、尽きない後悔を口にする。大切なものならば手元に置くべきだったのか。より遠ざけるべきだったのか。今となっては、中途半端な対応を行った事が悔やまれる。

 衛宮切嗣の悪辣さを侮った、この時臣のミスだ。無念は尽きる事がない。

「……お父さま。お母さまは、最期に笑っていましたか?」

「……凛?」

「もし笑っていたのなら、きっとお母さまは、今のお父さまを見て怒っていると思います」

 愛した夫を守り、死んでいった妻。ならばその死を悔いている時臣を見て、葵は怒っているだろう。その死は悔やむべきものではない。ただ悼んでくれればそれでいい。半身が欠け落ちてしまった事を、悲しんでくれればそれでいいと。

「だからお父さまは胸を張るべきです。お母さまはきっと、そんなお父さまが大好きだったから」

「……ああ、そうか」

 まさか娘に諭されるとは、時臣自身思いもしなかった。時臣と同等か、それ以上の悲しみに胸を貫かれながら、それでも気丈に振舞っている少女。
 時臣が教え説いてきた家訓に従い、涙を見せる事すらしない強さ。その心の在り様は、既に時臣をすら凌駕している。

「ありがとう、凛。少しだけ、気が楽になった」

 そして胸の底にあった決意もまた、確固たる形を得た。

「凛、忙しなくて済まないが、私はこれからもう一度外に出る。禅城へ戻るのは明日にしておけ。綺礼には事前に伝えておくから、勝手に出歩く事はしないように」

「はい、お父さま」

 この凛にも葵と同等の時臣に対する人質の価値がある。衛宮切嗣が執拗に時臣を狙うのならば、凛にまでその魔手は伸びかねない。

 ……いや、それはない。凛に人質としての価値は無い。衛宮切嗣は、もう私を狙わない。

 そんな確信を胸に秘め、時臣は立ち上がり玄関へと向かった。見送る為か、その後をついて凛もまた立ち上がった。

 靴を履き、見上げてくる娘を見下ろす。膝を折り、その髪をくしゃりと撫でた。娘の頭を撫でた事などこれが初めてなのだ、力加減が分からなくても許して欲しい。

「それでは行くが。後の事は分かっているな」

「はい」

 行儀の良い返事に頷きを返し、手を離し立ち上がる。

「成人するまでは協会に貸しを作っておけ。それ以後の判断はおまえに任せる。おまえならば、独りでもやっていけるだろう」

 そう言いつつも、これまで語らなかった諸々についてを矢次早に話していく。娘へ託す為に魔力を込めておいた宝石や、大師父から伝えられた宝石に関する事。地下工房の管理についてもそうだ。

 それは次代への継承を意味する遺言。
 遠坂時臣が遠坂凛に送る、魔術師としての最期の言葉だ。

 この聡明な娘ならば、既に気が付いているだろう。

 時臣は────これからその命を落とすだろうという事を。
 死を覚悟して、戦いに臨むのだろうという事を。

 これより向かう戦いは聖杯を賭けた戦いではない。
 一族の悲願の為の戦いではない。

 時臣がこれより臨むのは、妻の最期の祈りを叶える為の私闘に他ならない。

 令呪の二つを既に失い、アーチャーとの関係も良好とは言えない。
 それでも戦い抜く事は出来るかもしれないが、それ以前の話として、時臣はその身に致命傷を受けている。

 葵がその身を呈し庇ったものの、切嗣の放った弾丸は戦車の装甲でもなければ防げない威力を秘めていた。対象を殺害する上で最大の威力を携行する為の選択。装弾数一発というリスクを冒してまで欲した必殺の弾丸。

 その死神の魔弾は葵の身体を吹き飛ばし、時臣の腹をも貫いた。

 騙し騙しでこの屋敷にまで辿り着きはしたものの、もう長くはない事は時臣自身が誰よりも理解していた。見上げてくる瞳を誤魔化してはいても、そういつまでも隠し通せるものではない。

 それでも凛の前で弱さを見せる訳にはいかない。彼女にとっての理想の父であり魔術師として、その最期まで振舞いたい。
 そして葵のお陰で即死を免れた命であるのなら、ならばその残り火は彼女の祈りを叶える為にこそ使いたいと思うのだ。

 それが時臣が葵に送る、二つ目の祈り。

「凛、いずれ聖杯は現れる。アレを手に入れるのは遠坂の義務であり、何より──魔術師であろうとするのなら、避けては通れない道だ」

 だから自らでは叶えられないその悲願を、我が子に託す。
 最期に残せる父親らしい事が頭を撫でる事だけなのが心残りではあるが、後は上手くやるだろう。

「行ってらっしゃいませ、お父さま」

 娘の見送りの言葉を背中に聞く。
 その声が涙に滲んでいる事を、父は確かに聞き届けて──



+++


 降り頻る雨を焦がす業火が猛る。間桐の門構えが見えた瞬間、時臣は死力を尽くした大紅蓮で以ってその塀ごと破壊した。

 魔術師の家だ、緊急時に作動する遮音の結界は既に起動している。
 後は何の憂いも無く、この屋敷に巣食う悪鬼を燃やし尽くし、奈落に落とされた我が子を救い出す。

 庭に踏み込んだ瞬間、周囲に闇より湧き出す無数の蟲。大小様々な甲虫は、数えるのも馬鹿らしいほどの群れを為している。

「邪魔をするもの、その悉くを燃やし尽くす。今夜の私は少しばかり辛辣だ──手加減など期待するなッ!」

 荒れ狂う業火。開かれた火龍の顎門は一噛みで百の蟲をその身の炎で灰燼に帰す。竜巻の如く燃え盛る炎は風を巻き込みその規模を巨大化し、群れる蟲を丸ごと呑み込んだ。

「っ──、はぁ……!」

 穿たれた腹より滲む血がスーツにまでその色合いを侵食する。濁々と溢れる血を塞き止める事すらせず、火力の限りの炎を踊らせ続ける。

 庭に現れた千にも届く蟲の大群の全てを焼き払った後、次はその標的を屋敷へと向けようとした矢先──

「これ以上屋敷を荒らされては困るでの。そこらで一旦手を休めては貰えんか、遠坂の」

「……ようやくお出ましか、間桐臓硯」

「呵々、これは大層あらぶっておるの。家訓とやらはどうしたのじゃ」

「黙れ外道。貴様などに掛ける情けはない──!」

 繰り出す炎の槍。それは寸分違わず臓硯を貫こうとして──

「…………っ!?」

 その背より這い出したかのように現れた、少女の姿を見咎めて、時臣は無理矢理炎を捻じ曲げた。結果、炎の矛先は修繕途中の屋敷にぶつかりより凄惨な瓦礫と化した。

「おうおう……雁夜に破壊されて惨憺たる様だった屋敷がなお酷い惨状になっておるではないか。どうしてくれる?」

「くっ……貴様……桜を────!」

 黒かった髪は色素が抜けたのか青みが掛かっており、瞳の色さえも変わり果てている。それでも確信がある。あれは桜だ。間桐での一年の修練が、苦痛が、絶望が、彼女をあんな姿に貶めた。

「今宵の一戦、儂も過分に聞き及んでおるが、お主も相当に痛んでおるようだ。そんな身体を圧してまで桜を救いたいと欲するか? それとも今でなければ拙いほど、その身体は手酷い傷を負ったか」

「…………っ」

 臓硯が桜をその傍に侍らせている以上、時臣には手が出せない。最悪この老獪は自分が生き延びる為に桜を捨て駒にしかねないし、それでなくとも時臣の火力では桜を巻き込んでしまう。

 ならば……

「桜……聞こえているのなら、返事をして欲しい。私はおまえを連れ戻しに来た」

 けれど桜からの返答は無い。虚ろな瞳には光がなく、何処を見ているかも分からない。それでも問いかけ続ければ反応があるものと期待して、声を掛け続ける。

「今更になってこんな事を言うのもおこがましいと思うが、私はずっとおまえの身を案じてきた。我が子の未来に幸あれと願い、桜の未来を祈り、魔道の薫陶を受けられる間桐に養子に出した」

「────」

「ただ私は知ったのだ、間桐における凄惨を。雁夜を覚えているか……? 奴が教えてくれたよ、桜の悲痛を、絶望を。あの男は敵ではあったが、その事だけは感謝している。おまえをこうして、助けに赴けた」

 答えはない。反応も無い。まるで人形に語り掛けているようだ。

「この地獄に突き落としたにも等しい私が言えた義理ではないと思う。それでも言わせて欲しい。
 桜──帰って来い。おまえはこんなところに居てはいけないんだ」

「無駄じゃよ」

 時臣の必死の問いかけを一刀両断する臓硯の声。

「今日は少々躾を厳しくし過ぎての。桜の強靭な心を以ってしても、どうやら耐えられなんだらしい。ああ、安心せい。一日もすれば元に戻ろう。戻らねば戻すまでよ。可愛い可愛い孫なのじゃ、そう簡単に壊れてしまっては勿体無かろう」

「ぎっ…………、間桐臓硯──貴様ァ……!」

 時臣が炎の腕を振り上げ、渾身の操作を以って臓硯だけを撃ち抜こうとしたその、刹那──

「あ、…………ぇ?」

 ずぶりと自らの胸より突き出る白銀の刃。
 それは投擲に特化した形と重心を持つ黒鍵と呼ばれる概念武装。
 教会の代行者が好んで使う礼装だ。

「なっ……きれ、い……」

 振り仰いだ先に立つ、厚く信頼を寄せていた弟子。
 彼の手は黒鍵を抜き放った形のまま固定されており、綺礼が時臣を背後から強襲したという事実だけを、示していた。

「な、ぜ……」

 弟子の心の真意を知らぬまま。
 助けたいと願った娘を救えぬまま。
 愛した妻の願いを果たせぬままに──

 ──遠坂時臣は、失意の内にその意識を手放した。



+++


「間桐臓硯……」

 その人物については時臣から聞き及んでいた。気を許してはならない相手。賢しく振舞ってもそれすらも掌の上とする老獪。
 これが初顔合わせであっても身体の芯が理解する。これは化生──人の生き血を啜り蠢く人の形をした別のなにかだ。

「ほぅ……お主が綺礼……あの言峰璃正めの胤から生まれた男じゃと?
  呵々、これは良い! あんな信仰の塊とも言うべき堅物から、こんなにも歪なモノが生まれるか!」

 無表情のままに綺礼は黒鍵を抜き放ち、対する臓硯は如何なる業によってか、まるで瞬間移動でもしたかのようにその立ち位置をずらし回避した。大地を深く抉った十字架は、誰かに捧げられた墓標のようだった。

「おお、怖いのう。流石は師を背後から撃ち抜くだけの事はある」

「私がやらねば、貴様が時臣師を殺していただろう」

 如何に決死の覚悟で戦いに望んでいようと、救うべき人質ごとを殺せない時臣では無傷の臓硯を倒せない。
 二百年の時を生きる妖怪を相手に真正面から戦いを挑んだ事が無謀であり、そうするだけの時間しか残されていなかった時臣に勝ち目などなかった。

「それとお主の行動には関係があるまい?」

「大いにある。アレは──私の獲物だった」

 横たわる時臣に視線を向ける綺礼。本来ならばもう少し趣向を凝らしてみたかった。父の死に際の嘆きも甘かったが、この男を絶望させた後に手に掛ける事が出来ていれば、より甘美な愉悦があった筈なのに。

 見習い修了の証として渡されたアゾット剣。あれでその胸を貫く事を、夢見ていたというのに──

 真実、綺礼がこの場に馳せ参じたのは時臣に利する為だ。自らの手で壊したいと願ったものを、他人に横取りされるのは我慢がならない。
 それ故に時臣から連絡を受けた直後に行動を開始し、全力でこの場へと駆けつけた。

 だが戦いは既に始まっており、状況は切迫していた。いつ時臣が殺されてもおかしくはない状況だった。あの攻撃を止めなければ、臓硯は己と桜の身を守る為に時臣を殺していただろう。

 故に思考の前に剣を抜いた。
 誰かに奪われるくらいならば、この手でその死を遣わすと。

「カッ、そう言われてもの。こちらとしても被害者よ。牙を剥かれたのなら対処せざるを得まい? 見てみるが良い、この惨状を。不可侵の約定を破った遠坂に相応の請求を行う事も考えねばな」

「…………」

 手には死の感触が残っている。投擲ではあっても確かにその背後から信頼を貫いたという実感はある。でもこの程度では物足りない。より甘い蜜がありながら、それを横取りされたにも等しいのだから、胸の空虚は拭い去れない。

 しかしこれは既に終わった事。
 せめて自身の手で事を成せたことを悦んでおくべきか。

 臓硯の言葉を無視しながら、自らの感慨に耽る綺礼の貌を見やり、臓硯は得心したとばかりに頷いた。

「成る程の……お主、儂と趣向が似ておるな」

「吐き気がする物言いだ。貴様のような下種な趣味と私のそれとを同列に扱うな」

「変わらんよ。お主が星の光を食べるのなら、儂は夜の闇をこそ好む。見上げるものが同じなら、ほれ、儂とお主は同類よ」

 返答の変わりに黒鍵を放つ。敵意だけを込めた投擲は、当然のように躱された。

「まぁ良いわ。で、どうする言峰綺礼とやら。まさか儂を相手に立ち回るか?」

 戯言を謳わないのならまだ会話の余地はある。綺礼は周囲と現状を考察し、静かな声で告げた。

「いや、貴様と事を構える意味は無い。ただし時臣師の遺体は預かっていくが」

「好きにせい。今更その男に価値はない。桜をより従順に仕上げる為に一役買うかとも思ったが、些かタイミングが悪すぎた。
 この夜の出来事は桜の記憶には残るまい。父が如何にして死んだかを知らず、助けに来た事をすら覚えていない」

 ──憐れじゃのう、遠坂時臣。

 そう言い残し、間桐臓硯は火の海を渡り桜と共に屋敷に消えた。

「…………」

 胸に沸いたこの感情を同属嫌悪と言い表すのなら、ならば切嗣に馳せるこの想いは何と表現するべきか。
 そんな愚につかない事を思いながら、綺礼は時臣の遺体から黒鍵を引き抜き、担ぎ上げて間桐邸を後にした。



+++


 綺礼が観測する限りのこの夜の戦いにおける戦死者は三人。

 雨生龍之介。
 間桐雁夜。
 そして遠坂時臣。

 残存するマスターとサーヴァントは三組と一騎。

 衛宮切嗣とセイバー。
 言峰綺礼とアサシン。
 ウェイバー・ベルベットとライダー。
 そして時臣が死に、未契約状態ながら高い単独行動スキルにより存命中のアーチャーだ。

 戦死者については時臣の妻である葵や切嗣の片腕らしき女も入るが、マスターに限定する限りは三人だ。
 これにロード・エルメロイを含め四人。過半数が脱落した計算になり、最終戦に向けた舞台は徐々に整いつつある。

 後は邪魔なウェイバーとライダーを仕留めさえすれば、綺礼の思い描く戦場が完成する。
 心待ちにした逢瀬の時が、もうすぐそこまで迫っている。

「おまえも同じものを感じているだろう、衛宮切嗣。ならばまずは、邪魔者をこそ排除しようではないか」

 響き渡るサイレンと。
 夜霧を焦がす炎を背に。
 傘も差さず冷たい雨に打たれながら求道者は夜を往く。

 戦いの終わりは近い。
 もうすぐそこまで、決着の時は近づいていた。



[25400] Act.09
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/30 20:08
/1


 明け方。

 言峰綺礼は関係各所に電話を掛け連絡を取り次いでいた。

 未遠川に現れた威容──異界より招かれし大海魔。その出現によって漏れ掛けた神秘の隠匿の為、アレを目撃したであろう市民に対するケアという名の洗脳暗示が施される事が決定した。

 目撃者全てを殺し事実自体をなかった事にするにはその数は多く、そんな規模の神隠しを実行に移せば聖杯戦争が立ち行かなくなる。
 故に暗示という消極的な手段であれ、出来る限りの真実を闇に葬り、戦争を継続する為の手法が選ばれた。

 何度かに分けて行われるであろう暗示はその深度の分だけ効力を増す。他の記憶に対する障害も否めなくはないが、双方のキョウカイにとっては神秘の秘匿こそが大前提。
 口封じとしては手緩い手段を取るのだから、その程度の過失は受け入れて欲しい、とそういうところだ。

 今日の朝刊の一面辺りには、関係者より偽の事実として捻じ込まれた事件内容が掲載される事になるだろう。それに不安を抱く市民もいるだろうが、この街はとうの昔に戦地。ただそれを今まで知らなかったというだけだ。

 じきに戦いは終わる。いずれ記憶も風化する。そんな事もあったな、と笑い飛ばせる日が来る。
 全てを記憶し語り継げるのは、真実を知る戦いの勝者だけ。唯一人──聖杯の縁に侍る事を許された者だけだ。

「……これで一応は、片がついたか」

 最後の連絡を伝え終え、綺礼は目元を強く押した。

 間桐邸での一件からこっち、不眠での作業を強いられたのだ。眠らない事はそれほどの苦痛ではなくとも、余りに処理する雑事が多すぎた。
 璃正ならもっと上手くこなせたのだろうが、綺礼が引き継いだのは一日前。それで夜明けまでに全ての処理を終えたことは充分に驚嘆に値しよう。

 背負った荷物をようやく降ろせた綺礼はソファーに重い腰を落とし、天を仰いだ。

「後は……凛を禅城の邸宅に送るぐらいか」

 監督役としての雑務は終わっても、綺礼の仕事は終わらない。時臣が間桐邸に強襲をかける直前にアサシンを介し凛の処遇についてを伝え聞いた。

『綺礼、どうか凛を助けてやって欲しい。君の父を犠牲にしてしまった私が頼めることではないが、君以上に信頼を置ける者がいなかった。
 故に頼む。もし私の願いを聞き届けてくれるのならば、いつか私の書斎を尋ねてくれ。そこに全てを記した書簡を置いてある』

 ────後は頼む。君の勝利を、祈っている。

 そう言い残し、時臣は魔術師としてではなく父として娘の救出に向かい、厚い信頼を寄せていた弟子に背後から刺されて絶命した。

 彼は今際の際に何を見たのだろうか。信頼していた弟子に裏切られた絶望か。娘を救えなかった悔恨か。不条理な終わりに対する、慟哭か。

「……加害者である私がそれを知りたいと求めるのは、余りに趣味が悪い」

 そう理解していながら、その在り方が歪である事を知りながら、もはやそうする事しか出来ない自分に失笑する。
 罪の甘さを知ってしまった。涙の味を覚えてしまった。怨嗟の声は、どんな音楽よりも心地良い。

 こんな愉悦を知ってしまったら、他の全てが色褪せて見える。より甘い味を知りたい。より美しい色が見たい。ああ、それはならば正常な形。求めるものが真逆なだけで、その想いは世界に肯定されている。

 この身は遂に、赦しを得たのだ。
 自らを許す事を、赦されたのた。

「それでもまだ……答えには辿り着いていない」

 赦しを得る事と答えを得る事は違う。自らの歪が存在する事を認められても、何故そんな歪が生れ落ちたのか──それをまだ、知ってはいない。
 そこには必ず理由がある。全てのものに価値はなくとも、必ず意味は存在する筈だ。

 その答えを知る為に、聖杯を求める者達を踏み越えて、あの男との邂逅を夢見ている……

「その貌は、どうやら愉悦の味を識ったようだな言峰綺礼」

 揺らめく風。蝋燭の明かりが消え、差し込む太陽の光さえも駆逐する、黄金の輝きが部屋を染める。

「アーチャーか」

 黄金は虚空より具現化し、此処が自分の部屋であるかのように寛いだ。

「言峰。まずはこの目障りな殺気を何とかしろ。でなければ全てを滅ぼしてしまうぞ?」

「────アサシン」

 主の呼び声に応じ具現化する黒。その数は五つ。以前賊の侵入を許してから強固になった警戒は、この黄金の王をすら侵入者として捉えている。
 綺礼が黄金の存在を当然と受け入れているから刃は持ち出さないが、その心には猜疑の念が湧き出している。

「アーチャーのマスターである時臣師は亡くなり、この男は現在マスター不在のサーヴァントだ。
 故に私は彼を客として遇している。共に戦いの終わりを目指す協力者としてな」

「……何故ですか。我らがありながら、何故そのサーヴァントを召抱えられる?」

「召抱えたつもりなどない。私のサーヴァントはおまえ達だけであるし、おまえ達がある限り契約を行うつもりもない。
 彼は我らが陣営に不足している対サーヴァント能力に秀でている。故にその力を貸して貰っているだけの協力者だよ」

 残る敵はセイバーとライダー。どちらも正攻法での戦いを得手とするサーヴァントだ。敵の背後を衝くアサシンでは分が悪い。ウェイバーはライダーの傍を離れないし、切嗣はアサシンの存在を知り余計に背中を警戒している。

 ここでアサシンを使うという事は、使い潰す覚悟がいるという事だ。

「おまえ達にはまだやって貰う事がある。故にどちらか一騎のサーヴァントが消えるまでは無用な酷使をしたくはない。聖杯に掛ける願いを持つおまえ達も、こんなところで犬死にはなりたくあるまい?」

「…………」

「その為の協力者だ。彼には残りの一騎を打倒して貰う。その対価として、楔なき身では叶わない魔力の提供を行うつもりだ」

 今現在、冬木教会にはキャスターの手を逃れ保護された数人の幼子が地下に監禁されている。彼らの血と魔力を糧にアーチャーは存在を維持する、という算段だ。
 如何に高い単独行動のスキルを持っているとはいえ、宝具を使用する戦闘行為に及んでは魔力がどうしても足りなくなる。

 それ故の協定。アーチャーは戦力の提供を。綺礼は魔力の提供を。二人の利害は、こうして一致している。

「…………」

 それでもアサシンの不満は払拭されない。協力者。それはいい。しかしこの黄金もまたアサシンでは抗し得ない実力者。敵の一騎を打倒した先にあるのは何だ。その先に本当に、この身が願う聖杯はあるのか……?

「安心するがいい。聖杯はお前達が手に入れる。手に入れなければならない。その為に今は私に協力して欲しい」

「……分かりました」

 主からの嘆願を聞いては首を縦に振るしかない。どの道アサシンにはこれ以上抗するものがない。綺礼をマスターと仰ぐ以上はその指示に従うしかないのだ。

「ああ。その上で命令だ、今からアーチャーと内密の相談がある。万が一にも漏れてはいけない類のものだ。故におまえ達は教会の外の警戒に当たれ──全員でな」

「…………」

 アサシン達はそれに答えることなく姿を消した。程なく全ての気配が教会外に散った事を確認した後、綺礼は口を開いた。

「暗殺者に疑うなというのも難しいか」

「それはそうだろうさ。猜疑が形を持ったような連中だ。奴らも内心では分かっているのではないか? おまえは嘘は吐かなくとも、真実を覆い隠しているとな」

「さて……何の事やら。私は今の事実を述べただけであるし、これより先の目論見を語ったに過ぎない。そこに推測を持ち込むのは勝手だが、期待までを混ぜ込まれては少々勝手が過ぎるというものだろう」

「どの口がそんな空言を謳うのやら……まあ良い。おまえはおまえで好きに動けば良い。我も我で勝手にさせて貰う。その為の協力関係だろう?」

「ああ。私は衛宮を、おまえはセイバーを求めている。ならば共通の敵を倒すという利害はこの上なく一致している」

 ウェイバー・ベルベットと征服王イスカンダル。

 未だ能力の底を見せていない気配のあるライダーは警戒に余りある。今を生き残っているのがたとえ幸運の産物だとしても、赤銅の王の実力は本物だろう。

 そしてそれは衛宮切嗣も同じ。言峰綺礼を敵視している以上、まずは彼らを排除しようと動く。綺礼が何もせずとも切嗣がウェイバーに対処してくれるだろう。

 綺礼は決戦に向けた下準備を行うつもりだ。後は切嗣と協力者であるアーチャーに任せておけば抜かりない。

「ではな言峰。次に逢うのは、聖杯の前やもな」

 透けていく黄金。残滓を振り撒きながら、その気配を霧散させた。

「では私は私の些事を行うか」

 凛を禅城の邸宅に送り届ける事。そして時臣の遺した書簡の確認だ。

 遺言の内容についてはある程度察している。時臣の最期の言葉を思えば綺礼への信頼が形になったものだろう。

 その遺志を酌んだわけではないが、時臣の遺体は丁重に安置されている。腐敗の進行も食い止めてあるし、少なくとも数日の間にどうこうなるものでもない。

 彼の身体に刻まれたままの魔術刻印は凛に引き継がれるべきもの。それを失わせたくなかったから、間桐の翁の手に渡したくはなかったから綺礼は拙速とも取れる暴挙に出たのかもしれない。

「師の信頼に死を以って応えた私が、今更その上に胡坐を掻くのは許されまいが……それでも貴方の遺志は承りました。
 凛が一人で歩けるようになるまで、自立するその時まで、この身は助けとなる事を此処に誓いましょう」

 胸に提げたロザリオを握り、師への黙祷に代える。

 自らの手でその命を奪っておきながら、その死を悼む破綻した聖職者。
 言峰綺礼の視線は既に、戦いの先をこそ見通していた。


/2


 ウェイバー・ベルベットは起床してからずっと椅子に腰掛け空の向こうを仰いでいた。昨夜の雨は晴れ、快晴を告げる青が一面に広がっている。流れ行く雲を、ただ呆けて見上げていた。

「どうした坊主。心此処に在らずといった面持ちだな。よもや貴様、ホームシックにでも罹ったか?」

「……そんなわけないだろこのバカ。ボクはずっと昨日の戦いについて考えてるんだよ」

 それは嘘だった。確かに昨夜の戦いは思い返して余りあるが、考察の為に思考を回していたのではない。あの夜を貫いた赤い極光。世界を分かつ風を見せられて、ウェイバーは現実から逃避していた。

 なんてデタラメ。あんな一撃を容易く行えるサーヴァントがいる。これから自分達の前に立ちはだかって来る。その恐怖は、戦場を克服した歴戦の兵士であっても拭い去れるものではない。

 それほどの脅威。理解すら及ばない暴威。アレは人の業ではない。神の業だ。ちっぽけな人間一人が抗うには、その壁は余りに厚く高すぎる。

 ウェイバーと同じようにあの一撃を目に焼き付けておきながら、以前と何ら変わらない様子の己がサーヴァントに苛立ちを覚え、つい訊いてしまった。

「おまえ……アーチャーに勝てるのかよ?」

「無理だな」

「はぁ!?!?」

 剛毅であり不遜なこのサーヴァントならばそんな弱音を吐いたマスターの額を渾身の力で弾き飛ばし、怒鳴るくらいはするかと思っていた。そうして欲しいと期待していた。しかしその返答は否。アレには勝てんとのたまった。

「ああ、勘違いするなよ坊主。あの剣を抜かれてしまったら勝てんと、そう言いたかったのだ」

「……大して違わないだろそれ」

「勝ちの目が残っているだけ充分マシだろう。まあ彼奴が様子見も慢心もなく、最初からあの剣を抜き全力で掛かって来られたら、その時は諦めろ」

 人が人である限り自然現象に抗えない。その暴威から逃げる事や去った後の後始末は出来ても、災害そのものを消し去る事は出来ないし、意を決し立ち向かった先に待つのは無残な死だ。

 あの黄金は、人には逆らえない暴風も同じ。決して抗えない死の具現。

「あれはまさに英霊殺し。どのような格の英霊が相手でも、それが英霊では奴には勝てん」

「……そう確信してるくせに、おまえは聖杯を諦めないんだろ」

「当然だ。それに見てみたくはないか? 最強である自負を持ち、事実無敵に近い能力を有していながら、その足元を掬われ敗北する時の奴の顔をな」

「趣味が悪いぞおまえ……」

「何を言う。征服こそが余の覇道。強者の鼻を圧し折ってやるのも大好きさ。無論、辱めはせん。その強大な力に敬意を払い、余の幕下に従えるまでよ」

 何処までが本気か分からなかったが、それでもウェイバーの心は大分楽になった。自らが従えるサーヴァントは何一つを諦めていない。聖杯に託すちっぽけな願いと、その後にある自らで描く夢を今なお見続けている。

 ……なら僕も、それに相応しい行いをしなければならない。

 これまでこの奔放な王者に振り回されてきた。全く以ってデタラメだ。何処の世界に勝手に通販を使ったり履いてないまま外を出歩こうとするサーヴァントがいる。
 マスターの言う事は全然聞かないし、何度も弾き飛ばされた額には痕が残っているんじゃないかと錯覚すらしている。

 でもまだウェイバーは生きている。散っていった者達が既にいる戦場で、今もこうして仮初めの平穏に身を埋められている。
 それは認めたくなくてもこの王の力。この王の傍に在り続けたからこそ、ウェイバーは今なお生き永らえている。

 戦場の恐怖を知り、死の痛みを知り、救えないものの嘆きを知り、その度に大きな掌が頭を撫でた。その温かさを、忘れぬように噛み締める。

 ここから先を勝ち抜く為には、ウェイバーの力も必要だ。これまでのように王の背中に守られ続けているだけでは、ただの足手纏いでしかない。
 この身は魔術師。非力で何の取り柄もない凡庸の極みだ。それでも頭がある。思考を回す事が出来る。

 ならば考えろ。この王と共に聖杯の頂へ駆け上がる方法を。あの黄金を打倒し、この王と共に勝者となる夢を果たす為に。

「実際、おまえの見てる勝率はどのくらいだ?」

「そうさなぁ……彼奴は最強であるが故、その余裕を崩しはせん。事実あの剣を抜いたのは昨夜が初めてだ。それも令呪に従わされた結果であるのなら、余程追い詰められなければ抜かんだろう」

 あの剣を容易く使う事をアーチャー自身が好んでいない。あれはあの黄金にとっての切り札だ。湯水の如く溢れ出る宝具の一斉掃射だけで並の英霊が相手であれば充分に捻じ伏せられる。

「至宝の剣を抜く事──それ自体がアーチャーにとっての失態に近い。奴自身の意思で抜くのならば問題はないが、追い詰められた結果に抜かされたという事実に我慢ならん性質だなあの金ぴかは」

「じゃあ、あの剣を使わせずに勝つって事は、アイツが追い詰められていると認識する前に倒さなきゃいけないのか」

 言ってその難しさに辟易とした。

 どんな相手だろうと追い詰められれば切り札を切る。あの黄金はその切り札が他を寄せ付けない絶対のジョーカーだという点が違うだけだ。
 相手に切り札を切らせないままに勝つ──それを為すには、

「……奇襲がもっとも簡単だろうけど」

 それもまた難しいだろう。アーチャーであるからなのか、あの男の視野は極端に広い。いや、視界外のものをすら把握しているのではないかと思えるほどに、あの紅蓮の双眸は全てを見通している。

 何もかもがデタラメで、その全てが反則級。付け入る隙は最強ゆえの慢心だけ。ジョーカーを切られた瞬間負けの確定するデスゲーム。

「……やっぱり単騎じゃ勝てないか」

「ま、結局はそこに行き着くよな」

 赤毛の王も分かっていたのか、ウェイバーの言葉に賛同する。

「余の最終宝具を以ってしても宝具掃射ならいざ知らず、あの剣は抑え切れん。故に抜かせぬ事が大前提。しかし仮に追い詰めてしまえば必ず抜くし、追い詰めなければ勝ちの目はない
 ──それが余一人であったのならばな」

「二人掛かりなら相手の警戒心も増すかもしれないけど、単騎で勝ち目の薄い戦いに望むよりはまだマシ……かもしれない」

「手を組むのならセイバーだな。アサシンとランサー、キャスターは消え、恐らくバーサーカーももうおらん。残っているのは王を称する三人のみ。ならば最優の剣と手を組む他あるまい」

「……何でバーサーカーは消えたと思うんだ?」

「昨夜あれだけの威容を見せたキャスターの下にセイバーは姿を現さなかった。ならば奴はバーサーカーと戦っておったのだろうよ。
 アレはセイバーに執着していたようだし、アレが相手ではたとえセイバーでもキャスターを気にする余裕などなかっただろう」

「セイバーが負けたとは思わないのか?」

「ああ。英霊との融合などという暴挙を行った以上はたださえ制御の難しいバーサーカーを抑えきれるとは思えん。時間切れか、セイバーに断たれたか……そこまでは分からんが、バーサーカーの敗北は必定よ」

 それが事実であれば既に残りは三組。後一組脱落すれば、唯一人の勝者を待たずして聖杯はその姿を現すだろう。

 あくまでライダーの言葉の全てを鵜呑みにすればの話であり、推測の混じったものを確定のものとして行動を起こすのは危険だが、それでも現状、アーチャーを倒す為に手を組むというのは悪い策ではない。

「とりあえずはそれで行ってみるか……まずはセイバーとそのマスターに接触しないとな」

「ところで坊主。今日の貴様なにやら変ではないか? 何か余にはマスターらしいマスターに見えるんだが」

「ボクは最初からおまえのマスターだっ!」

「むふん、良い良い。貴様にも覇道の兆しが芽生えてきたと見える。良い兆候だ。今の坊主は身長を伸ばしたいだの言っていたあの頃とは随分変わっておる」

「……身長を伸ばしたいだなんて、一言も言った覚えないからな」

「細かいところを気にするのは変わっておらんなぁ。もう少し大らかに生きられんか。懐が狭いと婦女子にモテんぞ」

「大きなお世話だッ! あと、オマエが大らか過ぎるンだよっ!」

 ギャーギャーと益体もない会話を交わし笑いあう。迫る決戦の時、もうこうして共に笑い合える時間はないのかもしれない。いや……笑い続けるために、勝利を掴む為に戦いに赴くのだ。

「あぁ……そう言えば聞き忘れてた。オマエ、それだけアーチャーの剣を警戒してるって事は、アイツの正体にも心当たりあるんだろう?」

「無論。余と同等かそれ以上の不遜。本来一つの筈の英霊のシンボルたる宝具を湯水の如く所持している者。そして世界創生を謳う剣。
 符号では結べんが、これだけの要素を全て兼ねられる英霊など一人しか思い浮かばん。即ち────」

 黄金の王の真名を告げようとした時、タイミングも悪く階下より響き渡る電子音。それは来客を告げる音だった。

「そういや今日、二人は出掛けてるんだったか」

「うむ。マーサ夫人は買い物に、グレン翁は町内会の寄り合いとかいう会合だったかな」

 アレクセイの名でウェイバーのイギリスでの友人を騙り寄生しているライダーもこの家の家主であるマッケンジー夫妻とは面識がある。美味い飯を食わせてくれる、仲の良い老夫婦であると思っている。

 一応はこの家の家主の孫という扱いになっているウェイバーだから居留守を使うのは上手くない。暗示が解けないようにする為にも、出来る限り乗っ取った孫というペルソナの動きをトレースしておくべきだ。

 こんな事でいらぬ疑いは持たれたくない。その思いでウェイバーは重い腰を上げた。

「待て坊主」

「何だよ。まさかまた通販でなんか買ったとか言い出すんじゃないだろうな」

「そうであればまだ良かっただろうよ。この気配……少し拙いかもしれん」

 先程までの陽気はなりを潜め、赤毛の王の顔に浮かぶのは険しい色。この来客が、ただならぬ者だと告げていた。


/3


 衛宮切嗣は昨夜の戦いからこれまで、セイバーの召喚を行った屋敷に身を潜めていた。

 舞弥に持ち込ませていた備品を使い、来る決戦の時に向けて愛銃の整備に余念がない。粗方の掃除を終え、汚れを拭いて動作をチェックする。リロードも同時に確かめ、自身の腕に一切の鈍りもない事を確認した。

「…………」

 視線だけを傾け、見通せない襖の裏側を見る。薄い戸板を挟んだ向こうにはセイバーがいる。

 切嗣とセイバーを繋いでいた中継役──久宇舞弥の死によって二人はその作戦行動を共有する事が出来なくなった。別段、切嗣が己の口を介しセイバーに告げれば済む話なのだが彼はそれを極端に嫌った。

 この男にとって、セイバーは手にする魔銃と何ら変わらない道具。敵を討ち滅ぼす為の武器でしかない。
 無機質な鉄の塊に声を掛ける馬鹿はいない。愛着を持てばより性能を高められると錯覚する阿呆もいるが、そんなおかしな話はない。

 仮にあったとしても切嗣はそんな妄言を信じるわけがないし、目の当たりにしたところで行わない。ただの道具に愛着を抱くと言う事は、それを捨てなければならなくなった時に苦悩を抱く事になる。

 そんな余分は必要ない。武器は性能通りの効力を発揮すればいい。道具は道具。そう割り切る。自分自身さえも命を量る天秤に代えて、ただ無情に敵を討つ。

 それ故に切嗣は語らない。出逢いの夜より一度として会話を交わしていない。もし会話を行うとすればそれは必要に駆られた時。この手の令呪に訴えなければならなくなった時だけだ。

 対する彼女──セイバーは舞弥からの通信が完全に途絶えた後、彼女の死を目撃していないとはいえあの夜の戦いで命を落としたのだろうと推察し、マスターの気配を追いこの屋敷に舞い戻った。

 切嗣がセイバーと話す気がない事を承知している。それゆえ襖一枚隔てた場所に身を置いている。

 本来ならばもっと離れておく方が精神衛生上、双方にとって都合が良いのだろうが、今の冬木にはアサシンが跳梁している。斬り捨てた筈の影は存命しており、あまつさえ異常な能力を所有している。

 マスターの守護を第一の命としなければならない現状において、セイバーは切嗣の傍を離れる事は出来ない。切嗣もそれを承知しているのだろう、無闇にセイバーを邪険にはしていない。ただし、干渉も一切ないが。

 切嗣は全ての作業を終え、持て余した時間を刻む時計を見上げる。カチカチと音を刻み続ける古惚けたそれは、もう一時間ほどで中天を指そうとしていた。

 戦いから半日。
 充分に身体を休める事が出来た。
 準備も万端、不備はない。

 ならば行こう──残る敵を刈り取る為に。最後の敵と見える前の、肩慣らしだ。



+++


 とは言うものの、切嗣には未だにウェイバーとライダーの拠点の正確な位置が掴めていなかった。
 使い魔の追跡を悠々と振り切る雷神の戦車の機動力により、その着地点を最後まで見る事が叶わなかった。

 街中に張り巡らせていた舞弥の目が生きていれば今頃とうに掴めていたのだろうが、それも早々に言峰綺礼によって潰されてしまった以上は是非もない。

 それでもこれまでの数度の追跡でどうやら奴らの拠点は深山町にある事までは突き止めている。ならば虱潰しだ。

 マスターはマスター同士を、サーヴァントはサーヴァント同士を知覚出来る。
 日の高いこの時間、もし彼の主従が拠点に身を隠しているのなら、ある程度まで近づけば捕捉出来る。

 日中とはいえ無用心に背中を晒すのは上手くない。それでも切嗣はこの作戦がベターであると判断した。

 切嗣が推測する限り、アサシンの強襲はない。綺礼が切嗣との邂逅を望んでいる以上、相対する事無く背後より一撃とは行くまい。
 ライダー組にしてもそうだ。こちらが気付くよりも先に感付き、奇襲を行うという策は行わない。そんな気性ではない事は、森での一戦で把握している。

 警戒すべきは存命中であろうアーチャーだが、こちらも対策はある。
 切嗣が今こうして探索を行っている後方、五メートル当たりをセイバーが付かず離れずで同道している。

 綺礼の真意を知らないセイバーからすれば、アサシンが生存している以上はマスターの守護を務めるのが常道だ。最優の剣士の判断は正しい。

 ここで余計な干渉でもしてくれば別だが、話しかけるでもなく歩調をも合わせていないのは、切嗣の意を汲んでのものなのだろう。そして切嗣もセイバーの意を汲み、同行を許している。

 無言の肯定。勝利の為の最低限のコミュニケーション。今の状態が最良である事を、どちらともなく了解していた。

 深山町は大きく分けて二つの顔を持っている。一つは日本式家屋の立ち並ぶ区域。切嗣らの拠点もこちらにある。もう一つが洋館街。遠坂や間桐が軒を連ねる区域だ。

 舞弥が遺した調査結果によれば、洋館街の方が確率が高そうだった。深山町で消息を絶ったという以上の情報はなく、これは舞弥の私見を多分に含んだ憶測でしかない。
 それでも切嗣はその憶測を信用してみる事にした。どうせ手当たり次第に探すつもりであったのだから、少しでもより確率の高い方から当たって見るべきだ。

 そうして二つの区域を分かつ十字路に差し掛かったとき──

「おや……?」

 思いも寄らぬところから、声を掛けられた。

「…………」

 警戒も露に視線を向ける。この町に切嗣の知り合いなど居ない。居るのは討ち取るべき敵か無関係な一般人のみ。

「ああ、申し訳ない。もしやと思い声を掛けさせて貰ったのじゃが……私は電車で相席させて貰った者ですが……お忘れですかな?」

「……っ! ああ……」

 相手の顔を見て、ようやく得心がいった。切嗣がこの街に乗り込む前、とある電車の中で相席していた老紳士──それが今、目の前にいる者だった。

 ……そう言えば、あの列車は冬木も通過駅だったか。

 もしもの追跡を避ける為に迂遠な侵入手段を取ったが為、わざわざ直通の列車から乗り換え回り道をして冬木へと入ったのだ。
 思わぬところで思わぬ人物と出くわした。だからと言って切嗣には感慨など何もない。ああ、そういえばそうだったな──それだけで終い。足早に立ち去るだけだ。

「その節はどうも。こちらにお住まいでしたか」

 しかし今回に限っては、このご老人から何か引き出せるものがあるかと会話を続ける事にした。

「ええ。私もまさかこんなところで偶然にも再会出来るとは思いませなんだ。別の列車に乗り換えておられましたから、まさかこの冬木で巡り会うとは」

「少し寄り道をしていましたのでね。最終的な目的地は冬木(ここ)だったんですよ」

「そうでしたか。ああ、お引止めしてしまったのなら申し訳ない」

「いえ、少し人を探していた最中でして。地理に疎いもので迷っていました」

「おお、そうでしたか。何ならご案内しましょうか?」

「よろしいのですか?」

「ええ。丁度家に戻ろうと思っておったところです。
 急ぐ家路でもない。これも何か縁だ、儂にわかる事ならばお答えしますし、場所が分かっているのならご案内しましょう」

「いえ、それが場所が分からないのです。知人を訪ねて来たのですが、どうにもこの辺りの家でご厄介になっているらしいのですが」

「ほう……? して、その方の風貌などは?」

「一人は小柄な少年で、もう一人は赤毛の大男です。一目見れば分かるちぐはぐな組み合わせですので、見掛けた事があれば記憶にあるかもしれません。覚えはありませんか?」

 切嗣の問い掛けに、老紳士は快活に笑い、

「ええ、その二人ならようく知っております。何せ、うちで寝起きしておりますのでな」

 核心へと至る、そんな事を口にした。



+++


「なるほど。ウェイバーのご友人の方でしたか。
 いやぁ、アレクセイさんも良き御仁でしたが、貴方のような方とまで知己とは、我が孫ながら不思議な縁を持っておるものです」

 彼の名はグレン・マッケンジーという。

 ウェイバーとアレクセイと名乗るライダーが身を隠している彼の御仁の家に向かう道すがら、それとなく聞き出したところによるとウェイバーは暗示を用い自身をグレン翁の孫と偽っているらしい。

 なるほど、それは切嗣をして盲点だった。聖杯戦争に臨む魔術師ならば自らの拠点は堅固なものにしておきたいと思うもの。遠坂や間桐然り。そしてケイネスもまた然り。アインツベルンとて同様だ。

 未熟なウェイバーならば当然にしてそうするものだと考えていた。

 その前提で考えれば見ず知らずの他人の家に寄生し、あまつさえ工房化する事無く一般人と偽装して身を潜めるというやり方は慮外のもの。それはどちらかと言えば切嗣のやり方に近い。

 魔術師殺し──ああ、その異名に囚われていたのは切嗣も同じ。魔術師という固定概念に先入観を持ち、その外側に身を置く者……自身と同様の存在足りえる者の事を考えてすらいなかった。

 間違いなく切嗣の失態であり、失策だ。いや、逆にそんな背中を晒すにも等しい真似をしてのけたウェイバー・ベルベットの胆力こそを賞賛するべきか。

 何れにせよ拠点が割れた以上、最早是非もない。晒された背中を撃ち抜くだけだ。

「……ところで、後ろのご婦人は?」

 後方五メートル。付かず離れず変わらず後を追ってくるセイバーを訝しみ、グレン翁はそう訊いた。

「彼女は僕の仕事関係の連れです、お気遣いなく」

「ああ、例の……」

 列車での別れ際、切嗣は世界を救うと憚った。それが自分に課せられた仕事だと。為さねばならない義務であると。
 無論グレン翁はそれを鵜呑みにしていない。こんな何処にでもあるような街で、一体どうやって世界を救うというのか。彼なりの冗句、一期一会の別れに添える花だったとグレン翁は思っていた。

 昨今俄かに町全体が騒がしくはなっているが、それと切嗣の関連性を結び付けられるほどこの二人の事を知らない。だがら冗談めかして問いかけた。

「お仕事の方は順調ですかな?」

「そうですね。あと数日程か……早ければ今日にも達成出来そうですよ」

「それはそれは。ではようやくご家族とゆっくり出来ますな」

「ええ……本当に、長かった」

 この冬木での出来事だけを切り取ればそう長い時間ではない。しかし切嗣にとってこの戦いの終端で成される祈りの成就は、幼少の頃からの悲願だ。
 踏み躙って来たもの、手に掛けてきたもの。血で染められ屍の山で出来あった道のりの終わりがようやく見えてきたのだ。

 その為にこのご老人を利用する事に躊躇はない。ウェイバーとライダーに対する有効性が考えられるのなら、使い潰すまで。
 翁からの話題振りにそれとなく返しつつ、切嗣の心は静かに冷えていく。その双眸は色を失い、目的だけを見つめていた。

「ここです」

 老紳士が足を止めたのは何処にでもある一軒家。洋館街らしく洋風の佇まいだが、別段異常は見受けられない。魔術的保護もない、まさしく一般人の住む家だ。

「儂が家を出た時はまだウェイバーもアレクセイさんもおりましたが、最近よく出歩いておるようでしてな、今日もまだいるかどうか──」

「ああ、すみません。少し待ってください」

「…………え?」

 切嗣の制止に振り向いたグレン翁の額に突きつけられる、鉄の銃口。何の音沙汰もなく突如そんなものを取り出され、突きつけられた老紳士は当然にして当惑した。

「そのまま動かないで頂ければ、少なくとも今すぐ死ぬ事はありません。くれぐれも、妙な動きをしないように。誤って引き金を引いてしまうかもしれませんので」

 無感情にそう言い、グレン翁の困惑などまるで意に返すことなく切嗣はインターホンを押した。すぐに人質の腕を後ろに取って拘束し、その背中に銃口を押し付ける。
 仮に近隣住民に後ろから見られても銃を突きつけているようには見えまい。切嗣の身体が遮蔽物となっているし、その後方にはセイバーが控えている。

 セイバーが切嗣の悪逆な行いに如何なる感情を抱いているか、それは知る由もないが、真実として彼女は現状を看過していた。

 ────そして程なく。内側より扉が開く。

 玄関口に立っていたのは矮躯と巨躯。ウェイバーとライダーに他ならない。彼らの顔に滲むのは怒気か焦燥か。何れにせよこちらの訪問は知られていた筈。こちらがこの家に近づいた事で相手を感知できたように、向こうも知覚出来た筈なのだから。

「おうセイバー、こっちから訪ねようと思っておった矢先の訪問だ。歓迎したいところではあるが、なぁセイバーのマスターよ。その御仁は無関係な一般人だ、手を離してやってはくれんか」

「だろうな。おまえ達にとってもただ身を隠す上で都合の良かった隠れ蓑に過ぎないのだろう。しかし、今こうしておまえ達が静観に徹せざるを得ない状況を考えれば、一応の札にはなり得るようだ」

 つまりそれはグレン翁を離す気はないという事。交渉の席において使える手札であると判明した以上、無益に手放す意味はない。時臣に対する葵のような決定的な切り札にはなり得ないが、それでも充分なアドバンテージである。

「ウェ、ウェイバー……これは一体どういう事だ……?」

「ごめん、おじいさん。でも、すぐ助ける!」

「マスター! 上ですッ!」

 ウェイバーの強い語気に重なるセイバーの怒声。セイバーが踏み込むと同時、切嗣もグレン翁を掴んでいた腕と銃口をすぐさま外し、渾身の横っ飛びでその場を離脱する。

 武装を召喚する暇さえ惜しかったのか、セイバーは不可視の剣だけを手繰り寄せ、切嗣の居た場所へと踏み込み頭上より降る『人影』より繰り出された斬撃を迎撃し、返す刃で着地しようとするそれを斬り裂いた。

「なっ……サーヴァント!?」

 斬り捨てておきながら、それでもその衝撃が胸を貫く。今刹那においてセイバーが斬って捨てた影。それは確かにサーヴァントだった。聖杯に招かれた七騎の何れでもない、未だ見ぬ八人目のサーヴァント。

 ……いや、有り得るわけがない。ならば今のは、ライダーの宝具か?

 飛び退いた切嗣、そしてセイバー。二人は同時にその思考に至り、未だ玄関口に不遜にも佇む赤銅の王者を見やった。

「如何にも。今のは余の宝具の一端である。しかし流石はセイバーよ。奇襲に加えそれなりに名を馳せた者であった筈なのだがな、今の奴は。
 いずれにせよ、これで人質は返して貰ったぞセイバー、そしてそのマスターよ」

「つかオマエ……やりすぎだろっ!? おじいさん気絶してるじゃないか!」

「そこは許せ坊主。余とて今の一瞬では手加減するほど余裕がなかったのだ。それに御仁は気を失っておる方が安全だろうよ。後の処理はまた後で考えろ。今はこやつ等を何とかせねばな」

 セイバーと切嗣の隙を見計らい家の中にグレン翁を引き摺り込んだライダーの判断力。そしてこの策を事前に仕込んでいたからこその出迎え。
 切嗣からすれば一杯食わされた形だが、元々降って湧いた幸運が手から零れ落ちたに過ぎない。

 ウェイバー達の拠点が割れた。こうして面と向かい合った。それだけで充分過ぎるほどの収穫だ。

「さて……こんな真似をしくさってくれた奴らに話を持ち掛けるのは正直気に食わんところなのだが、背に腹は変えられん。セイバー、余と手を組まんか」

「なに……?」

「貴様とてあのアーチャーの脅威性は直に剣を交わし感じ取った筈だろう? あれは少々桁が違う。まともに戦りあうのははっきり言って分が悪い」

 征服王をして、そう言わしめる黄金。確かにあの湯水の如く溢れる古今東西無尽の剣群は脅威に値する。特に白兵戦に特化するセイバーからすれば、まず近づく事すら難しい。そして近づいたら今度は不可思議な能力を持った剣で迎え撃たれる。

 正直な話、未だ突破の方法を掴めない難敵ではある。

「今残るは既に余と貴様、そしてアーチャーの三人だ。ここで我らが争えば、結果利するのはあの金ぴかよ。故にまずはあやつを打倒し、その後に我らの雌雄を決するというのはどうだ?」

「──論外だな」

 征服王の提案を斬って捨てたのはセイバーではなく切嗣だった。

「如何なる敵であろうとも、立ちふさがる者は全て殺す。邪魔する悉くを捻じ伏せる。たとえあのアーチャーがいかに強大な敵であろうとそれは変わらない。手を組むなど論外だ」

「……ならば貴様には、あの金ぴかに抗し得るだけの策があると?」

「当然だ。無策で勝ち誇るのは馬鹿の所業だ。僕達は単独で充分に聖杯を獲得し得る。故におまえ達と組むメリットなど何一つとしてない」

 それはセイバーをして初耳の切嗣の宣誓だった。セイバー自身、アーチャーは強敵だと認識しているし、倒すつもりではいた。しかしその方策が見えなかった。
 けれど切嗣は言った。手はあると。切嗣とセイバーだけであのアーチャーを打倒出来るだけの策略があると。

「マスターがこう言う以上は私の出る幕はない。ライダー、その提案は受け入れられない」

「ふーむ……」

 セイバーは恐らくあの剣──乖離剣エアの威力を見ていない。見ていれば、そんな楽観は口に出来ないからだ。不可思議なのはマスターの方。この男の言には確信がある。何かしらの根拠があって今の発言をしたように見える。

 それが何なのかまでは流石に分からないが、それが恐らく──この男にとっての切り札に違いない。

「とは言われてもなぁ、余としてはその気であったゆえ今更駄々を捏ねられたところで如何ともし難い。つーかセイバー、余は貴様を幕下に加える気満々だったのだぞ? この行き場のない気持ち、どうしてくれる」

「……駄々を捏ねているのは貴様だ征服王」

 余りにも奔放な言動に辟易としたセイバーは頭を振った。

「……ならば征服王、一つ賭けでもする気はないか」

「賭けだと?」

「今夜冬木大橋で待つ。そこでおまえはセイバーと戦え。貴様が勝てばセイバーの身柄は好きにすればいい。その代わり、こちらが勝てば潔く死んで貰うがな」

「ほう……」

 それは賭けという言葉を使っただけの挑戦状であり果たし状だ。勝者は全てを手に入れ敗者は無残な死を晒す。単純明快この上のない決闘への招待状だ。

 切嗣がそう言ったのには勿論ちゃんとした理由がある。この場で争う事は簡単だが、流石に日が高すぎる。犠牲の多寡に気を払わずとも、神秘の露見に抵触しかねない。何よりこんな住宅の密集地ではセイバーは全力を出せないだろう。

 言峰綺礼、アサシンそしてアーチャーと見える前の試金石。セイバーという駒の最大戦力を把握し、そして一つの罠を仕掛ける為の戦い。

「そいつはいい。余の願いが全て叶うとあらば断るだけの理由はない。なあ坊主。構わんよな?」

「え……? あ、ああ……」

 これまでずっと蚊帳の外だったウェイバーは向けられた声にただ頷くばかりだった。

「だとさ。ではなセイバー、貴様との勝負楽しみにさせて貰う」

「ああ、首を洗って待っておくがいい」

 そして背を向けた切嗣とセイバーに掛けられる、征服王の声。

「なあセイバー。貴様がどのような祈りをその胸に抱いているのかは知らんし、その為に手を汚す事を厭わないでいる事も咎める気はない」

「…………」

「だがなセイバー、貴様のような小娘は、誰かの背に憧れを抱いているべきだ。その背に重荷を背負い続ける事はない。
 余がその重責から解放してやる。そして我が旗印の下、その剣と花を存分に咲き誇らせるがいい」

「戯言だなライダー。私が背負ったものは私自身が背負うと覚悟したもの。他人にとやかく言われる筋合いはない。
 それにそんな妄言は、私に勝ってからにするがいい。私は負けない。誰にも、何にも──聖杯は、我々が手に入れる」

 揺るがぬ意思を語り、セイバーは去る。その背を見つめる王の瞳に映るのは、如何なる感情であったのだろうか。


/4


 黄昏行く空。
 昇り来る月。

 一番星が夕焼け空に煌いて、遥か彼方からは忍び寄る暗雲の影。それはまさにこれから巻き起こるであろう闘争を予期させる、風雲急の気配であった。

 切嗣とセイバーの訪問時に巻き込まれ、気を失ったグレン翁は今なお床に伏している。命に別状はなく、ウェイバーが記憶の改竄と眠りの魔術を施したせいだ。
 ウェイバーの手腕では完全な改竄が行なわれたかどうかは不透明ながら、実際に神秘を見られたわけでもない以上は捨て置いても問題はない。

 それでもなお術を施したのはウェイバーなりの謝罪だ。これまで暗示により騙し続けた事と、巻き込んでしまった事への。
 どうせもうすぐ戦いは終わる。そうすれば二度とこの家には訪れない。それでも出来る限りの恩は返したかったのだ。

 この夜を越えて、もう一度戻れるのなら、ちゃんと謝ろう。そう決めて、その場凌ぎの施術を行なった。

「……そろそろか」

 ウェイバーの自室でホメロスの詩集を読み耽っていた赤毛の王はぱたりと本を閉じ、窓より空の彼方を見上げる。遠く、まるで故郷を思うかのような眼差しを見つめて、ウェイバーは口を開いた。

「行くのか」

「おう。宵闇にはちと早いが、それでも充分に日は暮れておる。男児たるもの婦女子を待たせるのは好ましくはない。故に先に出向いて待つとしよう」

 瞬間、吹き荒れる魔力の風。ライダーの総身を覆っていく風は実体を得、戦装束──鎧と真紅の外套へと転じた。そして窓を開き風を浴びる。

「……良い風だ。戦を待ち侘びる余の滾る心に染み入っていく風よ。なあ坊主、余には予感があるのだ。この夜が、最後の戦いであると」

「……まさかおまえが死んで終わる、そんな最期の夜だって言うつもりじゃないよな」

「当然よ。セイバーを下し、配下に加え、その後にアーチャーを打倒し聖杯を掴む。そこでようやくスタート地点なのだぞ? 余は確固たる己だけの肉の身体を得て、この身一つで天下にケンカを売りに行くのだ」

 マントのはためく背を見つめて、ウェイバーは思う。この男の背に憧れた者達は、何をその胸に抱いたのか。淡い希望か。無垢なる夢か。はたまた王の玉座を自らが取るという野望か。

 いずれにしろこの赤の王者はそれを良しと言うだろう。自らの首を狙いに来る者さえも肯定し、その覇気を賛嘆し自らの幕下に加えていく。東へ東へ。世界の東端を目指した王の軍勢は、日に日にその勢力を拡大していった。

 この男の背中はそれだけで大きい。世に名立たる兵共が畏敬を抱くに足る王者の中の王者だ。そんな男の隣にずっと座していた。何食わぬ顔で座り続けた。その厚顔が、今更になって胸を締め付ける。

 結局ウェイバーはこの時に至るまで何一つ出来なかった。ライダーに振り回され続けただけの、下らない道化だ。

「何を暗い顔をしておるか。さっさと貴様も支度をせんか」

「……何でだ」

「あん?」

「これから最後の戦いに臨むんだろう。それこそこれまでの戦いとは比べ物にならないくらい激しい戦いが起こるんだろう。そんな戦いに僕を連れて行くのか? いざって時に邪魔になるだけだぞ?」

「なんだ貴様、余と一緒に来たくないのか?」

「行きたいさッ! 行きたいけど、行けないだろ……」

 ウェイバーは身の程を充分に心得ている。自らがライダーの足枷にしかならない事を、誰よりも痛感している。だから行けない。着いて行きたくても行けないのだ。行けば必ず足を引く。

 セイバーにアーチャー、どちらも全力で死力を尽くしてなお勝てるかどうか分からない相手だ。そんな強者を相手に足手纏いを連れて行けば、敗北は確定的。

「ボクだって、おまえが勝つところを見ていたい……聖杯を手にする瞬間を共にしたい。でも……どう考えても邪魔でしかないだろ。そんなの、おまえだって分かってるだろ?」

「…………」

「だから置いてけよ。マスターだとか、そんなのもう関係ない。おまえが勝つ為の最善を行う為に、ボクなんか放っていってくれよ!」

 それはウェイバーなりに考えた最善だった。自らが此処に残る事が、ライダーが勝ち抜く上でもっとも勝率が高いと計算したのだ。
 森での戦いにしろ海魔との戦いにしろ、ライダーは常に全力を出し切っていない。隣にいたウェイバーを常に気遣っていたのだから。

 その枷を外してやれば、剣の英霊にも弓の英霊にも劣らない。魔力不足ゆえの能力劣化は否めなくとも、在りし日の征服王の姿が現代に蘇る事は必定だ。だから見送ると決めた。此処で待つと覚悟したのだ。

「ふむ……ならば余は、主の命に従い最善を尽くそう」

「…………っ」

「故に来いウェイバー。余には貴様の力が必要だ」

「──────え?」

 別れの言葉を告げられるものと覚悟していたウェイバーにとって、それは全くの慮外の勧誘だった。頭が正常に回らない。口が渇いて言葉が出ない。それでも瞳は、見下ろし手を差し出す王の姿を捉えていた。

「これよりの戦い、確かに貴様の言うように熾烈を極めるだろう。坊主が傍におっては危険が及ぶかもしれん。それでも余に最善を尽くせと命じるのなら、坊主も最善を尽くすべきではないか?」

「だからっ、ここに残るって……!」

「その手に輝く三つの印。使い残しておくには惜しいだろう」

「あ────……」

 そこでようやく、ウェイバーは令呪の存在に気が付いた。これまで温存していた三画の絶対命令権。未だ未使用の切り札。

「おっと、ここで詰まらぬ命令に使うなんて事、考えてくれるなよ? 貴様は余と共に同乗し、その切り札を使う瞬間を窺え。貴様が好機だと、危機だと判じた時に躊躇なく使ってくれ。
 これより見えるはそれほどの強敵よ。一画たりとも惜しむ事はない。全てを使い切り、余と貴様の二人でこの夜を突破するぞ」

「ぁ………………」

 王の言葉に心が震える。声が漏れそうになる。眦から零れ落ちる涙を受け止めるように背中を丸め、右手の甲を握り締める。
 まだ出来る事がある。この王の力になる事が出来る。それが必要だと言ってくれた。この身の力が必要だと言ってくれた。それだけで、ウェイバーは嬉しかったのだ。

「はは……全部使えって……なんだよそれ、そうしたらボクは、おまえを御せないじゃないか……」

「御す必要があるか? そんなものがなければ、共に肩を並べる事さえ叶わぬか? 違うだろう、余と貴様は既に朋友であるが故」

「こんなボクが……おまえの朋友で、良いのかよ……?」

「無論だ。余は貴様を認めておる。自らの矮小さを理解し、戦場の恐れを知り、それでなおこれまでずっと余と共に戦場を駆け抜けて来たのだぞ? それが朋友でなくて何だと言うのか。
 まあ酒を酌み交わせんのがちと惜しいが、それは後の楽しみに取っておくとしようか」

 そうして今一度差し出される王の掌。幾度となくウェイバーの頭を撫でた、大きな手。差し伸べられたその手を、ウェイバーは取った。

「ボクがいたから負けたなんて言わせない。ボクのお陰で勝てたって、そう言わせてみせるからな!」

「はっは! おう、期待しておるぞ──!」

 無空を蹴り上げ戦車を率いる神牛が嘶く。
 その背に乗せる二人の主を称えるように。

 絆で結ばれた主従が今──共にこの夜を越える為に空を翔る。



+++


「切嗣、そろそろ時間ですが」

 仮初めの拠点としていた武家屋敷の一室に、ウェイバー達との遭遇、宣誓からこれまで籠もり続けていた切嗣の背に掛けられるセイバーの声。それは戦いへと誘う角笛の高鳴りに似ていた。

「……それは」

 切嗣の背中越しにセイバーは光を見る。暗闇に没する室内を輝きに染め上げる、黄金の煌き。意匠の限りを尽くした荘厳。それこそが切嗣が自らの手で北欧に居を構えるアインツベルンの本拠地より持ち込んだ聖なる杯。

 今回の聖杯戦争において聖杯降臨の依り代となる黄金の杯だった。

 未だ取り込まれた魂の数は三つ。杯には半分程の魂(みず)しか満ちていない。それでもなおこの輝き。見る者の目を焼く至高の光輝だった。

 聖杯の状態を確認した切嗣は、今一度厳重に封を施し立ち上がる。武装は既に済ませている。後は聖杯を内包した木箱を今回の降臨の霊地──新都にある冬木市民会館へと運ぶだけだ。

 通常ならばこの四回目、元より三箇所あった霊地を巡り、最初の基点である柳洞寺に戻るものと思われていたが、聖杯戦争の為に手を加えられたせいで霊脈が乱れ、新たに瘤となって仮初めの霊地化し四つ目の基点が発生した。

 そしてその四つ目に今回は聖杯を降ろすに足るだけの魔力が蓄積されており、その場所がたとえ聖杯を降ろすのに相応しくない新都の中心部であったとしても、他の霊地で儀式を行なえない以上は冬木市民会館で執り行うしかなかった。

 幸いであったのは未だ市民会館は建造途中であり夜も深まれば無人になるであろう事。これがもし夜でも人が大勢いる場所であったのなら、より面倒な些事に煩わされる事になっていたのだろうが、不幸中の幸いと言えるだろう。

 しかし切嗣にとってはそんな些事はまさしく些事。聖杯を成す為に邪魔になるのなら無関係な人々とて殺し尽くすし、そこに戸惑いはない。

 もはや彼の歩みは誰にも止められない。
 終わりの見えた道のり、あとは死力を尽くし走りきるまで。

「令呪を以って我がサーヴァントに命ず──セイバー、死力を尽くし戦え」

 きぃん、と音と光を発しセイバーの身に呪縛となって降り注ぐ絶対命令。

「貴方はまた……そんな無為な命令を……」

 令呪の能力を最大限に発揮させる為には極刹那的なものほど効果の上昇を望める。逆に言えば長期的なもの、曖昧なものは効果がそれだけ薄くなる。
 切嗣の命令は後者。時期を限定していないし、命令の内容も漠然としたもの。これではセイバーの能力を嵩増しするには足りないし、縛るにしても些か弱い。

 何より、

「そのような事、言われるまでもない。私とて予感があります。この夜が最後の戦いになるだろうという予感が」

 恐らく、今を生き残る誰もがそれを痛感している筈。心の奥底で、この冬木を覆い尽くしていく不穏な空気を敏感に感じ取っている筈だ。
 故にどうせ命令を下すのならもっと有用なものであって欲しかった。死力を尽くした刹那において、相手を上回る後押しが欲しかったと思わないでもなかった。

「いえ……分かりました。私は貴方のその命令(いのり)に応えましょう。この夜を生き残る他のサーヴァントの悉くを、死力を尽くし斬り捨てると」

 片手に木箱を提げて切嗣がセイバーに向き直る。視線を交わすのはこれで二度目。初めて出逢った夜以来だ。

「ここまで来れば作戦は必要ない。おまえは持てる力の限りを尽くせ。周囲への被害など考えるな。全て僕がサポートする」

「はい」

「この手に提げた聖杯を、本物の杯とし祈りを叶える。その為に、ライダー、アサシン、そしてアーチャーを倒せ」

「はい」

 セイバーにとって切嗣は未だ底の知れない男だ。その明確な祈りを知らず、手を汚す理由を知らない。それでもこの男の覚悟と意思だけは本物だ。これまでの全てが、そう語っている。

 だから疑いなど必要ない。猜疑など以っての他。聖杯を掴む為に手段を選ばないだけの強さがあり、どうしても叶えなければならない祈りがある。それだけ分かっていれば充分に事足りる。

 故に背中の心配はない。この男に後の全てを任せ、己は向かい来る敵の全てを打ち倒す事だけに集中する。

 先の命令がセイバーを縛るのではなく後押しする。元より万全に近い身体状況をより完全へと押し上げる。それは微々たる支援。余程の接戦にでもならなければ分からないくらいの差異。

 しかしその想いを確かに受け取った。その願いを聞き届けた。ならばこの身は、彼の剣として遺憾なくその力を振るうのみ。

 ──貴方が私のマスターで良かった。貴方にもまた、私がサーヴァントで良かったと、この戦いの終わりで想って貰えれば、この身はただそれだけ救われよう。

 聖杯で祈りを叶えるという事はセイバーの消滅を意味する。在りし日の聖剣を引き抜く前の自分と今の自分は別人だ。前者がたとえ少女としても生を全うしようとも、王として生きた己は願いの成就と共に消え去るのみ。

 その先の事はセイバーにも分からない。真実として消えるのか、世界との契約により守護者として囚われるのか。

 いずれにせよ王としての最後の責務さえ果たせればセイバーはそれでいい。それで充分だと思っている。
 後のことは、後になってから考えるべきだ。今はただ、剣として戦うのみ。

 切嗣もまた同じく、ただ前だけを見据えている。
 残る強敵を打ち倒し、聖杯の前で希う。

 争いの根絶を。
 恒久の平和を。
 人の変革を。

 この目に焼きついた地獄とも煉獄とも思える阿鼻叫喚を、この世から消し去る。
 ただ穏やかに生きられる世界が欲しい。
 この手で救えなかった人々が、望んでいた世界を掴み取る。

 死徒化し、殺してくれと懇願する初恋の少女を殺せなかったばかりに、島一つを犠牲にした。
 その犠牲に報いる為に、この身は天秤の守り手となった。

 死徒の蠢く旅客機内で、最後まで生きる事を諦めなかった師を殺した。
 もし着陸を許していれば、より被害が大きくなっていたかもしれないからだ。

 可能性の芽は摘み取る。最小の犠牲で済む方法を、愛した人、大切な人でさえも貴賎のない命として天秤に載せ続ける。
 事実として命を奪ってきた。切嗣の傍にいた誰もを、この手で殺してきた。

 戦場で拾った子供を機械に造り替え、その身をただの犠牲にさえ貶めても。
 この身は涙さえ流せない。

 後戻り出来る道などない。往く道は過酷。しかし後ろには断崖絶壁しかないのなら、光の先を目指して屍山血河を走り続けるしかない。

 後少し……後少しで手が届く。
 ならば往こう。
 非道に堕ち、外道に手を染め、誰に非難を浴びせられようとも。

 唯一つ目指した光の彼方へ。

「────行くぞ」

「はい────!」

 孤独を糧に銃(けん)を執る。
 血と硝煙の匂いに身を包んで、約束を果たしに行こう。



[25400] Act.10
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/12/02 16:09
/1


 凪いだ風。無音の世界。色を失った夜の中、赤毛の王者とそのマスターは冬木大橋の中央でいずれ来る敵手を此処に待つ。
 人影はなく、車通りもない。戦いの火蓋を切って落とすにはお誂え向きの舞台。邪魔の入らぬ決闘場。

「──来たか」

 橋の中央に仁王立ちし、彼方を見据えていた炎の如き双眸が、歩み来る人影を捉える。揺れる金糸の髪。揺るがぬ意思を秘めた翠緑の瞳。
 あちらもライダー達の姿を目視したのか、身に着けていたダークスーツを魔力の風が覆い隠し、白銀の甲冑がその実体を帯びた。

「よう、セイバー。待ち侘びたぞ。貴様一人か。マスターはどうした?」

「我がマスターはマスター自身の戦いを行っている。此処で私と肩を並べて戦う意味はないのでな」

「ふむ……坊主。余の傍を決して離れるなよ」

「あ、ああ……」

 かつてランサーを相手にマスターの許婚を人質に取り、グレン・マッケンジーをすら盾にしようとしたセイバーのマスターの所業を思えばその警戒は当然と言えた。
 今こうしてセイバーがライダーの気を引いている間も遠く離れた場所からウェイバーの頭蓋を吹き飛ばそうと画策していてもおかしくはないのだから。

「しかしそいつは面倒だな。貴様を相手にしながらそのマスターの方にまで気を払えというのは、些かキツイものがある」

「弱音など聞いてやるつもりはないぞ? これは戦い……命を賭けて剣を交える戦だ。生死を賭けない決闘ではない、殺し合いだ。マスターのやり方は卑劣なれど卑怯と謗られる謂れはない」

「謗りはせんさ。勝つ為に手段を選ばんというのも一つの戦い方だろう。しかし──ならばこちらのやり口にもまた、貴様らは口出しする権利はないぞ?」

 瞬間、セイバーの鼻腔を掠めていったのは砂の匂い。身体を吹き抜けたのは寒空に吹く風ではない乾いた熱砂の風。
 有り得ない。この橋上で季節外れも甚だしい、それも砂漠の風が吹き荒れるなど。

「……まさか」

 昼間、一瞬だけ垣間見たライダーの宝具の一端。『神威の車輪』(ゴルディアス・ホイール)とは別の、もう一つの宝具。
 恐らくはライダーが真に頼みとする切り札。その正体が今、明かされようとしている。

「貴様はこれを決闘ではないと言った。だが余はそうは思わん。これは共に王聖を持つ者がその道の誇りを賭けて合い争う決闘よ。
 余の覇道と貴様の求道──どちらがより強い願いを抱いているかを競う闘争に他ならん」

 吹き付ける風は何処までも強く。帯びる熱は何処までもその温度を上げていく。此処が冬の橋上だという事を忘れるほどに。

「であるのなら、その邪魔をする輩にはご退場願おう。我が世界(ちへい)に招かれるべきは、余と志を同じくする者と、打ち倒すべき敵だけで良いッ!」

 そしていつしか、周囲の風景が変化する。

 闇に没した街並は塗り潰され、遠く地平を望む荒野が生まれる。闇に覆われた夜空は掻き消え、天高く燃える蒼穹の空が広がっていた。

 まさにその場所は遥か原野。赤銅の王者の心の風景を写し取った鏡面世界。その業は世界を侵食する禁術に他ならない。

「これは……」

「固有結界……おまえ、魔術師でもないくせに……」

「無論だとも。余一人ではこの世界を維持も展開も出来ん。だがこやつらが居ればそんなもの、取るに足りぬ瑣末事よ」

 遠く響く軍靴の音。
 蹄の轟き。

 一人、また一人と王の名の下に馳せ参じる人影と騎影。
 それら全てが王の臣下(サーヴァント)。
 王と心の風景を同じくした、同じ夢を胸に抱いた兵共。

「──────」

 唯一人、荒野を背にするセイバーの眼前に広がるのは、王を旗印と仰ぐ、地平の彼方を埋め尽くす万の軍。一糸乱れぬ統率でその轡を並べ、掲げられた御旗は吹きつける熱砂の砂塵にはためいている。

「ライダー……おまえは……」

「見るがいい、セイバーよ。これが余の総軍、死してなお繋がる朋友との絆の具現。余が背負った世界そのものよ」

 この心象風景は確かにライダーのものだ。しかしそれを展開維持しているのは彼だけでなく、彼の後ろに控える勇者達。王の背に憧れ、王と共に戦場を駆け抜けた歴戦の勇。心で繋がった真の朋友。

 この世界こそが征服王イスカンダルが生涯を掛けて手に入れたもの。
 死してなお覇王と共にある絆の総軍(レギオン)。

 ────故にその名を『王の軍勢』(アイオニオン・ヘタイロイ)

 ライダーが最終宝具、その真価である。

「………………」

 その光景を見て、セイバーは打ちのめされた。声は音にならず、見開いた瞳は地平を埋め尽くす彼軍に釘付けになってしまっていた。
 目の前に広がるものは、セイバーがその生涯の最後まで手に掴めなかったもの。零れ落ちていった確かな後悔。

 ──王は、人の心が分からない。

 そう謗られた孤独の王には、とてもではないがこんな世界を描けない。騎士達との絆など王の統治には必要ないと切り捨てた彼女には、到底及びもつかない代物だ。
 この時の彼方で再び剣を交わした湖の騎士の心さえも、最後までその真意を知る事が出来なかった。

 知る必要などないと思っていた。知って何が変わると思っていた。
 個人を想えば迷いが生じる。誰かを特別視してしまっては、理想の王ではいられなくなってしまうから。

 だから無情に私情を殺した。自らに天秤である事を課し続けた。国という世界とその中で生きる民を守る為の機構で在り続けた。

 だが────……

「ああ……」

 だからこそ、彼女にはこの光景が目に眩い。手に入れられなかったものだからこそ、その輝きに目を奪われた。
 もし円卓の騎士達とこの覇王のように絆を築けていれば、違う結末もあったのではないかと。

 湖と太陽の騎士を筆頭に、その背に連なるは無双にして誉ある円卓の騎士達。肩を並べ轡を並べ、襲い来る異民族を撃退する。
 凱旋と共に響く民の奏でる凱歌に酔い痴れ、勝利の宴では肩を抱き合い酒を呑み、共に武勇を誇り謳い上げる。

 そんな幻の如き夢を想い──そしてすぐさま打ち捨てた。

 ……今更だろうアルトリア。おまえが胸に秘めた想いはたった一つ。国を救うという祈りだけの筈。

 故にそんな夢物語は必要ない。赤毛の王の絆(レギオン)がどれほど凄まじくとも、この手には、その輝きにも劣らぬ光が宿る。

 遍く騎士達の誇り。
 夢と希望を織り上げた星の鍛えし最強の聖剣。
 その輝きが曇らぬ限り、この星が堕ちぬ限り、彼女は前を向いて走り続けられる。

「征服王イスカンダル──御身とその背に連なる勇者に敬意を払う。その上で言わせて貰おう。汝らの絆が尊くとも、私には譲れぬ想いがある! 決して引けぬ祈りがある! 故に此処に雌雄を決しよう!」

 逆巻く風。セイバーの手にする不可視の剣より、風が轟き嵐が生まれる。

「この手に宿る聖剣の輝きを恐れぬのなら掛かって来い! 私はその全てを打ち倒そう。その全てを薙ぎ払おう。
 我が一なる剣を以って、汝の率いる覇軍の総てを超えていく────!」

 たった一人、荒野に立つ孤独の王が謳い上げる。

 そして遂にその封を解かれる聖なる剣。刀身を覆い隠していた風の鎧を解き放ち、熱砂の風を巻き込み嵐の如く吹き荒れる。その中心に輝くのは星の光。誰もが空に望み、手を伸ばし、そして掴み取れない希望の星。

 彼女だけが担う事を許された、この世でもっとも尊い光。
 誰もが遠い日に見た天の赫耀。

 手にする聖剣は遥か地平に輝く絆の軍勢に劣らぬ煌きを発し、主の声に応える。

「たった一人で余の軍勢に挑むか。余が朋友と共に覇道を謳うのならば、貴様は孤高に在りて求道を突き進むは必定か」

 空間を裂き現れる強壮なる騎乗戦車。その御者台で神牛の手綱を握り、覇軍の王は剣を掲げて空に吼える。

「さあ者ども! 戦よ! これより駆け抜けるは在りし日の戦場よ! しかし敵はたった一人。されど彼の者もまた勇者である!
 恐れを抱け! たった一人と侮るな! 奴の手には我らを駆逐するに足る灼熱の輝きがあると知れ!」

 響き渡る鬨の声。王の謳う言葉に同調するように、ウォークライは何処までも高く空に響いていく。

「征くぞ者どもぉ!! これより再び、世界を征す為の行軍を開始する────!!」

『AAAALaLaLaLaLaie!!』

 軍神への祈りを空に響かせ、戦車が、騎馬が、兵がその歩みを開始する。声を張り上げるのは王の背に夢見た兵達だけではない。王のもっとも傍にいるウェイバーもまた、喉を嗄らして声を上げる。

 自らもまたこの絆(レギオン)の一員であると吼え上げるように。

 遂に戦いの火蓋は切って落とされた。
 最後の夜の初戦を飾るに相応しい幕開け。

 心を紡ぐ絆の軍勢と、孤高に在りて夢を織る理想の体現者。
 地平を埋め尽くす覇軍と地上に輝く一なる星とが、今此処に最後の火花を散らす。



+++


 遥か未遠川に架かる冬木大橋を見通す海浜公園の雑木林の一画に、切嗣は身を潜め狙撃銃のスコープ越しに展開された王の世界を覗き見ていた。

 世界を侵食し、現実を塗り潰す固有結界。裕に数百メートル離れたこの場所からでも、その実体が掴めない。まるで地平に揺らめく蜃気楼。夏の陽炎を思わせる、距離感さえも把握出来ない泡沫の夢。

 あの世界が展開された以上、外部からの侵入も干渉も不可能だ。心象風景を具現化した者にとって都合の良い世界。その者だけの境界線を越えることは、術者の許容がなければ不可能に近い。

 故にセイバーとライダーを争わせ、その隙を衝いてウェイバーを殺害するという目論見は此処に潰えた。
 元々ライダーの傍を離れないウェイバーを狙い撃つ事は困難を極めると思っていたし、あの結界も長くは持たない。

 現実を侵食する異物である以上、世界よりの修正は体内時間を加速させる切嗣の固有時制御など問題にならない比で行われる。
 現実は幻想を許容しない。夢とは須らく覚めるべきもの。人の願う祈りなど、現実という世界の強固な壁の前には余りにも無為に等しい。

 その境界線を越えられるものこそが聖杯の齎す奇跡。恒久の平和、争いの根絶された世界という切嗣の祈りを形とした固有結界にも似たもので、今の世界を塗り潰す。この弱者に辛辣な世界を、破壊する。

 傍に置いた木箱の中に収められた黄金の杯。完成には未だ遠い器に魂(みず)を満たす為、切嗣もまた銃を執る。

「殺しを生業とするものが、獲物に先に気配を察知されるなど、程度が低いぞ暗殺者」

「……っ!?」

 狙撃銃と木箱を残し、切嗣は立ち上がり後方を振り返る。闇に没した梢の影。目を凝らしてすらよく見えない暗闇を見通し、魔術師殺しは潜む白面を睨み付ける。

「如何に気配遮断のスキルが強力であっても、攻撃態勢に移る時に漏れ出す殺気までは完全に隠せていないようだな」

「……馬鹿な。我はまだ、短刀(ダーク)を抜いただけに過ぎない。漏れ出すほど殺意を込めてなどいなかった筈だ」

「だから程度が低いと言っている。僅かな気配の揺らめき。敵を殺すと覚悟した時、既におまえは殺意を放たなくとも抱いている。
 それは確かに微弱なもので、取るに足らないものだろう。しかし今の僕の前では、その微細な揺れでさえ命取りだ」

「…………」

 それはおよそ人間に知覚出来るものではない。人としての限界を極めたサーヴァント達ならば察知可能なレベルの所業。
 ならば今、黒衣の白面の前に立つ無謬の男はその域に達しているとでも言うのか?

「……有り得ない」

 そう簡単に英霊の位階に足を踏み入れられるものか。アサシンがその末席に連なる者でしかなく、強者達とは比較にならないものであったとしても、この身は同じく人の限界に位置する存在だ。ただの人間に、見下される謂れはない。

「……痛みも知らぬまま殺してやるのがせめてもの救いだと思っていたが、どうやら貴様は苦しんで死にたいらしいな」

「生憎と殺されてやるつもりなどないのでね。抵抗はさせて貰う」

 白面が手にしたダークに力を込め、切嗣は懐より魔銃を取り出す。その様を見て取った暗殺者は、忍び笑いを漏らした。

「ハッ──ただの銃弾がサーヴァントに通じるとでも?」

「やってみなくちゃ分からないだろう? 御託はいい、さっさと来い。お前が言峰綺礼の差し金であれ独断であれ、殺す事に変わりはない」

「ほざけ人間──! 己の無力を噛み締めながら、無念の内に死んでいけ……!」

 闇を駆ける白面。迎え撃つ切嗣の瞳に迷いはなく──

「固有時制御(Time alter)──三倍速(triple accel)!」

 英霊に拮抗する為、自らの限界を超越した禁断の呪言を紡ぎ上げた。


/2


 地平の彼方より迫り来る万の軍。土煙を巻き上げ、咆哮を空に響かせながら、たった一人の少女を討ち取る為に駆け抜ける。
 油断も慢心も微塵もない、全力での走破を以って王が認めた好敵手の首級を奪うは己であるとその瞳に力強き意思を宿しながら、世に名を馳せし勇者どもが迫ってくる。

「…………」

 その威容、圧倒的な威圧を前に、セイバーは心を静め手にした剣を振り上げる。膨大なまでの魔力の高鳴り。溢れる光は地平を染め上げ、煌きは加速集束し、刀身を極光へと変えて発動の瞬間を待つ。

 幸いにして初手はこちら。地平に展開された王の軍勢がセイバーの下に辿り着く前に、初撃を振るう事を許されている。
 それは赤毛の王の情けなどではない。全軍の威容を見せつけ、初撃で相手の最大戦力を把握する為の軍略だ。

 そう理解していながらセイバーは撃つしかない。このままあの覇軍の中に飛び込めば、秒を待たずして踏み潰される。故に初撃は最大火力。ライダーの思惑をすら凌駕する、星の煌きで以って全てを薙ぎ払おう────!

「────約束された(エクス)」

 其は栄光と常勝を約束された、遍く全ての騎士達の王が担うに相応しい、戦場に散ってゆく兵達の夢を織り上げた剣。人の夢、星の輝きを一手に集めた、この世で比するもののない最強の聖剣。

 誰もが胸に抱き、その輝きを夢見ながら、終ぞ手にする事の叶わぬ星の光。
 その輝きが今──何れ劣らぬ輝きを放つ覇軍とその王座を駆逐する為、全霊を以って振り下ろされる。

「勝利の剣(カリバー)────!」

 世界を分かつ光の束。その極光は当然にして軍勢の先頭を直走る王の騎乗する戦車を薙ぎ払わんと、神速で以って繰り出された。

「ぬぅ……坊主!」

「ああ──跳べライダァァァァ……!」

 脅威の迅さで振り下ろされた聖剣を回避する事叶わぬと思ったのか、ライダーは戸惑いもなくウェイバーに令呪の使用を命じ、主もまた躊躇なく一画を切り捨てた。

 直後、覇軍の中央を割る大斬撃。先端に集束した最大火力は王の軍勢の中心地に着弾し全てを飲み込み、その軌跡上にあった臣下達を灼熱の業火で焼き尽くした。

 遥か高空、令呪の奇跡により全てを焼き尽くす星の輝きから逃れたライダーは、眼窩に広がる殲滅の跡を眺めながら嘯いた。

「なんという輝きか。これが最強の聖剣、星の一振り。遍く騎士達の夢を束ねた光の波濤」

 ──素晴らしい、とそうライダーは賛嘆した。

「褒めてる場合か!? 今の一撃でどんだけやられたと思ってンだよっ!?」

「半分はいっておらんだろう。でなければこの結界を維持出来なくっておる筈だからな」

 しかしそれでも五分の一か……下手をすれば三分の一ほどは光の波濤に飲み込まれたかもしれない。
 特に前線に展開していた足の遅い歩兵部隊がその割を食った形となる。騎馬部隊は幾らか逃れたかもしれないが、それでもダメージは深刻なものだ。

 本来の戦ならこの時点で軍師が撤退を進言している事だろう。仮に三割が失われているとすれば既に全滅に近しい被害を被った事になるのだから。

 それでもこの軍勢は王の覇軍。王が退かぬと決めたのなら、死力の限りを尽くして命を燃やす、信仰にも似た忠誠を誓う勇者しかいない。

「見たか者ども! あれこそが世でもっとも美しい星の輝き! 比するもののない命の煌きよ!
 その上で問おう、あれは臆するに値するものか!? 我らが軍勢では、決して届かぬ代物か!? 違うだろう──!」

『然り! 然り!』

「ならば次はこちらの番よ! 何れ劣らぬ勇者達よ! その命を輝きに変え、あの極光を喰らい尽くせぃ……!」

 王の言葉と共に展開される覇軍の隊形。最大火力を放ったが故に僅かな硬直と次なる一手を決めあぐねていたセイバーを包囲する、密集陣形。
 生き残った前衛たる歩兵達は手にする身の丈を超える槍を構え、左翼には矢を番えた弓兵部隊が牽制を担う。騎兵は右翼に展開し、突入の気を窺っている。

 それはかつてマケドニアで考案、席巻したファランクスと似て非なるもの。たった一人の騎士王を討ち取る為に展開された、無慈悲の軍勢である。

「さあ、これで逃げ場はないぞ騎士の王。単騎でこの包囲を突破することが叶うか?」

「戯言だな征服王。我が手にある聖剣の煌きをもう既に忘れたか。如何に包囲を行おうともこの輝きは全てを撃ち払おう」

「使えるのならばな。使わせんよ、そして先を見据えているお主ならば、此処で死力を尽くし切るわけにはいくまいて」

 ライダーを超えた後に控えているのは未だ正体不明のアーチャーだ。あの敵を倒す為には余力を残しておかなければならない。如何に切嗣が必勝の策を講じていようとも、セイバーが使い物にならないくらい疲弊していたらどんな策謀も無為に帰す。

 だが侮るな征服王。

 彼女の身に息衝く竜の因子(しんぞう)はその胎動を刻んでいる。魔術回路を凌駕する魔術炉心はただ息をするだけで膨大なまでの魔力を精製し彼女の身体を巡り続ける。

 完全回復までは今暫くの時間が必要だが、残る王の軍勢を薙ぎ払うには後一撃放てば事足りる。先と同様の被害を与えれば、流石にこの世界を維持し続ける事は不可能だ。

「固有結界を展開した事、それがおまえの失着だ征服王。この世界ならば何を憂う事無く我が聖剣はその威力を遺憾なく発揮出来るのだからな」

「そうはさせんと言った筈だ。さあ征くぞ者ども! 二度とは聖剣を撃たせるな! その前に奴を蹂躙せよ──!」

 狭まる包囲の網。頭上より降る無数の矢雨。隙間を縫うが如く疾走する騎馬の群れ。それら威容を前にセイバーは剣を握り締める。今一度聖剣を振り翳す好機を探し、襲い来る無尽の如き軍勢にたった一人で立ち向かっていった。



+++


 雑木林を駆け抜ける風。共に黒の軌跡を描き、アサシンと切嗣は疾走する。

 繰り出される短刀の雨を強化した視力と三倍速化した世界の中で見咎め、最小の動きで回避する。しかし切嗣は手にした魔銃を撃ち放たない。アサシンの言うようにただの銃弾では元が霊体であるサーヴァントには通用しないからだ。

 それを知るアサシンは自らと拮抗する速度で森を走る人間の脅威に呆れと賛嘆を思いながら、勝利の確約された戦いの中に身を埋める。

 あの男の加速には恐らく限界がある。ただの身体強化を超越した何かの術を使っているのは間違いなく、それは代償を必要とするものに違いない。
 人間が何のリスクもなく英霊に拮抗する事など出来るわけがない。そんなものが居ては英霊の名が廃り、居たとしてもそれは何れ世界に祀り上げられる剛の者だけだ。

 目の前の敵はそうではない。矮小な人間の身で英霊の高みに指先を掛けようと手を伸ばしている愚者に過ぎない。こうして勝ち目のない鬼ごっこに興じているだけで自滅する。手を下すまでもなく自壊するのは自明の理だ。

 それでもなおダークを繰り出し首級を狙うのは、彼なりの慈悲だ。終わりの見えている疾走、断崖絶壁へのチキンレースを手ずから終わらせる為の容赦のない連続投擲。それを捌く切嗣の頬を伝う一滴の汗を、この白面は見逃さない。

「キィ────!」

 同時三閃。その影に紛れて放つ四本目の隠し刀。都合四つの軌跡が木々の隙間を縫い切嗣目掛けて飛翔する。

 対する切嗣は加速した時の中を駆け抜け、自らを蝕む世界よりの修正を噛み殺し、迫る三つの短刀を最小の動きで回避する。しかしてその回避を予期していたかのように、四本目の刃が目の前に迫る。

「────っ!」

 左腕を切り裂いていく闇色の刃。コートごと腕の筋を断裂した刃はその威力を残したまま闇の彼方へと消えていく。そして遂に生まれた切嗣の隙を衝くように、

「これで終いだ」

 闇に踊る白面を、その間近で死として見た。

 手ずから振り下ろされる秘蔵の刃。中東の流れを汲んだ彼だけの得物を右手に担い、容赦なく切嗣の胴を袈裟に斬り裂いた。
 声もなく、音もなく。血の翼を描きながら崩れ落ちようとする切嗣は、

「終わりなのは貴様だアサシン」

 踏み締めた足に力を込め、逃げ場のないほど間近にいたアサシンの心臓に魔銃の銃口を押し当て、その撃鉄を叩き落した。

「ガァ────!?」

 アサシンの驚愕は計り知れない。必殺の一撃でなお死に至らず、あまつさえ反撃に出た暴挙の正体が分からない。そしてこの心臓を確かに撃ち貫いた銀の弾丸の意味をすら知らぬまま、霊核を撃ち抜かれた白面は、闇の中で消え去った。

「────……っ」

 喉よりせり上がる血の塊を無理矢理に飲み下し、切嗣は解呪の呪文を唱え加速を終わらせる。身体を襲うこれまで感じた事すらない、それこそ死を想起させるほどの激痛に苛まれながら、それでも膝を折る事だけはしなかった。

 ……如何にダメージを無視できるとはいえ、痛みまでは消せないか。

 心中で愚痴を吐き出しながら、元居た観測地点へと戻る。
 そこにいたのは他でもない──倒した筈のアサシン。いや、分体の一体だった。

「人の身で我らの影の一つを滅ぼすとは。その異常性、驚嘆して余りある」

 白面の下に隠れて見えない面貌。故に真実このサーヴァントが驚嘆しているかどうかは不明ながら、その言葉の端々に感じる敬意は本物だった。

「しかし我らの目的はこれにて達成される。この杯、頂いて行くぞ」

 切嗣が霊地に持ち込もうとしていた木箱に納められた黄金の杯。それを奪い取る為にアサシンは切嗣を強襲した。先程倒したアサシンにしても同じ。あれは切嗣の性能を確かめる為に遣わされた、言峰綺礼の放った試金石だ。

 これまで幾度となく切嗣がセイバーを伴わず戦場を横行した真意。その底にある絶対の自信の正体。それを解き明かす為、来るべき決戦の時に備え、綺礼は切嗣の秘密を暴きに掛かったのだ。

 アサシンに拮抗するほどの加速能力。
 サーヴァントをも屠る銀の魔弾。
 そして致命傷を受けながら、反撃を可能とし今なお生存している異常なまでの回復能力。

 その全てを、切嗣は暴かれた。その正体にまでは理解が及ばずとも、切嗣の性能についてのほぼ全てを綺礼に知られたと言っても過言ではない。

 その上でなお、切嗣は泰然とした姿勢を崩さない。今見せたすべては、知られたところで構わないものでしかない。真なる秘奥は未だ手の内。そしてその底の底を、未だこの男は見せていない。

「どうやらあちらの戦いもやがて終わるようだ。我が主は御身を待ち望んでいる。故に参られよ。聖杯降臨の地にて待つ」

 そう言い残し、アサシンは聖杯の器と共に闇に消えた。

「…………」

 失ったものに目を向ける事無く、切嗣は遥か未遠川の彼方を見据える。逆巻く魔力の滾りがこの距離からでも見て取れる。聖杯降臨の地──新都は冬木市民会館。その場所で既に言峰綺礼は待ち構えている。

 衛宮切嗣の到来を待ち望んでいる。待ち侘びている。あの男が切嗣の何を見ているのかは知らないが、切嗣にしても避けては通れない敵である。

 視線を橋上に向ける。アサシンの言ったように、あちらの戦いの終わりも近い。固有結界の解れた後の展開を思い、切嗣は行動を再開した。


/3


 戦場は激化の一途を辿り、戦いは熾烈を極めていた。

 降り注ぐ矢の雨を掻い潜り、弓兵の懐に飛び込んで膨大な魔力を上乗せした剣戟で一薙ぎで撃ち払う。一団の壊滅を見て取った騎兵の馬上からの槍の連撃を、その身を覆う魔力の鎧で凌ぎ切り、騎馬の足を払って落馬させる。
 迫る歩兵の一団が撃ち出すサリッサの面攻撃を、足に込めた魔力をブーストと化して踏み切り、その頭上を越えて背後に回り、回転性能の低い彼らを一網打尽にする。

 その様はまさに一騎当千。
 戦場に吹き荒れる嵐、咲き乱れる紅蓮の仇花。

 単騎ゆえの利点である性能を遺憾なく発揮し、大軍であるが故の不利を衝いて少しずつその戦力を削ぎ落としていく。
 聖剣の一撃にて三割弱。そして今斬り伏せられた数を足せば四割にも届きそうな勢い。このままではそう遠くない内に覇軍は瓦解する。

 たった一人の騎士に、潰走を強いられる。

「……これが彼の騎士達の王の実力。羨望と憧憬、そして畏怖を以って恐れられた王者の真価か」

 最優の剣士。
 英霊の中にあっても最強の一角。

 それは何も星の聖剣があるからだけではない。その輝きを封じられてもなお白兵戦において無類の強さを誇る力量がある。
 彼女の身に宿る直感は勝利への道筋だけを照らし、その身に宿る高き魔力は剣となり盾となり主を守護する。

 征服王をして賞賛して止まない天下無双の剣。彼の総軍を以ってなお、押し留める事の叶わぬ暴虐の神威。

「ど、どうするんだ……? このままじゃ……」

 ウェイバーの慄きを窘めるようにライダーはその頭に手を置いた。

「こちらの被害も甚大だが、相手も相当に疲弊をしている。見るがいい」

 眼窩で繰り広げられる戦いの勢いは、徐々にその勢力を拮抗させていく。迫る槍の横薙ぎの風、頭上より降る矢の駿雨。響く蹄の音。
 その全てに注意を払い続け、緊張の糸を切らせる事無く立ち回らなくてはならないセイバーの疲労は尋常ではない。

「くっ────!」

 浴びては消えていく血飛沫。けれど彼女の身体から流れ落ちる汗は消える事無くその疲労の度合いを表している。如何に魔力の後押しによって切れ味の鈍らない剣であろうと、担い手の疲労には逆らえない。

 振り下ろす剣の速度は僅かに落ち、斬り伏せられる覇軍の数は減少している。王の軍勢もその数を減らしている故に目に見えた変化は少ないが、それでも形勢は徐々に傾き始めていた。

「奴が膝を屈するのが先か、我が総軍が敗れるのか先か……」

 その確率は五分。天秤の針は未だ勝者を見定めてはいない。

 しかしライダー達にはまだ手が残されている。彼ら自身は実質無傷に等しいのだ。王の軍勢を展開している魔力こそ失ったものの、ライダーには未だ騎乗し手綱を握るもう一つの宝具がある。

 軍勢がセイバーを疲労させ、その後に神威の車輪で以って決着を着ける。それが征服王の目論見であった。

「……と、思っておったのだがな。それでは奴の心を折れまい。これは奴を斃すのではなく仲間に引き入れる為の戦いよ」

「あ……」

 ウェイバーですらそれを忘却していた。それほどにあのセイバーは強い。加減をして勝てるような相手ではないのだ。

「先を見据えるのなら完全に疲弊させては意味がない。アーチャーとの戦いの時に使えぬようでは無意味だからな」

 故にセイバーを下すには余力を残す今しかない。その上であの聖剣の光を超え、ライダーの実力を認めさせねばならない。その所業の何たる困難か。ただ勝てば良いセイバーとは違い、ライダーはその不利を強いられている。

「で、だ坊主。余は今から一つ仕掛けようとおもうのだが──」

「──やれよ」

 己が策の全てを言い終わる前に、ウェイバーは肯定を返した。

「おまえがやると決めた事をやればいい。ボクはこの令呪で全力でサポートするだけだ」

「──ハッ。良いぞ! まっこと良いぞ我がマスター! それでこそ我が朋友よ……!」

 王は手にした手綱を引き、より高き天を目指し駆け上っていく。
 世界の果て、空の彼方。
 太陽に焦がれたイカロスのように、何処までも高く空に舞う。

 そして地上でも異変が起こる。これまで息をも吐かせぬ熾烈なる攻撃を間断なく繰り出し続けてきていた王の軍勢の手が僅かに鈍る。
 ライダーが天高く空を目指して駆け上っていった事を承知している。故にこの硬直も恐らくはライダーの策の内。

 しかしセイバーにとってはまたとない好機。一瞬の溜めを要する聖剣を、今一度振りぬく事を可能とする刹那の勝機。
 このままで何れ大軍に踏み潰されかねないと思っていた矢先に降って沸いた好機なれば見逃す理由は何処にもない。

「はぁ────!」

 身体より発する魔力の暴風で迫る敵軍を吹き飛ばし、最優の剣士は集束を始めた聖剣を振り被る。
 その所作を遥か天から見咎めた覇軍の王は、此処に一つの奇策を弄す。

 罅割れる世界。
 消えていく蜃気楼。
 夢幻の如く掻き消える、王とその臣下達が魅せた夢。

 それは固有結界の解除を意味するもの。
 即ちライダーは王の軍勢でなく、その維持に回していた魔力さえも上乗せし、神威の車輪にてその決着を着けるつもりなのだ。

「くっ……!」

 セイバーは振り上げた聖剣を一度降ろし、天より迫るライダーを迎撃するに足る足場と場所を求めて橋を昇る。
 鉄骨を蹴り上げその頂上に至り、空より降る巨星の如き雷光を見る。

 同時、川下に切嗣の姿を見咎める。川中に設置された大型船。恐らくは固有結界展開後に聖剣を使用する可能性を考慮して配置したものなのだろう。
 切嗣が現状を予測していたとは思えない。だがその位置はまさに、セイバーがライダーを迎撃し、剣を振り下ろしてなお被害を最小限に食い止められる最高の位置。

「はぁあああ……!」

 ならば後は、何を憂う事無く手にした剣を解き放つのみ────!

 天より尾を引いて降る稲妻。
 夜空を染め抜く白き雷光。

 それを迎え撃つは星の輝き。
 雷光をすら染め上げる、真白の極光。

「────約束された(エクス)」

「────遥かなる(ヴィア)」

 地上に堕ちる巨星と──
          ──天を斬り裂く彗星とが

「勝利の剣(カリバー)────ッ!!」

「蹂躙制覇(エクスプグナティオ)────ッ!!」

 互いの誇りを賭けて、今──最後の輝きで夜空を染め上げた。



+++


 此処に勝敗は決する。

 夜を焦がした聖剣の極光は振り下ろされ、未遠川の水を干上がらせ、夜を二つに引き裂いた。
 対する雷神の戦車は────

「……よもや、あの疾走を以ってなお届かぬとは」

 天空からの加速。重力さえも利用した墜落にも等しい加速を得て放たれた蹂躙走破は、セイバーの手にする聖剣の輝きの前に駆逐された。
 全てを飲み込む光の奔流の中で、死を覚悟したライダーを救ったのは、他ならぬウェイバーの令呪だった。

 言葉を発する事さえ出来ない刹那。視界が全てを染めていく中、ウェイバーの祈りは確かに聞き届けられた。まだこの王といたい。この王を死なせたくない。言葉にはならない想いが、それでも確かに彼の手を焦がして成就されたのだ。

 そして二人は橋上に舞い戻る。騎乗していた戦車は光の渦に飲み込まれ、彼ら二人だけが地上に帰り着いた。

「……ごめん、ライダー」

「なにを謝る?」

「ボクはあの時、離脱じゃなくて加速を願うべきだったんだ。セイバーの聖剣を超える事の出来る奇跡を」

 それを願えていれば、あるいは聖剣の極光を突破する事さえ可能だったかもしれない。事実としてセイバーの一撃は、僅かではあれ切嗣の令呪の後押しを受けていた。その差が両者を分けたものなら、微々たるものとはいえ決定的な差だった。

「良い。あのままならば余と共に貴様まで巻き込んでおった。それを思えばこうして大地に再び足をつけていられる事を誇りこそすれ、貶す事などありはせん」

 ──良くやった。

 そう言い、赤毛の王は未熟な魔術師の頭を撫でた。

 その行為が余計にウェイバーの胸を締め付ける。この王が生きていて良かったという想いと、その最後で力になれなかったという悔恨とが綯い交ぜになり、ウェイバーの胸に言葉に表せない感情が渦を巻く。

「私の勝ちだな、征服王」

 橋上へと降りてくる白銀の姿。手にした剣は今一度風の封印を施され、疲労の滲む顔はそれでも勝利を誇っていた。

「ああ、余の完敗よ。我が総軍はその首級を奪い取る事が叶わず、決死の走破もまた破られた。貴様の勝利だ騎士王」

「私はおまえと戦えた事を誇りに思う。これで我が願いが果たされたとしても、悔いのない戦いを出来た。この勝利を永劫誇り続ける事が出来る」

 共に死力を尽くした結果であれば、そこにあるのは賛辞のみ。征服王は騎士王の勝利を称え、白銀の王は赤銅の王の気高さを賛嘆する。
 何か一つが違えば勝敗の逆転していてもおかしくはなかった死闘。故に両者は互いを好敵手と認め、その誇りを賛美した。

「────戦いの余韻に浸るのは良いが、この我の存在を忘れるなよ?」

「ウェイバーッ!」

 それは二人の戦いの結末に水を差す横槍。天空より降る文字通り致命の刃の雨は、ウェイバーをその巨躯で庇ったライダーの大きな背中を無数に貫いた。

「ぐっ……ぬ……」

「おい、ライダー……!?」

「アーチャー!? 貴様何を────ッ!」

 膝を折りかけたライダーを支えるウェイバーと、一息の間に距離を詰め、二人を背に庇うようにセイバーはアーチャーと向き合う。
 地上へと降りてくる黄金の風。自らの成した事を当然と受け止めた素知らぬ貌で、アーチャーは嘯いた。

「何を……とは手酷いなセイバーよ。我はおまえと我の婚儀の邪魔になる輩に手を下したに過ぎんのだが……?」

「……まだそのような戯言を謳っているかアーチャーよ。貴様が如何なる英霊であれ、私は貴様のものになるつもりなど微塵もないと、いつか言った筈だ!」

「我も言った筈だがな、おまえの答えなど聞いていないと。これは我の決定だとな」

 両者の間に散る火花。
 それは今にも戦端を切って落としかねない張り詰めた糸のようで──

「はっ……この余を差し置いて、勝手に話を進めるとは全くけしからん連中だ……」

「ライダーッ!? 止めろ、動けるような傷じゃ……」

 ウェイバーの制止を振り払い、その背に無数の剣を刺されたまま、征服王は口元に沸いた血を飲み下し、セイバーを退け前に出る。

「ライダー、何を……」

「黙っておれ小娘が。こやつは余にケンカを売ったのだ、貴様には関係がない……!」

 威風を纏い紅蓮の王は仁王立つ。
 揺るぎのない瞳で黄金の威容に敵意をぶつける。

「ほう……? あれだけの剣群に突き刺されなおまだ死なんとは頑丈な男だ。それでどうする? セイバーと戦い消耗しており、先の一撃で自慢の戦車も失った。その様で、この我に立ち向かうと?」

「無論だ。先に仕掛けたのは貴様だろう、嫌とは言わせんぞ」

 既にその身体は満身創痍。立っていられるのが不思議なほどだ。それでなお不遜を貫く紅の王者は、背後にいるセイバーに語りかけた。

「先に行けセイバー。余と戦い消耗した身体で今すぐこやつと戦っては、幾ら貴様でも勝ち目はあるまい」

「それはおまえとて同じ筈だライダー。そんな身体で勝てるような相手ではないと、おまえ自身よく分かっているだろう」

「綺麗事を抜かすでない。おまえはその手を血で染め上げる事を厭わぬ程の強固な祈りをその胸に抱いているのだろう。
 ならば倒した敵など捨てていけ。勝利という栄光だけを胸に、道の果てまで駆け抜けよ」

 たとえその祈りが歪なものであったとしても。
 この身の為に犠牲にしては、その勝利を汚す事になると、征服王は心中で想う。

「貴様にしてもそうだろうアーチャーよ。婚儀だなんだと言うのなら、こんな場所は相応しくはあるまい?」

「そうだな。我とセイバーの為の舞台は程なく整う事だろう。今この場で用があるのは貴様だけだぞ征服王。
 故にセイバー、今は見逃しておいてやろう。この死に体を片付けた後、改めて邪魔の入らぬ場所で婚儀を執り行うぞ」

「…………っ貴様」

 溢れ出かけた怒気をセイバーは押し殺し、自らの胸に秘めた祈りを今一度見つめた。此処でアーチャーと争えば確かに不利だ。僅かではあれ時間を置けば魔力は回復する。その為の時間を稼ぐと征服王が言うのなら、乗らぬ手はない。

 共にその身の武勇を称えあった好敵手さえも、自らの勝利の為の踏み台に変えて、セイバーは戦場に背を向ける。

 それでも、

「礼を言う征服王。
 貴方の駆け抜けた覇道(みち)は──私にはとても眩しく映り、それ故に羨ましかった」

 王としてではなく。
 勝者としてではなく。
 剣の騎士としてですらなく。

 唯一人の少女として、その道に憧れを抱いたと心情を吐露し、最優の剣士は聖杯の頂を目指し戦場を去って行った。


/4


 橋上に風が戻る。寒空に吹き付ける風は、身を攫うが如く冷たく、されど対峙する二人の王の心よりその熱を奪うには至らなかった。

「今一度問うぞ征服王。その死に体で、この我に歯向かうか? 潔い死を望むのならば、苦しませず殺してやるというのに」

「愚問だな英雄王。余は決して膝を屈さん。余が斃れれば、後ろにいる臣下(とも)がその道に迷ってしまうのでな」

「…………っ!」

 その言葉がウェイバーに向けられたものだと察し、それでも掛ける言葉が見つからなかった。

 その背に突き刺さったままの無数の剣。溢れ出る血は真紅の外套を赤黒く染めていく。そんな姿でなお毅然と立つ王から目を離せない。止めろと泣き叫びたい想いを、必死に押し殺す。

 王は言った。ウェイバーは臣下(とも)だと。ならばこの身は王の姿をこの目に焼き付けなければらない。その最期から、目を背ける事など許されていい筈がない。

「……呆れた胆力だな。ああ、その気概だけは褒めてやろう。何、そう急かずとも無残な死に様を晒してやる」

 黄金の王の背後に展開される剣の群れ。串刺しにしてもなお足りぬと言うほどに、その数は無数を誇る。

「……おう。出来るものならやってみせぃ。余は斃れん。斃れんぞ……斃れるわけにはいかんのだ──!」

 腰に差したキュプリオトの剣を引き抜く。駆け出す足にかつての力強さはなく、それでも一歩一歩と踏み締め最大最後の敵に立ち向かう。

「王とは──ッ! 遍く朋友の道を照らす光であるッ!」

 口上を謳い上げ、横薙ぎに降る剣の雨の中を突き進む。

「この背に憧れを抱いた者達の為……! 今この背を見守る朋友の為……! 余は止まる事を許されん、その導となって走り続けるのだ……!」

 腕に被弾し貫かれ、手にした剣を落としかける。ギリギリのところで掴み直し、更なる一歩を踏み込む。
 次の瞬間には右足に二本の剣が突き刺さり、喉からせり上がる血を飲み下そうとして、余りの量に口端から零れ落ちる。

 それでも王の歩みは止まらない。
 これまで彼が駆け続けて来た道の果てを目指すように、死力を超えて走り抜ける。

「ウェイバー・ベルベットよ、余の生き様を見届けよ! この走破を語り継げ! おまえの憧れた背は、何処までも果てを目指し駆け抜けたと……!」

「…………はいッ、ボクの王よ!」

 その頬を涙で濡らしながら、赤銅の従者は彼方を目指す王の姿を見つめ続ける。身体を無数に貫かれながら、いつか夢見た世界の果てを目指す王の姿。
 それを止める事は出来ない。王自身が言ったように、従者は王の背に憧れその姿を語り継ぐだけだ。共に戦う力はなく、共に走り抜ける事は許されない。

 しかしこの手には、まだ王の力になれる証がある────!

「我が征服王イスカンダルよ……! 貴方に栄光を……!」

 三画目、最後の令呪が光と昇華され、王の身体に熱を宿す。
 臣下から届けられた心からの声援。それに応えずして何が王か……!

「うぉぁぁおおおおお……!」

 傷だらけの身体を圧し、遂に黄金の目の前に辿り着く。血に塗れた剣を振り上げ、全てを両断する断頭の刃が振り下ろされようとし──

「────天の鎖よ」

 静かな声と共に無空より現れた、銀の縛鎖が紅蓮の王の身体を締め上げる。

「……本当に貴様は、何でもありだな」

「その死に体で我にこの鎖を使わせたのだ、誇るがいい征服王。おまえとその臣下の絆を称え、我が至宝にて消えるが良い」

 引き抜かれる螺旋の剣。征服王をして抜かれては勝つこと叶わぬと言わしめた、天地を分かつ乖離剣エア。
 その鈍い回転が徐々に速度を上げ、魔風となって周囲を吹き荒れる。

「ああ……」

 終わりの近づく夢の中、イスカンダルはその最後に音を聴く。
 自らの胸を打つ潮騒。
 かつて彼方に夢見た、世界の果ての海にさざめく波の音を想いながら、

「またしても……余の夢は果たせなんだか……」

 世界を征する大いなる宿望。
 共に戦場を馳せた朋友と共に夢見たもの。

 その悔いを残したまま、されどこの世で見つけた朋友を庇い死に行ける生き様を想い、無念と充足感に満たされながら……

 ──征服王イスカンダルは、赤い風の中でその遠征を終えたのだった。



+++


 その残滓の一片をすら残す事無く吹き荒れたエアの暴虐は、軋む冬木大橋にてその勢いをまた収束させて行った。

 後に残されたウェイバーは、自らの前でこの身を庇い消えて行った王を想いながら、その頬を涙で濡らしていた。

 黄金の王は手にした乖離剣を宝物庫に収め、無尽の剣群もまた消し去り、決戦の場と定めた聖杯降臨の地を目指しその歩みを始める。

 セイバーを聖杯の下へ送り出したが故に、彼らの立ち位置は最初の頃とは入れ替わっている。黄金は立ち尽くす若輩魔術師と擦れ違い、その手に掛ける事も言葉を交わす事もなく歩みを進める。

 死に体でありながら、英雄王に無二の鎖を抜かせた二人の絆への無言の賞賛。征服王には褒美として至宝の一撃を。そしてこの若者には生を与える事にした。

 此処でウェイバーを殺してしまえば征服王の死に様が無為になる。王としてその道が交わる事は有り得ぬとしても、その道を貫き通した男に敬意を払う事を、この黄金の王は認めていた。

 去り往く黄金の姿が彼方に消え、ウェイバーはそれでもこの場で消えた赤毛の王の姿を幻視していた。
 耳を澄ませば聞こえてくる声。目を閉じれば浮かぶ大きな背中。頭には、未だあの大きな掌の感触が残っている。

「…………さよなら、ボクの王よ」

 この心に確かな証を残し消えていった王に別れを告げる。
 彼の臣下としてその夢を胸に抱きながら。
 胸に残った想いを抱き締めながら。

 ──それは少年の日の終わり。

 ウェイバー・ベルベットが新たなる歩みを踏み出す、旅立ち(わかれ)の夜だった。



[25400] Act.11
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/12/07 22:51
/1


「……ライダーは斃れたか」

 冬木市民会館大ホール。その舞台上で言峰綺礼は呟いた。

 偵察に徹するよう命じたアサシンの目を借り、橋上での戦いの終わりを見届けた。アーチャーは約定どおり、ライダーをその手で始末してくれた。
 これで綺礼と切嗣との邂逅を阻む敵はいなくなった。そう、敵は全て消えた。

「綺礼様」

 未だ建造途中の為か、薄い明かりしか灯らないコンサートホールの舞台袖より浮かび上がる黒衣と白面。その手には、厳重に封を施された木箱が携えられていた。

「それが、聖杯か」

「恐らくは」

「……ふむ」

 頷き、足元に差し出された木箱を閉ざす封を、抜き放った黒鍵で斬り裂く。そこに迷いはなく、中身を慮る気配など微塵もなかった。
 そして切り裂かれた蓋が割れ、箱の中に収められていたものは、

「謀られたな、アサシン」

「…………」

 中身は黄金の杯などではなかった。

 真鍮か、それに良く似た素材で作られた模造の杯。これはこれで魔術的加護を帯びているし、恐らくはアインツベルンの者達が製作したものに間違いはないのだろうが、今回の聖杯戦争における聖杯降臨に足る器ではない。

 ライダーを含め既に四騎をその器に満たしているとすれば、もっと荘厳な輝きで彩られている筈なのだから。
 この杯は金属の光沢と、凝られた意匠でしか装飾されていない贋物だ。美術的価値はあっても霊的価値は本物と比べれば雲泥の差ほどあるだろう。

「まあ、こうなるだろうとは予想していたよ。そして予想通り過ぎて、余りに退屈だ」

 言峰綺礼を警戒している衛宮切嗣が、儀式成就に不可欠な聖杯の器をそう易々と敵の手に渡すわけがない。
 あの男には聖杯に託す祈りがある。是が非でも叶えなければならない願いがある。それを成し遂げる為に必要なものを手放す理由がない。

 わざわざ贋物を事前に用意しているあたり、周到であり抜け目ないが、それだけだ。言峰綺礼を謀るには、少々手緩いと言わざるを得ない。

「ではアサシン。今一度衛宮切嗣を襲撃し、本物の杯を奪って来て欲しい」

 そう、何度でも聖杯を奪い取ろう。聖杯がこの手にあれば、切嗣は何をしようとこの綺礼の前に現れなければならない。
 綺礼を敵視しており、聖杯のみを目指す切嗣に絶対に直接的な対峙を行わせるには、どうしても聖杯が必要なのだ。

 聖杯が切嗣の手にあり続けては綺礼との対峙を避ける可能性がある。綺礼は切嗣に用があっても、切嗣から見れば綺礼は聖杯への道を邪魔する最悪の敵でしかない。

 あの男はあくまでも魔術師殺し。相手の土俵で戦う事を良しとはしない男だ。これまでの戦い全てで先手を奪ってきた事がその証左。
 それを理解した上でこちらの舞台に引き摺り上げるには、上がらざるを得ない条件を揃えなければならない。

 その為の聖杯。綺礼自身が聖杯に託す祈りなどなくとも、その器自体が切嗣を誘き寄せる餌になる。
 願望機に用はない。されどその器自体には価値がある。

「────は。しかし……」

「何を迷う。私は言った筈だ、おまえ達は聖杯を手に入れると。手に入れなければならないのだと。
 仮に衛宮とセイバーが連れ立っていようとも関係がない。死を賭して、聖杯の器を此処に持ち帰るのだ──令呪を以って命じる」

「なっ……!?」

 綺礼の右腕に移植された監督役の所有していた余剰令呪。それに絡みつかれ、飲み込まれるように描かれてなお健在であったアサシンを律する三画の令呪の一画を消費し、綺礼は聖杯の奪取を命じた。

 別のアサシンの視界を借りて今の切嗣とセイバーの状況を綺礼は把握している。この冬木市民会館を目指し暗闇に没する街を並走し駆け抜けている。
 切嗣の手に携えられている木箱こそが恐らく本物の杯を内包した代物。それを奪取するには切嗣だけでなくセイバーをも出し抜かなければならない。

 アサシンでは荷が重い。しかし今代のアサシンは魂の分割による複数での顕現を可能とする。単独では斬り捨てられて終わりでも、それこそ百近い数で襲い掛かれば一人くらいはその網を抜け聖杯を持ち帰れるだろう。

 更に言えば、これはアーチャーが帰還するまでの切嗣とセイバーの足止めの意味合いもある。
 綺礼が真に聖杯獲得を狙うのなら、アサシンの異常性は何処までも有用だ。使い捨てたと見せかけての不意打ちや、死を偽装しての騙し討ち。貪欲に勝利だけを望むのならば、如何なセイバーとて欺きマスターを殺す事は可能だろう。

 しかし彼は、綺礼はあくまで切嗣との対峙だけを望む者。

 故に必要なのは切嗣が綺礼の前に現れざるを得ない状況を作り上げる為の聖杯の器。
 そして最優のセイバーの足を止め、マスター同士の戦いに邪魔を入れさせない為の戦力──即ちアーチャーだけで事足りる。

「…………くっ! 綺礼様……貴方は……!」

 今、綺礼の前に傅くアサシンも気付いてしまった。己は捨て駒なのだと。自分達は主の望む状況を作り上げる為だけに、この時まで生かされた道化なのだと。
 聖杯の器を持ち帰れば、綺礼は容赦なく二画目の令呪を使うだろう。命令の内容は当然にして決まっている。

 綺礼の目的が切嗣の抹殺ではない以上、暗殺者の英霊は必要ない。
 彼らに求められているものは、その生涯を掛けて研鑽した殺しのスキルではなく、盗人の如き所業だ。

 既に令呪は使用された。
 全てのアサシンの総身を縛る、呪いの楔は打ち込まれてしまったのだ。

「何をしている。早く行け」

「……分かりました」

 ならば行こう。
 主の命を遂行しよう──その上で、主の意を外してみせる。

 綺礼が告げたのはあくまで聖杯の奪取。敵の生死までを制定されてはいない。ならば聖杯の器を奪い取り、その上で敵マスターの首を獲る。
 それはせめてもの意趣返しであり、主への叛意。マスターの願いを阻害し、我ら百の貌のハサンを貶めた報いを受けよと、闇を跳梁する化外は掻き消えた。

「ようやくその素顔を晒したかハサン・サッバーハよ。おまえ達の怒気もまた心地良くはあるが、我が目的の終端はすぐそこまで迫っている。その時齎される解と比べれば、その程度の甘さでは足りないな」

 故に。

「足掻き、そして消えるが良いアサシンよ。我が手足として尽くしたおまえ達に報いるものは、その身を浸す絶望だけだ」

 聖職者が嗤う。全ては予定調和。
 時を刻む歯車は、狂う事無くゼロを目指し、逆しまに廻り続けている……


/2


 橋上での戦いの後、先行する切嗣に追いついたセイバーは、共に闇を駆ける。

 目的地は冬木市民会館。今回の聖杯降臨の霊地。その事実を知らなくとも、立ち昇る魔力は既に肉眼で捉えられるほどで、それを見れば否が応にも理解出来る。
 降霊の地に聖杯がなくとも、霊地という名の泉に満たされた魔力は解き放たれる時を待ち望んでいる。

 隣を駆ける切嗣の手には木製の箱。聖杯の器を収めたもの。黄金の杯を儀式の場に設置すれば、あとは器を満たすだけで全ては叶う。

 残る敵は二騎。遥か後方──冬木大橋を揺るがす魔力の余波をその身で受けながら、散って行った好敵手の姿をすら脳裏より消し去って、唯一つの祈りの為に少女騎士は静かに心を沈めていった。

 そして辿り着く冬木市民会館。

 その前庭とも言うべき場所で彼女達を向かえたのは、

「ッマスター……!」

 逆巻く風を剣となし、暗闇の彼方より放たれた黒塗りの短刀を蹴散らす。
 切嗣も同時に足を止め、セイバーは周囲より放たれる、隠す事無く撒き散らされる殺意の数に一筋の汗を流した。

 ……これほどの数とは。

 闇に浮かぶ髑髏。
 月影の中に揺らめく黒衣。

 その数は常軌を逸していた。多くとも二十か三十だと予想していたセイバーを裏切り、辺りに浮かんだ白面の数は五十を超える。

 何よりも警戒すべきはこれで全てではないだろうという事。未だ殺意と敵意を殺し、身を潜めている輩がいるだろうという事だ。

 セイバーも切嗣もその総数を知らない。上限が分からない。だから全ての数を倒したと思っても、たった一人でも生き残っていては隙を衝かれる。
 アサシンの生き残りに対する警戒を緩めぬまま、この後に待つアーチャーと戦わなければならない。

 その困難を思い、されどすぐに頭を振った。

 ……我が身の祈りを叶える為ならば、如何なる困難も踏み抜くと誓った筈だ。後少しで手が届くのだ、手を伸ばせば、すぐそこに願ったものが待っているのだ。
 臆するな。己は剣、主の敵を討つ剣だ。ならば目の前の敵を斬り裂き、道を切り拓くだけだろう。

 先の事を考えていても意味がない。まずはこの場を切り抜けなければ。

 完全に包囲された二人はその背を合わせる。

「……マスター。この数を相手に貴方を守り抜く事は難しいかもしれない。その上で無理を承知で頼む。この時限りでいい、私に全てを預けて欲しい」

 これまでずっと単独で戦い続けてきた二人。それぞれ異なる戦場で、己の敵を倒し続けてきた。
 だが相手はサーヴァント。三騎士クラスとは比べるまでもなく格を落とすアサシンとはいえ生身の人間が敵う相手ではない。

 セイバー単独なら決して負けるような相手ではない。しかし切嗣というアキレス腱を抱えたままでの完全勝利は難しいと言わざるを得ない。
 それでも守り通すと。我が身を剣に盾に変え、主を無事聖杯の下に送り届けると──その為に、この場の全てをセイバーに託して欲しいと、最優の剣士は進言した。

「…………」

 己が従者の言葉を確実に聞き届けながら、それでも切嗣は応えなかった。セイバーに告げるべき事は既にあの屋敷で告げている。死力を尽くして戦えと。それはつまり、勝ち残る為の最善を行えという事だ。

 この場における最善はセイバーに全てを預ける事ではない。

「衛宮切嗣……よくも我々を謀ってくれたな」

 白面の一人が謳う。それは先程切嗣の手から贋物を奪っていったアサシンだった。

「僕はアレを聖杯だと言った覚えはないが。勝手に勘違いをしたのはおまえだろう」

 包囲され、敵意を向けられても切嗣は動じない。懐から煙草を取り出し、まるで心休まる一時のように優雅に火をつけ紫煙を吐き出した。

「今度こそ、本物の器を頂く」

「これが本物だという保証はないぞ?」

「なれば幾度でも奪うまで。そしておまえの首もまた──我らハサンが頂戴する……!」

 四方からの同時投擲。全くの同時に放たれた刃は、セイバーをして全てを捌き切れる数ではない。

「切嗣……ッ!」

 それでも三方からの刃の全てを風の暴虐と魔力の暴威、そして剣の閃きで落とし切ったセイバーの力量は凄まじい。それでも残る刃は切嗣に吸い込まれるように向かっていく。それを叩き落すには、セイバーでは手が足りない。

「固有時制御(Time alter)────」

 その詠唱は敵の投擲より早く紡がれ。

「────三倍速(triple accel)」

 セイバーが都合二十の刃を弾き終えるその前に、既に完了していた。

 加速する時間。緩やかになる刻。英霊の手によって放たれた神速の刃も、三分の一の速度ならば人間であっても回避は可能だ。襲い来る八の刃の悉くを回避し、同時に加速した時の中を駆け抜ける。

 懐より取り出した魔銃に装填されている弾丸は、錬金術の大家たるアインツベルンに鋳造させた特製の銀の弾丸。霊体にダメージを与える為に調整を施された、切嗣が隠し持っていたもう一つの切り札。

 対サーヴァントを想定して、科学の産物たる弾丸に魔術を上乗せする事を渋る翁を説得し作らせたもの。
 その効果は折り紙付きであり、実戦でも既に効果を実証済みである。

 あくまで魔術の延長線であるから、対魔力を有する三騎士クラスには効果を望めないだろう。
 しかし対魔力を持たないアサシンであり、そして分裂により能力を低下させている状態ならば、その一撃は、まさに致命を与える死の魔弾となる。

 アサシンへと肉薄する切嗣。そこに死への恐れはない。彼はこの戦いにおいてのみ、その恐怖から解き放たれている。故に無謀と言える吶喊も可能であり、繰り出される刃は恐るるに足らず。

「はっ……!」

 振り下ろされた短刀を薄皮一枚を犠牲に回避し、決死の距離から魔銃を放つ。

「グァ────!」

 避けえぬ距離からの致命の一撃を受け、アサシンの一体は消え去った。

 人間にサーヴァントが倒される異常。先の一戦を見ていないアサシン達に走る動揺。それを衝くが如く、疾風の速度でセイバーが奔り、刹那の硬直にあったアサシンを二体同時に斬り捨てた。

 その場を離脱し、今一度背を合わせる二人。

「……なるほど。これは確かに驚きだ。私でさえこれなのだから、奴らにとってはまさに驚愕だろう」

 事実としてアサシンは、自らの同胞が人間に討たれた事に動揺を隠し切れなかった。追撃を掛けることさえ忘れ、セイバーの速攻をも許した。

 しかしそれもこれまで。

 一度そう認識した以上は油断はない。アレはサーヴァントを殺せる人間であると彼らは確かに理解した。ならばもう遅れを取ることはない。

 如何に常人離れしていようとも切嗣は人間だ。その身に宿る異常性を完全に理解していないセイバーは、切嗣への敵の攻撃を最大限抑える為に敵の過半数以上を受け持つ覚悟を決めた。

「マスター、私の背中を預けます。そして貴方の背中は任されよう」

 思えばこの男は常に自らを危険に晒してきた。事此処に至り、聖杯を目前にしてなおその意思に揺るぎはない。
 これまで通り二人はそれぞれのやり方で最善を貫く。互いに背を預けあう事がこの場の最善であるのなら、そうする事に否はない。

 切嗣の背を守り、襲い来る無尽の敵手を押し留めて打倒する。その困難、されど背中を気にせず戦えるのならば臆すものなど何もない。

「さあ来るがいい暗殺者。その悉くを斬り捨て、道を開けて貰うぞ……!」

 応える声はない無言の共闘。
 それでも確かに二人はこの時、互いの存在を認めていた。



+++


「これは……」

 アサシンの視野を借り、市民会館前で行われている闘争を綺礼は覗き見る。

 切嗣の異常性は海浜公園での一戦で理解をしていた。しかし今のあの男はそれ以上だ。セイバーが援護に回っているとはいえ、無数に放たれる投擲をやり過ごし、銃弾の避けられぬ距離から心臓を穿つ。

 やっている事はその繰り返し。繰り返しを行える事が、驚愕に値した。あれほどの加速を長時間維持し切るのは難しい。それをあの男は戦闘開始から既に五分、ずっと加速し続けている。

 肉体へのダメージは如何ほどか。襲い掛かる反動はどれほどのものか。神経を引き抜かれるような痛みを噛み殺し、あの男は英霊と拮抗している。
 綺礼をして限界があると見定めていた切嗣の上限への認識を、こんなものを見せられては改めなければならない。

「思いの他、あの雑種共も持ったようだな」

「アーチャー」

 薄明かりに浮かぶ黄金。遥か未遠川は冬木大橋での戦闘を終え、黄金のアーチャーは此処に帰還した。

「それで、どうだ言峰。事の運びは」

「狂いはない。衛宮切嗣の性能は予想を上回るものではあったがそれだけだ。アサシンを犠牲にその全容を把握出来た事は僥倖と言える」

 それよりも、と前置いて、綺礼はアーチャーを見やる。

「その様はどうした。存在の規模が随分と薄れたように感じるが」

「なに、少しばかり興が乗ったのでな。使う必要のないものを使ってしまった。その代償というところだ」

 今なおこの黄金はマスター不在のサーヴァント。
 綺礼の用意した生贄から魔力を奪ってはいるものの、宝具の性能を出し切る戦闘を行えるほどの供給量、回復量ではない。

 その為にアーチャーはセイバーとライダーが争い疲弊したその直後を狙ったのだ。そして手負いのライダーを討つだけならばこんなにも消耗する筈がなかった。消耗の原因はまさに彼自身の言葉通りだ。

「綺礼様……」

 二人を他所に今一度闇に踊る白面。その手に携えられたのは、先程のものと同型の木箱だった。

 切嗣は善戦しているし、セイバーは破竹の勢いでアサシンを倒し続けている。しかし彼ら二人の奮闘を以ってしても無尽を誇るアサシン全ての動きを把握する事叶わず、聖杯の器の守護にまでは気を割き切れなかったらしい。

 奪われた事を知っているだろう。
 奪われる事を知っていただろう。

 贋物を用意していた切嗣であっても、流石にこんな規格外のアサシンの招来までをは読み切れていなかった。
 それが故に、こうして本物の杯──黄金の器は綺礼の手に落ちた。

 今度の開封は幾分慎重を期して行われ、蓋が完全に開き切るよりも前に、内側より漏れ出す光輝をその場にいた誰もが見咎めた。

「ほう、これが器か。存外良い意匠だ、まあ我の蔵に収める程のものではないが」

「収められても困るがな。良くやってくれたアサシン。これで当座の目的は果たされた」

「…………」

 礼を言われたところでアサシンは素直に喜べない。彼がこの場に器を運んで来たのは令呪の強制によるものだ。この器を持ってくればどうなるかを理解している。それでなお持参する以外に、彼らに選択肢は与えられなかったのだ。

 彼が期待するのは未だ会館前で奮闘する同胞達の勝利。彼らを欺いたマスターに対する報復が果たされる事のみ。その復讐が成されるまでの時間を少しでも稼ぐべく、心にもない事を口にする。

「綺礼様……どうかお考え直しを。貴方の手には聖杯がある。万物の願いを叶える奇跡がある。ならばどうか、我らと共にその最後まで──」

 いや、それは恐らくアサシンの本心だった。これまで仕えた綺礼と共に聖杯の頂を駆け上がる。そう出来たのならこれ以上のものはないという想いの発露。叶わぬ夢を言の葉に乗せて謳い上げる。

 しかし彼の吐露を阻むように、綺礼は言った。

「私に必要なのは聖杯の器のみだ……いや、そうだな。たった今、聖杯に掛ける願いは見つかった。しかしそれはおまえ達とは無縁のものだ。これまで良く尽くしてくれた。その褒美を与えよう」

 傅くアサシンを見下ろす綺礼の目に宿る色は無色。感情のない色。言葉とは裏腹に、道端に落ちている塵か、でなければ虫けらを見るような目で、利用価値のなくなった道具を見下ろす。

「……っ、ならば──!」

 もはや分かり合える余地はない。諫言は届かず、時間を稼ぐ事も叶わない。
 ならば己が手で令呪を使用される前にマスターの首を奪おうと疾駆したアサシンを迎え撃ったのは綺礼ではなく……

「邪魔だぞアサシン。おまえ達はもう用済みだと言う事が分からぬか」

「が……あぁ…………!!」

 闇を斬り裂く黄金の剣閃。文字通りにアサシンの胴を穿ち縫い付けた虚空より放たれた一条の光は無論、アーチャーの宝具によるものに他ならない。

 舞台の上に串刺し、あるいは磔となったアサシンを他所に、アーチャーは辛そうな面持ちと共に頭を振った。

「またしてもいらぬ力を使ってしまった。ああ、どうする言峰。これではじきにこの我も消えてしまいそうだ」

「それは困るな。私と衛宮との対峙の障害になるセイバーを抑えるサーヴァントがいなくなってしまう。
 しかし未だ私はアサシンのマスター。この未熟な身では二騎のサーヴァントを維持し切るなど不可能だ」

「ならば話は簡単だろう。利用価値のなくなった手駒を捨ててしまえばそれで済む話ではないか」

「ぐ……ぁ、おまえ……達は……!」

 なんという茶番。最初から仕組まれていた出来レース。言峰綺礼はセイバーを抑える為の戦力を求め、アーチャーは自らを維持する楔を求める。両者の利害は一致し、故に彼らは変わらず協力者。

 上下の関係などない、互いに利用しあう関係。それは奇しくも、衛宮切嗣とセイバーの在り方に似ていた。

 口元から血を零し、身動きの取れない状態でありながら、アサシンは見下ろす二対の瞳を睨む。彼らの貌に宿る失笑にも似た冷笑を見上げ、吐き出そうとした呪詛の言葉を遮るように──

「令呪を以って命じよう──アサシン、自らの刃でその命を絶つが良い」

「がぁ……!!」

 逆らえぬ命令を下され、アサシンの一人は自らの胸に己が手で刃を突き刺しながら、消え行く最中に無念を謳う。
 目の前にあった筈の祈りが遠のいて行く。掴みかけた願いが、するりと掌から零れ落ちていった。

 矮小の身で願った唯一つの想い。原初の己を、唯一人確固とした己を知りたいという彼らのささやかな……されど強固な祈りは、信じたマスターの裏切りに遭い、果たされる事なく潰えた。



+++


「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うのなら──」

「誓おう。汝の供物を我が血肉と成す、言峰綺礼、新たなるマスターよ」

 余剰令呪の転用による再契約。パスは問題なく繋がれ、綺礼の魔力は黄金の王へと流れていく。その身体から放たれる威圧に陰りはなくとも、事実として存在を希薄化させていたアーチャーの身体に力が戻る。

「……ふむ。時臣よりは幾らか格を落とすが問題はない。奴に手綱を握られ窮屈な思いをしていた事を思えば、この程度の能力低下など拘うほどのものでもないな」

 腕の感触、身体の状態を確認するようにアーチャーは身を捻る。満たされた魔力は全身に行き渡り、確かな熱を帯びていた。

「セイバーを相手にする上で支障は?」

「多少はあろうが、天秤が傾く程ではない。全力の奴を相手にしても、負ける事などないだろうよ」

 元よりアーチャーは自身の身体能力よりも宝具に重点を置いたサーヴァント。単独行動のスキルのお陰で魔力の温存は可能だし、宝具掃射、乖離剣の使用に耐え得るだけの魔力量があればそれで事足りる。

 言峰綺礼は魔術師としては見習い修了程度であれ、聖杯の助力がある状態でアーチャーのマスターを務めるには充分な性能を有していた。

 綺礼は木箱より取り出した聖杯の器を舞台上で掲げる。アサシンの魂を収容し、都合五つの英霊の魂で杯を満たした聖杯は、既にその起動を始めている。
 最後の勝者を待たずして、聖杯は此処に降臨する。自らの完成の時を待ち侘びながら、決着の時をただ高みにて俯瞰していた。

「これで全ての条件は果たされた。私は衛宮を、おまえはセイバーを」

「ああ。この終局の刻限、心行くまで互いの目的を果たすとしよう」

 頭上に輝く黄金の杯を見上げ、王は呟く。

「時に言峰、先程おまえは言ったな。聖杯に託す望みが生まれたと。それは一体なんだ。いや、なんであれ、既に実体を帯びた願望機ならば、現在の所有者であるおまえの願いを叶えてくれるやもしれぬぞ?」

「ああ、私もそれを期待している。そして私の願いは、おまえにとっても有益だと考えている」

「ほう……?」

 綺礼の心を見透かすように目を眇めたアーチャーは、数瞬の後含み笑いを漏らした。遍く願いを叶える願望機。
 己自身の変革など言うに及ばず、世界をすら改変させる力を持つ聖杯に掛ける、綺礼の矮小な祈りを見透かし、されどそれを良しとして黄金は嗤う。

「ああ、そうだ。おまえは元よりそういう男であったな。何かに願い救われる事よりも、自らの手で救いを探し求める事。その行いにこそ意義を見出す男だった」

 如何に解脱を果たそうとも、長い年月で培われた芯はそう簡単には変えられないし変わらない。
 状況を利用し、今この時を作り上げたのは全てはその為。願望機による祈りの成就などではなく、自らの手で答えを求める事だけを欲している。

 故に不完全ながら満たされた聖杯に掛けるべき願いは決まっている。

「聖杯よ。この一時、私をその縁に侍る者だと認めるのなら、我が祈りを叶えてくれ。私の願いは唯一つ──求め続けた衛宮切嗣との逢瀬を、邪魔の入らぬ状況で行う事。即ちセイバーとの分断を、おまえに祈る」

 奇跡に掛ける願いとしては荒唐無稽。これまで踏み躙られて来た者達が知れば赫怒に身を染めるだろう戯言。しかしそれこそが綺礼の真。心に違わぬ唯一の祈り。

 背中を預けあっていては強力に過ぎる二人を引き離す目晦ましが欲しいと、綺礼は願う。

「さあ、我が祈りを叶えよ聖杯!」

 瞬間、巻き起こる激震。頭上の杯から放たれる輝きは、此処に最高潮を極めた。

 そして願いは聞き届けられる。
 ただしその成就は──言峰綺礼をして予想外の手段を以って世界を染め上げた。


/3


 襲い来る影。飛び交う闇色の刃。暗殺者の殺戮空間の中心で、男と少女は舞い踊る。互いに背を預けその立ち位置を次々と入れ替え、迫る短刀の全てをセイバーが叩き落し、襲い来る敵手を魔銃より放たれる銃弾が駆逐する。

 最優の剣士と人の域を超越した魔人の如き殺し屋が、総数百に迫るアサシン達を次々に薙ぎ払っていった。

 ただしそれでも失点はあった。無謀にも襲い掛かってきた二十を超えるアサシン達を迎え撃つ為に手を尽くした結果、その過半数を一網打尽にしておきながら、代償として聖杯の器を奪われた。

 一目散に逃げるアサシンへ追撃を掛けることは出来ない。逃げる白面へと続く道を、残るアサシン達が横殴りの雨の如き連続投擲でセイバーと切嗣の足を釘付けにする。守るべき聖杯を、祈りを叶える器を奪われた。

 それでも切嗣は冷静を貫いた。彼にしてみればこの尋常ならざるアサシンが聖杯を狙っている時点でいつか奪われるだろうと諦観していた。先の贋物も一度限りの罠。この結末は既に決定されていたものだ。

 故に切嗣も心を固めた。言峰綺礼と対峙する決意を。
 あの男と真正面から向き合い、そして突破するという途方もない覚悟をその胸に宿した。

 セイバーにも動揺はない。今彼女が優先すべきはマスターの守護。如何に魔人の如き奮戦を以ってしてもその性能には限界がある。いつまでも続く永遠では有り得ない。自らが聖杯に至る為には、マスターを失うわけにはいかない。

 聖杯はまた奪い返せばいい。でなくとも、此処は既に決戦の地。聖杯が勝者に栄光を齎すというのなら、ただ勝ち残りさえすればそれでいい。器を奪われたところで意味はない。最後に勝ち残るのは我らだと決まっているのだから。

 二人が二人とも、まずは目の前の敵を完全に突破する事に重きを置いた、その瞬間────

「なっ……」

 市民会館前の広場に血の華が乱れ咲く。黒衣に身を包んだ暗殺者達の心臓より花開く血の散華。それは全くの同時。この場にいた者、身を潜めていた者。一人も逃れる者はなく、自らの胸に刃を突き立て、稀代の暗殺者達は跡形もなく消え去った。

「これは一体……」

 セイバーはその異様を訝しむしかない。今目の前で行われた集団自殺が、恐らくはマスターの命令によるものだとまでは理解が及んでも、その先にまでは至らない。
 この局面で己がサーヴァントを使い捨てる意味は何なのか。聖杯への道を自ら閉ざす意図についてをセイバーには解せなかった。

「…………」

 しかし切嗣は違った。言峰綺礼という男を知っている。恐らくこの世の誰よりも理解している。故に分かる。これは全て奴の策略。あの男は切嗣との邂逅の為だけに、アサシンを使い捨てたのだ。

 そして未契約状態のマスターとなった綺礼は、マスター不在のサーヴァントであるアーチャーと契約を行うだろう。これで図式は完成する。

 衛宮切嗣と言峰綺礼。
 セイバーとアーチャー。

 言峰綺礼の思い描いていた最終幕の役者だけが残る。
 あの男の演出は此処に完成を見た。

 後はただ、狙い定めた獲物に己が牙を突き立てるのみ──

「マスター……?」

 セイバーの声にも振り返る事無く切嗣は歩みを進める。今更綺礼を相手に先の先を奪う事を考える必要はない。条件は既に全て整っている。後はこの作り上げられた舞台で、脚本を書いた男を仕留めればそれで済む。

 セイバーは腑に落ちない思いを抱きながらも追随する。考えるな。敵が消えた、今はその結果だけを受け止めておけばいい。
 これでランサー、ライダー、キャスター、バーサーカー、アサシンの五騎が消えた。残るは最大の敵であるアーチャーのみ。

 底知れぬ実力を誇るあの黄金を相手に確実な勝利を成しえるか、それはセイバーをして分からない。それでも勝つ。勝たなければならない。その為に此処まで辿り着いた。多くのものを犠牲にしてきたのだから。

 そうして二人はエントランスホールへと足を踏み入れる。

 西欧の神殿を思わせる石柱が幾つも立ち並ぶ広大な空間。照明は落とされ周囲はよく窺えない。
 しかし彼らは感じ取る。視線の先、扉の向こう。コンサートホールへと繋がる扉から、漏れ出す黄金の気配をどちらともなく感じ取る。

 この先に聖杯がある。五つの魂を収容し、完全に満ちる時を待つ万能の願望機が。求め欲した──奇跡を叶える杯が。

「先行します。マスター、警戒を緩めぬように」

 風の剣を下段に構え、扉に手を掛ける。この扉を開いた瞬間、否──扉ごと吹き飛ばす勢いでアーチャーの掃射が行われる事さえ考えられるのだ。如何にアサシンに拮抗した切嗣とはいえ、アーチャーが相手では役者が不足に過ぎる。

 あの黄金はセイバーが倒すべき敵だ。
 彼女がその祈りを叶える為の障害となる最後にして最強の敵。

 ならばセイバーが前面に立つのは当然の事で。
 そしてそんな当たり前を凌駕する異常が──今此処に巻き起こる。

 セイバーが扉を押し開けようとしたその刹那。
 建物ごと足場をすら揺るがす大振動が起こり、次いで何の前触れもなく、周囲に炎の柱が顕現する。

「なっ……!?」

「……これは」

 二人に走る動揺。理解を超えた現象を前にどちらもが一瞬の忘我に陥り、その間隙を縫うが如く、まるで導火線を奔る火花のように、二人を引き裂く炎の壁が沸き立った。

「マスターッ……!」

 二人を分かつように煌々と燃える炎の壁。その先に手を伸ばそうとしたセイバーに襲い掛かったのは、崩れ落ちる石柱。亀裂が走り瓦解した天井の崩落。
 それを飲み込むように周囲に巻き起こった騒音は、冬木市民会館そのものの崩壊を告げるかのような轟音だった。



+++


「……やってくれるな、言峰綺礼」

 突如巻き起こった炎の渦。それに飲み込まれるように瓦解した冬木市民会館。その惨状を見上げながら、切嗣は呟いた。

 切嗣が今立っている場所は地下だった。崩落に巻き込まれるように崩れた足場。幸いにして数メートル程度の落下で済み、身体強化を施した肉体にはさしてダメージは被らずに済んだ。

 問題があるとすれば、それはどうやってこの場から脱出するか。

 周囲には炎の舌が揺らめき、黒煙を上げている。見上げる落下点は瓦礫で塞がれ、昇れるようなものではない。

 此処が地下に造られた部屋であるのなら、階段くらいはある筈だ。落下した場所と状況を考えるのなら此処はエントランスホールかコンサートホールの下。どちらかに通じる階段は探せばあるだろう。

 それが使えるかどうかは別にしてだが。

 切嗣は考える。今この状況は恐らく、言峰綺礼の巻き起こしたものだ。何の予兆もない炎の顕現と崩落。階上の様子は此処からは分からないが、少なくとも無事ではあるまい。

 それでも聖杯は健在だろう。未だセイバーとの繋がりは感じられるし、手に宿る残り一画の令呪も失われてはいない。何より、これが聖杯の齎した奇跡の一端であるのなら、自分自身を害す筈がないのだから。

 それなりの広さのある地下室を瓦礫と炎を避けて歩く。階段を探さなければ現状さえも把握出来ない。もし階上に上がる手段がないとしたら、最悪セイバーを呼び寄せて脱出するしかないか……

 そう考えていた切嗣の耳朶に響く、靴の音。
 炎の猛る音に混じりながら、それでも残響する誰かの足音。

 ……これが言峰綺礼が僕と一対一で対峙する為のものだとするのなら。

 階上にいた筈の奴とこの部屋を隔てるものがあってはならない。

 ……いいだろう。おまえを超えなければ聖杯に辿り着けないというのならば、斃し進むだけだ。

 近づく足音に切嗣は階段から距離を開け立ち、懐より魔銃を引き抜く。翻ったコートの裾が、炎に煽られ棚引いた。

 ──主は我が魂を蘇らせ、御名の為に我を正道へと導かん。たとえ死の谷の陰を歩むとも禍を恐るるまじ。主が我と共にあるが故に──

 朗々と謳い上げられる聖句。それは綺礼の高揚と歓喜とが綯い交ぜになり、口をついて出た激情の証。
 空っぽだった器に満ちた想い。空虚でしかなかった言峰綺礼という男の人生の全てに、遂に解を齎す待ち望んだ一戦。

 ゼロの境界面を超えた想いは、器より溢れ零れ落ちる。それを掬い取り舐め取るのは、彼の仇敵に他ならない。

 ──貴方の鞭と貴方の杖が私を慰める。貴方は我が敵の前で宴を設け、我が頭に油を注がれる。杯は溢れ、我に恵みと慈しみを齎すだろう──

 そして靴音は鳴り止む。

 黒く煙る影の向こうに僧衣の男を見る。
 揺らめく炎の彼方にコートの男を見る。

 手には左右合わせて六本の黒鍵。
 右手に携えられしは死神の魔銃。

 互いに互いを敵視し、最大最後の敵と目した男達が、遂に出逢う。

「ああ……ようやく巡り会えたぞ我が仇敵。さあ、我が生の意味を此処に。おまえが手に入れ、そして手放してまで欲したものを見せてくれ」

「…………」

 切嗣は応えず、手にした魔銃を構える。

「ああ、おまえは私と話す口など持たんのだろうな。しかしそれでも私はおまえに問わねばならない。応えて貰わねばならんのだ。
 衛宮切嗣──なれば此処で雌雄を決しよう。そして私が勝利した暁には、洗い浚い全てを吐いて貰う……!」

 疾駆と共に繰り出される三閃の黒鍵。
 迎え撃つ魔銃の照星。

 此処に最後の戦いの火蓋は切って落とされた。



+++


「一体……何が……」

 崩落の足音。伸ばした手は空を切り、掴めるものは何もなく、瓦解した石柱と天井の倒壊に阻まれた。セイバー自身をすら巻き込みかねなかったその大崩壊から逃れられたのは、彼女の身に宿る直感の為せる業だ。

「……マスター」

 しかしそれは我が身可愛さにマスターを見捨てた、切り捨てたも同じ事。それでも未だこの身は健在。つまりはマスターも無事崩落から逃れられたという事だろう。

 ……まずは合流を。状況は分からないが、まだアーチャーは健在なのだ。マスターが狙われては拙い。

 そう思い、とりあえずは自らの置かれた状況を確認しようとしたセイバーに、

「待ち望んだぞセイバーよ。さあ、我らが婚儀を始めよう」

 それは荘厳な響きと重苦しさを伴って放たれた、黄金の王の言葉に他ならない。

 セイバーは崩壊の時、コンサートホールに繋がる扉の前にいた。咄嗟の判断で彼女が身を躍らせたのはその扉の内側だった。つまりここは冬木市民会館のメインステージ。そして聖杯降臨の儀が執り行われている場。

 ゆっくりとセイバーは振り返る。ステージ上に輝く黄金の気配。それはアーチャーの放つ威圧と、それに劣らぬ輝きを発する聖杯の光輝が交じり合ったものだった。

 ……あれが、聖杯。私が求め続けたもの。この祈りを、叶えるもの。

 まるで幽鬼のような足取りで、誘蛾灯に誘われる蛾のように、セイバーは舞台へと吸い寄せられていく。頭上に燦々と煌々と輝く黄金の杯。周囲に燃え立つ炎の明かりを駆逐する威容。その圧倒的な神秘性に惹かれるようにセイバーは中央階段を下りていく。

「……はっ、何だその目は。まるで餌を前にした卑しい犬のようではないか」

 頭上に聖杯を頂きながら、その真下に君臨する黄金の威容。両腕を組み、舞台直下にまで迫ったセイバーを紅蓮の双眸で見下ろしている。

「それ程にこれが欲しいか? 自らの下賎さを隠し切れぬほどに」

 そうとも。この杯を手に入れる為だけに戦ってきた。王としての誇りを捨て、我が身を剣であると断じながら。幾つもの祈りを踏み躙り、無辜の人々を自らの辿る道の轍に変えてきたのだ。

「そこをどけアーチャー。その杯は、私が手に入れるものだ」

「ああ、欲しいのならばくれてやるぞ。貴様が我が寵愛を受け入れるのなら、聖杯だけとは言わずこの世の全ての悦を貴様に賜わそう。
 喜べセイバー。貴様は我にそれだけの価値があると見出されたのだ。そんな蒙昧な祈りなど捨て、我が妻として二度目の生を謳歌しようではないか」

「くどいッ!」

 逆巻く風。吹き荒れる嵐。セイバーの身体から放たれる魔力は暴風となって黄金の煌きを揺るがし、これまで以上の力強さで吹き荒ぶ。

「おまえの妄言は聞き飽きた。事此処に至り未だ世迷言を抜かすというのなら、斬って捨てるだけだ……!」

 目の前には既に聖杯がある。この敵を倒せば聖杯は完成をみる。ならば臆するものなどあろうか。黄金の言葉に耳を傾ける理由など何一つとてない。
 斬って捨てる。戯言を口にし続けるのなら、そのままに切り倒すだけの事だ。

「……ふむ。少し、躾が必要か」

 昔馴染みの狂犬と戯れてさえこのセイバーの心は折れていない。いや、その高貴さ、気丈さはアーチャーが愛でるに値するものである。その価値が踏み躙られる事なく此処まで辿り着いたのは、むしろ賛嘆すべき事であろう。

 しかしこの黄金は自らに歯向かうものは許さない。愛くるしい犬とて、主に牙を剥くのなら一息に首を刎ねるだろう。
 目の前の女は自分が誰のものかを理解できていないだけだ。ならばまずはそれを身体に覚え込ませる為、死なぬ程度に痛めつけるのも悪くはない。

「良いぞ騎士王、戯れを許す。そして何をしたところで我に敵わぬと理解した後、頭を垂れる貴様に我が寵愛を授けよう」

 浮かび上がる黄金の泉。湧き出すは無尽の如き剣群。対するセイバーは風の剣を下段に構え、舞台上に立つ黄金を睨み上げる。

 マスター達から遅れる事数分。
 此処にサーヴァント達の最後の決戦の幕が開かれた。


/4


 炎を斬り裂く三本の刃。黒鍵と呼ばれる投擲剣は切嗣目掛けて疾駆する。それと同時に綺礼は地を蹴り、自らの放った剣に追随する。

 これまでの全ての戦闘を備に観察し続け、切嗣の性能特性についてはほぼ完全に理解している。戦車の装甲でもなければ防げない大口径の魔銃。身体能力の強化。不死身にも等しい回復能力。英霊に迫る加速能力。

 どれをとっても一級品。そして魔術師としては格下の綺礼からすればどれも対処の施しようのないレベルの凶悪さ。
 綺礼に利点があるとすれば、切嗣は綺礼の性能についてほとんどを知らない事。緒戦、脱落を偽装した時に黒鍵の投擲を見せたくらいで、これまで綺礼は自身の戦いというものをほとんど行っていない。

 それ故に隙がある。切嗣の知らない綺礼の能力で、まずは機先を制する……!

 死徒をも容易く貫く神速の黒鍵投擲。それに追随する綺礼の反射能力は余剰令呪のバックアップによりたださえ人間離れした身体能力に磨きを掛けている。
 更に残る左手の黒鍵を強化し、切嗣が自らの身を省みずに銃弾を放ってきた場合の盾とする。

 黒鍵が防がれ、盾が砕かれ、そのだけの犠牲を払ってもいいという覚悟。切嗣に肉薄しさえすれば、この身に宿る師直伝にして実戦で昇華された殺人拳術で一撃の下に意識を刈り取る。

 手加減など出来る相手ではない。故に初手は全力。

 綺礼の死力を尽くした吶喊に応えるのは、

「固有時制御(Time alter)……」

 魔術師衛宮切嗣の秘奥にしてその究極。

「……四倍速(quadruple accel)!」

 その更に向こう──限界を超越した、死をすら厭わぬ時の加速……!

 迫る黒鍵を身を屈め、地面すれすれを飛行するように駆け抜ける。手には魔銃、襲い来る綺礼が盾にする肥大化した黒鍵を、起源弾を以って撃ち貫く。
 並の敵ならばこの一撃で沈黙させられる。しかし切嗣にとって綺礼は最悪の敵。昏倒させたところで安心など出来ない類の怨敵。

 起源弾で魔術回路をずたずたに破壊されたところで手を緩めず、確実に頭蓋を弾き飛ばす為の更なる疾駆。

 放たれた銃弾。防ぐ盾。砕け散る黒鍵。しかし綺礼は未だ健在。間近に迫る切嗣の、これまでをなお超える加速に目を見開きながら、それでも次手を対処する。
 対する切嗣にも驚愕が生まれる。起源弾をその身に喰らっておきながら無事である事もそうだが、それ以上に綺礼は切嗣の姿を目で追えている。

 今まで秘して来た四倍速での加速。文字通りに死を賭した決死の加速でさえも、この敵は喰らいついている。
 それでも切嗣には今更手を緩めるという選択はない。目が追いつけていても、身体の反応までは誤魔化せまい。

 コートの裾をより抜き放ち、いつの間にか手にしていたナイフを繰り出す。その直後に綺礼の右手の側に回り、手にした魔銃の底で渾身の振り下ろしを見舞う。

 事実、綺礼は切嗣の姿を目で追えていた。底を出し尽くしたかのように見えた切嗣ではあったが、この男が綺礼戦の為に隠し札を用意していない筈がないと確信していた。
 その覚悟のお陰で綺礼は既に英霊をすら凌駕しかねない切嗣の加速を捉えられた。そして目では追えても身体が追いつかないのも事実だった。

 黒鍵が魔弾を受け止めた反動。それを殺している間に切嗣はナイフを投げ、綺礼の視界から姿を消して次の瞬間には右手側に現れていた。
 こんな馬鹿げた速度に対処しろというのが酷であり、しかし綺礼は執念と意地を以って迎え撃つ。

 刹那の内に半身をずらし、迫るナイフを左手を犠牲に受け止める。溢れ出る血飛沫を厭わずに、綺礼は振り上げられた銃に対処すべく、更に右腕をすら差し出した。
 切嗣の渾身の殴打。腕の振り抜きさえも加速されており、その一撃は綺礼の右腕を叩き折るに相応しい威力を秘めていた。

 骨の砕け散る音を聞きながら、それでも綺礼は無表情に次の刹那を見据えている。これが完全に予期せぬダメージであったのなら、綺礼をして次打を放つ余裕など微塵もなかっただろう。

 しかし綺礼は自ら両腕を差し出した。元より切嗣の底の底を見据えていた。故に今──極大の犠牲を払った上で放つ、必滅の蹴撃が仇敵を穿つ。

 周囲の炎をすら掻き消すほどの震脚。揺るぎのない芯をその身に宿し、繰り出される旋脚は巨木をすら容易く圧し折る……!

「……ぎぃ、……っ!」

 両腕を犠牲にした渾身の一打は切嗣の身体を捉え、次いで放った二閃目もまた過たずクリティカルに入った。
 吹き飛ぶ切嗣。壁面へと叩きつけられ、炎と瓦礫の中に埋もれて行く。呼吸をする間もなかった刹那に両腕を奪われた綺礼は理解と共に生まれた痛みを噛み殺す。

 ……手応えはあった。だが……

 斃せたという確信がない。骨を砕き、内臓を破壊するに足る一撃を見舞っておきながらそれでも綺礼は何の感慨も得られていなかった。それは恐らく、切嗣の最後の行動ゆえのものだ。あの男は回避するつもりさえもなかった。
 如何に渾身の銃底での殴打を繰り出そうとも、あの加速ならば一足の内に飛び勢いを殺せた筈だ。

 避ける気がなかった。躱す必要性がないと判断した。それはつまり──

 ガラガラと瓦礫を薙ぎ倒しながら、その奥から立ち上がる男の姿。揺らめく炎の向こうに見える顔には口元に湧いた血が見えるが、その表情には変化はない。
 身体についても、抜け切れぬ筈のダメージを与えた筈だというのに、一向に介した様子もなく、ただ無情に立ち尽くしている。

 ……化け物め。

 綺礼をしてそう思わざるを得ないほど怪物。異常をすら凌駕する回復能力。あの敵を斃すには、一撃で心臓を穿つか頭蓋を弾き飛ばす他に手段はない。

 しかしそれでは切嗣に問う事が出来ない。綺礼は生涯常に苛み続けた懊悩に解を求めてこの場に立ったのだ。この対峙の状況を作り上げたのだ。それが果たされぬまま、どちらかが斃れる結末は容認出来ない。

 故に問うのなら今しかない。
 次に戦端が切られた時、殺し合う以外に道はないのだから。

「教えてくれ切嗣。おまえは戦場を横行し、何かを捜し求めていた筈だ。自らの命を秤に賭け、死を賭して。そしてアインツベルンに招かれてからの静寂は、その空虚な心を確かに埋めたが為のものなのだろう?」

「…………」

 切嗣は答えない。ただ目の前の道を阻む敵を見据え、その歩みを進めるのみ。

「何故貴様はッ! 手にした平穏を捨て、こんな愚にもつかない戦いに臨んだっ!? 奇跡に希わずとも、おまえは確かに心を埋めるものを手に入れたのだろう!!」

 聖杯などという夢想にも等しい夢を見るような人間では、おまえはない筈だろうと、綺礼は謳う。
 そう──綺礼と切嗣が同種の人間であるのなら、そもそも聖杯など不要なもので……

「…………馬鹿な」

 綺礼に今更になってその思考に至り、忘我した。そんな当たり前のことから、これまで目を背け続けてきた事に絶望した。

 切嗣は心底で聖杯を求めている。幾人もの犠牲を払い、敵の全てを駆逐してきた。それほどに強固な祈りを秘めている。それはおかしい。それは矛盾だ。綺礼が聖杯を求めないように、ならば切嗣も聖杯など求めてはいけないというのに。

 ……ならばこの男は──この言峰綺礼とは違うのか。

 生まれついての空虚。
 胸に空いたままの穴を埋めるものを探す旅路。
 その果てに追い求めてきたものは、何の事はない綺礼の盲目にも似た信仰によって神格化された衛宮切嗣という男の影だった。

 その過程が自身と酷似していたという理由だけで、切嗣を己と同位と見定めた。その結末に求めるものから目を逸らし、切嗣という男をひたすたに追い求めてきた。

 結果、齎せたのは絶望だけ。
 衛宮切嗣は言峰綺礼と同じ存在などではなく──

「おまえは私と、真逆なのか……」

 得心がいく。納得と共に心に蟠っていた澱が霧散した。

 かつて間桐邸で対峙した間桐臓硯。あの男に感じた不快感の正体が同族を嫌悪する感情であったのなら、切嗣に想う心は何なのかと疑問を抱いた事があった。
 その時気付くべきだったのだ。切嗣は違うのだと。綺礼とは違う、なにかなのだと。

「ならばおまえは……私が心の底から欲したものを捨て、聖杯に祈るのか……」

 綺礼が求めた人としての当たり前の幸福。それを切嗣は恐らく、アインツベルンで手に入れておきながら、まるで塵のように打ち捨て聖杯を手に入れる事に固執している。当たり前では埋められない溝を、埋める為に。

 言峰綺礼は異常を埋める当たり前を欲し。
 衛宮切嗣は当たり前を覆す異常を求めた。

「ああ──」

 事此処に至り理解する。

 言峰綺礼の衛宮切嗣に対する執着は、ただの興味などではない。この己が求め欲するものを軽々しく捨てた男に対する不快感。捨てられたその在りように対する嫌悪感だった。

 それはまるで背中合わせの太陽と月。交じり合わぬ白と黒。同じ方向を見ているように見えて、互いに見つめるものは真逆。矢印の向きがどうしようもなく違っている。

 それでもこの男以外に問うべき者がいなかった。衛宮切嗣以外に言峰綺礼の罪の正体は理解が出来ない。真逆であるが故に、決して交じり合わぬ故に我らは惹かれ合ったのだと、そんな不確かな確信こそが想いの正体だったのだ。

「…………」

 そう理解した綺礼は、静かに剣を抜き放つ。死んだも当然の右腕はそのままに、痛んだ左手に三閃を担う。その貌には無情だけが宿り、瞳は真逆の男を見据えている。

 言峰綺礼の生に対する答えは衛宮切嗣より齎されない。
 そう認識を切り替え、綺礼は目の前に立つ打ち倒すべき敵手を見つめた。

 真逆の男。ああ、ならばそれは嫌悪ではなく好意にも似た感情。その在り方は正反対でありながら、共に同じ道を走り続けてきた。選択肢など存在しない一本道を、何処までも無心に駆け抜けてきた。

 それは同族に対する哀れみか。反対であるが故の憤怒か。綺礼自身でさえよく理解の出来ない想いを胸に、それでもこの男は間違いのない敵であると見定める。

「決着を、着けよう」

 この戦いの先に望んだものはない。必死で走り続けてきた綺礼に報いたものは、その心を埋め尽くす絶望だけだった。
 それでも得たものはある。自らの歪な在り方は世界に肯定されているという赦しを手に出来た。

 ならばその僅かな光だけを胸に、果てのない荒野を何処までも歩いていくだけだ。

 その為にこの敵を超えていく。
 尋常を凌駕する魔人を、人の身の限界を以って迎え撃つ。

 固有時制御の反動を、その身に内包した鞘の能力で死にながら蘇生をし続ける切嗣にしても、その考えは変わらない。目の前の敵は越えなければならない敵。斃さねば聖杯に辿り着けぬ仇敵に他ならない。

 魔術師殺しは魔銃に弾丸を込め直し。
 代行者は黒鍵の握りをしかと確かめる。

「…………」

「────」

 互いに機先を奪う瞬間を窺いながら、どちらともが全くの同時に地を蹴った瞬間──

 頭上の天井を割り、降り注ぐ汚泥の黒。
 それは形を失した炎であり、聖杯より溢れ出た悪意の奔流。

 言峰綺礼が願い、聖杯より流出させた悪意の炎は、今まさ決戦に臨もうと地を蹴った二人を容赦のない濁流で以って飲み尽くした。



+++


 形のない夢を見る。

 それは誰かの記憶。いいや、それは切嗣自身の記憶だった。

 微温湯のような微睡の中で過ごせたアリマゴ島での一幕。平穏に満たされた島は今や燃え盛り、かつての形を失くしている。
 泣いているのは切嗣だ。自らの傍にいた少女を殺させなかったから島を一つ犠牲にし、優しかった島民を悪鬼に変え、その上でシャーレイを殺さなければならなかった。

 自らの甘さ。判断の弱さ。誰かを救う為に、他の多くを犠牲にしてはならない。多くを犠牲にしてなおたった一人すらも救えなかった切嗣は、その志を胸に銃を手に執った。

 次いで浮かぶのは師の姿。切嗣に銃の扱いを教え、戦う術を教え、そして母のように感じていた人。自らが生き残る為に他の誰かを犠牲にする事を厭わない、切嗣とは正反対であった女。

 そんな人を自らの手で殺した。穏やかな会話を無線越しに交わしながら、指をかけた引き金は過たずナタリア・カミンスキーの乗る飛行機を蠢く死徒ごと爆破した。
 飛行機が地上に着地した後に齎される被害を考え、ナタリア一人の犠牲で済む事を良しとした。

 それからはより凄惨だった。
 自らを天秤に見立て、多くを助ける為に少数を殺し尽くす。
 百人を助ける為ならば、九十九人を犠牲にした。

 救ったものがより多い。
 一つでも笑顔を救える事を理由に、無辜の人々を手に掛けた。

 返り血を浴び、怨嗟の声を向けられても切嗣は止まらない。これが世から争いを失くす最善であると、信じて疑わなかったから。

“それは、本当に?”

 闇の中に響く声。
 誰とも知らぬ、男とも女ともつかぬ声に、切嗣の意識はそちらに向いた。

“それが最善であるのなら、聖杯など求めない。聖杯を求めたのは、それでは為し得ぬと絶望したからだろう”

 その通り。切嗣一人の力では世界は救えない。この小さな掌で掬い取るには、この世界には余りに嘆きが多すぎる。
 助けられる人数よりも、何処か知らないところで死んでいく人数の方が多い。果てのない連鎖。救いのない円環。無限の如く終わりのない絶望。それを終わらせる為に、聖杯を求めた。

 万物の願いを叶える願望機。
 無色の力の渦。
 根源への道を開く時に生まれる膨大なまでの魔力は、世界の内側に限り果てのない祈りを叶える奇跡となる。

“では問おう──君は如何にして、その願いを叶えるつもりだったのかな?”

 それは切嗣の理解を超えた問いだった。聖杯は万能。あらゆる願いを叶えるもの。ならばそこに手段も過程も必要ない。ただ結果だけが残り、祈りは叶えられるものと、そう思っていた。

“それは違う。聖杯は無色の力の渦。そこに方向性を与えるのは、所有者の祈りだよ”

 聖杯の力に方向性を与えるのは所有者……つまりは手にした者の祈りである、と誰かが謳う。ならば切嗣は如何にして恒久の平和、戦争の根絶という祈りを成し遂げるのか。その方策について、どんな考えがあるというのか。

“ああ、考える必要はない。君の祈りは既に決まっている。その祈りの形は、君の生きた人生そのものだ”

 争いのない世界。
 恒久の平和。
 それを成し遂げる、切嗣の歩んだ人生。

 即ち──

“そう、より多くを生かすこと。より少数に死んで貰うこと”

 千人を救う為に五百人を殺し。
 五百人を救う為に二百五十人を殺し。
 二百五十人を救う為に百二十五人を殺し……

 延々と。
 永遠と。
 その殺戮を繰り返す。

 幸福の最小単位、切嗣の真に求めた幸福の形を得るその時まで。

 衛宮切嗣という男と彼が愛した妻であるアイリスフィール・フォン・アインツベルン。そしてその子であるイリヤスフィール。この家族だけで構成された世界でならば、争いは生まれない。恒久の平和は永遠に続いていく。

 人間という種の変革など妄想だ。切嗣が求め続けたのは、そんな当たり前の幸福だ。かつて、あの島で夢見ていた普遍にして不変の幸福。人ならば、誰もが夢に見る当たり前の幸せの形。

 切嗣が追い求めていたものはそれだけだ。世界の平和や争いの根絶などという綺麗事、オブラートで包み隠していた本音は、それだけでしかない。

 ただ犠牲としたものに報いたかった。その為に大を生かし小を殺し続けた。その心の奥底で求め続けた人並の幸福を押し殺し、自らを偽り手を汚し続けた。そうでなければ、切嗣は立っていられなかったから。

 誰かを犠牲にして自分だけが幸福を甘受する事は出来ない。その為に世界全ての幸福を願った。世界の全てが満たされているのなら、この薄汚れた殺人者も、その幸福を与る事を許されるかもしれない、とそう思い──

“度し難いな衛宮切嗣。おまえはそんな、幸福を手にする資格のある男ではないだろう”

 その手はどれだけの血で塗れている。脳裏にこびり付いた怨嗟の声はいつまでも残響している。そんな犠牲を貶めて、なかった事にして自分だけが幸福を与ろうなんて、それは余りに虫が良すぎるだろう。

“けれどそれを認めよう、聖杯の担い手よ。君の全ての罪を洗い流し、君だけの幸福の形を聖杯は与える”

 それは五十億、六十億の屍の上に築かれる永劫不変の小さな幸福。自らの守りたかった当たり前の形。家族という手に入れた、欲して止まなかった小さな光だけが輝き続ける無間地獄。

 聖杯はその祈りを叶えるだろう。
 衛宮切嗣の望んだ恒久の平和。
 争いのない世界。
 ちっぽけな幸福。
 その全てを成し遂げるだけの力が、この聖杯にはあるのだから。

「……ふざけるな」

 形のない闇の中──衛宮切嗣は魔銃を手に一人立つ。無色と謳われた光ではない、暗黒の如き闇の中で、出所の分からない声に向けて吼え上げる。

「それが僕の望んだ幸福の形だと? 世界の全てを犠牲にして叶えられる願いだと?」

“これは君の望んだもの。その心を殺してまで望んだ夢の形だろう。もう誰かを殺す必要はない。君はただ掌に残った幸福を噛み締めるだけでいい。後の全ては、聖杯が執り行うだろう”

「ふざけるなッ……!」

 今一度怒号を発し、手にした銃を虚空に向ける。

「これが聖杯? これが僕の幸せ? 勝手に僕を測って知った風な口を利くな。僕はそんな幸福は認めない。屍の積み上げられた山の上でしか手に出来ない幸福など────必要ないッ!」

 切嗣が求めた恒久の平和とそれは余りに形が違いすぎる。切嗣の求めた小さな幸福は形になっても、それ以外の犠牲が大きすぎる。

“では君は、聖杯を否定するというのか?”

「僕は誰かの犠牲の上に、自分だけの幸福に胡坐を掻けないから、この手を汚してきた。聖杯の力を以ってしても、この祈りが叶えられないというのなら……」

 胸に疼く痛み。それはこれまで胸に灯してきた希望が瓦解する音だった。自らの手では為しえない奇跡。そして聖杯を以ってすら叶わぬ願い。ならば……

「僕は──聖杯(おまえ)を認めない」

 ……この心に残る理想の火を燃やし尽し、世界を犯す悪意を否定しよう。

 浮かび上がる二つの幻像。
 一人は愛した妻の姿。
 一人は愛した子の姿。

 彼女達との幸福を夢見て、これまで必死で戦い続けてきた切嗣は、願った幸福を打ち捨てるように──幻像を撃ち抜いた。



+++


 罅割れる闇。
 裏返る世界。

 永遠にも似た刹那の悪夢から覚めた切嗣が立つのは冬木市民会館地下の一室。周囲には沸き立つ炎と瓦礫の山。そして先の悪夢から這い出たかのよう黒い汚泥が蠢いている。

 目の前には言峰綺礼の姿。茫然自失で立ち尽くしているその姿は、切嗣と同じようにあの闇に飲み込まれた結果なのだろう。決死を誓った戦いの結末は、先に覚醒した切嗣の勝利で幕を閉じる。

 忘我した綺礼を引き倒し、その背に銃口を押し付ける。次の瞬間、綺礼の瞳には色が戻った。

「……我らの戦いの結末が、こんな形であるというのは不本意だが……」

 綺礼は両腕を挙げ後ろに立つ切嗣を横目で見やる。

「何故おまえは聖杯を否定した。おまえの望んだ当たり前を、こんな異常な形でしか成し遂げられない幸福を形に出来るものを、何故自ら手放した」

 言峰綺礼には理解が出来ない。聖杯がなんであれ、求めたものを齎すのならそれは正しい形である筈だ。あれが悪意の形であっても、結果として祈りを叶える願望機には違いはないのだから。

「私は見てみたいとも思ったのだ。おまえの祈りが世界を犯す様を。
 おまえの望んだ平穏の形をがどのようなものか、興味深くあったというのに……何故、否定してしまえるのだ」

 それは失望であり憤怒だった。
 聖杯を求め続けた切嗣が土壇場になって聖杯を切り捨てた事に対する憤り。
 信じた理想(ユメ)の為に、渇望した聖杯(いのり)を捻じ曲げた事に対する怨嗟だ。

「残念だよ衛宮切嗣。おまえならば、あの聖杯を担うに相応しいとそう思ったのに」

 切嗣はその最期まで綺礼と言葉を交わす事無く。
 引き金を引き、撃鉄打ち落とし──言峰綺礼の心臓を、その背後より撃ち貫いた。


/5


「っ──、はぁ……!」

 コンサートホールでの戦いは熾烈を極めていた。繰り出される際限のない宝具掃射。倒壊した客席が立ち並び、足場の悪い空間をセイバーは走り回り回避に専念する。
 アーチャーが舞台上に位置している事もあり、接近は至難を極める。不用意な跳躍は格好の的であるし、舞台に上がれる階段は左右二つしかない。

 どちらから駆け上がろうとしても黄金の掃射が邪魔をする。周囲に燃え立つ炎と瓦礫も相まって、セイバーは接近をすら封じられたまま逃げ回る以外に術がなかった。

 ……やはり余りにも立ち位置が悪い。アーチャーはそれを理解しているからこそあの場所に立っている。

 アーチャーが立つのは空中に浮かぶ聖杯の真下だ。あの位置に陣取られては聖剣での一撃さえも封じられてしまう。聖剣を使えばアーチャーだけでなく聖杯をすらその余波に巻き込んでしまうからだ。

 それを理解しているアーチャーは舞台上から動かず、逃げ回る鼠を追い回してせせら嗤っている。
 白兵戦で応じるしかないセイバーの姿を、愉悦を込めた瞳で見下ろしている。

「どうしたセイバー。他のサーヴァント達を相手にして一歩も譲る事がなかったおまえでも我が相手では逃げ回るしか出来ないか?」

「くっ……!」

 卑怯という謗りは言葉に出来ない。これは聖杯を奪われたこちらの失態であり、相手に優位な場を築かせた失点だ。
 この不利な状況を覆すには死を賭すしかない。何の犠牲も払わずあの黄金を打倒しようというのは虫が良すぎるというものだ。

「ふっ……!」

 左右への回避から一転、セイバーは舞台へと繋がる階段目掛けて疾駆する。襲い来る宝剣宝槍の数々を捌き、いなし、躱し、傷を負うのを覚悟で直走る。

「ぐっ……!」

 避け切れなかった刃が左腕に掠め、篭手ごと肉を削いでいく。その痛みを無視し、セイバーはそれでも足を止めない。
 階段に足を掛け、一息に上ろうとした刹那に降り注ぐ駿雨。剣の雨の悉くを身を捻り翻し、血飛沫を上げながら耐え凌ぐ。

「────はぁ……!」

 ようやく上がった舞台上。息つく暇もなくセイバーは駆け、アーチャーの首を奪おうと剣を振り上げる。
 それに応えたのは、何処からか降った、雷神の如き稲妻。虚空より放たれた神速の雷光に身を貫かれ、セイバーはその足を止めてしまう。

「しまっ……」

 その隙を待っていたかというように、降り注ぐ剣の衾。空間を埋め尽くす規模で降り注いだ嵐を、セイバーは直感にすら頼る事無く予感した死の気配から逃れるように、無様に転がりながら観客席へと落下した。

「今のは良い攻めだったが、まだまだ甘いな。我の底を見透かせぬようでは、到底届きはせんぞ?」

「はっ、はっ……、ぁ……」

 肩で息をしながら魔力を回復に回す。修復はそう時間が掛からないとはいえ、このままでは結局攻めきれない。
 無尽蔵の如く剣や槍を有する英霊になど心当たりはない。この男の真なる宝具は何か、その真名は何なのか。それを看破しなければ超えられない壁。

 ただ分かっているのは強力な英霊であるという事だけ。足場の不利にあるとはいえ、恐らく同じ条件下でも苦戦は免れない敵手には違いない。

 ……アーチャーを超えるには、やはり聖剣を使うしか……

 状況を打開する手段があるとすればそれだけだ。星の一振りを以ってすれば相手も相応の手段で応じなければならず、それはこの黄金の素性を暴く一端に成り得る。

 だがやはりネックは聖杯。敵を倒しておきながら聖杯を壊してしまっては、何の意味もないのだから。

「さて……次の手は決めたか? 我を愉しませるに値せぬ策を弄するのなら、その手足を串刺しにされる程度の覚悟はあろうな?」

 何処までも高く広がっていく黄金の泉の数。顔を覗かせる刀身の数は数えるだに馬鹿らしい。

 ……どうする……あれは……?

 攻め手を決めあぐねていたセイバーの視界に映る第三者の影。揺らめく炎の向こうに棚引くロングコート。見下ろす昏き瞳は、誰あろう衛宮切嗣のものである。

 ……勝機! マスターの助力があれば、この状況を覆せる!

 切嗣の手に残る最後の一画たる令呪。それを使用してしまえばセイバーを縛る戒めもまた解き放たれる事になるが、それを臆する状況ではない事は切嗣もまた理解している筈。

 聖杯を手に入れる為に超えなければならない最後の敵。その打倒の為に死力を尽くす事を恐れる事などあろう筈がない。

 この身はその為に剣として尽くして来た。主の信頼を勝ち取れたとは言わないが、それでも充分な成果を上げてきた自負がある。

 ……頼む切嗣! この状況を打開する一手を……!

 令呪の奇跡を以ってすれば、如何なる命令も思いのまま。この場を切り抜ける為の刹那の命令ならばどんな困難も覆せる。
 転身によってアーチャーの背後を取るか、より強大な魔力の加護を纏い吶喊するか。どんな命令が下されようとも勝機を過たず狙い撃つ覚悟でセイバーは剣を握り締める。

『衛宮切嗣の名の下に、令呪を以ってセイバーに命ず────』

 来る命令の祝詞。奇跡を振るう刹那の間隙。踏み込む足に力を込めたセイバーに告げられた命令は、

『────宝具によって、聖杯を破壊せよ』

「えっ……?」

 そんな、まるで予想だにしなかった命令だった。

 セイバーの意思とは裏腹に、剣の封印は解かれ風が渦を巻く。振り上げられた刀身には光が集い加速する。

「……っ、血迷ったかセイバー!」

 アーチャーをして目を剥く行動。聖剣の使用はそれ程の異常だった。聖杯の真下にいる限り、如何なる状況であれセイバーは聖剣を使えないと高を括っていたアーチャーの動揺は相当なものだった。

 だってそうだろう、セイバーは聖杯を求めていたのだ。それこそ死に物狂いでその頂を駆け上がってきた。
 それをこの土壇場で破壊しようとする意図が分からない。全てを見透かす黄金の紅蓮の如き双眸は、ただ振り翳される光輝に焦がされるばかりであった。

「何故だ切嗣! 何故そのような命令を!? 貴方は聖杯を掴むのだろう! その為に多くの犠牲を払ってきたのだろう!? なのに……!」

 振り上げる手は止まらない。アーチャーとの戦いの傷が完全に癒えていない状況で、その命令は逆らい難い意思を秘めて下されたのだ。

 見据える切嗣の瞳には黒しかない。
 宿る絶望の色をセイバーは知る由もない。

「おまえは全ての犠牲を無に……なかった事にするつもりかッ!? 踏み躙ってきた全ての想いを、無駄にするというのか……ッ!」

 セイバーもまたその為に多くのものを切り捨てた。
 犠牲にしてきたのだ。

 忠義の騎士を絶望に染めて斬り殺し……
 かつての朋友の復讐の想念をすら跳ね除けて……
 好敵手と認めた者を、その轍に変えてまで求めたものを……

 それら全てを無為に落とす行為。
 決して容認出来ない終わり。

 だからこんな結末は認められない。
 あと少し、ほんの少しで祈りに手が届くのだ。それをこんな──

「答えろッ、切嗣────!!!!」

 セイバーのマスターである衛宮切嗣は一言も発さず、振り上げられた黄金の聖剣をただ見つめ続ける。

「あああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあああああああ、やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉ……!!!!」

 セイバーの絶望を他所に。
 零れ落ちる涙を糧に。

 黄金の光輝は振り下ろされ、世界を分かつ光となってこの世の全てを染め上げた。

 そして聖剣を振り下ろしたセイバーもまた、世界を白く染め上げる光の中、砕かれる聖杯を見据えながら、その胸に抱いた希望を絶望で塗り替えながら、失意の内に消え去っていった。


/5


 言峰綺礼が目を覚ました時、全ては既に終わっていた。

 見渡す限りの火の海。綺礼の願いでは冬木市民会館を瓦解させる程度であった筈のものであるというのに、今一面に広がる光景は明らかにその規模を凌駕していた。
 猛る炎と立ち昇る黒煙。瓦解する家屋と、助けを求める誰かの声。それらを聞き流しながら、綺礼は自らが生きている事に困惑した。

 確かに切嗣に背後から心臓を撃ち貫かれた筈。あの一撃を喰らい死んでない筈がない。死を覚悟し、受け入れ、その上で切嗣へと絶望の怨嗟を吐き出した筈だった。

「何故私は、生きている……?」

 声に出した問いに、

「いいや、おまえは死んでいるようだぞ言峰よ」

 応えたのは、誰ならぬ黄金の王──アーチャーであった。

「おまえも生き延びていたか……」

「幸いにもな」

「分かる限りで良い。状況を説明してくれ」

「そう難しいものでもない。聖杯を前に我とセイバーは争い、奴は聖剣を放ったのだ。我ごと聖杯を破壊するようにしてな」

 それは恐らく切嗣の令呪によるものだろうと綺礼は思う。聖杯の真実を知らないセイバーが自らの意思で聖剣を振るうわけがないのだから。

「聖剣は光となり聖杯を両断し、その真下にいた我をすら呑み込み掛けたが、それよりも先にセイバーが消滅した。当然だ、マスターとの契約が切れた状態で、限界を超えた聖剣を行使し、そして聖杯をも打ち砕いたのだからな」

 そして聖剣の光はアーチャーには届かぬまま霧散し、しかし今度は聖杯が破壊された事で此方と彼方を繋ぐ聖杯の門は制御を失い、天に穿たれた穴から濁流の如き黒き汚泥が降り注いだ。

 アーチャーはその奔流に呑まれ、否──逆に飲み干し、人としての肉の形を得た。そしてマスターである綺礼へとその余波が逆流した事で、おまえは死にながら生きている様になったのだと黄金の王は謳い上げた。

「……そして溢れ出たものが、今なおこうして世界を焼き尽くしているというわけか」

 無感情の色をした瞳で綺礼は周囲を睥睨する。異物であり歪な綺礼はこの惨状に心を痛める事などない。むしろ歓喜して止まぬところだが、心が現状に追いついて来ない。

 何より結局戦いの終わりを望みながら、この胸に沸いた空虚は埋められなかったという絶望だけが身体を軋ませていた。

「死んでいながら、まだ生きろと言うのか……」

 言峰綺礼は死んでいる。死体が動いているのと変わらない。それでも生きている。動いている。ならばこの身はまだ、倒れる事を許されていないようだ。

 これが残された余生というものならば、その全てを費やし探してみよう。

 世界に生れ落ちた異物の正体。美しいものを醜いと謗り、醜いものを美しいと賛美する破戒された道徳観。
 それを正しく理解した上で、未だ生まれぬ解を世界の果てに捜し求める。

 衛宮切嗣でも、聖杯ですら叶わなかった解を導き出せるものがこの世にあるとは思えないが、それでもこの命の続く限り、果てのない荒野を歩いていく覚悟を決めた。

「おまえはどうするギルガメッシュ。人の肉を得たおまえなら、私の助力など必要とはすまい」

「……そうだな。まあ、退屈を紛らわせるものを探すとするか。なければないで構いはしない。我は、十年の向こうを見据えてただ待つのみよ」

 ──未だ我はおまえを諦めてはいないぞセイバーよ。おまえが聖杯をなお求める限り、我らの出逢いは必然だ。

 壊れた聖職者は自らの願いが果たされぬまま、その彼方に想いを馳せ。
 英雄の王は手に掴めなかった夢想を抱きながら、遥か彼方に想いを馳せた。



+++


 そうして彼女は舞い戻る。

 自らの基点。
 血染めの丘。
 屍の山。
 墓標のように突き立つ剣。

 そこはアルトリア・ペンドラゴンの後悔の地。
 血に染まるカムランの丘。

 膝を折り、手にした剣を支えに遠く赤焼けに染まる空を見つめながら、少女は慟哭の涙を流す。

 この場に舞い戻る時には聖杯を携えている筈だった。祈りを叶え、胸を充足感で満たしながら消えて行ける筈だった。
 それがどうだ、手には何もなく、胸に渦巻くのは絶望と怨嗟。自らをあの土壇場で裏切った男に対する隠し切れない憎悪の念だった。

 結局のところ、アルトリアは衛宮切嗣という男の何一つをすら理解していなかった。理解したつもりになって、信頼を預けていただけに過ぎない。
 あの男の聖杯に掛ける願いは本物だった。その意思は間違いはなかったと思う。それだけに、最後の光景だけが全く理解の出来ないものになってしまっている。

 数え切れぬ程の犠牲を払い、自らの命をすら天秤に掛け、死線を潜り抜けてきたのは何の為だ。聖杯を掴み、胸に抱いた祈りを叶える為だろう。
 ならば何故、あんな命令を下した。聖杯を渇望していたセイバーに、聖杯を破壊させた意図とは何なのだ。

「……分からない……分かる筈もない」

 アルトリアは切嗣の事を何一つして知らなかった。生まれも素性も能力も、果ては聖杯に掛ける願いさえも。
 ただ目指すところがおなじという理由だけで、切嗣を妄信していた。掛け値なしの信頼を寄せていた。

 何たる愚考。いや、それは愚考ですらない思考の停止だ。自らが考える事を止め、他者に依存するも同然の所業。一方的に背を預けたのなら、その重荷を外されて文句を言える筋合いなどないのだ。

 愚かなのはこの私、馬鹿なのはこのアルトリアだ。
 これまでの犠牲を裏切ったのは切嗣ではなく、このアルトリアだ。

「は、ははは……」

 喉をついて出る乾いた笑い。
 胸に沸いた絶望をより黒く濁らせる想いの発露。

 ああ、裏切られた。絶望した。だけれどそれが何だという。この身は既に聖杯を掴む事を約束されている。そういう契約で死後を明け渡す取引を行ったのだ。
 これは初めの一回目が失敗したというただそれだけの話だ。聖杯を手に入れるまで何度でも繰り返し繰り返し、永劫戦い続ける事が可能なのだ。

 幾度失敗しようとも、いつかは必ず聖杯を手に入れられるのだから。

 だからこれ以上の嘆きは必要ない。次の召喚の地でより効率良く聖杯を手に入れる為の方策に頭を巡らせればそれでいい。

 そう思い至った瞬間、衛宮切嗣に対する恨みは霧散した。ただ事実として裏切られたという結果だけがこの胸に残ったに過ぎなかった。

「さあ……世界よ、私を次の戦いの地へ誘うが良い。よりこの身を硬い剣と為し、いつか必ず聖杯を手に入れよう」

 意思を硬く硬く尖らせる。この身は剣。騎士の剣。誇りを踏み躙るような戦いをして、神経を磨り減らして希うまでもなく、聖杯は手に入る。
 ならばこの身に残ったちっぽけな誇りだけを胸に、誰かの剣となってより鮮烈に敵を討とう。

 高潔な騎士として。誰もの理想の騎士のまま、王の願いをひた隠し──時の果てまで戦い続けよう。

 いつか聖杯を手に入れるその日まで。
 終わらぬ戦いの日々が終わるその日まで。

 アルトリア・ペンドラゴンは────その最期まで気高く剣を振るい続けよう。

 そんな悲しい祈りを胸に。
 彼女は戦いの時を待ち続ける。

 終わらぬ連鎖が断ち切られる……その時まで────



+++


 足取りは重く、まるで幽鬼のように徘徊する。

 周囲に踊る炎。空を焦がす黒煙。倒壊していく家屋。助けてと叫び続ける誰かの声も無視し、怨嗟の声をすら振り払い、衛宮切嗣のは地獄を練り歩く。

 こんな光景を見たくないが為に聖杯を欲し、結果この惨状を描き上げた切嗣の心は完全に折れていた。
 払った犠牲に報いる事が出来ない。手に残った幸せは掴めない。生涯を掛けた疾走は、全て徒労に終わってしまったのだから。

 胸に渦巻くのは絶望だけ。全てを救おうとして、結果全てを零してしまった男の心に残ったものなど何もない。
 正義の味方。少年の日に夢見た想い。やはりそんなものは幻想だった。全てを救う正義の味方など、この世界にはいなかったのだ。

「ああ……」

 零れる吐息に滲む謝罪の色。口には決して出来ない想いを吐き出しながら、地獄を作り上げた男は、何かを求めて彷徨い歩く。

 死に掛けの誰かを見捨て、すすり泣く幼子を見捨て、我が子だけでも助けて欲しいと懇願する親子を見捨てた。
 どれもこれも助からない命。今この一時を救ったところで次の瞬間には死んでいる命だ。

 切嗣が探し求めているのは、助かる命。この絶望の染める炎の中で、生きる意志と輝きを秘めた尊い命だ。

 この地獄を作り上げた張本人が、何をと誰もが思うだろう。ただそれでも切嗣は誰かに生きていて欲しかった。自らの理想の残り火の中に、希望という光があって欲しいと願っていた。

 なんという傲慢。
 どうしようもない独善。
 自らが救われたいが為の、荒唐無稽な祈りの形。

 心を埋め尽くす絶望の黒。理想を焦がす灼熱の赤。赤と黒の入り混じる世界で、切嗣には涙を流す事さえ許されない。
 自らが招いた結末を前に、どうして嘆き悲しむ事など許されようか。ただ切嗣に許されているのは、この炎に焼き尽くされていく人々に捧げる懺悔でしかない。

 いいや、その懺悔さえも許されない。切嗣に残された唯一つの救いは……

「────ああ」

 炎の焦がす世界の果てで、切嗣は遂に見つけた。空に必死に手を伸ばし、救いを求める幼子を確かに見つけたのだ。

 この余りに利己的な目的で世界を燃やし尽くした果てで。
 どこまでも許され難い過ちの中で。

 消え行く命の光を燃やし、精一杯に生にしがみ付く者の手を握る。

 衛宮切嗣は自らを焦がした絶望の中で、小さな小さな希望を掴み取る。
 泥に犯された自らを延命させた聖剣を鞘を惜しげもなく取り出し、少年の身体に埋め込んだ。自らの余生を手放し、唯一つの命を救い上げた。

「…………ありがとう」

 降り出した雨の中。

 救われた少年よりも儚くも美しい笑みを浮かべ、衛宮切嗣は感謝した。
 たった一人でも助けられて救われたと、誰にともなく感謝を述べ、心の底から涙を流したのだった。



+++


 此処に戦いは終結した。

 誰一人の願いすら叶う事無く。
 誰一人にすら勝利を与える事無く。

 生き残った者達の心に、
 僅かばかりの光だけを残し……

 第四次聖杯戦争は、静かに──その幕を下ろした。



[25400] epilogue
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/12/07 22:50
/1


 決戦の夜明け。

 橋上で王の最期を見届け、対岸で起きた大火災がウェイバーの与り知らぬところで起きたこの戦争の終結を意味したものだと理解して、一度寄生しているマッケンジー邸へと戻る事に決めた。

 これからの身の振り方をどうするにしろ、一度はあの屋敷に戻り為さねばならない事がある。グレン翁に掛けた暗示の効力を確かめなければならないし、日本を去るにしても持ち込んだ魔術道具をそのままにしておくわけにはいかないからだ。

 降り頻る雨の中、肌を打つ雨さえも心地良い。未だ冷めぬ心の熱を静めていく、この冬の雨が気持ち良かった。そして何より、雨で濡れてさえいれば、頬に流れた涙の跡も、そう目立たないだろうと思ったのだ。

 赤毛の王者との約束。朋友としての誓い。臣下としての忠誠。
 手に入れたものは数多く、けれどそれらはもっとも偉大なものを犠牲にして手にしたものだ。

 しかしそれを悔いてはならない。いつかあの大男は言っていた。死者を悼み、涙を流すのは構わない。されどその悲しみに囚われて、後悔する事はあってはならぬと。

 だからウェイバーは胸を張るのだ。この胸に息衝いた王の生き様を誇れるように、あんな男と肩を並べられる男になれるように……これから、頑張っていくのだと誓ったのだ。

「おぉいウェイバー」

 目的とした屋敷に近づいた時、遥か頭上より掛かった声に気付き見上げた。そこにあったのはグレン・マッケンジーの姿。
 何を思ってか、この寒空の朝、傘を差して屋根に腰掛けていた。

「ちょ……おじいさん! そんなところにいたら危ないじゃないか!」

「平気平気。いいからおまえも上がって来んか。ちょいと話もあるのでな」

 話すだけなら家の中でもいいじゃないかと思いながら、ウェイバーは渋々と家の中を通り、屋根裏部屋を通じて屋根に上がった。

「足元に気をつけてくれよ。雨で滑って孫が落ちたとなったら、ばあさんが悲しむのでな」

「……そう思うならこんなところで話さなくとも」

「こういうところでしか出来ん話もあるさ、なあ……ウェイバー君」

「…………」

 その僅かな、けれど決定的な呼称に違いにウェイバーは瞠目し、そして静かに受け入れた。

「……いつから、気付いていましたか?」

「ほんの少し前じゃよ。目を覚ました時、全てを思い出した。儂にはウェイバーという名の孫はおらんし、ならばアレクセイという御仁もそうじゃな。加えて、家の前での騒動も同様に記憶しておるよ」

「……そう、ですか」

 ウェイバーはグレン翁に暗示を掛ける事に失敗した。先にウェイバーを孫と偽った暗示を掛けたまま、その上から記憶を操作する真似をした為、どちらもが効力を失い解れてしまったという最悪の結果だ。

 グレン翁はウェイバーを赤の他人だと理解しているし、そしてそんな他人のせいで死に掛けた事を覚えている。罵声を浴びせられて当然だと思うし、騙していた事を責められても文句は言えない。

 逃げるのは簡単だ。今ならば簡易な暗示を楽に施せるだろう。そのまま行方を晦ませてしまえばそれで済む。しかしウェイバーは逃げなかった。
 あの王のように。結果の見えていた戦いに背を向けず立ち向かった偉大なる王のようにウェイバーもまた何事からも逃げたくはなかった。

 詰られるのを覚悟で視線を上げた時、グレン翁の顔に宿っていたのは憤怒の色ではなく優しさに満ちた色だった。

「……なんで、怒らないんですか?」

「ん? なんだ、怒って欲しいのか?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「まあ、おまえさんは怒られて当然の事をしたと思うからそう言ったのじゃろうし、自分からそう言える人間が根っからの悪者だと思えるほど、儂は耄碌しておらんよ」

「…………」

「おまえさんやアレクセイという御仁が何を目的に儂らの家に住みついとったのかは分からんが、儂らをどうにかする為ではないのじゃろう? でなければあの時、必死に儂を助けると言ってくれたおまえさんの言葉は嘘だったという事になる」

 あの時の二人の必死さに偽りはなかったと、グレン翁は語る。

「これでも伊達に長生きしておるわけじゃないのでな。そういうところは分かるんじゃよ」

 グレン翁は遠い目をして遥か彼方を見る。遠く朝焼けを染める紅蓮の炎。未だ完全な鎮火の為されていない、対岸の大火災を。

「アレクセイ殿は……逝ってしまったのじゃろう?」

「えっ……」

「この街で最近起きておった異変。それにおまえさんとアレクセイ殿は関わっておったんじゃろう? そしてあの火事も、何らかの関わりがあるんじゃろう」

「おじいさん……」

「ああ、何も言わんでいいよ。知ったらきっと面倒になる類のものじゃろうし、その原因など知ったところでこの老骨に出来ることなど何もない。ただ──おまえさんが生きて戻ってきてくれた事だけが喜ばしいよ」

 自らを騙し、欺いた少年へとそう簡単に掛けられる思いではない。赤の他人の無事を喜べるものなどそうはいない。グレン翁の懐の大きさはウェイバーなどちっぽけに見えてしまえるほどのものだった。

「ま、こうして儂がおまえさんの帰宅を待っておったのは、一つお願いがあったからなんじゃが」

「……お願い、ですか」

「ああ。おまえさんを赤の他人と承知して、儂らに負い目を持っておる事に付け込んで頼むのじゃ。ウェイバー君、どうか今暫くの間我が家に住み続けてはくれんだろうか」

「え……?」

 それはウェイバーをして想像をしていなかったものだった。グレン翁の性格を思えば金銭を要求されるようなことはないだろうとは思っていたが、それでも何かしらこちらが不利益を被るものだと覚悟していた。

 それでもウェイバーは出来る限り聞き届けるつもりであったし、叶えられるものならば叶えるつもりだった。それでもまさか、騙し続けた人間と一緒に暮らしたいと言われるとは流石に思いもしなかった。

「理由を聞かせて貰ってもいいですか……?」

「ああ。儂はこうしておまえさんが孫ではないと知ってしまったが、マーサの奴は未だにおまえさんを本物の孫だと思っているんだ。
 息子も孫も日本を離れ、二人だけでの暮らしも不自由ではなかったが、きっと寂しい思いをしておったのじゃろう。最近のマーサはな、良く笑うようになった」

 だからもう少しの間だけでいいから、騙し続けて欲しいと。妻に夢を見させてやってはくれないかと、グレン翁は願いを口にした。

「……分かりました。むしろそれは、ボクからお願いしたいと思っていたところです」

 ウェイバーは自らの新たなる旅路の基点を時計塔ではなくあの王と出会い別れたこの地から始めようと思っていた。

 これまでは魔術こそを至高と謳い、その研究にのみ没頭してきた。その研究熱心な思いが災いした了見の狭さ。豪放なる王に額を弾かれて当たり前の、ちっぽけな世界しか知らなかった。

 だからまずは、世界の広さを知ろうと思うのだ。あの男が果てを見たいと願った世界の在り様を、この目でじっくりと眺めてみたいと思うのだ。

 その為には住む所が必要で、先立つものが必要だ。この界隈に長い間住んでいるマッケンジー夫妻なら英語しかほとんど喋れないウェイバーに就職口を紹介して貰えるかもしれないし、何より住居を確保できる事が大きい。

 もし暗示が上手く作用していても、作用していなくとも正直に全てを話し、頭を擦り付けてでも許しを請うつもりだった。
 無論それで突き放されても文句を言うつもりもなかったし、これはウェイバーにとってのけじめでしかない。

 しかしグレン翁の申し出は、ウェイバーにとって渡りに船だったのだ。

「ボクはこの世界を知りたい。その広さを実感したい。あの男が生き、そして駆け抜けたこの世界を。その為にはまず、此処から始めたいと思うんです。
 だからボクからお願いします、どうかもう少しだけご厄介になっても構いませんか」

「ほっほ、これは良い。これもアレクセイ殿の導きかな。おまえさんは良い御仁と知り合えたようで良かった。人と人の出会いは宝だ。大事にしなされ」

「はいっ!」

 力強い返事と共に、雨が上がり朝焼けの染める空の中、二人の男は笑みを零す。
 数奇な巡り会いの果てに出会えたもの。手にしたもの。ならばこの出会いも、ウェイバーにとって宝と呼んで相違のない宝石だろう。

 ……此処から、ボクも頑張ってみるよライダー。だからどうか……見守っていてくれ。

 明け行く空に伸ばした掌を透かして見る。
 それはまさに、世界を掴もうと伸ばした、少年の日の終わりに見る初めての輝きだった。


/2


 半年後。

 葬送の歌声が柔らかに響く。しめやかに行われる遠坂時臣、そしてその妻である葵の葬儀を取り仕切るのは未だ十にも満たない子供の凛だ。

 これは一般の葬儀ではなく、魔術師という家系で行われる葬送。その喪主を務めるのは後見人ではなく当主の座を継ぐ実子の仕事であり、事実上の当主交代を意味する儀式でもあった。

 降り頻る雨の中、参列した者の何かは言峰綺礼の姿もある。如何に凛が優秀で飛びぬけた才を有してはいても子供では限界がある。当日の仕切りこそ凛に任せたが、その為の手回しを行ったが綺礼であった。

 戦争の最中、時臣と葵の亡くなった翌日。凛を禅城へと送り届けるその前に、綺礼は時臣の書斎で遺書にも等しい書簡を紐解いた。

 そこに記されていたのは完璧という他のない公的文書。凛への相続は元より魔術刻印移植の手配、時臣の知己に対する根回しとその連絡先。
 後見人を任せた綺礼に対する財産の運用、処分法などおよそ今後考えられる全ての事柄についてが仔細に記されていた。

 それは子を心配する父の想いの現れであり、魔術師として後継者に遺す当たり前のものであり、そして綺礼に対する陰りのない信頼の証でもあった。

 これを書き上げた時の時臣は、よもや綺礼が裏切るなどとは思ってもいなかった筈だ。その背を弟子の刃で貫かれる事になるなどと、想像すらしていなかった事だろう。

 その様を思い浮かべるだけで綺礼は歓喜の笑みが零れてしまう。差した傘を強く傾け、顔を伏せれば肩を震わせても泣いているようにしか見えないだろう。

 しかし今は、もういない誰かを思うよりも、これから積み上げられていく少女をこそ思わねば。

 葬送の歌の終わりと共に遺体のない棺桶は大地に送られていった。それを見届けた参列者が一人、また一人と去っていく中、孤独に立つ凛へと綺礼は足を向けた。

「ご苦労だった。当主の初仕事としては上出来だ。ところで、移植した魔術刻印に異常はないか。何か異変があるのなら言ってくれ」

「いいえ、何も。異物感はあるけど、これはそういうものなんでしょ。アンタに心配される事なんて何もないんだから」

 凛の辛辣な物言いは当然だろう。凛は綺礼だけが時臣の傍に残る事をずっと不平に思っていたし、結果として師だけを帰らぬ人としておきながら、のうのうと生きている男を許容など出来る筈がない。

 それでも完全に拒絶しないのはこの少女なりに父と母をしめやかに送れたのは綺礼のお陰だと思っているし、何より時臣の遺言書に綺礼を頼りにしろと書かれていては、無碍に出来なかった。

 遠坂凛という少女はそれでも毅然として独りで立つ。父と母を同時に亡くしながら、涙の一つさえも見せずに強く強く振舞い続けている。
 孤独に枕を濡らす事もあるだろう、朝起きて挨拶をしても何の返事もない事に、空虚な思いを抱いているかもしれない。

 だというのに、この少女は人前では決してその弱さを見せない。欠片も片鱗も。そうする事が父と母の望みであるというように、気高く遠坂家当主として在り続ける。

 それを少し、つまらないと綺礼は思う。年相応に泣きつかれても困るが、こうまで頑なな強さを見せられてはたまらなくなるというものだ。

 その強さが脆くも崩れ去る様を想像して。
 尊敬する父が誰の手によって討たれたかを知った時の、絶望を想って。
 そして絶望に身を浸しまま、消えていく少女の怨嗟の声は、言峰綺礼の心を甘く癒してくれるだろう。

「凛、遠坂家当主となったおまえに、私から門出の祝いとして一つ贈り物をしたいと思う」

「……変なものなら、いらないわよ」

「心外だな。これは私が師に見習い修了の祝いに頂いたアゾット剣というものだ。私が持っているよりも、おまえが持っている方が相応しいだろう」

 綺礼は腰に差していた短剣を鞘ごと外し、膝を折って凛に渡す。意匠の凝られた美しき柄と宝玉。引き抜かれた刃に刻まれた文様に、凛は心奪われたように見入っていた。

「これが……お父さまの……」

 父の遺品をその胸に抱き締めながら、少女は一粒の涙を流す。

 厳しくも優しかった父の姿。
 いつも柔らかな笑みを湛えていた母の姿。

 もう二度とは逢えない二人を想い、少女はこれまで耐え忍び、秘め隠し通して来た想いの堰を決壊させ、年相応に声を上げて涙を零した。

 降り頻る雨が泣き声を掻き消し、涙の跡を洗い流してくれる。
 この一時が終わればもう泣かない。
 父と母が誇れる娘になるまで決して涙は見せないと誓い、少女は夢の終わりに別れを告げるかのように、いつまでもその頬を涙で濡らし続けた。

 その後ろで忍び嗤う聖職者は、いつか果たされる甘美なる時を想い愉悦に身を浸す。

 言峰綺礼は知らなかった。
 少女に譲り渡した刃が、いつの日か自らの胸に突き立てられる事を、この時は未だ知る由もなかった。


/3


 三年後。

 炎の染める絶望の中、救い出した少年の容態が安定し、共に暮らすようになったいつの日か。
 衛宮切嗣は決死の思いで北欧にある冬の森──アインツベルンの本拠地へと単身乗り込んだ。

 その目的はただ一つ。彼が守りたかったものをこの手に取り戻す為。
 地獄から一つの命を救い出したことで切嗣は僅かばかりの救いは得たが、彼の後悔はこの地に残っていた。

 戦いの邪魔になる妻と娘を置き去りに、冬木へと乗り込んだ。結果としてあの戦いに彼女達を巻き込まずに済んだ事は幸いであっても、この手の中に何も残っていなければ意味がない。

 特にイリヤスフィールは次の聖杯戦争を見据えてユーブスタクハイトに命じられて為した子供だ。それが間違いなく切嗣とアイリスフィールの愛の結晶であったとしても、アインツベルンという総体はそんな不要を許容しない。

 聖杯は先の戦いのように黄金の器として存在する。過去での戦いでは最終局に至る前に聖杯が破壊された事例もあるという。

 その為に考案されたのが自意識を持つ聖杯の鋳造。
 聖杯という器に魔術回路を重ねる事でホムンクルスとして機能するように設計し、自らの意思で聖杯を守る事を目的とするもの。

 その叩き台、あるいは実験台として産み落とされたのがイリヤスフィールだ。アイリスフィールの胎内にいる時から様々な調整を施され、結果して彼女は聖杯の守り手の機能を得る代わりに人並の成長を奪われた。

 切嗣が最後に抱いたイリヤスフィールは、彼が冬木に持ち込んだ狙撃銃よりも軽い。同い年の子等と比べても、それは異常とさえ言えるほどの成長の停滞だった。

 本来ならばアイリスフィールがその更に前段階として聖杯の器をホムンクルスの身体に埋め込むという試行を施され、切嗣と共に冬木の地へ赴く筈だったが、直前で切嗣が取り止め進言し、事なきを得た。

 事実としてアイリスフィールが同道しては邪魔にしかならなかっただろうし、そんな建前の置くには妻を想う夫としての想いも隠されていた。

 そして今、男は単身冬の森に妻と子を救い出す為に挑もうとしていた。

 彼の身体は全盛期とは比べ物にならないほど劣化している。酷使し過ぎた身体は体内に宿していた聖剣の鞘でほぼダメージは抜け切ったものの、その身を侵した泥の影響は今なお彼の中で燻り続けている。

 あの煉獄で救い出した少年に聖剣の鞘を譲り渡さなければ、あるいは無事で済んだかもしれない。それでも切嗣はあの子を救いたかった。自らの産んだ地獄の中で、精一杯に生き足掻いていた少年を助けたかったのだ。

 助けた少年よりも切嗣自身が救われた。あの時助けていなければ、身体は無事でも心が死んでいたに違いない。だからあの選択は間違いだとは思わないし、間違っているとすれば今こうして無様を晒している事だろう。

 根雪に閉ざされた森。結界で封鎖された入り口を抉じ開ける事さえ叶わない。いや、今の切嗣では入り口の場所が何処かさえも分からないのだ。
 当てもなく睨んだ場所を徘徊し、探り当てようのない入り口を探し続ける。極寒の雪が降り積もる中、助けた少年を蔑ろにしかつての想いの在り処を求め続ける。

 それは滑稽であり無様。
 少年が男に夢見る正義の味方の在り方ですらない。

 少年に語り聞かせる物語は、戦場を横行していた頃の昔語り。血生臭い部分を省けば、それは少年の心には充分に英雄譚に聞こえるものだろう。
 そんな夢を謳いながら、現実の切嗣は無様にこうして掌から零れていったものを追い求めている。

 アインツベルンの門扉が開く事はない。
 彼らの切嗣の裏切りに対する制裁は拒絶のみ。
 イリヤスフィールを玩具にし、次の六十年後の戦いを既に見据えている。

 そしてそれは唐突に──切嗣の前に現れた。

 ついさっき通った時には何もなかった根雪の上に、まるで打ち捨てられたかのように転がる物体。吹き荒ぶ吹雪の中で、それが何なのかはっきりと見て取れた。

「……まさか」

 そんな筈がないという思いで駆け寄り、抱き起こした切嗣の目に飛び込んできたのは、

「アイリス……フィール……」

 愛した妻の、亡骸だった。

 その身体に外傷はなく、顔に宿るのは柔らかな表情。停止してしまったかのようなかつての美しさをそのままに、身体から熱だけが奪い去られていた。

 これはアインツベルンの切嗣に対する報酬なのだろう。裏切りの対する対価。拒絶だけでは飽き足らぬと、使用価値のなくなったアイリスフィールを打ち捨てたのだ。

「あ……ああっ……!」

 冷たくなった妻の遺体を抱き締めながら切嗣は思う。

 彼女はこの数年、何を思っていたのだろうか。
 切嗣の帰りを待ち侘びていたのだろうか。
 それとも裏切りを、ずっと責め続けていたのだろうか。

 それを知る事はもう出来ない。
 彼女の声を聞く事も、彼女の笑顔を見る事さえ叶わない。

 吹き荒ぶ吹雪の中、一人の男の慟哭が空に響く。
 あの地獄で枯れ果てた筈の涙を、愛した妻をその腕に抱きながらに零していく。

 何処までも何処までも、高く、声は誰に届く事もなく響いていた。



+++


 この一件の後、切嗣は外に出る事が少なくなった。
 救った少年と共に暮らす屋敷で過ごす時間が増え、穏やかな笑みが零れるようになった。

 それはまるで死期を悟った獣のような行い。
 自らの安住の地で終わりを迎えようとする、老衰の至りのようだった。

 その生涯において何一つ掌に残せなかった男に救いがあるとすれば。
 死の間際、男が少年の日に夢見たものを受け継ぐと言ってくれた、この赤毛の少年の笑顔だけ。

 自らが叶えられなかった想いと夢を、
 背負うと言ってくれた少年の言葉だけを胸に秘め──

 ──戦いの終結より五年後、衛宮切嗣は静かにその息を引き取った。



[25400] 後書きと回収フラグ一覧
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/12/19 20:12
 ここまで読んで頂きありがとうございます。
 Act.11&epilogueを持ちましてゼロの境界面は完結です。

 一応エピローグ的なものは考えてありますが、これがFateに繋がる物語なら、ゼロ地点で終わっておく方が綺麗かなぁと思いました。
 何より原作と余り違いがないので書く必要もないかな、と。
 と、言いつつ書いてしまう蛇足。

 そして回収フラグ一覧。
 出来る限り回収したつもりですが抜けやわざと取りこぼしたものもありますのでご了承ください。

 微妙にネタバレを含みますので先に後書きから読んだ人はご注意下さい。
































回収フラグ一覧。

・土蔵の召喚陣
→実際に召喚

・会話は三度だけ
→一連の会話を込みで三度と計算。

・間桐からの参戦者は出ない
→お爺ちゃんの偽装

・イスカンダルはセイバーのライバル
→多分一番真面目にバトルした人

・イスカはセイバーと戦い消耗したところをギルが倒す
→大方の予想通り

・言峰はセイバーと一度だけ対面している
→緒戦教会で。

・セイバー無双
→倒した敵
ランサー
バーサーカー
ライダー
アサシンの半分くらい

・切嗣無双
→倒した敵
ケイネス
ソラウ
璃正
龍之介
時臣(間接的な死の原因)
綺礼
アサシン何体か

・切嗣は真っ先に言峰を標的とした
→そのまま

・言峰は最初に脱落した
→公的にはそういう扱い

・敵マスターごと建物爆破
→ケイネス

・恋人を人質に取る
→主の許婚的な意味でソラウ
 時臣の嫁的な意味で葵

・家族・友人を人質に取る
→雁夜に対する葵(友人)
 時臣に対する葵(家族)

・敵マスターを騙す
→ほぼ全部騙し討ちみたいなもの

・メルセデスの活躍
→緒戦とアインツベルンの森での往復くらい

・璃正、アクシデントで死亡
→仕組まれたアクシデント

・切嗣vs綺礼は一回だけ
→緒戦は逃亡戦なのでノーカウントって事で

・ギルの求婚
→何回もした

・ギルの召喚者は綺礼
→割とこじつけ

・綺礼と臓硯の間に因縁
→獲物を取られた

・綺礼は聖杯を手に取り使用
→切嗣とセイバーの分断

・時臣、凛に継承
→死の直前

・璃正の支持していたマスター敗退
→時臣

・セイバー、未遠川で聖剣使用
→対イスカンダル(本当はドラゴンライダーらしい)

・綺礼、両手を上げるも背後から切嗣に心臓を撃ちぬかれる
→本当はマスターも放棄したらしい

・過去、英霊と融合し擬似的な不死を得たマスターがいた
→回収しなくても良かったフラグ。
雁夜を使ったお爺ちゃんの実験。後の黒桜化に活かされるかもしれない。


未回収or諦めたフラグ一覧

・戦闘回数六回未満
→セイバーを主役に据える以上これはきつい制約でした。途中まで頑張りましたが諦めました。
こじつけると
アサシン戦→奇襲でノーカウント
ランサー→脱落まで一回
アーチャーとバーサーカー→森での戦いで一括り
アサシン→勝つ気がなかったのでノーカウント
バーサーカー→そのまま
ライダー→そのまま
アサシン→そのまま
アーチャー→そのまま
これでも六回。というかアサシンと戦いすぎた。

・セイバー、言峰が撃ち殺される場面を見る
→これを達成すると最終決戦の場に綺礼がいたことをセイバーが知るところになり、最後まで綺礼がどのサーヴァントのマスターか分からなかったというセイバーの発言に矛盾します。
まあ今作でも綺礼のサーヴァントはほぼばれてるのでこれも諦めたフラグの一つですが……。

・イスカンダルはイレギュラークラス
→回収しようと思ったけどいいクラス名が思い浮かばなかったので。
前半で地の文にライダーという単語がないのはその名残り。


以上です。
普通に回収したものとかは余り載せていないのであしからず。

ここまで読んで頂きありがとうございました。
お楽しみ頂けたのなら幸いです。


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