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[24888] 【ネタ】ドールがうちにやってきたIII【ローゼンメイデン二次】
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2013/02/17 03:29
【ごちゅうい】

当作品は PEACH-PIT先生の漫画「Rozen Maiden」及びそれを原作とするアニメーション(1期、2期(トロイメント)、特別篇(オーベルテューレ))を元ネタにした二次創作作品です。

基本的にパロディのようなものです。

原作を知らないとさっぱり展開が判らない上、特殊な書き方をしている関係上誰が喋っているかさえ判らなくなると思います。
原作未読/未見の方は楽しめない類のSSですので、判る方のみご覧ください。

なお、当作品は自ブログの方でも掲載しております。
私の書いたSSだけしか記事がないブログですが、Arcadiaが繋がりにくいときはご利用ください。

 駄文墓場改1 でググっていただければ見つかります。


///////////////////////////////////////////////////////////////

 僕の名前は桜田潤。

 嘘や冗談じゃなく、どっかの漫画の主人公の勝ち組ヒキコモリ中学生(大学生バージョンもいるけど)と同じ名前だ。まぁ向こうはカタカナでこっちは漢字だけどね。
 名前以外で似てるところは、残念ながら少ない。
 あっちは中学二年で登校拒否中、資産家……って言うか有名古物商の息子で天才的な裁縫の腕を持ってる。おまけに美人の彼女と姉貴持ちだ。超優遇されたヒッキー。略してスーパーヒキー。
 ていうか引き篭る原因もひ弱なエリートらしいっていうか、なんか共感しにくいのは僕が僻んでるからか。まあ、そういう話なんだからしょうがないけどさ。
 対してこっちは高校二年で厭なことはいろいろあるけど無事通学中、貧乏会社員の子供でなーんの取り柄もない。彼女いない歴=満年齢で独りっ子。
 あ、名前以外に似てるところが全然ないのか、っていうとそうでもない。チビで、メガネだ。

 ……なんか、言ってるだけで悲しくなってきた。

 まあ、漫画の主人公と自分比べてもしょうがないんだけどさ。
 少女漫画っていうか、そーゆう薔薇色漫画なんだから。主人公は何不自由ない立場にしとかないと、いろいろ面倒臭いんだろうし。
 もっとも同級生の石原に言わせると、週刊少年誌の超人キャラ達と同じ名前じゃなかっただけマシ、らしい。確かにそうかもしれない。でもなんか、上には上って言うか下には下があるって感じで全く嬉しくない。

「また、その鏡に向かってぶつぶつ言ってるのね」
「いいじゃんか。少しくらい愚痴らせてくれよぉ」
「良くないわ。貴方はこの私の下僕なのだから」
「知ってるか? 下僕って書いて、普通はシモベって読むんだぜ」
「奴僕、家僕、下僕と並べればゲボクの方が合っているわ」

 全く口の減らないヤツだ。
 ああ、もう一つ似ているところがあった。
 僕はコイツ──今は僕の後ろでまたなんか碌でもないことをやってる──を居候させてる。人形の癖に勝手に動き、喋り、横柄に命令してくる愉快なヤツだ。
 ちなみに居候を始めたのは僅か一週間前だ。当然だが最初の日は血で血を洗う……ことはなかったけど、大騒動だった。恐怖と不安でその晩眠れなかったくらいだ。
 コイツは既に僕との生活に馴染んだらしいけど、こっちは居候させる前の安穏とした生活が早くも恋しくなり始めている。

「ほら、また」
「るっせーな。それにこれは鏡じゃねーよ。パソコンのモニター。画像出力装置。わかる?」
「知っているわ。貴方の楽しい遊びを映し出す鏡でしょう」
「……まあ、間違いじゃないけどな」

 テレビやDVD見る以外には検索とゲームくらいしかやってないしな。エロ画像はこいつがいると見れないし。
 って、ンなことはどうでもいいんだ。
 僕は机の上の漫画を取り上げてバシバシと叩いて示してみせる。大丈夫、古本屋で一冊五十円だったやつだ。ちなみに紙が黄ばんでるけど気にしない。読めればOK。

「そんなことより、お前あれだ。至高だか究極のスーパー少女になるためにアリスゲームやんなくていいのかよ。これまで一週間、お前がやったことって言ったら僕になんやかやと命令して小物買い揃えさせただけじゃんよ」
「……」
「まあ百均とリサイクルショップで揃ったから大した出費じゃなかったけどな。餌も要らないみたいだし。まーそれはいいんだけどさ」
「……」
「海原雄山……じゃなくてお父様の愛を得るためにまるで呼吸をするように身に染み付いて突き動かされてるんじゃないのかお前達薔薇の姉妹はさ」
「……」
「それはローゼンメイデンとして逃れられない宿命ではないのか。嗚呼!」
「……」

 へんじがない。ただのしかばねのようだ。

 回転椅子をくるりと後ろ向きにすると、ソイツは目をぱっちり開けてこっちを睨んでた。赤い服を着た大きめの西洋人形。
 正直、これが全自動で動いて僕に命令したりしてると思うとちょっとどころじゃなく不気味で怖い。
 ていうか、もう会話はしてるけどね。それも一週間の間、毎日散々。

「なんだ急に、ネジ切れて物が言えなくなったとか?」
「……いいえ」
「じゃあ、どうしたんだよ」
「……驚いたのよ」
「はあ?」
「貴方は、どこまで知っているの」

 人形はカタカタと震え始めた。こっちを睨んだままだ。
 ちなみにカタカタってのは歯の根が合わなくてカタカタ言ってるわけじゃない。実際にカタカタ音を立ててるんだ。
 正直に言う。これはかなりキた。
 普段の姿でもやっと見慣れてきたところだってのに、その上カタカタ震えるとか反則だろう。

 今更ながら不気味さで耳の後ろがぞわぞわしてきた。

「あ、あのな、えーと」
「有り得ない……有り得ないのだわ。人間がそこまで予備知識を持っているなんて」
「いや予備知識とかそんなことはどうでもいいからその」
「恐ろしい……なんてこと……なんてことなの」
「だからそのカタカタ細かく震えるのを止めませんかちょっとねえ」
「これも……お父様の与えた恩寵、いいえ試練なのかしら」
「あーーーっ、もう、だーーー!」

 わしっと人形の両肩を掴む。カタカタいうのはどうにか止まったが、当然ながら至近距離でまじまじと見詰めることになってしまった。
 うん、よーく見える。
 蒼いドールアイ。ぽっちゃり系のいい子ちゃん顔(byどっかの漫画の第一ドール)。付け睫毛までよーく見えますとも。
 顔の表面の焼付け塗装の、長年のなんやらかんやらで煤けてたり剥げ始めてたりするところとか。
 おまけに掴んだ両肩の、固い陶器の感触とか、大分古くなってる衣装の脆そうな手触りとか。

 そう。
 これは紛う方なきアンティークドール。最近作られたもんじゃあない。当時モノの古いやつ。
 見れば分かる。誇り高いかどうかは知らんが埃は確実に溜まってるし、あちこち劣化も進んでいる。保存状態が悪かったのかもしれない。いや、勝手に動いてるんだから状態悪いのは当たり前。
 魔法みたいなもんで守られてる(んだろうなぁ)半永久的な無機の器を持った少女人形なんて上等なもんじゃあ、ない。 ただの人形だった。動いてしゃべることさえ除けば……。

「お前がマンガとかに意外に詳しいのはわかった。読みたいなら今度全巻買ってきてやってもいい(古本屋で)。だからその、カタカタってのやめて。俺が悪かった。ホントすまんです」
「……」
「正直調子こき過ぎてました。だからもう変なこと言うのやめて大人しくしててください。なりきりもしなくていいですから」
「……なりきり?」
「アリスゲームとか宿命とか言い出した俺が悪かった。つか、そういう反応されるとマジでそんなことやらかしてそうな雰囲気になってまた眠れなくなりそうだか──」
「──本当よ」
「へ?」
「私は究極の少女になるために生きている、少女人形。そのために姉妹同士で戦う宿命を負っている……」
「なんですとおぉぉぉぉぉぉ!」


*****
※実験のできない日にちょこっとずつ書いてたもの。
 続くかどうかは気分次第です。



[24888] 黒いのもついでにやってきた
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/12/19 14:25
「なにをしているの」
「んー? 予習」
「勉強しているようには見えないけれど」
「ま、学校の勉強じゃないけどさ。予習予習」

 片手で漫画をペラペラめくり、もう片手でキーボードを打ってリストを作っていく。宿題やるのを飽きてやってるわけじゃ断じてない。
 僕の後ろで何かゴソゴソやってる古くて小汚い……おっと、大分貫禄の出てきてるアンティークドールは自分で「真紅」と名乗った。「ローゼンメイデン第五ドール」だそうだ。へえ、そうなの。
 まあぶっちゃけ、コイツ全然顔似てないんだけどね。漫画のあれとかアニメのあれには。髪型もあそこまで極端じゃないし。
 似てるところといったらだわだわ口調と衣装の色くらいなもんだ。背丈もあれほどはでっかくない。
 どうもあれだ、成り済まし詐欺っぽいふいんき(なぜか変換できない)がそこはかとなく存在するのである。
 だってさぁ、特段出来が良い人形にゃ思えない。画像検索して出てきたどっかの通販のアンティークドールのほうがよっぽど出来がよく思えたくらいだし、凄いブツだから超大事にされてきた、って雰囲気もないんだぜ。
 むしろその逆で、量産品でよーく遊ばれてそのまんま押入れの隅、みたいな。
 「ローゼンメイデン 現実 存在した」とかで検索しても、それっぽいサイトの一つも引っかかっちゃ来ない。やっぱし嘘っぽいぞ。

 まあスーパー少女になる予定ってことが嘘かどうかは置いといて、避けられない現在に目を向けよう。
 酷いことを書いてきたが、こいつなりに良い所もあるにはある。
 まず、餌を必要としない。
 人間と見紛う美麗な人形なら兎も角、こいつに毎日何回も紅茶を淹れろとか言われたらもう確実に発狂しそうだが、口が動かないから食事はできないようだ。
 次に、さほど行動的でない。
 本かDVDでも与えておけば黙るだろうと思ったら、案の定だった。
 特にめくる必要がないテレビはお気に入りらしい。指の動かないドール手(っていうのか?)でも押せるようなボタンの大きいリモコンをテーブルに固定してやったら、喜んでずっと見入ってる。
 まあ、良い所は以上だ。うん、二つもあった。良かった良かった。

「んー、鏡から出て来る──と。鏡ねぇ。別に骨董とかないからいいか」
「洗面台の鏡があるでしょう」
「あれは命とか無さそうだし」
「装置に生命など必要ないわ。使えればそれでいいの」
「そんなもんなのかよ」
「物に生命が存在したら厄介でしょう。安心して使えないわ」
「……まあ、命ある物がウチにあったとしたら、そいつ、お前にだけは言われたくないだろうなその台詞は」

 なんか更に色々台無しな感が漂いつつある。
 まあいいか。それじゃ、洗面台の鏡には注意が必要っと。注意の欄にチェック。
 ちなみに予習というのはこれだ。
 もし万が一今後コイツの一族が我が家に押しかけて来ることがあるんなら、こっちもそれなりの対抗策を練る必要がある。戦いと称して暴れられたり押しかけられて何体も同居させるとか悪夢以外の何物でもない。

 漫画とかアニメを想像して賑やかでようございますねとか朗らかに思った人はちょっと考えてみて欲しい。
 古びた、全体的に退色と汚れが目立つ、ちょっとばかりじゃなく現代日本の美的感覚からずれてる造作の人形が、古くなって擦り合わせが悪くなった関節の微妙な軋み音とか時折ボディーの瀬戸物パーツが触れ合うカチカチ音を立てながら賑やかに談笑している光景を。
 もちろん手の指も動かなければ表情も動かない。関節の稼動範囲も人間と微妙に違う。てか動かないところも実は多い。某国国営放送の人形劇のピアノ線無し雑音あり劣化版だ。
 ドール好きなお歴々はそれでもいいかもしれない。しかし、こっちは生憎とそういう趣味は持ってない。
 一体で十分おなか一杯というかむしろ一つも要らないのだ。
 コイツを棄てられない理由はただ一つ。コイツにメリーさん化されたら更に厄介だからである。

 コイツの言ってることが本当だとして、ローゼンメイデンの漫画そのまんまの順番で出来事が起きるわけはないだろう。
 まあそれでも、漫画(経費の都合でDVD長期レンタルまでは踏み切れなかった)で事前に何が起きるか把握していれば、多少なりとも役には立つだろう。
 ちなみに侵入者に対しては水際撃退が基本方針である。お人形さんには可哀相だが、人間様の事情の方が優先なので──

「おい、今なんか聞こえなかったか。ゴトンっていったぞ、ゴトンって」
「何か落ちたのではなくて?」
「どこから何がだよ。つーかまたお前だな。いろんなもん勝手に漁りやがって」
「下僕の物は私のもの。どこに何があるか把握しておくのはむしろ義務なのだわ」
「チッ、メシも食えないし本だってテメーじゃめくれねーくせによぉ」
「うるさいわ。早く見てきたら?」
「他人事みたいに言うんじゃねーよ。テメーも来い」

 暴れる古人形を小脇に抱えて階下に降りていくと、洗面所のほうからガタン、ゴトリと音がしている。
 正直に言うと、もう大体見当がついてたんだよね。
 こいつぁーもうあれだ。猫とかが入り込んだんじゃないなーって。
 最初の敵は既に上陸を許しちまったなーちくしょーと。
 だから、洗面所の扉を引き開けたときに黒っぽい人形が突っ立っていたの見たときも
 ……ときも

 うん、ちょっと耳の後ろがゾワゾワしたくらいで済んだ。
 慣れってのは恐ろしいもんだ。

「鏡は入り口。それは時として招かれざるものも同時に運んできてしまう。あなたのようにね」
「お久しぶりね。相変わらずとっても……不細工」
「な、な、なんですって! 私の何処が不細工なのよ、ちゃんと説明しなさいよちょっと!」
「……まあ、お世辞にも美人とは言えない訳だが」
「あらぁ、人間にまで言われてるじゃない」
「なっ! なんてこと、下僕の癖に生意気だわ」
「見たままを言ってみただけのことサ、そんなに褒めんなヨ」

 それにしても……きったない人形だ。
 これは洗濯したくなるって言うかむしろ洗濯機よりゴミ箱に放り込んだ方がいいんじゃないのか。
 横に抱えてる人形も大概ボロで汚いが、こいつは更に輪を掛けている。
 地肌は黒ずんでるし白かったらしい部分は灰色に見えるくらいに汚れてる。逆に黒かったらしいところはダークグレーに色あせてる。髪の毛も洗ったら銀色に輝くかもしれないが、今は灰色とも茶色ともつかない色合いだ。
 歴戦の勇士なんだな。戦士の銃とか持ってそうだ。茶色いマントと穴の開いた帽子被ってりゃ完璧。
 正直言ってここまで酷いと、マニアの方々なら逆に庇護欲みたいなもんもそそられそうだ。一応完品みたいだし、良かったなぁ。いいマニアの人を探すんだよ。

「ちょっ、ちょっと、何微笑み浮かべてドア閉めてんのよ! 開けなさいよこの!」
「掃除を洗面台だけに留めるためだ、悪く思うな。顔見世は済んだから早々にお帰りください。洗面台は使わせて上げますから」
「何訳わかんないこといってんのよ! 開けなさいったら!」
「それと、できればもう来ないでくれると本当に助かるんですが。主に僕が」
「あんたなんかに用はないのよ! 真紅を出しなさい真紅を!」
「開けてあげなさい、潤」
「アーハーン? なんでそんな便宜を図ってやる必要があるデースカ? あいつはむしろ洗面台でテメーの体と服を洗うべきデース」
「……私達は自分で服を脱げないし、蛇口も捻れないのだわ」
「Oh……それは盲点デーシタ」

 その日、僕は初めて人形の服の洗濯という経験をした。
 いっそボデーも洗濯機に突っ込んで丸洗いしてやろうかと親切心を出してみたが、大いに抵抗されたので沙汰止みとなった。
 明日はホームセンターか百均でクルマのボデーを拭くやつを買ってこよう。

****
あ、ありのまま、今起きたことを話すぜ……
「ただ投稿しただけのはずなのに、変なところに『ちかさないて』って謎の文字列が追加されていた」

寝ながら書いたところには不思議が一杯。
良い子はまねしちゃダメだよ!



[24888] 赤くて黒くてうにゅーっと
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/12/23 12:24
 さて、赤いのが居着いて、黒いのが襲撃してきた。
 内容は全く違っておりますが、順序は漫画の方と合致しております。こうなると次は僕が不思議時空にご招待と相成るわけなのですが、実はフラグがポッキリというかそもそもチカチカ光るのがいないんで、その辺はスルーみたいです。正直ありがたい。
 まぁ僕にだってぶっちゃけ黒歴史の一つや二つあるからねぇ。そういうのをこれでもかと見せられたら生きててごめんなさい状態になりかねない。
 で、そうなると次はピンク色で黄色くてうにゅーっとしたやつが来るはずだ。アニメだと止まっちゃうし、漫画だと美味しく喰われちゃうけどな。
 しかも、あれはこっちの事情に関係なく鏡の中でバトルの末にコイツ(今はテレビに見入ってる)が連行してくるはず。しかも勝手に居着く予定ときた。
 それも縦ロールの可愛いお子ちゃまではない。コイツ等とおなじような少しデザインセンスがアレなアンティークドールだ。正直たまりません(全くエロくない意味で)。

「いつも思うのだけど、宇宙空間でどうして音が伝わるのかしら」
「んあ? 爆発の効果音か」
「だって真空なのよ。おかしいでしょう。物理法則的に」
「別に良いじゃんよ。第一音しなかったら演出的に盛り上がらんだろぉ」
「いいえ、そこは子供向け番組としてリアルであるべきだわ。百歩譲ってビーム兵器が発光しているのは荷電粒子ビームが戦場の汚い空間で微粒子と衝突しているからと言い訳するとしても、煙がもくもく流れたり、音が伝わったりしてはいけないの。説明ができない全くの嘘なのだわ」
「ここで人形が電源もなしに動いて発声器官もなしに喋ってる件はどう説明すんだよ」
「それは神秘の秘法、常人には理解できないお父様の超絶技術なのだわ」
「……一遍その頭開いて中身も掃除したほうがいいなお前は」

 まあ、大分見れるようになってはきたけどな。
 洗ったら色褪せた服はますます色落ちしてしまったが、顔とボデーに関しては結構綺麗になったと思う(当社比で)。黒いのが灰色っぽくなったのと、赤いのがバイオレットっぽくなったのはしょうがないだろ。
 それでもまだ、売り物としてウェブサイトに出てる品物と比べると微妙だ。箱付きでプレミア付いてる綺麗なやつとか、貴族のご令嬢を模して作った豪華なやつなんかと比べちゃもう駄目。
 なんかなぁ、どっか全然違う件でこういうアンティークドールの画像とかって見たことあるような気がすんだよね。
 ビスクドール時代の物って話で、割と出来がイマイチな量産品ばかりで、薄汚れてて……ってさ。よく思い出せないんだけど。

 ちなみにその辺検索してたら出てきた今風のキャストドールなんかは、もう別次元の存在である。てかあれは凄い。
 ボークスのSD翠星石とか、暗闇で出会っても怖いとかじゃなくて少し遠くに人間がいるようにしか思えないんじゃないか。喋らないだけで。
 あの辺ベースにして例の設定みたく肌が柔らかくなって人間みたいにころころ表情変わって手足の指とか動いてメシ喰ったりするのが家に来たらマジヤバイ。絶対僕おかしくなるね。つーかあんなに慕われたら多分惚れる。
 だってそこまで行ったら人間と何処が違う? って感じだろ。ミニサイズなだけで。

 それに引き換え目の前の現実といえば……。
 ひょっとしたらコイツ等には、僕の恐怖心か嫌悪感を刺激する電波源でも仕込まれてるんじゃないのか。
 喋って勝手に動くとはいえ、人間型ロボットとすら思えない。まさにお人形な出来。見慣れた赤いのでさえ未だに暗いところでカクカク動いてるのを見るとゾワゾワする。

 喋るといえば、黒いのは服を洗う間、ずっと黙りこくってた。
 洗濯機案、ついで浴槽ドブ漬け案も却下されたためやむを得ず体を拭いてやったのだが、その間も赤いのみたいにギャアギャア騒がず、観念したみたいに雑巾で拭かれるままだった。

「胴体、ちゃんとあったんだなー」
「……なけりゃ立って歩けないわよ、お馬鹿さん」
「そうだよなぁ……っと、喉元のとこ、色変わったまんまだけど手抜きしてるわけじゃないぜ。色焼けしてるみたいだ」
「……」
「あーあ、腕とか首とかザリザリしてんじゃんか。こんなんでよく動いてたな」
「……大して関係ないわ、そんなの」
「テメーで動くときに大いに関係するだろぉ。自転車のチェーン錆び付いてるようなもんだし」
「……」
「エアダスターないから歯ブラシとツマヨウジな。うわ、真っ黒じゃん」
「……」
「その三点リーダー止めようぜ、な。間が持たないって」
「ったく、いちいちうるさい人間ね。ジャンクにするわよ」
「人間はジャンクにゃならないの。どっかぶっ壊されたら死んで腐って骨になるだろーさ……はいひっくり返しますよっと」

 一通りキレイキレイした後で髪の毛も洗ってやると、黒いのも結構見栄えがするようになった。
 退色してるとか全体的に造作が残念なのは汚れじゃないから仕方がないとして、二体とも無理すればその辺の箪笥の上で飾れそうな程度になったって意味だ。
 ちなみに僕ぁ、人形の服めくって「穿いてるんだー」とか「このままじゃ僕人間として駄目だろ!」とかいうアクションはしなかった。まぁそういうリアルな人形でもなかったし。顔はまだ兎も角、手足とかねぇ……。
 なお、興味のある方々には、黒いのも赤いのもつるつるで何もデザインされてなかった、とだけ言っておく。
 薄めた台所洗剤含ませた雑巾でごく普通に拭いて、まあ服が乾くまで何も被せないのはアレだったから乾拭きの後でバスタオルで包んでおいた。物扱いに抵抗ある方には誠に申し訳ない所存。

 まあ、この辺りまではまだ「ちょっといい話」っぽいんだが……。
 帰り際に黒いのは赤いのと一戦交えていった。
 その戦いぶりは僕の慣れを吹き飛ばすに足るものであったのであるのこと。

「サイコキネシスっていうかポルターガイスト現象っていうか、結構奇天烈な能力持ってたんだなお前等……」
「究極の少女を目指す者としては当然の嗜みよ」
「いや、そこ関係ねーから。ポルターガイスト現象が必要事項とかイヤすぎんだろ、その究極メニュー」
「あら、身に降りかかる火の粉も払えないようでは壊されるだけでなくて?」
「……そう言われるとそんな気もそこはかとなくしてくるが、非戦が主義じゃなかったんかいお前」
「戦うことは生きることなのだわ」
「……へいへい」

 どうやら、こっちのイメージというか思い込みで考えてる辺りは何処までも残念な方向にだけ進むらしい。
 とはいっても、戦いってのがアニメのあれみたいなロボットアニメ張りのぶつかり合いじゃなかったのは幸いだった。
 コイツ等の戦闘は基本的に何かを召喚して相手にぶっつけるとか、相手そのものを遠隔操作で締め上げるとかいう、割と芸のない物だ。まあ瀬戸物が布の服着てる訳だし、ぶっつけて壊すってのは有効であるような気はするが。
 赤いのは薔薇の花びらを召喚するのが好きらしい。
 正直、もうちょいぶち当てやすいものでも使えば良さそうなもんだが、それしか召喚できないのだろう。
 コイツの話によると相手の関節とか服の間に詰まらせると恐ろしい効果があるそうで、まあ、お掃除した身としてはそれは大いに分かる。分かるが、それより砂とか液体の方が遥かに有効な気もする。
 黒いのは御馴染みの烏の羽根をご愛用だ。背中にも生やしてるだけあって、馴染み深いらしい。
 ご丁寧に数本くらい召喚しといて、それで狙撃するのが戦法のようだ。しかし、射出後に空気抵抗でわりとすぐにヘロヘロ弾になってしまう。
 そんなものよりダーツでも使えば……と思うのだが、多分赤いのと同じくそれしか召喚できないんだろう。
 物理法則を軽く無視して無い物を召喚したり手も触れずに物を飛ばしたりしている割にはいずれ劣らぬへっぽこぶりである。
 しかし、既存のものを動かしての攻撃には恐ろしいものがあった。

「これから黒いのが来そうな処には紐を置けなくなるな……」
「締め上げられたのが首だったら確実に落ちていたわね」
「そこまで強力に締め上げられた記憶はないけどな」
「人間は脆弱だわ……」
「瀬戸物の塊に脆弱とか言われたくねーよ」

 黒いのは赤いのを一時行動不能にすると、調子付いて僕も攻撃してきたのだ。なんて恩知らず。むしろ洗剤と水道代分だけでも払ってけ。
 そいつが使ったのは洗面台の脇に落ちてた紐だった。それで僕の右手首を絞め、こっちが驚いてる隙に今日はこのくらいにしといてあげるとか言いながら鏡の中に逃げ込んだという寸法だ。
 ちなみに、ゆらゆら飛んで、だ。やなもん見ちまった。

 まあ、そんなこんなでコイツ等の思いがけない実力と義理も人情もない冷たいココロを見せ付けられた訳で、もうこれ以上増えるとかマジ勘弁してほしいわけなのだが、どうやらそうも行かないようだ。
 というのは、つい先程、部屋の中で何やら不吉なゴトリという音がしたからである。
 咄嗟に振り向いてみると、赤いのは相変わらず音とは反対のほうで暢気にテレビを見てやがる。
 致し方なく、自分で音のしたほうを見てみると──

 いた。

 小柄、というか完全に赤ん坊スタイルのドールが。手足が短い分だけ背が低いって訳か。
 服の色は色褪せっぽいオレンジ? ピンク? と灰色っぽい黒のツートーン?
 こんな色のヤツいたっけ? と漫画を思い出そうとしてみたが、覚えがない。っていうか、多分ここまでのパターンだとこれはうにゅーでピンク色で黄色いぶわーんなのだが。
 厭なことを思いついて、服をよーく見てやる。
 ゾワゾワきた。今までとはちょっと別の意味で。

 薄黒いのは染色じゃなかった。カビだ。
 こいつ、服の半分だけ色焼けして、残りの半分だけカビが繁殖してやがった。
 正真正銘、赤くて黒くてうにゅーじゃねーか……。



[24888] 閑話休題。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/12/26 12:55
 やあ、桜田潤です。今回は学校に来ております。って毎日登校してるんだけどさ。
 いかに怠惰でいい加減な生活を送っていても、学校には通っております。スパーヒキーではありません。
 ってか、義務教育ではないので引き篭もってりゃ留年とか退学もあるわけで、そうなると今春からラオスだかミャンマーの関連工場に出向させられてしまった親と、僕一人になっても築五十年の一軒家の社宅を使わせてくれてる有り難い会社様に申し訳が立たないのであります。
 ぶっちゃけた話、高校の間だけはここに住めるって話らしいんで、留年や退学なんぞしてたら最悪追い出されちゃうんだよ。まあ、引き篭もる気もないけど。
 んで、なにゆえこんな処から話を始めたかというと、同級生と会話する場面のためである。
 といっても、爽やかな高校生活のひとコマを切り取るわけではない。

「アンティークドールねぇ。遂にそういう趣味に目覚めたんだ。さすが邪夢の名を持つ者」
「一言余計だろ、いや全部余計か」
「で、その人形の関係で、なんで僕に話が来るのさ」
「スルーかよ。……取り敢えず、安い人形サイズの服売ってる所って心当たりないか?」
「服……通販は高そうだな。ヤフオクとかで手に入れれば?」
「いやそれでも結構なお値段するんですけど」
「じゃ、自分で作ればいいじゃん。お手の物でしょ、邪夢君だけに」
「殴るぞ」

 こいつは石原。ちなみに邪夢というのは、例の漫画のJUMってところから始まってJUM→ジャム→邪夢らしい。
 なんかアニメファンみたいなヤツに付けられてそのまま広まってしまった。
 なんでも秋子さんという人の必殺技でオレンジ色で甘くないとか。元ネタは知らないが、僕は必殺技なのか。せめて知的生命体とは行かないまでも動物でいたかった。嗚呼。
 しかし、石原も碌に知らないのか。そういう辺りに強そうだったんだがなぁ。

 なんで服を探しているかと言えば、理由は簡単である。
 赤いの・黒いのは汚いとはいえまだ洗濯できる範囲の汚れだったが、うにゅーっとしたヤツは既にそういう域を越えていた。
 どういう方法で保管を為されていたのか知らないが、体の右半分は見事に紫外線の影響で色褪せ、左半分には黒カビが繁殖していたのである。
 案外日は当たるけど湿気っぽい場所で左側を下にしてずっと放置されていたのかもしれない。嫌過ぎるツートンカラーだった。
 取り敢えず服は洗濯してみたものの、左半分はうちにある洗剤では漂白しないとカビの色が抜けないレベルだった。致し方なく慣れない漂白なんてものをしてみたら、今度は服の生地自体が劣化していてボロボロになってしまったというわけである。
 唯一救いがあったのは、洗濯したりボデーを拭いたりしている間、何故かきゃっきゃっと喜んでいて抵抗しなかったことくらいだ。ちなみにそれでもボデーの黒ずみは完全には取れずじまいだ。
 適当な布を被せても嫌がらなかったので、今は見様見真似でタオルで貫頭衣もどきを作って被せてある。寒いとか恥ずかしいとかいう感覚はないようで助かったが、流石にこのままというわけにも行くまい。
 というか赤いのがギャーギャー煩いのだ。服くらい着せてやれとかお父様の作ったドレスがどうとか。
 悪いが特に後者のほうは意向に沿いかねる。漂白してボロボロになった布切れは燃えるゴミの日に出してしまったからな。
 昨日下校してからあんまり煩いのでそう言ってやったら、今朝起きたら顔が薔薇の花びらでパックされた状態だった。
 それで已む無くこういう次第になっているわけだが、やることが陰湿だぞ赤いの。

「まあ、詳しい人なら知らないでもないけどさ」
「おお、さすがは石原! 無駄に妙な交友関係持ってないな!」
「持つべきものは友人ってやつだよね。それが変人であっても」
「自分で言うなよ……で、誰? その詳しいってやつ」
「文芸部の森宮さん。森宮留美、だったかな。五組の」
「……いや、フルネームで言われてもわかんない」
「だろうね。ま、昼休みか放課後にでも図書館行けば会えるよ。いつもど真ん中で本積み上げて読んでるからすぐに分かる」

 へえ、と思った。同時に、正直あんましお友達になりたくないタイプだろうな、という予感もある。
 なにしろ石原に変人と言われるほどのヤツ、というか女子だ。「腐」がついたり、ドール趣味が某漫画のみっちゃんレベルだとしたら危険がデンジャーである。
 ていうかなんでど真ん中なんだ。普通は端っことか書架の近くってもんだろう。それか出入り口の近くとか。
 まあそれでも、僕の裁縫とか諸々の図工的手腕が残念なものである以上、低コストで服が買える情報を持っているならば四の五の言ってはいられないのである。
 放課後、嫌な予感をひきずりつつ図書館に向かうと、その人は確かに真ん中にいた。机の上に分厚いハードカバーを何冊か積み上げて。

「残念だけれど、取り立てて安価なドール服のショップは知らないわ」
「そっか……残念」
「でも、MSD用のローゼンメイデンの着せ替えドレスなら一通り持っているわ」
「……なるほど」
「やはりあの姉妹の中では真紅と水銀燈が一番映えるわね。雛苺や翠星石も可愛らしいけれど」
「は、はあ。さいで」

 金持ちだなぁ。あの服ってオクでも一着二万円近くするだろ。それが六種類、いや紫やら白いのまで持ってれば八着か?
 僕の小遣い何か月分に匹敵するんだよそれ。それを高が人形の着せ替え衣装で……
 まあ限定品のSD真紅とか定価で十万超えって話だが……なんにしても同じ公立高校に通ってるとは思えない所得格差であることよ。
 しかし、詳しいってやっぱりアンティークドールじゃなくてボークスの球体関節人形とか某作品方面じゃねーか。石原、役に立たない情報ありがとう。半分分かってたけどさ。
 変なこと聞いてごめん、と言ってそこを離れようとすると、待って、と呼び止められた。

「サイズが合うなら着させてあげても良いわよ」
「え、マジで?」
「ええ。折角のアンティークドールなのに、そんな状態では可哀相だもの」
「ありがとうございます!」
「その代わりと言っては何だけど、そのドールを見せて貰ってもいいかしら。サイズ合わせもあるし、実物を見てみたいの」
「ええもう、そっちはぜんっぜん構いませんって」

 っていうか見て気に入ったらお持ち帰りしていただいて全然構いません。ついでにたまに来襲する(はずの)黒いのも含めて。
 まあ、よほど濃いいアンティークマニアでもない限り気に入ることはなさそうだけどさぁ……。

 あんなでかいものを二つも学校に持って来るわけには行かないんで(しかも長時間置いておくには梱包が必要だろう。暴れないように厳重に)、うちの近くの児童公園で落ち合うことにして、僕はその場を離れた。
 入り口で振り返ると、森宮さんはもう分厚い本に視線を落としていた。
 居るもんだなぁ、リアル長門有希。趣味はちょっとアレみたいだが。
 それが初見の偽らざる感想でありました。



[24888] 茶色だけど緑ですぅ
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/01 20:07
 赤、黒、ピンク(現実にはツートン)と来たからには、次は緑ですぅね。某掲示板のAAスレとかでは一番人気のアレ。
 しかし、残念ながらあのような超可愛いお菓子も作れるふにふにした萌える生き物でない、というかほぼ正反対なことは前回までの惨状からほぼ確定なのでありまして、こちらとしてはやはり上陸阻止に動きたいのであります。
 んで、今回の敵は一番厄介である。何しろ部屋のガラス窓を割って侵入してくるテロリストなのだ。
 某漫画の真紅さんのように時間を巻き戻す時計でも持ってりゃ話は別だが、この赤いの(今は何やら一心にツートンを説諭しておる)がそんな便利アイテムを持っていないことは既に確認済み。
 ……となれば、放置すればガラス屋の厄介になることは確定じゃないかコンチクショウ。幾ら掛ると思ってんだ。
 取り敢えず網戸で片方だけ防御できるのは救いだが、あと片方はどうしたもんか。せめて雨戸があればなぁ……。
 お、そうだ。

「やあ邪夢君、いい天気だね」
「校外でもその呼称なのかよ! ていうか曇り空にしか見えんのだがその辺どうなのかね石原さん」
「まあ、雨よりは良いんじゃない? ところで、何そのプラ板」
「ん? 窓ガラスの代わりに使おうと思って」
「キミんちって社宅じゃなかったっけ、そこまで酷い状態なら会社に言った方が……」
「いやいやいやいやいやいや」

 どう説明すれば細大漏らさず真実を伝えられるのか分からないのが実に口惜しいですぅ。
 事実をそのまま告げたところで確実にネタとしか取られないだろうし(主に僕の名前との整合性と奇怪すぎる状況のせいで)、ならばと現実を見せるために自宅にご招待したところで、お客様の目の前でアイツ等がガサガサ動いていなければ同じ事なのである。
 こないだ宅配屋が来たときも赤いのがタイムリーに玄関辺りでゴソゴソやってた訳だが、宅配屋のあんちゃんは何故か特に不審がることもなく帰っていった。
 どういう肝の据わりっぷりだよあんちゃん、と思っていたら、赤いのは下駄箱の脇に置いてあった燃えないゴミの袋の上にうつ伏せになって手足をだらりとさせていた。
 そりゃ、確かにゴミ袋に入れ損ねたオンボロおもちゃにしか見えまい。うつ伏せで顔見せなきゃ必要以上に気味悪がられることもないし。ある意味自分達の特徴をよく理解している。
 ていうか結構便利だよなアイツ等。誰かが来ても動きを止めてしまえば、その辺に放置してあるゴミ箱行き確定の人形にしか見えないっていうかまさにそのものだから全く違和感が無い。
 汚いボロ人形をその辺に散らかしといて白い目で見られるのは専らこっちである。
 僕がどれだけ被害を訴えようと、定点カメラでも用意しておいてその動画でも公開しない限りはまともに請合ってもらえないのは明らか。ああ、動画やニコニコ生放送だってMADかコラとしか思われないんじゃないか。
 精々オカルト系の雑誌か何かが取材に来る程度だろう。見事に終わってる。

 あーでもないこうでもないと考えているうちに石原は大変だねぇと同情に溢れた目でこっちを見ながら百均の店内に去っていってしまった。
 明日からのからかいのネタが容易に予想できて軽く打ちひしがれつつ帰宅する。畜生、なんか反撃のネタはないものか。
 まあ、唯一の救いは明日の日曜日、森宮女史にアイツ等を見せて、サイズが合えば服を借りられるということだな。いや、万が一お気に入り召されればそのまま全部進呈してずらかれるかもしれない。実現すればなんという素晴らしい結末。マニア様万歳。
 まあ、その前にたまの土曜日を慣れない工作に費やさないといけない訳だが……って……あれ……

「……既に増えてやがるじゃねーか畜生」
「ひっ!? に、人間ですぅ! たすけてですぅ!」
「大丈夫よ、この人間は怖くないわ。私の下僕よ。落ち着いて」
「そうよ。怖くないのよー。お服も作ってくれたのよ」
「そんなタオル半分に折って頭通すだけの切れ目入れて横の方適当に縫い合わせただけのが服なんて認めねーです! 最悪の人間ですぅ」
「虫食いと色褪せで迷彩服みたくなった布切れ纏って多すぎる髪の毛引き摺ってるボロ人形に言われたくないわい!」

 それより窓、窓だ。取り敢えず無事か。おお、有り難い。
 買って来たものは無駄になったが、ンなこたぁ大して気にならん。今のお前は輝いてさえ見えるぜ……。実に素晴らしい。
 十六年あまり生きてきたが、割れていない板ガラスにこんなに嬉しさと喜びを感じたことはなかった。感謝します窓ガラスの神様。

 で、だ。まぁそれはいい。現実に目を向けなければならん。
 色褪せ、砂埃、黴と来て今度は虫食いかよ。なんかとんでもないな。
 服は元は緑色だったっぽいが、変色と色抜けでオリーブ色と茶色、黄土色の入り混じった見事な三色迷彩になっている。その上どう見ても虫に食われたとしか見えない穴がそこいら中に開いていて、ボデーのくすんだ肌色が見えてるところも多い。
 あれだ。西日が当たる無人の部屋の中に、半端なケースに入れられて何十年も放置されてました、みたいな。
 目の色も左と右で違うが、まー綺麗なオッドアイ(by某漫画のキャラ中嫁に欲しい度で一二を争うのり姉ちゃん)というよりはなんか間違って別セットの目玉入れちゃったっぽい雰囲気がぷんぷんしている。
 しかし、コイツの最大の特徴は服やら目ん玉ではない。髪の毛だ。
 まず、多すぎる。そして、長すぎる。最後に、カールされてたのが崩れてずるずる引き摺ってやがる。髪の毛に何やら枯葉とかゴミが絡んでるのは見間違いではあるまい。
 古くはお岩さん。より認知度の高いモノでは貞子さん。もうちょっと量が多ければ周防九曜。
 初見が明るい場所で幸いでありました。暗いところでクズカゴでも漁ってる場面だったら、確実にキてたよ僕。

「ま、地道に掃除と洗濯だな」
「嫌ぁぁぁっ! その汚らしく嫌らしい手を放せです、このチビ人間ー!」
「どっちが汚いんだよ。お前はまず髪の毛から洗濯してやる。来い」
「ひぃっ! た、助けてですー! だめぇ、壊れちゃう! いやあああ!」
「四の五の申すでない! 汚物は消毒だー!」
「みゃあぁぁぁぁぁぁぁあ!」

 大きめの洗面器一杯に張ったお湯が真っ茶色になり、それを捨てたら底に砂やら細かな金属片やら色々残った。髪の毛をざっと洗っただけだというのにこの惨状。なんだこれは。
 服はもう完全にアウト。脱がそうとしただけで破れるというか崩れた。森宮女史、翠星石の着せ替えセットも必要になりました。明日持参してくれるととってもハッピーです。
 しっかしコイツは本当に紫外線の影響が酷い。髪の毛が栗色から薄赤のグラデーションになってやがるし、顔や手の表面も変色しとる。案外茶色い方の目も元々は緑だったとか? まさかなー。
 まあ、細かいところは兎も角、例によって暗いところで動いてるところを見た人間を一発でノックアウトできる容貌に違いはない。
 取り敢えずコイツも服はタオルの貫頭衣。これまでで最大級の抵抗に遭ったが、かなり表面がやばいことになってるボデーのまま家中這いずり回らせとくわけにはいかん。割れられてうっかり破片を踏んだらこっちが大惨事である。
 髪の毛はざっと一つ編み(当然見様見真似)にして全長を短くした。

「うう……酷いです犯されたです陵辱ですもうお嫁に行けないです……」
「いや、その状態で嫁とか元々無理だから。あと究極のメニューは嫁とか関係ないだろよ」
「う、うっせーですこのスーパー鬼畜人間! タオル着せられちゃうし……うう」
「僕には珍しくふっくらやわらか仕上げだ。色も緑っぽいし、文句言うなよ貞子」
「さ、貞子ってなんですか! 私にはちゃんと名前が……」
「憤りは分かるけれど、下僕も悪気があってしているわけではないのよ。ただ少し頭が足りないだけなの。許してあげて頂戴」
「真紅がそう言うなら……はいです」
「オイコラ! ガラクタ寸前の人形にゲボクや残念な子扱いされる義理はねーぞ」
「ところで、貴女はどうしてここに来たの? それに、貴女といつも一緒だったあの子は? 貴女達双子はいつも二人で一人だったはずよ」

 都合悪くなったら即スルーかよおい。
 しかし、やっぱり双子とはな。悪い人間から逃げ出してきました契約なんか結んでやらないのです助けて真紅ーってとこか。はいはい漫画どおり漫画どおり(大筋だけ)。
 ……あれ? いやちょっと待て。
 そもそも、こいつら契約とかしてないじゃん。僕、赤いののローザミスティカを守るとかなんかそういう燃えるシチュのイベント一つもやってないんだけど。

「妹は……、悪い人間に……」
「悪い人間に?」
「ぶ、分解されてばらばらにされちまったです!」
「なんですって……!」
「そんなわけで助けてなんです真紅ー!」

 へえ、そいつぁーてぇへんだ。
 何処のどなた様だか知らんが篤志家がいたものである。
 この小汚い上に仮に完品でも造形が残念としか言いようのない、恐らく無名の中小メーカー製品であろう人形どもをわざわざ分解清掃してくれるなんてな。意外にその妹さん(恐らく青いの)だけ状態がいいとか美形とかいう落ちだったりして。
 いや、またしてもあれか。アンティーク人形マニアか。可哀想なお人形をおうちにお迎えするにあたって可能な限り綺麗綺麗したくなっちゃったのか。
 謎は謎を呼び風雲急を告げる、刮目の次号を待て!

「行くしかないようね」
「……はいです。こんなみっともねー恰好になっちまったですけど……」
「みっともなくないのよー。ヒナも行くのよ。みんなで楽しく遊ぶのよ」
「おう。頑張って行け行け。ついでにそのまま帰って来なくてもこちとら全然構わんぞ」
「何を言っているのジュン。さあ、大きな行李を用意しなさい。下僕の貴方が私達を運ぶのよ」
「……あ、やっぱりそういう話なのね」

 まあいい。何しろコイツ等を纏めて処分できる良い機会なのである。この機を逃す気は僕には更々ない。
 取り敢えず可愛いバスケットもなければバスケットのうち一つを運んでくれる可愛い姉ちゃんも当然居ないので、三体詰め込める大きさの段ボールを素早く見繕った。
 昔のブラウン管モニターの箱ってやつはでっかい上に頑丈だからこういうとき実に便利でやんすね。コイツ等を連れ帰らねばならん場合は、明日もこの箱を使うことにしよう。
 段ボールをママチャリにセットオン(ゴムひもでぐるぐる巻き)して、さあ出発というところで僕は重大なことに気付いた。

「で、何処に居るんだその親切な解体屋の人は」
「そんなこともわかんねーのですか! 人間失格です!」
「……取り敢えず、お前前籠に移れや」

 まだまだ前途は多難だった。


※20:08 誤字訂正ですぅよ。



[24888] 怪奇! ドールバラバラ事件
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/08/06 21:56
 自転車でどれだけ走っただろうか、取り敢えずその辺をぐるぐる回らされ、いい加減厭になったところで前籠の貞子(緑)はキンキン声で停止命令を発した。
 見上げるとそこは元華族のご老人が独りで住む巨大な屋敷……では全くなく、ウチに勝るとも劣らぬボロい家(失礼>関係各方面の方々)の裏口だった。一部二階建て。木造。生活感あり。うん、古い家であること以外見事に漫画と異なっておられる。まるでコイツ等の如し。
 ちなみにわざわざ見上げる必要があるのは、お貞が常日頃の自分的視点から見ないとよく分からんとか抜かすので、ヤツを抱き下ろすためにわざわざしゃがんでやっているからである。
 そういやこの作業も既に七度ほど繰り返した勘定になるなぁ。孟獲を縦して禽える丞相斯くの如し。もうすっかり不審者じゃねーか。
 人形抱いて現実と虚構の境界線が見えなくなった桜田潤君(16歳)かよ。洒落になんねーってレベルじゃねーぞおい。
 まあいいや。K察な人々のお世話になる前に目標到達できたわけだし。

「んじゃ、僕はここで」
「なっ、何言ってやがるです! きちんと正面玄関から堂々と殴りこむですよ!」
「ンなら建物の脇でも抜けてけばいいじゃねーか。頑張れよお貞」
「お、お貞ってなんですか! 私にはちゃんと翠星石って名前があるです! 勝手な通称で呼ぶなですぅ」
「あーはいはい。すいせーせきちゃんいいこですぅねー。さっさと行きやがれコラ」
「だーかーらー!」
「エントランスまで連れて行っておあげなさい、潤。私達も降りて同行するのだわ」
「もう狭いの厭なのよー。着いたら早く出してなのー」

 結局、gdgdのうちにその家の玄関で呼び鈴を探す僕でありました。
 黄色く変色したそれをビッと押すと、暫くして間延びした返事と共に人が出てくる。この辺はご老体の世帯でも若い人の世帯でもあんまり変わらない。
 んで、どなたー、とか言いながら緩慢に玄関の引き戸を開けたのは。

「あれ? 鳥海じゃん」
「ああ、うちは鳥海だけど……え、桜田?」
「そうそう、その桜田。桜多吾作じゃなくて桜田な。中学卒業以来? おひさしー」
「ジュン君……だよね? 概ね『まいた』方の」
「……ブルータスよ、お前もか」
「ちょ、冗談だから。冗談だから引くなって。ちょいタイムリーだったから言ってみたくなったんだよ!」
「ん? タイムリーって?」
「いっいや……わかんないならいいんだ。で、その桜田が俺んちに何か用?」

 どうやらここは中学時代、隣のクラスだった鳥海の家らしい。こんな近くだったのか。うちが転勤族とはいえ、隣の町内になると分からんものでありますね。
 しかし、当時コイツは名前ネタで遊ぶようなヤツじゃなかった筈なのだが。見損なったぞ友よ。それとも爛れた高校生活がお前を堕落させてしまったのかッ! まあ別にそれほど親しくもなかったけどさ。
 土曜日ということでぐうたらしていたのかジャージ姿で寝不足そうな鳥海は頻りにうへえとかほぉほぉとか言いながら僕の姿を上から下まで眺め回している。ちなみにこっちも似たような恰好だ。
 相手が可愛い女の子とかであればどっちかが赤面とかするシチュだと思うのだが、生憎とコイツは男だった。それもあまり冴えない方の。
 まるで胡散臭い訪問販売を眺めるような視線を受けつつ、何処から話すか考えていると、いきなり足許に置いたダンボールが「ぽこたんインしたお!」的にぱかっと開いた。
 まったく、つくづく話を台無しにするのが好きな連中だ。

「や、やいやいやいですこのクサレド外道人間! 妹を元に戻して返しやがれです!」
「これがその人非人なの? 普通の男の子に見えるけれど」
「やっと出られたの。揺さぶられすぎて壊れるかと思ったのよー」
「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃっ! 出たぁぁぁああ! みみみみみっつも!」
「待て、まあ待て落ち着け鳥海」
「いやぁぁぁぁ! いきなり枕元に現れて跳ね除けたらぶちっとかいってバラバラになった人形の片割れがぁぁぁあ! ひいやぁぁあぁぁぁ!」
「おお、そうだったのか。説明的な台詞ありがとう」

 しかし更に説明しなければなるまい。
 コイツ等はテンションゴムというやつを両足首と両手首に繋ぎ、首のところで引っ掛けておる。
 要するにいまどきの安くて軽い小型フィギュアだとプラやゴムのダボや関節部の摩擦力でポーズを保持してるんだが、重量級の球体関節人形にはそういう芸当ができないので、手足につきゴム一本ずつ通して各関節を密着させ摩擦を確保しているわけだ。ふふふ。グーグル先生で3分のこの情報収集力。
 んでまあ、後は解説要らんと思うが、究極にボロいコイツ等のことである。恐らく鳥海が恐慌に駆られて力任せに跳ね除けた拍子に、いい加減限界を迎えていたテンションゴムがぶちっと逝ってしまったのであろう。哀れ。
 ちなみにローゼンメイデンYJC4巻収録のTALE23(90Pと98P)で左足首のフックが見えるから持ってる人は参照するが良い。
 テンションゴムを割り箸でまとめている様は同2巻の65~66Pと83Pに出ておる。そういやあれは蒼い子のボディ。何気に完全ヌードご披露ですね(;゚∀゚)=3
 あ、こっちも青のボディなわけか。まあ今更何の感慨もないが……。

「パーツとかぶっ壊れなかったのかぁ?」
「ふ、布団の上だったから無事だって。うち床は畳だし」
「そりゃ良かった。なんせセトモノだからさー、割れたりしてるのをうっかり踏んだら流血大事件だもんな」
「何呑気な事言ってやがるですか! さあさあ人間! とっとと妹の居場所に案内するです!」
「ひぃぃぃぃ、は、はっはひぃっ」

 鳥海君のお部屋は……おい布団敷きっぱなしかよ。それと、なんだこりゃ。確かこいつって特異な趣味は持ってなかったと思ってたが、人間の記憶なんて当てになりませんなぁ。
 そこにはローゼンメイデンのアニメ第二期のDVD-BOXが、なんかつい最近届きましたみたいな状態で転がってた。あと、なんかアニメ全盛期の頃出たフィギュアとか数体。
 随分良いご趣味をお持ちですな旦那。どっちかってーとフィギュアじゃなくて球体関節人形、それも服なんか余分に持ってて貰えると揉み手で交渉モノなんですが、ないよね。そういう趣味のやつが枕元に立った人形全力でパンチングボール代わりにするわけない、と思うし。
 しかしまぁ、森宮女史のことを見たときにもそう思ったんだが、なんでコイツ等(今は戸口からゴソゴソと室内に入ろうとしている。動きのごくトロい飼い猫か何かのようである)が僕のところにわざわざ来やがったのかようわからん。
 詐称にしてもローゼンメイデンを名乗るならば、こういう連中のところに出てやれば良かったんじゃないのか? 名前が同じだからって僕の所に続々集合してくることはなかろうよ。
 いやまあ分かりますけどね。こういう人々の所に来たら一発で偽物印を押されそうなのは。

 んで、この餓鬼がぶっ壊したミクロマンの残骸の巨大版みたいなのがその人形と。
 しかし改めて見ると、意外に可動部分多いなコイツ等。胴は一体成型だが、手首足首膝肘肩足の付け根、首と一応は動くように出来てるわけだ。
 ひととおり並べてみる。確かに欠品はなし。予想通り手足首に千切れたゴムが残ってるのも確認。
 しかしまあ、お貞によく似てるわこりゃ。多分同じ型で作られてんだろね。相違点は髪の毛の長さ、瞳含めて色褪せつか焼け具合が反対なことくらいか? 仁王像みたく左右にでも立てられてたのかね。
 うへえ。なんか厭な想像になってしまった。
 一応左の大腿部にスタンプされてる商標名らしきもの(どいつもこいつも崩れてるか掠れてて読めないわけだが)もある。その脇に手書きつか手刻み? でじかにナンバーが入れられてるところとか、いかにもやっつけ的である。
 ちなみに番号は四番であるようだ。大文字のNにしか読めないが……。どんだけ製造数少ないんだよ。同じ型使ってんのに。

「で、どーすんのこれ。ゴム通して組み立ててやればいいわけ?」
「そっ、……そうです。元通りにしやがれですぅ」
「そ、そそそんなことしたらまた動き出すんじゃ……」
「う、動かなきゃ意味がないですぅ! 動いてくれなくちゃ……ううう」
「大丈夫なのよ、きっとまた動いてくれるの」
「お、俺はごめんだぁぁぁぁ」
「確かにガサガサ動くのが増えるのはもう勘弁なわけだが」

 しかし、組み立てずにこのまま三体にギャーギャー騒がれるのも御免蒙りたい。
 取り敢えず鳥海は若干落ち着いたのだが、事情を聴取すると彼も僕以上に役に立たないことがよく分かったので、タオルを一本頂いてこの残骸を持ち帰ることにした。
 まあ、ゴムは帰りに適当なのを買っていけばいいだろう。長さが適切でないと大変とかググった先に書いてあった気もするが、長いのを切る分には大して問題あるまい。
 それに、ブキッチョな僕がどうしても上手くゴムを通せなかったら、明日森宮女史に頼めば良いのだ。なんというグッドタイミング。
 ちなみにこの残骸にバラバラ死体とか不気味ってイメージをまるで感じないのは、僕が慣れたせいもあるかもしれないけど、造形が割とアレなせいがでかい。
 顔が人間の脳の補正で人間的に見えちゃうのはしょうがないのだが、組み上がってる時はともかくバラしちゃうと他はただのパーツ群である。ガンプラとかとさして変わらん。人間的なエロさが微塵もない。見事なまでに残念な作りだった。

「ところでさ、お前さっき気になること言ってたよな。タイムリーとかなんとか」
「あ、あれか……だって、俺出たじゃん、ローゼンに」
「はぁ? 鳥海なんてキャラしらねーよ」
「出たんだよ! 載ったんだよ! 12/9発売号に! ほらほらほら!」
「お、応……へー、ノノノノ終わったんだ。最後にポロリとかなんて打ち切り臭」
「ていうか誰もあの胸に気付かないなんてありえないよね……ってそうじゃなくてここ! ほれ!」
「……確かに鳥海ではあるが、名前が違うんじゃないのかこりゃ」
「な、何を言うんだ。『KAITO』って言えば中の人は『なおと』だろうが!」

 僕は何も言えなかった。ただ、滂沱たる涙が頬を伝うのみ。こっちは昔から名前ネタで弄られてきているというのに、なにゆえこいつは同じ苗字のキャラ(多分主要キャラになるとは思うがあくまで主役ではない)が出てきただけでここまでハマれるのか。嗚呼しかし、なにやら無闇に感動するのは何故だろう。
 取り敢えず、再会を約す事もなく僕達は別れた。アディオスアミーゴ。もう会うこともあるまいが、会ったときはお前もこの残念な人形どものあれこれに巻き込まれるのを覚悟しておけよ。



[24888] 必殺技はロケットパンチ
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/08/06 21:57
 さて、ゴムを通すのはどうにか頑張った。
 僕としては正直、メシ喰って撮っといた番組でも見て風呂入って寝たかったんだが、結局録画してた必殺シリーズは作業中のBGMになってしまった。言うまでもなくお貞が早く組み立てろとギャーギャー煩かったからである。
 覚悟を決めて頭をぱかっと開けると今までにない不気味さがコンニチハしていたが、僕は冷静に帰りに買ってきたエアダスターで吹き払った。しかし蛾とかどこから入り込んだんだよ……。
 目玉が取れたら鬼太郎の親父状態にして遊んでやろうかと思って茶碗まで用意していたのに、衝撃にも奇跡的に耐えたらしく(コイツ等、実は意外に頑丈なのかもしれん)、目玉が外れることもなかった。
 ゴムを引っ掛けるフックも錆びてたがひん曲がることもなく、出来が悪い上に重たい巨大キューピーちゃん的な人形はめでたく再組み立てを完了した。だが、しかし。

「どうして……どうして目を覚まさないのですか!」
「偏った感情の注入が必要だ……」
「某百万馬力の初回起動ではないのよ。そんなものは必要ないのだわ」
「なんか欠品でもあったのかもな。一応揃ってるように見えたが」
「ひ、他人事みたいに……」
「完膚なきまでに他人事だろーがよ」
「部品が置き換わっているからかしら……?」
「ゴムまでオリジナルでないと動かんとか言われたらアウトだなぁ。元のやつはゴミクズ状態だし」
「ローザミスティカが抜けてしまってると動かないのよー」
「いいえ、ここに存在しているわ。反応を感じるもの」
「そんな設定まであったんかい! しかも入ってるって、そこが原因じゃないんかい」

 このままでは契約も実は必要でしたみたいな話になりかねない。コイツ等に生命力を吸われるなんて罰ゲームにも程がありすぎだ。
 まあ、その話は出なかったからいいとして、だ。
 良くないのはお貞がギャーギャーモードからシクシクモードに突入してしまったことである。
 暗い室内に横たわる(残念な造形の)人形と、その枕元で長い髪を振り乱してしくしく泣いている(残念な造形の)人形。泣いているといっても音声だけであり、表情もなければ涙も落ちない。
 想像しただけでゾワゾワ来てしまった。おい、もはやホラー映画そのものじゃねーか。
 夜中じゅうずっとこの調子では迂闊に起きられない、というかそもそも眠りに就けない。
 仕方がないので漫画を手にとってみる。
 一旦全巻揃えたはいいんだが、読み出すと現実の残念さを改めて思い知らされるので資料としてめくる以外ほとんど読んでいない。しかしまー、なんかこの状況を打開するヒントなんかがあるんじゃなかろうか。
 いい案が思いつかないから取り敢えず漫画に逃げたわけじゃないぞ。本当だ、うん、多分。

 てなわけで適当に漫画を開いたら、一発で解決策が載っていた。ネジを巻けばよいのである。
 すばらしい。うん、すばらしく役に立たない解決策だった。
 ボデーを拭いたからここまでの全員分承知してるが、コイツ等にゼンマイの仕掛けなんぞなかったです。すいません。
 さらに漫画をめくってみる。そういやなんで蒼星石は復活したんだっけ? ああ、再契約したからか。コイツ等には契約もないからパスだな。
 他に復活した例は……と。真紅は本来の体に戻っただけ。ありゃ、これだけかい。ふむ。
 ん? これは……?

「おい赤いの。お前、前に物には命なんてないとか言ってたよな」
「失礼な下僕ね。名前で呼びなさい。……ええ、そうね。装置に命などないわ」
「じゃ、お前達の命ってのはなんなんだよ。いわゆる動植物じゃねーのは今更否定すんなよ」
「私達は人形、それを否定するつもりはなくてよ。私達の命はローザミスティカに宿っている。だから、この子の命はまだ尽きていないのだわ」
「んじゃさぁ、魂とかそういう難しい話は抜きにして、現状で必要部品全部揃ってんだから、コイツって単に気絶してるとか眠ってる可能性はないのか?」
「……あ」
「……そ、それは……あるかもですぅ」
「発想の転換なの。みんな考えつかなかったのよ」
「そ、そんなことはないのだわ。それに本当に気絶しているのかは分からないもの。もっと深刻かつ緊急な状態にあることも有り得るのよ」
「……要約すると気絶の線もあるってことだろ、それ」

 金糸雀が最初に桜田邸に侵入成功したときの寝たふりがヒントでした。お腹鳴ってバレちゃったかしら、ってアレ。
 のり姉ちゃんには最初っからバレてたっぽいし、手引きした雛苺も人形と言えずに行き倒れの野良乙女とか珍妙な言い訳してたけど。
 しかしお腹鳴ったりよだれ垂らしたり、金糸雀はマジ「可愛い子供」だなぁ。空飛べるけどさ。
 あ、真相を究明するのが面倒になったからじゃないぞ。あくまでごく真っ当な意見である。
 なにしろ息をしない連中なので、死んだふりをされるとこちとら全く分からんのである。コイツが動かないことには生きてる謎の物体なのか普通にゴミ箱行き寸前の人形なのか分からない。そいつは宅配屋の兄ちゃんで証明済み。

「それで……どうやったら目覚めさせられるです?」
「そこまでは知らねーよ。ほっときゃ目ェ覚ますかもしれんし、わざと寝たふりしてんなら起こそうとしても起きないだろ。理由は分からんけど」
「役にたたねー人間ですぅ」
「半日潰して怪奇人形バラバラ事件を元通りにしてやったら役立たず呼ばわりかよ」
「う……そ、それはありがとぅ……ですぅ」
「わかりゃいいんだ。さあさあ、僕はもう寝るぞ。明日はお前等の服のことで忙しいからな」
「はいです……」
「それからな、そのショボーンな音声やめとこうぜ。さっきまでみたくギャーギャー騒いでる方がまだマシだ」
「!──……とぅ」
「ん? 上手く聞き取れないがなんか言ったのか?」
「い、言われなくたって元気一杯ですよ! チビメガネ人間の命令なんか必要ないのです! とっとと寝やがれですぅ」
「ああはいはい。くれぐれもションボリしないようにな。宜しく頼む」
「分かってますよ! ……ぁりがとぅです、ジュン」

 ※これはあくまでも残念な古人形と僕の会話ですが、翠の子を想像して何かほんわかしたものを想像した方は、その絵を脳裏から消さない方がいいと思うです。現実は非常に残念な光景でした、とだけ。

 最後に付け加えられた一言で何気にゾワゾワ来たが、まあ良かろう。
 くれぐれもお返しとか考えないでください、マジで。お礼に家から出てってくれる分には全く構いませんが。
 組み上げたやつに洗い晒しの青白いタオルで貫頭衣を作ってやり(作業時間十数分)、取り敢えずこの場はこれで解決。
 僕が布団に潜り込もうとしたとき、しかし悲劇はまだ僕を待っていたのであった。

「あらぁ……何ぃ? ぞろぞろ揃ってみっともなぁい」
「うわー、テレビの画面から出てきやがったよコイツ……ってまた砂だらけじゃねーか! ちょっとこっち来い」
「ままごとでも始めるつもり……ってちょっと止めなさい! ジャンクにするわよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……」

「酷いわぁ……ヘッドドレスがずれちゃったじゃないの」
「知らんわ! 次は玄関から入って、足拭きマットで全身よっくこすってから来い!」
「やぁよ、呼び鈴に届かないもの」
「前みたくふよふよ飛び上がりゃ届くだろ。ったく何処がねぐらだか知らんが、人の家に来るときはもちっと考えやがれ」
「全くうるさい人間ねぇ」

 粗方砂埃を払い落として小脇に抱えて戻ったのはいいが、折角敷いた布団の上が砂だらけである。窓を開けてそれをまた払い落とす。眠気も吹っ飛ぶ事件であった。
 コイツ等に掃除をさせる方法はないものかね。手が使えない上に箒も碌に操れない不器用な念動力とかどんだけ使えないんだよ。
 さて、黒いのが何をするつもりか知らんがもう寝るぞ。明日は森宮女史に全員雁首揃えて顔見せなのだ。
 そしてあわよくば全員引き渡して厄介払い。月曜日になったら僕の怠惰だけど何かときめきのありそうな学園恋愛物語の再スタートと相成る……なんてことはないわけだが、少なくとも今よりはマシなライフが期待できそうな──

「──って何? 何やってんのお前等。つか新しいの、どっから取り出したその鋏」
「やあ。僕はローゼンメイデン第四ドール。貴方のお人形──」
「貴様等を所有した覚えなどないわ! つーかこの展開は……」
「……そう、そういうことだったのね」
「ええ。私とこの子、二人で組んだらどんなに強いと思う? だから私達仲良しになったのよ。少し手違いはあったけどねぇ」
「う、嘘です! アンタはコイツに操られてるのです! 目を覚ましてくださいっ」
「来るな。僕等はもう敵同士だ」

 その後暫く続けられた人形劇を聞いてみると、どうやら新入りには何やら碌でもない目的があってそれが黒いのと一致するから同盟したとか。お貞はそれを知らないで一緒に居たんだが、二人でうちに来ようとして間違えて鳥海の家に出てしまったらしい。へぇ、それで僕の半日が潰れたと……。なんかむかつく話である。
 ちなみに黒いのが今になって現れたのも道だか扉だかを間違えまくったせいらしい。テレビから砂だらけで出てきたのはそういうわけかい。呼び鈴関係ねーじゃんかコンチクショウ。


 今回一挙二話分掲載らしいですよ奥さん。たった200行ですけどね。 ヽ(´ー`)ノ


 そして都合五体の微妙にしょぼいサイコバトルは、どっか別のところでやりやがれ、と言う前に始まってしまった。どちらが勝利するにしても、部屋が散らかされるこちらとしては大迷惑である。
 数からすると三対二、飛び道具持ってるのがそれぞれの側に一人ずつなので赤いの側(赤いの、ツートン、お貞)有利と思いきや、黒いの側についた新入りがツートン&お貞の技と意外に相性がよく、ツートンのぴょこんと伸ばす苺のランナーとお貞の召喚してきたなんかのひょろい枝を、手にした剪定鋏で全部チョキチョキやってしまうのであった。
 お陰でドタバタギャースカやってる割に一向に局面が進まない。黒いのと赤いのがへぼい飛び道具に拘りすぎ、相手にダメージ与えられそうにないのも原因だ。お陰で床が大変な状態になりつつある。
 つかむしろ鋏で一思いにジョキッと本体やっちまえばいいんじゃないのか? あーくそ、こいつら瀬戸物かぁ……。
 いずれにせよこれは明確に安眠妨害である、もうどっちが勝ちでもいいからいい加減に止めんかと声を張り上げようとしたときである。黒いのが新入りの組み立てに使ったゴム紐の余りを拾い上げた。
 そいつをぐるりと手に縛りつけ(無論手は使えないのでポルターガイスト現象の方である。やれば出来るんじゃねーかコイツ等)、もう片方の端に落っこちてたサインペンを縛り付ける。
 そして、それをびよーんびよーんと振り回し始めた。多分念動力で。

「や、やめろ! そんなことをしたらどうなるか……」
「ふっ、あの子の命乞い? 無様ね、何も出来ない人間のくせに」
「お前な……まあなんでもいいが蛍光灯と箪笥の上だけは巻き込むな、絶対だぞ! なんか壊しやがったら容赦なく弁償させるからな! いいな!」
「わ、私が狙うのはあの子一人よぉ。そんな所まで巻き込むわけないじゃなぁい……あ」
「あの子ってどの人形だよ……あ」

 だから言わんこっちゃない。サインペンを縛り付けたゴム紐は天井近くに突っ張ってある室内干し用の横棒の上を飛び越してしまった。狙いどころ大外れもいいところである。
 これで俄然活気付いたのが赤いのである。花びらを何枚も召喚し、黒いのの顔にぶち当てる作戦に出た。顔は凹凸が多いので中々取れないだろう(しかもコイツ等は指が動かないから満足に落とせないのだ)という目論見か。やることがいちいちせこい。
 だがそこは空中浮遊できる黒いの。花びらの力ない山なり弾道を上に避け、物干し棒に取り付いて、絡んだのを取る手間を掛けずにそこからゴム紐をびろーんと赤いのの方に伸ばした。
 貰ったァとか威勢良く叫んでいたから、本来は赤いのの首にでも巻きつけるつもりだったらしい。しかし、まあ所詮はコイツ等の念動力である。巻き付いたのは腕であった。
 黒いのはフッと不敵に(失敗は微塵も気にせずに)笑い、赤いのに背中を向けてスタッと着地した。
 ゴム紐はピーンと伸びたが、物干し棒に絡んでいるので長さが足りず、赤いのは腕を引っ張られて吊り上がる。

「ふっ、掛ったわね」
「くっ……」
「真紅が持ち上がっちまったですぅ」
「あぅ~真紅ぅ……」
「こッ……これはッ……やけに見覚えがある! 具体的に言うとさっき作業してたときちらちら見てた必殺仕事人で!」
「知っているのかいマスター!」
「ああ、あれは間違いなく三味線屋の勇次の仕置き……! ──それと勝手にマスターにすな!」

 このまま黒いのがゴム紐を弾くと赤いのががくりと絶命するって寸法かッ! まさに勇次! 中条きよしかっこいい!
 え、でも待て。それは首に掛ってるときの話だろ。
 それと、必殺シリーズじゃなくてどっかで見たぞ、これに似たシチュ。吊り上げてたわけじゃないが。
 いや、それより何より、コイツ等の手足ってテンションゴムで……んで新入りの奴は鳥海のパンチングで脆くも手足ともにブチ切れただろ。
 あれ? よく見るとなんか、既に吊るされてる方の腕がちょっと長くなってるような……

「黒いの、フィニッシュフィニッシュ! 早く早く!」
「え? 何? どうしたっていうのよ」
「あ……」
「ああッ」
「……あーあ」

 ぶちんという実に厭な音がした。僕的に。ああ、また就寝時間が……。
 びりびりゴトンゴロゴロ。
 右腕が衣装ごともげ、赤いのは床に転がった。
 しかし、赤いのの最後の攻撃は的確に相手を捉えていたッ!
 ボデーという錘を失った赤いのの腕は、ゴムの収縮力も相俟って勢い良くもう一方の端に飛んでいき、背中を向けていた黒いのの後頭部にヒットした。
 立ち上がりかけてた黒いのはばったり前に倒れた。見事なワンパンKOであった。

「ロケットパンチ……勝負あったね。君達の勝ちだ真紅……って聞いてないか」
「し、真紅ぅぅぅ……しっかりするですぅ」
「えぅぅぅ~? お手手はきっちり仕事したのよ、真紅も頑張るのよー」
「……大丈夫よ、なんでもないわこんなの」
「いや、片腕もがれてなんでもないってこたぁなかろうよ」
「右腕がなくたって左腕があ……あら」
「……あ」
「あーあー、言わんこっちゃない」

 立ち上がった赤いののもう片方の腕は、脆くなった衣装を引っ張って破りながら床に落ちた。
 一本で両腕を繋いでるテンションゴムがぶち切れて左腕だけ大丈夫などという素敵なことはなかったのである。哀れ。

「うう……う……私は不完全だわ。ジャンクだわ。お父様から頂いた体を損なってしまった……」
「……何か複雑な気分だね」
「デリカシーがないのですぅ」
「さっきまでバラバラになってた子を目の前にして言う台詞じゃないのー」
「はいはいゴム通しゴム通し。それとまた貫頭衣か。あーもうまた寝る時間が遅くっ」
「こっちの方がもっとデリカシーナッシングです……」
「何だとコラ。こちとら親切にも就寝時間削ってゴム通してやるってのにグダグダ文句言う筋合いはねーだろぉ」
「だーかーら、やたらゴムゴム言うなですこのダメ人間!」

 取り敢えず、洗面所で埃高きボロ乙女の内部をまたエアダスターで吹き、四苦八苦しながらゴム紐を通してやる。パーツにバラした状態で下手にカタカタされたら速攻で逃亡するつもりでいたんだけどな。
 やはり状態は赤いのが一番マシなようだ。しかしぶら下げられただけでゴムが切れる辺り、お里は知れているよなぁ。
 とか思いつつ頭のパーツを嵌め込み、例の貫頭衣を着せた上で一応ボンネットだけは古いのを付けてやっていると、視界の隅に何か黒いのが蠢いているのが見えた。入り口でうろうろしている。
 赤いのを籠の中にお座りさせて、黒いのをひょいと掴み上げる。こいつも状態悪いのは変わらんな。

「なんだまだゴム紐ぶら提げてんのか……」
「ま、まだ終わってないわよ。その手をどけなさい人間、私はこの子を倒すんだから」
「とか言ってお前、実はテンパッてんだろ。紐ほどくパワーもなくなってんじゃないのかー?」
「……」
「図星かよ! まあいいや、ほれ。ほどけた」
「……」
「まあ、今日の戦いはお前が勝ちを収めて終わり、でいいだろ? 三対二の劣勢をものともせず、敵の腕一本取りました。それでいいじゃねーか」
「良くないわよ。だって、もう直ってしまってるじゃない」
「ったく部屋の床掃除だけで時間食いそうだってのに。いいか、今日これ以上戦うとか抜かしやがったら今度は僕が相手してやるぞ。ゴム紐ぶっちぎってパーツ全部二階の窓から道路に落として割ってやろうか?」
「……」
「いいか、今晩は泊まってけ。どうせ鏡抜けるパワーもないんだろ。そんで明日はお前もひっくるめて全員、球体関節人形マニアの森宮女史にご披露だ」
「やぁよ……人間に姿を晒すなんて」
「人形は人に見られて何ぼのもんだろうがよ。まぁそのご面相と恰好じゃ気持ちは分からんでもないが」
「……」
「取り敢えず、もしかしたら超美麗な衣装が着れるかもしれんチャンスだ。居辛いかもしれんが泊まってけよ」
「……」
「今の沈黙は同意と取るぞ。さて、寝に行くとしますかね」

 黒いのと赤いのを両脇に抱えて、僕は一つ欠伸をした。
 随分睡眠時間が削られてしまったが、いやーいよいよ明日な訳だな。実に欣快である。
 五体も持って行ってどういう顔をされるか分からんが、同一工房の多分一連の人形どもである。これだけ多ければ何か収集癖みたいなもんが刺激されて、森宮女史に引き取ってもらえるかもしれん。
 胸に大きな希望を抱いて僕は部屋に戻り、まだ掃除を全くしていないことに気付いて暗澹たる思いを抱くことになるのであった。



[24888] 言帰正伝。(前)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/01/25 14:18
 午前九時半の児童公園。でっかいダンボールを荷台に付けたママチャリを停めて、洗い晒しのブルージーンズにフリースのジャケットの僕。ダンボールの中から聞こえてくるガサゴソ音とくぐもった声は無視。あくまで無視。
 晴れた空の下だというのに子供は一人もいなかった。まあ、ママに連れられて姿を現すのは午後からなんだろうな。
 自動販売機の缶コーヒーをちびちび飲んで、自転車からダンボールを下ろしてベンチに置いて。ついでにトイレの鏡で寝癖を発見して大慌てで直した。
 約束の時間きっかりに彼女は現れた。大きめの籐のバスケットを、少し重そうに持って。

「おはよう。お待たせしたかしら」
「い、いや全然オッケー。いまちょうど十時だし」
「でも、貴方は少し前に来ていたのでしょう」
「それはまあ、でかい荷物抱えてたからしょうがないよ。具体的にはあんな感じ」
「まあ……あの中に?」
「ぞんざいな扱いでアレなんだけどさ、実は都合五体ばかり……」
「五体? それは凄いわ」

 実は僕、少しあがってます。森宮さん前にして。
 いや、最初は誰だかわかんなかったよ。図書館で見た制服のイメージが強すぎて。
 今日の彼女はケープ風の飾りの付いたワンピース。深紅っていうのか、暗い赤色のビロード地のようだ。後ろに大きなリボンが付いて、かなり子供っぽくも見えるんだが、ぴったりと嵌ってる。
 正直、お洒落だの服飾だのに詳しくないんで語彙が不足し過ぎて何がなんだか自分でもわからん。
 ていうかだな。なんというか。僕や鳥海、いや昨日の石原もひっくるめて天と地というか。
 だあああもう。単純に言う。可愛いし、綺麗だ。すっごく。
 ただ、何故だろう。それだけじゃない。何か凄く懐かしいような、見覚えがあるような気がするんだ──
 ──はい嘘です。すいません。分かってますよそんなこと、前世フラグとか幼馴染フラグとか立ってないって。ゲームや漫画じゃあるまいし。

 さて、ときめききらめきどきどきの恋愛シミュもどきはおしまい。早速無惨な現実とご対面である。
 バスケットを受け取って森宮さんをベンチまでご案内。少し汚れたでっかいダンボールを開けると、ガサゴソ音もなにやらざわめきのようなものもピタリと止まった。まるでコオロギかスズムシである。
 さて、まずはどれから行ったものか。やはり外見状態が一番いい、というか唯一オリジナルの服が残存している黒いのしかないだろうな。
 こちらを見上げてる連中に口に指を当ててみせ、黒いのを取り出す。コイツはこういうときに大人しいから助かるぜ。

「まあ、大きいのね。25インチくらいかしら」
「や、詳しいことは知らないけど……ベンチに座らせる?」
「お願いするわ」
「じゃあバスタオル敷いて……ほいっと」
「まあ、ビスクなのね……顔も……とって、も……」
「……人間、危ないわよ」
「しーっ、喋んな。バレるって」
「い、いいからさっさと後ろ向きなさいお馬鹿さぁん!」
「な……え?」

 咄嗟に振り向くと、何かいい香りと柔らかい重さがちょうど胸の辺りに覆い被さってきた。
 上手いこと両腕を広げて受け止める。ナイスキャッチ……とか言ってる場合じゃない。
 思ったより彼女の肩は細くて、しかし漫画とかで見るイメージよりは人体というのは重いのだなあ。たとえ体重三十キロ台とかでも。あー僕が力がないだけか?
 いや、それはそれとしてこれってなんか結構凄い図なんだけど、いやいやいやいや。
 森宮さんは黒いのの造形のあまりの残念さ、というか不気味さに速攻で失神してしまったのであった。
 なんかとってもラッキー、じゃなくて、耐性なさ過ぎだろういくらなんでも。マニアじゃなかったんかい。

 どうにかベンチに寝かせてみると、幸い、こっちが本格的に慌てだす前に森宮さんは意識を取り戻した。
 気付け薬代わりに缶ジュースでも……と思ったんだが、なんかあまりに御嬢さんしているので何を買えばいいのか判らない。コーラってわけにも行かないだろう、と無難に濃い目のお茶にした。
 お口にあったかどうかは定かではないが、姫は文句を言わずに無事お飲みになりました。
 考えてみたらそのくらいの情報は事前に仕入れておくべきだった。しかも昨日石原と会ったのに。ああ潤、貴方はなんてうっかり者なのでしょう。
 その後も何度か気が遠くなりかけたり額に手を当てて耐えたりしながらも、森宮さんは健気に全五体を検分し終えた。健気に見えてしまうのはリアクションがいちいちオーバーだから、という気もしないではないが。
 ていうか、これが一般的な反応なのか? 鳥海も動いてなければOKっぽい雰囲気だったが、あれでもまだ肝が据わってるほうなのか。謎だ。
 一遍石原にでも見せて反応を確かめたほうが良いのかもしれん。あいつはあいつで動き出そうが喋り出そうが受け流してしまいそうな気もするけど。
 それはともかくとして、検分終了ということで全員ダンボールの中に一旦撤収である。仕舞い始めると不服そうなざわめきが聞こえてきたが、無視する。森宮さんにまたまた気が遠くなられてはかなわん。
 幸い今度は飲み物を尋ねる余裕があった。ご指定のミネラルウォーターを買って、僕等は並んでベンチに腰掛けた。

「古いものらしいけど、放置されていたと思えないほど状態は良いわ」
「あれで!?」
「ええ。きっとオールビスクだからね。コンポジションボディだったら、多分土に還ってしまっていたと思うの」
「……そりゃ、なんつうか……良かったのかな」
「ただ、キャストドールの衣装の流用は難しいわ……ゆるめのワンピースや、そうね、セーターやガウン、コートなら良いと思うけれど。お腹が長くて、手足が短いから」
「もっと大きい人形のなら使えるかな?」
「今のドールは大きいもので六十センチくらいが多いの。多分ヒナ──赤ちゃんと、赤いボンネットの子以外は背丈もそれより大きいわ」
「そっかぁ……」

 それでも持って来たんだから、と赤いのを取り出してローゼンメイデンの着せ替え衣装を試してみたが、案の定サイズが合わなくてNGだった。黒いのなんかに比べると少し小さめなんだけどな。
 ツートンは無理すれば雛苺用の衣装が着せられそうだが、一度分解しないとダメというレベル。残念ながら、それじゃあガサゴソ動いたときにビリビリ逝ってしまうであろう。
 その後も少し説明されたが、ツートン以外は彼女の持ってる着せ替えの恩恵は受けられないようだ。重いのわざわざ持ってきてもらってすんません。
 こっちとしては別にローゼン仕様の服でなくても一向に構わんのだが、しかしそう言ってしまっていいものなのかどうか。ローゼンの衣装は一応向こうから言い出したことだが、別の服まで要求したらタカリそのものって気がする。
 ちなみに森宮さんの趣味はやはり今風のプラキャスト製の球体関節人形が対象で、アンティーク方面の人形の衣装までは持ってないらしい。
 まぁなぁ、判る気はする。今風の人形は手足は長いし顔はフィギュア以上に美麗で、おんなじドールって言ってもアンティーク物とは全然違う。
 だがしかし、森宮さんにそっち系の趣味がないからといってここで素直に引き下がるわけにも行かないのである。
 彼女にはここでアンティーク趣味に目覚めていただき、是非とも哀れなコイツ等を保護して手厚く弔って……いやいや、末永く愛でていただきたい。
 正直、僕にはコイツ等に美麗なドレスを買ってやる予算(一着当たり七千円から二万円というのが僕のリサーチの結果であった……)はない。オーダーメイドで元の服やらローゼンメイデン風の衣装を作るに至っては論外である。
 ヤフオクにて一着十四万八千円也のマエストロサクラーダ謹製のスーパードレスも作れません。タオル改造貫頭衣で一杯一杯なのである。ちなみにあれなら五分で作れる自信はあるのだが。
 ひととおり話を聴き終わったところで僕は切り出してみた。

「実は誰かに譲った方がいいかなって思ってたりするんだ」
「あの子達を?」
「うん。僕は全然そっち方面に知識も興味もないし、うちには飾っとくスペースもない。多分服以外も補修とか必要なんだろうけど、ぶっちゃけた話そういう予算もない。多分また暗いところに仕舞っちゃうことになる」
「そう……残念ね」
「誰か少しでも興味のある人に貰ってもらえれば、あの人形どもも嬉しいんじゃないかと思うんだなぁ」
「そうね。愛でて貰えた方が人形も喜ぶでしょう。彼女達はそのために作られたのだもの」
「だろ? それでさ──」
「──でも、それはいけないわ」
「ゑ?」
「そのドール達、私みたいにウェブの上でカタログを見てお金で買ったものじゃないのでしょう。言わば貴方はそのドール達に選ばれたのよ。とても羨ましいことだわ」
「は、はあ……いやむしろ選ばれたくなかったというか」
「ドールと人間は出逢うもの。貴方とそのドール達の出逢いは、私と比べたら天と地の差があるのだもの。それを大切にして上げなければ、彼女達が可哀想よ」

 おいおいおいおい、何を言ってるのかよう判らんぞ。だが、それを口に出す前に彼女は自分の言葉に酔っ払ったみたいに立ち上がり、僕を振り向いて決意の言葉を述べた。

「ついて来て頂戴。これから。時間はあるわね?」
「え、いや、そろそろメシの時間かなと……」
「大丈夫よ、一食くらい抜いたからって死ぬことはないのだわ。──さあいらっしゃい、ジュン」

 すっとこちらに手を伸ばし、微笑んだ彼女は、まるで。どこか夢の中で見たような綺麗さで。
 髪の色は違う。瞳の色も違う。髪型も。服装も。でもこれはきっと──
 思わず僕はその手を取って、もう片手には彼女のバスケットを提げて。
 軽やかに二人は公園を駆け出しかけて……そして、僕はあることに気付いた。

「取り敢えずチャリにダンボール括り付けてからにしないと。燃えないゴミの不法投棄でしょっぴかれる、つーか、肝心の人形ども入ってるし」
「……そうだったわ」

 繋いだ手はあっさり離れた。後ろを見るとダンボールは早くもガサガサ振動していた。
 現実は何処までも僕に非情なのであった。

 後半に続く。



[24888] 言帰正伝。(後)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/01/30 20:58
(承前)

 君を荷台に横座りさせて、僕は自転車を漕ぐ。爽やかな五月の朝の風、小鳥の声が僕等を包む。
 君の手が遠慮がちに僕の腰を抱いている。僕はそれがもどかしくて、少し乱暴に自転車を漕ぐ。
 何時の間にか君の身体は僕の背中にぴったり寄り添い、肩の辺りに君の柔らかな吐息を感じる。
 ねえジュン、と甘えた声が耳を擽る。ずっとこうして居たいって思わない? 笑いを含んだ声。

「今、ちょっと意識飛んでたみたいなの」
「上り坂の連続でだいぶへばってるですぅ」
「補助動力も変速もない自転車に大荷物……最悪の条件だね……」
「……ふん、いい気味よぉ」
「あ、あいとあいとあいとぉー! 転んだら大惨事なのよ、頑張ってなの~~」

 はいはいそうですね。くだらん現実に引き戻してくれてありがとう。しかも森宮さんちっとも手加減してくれません。一人でどんどん先に行ってしまう。
 ついて来て、と言われて後に続いたはいいが、目的地はどこなのか聞いてもいないな、そういや。
 瀟洒な感じの電動アシスト自転車に乗った彼女がすいすい坂を上る後ろで、チェーンの油が切れかけのオンボロママチャリに巨大なダンボールをつけた僕は必死にペダルを漕いでいった。
 目的地は山の手の坂の途中にあった。多分我が借家の築年齢の十分の一くらいの新しいでっかい家。庭付きガレージ付きで門柱のところに「森宮」の表札とインターホン。
 絵に描いたようなマイホームってやつだった。一度はこういう家に住んでみたいものである。借家でいいから。
 やっと過酷な労働から解放されてぐったりしている僕を尻目に、森宮さんはさっさとガレージを開けて自分の自転車を仕舞ってしまった。
 道交法的にいいのか悪いのかは知らんが、取り敢えず家の前の歩道にチャリを置いて、糞重いでっかいダンボールを抱えてお嬢様に続く。気分はブラックキャットジャパンのあんちゃんである。ハンコかサインお願いしますって感じ。
 玄関を入るときにダンボールを通すのに苦労する。でっかい家と言えどドアはちょい幅広の普通サイズであった。当たり前か。

「ご苦労様、ジュン」
「応、お前等よくもずっと騒ぎ続けてくれたな。ご到着らしいぞこの……」
「……え? どうしたの?」
「……あ、いや何でもない。チョイぼーっとしてただけ」

 どうかしてるぞ僕。森宮さんが如何に人使いが荒く尚且ついきなり僕を呼び捨てにしているお嬢とはいえ、失礼にも程がある。人間なら兎も角、アイツ等の声と間違えるなんて。
 森宮さんは何をどう誤解したのか、言い訳に困ってる僕に異様に優しい笑顔をくれた。
 ああ、なんか疲れが取れていくような気がする……じゃなくてだな。

「愛されてるのね、その子達」
「……は?」
「そうやって話し掛けて貰えるのだもの。さっき、黒い衣装の子を取り出したときもそうだったでしょう。こんな風に口に指を当てて、しーって」
「まあ、そりゃ確かにやったけど」
「人形にとって、そうやって声を掛けられ、気に掛けて貰えるのは幸せなことなのよ。貴方には選ばれる資格があったのね」
「は、はは……そ、そんなもんかなぁ」

 どうやら、彼女の中には「僕=(人形に対して)優しいひと」という図式が出来上がってしまったらしい。
 できるならその左括弧から右括弧までの間を消して貰えると当面すごく有難いんですが。将来的には右辺全体をなんか別のものにしていただければもっと幸いであるのですが。まぁ無理だよねー。
 そんなことを考えてるうちになんか如何にも客間って感じの、調度が整った部屋に通された。
 真っ白なテーブルクロスなんか掛けられてる上にどでーんと薄汚れたダンボール置いて(流石に下に布は敷いたけど)、妙に柔らかい革張りのソファーに座ってると、物凄い場違い感がしてくる。
 スーツとかで来たほうが良かったんじゃないだろか。あの手のは制服と喪服以外持ってないけど。
 綺麗なティーセットで紅茶とお菓子を出されるが、なんか作法とかを全く知らないので、恥を忍んで彼女に訊きながら飲んでみる。案の定ムチャクチャ詳しかった。
 クッキーか何かの形が崩れ気味なのはきっと手作りだからなんだろうな。味は正直なんとも言えないけど、腹が減ってたからひたすら美味かった。
 紅茶の話とかお菓子の話をひとくさり聞いて、作法のレクチャーがひと段落したところで森宮さんは漸く本題に入ってくれた。

「その子達の服なんだけど、作ってくれそうな人がいるの」
「マジっすか? でもオーダーメイドとか高そうだな……」
「いいえ、貴方に負担は掛けないわ。材料費は私が負担するし、手間賃は要らないから」
「ホント!? あ、いや材料費くらいなら持つよ流石に。あんま凄い材料使わなければの話だけど……」
「ありがとう。でも大丈夫。手を動かしていた方が彼のためにもなるのだわ」
「そうなの?」
「ええ。時間はたっぷりある人だから」
「なんか引退した縫製職人さんとかが目に浮かぶんだけど……森宮さんのお爺さん?」
「……いいえ、弟よ。私の」
「……なんと」

 弟、で時間がたっぷり? 作業してる方がいい? 高校浪人でもしてるのか。いや、そうじゃなくてまさか……おい、厭な予感がするぞ。物凄く。
 行きましょう、と彼女は立ち上がり、二階に案内してくれた。弟さんの分のお茶のセット持って。
 声を掛けると物憂げな返事が返ってくる。ドアが開いて中を見ると、予感は的中していた。
 モデルルームみたいな、整頓された妙に大きな部屋。全ての物がきっちり片付いていて、特に職人的な雰囲気はなし。ついでに何かのマニア的な雰囲気もなし。
 飾り気のない机に向かっていたのは、アニメか漫画のキャラみたいなツンツンした髪型にでっかいメガネを掛けた、森宮さんによく似たちょい中性的な、中学生くらいの男の子だった。
 まあ、一言で言ってしまえば、あれだ。僕はリアル桜田ジュン君を目の当たりにしたのであった。

「なんだよ。今度は男連れ込んだのか。彼氏できたっていちいち報告する必要なんかない。勝手にすればいいじゃないか」
「違うのよ。貴方にドールのドレスの製作を依頼に来たの。彼はそのドールのオーナーなのだわ」
「……どうも、オーナーです。あとドレスじゃなくて適当に服で構わな──」
「いいえ。作るからにはドレスでなくてはならないわ。あの子達に似合った最高のものを」
「──ということなんで、宜しく」
「ボ、ボクが? ボクは作らないぞ。何でボクが」
「貴方にしかできないことなのよ。貴方にはその才能があるのだわ」
「適当な事言うなよッ、ボクはお前や倫姉とは違うんだ。ボクに才能なんかない。自他共に認める引き篭もりの社会不適格者だろ」

 うっわー。何この修羅場。つか引き篭もりまで一緒かよ。何なら名前まで取り替えて差し上げたいんだが。
 こいつの処になら、ホントに漫画とかアニメのローゼンメイデンが来るんじゃないか? 残念人形じゃなくて。
 しかし、元々桜田ジュンは好きじゃなかったが、改めて目の前にすると……。なまじ、顔が漫画のあれより可愛いだけに余計、なんというか。
 何かがあっさり折れるのを僕は感じた。流石は僕。堪え性が全くない。

「──森宮さん、もういいや」
「え?」
「来る途中にリサイクルショップの看板見て気付いたんだけど、サイズ合えばベビー服とかでいいんだよな。あとほら、型紙探して自作頑張ってみる手もあるし。なーに、主婦レベルのやっつけ裁縫くらいなら僕だってできるさ」
「……」
「考えてみたらさぁ、アイツ等に似合わんよ美麗な衣装なんて。元々、フェルトとかで雑に仕上げられた服着てたんだし。どう考えたってあの造形じゃ衣装負けするだけだ」
「そんなこと……」
「ありがとう。あんなオンボロどものこと本気で考えてくれて。アイツ等もきっと喜んでる。気持ちだけでホント、目一杯嬉しいよ」

 あーあ。終わっちゃった。
 階下に戻ると、例によってガサガサザワザワしてたダンボールがぴたっと止まる。まさに庭先のスズムシかコオロギ状態。甘酸っぱくてほろ苦い雰囲気はたちまち、いがらっぽくて埃臭い現実にバトンタッチだ。
 まあ、帰りにベビー服最低五着は確定だな。それで満足するなり我慢して貰えればこちらとしては裁縫の手間が省けるというものである。
 森宮さんの手前ああは言ったものの、当然僕に裁縫の自信なんてない。家庭科の授業で使った重箱みたいな裁縫セットは速攻でどっかになくしてしまい、貫頭衣作成にあたって百均でソーイングセットなるものを新調したくらいだ。
 安く簡単に上げようって目論見自体が事態を舐め腐ってたってことかもしれんなぁ。ま、性根据えてぼちぼち行くしかないわな。
 最後に見せた、彼女の泣き出しそうな顔だけが心残りというか気懸りだが──

「──ま、待てよ! ボ、ボクが作る。作ってやる!」
「え? うわっ」
「だ、だから、作ってやるから……もうこれ以上、姉ちゃんのこと泣かせるな! こ、これ以上苛めたら……ボ、ボボボクが相手になってやるッ」
「へっ?」
「どけ! この中に入ってるんだな? 採寸するから上に持ってく」
「ああ……こりゃどうも」

 物凄い勢いでダンボールを引ったくって行った弟くんの後に続き、いきなりの超展開に頭を捻りながら階段を上っていくと……彼女はいた。
 うん、座り込んでいて、ダンボールを床に置いた弟くんが彼女を抱き締めている。それはとても美しい、一枚の絵画のような光景であったよ。うん、何やら二人だけの世界のオーラが出ていた。
 なぁんだ。こういうことだったのか。
 終わったとかいうレベルじゃなかった。始まってもいなかったわけだよコンチクショウ。
 森宮さんとしては大好きな弟くんに得意なことをやらせて自信を取り戻させたかったんだろうな。そりゃ、一所懸命ドール服を作らせようともするわけだし、お代は要らないってことにもなるわけだ。
 んで、弟くんも素直になれないけど、実はお姉ちゃんが大好きだったって寸法か。うんうん、良い方に進むといいねぇ。世間一般に認められる範囲内で、だけど。
 暫く二人は抱き合ったまま動かないようだった。声を掛けられる雰囲気じゃないが、出歯亀するのも気が引けたので、僕はそーっと階段を降り、客間に戻る。
 美しい光景さようなら。そこには現実そのものが待ち構えていた。

「お帰りなさい」
「のわっ! 心臓に悪いぞ赤いの。いつ抜け出した」
「失礼にも程があるのだわ。さっき零れ落ちたのよ」
「ねーよ。どんだけダンボール傾いたんだよ」
「煩いわね。抱っこして頂戴」
「おい、前後で意味が繋がってないぞその台詞」

 大方、もう少し時間がありそうだと思って脱出してたら弟くんが箱を持ってったって寸法だろう。まあいいや。
 棚の上のアンティークが見たいと駄々を捏ねるので、取り敢えず抱え上げてやる。真偽の怪しい薀蓄をとうとうと述べ始めるが、それ、こないだの某番組かなんかで仕入れたネタだろうお前。
 まぁこんなのでも他のが採寸されてる間の時間潰しの話し相手にはなる。視線さえ合わせなければ。……ん?

「って、駄目じゃん。お前一人だけサイズ違いなんだから」
「あら。それならさっさと連れて行きなさい」
「はいはい。まぁ迂闊に動かれたら森宮姉弟の心臓が止まりかねんからな」
「姿を見ただけで気を失うような度量の狭い人間に用はないのだわ」
「……お前等の最大の武器って、実は外見だよな。仲間内には通用しないけど」
「いちいち煩い下僕ね」

 沈黙し、例の仮死状態になった赤いのを小脇に抱えて階段を上って行くと、もう二人の姿はなかった。
 弟くんに「これも頼む」と赤いのを渡したときも、部屋の中に彼女は居なかった。自分の部屋に引っ込んだんだろうな。
 採寸にどのくらい掛るのか尋ねたら、いきなりその場で赤いのの貫頭衣を脱がしてメジャーで測定し始め、一分としないうちに終わらせてダンボールの中に仕舞ってしまった。
 終わりとも言わずに僕の方にダンボールを押し遣って、弟くんは机に向かった。広い机の上には、ラフスケッチかなんかがもう数枚広がっている。
 ありがとう、と一応言って、僕はダンボールを抱えて部屋を出た。返事はなかった。
 やっぱり桜田ジュンみたいなヤツは、僕の好みには合いそうもない。

「ほんとにありがとう。なんてお礼言っていいんだか判んないよ。それと……ごめん、無神経なこと言って。折角コイツ等のためにって考えてくれたのにさ」
「いいえ、謝らなければならないのは私の方だわ。無理を言ってしまってごめんなさい」
「いやいや、そんなことない。嬉しかったのは本当だって」
「ふふ……そう言って貰えると気が楽になるわ。ありがとう」
「いやいや、こちらこそ」

 お互いにぴょこぴょこ頭を下げあってから、僕達はどちらからともなくぷっと吹き出して、笑った。そのまま手を振って僕達は別れた。
 結構急な坂をよたよたと下って行く最中、前からどっと風が吹き付けて来た。こけそうになるのをどうにか踏み止まって、またそろそろと下り始める。
 暫く身構えながら漕いでいたけど、風はそれきり吹いてこなかった。
 なんか、さっきの僕のことを誰かに笑われてるみたいで、どうにも気分が良くない。
 腹が思い切り鳴った。そういや昼飯食ってないじゃねーか。そうだ、明日は石原に報告がてら八つ当たりしてやろう。そうしよう。
 後ろの連中がまたなんか喧嘩でも始めたらしい。買い置きのラーメンは残っていたかなぁと思いつつ僕はペダルを踏むのであった。



[24888] 鶯色の次女 (第一期終了)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/08/06 21:58
「マスター、何か僕にできることない?」
「ないね」

~十五分経過~

「マスター、何か僕にできることない?」
「ないなぁ」

~三十分経過~

「マスター、何か僕にできることない?」
「ある。その問い掛けをしないことだ」
「はいっ」

 これで静かになった。正直辟易していたんですよ奥さん。朝だってのに十五分おきに問いかけられて。
 この新入りの鋏持ち(今は直立不動で後ろに侍しておる)、コイツ等には珍しく、ゴム紐を通してやったことを恩義に感じているらしい。リサイクルショップで買ってきた肌着(五着入り千円)を着せるときも抵抗しなかったし、スカートもどきを作るときは率先してテスターを買って出てきた。
 うむ。まあ、こうでなくてはいかん。血も涙もないのは所詮陶製人形ゆえ致し方ないとしても、最低限の仁義は持っていなければな。
 ただ、問題もある。コイツ、常に何か活動したくてうずうずしているらしい。おかしい。どう見ても体の中に滾る血など通ってないんだけどなあ。
 それで冒頭の遣り取りと相成るわけだが、何かできることないか、と言われてもな。
 まず、手指が動かないから作業全般がほぼ不可能。剪定鋏だけはどっかから召喚して来れるが、生垣の刈り込みをさせるにも背が足りず、そもそもうちに生垣などない。
 昨晩はスカートもどきに使う布の裁断を試しにやらせてみたが、剪定鋏でまともに布は切れないらしく、すぐに「ますたぁ……」と情けない声を上げやがった。使えないことおびただしい。
 電話番、留守番、番犬代わりと考えてみたが、電話は留守電で充分だし、そもそも手が使えないから旧式の固定電話の受話器が持てない。留守番は下手をすると玄関先で死屍累々だから即座に却下。
 結局番犬代わり程度にしかならんが、それも家の中限定だ。迂闊に外で動いているのを見た人がいたら大惨事である。むう、別に他の連中と変わらんではないか。
 ん? いや待て。

「おお、そうだ。鋏!」
「……」
「……そーせーせき?」
「はいっ」
「なんか抵抗感があるが……まぁいいか。君に指令を伝えよう。ボロい我が家を守るため君がやるこの大使命だ。できるか?」
「……! できるよ僕! マスターが命令してくれれば、僕は何だって……!」
「じゃあ箸でそっちの茶碗からこっちの茶碗に豆を全部移してくれ。くれぐれも落とすなよ」
「……うぅ……」
「まぁそれは冗談だ。ちゃんとお前にできることだから安心しなさい」

 インスタントコーヒーと千切ったレタスとトーストと手抜きハムエッグ※ というインチキ朝食を摂り、僕は無人の家を後にした。
 (※ 小鉢にサラダ油を少し垂らし、卵を割りいれて上から薄切りスライスハムで蓋をする。ラップして一分チンして目玉焼きの出来上がり)
 教室に入ると早速石原が接近してきた。くそっ、あのニヤニヤ顔は何か既に情報は得てますよってことか。昨日のことはあまり思い出したくないぞ、いろんな意味で。
 そもそも、首尾は……うん。えーと、主観的要素を排して簡略に述べるとだな。
 うちのオンボロ人形にドール服が合うかどうか試しに行ったら、思いがけず無料で五体分も服を作って貰えることになりました。
 ……あれ? 大成功じゃね?
 おお、そうか。そうである。大成功じゃまいか。僕としては森宮さんを紹介してくれた石原に胸を張って応対すれば良いのである。
 良いのであるが、報告しながら昨日のことを思い出すと、何故かこの胸に敗北感が去来するのであった。

「へえ、そりゃおめでとう。上手いこと行ったもんだね」
「まぁな。思いがけず大勝利って感じだったぜ」
「ふーむ……で、それだけ?」
「は? いや、それだけも何も。あー、あと紅茶とクッキーご馳走になって、飲み方とか教わったな、うん」
「へえ」
「紅茶は美味かったし、クッキーは……手作りっぽかったけど不味くはなかった」
「ほうほう。それで?」
「それでって……森宮さんの弟くんに何やら美麗なドレス作って貰えることになって、帰ってきた」
「……はあ。……ま、いいか」

 ひらひらと手を振って石原は自分の席に戻っていった。わざとらしく首なんか傾げやがって。気になるじゃねーか。
 っていうかだな。なにを期待してるか知らんが、石原よ。そういう方面の進展はまず有り得んのだぞ。あの姉弟のラブ度見たら……。まだ、お前と僕の方が可能性として有り得るくらいだ。
 まあいいか。
 実は、紅茶とクッキーのお礼は用意してある。百均の近くの古道具屋で買った真鍮板金の手作りブローチである。値段はお察しだと思うが聞かないで欲しい。多分紅茶の葉っぱとクッキーの材料費くらいしか掛ってない。
 元はスペインだかどっかの土産物らしいが、なんとなくどっかで見たことがあるような形なんだよね。まあお人形には丁度よさげな大きさなんで、差し上げても失礼には当たるまい。使い道があるかは別として。
 いろんな意味で戦う前に敗北したとはいえ、これから度々顔を合わせる相手である。礼儀はしっかりせんといかんからな。元々の用向きは只でやって貰えるようになったんだから、尚更だ。
 ブツは昼休み、図書館で渡すことにした。呼び出すとか教室まで出向くという手段だと周囲に要らぬ誤解を招きそうで怖かったんですよ。ちょっと趣味や恋愛対象がアレではあるが、森宮さん美人だしなぁ。

 しかし、メシをさっさと切り上げて図書館に行った僕が目にしたのは、あまり芳しくない光景だった。
 真ん中で本を積み上げている森宮さんは確かに居た。だが、その隣で何か熱心に話し込んでいるのは、よりによって石原だった。
 ぐはぁ。なんてこった。
 いや、二人は知り合いだった訳だから、別に真面目な顔して何か話し合ってても別におかしくはないんだが、タイミング最悪だろ。見付かって追及され、プレゼントがどうとかいう話になったら洒落にならん。
 一番遠いところに陣取ってコソコソ見てみたが、二人の話はすぐには終わりそうにない。石原が珍しく難しい顔をしてるのも気になるが、近付いてったらここに居るのがバレそうだ。いや確実にバレる。
 暫く監視を続行したが、一向に動きそうもないので撤退しようかと思っていると、石原が立ち上がり、やれやれと首を振った。
 同時に、ヒソヒソ話が漸く普通の会話の音量になってくれた。

「……結局、暫くは様子見ってことだね。悔しいけど」
「そうね。ゲームとこちらの生活は関係がないもの」

 ゲームってーと、あれか。今度はお二人さんがやってるオンゲで揉め事が起きたって寸法だな。
 嵌った奴は真剣になっちまうって言うからな……。居るんだ、無料ってことで始めた癖にアイテム課金でバイト代全部吐き出してる奴とか。特に女子は費用はともかく、無駄にいろんな人間関係とかできちゃうらしい。
 石原が向こうの入り口に姿を消すのを、森宮さんは心配そうに見送った。石原の後姿も珍しく元気なく、やけにしょぼくれて見えたが、そこまで入れ込むほど嵌ってるのかよ。つか、揉め事は石原がらみかい。
 しかしドール趣味にでかい持ち家にあの弟くん、そんで今度はオンゲか……。一つ一つならともかく、ここまで重なって来るとちょっと森宮さんが境界線の向こう側の世界の人に思えなくもない。
 誰かのために一所懸命になれるってのは、良いとこだと思うし、好きなんだけどな。
 歩いて行って小さな声で呼ぶと、じっと石原の出て行った後を見つめてた彼女はびくっとして、こっちを向いたついでに顔を赤くした。あ、可愛い。いやいや大丈夫、聞いてません。内容までは。

「──昨日はありがと。あ、これ安物だけど、紅茶とクッキーのお礼ってことで」
「……! ありがとう。この少し使い込まれた感じ……素晴らしいわ」
「そんな喜んでもらうようなもんじゃないけど。人形の胸飾り辺りに丁度合うサイズかなって」
「そうね。象嵌細工ではないけど、真紅のオーベルテューレ版のブローチにぴったりなのだわ。流石にお目は確かね」
「……え、いや実はその辺は偶然なんだが」
「あら、偶然を装った必然かもしれなくてよ。全ては運命の糸車の紡ぐ糸が織り成すタペストリーの上の出来事なのですもの」

 判るような判らんような話をされたが、というか紡ぐのと織るのを一緒くたにしてええんかと思わんでもないが、取り敢えずよしとしよう。もう一度ありがとうと言ってくれた森宮さんの顔が上機嫌だったから。
 まあある種の関係については戦う前に敗北してしまったとはいえ、彼女は別の意味で特別な存在なのである。
 ドレス作りがどれだけ工数のかかるものかは知らないが、五体分となると膨大な手間が掛るはずだ。それを森宮さんの口利きのお陰で、渋ってた職人さんがロハでやってくれると言ってくれた訳だ。
 殊更にご機嫌取りまでするつもりはないが、やっぱり恩人が笑ってくれているのは気持ちの良いものだ。少なくとも、泣いたり心配そうな顔をされるよりは。

 まあ、出来上がるまでどんだけ時間が掛るか判らんので、当座のしのぎに幼児用の肌着を着せ、識別のためにそれぞれ別色のスカートを作る破目になったのは、痛し痒しだが仕方がない。
 なにしろ、家に戻ったらそそくさとどこぞに逃亡した黒いのは別として、残りの四つが喧しいのだ。
 それまで服を寄越せと煩いのは赤いのとせいぜいお貞だけだったのが、森宮邸で見たという美麗な人形に触発されたらしく、ツートンと鋏も騒ぎ始めてしまったのである。お陰で遅い昼飯もそこそこに百均に再出撃させられ、僕の日曜日は完全に潰れてしまった。
 このままで行くと次は上着とか言い出しかねん。それは勘弁願いたいものである。ただでさえ心許ない財布が悲鳴を上げ続けることになってしまう。

「おかえりなさい、マスター!」
「うおっ、大分張切っとるな鋏。不審者の侵入は許さなかったか?」
「はい、ばっちりです!」
「蒼星石は頑張っていたのです。言いつけられたとおり、ずーっと家じゅう巡回してたのですよ」
「ううむ、我ながらあまり想像したくない図だが……侵入されていないならば良し! ご苦労さま」
「えへへ……ありがとうございます……」
「あーっ、蒼星石だけずるいのー! ヒナもなでなでしてほしいのよ」
「ずるいかしらー」
「これは労働への報酬だからな。働いとらん残念人形まで撫でてやる趣味はない」
「なら、ヒナも働くのよ。しんにゅーしゃをげっきたいするのよー」
「かしらーかしらー」
「ん? かしら……だと?」
「……そうかしらー」
「……っておい。しれっと増えてんじゃねーよ」

 撫で損かよ。いやいやいやいや、そうじゃなくてだな。
 話を聞くと、鋏は確かに侵入者を許さなかったらしい。では何故新しいのが侵入できたかと言えば、理由は簡単であった。
 裏の縁側で仮死状態になっていた新しいのを、ツートンと赤いのとお貞が念動力で引っ張り室内に入れたのだそうな。侵入者ではなくて、コイツ等が外に落ちてた物を中に持ち込んだだけ。
 協力すれば障子やガラス戸を開閉できる程度の念動力を持っているのは知っていたが、見事にしてやられた形だ。ガラス戸をロックしとかなかった僕の責任てことかよ。嗚呼。
 手荷物扱いもアウトにしとくべきだった。っつーか、そういや漫画でも似たような展開だったっけか。

「は、放すかしら! カナはお風呂なんて必要ないかしらっ」
「いーや、お前は分解の上清掃が必要だ。持っただけで砂の音がシャラシャラするようなモノを家の中に置いとけるかっ」
「た、たすけてー! だめぇ壊れちゃうー!」
「うう……カナチビ、今は耐えるです。いつか生まれ変わって復仇の機会もあるかもですよ」
「カナ、気を確かに持つのよ。怖くない怖くないお前は新たな生命体として生まれ変わるのだ、なのよー」
「嫌ぁぁぁぁぁー!」
「はいはい解体終わり。やっぱゴム終了してるし。取り敢えずパーツごとに洗って干すからな……泥がひでぇ」

 しかしまた、酷いのが来たもんだ。
 服は最初っから裂けて半分しか残ってない。体中泥だらけ。今までの連中もそうだったが、コイツも手荒く遊ばれたらしく、あちこち剥げやら色褪せがある。
 コイツ等の不気味さを代表してるのが適当に入れられたドールアイで、例外なく藪睨みやら寄り目になってるんだが、新しいのはその点多少はまともな方。まあ、そこだけは良い。ていうかコイツ等自身で動かしたりする部分だけに微調整するのが異様に大変そうだから全員手付かずのままだ。
 遂に来たか、と思わされたのは、髪の毛だ。退色が物凄いうえ、緑色のスプレーで適当に色を塗り直されてる。マスキングもまともにされてなかったようで、顔全体に緑色の塗料の粒が散っている。
 毛の貼り付け際という生え際はもう見ないものとして、関係ない部分についたのは、ラッカーシンナーで落とすしかないだろうなこれは。
 それでまた表面の塗装とかが色変わりしたり、色褪せる訳か。処置無しだ。

「いっそ全部塗り直し、変なところは作り直し、髪の毛は貼り直しで完全お色直しした方がいいんじゃないだろか……」
「……ジュン」
「何だ赤いの。言っとくが僕にはその辺の技術はないぞ」
「判っているわ。貴方に財力や智慧がないことも」
「さらっと酷いこと言うのはあれか、お前の仕様かなんかか」
「事実を言ったまでのことだわ」
「あーはいはい。それで? たまには建設的な意見でも述べるつもりか?」

 赤いのはのそのそと歩いてきて、相変わらず苦戦しながらゴムを通している僕の手元を覗き込むような姿勢になった。構って欲しいのかもしれんが、生憎両手とも塞がっている。

「聞いて、ジュン」
「はいはい、聞いてますよ」
「私の姉妹は全部で七体。そのうち六体が既に姿を現した。残るはあと一体、私達の誰も見たことのないドールよ。それが姿を現したとき、私達のゲームは本格的に始まるの」
「そこだけアニメ版準拠なのかよ。……じゃあ、その七体目は多分偽物ってことになるなぁ」
「それは判らないわ。貴方の持っている漫画のとおり、実体を持たない幻影かもしれない」
「読んだのかよ。まあ大して有効な情報にゃなんなかっただろ? ギャップありすぎだし、既にどっちとも展開違ってる訳だし」
「どちらにしても、最後に残るドールは一体だけ。外のドールは壊れてしまう」
「随分潔い結末だな。普通の人形になる、とかじゃないのか」
「私達は人形だもの。人形の身体に宿った謎の神秘の生命体ではないの。……貴方には寂しい思いをさせてしまうことになるわね」
「いや、むしろ全部消滅してくれると有難い訳ですが」
「……寂しい思いをさせてしまうことになるわね?」
「……はい、そうですね」
「それで、ジュン……貴方には辛いでしょうけど、誰が残ることになっても恨みっこなしにして欲しいの」

 ああ、なるほどな、と僕は理解した。なんか悔しいが、コイツの本当に言いたいことが大体判っちまった。
 しかし大学生ジュン君じゃないが、そういう思いを向けられてもな。なんつうか。

 まぁ、なんだ。骨──はないから、全員分の残骸くらいは拾ってやってもいい。気分が乗ったら最後に残ったヤツと一緒に泣いてやるかもしれない。
 集めた破片は供養してやってもいいし、好きなところに持っていって埋めてやってもいい。行ける範囲ならな。
 ただ、一つだけ提案がある。

「待てないか、その開戦」
「……え?」
「七体目がいつ出てくるにしても、戦闘開始すんのは全員分のドレスが出来上がって来るまでは待ってくれないかな。──その間はお前の襲撃もナシでな、黒いの」
「! ……気付いていたの? 私が居たことに」
「おわっ、ホントにいやがった」
「カ、カマを掛けたって言うのぉ? いい度胸じゃなぁい。ジャンクに──」
「──はいそれダウトでお願いします」
「ぐっ……」
「多分、僕なんかよりは余程お前等のことを心配してる人がいて、その人の口利きでやっとお前等の衣装が作って貰えることになったんだ。その思いを踏みにじったらいかんだろうよ。……さて、かんせーい」

 余ってた肌着を着せて、干してる間に用意しておいた黄色のスカートを巻いてやって出来上がり。同時に、風呂場の入り口からわらわらと他の連中が寄ってきた。悪いことに全員である。
 洗ってスプレーが大分色落ちしてうぐいす色っぽい髪になった新しいのは、すぐに目を覚ましてかしらーかしらーと連発し始める。かしらーなのよーうるさいですぅきみもねなのだわくだらなぁい、と狭い風呂場はたちまち騒音の渦に飲み込まれる。
 僕は道具を抱えてそそくさと撤収した。正直煩すぎてやっとれん。

 まあ、なんだ。森宮さんと弟くんには悪いが、もう一体分追加で作って貰うことにしよう。大きさはツートンのやつと同じで。
 何ならうぐいす色だけ持って行って採寸して貰ってもいい。ボロなりに形は整ってるから、動き出さない限りは目を回すようなこともあるまい。
 折角綺麗な衣装を作って貰えることになったんだ。
 赤いのの話では七体中六体までは破壊される訳だから、多分殆どの連中にとって死に装束になっちまう訳だが、それだって構うまい。一生ウェディングドレス着て生活してる奇人が早々いるとは思えん。
 あれでも一応全員女の子らしいから、一度くらい綺麗なドレスを着させてやってもいいだろう。

 布団を敷いていると、黒いのが一人で先に上がってきた。勉強机の上に乗っかって、少し藪睨みの視線をこっちに向けている。
 くれぐれも襲撃すんなよ、と言い置いて僕は布団に包まった。わかったわよぉ、と間延びした返事が返ってきた。



[24888] 第二期第一話 美麗人形出現
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/08/06 22:04
「くっそー、オカンの奴こんっなに買い物させやがって……米四十キロとか何考えてんだよ、自転車転倒しちまうじゃないか……」
「ん? 聞き覚えがある声だと思ったら鳥海かよ。ブツブツ言いながらフラフラ自転車引いてっからどこのご老体かと思った」
「桜田か……お、おひさ」
「おひさ、ってすっげーなお前。何前後に積めるだけ米積んでんの? ハンドル左右にマイバッグ下げてるし。戦後の闇市の買出しか?」
「うっせー、共働きの哀しい現実だ。タイムセールに間に合うのが俺しかいないんで買出しさせられてるんだよぉ」
「そりゃご愁傷様……ってタイムセールで米だと? 何処のスーパーだ」
「駅裏のあそこ。五時までやってる。十キロ入り四袋八千円ポッキリ」
「おお、まだ間に合うじゃねーか。貴重な情報サンクス!」
「なんだ、お前もなのか……」
「一人暮らしの厳しい現実ってヤツだ。じゃあな、アディオス!」

 爽やか(当社従来品と比較し20%増量中)に片手を上げて鳥海の来た方に角を曲がると、そこには石原がいた。なんちゅう間の悪さだ。しかも今回は石原の姉貴付き。
 この二人が揃ってる所にとっ捕まると長い。簡単に挨拶しただけでスルーしようとしたんだが、案の定上手く行かず、益体もない立ち話に延々と付き合わされる破目になってしまった。
 てか弓道の水島先輩がどうとか、後輩の日向が云々とか、知らん名前で二人で盛り上がるんならわざわざ僕を拘束するんじゃねーよ。
 ああ、時間が。タイムセールが。米櫃の中身が碌に残っていないというのに。
 そんなこんなで一杯一杯だったから、僕が気付かなかったのは致し方ないのだ。こっちを見詰める勘違いも甚だしい嫉妬の視線に。


 ~~~~~~ ドールがうちにやってきたトロイメント ~~~~~~


「畜生、畜生。あいつがリア充まっしぐらだと? 認めない。断じて認めないぞ」
「……」
「なんでだよ。なんであいつがリアル蒼星石&翠星石と楽しげにくっちゃべってやがんだぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「……」
「しかも、こないだの週末なんか、真紅と……超美人のコスプレ真紅と手ぇ繋いで歩いてやがってぇぇぇぇっ」
「……」
「くっそー、あいつはこっち側(概ね非モテ・非リッチ・非イケメン・非力・非優秀)の人間だと思ってたのに。いや、非モテ以外未だに全部該当してる所が逆に身震いするほど腹が立つ! くっそぉぉぉぉぉ」
「……」
「ああ、御免よ。怖かったかい。大丈夫、僕にはお前がいるものな。僕の可愛い──」
「……さま」
「!? しゃ、喋った! いま、お前喋ったんだな!?」
「おとう……さま……」
「うはぁぁぁぁぁ! 聞き間違いじゃねえ! わんもああげいん!」
「おとうさま……」
「おおおおお! すげぇぇぇぇええ! これで勝つる! 僕ハジマタ!!」



 ~~~~~~ 第一話 美麗人形出現 ~~~~~~


 早いもので、年が変わってから一月半が過ぎようとしている。
 十二月、概ねその後半に集中していろんなことがあった訳だが、それ以来状況は安定してしまっている。
 安定しているのは良いんだが、問題はそれが低値安定というか、実に好ましからざる状態で固定していることだ。

「たらいも」
「おかえりなさいマスター! 今日も不審者の影は見当たりませんでした!」
「うむご苦労。黒いのが来て一戦やらかしたとか言われたらどうしてやろうかと……」
「ぅ……」
「来たのか。来たんだな、んでやらかしてくれたんだな」
「……す、水銀燈は不審者じゃありません、ボクの姉妹ですから」
「う、判ったからその目玉だけぐりっと動かして視線逸らすの止めて。僕が悪かった」

 つまり黒いのが来て、また僕の部屋が派手に散らかされたという訳だな。薔薇の花びらと黒い羽根だけでも片せよお前等。
 買って来た物を冷蔵庫に入れて部屋に向かうと、丁度黒いのがふらふらと漂い出てきたところだった。視線を合わさずに逃げようとするので襟首をひっ掴み、とくと説教してやるため小脇に抱える。
 部屋の中では赤いのがふんぞりかえってテレビを見ており、ツートンとお貞が床でくたばっていた。
 畳の上は薔薇一輪分くらいの花びらと黒羽根が散乱しており、なんかの細い枝と苺のランナーも散らばっている。とどめに棚の上から何処ぞの土産物の舞妓さん人形が落下して無惨な雰囲気を醸し出していた。
 薔薇&羽根を使った殺人事件というところか。こいつらがバラバラになったときと違って実に凄惨な場面に見えるなぁ。
 そういえばうぐいす色がおらんが、遂に餌食となったのか。いや、逃げ出しただけか。あいつは士気が低いからなぁ。

 何にしろ、黒いのも愚かにも程がある。
 あれほど襲撃すんなと口を酸っぱくしているにもかかわらず、一向に我が家に遠征してくるのを止めようとしない。最初は僕が帰宅している間に来ていたが、襲撃を行おうとするたびに怒られて未遂に終わるので、最近は登校時間中を狙って襲来するようだ。
 まあ百歩譲ってそれは許そう。あまりにもアホだなと思うのは、黒いのが攻撃する相手は都合五体であるという点である。いくらなんでも勝てないだろ。流石に。
 それでも迎撃側も一向に戦術や技能が向上しないので、毎度毎度一つか二つまでは行動不能に追い込むのだが、自分の方もそこで燃料切れして退却と相成る訳である。
 まあ、その過程で結局全員分ゴム紐を取り替える破目になったのと、黒いのもこの桜田潤特製スーパー手抜き衣装に着替えることになったのは迷惑もいいところなのだが。

「一対五で勝ち目があると思ってんのか。学習能力が無いのはよく判ったが、誰か一人二人仲間に入れて戦うとか、下準備するとかなんか工夫せえよ」
「うっさいわねぇ。どう戦おうと私の勝手でしょう」
「ジュン、要らんこと吹き込むなです。これ以上強くなられたらこっちが困るんですからー」
「そのとおりよ。そもそも、戦いを待てと言ったのは貴方なのだわ」
「まあ、こんなに待たされるとは思わなかったからな……」

 もうちょい早めに決着が着くとばかり思ってた僕が浅墓でしたよ。
 森宮さんの弟くんにドレスを頼んでそろそろ二ヶ月近くなるわけだが、未だに何の音沙汰も無い。森宮さんにそれとなーく尋ねてみても、作ってるのは確かなんだが、部屋に篭りきりで工程は家族にも見せてくれないとか。なんですかその鶴の恩返し状態は。
 手が遅いのか、それともゲージツ家特有のあれですか。俺の作りたかったのはこんなもんじゃねーガシャーンパリーンってやつ。いや、服だから割れないけど。
 お陰で、こっちは遂にシャツもどきまで作らされましたよ。
 六色分の適当な布買って、型紙作って切り抜いて、手縫いで縫い合わせ。気分は花嫁修業してる乙女でしたが、出来上がりはどう見ても小学生の作った雑巾レベルですありがとうございました。
 人形の衣装とか、普通に糊付けされてるのもあるんだがなぁ……コイツ等は自力で動くから厄介なのである。適当な糊付けではたちまち無惨な状態になり、ギャースカ騒ぐのでまた補修という二度手間三度手間になってしまう。
 まあ、盛大に曲がってようが縫い目が不揃いだろうがチクチクやっとくのが確実なのであった。
 本当は他人様に頼みたいところなのだが、コイツ等による被害を拡大させないためには致し方ない。幾ら時間が掛ってるとはいえ森宮さんに頼んでる都合上、それが出来るまでの繋ぎに、ってのも色々と角が立つしな。
 決して費用をケチっているわけじゃないぞ。本当に。

「どの道七つめが出現するまではガチバトルにゃならんのだろうが、大概にして欲しいのは間違いないな」
「私はいつもガチンコよぉ……人情相撲取ってるわけじゃないわぁ」
「そのお陰でこちらは大迷惑なのだわ」
「その情熱を別のものにぶつけろやゴルァなのー」
「っていうか、それって負けてる言い訳になってないかしらー」
「アンタ達ぃ! いい度胸じゃない、ジャンクにするわよぉ」

 もう慣れっこだからどうでもいいのだが、そんな会話を流し聞きながら階段を下りてメシの用意をする。
 作り置きのカレーを解凍して朝炊いたメシにぶっかけ、もう一度レンジに入れて加熱しながら生野菜刻んでドレッシング掛けただけのサラダを皿に盛る。またこれか、と思わんでもないが、レパートリー自体が多くないから十日に一度は同じメニューになるのも仕方がない。
 少々不味かろうが何だろうが、量があれば良いのである。腹が減っては戦は出来ぬ。まぁカレー好きだし。
 ガツガツと食らっていると、斜め後ろからじいっと見上げてる視線に気付いた。

「どーした、お前も食うか?」
「人形はご飯なんて食べないですよ」
「うむ、お陰で養わなくて済んでいる。この上食費まで掛ったら家計がパンクするところだ」
「……」
「なんだ、アレだな。なんにも言い返さずに斜め後ろで佇むってのも地味に怖いなお前」
「よ、余計なお世話ですぅ」
「ほれ、少し移動せい。食器片すから」
「……はいです」

 洗い物をしてる間も、お貞はじーっとこっちを見上げている。あの、半端じゃなく気味が悪いんですが。
 慣れてる僕だからいいのだが、鳥海辺りだったら叫び出すだろうし、森宮さんなら間違いなく失神するね。

 森宮さんといえば、こないだは正直びびった。本屋で偶然会ったのだが、例の赤い服着てたのはいいとして、附いて来なさいといきなり手を掴まれて向かった先が、球体関節人形やらそれ関係の小物を扱ってる店。
 正直全く判らないほどじゃーないが、他のお客とのギャップがでかくて非常に居辛かったよ。みっちょんみたいな人は現実に居るのだなぁとか、森宮さんが異様に馴染んでたとかまぁいろいろあった訳だが。
 しかしあの店、ニセアカシアって名前はどうにかならんのかと思う。場末のスナックかよ。だいたいニセアカシアつったら護岸工事で植えられるアレだろ。川原で蔓延って伐採されそうだぞ。
 それはそれとして。よく考えればあの後マックの二階で(彼女は初めてだったそうで、不味いと連発しつつ食ってました……ジャンクフード全般食ったことないんだろうなぁ)ひとくさり話を聞いたのも含めて、デートみたいだったなと思わんでもない。
 まあ、正直現金なもんで、最初はあんなに青春の一頁してた僕の心も、森宮さんの恋愛対象が別に居ると知ってからはさほど躍らなくなった。いや誘われて嬉しいのは変わんないけどさ、もう恐らくこういう関係から発展せんのだろうなと思うとねぇ。
 っていうか、逆だよな。そういうつもりが全く無い上に珍しく人形の話なんかできる相手だから気軽に連れ回したりするんだろうな。
 今後だんだん状況に慣れてきて、石原に呼び出されて買い物したりメシ食ったりすんのと似たようなもんになったらどうすんだ僕……。なんか切なすぎるわー。

「ジュン、ジューン! も、戻ってこいですぅ」
「あ、わが身の不幸を嘆いていただけだ。気にするな」
「いきなり涙流し始めたから何が起きたかと思ったですよ……」
「涙は心の汗だからな。で、さっきから何なんだお貞」
「その呼び方はいい加減やめるです! ……何なんだって、なんのことですか」
「さっきからずっとこっち見てんのはなんでだよ。なんかおねだりでもあんのか?」
「……ぅ、そ、そのぉ……」
「なんだ珍しいな。はっきり言え」
「……来週の月曜日、あ、明後日ですけどぉ、二月十四日ですよね?」
「おお、そういやそうだな。素晴らしい。無料のチョコレートが食える日だ」
「やっぱり、誰かから貰えるんですね、バレンタインチョコ」
「そう言うと少々語弊があるが、他人様からロハでチョコレートが貰える日なのは間違いない」

 中学の頃から恒例なのだが、二月十四日は石原から、本人曰く「食べ切れない分の」チョコレートのお裾分けを頂ける日である。
 三月十四日に合わせてきっちりお返しを徴収されることも含め、あまり深く考えると我が身の不幸に更に滂沱たる涙を流さざるを得なくなるので思考停止することにしているが、そういう日なのである。
 今年はヤツからどの程度お裾分けが来るのか楽しみだ。楽しみだ、ということにしておく。

「翠星石も……上げたいのです」
「誰に? ていうか何故に?」
「う……うっせーのですよ! に、人形がチョコ上げちゃいけねーですかぁ!」
「いや、いけないことはないだろうが、ちょっと──」
「女の子が、す、す、好きな人や恩義を感じた人に気持ちを伝える日なのです! だから、だから……っう」
「……」

 まあ、相手が誰かは聞くまい。しかし、無理があるだろう。
 コイツ等の手の指は動かない。手首までは自由に動かせるから、頑張れば板チョコを両手で捧げ持つことはできなくもないだろうが、すぐ落としてしまうだろう。
 手指と胴体の関節が動かないというのは、結構致命的だ。コイツ等が何等生産的な行為が出来ないのも、そこに原因があると言ってもいい。
 ふむ。だがまあ、しかし。完全に不可能かと考えるとそんなこともなさそうな気がする。

「お前が出来合いのチョコレートを運搬し、現地で置いてくることだけならできなくもないな」
「ホントですか、やったぁ! よかったですぅ!」
「ま、取り敢えず明日な。あと、僕が買ってくるんだから、ただの板チョコだぞ。それでいいのか?」
「なんでもオッケーです。あ、でも……できたら二つにしてくださいです、お金掛っちまいますけど……」
「この強欲者め。ま、いいだろよ。板チョコ二枚分くらい、石原からせしめて元は取れるし」
「ありがとです、ジュンっ」

 ぺこり、と頭を下げて、それからお貞はヒョコヒョコと出て行った。
 あれでも当人形にすれば勢い良く走ってるつもりなのだが、動きがどうにもぎこちないのと胴体に関節が無く固定されてるせいか、早回しのストップモーションアニメにしか見えない。
 暗がりでは絶対に見たくない光景だな、と思いつつ、後片付けを済ませて部屋に戻る。
 人形どもはそれぞれに寛いでおったが、黒いのだけは逃亡したらしく不在だった。まあいいか。回復されてドタバタやられるよりはマシだ。
 ツートンと鋏になにやら機嫌よく話をしているお貞がちょっとばかり女の子っぽく思えてしまったのは、内緒だ。
 ……しかし、持っていく相手がどういう顔をして受け取るのか、というより受け取るまで正気を保っていられるのか。そっちの方により興味もあるわけだが、それも内緒な。

 そんな日常(考えてみれば随分厭な日常である)そのものの風景に異変が起きたのは、課題を済ませ、床で転がってる連中をどかせて布団を敷いていたときだった。
 いきなり、家中の電気が落ちた。
 ブレーカーが落ちるようなことはやってないはずなのに、いきなり照明が全部消え、テレビも沈黙しやがった。
 とっさに窓から外を見るが、外の風景はそのまんま。普通に明かりはついている。
 なんだ、どうした。どういうことだ。

「いや、犯人は明白だな。黒いの、遂にブレーカーを落とすまで知恵を──」
「──ちょっとぉ! 真っ暗になっちゃったじゃないのよ! よりによって人が帰ろうとしてるときに洗面所の電気消すぅ!? ジャンクにしてやるわよ!」
「あれ? じゃ誰だ」

 なんにしてもまずはブレーカーを上げないと話が始まらん。暗がりの中、懐中電灯の位置を忘れた僕は手探りで玄関のブレーカーのところに向かった。
 幸い、以前から位置は把握している。案の定落ちていたブレーカーのレバーを上げてやると、家中の電気はあっさりと復活した。畜生、どの残念人形がどうやったか知らんが、悪戯が過ぎるぞ。
 そんなことを考えつつ辺りを見回すと、なにやら紫色の何かが目に入った。
 復帰した玄関の明かりに照らされて、やや逆光気味のそれは──
 あれ? こんな遅くにお客さんですか?
 いや、待て待て。まず、スケールが違う。人間は子供でもこんなに小さくない。
 次に、白髪であり、虹彩が黄色で、更に眼帯しているような人は非常に少ないと思う。それも薔薇の意匠なんか付けて。

「ま、まさか……これは……紫の薔薇の人?」
「……わたしのなまえは薔薇水晶……ローゼンメイデン、第七ドール」
「えええええ? おいおいおい、マジかよ」
「マジ……」

 おい、なんだ、何がどうなってる。
 なんでばらしーのノンスケールドールが言葉喋ってんだよ。これはなんだ、ドッキリか?
 全高九十センチくらい。これが噂の中華メーカー製大型ドールか。ってこないだ知った話だが。
 ていうか、正直、これ確かにビビるけど、むちゃくちゃ可愛いんですが。

***********************************************
※2/13 正直正直連発しててうざいので訂正しました。
※6/11 ちっと似たような名前のお店があるみたいなので、「Rosen工房」に統一。



[24888] 第二期第二話 緑の想い
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/08/06 22:04
「ジュン! どうしたの」
「来るな! 赤いの。危険が危ない」
「! ジュン……あ、ありがとう、でも行かねばならないのだわ」
「一体何が……って、え? ドールが?」
「黒いのも寄るな。その場で警戒だ!」
「何命令してんのよ、このお馬鹿さぁん!」
「……あの」
「見るな。良い子は見ちゃいけません。赤と黒、二つの恐怖の塊が近づいて来る。赤は血の色、黒は罪の色オーレ! だ」
「はい……」
「訳判らないこと言ってんじゃないわよ」
「そういうことなのね……。下僕の分際で恐怖の塊呼ばわりとは良い度胸なのだわ」


 ~~~~~~ 第二話 緑の想い ~~~~~~


 ああ、もう来てしまった。残念人形二体様ご到着。その後から続々と残り四体。
 この手で分解清掃及び被服製作を行ったとはいえ、かなりクる光景であるのは間違いない。間違いないのだが、動きと足音でそれぞれの特徴を判ってしまっているのも悔しいが事実だ。
 パーツの合いが良いのか、割りに規則正しいのが鋏。脚の長さが左右で微妙に違うせいかひょこひょこという感じなのがお貞。少し渋いところを避ける傾向があるのか妙に歩幅が小さいのがツートン。重量バランスが悪いせいでちょっと走るとコケそうになるのがうぐいす。
 赤いのはやっぱり少しバランスが悪くて、それを気にしているのかノソノソと動く。そのくせ、いやそれだからか、思いも寄らん場所まで入り込んだりしやがるから始末が悪い。
 黒いのは数回に亙って清掃されたお陰で関節の擦り合わせは一番良いはずなのだが、パワーの無駄な消耗を覚悟でふよふよ飛んでいることが多いのは、砂が噛んでたときの癖なのだろう。
 まあ、そんなことはどうでもいいのだが。
 後ろに向き直ると、ばらしーは言われたとおりに目を押さえていた。あれ、なんて素直な子。
 つーか……この指は。

「指に全部球体関節が……ちょっとこれ凄いじゃない」
「おい、人の台詞取るんじゃねぇよ」
「外見より可動性を取る。恐らく製作者は男性だね、アクションフィギュア好きなのだろう」
「でもぉ、マニキュアとか本物使ってるですよ。これは女性の仕事ですぅ」
「服の生地は地味に良いものを使っているわ。縫い目も綺麗。製作者は本当にドールを愛している人ね」
「お靴は本物のレザーなのぉ! 凄いのよぉ」
「髪の毛の質感は人毛みたいかしら。重くてさらさらした素材って何かしらー」
「あ……あの」
「要約すると、金と技術と手間に糸目をつけずに作った職人技の逸品ってことだな」
「基本は市販品のキャストドールみたいだけどぉ。確かに出来はいいわねぇ」「かしらーかしらー」「可愛いですぅ」「うんうん」「ヒケのない無発泡ウレタン。現代技術の粋なのだわ」「綺麗なのよー」
「あの……目を開けて……いいですか」

 はっ。いかんいかん。ついかごめかごめ状態になってしまっていた。ていうか背丈の差で白雪姫と七人の小人状態(ディズニー映画ほどの背丈の差はないが)。ドワーフ小人に約一名トロルが混じってるが気にしない。
 取り敢えず玄関では何なので、第七ドールを名乗る人形を連れて部屋に戻る。黒いのもなんとなくついて来たが、帰るんじゃなかったのか。確かどっかにねぐらを確保してるはずなんだが。
 ちなみに階段で両脇に二体を抱えて三往復する破目になったのは言うまでもない。自力で上るのを待ってたら朝になってしまう。
 最後にお客を御姫様抱っこして部屋に入ると、合計六つのブーイングが。お客なんだから待遇がいいのは仕方なかろう。迂闊に壊したらどっかから損害請求されそうな気がするし。
 座布団に座らせ、改めて挨拶を行う。うーむ、やはり出来はいい、というか思ったほど人間っぽくは見えないもんだな。

「で、君、何しに来たの」
「……アリスゲームを」
「ローゼンメイデンの第七ドールとして?」
「はい……」
「えっと、ここ、に?」
「……はい」

 いやいやいやいや、ちょっと無理あるだろ、それ。
 他の何処かにローゼンメイデンを自称する人形が居るならそっちとの間違いだ。もしコイツ等の末っ子とか言われても信じられん。理由は一々挙げるまでもあるまい。
 まあ、お父様の超絶技法(by赤いの)により動力源を埋め込まれて自律行動するお人形というようなトンデモな物がそうそう大量にあるとは思いたくないのも事実だが、それにしてもな。違いすぎる。
 ていうか、ぶっちゃけローゼンメイデン繋がりなのと、自律して動いてる人形ってこと以外に何等の共通項も見出せないんですが。

「お父様は……真紅……翠星石……蒼星石……みんな倒してわたしがアリスになれと……」
「まぁアニメ版のアリスゲームの趣旨としては全く間違ってないが、生憎と別人だぞ多分」
「ここ……桜田ジュンさんの、おうち」
「如何にも左様に御座候」
「場所……間違ってません」
「なんと」
「真紅はミーディアムの家に住んでいる……それが、ここ」
「ううむ。この隠れ家によくぞ気付いたものよ。いや隠れてないけどな」
「お父様のDVDを見て……学習しました……住所は住宅地図で……ばっちりです」
「なんて庶民的な。ていうか得意気に親指立てないの。しかし全部で二十六話見たのか。ご苦労さん」
「時間……掛り過ぎて……第二期は諦めました……」
「気分は判るがむしろ第二期見るべきだろ、そこは」
「今度……見ます……それで、あの」

 きょろきょろし始めたのでトイレでも行きたいのかと思ったが、よく考えたら人形だった。
 なお、髪の毛が綺麗なサラサラヘアーなので、薔薇水晶というよりは漫画の水銀燈がばらしーの衣装着てるといった感じではある。
 ああいや、そうじゃなくてだな。どう考えてもこれは第七ドール(偽)か第七ドール(どっか別の所の)です。だってばらしーだし。
 であるからには、取り敢えず今晩はお引取り願わなくてはいかんな。仮に何かの間違いで本物だとしても折角片付けたところをとっ散らかされたらかなわん。
 ……とか思っていたら、紫のお嬢さんはある意味想定どおりのことを言い出した。

「真紅、翠星石、蒼星石……いないのですか」
「さっきから目の前に居るのだわ」
「片目に眼帯してるから遠近感が掴めないんですか? ここに居るのです」
「遠近感の問題じゃないような気がするが、その赤いのが真紅で緑色のが翠星石を名乗ってるぞ一応」
「……え」
「あれ? そういや鋏は?」
「時間になったから夜の巡回に出ちゃったのー」
「……」
「なぁんかお呼びじゃないみたいだしぃ、飛べるようになったから帰るわぁ」
「おやすみかしらー」
「応、ちゃんと洗面所の電気消してから帰れよ。一昨日点けっ放しだったぞ」
「わかってるわよぉ」
「……あの」
「ん?」
「なんだか……イメージしていた物と姿形が違うのですが」

 退却しかけていた黒いのを含め、その場の全部の人形の動きが止まる。
 ほらな。そーだよな。
 紫の薔薇の人はDVDで学習したんですよね。ええ、現状でちっとも似てませんコイツ等。
 漫画&アニメの如くパーツが人肌っぽく柔らかくなったり手の指やら顔が自在に動いてメシ食ったりしないってところは、この子もさっきの感触ではレジンキャストドールのままなので置いとくとしても、だ。
 今のコイツ等はローゼンメイデンそれぞれのパーソナルカラーに近い原色の手抜き上着&スカートを身に着けた、妙にぎこちなく動く謎の自動人形ってところに過ぎません。
 僕の予想では森宮さんの弟くんが作ってる衣装って、多分ローゼンメイデンのやつなんだけどね。まあでも、今んとこはマエストロサクラーダ=モリミーヤの手による超絶美麗衣装じゃなくて、桜田潤謹製のカラー雑巾もどき纏ってるだけだから。
 ご面相を含む本体の造形に至っては……。いや、何も言うまい。

「だからさ、やっぱ間違ってるんだって。な、な」
「……そうなのでしょうか……でも、この辺りにサクラダ・ジュンは貴方一人しか……」
「あー、住宅地図だとそーかもねー。それにしてもカタカナで書くとウルトラシリーズっぽいよね」
「古い町内電話帳では一人も……」
「そこまで調べたんかい。ってかやり過ぎだろ」
「……頑張りました」
「いやVサインじゃなくて、その熱意を別のどっかに向けようよ」
「はい……!」
「え、なんかいきなり素直だなオイ」
「心が決まりました……イメージしていた姿形とは違いますが……熱意は、アリスゲームに……」
「ちょ、おま、待て」

 なんて素朴に好戦的なんだ紫の薔薇の人。っていうか、立ち上がってどっかから召喚したのは紫色の剣かよ。
 やばい。そんなもん振り回された日にゃ壁紙は裂け、障子や襖は破れ、柱は傷つき蛍光灯が割れてしまうかもしれんではないか! 嗚呼、蛍光灯の運命や如何に! 刮目の次号を……

 とか言ってる間にもう始めてるし。
 つーか、一方的に追い立ててる。主に赤いのを。赤いのはご自慢の薔薇の花びら(効果:関節の隙間に詰まると取れにくい)も出せずにノソノソと逃げ回り、それをばらしーがぶんぶん剣を振って追いかけてるという寸法。
 原因はよーく判っている。今日、僕が帰ってくる前に黒いのが襲撃してきたせいで、花びらを撃ち出すパワーが残っていないのだろう。撃ち出したところで何がどうなるわけでもないんだが。
 紫色の剣を割と大雑把に振り回してるところを見ると、実はこのばらしー、本当にコイツ等の七番目の姉妹じゃないかと思えてくるほどだ。端的に言ってしまうと、同程度にしょぼい。
 あの壁から飛び出す紫水晶の大結晶はどうしたばらしー! あれだけでかくて綺麗な結晶なら、十分売り物になりそうなのに! やっぱり現実は僕に優しくないのか畜生。
 そうこうしている内に、ばらしーは赤いのを部屋の片隅まで追い詰めた。

「あなたは……かわいそう。戦えないのね……」
「くっ……」
「戦えないなら……わたしにそのローザミスティカ……ちょうだい」
「勘違いしないで。私は戦えないのではないの。戦わないのだわ」
「……え?」
「私達はアリスゲームを戦う敵同士。でも今は休戦協定を結んでいるの、お互いにね」
「どう……して?」
「私達の恰好を見れば判るでしょう。何も好き好んでこんななりをしている訳ではないわ。衣装が出来るのを待っているのよ。私達の死出の晴れ衣装を」

 うおっ、すげえ。ばらしーが天然入った純朴な少女っぽいと見て、感性に訴えかける話で矛先を逸らそうとし始めやがった。
 自分が実はエネルギー切れなのをさらりと隠してる辺り、流石は赤いのである。伊達に作られてから百年以上(推測)経ってませんな。
 ともかく、ばらしーの剣の動きは止まった。僕はそーっと近づいて、その肩にぽんと手を置く。
 振り向いたばらしーに優しく微笑んで、首を振るとその手から紫の剣を放させて預かった。これで後は赤いのの独壇場だな。

「私達、凄腕の職人に服とウィッグなど一式を作って貰う事になっているの。というより、今作って貰っているのだわ」
「衣装……」
「私達も女の子よ。こんな恰好では死んでも死にきれないでしょう? だから、今はドレスが届くまで休戦中なの。そこの水銀燈が遊びに来て少々散らかして行くくらいでね」
「あのねぇ、遊びじゃないったら」
「いーから黙ってろですぅ」
「衣装が到着する前にアリスゲームをして一人でも動かなくなる者が出たら、キャンセルして貰う予定よ。職人さんに気の毒だし、着れない子が可哀想ですものね」
「……え」
「そうだわ。この間の雰囲気では、恐らく衣装は貴女の知るローゼンメイデンのものになるでしょう。水銀燈から雛苺までの六体分ということ。アニメの簡略化された衣装ではなくてよ。この真紅のものなら、ケープにも裾にも黒のフリルが付いているのよ」
「……」
「到着したら、まずはみんなで着回してみる予定よ。折角の衣装ですもの、貴女も色々試した方がいいと思うでしょう?」
「はい……そうですね」
「実は私達、ボディの大きさはみんな殆ど同じなの。手足の長さで身長が決まっているようなものだから……ああ、そう言えば貴女、ボディの大きさは私達と似たようなものなのね」
「そうでしょうか」
「ええ、手足がとても長いもの。羨ましいわ。お腹部分が少しブカブカするかもしれないけれど、多分着れるのだわ」
「はっ、はい」
「全部で六種類の綺麗な衣装……ということになるわね。金糸雀の愛らしさも翠星石の烈しさも蒼星石の切なさも真紅の気高さも雛苺の無邪気さも……貴女は幾つもの貴女になれるのだわ……!」
「私が入ってないのはどういう意味よ。っていうかアンタは腹黒でしょうが」
「しーっ、黙ってるかしら」
「着てみたいです……なってみたいです」
「貴女にも着させてあげられるわ。誰もそのときまで脱落しなければ、だけど」
「あ、ありがとうございます……!」
「私達の戦わない理由、判って貰えたかしら」
「はい!」
「いい子ね。貴女はとても素直な、可愛らしい子なのだわ」

 赤いの……恐ろしい子……!
 なんか、純朴な子の弱みを衝いていとも簡単に言いくるめたよ。しかも嘘は言ってない。強いて言えば若干誇張しているだけで。
 ていうか、その指が動かない手で優しく頭撫でてやってるのって、傍からそれだけ(顔が見えないアングルで)見たらなんか妙に感動の一枚なんですけど。
 暫く和やかにお話をして、ばらしーはお帰りと相成った。さっきと同じくお姫様抱っこしてやって、階下に降りる。
 鏡でなくきっちり玄関から帰って行くばらしーの後姿は、なんだかスキップ踏んでるようだった。動かないはずの表情さえ心なしかうきうきしてるように見えたほどだ。
 事故に遭わないように気をつけるんだよ。何処に帰るか知らないが。
 なんか、あれが第七ドールかどうかなんてどうでもよくなってしまったよ。何故か訳もなく感慨が湧いてくるのであった。

 ……純朴な少女はこうして悪いヤツに騙されて行くのだなあ、と。


 翌日の晩、ばらしーは来なかった。まあ、来ても多分大した事にはならんだろうな、というのは大体予想つくわけだが。
 手足が満足に動かなくても、メシや飲み物が摂取できなくとも、特殊技能がショボショボでも、相手が純朴な子供なら勝てるのだなぁ。なんだか、昨日ちらっと感傷的になったのがアホらしい。
 やはりコイツ等は人情の欠片もなければ血も涙もない狡猾な人形なのであった。
 まあ、それでもなにがしかの乙女心はあるかもしれないわけで。
 普通は使ってない、洗面所の隣の四畳半でお貞に支度をしてやる。

「ほれ、出来上がりだ」
「ふえ……なんですかこの手首に巻いてある紐は」
「それ引っ張ってみ」
「わ、わわわ! 結び目がほどけたですー!」
「紐引っ張ると背負ったハンカチが解ける寸法だ。後は少し移動して振り落とすか、相手に取り出して貰え」
「はいですぅ」

 もう一度結んでやって、日付が変わる頃に洗面台の鏡から送り出す。板チョコは本人形の希望で一枚だけ入れてやったから、あと一度やらされるのか。まあいいけどさ。

 ~~~~~~~~~~~~~~

「おいコラ、まーだ寝るのは早いですよ。起きるですこのコンコンチキ」
「うわぁっ、な、何だ、お前は桜田のとこに行ったんだろ! 忘れた頃にやってくんな」
「うっせーです。お前にゃ迷惑掛けたから、詫びの品を持ってきてやったんですよ」
「な……? おいなんか落としたぞ」
「拾いやがれですぅ」
「チョコレート……? え、俺に?」
「これで義理は果たしたですよ。あばよですぅ」
「あ、おいちょっと待て!」
「……なんですか」
「さ、三月十四日にもう一度来い。お返しをくれてやる」
「……」
「人間が人形から貰ってお終いじゃ気が済まないんだよォ。いーか、ぜ、絶対来いよ。そのときは電灯点けて待ってるからな」
「……はいです……」

~~~~~~~~~~~~~~~

 暫くして、お貞は帰って来た。案の定もう一度仕掛けを作ってくれと言うので、言われたとおりに作ってやる。
 またすぐに洗面所の鏡から出て行くかと思ったら、案に相違してそのままじーっとしている。

「なんだ、追加工作でも必要なのか」
「ち、違います」
「じゃあなんだ。銘柄が気に食わんのなら帰りに別のを買って来てやってもいいぞ」
「それでもないです……その」
「あーあ、なんで解くんだよ。折角作ってやったのに」
「いいんです。……チョコ拾ってくださいです、ジュン」
「はいはい。ほれ、また背中向けろ」
「だからー、いいんですぅ。それ、ジュンが食べやがれですっ」

 ああ。そういうことなのか。
 思わず僕は笑い出していた。なんだなんだ、なーに回りくどいことしてるんだよこの人形は。

「わ、笑うなです! この馬鹿人間!」
「だ、だってさ。あは、あははは、だってお前、僕が買ってきたチョコで、僕が工作した仕掛けじゃんかこれ」
「う……そ、そうですけど、い、いいじゃないですか!」
「うん、いい、すっげーいい。笑えるわ。あは、あはは」

 笑いながら僕は、残念なドールを抱っこしてやった。
 ありがとうな、今まで貰った数少ないチョコの中で一番嬉しいや、と言ってやったら、お貞は返事の代わりにもぞもぞと動いてみせた。
 まあ、まさか本命って事はないんだろうが、だとしたら傑作だ。畜生、笑いすぎて涙が出てくらあ。
 戸口から鋏が訝しげに覗いているのが判ったが、僕は暫く笑い続けた。



[24888] 第二期第三話 意外なチョコレート
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/08/06 22:05
 明けて翌朝。
 目覚めた僕は枕許に銀色に光る小さな丸いものを見つけた。
 なんだこりゃ、と摘み上げると、チョコレートの匂い。何処にでも売ってる、八個入り幾らとかのロングセラー商品だ。中にアーモンドが入ってるヤツ。
 よく見ると少し角が凹んでるし、ちょっと汚れてる。
 誰が持って来たかはすぐに判った。ていうか、あいつ以外ありえない。

「……なんだかなぁ」

 碌に手が使えない人形が、どうやってここまで運んできたんだか。ずっと念力で支えて来たんなら随分と無駄にパワーを消費しただろうし、僕がお貞にしてやったのと同じような仕掛けを作って持って来たならそれはそれで仰々しい話だ。
 メシ前に天気予報を見ようかとパソコンを立ち上げ、ブラウザを開くと、寝る前に開いていた絵師さんのサイトが更新されていた。
 未だにローゼン絵が多いところで、ドールそれぞれのヘッドドレスのカラー絵が見れるから開いていたんだが。
 トップ絵が、バレンタイン物になっていた。エプロンを着込んであちこち(口許とか)にチョコレートのかすを付けながら、こっちに向かって恥ずかしそうに「I Love You」と字の書かれたハート型のチョコレートを両手で差し出している水銀燈の絵だ。
 自作なんだろうな。それで、作ってる合間に上手く行かなくて結構自家消費しちゃったりしてるって感じか。上げてる相手はめぐちゃんなのかジュンくんなのか。
 結構力の入った可愛い絵だったが、なんとなくやるせない気分になって、僕は天気予報も見ずにパソコンをシャットダウンした。

 物も食えなければ細かい細工も出来ない。奇怪な人形どもではあるが、女の子として見れば随分寂しい話だ。


 ~~~~~~ 第三話 意外なチョコレート ~~~~~~


 登校すると、石原は紙袋を広げようとしているところだった。制服のポケットにも既に幾つかのチョコレートが入っているらしく、不恰好に膨らんでいる。いや、むしろ膨らんでるのが勲章なのか?
 そんなことを考えてる間にも、女子が石原に手作りらしいチョコの箱を渡してる。ラッピングに凝ってないのは、まぁそういうことなんだろうな。
 石原の方も特に躊躇することなく、誰から貰ったのかを付箋付けて紙袋に入れて行く。まめなんだが、確かにまめなんだが、何か間違ってるような気がしないでもない。
 しかし、実に堂々としたもんである。特に持ち物に煩くないウチの学校だからできる真似とも言えるが。

「やあ、邪夢君おはよう」
「よう。今年も大漁だな……」
「まあね。前より気分的にはきつくないけど、肥満が心配かな」
「しれっと言われるとこっちとしては複雑な気分になるわけですが」
「あはは、気にしない気にしない。あ、そうだ、これいつもの」
「……ありがとうございます」
「いや、もったいないし」

 手渡されたのはキッチンペーパーに包まれたチョコレートのかすである。
 石原は作らないらしいが、菓子の自作に凝ってる石原の姉貴が毎年ここぞとばかり大量にチョコを作るのだ。で、鍋などにごってりとかすが残ると。
 そこをまめ(ケチとも言う)な石原がへらで削り落とし、僕に寄越すというわけである。なんて乞食状態な僕。まあ、味はチョコレートだからいいんだが。
 元はと言えば二月十三日の行事のようなもので、数人で摘んでいたものだが、高校に入ってからは石原自身が食わねばならんチョコの量が劇的に増え、十四日に備えて食べないことにしたんだーとか言われて僕一人が受け取ることになった。更に今年は十三日が日曜ということで、こういう形になった次第。
 周囲の生温かい視線が痛い。てか誰もツッコミ一つ入れないのはあれか。既にそういうキャラとして確立してしまってるのか僕は。

「それで、こっちがウチの姉貴の。代理で御免ね」
「……一ヵ月後のお返しの催促ですかい旦那……」
「いやあ、真心篭ってると思うよ? 僕は食べてないけど」
「今年は財政的に苦しいから、あんまし期待すんなって言っといてくれよ……」
「まさか。ちゃんと期待してます」

 ニヤリと笑い、煎餅か何かの四角いブリキ箱を僕の机の上に置く。
 蓋を開けると同時に周囲のハイエナどもが群がるのは、去年既に学習しているせいだ。結局僕が食べたのは二つだけで、キッチンペーパーの上に並んでいた五列×四個のトリュフチョコはあっと言う間に恵まれない子供達に均等に分け与えられてしまった。
 石原の姉貴のチョコレートは、いつもこうなのである。「皆様で御召し上がりくださいませ」的な作り。そして大量。どう考えても義理とか本命とかいうレベルじゃない。
 っていうか、常日頃からお菓子作り慣れてるから、今更凝ったチョコレートをちまちま作る気にもなれないんだろう。それよりはこの機会にみんなに食べて貰おうという寸法なのだ。
 まあそれはいいとして、分け前が十分の一なのに三月十四日にお返しを徴収されるのが専ら僕というのはどうにかならんのか。今年も石原の姉貴のチョコレートは色々な意味でビターだった。
 ついでに言うと本人が目の前に居ないため「チョコ貰った!」という嬉しさもない。一ヵ月後のお返しばかりが思い浮かぶのであった。

 放課後までに、石原の紙袋は付箋の付いたチョコレートで一杯になっていた。
 あれを一通り全種類食わねばならんというのもある意味で地獄だと思うが、もっと気になるのは相変わらず膨らんでいるポケットの中身である。あっちはいつ食うのだろうか。
 まあ、順当に行けば今年もあっちの方は僕にお裾分けは来ないだろう。そして、主に食欲の面でお裾分けを期待している僕。嗚呼、なんて色気のない二月十四日なのだ。
 今年は文芸部室でお裾分け会を開くと言うので、既に朝から石原の手下状態の僕はへいへいとついて行く。会、と言っても会員は僕と石原と石原の姉貴の三人だろう。去年はそうだった。

「お待たせ」
「おっ、来ましたねぇ欠食児童」
「なーにか。貰った分の材料費は軽く上回る額を一ヵ月後に徴収されてるぞ。ギブアンドテイクだぜ」
「はいはい、今年も期待してますよ」
「へいへい。今からお楽しみに、だ……」
「……あら。ジュン」

 あれ、森宮さんがいる。ああ、そっか、文芸部だったっけ。
 最近図書館に行かないせいか、制服姿になんか違和感がある。というより、なんか深紅のビロードの服が似合い過ぎてるんだろうな。
 こうしてると、ほんと落ち着いてる感じだ。まあ、図書館の真ん中に本積み上げてるんだろうから目立たなくはないんだろうけど。衣装ってのは大事なのかね。
 先週の日曜以来だったが、特にそっちの話をすることもなく、森宮さんは本を閉じて机の上のチョコレートの山を見た。

「聞きしに勝る凄い量ね」
「友チョコ、百合チョコだけじゃなくて、この機会に美登里に自作のお菓子を試食して貰いたい子が結構いるんだよ。意外にもね」
「そういう子はチョコレートケーキとかが多いのですよ。だからこうなってしまうのです。人数は二人分合わせても十人くらいなんですけどね」
「あ、これ付箋付いてるのは全部感想希望だからね。今年は僕宛てのチョコなんて五つあっただけだよ」
「あのー僕、一つもないんですけど。『美登里ちゃん特製』の振る舞いチョコ以外は」
「あら、そうなの。意外だわ」
「伊達に彼女居ない歴十七年じゃないからね、邪夢くんは」
「ええ。もうばっちり筋金入りです」
「改めて身近な他人に言われるとすんごい腹立つんだが」
「あ、じゃあ別にいいですよ、お帰りはあちらです」
「すいませんすいません! 是非ご相伴させてください!」

 僕が掌を合わせて頭を下げると、森宮さんが思わず笑った。掛け合いに見えたのかもしれんが、すいません半ばマジです。こちらも成長期の少年、しかも甘いもの嫌いじゃないし。ロハで物が食えるイベントはパスしたくないんです。
 とはいえ、石原でさえ五つ貰っているのに、僕が実質ゼロというのはまさにいただけない。
 まあ、奇怪な人形からは貰ったが……。それは、またなんか違うし。
 そんなことを考えている内にも開封&試食が進む。三人が大体半分くらいを三等分して食べ、それぞれの感想やら何やらを述べてそれを石原がモバイルPCに打ち込んでいく。字で書くと真面目な会合に思えるから不思議だ。
 ちなみに僕は残り半分を貪り食いつつ適当な所見を述べるのだった。但し採用されることはごく少ないようである。
 最初の頃は雑談やらコメントが賑やかに出ていたものの、所詮は似たようなものの羅列である。試食が進むに連れてだんだん静かになっていくのは致し方あるまい。最後は殆ど必要最小限の会話しかなくなっていた。
 いい加減カカオの香りが食欲を刺激しなくなった頃、漸く机の上の自作チョコレート菓子の群れは片付いた。ああ、これで夕飯は必要なくなったなぁ……。
 摂取カロリーが何日分になるかは敢えて考えないようにして、ペットボトルのお茶を飲む。今晩眠れるんだろーか……。明日遅刻しないようにだけは注意せんと。
 打ち込みを終わったらしい石原が顔を上げた。

「これで一応上がりかな。皆さんご苦労様でした。特に邪夢君」
「応。こちらこそゴチになりやした」
「三月十四日が楽しみですねぇ。ひっひっひ」
「それは言わないでくれ……。まあ、なんか考えとく。春休みのバイト含めて」
「楽しみだなぁ」
「私も楽しみにしていいかしら?」
「いいですよー。留美も貰う側ですからね」
「え、ちょ」
「まさか駄目とは言わないよね、邪夢君」

 まあいいけど……さ。
 ただ、本音を言うと森宮さんには個人的にお礼がしたいんだが。全員でどっか行くというのも確かに楽しいかもしれないけど。
 石原姉と森宮さんは何処かに寄るとかでさっさと先に出て行った。僕はその場の後片付けをして、石原は暫くメモを纏める作業を続ける。後でプリントアウトして渡すとのことだ。そこまでするのか、と思わんでもないが、女子の世界は面倒らしい。
 さて、まあ今日のところは僕の出番は終わり。これ以上の配給はない。
 石原も石原の姉貴も、個人的に貰ったチョコは責任もって食べるらしい。まめな連中である。まあ数もさして多くないらしいが。
 僕も帰って、余裕が出て来たら……いや今は遠慮したいが、寝るまでに食べる気力が湧いたら人形どもの乙女心の発露でも頂きますか、と立ち上がったところで、目の前に思わぬものが差し出された。

「はいこれ、僕の手作り」
「ええ? お前のが手作り? 姉ちゃんのじゃなくて?」
「まあ、たまにはいいかと思って。市販の割チョコ溶かして型に詰めただけさ」
「ありがと……食うの明日回しになるけど、いいか?」
「あはは、まあ君らしい正直なコメントだけど、構わないよ。今日はもう一杯一杯みたいだし」
「助かるわー。本人の前で失礼なのは承知だが、明日試食結果を聞きたいとか言われたら流石にきつい。頂いたからには美味しく食べたいし」
「そ、そう? 期待してもらうほどの物じゃないよ、本当に。何も味付けとかしてないから」

 珍しく焦ったような声を上げる石原に最敬礼して、再使用と思しきリボンで田の字に縛られた平べったい包みを押し頂く。
 毎年貰う数少ない相手だし、お返しはきっちり徴収されるものの、実は今年は格別嬉しかったりする。
 なにしろ石原葵が自作チョコを作ったのは中学一年以来のはずだ。
 双子の姉貴の美登里が結構料理とか家庭科関係が上手で、そこにちょっとばかしコンプレックス持ってるのか、妹の葵はほとんど反対のキャラを演じている。まぁほとんどは地なんだろうけどさ。
 一人称は「僕」だし、基本的にパンツルック。学校に限らず街中で見掛けても化粧っ気もない。ついでに、理系だ。僕や姉貴と同じ高校に入ったのが少々不思議なくらいだが、何か事情があったんだろう。
 まぁ、それは置いといて、細身でボーイッシュ、ちょいと毒舌なところが女子には受けるらしい。毎年、チョコレートと言えば貰う方だ。百合チョコってのか、あからさまな連中だけじゃなく、試食してーって持ってくる女子のうち何人かも、石原にちょっと倒錯した感覚を持ってるはずだ。
 そんな石原が珍しく自作したチョコレートだ。まあ例年の如く義理に過ぎないし、多分時間も手間もさして掛ってないブツな訳だが、やはり特別な感じがするのさ。
 いざとなると現金なもので、こういうときは黒いのやお貞のことはあまり気にならない。僕も大分不人情ということか。

 校門で石原と別れて家路を辿り始めると、寒さが身に染みた。コートの襟を立て、よそ見せずに足早にスーパーに向かう。
 私小説みたく家に帰りつつ風景や人々に事寄せて様々思い巡らしたいところだが、哀しいかな、野菜類が安売りのときは見逃せないのである。今シーズン高値だし。
 僕の足は、しかしスーパーに入る前に強制的に止められた。本屋の前で、脇から伸びてきた手が僕の腕を取ったのである。
 何事、とそちらを見ると、制服の上にダッフルコートを着込んだ森宮さんが、フードの下からやや上目遣いに僕を睨んでいた。
 あれ……? なんか怒ってる? いや、それよりこの顔……まるで……いや、やっぱり……?

「ど、どしたの」
「二度ばかり名前を呼んだけれど、気付かなかったようね」
「あー悪い、考え事してたから」

 主にキャベツの一番外側の葉っぱの使い途を。鶏肋という言葉があるが、要するにそんな感じで。
 ああいや、それはいいんだが。
 森宮さんは一つ息をついて、鞄を探ると小さな包みを取り出した。
 丁寧かつ綺麗にラッピングされて、小さなメッセージカードまで付いた、なんか古典的な、バレンタインのチョコレート。

「全く、校門で待っていたのに、いつまで待っても出て来ないのだもの。一度は諦めてしまったわ」
「……え?」
「あんまり女の子を待たせるものではなくてよ。次は許さないわよ。よくて?」
「あ……うん。ごめん」
「よろしい」

 ぽん、とコートの胸のところに、綺麗な包みが押し付けられる。受け取って見直すと、森宮さんはさっきより幾分赤い頬をしていた。
 いや、より一層赤くなってるのは多分僕の方だけど。

「あ……ありがと。嬉しいよ」
「お礼は要らないわ。三月十四日に私も仲間に入れて貰うから」
「いや……はは、そっか」
「そうよ。そのための先行投資。だからお礼は要らないのだわ」
「うん。期待してもらうとがっかりするかもだけど、お返しはきっちりするよ」
「楽しみにしているわ。それじゃ、また」
「うん。ありがとう」
「……お礼は要らないと言ったはずよ」

 振り向いてふっと微笑み、彼女はゆっくりと歩いて行った。
 僕はなんかもやもやした、どうにも整理がつかないけどなんだかほんわかした気持ちのまま、彼女の姿が雑踏に消えるまでそれを見送ったのだった。



[24888] 第二期第四話 イカレた手紙
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/08/06 22:05
  拝啓

 厳冬の候、貴方におかれましては如何お過ごしでしょうか。
 私は相変わらず変わり映えのしない日々を過ごしております。
 お陰様であの子は先週末に無事退院いたしました。でも、ある意味で依然として予断を許さない状況であると思っています。
 もっとも、本人は至って能天気に過ごしております。相変わらず、病んでイカレてはおりますが……|


 ~~~~~~ 第四話 イカレた手紙 ~~~~~~


「で、この手紙を僕にどうしろと?」
「届けなさい、相手のところに」
「ちょ、知らん届け先に配達だと? 無茶苦茶言うねチミは」
「ムチャクチャでもなんでもいいでしょうが! 届けなかったらアンタの一番お気に入りのあいつをぶっ壊してやるわよ」
「待て、よせ、それだけはいかん、思い留まれ。っていうか勘弁してくださいホント」

 そんなわけで、帰宅早々大事な自室の丸型蛍光灯上下二本の安泰と引き換えに、誰ぞの手紙らしきものを預かった訳だが。
 しかしねぇ、なんか裏があるんだろうな、とは思っていたが、まさか十七歳にもなって実質報酬アーモンドチョコ一個で手紙の運搬役やらされることになるとは思わなかったですよ。しかも残念な人形から依頼されて。
 まあ、いいんだけどね。本日現在僕はすこぶる寛容な気分だから、一つ二つ余分な労働くらいしてやっても構わんとは思ってたりする。
 寛容な気分の理由は何かだって? 聞くまでもないだろう。義理と分かっていても気になる子からチョコレートを頂けたのだ。しかも待ってて貰って、手渡しだぜヒャッハー。
 ……すいません、安過ぎる幸せで。

「てかお前、やっぱり柿崎のとこに居候してたんだな」
「……やっぱりって何よ」
「そりゃーまあねぇ。名前繋がりもいいとこだし、鳥海まで強引に繋げられたんだから柿崎くらい当たり前だろ」
「……なに言ってるのかわかんないわぁ、さっぱり」
「詳しくはそこにある漫画見とけ。そういや、なんであいつ本人が行かないんだよ?」
「いま、……ちょっと出歩けないのよ」
「ほお。なんだ、指名手配でも受けてンのか」
「どういう発想よそれは! 入院してたのよ、こないだまで」

 入院だと? むしろステーキを喰い残して未帰還の間違いじゃないのか。柿崎だけに。
 しかし、柿崎といい鳥海といい、例の漫画と名前繋がりの知り合いにはろくなのがいない。
 ま、僕も人のことは言えないか……。

「確かに柿崎ならいきなりお前等見ても動じないだろうな。むしろ『何これ超COOL! この妙にガクガク動くところが!』とか言い出しかねん」
「……」
「え、まさか当たってたとか?」
「……チッ」
「まあ某アニメ見て『水銀燈って腹の代わりに手榴弾とか仕込んどけば良かった』とか言ったってヤツだから」
「ひっ、な、なんでよ」
「平たく言うと接近攻撃されたら上半身と下半身に分かれて脱出、相手は腹部とともに大爆発って寸法らしい。どんな忍法微塵隠れだよ」
「うわぁ……」
「お陰で僕はもっと凄いの考えろとか言われて大迷惑だったなぁ。名前繋がりなだけで、なんで人形の必殺技考えにゃいかんのかと」
「なんか考えたのぉ?」
「取り敢えず真紅のもがれた右腕の代わりにはサイコガン仕込めばいいかなって。あと、ローザミスティカが離れたら速やかに体が自爆する仕様なら後腐れないなぁとか」
「まるっきり発想がおんなじじゃなぁい……」

 取り敢えず暗くならんうちに行くことにしよう。明日回しでもいいんだが、それじゃー速達でも変わらんし。
 大学生ジュン君宜しく大き目のデイパックを用意して、黒いのを中に詰め込む。いざと言うときの道案内である。
 行き先は近隣一の大病院。来栖川中央病院という、如何にも黒髪ストレートの御嬢様姉妹と万能老執事が居そうな名前。
 目指すは柿崎が入院していたという病室である。そこで暫く同室だった女の子に手紙を渡すのだとさ。
 手紙書いてやるのは見上げた心掛けだが、それで宛先調べと切手代をケチるところが如何にも柿崎らしい。名前は水島愛毬……よ、読めん。あいまり?

「あいり、って読むらしいわよ。人名ってばホント当て字ばかりで面倒ねぇ。いっそ全部仮名にすりゃいいのに」
「やなこった。そうなったらホントに僕は誰ぞと同じになっちまう」
「よくわかんないわぁ。どうでもいいじゃないそんなの。貴方は貴方でしょ」
「そうゆう拘り持って生きてんのが男なのだよ」
「ショッボい拘りねぇ」
「ほっとけ」

 アイリちゃんの病室は個室に変更になっていた。元々二人部屋を一人で使ってたところに、緊急入院でベッドが空いてないから柿崎が入ったという顛末らしい。
 一体どんな怪我やらかしたんだ柿崎。いや、そもそも二人部屋って一人で占有するもんなのか?
 教えられた病室のドアを開けて中に入ると……居た。
 居ましたよ、なんか設備の整った病室の中に、僕と同年代と思しきストレートヘアーの美少女二人。一人はベッドに横たわり、もう一人は椅子に座ってこっちを見ている。
 僕はなんとなく額に手を当てたい気分になった。女の子にお手紙、と聞いてなんとなく小学生以下のちっちゃな子想像してたよ。
 なんだこれは、まさに来栖川姉妹? じゃあセバスチャンは何処? ああいや、それはいいとして、かたっぽ見覚えがあるぞ。椅子に座ってる方の人。
 弓道場で袴穿いて背筋伸ばして弓引いてたような……こないだ石原姉妹が話に上してた弓道部の水島先輩ってこの人か。世間って狭いですね。

「あら、お見舞いかしらぁ? 愛毬の知り合い?」
「見たことないわ、こんな人……」
「えっと、こないだまで一緒の部屋に入院してたヤツの代理で手紙届けに来ました。あいつまだ動けないんで」
「へえ、手紙なんか書かないって言ってたのに。そういう形だけの同情だけはすることにしたんだ」
「こんな時まで憎まれ口叩くもんじゃないの。……ありがとう、わざわざ運んできてくれて」
「いえいえ。じゃ、これ」
「……ありがと」
「どう致しまして」

 ベッドの上の子は開けて良いかとも聞かず、いきなりびりびりと手紙の封を切った。おいおい、僕が居ても構わないのか。
 女の子の出す手紙にしちゃいくらなんでもあんまりな、茶封筒にコピー用紙ぎゅう詰めにしただけの手紙だけど、随分真剣に読んでる。事情を知らなかったらなんか別の書類読んでるのかと錯覚しそうな勢いだ。
 普段手紙なんか受け取ったことないのかね。そう言えば、千羽鶴とか寄せ書きとかの類はベッド周りには一切ない。
 もしかしたらほとんど学校行けてなくて、同級生も居ない状態なのか。寂しいこと限りないな。
 あれ、この子もか、と思ってちょっと苦笑いが浮かんだのは、枕許にフィギュアが置いてあるのに気付いたときだ。昔どっかから発売された、座ってるポーズの水銀燈だ。
 案外柿崎が教えたのかもしれない。僕と違ってあいつは、例のアニメに拒否反応とか持ってなかったからなぁ。最近の鳥海ほど熱狂的でもなかったけど、むしろ名前つながりを楽しんでるような風だった。
 しかしまあ、無味乾燥なテキスト印字とはいえ、あの柿崎がよく手紙なんて書く気になったもんだ。その程度には同情だか共感だかわからんが、優しい気持ちになれたってことなのか。意外といえば意外だ。

「ぷっ……あはははは」
「どうしたの?」
「笑っちゃうわ、これ見て。何通もあるけど、どれもこれも……名前が水銀燈ってなってる」
「……本当ね。名前繋がりで考えたのかしら」
「中身もね、あははは、ばっかみたい。水銀燈が書いた、って設定らしいわ。なりきっちゃっててバカみたい。あはは、あは」
「こら、笑うところじゃ……」

 水島先輩は言いかけて止めた。どうした? と見てみると、愛毬ちゃんは笑いながら涙を流していた。

「私はもう柿崎めぐと契約しちゃったから、貴方の力を吸って殺して上げられないから……」
「うん……」
「ほかの天使が見付かるまで、走り続けろって……苦しくても辛くても、その先に何もなくても、って。あはは、無責任すぎるわ。人を何だと思ってるのよ」
「……」
「しかもね、そんなこと書いてるくせに、こっちでは、貴方の傍には、ほんとの天使が居るはずだ、見付けてないだけだって。あはははは、酷い言い訳。矛盾しすぎ」
「……」

 愛毬ちゃんは暫く笑い続けていた。やがて笑い疲れたのか横になってしまうと、僕が居るというのにもかかわらず、すぐに寝息を立て始める。
 人懐っこいのか心の壁が異常に厚いのか、よく分からん子だ。こっちの方が柿崎よりよっぽど「柿崎めぐ」してる。やはり、あいつはどっちかってとスカル小隊三番機の方だな。
 病室を出ようとすると、水島先輩と思しき人がついてきた。ちょっと強引に談話室に案内され、ジュースを奢られる。
 お見舞いに来てくれてありがとう、とちょっとばかり見当違いっぽいお礼をされた後、簡単に愛毬ちゃんていうより愛毬「さん」の説明をされた。
 なんでも愛毬さんは循環器系の重病で、随分長いこと入院してるらしい。一つ下って、僕と同じ学年ってことか。学校通えてりゃ、の話だが。
 そこに柿崎が乱入したんだから、そりゃ大変だったろう。

「二人とも相手の事を、頭のネジが外れてるって言い合ってたわ」
「すいません、柿崎は相手お構いなしの阿呆なんで……」
「いいのよ。あの子にとっては初めての楽しい時間だったんでしょう。そんなこと言える相手、今まで私くらいしか居なかったから。私にしたって、柿崎さんほどあの子と近くはなれないんだし」
「そうでしょうか……?」
「私は所詮、時間制限付きの優しいお姉ちゃんだもの。同室の人とは接している時間が違いすぎるわ。毎日一時間か精々二時間、短いときは三十分くらい。柿崎さんは不本意だったかもしれないけど、二十四時間逃げずに隣に居てくれた。この違いは大きいわよ」
「……」

 僕は何も言えなかった。
 そういう立場に置かれたことがないから、そうなんですかと頷くしかできない。しかし肯定するためだけに何か言葉を挟んじゃ不味いような気がした。

「手紙ありがとうって言っておいて。あまり上手な文章じゃなかったみたいだけど、下手に理路整然としてるより余程心が篭ってると思うわ」
「……はい。伝えときます」

 水島先輩はもう一度ありがとうと言って、にっこり笑う。
 綺麗だなぁ、と思った。気の強そうな表情だけど、何処かに寂しげな翳があって、それが綺麗さに結びついてるような気がした。
 森宮さんに先に会ってなかったら、この人に心奪われてたかもしれないな、僕。そのくらい印象の強い人だった。

 柿崎の家の前で黒いのを降ろしてやっていると、柿崎本人の歌声が二階の窓から聞こえてきた。思わず首を竦めてしまう。いい雰囲気がぶち壊しである。
 黒いのに寄って行くかと尋ねられたが、丁重にお断りした。被害者を増やしたいんだろうがそうはいかん。僕にも自分の生活がある。
 ただでさえ、柿崎の歌が聞こえてきた時点で気力が限界点付近まで低下しているのだ。迂闊に顔を合わせたら回復不可能になりかねん。
 あれは別の意味で印象の強いヤツだ。同室だった子に手紙とか、ちょっといい話があったところで評価を変えるほどではないのである。
 襲い来る柿崎ソングから逃げるように、僕は暗くなってきた中、家路を辿るのであった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「Color-Touch!
 Color-Touch!
 Color-Touch! No--ow!!

 HAAAAAAAAAAAAAAARRR!!

 NO----------------------OW!!!」

「やっぱりイカレてるわぁ……」

 ……こんな感じで、まだ杖を突かないと歩けないなりに元気にしております。
 本当に、一ヶ月も入院していたなんて信じられないくらいです。|

「恵ー?」
「なーに、今いいところなんだけど」
「おかーさんパートに行ってくるよ、晩御飯はレンジに入れてあるからチンして食べな」
「はーい」
「あと歌うのはいいけどご近所に迷惑掛けないようにやんな、こないだ郵便配達の人がビビってたよ」
「……チッ、いいじゃないよ一ヶ月もまともに歌えなかったんだしさ」
「ちょっと聞いてんの?」
「はぁーい、いってらっしゃーい。クルマに轢かれてグチャグチャの轢死体にならないように注意してね。内臓ドバーとか脳漿シャバーって洒落になんないから」
「あんたこそ、歌うたい目指してんなら喉潰して明菜ちゃんみたいな声になんないようにしなさいよ」
「誰それぇ、ってか余計なお世話っ」
「あと、血とか内臓好きならさっきお隣から貰った魚、全部捌いてハラワタ抜いときな。おとうちゃん今日は遅くなるって言ってたから」
「や、やんないからね私! 期末試験の対策しなくちゃいけないし!」

 このイカレた娘が、屈身で床に手がつかないくらい身体が固いくせに、踊り場で変な振り付けで踊っていて見事に転げ落ったとき、私は内心、遂にくたばった! と快哉を叫んだものです。
 ……無事生きていたばかりか、右足が骨折した他は打撲と傷だけで済んでいたのは予想外でした。
 ええ、そうです、本人はどんな言い訳をするか存じませんが、あの入院はそんなトンデモないことが原因でした。驚きました?
 人間って思ったよりも頑丈なものですね。改めて恐ろしくなりました。|

「はあ、気が抜けちゃった。終わり終わり。たまにゃ勉強しよっと」
「……さっきの狂った歌詞は何の歌なのよぉ?」
「あ、帰ってたんだ。『駐禁場所に止まってるからイラッときてピッカピカの五百円玉で傷付けてやったらヤーサンのクルマだったOh,My God!』って歌よ。今までの中で最高の出来」
「自作? 特定の名前連呼してるから、なんか売れないローカル商品のCMソングかと思ってたわ……」
「そこはほら、島倉千代子さんリスペクトしてるから」
「古っ! てかなんで島倉千代子!?」

 どっちかって言うと思いっきり頭を打っていた方が、少しはまともになって良かったかもしれません。
 バカは死ななきゃ直らないという噂も聞きますので、いっそ根治する方向に行けば良かったような気もしますが。
 でも、こんなイカレた子でも、早々簡単に見捨てる訳にもいかないのです。何しろ彼女は、
 私の|

「何書いてんの? また手紙? 今度は桜田のとこにでも出すの?」
「だったらどうだってのよぉ」
「まぁまぁ……キーボード打つの早くなったね。左右一本ずつのカマキリ打法でここまで早く打てる人なかなかいないんじゃない?」

 私の姿を見ても逃げなk|

「……どうでもいいじゃない、そんなこと」

 私の|

「毎日結構書いてたもんねぇ、偉い偉い」
「ちょっと、打ち込んでるときに気安く触らないで。ジャンクにするわよ」

 私の大事な、親友ですから。|


******************************

※ 今回の題名、何処から取ったか判った人が居たら凄いと思います。

※ 柿崎さんの歌は呉HOLTZとは無関係です。



[24888] 第二期第五話 回路全開!
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/08/06 22:06
 昨日ラッカーシンナーを買ってきた。もちろん吸引するためではない。
 腐りかけの縁側に出て、ちょっとばかりシンナーを布に含ませ、こしこしとうぐいすの顔を擦ってやる。他の連中も臭いとかずるいとか言いながら縁側に勢揃いである。
 おっかなびっくりではあったが、取り敢えず緑色のスプレーの飛沫は取れるのが分かった。
 問題は顔の塗色である。確かに白っぽくなってくるのだが、薄くなってしまったのか長年の汚れが取れてきているのか判然としない。
 ラッカーシンナーだから、ある程度は塗料も落としているのは間違いないんだが……

「ジュン、眉毛! カナの眉毛薄くなってきてるのー!」
「……あー、ほんとだ。やっぱし塗装丸落ちしちゃうんだな、焼き付け塗装じゃなかったのを恨め」
「な、なんですとー!! ひどいかしらー!」


 ~~~~~~ 第五話 回路全開! ~~~~~~


 そんなわけで、折角緑色のスプレーを全部落としてやったというのにうぐいすはご機嫌斜めなのである。まあそれは致し方ない。面相筆握っただけで手が震える僕にゃ、とてもじゃないがリペイントとか無理だしな。
 個人的には大分色白になって、顔の造作も薄くなったとはいえちゃんと見える訳だし(以前の状態知らなきゃ)問題ないんだが。少なくとも高松塚古墳の壁画よりは良い状態だと思うぞ。
 しかし、それはさて置いてご機嫌斜めの方向が若干問題であった。

「バイオリンが欲しいかしら」
「……は?」
「バイオリンが欲しいの。そしたら許してあげるかしら」
「何をまたとーとつに」
「カナは元々バイオリンを持ってたかしら。でも……」
「あー、なるほどなぁ」

 そういえば、うちに来た当時の状態が最低だったし、テメーで勝手に動き回るので気付かなかったのだが、うぐいすは楽器を持った状態でディスプレーされていたらしい。当時もののドールにもよくあるのだ、何かどうか持ち物を持った姿のやつというのは。
 うぐいすの手の形は、右が何かを握っているような形だ。左はもうちょっと太目の何かを乗せているような、何か筒状の物を差し出しているような形である。
 なるほど、右がバイオリンの弓を持って、左がバイオリンそのものの首を支えるような形なのだな。

「道理でお前だけ整ってるわけだ。ディスプレー前提だから気合入れて作ってあるのな」
「かしらーかしらー」
「ちょっと、私達は不細工ということ? 聞き捨てならないのだわ」
「不細工つーか不気味だろうが。姿を現しただけで人を気死せしむる奇っ怪人形ではないか貴様等」
「ぬぬぬ、大人しくしていればいい気になりおって、下僕の分際で許せんのだわ」
「のわっ! 花びら発射するのやめんかっ、ご、もごほぁ」
「生意気を言った報いなのだわ」

 散々馬鹿にしていたバラの花びら射出能力だが、ピンポイントで口とか鼻を狙われると意外に厄介な事が分かった。口の中に入った薔薇の匂い染み付いてむせるとかどんな罰ゲームだよ。そうそう、これからは耳も注意せねばなるまい。
 さて、それにしてもうぐいすがかしらーかしらーと某少女革命番組の出だし的に煩い。ツートンがそれに乗っかって口真似をしているから尚更である。
 致し方なく、ドールサイズのバイオリンなるものを検索してみる。ググって三十秒、輸入物がムチャクチャ簡単に見付かった。
 いやに即座に出てきたのが若干気になったが、この手のブツである。ワンピースのドレスが一万ウン千円とかの相場だから、遥かに部品点数の多い弦楽器が安いはずがない。ドイツかフランスあたりの老舗工房でものっそく精緻なヤツで職人技の逸品で、数万とかするはずだ。
 高価だからダメー、と言ってやろうかと思い、本人形どもを促して通販サイトを見ることにしたのが運の尽きであった。

 バイオリン、十五センチサイズ、ケース付き。1890円也。当然送料振込み手数料別。(音は出ません)

 おい、なんだその僕的に微妙すぎる価格設定は。そして恐らくうぐいすにジャストフィットしてしまうサイズは。
 取り敢えず、うぐいすだけでなく他の残念ドールどもも買う気満々になってしまったので、これ以上の被害拡大を防止すべくサイトを閉じ、天気予報サイトを見ることにする。当然の如くぶーたれられたがこれ以上財布を薄くする気はないのだ。
 財布といえば、憎憎しいことに中身を見るとその程度の支払いができる余裕はある。遣ってしまって生活に支障が出るなら強く断れるのだが、生憎と春休みにはバイトをする予定だし、当面買わなくてはならんものもない。なんということだ。僕の貴重な小遣いがまたコイツ等のために消えて行くのか。
 まあ今回は僕の失点でもある。諦めるしかあるまい。
 しかし二千円欠ける品物(音は出ません)に、送料と振り込み手数料か代引き手数料で千円近く持って行かれるのは癪だ。どうにかその分だけでも削れないかと考えて、僕ははたと思いついた。

「よし、行って来る」
「どこに行くですー?」
「商店街の人形専門店だ。あそこなら現物を売ってるかもしれん」
「カナも行きたいかしら。連れて行って欲しいかしら」

 うぐいすはとてとてと、ずっこけそうになりながら僕の周囲を周回する。適当な品物では誤魔化されないぞという意思表示らしい。正直言ってかなりアレだ。
 致し方なく、店舗に入ったら無言不動を貫くことを条件に、デイパックに詰めてお出かけという次第に相成った。
 向かう先は先日森宮さんに拉致された、場末のスナックみたいな名前の人形専門店である。人形というか球体関節人形が専門なのだが、自作のゲージツ品だけでは流石に顧客が限られてしまうのか、球体関節繋がりでボークスなどのキャストドールも扱っていた。
 そう、さきほどのバイオリン(音は出ません)が異様に安かったからくりは、アンティークドール用の精緻なうんたらでなく、概ね六十センチ前後のキャストドール用の小物だからであった。輸入物というのも、要するに人件費の安価な国の製造物ということだった。要するに食玩のノリなわけね……。
 言い換えれば塗装済み完成品のプラモデルみたいなモンという訳だが、却ってコイツ等には丁度良い、というか勿体無いくらいの品物ではある。多分うぐいすが最初に持っていたと主張するバイオリンだって似たようなものか、もっとおざなりな出来だったはずだ。
 ま、店頭にないかもしれないが、あれば送料等をコストカットできる。そうだ、出たついでに食料品も買ってこよう、とか考えていたら、玄関にお客が待っていた。

「こんにちは……お出掛けですか……?」
「む、ばらしー。また来たのかいらっしゃいませ」
「また来て刺客……です……」
「うぬも冥府魔道の者にてあッたか、しかし本日は所用有る故このまま御免」
「行ッては成りませぬ、この女を哀れと思し召して……」
「いや、貴女のお気持ち誠に嬉しいが、生憎人を待たせておる。許せッ、是が非であッても行かねば成らン」
「……一刀様ッ、何卒お待ちくださりませッ……」
「なんか異様にノリがいいのかしら。何がどうしたってーのかしら」
「DVD……見終わりました……全部」
「気分は判るけど、実質一話二十分程度の十二話で四時間程度かしら。Vサインするほどのモンじゃないかしら」
「いろいろと……緩急の激しいお話で……大変でした」
「北大路欣也版か? それとも古いほう?」
「ジュンはいい加減そこから離れるかしら!」

 話が長引きそうなので、乳母車ならぬママチャリの前籠にばらしーを入れて出発する。気分はしとしとぴっちゃんである。ただし、マシンガンとか手榴弾は搭載していない。
 こいつは他のと違って、他人様が見ただけでダメージを受けることを想定しなくてよい。よって、こっちも気軽に露出させられるのである。他ので同じ事をするのは緊急時以外願い下げだ。
 難点は如何にも脆そうなプラキャスト製なのと、異様に金が掛ってそうなことだ。壊したらヤバいので籠にタオルを敷き詰めるVIP待遇である。窮屈そうだが致し方ない。
 いずれ、何処から来てるのか、お父様なる人物が誰なのか聞き出さないといかんよな……。面倒だけど、万一壊れちまったときのこと考えると。
 ぶっ壊れて帰ってった翌日にどっからか法外な請求書が来たりしたら恐ろし過ぎる。もし本物の第七ドールだったら是非無傷でアリスゲームなるものに勝利していただきたい。いや、別に負けてもいいが是非損傷無しで頼む。

「で、アニメ第二期の感想はどうなのだ大五郎」
「絵の質が一話の中でもばらばら……しかも肝心なところに限って……最後、真紅が跳ね除けられる所とかいつの時代のメリケンアニメかと……」
「Tccccccc!! それだけは言っちゃ駄目だから! マジ!」
「オープニング詐欺的な……曲だけは合っていましたが……」
「やばい、やばいって。そういうのは置いといて、内容行こう内容」
「……私……偽者でした……」
「あー、うん。そうだねぇ」
「顔面大崩壊したと思ったら、脱色して左右反対になってました……元の顔は泥パックだったんでしょうか……凄い新境地です」
「ちょ、違うって。あれ本物の第七ドールって設定だったような」
「え……そうなのですか」

 取り敢えず、ばらしーには気の毒ではあるが一応アニメの結末に対する公式見解みたいなのを説明してやる。問題は僕自身あまり詳しくないことだが、まあ仕方あるまい。
 詳細な解説が必要になったら鳥海辺りに押し付ければいいか。あいつDVD持ってる(確認済み)し、動く九十センチ級薔薇水晶のご訪問となれば聞いただけで狂喜乱舞するに違いない。
 そう言えば、あの日の米の特売は惜しい事をしたものである。返す返すも口惜しい。こんな展開になると分かっていれば逃さなかったものを。

「私は土塊になって崩れ落ちていく運命なのですね……」
「あそこで早いとこローザミスティカをペッしなかったのが敗因だな」
「肝に銘じます……」
「まあ、あの後作り直された可能性もゼロじゃないけどな。水銀燈もそうらしいが、ローザミスティカがなくても動き出すのは居るみたいだし」
「顔とか手足が全壊した状態から作り直されるのって新造と変わらないかしらー」
「そうですね……新造されたら今度はフレンダーと共にアンドロ軍団に立ち向かうのがいいです……」
「理想と現実と別アニメとかいろいろ混ざってんなオイ」
「てへっ☆彡」
「可愛いが表情が動かんとイマイチだな……あ、それはそうと、ばらしーはローザミスティカ持ってんの? 番組じゃなくてお前さんの方な」
「……はい。ここに入ってます……」
「なんですと!」

 そりゃ、話が全然違うではないですか。出してみろとまでは流石に言えんが、何その、ここまでの会話の流れ無視した事実は。
 いや待て。ローザミスティカを持ってるからって本物とは限るまい。
 ばらしーは他の連中とは明らかに製作年次が異なるし、どう見ても同一人物の手によるものとは考えられんほど造形が違いすぎる。ある日突然眠りを覚まし僕(と鳥海と恐らく柿崎も)を襲った残念人形の作者が、長い年月を掛けてキャストドールのドレスアップを楽しむ境地に辿り着いたとか、幾らなんでもありえんだろ。
 マッシロシロスケの子は確かローザミスティカなぞ要らんとか言って差し出そうとしてたな。それが偶々ばらしー人形の中に入って動き出しちゃったとかも無いとは言えんぞ。ていうかそっちの方がまだありそうだ。
 となると、これはやはりゴルゴムならぬきらきーの陰謀……? むむむ。
 まあ真相はばらしーのお父様とやらに会って話せば一発だよな。締め上げて何も知らなければきらきー(仮)の陰謀ということで。締め上げるのは柿崎にやらせよう、そうしよう。

 俄かに謎が深まった、というか早くも結論が脳内で出てしまったところで、折り良く自転車は目的の店に到着した。
 ばらしーに動いたり喋ったりしちゃダメよと言い含め、お姫様抱っこして店内に入る。サイズが大き過ぎて必然的にこうなってしまうのだ。
 土曜日だというのにお客はおらず、閑散としていた。どういう商売なんだこれは。光熱費が出るのかも怪しいんじゃないか?
 いや、お客は居なかったんだが、知った顔は居た。
 カウンターの奥の大きな椅子に沈み込むようにして紅茶を飲んでいる、深紅のビロードに……今日は胸元に緑の大きなリボンと、服と同じ色のボンネットまで被って、ご丁寧にツーテールって言うのか二本お下げにしてるし。まるで大きなドールのような、いやまさに某漫画のアレ。

「いらっしゃいませ……あら」
「森宮さん? コスプレにも程があるんじゃ……ってかなんでまた」
「店員さんに急用ができたので、店番を頼まれているのよ。まあ、大きな薔薇水晶」
「そうなんだ……ぅゎっと」

 森宮さんはカウンターの奥から瞬間移動したように僕の前に素早く駆け寄ると、ばらしーを遠慮ない視線でためつすがめつする。
 それはいいんだけど、顔が、顔が近いよ森宮さん。生憎僕の顔にじゃなくてばらしーにだけどさ。お陰で僕の鼻の辺りには大きなボンネットが当たってこそばゆい。
 よく見えるように彼女の目の高さまでばらしーを下ろすと、森宮さんは一頻り頷いたり首を傾げたりしながらばらしーを検分した。
 なんて言ったらいいのか。その目は子供のようにきらきら輝いていて、本当にこの手のドールが好きなんだなぁと思わせてくれた。多分弟くんの次くらいか、下手すると弟くん以上にドールが好きなんじゃないだろうか。
 自分の順位とかは、惨めになってくること請け合いなので考えないことにする。まあ、紅茶やクッキー以下なのは間違いないだろうし。

「素晴らしいわ。こんなに改造してあるのにバランスも崩れていないし、お化粧や衣装も手を抜かずに仕上げているなんて」
「そ、そうなんだ? 知り合いの持ち物だから詳しいことは知らないんだけど」
「あら、ジュンの物ではなかったの。……そう……残念だわ」
「え、なんで……?」
「──なんでもないのだわ。今日はこの子のお道具を揃えに来たのかしら?」
「いや、実はこっち」

 ばらしーをカウンターの上にお座りさせて、デイパックから残念人形を取り出す。地獄の黙示録のテーマが流れてくるような気がする。あ、ジョーズでもいいか。
 森宮さんは口許に両手を当てたが、どうにか耐えた。「リアクション大きすぎかしらー」というヒソヒソ声が何処かから聞こえたような気がするのは、多分気のせい。
 気を取り直して、うぐいすが元はバイオリン持ちドールだったことを説明する。おもちゃのバイオリンを探していると言うと森宮さんは顎に手を当てて頷いた。
 二人でひととおり陳列棚に並んでいるものをチェックし、在庫リストみたいなものも引っ張り出して確認を取ってみたが、バイオリン類似の弦楽器で大きさの合う物は見当たらなかった。

「此処で買うとしたら取り寄せになってしまうわ。送料までは取らないけれど、割引もないから……」
「ネット通販の方が安い?」
「……ええ。残念だけれど」
「そっかあ。じゃ、しょうがないな」

 そんな話をしていると、店員らしい女の人が入ってきた。……っておい、これも見覚えのある顔だぞ。
 前回来たときのお客、密かにリアルみっちょんと名づけてた細面の女性だった。
 まさか、この人も半分客で半分店員みたいな存在なのか? そんな身内商売でやって行けるのかこの店は。まあ、やって行けないからヲタ向けのドールなんかも置いてあるんだろうけどさぁ。

「あら、留美ちゃんの彼、また来てくれたんだ。それともこっそりデート?」
「え、僕ですか? いやーその彼とかじゃ……そうだと嬉しいんですけ──」
「──今日はこのアンティークドールの小物と服を探しに来たんですって」
「へーえ、そういうこと……ふーん」
「……加納さん、六十センチサイズのドール用のバイオリンは取り寄せになってしまいますか?」

 何故か森宮さんは少し早口で尋ねた。顔が赤いのはなんだ、まさか照れてるとか? ……いや、ないない。
 加納さんとよばれた女性は頑張りなさいよと僕の肩をばしんと叩いた。うーむ。頑張ろうにも、相手あっての話だからなぁ。
 加納さんは森宮さんに向き直り、在庫リストにない物はないわ、メーカーが分かってれば取り寄せられるけど、と森宮さんが言ったとおりの事を繰り返す。ただ、すぐに何か引っ掛ることでも思い出したように首を傾げた。

「うちにあったかもしれないわ。十五センチくらいのバイオリン、こないだ楽器纏めて買ったときにあれもクリックしたはず……」
「纏め買いっスか」
「美摘さん……加納さんの買い方は豪快なの。一画面端から端までオーダーとか、流石に真似できないわ……」
「なんて大人買い!」
「ええ。中国製の小物なんかはね。一度見てみないと出来不出来がわかんないから、買うときはひととおり纏めることにしてるの」
「……なんか説得力あるような、それでいて盛大に間違ってるような気が……」
「次元が違うのだわ……」

 あの森宮邸に住むお嬢さんをしてここまで言わせる加納さん、確かにカネの掛け方というか気合の次元がまるで違っている。やはりリアルみっちょんという第一印象は間違っていないようだ。
 加納さんは待っててねと言って、携帯を取り出した。自宅にかけてモノがあるかどうか確認するらしい。
 いや、そこまでして貰わなくても。送料と代引き手数料ケチれなくなるだけで、別にそれ以上のモンでもないんだし。
 そう言ってはみたのだが、加納さんはいいのいいのと笑って店の奥に消え、ほどなくして戻ってきた。自宅の妹さんに確認を取ったら、先日注文した中にあったという。1890円ね、と言われて僕は感謝の最敬礼をした。
 石原ではないが、やはり持つべきものは知り合いである。それがたとえ明らかな変人であっても。
 しかしそれにしても、本当に何を注文したか定かでないようなモノの買い方をするとは、みっちょん侮りがたし。金持ちなのか、趣味に何もかも注ぎ込んでしまっているのか。
 加納さんが着替えるためにまた店舗の奥に消えると、僕と森宮さんは顔を見合わせ、どちらからともなく溜息をついた。

「なんつか、凄いパワーだなぁ」
「ドールのこと以外では常識的ないい人なのだけれど……趣味というのは恐ろしいものだわ」
「コスプレして接客してる人がそんなこと言っても……」
「あら。これはユニフォーム代わりなのだわ。こういったところでアルバイトするのだから、コスチュームもそれらしくしなくては」
「そうなのかぁ」
「そうなのよ」

 言い合って、今度は二人でぷっと吹き出してしまう。あ、なんかこういう笑顔、いいなぁ。可愛い。
 ええ、判ってますとも。高嶺の花ってのはもう十二分に判ってるけどね。ドキドキ感も正直、諦めてるせいで最初ほどはなくなってるし。でもこっちが可愛いなって思う分には関係ないだろ?
 それから暫く、お客がぽつりぽつりと来ては森宮さんや加納さんが応対するのを横目で見ながら、僕はみすぼらしいうぐいすを抱えて店内を回って歩いた。ばらしーの方は加納さんに抱っこされたり森宮さんにナデナデしてもらったり、お客にガン見されたりして大人気である。
 こちらはうぐいすをなるべく動かないようにさせつつ、他の人に聞こえない程度の小声で話を交わす。

「どうだ? 量産品も多いけど」
「どの子も綺麗で可愛いかしら。ただ、その分手首とかの関節のネジが見えると可哀想かも」
「そうだな。お前等とはえらい違いだ」
「失礼しちゃうかしら。カナ達だって、衣装が良ければ見栄えはするのよ。ジュン謹製の服は到底売り物にはならないレベルってことかしら」
「へいへい、どうせ僕の家庭科の成績はアヒルの行進でしたよ」

 そんな話をしていると、今までのお客とは少々毛色の違う感じの女の子が入ってきた。
 大きなくりっとした目が特徴の、中学生くらいの子だ。片手に紙袋を提げているのはいいとして、もう片手には……弦楽器のケース。
 え、これが例のブツ? するとこの子が加納さんの妹? いやいやいや。これは人間サイズだ。

「お届け物に来たかしら。……あら、その大きな人形にバイオリンを持たせるの?」
「いらっしゃい、加納先輩」
「留美ちゃん、今日はボンネットまで被ってるのね。いつもより可愛く決まってるかしら」
「ありがとうございます。ジュン、紹介するわ。加納奏子先輩よ。加納さんの妹さんの」
「あ、ども……桜田です。で、大きい方はちょっと別ので、このボロいのがバイオリン持ち人形っス」
「ふーん、貴方が桜田君なんだぁ。お噂はかねがね」
「……どもっス。人形と才能に恵まれてない方の桜田潤です」

 あ、なんか異様にウケてるし。自己紹介の新バージョンはこれにするか。しかしこの子が先輩ねぇ……どう見ても十四、五にしか見えないんだけど。
 でも、そういや見覚えはあるような。室内楽部で全国金賞だか取って、夏の壮行会のときに特別応援演奏とかいってバイオリン独奏やってた人がいた。
 バイオリンって聞いたときはどんな罰ゲームだよと思ったんだが、演奏が終わったときはアンコールの合唱が起こるくらいだったなぁ。あれが確か、加納さんって先輩だったはずだ。こんな可愛い、ってか童顔な人だったのか。
 しかしあんな凄いバイオリン演奏者が中国製のバイオリンのオモチャをパシらされるってのも、なんか可笑しい。
 おかしなことはもう一つあったことがすぐに判明した。おかしな人間関係だ。

「真希ちゃん……水島さんから聞いたわ。愛毬ちゃんに手紙届けてくれたって。ありがとう」
「あーいえいえ、あれは柿崎の手紙なんで。僕は切手の代わりしただけです」
「そうなの? 真希ちゃんは貴方のことも結構気に入ったみたいだったけど。柿崎さんも貴方もどっかの漫画の登場人物より不思議な子だって言ってたわ」
「……それは笑うところなのか、必死に否定した方がいいのかすっげー微妙ですね」
「その辺はお任せするかしら。でも、真希ちゃんはいいコンビなんだろうって言ってたわ。貴方と柿崎さん、よく似てるって」
「いやアレとひと括りにされるのはちょっと……マジ勘弁してください」

 まさかこんなところで、柿崎と一緒くたにされるとは。冷や汗が流れちまう、つか恨むぞ黒いの。まだ僕はあいつと一纏めに撃墜されるつもりはない。
 一頻り喋って解散、というか加納先輩が練習があるとかで抜けて、僕と森宮さんはそれぞれ用事が済んだということで外に出た。
 森宮さんはボンネットとリボンを外して、今は深紅のワンピースも着替えている。コスプレしてたのも似合ってなかったわけじゃないけど、むしろなんとなくあの方が似合ってたような気もするけど、やっぱりこういう恰好の方がいい。

「今日はありがと。ほんとに、森宮さんにはお世話になりっぱなしだなぁ」
「偶々なのだわ。それに……あの子達の服、まだ作れてないのだし」
「それはしょうがないよ。でも、出来上がりには期待してます」
「……ええ。それは期待して貰っていいわ」

 うぐいすが僕のお手製の服を着せられてたことが、ショックとは行かないまでも大分気になってしまってるらしい。逆に言えば僕の服の出来がそれだけ残念なものだってことでもあるが、まあ、自分で毎日見ていても残念な出来なのは明白なのでその点は反論しようがない。
 子供服にスモックってやつがあるが、あれとかぼちゃパンツくらいは作ってやった方がいいのだろうか。
 僕の作業では心許ないってことなら、誰か……うーむ。弟くんの手前まさか森宮さんに頼むわけにもいかんし、事情をある程度把握しているヤツを石原、柿崎、鳥海と並べると、自分で頑張るのが一番妥当に思えてくるぞ。
 石原に至っては残念人形がまさかローゼンメイデンを勝手に名乗ってる怪奇自動人形だってことまでは知らないわけだしなぁ。
 石原と言えば、姉貴の方に頼めばそこそこのブツが仕上がるんだろうが、実は高校に入ってからはそれほど親しくしてる訳じゃないし、あれはあれできっちり報酬を徴収する方だ。ベビー服の安いのでも買った方がコスト的に見合うような──

「──ジュン」
「ん? ああごめん、ちょっと考え事してた」
「今初めて呼んだところよ」
「あ、あはは、そっか」
「……考え事って……柿崎さんって人のこと?」
「は? いや、全然別のことだけど」
「そ……そう。ごめんなさい。どんな人なのか、私が気になってしまっていたから、つい」
「え、それって柿崎のこと?」

 森宮さんは少し躊躇いがちに頷いた。
 なんだなんだ。森宮さんまであの頭がロックじゃなくて既にレックになってるヤツに興味があるのか。
 黒いののお手紙によると自宅の階段の踊場で文字通り踊った挙句、見事に転げ落ちて骨折した阿呆ですよ。しかも二度目のメールボーイやらされたときに聞いた話では、病弱なあの愛毬ちゃんって子に筋肉少女帯の曲ばかり教えたとか。
 鬱になりそうな曲多いのに、どうしようもない阿呆だ。ライブで聴くならまた違うんだろうが、CDで音だけ聴くと印象違うんだぞ。
 まあ、その中で一番熱心に勧めてたのが「小さな恋のメロディ」だったってことだけは評価してやってもいいが。

「──まあ、顔とかスタイルとか成績とか……そういうのは僕と同じで、ホント残念な方かな」
「コメントに困る論評だわ……」
「あはは、まあ、悪いヤツじゃないよ。いろいろおかしなヤツだけど、それだけは太鼓判押せる。逆に言えば取り柄は他にない訳だけど」
「……」
「取り柄がないのは僕も同じだから、ま、人のことは言えないか。あれほど尖ってないだけ特徴がなくて、つまんないかも」

 名前ネタでいじられるのが精々のつまんないヤツ、が僕だ。まあ、今は人に言えない(とんでもない方向に誤解される可能性が怖くて)怪奇且つ残念な状況に追いまくられてはいるけど。
 それだって、名前ネタでいじられるのと大して変わらんような気もしないでもない。残念かつ血も涙もない我儘なボロ人形を何体も押し付けられて。
 だがまぁ……アイツ等もそれなりに個性があって、それぞれに──


「……好き、なの?」
「ん?」
「柿崎さんのこと」
「いや、そういう対象じゃないなぁ全く……」
「……良かった」

 森宮さんは少し頬を染め、胸に手を当ててほっと息をついた。

 え? ちょ、これどういうこと?
 忘れていた、というか抑え込んでたドキドキ感が、今までの分まで一遍に戻ってきた。
 え、何? これってひょっとしてひょっとするんじゃないのか?
 しかしちょっと待て。森宮さんは弟くん愛で、人を階下に待たせておいて廊下でしっかと抱き合ってるほどラブラブじゃなかったのか?
 こんな展開は予想してなかったぞ。まさか森宮さんが──
 いや待て、冷静になれ僕。人生それほど上手い風には転ばない。よく考えるんだ。
 森宮さんが話を聞いただけで柿崎を好きになっちゃったとか。いや、それはそれで一大事だが。
 後は、なんか僕が彼女の台詞や動作を見落としてるか、間違えてるとか。捻じ曲げて考えてるとか。それはすごくありそうだが。
 いかん。どう考えても自分の幸せ回路が発生する妄想が強すぎて、現実が見えて来ないぞ。

 僕は押していた自転車のスタンドを立て、森宮さんの前に立った。
 寒風吹き付ける中、森宮さんがこっちを見上げる。目を細めている彼女は本当に黒目ばかりになったようで、眩しいくらい綺麗だった。
 それが余計に希望的な妄想に拍車を掛ける。このまま肩を抱いて……とか、うわーうわーうわー。

 今思いつく、この阿呆な妄想を止める手立ては、ただ一つ。
 こっちから、先に当たって砕ければいい。




[24888] 第二期第六話 キンコーン
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/08/06 22:08
 キンコーン キンコーン

「森宮さん」
「……?」
「僕が好きな人は、柿崎じゃないよ」
「そ、そうなの」

「……森宮さんなんだ。僕が好きなのは」

 森宮さんは目を大きく見開いて、口に両手を持っていった。
 さあ、ラストは、お決まりの。……って、なんかの歌にあったよな。あれは確か、こう続く。

「……ごめんなさい」

 ──『大失敗。笑えないピエロ』。

「……そっか。あはは、そうだよねぇ。いや、判ってたけどさ」

 ふーっ、と力が抜けていく。玉砕覚悟だったとはいえ、それなりに力篭めてたんだな、僕。
 短い夢だったけど、まあでも予定調和ってことか。やっぱし、なんか見間違いしてたんだなー。
 恋は盲目というが、片思いの癖になんか幸せフィルター掛ってた訳か。まあ、非モテ故の哀しさ、致し方ないことと笑っていただきたい。

「ち、違うの」

 乾いた笑いを浮かべる僕の目の前で、森宮さんは強く首を横に振った。
 それから、僕のコートを両手で掴んでこっちを見上げた。涙の粒が目尻に浮かんでいる。
 そんなに気にすることじゃないだろ。僕が急に勝手に盛り上がって誤解しただけなんだし。つか泣きたいのはこっちなんですが。

「わ、私……貴方のこと、引き摺りまわして、自分の都合で振り回して……本当にごめんなさい」
「それは構わないよ。っていうか、僕も楽しかったし、うちのボロ人形どものことでいろいろ骨折って貰ったんだし」
「でも……貴方の気持ちを利用していたのだわ。貴方が私について来てくれるのは、趣味が合うからだと思っていた。でも、そうじゃなかったのでしょう」
「ん、そんなことないよ。森宮さんと居るのは楽しかったし、森宮さんが連れてきてくれたから、あの店があることも知ったようなもんだし」
「でも……やっぱり……ごめんなさい」
「いいって。気にしないで──」

「──こんな我儘な子で良かったら……」


          !   ?


「え、それって、その」
「……ダメなの……?」
「ダメな訳ないじゃんか!」

 僕は目の前の、ちょっと小柄な女の子を抱き締めた。そぉーっとだぞ。そぉーっと。
 なぁんだ。そういうことかよ。くっそー。全くこの子は。
 あああ可愛いなコンチクショウですよ。

「ごめんなさい、って言うから、断られたかと思った」
「……え?」
「やっぱり気付いてなかったんだ。あれって断るときの文句なんだけど?」
「……そんなの、知らなかったもの」

 森宮さんはそっぽを向いて憮然とした表情になった。僕は思わず笑い出した。
 自転車の前籠から、ばらしーがじーっとこっちを見ているのが視界の隅に入ったが、僕は気付かない振りをして森宮さんを抱き締めていた。


 ~~~~~~ 第六話 キンコーン ~~~~~~


 キンコーン キンコーン

「ジュン、起きるかしら。ジューン」
「うぅ……あと五分、いや三分でいいのだが」
「もう起床の時間を過ぎているのだわ。それにお客がおみえよ」
「……帰ってもらってくれ、一人にしといてくれ。僕は今、思い出に耽っているのだ。もう少しでいいところだった……」
「何死にかけのファントム・F・ハーロックⅡ世みたいなこと言ってるですか! 帰って貰うにも翠星石達じゃ相手できないですよ」
「ぬう……そうであった。相手がとんでもないことになりかねん。ばらしー、ばらしーはおらぬのか」
「今日はまだ来てないの、っていうかばらしーだって動いて応対したらビックリドッキリメカなのよー」

 そりゃそうだわな。幸せな夢よさようなら、過酷な現実コンニチハである。パジャマ姿というのは気が引けるが、まあ日曜日だし大目に見てもらうとして、取るものも取り合えず玄関に向かう。
 しかし、アイツ等が呼ばわりに来たって事はもう大分待たせてることになるぞ。なんて執念深い客人だ。
 宗教とかの勧誘かなぁ。それとも新聞か? 碌な相手でないことだけはほぼ確定している。
 そう言えばさっきまで呼び鈴も鳴ってたし、なんなんだ。怪しい相手だったら即サヨウナラしなければ。
 玄関の摺りガラスの向こうには、一応見える範囲では一人しかいないようだが、念のためにいつでも鍵を掛け直せる体勢で僕は玄関の引き戸を開け、そして固まった。

「お……おはよ」
「おはよう、ちょい早かった?」
「なぁに、まだパジャマ着てるのぉ? お寝坊さぁん」
「……いや、時刻とか以前にお前等が結託して攻め寄せてくるとは想定してなかった。我が家の最大の危機だ」

 ああ、確かに碌でもない相手だった。宗教やら新聞の勧誘より性質が悪いかもしれん。厭な予感だけはよく当たるんだよなぁ。
 まだ松葉杖を突いた状態で僕の目の前に居たのは柿崎で、肩に無造作に引っ掛けている袋から首だけ出しているのは、その居候……黒いのだった。
 何が起きるのか分からない状況にいきなり放り込まれ、雰囲気とかそういうものを綺麗さっぱり捨てさせられて、僕は先ずトイレに行こうかなと思った。それから着替えてメシだな。うん。順番間違ってる気がしないでもないが。
 しかしそれにしてもなんだ、柿崎。その袋から出てる黒いのの生首で、一体何人に被害を与えて来たんだ、この道中で。お兄さんそれが心配で夜も眠れないよ。今起きたところだけどさ。

「そういや、おじさんとおばさんは?」
「去年の四月から二年間の予定で東南アジアの関連工場に出向。今はミャンマー辺りらしい」
「へえ……それにしちゃ片付いてるじゃん」
「物が多くないからな。それに散らかし始めると収拾つかなくなるし」
「あーそれ分かる分かる」
「……恵の部屋はカオス状態だものねぇ」
「僕の部屋も別の意味でカオスだけどな、主にお前等のせいで」

 柿崎に今更遠慮するような必要もないので、ダイニングでシリアルを食いつつの応対である。非常に珍しい、姿を見せてもOKなお客ということで物見高い(本人形ども談)残念人形ズもわらわらと湧いて来る。
 これがジュンの彼女ってヤツですか、と何やら不穏なことを言ってる奴とか、おもてなしもせずにそんな手抜きご飯を食べてて良いの、と尋ねてくる理屈屋とか賑やかな限りだ。当然概ね無視している訳だが。
 脚の具合はどうなんだ、と訊いてやると、見てみて、凄いんだよまだボルト入ってんの、と膨れ上がったズボンをめくり上げようとする。よせ。お前の体育の成績も良くないのに無駄に筋肉の付いた、しかもボルトが貫通してる脚など見たくもない。今は固定されてんだろうし。
 押し留めて話を聞くと、まだ暫く松葉杖が必須らしい。高校が近くて良かったってのはいいとして、おい。そんなんでよくここまで来たな。五キロかそこらは軽くあるだろ、お前ん家から。

「バイト先に退院の挨拶に行って、そのまんま仕事行く軽トラに便乗させて貰ったんだ。んで、通り道の関係で此処で降りたって訳」
「……道理でしつこく鳴らしてた訳だ。移動不可だったってことかよ」
「行きはタクシー使ったんだけどね、一応」

 バイト先というのは建築・建設関係の下請けで、朝が早いためこの時間でないと現場に行ってしまうらしい。日曜日まで仕事とか異例もいいとこだと思ったら、スーパーの開店日に合わせるためとか。日曜日といっても手当てがつくわけでもないとか、世知辛い話である。
 まあ、それはいい。ツートンとうぐいすを膝の上に乗せ、赤いのとにこやかに電波な話を交わしたりと異様に馴染んでいるのもまあいいとしよう。
 問題はこいつが如何にも何か言いたげに時折ちらちらとこっちを見ることである。なんだ。言いたいことがあるなら早く言え。何を切り出すか判らんというのは人形どものご面相とはまた違う種類の不気味さがある。
 しかし結局着替えてメシもトイレも済ませた上で、普段使ってない、客間という話になってるが実際はデッドスペース化している部屋で向き合うまで、柿崎は用件を切り出さなかった。
 向き合ったと言っても相変わらず残念人形どもを侍らせているのは変わりない。あー、こんなに馴れてるんなら全部連れ帰って貰おうかねぇ。この、場所が足りないせいか僕の方に纏わりついてるお貞と鋏も含めて。

「入院中超ヒマだったし、水銀ともろくすっぽ話せなかったから可哀想だしなんか作ってやろーかと思ってさー、手芸なんかやってたんだ。こんなん」
「ほう、黒いの用の頭飾りか。ってかその略し方なのかよ。危険物過ぎるだろ、確かに実態に即してはいるが」
「何よそれぇ。ちょっと屋上来なさぁい!」
「この家にそんな上等なものなどないのだわ」
「じゃあ妥協して体育館裏でいいわぁ。それか使われてない第二校舎」
「尚更ねーよ! で? 手芸がどうしたって?」
「例の隣の子が興味持ったらしくて。勧めてみたら向こうはそーゆうの得意でさ、なんか結構達者に作るんだ。でね、昨日うちに何やら怪しいダンボールが届いたって訳」
「ほうほう。で、中からは時限爆弾が?」
「赤と青どっち切る? とかなってたらドキドキするよねー。あと時計がカチカチ言ってたりとか」
「いや、僕だったら悲鳴上げて逃亡する。全力で」

 お互い多大に脱線を繰り返しつつ、柿崎は引っ掛けて来た袋から色とりどりの布を取り出した。全五枚。
 畳んであるのを広げてみると、おお、これこそは製作せねばと思っていたスモック! それと一緒に畳み込んであるのはスカートではないか。
 色は黄色、緑、青、赤、ピンクとまるで特撮の戦隊物そのものであるが、当然そういう意図はないのであろう。まあ作ったの女の子だしな。
 なお、色指定は柿崎がしたらしい。原色まんまってのはどうかと思うが見分けやすいのは確かだし、何より作って貰えたのは有難い。
 人形どもに代わって感謝します水島さん。なんか電波っぽい子だけど、それと体力面以外のスペックが高いんだよなぁ。まるで森宮さんの弟くんみたいなもんである。
 才能は誰にでもあると言うが、んなこたーないね。でなきゃ、才能自体は誰にでもあっても持ってる才能には物凄く大小があるってことだろう。当然この部屋の二人が持ってるのは小さくてあの子達が持ってるのはでっかいに違いない。世の中そんなもんである。

「で、今日来てあげたのはね」
「用件は水島愛毬さん特製スモックアンドスカートを届けに来ることじゃなかったんかい。ていうか恩着せがましい言い方すんなよ」
「そんなんでわざわざ来るわきゃないでしょ。その程度ならこの水銀にやらせるし」
「いや、それキャパ超えてるから。絶対。……で、用件ってのは?」
「ローゼンメイデンとアリスゲームについて、ちょっとね」
「……おい、僕は特にヤンジャン読んでないし、アニメのDVDとかも持ってないぞ。そういうのは鳥海とでもやれ。中学のとき隣のクラスに居たアイツ。自分と同じ苗字のキャラ出てきたとか言って俄かファンやってるから」
「そっちじゃないそっちじゃない。今、あたしらの周りに居る方ってこと」

 人形どもが一斉に動きを止めた。
 黒いのだけは何やら柿崎の持ってきた袋を開けているが、他の五つは仮死状態になったようにぴたっと動きを止め……あ、うぐいすが倒れた。それとお貞が何やら微妙な動きをして僕に倒れかかって来たが、なんなのだ。いや、意図は大体承知しているがわざとらしすぎる。ついでにあまり嬉しくないぞ。
 まあ本人形どもの前ですべき話題でもなさそうだよな。
 去りたい者は去るべしと言ってやると大半はあっさり出て行ったが、赤いのだけは残った。おい、黒いのは説明側じゃないのか。何気に混ざって去って行っちまったがそんなんでいいんかい。
 しかしこいつらのバトルねぇ。赤いのの説明によると、究極の物体Xと成るべく、人形どもが内蔵しているパワーユニットを七つ集める必要があって骨肉の争いを繰り広げているということだったが。
 後は? と訊かれてはたと困る。そういや全然聞いてないぞ。何はともあれ部屋をグチャグチャにされるのは同じことだから、僕としては蛍光灯と窓ガラスを中心とする自分の部屋を守りきることが最大の懸案なわけで、理由なんてモンはあまり重要視したことはなかったな。
 他に聞いたりして知ってることは、コイツ等は人形だからぶっ壊れればそれで終わりってことと、最後の一体はコイツ等と似ても似つかぬ魔改造された美麗な中華製キャストドールだってことくらいか。

「ふーん……じゃ、この子達の目的ってのは具体的に聞いてないんだ」
「いまんとこ休戦してるし、具体的も何も物体X作りたいんだろ? んで、その為には七体中六体までは確実にゴミ化すると。それだけじゃいかんのか」
「そりゃ、そこで思考停止すりゃそのとおりだけどさ。そのアリス、っていうか物体Xでいいか、それの内容とかは知りたくないの?」
「うーむ。ぶっちゃけた話、それよか自分の部屋を守りたい欲求が強いんだが……まあ、凄い価値の物が出現したらそのとき考えればいいかなとか」
「流石はジュン、行き当たりばったりもここに極まっているのだわ」
「ま、桜田だし。目の前の物にしか興味ないんだよねー」
「悪かったですねー」

 じゃあなんだ。物体Xが実はヤバい物だったりするのか。エイリアン対プレデターみたいなノリの。
 そっちは勘弁蒙りたいぞ。だったらマエストロモリミーヤには是非僕の目が黒いうちは服を完成させないで頂きたい。
 僕は正直、物体Xはばらしーみたいな可愛いドールだと思ってたんだが。動くかどうかは別として、やっぱご面相が残念で可動部位も少なく、スタイルもアレな上にあちこち寸法が微妙なコイツ等が合体変身するなら、良い方に百八十度逆って程度の存在が相応しいんじゃないだろうか。
 例えばそれを飛び越えて人間の女の子になるとか、一点の翳りもなく何よりも穢れなく何よりも無垢で何よりも美しく何よりも……なんだっけ、漫画持って来ないと思い出せないがそういう究極生命体になるとか言われても「プッ」としか言い様がない。
 その手前の段階はどうしたと言いたい。がらくた寸前のオモチャの人形七つ集めてそういうスーパー都合のいいブツが出現するなら僕だってそっちの道に進むわい。主に合体させて売り物にするために。

「だいたい赤いの、お前がきちんと説明してないんだろうが。家主が二人も集ったのだから今日こそはまともに説明せい」
「訊かれなかったから言わなかっただけのことなのだわ」
「ていうか今になって急に興味が湧いたから教えてくれ、の間違いだよね? 桜田」
「……すいません、そのとおりです」
「まあ、そういうわけで、説明してくれる? あんたたちの最終目的とか。水銀がねぇ、ちっと気になる事言ってたんだ」
「どんなことかしら」
「ばらしーってドール、遠隔操作されてるか乗っ取られてるんじゃないかって。実際の第七ドールは別に居るってこと」

 ガシャーン! とタイムリーに何かそれっぽい音が響く。
 はっと一斉にそちらを見ると、客間の入り口にはばらしーが立ってこちらを見ていた。

 なんということだ。僕は思わず立ち上がり、驚愕に目を見開いていた。

 彼女の足元にはこないだ百円市で買ってきたばかりのカレー皿が、無惨な姿を晒している。ピーターラビットのパチモノっぽい絵柄が何気に可愛かったのだが、もはや二度と戻らぬモノになってしまった。
 そもそも何故客間の前まで持ってきたのだばらしー。それは台所にあったはずではないのか。可愛かったからつい持って来てしまった? あまりいい手癖ではないがまあ今回は大目に見るとして、何故台所なぞ入ったのだ。偶々開いてたから? そうかなるほど。

 ああいや、それはいいのだが。なんだこの昼メロ的展開は。ばらしーはやっぱり偽物だったのか? 謎は謎を呼び風雲急を告げる、刮目の次号を待て。
 ……いやすいません、事態はリアルタイムで推移してます。

 後半に続く。



[24888] 第二期第七話 必殺兵器HG
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/08/06 22:10
まず、今回の一連の災害で被災された方々にお見舞い申し上げます。
また亡くなられた方にはお悔やみを申し上げます。

これ以上は申し上げません。

サイト管理者の舞さんのご意向でもありますし、私に出来ることは通常どおりの掲載ということで、本文は特に何も手を加えることなく投下させていただきます。

感想掲示板でも震災前どおりの応対とさせていただきます。ご了承ください。

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「私……偽物なんでしょうか……」
「水銀に言わせればその可能性が高いって話」
「ふっ、そんなことは先刻ご承知なのだわ。この真紅の推理力をもってすれば」
「でも……ここに……ローザミスティカ……」
「ごめんね、それだけは第七ドールのもの、ってことも有り得るんだ」
「そ、そうなのだわ。私も今それを指摘しようと考えていたところよ」
「……」
「あんたはどう思う? 桜田」
「そうだなぁ」

 お前等なぁ、一応本人じゃなくて本人形を前にしてそりゃねーだろ、と思ってはいるが、まあ他のと余りに違い過ぎるのは認める。別グループの人形か偽物と言われた方がしっくり来るのも事実だ。
 だってばらしーだよ? きらきーじゃないんだよ? 元々偽物じゃないですか。……というのは繰り返しもいいとこなんで置いといて、僕がその辺判断するには大きな前提が欠けておる。
 皿の残骸を買い物袋の中に放り込みながら、ごめんなさいと謝るばらしーの背中を空いてる方の手で押して部屋の中に入れてやる。回収した残骸は買い物袋ごと燃えないゴミの袋に放り込んで終わりである。
 さようならピーターラビット(のパチモノ)。まだ同じ絵柄は売っているだろうか。

「まずは赤いのでも、あー柿崎でも構わんが知ってることを全部洗いざらい話して貰わん事には何とも。ご自慢の推理を聞くにもこっちの前提知識がないと話にならん」
「わかったのだわ。そう言われては話さない訳に行かないわね。いいでしょう、全て話してあげ──」
「──大した話じゃないけどさ。まあ、精々耳の穴かっぽじって聞きな」
「私に説明を求めておいて結局自分で……」
「……よしよし……」
「うう……偽物疑惑のある人形に撫でられるのは微妙な気持ちなのだわ」

 結局ここに居残ったことがあまり意味を成さなくなった、まさに残念そのものの赤いのは置いといて。
 柿崎が先ず自分が調査した結果として話してくれたのは、トリビアというかそれなりに詳しいが、僕にとってはだからどうした、という内容の話だった。興味がない方は聞き飛ばして頂いて結構である、ってな感じの。まあ全部聞いてたわけだが。


 ~~~~~~ 第七話 必殺兵器HG ~~~~~~


 この残念人形どもが作られたのは約120年ほど前、アメリカの東海岸の某大都市にあった小さな人形工房だったようだ。もちろんばらしーを除く。ちなみにこの後の柿崎の説明でも全部同じである。
 僕が想像した通り零細に近い工房で、営業っていうのか活動っていうのかよう判らんが、店を開けていた期間はさほど長くなかった。この手の零細企業の常でどういうラインナップで物を作っていたかもイマイチ定かではない。
 今も昔も、そういう少し時代に取り残された物(ゲージツ品ではなく雑貨や日用品)を作ってる、しかも技術的に見るべきものがない職人の店ってのは不遇らしい。はっきり言うと売れなかったし、後から数寄者のコレクターも現れなかった。人形にとって顔は命だから、このご面相では当然だ。
 よって、そのRosen工房さんの人形は殆ど散逸してしまって、知っている人も少ない。一応最後っ屁に近い「全焼き物製の二十五インチドール」なるものだけは広告が残ってはいて、どうも五種類ばかりもあったらしいのだが、気合いに反して殆ど売れなかった模様だ。
 焼き物ってことで、当時主流の樹脂製品に比べたらだいぶ高価だったんだろう。おまけに名前も知られてないメーカーで、更に現物見たら出来ががっかりと来ては当然だな。現存品もないものと思われている、らしい。
 誤解のないように言い添えると、「らしい」というのはそんな零細かつ残念なメーカーのことなんぞ誰もまともに調べてないからである。
 要するに所謂「メーカー不詳」の人形の中にRosen工房さんのもある(廃棄されてなければ)可能性がある、という程度の話であって、釈迦力になって調査しても尻尾が掴めない謎の人形とかいう類のものではない。
 もっとも、ここに六つばかりあるわけだが。……おい、何故アメリカ生まれの人形なのに現在存在しているのが日本の地方都市なのだ。辻褄が合わんぞ。
 それはそれとして、五種類ってのは判らんでもない。お貞と鋏は同じ型だからその点は符合している。

「広告まで出したってことは、コイツ等やっぱり量産前提だったのかね」
「ドールとしては、量産品かその素型みたいなもんでしょ」
「ローザなんちゃらはどうなるんだ」
「水銀によると製作段階で既に埋め込まれてたって話」
「そうなのだわ。作られた時からローザミスティカは私達の体内にある。私達の命……」
「へぇ、なんか矛盾してるようなしてないような。……とりあえず、その水銀ってのやめね?」
「じゃあなに? 元素記号でHgとかの方がいい? フォー! とか」
「い、いや……やっぱ水銀でいいや。続けてくれ」

 で、お次は黒いのからの聞き取り調査の方である。赤いのの追認も随時入って煩い限りだったが、取り敢えず端折りまくるとこんな感じ。
 残念人形どもを作ったのは「お父様」と呼ばれる職人である。「お父様」は姓はRosen名は不詳、大分アレな人だったようで、時折サン・ジェルマン伯爵(サイボーグ009への出演で知られるアレ。実態はフリードリヒ大王から支援を受けた、薔薇十字団所属のスパイの可能性が高い)やら何やらの錬金術師達は全て自分だとのたまわっていたらしい。
 当時そういうのが丁度ブームだったのだろうか。まあ本職の傍らでオカルトに傾倒していたのだけは間違いない。
 Rosenという姓はスウェーデンやロシアで外交官やってた貴族と同じ(有名どころでは日露戦争開戦前のロシヤ駐日公使もRosen氏)だから、その辺の一族でアメリカに渡った人なのかもしれない。オカルト趣味に傾倒してたってのを見ても単なる田舎者という訳ではなさそうではある。
 ドール製作ってのも元々は裕福な人向けの物だからそれっぽくもあるが、無論Rosenという姓すら詐称であった可能性もある。その辺は黒いのも赤いのも知らない。
 んで「お父様」が錬金術で作ったと称する胡散臭い石を七つに割って、その欠片を入れ込みつつ究極の物体Xたるものを作ろうとし続けたわけだが、結局ご自分の野望が実現する前に謎の石の欠片の方が尽きてしまったという哀れな顛末は、事実だけ並べると某漫画やアニメのとおり。

 ……なんだ、やっぱり物体Xは人形なんじゃねーのか? 若しくは人造人間だが、それにしては既存の、しかも自作の人形で我慢してしまうところが微妙にしょぼい。
 やるなら漫画やアニメの如く、ドールの恰好をした不思議な何かでなくてはならんだろうがよ。

 「お父様」はその後、欠片を入れ込んだ人形ズに対し「お前等一つ一つは残念だけど、みんな倒して欠片を集めて一つにすれば、そいつは究極になれるはずだぜ。ついでに集めた奴は御褒美として俺が愛してやるよヒャッハー」(柿崎説明ママ)ととんでもない事をのたまった。
 だったら最初から割ってないのを入れ込んで作れよとツッコミたいお言葉ではある。ともかくそんなことを言い放って、彼は残念人形ズを後腐れなく全部売り飛ばしてしまった。売却した真の理由が食うに困ったからかどうかは定かではない。
 思うに、広告出して売り払ったのはまさにコイツ等なのではないか。一体ずつ限定生産ってことで。まあその辺は憶測もいいとこだが。
 ついでに言うと、時系列上ではこの時点で既に七体作られているはずなのだが、七体目については売り払われるまで誰も会ったことがないままであった。まあこれも一応、事実だけ並べると某漫画&アニメどおり。
 その後、売り払われた人形ズは、これまであちこち渡り歩き、たまさかに互いの接触を持ちながら此処まで来たらしい。歴戦の勇者が多いのも頷ける話ではある。

 前提知識の説明は以上であった。確かに、長い割に大した内容ではなかった。
 ちなみに究極の物体Xの正体であるが、散々人を煽って語りを聞かせたにも関わらず、柿崎の答えは「わからん」、赤いのの回答に至っては例の漫画のアレと多分丸々同じという体たらくであった。
 むう、どうせそんなオチだとは思ってたが、ここぞというときに限って使えん奴等め。週間番組表のあらすじ紹介じゃないんだから、肝心なトコをきっちり調べ上げとけよ。

「でさ、水銀の言う偽物って話なんだけど、あたし的に気になることはあるんだよね」
「ほう、やっとそこに繋がるか。なんか心当たりがあるとか?」
「例の広告、当時だし写真無しの文章だけなんだけどさ。末尾に『軽くて丈夫なコンポジドールも始めました』みたいな文句も書いてあんの」
「そりゃ、焼き物人形だけじゃ食ってけなくなってやらかしたんじゃねーの?」
「あーもう、あんたはなんでそうすぐ現実に戻るかな」

 柿崎は松葉杖で僕の頭をぽかりとやった。マジで痛いぞコンチクショウ。
 Kitty Guy に刃物という言葉があるが、こいつに持たせるのは刃物じゃなくても十分危険である。

「コンポジってーのは大鋸屑を膠で固めた合成樹脂だけど、特に質が悪かったり湿気が多い土地だと経年劣化が凄いんだ。ちゃんと管理しないと数十年経つとヒビが入って崩れ始めて」
「Wreckに?」
「ノーノー。最後は跡形もなく崩れちゃう。大抵顔と手足は陶器とかだから、ちょいグロな情景が……」
「おい、よせ。現物が目の前にあるだけに想像しちまう」
「顔やら手足までコンポジ、管理が悪くて服も虫食いだらけだったりすると、大鋸屑とボロ布の山の中にガラスの目玉とナイロンの髪だけって惨状も考えられなくも……」
「アーアーキコエナーイ」
「でね、あたしが思うに、第七ドールってのはコンポジ製だったんじゃないかなって。それだと広告とも符合するじゃん」
「まあ……確かにそうだが……だとすると、何処かの時点で崩壊したそいつのロザミが今はばらしーの中に、ってことか?」
「妙な略し方はしないで欲しいのだわ。それでは少し年増声の強化人間みたいじゃないの」

 つまり、ばらしーの言うお父様なる人物が偶然かなんか知らんがそのロザミを手に入れ、ばらしーに埋め込んだら動き出しましたってことか。
 ばらしーのお父様が残念人形どもの製作者本人って可能性もないでもないが、それだと彼が(テメーで主張してたとおりの)不老不死って話になる。そんな究極生命体が究極のなんたらを目指して精魂篭めて作ってみたら出来上がったのがこんな残念物体でした、なんてことは、流石に思いたくないぞ。
 柿崎の言い分のとおりなら第七ドールは既に居ないことになるので、なんだ、もう実質そいつは不戦敗って事か。ばらしーのロザミが本物なら第七ドールではないってのは倒錯した状態だな。

 その場合今動いてるばらしーはどういう立場になるのか。

 改めて考えると、別にどうもならんような気がする。
 ロザミが七つ全部集めないと究極の物体Xの生成能力を生じないブツであり、かつ相手をぶっ壊さないと入手できないものである以上、ばらしーそのものには物体X云々が関係ないとしても、自分がぶっ壊されたくなければ他の六体と戦わざるを得ないのは変わらん。相手を全滅させるまでは戦い続ける必要があるわけだ。
 しかも、初見の日の言動からしてばらしー本人形も戦う気は満々である。あの紫色の透明プラ製(取り上げたときに判明した)の剣振り回して。

「ま、その人形の中にあるのが本物なら、って話だけど」
「……本物……です……多分」
「ローザミスティカは簡単に生成できるものでもコピーできるものでもないわ。そして、この子の中にあるのは本物だと私には思える」
「お姉さま……ありがとうございます」
「貴女を妹と認めたわけではないわ。確たる証拠が出るまでは勘違いしないことよ」
「はい……」
「判ったらもう一度なでなでするのだわ」
「いきなり善人ぽい発言したと思ったら撫でて欲しいだけかよオイ」

 もっとも本物かどうかを確認するだけなら、柿崎にでもばらしーのお父様を締め上げさせて吐かせればいい訳だが。
 しかしそのように提案してみると柿崎は珍しくちょっと引き気味になった。
 相手はドール遊びに傾倒してるような金持ちかオタクである、下手なことをやって暴行傷害で被害届でも出されたらどーすんだ、やるならテメー一人でやりやがれと言う。どっちがすぐ現実に戻るんだと言ってやりたいところだが、考えてみれば相手が誰であれ当然だった。
 これもダメかと思っていると、ばらしーがロザミの入手過程を自分で聞いてみると言い出した。
 おお、その手があったか。ってか普通に考えたらそうなるよな。ただ、嘘をつかれる可能性が無いとはいえない訳だが。

「それはいいんだが、結局お父様って何者なんだ?」
「貴方の耳は左右貫通しているの? この私と松葉杖人間があれほど懇切丁寧に説明したというのに。お父様は稀代の錬金術師にして偉大な人形師……」
「いやいやそっちじゃなくて。ばらしーのお父様の方な。どうもこの近隣に住んでいる人物と思しいわけだが」
「……なんでそんな特定できんの?」
「いや、ばらしーいっつも歩いてうちに来るから……」
「だったら今日あんたが送ってけば丸判りじゃん」
「……おお!」
「ね、桜田は耳が貫通してんじゃなくて頭の中が空洞なんだよ」
「そのようね……」

 随分な言われようだが、まあ学業成績など鑑みても致し方なきことではあるのだが、正直なところそこまで興味がなかった。聞き出すのも突き止めるのも面倒だったというのが真相である。いやホントに。
 ここまで事情を根掘り葉掘り聞かされれば、そりゃちっとは興味が湧く。しかし事実としてみれば今現在は一応休戦している訳だし、服が一式到着したら最後の一体になるまで戦うという構図も変わるわけじゃない。
 最終的な物体Xだって、話を聞く分にはやっぱり出来のいい人形か何かだとしか思えん。もしくは姿形は元のまま、なんかとんでもパワーだけ数倍増とかいう厭な未来も十分有り得る。
 柿崎は骨折して暇なんだろう。自分とこの居候を勝たせてやりたい気分も少なからずあって調べ物したんだろう。だが、僕としては最低でも居候させてるうちの四体は壊れた皿と同レベルの燃えないゴミになってしまう訳で、ぶっちゃけ誰に肩入れする気にもなれんのだ。
 ばらしーのお父様についても、ぶっ壊れたときが怖いとはいえ、休戦している間はまあどーでもいいっちゃどーでもいい。なりも出来も違うが、残念人形どもに馴染んでるし。
 窓際に行って光を浴びながらゴロゴロしている赤いのと、言われたとおりぶきっちょだが懸命に頭を撫で続けてやっているばらしーを見ていると、別に偽物でも本物でも構わんような気がしてくる。
 ギシギシ動くことを除けば、どうせ生きてるような触感の魔法の掛った不思議なモノでも超絶美麗な逸品というわけでもない(ばらしーにしても、冷静に考えれば所詮市販中華ドールの魔改造品に過ぎない)ありふれた人形同士なのである。
 確かに量産品ではない。だが、世の中の人形にコイツ等よりもっと精魂込めて作られた物がないかと言えば恐らくごまんとある。美麗さや写実性、金の懸かり具合とかは最早論外である。その程度の、並以下(ばらしーの場合かなり上位なのだろうが)の存在でしかない。
 偽物とか本物とか目くじら立てるレベルじゃないよなぁ……。しかしまぁ、なんだ。こんなことを思ってしまうほどに。

「人形製作の方は残念なもんだよな、ロザミみたいなオーパーツを作り上げたにしちゃ。そのギャップが気になるっちゃ気になってはいる」
「案外ローザミスティカは拾い物で、たまたま拾っちゃったから人形作って入れ込んでみたくなっただけかもよ」
「生命彗星起源説みたいな話じゃねーか。だとしたら、ロザミ作ったのは何者なんだよ」
「さぁね。ただ、ギャップ説明するにはいい仮説じゃん?」
「それは否定せんが……だとしたらRosen氏の売り飛ばし間際の発言も全部嘘か妄想ってことだよな」
「あるいは、ローザミスティカ製作者の毒電波受信してたとか。学校の屋上あたりで」

 晴れた日はよく届くんだよ長瀬ちゃんってか。はいはい。
 そういや柿崎と初めてまともに顔突き合わせて喋ったのも中学の屋上だったな。あれは僕的に黒歴史に近いのだが、柿崎としては僕に楽しい奴という印象を持ってしまったらしい。

 それはさて置き、柿崎にだいぶ熱弁を振るわれたわけだが、新たに判ったことはどうにも胡散臭いオカルトかぶれのオッサン(だろう)が残念人形ズの製作者で、そいつはどうもロザミの製作者じゃーなかろうということだけだ。
 この件については本人形どもが「お父様」=偉大な錬金術師にして人形師=ロザミ製作者にして不老不死、という話を信じ込んでいる限り、幾ら考えても先には進めんのだろうな。
 つまるところ現状で僕達家主にできることと言えば精々こういった与太話程度であり、乏しい状況証拠を根拠に考察を深めてみたところで何がどうなる訳でもないということだ。
 超絶美麗、排泄物を出さないこととサイズ以外人間と変わらんよーな薔薇乙女様と契約したマスター様、とかいう関係ならまた話は別だろうが(いや、それにしてもジュン君始め皆さん自分のことで手一杯っぽいが)、あくまでこっちは居候と家主的な関係である。黒いのだけを居候させてる柿崎にしても居候のために他の残念人形を全部ぶっ壊すほどの気概はない訳だし、僕に至ってはもう言うまでもない。
 三ヶ月近く居候させて情が移ってないかと言われればそのとおりである。どれが壊れても同じように寂しいはずだし、どれが残ってもそいつと一緒に残りの連中の残骸を供養してやるつもりで居る。
 アニメのジュン君みたいな、最終局面まで来て戦いを止めろと言い放つ硬派な気持ちは流石に持てない。
 あの場合はまた違うのだろうが、コイツ等に戦うなと言うのは必死に遡上して行くサケに向かって「産卵したら死んじゃうぞ、海へ帰れ」と言ってるようなものにしか思えんのだ。コイツ等は最終的に戦うためにずっと生きてきたのである。やる気も満々のようだ。
 こっちから見たら虚しい限りだが、如何に七つが潰れて生まれるのが一つという効率の悪さであっても、もしその話さえ嘘で、何一つ生み出せなかったとしても、生産性のない行為とは笑うまい。コイツ等はそのためにここまで愚かしくも生き伸びて来たのだから。

「大演説ご苦労さん」
「いやいやそれ程でも。はっはっは」
「で、それがあんたの本心? ゲーム完遂させてやろうってことでいい?」
「うむ。誰がどういう意図を持ってやらせてるにしても、コイツ等視点で見れば最初っからそのために生きてきたんだし」
「アニメ二期みたいな結末でも? しかも最後に直してくれるってオチも無さそうだし」
「それは流石にちょっとなぁ。だが、ばらしーが持ってるロザミが本物なら、仮に筋書きや結末が同じでも意味合い全然違うだろ」
「……ま、そうだね」

 取り敢えずばらしーのことは僕が本人形から「お父様」について聞き出し、柿崎は当面暇なんでいろいろ検索したり考察を深めてみるってことでその場はお開きとなった。物体Xについても柿崎の領分ということにしておく。まぁ僕としては危険物でなければ、それが如何に残念なものでも許容範囲である。今のところは。
 なお、午前中の退屈しのぎにはなったかなー、と伸びをする柿崎を見て、やっぱり本心はそこにあったのか此奴めと思ったのは内緒である。
 行きはタクシーと軽トラだったが帰りはテクシー+バスだと聞いて、バス停まで荷物くらい持ってやることにする。二、三キロ程度ならリハビリと称して歩いて帰りそうな奴なのだが、途中でコケたりされたらおおごとである。
 玄関を開けて奴の荷物を受け取る。荷物と言っても頭陀袋一つなのだが、黒いのが入ってるのでそれなりに重い。
 しかしさっきも思ったんだが、首だけ出して袋に入れるのはよさんか。どんなホラー映画の演出だ。しかも今度は僕が持つんだぞ。

「別にいいじゃん、自分からは見えないしさ」
「おい、そういう問題じゃなかろう。周囲の目を考えたまえ。下手すりゃ死屍累々の地獄絵図だ」
「なによ、二人とも人を危険物みたいにぃ」
「だってあんた水銀だし」
「ついでに言うとヒトじゃなくて奇ッ怪古人形だしな。大人しくひっこんどれ、それがひいてはお前自身のためでもある」
「うぬぬ、したり顔でなんだってのよ! 外の景色くらい見たっていいでしょうが! だいたい歩行者なんてどんな奇抜なカッコしてようが周りは大して気にしてな──」

 黒いのの言葉が急に止まった。
 僕と柿崎は顔を見合わせ、それから恐る恐る玄関から外を見る。
 最悪だった。

 一人の、よく知っている女の子がそこに立って、こちらを見ていた。
 彼女は少し蒼褪めた、表情のなくなってしまった顔で僕に力ない視線を向け──そして、何か口の中で呟いた。「やっぱり……その子は」と言ったようにも聞こえる。
 もう一度柿崎と顔を見合わせ、そちらを向く。
 まずい。非常に不味い。不味過ぎるところを見られてしまった。彼女にだけは見せたくない状況だった。

「森宮さんっ」

 僕は慌てて駆け出した。
 だが、もう遅い。遅過ぎた。全ては手遅れだった。彼女はふらりと踵で半回転して僕達に背を向け──

 ──そして、ゆっくり斜めに傾いて行く。すんでのところでどうにか抱き止めたが、サンダルが滑って僕の方が無様に転んでしまった。
 土やら雑草やら剥き出しの庭だがいざ転ぶと結構痛いのが判った。あまり知りたくない経験だ。それでも抱きかかえた彼女の上半身が地面とキスするのをどうにか食い止めたのだけは評価されていいと思う。
 それにしても、見せてはいけないものを見られてしまったのは変わらない。

 そう、彼女は見てしまったのだ。頭陀袋から首だけ出して、しかもぐりぐりと僕と柿崎に交互に向いている黒いのの頭を。
 それも黒いのが言葉を切ってから数秒間は、その藪睨みの目とガチで、しかも概ね正面から睨めっこである。
 そりゃー気絶するよな。前は箱から取り出したのを見ただけで気を失ってたし。あーもうなんてことだ。

 後ろの方で何やらヒューヒューとかナイスキャッチとかいう無責任な声がするが、それも二人分だけじゃないような気もするが、そんなこたーどうでもいい。彼女を家の中に運び込んで介抱せねば。
 とは思うのだが、なかなか上手いこと立ち上がれない。あちこち痛いし、しかも意識を失った人間というのはやはり重いのであった。まあ、柔らかくていい匂いなのはいいのだが、この状況ではそういう気分にゃ到底なれぬ。
 ってかなんでまた森宮さんが僕の家をアポなし訪問してきたんだよ。全然理解できんぞ。



[24888] その日、屋上で (番外編)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/08/06 22:11
「本物のお姫様抱っこかしらー。ジュンもやるときにはやるのかしら」
「ばらしーもやってもらったのよー?」
「私は……寸足らず過ぎ……赤ちゃん抱っこになっていました」
「重そうだけどなんだか嬉しそうな顔してるね、マスター」
「あの少女が軽いのでしょう。もっとも私の下僕(ゲボク)としてはあのくらいできて当然なのだわ」
「チビ野郎のダメ人間のくせに、役得もいいところですぅ」
「どーでもいいけど、あんたたちいつまで人を黒ひげ危機一髪状態で居させるつもりなのぉ?」
「むしろずっとそのままで居ると良いのだわ」
「えんだぁぁぁぁぁ~~~~~いやぁぁぁ~~~」
「……オイコラ殴るぞお前等。ぼーっと見てる暇があったら客間に座布団でも敷かんか」

 特に体力自慢の癖にニヤニヤ笑ってるだけの柿崎。骨折してるから仕方ないとか言いつつ、何一つ手を出そうともしなければ帰宅しようともしないのはどういう了見だ。
 這ってでも手伝わんか、と言ってやると客間の押し入れだけは開けてくれた。全く食えない奴である。一応礼は言っておく。
 比較的協力的な鋏とお貞、それにツートンに念力で形だけだが手伝わせ、座布団を引き摺り出して並べた上に森宮さんを横たえる。ダッフルコート姿のままというのもどうかと思うのだが、脱がせる気力もなかった。
 しかしまぁ、なんだ。
 築半世紀のボロい日本間。集っている適当な衣装の古人形ども。パーカ姿の僕に似たような恰好の柿崎。
 ダッフルコート姿で仰向けに寝ているだけなのに、森宮さんは明らかに浮いていた。
 なんというか、単に可愛いってだけじゃない。整い方というか、緻密さって言うのか……

「生まれてから今までの金の掛り方の差だね」
「またお前は言い難いことをさらりと……ってか帰らなくていいのかよ」
「しょーがないじゃんバス間に合わないし。親父にはメシ外で食うって電話入れといたから夕方まで問題なし。あ、昼飯お願いね」
「じゃーさっき喰ってた糞不味いシリアル食わせてやんよ。親父さんの昼飯は?」
「あたしが作んないと、朝の残り物の温め直し確定かな」

 すいません、柿崎の親父さん。たまの日曜日だってのに。

「それにしてもなかなか目を覚まさないのです……」
「ヒナ知ってるの。こういうときは王子様のキスが必要なのよ」
「人工呼吸の間違いだろ。しかも失神してるだけだから関係ないぞ。息してるし」
「いや、案外目ェ覚ますんじゃない? 口臭いとか、気持ち悪いとか、実はキスされるのを待ってたりとかの理由で」
「なんだその最後のケースは」
「乙女心は複雑ってこと」
「幾らなんでもそのために屋外でぶっ倒れるような真似はせんだろ……」

 柿崎本人ならやってもおかしくない気もするが、森宮さんはそこまでキレちゃいないと思いたい。
 その他の理由も御免蒙りたいが、三番目を期待して迂闊なことをしでかすと僕の築き上げてきた何かが崩壊しかねん。それは最悪のシナリオである。
 取り敢えずは客間に寝かせたままで見守ることにする。まさか彼女を独り置いて部屋を動くわけにも行かず、暫くは手持ち無沙汰な時間を過ごすこととなった。

「そう言えば、二人はいつ頃から仲良しなのかしらー?」
「大分昔の話になるねぇ……」
「精々四年ちょい前だけどな」
「二人の馴れ初め聞きたいのー」
「馴れ初めってオイ。それほど濃いい関係じゃねーぞ」
「初めて話したのは中学の屋上だったかな。あれで桜田のこと大体理解したんだ、あたし」
「どんなエスパーだよ。まあ、インパクトの強い場面だったのは認める」

 それは、概ねこんな感じの接触だった。


 ~~~~~~ 番外編 (JAM & Kakizaki Overture) その日、屋上で ~~~~~~


 中学一年生も二学期に入ると、やれ文化祭だのなんだのとそれなりに忙しくなってくる。
 まあそういうのが好きな奴は俄然張り切り出す時期でもあるのだが、僕にはあまり関係なかった。ただし、まるきり人生裏街道って訳でもないんで、例えば文化祭ということになるとそれなりにやることは出てくる。
 まあ、なんかそう言うと凄い重要な役割に聞こえるわけだが、実態はと言えばクラス対抗の寸劇の脇役であった。台詞は殆どなく、クライマックスでも叫んで倒れてそれでおしまい。しかし、それが実に叫び難い台詞なのである。

「グレーチェーン!」
「灰色の鎖じゃないんだからさぁ、もうちょっと気合入れようよ」
「グレーーーチェン!」
「間延びし過ぎー」
「グレーチェンっ!」
「もうちょっと感情込めて」
「石原なぁ……んじゃお前代役で声だけ当ててくれよ」
「僕でいいの? 女子だけど」

 既にこの頃から石原(葵)はにっこり笑って人を斬ると言うか、愛想は良いが容赦はなかった。
 っつーか、後から考えると、どうも僕で遊んでいた気配が濃厚である。そもそも寸劇なんて音声別撮りだし、そんなに良い機材使うわけでなし、素人の大根劇である。脇役の一言にそんなに気を使う必要はないのだ。
 しかしその当時の僕としては文化祭の寸劇というものの実態を知らないこともあり、それなりに真剣であった。
 放課後に通し練習とプレスコ収録をやるというので、昼休み、僕は藁半紙に印刷された台本(学校の古い機材を利用するとコピー用紙もコピー代も掛らないのであるが、十部程度のものを刷るのは流石にどうかと思う)を持ってその辺をうろうろすることとなった。当然台詞の練習のためである。
 そんなことを考えてみたこともなかったが、改めて探してみると校内というのは何処に行っても人がいるものだった。人目につかないだけなら話は別なのだろうが、声というのは厄介である。
 校庭の端も考えたが、こんな日に限って野球部が昼練なるものを行っている。迂闊に脇で謎の言葉を叫んでいたらボールが飛んで来かねない。

 結局、行くところは一つだった。用のない者立ち入り禁止の屋上である。用があるんだから構わんだろう。
 校舎の中と違って声が響くこともなければ、周囲に誰か居ることもない(ことになっている。場所柄物陰でキスしてる奴が居たりするかもしれんが糞喰らえである)。おお、まさに理想的環境。
 施錠されていない防風・防火の重い鉄の扉を開けると、能天気な青空が目に飛び込んできた。御誂え向きに良い風も吹いている。いやあ屋上ってホントに良いものですね。誰も居ないのが不思議なくらいです。
 って、居ないよね? ね?
 きょろきょろと左右を見回す。うむ。取り敢えず視界内に敵影なし。後ろ手にそろりと鉄の扉を閉め、教室の並んでいる側の反対の隅まで歩いて行き、転落防止柵に寄り掛かって一つ咳払い。
 よし。もしものときに恥をかく覚悟は完了した。

「グレーチェーン!」
「ハーイ」
「グレーチェーーン!!」
「ニイハオ」
「グレーーチェーーン!!」
「ジャンボー」
「ななな何者っ」
「三度目で漸く気付くかっ」

 ポコッ、と後ろから丸めた紙か何かで頭を叩かれる。
 急いで振り向くと、そこにはまだまともに話したことのないクラスメートが立っていた。柿崎恵。
 始業式の日の自己紹介のとき、漫画的な演出なら僕の額には確実に縦線が入っていたであろう。別にコイツの自己紹介が寒いものだった訳ではなく、問題はその名前であった。
 恵と書いてメグと読む。まさに誰かさんと同じ、仮名で書くとどこぞの漫画の登場人物という人物だった。
 実のところ、僕が何かにつけて名前ネタで弄られるのはコイツが同じクラスだったからという理由もあるのだ。
 どの阿呆が言い始めたか忘れたが、ローゼンメイデンと僕と柿崎の名前を結び付けたヤツがいて、以来何かにつけてそのネタを繰り返すもんだから、そんな深夜アニメを知らないヤツにまで知れ渡ってしまった。どちらか片方だけだったら琴線に触れなかったかもしれないが、二人揃うと倍増以上の効果があるようだ。
 文化祭で寸劇に関わることになったのも、元はと言えばそちらのヒキだった。冗談半分に衣装デザインとかとんでもない事(ちなみにこの時点から卒業まで僕の家庭科の成績は見事なアヒルの行進であった)を言われてこっちに回され、それよりは役者の方がまだマシということで脇役をやっている次第。
 しかし衣装係ねえ。冗談でなくそっちをやらされる破目になりかけるとは思わなかった。全国の山田太郎さんや上杉達也さんの苦労が偲ばれるというものである。

「ってーな、なんだよいきなり」
「灰色の鎖がどうしたってーの? ったくでかい声でギャーギャーと」
「寸劇の台詞練習だ。悪かったな」
「はぁ。あんなんテキトーにやっときゃいいじゃん。どうせ当日になりゃまともに見てる奴なんかいないよ」
「練習すんのは人の勝手だろ。お前こそ何しに来てんだよこんなとこに」
「あたし? 天使様にお空に連れてって貰おうと思って──」
「頭大丈夫か? いてっ」
「例のネタ、例の。毒電波受信してたんだよ長瀬ちゃんの方が良かった?」
「なんだそりゃ。そーゆーなりきりならどっかそーゆー仲間んトコでやれ」
「ここに居るじゃん、もろ主人公が」

 よせ、マジで怒るぞ。既にいい加減厭になってるんだからな……しかし、ホントは何やってたんだよ柿崎。
 訊いてみると、柿崎はニヤリと厭な笑顔を浮かべて隅の方に僕を連れて行った。こいつとはあまりお近づきにならない方がいいかもしれない、と思ったのはこのときが最初だったが、残念ながら思ったときには既に遅かった。
 隅の方、といっても何もない。強いて言えば柵は屋上の縁に沿って巡らされてるから、角のところで直角に曲がってるだけの話だ。
 柿崎は軽い掛け声を掛けて、その柵を乗り越えた。制止する間もなかったし、その動作は何気に安定というか熟練していて、全く危なげなく見えた。今にして思えば、多分この頃既に柿崎は鳶の現場とかで遊びやら手伝いやらをしていたんだろうな。
 柵を背負うような形になって、柿崎は片脚を前に出した。そのときは実に危なく見えたが、これも後から思い起こせば両肘で柵の縦棒をしっかり確保していた。
 しかし、口から出たのは如何にも柿崎らしい言葉だった。

「こっから一歩か二歩先に歩いて行って、周り中ずーっと見てみたいと思わない?」
「うん、それ無理。落ちて死ぬだけ」
「なんでそう現実的かなー。その先に何かハッピーでアンビリバボーな世界が待ってるかも知れないじゃん? やってみなきゃ分かんないでしょ」
「そこから一歩踏み出した場所が現実じゃないところならその心意気や良しってところだろうが、見たトコ何もないけど、どう見てもばっちり現実の延長で、重力はおんなじように効いてるぞ。んで床はない」
「ま、そうなんだけどさ。なんかねー、空飛んで爽快感欲しいとかは思わないんだけど、周りに何もないトコでぐるっと三百六十度見渡してみたいって思うんだ」
「……ならサーカスのブランコ乗りとか目指せば?」
「あ、それいいかもしんない。まぁでも、それは将来の話だからさ──」

 柿崎は屈みこみ、僕からは死角になった部分に片手を伸ばした。屋上の周囲には雨樋代わりの溝が巡らせてある。そこになにやら物資を隠匿しているらしい。用意周到というか、如何にも現場的な発想だ。
 じゃーん、とやる気のない効果音を口で言いながら持ち上げてみせたのは……なんだ。ロープ? 麻縄とかじゃなくて、建築現場で使うようなごついやつだ。
 よく見ると、ロープらしきものは柵の根元に二箇所ばかり巻きついている。

「なんだそりゃ。レスキューの真似? それともロープアクションでもやるつもりだったのか?」
「いや、単に降りようかと思ってたんだけどさ。今日は中止。あんたに邪魔されて時間なくなっちゃった」
「壁際で降下したって周り中見渡すも何もないとは思うが……まあ僕の活躍で犯罪を未然に防止できたのならば実に結構なことだ」

 うむうむと頷いてやると、柿崎は何が気に入ったのかにやっと白い歯を見せた。
 名前に反してブサイクなのは僕も人後に落ちない訳だが、こいつも同様に美人とは言い難い。しかしなんというか、このときの柿崎の表情は──まあその後何度も見ることになる訳だが──まるで宮崎アニメのがきんちょの如き、あるいはじゃりんこチエ的な、一種独特な存在感のある笑顔だった。

 しばし、見惚れるのではなく呆気にとられてその顔を眺め、僕はあることを思い出した。時間なくなった、だと?
 腕時計を確認してみる。無情にも昼休みは残り数分になっていた。
 天を仰いで嘆息する。嗚呼、結局最後の昼休みはあちこち動き回っただけで無駄に終わってしまった。
 いつの間にか柵を再度乗り越えて戻って来た柿崎が、肩をぽんと叩いて先に帰って行く。僕は肩を落としてその後ろに続いた。
 教室に帰って来た僕達を見ていた奴は多かったはずだが、柿崎が僕をシメたというような噂が流れなかったのは不幸中の幸いだった。


「それでそれで? 台詞練習できなくてどれだけドヤされたのかしらー?」
「それが……結局一発OKだった。つーか台詞間違えとかがなければ特に撮り直すようなモンでもなかったんだよ最初っから……」
「純情を弄ばれたのですね……ジュンだけに」
「お前、今自分で上手いこと言ったと思っただろ……」
「恵さんはそれから降りてみたの? 随分危険な試みに思えるけれど」
「んー、次の日桜田も連れてまた行ったんだけど、ロープが没収されててパアになっちゃった」
「残念なのー。れすきゅーごっこ楽しそうなのー」
「なんで見付かったか謎だよねー。あんなトコ教員も碌に見回ってないのにさぁ。間が悪いとしか思えない」
「アホか。降りてたら確実にワイドショーのネタになるレベルの騒ぎだぞ」

 ついでに言えば失敗したら柿崎は大怪我確実。それは自業自得としても、成功しようが失敗しようが、岡部という何処かで聞いたような苗字の担任は下手すると監督不行き届きでクビ、学校そのものもワイドショーか何かの恰好の取材対象だったろう。周囲を巻き込んだ大惨事と言っていい。
 小市民的な幸せを重んじる僕としては、実行されなくて良かったとしか思えないのであった。
 但し、僕の小市民的な幸せが実現したかというとそれは正反対であった。柿崎に目を付けられ、更に文化祭以降、主に寸劇の関連で石原姉妹の関心も買ってしまったらしい。何かにつけて、というほどではないが、食い余りのチョコレートを頂いたりとか、お裾分けでチョコレート自体を頂く程度の関係にはなった。
 これが恋愛感情を伴っていればハーレム万歳といった按配だったのかもしれんが、如何せん僕である。石原姉妹にはどうやら意中の人がそれぞれ居たらしいし、姉の方は男子から、妹の方は主に女子からのラブレターがぽつぽつと届くような人物だった。言葉を飾らずに言えば僕は鼻にも引っ掛けられてなかったわけだよ。
 まぁ僕の方でも理想のタイプとかいうものが一応あったわけで、そこからは三人ともずれていた、ということにしておこう。二年の夏休みに石原(美登里)にラブレターを渡そうとしたが結局未遂で終わった件は僕の黒歴史の一つである。
 柿崎にしても、何かといえば僕を誘う、とかいうほどではなかった。むしろバンドをやるとかやらないとか言ってる時期で、そっちが主要な関心事だったらしい。ただ、何か変わったこと(確実に碌でもないことだったが)をするときは必ず僕の出番という話になった。
 今から考えると、柿崎は僕にとってのプチ涼宮ハルヒであった訳か。恋愛感情も何も無かった僕としてはいい迷惑だったとしか言えない。

「まあ鳥みたくスーッと飛ぶんじゃなくて、ふよふよ空中浮遊したいってことだから、黒いのの大家としては合格点だろ、相性とか」
「ちょっと待ちなさいよ。なんでこんなのと相性良いって話にされちゃうわけ?」
「あたしは嬉しいけど?」
「私は全っ然嬉しくないわぁ……」
「判らんでもないぞその気持ちは」

 奇っ怪残念人形とはいえ、黒いのが柿崎をこんなの呼ばわりするのはよく判る。
 流石にくたばったと思って快哉を叫んだってところまでは同意出来かねるものがあるが、そんな薄情極まりないことを言われても致し方ないかな、と思わなくもない。その程度には柿崎はイカレていた。
 主に迷惑を掛ける対象は中学校のときは僕だの僕の周囲だのであった訳だが、現在は恐らく黒いのが被害の大部分を引き受けているのだろう。哀れである。
 だがしかし。僕等がコイツ等の大家になった理由は、例の漫画の登場人物と同姓同名だからってことだけではあるまい。
 それなりの素養とか相性とかいうやつがあるんではなかろうか。となると、都合五体ばかり寄宿させている僕は置いておくとして、黒いのだけが柿崎の所に行ったというのは、柿崎との相性が良かったと考えるしかない。
 哀れよのぉ黒いの。お前は柿崎のパートナーとなるべき運命だったわけよ。くっくっくっ。

「しかしそれにしても……目覚めないわねぇ。つまんなぁい」
「あ、スルーしやがった」
「ヒナはもっと艶っぽい馴れ初めのお話が良かったのよ。あれだけじゃイマイチ以下なのー」
「この二人にそーゆーものを求めるのが間違ってるですぅ。期待するならこのお姫様と誰か王子様の恋話の方がいいのですよ」
「あら、この子はジュンの彼女さんなのではなくて? 寝言で何度も呼んでいた名前と一致しているのだわ」
「そう言えば、『森宮さん』って言ってたかしら」
「おお、何あんた、やっぱそういう関係の子なんだ。桜田のくせに上物捕獲したもんじゃん」
「まだ片思いの可能性も残ってるよ。油断は禁物だねマスター」
「……なんてコメントして良いか判らんが、取り敢えずお前等森宮さんが起きる前に視界から消えとけよ。また失神されるぞ」
「あーそれは同感。今度気ぃ失ったら目覚めるのは天国かもよ」

 いや流石にそれはないだろ。あと僕が人身売買のブローカーみたいな言い方するの止めてください。マジで。
 でも確かになあ。上物捕まえた、か。
 学年全体探せば他にも何人か居ない訳じゃないけど、僕とは異常なまでに不釣合いなくらいのお姫様ではあるよな。
 体育以外の成績も良いらしいし、あの邸宅に住んでるお嬢様だし。こっちはどちらも残念過ぎるわけで。なんか数字に出来るもので同い年の学生を二分するように線引きしたら確実に向こうとこっちに分かれてしまう僕たち二人なのである。大身の姫君と水呑み百姓というかなんというか。
 数字に出来ない部分でも……なあ。
 石原姉妹(主に姉)のお陰で美人にはそれなりに免疫はあるし、御嬢様だの美人だのでも性格がアレだと輝いて見えないなぁとは思うが、それにしてもやっぱしなぁ。まるで外国映画の中から抜け出てきたような整った顔立ち。ツーテールに纏めてるけど、実はかなり長い髪。繊細な細い手。そして、大きな瞳。
 今も僕の方を見詰めて瞬いているけど、例えば恐らく僕の目とか柿崎の目とかと比較したら……ってあれ。

「ここ……は?」
「森宮、さん?」

 起きてた、だと?
 やばいやばいやばい。素早く僕と柿崎は視線を交わす。

「クックック、此処は地獄の一丁目、あたしゃ三途の川の渡し守サァ」
「えっ……?」
「アホなこと言ってんじゃねえよ。僕のうちは魔窟か閻魔さんの屋敷かなんかか」
「間違ってないじゃん。てか今一瞬信じたよねー?」
「あ……いえ、そんなことは……」
「いやー絶対信じたね。眼が泳いだもん」
「小学生かおのれはっ」

 到底絶妙とは呼べないが咄嗟の遣り取りで間を持たせつつ、僕は片手でしっしっと人形ズに退却を指令した。ここで森宮さんに大量の動く人形を見られたら、またさっきと同じ状態に逆戻りである。
 しかし、僕と柿崎の時間稼ぎは空しく終わった。

「……動いてるのね」
「えっ、なになになにが? そりゃ生きてるんだから動くよ口も手も」
「そ、そうそう。動かなきゃ死体だし、話もできないじゃん?」
「貴方達ではなくて──」

 森宮さんは上体を起こした。
 恐る恐る視線の向く方を追って行くと、そこにはまだノソノソふよふよと緊張感なく移動し、戸口に到達してもいない赤いのと黒いのの姿があった。
 おい、しかも鋏とお貞、顔出してこっち向いてんじゃねーよ。全部見られちゃうじゃねーか。
 髪の毛が逆立つような気分で振り向くと、森宮さんはこれまでの中で一番強張った表情のまま、しかし気を失うこともなく依然として戸口の方を見やっていた。

「──その子たち、やはり動けるのね。自分の意志で……」

 静かな、しかしはっきりした声だった。
 視線だけがこちらに向き、僕は機械的な動作で頷いた。彼女が失神しなかったのは良いとして、これで残念人形ズが自動残念人形ズであることが彼女にばれてしまったのは間違いなかった。



[24888] 第二期第八話 驚愕の事実
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/08/06 22:12
「唯今より点呼を取る。整列ッ!」
「なぁに声張り上げてんのよぉ」
「彼女の前で張りきってるのよ、察してあげるかしら」
「横並びですか縦並びなのですかぁ?」
「縦だと水銀燈以外には薔薇水晶の頭くらいしか見えないと思うな……」
「貴女の鋏だけは前からでも一目瞭然なのだわ。いい加減仕舞いなさい」
「ヒナはちっちゃいから一番前がいいのー」
「おやつは……300円までなのですか……?」

 まるでオリンピックのアメリカ選手団のようにだらだらと、都合六体の残念人形と一体の中華製ドールが並ぶ。最後の一体は何やら盛大に勘違いしているようだが、まあ構うまい。
 残念人形どもも水島さんお手製のスモックとスカートのお陰でどうにか見れなくもない姿になった。馬子にも衣装とはまさにこのことである。ただし、ゆめゆめ顔を凝視してはいけません。もう背筋がゾクゾクして耳の後ろの毛が逆立つこと請け合い。
 ついでに言えば見れなくもないというのも、元々の姿やらさっきまでの姿を知ってるからマシに見えてるだけなのも否定はしない。やはり人形の命は顔であるし、着せられてるのも所詮はスモック。平たく言えば保育園の園児服をもっと簡単にしたやつである。しかもそれぞれのカラーはいいが、まさに原色バリバリ。じっと見ていたら目がチカチカしてくるやもしれぬ。
 どうにか不揃いに並んだところで、端から簡単に紹介をする。自己紹介をしたがるのもいたが、却下してどんどん先に進める。そういうのに限って長ったらしくなるのが判っているからである。
 紹介される側が人形どもの姿を一度は見てくれているのは都合が良かったと思うんだが、いつ気が遠くなるのか冷や冷やしっ放しでそれどころじゃなかった。
 幸いというか大いに健闘したというか、森宮さんは全員整列にも紹介にも耐えてくれた。それでもばらしーの紹介が済んだときについた長い溜息には、何か寂しさを覚えたりとか人形達を哀れんでいるというような叙情的な気配は一切なく、やっと終わったという安堵感の表れとしか思えなかった。
 次いで一応の解説を求められたのは意外と言えば意外だった。まあ、解説の間は人形どもに視線を向けている必要はないから、僕としても安心ではある。

「ローゼンメイデンが全員揃っているのね」
「うん。まぁ……そうだよな。本当ならこれでバトルロイヤル勃発らしいんだけど、今は待たせてる」
「それは……アリスゲームということ?」
「コイツ等はそう呼んでるみたいだ。相手を壊して、体内の動力ユニットを奪い合う戦いってことらしい」
「それも一緒なのね」
「大分イメージ違うけどなー」
「そうかしら。命を懸けて戦うことには変わりなくてよ」

 どういう訳か、僕やその他がいろいろと説明しても森宮さんは全く驚かなかった。漫画やアニメから設定だけ抜き出してきてコイツ等に合わせて劣化させたような話で、ローゼンメイデンのかなり熱心なファンの森宮さんからしたらツッコミどころも多かろうし、笑えたり泣けたりする部分もありそうなんだが。
 実は登場するドール以外のことには関心が薄いのかとも思ったが、それにしては少しずつ哀しそうな顔になって行くのは何故なのだろう。
 そんなことで、一向に盛り上がらないまま解説は三十分も経たずに粗方終わってしまった。
 時間と余裕があればロザミとかローゼン(Rosen)工房さんについての話もしようかと思っていたのだが、時間はともかく聞き手のテンションが見るからに下がってしまい、つられて僕達の方もやる気が低下してしまったため、そっちの話は結局端折ってしまった。まあ、大分不確かで、かつどうでもいい話ではあるし。
 当の人形どもは薄情なもので、森宮さんが起きたときは興味津々と言った体でわざわざ居残りやがったくせに、解説している間に一つ減り二つ減り、気が付いたらばらしーとお貞が残っているだけになっていた。ばらしーはともかく、お貞が残っているのは森宮さんに長過ぎる髪の毛を鋤いてもらっているからであり、それがなければとっとと退場していた可能性は高い。つか、お貞そこを代われ。
 さっきは僕に能書き垂れる気満々で居残った赤いのすら今回は居ない。要するに自分がしゃべくりたいだけだったんだな。やはり漫画やアニメの心麗しき薔薇少女達とは別物もいいところってことかよ。
 思わずぼやくと、だらしなく畳の上に寝っ転がっている柿崎は、ばらしーを高い高いしながらにやっと笑った。

「自分の欲望に忠実なんだよ。いいじゃん気楽でさ」
「そりゃそうだが、だったら名前とかまで模倣すんなと言いたくねーか? 最早メリーさん大行進で良かろう」
「模倣じゃないです。翠星石達は真剣に生きてるんですよぅ」
「そうね。アリスゲームまでしているなんて……こんな壊れ易い体なのに」
「ですぅ。頑張ってるのですよー」
「不思議な魔法で柔らかくなったりしてないからなぁ」
「──陶磁器人形が柔らかくなったら気味悪いのですぅ。ぐにょぐにょになって潰れそうですぅ」
「軟体メイデン? 這いずる乙女? 斬新じゃん! その発想はなかったわー」
「おいやめろ。森宮さんの気が遠くなる」

 ひととおり梳いてもらい終わり、髪の先っぽの方に箸でカールを付けてもらうと、みんなに見せて来ます、とお貞はばらしーの手を引いてひょこひょこと出て行った。現金なものである。まあ予想どおりだけどさ。
 見送る森宮さんの微笑は優しかった。残念ながらこの微笑は数回ばかり僕に向けられて僕のハートを一撃で貫通してくれたものより遥かに優しげで、なおかつ……哀しげだった。
 失神するほど不気味な人形どもに対して、なんて優しく笑うんだよ。まったく。よくある演出みたいに隣に座って肩抱き寄せたくなっちゃうじゃないかよバーロー。
 しかし……どうしてまた、そんなに哀しげなんだろう。聞きたいような、聞いてしまってはいけないような気がする。
 考えても仕方がないか、と時計を見ると、そろそろ昼飯の時間近くなっていた。
 材料・技量ともに碌なものも作れない訳だが、腹の足しになりそうなものってことでホットケーキでも焼くか。柿崎には僕の食ってたシリアルでも与えれば(量さえ多ければ)文句言いながらでも腹に詰め込むだろうが、相手は柿崎の言葉ではないが「生まれてからここまでのカネの掛かり方」が僕とは全く違うお嬢様である。無理に変なものを食わせたら何か緊急な事態が発生しないとも限らん。
 よし、と台所に立とうとすると、森宮さんが僕の方を見上げた。

「あの……今日伺った理由、なのだけれど」
「あ、うん。こっちがしゃべくるばっかで、聞いてなかった。ごめん」
「いいのよ。私が説明を求めたのだもの」

 森宮さんは座卓の前で居住まいを正した。なんとなくスイッチが入ったような仕種で、僕だけでなくゴロゴロしていた怪我人の柿崎までもそそくさと座卓を囲んで座り直す程度には凛とした姿だった。
 横になってるだけでも何処となくオーラみたいなものが違ってただけあって、背筋を伸ばしてしゃんとした森宮さんは学校や街中で見るのとはまた違う雰囲気を纏っている。
 なんというか……己の語彙の少なさを呪うしかないんだが、あれだ。掃き溜めに鶴っつーか。いやそれは下町美人のことだから違うな。とにかく、風景及び土民たる僕等二人とミスマッチかつ大きな存在感を持っている。
 他人を茶化すのが生き甲斐みたいな柿崎が黙って座ってるんだから相当なものだ。進路指導の先生程度には威圧感があるんじゃないだろうか。

「私達のことについて私は何も話していなかったのだわ。貴方に」
「えっ、わ、私達とか……いやその……照れるなハハ」
「あれ、ひょっとしてあたしお邪魔もいいトコだったりする?」
「今ごろ気付いたのかよ。するする大いに──」
「──いいえ。貴女にも関わることなのだわ。メグ……水島愛毬の隣に入院していたのは貴女でしょう、柿崎さん」
「Yes I am!」
「アヴドゥルかよっ」

 予め言っておこう。その場で僕等に阿呆なおふざけができたのは、その遣り取りが最後だった。
 森宮さんの語り始めた話は、僕等にはちょっぴり異次元かつ寝耳に水で、しかし本人にしてみれば大いに真面目な内容だった。
 ちなみに私達という「達」の中に僕が入ってる訳じゃなかったことがすぐに判明するわけだが、それは本来嘆くべきところかもしれないが、聞き終わったときにはそんな勘違いをしたこと自体忘れてしまっていた。


 ~~~~~~ 第八話 驚愕の事実 ~~~~~~


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「……全てを見抜かれるとは、思っておりませんでしたわ。一体どんな手品をお使いになったの?」
 純白の少女はくすりと笑う。やや、寂しい笑いだった。
「簡単なことさ。雪華綺晶」
 その場の風景自体が硝子のようにばらばらに崩れ落ちて行く中で、中学生の少年を腕に抱えた青年はにこりともせずに佇立している。その足許から無数の白茨が彼を巻き取ろうと蔓を伸ばしていたが、彼は全く意に介していなかった。
「僕みたいな捻くれた人間は、可能性が満ち溢れてる世界なんて簡単には信用できない。最初からおかしいと思っては居たんだ。有頂天になって暫く気付けなかったけど、こんな都合の良い展開があるはずがない。むしろ、全部誰かの──そう、お前みたいな力を持った存在の作った舞台だって思った方が辻褄が合う」
 そうですわね、と雪華綺晶はまた笑った。笑いは大きくなっているのに、そこに含まれる寂しさはもっと大きくなっているように見えた。
「全ては虚構でした……ただし、お姉様がたの意識は本物でしてよ? ある程度以上には逸脱しないよう、操作はさせていただきましたけれど」

「何が望みだったんだ」

 青年は過去形で言った。
「ここまで精巧に、緻密に作らなくたって良かったんじゃないのか? 現実にここまで近い世界を──」
「──精密に作る必要がありましたのよ」
 白茨はいつのまにか消えていた。雪華綺晶は青年──大学生の桜田ジュンの隣に寄り添い、ジュンは少年──中学生の桜田ジュンを脇に横たえて、二人はどちらからともなく並んで虚無の中に座った。
 雪華綺晶は青年の肩に、疲れきったように寄り掛かった。
「それに元はと言えば、消え行く末の枝の一つを基にして作った箱庭なのです。ですから然程の労力も要らずに創り直すことが出来ましたのよ。貴方がお考えになっているほど薔薇乙女とマスター達の領域は広くありませんもの」
「答えになってないじゃないか」
「そうですわね……」
 雪華綺晶は大儀そうに息をついた。
「もっと、そう、貴方が手作りした舞台のような、あの大きな時計のような簡単で素朴なもので良かったかもしれません」
 すっと腕を青年の腕に絡める。青年は拒まなかった。
「結局、こうして破られてしまえば同じことですもの。でも……」
 青年の横顔を見上げる瞳は、嘆きのような色合いを湛えていた。
「私は貴方に少しでも長く、少しでも楽しく、少しでも暖かく過ごして欲しかった。少しでも長く、私を見ていて欲しかった」
「……歪んでるよ、お前は」
 青年は雪華綺晶の顔を見ようとしなかった。
「貴方が私そのものを拒まなければ、もっと自由に、もっと優しい世界に作り変えて差し上げられたのに……」
 残念ですわ、と雪華綺晶は目を閉じて彼の腕に縋るような姿勢になった。
「繰言、ですわね。この世界の優しさですら、貴方のお気に召さなかったのですから」
 青年は大きく息をつき、雪華綺晶に縋られた腕を振り解いた。バランスを崩して倒れそうになる雪華綺晶を、自分から抱き寄せる。

「……好きになった人がお前の分身で、僕は分岐の可能性のなくなった世界をずっと彼女と二人で歩いて行くことを夢見てたなんて、どこまで酷い詐欺なんだ。
 真紅達が僕の前に現れたことさえ、僕と彼女──いや、お前を結び付かせるためのお膳立てでしかなかったなんて……」

「持っていた手駒は全て使いましたのよ。お陰で私自身は慣れない格闘までする破目になってしまいましたけれど」
「大暴れだったじゃないか」
 青年は少女を抱く腕に力を込めた。
「あれで蒼星石の体と魂と動力を一つにさせて……あまりメリットは多くなかったんじゃないか? それも僕に都合の良い世界を作りたいからだったのか」
「あの場で完成させていなければ、緑薔薇のお姉様は真相に気付いていたかもしれません……思考を逸らすためには、必要な措置だったのです」
 色気のない会話を交わしながら、雪華綺晶は目を開けて間近で青年の顔を見上げた。
「キスして……ジュン君」
「……この状況でよく言えるな、そんなこと」
 憎まれ口を利きながら、青年は自分が恋をした女性と口付けを交わした。

「それで、これからはどうするつもりなんだ」
 襟を整えながら青年は雪華綺晶に尋ねた。
「僕はお前の改変した世界を壊してしまった。いくら脆くなっていたからって、物質世界一つ、まるまるだぞ。僕の選択で一つ世界が分岐してしまったかもしれないのに、今度は消滅なんて。一介の人間に許されることなのか、これは」
「それを言ってしまっては、薔薇乙女など存在自体が許されざるものですわ。世界を飛び回り、世界のルールの外に居る化け物ですもの」
 雪華綺晶は楽しそうに笑った。
「どの道、あの世界は永くは持たなかったのですわ。……でも、それに乗じて世界を脆く作り変えてしまった私も、その詐術を見破っただけとはいえ、脆い世界に最後の斧を打ち込んでしまった貴方も、等しく許されない所業を為したのでしょう」
「……本来の顔に戻ってくれよ」
 青年は顔を片手で覆って、空いたほうの手をひらひらと振った。
「同一人物だって分かっていても、斉藤さんの顔でそれを言われると、新しい劇の台詞合わせをしてるみたいに錯覚する」
「はい」
 少女の顔は、白いウェーブの掛かった長い髪の、無邪気な笑顔のそれに戻った。右眼はない。眼窩から直に白薔薇の花が咲いている。枯れる事のない薔薇の花だ。
「それで、だ」
 青年は少女の顔に右手を添え、空いている方の目尻を親指で撫でた。かすかに湿った感触があった。
「僕はもう、消滅させられても無間地獄に落ちても仕方がない。でも、真紅達や『巻いた』僕は救ってやれないのか」
「……お優しいのですね、彼女には」
 雪華綺晶は少しむくれたような顔になる。
「それとも私以外の方には全てそうなのでしょうか」
「優しくするさ。他の連中は世界を創り変えたり壊そうなんて考えないからな」
 言いながらも、青年は雪華綺晶をもう一度胸に抱き締める。
「結果的に、幾つも幾つも生んでは壊してしまっていたとしても……」
 雪華綺晶はくぐもった声で何か言葉を返したが、青年には聴き取れなかった。彼はもう一度、どうすれば良いのかと尋ねた。

「それは私めから申し上げましょう、坊ちゃん」
 虚空から涌き出るように、唐突に黒い燕尾服を着て兎の頭をした紳士が現れた。

「終わりは始まり、破壊は再生、あるとないは表裏一体。幕引きには全ての物事に何等かの目処が立ってこそ、観客は安心して家路に就けるもの。
 今、白薔薇の少女の姦計は敗れ、にもかかわらずその切なる想いは目出度く成就致しました。
 しかしながら残る不幸な少女達と少年の物語は全く終わっておりません。これは由々しき問題です」

 相変わらずよく動く身振り手振りを交えて、紳士は妙な節回しを付けて喋る。青年は雪華綺晶を抱いたまま眉根を寄せた。
「……お前は?」
「おっと、これは失礼をば」
 紳士は道化た身振りで帽子を脱いだ。
「この兎めはお嬢さん方の見届け役を承っておる者。お嬢さん方からはラプラスの魔と呼ばれております。以後お見知り置きを」
「お見知り置きはいいけど、僕は多分もうこの何処の世界でもないところから出られないんだろ? 意味がないよ」
「はっは、確かに坊ちゃんは所属する物質界を失われましたな、それもご自分の手を下すことによって」
 紳士は慇懃に、間接的にその言葉を肯定した。
「ですがご安心あれ。貴方の切なる願い、それは言わば一つの世界そのものの願いでもございます。よもや無下にされることはございますまい」
「どういう意味なんだ、それは」
「この際意味など重要ではありますまい。あるがままが全て。全ては等しくあるがままに。そう、貴方がお望みならばご自分とその腕の中の少女を含め、全ての事物の幕を引き、新たな始まりを告げることもできましょう」
 紳士は両手を広げる。
「さすればこの兎と致しましても、与えられた任を全うできると申すものであります」
「訳が判らないよ……」
 青年は額に手を当てた。理解の外にあるか否かよりも、まず紳士の言葉を測りかねるといった風情だった。
「なに、至極簡単なことです」
 紳士はステッキをくるりと回す。それはぽんと軽い音を立てて開き、黒いこうもり傘となった。
 紳士はそれをぽいと投げ棄てると、何時の間にかまた新たなステッキをくるりと回す。同じ音を立てて黄色いこうもり傘が現れ、紳士はそれも同じように投げ棄てた。
 たちまちのうちに、紳士は都合六つのこうもり傘を開いては投げ棄て、捨てられた色取り取りのそれらはやや離れたところに綺麗に柄を上に向けた状態で並んだ。
「全てのローザミスティカはそれぞれの少女の許に在り、偽りの記憶は全ての少女の夢の中。而してアリスゲームは終わっております。この矛盾を如何すべきか」
「アリスゲームが終わった……?」
 青年は目を見開いた。

「待てよ。どういう意味なんだ。まだ何も始まってさえいないだろう?
 この雪華綺晶が他の姉妹や契約者の心を奪って一つの世界に閉じ込めてただけだ。しかもそれは今破られて、この僕が、それを暴いたことでみんなを閉じ込めていた世界そのものを壊してしまった。
 彼女達が現実世界に戻れば、また同じように遣り直しになるだけじゃないのか。
 僕は……僕は、まだこの子が勝ったなんて認めてないぞ。
 勝ったなら──雪華綺晶が勝っているなら、何故『お父様』は勝者の許に姿を現さない? ルールどおり愛してやろうとしないんだ?
 約束を──反故にするつもりなのか」

「坊ちゃん、坊ちゃん」
 タクトを振るうようにステッキを動かし、紳士は青年を静めた。

「貴方は一つ大きな思い違いをしておられる。ご自分を知らない、と申し上げた方が正しいやも知れませぬな。
 正解は、誰よりも貴方の腕の中の少女が知っておりますよ。これまで全ての姉妹の経験と記憶を蓄積し、貴方の愛を勝ち取る為に惜しげもなく限りある自らの力を全て注ぎ込み、世界一つを強引に変えてでも貴方に尽くそうとした少女が」

 青年は呆然と兎頭の紳士を見、そして座り込んだまま、自分が胸に抱いている少女を見詰めた。
 少女の表情は曖昧だった。その右眼の眼窩から伸びた白薔薇が大きく開き、そして──はらりと落ちた。
「──お父様」
 雪華綺晶は微笑んだ。右眼は何時の間にか、まるで最初からそこにあったように存在していた。
「無から有を生み出すマエストロ。貴方が、貴方こそがお父様なのです。私は貴方の、貴方だけの幸せな少女……」

──ああ、そうか。そうなんだな。

 唐突に、青年は全てを理解した。
 全ての記憶が甦る。いや、今まさに、彼という依り代に、お父様と呼ばれるモノの知識と記憶が流れ込んでいるのだ。
 彼は腕の中の娘を抱き締め、そして、静かに顔を上げた。
「アリスは生まれる。全ての姉妹からその経験と知識を複製し、そして──姉妹とその契約者全てを失わずに残したことで、雪華綺晶はアリスと成る条件を満たした。些かトリックを駆使したが、姉妹を壊すことよりも遥かに穏当だ」
「如何にも、左様ですマエストロ」
 ラプラスの魔は恭しく一礼した。
「そして、彼女は貴方の永遠の少女です。永いこと、お疲れ様でありました」
「それを言わねばならないのは僕の方だ、ラプラスの魔」
 青年は片手を差し出し、紳士と握手を交わした。
「そして、最後にもう一働きして貰いたい。君にしかできない仕事だ」
「何なりと、マエストロ」
 紳士の兎の顔は笑ったように見えた。
 青年は愛する娘を放し、脇の方を見遣る。そこには少年と老人が一人ずつ、少女三人と成人した女性が一人、それぞれ水晶の棺に横たわり、傍らには六人の小さな少女がやはり水晶の棺に入れられて並んでいた。
「六つのローザミスティカは、それぞれの命として与えよう。そして、彼等全てを元の世界──『巻いた世界』に戻す。世界との折衝を君に任せたい。面倒ごとだが、引きうけてくれるか」
「喜んで」
「私達は最初に決めたとおり、新たな世界樹を創る。そこに人を作り、世界を一つ一つ生んで行こう」
 いいかね、と青年は娘に問い掛ける。娘の答えは決まっていた。『お父様』の最初の一人がその夢を抱いてからずっと。
「──お父様がそれを望まれるなら、喜んで……」

 ややあって、兎頭の紳士は長い階段を作り、青年と娘はそこに踏み出して消えて行った。
 残された紳士はひとりごちる。いや、それは並んだ棺の中のそれぞれに向けられていた。
「さあさあ、壮大で実にちっぽけ、長くて短い茶番はこれにて幕。残された貴方がたは、上手に元の世界に戻らねばなりません。いや、それがこの兎めの仕事でしたかな」
 くっくっと喉の奥で笑うような声を出し、紳士は独り言を続ける。
 聴衆は棺の中で誰一人身じろぎもしない。聞こえているのかいないのか、あるいは彼のことなど無視を決め込んでいるのか。

「最後の時代のマスターの方々。貴方がたにはちょっとしたプレゼントを差し上げましょう。
 ええ、新しいがそれとは思わないほど緻密に創られた記憶と名前です。残念ながら元の名前は捨てていただくこととなりましょう。薔薇乙女に関する記録や記憶は、破棄しなければなりませぬ故。
 そして、お嬢様方。貴女達には記憶とともに新たなお名前、新たな体、新たな生命を差し上げると致しましょう。
 儚く短い人間の命となりましょうが、なに、不安に感じられることは何一つ御座いません。これからは愛するマスターのご家族となって、いつもご一緒なのですから。
 そのうち、新たな生命にも慣れ、いずれは、そう──『お父様』ではなく、それぞれ誰か別の方のアリスと成られるはず。至高の存在でこそありませんが、それもまた大事なことですぞ」

 紳士はまたくっくっと笑い、顔を上げた。
「さて、兎めは参ると致しますかな。長く、そして大変難しい交渉に。貴方がたはそこでお待ちください。なに、貴方がたの主観では一瞬のことです。もちろん、そのような時間経過があったなどと、貴方がたは気付くこともおありにならないでしょうが──」
 一歩下がって帽子を取り、深深と棺に向かって一礼する。

「永のお暇となりますが、これにて失礼。楽しい時間をありがとう御座いました、美しく哀しいマリオネットの皆様方」


         ~~ 第二部 完 ~~

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「え、これって大ジュンが実はお父様だったってこと? あ、そーじゃないか。お父様って憑依物体で、素質のあった人に取り憑く訳ね。了解」
「それでなおかつYJに移ってからの掲載分は全部、ゴルゴムならぬきらきーの罠ってことですかい……」
「斬新な設定でしょう?」
「ま、まあ、そうだけど……判りにくくないかな、流石に」
「原作を読み込んで、前回の同人誌を読んでいれば間違いなく感動できる超大作なのだわ。今回が第二部最終回なの」

 そう。彼女達──森宮さん、例の店で出会った加納さん、そして何故か石原(葵)。三人は、定期的に合同でローゼンメイデンの同人誌を作っているらしい。ちなみに、絵の描ける人は三人の中には居ないので、絵はもっぱら身近な絵師こと森宮さんの弟君が描いているとのことだ。
 ……そりゃ、ドレス作るのが遅れる訳だよな。春のローゼンメイデン専門同人誌即売会(『まきまき』というそうだが)合わせで昨年末から作ってるっていうし。
 いやそれは良いのだが、流石にいきなりこんな話を延々とされては僕等には声もない。茶化す余裕すらないのは、手元にその原稿のコピーまで配布されてしまったからだ。何故柿崎の分まであるのだろうか……って、単に余分に持ち歩いてるだけだよな、どう見ても。
 ていうか、なんでまたわざわざ家まで押し掛けて来てこんな話を?

「え、……興味あるかと思ったの……だけど」
「なるほど……」
「ああ……うん」

 きょとんとしている森宮さんに、僕達はぐったりと疲れて生返事を返した。
 要するに、彼女は自身満々、当然楽しんでもらえるものと思って僕達に──いや多分僕個人に──仕上がった同人誌の原稿を見せに来たのだ。
 うう。なんたること。残念ながら原作を読み込んでいない僕にはあまり楽しくはなかった。

「終わりましたかー?」
「……ええ、終わったわ。待たせてしまってごめんなさいね」
「それは大丈夫ですけどぉ……」
「なんだどうした、変事出来かッ」
「う、それほどじゃ……真紅がお風呂の蓋踏み外して浴槽に転落しただけですから」
「大事故じゃねーか!」

 僕を取り巻いてる現実のゲーム参加者は、所詮この程度のものであった。
 まあ、別に悪くはないが。凝りに凝った壮大な二次創作はおろか、漫画の展開を何処まで簡略化してもこいつ等のしょぼさには追いつかない。
 その程度でも持て余し気味なのである。やたら大きな話など、パンピーでありボンビーでもある僕などには到底手に負える代物ではないのだ。



[24888] 第二期第九話 優しきドール
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/08/06 22:15
 ~~~~~~ 五年前、春四月、某所 ~~~~~~


「まさか、同じ中学に居るとは思わなかったよ。それも二人も」
「三人かもしれませんよ。こっちの同級生にも居たのです。名前は違ってますけど……」
「ふうん……この分だと全員オリジナルに相当する人物が居てもおかしくはないね。彼等には関係のないことだけど」
「創作物になってるくらいです、何が起きてももう驚かんですよ」
「……そうだね。偶然の一致かもしれないし、僕達は僕達でここに存在しているのだから、その存在が揺らぐようなことはないだろう」
「それは分かりませんけど……。でももう、全部終わってしまったんですからしょうがないです」
「過去に向き合えって事かもしれないな。僕達はそういう存在なのだから、忘れてはいけない、しっかりと生きるんだって」
「……はい」


 ~~~~~~ 現在 ~~~~~~


 同人誌原稿を突っ込んで大分でかくなった頭陀袋に本人形の主張どおり黒いのを顔だけ出して詰め込んだものを手渡すと、柿崎はひょいと肩に引っ掛けてバスの昇降口に足を踏み出した。片脚が固まってることに慣れきってる様子で、手を貸さなくてもひょいひょいと乗り込んでしまう。
 松葉杖を渡しながら、本当はコレ必要ないんじゃないのか、と言ってやると、にっと歯を見せて笑った。がきんちょそのものの良い顔だった。
 器用に座席に陣取り、窓から機嫌よく手を振りつつ去って行くのを見送ってから僕は家に戻った。最後に何か言っていたようだったが、気付かなかったことにしておく。どうせ碌なコメントではあるまい。
 それはともかく、せめてバスの中では他人に見付からないで欲しいものだ。森宮さんの反応も過剰らしいということは判るんだが、僕や鳥海レベルが一般的な感性だとしても、薄暗いバスの車内、逃げ場もないところであんな怪奇物体が微妙に動いてる様など見たら確実にトラウマになりそうである。
 やれやれと言いつつ玄関の引き戸を開けると、賑やかな喋り声が聞こえて来た。また客間に人形どもが集まっているらしい。

「お帰りなさいジュン」
「のわっ、ただいま」
「人を裸に剥いて吊るしておいて酷い反応なのだわ……」
「風呂に沈んで脱出できなくなってたのはどこの人形なんだ。薔薇の花びらとか浮いてたってことは、相当じたばたしても出られなかったんだろ」
「仕方がないでしょう。人間サイズの浴槽は私達には貯水槽も同然の深い池なのだもの。汚い残り湯に薔薇の香りが移って良かったと思いなさい」
「はいはい。何やってたか知らんが、粗方乾くまではそのままだからな。その後、ストーブの前に置いてドライヤーでじっくり炙ってやる」
「ああッ、なんてこと! 鬼畜の所業なのだわ! 鬼! 悪魔!」

 なんとでも言え。お前のボデーまでカビが繁殖したらたまったもんじゃないのだ。呼び名をツートン(2号)に変えなきゃならなくなるだろうが。
 ギャーギャー喚く声を尻目に風呂場を覗く。洗濯が終わっていたら衣装も干してやるか、と思ったのだが洗濯機はまだ唸りを上げて脱水しているところだった。


 ~~~~~~ 第九話 優しきドール ~~~~~~


 さて。
 気懸かりなのは客間である。本人が大丈夫だ問題ない、人形達の髪を梳かしてあげたいと言うので森宮さん一人を自動残念人形ズの只中に残してしまった訳だが……。
 中の情景が恐ろしくなってきたが、覚悟を決めて客間の障子を開ける。ただいま、と言い掛けて僕はぽかんと口を開いた。
 そこでは、大袈裟に言うと一人の姫が四体の人形と遊んでいた。
 いや、そこまでは概ね良い方の予測どおりだった。しかし、ダッフルコートを脱いで人形どもの相手をしている彼女は、何というか……実に優しい笑顔で、僕に向けられている訳じゃないのは判っていても……その。
 うん。なんだ。……ま、いいや。そういうこと。きっと僕は面食いも良いところなのだ。

「あーっ、ジュンなのぉ。お帰りなさーい」「おかえりなさい、マスター」「送り届け乙ですぅ」「お役目大儀かしらー」
「ただいま。いい加減マスターってのよしてくれよ……」
「お帰りなさい」
「……た、ただいま」

 頬が熱を持ったのが判る。それも一瞬で。そのくせ顔はにやけてるに違いない。うわあ。俺キモイ。
 イケメンさんならフッと微笑んで気の利いた台詞の一つでも言うところなんだろうけどね! それか黙って頷くとかさ!
 でも、なんだ。今更カッコつけてもしょうがない。
 なにしろ森宮邸の一件やら、その後何度か連れ回されたりして、僕が如何に外見的にも精神的にも非イケメンであるかは疾うの昔に森宮さんにバレてるわけで。
 僕はだらしない顔のまま、ちょこちょこと寄って来たツートンを抱き上げた。

「ルミちゃんさんにね、髪の毛まきまきしてもらったのよ」
「おう、ちゃんとしっかり縦ロールになってるぞ。良かったな」
「うんっ! えへへへ」
「僕もボブカットみたいにしてもらったんだよ」
「私もきっちり分けてもらったかしら」

 心なしか、コイツ等の態度がいつもと違う。常日頃のこましゃっくれた年齢不詳の台詞でなく、何故か素直な、まるで童話に出て来るお人形さんのような言葉を発していた。
 表情も付けられなければ手指も動かないので、仕種といってもそれほどバリエーションがある訳でもないのだが、それでもみんな喜んでいるような雰囲気は伝わって来る。
 そうだなあ。赤いのが前に言ったとおりだ。
 やっぱりコイツ等は遊んでもらってなんぼの人形なんだな。奇怪な物体であっても、大事にされたり丁寧に扱われればコイツ等なりに嬉しいのだ。
 大事なことを忘れていた、って深く反省するほどじゃないが、少し見方を変える必要があるかもしれない、と思う僕である。
 しかしそれにしても。

「……気分とか悪くない? その……コイツ等見ても」
「ええ。なんだかずっと居ても大丈夫みたい。ちょうどみんなの髪にお手入れをして上げたところよ」
「良かった。コイツ等が何かやらかして気絶させちゃってたら、なんて余計な気を揉んでた」
「ふふ……。でも、大したことをした訳ではないのよ。巻いただけでお湯で髪型を決めた訳ではないから、あまり長くは持たないのだわ。後でしっかりと整えてあげてね」
「うん……ありがとう。本当にドールが好きなんだな、森宮さんて」
「自分でも思ったわ。これからはアンティークドールも集めてみようかな、って」
「……そっか」

 ああ、彼女の優しさが滲み出て来るみたいで、これはこれでなんか良い雰囲気だ……。
 なんだか今朝の夢で見たみたいな展開とは違うけど。ああいうズギューンって感じじゃないけどさ。

 ……そうなのです。
 結局僕はあの玩具のバイオリンを買いに行った日、当たって砕けられなかった。
 というか、口を開こうとしたとき、森宮さんから先に話を切り出して来たんだよな。


 ~~~~~~ 先週、商店街外れ、路上 ~~~~~~


「私ね、水島先輩から聞いてはいたの、柿崎さんて人のこと」
「……っあ、あ、そうなんだ」
「凄く元気が良くて、誰とでも同じように接してくれる人だと言っていたわ。心臓が悪くてずっと入院している妹さんに──病状は聞いているはずだし、聞かなくても判る状態だけれど──腫れ物に触れるような態度じゃなく、本当にごく普通に友達になってくれた。それは水島先輩にもできないことだったと……」
「あー、あいつ、そういうヤツだから。アウトローっていうのか、バカって言うのか微妙だけど」
「ふふ……でも、病気で入院してる妹さんには、そういう人が居たことが嬉しかったらしいの。みんなに特別扱いされたら、もう絶対家に戻れなくなるような気がしたのでしょうね」
「なんか、それは判るような気がする……特にあの子は不安定そうだったし、その普通ってのが欲しかったんだろうな」
「ええ。それで前から気になっていたの。柿崎さんって人のこと。だから……」
「いやいやいやいや、あれはそういうタマじゃないよ。悪友ってヤツでさ、ホント。僕が好──」
「──でも安心したわ。これで気兼ねなく会えるもの。柿崎さんに」
「え?」
「その話を聞いた後だったから……柿崎さんには勝てない、殻を破るのは無理なのかもしれないって思ってしまっていたの」
「殻……?」
「……そう、頑丈で巨大な、とても居心地の良い殻……」


 ~~~~~~ 現在 ~~~~~~


 結局森宮さんの言葉はどういう意味なのかよく判らなかった。いや、そりゃーラブコメ的展開つか希望的観測は幾らでも出来ますけどね。ええ。
 でもそれなら、なんか別の言葉になると思わん? 殻を破るとか、謎過ぎる。唐突だし。
 最初のままだったら幸せ回路が謎ワードにはフィルタ掛けて、色々と夢色の推測を後押ししてくれたんだろうなあ。しかし出鼻を挫かれ、尚且つ冷たい外の風で回路が充分冷却されてしまった僕には、謎ワードの方が気になってしまってしょうがなかった。
 ただ、これだけは確実に言える。
 ある意味正反対のキャラだから、柿崎に森宮さんが勝てない部分は大量にあると思うが、それは面の皮の厚さであったり下らんところで居直る速度であったり、と概ね碌でもない部分だから気にする必要はない。
 僕の恋愛感情に至っては森宮さんと柿崎で100対0の圧勝なのだが、まあそれはこの際どうでも良いか。
 そして、殻をぶち壊すならそれが何であれ僕は必ず手を貸すし、力は出し惜しみしない。その程度のことは覚悟できている。
 僕はいろいろと足りないパンピーでしかないが、この世の中、勇者や女神様の鍵やマエストロでなければ解決できない事態ばかりじゃない。カネも力も色気さえない僕が如何にかできる事案だってあるはずだ。
 まあ、カネも力も色気もない故に、力足らずに終わることは多々あるだろうってのは判ってるよウン。それでも、何かの足しくらいにはなれるだろうし、なりたい。

 そんな殊勝なことを考えつつ、している会話の方は俗事もいいところである。

「あのお風呂場に落ちた子は……まだ無理かしら」
「あー、まだかなり湿っぽい。露気が取れたらあったかいところで風送って乾かすよ」
「そう……残念だわ」
「分解して乾かした方が良かったかな。手間は掛るけど確実だし」
「ぶ、分解……? 生きているのに」
「まあ、あんまし気味の良いもんじゃないけど。コイツ等やたらに動くから、テンションゴムが結構伸びたり切れたりするんだ」
「水銀燈がいけないのよー。毎日しゅーげきしてくるから」
「全くですぅ。アイツのお陰でいー迷惑なのです」
「ドサクサに紛れて居ないヤツに責任押し付けんな。どう考えたって日常生活でノソノソ動いてる時間の方が長いじゃねーか」

 ついでに言うと、戦闘行為は例のしょぼい念力によるのが普通であり、テンションゴムに負荷はあまり掛らないと思われる。その証拠に、一番ゴムの交換回数が多いのは赤いのである。居間でテレビを眺めていないときは入れる場所なら何処でも侵入して行くアグレッシブさが持ち味なので、各関節の使用頻度やら負荷がでかいのだろう。
 一度ピッチピチに張ってやったら、大いに怒っていつぞやのように薔薇の花びらで顔パックの刑と洒落込まれた。とはいえ緩ければ緩いで腕を落っことしそうになるし、中々加減は難しいのである。
 そんな話をしていると、森宮さんはくすりと笑った。

「この子達のマエストロなのね、ジュン」
「恐ろしいこと言わないでくれよ……」
「いいえ。才能は重要ではないのよ。壊れたパーツは直せなくても、それ以外のことは何でもできるのだわ」
「いや、そういう意味じゃないんだけど」
「ならどういう意味かしらー? 恐ろしいって何かしらー?」
「いや、なんでもないよ。ウン。なんでもないからその玩具のバイオリンでやたら突っつくのやめて」

 まあね。掃除したり、補修したり、なくなった付属品の換えを買ってやったり、それだけでマエストロって言うならマエストロだろうけどさ。
 超絶美麗で摩訶不思議な薔薇乙女さんなら、そりゃ腕を繋ぐだけでも誰にでも出来る業じゃないだろう。だがしかし所詮でっかい玩具であるコイツ等のゴムは取替えが利くように作られてる訳だし、掃除は手間の問題だし、付属品は買って来ただけなんだよな。
 服に至っては……何というか。実は絵師であるということまで判明した森宮さんの弟くんの方がよほどマエストロだろう。ぱっぱと採寸してしまう手際といい、即座に何枚もラフが描ける才能といい、僕などから見たらどうにも只者とは思えない。
 案外その気になったらササッと道具を揃えて、創作人形家に転身できるんじゃなかろうか。そしたら筆名(でいいのか? 芸名か?)で桜田ジュン名義を使って貰っても一向に構わない。今度は間違えられたときに胸張って言えるからな。「あれは知り合いでして……」とかなんとか。

 っていうか、あのときは気付かなかったけど、森宮さん家ってまるでローゼンメイデンの桜田さん家だよな。弟くんがジュン君に似てるってだけじゃなく。
 中学二年らしい弟くんが居て、高校生の姉さんが居て。森宮さんは相当する人が居ないけど、あれだ。本人があの子そのものだとすれば……。
 いやいや。それは幾らなんでも──

「──あらいけない。もう四時を三分も回ってしまったわ」
「あ、ゴメン。長居させちゃって」
「いいえ、私の方こそ……あの金髪の子の分はまたの機会で……ごめんなさい」
「いいよいいよ、全然気にする必要ないから」
「もう帰っちゃうですぅ~?」
「名残惜しいな……」
「ジュン引き留めるのー! 『今晩は帰さないよ』って!」
「え……?」
「無茶苦茶言うな! しかも明日平日だろうが」

 つか、意味判って言ってんのかツートンよ。
 何気に顔を赤くしている森宮さんに、取り敢えず送るから、と言って立ち上がり、僕はあることに気付いた。

「そういやばらしーは?」
「あれ? さっきまで居たのに見当たらないかしら」
「ばらしーなら、マスターと入れ替わりくらいで廊下に出てったよ」
「なんだ……今日はもうお帰りか」

 案外、帰りますと言ったが誰も気付かなかったってなことかもしれん、と思いつつ、森宮さんが支度をするのを待って引き戸を開け、くれぐれもストーブには悪戯するなよと人形どもに念を押して部屋を出る。
 廊下を見渡すと、なにやらごそごそと動く白っぽいものが見える。赤いのを干してある辺りだった。
 取り敢えず森宮さんを部屋の前に残し、そちらに駆け寄る。人形どもの生顔には慣れたらしいが、ゴソゴソ動いているものとなると話は別である。ここで失神されたらもはや取り返しが付かない気がする。
 赤いのが自力で脱出したのか、と思いつつ近寄って確かめると、動いていたのは白いタオルに半分包まるような按配になっているばらしーだった。どうやったのか判らんが赤いのを床に下ろし、横たえてタオルで身体を拭いてやっている。
 赤いのの下には一枚バスタオルを敷き、もう一枚のタオルでぶきっちょにごしごしとやっている。不器用なせいかタオルが大き過ぎるのか、自分もタオルに埋没しながらもぞもぞしている姿は、何気に可愛く見えなくもない。

「やっと来たわね下僕」
「ゲボク扱いはやめろとあれほど……水気を取ってやってたのか?」
「はい……」
「まあ、偉いのね」
「えへへ……」

 こわごわと近付いて来た森宮さんに頭を撫でられ、ばらしーはご機嫌である。時間に追われているため長いことそうしているわけにも行かないのだが、結構微笑ましい光景ではある。
 ばらしーは森宮さんに任せ、僕の方は赤いの(今は服無しのため赤い部分は皆無であるが……)をタオルごと抱え、ストーブの点いている客間に急いで搬入する。ストーブの前、燃えない程度の近場に置き、焼けない程度に乾かすのだぞと言い置いて廊下にとんぼ返りすると、森宮さんは既にばらしーを抱えて玄関に居た。

「あれ、お持ち帰り……?」
「この子も丁度帰る所だと言うから、ご一緒しようと思って」
「おー、そっかそっか。抱っこしてもらえて良かったな、ばらしー」
「……はい」
「ん? どうした?」
「大丈夫だ……心配ない……です」

 本人形はそう言うのだが、なんとなく気になる。
 というのは、森宮さんは気付いていないらしいが、ばらしーの手が細かく震えているからである。全身カクカクは残念人形どもの十八番であるが、手だけというのはあまり見ないパターンだ。
 初めての人に抱かれて緊張してるのだろうか。いや、初見で僕に対してこんな仕種をしてはいなかったし、ついさっき森宮さんに撫でられて喜んでいたばかりではないか。
 そうするとなんだ? 赤いのを擦り過ぎて手首とか腕関係の関節が緩くなってしまったのか。
 心配なのは山々なのだが、ばらしーはばらしーのお父様の持ち物であり、僕が迂闊に手を出すわけにも行かない。森宮さんの手前あんまりじろじろと観察するわけにも行かず、取り敢えず僕は彼女の靴を揃え、荷物を持って外に出た。


 ~~~~~~ 二年前、春四月、某所 ~~~~~~


「邪夢君とまた同級生か……。あの二人とは離れたけど、何か複雑な気分だよ」
「いいお友達じゃないですか。それより、先輩に気になる人がいるのです」
「どんな?」
「弓道部の二年生なんですけど、なんというか……似てる、としか言いようがないのです。雰囲気も人柄もぜんぜん違うのですけど」
「それなら僕も一人、同じ学年で気になる子がいる。あれはきっと……」
「室内楽部の先輩からも妙な感じに声を掛けられましたし、もしかしたら全員この高校に」
「有り得るね……」
「ね、ホントはまだ私達、『あいつ』が作った夢の中なんじゃないでしょうか。こんな生活が送れたらいいなっていう、楽しい夢の中」
「だとしたら、例えば邪夢君は僕達の生んだ幻影なのかな。こんな友達が居たら良いなっていう、中身のない幻なのか」
「そんなことはないって思いたいです……邪夢は阿呆で何の取り柄もない奴ですけど、幻なんて考えたくはないです」




[24888] 第二期第十話 お父様はお怒り
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/08/06 22:16
 ~~~~~~ 一年前、春四月、某所 ~~~~~~


「最後のピースが揃ったね。ただの偶然なのかもしれないけど」
「どういうことを示してるんでしょう……六人揃ってしまうなんて」
「ゲームをするためでないことは確かだ。もうアリスは生まれてしまったんだし、僕達の能力は消え、ローザミスティカは形を失って命となっているのだから」
「そういう記憶を持たない子も居ますけどね。それとも思い出していないだけ、なんでしょうか」
「思い出したくないのかもしれない。思い出さない振りをしているのかもしれない」
「でもあの子は惹かれていますよ、ローゼンメイデンって名前に。漫画になった薔薇乙女に」
「……そうだね。きっと、彼女は本当に記憶を封じられているのだろう。……温情、なのだろうか。辛いだろうからね」
「私だって辛かったですよ。今は楽しくやってますけど」
「僕だってそうさ。でも、彼女の辛さは違う。多分彼女は、マスターとドールという関係を超えて愛していた。家族でなく、別の繋がりで愛したかったのだろう」
「それを言うなら私だって……」
「しかし君はそれを実行に移せるんだよ。いや、忘れていなかったからこそ、接点を求めて何年越しかの想いを遂げることができる。でも彼女は──」


 ~~~~~~ 現在 ~~~~~~


 春の彼岸まであと一月。十月後半と同じくらいの日の長さのはずなのだが、どうもそんな感じがしないのは、寒さのせいなんだろうな。
 最近は急激に暖かくなってきてはいるものの、まだコートが手放せない。
 ばらしーを……カタカタ震えてるのに気付いた森宮さんがさっきの白いタオルで包んでやったせいで、尚更赤ん坊みたいに見えるんだが、それをまさに赤ちゃん抱っこしている森宮さんは、なんか物凄く幸せそうだ。ばらしーの銀色っぽい髪の毛も、赤ん坊としては小さ過ぎる顔も、同じく長過ぎる手足も全部タオルの中ってことで、なんつうか本当に赤ちゃんを抱いてるようにも見える。
 なんか強烈に幸せオーラが出過ぎていて、隣を歩いてる僕としては何故か気恥ずかしくもあり、気分が伝染してきて心の中がなんとなく暖かかったりと様々である。
 ただ、ばらしー本人形の手が未だに震えているらしい、ってのが気にはなる。顔が青ざめたり熱が出たりする訳ではないから、カタカタ震えてること以外に何の兆候もないんだが、何か良からぬ事態が待っていそうな気がするんだよな。

 悪いことに、僕の予感は良い事は当たったためしがないが、悪い方のは結構な確率で的中するのである。


 ~~~~~~ 第十話 お父様はお怒り ~~~~~~


「ここです……」
「あら、意外にご近所なのね」
「え、ここ? マジで?」
「マジもマジ……大マジだぁ……です」
「まあ嘘ついてもしょうがないけどさ、いやしかし」
「このお宅がどうかしたの?」
「あー……いや、うん。なんつうか」

 ばらしーのお宅は予想外に、というか拍子抜けするほど近かった。僕の家、といっても社宅な訳だが、そこからほんの百数十メートルほどのところにある、ごく普通の家。
 ばらしーのようなドールの収集やらディスプレイを趣味にしている人のお宅と言うと、僕の中では今まさにそのばらしーを抱いているご当人やら例の場末のスナックみたいな名前のお店に居た(そして同人誌にも噛んでいるらしい)加納さんなんかのイメージが強いんだよな。小奇麗なマンションに暮らしてる独身の方か、お金持ちの道楽みたいな感じ。
 ドールそのものにべらぼうにコストが掛かるし(春休みに入れてるバイトの予想収入を軽く上回るよな、ばらしークラスのドールになると)、でっかいから置き場も大変だし、これだけでかいと食玩のフィギュアみたく本棚の上に並べときゃいいって訳にも行かないだろう。森宮さんちみたいにドール部屋作ったり、加納さんみたいに自分の部屋はドールのもの! みたいな人もいる。Nゲージを家中に這わせている人と同じたぐいだな。
 まあ、本人の道楽を家の外見で判断すべきではない。本当に好きで好きでたまらんなら、そういうことは関係ないんだろう。何の変哲もない自分の部屋、ドールにそこに居てもらうことに安らぎを覚える……とか、あるんだろうし。
 とはいえばらしーみたいな可愛いドールがウチみたいなボロ屋には流石に似合わんのも事実な訳だが。ばらしーは勝手に上がり込んで勝手に動き回ってるからアレだが、ディスプレイしろと言われたら飾るところがないよ。ホント。
 それはいいのだが、この家は僕も結構よく知っている人物のお宅だったりする。

「このお宅、変わってるのね。玄関に苗字が漢字とカタカナの両方で書かれてるなんて」
「うん。まあ読めないでしょ、これは……」

 梍。パソコンの文字変換では簡単に出てくるけど、いざ字だけ出されても「読めません」て人の方が確実に多いだろう。
 そんな訳で「サイカチ」と振り仮名が振ってあるのである。という話は、実は家の住人本人から聞いていたりする。
 なにしろこの家の住人は──

「──っんにちゃー」
「……はーい。……ってさささ桜田? なっ、なんでお前が」
「このおうちのお人形をお持ちしたのですけれど」
「あ、え、うぇええ? り、リアル真紅様!」
「はぁ? 何寝言ほざいてんだお前」
「お、お前は黙ってろ! このリア充野郎が!」
「お父様……ただいま……です」
「お、おあああ、ば、薔薇水晶。よく無事で帰って来たな」
「はい……」
「……話が見えないのだわ。ジュン、説明をして頂戴」
「いや、僕にも全く判らない」

 この男、ばらしーを受け取ろうとして落っことしかけたり、森宮さんにぺこぺこお辞儀したり僕に物凄い殺気を放ったりと忙しい限りである。
 お貞に連れられて向かったときの鳥海も大概会話にならなかったが、あれはまあ怪奇未確認歩行物体をいちどきに複数見たからであって、反応としてはごく普通だろう。ダンボールが勝手に開くまではごく普通の応対だったし。
 しかしこれは何というか。慌て振りにも程がある。暫く振りというのに同年生に様付けしたり身に覚えの全くないリア充呼ばわりはなかろうよ。様付けの方は、まあしたくなる気分は判らんでもないが。

 まあ、元々思い込みの激しいヤツではあった。
 コイツと知り合ったのは僕がこの街に引っ越してきたときだから、中学に入学したときと同時になる。同級生でもなければ頭の出来もあまり似通っていなかったが、それでもご近所ということで結構遊んだり、中二くらいまでは勉強教えてもらったりもした。
 なお、同学年なのに教えてもらう、というのは嘘ではない。まあ五教科の平均点が別のテストを受けてるように見えるくらい違ってたからさ。
 考えてみれば、僕が初めてローゼンメイデンの漫画に触れたのはコイツから借りてのことだったと思う。
 当時は──学年で言うと四年前だが、実質はもう五年前になるのか──丁度アニメを放映している時期で、今から考えると僕としても全く興味がない訳ではなかったんだな。借りた漫画やらアニメ第一期のフィルムブックは読み終わったらすぐに返してしまったが。
 鳥海のことは案外僕も笑えないかもしれない。まあ少ない小遣いを浪費してまで自分と同じ名前の主人公が出てくる漫画やらアニメの品物を買い漁ろうとは全く思わなかったが、最初のうちは素直な好奇心はあった訳だ。
 それはそれとして、当時はそれほどローゼンフリークでなかったはずのコイツが何故ばらしーの如き超高コストの(はずの)ドールを所有し、尚且つ魔改造まで施しているのだ。五年という月日の長さが、彼をここまで堕としてしまったのか。いや別に堕落したというわけではないが。

「リアル真紅様は置いとくとして、ばらしーを魔改造の末に謎の動力源ロザミまで仕込んで自動怪奇人形に仕立てたのはどうしてなのか、詳しく語ってもらおうかサイカチ」
「う、うるさい! おおお前にそんなこと教えたる義理なんぞないわい! リアル翠星石あんど蒼星石とお近づきになるだけじゃ物足りずに真紅様とイチャイチャしやがってこのリア充が」
「待て。その形容は多分とても嬉しいのだが、重大な事実誤認と意味不明ワードを含むぞ。お前が言うリアル真紅はこの森宮さんで確定として、蒼星石と翠星石って誰のことだよ」
「誰かだと? 石原さん姉妹に決まってんだろうがこのスカポン! あれをリアル庭師姉妹と呼ばずして誰を呼ぶのだ!」

 あーあーはいはい、なるほどなるほど。双子だから似てますって訳ね。
 確かに姉貴はロングで丁寧言葉で家庭科大好きで園芸も好き、妹はショートボブで僕っ子で技術科と園芸好き──……・・・・・・?
 ……確かに、かなり符合する。いややばい。共通点ありすぎヤバイ。今まで全然気にしてなかったが、列挙すると特徴そっくりじゃねーか。技術科はよう知らんが。

 嗚呼。思わず僕は嘆息してしまうのであった。
 どう見ても「合わせてる」ようにしか思えんじゃないか。石原姉妹よ、お前達まで隠れローゼン病に罹っていたのか。道理で森宮さんと話が合うわけだ。
 そんなに人気爆発したアニメでもなかろうになぁ。やっぱり僕とか柿崎なんて名前そっくりさんが身近に居て、しかも名前ネタで散々弄られたのを見ていたからか。
 よし、明日問い詰めてやることにしよう。今頃気付いたの? とかしれっと言われそうだが。

「まあ庭師姉妹だか庭獅子舞だか知らんが、別にお近づきになりたくてなった訳じゃないし、高校が同じってのも偶然だ。森宮さんが真紅に似てるってのは偶然──」

 待て。
 確かに真紅のコスプレとかしてる。深紅のビロードのワンピース着てたり、ボンネットまで着けて店番してたり。
 でもそれは真紅がお気に入りのキャラで、ローゼンキャラの中では自分に似ていて衣装も合わせ易かったからに過ぎない。そのはずだ。そして、似ているのは偶然だ。
 偶然だ、ぐうぜん……。
 偶然のはずだが、非常に偶然のはずなのだが。

 しかし、なんとなく、何処となく偶然じゃないような気がする。

 と何故か内心で冷や汗をかきつつ、僕はすらすらと続きを述べた。ここでそんな話に持って行ったら肝心の部分が疎かになる。

「──偶然つか、例の漫画のキャラの中で特徴が似てるのが真紅だったってだけの話だろうが。大体金髪でもないしあんな風に縦ロールもしてないだろう。言い掛りは止せ」
「う、ぐっ……」
「お父様……ふぁいとっ、……だよっ」
「うおおお薔薇水晶おぉぉぉぉ! 良い子だなっ! 僕は負けないぞお前の為に!」
「何と戦ってるんだ、何と。それよりな、ばらしーを何で所有してるのか、どうして自分で動くのかきりきり教えれ。こっちは時間がない」
「そそ、そりわ……」

 時間がないと言いつつ、結局その場では済まない話だということで、僕達はサイカチの部屋に通された。八畳くらいのフローリングで、パイプベッドと机が置いてある他は本棚と箪笥とクロゼットくらいしかない殺風景な部屋だが、一際異様なのは──床の間みたいになったばらしー用のスペースが確保されてることだった。
 ばらしーにはかなり小さめだが、だいたい六十センチドールサイズの洒落た机、一品モノと思しききらびやかな椅子。ちょっと中身が見たいようで知りたくないクロゼット。内張りがきっちり張られた鞄まである。どう見てもベッド代わりだが、薔薇水晶って鞄で寝るんだっけ?
 いや、失礼。異様じゃないな。ばらしーのためにそこまでカネを掛けているということだ。人形どもに要請されても中々モノを与えてやらない僕などとはえらい違いであるのは間違いない。
 しかし何気に着いて来てしまったが、時間大丈夫なのか、そこで「男の子の部屋ってどうして……」とか「薔薇水晶用の調度はもう少し大きさに合わせて……」とかぶつぶつ言ってる森宮さん。サイカチが地味に凹んでるじゃーないですか。

「ばらしーって九十センチクラスだよな。あんまりないサイズのドールだと思うんだけど、アイテムなんて普通に売ってるの?」
「数は少ないけれど、あるのだわ。それにその子ほどの大きさがあれば小物は子供サイズの実用品も流用できてよ」
「ふむふむ……」
「折角買い揃えてあげるのなら、高価なものである必要はないのだわ。むしろ手作りでも良いからサイズの合っている、その子の手でも使い易いものを……この子は実際に使えるのだし、人間と違って手指がそれほど自由にならないのだもの」
「うぐっ、うぐぐ……すいません」
「そうだよなあ……なるほど」
「桜田お前どっちの味方なんだ!」
「お前はいつから森宮さんまで敵に回してんだ。で、早いトコ本題に掛からんか」
「あ、うむ……実は……」

 サイカチのベッドに並んで座り、ホットミルクなんぞ頂きつつ話を聞く。
 それは別に驚愕の事実といった類の話ではなく、僕や鳥海に(多分柿崎にも)降り懸ったまさに災難以外の何物でもない事態に比べればよほど楽しそうな、否むしろ羨ましい事件だった。

「僕がローゼンに興味を持ったのはアニメの二期の放映中だ」
「ほう。そりゃそりゃ」
「だが、本格的に凝り始めたのはオーベルテューレの放映を見てからなのだ。もう見れないと思っていた薔薇水晶が、薔薇水晶がお父様に抱かれて幸せそうな顔をしてるではないか!」
「あれはとても良い演出だったのだわ。エンジュと薔薇水晶は愛し合っていたし、彼等にしても戦いだけが全てではなかったと判るもの」
「そう、そうにゃんですよ! 僕の小さな心臓はあれで射抜かれてしまった。もう後戻りは出来ない」
「……噛んでるぞ。それでばらしーを購入したのか?」
「最初はフィギュアだった。だが、足りない。薔薇水晶は薔薇水晶でなければならない。何も生み出すことも出来ず人形を人形としか思わない貴様には判るまいが、僕が欲しいのは薔薇水晶であって薔薇水晶の形をしたフィギュアではないのだ」
「歪んでんな……」
「だから……ドールを?」
「そうです。大きさも彼女に合わせなくてはならん。関節も全可動でなければ意味がない。僕は小遣いもバイト代もお年玉も使わず貯めに貯めた……ただそのためだけに」
「その割にはらき☆すたのフィギュアとかも棚の上にあるが……」
「お父様は……かがみんラヴ……なのです」
「ほぉほぉ」
「いちいち脱線すな! 薔薇水晶も余計なこと言うんじゃありません!」

 それで結局、貯めに貯めた(本人談)費用をはたいて、オーダーメイドで薔薇水晶のキャラクタドールを作らせたのが今年の春。片手くらいって言うが、まさか五万円では済まないよな……? 森宮さんの顔が引き攣る位だから、多分一桁上で間違いない。
 まあ全部が全部そのためだけに注力していた訳ではないんだろうが、凄まじい執念というか、何というか。
 その執念が実り、ばらしーが唐突に動き出したのがつい先日。どうやら僕の家にばらしーが姿を見せた一月某日からさほど遠くない日だったらしい。
 ……目出度い限りだな。願望成就って点では純粋に羨ましいが、そこまでの妄執ってのは僕には到底持てそうもない。

 しかしそうなると、ばらしーは後からロザミを獲得したのか?
 その疑いもある、と思い、何か異常があったかと尋ねてみたが、サイカチはぶんぶんと首を振った。時折ポーズ変えたりはしていたが、特に動かされた形跡はなかったという。何かが埋め込まれたら即座に判るはずだと。まあ怪しいものだが信じることにする。
 となると、製作時に埋め込まれてたのが最近になって発動したことになるな。ロザミには休眠時間みたいなものがあるのか?
 元々お貞やら鋏、ツートンといった連中を見てそんな気はしていたんだよな。長期間放置されていなければ、お貞の髪がグラデ掛ったり、びろびろで崩壊寸前の鋏のテンションゴムが切れずに残っていたり、ツートンの片面だけに黴が増殖することはなかっただろう。
 ふむぅ。
 これはサイカチでなく、ばらしーを作った製造元に確かめてみる必要がある。ロザミについても、Rosen氏にしても何か知っているかもしれん。まあ、こっちは興味がありそうな柿崎に任せよう。
 それは良いとして、僕に関わる問題は他にある。

「しかしお前、こんなに可愛がってるばらしーに『真紅も蒼星石も翠星石も倒せ』なんてよく言えたなオイ」
「え? な、ちょ」
「うちに初めて来た日にばらしーが言ってた。そのためにばらしーはウチを探して電話帳片っ端からめくったり、住宅地図確認したり、果ては例のアニメのDVD全部通しで見たりと涙ぐましい努力をしたみたいだぞ」
「なんてこと……地道過ぎるのだわ」
「えっええええ」
「そもそも、いくら各関節動くからって、ばらしーはアクションフィギュアですらないだろ。こんな壊れやすい子にプラの剣持ってセトモノの塊と戦わせるなんてひでぇ親父だ」
「そっ、そんなこと僕は知らないぞ。そうなのか薔薇水晶っ」
「私、がんばりました……ぶい」
「うわぁぁぁぁ……」

 何故かサイカチは頭を抱えてしまった。暫く待ってみたがこのままでは話が進まないので宥め賺し、それでも渋ってるのをどうにか喋らせる。
 話を聞いた森宮さんは、まあ、と口に手を当てて絶句する。僕はがっくりと肩を落とした。どっと疲れが出たような気がする。

「──じゃあ何か、お前は要するに僕に単純に嫉妬してたのか」

 それで動くようになったばらしーに、「お前は誰よりも素晴らしい。(リアル)真紅や(リアル)蒼星石、(リアル)翠星石なんかすぺぺのぺーだ。お前は僕のアリスなのだ」みたいなことを言ったということだ。どういう言い方だったのか大体想像がつくが、ばらしーには「真紅も蒼星石も翠星石も倒してアリスになれ」と思えてしまった訳だ。
 思い違い甚だしいと笑う勿れ。ばらしーも製作時期は全く異なるとはいえ、ロザミが中に仕込まれて行動している以上、そっちの欲求とごっちゃになってしまったのだということは想像に難くない。
 まあ、結果的に正解だったから良いようなものの、残念人形ズが僕の家に居なかったらどうなっていたことやら。いや、多分間違いなく愛でてましたけどね。びくびくしながら。

「お前、自分が傍目から見てどんだけ充実してるか判ってないだろう!? 僕と同じ非リッチ・非イケメン・非力のくせに、中学時代からいつも女の子と一緒でいちゃいちゃしてやがって」
「……まあ、中学時代よくつるんでた奴の性別に女性が多かったのは認めるが……って主に柿崎と石原(葵)だぞ? そっちの方向はないだろ……」
「しかも最近はリアル真紅様にまで手を出しやがって! これが怨まずに居れようか!」
「まあ人の言うことを聞け、いやそれより待て。手を出すとか出さないとかそういう次元じゃないし、まずその発想をやめれ。本人を目の前にして失礼にも当たるぞ」
「う……すまん。いやすみません」

 素直なのか捻くれてるのかよく判らんヤツである。
 まあ、僕なんかから見ればサイカチは僕をちょっとずつグレードアップしたみたいな存在で(学業は倍くらいか……)、こうしてばらしーを購入できるほどの財力というのも、何を結集しても僕には多分ない訳であり、コイツの思い込みフィルタを排除すれば僕がリア充なんてことは全くない訳だが。
 逆に全ての面で自分より下だと思い込んでた僕が最近可愛い子と出歩いてるから無闇に僻んでるのかもしれん。その可能性は大いにある。

 取り敢えずうちのボロ人形どもに戦いを挑むことについてはばらしーの勘違いということで、ばらしー本人形の保全のためにもこちらの住環境の安全のためにも、むしろ積極的に禁止するということで話をつける。
 残念人形ズのことについてサイカチがどれだけ把握しているかは謎だが、全く知らない訳でもないらしいので、その辺はパス。よく知りたいなら我が家に来て目の当たりにし、大いに驚愕すれば良い。気絶したらバケツの水でもかけてやろう。
 サイカチとしては僕に怨念を持つこと自体はさらさら悪いと思っておらず、むしろ当然と考えているようではあるが、まあリアル真紅様ご本人の前であるし、良い機会ということでその辺もさりげなく釘を刺してやる。奴っこさんは不服そうにしていたが、森宮さんのお言葉で態度が百八十度変わった。

「貴方はとても純粋なところを持っている。それを間違った方に向けず、近くから呼び掛ける小さな声に気付き、扉を開きさえすれば、きっと貴方にも春は訪れるのだわ」
「はっ、はいっ!」
「今は未だ最初の一歩を踏み出せないで居るだけで、目の前には扉があるのだもの。頑張って……」
「ありがとうございます!」

 森宮さん、なんかその漫画から持って来た言葉を繋ぎ合わせて言うの止めようよ。サイカチもそれで納得するのかよオイ。
 まあいいか。長居をする訳には行かないので、そこまでで僕達はサイカチ宅を後にした。
 あ、そうだ。そういや、もう一つ案件があったな。柿崎への手土産みたいなもんだが。
 去り際に玄関で、半ば忘れていたことを尋ねてみる。

「そういや、オーダーメイドって何処に頼んだんだ。興味あるんだが通販のメールとか残ってないか?」
「通販じゃない。最近駅前に出来た人形専門店があるだろ? ニセアカシアってとこ。あそこに直接頼んだからな」
「え?」
「店主の塩入さんて人が人形の製作もやってるんだ。依頼して三ヶ月近く掛かったけどな」

 僕は唖然として森宮さんを振り返り、彼女は知らないという風に首を横に振った。
 お父様イコール製作者でこそなかったが、意外に近いところに、ばらしーの製作者は居たのであった。


 ~~~~~~ 一年前、春四月、某所 ~~~~~~


「──そうでした。姉と弟では、あの子の望む関係にはなれませんね」
「うん。……法的にも、倫理的にも」
「……あの子が記憶をもし取り戻すなら、それはどんなときなんでしょう」
「好きな人が出来たときかもしれないな。昔の愛情を忘れさせてくれるほどに……」
「そんな人が現れるんでしょうか。そんな、都合の良い人が」
「現れるといいね……彼女のためにも、君のためにも」
「え……?」
「君は、彼女が記憶を取り戻すまで、彼に告白しないつもりなんだろう? 彼女に対してフェアじゃないから。違うかい」
「それは……」
「僕の淡い恋は本当に手の届かない所に行ってしまったけど、君の恋はまだそこにある。だから君のためにも、僕は彼女の記憶が戻ることを祈っているよ」



※18:07 ほんのちょっと訂正



[24888] 第二期第十一話 忘却の彼方
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/08/06 22:17
 ~~~~~~ 一年前、初夏、某所 ~~~~~~


「同人誌ねえ。それも……よりによって」
「面白いとは思わないかい、自分達のことを書くなんてさ」
「ちっとも判らないわね、そういう心理は。貴女がする分には止めやしないけど」
「そうか……残念だな」
「本当は貴女も面白いかどうかなんて考えてないんじゃないの? あの子に見せるためなんでしょう、それが記憶を取り戻す一環になれば、なんて。ふん、虫の良い考えだこと」
「……敵わないな、君には。全部読まれてしまう気がする。双子の姉にも隠して居られたのに」
「当たり前でしょ。お父様が取り上げるまで貴女は私の内に居たのよ。随分中で暴れてくれたけどね。考えていることは大体把握できて当然だわ」
「僕の魂は別の所に在ったけど……そういう見方もあるね」
「ええ。ま、今になってみればどうでも良いことだけど。それより、何処まで細かく書くつもりなの」
「三部構成にして、一部は最後の時代で皆が目覚めたところから眠りにつくまで。二部は夢の中の世界で──」


 ~~~~~~ 現在 ~~~~~~


 僕と森宮さんは並んでバスの狭い座席に腰を下ろしている。彼女は安心したように目を閉じて、僕の肩に凭れている。
 いろいろあって疲れたんだろうな。いつもこっちを引っ張り回して行動してくれる訳だが、元々インドア派で体力は自信ないらしいし。
 なーんて冷静な観察をしてるように見えて、いやもう心臓バクバクですけどねこっちは。二度ばかり自分で自分の頬をつねってみたが、痛い。告白されたのは夢だったが、これは夢じゃないのだなあ。
 しかし残念なことに、バスで揺られるのは精々十五分かそこらなのである。それももう残りは停留所二つかそこらだ。夢の中の方がいつまでもこの状態が続けられて幸せかもしれん。

 ま、これも嬉しいイレギュラーだったと思えばそう悪くもない。最初はバス停で見送って終わりにしようと思っていたんだから。
 急に送って行かなくちゃならないような気になったのは、彼女がバスに乗り込むときだった。ちらっと僕の方を振り向いた顔が、なんというか……さっき残念人形どもを見ていたときの、あの哀しそうな表情だったからだ。
 何を抱え込んでるのか、なんで哀しげなのか、んなこたーどうでもいい。いや、どうでもよくはないが、今僕に出来る事は森宮さんを一人にしないことだと直感が僕に叫んだのだよ。
 下心? 野暮なことを聞いちゃいかん。そりゃ僕だって好きで彼女いない歴=満年齢の悲しき低スペック野郎やってる訳じゃない。下心がないと言えば嘘になる。
 でもまあ、暗くなったし送って行くよ、と言って隣に座っても、森宮さんはありがとうの一言だけで当然のようにしていたし、そのうちにうとうとし始めてこの状態だ。何と言うか……無防備過ぎて手を出しづらい。試されてるような気分にさえなる。
 こういうときに大胆なことができればなぁと思いはする。しかし如何せん色々な意味で裏付けがない薄っぺらな僕としては、彼女の寝顔と肩に凭れ掛る暖かい感触で幸せな気分になる程度が分相応なんだろうな。
 そして、そろそろ幸せな時間もおしまいである。僕はそおっと彼女の肩を揺すり、なるべく静々と立ち上がって窓枠の「つぎとまります」ボタンを押し込む。
 僕の動作と無粋なブザーの音で、森宮さんは目を覚ましたらしい。

「次で降りるよ。お疲れ様」
「ありがとう……つい、うとうとしてしまって」
「いやいや。バスの中ってなんでか判らないけど眠くなるよね」
「姿勢も振動も丁度良いのかもしれないわ、眠気を催すのに」
「ありそうだよな、それって。あ、あと暖房も」
「そうね……外に出たら気をつけないと」

 くだらない会話を交わしながら座席を後にし、お互いに忘れ物がないか確認し合いつつ乗車賃を支払ってバスから降りる。バスが行ったと思った途端に寒い風が横殴りに吹き付けて、僕は咄嗟に彼女の華奢な体を抱きかかえるようにして風に背中を向けた。
 長い坂の途中だけあって、風は暫く止まなかった。彼女の顔が風を受けないように胸のところに押し当て、安物のトレンチコートの匂いをもろに嗅がせることになってるなぁと情けない気分になりながら、僕は長い風が行き過ぎるのを待った。
 森宮さんは驚いたようにもぞもぞしていたが、じたばた暴れたりはしなかった。有り難いことだ。この体勢で暴れられたら僕が風に背中を向けた意味がない。
 風が穏やかになったところで、両手で肩を掴んで彼女を離す。イケメンさんがやれば見ず知らずの子でもフラグばっちりってところなんだろうが、生憎と僕は顔につけ行動につけ不細工野郎もいいところだった。

「……びっくりしたわ、唐突なんですもの」
「ごめん、なんか埃とか砂とか酷かったから」
「そう。でも大丈夫よ。そのためにフード付きのコートを着ているのだから」
「あ、そっか。気付かなくてごめん……」
「いいわ、気にしてないから」

 何気につっけんどんというか、つれないお言葉だったが、まあそこは良しとする。森宮さんの顔が赤いのは、怒ってるせいじゃなさそうだし。


 ~~~~~~ 第十一話 忘却の彼方 ~~~~~~


 迫り来る三学期末の試験のことやら最近の天気のことやら、バスに乗るまでの人形関係の話以外の──まあ、要するにどうでもいいような話をしながら歩いて行くと、バス停から森宮さんの家までは呆気ないほどの近さだった。
 既に真っ暗な背景に、森宮邸は前に見たときよりも若干大きく感じるくらいの存在感で建っている。インターホン鳴らしたらお手伝いさんが出てきてもおかしくない雰囲気だ。
 なんとなく、その佇まいと言うか存在感自体が僕を拒否してるように思えるのは、多分僕が半分くらい僻んでるからなんだろうな。
 サイカチじゃないけど、僕が非イケメン、非リッチ、かつ非力であり、付け加えることに非優秀ってのは紛れもない事実だ。柿崎が言うとおり、森宮さんみたいな人々と僕では生まれてからこれまでのカネの掛かり方が違う。
 彼女が割とぐいぐい僕を連れ回してるのと、高校に入ってから石原(葵)に結構あれこれ呼び出されては使い走りさせられてたせいで普段は意識してないが、アンバランスな取り合わせだよなぁ、僕にとっては。石原姉妹も森宮さんも。
 そういや、石原(美登里)に告白しようとして止めたのも、釣り合うか合わないかみたいなことチラッと考えたら急に一線の向こう側みたいに思えたからだったっけ。あの時よりは、今の方がちょっとはボルテージ上がってるんだろうな。僕の内部で。
 いいんだけどさ。所詮僕の森宮さんに対する想いなんて、アイドルに熱上げてるのと一緒なんだから。こうして一緒に歩いたり話したりできてるだけマシなんだろうけど、根っこは多分似たようなモンなんだ。
 でも、一緒に居てわいわいやってるだけに、アイドルに対して熱烈に入れ込んでるのとはまた違った、大袈裟に言えば覚悟みたいなものは持ってるつもりだ。特に例の──

「あらぁ、留美ちゃんお帰りなさい」
「ただいま、姉さま。遅くなってごめんなさい」
「いいのよぅ、まだ晩御飯食べてないものぅ。……あら、そちらは?」
「桜田君よ。今日はお邪魔させていただいたのだわ」
「すいません、ご心配お掛けして。僕の用事で時間取らせちゃったんで……」
「あ、いえいえ、こちらこそ妹がいつもお世話になって……」

 ぴょこぴょこと頭を下げるお姉さんは、綺麗にパーマ掛けた髪に大きめの眼鏡を掛けてる。
 ぽわぽわした、とても暖かい感じの人柄に見える。何でも微笑んで許してくれそうな──まるで、桜田ジュン君のお姉さんが現実に居たら、こうですよってな感じ。
 おい。如何に頭の鈍い僕でもこれは疑問を持つぞ。幾らなんでも、似通い過ぎてるだろう。
 この人だけじゃない。似てるのは、最も似てるのは──

「──お帰り。なんだ、そいつまた来たのか」
「アツシ!」
「アツシ君、そいつなんて言い方は失礼よぅ」
「あは、いいんです。前に伺ったときにちょっとお会いしてるんで」

 僕はそう言って愛想笑いを浮かべるしかなかった。そっか。名前は「ジュン」じゃないんだよな。なんかジュン君っていう名前の方が嵌ってる気はするんだが。
 なんなら名前を取り替えたいくらいで──いやいや。
 それはそれとして、無事に彼女をご家族の許まで送った訳だし、長居は無用である。
 それでは、と帰ろうとしたのだが、意外にも引き留められた。いや、お姉さんがお愛想で言うのまでは予想していたのだが、僕の古いトレンチコートの裾を掴んだのは森宮さんだった。

「一人暮しなのだし、今日はあんな昼食しか食べていないのだから、うちで食べて行きなさい。姉さまの作る料理は一級品よ」
「え、それはちょっと……悪いよ」
「いいのよぅ。一級品は言い過ぎだけど、いつも多めに作っちゃうから、良かったら食べて行って。ね?」
「送って来てもらったお礼の意味もあるのだわ。受け取って頂戴」
「……ま、一食分食費が浮くんだから素直に食べてけば?」

 最後のはちょっとカチンと来たが、事実ではある。確かに昼食はマーガリンと既製品のイチゴジャムを乗っけたホットケーキだったし、晩飯も最初から牛丼屋辺りで外食予定だった。
 柿崎は怪我の回復はカロリー摂取に尽きるとか言いながら焼いた端からガツガツ食っていたが(ちなみにいつもそうである)、森宮さんがあまり食べてなかったのは、後知恵で考えれば小食って訳じゃなくて口に合わなかったんだろうな。くっそ、自分に腹が立つ。柿崎を家にほっといても外食にすべきだった。
 ともあれ、ジュン君ならぬ弟のアツシ君も、冷ややかな視線で見てはいるものの何やら同意の言葉を述べたお陰で、結局僕は断りきれなかった。言われるままに森宮さん宅に上がり込み、晩飯をご馳走になることになった。
 いつぞやの客間にぽつねんと一人取り残されるのかと思いきや、今回はなんと居間のリビングに通された。
 え、言葉としておかしい? うちの「居間」は六畳の和室だからなあ。どういう訳かあの社宅は部屋数は無駄に多い(といっても一階がダイニングキッチンと風呂場を入れても五部屋、二階は二部屋に過ぎない)のだが、全て八畳以下なのである。
 それは置いておくとして、通された居間はうちの「居間」とはまるで違う、広くて如何にも昼間は明るそうな部屋だった。
 高い天井に綺麗な照明……なんて部屋の様子をじろじろと見ているわけにも行かず、ソファに座って点けられていたテレビなんかを見ていると、少し離れたところにどっかと弟くんが腰を下ろした。
 態度がでかいのは前からだが、まあ自分の家だし当たり前か、と思ってたら答え難いことをしれっと尋ねて来やがった。

「お前、姉ちゃんとどういう関係なんだよ」
「……んー、友達、かな」
「誤魔化すなよ。好きなんだろ、姉ちゃんのこと」
「……ノーコメントで」
「ふざけんな! こっちは真面目に訊いてやってるんだぞ」

 ふざけてるのはどっちなのか大いに疑問であるが、のらりくらりと躱すのはいけませんということらしい。
 しかしなぁ。僕が森宮さんを好きなのは別に構わんではないか。そりゃ向こうもこっちを好きになってくれれば言う事ないが、僕は実際に彼女が誰かさんと抱き合ったりしてるのを見てるんだよね。
 それでも森宮さんが好きなのだから、僕という男も随分浮かばれない人間ではある。

「で、僕が君の大事な姉さんを好きだったら、どうするんだ」
「やっぱりそうなんだな。最初からそう言え」
「いや、関係は友達さ。他にどうとも言いようがない。同級生でも同じ部活でもないし、趣味が同じって訳でもない」
「そんなの言い訳にもなってないぞ」
「悲しいけど事実を言ってるだけなんだなぁ。で、僕が森宮留美さんを好きだとして、それを確認してどうするんだ」
「……姉ちゃんの気持ちは知ってるのか」
「誰のことが好きか、ってこと?」
「うぁ……うん」
「あー、それは大体判ってるつもり」
「っ!!」

 あっさり言ってやると、弟くんの態度が急変した。がたがた震える手で飲んでた物をテーブルの上に置き、僕の方を恐る恐るといった風情で睨みつけて来る。
 悪いけど、僕みたいな素人から見ても迫力のない睨め付けだった。あまりにも態度がキョドり過ぎてる。半分ハッタリだったんだけどな……判り易すぎる反応だ、こりゃ。
 しかし、なんでまた急にガクガクし始めるんだ。別にいいじゃんか、あれだけおおっぴらに抱き合ってた訳だし。
 前にこの家に来たときに見た光景が今更のように頭の中で再生される。
 廊下で、ひょっとしたら僕に見られてしまうかもしれないのに(実際に見た訳だが)きつく抱き合う二人。なんか完全に二人の世界のオーラが出ていた。
 あれはガチだろう。余程の事情があって抱き締めなきゃならなかった、って訳でなければ。
 いや待て、まさか二人は既にプラトニックなラヴを越えてイケナイご関係まで行っちゃってるのか? それを僕に見透かされてると勘違いしてびくびくしてんのか?
 うわあ……うわあ……それはちょっと、流石に考えたくない。だが、ないかと言えばあってもおかしくないぞ。

「誰……だよ、それ」
「おい、それを僕の口から言わせるのか……まぁいいけど、彼女が好きなのは──」
「──っ! もういい、言わなくていい!」
「照れんなよ」
「照れる!? どういう意味だ」
「だって、森宮さん──留美さんが好きなのは君じゃないか、アツシ君」

 あーあ、言っちゃった。ま、仕方ないよな。
 それはいいんだが、弟くんの動きは見事に停止している。
 時間が止まった訳じゃーない。テレビは点きっぱなし、キッチンからは森宮さん姉妹の何気に楽しそうな声が聞こえて来る。
 タバコ吸える人ならここで一服、酒飲みならグラス持ち上げて傾けるって感じなんだろうなぁ。うむ。
 しかし残念なことに僕は未成年であり、もう一つ言うと目の前のテーブルには僕用の飲み物とかは用意されていなかった。残念である。

「ぼく、を……し、──姉ちゃん、が?」

 おーおー、動転しとる動転しとる。そっかそっか。
 悔しいが、正直なトコかなり可愛いというか、絵に描いたような頬染め美少年の一例だ。髪型はだいぶアレだが。
 この分では怪しいご関係ってのはなさそうだ。
 むしろ弟くんは結構鈍感で、自分はお姉さんを好きなんだけど向こうは別に彼氏が居るとでも思ってたか。なんかそれっぽい反応だ。
 そりゃ、普通じゃないかもしれん。でも冷静になって考えてみろ、弟くん。それほど接触が多いって訳じゃない僕でさえ思い当たるフシが幾つかあるのだ。当の本人である君の身に覚えがないとは言えないだろう。
 そんな風に言ってやると、弟くんは何やら意味のない言葉を発しながら頭を抱えた。身に覚えはバリバリにある、って感じだ。

「君も好きなんだろ、お姉さんのこと」
「──嫌いな訳ないだろ」
「おお、そっちは素直に認めるんだ」
「うるさい! お前みたいに普通のヤツなんかに何が判るんだ、僕達のことが」
「そりゃー何にも判んないけどさ」
「だったら茶化すの止めて黙ってろ! こっちは真剣なんだ」
「……ごめん」

 結局それっきり、弟くんは黙り込んだ。
 しかし、よく怒鳴られる日である。サイカチのは明らかに逆恨みも甚だしかったが、弟くんにはちょいとストレートに言い過ぎたかもしれん。まあ、あれですよ。こっちとしても嫉妬も若干入ってるのは間違いないんで、許して欲しい。
 まあ、普通のヤツ、ってのはあれだね。ゲス野郎とかビンボー人っていうのよりは良いカテゴリだ。ちょっぴり出世したな僕。でもこの家の人々とは別ってことなんだろうが、そこまでストレートに言われると今更腹も立たんよ。弟くんには、その一般的じゃない技能の面で借りもあるしなぁ。
 食事の支度ができた、と声が掛かった。僕がごめんなと言って立ち上がると、弟くんは顔を無闇にごしごしさすり、無言で立って僕を追い越してダイニングに向かった。
 まずかったなぁ。喧嘩する気はなかったんだけどな。

 晩飯は美味しかった。怒りとか失望で味も分からんとかいう事があるらしいが、残念ながら僕には当て嵌まらないか、そこまで追い詰められていないらしい。
 何故かは判らんが、なんとなく心に風穴が開いてるような気分ではあるんだけどね。
 しかし勧められるままに豊富な副菜に手を伸ばし、遠慮なく主菜を頂いて、腹が満たされるとなんとなく風穴なんかどうでも良いような気もして来る。僕は何処までも哀れな欠食児童みたいなものである。
 テーブルの向かいに座った森宮さんとお姉さんに手を合わせて、ご馳走様でした、を言ったときはもう、僕の風穴は幸せ気分で綺麗に塞がってしまっていた。我ながら簡単な人間だなぁ。
 帰りのバス停まで送るという森宮さんの申し出を丁重にお断りして、僕は森宮邸を出た。
 弟くんが玄関まで見送りに来たのは意外だった。何か言いたそうな顔をしてたけど、結局何も言わずにドアの向こうに消えたのは、何だったんだ。
 森宮さん本人は、門のところまで僕を送ってくれた。
 風は止んで、月が出ていた。後は最終のバスが出てしまっていないことを祈るのみだが、まぁ多分大丈夫だろう。終電の時間くらいまでは本数は少なくても運行してるはずだ。

「ご馳走様。ホント美味しかった。流石は森宮さんのお姉さんだなって思ったよ」
「そう言って貰えると姉さまも喜ぶわ」
「あはは。なんか、勝手に送って来て晩御飯まで頂いちゃってごめん」
「いいのよ。……私のこと、気にしてくれたのでしょう」

 なんでまた、そうやって寂しい顔するんだよ。ああもう全くこの子は。
 いや、余禄が大き過ぎて忘れていた訳じゃないぞ。ただ、バスに乗ってる間も、キッチンで食事の用意している間も、彼女はこの寂しそうで哀しげな顔を仕舞っていてくれたから、僕としては出来るだけのことはしたつもりになっていたんだ。
 だけど……最後の最後で、そんな顔するなんて、さ。
 どういう訳か、塞がったはずの風穴がまた開いてしまったような気がする。
 僕じゃ碌すっぽ慰めることもできないんだろうなぁ。
 でも、少しくらい聞いて上げても良いよね? ここでそんな顔してるってことは、訊いて下さいって言ってるようなもんだし……いや、そう思いたいし。

「……うん。今日はずっと気になってた」
「ごめんなさい、心配かけて」
「いやいや、気にはなっても何もしてあげなかったし、ホントこっちこそごめん」
「いいえ、貴方はいろいろ気を遣ってくれたわ。送って来てくれたのも、そうなのでしょう」
「まあ、暗くなっちゃうまで引き留めてたのは僕だし、女の子の一人歩きは危ないから」
「……ありがとう」
「いいって。僕の方こそ晩御飯……って、これじゃループしちゃうな」
「ふふ……」

 ループしてしまう理由は判ってるんだけどさ。
 なんでそんな顔するのか、その理由を聞きたいのに聞く踏ん切りがつかないからだ。多分、森宮さんも言い出したいのに言い出せないでいる。
 例の漫画ののり姉ちゃんの如く、うちの人形どもの来し方行く末の悲惨さに共感してしまったのか。いやそれはなかろう。とすると、例の「殻」のことなんだろうか。はたまた弟くんと喧嘩しちゃったとか、逆に好きな気持ちが一線超えそうで切ないとか……
 もっと言えば今日僕の家にいきなり現れたのも、同人誌を見せたいがためではなくて、そのことが関係してるのかもしれない。
 もう少し別の話題を……いやいや、見送ってくれてるのにあまり時間を取らせる訳には行かないし、さっきバス停までって話も断っちゃったし。

 ええい、覚悟決めろ僕。非力でも彼女の力になりたいんだろうが。
 背を向けて息を一つ大きく吸い、吐き出してから彼女に向き直る。

「──もし、こないだ森宮さんが言ってた「殻」のことなら、その──僕で良かったら、破るのを手伝うよ」

 びくり、と森宮さんの肩が震えた。
 多分、ビンゴだ。何が殻なのか、どういうモノなのか皆目判らんが。しかしそれが彼女の悩みなら、僕としては一緒に悩む分には何があっても構わない。
 途中でヘタレることはあるかもしれないけどさ、僕だけに。しかし今現在の意気込みは、何でも来い、なのである。

「殻を破った後、どうなるかは知らないけど。もしヤバイことになってもさ、独りで抱え込むよりは共犯者が居た方が気が楽だと思うんだ」
「……私はきっと、貴方に迷惑を掛けてしまう。それでもいいの?」
「別に全然構わないよ。僕みたいなないない尽くしのヤツでも、いや違うな、ないない尽くしだから、何かちょっとでも森宮さんの役に立ちたいんだ。力不足かもしれないけどさ」
「ありがとう、ジュン……」


 帰る道すがら、僕はずっとぼうっとしていた。
 彼女の口から出たのは思いも寄らないって種類の言葉ではなかったが、逆にそうではない故に、僕としては何というか、衝撃が大き過ぎた。
 赤いのを初めて見たときなんかも衝撃はでかかったが、あれとは全く別種の衝撃である。精神的ショックという点では共通しているが。
 ……今晩は眠れそうにない。とか言いつつ、多分しっかり眠りこけるんだろうけどさ。

 シリアスな気分でただいまと玄関を潜る。
 誰も返事をしないのは判っていたから別にどうでもいい。この時間帯は大抵僕の部屋でテレビでも見ているはずだ。チャンネル争いに敗れた連中は居間のテレビを見ていることもあるが、まあそんなもんである。ぐうたらしてる訳だが、連中の場合他にこれといって娯楽もないから仕方がない。
 ただ、何やら違和感がある。客間の方から何やら温かい気温を感じるような気がする。
 あ、おい。そうだ。ちょっと待て。まてまてまて。
 慌てて客間の障子を開けると、もわっとした暖かい空気と、真っ暗な中で赤々と燃えている石油ストーブ、そしてただ一体、オールヌードの状態で不貞腐れたようにバスタオルの上に横たわっている赤いのが目に入った。

「鼻の下を長くした下僕のお帰りね」
「……すまん」

 ストーブ消して行けば良かった、と思いつつ、僕はだわだわぶつくさ言う赤いのにスモックを着せてやり、明日の朝はまた薔薇パックかなとうんざりしながら小脇に抱えて自分の部屋に向かうのであった。



[24888] 第二期第十二話 ナイフの代わりに
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/08/06 22:18
 ~~~~~~ 昨年末、某所 ~~~~~~


「そうか、出会ったんだね、邪夢君に」
「……うん。あんな奴が僕の名前を持ってるなんて心外もいいとこだけどな」
「あはは、それは……なんて言ったら良いか微妙だね。少なくとも悪い人じゃないよ」
「真紅……姉ちゃんも男見る目が無さ過ぎだ。いくら名前が同じだからってあんな奴のことが気になってるなんてさ」
「気になってるのは、名前が同じだからかな……?」
「どういう意味だよ」
「確かに、彼は名前は同じだけど、それ以上じゃない」
「そうだよ。見た目も能力も、趣味も、それから資質も……薔薇乙女の契約者としては全く相応しくない」
「うん。ただの、本当につまらない人間だ。君に似てるところは何処もないよ。四年半以上見てきた僕だってそう思う」
「だから、真紅は名前の一致だけで騙されてる。そうじゃないのか?」
「……ねえ、ジュン君。彼女は僕達が予想していたのとは違う方向に羽ばたこうとしてる。そうは思えないかな?」
「……昔のことは、思い出さないままってことか?」
「うん。人が人を好きになるのには、昔の記憶や繋がりが必須事項ではないと思うんだ。新しい出逢いがあっても不思議じゃない」
「理屈じゃそうだろうけど……僕は納得できない。なんで、あんな奴に」
「いや、理屈じゃないよ。人を好きになるのに理屈なんて要らないんだ。使い古された言葉だけどね」


 ~~~~~~ 現在 ~~~~~~


「ごめんなさい、待たせてしまったかしら」
「いや、今来たトコ」
「そう? それにしては……」
「い、良いじゃんどっちでもさ。森宮さんだって待ち合わせ時間前に来ちゃったんだし」
「ええ……」

 ふっ、と少し大人びた笑顔になって、森宮さんはかじかみかけた僕の手を取った。両手を合わせて、と言われてそのとおりにすると、両手で僕の手を包むようにする。
 おお、なんか……感動だ。ついでに暖かい。いや、ついでじゃいけないんだろうが。
 漫画だったら両目から滝の如く涙が流れ落ちているところであるが、生憎と現実だった。僕の顔が締まりなくにやけただけの話だ。
 早く来てくれたからよ、お礼にやっているだけよ、と森宮さんは断って、本来の待ち合わせ時間きっかりまで僕の手を暖めてくれた。まあ、数分間だけだけどね。
 肩を並べて歩き出す。幸いなことに最近は寒さも大分遠のいて、がたがた震えながら歩くようなこともない。
 昨日も話したはずなのに、話題なんて幾らでもあるもんだ。僕達は他愛ないお喋りを交わしながら、高校までの決して短くない道を歩く。ああ、このままずーっと何キロでもいいや、僕。疲れ果てるまで二人で歩いててもいい感じ。


 ~~~~~~ 第十二話 ナイフの代わりに ~~~~~~


 しかし、現実は常に非情であった。
 何という間の悪さ。駅前のスーパーの脇で、普通こんな時間帯に登校しているはずのないコンビと合流する破目になってしまった。

「珍しい取り合わせだね、邪夢君と森宮さんって」
「ですねぇ、なんだかアンバランスで面白いです」
「そうかしら?」
「くっ……言いたい事を……まぁこの時間に石原姉妹揃い踏みってのも何気に珍しいけどな」
「あはは、冬の間は花壇の水遣りがないからね。たまには揃ってゆっくり出ようって」
「ええ。という訳で美人同士のカップリングなのですぅ♪ ねー葵っ」
「ちょ、いきなり抱きつかないでって。苦しいよ美登里……」
「はいはい、勝手にやっててくださいまし。どうせ僕は場違いですよ」

 確かに石原姉妹が美人なのは認める。片やロングの自称正統派、もう一方はボーイッシュなボブカットだが、一卵性双生児ってやつで顔自体の造作は同じである。要は基本が整ってるからどっちの恰好でも似合う訳だ。それがなってない僕などからすれば羨ましい限りである。
 まぁそれはそれとして、僕と森宮さんの取り合わせがあまりにも不釣合いだったせいか、いつもからかいの言葉を投げ込んで来る石原(美登里)も、鋭い突っ込みを入れて来る石原(葵)もその辺に一切触れないのは助かった。二人でイチャイチャするのに忙しかっただけかもしれんが。

 そんな風にだらだらと登校していると、脇からまた二人ほど見知った顔が……。どうしたって言うのかね、他ならぬ今日に限って。なんか呪われてるんじゃないのか。

「あーっ、先輩おはようですぅ!」
「あれ? 瑠美に双子に……例のメッセンジャーボーイ? 凄い取り合わせね」
「あら、真希ちゃんの知り合いなの? 奇遇かしら。カナもあの子には会ったことがあるわ」

 一難去ってまた一難か。今度は意外なコンビ……でもないのか。加納先輩は水島さん……じゃなくて先輩か、どっちにしても、知り合いだって言ってたし。
 あれ? でも二人とも受験期間なのに、と思ったら、流石はエリート。二人とも早々に推薦で合格してしまっており、今日は自主登校なのだそうな。なんでまた今日に限って。
 斯くして総勢六名の道行きとなった訳だが、最早当然のようにこれだけでは済まなかった。
 最後に加わったのは──

「わーいっ! みんな、おっそろいなのー!」
「あら、珍しいこともあるものだわ」
「ほんとだ。いつも予鈴ぎりぎりに登校してるのに」
「えー、しっつれいしちゃうなの。早いことだってあるのよ」

 なんだこの子は。結構なテンションと、それに見合いそうなエネルギーでぴょんぴょん飛び跳ねながら追いかけて来て……何故か僕の目の前で止まってじろじろ眺める。
 森宮さんや加納先輩も結構小柄だが、この子は輪を掛けて小さい。初顔合わせだが、人懐っこい可愛い顔は僕を物怖じせず見上げて来る。

「お? おーおーおー、貴方がサクラダ・ジュンなのね?」
「あー、はいそーです。なんか全部カタカナだとウルトラシリーズの隊員みたいだよね」
「へ? よく判んないけど、よろしくなの。あ、わたしねぇ、一年三組の日向可梨。カリンって花梨みたいだから、ヒナって呼んでね」
「了解しました……」

 いきなりタメ口で自己紹介して呼び名まで強制かよ。生意気とはもう思わんが、どこまでパワフルなんだ。
 最早誰が情報をリークしたかは追及する気にもなれんが、一応ぐるりを見回すと、石原(美登里)がわざとらしくそっぽを向き、古典的にも口笛なぞ吹いてみせやがった。まあ、そんなことだろうとは思っていたけどな。石原姉妹の人脈は広そうだし、特に美登里があちこち顔が広いのは中学の頃から知ってるし。
 だがよりによって目の前で口笛かよ。逆に嫌味ったらしくて頭に来るぞオイ。

 とまあ、そんな風に謎の道連れ集団で賑やかに残り数百メートルを歩き、順々に別れ、教室の前に来たときは石原(葵)だけになっていた。
 ちなみに、五組の前で森宮さんと別れた後、つい振り向いてしまったのは内緒だ。
 彼女はまだこっちを見ていて、何故か少し不安そうに、だが微笑んでくれた。僕は前を行く石原に気取られないように素早く片手を上げ、慌てて自分の教室に急いだ。反応は見えなかったが、まあ悪くないさ。
 席に着く前、石原は滅多に見せない糞真面目な顔になって僕を見た。
 何やらこっちの顔が青くなりかねない、無闇に真剣な顔付きだ。そう、中学時代、僕が柿崎と組んで何か悪さをしたのを咎められたときみたいな……。
 いや待て。今回は何もしてない。柿崎とは昨日確かに会ったが、アイツもまだ脚をギプスで固めてる状態で何もやってないはずだ。あああ、そうじゃなくて。

「──どした? なんかシリアスモードで」
「邪夢君、森宮さんの家とは随分方角が違うよね。反対じゃないけど」
「ああ、うーん、そうだな。それがどうかしたか?」
「いや、いいんだけどさ。明日からもずっと一緒に?」

 何ですかこの遠回しな尋ね方は。
 石原らしいと言えばらしいんだが、石原らしく大いに含むところがありそうな気がするぞ。正直言って、笑ってるときでも腹に一物抱えてそうなのに、こう真剣な顔をされると背中に何か野太刀でも背負っていそうなほど怖い。いや園芸部だから高枝切り鋏か、はたまた定番のチェーンソーか、いや鋸かもしれない。
 いずれにせよ気弱かつ軟弱な僕としては、大いに気圧されつつ、しかし嘘もつけないので肯定するしかないのである。
 石原は笑いを見せずに、そう、と頷いた。なんだよ、気になるじゃねーか。

「それは……お付き合いを始めた、って思って良いのかな」
「お、おう。ちょっと違うけど……まあ似たようなもん」
「……そうか」

 石原は長い溜息をついて、漸く表情を緩めた。いや、いつものようなニヤニヤ笑いじゃないが、なんかすっきりしたような、実に爽やかな顔になってる。
 なんだなんだ。どういう意味なんだよ。全然判らんぞ。
 しかし僕の質問に石原は答えることもなく、始業のチャイムが鳴って自然に僕達はそれぞれの席に向かい、そのまま授業を受けることになった。
 午前中の三時限、教室移動もあったりして僕達が顔を合わせる機会はなかった。いや、無理をすれば人気のない所に呼び出しとまでは行かなくとも、移動中に話を聞くことは出来たはずだが、なんとなく憚られてしまったと言うべきか。
 石原の態度に謎が多いことよりも、態度そのものがいやに真剣だったことの方が気に懸かってしまったんだろうな。いつもはそういう顔をするヤツじゃないし、森宮さんと僕の仲なんて、石原にしてみれば最高に面白がれるネタのはずなんだが。

 ちなみに皆様方、僕は朴念仁ではあるが、自己卑下は得意じゃない。石原が僕のことが好きで云々、みたいなことを何故欠片ほども考えなかったかと言えば、答えは簡単。
 石原には意中の相手が既に居るという、実にありきたりな話なのである。
 確か五つ上の大学生で、由比だか湯井とか言ってたな。ちらっと見た分には、背は高いけどちょっと腺病質っぽいって言うか、イケメンというにはちょっと弱々しい感じの、でもまあ美形。
 確か良いとこの坊ちゃんで、しかしそれに溺れることもなく、弱々しそうな外見に関わらず学生の癖に起業してたりと結構なパワーと才能の持ち主だそうである。僕のような凡俗から見ると凄いとしか言いようがない。どうしてこういう人ばかり周りに多いのかね。
 まぁそれは置いておくとして。石原とは小さな頃からの知り合いで、かなり趣味も合うらしく、中学時代、女子の癖に技術科が好きだったりしたのはその人のせいだとか何とか。まあ、相手は未だに石原のことを妹みたいにしか可愛がってくれてないらしいが。

 閑話休題。
 兎も角、昼飯の時間になって漸く僕は朝の件を尋ねてみる気になった。腹にメシが入って余裕が出来たから、というのは否定しない。人間腹一杯になってなんぼである。
 ところが満ち足りた(質は兎も角、量だけは)腹をさすりつつ石原を探しても、ヤツの姿は教室の中には見当たらない。冬でなければ花壇とかその辺りに出張している訳だが、流石に今の時期はそういうこともない。
 やはり飯を食う前に呼び出すか、一緒に飯を食って居れば良かったのか。後悔してももう遅いんだが。
 致し方なく、僕は図書館に足を向けた。他に立ち回りそうな先といえばそれくらいしか思いつかない。
 図書館といえば森宮さんのテリトリーでもある。十中八九彼女は居るはずだ。石原が捉まらなければ、森宮さんの隣で本でも読んでればいい。
 彼女の聖域に踏み込むようでなんとなく気が引けるが──いや。それは気にしない方が良いはずだ。付き合ってる彼女とイチャイチャ、とは行かなくとも並んで本を読むことくらい、当然なのだ。そのはずだ。
 何やら自分にもよく分からん言い訳をして、僕は図書館に向かった。
 要するに本音を言えば森宮さんの隣に居たいなぁ、という気持ちが湧いて来た訳である。石原の件はどうでもいい、という訳ではないが、優先順位は低かったと言わざるを得ない。
 而して、その結果はといえば──

「あれ、邪夢君」
「……よう、やっぱしここだったか」
「言いながらキョロキョロしてるってことは、森宮さんでも探してるのかな?」
「あ、いやそのそれは」
「彼女なら部室だと思うよ。さっきいろいろ借り出して行ったから」

 僕のメシも結構な早弁だと思うのだが、森宮さんはそれを上回るらしい。むう。あまり早食いするのは、あのお姉さんに悪いのではないかと思うんだが。
 ただ、僕の場合購買まで行ってパンを買ってるか、学食まで出向いて並んでる時間があるから、その場で弁当箱取り出して準備終了な人物と比較すると何分も無駄にしてるのは間違いない。ちなみに今日は新メニューの白身魚フライタルタルソースサンド等であった。結構期待していたらタルタルソースの量が少なくて泣けた。
 それはそれとして、珍しいことがあったものである。図書館なんて自分のもの、みたいに中央にデンと構えて本を積み上げてた彼女が部室に引っ込んで読書するとは。
 行くんでしょ? と石原が尋ねてきたが、僕は首を振った。
 あの森宮さんが図書館を離れてわざわざ借り出したのである。これは余程の事と見た。
 何か一人で読みたいものがあったか、一人で居たい事情があるに違いない。それも、不特定の誰かに見られたくないだけでなく、僕や石原のように訳知り顔で覗き込んで来る連中の目から逃れたかったのだろう。図書館の主が何を読んでいても一々気にするような奴はそう居るまい。
 そんなことを言ってやると、石原はイマイチ冴えない顔つきで顎に手を遣った。

「ふーむ、なるほどねぇ……」
「なんだよ」
「いや、妙に理屈っぽいな、って。邪夢君らしからぬというか」
「まあ、ね。実は探してたのは森宮さんじゃない」
「彼女以外に図書館に居着いてる人なんて思い当たるフシがないけどなぁ」
「いや、居着いてなくても、目の前に探し人が居るから結果オーライなんだけどさ」
「なんだ、僕のことか……森宮さん以外にも目を付けてる人でもいるのかと思ったよ」

 石原は随分人聞きのよろしくない台詞をさらりと述べて苦笑した。この辺のさり気ない心理的圧迫はお手の物である。こっちとしては丸五年になろうかという付き合いを経てもまだ慣れなくて困っている訳だが。
 それで何? と訊いて来る石原の顔は、もういつもの屈託のない表情に戻っている。僕はやや安堵した。まあ、午前の三時限の間真剣かつ陰鬱な表情を崩さないほど深刻な案件じゃないことだけは判った、程度だが。
 勧められるまま、小さなテーブルの石原の斜向かいに椅子を引いて来て腰を下ろし、ちょっと聞きたい事があったからさ、と切り出してみる。

「今朝のことなんだけど」
「ああ、森宮さんと付き合い始めたって話? 聞いちゃいけない雰囲気とは思えなかったけど」
「あんまし積極的に確認取られるようなことじゃないと思うんだが……まぁそっちはどうでもいいんだ」
「他に何かあった? ああ、大分大人数で登校したってことかな……」
「いや、それでもない」

 判ってて話をはぐらかしてるようには見えんが、どうにも聞き難い按配になってきた。
 こういうときは、素直に直球で問い質すしかなかろう。

「森宮さんのことを僕に訊いて来たとき、お前妙に真剣だっただろ。一体どうしてなのか、気になった」
「……そう」
「お前とツラ突き合わせて喋った事は今更何遍って勘定できないほどあるけど、あんな顔を見たのは随分久し振りだった。僕の記憶が信用に足るものかどうか知ったこっちゃないが、あんな顔したときの石原葵は、ムチャクチャ怒ってるか、不安でたまんないか、どっちかなんだ」
「そうかな。自分じゃよく判らないよ」
「顔つきのこととなんか判んなくてもいいんだ。どうしてお前、僕が森宮さんと登校したことをそんなに不安に思ったりし──」

 ぽん、と僕の肩に手が置かれる。はっとして振り向くと、にっこり笑う、ちょっと凄みを帯びた美人の顔がそこにあった。
 水島先輩。こんなに近くで見るのは、病院で話を聞いたとき以来だ。あのときの寂しそうな、切ないような表情は今は見えない。その代わり、何とも言い難い威圧感が加わっていた。

「あまり女の子を問い詰めるものじゃないわ。それと場所柄ってものも弁えなさい」
「……すいません」
「素直なのね。でも謝るなら私じゃなくて葵に、よ」
「いえ、良いんです。僕が曖昧な態度だったから、邪夢──桜田君が焦っただけですから」
「そう? 私には大分詰め寄ってたように見えたけど」
「そんなことは……」
「……いいや、実際焦ってたし、勝手に意気込んでました。石原、すまん。ちょっと頭に血が上ってた」
「あ……ううん、僕こそごめん」

 先輩は軽く頷き、仲直りするのよ、となんだか斜め上っぽい一言を言い置いて立ち去って行ったが、残された僕達は何やら微妙な空気になってしまった。
 図書館内だからってことで、水島先輩は見かねて口を出してきたんだろうし、確かにちょっと意味もなくエスカレートしていたのは事実だ。しかしこれじゃ肝心の話が訊くに訊けない。恨むぜ先輩……。
 結局無言の数分間の後、気まずい沈黙が流れるのに嫌気が差した僕から別の話を持ち出してその場は終わってしまった。石原も特にさっきみたいな態度を取るでもなく話題に応じて、予鈴が鳴る頃にはいつもの調子になっていた。
 有耶無耶になってしまったが、まぁいいかと思わなくもない。石原のあんな顔はあまり見たくないのも事実だし。
 いろいろあった一日だが、これでおしまいだろう、と思っていた。そのときは。
 それがごくあっさりと覆されるのは、暫く経ってからであった。


 午後の三時限が眠いのは、誰のせいなんだか。特に四、五時限の眠さといったらない。
 そんな風に半ばうつらうつらしていたせいか、僕はいつそれが机の中に入れられていたのか全く判らなかった。五時限目は移動教室だったから、案外そのときかもしれん。兎も角、六時限目に至り僕の眠気は完全に吹っ飛んでしまった。
 それは、割に地味なデザインの、しかし一見して女子の持ち物と思しき封筒だった。
 表には「桜田潤様」とだけ書かれており、裏には〆だけ記されている。見覚えがあるようなないような、微妙な丸っこい文字だった。
 ごくりと唾を飲み、カッターナイフを取り出して殊更丁寧に、爆弾処理班並みの慎重さで封を切る。念のためちらちらと前の方を窺ってみるが、残り少ない授業時間で教科書の残りを消化するために大飛ばしで授業をやってる社会科教師はこっちを見るでもなく、あちこちで突っ伏している沈没船も無視して自分の航路を突っ走ることに精一杯らしかった。
 薄い便箋をつまみ出し、きちんと畳まれたそれをゆっくり広げてみる。そこには、いやに簡単な文面だけがあった。

『放課後誰も居なくなったら、二年二組の教室に来て』

 差出人の名前も何もない、ただそれだけの内容だった。
 なんだこりゃ。何処の時空からの誘いなのだ。
 石原でないことは間違いない。字が違うし、手紙を寄越すなんて芸当をするまでもなく、僕の肩を叩いて告げれば済むことである。
 森宮さんではない。これも字が違う。用件がありそうだとは思うが、そも、二人きりで話したいことなら登校中に幾らでも話せるはずだ。
 待てよ、二組。二組と言えば……。あれ? 二組?
 二組には、少なくとも僕が呼び出しを食らうような覚えのある女子の知り合いはいない。例えば石原(美登里)は一組、森宮さんは五組で、ここは三組である。
 他にも石原姉妹の友人など数人ばかり知り合いは居るが、その程度であり、全員二組ではない。サイカチの嫉妬がいかに的外れか判ろうというものである。いやまぁそれはいいんだけど。

 一体誰なのか、何の目的なのか、と考えている内に授業は終わってしまった。
 さて、どうしたもんかね。
 無視する手もあるが、何やらスルーしてはいけない雰囲気もある。ってゆーかだな、僕は結局渡したことも渡されたこともない訳だが、これはあれだ。どっかの少し可笑しな嗜好の女子が僕宛てに出したラブレターとか、何かの罰ゲームで書かされたラブレターもどきって可能性が高い。僕はそう判断した。
 前者なら丁重にお断り申し上げるだけだし、後者であれば人気がないのを確認して話を聞いてやるだに吝かでない。もしドッキリとか僕に対する悪戯の類なら、甘んじて受けようではないか。今更一つ二つからかいのネタが増えたところで大して変わらん。いや、ネタキャラとしては踏んで何ぼの地雷だろう。
 まあ、最後の可能性は低いと思う。からかいを実行するなら、僕がホイホイ引っ掛るような誰か結構可愛い子の名前でやるはずだ。例えば水島先輩なら百パーセント釣られる自信がある。いや、森宮さんが一番なのは間違いないが、そこはそのあの。ともあれ無記名にしておくメリットが少な過ぎる。
 ここは取り敢えず、最悪ドッキリであることも想定した上で地雷原に足を踏み入れようではないか。もちろん色艶のある内容だった場合の返事は決まっているが。

 しかしまぁ、「誰も居なくなったら」というのは曖昧かつ微妙な時間設定ではある。
 それまでどう過ごしたものか、と考え、僕は図書館に向かった。帰宅部の僕が最も無難に時間を潰せる場所である。人も多いし、適当に雑誌でも読んでいれば一時間程度は間が持つ。
 呼び出しの想定内容を考えると、図書館に居るであろう森宮さんと顔を合わせるのも何か気が退けるのだが……いや、いやいや。返事は決まっているのだから、何もやましい所はない。
 断るならば行かなければ良いではないか、という気もするが、用件がそっち方面とは限らない以上、踏み込んでみる必要はあるだろう。
 と、何やらゴチャゴチャと言い訳を考えてみたが、いざ図書館に入ってみると森宮さんの姿は見当たらなかった。
 どうやら一人で読みたい本は昼休みだけでは読破できなかったらしい。部室に行ったのか、あるいは家に持ち帰ったのか判らないが、あまり興味はないが話のネタにはなりそうな科学雑誌を読みながらちらちらと探してみても、彼女が現れる気配はなかった。
 拍子抜けしたような、安心したような、それでいて残念な気分を抱えたまま、僕は科学雑誌を眺めた。いつにも増して内容は頭に入らず、ほとんど義務的に文字を追うだけになってしまったが、時間だけは潰せたらしい。腰を上げて書架に戻したときには、図書館の中の人数は大分減っていた。

 さて行くか、と気合を入れ、二年二組の教室に向かう。時刻は五時を回り、一頃に比べればだいぶ日の長くなってきたこの時期とはいえ既に陽の光はオレンジ色よりも赤に近くなっている。
 予想どおり、教室棟には僕以外に誰ひとり居なかった。あちこちから部活をやってる連中の声やら楽器の音は聞こえては来るがまばらで、全て遠い。三学期も半ばどころか三分の二以上終わってしまった時期だから、当たり前と言えば当たり前である。
 ドアの前で深呼吸一つ、か。どっかで見たことのあるような場面だ。なんだったっけ?
 まあいいか。あまり入ったことのない教室だが、呼び出されたんだから構うまい。僕は無造作に引き戸を開け、オレンジ色に染まる教室の中に足を踏み入れた。

「遅かったですね。大分待ちましたよ」
「お前かよ……」
「そうですよ。びっくりしましたか?」
「びっくりさせたくなかったら、今度から封筒とは言わんが、せめて便箋くらいには差出人の名前をちゃんと書いといてくれ」

 やや弱い逆光の中、窓を背にして立っていたのは、石原美登里だった。いつものように屈託ない笑いを浮かべて、こっちを真っ直ぐに見ている。
 おい。なんか……これ、既視感があるぞ。それも実生活でなく、別の何処かで。
 夕日の教室、長い髪の美少女、二人きり。
 取り敢えず、相手は石原美登里である。中学時代からの友人であり、それ以上でもそれ以下でもない。落ち着け僕。
 入り口を閉め、真ん中辺りまで歩いて行って、なんの用向きだ、と尋ねると、美登里は白い顔にふっと謎のような微笑を浮かべた。

「用があることは確かなんですけど、その前にちょっと訊きたいことがあるのです」
「んん? 答えられる範囲でしか答えないが、それでよければ」
「よく『やらなくて後悔するよりも、やって後悔するほうがいい』って言いますよね。邪夢はどう思います?」
「よく言うかどうか知らんが、言葉通りの意味じゃねーのか?」
「じゃあ、たとえ話ですけど、現状維持じゃジリ貧になることが解ってるけど、どうすれば良い方向に向かえるか解らないとき。邪夢ならどうします?」
「なんだそりゃ……」

 美登里が一歩近付いた。
 待て。ちょっと待て。思い出したぞ。声質が似てるから、まるで今見てきたように思い出しちまうじゃねーか。
 このシチュエーション、この展開、この台詞回し。まるで恋愛漫画のような出だしで、その続きは……。

「取り敢えず何でもいいから切っ掛けを作ろうって思うんじゃないですか? どうせ今のままじゃ、何も変わらないのですから」
「まあ、そういうこともあるかもしれん」
「やっぱりそう思いますよね」

 手を後ろで組んで、美登里は上体を少し斜めに傾ける。
 おい止せ。そこまで似せる必要はない。
 ていうか、なんだこれは。やっぱり手の込んだ、しかも知り合いを使ったドッキリなのか。確かに僕は極め付けのパンピーだが、あんなに振り切れた知り合い連中は周りに居ないぞ。
 いやいや、そうじゃなくてだな。まさかこの場面から先まで、あれをトレースする訳じゃ──

「他のみんなは頑固者で、前に決めたことをずーっと守って行こうとしてるんです。でも近くで見てたら、そうも言ってられません。だってただ見守ってるだけじゃ、どんどん良くない方に向かって行きそうなんですから。……だったらもう、独断で強硬にコトを進めちゃってもいいですよね?」
「ごめん、ちょっと何言ってるのか理解できない」
「何も変化しないあの子達に、私はもう飽き飽きしてるのです。だから……」

 更に一歩近付いて来る。おい。そっから先は冗談にならんぞ。
 僕がただ棒立ちに突っ立っていると、石原は後ろに回していた手をすっと前に出し──

「貴方に全てを話して、真紅の覚醒を促すのです」



[24888] 第二期第十三話 大いなる平行線
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2012/01/27 15:29

 ~~~~~~ 本日朝登校前、石原宅 ~~~~~~


「待って。それは性急過ぎるよ」
「どうしてですか? ジュンは苛立ってるし、途方に暮れてるんです。このままじゃどうすれば良いか判らないって」
「いや、でもそれは僕達が手出しをしていい事柄じゃない。彼女と邪夢君の問題だ」
「邪夢は真紅に惹かれてるし、真紅もこのまま行けば……いいえ、もう好きになってるかもしれないです」
「それとこれとはまた別だ。いや、もし真紅が知ったら、却って二人の仲を引き裂くことになってしまうかもしれない」
「じゃあ、付き合い出してから記憶を取り戻したらどうするんです? そうなる前に、みんなが居る間に教えて、覚醒させるべきです」
「駄目だよ。この間、みんなで話し合ったじゃないか。まだ自然に任せようって」
「そんなの、逃げてるだけです。みんながそうやって逃げてるせいでジュンがいろんな歪みを独りで引き受けてるんですよ」
「それは……」
「私は、もうこれ以上ジュンに、要らない苦しさや切なさを味わって欲しくないのです……」


 ~~~~~~ 現在 ~~~~~~

 石原美登里の手には、何も握られていなかった。朝倉涼子の真似事をしていたとしても、コンバットナイフまでは用意していなかったらしい。
 本来なら僕は、強烈な安堵感にへたり込むべきだったかもしれない。そして、待機していた誰かがドッキリのプラカードを持ってご登場という寸法と相成る訳だ。
 しかし今の一言は、そんな阿呆な妄想を吹き飛ばすだけの内容を秘めていた。

「今……なんて言った? 誰のカクセイをうながすって?」
「真紅。ローゼンメイデン第五ドールですよ。邪夢は漫画の中の登場人物としか思ってないでしょうけど、実在するのです」
「なんだって……」

 まあ、普通ならこれこそネタだよな。だが僕にはある意味でナイフを取り出されるよりも衝撃的な発言だった。
 真紅? ローゼンメイデン第五ドールだと?
 じゃあやっぱりあれは。いや、まさか。嘘だ。ハッタリだ。偶然のネタの一致に違いない。
 なんにしても、こっちが既に気付いているってことを美登里の方では承知してないことだけは間違いない。知っていればこんな回りくどい言い方をするはずがない。
 じゃあなんだ、僕に教えたい事柄だから全て話す、とでも言うのか。
 そもそもこれがマジな話として、美登里が何故僕にそれを、しかもこんな言い方で表明する必要がある? 先ず物的証拠を見せてから話に入った方が断然信用度が大きくなるはずなのに、今現在美登里は何も持ってもいなければ、ここに何か特別なもの、例えば人形本体がある訳でもない。
 おかしいだろう。幾らなんでも、これじゃネタ話だから引っ掛らないでくださいと看板を掲げてるようなものだ。

 ふむ。取り敢えず理解したぞ。このままでは埒が明かんということが。
 美登里の意図は皆目判らんが、少しヒントをくれてやるか。僕だって満更無知ではないということだ。
 これで頓珍漢な反応を示すようなら、例によって僕の名前被りの新しいネタに違いない。今までに比べて随分手が込んでるが。

「──それが事実だとして、お前は何処まで知ってるんだ」
「いやに冷静ですね……そうですね、当事者の一人って言えば分かります?」
「当事者って? 人形どもがお前の家に押し掛けて来た、とか?」
「似てますけど、ちょっと違います」
「ほう、そいつはどういう意味だ? まさか怪奇人形どもを、お前が作ったって訳じゃあるまいし」
「そうですね、作った訳でもないです」
「だったら何なんだ。他に当事者なんて有り得ないだろう」
「有り得ますよ? 現にそうなのですから」


 ~~~~~~ 第十三話 大いなる平行線 ~~~~~~


 美登里は僕の理解力のなさに呆れたように溜息をつき、大仰に首を振ってみせた。その辺のちょいと偉そうな仕草はいつもの石原美登里である。
 むむむ。
 微妙に上から目線の美登里の態度にも腹が立たないでもないが、これで大体判った。どうやらこいつは僕を引っ掛けて誰ぞを笑わせようとしている訳ではないらしい。
 弄りネタとしては引っ張り過ぎ、かつ間の取り方が中弛み過ぎである。こんなところで時間を取るなんてテレビ番組の企画でもなけりゃ有り得ない。映画部とかがそういう企画をやってるんじゃなければ、長過ぎだ。

 ってことは、こいつも実際に例の件の当事者という訳だが……ううむ。他のタイプの当事者とは何ぞや。しかも意識して明言せずにこっちの理解を促すとか。
 住まわせた訳でもない、作った人間って訳でもない。その他って言ったら、なんだ。
 僕の中のイメージと言ったら、他には……。
 どういう訳か、ちらりと森宮さんのことが頭を過ぎる。いや、どういう訳か、じゃない。その理由はすぐに判った。作った訳でも押し掛けられて居着かれた訳でもないが、彼女もまた当事者なのだ。間違いなく。
 人形どもが押し掛けて来た、と僕が言ったところで美登里は、似てるけど少し違う、と返して来た。つまり、美登里もまたそういう立場ってことだ。
 真紅の覚醒を促すことを目論んでるってのはイマイチ判らんが、何しろあいつ等の件である。何か僕の知らん奇怪な事情が絡んでるのは間違いない。
 よし、それならこっちにも考えがあるぜ。今までとぼけて来たが、そろそろ僕がいろいろと知ってるってことを教えてやってもいいだろう。

「ってことはあれか、お前も森宮さんと同じ意味で当事者ってことか」
「……そこまで知ってたんですか? びっくりですよ」
「知ってたも何も、僕としてはお前がその辺、ええとなんだ、赤いの……じゃなくて真紅のことまで知ってることの方が意外なんだが」
「あの子と同等、いえ、私の方が今は知識が深いですからね、当然じゃないですか。そこまで知ってて私が色々知らないと思ってるアンタの理解力のなさの方が驚きです」
「理解力とか言うなよ。そりゃ僕がノーミソ空っぽなのは元からだが、予備知識もなしに判る訳ないだろうが」
「開き直りましたね。流石は邪夢です」
「うるさいわい。で、お前はそもそも何時何処で真紅を見付けたんだ」
「この高校に入ってすぐですから、そろそろ二年ですよ。気付いた場所もこの高校です。まさか、邪夢はそれ以前とか言いませんよね?」
「僕が見つけたのは、つーか押し掛けられたのは去年の十一月から十二月にかけてだな。そうかあいつ、ウチに来る前はこの学校じゅううろうろしてたのか。物騒な話だな」
「本音が出たらいきなりあいつやら物騒呼ばわりですか……。まあ今は見逃してやりますけどね。……十一月って言うと葵の仲介であの子とアンタが初デートする少し前くらいですか」

 見逃してやるとかどっちが上から目線なんだよ。
 と思いつつも、寛大な僕は一応頷いてみせた。
 あの子ってーと……森宮さんしかいないよな。確かに森宮さんと知り合い、お宅にお邪魔したのはその頃である。
 いやいやいやいや、ちょっと待て。あれはまだデートじゃ……ってか葵の仲介だと?
 初耳だぞそれは。まあ、確かに最初に森宮さんを紹介してくれたのが石原(葵)であることは間違いないが、その後は僕も森宮さんも自分の都合で動いてたはずだ。しかも最初の、その、デートというか御呼ばれは、あくまで残念人形絡みでその場で森宮さんが言い出したことであって葵の知ったことじゃないはずだ。
 いや待て。
 美登里は一昨年から既に残念人形ズのことを知っていたという。当事者とのたまうからにはあのボロ人形どもを見て、触れて、会話したこともあるのだろう。ってーことは葵も人形ズのことについて無知とは断言できない。いやいや奇特にも同じ高校に通う双子の仲良し姉妹とくれば、むしろ僕より先に知ってた可能性が高いではないか。
 ぬああああああ。一本取られたぞこれは。
 つまりあいつは委細承知の上で、僕のぼやきと質問をニヤニヤしながら聞き、森宮さんという恰好の人材を紹介したことになる。いや葵のことだ。森宮さんにさり気なく家に呼んでみたらとか言うくらいのことはしたかもしれない。
 なんてこった。全ては仕組まれた上の出来事だったとでも言うのか。嗚呼。
 今朝、あいつが妙な顔をしていたのも頷ける。僕に全てがバレたんじゃないかとでも疑ったのだな。なんで真剣な表情になってたのかまでは判らんが──いや、判る、それも判るぞ。
 僕のところに残念人形ズが集うように画策したのもあいつだとすれば、そりゃバレたら僕が怒りの電流迸ってしまうことくらい容易に想像がつくだろう。誰だってあんなモノに次から次へと押し掛けられたら、その手引きをした奴に勃然と怒るのが当然である。

「くっ……そういうことかよ」
「ええ。葵なりの弱いアプローチだったのですけど、まさか邪夢がその前からあの子を知っていたとは思わなかったでしょうね、葵も。私もびっくりしてるのですよ?」

 全然びっくりしたようには見えんのだが。
 まぁ、この際それはいい。所詮は済んだことである。寛大な僕としては人形ズを唐突に押し付けられたのも許してやろう。今後も世話を看ねばならんことまで考えると大激動モノではあるが。
 余禄は十二分に大きかった。森宮さんとこんなに親密になれるとはよもや思わなかったからな。
 手引きをした葵もここまで進展するなどとは慮外の事態だったに違いない。人の縁など何処でどう繋がるか判らんものである。
 さて、落ち着いたところで話を元に戻すとしよう。美登里が大分詳しいなら、人形の件で聞き出したい情報がある。

「Rosen工房って人形工房について、知ってるか。あいつらが「お父様」って呼んでる相手なんだが」
「知ってるも何も……ええ。確かに「お父様」は知っていますよ。とても、とてもよく」
「ほほう。ならば、あいつらがローザミスティカと呼んでる動力源の出元は?」
「……それを聞いてどうしようって言うんです?」
「実は大したことない。中学で僕と同級生だった柿崎っていただろ、僕と一緒に名前ネタにされてた奴。あいつがそれを知りたがってるだけだ」
「いましたね。年初めに骨折して入院してたんですよね」
「そそ。あいつは黒いの……いや水銀燈と関わって、漫画やらアニメのせいもあって妙にあいつらの成り立ちに興味持っちまったらしい。で、ネットやら何やらで熱心に調べてるが、そんなところにマイナーな文献資料なんて大して出て来やしないって寸法だ」
「水銀燈が……そうですか。詳しいことは聞いてませんけど。脇が甘すぎたかもしれませんね、水銀燈も」

 脇が甘いとはどういう意味だ。何やら不用意な会話をしてツッコミを受けるようなことでもあったのか?
 他人に見られたらヤバイとかの意味合いなら、判らんでもないが。頭陀袋から頭だけ出して持ち歩かれることを所望してる辺り、脇が甘いというより一線を越えてしまって露出狂的な部分は確かにある。お陰で道行く人は大迷惑、失神者続出である(はずだ)。
 まあ、そっちはどうでもいい。脇が甘いとか言ってるってことは、美登里はやはり人形どもの秘密……秘密ねえ……秘密にすべき理由がよく判らんが、ともかく美登里的には隠したいと思うような事柄を知ってるということだ。
 しかしなあ。いいじゃねーか。こちとら最近は都合七体全部世話しているようなものでもある。情報の共有ってのは大事だろうがよ。
 情報を持ったからって吹聴して回るような内容でもない、むしろ傍迷惑なだけの結果に終わるのが目に見えてるんだから、大家である僕は知っていたって悪くなかろう。どうせ精々があいつらのルーツに関わる程度なのだ。

 美登里はふぅと息をつき、教壇に背中を預けるような姿勢になった。何やら僕の喋った内容に毒気を抜かれたと言いたげな風情だが、生憎こっちとしては毒も糞もまったく身に覚えがない。
 やや萎れてしまったとはいえ、手紙なんて手段を使って呼び出したのはそっちである。さっきは全て話すとか息巻いてた訳だし、ローザミスティカの件を問い詰めてやろうかと思ったのだが、それを言おうしている内に向こうが先に口を開いてしまった。
 人形工房と「お父様」について、僕が知ってることを先に話せという。何でだよと口を尖らせてみたら、溜息をわざとらしくついてから、説明はそれから、とか言いやがる。おいおい、説明するのはそっちじゃなかったのか。
 まあ知ってることを話すくらい吝かじゃないが、今度は妙に開き直ったような態度になったのは一体なんなんだ。
 僕等の調べが美登里的にヤバい所まで踏み込んでたとかいうことか? どうも今日のこいつの心理はよく判らん。いや、いつも判んないけどね。女の子の考えてることなんてさ。

「真紅から聞いた話じゃ、連中は漫画やアニメと同じく、ローザミスティカを作ったのはあいつらの製造元と同一人物って考えてるか、教えられてるらしい」
「そうですね。合ってますよ」
「しかしなぁ、その製造元のRosenさんってのは、アメリカの某所で売れない人形工房やってたおっさんに過ぎん訳だろ?」
「……はぁ?」
「いや、柿崎があれこれ調べた結果はそういう話なんだわ。ビスクドールの全盛時代のちょいと後から出た、地方のパクリ……は失礼か、零細模倣品メーカーの一つってトコだろう」
「……そんなところまで調べ上げてるんですか」
「ま、ネットで公開されてる資料じゃそこまでらしいだけどな。工房自体もなくなってるし、そういうニッチなモノ集めるコレクターも多分いないから、製品はほぼ完全に散逸して、今じゃあいつ等しか残ってないって寸法だ。……まぁそういう意味じゃ、あんなんでもレア物だよな」
「そういう形になっていたのですね。この世界では」
「どの世界か界隈か知らんが、そういうことらしい。まぁ、又聞きだけどな」
「いいですよ。続けてください」
「続けるも何も、ほとんどそれで終わりなんだがなぁ。後は、真紅の説明だとそのRosenさんてのがかなりキてるおっさんで、17世紀から18世紀のペテン師つかオカルトネタにされてる怪しい人物は全部俺なんだーとかほざいてたってくらいだ。ローザミスティカの方は皆目由来が判らん」
「そこまで判っていて、どうして信じられないんですかね。ローザミスティカは「お父様」が作ったものですよ。ドールを作り始める前に」
「その説は真紅も言ってたが……無理があり過ぎるだろ」
「そりゃ、命を持った石なんて無理がありますけど、実際に作ったのですから」
「いやいや、そっちじゃなくてだな。人形の出来とあんまり懸け離れてるってこと」
「……? どういう意味です」
「そりゃお前、アイツ等っていったら──」

 ガタリ、といきなり物音が響いた。
 僕等以外に誰も居ない教室は音の通りが良いのか、大した音でもないはずなのに異様にでかく聞こえる。僕が入ってきた方の戸口辺りだ。
 咄嗟に振り向いてみる。引き戸が細く開かれているが、少なくとも見える範囲には誰も居ない。
 いや、訂正しよう。誰も居なかった。人間は。
 厭な予感がして、視線を人間の頭部及び胸部の辺りから、徐々に床の方に下げて行く。戸から半身だけこっちに晒して、立っていたのは──

「──や、やいやいやいやいですぅ! ど、何処のコンコンチキだか知りませんけどぉ、どっさくさに紛れてジュンを誑かそうなんて、到底許せんのですっ。天地が許してもこの桜吹雪がちゃーんと見てるんでいですよッ!」

 大音声というより、か細い金切り声を張り上げたのは、あろうことか僕等が話題に上していた残念人形の一体だった。
 お貞よ、何でこんな所に。いや、それだけじゃない。戸の陰に見覚えのある剪定鋏だの、赤青黄色にピンク色の安っぽい原色バリバリの布切れが見え隠れしている。ついでに言えば、黒い羽根と赤紫色のプラの剣も。
 何を嗅ぎつけたか知らんが、コイツ等、よりによって七個、いや七体全部人目も憚らず放課後のガッコに勢揃いしやがった。
 廊下だの昇降口だのの惨状を想像するだけで耳の後ろの毛がザワザワする。一体何処をどう通ってやって来たのか、ここに来るまでに累計で何人倒して(気絶させて)来たのかについては考えたくもない。
 いや待て。廊下だのと言ってる場合じゃない。
 僕が振り向いたということは、だ。ほぼ僕の正面に立っていた美登里は、まともにお貞を見てしまったことになる訳だ。ということは……
 恐る恐る前に向き直ってみる。
 案の定、美登里は教壇に背中を付けた状態のまま、ずるずると下にずり落ちて……あ、気を失ってる。
 ある意味森宮さんよりも更に耐性がないのは意外ではあるが、まあ仕方ないか。コイツ等をまともに見ちまったんだしな。

 バランスを失わない程度に微妙にそっくり返ってありもしない桜吹雪だか印籠だかの効力を誇っているお貞を阿呆と叱り付け、美登里の頬をぺしぺしと軽く叩いて古典的に覚醒を促しつつ、僕は一つ思い違いというか見落としをしていることに気付かなかった。まあ大して重要なものじゃないのだが。
 そう。美登里のヤツは、いろいろ知っているとか言ってた割に、金切り声を放つお貞を見ただけで一撃で撃沈してしまったのである。
 最初に薄暗がりの中でも気絶せずに反撃してパンチ一発KO勝ちした鳥海は言うに及ばず、森宮さんですら昨日はコイツ等に囲まれても平然として、むしろ慈しみの波動を放っていた訳だ(僕のイメージ的には)。
 森宮さんと同じような立場だとのたまっていた美登里の態度からすると明らかにおかしい訳だが、そのときの僕はそこまで頭が回らなかった。
 いや、回っていたからといって、だから何がどう変わったって訳でもないんだけどね。



[24888] 第二期第十四話 嘘の裏の嘘
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:41de92f2
Date: 2012/08/02 03:20
  ~~~~~~ 十数分前、文芸部部室 ~~~~~~


「やあ。勉強は進んでいるかい?」
「……あら、葵……ええ。でも、作ってみないことには始まらないのだけれど」
「ふふ、そうだね。でも邪夢君は君の作ったものなら何でも美味しいって言うと思うよ」
「そ、そうなのかしら。でも私、お料理なんて授業以外にしたことがないから」
「大丈夫。丁寧に、思いを籠めて作れば、それはきっと伝わるから」
「……そういうものなのね」
「うん。……ところで、美登里を見かけなかった? うちの部室にも教室にも見当たらなくて」
「さあ……ここには来なかったけれど」
「そう。忙しいところ済まなかった」
「いいえ。少し安心できたわ。ありがとう」
「どういたしまして。じゃ……」
「あ、待って。私も探すのを手伝うわ。もう帰るところだから」


 ~~~~~~ 現在、二年二組教室 ~~~~~~


 美登里はすぐには目を覚まさなかった。もう暗くなるってのになんたることだ。やはりこの人形どもが絡むと碌なことにならん。
 それはともかく、残念人形どもを廊下に出しとくのはやばい。被害の拡大の恐れがある。
 都合七つの危険物体どもを全て教室の中に呼び入れ、これまでの経緯を訊いて僕は頭を抱えた。

「学校が懐かしくなったって……せめて夜中とか休日とかにせんかお前等」
「私はそう言ったんだけどぉ」
「仕方ないかしら。ばらしーがお家に帰る前に見てみたいって言うのだもの」
「ばらしーの家の門限を考えたら長くは待てんのですぅ」
「門限まであったのかよ」
「嫁入り前の……娘です……から。ぽっ」
「いやいやいやいや、なんか違うだろ、それは。それと表情変えられないからって口で言うのやめなさい」

 サイカチの過保護ぶりには呆れ返る。っていうか、そもそも最初にうちにご訪問されたときは既に真っ暗だったぞ。
 大体作ったのは奴ではなくて、例の駅前のドールショップの店長だろう。奴は嫁入りされた方じゃないのか。それとも娘という認識ってことは養子なのか。ううむ。
 それはそれとして、学校といって僕の通う高校をピンポイントで狙う辺りに作為を感じる。近隣の小中学校で構わんではないか。
 まあ、この近くのトイレの鏡を使ったんで美登里以外に犠牲者が出ていないらしい(と本人形どもは主張している)のは良いことだ。この上廊下が死屍累々であったりした日には目も当てられない。

 そういえば美登里のやつは赤いのの覚醒が云々言ってたが、覚醒したらどうなるというのだ。
 赤いのが覚醒して、これまではじっと姿を見なければ被害が出なかったところを常に瘴気を放つ謎物体にランクアップ……ううむ。考えるだけで身の毛がよだつ。なんてことを。
 いや、いやいや。美登里はちょっと不思議ちゃんなところはあるが、概ね平和な奴だ。なんか別の進化を遂げるのであろう。そう願いたい。切実に。

「何ぶつぶつ言ってるのよぉ、一人で」
「マスター、人前で独り言が出るほど追い詰められていたなんて……」
「不気味なのだわ、ブサメンだけにより一層」
「なんか怖いのー」
「よりによってお前等に言われたかねーよ!」

 発声器官も発声装置らしきモノも見当たらんのに喋ってる怪奇物体はどっちなのだ、と言ってやると、怪奇物体どもは一斉に抗議を始めおった。
 テレビから電話からと次々に「喋るもの」を引き合いに出すのはいいが、それら全部スピーカー付いてるだろ。ついでに言えば自分で判断して音声合成してるわけでもない。
 いい加減こいつらも自分の妙なところに気付くべきなのである。動力がどうなってるのかとか、何処で考えて処理してるのかとか。ちなみに頭の中身は空っぽであり、入ってるのは精々砂埃と蛾の死骸程度なのは知ってのとおり。
 何をどう抗議されようと、コイツ等が怪奇物体であることは紛れもない事実であり、ついでに言うと奇怪な物体であるに相応しい外見も備わっている。あと、まあこう言っちゃなんだが根性の方も大概である。
 そもそもここで教卓に凭れて失神している少女を見よ。
 美登里が一発で気絶してしまったのは、喋って動いてるお貞をまともに見たからではないか。つまり、いくら僕がブサメンでも真似できんレベルの不気味さということなのだぞ。そこをきちんと理解して──

「──邪夢君? 美登里も居るのかな? 随分賑やかな話し声が……」
「あ、葵、入るのは待った方が……良くてよ」
「え? どうして」

 廊下で、というか今閉めたばかりの引き戸の向こうで何やら聞き慣れた声がした、と思ったら、がらがらと引き戸が開かれて見知った顔がひょいと覗いた。石原だった。
 こっち見るのは止しとけという警告をする暇も、人形どもにどっか隠れとけと命令する時間もなかった。

「え、なに……人形が動い……て……」

 こっちを指差し、振り向いてもう一人に何か言いかける。それで止めておけばいいものをご丁寧にもう一度こっちを向いて、ふるふると首を振って……くたくたとその場にしゃがみ込んだ。

「……だから待った方が良いと言ったのに……」

 石原の後ろに居た誰か──森宮さんが大きく溜息をつき、戸口に姿を見せた。
 僕は何が起きたのかイマイチ理解できず、ただ、これで犠牲者は倍に増えたのだなぁと妙なことを考えていた。


 ~~~~~~ 第十四話 嘘の裏の嘘 ~~~~~~


 失神してしまった葵を美登里の隣に運び、ここまでの経緯を簡単に話すと、森宮さんはちょっとばかし不満そうな顔になった。
 まあ当たり前だよな。普通なら怒るなり冷めるなりされても仕方ないとは思う。付き合い始めた当日に他の女の子に呼び出されて、ホイホイ出向いてた訳だからなぁ。
 ただ、相手が結局美登里だったこと、内容がどうも残念人形の件らしいということを聞いたせいか、特にそれ以上の反応はなかった。……まあ、それも当たり前なんだけどさ。

 並べてみたものの、二人共まだ失神したままなので、森宮さん側の話も聞く時間を持てた。
 森宮さんが言うには、葵(石原が二人居て面倒なので当面こう呼ぶ)は美登里を探していたらしい。何でも下校時間からこっち姿が見えなかったとか何とか。
 僕がこの教室に来たのは放課後大分経ってからだから、案外美登里はずっとこの教室の中に居たのかもしれん。用もないのに他人様の教室に居座るとは暇なやつである。
 ていうか、二組の教室なんて言わずにうちの教室とか自分のトコの部室にでもしとけばすんなり見付かったのではないか。何を考えていたのか知らんが面倒臭いことをしたものである。
 案の定というか葵は美登里がまさか別の教室に居るとは思わず、この教室はスルーしてしまったらしい。
 下校した様子もないので、部室から花壇まで探してみたが見当たらない。仕方なく立ち回りそうな先を巡って文芸部室に顔を出したところ、帰り支度を始めていた森宮さんと会った、と。ううむ。

「……それで二人で探してた、ってことか」
「ええ。見付かったのは良いのだけれど……」
「コイツ等が顔を出さなきゃ万事スムーズに進行したんだろうなぁ」
「責任を丸投げするのは良くない傾向かしらー」
「勝手に学校内をうろついといて丸投げもクソもねーだろが。しかも妙な勘違いしやがって」
「うー……でもでもぉ……そこの女の子がジュンをゆーわくしたら、ルミちゃんが悲しむと思ったのですぅ……」
「え……?」

 一瞬不思議そうな顔をした森宮さんの顔が、ぽーっと赤くなる。
 こちらは暗くなりかけでも、口で言うまでもなく即座に判ってしまう。何やら良い雰囲気になるべき場面であるのだが、残念な人形どもはそれを許してはくれないのであった。
 そもそも台詞を口にしたお貞からしていかん。びーびーけたたましい泣き声を上げ始めおった。

「ほら、泣かないで翠星石……」
「わぁぁぁん! そーせーせきぃー」
「あーっ、ジュンが泣かしたなのー」
「なーかした、なーかしたーかしらー」
「忘恩の徒、恩を仇で返すとはこのことなのだわ。翠星石はジュンとルミのことを思ってしたことなのに」
「意外に高周波なのねぇ、耳に響くわぁ」
「かなり……キンキン来ます……」
「あー判った判った! 僕が悪かったから取り敢えず泣き止め、鎮まれっ」

 何やらこちらが悪者っぽくなってしまったので宥めてみる。泣くとか泣かないとか以前に表情も何も変化がない訳だが。つーか黒いの、耳って何処だよ、耳って。
 森宮さんもちょっと赤くなりながらとりなしてくれて、お貞は結局森宮さんに抱っこされることで泣き止んだ。何やら最初からそっちを狙っていたように見えないでもないが、敢えてそこは不問に付すことにする。
 騒ぎが落ち着いたところで、森宮さんの言い付けで教卓回りの照明を点ける。
 僕等四人だけならばともかく、姿を見ただけで犠牲者が出ることが明らかになっている危険物体が少なくとも六つ(ばらしーは除いております)ばかりこの部屋に集っていることは知られたくないような気もするんだが。ただ、薄暗闇の中に失神した女の子を二人置いておく訳にも行かないのも確かだ。
 何より暗いままでは、目を覚ましたときにまたもや似たような──

「──ひゃああああっ! に、人形が動いてっっ!」
「──うわぁぁぁっ! しかも何体も……」
「待て、落ち着け、落ち着かんか」
「だ、大丈夫よ二人共、この子達はちょっと見た目は残念だけれど悪いことはしないのだわ」

 例によってと言うべきか、対策を取る間もなく石原姉妹はお目覚めになられた。
 あと森宮さん、それ全然フォローになってないって。僕が同じことを言ってたら明日の朝はローズの香りの顔パックの刑確定のところである。
 同時に目を覚ますとは流石双子……じゃなくて、急に明るくなったからだよな、どう見ても。しかしあれだけ大騒ぎしてても起きなかったのに、明かりが点いたらいきなり起きるってのはよう判らん。
 まあそれはどうでもいい。お馴染み過ぎる厭な展開に、もう大声を出す気力も湧かない。
 全く、どうしてこう毎度毎度間が悪く、尚且つ大騒ぎになるのか。いや、原因はどう見ても人形どものせいである。しかも今回は図に乗って仮死状態にすらならずにギシギシカタカタ動いているから始末が悪い。

 取り敢えずごたごたを収拾させ、妙に残念人形耐性のない石原姉妹を落ち着かせる。
 幸か不幸か巡回の教師も用務員のおっさんも姿を現さない。第三者に人形を見られて話がややこしくなることがない代わり、割り込みが入って上手いこと説明をスキップできるようなこともなかった。
 ともあれ、森宮さんのフォローと目の前で現物がガサゴソ動いていることもあって、理解は割合早かった。
 こういう事態になるとやはり葵の方が適応力がある。モノに動じないというのか、すんなりと状況を受け入れてくれた。
 まあ、美登里にしても僅か十分程で残念人形が単に残念な人形でなく類稀なる全自動怪奇物体であることを納得させることができたのは……あれ?
 そうだ。あまりに立て込んでいて忘れかけていたが……。

「ちょっと待て、美登里」
「なんですか邪夢」
「お前確か、赤いの……じゃなくて真紅の覚醒がどうとか言ってたよな」
「うっ……」
「んで、コイツ等のロザミについてもなんか結構事情通みたいだったよなぁ」
「……そ、それはそのですね、ちょっと違って──」
「──邪夢君」
「ん? そう言えば葵のほうも事情を知ってるとか知らんとか言ってた覚えが」
「あーっ、えーっと、それはですねぇ、あのその──」

「──ごめんっ!」

 いつもは立て板に水式に言葉の出てくる美登里がどうにも煮え切らないというか、何やら言い逃れようとしているのが丸判りな様子だのぉ、などと思っていたら、いきなり葵ががばっと頭を下げよった。なんなんだ急に。
 どうしたのかさっぱり判らんと言ってやると、実はね、と言ったきり、らしくもなく言い辛そうに口籠ってしまう。
 ただ、別段何か話すに話せない事情とかいう訳ではないらしい。美登里が何やら口を挟もうとすると、それをまあまあと片手で制してこっちを向いた。
 それも僕の方っていうより、森宮さんの方を見てるのは何故なんだか。

「本当に間が悪くて済まないんだけど……美登里は、ちょっと君達をからかってみようとしただけなんだ」
「……へ?」
「まさか邪夢君の家に、本当にローゼンメイデンを名乗る人形がこんなに沢山居着いているなんて思わなかったから、ややこしくなってしまったけど」
「……お、おう」
「今朝からずっとその気で考えていたみたいなんだ。森宮さんと邪夢君を冷やかすついでに、えーとね……邪夢君に、森宮さんのことをもう少し神秘的に捉えてもらおう、って」
「は!?」

 それって、要は森宮さんを真紅、って設定にしたかった、てことか。
 するってーと石原姉妹が関係者、ってことは「星石」のつく双子とかの設定で、僕を引っ掛けようとしてたってこと?
 まー確かに、それなら若干おかしいけど美登里の言ってたことは繋がる……か。

 しかしなぁ。そりゃーないだろ葵さんよ。
 昨日ちょろっと似たようなことを考えたが、冷静にならんでもネタとして杜撰過ぎ。ていうか元ネタが神話とかならともかく連載中の漫画だぞ。
 いくら森宮さん宅の家族構成が似てるからって無理があり過ぎだろ。まず大きさが違うし、人形でもない。おまけに石原姉妹は森宮さん家とは全く別の家庭に住んでて多分行き来もない。
 ドッキリにしても引っ掛けにしても、そういう話をある程度真面目にやっつけるなら、少なくとも片方が森宮さんの家に厄介になるなりして状況を整えてからにして欲しいもんである。
 こっちは双子だから翠星石と蒼星石です、あっちの子は家族構成が似てるから真紅です(ってか真紅はそもそも桜田ジュン君の姉貴ではなく居候もしくは婚約した人形な訳だが)、じゃ妄想かトンデモ本レベルだ。
 騙しやすい奴になら効果があるかもしれんが、美登里が僕を引っ掛けるために話すような内容か?
 柿崎の台詞じゃないが、こっちは基本的に見たもんしか信用しないヒネクレ者である。中学時代からの付き合いで、美登里もその性格は重々承知してるはずだ。そんな強引過ぎる作り話を、それもわざわざ放課後に待たせといて僕にするとは考え難いんだが。
 裏になんかあるだろー。これは。とはいえ具体的に何かってなると、情けないことに皆目見当は付かない。

 ただ、以上は僕の内心であって、森宮さんは割にあっさりと葵の言葉を信じてしまったらしい。

「神秘的なんて……私は普通の高校生に過ぎないのだわ」
「いやいや、僕にとっては結構神秘的っていうかなんて言うか」
「そんなことはなくてよ、魔法のステッキも可愛い使い魔も持っていないし、巫女の資質も呪われた血脈も──」
「──ま、まあそこは置いておいてくれないかな、二人とも。とにかくそれで僕は止めた方がいいって言ったんだけど、ね、美登里」
「う……はい、です……」
「だから、探していたんだけど……。悪気はなかったってことで許してくれないかな。ここは、僕に免じて」

 ううむ。僕は許す許さんとは別の意味で腕を組んでしまった。
 確かにそれなら、朝方からの葵の妙な振る舞いの説明は一応つく。
 森宮さんと付き合ってるのか、と訊いて来た時の真剣な顔やら、その話に突っ込んだときにはぐらかそうとした理由やら、後はまぁ……ここに森宮さんと二人で顔を見せた理由も。
 だがなんか、なーんか引っ掛るんだよなあ。美登里の態度といい、どうも見事にハマり過ぎてる感じがして仕方がない。後付けで大急ぎでその辺を纏めたような不自然さがあるような気がする。
 大体、さっきの美登里は堂に入り過ぎてた。あの間合いの取り方とかその後の説明のあれこれなんか、まるで実際に残念人形どもを知っていたようにしか見えなかった。
 何にも知らない状態なら、僕の話を頭から否定して、用意してた話をしてみせたって同じだったはずだ。こっちの話に合わせる必要なんてないんだが──

「──私は構わないわ。美登里も中学からのお友達同士、お祝い代わりのような軽い気持ちでしたことなのでしょう」
「そ、そうですそうなのです。邪夢はともかく、留美を悲しませるつもりなんてなかったですから」
「むむむ……」
「邪夢君の気持ちは判るけど、森宮さんもこう言ってくれてるし、ね」
「ジュン男らしくないのー」「それは今に始まったことじゃないのだわ」「スパッと許してあげるかしらー」「まーそんな都合良く許せないですよねー」「男見せなさいよぉお馬鹿さぁん」「マスター、寛容なところを見せて」「……ふぁいとっ」

 後半の雑音は概ねどうでもいいのだが、なんか釈然としない。逆にだんだんボロが出て辻褄合わせというか言い逃れが見え見えになってきてるんだが……。
 だけど、確かにここで一々突っ込むのもなあ。
 図書館で会った水島先輩の言葉じゃないが、追い詰めるのは良くないよな。これは多分本気で僕を言いくるめようってんじゃなくて、「これ以上追及しないでくれ」って葵のサインなんだろうし。
 ……仕方ない。いずれ真相は教えて貰うからな、石原姉妹よ。

「判った。森宮さんが許すと言ってくれてるんだし、結局未遂で終った訳だし」
「ありがとう、邪夢君。さ、美登里からも謝って」
「……むぅ……悪かった、です」
「まぁ今後はあんまし大掛かりなのは控えてくれ。おちょくりも程度によるってやつで」
「うっ……おちょくった訳じゃ……はい」

 美登里……うーむ、やっぱし何かあるんだな。
 森宮さん絡みじゃなければいいんだが。いや、ここは石原姉妹の個人的な何かか僕関係であることを祈ろう。
 そのどっちかなら、後で時期が過ぎるか、本格的にどうにかなったときは向こうから教えてくれるだろうし。
 そんなことを考えてると、葵がぱんぱんと手を鳴らした。これでおしまい、って合図のつもりらしい。

「さて……大分遅くなっちゃったけど、帰ろうか」
「そうね。もうこんなに暗くなってしまったし」
「あ、僕達が送って行くよ。丁度、絵のことも見ておきたかったんだ」
「石原……いや葵、送ってくってお前も女子なんだが」
「あはは、そうだね。でも用事があるのは同じだから、帰り道にお邪魔させて貰ってもいいかな、森宮さん」
「ええ。美登里もいらっしゃい。お姉様がたまには顔を出して欲しいって言ってたわ」
「はい。そう言えば暫くぶりですねぇ」

 そうか。三人は例の同人誌のことで用があるのだな。美登里はおまけらしいが。
 森宮さん一人なら家まで送って行きたいところだが、三人居るとなると微妙だ。しかも不用意に顔を出せばまた今晩も晩飯をご馳走になってしまう訳で、それは有難いのだがちょっと後ろめたくもある。
 どうしたもんか、と考えて時計を見てみる。結構ドタバタした割には、まだ午後六時にもなってない。
 ふむ。
 もう一度三人の方を見てみる。美登里はまだびくびくしているが、葵は早くもばらしーに手を伸ばして髪をなでなでしてやっており、適応力の違いを見せ付けていた。
 森宮さんはさよならする前に、と言いながら黒いのの服(念の為に書くと僕謹製の手抜き貫頭衣ではなく、水島愛毬さんの作ったツヤあり黒のスモックである)を直してやっている。こちらはもうすっかり慣れたらしい。案外最初はアレだったが僕より適応は早いんじゃないのか。

 などと考えていると、ばらしーはちゃっかりと葵に抱っこされてしまった。美人は得である。一方赤いのや鋏などはさっさと教室から出て行こうとしており、それはそれで分を弁えているというか、自分達から遠征してきたくせに興味がなくなるとあっさりしたものである。
 そういや、ばらしーだけなら誰かの目に触れても問題はないのだなあ。
 纏わりついて来るお貞とツートンにお前等も帰り支度をせいと言ってやり、森宮さん、と呼ぶ。黒いのを手近な机の上に下ろしてやっていた彼女は、何かしら、と小首を傾げながらこちらを見た。

「駅前のドールショップって、今日まだ開いてるかな」
「ええ。定休日は水曜だし……会社帰りの人が寄って行くから、夜八時くらいまでは開けているけれど」
「そうか。ありがと」
「これから寄って行くつもりなの?」
「うん」

 僕は葵からばらしーを受け取りつつ頷いた。
 ゴタゴタし過ぎて忘れかけてた。サイカチがばらしーをオーダーメイドで発注した件。実は駅前の、例の店だったんだよな。
 昨日は森宮さんを送って行く途中ということもあって見送ったが、今日は森宮さんもこうして学校に残っているし、多分加納さんも仕事で店番のバイトはしてないだろう。塩入さんとかいう店の主人本人が居る可能性が高い。
 結局美登里も残念人形のことは知らないか、知っていてももう聞き出せるような雰囲気ではなくなってしまった。となれば、謎の物体ロザミとゲームの先にある恐怖の物体Xについては、ばらしーを作った人本人に話を聞くくらいしかないだろう。
 どうせウチには門限も何もなく、メシを作り置いていてくれる人など当然おらん訳で、店さえ閉まっていなかったらじっくり話を聞いて帰りが遅くなろうが別に構わない。パスタを茹でる手間が惜しくなったら帰り際にスーパーで三割引の弁当でも買って帰ればいいだけのことだ。

「それなら、私も一緒に行くわ。店長とお話するなら私が居た方が良いでしょう?」
「え、そりゃ有難いけど、先約はどうするんだい」
「ごめんなさい葵、絵のことはまた明日でいいかしら」
「あ……どうしようかな」

 葵は美登里と目を見交わした。何秒間か無言の遣り取りがあって、二人が揃って森宮さんの方を向く。
 アイコンタクト、目と目で通じ合うってやつか。何度見てもこれは羨ましいというか僕には多分一生真似できない境地なんだろうなと思わされる。
 まあ、こういう芸当ができる割に意見が衝突したり、今日のように片方がもう一方を探し回ったりすることもあるのがよく判らん部分ではあるが。

「私達も一緒にお邪魔してもいいですか?」
「ええ……それは構わないけれど……」
「その後で時間がまだあったら森宮さんの家に寄らせて貰うことにするよ。家には遅くなるって連絡入れておけば大丈夫だから」
「デートにならなくてすいませんね、邪夢」
「いや、元々一人で行く予定だったんで……」
「痩せ我慢しなくてもいいですよー」

 にっと笑う顔は、すっかりいつもの石原美登里に戻っている。
 なんだかなぁ。さっきのアイコンタクトで実は物凄い量の会話が成立してたとでも言うのか? 地味にこういうところで常人離れしたところ(僕が他人様より劣ってるだけかもしれんが……)を見せる石原姉妹である。

 ともあれ、かくして僕達は下校がてら駅前の店に赴くことになったのであった。
 店の名前は「ニセアカシア」である。……なんか行きつけのスナックに呑みに行くみたいで気が抜けること夥しいのだが、生憎とドール専門店であった。
 流石に廊下に出ただけで空気が冷えてきているのが判る。今年はいつになったら暖かくなるのかね。
 晩飯は帰り道でラーメン屋にでも寄って食べることにしよう、とこのときの僕は考えていた。



[24888] 第二期第十五話 殻の中のお人形
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72b2b65d
Date: 2012/08/04 20:04
  ~~~~~~ 下校途中路上 桜田潤の後方十数メートル ~~~~~~


「……さっきは御免なさいです」
「いいよ。雛苺や金糸雀に知られなくて良かった。二人とも真紅の件では慎重だからね」
「はい……。でもまさか、あんなことになるなんて」
「本物の動く人形がいるなんてね。あれには驚いたよ……」
「やっぱりあれがこの世界に『居たことになった』薔薇乙女なのでしょうか……ちょっと不気味過ぎて」
「あはは、それを考えると複雑な気分だけど……。でも、邪夢君も真紅もそうは思っていないみたいだね」
「当然なのです。二人とも薔薇乙女のことを漫画の中の存在だと思ってるのですから」
「ううん、そういう意味じゃなくて。邪夢君や柿崎さんみたいな立場だと思ってるんじゃないかな」
「ただの同名の別人、ですか。それにしてはレア過ぎるですよ」
「うん。確かに引っ掛る。……二人の見立ては多分外れているだろう。『何か』がきっとあるはずだ、この件には」
「そして、私達にはそれを解くことが求められている……ですか」
「断言はできないけれどね」
「でも何故なんでしょう。よりによってあの店なんて……金糸雀やデカ人間はよく出入りしていたはずですのに」
「その辺りも含めて、探ってみる必要はあるかもしれないね」


 ~~~~~~ 現在 ~~~~~~


「葵ちゃんと美登里ちゃんが揃ってるのって珍しい気がするわー」
「あは、この店では珍しいね。美登里は同人誌作りには絡んでないから」
「そーねー。あ、そうだ。次はあっちゃんも連れて来ない? 外に出るのって何か刺激になると思うんだけどなー」
「気を使ってくれてありがとう……アツシに伝えておくわ、美摘さん」
「礼を言う必要はねーですよ。ミッチーはどうせどさくさに紛れてイラストかドレスの依頼を出したいだけなんですから」
「あーあ、ばれてたかー」
「当然です。何かにつけて依頼してるのは何処の誰ですか」
「いいのよ美登里。美摘さんは経費は自分持ちで、売上は全部アツシに渡してくれているの。あの子のことを考えてくれて、本当に感謝するしかないのだわ」
「え、そーお? 照れちゃうなーあっはっはー」

 ほほー……流石だなリアルみっちょん。ドール関係の品物の買い方で豪快な人であるとは思っていたが、森宮さんの弟君に対しても太っ腹なところは変わらないようだ。
 しかし、その美談は美談として、困ったことになったものである。

 店のテーブルの上にはばらしーがお座りしている。テーブルの周りには椅子が並べられ、そこに僕等四人と店の人二人が座っている訳だが……。
 そう。上座の店長氏が居てくれたのは良いとして、この下座に就いたリアルみっちょん──加納美摘さんも既にいらっしゃった訳だ。今日はバイトではなくお客として来たらしいが、居座られていれば同じことである。
 しかも先に帰る気配は全くない、というかどうもこの面々を自家用車で送ってくれる気満タンらしい。いやそれは有難いことは有難いんだけどさ。
 僕としてはばらしーを作った人と直々に話をしたかったのだが、うーん。第三者の居る前でこの残念人形どもの話を始めてもいいものなのだろうかね。
 ここまで、僕等人形の居候先の面々は除いて、他の人々(といっても鳥海とここに居る三人だけだが)は言わば事故で巻き込んでしまった訳である。で、その都度必ず失神等の重大な被害を与えている訳だ。
 ぶっちゃけるとこっちもこっちで毎度毎度泡を食って対応に追われるパターンにはいい加減うんざりしてもいる。更にお目覚め後に必死に謝罪しつつ自分でもよう判っとらんモノについて説明するのも骨であるし、できれば回避したい。

 という訳で僕一人ならば即座に転進を決定して適当に何か安いアイテムでも買って帰ってたところなのだが……。
 森宮さんはちらっちらっとこっちを見るし、葵と美登里は何やらまたアイコンタクトを交わし始めているしで、いつの間にか退くに退けないというか用件を切り出さざるを得ない雰囲気になってしまっているのであった。
 加納さんと石原姉妹の会話が一段落したところで、遂に全員の視線がこちらを向く。致し方なく、僕は足元に置いた頭陀袋の中身をテーブルの上に置き、微妙に引き攣った感じになった加納さんのことは見ない振りをして、実は今日伺ったのは、と店長に向いて切り出した。
 二十代後半くらいに見える、妙に背の高いイケメン店長氏は、ふむ、と頷いた。何か動作が一々恰好良いのはどういう訳だ。

「このオンボロ人形と、その薔薇水晶ドールについてなんですけど」
「こちらはオールビスクのドールだね。ここまで大きいのは珍しいな……そちらは私が作ったカスタムドールだが」
「はい。でもコイツ等──いえこの子達には共通点があるんです」
「ほう。いや、ちょっと見当が付かないが」
「いや、店長さんには分かるはずです。っていうか……その」

 横目でミッチーことリアルみっちょんの加納さんを見る。できれば店長氏にはしらばっくれずに、あるいは察して気付いて欲しいのだが。
 しかし店長氏は小首を傾げるばかりで、加納さんは逆に興味津々といった体で黒いのに手を伸ばしかけている。危険が危ない。ていうかせめて弄るならばらしーにしてくれミッチー! なんでそっちの危険物に触りたがるのだ。
 しかし強いて止めだてして話を拗らせる訳にもいかず、僕は仕方なくばらしーをこちらに寄せた。

「薔薇水晶を作るときに、店長さんは何か埋め込みませんでしたか」
「埋め込む?」
「ええ。元のドールにはなかったモノを、この胸元の辺りに」
「……」
「そっちの黒いのにも、同じ物が埋め込まれているんです。それで……そのモノの効果で、コイツ等は──」

「──何すんのよぉこの人間!」
「きゃあああっ! う、動いたぁっ!?」
「どさくさに紛れて服脱がせようとするんじゃないわよぉお馬鹿さぁん!」
「な、なにこれぇ! キモ……わぷっ」
「ま、まあまあまあまあミッチー、それは言わない約束ってヤツですよ、ね」

 黒いの……いやこの場合ミッチー氏の方か。折角こっちが意を決して説明にかかったところでそりゃーないだろう。
 かくして僕の説明はいつもどおり残念なことに相成ったのであった。
 横槍が入るなら先程、石原姉妹のときに入ってくれたら良かったのだが。生憎何の妨害も入らなかったので、がっつりみっちり根掘り葉掘り解説させられたのだ。
 その辺は石原姉妹の性格もあり、よく知る仲であるだけに理解は早かったもののツッコミも容赦なかった。もう一度はご勘弁願いたい。
 ともかく、腰は砕けたが話は進めねばなるまい。ばらしーにも動いて良しと許可を与え、当人形がゆっくりと自分の作り手の方に顔を向けるのを確認して、僕も店長氏に視線を向けた。
 店長氏はイケメンを気難しそうに歪めてテーブルの上の騒動を見ている。むう、全く何も知らないということはなさそうではないか。


 ~~~~~~ 第十五話 殻の中のお人形 ~~~~~~


 取り敢えずミッチーしっかりしようぜ! の役目は石原姉妹が引き受けてくれたため、僕はガサゴソ動き回る黒いのを落ち着けと諭してこっちに抱き寄せ、膝の上に抱えて暫し様子を見るだけに留めた。
 ばらしーはぽてぽてと歩いて店長氏の前に行き、今は店長氏に抱かれ、目を閉じて髪を撫でられている。森宮さんは妙にほんわかした表情になっているが、肝心の店長氏は元来がそういう性質なのか仏頂面のままである。一応撫でてやってはいるものの、アニメの金髪あんちゃんの如くばらしーに愛を囁く風は全くない。
 人形どもが漫画に倣ってローザミスティカと呼んでいる謎の動力ユニットについて、店長氏が何か知っているのはほぼ確実である。ばらしーと黒いのが動いていることに不審を抱いていないことからも窺える。ならばこの温度の低さはどうしたことか。
 既成品を大改造した売り物とはいえ、ドレスと髪の毛(ウィッグというらしい)を付け替えただけのお手軽品ではない。大分お値段を張り込み、手指全部に球体関節を仕込んであるようなとんでもなく手の掛ったシロモノである。少なくともあちこち見てどっか壊れてないかとか、ここは苦労したんだよなあとか思っても良さそうなシチュなのだが。
 いやいやいや。そんな話は置いといて、言い出したことの続きに掛らねばなるまい。
 見たままではあるが、こんな感じで恰も自我を持っているが如く勝手に動いたり要らんことを喋ったりする状態なのだと説明する。ついでに後五つほど存在し、その全てがこともあろうに漫画のキャラクターになりきっていることも付け加える。
 店長氏はそれにも別段感銘を受けた様子はなかった。なんだこのむっつりイケメンぶりは。

「コイツ等の言うには、動いたり喋ったりできるのは胸に埋め込まれたユニットのお陰だそうで」
「……そうか」
「全員分のユニットを一つにすると何かが生まれるってことで、全部が一堂に会している今が好機とばかり争奪戦を開始するつもりでいるみたいで……まあ、今は停戦させてますけど」
「私は今から始めたっていいわよぉ」
「挑まれれば……受けて立ちます……」
「おい、やめれ。後腐れなく勝ち負けついたとして、負けた方の残骸やらゴミやらを掃除するのは誰だと思っとる。しかも他人様のお店の中だぞ」
「あの、そういう問題ではないような気がするのだけど……」
「ふん、やるっていうの? へっぽこの癖にいい度胸じゃなぁい。紐が鳴るわぁ」
「その言葉……そっくり返してあげます……!」
「ええい、話を聞かんかお前等」
「うっさいわねぇ。命令するつもりぃ?」
「これは私達の本能……宿命なのです」

「──争いは止めて欲しいな、この場では」

 その一言でばらしーはぴたりと動きを止め、既に烏の羽根っぽいものを二本ばかり召喚してやる気満々だった黒いのも黙った。やはりばらしーを作った人の言葉だけに重味があるらしい。
 僕とは違うってか。大家と云えば親も同然ではないかと怒ってやりたいところだが、生憎どっちもウチの居候ではなかった。むむむ、やはり連れて来るのは赤いのにしとくべきだったか……。
 店長氏は僕の方(黒いのの方かもしれんが)を見、それから他の面々を順繰りに見遣る。パニックから立ち直ったミッチーも含め、それぞれが何やら一言ありそうな風情になって店長氏を見返した。
 考えてみれば僕以外の四人は常連さんだな。何かしら暗黙の了解でもあるのかもしれん。
 一頻り見回した後、こちらにまた視線を向ける。何やら決意をしたような表情になっていた。
 こっちも煽りを食らって妙に緊張してしまう。膝に黒いのを載せ、召喚した黒い羽根(その辺に落ちてる烏の羽っぽい)を手に持ったまま、という実に間の抜けた姿ではあるのだが。

 ごくりと唾を飲む間もあらばこそ、店長氏は静かかつ多分エレガントに口を開いた。いやエレガントかどうかは僕には判らんので、まあそんな雰囲気ということで。イケメンは何かにつけて得である。

「……何を知りたい?」

 おおっ、これは定番の全て知ってます宣言!
 ついでに訊かれたことしか答えませんアピールでもあるが、そこんとこは気にしない。というかしょうがない。

「……塩入さん、このドール達のことご存知だったんですか」
「ああ。加納さんは見聞きするのは初めてだったのか。驚かせてすまない」
「いいえ、謝られるようなことじゃ……でもびっくりしました」
「あまり他人に話すような内容ではないだろう」
「そ、そりゃーそうですけどぉ……ねえ」
「うん。この子達のことを知っていたなんて……」

 店長氏のアピールに、加納さんだけでなく他の三人もかなり驚いている様子である。まあそりゃ当たり前だわな。物理法則を完全に無視した残念な危険物があるってことを知って黙ってた訳だから。
 とはいえ、べらべら喋るような話じゃないのも事実。訊かれなければ答えない、てのは正しい。

 さて。他の面々のことは置くとして、僕には訊きたいことがある。
 取り敢えずはその前に一つ。この件はまだあっちこっちに広がってないし、僕自身は偶然関わらせてしまった人以外にこの危険物どもの存在を広めるつもりは全くないことを店長氏に告げた。
 話が大きくなっても迷惑なだけだから、と言うと、森宮さんはすぐに同意してくれて、他の三人にも同意を取り付けてくれた。多分残念人形に関する実体験が為せる業だとは思うが、こういう時の掩護射撃は有難い。情けないが今まで全くなかったことである。
 隣に座る彼女に、ありがとう、と野暮ったく、但し素直にお礼を言い、本題に入る。

「こいつらの動力ユニットと、争奪戦の末に出来上がる物体のこと。あと差し支えなければ、店長さんがこんなヤバそうな代物をこの薔薇水晶ドールに入れ込んだ理由を知りたいんです」
「人形達が説明した内容では不足なのか」
「本当にコイツ等が言うとおりならユニットを一つに集めれば凄いモノが出来上がるって話なんですが、どうもギャップが酷いような気がするんですよ」
「ギャップ?」
「いや……言っちゃなんですが、ひどいミスマッチじゃないですか。こんなアンティーク人形どもがガタガタゴトゴト動いて戦い合うってのも、その果てになんか物凄いモノが出現するっていうのも」
「ふむ」
「コイツ等の言い分だと、ユニットはコイツ等を作った超絶究極な人が作ったモンらしいですけど、そんな凄い人がこんな訳判らん動力ユニットを託すには、こういう……アンティーク人形ってのは似合ってない気がするんです」
「……なんだかオブラートに包んでるつもりみたいだけどムカツクわぁ」

 どうもコイツは肝心なところで脱線させないと気が済まないらしい。文句言うのは取り敢えず全部聞いてからにせんか。
 取り敢えずさっき召喚した黒い羽根を髪の毛にぶっ刺して黙らせる。
 聞き分けが良いのは評価してやってもいいな。さっきは僕の言うことなど聞いてなかったが、まあ目を瞑ってやろう。
 黒いのを手荒く撫でてやりつつ話を続ける。手荒くと言ってもあまり強く撫でると髪の毛がゴッソリ逝きかねないのでその辺はソフトに。

「まるでどっかの売れない制作工房の人が、工房を畳むときに偶々手に入れたモノを片っ端から自分の作った人形に入れ込んだみたいに見えるなって」
「まあねー……完成度的にはそんな感じかも」
「どんな感じよ。ねえ、このそばかす女ジャンクにしてもいい?」
「やめいと言うに。まあ、漫画そっくりの名前を名乗ってる理由までは判んないっスけど」
「確かに……変だわ。連載が始まってから十年も経っていないもの。名前を付けられたのが最近ということはないはずなのに」
「いや、邪夢君と森宮さんには悪いけど、逆に漫画の作者が別ルートから情報を得て資料にした可能性はあるんじゃないのかな……?」
「そうですよ留美。残念なお人形の話じゃ盛り上がらないから、美しくて可愛い薔薇乙女って話にしたってセンもあるですよ」
「そうなのかしら……」

 森宮さんは首を傾げる。葵の意見は当然として、妙に美登里が押し付けがましいというか、慌てたように見えるのはどういうわけだ。
 さっきの一件といい、どうも双子がそれぞれ腹の中に何か一物抱えているように見えて仕方がない。
 まあ話としては判らないでもないというか、ありがちなことだ。確かに事実そのままじゃシュールギャグな四コマ漫画のネタくらいにしかならん。
 例の漫画の作者の人はドールマニアって話だ。Rosen工房のことで、柿崎の怪しい英語力(多分機械翻訳頼りだろうな……)でのネット検索程度じゃ引っ掛からなかったようなことまで何かのツテで聞き知っており、ネタに使ったのかもしれん。ディープな分野だけにありそうな話ではある。

 それは置いとくとして、コイツ等が知ってることと、事実にはだいぶ差があるはずだ。
 お父様の正体について、柿崎が調べをつけた話の方は、赤いのが力説していた話に比べて夢も希望もないというか非常にトホホではあるが、それらしいと言えばかなりそれらしい。どっちかと言われれば柿崎説が事実に近いように思える。
 となれば、コイツ等が聞かされていた話の核心にも当然怪しさが残る。
 七つの破片を集めて合体させれば究極だか至高だかのなんちゃらになるというのも、集めたらお父様が愛してやるぜヒャッハー(柿崎説明ママ)という「ご褒美」さえもまるっきり嘘の可能性がある訳だ。後者は、仮にそうだとすると人形どもが少々哀れである。
 まあ、七つ集めたら今とは違う何かが出現するというのは良しとしよう。ただ、それが何かは判ったものではない。有体に言って危険であり、ついでに言うとその被害を受けるのは当然僕である。実に恐ろしい。
 次に、動力源自体がどういう副作用を持っているのかも気になる。何なのかはこの際「物理法則を無視して何かとんでもない作用を齎している」で構わんが、長期的に見てどういう迷惑を周囲に振り撒くのか。
 どうやら休眠期がありそうだということも含め、聞いておきたい事柄ではある。
 前の休眠期の間に朽ち果てそうになっていたヤツもいるコイツ等である。どうやっても瀬戸物、あるいはプラ製の人形であり、腐る心配だけはないものの、次の休眠期が長かったら全部ただのがらくたに変わってる可能性が大だ。何しろ人間様の肉体と違って自己修復なんぞというものができぬただの人形なのである。


 慣れない長台詞の間に、ミッチーこと加納さんが気を利かせて全員に紅茶を淹れてくれた。あたふたしていたのに立ち直りが早いのは流石リアルみっちょんと言うべきか。
 店長氏は仏頂面のまま僕の話を聞いていたが、一段落つくと、何を思ったかばらしーを机の上に置いて部屋を出た。
 トイレかと思っていると、折り畳み椅子を二つ持って戻って来た。それをテーブルの周りに置き、僕も手を貸してばらしーと黒いのを座らせる。
 ふぅ、と息をつき、店長氏は紅茶を一口飲んだ。相変わらず一々動作が決まる男だ。羨ましい。

「君の訊きたいことは判った」
「いやあ、話が長くなって済みません」
「それは構わない。君にとっては大きな内容なのだろう」
「はは……まあそんなトコっス」

 実際のところ大しておおごとではないのだが。
 長広舌を揮ってみたとはいえ、残念人形の話など(秘密にしておく分には)さほど深刻な話ではない。美登里の手紙事件がなければ今日は真っ直ぐ家に帰り、柿崎に電話して全部ほん投げていたはずの案件である。
 ……しかし、どうも引っ掛る。
 正直なところ、僕が大したことないと感じているのと同様に、店長氏にとっても(本人が言ったとおり)、例えばこれを明かしたら世界が滅びるとか自我崩壊してしまうような重大案件とは思えない。もし単にバラしたくないなら、嫌だと言うか惚けていれば良かっただけの話だ。
 なのに何だ、全部知ってますアピールをした後のこの奥歯に物の挟まったような言い方、勿体の付けぶりは。何か別の事情でもあるってのか……?

「良いだろう、君の聞きたいことは全部答えよう」
「ありがとうございますっ」
「ただ、一つこちらから先に尋ねたいことがある」
「な、何っスか、あいえ、なんでしょうか」

「事実の皮を被った真実という名の虚構がある。そして、常識を覆すような信じ難い内容の事実がある。君が聞きたい話はどちらかということだ」

 いきなり妙なところに話が飛んだ。
 なんだって? 要するに一見辻褄の合うそれっぽい嘘と、どうにも嘘っぽい実話があって、どっちを話して欲しいかってことか?
 いや、そりゃ決まってるだろ。なんか救いを求めてやって来た小説の中の聞き手じゃないんだからさ。
 こっちはわざわざ寒風の中この店までお伽話を聞きに来た訳じゃない。そういうの確かに得意そうな人ではあるが。

「僕が知りたいのは事実だけです。どんな妙ちきりんな事実でも構いません。ていうか、もうコイツ等の出現でいい加減妙な事実には慣れっこですし」
「そうか。しかし、事実にはもう一つ問題がある」
「問題……いや、公開したら不味いとかってのは、気にしないでください。さっき言ったとおり、この件を触れて回るようなことはするつもりないですから」
「問題はそこではない」

 何やら、訳の判らんものの核心に触れてしまったらしい。
 店長氏は僕の隣に座った森宮さんから加納さん、妙に硬くなっている石原姉妹と順繰りに見回す。僕と人形二体は華麗にスルーであった。
 森宮さんは不安そうに瞬き、加納さんは何やら真剣な表情に変わる。美登里はごくりと唾を飲み、葵は何故か鋭い目付きになった。
 どういうことだ、と思っている暇もなく、店長氏はまた口を開く。

「事実は酷なものかもしれない。この場の何人かにとって。それでも事実を望むのか、ということだ」

 おいおいおいおい。
 話が見えん。事実が酷なものってどういう意味だ。しかもこの場の何人かって。
 そりゃあ人形を数に入れれば、ばらしーはともかく黒いのには酷な事実になるかもしれんが、どうもそういう口振りじゃない。そもそも今の台詞の前の仕種は、僕と人形二体をガン無視してたじゃーないか。
 まるで僕も人形か何かって感じで、一括りにしてるような按配だった。いや、それはいいんだが。

 顔を上げ、改めてぐるりを見回す。
 人形二体は取り敢えず行儀良くしている。表情がないので退屈なのか緊張してるのか判ったもんじゃないが、まぁこれはいい。
 石原姉妹は店長氏の顔を見ていたはずだが、すぐに例のアイコンタクトを交わしたらしく、今は僕の隣に座る森宮さんに視線を向けている。ちらっと見ると、加納さんも森宮さんを見詰めていた。
 今日の美登里は、というか石原姉妹は妙に情緒不安定というか、おかしかった。いや、加納さんも変だ。双子と示し合わせているみたいにも見えるじゃないか。
 店長氏の態度も奇妙さ大爆発ではある。そして、その妙な態度の先が今は森宮さんに集められている。
 理由は判らんが──

  ──全てを話して、真紅の覚醒を促すのです。

 まさかとは思うが……。

 視界の隅に、森宮さんの白い手が見えた。膝の上に置かれて、細かく震えている。
 視線を向けると、可愛い横顔は緊張で強張っていた。揺れる瞳は、今はテーブルの周りではなくて、集まった視線から逃げたいというように斜め上、ショーケースの向こう側にある小さな窓に向けられている。
 僕の位置からはショーケースが邪魔しているが、彼女の視点からなら、窓と、その向こうの小さな黒い空が丁度真っ直ぐに見えているだろう。ピンホールカメラというか、卵の殻を内側から突っついて穴を開けたように。

──「殻」か。

 連想したのは、もちろん偶然じゃない。
 森宮さんが言っていた「殻」。閉じ込められていると言っていたそれが頭に浮かんだから、つい窓とこの部屋をそれに当て嵌めてしまったのだ。
 この空気。店長氏と石原姉妹、そして加納さんのおかしな態度。そして、話を振った僕でなく、森宮さんに集まった視線。

──ああ、そういうことなのか。

 鈍いことにかけては定評のある僕だが、漸く大体の事情が呑み込めた、ような気がする。理屈でなく直感で、ってやつだ。
 ふーん。それがどう残念な人形の由来に関わってくるかは皆目見当もつかないが、そういうことなのだろう。
 実に気分が良くない。何故かと言われると説明できないが。
 僕の視線の先で、森宮さんは不安気にあちこち視線を彷徨わせていたが、やがて決心したように目を閉じ、また開いた。
 僕の方に顔を向ける。目が合って、彼女はふっと微笑んだ。
 その笑顔は何処かで見たように優しく柔らかく、そして──やはり何処か僕や柿崎なんかとは違う何かを感じさせるものだった。

「……私は構わないわ、ジュン。何があっても受け止める」

 多分、森宮さんには大体判ってしまったのだろう。酷な事実っていうのが何か。
 自分と僕以外のこの場の面々は何事かを抱えている。それが彼女自身に深く関わる事柄だってことは、この思わせぶりな態度から見てもう確定でいいだろう。
 そして、何事かについて完全な回答を持っているのがこの店長氏で、それが「事実」ってことだ。
 何者なのか判らんが、とにかく答えは彼だけが持っている。他の連中の素振りから見て、それだけは確かなことらしい。

「『殻』を破るときが来たのかもしれないわ。こんなに早く来るとは思わなかったけれど」

 それは僕にも判る気がする。きっと、彼女の感じていた「殻」とこの件は絡み合っている。
 僕と森宮さんとがちょっとしたごっこ遊びを始めたのも、元はと言えばこの(流石に店長氏までは範疇に入れていなかったが)連中を含む彼女の周囲に見せるためのものだった訳だし──まあ、それは置いとくとして。

──だけどさ、森宮さん。本当にいいのか?

 確かに顔は微笑んでる。だけど、瞳はまだ不安定に揺れているし、膝の上の手は小刻みに震えてるじゃないか。
 いいのかなぁ、とちらりと考えたが、僕は片手を伸ばして森宮さんの手に手を重ねた。
 森宮さんの手は小さく、冷たかった。まるでよく出来たドールの手のようにすべすべしている。まだ震えているその手を、できるだけそおっと包むように握る。
 本来僕の領分じゃないのは判ってる。アツシ君が一番相応しいんだろうし、お姉さんでもいいか。だが二人共この場には居ない。
 僕が店長氏及び石原達から、人間でなく人形の方に近い扱いを受けたように、森宮さんも口に出さずにじろじろ見られるだけで心細い思いをしていたはずだ。ならば僕にだってこのくらいの役得があってもいいだろう。

 手を重ねたまま正面に向き直ると、石原姉妹は相変わらず森宮さんを見詰めていた。もう確認する意味もないくらいだが、確実に「事実」とやらは森宮さんに深く関わっているのだろう。同時に、僕にはろくすっぽ関係ないことに違いない。
 しかしまあ、妙な按配になってしまったものだ。
 元々残念人形どものルーツを聞き出すという話であり、その目的は今でも変わっていない。ところが何故か、それは人形やら僕には碌に関わらない部分の方がメインになってしまう話題なのだ。
 今や残念な人形の由来そのものなど、確実にこの一同にはどうでもいい、瑣末で矮小な事柄になってしまっている。「事実」を語って貰って良いかどうかの判断を僕に委ねて(むしろ押し付けて?)いるだけ、と言ってもいい。
 しかも店長氏にも石原姉妹にも、何やら信じられない「事実」の方を語りたい、あるいは聞き出したい気分がてんこ盛りである。
 僕と森宮さん以外は最初からこの事を予期していたのかもしれない。そもそも石原姉妹がわざわざ従いてきたのはそのため、という可能性もある。
 理屈は判らんでもない。しかしこっちの視点で言わせてもらえばなんとも妙な話ではある。ていうか酷いとばっちりもあったものだ。
 今更ではあるが、人形周りの事実だけを述べてもらう、では済まないのかね。済まないんだろうなあ、この分じゃ。
 取り敢えず全員をもう一度見回し、森宮さんにぺこりと頭を下げる。

「──ありがとう。僕の我儘で、どうもあんまり嬉しくない話を聞くことになっちゃうみたいだけど」
「いいえ、それは……」
「いやいや、全部僕の判断。ただ責任取れって言われても困るけどさ」

 まあ、そういうことにしとこうよ森宮さん。ていうか、形だけでも僕が聞きたい話を聞くってことにしとかないと、こっちとしても人形の件をダシに使われて体良く利用されただけのようで業腹なのである。
 もう一方の手をひらひらと振り、また正面に座る石原姉妹に顔を向ける。

「それでいいよな? 石原……じゃなくて葵」
「僕には同意を求めるのかい? 別に構わないよ」
「この状況でチクチク皮肉るなよ……美登里は?」
「邪夢の判断でやっちゃってください」
「了解。二人共サンキューな」
「あ、私もそれでいいからね、留美ちゃんの彼氏」
「いや、か、彼氏って訳じゃ……ありがとっス」

 最後の最後で恰好の付かないこと夥しいが、赤くなった顔のまま店長氏に向き直る。彼は未だに取り澄ましたというか、少々面倒臭そうな仏頂面のままだった。
 取り敢えず答えることにする。
 同意は取り付けた。自分の肚も座って来た気がする。どんなに信じ難かろうと、事実の方を知りたいことに変わりはない。もちろん人形どものことも含めてだ。
 元々、作り話はあまり好きじゃない。耳触りが良いからって旨い話を聞かせてもらうなんて何の意味もないだろう。
 そんなことを言ってやると、店長氏は表情を変えずに頷いた。

「良いだろう。話そう。本来は誰かに気付いて欲しかったのだが、こういう形があっても良いのかもしれない」

 相変わらず、僕は人数に入っていないらしい。些かならずムカッとする態度ではあったが、僕はお願いしますと頭を下げた。
 後から考えれば、人数に入っていないのも、他の連中がこっちのことなど見ていないのも当人達にしてみれば当たり前のことではあった。
 彼等にはそれだけの余裕もなかったのである、と書くと偉そうだな。まあ、どの道僕にとってあまり気分のいい話じゃないことは全く変わらんのだが。



[24888] 第二期第十六話 嬉しくない事実
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:af885cd6
Date: 2012/09/07 16:31


 ~~~~~~ その日の前日 森宮邸前、別れ際 ~~~~~~


「──判ったよ。要するに付き合い始めた振りをすれば、周りがきっとリアクション起こすってことか」
「ええ。……みんなを騙すことにもなるけれど」
「別に構わないじゃんか。みんな何か森宮さんに隠しごとをしてるんなら。それだって立派な嘘つきだ」
「……きっとそれは優しい嘘なのだわ。私が知らないか、思い出せない何かがあって、それを……でも」
「でも、優しい嘘で作った殻の中に居るのは厭だから……?」
「……真実が欲しいの。私にとっての真実が。優しくなくても、納得できたらそれだけで。今のままでは、まるで深い霧の中に居るようだから」
「Not even justice, I want to get Truth.……か。なんかのアニメであったよな。僕は、どっちかっていったら真実よりも事実が知りたいけど」
「どう違うの、貴方の中での真実と事実は」
「真実は一人一人が作るものじゃないかって思うんだ。事実はそのまま、単純に起きた出来事そのまま」
「真実はそれぞれの心のなかに……」
「うん。誰かの真実はその人のものだから、そいつはそれで構わない。ただ、僕の真実の材料にはできる限り事実に近いものが欲しい。誰かのフィルターの掛った真実じゃなくて、洗ってない生のままの、泥のついて汚いやつ」
「……そうね。事実を知らなければ、何も始まらないのかもしれない」
「うん。だから僕は、森宮さんの『殻』の事実を引き出すために協力する。そのためにちっとばかし嘘が混ざることなんか気にしない」


 ~~~~~~ 現在 ~~~~~~


 ちょいと恰好付けてそんな話をしたものの、まさかあんなに早く現実になるとは思わなんだ。
 もう少しじわじわと効いて行くモンだと思ってたんだよな。当然ながら。
 僕は『殻』ってのは単純に人間関係のことだと思ってた。多分森宮さんもあの時点では同じだったはずだ。
 森宮さんには、本人の知らない過去か何か、ともかく本人には明かしたくない不都合な事実がある。それを周囲のみんなは全員よく知っているが固く口を閉ざしている。
 それが彼女の『殻』だ。
 『殻』の中に居る限り、森宮さんは暖かくて安全だ。しかしそれでは良くない、と彼女は言った。僕も承知した。
 真実を見付け出すにしろ事実を突きつけられるにしろ、自分の中で落とし所を見付けたいと思うことに変わりはない。青臭いとか言われそうだが、まさにそういう年頃なのだから仕方がない。僕達二人とも、隠し事をされてることが判って仕方ないなと納得できるほど老成しちゃおらんのである。

 打ち明けられた森宮さんのプランは大したものじゃなかった。実際に起きたことに比べたらおままごとみたいな工作だった。
 森宮さんがよりによって桜田なんかと付き合い始めました、ってのが次第に人伝に広まって行く。
 弟くんが僕に「こないだの話と違うぞ」って怒鳴り込んできて、そこでこちらから種を明かし、逆に森宮さんが疑問に思っていたことを根掘り葉掘り聞き出す。何なら直接姉弟対決をしても構わない、というか森宮さんはそうするつもりだったようだ。
 今まで何度か正面から尋ねても明かしてもらえなかった秘密を、慣れない芝居までやらかしても聞き出したいと思っているのだとアピールしたかった、と言ってやるつもりだったらしい。
 もちろん、上手いことそういったドラマ仕立てに段取りが行くとは限らない。
 もし不発に終わっても、僕という「外」の視点から、一歩中に踏み込んで自分(森宮さん)を取り巻く状況を観察することはできる。そうすれば何か歪な部分が浮かび上がって来るはずだ、というのが森宮さんの言い分だった。
 ならば親しい友達のままでも構わんのでは、と思うのだが、アツシ君はじめ近しい人々に揺さぶりをかけるには、彼氏と思わせることが必要なのだと言う。
 何やら少女漫画から影響を受けたっぽい、イマイチ感が溢れる作戦ではあったが、僕は同意した。これといって対案が出せるほど頭の回転が早くもない。
 まあ正直なところ、彼氏って話が嘘から出た真になるってことも何万分の一かはあるかもしれない訳で、それは素直に魅力的だった。難易度の高そうな話はさておき、そっちに期待してしまったのは否定できない。

 実際に、そういう風にコトが運んでくれたらどんなに良かったか……まあ繰り言だよね、うん。

 ああ、そうだ。
 そういえば、ここは森宮さんの慧眼を褒めるべきところかもしれない。
 確かに僕は「外」の「人間」だった。完膚なきまでに、森宮さん達の狭いけれどもディープな世界とは無縁な。


 ~~~~~~ 第十六話 嬉しくない事実 ~~~~~~


 さて、あの日の朝方からの僕を取り巻く……じゃないな。実際には森宮さんを取り巻く人々の行動は、案外森宮さんの意図を敏感に察知した上で、それに呼応したものだったのかもしれない。
 えらく大人数で登校したことも、もちろん石原(葵)の妙に真剣な顔も、そして美登里が僕を呼び出したこともひっくるめて、である。
 そして、それら諸々の中に僕と人形どもはまさにアイテム、あるいはガジェットというのか、とにかく舞台装置の一環として出てくるだけだった。予想どおりで今更って感じは否めないが。
 そうだなあ、アイテムとかガジェットにしても、でっかい立派なモノじゃあないよな。瑣末で矮小なただの石っころみたいなものって言えばいいのか。向こうから見れば。
 まあそっちの話は置くとして、僕が自発的に店長氏にこの話を尋ねた件だけは、彼にとっても予定外だったと思っていいだろう。
 別に深い意味はない。単に舞台装置に過ぎないはずの僕が言い出して皆さんが乗っかったから、というだけのことである。店長氏がそこまで予測、あるいは予定して段取りを組んだ上の出来事だったとは、あの時の態度を見た限りでは考え難い。
 舞台の上の演者の皆さんにとっては僕がーとか人形がーとか一切関係なくて、単にイレギュラーの一つってやつなんだろうけどさ。
 ただその辺はあくまであちらさんの事情であって、その矮小かつ瑣末な存在である僕にしてみれば、思うところは色々とあった。
 そして、それはこうなってしまった今でも依然として残るどころか増えつつあるのである。


 ~~~~~~ その日 ~~~~~~


 店長氏は紅茶を啜り、少々意外にも僕の質問に直接係る部分から話し始めた。
 僕が話を聞きたいと言い出したことがイレギュラーだったからかもしれん。ゲージツ家肌というか、神経質で計画どおりに行かないことが苦手っぽいし。

 まずは人形どもの由来に関して。
 柿崎が集めて来た情報は概ね正しいものだったらしい。人形どもは十九世紀末から二十世紀初頭頃、米国の某零細メーカーの製作だった。店長氏は言及しなかったが、恐らく柿崎の調べたRosen工房ってメーカーのことだろう。話の続きからして間違いなさそうだった。
 工房は潰れてしまったが、その最晩期の製造物に二十五インチのオールビスクドールというものがあった。その成れの果て、というかそのものがここに居る黒いの(どういうつもりか、店長氏の横で不定期に身体の向きを変えておる。そわそわしているのか何なのか知らんが、どうにも不気味である)を含めた六体の残念人形どもである……と、ここまでも柿崎の調査と一致している。
 違っていたのは、そこからだった。

 人形どもが動力源たる謎の物体ロザミを埋め込まれたのは、制作時点ではなかったという。
 時系列で言うとごく最近、人形どもが「目を覚ました」と認識している時点から少々遡った、大体去年の夏頃らしい。少々曖昧なのは店長氏が明言しなかったからである。
 ふむ。ばらしーの完成引渡し時期と合致しておる。
 黒いのも赤いのも、ばらしーが偽物の姉妹とか言って疑っておったが、あまり意味はなかったのだな。同時に柿崎の語った「第七ドール崩壊消滅事件」なるものは、ホラーならぬホラ話に終わった訳か。

「偽物じゃなくて、元々別モノだった、ってことねぇ」
「……うぅ……でも……姉妹で……」
「いや、そりゃ最初っから見た目だけで判ってたろ。同じ謎の動力ユニットが胸だか腹ん中に収まってる同士って意味じゃ紛れもなく兄弟分だろうがよ」
「……はい……!」
「そーだけどぉ……」

 かなり嫌な兄弟分だけどな。特にばらしーにとっては。
 つーか黒いのお前、自分達の覚えてた内容の肝心な部分がしれっと否定されたのによく平気で居られるな。いや、もしかしたらお前の記憶全部、店長氏が漫画の設定と事実を適当にアレンジして混ぜ合わせて入れ込んだブツかもしれんというのに。
 図太いというか何と言うか。人形と人間のメンタルは違うのであーる、と言われてしまえばそこまでなのだが。
 しかし、そうすると、だ。
 動力ユニットを埋め込んだのが店長氏ということになると、漫画を真似てコイツ等にバトルロイヤルを命じたのも店長氏であり、その目的及びバトルの結果何が生成されるかも当然知っている訳である。あと、ついでにロザミの副作用についても。
 結局のところこっちが訊きたいことはそれだけであり、森宮さん達に関わりのある部分は全くないはずだ。仮にあっても上手く話せば触れないで済むような気がする。
 冒頭であれだけ緊迫感を以って念押しされ、僕以外の連中が店長氏以上の緊張でそれを受けたのはどういう訳なのだ。ううむ。『殻』とは一体何なのだろう。
 何か釈然としないものを感じつつ、取り敢えず続きを聞かせていただくことにする。

「全ての欠片を揃えたとき、新たな存在が生まれる……」

 紅茶で喉を潤した店長氏は、そっちの方に話を飛ばした。
 順序からしてロザミの実態というか具体的な内容、古人形にそんな剣呑なモノを埋め込んだ目的について語るものとばかり思っていたのだが、その部分の説明は後回しらしい。
 こっちの関心が向いているのがバトルの結果方面だと見て取って気を回してくれたのか、などとつい都合の良い方に取ってしまう僕であった。
 後から考えるとお笑い草というか、大外れもいい所だった訳だが、生憎この時点の僕には知る由もなかったのである。

「どんなブツなんですか、そいつは」
「至高の少女よお。決まってんでしょ」
「人形と人形ぶっつけて、瓦礫の中から蘇るライガーならぬ至高の少女かよ。さっきも言ったが飛躍し過ぎだってばよ」
「なら、何だったら納得すんのよあんたはぁぁぁぁぁ」
「それが判らんから聞いてるんだろうが。取り敢えず、茶々入れは後回しにせんかい」
「……判ったわよぉ」

 まぁ諌めてはみたものの、黒いのが苛々してるのは判る。いよいよ自分等のゲームの核心に触れるんだからな。
 むしろここまで長いこと冷静でいる方がおかしい、とまで言うと言い過ぎだが、珍しいことではある。知識というか世間一般の雑学はひととおり習得しており、たまに理性的な判断をすることはあるが、普段は大抵気が短くて怒りっぽいのが黒いのの特徴なのだ。
 今も僕の一言で引き下がったが、いつもならもっと早めに激発していて然るべきところだ。店長氏の前だから、ということなのかね。
 そういや、漫画やらアニメの水銀燈とは口調以外大して似てないのだなあ。
 もし店長氏がコイツ等の性格まで作り上げたのだとしたら、どんな技術かは知らんがかなりいい加減というか粗雑というか、好き勝手に設定したものである。半端に似せるくらいなら、せめて漫画版の怖いけど一途なお姉さん的な感じにして欲しかった。
 とまれ、一先ず僕達が落ち着いたとみたのか、店長氏は漸く話を再開した。

「確かに、至高の少女は行き過ぎだ。何処かで情報が錯綜してしまったのだろう」
「ええっ!?」
「そんな……ひどいです」
「まーそんなトコだろうと思ってたけどね」
「ただ、七つを一つに戻して生まれるものがあるのは嘘ではない」
「それが、この子達のローザミスティカの元……ということですか」
「ああ」

 店長氏は問い掛けた森宮さんに頷いてみせ、それからやや言いづらそうに続けた。

「そして、それは本来君のものでもある」
「私の、もの……?」

 森宮さんはぎくりとして目を見開き、周囲を見回した。
 救いを求める、って雰囲気じゃなかったことは、彼女の名誉のために言い添えておくことにしよう。むしろ、森宮さんは周りの連中の反応を確かめたかったんだと思う。
 そして、意外にも他の面々(というか石原姉妹と加納さん)の反応は、自分達も知っているぞ、ってものじゃなかった。一様に店長氏の話の続きを気にしていて──そうだな、自分達の与り知らぬところに話が向かいそうだという不安と謎解きの期待がない混ぜになった顔で店長氏と森宮さんの顔を見比べていた。

 僕はそんな森宮さんと三人のことをちらっと見てから、黒いのとばらしーに視線を移した。
 ばらしーが片目を瞬いて僕を見返してくる。黒いのがぐりっと目をこっちに向けるのも、今だけは耳の後ろがざわざわすることもなく受け止められた。
 なんとなく理解してしまったのだ。多分人形どもも判ってしまったんだろう。
 僕達がメインのお話はここまで。これからは、彼等にとって実に重要であり、同時に僕達にとってあまり愉快なものでない「事実」とやらの話になるのだと。
 そして、その予想は正しかった。悪い予感だけはよく当たる、の法則はこのときも全開で発動してくれた訳だ。全く碌なもんじゃない。

「長い時間を掛けて漸く見付け出した貴重な品物だ。しかし分割して隠すほかなかった」

 店長氏は森宮さんを真っ直ぐに見詰めた。

「人工精霊ホーリエ。その構成要素を七つに割ったものが、この人形達の胸に収められた物の実態だ」

 僕は多分一座の中で一人だけ、ぽかーんと間抜けな面を晒していたに違いない。
 どえらくシリアスな場面になったところで、後ろから膝カックンされたような気分だった。

 もう少し離れた所に座っていたら、脇にいる黒いのをつついて尋ねていたところだ。
 人工精霊が例の漫画に出て来るチカチカ光る光の玉か虫みたいなモノってことは知ってる。ホーリエって名前も見たような気がする。
 はて、しかし。どのローゼンメイデンの持ち物だったっけ? 最近あの漫画をパラパラめくることもなくなってる僕は、そんな細かいところまでまともに覚えてない。
 何にしろ、アレだ。なんでこの、多分森宮さんの『殻』が云々って大事な場面で、またあの漫画の話が出て来るんだ。それとも僕が例によって妙に意識してるだけで、なんか別の話なのか?

  ──真紅。ローゼンメイデン第五ドールですよ。邪夢は漫画の中の登場人物としか思ってないでしょうけど、実在するのです。

 いやいや、まさか。
 メジャーな週刊漫画誌で現在連載中の漫画ですよ。神話に元ネタがあったとか、伝説の事実はこうだったってな話じゃない。
 店長氏が人形に仕込んだら自動で動き出すようなヤバいブツを作るか入手できたことは判った。だが、いくらなんでもそこまでは──

──しかし、それがもし事実なら。

 恐る恐る顔を上げ、他の人々の顔を見回してみる。
 周囲は一瞬で凍りついていた。
 いやそれはオーバーか。とにかく、空気ががらりと変わっていた。
 一呼吸置いて、森宮さんは店長氏に顔を向けたまま、重ねた僕の手にまではっきり伝わるくらい震え始めた。石原姉妹と加納さんも、何故か酷く驚いた顔をしている。
 多分、店長氏の言葉が実に意外なモノだったのだろう。それは判るんだが、判るんだが、ちょっと待て。
 そんな態度を取られたら、店長氏の話の方はともかくとして、信じたくなっちまうじゃないか。

 名前が偶々似ているだけの僕達には無関係に、リアル真紅様、リアル庭師姉妹(byサイカチ)の方に関わる物語が文字どおり実在しているとしたら。
 柿崎が同じ病室に入院することになった循環器系の悪い女の子と、その姉貴にあたる水島先輩。
 このテーブルに着いているリアルみっちょんと、弦楽器の類稀な才能を持った妹の加納先輩。
 園芸が趣味の双子である石原姉妹。いや、それだけじゃない。今朝顔を合わせた、ちっちゃくて元気なヒナって名乗った一個下の女子も。
 そして、あまりに似過ぎている森宮家の家族構成。どう見てもリアル桜田ジュンとしか言えない、森宮さんの弟くん。
 彼等に関わるディープな世界が、実際にあるとしたら。

  ──全てを話して、真紅の覚醒を促すのです。

 森宮さんに関する、『殻』っていうのは、僕達が想像してたようなその辺に転がってるような秘密じゃなくて。
 彼女の失われた──

「──私は……」
「そうだ。真紅」

 店長氏は、緊張を一段高めたような仕種で頷いた。

「今は忘れていても、君は誇り高き薔薇乙女だ。真紅、ローゼンメイデン第五ドール。そして──」

 ちらっと視線を逸らす。いや、テーブルの向こうの石原姉妹に目を遣ったのだろう。
 反応を見るような間を置いてから、また森宮さんに視線を戻した。

「──ゲームは終わってはいない。まだ君はその盤上に立っている」



[24888] 第二期第十七話 慣れないことをするから……
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:beec0278
Date: 2012/09/07 17:01
 ~~~~~~ 某所 ~~~~~~


「……聞いたことはこんな感じだったよ。大体判って貰えたかな」
「オッケー、ばっちり。その怪しげなオッサンの店に突撃して、手の込み過ぎのドッキリの証拠を掴んでやりゃいいんでしょ」
「だからドッキリかどうかは判らないと言っているのだけど」
「そうだったっけ? ま、本当だったら尚更面白いじゃん。是非ともこの目で見てやらないとねぇ、ヘッヘッヘ」
「なんかヤニ下がってるのー」
「典型的な「悪事を思いついた小悪党の顔」ってやつかしらー」
「それにしても、このことあるを予期してボディの中に予め盗聴器を仕込んでおくだなんて……流石はあの子の家主、恐ろしい発想、まさに悪魔の知恵なのだわ」
「知っててこの人間の手先になってるアイツもアイツですぅ。衣装のとおり真っ黒の悪党です」
「この姉妹一の策士ですら思いつかなかった深謀遠慮かしらー。何の役に立つのかいまいち判らないけど」
「ちゃんと役に立ったからいいじゃん。仕込んでみたの昨日の今日だってのに」
「あ、そんな最近だったんだ」
「色々台無しなのー」


 ~~~~~~ その日・続 ~~~~~~


 会話が途切れた。全員が息を呑んだように、緊張感だけがこの場を支配している。
 店の外で、おっさんバイクが走って来て近くで停まる音がした。配達かなんかだろう。とうに暗くなってるのにご苦労なこった。
 耳を澄ませば人の声やら車の走ってる音も聞こえて来る。店の外は相変わらずの春まだ来たらぬ世の中である。
 そして、この場のご一同さんの関わる話はそれら俗世と隔絶したところにあるらしい。
 勝手に覗き込んでしまった僕と、勝手に小道具に使われてしまった哀れな人形どもだけが、俗世間の存在ながら中途半端な立場でここにいるって寸法だ。

「私が……ローゼンメイデン?」
「君だけではない。この場に居る君の同年生二人もそうだ。そして、金糸雀の契約者も居る」
「ここに、ねっ」
「美登里と葵、美摘さん……確かに似たところはあるけれど。でもあれは漫画の中の出来事で」
「それが事実ってやつなんですよ、真紅」
「うん。少なくとも、僕達はそういう記憶を持っている」
「……三人とも、なのね」
「私達だけじゃないわよー。カナも知っているし、真希ちゃん、いえ水銀燈ちゃんも、ね。他のマスターも記憶は持ったまま」
「……知らなかったのは私だけ、ということなの」

 店長氏の、ドッキリにしても異常な内容の話に驚愕を感じている暇もない。
 更にとんでもない話になってしまった。僕を除く全員が、森宮さんのみならず自分達まで漫画の中の登場人物ってトンデモ話をさも当たり前のように交わしている。
 なんだこりゃ。
 予めちょびっとずつ匂わされていたとはいえ、ここまでぶっ飛んだ話、それも周りが揃って重要人物だらけとなると、正直言って感覚がおかしくなってくる。
 嘘だろーとか本当かよってな気分から一周半くらい回って、この場が演劇みたいに思えてくるというか。自分以外の誰かの方に感情移入始めたくなってきた。
 そして、僕にとってはその対象は当然ながら一人しか居ない訳で。
 片手に重ねられた森宮さんの手に力が篭るのを感じながら、空いている方の手で黒いのをつつき、そおっと引き摺り寄せる。暴れなかったことに一応感謝しておく。
 その間にも、皆さんの深刻な対話は続いている。店長氏は暫し休憩ということなのか、今は葵が主に説得役というか、多分当人にしてみれば解説役を引き受けていた。

「すぐには信じられないわ。いくら似ていると言っても……」
「確かに漫画の登場人物っていうのは荒唐無稽に感じるかもしれないね。でも、君は薄々気付いていなかったかい? 自分を取り巻く環境のこと……」
「環境……」
「そう。僕と美登里を含めた、一見君とはあまり接点が無いはずなのに、いつの間にか君の周囲に集っていた女子のこと。それに、君の弟ということになっている存在のこと……」
「アツシが……」

 主人公、「巻いた世界」の方の桜田ジュン君、だったって訳だ。ファーストインプレッションどおり、ってやつか。
 ならば森宮さんと彼の姉弟ながらのラブラブぶりも判ろうというものである。
 確かあの契約指輪ってのは結婚指輪と同じで左手の薬指に嵌めるもんだから、つまりは元々そういう御関係だった訳だ。厳密に言っちゃうと重婚どころか三重婚してる訳だが、そこはマエストロ様たるもの、一夫一婦制などという俗世の制度には囚われないのだろう。
 なんだ、すると僕は第一夫人に頼まれて浮気の真似事の片棒を担いでるチンピラって役柄にでもなるのか?
 そいつぁー楽しすぎるぞおい。どんだけ小悪党なんだよ僕。
 頬がひくひくと引き攣りそうになるのを堪えつつ、黒いのを膝の上に載せてやる。やはり今回も黒いのは素直であった。
 店長氏の脇に視線を遣り、ばらしーにもちょいちょいと手をこまねいてみる。
 ちょうどこっちを見ていたばらしーは、くっつけるように並べられた椅子の上をずりずりと横に動いて僕の隣に来た。頭を撫でてやると上半身をこちらに凭せ掛けてくる。中々愛いやつである。
 可愛くはあるのだが、他の残念人形どもでは、たとえ本人形がやりたくてもこうは行かない。胴体に球体関節が仕込まれているからこそできる芸当だ。
 もちろん、正面に座っておる石原姉妹がそうだったと主張しているローゼンメイデンさん達なら、漫画の設定どおりならば身体が人間同然に柔らかくなってるから、苦もなくできる仕種ではある。あちらはまさに次元が違う。

 考えてみれば、何と言うか。
 片や最高に美しいアンティークドールの生まれ変わり(?)。此方偶々目を付けられて後から動力源を埋め込まれてしまった、何処までも残念なお人形。
 作った人物の姓が一文字違うだけで、酷い話もあったものである。いや、それぞれの腕前とかは今更言うまでもない訳だが。


 ~~~~~~ 第十七話 慣れないことをするから…… ~~~~~~


 部外者である僕の勝手気侭な考察などに全く関わりなく、他の方々は尚も暫く問答を続けた。森宮さんは未だに半信半疑ながらも、どうやら自分が漫画の登場人物の生まれ変わりか何かって前提で話を進めることには同意したらしい。
 まあ、ぶっちゃけ有り得ないレベルの話ではあるんだが、周囲の状況というか人物関係が見事に嵌り過ぎなのだからどうしようもない。僕ですら信じかけている訳で、そういう話が元々好きそうな森宮さんが納得してしまうのも仕方がないところだ。
 ただそれはそれとして、彼女としてはまた別の疑問があるようだった。
 石原姉妹に真っ直ぐに顔を向けて尋ねる姿は、肚が決まったのだろうか、いつもの堂々として物怖じしない態度が半分くらいは戻って来ているようにも見える。

「私だけが記憶を持たされなかったのは、何故なのかしら」
「それは……判らないのです」
「考えてみれば、変な話よね。留美ちゃ……真紅ちゃんだけが記憶を持っていないなんて」
「可能性は幾つかある。だが、僕達は推測しかできない。もし正解を知っている人物が存在するなら……」

 葵はそこで言葉を濁した。
 皆さんの目が店長氏に向く。あれだけ知ってますアピールをしてきたんだから当たり前か。
 視線を向けられた方は相変わらず仏頂面のまま、だんまりを決め込んでおる。
 っていうかだな、何者なんだ店長氏。中華ドールを魔改造してばらしーを製造したのはともかくとして、自己主張するところを信じるなら人工精霊なる怪しげなブツを分解して人形に仕込んだり、事情をまるっと承知していたりとやたらハイスペックである。
 誰なのか判らんが全部知ってるんならなにか言って遣ればいいだろうに、などと思っていると、彼より先に葵が言葉を継いだ。

「塩入さん。貴方はさっき、彼女が真紅で、まだゲームの盤上に居ると言ったけれど」
「ああ」
「……でもそれは、僕達の知っている過去と食い違っている。アリスゲームは終わったはずだ。もう、とうの昔に」
「あ! そ、そうです。おかしいですよ。私達みんな人間になってるのは、アリスゲームが終わったからじゃないですか」
「そうねー。みんな生まれ変わってマスターの家族になったんだから、ゲームはもう終わってないと──」
「僕達の敗北でゲームが終わったから、お父様に依頼されたラプラスの魔が──」
「まだ続いているんじゃ辻褄が合わないですよ──」

「……話がもっと見えなくなってしまったわ。お願いだから順を追って説明して頂戴」

 聞き手をほっぽってざわざわし始めてしまった三人に、森宮さんは溜息をついてやれやれと首を振った。
 全面的に同感である。話が込み入り過ぎて何が何やらよう判らん。
 生まれ変わりとかって話なら漫画だけでももう少しまともに読んどくべきだったか。いや、森宮さんも理解できてないということは、例のアニメを全部見ていて、尚且つ漫画を雑誌で追っていても理解できない内容ってことかもしれん。
 言わばこの現実オリジナルの展開ってやつか。いや、この場合原作は現実であり漫画とアニメが派生作品なのか? ううむ面倒くさい。
 要するに店長氏の言ったことと、石原姉妹達が知っている内容に齟齬があるということなのだな。それは判るんだが、肝心の石原達の認識している内容を知らないのでどうにもならない。
 店長氏にしても石原姉妹、というより葵にしても、説明不足が過ぎるだろう。美登里と加納さんに至っては茶々入れしているだけのようなものだ。内輪話は結構だが、もうちょっと部外者並びに記憶喪失者(?)にも理解できるような解説をして欲しいものである。

 一喝された訳ではないのだが、本来の聞き手である森宮さん(いや元々の聞き手は僕のような気もするのだが)の言葉で、三人は取り敢えず静かになった。
 混乱させて済まないね、と葵が真面目な顔で軽く頭を下げる。割に珍しい表情と仕種だが、案外こっちの方が素に近いのだろうか。

「記録は何一つ残っていないから、僕達にとって過去の事柄は自分達の記憶だけが頼りなんだ。それも、もう何年も前の」
「でも、記憶してる内容はみんな同じなのよねー。ドールだった子も、マスターも。誰かが一人だけ全然食い違う出来事を記憶してるとかいうことはなかったの。今まではね」
「なのに店長さんの話が全然違ってたので……焦ってしまったのです」
「それはいいの。大体理解しているつもりよ。ただ、私には貴方達が持っている共通認識がないの。忘れてしまっているのか、最初から無いのかは判らないけれど」
「そうでした……ついいつもの調子で喋ってしまって。ごめんなさいです」

 その後三人がてんでに喋ったところを纏めると、どうやら石原達の記憶している内容ってのは、昨日森宮さんに見せられた例の同人誌の小説そのまんま、ということらしい。
 もちろん、書いたのは森宮さんでなく葵だった。
 内容は視点を大学生の(「巻かなかった世界」の方の)ジュンに変えたりと細工して一部脚色してあるものの、漫画でトレースされていない部分の自分達の顛末をできるだけ平易に書いたつもり、らしい。
 まあ、と森宮さんは口許に手を当てる。
 僕も額に手を当てたい気分だった。よりによってあの「第二部完」だけ読まされたアレかよ。
 森宮さんは原作を読み込んだ上で全部通して読めばきっと感動する大作みたいなことを言ってたが、よりによって僕は未だラストを見せられただけだぞ。感動も何も、推理小説のネタバレだけ知らされたような気分である。
 ラスト近辺までは大筋が漫画に沿っているらしい。が、漫画をもっぱら残念人形対策の資料として扱ってきた僕としては、漫画にしろアニメにしろ筋立てさえもうろ覚えな訳で、細々としたことを理解するためにはうちに帰って全巻改めて読み返してみなければならん。この場の役には立たないということである。
 なお、重ねていた手は森宮さんが口許に手を当てたときにあっさりと離れていった。残念だと思う反面、彼女が落ち着いてきた証拠だと考えれば悪くないような気もする。

「僕達の認識では、アリスゲームは雪華綺晶の勝利で終わってしまっていた」
「雪華綺晶はローザミスティカを必要としないドール。だからローザミスティカは形を変え、私達の命になったのです」
「それを取り計らったのは、みんなのお父様の生まれ変わりだったジュンジュン……おっきな方のね」
「中学生のジュン君にも、お父様たる素質はあったのかもしれない。だが、巻かなかった世界の彼がお父様となることで、こちらの彼は他のマスター達と同じように、名前を変えて自分の契約したドールと家族になった」
「私達は生まれ変わり、偶然か必然かは判りませんけど、こうしてまた顔を合わせたのです」
「ま、……そう思っていたんだけどね、今までは」

 リアルみっちゃん、というか話が本当ならまさにみっちゃん本人である加納さんがそう締め、三人は店長氏に視線を向けた。
 言いたいことは流石に判る。あの同人誌に書かれたことが葵達にとっての真実なら、確かに店長氏の言ったこととは矛盾してるよな。
 店長氏の言い分を全部は信じられない。ただ、ばらしーみたいな人形を作るのみならず怪しげな動力ユニットを仕込んだと称している上に自分達の秘密事項を知っている訳で、単なる嘘つきとも思えない。元々の知り合いでもあることだし。
 自分達の手の内は晒してみせた、次はアンタが何者なのか、知ってるのはどういうことなのか自分の口から教える番だぞ、ってなところだろう。

 なるほどなぁ。上手いやり口である。流石は石原(葵)が噛んでるだけのことはあるな。
 三人で会話の主導権を握ったまま店長氏の種明かしを先送りにしてしまい、さんざっぱら言いたいことを言い終えてから、さあ喋れとばかり彼にお鉢を回してみせているって寸法だ。
 僕ならば真っ先にアンタ何者なんだと店長氏を問い詰めていたところだ。それでツンツンした雰囲気になっていたことは間違いない。
 そこは流石海千山千の強者達と言うべきか、オンナ三人集まれば何とやらというか。すっかり自分達のペースに持って行ってしまっている。
 敢えて理屈を付けるなら、正面から追及しなかったのは、これから存分にツッコミを入れるぞという宣言なのかもしれん。これまでの問答を見るに、勿体を付けるのは得意だが口の方は達者でなさそうな店長氏が気の毒にさえなってくる。
 ちなみに僕と人形どもにお鉢が回って来る気配は一切ない。既にこっちはどうでもいいというか、殆ど存在すら忘れられているようだ。
 まあこっちはこっちで、話が一段落したら言ってやりたいことは肚の中になくもない。そのタイミングがあればの話だが。

 店長氏はこほんと咳払いをして口を開いた。悠然とタイミングを計っていたような態度をしているが、案外口を出せる雰囲気じゃなかったのかもしれん。
 初めてなんとなく親近感が湧いた。なんつってもこの場では唯一の男性なのだよなぁ。女性陣のパワーに圧倒されるのは致し方ない。あ、僕も居たか。まあ居ないのと同じことだが。
 しかし、口を開けばその言葉には全員が耳を傾ける。こっちと違って、あちらが重要人物なのは間違いない。

「……君達の認識している過去を全て否定するつもりはないが、全てが事実ともいえない。その共通認識には偽りが含まれている」
「偽り、ですか」
「そうだ。まだアリスゲームは終わっていない」
「僕達を騙そうとしている者が居るとすれば……雪華綺晶? 自分が勝利したと思い込ませて、不戦勝を狙っているということだろうか……?」
「で、でも、こんなに長い時間かけて工作する必要なんてあるんですか。生まれ変わってからもう何年にもなってるですよ」
「そっちが事実なら、まだカナ……いえ、みんなに勝てる機会が残されてるってことですよね?」
「全員ではない」

 店長氏は沈痛な表情で、加納さんの、これまでとはちょっと違った(ちょいマジな感じの)トーンの声に首を横に振った。
 美登里がはっとして葵の顔を見、葵は曖昧に微笑んだ。加納さんは、しまった、という顔になって下を向く。
 微妙な空気が漂った。
 んん? 特定の誰か、例えば森宮さん(皆さんの話によれば真紅ということになる)だけにゲームを続ける資格があるってことなのか? わからん。

 ──事実は酷なものかもしれない。この場の何人かにとって。

 ひょっとして、あれは森宮さんが知らなくてもいいことを知ってしまうってことじゃなくて、この件を指してたのか? この中の誰か、石原姉妹のどっちか、それか加納さんの妹、はたまた水島先輩。誰か既に資格を喪失してる人がいるってことなのか。
 いや、そもそもアリスゲームをすること自体、そんなに嬉しいことなのかどうか。凡百の人間なんぞ本来興味の対象にもしてなさそうな皆さんが、ここで僕と同じように忘れられている残念人形ども(特に黒いのとばらしー)のように嬉々として壊し合いに臨むような単純明快な思考を持ってるのか? それも皆目判らん。
 ええい、鳥海でもサイカチでも、いやこの際柿崎でも構わん。事情通を呼び寄せて随時副音声で解説をさせたいものだ。多分漫画を読み込んでいれば大凡の見当が付くはずの場面である。
 ここに来る途中でばらしーの帰りが遅くなるとサイカチに電話を入れたのだが、奴は何やら昨日の森宮さんの一言でばらしー用の新たな調度品を選ぶのに忙しいとかで、製造元を訪れるのをパスしてきおった。
 無理にでも呼び寄せておくべきだったか。店長氏にも森宮さんにも何となく顔を合わせづらいのだろう、などと気を回して強いて誘わなかったのが裏目に出たなあ。
 すっかり観客じみてきた僕の内心など当然知る由もなく、店長氏は石原姉妹、多分美登里の方に顔を向ける。

「君達は、雪華綺晶に囚われた後の経緯をどう記憶している?」

「──白い霧の中で、蒼星石と出会って……でもそれは偽物で」
「その後、お父様が翠星石を助け出して、翠星石は真紅達の元に向かった。そこで僕も呼び戻され、僕達は雪華綺晶を退けて「巻いた世界」に全員で帰還した……水銀燈だけは、自分のマスターの行方を追って行ったけれど」
「そこまで、みんな同じ記憶を持っているのです」
「僕達は暫くの間、「巻いた世界」で平穏な日々を過ごした。雪華綺晶によって心を連れ去られた僕の元マスターやオディール・フォッセーさんの意識が戻ることはなかったけれど、雪華綺晶の影は見当たらなかった」
「ジュンは中学に復学するために準備を進めていました。私達は家の中のことをお手伝いしたり、おじじの家に行って薔薇をお手入れしたり」
「合間を縫ってみんな揃って雪華綺晶を探索もした。彼女は見付からず仕舞いだったけれど……」
「でも……それは偽りの世界でした。雪華綺晶が居なくて当たり前なのです。全部、雪華綺晶が作った箱庭の中だったんですから」

 そこからの解説は、またも三人による追走曲状態になった。
 その大掛かりな芝居がバレたのは、ジュン君(森宮さんの弟の「アツシ君」のことである)が登校を再開して暫くした日だったらしい。
 不登校になった経緯が経緯だけに、周囲はそれぞれに心配していたのだが、学校で彼が一年前の事件を含めて不登校になった経緯に触れられることはなかった。逆に新しい友人もできて、再登校はまずまずの滑り出しだったという。
 彼は最初の日曜日には翠星石(つまり美登里である)を連れ出して学校見物をさせる、という大胆なことまでやってのけた。それなりに本人も緊張を解き始めている証拠だったのだが……。
 翠星石とのデート? の翌日の月曜日。彼は唐突に現実を突き付けられた。
 仕掛け人は水銀燈(概ね水島先輩であろう)のマスターである柿崎めぐ(ええと、多分水島愛毬さんということになるなこれは)。重い心臓疾患のため入院中であったはずの彼女は、何故かジュン君の同級生として、彼の再登校開始の数日前に転校してきていた。
 もちろんその時点ではジュン君はめぐさんのことなど知る由もなかった。……らしい。そういえば漫画でも二人に接点は無かったような気がする。
 だが、彼女の方は全てを知っていた。
 クラスでちょっとした事件があって濡れ衣を着せられそうになったジュン君を彼女は庇ってくれた。そこまでは良かったのだが、お礼を言いに彼女の後を追ったジュン君が聞かされた話は、とんでもない内容だった。

 ──このセカイはね、全部茶番なの。本物の貴方も私も水晶の棺の中に囚われていて、楽しい夢を見ているだけ。
 ──ねえ、とっても絶望できる話じゃない? 私達みんな、白い悪魔の掌の上で滑稽な踊りをさせられてるだけなのよ。

 信じられない、と首を振る彼に、彼女は畳み掛けた。
 ここは現実にしては優し過ぎる。
 不治の病だったはずの自分がこうして全快している。去年の文化祭の直前に全校生徒の前で秘めていた趣味を暴露され、全校集会で吐瀉物をばら撒いた貴方が、陰から冷たい視線を浴びることもなければ腫れ物のように扱われるでもなく、その件を忘れ去られている。
 こんな都合のいい話があるはずがない。
 彼女は気付いてしまった。全ては作り物なのだと。
 このセカイに実際に存在しているのは僅かに数人のローゼンメイデンとそのマスターに過ぎない。後は都合の良いハリボテとマリオネット。その証拠に──

 ──ほら、見なさいよ。貴方がクラスメートだと思ってたモノ。

 彼は恐る恐る背後を振り向く。いつの間にかそこに居並んでいたのは、何本かの白い吊り糸で操られた、等身大のマリオネット達だった。
 恐怖と絶望が襲ってきて、彼が声にならない絶叫を上げかけたちょうどその時。二人を騙していたセカイは薄いステンドグラスのように割れて壊れ去った。
 もう一人の彼……「巻かなかった世界」のジュン君が、雪華綺晶のからくりを見破ったのが、まさにその瞬間だったのである。

 なるほど、そこから例の「第二部完」に続くって寸法なのか。大したスケールのお話であった。
 柿崎が昨日語った残念人形の話などとは最早比較にならない。流石はローゼンメイデンさん達である。
 特に雪華綺晶さんとやらのパワーは凄まじい。「巻かなかった」ジュン君のいる世界をねじ曲げて罠を作り上げ、一方では「巻いた」ジュン君達を一網打尽に絡め取ってハリボテの中に……

 ……あれ? なんか変じゃないか?

 観客たる僕が首を捻っている間にも話は進んでいる。
 店長氏は石原達に軽く頷き、君達が認識している経緯はそうだろう、と言った。

「……では、もう一つ尋ねよう。君達が認識している中では、君達はいつから偽りの中に入っていた?」
「それは……多分、私が真紅達のところに向かったとき……」
「雪華綺晶が前振りを始めたのは、翠星石と真紅が捕えられたときからだと思う。そして金糸雀とジュン君が罠にかかるのを待って、巻かなかった世界全体を使った仕掛けを発動させたんだ」
「nのフィールドに繋がってしまったのりとでか人間も、一緒に引きこまれてしまったはずなのです」
「そうしてみんなを閉じ込めておいてから、雪華綺晶は僕の最後のマスター……いや、お父様であり、巻かなかったジュン君でもある人の心を奪うことに専念した」
「わざわざ蒼星石ちゃんを復活させたのも、みんなを一度は巻かなかった世界に呼び入れて戦ったのも、それが現実であり自分が負けたと錯覚させて油断させるため……よね。それにしても久々に聞いたわー、翠星石ちゃんの『でか人間』って呼び方」
「ご、ごめんなさいです。何年かぶりについ……」

 でか人間って、みっちゃん(加納さん)のことだったのか。それほど背が高いようには見えんし、どちらかと言えば小顔で、身体の横幅に関しても標準よりかなりスレンダーな御姿なのだが。まあ、アツシ君であるところのジュン君よりは背が高い、か。
 いやいやそれはどうでもいい。肝心なところが二つばかり引っ掛っているのだ。

 ひとつは、石原姉妹の説というか昨日の同人誌の内容が正しいとしたら、どうにも雪華綺晶のやってることがグダグダに見えてしまう点だ。
 雪華綺晶は「巻かなかった」ジュン君と自分の作り上げた世界でイチャイチャしていた。なおかつ、さっきの話の内容によれば同時進行でもう一つ別の世界を作り、そこに姉妹と契約者さん達全員を放り込んで騙すほどのスーパーパワーを持ってることになる。
 随分張り込んだもんじゃねえか。というか姉妹の方々と比べて能力が段違いもいいところである。同時に世界をまるまる二つ、破綻しないように維持管理するなんて、そりゃ至高の少女どころか神様も真っ青の所業だ。
 その雪華綺晶が、その前段階でえらくまだるっこしい方法を取った意味ってなんなんだ。
 随分と手が込んでるというか、どえらく無駄の多い遣り方にじゃあないか。一旦捕獲したものをわざとリリースしてみたりとか、負けた振りをしたりとか。
 蒼星石本人を名乗る葵の前でなんだが、全部を全部コントロールできてるなら、復活させてしまうリスクを冒して蒼星石のボデーをちらつかせたのも腑に落ちない。なんかこう、もっと効率良く進めて良かったんじゃないか?

 その辺は凡百の人間なんぞには判らん理由が裏にある、でバッサリ切り捨てるとしても、もう一つ疑問がある。
 経緯を追って説明してもらったお陰ではっきりしてきたのだが──

「その筋書きは一見、理屈は通っているように見える。だが、雪華綺晶の行動で矛盾する部分に気付かないか」
「矛盾するところ、ですか」
「判らないな……重層的に過ぎる罠だとは思ったことがあるけれど」
「それは重要な視点だが、矛盾点は別にある」
「矛盾……うーん、ちょっと思い付かないなぁ……みっちゃんの頭脳じゃ限界かも……」

 あれあれ、皆さん降参なのか。っていうか加納さんの一人称、みっちゃんだったっけ?
 店長氏は結構露骨にヒントを出したように思えたんだがなぁ。
 加納さんの向き不向きはよう知らんが、常日頃、少なくとも僕よりは頭の回転が速いことを見せ付けている葵と美登里が両方ギブアップとは意外である。
 こういった推理、というか辻褄合わせは苦手にしてるのか? それとも、頭の良い人特有の考え過ぎ症候群か何かなのか。
 何なら僕が言ってやろうか、と考えていると、暫く黙って話を聞いていた森宮さんが口を開いた。

「矛盾、と言い切って良いのかは判らないけれど、おかしな点はあるわ」
「判ったのですか!」
「記憶を失っていても流石は真紅、というところだね」
「それは、まだ自覚がないのだけれど……」

 なにやらすっかり昔に戻ってしまったらしい石原姉妹……いや、もう開き直って翠星石と蒼星石と言ってしまうべきなのか?
 口調やら態度まで若干変わってしまっているような気がする。いつもの二人に共通の、ちょっとばかし偉そうな、というか年齢相応の落ち着きが消えて、素直な子供みたいに見える。こっちが素の二人ってやつなんだろうか。
 とにかく、二人の素直な感嘆の声に複雑な表情を見せつつ、森宮さんは店長氏に向き直った。

「雪華綺晶が最初から「巻かなかった」ジュンを篭絡する目的で居た、そして世界自体を改変していた。それが美登里……いえ、翠星石達の話してくれたシナリオだけれど」
「ちょっと視点が違うんだね、僕達とは……。記憶を失っている君の方が物事を客観的に捉えることができているのかな」
「でも、外れてないですよ。そういう見方もできるし、間違ってもいないのです」
「ありがとう。……でも、そのシナリオではパラドックスが生じてしまうのだわ」
「パラドックスですか?」
「ええ」

 森宮さんは美登里に軽く頷き返し、落ち着いた口調で話し始めた。

 葵達の記憶が正しいものだとすれば、雪華綺晶は姉妹全員を鹵獲した後で、「巻かなかった世界」を舞台に大掛かりな茶番劇を繰り広げた、ということになっている。
 裏を返せば、一旦は罠に嵌めることに成功したものの、姉妹達に対しては依然として警戒していたということになる。慎重で周到だと言えなくもない。
 しかし、実は鹵獲したのは無意味どころか、彼女の構想にとって有害だった。姉妹達がその場に居ない方がより有利に物事を進められたはずなのだ。

 雪華綺晶が最初から「巻かなかった世界」のジュン君をターゲットにして、アリスゲームそっちのけで彼とイチャラブすることだけを目的にしていたのなら、何も姉妹達を鹵獲して「巻かなかった世界」送りにする必要はない。自分だけでこっそり楽しめば良いことだ。
 ところが、彼女は雛苺に干渉して解体し、蒼星石のボディを持ち去り、元マスターの老人を昏睡させてしまった。
 逆に言うと自分から姉妹達と積極的な関わりを持ってしまったわけだ。
 但し神出鬼没の彼女はその後も他の姉妹には全くシッポを掴ませなかった。そのまま遁走していれば追跡は不可能に近かったはずだ。
 雛苺を襲った上、蒼星石のボディまで持ち去ったという行動自体もイチャラブ目的なら不可解ではある。自分から波風を立てようとしているようにしか見えない。
 仮に行動の裏に何か別の意図か窺い知れない事情があったとしても、自分一人で「巻かなかった世界」にサヨウナラしていれば、以後関わりを持つようなこともなく過ごして居られたはずだ。
 そうして彼女は哀れな姉妹達を尻目に、安全な場所で「巻かなかった」ジュン君と思う存分イチャイチャすればよい。何も全員集めて叩き潰すことはないし、まして幻影を見せて騙す必要など全くないのだ。

 畢竟、わざわざ他の姉妹にまで手を出したということは、雪華綺晶にアリスゲームを遂行する意図か、姉妹を全員確保したい事情があったということに他ならない。
 だがそれならば尚更、邪魔な姉妹なぞ居ない間に二人きりで関係を深めておき、時機を計っておもむろにコトに乗り出した方がより安全で効果的だったのは言うまでもない。
 姉妹達を呼び寄せて茶番を始めるより前に、そのときは未だ覚醒していなかった「巻かなかった」ジュン君(=お父様)とさっさと契約し、自分の影響下に置いてしまった方が効果的なのである。ゲームの面でも、姉妹を確保する面でも。
 最終的に彼女の目論見は成功したものの、予め契約を結んで関係を育てていればもっと確実だったはずだ。もう一つ言えば、複雑で大掛かりな茶番劇も省略できただろう。
 つまり、葵たちの認識しているとおりに物事が進んでいたとしたら、雪華綺晶はわざわざ手の掛る方法を選択し、何故か自分の目的を達成しにくいように行動し続けていたことになる。
 言い換えれば彼女の実際に採った策と、目的としたはずの物事の間には大きな矛盾が生じている。しかも彼女が大掛かりな舞台装置を前から用意していたとすればするほど、「巻かなかった」ジュン君を以前からターゲットにしていたとすればするほど、その矛盾は大きくなる。

 ならば、最初に立ち戻って考え直してみたらどんなものか。
 雪華綺晶が「巻かなかった」ジュン君に目を付けたのが、早くとも一旦全員を拘束した後だったと考えれば、すんなりと話は繋がる。もし「巻かなかった世界」を改変したのだとしても、そのとき以降であれば納得できる。
 天動説ではどうにも複雑怪奇だった惑星の運動が、地動説ならごく単純な楕円軌道周回で説明がつくようなものだ。推論自体でなく前提をも一度は疑って掛ることが重要なのである。……と、森宮さんは石原姉妹に説いた。

「──シンプルに考えるのなら、少なくとも「巻かなかった世界」での出来事までは、皆が認識していた世界は彼女の制御下の幻影ではなかったとすべきでしょう。漫画として私達の目の前にあり……いえ、貴方達の記憶にあるとおり」
「だとしたら、今現在の僕達のこの状態は……?」
「せ、説明がつかないです。だって、みんな人間になってこんなに長いこと生きて来ているのに──」
「そうねぇ、カナがみっちゃんの妹で、翠星石ちゃん達は石原さん、じゃなくて結菱さんのお宅の子で──……」
「他の姉妹も皆、新たな名前と家族を得ているんだから──」

 三人はてんでに言いたいことを言い始め、たちまちの内に主導権はそちらに移ってしまった。
 意識してやってる訳じゃないんだろうが、やはり口数の多い三人が束になっているのは手強い。敢えて悪く取れば森宮さんの考えを総力を挙げて否定せんとする雰囲気にさえ見えてくる。
 森宮さんは視線をテーブルの上に落とした。こちらは大分士気が低下しているようだ。無理もない。
 三人に同時に否定されたから、ってだけじゃあるまい。言い出してはみたものの、やはりそこから先は言い辛いんだろうな。
 やれやれ。どうやら惨めなただの人間にも口を挟んで良い機会が与えられたらしい。
 これが森宮さんのフォローとなるものでなければ有難迷惑としか言えんところである。

「……反対だとしたらどうだよ」

「潤……」
「どういう意味だい、邪夢君」
「黙ってたと思ったらいきなり何言い出すんですか、アンタは」
「口を挟めるような内容じゃねーだろがよ。いきなり漫画と現実ごっちゃごちゃになって」
「そうよねー。びっくりするよね、普通は」
「まあ、僕は主役級の皆さんと違って普通っていうか多分背景に居るモブとか、下手すると絵から省略されてる方なんで。で、その存在が否定されてる奴が言うのもナニなんですけどね」
「嫌味はいいから、ちゃっちゃと続きを言いやがれです」
「あーはいはい。要するにさ、薔薇乙女の皆さんが今居るこの世界の方がキラキーさんの作った幻で、皆さん適当にだまくらかされてこの中に住んでるような錯覚に陥ってるだけだとしたらどうなのよ、ってこと」

 三人の反応は、意外にも三者三様だった。
 加納さんは完全に虚を突かれたといった様子で、あ、という形に口を開けたまま固まっている。葵は(元々さっきから硬い表情になってはいたが)あの、今朝から時折見せていた無闇に真剣な表情で、僕ではなく店長氏を見た。結構鋭い眼光だった。
 美登里は──さっきまでの勢いが一瞬で消えた、という感じだった。まるで、判っていたが臭い物に蓋状態だった事柄を改めてほじくり返されたような、閉店時刻直後に店に入ったら店員にすみませんが閉店ですと言われたような、落胆を絵に描いたような顔になって下を向いてしまった。
 なんだ、なんだってんだよ。
 覚悟はしていたものの、凄い罪悪感が湧いて来る。まあ、森宮さんに言わせるよりは良かったと思うしかない。
 その森宮さんは、三人と店長氏の顔を窺ってから僕に視線を向けた。
 もうちょっとソフトな言い方をするつもりだったに違いない。怒ってはいなかったが悲しげな表情だった。

 なるほど。店長氏の予言はムチャクチャ正しかったよ。
 僕はこの場の少なくとも二人以上の面子に、多分半端無く辛い思いをさせてしまった。それも店長氏の口を借りずに、自分から言い出して。
 慣れないことをするもんじゃないよな。ていうか、計画性の欠片も持ってないとこうなリますよっていういい見本だ。慎重な奴ならほんの数十秒間でもよく考えて、言葉を吟味しているところなんだろうよ。
 如何にも僕である、としか言いようがないぜコンチクショウ。しかし、言い出したからには後には引けぬ。
 もちろん不退転の決意を以て臨むとかいう立派な話ではない。あとの後悔先に立たずというやつである。

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  長くなり過ぎたのでこの辺で以下次回。
  もはや内容そのものが期待されてないこととは思いますが、以降毎週金曜日辺りに更新したいなと。



[24888] 第二期第十八話 お届け物は不意打ちで
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:beec0278
Date: 2012/09/15 00:02

 ~~~~~~ 某所 ~~~~~~


「遅れてごめんなさいかしら……」
「なんで僕まで……」
「……こんばんは。柿崎さん」
「やードモドモ、寒いのに呼び出してすいません、皆さん」
「構わないわ。それだけの意味があると踏んだから、伝を頼って何人も掻き集めたのでしょうに」
「はい。あーまあ、この通信の内容が信用できると仮定して、なんですけどー」
「聞かせてくれる? その内容を」
「まだリアルタイムで続いてますけど、そっちでいいですかね?」
「ええ。……どうせ大して話は進んでないわよ。あいつは絶望的に演説が下手なんだから」
「真希ちゃん……あいつって店長さんのこと? よく知ってるのかしら?」
「シッ。静かになさいな」
「はぐらかされてしまったかしら……」
「結構上手くなったよな、こういうところ」
「お黙りなさい。聞こえなくなるでしょ」
「はいはい……」


 ~~~~~~ 承前 ~~~~~~

 気は進まないのだが、取り敢えずは続きを言わねばならん。
 つーかこういう説明とかって苦手なんだけどな。更に悪いことに、ちょっと意見を述べただけでも「大演説ご苦労さん」とか揶揄されたくらい下手っぴでもある。

「漢文の時間にやった荘氏の話じゃねーけど、夢と現実なんて、夢見てる最中は区別がつかないもんだよな。そんな記憶なんて当然持ってないのに、なんかもう何年も前からその設定で暮してたような気になってたり。例えばどっか行ったこともないような場所に住んでるとか、面識ないはずのアイドルと親しかったりとかさ」
「ああ、それ分かるわー。欲しかった子を持ってる気分になってる夢とか、理解ある旦那様とドールに囲まれて暮らしてる夢とか。すっごくよく見るもの」
「えーとまあ……そんな感じっス。夢なんだよなーって判ってることもあるんですけど、完全に夢の中の設定に浸りきって疑問持たずに楽しんでることもあるでしょ。下手すると何日も過ごしてるみたいな気分で」
「うんうん、あるある」

 石原姉妹に向かって言ったつもりだったのだが、何やら加納さんだけ妙に食いつきが良い。話し手とすれば全く反応がないよりはマシであるが、他の連中の放置っぷりが嫌でも際立ってしまう。
 僕は相変わらずだんまりを決め込んでいる黒いのを膝に載せたまま、今度はあからさまに石原姉妹に向き直ってみる。
 美登里はらしくもなく萎れてしまったままだが、葵は顔をこちらに向けてくれた。

「ごく普通の夢でさえ、覚めるまでは信じ込んでることがあるんだぜ。世界をホイホイ改変しちゃうようなスーパーパワーの持ち主が、本気になって相手を嵌めるつもりで干渉したら──」
「──彼女なら、眠らされているみんなの夢を物質世界の一つに繋いでしまうことも可能だ、ということかい」
「流石は石原だな。いや蒼星石って呼んだ方がいいのか?」
「……好きな方で構わないよ。邪夢君には「石原葵」で呼ばれ慣れているから」
「じゃあ石原、つか美登里と紛らわしいから葵な」
「ふふ、改めてそう言われると変な気分だな……了解したよ。どうぞ、続けて」
「うん」

 物質世界ってのはナントカのフィールドの中の精神世界に対する現実のことだっけか。
 キラキーさんのパワーが凄まじいことを考えれば、そういった大技を仕掛けていても驚きに値しない訳だが、ここが漫画の「巻かなかった世界」みたいな、薔薇乙女さん達の元々の世界に対する並行世界の一つなのかは保証の限りじゃない。
 むしろ皆さんがキラキーさんに囚われていて、心だけが抽出されて誰か一人の夢の中に入り込んで動いてるって可能性もある。
 確か、マンガやアニメではまさにそんな場面もあったはずだ。迷い込んだ翠星石があれこれ夢の扉を開けて回る、みたいなシーンがあったのも覚えてる。
 まあ、僕やこの人形どもみたいなモブが本筋に関係ないところで自分の意志で動いてるんだから、当然夢のコピー元みたいなモンはあるんだろう。しかし元があるからってここが偽物の世界じゃないとは言い切れん。
 何しろ、僕等がこの中に居る限りは、ここが本物であるって裏付けは取れないんだからな。悪魔の証明って言うんだっけか? どうやっても「そうでないこと」が証明できないってやつ。
 ま、それは置いとくとしよう。誰の夢に皆さんが入り込んでるのか、と言えば、それは──

「──一人だけ、夢の設定に完全に取り込まれて、過去を忘れてしまっている……私」


 ~~~~~~ 第十八話 お届け物は不意打ちで ~~~~~~


「過程には誤りが多いが、結論の一部は当たっている。真紅。この世界は君の夢の世界でもある。但し、君だけの夢ではない」

 呟くように零れた森宮さんの言葉を聞いて、店長氏が漸く口を開いた。相変わらず自分で喋るのを省略したがっているというか、極力他人に語らせようとしてるような按配である。
 さっき感じた説明下手ってのも少なからず当たってるとは思うんだが、それだけじゃないようにも見えてきた。何か、できる限り問題解決は自分以外に任せたいような姿勢がちらちら窺えるのだ。

 クソッタレ、段々腹が立ってきた。
 店長氏のスタンスは理屈では判るし、ご立派な見識でもあるんだろう。だが一応請われて説明始めた側としては片手落ちな気がしてならん。
 何でも知ってるんだぜ、と自分の博識をちらつかせるのと同時に、でも部外者ですよ、最低限の関わりしか持ちたくないですよ、後は皆さんで解決してくださいねとばかりに腰砕けっぷりをアピールしているようなものである。
 その癖、ご本人の言い分によれば人工精霊を七つに割って動力ユニットにした上、自分が作った訳でもない残念人形どもの体内に埋め込んでショボショボなバトルロイヤルをさせようとしていた訳だ。
 そこまで積極的にお膳立てを整えてきたのに、いざネタばらしとなるとこの体たらく。どんな深いご事情があるのか知らんが、どうにも矛盾しとる。
 一部の恋愛漫画の主人公の如く、単に性格が優柔不断なだけなのかもしれんが、この流れになってくるとそれはそれでイライラするぞ。
 回りくどいことやってんじゃねえよ。薔薇乙女の人に目覚めて欲しいなら小細工せずにストレートにそう言えばいいじゃねえかよ。

 何の関連もないガラクタ同然の古人形どもを利用して、自分が改造したドールまで加えて相戦わせるに至っては、今んトコ、意味を見出すことすらできん。
 赤いのが随分前に僕に聞かせた台詞じゃないが、人形どもが動機付けられた戦いは負けたらぶっ壊れる、いや勝ったとしても壊れるかもしれんことが前提の殺伐とした代物だ。なにせ、百均に売ってる平ゴムでうっすい瀬戸物を繋ぎ合わせたワレモノ注意同士がギシギシ動いて戦うのである。
 これまで深刻なダメージを受けた人形がおらんのは、僕の休戦宣言の効果もあるかもしれんが、主に連中のおつむ(戦術的なあれこれ)と実力のなさ、そして畳と座布団の上という柔らかい場所で角突き合わせていたからに過ぎない。一度本気になって開戦し、硬いコンクリか何かの上でバトルすれば見る見る内に割れた瀬戸物の山が出来上がるのは火を見るより明らかである。
 店長氏が仕込んだ人工精霊さんの欠片は当然一つに戻せるようになってるんだろうが、瀬戸物(とレジンキャスト)の人形は大破したらそこでお終い。後は燃えないゴミの日に出す作業が残るのみだ。
 随分な話じゃねえか。百年ばかり前に作られ、放置されたり手荒く扱われたりと不遇をかこちつつも辛うじて形だけは保ってきたオンボロ人形が、今になって変なもんを入れ込まれた上に妙ちきりんな動機付けを加えられ、一体残して全部ぶっ壊れろと命令されて唯々諾々と従ってるなんて。
 こんなんでも一応、自律して考えて喋って動いてるモノなのである。その点は動物と、もっと言っちまえば人間とさして変わらんのだ。もっとも喋るのと動いてる方は人工精霊さんの欠片のお陰なんだろうが。
 大体、店長氏が人形どもに動力ユニットを埋め込んで不可解なバトルロイヤルを命じた原因の大元、ご立派なローゼンメイデンさん達にしたってだな。元を辿れば──

 じろじろと睨みつけられているのが判ったのか、店長氏はちらっとこっちを見た。
 とはいえ、相変わらず興味の対象というか会話の焦点は薔薇乙女の皆様らしい。僕の顔などまさにチラ見しただけでさっさと視線を移し、再び森宮さんに目を向ける。イケメンだけに、僕が女の子だったら倒錯した嫉妬に陥りそうな放置ぶりである。

「君と、その少年の推論は当たらずとも遠からずだ。君達にとっては、現実世界だと思い込んでいるこの世界こそ雪華綺晶の作り上げた偽り、と言っていい」
「……手の込んだ工作に見えていたことが実際に起きていたことで、現実に見えていたこの状態こそが、大掛かりだけど偽物だった……ということかな」
「事実は小説より奇なりって言うけど……逆だったって訳ね。こりゃ一本取られたわー」
「で、でもっ」
「翠星石ちゃん……?」
「そんなの、判んないですよ。だ、だいたい、なんで二人ともあっさり信じちゃうんですか? 塩入さんが言ってること……何の証拠もないし、今のなんて真紅と邪夢が言ったこと、条件付けて承認しただけじゃないですか」
「でも、翠星石。彼は少なくとも情報を持っているし、実際にこの子達を動かしている。僕達に関わりを持つ人物なのは確かだ」
「そりゃ、確かに私達のことはよく知ってるし、なんか技術も持ってるみたいですけど……それに、雪華綺晶の手先とかって訳でもなさそうですけど……でも……こんなに長いこと……」
「んー……長いって言えば長いわよね。カナや銀ちゃんが生まれてからもう十八年近いのよね、そういえば」
「ここが改変された物質世界なら、時間経過には意味があるね……僕達が過して来た時間は、積み重ねてきた時間は嘘じゃないから……」

「それこそがトリックだ」

 店長氏は、今度は収拾がつかなくなる前に三人の言葉を止めた。
 三人の視線が自分に向くのを待って、何か言い出される前に続きを口にする。なんだ、やればできるんじゃねえか、と偉そうなことを考えてしまったのは秘密である。

「二十年近く暮してきた、という記憶自体が雪華綺晶の作り上げた偽りなのだ。実際に君達がこの状態で過ごした時間は、それほど長いものではない」

 店長氏によると、特にキラキーさんのような存在にとって、人間の記憶を改竄するのは葵達が考えているほど難しい作業ではないらしい。人間の表層の記憶などというものは曖昧で、ごく簡単に上書きされてしまうからだ。
 まあ、その辺はさっき僕が言及したところでもある。
 とろっと微睡んだ僅か数分間に、それまで考えてもいなかったようなトンデモな設定を受け入れて、というか当然のようにその設定の中で遊んでいるのはよくあることだ。ついでに、五感と微妙にリンクしていたりすることもある。
 そして、夢やら記憶への干渉は元々キラキーさんの得意分野である。翠星石と蒼星石の双子みたいな強力アイテムは持ってないが、だまくらかすのはお手の物。いいように使われた挙句眠らされてしまった、雛苺の元マスターの孫娘さん(ややこしいな)の例もある。
 傍で聞いている分にはそうですかとしか言えない説明だが、流石に当事者となると冷静では居られないらしい。葵は難しい顔になった。

「一体、僕達はいつから偽りの中に……?」
「君達が彼女を退け、「巻かなかった世界」と呼んでいる平行世界から「巻いた世界」──世界樹の幹を成す根本の世界に戻ろうとしたときだ」
「あれが……? 私はジュンと手を繋いで先に着きましたけど、真紅が特急便で追いついてくれて、蒼星石達は後から歩いてきて──」
「それなら、あの「巻いた世界」は偽物だったんだろうか……? それとも……」
「正しく言えば、偽物ですらない。この世界で刊行されている漫画のストーリーとほぼ同じものを記憶に植え付けられ、それぞれが自分の視点をそこに補って受け容れているだけだ」
「そんなの、有り得るんですか」
「彼女の工作としては不可思議な手法ではないし、無駄でもない。この世界に、君達を描いた漫画そのものが何故存在しているか、も考え合わせてみれば理解できるはずだ」
「実物としてのローゼンメイデンが居なかったことになり、代わりに漫画作品という形で存在している物質世界だ、と僕達に信じさせるため……」
「それだけではない。むしろ、それは副次的な効果に過ぎない」

 店長氏は石原姉妹に首を振ってみせた。
 葵は難しい顔のまま小首を傾げるという、普段は中々見られない動作をやってのけたが、すぐに気付いた様子で目を見開いた。

「──そうか。僕達に与えた記憶の整合性を取るためだ」
「どういう意味ですか、それは」
「翠星石、君は生まれ変わる前の──「巻いた世界」までの出来事をどう覚えてる? 自分が見たことがない、知らないはずのことまで知ってる、そうだろう」
「そりゃ、あの漫画を読んでますから……」
「僕も同じだ。自分の視点でないところの話まで知っている。それは漫画を読んだから」
「……当たり前ですよね?」
「だが、あの漫画が存在しなければどうだろう? 僕達が他の姉妹やマスター……特に水銀燈やジュン君の視点での情報を知っていることに矛盾が生じてしまう」
「それも……当然ですよね」
「漫画があることで、僕達は知らないはずの出来事、見たことのない光景を素直に受け入れてしまっているんだ。雪華綺晶が描いたシナリオを、そのままの形で」
「あ……!」

 美登里は漸く気付いた、という風に口許に手を当てる。
 話が大分込み入ってきた。というより脱線に近い。
 石原姉妹と加納さんには細部で発見があったらしいが、舞台脇で見ている僕には、事細かいところに入り込み過ぎて話が判らなくなってきている。
 店長氏も似たようなことを思ったのか、それとも示唆を与えて気付いてもらったので目的達成ということなのか。何にしても彼は一つ頷いて話を進めた。
 それによると、葵の閃きというか解答は正解だったらしい。
 要するに、キラキーさんも万能じゃあない、十人以上の関係者全員に個別の記憶を植え付けて整合性を完璧に取れるようなパワーは持ち合わせていない、ということだ。一つのシナリオをでっち上げ、それを前提にして後は自分達で勝手に(まさに脳内で)補完させるような遣り方を取ったのだという。

 店長氏の説明によれば、雪華綺晶さんの手順はこうだった。
 まず、彼女は「巻かなかった世界」と「巻いた世界」の時間が重なるときを狙って一気に片を付けるべく動いていた。しかし、中途から乱入した翠星石(まだなんとなく違和感があるが、石原美登里のことだな)、そして偶然もあって復活した蒼星石(大分性格に変化があるような気もするが、石原葵がその人らしい)の真紅達への加勢もあって、結局手痛いダメージを負って敗退してしまう。
 ここまでは石原達の認識している記憶、及び漫画の展開と同じ。
 違っているのは、彼女が撤退した後、皆さんが「巻いた世界」に帰還するところからだという。
 雪華綺晶さんは一敗地に塗れて退却したものの、漫画で語られているように無惨に潰走した訳ではなかった。見事な負けっぷりは見せかけ、あるいは後から都合良く脚色したもので、戦略的撤退と同時に次の罠を仕掛けていたのだ。
 彼女は翠星石と蒼星石が作った「巻いた世界」への道に細工を施し、待ち伏せた。帰還の最中に次第に小さなグループに分かれてしまったことも彼女の策だったかもしれない。
 まず、道の上から転げ落った翠星石とジュン君を難無く捕獲し、眠らせる。本人達は偶然ウサギの穴に落ちてジュン君の家の鏡に抜けたとか言っていたはずだが、実際は懐かしの我が家どころかキラキーさんの手許にご案内というルートだった訳だ。
 次に、後を追うために単独行動を取った真紅を捕獲。彼女が入ったのも超特急便の箱ではなく、クリスタルの棺だったことになる。
 同じように水銀燈も、めぐさんを探しに戻ろうとした所で鹵獲。どこかの世界の扉を開いたらそのまま夢の中にご案内コースということか。
 金糸雀と蒼星石は、中々辿り着かないでぐるぐる回っているところを、これも自分の領域にご案内。
 残るみっちゃんさんとのりさん等は、「巻いた世界」で皆さんの帰りを待ち侘びながら眠っているところを夢の世界にご案内したのだという。これは、既に何人もの元マスターさん達に使っていた手法そのままだ。

 ……って、あれ? ゲーム終わってるじゃん。キラキーさん以外全滅で、後腐れなく。

 部外者たる僕は、真紅であるところの森宮さんが隣に居るにもかかわらず、不人情にもついそんな風に考えてしまうのだが、どっこいそうは問屋が卸さなかったらしい。
 但し具体的に何故なのかは、なんでも知ってますアピールにもかかわらず店長氏も知らないという。
 なんか段々化けの皮が剥がれてきたなぁ、という意地の悪い感想はひとまず置いとくとしよう。
 キラキーさんは鹵獲した姉妹を眠らせることは成功したものの、ボディから追い出すことをせず、ローザミスティカを取り上げて一つに戻すこともしなかった。できなかったのか、やらなかっただけなのかは判らない。
 ともかくも、「自分達はゲームに敗北し、人間として生まれ変わった」というストーリーに沿って密度の濃いシナリオ(店長氏の主観では、濃いらしい)をでっち上げ、細部はそれぞれ各個の夢にゆだねて虚構を作り上げた。
 雪華綺晶さんにしてみれば失敗の許されない難しい作業だったはずだ。しかし、それが上首尾に進んだことは、石原姉妹はじめ関係者の方々全員が、自分達は生まれ変わって物質世界の一つに居るのだと信じ込んでいたのだから確実である。投資に見合った結果は出した、というところだろう。

 ところで、その論法で行くと僕達はどうなるのか。僕然り、柿崎然り、その他薔薇乙女さん達の周囲に濃い薄いそれぞれの関わりを持ってゴマンと存在するモブ達のことである。
 一応自分では自意識を持って勝手に行動しているつもりであり、見たところ他の人々にしても同様に思えるのだが、やはりただの舞台装置ということになるのだろうか。僕の推測が当たっていて、ここが真紅の──僕の隣に座っている森宮さんの夢の世界であるなら、僕達は夢が破れると共に雲散霧消する幻影ということになりそうだ。
 僕自身の意識だと思い込んでいるものも、尤もらしく作り付けられたプログラムということになるのだろうか。当然ながら自分ではよく判らない。こういうものだ、と思い込んでいるのだから。
 ふむ、これは一大事である。残念人形どもを笑っている場合ではない。
 本来この場で嘘だなんだと喚き散らしてもいいくらい衝撃的な話なのだが、僕の心は鈍い反応しか示さなかった。どうも非現実的な内容の話が続いたせいで感覚がおかしくなっているのに違いない。

「雪華綺晶は全員の意識を一箇所に集め、この世界の中に配置した」
「僕達の心だけを取り出して……?」
「……そうだ。君達の人形としてのボディはここにはない」
「じゃあ、ここはやっぱり何処かの精神世界なのですか? こんなに長い時間みんなで過ごしていても気付かないくらい精巧な、自分達以外にも沢山の人が住んでるみたいに思えてる世界が」
「僕達……元々人間でない、精神世界と物質世界を行き来し続けていたモノには、両者の境界が曖昧になっているのだろうか」
「うーん、でも生粋の人間であるみっちゃんとしても、夢の中だって思えるようなところはなかったかな……」
「確かにここは単純な精神世界、あるいは夢の世界ではない。だが、物質世界そのものでもない」

 普段から鈍い上により一層鈍くなっていることを自覚している僕だが、流石に周囲の緊張が高まるのが判った。
 どっちかっていうと僕としては、「お前は幻影である」と確定されなかったことで一応安堵の溜息をつくべき場面なんだが。脇役以下の存在の心情などストーリーには関係ないという良い見本である。
 そして相変わらず僕の心情など一顧だにせず、店長氏の話は続く。

 雪華綺晶は手痛い敗北で、自信を失っていたのだろう。あるいは、姉妹達を見くびりすぎていたことに気付いたのかもしれない。
 未熟な面は多々あるとはいえ、凡百の人間などとは訳が違う。曲がりなりにも百年以上生きて来て、こと人の心やら記憶とは正面から向き合ってきた偉いさん達である。都合の良い夢の世界に囚えただけでは何処かで気取られてしまう、と踏んだ。
 とはいえ、薄っぺらく何か騙しただけで、そのボディごと物質世界に放り込んでしまうのは論外である。姉妹の皆さんは自分の力でnのフィールドに出入りができるから、いずれその世界から飛び立ってしまうに違いない。
 自分の支配下に囚えたままにしておくには、バレないような設定を作り上げるしかない。彼女はその構築に心血を注いだ。
 正しいように見えて盛大に間違っている結論だった、と店長氏は容赦なく言ってのけ、皆さんもそれぞれに肯定の仕種を返す。話が本当なら本人が何処かで監視の目を光らせているかもしれんのに、流石の肝の座りようである。
 まあ一応全員捕まえるところまで成功したんだし、なんか別の方策でも取れば良かったような気はする。そもそも雛苺のときのように、片っ端から思い切り良く食っちまえばお終いのはずなんだが。
 しかし彼女は姉妹とマスターさん達を手許に囚えておくことに固執した。
 店長氏はそこまで言及しなかったが、面子を潰された腹いせとか、自分の遣り方を貫きたいとか色々複雑な感情があったのかもしれん。至高の少女を目指して作られた凄い存在であっても、所詮人間とは感情の生き物なのである。
 ともあれ彼女は工作に完璧を期した。その結果として出来上がった豪勢な牢屋がこの世界であり、牢屋を牢屋と思わせないための工作が、一見無駄に思える奇怪な筋書きを薔薇乙女さん達に信じさせることだった。
 凝り過ぎていて逆に疑われそうなものだが、実際にここまで破綻せずにやってきたのだから、彼女の目論見は大成功だったと言っていいのだろう。ことにあの筋書きは、頭の良い人々……と言うと僻み過ぎだな、当事者の人々にとってみれば不自然さを補って余りある臨場感をもって受け止められるものだったようだ。
 そして、筋書きをもっともらしく見せていたのは、この世界の凝った作り──雪華綺晶が、容易に偽物だと見破られないように気合を入れた構造にあった。

「彼女が作り上げたこの世界は、物質世界の一つに夢の世界を繋げたもの。君の予想は当たっている、蒼星石」
「……やはりそうだったんだね。当たっていてもあまり嬉しくはないけれど」

 葵は口許を微かに歪めた。
 シニカルな微笑ってやつだろうか。その笑顔は漫画の蒼星石さんにはあんまり似つかわしくない代物のはずだが、石原葵にはぴたりとハマっているように見えるのは何故だろう。

「薔薇乙女とそのマスター達の誰にも疑問を抱かせない世界を作り上げるには、彼等の知識、記憶を集めただけでは到底足りない。自分達の知識の及ぶ範囲までしか世界の広がりがない、と看破されてしまう恐れがある」
「そうか。広がりを取り繕おうとして行けば、その時点では破綻しなくても何処かで不整合を起こす……」
「全員分の願望とか予想に応えていったら、辻褄合わせも大変になりそうよね。リアルタイムで全員分監視してなきゃだし」
「みんなを一緒にしておくのも良し悪し、ってことですか……」
「そういった調整を行わずに済ませるためには、基盤として物質世界そのものを使うしかない。しかし、無数の人々を直接の制御下に置くこともまた雪華綺晶の力量では不可能だ」
「……そんなもんなんでしょうか」
「お父様は、僕達に無制限の力を与えることはなさらなかった。彼女に対しても同じなのだろう」
「なるほどねー……」
「でも、それならどうして私達は人間の身体を持ってるんです? 雪華綺晶がもし人間の身体を自由に作り出せるんなら、あの子はnのフィールドから自由に出てこれたでしょうし、姉妹のボディなんか欲しがらなかったんじゃないですか? おかしいですよ──」
「──それは、順を追って話そう」

 美登里の疑問は当然だと思うのだが、そこからまた三人のペースになることを恐れたのか、店長氏は珍しく続きを遮るように口を挟んで語り始めた。
 単純に美登里の怒涛の疑問ラッシュを予想して回避したのかもしれん。彼も人の子、というかあまり口が達者でない方の人ではある。

 雪華綺晶は「巻かなかった世界」でも「巻いた世界」でもない、「ローゼンメイデンが存在しないはずの世界」の一つに、自分が捕獲した者達の夢を繋いだ。恐らく、「巻いた世界」や「巻かなかった世界」からは随分遠い所なんだろう。
 物質世界と夢をリンクさせてしまうこと自体はお手の物ではあるのだが、ここでも彼女は策を弄した。
 ローゼンメイデン関係者の、この世界における同位体というのか。漫画で言えば「巻かなかったジュン」の立場に相当する人々がこの世界にも居る。普通に考えれば彼等を有効利用すべきところだ。
 しかし彼女は敢えてそこをスルーした。自分の作った筋書きを信じこませる上で適当な家族構成と環境を持つ家庭に目を付けたのだ。
 姉妹と契約者達には「巻いた世界」の夢を見せることで当座の時間を稼ぐ。その間に目を付けた人々を眠らせ、あるいは眠っているところに付け込んで精神を捕獲した。
 準備を整えたところで、おもむろに「空になった」彼等の肉体に姉妹と契約者達の夢を割り込ませる。
 彼等の記憶は肉体の主の記憶と混ざり合い、恰も自分達が生まれてからこの方この世界に居るかのように錯覚させる。更に、もっともらしい理由付けとして、姉妹である雪華綺晶でなく全能の神に近いお父様の計らいで生まれ変わった、という筋書きも付け加えておく。

「君達から見れば、この世界での出来事は無自覚な夢の中の出来事であり、この世界の住人から見れば君達は現実に存在する人間という形になる」

 完璧に外の人間である僕達から見れば、この世界は現実そのものである。森宮さんも石原姉妹も加納さんも──他の関係者御一同様も、みんな何の変哲もない人間でしかない。
 一方、夢を見ている薔薇乙女さん達と契約者の方々からすれば、これは実にリアルな夢の世界だ。ほぼ完全に二重の記憶を持ち、与えられた(葵が同人誌に書いたような)複雑怪奇なストーリーを信じている限りは記憶の矛盾も起きない。
 何しろ自分達は本来敗北して雪華綺晶の糧になるべきところを、全知全能のお父様の特別なお目こぼしで生まれ変わらせて貰えたという筋書きである。お父様に感謝こそすれ、現状を怪しむことは有り得ないはず、なのだ。

 斯くして、異常に込み入った、製作だけでなく維持管理にもかなり苦労しそうな罠は完成した。
 そして早くもこの世界の時間で数年が過ぎようとしている、と店長氏は息をつく。
 十八年というのは長過ぎでも、数年という時間は経過していたらしい。その辺りの基準はどうもよく判らない。
 確かなことは、薔薇乙女とマスターの皆さん達は現状を(騙されていることを知らないまま)受け容れてしまっており、誰一人この世界のありように疑問を抱かないまま過ごしてきたことである。
 店長氏としては、いつか誰かがこの歪な状態に気付いて欲しかった。しかし待てど暮らせどその様子はないまま時は過ぎ、漸く今になって予期せぬ方向からのアプローチがあった、というお話であった。

 はあ、さいですか。

 昨日の同人誌もぶっ飛んでいたが、この話もトンデモ過ぎて着いて行きにくい。
 もっとも凡百を以て自認する僕である。頭の良い人の考えがさっぱり判らんのは今に始まったことではない。
 なんか色々としがらみがあった上での選択なのだろう。雪華綺晶さんの天才的な先読みと周到なリスク計算、そして何よりも立場と感情の上では、最良の方策だったに違いない。
 ……とは思うのだが、しかしなんというか。
 なんでアンタはそこまで詳しいんだ、ってのは置いとこう。それは話の受け取り手の人が質問すべきである。
 ただ、傍から無責任に聞いてる分には、えらく都合のいい、それでいて迂遠な話に見えるんだよなあ。なんか説明聞いてもイマイチすっきりしないというか。
 最大の疑問は、そこまでして姉妹を捕まえとく意義がよう判らんというところである。
 やっぱ、キラキーさんとしては捕まえた端から食っちゃった方が良かったんじゃないのか? アリスゲームにも勝てるんだし、邪魔臭い姉妹が居なけりゃ「巻かなかった」ジュン君とは好きなだけイチャイチャできるだろうし。
 まあ、その辺の裏事情は僕などの想像も及ばない話であることだけは間違いない。全くのお手上げ、思考停止ばんざーいである。

 店長氏を真似た訳ではないが、一つ息をついてみる。ばらしーと黒いのがもぞもぞしたので撫でてやる。
 話は一応一段落したらしい。店長氏が椅子に深く寄り掛かり、他の皆さんもそれぞれ沈思黙考というか、自分の中で状況を整理しているようだ。自分達の身にダイレクトに関わって来る話だったのだから当然だろう。
 ただ、僕自身は部外者である。そして今の話とは別件でというか、本来聞きたかった、んで店長氏が話してくれる手筈だったことが他に存在している。
 彼が説明を施したのはキラキーさんの思惑ばかりで、自分のことは未だに何一つ語っていない。さっきの美登里の発言ではないが、胡散臭い雰囲気があるのは否めない。
 本人としては語りたいことは語ったのだろう。だが僕が訊きたいのは、彼自身のやらかした不可解な行動のことだ。
 この瑣末過ぎる扱いの残念人形どもに何故妙なもんを埋め込み、アリスゲームの真似事などさせようとしたのか。その先に一体何があるってーのか──

「──この世界の仕掛けについては、塩入さんの説明で理解できたわ。実感は未だないし……納得出来ない部分もあるけれど」

 僅かな差だった。僕が不粋な質問をするより先に森宮さんが口を開き、僕も含めた全員の視線が彼女に集まる。
 そうだ。大事なことを忘れていた。
 店長氏の解説は一段落だが、まだ謎というか説明の不足している部分はある。その一つが森宮さん周りのことだ。
 森宮さんの夢の中に全員が押し込められている、とかいう特殊事情でもないのに、なにゆえ森宮さんだけが、真紅であったときの──じゃないや、本来の自分をブロックされた形でこの世界に居るのか。
 彼女自身もそれが大きな疑問なのだろう。まるで僕の考えを読んだかのような質問を店長氏に投げ掛けた。

「私だけが記憶を封印されているのは、何故なのかしら。あまり意味がある策とは思えないのに……」
「雪華綺晶は、君を危険だと看做していた。いや、今でも危険だと考え続けているだろう。殊に、君が捕えられるまで積み重ねてきた思索と、姉妹の中で唯一持っていたアリスゲームに対するまともなプランについて」
「……唯一? 水銀燈や金糸雀も、それぞれゲームを遂行しようとしていたはず。彼女達にも腹案はあったのではないかしら」
「水銀燈はシンプルに、自分の腕力で相手の生命を奪うことを是として生きて来た。金糸雀は策を弄して相手のローザミスティカを手に入れることを考えていた。どちらもアリスゲームの意義を問うことなく、その遂行を目的に摺り替えていただけだ」
「真紅も……それほど聡明に振舞っていたようには見えないのだけれど」
「君が持っていたアリスゲームの展望自体は、単純でささやかなものだったかもしれない。だが、与えられた目標を単純に目指すのではなく、自発的に解釈しようと試み、自分なりの指針を打ち立てた。それは他の姉妹にはない資質であり、雪華綺晶にとってはこの上なく危険な特質に思えたのだろう」
「他の姉妹なら何も疑いを抱かない些細な点で、真紅だけは疑問を持ってしまうかもしれないということ……?」
「疑問を抱き、なおかつ綻びを見付け出してしまう可能性もある」
「そんな……買い被り過ぎなのだわ」

「雪華綺晶にとっては、看過できない要因だった。若干の不自然さを残しても、作業が困難であっても君だけは記憶を封じておくべきだと考えた。
 だから君の封じられた記憶には、恐らく雪華綺晶がお膳立てした部分そのものが存在しない。帰還後に「巻いた世界」で起きた事柄のあれこれに関する部分など、不要だから最初から与えられていないはずだ」

 店長氏は実に苦々しい顔になった。まさに苦い薬を無理矢理飲まされているような表情だった。

「私は君が自発的に思い出すか、他の姉妹達が君の記憶を解き放つことを期待していた。無自覚ではあるのだろうが、君の中には真紅であった時の記憶が眠っている。表の性格や嗜好にもそれは部分的に表出しているだろう。封は固くとも、絶対に解けない訳ではないのだ」
「……でも、未だ私には……あらすじを教えてもらっても自分の記憶の不整合面さえ見えない」
「不整合な部分は見当たらないだろう。封じられているのだから」
「そういうものなのかしら……」

 森宮さんは首を捻った。まあ、これは僕にも判る。
 後から人形時代の記憶を入れ込まれていないのと同じ状態なんだから、不整合が起きようもない。
 正直なところ、今の彼女はこの世界に元々存在した森宮留美(名前は変わってるかもしれないが……)そのものに近いのだろう。異物、と言っては失礼だが他に形容が思い浮かばないモノの封印を未だに解いていないとも言える。
 ただ、そうなると二つほど問題が出て来るように思う。
 一つは、真紅としての彼女の記憶を取り戻す方法だ。何をどうすれば記憶のブロックが解除されるのか。

 そしてもう一つ、これは最初の問題よりも先に考えなくてはならん内容なのだが、彼女自身が記憶を取り戻すことに賛成するかどうか、という点だ。
 彼女が記憶を取り戻せば、待っているのは雪華綺晶との対決だろう。恐らく雪華綺晶はこの世界を崩壊させるはずだ。紆余曲折は当然あるだろうが、多分彼女達は早晩元のボディに戻り、アリスゲームは再開を余儀なくされる。
 一方、記憶など欲しくないと言い放ち、ここ──偽りに満ち溢れた楽しい世界で、瑣末な人間として安穏と暮らし続けることもできる。
 ただその場合、彼女は自分達にとって神にも等しい存在から与えられ、恐らく散々頭を悩せた末に独自の視点を持つに至った、「至高の少女になる」という使命を果たすことができなくなる。

 僕は黒いのの髪をくしゃっとやり、森宮さんの横顔を見た。
 彼女も判っているのだろう。そして、多分僕と似たようなことを考えていたに違いない。こちらを見て小さく微笑み、その笑みを消さずに店長氏に向き直った。

「貴方は……私の記憶を解放することができるのかしら」
「方法は知っている。だがその役目は私の成すべきところではない。相応しい存在は別に居る」
「……それは」
「君は未だ盤上に立っている。ならば、君に記憶を取り戻させる役割は──」


「──塩入さーん、お届け物でぇす」

 酷く高まっていた緊張感は、僕と同じように瑣末な人間の声で急激に凋んだ。
 何とも間の抜けた、何処かで聞き覚えのあるような気がする若い女の声だった。
 いや、聞き覚えがあるどころじゃないぞこれは。
 僕が黒いのを膝の上から下ろして立ち上がろうと焦っている間に、はぁい、と加納さんが応対に出る。店長氏もやれやれと息をついて立ち上がった。
 妙に間の抜けた配達屋は、こっちから開けるのを待たずに自分からドアを開け、妙にでかくて重そうなダンボールの箱を抱えて入って来た。どういうわけか上部の蓋は開いたままである。

「アンティークドール五体と、御姫様二人。それから白馬の王子様お一人でぇす」
「はいはい……えっ?」

 一瞬固まった加納さんの脇を擦り抜け、遠慮というものに全く縁のない配達屋はダンボールの箱をテーブルの上にどんと置く。
 美登里がガタリと音を立てて立ち上がり、葵と森宮さんも目を丸くして腰を浮かせる。
 配達屋にクレームをつけようとしたらしい美登里は、その顔をまじまじと見て、ぱちぱちと二度ばかり瞬いた。

「なっ……恵じゃないですか。なんなんですかアンタ、こんな時間に」
「恵……?」
「柿崎さん……?」
「やーどーもどーも。きっとご入用だと思ってお届けに上がったんだけど」

 配達屋、というか柿崎はニヤニヤ顔で皆さんを見回す。
 黒いのが僕の膝の上からひょいと飛び上がった。柿崎はそれを鷹匠宜しく片腕を止まり木代わりにして座らせる。
 いつの間にそんな調教を施したんだ、と思っていると、柿崎は得意気にニヤリと一同を見回した後、入って良いと思うよ、と背後に声をかけた。

「……こんばんは」
「水島先輩と奏子先輩……」
「もう水銀燈と金糸雀でいいわよ、真紅」
「そうね。ちょっと寂しいけど、聞いてしまったのなら仕方ないかしら」
「アンタ達、まさか……外で聞いてたのですか」
「店の外じゃないけど、聞いてた」
「ジュンまで……!」

 ぞろぞろと入って来たのは、確かに御姫様二人に王子様一人であった。
 待てよ。
 すると、アンティークドール五体というのは……?
 嫌な予感がして、僕は咄嗟にダンボールの開いている蓋を押さえようと身構える。が、やはりそこは僕である。少々遅かった。

「天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶかしらっ」
「凶暴女は荷物の扱いがぞんざいですぅ、ぶっ壊れるかと思ったですぅ~」
「確かに酷いね。自分で荷物とか言っちゃうのはどうかと思うけど……」
「諸君、話は聞かせてもらったのだわ」
「山さんの物真似とか今時流行らないのよー」

 てんでに勝手なことを口走り、わさっと一斉にダンボールの縁から顔を覗かせたのは、僕と別れて家に帰ったはずの残念人形どもであった。
 動作を止めて手を引き、大きく息をついてから周囲を見回す。柿崎の実に無責任なニヤニヤ笑いがまず視界に入った。
 この人形どもと柿崎の相性は抜群らしい。ぴんと張り詰めていたシリアスな雰囲気が一瞬で台無しである。
 そして、どうやら薔薇乙女関係の皆さんと残念人形の相性は最悪に近いようだ。
 水島先輩と加納先輩は言うに及ばず、先程はどうにか耐えた加納さん、そして一度は全個体を見ている都合四人までも──要するに店長氏と僕達残念人形の大家を除いた全員が一瞬で気を失っていた。

 店長氏、やはりアンタの選定基準はよう判らん。よりによってこんな危険物体に、大切なものであるはずの人工精霊の欠片を仕込むなんて。
 都合七人の介抱と聞きそびれた話をどうするかに頭を抱えたい気分になりつつ、取り敢えず僕は人形どもに邪魔にならん場所に退却していろと命令を下すのであった。




[24888] 第二期第十九話 人形は人形
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:beec0278
Date: 2012/09/28 23:21


 ~~~~~~ ここではない時間軸 以前 ~~~~~~


「私は……完全でなくてはならないのよ。それは、あなたが人間で……私は、ドールだから」
「私達ドールは人間のように老いることも滅びることもない……」
「翠星石は、御人形ですもの。御人形が成長しては、世の中あべこべですものね……」
「私達は人形でジュンは人間よ。いくら深い想いで繋がったとしてもそれは変わらない」
「……薔薇乙女は変わらない……? 世界に残されたまま塵になるまで……? いいえ真紅違うんです、そんなのは綺麗事です」


 ~~~~~~ その日、ある時刻から数十分前 ~~~~~~

 柿崎と店長氏にも手伝わせ、のびてしまっている七人の侍ならぬ薔薇乙女関係者の方々を取り敢えず楽な姿勢にさせる。
 ベッドかソファに横たえたいところだが、如何せん狭苦しい上に大きめのテーブルまで置いてある人形屋の店内である。到底そんな場所はない。殆どの皆さんは椅子に座って貰うような形になってしまった。
 最もワリを食ったのがマエストロたるジュン君……じゃなかった、アツシ君(まあ、今のところは)であったのは致し方のないところだろう。床に座って壁に凭れる形だが、ここはまあ唯一の男性として我慢してもらうことにする。
 森宮さんを寝かせる役はごく自然に店長氏が担当した。それまでの仏頂面は何処へやら、妙に優しい目になって椅子に座らせる姿は、まるで自分が精魂込めて作った等身大の人形を扱うようにも見えた。
 柿崎はこちらを見て頻りにニヤニヤしていたが、なんなのだ。いや言いたいことは大体想像つくが、こんなときにどうしろってんだよ。
 そりゃ、テメーでさっさと彼女を抱き上げるなりして楽な姿勢を取らせることはできたさ。でもな、彼女は僕の同窓生である森宮留美さんであると同時に、薔薇乙女の真紅さんでもあるという話なのだ。なら、関係者の意向を汲んで一歩引くのがこの場の正しい判断だろうがよ。

「肝心なところで引っ込み思案なのねぇ」
「もう二度も抱っこして介抱してあげてるから、新味がないのかしら。この年頃の男の子は常に刺激を求めるものなのかしら」
「そ、それってつまり次は……アレってことになるですぅ」
「アレってなんだい?」
「あ、アレは……アレなのだわ。恥ずかしいことを言わせないで頂戴」
「アーレー御代官様ー、ぐるぐるぐるー、なのー」
「それは……ちょっと違うと思います……帯がないので……」
「半端な知識で人様を言いたい放題語ってんじゃねーぞこの人形どもが」

 それも本人の目の前で。しかも最後のはなんだ。再放送の時代劇の見過ぎかよ。
 僕が怒ってみせたのを見て興が乗ったのか、残念人形どもはひとつところに寄り集まって更にギャーギャー騒ぎ始めた。どうせ一喝して大人しくなるような連中ではないので無視する。一度は窘めたという事実が重要なのである。
 しかしまあ、なんだ。
 自分達の動力源の正体と、躍起になって取り組もうとしていた(というか止めろと言ったのを無視して実質続けていたヤツもいる)アリスゲームの名前を冠した単なるぶっ壊し合いの裏事情が、両方共あっさりとネタバレされてしまった訳だが、どの人形もそれには一向頓着していない様子である。
 これが人間と人形の違いってヤツなのかねぇ。それとも、人形どもの性格やら何やらも店長氏が作り付けたモンで、バレた後のことまで考えてしっかりとプログラミングなりしてあったということか。
 まあ、そこまでやったのかどうかは定かではない。しかし少なくとも人形どもに動力ユニットを埋め込み、戦うよう動機付けしたのはご本人の口から直に語られたとおりである。

 そんな摩訶不思議な仕事をやってのける店長氏とは一体何者なのか。まさか、ローゼンメイデンさん達の「御父様」ご本人だったりするのか? それにしては妙に人間臭いというか、こう、私凄いんです的オーラみたいなものが見えないんだが。
 いやそれはいい。誰であっても目の前にあるコイツ等(今は店内の人形を品評して回っておる。ばらしーの時にも思ったが、良い物を良いと思う感性を持っていることだけは評価してやっても良い)に妙なモノを仕込んだと自らのたまったことに変わりはない。
 本人形達はあまり頓着していないのかもしれん。しかし残念人形五体、襲撃に来ている黒いのとばらしーを含めて実質全ての人形の面倒を看てやっている僕としては、如何にも「その辺の適当なブツを利用しました」的な印象も含め、彼の事情と真意の程を知りたいのである。


 ~~~~~~ 第十九話 人形は人形 ~~~~~~


 控室兼事務所のようなごく狭い部屋の中で、僕と柿崎は店長氏と向き合って座った。
 テーブルもないのでデスクの周りに適当な折り畳み椅子と何かの箱を並べての会合である。それでも何故か暖かい紅茶は振る舞われた。店長氏手ずから淹れてくれたものである。
 見事な香り、と感嘆すべきところなのかねぇ。
 家でも(ローゼンメイデンかぶれの赤いのにせがまれて)スーパーに売っていたティーバッグを何種類か常備してはいるが、精々数日に一遍かそこらしか飲まない僕としては、その良し悪しまではイマイチ判らん。ただ、いい匂いには間違いなく、そして気絶した女の子達を抱えてあっちだこっちだとバタバタしていた十数分から解放されたような気分にはなれた。
 とはいっても、これから話す内容はまたもや(少なくとも僕にとっては)糞面白くもなく、同時に息詰まるような内容になってしまうのだが。
 さて尋ねるぞと気合を入れる代わりに、段ボール箱の上で背を伸ばしてふうと一息つく。
 しかし口を半ば開けかけたところで、僕の言わんとした台詞は横合いから掻っ攫われてしまった。間抜けなことこの上ない。

「早速なんですけど店長さん。あの人形達にローゼンメイデンの真似をさせたのはどうしてですか?」
「……おい柿崎、そりゃ幾らなんでもストレート過ぎじゃ」
「良いじゃん。あたしはそれが聞きたくてここに来たんだしさ。それに、あの人達の前じゃー言えないようなことでも、今なら聞けるかもよ?」
「まあ、そりゃそーかもしれんが」
「あんたも聞きたいっていうか、文句の一つも言ってやりたいんじゃない? 人形押し付けられて、しかもあんなに懐かれてるのに、いっきなりタダの道具でしたって聞かされてさ」
「……まあな」

 いや、まぁな、どころじゃない。実にそのとおりである。曖昧に答えたのは、正直に認めるのがなんとなく癪だったからに過ぎない。
 時折こういうことがあるから、柿崎という奴の評価が僕の中で定まらなくなる。
 ひょっとして僕の態度を見て気を回して、自分から切り出してくれたのか? いやいや、こいつに限ってそんな細かく空気を読むようなことは……。
 まあ、どっちでもいいか。一応腹の中でだけ感謝を述べておく。いつか機会があったら口にしてやることもあるかもしれん。
 柿崎は別段僕に何かそれっぽい仕種を見せることもなく、さっと店長氏に向き直った。いつもながらの直截で判り易い、悪く言うと餓鬼のように幼い上に容赦がない口振りで、尋ねるというよりは訊く。

「例えばこの店の中にもドール沢山ありますよね。薔薇水晶みたいに全部店長さんの自作じゃダメだったんですか? あんなに何体も見つけて来るの、結構大変だったと思うんですよ」
「……ああ」
「なんででしょ? 第一、あの人形達ってローゼンメイデンと全然似ても似つかないですよね、作った人の苗字が似てるくらいで。オママゴトってゆーかアリスゲームもどきまでさせる必要、あったんですか?」
「それは……」
「ローゼンさんが実在した人かどうか知りませんけど、アリスゲームが切瑳琢磨か壊しっこなのかも知りませんけど、身内でやる分には何してもらっても構わないって思うんですよ。でも、あの人形達は違いますよね? 作った人も、作られた経緯も」
「そうだな」
「どうして自分が作った人形にやらせなかったんですか? 何か理由があったんですよね。そこらに落ちてる人形を有効活用しただけ、じゃないと思うんですけど」

 餓鬼っぽさ満点なだけに、質問が続いている間は合いの手も思うように入れられない。あまり早口で押してる雰囲気はないんだが、開き直って聞く耳を持っていないぞと宣言しているような台詞と口振りが実に始末が悪い。
 どうにも口が上手そうではない店長氏は防戦一方になってしまった。まるで先程のリピート映像を見ているような案配である。
 柿崎の指摘した点は当然のように僕も同感であり、どうも好きになれないのだが、店長氏は彼なりに真面目な人物ではあるのだろう。こういうときははいはいと適当に聞き流して、相手がそれに気付いたところでこっちの言いたいことを纏めて言ってやれば済むといえば済むところを、方便としてもそういう不真面目な態度は取れない性格のようだ。
 柿崎の方も流石に一方的に遣り込めるつもりはないらしい。言いたいことは一応言ったという風情で、身を引き気味にして店長氏の言葉を待つ。
 店長氏は少しばかり雑な仕種で紅茶を口に運び、カップの中の液体を飲み干した。イライラを抑え込もうとしてるようにも見える。まあ、無理もないか。

「君達から見れば、身勝手そのものに思えるかもしれない」
「そりゃまあ、僕等は一応人形どもの世話してる訳で」
「あたしは別にって感じだな。だって、上の人ってそーいうもんじゃん、大抵」
「……言ってくれるね」
「建設業の下請けの下請けですからね、そーゆーの慣れてますから」

 そりゃ、お前じゃなくて親父さんのことじゃねーか、と突っ込むのは控えておこう。
 柿崎の親父さんは工務店をやってるが、この不景気で色々と大変なのである。僕にも時折バイトのお鉢が回ってくる(大抵唐突に話が回って来て週末一杯肉体労働させられる訳だが、金を貰っているのだから「駆り出される」と言っては失礼に当たるだろう)くらいだから、柿崎はもっと頻繁に手伝わされているに違いない。
 手伝っていないときでも仕事関係の応対なんかは嫌でも目にすることになる。事務所が居間の隣だから仕方がない。
 柿崎から見れば、そういう職業もあるとは判っていても、店長氏のやってることなどは丸々お遊びに思えてしまうのかもしれん。体動かしてなんぼ、人使ってなんぼ、怒鳴られて頭下げてなんぼ、の仕事とは少しばかりベクトルのずれたところの商売だから。

 ……なんか一気に話が俗世の方に傾いてしまった。もっとも、致し方のないことではある。
 僅かな沈黙の後で、まあそんな感じなんで気にしないで続けてください、と柿崎は先を促した。流石に言い過ぎたと自覚したのだろう。
 店長氏はまた続きを言いづらそうな顔になったが、頷いて重そうな口を開いた。
 優柔不断という訳ではないんだろうが、このなんとなしの頼りなさというか、悪い意味での育ちの良さ的な何か。うーむ。何処かで見たことがあるような気がしてならない。

「この世界に来て、状況をほぼ理解してから、私はこの世界でのローゼンメイデンの痕跡を探し始めた。ここが「巻いた世界」か「巻かなかった世界」か、あるいはどちらでもないのか、それで判断がつくと考えたからだ」
「……で、結局のところ、三番目だったってことですかい」
「そう。世界については、「巻いた世界」でも「巻かなかった世界」でもない」
「葵の書いた小説にもあった、末の枝ってヤツですね」
「よく覚えてたね桜田。らしくないじゃん」
「ほっとけ」
「……そこでもう一つのことが判る。この世界には、ローゼンメイデンとマスターが夢を繋がれた人々以外に、本来のマスター達の同位体が──「巻いた」ジュンに対する「巻かなかった」ジュンのような存在が居たはずだ」
「当然、あたし等のことじゃーないんですよね、それ」
「ここじゃない何処か、僕等でもそっちのマエストロの憑依先の森宮アツシ君でもない誰かってことか……」

「……ならば、ローゼンメイデンの代わりに何かがあるかもしれない。例えば一字違いの人形師に作られたアンティークドールなどが」
「そうやって調べてって見付けたのが、あの残念な人形どもだったってことですか」
「ああ。だが、全く違っていた。姓が一字違いの別人、でしかなかった」
「出来はアレだもんな……。どう見ても全くの別物っスよね」
「類似点はない訳ではない。だがそれ以上ではない」

「だからって、見付けた人形に壊し合いをさせることはないですよね? その辺の理由を聞きたいなーって」

 僕と店長氏の和みかけた会話に割り込み、柿崎は如何にも上辺だけの愛想の良い笑顔を見せて催促した。店長氏の相変わらずの婉曲な話し振りに、イラッときた様子が見え見え……というより、わざとそう見せているような気配がある。
 ガサツに見えて、というか実際ガサツなのは間違いないが、こういうところだけは知恵が回るのが僕とは違うところである。まあ女性だから、と言えなくもない。
 ともあれ、やや神経質な雰囲気のある店長氏は、当然のように柿崎の態度に気付いた。済まない、と謝り、くだくだしい経緯は省いて続きを話し始める。

 彼が六体の残念人形ども自動残念人形に改造し、自分が魔改造したばらしーを加えて七体とした人形どもに益のないぶっ壊し合いをさせることを考えた理由は、いつまでも目覚めない真紅に対しては覚醒を促し、他の姉妹に対しては現状を問い直す切っ掛けを与えるためだった。
 彼女が目覚めるか、他の姉妹達がアリスゲームが終わっていない現状に気付けば、自分を含むローゼンメイデンの関係者一同はこの状態を脱することができる。そう店長氏は考えた。
 あるいは、彼女達は状況を知った上でこの夢の世界にいつまでも(とは言っても宿主となった人の死が訪れるまでではあるが)居残りたいと考えるかもしれない。それはローゼンメイデン達の判断に委ねれば良い。

 ローゼンメイデンが漫画、及びアニメとなって存在する世界で、それとは別口に「生きた人形」がいて百年以上前からアリスゲームをしている。しかも、それらが自分達のごく近いところに居る。
 つまりこの世界には、森宮さん達の他にローゼンメイデンを名乗るモノが、以前からもう一種類存在することになる。
 どの世界を通じてもそれぞれ一体ずつしか存在しない、のがローゼンメイデンさん達のタテマエだ。複数存在するということは有り得ないはずだし、これまでは確実にそうだった。
 おかしな事だ、理屈に合わない、と考えるだろう。
 もし矛盾に気付かなくとも、残念人形達に興味を持ってくれれば容易に事態の糸は店長氏に繋がる(まぁ、ばらしーの製作者ではあるし)。そこから徐々に考察してくれれば良いという理屈だ。

 彼は人形どもの大家として真紅(である森宮さん)達の同窓生である僕、そして中学のとき僕と蒼星石(葵)の同級生だった柿崎を指定した。
 僕がジュン君と同姓かつ名前の読みが同じだったこと、僕等二人が石原姉妹と中学からの知り合いだったことは偶然ではない。お誂え向きの人間をピックアップしたという訳だ。
 彼としてはここから森宮さんなり他の姉妹さん達なりが自分で異常に気付き、少しずつ謎を解き明かしていって欲しかったに違いない。
 残念ながら、その目論見はどうもちぐはぐな形になってしまったようだ。
 現に、先程の呼び出しの内容を考えると美登里は僕を、真紅の覚醒を促す件に積極的に巻き込もうとしていたらしい。しかも、少なくともあの場では、僕が無自覚に残念人形関係の話を振っても「この世界ではそうなってるんですね」みたいな反応しか示さなかった。人形もゲームもどきも不要だった訳だ。
 森宮さんにしても、本当にゆっくりではあるが自分を取り巻く何かに疑問を持ちつつあった。いずれ、何かの形で実現していただろう。僕と出会って数ヶ月してから漸く話を持ち出してきたのは──まあ元を辿れば店長氏のお陰なのかもしれんが。
 そして、今日ここに乗り込むことを決めたのも、実際いま店長氏に膝詰めで談判しているのも、薔薇乙女の皆さんではなくて僕と柿崎──多分に名前でチョイスされたと思しき、ただのこの世界の住人である。
 森宮さんは目を覚ますこともなく、今のところはまさに眠っているというか失神しており、この場に居合わせていた方がいいはずのマスターの皆さんは二人ばかり足りない。なんとも締まらない状況ではある。

「じゃあ、目的はこれで一応達成ってことですよね」
「……ああ」
「もうローザミスティカ、じゃなくてホーリエの欠片でしたっけ、それの取り合いは必要ないんですよね?」
「そういうことに……なる」
「ああ良かった。じゃーもうそちらさんの都合で改造されたり妙な刷り込みされたり殺し合いもどきさせられて見世物になることもないんですよねあの人形達」
「……そう、だな」

 再び攻勢が開始された。しかも今度は大分勢いが激しい。
 仕方ないけどな。森宮さんやら石原姉妹に近く、どうしてもそっちの事情と絡めてものを考えてしまう僕と違って、柿崎は人形ども、というか黒いのを中心にものを見ている。要するにさっきの柿崎の言葉で言えば、下請けの下請け、の視点なのだ。
 店長氏の言い分がどうあれ、残念人形どもに近いところから見れば、これは大いなるとばっちりである。
 店長氏が初め期待していたように「異なる世界の同一人物」的な存在だったとしても、元々は全く無関係だったはずなのだ。何しろ、ローゼンメイデンの関係者ご一同様は、この世界の産ではないのだから。
 心なしか悄然としているように見える店長氏に対し、柿崎はフンと鼻を鳴らして更に何かを言ってやろうとしたが、斜め下からの声で邪魔をされた。

「あのねー、ジュン。メグさんも……」
「あまりその人を責めないで欲しいのだわ、二人とも」
「ツートンに赤いのか……って全員いるのか。店内ツアーは済んだのか、お前等」
「とっくに見終ってるですぅ」
「そのまま居ても良かったんだけど、目が覚めた時にあの子達が僕達を見たらまたヤバいことになるかもって、ばらしーが」
「先程の状態……見てしまうと……ごめんなさい」
「ばらしーの指摘は正しいわ。今日は犠牲者出過ぎかしら」
「まあ耐性付けるためには何度も見た方が良いと思うけどぉ」

 ゾロゾロと出て来た人形どもは、やはり先程と同様、これといった強い反応を示してはいない。かといって、特に人生ならぬ人形生を達観しているとかいう風情でもない。
 赤いのが人形どもを代表するように一歩こちらに寄って、僕達の顔を見上げた。

「ねえジュン。メグも。貴方達が思い入れてくれるのはとても嬉しいわ。でも私達は人間ではないの。観賞用に作られた、芸術品でもないわ」
「まあそりゃ一目瞭然だな」
「動力を付け加えられたり、知らなかったはずのことを知っていることにされたり……人間ならば容認できないことでしょう」
「記憶は大事だよね。記憶が人格を作っているんだし」
「私達にとっても、持ち主の人と過ごした記憶は大事なものよ。でも、私達は「御人形」なの。遊ぶために作られた「御人形」……判って?」
「薔薇乙女の皆さんとは違うってことか?」
「当然それもあるけれど」

 赤いのはまた数歩、立っているときは目立たないが、歩行するとなるとあまりバランスの良くない体をノソノソと動かして店長氏の方に近づいた。
 ここは見せ場である。くるりと踵で半回転し、綺麗に向き直りたい場面だろう。しかし赤いのはギイギイいいそうな動きでこちらに頭部を向けただけだった。
 まあ、妥当な判断だな。くるりと回ったら床にぶっ倒れてバラバラはおろか一気に燃えないゴミ化するかもしれん。

「私達にとって一番大切なのは、自分を使って遊んでもらうこと。遊びに使ってもらえない人形なんて、意味がないから」
「……そんなもんかね」
「少なくとも彼は、朽ち果てかけていた私達を探し出して、自分の遊びに使ってくれたわ」
「勝手に改造したけどね。ボロボロになってるのを修繕もしないでさ」

「確かに、遊びやすいように改造もしたけれど、それは仕方ないこと。ボロボロになっていたのを修繕しなかったのも、それに意味があったからでしょう。
 それでいいのよ。私達は到底永遠の存在ではないし、動物が老いるように劣化することも避けられないのだから。
 どんなに注意深く扱われても経年劣化するところはあるし、腐ったり錆びたりする部分もあるの。そして、最後は壊れて捨てられるのがさだめ。
 ましてや、私達は皆、もう殆ど見捨てられていたのだから……」

 赤いのはお得意の長広舌を繰り広げつつ店長氏の膝下まで寄り、今度はその顔を見上げる。
 店長氏は逃げずに視線を合わせた。
 シリアスなシーンでこんなことを言うのは何なのだが、素直に偉いと思ってしまう。僕ですら直視はなるべく避けているのだが。

「だから──ありがとう。私達は皆、貴方に感謝しているわ。大掛かりで長く続く遊びの道具に使ってくれて、そして……」

 振り向き、ちらりと僕を見上げる。不細工というレベルでなく、何か決定的に歪んでいるように見える顔なのだが、この瞬間だけはどういう角度の加減か、微笑んでいるようにも見えた。

「この人と巡り合わせてくれて。私達みんな貴方が大好きよ、ジュン」

 後から考えてみると、恐ろしい宣言もあったものである。
 このときの赤いのは全残念人形を代表していた。ということは、僕は都合六体から大好きコールをされたことになる。
 冷静に考えれば鳥肌では済まない。耳の後ろがザワザワし、顔から血の気が引き、いやいや逃げ出すか卒倒していてもおかしくない。
 そう考えると、この時の僕は今朝からのあれこれで大分おかしな精神状態にあったに違いない。

 僕は立ち上がった。腰を屈めて赤いのを抱き上げ、そうか、と言って抜けそうな髪の毛をそっと撫でてやる。
 他の六体(ばらしーを含む)がゾロゾロと寄って来て、わたしもわたしもと口々にせがむ。それを順番に抱きあげて撫でてやる。
 そんな作業をしているうちに、僕の顔は自然に笑っていた。普段ならば有り得ないはずのことだったが、それに気付くことさえなかったのは、やはりどうかしていたからに違いない。




[24888] 第二期第二十話 薔薇の宿命
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:beec0278
Date: 2012/09/28 23:22


 ~~~~~~ 昨年秋、某所 ~~~~~~


「貴方の言いたいことは判ったわ。内容の真偽や、やろうとしてることの是非はともかくね」
「流石だな。理解が速いのは有難い」
「でも、何故私だけ?」
「何故、とは?」
「これを私にだけ話したのは何故かって訊いてるの。他にいくらでも居るでしょうに」
「君が一番相応しいと思った。それだけだ」
「ふん。おだてたって何も出ないし、出せるような状況でもないわよ。逆に見返りを要求したいくらい」
「見返りか……」


 ~~~~~~ その日、ある時刻から十数分前 ~~~~~~


 あまり深く考えないことにしたい作業(この時点では事の重大さに気付いていなかったが)を早々に切り上げ、席に戻る。
 繰り返すが席といっても中に何か入った段ボール箱である。まあ、この場の僕等には相応しいような気がしないでもない。
 柿崎はちゃっかりとばらしーを抱っこして、まだどうも納得していない様子でじろじろと店長氏の方を見ている。まあ、柿崎的には何も解決してないと言ってしまえばそのとおりであるから致し方ない。
 店長氏の証言が正しければ、彼が自分の都合で殆ど縁もゆかりもないボロ人形どもを改造したのは事実なのである。それも、後でぶっ壊す……訳ではないが、壊れることを前提として、だ。そりゃ、黒いのとえらく仲の良い柿崎にしてみれば徹底的に文句を言ってやりたいだろうさ。
 でもしゃーねーだろ、と思ってしまう僕は、柿崎より少しドライなのだろう。
 人形どもを抱っこしたり撫で撫でしたりとやっていて思い付いたのだが、これは結局どこで線引きをするかの違いなのだ。

 人形どもについ肩入れしてしまうくらい関わった僕からすれば、コイツ等はその辺のゴミ捨て場に放置されてるがらくたとは若干違っている。
 どっか不具合が出れば直してやるし、仮に欠けたり割れたりすれば修繕してやるにやぶさかではない(本人形どもがギャーギャー騒ぐから、という理由の方が大きそうだが)。本人形達がやる気満々だけに敢えて止め立てはしてこなかったが、ぶっ壊し合いを嬉々として望んでいる訳でもない。
 例えばゴミ捨て場に放置されている五体満足な人形からパーツ取りしてコイツ等の修繕をしなければならないという話になったら、誰かに強く反対されない限り実行するだろう。そういうシチュエーションが今後あるかどうかは別として。
 要するに、僕はゴミ同然のコイツ等と全きゴミの中間に明確に線引きをしているのだ。

 店長氏の場合、当然線引きは別のところにされている。
 僕等、凡百の人間と自分達の間に一線があるのは今更言うまでもない。薔薇乙女の皆さんも店長氏の側──線の向こう側に存在している。
 残念人形どもは……まあ、改めて言うまでもない。一応薔薇乙女の皆さんと同じ西洋人形、多分似たような時期のアンティークドールという括りの中に入るものではあるはずなのだが、向こうさんの視点で見れば、それは蚊と人間は同じ生物であると言っていることと変わらないのだろう。
 大事な薔薇乙女さん達のために、残念な古人形を拾ってきて、壊すのを前提で利用する。
 言うなればお子様のために(壊されるのは折り込み済みで)玩具を買い与えるのと同じことだ。彼の中ではそれだけのことなのであり、だからどう、という事柄ではないのだろう。

 価値観が違うのだからどうしょーもない。そう言うしかない。
 柿崎も理屈はともかく、直感で判ってはいるはずだ。認めてやるのは少々悔しいが、こういうことにかけては僕よりもすっぱり諦める、というか割り切れるヤツなのだ。普段は。
 逆になんとなく理解しているからこそ、何か一言言ってやりたい気分が募るのだろう。それもまた、しゃーないことである。
 とはいえ、いつまでも険悪な雰囲気にしておくこともできんわけで。


 ~~~~~~ 第二十話 薔薇の宿命 ~~~~~~


「──いつまで口尖らせてんだよ」
「尖らせてないよ、別に」
「そうか? タコみたくなっとるぞ。こんなん」
「尖らせてないってば。ったく、暇なおばはんかアンタはっ」
「のわっ」

 すぐ手が出るのがこの女の悪いところである。手に持った紙袋でこちらの頭をぽかり、というかばさりとやりおった。昨日の松葉杖と違って大層な勢いであった。
 今も柿崎の椅子の脇に立て掛けてある杖を使わなかったこと、いや、袋の中に尖ったものやら固いものが入っていなかったことを感謝すべきかもしれん。袋は間の抜けた音を立ててびりびりと裂けたが、僕の頭は無事であった。
 柿崎は辛うじて中身の零れ出なかった袋をためつすがめつし、わざとらしく呆れたような声を出す。

「あーあー、どうすんの桜田、破けちゃったじゃん」
「お前がやったんだろがっ」
「まー中身が出なくてよかったよかった」
「ったく……」

 空気を読んだというのか、ぽかりとやって気分を切り替えてくれたのは良いのだが、矛先がこっちに向くのは問題である。
 毎度毎度叩かれるこっちの身にもなってくれ。僕の頭の中身は、人形どもと違って目玉を粘土で固定してあるだけではないのだぞ。
 それにしても、ぶち当てられた紙袋の中身は何だったのか。布か何かっぽい感触だったが。
 柿崎はばらしーを膝の上から隣に下ろし、紙袋を開けて何やらごそごそやっている。
 手元を覗き込もうとすると、ニヤリと笑ってこっちを見る。またしても悪巧みを思い付いたのか。

「何、中身気になってんの?」
「そりゃ、あの勢いでぶっつけられたんだからな」
「だいじょーぶ、崩れてないから安心しな。アンタの頭はそんなに鋭くなかったみたいよ」
「絶壁頭とでも言いたいのかよ」
「つーか頭の頂上が尖ってるヤツ結構いるからねー」
「あーそれは判る……いやそういう話してる場合じゃないだろ」

 いかん。こいつと話してると話がどんどん明後日の方向に進んで行く。
 柿崎はさっさと袋を閉じ、僕の逆の側に置いてまたばらしーを抱っこしてしまった。中身を尋ねるタイミングを微妙に外しやがったなこいつ。

 まあ、いいか。盛大に脱線してしまったが、話を元に戻そう。
 取り敢えず、元々店長氏に聞きたかったことの大部分は聞き終わった。柿崎がどさくさに紛れて要領良く(というか強引に)確認してくれたお陰で、最早ぶっ壊し合いをする必要がないことも確約が取れた。
 後、聞きたいことといえば……。

「人工精霊の欠片は、人形どもから抜き出すなりして、元に戻すんですか」
「……そうしようと思っている。ホーリエは真紅のものだ」
「コイツ等が動いたり喋ったりすることはなくなる訳か」
「仕方ありませんが……お父様は残念がると思います……」
「私達だって残念よぉ。なんだかんだ言って、人間にズケズケ物が言えて自分で動けるのは便利だったわぁ」
「私は……動けなくてもお父様に愛してもらえればそれで……ぽっ」
「あーはいはい。乞われて作られた子は何かにつけて得なのだわ。それに比べて……」
「ジュンも少し見習うべきかしらー。誰だってばらしーみたいに愛でて欲しいかしら」
「そーですぅ。ジュンはお人形に対して愛情がなさ過ぎです。五体も所有してますのにぃ」
「たまには抱っことかお散歩とかして欲しいのー。ねー蒼星石」
「僕はたまに頭撫でてもらえるから……えへへへ」
「お前等今んとこ勝手気侭に動いてるだろうが。今日なんか全軍で学校まで遠征して来やがったくせに」

 お陰で大惨事だったではないか。しかもここまでの会話の流れに何一つ役に立っておらん。
 第一、僕は快適な(……とは言い難いが、まあそこはそれというやつで)一人暮らしの家に勝手に次々と押し掛けられただけであって、こっちから求めて所有した覚えはないんだが。これっぽっちも。
 店長氏によれば適当に見繕った中に居たのが僕であって、多分名前が合致していたことが最大の選定理由だろう。相性もヘッタクレもなく、まさに押し付けに他ならない。まあ、今更ではあるけどな。
 それにしても、よく邪魔の入る問答である。まるで先に進まない──
 と思っていたら、また柿崎が横から口を挟む。こいつは先に進める気満々である。おまけに遠慮というものが全くない。

「しっかしー、店長さん凄いですよねー。人形に動力与えたり抜いてみたり、記憶を与えてみたり。そんなことできる人って漫画の作中にいましたっけ?」
「いなかったら誰がローゼンメイデンさん達作ったんだよ」
「いやー、そりゃローゼンさんは万能の神様なんだけど。でも本人全然出て来なかったじゃん? それっぽいカッコでは」
「……そうだったっけ? エンジュさんとおんなじ姿じゃなかったか?」
「それはアニメ。槐さんもアニメオリジナルだってば。アンタはもうちょい漫画に興味持って読み込みなよ。せっかく雪華綺晶さんが作ってくれたんだから。マエストロなんでしょーが」
「うっさいわい。名前が同じだけだろうが」
「えー? さっき緑色の髪の子が言ってたよ、アンタはみんなのマエストロだって」
「あー、そっちかよ……」
「森宮ちゃんに認定されたみたいじゃん。良かったねー、ローゼンメイデンのお墨付きだよ」

 ぷぷぷ、と口に手を当ててわざとらしい声を上げる。何が良かったねーだ。まあ確かに言われたけどな。
 まあそれはいい。
 店長氏の正体は僕も気になっている。なんとなく予想はしているのだが、それだと少しばかり疑問も出てくる。
 取り敢えず、エンジュさんではなかったようだ。つかアニメだけのオリジナルキャラだったのか。道理で漫画で見かけなかった訳である。
 そうなると──

「──苦戦中ね」

 戸口の方から、やや張りのない声がする。振り向くと、まだ失神から覚めたばかりなのか、疲れたような表情の水島先輩がドアの枠に背を凭せ掛けるようにして腕を組んでいた。片手で乱れてしまった髪を直している。
 店長氏の顔が微妙に苦っぽいものに変わった。彼女の言葉に反応しただけ、とは思えない。何かもう少し複雑な感情が渦を巻いている。
 水島先輩も当然それは見て取ったのだろう。背を離して室内に歩み入った。デスクを挟んで店長氏を見下ろすような形になる。
 慌てて立ち上がり、どうぞと席を勧めてみたが、苦笑いして首を横に振られた。まあ、そりゃそうだわな。段ボールだし。
 とはいえ、また席に戻るのも二人の邪魔をしているようで居辛い。僕は纏わり付いてくる人形どもを引き連れ、立ったまま柿崎の脇の方に後退した。
 店長氏は顔を上げ、水島先輩の顔を見詰める。水島先輩は静かな、しかしシニカルな笑いを浮かべた。

「いいざまね。子供に遣り込められて」
「……らしいだろう?」
「開き直ってる場合じゃないでしょうに。口が達者じゃないのは判ってたけど、もう少しどうにかならない訳? 何時まで経っても貫禄が付かない男だこと」
「君だって子供じゃないか」
「状況が理解できないの? 今度はその私にいいように言われてるのよ、貴方。全く、どうしようもないったら」

 水島先輩はやれやれと肩を竦め、それでどうするつもり、と尋ねる。店長氏は片眉を上げ、僕等をちらりと見遣ってから、それは君達次第だ、と答えた。
 念の為に言うと僕等部外者に向けた台詞ではない。あくまで会話対象は水島先輩……いや、水銀燈である。
 それはいいんだが、何なんだ。この別れた恋人同士みたいなやり取りは。
 水銀燈に恋人なんていたっけ? 契約者の愛毬さん……いや柿崎めぐさんか、専らそっちに拘っていたような印象しかないのだが。言うなれば百合百合しい御関係というか、逆に恋愛以前というか。
 いやまて。そういう先入観は宜しくない。僕の知識源はどちらもうろ覚えの漫画とアニメであり、それはキラキーさんが監修の上制作されたものだという。実際の彼女達の細かい事情なんかを細大漏らさず網羅してる訳じゃーないだろう。
 例えば描かれてない人間関係があったとしても不思議はない。また、それこそこちらの世界に生まれ変わってから──じゃなかった、水銀燈さんが「水島真希」さんに取り憑いたような状態になってからの数年間のあれこれなんぞ知る由もないのだ。
 ただ、この口調は微妙に気になる。まるで水島先輩は──

「──君達次第、っていうよりは真紅次第でしょ?
 あの子も因果なものね。記憶が無いなりにこの世界に馴染んで来て……自分の道を見付けかけていたのに、その相手に後戻りの切っ掛けを作られるなんて。
 それが私達……薔薇乙女の宿命なのかもしれないけれど。
 結局、自分の勝手な方向に進むことは許されない、避けられないゲームをするために作られた人形ってこと」

 こちらを真っ直ぐに見る。貴方達とは違うのよ、と言っているようだった。
 ごもっともである。僕は頭を下げた。

「ホントすいません。余計なことやらかして」
「謝る必要はないわ」
「いや、目論見って言ったらアレですけど、店長さんの予定がひっくり返っちゃったのは事実ですから」
「まぁね。でも私自身、理不尽なことを言ってるのは理解してるつもりよ。動く人形──有り得ない妙なモノを貴方達に渡して、引っ掻き回したのはこっちなんだから」
「はは、まーそれは……。でも、一つだけ言わせて貰っていいっスか」
「どうぞ。言ってご覧なさいな」

 水島先輩の言葉は、なんというか、水銀燈のイメージとは少しばかり違っているような気がする。
 最初に会った時から思っていたのだが、如何にも年上という感じだ。包容力があって、そうだなぁ、森宮さんのお姉さん(桜田のりさんに当たるはずだな)に何処か通ずるところがある。
 まあそれはともかく、今は御言葉に甘えて。

「今日ここにやって来て、余計なことを尋ねたのは全部僕の思い付きです。色々と台無しにしちゃったのは申し訳なく思います。
 でも、こうなったことは森宮さん……真紅って言ったらいいのか微妙ですけど、とにかく彼女自身にとって後戻りなんかじゃあないって思うんですよね。
 波風が立たなくても、彼女はあとほんのちょっとで自分から目覚めてたと思います」

 簡単に、これまでの経緯を説明する。
 森宮さんは自分の周りがちょっと変なことに随分前から気付いていた。その変な部分の謎解きをしたいとも考えていた。ただ、それを中々実行に移せなかっただけで。
 それを、僕というお邪魔な存在が近くに出没するようになったお陰で、漸く踏ん切りがついたのが昨日の晩なのだ。
 僕というよりも残念人形の方を想定していたのだろうが、ともかくも僕等が彼女に接触するように仕向けたのは店長さんである。まー、そういう意味では切っ掛けを作ったのは僕というより店長さん自身と言えるかもしれん。
 まあその辺りはどうでもいいことだ。店長氏がなにか画策しようとしまいと、僕なんかの存在があろうとなかろうと、彼女はいずれ何等かの方法で自分の周囲の謎を解き、そしていずれ目覚めただろう。それは間違いない。

 彼氏ができた振り、なんてオママゴトみたいな仕掛けをして、周囲が慌てたらストレートに切り込む。思慮深いはずの真紅が考えたにしては幾らかしょっぱい作戦だが、彼女自身がやる気になっていたのだけは確かだ。
 ローゼンメイデンの漫画の台詞で言うなら、彼女はもう自分の扉の前に立っていた。
 後はドアノブに手を掛けて押し開けるだけになっていた。直接の切っ掛けは何でも良かったのだ。

「ですから、今晩の店長さんの……なんつーか、ネタばらしは望むところだったはずです。結果の方は、望んでいたモノだったかどうかは判りませんけど。
 でも、森宮さんがどんな決断をしても、それは少なくとも後戻りじゃないと思うんです。
 考えて、悩んで、自分で選び取った、前向きの道なんです。僕はそう信じてます」

 俳優ならともかく、ふっ、という笑いが似合う女の人は中々いない。と思う。十代であれば尚更である。
 しかし、水島先輩はその数少ない一人だった。可笑しさと寂しさと諦めとちょっとした上から目線と、それから……なんというか優しさを綯い交ぜにした笑いを口許に浮かべ、ちらりと店長氏の方を振り返る。

「……だ、そうよ。良かったわね」
「ああ」
「ありがとう、桜田君。あの子自身はともかく、今の一言でここにいる人間が一人、救われたわ」
「いやあ、そんな大層なつもりは」
「こっちが勝手に感謝したいだけよ。何もかも受け取る側の問題ってこと。──貴方の言ったことと同じでね」

 水島先輩は何やら難しそうな台詞を口にしてからデスクを回り込み、店長氏の隣に立って僕等──二人と七体を見回してにやりとした。
 あまり面白い眺めじゃあないはずなんだが。殊に残念人形どもは。さっきは一撃で沈没してしまった訳だし。
 だが、水島先輩は今度は顔色一つ変えなかった。慣れるのが早いのか、さっきは何か特別だったのか。

「怪我をしてる柿崎さんには悪いけど、少し二人だけにしてくれる? ちょっと、この男に説教してやりたいことがあるのよ」
「あ、ぜーんぜん悪くないですよ。もうギプスに慣れてますし」
「そーいう問題じゃなかろうが。ほれ、手ぇ貸してやるから立て」
「おうセンキュ。珍しく気が利くねえ桜田」
「明日はドカ雪が来るかも、ってか。ほっとけ」

 軽口を言い合いつつ、柿崎を立たせる。松葉杖を持たせるのは忘れない。
 ちなみに昨日のバスの一件から判っているが、先程も両手で段ボールを抱えて店内に入って来たように、こいつは割合平気で杖なしで立ち上がり、興が乗れば歩く。既に痛みがないのか妙に我慢強いのか知らんが、傷に悪いことだけは間違いない。
 柿崎を前に立て、人形どもを追い立てるようにして控え室兼事務所を出ると、後ろで静かにドアが閉じた。
 また謎が増えた気がする。それも、都合良い解説者が出て来てくれない方のやつだ。
 どういう関係なのだ、二人は。恐らく店長氏の画策した事柄には水島先輩が関わっていたのだろうが、それが何故なのかも判らない。
 店長氏の正体といい、なんというか──

「──ジュン」
「森宮さん、起きてたんだ」
「ええ。みんな、ね。水島さん──水銀燈は、事務室に行ったと思うけれど」
「うん、今は店長さんと話してる」
「そう。……ごめんなさい、急に気を失って。手を掛けさせてしまったわ」
「いやこっちこそ毎度ごめん。このアホどもがいきなり動き出すから」

 アホ扱いされたのが頭に来たのか、人形どもは口々に抗議を始めたが、はいはいと適当に受け流す。いちいち取り合っていては始まらない。特に、今はシリアスな話をしているところである。
 他の面子は、と室内を見回すと、アツシ君と美登里、加納さん姉妹のペアがそれぞれ肩を寄せ合って人形の棚を見ている。加納さん姉妹はともかく、美登里がアツシ君と妙に仲睦まじいのは、意外なようでもあり当然のようにも思えた。
 葵だけはテーブルに座って外を眺めていた。何やら絵になる様であったが、柿崎がひょいひょいと遠慮のない動きでそっちに向かい、馴れ馴れしく隣の椅子に座ると、如何にも久闊を叙するといった具合に話しかけてぶち壊しにしてしまった。
 まあ、柿崎はそういうヤツである。よく似ていると言われるが、僕の性格を何百倍か厚かましくしないとああはならんのではないか。
 幸いなことに、葵は機嫌良く柿崎と話し始めた。好悪はともかく機嫌の方は割合顔に出る性質だから、少なくとも柿崎に邪魔されたとは思っていないのだろう。

 森宮さんはそんな強引な様子を苦笑しながら眺めていたが、こちらを振り向き、出ましょう、と小さな声で言う。
 僕は頷き、人形どもに散れと言おうとしたが、珍しいことに連中は二人一組になった皆さんの方にめいめい勝手に寄って行ってしまっていた。好都合といえば好都合なのだが、気を付けろよ。足でゴツンとやられたらそれで燃えないごみ袋に直行と相成りかねん。
 こちらを向いている森宮さんに肩を竦めてみせ、彼女に続いて店を出る。
 チビの僕が言うのも何だが、彼女の小さな背中が、普段よりずっと小さく思えた。抱き締めてやらないとそのまま消えてしまいそうなほどに。
 そして残念ながら、抱き締めるのは僕の役目じゃない。

 ──それが私達……薔薇乙女の宿命。

 少しばかりイライラする。なんで桜田ジュンは、こんな大事なときに彼女に何もしてやろうとしないんだ。
 後ろ手に、やや乱暴にドアを閉めて辺りを見回す。
 商店街の外れの街路は既に殆ど人影もない。周囲の店が閉まり始めて街灯だけの薄暗い中、三月初めの夜風が容赦なく出迎えてくれた。
 少し不決断な風の森宮さんを促して、二人で近くの自動販売機に歩きながらふと考える。

 寒くてうら寂しい光景だ。脇役がヒロインにさよならされる場面には相応しいのかもしれない。


 ~~~~~~ 昨年秋、某所 ~~~~~~


「もし、全てが振り出しに戻ったら」
「……何の話?」
「仮定の案件だ。未来の案件でもある」
「雲をつかむような話ね」
「いや、これは確約できる。もし振り出しに戻ったら、私は君との古い約束を果たそう」
「それが見返りってこと? そもそも貴方と約束なんかしたかしら。忘れちゃったわ」
「したさ。遠い昔、「巻かなかった世界」で」
「……今更、そんなこと。それもこんな馬鹿みたいなコトになってから? 笑っちゃうわぁ」
「だが約束は約束だ。もし、全てが振り出しに戻ったら、私は──僕は君の媒介になる」
「そう。好きにすれば? そのときは、遠慮無く好きなだけ力を使わせて頂くことにするけど」
「そうしてくれ。水銀燈」
「殊勝になったものね、「巻かなかった」桜田ジュン」






[24888] 第二期第二十一話 薔薇乙女現出
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:94fc6b41
Date: 2012/11/16 17:50
 ~~~~~~ その日、ある時刻から十数分前 ~~~~~~


「あ、マキちゃんさん出てきたですぅ」
「お話はもう良いのかしらー」
「お陰様で終わったわ。桜田君は?」
「ルミちゃんさんと出てっちゃったのー」
「用があるなら呼んでくるよ!」
「おやめなさい。二人には二人の事情があるのでしょう。今は二人きりにさせてあげるのだわ」
「それに……迂闊に出ていって誰かに見られたら……また犠牲者が……がくぶる」
「ちょっとぉ、犠牲者ってなによアンタ、自分だけちょっと見た目が良いからってぇ」
「い、いえ……そういう意味じゃ……うぅ」
「楽しそうで何よりだけど、その辺にしてくれる? 扉の向こうの男が呼んでるのよ。貴方達みんなをね」
「……それって……」
「悪いけど、刻限が来たってこと。欠片が一つに戻り、人工精霊が持ち主の下に帰る時が」

「……そう。仕方ないわ。最後に私達の大家に一言文句を言っておきたかったけれど」
「残念ですぅ……」「やっぱりボク呼んで来るっ」「やめるかしらー!」「断固阻止なのー」「っていうかぁ、人間の誰かに頼めばいいじゃないのよぉ」「いえ……そういう問題では……」

「あーあー、なんか収拾がつかなくなる前にこれ……っと、葵持ってってくんない?」
「なんだい恵、この紙袋……破れてるけど」
「さっきそこのマエストロから貰ったんだけどね」
「ジュンくんから? ……ああ、そうか。なるほどね……」
「この人形達が動かなくなる前に、一度だけ着せてやったって悪くないよね? 水島さん」
「……ええ。そのくらいの時間はあるでしょうよ。多分ね」


 ~~~~~~ 同時刻、近くの路上 ~~~~~~


 寒々とした月が出ている。日本海側は雪降りが続いているらしいが、こっち側は毎日晴天続きである。その分冷え込みは厳しい。もっとも雪の降ってる地域に比べたら屁でもないと笑われそうではある。
 商店街は、もう店閉めの時間帯を過ぎていた。あまり数が多くない飲食店やコンビニの類だけがまだ開いていて、独特の寂しさのある景色になっている。
 僕は自動販売機で温かい飲み物を買い、人形店の近くのベンチに森宮さんと並んで腰を下ろした。
 彼女には濃い目のお茶、僕には微糖の缶コーヒー。初めて買った時と同じ銘柄──もっとも、あのときはどっちも冷たいやつだったっけ。
 手渡すと、彼女は少し意外そうな表情で缶を眺めた。しかし、飲めない、と僕に突っ返してくることもなく、受け取った熱い缶を暫く両手で包んで暖を取る。
 普段は家族揃って紅茶党だという話だから、あの日以来緑茶など飲んでないんだろうな。それを知ってる僕が濃い目の緑茶を差し出してきたってことが想定外だった、ということだろう。
 まあ、逆に言えば僕の感傷的な演出は、結局僕の独り善がりでしかなかったということだ。彼女は去年の十二月のちょっとした出来事の内容まで覚えていなかったのだろうし、仮に覚えていても僕ほどその件に拘ってはいないのだろう。
 もちろん、彼女が考えるべきことは他にある。僕とのことなんぞ、それに比べれば取るに足りない。

「大変なことになってたんだなぁ」
「……『殻』がこれほど大きいとは思わなかったわ」
「うん」
「途方も無いお話で、まだ実感が湧かないのだけれど……でも、少しだけほっとしているの」
「え? 安心できるような話じゃないような。全然」
「私は、私に……森宮留美に何か厳しい過去があると思っていたの。アツシや姉様と血が繋がっていなかったり、大きな事件に遭遇していたとか……。でも、そんなことはなかった。森宮留美自身には、悲しい過去は何もなかったのだわ」
「……そっか」

 一歩離れてしまえば、そういう見方もできるのだ。
 微笑む彼女の顔には、何かを諦めたような色がある。自分の意識が森宮留美そのものではなくて、彼女に憑依したローゼンメイデン第五ドールだということを既に受け容れてしまったようだった。
 真紅が記憶を失ったまま彼女に憑依している、という話は店長氏が解説したものであり、直接の証拠は何もない。……とはいっても、あそこまで色々と並べ立てられては、納得してしまうのも仕方がないのかもしれない。まあ頑迷な僕ですら半分以上信じてしまってるんだから。
 僕も彼女も、未だに真紅の過去については断片的にしか知らない。知っているのはキラキーさんが手を回したという漫画に描かれた彼女の姿だけだ──アニメもあるが、あれはかなり筋が違ってるからまた別の人物だと思った方がいいよな。
 但し、石原姉妹をはじめとする皆さんが何も指摘しなかったところを見れば、漫画にはディフォルメや省略はあっても事態の流れに異動はなかったはずだ。そもそも、中途までがある程度忠実に事態を追ったものだったからこそ、監修者のキラキーさんがその後半に罠を仕掛けることが出来たわけだし。
 まあキラキーさんの思惑は置くとして、大まかな出来事の経緯と登場人物の性格を掴むだけなら、あの漫画は内容をそのまま受け取っても良いモノなのだろう。一字一句事実を再現しているかどうかは別として。


 ~~~~~~ 第二十一話 薔薇乙女現出 ~~~~~~


 会話が途切れて、何やら急に寒さが身に沁みるように思えてきた。森宮さんも同じらしい。小柄な身体を竦め、手元のお茶の缶に視線を落としている。
 店に戻ろうか、とは言いにくい。彼女が僕を呼び出したのはまさか気紛れじゃないだろう。
 空を見上げる。月はまだそこにあった。
 うちに帰ったら、今度は初めから、資料でなく一つの物語として読み直してみようか。
 そのときにはもうここに居る彼女は遠くに帰って行ってしまった後で、そして小煩い人形どもは動かなくなっているんだろうけどさ。
 しかしまあ、なんだ。
 前者が僕的に非常に寂しく切ないことには異論がないのだが、後者について些か残念な気分があるのはどういう訳だろう。
 つい変なことが気になって首を捻りかけていたところで、森宮さんが口を開いた。

「気絶から目覚めて、少し考えたの。自分が真紅だとして、何をすべきか」
「難しそうだな……何も憶えてないのにどうすればいいのか考える、なんて」
「ええ。真紅そのものが、どういう判断をするかは判らないわ。それは記憶が戻ってみなければ……」
「だよね。漫画で描かれたことが全部じゃないんだろうし。昔のマスターの想い出とか、ローゼンさんや他の姉妹とどのくらい一緒に過ごしたのかとか。人格や人間関係作った上で結構大切そうなのに、全然描かれてなかったような」
「さほど重要視していなかったのかもしれないわ。昔のことは憶えていても殆ど思い返すことがなかったのかも……。ドールにはその時のマスターと、目の前のゲームが全てで」
「そっちの可能性もあるのか……。なおさら考え難くなりそうだ」
「何があったのかさえ判らないのだから、何処まで行っても堂々巡り。だから私は……今の私、きっと森宮留美そのものでもなければ本来の真紅そのものでもない、曖昧な今の私自身が何をしたいのか、を考えることにしたの」

 森宮さんは両掌で缶を挟み、ころころと転がした。
 その顔色が冴えないままでいる理由は幾とおりでも考えられそうだし、どれか一つに特定もできまい。ただ、彼女は俯いてはいなかった。
 曖昧な立場であろうと記憶がブロックされていようと、やはり彼女の心は強くて、容易に折れないのだろう。キラキーさんは、現状の矛盾に気づく推理力ではなしに、案外この折れない心が怖かったのかもしれん。
 しかし、しかしだな。その肩が縮こまり、小さく震えているのもまた事実なのだ。
 何やらもやもやした気分が怒りに転化し始める。
 ちっくしょう、何やってんだアツシ君、じゃなかった桜田ジュン君。ここにお前さんが肩を抱いてやらなきゃならん相手が居るのだぞ。美登里と店内でイチャイチャ……いやドール鑑賞してる場合じゃなかろうが。
 些か理不尽過ぎる僕の内心のあれこれには関係なく、森宮さんは話を続ける。

「今の私達は、仮初の姿を与えられている可哀想なお人形ではないわ。人間の体に意識を植え付けられている──反対から見れば、私が「森宮留美」の体を乗っ取っていると言うこともできる……」
「うーん、その表現はどうかと思うけど。自分の好きでやってる訳じゃないんだし」
「ありがとう、気を使ってくれて……。でも、それが事実なのだわ。そして、この状態がとても歪なことも」
「……それはまあ……そうだよな」

「歪、では済まされないかもしれないわ。
 私達がここで生きている限り、身体の持ち主は限りある人生を失っていく。それが紛れもない事実なのだもの。
 だから……この身体は元の持ち主に返さなくてはならないと思うの。
 私達が人形のボディに戻っても戻れなくても、戻った先で壊されてしまったとしても……。
 他の子達が同意してくれるのか判らないし、本来のこの身体の持ち主達が喜ぶかどうかも判らないけれど。でも、それが自然であり、あるべき姿なのだわ」

「……そうだね」

──騙されていたと知った彼女は、元の持ち主に身体を返し、本来の姿に戻ることにしました。

 お話の上でならめでたしめでたしの一行で済まされてしまう出来事だ。
 しかし既に何年もこの状態を続けてきたとなると、「善良な」乗っ取り手にとっても容易い選択ではない。薔薇乙女さんとマスターさん達にとっては、生半可ではない決意が必要だろう。
 本来の姿に戻れるのかどうかも定かではないし、戻ったところで何が待っているか判ったものではない。森宮さんの言うようにキラキーさんに食われてしまう可能性さえもある。
 他人の身体を乗っ取っていることは相手を蝕んでいることと同じだ、と判っていても、自分の生死と引き換えになるかもしれないとなれば、実際のところ中々踏ん切りはつくまい。
 意地悪な見方をすれば、これは昔の記憶もキラキーさんに入れ込まれた記憶も持っていない、キラキーさんの怖さを肌では知らず、製本された絵と活字でしか見たことのない彼女だからできる思い切りなのかもしれない。無知ゆえの何とやらというやつだ。
 いや、多大なリスクは承知の上、なのだろうか。危険を冒しても敢えて自然な姿という原則に拘る潔癖さは、むしろ真紅というドール本来の性格を垣間見せているのか?
 その辺は、こじつければなんとでも解釈できる。素の状態の森宮留美さんも、もちろん真紅さんのこともつぶさに知っているとは到底言えない、部外者の僕には判らん領域である。
 僕が僅かなりとも見知っているのは、目の前の彼女だけだ。
 そして、その彼女は相変わらず……。

 いかん。どうにも僕では役に足りない。というか、考えてるだけで息が詰まってしまいかねん。
 森宮さんには本題が別にあるのかもしれんが、少しだけ空気を変えたい。そう思った。

「──そういや、僕達のお芝居の話なんだけど」
「……ええ」
「ごめんっ」
「……どうしたの?」
「さっき、事務室で話し込んでた時、話の流れでついバラしちゃった」
「ああ……」
「まあ石原達や加納さん姉妹には聞かれてないけど。でも人形どもが居たから今頃はみんなに広まってるかも」
「お喋りだものね、皆」
「うん。……まーそんなわけで、ごめん。無断で計画終わらせちゃったことになる」
「気にしないで。もう、お芝居をしていた目的は果たせたのだから。無理を言って困らせたのは私の方なのだわ」
「いやいやいや、そんなことはないって。むしろ、いい目見させてもらったって思ってるよ」
「いい目……?」

 森宮さんは申し訳なさそうな顔から、きょとんとした表情に変わった。
 ああ、こりゃアレだわ。
 思わず失笑してしまう。街路灯の薄暗い明かりの下で、森宮さんの顔はますます疑問を深めたような按配になってしまったが、ごめん。なんというか笑いが抑えられない。
 やっぱりこの子、全然判ってなかったんだな。いろいろ考えるのが好きそうなのに、なんか肝心のところで間が抜けてるんだなあ。
 よっしゃ、それなら、ひとつ解説してみせようじゃないですか。

 片手に飲みかけのコーヒー缶を持ったまま立ち上がる。そのまま、ベンチに座る彼女の前に位置を変えた。
 彼女の好きそうな理詰めっぽい口調で、如何に僕がモテないヤツであるか、そして付き合う相手として森宮さんがどれだけ高嶺の花である要素を備えているかを説明する。
 兎角要領よく説明するのが下手糞な僕である。出来は自分でも期待していなかったが、要領の悪いところが上手い具合に逆に働いてくれたらしい。
 仰々しい言葉を使いながら回りくどい言い方で話し、合いの手を時たま挟んで貰うと、意外にも如何にもそれらしい、勿体ぶった感じになってくれた。
 内容の方は何のことはない、公道で自分の恥を晒している訳だが、人影がないことと周囲の暗がりが良かったのか、応答を繰り返す内に森宮さんが次第に興味深く(まあ、ある意味他人事として、って感じでもあるんだが)聞き入る表情になっていったせいか。ともかく僕は顔も赤くせずにしゃあしゃあとその辺りを講義してみせた。
 あまり長くならないように努力をしたのは言うまでもない。彼女は寒い中に座り込んでいるのだ。此の期に及んで風邪でも引かせたらおおごとである。

 努力の甲斐あってか、彼女が寒そうな素振りや退屈そうな顔をする前に僕の講釈は終わった。
 さて。
 偉そうにした後で何なのだが、この講釈には元々オチが付くことになっているのである。
 相手が柿崎や石原姉妹辺りなら中途でそのことを理解して、話が一段落した後速やかに辛辣なツッコミを入れて来るはずだが、目の前の森宮さんはそういう部分で如何にもなお嬢さんであり、簡単に言うと真面目で素朴であった。オチを述べるのは自分でやらなくてはなるまい。
 判っていても急に歯切れが悪くなる。まあ、これもまた避けられぬ現実というか、致し方ない事柄なんだろうなあ。

「……でも。そんなお題目は抜きにしても、凄くその……なんていうか、嬉しかった」
「そう……?」
「うん。片想いしてる相手から、恋人ごっこのお誘いが掛ったんだから」

 森宮さんは微かに口を開いて、あ、というような小さな声を上げ、大きな目を見開いて僕の顔を見つめた。
 まあ、そうだろうな。僕のことはそういう目で見てなかっただろうから。あくまで、似たような趣味を持ってるちょっとおかしな奴、だったはずだ。
 何故かその反応に安心してしまう。
 真紅だから元々の契約者に惹かれてしまったのか、森宮留美さん本人がブラコンだったのかは判らんが、彼女の視線はずっとアツシ君改め桜田ジュン君に向いていた訳で。
 自分が別の方向をじっと見ている間でも、自分の方に向いてる視線に気付くタイプの人は当然いるだろう。むしろその間の方が周囲に敏感になる人もいるはずだ。
 だが、図書館の真ん中に陣取り、本をうず高く積み上げて平然と読書に励んでいた森宮さんである。興味が向かない方向からの視線には少なからず鈍感でいてもおかしくない。

「情けないけど、嫌味とかじゃ全然ないから。ま、まあ、もうちょいプライドの高い奴なら逆の反応したかもだけどさ。
 さっき長ったらしく説明したみたいに、僕ァその、そういうのは全然──無理だって思ってたから。嘘でもお付き合いができて素直に嬉しかった。
 だからありがとう、ホントに」

「いいえ、そんな……お、お礼を言わなければならないのは私の方だわ」
「いやいや、ホント嬉しかったんだって。なんか、今日の登校のときなんかさ、なんかえらく大勢の中で肩寄せあって、なんか本当に付き合ってるみたいだなって思ったし」
「あれは……でも、きっと」
「うん。まああれだけ集まったのは、向こうさん達の中で色々あってのことだったんだろうけどさ。まーそれも、僕達が付き合い始めたって思われたからかもしれないし。僕としては、掛け値なしに楽しかったなあ」
「そう……」
「だから、こー、なんか何度も繰り返すと軽い言葉になっちゃうけど、ありがとう。それから、僕が色々ぶち壊しちゃった段取りのことは、ホント悪いと思ってます。ごめんなさい、どうかこのとおり」
「そんな。悪いのは私なのだわ。貴方を巻き込んでしまったのも、こんな慌ただしい形にしてしまったのも……」

 森宮さんは慌てて立ち上がり、僕を押し留めるでもなく、自分も頭を下げる。いやいやそれは、と僕はまた頭を下げた。
 僕達は数回びょこびょこと頭を上げ下げしあい、それから、どちらからともなくふっと笑った。

「前にもあったわ、こんな風に」
「うん。あったあった」

 あれは確か、去年初めて森宮さんの家に行った日だ。あのときも同じように頭を下げあって、なんとなく可笑しくなって笑いあった。
 厳密に言うと始まりと終わりという訳じゃないが、一つの区切りには丁度いい符合なのかもしれない。
 胸の中に吹いている風の温度まで、あのときと似たようなもんだが……まあ、その辺は致し方ない。所詮は叶わぬ恋なのである。今晩は大いに不貞腐れて寝るとしよう。
 さて、それはそれとして、もう一つ謝ることがある。
 僕は笑いを収め、大事な話の腰折っちゃってごめん、と頭を下げた。彼女は真顔に戻り、いいえ、と首を振る。
 幕間の小話は終わりである。再び、スポットライトはベンチの前に立っているヒロインだけを照らし始めるという寸法で──

「──でも、少しびっくりしたわ。貴方が私のことを……なんて」

 森宮さんは何故か俯き、やや小さな声になっていた。
 それはいいが……あれ? なんで僕の関わる話が続いてるんだ。しかも微妙に……

「ん……まあ、そりゃあ、森宮さんは可愛いし、魅力的だし……」
「そ、そんなことはなくてよ。私なんか、本を読むこととお人形遊びくらいしか趣味がない、つまらない子だもの。柿崎さんの方がずっと活発で、生き生きして……輝いているのだわ」
「なんでそこで柿崎が……いや、あれはあれでバイタリティだけはあるけど。まあ彼氏持ちだったこともあるから、なんかああいうの好きな奴も居るんだろうけどさ」
「やっぱり……。私は未だ、誰かとお付き合いしたこともなかったから……」
「いやいやいやいや。そりゃ、廻り合せとか何とか、いろいろとあるし。あれだほら、蓼食う虫もってやつで──」
「──美登里も葵も、私なんかよりずっとお友達作るのが上手で……水島さんも加納さんも、ラブレターをくれた子に一々断るのが大変だったみたい……」
「うーん、まあ皆さん美人だし、そういうのはお得意そうでいらっしゃるから……って喩えが極端だってば。みんな僕とか凡百の人間とは次元が違う人々だよ。まあ森宮さんだってどっちかっていったらそっちの方の──」
「──でもっ」
「……で、デモ?」
「……あ、貴方の周りに居るのは、みんなそういう人ばかりなのだもの。どうしても比べてしまうのは仕方ないのだわ。そうでしょう?」

 彼女らしくない乱暴な動作で顔を上げ、僕の顔を睨みつけるように見据える。頬が真っ赤に染まっているのは、寒さのせいじゃあ、ないよな。
 えっと。その。なんだ。少し待て。
 頭がどうも上手く回らん。
 だが……その……よく判らんが、そういうことなのか?
 呆気にとられている僕の目の前で、彼女はやや口を尖らせ、半分泣き出しそうな顔になって早口で続けた。

「私なんて背も小さいし、ガリガリでスタイルも良くないもの。頭が良いわけでも何か特技があるわけでもなくて、ひ、人付き合いは良くないし、口を開けば偉そうなことしか言えなくて可愛くないから……だから──貴方は私のことなんて──」

 何だ。なんだなんだ。
 なんなんですか、この可愛い生き物。いやホント、むちゃくちゃ可愛いんですけど。
 漫画ではよくある形容だが、まさか現実にそんな気分になるとは思わなかった。

──でも、ああ、なぁんだ。そうだったんだ。

 鈍感なのは森宮さんの方だけじゃなかった。
 僕も同じ事だったわけだ。いや、僕の方がより頑固で、しかもでっかいミスまで犯している。
 森宮さんの好きな相手を間違えて、昨日の晩など堂々とそれを当の本人に告げていたんだから。当の森宮さんは、いつからかは判らんが、こっちに目を向けていてくれたのに。
 自分以外のこととして考えてみれば、あっという間に判ることだった。
 森宮さんのような御嬢さんがなんでまた僕みたいなブサメンでボンビーな奴を好きになったのかは、混乱してる頭では皆目見当もつかん。蓼食う虫の喩えなんだろうなと納得するくらいしかない。
 しかし幾らなんでも全然好意を持ってなかったら、彼女みたいな人が独りでわざわざ僕の家まで、しかもアポ無しで来るはずがない。同じ女子とはいえ、腐れ縁の柿崎辺りとは付き合いの長さも、そして性格や環境もまるで違うのである。
 まして、その後自分の家に呼んで夕食を御馳走なんて。そりゃ、アツシ君がその場で気付き、不機嫌になるのも当たり前である。
 いやいや、その前からかも知れないだろう。柿崎の話をした時、「勝てないと思った」とか言ってたのも、ひょっとしたらひょっとする。
 ああ潤、あなたは何故そこまで愚かなのでしょう。
 まさに漫画的にアホを体現している僕であった。
 何しろ、自分が森宮さんに告白してOKを貰うシーンを夢にまで見るほどだったのに、肝心の本人の気持ちに気付くことがなかったのだ。これはもう、色々とダメかも判らん。
 幸せ回路とか何とか、一体何だったのだろう。もうどうしようもない。アホもアホ、大アホである。

 ずっと見ていたいような森宮さんの表情だったが、多分それは数秒か、ひょっとするともっと短い間で終わった。折悪しく横合いから風が吹きつけてきたのだ。コンチクショウ。
 僕は寒さだけでなく震えている腕を伸ばし、思い切って彼女を抱き締めた。
 ちょっとがっついたというか、いきなりな動作になってしまったのはやはり僕である。場馴れしているイケメン兄さんの諸氏ならもっと上手いことやったに違いない。店長さんとかな。いやあの人はないか。
 森宮さんは驚いたように身体を強張らせ、コートの肩のところで不服そうな声を上げたが、少なくとも嫌だとは言わなかった。

「──ごめん」
「やっぱり、気付いていなかったのね」
「うん、もう全然。森宮さんの好きな人は他にいるってずーっと信じ込んでた」
「私も……」
「柿崎は違うって言ったのに」
「だって、とても仲が良さそうだったのだもの。息もぴったり合っていて、とても自然で」
「あはは、そりゃ、まあ……あいつとは長いからね」
「彼女のようにはなれない……。多分、いつまでも追い付けないのだわ」
「別にそっち方面に向かう必要もないと思うけどな。森宮さんは森宮さんなんだから」
「……そうかしら」
「そうだよ」

 言いながら、僕は腕に少し力を込めていた。きつかったかもしれないが、森宮さんもそのことについては何も言わなかった。
 二人共、自分達の言葉に虚ろな響きがあることに、なんとなく気付いていたのだ。
 彼女はこれから記憶を取り戻し、そして去って行く。そして、僕はこの世界に残るしかない。
 二人揃っての、いつまでも、はないのだ。というか、これから、もない。
 僕達はどうやら、二人揃って実に間の悪い性分らしい。
 別れが来るまでどれだけの時間が残っているのか判らんが、まあ段階としてはこんな最後の最後になって、お互いに相手の気持ちを知ってしまうとはねえ。いっそ知らない方が良かったかも──

「──えっと、熱烈な抱擁してるところ悪いんだけど」

 実に無粋な声が、結構近いところから聞こえた。
 ぱっと離れて背中を向け合う、なんてアクロバティックな動きは到底出来なかった。取り敢えず、二人してそちらを向く。そそくさと森宮さんが離れてしまったのは残念だが、まあしょうがないよな。
 声の主は腰に手を当ててこちらを見ていたが、やれやれというようにニヒルな笑いを浮かべた。流石、葵はこういう顔をさせるとよく似合っている。蒼星石に似合っているのかどうかは知ったことじゃないが。
 遅くも早くもない、ごく自然な足取りでこちらに近づき、良かったね、と僕と森宮さんのどちらにともなく声を掛ける。
 普段ならこういうときは若干黒い部分が見え隠れするのだが、光線の加減か、幾らか力の抜けた、良くも悪くも柔らかい感じの表情に見えた。

「二人共、ちょっと店に戻ってくれないかな。用件が済んでいたらでいいんだけど」
「ああ……僕の方はもういいけど……」
「ありがとう。……私も、もう済んだわ」
「……そう。良かった。おめでとう邪夢君……って言ったらいいのかな」
「お、おう、お陰様で……ってのも変だけど、サンキュ。で、どうしたんだ一体」
「うーん……」

 葵は小首を傾げ、それから微妙に乾いた笑顔になった。引き攣った、と言ってもいいかもしれない。
 なんだ。何事が出来したというのだ店の中の皆さんに。
 キラキーさんに見付かったとか? もしくは薔薇乙女さん達関連で意見の対立でも起きたか? いやいや、そういう種類の出来事ならもっと深刻そうな顔をしているはずだ。
 このシリアスな事態が進行しているときに、このなんとも言えない表情。どうもちぐはぐである。
 いや、待てよ。
 あれか。またしても、シリアスになりそうなところでアレなのか。
 確かにアレ関連だったら、何かまたやらかしたかどうにかなって、葵がこんな表情になっても不思議はない。
 この寒い中だというのに、嫌な汗が背中を流れ落ちる気配がある。

「ともかく、戻って見て貰うのが早いと思うよ」
「……判った」
「あまり驚かないでね」
「了解……」

 ほんの数十メートルの距離を、森宮さんと肩を並べ、葵の先導で早足で歩きながら……なんか物凄く厭な予感がしてくる。具体的に何、ではないのだが、どうも耳の後ろがざわざわする。
 そして、それは斜め上の方向で当たっていた。いつもどおりである。
 近所では唯一灯りがまだ灯っているドールショップの扉を開け、こんばんわと言うのも何なのでただいまと言った僕の目に飛び込んできたのは、あってはならないシロモノ達であった。
 さきほど全員で顔を突き合わせ、要領の良くない会話をしていたテーブルの上に勢揃いしていたのは──

「お帰りなさいマスター!」「ルミちゃんさんもおかえりなのー!」
「あらぁ、もう帰ってきたのぉ? ずっと外でイチャイチャしてれば良かったのにぃ」
「結局アオイちゃんさんが呼びに行ってくれたかしらー」「ありがとうございます……ぺこ」
「ジュン、あまり長いことレディを寒さに晒すものではなくてよ」「浮かれやがって、全くけしからんヤツですぅ」

「……あれ?」

 なんだこれ。
 聞き慣れた残念人形どもの声はするのだが、姿が見えない。
 その代わりに見えるのは、見えるのは……

「手指が動くっていいわぁ。これでカマキリスタイルからもおさらば、マウスとキーボードの同時使用もオッケーよぉ」
「本物のヴァイオリンも弾けるかしら! 大きさが合えばだけど」
「お掃除もお料理もやっつけられるですよー」「庭木の剪定もできるよ」
「ふふ……遂にこの日が来たのだわ。戸棚もドアも開け放題、一人で漫画の頁もめくれるのだわ」
「じゃんけんもあくしゅもじゆーじざいなのぉー」「漸く……口で言わなくても表情に出せるようになりました……にこ」

 隣で森宮さんが、まあ、と、なんとも力の抜けた声を出し、葵が振り向いて苦笑する。
 テーブルの上に居たのは、実物(と言っていいのか判らんが、とにかく実体を持っているらしい)は初めて目にする、ローゼンメイデンのドールズそのものであった。
 それも、どういうわけかアニメ版の方の。

 一体何が起きたというのか。謎は謎を呼び風雲急を告げる。
 ……いや、本来それどころではないのだが。しかしこうなんというか絶妙なタイミングで、またぞろ残念人形ズに関わる何やら碌でもない、しかも微妙にどうでもよくない事件が起きたのだけは確実であった。



[24888] 第二期第二十二話 いばら姫のお目覚め
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:27bffe28
Date: 2012/11/16 17:50

 ~~~~~~ その日、主人公が可愛らしさについて力説していた頃 ~~~~~~


「本当にいいのかい、動ける内に着なくても」
「うん。着せてもらうのは同じだもん」「後からゆっくりでいいわ。貴方達の方が忙しいのでしょう?」
「手足が自由に動いても、自分で衣装は着れないのね。ちょっと可哀想かしら……」
「同情は無用なのかしら。いつもジュンに着せてもらってるから、却って楽ちんかーしらー!」「私は……お父様に……ぽっ」
「自分で自分の姿を見れなくても良いのですか? 晴れ姿ですよ」
「全然オッケーですぅ。バッチコーイなのです」「これからいつでも見れるからいいのー」
「人手は足りてるから、衣装変えくらいなら時間は掛からないわよー? みっちゃん一人でやってあげても良いけど」
「別にどうでもいいわぁ。ゴタゴタするの面倒だしぃ。それよりちゃっちゃとほじくり出しちゃってよぉ」
「人形の考えは判ったけど……その、そっちの人……柿崎さん、の意思はどうなんだよ」
「え、あたし? まー本人達もこう言ってますし、立て込んでるみたいなんでササッとやっつけちゃってください。アホの桜田には後で言っときますから」
「……だそうよ、店長。さっさと終わらせてあげなさいな」
「……判った。こちらに来てくれ」


 ~~~~~~ 店内 ~~~~~~


「まあそんなことがあったって寸法」
「あらすじで片付けんなよ」
「じゃあ長々と説明してあげよーか? 微に入り細を穿って。どんだけ説明したって理由が判らないのはおんなじだけど?」
「……判った。僕が悪かった。もういい」

 片手を力なくぶらぶらさせて、もう一方の手で額を押さえる。まあたとえ詳細かつ緻密な解説をされたところで、どこかで思考放棄して現状を受け容れるしかない訳だが。

 柿崎の説明によると、怪異が発生したのは動かなくなった人形どもの体にマエストロサクラーダ謹製のドレスを着せてやった直後だったらしい。
 店長氏は人形どもを全て仕事部屋に集めると、衆人環視の前で人工精霊の欠片を首尾良く──というよりえらくあっさりと回収してしまったという。
 自分が後付けで埋め込んだブツなのだから当然であろう。わざわざぶっ壊さないと抜き取れませんでした、では僕はともかく柿崎がまた難癖に近い文句をつけそうだ。つけたからってどうなるもんでもないが。
 まあ、そこまでは良くも悪くも作業の手際の話に過ぎなかった。
 動かなくなった人形どもを見て、柿崎は流石にしんみりとした。黒いのとは数ヶ月間ぎゃあぎゃあ遣り合った仲であるから当たり前だろう。
 若干意外なことに、残念人形ズとは今日初めて出会ったに等しい薔薇乙女の皆さんやら、動いてるところを見たのは初めてのはずの加納さんとアツシ君も意気消沈してしまったらしい。
 無理もないことではあるよな。全く別の領分にいるとはいえ、薔薇乙女さん達も元を質せば同じ人形であり、本来のガタイはローザミスティカを入れ込まなければ動かせないものである。
 漫画の中では蒼星石は長いこと動かないままだったし、翠星石も僅かな間だが停止していた。真紅に至っては仮のボディの崩壊も経験しているはずだ。
 動力源がなくなれば動かぬ人形となる。それを目の当たりにして何も感じない訳はないだろう。

 自然とその場の全員が手分けをして、人形どもをアツシ君こと桜田ジュン君謹製のドレスに粛々と着替えさせた。
 ちょうど一人が一体を受け持つ形になったのは、柿崎が手を出さなかったからである。黒いのについては自分の手で着替えさせたかったのかもしれんが、その役目は水島先輩が請け負った。
 それぞれが自分に対応する人形を分担したのも偶然ではなかろう。あぶれた形のツートンは加納さん、赤いのはジュン君が受け持ち、店長氏は自分が作製したばらしーを担当した。

 そして、事件は起きた。

 誰が最初に気付いたのか、完全に同時だったのかは判らない。ともかく人形どもは完全に衣装を着せられた瞬間、一瞬だけだが、フラッシュを焚いたかのように光り輝いたという。
 奇妙なことに、全員自分が着せ替えた人形が爆発的に光ったことは認識しているのだが、他の人形がそうなったことは確認していない。もしかしたら着替えの仕上がりとフラッシュの瞬間が全員同時だった、ということかもしれない。
 悲鳴が上がったのもほぼ同時だった、らしい。ただし、自分以外にも悲鳴を上げた者が複数居たことは、全員が感知している。
 一瞬のパニックの後、彼等の目の前にあったのは、むくりと起き上がり動き出している、全く姿形の変わってしまった残念人形達であった。
 人体入れ替わりの奇術みたいなものである。そこにあったはずの人形がなくなり、衣装だけが同じ別の人形、としか思えないモノがそこに存在していた。
 あまりのことに暫く全員呆然としていたが、ともかく僕に報せるべきだということになった。一応怪我人の柿崎と姿が変わったにもかかわらず相変わらず役に立ちそうもない人形どもを除けば最も早く立ち直ったのが葵だったので、彼女が僕達を呼びに出た。
 ……という経緯だった。


 ──後知恵で考えると問題はいろいろあった。最大の問題は奇術のタネがどこにも見当たらず、そもそも奇術の仕掛け人の存在が皆目判らないことであった。
 もっとも、そのときは不完全極まる解説を聞いている僕はそこまで頭が回らなかった。
 僕が魯鈍であるのは認めるに吝かでないが、放課後の呼び出しから始まって驚愕の事実というやつの連続、かつ思いもよらぬ告白で感覚が多分におかしくなっていたのだから許して貰いたい。
 他の皆さんは──まあ、いきなりのことで頭の中が真っ白になった人が大半だったのであろう。じっくり落ち着いて考える暇はまだなかった。
 もちろん、仕掛け人の方はそこまで読んで放った一手だったのだろう。何を意図してのものだったのかは判らないが。
 もしかしたら、単に薔薇乙女の皆さんが不様に慌てふためくさまが見たかっただけなのかもしれない。仕掛け人の性格を考えれば有り得ることだ……と、これこそ後知恵である。
 ともかく、そのときは誰も、掏り替え事件の裏事情など表立って問題に出来なかった。
 掏り替えられた本人形どもが実にすんなりと事態を受け容れ、楽しそうに振舞っていたことも理由に含まれるかもしれん。薔薇乙女さん達は皆、基本的に善良で優しい人々であった。
 多分、少数の例外を除いて。



 ~~~~~~ 第二十二話 いばら姫のお目覚め ~~~~~~



 やれやれと息をつき、ぐるっと室内を見渡す。テーブルの周囲で半ば固まったままのお歴々の中、一人だけ事務室兼控え室の入り口の方で腕を組んでいる店長氏と目が合った。
 改めて見るとなんというか、イケメンなのだが迫力のない顔である。腕を組んでいるのも余裕綽々で成り行きを注視している訳でもなく、何やら弱り果てているように見えなくもない。
 あまりじろじろ見ているのも何なので、テーブルの方に目を向け直す。
 柿崎は黒いの(らしき)ドールと遣り合いつつ、ばらしー(だろう)の顔をむにむにやって検分し始めている。いじられているばらしーの方も満更では無さそうである。
 手指にまで極細の球形関節を仕込まれていたばらしーだが、やはり表情が自在に動くのは嬉しいようだ。なまじ可動箇所が多いだけに、人間そっくりな行動ができないことを逆に不便に感じていたのかもしれない。
 感情面やら何やらで人形どもに多くを期待するのは既に諦めているが、そういえばこういうときの柿崎の行動も大概であった。
 要するに、どうしてこうなった、などと思わないのだ。その点他の人々の方が(トンデモな領域に住んでいる偉いさんであるにもかかわらず)遥かに常識的である。
 葵は加納さん姉妹と何かぼそぼそ話しており、こちらは対照的にあまり景気の良くない風情だ。水島先輩は店長氏と付かず離れずの位置で、今や何と言っていいか判らんが、ともかくついさっきまで残念人形だったものどもを複雑な表情で眺めている。
 そして美登里と並んで呆然としているのが、この状況を現出させたと思しいマエストロ様ご本人であった。

 やってくれたなぁ、ジュン君。

 僕と目が合いそうになるとそっぽを向いてしまうのが何とも言えず歯痒い。この辺りなんとなく店長氏に通ずるものがある。
 何がどうしてこうなったか未だに(恐らく当の人形どもを含めこの店内の誰にも)全然判らんのだが、まあ彼の作ったマエストロパワー満載のドレスが原因であることは確実であろう。まことに素晴らしい才能である。傍迷惑的な意味で。
 嫌味の一つも言って遣りたいところではあるのだが、相手はあの桜田ジュン君である。迂濶な一言でぽっきり心が折れてnのフィールドにさようならされてしまった日には目も当てられない。

 まあ彼のことは置くとして、問題はこの予想だにしなかった大変身のことである。
 なんでまたローゼンメイデンにクラスチェンジしたのだ。僕がつい一時間ほど前まで考えていた物体Xを遥かに超える出世ぶりではないか。
 しかもご本人達そのものではなくて、アニメ版に準拠したと思しき御姿である。──というのが判るのは、黒いのが全体的に髪が多くてご面相が全然違っておったり、お貞と鋏の目が妙に吊っていたりするからで、うぐいすやらツートンの恰好はあまり違和感がない。
 赤いのは……うーむ。憎たらしいことに、これも結構可愛い。
 まあ、やはりどいつの顔も基本的に輪郭から違う。あれだ、キャラデザインした人が違うという感じか。
 多分、マエストロ謹製のご衣装がアニメ版に準拠したものだったのだろう。作った御方の意図に沿って人形がトランスフォームしたと考えるしかないな。
 なんでわざわざアニメ版のを、と思わんでもないが、ジュン君としてはその辺のボロ人形のために「本物」の衣装を作るには抵抗があったのやもしれぬ。まあこれは邪推である。
 柿崎はばらしーをむにむにやりつつ、こっちを振り向いてにやっと笑った。

「衣装のお陰だったらマエストロ様に感謝だねっ、良し悪しは知らないけど」
「……まあ、良かったんじゃないのか。どういう理屈で動いてるのか既に皆目判らんが、動力ユニット抜き取られてもまだ活動できてる訳だし、恰好は大分グレードアップしたし、こいつらにとっちゃ悪いことァ何もなかろう」
「あ、早速思考放棄した。へー、桜田でもそうなるんだー」
「しゃーないだろうが。この状況で平然と人形のほっぺたつねってる奴に言われたかないわ」
「アホのくせに頭の固いアンタがいろいろ考えてる間に、こっちの探求は進んで行くって寸法よ」

 ならば差し詰め今はばらしーのほっぺたのもっちり加減について探求してるところか。まあ気が済むまでやってくれて構わん。本人形が嫌がらない範囲でなら。なにしろ滅多なことをしたら所有者が黙ってはおらんだろう。
 ああ、そういやサイカチは喜ぶだろうな。あいつは本物の薔薇水晶を追い求めていたとか抜かしていたから。
 薔薇水晶はアニメ版オリジナルのキャラだから、こうなったばらしーはまさに本物そっくりさんである。性格はどうも大分異なっているようだが、サイカチならその辺は気にしないだろう。こっちの性格に慣れてるはずだし。
 しかしまあ、なんだ。
 柿崎の言うとおりである。もうこれでいいような気がしてきた。
 どうせ、何故こうなってしまったのかはこっちが幾ら考えたところで判らんのである。その辺は頭を使うことに慣れており、かつ知識も豊富にお持ちの人々の領分であって、生半可な情報しか知らない僕等の出る幕でないのは明白だった。
 考えなくてはいかん、ということなら、後からじっくり考えればいい。赤いのの屁理屈や、偶に鋭いことがある黒いのの意見なんかも聞きながら。なにしろ、連中が今後も活動を継続できることになったのだから。

 独り合点で頷いて隣を見る。森宮さんは赤いのを呼び寄せ、テーブルの上に立たせて自分は椅子に座り、あちこち向かせたり髪を撫でたりして感慨深げに見入っていた。
 元々、リアルみっちょんの加納さんと並んでドール趣味では人後に落ちない彼女である。かつての自分の姿に近い、とかは抜きにしても出来のいい人形を見るのは楽しいのだろう。人間も人形も、美男美女は得である。
 そのままいつまでも遊んでいて欲しい気もしたのだが、すぐに彼女は赤いのを僕に預けて立ち上がり、マエストロ君の方に向き直った。
 姿を変えた玩具になど、長いことかまけてはいられないのだ。もっと大事なことが待っている。

「アツシ、いいえ……ジュン」
「……な、なんだよ」
「ありがとう。この子達を動けるようにしてくれて」
「僕がやったって決まった訳じゃないし、僕はそんなつもりなんて──」
「──いいえ。これは貴方にしかできないこと。貴方の指は、二つとない美しい旋律を奏でるよう……それは、契約を交わしていたことは忘れていても、一番近い姉として暮してきた私にはよく判っていてよ」
「……そんなこと」
「そして、私の記憶を取り戻すのも、貴方の役目なのでしょう。私のかけがえのない人、マスター」
「──っ」

 森宮さんは僕に背を向けたまま、あまり聞きたくなかった言葉をさらりと言った。
 ちなみに声にならない声を上げて唇を噛んだのは僕じゃない。ジュン君である。
 僕としても、心がずきりと痛くはあった。
 さっき何かが始まったと思ったら、もうとっくに終わっていたらしい。まあ、それは最初から判ってたけどね。改めて目前で言われると少々厳しいだけの話だ。……いや、実を言うとだいぶしんどい。
 彼女の方は、吹っ切れてるんだろうか。別れをみっともなく引き摺るのは専ら男で、女性の方はさばさばしたもんだと聞いたことはあるから、案外心配無用なのかもしれん。
 森宮さんはジュン君に近付き、隣で二人を見比べている美登里に微笑んだ。
 じっと見詰めてみたが、無理のある微笑なのか、わだかまりのない笑みなのかは、横顔からは判らなかった。

「ひとつ、お願いがあるの……翠星石」
「なんですか……?」
「私の記憶が戻っても、遠慮しないで頂戴。貴女がジュンをずっと想ってきた気持ちも、私はよく知っていてよ」
「真紅……」
「貴女が初めて家に来た時から感じていたのだけれど、あれは貴女が暖めてきた想いだったのね」
「そ、そんなことねーです」
「隠さなくてもよいのだわ。今のうちに言っておきたかったの。記憶が戻った私は、きっと今より素直でなくなってしまうから」
「……はい」

 おお。流石は──森宮さん、というべきか真紅と呼ぶべきか判らんが。ともかく、結構な難物の美登里をあっさりと同意させた。
 嬉しいような寂しいような妙な気分である。
 踵を返してぐるりを見渡した森宮さんに、店長氏が歩み寄った。
 凝った意匠の小さな宝石箱を開け、そこから大振りな宝石の嵌った──何処かで見覚えのある指輪を取り出す。それを森宮さんの左手の薬指に通した。
 かなり大きめに見えた指輪は奇術のように僅かに光り、森宮さんの指にきっちりと嵌った。
 漫画のとおりなら、契約の指輪というやつらしい。僕の手元でもぞもぞしている赤いのとその同類には存在しないアイテムである。

「後は彼がそれにキスをすればいい」
「やっぱり、眠り姫の目を覚ますのは王子様の口付けってことなのね。ロマンチックだわー」

 加納さん、いやみっちゃん氏。納得して何気に夢見る乙女の目になってるのはいいんですが、それは森宮さんの「かけがえのない人」発言よりきっついです。結局僕は王子様じゃないのだと言われてるようなもんで。
 別段そこに突っ込んだわけじゃないんだろうが、加納先輩が姉の裾を引っ張って暴走するなというようなことを口にする。加納さんの方は逆にそれで火がついたのか、両手を顔の前で組んで無闇にくねくねと体を揺すらせた。
 やれやれといった空気が流れる。その隙を衝くようなタイミングで、視界の隅を誰かが動いた。
 水島先輩だった。猫のようにしなやかな動作で場所を動き、元の位置に戻った店長氏の隣にすっと寄り添った。
 やはり二人の間には、何等かの特別な関係があるんだろう。僕が邪推しても仕方のないことだが。
 この世界で人として暮してきて、二十年なのか数年なのか知らんが長い時間が経過しているのである。従前の記憶を持っていようといまいと、こっちで暮した間に人間関係に変化が出てくるのは不思議じゃない。

 加納さんのふしぎなおどりはすぐに落ち着いた。MPを吸い取られた人がどれだけいたかは定かではない。
 周囲に緊張感が戻り、改めてジュン君に皆の視線が集まる。僕と柿崎、それに人形どもも黙って彼を見詰めていた。
 彼は頭を一振りして、やや背が低い自分の姉を見る。この世界では誰憚らぬヒッキー厨房なのだが、年の頃相応とはちょっと思えない風格みたいなもんがあるのはマエストロ様だからなのか? それとも、実際の人生がプラス数年以上あるからなのか。

「いいのか、真紅。記憶を取り戻しても」
「ええ。覚悟はできているのだわ。それに、この体を本来の持ち主に返すことも」
「……それは、身体の持ち主の心を見付け出さないといけないかしら」
「自分の体だって雪華綺晶に囚われてるのに、どうするつもりなんですか」
「大変でしょうけれど、何処かに道はあるはずだわ。何より、みんなの力で解決できないことならば……お父様が雪華綺晶のしていることをお許しにならないはずでしょう?」

 森宮さんは加納先輩と美登里に向かい、そう言ってまた微笑んだ。
 今度は僕にもよく表情が見える。気負いのない笑顔だった。

「身が雪華綺晶に囚えられてもまだ私達が生かされているのは、雪華綺晶の意向だけではないはずよ。この苦境を乗り切ることを、お父様が私達に求めていらっしゃるのだわ」
「元の体に戻ったら、またアリスゲームが始まるってことかしら……」
「最初に雪華綺晶に捕まったときも、お父様は私達をあの子のあぎとから解き放ちました。でも、まだ……なのですか。今度はこんなに何年も道に迷わされて……また、戦わなくてはいけないのですか」

「戦いになるかどうかは、今の私にはわからないわ。ゲームについて私が知っているのはごく表面的な事柄だけ……真紅が何を考えていたのかさえ、見えてこないのだもの。
 だからこそ私は、記憶を取り戻さなければならない。記憶を取り戻して、一刻も早く今の私の歪なありようを正さなくてはいけないの。
 私達がここでこうして生きているだけ、この体の本来の持ち主達の人生は私達に食い潰されていくのだもの」

 ざわめきかけていた空気がぴたりと静止した。
 多分、森宮さんの言葉は薔薇乙女さん達と契約者さん達にとって、新たな切り口ではなかったのだろう。
 頭のいい皆さんである。店長氏の概説を聞いたとき、既に同じことに思い至っていたに違いない。ただ、それを正面から指摘する蛮勇というか思い切りが、森宮さん以外にはなかっただけの話だ。
 それだけに、今の言葉は重かった。
 もう一つ付け加えれば、ンなこたァこっちにゃ関係ないワと本心から言い切れるだけの人の悪さも、この場の殆どの皆さんは持っていない。自分達と凡百の僕等(つまり身体の持ち主)との間に店長氏と同じような線引きをしていたとしても、喩えて言えば道端の虫けらを踏み潰すのが嫌いな人揃いであった。

 重たい空気が立ち込める。
 沈黙を破ったのは、重い雰囲気を作り出した本人だった。
 ジュン、と呼ぶ。それについ返事をしたりすることがなかった僕は誉められても良いような気がする。呼ばれた相手は当然のようにマエストロの桜田ジュン君であった。
 彼の方は自分が呼ばれたことには何の疑問も持っていない様子だった。顔を上げ、やや不決断な仕種で、右手を伸ばして森宮さんの左手を取る。

「……変な感じだ。姉ちゃんなのに、真紅なんだよな」
「あら。貴方は知っていたのでしょう、私達が薔薇乙女とマスターであることを」
「うん……だけど」
「……私の知らないところで、貴方は悩んでいたのね……ごめんなさい、ジュン」
「いいんだ。後悔はしてない……それが僕達の選んだ方法だったんだから」
「ありがとう。そう言って貰えると心が軽くなるわ」

 把握していたのが事実でなかったとはいえ、少なくとも彼等にとっての真実を明かさなかったジュン君を責めてもいい場面だと思う。「殻」を破ろうとしていた彼女にとって、彼等が積極的に嘘を言ったのではないにせよ、沈黙していたことは決して嬉しくないはずだ。
 しかし森宮さんがジュン君に向けたのは、ほっとしたような笑顔だった。彼の方も、自分が悪いことをしたとは思っていないようだった。
 あまり納得出来ないが、ジュン君にとっては森宮さんに思い出させるには辛い記憶だということかもしれん。彼女の方でもそれを理解しているということか。
 契約していたときの記憶は失っていても、姉弟として生きてきた記憶がある。形は違えど確かな絆があるということだろう。

 なんとなく面白くない僕の気分などにはお構いなしに、二人はお互いの顔を見つめ合う。ドラマで言えば重要な場面なのかもしれん。
 主人公が導いて、ヒロインが記憶を取り戻す。そんな名場面のひとつだ。
 しかしその二人が何処までも、よく似た一学年違いの可愛い姉弟にしか見えないのは……きっと僕だけなんだろうな。何かバイアスが掛かっているのだと思うことにしよう。桜田潤の目は節穴なのだ、でもまあ構わない。
 軽く森宮さんが頷くと、ジュン君は彼女の前で片膝を折って腰を落とした。
 そのまま、先程から不決断に軽く握っていた彼女の左手を顔の前に持ってくる。暫く万感の思いを籠めているかのようにその手をじっと見詰めていたが、やがておもむろに薬指の付け根に嵌った指輪に口付けた。

 森宮さんの身体がぎくりと硬直する。
 指にキスされて反応した、のではなかった。目をぎゅっと瞑り、額にはたちまち脂汗が浮き出る。
 記憶の流入に耐えているのだわ、と僕の胸のところで赤いのが囁く。例によって見てきたような妄想解説であるが、反論する気にもならん。まあ、ちょっと静かにしとけ。多分当たってるだろうよ、今回はな。
 ほんの数秒か、長くても十秒かそこいらだったろう。
 アニメやらドラマのような、過剰な演出はなかった。ガタガタと震え出すことも気を失って倒れることもなく、森宮さんは大きく息をつくと、ゆっくりと目を開け、まだ片膝を床についたまま自分を見上げているジュン君に顔を向ける。
 ジュン君は眉を顰めて彼女の顔を見詰めていたが、異状がなさそうだと見て取ったのか、緊張を解いたように立ち上がりかけ──

「──起こすのが遅い」

 ぱし、とあまり力の籠っていない平手打ちが、しかし容赦なくその頬に飛んだ。
 慌てて頬を押さえて立ち上がり、いきなり何をするんだと言いたそうなジュン君の頬に手を伸ばし、彼女は少しばかり高飛車な、そして余裕を持った優しい表情を見せる。
 毒気を抜かれたようなジュン君に、ありがとう、と今度は感謝の言葉を告げた。

「貴方達の思い。封じられていた私の記憶。──どちらも受け取ったわ」
「……帰ってきたんだな、真紅」
「ええ。私は貴方の姉であり、そして……幸せな貴方のお人形。なくしていたもの全てではないけれど、ここに取り戻せたのだわ」

 目を閉じ、胸に手を置く。遠くに行った何かが漸く返ってきた、と言いたげな、穏やかな顔だった。
 確かにそうかもしれない。
 僕の位置からも、彼女はこれまでなかった何かをその身に纏ったように見える。彼女の言葉どおり、なくしていた成分が再び戻ってきたのだろう。
 認めたくないが、ついさっきまでの森宮さんはそこには居ない。月並みな表現だが、別の人格と言っていいほどに変わってしまっていた。
 自分にイマイチ自信がなく、いつもぶっきらぼうで若干口下手で、僕に会えば碌に説明もせずに引き摺り回していた、そのくせ照れ屋で何処か肝心のところで一歩引いてしまう厄介な性格の女の子はもういない。
 代わりに立っているのは、自分が何者であるかを弁え、それに見合った衿持を持ち、周囲に暖かな視線を向ける薔薇乙女──漫画に描かれていたローゼンメイデン第五ドールさんそのもの、いやもっと典型的な偉いさん的印象さえ受ける人物であった。
 要するに、彼女は自分の存在に相応しい資質を取り戻したのだ。俗世での暮しが長く続いた他の姉妹達が忘れてしまった、あるいは隠してしまっている部分まで含めて。
 ボディが人形であるか、仮住まいしている人間のそれであるかは関係ない。要は中身の問題である。
 姿形は変化していないものの、それは残念人形どものトランスフォームなど足元にも及ばない大変身であった。──まあ、僕にとっては。
 もちろん、当事者の皆さんにとっても同様であるのは言うまでもない。
 加納さん姉妹がぱっと明るい顔になり、美登里と葵──いや翠星石と蒼星石の双子が一瞬遅れてそれに続く。

「お帰り、真紅ちゃん!」
「お帰りなさい。本当にお久しぶりかしら」
「……お帰りなさいです、真紅」
「お帰り」
「私はずっとここに居たのだから、帰って来た訳ではないのだけれど……ただいま」
「どうしてお前はいつも……なんで素直に言えないんだよ」
「それが真紅さ、ジュン君」
「それに、一言文句つけちゃうジュンも、やっぱりちび野郎のジュンなのです」
「どっちもどっちでいいコンビかしら」
「ほんと、帰ってきたって実感するわー。みっちゃん感激ーっ」

 まさか高速頬摺りするつもりではないだろうが、みっちゃん氏は今にも真紅に飛びつこうとしたところで金糸雀にまあまあと止められた。
 翠星石は感極まったのか目尻に涙を浮かべ始め、蒼星石がそちらにそっと近づく。ジュン君は一瞬だけ微妙な表情を見せ──結局真紅と翠星石の間の位置から動かなかった。
 柿崎が声を上げずに椅子から腰を浮かせた。松葉杖を音もなく引き寄せてよっこらしょと(口には出さずに)立ち上がる。
 それが合図だったようにテーブルの上の人形どもがこちらに集まってきた。
 実に意外である。先程までのはしゃぎぶりから見て、皆さんのところに殺到してぎゃあぎゃあ騒いでいてもよさそうなところだ。
 流石に空気を読んだというところだろうか。その辺りはコイツ等が最も苦手とするところ、というよりその手の思考回路は最初から付け忘れられているように思えるのだが。

 まあ、そんな場末の些細な出来事には関係なく、尚も主役達の場面は動くのである。
 今回場面を動かしたのは、それまで殆ど沈黙を保ちながらも独特の存在感を失わずに居た人物だった。いやいや、沈黙を保っていたのはきっと、自分の出番を劇的に演出するために違いない。
 水島先輩──いや水銀燈は、そういった演技さえ様になるほどの雰囲気を持っていた。




[24888] 第二期第二十三話 バースト・ポイント(第二期最終話)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:27bffe28
Date: 2012/11/16 17:52


 ~~~~~~ 承前・その日、店内 ~~~~~~


 水銀燈は店長氏の隣で、背を戸棚から離した。それだけで微妙に周囲の空気が変わったような気がする。
 腕を組んだまま真紅達を一瞥する。
 他の姉妹達のような単純な嬉しさは、その表情には欠片も見当たらなかった。いや、何処となく不吉を告げる鴉のような陰気臭ささえ漂わせているような気がする。意識してやっているのなら、大した役者である。

「──感動の再会のシーンは結構だけど、そろそろ切り上げてくれない? 状況を変えた本人に聞きたいことがあるのよ」
「……なんでそんなにツンツンしてるんだ、お前」

 ジュン君の言い方は年上に対するものではなくなっていた。ついでに言うとツンツンというか刺々しいのは彼の口調の方だったが、言われた方の水銀燈もそれを気にする素振りはない。
 真紅の復帰は、彼等全員に微妙な影響を及ぼしている。それは部外者の視点でもよく判った。これまでの人間として築いてきた繋がりが消え、本来の関係に戻りつつある。
 そして、彼女達の立居振舞自体も。

「判らないの? マエストロが聞いて呆れるわね。
 真紅が記憶を取り戻したのは御目出度い話なんかじゃないのよ。むしろその逆。
 これまで私達は雪華綺晶の規定した枠組みの中で行動してきた。その意図を知っていたかどうかは別にしてね。飼われていたと言い換えてもいいわ。
 それが今になって、いきなり飼い主の手を噛んだ。
 そこの男は種明かしをすることで、真紅は記憶を取り戻すことでそれぞれ枠組みを破った。私達は強く否定しなかったことで、二人の行為に加担した。
 つまり今の茶番の結果、ここに居る私達は全員あの末妹に喧嘩を売ったってことよ」

 盛り上がりに水を差した、程度じゃない。冷水を浴びせ掛けた、でも足りるかどうか。大袈裟に言えば皆さん硬直したようにさえ見えた。
 その中、水銀燈は二歩ばかり真紅に近付き、不機嫌を絵に描いたような表情で横目で彼女を見遣る。
 その一連の動作が役者のようにぴたりと嵌っていて恰好良く、無言の威圧感を伴っていることは、昼間見た水島先輩と変わりがなかった。
 ふと思う。僕が最初に会ったときから、彼女だけは既に事実の一端を知っていたのかもしれない。
 全てではないにしろ、店長氏が語った内の何割かを、彼女だけは事前に知っていたのではないか。根拠はないが何故かそんな気がした。

「喧嘩を売ったからには、早急に次の手も考えないとね。捨て台詞と一緒に頬を張られて殴り返してこないほど、相手は甘く出来てないわよ」
「……聞きたかったことというのは、そのこと?」
「当たり前でしょう。もちろん手は考えてるんでしょうね、真紅。そこに並んだ良い子ちゃん達は知らないけど、貴女にはそういう形になることが判ってたはずよ、記憶が戻る前から」
「……ええ。私の我儘にみんなを巻き込んでしまうことは、済まないと思っているわ」

 真紅は半ば目を伏せ、呟くように答えた。
 不承不承認める、という風じゃなかったが、痛いところを突かれたのは間違いない。微妙に論旨を逸らした、そして吐息のような細い返事だった。
 弱々しい印象を与えてしまったことに自分でも気付いたのだろう。口調を確りしたものに改めて続ける。

「それでも、意志は変わっていなくてよ。私達はこの身体を離れ、元の持ち主達の魂をここに呼び戻さなくてはならない」
「お題目が好きな貴女らしいわ。それで? 具体的に何をどうするつもり? 現状私達はこの身体から離れることもできなければ、この世界から動くこともできないのよ」
「……いいえ、できるわ。この身体を離れることも、nのフィールドに入ることも」
「はっ、お笑い草ね。どうやって逃れるっていうのよ。この二重の檻から」
「……導き手は、いるわ」

 ホーリエ、と真紅は呼んだ。
 漫画やアニメでは散々見た、赤く光る虫みたいなものが、店長氏が作業をしていたという部屋の方からするりとこちらに入ってくる。
 こう言っては何だが、初見の印象はかなり不気味であった。蛍というには輝きが強すぎ、動き方も動物的じゃない。なんとなく人魂のような雰囲気がある。耳の後ろがゾワゾワしなかったのは、残念人形ズに鍛えられたお陰である。
 赤い光点、としか呼べないそれは、無駄な動きを見せずに真紅の掌の上に静止した。漫画ではコミカルな風情も漂わせていたが、実物は彼女の忠実で勤勉な下僕のように見える。
 真紅は顔を上げ、店長氏に視線を向けた。

「この子に扉を開けてもらえば、nのフィールドに入ることはできるはず。……だから、貴方は探し出したこの子をわざとばらばらにしていたのね」
「そうだ。人工精霊がじかに君と接触すれば、雪華綺晶はそれに気付いてしまう。一方で、ホーリエとの接触は、君が自発的に記憶を呼び覚ますきっかけになるかもしれない……そう考えた。素人の浅知恵だよ」
「ありがとう。あまり上手な遣り方ではなかったけれど、貴方の目的は達せられたわ」
「はかりごとは苦手なんだ。昔からね」
「そうだったわね……」

 なんだ。若干フランクな喋り方になってると思ったら、水銀燈だけじゃなしに真紅も店長氏と面識があったのか。
 っていうと誰なんだ店長氏。ここに居ない大人の登場人物……態度から見て、まさかウサギの人じゃないだろうし。
 となると、やはり彼は──

「──それで? 時間がないんでしょう、さっさと続けなさいな」
「私達は夢を見ることができる。それは紛れもなくnのフィールドに繋がっているわ。それに、適切な門があればホーリエは自分から扉を開けて人間を導くことができる。どちらからも、私達はnのフィールドに入ることができるのだわ」
「後者は意味が無いでしょうに。意識が肉体から離れていないのだから」
「ええ。だから、実際には方法は一つ。……今晩、私達はそれぞれ夢の世界から、nのフィールドに向かうの」
「そんなに都合良く行くものかしらね。これまで何年間か、そんなことを考えることもなく寝起きしてきたっていうのに」
「できるわ。ホーリエがいるのだから。貴女のメイメイほど強くなくても、この真紅の下僕なのだもの」

 赤い光点は応答のつもりか、強く明滅した。
 関係者の皆さんは若干安堵したようにさえ見える。お貞が鋏に抱きつき、うぐいすがぴーぴー言いながら、ついでにツートンがそれに便乗して僕の腕にしがみついてくる程度には不気味な情景なのだが、見慣れているのか感性の差なのか。



 ~~~~~~ 第二十三話 バースト・ポイント(第二部 完) ~~~~~~



 水銀燈は相変わらず腕を組んだまま真紅の手許を横目に見ていたが、視線を外して窓外に目を向けた。
 その口許が如何にも面白いと言いたげに皮肉な笑いを作る。ふん、と鼻を鳴らした仕種にも、何処となく上機嫌さが垣間見えた。
 釣られて彼女の視線を追ったのは、多分僕と柿崎だけだったらしい。他の皆さんにとっては「水銀燈らしい」当たり前の仕種だったのだろう。
 だが、注意を疎かにする勿れというやつだ。水銀燈が見ていた窓の外の情景は、僕達に息を呑ませるには十分過ぎるものだった。
 慌てて視線を戻すと、水銀燈は(そう言えば、森宮さんが僕の隣を立って行ってから初めてのことかもしれん)僕の顔に一瞬視線を走らせ、にやりと笑った。何処か猛獣を思わせる、凄みのある笑顔だった。

「短時間で考えたにしては上出来なご意見だけど、残念だけどタイムアップよ。それほど時間は貰えなかったみたいね」
「……どういう意味ですか」

 水銀燈はにやりとしたまま、ムカっ腹を立てかけている顔の翠星石の眼前に指を突きつけ、それを窓の方に向けた。
 今度は他の皆さんも理解したのだろう。彼女の指差す先を追い、外に見えたものに気付いてそれぞれに反応する。

 そこには、見慣れた夜の商店街はなかった。人は歩いていない。月も出ていない。街路灯もない。
 代わりにあったのは、真っ白な霧だった。いや、まるでどろどろのオートミールを流したような、得体の知れない濃密さと白さを持っている。
 明るくもなければ暗くもない。似たような何か、例えば雪とは全く違うことが何故か判ってしまう。
 そうだ。漫画の中で翠星石が雪華綺晶に一旦捕まったとき、彼女が口にした形容が最も当たっているかもしれない。

「……ミルクのような霧……」
「いいえ……クリームのような……」
「あの時と同じ……!」
「そういうことね」

 姉妹達の呆然とした呟きに、水銀燈は笑みを大きくした。
 彼女は明らかにこの状況を楽しんでいる。鈍感な僕にもそれが判った。
 ご本人も状況の真っただ中に居るのは変わらないのだが、これが水銀燈の本質なのかもしれない。
 本来、驚いてパニックになって然るべきところなのだが、僕はぼんやりとそんなことを考えてしまった。要するに、感覚が振り切れて思考が現実から逃亡しかけているのだ。
 とはいえ、そんな情けないことになっていたのは恐らく僕だけだろう。ご当人達は慌てているものの、虚脱している者はいなかった。

「これ……この店だけが?」
「廊下までは見える。でも廊下の窓の外も同じ……クリームのような霧だよ」
「ドアは……開かないわ。閉じ込められてるかしらっ」
「なんてこと……」
「私達の飼い主は、思ったより飼い犬のことをよく観察してたみたいね。それに、安易に首輪を外してくれる気もないってことでしょうよ」
「何落ち着いてるんですかアンタは。らしくないですよッ」
「お前こそ、水銀燈に突っ掛かってる場合か!」

 ジュン君は翠星石を一喝した。
 まるで人形を叱りつけるような雰囲気であり、それなりに全員に落ち着きを取り戻させる効果はあったかもしれない。

 だが、残念ながら落ち着いてる場合じゃないのは美登里……おっと、翠星石の言うとおりだった。
 彼の言葉が終わるか終わらない内に、ギシギシ、ミシミシ、と店全体から軋み音が出始める。
 そこここで悲鳴が上がり、人形どもが我先にと僕の足だの腕だのに群がる。一番近くに居た赤いのとばらしーはちゃっかりとコートの内側に入り込みおった。そこは、できれば将来的には森宮さんの位置であって欲しかったんだが……まあ繰り言である。
 地震や強風ではない。さほど揺れは感じないのに調度品がガタガタ言い始めている。これは……ひょっとすると、家屋自体に力が掛けられているのやもしれん。
 天井も床もたわんでこない。潰す方ではないらしい──ならば、その逆だ。引き裂こうとしているのだ。
 戸棚から物が落ち始める。見事な出来のドールが倒れ、ガラスが割れ始めた。どういう力の掛かり具合か知らんが、確実に破壊が近づいている。

 そこで漸く、僕自身にもまともな思考が戻ってきた。そうだ。落ち着いている場合ではないのは僕も同じである。
 人形どもにくっつかれて動き難くてかなわんのだが、取り敢えずは周囲の諸々から近場の人を守らなくてはならない。
 森宮さんは──薔薇乙女関係者の皆さんの真ん中に、ジュン君と共に居る。加納さん姉妹、石原姉妹……もうそれでいいや。何にしろ、みんな一緒だ。くそ、こんなときでさえ僕の出番はないのかよ。
 水銀燈は一人で立っていたが、店長氏が後ろから抱きかかえるような姿勢で引き寄せた。強引な動作に見えたのに、全く抵抗しなかったのが妙に印象に残った。
 僕が守るべき相手は……不本意ながら一人居る。ある意味でこの場で最も守られなければならない人物だ。片足にギプスを嵌めた、紛う方なき怪我人である。
 二回りばかりデブになった気分でえっちらおっちらとテーブルの向こう側に回り込み、黒いのを肩に乗せてのんびりと松葉杖を引き寄せかけている柿崎に近づく。
 奴は振り向いて、実に意外そうな顔をしてみせた。

「ありゃ、桜田」
「何ゆったりしてんだ、非常事態だぞこいつぁ」
「あー、まあそうだねえ」
「多くは望まんが、せめて頭くらい守れ。メットも安全帯もねーんだぞここにゃ」
「メットならあるよ。外のバイクんとこに」
「アホか! 今、こっから出れねー状況じゃ意味ねーだろがっ」
「あ、そっか」

 今に始まったことではないが、どうしてこいつは肝心なときに限ってのんびりしているのか。
 いや、のんびりじゃあない。最近ご無沙汰だったとはいえ、付き合いが長いだけによく判る……付き合いなんぞ無くとも、顔を見れば誰にだって判るレベルかもしれん。
 こいつはこいつで、水銀燈とは全く違った意味でこの状況を楽しんでいるのだ。委細承知した上で危険を楽しむなんて高尚な芸当じゃなく、この珍しい光景をガキみたいに喜んでやがる。
 冗談じゃねえぞコンチクショウ。音はミシミシギシギシから、バキバキメキメキに変わってきてるのだ。
 ウロが来て現実逃避してる訳じゃないことだけが救いだった。何はともあれ片腕で柱を抱いて一応確保し、取り敢えず柿崎には松葉杖を離させ、空いている方の手でその二の腕を引く。

 柱を抱いたのは正解だった。少なくともこの時点では。
 タイミングも間一髪だった。
 僕に腕を力いっぱい掴まれて、痛ぇ、と男みたいな声を上げた柿崎の足元に、いきなりぱっくりと穴が空く。しがみついてる人形共がこの世の終わりとでも言いたげな悲鳴を上げる。五月蝿い。
 柿崎は一旦僕の手を掴み直したが、如何せん足元が覚束ない。すぐに足を踏み外した。がくん、と力が掛かる。歯を食いしばって耐える。
 痛え。ついでに重い。昨日の森宮さんなんか目じゃないのは、柿崎の体格というか、上背の差もあるんだが体育の成績に反映されない筋肉のせいである。入院生活で大分落ちてるはずなんだがなあ、畜生。
 床の穴は亀裂状に拡大していく。どういう作用か知らんが部屋の中の物がそっちに落下を始めた。いやまて落ち着け。重力だ。床に穴が開いたら物が落ちて当然なのだ。何もおかしくない。この状況はおかしさ満点だが。
 重力はいいとして、問題は床下に地面に相当するものが綺麗さっぱり見当たらないことである。クリームだかヨーグルトだか知らんが、真っ白い霧は室内に侵入しては来ないが、落ちていった物も即座に見えなくなる。
 おい、漫画とかアニメの演出どころの話じゃねーぞこれは。重機で持ち上げられて壊される廃屋か何かかよ。
 音はますます破滅的なものになっていく。根本的にパワーが足りてないのか、破壊する方で中の僕等のパニックを楽しもうとしてるのか知らんが、じわじわと壊れて行くのは半端無く怖い。
 ……と、痛みに顰められていた柿崎の顔が、いきなり弛緩した。遂にウロでも来やがったか。

「あは、あはは。引っ張ってくれてんのは有難いけど、柱掴んでても意味ないかも」
「何呑気にトンデモなこと言い出してんだお前、そんな場合じゃねーだろ」
「だってさ、……っと、もうダメか」

 いきなり、大音響とともに、柿崎の重さがなくなった。落とした訳でも、ヤツの腕が引き千切れた訳でもない。
 抱えていた柱がぐらりと傾き、僕の頭にごんとぶつかった。幸か不幸か人形どもの体が装甲代わりになってないところだ。
 風圧は感じないが、真空って訳でもない。摩訶不思議な状態の中、要するに僕等は自由落下状態になってしまっていた。
 見上げる。抱えたままの折れた柱の遥か頭上に、何やらぶっ壊れた黒っぽい小屋みたいなものが見えた。一瞬、それは土台もないのにその位置に鎮座しているようだったが、すぐにバラバラになって白い霧の中に呑まれていった。
 もう意味のない柱は脇に押しやる。それは無重力状態の映像のようにゆっくりと向こうに離れていった。バイバイ、役立たずの命綱。
 もう一度、柿崎を見る。
 案の定、笑っていた。多分今年最高の、ガキみたいにいい笑顔だった。
 畜生、こんな状況で和んでやがって。なんとなく、こっちも軽口が口を衝いて出る。

「お望みの空中浮揚の気分はどうだ、冒険野郎」
「景色が見えないからイマイチかな」
「贅沢言ってんじゃねーよ」

 霧がなければ何が見えるのか、判ったもんじゃない。見えない方が良いのかもしれん。
 それでも一応頭を巡らしてみる。つい柿崎との会話にかまけてしまったが、他の皆さんはどうなっているのか。僕等と同時に放り出されたのか、それとも──
 しがみついている人形どもが邪魔になって思うように任せないが、苦労してぐるりを見渡してみる。少し離れてしまったが、依然として似たような高度(というのか何なのか判らんが、とにかく激しく上下どちらでもない辺り)に彼等はいた。
 但しその姿は、既に僕が知っていた彼等ではなかった。
 安心して欲しいがグロい方の意味ではない。ただ、僕にとってはある程度理解はできても衝撃的だった。本日何度目の衝撃的な出来事か判らんが。

 相変わらず彼等の真ん中にいるジュン君の服装は、それまでの季節柄に相応しい着膨れモードではなくなっていた。白に近いグレーの、実に野暮ったいパーカ……漫画で殆ど一張羅のように着続けていたアレであった。
 みっちゃんさんもセーター姿ではなく、夏物っぽい服装になっている。覚えがイマイチ定かじゃないが、似たような服を着ていたかもしれぬ。
 店長氏は……ジーンズに裾出しシャツ。髪型は短髪のボサボサに変化していた。
 漸く確認できた。やはり彼は「巻かなかった」桜田ジュンだったらしい。
 そして、他の人々は──居なかった。
 森宮さんも石原姉妹も、水島先輩と加納先輩も姿を消していた。
 代わりに、恐らく彼女達の居た場所に出現していたのは……

 大体大人の半分か、やや大きいくらい。色とりどりのドレスを身に纏った、三歳児か五歳児くらいの背丈の子供……いや、あれがモノホンの薔薇乙女なのか。
 それぞれの表情には、確かに先程までの該当人物の雰囲気がある。
 赤いドレスを着た乙女は森宮さんだ。その他の皆さんにもそれぞれの面影が窺える。
 ただ、どれだけ似ていても、やはり彼女達は人間ではなかった。
 美しい、という言葉は陳腐なのか高尚なのか判らんが、あまり僕が使うには相応しくない気がする。しかし、今はそれが素直に頭に浮かんだ。
 ろくすっぽ情報がないにもかかわらず、昔から何人ものドール好きの人々を虜にしてきたという説明がさもありなんと思わせる、何やら得体の知れない魅力のようなもの。そいつが、十メートル以上離れていると思しいここからでも判る。
 確かにその辺の人間の美しさじゃあない。よく出来た人形、なのかもしれん。僕自身はそういう凄いのを実物でも画像でも見たことはないが。

 いずれにしてもさっきトランスフォームした残念人形どもとはまるで違う。
 あちらが本物なら、人形どもはドレスにしても造作にしても、よく言ってオマージュ。率直に表現させて貰えば似たような衣装を着た、やっぱり人形でしかない。贋物と言うにも足りないだろう。
 いやいやいやいや。そんなことはこの際どうでもいい。どういう作用か皆目判らんが、彼等は本来の姿に変化してしまっている、ということだ。

 悪いことに、その変化に驚いた顔をしている暇さえ貰えないらしい。
 これまで何も感知できなかった、空気抵抗のようなものが唐突に襲ってきた。斜め下から、突き上げるような何か──上手く言えんが、突風のようなものが僕等に吹き付ける。
 柿崎が僕の肘のところを掴んでくる。お互いに腕を握り合うような形になった。良い確保のやり方なのか苦し紛れにやらかしただけなのか知らんが、これでどっちも容易には飛ばされないはずだ。
 但し、そういう真似をやらかす余裕があったのは僕等二人だけ(僕にぎゅうぎゅうしがみついてくる人形どもはこの際除く)であった。
 他の皆さんも放り出されたときは抱き合ったり手を取り合っていたはずだが、今はほど近い辺りに固まってはいるもののお互いばらばらである。あれだけ姿形が変わっているのだ。変形する際に離れてしまったのだろう。

 最初の突風に耐えつつ、やばいな、という思考が頭を過ぎったそのとき、一瞬遅れて彼等の処にも風圧が到達した。
 相対的に人間より大分軽い薔薇乙女の皆さんが、人間組のところから押し流されて行く。
 店長氏は何か声をかけ、自分の前から飛んでいってしまいそうな水銀燈を片手でぎりぎり掴んだ。加納さんは体全体で金糸雀の方に飛びつくような形になり、金糸雀は加納さんの腕の中に無事収まった。
 それぞれ自分の大切な相手(……だろう。多分)を確保できたのはいいのだが、足掛かりのないところでの行動にはお釣りが漏れなくついてくる。
 二人は、それぞれジュン君から緩やかに遠ざかり始めてしまった。まずいことに、僕等の方向とも大分ずれている。
 そのジュン君は、一番近くに居た蒼星石と手を繋げたまでは良かった。しかし彼の契約していた他の二人は、どちらもてんでばらばらの方向に流され、早くも彼から遠ざかり始める。
 ジュン君は……慌てて二人を見比べている。どっちにするか、此の期に及んで決めかねているらしい。
 そうこうする内に次の流れが襲い掛かり、真紅は……森宮さんは更にジュン君から離れて行く。それでもジュン君はまだ迷っている。

「森宮さんっ」
「バカっ、向こう側に離れてってるよ、間に合うわけないじゃん」
「判ってるよッ、だけどな」
「それよりあれ見なよ、あっち」

 柿崎は空いてる方の手で斜め下を指した。
 風圧のようなものにたなびく異常に長い髪に、落ち着いた色合いの緑のドレス。翠星石が、流れの加減で僕等との距離が次第に近付いている。但しこっちに向かってる訳じゃない。そのまま行けば行き違ってしまうのは確実だ。
 気を失っているらしい。目を閉じて、虚脱したようにただ流れに身を任せている。
 その顔は──畜生。一瞬、ほんの一瞬だが、まるで中学校で初めて出会ったときの石原美登里そのものに見えた。
 クソッタレ。こんなんばっかじゃねーか、今日は。
 考えてる暇はない。一つ貸しだからな、美登里。

「アツシ君、森宮さんの方は頼んだからなッ」

 顔が近かったツートンとうぐいすが文句をつけたくらいの、ありったけの声で叫んでやった。向こうには聞こえてないかもしれんが構うものか。
 多分、僕がその名前を呼ぶのは……いや、彼が誰かにその名前で呼ばれるのも最後のはずだ。記念の大音声だと思っとけ。

 アツシ君はともかく、森宮さんともこれでさよならかもしれない。ちらりとそんな考えが過ぎる。
 いや、別れはもうとっくに済んでいた。
 姿がどうあれ、記憶を取り戻した段階で森宮さんは真紅に戻った。それから一度も僕の方を見なかったのは、記憶を取り戻すまでの仮初の自分を捨て、以前の立場に戻るという意思表示だったはずだ。
 実際はどうだか、なんて知ったことか。もしまた会えたら聞いてみてもいいが、それまで僕的にはそう思っておくことにする。
 僕らしくない考えだが、今回くらいいいじゃねえか。
 記憶が戻って冷静になったら、ろくすっぽ彼女のために働けもしなかった僕と、僕なんかにちょっとでも心を動かされた自分の両方に嫌気が差した、なんてのは──多分それが正解なんだろうけどさ。あまりにもありがちで、全く楽しくない。
 まあどっちにしろ彼女は宙ぶらりんな存在から真紅に戻ったのだ。
 さよならもヘッタクレもない。僕が好きになり、僕のことを好きだと言った女の子は、気障な言い方をすればもう記憶の中以外の何処にも居ないんだからな。

 さて、それはもういい。今は気絶しているらしい翠星石をどうにか助けなければ。
 流れがあるということは、一応は泳ぐ真似ができるということだ。違うかもしれないが、僕は(間違いなく柿崎も)そう決めた。
 決意は報われたらしい。僕と柿崎(と七体の人形)は不恰好というよりは奇怪な恰好に相応しい、実にトロくさい動きで進行方向を変化させ、翠星石とランデブーできそうな軌道に乗った。
 どのくらい時間が経ったかまるで判らない。たった数秒かもしれない。とにかく、あともう少しで手を伸ばせば届くところで、タイミング悪くまた突風が吹き寄せた。
 同じ風を受けたのだから、いきなり目の前の翠星石が視界から掻き消えるようなことはなかった。だが、それでランデブーはご破算になってしまった。
 柿崎とお互いに肘のあたりを握っていた手を、下腕、そして手と手を結ぶところまでずらす。なんとも妙な姿勢のまま精一杯身体を伸ばして、どうにかたなびく髪の端だけでも、と空いた方の手を伸ばしてみる。
 だがいつもどおり、現実は僕に対して無情であった。翠星石は手の先ゆうに数十センチはあるところを通過し、急に無茶な姿勢をした僕と柿崎はぐるんと半回転してしまう。
 翠星石は、僕からは柿崎越しになる位置で、ゆるやかに遠ざかっていく。

「くそ、だめか」
「ここまで来てそりゃないでしょ」
「ないでしょも何も──おい、柿崎っ」

 柿崎は振り払うように僕の手を放し、むしろそれを反動にして勢いをつけ、翠星石の方に流れた。
 馬鹿野郎、と言ったが後の祭りである。
 柿崎はたちまち翠星石に追いつき、確保する。そして、何を思ったのか子供ほどもある翠星石を乱暴にこっちに放り投げた。大方、それが恰好良いとでも思ったのだろう。
 こっちの身体には人形どもが群がっているが、幸い背中と脇に集中していた。僕はフリーになった両手を広げ、どうにか胸の前で美麗な薔薇乙女さんの一人を受け止める。
 ……それはいいんだが、おい。今度は肝心の僕等がばらばらじゃねーか。
 こっちを得意気に見たところで、柿崎も漸く気付いたらしい。口を半ば開けて、やべえ、という顔をする。その間にも僕等の位置は遠ざかって行く。
 言わんこっちゃない、と言ってやろうとした瞬間、柿崎の背後、相も変わらぬ真っ白な背景に、いきなり黒い穴がぽっかりと開いた。
 のみならず、柿崎の体は何もアクションを起こしてもいないのに緩やかにそちらに向かい始めている。いや、呑み込まれようとしているのだ。

「おい逃げろ! なんか知らんがやばい! やばい!」
「え、逃げろって……ひゃあ」

 振り向いた柿崎は間抜けな声を上げる。
 その身体が黒い穴の方に急加速を始めた。ごう、という音がしそうな急激な動きだった。
 柿崎は慌てて逃れようともがく。しかし、その滑稽な努力をあざ笑うかのように、移動のベクトルは全く変化しなかった。
 肩にしがみついていた黒いのをこっちに放り投げることだけが、柿崎のできた唯一の抵抗だった。
 大分ウエスト気味に飛んだそれを僕がどうにか引っ掴んだ瞬間、柿崎の身体は穴に引き込まれた。

「うーわぁあああーっ」
「柿崎いぃぃぃぃぃぃぃっ!!」

 妙に間延した柿崎の叫びと僕の絶叫が終わらない内に、柿崎を呑み込んだ黒い穴はまるでジッパーを閉じるように消え失せた。
 後には、周囲全体とまるで変わらない、白いとしか形容できない風景があるだけだった。
 コートから顔を出した赤いのが、どういうつもりか胸の前で十字を描く。やめろ、縁起でもない。
 翠星石を片手で胸に抱き寄せ、もう一方の手で黒いのを掴んだ間抜けな姿勢で、暫し呆然と何もない空間を眺める。

──どうする、これから。

 考えようにも、頭の中は周囲の風景に影響されたかのように真っ白で何も浮かばない。
 緩慢な動作でこうべを巡らし、皆さんが居たはずの方向を見てみる。白い闇に呑まれてしまったのか、穴に引き込まれたのか判らんが、既に一人としてその姿を確認できなかった。
 再び正面──柿崎の消えた方向に向こうとした僕の髪を、ぐいと人形の手が引っ張った。

「痛え、何すんだっ」
「マスター、あれ、あれ」
「ジ、ジュン、こっちもやばいかしらっ」
「穴、穴が開いちゃってるのーっ」
「おしまいだわ。終末なのだわ。南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏」

 より一層きつくしがみついてくる人形どものお陰で苦労しながら真後ろを振り向いた時には、僕もまた吸い込まれる寸前であった。
 余計なことを言った赤いのを怒鳴りつける暇さえもあったものじゃない。
 真っ暗な穴が見えた、と思った瞬間、人形どもの悲鳴と共に、僕はその中に引き摺り込まれていた。意識のない翠星石を抱えたままで。
 くそ、結局何も出来ないまま、状況に押し流されただけかよ。どんだけ無力なんだ僕等は。
 せめて柿崎の奴がどうなるか全部承知で、自分を犠牲にして翠星石を僕の方にぶん投げたとかなら恰好もつくのだが。あの慌てぶりを見るにどう見てもそんなことはない。自分が再度こっちに戻れると根拠もなく考えてやった、ただのボーンヘッドである。
 まあこうして僕も穴に呑まれたのだから、どれだけ恰好良い行為だったとしても結局は同じ事だが。
 意識がふっと遠のくのを感じる。

──畜生、いくらなんでもこれじゃ割に合わんぞ。それに何にも能動的に動いてない。好きな人に実質フラれて、薔薇乙女さん達の復活と離散の実況しただけじゃねーか──

 如何にも僕らしい後悔と未練たらたらの思考は、すぐに闇に呑まれた。
 最後に聞こえたのは懲りることを知らん赤いのの念仏もどきと、重なりあってどれがどれやら区別の付かない残り六体の人形どもの悲鳴であった。
 誰かの微笑が浮かぶことも、何か愛しい人の言葉の幻聴が聞こえることもない。実に僕らしい、呆気無い幕切れかもしれない──



 何やら異常に密度の濃かったこの日は、実質これで終了した。
 ここで全てが終わっていたら、傍から見ている分にはパニック物の映画のワンシーンみたいなものだったはずだ。端役がいきなり出しゃばったら死亡シーンにつながったというやつ。
 何か予定調和ではあるがそれなりに見応えはあったかもしれないと思う。もっとも観客もいなければカメラも回っていなかったが。
 しかし生憎、そうは問屋が卸さなかった。
 理由は今のところ全くもって不明である。翠星石を抱いていたからついでに助かったのか、とも思うのだが定かではない。
 不思議の命を助かって、というのは湖南文山の三国志に出て来る名文句だが、あのときの僕はまさにそんな気分であった。
 ただ悪いことに、不思議な出来事は命が助かったことだけに留まらなかったのである。

 【第二期完結、第三期に続く】




[24888] 第三期第一話 スイミン不足
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:27bffe28
Date: 2012/11/16 17:53
 ~~~~~~ 回想・あの日 ~~~~~~


 ──意識が飛んでいた時間の長さなんぞ判る訳がない。それに、多分時間経過がどれほどであれ関係無かっただろう。
 意識の上ではすっぽり抜け落ちており、肉体的には──後から判るのだが、この場合全く意味がなかった。

 ぶつかった衝撃と痛みで意識が戻ったのか、意識が戻った瞬間に衝突したのかも判らない。取り敢えず、僕は額を強かにぶっつけていた。
 幸か不幸かそこは平たい場所で、何かが刺さって傷ができるということもない代わりに、柔らかく僕を受け止めてくれるようなこともなかった。
 頭がぐらぐらするのは、頭を打ったからだけではなさそうだ。目を開けていられない。
 取り敢えず、自由落下なのか無重力なのか判らん状態からは脱して、重力方向に──要するに地面か床にあたる場所にぶつかったのは理解できた。呼吸可能な空気もあるらしい。有難いことである。
 何かが自分の上にのしかかっているのは判る。だが、どうにも頭を上げてそれを確認する気力が湧かない。
 ともあれ、まずは点呼だ。動くようになったばかりの手で僕のところにしがみついていた人形ども、衝撃で放り出されたのかその感触がないんだが、揃っているかどうかだけは確かめなくては。
 ズキズキ痛む頭を上げることもできず、目を閉じたままだが、声だけはできるだけ元気に張り上げてみる。

「黒いの、いるか」「……なによぉ」
「うぐいすっ」「ちゃんと名前で呼ぶかしら!」
「非常時に文句言うな。お貞と鋏!」「はいですぅ」「無事ですマスター!」
「無駄に元気だな……赤いのっ」「艦内の人工重力が逆に働いているのだわ……誰かコントロールルームに行って制御をなさい」
「安心しろ、それは多分お前がひっくり返っとるだけだ。ツートンは?」
「無事ですが……目を回してるみたいです……」

 どうも自分の声がおかしく聞こえる。ぶつけたのは額だけのはずだが、耳もやられてるってことか畜生。
 いや、それはいい。声が出るだけでも良しとしなければ。
 最後のはばらしーだな。赤いのもだが、服から無事這い出ていたらしい。
 何かがのしかかっているように思えたのは、どうやら七体全部が背中の方に移動していたためだったようだ。次々に飛び降りる気配があり、背中が軽くなる。
 くそっ、手酷く頭をぶつけた内のエネルギーの何割かはコイツ等の重量かよ。要領よく人の体を盾にしやがって。
 いや、不幸中の幸いと考えておこう。コートの中で押し潰していたら瀬戸物の破片でこっちの腹やら胸がえらいことに……いや、今は変形しているから柔らかいのか? どっちにしても被害がなくて助かった。



 ~~~~~~ 第一話 スイミン不足 ~~~~~~



 ともかくも、これで七体。全部どうにか……いや待て。
 僕は大事なお客を抱えていたはずだ。着地(と言い切って良いのかどうかまるで判らんが)の際に投げ出してしまったのか、意識が飛んでいる間に離れてしまったのか、今は腕の中に誰も抱いてはいないが。

「みど……翠星石」
「なんですぅ?」
「いやお前じゃなくて、もう一人の方の。石原美登里の翠星石」
「少し……紛らわしいです……」
「面倒だからぁ、アンタの名前正式に『貞子』にしたらぁ?」「ほぁー!? いきなり何言い出しやがるですかこの黒いのは」
「翠星石のミドリさんなら、すぐそこに倒れてるかしら」「貴方の目の前にいるのだわ。横着しないで自分も頭を上げなさい」
「……そうか、無事を確認してくれ。今、頭が痛くてかなわんのだ」
「はいマスター!」

 足音も軽く(ってことは走れる場所なんだな)鋏は僕の斜め後ろから頭の先の方に向かって行ったようだ。
 勝手にマスター呼ばわりされているのは迷惑千万ではあるのだが、こういうときに鋏のフットワークの軽さは役に立つ。赤いの始め他の人形ども(ばらしーを除く)は勝手な行動はするくせに、言い付けたことに関してはとことん腰が重いのである。
 ちなみに、鋏は鋏で常に何か活動していないと落ち着かない。あくまでこういう場面で使えるだけであって、トータルではどっちもどっちではある。
 まあ勝手に動くとはいえ所詮は人形。多くを期待する方が間違っている。使える時に使えれば良しと考えるしかない。
 それにしても、この頭痛と眩暈はどうした。床と思しき平面に額をぶつけたから、という理由だけとは思えない部分がある。
 まるで何か、身体と脳というか心の調整が上手く行ってないみたいな……気のせいか。しかしついそう考えたくなるような、妙な違和感のある状態である。
 少し落ち着いてきてくれれば、立ち上がらないまでも頭くらい上げられるんだが──

「──たっ、大変だよマスター! ミドリさんの心臓、動いてない……! 胸に耳当てても心音が聞こえないよ!」
「なんということ……折角魔の四次元サルガッソから脱出したというのに」
「えううー? ミドリちゃんさん死んじゃったのなのー?」
「おはようございます、お姉様……でもええと……たぶんそういうことではなくて……」
「こういうときは心臓マッサージよぉ、すぐにやれば上手く行くかもぉ」
「電気ショックかしらー。ほらあのバチッてやるアイロンみたいな」「ですから……多分……」
「そそ、それならまず百十番しないとですぅ、でで電話、公衆電話はどこですかー?」

「落ち着けお前等。いいから落ち着け。鋏よ、倒れてるのは美登里じゃなくて、翠星石じゃないのか」
「え……? う、うん、そうだけど」
「そうか、なら大丈夫だ」

 元々心音なんぞ聞こえなくて当然である。
 まあ、心臓の代わりにローザミスティカがドキドキしていてもおかしくはないし、漫画じゃそういう描写もあったけどな。
 それとお貞、百十番じゃなくて百十九番だろうよ。まあどの道必要ない、というか何か重大な事態が起こっていても、警察や消防じゃ対処できない訳だが。
 どれだけ人間に近い姿とはいえ、薔薇乙女さん達もドールなのである。それも、滅多な人間には修繕もできないような厄介な代物だ。
 接着剤とエポキシパテでどうにかなりそうなコイツ等とは──いや、コイツ等も今はどうだか判らんな。面倒なことである。

「……うぅ……一体何騒いでやがるですか……しかも大勢で……」
「わ、起きたのー」
「特に……異常も無さそう……です」
「なんか拍子抜けぇ、あっさりし過ぎだわぁ」
「見ろ、言ったとおりじゃねーか。それと黒いのは後で折檻な。物干し竿に通して虫干しの刑」
「ひっどぉい、何よそれぇ」
「何をゴチャゴチャと……って、な、何なんですかこれ! 動く人形が……?」

 いやいやいやいや。今はお前も動く人形だから。まさに。
 しかしアレだな。お前ついさっき、コイツ等をぶっ壊れたあの店の中で見ていたではないか。残念人形どもが現在の姿に変化するところまで立ち会っていたはずだ。
 美登里……じゃない、翠星石も何処かぶつけるなりして、さっきのことはど忘れしてるのか。それとも混乱していてそれどころじゃないのか──
 そんなことをゆっくり考えている間もなく、トトッ、という足音と共に翠星石の声が近くなった。

「ジュン、突っ伏してないで説明するです! こ、このローゼンメイデンみたいな人形達は? 翠星石が気を失ってる間に、何が起きたっていうんです?」
「何がって……こっちが知りたいところだぜ。大体ここは何処なんだ」
「何ボケたこと言ってやがるですっ! ここは鏡の部屋じゃないですか。ジュンのお家のっ」
「なん……だと?」

 翠星石が未だに残念人形どものことを思い出さないのは気懸かりだが、それどころではなくなってしまった。鏡の部屋だと? そんな小洒落た名前の部屋はうちにはない。
 あるとすれば、それは僕の家ではなく──
 ずきずき痛む頭を上げ、天井と思しい方に顔を向けて重い瞼を開く。そこには、予想していたとおりの光景があった。
 漫画やアニメで見た記憶がある、薄暗くてだだっ広い部屋。その中に雑然と、天井に届かんばかりにうず高く様々なモノが積み上げられている。
 出処も状態も本当に雑多な、ただある程度以上古いものであることだけは共通している品物の群れ。
 苦労して首を回して後ろを見る。真後ろまで見なくとも、すぐ後ろに、搬入するのがさぞかし大変だったであろうと思しい、巨大でかつ豪華な装飾の施された姿見らしきものがあるのが確認できた。
 正面を向き、もう一度あちらこちらに視線を彷徨わせる。絵やアニメーションで見ていた風景とは大分違うが、雰囲気は同じだった。

 ……要するに、あれだ。翠星石の言うとおりであった。
 ここは確かにジュン君のお家。その、(少なくとも漫画のお話の上では)要らないものも要るものも何でも置いてあった、nのフィールドに続く姿見のある物置部屋である。
 どうやら僕等は畏れ多くもその鏡を通過し、ジュン君の家に──というより、多分「巻いた世界」に放り出されてしまったらしい。
 息を一気に吸い込み、ゆるゆると吐いて気持ちを落ち着かせる。驚きの連続でいい加減感覚が麻痺しているのだが、それでも重大事態であることに変わりはなかった。
 周囲で何やら人形どもが息を呑む気配もある。タイミング良すぎだぞお前等。僕の心理状況と文字どおり呼吸を合わせるとは珍しいこともあったものである。これが初めてかもしれん。

 それにしてもだな、美登里、いや翠星石。
 僕の名前は確かに平仮名で書けば「じゅん」だが、お前がその呼び名で僕を呼ぶのは問題があるんじゃないのか。これまでどおり邪夢でも構わんというか、まあ今はその方がまだいい。
 大体、僕を名前で呼び捨てておきながら「ジュンのお家」ってのがもう混乱してるだろうに。何が何やら判らなくなってしまうではないか。
 ゆるりと視線を巡らせると、人形どもが視界に入った。
 こちらはどうやらあの時トランスフォームしたまま、残念でないというかまあかなり美麗な人形となった状態でこちらを見ている。表情があるというのはいいことだなあ。喋られなくともある程度気分が理解できる。
 しかし、コイツ等の現在の気分はといえば、……全員、若干どころか大いにビビっているように見えるのはどういう訳だ。そんなに僕の顔が珍しいか。

「ジュ……ジュン、ですよね?」
「なんだお貞。藪から棒に」
「だって、その……顔が、っていうか姿が」「うん、その……ちょっと有り得ないっていうか」
「なに、着地の衝撃で二目と見れぬ姿に腫れ上がっているとでも申すか」
「そうじゃなくて、うー、何て言ったら良いかしら……」「うーとねー、うーとねー」
「ねぇ、鏡を見れば自覚できるんじゃないのぉ? お誂え向きに大きいのがあるじゃなぁい」
「流石はお姉様……グッドアイデア……です」
「わ、私も今それを言おうと思っていたのだわ」

 例の店での美登里達ではないが、七体も同時に喋り始めると手に負えん。判ったから取り敢えず黙っとれと人形どもに言い、翠星石に視線を戻す。
 人形どもの一斉口撃というかしゃべくりに、彼女は口を挟むタイミングを見失ったように僕の顔と人形どもに交互に目を向けていた。
 疑問と不安がありありと顔に表れている。ついでに言えば助けを求めているようにも見える。石原美登里であった頃については隨分長いこと付き合いがあった訳だが、その間僕の前ではついぞ見せたことのなかった表情である。
 何なんだ一体。此の期に及んで、しかも今度は僕絡みでまだ厄介事があるのかよ。今日はもう勘弁して欲しい。正直言うと早いとこフテ寝を決め込みたいのだが。

 ともかく。
 あれだけガツンとぶっつけて、顔というか額がどんな酷い有様になってるのか知らんが、美登里に一応は元気なところを見せなければいかん。
 現在の肩書きがどうあれ、僕にとってこいつはやっぱり仲の良い同級生の双子の姉で、一度はラブレター出すことまで考えた相手である。こんなしょぼくれた顔は見ていたくない。
 大分痛みが和らいできたものの、首を動かすとぐらぐらするような気がする。それをどうにか抑え、なるべく元気な振りを装って背後の大きな姿見を振り向いた。
 そこに映っていたのは──

「──なんじゃあ、こりゃあぁぁっ」

「やっぱり驚いたですぅ」「予想はついてたけどね」
「ジュン落ち着くのー! テイクイットイージーなのよー」「こういう時は天井のシミの数でも数えるかしら」「それを言うなら……素数を……」
「驚愕するのは良いけれど、ジーパン刑事の物真似は余計なのだわ」
「何冷静に古いネタに絡めてんのよアンタ達……」

 いやいやいやいや。黒いのよ、一番冷静なのはお前だろうが。ああそうじゃなくてだな。なんというか。
 最早、頭痛を気にするような状況じゃない。
 取り敢えず顔を触ってみる。がくがくと両方に首を傾けてみる。鏡の中の少年は、タイムラグなしに、忠実にこちらの動きを(左右反転で)トレースしてくれた。
 ついでに言うとイマイチ緊張感なく騒いでいる七体の人形どもも、そして不安感が今にも爆発しそうな表情の、石原美登里の面影のある可愛い女の子(やや小さすぎるが)も見える。
 マジックミラーで向こうが見えてる、とかではない。映っているこれは間違いなく僕自身だ。
 これは……やばい。実にいろんな意味で。

 一見ぼさぼさに見えるが実は手入れされている、やや長髪気味の髪の毛。今時流行らない大きなフレームの眼鏡。そして、僕本来のそれとは似ても似つかない、大きな目をした可愛い系の顔。白に近いグレーのパーカ。
 いやまあ、そろそろ具体的な名前を思い浮かべたっていいだろう。
 僕は、桜田ジュン君になっていた。
 正確に言うと、森宮アツシ君に実によく似た姿になっているだけで、本当にこれが桜田ジュン君そのものかは保証の限りではない。更に悪いことには、彼の記憶など欠片も持っていないし、何やら有難いマエストロパワーが漲っているような気配もない。今のところは。

──やられたぜ。というか、やってくれたな。

 頬をつねってもいいところだと思うが、意味は無いだろう。とんまな僕だが、ここまでの流れを思い出せば、何が起きたかは概ね判る。
 これに似た事態をごく最近聞かされているし、間近に見てもいる。ついでに言えば、こういうふざけた真似をしたヤツが誰であるかもだいたい見当がつく。
 鏡の中で、可愛い系少年の顔が情けない表情になる。おい、そんな顔すんな、ってかこれは僕の今現在の表情な訳だが。
 こんな顔してる場合じゃなかろう。今は、あまりのことに黙り込み、縋るような眼つきで鏡に映った僕の顔を見詰めている、かつての知り合い(ややこしいな)の不安を取り除くべき時である。
 さっさと僕が彼女の契約者たるマエストロのジュン君でなく、凡俗の桜田潤であることを告げねばなるまい。それから早急に二人で善後策を講じ……いや待て。
 さっき人形を見た時の反応、あれが妙に引っ掛かる。一応、念の為に確認しておいた方が良いやもしれぬ。

「……翠星石」
「……はい、です」
「一つ質問がある。石原美登里って名前に、心当たりあるか」
「今更何言ってんですか……それを言うならジュンは森宮アツシって名前に……っ!?」

 言いかけて、慌てて翠星石は自分の姿を見直した。
 どうやら、漸く色々と繋がってくれたらしい。さっきは恐らく変身と同時に気絶したはずだから、自分がこの姿になってしまったことも無自覚のままだったのだろう。鏡を覗きこむようにしたり、小さな手を握ったり閉じたりと忙しい。
 動作を止め、凍り付いたような表情に変わるまでに、そう時間は掛からなかった。ほんの数秒というところだろう。
 ぐるりを見回し、なんとなく一塊になって状況を眺めている人形どもに視線を向け、また僕に戻す。

「この子達……まさかさっきの、じゃあ……ジュンって……まさかアンタ」
「マサカマサカ言うなよ。どういう因果か知らんが、多分お前の考えてるとおりだ。美登里……じゃなくて翠星石」
「そんな……何故ですか、どうして邪夢がジュンに……」
「理由なんぞ皆目判らん、僕も今気付いて驚愕したところだ。見てたろうが」
「見てましたけど……でも……私が元の姿に戻ってるだけでもビックリですのに」

 そりゃ、そうだ。
 頭のいい奴ならここで何か閃き、チッと舌打ちしたりするところだろうが、生憎僕にはそういう鋭さがない。どっちかっていったら直感的な閃きは翠星石の得意な領分のはずだ。
 とはいえ、このトンデモ事態の仕掛け人については心当たりがある。
 今のところ未見の、真っ白な衣装の第七ドール。何やら桁違いのパワーで一度は姉妹全部を捕獲したという人物だ。

 混乱している様子の翠星石には悪いが、こちらとしては正直ほっとしてもいる。最悪の事態だけは避けられたようだ。
 空っぽの肉体に別人の夢を潜り込ませたり、記憶をブロックしたりと他人の頭の中を弄くり回すのが大好きな仕掛け人のことだ。人形のことを覚えてないのは翠星石の記憶なりも適当に消去するなり書き換えるなりしている可能性もある、と考えたのだが、それは流石にないらしい。
 心を丸ごと入れ込んでみたり、手間暇掛けて数年分の記憶を植え付けるような大技は扱えても、記憶の個々の部分を消去することは不得手と見える。何を意図してのことか未だにはっきりしないが、薔薇乙女さん達のためにえらく大掛かりな舞台を整え、数年という時間を費やさざるを得なかった原因も、逆に言えばその辺りにあるのかもしれん。
 要するに新たにデータを叩き込むのは簡単だが、クリティカルな部分について改竄したり部分消去することは難しいのだろう。幻覚を見せるのが本業、という漫画の描写がご本人にも当て嵌まるなら有り得ることだ。
 いやまあ、僕の記憶の方が弄られ、都合良く考えさせられている可能性も当然あるわけで、事態はなお予断を許さないのだが。
 もっとも僕自身の記憶が書き換えられているとしたら、現状では何をどうすることもできない。お手上げである。

 そんな感想を交え、あの部屋から放り出されてからの事情を、情けないが包み隠さず話す。
 一緒に居るのがジュン君じゃなかったことは物凄いショックだとは思うが、僕よりも遥かに事情に通じているはずの相手に口先で嘘をついても仕方がない。
 それに、向こうがどう思っているかは判らんが、こちらにとってはそれなりに長い友人である。少なくとも、僕がどんだけ頼りにならん人物かはよくよく知られている。今更恰好を付けたところで始まらない。
 大事なのは、これからどうするかである。僕のこの何やらニコイチ的な状況を含めて。
 翠星石は俯き加減だったが、余分な口を挟むこともなく僕の話を聞いていた。一段落すると、溜息をついて僕の顔を見上げ、それから──実に意外なことに、ごめんなさいと素直な声音で頭を下げた。

「なんだよ、らしくねーな」
「邪夢を巻き込んでしまったのは、翠星石ですから。蒼星石にも止められてましたのに、後先考えずに突っ走って……」
「いや、あの店に行ったのは僕の考えだったし、森宮さんとも約束はしてた。近い内に似たようなコトになってたろ、どうせ」
「でも、直接の引き金を引いてしまったのは翠星石です。翠星石のせいです」
「……そりゃあの某ラノベもどきの呼び出しも、原因の一つっちゃそうかもしれんが……」
「お店の中でも、ずーっと考えてました。ホントにこれでいいのかって。でも、あんなことになって」
「そうか……」

 皆さんの会話と店長氏の解説に気を取られてそこまで気が回らなかったが、彼女なりに忸怩たるものがあったのかもしれん。店長氏の真相解説の後は確かにしょぼくれていたし、その前から少しばかり様子がおかしかった。
 まあ、やっちまってから後悔するというのは至高の少女候補生としてはだいぶ粗忽な行動なんだろうが、同時に僕の知っている石原美登里にはそんな部分があったのも確かだ。
 真紅──森宮さんは判らんが、彼女以外の姉妹は皆さんそれぞれ結構なアクの強さ、というか至高のなんちゃらなるには性格的な欠陥をそれぞれ抱えているような気がする。水島先輩の水銀燈然り、葵というか蒼星石然りである。
 もちろん、あくまで遠大というか遥かな高みにある目標に対しての話である。僕等凡俗からすれば皆さんそれぞれ魅力的な人物であり、人間として生きて行くには(将来的に上手く世渡りして行くのに難があるかどうかは別として)性格が破綻しているようには見えなかった。
 正直なところ、一緒にワープアウトというか同じ場所に放り出されたのが真紅でなく、こいつ(……と身の程知らずにもタメな視点で見てしまうんだが、まあ許して頂きたい。なにせこれまでずっと知り合いの同年生だったのである)で良かったかもしれん。
 浅い付き合いとはいえ長いこと見てきた翠星石の方が、あの場で森宮さんから豹変してしまった真紅よりは、今の僕には親しみやすい。性格的にも、多分とっつきやすくもあるだろうし。

 まあ、そんなことはどうでもいい。今は謝りっこしている場合ではないのだ。
 がっくり落ちた翠星石の小さな肩に手を掛ける。当たり前だが自分の手とは思えない、細くて繊細そうな指だった。マエストロの魔法の指ってやつだな。ガサツに扱って傷つけたりしないようにせねば。
 空いている方の手で、顔を上げた翠星石の目の前で引き金を引く真似をしてみせる。
 綺麗な丸目のオッドアイがぱちくりした。これだけは美登里と決定的に違っている。あいつの目はどっちも普通の色だった。

「まー、あれだ。引き金を引いちまったのは僕だろぉ。銃に弾込めしたのはそっちかもしれんが」
「でも、邪夢は何も知らなくて」
「まあ実弾入りとは思ってなかったなぁ確かに。……つっても最終的に決めたのが僕なのは譲れんな」
「私達だって了承したんですから──」
「──ハイそのとおり。僕等どっちにもこうなっちまった責任の一部はあるってこった。だからまあ、この話はこの辺で終わりにしようや。さもないと堂々巡りになっちまう」

 肩から手を離し、こんなことやっとる場合じゃなかろう、と念を押す。
 内心にはそれこそ僕が想像できないような様々な感情が渦巻いているんだろうが、翠星石の切り替えは早かった。もっとも、空元気を奮い立たせただけかもしれない。
 暫く黙っていたが、やれやれと肩を竦めてみせる。少しばかり偉そうな仕種は、見慣れた石原美登里のそれだった。
 よりによってアンタに諭されるとはこの翠星石も落ちぶれたモンです、というどえらく上から視点の台詞も、他に姉妹やら契約者の皆さんが居ないせいか嫌味っぽくは感じられない。偉いさん的姿勢というよりは、いつもの美登里の根拠ない大袈裟な態度の方に思えた。
 素直にはいと言わないところもこいつらしいと言えばらしいなあ。妙な話だがほっとする。
 尊大な態度を取ることで相手を安心させているのだから、ある意味、得なやつではある。

「肝心なのは、僕等が放り込まれたここがどんな場所か確認することだ」
「……ですね。ジュンの家の物置部屋に見えますけど、実態はどうだか判ったモンじゃないですから。扉の外はまたnのフィールドってことも有り得ますし」
「おお? 随分懐疑的になったな。さっきは断言したくせに」
「一々細かいこと気にしてんじゃねーです。それより、アンタはその身体で違和感とかはないんですか」
「何ともねーって言いたいトコだが、バリバリにある。他人の身体だって言われれば無条件で信じられるぜ」
「当たり前じゃねーですか……まあそっちも、追々謎を解かないとですね」

 謎は解けてるだろうに。判らんのはなんでその対象がジュン君の身体と僕の意識って組み合わせなのかと、どうやったらこの状態を脱せるかってことだ。
 そう考えたが、口に出すのは止めておいた。
 折角気を取り直して行動に移ろうとしているところなのだ。茶々入れ程度ならいいが問題を蒸し返すのは不味かろう。
 どっこいせ、と立ち上がる。頭痛は大分和らいできたような気もするが、まだふらふらするのは、頭と体のマッチングが上手く行ってないからなのか。常識が全く通用せん異常事態の連続だというのに、こんなところだけ妙に現実的である。
 今後眠ってるような余裕が(周囲の状況にも、僕の精神的な面にも)あるかどうか判らんが、もし一眠りできるとしたら、その後はこの症状だけでも治まっていてほしいもんだ。

「よし。そうと決まれば探索開始だ」
「先ずは家の中からです。……家の中なら、ですけどね。ちゃっちゃと入口のドア開けちゃってください」
「僕が開けていいのか? お前ん家かもしれんのだろ、一応」
「やっぱり邪夢は邪夢ですねぇ……今の背丈と手の大きさでドアノブ掴むのがどれだけ大変か、ちっとは考えやがれってんです」
「掴むのは知らんが、手は楽に届きそうじゃねーか」
「何言い返してんのよくだらなぁぃ」「ジュン、れでーふぁーすとなのよー」「女の子に仕事させようなんて酷いかしらー」
「あーはいはい。まあ、勝手に開けていいなら願ったりだが──」

 願ったりではあったんだが、結果から先に言ってしまうと僕がドアを開ける必要はなかった。
 えっちらおっちらとふらつく足を踏みしめて戸口に向かう。翠星石は緊張した面持ちで僕の脇に並んだ。
 体調を心配してのことか、ちらりとこちらを見上げたが、すぐに微妙な表情になる。まあ、仕方がないな。慣れてもらうか早期に解決するしかない。
 人形どもも何やらワクワクした様子でぞろぞろとついて来る。こっちはどうせドアの向こうが安全だと判ったら即座に探検を開始するつもりだろう。特にアクティブな赤いと黒いのには要注意である。
 ノブに手を掛けようとした僕の耳に、急ぎ足で木造の廊下を歩いてくるスリッパか何かの音が聞こえてきた。どうしたと身構えた瞬間、少しばかり重そうなドアが良い勢いで開かれる。

「──ジュ、ジュン君!? みんなも、帰って来たのぅ?」

 部活帰りなのか、高校の制服と思しいブレザーとスカート姿の女子。
 色の薄いくせっ毛、丸い眼鏡、内心を反映しているかのような実に優しい顔立ち。ちなみに、さきほど鏡に映っていた可愛い系少年にもよく似ておる。
 桜田のりさんは、やはり森宮さんのお姉さんにそっくりの雰囲気と、実によく似た顔立ちを持っていた。
 その顔が泣きそうな表情になり、そして……そこでぐっと堪えて笑顔を作る。できた人である。

「お帰りなさい。ジュン君に翠星石ちゃん……みんな揃って……」
「の、のり……た、ただいま、です」
「心配してたのよぅ、もう一週間も……あ、ううん、それはいいの。無事で良かったわぁ」

 何と言っていいか、咄嗟に言葉が出ずに目を白黒させている内に、お姉ちゃん準備するからお部屋で待っててね、と慌てたように言いながら、のりさんはパタパタと走って行ってしまった。
 彼女の視界の隅には人形どもも居たはずだが、全く見えなかったのか? いや、違うな。
 恐らく人形どもを薔薇乙女の皆さんと勘違いしたのだろう。みんな、というのは人形どもを誤認しての発言としか思えん。
 迂濶です、迂濶過ぎますよお姉さん。明らかに見たことないのが三つ(黒いの、鋏、ばらしー)も混じってる上、僕と並んでた翠星石そっくりのまであったでしょうが。まあ、増える方は何度も経験してるんで慣れっこになってんのかもしれないけど。

 戸口から顔を突き出し、左右を見てみる。
 そこは白い霧の中ではなく、まるで現実のような……いや恐らく現実世界の、桜田さんの家と思しき廊下であった。
 キラキーさん監修の漫画のワンシーンを思い出す。雑誌掲載時に偶然立ち読みした程度だが、これに似た状況があった。「巻かなかった」世界編が終わり、nのフィールドからジュン君ご一行がご帰還になった時だ。

──つまるところ、なんだ。物凄く長い長い寄り道をした挙句、ジュン君の身体と翠星石だけは元の世界に帰還したって寸法かい。

 頭痛がぶり返してきた気がする。
 どうしたもんか。のりさんに事実を伝え、人形ともども居候させてもらうしかないんだろうか。
 あるいは嘘をつき通すって手もある。だがどうせ僕のことだ、早晩ボロが出るだろう。
 なんてこった。遅かれ早かれ、あの優しくて温和そうなのりさんの顔が、今度は絶望に変わるような話をしなければならんのか。何処まで損な役回りなんだよ僕。
 大体なんでこんなことになったか、どうやったら元に戻れるかさえ判らんのだぞ。ある意味で完全に詰んで……いや、やめとこう。
 顔を片手で押さえてから斜め下を見る。人形どもは早くも前進してきててんでに廊下を眺めておるが、今は無視。
 翠星石は戸口から足を踏み出し、廊下の真ん中で前後を見てから僕に向き直った。

「……よく出来た幻影の中でなけりゃ、どうやらここは「巻いた」世界のジュンの家で確定みたいですね」
「ジュン君が留守にしてたこと、全ての世界を通じて一人しか居ないはずのお前を当たり前に知ってたことは符合するわな」
「多分のりの目から見たら、私達が「巻かなかった」世界から帰ってきたところ、なんでしょうね」
「でも妙だな」
「何がです?」
「彼女はあっち側に引き込まれてなかったのか? お前もさっき──どのくらい前になるか知らんが、確か言ってたよな。のりさんも巻き込まれた、みたいなこと」
「言いましたよ。でも……ハズレだったみたいです」

 店長氏の解説で自分達が長年思い込まされていたストーリーが完全に崩壊したせいか、翠星石はかなり重要そうな認識のズレを実にあっさりと認めた。
 確かに、森宮さんのお姉さんが僕と同じような一般人そのものであった可能性はある。というか、それでも問題は起きないだろう。
 複雑な処置を施した薔薇乙女さん達にさえ大々的に記憶を捩じ込んだキラキーさんである。漫画の中で外人の女の子に使ったのと同じ手法を使えば、ごく普通の人間に捏造した記憶を植え付けることなど造作も無いのだろう。
 森宮さんのお姉さんに割り当てられた立場はあくまで「桜田ジュンの姉」であり、契約者でも薔薇乙女さん達本人でもない。植え付ける記憶も詳細なものでなくて良かったはずだ。
 普段より更に回らない頭で、ついそんな風に考えてしまう。例によって勝手な妄想であり当たり外れは保証の限りではない。
 予想がハズレならハズレで仕方ない。ただ、向こうでの森宮倫子さん……のりさんにあたる人がどういう形でジュン君やら真紅の森宮さん、そして翠星石と関わっていたのか、一度確認しておく必要はありそうだ。それによってはこの──

 ──必要はあるのだが、その問題は脇に追い遣っておくことにしよう。
 ただでさえ色々とやらねばならんことが多いのである。後回しにできることは後回しにするのも知恵の内というやつだ。
 翠星石がまたこちらに視線を向ける。薔薇乙女様の内心など見通せるはずもないが、少なくともそこだけは翠星石と僕の考えは一致していたらしい。

「取り敢えず、部屋に行きましょう。次のことは、そこで段取りを検討してからです」
「応ともさ。しかし、らしくない慎重なご意見だな。巧遅より寧ろ拙速を尊んでたんじゃないのか」
「一々軽口叩いてんじゃねーですよ。ほれ、案内しますからついて来るです……アンタ達もですよ」
「きゃあっ! 暴力反対、割れ物注意天地無用なのだわ!」「ぼ、僕は偵察と巡回に出ようとしてただけでー」
「のりの邪魔をしたら「めっめっ」ですからね。話は後でたっぷり聞いてやるから、まずは部屋に来やがれです」

 早くも飛び出そうとしていた赤いのと鋏の襟首を捕まえ、翠星石は廊下をずいずいと歩き出した。
 勝手知ったる我が家だからか、付き合いも長くない人形相手に随分勇ましい仕種である。二体がギャーギャー喚くのにも頓着しない態度は、さながら肝っ玉母ちゃんとガキ二人といったところか。
 内弁慶というか何と言うか。頼もしいのか危なっかしいのかさえよう判らんが、空元気でも元気である。やはり美登里はこうでないとな。
 多少偉そうなところが鼻についても、寂しく途方に暮れられているよりは遥かにいい。特に、こんな状況では。

 背中と両手に人形どもを満載して二階への階段を上り始めると、今まで体の芯に溜まっていた疲れがどっと噴き出しきたような気分になった。
 まだマッチング云々の違和感もあるのだろうが、明らかにこの身体、僕本人よりも数段体力がない。魔法の指を持つマエストロボデーも良い所ばかりではないようである。引き篭っているのだから当然だが。
 ぐうたらを自認する僕であるが、これは困る。運動能力は致し方ないとしても、いざ行動しようと思ったら電池切れでは洒落にならん。
 落ち着いたら少しは体力を付けさせて貰うとしよう。もっとも、そんな余裕があればの話だが。
 とにかく、今は布団に寝っ転がってそのまま眠ってしまいたい気分なのだ。体力づくりやら何やらよりも、この自分の状態をどうにかするのが先決である。
 もはや日付の境目も判らんグチャグチャ状態であり、あまりに色々あり過ぎたせいで精神的に鈍くなっとるのが自覚できるほどだ。寝て起きてリセットしたい。
 綿のような疲労感もある。お姉さんが進めているらしい何かの準備が整うまで、僅かな時間でいいから休みたい。現実から目を背けて逃げるってな大仰なモンじゃなしに、頭と体が休養を求めている。

 翠星石の指差すドアを開けながら、生欠伸を噛み殺す。
 この緊迫した状況下で睡魔まで忍び寄って来ているとは、なんともはや。意識下の僕の本質はこの人形ども並に鈍感で図太いとでもいうのか。
 何にしても、もう限界である。いいか僕は寝るぞ。誰が何と言おうと、このドアの向こう、部屋の中にあるはずのベッドに倒れ込んで大の字になってやるからな。


 しかし、例によって現実は非情であった。
 この日、僕がジュン君のベッドを無断借用して寝っ転がることが可能になるまでには、更に一悶着を経ねばならなかったのである。

  (つづく)




[24888] 第三期第二話 いまはおやすみ
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:8ccf4fd8
Date: 2012/12/22 21:47



 ~~~~~~ 承前 ~~~~~~


 幸いにもこちらの季節は冬ではなかったらしい。暖房が入っている気配はないのに、フローリングの室内は適度に暖かかった。
 僕と翠星石はベッドの上に並んで腰を下ろした。漫画で見た分には結構でかそうな印象があったそれは、こうして見てみるとごく普通の大きさだった。
 逆に、部屋自体は随分広い。森宮アツシ君の部屋よりも更に大きく、十五畳かそこらは楽にありそうだった。
 これなら子供ほどの背丈のある薔薇乙女さん達がドタバタやっても楽に許容出来て当たり前だ。炬燵と布団で一杯一杯の僕の寝部屋とは大違いである。
 子供部屋としてぽんとこの広さを与えて貰えるとは羨ましい。その反面、広い上に整い過ぎていて一人で寝起きするには随分寂しい場所にも思える。
 床の上には、でっかい茶色の革の鞄が置かれていた。二つ。
 僕には見分けがつかないのだが、翠星石によれば片方は彼女のもので、もう一方は雛苺のものらしい。
 先程引き戻されて欲求不満が溜まっているのか、赤いのと鋏が無遠慮にも早速捜索を行ったが、この部屋のもう一人の住人の鞄は見当たらなかった。その意味するところが何か不審であり、不穏でもあるが──

──まあ、それはもっと頭の回ってる時に考えたい。

 懐かしそうに部屋の中を眺め回す翠星石の脇で、不謹慎ながら僕は欠伸を抑えきれなかった。許可が出れば、後は後ろに倒れてがーがーといびきをかくだけである。
 赤いのと鋏の行動が黙認されたお陰で箍が外れたのか、人形どもはわいわいと探検を始めているが、もう知らん。とにかく眠い。
 でかい口を開けて伸びをすると、人形どもを眺めていた翠星石がこちらを振り返った。

「早速ですけど、邪夢」
「何だ、ご覧のとおりだぞ。難しい話なら後にしてくれんか」
「そうは行きませんよ。のりが呼びに来ますし、それまでに打ち合わせておくこともあるのですから」
「あー、まあ……確かになあ」

 のりさんにこの込み入った状況をどう説明するか、か。最初の大仕事かもしれん。
 さっき一瞬だけ見せた泣き顔。すぐに背中を向けてしまったのも、待ち人の帰還した嬉し泣きを隠すためかもしれぬ。それはもちろん僕ではない訳で。
 眠気が僅かに退き、何とも言えない申し訳なさであったり逆に憤りに近いものであったり、遠ざかっていた様々な感情がごっちゃになって押し寄せてくる。

──私達がここで生きている限り、身体の持ち主は限りある人生を失っていく。

 あのときの彼女の思いを、ほんの少しだけかもしれないが実感できたような気がする。
 そうだよな。小難しい大義名分や偉いさん達の事情など知ったこっちゃあないが、取り戻さねばならん。僕は僕自身の身体を、恐らくどっかに漂っているジュン君はこの暖かい居場所を。
 但しそれはいわば最終目標である。辿り着くためには目の前のあれこれを排除していかねばならんことは、眠気でいい加減参ってる僕にも自明であった。


 ~~~~~~ 第二話 いまはおやすみ ~~~~~~


 ガヤガヤと室内を無遠慮に物色している人形どもに適当に注意を与えつつ、僕等は景気のよくない顔でぼそぼそと善後策を検討した。
 目下最大の問題は、僕がジュン君でないことをのりさんに包み隠さず語るかどうかである。人形どもを薔薇乙女さん達と誤認してしまった件も含め、事実を知ったら心中如何許りか、と思うと共に、付け焼き刃の嘘をついたところで早晩ばれてしまうのも間違いない。
 不味いことに、その点で僕等の考えはしょっぱなから対立してしまった。

「要するに適当に嘘をついとけってことか」
「そんなことは言ってませんよ。ただ、いきなり本当のことを教えたら、のりは混乱するどころじゃ済まないかもしれないです」
「じゃあ、いつ事実を告げるってんだ。それこそタイミング間違ったら最悪じゃねーか」
「なら邪夢は、何処から話を始めるつもりなんです? いきなりそこから話し始めたら、後の説明なんて全然耳に入らんかもしれませんよ」
「話を円滑に進めるために、肝心のトコについては黙っとく訳だな」
「ですから、そんなことは誰もっ」
「んじゃ、やっぱり話を作るんだろー」
「だーかーら、それはっ」
「見事な堂々巡りねぇ」「ちょっとした修羅場かしらー。痴話喧嘩にしか見えないけど」
「結構相性良さそうだよね、あの二人」「……最悪ですぅ」
「何がサイアクなのー?」「貞子には貞子の事情があるのだわ」「その呼称……遂に赤いお姉さままで……」「ムキー!! それも最悪ですぅ!」

 ううむ。これは宜しくない。いつまでも言い合いを続けていてはンガゴーと鼾を立てて眠ることもできんではないか。
 お互い噛み付きそうになってしまった態勢から身を引き、一旦姿勢を正す。
 無責任な人形どもの戯言は置くとして、確かにこのまま議論を続けても埒が明かぬ。そして、どちらかと言えば原則論でイチャモン付けてるのは僕の方である。ここは折れるべきだろうな。
 同じようなことを考えたのかどうかは保証の限りじゃないが、長引かせるつもりがないのは翠星石も同じだったらしい。肩から力を抜き、やれやれと竦めてみせる。

「人の口に戸は立てられませんし、邪夢は邪夢ですからね」
「いい案があれば乗るに吝かじゃないんだがな」
「それをこれから考えるって言ってるんですよ。二人で」
「僕は戦力にならんぞ。とにかく眠すぎて頭が働かん」
「起きてたって寝てたって大して変わんない、の間違いですよね?」
「……否定する気力もないわい。で、頭の切れる翠星石様のプランはどうなっとるんだ」
「そうですね……」

 翠星石は前を向き、人差し指を唇に当てて考えるような仕種をしてみせたが、ふむ、と一つ頷いてこちらに向き直る。びしりとこちらにその指を突き付け、僕が眠いというのは却って好都合である、と言った。
 のりさんに何か訊かれても受け答えはそこそこにしておけ、漫画で知っている事柄については言及してもいいがうろ覚えの案件については言葉を濁すか眠気に耐えられない風を装え、と続ける。ヤバいと思ったら自分がフォローするつもりでいるらしい。
 そういう細かい工作は、どっちかと言えば石原の──いや葵の──いやいや今は蒼星石か、そちらの領分だった。何にしてもブレーキ役は双子の妹の方が担当していて、こいつは専らアクセルを踏んでた記憶しかないのだが。今は他に役者が居ない以上、任せるしかない。

 そういや、ここまで自分(と翠星石)のことで一杯一杯だったが、他の方々はどうなったのであろうか。
 僕本体とは別個に視界から消えていったはずのジュン君の身体がここにある。翠星石に至っては、何処に存在していたかも判らんドールの体に当たり前のように宿っている。
 ということは、他の人々も皆この世界に出ている可能性がある。
 もっとも、元はここから出発していった人々であるから「戻った」と表現すべきかも知れない。
 逆に言えば、ジュン君はじめ皆さん一度は失踪しているということでもある。それも、先程ののりさんの言によればほぼ一週間ほどになるようだ。
 みっちゃんであるところの加納さんの顔が頭を過ぎる。
 ヒッキーのジュン君が現実世界から消失したところで、のりさんが黙ってさえいれば何事も起きなかったことにできるだろう。しかし、みっちゃん氏はそうはいかない。どういう扱いになっているのか。失踪扱いで大騒ぎになってる可能性もあるんじゃないのか。
 ううむ。これも問題である。事が大きくなっていないことを願うばかりだ。
 もうひとつ言えば、できれば僕等が当てのない探策に出るような破目になる前に戻ってきていて欲しい。
 翠星石はともかく、如何せんこちとらマエストロパワーも何も持たぬ凡俗なのである。捜索に手を尽くすことに躊躇はないが、それで成果が上がるかどうかはまた別の問題なのだ。

 まあ、それ等の問題は暫し棚上げとしよう。

 今に始まったことではないが、僕がスタンドプレーで幾ら頑張ってみても成果は上がらん、という図式は大抵のことに当て嵌まる。どう頭を捻り、独自の見解を打ち出してみても、正解は常に優秀な他人が持っているのだ。
 それはこれまでの、ごく普通の人間としての人生でも概ねそうだった。
 ただこれまでは、それでも独自路線を突っ張ってみても良かった。僕の決定は僕自身にしか跳ね返ってこないものが大半だったから、何か間違った方向に進んでしまったり失敗しても構わなかったのだ。
 だが、今回は些か様相が違う。消極的な姿勢かもしれんが、しくじりたくなければ慎重にやるべきなのは間違いない。

「……おんぶにだっこで悪いが、その案に乗らせて貰うとするか」
「初めから素直にそう言やあ良いんですよ。ネチネチ文句付けてばっかりじゃ、何も始まりませんからね」
「そこは謝る。悪かった」
「ま、所詮は邪夢ですし、建設的な意見なんて期待してなかったですけどね」
「あーはいはい、そうでしょうともそうでしょうとも」
「そうやってまたすぐに……」

 腰に手を当て、大仰に溜息をついてみせる。
 こいつめ。なりは大分変わっちまったが、態度の方は全くいつもどおりじゃねーか。
 いい気になりやがって、とカチンと来るのと同時に、他の薔薇乙女さんにこんな風に言われたら凹むだろうな、と思いもする。
 いや、葵……蒼星石なら話は別かもしれん。それぞれタイプは違うが僕に対してずけずけ物を言うのは双子のどちらも同じことだった。
 考えてみれば僕と一番長い付き合いだったのはあいつだ。
 中学、高校とずっと同級生で、一緒に飯を食いに行ったりしたこともある。彼氏彼女って付き合いじゃなかったが、少なくとも漫画の蒼星石の描写よりも近いところから見ていたのは確かだ。
 漫画の中の蒼星石とは随分違って、シニカルなのに気の置けない雰囲気があったが……それは、僕があいつの厳しい運命に関わりのない存在だったからかもしれない。言わば、重荷の部分を取り去った素顔を見せてくれていた。そんな風にも思える。

「……まあ、愚図愚図言う前に取り戻さにゃならんものは多いわな」
「そうですよ。みんなみーんな、この翠星石がこの手で取り返してやるのです」
「うむ。その意気だ、頑張ってくれ」
「何他人事みたいに言ってやがんです。先ずはジュンの心を探し出して、アンタにゃ早々にその体を返却して貰うですよ」
「可能な限り早期に返却致しますよ。返し方が判ればだけどな」

 簡単に口にしてしまったが、問題はそこである。
 精神をジュン君の肉体に捩じ込まれたと思しい訳だが、どうやれば本来の持ち主に身体を明け渡せるのか。意外にあっさり行くのかもしれんが、少なくとも今のところはその方法について皆目見当がつかん。
 ついでに、僕自身の体の方も確保する必要があるのは言うまでもない。体を追い出されて幽霊同然の状態でよく判りもしない空間を漂流するのは流石に御免蒙る。
 そして、心身一致したら元の世界に戻る。それで漸く振り出しまで戻れたことになるのである。

 平行世界を行き来できる薔薇乙女の皆さんはどう思っているか知らんが、僕にとってはあのけったいな空間に落ち込む前までずっと存在していた世界が全てである。良し悪しはともかく、戻らなくては始まらない。
 そこには既に僕が好きになった森宮さんも、目の前に居るこいつも、慣れ親しんできたこいつの双子の妹も居ない。憑依された元の人物達が居るだけである。
 もし、他の皆さんも翠星石のように元のボディに戻っているとしたら、「巻かなかった」世界のように、薔薇乙女さん達の憑依事件自体なかったことになっている可能性もある。その場合、片割れが同級生だった双子はともかく森宮さんや水島先輩といった最近知り合った人々とは出会わなかったことになっているかも知れぬ。
 出会っていたとしても、恐らくこの一連のあれこれの記憶は持っていないだろう。ある意味、帰ったところで(この件に関する限り)浦島太郎のような状態ではある。
 しかし残念なことに、仮に彼女達すら居ない世界だとしても、彼女達だけが全てではない。そこは依然として僕にとっては未練の残る、帰るべき場所なのであるから──

 いかんな。どうもあちこち考えが飛んで纏まらん。集中力が欠けている点はいつもの僕ではあるのだが、変に尾鰭がついているのは眠気のせいでもあるのは間違いない。
 この次は全然関係ない妄想が頭の中に浮かんで来るようになり、最後は全き夢の中へご案内という寸法だ。
 そろそろ本格的にやばい、と翠星石に告げようとしたとき、長閑で優しい声が階段の下と思しい場所から響いた。

「ジュン君、みんな、準備できたわよぅー」
「はぁーい、今行くですよっ」

 翠星石はそれまでより半オクターブばかり高い、元気の良い声を張り上げた。
 どっちが素の声なのかよく判らんが、少なくとものりさんに景気の悪い姿を見せたくないと思っていることは明らかだ。傍若無人に見えても、こいつなりに気を遣っているのだろう。
 ぴょんとベッドを飛び降り、僕の方にまた指を突きつける。

「ほれ、降りて行くですよ。欠伸してないでシャンとしやがれです」
「降りてくはいいが……準備って、なんだ」
「今更何言ってんです。のりが準備っていったら決まってるじゃないですか──」

 そこで、はっとして一瞬躊躇する。
 気付いてくれてありがとう。申し訳ないが、こちとら決まりごとを知らない初心者なのだ。
 ベッドから降りてもう一度伸びをする。高い天井だなあ。日本家屋というよりは欧米式に近い寸法で作られてるんじゃなかろうか。小奇麗だったが間取りは典型的な日本家屋だった、アニメのジュン君の部屋とは大違いである。
 ばつの悪そうな顔になっている翠星石に手を伸ばし、ひょいと抱き上げてやる。
 軽いなあ。当たり前か。いや、人形とすればかなり重量感はある方だ。ただ、森宮さんを同じように抱き上げたのが記憶に新しいせいか、どうしてもそっちと比べてしまう。
 慌てたようにじたばたするのを無視して部屋を横切り、ドアを開ける。いい匂いが鼻をくすぐった。なるほど。のりさんがしていたのが何の準備だったのか、察しの悪い僕にも漸く判った。
 つくづくいいお姉さんだな、ジュン君。なんでこんな完璧お姉さんが居るのに、不登校になんぞなったのかね。
 ……しかもそのお陰でこんなに可愛い嫁さん達ができたってんだから、とことんツイてるというか幸せなやつである。全くもってリア充というやつは手に負えん。爆発しやがれコンチクショウ。僕がこの身体を離れてからな。

「いきなり何すんです、このお馬鹿っ。抱っこしろなんて誰も言ってないですよ」
「ああ、うん。人形どもにやってたからな。さっきもそうだったろ、階段って言ったら抱え上げてやるのが普通だったんだよ。丸っきり登り降りできん訳でもないんだが」
「だからって、これじゃドールの抱き方になってませんよっ」
「まぁ許せ、こちとら素人なんだ。人形どもを引っ掴むのは慣れてるが、九十センチ近くあるでっかいドールの抱き方なんぞよう知らんよ」
「それにしたってこんな──」
「暴れんな暴れんな。落ちても壊れないらしいが、痛いのはそっちだぞ」
「……っ、全く……」

 まあ良しってことにしとけよ、美登里。
 お前は愛しのジュン君の腕にお姫様抱っこされてお得、こっちは人間の限界を超えて可愛くなったお前さんを軽々と抱っこできてお得。どっちにも損はないじゃねーか。
 ジュン君の中身は知っての通りのブサメンであるし、こっちが抱き上げてるのもかつての美登里ではない、あくまで薔薇乙女の翠星石さんだが、その辺は贅沢言うなってところだ。僕の方では一生実現しないはずのシチュでもある。
 翠星石の方としては──うーん。僕が見ていた分には、あのまま行けば恐らく今後何度もあるのだろうな。まあ今のところは代役で我慢して頂きたい。


 翠星石が特段禁止しなかったので、人形どもをゾロゾロ引き連れての移動となった。
 トランスフォーム後のボデーは流石に動きも宜しいようで、階段の下りも転げ落ちる者もなく無事乗り切った。先程の上りでは全員僕をポーター代わりにしやがったのだが、やれば出来るんじゃねーかコイツ等。
 ダイニングでは、のりさんが浮き浮きした様子で待っていてくれた。お姫様抱っこをされている翠星石を見て、あらぁ、とにこにこした顔はまさに慈母の笑みであった。
 予想どおり、テーブルの上には手間と心の篭ったディナーが用意されている。
 森宮倫子さんの手料理と甲乙付け難い、というか恐らく同等レベルなのだろう。眠気が現金にも遠のいて行く。腹が鳴らなかったのは、僕の主観に関係なくジュン君の身体は空腹でないからだろうか。
 腕の中の御姫様を覗き込むと、意外にもこちらは冴えない表情でテーブルの上でなく、やや斜め下に視線を向けていた。
 どうした、と視線の先を追ってみる。何か気になるモノでも見付けたのか。
 元々は四人掛けと思しきテーブルの周囲には、大人用の椅子が二脚に子供用の高椅子が四脚並べられているだけだった。当然のように、料理もそれに見合った人数分だけ用意されている。

 心がちくりと刺激される。
 何等異常があるわけではないが、翠星石が顔を曇らせるのも無理はない。用意されている椅子と料理の数は彼女達がこの家を出て行ったときの人数そのまま、あるいは先程慌てていたのりさんが誤認した人数そのものなのだろう。
 失われた楽しい日常。ここにはのりさん姉弟と可愛らしい女の子最大四名が集っていたのだ。
 石原美登里に夢を植え付けられ、更に偽装された記憶まで捩じ込まれた翠星石にしてみれば、この家での日常は遠い昔のことだろう。しかし、のりさんの主観ではつい一週間前の出来事でしかない。
 そして、彼女は一週間ほど留守にしていた自分の弟が、一緒に暮らしていた女の子達を引き連れて戻ってきたと思っているという寸法だ。
 実態はと言えば、弟さんの中身は何処ぞのブサメンに入れ替わり、女の子達の中で戻って来たのは一人だけ。その後ろに、何やら奇怪な経緯で姿の変わった人形が七体、金魚のフン宜しくくっついている。
 何やら、美しき景観を大分汚染してしまったような気分ではある。人形どもとジュン君の中身をよく承知しているだけに。

──それにしても滅茶苦茶だよなあ。

 改めて思う。今現在のあれこれのことである。誰ぞに説明してやれと言われても、僕の頭ではとても一言では要約できそうにない。
 腕の中のお姫様を覗き込む。言われるまま解説役を任せたはいいが、どう説明するつもりなんだ。この状況を。
 そもそも、今の翠星石にまともに帳尻を合わせて嘘を作り上げられる余裕があるのか。この環境の激変に対して自分自身が一番葛藤を抱いてるんじゃないのか。
 翠星石(というか、美登里)が精神的に然程タフでないことは、これまでの付き合いで判っているだけに心配である。
 なにせ、これまでは頼りになるジュン君なり姉妹なりが周囲に居たのに、今は事の成行きを一応理解しているのは僕と人形どもだけなのだ。都合のいい話をでっち上げる件に至っては、参謀役もおらず一人で全部仕切らねばならない。

──背負い込み過ぎだろ、急に。

 やはり素直に事実をゲロしてしまった方が良いんじゃないか、と言ってやろうかと口を開きかけたところで、あらぁ、と長閑な声が上がる。偶然なのだろうが、狙い澄ましたようなタイミングだった。
 顔を上げると、のりさんは困惑したように僕等の後ろに視線を向けていた。
 漸く自分が人形どもを薔薇乙女達と誤認してしまったことに気付いたらしい。ぱちぱちと目を瞬かせ、失望や落胆を微塵も感じさせない、素直な困惑の表情でこちらを見る。

「……この子達、よく似てるけど真紅ちゃん達じゃないのねぇ……」
「あー……ええと──」
「──はい、そうです。ちょっと訳ありで連れて来た動くお人形達なのですよ。……真紅達は、多分まだうろうろしてるトコだと思います」
「あらぁ……どうしよう、お姉ちゃんみんなの分のお食事用意しちゃったわ」
「大丈夫ですよ、暫くしたら追い着いて来るはずですから」
「そうなのぅ?」
「ん? ……あ、うん。ひょっこり帰って来るだろ、その内」
「ええ。すぐに帰ってくると思います。だから……のりのご飯はとっても楽しみなんですけど、みんな揃うまで待ってるですよ」

 翠星石は窮屈な姿勢のまま首を捻って後ろを見、アンタ達もいいですね、と念押しするように言う。人形どもは、うぇーい、というような気のない返事を戻した。
 元来メシを食わないのだから良いも悪いもない。いや、この姿になったからには一丁前に食うのか? 何にしても翠星石の言うことに従っているのは良い傾向だ。
 のりさんはまた柔らかな笑顔になった。お姉ちゃんもその方がいいわ、と頷く。
 僕は頷き返すような振りをして、翠星石の顔に視線を向けて表情を隠した。
 妙な顔になっていないか心配になったからだ。
 のりさんの顔は森宮さんのお姉さんに似ているが、幾分儚さというか、影がある。漫画ではかなりディフォルメされ、むしろ森宮倫子さんよりずっと天衣無縫な雰囲気があったのだが、目の前の彼女は良くも悪くも、先ほど鏡に映し出されていた桜田ジュン君に似た部分を持っていた。
 こんな(彼女にとっては、今のところ)手放しで喜べそうな場面でも影が消えないのは、元々そういう顔なのだろうか。それとも──

「それにしても、お姉ちゃん嬉しいわ」
「……のり……」
「良かったわね翠星石ちゃん」
「な、何がですか」
「だって……抱っこしてって全然言えなかったのに、こんなに大胆に──」

 ……やばい。早くもボロが出たやも知れぬ。
 翠星石が、はっとして僕の顔を見上げる。彼女もすぐに現在の態勢を思い出したらしい。
 顔がみるみる真っ赤に染まる。フリではなく、実際に恥ずかしさと怒りのせいであるのは間違いない。
 さっき彼女自身が抗議したとおり、僕の抱き方はドールを運搬するときのそれではなく、所謂お姫様抱っこであった。これは確かに恥ずかしいだろう。
 ついでに言えば顔も近い。僕が顔を寄せたところだから当然である。
 翠星石は一呼吸の間、僕の顔を見詰めていたが、のりさんの方に顔を向けると同時にいきなりじたばたと暴れ始める。

「……こ、これはその、あれです。じゃ……ジュンが変な抱き方するからですよ! とっとと降ろすです!」
「いて、イテテテテテ、判った、判ったから殴るのやめて、暴力反対」

 実際に数発食らってしまった。痛え。
 チクショウ、こりゃ人形どもに抵抗されたのとは訳が違うぞ。ガキ並に背丈があり、手足の動きの方もガキ並にスムーズなだけに厄介である。つーか体重もそれなりにあるせいか、打撃に力が乗ってる。
 取り敢えず乱暴な姫君を床に御降ろし申し上げ、人形どもの生暖かい視線を感じつつ腰を伸ばしてのりさんに向き直る。
 のりさんは相変わらずにこにこと僕等を見詰めていた。
 彼女の顔はあまりにも素直で優しい。その裏は──僕の乏しい観察力では、全くないように見える。
 当たり前の話だが、またも心がちくちくと刺激される。彼女の目に見えている事柄と現実の間には随分と大きな差があった。何しろ、ジュン君の身体を駆動しているのは彼自身の意識ではないのである。
 どう話を接いだものかと思っている内に、真紅ちゃん達を待ってる間にその子達のお食事も用意するわね、と、のりさんはキッチンに駆けて行ってしまった。

 エプロン姿の背中を見送り、不謹慎な話だが内心ほっと胸を撫で下ろす。この場はどうやら切り抜けたらしい。
 この分では彼女の前で取り繕い続けること自体に大変な労力が必要になりそうだ。主に良心の呵責的な意味で。
 それを置いておくとしても、こうも素直にこちらの(というか、翠星石の)話を鵜呑みにされてしまうのはやりにくい。
 この状況で何等かの疑念を抱かれ、容赦なくツッコミを入れられるのも大変そうだが、少しくらい疑問を投げ掛けてくれた方が、その場凌ぎの言い訳も思い付くというものである。
 僕はジュン君の周囲のことをほぼ何も知らない。いずれ何かしら、何処かしらで言い訳の辻褄が合わなくなるはずだ。
 その意味では、主導権が僕になく、助け舟が間髪入れずに入るというのも良し悪しである。こっちとしては翠星石の言うことに合わせるしかないのだから。
 いずれバレること自体は致し方ないとして、余程入念に口裏を合わせておかないと、致命的なタイミングでボロが出てしまいそうだ。

──だから嫌だったんだけどな。知り得る限りの事実を並べて、一緒に頑張ってくださいと頭を下げる方が遥かに楽だ。

 まあ、動き出してしまったことを愚痴っても仕方ない。
 早期に解決を図りたいものである。およそ思い付く限りのあらゆる意味で。


 そんなことをつらつらと考えつつ、翠星石の先導でダイニングから例の物置部屋へ戻る。
 本音を言えば、ジュン君の部屋でもリビングのソファでも構わんから、とにかく硬くない床の上で横になりたい。
 緊張感のせいか、眠気そのものは一時的にかなり遠のいてくれたものの、今度はその分も疲労が出てきている。こりゃ気が抜けた瞬間にコテンと意識を失うパターンだな。一度バイトの現場から帰って来てやらかしたことがある。
 しかし「みんないずれ追いついて来る」などと言ってしまった手前、というものがあるのだ。出入口となるべき鏡のある場所に移動しておくのが自然だと言われてしまえば、強硬に反対はできなかった。
 取り敢えず立ちん坊だけは勘弁させていただき、フローリングの床に腰を下ろして当然至極の事柄について尋ねてみる。

「鏡の前で待ってみるのはいいが、誰も来なかったらどーするよ」
「そのときはそのとき、です」
「行き当たりばったりだな……いいのかよそんなんで」
「良いも悪いもありませんよ。でもアンタの説明だと、ジュンは私達と離れてたはずですよね。その身体がここにあるのですから、他の子達もここに帰って来るはずだと思いませんか」
「……まあ一理あるが、時間差がついてる可能性もあるし、変なふうにシャッフルされとるかもしれんぞ。それこそ今の僕みたいに」
「だったら、尚更出迎えてあげないとですよ。いきなり妙ちきりんなことになって混乱してるでしょうから」

 翠星石はそう言って鏡に顔を向けた。時間については、折角のりさんが納得してくれたのだから、暫くは待ってみようと言う。
 待つことには異論はない。
 人形どもが食えるか食えないかは別として、のりさんが連中の分の夕食を用意してくれている間は、どの道することがないのである。いや、現状を整理して今後の方針を協議すべきではあるのだが、如何せん頭が回らない。
 当面はのりさんの前でボロを出さないことだけ気を付けよう。この後の夕食が最初の関門である。
 しかし、考えてみると食事というのは存外に危険なシーンではなかろうか。箸の持ち方から食事のマナー、真っ先に手を出す料理に至るまで、やばそうな部分は目白押しである。
 のりさんは天然入ってるようにも見えるが、油断は禁物。そういう人ほど観察力自体は鋭いものである。
 もっとも、先程は人形どもを薔薇乙女さん達と誤認してしまった訳だが。

「……そういや人形どもに全然違和感持たなかったみたいだな、のりさん。なんか反応が薄かったっつーか──」
「──何言ってんです、当たり前じゃないですか」
「いやいやいや、当然じゃねーだろ。ツートンやら赤いのだけなら見間違えたで済むとしても、明らかに見たことないデザインのが混じってんだぞ」
「長いこと待っていたジュンが帰って来たのですよ。のりにとってはそれが第一なのです。中身が違うことは未だ知らないのですから……。他のことに目が向かなくても当然ってもんでしょう」
「まぁ初見のときのことはそれで片付けるとして、さっき気付いたときも随分泰然としてたよな。こんなに大量の動く人形どもが湧いて出たって話なのに」
「のりはいつもあんな感じですよ。初めて会った時もあっさり受け容れてましたし」
「漫画みたいに、か」
「真紅やチビチビとのことは詳しく聞いてませんけど、私の時はそうでした」

 鏡に映る翠星石は少し遠い目をしている。彼女の体感というか主観では随分と昔の出来事になるのだろう。
 一方、のりさんにとっては……一週間って言ってたな、確か。

──長いこと待ってた、ってほどの長さか?

 ふとそんな疑問が湧いたが、口にはしないでおく。
 僕はのりさんの性格やら心情をまるで知らないのだし、送り出した時の経緯から見て、一時間や二時間でも長いと感じるかもしれん。それに、翠星石のコメントには自分自身の感慨も混じっているのだろう。

 そこで一旦会話は途切れてしまった。
 黙ったままだと早々に眠りに引き込まれそうなので、思い浮かぶままにジュン君の基本的な食事時の癖のようなものを翠星石に尋ねてみる。箸の持ち方、何から手を付けるか、嫌いな食べ物は何か……。彼女は当然のように、僕の思いつく程度の質問事項には淀みなく答えてくれた。
 どれだけジュン君を見詰めていたか、それがよく判る。恐らく石原美登里として森宮家に出入りしていたときも、彼のことをじっと見てきたのだろう。当然のように大きな好意を持って。
 しかしジュン君の心の中には、森宮アツシ君であった頃でさえ真紅であるところの森宮さんが居たわけで。姉弟という制約が外れてしまえば、後は──

「……ジュン。ジュン、起きろですぅ」

 小さな手にぐいぐいと裾を引かれ、我に返る。
 いかんいかん。船を漕ぎかけていた。どうも会話がなくなるとまずい。嫌でも話し続けて頂かねば。

「ご飯前に寝たら牛になっちゃうですよ」
「いや、それは食ってすぐ横になるなという話だが……どうした、他の連中は」
「みんなお家の探検に出ちゃったですぅ。ジュンが寝そうだからって」
「他人様の家だぞ、アホどもが……で、お前は出かけないのか」
「えっと……あの……そのぅ」
「んー? どうしたヒソヒソモードで」
「す、翠星石を……抱っこ……してくださいです」
「なんだそんなことか。ほれ、膝の上乗れや」
「ばっっ、ち、ちげーです! 私じゃなくって──」
「──ああ」

 紛らわしいなあ。いや、そうじゃなくて。
 内緒話を切り上げて顔を上げてみると、翠星石は鏡の面に片手を突き、こちらを──ではなく、鏡の奥を覗き込むようにしている。帰って来るかどうか判らん相手を待っているようにも、物思いに耽っているようにも見えた。
 見られているのは承知で、どっこらしょと腰を上げる。まあ、立ったり座ったりして眠気が遠ざかる内はまだ大したことはない、と考えておこう。メシの最中に船を漕ぎ始めるかもしれないが、それも異世界から安心できる場所に帰還した繊細な少年には相応しい姿だろうし。
 僕の(ジュン君の)半分と言っては大袈裟だが三分の二くらいしかない背丈の翠星石の隣に並び、真似をする訳ではないが、でかい鏡をじろじろと眺めてみる。
 ジュン君のマエストロアイで見ていることになるのだが、中の人が凡百の人間だからか、目の前にあるものはごく普通の反射率のガラス鏡にしか見えない。背後も見えなければ、何やらその奥から現れるものがあるようにも思えなかった。
 見通しの悪い部屋の中のそこここから、人形ども(大方赤いのが何体か引き連れているのであろう)の立てるガサゴソという音が聞こえるが、構ってやる元気は出ないので放っておく。アイツ等の性質は承知している。どうせ一体ずつ引っ掴んで連れ戻すか、飽きて戻って来るまで探策と称する隠れんぼ遊びを止めることはないのだ。

 翠星石が振り返り、直接僕の顔を見上げる。
 お貞が気付くのも当然である。まあ、そうだな、居眠り寸前の僕よりは幾分観察力が高いとしておいてやろうか。
 負け惜しみでなくそう思ってしまう程度に、翠星石の表情は疲れて弱り切っていた。
 それもまた美しい、流石はローゼンの作った傑作中の傑作である、などと考えてしまう趣味は、残念ながら僕にはない。面変わりしているとはいえ、何年も付き合ってきた友人が困り果てている、としか見えなかった。
 ただし、お貞が多分に直感で思い付き、僕が雰囲気で理解したのは、僕という友人が果たすべき役割ではなく、桜田ジュン君という特異な人物の身体を駆動している存在が為すべき行動だった。
 寝ぼけている上に未だに制御がやや覚束ない身体に可能な最大限の素早さで屈み込み、翠星石にすっと手を伸ばす。咄嗟のことに身を竦めている彼女を、どうにかバランスも崩さず一挙動で抱き上げた。

「何かあればすぐこれですか……しかもまた御姫様抱っこって」
「芸が無くてすいません。愛しのジュン君の腕の中ってことで、良しとしといてくれよ」
「愛しの、って……まあ、所詮は邪夢の思いつくことですからね。真紅だったら怒り狂って茨の鞭で百叩きって言い出すところですよ」
「寛大な翠星石様に感謝しとけば良いのか?」
「そうです。抱っこなんて、本物のジュンにだって殆どさせたことなかったんですから」
「へいへい。してもらったこと、の間違いだろうに」
「うるせーです。図に乗ってると茨でなしに世界樹の枝で締め上げてやりますよ」

 洒落にならん脅し文句を吐きつつも、翠星石は大きく息をついて体を弛緩させた。
 さっきは友人として見ていながら現金な話だが、眠気でボケた頭で考えてみてもこれは大いに役得である。お貞よくぞ提案した、後で好きなだけ──いや暇な時間に一時間くらいなら抱っこして頭でも撫でてやろう。
 翠星石も、想い人(あくまで身体だけではあるが)の胸の中とあって、満更でもない様子で目を閉じている。頬が赤くなっているところを見ると、本人にとってみればかなり大胆、あるいは嬉しい体勢なのやもしれぬ。
 まあ、かなりささやかな嬉しさではある。何処まで行っても、中の人が元どおり入れ替わるまでは偽物なのだから。こういう事柄に関しては特にそうなんだろうさ。
 そして、うーむ。ぶっちゃけ元どおりに戻ったとしたら、こいつはジュン君の愛を勝ち取れるのだろうか? 森宮家のアツシ君だったときでさえ彼は──。
 やめよう。この案件こそ、堂々巡りでさっき考えていた辺りに戻ってしまう。
 今はそんな未来の話よりも重要なことがある。

「翠星石」
「何ですか」
「僕等は戦力にならんとか言って悪かった。今更だが撤回する」

 薔薇乙女という偉いさん的立場であるとはいえ、混沌とした状況に叩き込まれたことについては、こいつも僕と大して変わらない。
 自分が信じていた過去とは違った経緯を聞かされ、いきなりここに飛ばされた。目を開けてみれば他の人々の姿はなく、ジュン君の身体を動かしているのは部外者の僕。
 途方に暮れて虚脱してしまってもおかしくないのに、僕や人形どもが頼りないため、唯一事情を弁えている彼女自身が全て差配するしかないのである。僕の知り得る限り慣れていないはずだし、有体に言って向いていない役割だ。
 地位や能力にはそれに見合った責任が云々と言うが、それにしても全部背負い込むのは大変過ぎるだろう。例えばのりさんに対する口裏合わせだけでも。
 色々足りない僕(と、人形ども)ではあるが、手助けできる部分を見付けて、こいつの力にならねばなるまい。それがアリスゲームとやらのルールに抵触するものでない限りは。
 どれだけ頼りなかろうと、一応はここまでの経緯を知っており、なおかつ状況の中に取り込まれていることを自覚している者の内に入るのだから。

 できることがあったら言ってくれ、こっちでもできそうなことを見付けるようにする、と言ってやると、翠星石はプッと吹き出して、いきなりどういう風の吹き回しですか、と笑った。
 どうもこうもない。敢えて言えば凡百の僕と偉いさんのお前さんの間に線引きをするのを止めただけだ。
 立場がどうあれ、友達が困っている上に自分が置物同然ですることがないときては、これは出来る範囲で手助けせざるを得ないではないか。

「ふふ……なんか、判った気がしますよ」
「何がだよ」
「蒼星石がアンタのこと気に入ってた理由です」
「は? 気に入っておったとな?」
「ええ。ろくに女の子の友達も作らなかったあの子が、中学高校とずーっと構ってたのはアンタくらいなもんです」
「あいつに親しい友人が少なかったのは否定せんが……むしろ顔は広かったような」
「それは知り合いの数ですからね。休みの日に一緒に出掛けるようなお友達は殆どいなかったですよ」
「……ふーん」
「あ、言っときますけど恋愛感情とかじゃありませんからね?」
「……ま、そうでしょうねー。はっはっは」

 一瞬どきりとしたが、冷静に考えりゃ、まあ無いわな。単純に興味の対象だったってのは当然の話である。
 葵には彼氏が居た。いや、彼氏本人は数回見たことがある程度だが。しかし何と言うか、改めて言われると少し悔しくはある。
 で、その理由とやらは何なのだ、と尋ねると、翠星石はこちらを見上げてにやりと笑った。こっちの気分などお見通しとでも言いたげな顔である。
 どういう訳か、こういう表情になると急に美登里とよく似てきやがる。澄ましてる時は如何にも人間離れした美人のくせに。
 その、妙に上から目線な表情というか態度のまま、翠星石はフフンと鼻を鳴らしてみせた。

「まあ、気付かない方が良いコトもあるって言いますし」
「なんじゃそりゃ、修正不能な欠点ってことかよ」
「よく判りましたね。そのとおりです」
「何だと……おい教えろ、今すぐはっきりすっきりと」
「教えたところでもう手遅れですよー」
「ンなもん判らんだろ、っつーか知ってれば対処の方法くらいは──」
「──ジュン、いちゃいちゃしてる場合じゃねーですぅっ」

 いきなりお貞が金切り声を張り上げ、僕の詰問は途中終了してしまった。いや、いちゃついてたつもりはないのだが。これっぽっちも。
 どうした、と問うまでもなく、お貞は小走りに僕の脇に駆け寄り、腕を伸ばして前を指差した。
 当然のようにその先には大鏡がある。
 それは相変わらず部屋の中の様子を左右反対に映し出して──いなかった。
 反射率の低いマジックミラーというか、少し反射率の高い水面というか。波立っているから後者の方が若干近い形容かもしれない。
 細かい比喩はともかくとして、鏡に映る部屋の中の事物はやや薄れ、その真ん中、僕の身体で言えば太腿の辺りの高さを中心として、同心円状に波紋が広がっていた。水平と垂直の違いに目を瞑れば、まるで湧き出る泉を見ているかのような情景である。
 息を呑み、何か次の言葉を言おうとしている間に、波紋の中心辺りに何かが見えた。
 次の瞬間、音もなく小さな腕がそこに現れ、ついで美しい女の子が、まるで暖簾でも潜るようにあっさりと全身を現した。それも二体。
 黒い帽子を被ったオッドアイの少女が、ちらりと半歩後ろに続いている若干小柄な少女を振り返り、それから僕を──正確には、ジュン君の腕の中の少女を見上げる。

「……そうだね、それは気付かない方が良いかもしれない。特に邪夢君の場合は」
「そうかしら。欠点とは言えないし、気付いても変わるようなことじゃないと思うけど」
「蒼星、石……?」
「ごめん、少しだけ立ち聞きさせてもらった。邪夢君に興味を持ってたのは僕だけじゃ──」
「──蒼星石!」
「のわっ」

 まるで抱いていた猫が飛び出すように、翠星石は僕の腕の中から勢い良く飛び降りて蒼星石に飛びつくという、まさに離れ業をやってのけた。
 こっちがふらついて尻餅をついたのは、お約束を実行したのではなく純粋にバランスを崩したからである。恰好がつかないこと夥しい。
 翠星石を抱きとめた蒼星石の方は、勢いでくるりと一回転したものの、綺麗にそこで踏み止まった。薔薇乙女さんの嗜みというやつだろうか。

「良かったですぅ、蒼星石っ」
「あはは……遅くなったみたいだね、ごめん」
「そんなこと気にしてないです。それに、翠星石達もちょっと前にここに出たばかりですから」
「そうなんだ……」
「でも安心しました。このまま一人だったらどうしようかってずっと……」

 翠星石ははっきりと涙声になっている。蒼星石がもう一度謝り、一人蚊帳の外状態の金糸雀が二人に文句をつける。何処かで見たような情景だった。
 どうやら、薔薇乙女さんのうち三人までは無事に自分のボディに帰り、ここに顔を揃えたという寸法らしい。
 同時に、翠星石が一人で全てを背負い込む必要もなくなった訳である。僕と人形どものような頼りない有象無象でなく、翠星石と同等か、もしくは上回る有能な姉妹が二人も現れたのだから。
 それは良いのだが、これから明らかにしたり解決していかねばならない事柄が山積みであることに変わりはない。そもそも、ここが本当に「巻いた世界」かどうかさえ不明確なままなのである。全てはキラキーさんの掌の上という事態も当然のように有り得るのだ。

 僕はお尻をついた姿勢のまま、やれやれと肩を竦めた。
 胡座の姿勢に戻り、心配そうな顔で近付いて来たお貞の頭を撫でて膝の上に座らせる。翠星石に姿は似ているが、大きさは違っていた。
 コイツ等、残念人形だった時よりも若干──いや、ばらしーに至っては大分スケールが小さくなっているようだ。全て六十センチ以内に収まる背丈なんじゃなかろうか。
 これも、人形どもがトランスフォームした理由ともども、いずれは明らかにすべき事項なのかもしれん。何か他の事柄の手懸りになりそうな気配も──

──まあしかし、なんだ。また眠くなってきやがった。

 少なくとも、このときの僕にとっては、それ等重大な問題よりも差し迫っている睡魔の方が厄介であった。
 のりさんの作ってくれた夕飯も、これからまだ帰って来る人が居るかも気懸かりではあるが、そういった思考すら心地良い暗黒の中にこぼれて行くような気分だった。
 目を閉じ、頭を前に垂れたところまでは覚えている。その後、多分ものの数秒で、僕の意識は闇に落ちていった。




[24888] 第三期第三話 愛になりたい
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:8ccf4fd8
Date: 2013/02/17 03:27

 ~~~~~~ 現在・桜田ジュンの部屋 ~~~~~~


「ジュン、紅茶を淹れて頂戴」
「へい只今……ほれ」
「ティーバッグとは手を抜いたものね……頂くわ」
「人様の手を煩わせといてよう言うわ。で、お味はどうだよ俄の自称グルメ」
「……ぬるい。ぬる過ぎるわ。味以前の問題なり。斯様なぬるい茶で我が舌を騙せると思うてか!」
「何のキャラなんだそれは」
「特に誰の真似でもないけれど」
「へうげものに出てきそうだね……」
「あーなるほど……っつーか、どのキャラでも言いそうだよな、割と」
「あははは、確かに」
「な、何なのその得体の知れない名称のモノは。小説? 漫画?」
「漫画だな」
「今すぐ全巻買って来て頂戴! ぜひ読みたいのだわ、折角自分でページがめくれるようになったのだもの」
「さらっと無茶言ってんじゃねーよ」

 ついでに言えば、あの漫画自体こっちの世界で存在しているのか保証の限りじゃねーぞ。まあ、それは調べればすぐに判ることだが。
 ひらひらと片手を振ってやると、赤いのは暫くブーブー言っていたがやがて読書に戻った。
 ちなみに開いているのはラノベである。怒られないのをいいことに、のりさんの持ち物を勝手に漁っているらしい。頼むから余計なモノまで引っ張り出さんでくれよ。ただでさえ、女所帯に男一匹で肩身が狭いのである。

 蒼星石は僕等の遣り取りを笑った後、赤いのの姿を懐かしいものでも見るような目で眺めていたが、窓外に視線を向けた。釣られて僕もそちらを見る。
 初秋の空が広がっていた。晴れ渡った高く青い空だ。
 トレードマークの黒い帽子を取って胸に抱き、壁に背を預けて窓を見上げている蒼星石の姿は、一幅の絵画のよう、とでもいうのだろうか。
 石原葵であったときも、こういう佇まいは絵になっているなぁと思うことがあったが、この姿になって(戻って)からは流石に段違いである。芸術にはさっぱり縁のない僕にも、どえらくサマになっていることだけは見て取れる。
 流石はローゼン氏の傑作というところか、なーんてな。要するに綺麗だなあという以外よう判っとらんのである。
 ただ、その美しさには若干寂しさというか儚さみたいなものが付き纏っている。
 理由に大体の見当はついている。今なら尋ねてみてもいいかもしれん。蒼星石は──

「──マスター、何見てるの?」

 すたたた、と廊下を走って来る足音が聞こえたかと思うと、横合いからひょっこりと鋏が顔を出した。
 おい、少しは自重しろ。これから懸念している事項を聞き出そうと思ってたところなのだぞ。
 ……などとおおっぴらに言えるはずもなく。

「いいや別に何も。強いて言えば空だが……」
「そうなんだぁ」
「そうなのだ」
「へぇー」

 鋏は構って欲しいのか何なのか、僕と蒼星石を頻りに見遣った。図々しいこと夥しいが、こちらの心情など斟酌するような気遣いがコイツ等にある訳もない。
 全く、この人形め。
 致し方なく、椅子に座ったまま膝の上に抱き上げ、ほっぺをうりうりと弄ってやる。蒼星石と似たような服装の人形はたちまちだらしない表情になり、満足そうにニコニコしやがった。おい、幾ら何でも簡単過ぎるだろお前。
 いいところで口を挟んだことといい、この緊張感のない態度といい、全く悪意はないと思われるだけに性質が悪い。ついでに言うと、今し方まで眺めていた対象のイミテーション(にトランスフォームした残念人形)であるだけに、インスタントに上機嫌になられると何やら妙な気分でもある。
 全く、ややこしいことになってしまったものだ。のりさんが人形どもを素直に受け容れてくれたのはいいが、このままではこっちが混乱してしまいかねん。
 こんなことならトランスフォームせずにいてくれた方が……いやいや、それでは僕以外の人々が無事では済むまい。中々に難しいものである。


 ~~~~~~ 第三話 愛になりたい ~~~~~~


 この世界に飛ばされた日(であり、同時に猛烈な眠気と戦った日)から数日が過ぎている。
 今のところ、のりさんは僕の正体について問い掛けては来ない。
 僕がジュン君を演じきれているということなのか、のりさんが気付いていて黙っているのかは定かではない。翠星石の言葉ではないが、口に戸を立てられそうもない怪奇自動人形どもが七つもウロウロしているわけで、むしろ情報は漏れているものと思っておいた方が良いような気はする。
 ただ、そうは言ってもこちらとしては芝居を続けるしかない、というのが薔薇乙女さん達の統一見解だった。のりさんにはなんとも申し訳ないことである。

「それにしても、不便なのだわ」
「勝手に人様の本漁っとる居候の言うべき台詞じゃねーだろそりゃ」
「何も好き好んでお姉さんの小説を読んでる訳ではないのよ。これは仕方のないこと、そう不可抗力なの。ジュンが買っていた雑誌はないし、新聞は私の手に余るのだから」
「典型的な見苦しい言い訳だが、まあ事実ではあるな……」

 芝居を続けることには様々なデメリットがある。例えばこの件がそれに当たる。

 この世界に来てから、僕はまだ一度もこの家から出ていない、というか外出禁止令が下されてしまっている。外に出て知り合いと顔を合わせた時に不測の事態が起きるのを防ぐため、というのがその理由であった。
 ジュン君を知る人に出会って胡乱な対応をしてしまったときにどうするかを考えるより、外出を一切禁止してしまう方がいい、という理屈は判る。どうせジュン君は引き籠りなのだから、外に出なくとも矛盾は生じない。
 彼は不登校になってからというもの、買い物は全て通販かお姉さん任せで、殆ど家から出ることはなかった。
 漸く最近登校再開の意欲が出てきたとはいえ、外出といえば自習するために図書館に通っていた程度である。その理由も、表向きは家では雛苺やら翠星石が付き纏って五月蝿いから自習できないというものであり、なにか特別な切っ掛けがあった訳ではない。また自宅で自習する気になったと言っておけば、取り止める言い訳にはなる。
 まあ、一旦通い始めたものを止めるというのは再登校に向けた取り組みとしは一歩後退ではあるが、その点について直に突っ込まれても一応言い訳は利く。一週間も行方不明だった上に連れ帰った面子が出ていった時のメンバーと大分様変わりしてしまっているのだから。
 登校に意欲が湧かない理由は何かしら「向こう」で大きな出来事があったせいか、未だに帰らないメンバーが気になってのことだとしておけばいい。少なくとも今のところは、のりさんに尋ねられたらそういう理屈を捏ねることになっている。

 ……とまあ、無難な選択肢であることは判るんだが。
 赤いのの言うとおりなのだ。不便は不便なんだよな。通販という手段があるとはいえ、欲しいと思ったものはすぐに手に入らんし、ジュン君が興味を示していなかったモノは迂闊に通販やらお姉さんにお願いして購入という訳にもいかん。

 通販といえば、漫画でもちらちらと出ていたクーリングオフごっこは中断させてもらっている。
 僕がジュン君の趣味をなぞれないから、という理由に過ぎないのだが、のりさんには大いなる前進と捉えられているらしい。
 薔薇乙女さん達と出会ってからも、登校再開を決意して図書館に通い始めてからも、彼の趣味に変化はなかった。毎日のように宅配業者がやってきてはダンボール箱を置いて行き、その大方がまた運び出されて行くというシュールな光景が延々と繰り広げられていたという。
 あまりに頻繁に遣り取りをするせいで、時折宅配業者に呆れられたり、引き取りの関係で揉めたのか、業者と激しい口論になったこともあったというから、ジュン君は可愛い外見に似合わぬ中々の難物というべきかもしれん。まあ、森宮アツシ君であった頃の彼も十分に嫌なやつではあった。
 ついでに言えば、クーリングオフごっこは恐ろしい浪費でもあった。
 昨日、夕食の席でのりさんがぽろっと零した一言は、根っから貧乏人の金銭感覚を持つ僕だけでなく、結構な金持ちであるはずの石原家に育った記憶を持つ翠星石達にも衝撃的であったようだ。

  ──通販はもう止めちゃったのぅ? な、何か高いものを買ってお金が落とせなくなっちゃったとか……

 彼女によると、ジュン君の買い物は彼の小遣いとして指定された銀行口座から支払っているそうだが、その額が問題であった。
 クーリングオフごっこに失敗はつきものである(そうだ)。それに、気に入らないとすぐお道具を買い換えたくなるらしく、なんだかんだで月に二桁万円消えるのは当たり前。遊びに「大失敗」すると三桁に届くこともあったとか。
 ちなみに、宝くじや競馬ではないので、収支がプラスに転じることは万が一にも有り得ない。幸いなことにクレームを付けて慰謝料を毟ることは趣味の範疇に入っていないらしく、遊びに「成功」しても無駄に各種手数料を使うだけである。
 桜田さんご兄弟のご両親は愛情をお金に換えて供給することには躊躇がないらしく、残高がマイナスに食い込んでも引き落とし不能まで行ってしまっても(……ということは、一度はそんな状態まで使い込んだことがある訳だ)連絡一つ寄越すでもなく、黙ってまた一定の額まで入金してくれるという。
 おい、冗談は止せ。それじゃ事実上遣い放題状態じゃねーか。
 なんつー妬ましい、いや羨ましい、いやいやいやいやどう考えても普通じゃないだろうこれは。子供が完全な浪費としか思えない趣味にハマるのも道理である。
 ジュン君がネトゲで無制限に課金アイテムを買い込むようなタイプでなかったから良かったものの……いいや良くねーよ。月三桁万ってのはネトゲ廃人でも中々やらない領域だろうが。
 流石、ものによっては一点で数千万になる品物を真贋取り混ぜて取引しているご両親である。金銭感覚がぶっ壊れ過ぎだ。そして黙ってそれを許すどころか、弟の浪費をそれと知りつつまともにチェックしてないお姉さんも些かネジが外れとるのではないか。
 まさか森宮アツシ君であった時にも同じようなことを繰り返して……いやいや、そこは流石に違うと思いたい。ただ、森宮さん自体アンティークドール収集にも色気を見せていたことを考えると、彼女達もかなり金回りの良い状態であったことは想像に難くなかったりする。悪癖が治っていたことを祈るばかりである。

 ともあれ、僕は引き攣った顔を懸命に隠しつつ、引き落としができなくなった訳ではない、取り敢えず今はそっちの趣味に興味を持てないのだと釈明した。一緒に消えた人々が未だに揃っていないし、ばらばらにされてしまった雛苺も取り戻さなくてはならない、それまでは趣味の一つや二つ自粛するくらいなんでもないのだと。
 内心ヒヤヒヤものの言い訳だったが、のりさんは何か非常に感銘を受けた様子で何度も頷き、翠星石を誘って厨房に消えると、食後に非常に豪華な手作りのケーキを振る舞ってくれたのであった。
 ケーキは美味かったが、同時に後ろめたい気分も──まあそれはもういいや。トランスフォームして何故か食物を摂取するようになってしまった人形どもを含め、僕等はのりさんと翠星石の傑作に舌鼓を打ったのである。それでいい。

 残念なことに、のりさんの感慨には全く関係なく、僕がネット通販遊びを実行していない理由はごく単純なものであった。
 一つには、元々クーリングオフごっこ自体にまるで興味が湧かない、ということがある。そして無理に実行しようにも、ジュン君の琴線に触れるような品物が何であるか、根っから感性の鈍い僕にはよく判らんのであった。
 この辺は骨董とか絵画みたいなものに対する感覚の有無が影響しているのだろう。ゴミクズの山の中からゴミクズにしか見えないモノを拾い上げ、これは天下無二の品物であると断じてしまうアレである。
 そういう感性が彼にはあって、僕にはない。まあ、この場合感性がないことを惜しいとは思わんが。
 現に、僕は例の物置部屋にうずたかく積み上げられた品々の良さがさっぱり判らない。一度じっくり見て回ったのだが、感想は全く変わらなかった。
 現役の古物商さんが自宅に死蔵しているのだから、実際に取引できないようなガラクタばかりなのかもしれんが、あの部屋にあるモノで意味があるのは鏡だけだと思っているのも事実である。
 まあ、強いて他に挙げるとすれば──

「──そういや、読み物って言えば物置きに結構な量の古本があるじゃねーか。あれでも読んだらどうだ」
「あ、あああれはダメよ」
「なんでだよ。きちんと整理されとるし、下の方の段なら手も届くだろ。最近出し入れされた跡もあったから、きつくて抜き取れんとかいうこともないはずだが」
「え、ええそれはそうなのだけど……ほら大きくて重いし……」
「ん? 何なら持って来てやってもいいぞ。この部屋でよければ」
「いいえ、そこまで他人の手を煩わせる訳には行かないのだわ」
「なんじゃそりゃ。今さっきへうげもの全巻買ってこいとかぬかしてたのは何処の赤提灯だよ。だいたい──」
「──邪夢君、あの本は殆ど十九世紀終わり頃に書かれたもので、内容も心理学とか哲学、それにオカルト関係が主だ。彼女の趣味には合わないのかもしれないよ」
「そ、そうなのだわ。私はもっとモダンでリアリティに溢れる小説が好きなの。赤川次郎とか、あかほりさとるとか、谷甲州とか、谷川流とか」
「えらくバラバラなチョイスだなおい」

 ついでに言うとリアリティもあったもんじゃないような作家も混じってる気もするが、まあいいか。
 趣味に合わんのでは致し方ない。というか、ウチに居た時からワイドショーだの刑事ドラマだのばかりふんぞり返って見ていた赤いのが、そういう高尚な書籍を唐突に読み耽り始めたらその方がおかしいだろう。
 まあオカルトは置いとくとして、哲学とか心理学ねえ。僕もそっちは骨董品以上に手が伸びない。言っちゃ何だが屁理屈を捏ねてるだけじゃないのかと思ったりもする。
 薔薇乙女さん達にしたところで、そういう本を読みそうな人物はあまり居ない。
 図書館の真ん中、ここは自分の城だとばかりに本を積み上げて読んでいた女の子のことが頭を過る。あの頃は乱読気味だったらしいが、読んだとすれば彼女しかいないだろう。

 その彼女は、未だにこの家に姿を見せない。
 彼女だけではない。今のところこの家に姿を現したのは、僕が最初に睡魔にやられる寸前に鏡を抜けてきた蒼星石と金糸雀の二人だけだった。
 あのとき、僕はなんとなく漫画の展開を自分の状況に重ねあわせて安心してしまったのかもしれない。
 この「巻いた世界」に僕等が出現したのは、失踪から一週間経過した日だった。漫画で言えばジュン君達が「巻かなかった世界」から帰還した時点である。あの日店長氏、というか「巻かなかった」ジュン君が語ったところによると、丁度薔薇乙女さん達が現実から虚構へと引き摺り込まれた時点とも重なる。
 その場面の漫画の展開で行けば、まず翠星石とジュン君が鏡を抜け、別ルートを通って来ていた真紅のお目覚めなど一騒動あった後に金糸雀と蒼星石が無事帰還することになっていた。
 順序は前後しているが、これなら真紅もすぐに姿を見せるんじゃないか、という気分が何処かにあったのは否めない。
 ついでに言えばあの店に揃っていた水銀燈や「巻かなかった」ジュン君、みっちゃん氏も同じようにまたこの場に揃うのではないか、とも考えていた。何かしら知恵の回りそうな彼等が居れば、割合簡単に状況を解決できるのではないか、と。
 根拠のない期待は大外れもいいところだった。
 ジュン君宛に届いたダンボールを全部引っくり返しても、その中に真紅が収まっていることはなかった。これまでのところ、依然として他の誰かが鏡を抜けてくることもない。
 それどころか──

「ただいま帰還……です」
「跪いて出迎えなさぁい、私のお帰りよぉ」
「窓枠に掴まってなにを偉そうに……って貴方何その蜘蛛の巣! ゴミや枯葉までくっついてるじゃないの。えんがちょだわ」
「うっさいわねぇ。ちょっと引っ掛かっただけじゃないのよ。散々屋根裏だの押入れの奥だのを這いずり回ってたアンタに言われたくないわぁ」
「以前ならともかく、今は探検の後はちゃんと身だしなみを整えているわ。貴方も髪の毛くらい綺麗にしなさいな、みっともない」
「髪が多いから大変なのよぉ。ばらしー取ってぇ」
「えぇえー……これはちょっと……多すぎて私の手では……」
「ふーん、ならもっと大きな手の持ち主にやらせるしかないわねぇ」
「はい……」
「あー、言いたいことは判っとるから小芝居止めてこっちに来い。ゴミ取るついでに梳かしてやる」
「ふん、仕方ないから梳かさせてやるわぁ。やるならとっととやんなさぁぃ?」
「ちょっとばかし可愛い姿になったからって随分偉そうだなおい。……で、金糸雀は?」
「病院に回ったわよ。窓からお見舞いするって」
「ドールのお手入れの間も……気もそぞろ、という風情でした」
「昨日と同じ、か」
「状況が同じだもの。仕方がないのだわ」

 黒いのとばらしーは金糸雀に同行していたのだが、自宅のドールの手入れを手伝っただけで帰されたらしい。やはり自分のマスターであり姉であった人を見舞うときは一人になりたいのだろう。

 あの日、眠気の中で懸念していたことは、この件に関してはほぼ的中してしまっていた。
 みっちゃん氏こと草笛みつさんは、失踪こそしていないものの、自宅で倒れているところを発見されて病院に運ばれたらしい。
 僕等がこの世界に出現する数日前──ジュン君がnのフィールドに赴いてから数日後のことだという。既に植え付けられた記憶やら何やらで時系列がゴチャゴチャなのだが、案外ジュン君とメールで連絡を取り合っていたときには、みっちゃん氏の方も囚われの身になってしまっていたのかもしれぬ。
 のりさんがそれを知ったのは、中々戻って来ないジュン君のことが不安になり、金糸雀を連れて来たみっちゃん氏のことを思い出して連絡を取ろうとしてのことだった。携帯には掛からず、名刺に印刷されていた職場の番号に掛けたところ、意識不明のまま入院中であることを知らされた。
 のりさんがジュン君の顔を見て喜ぶはずである。雛苺が喰われた顛末を知り、真紅と翠星石が囚われたところを見せられた上、こちらに残って力になってくれそうだったみっちゃん氏まであからさまに敵の差し金と思しい病状で入院してしまっていたのだから。
 ともあれ金糸雀はのりさんの話を聞いて即座に飛び出して行き、その日は家に戻らなかった。
 翌日からはこの部屋に鞄を置いて寝起きしているものの、その後も毎日ドールの手入れという名目で自宅に赴き、その帰りに病室を(窓の外から)訪ねるというパターンを繰り返している。昨日からは暇面こいている黒いのとばらしーを手伝いに同行させることにしたのだが、病院に行くことは二日連続で断られていた。

「大分酷い状態なのかもしれんな。のりさんが行ったときは面会謝絶だったらしいし」
「怪我はしていなくても、意識不明のままだからね。点滴と酸素吸入、心電図モニター……あまり他人には見せたくない姿だろう」
「……なるほどな」
「彼女だけじゃない。同じだよ、僕達に関わってしまった人は皆……」

 蒼星石は向こうを向いたまま、ひどく重たい言葉を口にした。
 人形どもの視線が彼女に向き、それからこっちに向けられる。
 くそ、コイツ等が顔で感情を表現できるようになったのが恨めしい。そんなあからさまに責めたり期待したりの顔でこっち見んなよ。
 何と言うべきか、どうにも上手い言葉が浮かんで来ないのは僕も同じなのだ。
 蒼星石の言葉は比喩表現でなく、単なる事実であった。
 彼女の前契約者の結菱一葉氏、雛苺を揺さぶるための道具に使われたオディール・フォッセーさん。
 両者がみっちゃん氏同様に、僕の居た世界の人物に憑依させられていたかどうかは判らない。森宮倫子さんのように、単に偽の記憶を植えられただけの人物が代役として立てられていた可能性もある。だが、二人が心を囚われ、その身体だけが人工的に生かされていることは、みっちゃん氏と全く同じであった。
 その意味では、僕自身が最も判り易く蒼星石の言葉を体現しているとも言える。各種医療機器の代わりに、僕という別人が抜け殻になったジュン君の身体の生命維持を担当しているのだから。
 それだけではない。
 薔薇乙女さんやらマスターの方々が憑依していた相手、石原姉妹や森宮さん達も、少なくとも彼等が憑依していた数年の間、自分自身の心はキラキーさんの許に囚われていた。いや、未だに囚われている可能性さえある。
 僕の身体にしてもそうである。考えたくないが何処ぞに放置され、早くも腐りかけているかもしれぬ。
 それ等は全て、薔薇乙女さん達のいざこざやらアリスゲームやらに関わってしまったせいであることは間違いない。それも自分から望んで足を踏み入れた訳ではなく、例外なく巻き込まれてしまった形なのだ。

 気まずい沈黙の中、鋏を膝から下ろして黒いのを抱き上げ、髪に見事に絡まった蜘蛛の巣とゴミを取ってやる。
 大方、張られていた巣に頭から突っ込んだのだろう。トランスフォームして飛行速度が上がったとか言ってはしゃいでおったが、速度に慣れていないところはご愛嬌というやつかね。壁に激突しなかっただけ良しとするか。
 降ろされた鋏の方は暫くきょろきょろとあちこち見回していたが、やがて蒼星石の方に駆け寄り、足りない背丈を目一杯伸ばして彼女の髪の端に触った。
 驚いてそちらを向いた彼女に返した表情は、ついさっきまでのだらしない顔は何処へ置き忘れたのかと思うような、随分ぎこちないものだった。どういう顔をしていいか判らずに糞真面目な表情を作っているようにも見える。まあ、この世界に放り出されるほんの少し前に漸く表情が動くようになった初心者であるから、変顔になってしまうのは致し方ない。
 その強張った顔のまま、鋏は辛うじて届いた蒼星石の髪の先を撫でた。何も頭を撫でることに拘る必要はないと思うのだが。
 しかし蒼星石は、まるで自分のコスプレをしているような相手の行為を、僕よりは素直に受け取ったようだった。
 影のある微笑を浮かべたまま、逆に鋏の髪をくしゃっと掻き回す。

「ありがとう。心配してくれているんだね」
「……部屋の空気が悲しくなると、僕達も悲しくなっちゃうから」
「そうか……ごめん。それにしても、マスター以外に目が向くなんて邪夢君の薫陶のお陰かな」
「そいつが勝手に呼んでるだけだってばよ。褒めても何も出ないぞ、石原……じゃなくて蒼星石」
「好きな方で呼んでくれていいよ、のりさんが居ないところでは」
「お気持ちは有難いが、今回はパスな。習慣付けしとかないと咄嗟の時に出ちまいそうだから」
「ああ、それは──」

 それは、の次が、気にするな、だったのか、ありそうだね、だったのかは判らなかった。
 彼女の語尾に被せるように、階下から大声が響いたからである。

「──みんなー、クッキー焼けたですよぉぉ」
「翠星石の美味しいクッキーなのぉぉ」
「私達も手伝ったかしらー」

 おやつ作りに興味を示したお貞とツートン、そしてうぐいすの三体は先程から翠星石のクッキー作成の手伝いと称する摘み食いに勤しんでいた。それが出来上がったということらしい。
 翠星石としても、いきなり体のサイズが小さくなってしまったようなもので、得意なはずの料理をするにも石原美登里であったときと同じには行かない。お菓子作りには補助が欲しいところであり、殆ど役に立たない加勢ではあるが一応受け容れてくれている。元残念人形の管理人というか保護者のようなもの(決してなりたくてなった立場ではないのだが)である僕としては、最も五月蝿い連中を引き受けて頂いて有難い限りである。
 まあ、力仕事は翠星石の三分の二ほどしかない人形が何体掛かっても碌な助けにならない訳で、そういう仕事はこっちにお鉢が回って来るのだが。
 まだ梳かし終えてもおらんというのに、黒いのは僕の膝の上からバサバサと飛び立った。ばらしーの眼帯の掛かってない方の目も爛々と輝き始める。鋏のヤツも真面目な顔は何処へやら、ぱあっという擬音がしそうなほどいきなり明るい表情になった。
 素直というか現金というか。つい先日物が食えるようになったばかりだというのに、揃いも揃って食い意地が張っているのはどういうことだ。これが後付けされた性格だとしたら、「巻かなかった」ジュン君に文句を言いたい気分である。

「今行くわぁ。一番槍は貰ったわよぉ」
「僕も負けないよっ」
「お前等、せめて金糸雀の分は残しとけよ」
「はーいマスター」「わーかってるわよぉ」
「赤いお姉さま、くっきーですよ、くっきー!」
「判っているのだわ。いまこの栞を挟んでから」

 ラノベを抱えて愚図愚図している赤いのを、珍しく早口になっているばらしーが引き摺り、人形どもはガヤガヤと出ていった。すぐに階段を飛び降りるドタドタという音が聞こえてくる。幸い、どんがらがっしゃんという音は混じっていなかった。
 いつもは危ないから連れて行けとか言ってくるくせに、こういう時は転げ落ちる危険も何のその、即座にテメー等で降りて行くのである。食い物の恨みは恐ろしいと言うが、人形どもまで一緒になってしまうとは。
 やれやれと息をつき、改めて窓際を見る。蒼星石は壁に凭せ掛けていた背を離し、苦笑してこちらを見ていた。
 石原葵であった頃から、コイツの苦笑は見慣れている。だが、面影があるとはいえ大分変わってしまった顔のせいだけではなく、その表情は見慣れたものとは少々異なっていた。
 あの頃にはなかった影があるのだ。その理由も大体見当はついている。

「僕達も行こうか、邪夢君」
「ああ」

 よいしょ、と立ち上がり、蒼星石に続いて部屋を出る。
 階下からは人形ども七体分の歓声と、何やら説教をしているらしい翠星石の声が聞こえてきた。まるでお袋さんとがきんちょ達のようである。
 仮にあのまま──石原美登里のままでいれば、翠星石はいずれ本物のがきんちょに恵まれていたはずだ。そのお相手が森宮アツシ君であっただろうことも想像に難くない。
 元の身体に戻ってしまったことで、彼女がそういう平凡な幸せを手に入れることは……無理かどうかは断言できないが、難しくなってしまったのは確実だ。
 どれだけ特殊だとはいっても、ドールはドール。まさに人間とは似て非なるモノなのだから。
 薔薇乙女さんのボディは永遠に美しさを保つ無機の器だったっけか、それも全てを叶えてくれる万能の品物ではない。
 当然といえば当然ではある。ローゼン氏の思い描いた至高の少女とやらに永遠の処女性みたいなものが必要だとしたら、むしろ人間として子供を持つ幸せなんてものはその対極にあるシロモノだろう。
 ま、実のところを言えば翠星石にしろ他の二人にしろ、そういった俗な幸せを望んでるのかどうか僕は知らない。尋ねてみたこともない。傍から眺めて可哀想だなと勝手に同情しているだけの話である。
 一方、目の前の蒼星石に見え隠れする影が、そういう有り得たかもしれない将来を失ったことが理由で生まれたモノでないのは確実だった。
 むしろ、彼女の未来はもっと即物的に縛られている。──僕の知っている「これまでの経緯」が事実と同じか、それに近ければ。

 ふう、と息を吐く。言葉を掛けるなら今かもしれん。
 階段に足を踏み出そうとしている小さな背中。その、心なしか下がり気味の肩に手を伸ばし、軽くつついてこちらを振り向かせる。
 こちらを見上げた顔には、驚きはなかった。ニュートラルな表情の中に憂いの成分を含んだ影だけが際立っている、なんてな。
 石原葵でいたときには、全く見せたことのなかった表情だ。それと同時に、ここ数日、翠星石の居ないところでは時折浮かべているものでもある。

「お前を心配してるのは、あいつだけじゃないぜ」
「邪夢君……」
「やっぱり、時期が来て、やるべきことを済ませたら居なくなっちまうつもりなのか? ローザミスティカを水銀燈にくれてやるために」
「……うん」
「なんでだよ。今更じゃねーか。一度あんなことになって、リセットしたことになりそうなもんだが」
「約束は約束だから。主観時間では随分長いことになってしまったけど、こちらの世界では大して昔の出来事じゃない。それにこのローザミスティカは彼女から借り受けているもので、僕の所有物ではないんだ」
「経緯は知ってるけどさ、横取りしたモンだろ、元はと言えば。本当は翠星石に……」
「……それは」
「あいつなら、出して寄越せなんて口が裂けても言わないんじゃないか。真紅が雛苺にしてたみたいに、お前とずっと一緒に居たいって考えてるはずだ」
「そうだろうね。僕達は少しだけ一緒に暮らし過ぎてしまったかもしれない。それも平凡な人間として」
「いや、そーゆー話じゃなくてだな……水島先輩、いや水銀燈だってそんなに話の判らん人じゃない、二人のためなら昔の約束だってチャラにしてくれるか──」
「──それはないよ。多分君が漫画で読んだ印象よりもずっと、彼女は真面目で……そう、頑固なんだ。少しだけね」

 廊下の壁にまた背を預け、蒼星石はふっと息をついた。
 やれやれ、どっちが真面目で頑固なんだか。
 だいたいその約束とやらだって、もう反故になったと思っていいんじゃないのか。大して昔の出来事じゃない、どころの話じゃないだろう。
 皆さん全員キラキーさんに囚われの身になって、何やら異様にゴチャゴチャした状態に置かれて数年間の体感時間を過ごし、そして、まだこうなった理由を考察することさえできていないが、今現在はまた人形の身体に魂とローザミスティカが戻った状態になっている。
 約束をしてからここまでに、これだけの経緯があるのだ。人間関係だって、恐らく約束した頃とは大分様変わりしている。
 それに、もし本当にローザミスティカを返却すべき相手が居るとしたら、それは……あまり考えたくないが、一度は全員を鹵獲したキラキーさんの方じゃねーのか。なんで水銀燈って話になるんだ、それこそおかしいんじゃないのか。

 ……とは思うのだが、流石にそこまで問い詰めることはできなかった。
 こいつに口で勝てた試しがない、というのは置いておくとして、僕は真の意味の当事者ではないのだ。薔薇乙女さん達のいざこざに巻き込まれた無力なパンピーでしかない。
 もう一つ言えば、どれだけ理屈を捏ねたところで、僕が蒼星石に居なくなって欲しくない本当の理由はそんなところにはない。もっと原始的で単純なものなのだ。
 つづめてしまえば、今この家に集っている中で彼女が一番身近な人だったから。それ以上では──あるかもしれないが、そういうことだ。
 中学高校と同級生で、特に高校に入ってからは下手な男友達よりも親しくしていた相手。翠星石の台詞ではないが、確かに高校に入ってからの僕等はお互いに「最も近い異性の友人」だった。それは認めざるを得ない。
 その相手に悲しんでいて欲しくない。当然失いたくもない。だから、彼女に纏わりついている暗い陰影をどうにかしてやりたいと思いもするし、色々と言葉を弄して引き留めようと足りない頭で考えもする。それだけなのだ。
 そして蒼星石に見え隠れする影もまた、ごく単純な二律背反が原因なのだろう。要するに僕等はどちらもでっかい未練の塊を引き摺って(もしかしたら、むしろ引き摺られて)動いているのだ。

 溜息をつきたいのは向こうの方だというのは判っているが、深呼吸するように長い溜息をついてやる。それから屈み込み、一気にひょいと抱き上げる。
 蒼星石は呆気に取られたような顔になったが、抵抗はしなかった。厳しくなりかけていた表情を少しだけ緩ませ、また帽子を脱いで胸元に抱き寄せる。

「翠星石にもこうしたのかい」
「まあね」
「ふふ……それじゃ、翠星石には悪いことをしてるのかな、今の僕は」
「ああ、まあそうなる……のかもな」

 翠星石から見れば愛しのジュン君の腕の中である。動かしているのは僕だが、身体は彼のものなのだから。当然、こっちもそれを承知していて抱き上げたのだ。
 恰好としては、今回も確かにあの時と同じだ。蒼星石がジュン君をどう思っているかはともかく、翠星石にしてみれば、他人にその座を占められることにいい気はしないだろう。
 僕にとってはあの日の一度目と二度目も含め、それぞれ若干ニュアンスが異なっているのだが……それは言わぬが花。白い目で見られるのが落ちである。

「ま、階段降りる間だけな。今の体じゃ登り降り大変だからってことで」
「良い言い訳をありがとう、親切なシェルパさん」
「どう致しまして、お姫様。騎士とかなんとか、もっと気の利いた職業はないもんかね」
「次の機会までに考えておくよ、邪夢君──」

「邪ー夢、どーしたですー? 早く来ないとアンタ達の分まで食べられちゃいますよー?」

「──おう、今行く」

 腕の中の蒼星石と視線を交わし、どちらからともなくにやりとして、階段をゆっくり降り始める。
 取り敢えず、こいつの意思が固いことは確認できた。ローザミスティカの件を翻意させるのは並大抵のことではないし、未だに所在の掴めない(ひょっとするとキラキーさんに囚われているかもしれない)水銀燈の同意も得なくてはなるまい。
 見通しは全く立たない。最初から無理だという気もしないではない。
 だが、まあそれはそれだ。
 今はお気楽な人形どもの中に割って入り、翠星石が少なからぬ苦労をして作ってくれたクッキーを頂くとしよう。頭を使う仕事は、充分な栄養を摂取してからである。




[24888] 第三期第四話 ハートフル ホットライン
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bd374f1f
Date: 2013/03/11 19:00
「ジューンー、何やってるですー?」
「何って……見てのとおり腕立て伏せだが」
「ぐうたらのジュンらしくないかしらー。明日は雪が降るかしら」
「お天道様がお怒りになるのよ。雷が落ちてドバシャーなのよ」
「い、一大事ですぅ! 停電して全ての家電がイカレちまうですよッ」
「なんですって! そんな恐ろしい……ジュン、その禍々しい雷乞いの動作をお止めなさい今すぐ!」
「素で言ってるのかネタなのか知らんが、そこまで珍しいかオイ」

 一喝せずにジト目で言ってやったのが却って拙かったらしい。他の人形どもまでざわざわし始める。
 珍しく七体全部が部屋に会していたのも拙かった。雪でなく台風が来るだの、雹が降って屋根が穴だらけだの、話は順調に膨れて行く。
 本気で言っとるのか判っていて騒いどるのか。表情が変わるようになったとはいえ、こういうときはイマイチ真意が掴み難い。
 まぁ実のところ、コトの真偽やら内容は二の次であり、下らん話題で騒ぐこと自体が楽しいんだろう、というのは判っている。コイツ等が馬鹿話で盛り上がるのはトランスフォームする前から似たようなものだった。
 元々、手指を使った娯楽を持てなかった残念人形なのである。比較的アグレッシヴに探検と称する行動に出ていた赤いのと黒いのを除き、内輪話やゴシップで盛り上がるくらいしか楽しみがなかったのだ。

 構ってやってもいいのだが、毎度のことなので放って置くことにする。まあ今は数も多いことだし、勝手に楽しませておけばいい。
 それより問題なのは腕立て伏せである。気を取り直して再開したはいいが、ものの数回で耐えられなくなってしまった。
 おいおい、なんて筋力の無さだ。我ながら情けなさ過ぎる。
 これはあかん。柿崎の親父さんからバイトの呼び出しがあったら悲惨なことに……いや、それはもうないんだっけか。少なくとも、ジュン君の身体に居候している間は。
 考えてみればジュン君自身にとってはこの筋力で充分だったからこの繊細なボデーがあるわけで、妄りに筋肉つけても邪魔になるだけかもしれん。マエストロ的な何かに対して。

 複雑な気分になってベッドに座り込んだところで、窓辺からこちらを見ている視線に気付く。
 加納先輩……ではなくて金糸雀は、僕と目が合うとくすりと笑った。

「……やっぱり、その体だと違和感があるのかしら」
「そうですね、動かないところがあるってんじゃないんですが、なんていうか……筋力がいきなりメチャクチャ落ちたっていうか。とにかく体がなまりまくってる感じです」
「手先の感覚や、眼や耳も……?」
「目以外はウルトラ鋭くなっててもいいはずなんですが……。やっぱ肝心の指令室の出来がアレなんでしょーかね」
「ずっと使い続けている感覚器だから、馴染んでしまうのが早かったのかしら。気付いたら細工ごとが上達していたりして」
「だといいんですけどねぇ」

 その点は乾いた笑いしか浮かばない。
 ついさっきも繕い物をやってみようと針と糸を取り出してみたはいいが、やはり僕に縫えるのは雑巾くらいしかないことを再確認しただけであった。腕立てを始めたのは、それで嫌気が差したからという理由もあったりする。
 天から才能がないのである。まあ、それでも最初の貫頭衣よりは縫い目が大分真っ直ぐになったのだから、確実に反復による学習は為されていると言うべきだろう。
 比べる相手が悪過ぎるのだ。なにしろマエストロ様である。巻かなかった方のジュン君に至っては、ばらしーのような人形を製作し……いやいや、人工精霊を七分割するなどという、アニメの槐さんでもできたかどうか怪しい仕事をやってのけた人物なのだから。
 恐らく、元残念人形ズであるコイツ等(未だにさっきの話題の続きできゃーきゃーと盛り上がっておる)の現在のボデーも、巻いた方か巻かなかった方かは判らんがジュン君の手によるものであろう。本人形達でさえ何を動力源として何故に動けているのか皆目判っていないという部分が実に不気味ではあるのだが、その件も含めてマエストロ様の超絶技術であり、到底凡俗が真似られるものでないことに違いはない。

 ……まあ、身体の本来の持ち主を持ち上げるのはこの辺にしておこう。またぞろ情けなくなるだけである。
 気を取り直してボディのことに話を戻すと、薔薇乙女さん達の宿る器もまた、このゴタゴタで人形どものそれに負けず劣らずの変更があったことになる。
 人間からアンティークドールへ。元々所持していた能力が復活したことも併せると、それは僕の身に起きた入れ替え事件などより余程ドラスティックな変化だったはずだ。

「先輩は大丈夫なんですか。えーとその、大分変わっちゃった訳ですけど」
「あるにはあるけど……違和感があるっていうより、懐かしいって感じかしら」
「懐かしい、ですか」
「人間の身体で居た時間も長かったけれど、私達にとってはこのボディが本来の器かしら。この姿で何度も眠りと目覚めを繰り返してきたのだもの」
「なるほど……」

 言われてみればそのとおり、というやつであった。
 今は階下に居る双子の妹達ともども、半永久の寿命を持った極上のアンティークドール(あるいは、それに似た何か途轍もないもの、なのかもしれんが)に宿った神秘の魂、というのが彼女達の本来の姿なのだ。僕が慣れ親しんできた、ちょっぴりと言っては失礼だが飛び抜けてもいなかった美人の友人達は、無理矢理その魂を捩じ込まれた仮の器に過ぎない。
 そんな三人に対して未だにその当時のように接しているのは、専らこっちの勝手な都合である。
 苦情を言われたことはないが、いずれ改めるべき点なのかもしれん。長い長い人生を送って来た彼女達にとって、人間の姿で過ごした(という夢を見せられていた)時間は、既に近い過去の一時期の、それもあまり芳しくない幕間のエピソードに過ぎなくなっているはずなのだから。
 まあ、文句を言われるまでは変える気がない、とも言うんですけどね。何せ、こっちはあくまでその一エピソードの時代に生きてたシロモノなモンで。

 その前時代というか過去の遺物に対して金糸雀は、マエストロの身体だからって遠慮せずにやりたいように使えば良い、と愛想の良い笑顔で言ってくれた。
 こっちの考えを見透かしたような言葉だったが、もう驚かない。ここ数日一緒に過ごしただけではあるが、薔薇乙女さん達の観察眼の鋭さは判っていた。
 特に、このちっちゃな先輩は周りをよく見ている。僕が腕立てを止めて座り込んだときの顔と会話の内容から大体見当を付けていて当然だった。
 僕は可愛い系のジュン君の顔に似合いそうにない、気の抜けたような声で尋ねてみる。

「……いいんですかね。そんな勝手をやっちゃっても」
「使えるものは使った方が得だし、使いにくかったら使い易いように少しくらい変えたって悪くないでしょ。維持管理は貴方がしているんだもの」
「そう言って貰えると有難いですけど……」
「カナは、あまり神経質になる必要はないと思うわ。それに、身体を鍛えてあげるのはスモールジュンのためにも良いことかしら」

 あの子はちょっぴり体力不足だったし、あのときもずーっとゴロゴロしてるだけでだらしがなかったわ、と金糸雀は遠い昔を思い出すような表情になった。暇を見付けて身体を動かしてる貴方の方がずっと生産的かしら、と笑う。
 ジュン君が怠惰な毎日を過ごしていたのは予想どおりだが、「あのとき」というのがいつを指しているか判らない。曖昧な笑みで返すと、金糸雀はちょっぴり肩を竦めて笑いを大きくした。
 どういう訳か、その表情には妙に寂しそうな、そして懐かしげな気配が混ざり込んでいる。僕はよく判らないまま、笑っている彼女が泣き出すのではないかと若干不安になった。

 漸く事情に思い至ったのは、彼女が毎日の日課となっているみっちゃん宅と病院の巡回に出掛けてからのことだった。
 金糸雀には「巻いた」ジュン君と、二人だけの時間があった。
 「あのとき」というのは、巻かなかった世界での一悶着が始まった頃、nのフィールドでジュン君がキラキーさんに幽閉されていた時のことだ。他の薔薇乙女さん達も人間も誰一人やって来ない場所で、ジュン君は金糸雀(と例のウサギ男)の手引きでどうやらみっちゃん氏と「巻かなかった」ジュン君とだけは連絡を取ることができたのだ。
 確か、キラキーさんが直接手出しをできない狭っ苦しい隠れ場所を見付けてジュン君を匿ったのも金糸雀だった、と漫画では説明されていたような気がする。それが正しいとすれば……。
 あのくだりはキラキーさんが監視できなかった部分のせいか、思いっきり端折られていたから印象が薄い。しかし、この家の物置部屋の鏡から突入し、キラキーさんと戦ってほうほうの体で逃げ出し、あのパソコンのモニターだらけの異様な空間に落ち着くまで、ずっと二人だけの状態だったのは確実だ。
 真紅や翠星石達のように直接契約を交わし、あるいは恋愛に近い感情を持っていた関係ではない。だが彼女にも、ジュン君との懐かしい──それも、二人の記憶以外のどこにもない、全てを監視していたはずのキラキーさんにさえ覗き見られたことさえない思い出が存在している。

──強いなあ。

 全ての動作が役者のように嵌まり、不敵な笑みを浮かべて迫り来る崩壊に臨んだ水銀燈。リスクを承知で記憶を取り戻すことを決めた真紅。
 二人とも確かに恰好良く、凛々しくはあった。だが、薔薇乙女さん達の中ではとりわけ小柄で幼い姿の金糸雀も、芯の強さと優しさは充分に持っている。
 結構ちゃっかりしていて自己アピールを欠かさない癖に、肝心の部分になると容易にひけらかそうとしない辺り、実は薔薇乙女さん姉妹の中で一番底が見えないのは彼女なのかもしれない。
 その彼女のために、僕ができることがあるとしたら、それは何なのだろうか。そもそも彼女が望んでいるものは何なのか。一つにはみっちゃん氏の回復なのだろうが、それ以外は皆目判らないのがもどかしい。



 ~~~~~~ 第四話 ハートフル ホットライン ~~~~~~



「ジューンー、ねージュンー」
「なんだ、いきなり背中に登りおって」
「えへへ、これぞ! ジュン登りなのー」
「ってオイ待て、痛っ、髪引っ張んな。マエストロヘアーに万が一のことがあったらどーすんだ」
「ちょっとくらいモーコンに刺激があった方が将来禿げないのよー、髪は長い友達なのー」
「そ、そうですぅ。私も登って……頭皮を刺激してやるから有り難く思えですぅ!」「負けないかしらー!」
「イテテテテテ、おい止せ、やめんか。これ以上髪の毛引っ張りおったら全員振り落とすぞコラ」
「マスター、あの、僕も……」「諦めなさい、あれは既に定員オーバーなのだわ」

 何を言う赤いの、肩の上やら頭上の定員などゼロに決まっとるではないか。最初からオーバーしとる。
 速やかに立ち去れと言ってはみたものの、この人形どもが命令などまともに聞くはずもない。当然のように効果はなかった。
 致し方なく、後頭部にツートンがへばりつき、その両側……つまり両肩にお貞とうぐいすが取りつくという、何処ぞの雑技団かなんちゃらサーカス的な状態で、僕はパソコンのモニターを眺める破目になった。
 見物客がいたら拍手喝采かもしれんが、載せている本人としては窮屈極まりない。ついでに左右のヤツ等は髪の毛にしがみついているので、何かの拍子にぐらりとすると髪を引っ張られてしまう。殆ど罰ゲームである。
 ジュン登りとはよく言ったものだ。やろうとすれば頭に登って立ち上がるくらいの芸当は可能かもしれん。
 もっとも本物の「ジュン登り」は、こんな曲芸モドキの代物じゃーなかっただろう。
 本物の雛苺は(漫画のスケールと同じなら)金糸雀とほぼ同じ背丈のはずだ。残念人形ズ・ニューボデーの中では一番全高の高いばらしー及び黒いのよりも更に十数センチ高い。ちなみに重量の方もそれなりにある。
 人形が肩によじ登っているというよりは、小さな子供が肩車されているような按配だったろう。左右の肩に他の薔薇乙女さんが乗る余地などあるはずもない。実に微笑ましい図であるような気がする。

 その雛苺は、どうも他の姉妹達のような状況にはないらしい。
 僕が居た世界で雛苺に相当していた人物は、あの朝、僕にいきなり自分を愛称で呼べと言ってきた初見の女の子──確か日向可梨とかいった一年の子である。これは僕の憶測ではなく、薔薇乙女さんお三方の一致した見解だった。
 彼女はあのとき店に集まった人々の中に居なかった。金糸雀の話によれば、柿崎は水島先輩に、関係者全員に連絡してくれ、と言ったのだが、誰も日向可梨さんの連絡先を知らなかったのだという。
 結果として彼女はあの店長氏……「巻かなかった」ジュン君の種明かしにも同席せず、その後の騒動を知ることもなかった。現在どうなっているかとなると(時間の流れの不一致もあって)最早皆目判らない。他の巻き込まれた人々共々、無事であることを祈るばかりである。

 ただ、それはあくまで日向可梨さんの話であり、雛苺のことではない。

 数日前に蒼星石が話してくれたところでは、日向可梨さんとその妹(多分柏葉巴さんに相当する人物)は森宮倫子さん同様、適当な記憶を捩じ込まれただけの可能性が高いという。つまり代役である。
 本物の雛苺は他の姉妹が最初に囚われる前にキラキーさんに美味しく頂かれてしまった。その魂はキラキーさんでさえも手が届かない場所に行ってしまったか、あるいはキラキーさんが行方そのものを見失ってしまった。
 彼女が例の壮大かつややこしい舞台を整えるために代役として立てたのが日向可梨さんである。
 僕は結局未見のまま(もっとも可梨さんについても最後に一度会ったきりである)だったが、妹さんも柏葉巴さんの代役として使われていた可能性が高いという。あの場に集った人々以外は全て代役だったかもしれない、というのが皆さんの一致した見解だった。

 説明は明快だったが、話を聞いて僕は首をひねった。
 一応筋は通っているような気がする。しかしなぁ。どうも釈然としない。
 キラキーさんの記憶操作が何処まで精密なものかは知らん。全員騙されていたところを見ると、少なくとも技として完成されているのは間違いない。が、薔薇乙女さん姉妹の代役まで立てるってのは大胆過ぎやせんか。
 何年間か知らんが、誰も偽物を見破れなかった点については、皆さん何やってたんだと思わないでもない。元々、近くに姉妹が居れば判るくらい敏感じゃなかったのか。
 そんな内容のことを尋ねると、買い被り過ぎだよ、と蒼星石は苦笑した。
 薔薇乙女さん達が相互に存在を検知できるのは、要はローザミスティカが反応するから、らしい。意識だけが切り離されて人間に宿っていた状態では感じ取ることもできず、例えば双子が自分達以外の姉妹も同じ世界に(つーかよりによって同じ通学範囲に配置されて)居ると知ったのは、高校に入って直に顔を合わせてからだったという。

「特に彼女は──日向さんは学年が下だったからね。直接会う機会もあまりなかった。翠星石は夏休みの間に偶然会ったと言っていたけど、僕が初めて話したのは二学期に入ってからだ」
「大分疎遠にしてたモンだな……」
「あの頃は、僕達は生まれ変わったものと思っていたからね。それぞれに『いま』の生活があった。彼女がそれに納得しているのなら、必要以上に干渉してはいけない」
「理屈は判らんでもないが、よく割り切れたな」
「むしろ、流されてしまった方だと思うよ。翠星石が真紅と友人になり、みつさんと真紅は共通の趣味を持っていたことで繋がった。僕はそれに便乗した。金糸雀と水銀燈は同級生で、多分僕達よりも一年早く知り合っていたけれど、向こうから僕達に接触してくることはなかった」
「判らんなあ。それでも結局水銀燈やら森宮さん……真紅やジュン君も含めてネットワークは出来てたんだろ? そこに日向って子と、柏葉巴さん相当の人だけ入れてやらなかった理由が理解できん」
「入れなかった訳じゃない。連絡を密にしなかったのは、彼女がそれを望まなかったからだ。後知恵で考えれば、彼女が積極的にコンタクトを取って来なかったのは、僕達に近付け過ぎないように雪華綺晶が距離を取らせていたのかもしれないね」
「……なるほど」
「それに、ジュン君も乗り気じゃなかった。雛苺や柏葉さんと一番接点があったのはジュン君と真紅だったから……」

 僕はもう一度、なるほど、と頷いた。
 本人が深入りを避け、かつて実質的にマスターだったジュン君が消極的なら、他の面々が口を差し挟む余地はなかったのだろう。ある意味で最も親しい関係にあった真紅は記憶を失っており、他の薔薇乙女さん達は、雛苺が実際に契約を交わした間柄の柏葉巴さんの姉妹として生まれ変わったと錯覚していたのだから。
 誤った認識の上に立った誤解ではあったのだが、その時点ではその解釈で説明がついていた訳だ。

 まあ、それは致し方ないこととして話を戻すと、雛苺が現在何処でどうなっているかについては、蒼星石にも皆目見当がつかないということであった。
 いや、「どうなったか」は知っている。それは漫画でご承知のとおり、らしい。
 但し現在の所在も状態も、共に全く不明。
 僕が辛うじて知っている範囲で喩えると、ジュン君が深層意識だかなんだかの海で出会った蒼星石のような状況に近い。自分の名前を忘れて漂流している可能性もあるし、ジュン君がそうであったように、自我を維持できずにもっと希薄な状態に陥っている可能性もある。
 最も悲観的な見方をすると、キラキーさんが喰ってしまったために魂がバラバラになってしまい、僅かに残った欠片がローザミスティカに宿って真紅の元に向かった可能性もあるという。

「ローザミスティカを受け取った真紅は、ある程度理解したか知っていたと思うんだけど……ね」
「詳しいことは黙して語らなかった、か。秘密主義だよなぁ、割と」
「認めたくなかったのかもしれない。強いて尋ねなかった僕達の落ち度でもある。彼女のせいばかりではないよ」
「まぁ、そうだよな」

 空気を読み過ぎて本気で訊き出そうとしなかったんだろうな、と思ったものの、敢えて曖昧に答えておいた。どうせ全部後知恵なのである。
 ついでに言うと、「僕達」と蒼星石は言ったが、本人は真紅から詳しいことを聞き出す時間などなかったはずだ。
 蒼星石は雛苺より先に皆さんとおさらばしてしまっている。復活したのは「巻かなかった」世界でドタバタしている最中で、満足に余分な会話など交わせない状態だった。しかも、その後すぐにまた全員捕獲されてしまっている。
 ただ、本人としては連帯責任みたいなものを感じている、ということだろう。姉妹の失敗は自分の不手際という訳だ。

 あのときはそのまま流してしまったが、彼女達のああいうところが不味いのだろうなあ。
 どの薔薇乙女さんも自分で背負い込むのは良いが、背負い込み過ぎて横の連絡が上手く行っていない。これは、僕がこっちの世界に放り込まれてから数日、本来の彼女達を見てきた上での実感である。
 最終的には敵対するのが前提の付き合いだから秘密が多くなるのは必然なのかもしれん。しかし、見たところそういった利害とは関係なく(というかある意味反対に)、相手を思い遣るあまり踏み込むことができなくなってるように見えて仕方がないのだ。
 常に本音でギャーギャー喚いたり喧嘩したりしておる人形どもとは実に好対照というか。流石至高の少女予備軍さん達だけあって人間らしい思い遣りと節度があって素晴らしいと言うべきなのかもしれんが、ルール無用っぽいキラキーさんにその隙を衝かれてこの有様なのだから、手放しで褒め称える訳にも行かぬ。むしろ利害のためになりふり構わず手を組み、情報を共有した方がいいんじゃないのかなぁ。
 まあ、薔薇乙女さん達自身の問題である。僕のような外野……でもないが、巻き込まれたパンピー風情がそんなことをつらつら考えても致し方ないのだが──


「──ねーねージュン、ジューンー!」
「こっち向きやがれでっすぅぅぅぅ!」「ついでにこっちもかしらー」
「いて、イテテテ、つねんな阿呆共! そのピンセット並に細い指で!」
「ボーッとしてるからいけないんですよっ!」
「そーそー。さっきから何度も呼んでるのにー」「画面見てるだけで返事しないのが悪いかしらー」
「こちとらいろいろ考え事があんだよ。で、何用だ」
「えっとね……言ってもいいなの?」
「ああ、構わんぞ」
「えへへー……あのね、うんとね……」
「なんだ、ほれ言ってみい」
「えっとねー、そのー……」
「このお馬鹿! ちゃっちゃと切り出すですぅ!」
「やめい。お貞がキレてどうするんだ。訊いてるのはこっちだぞ」
「だってぇ……」
「何ならお前が代わりに話せよ。ツートンの言いたい内容は知ってるんだろ」
「うー、じゃあ言いますけどー」
「おう」
「えっと……欲しい物があるですぅ」
「ほーお」

 無関心を装ってみたが、実は嫌な予感がしている。
 厚かましさの程度の違いこそあれ、コイツ等は物欲には実に正直なのである。バイオリン騒動の折のうぐいす然り、バレンタインデーのお貞然り、近くは先日の赤いのの無茶な要求然り。まあ人間様でない代物なので致し方ない。
 それがわざわざ勿体を付けてねだっているからには、何かそれ相応の品物の調達要求であることは確実だ。
 むう、何が望みなのだ。手指が動くようになって背丈に見合った調度品が欲しくなったか、それとも早くもマエストロドレスに飽きて別の衣装を要求してくるつもりなのか。どっちでもいいが少しは空気読め。
 皮肉なことに、一般的な大型ドールサイズになったせいで、コイツ等の縮尺というか寸法に見合ったアイテムやら衣装は幾らでも入手できる。
 但し、相応のカネさえ払えばという前提が付く。
 縮尺の都合にその手の趣味の人々の本物志向も加わってか、ドール用の品物は一部アイテム(要するにプラ製小物)を除いてフィギュア類のオプション小物とは軽く一桁違うお値段なのである。そして、安いプラ製のイミテーションでは、一応人間同様に可動するようになってしまったコイツ等の欲求に応えられるはずもない。
 下手をすると一体につき諭吉さん一枚以上掛かるやもしれぬ。それが三体、いや……

 残念人形ズが怪奇物体でなくなったにも関わらず背筋がざわざわしてくるような錯覚に陥りつつ、お前等全員か、と尋ねてみる。
 案の定であった。肩に乗っている三体だけでなく、残り四体も声を揃えて肯定の返事をする。普段好き勝手に行動しとるくせに、こういう時だけはやたら統制が取れておるのはどういう訳だ。
 予感は的中といったところである。
 おねだりは七体分。相当な出費を覚悟せねばならん。コイツ等の中では比較的善良なツートンが躊躇して言い淀むのも道理であった。

「で、何が欲しいってんだ」
「買ってくれるの? さーすがジュンは太っ腹かしらー!」
「買ってやるとは一言も言っとらんが、聞くだけなら聞いてやる」
「わーいありがとー! ジュン大大大好きなのー!」
「聞いてねえなコイツ……」

 あるいはツートンらしからぬ、都合の悪い部分だけ聞かなかった振りという高等戦術か。ちょっと褒めてやった途端にこれかよ。まあ、どんな戦術を使われても無いものは出せない訳だが。
 両肩と後頭部に人形が張り付いているせいで振り向く動作すらできん。やむなく回転椅子をぐるりと回し、僕を大道具に使った曲芸をしていない四体の方に向き直った。
 赤いのと黒いのは仲良く同時にプッと吹き出し、鋏はぽかんと口を開け、ばらしーは何を思ったかぱちぱちと拍手をしてみせる。そこまで奇観なのかよ。
 双子の薔薇乙女さん達が部屋に居ないタイミングで良かったかもしれん。居たら大笑いされること必定である。

 取り敢えず、適当な順番で欲しい物を言わせてみる。
 意外にも綺麗なドレスの要求はなかったが、安く済んで一安心、ということもなかった。
 赤いのが完結した漫画全巻を指定してきたのは置くとして、ツートンは肩から掛けられるポーチ、うぐいすは体格に対して大きめ(召喚できるようになったバイオリンが入るくらい、らしい)のリュックサック、お貞と鋏はエプロンだという。
 案外可愛いおねだりだな、とは言えない。人間様用ならいくらでも安物がある品々であるが、ドール用でなおかつ実際に使用に耐えるモノとなると……新品で購入したらそれぞれ諭吉さんが飛んで行くのは確実だ。つーか、リュックとなると実在するのかどうかさえ怪しい。
 案外薔薇乙女さん達に同じ要求をされた時のほうが安上がりなのではないか。彼女達なら少し無理をすれば(あるいはごく自然に)子供用の品が扱える。実際、先日ドレスの洗濯をしたときに皆さんが着ていたのは幼児用のシャツであったし、食事時にもごく普通に子供サイズの食器を使っている。
 一方残念人形ズ用の食器は、のりさんがわざわざ取り揃えてくれた。その必要があったということである。まあ、手指が小さくて箸はもちろんスプーンやらフォークもまともに握れない有様だから致し方ないのだが。
 むう、なんたることだ。よく考えたら、至高のなんちゃら予備軍さんや人間様よりコイツ等の方が維持コストが高いということではないか。人形のくせに生意気である。
 その手の通販サイトを巡ってみて、あまりに高価であったり品物が存在しなかった場合は僕謹製の貫頭衣や雑巾的な袋で誤魔化すこととしよう。文句を言われたらその時はその時である。

 気を取り直して黒いのに順番を回すと、コイツは何故か咳払いをしやがった。私の欲しいのはそんなモンじゃないわぁ、とか言いやがる。
 どうでもいいが最近語尾を伸ばす癖がついてきてやせんか黒いの。格好に引っ張られて口調がおかしなことになっとる。
 ならば乳酸菌飲料でも飲ませろと言い出すのかと思ったら、要求は予想の斜め上を行っていた。

「パソコンが欲しいわぁ」
「いきなり大きく出たな……。つーかここにあるじゃねーか。他人様の持ちモンだがロック掛ってねえし、使い放題だぜ」
「そのキーボードじゃ大き過ぎるのよぉ。スケール考えなさいよお馬鹿さぁん」
「お前にゃ人間用はどれだってオーバーサイズだろ」
「そうでもないわぁ。恵の家で使ってたノートパソコンはオッケーだったし」
「あー、そういやカマキリ殺法って話だったなお前……ミニノートってやつなら両端に手が届くからOKって寸法か」
「そうそう。Dellとか工人舎とかのちっちゃいのね。ちゃんと動いてネットに繋がれば中古でいいからぁ」
「妙に詳しいなオイ。当然新品なんぞ買ってやるつもりはないが、何に使うんだそんなもん」
「決まってるじゃなぁい。調べ物よぉ」
「ほほぉ。何を調べるんだ? 手伝ってやらんこともないぞ」
「う……うっさいわねぇ。何でもいいでしょお。アンタの手なんか借りないわぁ」
「黒いお姉さま……まさか、あのことを……」
「あのこと?」
「はい。お姉さまは……生き別れになってしまったあの──」
「──だ、黙りなさぁいお馬鹿さぁん! それと生き別れって何よ! じ、時代劇の見過ぎじゃないのぉ?」
「おい止せ鎮まれ、羽根が飛び散る」

 黒いのは大分慌てた様子で、一丁前に顔を赤くしながらマンガチックに背中の羽と両手をばたばたさせる。仕種がアニメ版の水銀燈の顔と妙にミスマッチで、悔しいがちょっと可愛いと思えてしまった。
 それはそれとして、生き別れねえ。黒いのが生き別れになった相手、と言えば……

──まあ、あいつだわな。

 僕の知る範囲で、思い当たる人物は一名しかいない。黒いの本人形の中での認識がどうなっとるのか知らんが、一応家主というか持ち主に近い立場のヤツである。
 折角手を繋いでいたのにそれを放して翠星石に向かい、その上何を思ったか彼女をこっちに投げ渡すという豪快なボーンヘッドをやらかしたお陰で離れ離れと相成ってしまった訳だが、それはそれ。虚空に開いた穴のようなモノに引き込まれる寸前、恐慌に駆られつつも黒いのを僕の方に放り投げたことには、アホのあいつなりに、黒いのだけでも助けようという意図があったはずだ。
 直後に僕も同じように別の穴に吸い込まれてしまった訳で、結果的に殆ど意味のなかった行動ではある。ただ、その意気に感じるというか、ちょっとした責任感のようなものを持つには充分だろう。人間なら。
 人間なら、か。……ふーむ。

 柿崎よ。お前は結構凄いことをやらかしたのかもしれん。
 この人形どもが然程高尚な(人間的な)感性を持っているとは思えないのだが、黒いのにとってお前の行動は、その心に人間っぽい何かを生まれさせるだけの意味を持っていたらしいぞ。何分他に比較の対象がないのでどっちがイレギュラーなのかはっきりしたことは言えんが、少なくとも僕を大家とすれば店子たる五体には、そういう成長というか変化は一向に見受けられない。
 固い絆とか赤い糸などという大仰なものではないだろうが、言うなれば糸電話程度の繋がりが黒いのから柿崎に向かって生成された。そんな感じである。
 まあ相手が拾い上げて耳をくっつけてくれないと言葉は届かん訳だが。糸電話だけに。

 但し、何かが芽生えたとはいえ、おつむの方はまだまだ残念と言うべきだろう。
 現在どういう姿で居るか、というかこの世界に存在しているのかも判らん奴をネット検索でどう探すというのだ。そりゃあ何もせんよりはマシだろうが、街を飛び回って見て歩くのと大して変わらんレベルのような気がする。
 だが、それは些細なことだ。徒労に終わっても構わん。
 人形でしかないはずの黒いのが、家主を想い、探そうとしている。その意思自体が大切なのだ……ってのは、だいぶ大袈裟に取り過ぎてるか。

「……まあ、いいや。一応聞くだけは聞いた。中古のミニノートパソコンな」
「バッテリーはNGでいいから、キーボードと液晶が完品でWindowsがインストールされててAC電源と無線LANが付いてるやつ」
「なんか条件が跳ね上がった気がするが……判った判った。細かい機種名は石原……蒼星石にでも聞いといてやる。自分でも持ってたし、僕よりゃなんぼか詳しかったはずだ」
「お願いするわぁ」
「はいはい、承るだけは承りました」

 実現してやるとは限らんがな。こちとら神様でも仏様でもない、神の子の皮を被った哀れなパンピーなので。
 他の連中の要求品目との釣り合いってものもある。黒いのだけに高額なブツを与える訳にはいかん。
 何ならこのパソコンにワイヤレスのミニキーボードを繋ぐという手もあるし、僕が調べ物を代行する手もあるのだ。最近流行りのちっちゃいノートよりは、ジュン君が財力に任せて購入したデスクトップを活用した方が作業が捗るのは言うまでもない。画面も処理能力も段違いなのだから。
 ただ、自分が自由に使えるパソコンが欲しいというのも判ることは判る。借り物ではやりにくいこともあるだろう。
 ……まあ、一旦切り上げよう。考え始めたらキリがないし、まだ要求を聞いていないのが一体おるのである。

「ばらしーは何が欲しいんだ?」
「私は……これといって……」
「無欲じゃのぉ。お前はほんにええ子や……」
「えへへ……ただ……物ではないですけど……」
「ん?」
「お姉さま達に……きちんと名前を付けて欲しい……です」
「あー、それは真っ先にやってほしいのー」「かしらー」「そうね、いい加減色名で呼ばれるのにはうんざりしているのだわ」
「今はもう色と合ってもないわよぉ。ドレス黒くないし」「僕の仇名は色ですらないよ……」「私なんて縁もゆかりもない呼び名ですぅ!」
「なんだなんだ全員一致で。大体、名前はついとるじゃないかお前等」
「でもぉ、ジュンはいっつも変な仇名でしか呼んでくれないかしらー」
「しかも……付けられていた名前が……ローゼンメイデンと丸被り……」
「そういえば今朝も、のりさんが困ってたよね。翠星石ちゃん、て呼んだときに二人同時に振り向いたから」
「ですですぅ」
「あのテンチョーさんがいけないのー。おんなじ名前にするからなの」
「色々オモワクがあったのだもの、しょーがないかしら」
「そりゃ人形の名前なんて、持ち主が勝手に付けるモンだから仕方ないけどぉ。でも紛らわしいわぁ」
「……ふーむ」
「今の持ち主はジュンなのだから、新しい名前は貴方が付けて頂戴」
「所有した覚えはないっつってるだろうに……黒いのとばらしーもか?」
「……はい、お願いします……」
「私も別に構わないわぁ。他の持ち主に貰われたらまた変わるんだし」
「ほうほう。それなら──」
「──あ、先に言っときますけど、今の仇名みたいにテキトーな名前だったら断乎拒否するですよっ」
「チッ」

 バレたか。いや、当たり前だが。
 理不尽だぞお前等。持ち主が勝手に付けるモンだとか言っといて適当だったら拒否ってなんだよ。全然勝手にできねーじゃねーか。
 名前の件はそれぞれ相当に不満が溜まっていたらしく、全員が期待に満ちた視線でこちらを見てくる。しかしなあ。適当ではアカンと言われてしまうと、すぐにホイホイ決める訳にも行かない。
 少し時間をくれと言ってみたのだが、速やかに決めろとこれまた全員で口を揃えやがる。適当なことを言い含められて空手形にされたら困るとでも思ったのか、無闇に真剣な表情に変わっていた。とことん信用ねーな僕。
 取り敢えず、僕一人では良い案も出せん、今現在はこの家の居候状態なんだから住民全員に考えて貰うのはどうか、と提案して、どうにかその場を収めた。
 ちなみに言い逃れた訳ではない。実際にそれが上策だろうと思ってのことである。
 のりさんは人形どもを薔薇乙女さんと同列に(彼女達よりは少し幼いと見ているフシはあるが)扱ってくれているし、薔薇乙女さん達も結構フラットに相手してくれている。
 人形どもも皆さんによく懐いていて、お貞やらうぐいすなどはお菓子作りだの食事の支度が始まると、遊びそっちのけで翠星石やのりさんにくっついているくらいだ。これだけ溶け込んでいるものを僕の独断で名付けるべきじゃないだろう。
 それにもうひとつ、恰好良い、あるいは可愛い名前は女性陣の得意分野だろう、というのもある。ぶっちゃけた話、僕にはお洒落な名前を捻り出すような才覚はないのであった。


 存分に登攀を楽しんだであろう三体を肩の上から追い出し、椅子を回して机に向き直る。ノートパソコンの方はともかく、都合良いドール用の小物があるかどうか確かめねばならぬ。
 インターネットブラウザを立ち上げてドールショップの通販ページを開きつつ、名前の件は今晩の食事後にでもワイワイやりながら決めればいいか、などと考えていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
 当然ながら来客である。大方また宅急便の業者が何かを届けに来たのだろう。
 ジュン君だけでなく、実はのりさんも結構インターネット通販を利用している。流石に弟君のような浪費遊びをやっとる訳ではないが、高校に通いながらジュン君の……いや今は僕等の世話を焼いているために時間のない彼女にとっても通販は便利なのだ。
 ザワザワしていた人形どもが喋るのを止める。来客に自分達の存在を知られたらマズいということはコイツ等なりに自覚しているのである。以前なら見ざる言わざるに加えて動作を停止し、仮死状態になっていたところだ。
 ウチならともかく、ここで仮死状態やってもあまり意味は無いと思うんだがなあ。防音は確りしているし、階下には薔薇乙女さん達が居るのだから。とはいえ、無駄に騒がれたり纏わり付かれてしまうよりは有難い。

 ドタバタと階段を駆け下り、ダイニングの中からやかましいですよと言いたげにこっちを睨んだ翠星石にごめんと手を合わせ、玄関のでかいドアのノブに手を掛ける。
 はいはい只今、と言いつつドアを開きながら、やっちまった、と思う。
 今の行動はジュン君の常日頃の応対でなく、僕本来のそれであった。
 ジュン君ならドアのこちらで誰何し、覗きレンズで相手の姿を確認した上で慎重に開くところである。良し悪しでなく、それが彼の態度なのだと教えられていた。
 ヒヤリとしつつ、まあ相手はどうせ宅急便のあんちゃんなのだから、と気持ちを落ち着かせる。一度や二度おかしな言動を見られたところで、別に問題は──

「──久しぶり……お帰りなさい、かな」

 ガチャリと広く開けた扉の向こうに立っていたのは、宅急便屋の制服を着たあんちゃんではなかった。
 僕、というかジュン君よりも小柄な身体。背中に背負った竹刀袋と思しい細長い包み。やや色素の薄いショートカットの黒髪に左目の下の泣き黒子。
 少しばかりぎこちない微笑を浮かべ、しかし明らかにほっとした様子でこちらを見詰めて来る大きな瞳。
 実物を見たのはこれが初めてだが、漫画やらアニメでは既にお馴染みの人物である。

「柏葉……」
「二週間ぶりくらい……だね」
「あ……うん」

 さん、を付けなくともデコ助野郎と罵られることはあるまい。ジュン君は呼び捨てにしていたのだから。
 マエストロボイスを聞いて、柏葉巴さんは端正な顔をもう一段階緩めた。
 もう一度、今度はもう少しはっきりした声で、お帰りなさい、と言う。まるで裏のない、ジュン君を信頼しきっている声音だった。

──これは、やばい。

 ただいま、とは答えられなかった。何がやばいのか咄嗟には出て来ないが、理屈でなく直感がそう告げている。
 胸に重たいものがのしかかるような圧力を感じつつ、ただこくりと頷き、彼女を玄関の中に招き入れる。
 廊下を振り返ると、ダイニングの扉のところで金糸雀がこちらを見詰めていた。
 大丈夫、というような微笑を向けた先は、柏葉巴さんか、それとも僕だろうか。できるなら後者であってほしいと思いつつ、僕は柏葉さんを促して綺麗なフローリングの廊下を客間に向かって歩き出した。


 ~~~~~~ ほぼ同時刻 来栖川中央病院・ナースセンター ~~~~~~


「ねえ聞いた? 柿崎さんて子……」
「ああ、あの患者さん」
「退院することになったのはいいけど、不思議よねぇ」
「先生も言ってたわ。信じられないって」
「そうよね、あれじゃまるで……」






[24888] 第三期第五話 夢はLove Me More
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bd374f1f
Date: 2013/04/10 19:39

 〜〜〜〜〜〜 桜田邸・客間 〜〜〜〜〜〜


 差し向かいに座り、翠星石が淹れてくれた紅茶を啜りながら、ちらりと相手の顔を窺ってみる。
 柏葉巴さん。
 三つばかり年下になる勘定だから、この際呼び捨てか、思い切ってちゃん付けでもいいかもしれない。柏葉ちゃん、だと違和感があるから、巴ちゃん、か。
 雛苺の契約者でジュン君の幼馴染の同級生。優等生で学級委員(委員長って話もある)、薔薇乙女さん達に負けず劣らずジュン君のことを気に懸けている。
 僕が彼女について知っていることは、つづめてしまえばその程度である。
 改めて確認すると冷汗三斗の気分だが、実はのりさん、いやいやジュン君本人についても、僕が持っている知識は似たりよったりでしかない。
 精々漫画で印象的だったイベントをいくつかうろ覚え程度に知っているだけ。例のブッ飛んだ金銭感覚に限らず、僕がジュン君やのりさんの周囲の様々な事柄を理解できていないのは初日から大して変わっていない。
 曲がりなりにも影武者というか偽者を演じていられるのは、偏に翠星石をはじめとする薔薇乙女さんお三方のチェックと御指導御鞭撻あってのことである。もっとも、彼女等の意向がなければわざわざ演技などせず、正直に赤の他人ですと白状していただろう。

──この子も薔薇乙女さん達と同じ経験をして来てるんなら楽なんだがなぁ。

 蒼星石の推測が当たっていないことも一応有り得る。森宮アツシ君(に憑依したジュン君)と日向なにがしさん(に憑依した柏葉巴さん)が、石原姉妹等の感知しないところで二週間ほど前に会っていて、さっきの挨拶はそのことに言い及んだだけ、という可能性がないとは言い切れない。
 ただ、それはあくまで理屈の上の話。さっき玄関で彼女が見せた笑顔は、そういう細かい事情を知っている人の表情ではなかった。
 彼女は何も知らない、と考えていいだろう。キラキーさんの異様に手の込んだ罠のことも、僕の居た世界でジュン君と薔薇乙女さん達が過ごした何年間だかの時間のことも、彼女の与り知らない出来事なのだ。

 だとすれば、どうしたものか。いや、我等がボスはどうするつもりなのか。
 洗い浚いぶちまけて、協力を仰いでみるのか。あるいはのりさんと同じく、彼女に対してもジュン君役を演じてみるべきなのか。いや当然翠星石は後者で行くつもりなんだろうが、上手く行くのかコレ。
 なんせ、巴ちゃん相手では薔薇乙女さん達の助け舟がろくすっぽ期待できないのである。
 彼女とジュン君は幼馴染である上に中学の同級生。それなんてエロゲ、と言いたくなる関係であるがまあそれは置く。
 二人が親しく接していた時間は、翠星石がジュン君と暮らした期間と重複していない。ちなみに金糸雀は翠星石がジュン君の家に転がり込んでからの付き合いで、蒼星石に至っては巴ちゃんと一面識もないはずだから、どちらもかなり疎遠な立場である。
 翠星石にしても、ジュン君と巴ちゃんとが揃っている場に居合わせたことは殆ど無いに等しい。
 特に彼が巴ちゃんと図書館に通うようになってからは、家の中では薔薇乙女さん達、外では巴ちゃん、とそれぞれ棲み分けのようなものが成立していたのである。
 これは厄介極まりない。要するに彼女が昔話(というか彼女にとっては直近の過去の話)を始めたら、僕は想像とはぐらかしで対処するしかないということだ。

 ティーカップを置き、ちらりと巴ちゃんの顔を見る。彼女はゆっくりと左右に目を遣っていたが、僕の視線に気付いてこちらを見詰め返してきた。
 若干上目遣いになっているのが可愛い。しかし、その目は寂しげだった。
 理由は大体判っている。客間に集った面子を見て、雛苺が居ないことを再確認してしまったのだろう。雛苺がどうなってしまったのかはのりさんから聞いて知っているはずだし、彼女的には雛苺と別れてからほんの僅かの時間しか経過していないのだから。
 ええいクソ。一体どうすりゃいいんだよこの状態。
 せめてリニューアルした残念人形どもが薔薇乙女さん達とスケール違いでなければ、ツートンに代役を務めさせて……いやいや。
 アイツに雛苺(に関わらず何かの真似)をやらせるのは僕がジュン君を演じるよりも無理筋だろう。似てる似てないは別として、役者をやれるような器用さは到底持ち合わせてない。
 相変わらず使えぬ奴等である。まあ、傍から見てりゃ僕もご同様なんだろうが。
 何しろマエストロ様のボデーを預かりながら、行動は逐一他人様の指示に従っている身の上なのである。

──さて、ボス。今回はどうすりゃいいんだ、僕は。

 詳細な指示とは行かずともヒントくらい寄越せよ、と翠星石を横目で窺ってみる。しかし当の本人は、どういうつもりか黙ったままお茶菓子を皿の上に並べており、こちらにはちらりとも顔を向けてこなかった。
 おいおい、こんなときに限って僕に丸投げかよ。勘弁してくれ。


 〜〜〜〜〜〜 第五話 夢はLove Me More 〜〜〜〜〜〜


 壁の時計の秒針が一周する間、僕等の間には気まずい沈黙が流れていた。
 お茶を注ぎ終わった翠星石は僕の隣に座を占めている。金糸雀と蒼星石もそれぞれテーブル周りに座っていた。
 準備万端整った、というところである。しかし、話が一向に始まらない。
 一応全員が着席したところで、推測が当たっていれば面識がないはずの蒼星石と巴ちゃんをお互いに紹介してはみた。ジュン君の役回りであろうと判断して独断でやらかした訳だが、これといって止めだても妙な顔もされなかったものの、それだけで会話は途切れてしまった。
 なんなんですかこの空気。四人とも一言も発しないばかりか、お互い視線を交わすこともない。嫌に余所余所しいじゃねーですか皆さん。
 元々巴ちゃんに対してはこういう距離感なのか? それともこの場は僕に任せたとでも言いたいのか。
 以前のあれこれが皆目判らんだけに不安と焦燥感が募る。いっそのことジュン君のことを含め全部暴露してやろうか……などと不穏なことを考え始めたとき、漸く巴ちゃんが口を開いた。

「──ごめんね、こんな時間に……今日からテスト期間で、午後の部活もなかったから」
「あぁ……そっか、中間試験の時期だっけ」
「ごめんなさい、言ってなくて」
「え、いや、そんな謝らなくても」
「桜田君……勉強、とっても頑張ってたから、テストの話なんかしたら余計無理しちゃうんじゃないかって思って」
「……ありがと。凄く嬉しいよ。気、遣ってくれて」
「ぁ……ううん、そんなこと……」

 巴ちゃんは慌てたように俯き、口元に片手を当ててふるふると首を振った。
 頬が……つか耳まで赤くなっておる。うはぁ、何このギャルゲ的反応。
 なんつーか……想われてるなジュン君。真紅に翠星石だけでも両手に花、加えてグラマーなお姉ちゃんまで居るのにもかかわらず、可愛い幼馴染かつ同級生までこの態度とは。
 今更ながらまさにリア充、ハーレム一直線ではないか。爆発しやがれコンチクショウ。

 まあ、毎度恒例の嫉妬は置いとくとしよう。虚しいだけだし。
 ジュン君を目の前にした彼女が良い雰囲気になりつつあるところまことに申し訳ない……とジュン君のボデーを駆動している僕が言うのも妙なものだが、ともかくここは話を先に進めよう。せっかく向こうさんから口火を切ってくれたのだから。
 相変わらずぎこちなく、約一週間nのフィールドに行っていたことだけを告げる。帰って来てから連絡を怠っていて済まなかったと思っている、と頭を下げると、私もすぐに来れなくて、と巴ちゃんはまた首を横に振った。
 実は数日前にのりさんと街で偶然顔を合わせ、その折にジュン君が帰還したことは聞いていたらしい。訪問が今日になってしまったのは、纏まった時間が取れなかったせいだという。
 おやおや、と思いつつ、試験前だったら仕方ないさ、と月並な返事をしておく。
 彼女のジュン君に対する想いはもう少しストレートで正直なものだと思っていたのだが、やはり(他の皆さんの如く)一筋縄では行かないのか。いや、考えていたほど彼女の中でジュン君の存在は大きくないのかもしれん。
 どちらにしても、だ。
 彼女がジュン君及び薔薇乙女さん達のような長旅を経験していないのはもう確実である。そしてジュン君への想いが強い動機でないとすれば、今日この家を訪れた理由についても容易に想像がつく。
 彼女にとっては辛い話になるが、今後どう転ぶとしてもこれだけは正直に話さなきゃならんわなぁ……。

「雛苺のこと、なんだけど……」
「──知ってる」
「それも……姉ちゃんが?」
「うん……アリスゲームの中で、第七ドールに身体を奪われたんだ、って……」
「ごめん。取り戻せてないんだ。僕がもっとしっかりしてたら──」
「──そんなことない。……桜田君は、頑張ってくれたんでしょう?……それで充分だから……」

 何この出来過ぎた良い子。中学二年だから僕より三つ歳下になる訳だが、この気遣いぶりは大人のそれだ。
 但し、その表情には隠しきれない影が落ちている。静かな、なんというか如何にも日本人的な諦観の色だ。
 全然充分じゃないだろ、柏葉巴さん。
 本当は雛苺について、ジュン君の口から(のりさんには言わなかった)希望的な観測が齎されるのを期待してたんじゃないのか。今は遠くに居るけど近い内に戻って来るさ、みたいな。
 今日立ち寄る気になったのも、あるかなしかの期待を抱いていたからに違いない。それが否定されて、非難をこっちに向けることも、嘘だと言って暴れだすこともできない性格のこの子は、事実を胸に落としこんで諦めてしまった。多分、これまでそうしてきたのと同じように。
 ああ畜生。なんでジュン君の周りにはこうルックスばかりでなく心根も良い子が多いんだよ。リア充は……はい、やめやめ。もうやめ。

 それにしても、桜田君と言われるとこう、その言葉が心の何処かにグサっと突き刺さる。
 「巻かなかった世界」で体を張って頑張った人(森宮アツシ君に憑依してからは状況に流されるままだったみたいだが)は僕ではない。彼女の眼前に居るのは彼ではない。
 なんとなく二重に間違われているというか、二重に騙しているようで実に良心が痛む。
 言い訳はできなくもないが、認めざるをえない。蚊帳の外から内側の人々に向かって事実事実と煩く言ってた僕が、一旦蚊帳の中に入ったら今度は外の人々に対して事実を隠蔽している訳だ。

──いいのか、こんな素直な子を騙し続けて。

 ちらりと翠星石を横目で見てみる。しかし、我等がボスはテーブルに視線を落としており、依然としてヒントを寄越してくれる気配はなかった。
 何か言い間違ったらどうするつもりだ。それこそ、僕はジュン君じゃないんだぞ。
 基本方針は変わらないから黙っている、といったところか。それとも話すべきか否かで内心迷ってるのか。まるきり思惑が読めん。
 ……本当に知らんぞ、どうなっても。

「雛苺だけじゃない。ここに居る三人以外はみんな、どうなっているのか全然判らないんだ」
「それものりさんが……真紅は帰って来てないし、金糸雀のマスターの人も入院したままだ、って」
「二人だけじゃない。第一ドールの水銀燈も行方不明だし、他に結菱さん……蒼星石の元マスターと、オディールさん。水銀燈のマスターはもっと前から入院してたけど、他のマスター達と同じ状態になってる」
「同じって……眠ったまま……?」
「眠ってる、って言っていいのかな。意識だけ切り離されてるんだ。体がこの現実世界にあって、心は第七ドールの居場所に囚われたか、何処かを彷徨ってる……どっちにあるのか、僕にはまだ判らないけど」
「……そんなことに……」

 無事なのが私達だけなんて、と巴ちゃんは目を伏せた。
 悪いな。私達ってのにジュン君が入ってるんなら、そいつは大きな間違いだ。
 目の前に居てペラペラ喋ってるヤツこそ一番厄介な状態なんだよ巴ちゃん。なんせ、中身が赤の他人になっちまってる。
 一つ救いがあるとすれば、その赤の他人が一応事情を理解してるってことか。いやいや、そのつもりになってるだけで実は何一つ判っとらん、という余計に性質が悪いヤツなのかもしれんが。
 どちらにしても、僕はこの子に対して悪意は抱いていないし、この特殊な立場を利用して悪事を企むつもりもない。迷惑は掛けてしまうかもしれないが、積極的に害を与えるつもりはないのだ。

 但し、そういう方向に向いているのは、あまり褒められた理由があってのことじゃない。善意の塊だからとか、意気に感じ正義を愛する人だから、という意味では決してない。
 何かしてあげられることがないかとか考えてはいても、一皮めくれば我が身大事。事勿れ主義で単に主体性なく状況に流されているだけ。
 薔薇乙女さん達の生死を賭けた戦いにしても、巴ちゃんのことにしても、上っ面ではともかく根っこの部分で他人事として捉えているのだ。この奇怪な現状にしても、いずれ誰かが解決の切っ掛けを見つけてくれると根拠もなく期待しているから、ただ翠星石達の言いなりになって消極的に無駄な時間を過ごしている。
 なんのことはない。のらりくらりとその場その場が凌げればいいという、要するに今現在二階で息を殺している(はずの)人形どもと大差ない生き方に堕ちているのが現在の僕であった。いや、昔から似たようなものではあるんだが。
 これでいいのか、ともう一度思う。
 いいはずはない。アホの人形どもに囲まれてだらけきり、一方では事態の解決を薔薇乙女さん達に頼りきっている。事件の当事者の一人としてはあるまじき態度であった。
 天井を仰ぎ、もう一度巴ちゃんに視線を戻す。彼女は視線を上げてこちらの顔を見たところだった。

「──ありがと、柏葉」
「え……どうしたの」
「ちょ、何いきなり自己完結してやがるですか。肝心のトモエを置きてきぼりにしてんじゃねーですよ」
「うふふ、ちょっと話が飛び過ぎかしら。落ち着いて」
「あ、すまん唐突に」
「ううん、ちょっとびっくりしただけ……だけど」

 巴ちゃんは首を振ってくれたが、大失態である。
 えらくエキサイトしていた──というか、自分の中だけで煮詰まってしまっていたらしい。それまで口を挟まなかった二人から間髪なしに注意されるとは、余程頓珍漢な台詞だったに違いない。
 情けない顔になっているのを自覚しつつ、改めて巴ちゃんに向き直り、一人で盛り上がってごめん、と頭を下げる。
 傍から見たら情緒不安定もいいところだろう。演技やら何やら色々頭の中で処理することが多過ぎるせいだとは思うが、お恥ずかしい限りである。

「柏葉が切っ掛けをくれたお陰で、踏ん切りがついたんだ」
「踏ん切り……?」
「こっちに来てから、何もしてなかった。理由はいろいろ付けられるけど、要は楽な方に流れてたんだ」
「それは……」

 巴ちゃんは続けて何かを言いかけたが、口を閉じてふるふると首を振ると、結局それ以上は何も言わずにまたじっと僕の顔を見詰めた。
 視線を逸らさずにいることに苦労する。探るような視線だったり、呆気に取られた表情ならまだ楽だったろうが、彼女の目は純粋に僕──じゃねーよ。ジュン君の次の言葉を待っているようだった。
 偽者でごめんな。ホントに。
 ただ、偽者は偽者なりに思うところはあるわけで。

「もう少し……いや、もう少しなんて言ってたらダメだよな。本気になって頑張らなきゃいけない。雛苺を取り戻すためにも」
「取り戻すって……そんな……どうやって」
「方法はまだ見えない。でもここに居る三人は帰って来れた。だから、他のみんなが帰って来る方法もある。雛苺だって……必ずあるんだ。ただ、今はそれが見えて来ないだけで──そうだろ?」

 言いながら、左右の三人に目を遣る。
 翠星石は僕の剣幕に驚いたように、蒼星石はいつもの──僕が唐突なことを言い出した時に石原がよくしていた表情でこちらを見上げている。金糸雀だけは何故か笑顔で、うんうんと頷いてくれた。
 正面に向き直ると、巴ちゃんは少なからず狼狽した表情で盛んに瞬いていた。
 やばい。
 頭に血が上り過ぎていた。冷静に考えれば、今の一連の発言は僕自身の心境を乱暴な言葉で吐き出しただけである。ジュン君の立場としては妙な言葉もあったかもしれん。
 まあ、ここまで来たらもう乗り掛かった船だ。今更ジュン君らしく演技する余裕なんぞない。

「だらだら自分のことだけ考えてる場合じゃない。アリスゲームのけりがつくまで、再登校の準備も見合わせる」
「学校に行くのは……諦めるの?」
「ごめん。今は時間が惜しいんだ。学校に行ってる暇なんてない。昼間から少しでも多く情報収集して、しっかりした計画を立てて、全力で臨まなくちゃ。何しろ相手は──」
「──違うと思う」

 意外にも、巴ちゃんは視線を下に向けてふるふると首を振った。
 出足を挫かれた形になって、僕の返答は一瞬遅れた。そうでなくとも下がりかけていたテンションは一気に直滑降である。

「違う、ってえっと、何が」
「……わからない、けど……一つのことで目の前がいっぱいになるのは、良くないと思う」
「いや、しかしこれはそうなる理由が」
「理由は……あるのはわかるけど、でもこのままじゃ、この間と同じだもの」
「nのフィールドに入る前、ってこと?」
「うん。あのときの桜田君、学校に行くって、そのことだけで一生懸命で……」
「……あぁ」
「私、あんなこと言っちゃったけど……前ばかり見てるっていうのは、そういう意味じゃなくて……」

 うろ覚えの上にテンパってて忘れていた。
 雛苺がキラキーさんに喰われた前後のジュン君は、やや薔薇乙女さん達から距離を置き始めていた。
 契約者を名乗るオディールさんが雛苺を連れに来た時も、「お前が決めるんだ」と雛苺を突き放すような言い方をしてしまっている。雛苺がキラキーさんにあっさり喰われてしまったのは、その言葉に動揺してしまったからであった。
 漫画では確か巴ちゃんがジュン君にじかにそのことを指摘していたような気がする。図書館だか何処か、二人きりになった場所で。実際に一字一句同じとは限らないが、似たような遣り取りはあったのだろう。
 彼女にしてみれば、僕がいきなり捜索と奪還に全力を傾けると言い始めたのは、今度はあのときと反対側に突っ走って行くと宣言したように見えた訳だ。馬車馬体質は変わってない、元々それを止めろって言ったのに……ってことか。

 幸か不幸か……いや、翠星石におんぶに抱っこの僕の立場からすれば怪我の功名とすべきか。
 僕が唐突に言い出したことは、事情を知らない彼女から見るとまことに「ジュン君らしい」発言内容だった訳である。「らしさ」のポイントがマイナス面だったことはご愛嬌とすべきだろう。

 たっぷり数十秒の間、また沈黙がたちこめた。
 流れからすれば、プライドの高いジュン君的には本来図星を衝かれて絶句すべき場面であるから、沈黙は問題ない。が、こちらとしては何とも表現しづらい心境である。
 この子、ジュン君の中身については疑いを持っていないらしい。
 それは翠星石のプランからすれば好都合なのだが、バレてもいいやと一旦突っ走ってしまった僕からすると、ある意味振り上げた拳の下ろす場所がない状態でもあり、嘘を重ねている疚しさがまた膨らんでも来るのである。
 話の流れで持っていくのではなく、何処かできっちり正面から、この七面倒臭い来し方を説明しないといけないのではないか。それが僕の責任のようなものなのでは──。
 などと考え始めたとき、巴ちゃんが躊躇いがちに口を開いた。

「それに、少なくとも……私は……教室でまた、桜田君と会いたい……から」

 頬が僅かに赤くなっている。恥ずかしがってるのか、勇気を奮って言ってみたのか。
 おい、ジュン君。リア充とか言わんから、聞こえてるなら喜べ。
 自分の大事な友達の奪還よりも、お前さんが学業に復帰することの方を望んでくれてる人がここにいる。
 彼女にしてみれば、ジュン君が登校しようと家に居続けようと大して関係は変わらない。他人はともかく自分は彼に拒否されていないから、ここに来ればいつも会えるのだ。むしろこの場に囲っておいた方が二人だけの時間も作りやすい……いや、これは言い過ぎか。
 それでも彼女が教室で会いたいと言うのは、不登校児に甘んじているジュン君は本来の姿ではないと思っているからだろう。
 つまりは、そこまで深く慮っていてくれるという訳だ。クソッタレ。
 良い子過ぎるだろ巴ちゃん。なんでこんな子がジュン君なりめぐさんなりと同列なんだよ。マスターさん達の共通項はそんなところにないことは判ってるが、些か納得しかねる──

「──そうですよッ、大体何ですか! アリスゲームを自分の学業をオロソカにするためのダシに持ち出しやがって、マスターの風上にも置けないヤローですぅ。こっちはいい迷惑ってモンです」
「うわ、黙ってていきなりそれかよ。いくらなんでも……」
「イクラもスジコもねーってんです! アリスゲームは翠星石達のゲーム、人間なんぞに恩着せがましいコト言われちゃ乙女の名が廃るってヤツですよッ! 真紅やチビ苺だって、言い訳のタネにされることなんて望んでませんから!」

 待て。ちょっと待て。
 ここまで放置しといて、今の今になって掌返しっつーか僕を詰るんかい。そりゃーないぜ、我がボスよ。
 しかしこれで一つ理解した。今までヒントをくれなかった理由は不明のままだが、未だに翠星石の意図は変わっていない。あくまで僕をジュン君と言い張ったまま、この場を乗り切るつもりだ。
 それはいいんだが。

──ってことは、だ。結局のとこ、この流れだと僕に中学校に登校しろってことだろ。いいのか。

 ヒートアップしとった僕が言うのも何だが、興奮して何やら目的と手段が入れ替わっとらんか。
 こんな調子で学校まで行ったら流石にバレるだろうよ。大体、バレるからって僕に外出さえも禁止してた、いや今現在も禁止しているのは何処の誰なのだ。別の意味で方針がブレブレである。
 呆気に取られた僕の視線の先で、翠星石は顔と拳に力を込めたまま立ち上がる。その拳をぶんぶんと無闇に上下させつつ、金糸雀の方に向き直った。

「アンタもそう思いますよねっ、チビカナ」
「え、ええっと……そ、そうね、そうかしら」
「蒼星石はどうですか」
「……僕は、マスターの決定を優先する」

 いきなり話を振られて当惑気味の金糸雀に対して、蒼星石は落ち着いたものである。伊達に長いこと双子をやってはいない。
 勢いを殺がれてぽかんとしている翠星石に、自分達の意思をマスターに押し付けてはいけないから、と諭すように続ける。ただ、自分としてはジュン君に過大な負担を強いることは望まない、と。
 金糸雀は慌てて、そのとおりかしら、とそそくさと意見を変えた。意外にアドリブに弱いのか、ゴリ押しに弱いのか。先輩の弱点発見である。

 ただ、先に冷静になっていた僕としては、如何にもコイツらしいなぁと思うだけであった。
 一見良い事言ってるようだが、どっちつかずというか玉虫色の言い分なのだ。ついでに深読みすれば、ジュン君に負担が掛からん範囲なら僕がどうなろうと大して気にならんとも取れなくもない。
 蒼星石がその程度の含みを持たせるのは今に始まったことじゃない。こっちにしてみれば慣れっこでもある。
 本来真面目で堅物、のはずなのだが、僕と出会った中学一年──約五年前だが、その頃からコイツはこの手の罠を仕掛けるのが得意だった。僕やら柿崎が何度となくそれに引っ掛かっているのは言うまでもない。
 生まれ変わったことになって(実際は違うらしいが、その時点での蒼星石はそう思っていた訳だ)はっちゃけたくなったのか。あるいは漫画でも見え隠れしていた素の黒い部分が顔を覗かせたのか。
 案外原因は宿主というか憑依先の石原葵の性格の方にあって、取り憑いた(失礼)蒼星石の方が逆に影響を受けているのかもしれん。その辺は多分本人にも判らないだろう。

 いずれにしても、蒼星石の台詞は翠星石の熱を冷ますには充分だったらしい。
 文字どおり振り上げた拳の持って行き場がなくなってしまったらしく、半端な高さで止めたままこちらに顔を向ける。やっちまった、と言ってるような、些か情けない表情だった。
 どうしましょうという顔にも見えるが、どっちにしても僕としては無表情に見つめ返すほかない。

──ごめんなさい、こういうときどういう顔をしていいかわからないの。

 感情に任せて突っ走ってグダグダか。翠星石らしいのかは知らんが、実に僕の知る石原美登里らしい姿ではあった。
 しかしだな、暗に僕に解決策を求めてるんなら大きな間違いだぞ翠星石。妙なところで、それも僕が口を出しにくい方向に暴走しおって。

 まあ、登校に向けて努力する(ポーズをする)のは悪いことばかりではない。僕にとっては。
 ジュン君の登校準備には図書館への行き来が含まれていた。つまり、実際に登校に漕ぎ着けるかどうかは別として、自動的に外出禁止令が解かれる訳である。当然大きなリスクを伴う行為ではあるが、行動を束縛されなくなるのは歓迎すべきだろう。
 そうだなぁ。時間があればドール専門店に足を運んでみたり、中古PCを扱ってる店を覗いたりしてもいいかもしれん。ネットで買えるものが全てではないのである。特に、先程人形どもが要求した種類のブツについては。
 知り合いに出会うというのも、平日昼間を選んで外出する分には大して確率は高くないはずだ。運悪くくじを引き当ててしまったときの対処は、その場で大汗をかいて考えるしかないが。
 ただひとつ問題があるとすれば、それは先程一旦盛り上がってしまった僕の良心を、更に固く蓋をして仕舞い込まざるを得なくなってしまったことである。その場の流れとはいえ酷い話だ。
 胃薬の在り処を聞いておくか、睡眠薬をネット通販で入手しておいた方がいいかもしれん。単独で外出するときはともかく、巴ちゃんと二人で居る間は緊張と罪悪感の途切れる暇がなさそうだ。


 僕の内心の葛藤はともかく、翠星石のスタンドプレーでだいぶ締まりのなくなったその場の雰囲気は、のりさんが帰宅するまで続いた。
 金糸雀と翠星石は取って付けたように世間話を始め、蒼星石が時折そこに口を挟む。些かぎこちないものの、いつもの光景ではあった。
 巴ちゃんが微妙な空気をどう受け取ったのか、心理学なんぞ齧ったこともない僕には皆目判らない。取り敢えず、翠星石の淹れてくれるお茶を飲みながら適当に反応を返しているところは、満更居心地も悪くなさそうには見えた。

 のりさんは柔らかな笑顔で、ただいま、と客間の僕達に帰宅の挨拶をすると、手早く着替えを済ませて台所に向かった。翠星石もそちらに立って行き、即席かつグダグダな雰囲気のお茶会は自然に解散状態になった。
 金糸雀と蒼星石も自分の用事とやらでそれぞれ席を立ち、小さな座卓の周りには僕と巴ちゃんだけが残った。
 ううむ。早くも二人きりか。
 いきなりの試練である。学校の話とか出されたら忽ちボロが出るぞ。っつーか、やっぱ肝心な所で丸投げじゃねーかよボス。なんて杜撰なやり方だ。
 何とも居づらい、と思っていると、巴ちゃんが口を開いた。

「そういえば……他の子は?」
「他の子って」

 真紅も雛苺も、そして水銀燈も未だに消息が掴めないのだ、と再度説明を試みると、違うと巴ちゃんはふるふると首を振った。

「のりさんが言ってたの。ローゼンメイデンのそっくりさんがいる、って」
「あぁ……うん。いる」
「ごめんね。気を使ってくれたんでしょう、みんな……」
「いやいや、そんなことないから」

 息を殺しているのは人形どもの勝手、というか専ら連中自身の都合である。そもそも来訪者が巴ちゃんだということも知らなかったのだから。
 確かに、見せて良いものかと思わんでもない。
 特にツートンは連中の中でもオリジナルの雛苺に結構よく似ている方だ。口調については言うまでもなく、そっくりというかまんまパクリである。
 キラキーさんに該当するものがいないのは良いとしても、アホ連中に遠慮無く絡まれた巴ちゃんが雛苺のことを思って切ない気持ちになってしまっても不思議はない。
 ただまぁ……のりさんが話してしまったんなら、後はこちらでどうこうというよりは巴ちゃんの問題だよな。
 どっこいせ、と腰を上げ、こちらを見上げた巴ちゃんに何気ない素振りで言ってみる。

「見てみる? 一丁前にべらべら喋ったり飯喰ったりするところだけはローゼンメイデンしてるけど」
「いいの?」
「悪いわけないさ。とも──柏葉がいいなら」
「うん……会ってみたい。みんな楽しい良い子みたいだから」
「そっか。じゃあ、晩飯の支度ができるまで」
「ありがとう……」

 巴ちゃんは素直な微笑を浮かべている。さきほど玄関で見せた表情とはまた違った、随分無邪気に見える笑顔だった。
 なるほど。こりゃ、あれだ。
 ジュン君がどうだかまだ判らんが、少なくとも巴ちゃんとみっちゃん氏には共通項がある。どちらも人形が好きで、多分子供と遊ぶのも大好きなのだ。
 良かったな人形ども。丁寧かつ優しく接してくれる人がまた一人増えそうだぞ。
 外見が残念でなくなったせいも多分にあるだろうが、のりさんといい、薔薇乙女さん達といい、こっちでは人形どもを大事に扱ってくれる人が多い。あっちでは森宮さんくらいだったが──

──そういや、今日は晩飯を食った後でアイツ等に名前を付けてやる手筈になっていたっけか。

 巴ちゃんも夕食を食べて行くのだから、その場でみんなで考えるのも良いかも知れん。
 彼女の帰宅時間がますます遅くなるのが気の毒ではあるが、人形どもはこの子に一緒に考えて貰えれば喜ぶだろう。どんな名前が飛び出て来るにしても、間違っても僕が適当に付けた仇名より酷いってことはあるまい。

 勝手なことを考えつつ、階段を上り始めてふと気付く。間近に着いて来ていたはずの巴ちゃんの足音が聞こえない。
 半ばほどで振り返って見ると、巴ちゃんはまだ一段目に片足を踏み出したままこちらを見上げていた。目が合うと、何度か瞬いて視線を斜め下に逸らす。
 その頬が染まっているのが見て取れた。差し詰めジュン君の後ろ姿に見蕩れてたってところか。
 そそくさとまた前を向き、階段を上る。こっちの顔を見られるのが怖かった。
 どうも嫌な予感がする。秋も半ばだというのに背中を嫌な汗が流れる感覚があった。



[24888] 第三期第六話 風の行方
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bb040eca
Date: 2013/06/27 05:44


 〜〜〜〜〜〜 桜田ジュンの部屋(承前) 〜〜〜〜〜〜


「黒とか銀の戦士は助っ人なのよぉ。美味しいところは貰ってくわぁ」
「いいえ主役は赤なのだわ。これは譲れなくてよ」
「主役ぅ? 聞いて呆れるわぁ。私は天涯孤独の一匹狼。貴女達みたいな雑魚に協力してるのは利害が一致してるからよぉ」
「そう……いいわ。どちらが上か思い知らせてあげなくてはいけないようね、哀れな野良犬」
「ふん、いい度胸じゃなぁい、『血染めの衣を纏いし美しき遵法の狂戦士(ブラッディ・ローフル・バーサーカー)』……! その身を貴女自身の血で染め上げてやるわよぉ」
「能書きは要らないのだわ。かかって来なさい、邪悪の嵐卑劣な力凶鬼の掟暗黒の罠悪魔の野望!」
「あーっはっはっは!」「ほーっほっほっほ!」
「め……面妖な……」「また始めたかしらー」「既に何かになりきってるの」
「なんなんですかあの厨二病な名前。しかも長過ぎですぅ」「っていうか血は出ないよね、人形だし」
「もう片方は名前になってないかしら……」
「あんなのよりばらしーが言ってた名前のがいいのー。あふぅ。なのー」
「アイドルかぁ……えへへ、いいよね。やーりぃっ☆」
「まこと……良きものです……」
「ちんちくりんで穴掘って埋まるのは御免ですぅ! そっちもやり直しを要求するです!」

「……何盛り上がってんだお前等」

 大きなドアを開けると、ジュン君の部屋はえらく賑やかであった。
 どうやら息を殺していてたのは最初の数分だけで、それからは自分達で勝手に名前を考えて騒いでいたらしい。先ほどちらりと考えはしたが、実際に階下まで聞こえてこなかったとは大したものだ。
 完備された防音設備の賜物である……というか、こんな無駄に高機能な家だから快適に引き篭もれてしまうんじゃなかろうか。よく判らんが。
 それはともかく、床一面に散って遊んでいる人形どもに巴ちゃんを引き会わせる。
 ドアを開けた時の喧騒に若干引き気味ではあったが、巴ちゃんはこれといった拒否反応は示さなかった。むしろ、瞳を輝かせたようにも見える。もっとも、残念な姿でなくなっているので当然かもしれない。少なくとも表情の豊かさだけは薔薇乙女さん達に劣らない生きた人形なのである。
 座布団がわりのクッションを出そうとする僕を、いいから、と手で制し、巴ちゃんはジュン君のベッドの端に腰を下ろした。この部屋自体には慣れているようだが、何故か少しばかり慌てた様子にも見える。
 お客に対してクッションを出すというのは、ジュン君が平生やらなかった行動なのかもしれない。確かジュン君の部屋に来たみっちゃん氏は薔薇乙女さん達用の卓袱台を前にしてクッションに座っていたと思ったのだが。
 漫画を斜め読みしただけの知識はアテにならないのである。また翠星石からご指導ご鞭撻を賜ることとしよう。
 座ったと見るや、早速要領の良いうぐいすが寄って行く。巴ちゃんは目を細めると抱き上げて膝の上に乗せ、よしよしと髪の毛を撫でてやった。
 背丈というかスケール自体違うが多分雛苺にもそうしていたんだろう。年の離れた妹にしてやるような、随分慣れた手つきだった。

「本当にそっくりなのね」
「細かいところはあちこち省略されてるし、大きさも別だけど。でも雰囲気はあるかな」
「うん、楽しそうに喋って動いて……よく似てる」
「詳しいことはまだ謎だらけなんだけどさ、作った人の本気度は伝わってくる」
「そうだね……」

 巴ちゃんの視線の先にはツートンがいる。
 そりゃ、意識しないはずがないよな。
 どういう気分なのだろう。自分の手から離れ、ジュン君のミスが原因(とは誰も言ってないが、漫画を斜めに読んだ印象ではそう思えた)で失われてしまった掛け替えのない友人の模倣品を目の当たりにしているというのは。
 僕から見れば漫画の中の出来事であり、この家に集った薔薇乙女さん達にとっては何年も前の記憶になる。しかし巴ちゃんにとって雛苺の喪失はまだほんの数カ月前……日時を詳しく聞いていないが、ひょっとするとここ一月ほどの間に起きたかもしれない事件だ。
 騒いだり泣き出してもおかしくない場面だろう。だが、巴ちゃんはじっとツートンを眺めているだけであった。
 いい子だ。いい子過ぎるくらい。
 ただ、あまりに抑制していて、僕なんぞには殆ど内心が見えて来ない。それが危うさを秘めているようであり、そんな子に嘘をついていることに罪悪感が込み上げてくるのも事実であった。

──もう全部暴露しちまおうか。

 その方が楽ではある。少なくとも僕にとっては。
 だが、それで本当にいいのか? この子にとって、のりさんにとって、いや薔薇乙女さん達にとっても。
 情けない話だが、判らない。
 悪いことに、さっきの一件で自分の判断にますます自信が持てなくなっている。
 必ずしも全て吐き出してしまう方向じゃなかったとはいえ、自分の都合で動き出そうと思っていた。それが巴ちゃんの、想定していなかった視点からの言葉一つで簡単に止められてしまったのである。
 要するに僕の状況判断などその程度でしかないということだ。実に近視眼的なのである。
 今までそれで過ごして来れたのは、殆どの決断が自分自身にしか影響しなかったから、という全く褒められない理由によるものだった。根っからの下っ端なのだ。
 考えてみれば、自分の決断一つでこれほどあちこちを巻き込むことが確定しているのは、あの日店長氏から話を訊くと決めたとき以来かもしれん。
 いや、待て。そもそもあのとき──。

 絡んでくる人形どもにおざなりに対処しつつ、柄にもなく悶々と考えを巡らせる。
 巴ちゃんは人形と遊びながら、時折こちらに物問いたげな視線を向けてきた。だがそんなときもどちらかが曖昧な表情で頷く程度で、会話すら碌にできないまま時間だけが刻々と過ぎて行く。
 やがて階下からのりさんが夕食を知らせにやって来た。お気楽な人形どもが歓声を上げて部屋から飛び出して行き、貴重な機会だったかもしれない巴ちゃんとの時間は、何の成果もないまま終わりを告げたのであった。


 〜〜〜〜〜〜 第六話 風の行方 〜〜〜〜〜〜


 悪化の一途を辿りつつある僕の心境とは裏腹に、夕食の時間は賑やか、かつ和やかに過ぎた。
 巴ちゃんは終始にこやかだったものの、殆ど静かに笑っていたり相槌を打ったりする程度で自分からはさほど話すことはなかった。ついでに言えば、僕の方を見ることはあまりなかったし、僕自身積極的に会話をリードするような場面もなかった。

 テンションが高かったのは周囲の女性陣であった。
 全体的に言葉が多くなったのは、人形どもの名前を決める件を持ち出したからかも知れない。
 のりさんは行儀悪く食い散らかしている人形どもを撫でたり汚れた顔を拭いてやったりしつつ、あれこれと名前の候補を考えてくれた。薔薇乙女さん達も、特に金糸雀はこういう案件が好きなのか、思い付いた名前をぽんぽんと出してくれた。
 それぞれ好みが分かれるだけに、当然のようにダメ出しも(身の程知らずにも人形どもからのダメ出しも含め)多かったが、その分口数が増えて賑やかになったのは間違いない。
 ただ、何処か安心感を伴った朗らかな空気は、上っ面の話題にはあまり関係がないように見えた。
 翠星石はいつになく子供っぽく破目を外していた。空元気には見えない──いや、かつてはこっちの方が普通だったのかも知れん。
 勢い余って失敗したことを自覚して、逆に一つ重石が取れたような心境なのか。いや、半分自棄になってるだけかもしれん。
 どちらにしても腰を据えて重たい話ができるのは部屋に引き上げてからになりそうだ。こっちにしてみればボスに訴えたい話は山ほどある訳だが、まさかのりさんと巴ちゃんの前でする訳にはいかない。
 ともあれ、桜田家のムードメーカーであるところの(はずの)翠星石は、彼女の本分に相応しく振舞ってみせていた。周囲も──いや、あからさまに言ってしまえばのりさんなのだが、あの影のような何かをその表情から消して屈託なく笑っていた。

 二人とも、僕がこっちに来てから終始どんよりとしていた訳ではない。
 むしろ、こうしているところと平生ののりさんを比較すると、彼女は頑張って明るく振舞っていたのだなあとは思う。逆に言えば消沈した姿を見せまいと無理に繕っていたことは否めなかった。
 それが旧態に復したのは、翠星石の振舞いもさることながら、巴ちゃんという存在が現れたことが大きかったのだろう。
 のりさんにしてみれば、彼女もまた二週間ばかり前にばらばらにされてしまった「楽しい日常」のピースの一つなのだ。全てとは行かないまでも、その一片が戻って来たことで多少ならず気分が上向いたようだった。
 但し、いつまで続くかは判らない。ほんのひとときだけの楽しい時間が過ぎたら、また影のある優しいお姉さんに戻ってしまうことも充分あり得る。

 盛り上がる女性陣の中で、美味い食事を素直に美味いとも言えず、傍目にはいかにもジュン君らしく見えそうな仏頂面をしながら、僕はどうにも遣り切れない思いを胸中に燻らせていた。
 夕食前まで悶々と悩んでいた件ではない。新たな──但し、密接に関連しているかもしれないことだ。
 のりさんの「楽しい日常」は、「楽しかった日常」になってしまい、もう二度と戻って来ないのではあるまいか。いや、既にそうなりつつある。
 仮にジュン君が僕と首尾良く再び入れ替わり、その過程でキラキーさんの手から皆さんを救い出し、翠星石共々この家に戻って来れたとしても──

  ──このローザミスティカは彼女から借り受けているもので、僕の所有物ではないんだ。
  ──君が漫画で読んだ印象よりもずっと、彼女は真面目で……そう、頑固なんだ。

 多分、水銀燈はキラキーさんのところからめぐさんを救出するために蒼星石の手を借りようとするか、もっと即物的にローザミスティカを召し上げるだろう。
 それが首尾良く行けば──次は……
 二人とも、元々この家の住民ではない。だが、蒼星石のローザミスティカが水銀燈に渡ることは、嫌が応でも他の薔薇乙女さん達の立場と行動に変化を齎す。
 有体に言えば、キラキーさんの登場以来有耶無耶になってしまったアリスゲームの再開と終結である。
 その結果どうなるかは僕なんぞの理解を超えている。しかし少なくとも以前のように薔薇乙女さん達がこの家で暮らすことは有り得まい。
 逆に言えば、のりさんの屈託ない笑顔が戻るためには、アリスゲームが不発に終わり、尚且つジュン君以下の人々が以前のようにこの世界に帰還する必要がある訳だ。

──真紅のプランが上手く行けば、ってところか。

 付き合いが僅か数分に過ぎない僕には、頭の回転の速さも思慮深さも薔薇乙女さんの中で一、二を争う(と、キラキーさんでさえ看做していた)はずの彼女の計画の内容など考えも及ばない。だが、全員揃ってゲームを終わらせるという彼女の目的は、のりさんが望むものでもあるはずだ。
 彼女のプランの実現には他の姉妹との協力が不可欠と言えるだろう。それにはまず真紅の消息を掴み、健在なら合流して協力し、囚われの身なら解放せねばならん訳か。
 そこまでは判る。
 だが、具体的にどうやったものか。そも、果たして僕が助力できる事柄なのか。そこら辺については、どれだけ考えてもおつむの足りないパンピーでしかない僕にはまるきり判らない。

 実のところ、最初は悶々と考えていた案件から気を逸らすために考え始めたことなのだが、こっちも壁に突き当たってしまった。
 どっちを向いても行き止まり。八方塞がりとはこのことだ。
 取り敢えずこの件はここで御手上げである。なんせ、この件では自分に何ができるかを全く把握していないのだ。

 やれやれと息をつき、既に食卓を離れてソファの方に移動した女性陣と人形どもを見遣る。
 ひととおり名前候補は出揃ったようで、一体一体をテレビ台の前に立たせてはどの名前が良いか協議しているらしい。何やら品評会とか人形のお披露目のような雰囲気である。
 また随分大仰なことをするじゃねーか、とは思うが、まあいいか。のりさんと巴ちゃんも乗り気で参加していることだし、形だけでも華やかにするのが大事なのだろう。
 なにより当の人形どもが実に嬉しげである。まあ、それは人間達が楽しんでいるからだ、人形とはそういうものなのである、と赤いのなら力説するところだろうが。
 結局誰でもいいんだよな。僕に限らず、可愛がってくれる人が居ればそれで。
 ちらりとジュン君の本棚に目を遣る。彼の神経質さを示すように綺麗に片付いているそこには、海外のお土産と思しい人形が何体か鎮座していた。
 あの人形達はどうなんだろう。元残念人形ズと同じく、あまり個人への帰属意識みたいなもんはないんだろうか、などとぼんやり思っていると、蒼星石がそっと輪を抜け出してこちらに寄って来た。
 なんとなく隣の高椅子を引き、どうぞと示す。蒼星石はこれはこれはと帽子を脱いで慇懃に一礼し、身軽によじ登った。

「──浮かない顔だね」
「ったりめーだろ」
「はは……ああなるとは思わなかったよ、僕も」
「はいはいそりゃどーも。暴走して悪うござんしたね」
「君を責めてる訳じゃないさ。ただ、あの展開は意外だった……翠星石の言葉も含めてね」
「そうかいそうかい」
「大分御機嫌斜めなんだね」
「何にも指示くれなかったせいで、どっちへ話を持ってったらいいかまるきり判らないまま話してたんだぜ。こっちがバカだからいかんのは承知してるが、見事な放置っぷりに少しは腹も立つさ」
「……そう」

 声を潜め、ぼそぼそとまるきり色気のない言葉を交わす。可愛い系の美少年……と多分言っていいだろう、おまけに将来イケメンになることが約束されている少年と美しい生きたドールがしているとは思えない、実に陰気臭い会話である。
 蒼星石はひとつ溜息をつき、そうだね、ともう一度呟いた。

「僕達は……いや、僕は単純過ぎるんだろうね。だから翠星石の想いも、君の当惑も想定できなかった」
「単純だとは到底思えんが、こっちが方針無しで悩むと思わなかったのは解せんな。これでも巴ちゃんに洗い浚い話すかどうか無い知恵絞ったり、なけなしの良心と戦ったりしてたんだぞ」
「ごめんよ。僕には当然のように答えがあった。だから、みんなも同じ答えを持っているものだと思っていたんだ」
「ほぉ。で、そいつは巴ちゃんに包み隠さず話す件なのか、翠星石が言い出した登校の件についてなのか、どっちなんだ」
「どちらも、になるかな。それが誰にとっても自明な最適解だと思い込んでいたから、君達の挙動を予想もしていなかった」
「最適解ねえ。どうすりゃ良かったんだ、こっちは」

 あくまで個人の見解として聞いて欲しい、と蒼星石は念を押すように言う。
 僕等が全く別の(多分に頓珍漢な)答えを提示したことで、その最適解と信じていた案に自信が持てなくなってきたらしい。さっき玉虫色っぽい発言で終わったのもそのせいか。
 そいつで構わんから是非聞かせてくれ、と僕は蒼星石の顔を覗き込んだ。
 やたら真剣な表情をしてみせたのは、もちろん笑わせようとしてやってる訳じゃない。
 既に後知恵になりかけだが、僕にとっては散々悩んだ案件に関する初めてのヒントなのである。ボスたる翠星石本人の意見でなくとも、大いに参考にできることに変わりはない。
 現金な僕に苦笑しながら、蒼星石は顔に掛かる前髪を掻き上げて前を向いた。

「僕にとっては、マスターの意思と安全が最優先なんだ。ジュン君の決めたことに従うし、彼の思いは叶えてあげたい。それは変わらない」
「さっき言ってたとおりか」
「nのフィールドに入る前……いや、囚われる前の彼は復学に向けて前向きだった。あんな形で妨害が入ってしまったけど、登校を再開すると決めていたのは確実だ。本人から──森宮アツシ君から直接聞いたことがあるから。だから、ここで君が演技を続けるつもりなら、そのための準備をしている形を作っておくのは自然な流れだよ」
「大嘘こいといて自然とか、矛盾もいいところだが……まぁ、ジュン君ならそうなるのか。そっちの見立てでも」
「うん。彼にはアリスゲーム以外に大切なものがあった。マエストロの才能を発揮するよりも、いち学生としての日常を選ぼうとしていた」
「この状況に置かれても変わらないもんかね? 自分が契約した愛しの薔薇乙女さんを一体潰されたままで、更にもう一体行方不明なんだぜ。むしろ僕みたいにゴロゴロしてる暇もなく、みんな連れて探しに行くんじゃねーのか」
「可能性はあるね。ただ、どちらも同様に確からしい、としか言えない。確実に彼が表明していたと言えるのは、こんなことになる前の、復学したいという意思だけだ」
「確実な情報の中では最新のものを元にして、ってやつかい。ただの前動続行って気もするが」
「間違ってないよ、そういうことになる。ただ、帰還したら復学していた、というのも彼にはハードルが高過ぎる──あちらの世界でも、特に理由もなく中学に通えなくなったほどだ。だから、君にやって欲しかったのは、あくまで彼と同じように図書館に通って勉強して貰うことだった」
「図書館か。外出許可は嬉しい限りだが、ここの図書館なんて入ったこともないぞ。何が何処にある、どころか肝心の場所さえ知らないんだぜ」
「位置や道順は追々覚えればいい。施設や利用方法なんて図書館によってそんなに変わるものでもないし……ただ、細かいことは柏葉さんに色々と教えて貰うしかないだろうね、事前に尋ねたり、その場で指示を受けたりして」
「ふむ……っておい待て。それって巴ちゃんに丸バレになっちまうのが前提じゃねーか」
「翠星石の目の届かないところに君と彼女が居れば、いくら秘密を守ろうとしても早晩破れてしまうのは必定だ。そうなってから慌てるより、彼女には早い内に事実を告げておく方が良い。今日、向こうから来てくれたのは都合がいいと思っていたんだ」
「……なるへそ」

 蒼星石も僕と同じ懸念を持っているようだ。ボロを出すのが確定事項だとバッサリ言われてしまったのは悔しいが、ボロを出さずに頑張れと言われてできるものでもない。
 理詰めで押している気配はあるが、蒼星石の言うことは確かに無難な線だ。戻って来てからのジュン君にとって。
 知らない内にいきなり学校に通い始めてましたとか、逆にぱったり図書館通いも停止して(既に大分サボっている形ではあるが)完全引きこもりに逆戻りと相成っておりました、という形よりは、取り敢えず進展なしの状態を保っていた方が楽だ。彼にとっては。
 そういや蒼星石が言ったとおり、確かにジュン君は向こうの世界でもヒッキーであった。彼の中では合計何年経った扱いなのか判らんが、未だにトラウマを引き摺っているのなら尚更、元に近い状況に保っておくのが良いだろう。

──ジュン君にとって、か。

 そうか、とちくりと良心の欠片のようなものが胸を刺す。
 さっきの蒼星石の発言は意味もなく発せられたものではなかった。
 言葉に中身がなかった訳でもないし、翠星石が黙ったのも単に水を差されて頭を冷やしたからではなかったのだろう。単に、こちらにその視点が欠けていたからそう見えていただけの話だ。
 最初から、僕は入れ替わった後の「ジュン君の」ことをまともに考えていなかった。
 学校に行くことも、外出して不慮の出来事に遭遇するのも、はたまた巴ちゃんと親しく話し込むということも、全てバレるかどうか、バレてしまうなら忌避するかこっちからバラしてしまうかどうか、という問題としか捉えていなかった。その一点だけで頭を悩ませていた訳だ。
 僕が行動をした結果、いずれ僕の意識と入れ替わる形で元に戻ったジュン君がどう思うか、どう折り合いを付けてその後を過ごさねばならんか、といった部分はろくすっぽ頭になかった。身体を鍛えておくだの何だのについては一応気にしていたのに。
 改めて考えれば、他人様の前で僕がやったことは全てジュン君の行動としてカウントされてしまう。
 そのとき不審がられたり迷惑を掛けるといったことは勿論、なにがしか印象に残る行為があれば、彼のしたこととして記憶されるという形になる。大袈裟に言えば戸外に出るだけでも慎重にならざるを得ない。
 翠星石がそこまで考えていたかは判らんが、蒼星石は見越していたから当面の外出禁止に反対しなかったのだろう。対して、僕の関心は──冷静になったといっても、結局目先のことに終始していることに変わりはなかった訳だ。ちぇっ。

「……やっぱ、色々足りないよなぁ。僕ぁ」
「視点が違っているだけさ。僕には逆に、君がどんな思いでいるかが判らなかった」

 蒼星石は苦笑して、みんな同じ考えなんて有り得ないのに、と自嘲気味に呟いた。
 よせやい。そんな顔は見たくないぞ。中学の時からの僕の悪友は、そんな寂しそうな顔をする奴じゃなかった。
 視線を前に向けて黙っていると、蒼星石も前に向き直る気配があった。湿っぽさのない口調で続ける。

「君は不幸にも巻き添えになった外部の人だ。当然現状を迷惑がっているだけだろうと考えていた」
「概ね当たってる」
「あはは……でもそれだけじゃないよね」
「そりゃあ悪いばかりとは言えん。ハーレム状態っつーか、美人さん達に囲まれて上膳据膳だからな。怪奇残念人形ズに囲まれた一人暮らしと比べたら天と地の差ってやつだぜ」
「いや、そういうことじゃなくて……君は確かにジュン君に配慮していなかったかもしれない。でも、目の前に居る僕達のことは考えてくれている。それを、さっき初めて理解できたような気がしたのさ」
「こちとらド近眼だからな。いつも目の前のことだけで手一杯だし、一番可愛いのはテメーでございますよ、どーせ」
「卑下しなくていいよ。近視眼的だったのは僕の方だ」
「どの辺だよ。僕なんかよりゃずっと先まで考えてるじゃねーか」
「自分とマスターしか見えていなかったのさ。君の意思も、柏葉さんの想いも考えず、ただ漫然とマスターにとって良かれと思う方法を最適解だと信じ込んでいただけのことだよ。それどころか、みんな同じ解に至っているとさえ思っていたんだ」
「まあ、前もって意見交換しなかったことは褒められんな。そこはみんな同じだが」
「確認しなかったのは、君達を手駒のような感覚で考えていたからだと思う。言い付ければそのとおりに動いてくれるって。酷い思い上がりさ」

 卑下してんのはどっちなんだか。湿っぽさがなくなった分、さっきより自分を突き放してぶっ叩いてるようにさえ聞こえるぜ。
 自分とマスターしか、とは言うが、蒼星石にとっちゃ自分と契約してるジュン君は絶対に近い存在のはずだ。
 よく知らない水銀燈のことを引き合いに出すまでもない。金糸雀が毎日主のいないマンションと意識のないみっちゃん氏の入院先を往復しているのと同じようなもので、万事そっちが優先で当然である。
 しかも、彼はただのマスターじゃない。マエストロさんであり、この厄介な状況を含めた一切合切の鍵を握っているのも確実だ。彼のために僕なり巴ちゃんなりを動かそうとしたところで罰は当たるまい。
 そもそも、双子の庭師の能力ってやつは人間を操るのにぴったりなのだ。片方が大事な記憶を刈り取り、もう片方が要らんことを思い出させる。
 よりによってジュン君の身体に宿ってしまった僕としては、その剣呑な技を駆使して強制的に操られなかっただけでも御の字と言わねばなるまい。
 いやまあ、仮に操作されていたとしてもこっちは気付けないんだろうが、それを言い始めたらキリがない。

「ともかく、蒼星石の見方は参考になった。ありがとな」
「ごめん。もっと早くに伝えておけば良かったよ」
「こっちこそお粗末様で──ってそれはもういいや。この話は止めようぜ。二人でコソコソ反省会しても始まらん」
「そうだね……」

 巴ちゃんは目と鼻の先に居る。未だ一応我がボスであるところの翠星石も居る。全て終わった後ならともかく、未だ今後の方針は変更も協議も可能だ。
 ちなみに、巴ちゃんに事実を伝えるならなるべく早く──できればこの場で打ち明け、彼女も含めて協議をした方がいい。
 だが残念なことに、僕も蒼星石も相手の気分を理解はしていたが、肝心の自分達の表明したどちらの案にも自信が持てなかった。
 蒼星石と同列の人物はあと二人いる。その二人の案を聞くために協議するのだから、この場で先に巴ちゃんに事実を伝えてしまう訳には行かない。あくまで彼女を巻き込まない方が良いという案が有効かもしれないからだ。
 何やら本末転倒というか、大いにモヤモヤするのだが、腹案に自信がないときというのはこんなもんである。

「取り敢えず、今は命名式に参加するとしようぜ。謀議はその後にするしかなさそうだ」
「了解」

 どっこいしょ、と如何にも大儀そうに腰を上げる。翠星石によれば、これもジュン君らしい仕種であるらしい。
 何人と何体かがこちらに頭を巡らす。ガキの癖にじじ臭いですぅ、と小さなキンキン声がして、遠慮のない笑いが起きた。むむ、巴ちゃんまで笑っとるではないか。後できつく仕置くから覚悟しておれ、お貞よ。
 憮然とした僕の顔が面白かったのか、蒼星石はにやりと笑って椅子を降りる。僕は腕を組んでやれやれといった体を作り、蒼星石と並んで黄色い喧騒の輪に加わった。


 品評会、もとい命名式は粗方終わっていた。蒼星石と話していた時間がそれなりに長かったということだろう。
 のりさんは少しばかり優柔不断というか、優し過ぎて自分の意見が通せないことが多いし、巴ちゃんはあまり口数が多い方ではない。だから専ら金糸雀と翠星石の二人の案が採用されているものと思っていたが、実際にはそれほど極端に偏ってはいなかった。
 意外というか、むしろ当然の成り行きというか、唯一名付け残っていたのはお貞であった。散々ああでもないこうでもないと文句を付け、折角考えてもらった名前に納得しなかったらしい。
 人形のくせに生意気もいいところであるが、それを許してしまう皆さんも優しいというか何と言うか。ちょっと外見が良いからといって甘やかすのはどうかと、元々の姿と振舞いを熟知している僕は思うのであるが。
 名前候補は数種あったのだが、どれを挙げても本人形が駄々を捏ねるので取り敢えず二つに絞った、とのりさんは少々困り顔で教えてくれた。なんだ、それなら。

「後は多数決で決めればいいんじゃないか」
「でもぅ、人数が……」
「ああ……確かに」

 元々四人、そこに僕と蒼星石を入れて六人。大方二つに絞ったというのも二人ずつに意見が割れたのだろう、と予想していたらそのとおりだった。
 困ったことに、並べて書かれた名前を見た僕と蒼星石の意見も分かれた。
 可愛い花をつける草の名前と元気そうな名前で、僕としては平生のお貞の立居振舞からして後者が良いと思うのだが、蒼星石は双子の姉のイミテーションという部分がどうしても先に立つのか、植物の名である前者を推した。
 蒼星石に先に言わせて同調すれば良かった、と思ったが後の祭り。相手が僕でなくジュン君なら蒼星石の方で同意したのではないか、などと勘繰るのは野暮というもの。ともかくこれで多数決は失敗した訳である。

 暫しの沈黙の後、本人に決めさせてはどうか、と困った表情のまま案を出してくれたのはのりさんだった。
 やや遠慮がちな提案ではあったが、巴ちゃん以外の全員が顔を見合わせ、誰からとはなしに窓の方に目を遣って頷きあったのは、言外に含ませた意味に気付いたからである。
 窓から見える青く澄んでいたはずの秋の空は既に闇に包まれていた。お誂え向きに月まで出ている。夕食を食べた後にまだ騒いでいたのだから致し方ない。
 夕食をご馳走することが前提だったとはいえ、これだけ長い時間巴ちゃんを拘束しただけでも褒められた話ではなかった。
 しかも普段であればともかく、テスト前という話である。真面目な彼女が普段ならどう過ごす予定だったか、のりさんのみならず僕等全員見当がついた。なにせ、つい先日まで現役の高校生だった身なのだから。

「……それがいいかしら。今ここでってのも何だから、明日の朝までに考えといて貰うってことでどうかしら」
「そうだね。賛成するよ」
「良い案じゃないですか。のりにしては冴えてますよ」
「ありがとぅ、冴えてるなんて……いつもボケてるって言われてるからお姉ちゃん嬉しいわー」
「いつもって……そうだったの翠星石? ちょっと酷いかしら」
「そ、そりゃちょっとは思ったりすることもありますけど、そんな常日頃から口に出してる訳じゃないですからね?」
「翠星石ちゃあん……」
「ははは……」
「ま、まあいいや。本人形に異論がなけりゃ、それで行こうぜ」
「いいのかな、さっきはどっちも嫌だって言ってたけど……」
「うー」

 巴ちゃんに心配そうな視線を向けられ、当のお貞は当然のように不満顔を返す。そりゃ、気に食わん名前二つの内から一つを選べと言われたら嫌な顔もしたくはなるだろう。
 だが、このままコイツの我儘を聞いていたのではいつまで経っても終わらない。気に入ったかどうかは別として提示された名前を受け容れた他の連中との兼ね合いというものもある。
 お貞が何か抗議を始める前に、じゃあこの場はお開きにしよう、と宣言して僕は腰を上げた。他の皆さんも大体のところを察してくれたのだろう、輪を解いてそれぞれ立ち上がる。
 いつもながら薄情なもので、人形どももお気に入りの人にまとわりついてめいめい席を立つ。口を尖らせているお貞をその場に残して命名式は解散と相成った。
 悪く思うなよお貞。巴ちゃんを送り出して今後の協議を終えた後はお前の我儘を聞いてやるから。
 与えられた名前がどうしても嫌だと言い張るなら、秋の夜長をお前の名前探しに付き合ってやってもいい。他の連中のことも考えたら、ゴネ得みたいであまり宜しくはないけどな。


 巴ちゃんにまとわりつく人形どもにまた今度にしろと言い含め、門のところまで送るよと言って僕は先に玄関を出た。
 初秋の候とはいえ、日が落ちれば風は冷たい。もっともほんの暫く前までは春未だ遠い季節に身を置いていた訳だが、現金なものでこの過しやすい季節にリズムが合ってしまっている。
 靴を履く彼女を扉の外で待ちながら、そういえば家の外に出ること自体初めてだな、と気付く。
 拙かったかもしれん。蒼星石の意見を聞いて安心してしまったのか、つい僕自身のような調子で見送りを申し出てしまった。
 皆さん妙な顔をしなかったのだから、ジュン君としても酷くおかしな行動には見えなかったのだろう……と思いたい。
 ほう、と息を吐いてみる。まだまだ白く見える時期ではなかった。
 空に視線を転じると、月は煌々と輝いていた。夜道を歩くのにもさほど不自由のなさそうな按配だが、生憎と街の中は街灯やら車のライトその他諸々の光の方が強い。結構なことであるが、風情のない話でもある。

 その人工的な光が、慣れ親しんだ街のそれよりもずっと強い気がするのは気のせいではない。
 世界が違う、だけじゃない。単純に地理的にも、ここは僕の生まれた街とはずっと離れた首都圏の一角だった。
 あの街は、この玄関から見てどの方向にあるんだろう。確か北がこっちだから……とやっていると、ドアの開く音がして地面が明るくなった。
 人形どもとのりさんの賑やかな挨拶が聞こえ、ドアの閉まる音と共にその音と光が止む。これまであまり意識したことはなかったが、まるでテレビの場面が変わった時のような見事な変化だ。
 これも防音の効果ってことか。懐かしの我が家などとはえらい違いである、などと当たり前のことを考えていると、巴ちゃんは怪訝そうな顔でこちらを見た。

「──どうしたの」
「……ああ、ごめん。いろいろ考えてた」
「そう……」

 視線を外して斜め下を見る。薄暗い中でも憂いの表情が見て取れた。
 どうしたんだ、とこっちが言ってやりたい姿だった。先程まで見せていた、陽気とは言えないまでもほんのりとした明るさが、その小柄な体から消えている。
 まさかこの短い問答が原因で消沈した訳ではあるまい。人形と遊んだのが気晴らしになっていたんだろうな、と容易に見当がつく。
 自分の周囲を人形で埋め尽くしていないと満足できなかったり、逆に失うもののない状態まで閉じ籠ったりしていなくても、彼女もまた寂しさを抱えたローゼンメイデンのマスターの一人ではあるのだ。あの場でツートンを見て涙を流したり悄気たりしなかっただけ、まだ前向きな方なのかもしれない。

 本日何度目かの、気詰りな沈黙が舞い降りて来そうな気配が流れた。
 巴ちゃんは棒立ちでやや斜め下を向いた姿勢のまま固まっている。何か言いたいけれども言えないのか、それとも内心で寂しさが落ち着くのを待っているだけなのか。
 どっちにしろ、こちらから行動を起こさなければ、彼女は自分自身に苛立ったりせず、納得の行くまでこのままじっと佇んでいられるのだろう。今日見た限りでは、彼女はそういう人物だった。
 他動的じゃないんだが、あまり自分の意見を主張しない。自分のことを軽く考えているというのともまた少し違う。

──ああ、そうか。

 なんとなく、妙なところで僕は納得してしまった。
 実は、彼女はちょっとだけ──いや、ジュン君だのめぐさんだのといった他の契約者の人々同様、かなり面倒臭い人物なのかも知れぬ。
 決して受け身でいるばかりではないのだが、積極的に行動に出ることに恐怖を覚えているのだろう。
 頭が良過ぎて、先が幾つも見えてしまうのかもしれない。自分の言動が原因で何かを壊してしまう可能性まで見えてしまい、それを恐れている。
 だから口数も少なくなる。頼まれごとを断れなかったり、一見単に従順にも見える行動も多くなってしまう。いつも静かに微笑む程度で、素の自分を出せるのは気を許せる僅かな相手の前だけ。
 生来の愚鈍さ故に役どころが絡むと先のことが見えず、何をしたらいいのか判らなくなっている現在の僕とは対極というか、なんというか。
 まぁこちらの話は置くとして、今の彼女は何か切っ掛けが欲しいのだ。自分の中で踏ん切りが付けば話し出すだろう。
 ただ、その前にこちらから言葉を掛けてしまうと、自分の都合など簡単に放棄してしまう。言いたかったことを無造作に心の中に仕舞い込んで、ちょっと黙っていただけだからと誤魔化してしまうはずだ。

 ちぇっ。
 周囲の都合に自分を上手く合わせられる、自制が利き過ぎるほど利いた良い子なのは間違いない。間違いないが、こんなタイプは初めてだぞ。少なくとも、僕のつるんでた(現在進行形でつるんでる奴もその中に当然入る)我の強い連中とは正反対に近い子である。
 若干似てる部分のある人物もいたが、それは……。まあ、止めとこう。

 暫く待っていると、巴ちゃんは顔を上げてこちらを振り返った。

「桜田君」
「……ん」
「思ったの」
「うん」
「変わったね、桜田君……他の人になっちゃったみたい」

 ありゃあ、と間抜けな台詞が出そうになって、慌てて飲み込む。
 やはりバレていたのか、という思いの衝撃度は意外なほど小さなものだった。むしろ、気抜けしたような感情の方が大きい。ここまで何やら色々と考えていたのが馬鹿らしいとさえ思った。
 まあ、そりゃそうだろう。
 口調や立居振舞を似せているといっても、所詮は学芸会の寸劇レベル。もうひとつ言えば、元々意識して似せなければたちどころに他人だと判るほど懸け離れているのである。
 バレない方がおかしいのだ。いくら外見が変わっていなくても、中身は元々の彼のことをろくすっぽ知りもしない赤の他人様なのだから。
 そして、違和感あるいは疑念を抱いているのは巴ちゃんだけではないだろう。高々数時間一緒に過ごしただけの彼女が気付くのだから、接触時間を短くしているとはいえ、何日も同居しているのりさんが違和感を持たないはずはない。
 躊躇いがちな彼女の次の台詞も、それを肯定するものだった。

「のりさんが言ってた。
 桜田君、帰って来てからすごく優しくなったって。雛苺や真紅が居なくなって変わったのもあるかもしれないけど、のりさんにいつも気を遣ってるみたいで、桜田君らしくないって……。
 翠星石や金糸雀も落ち着いて、大人になったみたいだけど、それよりずっと……二人と比べると桜田君だけ、本当に変わっちゃったみたい……って。
 ……私も、そう思ったの。今日。
 最初は私の知ってる桜田君で間違いないって思ってたのに、少しずつ……」

 そうか。薄々バレてたのか、のりさんには。
 まあ、所詮一人っ子の僕には判らん距離感だったのかも知れん。
 憎まれ口も叩くし無意識に甘えもする、そんな引籠りの弟を僕は演じられていなかった。優しいのりさんはそれに気付いていたが、僕等や翠星石達の前では口に出せなかったのだろう。多分、怖くて。
 のりさんからは数日前に話を聞いていたのだ、と巴ちゃんはまた視線をずらした。目を見て話をするのが苦手なのか、それともジュン君の顔を見ると判断が鈍るからだろうか。

「今日来たのは……今日まで来れなかったのは、怖かったんだと思う。変わっちゃった桜田君を……自分の目で見るのが」
「……そっか」
「……桜田君、なの?」

 そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。……なーんて言えたら、恰好いいんだけどね。
 残念ながら僕には洒落た言葉も、店長氏改め巻かなかったジュン君のような最低限の恰好付けも無理なようだ。いざとなると、これまでの努力が水の泡ですと零す翠星石の顔やら、やっぱりそうだったのねと哀しげに歪むのりさんの顔、そして目の前に居る巴ちゃんの落胆した表情なんかが頭の中で渦を巻く。
 しかし、ここまで来て白を切り通すだけの才覚や突っ張りの強さも、情けないが僕にはなかった。それどころか、現金なもので向こうから問い掛けてくれたことに安堵すらしている。
 ただ、次の一言は口にするのにちょっとばかし躊躇いがないでもなかった。

「僕は、桜田ジュン君じゃない」

 言ってみると、違和感が残るなどと呑気なことを考えている場合じゃない空気になったのが判った。
 薄明かりの中でも、巴ちゃんが身体を強張らせるのが見える。声にならない悲鳴ってのが本当にあるなら、彼女は叫んでいたのかもしれない。
 ごめんな、翠星石。巴ちゃんも。蒼星石が言ったとおりってやつだ。
 僕がもうちょい芸達者か、もう少し皆さんのことに詳しければ、欺きとおせたかもしれない。あるいは、比類なき鉄面皮だったなら。
 残念なことに、既に繰り言でしかないけれども。
 いずれ翠星石本人に言わねばならん謝罪は置いておくことにしよう。何も言えないで居る巴ちゃんに、ある程度は説明をしなければこの場が保たない。

「ジュン君がnのフィールドに入ってからの経緯はえらくこんがらがってる。行って帰って来た、じゃないんだ」
「どんなことが……?」
「なんつーかいろいろあるんだけど……手短に言うと、この身体はジュン君本人のもので、中に入ってる魂だけが別物ってことになる」
「誰がそんなことを……桜田君、の魂は……?」
「今んとこ、僕達には判らない。ただ、やらかしてくれたのは前後の経緯から見て雪華綺晶で間違いないだろうな。ふざけた話だけど、あちらさんにはあちらさんの事情ってやつがあるんだろう」
「どうして……なんで」
「ごめん、それも判らない。漸くこれから手を着けるところなんだ。これまでは……まぁ僕は置いとくとして、翠星石達みんなこの状況に慣れるのに精一杯だったから」

 マスターが囚われの身で桜田家に居候中の金糸雀はともかく、双子の庭師の方は現状に馴染むのに手一杯だったとは言い切れないのだが、一応そう言っておく。
 少なくとも三人ともサボタージュ活動をしていた訳ではない。むしろ、めいめいに解決を模索していた。その初動がここまで遅れまくっているのは(今ひとつお互いに協力して何かをしようという姿勢が見受けられないのも原因だが)、状況を把握しきれていないせいであることは間違いない。
 皮肉なことに、今晩以降少しは活動が活発になるだろう。
 巴ちゃんの訪問というイベント(というか巴ちゃんというファクターそのもの)は、のりさんに対してのそれとは全く別の形で、薔薇乙女さん達にも刺激を与えたはずだ。
 僕達の失態があったからとはいえ、少なくとも蒼星石が自分の考えを整理する切っ掛けにはなったのである。翠星石も──まあ、自分の突っ走ってしまった部分を振り返るだけの余裕があればという仮定の上の話になるが、巴ちゃんとの問答の中で思うところはあっただろう。
 金糸雀については判らない。どうも彼女は表に出さずに、本当に独りで何か行動を起こそうとしているような気がする。だが、彼女にしても流れが変わりかけていることは気付いたに違いない。
 この後、翠星石とは今後のことをじっくり打ち合わせねばならんが、できればその場で薔薇乙女さん達全員が腹を割って話し合えればいいと思う。たとえ、僕等全員の行動が全てキラキーさんに筒抜けであったとしても。

 翻って僕はといえば──巴ちゃんの言葉と蒼星石の話で、漫然と燻らせていたものが漸くはっきりしてきたような気がする。
 僕自身の日常を取り戻すという欲求は、どうも最初漠然と考えていたほど強くはない。
 自分で言うのも何だが、これはちょっと妙な話だ。自分の身体が一体何処でどうなっているのか見当もつかない上、意識がいきなり放り込まれた先が物語の(それも散々嫌っていた話の)主人公ときたものである。こんな状態から一刻も早く元に戻りたいと考えるのが当然だ。
 まあそうならない理由はなんとなく判ってる。それもあって、僕はどうすべきかの判断を先送りにし、翠星石に全てお任せ状態で過ごして来たのかもしれない。
 但し、自分の決定が他人に影響するのを無闇に怖がっていたことの原因までそこに転嫁するのは止めておこう。それは僕のチキンハート故のことであって、別の何かに託けるべきじゃない。

 巴ちゃんは佇んだまま、ぽつりぽつりと幾つか質問を投げてきた。中には判らないと答えるしかないものもあり、その度にテンションが落ちて行くのが見て取れたが、彼女は泣き喚くことも拒否することもせずに受け止めた。
 意地の悪い見方をすれば、彼女にしてみれば予想していた中の一つ(但し、多分最悪の)だったのかもしれない。もっとも、そうだとしても少なくとも初見ではジュン君だと思ってしまった訳であり、落胆したことに変わりはあるまい。
 そんなことを考えつつ、判っていることについては説明が煩雑にならない程度に返答した。答えた質問の中にも彼女が理解できなかったものはあるのだろうが、その辺は致し方ない。所詮は僕なのである。
 別れ際に、彼女は大きな月を見上げて言った。

「桜田君、元気にしてるのかな。それとも、また前みたいに……」
「それはないと思う」
「……判らない、って言わないんだ」
「ああ、まあそりゃねえ。もう充分過ぎるくらい引き籠ったはずだから、ジュン君は」
「そう……?」
「うん。何やってるかまでは知らないけど」
「じゃあ、もし戻ったら……」
「会えるよ。この家だけじなく、学校で」
「……うん」

 最後に消え入りそうな声になったのは、自信がなくなったからじゃないだろう。空を見上げた横顔が少し赤いように見えたのも、見間違いじゃあるまい。
 先程(多分その時点では僕をジュン君本人だと思っていて)つい口にしてしまった言葉。それに言わずもがなの想いを乗せてしまったことに恥ずかしさを感じているのだ。
 僕も相当な鈍感ではあるが、先程階段を上るとき彼女に見蕩れられていたことに照れてしまうようなら鈍さを通り越して阿呆だろう。
 彼女の目の前に居るのは僕だったが、彼女が見ているのは僕ではなかった。要するに、そういうことなのである。
 やっぱり良い子だな、この子は。間違いなくジュン君に惚れているのに、その気持ちをどうにか抑え込もうとしている。

──翠星石、こいつはアリスゲームとはまた別の、大変な難関になりそうだぜ。

 まあ、本人もそれは判っているはずだ。ライヴァルいっぱいで結構な話ではある。

 角を曲がって行く小さな背中を見送って、玄関をくぐる。
 何気なく送り出そうとしたことが予期しない大事に繋がってしまったが、時間は大して過ぎていなかった。多分、別れるまで二十分と話していなかっただろう。
 逆に言えば、大した内容を伝えられた訳ではないということになる。明日以降、元気を奮ってまたおいで頂けることを願うばかりだ。
 大分冷えていたらしい。ぶるっと一震えして居間の前を通り過ぎると、中からチャンネル争いをしているらしい人形どもの元気な声が響いてきた。名前未定のままのお貞の声もある。
 姿や名前が変わっても、ホントやっとることは変わらんな、と思いつつも、なんとなく安堵してしまう僕なのであった。これから部屋で開かねばならん会議の内容を考えれば、到底安堵などしている場合ではないのだが。




[24888] 第三期第七話 猪にひとり
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:57226dd3
Date: 2013/06/27 08:00


 〜〜〜〜〜〜 桜田邸、リビング 〜〜〜〜〜〜


「どうやら行ったようね……ジュンも」
「間違いないかしら。階段上がってく音がしたから」
「用意は良いようね。それでは──」
「──報告、報告! ローカに敵影なし、視界良好だよ」「のりさんも……お部屋に入ったようです……」
「準備は整ったのだわ。それでは始めましょう、栄えある第一回──」
「──で、どうするのー? どうやって探し出すなの?」
「まずは調べものよぉ。このご時世インターネットで大抵のことは探せるわぁ。そのために専用パソコン買わせるんだから」
「とか言ってますけどぉ、有名人でもなきゃ名前で検索したってシッポは掴めないって聞いたですよ」「かしらかしらー」
「町内の電話帳……と、住宅地図が最強です。……ぶい」「でも全戸記載の電話帳って今はもう田舎しか作ってないよね、多分」「はぅ……」
「個人情報保護とかマジうぜーのー」「かしらー」
「あーもう五月蝿い! 勝手に脱線してないで説明最後まで聞きなさいよアンタ達! 全員纏めてジャンクにするわよぉ」
「……うぅ」
「どうしたのですか?……赤いお姉様」「かしら?」
「……開会宣言くらいさせて欲しいのだわ……」


 〜〜〜〜〜〜 桜田ジュンの部屋(承前) 〜〜〜〜〜〜


「……なるほどね。おかしいなって思ってたのよ。あの子、人形達に名前を付けてる間ずっと、桜田君の方を見ようとしなかったから」
「御人形に夢中になっているのかと思ってましたよ。ご飯に呼ばれるまで、邪夢に誘われてあの子達と遊んでたって話でしたから」
「それにしては彼女、浮き浮きしてなかったもの。だからおかしいなって……でも、そう。もう勘付かれてたのね」
「すいません、色々至らないトコばっかで」
「仕方ないかしら。ハードル高すぎだもの。いきなり、まともに会ったこともないスモールジュンの完コピなんて」
「それに彼女はのりさんとは違った視点からジュン君のことを観察していたはずだからね。いずれ早い内に見破られていただろう」
「……そうですね、邪夢ですし」
「あーあーどーせ不出来でございますよっと」

 やる気のない言い方で誤魔化してみたが、流石にそれ以上は言い返せない。いろんな意味で素人とはいえ、こちらの努力が足りなかったという側面は否定できないからだ。
 やろうと思えば、のりさんが居ない昼間の時間をフルに使って「ジュン君らしさ」のレクチャーを受け、なるべくボロを出さんように立ち回ることはできたはずだ。それをやらなかったのは、ジュン君を演じると決めた立場としては怠慢である。
 のんべんだらりと過ごしてしまったツケは大きい。
 巴ちゃんの聞いた言葉がのりさんの本心そのままだとすれば、今のところ完全にクロだと思われている訳ではなさそうだ。しかしいずれ彼女にも事実は事実として打ち明けねばならん時が来るだろう。
 そのときの彼女の心境いかばかりか。そしてどう相対すればいいのか。

 考えただけで気が重くなるが致し方ない。全てこちらの身から出た錆なのである。
 取り敢えず、僕としてはこの機会に言わねばならないことがある。今はそちらを先にしよう。居直るみたいで何だが、過ぎたことを振り返っていても始まらん。

「手前味噌な言い分だけどさ、良い機会だったと思うんだよな。宙ぶらりんな僕が尻を引っぱたかれて、目を覚ましたって意味では。
 それでまあ、折角こうして邪魔のない状態で話す時間が持てたんだし、今後のことを話し合うなり、合意が出来てるんだったらこの場で教えるなりして欲しいんだ。
 僕にできることがあれば、できる範囲で何でもやる。人形どもになにかしらの手伝いができるなら、ヤツ等にも協力させるさ」

 とは言うものの、僕にしろ人形どもにしろ、妙な形で関わっているとはいえ本質的には部外者であり、漫画で言えばアシスタントさんが描いているモブ程度の存在である。死ぬほど頑張ったところで猫の手程度の手助けにもならんだろう。
 だが、僕としては微力を尽くすことに異論はない。
 人形どもはといえば……アイツ等が使命感を持って何かをするというのは期待薄である。黒いのだけはその萌芽を見せている訳だが、逆に言うとそれで僕が感心してしまうのだから、全体の程度はお察しというものだ。
 今のところは薔薇乙女さん達のあれこれに巻き込まれたお陰で思わぬ余禄を得、存分に我が世の春を楽しんでいる訳だが、そこから一歩踏み込んで真面目に関わろうとするかは甚だ怪しい。その辺りはある意味で薔薇乙女さん達よりも古強者揃いである。
 その点で、なんだかんだで一番しっかりしている黒いのが柿崎の捜索に掛ろうとしているのは良し悪しだった。
 他の連中に示しがつくという点ではすこぶる宜しい。僕個人としても状況さえ許せば柿崎を探したいと思っているから、その意味でも黒いのを最大限に自由行動させてやることに吝かでない。
 しかし、なんだかんだで人形どもの中ではリーダー的な存在の黒いのが別行動をしている(というか目の前に居ない)状態で、残りのアイツ等が戦力になるかどうか。元よりアイツ等の能力など高が知れたものなのだろうが、何か小さなことをやらせるにも、尻を叩く役が不在では肝心のやる気がどうにも出そうにない。
 ……まあ、それでも僕を持ち主と言い張っているのはアイツ等なのだから、いざとなればどうにかして言うことをきかせてやろう。具体的にどうするかノープランなのが実に心許ないが。


 〜〜〜〜〜〜 第七話 猪にひとり 〜〜〜〜〜〜


「これまで、僕達の間にはこれといって合意はなかった。誰かが今後の方針を他人に打ち明けることも」
「……そうですね」
「それなのに僕達は……いや、僕一人に限っては、いつの間にか自分の考えが他の皆と共有できているような錯覚に陥っていた」

 蒼星石の話は、さっき僕に言ったことの焼き直しだった。えらく突き放したような言い方も変わっていない。
 まだ目に見えて実害が出ている訳でもなし、そんなに大袈裟に考えることでもないような気がするんだがなあ。なんとなく空気を読んでいるような気になっていた、ってのはよくある話だろうに。
 ただ、それはあくまで僕の見方である。外国生まれ(特定の何処かじゃないが、少なくとも日本産ではないだろう)の薔薇乙女さんである蒼星石には許容し難い事柄なのかもしれない。
 いや、むしろこれが生真面目で潔癖なこいつの本音ってことか。だとしたら嘘を吐くのは嫌いでも、裏表の使い分けが出来ない一徹者って訳じゃないんだな、こいつは。
 外見が変わったとはいえ、中身は五年も親しく付き合ってきたクラスメートだ。しかしこうして近くに居てまじまじと見ると、知らないこと、判らないことだらけだったんだなあと改めて思わされる。
 もっとも、判ったところでこいつはどうせすぐに──

「──やはり、言葉で意思を確認することは大事だと思う。僕がこんなことを言うのは、らしくないけれど」
「それだけ変わったということかしら。蒼星石だけじゃないわ。みんなそう」
「金糸雀が一番ですけどね。あのチビカナが今じゃ随分落ち着いてお姉ちゃんしてるじゃないですか」
「むう、酷いかしら、またすぐにそういうこと言ってぇ。カナは元々みんなのお姉ちゃんよ。みんなこのキュートでプリティな外見に惑わされすぎなのかしら!」
「はいはい、アンタが第二ドールですよ。そして、翠星石はその次です。この際作られた順番は大して関係ねーと思いますけどぉ」
「もう……。でも、一番変わったのは翠星石かもね」
「おべんちゃらは要りませんよ」
「ほら、その反応。前の──この世界に居た頃の翠星石なら、もうちょっと可愛い反応してたところかしら。お姉ちゃんっていうか、いろんな意味で大人になっちゃってるのよ、貴女は」
「……そう、ですか」
「ええ。でもしょうがないわ。人一人分の記憶と同居しながら生活していたのだもの、変わってしまって当然かしら」

 湿っぽくなりそうなことをさばさばした表情で言い切って、金糸雀は蒼星石の方を見た。
 蒼星石は瞬きもせずにまじまじとその視線を受け止める。二人の視線が絡み合う。もちろんラブラブ的な意味合い無しで。
 一瞬、何やら得体の知れない緊迫感が漂ったが、金糸雀はすぐに視線を斜め上、真っ暗の窓の外に向けてしまった。なんなんだ一体。

「変わることは悪いことじゃないわ。それが成長と呼べるのかどうかは別としても」
「お人形に成長はありませんよ。それは薔薇乙女だって同じです。表面が移り変わっていくだけですよ」
「そうかしら? ……まあ、そうかもね。私達の内面に刻まれたものは変わらない。いいえ、変えてはいけない部分があるのだから」
「どんなところっスか、それって──あ、横からすんません」
「気にしないで。それにもう桜田君も立派な当事者の一人かしら。関わると言い切ってしまったのだもの」
「ありがとうございます、って言っていいのか判りませんけど。何分飲み込み悪いモンで」
「いいのよ、気にしないで」
「……変えてはいけない部分、か。それは……」
「私達が作られた理由に関わるもの、ね」
「アリスゲーム、だね」
「ええそう。漫画の中の私の言葉じゃないけれど、アリスゲームは私達の本分かしら。見失ってはいけないものよ」
「アリスゲーム……」

 翠星石は鸚鵡返しに呟く。さっきの強気そうな態度は何処かに消えて、妙に縮こまってしまったような印象だった。
 自分達はお人形だから表面上変化するだけで成長はしない、という自説を肯定してもらった形なのだが、それにしてはえらい消沈ぶりである。判っていても改めて言われると気が重くなるということなのか。
 いや、案外内心では否定して欲しかったのかもしれん。どうもそんな按配だ。
 ああいう態度を取ってるときの美登里は──おっと、今は翠星石だったが、基本的に天邪鬼だった。いざとなると結構容赦ない葵に突っ込まれ、しょぼくれる寸前に虚勢を張ってみせたことは何度もあった。
 待てよ。だとすると──

「──蒼星石はさっき、合意はなかったと言っていたけれど、なくて当然だったのがこれまでの私達かしら」
「え、なんでですか」
「邪夢は物分りが悪過ぎです」
「悪かったなアホで」
「えっとね、ちょっと考えてみて欲しいかしら。私達は姉妹だけれど、最終的にお互いに戦い合うことを宣告された者同士。そして、今はアリスゲームの開幕を宣言されてしまっているの」
「はい。ああ……そうか」
「敵同士なのだから、お互いの手の内はあまり晒したくないの。利害が一致した時に協力する、それだけの関係かしら」
「そんな、翠星石はそんな冷たいこと、考えてなかったですよ。そりゃ、敵同士ってのは判ってますけど……」
「貴女がそう考えたいのは判るわ。真紅や雛苺と……それから、短い間だったけど蒼星石もマスターを同じくしていたから」
「で、でもアンタだって、ジュンやみんなを助けてくれたじゃないですか。あの水銀燈だって」
「彼女が協力してみせたのは、自分のマスターのため。私は、雪華綺晶の暴走を止めるためかしら。あのまま行けば、次は私が標的になるのは確実だったもの」
「……でも、ジュンと一緒に」
「私とスモールジュンがnのフィールドに入れば、勢いに乗っている雪華綺晶は先ずそちらに目を向けるはず。実際そうだったでしょう」
「雪華綺晶がジュン君と他の姉妹達に向いている限り、君のマスターは単独だけど安全、なのか。考えたね」
「ええ。あの時点では上手く行ったわ。真紅や貴女達も合流してくれたし……ただ、雪華綺晶を退けたと思った隙につけ込まれて、こんな形になってしまったけれど」

 金糸雀は皮肉な顔をすることもなく、残念そうに息をつく。他の面々も一層不景気な表情になっただけで、反論も肯定もなかった。
 まあ全員一度はとっつかまって、その一部がこうして顔を合わせているのが現状だからどうしようもない。
 ついでに言えば、ここで僕等がどう話し合いを付けてどう対策を練ろうとも、キラキーさんには全て筒抜け状態なのかもしれん。
 むしろ、ここまでずっと向こうさんに管理されていたようなものである。今になって監視が解かれていると考えるのは楽観的過ぎるだろう。
 だったら全て胸の内に秘め、相手に意図を悟らせずに行動した方がいい、とも言えそうだが、個人でやれることには限界がある。それに、霞食って生きてる訳じゃない僕等としては、キラキーさんの利害とは直接関係なしに、今現在暮らしていく上でのあれこれを協議しなくちゃならんのであった。
 まあ、ぶっちゃけ僕にとっては、のりさんやら巴ちゃん、そしてジュン君の今後に対する件など、話を聞きたい案件のほぼ全てがそっち側の事項である。何処かでどうにかなってしまっているはずの自分の抜け殻の方については──情けない話だが、イマイチ実感が湧かないというか、薔薇乙女さん達に下駄を預けるつもりになってしまっている。
 考え始めている事柄はないでもないが、それはまあ、どちらかと言えば僕の個人的な案件だ。足りない頭を寄せ合って策を練るのは、今後の方針を聞いてからとしよう。もちろん、優先するのはこの御三方の行動の方である。

「どちらにしても、今は力を合わせるときだ。僕のように思い込むのでなく、実際に話し合って解決策を探る必要がある」
「それにはアンタも同意しますよね、金糸雀」
「異論はないわ。利害が一致しているのだから」

 裏を返せば、一致しない部分については勝手にやりますよと宣言された訳だが、双子はどちらもやや安堵した表情を浮かべた。
 僕も似たような顔をしていたはずだ。脱線していた話題を元の軌道に戻した上で続けられるのは良いことである。金糸雀の態度表明にしても、これからのことを話し合うためにはある意味で必要なことでもあった。
 まあなんだ、可愛くて温厚そうな先輩だと思ってた人が、なんつーか他の二人とはまたベクトルの違う難物だったってのは、意外というか何というか。芯が強いのは知っていたが、漫画の印象もあって、もう少し素直なタイプかと思っていた。


 取っ掛かりから些か不穏な気配が見え隠れしていたが、本題に入ってからは皆さんの思惑の違いが浮き彫りになった。
 金糸雀はジュン君の生活周りのことについては特に意見はないという。今はこの家に間借りしている(ついでに言えば以前から足繁く出入りしていた)身とはいえ、ジュン君と直接契約している訳ではないから、という理由だった。
 餅は餅屋、あくまで自分は利害に関係しないことには立ち入らないということか。その割には、さっき僕が暴走しかけた時には元気付けるように頷いてくれたのだが。
 蒼星石は僕に説明した意見を繰り返しただけだった。彼にとって(蒼星石の考えでは)一番違和感が少ないと思しい、彼がここから去る直前と同じ環境を整えておく、そのために僕と巴ちゃんの協力は不可欠という論だ。
 無難な線だが、実行には危険と労力が伴う。僕や巴ちゃんを(キラキーさんの脅威以外の)危険に巻き込む事にもなる。
 その点は許容しなければならないリスクだと蒼星石は言った。まあ、マスターのため、という視点からはそうあって然るべきなんだろう。
 そして、翠星石は──

「──そりゃ、邪夢には外なんかフラフラせずにずっと家に、ていうか何かあった時にフォローできる範囲に居て欲しいですよ。最初からそう思ってましたし、今も変わってません。
 でも……それはこっちの都合なんです。言っちゃなんですけど、管理が楽だからその方が良いってだけの話です。
 まあ邪夢は自分から協力を申し出てきたんですから、使えるだけ使ってやりますけど……それはまたちょっと話が違うのです。
 蒼星石の考えも、帰って来た時にジュンはそれが一番ラクチンでしょう。でも、ホントにそれでいいんですか?
 ジュンがすぐ帰って来れればいいです。でも長引いてしまったら? 何も知らなかったら巴は何の進展もないことを悲しむでしょうし、のりは……ずっとジュンを見てきたのりは、すごくがっかりすると思っちまったのですよ。
 それに……アンタ達も充分知ってると思いますけど、ジュン本人だって、何か切っ掛けがないと。帰って来てからも、自分からは学校に行き始めることはできないかもしれません。
 あっちの世界でも引き籠ってしまって、ずるずる不登校のまま一年以上経っちゃったんですから……」

 先程まではそんな風に考えてはいなかった、と翠星石はぼそぼそした声で言った。巴ちゃんと僕の問答を聞いていてふと考えたのだ、という。
 こと、この世界においては、ジュン君を気に懸けているのは自分達だけではない。考えてみればのりさんに嘘をついてるのは彼女に気を遣ってのことでもある訳だ。
 ならば、彼女や巴ちゃんの期待するジュン君、nのフィールドに入ってしまう前に彼がやろうとしていたことを一度は実現してやってもいいじゃないか、と思ってしまったらしい。
 暴走の言い訳に過ぎないような気もするが、何やら無闇に発奮していた僕と期待に満ちていた巴ちゃんの姿を見て、熱に浮かされたようになって刹那的にそう考えてしまった、というのは嘘ではなかろう。
 そういや、楽に流れてるのはイカンというようなことを言ったのは他ならぬ僕であった。口から出任せではないが興奮していたときの台詞だから半ば忘れかけていた。
 まあ、何にしても蒼星石が読めないのは当たり前ではある。僕と翠星石の考えは、どちらもあの場でぽんと変わってしまった、理詰めでなく感情が先走った代物なのだから。

「でも……そうなんです。蒼星石と金糸雀の言うとおりです。
 長いこと人間やってきて、感覚がおかしくなってるのかもしれないですね、翠星石は。つい、今までと同じように周りを見てしまって。
 ジュンは私にとって掛け替えの無いマスターで、私達は薔薇乙女なんですから……」

「ジュン君のためを第一に考えて、アリスゲームに全力尽くすのが義務ってか」
「……そうですよ。そのためには邪夢なんかいいようにこき使ってやるです」
「へーへー、そいつぁ有り難いこって」
「なんでも協力するって言ったのはそっちですからね。それも今さっき」
「忘れてねえよ」

 翠星石はむっとして口を尖らせ、僕はひらひらと手を振ってやった。
 そこで反撃が来ないのが翠星石の消沈ぶりを示している。それでも、自虐に落ち込みそうに見えたのはどうやら持ち直してくれたらしい。
 蒼星石が苦笑を向けてくる。窘めたいのか有難うなのか判らんが、そっちにも手をひらひらさせるだけにしておいた。
 当然というか残念というか、僕等はまかり間違っても目と目を見合わせて友情と信頼の確認をするような間柄ではないのである。ここで口に出せないようなことなら、後で二人きりになったときに話せばいい。

「てことは、なんだ。結局蒼星石のプランで行くってことなのか」
「ええ。金糸雀に異論がなければ──」
「カナは今までどおり、スモールジュンのことは貴女達にお任せにしておくわ。あの子は貴女達のマスターなのだから」
「了解しましたよ。……聞いてのとおりです、邪夢」
「オッケー。まあ、それならまた巴ちゃんと協議しなきゃだな」
「うわ、何ですかそれ。いきなり馴れ馴れしく名前にちゃん付けとか」
「いいじゃねーか三つも年下なんだから。『柏葉さん』って感じじゃねーだろ、あの様子じゃ」
「ああ、確かに……ふふ」
「あまり見たことなかったけど、実物は歳相応っていうか、初心な感じで可愛かったかしら」
「な、何なんですか二人共、邪夢なんかに同調して。翠星石はドン引きですよ」
「フフフ、誰が言い出したことでも内容が妥当なら一定の支持は集まるのだよキミィ」
「まったく……本人の前で『巴ちゃん』なんて言い出したら、寝てる時にお腹をトランポリン代わりにしますよ」
「へいへい。重そうだもんなお前」
「ある程度ウェイト乗ってないと打撃に力が入りませんからね」

 軽口も戻って来たらしい。大変結構なことである。巴ちゃん呼ばわりしてたのがバレちまったのは宜しくないが。
 まあ、軽口の応酬程度で僅かでも元気が出てくれれば、こっちとしても協力のし甲斐があるというものである。一応何等かの手伝いができるということなのだから。
 ただ、上げてから落とすようで申し訳ないのだが、僕にはもう一つ訊いておきたい案件があった。下手をすると蒼星石やら金糸雀までズンドコ状態に陥りそうではあるが、有耶無耶にしたまま流してしまう訳にも行かない事柄だ。
 暫し今後の「ジュン君としての行動」についてのあらましを話し合う、というか講義を受けてから、頃合いを見計らって僕は切り出した。

「黒いのが柿崎を探すとか言ってた訳だが」
「恵ですか……」
「今日の午後の時点では、大学病院の316号室の患者は意識を取り戻してるようには見えなかったわ。相変わらず、機械に繋がれた眠り姫ってところかしら」
「邪夢君のように入れ替えられてはいない、ということか」
「恵が病室でじっとしてられるとは思えませんからね。弱い心臓に負担掛けてぶっ倒れたりとかしそうです」
「洒落にならんぞそいつは……」

 名前繋がりで入れ替えられてるとは限らんけどな。ジュン君はマエストロという特殊人材だが、めぐさんは漫画での扱いこそ大きかったものの他のマスター(加納さん……というかみっちょん氏や巴ちゃん)と立場は大して変わらんのだし。
 まぁそっちの方は置いといて、柿崎のことだから、この世界に出て来ているのならどっかでしぶとく生きてるだろう。
 黒いのが探し当てられるかは保証の限りではない。つーかパソコン買ってやったからって探し当てられるようなモンじゃなかろう、というのが偽らざる心境である。
 が、ここは黒いのの見せたやる気を尊重してやりたい。何しろあの利己的な人形どもが初めて見せた献身的(とまでは行かないが)な行動なのである。
 外出が解禁されたことでもあるし、最終的には僕が無駄足覚悟で足を棒にして捜し回ることになるだろう。それはそれで構わない。
 ともあれ、こっちの話は本題じゃない。無難なところから話を始めただけである。

「──こっちの皆さんは、マスターさん達や他の薔薇乙女さん達の行方、どうやって探すつもりでいる?」

 びくり、と皆さんが肩を震わせる。蒼星石だけは話の持って行き方から気付いていたらしく、こちらをちらりと見て、どういうつもりなのかごく軽く頷いたが、後の二人がこちらに向けた視線は、何とも言えない雰囲気に満ちたものだった。
 当たり前ではある。ジュン君のための準備行動を云々するより、こちらの方が彼女達にとっては遥かに重要なのだ。大体、こっちの面子が動いて事態を解決しなければ、恐らくジュン君自体いつまでも戻って来れないのである。

 辛抱強く待っている内に、彼や行方の知れない薔薇乙女さん達が自力で解決して帰還してくる、そんな可能性もないではない。だがこの一連の経緯を見る限り、その確率はかなり低いとしか思えなかった。
 彼等は恐らくキラキーさんに囚われているか、迷子になっている。この家に強い愛着を持っているはずの真紅が一向に姿を見せず、マスターさん達も誰一人意識が戻らないところを見れば、そう考えるのが妥当だった。
 一応はねぐらを確保出来、お互いにコンタクトも取れているこの三人が何か動きを見せなければ、新たな何かは始まらないのだろう。
 ちなみに僕はと言えば、そちらの件についても協力をしたい。そして出来得れば──まあ、できるだけ穏便に諸々の厄介事を終わらせてくれることを期待している。
 但し、協力するとはいっても、情けないことに今のところは単なる意気込みに過ぎんのが現実である。何をするという具体的な提案はできないし、手出ししないのが最良の協力だと言われても頷くしかない。
 なんせ、僕は元々無力な凡俗で、変わった所といえば奇怪な古人形を七体ばかり引き連れている点だけなのだから。懐かれている人外のモノの数だけで言えばジュン君を軽く上回っているが、内容があまりにも隔絶していて比較する意味がない。
 協力する、あるいは足を引っ張らないように気を付けるには、まず皆さんがこの件と、必然的にその後に続くであろう争いをどう解決するつもりなのかを知る必要がある。
 金糸雀が言うとおり薔薇乙女さん達は姉妹であると同時に全員敵対関係でもある訳だから、この場で全てについて事細かに説明を求めるのは無理だろう。差し障りのない範囲で捜索のことと僕(と残念人形ども)が手伝える事柄を教えてもらえればそれでいい。


 ……そんな話を(言ってる自分が自虐に陥らない程度に言葉と内容を選びつつ)してみると、御三方は顔を見合わせた。
 突拍子もない事を言い出されて困惑した、という風には見えない。敵同士は敵同士としても、皆さんそれなりに相手の意図を知り、場合によっては手を組むつもりはあったってことか。
 視線が交錯する。暫し、誰が先に猫の首に鈴を付けに行くのか決めるような、和やかとは言い難い無言の遣り取りがあった後で、最初に口を開いたのは言いだしっぺ状態の蒼星石だった。

 探すつもり、という段階ではなかった。それぞれ既に探索は始めていたらしい。
 深夜、僕やのりさん、人形どもが寝静まった後に物置きの鏡から探索に出ているのだという。
 ここに来て数日経つのだから動き始めて当然なのに、こっちは全く気付いていなかった訳だ。とんだ道化というか、如何にも僕、といったところだろうか。
 それにしても一言くらい言ってくれても良さそうなもんじゃねえか。
 むっとして、知らぬは僕ばかりってやつかよ、と言ってやると、いつもの(僕が知っている)悪びれない顔で、ごめん、と笑う。
 この顔に何度騙されてきたことか。いや、騙されるっていうよりこの顔をされるとつい許してしまうのが問題なのだが、今はどちらでも関係ない。要するにこいつには勝てないのである。
 大抵この顔の後には事情の説明という名目の言い訳が続く。今回もそうだった。
 僕に言わなかった理由はごく単純なもので、各人それぞれに捜索活動は行っているものの、誰も僕が戦力になるとは考えていなかったからだという。むしろ蒼星石自身などは、ジュン君の物真似に苦労しているようだからそちらに専念させておけ、とまで考えていたらしい。
 ひでえなぁ、とは思うが……まあそりゃそうだよな。
 金糸雀はともかく、双子さん達から見た僕は、他のマスターさん達の肉体にとっての医療機材と似たようなものだ。ジュン君の身体を維持管理して行くのが最良の支援なのだろう。
 むかつくが致し方ない。なにしろ僕自身、何をどうやれば問題解決の切っ掛けになるかさえ全く判っていないのだから。
 こちらの不機嫌が伝染したように、蒼星石は景気の悪い顔になってぼそりと続けた。

「……ただ、上手く行ってはいないんだ」
「そりゃ首尾良く行ってりゃ、僕がここにのほほんとしてられる訳がないもんな。さっさと出てけって言われてるだろ」
「捻くれてんじゃねえです。そういう意味じゃありませんよ。効率が悪くて探し物が進んでないってコトです」
「効率ねえ。捜索隊の頭数に問題があるとか、最新鋭の機材が故障して使えないとか?」
「おちょくってんじゃねーです!」
「落ち着いて翠星石。桜田君も揚げ足取りはちょっと控えて欲しいかしら」
「すんません……」
「いや……率直に言って邪夢君の質問は半分くらい当たっているよ」

 蒼星石が二人に顔を向けると、翠星石は力なく首を振り、金糸雀は小さく溜息をついて頷いた。
 半分とはどういう意味だ、と思っていると、今の僕達は足枷を填められた上に右腕を欠いたような状態だからね、と蒼星石は続けた。動員力と機材面の両面に問題があるようなものだ、と。

 薔薇乙女さん達はマスターが居なければ本来の力を振るえないし、無制限にnのフィールドに居続けることさえできない。マスターさん達が根こそぎ囚われ、力の供給が途絶えている今の状況では、長い時間探索に精を出すことはできないのだという。
 足枷というのはそれなんだろうが、右腕ってのはどういう意味なんだか。
 腕といえば、確か真紅はスポーンと引っこ抜かれた上に失くしてしまったことがあったはずだ。取り戻すのに結構苦労してたような気がする。
 しかし今現在の皆さんは見たところ全員五体満足であり、どこかしら動かなくなってる部分があるようにも見えない──いやいや。この文脈で右腕といえば相棒のことだろう。
 薔薇乙女さん達の相棒といえば、あのチカチカ光る蛍の親分みたいなやつだが……。

「僕達の人工精霊は、皆手許に戻って来ていない」
「世に出てからこっち、こんなに長い間スィドリームと離れていたことはないですよ」
「少なくとも私達の体感時間では、何年間にもなるものね。何処にお散歩に出ても必ずカナを見つけてくれるのがピチカートだったのに」
「……道理で、一度も見てない訳だ」
「僕達が急に元の姿に戻ったことの方がイレギュラーだったのだろう。ただ、これだけ日数が経っても現れないのは、何等かの障害があると見た方がいい。人工精霊はその主のローザミスティカに強く結び付いているものだから」
「僕にあの人形どもがくっついてきたのと似たようなモン、ってことか」
「それは少し違うんじゃないかな。……まあ、冗談は置くとして」

 えらく軽く流された。ううむ。こっちとしては冗談のつもりはなかったんだがな。
 残念人形どもがこの世界にやってきたのは、連中から持ち主と認識されている僕が引っ張ってきたようなものである。薔薇乙女さんが強く結び付いているという人工精霊を引き連れて世界と時代を旅していたことと、その点では同じだろうに。
 ただ、それはあくまでこっちの見方である。
 あちらの視点から見れば当然のことだ。凡百の人間と残念人形どもとの奇怪な(多分「巻かなかった」ジュン君によって押し付けられた、妙な言い方だが「即席の腐れ縁」のような)関係と、至高の少女候補とその従者の深い関係を同列に扱うなど、冗談としか取れないのだろう。
 まあそれは認める。認めるが……。
 やっぱり蒼星石もか、と少々残念な気分になってしまうのも事実だった。
 翠星石はあからさまに口にしとるし、金糸雀もどことなくそんな風な態度だったが、お前もそうなんだなあ……。さっきの件も含め、多少は距離が詰まってるもんだと思ってたんだが。

 愚痴っぽくなってるこちらの心境などお構いなく、皆さんは話を続けている。

「何かを捜索するときの人工精霊の役割は大きい。メッセージを伝えたり、僕達の目となってくれたり」
「話し相手にもなってくれるのよ。それに、離れたところで探し物をさせることもできるかしら」
「ある程度は一人でも動けますからね。まあ、金糸雀は酷使し過ぎでしたけど」
「確かにね。日中ずっと待機させておくのは良くない癖だ。止めたほうがいい」
「人目にも触れますしね。いくら、居ないと独り言が多くなるからって」
「むぅ、言いたいこと言ってくれちゃってぇ。別に無理はさせてないかしら。ピチカートは大事なお友達なのだもの」
「ピチカートだけじゃありませんよ。スィドリームだってレンピカだって大切な友達ですし、忠実で有能なしもべなのです」
「うん……。でも、その彼等が今はいない」

 だから捜索も捗ってない、ということか。
 マスターの捜索自体、元々砂漠で針を探すというか雲を掴むような状態のところへ来て、時間制限と下僕の没収という条件まで付けられれば致し方ない。まあ効率で言うなら何分の一かに落ちて当然だ。

──時間と手数。どっちかの制限だけでもクリアできれば、少しはマシになりそうなんだがなあ。

 この世界に来た時にちらりと見ただけの、黒衣の薔薇乙女さんの姿を思い出す。次いで、人間だった時の顔。
 あの人は確かnのフィールドにいくらでも居続けられたはずだ。不思議パワーについても、契約お構いなしに通りすがりの誰かから巻き上げられる。つまり、ある程度ではあるがこのお三方よりは融通が利く。
 彼女がこっちに出て来てくれていれば、捜索が大幅に捗ってることは間違いない。まあ、出て来ていたとしてもこっちと協力する気があるかどうか疑問だが。
 いやいやむしろ、今の僕にとっては顔を見せないでいてくれたほうが嬉しい存在かもしれん。何しろ──いや、やめとこう。

 ああクソッタレ。せめて大まかにでも捜索者の居場所が判っていれば、なにかしらの手の打ちようもあるんだろうが──
 ん……? 待てよ。

「皆さん全員、一度はキラキーさんの領分に踏み込んでるんだよな。えーと、蒼星石からキラキーさんを追い出した後に」
「なんなんですか唐突に」
「ちょっと思い付いたんだ。間違ってないよな?」
「そういえば、あのときはみんな揃ってたかしら。自分から踏み込んだっていうより、連れ込まれたっていう感じだったけど」
「戦いが不利に動いた時に、苦し紛れに転移させたのだから……考えてみれば、あのときに気付くべきだったかもしれない。彼女が持っていた余力に」
「あーいやその話じゃなくてな。そこから脱出して来たのは間違いないんだろ? 途中でまた捕まっちまったにしてもだ」
「そういう形にはなるね」
「だったら……」

 考えを纏めるのは苦手なんだが、少し整理して考えよう。
 キラキーさんは自分が蒼星石の身体から追い出されたとき、その場に居た全員を自分の領分に引き込んで監禁しようとした。
 監禁する方は色々あって──というより「巻かなかった」ジュン君が自分を肯定的に再認識するというイレギュラーで失敗に終わってしまった。但し、全員を一瞬で自分の領域に引き摺り込み、しかも全員一緒でなくジュン君を真紅達と分断することには成功している。
 その後も紆余曲折あったものの、全員一度はその領域から脱出できた。再度捕獲されたのは脱出後に散り散りになってしまってからの話であり、一旦はここ、「巻いた」世界への帰途に就いた訳だ。
 その後、最終的に再度捕獲された皆さんは魂とボディをばらばらにされ、僕等の居た世界に魂だけ飛ばされた。そして「巻いた」世界では僅か数日程度が経過する間に、皆さんの魂だけは僕の居た世界で数年間を過ごして来たということになる。
 ここまでは確実だろう。店長氏──「巻かなかった」ジュン君の話を信用するならば。

 ばらばらにされた折、皆さんが実際に何処に引き込まれたか、抜け殻となったボディやら何やらが何処に保管されていたのかはどちらも定かではない。
 だが、一連の事件の間隔の短さから言ってキラキーさんが自分の領域である世界以外の別の幽閉場所を用意したとは考えにくい。また、魂をどうこうという込み入った作業をするなら、やはり自分のテリトリーを使ったと考えるのが自然だ。
 保管場所についても同じくキラキーさんのテリトリーの何処かだろう。
 そもそも姉妹は全員捕獲してしまったのだから、殊更に誰かの目から隠す必要もない。なにかしら不穏な動きがあったときに備えて監視下に置く意味でも、手元に置いた方が良かったはずだ。

「……それは判りますし、翠星石も似たようなことは考えましたよ。で、それが何だってんです」
「つまりさ、キラキーさんのパワーは絶大かも知れんが、お気に入りの場所つーかねぐらっつーか、それは皆さんが一度踏み込んだ世界一つきりなんじゃねーのかってこと」
「第42951世界……か」
「そりゃ、雪華綺晶だって無限大の力を持ってる訳じゃないですからね。大仕掛けをしてる最中にあちこち別荘構える余裕なんてないと思いますよ」
「で、そこは皆さんにとって往き来ができないところじゃない。遠いか近いかは置いといて、行き方だけは判ってる場所な訳だろ」
「来た道を辿るように簡単には行かないかしら。でも世界の番号は判っているから不可能じゃないわ」
「結構遠いし、入り口見つけるのに手間が掛かるってことっスか」
「そうね。イメージとしては合っているかしら」
「キラキーさんから見れば、ある程度安心して居場所兼物置きにできるってことっスよね。皆さんにちょっかい出されまくりでいつも引越しを考えてなきゃいけないような、危なっかしい場所じゃあない」
「ええ」
「なら、そこに以前捕まえた人達を未だに置いてある、なんてことも」
「有り得ること、いえ、多分そうしているはずね。末妹の集めた元マスター達の魂もあの領域に囚われていたのだから──そう簡単にお引越しできないかしら」

 いつの間にやら翠星石は黙ってしまい、金糸雀が受け答えしてくれている。
 なんか翠星石のマズい部分に触れたのかも知れんが、取り敢えず今は推論を吐き出すことにしよう。先輩……いや金糸雀相手の方が話が進むしな。
 まあ、それはともかく、これで漸く前提は固められた。予備知識があやふやなところから話を始めるのは長々しくなってしまうものである。

「この家にいる三人の皆さんには、その第……なんたら世界は相変わらず危険っつうか、かなり無茶な場所なんだと思いますが」
「危険っていうなら……今はnのフィールド自体、できれば遠慮したいかしら。マスターがいれば別だけれど」

 と言っている金糸雀本人が恐らく毎晩ギリギリまで物置部屋の鏡の向こうに出掛けているのは確実なんだが、それを指摘するだけの図々しさは僕にもない。さすがに。
 遠慮したくても出掛けざるを得ないのだ。大好きなマスターのために。

「マスターと一緒に居るか、元々制限がなかったら。そんでもって、今回行方不明になってる人じゃなしに、もっと前にキラキーさんに捕まった人を探してるとしたら、どうっスか」
「この世界に出てくる前に、第42951世界に向かう……かしら」

 金糸雀は自信なさ気に言葉を切り、一拍置いてはっと息を呑んだ。
 ちらりと視線を向けると、流石に他の御二人も同じ事に思い至ったらしい。蒼星石は眉を顰め、翠星石は盛んに瞬いている。

「そうか……真紅も、水銀燈も」
「雛苺と、マスターを探しに? それなら、ジュンも……真紅と一緒ってことですか」
「だろうなぁ。そもそもジュン君がnのフィールドに入ったのはみんなを探して取り戻すってのが目的だったはずだし。あ、漫画で見た台詞が合ってるなら、ですけど……先輩」
「そうね。細かいところは少し違っていたけれど、スモールジュンがカナと一緒に扉を潜った時の目的は桜田君の知ってるとおりかしら」
「はぁ……みんな迷子になってるんじゃなくて、元々の目的のために雪華綺晶の世界に向かったって言いたいんですか? 邪夢は」
「まあ、そう考えてもいいんじゃねーかってさ」
「……有り得るね、それも」
「だったら、なんで翠星石達と合流しようとしないんです? ここに居ることは知らなくても、一度は探しに戻るんじゃないですか? 相手は雪華綺晶なんですから」
「それに、みっちゃんはここに戻って来るはずかしら。みっちゃんには末妹に捕まってる探し人はいないのだもの」
「う、その辺はすぐに解釈が浮かばないのが辛いトコっス……」
「やっぱり迷って帰れなくなってるって考える方が自然じゃないかしら。桜田君の視点は貴重だから、その推測は尊重したいけれど」
「推測っていうより妄想ですけどね、殆ど。憶測の積み重ねで、なーんの証拠も無いんですから」
「これでも結構理詰めで考えたつもりなんだが」
「下手の考え休むに似たりってやつですよ」
「くっ、そこまで言うかよオイ」

 お話であれば重大な謎解き場面になるかもしれなかったところだが、金糸雀の一言で締まらない形になってしまった。推測に推測を重ねているだけに、突っ込まれると一転グダグダになってしまうのが現実の──というか、至らぬ僕の辛いところである。
 それにしても翠星石、追い討ちかよ。
 なんつーかいつにも増して容赦ねーな今回は。似た恰好同士、まるでさっきのお貞のヘソ曲がりが伝染したみたいじゃねーか。
 もし本当に伝染したのだとしたらえらいことである。他に被害が拡大する前にヤツ等を速やかに隔離せねばならん。持ち主の責任として。
 それは冗談だが、さっきから(軽口も含めて)ずっと翠星石には突っ込まれるというより否定され続けとるのは間違いない。ところどころで貶されてるような気もするが、そっちはまあ今に始まったことでもないので置いとくとして。
 あの放課後の教室に呼び出されてからこっち、どうも情緒不安定なんだよな。特に今日ははっきりと判る。
 差し詰め僕はその捌け口にされてるってところか。流石にいい気分とは言えない。

「まあ憶測でもなんでもいいや。取り敢えず目標無しで捜し回るよりゃ、その第42……なんとか世界に当面の焦点を当ててみた方が率は良くなるんじゃねーのか」
「そりゃそーですけど、危険度も鰻上りですよ」
「遠過ぎるのも問題かしら。一旦あの世界に着いたとしても、長いこと探し回ることはできないわ。とんぼ返りになってしまう」
「マスターと離れていては……ね」
「結局はそこか」

 僕は細い顎に手を遣った。自分のなんだが自分のものとはイマイチ思えない華奢な顎である。
 迷子で喩えるなら、何処まで行ってしまったのかは判らないが、探す方はこの家を中心としてご近所数軒くらいの場所を取り敢えず探し回っているという状態なのだろう。もちろんその範囲に居る確証はない。
 相手が側に居ないからその相手を満足に探せない。見事な堂々巡りである。
 さて、そこに迷子の顔はおろか近所の地理も碌に知らない他人が居たとして、探し物に協力できることは何だろう。
 ご近所と表現してみたが、それに当て嵌めるとnのフィールドに出入りできない僕は自力では家の外に出ることもできない子供と同義な訳だ。
 むう、まともな手伝いなど烏滸がましいと言われて当然だ。皆さんが僕に黙っていたのも道理である。
 しかし手伝い、手伝いか。自分で探すことができないにしても──ふむ。

「例えばネジと鞄持った僕が一緒に入って、時間見てとかやばそうになったとき見計らってネジ巻きするって方法はないか?」

 即座に返事ないし罵倒が返ってくるものと思っていたが、お三方は一旦気まずそうに視線を交わした。
 なんだ、ひょっとしてこれももう検討済みってことなのか。バラバラで探してたんなら出そうで出にくい提案だと思ったんだが。

 ちなみに、荷物持ちは別に誰でも良い。僕自身を引き合いに出したのは、そのくらいなら手伝えるだろうというだけの話である。
 nのフィールド(長いので今度からなにか適当な略名にしよう)ではマスターさんしかネジを巻けない、といった未知の設定……いや特殊制限がなければ、誰が巻き役をやろうと別に問題はないはずだ。
 極端な話、御三方で合意ができていれば、お互いにお互いのネジを持って入る手もある。後は適当に地点を決めて落ち合うなり一緒に行動して定期的に巻きっこするなりでいい。
 ただ、そっちは提案できなかった。
 今までの問答からするとそこまで足並みを揃えるのは無理だろう。想像以上に一人一人が孤立しているというか、協力を怖がってるようなフシがある。
 この上なく仲が良いはずの双子でさえ、どうも別個に探索を遂行しているように見える。理由はともあれ相手を尊重するにも限度があるんじゃないかと思うんだが。

「ネジが切れないことだけなら、それで良い……んだけど」
「え、まだ別の制限があるんスか」
「制限っていうか……ね、ねえ」
「……無茶ですよ。邪夢にそんな役が務まるわけがありません」
「今度はなんだよ。偉いマスターさんでなきゃ一緒に鏡は潜れませんってか」
「そういう風に取って貰って構いませんよ。どうせアンタはジュンじゃねーんですから」
「あーあーどーぉせそーでしょーともよ」
「なんなんですかその態度は」
「そっちこそ何だよさっきっからよォ」
「えっとね、ちょっと二人共──」

「──いや、やってみる意味はあるかもしれない」

 斜め下に視線を向けて何かを考えていた蒼星石が顔を上げた。
 相変わらず重たいというか冴えない表情なんだが、声の張りだけは普段どおり……というか僕の知っている石原葵の普段のそれだった。

「邪夢君の案はリスクも大きいけど、上手く行けば僕達の枷を一つ外せる。試す価値はある」
「リスクの方がでっかいですよ。も、もしどうしてもって言うなら、巴に頼んで……」
「彼女はもう契約者じゃない。邪夢君のように自分自身が危機に晒されている立場でもない。巻き込むべきじゃないと考えていたのは君だろう」
「そっ……それは、そうですけど」
「君の気持ちは判る。でもこのままでは行き詰まってしまうと思わないかい」

 マスター達が何処かを彷徨っているなら長い時間安定して探すことができなくては見付け出すことは難しい、と蒼星石は淡々とした口調で言い聞かせた。
 翠星石は暫くぶつぶつと反対意見らしきものを述べていたが、やがて諦めたように、敵いませんからね、と呟き、首を振って一つ頷いた。口数ではともかく、意見の強さでは蒼星石の方が上手ってことが身に沁みてるんだろう。
 しかしなんだ、リスクリスクって大袈裟過ぎだろ。nのフィールドに入ったら発狂するとでも思っとるのか。仮にも一度はあの不思議空間を体験してるから、全くの初心者でもないんだぜ。
 まあその辺は言葉の綾ってやつなのか……?

「カナは強いて止めはしないけれど……誰が試すのかしら。それとも全員で?」
「……っ、それなら翠星石が──」
「──僕が邪夢君と同道する。言い出したのは僕だからね」
「蒼星石ぃ……」
「助っ人は必要かしら?」
「そうだね……一緒に行くより、鏡の前で待機していて貰えれば嬉しい」
「判ったわ」
「翠星石も、ですか」
「うん。何かあった時に安全なところから駆け付けてくれる人が二人居ると心強いから」
「はい……そうするです」
「それで、いつ出るのかしら」
「これから、と言いたいところだけど……明日の晩にしたいな。今日はもう鏡を潜ってしまっているから」

 蒼星石は苦笑し、他の二人が頷く。
 どうやらお三方とも明け方に行って来た後らしい。少しでも早く見付けたいという意思の表れってやつか。
 そこまで思われるマスターさん達が羨ましいというか、必死さを押し隠してきただろう皆さんがいじらしいというか。
 そういう関係の存在が居そうにない我が身に引き比べて、なんとも複雑な心境である。なにせ、こちとら自分自身の本来の身体が何処でどうなっているかについてすら今ひとつ──
 まあそれはともかく、判ったことが一つ。あまり考えたくなかったが、どうやらnのフィールドに関してはゼンマイ切れの他に何やら別の縛りもあるようだ。
 つくづく難儀なことである。
 これじゃ、マスターさん達が囚われているかも知れない、どころの話じゃない。こっちがこの世界に幽閉されてるようなもんじゃねーか。


 今後の方針やら協力の話についてはその後で、と蒼星石は言い、それで今日のところは解散ということになった。
 棚の上の洒落たレトロデザインの時計(多分親御さんが買って来たアンティークの一つなんだろう)を見ると、もう午後九時を回っている。良い子の薔薇乙女さん達はおやすみの時間帯であった。
 結局、決まったことは明日の晩に鏡を潜ることだけ。協力だの今後の方針だの、肝心なあれこれは繰り延べである。
 時間を費やした割に進展がなかったなぁと思うのは気のせいではない。これなら、蒼星石に話を訊くだけでも大して変わらなかっただろう。

 なんとも言えない気分でいる僕とは対照的に、金糸雀はいつもの表情に戻り、その場の全員に愛想良くおやすみなさいと告げるとさっさと自分の鞄の中に入ってしまった。翠星石はあまり機嫌の良くない顔でそれを見ていたが、明日も早いですからね、と自分に言い聞かせるような調子で呟き、ぞんざいにおやすみの挨拶をして鞄を閉じた。
 姉二人が眠りに就くのを見届けると、蒼星石は一つ息をついて僕を見上げ、ドアの方に顎をしゃくった。まだ何か打ち合わせておきたいことがあるらしい。
 気配で二人に勘付かれるのは判っていたが、なるべく静かに廊下に出、階段の前で蒼星石を抱き上げる。
 リビングからまだ人形どもの騒ぎ声が小さく聞こえて来る。悪い子のアイツ等にはおねむの時間も決まっていないらしい。
 只今絶賛名無し状態のお貞もまだ一緒にガヤガヤやってるんだろうか。
 この話が終わった時点で気力が残っていたら、名前選定に付き合ってやるからな。お前がまだ決めあぐねてたらの話だが。

 落ち着いて話せそうなところを暫し思案した結果、僕等は例の物置部屋に向かうことにした。
 照明は点けず、適当なチェストの上に腰を下ろす。小さな窓から漏れてくる月明かりだけが頼りの、如何にも密談向きの雰囲気だ。
 抱き下ろしたとき、薄暗がりの中で蒼星石の表情がいつになく緩んで見えたのは錯覚じゃあるまい。先程の問答はコイツにも結構な緊張を強いるものだった、ということだろう。

「お疲れ様」
「どう致しまして。そっちのが大変だったろ。翠星石の台詞じゃないが、こっちは好き勝手に喋ってただけだし」
「そうは思わないけど……ふふ、少し控えて欲しいところはあったかな」
「あいつを煽ったみたいになったのは悪かった。すまん」
「仕方ないさ。経緯を考えれば、挑発じみたことを言っていたのは翠星石の方だ」
「それもしょうがない、だろ。あいつ、理由は知らんが最初からずっと苛々してたから」
「──そうだね」

 その話にはそれ以上深入りしようとせず、蒼星石は僕の隣に腰を下ろした。
 黒い帽子を取って胸に抱き、ふぅと息をついてこちらの肩、というよりは腕に寄り掛かる。おい、さり気ない割に随分と大胆じゃねーか。
 改めてこっちからお疲れ様と言ってやると、どういうつもりかふふっと笑い声が返って来た。特段顔は覗き込まないが、表情は大分緩んでいるに違いない。
 不思議なもので、こうして姿を視界に入れずにいるとこいつが人形だという実感が湧かない。
 サイズは大分違ってしまったし、黙っていれば元のままの石原葵と混同してしまうこともないのだが、何というか形の小さな人間としか思えないのだ。同じような姿にトランスフォームした鋏の方は相変わらず人形というイメージしかないのに。
 以前の姿に慣れ親しんでいたせいで錯覚してしまうのか、そう思いたいという願望なのか。どっちなんだろうな。

「話を進めてくれて助かったぜ。なんか全否定されてお仕舞いって雰囲気だった」
「それぞれの立場と考えがあるから。僕と翠星石にしても……気付いたのはついさっきだけど、ね」
「利害が一致するから手を組めとか、部外者に指図めいた口出しされるのは我慢ならんてことか」
「乱暴な言い方だね……でも、当たってると思う」
「まぁ僕がマスターさんでマエストロさんだったら万事すんなり行くんだろうけどな。そもそもこんなことで悩む必要もなく、迷子の捜索に精出してられたろうさ」
「それは……うん」
「なにせこちとら、nのフィールドに入るだけでも大騒ぎの凡俗だからな」
「確かに、それだけでもう危険だ」
「オイ、自虐真っ最中なのにフォローなしかよ。地味にきついぞそれ」
「あはは……よくあることじゃないか、邪夢君の似非自虐モードなんて」
「ちぇっ。こういう時だけ同級生に戻りやがって」
「はは。……リスクが伴うのは凡俗だからじゃなくて、今の君だから、なんだけどね」
「……ほう」
「その件を話しておきたくて、ちょっと来て貰ったんだ」
「ほうほう」

 それなら別に皆さんの居る前で言っても良さそうなもんだが。
 暗がりに慣れてきた目でちらりと傍らを見る。蒼星石は片手で胸に帽子を抱いたまま目を閉じ、少しばかり窮屈そうに僕の肘の辺りに寄り掛かっていた。
 無防備な表情って訳じゃないが、照れもない。
 マスターの前だとこんな風になるのかね。僕の前では当然これまで見せてなかったし、漫画でもこんな顔はしてなかったような気がするが。
 それなら、こっちも少しは応えてやらねばなるまい。
 そろそろと腕をずらし、その小さい肩に手を掛けてみる。どうも窮屈な体勢になってしまうことに気付いて口を尖らせると、蒼星石は目を閉じたままふっと笑い、少しばかり意外なコメントをくれた。

「少し背徳的な感覚だね……マスターの腕に肩を抱かれるのは」
「そんなもんか? こうするのがジュン君らしいかなと思ったんだが」
「らしい、のかな……。判らない。僕はあまり長いこと一緒に居なかったから。でも、こうしてくれるのは嬉しいよ」
「……済まんな、抜け殻だけで」
「ふふ。……今抱いてくれているのは、どちらという扱いになるのだろうね」
「面倒臭いよな。こういうときの解釈って」
「そうだね、動かしてるのは邪夢君なんだから、腐れ縁の同級生に抱き寄せられてると取っておこうか」
「何とも有難い限りだねそいつぁ」

 ちぇっ、建前は逆だったんだけどな。薔薇乙女さんの推理にかかれば、こっちの頭の中など先刻お見通しって訳かい。
 恰好付かないこと夥しいが、いつもどおりではある。石原葵だった頃から、こいつに勝てた試しはないのだ。
 ぎゅっと力を入れてこっちに押し付けてやると、あはは、と蒼星石は笑ったが、そのまま頭を凭せ掛けてきた。
 いい雰囲気だなぁ、と思ってしまうのはこっちがこういうスキンシップに慣れてないからだろう。慣れているらしい相手の方は、すぐに真面目な声になった。

「問題があるのは、まさにそこなんだよ」
「なんだ唐突に……って、ああ」
「ここに出る前、君は本来の姿をした僕達を見た、と言っていたよね。薔薇乙女としての僕達、店に居た時とは違った服装になったマスター達……」
「今から考えりゃ、身体もアツシ君やら加納さんのままじゃなくてジュン君だのみっちゃんさんに変わってたんだろうな」
「恐らくは。nのフィールドとは本来そういうところなんだ。自分が強く認識していた自分の姿を取っているように見える場所」
「ふーん……っておい、それじゃ」
「うん」
「あの残念人形共、強制変身したばっかの姿の方を本来の恰好だと思ってたってことか……」
「はは……彼女達はローゼンメイデンに似た経緯の記憶を与えられていたから、元の実体とは違った自分の姿をイメージしていたのかもしれないね。それが今の形と合致していたのだろう。……ただ、問題というのは彼女達絡みのことじゃない」
「まぁそれは判ってる。このハイブリッドな状態がマズいんだよな」

 そうだよ、と答える声は、殆ど溜息のように聞こえた。

「恐らく鏡を潜れば、君は本来の姿を取るだろう。
 多分、大きな問題は出ないと思う。戻って来るところまで含めて、何事も起きずに終わるかも知れない。
 だが、君の身体はマスターの……ジュン君のものだ。そして、彼は恐らくnのフィールドの中に居る。そのことで幾つもの矛盾が生じるのも確かだ。
 確率は低いけど、大きな副作用が起きないとは言えない。
 翠星石が反対するのは当然なんだ。最悪のケースを考えると……」

 珍しく蒼星石は口篭った。
 言いたいことはなんとなく判る。最悪ってのは薔薇乙女さん達、とりわけジュン君と契約している皆さんに関して、って意味だろう。
 他人様である僕が乗っ取っているような状態の、この肉体がスポーンとどっかに行ってしまう……なんてことも起きかねない。
 翠星石にとっては、消えたら探せば良いって問題じゃない。マスターさんでありマエストロ様でもあるジュン君の帰る場所というか魂の座というか、そういったものがなくなるのだから。
 しかしまあ、なんだ。

「お前がリスクを呑んで冒険して、翠星石が二の足か。いつもと反対だな。いや、僕が知ってる範囲の話だけど」
「それだけ彼女は怖がっているのだろうね。彼を危険に晒すことを」
「……かもな」

 情緒不安定気味でやたら苛々してたのも、その辺が原因なら納得できる。その程度のことは鈍い僕でも判るつもりだ。

──でもな、お前だって焦ってんじゃないのか。

 こっちの愚にもつかないような提案に唯一人、一々肯定してくれたのは、それが積極策だったからだろう。
 蒼星石には積極的に探索の手を広げたい理由がある。マスター(現マスターのジュン君と前マスターの結菱爺さんのどちらも、意識はこちらの世界にない)と人工精霊以外にもう一つ、決して裏切ることができない理由が。
 他の二人との探索に掛ける温度の差はそこにある。多分、マスターやら人工精霊よりも、蒼星石の中では水銀燈と交わした約束の方が重いのだ。

  ──このローザミスティカは彼女から借り受けているもので、僕の所有物ではないんだ。

 約束を果たしたいってのは、自殺願望じゃあるまい。できるなら、彼女の手伝いをしたいんじゃなかろうか。
 翠星石と金糸雀には手厳しく反論されたが、少なくとも水銀燈は第42951世界に向かったはずだと僕は思う。蒼星石も同じだろう。
 悪口になりそうだが、こいつは遣り込められている僕に同情して肩を持ってくれるような奴じゃあない。水銀燈を追い掛けたいと思っているから僕の思い付きに乗り、自分の姉妹でなく僕を体良くネジ巻き役として指名したんじゃなかろうか。

 まあ、全ては憶測である。だがあまり酷く外しているとは思えない。そして、別に利用されて悪いとも思えない。
 但し、こいつが水銀燈に自分の命とも言うべきモノを渡すことは、僕にとってははいそうですかと受け容れたくない事柄である。
 ラノベの主人公のようにモテモテで鈍感で果断な人物ならともかく、こっちは凡百かつ未練の塊ってところだ。こいつがそんなことで僕等の前から居なくなってしまうのは容認し難い。
 何しろ、こいつは僕の──

「──やはり、怖いかい」
「……関係ねーよ。それは」
「そうか……。急に黙ってしまったから、怖がっているのかと思って」
「悪いな。ちっと別のことを考えてた」
「いや、勘違いしたのは僕だから。契約していれば、少しは心を汲み取れるんだけど」
「一々気にすんなよ。こっちのことなんか心配するようなキャラじゃなかったろ」
「……そうだったね」

 肩を抱いてる体勢にしては、色気のなさ過ぎる会話だ。
 本音は別として、肩を抱いてるのはあくまでも蒼星石の契約者さんだ、ってことにしといてやりたいんだが。ンな恰好だけの気遣いなんぞ、疾うに見破られてるよなあ。
 実際に契約してれば違うんだろうな、こういうのも。なんか深い所で共感してたりするんだろうし。ニュータイプみたいに。
 そっちは残念ながら僕には全く判らんし、死ぬまで理解できない感覚のはずだ。そういう素質がないのだから。
 致し方ないとはいえ、マスターさん達が羨ましい限りである。
 なお、あの人形どもと僕の間にそういう高尚な繋がりは一切ない。柿崎と黒いのの間にもないだろう(あれば今頃になって探し始めるはずがないよなあ)。
 まあアイツ等に思考を読まれて立ち回られたらそれこそ悪夢である。繋がりがないこと自体はむしろ喜ばしい。

──でも、もし。その相手がこいつなら……

 いやいやいやいや。こんな考えこそ、読まれていたらこっ恥ずかしい。
 なんとなく照れ臭くなって、思わず肩を抱く手に力が入ってしまったらしい。蒼星石が窮屈そうに身じろぎした。
 慌てて手を放すと、ふう、と息をつかれる。どういう意味だよ。
 呆れたのか、やれやれと安堵したのか。皆目判らん。そのくせ寄り掛かるのは止めてないし。
 確かジュン君は薔薇乙女さん達のあしらいが上手いと言われてたが、僕には結構長い付き合いのこいつとさえ息がぴったりとはいかない。やはり、凡俗には契約者さん、増してマエストロの真似は無理なのかもしれぬ。
 ただ、こっちとしては。

「ぶっちゃけ無責任に下駄預けてるんだ。薔薇乙女さん云々抜きでもお前が信用できる奴だってことはよーく判ってるからな。密度は薄いが、付き合いの長さだけはそこらのマスターさんより上だから」
「ふふ。持ち上げても何も出ないよ」
「翠星石の真似かよ。ま、持ち上げてる訳じゃないが」
「そうか……ありがとう。細心の注意を払うようにするよ」
「宜しく頼むぜ」
「うん、頼まれた」

 蒼星石はこちらを見上げ、にっと笑った。
 その顔が石原葵だった頃そっくりの、快活で屈託のない笑顔のように見えたのは、きっと月明かりだけの薄暗がりの中だったからだろう。



 居間に顔を出すと、人形共は騒ぎ疲れたのか大人しくなっていた。
 とはいえ、眠ってしまった訳ではない。全員部屋に揃っているもののしぶとく起きており、半数ほどがテレビの洋画劇場を眺めていた。残りの連中も思い思いにリラックスしている。十一時過ぎまではこのままずるずる居座るつもりだろう。
 直にお貞を呼ぶか、と中に入ると、分厚い月刊漫画誌をめくっていた赤いのがこちらを向いた。

「あらジュン、まだ起きていたの」
「うむ。ってかお前もそろそろ寝ろ。漫画なんぞいつでも読めるだろうが」
「そうも行かないのよ。明日から……」
「んー? 何かあんのか明日」
「な、何でもないのだわ。とにかくこれだけ読んでから」
「ったく、見え見えの言い訳とか、どんだけ漫画好きなんだよ。他の連中もほどほどにしとけ、特にのりさんの部屋に入り込んで寝てる奴等」

 うぇーい、と気のない返事が返る。テレビに見入ってる奴等はこっちを振り向きもせん。
 おい、そののりさんですらそろそろ課題を終えて寝る時間だぞ。お前等に睡眠の必要があるのかすら定かではないが、居候なんだから一応は家主様のリズムに合わせろや。
 ……とまあ、そんなことを言ったところでどうせ洋画劇場鑑賞組は番組が終わるまで動こうとしないだろう。他の連中も飽きるまではやりたいように過ごすに違いない。
 ここは素直に、家具類に被害が出ないと思われることを喜んだほうが良いやもしれぬ。
 ちなみに、実際ドタバタし始めると結構やばいのである。言い合いで済んでいる内は良いが、すぐに例の念力合戦になってしまうのだ。しかも、どういった理屈か残念ボデーだった頃より破壊力が上がっているという嬉しくないおまけ付きである。
 僕の家のように殺風景で碌に物がない空間ならまだしも、この部屋はジュン君の親御さんご夫妻が気に入ったというアンティーク物なんかも置かれている。
 客も碌に来ない家に置いてある辺り案外安い偽物で、壊しても問題ない物なのかもしれん。残念なことにそういうモノの鑑賞眼など欠片も持っていない僕としては、いざそういうことになったら怪しいというか危険そうな物は全て隔離、程度しか思い付かないのであった。

「まあアンタの螢光灯への愛情は本物だったものねぇ」
「しみじみ語るな。誰のせいで気を揉んでたと思っとる」
「誰かしらぁ? わかんないわぁ☆」
「やめんか、くっそ白々しい。ところでお貞の名前は決まったのか」
「まだですぅ」
「ふむ。明日の朝までとか言われたのに、お前はベトナム帰りの金次第で何でもやってのける命知らずな映画をのんびり見ていた、と」
「うー、だってぇ……フェイスマンかっこ良かったのですぅ」
「イケメンならここに居るだろうが、ここに」
「うわぁ……そこで自分の顔指してドヤ顔するぅ? キモッ」
「事実を示したまでだ。しかも将来どういう顔になるかまで確定済だぞ」
「事情を知っていると説得力があるだけに言い知れぬ違和感があるのだわ……」
「でもぉ、中身がこんなんだとそのうち人相もブサメンに変わってくんじゃないのぉ?」

 ぐぐぐ。必ずしも否定できんのが痛いところである。性格は顔に出るというしな。まあ、その伝で行けばお前等だって碌なご面相でなくなる寸法だが。
 とまれ、これ以上脱線を続けても、話題を変えてコイツ等全員を相手にしても旗色が悪くなるばかりである。取り敢えず寄って来たお貞を小脇に抱え、居間から撤退することにした。
 行き先は……ジュン君の部屋という訳には行かない。先に寝てしまった二人はともかく、蒼星石は今しがた部屋に向かったところである。
 密談に近いのだから物置部屋に逆戻りでも良いのだが、さっきまで蒼星石と二人で居た空間にお貞を連れて行くのはなんとなく気が進まない。結局、ダイニングを出て隣の客間に入ることにした。
 洋画劇場を見てる連中はともかく、暇そうにしていた黒いのやら漫画を読み終わった赤いのが聞き耳を立てるかもしれんが、別に構わん。どうせ用件はお貞の名前のことなのである。
 行儀悪く座布団に胡座をかき、お貞を低いテーブルの上に座らせる。

「で、ジニアとアルテミス、どっちにするか全然決められないのか」
「どっちも嫌ですぅ」
「そこでリスみたいにほっぺた膨らませてもなあ。他の連中はもう受け入れたのに、お前だけゴネるってのも良くないぞ」
「だってぇ……」

 お貞が愚痴るところによると、そもそも横文字名前は気が進まないらしい。自分の中ではずっと日本語名前で呼ばれて来たから、そこがまず嬉しくないのだと。
 といってもな。今回は他の連中も横文字名前であるし、元はお前等(ばらしーを除く。ちなみに、ばらしーは名前が被らないので薔薇水晶のままとされた。命名側の皆さんが面倒臭くなって一体分手を抜いたのかもしれぬ)全員メリケンさんの手によって作られたメリケン製人形ではないか。
 何故こんな零細工房製の人形が日本で大量に発見……された訳ではないが存在していたのか。そういえばこれも謎である。
 ただ、記憶を好きなように捩じ込めるマエストロ様が手を加えた代物である。世界中から掻き集めてきた可能性がないとは言えない。
 まあ、この辺りの詳しいことは店長氏というか「巻かなかった」ジュン君に尋ねるしかないんだろうなぁ。

「それに、お花の名前とか神話の女神様なんて、他の子の名前と合わないですぅ」
「ツートンのアプリコットってのは充分植物名だろうが。だいたい、ンなこと言ったらナイチンゲールってのはこれっぽっちも捻りがねーし、黒いのなんかクリームヒルトとかいう名前で、ご丁寧に剣まで名付けてたぞ。ばらばらもいいとこじゃねーか」
「手抜きや厨二病はほっとけばいいのです。そーせー……じゃなくてサファイアと合ってないって話ですぅ」
「ああ……まあ、確かに」

 コイツの双子の妹(と称しているが、実際は原型が同じだからクローンに近い)の鋏はサファイアという、これもちょっと誇大広告ではないかという名前に落ち着いた。ちなみに宝石とリボンの騎士の主人公のダブルミーニングなんだとか。結構な話である。
 まあジニア(ヒャクニチソウ)はともかく、よくよく考えればサファイアに対してアルテミスはないわな。響きは良いと思ったんだが。
 ちなみに赤いのはガーネットである。これも宝石(輝石)だが、本人形は和名の方に惹かれたらしく、随分御機嫌であった。
 何でも「向かい来る敵を指先一つで我が真名の如く無惨に滅するのだわ。北斗神拳継承者のように」とのこと。黒いのとは別の方向に厨二病的である。何のスイッチが入ったんだお前。
 まあそれは置いといて、どうしたものか。宝石か少女漫画の主人公……うーん。後者はとんと馴染みがないぞ。

「緑色の宝石はどうよ。一応イメージカラーだろ」
「……じゃーそれでいーです」
「なんだそのヤル気のなさは。なんかお前自身で名前候補は持ってないのか」
「翠星石はなんでもいーですぅ。ジュンが考えてください」
「今度は投げっぱか。後から文句付けてもぽんぽん別の名前出てきたりせんぞ。碌に宝石なんぞ知らんからな」
「文句なんか言わないです」
「ほんとかぁ? つーても緑なぁ」

 翠星石というのは気取った名前ではあるが、英語名だとJade。要するに翡翠であった。ちなみに蒼星石はラピスラズリ。どちらも美しい宝石だが、ルビーやサファイアなどに比べると少し使われ方が豪快というか、重量単価が安めの石である。
 うーむ。現在外見が蒼星石の全くの模倣品である鋏が、サファイアと名付けられたのが如何に名前負けか判ろうというものだ。青色1号とかで良かったのではないか……いやいや。
 それはそれとして。翡翠以外で緑色の宝石と言ったら、パッと思い付くのは一つしかない。
 これもまあ実態に対して過大な名前ではあるが。

「エメラルドでどうだ。姫様じゃないが、オズの魔法使いの舞台はエメラルド国だったし、ネームバリューならサファイアに引けは取らないと思うが」
「ジュンがそれでいいなら、いいのですぅ」
「全く……グズグズ言ってた割にゃあっさり決めやがって……」

 はーあ、と大袈裟に溜息をついてやる。こんなにすんなり受け容れるんなら、別に場所変える必要もなかったじゃねえか。
 もう一言何か言ってやろうか、とお貞の顔に視線を向ける。
 ぎょっとした、って訳じゃないが、僕の目に飛び込んで来たのは予想外の光景だった。
 お貞は、満面の笑みを浮かべてこちらを見ていた。細かいことに目には涙まで浮かべている。

──こういう仕種というか表情もできるようになったのだなあ。

 正直なところ、涙自体の意味より、そこに胸を衝かれた。

「……満足したか、エメラルド」
「はいですぅ!」
「ったく……」

 どっこいしょ、と腰を上げ、お貞改めエメラルドを抱え上げる。
 さっき抱いた蒼星石に比べて随分軽い。自力で動きまわり、表情がコロコロ変わりはするものの、こういうところはまさにお人形である。
 そのまま左腕の上に座らせるような姿勢にして、ちょいと剛毛な感じの長い巻き髪の感触になるほどこれなら髪型が崩れん訳だと感心しつつ部屋の外に出る。お貞……おっとメル子は妙に上機嫌で、結局ジュン君の部屋に着くまで終始ニコニコ顔だった。

 ベッドに潜り込む前、いつものように足許に座を占めるメル子に、おやすみメル子、と言ったら何故かえらい勢いで抗議されたが、僕はひらひらと手を振ってそのまま布団を被った。
 松本零士漫画の主人公の台詞(こういうことを言う奴は大抵虫の食ったジャガイモみたいな顔をしてる訳だが)ではないが、明日のために今日は眠るのである。特段の問題がなければ、明日は一日中忙しいことになりそうだった。



[24888] 第三期第八話 ドレミファだいじょーぶ
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:ea542047
Date: 2013/08/02 18:52
 〜〜〜〜〜〜 朝・桜田ジュンの部屋 〜〜〜〜〜〜


「ジューンー、地図開いて何やってるなの?」
「む、ツートン、じゃなかったプリ子か」
「プリ子……なんかまた短くされてるのぉ」
「アプリコットだからプリ子だろーが。あんまり長いと呼ぶのに不便だからな。まぁニックネームだと思っとけ」
「うー、名前まで効率最優先なんてエーベルバッハ少佐みたいなの。部下AとかBなんて味気ないのよー」
「なんじゃそりゃ」
「何でもいいのよー。それでそれで、何やってるなの?」
「下調べしとるんだ、今日回ってくる店の位置とかな」

 ツートン改めプリ子は買い物と聞いて途端に目を爛々と輝かせ、飛び跳ねんばかりの勢いで机の上に乗っかってくる。左側で良かった。右側だったらマウスが吹っ飛んでたかもしれん。
 そのままぺたんとお尻をつけ、PCのモニターを覗き込む。今、住所から検索したこの桜田邸の位置をズームしているところだった。
 こっちの世界にもオンライン地図サービスがあって良かった。名前やら細かい仕様は違っているのだが、ほぼ互換の類似品だと思えば使えないことはない。
 何せ全く土地鑑がない(というか家の外そのものが全く未知の世界である)ので、買い物に出るにも一々先に場所を把握しておく必要があるのだ。ズーム自在で航空写真と切り替えが利く地図がなかったら、ばらしーの如く住宅地図でも買ってくるしかなかった。

 本当のことを言えば散策しながら徐々に覚えるか、多少迷うのを覚悟でぶっつけ本番とばかりにチャリで走り回るのが正解だろう。
 しかし我等がマエストロサクラーダは柄にもなく徒歩行動に重きを置いていたようで、この家には彼用の自転車というものが存在しない。のりさんのものは彼女が通学に使っているので在庫はゼロである。
 かと言って、散策がてらぶらり旅をするには中学校の定期テストの期間という時期があまり宜しくない。
 昨日の巴ちゃんの訪問時刻からみて、午前の授業時間をテストに充て、午後は給食の後に掃除をして下校という日程だろう。部活動は無しだろうから、全校か全学年か判らんが中学生が一斉に街に溢れる訳だ。
 既に一年近く引き籠りを続けているジュン君である。後ろ指を差されるくらいは致し方ないが、ジュン君だと知って話しかけて来る生徒が居たら非常に厄介だ。是非ともそれまでに帰宅しておきたい。

 そんな訳で、プリ子を脇に侍らせつつ店舗の位置を確認する。
 コンビニ、スーパーマーケット、100均に本屋にレコードショップ。服飾関係は……ご本人の分についてはあまり気にしなくて良さそうだな。
 例の白くてまあるいうにゅーとやらを売っている菓子屋だの、住宅地の外れにあるでかい屋敷だのも粗方見当はついた。
 隣駅から遠くないところに中古PCを扱う店があったのはラッキーだったが、残念ながらドール関連の店は近隣に見当たらなかった。エプロンやら何やらは……まあ通販のお世話になるとしよう。
 そうそう、中学校と大学、それに市立図書館の場所も確認しておかねばならん。
 地図をプリントアウトし、マーカーでポイントして予定経路に線引きしてみる。実際に辿ったことがないのは気懸かりだが、今日のお出掛けについてはどうにか時間内に収まりそうだ。
 うむよしよしと頷いたところで、細く開けたドアの向こうから朝食を告げる翠星石の声が聞こえてきた。

「──二階の寝坊ども起きやがれです、早く来ないと全部片付けちまいますよっ」
「はーいなのー!」
「ったく、いちいち大仰な言い方しやがって……」

 内心ほっとしながら、口だけは毒づいてみる。少しはジュン君らしい物言いになってるだろうか。
 昨日の今日だからと若干心配していたのだが、どうやら取り越し苦労だったらしい。少なくとも声だけは常の翠星石と変わらない張りを持っていた。
 プリ子がひょいと机から飛び降り、どたどたと駆け出す。あんな軽い体重で何故こうもドタバタできるのか不思議に思いつつ、僕はパソコンの電源を落としてそれに続いた。


 〜〜〜〜〜〜 朝食後・桜田邸リビング 〜〜〜〜〜〜


「それでそれで? 誰を連れてくです〜?」「楽しみだなー」
「はーい! 行きたい行きたいのー!」「あなたは飛べないからだめかしら。いざとゆーときのために、ここは飛べる私を連れて行くべきかしら!」
「アンタ傘開いてふよふよするだけじゃなぁい。いざって時に高速飛行できる私の方が便利よぉ」
「あの……目立つことに変わりはない……と思います……ここは……甲賀隠密の術を体得した私が適任かと……」
「人混みの中なら誰でも同じことなのだわ。どうせバックパックの中で退屈な時間を過ごすのが関の山でしょう」
「それ以前に誰ぞ連れて行くなどと言った覚えはこれっぽっちもない訳だが」

 できれば外出するときまで黙っていたかったのだが、プリ子のリークにより情報は駄々漏れとなってしまった。メシの後、こともあろうに居間で大声で喋りやがったのである。のりさんが家を出た直後だったことだけが不幸中の幸いであった。
 案の定と言うべきか、人形どもの食い付きは良好であった。
 あの不自由な残念ボデーの状態でさえ、人目を憚ろうともせず放課後の高校に大挙侵入したような連中である。買い物、それもひと駅とはいえ電車に乗っての移動ともなれば、眼の色が変わって当然というものだろう。
 但し、こちらとしては人形どもを連れて行く気はない。
 細かく挙げていけばそれぞれについて原稿用紙一枚ずつくらいの論評を書く破目になりそうなので割愛する。要約するとどいつもこいつも大人しくしていそうもないからであった。
 赤いの改めザクロ、じゃなかったガーネットの言うとおりなのだ。大半の時間はバックパックなりバッグなりの中で黙って待機していることが求められる訳で、連中がそれに耐えられるとは思えない。
 ついでに言うと連れて歩くメリットも思い浮かばない。僕一人では捌き切れないような突発的な事態に対処できるほどのタマじゃないのは分かりきっておる。残念人形であった頃ならば護身用に持ち歩く手もあったかもしれんが。
 むしろ同行して欲しいのは──

「──僕達は無理かな、体格的に……いや、そういえば君達はジュン君に運んでもらったことがあったね」
「……ええ。翠星石を運んだのはのりでしたけどね。真紅と雛苺の二人分のバスケットを持ち歩くのは、体力無しのジュンにはきつかったみたいです」
「みっちゃんはカナを抱っこして歩くのを苦にしなかったけれど」
「愛の為せる業ってやつですよ、だいたい普通はドールを抱いて表を闊歩なんてしません」
「そこの黒いのは頭陀袋に入れられてたな、そういや」
「それはちょっと……豪快かしら」
「恵のやりそうなことです」
「はは……袋に入るにはちょっと大変そうだね、僕達だと」
「中に入れても袋詰めで移動は遠慮したいかしら……」
「あちこちぶつけられそうですし」
「巻かなかったジュン君みたいな、でかいリュックでも持ってればいいんだろうけどな」

 ぱっと思い付くのは、以前翠星石達が蒼星石の元マスターの家……薔薇屋敷に行った折に収まったというでかいバスケットくらいである。
 せめてチャリ移動なら荷台にバスケットを括りつけ、揺れるのを我慢してもらう手もあるんだが。いや、そこまで無理をさせるほどの意義はないわな。
 それに、皆さんにはそれぞれ昼間の仕事がある。
 金糸雀は例の巡回を続けているし、蒼星石は薔薇屋敷の庭の手入れを黙々とこなしているらしい。翠星石は急に増えた家族及び人形どものメシの支度やら細々とした家事やらの合間に蒼星石を手伝いに行っている。
 給料も出ないのに感心なことだ、と言っては失礼だろう。彼女達にしてみれば、それぞれのマスターに対して現状出来得る限りのことをやっているのだから。
 まあ、順路はだいたい覚えたし、大丈夫だろう。買い物に行くだけなんだから。
 ボロが出そうになったときはその場でなんとか対応を捻り出せばいい。生来そういう機転が利かない方なのは、この瞬間は忘れておこう。


 〜〜〜〜〜〜 第八話 ドレミファだいじょーぶ 〜〜〜〜〜〜


 暫くぶりの外出は楽しかった。見慣れた街でないのがちょっとした旅行気分さえ味わわせてくれる。
 季節も悪くない。秋真っ直中で寒くもなく暑くもなく、高い空は何処までも青い。ぶらつくには最高だった。
 これで体力が元通りで、小粋な自転車でもあれば時間を忘れてあちこち走り回ってたかもしれん。
 幸か不幸かジュン君の身体は疲労しやすく、自分の立場を忘れさせてはくれなかった。多少早足で歩いたせいもあるが、遠目に学校の位置を確認し、図書館の前を通り過ぎて最寄り駅に着く頃には(といっても三十分と経っていないのだが)足を止めて自販機のコーヒーで一服するほどだった。
 大丈夫なのかこれ。まるで老人じゃねーか。一年間の引籠り生活は伊達じゃあなかったってことか。
 いくら自宅近くで殆どの用向きが足りてしまうとはいえ、ここまで鈍りきっとるのは色々まずい。腕立てだけじゃなくジョギングを始めるか、妄りに外出するのがやばいってことならルームランナーでも買った方が良さそうだ。

「マスター……だいじょうぶ?」
「ああ、なんとかな。これから電車移動だから暫く静かにしとれ」
「了解ですっ!」
「阿呆、声がでかい」

 缶コーヒーを持ったまま、空いている方の手で、ぼすっ、と後ろ手に背中のナップザックを軽く叩く。鋏改めサファイアは返答の代わりにもそもそと動いてみせた。少なくとも拒否の意思を示したわけではないらしい。
 結局人形どもに何故か薔薇乙女の皆さんからの口添えまで加わり、籤引きで一体同行させることになったのだが、それがこいつになったのは良かったのか悪かったのか。
 従順で言いつけを守るのは悪くない。反面これといって知恵のある方でもないので、何か役に立つかと言われると首を振るしかないのも事実である。ついでに、常に行動したくて仕方ないというのも今回は悪い条件である。
 できれば翠星石に同行して貰い、昨日はどうにも噛み合わなかった案件をサシで落ち着いて話し合いたかった。先輩……いや金糸雀とでもいい。蒼星石でも。それぞれに訊きたいことは、考え始めればいくらでもありそうだった。
 まあ、それはそれ。要らん知識と同様に口数と好奇心の過多な赤いの──ガネ子であったり、到底落ち着きそうにないメル子だのうぐいすだのであったりするよりは扱い易いだけマシである、と思っておこう。

 隣の駅まで電車で三分。時間とチャリがあれば自分の足で行き来できる距離だよな、などと考える間もない。時間帯のせいかまばらな乗客の中で扉の近くに立ったままの味気ない移動である。
 それでも後ろの擬似蒼星石は、ザックの本体と蓋というか隙間から外を覗いて大分興奮した様子だった。一応言い付けを守っているつもりなのか、抑えた声で頻りに感嘆している。

 考えてみればこいつの性格付けはいまいち判らん。
 初見参のときは何やら良からぬことを考えていたらしいが、一方で僕のことをマスター呼ばわりし、喜々として他愛もない命令を遂行するところは、到底腹に一物抱えているようには見受けられない。妙に大人びた仕種を見せることもあれば、ツートン、じゃなかったプリ子のごとく素直で従順な子供っぽい面を表にしていることもある。
 裏表なんてものは誰にでもあるんだろう。しかしどうにも軸がぶれてるような気がするのだ。
 コイツ等の場合、性格付けを行ったのはあのドールショップの店長氏──「巻かなかった」ジュン君であるから、畢竟彼の手落ちか、あるいはわざとそうしたことになる。
 いずれ会うことがあったら、真意を問い質す必要があるかもしれない。質したところで納得できるかは保証の限りじゃないが。


 初めての駅で降り口を間違えてしまいそうになり、冷や汗をかきつつお目当ての中古PC屋に向かう。
 時刻は十一時を回っていた。初めての街だけに、もう少し余裕を見ておいた方が良かったかもしれぬ。
 幸いそれ以上迷うこともなく、駅前通りからほど近い横丁の店舗に辿り着いた。
 背中の怪奇自動人形が頻りにまだ喋ってはいけないかと問い掛けて来るので、店に客が誰も居なかったらな、と少々無茶な条件を付けて了承してやる。はいっ、とサファイアは良い返事を返してきた。

 まあ、流石に誰も居ないことはないだろう。知らぬが仏とはよく言ったものだ、などと考えていたが、本当に中古屋には客が居なかった。
 ついでに言うと思っていたより規模は小さく、そしてPCだけ扱っているわけでもなかった。
 今日日値下がりの激しいPC関連だけではやっていられないのか、中古のコレクターズアイテムやら玩具なんかも売られている。面積を比べれば、むしろそちらの方が広いかもしれない。
 それでも陳列棚二つをノートパソコンに割いているのは、それなりに売り買いされてはいるということだろう。
 もっとも、今時の売れ線だからか流通量が少ないからか、黒いのが欲しがっていた超小型は見当たらなかった。子供の頃見た覚えがある妙に横長の画面の骨董品はあったが、流石にインターネットで捜し物をする役目には使えない。
 代わりに、台湾だかどっかのメーカーが格安で出しているモバイルPCが棚の隅に置いてあった。
 僕が居た世界では、2008年の夏から秋くらい──二年半くらい前に出た型だと思う。動画見るには非力だが探し物程度なら何とかこなせる、所謂ネットブックというやつである。

「それにするんですか?」
「他にこれってのがないからな。つーかザック片側に寄せて前見ようとするの禁止な。不自然さバリバリだから」
「大丈夫だよ、誰も見てないから」
「……直接はな」

 残念なことに、この種の店舗は往々にして監視カメラが店内隈なく監視しているのである。両手フリーだし品物には手を伸ばしてないから、中身がずれたくらいに思ってもらえることを期待するしかない。
 目を付けられない内に買い物を済ませてずらかるとするか。
 改めてネットブックを眺める。元の世界の品物とどこか違いがあるかと思ったのだが、よくよく考えれば僕は現物を子細に検分したことはなかった。せいぜいキーボードのアルファベットやらひらがなの並び具合は変わってないなぁと確認できた程度であった。
 取り敢えず、スペックと価格を確認する。懐かしの我が家のオンボロPCよりも低性能なのは言うまでもない。
 二年落ち、しかも元値が格安だった割には、値札はちょっとばかし割高だった。しかしこれくらい小さければ……まぁアイツでもキーボードの端まで手が届かんことはあるまい。
 ジュン君、済まんな。ちょっとばかし大きな「負け」だが、必要経費という事で許していただきたい、と心の中で手を合わせてみる。
 イメージしたジュン君の姿は現在毎日鏡の中で目にする少年ではなく森宮さんの弟君であった。流石に自分に向かって謝るのも変なものだから、その辺もご寛恕願いたいところである。
 返すことができるならいずれ返却するから、と思いつつレジに向かおうとしたところで、背中の人形がごそごそ動き出した。タイミングの悪い奴である。

「んー、なんだ」
「マスター、あれ。左の方の棚……」
「ああ、玩具コーナーな。欲しいもんでもあるのか?」
「あのね、向こうの壁際の一番上の、こっち側」
「指示語ばかりで判らんぞ……どれどれ」

 その場で身体を捻ってみたが、サファイアの視界は後方半分、対してこちらは前方半分なのでどうも勝手が悪い。仕方なくそちらに回り込んでみる。
 玩具コーナーの隅、あまり人気がないらしい中古の食玩だの、揃い物でない(多分人気がないキャラクターの)フィギュアだのが雑然と並べられている中、僕の背丈では手の届かない一番高いところに、透明なガラスのケースに入れられてそれは鎮座していた。
 六頭身か七頭身。全高は人形どもと同じくらい──六十センチ前後。赤を基調にして、ブーツと胴回りに銀色のパーツをあしらった、ドレスというか鎧というかよく判らん衣装。長い白髪は赤いリボンでツーテールに纏められ、でかい三角旗を持って佇立している。
 見事な出来栄えのキャラクタードールだった。あんまり衣装がデカすぎて、ポーズ崩したら重さでヘナヘナになりそうにも見えるが、まあディスプレイされてる分には問題あるまい。
 しかしまぁこうして見ると、頭の小さいことよ。というより、人形どもの頭がでかいのだな。あまり気にしてなかったが、肩幅に比べて頭が大きすぎるかもしれん。アニメ体型ってやつか。
 それはいいとして、だ。

「見たことないやつだが、アニメキャラかなんかのドールだろ。これがどうかしたのか」
「ボクは覚えてる。これ、『暁のヴァンピレス』のアデライドだよ」
「へえ、知らんアニメだな。それとも漫画か? こっちの世界でも同じのがやってるって寸法か」

 ガネ子が聞いたら歯ぎしりして悔しがるに違いない。ヤツのお気に入りだった番組はかなりの率で放映されてないからだ。
 深夜アニメはそもそも知らんが、本人形曰く「コナンと金田一のないテレビなどただのモニターに過ぎない」らしい。
 いや金田一は元々やってなかっただろうが。てか何年前の話だよ。それとも「事件簿」でなしに八つ墓村とかのアレの方か。
 そう言いつつチャンネル争いでは仁義なき戦いを繰り広げるところがヤツらしいのだが、最近やたら漫画買って来いと五月蝿いのはテレビ離れにも原因があるのは間違いない。
 ちなみに、再放送を合わせると週に何回も放映されているほどの人気番組、例のくんくん探偵に関してはあまり好評ではなかった。僕が二度ばかり眺めたところでは、コナンと似たか寄ったか、あるいはもう少し凝った推理物に見えたのだが。
 まぁ二度ともガネ子は途中で犯人とトリックを言い当てていた(と、ツートン改めプリ子が口を尖らせて言いつけてきた)から、もしかしたらそっくりな内容の番組を既に見ていたのかもしれん。そりゃ見る意欲も失せるだろう。

 とはいえ、全部のテレビ番組及び漫画等、更にありとあらゆる物が似たような別物に変化しているのであれば、ガネ子にしてもまだ諦めもついたはずだ。
 皮肉なもので、少なくとも殆ど変わっていないものの方が多い。さっきのネットブックにしても、僕が見た範囲での変化はなかった。多分型番も同じだろう。
 ただ、同一の製品でもこちらに来る直前と寸分違わず同じもの、連載中の作品なら先週の続きがそのまま読めるという訳でもない。
 今回もその伝──というか、もう少しばかり特殊なケースだった。

「どっちも外れだよっ。同人企画なんだ」
「ふむ。また妙なところ突いてきたな。同人誌のキャラクターのドールねぇ」

 そんなもんが作られて、しかもこうやって中古で店頭に並ぶとは。
 しかもガネ子ならともかく、そういった趣味に強くないコイツが知ってるとは珍しいこともあったものだ。

「ただの同人企画じゃないから……」
「なんだそりゃ。大物でも噛んでるのか」
「大物って言うのかなぁ? 企画してるのは──」

 サファイアが口にした名前は、つい声を低くするのを忘れて、ほぉ、と感嘆の声を上げてしまうのに充分なものだった。
 慌てて声を潜め、なるほどな、と言いながらもう一度ドールを見る。元はスーパードルフィー辺りだろうか、すらりと恰好の良い体型だ。
 同人を企画していたのは、僕等の居た世界では「ローゼンメイデン」を描いていた漫画家だった。
 確かに、それならサファイアが知っててもおかしくはない。コイツ自身はともかく、黒いのとガネ子はそっち方面の情報収集に積極的だったからだ。
 柿崎は人形どものルーツを調べ上げようとしていたし、黒いのは黒いので、うちに殴り込みに来て一戦交えた後、エネルギー切れから回復するまでの間「しゅごキャラ」がどうのという話をひとくさりしていったことがあるほどだ。
 元々黒いのとコイツの仲は悪くない。共謀して何やら悪さを企んでいたほどである。そっち経由の情報で、コイツがあの漫画家の他作品に詳しくなっていても驚くには当たるまい。
 それはそれとして、同人の企画ねえ。

「いくらドール好きの有名漫画家の企画って言ってもな。ドールまで売り出すほど売れてたら、逆にどっかがアニメ化とかコミカライズとかやらかしそうなモンだが」
「うーん、向こうではドールは売ってなかったと思う……」
「じゃ、誰かが自作したやつってことか」
「その可能性もあるけど……あ」
「どうした」
「こっちの棚見て。背中の方、えーと、五時の方向、中段右」
「なんだ、今度はやけに細かいじゃねーか」

 振り向くと、こちらはショーケースの中に揃い物のフィギュアが並んでいる。売れ筋なのか、さっきのドールが並んでいた棚とは違って作品別に小奇麗に整頓されていた。
 店側の正直な気持ちを表しているようで何とも言えない気分になりつつ、指示された辺りに目を遣り、僕は思わず眉間に皺を寄せた。
 あのドールと同じ衣装のフィギュアが、同じ旗を持ったポーズで立っている。
 同じシリーズと思しいフィギュアがそれを取り巻くように並んでおり、その前には店が書いたと思しき手書きの説明書きが添えられていた。

 ──放映終了からそろそろ二年、漫画はまだまだ継続中!『暁のヴァンピレス』、定番ポーズの吸血姫全五種類をまとめて! 美品2セットのみ早い者勝ち!

 なるほどな。
 向こうじゃ同人だったが、こっちではアニメ化されてる人気タイトルってわけだ。もしもドールが市販された品物だとしたら、当時の人気はかなりのものだったってことだろう。
 女の子向けなのか──いやいや、いまどき日曜朝の番組ってことはあるまい。当然深夜アニメだ。まるであの番組のように。
 いや、それどころか、多分放映日時やら放送局まで同じなのだろう。

 だから何だ、という話ではあるのだが、僕は一分ほどの間、その場から動くことができなかった。
 今まではっきりと認識していなかった何かが、何処かを刺激し始めている。
 幾つかのものが入れ替わっているだけで、この世界は案外僕等のいた世界に近い。そして同時に、思っていたよりもずっと遠いんじゃないか──そんな根拠のない想像が、頭の中で回り出していた。
 考えてみれば、それ自体だからどうしたという事柄ではある。遠かろうが近かろうが、自力ではこの世界から抜け出せない(同時に脱出する方法を持った知り合いの居る)身分の僕には然程違いがある訳ではない。
 しかし、その得体の知れない不安のようなものは会計を終えて店を出てからもまだ、意外なほど手酷く、僕の足りない頭を引っ掻き回し続けた。
 帰り道、寄る予定だった店を忘れずにいたことが信じられないほどだ。ハンカチを買うつもりが間違えてフェイスタオルを買ってしまったことくらいは許して欲しい。


 〜〜〜〜〜〜 午後・桜田ジュンの部屋 〜〜〜〜〜〜


「ほれ、クリ子。お前だけ先ってのも贔屓っぽいが、例の頼まれモンだ」
「あら、気が利くじゃなぁい……ってクリ子って何よぉ。クリームヒルトって呼びなさいってば」
「クリームなんちゃらだからクリ子で良かろう。ニックネームだと思っとけ」
「あっそ。ま、貰える物は有難く頂いとくわぁ」
「礼はスポンサーのジュン君か、のりさんにでも言ってくれ。何か知らんが結構なお値段だったぞ」
「ふぅん……そんなに値の張るもんなの? これって。よくわかんないわぁ」
「元値が高いからではないの? 古物半値の五割引きという言葉もあるのだわ」
「それは意味が違うだろーが」
「今時中古の価値なんてそんなもの、という意味では真理なのだわ」
「つーてもな。四倍どころか、今日の値札を倍したら軽く新品の値段を超えちまうぜ」
「あら、それは意外ね」
「ねぇねぇ、立ち上げてみてもいいわよねぇ? もう私の物なんだしぃ」
「あー、ちょっと待て」

 テンションの高まっているクリ子を制し、ついでに買ってきた有線LANのケーブルを繋いでやる。
 電源コードの方は、と見ると、既にガネ子が(常日頃のヤツの態度からすると)驚くべきヤル気を発揮して接続していた。なんだかんだ言って興味はあるらしい。
 そんなに目新しいものかねぇ。ジュン君のデスクトップの方が余程性能もいいし、そのネットブックでできることは(持ち歩くこと以外)全てできるんだけどなぁ。
 まあ、サービスで小型マウスも繋いでやるか。あのサイズの手でどうやって操作するかは別として。
 連中のサイズ基準では巨大な、ツイスターゲームでもやれそうなキーボードの前に陣取ったクリ子とガネ子に他の連中も加わり、人形どもはネットブックを囲んでぎゃあぎゃあと喧しく騒ぎ始めた。無駄に仲の良いことである。
 クリ子だけ先に要求品を支給されてずるいだの、自分たちの分はまだかだのといった文句が上がらなかったのは、モノが人形どもには縁の薄い品物だからか、あるいは個人形用としては大き過ぎるサイズのためか。どっちにしても幸いであった。

 やれやれと肩を竦めていると、お疲れ様、と苦笑混じりの声が部屋の入口の方から聞こえてきた。
 振り向くと、蒼星石が扉の陰から顔を覗かせていた。薔薇園の手入れを午前中に切り上げ、昼食後は階下で寛いでいたはずだが、開け放したまま煩くしているのを聞きつけたらしい。
 わざとらしく、どうぞ、と言ってやる。蒼星石は苦笑しながら一礼し、行儀悪く胡座をかいている僕の隣にやってきた。

「ネットブックか……」
「非力だしちょいと大きめだけどな。他に選択肢がなかった」
「いや、調べ物をするには丁度いい品物だよ。それにしても彼女、凄いね。当たり前に起動させて使ってる。翠星石より慣れてるかも」
「まぁ所詮柿崎仕込みだから、どうせ大したことは出来ないだろうけどな」
「恵が……ということはあのビスクドール姿の頃から?」
「おう。両手っつーか両腕の先でタイプして、自前で手紙書いてたんだぜ」
「驚いたな。そういえば、そんなこと言ってたね……」

 ふふ、と笑い、蒼星石は適当な箱を引き寄せて僕の脇に腰を下ろした。
 ぴったり寄り添った訳ではなく、ごく自然に間が空いている。意識してしまうと現金なもので、昨日みたいな位置じゃないのが残念だった。

「彼女に記憶と動力を与えたマスターも、こんな姿は予想してなかっただろう」
「そりゃあ、まさかあのオンボロ人形にくだらん知恵を付ける奴が居るとは思わんだろ」
「でも、彼女に知恵の種……好奇心を与えたのは彼だよ」
「流石はマエストロ様、ってところか」
「……うん。少し暴走気味だったのかもしれないけど」

 なんだよ、やけに優しい目をするじゃねぇか。
 当たり前ではあるんだろうが、どうも引っ掛かるのだ。もちろん蒼星石の態度に不審を抱いてる訳じゃあない。
 いま蒼星石がマスターと呼んだのは、中学生のジュン君ではない。こいつが直接契約したのは「巻かなかった」方のジュン君──つまり、塩入とかいう偽名でドールショップを開いていた方である。
 漫画では有耶無耶の内に契約相手は中学生のジュン君の方に変わってしまっていたが、実際はどうだったのか詳しくは聞いていない。案外まだ「巻かなかった」ジュン君がマスターなのかもしれない。
 どっちにしても、蒼星石がごく短期間とはいえでっかい方のジュン君と契約していた過去があるのは間違いない。その当時を懐かしく思い返すことがあっても当然ではある。

──まぁ、嫉妬しているだけなんだよな。判ってる。

 ま、そっちは置いといて、彼が遣り過ぎってのはよーく判っとる。お陰でこっちは振り回されっぱなしだ。
 人形が潰し合ってるのを見せるために人工精霊の破片を入れ込んだ、ってのはまぁいいとして、ここまで極端な性格付けする必要はあったのかね。全員脳天気な、ぶっちゃけギャグキャラじゃねーか。
 案外、何か裏がある、とかな。
 皆さん方、とんでもない内容の割に結構あっさり受け入れた訳だが、彼の語った人形どもへの工作の一部が出任せだったとしてもおかしくない。何しろ、全ては検証しようがない内容なのだから。今のところは。

「冴えない顔だね」
「そりゃ元から……いや、人形どもが言ってるみたいに素が出てきたんだろ、ジュン君の顔に」
「それは良くない兆候だ。本当だとしたら」
「妙なトコで真面目になるなよ。今のところは冗談だから安心しろ」
「ふふ」

 判ってるさ、と言われたがどんなもんだか。知ってるか? 今のお前の顔でマジになられるとちょっと怖いんだぞ。
 美人すぎるというのも良し悪しである。ローゼンさんの美意識は僕とは相容れないのかもしれん。
 それじゃあRosen工房さんの方に近いのか、と言われたら、それはそれで全力で否定したいが。
 このままでは表情が益々冴えなくなりそうなので、話を元に戻す。

「そういや、中古のネットブックのくせに結構なお値段だったが、あの機種はそんなに人気あったっけか」
「さあ……人気はあったと思うよ。幾らだったの?」

 値段を言ってやると、蒼星石は片手を顎に遣った。軽く頷いて、そういうものだよ、と笑う。

「詳しい相場は通販価格の一覧サイトで見れると思うけど、妥当な額じゃないかな。まだ発売されたばかりの機種だから」
「出たばかり、だって?」
「うん。まだ数ヶ月ほどだろう。初代の、あの画面が小さいタイプが売りだされたのが……そう、今年の年初めくらいだからね」
「今年なのか……」
「この後、同じような性能のネットブックが沢山の会社から発売されることになるんだよ。そしてノートパソコン全体に低価格化が進む。二年半くらい後には、今の倍くらいの性能のCPUが搭載されたものが主流になっていたよね」
「……そうか、そうだったな」

 どうしたの、とこちらを見上げる蒼星石に、なんでもねえよ、と言ってみる。もちろん口だけだ。表情が本日一番冴えてないのは間違いない。
 なんでもない訳じゃないが、心配されてもどうしようもない。
 帰る道すがら延々と燻っていたものが、またちろちろと小さな炎を上げ始めた、とでもいうのだろうか。こちらに来てから数日以上、何故か殆ど意識して来なかった点に、改めて気付かされただけの話だ。

 この世界はやはり、僕の居た世界とよく似ていて、そして決定的に違っている。
 それは時間のズレやらテレビ番組の編成の違いだけじゃあない。キラキーさんというバケモノじみた巨大な存在によって積極的に手が加えられているか、そうでないかが根本的に異っている。

 今はまぁいい。二つの世界の違いに辟易するのも楽しむのも些細なことだ。
 しかし、雪華綺晶が誰かに倒されてしまったら、あるいは他の理由であの世界が彼女のコントロールを離れてしまったら。
 あの世界にキラキーさんが加えた手の痕跡はそのままなのだろうか? それとも、イレギュラーを嫌うという世界自身の意思によって、綺麗サッパリなかったことにされてしまうのだろうか。
 あの漫画やアニメは、そのファン達は。帰ったとして、そこは僕が知っていたあの世界と同じ場所だと言い切れるだろうか?
 そして首尾良く帰れたとしても、なかったことにされてしまったとき、僕等の記憶はどうなってしまうのか。
 記憶を消されて、あるいは改竄されて、僕は僕だと言えるのだろうか。
 いや、今までの記憶が改竄されていないものだとどうして言い切れる?
 根拠は、キラキーさんは僕のようなモブキャラ以下の存在にそんな手間の掛かることをしないだろう、という高を括ったものだけである。逆に、周囲には十数件もの改竄の実例があるのだ。

 ネットブックに群がっている人形どもにぼんやりと目を遣る。改竄された最大の例、と言ってしまっていいだろう。
 アイツ等は自分達に何の疑問も持っていない。人形だからだ。この点、実にシンプルである。
 視界の隅で、蒼星石が前を向く。
 彼女も偽りの記憶を入れ込まれた一人だ。少なくとも「巻かなかった」ジュン君の説明ではそうなる。
 自らも人間の記憶を操作できる彼女は、どう考えているのか。悩んでいるとすれば、薔薇乙女であるという誇りか何かが、前向きになる芯になっているのか──

「──不安かい」
「まあ、そりゃな」
「ふふ。nのフィールドに入るって言い出したのは君自身だよ」
「……そーなんですけどね。悪かったなヘタレで」
「いや、その方が君らしくて安心するよ」
「僕らしい、ねぇ……」

 まあ、そうだわな。
 何処まで行っても僕は所詮僕である。改竄されているとしても、間違ってもその前身がスーパーヒーローだったりはしまい。
 現にこうして、かつての同級生の見当違いの一言で気分が軽くなるのだから。つくづく単純なものである。

「まぁ一応元気付けられたと取っとくぜ。ありがとな」
「どういたしまして。よく判らないけど──」

「──あー、なんか変な表示出たのー!」
「アンタ無駄なポップアップクリックしたでしょ! それ広告だからって言ったじゃなぁい!」
「ううー、悪気はなかったのかしら、面白そうだったからつい動かしただけで……」
「やはり鼠係は私に任せるのだわ」「ええー? 勝手に動かしてたから役目御免になったんじゃないか」
「字ばっかりで退屈ですぅー、もっと動画見たいですぅ」「……事故動画は……もう結構です……」

「チームワーク最悪だなあいつら」
「楽しそうで何よりさ」
「いや、それじゃ拙かろう、流石に……今なんか変なリンク踏んでたし……」

「あら、画面が動いてないのだわ」「カーソルが砂時計のままかしらー」
「ジューン! 固まっちゃったわぁー」
「修理班召集ですぅー!」「えーせーへー、えーせーへー!」「それはちょっと違うんじゃ」
「ああもう、何踏んだんだよお前等っ」

 記念すべきかもしれない、恐らくこの世界初の自律人形達によるネットブックの使用は、ものの三十分と持続しなかった。
 僕と蒼星石に、騒ぎを聞いて上ってきた金糸雀(先輩は何気に結構詳しかった)の手も借りて復旧に努めたものの、結局リカバリを走らせるしかなかった。再度使用可能になったのは夕食前のことであり、取り敢えずクリ子は本日の使用は中止すると宣言したのであった。

 夕食時、のりさんは非常に嬉しそうだった。
 いつもありがとう、と書いた紙(筆跡が真似できないので印字したもので恐縮であったが)を付けて勉強机の上に置いといたフェイスタオルが気に入って貰えたのなら幸甚である。
 僕等全員、彼女にはどれだけ感謝しても、謝罪しても足りないと思う。──とはいえ、ジュン君であれば死んでもやりそうにない事柄かもしれん。そこはひとつ、大目に見て貰いたい。



[24888] 第三期第九話 薔薇は美しく散る(前)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:1d0c3480
Date: 2013/09/22 21:48

 〜〜〜〜〜〜 夕食後、桜田邸・洗面所 〜〜〜〜〜〜


「サファイア、敵情を。エメラルドは皆の持ち物を確認なさい」
「ヤー・サー」
「ほらほらー、ちゃっちゃと袋から出すですよっ」「うぃー」「これだけたくさん持ってきたから忘れ物なんてないかしらー」
「何ちんたらやってんのよ、置いてくわよぉ」
「暫く待つのだわ。団体行動とは手間の掛かるものなのよ」
「──大丈夫。マスター達まだ部屋に居るみたいだ」
「そう。では早急に出立するとしま……」
「あーっ、これ昨日食べ損ねたクッキーなのぉぉ」「なんですってぇ、ちょっとアンタ何ガメてんのよ」
「やけに少なかったと思ったらそういうからくりですかっ」「な、長丁場になるなら腹ごしらえが必要だと思ったかしら……」
「だからって独り占めはズルすぎですぅ」「お仕置きが必要だよねこれって」「テンチューなのぉ」「ピェェェー……」

「……本当に、とことん手間の掛かるものなのだわ……」


 〜〜〜〜〜〜 桜田ジュンの部屋 〜〜〜〜〜〜


 何やら階下からドタバタと騒ぐ音が聞こえて来る。どうせ八時からの番組のチャンネル権争いであろう。こっちの気も知らんと脳天気な人形どもである。
 無駄に防音機能の高いドアを閉め、さて、と部屋の中を見回す。
 部屋の備品というか、恐らく真紅のためにジュン君が通販で買ったのだろう丈の低い卓袱台を囲んで、お三方が座っている。
 改めて考えると奇妙な風景だった。つい先日まで同級生や知り合いだった人が、半分ほどの背丈になってちんまりと集っている。
 どれだけ人間に近いといっても、薔薇乙女さん方はドールだ。これまでさして違和感なく接してきたのは、残念人形どもと数カ月も過ごしてきたお陰でスケール的な、あるいは人形が勝手に動いて喋ることのあれこれに関して耐性が付き過ぎているからに違いない。
 ジュン君と入れ替えられてしまったのは、そういう点で入れ替えても問題が少ないと見られたからなんだろうか。判らん。
 いずれ機会があればキラキーさんに訊いてみなければいかん、と思いつつ床に腰を下ろす。

「──やっぱり時間で区切りをつけて欲しいです。そうでないと何かあった時に……」
「ネジが切れるときまで粘らなければ邪夢君に同伴してもらう意味がないよ」
「そりゃそうですけど、万が一何かあったら……取り返しがつかなくなっちまうです。邪夢を連れてくだけでも大変ですのに」
「ピチカートだけでもここにいれば、連絡させることが出来るのに……」
「それはもう何度も聞いたですよ。人工精霊が居たらどんなに捗るかなんてみんな判ってます」
「そうね……無い物ねだりだったかしら」

 どうやら翠星石の仕切り屋に似せた我儘というかゴリ押し気味な態度は昨日のまま変わってないらしい。
 昨日は専ら矛先を向けられる役だったからそれどころじゃなかったが、こうして見ると相当焦っているように思える。
 残るお二人の方は対照的だった。蒼星石は一応指摘する分には正面から向き合う姿勢でいるものの、金糸雀は受けるというより流している。
 一方、当の本人は調子を変えようとしていない。何やら空周りが目立ってしまっていた。
 焦って当然ではあるんだけな。自分のマスターさんの中に別人が入り込んでて、肝心のマスターさんの意識は行方不明なんだから。
 ただ、焦ってもしょうがないと残りの二人が見切っているのに、翠星石だけがバタバタしている理由はイマイチ判らない。
 性格なのか、それとも何か特殊な事情があるのか……あ、恋愛関係なのか? やはりジュン君を一刻も早くって気持ちが大き過ぎて……そいつも大いに有り得る。
 一刻も早く探したいが、肝心のジュン君のボディに危険を冒させる訳にも行かない、ってか。それならば苛々するのも無理はない。

「念の為に持ってくくらいお安い御用だぜ? 腕時計はないらしいが、枕元の目覚ましでも。あの不思議時空の中でも時計が動くんなら、だけどな」
「時計がなくても私達は時間を知ることが出来ますけど……」
「何があるか判らないもの、持って行ってくれると助かるかしら。大丈夫、機械式の時計は時を刻んでいたわ」
「了解っス」
「くれぐれも時計を過信するなです。正確に動いてくれるかは判らないのですから。食い違っていたら蒼星石に従うのですよ」
「そいつも了解。まあ、無いよりゃマシだろ」
「後は連絡する役がいれば万全かしら」
「全然万全じゃないですけどね。やっぱり私か金糸雀がついて行くのが……」
「それは断ったはずだよ。どちらかと言えば二人に待っていてもらう方が安心できる」
「で、でも──」

 なんだ、また堂々巡りか、とうんざりしかけたところで、ドアの近くから意外な声が割り込んだ。

「──その役……私が務めましょう……」


 〜〜〜〜〜〜 第九話 薔薇は美しく散る(前) 〜〜〜〜〜〜


 ここで新ヒロイン登場、であれば漫画か何かならさぞかし盛り上がったところだろう。この場に未だ顔を見せていない薔薇乙女の誰かであれば興奮は最高潮だったに違いない。
 例によって現実は散文的というか、ごくありきたりなものだった。

「ぬお、居たのかばらしー。居間でテレビ見てるとばかり」
「部屋の隅で本読んでました……」
「気付かなかったわ。このカナの目を欺くとは凄い技かしら」
「ふっふっふっ……実体を見せず忍び寄る白い影……です。……ぶい」
「やめい。この状況で科学忍者隊の口上は流石に洒落にならんぞ」
「あぅ……すみません」
「まあまあ、怒らなくてもいいかしら。貴女はnのフィールドに出入りしたことがあるの?」
「……鏡抜けなら、何度か……」

 そういやそうだったな。
 うちに来るときは歩きだったが、少なくとも残念人形どもに連れられてうちの高校に観光に来たときは鏡抜けを使ったという話だ。
 思えばあれがこのゴタゴタのもうひとつの発端だった。石原美登里──翠星石に呼び出されただけなら、例のドールショップに立ち寄ることなど思い付きもしなかったはずだ。
 それは置くとして、あの鏡抜けの特技はnのフィールドを利用した行き来だった訳だ。当時人形どもが動いていたからくりやら、ばらしー自体の製造というか改造の経緯を考えれば頷ける話だった。
 いやしかし待て。あの時は人工精霊の欠片が埋め込まれていたが、今のコイツ等は何を動力源にしているのか判らん状態である。鏡抜けのからくりは人工精霊のパワーだったってオチはなかろうな?

「大丈夫です……試してみました……みんなで」
「なんだと、何時の間に」
「皆さんがお休みになってから……洗面台の鏡からこっそり……多分今も……」
「ちっ、試すなら一言言ってからにしやがれってんだ。しかも何も今日やらんでも」
「……一昨日から毎日です」
「……なんてこった」

 コイツ等が宵っ張りなのは知ってたが、まさか夜な夜な遊びに出掛けてたとは。訪問先で阿鼻叫喚の地獄絵図が……と、それはないのか。僅かな慰めだな。
 しかし物置部屋にでかい鏡があるのに、わざわざ洗面台かよ。僕の家じゃあるまいし。
 まあ、何処から出撃しようと構わんが、頼むから窃盗その他の犯罪を犯すことだけはしないでくれ。お兄さんとの約束だ。

 微妙な空気が流れる中、蒼星石がばらしーの顔を覗き込む。

「君は、何処の扉に戻れば何処に出るか、感知できるのかい」
「はい……凡そは……。黒いお姉様や青いお姉様達よりは……確実だと思います」
「クリ子は最初の頃、襲撃に来るのに毎回迷っとったからなぁ」
「青いお姉様と緑のお姉様は……全然無関係のおうちに……」
「うむ。そのお陰で無辜の市民に精神的大損害を与えた。返り討ちでサファ子も見事にバラバラにされたが」
「ばれんたいんのチョコ……渡して……チャラにしたと言ってました」
「なぬ。あの板チョコはあいつの所に持ってったのか……いや、それはどうでもいいんだが」

 いかん。真剣な場面だというのに、人形どもが絡むとどうも脱線ばかりになってしまう。
 ばらしーのマイペースさは伝染しやすいのである。特に僕のようなフラフラした奴には。
 翠星石の視線が実に冷たくなっておる。取り敢えずこれ以上話をこじらせないよう、ばらしー共々暫く受け答えだけに専念することにして、お三方には話を本題に戻してもらった。

 ぶっちゃけ、本人形が言うほどばらしーがしっかりしているとは思えない。
 他の人形どもよりは数段素直かつ有能(僕の家を自力で探り当てる程度には)とはいえ、ばらしーは所詮人形だ。トランスフォームした際に見た目が派手なだけの能力を身に付けたのも、それが普段の生活に何の役にも立たんことも他の連中同様であった。
 ついでに言うと、こっちとしてはばらしー以外の人形を小脇に抱えて行く方が気が楽なのである。
 今晩の遠足に危険が伴うなら尚更同行させたくない。素直な子だからなるべく辛い目に遭わせたくない、というのもまぁあるが、大きな理由はその来歴にあった。
 今はなんとなく僕の所持品という扱いになっているようだが、ばらしーは元々サイカチが目玉の飛び出るような額を支払って購入したドールなのである。もっとも、金と時間をたっぷり掛けられたそのボディは既になく、遥かに高性能なガタイに変化……というか乗り換えたというか、そんな形になってはいるのだが。
 ともあれ、以前のようなお客さん扱いはしてないものの、こっちとしてはあまり手荒に扱う訳にも行かないのである。出来うればこの姿のままサイカチの手に返してやりたい。となれば、幾つかの意味で多少粗略に扱っても良さそうなガネ子やらプリ子辺りの方が、何の役に立たなくとも持って行くには気楽なのであった。

 揉めるか意見を求められたらそんな話をするつもりでいたのだが、幸か不幸かその機会は訪れなかった。
 何故か蒼星石はばらしーを同伴させることにえらく乗り気で、その後の会議というか話し合いはそれが前提のまま、えらくあっさりと進んだのである。
 ばらしーが気に入られた理由はよく判らん。ただ、これまで一週間近く一つ屋根の下で暮らしてきた各人形の性格を蒼星石が把握しているなら当然の反応かもしれない。
 天然ボケが発揮されるのか茶目っ気を出すのか、たまに妙な行動を取ることはある。しかしそれを割り引いても、人形どもの中で無難に「お仕事」をこなしてくれそうなのはばらしーだけであった。他の連中のレベル、推して知るべしである。
 自ら赴く蒼星石が前向きとあってか、他のお二人も表立った反対は唱えなかった。
 翠星石はあまりいい顔をしなかったが、連れて行かないよりはマシだと自分自身を納得させたようだった。金糸雀も幾分冴えない表情ではあるものの、自分が言い出した連絡係をどうにか務められそうだと思ったのか、小刻みに何度か頷いて同意を示していた。
 何やら気圧されているようにも見えなくもない。それは大分穿った見方かもしれんが、昨日に続いて話し合いを蒼星石が仕切っていることは間違いなかった。

──ひょっとして二人にとっては、蒼星石がこんな風に仕切ること自体意外なんだろうか。

 ふとそんなことを思う。
 石原葵としての蒼星石しか碌に知らない僕にとっては特に感慨はない。クラスメートとしての葵は普段それほど出しゃばって発言する方ではなかったが、言うべきことははっきり言う方だったし、必要なら(指名されたりすれば)クラスの音頭を取ることもないではなかった。
 ただ、それは姉妹といたときの蒼星石にはない姿だったかもしれない。金糸雀にとっては、言い方は悪いが彼女は何処までも双子の妹の片割れであり、翠星石にとっては自分の半身のようなものだったろう。
 キラキーさんを除く姉妹六人揃った時には、音頭取りは水銀燈か真紅がやっていたんだろう。あの店で垣間見せたように──

 あれこれ考え始めたとき、その蒼星石の素っ気ないほどあっさりした宣言で、短い話し合いは終わった。

「──そろそろ始めようか」
「あいよ」
「……はい」

 結局こと細かな確認まで含め、会話は全て薔薇乙女さん達の間の意見調整のようなものであり、僕に話が振られることはなかった。ばらしーに対しても、念押しで一度だけ同行の確認があったきりだった。
 まあ、だからどう、ということはないと思うのだが。
 腰を上げ、さて持って行くか、とベッドの上の目覚ましに手を伸ばす。時刻を見ると、午後八時を回ったところだった。
 ばらしーが同行を申し出てから十分かそこらしか経っていない。話し合いといってもその程度の内容だった。


 物置部屋に降りて行くと、既に人形どもの気配はなくなっていた。
 その代わりに洗面所のドアが半開きになっている。ばらしーの言ったとおり、今日は僕等の起きている内から行動を開始したらしい。とことん勝手な連中である。
 ばらしーだけ連れて行かなかったことに何やら不穏な理由がありそうな気もするが、それはまたお互いに戻ってからのお楽しみとしておこう。

 薄暗い中、でかい鏡に向かい合う。弱い逆光の中、イケメンになることが予定されている可愛い系入った中学生が立っており、数歩後ろに小さな女の子達が並んでいる様が映し出されていた。
 映画みたいだな、と思ってしまうのは左右反対になっているせいだけではあるまい。慣れてきたとはいえ、この物置部屋、いや桜田邸の家屋自体が僕の感覚では日常よりも映像作品の方に近い雰囲気を持っていた。
 ばらしーがとことこと歩み寄り、ちょんちょんと鏡に触れる。鏡抜けできるかどうか試しているつもりなのだろうか。
 僕もつられて鏡面に手を触れてみたが、冷たい平面ガラスの感触しかなかった。中の人にマエストロパワーがないからなのか、あっても無理なのかは知らんが、僕単独でこれを移動手段に使うことは不可能らしい。
 蒼星石はこっちが何を考えているか読んだように苦笑すると、僕の脇に並び、小さな手を鏡面に添わせる。それで漸く鏡は普通でない反応を示し始めた。
 手を当てていたところから同心円状に波紋のようなものが広がっていく。蒼星石が息を整えて少し前に出ると、その腕がずぶずぶと鏡の中に飲み込まれ始めた。
 そのままずるりと入り込むのかと思ったが、蒼星石は片腕を鏡に突っ込んだままの姿勢で僕を振り仰ぎ、にっと笑うと今度は後ろのお二人を振り向いた。

「それじゃ、行って来る」
「頑張って行ってらっしゃい、かしら」
「ちょっとでもなにかあったら必ず戻ってくるですよ」
「うん」

 笑顔で片手を振る金糸雀と心配を隠そうとしない翠星石、仕種は対照的な二人をそれぞれ安心させるように蒼星石は頷いた。
 もう一度僕の顔を見上げ、僕の空いている方の手を掴むと、波立つ鏡の中に足を踏み入れる。
 僕も後ろを振り向き、それじゃ、とお座なりに頭を下げる。ばらしーも同じようにぺこりと頭を下げてから僕の服の裾を掴んだ。
 僕等は一応ひと繋ぎと言える状態で鏡の中に入り込み──

「──っ!」
「ひゃう」
「うおっ寒っ」

 国境のでかい鏡を抜けたらそこは雪国であつた。底が白くなったかどうかは知らんが、少なくとも昼間じゃない。
 雪は降ってないのだが、とにかく寒い。まるで少し前の季節に逆戻りである。
 その上真正面からやたら吹きつけて来ている。襟がバタバタ鳴るほどの強い風だった。なんなんだ一体。
 首を竦めてコートの襟を立て、一歩前で正面から通りを吹き抜けて来る風に耐えている蒼星石を抱え上げる。ばらしーは……えらく機敏な動作で屈み込んだ僕のコートの懐に自分からよじ登ってきた。前から思っていたが結構ちゃっかりしたヤツである。
 それはともかく、この風どうにかならんのか。この間とはえらい違いである。
 大体、風景からして全く別物じゃねえか。
 なんとなく見覚えがあるような、どこにでもある住宅街の一角。上下の感覚もあれば気温の感覚も(寒いと感じてるのだから当然)ある。匂いは……うん。蒼星石がいつもの香水らしきものを付けてるのはわかる。
 あの日の暗黒空間との共通点と言えばやたら暗いこと程度だが、今の時刻を考えたら何もおかしなところはない。有り体に言って、ドアを開けて戸外に出ただけのような案配だった。

「転送失敗で外に吐き出された……か?」
「いいえ……ここはnのフィールド……だと、思います」
「うん。向かおうとしていた領域とは違う所だけどね」
「なんと……面妖な……」
「それはそれで一大事じゃねーかよ。大丈夫なのか」
「元々、こういう不確定さのある場所なんだ。ある程度予期はしていたけど……やはり、君と一緒に潜ったことが原因だろうね」
「案の定、お荷物だったってことか。道理で翠星石のやつが嫌がったわけだ」
「あはは……。お荷物というよりは、僕の方が邪夢君に引き摺られたと言うべきかな。ここは君の第0世界だから」
「ん、んん? 僕の世界?」

「そう。ここは裏から見た現実世界。その意味では鏡のあった位置から全く移動していない。
 君自身の身体の視覚器官でなく、少し深いところの意識を視点にして、さっきまでいた世界を擬似的に見ている、とも言えるね」

「……ほぉほぉ、なるほど」
「あの……よく理解できないのですが……」
「安心しろ。こっちも一応相槌打ってみただけだ」
「ふふ。そうだね……僕の舌足らずな説明よりも、自分が感じたものを受け容れればいい。ここはそういう場所だから……自分の姿を見てご覧、邪夢君」

 と言われても鏡があるわけでもない。
 誰も居ない街路の真ん中で、取り敢えず手足を確かめてみる。何の変哲もない僕の身体としか思えなかった。
 よく短いと言われる手指、いつもどおりの胴長短足。今時流行らんレンズ面の広いメタルフレームのメガネも健在、靴は季節お構いなしの履き古しのスニーカーで、制服の上に野暮ったい古いトレンチコート──

──おい待て。これじゃあまるで僕の恰好じゃないか。

 鏡を潜る前の僕は、僕であったけれどもジュン君の姿だった訳で、トレードマークのパーカに靴下という出で立ちだったはずだ。メガネもちょっと高級そうなセルフレームで、掛けたままでも判るほどレンズの形が違う。度の入り方も多分違っていた。
 いや、そもそもこんな純日本人的体型ではなかった。これも鏡を見るまでもなく、体型やら手の形だけで一目瞭然である。
 どういうことだ。不思議空間のせいで元の鞘ならぬ本来の肉体に戻った? あるいはこれもゴルゴムならぬキラキーさんの罠なのか。ならば彼の肉体はいずこに掻き消えたのか。
 片手で抱き寄せたままの姿勢でゴソゴソやっていると、こちらの混乱を見透かしたように蒼星石は笑った。

「ここはそういう空間なんだよ。少し深いところの認識が強く現れる。周囲に対しても、自分自身に対しても。
 君は自分に対する認識が強いのだろう。
 ジュン君の容姿は仮のもので、あくまでその姿こそ本来の自分だ、と思っているんだろうね。ずっと」

「じゃ、これは錯覚ってことか。今ンとこジュン君の身体のままで、僕には元の姿に見えてるってやつか」

「そうだよ。現実世界に帰ればジュン君の姿に戻るはずだから、錯覚と言ってもいいかもしれない。
 ただ、ここは肉体があまり意味を持たない領域だ。
 僕達から見ても今の君は実際にその姿をしている──そうだね、変身したと思って貰えばいいかな」

「変身……! かっこいいです……」
「おい、変なとこに食い付くな。むしろ変身が解けたって思いたいところだぜ、こっちは」
「あ……確かにこの方が……いろいろ弱そう……」
「いやいやいやいやいや、そういう意味で言ったんじゃねーから。否定はできんが」
「ははは……」

 蒼星石の笑い声は若干引き攣っていた。無理もあるまい。天然さんの斜め上のコメントでシリアスなはずの場面が台無しである。
 済まんなぁこんなんで、と内心で手を合わせて謝っておく。人形どもで一番マシとはいえ、ばらしーも所詮この程度なのであった。
 ちなみに、僕とは結構ウマが合ってしまうから始末が悪い。
 ノリが合うというか同レベルというか、他人がいても会話が果てしなく脱線していってしまうことがしばしばである。裏を返せば僕自身人形並みであるともいう。情けない話ではある。
 まあ、何にしても今後はなるべく慎むようにせねば。案内人の士気がだだ下がりになってしまうかもしれぬ。蒼星石は石原葵だった頃から、主題を外れた会話が好きではない方だった。

 まさかこっちの考えてることが伝わった訳じゃないだろうが、蒼星石は抱かれたまま身をよじり、僕の顔を見上げて苦笑した。
 すぐに前に向き直ると真面目な口調に戻り、この風景もそうだよ、と冬の夜の街路にしか見えない周囲を指し示す。

「これは君の記憶にある街並みでも、完全な幻影──想像の産物でもない。肉体的な視覚でなく、君の意識を通して見た現実世界と言えばいいかな」
「ほぉ。よう判らんが、光学センサーじゃなく赤外線とか超音波で探ってるようなもん、てことか」
「飲み込みが早くて助かるよ。ただ、君の場合は視覚に依っている部分が大きかったようだ。視覚的現実にフィルターを掛けたような雰囲気だね」
「背景だけCG合成みたいなもんか……」
「きっと……特撮です……! その内に伊福部音楽と共に奥の方からF86F似の戦闘機が二機連なってそうまるでレールに沿ったような動きで……」
「待て待て待て」
「あの街角の向こうには電線越しに自走メーサー砲車の勇姿が垣間見え……!」
「待たんかオイ。赤いの──じゃなかった、ガネ子みたいな妄想で喜ぶんじゃありません」

 片目を爛々と輝かせて妙に滑らかな口調になり、どうかすると怪獣大戦争マーチの口笛でも吹き始めかねない勢いのばらしーに、一応釘を刺しておく。このままでは単独で脱線していきかねない。
 時代劇に詳しかったと思ったら今度は懐かしの東宝怪獣映画か。サイカチのヤツはどういう教育をしとったんだ。
 まぁ、それは置くとして。

「まだ上手く飲み込めない、かな」
「まあなんつーか……なんでまたよりによって冬真っ只中なんだよ」

 寒過ぎてやっとれんぞこりゃ。
 そもそも僕はどっちかと言ったら冬より夏の方が数倍は好きなつもりだ。冬の間に限っては。
 フィルターを掛けてるのが僕自身なら、街灯に漏れ無く虫がたかっているような、暑苦しい夜の風景の方が似合ってるんじゃないのか。まあ春でもいいし秋でもいいが、この景色だけはねーよ。
 せめて雪でも積もってりゃ情緒もあるんだろうが、ただの冬枯れた街角じゃ風情もヘッタクレもない。

「季節の選定は君の心を反映している」
「傷心が嵩じて凍てついてしまうほど哀しんでいる、ってか」
「……あまり、そういう風には……見えませんけど……」
「若しくは僕のハートは冬の夜の如く冷酷であるとか」
「すごく……ラスボスっぽいです……」
「そこは美形悪役に負からんか」
「拒否します……全力で……」
「残念だけど、どっちも違うよ」

 今回は笑い声も立てずに、蒼星石は首を振った。
 すまん。真面目にやるつもりが、ついそっちに走ってしまった。
 まあ茶化さなくてはやってられない気分だとでも思っといて欲しい。自分の内心を覗くってのは結構きつそうな気がするんだ。

「表向き、君は今の──他人の、しかも別世界の身体の中に心を入れ込まれた異常な状況を難なく受け入れている」
「難なくってのは否定したいぞ。それこそ全力で」

「そうだね……迷惑と苦労をかけてしまっているのは事実だ。
 神経の細い人なら心が壊れたり自暴自棄になっていても不思議のないところだと思う。
 だけど君は現状を受け容れ、僕達に協力まで申し出てくれた」

「乗り掛かった船だしな」
「そうさ……いいってことよ……お嬢ちゃ……んがくく」
「はいはい、ちょーっと口閉じてような、ばらしー」
「あはは。そんな風に適当に受け流してくれているから、君はとりわけ心の強い人かもしれないと思い始めていたんだよ」
「まあマスターさん達みたいに繊細じゃねーのは自覚してる。ビビリってのも自覚してるけどな」
「マスター達にも例外はいるさ」
「加納さん、じゃなくてみっちょん氏とか、か」
「それはご想像にお任せかな。ただ、僕が君の強さだと思っていたものは、どうやら違っていたみたいなんだ」
「上げて落とすなよ」
「はは、ごめんごめん」

 この風景は君が今日歩いた街並みを夜景にしたものだけど、季節は君が居たあの街、あの日、あの晩の寒さそのままなんだよ、と蒼星石は暗い街路を指し示した。
 いつもどおりのちょっと達観したような、フラットな態度だった。
 ただ、その淡々とした中に、なんとはなしにあの世界から舞い戻ってしまったことへの寂しさというか遣る瀬無さみたいなものが見え隠れしてるような気がする。
 いや、それは流石に自意識過剰ってやつか。
 蒼星石は蒼星石で、自分のマスターの中身が僕であることを再認識させられてしまったのかもしれん。それが何処か寂しそうな姿に繋がってることも有り得る。あるいは、寂しそう、ってのが全然見当違いだったりすることも。

 いずれにしても蒼星石は淡々と解説を続け、僕としては時折少し理解の足りてない合いの手を入れるばらしーを制しつつ、なるほどと聞き入るしかなかった。
 学術用語なのか薔薇乙女さん達の術語なのか知らんが難しい単語がちょくちょく出てくる説明だった。要領を得ない訳じゃないがこっちの理解力が低すぎるのがネックなんだろう。
 判らんなりに掻い摘んで言うと、僕は表面的には現状を受け容れているが、内心ではここに居るのは異常なことだと割り切っている、というようなことらしい。
 無意識の防衛機構ってやつなのか、表面に近いところで思考停止しているから、パニックに陥らずに済んでいる。逆に言うと、内心ではこっちの世界を拒否しているのだとか。
 僕が自分でも意外なほど、元の体に戻るなり元の世界に帰るなりすることに焦りを感じていないのは、そんな理由があってのことらしい。そう言われてもいまいちピンと来ないのは変わらないのだが。

「君は自分の居場所は元の世界にしかないと思っているのだろう。……仕方ないことだけど」

 説明の〆にそう付け加えて、蒼星石はひとつ息をついた。顔を見なくても残念がっているのがはっきりと判る声だった。
 悪いが、そりゃ当たり前だ。こればっかりはどうしようもない。
 時間軸も違い、まあ場所も同じとは言えない。細かな差異はこれからも増えこそすれ減ることはない。この世界では僕はどこまでも異邦人なのである。
 そもそも、僕の精神というか意識はここにあるが、肉体の方は他人様のものだ。僅か一週間ほどでこんな宙ぶらりんな状態に完全に馴染んでしまい、こっちが僕の住処だなどと考えられるヤツが居たら、そいつの適応力の方がどうかしてる。
 ただ、こっちとしては傍観者を気取ってるつもりはない。薔薇乙女さん達から見りゃ本気度その他足りないところは多かろうが、僕、というか僕等も足りないなりに何とかしようとはしているのである。

「取り敢えずそれは置いといて、どっか移動しようぜ。ここは寒くていけねえや」
「賛成です……怪獣の動きもないようですし……」
「いい加減そこから離れような」
「了解しました……離脱準備……!」
「だからそーじゃねーって」

 って、まーたコートの中に潜り込むんかい。僕はお前の乗り物かなんかか。だんだん馬脚を現してきたみたいだが、まぁ、暴走されるよりゃマシだと思っておこう。
 また風が吹き付けた。帽子を押さえる蒼星石に、早く移動しようぜ、と言ってやる。
 このナントカ世界はもういい。僕のインナースペースだとすれば、探し物、というか探し人はどうせここには居ないのだから。
 案内頼むわ、と続けると、蒼星石は一呼吸置いてから首を振った。上手く行かないね、とあっさり白旗を上げる。

「ここは君の領域だからね。別の場所に移動するには、僕でなく君自身の意思が必要になるのだろう」
「そりゃ、ここから離れたいのは山々なんだがな。寒いし変わり映えせんし」
「それだけでは足りないのさ。何処か行きたい場所、見たい世界を具体的にイメージしなくては」
「こういうときに水先案内人の蒼星石さんが宜しくやってくれるんじゃないのかよ」
「そのつもりだったんだけどね……君の影響力はかなり強いみたいだ。人工精霊を持たない僕が弱体化しているのかもしれないけど」
「むう。儘ならんもんだな」
「人生とは……常に儘ならぬもの……ですから」
「判るわー。まさに僕の人生儘ならぬことばかり」
「……そうでしょうか……」
「異論があると申すか」
「……お父様は仰ってました……『ブサメンの癖に女子受けが良い、しかも全員美人とは許し難い』……と」
「あはははは、そうかもね」
「ぬぬぬ、サイカチめ……」

 逆恨みも大概である。つーか、女の子受けが全てかよ。何か間違ってる気がするぞオイ。しかも実際にモテてた訳でもないんだが。
 まあ、周りに美人が多かったことだけは認めるけどな。特にここ半年は。

 但し、それはもう過去のことである。
 元の世界に無事戻り、あの店で集まっていた時点から再び時間を重ねられるとしても、もうそこにあのときの彼女達は居ない。
 特に森宮さんは、真紅という存在の記憶を受け入れて、あの騒動の直前の段階で既に変わってしまっていた。
 彼女はブロックされていた記憶を取り戻し、本来の──真紅としての役割を果たすことを望んで、実行した。
 ブロックされていた記憶には、桜田潤ではなく桜田ジュン君(というか、森宮アツシ君と言うべきか)への想いも含まれている。姉弟だったときからブラコンの気があったのだから、以前の感情を取り戻せばどうなるかは明らかだ。
 それは喜ぶべきことなんだろう。ただこっちにしてみれば、仮にもう一度森宮さんだった人と顔を合わせたとしても、僕のことを好きだと言ってくれた女の子はもうそこには居ないのだ。

 いや、回りくどい言い方は止そう。要するに振られただけの話である。
 記憶を取り戻す決断をしたのは真紅ではなく、あの時点の森宮さん自身の意思だったのだから。
 最後の最後で僕に対して告白したのは、森宮さんなりのけじめだったのかもしれない。さようならと言う前のよくあるアレだ。
 やはり人生とは儘ならぬもの、現実は厳しいものなのだなあ。

「心なしか周りが暗くなってきたような気がするね」
「冷え込みも……うぅ」
「あースマンスマン」

 流石は単純極まる僕の世界と言うべきか。反応がダイレクト過ぎる。
 このまま暗い方に考えが落ちて行ったら南極並みになるんだろうか。自分の心の中で凍死とは斜め上過ぎて笑えんぞ。
 とにかく移動しよう。ここ以外の何処かに。
 熱いコーヒーとうどんがあれば言うことないが、この際灯油缶で廃材燃やしてるところに手をかざすだけでもいい。柿崎のおやっさんの手伝いしてた時はあれが随分有難かった。

「目的地を心に描けば、そこへの扉が現れる」
「だから具体的にってか。便利なのか不便なのかよう判らんな」
「使いやすさを追求した新商品、って訳じゃないからね」
「ちぇっ。開発元に苦情言っといてくれよな」
「善処するよ」

 僕の腕の中で蒼星石はくすりと笑った。
 これまでの呆れ半分の笑いとは若干違った笑い方だった。
 暫く前まで毎日接していた、軽口を叩き合ってる時の石原葵みたいな……。あの頃と全く同じとは言い切れないが、まあ、そんな感じだ。

──居なくなったのは森宮さんだけじゃない、ってことか。

 美登里も変わったし葵も変わった。別人て程じゃないが、学校なり街中なりで当たり前に顔を合わせていた二人とは違っている。付き合いが無いに等しかったから比較のしようがないが、多分金糸雀も加納先輩だった頃とは異なる性格になっているのだろう。
 もちろん、こっちが言わば素の彼女達なのである。
 これまでは平凡な人間の生活に馴染んでいただけのことだ。ちょっとばかしフィルターのかかった彼女達しか見てなかったのが僕なのであって──

 ああ、止め止め。風が音を立てて吹き付けやがった。全く以て正直というか抑えの利かない場所である。
 いい加減本当に移動せんといかん。我が世界ではあるらしいが、ここに長居は絶対にしたくない。
 行きたいところをイメージする、といってもドラえもんの道具じゃないから何処ぞの絶景やら観光地にご案内という訳にはいかんだろう。覗いてみたい自分の心象風景や記憶、近くにいる人、または自分が深く求めている人の夢の世界、てなところか。
 いや待てよ。ひょっとして頑張ったら──

「──どうよ」
「何も……変わりません。……すごく力んでる……のは、判ります」
「ぬぬぬぬ。やっぱ無理か」
「ここは、あくまでも君の領域だからね。直接遠く──繋がりの薄い場所には行けない」
「そんなことだろうと思ってたぜ」
「最初はもっと近くでいい。場所が変われば僕が先導できるだろうから、あまり無理をしないで」
「無駄に欲かくなってか」
「ふふ、まぁそういうことだね」

 それでも一応、念を込めるってのを実践したつもりなんだが。素人の付け焼き刃でしかなかったか。
 なおも暫く、一番ツラを拝んでみたいと思ってる奴を二人ほど必死にイメージしてみたのだが、成果は上がらなかった。周囲の風景が変わるでもなければどこでもドアが出現するでもなかった。

──悪いな、蒼星石。とことん使い物にならん同級生で。

 お前の親父さんにも、お前のボディを組み立ててくれた(ついでに人形どもに要らん知恵と動力をつけた元凶でもあるが)マエストロさんにも、凡俗の念力じゃ到達できないようだ。
 まあ、所詮無茶な話ではあった。
 片方に至っては顔も声も一切知らない相手なのだから、関係もヘッタクレもあったもんじゃない。もしかしたらどっちか一人くらい僕等を監視しているんじゃないか、だったら逆に辿って行けるかもしれんとふと思っただけのことである。
 もっとも、蒼星石のほうでは僕が何処に行こうとしてたかなんて大して気にもしてないだろうが。

 寒さにぶるっと体を震わせ、気を取り直してもう一度整理してみる。
 遠い場所、ってのは他人のインナースペースのことだろう。物理的な距離は意味を為さないから、繋がりが薄ければ薄いほど遠くなるって理屈だ。それくらいは判る。
 逆に最も近い場所、一番繋がりが濃いところは自分自身の心。それも恐らく普段意識していない深い部分だ。この第0世界とやらの風景を作り出してる大本とも言える。
 他人様の顔じゃなく、僕自身の記憶に残った光景なり関連しそうな風景なりを思い描けば、そこには割合簡単に行けるんだろう。夢を見てるのと同じようなものだ。多分さほど危険もなく、帰り路を迷うこともない。
 さっきの蒼星石の発言も、そんなニュアンスを含んでいるのかもしれん。
 ただ、助言は有難いんだが、自前の空間を彷徨っていたのでは埒が明かない。目的自体は耐久テストみたいなものとはいえ、僕の夢判断をするために鏡を潜った訳じゃない。

 さっきのように、いきなり見も知らぬ他人様の心に潜り込もうとするのは論外だろう。ただ、こっちのことを気に懸けてくれている人の心と接する辺りくらいなら僕にも移動可能かもしれない。
 確か漫画にも、真紅か誰かが説明していた場面があったはずだ。心の領域の端の辺りには、その人に近しい人の心が流入している場所がある、と。いつどういうシチュエーションでの描写だったかは忘れてしまったが。
 直にその場所に向かえと言われても無理な話だ。何しろ漠然とし過ぎていて、実感が湧かないこと夥しい。
 だが、気に懸けてくれている相手のことを強くイメージすれば、そっちの方向に行けそうな気はする。
 問題はその相手だが。

 へくちっ、と可愛いくしゃみが懐の奥から響き、考えはそこで途切れた。
 ばらしーよ、お前ひょっとして人形のくせに風邪まで引くのか。一体どういう不可思議ボディに変身させられてしまったのだ。
 サイカチは大喜びするかもしれんが──いやいや、それは置いとこう。
 今は集中、集中。意味は無さそうだが目を閉じて。

 今現在近くに居て、こっちと心が触れ合っていそうな人物。
 考えるまでもなく無茶苦茶少ない。その内で最も親しいと思えるのは、一人に絞ってしまっていいだろう。
 その人物の心に潜り込むのは不可能でも、触れるくらいのところまでなら──

「──扉が……!」
「成功したみたいだね」
「……おお」

 明らかにどこでもドアっぽい不自然な扉が眼前にいきなり現れていた。
 違うところは質感か。ペンキ塗りたてのピンク色っぽいドアではなく、それなりの歴史を感じさせる扉である。
 もっとも、それが尚更不自然さというか異物感を醸し出しているのも事実だった。通りの真ん中に、頭突に何処ぞの屋敷のドアだけが立っているような案配だ。
 ばらしーがもぞもぞと動いて背中に回り、器用に僕のコートのボタンを外して襟を広げ、二人羽織宜しく肩のところから首を出した。
 忍術を極めたと言うだけある謎の技術である。しかし口にしたのは実に残念な内容であった。

「モスラの歌……歌おうと思ってた……ところです」
「召喚シーンで歌なんか歌っとったのか? 取り敢えず笛吹くくらいにしといてくれ」
「それは……マグマ大使……!」
「そういうのもあったのかよ……」

 いかん、やはりどうも緊張感が欠けている。こっちまで伝染してくるから性質が悪い。
 所詮人形──というかコイツ等だから仕方がないと思うことにしておこう。赤いの改めガネ子だったら魔方陣でも書き出してたかもしれん。どっちにしろ未遂で何よりであった。
 さて。
 少し高めの位置のドアノブに手を掛ける。どうでもいいことであるが、この扉も桜田邸と同じく海外規格のようだ。僕の世界だという話なのに見慣れてないドアとは、中々洒落た趣向である。

「……せっかくだから……この……」
「へいへい」

 多少なりとも高まりかけた緊張感が、まただらだらと緩んでしまった。今日のばらしーは妙にテンション上がりっぱなしである。
 やや気が抜けたままノブを回すと、ドラマの効果音そのままのガチャリという音が響く。引くのか押すのか一瞬迷ったが、軽く力を入れると扉は向こう側に開いてくれた。
 扉の動きにつられるようにして、僕等はその中に足を踏み入れた。


 〜〜〜〜〜〜 数日前、何処か 〜〜〜〜〜〜


「翠星石と蒼星石はずーっとずーっと一緒でした」
「そうだね……何処に行っても僕達はずっと一緒だった。でもこれからは……」
「何を言っているのですか。これからもずーっと一緒に決まっています! 変なこと言うなです!」
「でも、それで良いんだろうか? 僕達はそれぞれ別の──」
「──おんなじなのですぅ。姉妹の中でも特別な、かけがえのない双子なのですっ。ですからぁ……」

「……双子っていうか、クローンじゃないのぉ?」
「同じ型で作られた人形同士だから、そっちの方がイメージとして合ってるかしらー」
「えー? 髪の毛とか服とか別だから、全く別の人形なのー。それに同じ型だから全員クローンだーとか言ったらバービー人形とかキモいことになるのよー」
「何万体ものクローン……並列処理……人類への反乱……一斉蜂起……!」
「ああ……なんてこと……なんてこと……! 皆バスティーユを目指しなさい! 自由は私達の手に!」
「くーさーむらーにー……」
「あ、ボク、アンドレ役くらいならやってもいいかなって」
「変な方向に突っ走ってんじゃねーですぅ! アンタも乗っかるんじゃねーです!」




[24888] 第三期第十話 薔薇は美しく散る(中)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:1d0c3480
Date: 2013/10/15 22:42

 〜〜〜〜〜〜 承前 数日前、何処かその辺 〜〜〜〜〜〜


「同じ型……ねぇ」
「何か思いついたって顔だね」「ていうかドヤ顔ですぅ」「また碌でもないこと考えとるーってジュンに怒られるのよー」
「う、うっさいわねぇ、あのバカには関係ないでしょお」
「……そう言えば……黒のお姉様……あの方にだけは──」
「──お止めなさい。それは公然の秘密なのだわ」「迂闊に口を滑らしたら眼球まで破壊されるかしらー」「蓼食う虫も好き好きなのー」
「な、ななな何アホなこと言ってんの、誰があんなブサメンなんて! 全員纏めて簀巻きにして川に放り込むわよぉ!」
「あ、やっぱりそうだったんだ」「ちょっとカマ掛けたらすぐこれだぜなのー」「ちょろ過ぎかしらー」「むむむ、負けんのですぅ」
「はて……どうしたのですか……緑のお姉様」「ど、どうもしてねーですよっ」「いや、判り易すぎだよ君も」
「それでそれで? 同じ型がどうしたなのー?」「気になるのだわ」「かしらーかしらー」
「どーでもいいけど話題の切り替え早すぎでしょアンタ達……」


 〜〜〜〜〜〜 現在、nのフィールド・その何処か 〜〜〜〜〜〜


 扉の先は、奇妙な空間、としか言えない場所だった。
 上下の感覚はなんとなくある。歩くこともできる。しかし他はとことん曖昧だった。真っ直ぐ歩いているだけなのに、斜め上やら下、多分真上や真下にもそのまま行こうと思えば歩いて行けてしまう。便利といえば便利だが方向感覚がおかしくなりそうな案配だった。
 その中に、幾つか窓様の物体が浮いている。形、大きさ、距離共にまちまちだが、機能というか性質が同じものだということはなんとなく判った。
 手近な一つに近寄ってみる。薄ぼんやりと何かが映し出されていた。
 蒼星石が身を乗り出す。抱き寄せていた腕を解いてやると、窓の脇にふわりと移動して中を見詰めた。
 釣られるように覗き込むと、映像は急に明瞭になり、動画のスタートボタンを押したように動き始める。見覚えのある風景だった。

「なんだこりゃ。こっちの、ああいや僕の記憶、でいいのか?」
「当たっていると思うよ。中学校の頃だね。懐かしいな」
「そっか、こっちの記憶か……ちょいと手筈が違っちまったぜ。しかし一体何やってる時なんだか」
「文化祭の準備かな。一年次のときの」
「あれかよ……。しかしこんな感じだったか? なんか微妙に違和感が」
「そうかい? 僕にはすぐに判ったんだけど」
「……はて……あの奥の方で……話し込んでいるのは……?」
「あれ、邪夢君だね。なら、これは別の……君に近しい誰かの──そうか」

 そこまで言って、漸く気付いたらしい。らしくない、ちょっと慌てた素振りで蒼星石はこっちを振り向いた。
 極力顔には出さないようにしているようだが、長い付き合いの僕にはなんとなく判る。かなり狼狽して、大分焦っている。
 自分のことになると鈍感になるとか、全く何処のラノベの主人公さんだよ。
 それでも、口を開いたときには落ち着いた態度に戻っていた。

「──僕の……記憶なんだね」
「こっちの思惑が通ってれば、そういうことになるんだろうな」

 映像に違和感があったのも、見慣れていたはずの景色なのにどうも覚えがないような気がしたのも道理であった。視点が僕ではなかったのである。
 多分、僕の方は大いに安堵した顔になっていただろう。自分の記憶を覗いたのに肝心の場面を他人様の方がよく覚えていた、なんて話は流石にぞっとしない。
 蒼星石は妙に柔らかい表情になって目を細め、窓に向き直って、おや、こっちに来たね、と呟いた。
 窓の中では中学一年当時の僕がアップになり、自分の台詞が一言しかない台本を渡されて大いに迷惑そうな顔をしていた。まさにブ男これに極まれりという姿である。
 普段が普段であるからして、印象に残されていて困るような面じゃあないが、もう少しいい顔ができなかったもんかね。まあ、多くは望むまい。所詮は僕である。


 〜〜〜〜〜〜 第十話 薔薇は美しく散る(中) 〜〜〜〜〜〜


 石原葵と僕の出会いは、入学してすぐのことだった。同級生だから当たり前である。
 当たり前でなかったのは、最初のホームルームも始まらない内に向こうの方からしげしげとこっちを眺めてきたことだった。いや、正確には僕の学ランの左胸のポケットに付けてあるネームプレートを、だが。

「桜田君、か。へぇ……」
「……こんちわ、えーっと、石原、さん。どっかで会ってたっけ? 僕ァこっちに越してきたばっかなんだけど」
「いや、初めてだと思うよ。ところで君、もしかして名前はジュンっていうんじゃ……」
「……ぁぁ、当たり」
「そうか……当てずっぽうだったんだけど」
「あ、カタカナじゃねーから。アニメの主人公じゃなくて残念でした」
「……あはは、そうか、そうなんだ」

 この時点でも既に何度目かだった訳だが、後にいい加減うんざりするほど繰り返される遣り取りの内の一回だった。
 ある程度よく印象に残っているのは、相手がこの後親しくなる石原葵だったからだろう。
 もう一つ付け加えれば、このときの葵の表情も原因だったかもしれない。
 名前を聞いてきた時の、ややぎこちない表情。それが、当たり、と言われて一瞬何とも言えない強張ったものに変わり、違うと判って急に緊張が解けたような笑顔になった。
 事情を知ってしまった今は、ひとつひとつの反応の理由がよく判る。生まれ変わったと信じていたのだから、どういう顔をしてかつてのマスターさんに向きあえばいいのかと迷ったに違いない。
 生憎こっちは、その時はまだ仰天の裏事情があり、後々自分も深く関わるなどとは予想もしなかった。
 ただなんとなく、コイツはからかうつもりはないんだな、と意外に思ったに過ぎない。逆に言えば、そのネタでからかわれるのが如何に定番と化していたか、ということでもある。

 名前絡みといえば、これも忘れられそうにない。

「へえ、早速仇名付けられたんだ」
「例のアニメだか漫画絡みのな……なんなんだよ、ったく」
「主人公と同じ名前だから、でしょ。役得だと思えば?」
「主人公みたいに呼ばれて慕われるんならいいけどさ。なんか全然意味無さそうな漢字まで当てられたぞ。ジュンじゃなくてジャムだし」
「なるほど。どんな字なんだい」
「邪悪の邪に夢……」
「それは確かにちょっと……いや、邪夢君か。結構良いんじゃない? 僕もそう呼ぼうかな」
「本気か!?」

 残念なことに本気だった。
 石原葵は──蒼星石は、その日から今まで一貫して僕を「邪夢君」と呼んでいる。高校でクラスメートに邪夢という仇名を定着させたのは葵本人だった。
 姉貴の美登里──翠星石に至っては、妹から経緯を事細かに聞かされていたんだろう。初めて会った時から「邪夢」と仇名を呼び捨てであった。

 そんな失礼な奴を好きになり、一度は手紙まで書いたのは……なんというか。結局のところ僕が面食いであり、クラスが違うとはいえごく近いところに居た美登里が実に女の子っぽい女の子だったからだろう。
 ただ、書いたものを渡す段になって僕は挫けた。
 僕にとって美登里は、ちょっと女の子であり過ぎ、お嬢様であり過ぎた。
 何やら歴史がありそうな大きな洋風の屋敷に祖父と三人暮らし。悪戯好きなのに人見知り。料理、特にお菓子作りが得意で手作りのやつを振る舞うのが大好き。たまに伝法な口調になるのに基本丁寧語で、怖がりなのに妙に高飛車。趣味は多彩だが、特に園芸に関してはプロはだし。そして、双子の妹が大好き。
 才能と容姿に恵まれてる上にまるでアイドルが主演ドラマから抜けだしてきたみたいな特性てんこ盛り状態であり、それが厄介なことに素だった。いや、むしろ他人の前では抑えているそういう姿が、葵と居るときにはちらちらと見え隠れする。

──次元が違うよな。こりゃ。

 中学二年生の夏休みの終わり、書いたラブレターをくしゃくしゃに丸めながら、当時の僕はそう総括した。敗北感で一杯だったが、その分悲壮感はなかった。
 少し知恵がついた今なら、あれは要するに憧れだったのだなあ、と振り返ることができる。手が届きそうで届かないところにいるだけに、いざ手紙を書いていろいろと思案し始めたら憧れが醒めてしまったというからくりである。
 傍から見れば勝手に熱を上げて勝手に冷めただけ、という失礼極まる話であり、美登里に知られたら暫く口を利いてくれないかもしれん。誰かに迷惑が掛かる寸前で自己完結したのは幸いであった。

 実はその直前、もしかしたら芽吹いたかもしれない、そういう勝手な恋心の芽がもうひとつ摘み取られている。

 中学二年の夏休みに入ってからの僕は、少しばかり暇を持て余していた。
 あの街に越してきた中一の春に仲良くなったご近所の同年生──サイカチとはなんとなく疎遠になりつつあり、ついでに何かとちょっかいを出してくる柿崎もバンドに誘われたとか入り込んだとかで、お呼びが掛かることがなくなっていた。
 見たくもない課題の山を除けば、これといってすることがない。家で寝転がったり、出た先で顔を合わせた友達と涼みがてら店を冷やかして歩いたり、とだらだら過ごす日が一週間ほど続いた。
 呆れ顔の親にせっつかれ、溜め込んだ課題を渋々抱え、家よりは快適に勉強できるからという理由で、もちろん本音は涼みに行った先の図書館で顔を合わせた相手が葵だった。
 お前もか、と自習室のドアを指し示すと、葵は笑って首を振り、四角く膨れたバッグをぽんと叩いた。

「僕は本を借りに来ただけだよ」
「へぇ、石原って必要な本は買い揃えるタイプかと思ってた」
「新刊で売ってない本もあるからね。古本もあまり出回らないし」
「そんなもんなのかー」
「うん。……ところで、課題進んでるの?」
「うんにゃ、全然」

 親の目から逃れて涼むために来た、と小声で本音をバラすと、らしいなぁ、と葵はにやりとして、丁度いいから三人分席を確保しておいてくれと厚かましいことを言い出した。
 席取りは禁止されてるはずだと言ってやると、ふむ、と顎に手を遣ったが、すぐに細かく何度か頷く。

「なら、うちに来ないかい? 冷房は入ってるけど」
「んんー? なんのことかな、イマイチ話が……」
「そこはピンと来ないと。一緒に課題をしようってことだよ」
「……いや三人分のとこで判ってたけどさ。あーあ、ダラダラする予定がベンキョーか……」
「あはは。まあ、お菓子くらいは出すよ。美登里の手作りで良ければ、だけど」
「ありがたくお伴させて頂きます!」

 現金だなぁ、という葵の言葉どおり、僕はそれから暫くの間、誘われるまま毎日のように石原姉妹と課題をこなし、厚かましくも毎度毎度手作りお菓子を綺麗に平らげたのであった。
 それまでクラスメートの姉でしかなかった美登里のことを間近で知ったのはその期間のことである。それに、もうひとつ重要なことも。
 確か、ちょっとした用事か何かで葵が席を外したときのことだった。
 僕等は何かどうでもいい会話をしていたのだが、葵が出ていったことを確かめると、美登里は僕の隣に座っていきなりヒソヒソ声になった。ご丁寧に口許には下敷きを当てている。他に誰か居るわけでもないのに意味あんのかそれ。

「──葵って、クラスでの評判とかどうなんです?」
「どうって、また曖昧な」
「曖昧に聞いたのですから、曖昧に答えりゃいいんですよこのスカポンタン。人気があるかないかくらい知らんのですか」
「人気はあんじゃねーの? 特に女子には」
「女の子同士仲いいのは判ってます! 男子にはどーなのかって訊いてんですよッ」
「んーまあ……なくはないかな」
「なんですかその奥歯に物の挟まったような言い方はぁ」
「曖昧でいいつったのは誰だよ全く……」
「うっせーですっ。こまけーこと気にしねえでちゃっちゃと喋りやがれですこのシラケアホ男」
「はいはい。……人気はあると思うぜ。喋りやすいし、結構誰にでも声かける方だし」
「気さくで優しいのは当たり前なのです。この美登里の双子の妹なのですから」
「自分が気さくで優しいと言いたいのかねそりゃ」
「当然ですぅ!」
「そうですかい。まあ、突っ込むのは止しとくわ」
「口だけは一丁前ですねダメ野郎……で、その……人気あるってことは、す、好きになっちまったりしてるヤツもいるってことですか」
「あー……手紙くらい届いたことあるだろーな」
「なんですとー!? お前ブサイク面してなんで今さら小手先の工作なんかしやがるですか! ちっとは葵の気持ちも考えろです!」
「石原の気持ちは知らんが、工作ってなんだよ。大体、なんで僕が手紙書いたことになってんだ。そもそもな──」
「──そ、そそそれじゃあ大問題じゃないですか! 詳しく説明しやがれです!」

 何を慌ててんだ、何を。つーか僕のならどーでもいいってことかよオイ。
 ちなみに、ラブレターが来たことあるだろうな、というのは単なる憶測ではない。それらしい光景を見たことがある。
 中学二年になりたての頃だったと思うが、机の中にあったと思しき手紙を開いた葵が、妙に無表情でへえとかふんとか妙な呟きを漏らしていたのだ。
 手紙自体はまあ何というか、よくある妙に凝った封筒に入ったものであり、文面の裏側(要するにこっちからも見えた側)に石原葵さんへ、と如何にも頑張って丁寧に書きましたという感じの四角い字が書かれていた。
 但し、葵は溜息とともに手紙を鞄に仕舞いこんでしまったので、それが男子から来たものとは断定できないし、根掘り葉掘り聞く気もなかったのでその後がどうなったかも知らない。ぼかした言い方をしたのはそういうことである。
 しかしなあ。

「大問題って言うが、大騒ぎする程の事か? 気さくで優しい自慢の妹に失礼じゃねーのか」
「そっ……それとこれとは話が違うでしょうっ。大体邪夢は平然とし過ぎですっ。葵がラブレター貰ったんですよ?」
「石原……葵の方から告白した訳じゃねーし。じゃあ聞くが、お前はラブレター貰ったことないのか?」
「へっ? そ、それは、ありますけど」
「こういう聞き方は何だけど、一通や二通じゃねーだろ?」
「そーですけど……」
「その双子の妹なんだぜ。方向は違っても元の素材はおんなじだろ。なら同じくらい貰ってたっておかしくねーんじゃねーの」
「あ、あのですねえ。そういうコト言ってんじゃねーんですよ。邪夢は知らないんですか?」
「何をだよ」
「葵には想ってる相手が居るって言ってんですよこのスットコドッコイ! そのくらい判ってろやです!」

 そんなご無体な。だがまあそれならうん、断り方によっちゃ、こじれて問題になることもあるかもしれんなぁ。

 そんな風に考えている心の隅で、何やら寂しい風が吹いたような気がしたのも事実である。
 毎日顔を合わせており、まあ形はともあれ家に招待されているような相手。その女の子が恋人持ちと来たもんだ。
 普段名前で呼ぶような関係ではないものの、葵は僕にとって数少ない女友達ではあった。付け加えるならば、ボーイッシュとはいえ紛う方なき美人である。性格は……まあ、裸足で逃げ出したくなるようなことはない。
 これだけ状況が揃っていれば、いずれあわよくば……などと薄い可能性に思いを馳せるのは僕だけじゃああるまい。そもそも、ラブレターを貰っとるというのはそういうことを考える奴が他にも居るということである。
 しかしその可能性は、双子の姉の一言で至極あっさりパリーンと割れ、どっかに行ってしまった。
 なんのことはない、要するに葵には彼氏もしくは片思いの相手がいたのである。僕との関係は、何処までも友達の域を出ることはない品物なのであった。
 改めて可能性の薄さを思い知らされたひとコマではある。世の中そんなに甘くないのだ。僕等取り柄のないブサメンには。

 美登里からはその後もいろいろと訊かれたのだが、僕の方でもそれ以上のことは知らんので満足な回答はできなかった。
 逆に葵の想い人について尋ねてもみたが、そちらも何やら急に美登里の歯切れが悪くなり、僕も大して関心が向かなかったこともあってそのまま有耶無耶になってしまった。

 後日判明したところでは、葵のお相手は家庭教師のお兄さんという話だった。
 美登里が言うには、大学生でありながら起業を志しているアクティブな人材らしい。もっと後になって、何かの折に美登里から聞いたところでは実際にベンチャーを立ち上げたとか。会社が儲かっているのかまでは知らんが、ひとかどの人物ではあるのだろう。
 由比だか油井だかという苗字のその人は石原姉妹の遠戚で、線が細そうに見えて実は凄い才能を持った良家のご子息とのこと。石原家自体が良家と言われる家柄でなければ、ちょっと非現実的な──漫画にでもありそうな設定だ、と胡散臭く思ってたところだろう。
 本人の姿も一度ちらっと見たことがある。線が細いと言うよりは腺病質な感じの、一言で言えば少女漫画の登場人物のような痩せ型の九頭身美形だった。
 あれがそうですよ、とヒソヒソ声で言う美登里に、なるほどなぁとつい口に出して返してしまった覚えがある。まあ、そういう雰囲気の漂う、ちょいと浮世離れした感じの人物ではあった。
 美登里は普段の毒舌を引っ込め、葵にお似合いなのです、と妙に持ち上げていた。そっちに関しては背格好を見た限りじゃ首を捻らざるを得なかったが、人は外見によらないという。個人的にそう信じたいところでもあるので、中身は葵にお似合いなのだろうと思っておくことにした。
 そういえばあの雰囲気はドールショップの店長氏──「巻かなかった」ジュン君に少し似ていたような気もする。そんなところも影響したのだろうか。もはや記憶の中のお姿も曖昧だから、イメージを結びつけているだけかもしれんが。

 細かい話はどうでもいいか。斯くして、僕の恋心は育つ前にポッキリ折り取られた訳である。
 ただそれは悪いことばかりではなかった。
 美登里への手紙を丸めて捨てたことも合わせ、僕が石原姉妹のような美人さん達と色恋の感情を抜きにして付き合うことができた訳はそこにある。恋は出物腫れ物と言うけれども、それが幾分発生しにくくなったことは間違いない。
 まあ、そんなお気楽だが(恋愛的に)何の発展もないことが約束された環境にどっぷり浸かっていたことが、回り回って森宮さんの心に最後の最後まで気付けなかった鈍感さの原因になったことも否めない。良いことばかりでなかったのもまた真なりといったところか。


 僕の回想があちこち飛んだのとは対照的に、鏡の中の光景は中一の文化祭の準備の件を延々垂れ流している。
 時間の流れが曖昧らしいこの場所でリアルタイムという言葉が適当なのかは判らんが、早送りでもコマ送りでもなく、まるで誰かが撮っていたプライベート動画のように再生されていた。時折場面が飛ぶのは、僕に関わる部分だけ選択しているのだろうか。ご親切なことである。
 今は、プレスコの収録リハの折、僕が気合の入り過ぎた一声で周囲からツッコミを入れられた場面だった。まぁやってる本人は大真面目だった訳だが、他人様の視点から劇を通して見れば、脇役以下のヤツが素っ頓狂な声を上げたようにしか思えない。

「──懐かしいね」
「しみじみ言われるとどう反応していいか判らんぞ」
「あの世界の現実時間で四年半も経過したんだから、君にも懐かしいと思って欲しいところだけど」
「懐かしいは懐かしいが、思い出して感動できるような場面じゃねーな」
「そうかなぁ……」

 いや、そうだろ普通。しかも面白がって遊んでたのはそっちじゃねーか。
 まぁ僕との思い出なんぞ、この辺に集約されているだけですよってことかもしれん。
 中学高校と約五年間、教室では毎日顔を合わせていたが、部活も違うし、あの課題の件まではお互いの家に上がり込んで遊ぶなんてことも考えなかった。
 少し仲のいいクラスメート。休みの日に呼び出されてメシを食ったり映画見たり、せいぜいその程度。大抵は誰かしら一緒で、そこから知り合ったヤツも何人かいる。ほぼ女子ばかりだったが。
 翠星石によれば葵がそんな風に親しくしていたのは僕だけらしいが、印象に残る残らないはまた別物ってことだろう。
 それにしても、だ。
 いつの間にやら窓の中は劇の本番になっている。というか、まだそんなところと言うべきか。
 おお、見よ。僕が出てきた。ワンシーンとセリフ一言だけのために。

「なっ、壁が動いて……面妖な……」
「あれは爆発の表現だよ」
「クラス全員参加させるために後から考えたんだよな、爆発音に合わせてモブの僕が壁役に吹っ飛ばされる演出。だからここの壁役だけ異常に人数が多い」
「配役したときは任意参加だったから、最初は興味なかった男子は殆どこの役になってたね」
「僕を吹っ飛ばす演出だけのためにな……」
「すごく……仮装大賞です……」
「むしろドリフだぜ」
「ストーリーに関係ないシーンなのに好評だったよね。考案者として嬉しかったよ」
「お前だったのかっ」
「まあ、邪夢君なら引き受けてくれそうだなって」
「ひでーな。本番で青痣できたんだぞ、ほらここ、ここで蹴られて。誰だこいつ、中西かちっくしょー覚えてろ」
「あはは、まあその程度で済んで良かったじゃない」
「ったくコイツは」

 朗らかに笑ってる蒼星石の頭に手を伸ばし、髪の毛をワシャワシャ掻き混ぜてやる。葵相手なら多分やらなかったことだが、この際関係ない。
 ばらしーが何故か不満そうにこちらの顔を覗き込んできたので、こっちも窮屈な姿勢のままワシャワシャしていると、不意に窓の映像が消えた。
 ほぼ同時に別の窓が明るくなる。今度は同時に二箇所だった。それぞれ別の場面だが、遠景に僕が映っていることは共通している。
 片方は教室で、もう一方は……校舎の外か。パッと思い出せないが、どちらも夏場だった。
 暫く見ていると、僕は両方共ほぼ同時にこちらに近付いてきた。葵と何かの話をしたときの場面らしい。

「会話だけじゃないよ」
「ん? 何か特別なことでもやらかしたっけ?」
「君にとってはごく当たり前だったかもしれない」
「おいおい、まさか気付かぬ内に大失敗してましたとか……」
「それはないよ」

 何故か上機嫌に見える横顔のまま、ご覧、と蒼星石は片方の窓を指した。
 葵の視点は、丁度僕と高さが同じくらいだった。まるで鏡を見ているような案配で僕のブサイク顔がアップになり、何か喋ってから横を向く。そっぽを向いた風ではないな、と思っていたら、脇の方に置いてあったダンボールを抱え上げ、先に立って歩き出した。
 何が始まるんだと必死に思い返してみたが、うまく記憶が繋がらない。眉を顰めて見守っていると、情景は呆気無く立ち消えてしまった。
 なんだなんだ。あれだけのことなのか? それとも、もう一方の窓と関連してるのか。
 しかし残る片方も大したことはなかった。何やらこちら(視点の方だから、葵だろう)に言い立てている女子数人に対して、──ああ、これは中三のときか。当時の学級委員長がまあまあと仲裁に入り、お互いにペコペコしあってお終いだった。
 僕はといえば、さっきの窓の方に見入っているときに何かやらかしたらしく、腕を組んで実に嫌な顔をしておる。
 いやいや思い出したぞ。
 これは三年の秋、どうでもいいようなことで葵が問い詰められた時だ。脇で聞いてても理不尽な言いがかりにムカッときて、僕がさっきの女子どもと口論を始めかけた場面だった。
 もちろんその場を収めたのは優等生で面倒見のいい学級委員長さんであり、僕は喧嘩両成敗ということで女子どもに最敬礼で謝らされたのである。土下座でなかったのと、その後すぐに連中との仲が回復したのは不幸中の幸いであった。
 窓は律儀にも僕が女子どもに文句を付けられ、ぶすっとして頭を下げているところまで映し出して暗くなった。
 恰好悪いこと夥しいが、そりゃ印象には残るよなぁ。
 言いがかり付けられたと思ったら自分以外の奴が勝手に喧嘩を始めるんだから。葵とすれば迷惑千万だったことだろう。

「──やっぱ失敗の巻じゃねーか。もう片っぽのは思い出せんが、どーでもいいような感じだったぞ」
「些細なこと過ぎて君は覚えていないかもしれないね」
「うーむ、そう言われると何だが、まあ大事件であっても思い出せんからどっちでもいいんだが」
「大事件じゃないけど……あれは僕が持って行くように言い付けられた資料の箱を、君が運んでくれた時だよ」
「そんなことあったっけか?」
「あったよ。ほんの何度かだけど」
「そこ強調すんのかよ……ま、偶には役にも立ってた訳だ」
「うん。長く映し出されていた方も……」
「あー、あっちは迷惑になってなかったんなら安心だ」
「迷惑なんてとんでもない。僕は嬉しかったよ」
「……そいつは何より」

 なんとなく間が持たないような、妙な気分だった。リップサービスと判っていても、ちょいとばかり照れてしまう。
 ばらしーがにまーっと笑い、僕の頬をつんつんとつつく。ぬう、やるなこいつめ。
 お返しにもちもちした頬をぐにぐにと押してやる。ふみゅううう、と意味不明の声を立ててばらしーは顔を引っ込めた。ヤドカリみたいな奴である。

 照れ隠しついでにぐるりを見渡してみる。さっきざっと見渡した時よりも、窓の数が増えたような気がした。
 はて、と首をひねりかけた時、今度は幾つもの窓が同時に風景を垂れ流し始めた。
 季節も場所も時刻もばらばら。多分学年もそれぞれ違っているだろう。共通項はそれが恐らく葵の視点から見た景色であること、そして──多分、大なり小なり僕に関わりのある場面ということだ。
 それぞれゆっくり見物できる余裕があれば、蒼星石に解説をさせてずっと見ていても良かったかもしれない。生憎、映像は纏めて見るには多過ぎ、しかも窓の数は次々に増えていく。

「記憶が励起されてしまったのかな」
「かな、ってまた曖昧な……。お前、こっち方面の専門家だろうよ。しかもここは自分の縄張りじゃねーか」
「専門家だって制御できないことはあるさ。特に自分の心に関わる部分はね。それに、ここはまだ僕の領域じゃない」
「さっきから映像はお前視点だぜ」
「ここは君の記憶の周縁部に近い場所なんだ。そこに僕の記憶の周縁部が流れ込んでいる、と言えばいいのかな。そして、一つ窓を開いたから、僕の記憶が勢いを付けて流れ込み始めている」
「うぅまた……難しい話に……なるのでしょうか……」
「そうでもないが……大丈夫なのか、それ」
「僕と君の存在が混ざり合ったり、大切な記憶が消えたり、あやふやになることはないよ。僕達がお互いに自己を保てていれば、という条件が付くけど」
「その条件の難易度は判らんが、一応安心しとくことにするぜ。で……どうすんだよこれ」
「どうにもならないよ」

 蒼星石は軽く肩を竦めてお手上げのポーズを取った。
 同級生だった僕にしてみれば、葵だった頃のこいつがよくやっていた見慣れた仕種だったが、もしかしたら薔薇乙女さんの第四ドールとしては珍しい姿だったかもしれない。

「これだけ急激に拡大しているのは、僕の意識下で君との思い出が活性化しているからだ。ひととおり全て再生し終わっても、また同じ光景をループするだろうね」
「暴走してんじゃねーのか、こんな勢いってことは」
「そんなことはないよ。そうだね……簡単に言えば僕の方で君に関わる記憶を連鎖的に思い出しているだけさ。一斉に映像再生されてるから、見た目は派手だけど」
「って言われてもなぁ。いつまでもこれが続くってことは?」
「普通はないよ。他に関心が移るか、忘れてしまえば自然と止まるものだ。気にする必要はない」
「ならいいが……」
「ふふ。心配してくれてありがとう。大丈夫だよ」
「……おう」

 いまいち釈然としないが、そういうものだと言われれば頷くしかない。何しろ相手はこの手の現象のスペシャリストで、こっちは初見のずぶの素人である。
 まあ、本人が大丈夫だというなら早いとこ次の場所に移動したい。
 さっきの街角ほどじゃないが、ここもあまり長居したいとは思えない場所だ。照れくさい情景やら黒歴史にしたい場面が目白押しなのもあるが、それ以上に何か蒼星石の──いや葵の心を出歯亀しているようで、実に居心地が悪い。
 ご本人の方は職業柄(?)あまり気にしていないようだが、なんというか踏み込まない方が良い線というのはあると思うのだ。これはその線を確実に踏み越えている。僕の線引きではそうなのだ。

 取り敢えず、こっちの内心の事情は伏せた上で、そろそろ移動しないかと提案してみる。
 そもそも、元々の目的地でも目的のイベントでもないのは、この同時多画面上映会もさっきの暗い路上も同じことである。蒼星石が移動の主導権を執れるなら、最初に行くつもりだった場所に速やかに移動すべきなのだ。
 実時間でどれだけ経過したかは知らんが、必要ならネジを巻いて、本来の目的を果たすことが一番重要である。
 そんなことを言ってやると、お題目だということは見透かしているのだろうが、蒼星石は生真面目な顔に戻って頷いた。

「少し寄り道をし過ぎてしまったかもしれないね。移動しよう」
「うっす。今度は大丈夫か?」
「さあ……。これほど移動が妨害されたことはあまりなかったからね」
「なんか済まんな、結果的に足引っ張ってて」
「いや、お陰で懐かしいものも見られたし……僕としては思わぬ余禄、かな」
「そっちは忘れてもいいんだぜ? いや忘れて下さい。僕なんぞの思い出とか」
「残念だけど、もう忘れないよ。思い出してしまったから」
「なんてこった」
「身から出た錆……です……」
「オイコラ。服の中から何気に追い討ち掛けんな」
「これぞ……獅子身中の虫……ンッフフフフ……」

 こら、悪代官のような笑い方は止めんか。
 今日のばらしーはテンションが高いままなのか、結構多弁である。サイカチの前でもこんな風だったのだとすれば、無口で天然なお茶目さんという認識をちょいと改める必要があるやもしれぬ。
 瓢々としているから気付かなかったのだが、寂しい気持ちはあるのかもしれない。いやいやコイツなりに思うところがあるはずだ。お父様と慕っていた持ち主と離れ離れになってしまって。
 同行を申し出てきたのも、他の人形共に置いてきぼりにされたのが寂しかったのかもしれん。黙って部屋の隅で本を読んでいたというのもそれっぽい。
 もう少し目をかけてやらんといけないかもな。ばらしーに限らず人形共に。メンタリティの面で人間とは些か異なるとはいえ、異世界に放り込まれた者同士なのだから。

 こっちが余計なことを考えている間に、蒼星石は脇に置いておいた鞄を開けて中から豪華な発条回しを取り出した。
 いつも不思議になるのだが、随分長いこと使われているもののはずなのに、この発条回しはまるで新品のように綺麗だ。刻まれている紋様も摩滅もしていなければ汚れてもいない。
 恐らく薔薇乙女さん達と似たような時期に作られた残念人形共の劣化ぶりを知っている僕としては、どうにも落差が激しいというか違和感が拭えないのだが、偽物でないのはその発条回しで薔薇乙女さん達のゼンマイが巻けていることで理解できている。
 薔薇乙女さん達のボディ同様、お父様の不可思議な技法で劣化も摩滅もしないのだろう。まあ、凡百の人間なんぞ鼻にも引っ掛けない人達のボスみたいなものであるからして、そのくらいの芸当は簡単な仕事なのかもしれん。
 その不思議アイテムを、蒼星石は僕の方に差し出した。

「もうそんな時間か……街角に立ってくっちゃべった後、謎の秘蔵VTRの鑑賞会やっただけなのに」
「時間には余裕があるけど、念の為にね。やはり人工精霊がいないと移動にも支障が出るようだから」
「七つに分ければ人形も動き出すし、人工精霊万能過ぎだな」
「確かに。小さいけど、能力で言えば僕達など足下にも及ばないのかも知れない」
「ま、皆さんに求められたのは能力の大小じゃねーから、その辺はしょうがないだろ」
「うん……」

 きりきり、と背中のゼンマイを巻いてやる。
 この作業も考えてみれば余分といえば余分ではある。薔薇乙女さんのボディがゼンマイの戻る力だけで物理的に駆動できるような代物でないのは当然で、自分以外の人の手を掛けてもらうことが重要なのだろう。水銀燈は碌に必要としないらしいから、その後わざわざ付加された制限であることは間違いない。
 至高の少女に至る道には様々な枷がご用意されているらしい。
 それらのハードルを乗り越えなくてはならぬとは、実に面倒なものである。いっそ人形なら楽だというのは翠星石の言葉だったか、判らんでもない気がする。
 ほんの数回転巻いたところで、手応えが重くなった。ここで終わりである。
 金糸雀が教えてくれたところによると巻き過ぎは禁物で、薔薇乙女さんの活動に大変影響を与えるらしいが、実際どうなのかは定かではない。そういうところでちょっとした冗談を言うのが先輩の特徴なのだ。

「いま、金糸雀のことを考えてたね?」
「おっ、当たり。エスパーの才能まであんのかよ、薔薇乙女さんは侮れねーな」
「そういう反応かあ。ちょっと張り合いないね」
「どういう意味だよ」
「ふふ。さあ、どういう意味だろうね?」

 なんだよ急に。そんな蒼星石っぽくない言い方しやがって、ジュン君のマエストロボデーを纏ってない僕にどんな反応を求めてたんだ
 まあ、「こいつ」らしくはあるか。煙に巻くような言動は葵の十八番だった。それがちょっとばかし下火になっただけだ。こっちの世界に飛ばされてから。
 ただ、そのなんだ。ちょいと少女漫画的というか、学園コメディ系の遣り取り過ぎやせんか。
 それも、まるでこっちが鈍感な男で、ヒロインはちょっとばかしこっちが気になってます、みたいな。
 いやいや、それはモテぬ男の意識し過ぎか。こいつと僕中心の映像ばかり無数に垂れ流している中に居るから、どうも少し感覚が少しおかしくなっているらしい。
 だいたい、葵には彼氏がいる。蒼星石にはマスターがいる。どちらにしてもこっち向いて色気振り撒いてる場合じゃないのだ。
 なんのことはない。つい懐かしくなって前の調子でからかってみただけなんだろう。ちぇっ。
 口を尖らせつつでかい鞄を開け、発条回しを収める。蒼星石はくすくすと笑いながら僕を見ていたが、鞄の閉じる音を聞くと、さて、と顔を引き締めた。

「──行こうか」
「応」
「はい……次は……何処になる予定……ですか?」
「世界の扉が無数に見える場所に行こうと思っている。君達が漫画やアニメでお馴染みのところさ」
「おぉ……まこと、素晴らしき場所です……」
「そうなのか」
「行ったことはないですけど……確か出番があったところだと……」
「出番? あー、アニメでな……」
「アニメオリジナルキャラですから……勝ったと思ったら崩れてボロボロです……から……うぅっ……」
「いや、お前は成り行きでその恰好してるだけだから。ストーリー関係ないから。全然」
「そういえば、彷徨っていた僕が扉の一つを横切ったときにタイミング良く開いて、中に薔薇水晶が居たんだったね」
「あの仕掛けは作るのに苦労しました……レールとワイヤーが見えないように逆さに吊ったり……」
「そっちまで脱線するんかいっ。あと微妙に特撮っぽい嘘やめんか」

 大体扉の仕掛けにワイヤーもレールも要らんだろう。昭和の時代なら知らんが、今はセンサーに連動した扉の開け閉め用のちゃちな仕掛けで十分である。つーか撮影ならタイミング見計らって人力でやるもののような。
 ああいや、そうじゃなくてだな。
 ともかくも、差し出された蒼星石の小さな手を握り、荷物を確認して再出発である。
 さっきと同じなら、瞬間的に場所が変わっているはずである。余韻も何もあったものではない。
 もう一度周囲を見回す。
 なるべく意識しないようにしていたが、窓はますます多くなり、視界の端まで出来の悪い学園ドラマの(それぞればらばらの)ワンシーンを一斉上映している。
 蒼星石が──葵が僕とのあれこれを意外によく覚えていてくれたのは嬉しくはあるが、如何せん数が多すぎる。既に恥ずかしいだのを通り越して不気味ささえ覚える眺めだ。できればこれで見納めにしたい。

「移動するよ」

 案の定というか、呆気無くというか。
 蒼星石の言葉と同時に、周囲を埋め尽くしていた窓の群れは掻き消えた。
 代わりに、先ほど夜の街路に出現したようなでかいドアが幾つか宙に浮いている。遠くに目を凝らすと、ドアはぽつぽつと幾つも浮いていた。
 きょろきょろとまた頭を巡らせてみても、今度は視界内全てその光景だった。ドアで出来た星空、いやドア空といったところか。
 蒼星石は繋いだ手を放し、見事な三次元機動でくるくると僕の周囲を回った。別にはしゃいでみせた訳じゃなく、単に周囲を眺めるためにやっただけのことらしい。
 ひととおり見るところは見たのか、僕と視線の高さを合わせて停止する。些か安堵した表情になっていた。
 未知の空間ではあるが、こっちもほっと一息つきたい気分だった。どうやら今度は蒼星石の意思が通ってくれたらしい。

「やっと本番ってトコだな」
「うん。いつもはここから始まる。君にゼンマイを巻いて貰えて丁度良かった」
「時間は余分に押したけどな……って、まさかもう一度ネジ巻きする予定じゃなかろうな」
「そのつもりだよ」
「おいおい……実時間で三十分以上はヤバいんじゃねーのか? 翠星石が卒倒しかねんぞ」
「三十分経過したら薔薇水晶に連絡をお願いするさ。そういう約束だろう?」
「……がんばります」
「そういう話だったけどな、その程度じゃあいつは──」
「──がんばります……」
「お、おう」

 背中から前の方に移動したと思ったら、コートの胸元からひょいと顔を出しやがった。その体勢でうるうると無駄に瞳を潤ませてこっちを見上げて来る。
 器用というかなんというか。昆虫サイズなら服の中を這い回ってるだけの話だが、ばらしーは身長五十七センチメートル、体重は五百五十グラムではきかないでかい人形である。
 教え込んだのはどっちだ。サイカチか「巻かなかった」ジュン君か。さっき言ってた忍術云々はフカシとしても、これは十分侮れない技術だぞ。
 毒気を抜かれた形の僕を後目に、蒼星石は手近なドアに取り付いた。ドアノブに手をかける。
 なんとなく船外活動する宇宙飛行士を想像してしまう姿だが、何の足場もない状態でノブを回しても、蒼星石の方がぐるぐる回り出すようなことはなかった。便利なものである。

「そこが今回の目的地ってやつか」
「いや。一番近かったから開けてみるだけさ」
「……扉の向こうを……見せてくれる……と」
「そこまでこっちにサービスせんでもいいから。不思議空間はさっきのでもう食傷気味だ」
「あはは。サービスしてるつもりはないし、それだけの余裕もないよ」

 細く開けかけたドアを背にして蒼星石は振り向いた。
 はっきりと苦笑いの顔になっていた。その表情のまま、これが捜索の実態なんだ、とやや力の抜けた声で言う。

「扉を潜れば、ナンバリングされた世界の一つに出る。例えば、この扉は第48696世界に通じている」
「なんかそんな話だったな」
「雪華綺晶がマスター達を閉じ込めているなら、それは何処かの世界だろうと僕達は考えていた。こちら側のような──世界の外側に居るなら、距離が近くなれば僕達に判ってしまうからね」
「扉の向こうなら、偶然か必然か知らんが開けて覗くまでは判らんから、ってことか」
「そう。巧妙に隠されていれば、中に入って探さなくては気付けないかもしれない」
「……一日に何箇所回れるか知らんが、そんなんじゃ行き当たるまで何年かかるか判ったもんじゃねーな」

「もっと悪いよ。途中で居場所を変えられてしまう可能性もあるから、偶然をたのみにしているようなものだね。
 だからこそ、雪華綺晶にしてみれば意味のある選択肢だ……と、僕達は考えていた。人工精霊を失ってしまった僕達は、お互いの連絡にも不自由を生じているのだから」

 なるほど、と頷きたい気分だった。
 僕が漠然と思ってた以上に、薔薇乙女さん達は追い詰められていたのだ。翠星石がカリカリ来てたのも、こいつが妙に焦って僕なんぞの思い付きに乗ってきたのもむべなるかなというやつである。
 となると金糸雀が比較的冷静なのが判らんが……まあ性格の違いもあるだろうし、先輩には先輩の思惑があるのだろう。
 まあ、その辺の考察は追々やればいい。今は蒼星石のお伴である。

「どうも、今日は前置きが長くなるね」
「すいませんねー、無駄話ばっか多くて」
「……いいってことよ……」
「コイツ、誰のせいだと思っとる」
「……フッフフフ……」

 まるで懲りないばらしーに、何故か今回はえらく優しい目を向けてから、蒼星石は前に向き直って宙に浮いたままドアを押し開けた。
 さて、鬼が出るか蛇が出るか……。


 〜〜〜〜〜〜 数日前、何処か 〜〜〜〜〜〜


「貴方の言いたいことは判ったわ。確かにそれは、私達の共通の問題でもある。でも──意外ね」
「何がよ」
「貴方からそんな風に協力を求めてくるなんて。これまでずっと恰好付けて一匹狼を気取っていたのに」
「……協力したくないなら構わないわよ? 私は情報を提供しただけ」
「いいえ。乗らせて貰うのだわ、その話」
「フン、勿体ばかりつけたがって……かっこつけてんのはどっちよ」
「どっちもだと思うのー」「なんか面倒になったよね、この二人」
「普段の会話まで厨二病引っ張るのはやめろやですぅ」「後で枕に顔を埋めてイヤンイヤンする未来が待ってるかしらー」
「うっさいわねぇ! アンタ達はどーすんのよぉ」
「まぁ協力しないでもねーですよ」「どうせヒマだしね」
「それに面白いのよ、もうひとりの自分探すのってー」「かしらかしらー」
「同一時空平面に於ける異次元同位体の共存とは興味深いテーマなのだわ」
「……若干変なのが混じってるけど、突っ込まないことにしとくわぁ。それで作戦っていうのはねぇ──」




[24888] 第三期第十一話 薔薇は美しく散る(後)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:f0b45e10
Date: 2013/11/12 16:40



 〜〜〜〜〜〜 第48696世界 〜〜〜〜〜〜


 なんだこりゃ、というのが正直な感想だった。

 そこは、何処かの屋内だった。
 恐らく個人の家で、多分日本家屋ではない。十畳か十五畳か、それなりの広さはあるんだが、潜って来たドアの豪華な作りとは対照的な、こう言っちゃなんだが古さと安っぽさが滲み出てくるような部屋だった。
 壁は白木のままだし、床も板張りが靴底で傷めつけられて摩耗している。天井だけは昭和の日本家屋に馴染んでいる僕からすると結構な高さだったが、それが却ってしょぼさというか貧相さを醸し出していた。
 貧相さを感じてしまうのは、電灯の類が一つもないのも原因だろう。
 それなりに物は置かれているのだが、電灯に限らず機械の類が一切ない。明かりといえば高いところに開けられた窓だけ。それもサッシなどではなく木枠に板ガラスといった具合で、なんというか大きな作業小屋といった印象なのだ。これなら、その辺のプレハブ飯場の方がよっぽど近代的である。
 目の前というかドアを出た正面には、如何にも四角い棒材を適当に切って作りましたという感じの椅子がこっちを向いている。背凭れのところに上着か何かがだらしなく引っ掛けられていた。
 人の姿は見えない。ただ、脇の方にドアが──潜り抜けて来た立派な扉に比べてしまうと四角い枠に板を張って蝶番と取っ手を付けましたという感じにしか見えないぞんざいな代物があった。

「……何処のボロ家だよ、ここ」
「何処でもあって、何処でもない。精神世界のひとつさ」
「誰かの思い出の光景ってとこか?」
「あるいは、複数の人達の。少なくとも僕や君の記憶ではないようだけど」
「これまでのパターンだと、僕等の周辺の誰かってトコか」
「残念だけどそれも判らない。全く関係がないところには飛びにくいから、多分なにがしかの関わりはあるのだろうね」
「いい加減だなオイ」
「ファジーな場所なんだよ。色々とね」
「番地が振ってあるだけマシだと思え、ってか」
「そういうこと」

 やれやれと肩を竦めていると、ばらしーがするりとコートの裾から抜け出た。
 きょろきょろと部屋の中を見渡していたが、いきなり電球が頭の上に点灯したような表情になり、椅子に駆け寄って飛び乗る。えらく子供っぽい仕種であった。
 こういう時こそ伊賀だか甲賀だかの忍術を披露すべきだと思うのだが、まあ致し方あるまい。多少ならず興奮してるようだしな。
 ……と、なんとなく子供を見守る父親のような気分になっていると、ばらしーは椅子に腰掛けてこちらを向いた。

「お父様も……きっとお喜びになります……」
「いきなり何言い出すかと思えばそれかいっ」
「うーん。水銀燈役が足りないね」
「そこは……そちらの方で代用ということで……」
「いい加減にせい。石原も自然に乗ってんじゃねーよ」

 ばらしーのやりたい場面は大体見当がついたが、今回はホイホイと乗る気になれん。
 いくらごっこ遊びにしても不謹慎が過ぎるだろう。しかも相手は本物だぞ。
 流石にぽかりとやる訳にはいかんので、指の先でぐいっとほっぺたを押してやる。ばらしーはうにゅうというような音声を発した。
 音声は置くとして、触感の方は相変わらずもちもちである。どんな材質なのか見当もつかんが、プラというか無発泡ウレタンだった頃とはえらい違いだ。
 というか、あの頃は迂闊に触ると化粧が落ちるかもしれん、ということで顔など下手に撫でることもできなかった。本人形は平気で動き回っていたが、やっぱり落ちた化粧はサイカチがメイクしてやっていたのだろうか。

「お父様……お喜び……ぐすっ」
「あ」
「泣いたな」
「うぅぅ……お父様……お父様ぁ……」
「あぁ、ほら泣かないで」
「はひ……うぅ」

 ばらしーはちゃっかり蒼星石の腕の中という羨ましいポジションを占めた。泣く子の役得である。
 なるほど、薔薇乙女さん達であっても相手が六十センチサイズのドールなら大人が子供を抱くように抱き締められるのだなぁ。
 蒼星石はあやすようにばらしーの頭を撫で、こっちを振り向いて苦笑した。

「サイカチ君だったっけ、世話をしていたのは」
「うむ」
「これだけ慕われるということは、大切にしていたんだろうね」
「大切っつーか、溺愛しとったな。ばらしーはコイツ等の仲間内じゃ一番幸せだったかもしれん」

 ガネ子が語ったところによると、残念人形共の本分は遊んで貰うことにあり、その意味で「巻かなかった」ジュン君には感謝しているということだった。
 まあ大体そんな目的で作られたんだろう。出来上がりは実に残念であるし、そんならビスクなんて金のかかる材料じゃなく当時絶賛売出中のキューピー人形の如くセルロイド製にしたらどうよ、と思いもするが。
 その伝で行けば、ばらしーのような大型のキャラクタードールの場合は愛でられてなんぼなのであろう。サイカチの嫉妬は故なきものであったし(いや、中学時代のはともかくとして森宮さんには好かれていたのだから半分だけ当たりというところか)、ばらしーはそれを更に斜め上に受け取ってしまったわけだが、注がれた愛情の量が大きかったことだけは間違いない。

──必ず連れ帰ってやらにゃあな。コイツだけは。

 柄にもなく殊勝なことを考えていると、不意にばらしーが泣き止んだ。

「いま……向こうで、物音が……」
「お? いや、気付かなかったが……聞こえたか?」
「うん。あの扉の向こう側だ」
「誰かいる……のでしょうか……?」
「何か動くものがあるのは間違いないね」
「こんな不思議時空にも住人が居るのかよ。てっきり無人だとばかり」
「普段はあまり他人に会うような場所じゃないね」

 蒼星石は否定とも肯定とも取れそうな玉虫色の回答をこっちに寄越してドアの方に顔を向けた。
 さっき潜って来た方ではなく、例の脇の方にある粗末なやつである。ちなみに、この部屋の風景に合致しとるのはそっちのドアであり、僕等が潜って来た方が場違いなのは言うまでもない。
 今度は僕にも聞こえた。その向こうで、がさごそと音がしている。
 ドアやら床をぶっ叩いているのではなく、何やら物を動かしているような音にも思える。……というか、よく見るとドアと床の間の隙間から、向こうの光と足か何からしい影が見え隠れしていた。
 人間の足だ、と言い切れるほどじゃないが、幸いなことに多足生物だったり小さくて茶色い虫の類ではないようだ。

「気付かれたみたいだ」
「そりゃあこれだけ騒いでれば、あの隙間から声は駄々漏れだわなぁ」
「ひっ……な、何者なのでしょうか……」
「ナニモノか知らんがまあ、やばくなったらそっちのドアから逃げりゃいいだろ」
「意外と冷静なんだね。もう少し驚くかと思っていたよ」
「当たり前だろ。こちとら退路が確保されてるときは冷静沈着かつ豪胆なのだ」

 というか、おかしな光景の連続で感覚が麻痺してるだけなんだがな。あの夜以来。
 返答が可笑しかったのか内心を見抜いているのか判らんが、蒼星石はこちらを振り向いてふっと笑いを浮かべた。どういう訳かやたらびくびくしているばらしーを僕に押し付け、ドアの方に歩み寄る。
 気を付けろ何が出てくるか判らんぞ、と声を掛けようとしたとき、ドアはギイギイと錆びた蝶番特有の嫌な音を立てつつ、しかしこの手の場面にありがちな緊張感の溢れるゆっくりした動きをするでもなくあっさりと開いた。

「なんだ騒々しい。気が散るから出て行ってくれ」

 いきなりの登場ではあるのだが、なんとなく空気が弛緩したのは錯覚ではなかろう。
 精神世界とかいう、薔薇乙女さん達の導く不思議空間には場違いに思える、しかしこの風景にはまぁお似合いな台詞とともに姿を見せたのは、金髪髭面で赤ら顔のおっさんだった。
 汚れた前掛けによれよれのシャツとズボン。手は前掛けと同じく白っぽい色に汚れている。
 大きな隈のできた落ち窪んだ目は、さっさと向こうに行かんかと言いたげに細められている。迫力のない顔立ちに鬱陶しそうな表情を浮かべているのが実に陰気臭い。
 しかしまあ、おっさんのルックスはともかくとして、これどっかで見たような展開じゃね? ドラマだの映画だのじゃなく、週刊漫画誌の連載で。


 〜〜〜〜〜〜 第十一話 薔薇は美しく散る(後) 〜〜〜〜〜〜


 おっさんは一言言って僕等を睨みつけるとドアの向こう側に戻って行ったが、肝心のドアは開けっ放しであった。
 用があるなら入れということなのか、単に閉めるのまで気が回らなかったのか。どっちとも取れそうな微妙な按配だ。
 僕等はそれぞればらばらの高さの顔を見合わせたが、結局おっさんの後に続いてドアを潜った。まあ、文句を言われたら退散すればいいのだ。

 ドアの向こうに広がっていたのは、斜め上というかある意味予想どおりというか、ちょっとこれまで見たことがない情景だった。
 壁際にも天井にも、制御機器らしいものは見当たらない。というか、電灯もなければ電動で動きそうなものは何一つ見当たらなかった。作りはでかいが、えらく古臭い建物のようだ。
 向こうの壁までの距離を見る限り部屋そのものはさっきの部屋とは比較にならん広さで、ちょっとした会議室程度は楽にある床面積なのだが、そこらじゅうに何やら白っぽいものが山積みにされているせいで妙に狭っ苦しい。ついでに言うとおっさんは奥の方に行ってしまったようで、山の一つに隠れて姿が見えなくなっている。
 隙間から木箱らしきものが覗いてるところを見ると、どうも最初は白いものをその箱か何かに入れていたようだ。ただ、今は完全にそれを覆うほど溢れて、さながらボタ山の如く堆積している。
 蒼星石はぎくりとその場に立ち止まって息を呑んだ。対照的に、ばらしーは緊張感を置き忘れた仕種で(多分おっさんの所有物か制作物であろう)その山のひとつにトコトコと歩み寄って行く。
 近寄って見るまでもなく、白いものの正体は僕にも判別できた。

 人形だ。

 でかい部屋と思しい空間に堆く積み上げられていたのは、何十どころか何百、下手をすると何千という数の、まだ衣装も着せてなければ髪の毛も植えてない、多分目玉も入れて貰っていない素焼きのドールだった。
 久々に耳の後ろがざわつく感覚を味わいつつ、数歩進んで覗いてみる。
 中途半端な状態に半完成品状態の焼物人形の山の向こうで、おっさんは何やら作業をしていた。
 詳しくない僕にはどの程度進んだところの工程か判らんのだが、数人掛け程度の作業机に独りで向かい、一心不乱に半完成品の人形相手に何か作業をやっつけている。そう、まさにそれはやっつけていると言ってしまって良さそうな、何やら執念と言うか怨念のようなものがちらつく姿だった。
 机の周辺には黄色っぽいわしゃわしゃしたものが大量に積まれている。多分、髪の毛を植えた頭頂部だろう。

──なるほど。

 おっさんの背中は不気味は不気味なのだが、耳の後ろのざわざわは引いて行った。
 どうやら、ここは何処ぞの人形屋の工場らしい。それにしちゃ大分製品の扱いが良くないし、このボタ山はおっさん一人でこなすには無茶苦茶な量だが……って精神世界だから何でもありなのか。
 ううむ。ますますどっかで見たようなパターンだぞ。

 実に嫌な予感がする。これは専門家の意見というやつを聞いてみるべきかもしれん。
 振り向いてみると、蒼星石はまださっきの位置で立ち尽くしていた。
 おい、しっかりしてくれ専門家。いくらお前が苦手な酷いゴミ部屋だからって、固まってる場合じゃなかろう。
 少し屈んで小さな肩をぽんと叩いてやると、蒼星石は漸く正気づいた。

「……ごめん、どうも僕には刺激の強い光景だったみたいだ」
「そこまで潔癖症だったか? まあ、えらくきたねー工場だけど」
「いや……そういう意味じゃ──」

「──ゴチャゴチャうるさいぞ。なんだ、話があるならこっちに来い。こっちは忙しいんだ、見れば判るだろう」

 おっさんの怒声に首を縮め、もう一度蒼星石の顔を見る。こっちを見返してはきたものの、まだなんとなく曖昧な表情だった。
 どうなっとるんだ。らしくないなんてもんじゃないぞ、いきなり腑抜けになりおって。
 まあ、いきなりの展開にウロが来てるのは判らんでもない。まんま某漫画みたいな展開だからな。
 この妙に生活感のあるようなないような工場の雰囲気が、不思議空間の「常識」から外れてるんだとすれば、知識持ちなだけに却って衝撃的ってなことは有り得る。

 とはいえ、こいつのこんな面はこれまで見たことがない。
 間違っても魂が抜けてしまうようなことはないだろうが、放っとく訳にもいかん。どうする。
 一旦向こうの部屋、いやこの際どこでもドアの向こうに退却して一息つくか。それが良いかもしれん。
 いや待て。
 ここは僕等凡俗(ばらしーも含まれる)にとっては、精々嫌な予感がするとか、珍しいと思ってあれこれ眺め回したりする程度の場所だ。
 そんな光景に、蒼星石がこれだけ衝撃を受けておるということは、ここに薔薇乙女さんに関わる何かがあるんじゃないのか。
 具体的に何かと聞かれると、素人の悲しさでさっぱり見当も付かない。ただ何かあるとすれば、それはこの空間のヌシ然としているおっさんと少なからず関係があるはずだ。

──取り敢えず、おっさんは出て行けとは言わなかったよな。

 むしろこっちに来いと言った。少なくともさっきよりは友好的である。
 ならば、ご招待に与ろうではないか。
 まだ不決断に垂れてる小さな片手をぐいと掴んでみる。相変わらず鈍い反応でこちらを見上げた蒼星石を半ば引き摺るようにして、おっさんの方に向かう。
 製造途中の物体でボタ山が出来てる割に、床がまともに見える程度の汚さで助かった。でなければ、蒼星石は転んでしまっていたかもしれない。
 後ろの方でばらしーがほぇーとかうわーとか緊張感皆無の感嘆の声を上げていたが、そっちは気にしないことにする。
 勝手に遊んでるなら僕が相手をしてやるまでのことはなかろう。うっかり悪さをしたら……まあ、そのときはそのときだ。


 おっさんはこっちに背中を向けたまま、何の用だと訊いてきた。短い話なら立って話せ、長くなるなら適当にその辺に座れ、と言う。横柄な態度だが、闖入者に対しては友好的と言うべきだろう。
 その間も手の方は相変わらず動いている。拒絶してるのか歓迎したいが時間が惜しいのか、どうもはっきりしない態度だった。
 それじゃあ、と作業机の脇にあった何かの木箱の上に腰を下ろさせていただく。
 蒼星石がちらりと物言いたげな視線でこちらを見上げる。言いたいことはなんとなく判ったが、無視して人形どもにするようにひょいと抱き上げて隣に座らせた。
 いいじゃねえか。少なくとも出てけとはっきり言われてはいないんだから。
 さて、どうやって何から順に訊いていけば良いものか。

「ビスクドール、ですよねこれ」
「そうだ。すべてのパーツが高温で焼き固めたビスクだ。安物の縫製胴体のやつとは訳が違う」

 だから勝手に触るな、とおっさんはじろりとこっちを振り返り、僕等は揃って頷き返した。
 蒼星石が黙ったままなのは、思いがけず僕にイニシアチブを握られたせいで気持ちの整理が付いてないのかもしれん。済まんなぁ。

 それはそれとして、縫製胴体と聞いて一つ納得したことがある。
 残念人形どもの件で色々検索してたのがこんなときに役立つとは。多分後にも先にもこれっきりだろうが。
 ビスクドールといっても、全部が全部焼き物で出来てるオールビスクばかりではない。手足と頭以外は例のコンポジで出来ていたり、時代が下るとセルロイドとパーツがちゃんぽんになったものもある。
 樹脂が流行る前、もっと言うと高級な焼き物が流行る前は、おがくずや綿を詰めた布製の胴体のもの(これもコンポジットということもあるらしい)も多かった。もちろん、焼き物全盛になってからも、作りやすく破損しにくい布製の胴体は安価な品物を中心に作られ続けていた。
 これはセルロイドが普及して、大量生産可能かつ高品質で破損もしにくいオールセルロイドの人形がビスクやコンポジを駆逐するまで続く。
 まあ、ぶっちゃけキューピーちゃんがビスクドールを死滅させたようなものである。今は精々マヨネーズの商標として見るばかりだが、往時の勢力は凄まじいものがあったのだ。

 ここは多分、ビスクドールが人形として普通に作られていた時代(まあ現代でも盛んにリプロされたりしているのだが、それはちょっと趣旨が違うので置いといて)の、どこぞの人形工場を模した場所なのだ。電気を使う機械が見当たらないのは当然である。なにしろまだ街灯がガス灯だった時代なのだから。
 但し、工場の大きさに反して従業員は恐らく一名、このおっさんだけであろう。そのくせそれぞれの工程を一括してやってるもんだから、こんな半端な作りかけが大量にあるのだ。
 もっとも、実際に作業をどれだけやってるかは判らない。なんせイメージ先行の場所なのだ。これは、要するにおっさんがどれだけ人形の大量生産に拘っていたかというサインだと思っておこう。

 しかしまあサインにしても、なんでまたこんなに。
 工場の風景からして、おっさんはとうに死亡しているはずだ。
 まあ某漫画の人々も大抵そうだった訳で、それは想定の範囲というか予想どおりではある。
 問題はそれから長年、何故に成仏できないおっさんが延々とこの決して世に出ることのない人形作りを執拗且つ孤独に続けていたのかってことだ。
 精神世界一つ丸々乗っ取ってるのか、それとも僕等が出たところが偶々おっさんのテリトリーで、工場の外には無限の大海原が広がっているのかは蒼星石に聞かんと判らんが、おっさんの執念が物凄いのは間違いない。そして、恐らくその何かが蒼星石に衝撃を与えたんだろう。
 腕を組んで考え込みたいところだったが、纏まらない内におっさんの方から尋ねてきた。

「それで、話は何だ」
「えーっと、話せば長くなるんですが」
「長話に耳を貸してやるほど暇じゃない。要点だけ言え」
「じゃあその……単刀直入に訊きますけど、なんで人形作りやってるんですか。こんな工場に一人で」
「……聞きたいのか」
「はあ、まあ、できればお願いしたいなと」
「どうしても聞きたいというのだな」
「あ、その、嫌なら別に無理にとは……」
「長くなるぞ。それでもいいんだな」
「まあ、それは構いませんが……」
「仕方ない。そこまで言うなら話してやろう」
「……はあ。ありがとうございます」

 なんなんだよおっさん。ツンデレか?
 いや、実はさっきから昔話したくてうずうずしてたんじゃねーのかコレ。
 まあいいや。取り敢えず情報が得られるのは悪くない。ついでに語り尽くしたことでおっさんの気が済み、成仏してくれるなら一石二鳥でもある。

 いつの間にか思考が大分某漫画的な方向に傾斜してしまっていることに気付く暇もなく、僕等はおっさんの長話を拝聴することに相成った。
 それは探せばあちこちにありそうな、しかし不真面目に聞き流すには少々忍びない話だった。


 おっさんも最初からおっさんだった訳ではない。当たり前の話だが彼にも人並みに若い頃はあった。
 いや、彼の場合人並み以上だったと言えるかもしれない。
 経済的な後ろ盾をひょいと捨て、恋を選んだのだ。有り体に言えば駆け落ちしたのである。相手は貧しい売り子の娘、彼はそれなりに裕福な家の跡取りだった。
 二人は遥か海の彼方の都市を離れ、船と鉄道を乗り継いで都会の片隅に居を構える。奥さんはやがて女の子を身籠もった。

 順風満帆とは行かないまでもささやかな幸せを噛み締められたのは僅かな間だった。
 奥さんが病に倒れた。肺病だった。
 医者はお決まりの転地療養を勧め、一家は郊外に居を移す。だが、奥さんは結局快復することなく短い命を終えてしまった。
 残されたおっさんは懸命に働いて娘を養ったが、彼女もそれから数年の後に同じ病で世を去った。

 茫然自失のおっさんは、都会に戻って荒んだ生活を始めた。日雇い労働の疲れと娘の面影を酒で誤魔化す毎日だった。
 転機が訪れたのは、荒んで弱っていく一方のおっさんを見かねた奥さんの友人が持ってきた仕事だった。材料を人形工房に搬入する馬車の御者である。少しでも身体が楽になれば、という親切心だったらしい。
 ともあれ、そこでおっさんは、ビスクドールというものと出会った。
 工場で扱っていた物は芸術品としての人形とはやや違う、比較的安価な量産品ではあったが、おっさんにとってはどちらでも同じだったろう。

──これは娘だ。

 おっさんはそう思うようになった。
 丹精込めて手作りされ、支度を整えて送り出され、着いた先で長らく愛され続ける。
 人間ではないけれども、それは子供のようなものだ。
 作ろう。幾つも幾つも、出来るだけ沢山の娘を生み出そう。
 娘は短すぎる人生を終えてしまったが、無数の人形として甦り、無数の生を生きることができる。
 もちろん、早く人生を閉じてしまうものもあるだろう。死んでしまった娘よりよほど短く、自分の手を離れてすぐに壊れてしまうかもしれない。
 しかし何人かは、もしかしたら人間などよりずっとずっと長きを生き抜けるのではないか。人間では到底味わえない出会いと別れを経て、何かもっと高みに到達することも、ひょっとしたらあるかもしれない。

 それまでの淡々とした口調が急に熱っぽくなり、情感たっぷりに語るおっさんに、病んでしまった人間の片鱗を見たような気がしたのは、こっちがそういうバイアスをかけて見ているからだけじゃあるまい。
 所詮人形は人形である。おっさんが如何に手を掛けてやったとしても、おっさんの娘の生まれ変わりではないのだ。
 ただ、そう思いたくなるような心境だったんだろうな、というのも判る。
 死んだ人は戻ってこない。しかし、残された側は何かに死んだ人の面影を託さなくては生きて行けない場合もあるのだ。
 形見の品物や新しい誰かにその面影を上手く託せる人ばかりではない。いや、おっさんは多分一度は奥さんの面影を娘に託したのかもしれないが、それも失ってしまった。

 日本的な感覚で言えば、おっさんは供養のために地蔵を彫り始めたようなものだ。
 それがただ彫るだけのことに昇華されず、出来上がりの品物が世間に出ることも含んでいたのは、文化の違いというやつだろうか。それともおっさんの性格によるものだろうか。

 ともあれ、おっさんは人形作りを一から学び、やがて自分でも作るようになった。
 原型から自分で作ることにしたのは、動機からして自然のことだった。そして──


「──今に至る、ってことですか」
「……端折ればそういうことになる」
「何かあるんスか、ここから先が」
「……ないでもないが……」

 おっさんは急に歯切れが悪くなった。どうも何か言いづらいことがあるらしい。
 これまでも言いたいことをだらだらと吐き出す感じで、到底立て板に水とは行かなかったが、言葉は続いていた。正直少しばかり疲れてきたほど切れ目なく昔話を喋っていたのである。それがいきなり淀んでしまった。
 丁度いいかもしれんな。一旦時間を置いておっさんの話を検討したり、こっちから何か質問したりするタイミングだろう。
 言いたくないことを語っていただくのはそれからでも遅くなかろう。無理矢理続きを急かすのも気の毒な気もする。
 なぁに、時間はあるのだ。金糸雀によれば世界のナンバーが判っていれば到達は可能だという。また日を改めればいいのである。
 何なら、今日ここで暫く時間を置いたって構わんだろう。蒼星石のゼンマイ巻きも、なんとなれば休息場所の鞄までも持参しているのだから。
 マエストロボデーでない状態の僕がゼンマイ巻きを使えるのも確認済みである。強いて言えば連絡役のばらしーがイマイチ不安ではあるが、本人形曰く鋏改めサファ子やらメル子よりはマシだというから、多少まごついたとしても迷子になって帰れなくなることはあるまい。

「まあ、その話はまたぼちぼち──」
「──いや、聞きたいです。端折らないで教えてください」
「おいおい」
「ごめん邪夢君。大切なことなんだ。僕はここからの話に興味がある。──話してくださいませんか、その後のことを」

 いきなり口を開いたと思ったらこれだ。
 長話を聞いている間に立ち直っていたのか、おっさんの急変に反応して覚醒したのかは判らんが、蒼星石はいつもの(もちろんこっちに来てからの)蒼星石らしい生真面目な顔に戻って、蒼星石らしくない、見方によってはかなり不躾な要求を口にした。
 幸い、おっさんは背中を押されるのを待っていたような状態だったらしい。如何にも渋々といった風を装ってるのがバレバレの顔で、それなら、と続きを語り始めた。


 人形作りを教わった段階では問題はなかった。複製作りの工程も衣装縫いもひととおり教わった。
 しかしいざ木彫で原型を作り始めたところで、おっさんは壁に突き当たった。
 実に単純明快、当然の帰結だった。絵画も彫刻も本格的に学んだことがなく、これといって特異な才能もない彼には、人形の手足の指先やら顔やらを美麗に仕上げることができなかったのである。
 それでもおっさんはめげなかった。工場の守衛代わりを買って出、昼は仕事、工場の就業時間が過ぎてからはその片隅を借りて、ランプの灯りの下で幾つも木型を彫り続けた。
 何年か過ぎた頃、どうにか努力は報われた。
 まだ本職の芸術的な作品には遠く及ばないものの、まあ売り物に使ってもクレームは付かないだろうと言われる程度のものが作れるようになったのである。
 ただ、その頃になると別の、おっさんには解決不能の問題が持ち上がっていた。

 おっさんのビスク人形との出会いは、おっさんの野望というよりは切ない願望を叶えるには些か遅すぎたと言えるだろう。
 時代はビスクから樹脂に変わっていた。
 安定した本職のデザイナーの作った一つの原型から出来た無数のセルロイド人形が、驚くほど安価に出回る世の中になっていた。ビスク等を使った一点もののドールは高級品、あるいは芸術品としての需要がまだあったが、それは有名ブランドに限られていた。
 ブランド物に対して安さを売りにしていた会社は、樹脂製の人形製造に切り替えるか店を畳むようになっていた。ましてや、技術のない素人の作ったビスク人形が利益を上げられるほど甘い時代ではなくなっていたのである。
 おっさんが半ば住み込みで働くようになっていた工場も例外ではなかった。悪いことに経営者は樹脂製の人形や他の玩具への転換の時機を逸してしまい、工場は閉鎖されてしまった。

 元の木阿弥となったおっさんは、また日雇い暮らしを始めることになった。何度目かになる挫折だった。
 とはいえ、全てが無駄になったわけではない。彼の手許には製作した人形の原型が残ったし、ほぼ独学とはいえ一応身につけた技術もある。今度は自宅で、彼はこつこつと人形を作り続けた。
 長らく音信不通にしていた親が亡くなり、その遺産の一部が偶然のように転がりこんできたとき、彼が閉鎖した工場を借り受けて人形工房を開いたのは当然だった。
 遺産はそれなりの額だった。ちまちまと使っていれば、楽に暮らして行くこともできただろう。だがそんな選択肢は彼の頭に浮かびもしなかった。
 人形を作るのだ。今度は製造を手伝っていたのとは訳が違う。念願の、材料の選定から原型の製作まで自分ひとりでこなした彼自身の人形である。

 ただまあ、そこから先はお察しのとおりというやつであった。
 一応は販路も持っていたであろう会社が立ち行かずに廃業する時代である。いくら人件費をゼロにできるからといって、名前も知れてなければ出来の方も怪しい個人の零細工房が上手く行くはずもなかった。
 ビスクドール以外も作ってみたもののまるで売れないことに変わりはなく、開店資金を支払った後に僅かに残った遺産はたちまち負債に変わった。
 いや、借りられた額が少ないとはいえ借金ができただけマシだったかもしれない。人形工房と言いながら、収入は日雇いの土方仕事の分しかなかったのだから。

 二進も三進も行かずぎりぎりで凌ぎ続ける内に、彼に漸く幸運が舞い込んだ。
 格安ではあったが、大口の注文が入ったのである。それもビスクドールの。
 但し、大口なのはいいがやや大口過ぎた。工場をそのまま借りていたことで、工房の規模を間違われたらしい。
 期日も厳しかった。それでも若干の交渉の末、ぎりぎり仕上げられると判断した彼は仕事を引き受けることにした。
 背に腹は替えられぬ。借金が大部分返済できそうな見積もりを見てしまえば、おっさんに拒否するという選択肢はなかった。そもそも多数の注文というのは彼自身の願望にも反しないのだ。
 おっさんは寝る間も惜しんで人形の量産に掛かり──


「──それが、これってことですか」
「そうだ。だから急がねばならんのだ」
「いやー……流石にこりゃあちょっと多過ぎじゃないっスかね。一人でやるにゃ限度ってモンがあるんじゃないかと」
「誰か、職人さんでなくてもお手伝いしてくれる人を雇ったりはできなかったんですか?」
「そんな金があれば苦労はせん。……ああ、そういえば」
「……ボランティアでもいたとか?」
「確かに、タダでいいから手伝わせてくれ、と言って来た奴は居た。お前等のような東洋人の男だった」

 視界の隅で、蒼星石がぎくりと身体を強張らせるのが判った。
 どういうことだよオイ。心当たりでもあるのか?
 おっさんはこっちの機微など構うこともなく、あいつめ、と忌々しげに舌打ちした。誰だか知らないがボランティア氏には失礼な話である。

「奴は、その代わり人形作りを教えろ、と言い出した。この忙しい時にだぞ」
「断っちまったんですか」
「そのつもりで言ってやったさ。私には綺麗なものは作れない。そんなものを作れるのは一流の芸術家だけだ。弟子入りするつもりなら他をあたってくれ、とな」
「……でも、彼は引き下がらなかった……」

 蒼星石はぽつりと呟く。
 なんだ。まさか本当に知り合いなのか。実は昔のマスターさんの誰かでしたとか言わんよな?

「ああ。教えられるのは手順と材料、それからちょっとしたコツ程度だと念を押したが、それで構わんと言い切った。だから手伝わせることに決めたのだ」
「随分熱心なんだなァ」
「……その人はそれからどうしたのですか……?」
「製造工程をひととおり見せてやってから、焼き工程に入ったところで手が空いた。そこで余ったポーセリンや型材を使って好きなように人形を作らせてみた」
「って、ひょっとして原型作りからですか? 結構時間掛かりそうな」
「そう思っていたが、肩透かしを食った」

 おっさんはますます不機嫌そうな顔になったが、話は続けてくれた。
 その東洋人の男の原型作りの習得には、時間はまるで掛からなかったという。どう見てもある程度の基礎的な素養は事前に持っていたとしか考えられない、とおっさんは苦々しげに口を歪めた。
 そればかりか、男は作業そのものが神速の域だった。
 魔法か奇術のようだった、とおっさんは溜息をついた。男の手にかかると、何でもあっという間に人形の形に変わってしまうのだという。
 七つの人形の形を作るのに数時間と要しなかった、というのは流石に誇張だろうが、ともかくミスも淀みもなく原型を作ったのは確実らしい。それを几帳面に、おっさんが教えた手順に従って型を取って複製し、焼き工程に入った売り物人形のパーツの中に混ぜて焼き上げた。
 ドール服の製造工程やらノウハウは、必要なかった。男は裁縫に関しても天才的で、なおかつ裁縫に関しては何をすれば良いのか最初から全て弁えていた。

「気に食わんのはな、それだけの才能がありながら、だ」
「才能っていうか、異能ってやつじゃないスか、そこまで行くと」

「細かい文句は何でも構わん。
 とにかく、奴はワンオフの人形を都合七体ほど完成させただけで満足して出て行ってしまった。そして此処には二度と戻って来なかった。何処に行くか言わなかったどころじゃない。挨拶の一つも無しに、唐突に出て行ったんだぞ。
 あれほどの才能を持ちながら、碌に手伝いもしなかった。教え損もいいところだ。
 手伝わせろと言ったのは奴自身で、仕事は未だこんな状態なのにだぞ。礼儀知らずにもほどがある」

 おいおいおっさんおっさん。
 言いたい気分は判るが才能と人格はこの際関係ないだろ。いや、その時の気分で動くとか、才能豊かなゲージツ家のお方ならばむしろありがちなエピソードじゃねーか……。

 さっきは言いたいことをずけずけ言ってしまった僕だが、しかし流石にそこまでは口に出せなかった。

 おっさんの愚痴を否定するのが忍びなかった、だけじゃない。漸くあることに思い至ったからだ。
 ここの時間というか風景がいつまでも変わらない、停滞またはループしているような状態だとしたら。
 恐らく、おっさんはその東洋人のゲージツ家のあんちゃんが出て行った辺りでお亡くなりになってしまい、それからずっと永遠に進捗しない作業を延々続けてるのじゃなかろうか。
 いやひょっとするとあんちゃんが居る間に死んでしまった可能性もある。自覚のないままこの空間に来たせいで、不意に出て行ってしまったと誤解しているのかもしれん。

 事実を指摘して自分が死んでいると納得すれば見事成仏する、という仕組みなら言ってやってもいい。だがそんな保証は何処にもないし、僕は某漫画のような除霊成仏アイテムなど持っておらんのだ。
 下手に刺激して不測の事態を招くより、今は蒼星石に訊きたいことを尋ねさせた方が──

「──彼には、急ぐ事情があったんです」
「事情?」
「探し物をしていたのです。詳しいことは長くなるので省きますが、ドールを製作した理由も探し物に関わっていました」
「ほう、奴の知り合いなのか、お嬢さんは」
「はい。今のお話を聞いて確信しました。彼は僕のよく知っている人物です」
「ふん。今更顔を出せとは言わんが、あいつは今どうしてる」
「それは判りません。──ですが、彼は貴方が親切に人形作りを教えてくれたことをとても感謝していました。お別れを言えなかったことを悔やんでもいました。あのときはどうしても先を急がなければならなかったので、余裕がなかったのだと」
「……そうか」
「彼に代わってお礼とお詫びをさせてください。本当にありがとうございました」

 おっさんの話を聴き始めた時のぼんやりぶりは何処へやら、蒼星石はかっちりした発音で礼を言うと、流麗な動作で立ち上がり、こちらに向いているおっさんに帽子を取って恭しく一礼してみせた。
 僕も慌てて腰を上げて頭を下げたが、その時には既におっさんは照れたように前に向き直っており、こっちをまともに見ていなかった。ちぇっ。
 それにしても、なんなんだ蒼星石。見てきたような嘘を……いやいや、先程からの様子では実際に知っていたのだろう。
 とすると、一体誰のことだ? さっきちらっと考えたように、昔のマスターさんがこのおっさんのところに入り浸ってた、なんてエピソードでもあったのか。
 だとすれば、世間というのは随分と狭っ苦しい事になるが──

──いや待て。

 ドール作り、天才的な才能? おっさんの時代に限定しなけりゃ、一人居るじゃねーか。
 そうだ。その天才あんちゃんが、おっさんが生きてる内に訪ねてきたとは限らない。
 ここで恐らく永久に出荷されることのない人形を作り続けていたおっさんを見付け、そのまま弟子入りしたのなら一応辻褄は合う。
 えらく短時間で手順を習得したのも、作業が異様に速かったというのも、この時間の曖昧な不思議空間でならありそうな話だった。

 イメージしていた光景が、一瞬で高橋留美子の漫画からPEACH-PITの漫画に様相を変えた。
 いや、ここは漫画に影響され過ぎて、今まで気付かなかった自分の鈍さを笑うべきか。
 天才あんちゃんとは、ドールショップニセアカシアの店長──「巻かなかった」ジュン君のことなのだ。彼はドールショップを開く前、いや僕等の居た世界に来るより前に、ここでひととおりの作業を習い、幾つか実物も作ったのだろう。
 蒼星石がショックを受けていた理由の詳細までは判らん。だが「巻かなかった」ジュン君は彼女のマスターさんでもある。何等かの繋がりで、彼の残り香のようなものを嗅ぎつけたのかもしれん。

「あいつはいつか動く人形を作るのだと言っていた。それはどの辺りまで実現できた?」
「動く、ですか」
「あ、えーとほらゼンマイ仕掛けで手を振るようなやつがあるじゃないスか。そういう動力仕込んだ人形のことなんじゃ」
「私もそう思って笑ってやったものだ。そうしたら奴は、そうじゃない、自分は生きてる人形を作りたいんだとほざきよった」
「あー……」
「……生きた人形……」

「自分の力で動き、人と同じように考え、思い、悩み、悲しみ、喜ぶような代物だそうだ。
 大笑いして言ってやったさ。確かに一度は誰でも創り出したいと思うだろう。だがそんなものが作れるのは神だけだとね。
 それは人間が到達して良い高みじゃない。お前は神に挑戦したいのか、それとも、いっそ神に成り代わるつもりなのか、と」

「彼は、何と答えたのですか」
「呆れた話だ。あいつは真顔で答えたんだ」

 おっさんはこちらを振り向き、呆れ顔になって肩を竦めた。
 天才あんちゃんは……いや、もう「巻かなかった」ジュン君と言い切って良いかも知れない。彼はこう言ったという。

  ──そういうものを創り出せるのが神だというなら、僕はその神を認めない。
  ──でも、同じ高みに立てたときは、彼の考えが間違っていることを彼に伝えたいと思っています。

 随分と天狗になったもんだろう、とおっさんは大袈裟に溜息をついた。
 ほんの少し前にこんな工場で人形の作り方を習ったばかりで、もうそんな大それたことを口にするんだからな、これだから才能を鼻に掛けた奴は御しがたい、と羨望と軽蔑が混じった声で言い、また前を向いてしまう。知り合いの前だからといって口を慎むつもりはなかったらしい。
 まあ、おっさんの立場からすれば愚痴を言いたくもなるだろう。自分は長いことやってきて、漸くぎりぎり売り物になるレベル(というのも本人の主張でしかない訳だが)の物しか作れなかったところに、手伝いと称して大したこともせず、実質人形作りをロハで教えたただけの相手が異能の持ち主だったのだから。

 他方「巻かなかった」ジュン君が言いたかったのは、おっさんが考えていたこととは少しばかり違った内容だったはずだ。
 彼が意見したかった相手は、全知全能の神様ではない。神ではないのに神に等しいことを成そうとしている存在だ。
 薔薇乙女さん達の作り手であり、至高だか究極だか忘れたが、そんなものを目指すためにアリスゲームなどという全滅イベントを開催している存在。「巻いた」方は知らんが、「巻かなかった」ジュン君がそれに対してあまり肯定的な印象を持っていなかったのは明らかだ。
 何故またそこまで強く否定的な意見を持つようになったのか。なにゆえ否定的な目で見ている相手と同じようなものを作ろうとしていたのか。そして、今はどう考えているのか。
 残念ながらその辺の考察は僕の手には余る。
 一つ言えることは、彼にも尖っていた頃はあった、ということだ。
 あの街の商店街の隅のドールショップで見た覇気のない状態になり、どっかで拾った残念人形どもにアリスゲームの真似事をさせるという半端にしょぼい計画を実行するまでには、そういう無闇に高い志(と言ってしまっていいのか微妙だが)を持っていた時期もあった訳だ。


 すぐにおっさんは作業を始めた。
 暫く三人とも無言だった。
 おっさんは黙々と虚しい(と本人は思ってない訳だが)作業を続け、僕はぼんやりと「巻かなかった」ジュン君ではなくおっさんの方のあれこれについて思い巡らしていた。
 なんだかんだで結局借金に追いまくられたまま成仏もできてないおっさんの方が、神に挑戦する男達よりは身近に感じられる。まあ未練なこと夥しく身勝手な割に執念だけは人一倍、しかもこう愚痴っぽいとなると、生きてたらあんまり友達になりたくない種類の人物ではありそうだが。
 蒼星石は蒼星石で思うところが多大にあるようで、斜め下に視線を向けて考え込んでいた。もちろん、それは僕だのおっさんだのといった凡俗とは無関係な部分だ。自分のマスターが何故ここに来たのか、何を考えていたのかといった案件だろう。

 沈黙が長くなり、なんとなく間が保たないような気分になって隣に目を遣る。視線に気付いたのか、蒼星石はちらりとこちらを見上げ、すいと立ち上がって微笑んだ。
 柔らかい表情だった。聞くべきことは聞き出せて、一応情報と気持ちの整理もできたということだろうか。
 微笑み返すような気障な真似はできないが、こっちも軽く頷いて腰を浮かせる。
 おっさんが自ら垂れ流した話を聞いただけとはいえ、これ以上の情報は望めないだろう。蒼星石が納得できたなら、そろそろお暇すべき頃合いかもしれん。
 僕の方としても、蒼星石がこの表情になれば当初の目的は達成されたようなものだ。元々ネジ巻き要員兼鞄持ちとして同道しているだけで、この場に留まったり無理矢理余分な話を聞き出すような必要はない。
 敢えて言えばこのままおっさんを放置しといていいのかという気はするが、相手はこれだけのインナースペースを維持し続けている頑固者だ。某漫画の如く便利アイテムでもなければ成仏させることも出来ないだろう。何しろこちらはお経も暗唱できないずぶの素人である。
 二人で顔を見合わせ、おっさんにありがとうございましたと挨拶しようとしたとき──

「──きゃぁっ」

 背後で小さな悲鳴が聞こえ、間髪入れずにがらがらがしゃーんと物が崩れる嫌な音がした。
 おっさんが手を止め、じろりと僕等を振り向いた。溜息を一つつき、実にうんざりしたと言いたげな唸り声とともに腰を上げ、大股にそっちに向かう。
 蒼星石は苦笑を浮かべ、僕は額に手を当てた。ばらしーめ、最後の最後でやってくれおった。

 おっさんの後を追ってボタ山の間を来た方に戻ると、丁度ばらしーが崩れた人形の山の中から首だけ出したところだった。何が起きたか判っていないような表情でこちらを見ている。
 未だ彩色されてない生白い焼き物の中で、紫色の眼帯と黄色い目が鮮やかに映えている。写真に撮れば楽しい一枚になるところかもしれんが、生憎ジュン君はケータイも持っていない──いやいやいや。それどころじゃない。
 おっさんが借金の返済の素になると信じている人形が一山崩れたのである。
 木だの鉄だのならともかく、割れやすい瀬戸物だ。そういえばさっき、皿が割れるような音も混じっていたような気がする。

 ばらしーは流石に悄然としていたが、それでも細心の注意を払っているとは到底言えない動作で人形の山を抜け出した。
 幸い本人形には怪我はないようで、外から見る分には髪の毛が乱れている程度だった。流石は摩訶不思議マエストロボデーである。無駄に頑丈だ。
 但し、案の定作りかけ人形の方は死屍累々というかガラクタの山というか。わざわざ近寄るまでもなく酷い有様になっているのが見て取れた。
 おっさんの怒り如何ばかりか。ザボーガーが勝手に動き出す程度には……いやいや、怒りを通り越して茫然自失になっているかもしれん。
 恐る恐る横合いから窺ってみると、おっさんの顔は確かに固まってしまっていたが、しかしその表情は素直に驚いているようにしか見えなかった。
 はて、と首を傾げている僕の脇をすり抜け、蒼星石がばらしーに歩み寄る。母親や姉が小さな子にしてやるように服と髪を整えてやり、まだ凝固したままのおっさんに頭を下げた。

「ごめんなさい、この子は僕達の連れです。人形に興味があったみたいで……」
「……はい……よく見ようと……思って」
「ほんとすいません、なんてお詫びしたらいいか……ほれ、ばらしー」
「……ごめんなさい……」
「そんなことはどうでもいい」

 おっさんは蒼星石がびくりとするほどのでかい声を出した。
 開いている方の目をぱちくりしているばらしーの前に屈み込み、まじまじとその顔を見詰める。

「この子は……いや、これは」
「えっとですね、その」
「人形じゃないか。しかも、一人で動いて喋っている」
「いやそのそれは、はい」
「それにこの顔……もっとよく見せてくれ」

 ばらしーは身を強張らせたが、おっさんはそんな反応には全く頓着せずに手を伸ばし、ばらしーのほっぺをむにむにといじる。
 おっさんよ、お前もか。
 とはいえもちもち具合に対する感想は大分僕等と違うはずだ。固いはずのドールヘッドがゴムなんぞ目じゃない餅肌的柔らかさなのである。
 物凄く驚くだろう、と半分身構えて反応を待ったが、案に相違しておっさんはすぐに手を引っ込め、溜息と共に肩を落としてこっちを見上げた。

「……これは、あいつの作品だな。そうだろう」
「──はい。彼の作品です」

 蒼星石はきっぱりと言い切った。
 確かに、話を聞く分にはおっさんが言う天才あんちゃんは「巻かなかった」ジュン君にしか思えん。とはいえ、おっさんはまだ相手の名前すら言っていないのだから、本当に彼なのかと言われると保証はできない。無数の世界の無数の人物の中に、似たような天才が存在しないとは言い切れないのである。
 ついでに言うと、サイカチの注文に応じて中華ドールを魔改造してばらしーを作ったのも、人工精霊の欠片を埋め込んで自律行動できるようにしたのも「巻かなかった」ジュン君だが、現在の摩訶不思議ボデーを製造したのが彼である保証はない。まさかとは思うがアリスゲームの主宰者の人がやらかしたり、過去に遡った「巻いた」ジュン君が作っていたなんてこともないとは言えない。
 だが、やはり蒼星石には確信できる何かがあるのだろう。いや、確信できる何かをここで見付けた、と言った方が正しいかもしれない。

「そうか。そうか、ははっ。あいつは神に挑む資格を得たか」

 おっさんは立ち上がり、はっはっは、と無駄に高い天井に向かって笑った。

「素晴らしい。やったな。いやあ大したもんだ。口ばかりじゃなかったとは」

 次はいよいよ本番ってところか、全く大した奴だ、こっちはこんな仕事に汲々としてるってのに、とまた笑う。
 おっさんの笑い声は、さっきグチグチと昔語りをしていた人物と思えないくらい、実にからっとしたものだった。
 そこに若干虚ろな響きが混じっているように思えるのは、僕が柄にもなくおっさんの話に感情移入し過ぎているからだろう。
 余計なお世話かも知れんが、おっさんが一頻り笑い終えたところで、その気分を僕は口に出してみた。

「──目標に近付いてたのは同じじゃないですかね」
「……何がだ」

「僕ァそっちにゃ素人なんで、高みってのがどのくらい凄いのかは見当もつかないスけど。
 でも、神様に文句付けてやろうってことに近付いてるのも、自分で人形作って売り出したいってことに近付いたのも、目標に近付いたってことには変わりないんじゃないですかね。
 っつーか、ぶっちゃけ今んトコこっちの方がまだまだ先行ってるって言っちゃっていいんじゃないスか。実際人形売るトコまで漕ぎ着けたお陰で、こうやって注文抱えて必死こいてる訳で」

「……屁理屈とおべんちゃらが上手いな、頭は良くなさそうだが」
「よく言われます」
「まだまだ先を行ってる、か。そうだな。数はまだまだ少ないが、こっちはもう六種類も娘を世に出しているんだからな」

 おっさんはアメコミの登場人物の如く、HAHAHAHAという擬音が相応しそうな笑い声を立てた。
 態度の変化についていけないばらしーが僕とおっさんを頻りに見比べ、蒼星石がやれやれと苦笑を浮かべるほどの機嫌の良さだった。
 えらくちょろいなおっさん。まあ、この程度で上機嫌になってくれる人物でないと、ぶきっちょな僕にゃ元気づけることもできんのだが。
 しかし、そうか。六種類か。
 蒼星石がマスターの痕跡を察知したように、とは言わないが、頭の中で何かのピースが揃ったような気がした。
 考えてみれば当然のことかもしれん。「巻かなかった」ジュン君がここで人形作りをやっていたのだから、その繋がりということになれば、むしろそれが自然だ。

 そろそろお暇します、と頭を下げると、そうか、とおっさんは頷いた。
 はい、と言いつつ内心でほっと胸を撫で下ろす。
 ばらしーのしでかした大破壊を未だ思い出していないのか、それとも気が大きくなって見逃してくれる気分なのかは判然としないが、どちらにしてもおっさんは人形の山のことには言及しなかった。
 また来いとも名残惜しいとも言わなかったが、そっちは取り敢えずどうでもいい。引き留められても、一応こちらにはこちらの時間制限がある。特におっさんが一番関心を抱いていそうなばらしーには、実時間で三十分経過したら伝令をこなしてもらう必要があるのだ。
 まあ叶うことなら、次に来る時はノウハウを取得するか便利アイテムを持って来て、おっさんを成仏させてやりたいものである。本人は一向に気付いてないようだが、ここは永遠の地獄のようなものだ。


 去り際、向こうの部屋への戸口のところで、僕はおっさんに、不躾な、見方によっては随分意地の悪い質問をしてみた。

「──さっき、六種類世に出した、って言ってましたけど」
「うむ」
「今、その世に出た人形達に言葉を掛けてやれるとしたら、何かありますかね」
「何だそれは。考えたこともなかったぞ」
「そうっスか……」
「娘達はもう私の手を離れたのだ。そこから先は、持ち主が宜しくやって行けばいいことだ。壊れてしまうまでよーく遊んで貰えれば、それでいい」
「ふむ……」

 どこかで聞いたような話だ。
 なるほどな、と僕は軽く頷いただけだったが、もう一人には別の思いがあるらしかった。

「……そういうものなのでしょうか」
「そういうものだ。使われない玩具に価値はない」
「……職人さんは、自分の作った品物が長く大切に使われるのを好むものだと思っていました」

 む、珍しく食い下がってやがる。おっさんの言い方に無責任さを感じたらしい。
 おっさんの方でも勘付いたのだろう。優しいお嬢さんだな、と苦笑した。

「確かに、いつまでも使って貰えれば言うことはない。
 だが、納屋の片隅で埃を被ったまま忘れ去られて百年経ってしまうよりは、寝る間も肌身離さず遊ばれて半年で壊れた方が幸せだろう。
 芸術品のようにガラスケースに入れられて綺麗に飾られるよりも、ぼろぼろになっておままごとの相手をしている方がいい。
 玩具は、遊んで貰えなければ意味がないのだからな。死蔵されて何年経過しようが、それは生き死にで言えば死んでいるのと同じだ」

 もちろん長いこと大切に扱われて、家族の一員であってくれれば言うことはないがね、とおっさんはまた笑った。

「だから、そうさな……
 もし声を掛けることがあるとすれば、よく遊んで貰っているか、何処かに仕舞われたままになっていないか。
 頑張ってずっと長いこと遊んでもらえ、そして、遊び壊されたとしてもお前の持ち主を恨んではいけない、と言ってやりたいものだ。
 まあ、そんなところだな」

「……はい」

「納得できないと言いたそうだな? 結構、結構。
 だが、そういうものなのだ。私は永遠に存続するモノを作っている訳ではない。
 人間と同じさ。いずれはダメになってなくなってしまう。だからこそ気を入れて作るのだし、幾つも作らなくてはならないのだ」

 相変わらず正しいようでいて何か根本的におかしい理屈をおっさんは述べ、僕の隣の難儀な女の子も相変わらず形だけ頷き返した。

──いかん。これは無限ループだ。

 葵はものに囚われなさそうな顔をしていて意外に頑固なところがあり、ここまで見てきたところおっさんは持論を垂れ流すのが大好きっぽい。
 このままではおっさんはいつまでも同じことを言葉を変えて話し続け、葵は葵でその言葉が琴線に触れるまでずっと肯定に見せかけたお代わりの催促を繰り返し続けるだろう。いや確実にそうなる。
 双方にちょっとした不満を残しそうだが、ここは第三者が引き分けさせる場面だ。
 というか、すっかり脇になってしまったが、話を振ったのは僕だしな。

「──判りました。貴方の娘に会ったら伝えときますよ」
「はっは、そうしてくれ。運良くお前さんのお目に止まるか判らんが」
「そこは大丈夫です。もう会ってますから。それも散々」

 おっさんは一瞬眉を顰めたが、すぐに理解した表情になった。

「なんだ、そういう話か。道理でこんなところまで出掛けて来る訳だ」
「ええ。つまり、少なくとも何体かは今でもしぶとく生き残ってるってことです、ローゼンさん」

 おっさんは、多分それまでで一番いい笑顔になって、そうかそうか、と頷いた。
 気に入ってくれたならうちの工房の名前も宣伝しといてくれ、頼むぞと念を押してきたのは──まあ無粋な蛇足ではあるが、つい商売人としての本音が出ちまったんだろう。

──生憎だなおっさん。

 人類にとって幸いなことに、もうあんたの作った残念な人形は増えない。何しろあんた自身がとうの昔に死んじまってるんだから。
 そうだな、僕にとっては少々寂しく、残念なことではあるけれども。


 〜〜〜〜〜〜 nのフィールド・扉の海 〜〜〜〜〜〜


 後ろ手に扉を閉めると、何やら急に力が抜けたような気分になった。
 まさかしょっぱなで「巻かなかった」ジュン君の痕跡に出会うとは。
 説明を受けたようにあの同時多重再生の世界からランダムに飛んだのではなく、少しなりとも関わりのあるところの近くに引き寄せられたのだとすれば、一応の解答にはなるかもしれん。それにしても捗りすぎである。本人の尻尾を掴んだ訳じゃないのが歯痒いが。

 しかしまあ、Rosen工房さんがそれなりに関わってくるとは思わなんだ。
 そっちの話自体は、ガネ子とクリ子が述べ、柿崎が推定したよりも更にしょぼい。というか、探せば何処にでも転がっていそうな、人生上手く行かなかったおっさんの話だった。
 視点を変えれば、残念人形ズに植え付けられた誕生エピソードには、「巻かなかった」ジュン君が薔薇乙女さん達の来し方を参考に捏造したストーリーが多分に入り込んでいた訳である。いや、柿崎の調べたところを抜いてしまえば、薔薇乙女さん達のオリジンそのままなのかもしれない。
 彼は、ある程度本気で人形ズを薔薇乙女さんの代理みたいな形に仕立てるつもりだったのか。
 つーてもあの姿や性格付けじゃ、どんだけシリアスなストーリーを仕立てたところでまるでギャグにしかならんと思うがなぁ。何を考えてたのやら。
 更に、おっさんの目が確かならば、ばらしーのニューボデーは「巻かなかった」ジュン君製ということになる。
 それなら残念人形ズのニューボデーも同じであろう。となると、彼は残念人形ズに頼らずとも全てを自前で用意出来た訳で、ますますあの危険物を利用する理由が判らない。

 さて。
 足りない頭で考えても判らんことは置いとくとして、あの世界では少々長居し過ぎたような気がする。
 ゼンマイは一度巻いたからまだ心配ないとして、時間の方はどんなもんなのか。
 そういえば時計を持って来ていたっけか。まともに動くかどうかで翠星石と金糸雀の助言が正反対だったが、どっちが正しいのかも含めて確認してみるべきだろう。
 ごそごそと服を漁ってみる。出てくるとき、枕元の時計を確かパーカの腹ポケットに入れといたと思ったのだが──あった。
 時計は持って来た品物そのままの形で、何故かコートのポケットに突っ込んであった。変身しても持ち物は失われない仕様か。もっとも主観的にこう見えているだけらしいから、これで当然なのかもしれん。

 見たところ時計自体は何の問題もなさげに動いており、入った時間から五十分ほど経過した時間を示していた。念の為日付表示も見てみたがリセットされてはいなかった。途中電源が落ちていたということもないらしい。
 体感でもっと長いこと過ごしてるのは間違いないと思うんだが、実時間と差があるってのは本当だったんだなあ。どういうからくりなのかは知らんが──いやいや待て。五十分だと?

「おい、やばいぞ。ばらしーを帰す予定から倍近くオーバーしてる」
「えっ……ああ。そうだね。そろそろ一時間か」
「……が、頑張ります……汚名っ……挽回っ……」
「何故そこで福本調になるのだ。あと返上な」
「はぅ……そうでした……」
「どうも不安だのぅ」
「一緒に戻ろう。僕の時間制限も厳しくなっているし、幾つか話し合いたいこともできたから」
「応。帰るのは構わんが、こりゃ大目玉喰らいそうだな」
「はは。そうだね。二人で怒られるのは久し振りかな」

 確かに中学時代以来かも知れんな。元々葵は優等生の端くれであり、誰かに怒られるような事自体滅多になかった。自分の分に留まらず、柿崎の分まで度々お小言のご相伴に預かっていた僕とは対照的である。
 品行方正であるのは確かだが、クリティカルなところで要領が良かったのも否定できん。四角四面で融通が利かないローゼンメイデン第四ドールのイメージとは反対に近いが、少なくとも葵はそういうところのある奴だった。
 ふむ。
 サファ子の性格付けはブレブレである。案外その理由は、対応する蒼星石の根っこに、うわべと相反するものが──

──いかんいかん。

 あんな映像を見せられたせいか、つい余分なところまで頭が回ってしまう。目の前の相手が蒼星石でなく葵に見えて仕方がないのも、そのせいだろう。
 行こう、と差し出された手を頷いて取り、空いている片手でばらしーを抱え込んで鞄を持ち直す。
 目の前の風景がふっと変化し、呆気無く僕等はその場から離れていた。


 〜〜〜〜〜〜 桜田邸・物置部屋 〜〜〜〜〜〜


「まだ戻って来ないですぅ〜?」
「まさかマスター達が帰って来ないなんて……うぅ」「無茶しやがってなのだわ……」
「へ、変なこと言ってんじゃねーですっ。縁起でもない」
「伝令の薔薇水晶が道に迷ってるだけじゃないのぉ?」
「あ、ばらしー方向音痴っぽいなのー。しかも若葉マークなのよ」「そうそう。ジュンのうちでも玄関の灯りのスイッチと間違えてブレーカー落としてたかしらー」「それは方向音痴じゃなくて無知なだけだと思うけど」

「あまり緊張感がないのねあの子達。意外かしら。みっちゃんのお人形は帰りが少し遅くなるだけで心配したりしていたものだけれど」
「あの子達は特別ですからね。でかジュンにいろいろ細工されてますから」
「桜田君の安否を感知できているのかもね」
「ならいいんですけど……交代で迎えに出ませんか。最初は翠星石が」
「んー……あと十分だけ待ってみて、それでも来なかったら二人一緒で入ってみない?」
「それじゃあ此処に誰も残らないことに……」
「でも二人同時に入れば、私達もお互いの薇を巻くことができるかしら。捜索するにしても、もし──誰かと戦うようなことになっても。ね?」
「……あ」
「蒼星石が二人残れって言った理由は、そういうことだと思うの。貴女は少し冷静じゃなかったから、頭が冷えるまでカナが抑えててくれっていう考えもあったかも知れないけれど──」

「──お見通しなんだね、金糸雀」

「蒼星石っ! 良かったぁ」

 鏡から出た途端、栗色の吹き流しを引き摺った緑色の弾丸が蒼星石に飛びついた。
 文学的な表現でなくて済まんが、要は翠星石である。トレードマークの黒い帽子が落ちるほどの勢いだった。
 こっちに来て初めてじゃなかろうか。いや、ベタベタしてはいたが美登里が葵にこんなに激しく抱きついたのも見たことがない。
 呆気に取られていると、一回り小さい青と緑のが僕の足に飛びついてきた。半ば便乗するような風にピンク色と黄色のが続き、黒いのが頭に直撃する。更に背中に赤いのと、何故か一旦離れたばらしーまでまた取り縋る。
 こういう行動に限って全員で真似しおって、お前等左門豊作の兄弟のつもりか。大迷惑であるし、翠星石を茶化してるみたいで失礼だろうが。
 ええい放さんか、ともがきつつきょろきょろと見回す。
 蒼星石は手慣れた風に双子の姉をあやしつつ何か釈明しており、金糸雀は視界の隅でほっとしたような笑顔をこちらに向けていた。

「お帰りなさい」
「遅くなってすいません、先輩」
「本当にね。すっごく心配してたのよ。二人は悪い子かしら」

 屈み込んで人形どもをどうにか動作の邪魔にならん程度の場所に移動させ、近付いて来た先輩の手を取って握手をする。
 先輩はふと表情を緩ませ、僕の手をそっと自分の髪に触れさせる。大胆な行動に面食らったが、何をすればいいかは鈍感な僕にも判った。
 そのままゆっくりと髪を撫でる。先輩は──いや、金糸雀は大きな目を閉じて俯いた。
 唐突に、僕は他の二人と金糸雀の体格差に気付いた。
 双子は確か姉妹の内でも背の高い方で、逆に金糸雀は一番か二番目に小さい。だからって精神年齢が低いかというと(少なくとも今現在は)そうではないのだが、それでも元々は甘えん坊だったはずだ。
 済みません、先輩。双子にとっては大きな収穫のあった実験だったけど、先輩が一番気を揉んでいる件は成果なしでした。
 ぼそぼそとそんなことを言ってみたが、金糸雀は直接それには答えてくれなかった。ちょっと顔を上げて片目を瞑り、なんでもない口調で全く関係のないところに話を持って行く。

「桜田君の手は魔法の手かしら。撫でられただけで気持ちが楽になるわ」
「そりゃもう、なんせマエストロの手ですからね。生憎手だけで中身は凡人ですけど」
「ふふっ。じゃあ、スモールジュンが戻ってきたら、いっぱい撫でて貰うことにするかしら。みっちゃんが嫉妬の炎燃やしちゃうくらいに」
「そうっスね。あ、僕としては明日からでも全然構いませんが」
「むむっ、下心を感じるかしら……これって貞操の危機?」
「見破られた!?」
「この金糸雀の勘を侮るなかれ!」
「くそう、次の手を考えねば」
「ふふん、何度でも挑戦してみるがいいかしら」

 何を素人漫才してやがるです、とこちらを向いた翠星石が眉を吊り上げ、僕等はわざとらしく顔を見合わせて首を竦めた。
 翠星石は落ちていた帽子を拾い上げて蒼星石に渡し、腰に手を当ててこっちを見上げる。

「まあ遅れた言い訳は後でたっぷり聞いてやるです。なんかちょっぴり進展もあったみたいですしね」
「そうか。先に話しといた方がいいと思ったんだが、そろそろ寝る時間だっけ」
「なぁに言ってんですかこの大ボケ野郎。寝るなんてとんでもないです。まだ翠星石達は今日のノルマもこなしてないのですよ。これから行ってくるから留守番してろってんです」
「そっか。じゃ、部屋に戻って……」
「勝手に決め付けんなですぅ。アンタ達にはここで待ってて貰うですよ。それが約束を破った罰です」
「しょうがねぇなぁ。じゃあ先輩には先に……」
「救いようのないアホですね。一緒に行くに決まってるじゃありませんか。翠星石が金糸雀の捜索を手伝うんですから」
「え? そんなの初耳かしら──」
「──しゃらっぷ! 蒼星石には邪夢と薔薇水晶が着いて行きました。だから、金糸雀には翠星石が協力して当然なのです。ま、ちっと豪華過ぎる助っ人ですけどね」
「翠星石……あ、ありがとかしら……でも」
「デモもストライキもねーですよ。さ、ちゃっちゃと行きましょう。早目に戻るんですから」
「ええ……じゃ、行って来るかしら」

 金糸雀は唐突な申し出に混乱したままのようだったが、人形どもの無意味に元気な「いってらっしゃい」を受けて二人は鏡の向こうに消えた。それぞれ鞄(と薇)を持って行ったが、使わずに戻って来てくれることを願うばかりである。
 残念人形どもは暫く僕に絡まっていたが、パーカの懐から転がった時計で時間を確認するといきなり大慌てになった。二十一時台の連続ドラマを見るとかでガヤガヤぞろぞろと部屋を出て行く。
 おい、一瞬前までのじゃれつきぶりは何処行った。
 血も涙もないのは先刻承知だが、録画予約してあるテレビ番組見るのがそんなに大事かよ。この不人情どもめ。

 結局、その場には僕と蒼星石だけが残された。
 どうも拍子抜けな感じだが、今晩のところはあれで終わりであり、本格的な報告と検討は明日に持ち越しといったところか。人形どもに対しても、おっさんの件やら連中が鏡抜けをしている理由など、訊き出したり話さねばならんことはある。
 場合によっては全員雁首揃えての会議になるのか。そうなったら議事が進行するのか甚だ疑問である。
 やれやれ、と昨日座ったのと同じ位置になんとなく移動し、並んで腰を下ろす。

「いきなり暇になっちまったな」
「移り変わりの激しい夜だね」
「全くだ」

 外国の映画なら、先ほどのおっさんよろしく一笑いする場面であるが、到底そんな余裕はない。むしろ漫画なら頭の上に黒いモヤモヤが出てる気分である。
 蒼星石も似たようなものなのか、暫くは二人共無言だった。
 今のドアが開けっ放しになっているのか、テレビの音と人形どもの声が聞こえてくる。平和というかお気楽なものである。
 おっさんよ、どう思う? あんたの娘どもは天才あんちゃんにどえらく弄くられて、もう人間でもなければ大人しく遊ばれている普通の人形でもない、奇怪千万な物体というか存在の域に突入しとるぞ。
 それもまた感知するところではなく、持ち主に全部お任せなのか。おっさん的にはそんなもんなのかもしれん。
 人形どもの方でも、後付けで色々されたせいか自分を作った人物に対してそれほど関心は無さ気である。その折々の持ち主の方がよほど大切であり(といっても忠誠を誓うなどという方向ではないが)、更にこれまでの経過を見るに我が身の方がそれより遥かに大事そうである。
 おっさんの娘は、おっさん本人など遠く及ばぬほど(人間としては)性格的に欠陥品揃いとなってしまった。まあ、人間では到底不可能なほど壊れずに生き延びてきただけでも、おっさんの願いは叶っているのだが。

 そういや、娘といえば。

 薔薇乙女さん達もまた、父親によって人工的に作り出された娘達である。
 ただ、残念人形どもと決定的に違うのは──

「──薔薇の運命に生まれた、か」
「ベルサイユのばらのオープニング?」
「あぁ、そういやそうだったか」
「ふふ。華やかに激しく生きよ……か。さだめの下に生まれたといっても、僕達姉妹とは反対だね」
「そうか? 十二分に美しくて華やかだと思うが」
「人間社会の片隅で、選ばれたほんの僅かな人達と深く触れ合いながら、ひっそりと時代から時代に渡って生きて行く。着ている衣装は派手なものもあるけど、華やかで激しい生き方ではないと思うよ」
「……まあ、そうかもな」

 薔薇乙女を作った人は、人付き合いが好きでなかったに違いない。
 至高の少女、とか言われてアイドルだのを思い付くのは僕が現代に毒されているからかもしれんが、所詮偶像という点では変わらないと思う。そういう女の子、当時で言えば社交界の星として持て囃されるような存在だって、ある意味で充分至高の少女だったのじゃなかろうか。
 だが、薔薇乙女さん達はそういう注目を浴びるような動的な存在としても、動的な存在のきらびやかな一瞬だけを切り取った上辺だけの存在としても作られなかった。きらきーさんのことは知らんが、話を聞く分には彼女も他の姉妹同様に思える。
 落ち着いた環境といえば聞こえはいいが、小さく閉じられた場所で限られた相手に静的に愛でられ、殆ど誰の記憶にも残らないまま時間の流れに逆らうようにして生きて行く。人形の姿にもかかわらず人一倍の感受性と葛藤を抱えた、ただの少女とも成熟した女性とも違う孤独な人達──それが、薔薇乙女さんの一面じゃないのか。

 薔薇乙女さん達を作った人は彼女達を娘として扱い、彼女達も作り手を父と慕っていたという。もちろん、(本人は否定したがるだろうが)あのおっさんが自分の製造した人形を娘と言ってるのとは次元が違う。つまり、彼はドールの身体と契約者システムを与えることで、自分の愛娘達を厳重な箱入り娘にした訳である。
 大事な娘を箱入りにしたがるのは、ごく平凡な父親でも考えることではあるだろう。
 だが、薔薇乙女のシステムはいくら何でも行き過ぎている。いや、そもそも娘に至高とか究極ってレッテルを貼ること自体中々あるまい。
 嗜好としては、そんな少女を好む人は多いかもしれん。
 だが娘を至高の少女若しくは予備軍としてわざわざそういう環境で育てようと考えたとなると話が変わる。

 人間は他の人と関わってるとき、箱の外に出て頑張ってる時が一番輝くのである。少なくとも僕はそう思う。
 それに気付かないか、箱の中でじっとしてるのが至高だと思ってしまうのは、どっか突き抜けてしまうくらい人付き合いが苦手で、心の中に現実より遥かに素晴らしい自分自身の世界を飼っている文学青年かゲージツ家くらいじゃあないのか。

 まあ、こんな凄い「作品」を創り出し、それだけじゃ飽き足らずに殺し合いゲームまで設定するような人物が、悪い意味でゲージツ家でないはずがない訳だが──

「──でも、運命に従って散ることに違いはない」
「滅びの美学ってやつかよ。そんな美学なんか糞食らえだ」
「美学じゃないよ。運命さ」
「じゃあ、運命も糞食らえだ」
「……邪夢君」

 考えが煮詰まりすぎて、つい言葉が汚くなっていた。
 長い付き合いである。僕が何を言いたいか大体察したんだろう、蒼星石は微かに微笑んで首を振った。

「僕のことなら、もう運命でもない。ここにこうして生きている方が偶然の産物なんだ」
「そしてそれは自然なことじゃない、今のお前はゾンビ同然なんだってんだろ。判ってるよ。理屈は判ってる」
「……ごめん」
「謝んなよ。駄々捏ねてんのはこっちなんだから」
「うん……」

 だが、蒼星石はもう一度、僕の顔を見上げてごめんと言った。
 その顔が作り笑いでも泣き顔でも怒り顔でもなく、本当に駄々を捏ねる子供に道理を言い聞かせているだけのような、少しばかり困った表情だったことが哀しかった。



[24888] 第三期第十二話 すきすきソング
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:c37a6530
Date: 2014/01/22 18:59
 〜〜〜〜〜〜 桜田邸、物置部屋 〜〜〜〜〜〜


「お帰り。何か手懸りは見付かったかい」
「ぜーんぜんですぅ。そっちはどうですか?」
「……見付かってたら質問すると思う?」
「い、いちおー聞いてみないと判んないじゃないですか。確認ですよ確認っ」
「そういうことにしとこうか……それにしても、雲を掴むような話ってこのことかもしれないね」
「ですねぇ……それっぽいところに目ェ付けて突撃してますのに、空振りばっかりですぅ」
「翠星石は……」
「ふえ? いきなり翠星石の話ですか?」
「うん。どんな気分で探索しているのかな、って思って」
「そんなの私にも判んないですぅ。ぱそこんで地図見てから出掛けてる私達より、あっちの方がずっとあやふやな感じってことくらいしか」
「偶然出会う可能性しかないのに、三人ともよく続くよね」
「それが契約の絆とか愛ってものなのです。美しくて儚くて健気なのですぅ」
「絆かぁ。人間同士の関係って不思議だよね……でも」
「どうしたですぅ?」
「……蒼星石と金糸雀はそんな感じなんだけど。でも翠星石は……ちょっと違うような気がするんだ。なんていうか……」


 〜〜〜〜〜〜 路上 〜〜〜〜〜〜


 数日が過ぎていた。
 日課となった市立図書館への道を辿りつつ、僕はふぅと溜息を一つついた。じじむさいと言われそうだが、それなりに気疲れしているのである。

 原因の一つは他でもないこの図書館への行き帰りにある。
 蒼星石の意見を受け、ジュン君の行動をトレスすべく図書館通いを始めたはいいのだが、その道すがら同世代の(もちろんジュン君と同世代という意味である)良い子の皆さんと顔を合わせる機会がこれほど多いとは思わなかった。
 学校が試験前だか試験中で下校時間が早くなっているのを避けるため、午前中にとんぼ帰りを繰り返しているにもかかわらず、同じ中学の制服を毎日一度や二度は見るのである。
 どうやら、上手いこと登校できてないのはジュン君だけではないらしい。……当然か。今日日、何処の中学でも学年に一人や二人の不登校児はいるはずだ。

 不登校やらサボりは言わば徹頭徹尾向こうさんの事情であるから、無関係なこっちが兎や角言える筋の話ではない。
 ただ、道中に限らず図書館の中でさえこっちをちらちらと見て来る特定の視線があるのは、大いにこちらに関係のある事案であった。
 さり気なく視界の隅に捉えて、視線の源が女子であることは確認している。地味な色の服を着て、やや色の薄い髪を前に垂らして、目元が微妙に隠れている辺りが……なんというか、後ろめたい部分のある僕には怖い。
 幸いにして今のところ声を掛けられたり堂々とガン見されたり、はたまた後をつけられたり何処ぞに連絡されたりなどという状況には至っていない。但しこれは決して偶然ではなく、こちら側でなるべく慎重に行動しようとしているからである。
 不注意に視線の源に近寄るのは論外である。さりとてあからさまに忌避するのも、注意を惹く点では上手ではない。席に着いている間はさりげなく無視し、移動する際はなるべく遠巻きにするしかない。
 常に周りを気にしなくてはならんというのはここまで疲れるものなのか、と改めて感じた次第である。

 そこまで頑張っているものの、実はこれも基本的に向こうさんの事情で左右される事柄なのだから尚更遣る瀬ない。
 向こうから積極的に接触を計って来られたら、無闇に逃げる訳には行かないのだ。
 僕はあくまでジュン君の代役であるからして、無言で逃亡して彼が悪印象を抱かれてしまっては後々まずい。さりとて、頓珍漢な返答をして不審がられるのも同様によろしくない。
 八方塞がりである。結局そうなったら適当に対応して、帰宅してから巴ちゃんにSOSの連絡を入れて事後処理に最善を尽くすくらいしか手はないのだ。自ら受け入れたこととはいえ、いい加減うんざりしてくるのは否めない。

 もう一つの気疲れの原因は、どちらかと言えばもう少し不可抗力以外の面が大きい事柄だった。
 あの日以来、二人ずつのローテを組んでnのフィールドにお出掛けを重ねている訳だが、どうも成果がはかばかしくないのだ。
 初手でいきなり「巻かなかった」ジュン君のシュプールを発見したときは、このまま尻尾を捕まえられるかと思ったものだが、その後ははっきり言って完全に成果なし。手詰まりだった。
 もっとも蒼星石の頭には何やら仮説でも浮かんできたらしい。僕とペアを組むときは移動の都度こっちに何かイメージしろと注文を付けたり、自分から移動してみたりしては何やら考えている。
 対して翠星石はできるだけ多くの世界を手当たり次第に訪問したいらしく、あの日の蒼星石のように一つの世界に長く留まろうとするようなことはなかった。中にマスターさん方が隠されていたらどうする、と思わんでもないが、多分ぱっと見でなんとなく判別できるんだろう。そういう嗅覚みたいなものは双子の妹より優れていそうだ。
 とはいえ何度も続けていると焦れてくるのか何なのか、待っていろと言い置いてさっさと扉の向こうに消えてしまうことも多い。積極的に動くのはいいが、実はこの手の作業は苦手なんじゃないのか。

 まあ、マイペースな二人はまだいい。
 金糸雀は見ていて気の毒になるほどだった。
 前回初めて同行したときは、寂しさを紛らわせたいのかずっと喋りっぱなしだった。何回も同じことを繰り返す内に、空振りに終わった世界の扉を閉め、さあ次かしら、と元気を出して前を行く姿が痛々しく見えてきたのは、こっちの気にしすぎじゃああるまい。
 それも当然だろう。なんだかんだでマスターさんのガタイが目の前にあり、小なりといえど手懸かりらしきものが入手できた二人に比べ、先輩の捜索活動には未だに進展がない。マスターさんであるみっちゃん氏の肉体もベッドに置かれたまま、ぴくりとも動いていないのである。
 今晩は先輩と二度目のお付き合いになる。こっちとしても単なるネジ巻き役でなく、何か気休め程度でも協力できることを探さないといかんのだが──

「──あ、やべぇ」

 図書館の前を危うく通り過ぎてしまうところだった。他人事ではない、こっちも大分重症である。


 〜〜〜〜〜〜 第十二話 すきすきソング 〜〜〜〜〜〜


 暫し、持参した参考書と問題集、そして教科書をためつすがめつする作業に没頭した後、携帯電話……は持っていないので壁に掛かった時計を見る。退出する予定の時刻まではまだ些か間があった。
 さて、やることがなくなったぞ。場所が場所だけに居眠りを始める訳にもいかん。
 夏ならば空調の効いた図書館でだらだらするのも悪くないが、今は初秋、天高く馬肥ゆるなんちゃらである。僕としてはむしろ堤防道路で自転車を漕いでいたい気分だ。
 暇ならば問題集を斜め読みするのでなく実際に解いたらどうかと言われそうだが、怠惰が服を着ているような僕としてはそっちには手が伸びない。
 ジュン君の代役とはいえ学校にまで通う予定は(今のところは)ない、というのがお勉強に身が入らない主な理由だ。流石に特進クラスでもない公立中学の二年の問題が難しくて解けないからではない……ということにしておく。
 まあ、万が一お勉強が必要な事態になった場合は優秀な家庭教師が三人もいる。先輩の得意分野は知らないが、理系は葵──いや蒼星石、文系は翠星石に聞くか、何なら特訓して貰えばいい。この点だけはお気楽なものである。

 ちなみに、楽観できるのはあくまでこの点だけというのもまた否めない事実である。
 別の方面では以前問題山積であり、一向に改善の目処が立っていない。僕が手前の頭で考えなきゃならん案件も大有りだ。

 もう一度教科書を開いて斜め読みしながら、その内の一つ……金糸雀の探し物のことについてまたぼんやり考え始める。
 先輩が探しているのは美摘さん改めみっちゃん氏だが、未だに何の手懸かりもない。裏でいろいろありそうな「巻かなかった」ジュン君、現在赤の他人に身体を乗っ取られている「巻いた」ジュン君等に比べ、きらきーさん(及び現在の事態全般の核心に近い部分)との繋がりが薄そうなみっちゃん氏は、逆に言うと派手な活躍がない分シュプールを残していないはずで、今後も探索は難しいだろう。

 翠星石にしろ金糸雀にしろ、今の捜索方法はすこぶる効率が悪い。
 シュプールという言葉からの連想じゃないが、雪山で埋まってしまった人を探しているようなものである。相手が居そうな場所すら判らんので、取り敢えず手近なところから足元に棒を突き刺して何かないか確かめているだけだ。
 確実な方法ではあるが、反面遅々として進まないやり方でもある。あまりに手間がかかるため、蒼星石が言ったように途中で居場所が変えられてしまうことさえ有り得る、という甚だ心許ない面もある。
 僕の参入で変わったことと言えば、一回の捜索時間が延長できるようになっただけ。
 猫の手ほどの手伝いでしかないと承知していたものの、まるで埒が明かないのは流石に堪える。足手纏いで全く役に立たない、とも言い切れないのがまた歯痒いところだ。
 何かもっと劇的な変化でもなければ、抜本的な改善は望めない。ある程度外側に立っている者として、何か意見を出さねばならん、とは思うのだが。

──……つーてもなぁ。

 僕自身がnのフィールドで何等かの能力を発揮して役に立つ、というのはまず無理である。ぶっちゃけ、普通の人間そのものがそういう風にできていないし、肝心のマスターさん達との関係が薄すぎる。
 薔薇乙女さん達の能力を上げる、というのも現実的とは言えない。
 実際にそれぞれの世界がどんだけ広いかは知らんが、扉開けただけでマスターの有無が判るって時点で薔薇乙女さんのセンサーの効きは既にチートレベルなのだ。これ以上敏感にしたら何もないところにも反応してしまいかねん。
 後は捜索範囲を変更するか、人数を増やすくらいが関の山だ。
 人数は現状の三人から増やせる見込みはない。
 蒼星石以外は未だに認めようとしてくれないが、多分水銀燈も真紅もそれぞれに動いてるはずだ。先に彼女達を捜索するにも、マスターさんと同程度に難しいのは目に見えている。
 よって、良くて捜索先での邂逅に期待する、くらいが適当。そっちをメインに据えるべきじゃなかろう。
 となると、範囲の変更だが……うーむ。あの扉の海の中でどういう絞り込み方をするのかさえ想像もつかん。
 ただ、以前覗いた世界はマーキングされてるのか、そこを指定して移動できるようだから、第なんちゃら世界の周辺、という感じでなら限定はできるかもしれない。

──まずは捜索範囲の変更を進言して、判らん部分については先輩の講義を聞いてみるか。

 僕の提案がそのまんま役に立つかは別として。捜索に一定の指針があった方が、何のアテもなく数撃ちゃ当たる式の活動を続けるよりはなんぼかマシなはずだ。
 そんなことができるのか、できるとして具体的にどうするのかは……投げっぱで悪いが先輩にお任せするしかない。具体案を出せるほど知識がないのだ。
 なんとも情けない話だが、そこが凡俗かつ素人の限界である。

 しょぼくれて、ふーっと息を吐き出す。
 ある程度考えを固めてしまえば幾らか気分が晴れるかと思ったのだが、逆効果だった。むしろ肩を竦めてお手上げのポーズでも取りたい気分だ。

──ええい止めだ、止め。

 このまま考え続けても始まらん。頭の方も足りなければ知識も足りてないのだから。
 良い案が出るとは思えんが、気分を変えるとしよう。
 頭に毛ほども入って来なかった英語の教科書を閉じ、腰を浮かして壁の時計を見がてら、ちらちらと周りを窺ってみる。幸いにも、毎度図書館でこちらに視線を向けて来る相手らしき姿は視認できる範囲には見当たらなかった。
 いつもは退室時にも視線を感じる(というより、即物的にそこに居るのが見えている)ので、概ねこちらと同じく昼飯前に退出していると思しいのだが、今日は頑張って登校したんだろうか。テスト期間の最終日だけってのは流石にないか……ああいや待て、年の頃が同じだからといって同じ中学とは限らんのだな。いや近隣の中学ならテストなんぞの日程も似通ったものにしているか。ううむ、どうもややこしい。

 視線が感じられないのは良いとして、肝心の時間の方はまるで経過していなかった。大体引き上げどきと見繕っていた時間まであと三十分はある。
 もう一度同じ事を繰り返して時間を潰すか、早めだがこのまま切り上げてしまうか。
 顎に手を当てて考えるまでもなく、僕は怠惰な選択肢を選んだ。また斜め読みに戻るのは馬鹿らしい。まぁ一日くらい、無駄な作業を早めに切り上げても悪くないだろう。
 ちなみに問題を解いて時間を潰すという勉強家の鑑のような選択肢は最初からない。さっさと荷物を纏めて自習室を出るのみである。
 三十分という半端な時間は、何か適当な本でも読んで潰すとしよう。早めに家に帰って人形どもに突っつかれるのも、メシの支度をしている翠星石から小言を喰らうのも嬉しくない。

 さて何を読もうか、と開架書庫の辺りに視線を遣ると、検索用の端末機が目に入った。
 蔵書の検索ができるだけなので今ひとつ利用率は高くない。僕の(というかジュン君の)ような自習目的の利用者にはあまり縁のない代物でもある。

──いや、待てよ。縁はあっただろ。

 うろ覚えだが、漫画の中でジュン君は端末機を使っていたような記憶がある。
 何巻のどの辺だったっけか。今ひとつ判然としない。
 場所は図書館(つまりここ)だったから、登校の準備に掛かってから後ってことは間違いない。
 ふむ。これはひょっとしたら何かの手懸りになるかもしれん。

 だが残念なことに、この件に関しては妙に印象が薄い。毎日図書館に通っていながら今になって気付いたほどである。
 おかしいな。まともに通して読んでいなかったとはいえ、残念人形ズの対策等で何度も参照し、それなりに覚えていたはずなのに、上手く思い出せない。記憶を弄られているのでなければ、早くも老化が進んでるってことだろうか。
 取り敢えず端末の前に陣取ってみる。仮にも公共の場であるから、いつまでも呆然と立ち尽くしている訳にも行かない。
 うーむ。彼は何を検索していたのだろう。さっぱり思い出せん。
 自習しに来て検索したんだから、何か学習資料みたいなもんだろうか。それとも、何かが気になって調べてみたんだっけか。
 学習資料の線は薄い。
 手持ちに巴ちゃんの手書きと思しいレジュメがある。教科書と副読本も(多分担任が持って来てくれて、のりさんが取って置いてくれたんだろうなぁ)届いていて、自分で買った参考書と問題集も持っている。これ以上は必要ないんじゃねーのか。
 調べ物の方もイマイチである。
 彼は常時接続のデスクトップを自宅に置き、朝から晩までその前に座っているような人物だ。ネットで手に入らない種類の調べ物というと専門的なものになる訳だが──

「ローゼン関係か……」

、あの漫画はきらきーさんの介入で作られたブツとはいえ、彼の生活を細大漏らさず描き尽くしたものではない。筋書きに関係ないところは省略や変更の嵐である、というのは実際生活してみるとよく判る。
 そういう代物にわざわざ描かれたんだから、調べ物といえば当然ローゼン関係しか有り得ない。それもこっちの世界でネット検索すればちょいちょい見付かるオカルト絡みのあれこれではない、ごく真面目な研究書の類だったんだろうが……。
 しかし、ここの図書館がそんなマニアックな資料を揃えてるもんだろうかね?

「……考えてても始まらんよな」

 うろ覚えの記憶に頼って、足りない頭でいろいろ考察していてもしょうがない。それらしいキーワードをいろいろ当たってみる。
 結果は芳しくなかった。ドール絡みでどっさり出て来るのはキャラクタードール趣味関連の本ばかりで、多少マシそうなものでドール作成のハウツー本程度。ローゼンの方では全く何の関係もなさそうなラノベか何かがヒットするだけである。
 やはり彼が調べていたのは参考書だったのか。そもそも検索していたこと自体、円滑に話を進めるための漫画上の演出ということも……。
 いや、待てよ。データベースにある本は日本語だけじゃない。
 ドールといえば欧米のものであり、オカルトの方の趣味もそっちが本場である。当然ながら歴史も古い。
 ウェブ検索だけじゃ碌に出て来ないようなマイナーネタでも、かつて書籍になっていた可能性はある。今でこそ日本に集っているものの、当の薔薇乙女さん達もあちこち旅をして歩いたという話だ。ネタ本の一つや二つあってもおかしくない。
 ジュン君が外国語の本を読めるかというと微妙だが、例えばクサい部分をハードコピーして真紅に読んでもらうなりすることはできただろう。実際に薔薇乙女さんが居る状態で役に立つ可能性は低いけれども。

 そこまでして調べたいこと……あるよな。
 誰もが碌に知らない姉妹──きらきーさんの件である。
 ジュン君が登校云々の関係で突っ走り始めた頃、彼の心が若干離れたところを見計らってきらきーさんが雛苺を捕食している。それもかつての契約者の子供だか孫だかであるオディール嬢を焚きつけ、雛苺を揺さぶるという念の入れようであった。
 僕が読んだのはその辺りの描写じゃないのか?
 雛苺が居なくなってジュン君も気にしていたって話なら、色々と辻褄が合う。ちなみに場面の印象しか残ってないのも、その辺は残念人形ズの関係で何度も読み返した部分に入ってないから当然である。
 彼はきらきーさんについて調べを進めようとした。だが調査が奏功する前に他の姉妹が囚われる事態になり、兎さんの導きに従って金糸雀と共に……。
 むむ。いいセン行ってるんじゃないか、これ。
 実際にここで検索して彼がお役立ち情報をゲットできたかどうかは別として、ここは一つ英字綴りで調べてみるべきだろう。
 えーっと、ローゼン、ローゼンっと。

「……ふーむ」

 書名には一つも該当がなかった。少ないとは思っていたが全滅かい。
 彼が同じことを試して同じように不発に終わった、ってのも筋書きとしては成立する。大事なのは多分結果ではなく彼がわざわざ検索してみようと思った経緯の方だろう。その辺、とんと記憶にないのが困ったものである。
 まあそれは帰宅してから事情通の皆さんに確認すればいいことなんだが……一つもヒットしないとはなあ。
 オカルト関係ではそこそこ知られていたネタのはずだが、日本で閲覧できる書籍となるとこんなもんなのか? それとも、お父様パワーで何等かのエフェクトが──

「──あの」
「あ、はい」

 出し抜けに後ろから声が掛った。
 慌てて振り向くと、私服の夏服姿の女の子が肩越しに覗き込んでいた。
 考え込んでいて常日頃より更に感覚が鈍くなっていたらしい。声を掛けられるまで全く気配に気が付かなかった。
 年の頃はジュン君と同じくらい。栗色の髪の可愛い子だった。自分から声を掛けてきたのに躊躇しているような雰囲気で、大きな目をやたらに瞬いている。
 何処かで見た覚えのある顔のような気がするが……どこだったっけ。他人の空似ってやつだろうか。
 それにしても、いきなり声掛けてくるとは妙なこともあるもんだ、と訝しく思っている内に、女の子は何やら決意したような表情になった。モニターの中、丁度僕が入力した検索窓を指差して早口で続ける。

「……ここのスペル間違ってるから、正しい検索結果が出ないの。ローゼンの綴りはRosenじゃなくてRozenだから……」
「おー、なるほど。センキュっす」

 僕としたことが、こいつぁうっかりだ。
 該当なしで当然である。これではあのおっさんと残念人形ズ関係の方になってしまう。おっさんよ、残念ながら本になるほどの認知度はなかったらしいぞ。残念人形だけに。
 もう一度振り返り、まだこっちを見ている親切な女の子に、顔の前に手を立ててどーもどーもと感謝の意を示す。

 何故か相手は妙な顔をしていた。何とも言えない表情、という言葉を体現したような顔つきだ。
 はて、と思うのと、やべえ、と思い当たるのが同時だったのは、多分僕の頭の回転の速さではなく、遅さの方を示すものだろう。

 女の子は視線の主だった。

 顔から血の気が引くのが判った。異常事態に慣れ切ってしまったせいか、こういう恐怖を感じるのは暫く振りである。

──こりゃ、でかい墓穴を掘っちまったぞ。

 他人の空似どころの話ではない。毎日見ていた、というか見られていた相手なのだ。
 つーか、あれだけ気にしてたんだから最初に気付けよ僕。人形やらおっさんの知名度考察してる場合じゃないだろうが。
 これまで遠目に見てただけだから印象が漠然としていた、などというのは言い訳にもならない。今日に限って前髪をきちんと分けてるからとか、服装の傾向が違ってたからってのも同様である。

 ごく短いが、実に嫌な感じの沈黙の後、相手は躊躇いがちに口を開いた。

「桜田君……だよね?」
「うん」
「私のこと……覚えて、ない?」
「ええっと……ごめん。色々あって」
「そっかぁー……もう一年も経っちゃったし……忘れても仕方ないよね」

 女の子は残念そうに、少しわざとらしく息を吐いて半歩退った。
 いやいやいやいや、仕方無くないぞ。全くもって仕方無くない。
 多分ジュン君なら覚えているはずだ。彼の主観では何年間か余計に経過しているとはいえ、こうやって声を掛けて来るような相手なんだから。そして、向こうも判っていて演技している。

──一年と言ったってことは、多分幼馴染やら学校外の知り合いじゃない。年の頃から考えて一個上か同学年か、最悪同級生かもしれない。くそっ、漫画じゃ巴ちゃん以外に名前の出てきた人物なんか碌に居なかったぞ。家でノックアウト喰らう原因になった寄せ書きには同級生の名前書いてあったっけ? うあー、どっちにしろ漫画本はこっちの世界じゃ手に入らんからこの場を誤魔化しても帰宅して確認もできんではないか。どうせクラスメート以外の在校生ですってことになれば意味ねーし。ああそういや確か鳥海が同じ苗字の子が出てきたって騒いでたが、あれは男だった──

 掛かりの悪い頭脳のエンジンが漸く回り始め、今度は疑問やら解釈がどっと湧いてくるが──待て待て。今は考えてる場合じゃない。
 状況を見極めねば、と視線だけは逸らさないように注意していると、女の子はもうひとつ息を吐いて首を振った。

「本当に、忘れちゃったの?」
「……ごめん……その」
「うん……なに?」

 すまぬ、すまぬ。本当は端から記憶にないのです。つーか何気に追い討ち掛けて来てないかキミ。
 これはまずい。
 必死に思い出そうとしてるのはポーズじゃないんだが、それは漫画で名前が出て来たジュン君の知人て居たっけか、というところ。顔と名前が一致するレベルの遥か下である。
 そもそも漫画では、マスターさん絡み以外では担任の梅岡氏くらいしか名前のある人物が登場していない……はずだ。
 取っ掛かりからしてヒッキーが薔薇乙女さんの戦いに巻き込まれるという筋立てであり、登場人物は無茶苦茶少なかったのである。最初の頃は真紅に水銀燈、そしてジュン君とのりさんだけで回っていたくらいだ。
 その後ドール関連の人物は順次追加されていったものの、これまでに登場した巴ちゃん以外の同級生、同窓生となるとちょっと思いつかない。例のまだ単行本にもなってなかった話に出て来た、鳥海と同姓の……名前は確かカイトとか言ったが、そのくらいじゃないだろか。
 あの後、仮に登校開始の話が執筆されれば、ストーリーが学園モノに変わって同級生が続々登場するような展開になって行くかもしれん。しかし生憎こっちは雑誌に掲載される前に別の世界に飛ばされてしまった。
 どうにも参照のしようがない──いやどっちにしろ今この場には間に合わんのか。お手上げである。
 ちなみにカイト君は男子生徒なので、少なくとも目の前に居る女の子でないことは明白。相変わらず僕同様に役に立たんな鳥海。
 ああそれはいいから、他に名前、名前……。

 おお、そうだ。一人だけ居るじゃないか。
 ある意味で事件の発端、ジュン君が不登校になった切っ掛けの女の子。文化祭の出し物である学年プリンセス候補だかに選ばれた子である。
 ジュン君はその子をモチーフにしたラフ画を、何故か課題のノートに落書きしてしまった。
 ノートを見た担任が出来の良さに大感動して、勝手に廊下に貼り出すわ全校集会で名指しで煽るわ。繊細なジュン君はその場で速攻ゲロ吐いて、それきり学校に行けなくなったのである。
 まさかこの子が当人とは思えんが、他に名前が出て来た子はおらんし……。どうする。

──取り敢えず、あの一件以来云々、てことで話を繋げることにするしかないか。

 なに大丈夫、場所が場所だ。ただでさえ私語厳禁とか書かれている上に、こっちも向こうも言わば常連。
 しかも本来こんなところでうろうろしていてはいけない立場である。あまり騒ぎを起こして人目を惹きたくはなかろう。
 俯いてぼそぼそ喋ってれば、向こうもでかい声を上げたり、こっちを長いこと拘束するような真似はすまい。幸い、ジュン君はであればそんな態度になりそうな雰囲気でもある。

「あの……桑田さん──」
「──『思い出して』くれたんだ」

 〜の件、まで言う暇もなかった。
 ぼそりと口にした名前に間髪を入れず反応して、女の子はにっこりと笑う。

──ビンゴかよ。クソッタレ。

 桑田由奈さんご本人様登場の巻であった。
 こっちは頭を抱えたい気分である。当たってこんなに嬉しくないクイズはそうそうなかった。
 現実というのはなにゆえどこまでも非情で皮肉なのか。こっちを追いかけていた視線の主が、よりによって最悪の相手だったとは。
 いや、こっちの脇が甘かったというか、迂闊だっただけってのは判ってる。判ってますとも。


 立ったまま長話を始めることはなかろう、という僕の目論見は半ば当たり、半ば外れていた。
 桑田由奈嬢はこちらの反応を窺うような間を置いた後、ここじゃ何だからと河岸を移すことを提案してきたのである。
 腹の中で十数えた後、僕は不決断に頷いた。
 色々とやばい局面ではある。だが彼女と彼の立場を考えると、無碍に断って後々に禍根を残す訳には行かない。
 ハンバーガー屋に向かう道すがら、彼女の足取りは軽かった。足りない頭で思案しいしい歩いているこちらの気分と好対照である。服装の違いもあって、昨日までの視線の主と同一人物とはちょっと思えない雰囲気ではあった。

 結局、思案は何一つ纏まらないまま、同じ通りにあるハンバーガー屋に着いてしまった。
 ええい、もうどうにでもなれ。ぶっつけ本番で行くしかないのだ。
 腹を膨らませたままメシを食って翠星石に怒られないよう、軽めのものを注文する。由奈嬢はやや不審そうにこちらを見た。

「ドリンクとフィッシュバーガーでいいの?」
「あーっと、昼飯前だから軽くしようかと」
「あ、そっか。──私もそうする」

 何故か妙に嬉しそうに、桑田由奈嬢はこっちと同じものを注文する。ドリンクだけは別だった。
 ハンバーガー屋の店員は本来ここに居るべきでない年齢の男女に(表向きは)関心を示すそぶりも見せず、営業スマイルのまま二人分のトレイをこちらに寄越す。
 僕が二人分の会計を支払ったことには、由奈嬢も店員も全く違和感を持っていないようだった。こちらとしてはいつものことだし、向こうもそんなもんなのだろう。
 奢られ慣れてる女の子か。……森宮さんがそれに近い。銭金にがめついというのではなく、支払いに対して割合鈍感だった。育ちの良さというヤツであろうか。
 由奈嬢も結構なお嬢様なのかもしれない。ファーストフードは食い慣れてるようだが。
 もっとも育ちの話をすれば葵の方が(色んな意味で)更に育ちが良い訳だが、あいつはその点についてはきっちりしていた。こっちが先に言い出さない限り必ず割り勘だった。
 美登里は奢らせて当然という態度。まあ回数もそうなかったし、あいつには普段のお菓子の分があるから致し方ない。柿崎とは……ボンビー同士、完全にそのときの懐具合である。何か食えばそのとき持ってる方が払いを済ませてた。
 そういや帰ったらホワイトデーの奢りが待ってるんだったなあ。なんか、もう随分懐かしいことのような気がする。

──いかんいかん。そんな回想してる場合じゃない。

 心の中でぶんぶんと首を振り、氷がジャリジャリするコーラのLサイズを啜る。
 目の前の由奈嬢はじっと僕の手元を見るような按配だったが、軽く頷いてから自分もコーヒーに手を伸ばす。ほっとしたような笑みが柔和な顔に浮かんだ。
 なんだこりゃ。どうしてまたこんなに上機嫌なんだ。
 可愛い外見に似合わず、と言ったら失礼だが、案外マジでストーカーの気があったりしてな。とすると、会ったはいいがこんなトコまでご一緒するのは大失敗だったことになる。
 そうでないことを祈りつつ、コーラをまた一口飲む。若干水っぽく感じるのはこっちの心境のせいもありそうだ。
 ちらっと前を見ると、由奈嬢は両手でコーヒーのカップを持ったまま、視線を斜め下に落としていた。依然として口許には笑みが浮かんでいるが、表情自体は冴えないものに変わっている。
 ふむ。このギャップに、ここまでの彼女の行動のヒントがあるのかもしれない。

「……私、最近学校行ってないんだ」

 彼女は結局コーヒーには口を付けずに話し始めた。

「知ってた、よね。……毎日見てたから」
「うん……視線には気付いてた」
「視線には?」
「正直言って、今日になるまで──さっきまで、桑田さんだって知らなかった」
「本当に?」
「なんつーか、ホント……ごめん」
「そうなんだ……」

 由奈嬢は酷くがっかりした様子になった。
 なけなしの良心が痛む。嘘はついてないが、隠し事はバリバリにやらかしているのだ。
 事情を知らない彼女にしてみればどえらく失礼な話だろうが、今は顔の前で両手を合わせて拝むしかない。
 それにしても、この子は……。

「……変装が効きすぎちゃったのかな」
「まさか桑田さんだとは思わなかったよ……」
「凄いね私。探偵になれるかも」
「素質あると思うよ」
「それって……褒めてる?」
「多分貶してはいないんじゃないかと」
「多分って……あはは」

 由奈嬢は口に手を当てて笑った。
 いきなり敵対的な態度に出られるよりは良いのだろうが、ジュン君と会話出来たのがそんなに嬉しいのか? 奥手のくせに喋り出すと止まらないタイプなのか。
 いや、どうもおかしい。ちょっと反応を作ってる気がする。
 そもそも何故窺ってたのかも皆目判らん。可愛い子と喋るのは嫌いじゃないが、それは気が置けない時に限る。
 ここは早めに切り上げ、帰宅したら巴ちゃんにご足労願って善後策を練った方が──

「──ねえ」
「うん?」
「去年のことは……『忘れて』ない?」
「去年って」
「……文化祭の前のこと」

 半オクターブほど、声が低くなっていた。いや、凄みを利かせた声じゃないんだが。
 漫画に関しては斜め読みしていただけの僕だが、その台詞の指す中身が判らんほど無知じゃあない。
 我が身の優柔不断というより頭の鈍さを呪ってやりたい。また今度時間が許すときに。
 悠長に考えてる場合じゃなかった。腰を上げる前、というよりハンバーガーにまだ手も付けない内に、斬り込みをまともに食らってしまった形である。
 口の中でもごもごと、細かくは覚えていないが忘れてもいない、と言ってみると、由奈嬢はそう思っていたと頷いた。

「この間、寄せ書き見て具合悪くなっちゃったんでしょ? 忘れちゃってたらそんなことないもん」
「え? 具合って」
「梅岡先生が持ってった寄せ書き。柏葉さんが言ってた。桜田君あれ見て寝込んじゃった、逆効果だったかもって」
「ああ……うん」
「でも、それからだよね。桜田君が図書館に通い始めたの」

 だから先生のやったことは無駄じゃなかったってことだよね、と由奈嬢は念を押すように言い、僕は黙って頷いた。

 漫画を斜めに読んだ限りの感想で言えば、梅岡教員はチョイ役でありながらジュン君のセンシティブな心に思うさま善意の暴力を振るった、理不尽な自然災害のような役柄だった。
 お陰でジュン君は何日も昏睡するわ、目覚めたら目覚めたで中学生としての自覚を思い出してしまい、薔薇乙女さん達から心が離れて行くわ。
 それが漫画だけの誇張でないことは、当事者さん達の言葉の端々からも伝わってくる。
 きらきーさんの攻勢はまさにそこにつけ込んで開始された訳で、後に残した禍根もまた甚大である。便乗して言わせてもらえば、梅岡氏は僕をこのややこしい事態に巻き込んでくれた遠因と言ってもいい。

 しかしそれはあくまで(僕も含む)ジュン君側、あるいは漫画の読者の視点だ。傍から見れば話は反対となる。
 ジュン君は梅岡教員の来訪によって数日間へこたれていたものの、一念発起して図書館に通い始めた。
 ご本人及び親しい人々の、ごく内々の事情を除いてしまえば、残るのはそれだけである。アリスゲームなんてモノは世間様にはまるきり関係のない、家庭の事情で括れてしまうあれこれの一つでしかないのだから。
 満を持しての梅岡先生のご訪問は、ヒキコモリのジュン君に対して一種の劇薬だったかもしれないが、確かな効果もあった……となる訳である。

 但し、それは即時の復学に十分なものではなかった、という風にも取られてしまいそうだ。
 ジュン君が図書館に通って自習を続けていた正確な日数やその詳しい内容は聞いていない。しかし、ここにきて二週間以上図書館通いをサボってしまったのは把握している。前半は彼がこの世界に存在していなかった時間であり、残りは僕が図書館に足を向けるまでの期間である。
 傍から見ている人々、例えば目の前の由奈嬢は半月ほどの空白をどう受け止めているのか。
 今更言うまでもなく、これ以上ないほどややこしい要素が絡んでいるのだが、そんなことは外野の知ったことではない。
 不登校児が図書館で自習を始めたのにいつの間にか途絶えてしまい、最近になって漸く再開した。外側に見えている事実はそれだけである。

──案外この子が不登校になった理由も、それに絡んでるんじゃないのか。

 知りたいような聞きたくないような、実にモヤモヤした気分だ。
 由奈嬢は憮然としている僕の表情をどう取ったのか、微笑を固着させたような顔になって続けた。

「羨ましい、って思っちゃダメ?」
「羨ましく……思えることなのかな」
「だって、桜田君のためだけに、みんな作文書いたり寄せ書きしたんだよ。クラス全員」
「……そうだね」
「先生も時間作って出掛けて行った」
「うん……」
「それでやっと、桜田君は学校行く気になったんでしょ。羨ましいよ、そういうのって」

 ああ、やばい。つか、これはまずい。実にまずい。
 なんか判っちまった。そういうことかよ。
 回りくどい言い方で、却って言いたいことが見えてくることもあるのだ。
 由奈嬢の口許には笑みが浮かんでいる。だが、ちらちらとこちらを見る目は今にも泣き出しそうだった。

──くそったれ。

 不意に、でかい声で怒鳴り出したくなった。
 ジュン君を巡って、この子と僕の置かれた立場は多分点対称に近い差がある。彼について知っている情報も(どちらが多い少ないではなく)殆どかすりもしないだろう。
 しかし、共通している事柄が少なくとも一つある。どちらも、特異な能力を持った彼とその周囲の人々の起こした事件に、否応なしに巻き込まれて振り回されてる哀れな凡俗だという点だ。

 彼女の身に具体的に何があったかは察するしかない。しかし折角の晴れ舞台と言うべき企画に文字通りゲロを吐きかけられ、相当に嫌な思いをしたであろうことは想像に難くない。
 いやいや、それだけとは限らん。
 ジュン君は即時リタイヤしてしまったから、その後どんな噂が流れたにしても耳に入ることはなかった。だが、とばっちりを受けた由奈嬢の方も、少なからず陰口なり噂なりを叩かれたのではないか。
 ジュン君が寄せ書きを見ておかしくなってしまったことを聞き知っているからには、由奈嬢が不登校になったのは恐らくそれから。多分、彼が図書館通いを始めたことを巴ちゃん辺りから聞いた後のことだろう。
 ……となれば、由奈嬢が登校せずに図書館通いしていることとジュン君には因果関係が大いにありそうだ。
 ここまで出張ってきて、じっとこちらの動きを追っていたのは、寄せ書きの件で思うところがあったのか。または単に不登校同士ということで親近感を抱いたのか。いやいや、学校を休んで図書館に張り込んでいた可能性さえある。
 何等かの意趣を含んでいるのか、被害者は自分だとアピールしたいのか、あるいは大したことないよと励ましたかったのか。はたまた、自分のつれない仕草がジュン君の不登校のトリガーになったと感じていて謝ろうとしているのか。

 細かいことは判らない。ただ、いずれにしても彼女が去年の出来事を引き摺っていて、ここ数日で言ってやりたいことが我慢できないほど募ってきたからこそ、わざわざ判り易い恰好になって声を掛けてきたのは間違いない。
 当然ながらそれに応えるべきなのは、例によって僕ではなく、ここには居ないこの身体の持ち主なのだが──

「──桑田さん」
「なに?」
「こんなこと、今更だと思うけど……ごめん。僕のせいで、厭な思いさせて」

 頭を下げる。
 無意味な謝罪ってのはこういうことを言うんだろう。
 誠意のない言葉だと言われればそこまでだ。そもそも僕自身が巻き込まれて厭な思いをしている立場である。
 だが、由奈嬢はそれを知らない。目の前の桜田ジュン君に、せめて一言くらい言って欲しいだろう。

 暫し無言の時間が流れた。
 顔を上げると、こちらのクソッタレな事情など知る由もない由奈嬢は相変わらず飲む素振りも見せないまま、両手で持ったコーヒーに視線を落としていたが、やがて首を一つ振ってこちらを見た。

「そんなので許せると思う?」
「……いや、思わない」
「じゃあどうして謝ったりするの? 口だけなんてサイテーだよ」
「ここで一言も言わなかったら、桑田さんがもっと厭な思いをする。それに──勝手だけど、僕自身謝りたいんだ」

 まあ、一言くらい謝って頭下げてくれ、が本音なんだけどな。

「本当に、ごめん」
「ほんと、勝手なんだね。他人事みたいに」

 由奈嬢はそっぽは向かなかったものの、大分ご立腹のようだった。額まで赤くなっている。
 決していい加減な気持ちで言った台詞ではないのだが、どうしても一歩離れて考えていることは否めない。なんせ中身が別なのだから。
 傍から見れば他人事を言ってるように聞こえて当然である。それが滲み出てしまったのだろう。

 ええいくそ。どうにも歯痒い。
 この子にしてみたら、表の通りに出てみたら待ち人の代わりに納豆売りがやって来たような按配じゃねえか。しかも、見た目だけじゃ見分けがつかんときている。
 誰がやらかしてくれたのか知らんが──いやまあ、こんな芸当が出来るのは一人しかいない訳だが、どういう了見でこんな状態にしてくれたんだ。
 改めて──というか、初めてかもしれん。きらきーさんにこれほどムカついたのは。
 いや、彼女に全部おっ被せてしまうのがフェアじゃないってことは重々承知して──

「──本当に謝りたいなら、悪いと思ってるなら、逃げずに学校に行ってよ」

「えっ」
「桜田君て、逃げてるだけじゃない」
「そ、そりゃ……えっと」
「文化祭担当の梅岡先生に提出するノートにラフ描いたんだもん、先生勘違いして当然だよね? なのに、自分の名前出されたらみんなの前でげーげー戻して、そのまま学校から逃げ出してそれっきり」
「……そうだね」

「今だってそうだよ。
 何? 私のこと都合良く忘れたふりなんかして。
 梅岡先生に言われたから、わざとらしく図書館で勉強するふりして、気が向かなくなったら止めたりして。
 学校から、あのことからずっと逃げ回ってるだけじゃない。
 全然、前向いてない。自分が悪いなんて全然思ってないし、ちっとも変わってない」

 おいおいおいおい。なんかえらい方に話が回り始めちまったぞ。
 唐突な長広舌にただ焦っている僕の気分など一向お構いなく、由奈嬢は自分の台詞に興奮したのか、大分大きな声になって続ける。

「学校行ってよ。本気で悪いって思ってるなら。
 みんなに冷たい目で見られたって、虐められたって、桜田君の自業自得でしょ。
 自分に嘘吐いて逃げてないで、自分が起こしたことくらい認めて受け止めてよ」

 そうしたら許してあげる、と言って由奈嬢は席を立ち、こちらを振り向きもせず階段を降りていった。
 泣いていたのか笑っていたのか、表情を見定める暇もない早業だった。

 一つ溜息を吐いて机の上に視線を戻す。僕が奢ったハンバーガーとコーヒーは手付かずのまま、トレイの上に残されていた。
 これは地味に堪える。奢ったものに口を付けないまま帰られるってのは。
 由奈嬢はジュン君に対してきつい一言を言いたくて、機会を窺っていたのか。いや、さっきからの僕の行動が裏目裏目に出ちまったせいで、売り言葉に買い言葉みたいになってしまったのか。

 ……いやいや、悠長に考察してるどころの話じゃねーよ。学校行け、だと?

 最悪だ。
 たった一人のクラスメートとちょいと話しただけでこのざまである。知り合いの只中に放り込まれたらどうなるか見当もつかん。
 断るなり、無視するなりしてしまえばいいことなのだが、そうは行かんだろう。
 あの分だと由奈嬢は近日中に登校を再開するだろうし、そもそも不登校の原因自体がジュン君に関わってる可能性が高い。ジュン君であれば、彼女の雰囲気か何かから、自分が齎した影響をもっと敏感に感じ取っていたはずだ。
 由奈嬢が登校した時、そこにジュン君の姿がなかったらどう考え、どう行動するだろう。友達にジュン君のことを悪く言うか、自分で抱え込むか。
 どちらにしても事態は良い方向には向かわないような気がする。

──何にしても、もう週末だ。

 幸いなことに学校はお休み。次の登校日は土日を挟んで三日後の月曜日である。
 お忙しいところ恐縮ではあるが、巴ちゃんにもご足労願って、善後策を練ることとしよう。由奈嬢の不登校の原因も、彼女なら知っているかもしれない。
 すっかり気の抜けた薄いコーラを飲み干し、由奈嬢が手を付けずに終わった冷めたコーヒーを呷る。
 恰好悪い事この上ないが、食い物を無駄にすることはできん。貧乏人の悲しい性である。

 壁の時計を見上げ、こりゃ翠星石に怒られるな、と考えつつ鞄にフィッシュバーガーを二つ詰め込み、そそくさとハンバーガー屋を後にする。
 ふと見上げると、昼下がりの秋空は相変わらず能天気な青さだった。一つ舌打ちして鞄を掛け直し、僕は恐らく空と正反対の不景気な顔のまま、足早に桜田邸へと向かうのであった。


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