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[24259] ◇ 過去に戻って幼馴染と再会したら、とんでもないツンデレだった模様
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:d2ac9050
Date: 2011/01/13 12:55
・第1話


 ◆

 消毒液の鼻を刺すようなツンとした香り、オレは子供の頃からその香りが大好きだった。それはやはり、母の仕事が医者だったから……というのが理由なんだろう。
 物心がついた時、すでに父はいなかった。最初に残っている記憶にあるのは母の姿だけで、父がどんな顔だったのかさえ知らないし、そもそも興味もない。
 まだ田んぼが残る小さな町で診療所を開き、女手一つで愛情を注いでくれた美しい母さん。眼鏡の奥で光る切れ長の瞳と、笑うと可愛く覗く八重歯、若い外見のまま少しも衰える様子のない美貌。
 子供の頃、忙しい日々の中、まれに甘えられるときに抱きつくと、様々な薬品の匂いの中、ひときわ消毒液のアルコール臭が強くって、いつの間にかオレの中で消毒液と母の匂いが一緒になっていたに違いない。

「あらあら、ふふ、アキラったら、甘えんぼさんね」

 笑い声を聞きながら、母の白く細い指で髪を撫でられるのが、オレは何よりも大好きだった。
 母さんの匂い――いや、消毒薬の匂いを嗅ぎながら成長を続け、将来の夢として医者を志すようになったのは、ある意味当然の事だったのだろう。
 近所に住んでいた2歳年下の少女、桜とはよくお医者さんごっこをした記憶がある。人口の少ない田舎で、近所に住んでいる子供は桜しかいなくて、そして彼女もオレによく懐いてくれた。オレが医者、そして桜は看護士。壊れた人形やぬいぐるみを使い、見よう見まねで手術のまねごとなんかをしていた記憶がある。

「わたし、大きくなったらアキラ兄さんといっしょに病院で働くの」 

 桜のキラキラした瞳と、少女にしては整った顔立ちに少しドギマギしながら頷いたような気がする。子供の頃っていうのは、やはり女の子のほうが精神的に大人なんだろう……幼馴染の桜は、よく大人になったらオレと一緒にいるって言っていた記憶がある。
 が、それも中学に入学するまでの話。東京の某有名中学に奇跡的に入学できたオレは、新たに始まった寮生活と、恐ろしく難しい勉強でヘトヘトに疲れてしまい、そんな約束など忘れ去ってしまった。一年に数日だけ実家に帰れたけれど、その数日も大量の課題に追われ、桜とは数時間だけしか会わなかったと思う。
 そして……高校進学、大学入試。もとより田舎の診療医である母さんに余分な蓄えなどあるはずもなく、私立医大に入れる経済的な余裕はなかった。推薦を貰うためと国立の医大に合格する為、毎日死ぬ気で勉強を続けた。
 遊びたかった……という思いが無かった訳ではないけれど、いつだって胸の奥には母さんの背中があった。田舎町で、朝も夜もなく苦しい人々の為に頑張っていた母の背中。その温かくて優しい背中を追いかけ続け、周囲の人々に励まされて大学に合格、そして辛い研修期間を経てとうとう医者になれたオレは、人々の役に立ちたくって、すぐにNGOに参加する事を決断した。
 
 通称――貧富なき医療団。貧しい国々や紛争地域で、無償で医療行為に従事する医療のプロフェッショナル達。思想、人種、宗教、国境も関係なくただひたすらに患者を救い続ける日々。
 ――最初の一年はハッキリ言って、何も出来なかった。いや、それどころか足手まといだったに違いない。日本で学んだ医療とは何もかもが違う。要求されるスピードは凄まじく、一瞬の躊躇いが容赦なく患者の命を奪う。
 許されない誤診……、治療できるかどうか? を瞬時に見極める事。つねに不足気味の物資と、今ある器具だけでどこまでの事が出来るか? の判断。言語と風習が異なる患者達との壁。
 そして、求められる高度な手術のスキル。
 最初の一年は、毎日の当直が終わる度、極度のプレッシャーから吐いていた。日本に帰りたいと泣いた夜は数え切れず、疲労のあまり血尿を流した事もあった。
 様々な言語が飛び交い、殺気立った家族に殴られた事も数え切れない。救えない患者のほうが多い紛争地域での医療行為、せっかく治せた患者が、退院した翌日に戦没した事もあった。
 だが、一年が過ぎ、オレのカラダにいくつもの傷跡と、心に消えない思い出が出来た頃……徐々に馴染んでいった。慣れ……とも、あきらめとも違う。そう、――覚悟のようなモノがオレの心の底へしっかりと根付いたのだ。
 自分が医者である事を受け止め、命を救う事、少しでも良くなるようにと希望を持ち続ける事を学んだ。手術のスキルはまだまだだったけれども、少しずつ自分への自信がついてくると同じくして、技術も上がっていった。
 スタッフと信頼できる協力関係を構築し、互いにフォローしあう日々。苦痛とプレッシャーだけだった毎日に、少しずつ、達成感が混じり始めた。
 それから更に一年がたち、当初計画していたNGOの期間が終わり、日本へ帰れるようになった頃には、オレは随分とマシになっていたと思う。少なくとも、ほぼ全員のスタッフから引き止められたし、救えた患者達も何人か涙を流してくれた。

「ヘイ、アキラ、またな。待ってるからな、早く戻って来るんだぞ」

 最初の一年、散々に俺を叱り指導してくれた医療団のチーフ――セルゲフにそう言われた時は、嬉しさのあまり涙がこぼれた。世界でもトップクラスである救急医療チームのリーダーに求められた事、それはとてつもなく名誉な事だから。
 とにかく今は、田舎で医者を続けている母に三年ぶりに会い、それから再びココに帰って来るか考えよう……いや、きっと戻ってくることになる、と思いながら、オレはボロボロの荷物袋を背負い、皆に挨拶を行って空港へと向かった。
 
 ――そう、その飛行機が全ての始まりになるなんて、何一つ知らずに。



 ◆◆

 ……それはテロだったのか、単なる事故なのか、オレには知りようが無かった。
 まあ、とにかく……搭乗した飛行機――南アフリカ共和国ケープタウン国際空港発、ロンドン、ヒースロー空港着の便は墜落しつつあったんだろう。
 何もかもが一瞬……轟音と共に飛行機が大きく揺れ、切り裂くような悲鳴が聞こえたと思ったら、カラダ全体へフワリ……とする恐ろしい感覚が襲いかかった。高層ビルから降りるエレベーターに乗った時の、フワッとした感覚を何倍にも大きくしたような感じ。
 何が起こっているのか? 全身にのしかかる感覚……これは、墜落しつつある為の無重力感覚だと気付いた瞬間、オレの頭髪は恐怖でそそり立った。いつの間にか目の前に酸素マスクがブラブラと揺れており、緊急事態だということをハッキリと示している。

『――落ち着いて酸素マスクを装着し、足を抱くように上半身をまげて下さい。繰り返します、落ち着いて酸素マスクを装着し、足を抱くように上半身を曲げてください』

「う、嘘だろっ!?」

 周囲で響いている様々な言語の悲鳴と、色んな神々への祈り。オレは無宗教だったから祈る神は無く、変わりに脳裏に浮かんだのは、母さんの変わらない美しい微笑みと、実家の近所に住む2歳年下で妹のように可愛がっていた幼馴染、桜の姿だった。
 そのあと次々に浮かんできたのは、貧富無き医療団で共に過ごした仲間達の笑顔、助けられた患者、そして助けられなかった人達の顔。走馬灯……とはよく言ったもので、マジで次々と取り留めの無い場面が脳に浮かび上がる。恐怖でガチガチと歯が鳴り、悲鳴のような弱々しい声が喉の奥から溢れていく。

「そ、そんな……」

 今まで散々、人の死を診てきた。運び込まれた瞬間、もう助からないと解る患者なんて数え切れないほどいたし、救急治療を施したとしても薬が足りずに亡くなった人々だって大勢見た。いや、治安の悪い地域だった為に、流れ弾の飛び交う中を避難した夜だってある。強盗に襲われ、財布と服を奪われた事も……。
 それでも、確実に迫り来る死というのは、過去とは比べ物にならないほどに怖い。そう、理屈じゃ説明のつかない恐怖。本能……生物としての本能が、全力で生き延びようと足掻き、オレの心を恐怖で奮い立たせようとする。

「し、死にたくない、死にたくないっ」

 隣の座席にいる黒人の中年がガクガクと涙を流し、必死で神へ祈りを捧げている。轟音と墜落しつつある衝撃の中、祈りの言葉だけは何故かハッキリと聞こえるんだな……と、頭のどこかでボンヤリ考えながらも、オレだって恐怖で怯えきって泣いていた。パニックが起こって、思考がまとまらない……いや、心の動きに脳が追いつかないような状況。
 時間にすれば、きっと数秒なんだろう。だがその数秒は、水飴のようにグニャリと引き伸ばされ、いつまでも終わらない。脳の一部はあい変わらず母さんと幼馴染の姿を映す。他の部分では、NGOの仲間達が微笑み、患者達の表情が浮かんでは消えていく。
 口からは悲鳴と涎があふれだし、せっかく同僚からもらったスーツに染みが出来ていき、それをもったいないなぁと感じる自分を感じる。が、次の瞬間には全てが恐怖に塗りつぶされて、そこから逃避するように、また母さんの姿が脳裏へ浮かぶ。

『――落ち着いて酸素マスクを装着し、足を抱くように上半身をまげて下さい。繰り返します、落ち着いて酸素マスクを装着し、足を抱くように上半身を曲げてください』

 何ヶ国もの言葉で繰り返される機械音。その狂ったように大きなボリュームさえ、オレに恐怖を抱かせる。グルグルとまわり続ける感覚。急激な気圧の変化から、抑え切れない嘔吐感と頭痛、耳鳴りが堪らない。いや、いつ鼓膜が破れてもおかしくない状況だろう。
 ――もう、助からないだろうな。と脳の一部でボンヤリ考えつつ、オレはのろのろと右腕を動かしていく。目の前でぶら下がっている派手なオレンジ色の酸素マスクへ、ようやく指先がかかる。酸素……高濃度の酸素を吸えば動脈血酸素分圧が正常に……、とりとめもなく浮かぶ何の役にも立たない知識。圧倒的な恐怖で失神しそうな意識の中、俺は口から胃液混じりの唾を足元に吐き出して、しっかりと酸素マスクをつけた。
 目をつぶり、何度も深呼吸を繰り返す。気管を通り抜ける冷たい酸素、その感覚……。

 ――そこから先は、何も覚えていない。


 ◆◆◆

「うわぁあああああああああああああああっっっ!!」

 バクバクと破裂しそうな心臓を感じつつ、オレは全身全霊を込めて絶叫を上げる。拳を握り締め、全身をブルブルと痙攣させ、人生最後の雄たけびを上げ続けていた。
 地面と激突する最後の瞬間まで生きていたい、という思いと、早く気絶して楽になりたいという思い、ぐちゃぐちゃな脳の中で、ただ大声を上げ続け……。

「アキラ兄さんっ、大丈夫!?」

 どこか聞き覚えのある声でボクは目を覚ました……ボク? オレ? いや、あれ? こ、ここは?
 キョロキョロと周囲を見渡す。ソコはもうもうと湯気が立っている湯船、見覚えのある洗面器と椅子。そして、その椅子に座ってゴシゴシと背中を擦っている小学生くらいの……桜!?

「えっ、あっ、ふぇ!? あれ、ひ、飛行機は? って……あれ……?」

 腰くらいまでしかないヌルいお湯からザバリと立ち上がりながら、ボクは混乱の極地にあった。記憶が何だかとてつもなくヘンだ。何よりもカラダが小さい……いや、小さいのは当たり前……だって小学生なんだから。どうしてこんなコトを考えてしまったんだろう。まるでボクは大人みたい……いや、そうじゃなくて。

「アキラ兄さん、平気? のぼせちゃった?」

 泡だらけのカラダで、ボクの顔を挟み込むように両手を伸ばしてくる桜。心配そうにまっすぐ見つめてくる大きな瞳が、とても綺麗に見えて……ボクは嬉しいのか恥ずかしいのか、あい変わらず混乱した気持ちのまま、乱暴にその両手を振り払う。

「大丈夫だよ。ったく、そもそも桜がジュースをこぼしたからいけないんだ」
「――っ!? そんなコトないもん。兄さんがくすぐるのがいけないんじゃない! あんなことされたら誰だって笑っちゃうもん」

 ふくれっ面になりながら、ボクを鋭く睨む桜。日本人形みたいな黒髪の直毛が水に濡れ、彼女の細い肩と背中に張り付いている。それが、なんだか心臓をドキドキさせてしまって……おかしい、今までこんな事、一度だってなかったのに。
 顔が何故か熱くなってくる。幼馴染の桜と一緒にお風呂に入った事なんて数え切れないほどあるし、コイツは顔はまあ良いとしても性格は最悪なのに……なんだか、とっても変だ。何も言えないまま、つい桜の真っ黒で大きな瞳を見つめてしまう。

「な、何よっ、急に黙っちゃって。馬鹿!」

 それが桜を怒らせてしまったのか、コイツは急に顔を赤く染め、いきなり洗面器のお湯を浴びせかけてくる。

「う、うるさいっ、ボク、先に出るから」

 コイツの裸を見て、何がどうなるって訳でもない――そもそも、桜は小学生で胸なんかペッタンコなんだ――でも、なぜかとっても気恥ずかしい。きっとボクの顔は真っ赤に染まってるだろう。幼馴染の体が出来るだけ目に入らないようにしながら、浴槽から足を出し、湯で濡れたタイルを歩いて出口へ向かう。

「あっ、ま、待ってよ。わたしも出る」

 ジュースで汚れた体を洗い終え、お湯で泡を流した桜が勢いよくボクの隣に並ぶ。コイツはホント、いっつも側について来て、時々邪魔でしょうがない……はずなのに、何故だかボクは、こうやって一緒に遊べるのは今だけなんだって考えてしまった。そんなこと、今まで一度も考えたりした事ないのに……。

「ちぇ、桜。背中を拭いてやる。後ろを向いて」
「え!? 兄さんが親切にしてくれるなんて、ど、どうしたの? ホントに大丈夫!?」
「あー、もうっ、大丈夫だよ。ほらっ、さっさと後ろを向けよ。馬鹿サクラ!」

 バスタオルを持って、ボク達は喧嘩のようなじゃれ合いをしつつ、互いのカラダを拭き合う。脱衣所にある窓の外は既に薄暗くなりつつあった。母さんは急患で今夜も遅くなるって言ってたし、桜の親は毎晩バーでお仕事をしてる。今夜も幼馴染と二人っきりで騒々しい夜になりそうだ。

「桜、今夜はシチューを作ってやるよ」

 元気にはしゃぐ桜を抑えつけながら、その艶やかな黒髪を拭きつつ、ボクは言った。冷蔵庫に材料があれば……の話だけど、なんだか久々に料理がしたい気分。鍋でコトコトと煮込んで……そう、桜は星型に切った人参が好きだったはずだ。

「ふぇっ!? 兄さんが料理? あははっ」
「何だよ、これでも医大で一人暮らしの時はさ、ずっと料理してたんだから……って、あれ? 一人暮らしって、医大?」

 医大……って何だ? 何か、何かがおかしい。ボクの全身から血の気が引き、視界が暗く狭くなっていく感じ。無性に喉が渇く。

「兄さん? やっぱりちょっとヘンだよ。先生呼んでこよっか?」

 心配そうに両手を握ってくる桜。小さなその手のひらから伝わる温かな熱を感じながら、ボクはズルズルと床へ座り込んでしまう。意識が途切れそうな、混濁してしまいそうな感じ。――まるで、麻酔導入で分量を間違えてしまったかのようなフワフワとした酩酊感。
 なんてこった、NGOじゃそれなりに麻酔医もこなしてたっていうのに……、こんなんじゃ、またセルゲフに怒られちまう。全身に力が入らない。桜が何かを大声で叫んでるように見えるけど、その音は耳に届かない。
 ボクのカラダに覆いかぶさるようにしてパニックになってる様子の桜。目から大粒の涙をポロポロこぼしながら、オレを覗き込んでいる。――ああ、こりゃ、将来めちゃくちゃな美人になる――いや、美人になったのかな? 桜の幼いながら整った顔立ちを見上げつつ、ぼんやりとそんな事を思う。
 ガクガクとオレの体を揺さぶりつつ、全力でしがみついてくる桜。そのカラダの柔らかさと熱を感じる。一体、何をそんなに心配してるんだ? オレはとても不思議に思う。ただ眠いだけ……ボクはただ、とっても眠いだけで……。

「平気だよ、桜。会いたかっただけ。桜と母さんに……一度だけでも会いたかった」

 ろれつの回らない口で、なんとかそれを言い切ったつもりだが、きちんと言葉になっていたか疑わしい。でも……まぁ、いいか。
 まるで墜落していく飛行機に乗っているような感じがして、考えるのも面倒くさい。クルクルまわる視界。 

 ――そこから先は、何も覚えていない。



[24259] ・第2話
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:68cf5fd5
Date: 2010/12/07 13:03
 ・第2話


 ◆

 桜と会った最後の日の短い記憶。それは胸のどこかへ、大切に……とても大切に仕舞い込まれていて、決して忘れる事は無い。
 けれどもそれは思い出される度、ズキズキとした鈍い痛みを発し、いつまでもオレの心を傷つけ続ける。でも、その痛み、……どうしようもないその悲しみこそが、医者になりたてだった自分を支えてくれたのだと、今ならわかる。
 
 ――季節は春、医師になったばかりのオレが、無謀にもNGOに参加する為、アフリカへと出発する当日の朝。
 真っ白な病室に差し込む春の柔らかな陽射し、風に舞う薄紅色の破片……幼馴染と同じ名前の花びらが、開け放たれた窓から入り込み、フワリと桜の横たわるベッドへ舞い落ちる。あい変わらず穏やかな寝息を立てている、美しく成長した幼馴染。
 彼女の鼓動に合わせ、ピッ、ピッ、と規則正しく音を発しているベッドサイトモニタへも、薄紅色の花びらが一枚ひらひらと舞い落ちた。

「桜、ちょっと診るからな。その、やましい気持ちなんかじゃないぞ。オレ、ちゃんと医者になれたんだぜ。すげーだろ?」

 真っ白なベッドに横たわったまま、あい変わらず瞳を閉じたままの幼馴染へと向かい、ことさら大きく声をかけた。返事は無い。が、少しだけ桜の浴衣をはだけさせて、右鎖骨下に刺さっているIVHのカテーテルを点検。
 Intravenous Hyperalimentation 略してIVH――中心静脈栄養法、長期に渡り自分で食事を摂取できない患者の中心静脈(体内を走る太い静脈)へ直接、管――カテーテルを挿入し、栄養価の高い輸液を補充させる術式。
 ここのドクターの技術は名医と評判が高く、オレなんかよりずっと経験もある。オレごときがこんな事をしても意味が無い……とわかっているけれど、それでも桜の為に何かをしてあげたかった。

「痛くないか、桜?」

 明るく話しかけるが返事は無い。幼馴染の華奢な体つき、骨が浮いた皮膚、真っ白な肌へ太い針が刺さっている部分が瞳に焼きつき、不意にこぼれそうになる涙を無理矢理に我慢した。深呼吸を一つ行なって気持ちを落ち着かせ、モニターでバイタルをチェック。大丈夫……全て問題なく安定していた。
 いや、それは当たり前。桜はオレのような外科のひよっこじゃなく、何年も前からベテランの内科医に診てもらっているんだから。
 だから桜のカラダを誰にも見せたくない……と思ってしまうのは、オレの単なる我儘に過ぎない。まあ、そもそも、そんな事を思える資格なんて無いのだけれど。
 妹同然の幼馴染と、かつて交した約束などすっかり忘れはて、自分の事だけを考えて医師へ駆け抜けたオレ。
 そんな冷たいオレへ、それでもついて来ようとしていたのか? それとも偶然なのか? 看護士の資格を得る為に東京の看護学校へ入学していた桜。しかし数年前……。

「桜、オレも頑張るから。お前も、頑張れ」

 小さく囁き、手土産である桜の大好物……アレルーヤのロールケーキを冷蔵庫へ入れておこうと動く。コイツが目を覚ました時、すぐに食べられるように。
 冷蔵庫の中にある、先週にオレが見舞いに来たときに入れた同じケーキ――当然、食べられた形跡などあるはずも無い――を取り出して、ゴミ箱へと捨てた。

「桜、早く起きろよ。ケーキ、また……腐っちまうだろ。甘いものが好きだったお前らしくねーよ」

 喉の奥からあふれ出しそうになる叫び……それを無理やりに押さえ込んで、幼馴染の指を触る。綺麗に整えられた爪――看護士さんがキチンと手入れしてくれているんだろう――をゆっくりと撫で、寝息を立てている桜を見つめ続けた。
 NGOに行くと決めた事を、幼馴染は怒るだろうか? それとも応援してくれるだろうか? 小さな頃から妹同然に育った桜。だが、どんなに会話をしたくとも、今の彼女と言葉を交すことは誰にも出来ない。

「じゃ、行って来る。アフリカはきっと辛いだろうけど……少しでも、スキルを磨いて、人の役に立ちたいんだ」

 医学はどんどん進歩を続ける、桜は将来、必ず目を覚ますと信じてる。その時、オレが立派に医者として頑張っていられるように、今、出来る事をしようと思う。
 ここで医者として桜を治療できるなら、ずっと残ったっていい。が、残念ながら、母と同じ外科の道を進んだオレには出来る事は無かった。なら、自分に出来る事を……少しでも経験を積み、技術を磨く事を。
 ――きっとそれは、桜も喜んでくれるだろうと、オレは信じている。
 開け放たれた窓から、次々と舞い込んで来る桜の花びら。そっと一枚、その薄紅色の欠片を握り締め、病室から廊下へと躊躇わずに出た。アフリカ――貧富なき医療団で、精一杯頑張ってみる為に。



 ◆◆

 頬を涙が伝い落ちていく……その感触でボクは覚醒した。ハッキリとした理由の分からない、けれど言葉に出来ないほど悲しい気持ちのまま、ゆっくりと目を開いていく。
 まず飛び込んできたのは、お風呂上りで裸のままのボクの胸にしがみ付き、泣きじゃくってる桜の姿。バスタオルでボクのカラダを包みこみ、小さな両手でしがみ付いている。嗚咽を繰り返しながら、華奢な全身をブルブルと震わせて、まるで子猫のように。

「桜、痛い。痛いから爪を立てるなっ」
「に、兄さんッ!? 起きた!? もうっ、バカ、バカッ! バカッ!!」

 痛いって言っているのにも関わらず、余計に爪を立てる幼馴染。その両目は真っ赤に充血し、泣いた所為なんだろう……鼻水まで出ていたが、指摘する勇気はボクには無い。

「桜、ボクはどれくらい気を失って?」

 周囲を見渡せば、ここは浴室の外にある廊下。深呼吸をしながら、手を伸ばして桜の真っ黒な髪を触る――まだ湿り気があって体も温かい――この様子なら精々五分程度だろう。ゆっくりと身を起こし、グスグスと鼻をすすっている桜の手を引っ張る。

「う……、ちょっとだけ、五分くらいだよ。でも、何度話しかけてもずっと私の名前を叫んでるだけで……」
「――ッッ!? 痛いっ、爪、爪が痛いって言ってるだろ、バカ桜」

 握ったままの桜の指が、ボクの手の甲へグリグリと押し当てられる。血が出るほど強くは無いけど、十分すぎるほど痛い。ジト……とした目つきで下方向からボクを見上げつつ、恨みがましい声を出す桜。

「先生を呼びに電話をしようと思ったら、ずっと桜、桜、って叫ぶから側を離れられなくって。兄さんの顔を見たら泣いてるし……すごく、怖かった」
「ちょっとのぼせたみたいだ……心配かけてごめん」

 桜の手を離し、ふくれっ面のままの顔めがけてバスタオルを放り投げる。

「――――!? し、心配なんかしてないッ!」

 桜の狼狽した声、そして、視線を避けるように背を向けて、考えをまとめ始める。今の自分の状況、一体ボクはどうしてしまったのか? をだ。
 意識はハッキリとしていて、お風呂上りみたいな混濁は無い。しっかり小学生の『ボク』だって自覚がある。けど、知識が違う。頭のどこかが変わってしまった。
 目を閉じて、しっかりと集中すれば、人間の体の構造……臓器がどうなっていて、主要な血管はどれで、循環器はどうなっているのか。そんな事が次々と脳裏にあふれ出す。――そしてなによりも、救急医学に対する知識。これは、どういうことなのか全然見当もつかない。
 しかし、まるで未来の『ボク』から現在の『ボク』に医療と知識のデータが送り込まれたみたいだ。だが、記憶……というか思い出は全然無かった。ただ一つの例外が、桜が将来……『植物状態』になってしまったという記憶。
 桜と母さんを大切に想う気持ちに何一つ変わりは無い。桜と母さんを大切に想う気持ち……それが、『ボク』と『オレ』を結び付けているような気がする。――恐怖は無い。不思議だと思うけど、家族……桜と母さんを想っているなら、それは何歳だろうと『ボク』だから。
 そして、桜があんな事になる未来を絶対に防いでみせるという、強い意志があった。守る……ボクの状態がどうなのか? それは解らないけれど、ただ幼馴染を守りぬく、とシンプルに考えていこう。

「――桜、約束する。これからもずっと一緒だから」
「…………ッッッ!!!」

 振り返り、桜の瞳を見つめ、強い決意を表明するように言い切る。医者として、桜の兄のような存在として……。病室のベッドで眠ったまま、華奢なカラダにいくつものカテーテルを挿入され、モニタに監視されている幼馴染の姿は絶対に見たくない。
 ボクの突然の宣言に驚いたのか、大きな瞳をまん丸に見開き、きょとんとした表情を見せる桜。その柔らかそうな頬っぺたが、一気に真っ赤に染まっていく。

「え、えっ、え……!? そ、それって……兄さんっ、その……えっと…………プ、プ……だめっ、う、嬉しいけど……恥ずかしくって言えない」
「桜は家族、妹みたいなもんだからな。母さんとオレと桜……ずっと健康でいて欲しいよ」

 顔を真っ赤に染め、何かを小声でごにょごにょ呟いている桜。が全然聞き取れない。しかしまあ、いくら家族同然でも、こんな事を言うのは変だったか? と自分でも少し照れてしまい、ボクは言い訳のように大声で話し、桜の横を通り過ぎてキッチンへと駆け出す。

「――えぇ!? 家族ッ!? いもうと!? ちょ、ちょっと待ちなさいよ、兄さん、何よそれっ!」

 何故か怒ったような桜の大声を聞き流してキッチンへ辿り着き、冷蔵庫の中身をチェックする。
 ――牛乳、小麦粉、バター、鶏肉のモモ肉、人参、タマネギ、ジャガイモ。さすがは母さん、一通り以上の食材は揃っていた。ドスドスとかけてくる幼馴染の足音を聞きながら、手早く材料をザルに入れていく。


「兄さん、もう、馬鹿、馬鹿ッ、馬鹿ッッ!! どういう事? 説明してよ」

 顔を真っ赤に染め、キッチンで怒鳴る桜。お気に入りのピンクの水玉がプリントされたパジャマを着ているけど、慌てて着用した為なのか……、ズボンが前後逆だ。――そもそも、どうして桜がこんなに怒ってるのか、全く意味が解らない。
 材料を入れたザルをいったんテーブルに置き、意味が解らないなりにどうにか桜を宥めようと、ボクは何かを言おうとしたが……。

「すっげー顔が赤い。桜、猿みたいだ。それにパジャマも逆」

 つい口から素直な感想がこぼれ落ちる。無言のまま、ブルブルと全身を震わせている幼馴染。そして次の瞬間、ビュンッという音を立て飛んでくるジャガイモ。

「ちょっ、待て、桜。落ち着け、落ち着けって」
「うるさいっ、兄さんのバカっ、死ねっ! 死んでしまえっ!」

 黒髪をサラサラとなびかせ、全力でジャガイモを投球してくる桜。美しい瞳はつり上がり、キリッとした視線でボクを睨みつける。ドゴンッという音と共に、壁にぶち当たるジャガイモ。

「や、やめろよ、バカ桜っ! 家族だろ、仲良くしようぜ」
「――ッッ!! 知らないッ! 兄さんのバカっ!」

 ジャガイモが終わった後はタマネギ、人参を放り投げてくる幼馴染。壁や冷蔵庫に当たったそれらがゴロゴロと床に転がり落ちる。ポッキリと折れた人参……、ベコベコにへこんだタマネギ。壁で一部分が削れたジャガイモ。
 ――どうやら、今夜のシチューは、ずいぶん野性味あふれる料理になりそうだった。



 ◆◆◆

「桜、美味しかった?」

 会話のないまま、気まずい食事が終わった後、ボクの隣……お気に入りのソファーで体育座りをしている幼馴染へたずねる。だが、何も答えてくれない桜……あい変わらず無言のまま、ジッと真っ黒な瞳で、ボクを見つめていた。

「そろそろ機嫌なおせよ。謝るからさ」

 プニプニと幼馴染の頬っぺたをつつく。桜の肌はきめ細かくて、とても綺麗だと思う。ボクの右手をハエでも追い払うように、うるさそうに左手を振る彼女。そして、真っ黒な瞳でボクを見つめたまま、桜のピンク色の唇が動く。

「兄さん、何か隠してない?」

 ポツン、と呟く桜。怒ってるという雰囲気ではなく、真剣な表情。ボクを真っ黒な瞳に捕えたまま、じっ……と見上げる。どこか大人びた美しい表情に、ボクの鼓動が早くなってしまう。
 何よりも、桜の勘に驚きを隠せない。

「な、何が?」
「料理……。アキラ兄さんが器用で、何でも出来るってのは知ってるわ。とっても努力家ってのも知ってる。だけど、今夜の料理は変よ。美味しいってだけじゃなくって……作り慣れてるって感じ」

 桜の指摘に、ごくり……と唾を飲み込んでしまう。確かに桜の言う通り、料理の時、ボクのカラダが勝手に動いてしまった……という感じだった。いちいち考えなくても、次に何をすればいいか? をカラダが解っていて動くといったふうに。
 
「た、偶々だよ。この間、母さんの手伝いをしたばっかりなんだ。それでさ、なんか覚えちゃって」

 しどろもどろになりそうな口を押し込めて、何でも無さそうに言い切る。ジト……とした瞳で見上げる桜。その整った顔立ちを見つめ続けられず、思わず視線をそらしてしまう。
 が、なんとか納得したのか、ハァ……とため息をつく桜。腕を上に伸ばし、背伸びをするようにしながら、ゆっくりと言葉を吐き出す。

「ふーん、ならいいけど……。なんか、変なんだよね。微妙に優しいし。ま、バカなのは変わってないけどさっ」
「バカって言うほうがバカなんだよ。バカ桜」
「――!?」

 一瞬、ニラみあった後、バシバシとロングクッションで叩き合うボク達。柔らかなクッションでじゃれあいながら、ボクは内心、安堵のため息をついていた。ボクの状態はなるだけ秘密にしていたかった。こんな事を話しても、信じてもらえるはず無いし、そもそも桜に何て言えばいい?
『将来、桜は植物状態になるかもしれない』
 そんな怖がらせるような事を言って何になるだろう。くるかどうかも解らない未来を怯えさせてどうなる?

「いてっ、ちょ、桜、突きはヤメロよっ、ちょ、痛いっ」
「あははっ、女の子をぬか喜びさせたバツだよ、兄さん。大人しくしなさいっ」

 無邪気な笑顔を浮かべる桜。さっきまでのふくれっ面は無く、楽しそうに微笑みながら攻撃してくる――どこか、屈折してるのかもしれない。いや、単なるドSなのかも……。互いに笑いながら、ソファーの上で、バシバシとクッションを振り回す。
 ――とにかくボクに出来る事は、今を精一杯楽しむ、再び医者になる、そして桜を守る事。彼女の笑顔を見ながら、ボクはそう決意を固めた時。

「ただいまー。アキラ、桜ちゃん、仲良くしてた?」

 遠く玄関から響いてきた懐かしい声。その声を聞いた瞬間、ボクは涙が溢れそうになったけど、なんとか我慢した。あわててクッションを片付け、ソファーのシワを伸ばそうとしている桜。
 その小さな手をひいて、僕達は並び、玄関まで迎えに行く。

「お帰り、母さん。そして、ただいま」
「先生、おかえりなさい、お邪魔してます」
「はいどうぞ。あら、仲良しね、ふふ、本当の兄妹みたい」

 玄関で微笑んでいる母さんの微笑み。ショートカットの髪型、口元からのぞく八重歯。眼鏡の奥の嬉しそうな瞳。――その姿は記憶の中よりも、さらに美しくて可愛らしく、若かった。母さんではなく、姉さんだと間違われたことも何度もある。
 ――ツンっ、と鼻に消毒液のにおいが香る。それは義母さんの香り。
 例え血がつながってなくても、ボク達は本当の家族と変わらない。義母さんの香りに包まれながら、ボクは一人、深く頷いた。

 



[24259] ・第3話 【小学校編①】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:90329f10
Date: 2010/11/19 08:16
 ・第3話 【小学校編①】


 ◆


 NGO<貧富なき医療団>へ参加した初日、医療キャンプについたオレは、まず荷物を部屋へ置き、共用トイレで用を済ませ、飛行機で疲れた体をストレッチでほぐした。たった数分の出来事だったが、その後、割り当てられた部屋に戻った時には、オレの医療道具は既に盗まれ消えていた。
 日本から持ってきたドクターバッグ。それがいけなかったのだ。大学で知り合った先輩ドクターが要らないと言うので、お下がりを貰ったのだが、ブランド物であった為に診療所へ出入りしていた人に盗られてしまったのだ……ベテランのナースは、盗んだのは多分貧民街の子供だろうと言った。
 日本とアフリカでは物価が天と地ほども違う。貧困から治安も悪いという事が解っていたハズなのに、心の底では全然理解していなかったのだ。そんな俺に対し、NGOのリーダー、セルゲフは少し怒った声を向けた。

「アキラ、私達ドクターにとって手術器具は、己の手そのものだろう? テクニックが足りなくて患者を救えない……それは悲劇だ。しかし、それが全力を尽くした結果なら仕方が無い。私達は人間だ。技術に限界はある。しかし道具がなければ平凡な手術さえ出来ず、患者は見殺しになってしまうだけだ。いいかね? 盗んだ子供はもちろん悪い。だが、それより私が怒っているのは、簡単にキミが道具を盗まれた事、キミのその『心構え』なのだ」

 トントンと指先で机を叩きながらフランス語を吐き出すセルゲフ。白人らしい青い瞳、真っ白な髪と痩せた肉体。しかし、50歳を越える年齢ながら、その全身から溢れる迫力に、圧倒されて何も言えない。
 オレの選んだ外科医の専門は、手術<オペ>だと言ってもいいだろう。外科手術というのは、切る・縫う・形成、の三つが主な要素になる。
 つまり、傷口まで『切り』、傷ついた組織、神経、血管などを『縫い』(骨なら整形し固定)、駄目になった組織を新たに『形成』する(もしくは人工物に置換<ちかん>する、人工血管など)事。
 その為には、実に多様な道具が必要になる。偉大な先人が、こういった道具があれば……と考案し、試作し、数限りない実戦証明で淘汰され、それでも使用され続けてきた多様な道具たち。それは医学史の積み重ねであり、いかに医者が人の命を救おうと足掻き続けたのか? の証拠でもある。
 ……その道具を盗まれてしまった。当然何も出来ない。極端な事を言えば手術道具のない外科医に、価値は無い。何の為にココにきたのか? これじゃ観光客と変わらない。
 オレは己の甘さ、歯がゆさに赤面し、セルゲフの顔を見ることさえ出来なかった。

「いいか? 真に許されないのはテクニックが足りない事……ではない! 道具を大事に扱い、いかなる時でも咄嗟に動ける心構えを持ち続ける意識。その意識を怠る事……それが許されない事なんだ! 解るか、アキラ? テクニック以前の問題だ。意志なのだ、我々ドクターが持ち続けねばならない意志。――人の命を救いたい、理不尽な悲しみを少しでも減らしたい。そう思うから、どうしようもなくそう願うからこそ! キミは医者になったのだろう? アキラ……これからは、道具を盗られるような場所に決して置かない事、最低限の器具は肌身離さずに持っておく事だ」
 
 オレはセルゲフの重い言葉に何も言えず、ただ頭を下げるばかりだった。
 ――命懸けの戦場で救急医療を続けてきた彼らにとって、道具を簡単に盗まれるようなオレは、とてつもなく頼りないガキにしか見えないのだろう。そして、それは事実なのだと理解する。ここは豊かで平和な日本ではない。スキル以前の問題、甘ったれた意識だったとはっきり自覚した。
 大きくため息をついてしまう。参加初日からうちひしがれてしまった、そんな俺の目の前……大きなデスクへと、突然、ドンッと何かが置かれる。
 ……それはボロボロに使い込まれた皮製のドクターバッグ。ブランド物などではないとても実用的で頑丈な造り、年代物ながらも何度も修繕されたあとがあり、とても大切に使用されていたバッグなのだと一目でわかる。

「ドクターセルゲフ。これは?」
「……私の息子が使っていた物だ。ここには他にすぐ使える予備が無いからな。次の補給が行なわれるまで使うといい。――それからアキラ、遅くなったが、キミの参加をみな歓迎している。よろしく頼む」

 それだけを言い切り、狭い個室を出て行ったリーダーセルゲフ。少し呆然としながら彼を見送って立ち上がり、貰ったばかりのドクターバッグを開いた俺は、驚きに息を飲んだ。

「……っ」

 ボロボロのバッグ中に収められたメス、剪刀、鉗子、持針器などは、しかし入れ物に反してすべてにきっちりとメンテナンスが施されて、いつでも使えるように個別の滅菌パックに収められている。何よりも驚いたのは、それら道具全てが微妙にカスタマイズされていた事。
 ドクターセルゲフの息子が使用した際に、少しでも上手く使う為にカスタマイズしていったんだろう。持ちやすいように微妙に削られたグリップ、ほんの僅か普通の物よりもカーブしてある鉗子。自分で削ったのか、僅かだけ先端が丸くなっている剪刀。
 この道具を使っていた人は、どれほど真剣に道具と向き合っていたのだろう。今まで決して手を抜いてきたつもりは無かった。だが、何も物を言わぬ手術道具に、オレは凄まじく打ちのめされ、眩暈すら感じる。
 NGOで学んだ最初の事……それは、意志。
 道具を肌身離さず持つこと、テクニックが無くとも常に全力を出せる環境を保っておく事……それは技術以前の問題で、決して難しくはないけれど、とても大切な事なのだと、オレは心から理解した。


 ◆◆

 ボクは寝起きが、良いほうだと思う。目覚まし時計が最初の『ピッ』という音を発した瞬間には、だいたい目を覚ます。だけど……今朝の寝起きの気分は最悪だった。まず、背中がジンジンと痛い……そう、誰かに蹴られたかのように。

「このバカ……っ!」

 桜の寝相は、意味がわからないほどヒドい。二段ベッド――患者さんにいらないからと貰った物――の下の段に寝ていたコイツが、どうやったら上で寝ているボクのベッドへと潜り込めるのか、全く理解出来ない。
 勝手にベッドに潜り込み、さらにボクの使っていた毛布を全部剥ぎ取って、自分の体に巻きつけている幼馴染。ニヤニヤと幸せそうに笑っているその顔。ピンク色の水玉パジャマは寝相が悪すぎる為だろう、ヘソが見えるほどはだけている。
 そして、夜半に何度もボクを蹴ったのか、ボクは落下寸前……端ギリギリに追いやられており、コイツがベッドの中央を支配している。桜のピンク色をした形の良い唇から透明な唾液がこぼれ落ちており、トローンと人の枕に染みを作っていて……ジンジンとした背中の痛みと相まって、ボクはキれた。

「んっ……、ぃさん……」

 ゆっくりと指を伸ばし、寝言を呟いている幼馴染の真っ黒な髪の毛にふれ、ぷっくりした耳を剥きだしにする。まるで一口餃子のように小さなその耳。桜はソコがメチャクチャにくすぐったいらしく、触られるのを極端に嫌がる。そして、かき上げた真っ黒な髪から覗く、ほっそりとしたうなじ。

「バカ、この枕カバーは母さんがせっかく作ってくれたのに」

 外科医にしては母さんは裁縫が苦手だ。外科手術の基本である縫合は舌を巻くほど上手なのに……我が義母ながら不思議な人だ。まあ、とにかく、そんな母さんが悪戦苦闘しながら縫ってくれたのが、現在、桜が唾液でベトベトにしてくれちゃってる枕カバー。
 内心の怒りを爆発させないようにしながら、僕はあえて、桜のカラダを優しく背後から抱きすくめるようにした。両手を使い、華奢なカラダをしっかりと固定する。両足も前方へとまわし、桜の下半身を押さえ込む。
 そして……、猛烈な勢いでわき腹をくすぐり始めた。

「――――んっっっんんんっ!? きゃははははっっっ!! ちょ、あははっ、ちょ、にゃ、兄さん!? や、やめて、あはははっっ、や、やん、やーめーてー。きゃはははっっ!! や、あっ、あはははっっ! ちょっと、ホントにダメ、やぁっ、あはははっ」

 背後から、桜のうなじ、耳へと向かいフーフーと吐息を吹きかける。全く両手を休めず、ほっそりしたわき腹をコチョコチョとくすぐり続ける。顔を真っ赤に染め、必死で身を捩るバカ桜。
 小学校五年生にしては、スラリと長い足を動かしてバタバタと暴れるけど、ボクはガッチリとホールドしたまま逃がさない。
 真っ白できめ細かい桜のうなじと耳が、笑いすぎた為か、真っ赤に充血してくる。

「どう、桜、ごめんなさいは? ほら、ちゃんと言えっ」
「バカッ! あははっ、や、やめでなざいよっ、や、ん、に、兄さん、おぼえでなさいよっ、きゃははっ、ちょ、あっ、うははははっっ、こ、殺すっ、あははっ、やっ、やめでっ、にゅははははっ」

 まだまだ元気一杯、憎まれ口を叩く彼女。隙あらば抜け出そうと必死で身をよじり、ボクのカラダへ肘うちを繰り返す。ドスンッ、ドスンッと振動と共にベッドが揺れる。
 が、ボクも全力で幼馴染のカラダを抱え込んで離さない。コチョコチョとわき腹を触りまくり、暴れる首筋へ息を吹きかけ続ける。

「あはははははっっ、わ、わかった。あやまればいいんでしょう、にゃははひゃはっっ、あ、あやまるわ。きゃははっ、兄しゃん、やっ、やーべーでー、ごべんなざいぃい、あははははっ、ごべんなざいっ、ゆるじでっ、あははっ」

 ぜぃぜぃと荒い呼吸をしている桜。さすがにちょっとやりすぎたと思い、手を止める。グッタリと脱力し、しなだれかかってくる桜の背中と足。笑いすぎた為なのか、すごく柔らかくて温かく感じられる。
 呼吸を落ち着かせるように、何度も深呼吸を繰り返している幼馴染。ボクの視線のすぐ先にある耳とうなじから、どことなくミルクっぽい香りがした。

「ほらっ、さっさと降りろよバカ。全く、母さんのカバーがベトベトじゃんか」
「…………マザコン」
「うん? 何か言った?」
「ううん、なんでもありませーん」

 なぜかグズグズしている桜をあしらいながら、枕カバーを剥ぎ取る。幼馴染の唾液で湿ったブルーの布地。ジト……と見上げる幼馴染の視線を感じつつ、ソレを右手に摘んで、部屋から外に出た。

「うう……朝日がまぶしい。母さんは……ママの所?」
「うーん? 先生は今日は久しぶりに往診が入ってないって言ってたから、きっとそうだと思う。私達も行こう。今日集会があるから、ちょっと早く出ないと、学校遅刻しちゃうよ」

 少しややこしいけど、桜のお母さんの事は皆に『ママ』と呼ばれている。ボクの母さんは『先生』。なんでも、母さん『先生』と桜のお母さん『ママ』は元々知り合いらしくって、今でもとても仲が良い。往診の無い日は、夜から朝にかけて、こうやって女二人で飲むことも多いみたいだった。
 まあだから、桜がボクの部屋に泊まったりすることになっちゃってるんだけども。

「集会って全校集会? 何があるの?」

 交互にトイレ、洗顔を済ませて、手早く登校の用意をしていく。ボクは小学校六年、そして桜は五年。年齢で言えば二歳違うけれど、生まれ年の関係で学年はひとつしか違わない。

「兄さんってあい変わらず、どうでもいいって判断した事はすぐに忘れちゃうのね。新しい先生が来るって言ってたでしょ」
「へぇ、そうだっけ? どうでもいいじゃん」

 ボクは将来、医者になることを目指しているだけあって、かなり勉強はやってきたほうだと思う。まだ4月が終わったばかりだけれど、英語、数学は中学生レベルの基礎はたいてい終わらせていた……が、もうそのレベルとは桁が違う。
 なぜなのかはわからないけれど、『オレ』の知識がしっかりと沁み込んでいるんだ。ハッキリ言えば、それなりの大学であれば、今すぐ医学部の試験を受けても合格すると思う。特に語学……英語、フランス語、スペイン語はかなり自信があった。アフリカ、NGOで使われる言語は基本的にこの三つだったから。

「ふーん、先生が変わっても、勉強大好きな兄さんの成績に影響はありませんって事? ふん」

 自宅の玄関をバタバタと通り抜けながら、彼女がツンとした感じで言う。その不満げな声の響きにボクはハッと気付く。
 『ボク』はどうしても医者になりたかった。その為、どうしても日々の猛勉強に追われ、あんまり幼馴染に構ってやれてなかったのが現状だった。
(そっか……。もしかしたら今朝のことも、そういう事なのかもな)
 が、昨夜は『オレ』の意識、桜の未来の記憶に引っ張られて、ずいぶんコイツと遊んだ。久々に家族らしい雰囲気だったと思う。それが嬉しくてベッドに忍び込んできて甘えたんじゃないだろうか? ボクと桜は、本当に兄妹同然に過ごしてきた。きっと最近は寂しかったんだろう。
 ――思わず、彼女の小さな手を掴む。驚いてボクへ振り返る桜。彼女の黒髪がサラリと揺れる。真っ黒で美しい瞳……その瞳をボクは見つめつつ口を開く。

「桜、そう怒るな。これからはお前と、少しは遊べると思うから」
「に、兄さんっ!? えっ!? 本当に……。えっ、何でっ……でも、いいの?」

 吃驚したのか、左手を口元にそえ、大きな瞳をさらに見開く桜。春の陽射しが桜の顔立ちを照らしだし、一瞬、息を飲むほど綺麗に見えた。

「うん、桜は大切な『家族』だから」
「……バカぁ、どうせこんなオチだってわかってたもんっ! がっかりなんかしないわッ!」

 突然の怒声と共に、ドンっ、という勢いでボクのカラダは突き飛ばされ、柔らかなドロ、水たまりの上にしりもちをついてしまう。ジワリ……と濡れるお尻。そう、まるでお漏らしをしたようで……。
 ――小学生にとっては中々キツイ誤解だ。

「痛てっ、ちょっ、桜っ、おいっ何を!」
「あ、ごめんなさいっ。さ、兄さん、早く学校に行かないと遅刻しちゃうわ。引っ張ってあげるね」
「まっ、ちょっと待て、着替えを……」

 がしっと腕を掴まれて、ズルズルと引っ張られてしまうボク。桜と年齢は二歳違うけど、コイツは手足がスラリと長く、現時点ではボクとあんまり体格が変わらない。濡れて冷たいお尻のまま、一体どこにこんなに力があるんだ? というような勢いで引き摺られていく。

「あはは、学校についたら、皆に言いふらしますから……。秀才と評判の兄さんが、朝一でお漏らししちゃったって」
「待て、待てよ桜。お前、目が怖い、怖すぎるよ。じょ、冗談だよな? あはは」

 とても美しい笑顔でニッコリと微笑んでいる幼馴染。一体、ボクの何がいけなかったというのだろう? 『ママ』と母さんがいる自宅にも寄らずに、ズンズンと学校へと向かって突き進んでいく。
 ピンク色のカーディガン、すこしフリルの飾られた淡い紫色のスカート、桜が気に入っている白いリボン。どれもが可愛らしいはずなのに、それらを身に纏った桜から、何故か寒気しか感じない。

「あら……『家族』に冗談なんか言いませんから。さ、行きましょう……アキラ兄さん」
「な、何を怒って」
「怒ってないもんッ!!」
「…………ごめんなさい」

 『オレ』の知識がほぼ完全にある『ボク』。つまり、学力で言えば大学生以上のモノがあるにも関わらずこの有様。……混じり合った状態のボク、その学校生活は、こんな感じで、最悪のスタートになった。





[24259] ・第4話 【小学校編②】 
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:cf024f42
Date: 2010/12/07 17:54
 ・第4話 【小学校編②】


 ◆


 桜はボクに実に多種多様な文句――鼻をほじるな、とか、肘をついてご飯を食べるな、とか――を言うけれど、その中で最も多いのが『兄さんは興味がない事に冷淡すぎ!』という事だ。そしてそれは事実で、しかしどうしようもない事だとボクは聞き流している。
 ――約30分くらい前の登校直後にトイレに駆け込んで、教室に置きっぱなしにしておいた体操服へとズボンを着替えたボクは、その事で誰かに突っ込まれないかとヒヤヒヤしながら全校集会の時間を過ごした。
 その所為と、また全く集会に興味を持っていなかった事があり、どんな注意事項があり、また今日から赴任されたという新しい学校の教員がどういう人なのか、全く聞かなかった。もしも重要なことなら聞きたくなくても自然に耳に入る……といつものようにタカを括っていた。
 ドキドキしながら過ごしたが、結局、体操服に着替えている事について、誰も不審に思わなかったようだ。……まぁ元々、勉強ばかりしていたボクに親しいと言える友人は二、三人しかいない為、多数のクラスメートは気付きもしなかったのかもしれないけれども。

「おはよー、アキラって、今日ズボンが体操着? 何かあった?」
「ううん何でもないっ。ちょっとバカ桜に押されちゃってさ、泥にこけて汚れた。おはよ、委員長」

 教室へと移動が終わり、授業が始まる直前の短い自由時間……例外といえる数少ない友人の一人――神無月 恋――がボクへ声をかけてきた。恋と書いて、そのまま『こい』と呼ぶ変わった名前を持つ学級委員長。

「ふふっ、どうせアキラが悪いに決まってる。ホントにキミは何というか……決めた目標以外には鈍い所があるからねぇ。それが安心というか、憎たらしいというか……あはは」

 可愛らしい……という形容詞はコイツの為にあるんじゃないか? というほど魅力的な笑みを浮かべつつ、ボクの肩をパンパンと叩く恋。陸上競技が好きで、五月だというのにすでに褐色へ日焼けした肌、ゆるくウェーブした猫のように柔らかい茶色のショートカット。健康的に引き締まった手足。
 誰が見ても健康的な美少女といった外見だが、コイツはれっきとした男。明るく人気者の学級委員長、神無月 恋。

「言っとけよ。あ、恋、コレありがとな。コピーし終わったから返す」

 知らない人が見れば100%美少女の外見である委員長だけど、その内面は責任感が強く、前向きで、皆を引っ張っていく素質に満ち溢れている。 そんな恋と、医師になるための勉強に必死で、妹同然の桜と尊敬している義母以外には冷淡なボクが親友……というのも奇妙だけど、そうなるにはいくつか事情があった。が、今は関係ない。
 数日前に恋に借りていた中学校受験用の過去問題集をバッグから取り出して手渡す。

「うん。アキラ、どう? ……やっぱり東京の学校を受験しちゃう?」

 現在、ボク達が通っている小学校は、創立100年を越えた伝統ある学び舎を持つ――と言えば聞こえはいいのだけれど、単なるボロボロな校舎のありふれた公立小学校。全校生徒数は350人くらいで、ひとつの学年がだいたい30人くらいの1組と2組の2クラスにわかれ、学年60人くらい。イジメなどは無い、落ち着いた校風だけど、学力に関しては私立小学校に遅れていることは否めない。
 このまま受験せずに進学するなら地域にある公立中学になるけれど、同級生にも数人、東京の中学校の受験を考えている生徒がいた。問題集を貸してくれた委員長は当然そうだし、昨日までのボクもその一人だったけど……。

「うーん、正直、ちょっとわかんなくなっちゃったよ」
「へぇ、やっぱり何かあった? なんだかアキラ、少し余裕がある表情をしてる。うん、そのほうがずっといい」

 ポンッと軽くおでこを撫でるように叩かれて、なんだか少し恥ずかしく感じる。目前で柔らかく微笑んでいる恋。ずっと勉強だけをしていたボクに強引に話しかけてきて、教科書以外の様々な事を教えてくれたのはコイツだ。
 ボクだけじゃなく、桜や他の後輩からも男女を問わず絶大な人気がある。外見は下手なアイドルよりも可愛い女の子なのに、中身は親分肌……というか、大物、器が大きいと言うんだろう。

「はい、皆、席につくように」

 そこに突然、クラス中に響く低いガラガラ声。いつのまにか教室のドアが開いており、担任の先生が姿を見せていた。60歳くらいに見える男性、白髪で黒ぶち眼鏡、ブルドックのように垂れた頬。普段はおだやかだけど怒るととても怖い担任……巌切先生。
 あわてて席に着席を始めるクラスメート達、そして全員が席につき、巌切先生が合図のように咳払いをした瞬間、恋の張りがある声が教室に響き渡った。

「起立、礼、着席!」

 ガタガタと机を鳴らしながら礼を行って着席をした後、ボクはバッグの中から教科書と参考書、そしてコピー用紙に印刷した小学生全国統一模試の過去問題を取り出して開く。ペラペラと参考書――二ヶ月くらい前に、母さんに無理を言って買ってもらった物――を流し読みし、統一模試の過去問題をチラっと眺めた後、静かにため息をついた。

(やっぱり意味が無い……か)

 わかっていた事だけど、こうやって問題を眺めてはっきりと自覚した。ほぼ全ての問題が、見た瞬間に答えがわかる。
 やはりボクの現在の知識はバリバリの若手医師並み……つまり、医学部に入学できる程度の学力と、医師国家試験をクリアできる知識、瞬発力がある。流石に入試直前に少しは勉強をしなければならないだろうが、それでも充分に合格圏内だろう。
 ――つまり、無理をして今、東京の難関中学へ行く必要は無いという事。
 例えば……ここから目標の大学を変え、東Ⅲや京医、またはアメリカのイェールやハーバードなど、世界的な超最先端の医療技術を目指すなら、それを目標とした勉強をしなければならない。けれど、そこまでは求めていない。あくまでボクはNGOや田舎で働く臨床医を目指したかった。
 最先端の研究や医療技術もとても素晴らしい……それは人類の未来の創造と言える。ただし、それには物凄くお金がかかる事も現実で……、一般の人や貧しい国の人には全く手が出せない。
 ボクは貧富など関係無く、緊急救命現場での医療技術こそを磨きたいから。ならば、東京の中学に行くよりも桜と母さん――家族の側にいるべきではないのか? そして……。

「……今、医療器具があればなぁ」

 先生の授業をぼんやり聞きながら、小さく口の中で呟く。頭の中に今くっきりとある知識と技術、それが万が一にでも消えてしまうことが無いように、勉強よりも手術スキルの練習を重ねたかった。学校の勉強よりも医学のスキルを鍛えたい。
 けれど、肝心の医療器具が無かった。母さんの診療所から盗む……というのは問題外だし、通信販売で買おうと思っても値段がかなり高額で、小学生に買える物じゃない。ピンセット一つとっても高価な物は2万円くらい、そもそも電気メス、外科用電動ノコギリ等の危険な器具は売って貰えないだろう。

「それじゃあ、続きを……柊アキラ君、読んで」
「は、はいっ」

 考え事をしていたボクを指名する先生の声に、少し驚きながら大きく返事を行ない教科書を持って席を立つ。しかし、内心とても焦る。あまりに真剣に手術道具の事を考えていた為に、どこから読めばいいのかが全くわからない……。

「……42ページ、下の段、3行目から」

 その時、すぐ背後に座っている委員長からの囁き声。慌てながらも声に指定された場所を見つけ出し、なんとか朗読を始めた。どうやら間違っていなかったようで、巌切先生は何も言わずに頷いている。
 委員長への感謝を覚えながら、僕は朗読を続けていく。ただ頭の中は、どうやったら医療器具を手に入れる事ができるだろう? という思いでいっぱいだったけれど……。


 ◆◆

 

 昼休み……体育館近くのトイレで、ボクは鏡を見ながら手を石鹸で洗っている。指の間から手の甲、手のひら、爪の間、手首までキッチリ泡立てて、丁寧に洗っていく。これはほとんど儀式みたいなもので、意識する必要も無い。
 が、そうやって時間をかけて洗っても、トイレの個室に入った親友――神無月 恋――はまだ出てこない。委員長は皆に内緒にしてるけど、お腹が弱いらしく、普段は誰ともトイレにいかない。例外は昼休みだけで、こうやって必ず個室に篭る。委員長の立ちション姿ってのは、この六年間で誰も見たことが無い、ある意味伝説だ。

「おい、委員長、まだ? もう行っていいだろ。桜が待ってるからさ、図書室に行きたいんだけど」
「ええっ、アキラ。集会で先生が言ってたじゃん、不審者が目撃されたから注意して下さいって。ボク怖いんだよ、お願いだから待ってて、ね? 授業中、助けてやったろ」

 そんな事を言ってたんだ……という驚きと、オトコの癖に不審者のドコが怖い? と不満に思うけど、確かに委員長の外見なら危ないかもしれない。幼馴染の桜は可愛いと綺麗がバランスよくミックスされた少しツンとした印象があるけど、恋は100%可愛い、といった外見だ。スカートなんか履いたら、絶対に女の子だと思われる。
 なぜかメイド服を着た恋の姿を想像してしまって、ボクはなんだか気まずい思いになった。その照れを隠すように、奥の個室へ向かい大きな声を上げる。

「ああもう、わかったよ。じゃあ、すぐ外で待ってるから」

 手の泡を水で流し、ハンカチで丁寧にふき取ってトイレの外へ出た。
 ポツンとした校内外れにあるココ……体育館近くのトイレは、日中なのにどこかひんやりとした雰囲気がある。最近リフォームしたばかりで綺麗なのに、ほとんど利用者がいないのも、そういったどこか不気味な感じがするからかもしれない。

「……あら、柊クンじゃない? こんな場所に……って、ふーん、もしかして、また神無月クンと仲良くトイレ? 貴方たちっていつも一緒にいるもんね。こんな寂しいところまで、仲がいいのね」

 その時、ぼんやりと物思いにふけっていたボクの背後から、小学生とは思えないほど艶のある声がかけられた。……こんな大人っぽい声を持つ生徒は一人しかいない……ボクはため息を堪えながらゆっくりと振り返り、予想が的中したことを知って、そのため息を押し殺した。
 
「うん、恋待ちだよ。こんにちは、新江崎さん。そういう新江崎さんこそ、こんな場所にどうして?」

 そこに居たのはこの学校で唯一、ブレザーの制服をキッチリを着込んだ少女。黒タイツを履いた長い足がグレーのチェック柄スカートから伸びている。何度も東京でモデルとしてスカウトされたと噂される美貌は、キリッと整ってクールな印象。そして、小学生には思えない大きな胸……それは窮屈そうにブレザーの胸元、赤いリボンを押しあげていた。
 ――隣のクラスで最も優秀な生徒、新江崎沙織。そして、ボクはこの新江崎沙織とは致命的に仲が悪いのだ。

「不審者が出たと先生が言ってたでしょう? だから見回り。我が新江崎家の領土内で……おかしな人物は許さないから」

 ゾクリとする視線がボクを貫く。彼女の家、新江崎家というのは、江戸時代からこの地方を支配してきたお殿様の家柄だという。明治になってからは、この地域唯一の医者の家系として代々、尊敬を一身に集めてきた。
 そう、医者だった沙織さんのお父さんが(無責任な噂では愛人と一緒にらしいけど)失踪し、急遽、ボクの母さんがこの地域へ赴任するまでは……。
 そして新江崎さんの将来の夢は、当然というべきだろうか、旧家を継ぐ為に医者。だが、小学校五年生の時に行なわれた全国統一小学生模擬試験。その順位でたまたまボクが上回り、そこあたりから彼女の悪意ははっきりと強くなってきていた。

「だからって、新江崎さん一人だともしもの時に危ないよ? そんな危険な事しちゃ駄目だろ」
「黙ってっ、他所者の柊クンなんかに指図される覚えは無いわ。それとも、去年テストで勝ったからって調子に乗ってるの? ふざけないでっ、次は絶対に私が勝つから!」

 ギリッとどこか悔しそうに唇を噛み、鋭い視線で睨んでくる彼女。腰までありそうな長い黒髪が春の突風に揺られて、さらさらと舞いあがる。
 その風景は、まるでファッション雑誌に載っている写真のようで……本当に小学生に見えない。
 スパルタだっていう噂の新江崎さんのお母さんは、彼女に華族の嗜みとして、武道、華道、雅楽、茶道を躾けているという。その為か、彼女の立ち居振る舞いには、指先からつま先までピンと緊張感が張り巡らされ、繊細なガラス細工にも似た美しさと迫力がある。

「新江崎さんに指図するつもりなんか無いよ。ただ、なにかあったら家族が心配するだろ? それに、ボクはもう統一模試を受けないから」
「――ッ!? 何よそれ、私から逃げる気!? そんな事許さないわ!」
「別に許してもらう必要なんて無いし。トイレに行くから。危険な事しないで早く教室に戻りなよ」

 烈火のように顔を赤く染め、怒りを露にしている彼女。とても相手になどしていられない。そう思ったボクは、新江崎さんの声を聞きつつ、素早く背後へと振り向き、恋がいるトイレのドアを開こうとした、が、それより一瞬早く、

「お待たせアキラ。ありがとう。さ、図書室に行こうよ。桜ちゃんが待ってる……って、えっ、姫!?」
「しっ、バカ」

 ガラリと開くドア。その中から現れた委員長が新江崎さんの姿を見つけ、驚いた顔で呟いた。『姫』というその単語を聞いたのか、ヒクッといった感じで、整えられた細い眉を動かす新江崎さん。腕組みをした指先、その長く細い人差し指がトントンと動く。
 ――いつ、誰が言い出したのか、それはわからないけれど、新江崎沙織のニックネームは『姫』だった。ボク達の住むこの田舎で、現在でも強い影響力を持っている一族のお嬢様。当然、彼女の影響力も強く、まるで家来のように見える取り巻きを数人引き連れている事も多い。まさにお姫様。
 今は何故か誰も引き連れていないけれど……。

「ッッ!? 柊クンっ、誰が姫ですってっ! ふんっ……まぁいいわ。次の全国模試は絶対に負けない。貴方、逃げたりしたら許さないからねっ」
「ちょっ、姫って言ったのはボクじゃ無いし、それに、そんな一方的なっ」

 ボクの抗議を全く聞かず、ギラリ……とした視線で睨んだあと早足で校舎へ戻って行った新江崎さん。黒タイツに包まれた長い足をスッと動かし、腰くらいまで伸びた黒髪は春風にたなびいて、その後姿はまさにお姫様……といった雰囲気。
 追いかけて文句を言おうか? と一瞬思ったけれど、何を言っても無駄な気もする。それに図書室では桜が待っているハズ。

「あの……ごめんねアキラ。まさかキミと姫が会話してるなんて思ってもなくて、吃驚しちゃってさ」
「ううん、まあいいさ。図書室に行こう」

 まだ昼休みは始まったばかり……けれど疲れてしまった体を動かして、図書室へと向かって歩き出す。
 校舎に入る寸前、ボクは振りかえり、チラリと『姫』新江崎さんが不審者を探していたと言った方角を見る。そこは、薄暗いこの外れでも更にジメジメと暗く、とても寂しい雰囲気。あんなとこにたった独りで……。

「新江崎さん、どうして?」

 不思議に思う。新江崎さんは確かに気が強く、内心、彼女の事を良く思って無い人も多い。けれどそれと同じ位、彼女には友人も多いハズ。それなのに、どうしてこんな薄暗い場所へ独りで? 彼女が一声かければ、いくらでも一緒に見回りしてくれる友人が集まるのに?

「うん? アキラ、どうかしたの」

 一瞬、立ち止まっていたボクの背後から、気を使うような恋の声。

「ううん、ちょっと。ごめん」

 明るく返事を行い、恋の肩……華奢で折れそうな、まるで少女のように見えるそこを軽くたたき、ボク達は一緒に廊下を進んだ。


 ◆◆◆


 昼休み、こうやって図書委員で貸し出し本の受付をしてる時の桜は、ちょっと大きめの黒縁眼鏡をかけている。ボクの母さんが眼鏡を新たに作り直した時、不要になったフレーム。それに度数の入っていないレンズをはめた物を彼女はつけていた。
 昔「意味ないだろ?」ってからかったら、「ウルサイッ、図書委員って感じでしょ? 雰囲気よ」と返された。確かに、普段見慣れている幼馴染の顔よりも、なんとなくツンッと鋭く、知的で大人っぽく感じられる。
 しかし、雰囲気と桜は言うけど……、この学校で図書室を利用する生徒は少なくて、あまり意味が無いとボクは思う。それというのも、去年、小学校のすぐ近くにある街の図書館が、改築と増築をされた為で、多くの生徒はそちらで本を読むからだ。
 この図書室は三階の一番端にあって古い本しか置いてない上に、あちらの図書館には(内容は限定されてるけど)漫画まで置いてあって大人気。なので昼休みはほとんど、ボクと桜、恋の三人の貸切と言ってもいい状態だった。

「神無月先輩、今日、兄さんったらおかしくなかったです?」

 眼鏡の縁を指で弄りつつ、ボクをジトリした瞳で睨みながら幼馴染が言う。朝の悪い機嫌は少しは治まったようで、ボクは内心ほっと安堵のため息をついた。
 そんな桜の質問に対し、窓際で日向ぼっこをしながら動物辞典を見ていた委員長が、顔を上げ綺麗なソプラノで応える。

「へ、そうかな。あんまり感じなかったけど? ふふっ、何かあったの?」
「なんか昨夜からヘンなんです。妙に優しいし。その……恥ずかしい事言うんです……あいかわらず、すっごいバカだけどっ!」
「ちょ……桜、それは」

 幼馴染の言う『恥ずかしい事』って言うのは昨夜、ボクが言った『家族としてずっと一緒にいる』という言葉だろう。別に他人に知られても、嘘偽りの無い本心だから、痛くも痒くも無い。でも、やっぱり恥ずかしい。 

「へぇ……何? 真面目なアキラが恥ずかしいコトを言うなんて、ふふっ、すっごく興味ある。教えて桜ちゃん」

 ニヤリとした笑顔で嬉しそうにコッチを見る恋。桜と委員長は、かつてボクが引き金となった事件がきっかけで親しくなり、そのまま今に至る。が、こうやって二人して会話をしている所は先輩、後輩と言うよりも、まるで姉妹のように見えてしまう。
 明るくスポーツが好きで活動的な姉と、図書室が好きで何事にも負けず嫌いな妹。……まぁ、委員長は男だけど、外見は100%可愛い女の子だから仕方ない。

「バカ桜。恋にヘンなコト言うなよっ」
「あははっ、どうしよっかな。兄さん、言われたくなかったら今度買い物に付き合ってっ」
「あっ、いいな。ならボクも一緒に連れてってよ。当然アキラのおごりでさ」

 好き勝手なコトを言いながら笑い合う。図書室にボク達以外に誰もいない時は、こうやって本を読みながら、雑談や時には勉強をしたりするのが日課と言ってもいい。のんびりしてリラックスした空気。
 今だけは、受験も手術道具のコトも忘れて、昼休みのどこか気だるい時間を桜、親友と共に楽しく過ごそうと決める。
 
「ん……あれって?」

 数分後、本を読み終わり、窓際の棚へ持っていこうとしたボクの目にチラリと眼下の風景が映った。そこは校舎の端……昼休みの最初にボクと委員長がいたトイレの辺り。

「姫……」

 口の中でポツリと呟く。トイレの更に奥……人影の無い寂しい場所から姿を見せたのは、間違いなく新江崎さんだった。再び一人ぼっちで、この距離からは表情がわからなかったけど、どこかとても寂しそうな雰囲気。
 不審者を探すためのパトロール……というより、その人物にどうしても会いたい、と捜し求めているよう。

「兄さん、どうかしたの?」
「ううん、何でもない」

 窓の外を見ていたボクにかけられた桜の声へ返事をしつつ、ゆっくりと机に戻る。が、胸の中では少し衝撃を受けていた。
 ――ボクの知っている新江崎さんは、いつも強気で傲慢、自信に満ち溢れている雰囲気がある。けれど、今日に見た彼女の姿は、まるで親を探して泣いている迷子の子供のような脆さを感じた。
 それに……五年生の時にボクは模試で全国でトップクラスの成績を取り、彼女もほとんど同じだった。けれど、その時のボクは本当に勉強の事しか考えておらず、周囲に迷惑をかけ……母さんや桜、そして恋の助けがなかったら、今でも大変だったと思う。
 なのに新江崎さんは他の習い事をしつつ、周囲の期待、名家の跡取りとしての責任から、僕よりも更に大きなプレッシャーの中、独りで戦っているんだ。

「アキラ、桜ちゃん、片付けてそろそろ教室に戻ろう」

 委員長の声に頷き整理整頓をしながら、ボクはなんとなく、新江崎さんのことばかりを考えていた。何か、不安……ボクの勘が嫌な予感を告げている。



[24259] ・第5話 【小学校編③】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:94755e29
Date: 2010/12/07 17:54
 ・第5話


 ◆


 ホームルームが終わって放課後のざわついた教室から見る5月の空は雲ひとつなく、冴え渡る青がどこまでも広がって見えた。花が咲く中庭へと開け放たれた窓からは、爽やかな風がボク達の過ごす教室の中へと吹き込んでくる。美しい……けれど毎日変わりばえのしない、その風景。
 それと同じく、普段と何一つ変わらない学校の1日を終えたボク達。気の早い幾人かのクラスメートは教室を勢い良く飛び出して帰宅し始めている。
 ボクも桜が待っている5年生の教室へ向かおうと席を立った時、背後から親友――神無月 恋――の恨みがましい声が聞こえた。

「アキラ? まさかとは思うけど、委員長の仕事で困ってる僕を放って自分だけ帰らないよねっ、ねっ?」
「……いや、帰るけど。桜、待たせるとマジ怖いんだよ。今日は一緒に料理を作るって約束してるしさ。それじゃ頑張ってっ! ……って、ちょっ、離せよっ、ドコ触って!? こらバカ!」

 そそくさと親友の声を聞き流し逃げようとしたボク、しかしそれより一瞬早く、ボクのズボン……腰のゴムの部分がしっかりと恋の手によって掴まれていた。Tシャツからのびた小麦色の腕、細い指、ピンク色の爪先、小さな手が、絶対に離さない……というように握り締められている。
 「うーっ」と子犬のように唸りながら、可愛らしい褐色の顔で、怒っているようにも、少し困ったようにも見える目でボクを見上げる恋。リップを塗ったようにツヤツヤしている薄桃色の唇、そこから少しだけ覗く真っ白な歯。西洋人形のように整ったブラウンの大きな瞳が、涙でウルウルと潤んでいるように見えた。

「ううっ、来週ある校外レクリエーション……って言うより社会見学だけどさ。そこで行なう質問の選別と、皆の班を分けなきゃいけないんだ。昼休みの後に押し付けられちゃってさ。ううっ、手伝って……ていうか進んで自分から手伝おうよ、親友っ! それに、アキラに頼む事もあるし……、お願いっ」

 ――まさに必死。それに恋の美少女顔と大きく潤んだ瞳で、まるで捨てられた子犬のように哀願されるとどうも断りにくい。ボクは教室の前方にかけられている時計をチラリと眺め、ゆっくりとため息を吐きながら、委員長と向き合うようなカタチで椅子に座りなおす。
 仕方ない……、手早く終わらせてから桜を迎えに行くと決めた。

「ちぇっ、15分だけだよ。ったく、恋のその顔はズルイよ。で、なんだよ? 頼みってさ」
「やったっ、アキラならやっぱり手伝ってくれるって信じてたよぉ。うう、ありがと。そして……えっと、頼みってのは後で」

 なぜか珍しく煮え切らない様子の恋をチラッと見たあと、机に置かれているノート――来週の校外レクリエーションで訪問するゴミ焼却施設について色々書かれている――をペラペラとめくり、いくつかの項目を読んでいく。
 一日にどれだけゴミを燃やすのか、どういった過程で焼却されるのか、この町で一日にどれだけゴミが出るのか、エコロジーとは何か……などなど、調べたデータがプリントアウトされて貼り付けられている。それに合わせて社会の時間で出た様々な疑問をまとめ、質問というカタチで提出するという。たしかに少し面倒くさい。
 テキパキと恋にいくつか質問を行いつつ、予想される答えが重複するモノ、難しすぎるモノ、漠然としたモノを除外し、最後に質問の形式をスッキリと整えて添削する。わずか5分ほどだが、それなりに形になったように思えた。

「恋、こんな感じでどう?」
「うんっ、すっごく良くなったと思う。やっぱり手伝ってもらって良かったよ。ありがと」

 ニコニコと微笑み、嬉しそうにまとめたノートをランドセルへしまう委員長。こんなに喜んでもらえると手伝った甲斐があるというもの……本当に恋は頼み方が上手でズルイと思う。
 が……、ふと疑問が浮かぶ。この質問の選抜は確かに面倒だったけれど、委員長なら一人でだって余裕で出来るだろう。何故、あんなに必死でボクに手伝って欲しいと言ったのか?
 恋はスポーツ万能、成績優秀、クラスメート、先生からの信頼も厚い、今まで勉強だけに特化していたボクとは違う本物の優等生だ。こんな質問選別程度でそう困らない。
 つまり、恋があんなに困っていたのは社会見学の質問の方ではなく、本当にやっかいなのは……。

「本命は班分けか? ……ああ、そっか」
「うん、今度の班分けはちょっと特別だろ。だからさ」

 ゴミ焼却施設について使い終わった資料を全て机の中へと片付け、恋と額を付き合わせるようにして、ボク達1組のクラス名簿と、隣の2組クラス名簿を覗き込む。ズラズラと並んだ名前、コレをクラスの関係なく6人組みの班……計10組に別けなきゃならない。
 自主性を重んじる……という校長先生の方針で、生徒にこういう班分けを決めさせるボクらの学校。学級委員や図書委員、保健委員の選出なども生徒だけで行なわれ、先生が口を出すことはまず無い。
 学年の人数が少ないということもあり、こういう社会科見学や運動会、遠足の時は、クラスの垣根を越えて班を作ることが慣習になっていた。1年生の頃からそうやってしてきたし、学年が上がる度にクラス替えが行なわれるので、全員が顔見知りで友人。なので、普通は本当に適当に(出席番号順や奇数、偶数など)班を決めてしまっても、それで不満なんかでなかった。
 しかし、今回の班別けはちょっと違う。なぜなら……。

「修学旅行班か」
「うん、今回の班別けで大きな問題が出なかったら、今年1年間……つまり修学旅行まで同じ班になっちゃう。責任重大だよ。小学校、最後の6年生だしさ」

 クルクルと小さな手で器用に赤いボールペンを回しながら、真剣な顔で呟くように話す委員長。
 恋が決める来週の社会科見学での班、そして来月に行なう遠足では2組の学級委員長が班を決め、それが2学期に行なわれる修学旅行の班として決定される。一応、2組の委員長が来月の班決めで修正をすると言っても、今回決まる班というのはかなり影響力があるといっていい。
 修学旅行というのは、ボク達6年生にとって最も重要なイベントだと言える。その班にかなり影響するのだから、確かに悩ましいだろうが……。

「まあでもさ、そんなに仲が悪い人達なんていないだろ? そう悩むなよ。それに恋が決めたんなら皆、絶対に納得するから。大丈夫、ボクが保障するよ」

 暗い顔で悩んでいる恋の頭――子犬のようにモフモフと柔らかい茶色の頭髪がゆるくカールしてる――をポンポンと叩くように撫でながら、ボクは励ましの言葉を送る。
 委員長は優しくて、誰もが満足する道を探そうと、進んで責任を背負い込み頑張るタイプだと思う。将来の夢の為、自分の勉強だけを必死でやり続けてきたボクとは違う……、信頼でき、尊敬できる親友だ。
 だからこそ、コイツが決めた班なら皆、納得するとボクは確信が持てた。

「――っ! あ、あう、そう……かな? そ、そう言われると……その、あ、あ、ありがとっ」

 不意打ちで驚いたのか、瞳を丸く見開いたあと、顔を真っ赤にしてうつむきながら呟く恋。けど、少し気が楽になったのか、顔は赤いままだけど、嬉しそうな笑顔が見えた。その可愛らしい笑顔を見てボクも安堵する。 
 この学校は田舎だから……というのが理由になるか知らないが、ニュースなどで見る学校崩壊などとは無縁だ。ごくたまに喧嘩してる生徒もいるけど、大きい問題になるほどじゃない。くじ引きで決めたって大丈夫だとおもう。皆から信頼されている恋が決めた班なら、誰からも文句がでる筈が無い。
 ときおり意見を交換しながら、ボクたちはサクサクと班の仮決めを終えていく。
 だがしかし……途中でボクはペンを止めて恋の顔を見る。もしこの学年で、唯一注意しなければならない人物がいるとすれば……。

「まあ注意なのは、姫……くらい?」

 とても小学生とは思えない、凛……と張り詰めた空気を持つ美少女の姿を思い描く。腰まで伸びた黒髪、長い手足と素晴らしく似合っている制服、豊かな胸元に飾られた赤いリボン。鼻で笑うように強気な笑みを浮かべた、お決まりの表情。
 その整った冷たい美貌やモデルのように美しい体型だけでなく、精神、雰囲気まで一般人とは違う……というオーラを周囲に放出している『姫』、新江崎沙織。
 教師さえ彼女には逆らえず、噂では校長先生も何か施設を作る際、新江崎さんに許可を得るらしい。現に、新しく増築、改築された図書館にある本には全て『新江崎頭首継承者・新江崎沙織 寄贈』と金文字で記入されている。小学生の癖に本を寄贈……悪い冗談のようだ。
 そんな彼女と同じ班になったら、色々と大変なコトになるのは火を見るより明らかで……。いや、そもそも彼女が今回の班に納得しなければ、何一つ決まらない恐れだってある。しかしまあ、彼女はいつもの取り巻きメンバーで班を固めれば問題ないハズ……。
 
「あっうん……そう、そうなんだよ。姫が問題で……だからさっ、アキラにお願いっていうのはソレなんだ」
「は? ソレって何が?」

 さっきボクがなでた部分の髪を指先で触りながら、なんとなく気まずそうに口を開いている恋。どうにも嫌な予感がした。はっきりしない口調も変だし、何よりいつも直球勝負な恋が、ボクからすまなそうに目をそらしている。

「アキラ、姫と同じ班になってくれない? これは2組の委員長とも相談したコトなんだよっ、お願いっ!」
「ちょっ、な、なんでボクがっ」

 ボクを拝むように両手を合わせる恋。ほっそりした腕と肩、下げられた頭部の奥から見える華奢な首筋……そして真剣すぎる口調に一瞬、ボクはたじろぐけれど気を取り直して反撃する。
 まずどうして新江崎さんと最も相性が悪いボクが同じ班にならなきゃいけない? それに彼女には分家筋など多くの取り巻きがいる。ボクなんかが入る意味は無いハズだ。そう論理を組み立てて委員長へぶつけようとした時、一瞬早く、恋のほうが口を開いた。

「アキラはさ、興味ないから知らないだろうけど、学校の中も外も今、噂でもちきりなんだよ。新江崎家が、再婚問題でゴタゴタしてるって。姫のお母さんがすっごい大金持ちと再婚するらしいって皆の噂で……。それでずっと姫の機嫌が悪いらしくって……今、我儘が酷いらしいんだ」
「じゃあなおさら、ボクなんかが入る意味ないじゃんか。新江崎さんの機嫌が余計に悪くなるだけだよ」

 新江崎家の噂なんてボクは聞いたことが無かった。いや、耳にした事はあったんだろうけど、興味が無かったから聞き流していたんだと思うし、今だって興味がもてない。

「ああもうっ、違うよ。アキラ、気付いてないの? この学校の中でさ、先生と生徒を合わせてたった一人、彼女に注意ができて、更にそれをしぶしぶとでも受け入れる人物……それはキミしかいないんだよ。取り巻きの人達の言う事なんか聞きゃしないんだ」
「は?」

 委員長のあまりにあり得ない勘違いに、反論する気力さえわかずに唖然としてしまう。一体、なにをどうしたらそうなるって言うんだ? ボクと新江崎さんは顔を会わせる度、互いに喧嘩一歩手前のような言い争いばかりだ。
 現に、今日の昼休みにあった時だって……。

「ん、あれ……?」

 昼休みの事を思い出して、少し首を捻る。ひっそりとしたトイレの前で会ったボクは、彼女に対して『危ないから教室に戻れ』みたいな事を言った。それに対して新江崎さんは、真っ赤になって怒ったけれど……結局、校舎に入っていった? それで……ボクが図書室に行ったから、再びあの場所に出かけたって事? 
 確かに、あの場所に用事があったのなら、わざわざ校舎に戻る必要は無い。ボクの言うことなんて、『姫』らしく無視しておけばいいだけなのに……。まさか、本当にボクが言ったから? いや、無い。偶然に過ぎない。

「い、いやっ、たまたまに決まってるよ! 恋、ボクは嫌だからね。姫と同じ班なんかになったら、どんな恐ろしい事を押し付けられるか……」
「そんな事言わないでよっ。彼女が万が一暴走したら、止められる可能性があるのはアキラしかいないんだ」
「あり得ない、偶然だよっ」

 とても取り合えない。ボクは椅子から勢い良く立ち上がり、急いで教室を離れようと決意した。周囲を見れば、いつの間にかクラスメートは誰一人残っておらず、広い教室の中はボクと恋の二人っきり。話し合いに熱中してしまったんだろう。
 慌てて時計を見れば、桜と待ち合わせの約束をした時間から30分近く遅れてしまっていた。

「帰る」
「ちょっと待ってよっ、アキラっ」

 早足で扉へ向かったボクの背後からパタパタとした足音が響き、追いかけてきた恋の右手がすばやく動いた。小さい身長、華奢な外見にしては意外なほどの力で、ガッチリとボクの右手首をつかんで離さない。
 
「離してよ」
「逃げないでよアキラっ。その……言おうか迷ってたけど……これはキミのためでもあると思う。またそうやって、勉強と桜ちゃんと先生だけが大事で頑張って行くの? 姫や……ボクみたいな他人は興味が無いって、最初からわかり合おうともせずに切り捨てて。そんなの寂しいじゃんかっ! それにさっ、もし将来、アキラの勉強が追いつかなくなったらどうするんだよ。そのうち……桜ちゃんや先生も切り捨てる事になるんじゃないのかよっ?」  
 
 真剣な恋の声……その響きがボクの足を凍りつかせたように止める。桜のカラダ中に点滴の管がつきささった風景が脳裏に浮かび、ボクはあふれ出す苦いツバを何とか飲み込む。
 何か反論を……、勉強や医学の知識は豊富にあるってのに、けれど今、役に立ちそうな言葉が浮かんでこない。それでも、ボクは振り返って恋の茶色い瞳を見つめ、喉の奥から必死で声を出した。

「勉強は絶対大丈夫だしっ。それに、か、関係ないだろ。それが、どうしてボクが新江崎さんと同じ班にならなきゃいけない理由になるんだよ」

「まず一つは、新江崎さんがアキラの言う事なら聞くだろうし、キミの前なら姫はあんまり我儘を言わないから。そしてもう一つは、キミと姫は対等な友人として、互いにわかり合えると思うから。――アキラが新江崎さんを認めてるって事は気付いてる。僕は、キミにも友人と共に修学旅行を楽しんで欲しいんだ。アキラ、お願いだ。必死に勉強だけを続けてきたキミをずっと見てきたんだよ。遠足だってキミはいつもつまらなさそうで……、せめて修学旅行くらい思い出に残して欲しい、お願いだ」

 恋の張り詰めたような表情に、ボクは思わず息を飲む。小麦色だけどキメ細かい肌、固く閉じられた薄桃色の唇、泣き出しそうにうるんだ大きな瞳。――反則だと、いつもボクは思う。こんな泣き出しそうな可愛い顔で頼まれて、断れる人間なんているんだろうか?
 それに、ボクがどこか新江崎さんを認めてるってのは事実。昨日までの『ボク』は本当に他人に心を開いてこなかった。その中で、興味が無いのではなく――仲が悪いという関係にせよ――恋以外の同学年の生徒を意識したのは、新江崎さんだけだと言っていい。 

「ああもうっ、仕方ないな。わかった、ボクが悪かったよ。全く、その顔はズルイって」
「ホント……? ホントに?」

 恋のパッチリとした二重まぶたの瞳から、いまにもあふれ出しそうになっている涙。その目尻をポケットから取り出したハンカチでそっとなぞる。が、拭き取りきれなかった涙が一筋、褐色の肌の上をスッと流れ落ちていく。
 
「ああ、わかったよ。その……友達になれるかはわかんないけど……新江崎さんと同じ班っての了解した。確かに記憶にずっと残りそうだしね。けどさ、友達と修学旅行を楽しんでって言うなら……恋も一緒の班になってくれる? その、委員長は一番の親友だからさ」 

 どことなく照れくさくって、ボクは顔が熱くなるのを意識しながら、モゴモゴと呟く。その瞬間、パァっと花が咲く様に笑顔を見せる恋。

「うっ、うん!! 当然だろっ。親友じゃんか……」

 ポスッ……という感じで、ボクの腹部へ柔らかな髪の毛を押し付けてくる恋。思わず涙を流してしまった事に対する照れ隠しなんだろう。クラスの男子の中で一番小柄な体型……折れそうに華奢な肩と、ほっそりしたうなじ。
 誰もいない教室の中、僕たちは照れ笑いをしながら至近距離で顔を見合わせ、互いの拳をかるく打ち合わせた時……。

「――――兄さん? 心配したので来て見たらとーっても楽しそうで……よかったですね。ふふ、約束から40分ですよ? 40分も放置プレイされちゃうなんて……。これからもずっと一緒だから……なーんて昨夜おっしゃってくれたのはどこのどちら様でしたっけ? ねぇ、アキラ兄さん……?」

 背筋が凍るような声が、教室へと響いた。

「う、うわぁああっっ! さ、桜……その!」
「ボ、ボク帰るっ! アキラありがとうそれじゃまた明日お元気でっ!!!」

 脱兎の如く……とは良く言ったもの。学校で飼っているウサギが逃亡した時の事を思い出させるような勢いで、教室を飛び出していった委員長。あっという間に遠ざかっていく足音……さすがは短距離走、県記録保持者なことはある。さっきまであれほど親友と言い合ってたのが幻のよう……。
 ボクはといえば、幼馴染の迫力に完全に圧されてしまってバカみたいに突っ立っていた。教室の中にゆっくりと足を進めてくる桜の姿をぼんやりと見てしまうだけ。

「別に気にしてませんよ? そうですね……もうこの時間ならすぐに先生が帰ってこられるから、兄さんと二人っきりで料理を作るのは難しくなるでしょうけど。ええ、ぜーんぜん気にしてません、ふふっ」

 淡い紫色のスカートから伸びる白い足、真っ赤なランドセルを背負って少しシワが出来ているピンクのカーディガン、ボクが5年生の時、家庭科の授業で作った白いリボン。どれもとても似合っていて可愛い、妹同然の大切な幼馴染の姿。
 だけど、ニコニコと微笑んでいる顔がなぜか逆にとっても怖い。伊達に長い付き合いじゃない……桜は今、猛烈に怒っている。

「さ、桜? お、落ち着いて、な? 恋にいろいろな用を押し付けられてさ。その……お前を忘れてたわけじゃないんだ。と、当然だろ?」
「ええ……それはそうでしょうね。私……兄さんの大切な……何でしたっけ?」

 ニッコリとした笑顔でボクの正面へ立つ幼馴染……どこか寒気がするけど気のせいに違いない。心から誠心誠意、気持ちを伝えれば絶対にわかってもらえるはず。
 挫けそうな自分を励ましつつ、桜の肩を掴み、しっかりと正面から彼女の真っ黒な瞳を見つめて言い切った。

「家族っ! うん、桜は大切な家族……妹だから、忘れるわけない。家族っ! そう、家族だよっ! な? わかってもらえて嬉しいよっ!」
「……いいもんっ、どうせ解ってたし。全然悔しくないっ。でもっ、でも、そんなに何度も家族、家族って言わなくっていいじゃん! ……兄さんのバカっ、ばかばかばかぁぁぁああああっ!」
「えっ、ええええっ!?」

 意味がわからない……。ボクの言葉が言い訳っぽく聞こえたんだろうか? まるで泣きそうなほど顔を真っ赤に染め、ポカポカとぜんぜん痛くない拳を振り上げてくる桜。紫のスカートをひらひらとなびかせながら、ポスン……と、ときおり力無く繰り出されるローキック。
 ほとんど痛くは無いけど、下手に回避して桜のバランスが崩れて倒れたりしたら大変。ボクはわざと全部の攻撃を受け続けるしかない。泣きたいのはコッチのほう……両手で頭をかばいつつ、必死で機嫌を取り成そうとボクは様々な提案を続けた。
 ――結局、幼馴染の機嫌が直ったのはそれから5分くらい経過した後で……、『柊アキラ1日自由券』なんて訳のわからない、怖すぎるチケットをノートへ作らされた後の事だった。




[24259] ・第6話 【小学校編④】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:4b99ecbe
Date: 2011/02/03 02:08
 
 ・第6話


 ◆
 
 学校から帰宅したボク達はランドセルを置き、うがいと手洗いを済ませて互いにエプロンを装着する。ボクが青色で桜はピンク色、細やかな刺繍の施された同じ柄のデザイン。一年くらい前に買ったおそろいで――ボクは内心、若干の気恥ずかしさがあって着けたくないと思っているのだけれど、桜は気に入っているみたいで何も言えない。
 どうでもいい軽口を叩きつつ、冷蔵庫から牛と豚の合い挽き肉、玉ねぎ、パン粉、タマゴを取り出して用意を始める。そう、今夜のメニューはハンバーグ。メインシェフとして腕をふるうのは桜で、ボクの役回りは細かなフォローと付け合せのポテトサラダの作成。
 ペリペリと皮を剥いた後、トントントンッとリズムよく幼馴染の包丁が動き、あっという間に玉ねぎのみじん切りの出来上がり。どう? と得意げに無い胸を突き出す桜。
 そしてカチャンとガスが点火したと思ったら、フライパンがガシャガシャと舞うように動き、パラッと玉ねぎが炒め終わる。実に手早く、どんどん料理を進めていく彼女。うれしそうな笑顔で軽やかな鼻歌さえ聞こえてくる。あわててボクもジャガイモを丁寧に洗い、出来上がりに遅れないようポテトサラダを作成していく。
 そしてハンバーグの形成が終わった頃、ちょうど母さんが帰宅し仲良く三人でハンバーグを焼いていく。ふっくらとしてかつ、旨みを逃さないよう丁寧、だけど表面はカリッとジューシーに。更に肉の焼き上がりにタイミングを合わせ、桜が綺麗な目玉焼きをつくる。
 焼き上げた後のフライパンに残った肉汁を使って特製ソースを作成。ハンバーグの上へ置いた目玉焼きの黄身から、トローリとそのソースをたっぷりかけて、仕上げに黒こしょうをパラリとほんの一振り。
 肉汁のジューシーな香りが漂い、皆に思わず笑顔が浮かぶ。最後に付け合せとして、ボクの作ったポテトサラダを皿の横へちょんとのせ……完成。
 サラダとして、パリッと新鮮なレタスをざっくり手でちぎり、歯応えの良さそうな瑞々しいキュウリの輪切り、真っ赤に熟れたミニトマトをボウルへ盛り、母さん手作りの和風ドレッシングをかけダイニングへ運ぶ。
 テーブルにいそいそと食器を並べていく幼馴染の姿、お椀にご飯を盛る母さんの姿を見つつ、ボクも皆の湯飲みにジャスミン茶を注ぎ……、家族団らんの楽しい夕食が始まった。

「いただきます」

 カリッと香ばしく焼けた表面へ箸を入れた瞬間、ハンバーグの中から大量の肉汁があふれ出す。コショウとナツメグ、デミグラスソースと肉の香りが混じりあい、口の中が唾液で一杯になる。焦る気持ちを抑え、とろける黄身をタップリ絡めてから大き目の欠片を口へ放り込む。
 熱々のハンバーグから口中に広がる肉汁の旨み、ピリッとしたスパイスの刺激、黄身の濃厚な味わい、デミグラスソースが絶妙に肉の美味しさを引き出し、いくらでもご飯が食べられそう。あまりの美味しさに舌鼓を打ちながら、ボクは無我夢中でハンバーグとご飯をかき込んでいく。

「にししっ、兄さん。美味しいでしょ?」
「……」

 勝ち誇った笑顔を見せる桜。瞳を細め、ニヤリとした感じで唇を歪めている。あまりの美味しさに思わずコクンと頷きたくなる……けれど、下手に調子に乗られても困る。ボクは無言のままで箸を動かす……が、母さんの笑みを含んだ声が響く。

「ふふっ、アキラの食べっぷり……すっごく美味しいのね。こーんなに可愛くって料理上手。ふふっ、桜ちゃんと結婚する人は幸せだわ。ね、アキラもそう思うでしょう?」
「さあ、どうかなぁ? 桜は外見はともかく……性格がさ。きっと苦労するよ、結婚する人は」
「に、兄さん、先生の前でヘンな事は言わないで貰えます? ……そ、それに、何でそんなに他人事なのよっ…………」

 顔を真っ赤にして小さくブツブツと呟いている桜。なにかを幼馴染に耳打ちする母さん。ボクは相づちを打ちながら、夢中でハンバーグを食べていく。
 ――響く笑い声、皆で箸を進めながら様々なことを話す。学校であった今日の事、友人の話、帰宅途中に咲いていた花の名前。
 それは、はっきり言えばどうでもいいような内容なんだけど、家族というのは、こんなどうだっていい会話さえあらゆるテレビ番組より楽しく、料理の味だってどんな一流レストランよりも美味しいと感じさせてくれると思う。穏やかに微笑む母さん、笑ったり怒ったりコロコロ変わる表情豊かな桜、ボクは何故かこの平凡な時間がとても嬉しくて、何度も声をあげて笑う。
 それはきっと平凡、どこにでもあって、けれど……かけがえの無い日常風景なのだと『ボク』は強く思った。



 ◆◆


 楽しい夕食の時間はあっという間に終わりを告げ……食後の勉強の時間がやってくる。
 ボクの個室に置かれた二つの小さなテーブル。そこで桜と二人、それぞれの机へ参考書を広げて勉強――予習、復習――を行う。と言っても、ボクは小学校の勉強は終わらせているため、もっぱら中学生~高校生用の参考書を解いている。が、やはり簡単すぎて意味がない……と判断。
 ため息をついて参考書をたたみ、少し離れた隣の机でカリカリとノートに鉛筆を走らせている桜の姿をチラッと見る。真剣に考えている表情……、薄紅色の唇を少しだけ噛むようにしながら、可愛らしい顔をしかめている幼馴染。細く整った眉の間にわずかなシワ。
 桜の解いている問題も小学5年生のレベルを超えている。最近では、ボクが4年生くらいの時に使っていた中学一年用の問題集を解いている所だ。彼女も自分なりの目標があるんだろう。勉強をやっている桜の姿には、うかつに声をかけられない真剣さが感じられた。

(負けていられないな……)
 
 医療道具が無いから……とまさに無いものねだりをしていても仕方ない。少しでも医学に役立ちそうな事をしようと決意を固め、方眼ノートを開きしっかりと鉛筆を握り深呼吸。突然、ボクが得た知識……それを確実に自分の物へ出来るように、やれることをやる。
 集中した直後、脳裏にくっきりと浮かび上がってくる人体解剖学の知識。それに導かれるまま、様々な臓器と関連した血管等のデッサンを始める。最初は細部、しだいに全体へ広がるように。芸術として描くのではなく、臓器の特徴、血管の場所を『ボク』へ確認させるように、解剖学の正確さを重視する。
 ――そして休む事無く動く鉛筆により、その絵は我ながら恐怖を覚えるほど正確に描かれていく。

「……ッ」

 いや、『ボク』に正しい人体解剖学の知識など無かったんだから、それが本当に正確なのか判断できるはずは無いのだけれど……。けれど、深い確信があった。この絵は間違っていないと。が、驚きはそれだけでは終わらない。真に驚愕すべきなのは指先の器用さだった。必死に驚きの声を押し殺す。
 脳裏に浮かぶ様々なイメージ……それはドクドクと血管が脈打っていたり、一部が欠損していたり、創傷があったりもしたが、ボクの指先は脳に浮かぶイメージを正確にトレースするように動き、書かれる絵にいささかのブレも無い。動いて欲しいと思うとおりに指は動き、方眼ノートへと正確な解剖学の図形が凄まじいスピードで増えていく。若干の恐怖さえ覚えるほど、描かれていく絵は凄まじすぎる。
 ――これはどういう事なのか、区切りよい所で鉛筆を止めたボクは、桜に気付かれないように深呼吸を繰り返しつつ考えをまとめ始める。

(指が、指が凄すぎる。精密機械みたいだ)

 想像を絶するほど、ボクの指先は繊細で正確、何よりも凄まじい速度で動いた。知識は『オレ』から譲られたモノだとしても、異常としか言えないこの器用さは何だ? そりゃ『ボク』はもともと手先が器用で、ある程度はソツなくこなせるタイプだった。習字やリコーダーなどの楽器、当然、絵画もソコソコ出来て結構好きだったけれど……。
 ――だが、これは決して有り得ない。こんなに上手に絵が書けたことは無いし、そもそもレベルが桁違い。遙かに上だと一目でわかる。
 これは、何度も何度も頭の中で立体的に人体をイメージする練習を積み重ね、完璧に覚える為に手を動かしてきた人が書いた絵だ。つまり『オレ』から贈られた『技術』だと思う。
 一体……未来の『オレ』はどれほどの修練を己に課してきたんだろう。どれくらいの経験を積み、固い覚悟で練習を繰り返せば、こんなにくっきりと人体がイメージでき、思ったとおりに指先が動くようになるものだろうか? 
 そして……ボクは決意を新たに固める。『オレ』から送られたこの知識と技術を決して無駄に出来ない、衰えさせる事は出来ないと。なるだけ早いうちに医療器具を手に入れ、ボクも負けないように練習を積み、受け継いだこの『技術』を更に磨かねばならない。
 ――そうしなければ、この技術と知識を手に入れた未来の『オレ』に申し訳が立たない。

「ふぅ……」

 ため息を一つつきノートをランドセルへ片付ける。軽い頭痛……そして、いつの間にか冷や汗をかいていて全身が冷たく、無性に喉が渇いて仕方なかった。

「ボク、牛乳飲んでくる。桜は?」
「ん……じゃあ、紅茶が飲みたい。ありがと」

 集中しているのだろう。鉛筆を動かしつつ、ぼんやりとした返事を返す桜を見ながら1階へ降りようと腰をあげた。幼馴染の背後を通るが、彼女は微動だにせずノートへ向かい腕を動かし続けている。華奢な背中なのに、それははっきりとした決意を感じさせる。
 その集中を乱さぬように、ボクは足音を立てずゆっくり階下へと降り立った。

「あれ……母さん?」

 シーンとして物音一つない居間にボクの声だけが響く。この時間……、母さんはこの部屋で医学書を読んでいたり、パソコンで調べ物をしたりしている事が多いけれど誰もおらず、一枚のメモだけがあった。

(ああ……また急患か)

 テーブルに置かれたメモには、PHSに急患の連絡があって診療所へ向かう……と書いてあり、最後に『勉強、無理をしないで』と小さな字。そのメモ用紙からは、ツンッと鼻につく消毒液の匂いがした。


 
 ◆◆◆



 ボク達の住むこの町はけっこうな田舎で、あまり胸を張って町外の人へ自慢できるようなモノは無い――新江崎家関連の施設を除く――のだけれど、何事にも例外というものはある。
 その例外の一つが『アレルーヤ』という店名を持つ、赤レンガ作りでオシャレな外見をしたケーキ屋さんだ。
 かつて東京の某一流ホテルでパティシエをしていた経験を持つ、40代のご主人と若い奥さんが仲良く経営していて、その奥さんの実家――この町に住む農家だ――で採れる新鮮なタマゴ、地元の畑で育てた小麦、近くの牧場から仕入れた牛乳などの地域食材を使った焼き菓子とケーキが売り物。
 お菓子のデザインや味わいは素朴でシンプル、しかし奥が深く飽きないと評判で、わざわざ東京なんかからもよく取材を受ける有名なお店。もちろん、町の子供から大人まで皆が大好きだと言っていい。
 どの商品も美味しいのだけれども、中でも特に人気なのがロールケーキ。朝採れタマゴをたっぷりと使用した柔らかなスポンジは、口の中で雪のようにフワリと溶け、新鮮な生クリームはくどくなくサッパリとした甘さ。季節ごとのフルーツがたっぷりとあしらわれ、いくらでも食べられる一品。
 けれどそれ故に、遅くとも一ヶ月前から予約しないと買えない超人気商品でもあるんだけど……。

「あうぅ、食べたい。ねっ、兄さんっ、食べようっ! 食べようよ!! ふわぁ……ほらっ、すっごくいい匂い、うぅぅ」
「もうっ、落ち着け」

 ――時刻は夜の10時。
 ボクの家、居間のテーブルに置かれているアレルーヤの箱へ子猫のように顔を寄せている幼馴染。グロスを塗ったように潤んだ唇から、たまらない……といった感じで、吐息混じりの声が漏れていた。夕食後の勉強時に見せた真面目な表情は影も形もない。
 彼女の目前、アレルーヤの光沢がある白い厚紙で出来た箱の中には、名物のロールケーキが一個入っていて、甘いものが大好きな幼馴染を狂喜乱舞させ続ける。
 風呂上りの髪をツインテールにまとめた桜、我慢できないって感じで鼻を寄せ、クンクンと香りを嗅いではうっとりと目を閉じる動作を繰り返す。ニコニコした上機嫌の笑顔を浮かべ、ボクの隣に座ってはしゃぐ。

「そりゃボクだって食べたいけどさ……。でも、さすがにこの時間からは無茶だよ。明日の朝まで我慢」
「えぇっ、生殺しだよ。少し、ほんの少しならいいじゃん、ね? ね? ね?」

 お気に入りのピンク水玉のパジャマ姿のままで、今にも箱を開け中身へむしゃぶりつきそうになっている桜。その華奢な肩を背中から掴み、ボクは無理矢理にテーブルから引き剥がす。
 普段、どちらかといえば聞き分けの良い桜だけど、甘い物――特にアレルーヤのロールケーキ――には目が無い。ボクの両手で背後から抱かれるようにしながらも、幼馴染の視線はアレルーヤの箱から離れようとはしなかった。『猫にまたたび』なんてことわざが脳裏へ思いつくほど。
 食べた時の事を想像してるんだろう……二重の瞳は熱にうかされたようにトロンとして、唇はちょっとニヤケ気味。普段ボクの前ではしっかりしている感じの幼馴染の顔が、年齢相応、いや、下手をするとそれ以下に幼く見える。桜のことを好きな男子――恋から聞いた噂だと、学校で桜はカナリもてるらしい――が見たら、幻滅しちゃうかもしれない。

「朝まで我慢しよう? な」
「ううっ、兄さんがいじわるする。ちょっとだけだからっ、お願い! ママも先生もケーキ好きじゃないじゃん。少しなら食べたって平気だよ、ね?」
 
  全く……どうしてこんな状況になってしまったんだろう。桜の華奢な体を背後から羽交い絞めしながら、ボクは学校から帰宅してからの事を思い出していく。
 ――学校から帰宅、途中まではボクと桜の二人で、そして最後は帰宅した母さんと三人で料理し、焼き上げたハンバーグを食べた。それから食後に休憩のち予習、復習を終わらせ、手際よく入浴を済ませる。いつもだったらそこから10時くらいまで3人で軽く雑談して、桜は就寝、ボクは2時ごろまで勉強というのが普段のパターン。
 けれど今夜は急患が入り、母さんは診療所へと出かけていた。
 が、その急患というのが件の『アレルーヤ』の奥さんで、診療所へ妻を運び終えたご主人の店主が、応急処置が終わった後、家族団らんを邪魔したお詫びに……とロールケーキを持ってきてくれたのだ。そう、たまたま試作品として作っていたという新商品のロールケーキを。
 5月に旬を迎えるフルーツとして、宮崎県産のマンゴーという名前の果物をたっぷり使っている香りは、箱の中に閉じ込められてなお、濃厚な甘い幸せを予感させる。
 去年の五月にこのマンゴーロールケーキが発売された時は、皆ほとんど聞いた事の無いマンゴーという珍しい果物だったことも手伝って、一瞬で販売予定数が売り切れ。口コミで伝え聞いたその美味しさは、とろける濃いオレンジ色の果肉と生クリームが絶妙に絡み合い、まさに天にも昇る……といった感じらしい。
 そして、母さんは念のために点滴を行なうという事で、まだ診療所にいる。つまり、当然ながらロールケーキが食べたいと暴れまわる桜を、ボクが一人で抑えなければいけない状況で……。

「ぅぅぅ。ねぇ兄さん?」

 単純な我儘は通じないと感じ、泣き落としへ作戦を変更したのか、くるりとボクの正面へ向き直った桜。突如、その細い腕がスッ……と首へ絡みつき、抱きつくようにスリスリと体を寄せ、熱っぽい瞳で見つめてくる。
 紅潮しているすべすべした頬、形の良いピンク色の唇に――ケーキの味を想像しているのか――真っ赤な舌がチロチロと覗く。ボクの顔ギリギリまで迫る顔、まるで泣きそうにうるんだ真っ黒い瞳。熱くて柔らかなカラダ……ほのかに香る幼馴染のどこか甘い体臭。黒髪のツインテール。
 そして……桜の濡れた唇がゆっくりと動き、透明な唾液、真っ赤な口の中が見え、ほのかなミルクの香りと共に言葉が溢れる。

「……兄さん、お願い。わたし、我慢できない」
「――――ッッ!! バ、バカ桜、離れろよっ」

 滅多に見ないしおらしい表情に内心、少しだけドキリとするが、表情にあらさないようにしてはっきりと断る。でも、幼馴染は離れてくれない……それどころか、首にまわした両手へと更に力を込めたのか、キュッ……といった感じでボクに体重を預けてくる。メチャクチャに熱く、柔らかいそのカラダ。
 ボクの鼻先には、真っ赤に染まった桜の細い首筋があり、洗いたてのシャンプーの何とも言えない甘い香りが立ち昇る。テーブルの前に座ったままのボクたちは、抱き付き合った格好で膠着を続ける。

「や、やめ……」
「やぁーだ。ふふっ、兄さんがいいって言うまでこのまま離れない。ね……どうする?」
「バ、バカッ、やめろ! な、何を訳わかんないコトを」

 囁き声とボクの耳たぶへ桜の唇が触れる感触。幼馴染が、くちゅ……という唾液を飲み込む音まで聞こえた。なんだか……背筋へゾクゾクするようなヘンな感覚が腰の奥から湧き上がってきて、咄嗟にボクは両腕に力を込め桜の熱いカラダを引き剥がす。

「やだー、諦めません」

 が、離れたのもつかの間……まるで猫のように素早く、ボクの背後へまわり首筋へしがみ付いてくる桜。そのまま、カプッとボクの耳が……。

「うわわぁ……ちょっ、な、何を……」
「ふふっ、どう? くすぐったいでしょ。ね、諦めてケーキ食べよっ」

 くすぐったい……ような、それ以外のような……形容しがたい生まれて初めての感触が全身を電撃のように駆け抜けた。ボクの右耳が幼馴染の唇で甘く吸われ、そして歯でカプリと優しく噛まれていく。更に……チロチロと耳たぶの上を動く柔らかくて濡れた舌。
 思わず口からヘンな声が漏れそうになる。何だ……この感触……。

「やっ、やめろバカ桜っ」
「あれ? くすぐったくない? 兄さんって我慢強いね。むうっ、ならこれでどうよ?」
「――――ッッッ!!」

 ベロリ……と耳の裏から首筋にかけ、何かとてつもなく柔らかくて濡れたモノが這う。その熱さ……桜の吐息、幼馴染の黒髪から立ち上る甘い匂いでクラクラと眩暈がする。――声、変な声が喉の奥から飛び出しそうになって、ボクは思わず両手で口を塞いでしまう。
 ――やばい! 何がやばいかわからないけど、このゾクゾクした感覚は危険だと本能的に察する。ボクの様子がおかしいのか、楽しそうにクスクスと笑ってる幼馴染。ゾクゾクした痺れが首筋から指先まで広がって堪らない。
 そして胸の奥、くすぐったいような、それとは違うような……そんな訳の解らない感覚と恥ずかしさが、桜の無邪気な声に突如、反撃しろ……と囁き始める。

「えへへっ今のは効いたっぽい。降参でしょ? って、にゃっ、に、兄さんっ!? ひゃうっっ」
「バカ桜ッ! メチャクチャなことしちゃって。ヘンな感じじゃんか、このっ」

 ドキドキと激しく脈打ち続ける心臓と、未だにビリビリとした感じが沸き起こる腰の奥。その熱を誤魔化すようにボクは桜の腕を取り、無理矢理にカーペットへ押し倒す。あれ以上、桜にヘンな事をされていたら絶対にやばかった。荒くなりそうな呼吸を抑えつつ、ボクの体の下で驚いている幼馴染を見つめる。

「ったくいっつもヘンな事思いつきやがって。何か、ぞわぞわーって感じだったんだ。お返ししてやるから」
「……に、兄さん!? う、嘘っ、やっ、待っ、あっ……、ちょっ、やっ、きゃうっ、んんん」

 桜の右耳へボクは容赦なく唇を押し当て、軽く息を吸い込みながら舌を動かしていく。耳の外側、上の部分を唇で挟み込みチロチロと舌で舐めつつ、ゆっくりゆっくり耳たぶへと向かって移動。
 元々耳が弱い桜の事……きっとたまらなくくすぐったい筈。ボクはもっと強くされて大変だったからいい気味だ……と思いつつ、桜の腕が痛まないよう優しくカーペットへ押し付ける。
 けれど唇は休めずに動かし続けていく。耳たぶへ到達した舌先を、今度は耳の内側へと向かって移動させる。もちろんボクがやられたように耳を舐め、時折やさしく歯で噛みながら。

「あっ、これ、バカッ、だ、駄目っ、んっ……あ……。ちょっとヘ、ヘンな――っっぅぅぅぅんんんんっっ!! あっ、あっ、兄さんっ、兄さんっ、や、駄目っ、あっあっ兄さん」

 必死で笑いを堪えてるのか、顔を真っ赤に染めて熱い吐息をついている桜。ボクの腕からのがれようとして、クネクネと幼馴染の華奢なカラダが動く。その影響で桜が着ているピンク色のパジャマ……その襟元のボタンがプツンと音を立てて外れた。
 ――ボクの目に飛び込んでくる真っ白な首筋と、鎖骨が浮かんだ綺麗すぎるくぼみ。誘蛾灯に引き寄せられる虫のように、ボクはフラフラと唇を押し付けてしまう。

「に、兄さん……あ……だ、駄目……。わ、わたしヘンだよっ! あっ駄目、ダメダメダメダメッッ! んんんっっ、あっ……、あああっっ」

 唇と舌を肩へ這わせる度、幼馴染の細いカラダがピクンッピクンッと痙攣していく。ぎゅうううううっっっとボクの頭を強く腕で抱き締めて離さない桜。細い両足がボクの腰へ回され、ガッチリとしがみ付くように固定。ボクも両手を桜の腰へまわし、無我夢中のまま互いに力いっぱい抱きしめあう。
 火傷しそうなほど互いの吐息が熱くって……、ボクは桜へ聞かせるようにクチュクチュと音を立てながら舌を伸ばし、真っ赤に染まった耳を再び舐める。

「どう桜、ぞわぞわーってきたろ? 反省した?」
「ああっっ……兄さんっっっ……んんっ、うんっ、桜のカラダ中、いっぱい、いっぱい、ぞわぞわって……うう」

 唇から漏れる桜の声……、それには今まで聞いた事の無い甘い響きがあって、つま先から脳までが燃えるように熱くなってしまう。至近距離から、うるうると熱っぽく真っ黒な瞳でボクを見上げる幼馴染。荒い呼吸を繰り返している唇が真っ赤に濡れていて、不意にひどく……いけないコトをしてる感じがした。
 咄嗟にボクは、強引に桜の熱いカラダを引き剥がす。絶対、絶対にダメなコトをしちゃってた……これ以上はダメだって、半ば頭痛のように感じる、が……。

「……やだ。離れるのやだ。兄さんっ、もう1回ぞわぞわーってしてよぉ」

 熱に浮かされているように紅潮した桜の顔、泣きそうな瞳、今まで見たことが無い……ボクの胸をドキドキさせる表情。桜の指がおずおずとボクの指へ触れ、怒られるのを怯えるようにゆっくりと指先が絡みついてくる。
 とても拒否なんかできない。今まで意識した事がない、なにか不思議な――まるで痛みのような――甘い感情が胸の奥からあふれ出す。呼吸さえ苦しく、ボクはただ桜と見つめあう。
 自然にカラダが動く……互いが磁石のように、引き合うように徐々に僕らの距離が縮まって……。ボクと桜、互いの赤く濡れた唇が……ゆっくりと近づいて……。

「ただいまー。アキラ、桜ちゃん。喧嘩なんかしてないでしょうね?」
「――――――ッッッッ!!!」

 遠く玄関が開く音と共に聞こえる母さんの声……、文字通り飛び上がるように驚愕するボクたち。触れ合っていた手がすごい勢いで離れる。
 一体、何をしようとしてたのか? 怪しげな雰囲気は一瞬で霧散し、目を白黒させながら必死でパジャマについたシワを整えて、何気ない声で返事を行なう。

「お、お、おかえりっ」
「おかえりなさい、先生っ」

 あまりに恥ずかしくって、ボクはまともに幼馴染のほうを見ることさえ出来ない。けれどそれは向こうも同じみたいで、視界の端に映る桜は、顔を真っ赤にしてパジャマの裾を整えながら、あらぬ方向をツンとすまし顔で見つめていた。
 トントンと近づいてくる母さんの足音。ボクは何度も深呼吸を繰り返し、いつもと同じように振舞おうと気持ちを整えていく。

「……兄さん。また今度、ぞわぞわってしようね」

 その瞬間、背後から桜の悪戯っぽい小さな囁き声が聞こえ……、ボクは大きくツバを飲み込んでしまった。

 

 ◆◆◆◆



 裏 第六話(桜とゾワゾワごっこその後)※ ここから下はR-15 ※ 本編関係ないオマケです


 ◆


「あれ? 兄さんったらどうしたの、具合悪い?」
「さ、桜、ちょっと近、いや……。な、何でもない」

 湯船の中、ボクの真正面へ向かい合わせて肩まで湯につかっている桜が、心配そうに真っ黒な視線を向けてくる。お湯で温まっているのか、頬っぺたは赤く染まり、濡れた黒髪は邪魔にならないようポニーテールの髪形、濡れた唇はピンク。
 もうもうと湯気が立ち昇る風呂の中、ボクはだけど、どうしてもそれ以上は幼馴染のカラダを直視できず、すぐあちこちに視線を彷徨わせてしまう。それもこれも全部、昨日の『ゾワゾワごっこ』が元凶だ。
 あの後、何食わぬ顔でベッドで眠り、朝起きて登校。普段と変わらず昼間の学校を過ごしたけれど……、二人っきりの夕食後、幼馴染と一緒にお風呂に入っているのが恥ずかしくって仕方ない。
 いつもと何一つ変わらないはずなのに、胸の奥はドキドキと鳴り、腰の奥がなんだかゾクゾクと熱い。何か理不尽な、何か、よくわからないモノがカラダに溜まっているような……言葉に出来ない息苦しさがある。

「どうしたの? ふふっ、兄さんたらお顔が真っ赤だけど。ほら、すっごく熱い」
「ば、ばか桜。触るなって」
「あははっ、やだよん。ソッチに行く」

 突然頬を触ってきた幼馴染が、ニヤリとした笑みを浮かべながらネコのようにカラダを擦り付けてくる。水中だっていうのに、桜のカラダ、皮膚の表面がやばいくらいスベスベで綺麗だと手触りで理解できてしまって……、口から心臓が飛び出そうなほどドキドキしてしまう。

「も、もう出るから、離れろバカ桜」

 その動揺をなんとか顔に出さないよう必死の努力を続けながら、勢い良く湯船から飛び出す。なのに、そんなボクの腕を掴み一緒に立ち上がる幼馴染。真っ白な肌、ペタンコの胸と華奢なカラダ、スラリとした長い手足が目に入る。

「私も出るっ。兄さん、抱っこして?」
「バカ、何をふざけ、――っっ! さ、桜っ!? ちょっ」

 当然断ろうとしたボク。けれど桜は余裕の笑み――どこか子悪魔っぽい、意地悪な微笑みだ――を浮かべながら、首へ両手を回してくる。湯船の横、タイルの上でまるでダンスをしているように互いの熱い体が密着。柔らかくて熱い幼馴染のカラダから、どことなく良い香りが立ち昇ってきてクラクラする。

「あはっ、兄さん。ひょっとして照れてる? やだっ、耳が真っ赤だよ? ふふっ、優しい桜がペロペロッて舐めて冷やしてあげる」
「ばっ、何を……、うっ、ああっっ」

 浴室の壁へもたれかかったボク。その耳が桜の真っ赤な唇に挟みこまれてしまう。「くちゅ……」という唾液の音、そして幼馴染の舌が、チロチロとからかうように耳の外縁だけを這う。ゾワゾワとした感じが全身に広がって、ボクは両目をぎゅっっと閉じる。

「ねぇ力抜いてよ。兄さんの耳、もっと、もっといっぱい舐めたいんだから。……ねっ、大人しく首を傾けて」
「や、やめ……、あっ、ああっっ、んんっ」

 足がカクカクと震えて立っていられず、くたりと浴槽の縁へと腰掛けてしまう。そんなボクの頭を抱くようにして、幼馴染が唇と舌を伸ばす。熱い吐息と唾液を飲み込む音、そして柔らかな舌がニチャニチゃと音を立ててボクの耳朶を舐めしゃぶる。
 チロチロチロと細かく動く舌先が、ときどき首筋をベロリと舐め、再び耳へ戻ってきて這い回る。
 
「あ、ああっ、んんっっ……ああ」
「んんっ……兄さん、んっ、そんなに声をだしたら、先生がいないっていっても、ふふっ、家の外にまで聞こえちゃうよ?」
「だ、だって……んんんっっ」

 ゾワゾワした感覚が頭部を支配し、勝手に声があふれ出す。泣きたいくらい恥ずかしくて堪らないのに、容赦なくこの不思議な感覚が襲ってきて、桜のカラダへしがみ付いてしまう。
 くすくすと嬉しそうな幼馴染の笑い声。目の前、ボクの唇の先ギリギリには桜の可愛い胸があって、それを見てしまうと心臓が破裂しそうに脈打つ。

「ふふっ、兄さんったら可愛い」
「ば、バカ、や、やめろ……」
「ふふっ、だーめ。それじゃあ本気で舐めますから。必死で声を我慢してね……兄さん」
「そ、そんなっ、や、やめっ、――――ッッッッッ!!!」

 ベロリと熱い舌が耳を舐める。今までと全然違う勢いでボクの耳が咥えられ、クチュクチュクチュクチュと容赦なく舐めしゃぶられていく。脳が、脳が沸騰して真っ白になってしまいそう。それと同時、ボクの口の中へ桜の指が入ってきて、からかうように舌が細い指先でくすぐられる。
 クスクスという嬉しそうな桜の声をぼんやりと聞きながら、圧倒的なゾワゾワの感覚に支配されていく。声がひとりでに喉からあふれ出し、どうにかなってしまいそう。
 
「――うあああああっ、あっ、あっ、あああっっ」
「ああっ、兄さん。すっごく可愛い。もっと、もっと舐めちゃう。ごめんね」

 甘い声に合わせ、桜の舌がボクの耳のありとあらゆる部分を舐め、唇はチュッ、チュッと音を立て吸い上げてくる。全身に電流が流れているようで……ボクは無抵抗のまま、幼馴染のカラダへしがみ付く。気が狂っちゃいそうな感じ……。ボクの全身は火がついたように熱く、何かが出口を求めて荒れ狂っている。

「お願い、兄さんっ、我慢しないで、もっと声だして。ね、声聞かせて」
「――ぅっっうっ、桜、桜っっ、ああああああっっ」

 完全に桜の為すがまま、クチュクチュと耳を舐められ続け、ボクはドロドロに溶けていく。今まで知らなかった『何か』がカラダの奥にあふれ、不思議な欲望が満ちてくる。
 このまま、完全に堕ちてしまいそうで……しかしその直前ギリギリ、その訳の解らない欲望に押されるように、ボクは両手を桜の裸――陶磁器のようにスベスベとした手触り――へと這わせた。

「やっ!? んんっ、兄さんダメっ。そこだめっ、へ、変なトコ触らないで、舐められなくなっちゃ……や、んんっっ」

 もはやボクの脳はほとんど役に立ってない。あまりのゾワゾワに麻痺し、呆然としているだけの状態。だから、ボクの両手が動いているのは無意識だと言っていい。この両手……我ながら恐ろしいほど精密で繊細な指先が、ボクも自覚できないようなスピードと柔らかなタッチで動いていく。
 声を必死に我慢するように、真っ赤な顔をボクの耳から離し、ビクッ、ビクッと全身を痙攣させている桜。ぼんやりとした視界の先で、ボクの両手……指先だけが、何かに導かれるように幼馴染のカラダ中を這い回る。

「やっ、あああっっ、に、兄さんっ。あっ! あっ、だ、ダメっ、あっ、ご、ごめんなさいっ、あああっ、や! だ、だめっっ、んんんっっっ、そこ、ソコはっ、あああっっ!」

 もうもうとした湯気の中、いつの間にか完全に攻守が入れ替わっている。ボクの両手にカラダのあちこちを触られたのか、桜はとろけたような目つきのまま口元を手で必死に抑え、声を押し殺していた。
 ボクは夢見心地で、自分の両手が一体どんな動作をしているのか? を全く認識できない。ただ、ボクの指先に色々な場所を触られ続けている桜は、まるで泣きそうな、けれどそれでいてトロンとした表情を浮かべて声を上げ続けている。

「あああっっ、ダメっ、桜のカラダ、カラダ中がぞわぞわって、ま、またぞわぞわになっちゃう。ダ、ダメ、ダメダメだめだめっっ。見ないでっっ、あああっっ、ぞ、ぞわぞわキちゃうっっ、ああああっっ!!」

 お風呂の中、幼馴染の甘い叫びがこだましていく。口元を必死で押さえつつガクガクを痙攣を繰り返す桜。濡れたポニーテイルは解け落ち、黒髪が華奢なカラダを覆うように流れている。
 そんな幼馴染へボクの両手は容赦なく襲い掛かっていく。カラダのあちこちを触るたび、甘い叫びと共に全身を痙攣させていく桜。

「――ッッ!! やっ、あああっっ、こ、こんなのっ、あああっっ、兄さん、ああっ、んんんっぅぅ、あああっっ、ダメ、だめっ、ああっっが、我慢できない、我慢できないよぉ」

 ほとんどすすり泣きのような状態で床に這い、甘い声を上げ続け、なすがままになっている幼馴染。その姿を見ていると、何か危険すぎる欲望があふれそうになる。言葉に出来ない、知識にも無いはずの『何か』。
 その時……、






『ピピピピピピピピピピピ……』
「――――!? んぁ? はぁぁああっっっ!?」

 けたたましく電子音を鳴らし続ける目覚まし時計。ボクはそれを叩き壊すような勢いで押しとめた。全身をダラダラと流れる冷や汗が止まらない。何か、ヤバイ、とんでもなく危険な夢を見たような気が……。
 落ち着け……、確かに夢と同じように、昨夜は幼馴染と一緒にお風呂へ入った。そして耳を軽く舐められたけど、強引に逃げ出したんだ。うん、間違いない。

「ふぅ……」

 ベッドへ横たわったまま、ボクは安堵のため息をついて……何か、とっても熱くて柔らかなモノが抱きついている事に気がついた。いや、それだけじゃない。このベットリした感触は、……間違いない。

「起きろ、バカ桜! お前は毎朝、毎朝、どうしてそう涎をっ、しかもボクのパジャマや枕にばっかりっっ!!」
「ん? ふぇ!? あ、あれ? 兄さん あれっ、お、お風呂は? えぇぇぇ? 」
「な、何をバカな事言ってんだよ、とっとと起きろ」

 むにゃむにゃと瞳をこすりながら、バカな事を呟いている桜。コイツのしがみ付いていた部分、ボクの胸周辺のパジャマは涎でベトベトに湿っていた。だが一向に悪びれた雰囲気もなく、ポリポリと頭部をかいている幼馴染。
 しかし……と、ボクは考える。今、桜は風呂の夢を見ていた……とか言わなかったか? まさか、同じ夢を見ていた? 
 ……いや、そんな事はあるはずがない。脳裏に浮かんだ危険な空想を忘れるように、ボクは深いため息をつきつつ、大切な幼馴染の姿を見つめていた。
 



[24259] ・第7話 【小学校編⑤前編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/02/25 23:35
 ・第7話 【小学校編⑤前編】


 ◆

 強烈な熱気、生臭い血液の匂いが充満した狭いテントの中、オレは荒い呼吸を繰り返しながら、厚さ0.23mmのラテックス製手袋に包まれた指先を動かし続ける。
 真っ白なシーツへ飛び散った鮮やかな赤、目前の手術台に横たっている少年のカラダ。その肉体はガリガリに痩せて骨が浮き、髪はパサパサ、皮膚に張りは無くまるで老人のように見える。過酷な労働と、慢性的な栄養失調に犯されているこの国の子供達。
 だが……そのカラダの中でドクドクと脈打っている血潮だけは、人種、国籍など関係なく、火傷しそうなほど熱い。

「汗、それとモスキート直を、次にマチュー用意、2-0で」
「ドクターアキラ! こちら、ドゥルック<血圧>低下! プルス<脈拍>微弱です」 
「バソプレッシン40U投与! こちらを縫合後すぐに向かう。輸血はどれくらいでやってる?」

 様々な言語が飛びかう空間の中で、滝のように吹き出す汗を拭って貰いながら、必死で両手と頭脳を動かし続ける。
 エアコンなんて気が効いた物の無い、数人が入れば満員になるこの狭いテントの中で、オレは4時間くらい前からずっと指示を出し、診療を繰り返し、次々と運び込まれてくる患者のオペを行い続けていた。
 いや、手術<オペ>……なんて呼べるものじゃない。オレのやってる事はただ、必死で血を止め、心臓を動かし、呼吸を確保するだけの流れ作業。
 白衣の下に着ている服はトランクスまで汗でびしょぬれで、ズボンを通し床にまで汗が滴り落ちていく。あまりの暑さにひっきりなしに水分を補給しながら、ただ延々と手を動かし続ける。

「ドクター! 血圧回復しました、が、銃創部より出血が止まりません。止血効きませんっ! ど、どうすれば!?」
「……よし、こっちは済んだ。すぐに向かう! 大丈夫だ、セリシール。まず落ち着いて術野確保を。ベバラッ、その子を出して次の患者を入れるんだ」

 今から2年前のオレと同じくらいパニックに陥っている、赴任したばかりの若い女医、セリシールへ指示を飛ばし補助スタッフにもフォローを頼む。まるで戦場のような騒がしさ。だが、近くのテントでも同僚のドクター達が必死で救命を行なっている。オレのチームが足をひっぱるわけには行かない。
 
 ――今から半日ほど前、医療キャンプを設置している街の学校近くで、突発的に暴動が起きた。それを鎮圧しようとする軍隊と反抗する民衆の小競り合いは、日頃の不満を火種として、あっという間に大きな騒ぎとなったらしい。
 この国では、隣国がずっと内戦を続けていた所為もあり、驚く事に一般市民が簡単に銃を手に入れることが出来ると言う。それも護身用の拳銃などではなく、軍隊で使用されるようなとても強力な兵器。
 そのAK-47という名前の自動小銃を互いに手にした軍隊と民衆は、街中であるにも関わらず、容赦の無い銃撃戦を始めてしまう。それに巻き込まれてしまった近くの学校の生徒達。
 結局、軍の戦車やヘリコプターが出動し鎮圧を行い、それから約30分後、半ば地獄と化したかのような血塗れの環境で、オレ達NGOは活動を始めた。
 どちらが悪い? とか、どうすれば防げたのか? 誰もが平和に暮らすためには? など様々に考えねばならないことはあるのかも知れない。
 だが、オレ達はただの医者で、――思想、宗教、貧富、体制、など全て関係ない。ただ消えそうになる命を救うだけの存在だ。例えそれが……死に対する無駄な抗いだったとしても。

「クーパー、それからこっちは意識レベル低下……挿管の準備! ――ッ! セリシール落ち着け、君の力が必要だ! 気道確保を」
「は、はいっドクターアキラ、すいませんっ」

 金髪、碧眼、整った繊細な顔立ち……ドラマなどで良く見る典型的な白人女性といったセリシールだが、その顔色はこの熱気の中でさえ恐ろしいほど血の気が無く青ざめている。パニック一歩手前でギリギリ踏みとどまっている……といった感じだ。
 休憩させるべきか? と一瞬迷うが、しかし圧倒的な人手不足だ、なんとか彼女に踏ん張って貰うしかない。それに、これはセリシールにとってもまたとない経験になるはず。ここは研修用の大学病院ではない。オレはあえて矢継ぎ早に指示を繰り出し、彼女に何も考えさせないようにしていく。

「挿管完了! くそ、出血性ショックだ。セリシール、ドーパミン投与急げ、いいか?」
「は、はいっ」
 
 2年前、日本の大学病院で研修医をしていた頃とは比べ物にならない、素早く荒っぽい診断。いや、でなければ間に合わない……と嫌になるほど肌で学習していた。ココと日本などの先進国の最も大きな違い……それは助かった後のケアだからだ。
 救命処置後、日本であれば清潔な環境、充分な薬、定期的な予後診療、栄養補給が当たり前で、それはつまりある程度の余裕があるという事。だからこそ、よほどの緊急でなければ診療に時間をかけ、アフターの事を検討し、例えば傷跡の残らない手術選択、できるだけ欠損の少ない手術などを行なうことが出来る。
 けれどこの場所は違う。何よりも優先されるのは『生き延びる事』それが全て。その為に余計な負担を肉体にかけるわけにはいかない。無駄に時間をかけ、肉体に負担をかければ、それだけ死亡率は高くなる。救命処置後に充分な薬投与、ケアなど期待出来ないのだから。
 だから『生き延びさせる事』だけを優先し、シンプルに、判断を迷わないように、何よりも素早く。

「縫合終了! バイタルは安定したか? なら……」
「すいませんドクター、こちらの子供、つい先ほど物陰から発見されて……心肺停止状態ですっ!」
「――ッッ!」

 テントの入り口からあわただしく運び込まれる新たな少年。その顔色、出血部位、創傷の状態、診た瞬間、それは絶対に手遅れだとわかる、わかってしまう患者。

「……手遅れだ。次の患者を入れて下さい」

 そういう時、オレに出来ることは止まらない事しかない。目の前の患者が絶対に救えないからこそ、せめてその次の患者は救えるように素早く動く。もしも、その次の患者さえ救えなかったとしても、更にその次の患者は救えるように。
 ――オレ達には、そうやってしか、死者に報いる方法は無い。

「セリシール、動きを止めるな。時間が無駄になる」

 きっとテントの外で、この少年の親は泣くだろう。努力せずに見棄てたと、オレを怨みさえするかもしれない。……けれど腕を止める事は出来ない、ここで挫ける事は許されない。動揺を指先に表さないように深呼吸を繰り返しながら、必死で次々と運び込まれる患者に処置を下していく。脳裏に浮かぶのは、このNGOに来て数週間が過ぎた頃、リーダーセルゲフに言われた言葉。
 
 ――2年近く前の事。今日と同じような突発的な紛争が起こり、その時のオレはほとんど何も出来ずテントの中で右往左往するばかり。
 その夜、日本とは比べ物にならない劣悪な環境、簡単に失われる子供の命、自分の技術のつたなさ、精神の情けなさにショックを受け、自室のベッドで独り嘔吐を繰り返しながら泣いていた。
 目を閉じれば、手足が引き千切れた小学生くらいの少年の姿や、血まみれの我が子を抱きしめる母親の姿がフラッシュバックして、オレの心を強烈に打ちのめす。
 吐く物はとうに無くなって胃液しか出ない。熱病に浮かされたように唇はカサカサ、奥歯がガチガチと鳴る。全身に震えが走り止らない。
 ……が、そんな状態でも、肉体、精神ともに限界を越えたのか、いつの間にかうとうとと浅く眠っていた。しかし数時間後、これ以上ないほど酷い悪夢を見て飛び起きる。パニックと己に対する情けなさで再び吐き気が起こり、ベッド脇に置いていたバケツに顔を伏せたオレの背中……それがゆっくりと、力強くさすられた。

「――!?」
「アキラ、私だ。落ち着いて深呼吸をしろ。いや、無理に話そうとするな。何も言わなくていい」

 大きな手がリズムよくゆっくりとオレの背中を撫で、セルゲフの低い声が部屋の中に響く。どうしてオレの部屋に? などの疑問が一瞬だけ浮かぶが、沸き起こる嘔吐感を抑えきれず、再びバケツへ顔を突っ込む。

「君が今日の事で自分を責めるのは勝手だし、慰めようとは思わない。私に君の感情を理解してあげる事は出来ないし、そのつもりも無い。確かに君は未熟で、判断も遅く経験も足りないからな」

 年月を積み重ねた巨岩のようなセルゲフの低い声……それが、オレの心に染みこむように響いた。背中をなでる大きな手の温もりと冷徹な言葉が、パニックを起こしそうだったオレの心を静めていく。

「だがこれだけは言える。アキラ……自分を責める暇があるのなら、あの時どうすれば良かったのか? と考え続けろ。苦しくて嘔吐しながらでもいい、どういう状態だと人は助からず、逆にどういう症例なら生き延びさせる事が出来るのか、と一つずつ症例を思い出して考え続けるんだ。これからも多くの人の死に直面する。それは医者として生きる以上、決して避けられない事だ。もっと悲惨な事だって沢山ある」

 セルゲフの言葉で、再び脳裏に様々な人の死が浮かび上がる。跳弾がめり込みぐちゃぐちゃになった内蔵。逃げ惑う人々に踏まれた赤子。触診をするオレの指先で、どんどん体温がなくなっていき、まるでゴムのようになっていく肌の感触。
 あらゆる死の映像が脳裏に浮かぶ。自分に対する嫌悪、無力感、生きている意味、存在している意味などがぐじゃぐじゃに脳を掻きまわす。

「いいかアキラ、私たち医者は誰よりも多く人の最後を診る。それはまるで、自分が死神になったような最悪の気分だ。だがな……だからこそ、それを教材として、次に生かすための経験として受け止めねばならん。自分は無力だ、情けない、可哀想だと己を責めて泣くのは簡単だ。……だが、それだけでは先に進めない。人の死をしっかりと受け止め、分析し、次の人を救う為の糧とするんだ。でなければ……人々の死が本当に無駄になるぞ。理解できるか?」

 セルゲフの静かな声に、鼻水と涙を流し、唇に胃液をつけたままのオレは何度も頷いた。自分を責めるのは簡単で、肝心なのはそこから先に進む事。それこそが唯一、死んだ人達に報いる方法になる……と。
 ――正直に言えば、その時のオレはリーダーセルゲフの言葉の意味がぼんやりとしか解らなかったし、2年が経った今だって、きっと完全にはわかっていないんだろうと思う。けれど、その言葉にどこか救われた、心が楽になった。
 自分を責めて泣きわめく暇があるなら、それを正面から受け止めて未来を目指す事。オレは今も、人の死に向き合いながら、必死に足掻き続けている。

「全身麻酔を行う。硫酸アトロピン0.5、導入急いで! いいぞセリシール、君はよくやってる、引き続きフォローを頼む」
「……は、はいっ、ドクターアキラ。フォロー入ります!」

 涙で目を真っ赤に腫らし、唇を噛みしめ、それでも必死に動くセリシール。それから、オレの指示で動くスタッフ達。彼らの努力を無駄にしない為にも、オレはもっともっとスキルを磨く。
 まだまだオレには経験が足りない……いや、きっと医者に完全な経験なんてモノはないんだと思う。ただ一瞬、一瞬を無駄にしないように、ギリギリまで人を救う事。そして救えないなら、その次こそは救えるように。
 そして、いつか『オレ』の技術と経験を誰かに受け継いでもらえるように。人はどんな死に方をしても、きっと無駄じゃ無い。そう信じて頑張っていくと覚悟を決め、NGOでの嵐のような日々をオレは過ごし続ける。
 
  

 ◆◆


 「うう……」

 枕元に置いた目覚まし時計に手を伸ばし、『ピピピ……』となり続ける電子音を叩き止めた。何か……くっきりとした、まるで現実のように濃い夢を見た気がする。
 ここ数日……ボクはずっと夢見が悪い。学校での授業中や、家での勉強時間、常に臓器のデッサンや救命処置のイメージトレーニングをしているからなのかもしれない。
 いや、それだけじゃなく、数日前『オレ』から知識を譲られた事が関係しているに違いないと思う。毎晩、夢の中で強烈な体験をしている……というぼんやりした記憶がある。夢を見るたび、何かボクの心へ大切な経験が重ねられていく充実感があった。
 しかしその代償としてだろうか、夢の内容は一切思い出せないけど、寝起きとは思えないくらい倦怠感がある。それに今日の夢は一段とハードだったんだろう、寝汗が酷くパジャマがびっしょりと濡れていた。

「ふわぁ……、おい、桜。起きてるか? って、そっか……」

 二段ベッドの上段で背伸びをしつつ、下段で眠っているはずの幼馴染へ声をかけ、そこでボクは気付く。
 今日は金曜日……つまり明日は休みで『ボク』と『オレ』が結びついた不思議な夜から数日が過ぎ、ようやく初めての週末が明日へ迫っていた。

「金曜だから、桜はアッチか」

 ポツリ……と呟きながら、ベッドの階段を下りていく。毎週末になると幼馴染は実家で過ごすのが日課。桜のお父さん――とある工場に単身赴任をしている笑顔がとっても温かい人――は日曜日から木曜日までという勤務形態で、毎週金曜日になると帰ってくるからだ。
 桜のお母さんである『ママ』とは大学の同級生だったらしく、偶然東京のバーで再会し、それが縁になって結婚。すぐに桜が生まれる事になって、実家のあるこの町へ自宅兼バーを建てた。なんでも『ママ』が暇すぎるのが嫌だと駄々をこねたらしいが……。
 なんにせよ、幼馴染の家では週末、親子水入らず三人で過ごすのが日課。まあ、ボクも母さんに急患が入った時なんかは、いつもとは逆でお呼ばれする事も多いけど。

(そっか、放課後どうしようかな)

 てきぱきと登校の準備をしながら、ボクは今日の放課後の事を考える。今まで毎週末は騒がしい桜がいない為、自宅で静かに勉強を行なう日々だった。真っ直ぐ帰宅してから、食事と入浴以外の時間はひたすら参考書に噛り付くだけの日々。
 けれど、今の『ボク』にはそこまでする必要性が無い。なら、今度はデッサンを続ける? それとも桜の家にお邪魔する? それもいいけど……しかし。

「……図書館、行ってみよっかな」

 この数日、町立図書館に行ってみたいとぼんやり思っていた。理由として、学校の図書館へ絶対に置いてないような、高度な医学書が蔵書されているだろうから。大量の本を寄贈した新江崎家というのは由緒正しい医者の家系だし、色々な医学書が読めるかも知れないと思うと期待で胸が高鳴る。
 そう……それがドイツ語や英語で書かれていても、今のボクならなんなく読める。しかも、普段ならそんなモノを読んでたら桜に見つかって、もの凄く不審に思われるだろうけど、今日は都合のいいことに幼馴染はすぐに帰宅するはず。
 つまり一人きりで、心ゆくまで読書を楽しむことが出来るという事だ。

(うん、そうしよう)

 考えれば考えるほどいいように思える。特に桜とは数日前、……あの『ぞわぞわー』ごっこをした夜以来、ボクはなんとなく気恥ずかしくて――桜は何とも思っていないどころか、むしろどこか子悪魔っぽく、積極的になったような気がするけど――顔をあわせ辛い。
 それに幼馴染の両親に申し訳ないような、気後れするような不思議な気持ちもあった。この週末くらいは桜と離れて過ごし、モヤモヤしたような訳の解らない不思議な感情をスッキリ整理したい。

「よしっ、いってきまーす」

 母さんは早朝の往診に出かけていて誰もいない自宅。けれど元気良く挨拶をしながら、ボクは今日の第一歩を踏み出した。とりあえず桜を迎えに行って登校。昼休み、放課後まで普段通りに過ごし、帰りは町立図書館で独りじっくり医学書を読む。我ながら完璧な週末の過ごし方だと思う。
 ――まあ、この見通しが甘すぎた……と後でたっぷり反省する事になったのだけれども。


 ◆◆◆


 『針のむしろ』ということわざが世の中にはあるけれど、このことわざを思いついた人ってよほど辛い思いをしてきたんだろうなぁ……と、ボクは半ば、現実逃避をするように考え続けていた。
 それというのも、シーンとした恐ろしいほどの静寂が支配している町立図書館の中、ボクのすぐ目の前には新江崎さんが座っているからだ。もしも視線というものに物理的な力があったなら、彼女の視線はボクの胴体を貫通していたに違いない。
 堂々と胸を張り、まさにあだ名通り『姫』の如く椅子に座っている新江崎沙織。ツン……と普段通りの澄ました表情で、本に顔を埋めるようにしているボクを睨んでいた。細く整った眉は左目の方だけが少し上がって、唇は不機嫌そうに固く結ばれている。とても不穏な雰囲気。
 けれど、ボクの前から新江崎さんが立ち去る気配は無い。

(……な、なんで、新江崎さんがボクを睨んでるの?)

 何か、とんでもなく厄介ごとに巻き込まれそうな気がして、ボクはどうしてこうなってしまったのか? を順序だてて思い出していく。そう……途中まで、学校が終わるまでは普段通り、順調だったんだ。
 
 ――ようやく今週の授業が全部終わった放課後、委員長、神無月恋と明日土曜日に隣町へ買い物に行く約束をしたあと、ボクは当初の予定通り町立図書館に向かった。桜が「一緒に帰ろうよ!」と散々ごねたけれど、いくら大事な家族と言っても、いつもいつもアイツの我儘に付き合ってばかりもいられない。
 ふくれっつらをしてしぶしぶ家に帰っていく桜を見送ったあと、ボクはちょっと興奮しながら改築されたばかりの図書館へ入った。

「おお……」

 改築、増築されたばかりの図書館は入り口で綺麗な司書さんが微笑んでいて、噂で聞いていた話よりずっと素晴らしかった。図書室を取り囲む大きなガラス張りの壁が、外光を柔らかく取り込むようにデザインされており、読書するのにとても良い明るさを提供してくれている。
 豊富に飾られた観葉植物のグリーンが美しい、入り口にはパソコンも置いてある2階建ての大きな建物。所々に柔らかそうなソファーが設置され、ゆったりと読書を楽しめそう。
 蔵書も、沢山の大きな本棚に様々な種類の本がキッチリと並べられており、もっと早くくれば良かった……とボクは心から悔しく思った。

「えっと」

 それで、目的の医学書は……? と広い館内を見物しながらうろついていたボクは、肝心の医学書だけが全く見当たらない事に気付いた。その時、ボクはあっ……と気付く。
(もしかして、閉架書庫なのかもしれない)
 ほとんど利用されることが無い本や古くて貴重な本は、閉架書庫として図書館の倉庫に収められている事がある……と、図書委員の桜に聞いたことがあった。確かに医学書は普通の人は読まないだろうし、新江崎家が寄贈したモノなら希少で貴重な本も多いんだろう。
 だけどここは町立図書館だし、司書さんに言えば普通に読ませてくれるはず……、そう考えをまとめ、ボクは入り口で微笑んでいた綺麗なお姉さんに頼んだ。

「じゃあ、ここに名前と年齢、学年、あと住所と電話番号を書いてもらっていい? 利用者カードを作ったら呼ぶから、少し待っててね」
「あ、はい」

 お姉さんに言われるまま必要事項を書き込んだあと、手近な本を抜き取って椅子に座る。カチャカチャとキーボードを叩くリズムの良い音を聞き流しながら、ゆったりとした座り心地の良い椅子の感触を満喫する。
 こんなゆったりした放課後の過ごし方もいいなぁ、とボクは本にぼんやり視線を泳がせながら思う。最近、夢ですごく疲れていたし、桜はなんだか意地悪な小悪魔っぽくて胸が変な感じだし、恋は笑ってばっかだし……こんな安心できる環境って、なんだかとても……とボクの気が緩んでいた瞬間。

「あら……柊クン? 貴方がココに来るのって初めてね。他所者の秀才さんが、何の御用なのかしら?」
「――あ、新江崎さん? いや、別に」

 後ろから突然かけられたささやき声。その小さな音が、元々艶のある彼女の声を更に強調しているように感じる。
 美少女……としか言いようの無い美貌。あい変わらずのブレザーの制服姿で大きめの胸元を飾る赤いリボン。短いスカートからスラリと伸びた足は黒いタイツに包まれて、腰まで届く黒髪は濡れたように妖艶。なんというか……強烈なインパクトだ。

「……」

 しかし彼女はそれ以上の言葉を発さず、ボクの前の椅子に腰掛けた。つまらなそうな、どこか怒ったような表情で、長い足を組んだポーズのまま、ジ……とボクを睨み続ける。
 ボクとしては、元々図書館の中で会話は控えなければならないと思うし、特に新江崎さんに話す事も無い。はやくカードが出来たって声がかからないかな? と願いつつ、居心地の悪い思いをしていた。
 が、中々お姉さんからの呼び出しが無い。背後でさっきからカチャカチャとキーボードを触る音が鳴っているけど、そのままジリジリとした時間が過ぎていくだけ。
 ――それが今の状況で、さっきまでの穏やかな気分が嘘のように、とても居心地が悪かった。

「…………私にお願いしなさいよっ」
「え? な、何か言った?」

 数分間の沈黙を破り、何かブツブツ……といった感じで新江崎さんが口を開くが聞き取れなかった。が、その表情は理不尽な事に、怒っているようにしか見えない。ジト……とした鋭い視線、赤くなった頬。

「もう、いいわ! 医療関連の本が見たいんでしょ? コッチよ。ほとんどパパの私物で、医学書だけは寄贈じゃなくて新江崎家が町に貸し出してる形式なの。ほら、グズグズせずに早く来なさいよ、ああ、それから、これが貴方のカードだから。私が受け取ってあげてたの。か、感謝しなさい」
「え!? ええっ?」

 ポンといった感じで無造作に投げられたカード。それを慌てて受け止めたボクは、新江崎さんの勢いに飲まれるように、彼女の後を追い、別のスペースへ移動していく。そんなボクを見送るように、ニッコリと微笑みながら手を振ってくれる司書のお姉さん。
 頭の中は何が起こってるのか? 状況が全くつかめず混乱するばかり……でも、新江崎さんの入った場所へ足を踏み込んだ途端……。

「うわぁ……すごい……」
「どう?」

 図書館の奥、増築された部分の更に隠された場所にあった倉庫。そこには壁一面に様々な医学書が並べられていた。快適な湿度と温度に保つ空調設備が完備され、更に奥にはゆったりとしたソファーや机、パソコンやコピー機まで置いてある。
 置いてある書籍は古そうな本から、新しい物まで様々だったけど、どれも大切にされていると一目でわかった。

「本当はね、ママが捨てるって聞かなかったんだけど……捨てたら医者になるの辞めるわって言って……ここに造らせたの」
「凄いよ……、こんなに沢山。新江崎さんのお父さんって、すごく立派なお医者さんだったんだ。ほらっ見てよこれ、こんなにボロボロだけど、すごく丁寧に直して書き込みが……」
「――――ッ!? あ、当たり前でしょ? わ、私のパパなんだもの。失礼だわって、きゃうっ」

 ボクの背筋をゾクゾクした興奮が駆け抜ける。手近に抜いた本には細かい部分に色々な書き込みがあって、かつてこの本を使っていた人がどれだけ真摯に医学へ取り組んでいたか一目で解った。
 新江崎さんの手首を握り彼女へ見せ付けるようにして、同じ本を覗き込みその書き込みを示す。ページをめくる度、持ち主への尊敬の念が沸き起こる。

「見てよ、ここなんてさ……ほら」
「あっあぅ、そ、その……柊クン。か、顔が、お顔が近い……その……あ、あの……」

 ゾクゾクとした興奮……母さんはボクの前であまり必死に勉強してる様子を見せた事がなかった。だからあまり解っていなかったけど、こうやって他の医者が勉強していた形跡を見ると、ボクが今まで勉強に打ち込んでいたことは間違っていなかったんだって……肯定されたような気がした。
 そして、ボクももっと勉強して技術を磨かなきゃならない……と強い決意を抱く。
 ――そう救われたように感じたボクは、他の本も読んでみようと我に返って……、新江崎さんの手首を掴んだまま、メチャクチャ顔を近づけていた事に気付いた。

「うっうわわわっ、ご、ごめんなさいっ」
「――――ぅぅぅ!!」

 メチャクチャに怒っているんだろう。顔を恐ろしく真っ赤にした新江崎さんは、何も言わずに勢い良くドアを開け外へ出て行く。そのパタパタと遠ざかる足音を呆然と聞きながら……ボクはゆっくりとため息をついた。  




[24259] ・第7話 【小学校編⑤後編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/01/06 16:40
 ・第7話 【小学校編⑤後編】


 ◆


 新江崎さんが顔を真っ赤に染めて――図書館の中にも関わらず――足音荒くこの場所を飛び出してから5分程度が過ぎた。
 けれど彼女は未だに戻ってこない。最初、追いかけて行って謝るべきだろうか? と悩んだけれど、逆に事態を悪化させそうな気がして足が動かなかった。
 それに彼女の性格から考えると、すぐに戻って来てさんざんイヤミを言ってくる――「この野蛮人! これだから他所者は!」などなど――と思っていたけれど、案に相違して何の音沙汰も無く時間だけが過ぎていく。
 なら相当に怒っていた様子だから……ボクとは口も聞きたくなくて帰宅したのだろうと判断を下した。

「はぁ……」

 まあこうなっては考えても仕方ない……ため息をついた後、椅子に腰掛け念願の医学書を読み始めることにする。来週の月曜、彼女に会った時が怖いけど、それはそれ。
 気を取り直して本を開いた瞬間、ほのかに立ち昇るかび臭い匂い。けれど不快ではなくってどこか懐かしく温かな気持ちが呼び起こされていく。
 ゆっくりと深呼吸を一つ。ガラスから入り込む柔らかな5月の陽光に照らされ、机に座ったボクは静かに本のページをめくり始める。

「……」

 瞬間、ボクの意識は完全に本へ吸い込まれた。机の上に置かれているのは、解剖学の古典であり名著と呼ばれている一冊の本。
 今から150年以上前に初版が発行され、現在でもなお改訂や修正を積み重ね、売れ続けているという凄い書籍だ。全編を通し英語で書かれているけど、これでもか、というほど細かく人体の構造が描かれている。
 きっと『オレ』もこの本を読んで勉強したに違いなかった。それに、この本の持ち主である新江崎さんのお父さんも……。

「すげ……」

 思わず口から言葉がこぼれる。それほど本に対する細かな書き込みや考察、付箋の数が凄かったからだ。書き込んでいないページが無いと言っていいほど。細かな文字でビッシリ臨床と比較しての疑問点や、出会った特例についての書き込みがなされ、本のページから沸き起こる熱気に眩暈さえ起こりそう。
 人体……ひいては人間、患者にこれほど真剣に向き合っていた新江崎さんのお父さんは、本当にいいお医者さんだったんだろうな……と思う。ボクもその熱意に負けないように、ランドセルから最近使っている方眼ノートを取り出し、気合を入れながら机に広げる。

「……よし」

 深呼吸を繰り返し、いつものように人体をイメージ。譲られた『オレ』の知識は凄まじいけど、得て不得手があるようで、少しぼんやりとした箇所もあった。そこを補うように、医学書と見比べながらしっかりと肉付けしていく。
 サラサラと動く筆先へ身を任せるように集中し、真っ白な方眼ノートへスケッチを行なう。足りなかった知識がめまぐるしい勢いで補完されていくような充実感――乾いた砂が水を際限なく吸い取っていくように、ボクの知識が満たされていく。
 でも足りない……もっと、もっと色んな知識が欲しい。ボクは知識と技術を磨きたい……それが、救えなかった人達に対して唯一できること……『オレ』と『ボク』が望む事。

「……こほんっ、こほんっ!」

 そして脳裏へぼんやりと浮かんでくる大切な家族、桜の姿。それは今の幼馴染とは違い、20歳くらいの姿へ美しく成長していた。入院用の浴衣――柔らかな綿素材でピンク色のシンプルなデザイン――でさえ、まるであつらえたように似合っている。
 胸は控えめだけど美しくバランスのとれた容姿。伸びた黒髪はゆるやかにうねり、折れそうなほど華奢な肩へ流れている。真っ白なきめ細かい肌、薄紅色でふっくらとした唇、わずかだけ赤みの差した頬、カールした長い睫毛、ずっと閉じられたままの瞳……そして全身に挿さったチューブ。

「…………ん?」

 集中しきっていた状態で一心不乱に鉛筆を動かし続けていたボクの意識に一瞬、何かのノイズが走った。
 ――誰か、咳払いをしたような……まさか新江崎さんが戻ってきた? ボクは咄嗟にノートを閉じてランドセルの中へ押し込む。我ながら恐ろしいくらい精妙なデッサンが描いてあるこのノートを、もし彼女に見られでもしたら、絶対面倒な事になる。
 素早く入れ終えたあと、何気無い風を装ってボクは咳払いが聞こえた気がした背後へと振り返った。

「あれ?」

 しかし、そこには予想に反して誰もいない。視線の先にはこの倉庫と図書館本館を隔てる木製の扉があるだけで何の変化も見られない……。

(……いや、違う)

 よく見ると違っている。さっき新江崎さんが飛び出して行った時、完全に閉められた筈の扉に、わずか5センチほどだけど隙間が出来ていた。
 やはり彼女が来たんだろうか? いや、それとも司書のお姉さんが何か用事があったのかもしれない。
 何にせよ、その5センチ程の隙間が気になったボクは椅子から立ちあがり、ドアへと向かう。がその時、扉の向こうからどこか笑いを堪えているような女性の声が響いた。
 ボクはマナーが悪いとは思いつつも、扉を閉めるタイミングを逸して、ついその言葉を聞いてしまう。

「あら、沙織樣。さっきから出たり入ったり……大丈夫、上手に隠せていますから、ふふっ、そう緊張なさらずに」
「ち、違うわ。その、ちょっと用事を思い出して、本当よ。何で私があんな奴に緊張しなきゃならないのっ」

 楽しそうな声と対称的に、つんけんとして怒っているような声。何度も聞き覚えのあるその声……間違いなく新江崎さんだ。もう一人の声は誰か解らないけど、それはどうでもいい。
 ヤバイ……とツバを飲み込む。今、ボクは偶然とは言え、まるで盗み聞きをしているような格好になっている。もし今すぐに扉を開けられたら、気まずいってものじゃすまない。
 焦って素早く扉から離れようとした瞬間、……しかし、非情にも勢い良く開かれるドア。

「――っっ! っう……!?」
「や、やあ、新江崎さん。さっきは……」

 ボクと新江崎さんの視線が真正面からぶつかり合う。……驚きに大きく開かれた瞳、そして見る見るうちに彼女の顔が真っ赤に染まっていく。
 腰までの長さを持つ黒髪、凛として整った顔立ち、細めの眉と切れ長の瞳、大きな胸の前の赤いリボン、握り締められたコブシ、黒タイツに包まれた長い足。それら全てから、形容しがたいオーラが吹き出ているように見えた。

「――っ!! どきなさいよ、わたしも中に用があるんだからっ。何よ」

 睨み合いは一瞬で終わり、新江崎さんは語気荒く言葉を言い放った後、ボクの横を通り抜け、早足で倉庫の奥へと入っていく。ふわりとたなびく彼女の黒髪。
 その瞬間……、ボクの周囲へ甘いような、何とも言えない良い香りが漂った。

「ふふふ、それでは仲良く、静かにお願いしますね」
「えっ?」

 笑みを含んだ声と共にスルスルと閉まっていく扉の向こう、チラリと見えるのは入り口で会った司書さんだった。ニコニコと微笑みを浮かべつつ、ごく当たり前のように扉を閉じていく。

「うわっ、ちょ、ちょっと」

 このままだと、この空間に新江崎さんと二人きりになってしまう……。確かに彼女とは親友の恋の助言もあって今までのギスギスした関係を改善し、あわよくば友人になりたいと思ってはいたけど……さすがに唐突過ぎる。
 それにボクがさっき腕を掴み、顔を近づけすぎていた事で絶対に怒っているはず。できれば医学書を持って外で読みたい、と思い足を扉へ踏み出した瞬間。

「ちょっと、ドコに行くつもり? まさか私と同じ空間が嫌だって言うの?」
「え、あ……そんな事ないよ」

 背後からかけられるツンと冷たいようで、しかし怒りを含んでいるような、でもちょっと違うような……? よくわからない響きを持つ声が聞こえた。
 なんというか、子供の頃から他人へ命令する事に慣れきった威圧感のある声で……その迫力にボクは呑まれてしまい、うまく言葉が返せない。
 それに面倒くさいからと避けていたら、親友の恋が言っていた通り、結局誰とも分かり合えたりしないのだろう。なんとか踏みとどまって振りかえり、倉庫の奥へと足を進める。
 ボクがさっきまで座っていた椅子へ向かう。……そのすぐ隣の椅子には、長い足を組んだポーズでどこかつまらなさそうに遠くを見つめている新江崎さんが座っている。
 彼女の視線が、ほんの一瞬だけボクの顔を素早く横切り、ピンク色の艶がある唇が動く。

「その……、あなたがパパの本を破いたりしないか心配で仕方なく隣に座ってるんだから。も、文句は言わせないわ」

 赤い顔のまま視線を窓の外へ向け、顎に指先をあてたポーズのまま言葉を言い切る彼女。そのあまりに失礼な物言いに、ちょっとカチンとくる。こんなに大切に扱われてきた本を、ボクが破ったりする訳が無い。胸にあふれだすムカムカした感情。
 それを直接、ぶつけようとして……新江崎さんの指が、ほんのかすかだけど震えているのが見えた。まるで、緊張している子供みたいに。
 どうしてなのか、自分でもはっきり理解できないけれど、その震えている指先を見た瞬間、ボクの胸のムカムカはス……っと消えていった。一気に冷静になっていく感情。
 そう、ボクにとって母さんや桜が大切な家族であるように、新江崎さんにとってお父さんは大切な家族なんだ。

「――そんな事しないって約束するよ。お父さんがとても立派なお医者さんで、この本をすっごく大切に扱ってたって解る。だから絶対に傷つけたりなんかしない。……それに、新江崎さんにとってお父さんは大事な家族だから、置いていった本を他人に読ませるのが心配だってのも理解できる」

 ボクだって、もしも母さんがいなくなってしまい、その残された本が仲の悪い他人に読まれるとしたら心配で堪らないだろう。できるだけ心をこめ、誠実さが伝わればいいと願いつつ、新江崎さんを見つめたままゆっくりと言葉をつむぐ。

「だから、大切なこの本達が傷まないように注意して読むようにする。ボクに読ませてくれて、ありがとう、新江崎さん」
「――ッッ!! わ、わ、わかればいいの、グズグズしないで早く座りなさいよ、ほらっ」

 まだ怒りが治まってないのか、どこか赤い顔のままボクと視線をあわせようとしない彼女。だけど――かなり乱暴にだけれども――わざわざ椅子を引いてくれて、座るように言ってくれた。
 まあ、なんとか仲直り……と言っていいのかも知れない。胸のうちで安堵のため息をつきつつ、ボクはゆっくりと腰掛けた。
 その途端、隣に座っている彼女が、ジト……とした横目でボクを睨みつつ、つまらなさそうに口を開く。

「しかし生意気よね、小学生の癖に医学書なんて。何よ……英語の勉強のつもり?」

 あまりにもストレートな問い。だけど当然の疑問だろう。普通の小学生は医学書なんて絶対読まないだろうから。けれど、新江崎さんの方から、英語の勉強のつもり? と聞かれて少し助かった。
 何気ない風を装いながら、ボクは言葉を返す。

「そう、それも当然あるけど……うーん、将来、ボクは絶対に医者になるって決めてるから。だから、少しでも早く読みたいって思ったんだ。趣味みたいなものだよ。でも変といえば変だよね」
「何よ、自覚があるんじゃない。そうっ、貴方ってすっごく変! 小学生の癖にそこまで強い決意を持ってるなんて、ホント生意気だわ、わかってるの?」

 不機嫌な様子を隠す気も無いんだろう、赤い顔のまま窓の外を見て視線を合わせようともしない彼女。綺麗に整えられた爪先――よく見るとキラキラした小さなビーズなんかが着いている――を口元にあてた格好で、チラチラとボクに冷たい視線を向けてくる。

「そんなの新江崎さんだって一緒じゃん。医者になるって決めてるんだろ? なら新江崎さんだって変人じゃん。はは、同じ変人仲間だね」
「――――っ! だ、誰が仲間ですって!? 失礼しちゃうわ」

 ガタンッと音を立て、新江崎さんが椅子から立ち上がる。よほど怒ったのか、ボクと絶対に顔を合わせたくない……といった感じで、あらぬ方向を見つめている。
 そのまま、出口へと足を踏み出す彼女。しかし、余所見をしていた為に、偶然椅子の足が……。

「ちょっ、危ない」
「きゃっっ!」

 フラリ……といった感じで体勢を崩し、床へと倒れそうになる新江崎さんのカラダ。
 ――その瞬間、ボクの両手は、彼女がバランスを崩したと同時に反応し素早く正確に動く。立ち上がりながら、彼女の恐ろしくほっそりとしたウェストに右手をまわし、サラサラとした手触りの黒髪を感じつつ小さな頭を左手で受け止めた。
 それと同時、空中を一瞬さまよっていた彼女の両手が、支えを求めてボクの首へと回される。新江崎さんの体――いろんな所が柔らかく、熱く、そしてとてもいい香りがする――を優しく抱き止めることが出来た。

「大丈夫?」
「あ、う、うん……」

 腕の中、超至近距離で顔を近づけあうボク達。危機一髪だったせいか、それともそれ以外の理由からか、心臓がバクバクと激しく鼓動して、新江崎さんに聞こえちゃうんじゃないかな? と馬鹿なことを一瞬考える。
 だけど、なんとなく離れがたい。照れくさい……って思ってるのに、こうやって見詰め合うのも悪くないって思う自分がいた。

「……その、柊クン、さっきはゴメンなさい。えっと……少し失礼だったかも」

 きゅ……とボクの首と肩を掴んだ彼女の手に力が入る。見上げてくる彼女の潤んだ瞳、ピンク色の頬。恥ずかしそうに噛みしめられたピンク色に光る唇。
 こんなに至近距離で、桜以外の女子と顔を見合わせたのは初めてで、新江崎さんってとてつもなく綺麗なんだと……馬鹿みたいにぼんやりと思ってしまい上手く返事が出来ない。

「私、その、ちょっと天邪鬼……というか、その、どうしてかわからないのだけど、柊クンの事を考えると、その……、胸の奥がきゅって……あの」

 物凄く胸がドキドキとうるさい。ボクの腕の中で、普段あんなにギスギスしていた新江崎さんが、とてもしおらしくって……そのギャップからだろうか? 脳が沸騰しちゃってるように何も思いつかない。
 ボクを見上げるように見つめる彼女も、離れようとせずに口を動かし続ける。その度、とてもいい香りが立ち昇って、その芳香がまた、ボクの心をとろけさせていく。
 不味い……何か、とんでもない事をしちゃいそうな雰囲気。ボクの全身にゾワゾワとした感覚が走り抜ける。

「あの、新江崎さん。その……」
「えっ、なっ、なにかしら?」

 照れたように、はにかんだ微笑みを浮かべている新江崎さん。普段見たことが無い、その表情がますますボクの脳を沸騰させていく。やっぱり彼女はとんでもなく美少女だ。ここで、こうやっているのが信じられない。夢のようにさえ思える。
 はっきり言って、自分が何を口走ろうとしているのか理解できない。ボクはぼんやりとしたまま、脳裏に浮かんでいる事を思わず呟くように言葉にしてしまった。

「そのさ……不思議なんだ。にきびが無い。さっき顔を近づけた時は、新江崎さんの額に赤いにきびがあったのに、今は無い。綺麗だ」
「――――え?」

 最初、この部屋に案内された時、ボクは新江崎さんの腕を掴んで顔を近づけた。その時は無我夢中で気付かなかったけど、どこかで意識していたんだろう。
 こうやって再び彼女と顔をすごく近づけてみると、あの時の映像が脳裏にダブり、そしてニキビが無くなっている事に気がついた。さっきはポツンとした赤いにきびがあったはずなのに、今の彼女のおでこには見えない。
 新江崎さんの肌はきめ細かく、とてもスベスベとして綺麗で……奇跡のようにさえ思えて、ボクはただその通りに呟いた。

「――ッッ! ううっっ、アンタって奴はっっ!! この変人っ! もう、離れなさいよっっ」
「えっ、ちょっ、暴れたら危ないよ」

 新江崎さんの両手がポカポカとボクの胸にあたる。何か失礼な事を言ってしまったんだろうか? 思ったまま呟いただけなのに……。
 暴れる彼女に手を焼きながらも、ゆっくりとバランスをとらせるように手を離す。

「調子に乗らないでよね! アナタの為にお化粧したんじゃないんだからっ!」
「えっ? ええ?」 
「うううっっ、気にしてるコトをっ! 最低っ、最低よっ!」

 今度こそギラリ……とした鋭い視線を向け、大股で扉の向こうへ出て行った新江崎さん。赤い顔、グレーチェックのミニスカート、黒いタイツに包まれた形の良い足の残像が脳裏に映る。
 そして、ボクは何が悪いのか本当にわからないまま、ぼんやりと立ちすくむ。

「そんな酷いこと言った?」

 ――結局、それから新江崎さんは本当に戻ってこなかった。ボクは2時間くらい――ときおり上の空になりながらも――しっかり医学書を読んで、デッサンを行なった。
 そして日が落ちた夕方の帰り際、図書館の受付で、

「あ、柊君だよね。伝言があるわよ。……えっと、沙織お嬢様からね『これから医学書を読む時も、貴方が全く信用できないので、今後も監視に立ち会うから、私に丁重に声をかけるように』ですって。ふふふ、可愛いわね」

 全然可愛くなんかなくって、単なる嫌がらせとしか思えない……思わず憂鬱になってしまう。しかし何が楽しいのか、ニコニコと微笑んでいる司書のお姉さん。口元に手をやって、クスクスと何度も思い出し笑いを繰り返す。

「それじゃ、柊君、沙織お嬢様と二人でまた来てね。それから、女の子を傷つけるような事、言っちゃだめよ?」
「あ……はぁ……」

 にこやかに手を振られたけれど、まともに返事をする気力さえわかない。ニキビを指摘する事が、そんなに悪いコトだったんだろうか? 全く、訳が解らない。 
 明日の休日、恋に聞いてみよう……と思いながら、ボクは一人、とぼとぼと家路を急いだ。
 



[24259] ・第8話 【小学校編⑥前編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/01/09 06:22
 ・第8話 【小学校編⑥前編】


 ◆


 人気の無い古びた駅の待合室、まるで骨董品のようにボロボロな木製のベンチに腰掛けたまま、ボクはぼんやりと親友を待っていた。待ち合わせの時間は9時、けれど、すでに時計の針は9時10分を示している。
 しかしまあ焦る事はない。9時20分発の電車に乗り遅れなければいいのだから。あと少しで恋は来るだろう。

「ふわぁ」

 大きく背伸びをしながら欠伸をしつつ、古びた駅の中を見渡す。出口付近に紙コップ式のジュース自販機、入り口横にはピンク色の公衆電話とボロボロに破けた電話帳が乱雑に置かれている。白い髭を生やしたおじいさんの駅員(背筋がピシッと伸びている)が、古びた透明ガラスのむこうで、無言のまま何か作業を行っていた。紺色の制服にはシワ一つなく、キッチリとアイロンがあてられている。
 そんなところまで含めて、この駅はいつ来ても変わらない……といった感じだ。どこか不思議な安心感のようなモノさえ覚えつつ、ボクはぼんやりと駅員さんの作業を見守っていると、

「ゴメン、そしておはよっ、ちょっと出かけにじいちゃんに捕まっちゃってさ」

 少し息を切らしながら、大声で謝罪しつつ恋が駅の待合室へと飛び込んできた。自転車の鍵を肩にかけたバッグへ入れ、謝るように片目をつぶる。

「大丈夫。それよりホームに行こうぜ、ほら切符。先に買っておいた」
「ありがとアキラ。帰りの切符は払うから」

 真っ白な歯を見せながら、華やかな笑みを浮かべている親友の手へ切符を渡す。全力で自転車をこいで来たんだろう、細い首筋を汗が流れていた。
 趣味の陸上の為、健康的な小麦色にやけた肌、茶色で軽くクセのある柔らかなショートカットの髪型。太ももむき出しのデニムショートパンツ、足元は真っ赤なハイカットスニーカー、そして水色のフードつきパーカー。
 とても恋に似合っていて、いかにも運動が大好きって感じの格好なんだけど、しかし中性的というか……よりはっきり言えば女の子のようにしか見えない。
 それは恋の大きな瞳や可愛らしい顔のパーツだけの問題じゃない、雰囲気からして普通のクラスメイトの男子とは違う。親友、神無月恋にはどこか不思議な感じがある。上手く言えないけれど、まるで妖精のように現実離れした雰囲気……。
 まあ、そんな事は関係なく恋はかけがえのない親友なのだけれども。

「うううっ、すっごい楽しみ! ずっと観たかったんだよね。ほんと待ち遠しかった」
「どうかな? 映画ってさ、予告編が一番面白そうに思えるから」
「もうっ、すぐそんな意地悪言って。いやまあ、そういう映画もあるけどさ、今日はアタリだよ! だってね……」

 今日観る予定の映画の話をしつつ人気の無いホームに移動していく。大きく身振り手振りをまじえながら、熱っぽく俳優の話をする親友。よほど楽しみなのか、ニコニコした笑顔を浮かべつつ映画のあらすじを語りかけてくる。

「……でさ、この視覚効果がすごいんだって、それだけじゃなくってさ……って、ちょっとアキラ、もう、ちゃんと聞いてよ」
「あはは、聞いてるってば」

 話を聞け、と言わんばかりにボクの腕を握りしめてガクガクと揺らしつつ語りかけてくる恋。
 親友であり学級委員長でもある恋の趣味は映画鑑賞で、かなり筋金入りだ。邦画、洋画、アジア系を問わず、ジャンルは恋愛からコメディー、スプラッター系ホラーまで、映画と名のつくものなら全部好きらしい。
 ただ、ボク達の町には映画館なんて気のきいたモノは無い為に、映画を観るためには電車に約30分ほど乗って、近隣の大きな市――後橋市へと移動しなければならない。

「あっ、電車きた! ほらアキラッ」
「ちょ、そんなに引っ張るなって、そんなに慌てると危ない……」

 よほど待ち遠しいのか、ボクを引っ張るようにして電車へ乗り込んでいく親友。背が低く華奢な体格のために、こういう風に無邪気だとまるで年下の弟か妹のような気分になる。

「だってさ、仕方ないじゃんっ。アキラがじいちゃんを説得してくれるまで、ずっと後橋市に行けなかったんだもん。今も映画館に行けるってだけでさ、すごくドキドキしちゃうんだよ」

 ボクの腕をひっぱりながら、肩越しに振りかえりつつ満面の笑顔を浮かべる親友、恋はおじいさんとおばあさんとの三人暮らしだ。何度か会った事があるけれど、そのおじいさんと言うのが、元々どこかの大学の偉い教授でものすごく威圧感のある人物。両親がいないただ一人の孫――つまり恋――を甘やかす事無く、厳しく育ててきたらしい。
 それで数ヶ月前まで、恋は電車やバスに乗ることを禁止されていた為、後橋の映画館で観ることがあまり出来なかったそうだ。

「説得って、いや、そんなの偶然だし。それに恋には迷惑かけてばっかだしさ」
「ううん、迷惑なんてない。感謝してる、ありがとうアキラ」

 今から数ヶ月前、母さんの診療所へ健康診断で訪れていた恋のおじいさんと将棋で勝負をした、といってもおじいさんは駒をおとしたハンデ戦だったけれど。
 まあ、それでなんとかギリギリ勝てたボクは、――その頃、全国小学生能力模試のことで助けられたばかりの恋に恩を返したくて――ボクが一緒ならば、という条件で恋が後橋市へと出かけていい許可を得た。
 ただ、今思い返してみると、恋のおじいさんはわざとボクに負けたように思えるけれども。

「ま、いっか。それにボクも恋に買い物に付き合って貰えるから、お互い様だよ」
「ふふっ、そう言って貰えると嬉しいな。でもアキラって意外と迷子になるから、ボクがいないと危険かもね。あははっ」
「うるせぇよ」

 互いに笑いながら、並ぶようにして電車の座席へと腰掛ける。二両編成の車両はガラガラに空いており、小学生のボクたちでも遠慮せずに座ることができた。ジリリリリ……と、鼓膜どころか頭蓋骨まで震えそうな音をバックに閉まっていく扉。プシューという空気の抜ける音が唐突に終わり、ガタンッと電車が動き出す。

「それじゃ今日の予定は、まずアキラが行きたいトコ、えと……まずどこだっけ? なんかいっぱいあったよね?」

 肩からおろしたバッグから小さなメモ帳を取り出す恋。昨日の昼休みに今日の予定を立てた時に書き込んだモノ……を読みあげていく。そこに不思議そうな、はっきり言えば不審がっているような声色が混じる。

「えっと、釣具屋に、手芸屋、雑貨屋、工具屋、100円ショップに本屋。……あのさアキラ、昨日も聞いたけど、なんなのさコレ。本屋はいつもの事だけど、他が脈略無さ過ぎじゃない?」

 パッチリした二重まぶた、茶色の瞳でジト……とボクの目を覗き込んでくる親友。癖なのか、ピンク色の唇を褐色に日焼けした人さし指と親指で挟むように触りつつ、あきれたように言葉をこぼす。

「いいだろ別に。それにボクも趣味を持ったほうがいいって、さんざん言ってたのは恋じゃんか」
「ま、そりゃそうだけど、ちょっと唐突すぎて。その……何か悩みとかトラブルがあったらさ、遠慮なく言ってよ?」

 小柄な体格の恋が下から睨むようにしてボクをジロジロと見つめつつ、不満げに頬を膨らましている。その上目遣いが、どこか機嫌を損ねた子犬のように見えて、ボクは思わずにやけてしまった。恋の幼い顔立ちが怒っていても、全く怖くない……むしろ可愛らしいとさえ思えてしまう。

「むぅっ、何だよアキラっ。人が心配してやってるってのにっっっ」
「あははっ、ゴメンゴメン。お前って内面はしっかりしてるのに、外見とのギャップがさ……その、おかしくって、つい」
「なんだよそれ、どういう意味っ。もう、心配して損しちゃったよ、馬鹿アキラ」

 リズムよく進んでいく電車に揺られながら、ボク達は普段のようにじゃれあいつつ過ごす。電車の窓から見える風景、田園が広がる田舎の景色が徐々に山深くなり、そしてトンネルを潜り抜け後橋市へ近づく度に民家や建物が増えてくる。
 恋と映画や学校、テレビの事を話しこみ、ふと気付けば車窓から見える風景は、コンクリートのビルと工場の煙突、広い道路に広がっている多くの車などに変わり、都会の喧騒まで聞こえてきそうだった。

「恋、もう着くよ」
「うんっ、行こう。……アキラ、ボクから離れちゃダメだよ? すぐに迷子になっちゃうからさ。あははっっ」
「よく言う」

 軽口をたたきあいながら、電車が停車するのが待ちきれず、座席から立ち上がってドアへ移動するボク達。最初に乗った時に比べ、幾分か人の増えた車両の中をゆっくりと進んでいく。そして、徐々に車両のスピードが落ち……がたんっと最後に少し強めに揺れ、完全に停車した。
 空気の抜ける音とともに開くドア、一気に流れ込んでくる排気ガスとアスファルトの匂い……都会の空気。ソレを期待に高鳴る胸へと吸い込みながら、ボク達は一歩、足を踏み出した。


 ◆◆


 後橋の大きな駅を抜けた後、まずボク達が向かった場所はフィッシングショップ。もちろん、今まで釣りに興味など無かったボクは入るのも初めて。けれど、物怖じせず、更に勘のいい恋の助けもあって、欲しいモノをあっさりと入手する事ができた。――それは極小さいサイズの釣り針と糸。
 縫合練習の為にどうにか代用品を……と悩んでいたボクがひらめいた物だ。もちろん人体には使えないけれど、カエシの部分を削り、上手くカーブをつければ(医療用の針は半月型にカーブしている物が多い、当然、使用部位によるけれど)練習で人形を縫ったりするのには使えるはずだ。縫合は外科の基本で、何度でも体に覚えこませたい。

「ね、ねぇ、アキラ、こんなの買ってさ、本気で釣りをしちゃうの? ボ、ボク、あの餌のグニュグニュしたのちょっと苦手なんだけど」
「えっ? い、いや、釣りはボク1人でするからいいよ」
「またそんな事言って。うううっっ、でもあのグニャグニャしたミミズは……、あううっっ、背中がぞわぞわする」

 くだらない会話をしつつ針を数種買い込み――それから向かったのは手芸屋や工具屋ではなく、恋の提案ですごく大きなホームセンターだった。なんでも前に情報誌で見た時から、恋もずっと行ってみたいと思っていたらしい。
 店内にはあきれるほど巨大な空間が広がり、信じられないほど多様な種類の物が並べられていた。恋と二人、ショッピングカートを並んで押しつつ、店員さんに時々尋ねながら目的の物を選んでいく。

「アキラ? な、何これ? バッグにガムテープ、結束バンド、LED懐中電灯、安全ピン、ラップ、ワセリン、色んなサイズのハサミがいくつか、針金、色んなペンチ、裁縫セット、三角巾、テーピング、包帯、ガーゼ、他にも意味が解らないものがいっぱい……。何なの?」
「いや、つい買いすぎちゃったかも。あはは」

 買い物が終わったボクを心配するような視線で見つめてくる恋。確かに調子に乗って買いすぎてしまったかもしれない。
 思ったよりも品揃えが豊富で安かったから、ついつい購入をしてしまった。金額的な面でも、貯まっていたかなりの額のお小遣いを、半分くらい一気に使用した事になる。
 ボクと恋は一緒に後橋市へ来た事があったけど、今まで参考書類以外を買った事がなかった。それが急にこの買い物の量。不安なんだろう……いぶかしげにしている恋の背中を、誤魔化すように何度もポンポンと叩く。

「ちょっとサバイバル用のグッズなんだ。今年の夏はキャンプに行きたいなぁって、その、桜と母さんに話しててさ」
「えっ、あっ、そっかぁ小学生最後だもんね。へぇ……、先生と、それに桜ちゃんも」

 苦しい言い訳かな? と思いつつも、さりげなく会話をしながらバッグの中へ手際よく買ったばかりの物を詰め込んでいく。恋に気付かれないようにボクは何度も深呼吸を繰り返す。親友に嘘をついている罪悪感と、着々と道具が揃っていく高揚感が胸にあふれそうだったから。

「ああ、そうなんだよ。それでさ今から楽しみで、ちょっと張り切っちゃって」
「へ、へぇ、今日初めて聞いたな。ふぅん……キャンプか」

 それに予想外の掘り出し物もあった。恋がトイレへと向かった隙に密かに探しだし、高価だったけど思い切って購入してしまった物。まさか買えるとは思っていなかっただけに、すごく嬉しくて、ニヤケそうになる頬を誤魔化すのが精一杯。
 それは、使い捨て式の刃をもつ医療用殺菌済みのメス。しかも刃先の種類も豊富で、こんな場所で販売されているなんて最初、信じられなかった。どうやら精密作業をする人がカッター代わりに使用する為に一定の需要があるらしく、(数本だった事も合わせて)レジもあっさり通過して買う事ができた。
 まあ、不満と言えば、かなり高額な為に全種類を揃える事が出来なかった事――なにぶん、総額だと5万円ほどかかる計算――しかし、それはしょうがない。少量だけでも買えただけラッキーだと思う。

「さ、これでボクの用事は終わった。じゃあ、映画の前にご飯だったよな」
「あっ……うん」

 買った物をコンパクトに全て収納し、そのバッグの留め具をボクは肩へとカチャリとセットする。ズシリと肩に重みがあるけれど、どこか懐かしいと感じてしまう。

「えっと昨日、恋が行きたいって言ってたトコって、あそこの地下フードコートだっけ? 行こうぜ」
「あ、アキラ、待って、その……」
「ん、何?」

 目的のショッピングモールへ向かおうとしたボクの背中に、おずおずといった感じで声がかけられた。振り返ってみれば、どこか暗い様子、俯き加減の顔で親友が立っている。

「……ボ、ボクも最後だから一緒にキャンプに行きたいっ……んだけど……、その、えっと……、ごめんっ! やっぱ何でもないっ!」
「えっ? 何? 最初が小さくって聞こえない」
「あっ、ううん、何でもない。やっぱいい。ほらっ、早くお昼食べなきゃ映画に間に合わなくなっちゃう。行くよ、アキラ!」
「ちょ、走るなよっ」

 何かを吹っ切ったように元気良く駆け出す親友。どこか不思議に思いつつも、その後ろを見失わないように、ボクも足を踏み出した。


 ◆◆◆


 手早くファーストフードで昼食をとったあと、お得な小学生料金を払い、ボクは親友と大きな映画館の中へと入る。公開されてからあまり日が経っていない事もあってかなり混雑していたけれど、運良く程よい位置の座席を確保することが出来た。
 映画の始まる前の数分間の緊張、それがボクは好きだ。いくつかの広告や映画予告編ではザワザワとしている観客席が、映画本編が始める直前、ピンと張り詰めたように静まり返っていく。その不思議な一体感……、名も知らない大勢の人達がこの一瞬だけは同じ目的でココにいる、という事実。その独特の空気がたまらない。
 ――そして始まる映画のストーリー。それは恋のオススメしていた通りに素晴らしいものだった。
 それから2時間後……。

「ううっ、悲しい。ほんとに悲しすぎる。あんな終わり方ってどう? ねぇアキラ! 酷いと思わない?」
「ああもう、いいかげんに泣きやめよ。それに、そんなに酷いラストでもなかったじゃんか」

 映画館近くのショッピングモール地下、巨大なフードコートでボクは親友の顔あたりへハンカチを投げて渡す。映画は豪華なSFラブロマンス……といった感じの内容で、噂以上の視覚効果、わかりやすいストーリー、ハッピーエンドだけれどもどこか悲劇的な要素もただよう……といった感じで、とても面白かった。
 ただ、ストーリーが恋の心の琴線へ触れたらしく、コイツは映画館を出てからもずっとポロポロと泣きっぱなし。まわりのジロジロとした視線に晒されながら、ボクは親友を泣きやませようと必死の努力を続けていた。

「だって、『ラストダンサー』が好きって想いさえ主人公に言わないままなんて、そんなの可哀想すぎる」
「いや、そりゃそうだけど……」

 恋が言う『ラストダンサー』というのは映画の話、主人公によって創造された、85%が生体部品、10%が機械、残り5%が人間、という美しい女性の外見を持つ人型超兵器の名前だ。
 今から遙か未来、長く続くエイリアンとの戦争を終わらせる為に創造された究極の兵器。念動力、テレポート、時間加速能力などを中心に様々な超能力を駆使し、エイリアンを滅す死の舞いを美しく踊るモノ、そして人類最後の希望……文字通り『ラストダンサー』。
 その時代の超兵器エネルギーは『意志』が源となっていて、その『意志』をラストダンサーに宿らせる為に天才科学者である主人公が使用したのが、戦争で死んだかつての恋人の脳細胞。
 予想を遙かに上回る兵器としての圧倒的な性能を発揮し、エイリアンを次々と打ち破っていく彼女。しかしどういう不具合か、『意志』を使えば使うほど、かつて人間だった甘い記憶、主人公を愛していた想いがラストダンサーへと蘇っていく。
 けれど、自分はすでに死んでおりただの兵器にすぎない……とも理解する彼女。そして皮肉にも、その苦しむ感情が彼女の戦闘能力をますます向上させていく。
 主人公の科学者は、恋人を殺された恨みをはらす為、そして少しでもエイリアンに殺される人々が減るように……と、己を省みずに研究に没頭し続けており、ラストダンサーの葛藤に気付けない。――そしてラストダンサーも自分の記憶が蘇りつつあるコトは決して口にしない。なぜなら、かつての恋人である主人公に、死んでしまった自分を忘れ、新しい幸せな人生を歩んで欲しいから。
 苦しくて悲しくて、本当は主人公に気持ちを打ち明けたくて堪らないのに、自分が人では無いから……と、諦めて戦い続ける彼女。戦争が終わってしまえば、ただの兵器にすぎない自分は存在理由が無くなると知りつつ、死の舞を踊り続けていく。
 そして……エイリアンと人類の存亡を賭けた最終決戦が始まる。
 互いに全てを結集した総力戦の果て、戦闘用強化スーツを身に纏った主人公へと寄り添うように立つ美しいラストダンサー。様々な激戦を潜り抜け、とうとうエイリアンの本拠地中心部へと辿り着く二人、そこで選ぶ選択、最後のダンス。

「でもそうかもな。恋の言う通り、伝えたいコトはキチンと伝えたほうがいい。うん、少なくとも努力はしなきゃね。じゃないと悲しい」

 美しかった映画のラストシーンを思い出しながらも、ボクはぼんやりと『オレ』から知識を譲られた夜のことを思い出す。あの時……『オレ』はきっと、母さんと桜に会って、何かを伝えたかったんだろう。それは『ありがとう』とか、きっとそんなたわいの無い一言だろうけれど……。もし言葉に出来なかったとしても、それが一瞬だったとしても、どうしても会いたかったんだろう。

「だよね、うんっ。言いたい気持ちは伝えなきゃいけないよねって……」
「ん、どうした?」

 ボクの投げつけたハンカチを握り締め、勢い良く立ち上がった恋。だけど、急に語尾を弱めてヘナヘナといった様子で椅子へ崩れ落ちる。さっきまでの悲しんでいた様子ともまた少し違う、どこか自分へ愚痴るような雰囲気で口を開く。

「……そんな簡単に言えたら苦労しないよっ」
「ちょっ、いきなりどうしたんだよ恋?」
「なんでもない……ちょっとトイレに行ってくる。大丈夫だから、ハンカチありがと」

 ボクへハンカチを返し、どこかガックリした様子でお手洗いへと向かって歩く親友。その後姿は、普段見慣れている元気な様子とは全く違っていて、とても寂しそうに思えた。
 若干心配しながらも、ドリンクや荷物を置いたままの席を離れる訳にもいかず、人ごみに消えていく青いパーカー、華奢な恋の背中を見送る。

「なんだ?」

 さっきの口ぶりだと、誰かに何か言いたい事があるようだった。もしかして誰か好きな人がいるんだろうか? それで告白したいって事? わからない……。
 ボクは恋愛事ってのに全く興味が持てず、勉強だけに打ち込んできた。だから、こういった方面について全く知識が無い。けれど、噂だけど恋はカナリ女子から人気が高いと聞いたような気がする。

「アイツ、だれか好きなのかな、もしかして桜とか? いや、うーん、それはどうかなぁ」

 オレンジジュースの入ったコップにささった青いストローをズルズルと吸いながら考える。たしかに桜と委員長は昼休みに色々話をしてるみたいだけど……、ボクの感覚だと恋には失礼だが、仲のいい姉妹にしか見えない。
 それともひょっとして、逆に桜が恋の事が好きだったり? いや……桜はまだ子供で無邪気なバカだ、ボクと同じで恋愛なんて考えた事も無いハズ。というか、あの桜が恋愛なんて、ありえなさすぎて考えるだけで笑ってしまう。

「ああもう、こんなの全然わかんないや……って、あ、そうだ」

 そういえば恋に昨日の事――新江崎さんのニキビを指摘したら、どうしてあんなに怒られたのか――を訊いてみるのを忘れていた。あんまりあてにならないだろうけど、お手洗いから親友が戻ってきたら一番に尋ねてみよう……と、考えをまとめた瞬間。

「アキラ、これっ、これ見てよ。今配ってたの貰ったんだ、ほらっ」

 人ごみを巧みにすり抜け、さっきまでの落ち込み具合が嘘のような勢いで恋が姿を現した。なにかに興奮しているのか、紅潮した頬、茶色の瞳がキラキラと輝いてまっすぐに見つめてくる。
 その右手には何か紙……文字やイラストが印刷されたチラシを持っていた。それをドンッといった感じでテーブルへと叩きつける。

「落ち着けって、なにこれ?」
「よく読んでっ、本日開催、後橋市中央商工会ベストカップルコンテストだよ! 何と優勝カップルには商品券10万円分。準優勝でも5万、他賞品多数! 商品券は後橋市でならほとんどの店で使えるって、映画だって見放題って事さ」
「いや……そりゃすごいと思うけどさ、ベストカップルコンテストだろ? ボク達には全く関係ないじゃん」

 意味がわからない、と親友の顔を呆然と見つめてしまうボク。だけど恋は、全く問題ないっ……といった元気いっぱいの笑みを浮かべたまま堂々と胸を張る。

「受け付け開始時刻まであと30分ある。アキラ、輸入雑貨屋さんに行こうっ」
「え? 何、ごめん、意味わかんない」

 飲み残しのジュースを急いで処理し、半ば恋へ引き摺られるような形で、近くにあるオシャレな雑貨屋さんへと入った。そこは女の人が大勢いる店で、数多くの化粧品が試供品と一緒に所狭しと並べられている。
 全く物怖じせず、素早く化粧品が並べられてるブースへ移動する恋。

「えっと、ビューラーとリップグロス、うーん……、あと赤フレームの伊達メガネ。うん、まだ買える。それと……えっと、ねえアキラ! こっちのカチューシャと、このリボンだったらどっちが好き?」
「え?」
「もうっ、時間がないだろ。お願いだから早く選んでよっ」
「え?」

 あまりの急展開で脳がついてこない。いや、むしろ、理解する事を拒んでいるといったような感じで……。目の前にはボクを急かすように、ちょっと頬っぺたをふくらませながら見つめてくる恋の顔があった。それは可愛い女の子のように見える、――そう、知らない人だったら女の子だと思うだろう……って、まさかっ!?

「えっ、えええ!? こ、恋っ、お前っ!!」
「あははっ、ようやく理解した? さ、はやく準備を済ませて受付しちゃわなきゃ。ほら、どっちが可愛いかな?」

 笑顔を浮かべつつ、髪へパーカーと合わせたような水色のカチューシャをセットする恋。ボクは驚いたまま何も言えずに無言で頷きを送る。

「こっち? うん、わかった。それじゃあ買ってくる」
「ちょっ、恋っ!! 待てよ」

 そのままレジへと向かおうとする親友の腕をしっかりと掴む。それはとても華奢で、強く掴むとポキリと折れちゃいそうに弱々しく感じた。
 が、気持ちを切り替えて親友へ向かって口を開く。さすがにこれは行き過ぎた冗談だと思う。

「恋、こんなのおかしいよ。やめようぜ」
「…………」

 ボクの言葉に反応を見せず、押し黙っている恋。その華奢な体、肩が細かくフルフルと震えている。それを見ながら、ボクはもう一度言葉をかける。

「な? 不味いよ。おかしい……」
「おかしくないっ!! おかしくなんかないもんっ、嘘だよっ。今回だけの嘘、冗談なんだからっ! 優勝するなんて無理だってわかってる、冗談で済むから出たいんだよっ!! ボク、小学校を卒業したら関西の中学に行く事が決まってるんだ。こんなっ、こんなのっ、もう、一生無理だって……、その……」

 まるで泣きそうに顔を真っ赤にして俯いている恋。親友の悲痛な声色に飲まれてしまい、ボクは何も言えず、ただ立ちすくむ。

「つ、伝えたい事は、絶対に言っちゃいけない事なんだ。今日、あの映画を観て、悲しくて堪らなくて……それに偶然このチラシを渡されて……、ボク、ボク。お願い、アキラ。胸の奥が苦しいんだ。今回だけ、もう、こんな我儘言わないよ」

 正直、ボクは恋が何を求めているのか、全く理解できなかった。けれど何故か、ボクの胸の奥までズキズキと痛くて、恋の細い腕を掴んだ指をゆっくりと離した。

「意味、わかんないけどさ。その……、賞金がもし貰えたら山分けだからな!」
「うん……うんっ! 優勝目指して頑張ろうね」

 泣きそうな顔で無理矢理にニッコリとした笑みを浮かべる恋。ボクは何も言わず、強引に親友の腕から水色のカチューシャを奪い取る。

「ちょっ、アキラ!」
「ならこれは優勝の為の資金投資って事だろ? ボクがこの分は払う」
「――――っっ!! あ、あっ、ありがと……」

 自分でも良くわからないけど妙に気恥ずかしくって、恋の顔を見ないままレジへと向かう。顔を真っ赤に染め、背後から無言のままついてくる恋の気配さえ、何だかゾワゾワとした変な感じがして堪らなかった。
 
「ありがとうございました」

 レジのお姉さんの顔がとてもおかしそうに微笑んでいて……何故か、そんなどうでもいい事だけが、くっきりと脳裏に焼きつき離れなかった。

 



[24259] ・第8話 【小学校編⑥後編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/02/14 12:51
 

 ・第8話 【小学校編⑥後編】 


 ◆


 ――恋と初めて会ったのは、小学校2年生の夏だったと思う。
 うだるような暑さの中、彼は他所の県からボクの住む町の学校、同じクラスへと転校してきて、そして偶然一緒の班になった。校庭で鳴いているセミの声をバックに、少しはにかんだ笑顔で挨拶された事を覚えている。が、それで特別仲が良くなった訳ではなく、単なる顔見知り……という状況が5年生の頃まで続いた。
 5年生に進級したばかりの4月、ささいな事から母さんと血の繋がりが無いことを知ってしまったボクは、何かから逃げるように――もしくは義母とのつながりを求めるように――勉強だけへと没頭していた。
 もちろん母さんの背中にあこがれて、医者になる為に勉強しようという思いもあった。けれどその頃はそんな純粋な動機だけでなくって、怒りや恐怖をぶちまける対象として勉強を、ひいては医者を目標にする事を選んでいたように思う。
 言葉に出来ないドロドロした怨みと怒り、そして……もしかしたら医者にならなきゃ義母に捨てられてしまうんじゃないか? と、何の根拠もない馬鹿みたいな思い込みがベッタリと背中に張り付いて、どうやっても剥がれなかった。
 恋が話しかけてくれたのは、ちょうどそんな頃。日々、ひたすら勉強だけに没頭していたボクに、よく声をかける気になったものだと……いま、考えてみても不思議に思う。

「あの……柊君、覚えてるかな? ボク、神無月恋っていうんだ。ね、友達になってくれない?」

 ある金曜日の放課後、オレンジ色の夕日が差し込む教室で、勉強を続けていたボクにはっきりと投げかけられた言葉。誰もいない教室、赤く染まったクラスメートの机と椅子。運動場で走りこみをしていたのか、汗で褐色の肌に張り付いた体操服姿のままニッコリと微笑んでいる同級生の姿。

「何で?」
「何でって、その……覚えてない? 2年生の頃、君がボクを助けてくれた事。すごく……嬉しかった。それで、何か出来ないかなって」
「そんなの覚えてないし、どうだっていい。余計なお世話。勉強の邪魔しないで」

 本当にボクは何も覚えていなくて、酷く冷たい態度をとった。そんな散々な会話が、5年生になって初めて恋と交わした言葉。

「そう。でも……また声をかけてもいい?」
「知らない、勝手にしろよ。どうせ相手しないから」

 その頃は自分の実力を知る為に、9月に実施される全国小学生統一模試だけに集中したくって、他の事はどうでも良かった。突然話しかけてきた神無月恋についても、元転校生で2年の頃はクラスメート、3、4年は違う学級だった事くらいしか知らないし、興味も無い。
 今思うと、ボクはなんて生意気なガキだったんだろうと思う。普段会話をするのは桜と母さんだけで、クラス会なんかでも全く発言せずに参考書を解き続ける日々。他クラスメートの反感を抱くのも当然だったけど、それさえ柳に風と受け流していた。
 学校の教師は母さんが町で唯一の医者である事、新江崎家との問題が起こる事――新江崎家以外に医者がいるというのが、一部の大人にとっては大問題だったらしい――を恐れて腫れ物のようにボクを扱い、そんな不遜な態度も注意されなかった。

「柊君。ボク、学級委員長なんだ。と言うわけでさ、コレ、手伝って。クラス会で決まったの聞いてた?」
「はぁ? 何だよソレ!」
「あきらめなよ。元はといえば、君が全然参加してないのが原因なんだし。ふふっ、ま、ボクも手伝うから。ほら、ホウキ持って。あははっ、二人でやれば楽しいし、すぐ終わるよ、ね?」

 そんな傲慢なボクへあれこれと世話をやき、時に文句を言い、構ってくる恋。たまに委員長権限だと言い、強引に掃除や作業をさせられた。とても面倒だと思っていたが、今考えるとそうやって命令で半ば無理矢理にでもやらされていなければ、クラスメートの不満が一気にあふれ出し、ボクは喧嘩やイジメの対象になっていたかもしれない。
 普通、子供は子供なりに小学校という共同体で生活し、そこで将来のための人付き合いを学ぶ。それは勉強の成績とは関係が無いけれど、ある意味では勉強よりもずっと大切な事。そんな社会性を学ぼうとしなかったボクだったけれど、恋のおかげで――多少強引にせよ――ようやく理解しはじめていた。
 当初、面倒くさいと恋を拒絶し続けていたが、委員長権限で用事を言いつけられ、作業中などに少しずつ会話をするようになり、それが参考書の貸し借りへと発展するのにさほど時間はかからなかった。

「へぇ、委員長も県外の中学に進学するんだ。やっぱり東京? 公立それとも私立?」
「た、たぶん東京だったかな? とにかく私立だよ、うん。とうさ……いや親戚。その、ずっと昔に会った事がある親戚がさ……コッチにこないか? って。でも迷ってるんだ」

 ボク達の住む田舎町は関東の西北部にあって、極一部の生徒は東京の中学校へ受験進学することもあった。医者を目指すボクも当然そう考えていたところ、恋も同じ受験進学目標だと知り、さまざまな事を話し合い、少しずつ打ち解けていく。
 それによって背中に貼り付いて剥がれなかった恐怖、不安、怒りのようなモヤモヤは徐々に影をひそめていった。
 そして9月、夏休みが終わった頃には、恋はボクの数少ない友人のような存在になっていた。5年生の2学期に入り、昼休みに桜を交えて――恋と桜の仲はかなりギクシャクしていたけれど――三人で図書室で過ごす事も増えた頃、小学校全国模試の結果が発表され……そしてあの事件が起こった。


 ◆◆


 後橋の中心市街地には、歩行者専用の広くて綺麗な道路があり――端には延々と花壇が並んで季節ごと色とりどりの花が咲く――そこはオシャレな赤レンガなんかで舗装されている。
 この道路はイベントなどがある際にはメインスペースとなり……現在、多くのカップルがひしめきあっている状況だ。
 年齢は本当にさまざまで、一番多いのは中、高校生から25歳くらいまでのカップルだけど、仲むつまじいおじいさんとおばあさんというペアもあれば、小さな子供を連れた夫婦もいる。そして数は少ないけれど、ボク達と同じくらいに見える小学生くらいのカップルもいた。
 ざっと見て総参加数、100組程度といった所だろうか? 

「ううっ、アキラ。緊張してきちゃったよ、ボク……じゃなくて、わ、私」 
「恋、もう諦めて普段通りに話せば? ボクって言ってもばれないと思うよ。どこから見ても可愛い女の子にしか見えないしさ」

 あまりの人ごみに離れ離れにならないようしっかりと手をつないだまま、周囲へ聞き取られないように恋の耳へ口を近づけてささやく。
 買ったばかりの水色のカチューシャを装着している親友。同じく購入した赤いフレームの眼鏡は、水色のパーカーの胸元へとアクセサリー代わりにぶら下げられている。ピンク色の唇はグロスを塗っている為か、つやつやとぷっくりした感じに潤んでいて、もともと長い睫毛もビューラーで綺麗にカールされていた。パッチリした二重、かわいらしい瞳が更に強調されていて、完璧に女の子、ショートヘアのボーイッシュ系美少女の外見だ。

「――っっあうっ、そ、そう? な、なら普段通りに話そうかな。へ、へぇ……ア、アキラの目から見ても、ボク、か、可愛く見えちゃう? へぇ、そうなんだ。ふーん……」 
「そりゃまあね、クソ生意気な桜なんかよりよっぽど可愛く見える……って、ほらっ、予選の結果発表だ」

 いくら賞金の為とはいえ女装しているのが恥ずかしいんだろう……頬を染めて俯きがちの親友。それをフォローする為――全くの未経験だけど――少しでもカップルらしく見せようとエスコートするように恋の手を掴み、予選結果が張り出された掲示板へ二人で向かう。
 予選結果……というのは文字通り、後橋商店街カップルコンテストに予選があったという事だ。親友が手に入れたパンフレットによると、今回で第3回目を迎えるこのコンテストは年々参加者が増加しており、今回から受け付けと同時にペーパーテストが実施されていた。
 テストの内容と言えば、後橋市に関する問題とパズルのようなもので、一定の成績をとったカップルだけが本選へと進めることができるシステム。

「あっ、あった! やった、あったよアキラ!」
「うん、やっぱラッキーだったよね」

 恋の指差す場所、掲示板へと張り出された紙にはボク達のエントリー番号がしっかりと書いてあった。
 しかし幸運だったのは、数ヶ月前、社会科の授業で後橋市について授業があった事だろう。それにより、けっこう難関だと思えた予選テストの内容も自信を持って答えを記入する事ができた。パズルに関しても、勘のするどい恋と二人で相談しあいながら解いたため不安はあまりなく、意外に合格できるかも? と密かに思っていた。

『それでは、予選を勝ち抜いた20組のカップルはこちらへいらして下さい。繰り返します。予選を……』

「よし、行こうぜ」
「うんっ、これからが本番なんだね」

 緊張した恋のささやき声と同時、つないだままの左手がきゅ……と握り締められる。親友の照れたように赤い頬と、ボクをまっすぐに見つめてくる潤んだ瞳、そしてグロスで輝いている唇。嬉しそうにはにかんだ笑顔。

「あっ、ああ……、そうだね」

 一瞬、本当に女の子――しかもメチャクチャに可愛い――へ見えてしまい、ドギマギとしながら返事を返す。全くボクはどうかしてる、……と自分にかるく嫌悪感のような感情さえ抱く。

「あのさ、アキラ……。ボク、この事をずっと忘れないよ」

 その時、まるで独り言のような小さな恋の呟き。視線を向ければ、嬉しそうに顔を赤らめて微笑んでいる恋の姿が目に入り、ま、いいか……と、ボクも笑顔で思った。



 ◆◆◆


 ざわざわとした騒音を聞きながら、ボクはゴクリと大きくツバを飲み込む。特設された壇上から眼下を見渡せば、ボク達本選出場カップルを見つめる多くの視線が突き刺さっていくる。そんな無遠慮な視線に晒される事に慣れていなくって、メチャクチャ緊張してしまう。
 そんなボクの心情を見透かしたかのように、きゅ……と腕を掴んできた恋が小さな声でささやく。
 
「ねぇ、アキラ、平気? ボク、棄権したっていいよ?」
「ん、いや……ちょっとビックリしただけ。大丈夫。頑張ろうぜ」

 心の底から気づかうような視線を受け、ボクの気持ちは奮い立つ。まるで臓器のスケッチを行なっている時のように、外の事は一切考えないようにする。壇上を見ている人々のざわめきや視線、遠慮のない言葉を全て意識から追い出していく。――集中、この壇上だけの事しか考えない。

『では始めます。第三回後橋商工会ベストカップルコンテスト! お題はコレだ』

 司会者の声と共に、ボク達20組の本選出場者の前へカラカラ音を立て長い台が運ばれてくる。上を覆い隠すように白い布がかけられていたが、ソレが一気に剥ぎ取られた。

「ん? これってお菓子じゃん」
「そうだよね、ごく普通のチョコスティックだけど?」

 ボクたちの前に置かれていたのは、皿に横たわったチョコのお菓子が5本くらい。細い棒状のサクサクした触感のプレッツェル芯にチョコレートがコーティングされた物。どこにでもあるメジャーなお菓子で、赤いパッケージは誰でも見たことがあるだろう。

『はい、それでは始めます。ルールは簡単、最初、口にくわえる以外、いっさい手を使わずにお菓子を全部食べたチームが勝ちです。ただし、途中でお菓子が折れたりして落ちたら失格。そして二人で仲良く食べる事です。つまり同じ一本の両端を互いが口にくわえた状態でスタートして下さい。いいですね。では準備を!』

 一瞬、意味がわからなかったけれど、細長い棒状のお菓子の形体を見て納得した。つまりこれは……。

「こういう事だろ。恋、それじゃソッチの端をくわえてよ。ほらっ、んー」
「わっ、そ、そんなコレって……、ア、アキラ……、ボク、ボク、心の準備がっっ、うわわっ、ええ、だって……、キ、キ、キ、キスしちゃったら」

 顔を真っ赤に染め、錯乱したようにブンブンと横へ頭部を振っている恋。口元に手で覆い隠し、ボクの顔をこれ以上ないってほど真っ赤な顔で見つめてくる。一瞬、ボクの胸がドキリとするほど可愛らしい。
 が、それを押し殺し何でもないように小さく言い放つ。

「恋、おちつけって。だってボク達男同士だろ? もし唇が触れても人工呼吸と一緒じゃん。男同士でのキスなんてカウントされないだろ。ほら、それより折ったりしないように気をつけてよ」
「そ、そ、そ、そんなっ無茶苦茶な。だって……ボク、ボク……、うううっっ、もうっ、知らないっ! 馬鹿アキラ、後悔すんなよっっ!!」

 瞳を閉じ、えいっという感じで唇に向こう側の端をくわえる恋。解ってはいたけど、互いの唇に20センチの間がない至近距離だ。委員長の真っ赤できめ細かい肌、グロスが塗られた妖艶な唇までしっかり見える。そして、どことなく漂ってくるレモンのようないい香り。
 いかん、集中だ。そう……手術に挑むような集中を!

『それではスタート!』

 司会者の合図でボクは一気に動き出す。サクサクと前歯を使い一気にお菓子を食べていく……のだが、目前の恋が全く動かない。顔を真っ赤にし、瞳をぎゅっと閉じたまま、よく見れば肩までフルフルと震えている。
 声を出して叱咤したいけれど、下手に口を動かすとお菓子を落としてしまう。いやそれどころか、このまま恋が不安定ならいつお菓子が折れてもおかしくない。
 ――仕方ない。ボクは両手を伸ばし、親友の肩をしっかりと抱きしめて固定し、そのまま顔を近づけてお菓子を食べていく。

『おお、資料によると、今大会異色の小学生カップル、柊アキラ君と神無月愛ちゃん、とても仲がいいぞ。会場も盛り上がる』
「きゃぁあああっっ」「うおぉぉぉぉ!」「ア、アキラ兄さんっ、神無月先輩っっ!! 何をっっ、何をしやがってくれてるんですかっっ!!」

 外野の歓声など一切気にしていられない。恋がはやく落ち着けるよう、ぎゅっと抱きしめたままでサクサクと一本目を唇ギリギリまで食べる。その隙間、わずか1センチも無いくらいだろうか? ほんのわずかでも動いたら、互いの唇が触れ合ってしまいそう。
 唇に触れないように注意して舌を使って、恋の口の中へとお菓子を押し込み、力を込めて華奢なカラダを抱きしめつつ、真っ赤に染まっている耳元へと囁いた。

「恋、ボクが頑張るから、そのままじっとしといて、大丈夫? 気分は悪くない?」
「気分は平気だけど……、ア、アキラ……ごめん。ボク、ボク、熱くって体の芯に力が入らないんだ……」
 
 コクン……と震えながら頷く親友。その柔らかな髪を優しく撫でつつ、新たなお菓子を唇へとくわえさせる。

「恋は何も心配しなくていいから。……いくよ。じっとしてて」
「ん……うん……」

 お菓子をくわえたままボクを見上げるように顔を上げ、真っ赤にそまった頬で瞳を閉じている親友。まるで……映画のキスシーンみたいだ、と一瞬考えてしまい、ドクンッと心臓が跳ね上がる。――いけない、集中、集中しよう。
 再び恋の肩を抱きしめ、無心にお菓子を食べ進み始める。瞬く間に、一本、また一本とお菓子が無くなっていく。ますます強くなる周囲の歓声……けれど全て無視する。 
 今、この瞬間、お菓子を食べきるまでは……恋とボクだけしかこの世界に存在しない。今日観た映画、美しいけれど少し悲しいラストシーンのように。


 ◆◆◆◆


 ガタンッ、ガタンッ、とリズムよく繰り返される線路の音を聞きながら、ボク達は無口のまま、帰りの電車、座席へと座っている。どちらともなく口を開こうとするんだけれど、視線が合うと恋が顔を真っ赤に染める為、会話が続かない。
 カチューシャはとっくに外してグロスも落としており、普段の親友と変わらないはずなんだけれど、ボクもどこか恋を意識してしまって恥ずかしい。全くどうかしてる……と、何度目になるか解らないため息をついた。
 その時、

「ア、アキラっ、そ、その……ごめんね。ボ、ボクが積極的に動いてたらさ、優勝は無理でも、3位くらいにはなれたかもしれないのに……」
「気にするなよ、図書カード貰ったし。それに下手に入賞してたらさ、写真なんかいっぱい撮られてたじゃん。きっと大変だったよ」

 ようやく恋が話しかけてくる。ボクは自分のモヤモヤした不思議な気持ちを切り替えるように、何でもなかった風に明るく言い返す。 

「そ、そう? でも確かにそうかも。優勝したカップルなんて、すっごく囲まれてたもんね」
「うん。それに下手に目立ったら、知り合いに気付かれるかも知れなかったし」

 実際、あの会場には相当多くの観客がいた。もしかしたら、その中にはボク達の知り合いがいたかもしれない。恋は偽名――愛という名前――で登録してたけど、もしかしたら気付かれた可能性もある。まあ、あの人ごみで、そうそうバレはしないと思うけれど……。

「でも……せっかくアキラにカチューシャ買って貰ったのに……」
「ったく、別にいいよ。親友だろ」

 そこで、ボクはハッと思いだす。おしゃれなカチューシャや化粧品を購入した雑貨屋、そこで恋は確か……。

「それより恋っ、お前さ。関西の中学に行くって言わなかったか?」
「……うん」
「どうしてだよ。東京の同じ中学にしようって言ってたじゃんか!」

 どことなく俯いた様子の親友。その細い腕をつかんだまま、ボクは言いつのる。

「ごめんねアキラ、言い出し辛くって。おとうさんが京都で暮らしてて、前から来いって言われてたんだ。それに、このままこの土地にいても……辛いからさ」
「辛い? 辛いって何だよ? 悩みがあるならボクに言えよっ! いっつもボクを助けてくれてさ、それなのに肝心な時は黙ってるのかよ!」
「ちょっ、アキラ、……腕、痛いよ。それに……ごめん。どうしても言えないんだ。でも今日の事で、少し救われた」

 まるで泣き出しそうな声……ボクは思わず手を離し、何も言い返す事が出来ない。

「アキラ。ボク、このカチューシャ、一生大切にする」

 電車の窓から差し込む夕日。それに照らされるように、ニッコリと微笑みながら言葉を話す恋。それはとても可愛らしい笑顔なのに……どこか泣いているような気がして。
 思わず抱きしめ慰めてやりたくなる。が、そんな衝動を無理矢理に押さえ込む。一体ボクはどうしちゃったんだ? と冷静さを取り戻す。恋は親友だってのに。

「恋、5年生の頃さ。お前が無理矢理話しかけてくれて……本当に良かったって感謝してる。何度感謝してもし足りない。本当だよ」
「ううん。ここ最近、アキラってずいぶん落ち着いた感じがする。きっとさ、ボクがいなくってももう大丈夫。うん……大丈夫っ……、ごめん……アキラ、少しだけ……こっち、見ないで……お願いっ」

 ――そのまま再びボク達は無言に包まれ、電車に暮らす町へと運ばれていく。背後から聞こえる恋の抑えた泣き声に、ボクは上手い言葉をかけることが出来ず、ただ無言でハンカチを差し出した。
 そして、引き伸ばされて永遠のように感じた時間のあと、電車は駅へと止まる。

「それじゃ来週の月曜だね……。そのときには、普段と変わらないボクだから! わがまま聞いてくれて、ほ、本当に、ありがとうっ!」
「うん。またな、親友」

 自転車に飛び乗り、みるみるうちに遠ざかっていく親友の背中。それを見送りながら、ボクは今日買ったばかりのバッグを肩へと下げ直す。少しずっしりした重さ……けれど、その重量がボクの意識をしっかりと立ち直らせていく。

「あっ、しまった……」

 その時、また新江崎さんのニキビについて尋ねるのを忘れていた事を思い出す。仕方ない、今夜は桜が家にいるハズだから……役に立たないと思うけど、アイツに聞いてみるとするか。
 と、考えをまとめ、家へと足を踏み出した時。

「兄さんっ、おかえりなさいっ。ママに車でココまで送ってもらったんです。一緒に帰ろっ」
「おっ、桜? へぇ、そりゃ都合が良かった。お前に聞きたい事があったんだ」

 駅の隣に生えている木の陰から、ぴょこんといった様子で幼馴染が姿を見せた。黄色の清楚な感じのワンピースに、シンプルなスニーカー。ニコニコと嬉しそうな感じで微笑んでいる桜。

「へえ、そうなんですか? ふふふっ、私も兄さんにお尋ねしたい事があったんです」
「な、なんか喋り方変だぞ? またバカになった?」
「…………っっ、そんな事ありません! さ、早く家に帰りましょう」

 ガシッという感じで腕を掴まれてしまうボク。そのままズリズリと引き摺られるような勢いで運ばれていく。
 ――な、なにかやばいっ。やばすぎる気配しか感じない。

「さ、桜? どうかした?」
「いいえ、なんでも。あっ、そうだ。兄さん? 明日の日曜日、『柊アキラ1日自由券』使わせてもらいますから、覚悟して下さいね」
「えっ、ええ!?」

 あいかわらずニコニコと笑顔のままの桜。けれど、長年の勘が囁いていた。コイツはメチャクチャに怒っている……と。そして、ハッと思い当たる。もしかして……コイツ?

「さ、桜? お前、今日の昼ってドコにいた?」
「ふふっ、さあ? それはじっくりと今夜お話しましょうね」
「ご、誤解だよ、桜。誤解……」
「どこあたりが誤解なのか、是非、根掘り葉掘りお伺いしたいですわ、ね、兄さん?」

 真っ赤な夕日が差し込む道路。家へと向かうその道を、がっしりと幼馴染に固定されたまま、ボクは半ば処刑台へと向かう囚人のような気持ちで歩き続けた。
 



[24259] ・第9話 【小学校編⑦前編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/02/14 12:51
 ・第9話 【小学校編⑦前編】


 ◆


 NGOのキャンプへ参加した当初、想像を超えたハードな現実に直面したオレは、ズタボロに打ちのめされた。しかし他にも、これは……と閉口させられたモノがある。
 ――日々の食事。
 元々好き嫌いのそれほど無いオレだったけれど、アフリカの食事に関しては別、かなり厳しい……と言わざるを得なかった。
 アフリカの文化において、日本のコメにあたる主食はウガリと呼ばれる食べ物――白トウモロコシの粉にイモデンプンを混ぜたモノ――だ。白い色の粉末で、日本料理のおからに外見、食感ともに少し似ており、何の味も感じられなかった。
 初めてウガリを食べた時、記憶に蘇ったのは運動会のアメ食い競争。アメを必死で探すあまり、口の中へ大量の粉が入り込んだときの不快感……それに少し似ていると思った。
 手で丸めた真っ白なソレを口に入れた瞬間、口腔内の唾液が全部吸い取られるようなパサパサした感じに襲われる。とにかく吐き出さないようにするのが精一杯。
 おかずは凄まじく酸味の強いトマトと苦いキャベツのような葉っぱの野菜炒め。そして、あごが外れそうなほど恐ろしく固い(たぶん)牛肉か羊肉。味付けも濃い部分と薄い部分がはっきりと分かれ、日本での食事に慣れていたオレには強烈なインパクトを与えた。

「ドクター、ほらっ! 遠慮せずにもっと沢山お食べよ」

 医療団を支えてくれる現地おばちゃんスタッフの笑顔――オレのような役に立たない新人医師にさえとても優しい――の前で変な顔をする訳にもいかず、内心の苦労を押し殺しながら口へ運び続ける事になった。
 それに……とにかく食べて、肉体へ栄養を与えねばどうしようもないと自覚していた為、これは食事ではなく栄養補給のサプリメント、味など考えてどうする! と思いながら水で流し込むように日々の食事を行っていたが、内心では挫けそうだった。
 特にハードな手術の後、食欲のない胃へ無理矢理ウガリを詰め込む辛さは想像を絶する。たかが食事程度で情けない……と思うが、脳より先にカラダが拒否をするといった感じで、本当にきつかった。
 ……しかし、慣れというのは恐ろしいモノ。NGOの日々が2年を過ぎた頃、オレはあんなに苦手だったウガリを筆頭としたアフリカの食事を、むしろ美味しいとさえ感じ始めていた。
 ウガリにほとんど味が無いと思っていたのが嘘のよう、ほのかな甘さと旨みを楽しみ――しかも作った人により微妙に異なる――口へいれた瞬間に今日の食事当番のスタッフは誰なのか解るほど。セルゲフと食事の度にその賭けを行ない、彼のオカズ――口が痺れるほど苦い葉っぱだが慣れると美味い――をまきあげた事さえあった。

「だからセリシール。お前もきっとウガリを好きになる。我儘を言わずにちゃんと食え」
「ノン!! いくらアキラ先輩の言いつけでも、私はノン!! と言わざるを得ません。そう幾度であろうとも!」

 オレとセリシールしかいない食事用の休憩室の中、ドンッ! とテーブルをたたき、全身で嫌だと表現している彼女。
 ブロンドの髪、整った鼻、意志のはっきりした目元下には小さなホクロ……昔、魔法使いの子供達が出てくる映画を観たことがあったが、それに出ていた少女にどことなく似ている顔つき。まあ、オレがあまり白人女性の顔の区別がつかないだけだろうけれど……。
 とにかく、絶対に折れない……といった勝気な表情。さっきからオレが何度言いつけても夕食のテーブルに置かれたウガリに手をつけようとしない。

「他は何でも我慢できます。ですが、このウガリという食べ物だけは……もちろんスタッフには申し訳ないと思います。ただ、これは私の血のせいなのです。そう……料理と芸術の国フランス。私のカラダに流れるその祖国の血が……どうしても受け付けてくれない」
「いや、リーダーセルゲフもフランス人だけど、ガツガツ食べて……」
「ムッシュ! 何かおっしゃいましたか?」
「い、いや別に……」

 はぁ……と、オレは本日何度目かわからない深いため息をつく。
 セリシールはオレの外科第一助手としてこの3ヶ月、同じチームで動いてくれている。3歳年下だが、飛び級を重ね、オレとほぼ同時期に医師免許を取得していた彼女はとても成績優秀だと言っていい。ただしNGOの地獄のような修羅場での実務経験は足りていないため、手術中ふとした部分で弱さを見せる時があったが……。
 しかし基本的に彼女は、有能かつ自信家で自己主張が激しく、一度言い出したらよっぽどの事がない限り妥協したりはしない。

「けれどセリシール、今日はパンがないだろ? 食わなきゃ明日が辛いぞ」
「そ……それはそうでしょうが。し、しかし、アキラ先輩の祖国ニッポンでもブシは食わねどタカヨジと言うではないですか」
「使い方違う……」

 祖母が日本人の為に少量の日本語なら話せる……というセリシールの間違いを訂正する気力も無く、オレはどうしたものかと天井を見上げた。
 ここの料理はおかずが少なく、それだけでは空腹は満たせず栄養も足りない。やはり主食のウガリが必須なのだ。口に合おうが合うまいが、腹を満たす為と割り切って食べるしかない。
 ただ、どうしてもウガリを食べられないスタッフ用としてパン――トウモロコシ粉が多く入った恐ろしく固いモノ――が普段は用意されている。だが、ここ数日、補給部隊の到着が治安悪化で遅れており、今日の夕食に間に合っていない。

「わかったセリシール、しかしこれだけは言っておく。食わないなら明日、オレの助手は任せられない。いいか?」
「――ッ!? そ、そんな……!?」
「立ちくらみでも起こして、オペ中の術野に倒れたらどうするつもりだ?」

 勢い良く立ち上がり抗議しようとした彼女の機先を制するようにするどく言い放つ。うまい反論が見つけられなかったのか、口ごもりながら悔しそうに俯くセリシール。その様子を見つつ、ゆっくり口を開く。なんとかひねり出した妥協案を言い聞かせるように。

「まあ……食事はどうしようもないというのも理解できる。わかった、オレから担当のドクターへ頼んでおくから、明日はリハビリと診断を手伝ってくれ。パンが届いたらまた手術助手に入ってもらう。今日はおかずを多く食べて空腹をまぎらわせるんだ、いいな?」 
  
 これだけ説得してもダメなのだから仕方ない。セリシールへはかなり強めに言ったが、実の所ウガリというのは好き嫌いが激しく、ベテランスタッフでも食べられない人は大勢いる。
 赴任してわずか3ヶ月の彼女は、オレの目から見ても実務では相当頑張っていた。食事にまで無理をさせるのは酷だ。
 しかし……。

「アキラ先輩わかりました、食べます。私、食べますから」
「いや、大丈夫。言い過ぎたオレも悪かった。無理をする必要は……」

 青い瞳でまっすぐに見つめてくるセリシール。ブロンドの長い髪を指で耳へかけ、覚悟を決めたように深呼吸を繰り返している。真っ白な肌と、屈辱からだろうか? ピンク色に紅潮しつつある頬。
 そして、オレの言葉をさえぎるように手を振り、どこか恥ずかしそうに小さく呟く。

「平気です。食べますっ、その……食べたいんです! ただ……えっと……直接、自分の手を使う……というのが、どうしても。幼い頃から厳しくマナーを躾けられたもので……」
「ああ、なるほど。スプーンをとってこよう」

 オレやセルゲフは現地の人達と同じく素手で(当然手は洗っているのだが)ウガリをこね、適度な大きさに丸めて食べていた。それが当然だと思っていた為、女性への気配りが足りなかったんだろう。
 言い出したら聞かないはずのセリシールが妥協してくれたのが嬉しくて、オレはスプーンを持ってくる為、隣の部屋にあるキッチンへ向かおうと立ち上がる。しかしその時、オレの腕がセリシールの細く美しい指で軽く掴まれた。

「あ、あの! 出来たら、アキラ先輩がこねて下さったモノが食べたいんですけど! ええ、やはり手でこねた方がスプーンで食べるよりも美味しいでしょうし……」
「そうかな? スプーンでも大して差は」
「いいえっ、ずっと美味しいと思います!」
「ああ……そう?」

 せっかくセリシールが妥協してくれたのに、ここで変にヘソを曲げられてもつまらない。オレはテーブルへと座りなおし、右手をウェットティッシュで丁寧に拭く。
 そして、目の前に盛られたボールからウガリをすくいとって、スシのシャリくらいの大きさへと丸め始める。

「これくらいの大きさならフォークで刺せるし、食べやすいだろ?」
「ええ、ありがとうございます。アキラ先輩」

 ニコリと微笑んでいるセリシールの皿へと、手早く丸めたウガリを数個づつ並べていく。さっきまでの強情さが嘘のように、どこか楽しそうにこっちを見つめてくる彼女。少しだけドギマギしてしまうほど美しい表情。
 その笑顔、いや……この場の雰囲気が、オレの脳裏に過去の思い出を、一瞬、息詰まるほど鮮やかに蘇らせる。

「アキラ先輩、どうしました!? 顔が青いようですが?」
「大丈夫だ。ちょっと昔を思い出してしまってさ」

 心配そうに立ち上がりかけたセリシールに手を振って、オレは椅子へと深く座りなおし、深呼吸を繰り返す。ありありと蘇ってくる楽しい記憶……そう、それは楽しい記憶のはずなのに、どこか物悲しく思えて。

「本当に大丈夫ですか? 先輩が、そんな悲しそうな顔を……」
「いや、平気だ。全然悲しくなんて無い。……楽しい記憶だよ」
「失礼ですけれども、とてもそのように見えないのですが」

 心配するような不審そうな顔で見つめてくる彼女。オレはまるで言い訳のように、ポツポツと語り始める。
 それは遠い記憶。命を救う意味さえ考えず、医者になる事だけが義母への償いになると信じ込んで、勉強を続けていたあの頃……。

「えっと……小学生の頃、そう、夏休み前の記憶だよ。授業でどこかの施設見学に行く事になってさ。まあ、その頃のオレも性格の捻じ曲がったガキで……班での集団移動中だったが、英語の単語帳をこっそり読んでいて……」

 こんな事をいまさら――しかも全く関係のないセリシールへ――話してどうなる? と考えているのに、オレの口は勝手に動き続けて言葉を紡ぐ。まるで懺悔でもしているかのように……。
 セリシールはしかし、何も口を挟まず静かにオレの言葉へ耳を傾けていた。

「とんでもない田舎の山道を長々と歩き続けて。注意散漫だったんだ、足元の路肩が崩れてたのに気づかなくってな。班から独り離れて行動していたオレは、足をとられて滑落しちまった……結局、気付いたら母の診療所で寝てた。右手骨折……今の知識で言えば右上腕骨外顆骨折だろうけど……」

 あいまいな記憶では、前日までに激しい雨が降っていた。結構な山奥の施設近く、かなりの急斜面を落ちていった気がする。あの程度の怪我で済んだのは、本当に幸運だったのだろう。

「それで食事も出来ないから桜が……、ああ、えっと……妹みたいな幼馴染が看病してくれたんだ。さっきセリシールにオレがしたように、目の前でおにぎりを作ってくれたのを思い出した。その時のアイツの心配したような泣き顔とか、たまらなく美味しかったおにぎりの味、強引に看病されてパニックになった事なんかが一気に蘇って……、ちょっとな」

 母さんの診療所のベッドで目を覚ました時、ウサギのように目を真っ赤に泣き腫らした桜の顔を見て、思わず笑ったような気がする。
 そして当時仲の良かった友人――小学校卒業以来、一度も会っていないが――神無月の姿もあったように思う。
 今思い返せば、あの頃が一番……幼馴染や友人とよく会話していた頃なのだろう。夏以降のオレは、中学受験、そしてその先の勉強を見据え全く余裕などなかったのだから。

「あら、冷静なアキラ先輩にもそんなそそっかしい過去があったのですね。……あの、ところでそのマドモアゼル? サクラとおっしゃる方は、ええと、その……今は?」
「桜? ああ……日本にいる。事情があってさ、少しばかり長く入院しているけれど」

 邪気のないセリシールの言葉に、ドクンッと胸の奥が疼く。日本を発つ直前に見たアイツの美しい……生気の無い人形のように美しすぎる寝顔が、ありありと思い出されてオレの胸を強く揺さぶる。
 入院している、という言葉に何かを敏感に察したのだろうか? 気づかうような優しい微笑を浮かべるセリシール。

「それは……早く良くなる事を私も祈っていますわ。サクラ……という名前、決して他人とは思えませんから」
「ん? それはどういう?」

 器用にフォークを使ってウガリを口へ運んでいる彼女に問いかける。家族同然の幼馴染、桜と目の前に座っている金髪の女性に共通点が?

「私の名前、祖母につけて貰ったんです。祖母の故郷すぐ近く、ウエノ公園の花にちなんで」
「それは……」

 NGOへ出発する直前、東京の病院、幼馴染が入院している部屋から見えた満開の薄紅色の花びらが脳裏へ蘇る。

「ええ、そうなんです。桜ってフランス語でセリシールって言うんですよ。先輩」

 セリシールの鮮やかな微笑み。それはどこか……満開の桜を思わせるように、とても美しく見えた。


 ◆◆


 日、月、火、と3日間降り続けた激しい雨が嘘のように晴れ渡った今日、水曜日。
 けれど、そんな晴れやかな5月の空とは対称的に、ボクたちは不満たらたら……といった表情を浮かべつつ(一応舗装されているけれども)薄暗い山道を歩いている。
 そう、今日は校外レクリエーションという名目の社会施設見学の日。朝から7キロも歩いて山奥のゴミ処理施設場へと訪問し、1日見学を行なうのだ。

「あははっ、アキラ。なんでそんなに疲れた顔してんのさ。ほらっ、元気だせよ。歩くのって楽しいじゃんか」
「バカ、周りを見てみろ。楽しそうなのってお前くらいしかいないだろ? ったく、山道だから雨がまだ残ってるんだよ。すげー足元が悪くって、もう」

 オレンジ色のTシャツにデニム生地の半ズボン、お気に入りの真っ赤なスニーカー。鮮やかな水色のリュックサックを背負い笑っている親友……神無月恋。ボクはその親友に対し、息を切らしながら返事を行なう。
 この数日降り続いた雨の為か、山道へ葉や木の枝が落ちており、更に水溜りまで所々に出来ていて酷く歩きにくい。ただでさえ急勾配の薄暗い山道……出発当初は元気だった同級生達も、到着間近の今は疲労から無言のまま足を進めていた。

「うう、足が痛い。つま先がジンジンするよ」
「ふふっ、頑張れアキラ。あと少しじゃんか。ひっぱってあげよっか? あははっ」
「言ってろ」

 ボクの着ている白Tシャツのソデをからかうようにひっぱりつつ、天真爛漫な笑顔を向けてくる恋。いかにも楽しくってしかたないという……余裕綽々の表情。
 周囲を見ればまだ余力がある、という感じの生徒はスポーツで普段から練習を行なっている恋のような人達ばかり。といっても、その人達も7キロも歩き続け、けして元気一杯という訳ではない。
 やはり、陸上でアホのような走りこみを日課としている親友は別格と言える。同じ班のため、隣に歩いている恋は普段と変わらぬ頻度で話しかけてくる……ニコニコと笑顔を浮かべているのが信じられない。
 いや、もう1人。余裕たっぷりといった感じで歩いている生徒はいた。それは幼い頃から武道で鍛えられてきたというお姫様……。

「柊クン? 神無月クンと無駄口を叩く暇があるのなら、もっとピシッとしてくれないかしら? 私の目の前でイチャ……ダラダラとした歩き方! 同じ班として恥ずかしくて堪らないわ」

 新江崎さんの全く疲れた様子のない、凛……とした声が背中から響く。普段のブレザーではなくて、デニム生地のミニスカートにフリル付きの白シャツ、黒のスニーカー、黒髪に真っ赤なカチューシャをつけたスタイル。背負っている大きめのリュックサックには、有名ブランドのロゴが入っていた。

「……姫じゃなくって女王様だよ」
「柊クン!? 何かおっしゃいました?」

 まさか、ボクの口の中の呟きが聞こえたのか? ズイ……という感じで、恋を押しのけて隣に並ぶ新江崎さん。
 細い眉、キリッと艶のある唇、スベスベした頬の肌、恐ろしいほど綺麗な顔立ち……真っ直ぐな眼光がキリリと睨みつけてくる。とても小学生には思えない迫力。
 モデルのように整ったスタイルの為か、フリルの飾られたシャツの胸元が窮屈そうに膨らんで見えた。

「い、いや、何も……」
「ちょ、ちょっと新江崎さんっ、アキラの隣はボクなんだから! 元に戻って、隊列がぐちゃぐちゃになっちゃうじゃんか」
 
 ぷぅ……といった様子で頬を膨らませ、褐色の顔を少し赤く染めた恋が大きな声を出す。新江崎さんに負けじと、ぐぐっといった感じで彼女を押しのけ、ボクの隣に立つ親友。

「ちょっ……あら、神無月クン。そんなに隊列がお気になさるのでしたら、委員長らしく先頭に行かれたらどう? 私はこのだらしのない柊クンを指導しておきますから」
「……なっ」

 ピンク色の唇はニッコリと微笑んでいるのに、瞳が全く笑っていない新江崎さん。恋に押しのけられた場所――つまりボクの隣――へ細くて長い足を伸ばし、スッ……と入り込む。その動作は武道を長年鍛錬しているという噂通り、全く無駄がない滑らかな体裁きだった。
 恋よりも高い身長、スラリと長い手、細い指でサラサラの黒髪を耳へとかき上げながら、やれやれ……といった口調で話す。

「ア、アキラッ、黙ってないでアキラからも言ってよ。ね、ね? ボクの隣のほうが元気が出てピシッってするだろ? ね! そうだもんね!」
「あら、柊クンのようなタイプは、厳しく言ってあげる必要があるのです。私だって本当は隣になんて立ちたくありません。ただ、とてつもなくだらしないので、同じ班として仕方なく。ねえ、柊クン? あなたもそう自覚されているでしょう?」

 ボクの右には新江崎さん。そして左には親友の恋が立ち、ほとんど同時に言葉を投げかけてくる。

「あ……あの、いや、その……」
「ほら、そのだらしない返事。全くこれだから」
「ううぅ、アキラ! アキラからビシッって姫に言ってやってよ」

 ――ボクは何か悪い事でもしたんだろうか? ただでさえ長距離の歩行で足が痛く、カラダは疲労困憊。それなのにこの状況……。何かに祟られているとしか思えない。
 疲労と気疲れで、肩に背負ったバッグ――中身は、桜が作ってくれた弁当、水筒、お菓子、そして後橋市で購入した自称サバイバルグッズが入っている――がズッシリと肩に食い込んできたような気さえする。

「くっ、こっちはヘトヘトで足が痛くてたまんないのに……。なんで二人ともそんなに元気なんだ」

 どっちが良いとか悪いとかそんな事はどうでもいい、今はただひたすら歩くことだけに集中したい。話しかけてくる恋や姿勢を注意してくる新江崎さんには申し訳なく思うけれど、この元気な二人を同時に相手できる余裕なんてなかった。 色々と話しかけてくる二人から逃げるように少し早足で遠ざかり、ボクは脳をカラッポにしながら、ただ機械的に踏み出そうとして……、

「――ッッ!?」

 ほんの少し――わずか5センチくらい――だけ崩れて陥没していた路肩の部分へ偶然、左足をとられてしまったボク。バランスが崩れ、とっさに体勢を整えるべく右足の位置を踏み変え……しかし、そこに水に濡れた木の枝があって、
 
 ――パキリ、という不吉な音と共に足元の枝が折れ、ボクの体は完全にバランスを失った。
 
 路肩下の急斜面がはっきりと見える。緑の草が生い茂っている山肌、どこまでも滑り落ちていきそうな角度。フラフラとボクの両手が支えを求めて何もない空中をさまよって……。

「アキラッ!」
「柊クンッ!」

 ガッシリとボクの体、そして両腕が握り締められた。重心を低くしたタックルのような体勢で、安全な方向へ押し倒すようにぶつかってきたのは恋。普段の可愛らしい顔ではなく、燃えるようにキリッとした瞳。
 しっかりと両腕を握り締めてくれたのは新江崎さん。ミニスカートから生足を伸ばしスッ……と地面を踏みしめる。サラサラと長い黒髪をなびかせながら、合気道のような不思議な重心移動でボクの体を安全な方向へとズラしてくれた。

「大丈夫アキラッッ!?」
「柊クンッ、怪我は無い!?」

 ベタンッと思いっきり地面にしりもちをついてしまったボク。腰にしがみついたままの親友、腕を握ったままの新江崎さんが同時に話しかけてくる。
 二人の真剣な声色、強い意志を感じさせる眼差しが、恐怖でパニックになりそうだった心を落ち着かせていく。

「あ……う、うん。あ、ありがとう。恋、新江崎さん、助かった……」

 そんなありきたりな言葉しか浮かばない。一瞬、瞳に映った山肌の景色が蘇る。あんな急斜面へ、バランスを崩したボクが勢いよく倒れこんでいたら一体どうなっていたんだろう? 運が良くても怪我は避けられない。いや、下手をすると酷く危険な事になっていたかも。

「ううううっっ、バカアキラっ!! もう、もう、もうっっ、ぜっっったいボクの隣から離れちゃダメだかんね!!」
「――っっ、柊クン? 私の班から怪我人なんかでたらいい笑い物よ。本当に貴方という人は! フラフラしないようにしっかり監視しますから!」

 恋の半分泣きそうな顔、新江崎さんの――怒っているんだろう――赤く染まった頬。それぞれに拒否などできる訳も無く、従順に頷く。

「うっ、よろしくお願いします……」

 立ち上がり、肩に荷物を背負いなおしてボクは再び歩き出した。両隣を恋と新江崎さんに挟まれ、まるで連行される囚人のように。


 ◆◆◆


 ようやく施設に到着、長い休憩をとってから最初の簡単な見学を行なった。それで午前の部は終了。待ちに待った昼食タイム。
 あれほど疲労困憊していたのが嘘のように、皆はしゃぎながら友達とお弁当を拡げていた。

「アキラ、その唐揚げ、すっごくおいしそう。うぅ……いいなぁ」
「ったく、欲しいならそう言えよ。ほら、勝手にとれ。その鮭の切り身と交換な」
「うんっ。えへへ、いつもありがとアキラ。はいコレ」

 ゴミ処理施設(リサイクルセンター)という名前から想像も出来ないほど綺麗で明るい施設の敷地内。親友と日当たりの良いベンチへ向かい合わせで座り、モグモグと口と箸を動かしていた。
 恋のお弁当は作ってくれているおばあちゃんの趣向を受けて、野菜の煮物や焼き魚を中心としたメニュー。米も玄米入りと実に健康に良さそう……だけれども、肉が全く入っていないのが食べ盛りのボクら小学生にはきつそう。
 それとは対称的に、桜が作ってくれたお弁当は、エビピラフに唐揚げ、玉子焼き、キャベツとえんどう豆の炒め物、ハムとオニオンの和風サラダとボリュームが凄かった。

「おっ、この玉子焼きって中にチーズとツナが入ってる。桜のヤツ、いくらなんでもカロリー多すぎだろっ。……まぁ、味は美味いけどさ」
「へぇ、お弁当って桜ちゃんが作ってくれたの? ふーん、どうりで豪華なハズだよ」

 明るい5月の日差しを浴びながら食べるお弁当はとても美味しい。目前に座っている親友も、日に焼けた褐色の顔でニッコリと微笑みつつ、パクパクとご飯を頬張っている。

「いや、アイツの趣味なだけだよ。帰ったらきっちり感想を言わなきゃなんないんだぜ? たまんないよ」
「あははっ、桜ちゃんって可愛いトコあるよねー」
「どこが可愛いんだよっ」

 学校の休み時間に話す内容と大して変わらないのに、外だとまた違った感じがしてとても楽しい。陽射しは温かく、風景は山奥という事もあって緑豊かで美しい。
 帰りも7キロ歩くという事実さえ考えなければ、最高の環境と言えるかも知れない。周囲に散らばっている同級生たちも、仲の良い友達同士でワイワイガヤガヤと騒ぎながら楽しんでいる様子。
 と、そこに……。

「あっ、神無月君、柊君も。探したわよ。あのさ、姫……新江崎さんって見なかった?」
「やあ西道芝さん。姫? ボクは見なかったけど……。アキラは見た?」
「ううん。いつもの人たちと一緒じゃないの?」

 黒髪のおさげで眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな生徒――隣のクラスの学級委員長、西道芝さんが声をかけてきた。
 ちょっとふくよかな体型で落ち着きのある雰囲気を持っている。

「それが違ったのよ、どこにもいないの。まさか帰ったんじゃないかしら? これだから我儘お嬢様って困るわ」

 お父さんが消防士、数年前にこの町へ赴任した際、家族ごと引っ越してきた西道芝さんはいわゆる『他所者』だ。しかしとても誠実で真面目、そして裏表のないサバサバした性格が皆に好かれている。
 が、それゆえに新江崎さんを頂点としたグループとは少々仲が悪い……というか、お互いに良い印象を抱いていない様子。西道芝さんは、新江崎家にもその周囲の親戚筋の取り巻きへも一切遠慮をしない。

「もういいわ……。神無月君に柊君、姫と同じ班だよね? もしも見かけたら先生が呼んでいたって伝えてくれる?」
「うん、了解」

 用件を言い終えたのか、そのままスタスタと他の人達の所へと立ち去っていく西道芝さん。そのがっしりした後姿を見送った後、ボクは恋と再び顔を見合わせる。

「ふーん、先生が呼んでるんだ……あ、そうだ! 先生って言えばさ、ここにも不審者が出たらしいって、さっき話し合ってた。この前は学校だったしさ、うぅ、ちょっと怖いよね」
「不審者って……あの、全校集会で注意されたってヤツだよね?」
「うん、そうだよ。あはは、アキラにしては珍しく覚えてたんだ。ちょっと意外」
「うっせぇ」

 恋の笑い声を聞きながらも、ボクの脳裏へは数日前に学校の図書館の窓から見た新江崎さんの姿が浮かんでいた。――誰かを必死に追い求めているように、余裕のない、まるで迷子の子供みたいだった姫の雰囲気。
 
「まあ怖い話は置いといて、姫、ドコ行っちゃったんだろう。さっきは楽しそうに見えたけど……ストレスかなぁ? お母さんが再婚するって、今、家が大変らしいもんね。姫の誕生日パーティーの準備も、色々トラブルばっかりって噂だしさ」
「へぇ……誕生日パーティー」

 恋の話にほとんど上の空で返事。
 脳裏に新江崎さんの様々な姿が浮かんでは消えていく。学校の体育館近くで会った時の事、図書館で顔を真っ赤にして怒っていた表情。そして……お父さんの事を話してくれた時の、誇らしげな、本当に嬉しそうな笑顔。

「……」
「アキラ、聞いてる?」

 頭の奥が、何かをささやき始めていた。
 心臓がドクドクと脈打ち、全身へ燃えるような血液が流れ込む。神経がギリギリと引き絞られた弓のように張り詰めていく。それはまるで、闘いに赴く前の戦士のよう。
 
 ――動け、手遅れになる前に。

「ちょっ、ちょっとアキラ? 大丈夫!?」

 目の前にある命を救いたい、理不尽な悲しみをほんの僅かでも減らしたい。そう思うから、どうしようもなく、そう願ってしまうからこそ。『オレ』は……そして『ボク』は。

「恋、ちょっとごめん」
「アキラ!? ちょっ、お弁当置いたままどこ行くのっ!?」

 この前買ったサバイバルグッズを詰め込んだバッグだけを持って、恋の驚いた声を背にボクは走りだす。足が向かう方角、それはカラダが勝手に決めてくれた。
 脳裏へ風景が浮かび上がる。それは経験したことのない記憶。けれど、まるでボクが体験したかのように、くっきりと細部までリアル。

 ――右腕を骨折し更に全身を強く打ってしまったボクは、何も出来ないまま母さんの診療所、ベッドに横たわっている。すぐ隣には桜、そして友達の恋の姿があって、あれこれと話しかけてきていた。

『もう、馬鹿アキラッ。新江崎さんがさ、昔お父さんとよくキャンプに訪れていた山じゃなかったら、もっと救助に時間がかかってたかも知れないんだよ。ほんと……、姫にお礼を言うんだよ。ったく、こんな事なら無理矢理にでも同じ班にしとくべきだったよ!』
『そうよ、兄さんの馬鹿。山歩きしながら単語帳を読むなんて……あきれて何も言えないわよ』

 白い病室の中、ベッドから逃げ隠れできないボクを、ここぞとばかりに責めてくる二人。怒ったような安心したような、複雑な表情。

『10メートル以上滑落してたんだから。ボク、吃驚しすぎてパニックでさ。その時に姫が、あの位置――アキラが落ちた場所――なら、処理場横の細いわき道から辿り着けるって先生に言って……』

 ――これは断じて『ボク』の記憶ではない。なら、未来の『オレ』の思い出なのだろう。どうして今、こんな事が勝手に浮かんできたのか? それはどうでもいい。
 ただその記憶に導かれるようにボクは走り、リサイクルセンターの横、細いわき道へと入り、先へと進んでいく。

「新江崎さんっ!!」

 そこでボクは彼女の姿を見つける。
 額から流れている真っ赤な血。瞳を閉じ、眠るように土の上に横たわっている姿を。




[24259] ・第9話 【小学校編⑦後編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/02/25 23:34
 ・第9話 【小学校編⑦後編】


 ◆


 原初の大地アフリカ、そのNGO医療キャンプへオレが赴任してきて2年と数ヶ月。まだまだ短い期間だけれど、それでも日本ではありえないほど多くの臨床を経験してきた。
 最近では、赴任してきた当初と比較すれば、少しはスキルや精神面で成長できたかな……と思える瞬間もある。
 ――だが未だに、声無き悲鳴を上げながら目を覚ましてしまう夜があった。真っ暗で狭い個室の中、ムッとするほど蒸し暑いベッドの上。全身から汗を流し、まるで死体のように冷え切った己の体を両手で抱き、ガチガチと奥歯を震わせて。
 脳裏に浮かぶのは救えなかった多くの患者たち。
 安易に自分を責めるのは止め、少しでも『次』につなげる為にしっかりと受け止めよう……と思ってはいるのだが、ふとした瞬間や夢の中で、まるでナイフで胸を抉られるような痛みを感じる。心が壊れそうになる。過ぎてしまった時を、どうしようもなく悔やむ。
 ――もしかしてあの時、もっと別のアプローチを行なえばあの子は救えたのではないか? ひょっとして、患者の優先順序を間違えていたのではないのか? そもそもオレじゃなく他の医師の技術ならあの親子を救えたかもしれない……。
 そんな様々な思いが胸にあふれ出し、暗闇の中で独り、懊悩を繰り返す。明日の手術の為に眠らなきゃいけないと解っていても、波のように押し寄せる後悔の念がギリギリと胸を締め付け続ける。

「……桜、母さん」

 先進諸国の高度救命救急センターでさえ10%以下の Probability of Survival value(予測救命率)しかない症例が途切れなく運び込まれる日常。
 肉体に重大な創傷をいくつも負った(重症多発外傷)患者が同時に何人も運びこまれた時、誰から、そしてどの創から処置を始めるのか? それはほとんど賭けに等しい。賭けるのは患者の命。
 命を背負う恐怖とプレッシャーがギチギチと精神を蝕んでいく。

『ボク、大人になったら、母さんみたいな立派なお医者さんになるんだ!』
『アキラ……』

 鼻の奥に蘇るツンとした消毒液の匂い……幼い日の記憶。義母の膝枕の上で優しく髪を撫でられながらこぼした言葉。オレが医者になる……とそう告げた時、あまり嬉しそうな表情をしなかった義母の顔を思い出す。
 そう、母と同じ医者になった今ならその顔の理由が解る。どこか困ったような、そして悲しそうな顔をした理由が。
 ――母も医者として、この血を吐くような苦しみを抱きながら日々を過ごしていたのだ、と。

「義母さん……」

 迷っても、判断が遅れても、優先順序を間違えても、刻々と変化する状況を把握できなくても、スピードが足りなくても――簡単に患者は死ぬ。それは今にも千切れそうな細い細いロープを渡る綱渡りのよう。精神を振り絞り、出来うる限りの最善を尽くしても、目の前で消えていく命は数え切れない。
 きっと、オレが医者である限り……この無力感、自己嫌悪から逃れる事はないのだろう。それでも『次』は助ける……と信じながら足掻き続けるしかないのだ。
 オレはあきらめない。決して医者を辞めたいとは思わない。たとえギリギリの綱渡りの連続でも、後悔する事だらけだったとしても、少しでも命を救う手助けが出来るのなら。

「桜……」 

 ここで挫けたら、アイツが目を覚ましたときにきっと殴られる。桜、そして大切ないくつかの事、を捨てて医者になったオレがここで諦めたら、いったいどんな顔をしていつか目覚める幼馴染に会えばいい?
 脳裏へ義母さんと桜の笑顔を思い浮かべながら、オレは再びベッドへ潜り込む。少しでも精神と体を休ませなければならない。明日、またギリギリの選択を迫られる瞬間が必ずある。その時、少しでも患者にとって良い選択が出来るように。
 


 ◆◆


 新江崎さんが仰向けになって横たわっている場所を見る。周囲は少し平らになっていて、危険は無い……と判断。

「新江崎さん!!」

 大声を発しながら側へ駆け寄るが返事は無い。隣に膝立ちになり、彼女の額から流れている血を見ながら、手首の少し上――橈骨動脈――へと指を伸ばしつつ呼吸を確認する。新江崎さんの整った顔立ちへ垂れている鮮血。しかし、それは大した出血量ではない。
 何よりもまず心臓が動いているか? 自発呼吸をしているか? の確認が最優先。

「よしっ……脈はある。でも!!」

 ボクの指先に触れる細い手首の脈。それは若干弱かったけれどドクドクと動いていた。
 しかし、呼吸が明らかにおかしい。ピンク色だった新江崎さんの唇は少し青ざめ、呼吸はハッハッハッといった感じで早く浅い。

「新江崎さん!! 聞こえる?」
「……」

 美しい顔を苦悶にゆがめている彼女。頭部を打っている為か呼びかけに反応しない。華奢な両肩を上下させながら、浅い呼吸を繰り返している。
 ……不味い。ボクは大声で何度も彼女の名を呼びかけ、右手で喉を触診しつつ左手で彼女の口を開く。が、呼吸を阻害しているような異物は見えないし、喉に何かが詰まっている様子も無かった。

「気道は通っている、なのに……もっと通りやすい角度にするか? いや駄目。頭を打ってる、頚椎が傷つく恐れが」

 パニックにならないよう自分の行動を確認する為に呟きながら、肩に背負ったバッグを下ろし、素早くジッパーを開く。LEDペンライト、ハサミ、包帯、テーピングテープ、ガムテープ、定規を何本か、スポーツ用携帯酸素缶などを急いで取り出す。
 額の傷からすると――出血はたいした事がないけれど――滑落途中に頭部を打ったのだと推測される。今すぐに命へ関わることはないが、絶対に頭部は動かせない。下手に動かして頸髄損傷になった場合、取り返しのつかない事になる。
 頚椎を固定するように新江崎さんの首へ定規を折り曲げたモノや周囲に落ちている木の枝を沿え、そこから血管を押さえないようにしてテーピングテープでしっかり固定する。運搬しても頚椎に頭部の重みがかからないように。

「よし、すぐに母さんの所へ運ぶ」

 この場所からリサイクルセンターへ走り連絡、大人の力を借りて彼女を車に運んで乗せる。そこから山道を抜け、母さんの診療所まで20分といった所か。この場所から動かす時間を含めれば全部で30分はかかるだろう。
 心臓は動いている。出血はたいした事が無いが、呼びかけに応じない事から結構強く頭部を打っている恐れがあった。急性硬膜外血腫の可能性もある。早く頭部のCTスキャンを撮影しなければならない。
 いやしかし……と足が止まった。何かがボクを引きとめた。気がかりなのは呼吸。この症状は……。

「えらばなきゃ……どうする?」

 ここで二つの選択肢があった。すぐに施設へと走り、大人を呼んでくる事。または、今すぐに新江崎さんを診断する事。どちらか迷っている時間は無い。どちらを選ぶにせよ、時間だけは過ぎていく。

「いや、やっぱり呼吸だ。何よりも呼吸を優先、この症状は危険だ」

 急性硬膜外血腫の疑いもあるが、しかしまず呼吸が優先。頭というのは案外頑丈なもので、時間的な猶予はある。救命で最も優先されるABC、Airway(気道確保)、Breathing(呼吸)、Ciruculation(心臓マッサージ)に沿って動くべきだ。
 普段、無意識のうちに何気なく行なっている呼吸という行為。しかし、呼吸が停止してたった5分経過すれば脳細胞は死に始める。いや、それより前に呼吸が停止すれば、数分以内に心臓停止を併発してしまう。
 CPA(cardiopulmonary arrest)心肺停止状態になれば3分くらいしか人間はもたないし、命は助かっても脳に一生消えない傷害が残る。
 普通の子供なら大人を呼んで病院に運ぶしか手段は無い。だがボクは違う、違うはずだ。……それに病院に到着するまで彼女の命は保つのか? 
 ボクのこの知識は何の為にある? 人を救いたいとどうしようもなく願うからではないのか。

「新江崎さん! ごめん、シャツを切るよ!」

 ハサミを使い、躊躇なく彼女の白いフリルシャツ、そしてその下、ツルツルした手触りの白い肌着を切る。いちいちボタンを外す時間は無い。現れる薄いピンク色のブラに少し動揺しつつ、それさえ素早く切った。

「……目立った外傷は無い。だたし右胸部に内出血あり。そして汗が」

 彼女の真っ白な肌一面に汗が浮いている。呼吸はあい変わらず浅くて速い。いまにも呼吸停止になりそうな気配。その原因、新江崎さんがここまで苦しそうにしている要因は……。
 焦る気持ちを落ち着かせるようにツバを飲み込みながら、両手を彼女の両わき腹、肺の上へと這わせていく。

「くそ……。右胸部に皮下気腫あり。まさかこれは」

 新江崎さんの大きめの乳房の横に這わせたボクの指先に触れる独特の感触。血とは全く異なる、何ともいいようのないボコボコとした感じ――皮下気腫――皮膚の下へ空気が入り込み、まるで腫れ物のようになっていた。
 この症状は傷などから空気が入り込む事でも起こるけれど、視認できる創傷は無い。ならば、彼女の呼吸異常と合わせて考えると……。
 聴診器が無いのがもどかしい。歯噛みしたくなる気持ちを抑えながら、彼女の胸へ耳をつけて指先で叩くように打診していく。ボクの指先に反応し、彼女の肺からかすかに聞こえる反響音……それを聞き逃さないように全神経を集中。

「右肺が、間違いない……打撲による緊張性気胸」

 ――気胸とは、簡単に言えば肺から空気が胸の中へ漏れだす病気。様々な要因はあるが、今、新江崎さんに起こっているのは外傷性のものだろう。滑落した際、右胸部を強く打ったのか。
 手近に置いてあったスポーツ用の酸素缶の封を開け、彼女の青ざめた唇へと押し当てる。
 気胸では無理矢理に空気を送り込む人工呼吸は絶対にしてはいけない行為になる……が、高濃度の酸素を自発的に吸わせる事は気休め程度の効果がある。医療用ではなく、あくまでスポーツ用の酸素缶でどこまで効果があるか解らないけれど……。

「これじゃ、母さんの所までもたない……か?」

 緊張性気胸は劇的に進行する。吸い込まれた空気は新江崎さんの右肺の外で延々と膨らみ続け、すぐに健康な左肺のみならず心臓まで圧迫してしまう。母さんの診療所までの30分……それまでの間に、緊張性気胸による圧迫で心停止が起こる可能性が高い。

「くそっっ!! どうする?」

 グズグズしている暇はない。ここから施設に大人を呼びに行っても、病院に到着する前に新江崎さんの命は失われてしまうだろう。目の前でどんどん青ざめていく彼女の顔。
 もしここが病院で、手元に16ゲージ(約1.2ミリ)の注射針がついた注射器があれば、すぐにでも胸腔穿刺を行なわなければならない状況。
 ――胸腔穿刺――まず鎖骨の中央から真下に線を引き、すぐ下にある第2肋間の隙間に針を刺しこむ。胸壁を越え、注射器によって肺と胸との隙間から溜まった空気を抜く医療技術。

「何か、何かないか?」

 新江崎さんの美しい顔は青ざめ、スポーツ用酸素をほとんど吸い込むことさえ出来ていない。迷う……迷っている時間は無いのに、どうしても迷ってしまう。
 ここでグズグズしているなら、すぐに大人を呼ぶべき? けれど、注射器を持っている人などそうはいないだろう。車で出発し、母さんのいる診療所まで新江崎さんがもつのかどうか? 駄目だ、間に合わない。奇跡に願う、あまりに確率の低い選択だ。
 バッグの中をかき回し、何かないか? と必死で考え続ける。
 死んでしまう……ついさっきまで、あんなに美しく、悠然としていた彼女が。滑り落ちそうだったボクの両手を掴み、鋭い瞳で心配してくれた新江崎さんが……死ぬ。
 怖い、命の選択、決断がとてつもなく恐ろしい。そして、新江崎さんが死ぬのが怖い。どうせ怖いのなら! 少しでも助かる道を。

「くそっ、駄目だ。新江崎さんっ!! 絶対に死なせない、死なせないっ!!」

 バッグの中から、どこにでも売っているうがい薬、メス、小さなラジオペンチ、アルコール――図書館に置いてあった手指用殺菌アルコールを詰めた物――が入ったプラスチック製のボトル、小さなサイズのドライバー、そして……牛乳パックについていたストローを取り出す。
 それらを清潔なガーゼの上へ置き、バシャバシャとボトルのアルコールを全て振り掛ける。ボクの両手にも振りかけ、簡易ではあるが殺菌を終わらせた。

「ごめんね、新江崎さん」

 彼女の右胸、鎖骨の真ん中から下へ勢い良く茶色のうがい薬を塗布する。茶色のうがい薬の成分はポビドンヨード――外科手術で一般的に使用される消毒薬と全く同じ――だ。
 助けるにはこれしかない……と覚悟を決めつつ、ヨードの殺菌作用が発揮されるまでの30秒間を、メスを持ったままじっと待つ。

「呼吸微弱……」

 ハッハッハッという感じで辛うじて続いていた彼女の呼吸。しかし、それはボクの目の前でみるみるうちに弱くなっていく。

「25、26、27……」

 が、まだ彼女の心臓は止まってない。左手指先に触れている新江崎さんの右腋の下、腋窩動脈は弱いけれどしっかりと脈打っていた。まだ生きている。彼女のカラダは全力で生きようと足掻いている。

「29、30! 手術開始!!」

 そのまま、彼女の体を抑えつけるようにして、躊躇わず右手に持ったメスを振るう。

「――ッッッ!!」

 勢いよくビクンッッ!! と跳ねる新江崎さんの体。激痛が走っているのだろう。抑えつけているボクの左腕を越えて、左肩へ爪を立ててくる。が、これはいい兆候だ。痛みに反応するという事実……それは頚椎に傷が無い証拠だし、なによりも肉体が生きようと足掻いているのだから。
 ボクは左肩に彼女の爪が食い込み、ミリミリと皮膚が破けていくのに構わず、一気にメスを動かす。右の乳房の少し上辺りを切開し、第2肋間腔までドライバーが到達するためのトンネルを作っていく。
 そのまま、ラジオペンチで切開した部分を開き固定……、

「痛いだろうけど……、でも、絶対に死なせないから!!」

 細めのドライバーへストローをかぶせた物を、勢い良く刺し込んだ。ミチミチという筋肉や組織が抵抗する感覚……それが、ふっと軽くなるポイント――胸壁を越えた、肺から漏れた空気が溜まっている場所――へと向かって。

「ううううっっっうぅぅぅううううううううううううッッッッ!!!」
「新江崎さんっ、新江崎さんっ!! 頑張ってっ! 頑張って!!」

 時間にすれば1、2秒の事だろうけれど、まるで5分くらいのように感じられた苦痛の瞬間は、しかし唐突に終わった。
 スッ……抵抗が軽くなり到達した手ごたえを感じ、ストローだけを残しドライバーを引き抜いていく。その瞬間、ストローから勢い良く空気が漏れだすシュウシュウとした音。
 そして新江崎さんの呼吸が、深くしっかりと再開されていく。口にかぶせた酸素缶を自発的に吸い込んでいる。

「よし、胸腔穿刺……終了!」

 薬局で購入した抗生剤入り軟膏を塗り、ガーゼを切開した部分にあてテープで強めに固定。差し込んだ状態になっているストローが曲がらないように、細心の注意を込めつつ包帯を巻いて行く。
 その間にも、あんなに青ざめていた新江崎さんの顔色がどんどん回復していく。頬に赤みが差し、穏やかで平常の呼吸へ戻りつつあった。とりあえず、呼吸に関しての危機は脱したと思える。
 手術中に感じていた痛みも、きっちりと固定された今ではあまり感じないはずだ。まあ、下手に触ると激痛だろうけれど……。しかし、新江崎さんのカラダが痛みを感じて反応するというのは、とてもいい兆候だ。

「よし、あとは……、新江崎さん、ねぇ聞こえる? 聞こえたら目を開けて!!」
「うぅ……、パ、パパなの?」

 脈拍、呼吸の安定を確認。頚部交感神経が麻痺していないかを調べる為、瞳孔反射のテストをしようとLEDペンライトを握り確認。どうやら大丈夫なよう……きちんと反応がある。呼びかけにも反応しているし、少し見当識――今がいつで、ここがドコなのか? ――に混乱があるようだけど、いますぐ危険という訳じゃない。四肢の麻痺なども無いようだ。
 ほっと……ひとまずの安堵のため息を吐いた、その時。

「アキラー、どこー?」
「恋!? 恋、ちょうど良かった! ここだっ! 先生と大人を数人呼んできて。新江崎さんが大変なんだ」
「えっ、何……って、うわっ!!」

 ガサガサと木の枝をかきわけ、姿をあらわした親友。色々と走りまわったのか、オレンジ色のTシャツは汗で恋の素肌へ張り付いている。そして、ボクと新江崎さんの姿が見えたのか、驚いたように口に手をあてて絶句している。

「アキラッ!? 左肩! な、なんだよそれ。血だらけじゃんか!! だ、大丈夫なの?」
「は? 何を言って……いいから先生を」
「えっ、姫まで倒れて……って、うわっ、包帯っ! そ、それに、お、おっきい……じゃなくって、なんで姫は服を着てないのさ」

 真っ赤に染めた顔をそむけ、あらぬ方向を見つめながら話す恋。その言葉でボクは少しだけ日常に戻る。
 そう……新江崎さんは今、上半身が裸(右胸は包帯が巻かれているけど)で、その……小学生とは思えない立派な左胸が剥きだし。綺麗な桜色の突起までしっかりとボクの視界に入って……いや、それどころか触診の時には、その柔らかな膨らみを触っていたはずで……。

「うわわわわわっっっ、ど、どうしよう。そうだっ、とりあえずボクのTシャツを……」
「きゃうっ! あ、ちょっ……、やっ……、馬鹿アキラ! ボ、ボクの目の前で脱ぐなよぉ! や、うわわわっっ、もう」

 恋の悲鳴を聞きながしつつTシャツを脱ぎ、新江崎さんの胸へとかける。そしてボクが切ってしまった白いフリルシャツとガムテープでくっつけた。その時、ズキズキと左肩から腕に鋭い痛みを感じる。見れば、そこにはくっきりと新江崎さんの爪の痕が残っていた。

「そっか、痛いはずだよ。でも、ま、どうでもいいや。それより恋、頼むから早く先生を呼んできて。新江崎さんが滑落してたみたいで、早く病院に運ばなきゃいけないんだ」
「あっ、う、うん。わかった……、い、行ってくる、ね」

 チラチラとボクの胸を見た後、これ以上ないくらい真っ赤な顔で駆けていく恋。その後ろ姿を見送り、ボクは散乱している道具などを全部バッグへ入れる。
 とりあえず、今出来ることはあまりない。新江崎さんの脈を念のため触りつつ、彼女の額に流れていた血(ほとんど止まっている)をウェットティッシュで拭き取ろうと近寄った。

「パパ? うぅ、冷たい」
「ごめんね、新江崎さん」

 額の傷をウェットティッシュで優しく拭いた時、うっすらと瞳を開けて呟く彼女。少し混乱しているのだろう。ボクをお父さんと間違えているようで、とても柔らかな微笑みで見上げてくる。いや、それどころか甘えるように手を伸ばし、その白くて長い指をボクの指へと絡ませてきた。

「ちょっ、新江崎さん!?」
「パパ……、やっぱり私の誕生日のお祝いに来てくれたんだ。嬉しい……本当に、本当に嬉しい」

 心の底からの笑顔。木漏れ日に照らされた新江崎さんのその表情はとても美しくて、ボクは思わず何も言えずに押し黙る。
 しかし、新江崎さんの笑顔はそのみるみるうちに消え、そして寂しくて堪らないように哀しげな顔になった。

「ああ……パパ。私ね、私……頑張ってるよ? 毎日、すごく辛くて……泣きたくて堪らない。でも……、でも、頑張ってる。毎日お仕事頑張っていたパパの娘だもん」

 彼女の顔……それは普段のように張り詰めた表情ではなく、まるで幼い子供のよう。涙をうっすらと瞳へ浮かべながら、ボクへ必死に語りかけてくる。何も言えない……ボクはどう返事していいかもわからず、ただ無言のまま、彼女の手を握り締めた。

「だから……だから……お願いだから帰ってきてよパパ。もう、お仕事で遅れても文句言わない。また私の誕生日を忘れていても怒らないから。勉強だってもっと頑張る。お稽古だって……。お願い……パパ。私、私……辛くて、寂しくて堪らないの。お願い……お願い、パパ」
「新江崎さん……」

 小さな子供のように幼い声。ボクの胸が締め付けられるように痛い。桜と知り合う前、独りきりで母さんの帰りを待ち続けた夜の日々を思い出す。あれと同じ寂しさを……いや、良家の子女というプレッシャーがある分、新江崎さんのほうが辛かったのだろう。
 それに、今、彼女には不仲だという噂の母親しかいない。一見完璧で勉強、習い事と優秀すぎる彼女は、しかしあやういほどギリギリで頑張っていたのだ。

「新江崎さん、大丈夫だよ。友達になろう? これからはボクも一緒に頑張るから」

 聞こえているかどうかも解らず、しかしボクは必死で叫ぶ。目の前で泣いている少女、その涙を止めたくて。強く手を握り締め、優しく血で汚れた髪をなでる。
 そのボクの言葉が届いたのか? 彼女は涙を浮かべつつ、弱々しい微笑みを浮かべた。

「……でもね、最近気になる人が出来たの。ふふ、パパに少し似てるかな。決めた目標には何があっても進んでいく不器用なヤツ。憎たらしいって思っていたはずなのに……でも、私だけが頑張っている訳じゃないんだって……教えてくれた。最近、彼の事を思うと少しだけ……寂しくなくなるの」

 彼女の頬を伝い落ちる涙をゆっくりと拭き取る。そして、遠くから聞こえてくる複数の慌てた様子の足音。

「パパ……大好き。また、会いにきてね、ありがとう」
「新江崎さん、貴女を助ける事ができて……ボクは、本当に嬉しい」

 最後にそう呟いて、ボクはゆっくりと立ち上がり、救助にきた先生たちを大声で呼び続けようとする。が、酷く消耗していたのか、フラフラと木へ寄りかかってしまう。脳の奥が沸騰するように熱く、とても立っていられない。

「助けられて……よかった」

 ズルズルと木の根元へ座り込む。眠い……とてつもなく眠い。しっかりとバッグを抱きかかえたまま、ゆっくりと瞳を閉じていく。
 スルスルと暗闇へ意識が滑り込む。遠くからぼんやりと聞こえる恋の声や、慌てた大人の声を聞きながら、ボクは眠りの中へと落ちていった。





 ※※注意※※

・まあ、当たり前ですがこれはフィクションです。症状は嘘に決まってるし、私はNEETで付け焼刃の知識です。真実よりもドラマ性を重視しています。しかし、こんな注意書きって野暮だよね。でも、一応書いておきます。



[24259] ・第10話 【小学校編⑧前編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/04/05 09:54
・第10話 【小学校編⑧前編】



 ◆



 なじみ深い消毒液の鼻を刺すツンとした香り。安心できるその香りに包まれて、ボクはまどろみの中を漂い続けていた。
 こんな……夢を見ない眠りは久しぶり。まるで母さんに包まれているような深い安らぎを感じつつ、怠惰な眠りを貪り続ける。

「……それで、沙織お嬢様はどうなのでしょうか? 電話では問題ないと伺いましたが」
「ええ、安心して下さい。容態は安定しています。検査の結果、脳や骨に異常はありませんでした。ただ同意して戴いた通り、右肺に損傷がみられたので3時間前に緊急手術を行っています。術後は安定、他に問題は無し。今は麻酔が効いて眠っていますけれど……」
「そうですか、ほっとしました。それで……その、おっしゃっていた緊急処置について、もう少し詳しく伺いたいのですが」

 遠くから響いてくるぼそぼそとした話し声。どこか聞き覚えのある女性の声――大人の女性といった感じの落ち着いた雰囲気――と母さんの声だ。
 けれども母さんのその声には、普段とは全く違う厳しさが感じられた。まるで怒りを隠しているような。

「まず、新江崎沙織さんは打撲による緊張性気胸でした。非常に危険な状態であったと推測されます。リサイクルセンターから報告を受け、ココに車が到達するのに要した時間は26分。……結論としては、謎の医師によるストローの緊急処置がなければ極めて重大な結果になっていたでしょう」
「それほどですか……。処置として、先生の目から見ても問題が無かったと?」
「ええ……問題の無い。いえ、むしろ見事な処置であったと思います。ただし、いくつか腑に落ちない……そう、納得がいかない点がありますが」
「それはどういった所でしょう?」

 何を話しているのか? 言葉だと思うけれどその意味が解らない。まるで遠い異国の言語のように音しか解らない。フワフワとした優しい眠りに落ちたまま、ぼんやりとその音を聞き続ける。

「まず何よりも、患者――沙織さん――を放置して姿を消している点です。どんな理由があれ、命の危険のある患者を放置して姿を消す――なのに手術はしている――のは同じ医者として信じられません。もし容態が急変していたらと思うと……。何故手術をしておきながら姿を消したのでしょう?」
「学校の先生……つまり町の大人には姿を見せたくない強い理由があったのでは?」
「それは私にはわかりませんが……。次に、緊急処置の手伝いをアキラ――私の息子ですが――小学生の子供にさせている点です。アキラの左肩に残された患者の爪跡からして、胸腔穿刺の際に沙織さんの体を抑える手伝いをさせたようですけれど」
「ええ、アキラ君。一度、図書館で会いましたわ。とても真面目で誠実な少年だと思いました。疲労で眠っていると聞きましたが、お嬢様を助けて下さったのですね……。それが問題とは?」

 母さんの声に、やっぱりほんのわずか怒気が混じっている。普段、ボクや桜にはけっしてする事の無い声。
 いつも微笑んでいる母さんが、こんな怖い声を出すなんて……。

「これは、私が母親でもある為、冷静な判断が出来ていないからかもしれませんが……小学生に手伝わせるくらいなら、なぜ大人を呼んでこさせなかったのでしょうか? すぐ近くの施設に学校の先生方がおられたのですから。救命、いえ常識で考えてもおかしく思います。それに目の前で手術まで……。助かったから良かったものの、万が一の場合、息子は……、アキラは一生悔やむ事になったでしょう。自分が同級生を殺す手伝いをした、と。手伝いとは言え、子供に安易に命を背負わせるなどと……」
「……その点からも先ほどと同じ、どうしても町の大人へ会いたくなかった理由があるのだ、と推測できますね。しかし先生にとって、医師として、そして母親としても許せないと?」
「はい。どのような理由があろうとも、消えそうな命より己の都合を優先させるなんて。……ただ、緊急術技のスキルは高いと認めます。不安定な場所での手術、更に麻酔もない、レントゲンもない緊急の状況で行なったとは思えないほどに。血管や神経などに傷をつけることなく最小限の切開をしています」

 どこからか漂うコーヒーの匂い。温かなシーツにくるまって、ボクは依然まどろみを漂い続ける。

「間違いなくベテランの医師であると?」
「ええ、間違いありません。ここ、この狭い場所ですが……、第2肋間鎖骨中線へと一切のズレなく一度でアプローチしています。成人なら体も大きいため、骨の隙間が広いので少しはやりやすい。ですが、新江崎沙織さんは発育が良いほうだとは言え、いまだ小学生。成人よりも遙かに狭い肋骨の隙間へ、他組織の被害は最小限でストローを通しています。寒気がするほど卓越した手術術技……凄まじく経験豊富な外科医です。それだけに、これほどの人物が患者を放置して立ち去ったのが……」
「……なるほど」

 少しの沈黙。ボクの耳へ届いていた音は止まり、重苦しい無音が支配する。しかし、数分後……その沈黙を破り、母さんではない方の女性が口を開いた。

「わかりました。しかし先生、この事は内密にお願いしたいのです。状況から考えると、沙織お嬢様を処置した人物は、元新江崎家の医師、実父の鉄雄氏の可能性があります。新江崎家が依頼している興信所によれば、5年前に新宿で確認されて以降、発見出来ていないですけれど」
「いえ、それはおかしいと思います。父親が――いくら緊急処置をしたとはいえ――実の娘を放置して姿を消すはずが……」
「先生、申し訳ありませんが、それは新江崎家の問題です。口を挟まないで頂きたい」

 一瞬、気まずい沈黙が流れる。が、軽く咳払いをした後、再び女性は口を開いた

「話を続けます。先生もご存知かも知れませんが、今、新江崎家党首――沙織お嬢様のお母様――は再婚の準備で非常に多忙なのです。これ以上、無駄な火種を抱える余裕はありません。今回が仮に鉄雄氏の処置では無かったとしても、再婚が正式に決定されるまで、出来うる限り波風は立てたくないのです。お解りいただけないでしょうか?」
「つまり、この緊急処置を重要視しない……という事ですか?」
「そうです、お嬢様を緊急処置した人物は偶然通りがかった何の関係もない医師であった、と。……それに元々、刑事事件となりえない状況でしょう? 『良きサマリア人の法』ではありませんが、今回のケースは緊急避難、止む負えない処置であったと先生もお認めになられました。新江崎家としては、善意の第三者であったと判断します。そう、決して元父親に助けられた訳ではない。沙織様はこれまでも……そしてこれからも、あの男に接点など無いのです。よろしいでしょうか? くれぐれも他言無用でお願い致します」

 再びの沈黙。ボクは眠りと覚醒の間をさまよい続けている。そして母さんの声……どこかため息を含んだような響き。

「……私は医者です。口止めされるまでもなく、患者の病状に関することを他人には喋りません。しかし、沙織さんが詳しい事情を知りたがった場合、それを伝えるのもまた医師としての責務です。それでよろしいですか?」
「ええ、本当はお嬢様にも言わないで欲しいですけれど……先生にそうお願いしても無駄でしょう? それで結構です。それでは先生、お嬢様が目覚めたら再び連絡を頂けますか? 転院の手配もしなければなりませんし、詳しい状況も沙織お嬢様から伺いたいので」
「解りました。夕方まで図書館、それ以降は携帯でいいのですか?」
「いえ、図書館だけで結構です。今晩はあそこに泊まりこみますから。それでは先生、沙織お嬢様をよろしくお願いします。それにご子息もお大事に、お嬢様を助けて頂いて、本当にありがとうございました、とお伝え下さい。……多忙な新江崎家頭首に代わって、厚く感謝申し上げます」

 コツコツと床を歩くハイヒールの音、そしてドアの開く音の後、母さんの深いため息が聞こえた。悩むような、悲しむような……それは、疲れ果てた人が言葉に出来ない暗い思いを吐き出すような、そんな重苦しいため息だった。



 ◆◆



 それは唐突な、あまりに唐突すぎる目覚めだった。泥のように深い睡眠から一気に覚醒し、そのくっきりとしたクリアーすぎる意識の為に、逆に状況が把握できずオタオタしてしまうくらいの目覚め。
 ボクは体にかけられていた真っ白なシーツをめくりながら、上半身をベッドに起こす。

「ここ、ここって診療所?」

 呆然と呟きながら周囲を見渡せば、見覚えのある白くて無機質なベッドの上。間違いなく母さんの診療所にあるベッドだ。
 時刻は昼間なのだろう、窓の外から白いカーテンを透し、まぶしい太陽光が差し込んでいた。ボクはジーンズと、上半身は診療所備え付けのブルーの浴衣というアンバランスな格好をしている。しかも左肩には創傷用のポリウレタンフィルムが貼ってあった。
 ――何でこんな格好を、それになぜ診療所なんかに? Tシャツは……いや、そもそも何をしていた? どうして左肩を怪我……っって!? 

「新江崎さん!!」

 一気に蘇ってくる記憶。様々な場面が脳裏へとフラッシュバックしてくるけど、そんな事はどうだっていい。新江崎さんは無事なのか? その思いだけが胸を焦がす。
 まだ眠っているように倦怠感のある体へ力を込め、ベッドから床へ足をつく。いまいち力の入らない手、少し痛む左肩を誤魔化しつつ、病室の仕切りとなっている真っ白な布をひく。
 独特の甲高い音を立て開かれる白い布。そして数メートル先に隣のベッドを仕切っている淡いグリーンのカーテンが見えた。

「柊クン、起きたの!?」
「――っっ!? 新江崎さん! そこにいるの? ねぇ、大丈夫!? このカーテン開けてもいい?」
「えっ、あ……、ちょ、ちょっと待って……待ちなさいよっ。勝手に開けたら許さないから」

 グリーンのカーテン越しに響く新江崎さんの声。普段通り偉そうで、だけど艶っぽくて、そしてとっても元気そうで……ボクは安堵のあまりに胸を撫で下ろす。

「いいわよっ」
「うん」

 1、2分後、ゴソゴソと何かを片付ける音が止み、ようやく許可がでたと同時、ボクは勢いよくカーテンを開いた。

「――っっ」

 その瞬間、ボクは驚きと喜びに体が固まってしまった。ベッドへその体を起こし、元気そうにこっちを見つめている新江崎さんの姿に見とれてしまったまま……。
 首筋から右肩に真っ白な包帯が巻かれていたけれど、その美しさは普段のまま生気に満ちていた。いや、どこか嬉しそうに柔らかく微笑んでいて、普段よりも更に綺麗に見える。
 黒髪はハラリと飾るように華奢な体へ流れ、パジャマは光沢のある黒い生地にフリルのついた豪華な物。ゴスロリっぽいけれど、それがメチャクチャに似合っている。まさにお姫様、ファッション雑誌からそのまま抜け出た写真のよう。

「何、そんなトコにぼーっと突っ立って。馬鹿じゃないの? ほら、ここに座りなさいよ。カーテンを開けたままじゃ眩しいじゃない」
「あっ……うん。どう新江崎さん、具合は?」

 グリーンのカーテンを閉め、新江崎さんに促された場所――彼女が座っているベッドの開いたスペース――へ腰掛け声をかける。

「具合は? って、柊クンには言われたくないわよ! わかってるの? 貴方ってほぼ丸1日眠りっぱなしだったんだから。……まあ、私は元気だけどっ! そっちはどうなのよ?」
「いっ、そうなの!? いやボクは元気。メチャクチャすっきりしてる。そっか、そんなに寝てたんだ」

 あの手術の後、急激に襲われた眠気に抵抗できなかった事を思い出す。ここ最近の夢で疲労が重なっていた事、7キロ歩いた直後に行なったオペ、その凄まじい緊張感に耐え切れずダウンしちゃったのか……。

「ん? 丸1日ってことは、学校……。っ! それに母さんは?」
「馬鹿ね、何時だと思ってるのよ。そんなのとっくに始まっているわ。今なら昼休み前、4時間目ってトコじゃない? それと、柊クンのお母様なら往診に出かけたわ。急患ですって……、ふふっ」
「ちょっ、何で笑ってんのさ。うう、学校サボっちゃったよ」

 口に手をあてニコニコと微笑む新江崎さん。

「あら、ごめんなさい。パパも毎日忙しくしてたなぁって思い出して。そしてこのアルコールの匂い……よく病院に忍び込んで怒られたもの。……すごく懐かしい。ふふ、それにね、朝、貴方のベッド凄かったのよ。桜さんと神無月クンがお見舞いに来ていたわ。ずいぶん朝早くからね」
「え?」 

 桜と恋が来たのかという驚きと、新江崎さんがお父さんの事を語る表情の柔らかさに、思わず口ごもる。そんなボクを見ながら、クスクスと笑みをこぼしつつ言葉を続けるお姫様。
 ボクの座っているベッドの位置と彼女の場所が近くって、少しドギマギしてしまう。新江崎さんが優雅に体を動かす度に、なんともいえない甘くていい香りを感じる。

「どっちも学校を休んで貴方の看病をしたがっていたわ。まあ、ただの疲労だから心配しないで学校へ行きなさいって、柊クンのお母様に言われて渋々納得していたみたいだけど。ふふ、けど学校に行く時の二人の顔、貴方にも見せてあげたかったわね」
「そ、そう。あ、でも新江崎さんってそんなに朝から起きてたの?」

 たわいない会話。けれどそれは、彼女が元気だというこれ以上ない証拠で、ただ会話しているだけなのにとても楽しかった。
 それに何故か、新江崎さんも普段よりも物腰が柔らかくって、とても話しやすく感じる。

「そうねぇ、普段は6時から合気道の稽古をやっているから、遅くても4時30分には起きるようにしているわ。だから、もう目が冴えちゃって。誰かさんはだらしなく眠っていたから退屈でね。それで仕方ないから勉強していたの。怪我もおかげさまで大丈夫って話だし」
「うっ……。合気道、へぇ」

 合気道……という単語で、昨日の事――滑落しそうだったボクを助けてくれた不思議な動き――を思い出す。しなやかで流れるように優雅だった体と長い手足、そしてボクを見つめた鋭い瞳の美しさ。
 すぐ隣で、黒髪を左手で耳へ掛けつつ微笑んでいる新江崎さん。黒いフリルのついたパジャマがやっぱりとっても似合ってる。少し暑いのか、ゴスロリ調のパジャマのボタンを外していて、綺麗な鎖骨のラインが覗いていた。
 思わず視線が吸い込まれるほどの白い肌。そんな場所を見てドキドキしたボクは気付いてなかった。
 ――普段とあまりに違う明るい雰囲気、そこに隠れている不安定さ、新江崎さんの脆さを。

「えっと、……ところで柊クン。その、ちょっと聞きたい事があるのだけど、いい?」
「うん、何?」

 20分ほどポツポツと他愛無い会話を続けていたボク達。けれど突然、新江崎さんの口調が変わる。カチリとスイッチが入れ替わったように……。それは、さっきまでの穏やかな雰囲気とは違い、どこか暗い。
 浮かべていた微笑みを消し、真剣な――少し思いつめたような――表情になる彼女。キリリとした切れ長の瞳がボクをじっと見つめてくる。
 何となく言いにくそうで、まるで怖がっているような雰囲気。なかなか次の口を開かない。が、3分ほどの沈黙の後、整った顔を伏せ、ぽつり……といった感じでようやく呟いた。

「今朝……ちょっと聞いたのだけど、貴方、私が滑落した場所で大人の男の人に会ったんだよね? その人って何か言ってなかった? えっと、私の誕生日の事とか……」
「え?」

 あまりにも思いつめた様子の彼女。少し怯えるようにも見える。普段の感じとは全く違って、自信など感じられない華奢で儚げな印象。

「あ、ううん、違う。そんな事はどうでもいいの。そう……その人、元気そうに見えた?」

 少し鼻にかかる弱々しい声。祈るように両手を組みながら、じっと見つめてくる瞳。
 けれどボクは上手く答えることが出来ない。いったいどうなっているのか? 新江崎さんが何を言っているのかもよく理解できない。

「ご、ごめん新江崎さん。何を……」

 ただの時間稼ぎのように、しどろもどろに口を開く。が、新江崎さんは聞ききれずに言葉を続ける。身のうちにこもる不安を吐き出すように、ボクにすがるように。

「朝にね、私、柊クンのお母様から聞いたの。あの時、緊急処置をしてくれた医師がいるって、それを貴方も手伝ったって! その人が私のパパなの、私を助けてくれた人が! ねぇ、パパ、お病気とかしている感じじゃなかった? ちゃんと、ちゃんと元気にしていた? 教えて、私、パパの事何も知らないの。誰も教えてくれない。心配なの! どんなことでも知りたいのよ」
「あ……」

 堰を切ったようにあふれ出してくる彼女の言葉。まるで哀願するような声色。
 そして、ボクはパズルの欠片が埋まった時のように理解した。昨日の手術……それを行ったのはボクではなく、なぜか新江崎さんのお父さんがした事になっている、と。

「それは……」

 確かにボクが手術をした場面を誰も見ていないし、情けない事に説明する前にボクは眠りへ落ちてしまっていた。
 当然、ボクみたいな小学生が手術をしたなんて考える人などいない。そうすると、医師があの場所にいたと誰もが考えるだろう。それで……何故か、新江崎さんのお父さんが手術を行なった事になっているのだ、と。

「あの時、すごく苦しくて、本当に痛くて……もう死んだほうがいいってまで思ってた。でも、なんとなく覚えているの。『絶対に死なせない! 頑張って、頑張って!』って必死な叫び声。私、その声に救われた。まるで、抱きしめられてるみたいに幸せだった。でも、やっぱり勘違いだったのかも……」

 手術の時、新江崎さんが強く……まるですがる幼子のように父親を求めていた姿を思い出す。いつもギリギリで頑張り続けている彼女。そして、ボクは気付いた……今日の新江崎さんが、穏やかで満ち足りていた表情を浮かべていたのは、大好きな父親が助けてくれた、と希望を抱いていたから。
 ボクは無言のまま強く奥歯を噛み締める。ここで本当の事……手術をしたのはボクだった、と告げていいのか迷ってしまう。
 あの時、本当に幸せそうな顔でお父さんに『大好き』と呟いた新江崎さん。それは全て嘘、彼女の勘違いであったと告げるのか?

「それとも、何も言ってなかった? 私、パパにまた迷惑かけちゃった……。ずっと会いたいって願っているのに、会いに来てくれない。ううん、まともに会えた事なんて一度も無い! やっぱりどうでもいいって思われてるのかな……。それとも、こんな手間のかかる娘で、私、私の事、やっぱり邪魔だって……。どうしよう、パパに嫌われていたら、私、どう……」

 最後はもはや問いかけでさえ無く、ただの嗚咽だった。怯えている子供のよう。彼女の瞳からいくつもの涙が流れ、黒い服へと落ちていく。その美しい輝きがボクの心にえぐるように突き刺さる。

「新江崎さん」

 彼女はボクと同じだ。いつも、いつも考えていた、ボクは義母にとって迷惑な存在、邪魔なのではないか? と。新江崎さんの悲しみを、自身の痛みのようにはっきりと感じる。
 胸の奥から湧き出す衝動。突き動かされるがまま彼女の白い手を包むように握り、言葉を搾り出す。それが悪だと知りつつも、どうしても言わずにいられなかった。

「そんな事ない、そんな事ないよ! 必死であんまり会話できなかったけど、その人……お父さんは元気そうだった。それに、誕生日おめでとうって。新江崎さんの事が大好きだって。助けられて本当に良かったって……言ってたよ。どうでもいい訳がない! 絶対に、迷惑だなんて! 絶対に! 新江崎さんを邪魔だなんて、嫌うわけがないだろ!」
「……うん」

 ボクは最低で残酷な嘘つきだ。この嘘がばれる時、絶対に新江崎さんはボクを許してはくれないだろう。憎まれて軽蔑されるだろう。……それでもいいと、ボクは衝動に支配されたまま、泣いている彼女の両手を握り締めていた。
 ポロポロとボクの頬にも涙が落ちていく。泣く資格なんて無い、最低の嘘つきのくせに……。今までだったら、関係がない、と割り切って本当の事を告げていたかもしれない。それが信じられなかったとしても、別にどうでもいい……と何の興味もなく冷淡に。
 だけど、今そう出来ない。新江崎さんの心が壊れるのが怖い。この最低な嘘によって、いつか余計に傷つけてしまうかもしれないけど、それでも今、彼女の涙が見たくなかった。胸の奥から湧き出る自己嫌悪。
 その中から、ボクの本当の気持ちを、心からの感謝を伝えようと言葉を探す。

「ボクも、新江崎さんが助かって……本当に、本当に嬉しいよ。ごめんね、新江崎さん。だけど……ボクも貴女が生きている。それだけで、嬉しいんだ」
「……ありがとう、ありがとう。柊君」

 握り合ったボク達の両手にポタポタと涙が落ちる。どう言えば良かったのか、ボクにはわからなかった。ただ、いつか正直に全てを話す時がくる。その時まで、何があってもボクは彼女の味方をする……と、固く誓う。
 ――それから、カーテン越しに明るい陽光が射しこむベッドの上で、ボク達は互いの両手を握りしめ、無言のまま、ただ時が流れるのを待ち続けた。少し鼻にツンとくる、馴染み深いアルコールの香りに包まれたままで。
  


 ◆◆◆



 リサイクルセンターで起こった事故から、ちょうど一週間が過ぎた。
 ――結局、ボクは最低の嘘を重ね続けた。母さんに少し状況を聞かれた時も、『知らない男性の手伝いをした。でも必死であまり覚えてない』と、同じ返答を繰り返すだけ。新江崎さんは後橋の大きな病院へ転院。
 そしてバッグはあの時に恋が持っていってくれてたらしく、事故の翌日に学校で渡された。

『アキラ、悩みあるんじゃない? どんな事でも言って』

 と、尋ねられたが、何も言えずじまい。拍子抜けするほど普段と変わらない日常が戻ってきて、ボクはその中で日々を過ごしていた……が。

「ああもうっ、何でそんなに睨むのさ。それに、どうして恋までココにいるんだよ!」

 ――事故から一週間後、水曜日の放課後、自宅。
 何故かボクは、幼馴染の桜と親友である恋の、恐ろしいほど冷ややかな視線に晒されていた。ニコニコと居間で微笑んでいるのは母さんだけで、桜と恋は不機嫌さを隠そうともせず、ふくれっ面のままジトリとした視線で睨んでくる。

「うっさいアキラ。桜ちゃんと遊ぶんだもん。でも何さその蝶ネクタイ! すっごく変、ぜんっぜん似合ってない! ほんと馬鹿アキラって感じ」
「そうよアキラ兄さん。すっごく似合ってない。絶対笑われるだけだから行くの止めたら? 今から断りの電話を入れればいいじゃない、ね? 先生と神無月先輩、4人でご飯でも食べに行こうよ」
「そんな恐ろしい事、出来る訳ないだろ!」

 悪戦苦闘しながらタキシードを体に合わせているボクの苦労を知らず、好き放題に言いまくる2人。
 半ズボンにTシャツのラフな格好でソファーに座ったまま、ボクのお気に入りのクッションを勝手に抱いている親友、そしてさっきからあちこち引っ張ったりして邪魔をしてくる幼馴染を睨む。
 が、それ以上に不機嫌そうな視線で2人に返されてしまい、慌てて目をそらした。

「ほら、2人とも、そんなにアキラを虐めちゃ駄目。ふふっ、ほらアキラ、こっち見て。せっかくだから写真に撮っとくから」
「ちょっ、母さんまで……。ああ、もうっ!」

 デジカメを構え、カシャカシャとシャッターを切りまくっている我が母。こんなタキシード姿……すっごく恥ずかしいのに全くお構いなしに連写してくる。
 はぁ……、とため息をつきながら、ボクはタキシードのポケットに手を突っ込み、一枚の紙切れを触る。そう、この薄い紙がすべての元凶なのだ。光沢のある、いかにも高級そうな手触りの白い紙。丁寧に赤い蝋で封がしてあったその中身……。

「あーあ。でもさ、アキラだけパーティーに招待されるってどうなの? ズルイよ! ううううっっ、ボクも行きたかったっ。綺麗なドレス、豪華な料理、それにデザート!」
「そう、ズルイですよね! 神無月先輩もそう思います? なんで兄さんだけ!? ねぇ、兄さん、本当に新江崎先輩と何かあったりしてないでしょうね?」
「うるさい、バカ桜。何も無いって散々言ったじゃんか! ただ、この間のお礼を兼ねてって事で……。それに元々招待されたのは母さんなんだし。母さんが、もし急患が来たら駄目だからって断ったから、仕方なくボクが行く事になったんじゃんか」
「はーい! ほら、アキラ。こっち向いて、母さん次は笑顔が撮りたいなぁ。ね、にっこり笑って、うん、そうそう。そのまま、そのまま!」

 桜と恋に何度目になるか解らない説明を繰り返しつつ、母さんのカメラに向かって作り笑いを浮かべる。

『新江崎家次期頭首 新江崎沙織 生誕12年記念パーティー招待状』

 ポケットに入っている白い紙には、金文字でそう記入されている。でも、招待状と言うより召喚状……と言ったほうが正確だと思う。桜と恋、そして母さんの相手をしつつ、ボクは招待状を渡された時の事をぼんやりと思い浮かべていた。
 
 ――それは先週、金曜日の放課後。桜を父親が待つ自宅へ送った後、向かった町立図書館での事。
 あい変わらず可愛く微笑んでいる司書さんへ挨拶を行ない、医学書室へと入る許可を得た。本当なら新江崎さんと一緒じゃなきゃ駄目なんだろうけれど、彼女は後橋市の病院で入院中だから仕方ない。
 もしかしたら駄目って断られるかも? と思っていたけど、案外すんなりと司書さんの許可が下り、ボクは上機嫌で医学書を読みふける。
 それから時が過ぎ、背後で扉の開く音が聞こえ……何? と思いながら振り返ったボクの視線の先には……。

「新江崎さん、どうして!?」

 そこに立っていたのは私服の新江崎さんだった。普段の制服ではなく、白色のシンプルなワンピース姿に黒のハンドバッグを持っている。裾はすごく短くて、そこから伸びる長い足には白のロングソックス、足元は黒のハイヒール。髪には赤のカチューシャを着けて、まさにお嬢様。
 右肩に既に包帯は無く、簡単なカーゼが貼り付けられていた。顔色も良さそうで、とても健康に見える。あの時の弱々しい感じは微塵も無く、ツンとした近寄りがたい雰囲気が全身からあふれ出していた。

「何よ、悪い? 今、自宅療養中」
「い、いや、全然悪くないよ。そ、そうなんだ、でも元気そうで良かった。何の用でって、あ……もしかして、勝手にココに入ったから? その、ご、ごめん、丁寧に読むから。ほんとゴメンね」

 ジロリと切れ長の瞳で睨んでくる彼女。不機嫌なのか唇は固く結ばれ、顔は怒っているように少し赤い。
 慌てて医学書を閉じ、彼女に頭を下げる。新江崎さんにとって、お父さんはとっても大切な人だと知ってしまった。それなのに勝手に本を読んでしまったのは――いくら彼女が入院中だと思っていたとはいえ――ボクが悪い。
 やっぱ怒ってるなぁ……と内心ため息をつきながら、少し顔を赤くして視線を逸らしている彼女を見つめた。

「……怖がらないでよ、バカ」
「え?」
「――っ、何でも無いわよっ! あい変わらずムカつくヤツ!」

 白いワンピースから覗くむき出しの肩、ほっそりした腕を組んでイライラと指先を動かしている彼女。爪先には以前と同じようにキラキラと輝く石がついていて、とても可愛らしい。そう、見た目だけは……。

「ああもうっ、強引に抜け出してきたから時間が無いの! はいコレ!!」
「え? 何?」

 早口で言いながら、持っていたハンドバッグから白い物を取り出す彼女。それを凄い勢いでボクの目前へと突き出す。

「これって……何?」
「いいから受け取りなさいよ、ほらっ、グズグズしない」
「う、うん」

 完全回復、普段の通り唯我独尊モードの新江崎さん。気圧されながら、ボクはその白い紙を受け取る。

「来週の水曜。18時からだから。もし来なかったらわかっているでしょうね?」
「あの、まず何がなんだか……」

 白い紙は手紙の封筒、しかも真っ赤な蝋で封がされており、正直、ボクはどうやって開いたらいいのかさえ解らなかった。
 けれど姫はそんなボクにおかましなしに言葉を続ける。

「じゃあ私戻るから。その……、少しはダンス練習しときなさいよ」
「え……?」

 カツカツとハイヒールの音を立て、医学書室を出て行く彼女。その後姿さえ、冗談みたいにバランスが良くって、持った手紙の事を思わず忘れながら見送った。
 ――ボクが、それが招待状だと理解したのは20分後。何が可笑しいのか、クスクスと笑い続けている司書さんと2人で封筒を開いた時だった。  



[24259] ・第10話 【小学校編⑧後編】 【ダンス、その後】 を追記
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/10/05 15:00
・第10話 【小学校編⑧後編】


 ◆


 遙か昔、紀元前460年――古代ギリシア文明が栄えていた頃――地中海へ浮かぶ小さな島コスに、1人の男が生まれた。ヒポクラテスと名づけられたその男は、現代の医者から今もなお『医聖』『医学の父』と讃えられている。
 彼は、それまで呪いや天罰が原因とされてきた病気を科学的考察により分析、根拠のない迷信から切り離し、現代医学の基礎を築いた。が、その偉業とはまた別に、ヒポクラテスの名は全ての医療関係者……いや、医を志すもの達にとって特別な意味を持つ。

 『ヒポクラテスの誓い』

 それは医に携わる者であれば、誰もが知る聖なる誓い。彼が生まれて約2500年という長い年月が流れてなお、その誓いは全く色あせる事無く、オレ達の胸に宿り続けている。

「――ッッ、ううっっ」

 蒸し暑く寝苦しいアフリカの夜。……何か、苦しそうな声が聞こえた気がして、オレはふと暗闇の中で目を覚ました。枕元に置いてあるシンプルなデジタル時計を見れば、深夜2時。濃密な闇の中を、デジタル時計の緑色をした表示部分だけがぼんやりと照らし出す。

「……っう」

 吸い込む空気さえ蒸し暑く感じる暗闇へと再び響く声……やはり、オレの勘違いでは無かった。簡易なプレハブ作り、医療キャンプ施設の薄い壁を通して聞こえてくる音。
 それは隣室――セリシールの部屋からの嗚咽だと気付く。かつてオレが毎晩していたような、嘔吐混じりのどうしようもなく苦しそうな声。

「セリシール……」

 寝汗を吸い込んで重くなったシーツをはぎつつ、助手の名前を小さく呟く。数時間前、最後に行なったオペの事が脳裏へと浮かんでくる。同時に、口の中へあふれ出してくる苦い唾。奥歯をきつく噛み締めながら、その唾を飲む。
 最後の患者はセリシールの知り合い――彼女がこのNGOに来て初めて仲良くなったという少女――だった。少女が血まみれで運び込まれた時のセリシールの青ざめた顔を思い出す。
 まだ10歳という年齢ながら、4人の弟のために日々、市街地で野菜売りを行なっていた明るい少女だった。しかし……老朽化、そして戦争による脆弱化を受け、突如崩落してきた建物の下敷きへなってしまったらしい。不運としか言いようの無い事故。けれど、インフラが何もかも未整備なこの土地では免れない悲劇でもあった。
 街の大人によって医療キャンプへ少女が運びこまれてきた時には既に意識不明、脳挫傷、大腿部の開放性骨折、そして大量失血と非常に危険な容態だった。オレとセリシールは3時間、全ての技術を費やし足掻き続けたが……。しかし、命を救う事は出来なかった。
 せめて、もう少し早くキャンプへ到着していれば助けられたのかも知れない。が、貧しすぎるこの国では、瓦礫を除去できる重機械の数は少なく、また燃料さえ常に不足気味。事故が起きても迅速な救助は望めない。救急救命の前提からして、先進国とは何もかもが違う。

「……」

 疲労から痺れたように感じる体でベッドから降り、暗闇の中をゆっくりと部屋の出口に向かって歩き出す。隣室から聞こえる声――セリシールの嗚咽は止む気配はない。胸の奥からあふれ出しているような、哀切極まりないその声。

「……何を言えば」

 ギリ、と音が鳴るほど強く奥歯を噛み締めつつ足を踏み出す。
 所詮、他人であるオレが彼女へどんな事を言っても慰められないと解っている。それに、そもそもセリシールがこれからも医者を続けるならば、これは彼女自身が乗り越えなければいけない苦しみなのだ、とも。
 けれど昔のオレのようで、無駄だと思っていてもじっとしてはいられなかった。普段から必死に頑張っている助手を、他人だと冷静に割り切る事が出来ない。
 自室を出て薄暗い廊下を歩き、隣室の部屋……ドアの前へと立つ。

「セリシール、オレだ。大丈夫か?」
「うっ、うう、……せ、先輩?」

 弱々しい声の後、1、2分ほど沈黙が続き、そしてカチャリと鍵の小さな音と共にドアは開いた。
 その向こうには、泣きはらした真っ赤な瞳、ボサボサの金髪で、呆然としているセリシールの姿があった。彼女は何かを言おうとするように口を動かすのだが、それより先にポロポロと涙が白い肌の上を落ちていき、言葉にならない嗚咽が漏れるだけ。
 着ているブルーのパジャマには涙の染みがいくつも出来ており、普段、気丈に振舞っているセリシールの面影はなかった。大粒の涙を流しながら、セリシールはゆっくりと手を伸ばし、オレの腕を掴む。必死ですがりつく子供のように……。

「せ、先輩……、わ、私……」

 言葉にならない、いや、言葉にさえ出来ない悲しみや、己に対する無力感を感じているのか……。腕を掴んでいる彼女の白い指先を温めるように、オレは手のひらをのせる。それは、ここが蒸し暑いアフリカだとは思えないほど、冷たく凍えていた。
 オレの視線の先で、ブルブルと震えている唇。大きな青い瞳からとめどなく大粒の涙がこぼれ落ちていく。

「大丈夫か? セリシール、無理に話そうとしなくていい。ただ、心配しただけだ」

 労わるように声をかけたつもりだが、オレの声が聞こえていないのか……。謝罪するように小さな頭を下げる彼女。

「せ、先輩……。わ、私の声で起こして……。ご、ごめんなさい。夢で、夢であの子を見て……見てしまって。元気に、あんなに元気で、よく笑ってたのに。なのに、なのに……。すみません先輩、でも、でも、どうしても嗚咽が……お、抑えられ……なくて。う、うるさくして、ほ、本当に……、私なんかより先輩のほうが、ずっと、ずっと疲れて……」

 再び夢をありありと思い出したのか、全身をガクガクと痙攣させる彼女。軽いパニックになっている様子。とても見ていられないほど痛々しい。
 落ち着かせるように、その華奢な両肩を掴み、涙をこぼしている青い瞳をしっかりと覗き込む。一言一言を言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 
「聞こえてるか? いいんだ、オレの事なんかどうでもいい。君が心配なんだ。落ち着くんだ、まず水を飲め」

 ブルブルと震えている華奢なカラダ。それを半ば強引に抱くようにしてベッドへと座らせ、ミネラルウォーターのビンを手渡す。虚ろな瞳でオレを見つめながら、なおも謝罪の言葉を話そうとする彼女。
 それを無理矢理に視線で押し止め、きつめの言葉で水を飲むように……と何度も繰り返す。

「……はい」

 ため息混じりのポツリとした呟きの後、まるで子供のように両手でそのビンを持ち、震える唇で口をつけるセリシール。
 いったん水を口に含むと、喉が渇いていたのだろう……コクン、コクン、と静かに飲み始めた。

「セリシール、オレは上手い事が言えない。だが、君は本当によくやっている。決して無力なんかじゃない。自分を責めるな」
「……」

 少し落ち着いた様子を確認し、セリシールの座ったベッドから離れ、入り口近くの壁へ寄りかかりながらそう話す。もっと何か彼女の救いになるような言葉を……と探すけれど、結局こんな事しか言えない。
 かつて、セルゲフがオレに語ってくれた言葉は、幾多の経験を積んだ彼だからこそ言える事。オレがしたり顔で語っても、きっとそれはペラペラの薄い言葉で、彼女の心に届くはずも無い。

「そう……でしょうか? 私、何も、何も出来ませんでした。この地で、ようやく、ようやく仲良くなれた子供一人救えない……。こんな、こんなッッ!!」

 青い瞳から大粒の涙がボロボロと落ちていく。寒くて堪らない……といった様子で細いカラダを自分の両手で抱いている彼女。胸に溜まった激情を吐き出すように言葉を続ける。
 己を責めるように、傷つけるように。
 
「私、私、医者になれば、経験を積めば……きっと大勢の人を救えるって信じてた。本当に愚かでした。……今、今になって……すごく怖いんです。また……また、救えなかったらどうしようって。怖いんです。明日の手術……、いえ、医師という仕事が」

 他人の命を背負う恐怖に蝕まれた助手の姿。ソレはかつての……いや、普段は忘れたつもりでいるオレそのものの姿だ。親しい人を目の前で失った、その衝撃が彼女の心を粉々に打ち砕こうとしている。
 ――外科医にとって、『身内切り』つまり、親しい人、家族を手術する事は最大の禁忌とされる。何故か? 
 それは……外科医にとって手術とは、常にある意味での賭けだから。手術中に外科医へといくつも突きつけられる選択肢。
 助ける事が出来ればいい。しかし救えなかった場合……それが親しい身内、愛する人であった時、外科医の心は迷い、一生後悔し続ける事になる。
 ――あの時こうしていれば、愛した人は助かったはずだ……と、いつまでも己を責め続け、そしてメスを握れなくなっていく。己の決断を信じられなくなる。
 手術中に迷い、判断を下せない外科医……それは、もはや医者とは呼べない。

「セリシール。オレはまだ未熟だから、君を慰める事なんて何も言えない。ただ……」

 あまりにも寒そうに震えているセリシール。その華奢な肩、真っ白な頬をとめどなく落ちていく涙がとても見ていられず、オレは静かにベッドへと近寄る。
 かつて……チーフセルゲフがしてくれた様に、ゆっくりと手を伸ばして彼女の背をさする。薄暗い部屋の中、オレと彼女の息づかい、そしてパジャマの布が擦れる音だけが響く。
 そのまま10分ほど時が流れ、少しだけ呼吸の落ち着いてきた助手に向かい、ゆっくりと語りかける。最近、オレが感じた事を。受け売りの言葉ではなく、オレ自身の言葉で。
 
「ただ……そう、セリシール。『ヒポクラテスの誓い』を覚えているだろうか?」
「はい……」

 少しは落ち着き始めている様子の彼女。弱々しいけれど、ほんのわずかだけ力の感じられる返事が聞こえた。
 その一瞬を逃さぬよう、たたみかけるように言葉を続ける。オレの言葉が……どうにか助手の心へ届くように、と願いながら。

「その中に、『医の誓約に結ばれた者を自身の兄弟と思い、惜しみなく己の医術を伝える事』とある」
「……」

 少し涙をこぼしつつ、ゆっくりと頷くセリシール。揺れる金糸のような髪が、はらりと顔にかかる。

「最近、その意味が少し解った……ような気がするんだ。ヒポクラテスもきっと、救えない患者を大勢診てきたんだろう。医術の限界、苦しさ、無力さを優れた医者である故に、彼は誰よりも知っていたんだ。……そして、それはこれからの医者達も全く同じなのだと解っていたんだよ。――だから、同じ医を学ぶ者達は兄弟のように支えあい、知識を高めろ……と言いたかったのじゃないか」
「……」

 かつて、医師になった時に誓った聖なる文言。偉大なる『医聖』ヒポクラテスへの誓い。
 肌の色や国籍、宗教、何もかもを超越し、医を学ぶ者達は血を分けた兄弟のように団結しなければならない。
 突然襲ってくる理不尽な死に対し、オレ達医者はあまりにも無力だから。独りでは耐えられないから。

「だからセリシール、その苦しみ、命を背負う恐怖は、君だけが感じてるモノじゃない。オレも、それに世界中の医療に携わる人達が抱えてる。……だけど、いつか。そう、未来にはきっと良くなる。必ず医学は進歩する。この苦しみは無駄じゃないと希望を持つんだ。オレ達は無力で、そしていつだって怖い。けど、独りじゃない」
「はい……」
「頼りないだろうが、辛い時はオレに言ってくれ。そして、また助手としてオレを助けて欲しい。君の力が必要だから、患者を助ける為に」
「はい、先輩……」

 少し安心したようにポツリと呟いた後、セリシールの体から力が抜けた。疲労の極地にあったのか……まるで糸の切れた人形のようにオレの肩へともたれかかってくる。
 その重み、そして温かさと穏やかな寝息を感じながら、オレもゆっくりと瞳を閉じた。うまく伝わったのか? それは解らない。
 が、完全にセリシールが眠ったのを確認し、部屋から出て行くまで、オレは少しだけ安らぎを覚えていた。
 ――日本で眠っている桜。まるでアイツがオレの肩で寝息を立てているような……そんな奇妙な錯覚を抱いたまま。


 ◆◆


 新江崎家。噂では聞いていたけれど、それはあまりにも現実離れしていて、ボクはポカン……と突っ立ってしまう。まず家の外観――というか、お屋敷と呼ぶべきだろう――からして違うのだ。
 自宅に迎えに来てくれた図書館の司書さんの運転する車から降りた時、まず目に入ったのは巨大な壁。お城? と一瞬思ったほど広い庭を取り囲む真っ白なレンガ。そのレンガ造りの壁にある鉄格子の門が、いかにも映画なんかでみた西洋風のお屋敷そのもので……。

「柊様、こちらですよ。沙織お嬢様が首を長くして待ってますから」
「ふえっ、あ……はいっ!」

 スタスタと歩いていく司書さんに遅れないように、ボクは早足で進む。が、その途中で目に入る屋敷の内装がまた凄すぎる。
 毛足の長い深紅のカーペットはフカフカの感触で、靴のまま歩いている事に恐怖さえ抱いてしまう。そして長すぎる廊下に飾られた彫刻や大きな絵画達。更に極めつけは、廊下の奥から流れているクラシックの音楽。家……というより美術館のよう。

「はい、こちらです。では少々お待ち下さいね」

 クネクネと曲がりくねった廊下を進み、案内された所。彫刻の施された飴色の木で出来たドアの前。
 ニッコリと微笑んだ司書さんは、ボクを待たせたまま扉をノックして中へと1人で入っていった。きっと、新江崎さんにボクが来訪した事を告げるのだろう。
 誕生日パーティーだという事で、一応持ってきた新江崎さんへのプレゼント包みをしっかりと胸に抱く。
 すごく心臓がバクバクとうるさい。冗談みたいなこの屋敷と比べたら、こんなプレゼントなんてゴミ同然……。正直帰りたい、という気持ちがあふれ出す。
 しかし、そう緊張している目の前で扉が開き、司書さんが姿を見せた。

「柊様、お待たせ致しました。ふふっ、それではお嬢様がお待ちですから、さあ、中へ」
「う……は、はい。失礼します」

 一歩足を踏み入れた瞬間、まず目に映ったのは部屋中に飾られたバラの花、花、花の洪水だった。豪華なシャンデリアの飾られた広すぎる部屋のあちこちへ、壁が見えないほど大量のバラが飾り立てられている。

「何、あい変わらずぼうっとしちゃって。文句でもある?」
「え……? う、うわっ、あ、新江崎さん!? あ、そ、その……」

 視界一面の花、その奥から突如聞こえてきた声、そちらに目を向けたボクは絶句しそうになりながら、無理矢理に口を開いた。
 ドレスを着飾った姫、新江崎さんがあまりにも綺麗だったから……。周囲にある大量の花さえ、一瞬で色あせたように感じる。
 ――艶やかな黒髪は丁寧に編みこまれ、キラキラと輝くティアラで飾られている。ドレスは深紅……大胆に肩が露出し、豊かな胸元が開いたデザイン。小学生には思えない胸の谷間がくっきりと見えて、凄く目のやり場に困る。
 普段から大人びていて、凛と美しい彼女。しかし、今夜はドレスに合わせて化粧をうっすらとしている所為だろう、強烈な色気……のようなモノさえ感じてしまう。
 キリっと整った瞳は、黒いアイシャドウで飾られてボクを鋭く見つめてくる。ちょっと不機嫌そうにツンと結ばれた唇は赤みが強く、妖艶な感じさえ漂っていた。
 そして背筋を伸ばしたまま、ガーターベルト付きの白いストッキングに包まれた長い足を、スッ……と伸ばしてボクへ近づく。

「ふん、意外にスーツも似合うじゃない。ほら、グズグズしないでよね! はいっ」
「……えっ、な、何?」

 怒っているのか、少し頬を赤らめたまま、さも当然のように右手を目前へと伸ばしてくる彼女。白い手袋に包まれている指先。ボクは見とれてしまって何をすればいいのかわからない。
 冷静に考えれば、エスコート――彼女の手を引いて、ドアまで案内――すればいいだけ。なのに、あまりに現実離れした状況で……。

「えっ、ちょっ、ひ、柊クンッ、きゃっ……。え、嘘……やっ、嘘、嘘!?」

 パニックになっていたボクは、映画で見たシーン――お姫さまの手に口付けの挨拶をする騎士――の事を思い出し、思わず新江崎さんの手の甲へ無我夢中で唇をつけてしまった。

「あっ、きゃ……ん……バ、バカ! ひ、柊クン、あの……。ん、ち、違う、違うったら……、あ……んんんっ」

 純白のシルクで出来た手袋に包まれた姫の手。口付けをしているボクの唇に触れるサラサラして、だけど柔らかな感触。更に甘くて例えようも無いほどいい香りが長い指先から漂ってくる。

「……んっ、柊クン、あっ、んんっっ」

 時間にすれば、ほんの数秒間だっただろうけれど、唇を離したボクの胸は張裂けそうなほど強く脈打っていた。勢いでしてしまったけど、もの凄く照れくさい。
 挨拶ってこれで良かったのかな? と深呼吸をしながら目前の新江崎さんを見つめる。

「あ、新江崎さん、これで……良かった?」
「え……、あ……え!?」
  
 ボクは少し怯えながら姫を見つめる、が反応が無い。
 頬はチークの所為なのか、赤く染まっていてやっぱり凄く綺麗。お姫様のつけるようなティアラと真紅のドレスが冗談のように似合っている。部屋のシャンデリアに照らされている大きな瞳が、まるで宝石のようにキラキラと潤んでいるように見えた。 

「あっ……、ん……、ま、まあまあね。んっ……柊クン、じゃあ次は会場へエスコートしてよ」
「え、う、うん、こう?」

 ボクの左手に新江崎さんの手袋に包まれた指が素早く絡みつく。ほんのすぐ左隣へツンとした表情で立つ彼女。首筋から大きく露出した胸元、それがくっきりと視界に入ってしまい、慌てて前だけを見る。

「ちょっと、歩くの早い。ほら……、もっとこっちに近寄って。うん、そう、歩幅を私に合わせて……、気をつけて、こけないでよ」
「あ、うん」
「手、離さないでね。――っっ、って、か、勘違いするんじゃないわよっ、マナー、マナーだからね!」
「あ、うん」

 メチャクチャに接近している距離から漂ってくる甘い香り。何を話しかけられているかもよく理解できない。
 あまりにも綺麗に飾られた姫に緊張しっぱなしのまま、おずおずと扉を開けて足を進めて行く。ボクの左手から伝わってくる彼女の体温。そして時おり、きゅっ……と握り締めてくる柔らかな感触。クスクスと小さく笑いながら、後をついてきている司書のお姉さん。
 何もかもが現実離れしていて……。ボクはまるで、童話の世界に紛れ込んでしまったような不思議な気分のまま、会場までの長い廊下を歩き続ける。 
 そして、すっかり舞い上がっていたボクは、せっかくの誕生日プレゼントを彼女の部屋に忘れていた事に、会場へたどり着くまで気付くこともしなかった。



 ◆◆◆



 新江崎さんの誕生日パーティー。それは大勢の大人たちがひしめきあっていて、まるでドラマを見ているかのようだった。会場の中心にいる新江崎さん――そして母親、現新江崎家頭首――へ対し、ひっきりなしに挨拶が繰り広げられていく。その隣にある広い空間では、クラシックの生演奏が行なわれており、様々な人達がダンスを続けている。
 しかし……ボクはと言えば、目立たぬように壁際に立ったままモグモグと料理を味わっていた。

「ほら、あれが……診療所の……」
「ええ、どうしてここに? あの女の……」

 決して温かくは無い視線と、ヒソヒソと囁かれる色々な言葉。努めて気にしないようにしながら、様々な料理を食べていく。時々、新江崎さんが視線を投げてくるけれど、彼女へ切れ目無く訪れている挨拶の邪魔は出来ず、あいまいに頷きを返すだけ。
 料理、デザートはすごく豪華で種類も豊富。なのに、何故か美味しく感じられない。司書のお姉さんが、時折、ボクを他人の視線から護るように動いてくれたけれど、それでも居心地が悪かった。 
 
「柊様、お嬢様に話しかけて頂けませんか?」
「え!?」

 そんな風に疎外されたまま、美味しくもない食事を続けていたボクへ、突然背後から囁き声。驚いて振り返れば、司書のお姉さんがニコニコとした笑みを浮かべていた。お姉さんも、会場に合わせてドレスアップしているけれど、他の客に比べて控えめ――黒を基調としたシックな装い――だ。けれど、それが逆にお姉さんの可愛らしい雰囲気に合っている。
 が、そんな服装よりも、ボクは言われた事に驚き、思わず言い返した。

「な、何で!? だってほら、あんなに大人が彼女の誕生日祝いに……」
「柊様、よく見て下さい。あの人達は、お嬢様に挨拶をしているのではありませんわ。ご頭首様に対して行なっているのです。部屋に飾られていた花……あの退院祝いも全てそう。バラはご頭首様がお好きですから」
「え!?」

 周囲に聞こえないように気を配った囁き声。その内容に驚き、ボクは新江崎さんの立っている方向を見た。
 多くの大人たちが立ち、談笑しているその空間。けれど確かに、司書さんの言う通り、姫はつまらなさそうに立っていた。今日は彼女のパーティーのはずなのに……。
 それに、そう言えば姫の友人――取り巻き連中――はどうしたんだろう? 今夜のパーティーにもいない。いや、それどころか、ここ最近、新江崎さんと一緒にいる所を見た記憶が無い。

「お嬢様の他のご友人――クラスメートたちの姿が無い事にお気づきですか? 今、沙織お嬢様はご頭首様の再婚に頑強に反対しています。その為、お嬢様は一人きりなのです。今、沙織お譲様に表立って味方できる一族なんておりません。今回のパーティーに来てくださった同年代の友人は、柊様ただお一人だけなんです」
「……そう、なんだ」

 ボクの視線の先で立っている新江崎さん。彼女は大人だらけの状態、周りに誰も味方がいない状況にも関わらず、気丈に胸を張り、ツンとした表情を崩していなかった。あくまでも凛と美しく……。
 でも、ボクは彼女のその美しさ、気丈さが、どれだけギリギリなのか? を知っていた。あの手術で見てしまった父親への涙、診療所でついたボク自身の残酷な嘘。
 何があっても、ボクは彼女の味方だと、あの時に誓ったんだ。

「ありがとう、司書さん。ボク、新江崎さんの所に行ってみます」
「ええ、お願いします。それから司書さんじゃなくって、私の名前は水仙原みづき。よろしくね」

 ポンっと、応援するように背中を軽く叩いてくれた司書さん――じゃなくって水仙原さん。ニコニコとした笑顔が心を柔らかく包んでくれる。
 ジロジロとボクに遠慮なく突き刺さる好奇の視線。それを無視しながら、ずんずんと足を踏み出していく。大勢の大人が立ち並んでいる会場の中央へ向かって。新江崎さんの美しい立ち姿を目指し、真っ直ぐに。

「ちょっとすいません。ここ通ります!」
「――っっ!? えっ!?」

 人波を掻き分け、ようやく彼女の側へと辿り着く。驚いたように大きな瞳を見開き、ボクを見つめている新江崎さん。なかなか見ることができないその呆気にとられた表情が、こんな時だっていうのに少し可愛い。

「あら、他所者……失礼、娘に何の用でしょう?」
「柊クン……」

 が、新江崎さんの体を遮るようにして入り込む人影。それは彼女の母親、初めて見る新江崎家頭首の姿。
 さすが親子といった感じで、顔立ちは凄みさえ覚えるほど綺麗に整っている。その体つきも、色気を周囲に振りまく妖花のよう。姫よりも更に大胆にカットされた真紅のドレス、大きなバスト、ほっそりとくびれた腰、長くて細い足。女王……という表現がピッタリで、思わず気圧されそうになる。

「新江崎さん……さ、沙織さんの友人として会話に」
「そう? 娘は話したく無いようです。ほら、用が済んだのなら帰りなさい」
「マ、ママ! 私も柊クンと……」

 聞く耳を持たない、といった感じで冷たい視線を娘へと投げかけ、強引に会話を終わらせる母親。ぐっ……と悔しげに唇を噛んでいる新江崎さんの姿が映る。そして、寂しそうにボクへ頭を下げようと……。
 けど、ボクは強引に腕を伸ばし、そんな姫の手を無理矢理に掴む。

「きゃっ、ひ、柊クン!?」

 何があってもボクは彼女の味方だと、あの時に誓った。いつか残酷な嘘だったと告げ、彼女に憎まれ、蔑まれるその日までは。

「まだ用はあります! ダンスを誘いに来ました。沙織さん、ボクと踊っていただけませんか?」
「――ッッ!?」

 ――ここ最近の放課後、恋と桜、2人を練習台に繰り返したダンス。とても未熟で、正直、人前に晒せるようなレベルじゃない。けれど、マナーだけは知っていた。よほどの理由がない限り断る事はない、と。そして、踊る本人の意思が尊重される。周囲の人間が決める事は出来ない。

「……え、ええ。こちらこそ、よろしくお願いしますわ。柊君」

 伸ばしたボクの右手へゆっくりと新江崎さんの手のひらが載せられる。優しく包むように握り締めながら、ゆっくりと2人で足を踏み出す。背後から無言のプレッシャーを感じるけれど、正直どうでもいい。この場所から離れ隣の会場へ彼女をエスコートしていく。
 胸はドキドキとうるさく脈打ち続け、喉がカラカラに渇く。ダンス会場が近づくにつれ、物凄く大胆なことをしちゃったのだと自覚してしまう。
 新江崎さんも驚きから顔を赤く染め、チラチラと視線を送ってくる。手をつないだままのボク達は、そうやって視線が絡み合う度、強烈に照れくさくって無言のまま足を進めるだけ。
 が、会場へ入る直前、ボクは慌てて口を開いた。

「…………柊クン、あ、ありがとっ。すごく嬉しかった」
「足、踏んだらごめんね! 先に謝っとく……って、何か言った?」

 タイミング悪く、顔をそむけながら何かブツブツと呟いた彼女とかぶる。何を言ったのか? ボクが必死で考えようとした瞬間、顔を鬼のように赤くした新江崎さんが強い力で引っ張る。

「――――っっっうううう!! な、なんでもないわよ! バカ、足、踏んだら許さないから! ほら、曲が始まるわよ!」
「え、あっ、ちょっと引っ張らないで」

 左手をほっそりとした彼女のウェストへ回し、右手を優しく握りなおす。正面からまっすぐ新江崎さんを見つめるけれど、視界にどうしても胸の谷間が入ってきて、脳が沸騰しそうな気分。

「……んっん! その……もう少し、左手でぎゅってして……し、しなさいよっ」

 そんなボクの気持ちも知らず、腰にまわした手に力を入れろ……と命令してくる姫。半ばやけくそで力をこめると、豊かな二つの膨らみがボクの胸で潰される。そのほにゃほにゃした柔らかすぎる感触。しかも、あの手術の時、思いっきりこの胸を見てしまった映像が浮かぶ。ツンと上を向いた膨らみと、その頂点にあった桜色の……。

「うわわっ」
「ちょっと、ステップがメチャクチャ。しっかりしなさいよ」

 バランスが崩れそうになった体が、合気道のような不思議な体重移動で矯正される。一体、どちらがリード役なのか? 自分でも解らないまま、ただ、無我夢中でステップを踊り続けた。
 目の前にある新江崎さんの顔、そのツンとした……でも、少し楽しそうな笑顔を見つめながら。



 ◆◆◆◆ 【補足】【ダンス、その後】


 
「柊クンっ、柊クンったら、もう……軽い冗談だったのに、こんなに弱いなんて」

 誰かの声が、ぽわーんぽわーんと頭に直接響く。体が熱くフワフワして、とっても気持ちがいい。ボクは、大きなベッドみたいなソファーへ横たわったまま、楽しくてしょうがない。
 それに、とっても甘くていい香りが漂っている。頭の下にある枕から立ち昇ってくるその匂い。スベスベした肌触りで柔らかくって……なんだか懐かしい。ボクは思わず、猫のように頬を枕へスリスリと擦り付ける。

「――っっ! きゃっ、あっ、ちょっとダメ、ダメったら。お酒飲ませたのは謝るわ。や、ほんとにダメ、きゃう……んんっ」

 頭上から聞こえる柔らかな声。少し困ってるようで、だけどどこか鼻にかかるような、ちょっと艶っぽい吐息。ぽわぽわした夢見心地のまま、ぼんやりと瞳を開く。

「あれ? 姫だ。どうして姫?」
「ちょっと、誰が姫よっ、って、バカ。頭を……う、動かしちゃダメったら。太ももに擦れて……、んっ」

 見上げれば、まるでキスが出来ちゃうくらい近い距離にある新江崎さんの顔。ちょっと困っているような、照れたような表情だけど、あい変わらずとんでもない美少女だと思う。
 ボクをまっすぐ見つめてくるアイシャドウで飾られた瞳。黒髪につけられたティアラ。耳元に光っているイヤリング。きめ細かい、陶磁のような白い肌。
 全てが奇跡のように美しく思える。フワフワした意識のまま、彼女の顔に見とれつつぼんやりと口を開いた。 

「綺麗……、夢の中でも、やっぱり新江崎さんってすっごく美人だ」
「――っっぅ!? っっっうう。バ、バカじゃない、そ、そんな事、酔っ払ってる時に言われても、う、嬉しくなんてない……わよ。こ、このっ、こっち見ないで」

 これは夢なんだろう。揺れる視界のまま、ゆっくりと頭部を動かせば――その度、頭上から「きゃんっ、んっ」と可愛い声が響くのが楽しい――壁一面にバラが飾られた豪華な部屋が見える。
 いつ眠っちゃったんだろう? ダンスが終わって、緊張と疲れから喉が渇いてしまい、新江崎さんから笑顔で差し出されたジュースを飲んで……そこからの記憶が無い。
 でも、そんな事はどうでもいい。これが夢の中だとしても、すごくいい香りに包まれて枕は柔らかく幸せ。難点といえば、頭を動かす度に頭上から響く姫の声だけ。

「きゃうっ、やっ、ちょっと。あっ、ジンジンしちゃう……から……だめっ」
 
 本当にこの枕って何だろう? 普段使ってるヤツよりずっと気持ちがいい。ボクは夢見心地のまま両手を枕へと這わせる。適度に丸みをおびた2個の円柱状クッションがくっついたデザイン……それにさわさわと触れていく。
 張りがあって、でも表面は柔らかいのに、中身は引き締まっている。そう、こうやって手で撫でるだけでも気持ちいい位だ。

「……もうっ、こ、このっ、調子に乗るんじゃ……やんっ、ダ、ダメよ、そこから奥は、――っっ!」
「ん? 赤い、枕カバー?」

 新江崎さんの声を一切無視しながら動かし続ける指先に、突如触れた赤い布。サテンのように光沢がある生地でツルツルと高級そうな手触り。ぼんやりした視界で見れば、ボクの枕はその赤い布の奥にまで伸びていた。白いスベスベした2本の枕、それが、赤い布の奥へと。
 何かに似てる……そう、まるで、太もものように?

「え、これって?」
「お願いっ、ほんとにダメなのっ。許して! や、覗き込んじゃダメ! 見えちゃう、見えちゃうからぁ」
「うわわっっっ」

 顔を真っ赤に染め、ぎゅううううといった感じで必死にスカートを抑えていた新江崎さん。その姿を見ながら、ボクは一気に身を起こす。
 今まで枕だと思って好き勝手に触りまくっていたモノの正体……それは、彼女の太ももだった? と驚愕しながら。

「あ、まぁでも……夢だからいっか」
「バ、バカぁ」

 でも、驚いたのもつかの間。所詮、夢に過ぎないから……と安堵して、ボクは新江崎さんを真っ直ぐに見つめる。だって、これが現実の訳が無い。あの気の強い姫が、ボクに膝枕なんてするハズが無い。
 それに……、

「やっ、ちょ、ちょっと。また!? ううっ、もうッ!」

 ころん、とボクは再び太ももへ頭をのせようとする。そうすると、ブツブツ文句を言いながらも、新江崎さんはボクの頭部を両手で支え、太ももへと導いてくれた。更に、髪の毛を優しく撫でてくれるサービスまで……。
 ――これが、夢以外の一体なんだって言うんだろう?

「ううっ……、や、また触っちゃ……んんっっ!?」
「あははっ、夢の中の姫って可愛い」

 下から見上げる新江崎さんの顔立ちも、やっぱりとても綺麗。しかも、現実ではありえないような、どこか困っている表情……それがちょっと幼く見えて、可愛く思える。
 なんだか、ボクは少し火照った勢いも手伝って、もう少し彼女を困らせてみたくなってしまう。

「か、可愛いって、この、からかって……。それにまた姫って、こら、やぁっ、んん」
「だって本当に可愛いんだ。でも、ちょっとうるさいかな」
「――っ!? あぅっ」

 笑いかけながら、右手で太ももを触る。そのスベスベの手触りを楽しみつつ、素早く左手を新江崎さんの口元へ伸ばした。再び文句を言いそうになった彼女の唇へ。
 ボクの鋭敏な指先――なぜか、ジンジンと感覚が火照っていて少し鈍いけれど――で、姫のぷっくりした唇をなぞる。

「んんんっっっ……」

 ツンツンした声を聞くのも楽しかったけれど、流石に少しうるさい。ちょっと静かにならないかな? って思いつつ、柔らかで濡れた感触の赤い唇を、からかうようにひっかく。

「……っっん、んっ」

 指先で唇へ触れる度、ビクンっ、ビクンっと細かくカラダを痙攣させる姫。その様子が可愛らしくって、人さし指を執拗に這わせていく。
 ほんのわずか伸びた爪……そこで、真っ赤に濡れた唇の端をカリカリと優しく擦る。きゅっ、と固く閉じられている新江崎さんの唇。それがボクの指先に反応し、ほんの少しだけ力が緩む。

「ふふっ、やっぱ可愛い」
「んんんっっっ」

 ほんのりと濡れて熱い唇。プニプニした感触を充分に楽しみながら、ゆっくり、ゆっくりと今度は唇全体へ指先を這わせる。指の腹を使い、触れるか触れないか……ギリギリの距離でくすぐるように。

「んっ、ん、んんんっっ」

 新江崎さんは顔を真っ赤に染め、ビクビクとカラダを震わせる。潤んだ瞳でボクを熱っぽく見つめてくるけれど、決して嫌がってる感じじゃなかった。夢の中ならでは……だろう。
 現実でこんな事をしたら、100回は殺されてもおかしくない……と、いうより、あの姫がこうやってされるがままになっているハズがない。
 なんだか、体が燃えるように熱くってゾクゾクする。調子にのったボクは――夢の中だからいいや、と思いつつ――ゆっくりと身を起こし、新江崎さんの耳元へ口をつけて囁いた。

「ねぇ、続けてもいい?」
「え? あ……」

 唇を撫でながら、からかうように囁く。耳元まで真っ赤に染まっている新江崎さん……うるうるとした瞳がきょとんとボクを見つめてくる。意味が解ってないんだろう。
 右手をスベスベした太ももの上へ這わせつつ、左手で濡れた唇をなぞる。そうしながら、少し意地悪な感じで小さく耳へ囁きかける。時折、ボクの唇で新江崎さんの耳たぶを挟み、軽く吸いながら。

「あっ、んんんんっっ……!! んんっっ!」
「ちゃんと聞いてね。ほらっ、こうやって触り続けててもいい? それとも止めようか?」

 ビクンっ、と体を震わせながら、シルクの手袋に包まれた指を伸ばし、ボクのシャツへしがみ付いてくる姫。ようやく言葉の意味を理解したのか、彼女は潤んだ瞳でボクを睨みながら口を開く。

「このっ……、あっ……んんっ、ん、かっ、勝手にし、しなさいよっ! んんっ、この、変態、あっ、あっ……」

 ボクの指先――自分でも怖いくらい繊細で精密な動きをする指――で、太ももの内側、下唇の柔らかな部分をごく軽くなでるように触っていく。そして真っ赤なドレスを着た新江崎さんのうなじ、丁寧に編み込まれた黒髪の生え際へ唇をつける。
 新江崎さんの細かな動きを見逃さない。反応があった場所を執拗に、でもジラすように軽めにタッチし続ける。そして、

「――っっ、あっ、んんんっっっ」
「ふーん、そっか。それなら止めとくね。いくら夢の中でも、姫って怒ったら怖そうだし……」
「えっ!? あっ……ん……ううぅ」

 囁きの後、唐突に手を離し、ソファーから立ち上がろうとする。しかし、その瞬間、きゅっ……と弱く握られるボクの腕。顔を真っ赤に染めた新江崎さんが、何か言いたそうにモジモジしている。
 そして、本当に小さな、かすれるような声。目をそむけ、恥ずかしくって堪らない……といった風に。

「貴方が、どうしてもって言うなら、つ、続けても……いいわ」

 ツンとした表情と、困ったような表情が混じり合った表情を浮かべている姫。なんだかとってもいじらしくって、つい、意地悪な事を言ってしまう。やばい、ボクの背中、体の奥が燃えるように熱い。

「どうしよっかな?」
「……っ、うう、このっっ意地悪っ、変態! うううっっ……」
「ふふっ、冗談だよ。姫がすごく可愛いから、ごめんね」

 まるで泣きそうな雰囲気だった姫の体を、背後からドレスごと強く抱きしめる。
 左手を足、右指の人さし指と親指では丁寧に彼女の唇を挟み、クニクニと優しく触れる。そして、艶やかな黒髪の生え際から大胆にカットされた背中――スベスベと滑らかで真っ白な肌――をペロリ……、と舌を使って舐めた。

「――――っっっっ!! っっっんんん!!」

 思わず開いた唇、その中へからかうように指を一瞬差し入れると、応じるように濡れた舌で細かく舐めてくる彼女。ボクの指先とチロチロと動く新江崎さんの舌が絡み合う。たっぷりの温かい唾液が絡みつき、くちゅくちゅという音が部屋へ響く。
 ボクも負けないように首筋から肩、背中までを時折、唇で吸いながら舌を使う。新江崎さんのカラダがピクンッと反応する箇所、そこを重点的に、まるで開発していくように。

「んっ……んんんっっ、んんっ、ひゃうっ、あっ、うううっっ」
「姫、可愛い……、すごく可愛い」
「ま、また姫って……あっ、あっ、あっあっ、んんっ、……っっっあん」

 口の中に入っているボクの指先を、カリカリと優しく甘く噛んでくる姫。絡みつくように舐める柔らかくて熱い舌。指先からボクのカラダ全体へビリビリした感覚が駆け抜ける。

「柊クン、柊クンっっ、あっ、あああっ、柊クンっっ」

 太ももを撫でているボクの左腕へ、手袋に包まれた両手でしがみ付いてくる彼女の様子がいじらしい。指を入れられた不自由な口で、ボクの名前を呼びながら抱きついてくる熱い体。そんな何もかもが、体の奥を燃やし、不思議な欲望が生まれていく。
 何がしたいのかわからない。けれど、無性に求めている事がある。自分でも訳が解らない……夢、だから?

「柊クン、あっ、あんっ、あっ……スしたい、したいのっ!」
「……え?」
「このまま、強引にっ、強引に奪って……、あっ、ああっ、私、私の初めてっ、あっ、んんんっ」

 とろん……と唾液の透明な線をひきながら、姫の唇からボクの指が離れる。こっちへ振り返り、潤んだ瞳、半開きの唇を見せる彼女。さっきまで指が蹂躙していた新江崎さんの口の中、その中ではたっぷりの唾液と、真っ赤な舌が見えた。
 そう、誘うように唇の中で真紅の舌が動いて……。

「んっ……!」
「んんんっっっ!!」

 夢の中だから……という大胆さ、そして全身に毒のように回る熱さで何も考えられず、ボクは本能のまま新江崎さんの唇を貪った。ぎゅうううっっ、と彼女の両腕がボクの首へまわり痛いほど締め付けてくる。
 柔らかすぎる唇の感触と甘い香りが体中へ広がっていく。その上、濡れて熱い舌が何度もボクの唇をなぞる。

「んっ、んんっ」
「んんんっっ」

 ソファーの上、無我夢中で互いの体を抱きしめあい、口付けを続ける。呼吸が出来ない苦しさ……そんなモノは圧倒的な甘い痺れの前に消え去る。
 クネクネと蠢く姫の舌、そのあまりの柔らかさに耐え切れず口を開く。その瞬間、ヌル……と入り込む熱い柔らかな舌と甘い唾液。脳が、体全てが燃えていく……。初めて経験する快楽が、ボクの全身を稲妻のように焼き尽くしていく。

「んっ、んんんっっ、んんん!! ……っっん! んんんっっ!!」

 互いの声が入り混じり、唇と唇、舌と舌が一つに絡み合う。何もかもを忘れ、気持ちよさと不慣れな痛み、その二つを恍惚の中で味わい続ける。
 ボクの体で潰れている柔らかな彼女の胸。本能のまま、そこへ両手を這わせる。ピクンッと痙攣したあと、まるで押し付けるように体を寄せてくる新江崎さん。指先に吸い付くような柔らかすぎる胸の手触り、タッチするたびに響く艶のある姫の吐息。

「ん、んん……」

 何もかもが、まさに夢。
 ――けれど、ボクの意識は、燃え上がる炎の中……、ゆっくりと、ゆっくりと白く、薄らいで……。まるでスイッチが切れたかのよう。

「ん、あっ……んっ、ひ、柊クン? ん、ど、どうしたの? ねぇ、ねぇ!! えっ、ええ!?」

 クルクルクルとまわり続ける意識。脳のどこかで、酸欠、そしてアルコールの相乗効果、と声が響く。するすると眠りに落ちていく感覚。
 全く……夢の中で、また、眠る……なんて、何もかも、すごい夢だ……と、ぼんやり感じる。

「うううっっ、このっっ、変態!! こんな中途半端で、お、覚えてなさいよ!! もうっ」

 怒ったような、どこかすねたような声。けれど、ぽにょん、と再び柔らかな膝枕へと優しく頭が乗せられる。そして、唇へゆっくりと触れる柔らかな感触。ペロ……と触れる熱い舌、甘い吐息。

「バカ……。感謝の言葉も言えないじゃない。ダンス、下手だったけど、すごく嬉しかったのに」

 小さな、本当に小さな囁き声。 
 ――ああ、やっぱり夢の中の新江崎さんは最高に可愛い。と、ボクは火照った頭でそう思った。



[24259] ・幕間 【独白、新江崎沙織】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/04/27 12:20
 ◆

 ・幕間 【独白、新江崎沙織】

 ◆




 昭和初期から新江崎家へ従えてくれている一族、水仙原家。その現筆頭であるみづきさん――ママの第2秘書兼、図書館の司書でもある――の運転するロールスロイスが、ゆっくりと庭を出て行く。私は深いため息をつきながら、その車をこっそり見送った。自室の窓から見えるロールスロイスのテールランプ、あの後部座席には彼が乗っている。
 ――柊アキラ。私のファーストキスの相手。

「……バカ」

 だんだんと遠ざかる車体を見送りながら、胸にあふれだす泣きたい衝動を押し殺す。30分くらい前……、信じられないくらい恥ずかしく、そして夢のような幸福感に浸されていた時を思う。
 彼にお酒を飲ませてしまった負い目――そう、お詫びだ。決してあんなヤツに膝枕をしたかった訳じゃない。うん、そうに決まってる――から始まり、ついにはキス……をしてしまった。

「私の、ファーストキス……」

 ブンブンと赤く火照りそうな顔を振る。違う、キスは強引に奪われた……。そう、あの馬鹿がよりにもよって、この私のファーストキスを奪ったのだ。決して、私から彼に捧げた……なんて事は無い。
 キスしながら彼を抱きしめた時の、泣きたいほど幸福だった気持ちが胸に蘇り、ぎゅっと心臓の上を掌で押さえ込む。思い出しただけで鼓動が高鳴り、叫びだしそうだったから。

「あれは事故、事故のようなモノよ。だって、そうでも思わないと……」

 シルクに包まれた指先で、そっと自分の唇をなぞる。それだけ……たったそれだけなのに、ゾクゾクと全身に甘い痺れが広がっていく。彼の頭が載っていた太もも、そして、キスだけではなく舌で舐められてしまった首筋、背中がジンジンと甘く、泣きたくなってしまう。彼に触れられた場所が燃えるよう。
 ――なのに、どうしても胸の内は暗い。
 
「だって柊クン……、私の事なんて、どうも思ってない」

 それは当たり前……自業自得だと、胸の内で意地悪な私が囁く。私のような高飛車な女を、好きになる男がいる訳が無い。
 ――しかも、彼は柊診療所、私のママが散々に嫌がらせを行なっていた女医の息子なのだから。

「……」

 どうしてもっと素直に彼に「ありがとう」と言えないのだろう。彼のほんわかした笑顔を前にすると、何故か冷たい言葉しか出てこない。
 育ってきた環境の所為?
 子供の頃から、周囲に理想を押し付けられてきた日々。私の周りに、本当の友人と呼べる者は誰もいなかった。期待に応える為、幼い頃から必死に胸を張る生き方を続け、気づいた時には素直に笑えなくなっていた。
 パパ以外の誰にも心を許せず、唯一の例外といえば司書のみづきさんくらいだったけど……それでも、何もかも打ち解けている訳じゃない。

「何で、こんな嫌な性格になっちゃたんだろう……」

 素直になれない。どうしても、想いを正直に口へ出す事が出来ない。そう……満足に、笑顔一つ浮かべる事さえも。
 チラリと見た、柊クンの幼馴染が浮かべている蕩けるような笑顔。それに神無月クンの笑顔、あんな風に天真爛漫に笑った事なんて一度も無い。
 こんな、いつも不機嫌そうな私が……。

「好き……になってもらえるハズないよ」

 あふれ出しそうな涙を必死に殺し、赤いドレスの裾を持ちながらソファーへ腰掛ける。ついさっき、ここで背後から彼に抱きしめられたのだ……と思う。少しの息苦しさと圧倒的に甘美だったあのひと時。
 けれど……甘く、優しかったその記憶が、何よりも鋭い刃物となって私の心へ突き刺さる。

「柊クン……」

 ポトリ……と、頬を涙が落ちる。彼の名前を呼ぶだけでどうして涙がでてしまうのか。期待しては駄目だと、私は新江崎家の跡取りなのだから、と。

「助けて」

 ママの操り人形に過ぎないと、解っている、解っている筈なのに。
 彼なら、強引に救ってくれるのではないか? と期待してしまう。誕生日パーティーで、1人孤独に立ちすくんでいた私をダンスへ誘ってくれたように。
 胸の奥、あふれだしてくるズキズキと痛く甘い感情。これは恋、よりにもよって彼に恋してしまったのだ……と、私ははっきり自覚した。どうしようもなく、彼の事が好きなのだ、と。
 ――決して叶わぬ想いなのに。

「ごめんね……」

 今夜のパーティー。大勢の挨拶を受けながら、彼の事をずっと見ていた。会場の端で、つまらなさそうに黙々とご飯を食べていた姿。きっと、居心地が悪かっただろう……心無い一族に陰口を囁かれ、辛い思いをしていたのかもしれない。
 それが予想できていたのに、どうしても招待したかった。私は、誰よりも柊クンに誕生日を祝って欲しかったから。

「ごめんなさい」

 私は何て自分勝手で嫌な女だろう。ポロポロと頬を涙が伝う。あの診療所でも、彼はずっと私の手を握り締めてくれていた。なのに、私はいつも意地悪で我儘ばかりで。
 ――やっぱり、こんな私なんかが彼に好きになってもらえる筈がない。

「ごめん、ごめんなさい」

 胸にあふれ出す自己嫌悪。部屋中に飾られているバラ――ママの好きな花――が、どうしようもなく神経に障る。この無駄な見得こそが新江崎家。一体、どれほどの人を傷つければ気が済むのか? 
 かつて医療事故を起こしたパパの病院。院長として責任を取り……それを償おうとしたパパだったけれど、しかし新江崎家は勝手にミスの隠蔽を断行した。それでも独力で、遺族へ慰謝料を払おうとしたパパに対しママが行なったのは離縁、追放。
 全て新江崎家の名誉の為。こんな田舎町で、いつまでも王女として君臨したいママの欲望。

「こんなっ、こんな花!」

 立ち上がり、涙をこぼしながら飾られている大量のバラへ近づく。私の退院祝いだと贈られたはずのこの花たち……それに、誕生日のお祝いとして今日貰った品々。それらは全て私にではない……新江崎家当主であるママへ贈られたモノだ。
 そして、私は次期当主。かつて崩壊しつつある地域医療を護る為に頑張っていたパパの背中。それへ追いつく為に私は医師になり、いずれこの町の医師になるのだろう。
 ママの望み通り新江崎家の当主として、この町の新たな女王となる。嫌なのに、それでも私の医師へなりたい気持ちをママは見透かしている。
 ――笑えない、どこまでいってもママの操り人形。こんな私、笑顔一つ浮かべられない私が、柊クンに好きになってもらえる筈がない!

「柊クン……」

 激情のままポロポロと苦しい涙をこぼし、がっくりと絨毯へ膝をつく。この想い、彼を愛しく想うこの気持ちは毒だ。殺そう……感情を胸の奥に沈め、今まで通り無愛想で嫌な女の子でいよう。これ以上、彼の事が好きになったら……きっと、きっと、私は壊れてしまうから。

「……?」

 その時、涙でにじんだ視界の端へ何かが映る。真っ白で、賞状などを入れる筒のような円柱状の物。赤いリボンが綺麗に結わえられているのが見えた。

「これ……もしかして?」

 震える指先でその筒を掴み、ゆっくりと封を外す。結わえられた赤いリボンについていた小さなカード。そこには『誕生日おめでとう 柊アキラ』と書いてある。
 何度も唾を飲み込む。こんなに好きになるのは止めよう……と思っているのに、どうして私の胸は高鳴るのか。どうして、こんなに、こんなに嬉しいのか……。

「あっ……」

 ようやく取り出した筒の中身。それは真っ白な画用紙に描かれたデッサンだった。丁寧に描かれている……とても小学生には思えない精妙な絵。彼にこんな才能があったなんて知らなかった。
 でも、それよりも今は、その絵に書かれていたモノが私の心を揺り動かす。

「バカ、バカッ、こんな……」

 見覚えのある病室のベッド――柊診療所の安物のベッド――そこに腰掛けている私がいた。あの時と同じパジャマ姿で……そして、とても綺麗な笑顔を。

「笑ってる……、絵の中の私、私、笑って……」

 シワにならないように大切に、何よりも大切に、画用紙を胸へ抱く。こんな優しい笑顔が出来ていた……と胸に温かい気持ちが広がっていく。強烈な照れくささと、全身が震えるような嬉しさ。
 ああ、また助けられちゃった……と、思う。どうしてアイツは、いつもいつも私を助けてくれるんだろう。

「もっと、好き……になっちゃうじゃない。バカ……」

 小さく呟く。明日からきっと頑張れる。そして絵の中と同じ、優しい笑顔が出来たら……と、強く願う。いつか、そう……彼の隣で優しく微笑む事が出来たら。
 胸の奥からわき起こる想い、胸の痛みと甘い喜びがない交ぜになって全身へ広がっていく。

「柊クン」

 小さく呟いてゆっくりと立ち上がった。自宅療養は今日で終わり、明日から学校が始まる。また胸を張って凛と生きていこう。
 きっとこれからも頑張れる。画用紙を胸に抱きながら、私はそう強く思った。 




[24259] ・第11話 【小学校編⑨前編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/04/27 12:17
 
・第11話 【小学校編⑨前編】

 ◆

 NGOの備品であるジープ――軍の払い下げ――の大きなタイヤでさえ、ガタガタと振動の激しいアフリカの道。舗装などないその道を、NGOキャンプへ向かって延々と走り続ける。
 ハンドルを握る軍人あがりのNGO職員と助手席に座る護衛は、大きな段差を越える度に軽く口笛を吹き、何事も無かったようにスペイン語で雑談を続けていた。彼らにとってはお馴染みの悪路なのだろう。
 ぼんやりとその様子を意識しながら、後部座席に座ったオレは無言のまま車窓の外を眺める。すぐ隣、泣き疲れて眠っているセリシールの手を握ったまま。
 ――もうすぐ地平線へ太陽が沈みそうな時刻、日本で見ることのほとんどない広大な平原を見つめる。雨季が終わった直後という事もあり、地平線のあちこちには緑色の草原が広がり様々な動物が見えた。
 野性の獣はいつ見ても美しく迷いが無い。彼らは生きる……という事に嘘をつかない。人間の欺瞞にみちた生活を嘲笑うかのような野生動物の営み。
 そのあるがままの生命を見ると、医師という仕事は不自然の極みなのではないか? と疑念に思う事がある。いずれ必ず死ぬにも関わらず資源と時間を費やし、わずかだけ命を延ばす。その事に何の意味があるのだろうか? と。

「でも……」

 それでもオレは医師を続けたいと思ってしまう。本当は運命に勝てないと解っている、けれど少しでも可能性があるのなら足掻きたいのだ。いつか、きっと良くなると祈りつつ。
 ――オレは馬鹿だから、そういう生き方しかできないのだろう。

「……先輩」

 突然隣で身じろぎし、小さくフランス語で囁いてきた助手。喪服……漆黒のスーツを着て、金髪を頭部にまとめた姿。見つめてくる青い瞳は泣きはらした所為だろう、普段よりも寂しそうに見えた。
 握ったオレの手へ軽く力を込め、青ざめた顔のまま懺悔をするようなに小さい声で。

「セリシール、起きたのか」
「すいません。先輩にまで来て頂いたのに……。私だけ眠ってしまって……」
「いや、気にするな。少しは落ち着いたか?」

 コクン……とゆっくり整った顔を下げるセリシール。しかし涙の跡はその美しい顔にくっきりと残っている。

「はい……、取り乱して、申し訳ありませんでした」

 約4時間前、あの少女の葬儀へオレとセリシールは出席した。
 元々、フランスの属国だったこの国ではキリスト教――カトリック――の信者が多い。少女の両親も熱心なカトリックであった為、教区司祭の司式により葬儀が行なわれた。
 灼熱の陽射しの下、純白でなければならない布は貧しさから少し汚れ、死者を悼む献花も少ない。遺影写真などなく、出席した遺族や親類の衣装もけっして綺麗とは言えなかった。
 けれどそんな物は全く関係ない。遺族の無念、悲しみ、悔しさ、哀惜の念は世界のどこであろうと同じ。貧富、人種などなく、出席した全員が少女を喪った痛みを共有していた。
 耳の奥へ聖歌の響きが鮮やかに蘇る。死者を悼む旋律。せめて安らかに眠れるように、と願いと祈りを込めた歌。

「気にするな」

 葬儀が終わり車へ乗り込むまで、セリシールは気丈に振舞っていた。遺族との会話も取り乱す事無く行なっていたのだけれど……。
 ジープが動きだした瞬間、彼女は泣き崩れた。オレの手をすがるように握り、泣いて、泣いて……自分を責めて。けれど己を責めても何一つ救えはしないのだと気付き、また泣いた。オレは彼女の手を握り、泣きつかれて眠るまで見守る事しか出来なかった。

「ありがとうございます」

 昨日のミーティングでチーフセルゲフが、オレとセリシールは葬儀に出席するように……と言った真意は解らない。けれど、この哀しみは忘れないだろう。
 オレ達にとっては多くの患者の1人に過ぎない。けれど、遺族にとってはかけがえの無い命なのだと、改めて心に刻む。

「先輩……。私、すごく我儘な子供だったんです」
「ん?」

 顔を伏せたまま、ポツリ……とフランス語をこぼすセリシール。ガタガタとあい変わらず上下に激しく揺れる車内。オレの手を握りながら、ゆっくりと助手は言葉を続ける。
 車窓の外では太陽が地平線へ沈みつつあり、真っ赤な夕焼けが見えた。

「母はファッションデザイナーで自由奔放な人でした。それに似たんでしょうね……教会へもあまり行きませんでしたし。末っ子で、父も私には甘かった。たまたま勉強が出来たってだけで、家事なんて一度も手伝った事ありませんでした。周囲への感謝なんて知らずに……。本当、何をしていたんだか……」
「……いや。オレも似たようなモノだよ。勉強だけで何も解っていなかった」

 ポツポツと小さな声で会話を続ける。子供の頃の話、ジュニアスクールでの出来事。友人、親と喧嘩した事。両親に誕生日を祝って貰えた喜びと、プレゼントが期待外れで怒った事。
 どれも他愛無い過去の日常に過ぎない。けれど、あの少女が経験する事は決して無い。人が死ぬとはそういう事。続くはずだった人生が何の慈悲もなく唐突に断ち切られ、二度と得られる事は無い。

「先輩……。私、これからも医者を続けます。あの子のような悲劇をほんの僅かでも減らせるように。どれだけ泣いても……何一つ変わらないと、嫌になるほど解りました」
「そうか」
「……はい」

 会話の最後、締めくくるようにセリシールはそう言う。小さいけれど、少し気力が戻ったように張りのある声。
 きゅ……と、オレの手を軽く握りしめた助手。その顔は、沈みつつある夕日に照らされて赤く……とても美しく見えた。

 ◆◆

  新江崎さんのパーティーから数週間が過ぎた6月中旬。関東の西北部へ位置する、ボク達が暮らしている町にも段々と暑い日が増えてきた。木々の生い茂る山々は、初夏ならではの濃い緑一色となり、そこかしこではうんざりするほどせわしなく蝉の鳴き声が響く。
 そう、今朝も夏の暑さを予感させる目覚めだった。せっかくの土曜……学校は休みだっていうのに。

「兄さん、起きて! いい天気だよ」
「……んん、桜? あれ、どうしてココに?」
「おはよっ、兄さん。ママに送って貰ったの」

 2段ベッドの上で、昨日の夜にはいなかった幼馴染の声に驚き目を覚ます。まだ半分眠っているような感じで、頭の奥がジンジンと重い。体も少し気だるく、典型的な睡眠不足。
 というのも最近、毎週末は新江崎さんと二人で町立図書館へ行って、医学書を借りるのが習慣となっていたから。
 桜が実家へ帰って静かな金曜の夜、思いっきり夜更かしをしながら医学書を読みふける、という生活パターン。なので毎週土曜の朝、起床時刻は10時くらいなんだけど……。
 元気の良い足音、そして二段ベッドの下から響く幼馴染の声に、欠伸をしながら言葉を返した。

「何の用だよ? ていうか、今何時?」
「うん? もう8時だけど。ね、お出かけしようよ」

 トントントン、と眠そうなボクの声色などお構いなしに、ベッドへかけられた階段を昇ってきて、ひょこっと顔を覗かせる桜。にっこりと笑いかけてくるその顔……何かいい事があったんだろう。ボクは少し眠いのを我慢しつつ、無言で首を傾け、話を催促する。
 階段を昇りきり、ポンっ、と当然のように勢い良くボクの隣へ横たわる。コイツも寝起きなんだろう。ピンク色のパジャマ姿のままだった。どことなくレモンに似た爽やかで甘い髪の香りが漂う……が、正直暑苦しい。
 幼馴染の寝起きのままの黒髪が、サラサラとボクへまといつく。にっこりと上機嫌な笑みを浮かべ、パタパタと人のベッドで両足を動かしている。

「あのねっ昨日パパが、後橋で今日オープンするプールのチケット持って帰って来たの。でね、兄さんもどうかなーって」
「プール?」
「うん、行こうよ! もうすぐ学校でもプール開きでしょ? いい練習になるよぉ。色んな遊具があるって話だし。ねっ、いいでしょ?」

 プニプニとボクの頬を細い指でつっつきながら、ニコニコと微笑んでいる幼馴染。確かにコイツは水泳が大好きで、去年もさんざんプールへ一緒に行った記憶がある。そう、ウォータースライダーが大好きらしい。まあ、1人じゃ怖いと言うから、いつもボクが付き合わされてるけれど……。

「ああもうっ、そんなにくっつくなって。わかった、わかったから。暑いから離れろよ」
「えへへ、いいって言ってくれるって思ってた」
「ったく、おじさんとママの許可は貰ったんだろ?」

 暑いって言ってるのに、嫌がらせのように首筋にしがみ付く桜を無視しながら、やれやれと身を起こす。少し体が重く、頭の奥がぼんやりしていた。が、プールに入るってのは悪くないな、と思う。偶には頭をからっぽにするまで体を動かしたい。

「うんっ、パパはちょっとすねてたけどね。いひひ、やったね! じゃあ家に戻って、すぐに準備してくるからっ、兄さんもお願いね!」
「はいはい」
「9時20分の電車だよ! 駅で待ち合わせだからね」

 ぴょんっと勢い良くベッドの階段を下りていく幼馴染を見送ったあと、ボクもベッドから降り立つ。何度も欠伸を噛み殺しつつ、タンスへ向かい、奥へしまいこんであったハズの水着を探す。

「プールかぁ……そっか、プールって言えば」

 スイミングバッグへようやく見つけた水着、帽子を詰め込みながら、脳裏へぼんやりと親友の姿を思い浮かべる。学級委員長でもある親友、神無月恋。健康的に小麦色へ焼けた肌、くりっとした大きな瞳と、柔らかい茶色の細い髪。天真爛漫な笑顔。
 陸上、そしてスポーツが大好きな恋はしかし、何か身体上の理由があり――噂では耳らしい――水泳の時間は毎年見学をしていた。きちんと学校の許可を得ているようで、何の問題もなかったけれど……。

「寂しそうだったもんな」

 体操着のまま物陰で、ポツン……とボク達がプールへ入っている様子を見学していた恋。時々目が合うと、日に焼けた小麦色の顔に笑顔を浮かべ、ブンブンと手を振っていた姿を思い出す。今年も、きっと見学になるんだろうなぁ、と思う。
 しかし……と、ふと考え付く。そう、必ず顔を水につけて泳がなきゃいけない学校のプールは無理だろう。けど、水辺で足を浸すくらいなら出来るんじゃないだろうか? そりゃ、ボクや桜みたいに思いっきりは遊べない、でも、少しは気が紛れないか?

「恋も誘ってみようかな?」

 だた、問題はチケットの枚数。桜は今日、後橋にオープンする施設だって言っていた。なら、きっとチケットの枚数も人数ギリギリしかないだろう。まあ、駄目で元々、桜の家へ電話して聞いてみるしかない。
 荷物をプール用のスイミングバッグへ準備し、最後に習慣となっているサバイバルバッグ――ここ最近は何の役にも立っていないけれど、持っていないと落ち着かない――を肩へ背負う。そのまま欠伸をしつつ、トントンと一階へある電話機の所へと足を運ぶ。
 とその時、母さんのいないシーンとした居間へタイミング良く電話が響いた。

「うわっ、あっ……はい、もしもし柊ですけど?」
「きゃっ、出るの早いわよ。もう、私だけど」
「え……!? ひ、あ、新江崎さん!?」

 受話器の向こうから聞こえてきた声に、ボクは心底驚きながら言葉を返す。聞き間違えようもない、ツンッと冷静沈着な声。受話器の向こうからさえ威圧感が漂ってくる。

「その……、今日ね、新江崎家が工事に関係した施設が後橋にオープンするの。それで、柊クンみたいな勉強しかしてない人に使わせてあげてもいいかな? って。可哀想に思って。その……た、たまたまね、私も暇だし」
「え!?」

 かなりの早口、そして怒っているとしか言いようのない口調。姫のその言葉を聞きながら、ボクは背中にじっとりと汗をかく。これは……もしかして桜の言っていたプールの事だろうか? それとも全然別の施設?
 まあどちらにせよ桜との約束がある為に断らなくてはいけない……と、口を開こうとした時、ボクは閃いた。もしも、新江崎さんの言っている施設がプールの事なら……。

「あの、その施設ってもしかしてプール?」
「ええ、そうよ。で、どうなのよ? さっさと返事を……」
「それってさ、もしかして新江崎さんなら顔パスで入れちゃったりするの? その……関係者用入り口なんかでさ」
「……っ、そうよ。だからどうなのよ?」

 数分後、怒った感じの姫との会話をどうにか上手に終わらせ、ボクは1人、自分の発想に惚れ惚れとしていた。ふぅ……と、気合を入れるように息を吐いたあと、急いで恋の家へ電話をかける。
 今日の暑い休日、楽しく過ごせればいいなぁ……と思いながら。


 ◆◆◆


 待ち合わせ……、いつ訪れても全く同じに見える町の駅。
 季節とともに変わっていくのは周囲の風景だけ……鮮やかな緑の街路樹には多くの蝉がとまり、せわしない鳴き声を上げている。駅の駐輪場へ停めてある多くの自転車。金属部分で反射する日光はギラギラと眩しく、今日の暑さを予感させた。
 そう、今日は暑いはず……なのに、ボクはゾクゾクするほどの寒気を感じる。駅の待合室の狭い空間、そこはまるで魔境のよう……。

「おはようございます、新江崎先輩。兄さんの友人……いえ、ただのお知り合いですよね」
「――ッッッ!? ふ、ふふっ……おはよう桜さん。アナタこそ兄妹でもない赤の他人ですのに、ずうずうしい……ううん、世話好きなのね。そんな子供っぽい体型なのにしっかりなさってるわ。本当、幼児体型なのに、ね……」
「――っっっ!!!」

 満面の笑みを浮かべて挨拶をかわしている桜と、ツンとまるで胸を強調するように悠然と立っている新江崎さん。二人を中心に、ビキビキと空間が凍りつくような気さえする。
 ボクの手を掴み、新江崎さんへひきつった笑顔を見せている幼馴染。膝丈のミリタリーパンツ、黄色いTシャツ、そしてお気に入りの白リボン、と動きやすいラフな格好。元気一杯、とても可愛い感じ。
 対して真正面に立っている姫は、フリル付きの半そで白ブラウスに黒の蝶ネクタイ、赤チェックのミニスカート、ブーツといったスタイル。ちょっとゴスロリっぽいファッションで、桜と違って大きめな胸もある為、すごく女の子らしい雰囲気だ。

「ふ、2人とも、仲良く……」
「ねぇ、兄さん!? どうして新江崎先輩がここにいらっしゃるのかしら? しかもスイミングバッグをお持ちで!」
「柊クン、これはどういう事なのかしら? 貴方を哀れんで誘ったのに、どうして子守まで……」

 笑顔……なのにこめかみに青筋をたててそうな幼馴染に、グイッ! と腕を思いっきり引っ張られる。
 目の前に立つ姫は、ズンッといった感じでボクの顔直前まで近寄り、腕を組んで仁王立ち。恐ろしく冷たい視線で睨み付けてくる。
 一体、どうしてこうなった? ボクはただ、皆で一緒に遊んだほうが楽しいって思っただけなのに……。

「おはよっ、アキラ! 待たせてゴメン。その、今日は誘ってくれて……って、ええ!? な、何でっ、今日はアキラと2人っきりじゃあ!?」
「あ、恋っ」
「か、神無月先輩までっ!?」
「神無月クン!?」

 その時、ぴょんっといった感じで親友が駅へ入ってきた。驚いたような表情で桜と姫を見つめ、呆然と口を開く。
 格好は普段とあまり変わらない……ふとももがむき出しのデニムパンツ、そして肩が大きく露出した黒タンクトップ姿。それに以前に買った赤いフレームの伊達眼鏡をかけている。その所為もあり、なんだか普段よりさらに美少女っぽい感じ。
 しかし、ジト……という瞳で背の低い恋は、下方向からボクを睨む。眼鏡のプラスチックレンズ越しに、クリッとした二重が見えた。

「い、いや……恋、落ち着けよ。だってさ、大勢のほうが楽しいだろ? 皆、ボクの友達だし。桜も、それに新江崎さんもさ……」
「ちょっと兄さん!? 私は友達じゃないわ。そう、何よりも大事な人だって言ったじゃないっ」
「柊クンっ、勝手に私を友達にしないで頂ける?」
「酷いよアキラ、ボクはただの友達じゃないだろっ。親友、かけがえのない親友じゃんかよっ、バカ、バカッ」

 ポスポスと恋に軽く胸を叩かれる。全く痛みはないけれど、うぅぅ……といった感じで睨んでくる親友の顔が辛い。
 桜はふくれっ面のままボクの腕を痛いほど握り締める。キリキリといった感じで奥歯を噛み締め、不機嫌さを隠そうともしていない。
 姫は無言のまま、ただツンと冷徹に腕組みをし、虫ケラをみるような視線を投げかけてくる。痛い……なんだか胃がジンジンと痛む。

「皆、そ、そろそろ電車の時間だよ。あははっ、行こうよ、ね。今日は皆で楽しめば……」

 この空気に耐え切れず、電車の時間が近づいたのを幸いとホームへ駆ける。背後から聞こえる不満そうな声……それを一切無視。
 そもそもボクが責められなきゃいけない意味がわからない。ボクは新江崎さんに招待されて裏口から、桜と恋は2枚のチケットを使えば(恋の分は元々ボクのモノの流用で)皆で楽しく遊べる……という完璧なプランだったのに。
 
「あっ逃げた!」

 タイミング良くホームへ滑り込んできた電車に乗り込む。その後を仕方ない……といった感じで、渋々と乗り込んでくる3人。ようやくこれで楽しい時間が……と、少し安堵する。
 ボクは急いで3人から離れた席へ座ろうと、足を踏み出した瞬間、ガシッと幼馴染の手によって腕が掴まれた。

「兄さん? せっかくですから後橋までの一時間弱、皆で座りましょうね。座席も空いてますし、今日、これからのご予定をお伺いしたいですから」
「ホント、桜ちゃんの言う通りだわ。一番悪いのは誰でしょうね」
「そうだね……、アキラ。そこに座って……違う! 一番奥に決まってるじゃんか。どうするつもりか、きっちり聞かせてもらうからっ」

 4人がけのシート、一番奥へ無理矢理に座らされる。隣に恋、真正面に桜、斜め向かいには姫。3人の凍りつくような視線が痛い。
 窓の外は初夏らしく緑が一面に広がっている……なのに、この空間だけはまるで、極寒のツンドラのようだ、とボクは思った。

 ◆◆◆◆

 電車の中、1時間ほどの拷問にも等しい時を過ごしたあと、どうにか機嫌が良くなった3人と一緒に例の施設へ入場した。結局、全員が新江崎さんの友人という事で、並ぶ事無く中へ入る事ができた。
 流石に今日がオープン日だとあって、どの部分も新品。ロッカーも広く、ボクはプールが待ちきれずに勢い良く着替えた。が、隣にいた恋がいつまでたっても着替えない。何故か顔を真っ赤にして伏せてるだけ。聞いてみれば、「お腹が痛い」との返事で、トイレへと向かったのだけれど……。

「恋、まだ? 大丈夫かよ?」
「う、うんっ。ごめん、あと少しだけ……、うん、もういいよ」

 10分ほど時間が経過したあと、ようやく出てきた親友。その姿を見てボクは驚き、呆然としてしまう。

「それ……」
「へ、変……? ショートジョンタイプって言うんだけど……。お願い、そんなに見ないで。日焼け跡が恥ずかしい……から」

 モジモジと顔を赤らめ、ボクの視線を避けるように後を向く恋。その後ろ姿を驚きながら見つめる。
 競泳選手が着ているような、上下一体型ワンピースタイプの水着。つやつやと光沢がある黒一色の素材で出来ており、親友の体へピッタリとフィットしている感じ。
 いや、何を着ようがそれは構わない。けれど問題はそこではなく、浮き出ている体のライン……丸みを帯びた華奢な肩、日焼けした細い首と腕、そして背中から腰、足にかけてのラインがどこかふっくらとしていて……、これじゃ、まるで……。

「いや、へ、変じゃないよ」
「そ、そんなジロジロ見んなよ。水着、ほとんど着ないからさ……めっちゃ恥ずかしくって」
「ああ、ごめん」

 上目遣いでボクを見つめながら、柔らかな茶色の髪へスイミングキャップを被る恋。しかし見るな、とは言われたものの、ボクは日焼けしていない部分の恋の肌を見てしまい、動揺を隠せない。
 ほっそりした首筋から、少し開いた背中の部位――普段は体操着で隠れている部分――の肌が、本当に真っ白でキメが細かい。何だかいけない物を見た気がして、ボクはバッグから大きめのタオルを取り出して恋の肩へかけた。

「ん? ありがと、アキラ」
「ああ、行こう」

 ブンブンと軽く頭を振り、2人並んでプールへ向かう。桜、新江崎さんとの打ち合わせでは、入り口付近で待ってる……って言ってたけれど、

「兄さんっ、おそーい」
「はぁ……柊クン。貴方はいつでもダラダラとしてるのね」
「あ……」

 キラキラと輝くプールの水面の側へ、桜と新江崎さんが立っていた。幼馴染は学校指定の紺色スクール水着。待ち遠しくて仕方ないのか、ピョンピョンと元気一杯に華奢なカラダで跳ねている。
 対して新江崎さんは、ピンクとブラックのチェック柄ワンピース水着。胸を隠すように腕組みをしてボクを睨んでいる……のだけれど、細い彼女の腕だけで胸を隠せるはずもなく、しっかりと谷間が見えてしまっていた。そして物凄く綺麗な長い足のライン。

「馬鹿アキラ! もう、何ぼーとしてんのさっ。行くよ」
「あ、うん」

 背後から恋にポスンと軽く背中を叩かれ、2人へと近づく。周囲にも大勢の来場者がいてザワザワと騒がしい。
 けれどその喧騒も耳に入らない。桜の水着姿、そして新江崎さんの水着をまともに見られない。一体どうしちゃったのか? 胸の奥がドキドキとしてすごく息苦しい。

「柊クン、それに神無月クン。桜さんにはもう説明したけど、あそこの奥にプライベートスペースがあるわ。2号室、自由に使っていいから。これが鍵……って、柊クン!? ちゃんと聞いてるの?」
「……あ、うん」
「兄さんっ、どこを見てるのよ!」
「馬鹿アキラッ、こっちが恥ずかしいよ」

 恋と桜から理不尽な事にポスポスと背中を叩かれつつ、新江崎さんの手から鍵を受け取る。泳ぐ為なのか、長い黒髪をアップにまとめている姫。一瞬、彼女の指がボクの手へ触れる……それだけで緊張してしまう。

「兄さん、ね、まずはスライダーに行こうよっ」
「馬鹿、いきなりかよ」
「あっ、ボクも滑りたいな」
「落ち着きが無いのね」

 強引に幼馴染から手を引かれ、ボクは施設全体へ目を向ける。広々とした空間、天井は外光を取り込めるように透明で、いくつもの巨大なプールがあった。緑色の南国風の樹木が沢山植えてあり、とても空気が綺麗。プールの種類も滝のような水が落ちてくるものから、海そっくりなもの、水が元々一方向へ流れているもの等々数え切れない。
 奥には、スライダーなどの様々な施設がいくつも見える。レストラン、売店なども完備していて、恋の好きなファーストフード店のフードコートまであった。

「柊クン、恥ずかしい事はしないでね。招待した新江崎家の名誉が穢れますから」
「そ、そこまで……」
「ほらっ、兄さん行こうっ」
「……それにしても差がありすぎ。神様って不公平だ」

 小声で何かをブツブツと呟いている恋。ぐんぐん腕を引っ張る桜。あきれたようにため息をついている姫。皆で一緒にスライダーへ向かって歩く。大勢の客がいる……とは言っても入場制限がかかっている為か、歩けないといったほどではない。

「すっげぇ。でもこれ、はぐれたら大変だね」
「……ねぇ、だからプライベートスペースを教えたんじゃない。柊クンってホントぼんやりしてるのね」
「私は兄さんと2人っきりでもいいけど」
「……ボクも」
 
 なんだかんだと話をしつつ、ようやくスライダー施設の入り口まで辿り着く。すでにかなりの人が並んでおり、まあ仕方ない……と最後尾へついた。隣にあるスライダーは急斜面になっており、滑り落ちていく人達の絶叫と歓声が響く。弾ける水しぶきが飛んできて、それだってすごく楽しい。
 ぺちゃくちゃと会話をしながら順番を待つ。最初は何故か険悪だった風の桜と新江崎さんも、少しずつ会話しているようで、ボクは胸を撫で下ろす。慣れていない為か「スイミングキャップが痛い」と愚痴をこぼす恋。それを調整する為、ボクは両手で恋の頭を触ってたりしていると……。

「……ん!? うわっ!!」
「きゃっ、何?」
「えっ」
「兄さんっ」

 突然、ぐいっという感じでボクの腰へ何かがしがみつく。驚いて見ると、腰にしがみついているのは背の小さな金髪の子供。小学校3年くらいの体格で、青い、まるで人形のような瞳でボクをうるうると見上げていた。口元は意志が強そうに固く結ばれ、絶対に離さない……といった感じでキリキリと腰へ爪を立てる。

「痛いっ、痛いってば」
「兄さんっ、誰?」
「迷子?」
「ちょっ、何なのさ」

 桜達も驚いて、咄嗟に何も出来ない。小さな人形のような少女をむりやり引き剥がす事も出来ず、ボクは驚いたまま痛みに耐えるだけ。
 と、そこに……。

「セリ、おお、何をしてるんだ。御免なさい、子供が迷惑をかけて」
「えっ、ロリス先生っ」
「うん、桜さんですか?」

 男性の低い声が響き、桜の見ている方向へ目を向けると、そこには背の高い大人が立っていた。少し薄くなった頭髪、日本人……にしては肌が少し白く、彫りの深い顔立ち、大きくて高い鼻。人が良さそうな中年の男性で、心底困ったような様子でオロオロとしている。

「痛いっ、痛い……って桜、知ってる人?」
「はぁ!? 前に集会で……もう、5年生の先生だよ。ハーフなんだって」
「アキラ……」
「もう……こっちが恥ずかしいわ」

 周囲の冷たい視線に晒されながらも、ボクは腰にしがみつく少女をなんとか宥めようとする。無言のまま、ただ見つめてくる金髪の少女――セリとよばれてた――はボクが頭を撫でるとにっこりと笑顔を浮かべる。しかし離してくれない。
 父親の呼びかけを完璧に無視し、ただひたすらボクだけを見上げている。一体、何なのか意味が解らない。

「セリちゃん。その、ちょっと痛いんだけど」
「違うわ」

 何が嫌だったのか、ぎゅっと不満そうに爪に力をこめる少女。意志が強い……ていうんじゃなく、これはメチャクチャに我儘なんじゃないか? と思う。

「何が違うの」
「名前。私、セリシールっていうの。ね、呼んで」
「セリ……シール?」

 少女に促されるまま、ボクはポツリと呟く。満足したのか、にっこりと微笑んだあと腕を離す金髪の少女。西洋人形のように整った顔立ち、映画に出てくるような完璧な白人の子供だ。
 初めて会ったはずなのに、だけどどこか懐かしい。セリシール、という単語の響きさえ口に出すと、まるで言い馴れていたように感じた。
 バタバタと恐縮しながら駆けて来る先生、周りで驚いて何かを言っている桜や恋、新江崎さん。けれどその音は耳に入らず、ボクはただセリシールと名乗った金髪の少女と見つめあう。その青い瞳の奥に……何か、不思議な輝きが見えた気がして。



[24259] ・第11話 【小学校編⑨後編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4
Date: 2011/04/27 18:35
・第11話 【小学校編⑨後編】


 ◆


 アフリカの乾季では時に砂混じりの突風が吹き荒れ、バチバチと火薬が爆ぜるような音を立てテントの布へと当たる。NGOへ赴任した直後、オレはそれが一体何の音なのか理解できず、遠くで銃撃戦でも起こっているのか? と怯えた事さえあった。
 が、このアフリカで2年以上の年月を過ごした今、集中を妨げられる事はない。高難度手術直前の緊張が満ちているテントの中、深く息を吸う。

「ではアーチファースト法による弓部大動脈全置換術を始める」

 医療用テントの中にいるスタッフ全員へ向かい、チーフセルゲフの巌のような落ち着いた声が響く。50を越える年齢ながら、その青い瞳には圧倒的な力強さがある。
 オレの師であり目標。義母さんと並んで心から尊敬できる医師。

「はい」
「はい、よろしくお願いします」

 ほぼ同時にオレとセリシールの声が響く。第一助手、第二助手として立つオレ達に頷きを送った後、チーフセルゲフは躊躇いなく手に持ったメスを動かした。
 上半身裸で仰向けに寝ている患者――40代の男性、体型は痩せ型――の胸から、みぞおちの上辺まで大きく刃先が入っていく。消毒薬の匂いに、濃厚な血の匂いが混じる。
 テントの中へ充満している緊張感。それに感化されないよう、オレはゆっくりと深呼吸を繰り返す。

「アキラ、開胸器を」
「はい」

 電気鋸を使い胸骨を切開したセルゲフと立ち位置を交代し、看護士から手渡された開胸器を患者の胸――開いた創――へと差し込む。まるで大型のクリップのような開胸器を梃子の原理で動かし、充分な術野が確保出来るまで開いていく。
 ミシミシと骨と肉の軋む手応えと共に見えてくる脂肪。黄色をしたその脂肪を、正面に立った助手――セリシール――が素早く切開していく。精緻な動きにより、彼女の持つ電気メスの先端へ心膜が覗く。
 人間に限らず、ほとんどの脊椎動物は――まるで樹木の年輪のように――いくつもの膜で出来ている。その臓器を覆う膜を必要最低限なだけ切開、剥離しなければならない。しかも素早く。

「先輩、フォロー入ります」

 一瞬だけセリシールの青い瞳と視線が交わる。迷いの無い手付きで大型クーパー(先端が丸く、かつ湾曲したハサミ状の刀)を操り、手早く膜状の組織を切開、剥離していく。
 ドクドクと脈打ちながら動いている心膜へ、余計な傷をつける事の無い見事なアプローチ。
 ――あの少女の葬儀から、セリシールの技術、メンタルは飛躍的な成長を見せていた。オレも素早くメイヨー(同じくハサミ状の刀)へ器具を持ち替え、彼女と息を合わせながら術野を拡げていく。

「良し。アキラ、セリシール、人工心肺を」
「はい」
「はい」

 手術台から一歩引いた位置へ立ち、他スタッフへ様々な指示も出していたチーフの声に頷く。 この手術は患者の立場と政治的な問題を考慮して、執刀医はチーフセルゲフになっている。が、実際に手術をするのはオレとセリシールの2人。
 上行大動脈へ人工心肺装置から伸びたチューブを挿入。目の前に立つ彼女も素早く上下大静脈へチューブを挿入していた。

「どうぞ」

 ほぼ同時にオレとセリシールは作業を終わらせる。と、すぐに装置がカタカタと小さな音を立てて動きだす。手早く上行大動脈を鉗子で遮断、心筋保護液の注入を開始。これで……たった3時間程度だが、心臓を止めて手術を行なう事が出来る。
 ココからが本番。このオペの難易度を思いながら、ゆっくりと口腔内に溜まっていた唾を飲み込む。静かに息を吐き出しつつ、オレ自身のギアを一段階上げる。
 手術、それに全ての意識を注ぎ込む。

「では、置換術を始めます。メッツェを」
「同じくメッツェン」

 心臓の表面に張り付いている様々な血管を刃先で剥離していく。当然、傷を一切つけてはならないが、しかし時間は限られている為にスピードも求められる。一人一人、微妙に異なる血管のカーブや癖を把握しつつ、数分とかからずに目的の部分まで刃先を動かしていく。

「メス」
「コッヘル3、ペアン2本」

 セリシールが何本もの鉗子を同時に操って手早く血管を止める。オレは彼女の動作に流れを委ね、タイミングを同調させながら血管を切除していく。
 この手術――弓部大動脈全置換術――では凄まじいスピードと正確さの両立が求められる。心臓という取り返しのつかない器官であるため、求められる水準は最高峰。わずかなミスも致命的となる。
 が、オレには余裕さえ生まれ始めていた。全体を見て的確な指示を下すセルゲフ。あくまでサポートに徹し、オレの施術を支えてくれるセリシール。ベテランの看護士と、安心して患者の容態を任せられる麻酔医。
 NGOでは、休日はよくて月に2日。昼も夜もない激務続きの日々。支給される給与は故郷の住居維持、家族手当てを含めても日本円で月10万円程度。日常生活を送るだけでギリギリの額、貯金を取り崩しながら生活している者も珍しくない。
 けれど不満など聞いたことはなかった。全員の士気は高く、技術、モチベーションともに素晴らしい。

「凄い……」
「そうだな。皆素晴らしい」

 ポツリと聞こえたセリシールの声へ、心から同意して呟く。オレも皆に負けてはいられない……と強く思う。素早く人工血管への置換を行ないながら、この場所で共に働ける喜びを噛み締める。 

「ヘガール4-0で」
「――っっ。モスキート、続けてケリーを」

 オレがして欲しいと思った事を、指示を出す前に行なってくれる助手が心強い。マスクの上から覗く青い瞳と一瞬だけ視線が交差する。
 ぴたりとタイミングを合わせ、繊細で複雑極まりない縫合を行なっていく。時間に余裕が充分にあり、置換も順調に行なえている。手術は絶対に成功すると強い確信を抱く。

「汗を」
「こちらもお願いします」

 狭いテントの中、向かい合わせで立つオレ達。まるで完璧に息のあった夫婦のようだ……と、一瞬思ってしまう。マスクの下で思わず浮かぶ苦笑。
 こんな事を思ったなんてセリシールへ知られたら、気の強い助手の事。セクハラで訴えられるかもしれない。

「アキラ、どうだ?」
「はい、大丈夫です」

 セルゲフの低い声へ返事を行なう。最後にセリシールを少しフォローし、置換の状態を確認。この手術が終わればまた別の患者が待っている。
 バチバチとテントへ砂埃が当たる音を聞き流しながら、ゆっくりと呼吸を繰り返す。こんなに優れた人達と一緒に働く事ができる。その幸せを強く思う。
 これから何があろうとも、ここでの経験はオレにとって誇りになる。すばやく縫合を繰り返しながら、胸の奥でそう呟いた。

 

 ◆◆



 プールではしゃぐ人達の楽しそうな声、パシャパシャという心地良い水の音。それがプライベートルームでチェアへ寝そべっているボクの耳にまで届く。
 透明な天井を通して射しこんでくる陽射しは気持ちよく、大量に植えられている南国風の植物のおかげか、開け放たれたドアから入り込む空気も綺麗。空調も当然完備されており、身につけている水泳パンツだけで充分に快適。テーブルには、新江崎さんがボクへくれたグァバジュース――VIPという事で無理やり渡されたモノらしく、捨てるのも勿体無いと怒りながら持ってきた――まで置いてある。
 最高にリラックスできる休日……のはずなのに、ボクは気まずくって仕方ない。それと言うのも、1時間くらい前から、ボクのカラダの上へ1人の少女が乗っているからで……。

「あ、あのさ……、セリちゃん? そろそろボクも遊びたいんだけど……」
「もう、セリシールって呼び捨ていいのに」
「う……じゃあ、セリシール。ボク遊びに行きたいんだけど……」
「にひひ。うん、いいよ! 付き合ってあげる。何がしたい?」

 パタパタと両足を動かし、上機嫌でニコニコと微笑んでいる少女。可愛いキャラクターがプリントされた水着姿。
 金髪、碧眼でまるで西洋人形みたいに綺麗な白い肌をしているセリシール。その笑顔は非常に愛くるしくって、とてもいい子に思えるんだけれど……。
 しかし、何が嬉しいのか? 出会った直後から、少女はボクの歩く先に付きまとい、あげくの果てにチェアーへ寝転んだボクの上へとのって来た。無理矢理どけようとすると本気で泣きだす始末……。

「う、やっぱいいや」
「もう、遠慮しないでね。何でも言っていいのに……って、あっ」 
「兄さん! 私もうスライダーに5回も乗ってきたんですけどっ、それも1人で!」

 突如、ダンッという感じで床を踏み、桜がプライベートルームへ姿を見せる。着ているスクール水着に長い黒髪が濡れて張り付いていた。
 両拳を力いっぱい握りしめ、ギリリ……といった鋭い視線をぶつけてくる。顔も赤く、不機嫌だと瞬時に解るその様子。

「さ、桜。落ち着け。そのさ……」
「む、ペタンコ。私達の邪魔しないで」
「――っっ!」

 なんとか言い繕おうとした言葉をさえぎり、恐ろしい一言をあっさりと放つセリシール。ボクの血が音を立てて引いていく。
 ――桜が毎日牛乳を1リットル飲んでいる理由をボクは知っていたから。しかもそれが何の効果も出てないって事も……。紺色のスクール水着に包まれた胸は、改めて見るまでもなく見事に平坦。
 プルプルと華奢な桜の両肩が震えている。瞳は爛々と光り、ジト……という感じでボクを睨む。その眼光の恐ろしさ……。けれどセリシールは、どこ吹く風といった様子でニコニコとボクに微笑みかけてくる。

「に、兄さん……。ちょっといい?」
「あっ、う、うん。その、桜……子供の言うコトだしさ」
「やー、動いたら落ちる。ねえ、ちゃんとギュってしてよっ」

 キリキリと胃が痛むのを感じながら、セリシールの軽い体をゆっくりと両手でどかしてチェアから降りる。
 とにかく、ヒクヒクとひきつった笑みを浮かべている桜を宥めようと近づいていく。が、腰にはベッタリとセリシールが抱きつき、進みにくくて仕方なかった。

「兄さん。その憎らし……、そのセリちゃんと、どうしてそんなに仲がいいの?」
「いや、それがボクにも……。なんでだろ?」

 そう、出会った直後から、何故かこの少女は異様に懐いてきた。父親であるロリス先生の言によると、むしろ人見知りの激しいタイプらしいのだが。いや、桜や恋、新江崎さんに対しては物凄くそっけない態度を見せる。まるで敵意でもあるんじゃないか? っていうほどの。
 しかし、ボクが何故だか気に入ったらしく、父親の説得など聞かずに「一緒に遊びたい」と言い張るばかり。まあ、ボクの目から見ると、父親は娘を溺愛しているようで、ほとんど言いなりって感じ。説得なんて聞く様子など欠片も見当たらなかったけれど。

「ふーん。胸は無いのに嫉妬はするんだ」
「はぁ!? な、な、なっ、何をっっ!!」
「桜、落ち着け。子供のいう事……」
「兄さんは黙って!! それに私だって子供ですっ!」
「……」

 後橋市にある外国人学校へ通学しているというセリシールは、日本語を何不自由なく喋っている。そう、達者すぎるほどに……。まあ日本人である祖母の影響で、元々ある程度は話せていたそうだけど。
 しかし、愛娘の自慢をしたくて堪らない、といった感じのロリス先生の言に拠れば、いわゆる天才ってヤツらしい。
 今年の冬、フランスで1週間ほど風邪で寝込み、その直後に「日本で暮らしたい」と言い出したそうだ。日本人である祖母のコネもあり、日本での音楽教師の免許を取得していたロリス先生と共に、今年の春から日本へ滞在中。
 そして偶々、今日はここに遊びに来ていて今に至る。

「セ、セリちゃん、貴女だって人の事言えないでしょ」
「ノン! セリのママはGカップだもん。コーカソイドの遺伝子を舐めないでよね。そっちはどうなの? にひひ」
「っっっぎ、く、うううっ……」

 ボクの腰にしがみついたまま、恐ろしい言葉を放つ少女。不味い……桜のお母さん。つまり『ママ』は子供のボクから見ても、その……いわゆるスレンダーな体型。桜はママに似て、すごく整った顔立ちだけれども、体型や雰囲気もなんとなく似ている。つまり、将来的に考えても……。
 ギリギリと歯を噛み締めている幼馴染。まだ辛うじて笑顔だけれど、ヒクヒクとこめかみは痙攣し、なにより目が全く笑ってない。これは後が恐ろしすぎる。
 なんとか場を収めようと、少女の金髪の頭部へ手を伸ばし、ポンポンと軽く叩きながら口を開く。

「セ、セリシール、冗談でもそんな事言っちゃ駄目だよ。桜は今のままでも充分に可愛いと思うし」
「に、に、にっ、兄さんっ!? な、何をっ」
「――えっっ。あ、あぅ、ご、ごめんなさいっ……。その……つい……。うぅ、許して。ごめんなさい!」

 声が裏返ったまま慌てている桜。スクール水着姿のまま後を振り向き、ぶんぶんと両手を振り回している。
 対称的に、さっきまでの元気が嘘みたいなのがセリシール。
 パッチリした青い瞳へ見る見るうちに涙が溜まっていく。ボクをうるうると見上げながら、悲しそうな顔で謝ってくる。なんというか、酷く悪い事をしてしまった気分。

「ごめん、ちょっと言い過ぎたね。ああ、泣かないで。じゃあさ、一緒に遊ぼうっ。ね、何がしたい?」
「Youpi!! なら2人でスライダーがいい。ぎゅって抱っこしながら滑って、ね、ね!」
「ふぁっ!? ちょっ、に、兄さんっ!」

 グイッと勢い良く少女に手を引かれ、プライベートルームから引っ張り出されていく。背後から聞こえる桜の声が、あまりにも恐ろしいけれど、努めて考えないようにする。
 それにしても……さっきまで泣きそうだったのが嘘のように、ニコニコと手を引いている少女。その金色に輝く美しい髪を見ながら、ボクは心底深いため息を吐く。
 はしゃいでいる人達の楽しそうな声を、あまりにも遠くに感じながら。



 ◆◆◆ 



 低学年向けのスライダーは勾配がゆるく設計されているけれど、その分グネグネと曲がりくねって距離も長め。そして、一度滑り落ちたら再び長蛇の列へ並び直さなければならない。そんなスライダーをボクはセリシールと2人で繰り返し遊んだ。
 けれど当然というべきか。ボクでさえ疲れたのに、まだ9歳のセリシールにとってかなりの負担だったらしく、連続スライダー8回目でとうとう少女はダウン。ボクの背中におんぶされ、コクリコクリとうたた寝を始めていた。

「アキラ、ボクが背負おうか?」
「いや大丈夫。ごめんな恋、せっかく誘ったのにさ」

 低学年用プールから200メートルほど離れたプライベートルームに向かい、たまたま遭遇した親友の恋と2人で進む。
 ボクがセリシールの相手をしていた間、親友は新江崎さんと2人で急降下スライダーを楽しんでいたらしい。恋の言によれば、新江崎さんは話してみると天然な所があるそうで――フライドポテトにフォークがついてこない事に憤慨し「どうやって食べろとおっしゃるの!?」と店員へ食って掛かったらしい――結構楽しかったとの事。

「ううん、こうやって皆で遊ぶのも楽しいし。ふふっ、でも今度は2人で映画に行きたいな。見たい映画があるんだ。ホラーだけどね」
「いいけどさ。でもお前ってホラーの時、いきなり腕を掴んでくるのやめろよな。ボクまでビクッてしちゃうし」
「あはははっ、もうバカだなぁ。それがホラーの楽しみだってのにさ」

 嬉しそうに瞳を細めニッコリと笑う恋。ショートジョンタイプの水着姿がまるで女子のように見える。
 ふと、すれ違う人たちは恋の性別をどっちだと思ってるんだろうか? と思う。最低でも半分は女子だと勘違いしそうなほど、今日の恋は表情が柔らかくて可愛らしい。

「ん? 何さアキラ。ボクの顔って何かついてんの?」
「あ、いや。べつに何もっ」
「ふーん、ならいいけどさ」

 思考を切り替える為に頭を軽く振り、たどり着いたプライベートルームのチェアへ金髪の少女を横たえる。うたた寝から完全な睡眠に移行したらしく、セリシールは全く目覚める様子もない。
 閉じた瞼のまつげは長くて美しいカーブを描いている。本当に人形のような可愛らしさ。全く……寝顔だけなら文句なく天使だと思う。

「……あうっ、せんぱぃ」
「ん?」

 ムニャムニャと寝言を呟いている少女。それはフランス語で上級者、先輩などを意味する単語。学校の夢でも見ているのか? ため息をつきながら軽く金色の髪を撫で、少女のカラダへと大きめのタオルを掛ける。
 その時、背後から親友の少し困ったような声が響く。

「あのさアキラ。やっぱキャップがキツくって。ちょっと見て貰っていい?」
「うん。後ろから?」
「あ、うん……」

 恋のあまりにもほっそりとした背中――首から下の日焼けしていない真っ白な肌が目に入る――のギリギリへと立ち、ボクは両手で一度スイミングキャップを外す。
 茶色で柔らかな恋の髪を少しまとめ、耳へ軽く触れながらキャップを被せようとする。

「んっ、ちょっとくすぐったい……」
「おい、動くなよっ。こらバカ」
「うぅ、ん、あははっだって耳がさ。やん、変なトコ触るなっ」
「お前が動くからだろっ」

 くすぐったいのか痛いのか? とにかくジタバタと親友は褐色の手足を動かす。ボクは負けじと、恋の華奢で引き締まっているのに、でもどこか柔らかいカラダを半ば押さえつけるようにする。
 そもそも親友から頼んできたってのに、ここまで拒否される意味が解らない。広いプライベートルームの中で、少し意地になったボク達は普段と同じようにはしゃぎまわる。

「あーあ、捕まっちゃったよ」
「バカ、無駄に体力を使わせんな」

 ドア近くの壁際へ追い込み、無理やり親友の頭へキャップを被せていく。当初とは違い、真正面からボクを見上げている体勢。背の低い恋の少し茶色の瞳が、下方向から見つめてくる。
 全力で走り回った為か、ハァハァという恋の吐息が胸へと当たって温かい。

「……アキラ、やさしくしてね」
「なんだよそれ」

 互いに笑いながらパチンとゴム製の帽子を装着。恋は具合を確かめるように、右手で何度も頭部を触っている。そして、まあまあかな? という少し意地悪っぽい微笑みを浮かべてボクを見た。

「ま、アキラがせっかく頑張ったんだから妥協してあげる。うんっ」
「よく言うよ」

 軽口を叩きつつ、テーブルへ置いてあったはずのグァバジュースを探す。が、そこには空のグラスが置かれているだけ。たぶん、不貞腐れた桜に飲まれてしまったのだろう。
 ピンク色の果汁、少しピーチに似た味わいと南国系フルーツ特有の芳醇な香りが相まって、とても美味しかったのに。
 仕方ないかとあきらめ、休憩をするという恋にセリシールの子守を任せ、フードコートへ向かう事にする。が、戸口から出た瞬間、

「兄さんっ、捕まえた」
「うおっ!」
「もう、柊クンってあい変わらず鈍いのね」

 がっしりと桜に腕を掴まれる。そして正面には新江崎さんが立っていた。ピンクとブラックのチェック柄水着へ姫の長い髪が流れ、直視できないほど艶かしい雰囲気。
 あきれたようにため息をつきながら、その黒髪を耳へかける新江崎さん。そっちの方向を見ないようにしながら、ボクは腕にしがみ付いている桜へ文句を言う。

「邪魔だよ、バカ桜。つーかお前、ボクのジュース飲んだだろ? 弁償しろよ!」
「えぇ? 私マンゴーは好きだけど、グァバは微妙だったから飲んでないもんっ」
「嘘つけよ」

 恋は知らないと言っていたし、セリシールはずっとボクといた。なら鍵を持っているのは、桜か新江崎さんしかいない。ということは、まさか……?

「……ひょっとして新江崎さん?」
「――っっ、し、知らないわよっ!」

 やばい……。メチャクチャ不機嫌そうに怒鳴る姫。逆鱗に触れたのか耳まで赤く染め、ピンク色の唇を指で触りながら反論してきた。
 まあ確かに新江崎さんが飲むはずが無い。完璧なるお嬢様で育ちのよい彼女が、他人の使ったコップへ口をつける? それは絶対にないだろう。

「ごめん」
「掃除の人が片付けてくれたんじゃない? 兄さん、そんなのどうでもいいからスライダー、絶対に一緒に滑ってもらうからね!」
「私は少し……疲れたから休むからっ」

 早口で言い放ち、新江崎さんはトイレの方向へとすごいスピードで歩んでいく。その後姿を見ながら、ボクはズルズルと桜に引っ張られてスライダーへと進む。

「ああもうっ、痛いからひっぱるなよ」
「なによっ、兄さんがフラフラしちゃうのがいけないんでしょ!」

 腕を組んだまま耳元で怒鳴る幼馴染。兄妹げんかに見えたのか、周囲の大人達にクスクスと笑われてしまう。生温かい視線が無性に恥ずかしい。
 それは桜も同じ様で、頬を赤く染め不機嫌そうにボクを睨む。

「もうっ、全部兄さんのせいだからね!」
「なんでだよ」

 ぺちゃくちゃと互いを口で罵り合いながら、でもなんだか心が安らいでいく。やっぱり桜とは長い付き合いだけあって、遠慮する必要がなくて楽だ。ふくれっ面の桜に足を蹴られ、ボクはお返しにこちょこちょとくすぐる。普段と同じ、ありふれたじゃれあい。
 そんな事を続けていると、いつのまにかスライダーの順番が迫る。

「ね! 次だよっ」
「わかってるってば」

 幼馴染の右手を強く握り、轟々と激しく水が流れているスライダーを覗き込む。やはり低学年用とは違い、かなり角度があって水の勢いも強い。チラチラと互いに視線を交差させながら、ゆっくりと足を踏み出す。

「きゃっ」
「おっ!」

 流れ落ちる水からグンッと足を引っ張られる。が、手すりを掴んでしっかりとスライダーへ腰を下ろす。しかし桜が酷い。全く手すりを掴まず、ボクの腰に両腕を回してきた。

「ちょっ」
「えへへ、いくよ!」
「うわ!」

 そのままドンッとスライダーの中へ滑り落ちる。桜は、きゃあきゃあとはしゃぎながらボクの背中に爪を立ててしがみ付く。グルグルと目まぐるしく景色が変わり、あらゆる方向からGがかかる。
 僅かの恐怖と問答無用の面白さ。ボクも大声で叫びながら桜の体へ抱きつき、2人一緒にプールへ向かって滑り落ちる。全身に降りかかる水の冷たさ……けれど桜と抱き合っている部分だけは温かい。

「――ッッ!!」

 ごぼんっと音を立ててプールへ着水。互いに口から泡を吐き出しながら、手足をバタバタと動かしつつ笑い、水面へ顔を出す。
 しっかりと手をつなぎあったままで。



 ◆◆◆◆



 プールで遊んでいる時は全く感じないのに、普段着へと着替えて数分が経過すると、途端に全身が重くなる。やっぱり全身運動と言われているだけあって、体の隅々まで疲労しているんだろう。ただ、遊んでいる時は気付かないだけで……。
 施設の駐車場入り口、沢山の自動販売機が並んでいる前へ立つボク達。疲労を感じながらも、皆でロリス先生とセリシールへ別れの挨拶を行っていた。

「それじゃ皆さん、また学校で」
「はい」
「……ノン」

 ニコニコと微笑んでいるロリス先生とは対称的に、不機嫌な様子を見せているセリシール。青い瞳が少し潤んでいるようにも見えた。まるで泣くのを我慢しているよう。
 最初はこの少女に振り回されたけれど、最後には皆と少し打ち解けた様子だった。何と言っても低学年だし、やっぱり寂しいんだろう。

「ねえ、遊びに行ってもいい?」
「うん」

 少女の寂しそうな青い瞳に胸が痛む。前までのボクなら関係ない……と割り切っていたかもしれない。けれど、この数ヶ月の出来事で何か変わってしまった。
 隣を見れば桜も頷いているし、ボクは手を伸ばしてセリシールの髪を撫でる。

「ボクも待ってる。夏休みになったらおいでよ。一緒に遊ぼうね」

 明るく恋も言う。その横へ立っている新江崎さんまで、どこか優しく微笑んでいた。やっぱり皆で来て良かった……と強く思う。

「それじゃセリ。帰りましょう」
「……待って」

 寂しそうな声とともに、ほんの軽くボクの手が握られる。青い瞳から一筋の涙がポトリと落ちていく。そして、何か小さく口を動かす。何て言っているのか聞こえなくて、ボクは身をかがめて少女の口元へ耳を寄せる。

「Je suis amoureuse de toi」
「え!?」

 驚きを表情に出さないように、必死で自制する。それというのも、こんな少女が言うにはそぐわない意味だから。けれど声の響き、青い瞳は真剣そのもので、ボクは混乱してしまう。

「それじゃあ皆さん、またね。今日はありがとう!」

 ふんぎりをつけたように大きい声で言い、父親の車へ乗り込む少女。金色の髪をなびかせながら車窓の中からブンブンと手を振る。
 いよいよお別れ……と思い、ボクも皆と一緒に手を振り返す。しかし予想に反し、運転席の窓が開いてロリス先生が顔を覗かせた。

「どうしたんですか、先生?」
「ああ、言うのを忘れていた事がありまして」

 人のよさそうな顔でにっこりと微笑んでいる先生。それは今日さんざんに見てきた愛娘を自慢する時の顔……。
 何故だか少しだけ、嫌な予感がする。

「セリなんですが、フランスで小学校の教育課程を全て終わらせてます。なので、来年からはジュニアハイスクール。つまり桜さんの一学年上になりますから」
「へ? どういうこと」

 少し意味が解らない。隣の桜と目を合わせながら首をかしげる。つまり……?

「来年、先輩と同じ中学校に編入するからっ」
「――っ!?」

 元気に響くセリシールの声。その言葉に驚き、返事をする事も出来ない。今度こそ遠ざかっていくプジョーの後姿を、ボクはただ呆然と見つめていた。
 

 ※作中の医療行為、術式手順などはフィクションです。実際とは異なるところがあります。
 ※ブログからの転載になります※
 
 ※4/19にXXX板へIF√を投稿しています。見てなくて興味がある方は読んで貰えたら嬉しいです。ただし18禁です。
 ※面接終了しました。温かい励ましありがとうございます。更新がんばります><



[24259] ・第12話 【小学校編10前編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:ba305f6e
Date: 2011/06/22 16:36
・第12話 【小学校編10前編】



 ◆



 NGOでの滞在期間があと半年になった頃、チーフセルゲフが一時フランスへと帰国した。キャンプへ帰還予定は3週間後。
 パリにあるNGO本部――オレは行った事はないが、質素な作りの建物らしい――で予算交渉の後、プライベートの用事もあるそう。他ベテランスタッフに拠れば、彼が5年前にリーダーへ就任し初めての帰国だという。

「3週間という短い期間だが、チーフ代理として派遣されたロビン・ハウスマンだ」

 外科ミーティング室の中へ、堂々とした低いバリトンの声が響く。中肉中背で眼鏡をかけた40歳くらいの白人男性、帰国したセルゲフの代理としてNGOへ赴任してきたロビン・ハウスマンへ部屋にいる全員が拍手を送る。
 初めて会うスタッフにも全く物怖じせず、堂々と胸を張った立ち姿。癖のある黒髪で、顎から口の周りへ髭が生え揃っている。その体からは強い自信と威厳が感じられた。まるで俺たちを威圧するかのような。
 が、それくらいでないとココではやっていけない。特にチーフ代理ともあればなおさらだろう。現に、外科チームのスタッフからいくつかの質問が飛び出す。この男の実力と経験を知る為に。

「ところでドクターハウスマンはNGOでの経験はおありですか? それに、ここに来るまではどちらで勤務を?」

 手術看護士として頼れるナース、ベバラの野太い声が響く。現在56歳で計6人も子供を育て上げた女傑。がっしりした体型通りの大きな声。
 が、ハウスマンはベバラの質問にも全く動じない。黒い顎鬚を触りながら、淡々と口を開く。

「東南アジアで計10回ほどNGOの経験がある。あとは軍医。――そして以前というか、この期間が終わればまた戻るのだが……フィラデルフィア小児病院で胸部心臓外科助教授として勤務している」
「――!」

 部屋の中へ声にならないざわめきが広がっていく。スタッフ全員が驚きを隠せずにハウスマンの姿を見つめる。
 ――フィラデルフィア小児病院。それは世界最高峰の小児病院として名高く、ノーベル生理学・医学賞受賞者を何人も輩出し、新しい術式の開発や治療法の確立にも確固たる足跡を残している。
 そして、小児病院での心臓外科医という意味。体の大きな成人に対し生後僅かな小児は――当然ながら――心臓が凄まじく小さい。更に体力も僅かしかない為に、恐ろしいほどの技量が要求される。
 つまり、ハウスマンの技術は想像を絶するレベルにあるという事。

「凄い……」

 オレは無邪気に喜びながら口の中でそう呟いていた。チーフセルゲフのジェネラリスト――総合医――として、あらゆるトラブルの可能性を考慮しつつ、手術全体のフォローと組み立てをする技術と知識はオレの憧れだ。
 が、このハウスマンのスペシャリスト――専門医――としての技術への期待にも胸が高鳴る。フェラデルフィア小児病院の外科助教授……世界最高レベルの外科医だと言っても過言じゃない。

「どうしてこんな人が?」

 隣で呟いたセリシールの声も耳に入らない。オレはこれからの3週間、一つでも多くの事をハウスマンから学びとろうと決意していた。
 それがあまりにも無邪気な思い込みだとは知らずに。

「では質問も無いようなので解散。ああ、今日はすまないが見学させて貰う。皆、よろしく頼む」
「はい」

 堂々としたハウスマンの声に、皆返事を行いそれぞれの予定へと戻っていく。オレもセリシールと2人で、第2救急外科テントへと並んで向かって進もうとする。
 が、ミーティング室から出ようとした直前、オレ達はハウスマンから呼び止められた。

「ドクターヒイラギ。そしてドクターロリス。少しいいかね?」
「はい」
「なんでしょうか?」

 手術着へ着替える為に、長い金髪を邪魔にならないよう一つ結びにしようとしていたセリシール。ハウスマンの声に振り返りながら、手早くゴムでポニーテイルに縛っている。
 その様子を視界の隅にとらえながら、オレもチーフ代理へと正面から向き合う。眼鏡の奥に見える、自信に満ち溢れたハウスマンの黒い瞳と視線が交わる。

「君の手術資料を見た。弓部大動脈全置換術を2時間弱で終わらせていたな……見事としかいいようがない技術。スタッフとのコミュニケーションも良好のようだ。そうだろう、ドクターロリス?」
「ええ、先輩はとても優れた医師だと思います」
「いえ、そんな。皆に助けられて貰っているだけで……。オレなんか全然……」

 突然の褒め言葉――しかもオレなんかより遙かにレベルの高い医師から――に動揺を隠せない。日本人独特の謙遜はこういう場面では、自信のなさの表れと受け取られると解りつつも、照れくささから言葉を濁してしまう。
 そんなオレの右腕へ軽く触れてくるセリシール。青色の瞳がどこか悪戯っぽく、けれど優しく光る。

「チーフハウスマン。先輩はこの通り……普段は優柔不断っぽいですけれど、手術中は怖いくらい優秀です。私も何度も泣かされましたから」
「おい、セリシール」
「うむ、その謙遜は医師として生きる以上、あまりプラスにはならないだろう。が、ここで呼び止めたのはそんな事じゃない。ドクターヒイラギ、君はここの期間が終わったらどうするつもりだ?」
「え?」

 ハウスマンの問いへ咄嗟に答える事が出来ない。
 医学部を卒業、研修医期間が終わってすぐにココへ来たオレには、日本で知り合いの医者なんて数えるほどしかいない。その数名の知人に頼み込み、どこかの病院に非常勤バイトとして潜り込むくらいしか……。それとも一旦、義母さんと桜の顔を見たらココへ戻ってくるか? 
 あと半年しかないっていうのに、何も考えていなかったオレは返事さえ出来なかった。

「その様子だとまだ他の引き抜きはきていないのか? ……珍しい。まあいい、君さえよければ私の関連大学病院の局員として推薦してあげよう。どうだね?」
「先輩っ」
「え……いや、それは」

 あまりに唐突すぎる内容に面食らってしまい口ごもる。そもそもオレは、ここで人を救う事だけを考えて生きてきた。これから先の人生について、深く悩む事なんて一度も……。

「突然すぎたか? ふん、少し考えておいてくれ。では話は以上だ。呼び止めてすまなかった」
「はい、失礼します」
「失礼します」

 今度こそ助手と2人で廊下へと移動する。隣に立っているセリシールが、何か言いたそうにチラチラとこちらを見つめる視線を感じ、オレは無言のまま視線で言葉を促す。

「先輩っ、すごくいい話だと思いますよ。フィラデルフィア小児病院の助教授からの推薦だなんて……。私も頑張らないと!」
「うん……」

 まるで自分の事のように喜んでくれているセリシール。にっこりした微笑みを浮かべ、青い瞳で優しく見上げてくる。
 が、オレは決断できない。もちろん良い話だと理解しているけれど、どうしても踏ん切りがつかなかった。

「先輩、どうかされましたか? うかない表情ですけれど……」
「いや、何か現実味がなくってな。この場所に比べて、あまりに違いすぎる環境だと思ってさ」

 きっと世界最高峰の病院は、色々な設備が整っているんだろう。一台しかない人工心肺装置の順番待ちで悩む事も無いし、壊れる寸前の医療機器での誤診に怯える事も無い。夜、遠くから聞こえる自動小銃の音で目覚める事も無ければ、暴動を恐れつつ緊急の医療行為を開始することも無くなる。
 休日は今よりも多いだろうし、給料も大幅に増えるだろう。義母さんへ僅かでも恩返しが出来るかもしれない。 

「先輩?」
「でも……、迷っちまう。ま、優柔不断って事か。怖い助手の指摘通りにさ」
「もうっ!」

 セリシールは頬を膨らませて、軽くオレの肩を叩いてくる。そんなスキンシップを行いつつ、手早く白衣へと着替えて手を洗う。
 この時のオレはまだ何も知っていなかった。医療にどれくらいの金がかかるものか。ただ人を救いたい……という願いだけでは、医者なんて成り立ちはしないのだ、という事を。
 この数日後、ハウスマンの助手としてシフトに入ったオレはその残酷さ、医師という職業の難しさを、嫌というほど学ぶ事になる。



 ◆◆



「兄さん! アキラ兄さん!!」

 夢と現実の曖昧な境界。
 医療、人を救う行為に関わるどうしようもないジレンマと、幼馴染のボクを心配してくれる声の間でギリギリと奥歯を噛み締める。
 結局、目覚めたら全てを忘れてしまうと解っている。しかし『オレ』の経験からほんのわずかでも学び取り、未来へつなげなければとも思う。苦しい無力感に支配され、正解なんてない事もわかる。綺麗なモノだけでは生きていけない、と。

「兄さん! 兄さん!! しっかりしてよ。お願いっ、お願いだから!」

 フランス語で叫び、胸の奥から慟哭を吐き出し、どうしようもない現実に打ちのめされる。全身が燃えるように熱く、自分が学んできた事、人を救ってきた事の意味を思う。
 結局、何もかもが自己満足。日本で眠ったままの桜を、オレが言い訳にしているだけなのか?

「桜……、桜!!」
「兄さん!? ここだよ!! 私、ここにいるから!! ずっと兄さんと……」

 両手が強く握られ、頬へと熱い雫が落ちてくる。心から「オレ」を案ずる声。その響きが意識を現実へと押し上げてくれる。
 このまま医師を目指すのであれば、必ずボクが立ち向かう事になる未来から、幸福な今へと。

「……桜?」
「兄さん……」

 うっすらと目を開けると、ぼんやりした視界に飛び込んできたのは幼馴染の泣き顔。幼いながらも母親譲りの整った顔立ち。
 けれど今は、涙でぱっちりした瞳は赤く充血し、すっきりした鼻筋からは透明な液体、ピンク色の唇はヒクヒクと痙攣し嗚咽を抑えている……といった酷い顔。パジャマ変わりに着ているピンク色のタンクトップには、いくつもの涙の跡がある。
 でもボクの目には、とても可愛らしく映った。

「ぅぅう、良かった……兄さん、良かった……」
「ごめんな」

 ボクをこんなに本気で心配してくれたんだ……という感謝の念、そして照れくささが沸き起こる。周囲を見るとまだ薄暗く、真夏――夏休みに入りたて――という事を考えれば、4時くらいだろうか?
 昨夜、義母さんは診療室へ泊まりこみで桜と2人、11時前にはベッドへ潜り込んだけれど……どうやら夢にうなされたようだ。既に、どんな夢だったのかを何一つ思い出せないけれども。

「すごい汗かいてる。拭くね」
「う、いや、いいよ!」
「駄目、兄さんはじっとしてて!」

 未だにひっくひっくと僅かに肩を動かしている桜の雰囲気におされ、思わずコクンと頷いてしまう。尋常ではないコイツの様子からして、相当酷くうなされていたのか。
 下手すると「義母さんを呼ぶ」と言い出しかねないのが怖くて、素直に従う事にする。夢でうなされた程度で、義母さんに苦労をかけたくない。

「兄さん、勉強のしすぎ……。体こわしちゃうよ」
「大丈夫だから」
「そればっかり。ね、痛くない?」

 首の周りから胸、背中まで優しくタオルで拭かれていく。すねたような幼馴染の声へ曖昧に返事しつつ、ボクはぼんやりと最近の勉強について考える。
 全く受験勉強はしていないけれど、医学のスケッチだけは欠かした事が無かった。この頃ではイメージトレーニングや、新江崎さんから借りた本を参考に指を動かし続ける日々。
 桜に怪しまれないよう、幼馴染が眠った後に行なっていた為、確かに睡眠時間が足りていないのかもしれない。それに眠ったとしても……。

「兄さん、今日さ……。勉強の事は忘れて、どっか遊びにいこ?」
「ん?」
「私、お弁当作るから。2人で公園とかいこうよ。駄目……かな」

 どことなく怯えがちな声の響き。昔から桜はこういう所がある。ボクの予定、勉強を第一に考えて遠慮をする部分が。
 甘いモノが絡んだ時や、理由不明な所で爆発する事もあるけれど、基本的にコイツはボクを立ててくれる。本当に家族、妹みたいな感じだ。親しいけれど、互いを思いやる気持ちが根底にある。
 桜のこんな部分に、今までどれだけ癒されてきたか……とても数え切れない。

「駄目なわけないだろ。一緒にボートとか乗りたいな」
「うんっ!」

 桜はパァ……と花のような笑みを浮かべ、ゴシゴシと強くタオルで擦ってくる。充分に汗が拭き取られたっていうのもあり、少し痛い。
 その小さな両手を握り、無理やり動きを止める。

「痛いよバカ。ほら、じゃあさっさと寝よう……つか、起こしてごめんな」
「ふふっ。いいよ兄さん、特別に許してあげるね」

 軽く微笑み、ポンと当然のようにボクの隣へ寝転ぶ幼馴染。桜の二重瞼や長い睫毛がはっきりと見える。どことなく甘い吐息さえかかるくらい顔が近い。

「ったく、暑いから下で寝ろよ」
「だって、また兄さんがうなされたら面倒くさいじゃん! なにか文句ある?」
「う……」

 間近からジト……とした視線で睨まれて、何も言い返せない。桜が着ているピンク色のタンクトップからのぞく首筋には、ほんのりと汗が浮いている。
 コイツも暑いって事だろうに……、しかし今夜はボクが悪い。あきらめてため息をつき、幼馴染から少し離れた場所――ベッドの端ギリギリ――へズリズリと移動する。

「にしし、素直でよろしい」
「うっせ。涎垂らすなよな!」

 どこか甘い桜の体臭を意識しないようにしながら、再び目をつぶる。せめてあと数時間だけは、うなされる苦しい夢を見ないように……と願いつつ。

「おやすみ、兄さん」

 ゆっくりと伸びてくる幼馴染の手を軽く握る。まるで互いに支えあうように。

「うん、おやすみ桜。ありがとう」
「別に……いい」

 低学年の頃から、どれくらいの夜をこうやって過ごしただろう? 義母さんの帰りを待つ心細い闇の中で、どれほど桜の手が温かく、嬉しかったか。
 照れくさくて、感謝の言葉なんて一度も口にした事が無かったけれど……。ボクは言葉に出せない感謝の想いを伝えるように、そっと桜の指を撫でる。
 すぐ隣で眠る幼馴染の小さな吐息を聞きながら、ゆっくりと瞳を閉じた。



 ◆◆◆



 駅からバスに乗って30分ほど山道を進むと、高速道路の乗り口近くに公園が見えてくる。そこはダム湖――といっても小規模なモノだけど――の開放に伴い、隣接して造られた公園だ。
 釣り場や貸しボート、大きな滑り台、アスレチック、キャンプ場などから安い町営温泉まであって、そこそこ利用者で賑わっている。まあ、田舎の更に山奥の事……夏休みとはいってもたかが知れているけれど。

「兄さんってば、いっつもソレを持ってるよね」
「あ、うん。救急箱みたいなものだよ」

 バスの中、隣の座席に大人しく座っている桜が、ボクのバック――自称サバイバルグッズの入ったモノ――を見つめながらポツリと言う。確かに幼馴染の言うとおり、どこに行くにもボクはこのバッグを持ち出していた。学校や後橋市へいくときはもちろん、ほんの少し出かける時でさえ。
 けれど、幸いにも――と言うべきだろう――役に立った事は、新江崎さんの件を除けばほとんど無い。

「ふーん。兄さんって、変な所でコダワリがあるよねー」
「うるさいよ。それよりお弁当、ちゃんと食べられるモノを入れてきた?」
「あーひっどい! 後で絶対に驚くんだからっ」

 デニム生地ミニスカートにパープルのカラータイツ、薄手でフード付きオフホワイトのパーカーを着ている桜が頬を膨らませながら怒鳴る。髪は邪魔にならないようにだろう、2つの団子状にまとめ小さな頭を白リボンで丁寧に飾っていた。
 バスの棚にある、桜の持ってきたリュックサック――大きめでピンク色の可愛いデザインのモノ――をチラリと見つめながら、互いに軽口を叩き合う。

「はいはい。あまりの不味さに驚くかも」
「うぅ、死ねっ」
「あははっ」

 ふくれっ面の桜と座席に座ったまま、互いに突いたり、くすぐったりを繰り返す。が、そうしているうちに、周囲の景色がどんどん濃い緑へと変わっていく。到着間近なんだろう。

「バカ桜、もうすぐ着くからきちんと座れって」
「うう、すぐそうやって兄さんは……」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、桜は隣へ深く座りなおす。そうして、二人でなんとなく窓の外の森を見つめる。
 こうやってすぐ側で森を見ると、不思議に圧倒された。どこまでも続いているような濃い緑と、地面の土の色。夏の暑い陽射し。
 照葉樹林……その濃緑は地球の全ての生命を育む揺りかごなんだと思う。普段、エコロジーなんてあまり考えないけれど、言葉では上手く表現できない荘厳ささえ感じる。

「兄さん……。あらためて見るとさ、森ってきれいだね。地球って感じがする」
「あ、うん」

 車窓を眺める幼馴染の声に、少し驚きつつ言葉を返した。全く同じ事を考えていたのが、妙に気恥ずかしい。
 緑を見つめている桜のほっそりした白い首筋が、やけに気になってしまう。そんな視線に気づいたのか、急に振り向いて見つめてくる幼馴染。

「なに? どうせ、桜の癖に似合わないコト考えてるなぁー、とか思ってるんでしょ!」
「い、いや。別に……」

 頬を怒りでうっすらと紅潮させ、キツイ視線をぶつけてくる桜。小さな手で、柔らかくボクの胸を叩く。

「どうせ自分でも恥ずかしいコト言っちゃったなぁって……」
「いや、ボクも同じ事を考えてたから、ちょっと……驚いて」
「――っ」

 大きめの瞳を更に見開いて、ますます頬を染める幼馴染。しかし、その口元はほんの少しだけ、嬉しそうに弛んでいるようにも見えた。
 ――まあ、錯覚だろうけど。
 ボクは大切な幼馴染を真っ直ぐに見つめる。今日、この豊かな緑を間近で感じれたのも、少し癪だけど朝に誘ってくれた桜のおかげだ。

「な、何よ! 急に黙っちゃって。お、おんなじコトを考えてたからって……、ううぅ別にその」
「うん、やっぱり家族だもんな」
「――っ! 兄さんの馬鹿っ!!」

 一際大きい桜の罵声と同時、バスが駐車場へと入り、ガクンッと停車する。そのまま憤懣やるかたないといった様子で立ち上がり、棚のリュックを取り出す幼馴染。
 そしてミニスカートから伸びる細い足を仁王立ちといった感じで開き、強引にピンク色のリュックをボクへと押し付けてくる。

「ほらぁ。兄さんがリュック持ちなさいよ。か弱い女の子にこんな重いモノ持たせるな!」
「ちょっ、って重い! お前、何がこんなに入って……」
「うっさい。代わりに兄さんのバッグは私が持ってあげるわよ。さっさと立って!」

 言い放った後、桜は小さな団子頭を動かし、ドスドスと出口へ向かって進んでいく。ボクもため息をつきながら、仕方なくその後を追っていく。毎度の事ながら、幼馴染の怒るポイントがわからない。
 ――まあ胸の事に触れてはいけない、とだけはわかるけれども。以前、セリシールちゃんに「ツルペタ」と言われてから、桜が毎日変なエクササイズをしているコトにボクは気づかないフリをしている。
 無駄ってこういう事をいうんだろうなぁって、時々思わないでもないけれど……。

「……兄さん、今むかつくコト考えてなかった?」
「い、いや。別に……、ほら行こうぜ」

 日差しの強い駐車場に立ちジトリと睨んでくる桜の視線から逃げるように、公園へと早足で向かう。背後からパタパタと聞こえてくる足音を聞きながら、徐々に見えてくる大きな湖面を見つめる。

「うわぁ……」
「うん」

 久々に見る公園のダム湖は、夏の太陽に照らされて澄んだ水面が遠くまで広がっていた。いくつものボートやアヒルの姿が見える。周囲の濃い木々と風景がマッチして、まるで写真のように美しい景色。
 しばし無言のまま二人でゆっくりと足を進める。湖面からふいてくる風はさわやかで、夏の暑さを忘れさせてくれた。

「兄さん、ボート乗りたい!」
「いきなりかよ」

 さっきまでのふくれっつらはどこへやら、ニコニコと微笑む桜。その笑顔を見つめながら、ボク達は手をつないでボートの管理場所へと向かう。夏休みだけれど、今日は平日の為に家族連れは少ない。あまり待たずにボートに乗れそうだ。
 幼馴染はオフホワイトパーカーのフードを帽子がわりに浅くかぶり、待ちきれなそうなソワソワした雰囲気。足元のスニーカーでトントンとリズムを刻みつつ、チラチラと何度もボクを見つめる。

「何?」
「ん、何でもないっ。にひひ」

 天真爛漫な微笑みを見つめつつ、ボクはピンク色のリュックサックを背負いなおす。今からボートで遊んだ後、お弁当を食べるんだろう。鮮やかで豊かな自然の中、かなりのんびり出来そう。
 ――将来、ボクが医師になって色んな苦しみを味わう事になっても、必ずこんなささやかな幸せが支えてくれる。夢の中での記憶は忘れてしまうけれど、少しずつ『何か』がボクの中へと折り重なっていく。
 その『何か』がこういった平凡な生活が、最後には自分を助けてくれるのだ、と教えてくれる。

「……桜」
「ん?」

 つないだ小さな手の感触。桜の横顔、つややかな唇や、小悪魔っぽい瞳、細い眉、スレンダーですっきりとした体を見つめる。

「やっぱ、何でもない」
「えー、なによソレ」

 いつもどおりに小突きあいながら、順番が来たボートの管理室へと進む。桜との平凡な安らぎ。その幸せを感じつつ。


 ※※

・色々とあって更新が遅れました。ごめんちょ。完結目指してがんばる



[24259] ・幕間 【独白、桜】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:e11f4de8
Date: 2011/08/21 20:41
・ 幕間 【独白、桜】


 ◇


 初めて兄さんから助けて貰ったのは人形だった。
 
 ――それは『兄さん』とまだ呼んでおらず『あきらくん』と言っていた頃の話。私は幼稚園の年長組で『あきらくん』が小学校1年生。
 ある日、家の近くに小さな診療所とお家が完成して、誰かが引越しをしてきた。私の住んでいた地域には、周辺に民家が少なくって――農家のおじいちゃん、おばあちゃんのお家が数軒だけだった――すごく興味しんしん。
 そして当日の夜にママと一緒に、そのお家へ行った。
 小さくっておしゃれな玄関では、びっくりしちゃうくらい可愛い女のお医者さんが出迎えてくれていた。真っ白でコートみたいな上着――『白衣』という単語を知らなかったのだ――は天使の衣装みたい、そしてメガネのすっごく似合う可愛いお姉さんだと感じた。
 しかも驚くことに、ママはそのお姉さん先生と親友で、私は興奮でうまく喋れなくて……。そうこうしているうちに、いつのまにか玄関先へあらわれていた静かな雰囲気の子が『あきらくん』だった。

「これからお願いね、桜ちゃん。アキラと仲良くしてあげて」
「う、うん……」

 可愛い先生の隣に立っている子。むすっと硬く結ばれた口元、まっくろで強い感じの瞳。背は私より少しだけ大きくって、そしてぺこりと頭を下げられる。

「こんばんは。柊アキラです。よろしくお願いします」
「こ、こんばんは」

 幼稚園にいる他の男の子たちとは全然ちがうって感じを受けた。今思えば、兄さんは紳士的ってやつだったんだろうけれど、男の子にそんな態度をとられた事がなかったあの頃の私は、むしろ少し怖かった。さんざんな第一印象だ。

「えっ、アキラ君って1年生でしょ? うわぁ、うちのと全然違うわ。やっぱりノゾミの教育ってやつ?」
「やめて。ね、アキラ。桜ちゃんに子供部屋を案内してあげてちょうだい」

 外見どおりの優しそうで可愛い声。そして白衣を着て細いフレームの眼鏡をかけている『のぞみ先生』とママが小さな声で何かを話し出す。ボソボソとした声……大人の会話だとわかった。

「うん、わかった母さん。――桜ちゃん、こっちに来て。あ、ここに段差があるから注意して」
「え、う、うん」

 ――次の日から、私の世界は変わった。ママはバーを再開、先生はお医者様の仕事で忙しい。当然のように、私とあきらくんは新しいお家で過ごすことになった、2人っきりで。

「ねえ、あきらくん。なわとびしよ!」
「本よんでるからだめ」
「じゃあ、おままごとー」
「うん、あとでね」

 なんて嫌なヤツだって、当時の私は思ったものだ。私の部屋とは全然違う、おもちゃひとつ転がっていない片付いた部屋の中、いつも本を読んでいる男の子。何を誘ってもそっけない態度。おやつを食べた後も自分で片づけをして、私の分までコップを洗うイヤミな良い子。

「いいもん。一人で遊ぶ!」
「うん」

 退屈だった私はパパに買ってもらったクマのぬいぐるみや、女の子の人形を使って独りで遊び続けた。けれどそんな日常が1週間ほど続いたある日、それは一変する事になる。

「――っっ! ああっ!」
「……?」

 森へ出かけた少女がクマに出会い、崖から落ちそうになった所を間一髪で助けられる……というシーンで遊んでいた私。TVで見たCMのように、クマさんが腕一本で少女を引き上げる――『ファイトー!』というCMが好きな変な子だったのだ――という所で、あまりに感情移入しすぎた私はクマの人形の手を引っ張りすぎて……。

「ムーさんの手が、手がとれちゃった!!」

 レモン色をしたクマのぬいぐるみの腕は、根元から見事に引きちぎられていた。
 元々散々に遊び続けたモノで、お出かけする時や食事時間、寝るときだっていつも一緒にいた人形だった。その所為もあったんだろうけれど、当時の私は納得なんてできるはずもない。ショックのあまり泣き叫び、周囲にあったこまごましたおもちゃを手当たりしだいに投げ散らかした。
 いつも一緒にいてくれたムーさん。お仕事で忙しいパパとママの代わりに私と遊んでくれた大切なムーさんの人形が……。

「ね、ちょっと見せてごらん」
「うううっ、……え?」

 普段、無愛想でそっけない『あきらくん』。けれどその時の彼は、真剣な顔、まっすぐな瞳でじっと私を見つめていた。

「なに?」
「その人形。ちょっと見せてもらっていい?」

 まるで、パパ――1週間に2日しか会えないけど――のような優しい笑顔と声だった。けれど瞳だけはキリリと真剣に輝いていて……。

「うん……」

 痛々しく腕のとれた人形を私はそっと彼に差し出す。よだれやいくつものシミ、汚れが付着したムーさんの人形を、けれど『あきらくん』はやさしく抱くように受けてくれた。
 そして、怖いくらい真剣な眼差しで外れた箇所を見つめる。口元は考え込むように結ばれ、太めの眉は少し眉間へと寄っていた。
 ――TVで見たアニメの『めいたんてい』のように。

「さくらちゃん。これなら直せるよ、たぶん」
「えっ、本当!!」

 落胆から歓喜へのジェットコースター。今まであんなに気に食わないって思ってた『あきらくん』が、全然別人に思えた。
 相変わらず真剣な瞳で、なんども取れた箇所を見つめている彼。その動作すべてに目を奪われて離す事ができない。

「中の綿がかなりよれてるから、うん……新しい綿を詰めて縫えば直る」
「やった!! それって今スグに出来るの?」

 小さな体が震えそうな喜び。しかし、それは次の一言で無常にも打ち砕かれた。

「ううん、今は無理だよ。針と糸を勝手に使ったら母さんが怒るし、きっと悲しむ。母さんを悲しませるような事、ボクは絶対にしない」
「……え、でも」

 歓喜から再びの落胆。望みを絶たれると書いて絶望と言うのであれば、これは幼稚園生の私が初めて味わったソレだろう。
 再び涙があふれてくる。期待させるだけさせといて、結局『あきらくん』はヒドイって思った。しかも、そんな私を置いて彼はすたすたと部屋を出て行く。

「ううううううううっっっ」

 時計はまだ夕方の4時で、先生が帰ってくるのは数時間後。もし、先生にも断られたら本当にママに頼むしかなくなる。
 けれど仕事明けのママはすぐに寝ちゃう。なら、ムーさんが直るのはいつになるのか? そもそも壊しちゃった事で怒られるかもしれない。
 悔しさと悲しみ、『あきらくん』に対する怒りと落胆。そんないくつもの感情があふれだし、次々と涙がこぼれる。すぐにでも大声で泣き叫びそうな、その時。

「だから、応急処置をしよう」

 子供部屋の中に、静かな――でも力強い――声が流れた。

「ううっ、――っう? おーきゅーしょち?」

 いつの間にか部屋へと舞い戻っていた『あきらくん』。右手にムーさん、左手には救急箱をしっかりと持ったまま、私を安心させるように笑顔を浮かべていた。

「うん、応急処置。だって、さくらちゃんが今夜寂しいと困るだろ?」

 またもや胸にあふれ出す希望。言葉の意味はわからなかったけれど、それはどこか特別な響きを持って私の小さい胸を高鳴らせた。彼の落ち着き払った雰囲気がすっごく頼もしくて。
 幼い私は絶望と希望、悲しみと喜びを何度も交互に味わってぐちゃぐちゃ。うまく喋ることだって出来ない。

「名札についてた安全ピンを使うよ。このままじゃ腕をなくしちゃうかもしれないし、綿だってはみ出るだろうからさ」
「う、うん」

 何を言っているのか全然理解なんて出来なかったけれど、『あきらくん』の迷いがない動作だけはしっかりと見つめていた。
 優しく床へ置いたムーさんの腕に小さな何かを刺し、小さくブツブツと呟きながら彼が救急箱から包帯を取り出す。一瞬の停滞もなくそれをハサミで切り取って……。

「ふわぁ」

 くるくるくるっと、まるで魔法みたいだった。あっという間にムーさんは、千切れた右手と肩を包帯で固定されて、

「はい、さくらちゃん」

 ポンっと私の腕には、包帯がきれいに巻かれたムーさんがいた。
 言葉もない。体の奥から沸き起こる喜びが、小さな手足から背中、腰の奥、頭から髪の毛の先までしびれるくらいに広がっていた。
 あきらくんは『めいたんてい』じゃなくって『おいしゃさま』なんだ!! 
 稲妻にうたれたような感情の中、その確信だけがグルグルと胸の中をめぐる。

「あ、ありがとうっ」
「いいよ、べつに」

 再びそっけない態度を見せながら、私が投げ散らかしたおもちゃを片付け始めるあきらくん。今までだったら、その様子を横目で見ているだけだったけれど……。

「さ、さくらも手伝うね!」
「あ、うん」

 私は彼のあとをついておもちゃを片付ける手伝いをした。胸の中は感動と感謝、そして言葉にできない不思議なもやもやでいっぱい。
 そこには『あきらくん』への悪感情など、ひとかけらも残っていなかった。

 ――そうしてそれからの日々は、退屈とは無縁の楽しい時間となった。

 良く言えば元気、ありていに言えばお転婆だった私は、壊れたおもちゃを沢山――しかもママが捨てようとすると泣きわめいていた――持っており、次の日から『あきらくん』に『おーきゅーしょち』をしてもらうのが日課となった。

「きょうのかんじゃさんはコレだからね!」
「……うっ」

 毎日、毎日、よく兄さんは相手してくれたものだと感心するけれど、しかし『あきらくん』も結構楽しんでいたんじゃないかな? と少し思う。
 当初は面倒くさそうだったけど、いろんなおもちゃの構造を調べたり、分解して組み立てたり、兄さんはそういった細かい作業が好きそうだった。

「ね、直る?」
「ん……、たぶん。ね、ここ持ってて」
「うん!」

 ちょっと咳払いなんかしながら、真剣な瞳でおもちゃを調べる『あきらくん』。その横顔、器用に動く指先、うまく直せた時の嬉しそうな口元……全部、全部見ていた。
 それは、今も続く恋心の始まりだったのだろう。
 そうしていつのまにか『あきらくん』は『兄さん』に、『桜ちゃん』は『桜』『バカ桜』へと変わっていった。同じご飯を食べて、お風呂で泡だらけになって遊び、疲れ果て同じベッドで眠る。本当の兄妹みたいに、いつも一緒の時間を過ごした。
 
 ――けれどその呼び方、関係が一晩だけ元に戻った夜がある。忘れもしない、兄さんは小学5年生で私が4年生になり立ての4月。
 その日の事を思い出す度、いつも私は泣きたくなる。もっと『何か』を兄さんに伝えるべきだったと、胸の奥が後悔でズキズキと痛む。
 未だに『何』を言えば良かったのか? それはわからないけれど。



 ◇◇



 4月、私の名前と同じ花びらが咲き誇る大好きな季節。その夜、私はママの本棚から勝手に持ってきた漫画を読んでいた。兄さんが勉強しているのを時折横目で見ながら、ベッドに寝転んで。
 漫画の内容は私たちと同世代の少年少女達が突然、何もない砂漠のど真ん中へ教室ごと移動していた……という話で、めちゃくちゃ怖いのに、でもぐいぐいとストーリーに引き込まれてしまう。
 普通は10時くらいに眠る私だけれど、その時はもう夢中になっていて時間が経つのを忘れていた。

「ん? おい、バカ桜! もう12時じゃんか。いいかげんに寝ろよ」
「う、うん」

 そんな兄さんの声にさえびくっと震えてしまい、半ば照れ隠しのように毛布へと入り込んだ。やれやれといった感じでため息をつく兄さんを見つつ。……が、その時にふと思い出した。
 明日は学校へ鍵盤ハーモニカを持っていかなければならないことを。

「に、兄さん」
「なんだよ?」

 間が悪いことにその週は日直で、翌朝に家へ寄って準備する時間はなかった。いや、兄さんよりも早くこの家を出て用意すれば十分に間に合うのだけれど、そうすると一緒に登校できなくなる。

「ちょっとお家に行きたいんだけど……」
「ん、行ってくれば?」

 こういうそっけなさは昔と何一つ変わってなくって腹が立つ。が、今まで読んでいた漫画の怖いシーンが脳裏に張り付いて離れない。

「一緒に……お願いっ」
「は? 何でだよ」

 兄さんは眉をひそめながら面倒くさそうに言う。確かに私の家までは歩いても5分とかからない。わざわざ2人で行く必要なんてない……けれど、どうしても怖かった私は必死に頼み込んだ。いや、駄々をこねた。

「ああもうっ、バカ桜! わかったよ、この……うるさいから黙れ」
「にひひ。やったっ」

 『なんだかんだ言っても兄さんはちょろい』というのが私の根底にはあった。今までどんな無理難題や困った時も、兄さんはいつも力になってくれる存在で……まあ、甘やかされてたって事なんだろうけど。

「あ、でも静かにね。ママに見つかるとめんどくさいから」
「うん」

 ママはバーで『ママ』をしている時、娘の私から見ても綺麗だと思うけれど、けっこうおしゃべりで絡んでくる。兄さんに対しても、『好きな子はいる?』『うちの桜ってどう思う?』『私とお母さんってどっちがキレイ?』などなど、途切れることなく質問をする。
 この時間なら間違いなくお酒を飲んでるだろうし、静かに裏口から入って部屋へ行き、鍵盤ハーモニカだけを持って逃げるのが最上だと思う。

「……兄さん、ここで待ってて」
「……うん」

 あっという間にたどり着いた家の裏口から侵入し、兄さんをバーへと続く通路へ置き去りにして2階の自室へと向かった。

 ――どうして、一緒に部屋へ行かなかったのか。この瞬間を私は、今でも悔やむ。

 手際よく目的の鍵盤ハーモニカを持ち出し、1階へと降りた。が、そこに居たはずの兄さんが見当たらなくて……。

「兄さん、どこ……?」

 返事はなく、暗い廊下に私のささやき声だけが響いた。
 なら、ひょっとして何かの拍子でママに見つかってしまい、兄さんは店で絡まれているのかもしれない……。そう考えた私は真っ暗な廊下に一歩、足を踏み出した。
 その瞬間に聞こえてきた声。今、思い出しても体が震える。兄さんはどんな気持ちで、その声をきいていたのだろう、と思うと。

「だから! そんなのノゾミの考え過ぎでしょ! アキラ君とアンタが血がつながってないからって、それが何なわけ!? ノゾミは立派に母親してるわよ、私なんかよりずっとちゃんとしてるわ!」
「うるさい、うるさい! アキラの我侭ひとつ聞いた事がない。こんなのが母親してるっていうの! 私、私ばっかりが……いつもあの子に救われて。参観日も、運動会も行った事がない、誕生日だって祝ってあげた事なんてないのよ。なのにあの子ったら……、不満ひとつ……。こんなの、こんなのが母親だって言えるの!」

 ――時間が凍りつくかと思った。ううん、むしろそれを望んでいたのかもしれない。通路の奥、バーの場所から聞こえてきた声は間違いなくママと先生のもので。
 その内容のあまりの残酷さ……衝撃が私の心を強くうった。これは絶対に兄さんに聞かせてはいけない!
 あんなに先生を誇りに思い、お母さんが大好きな兄さんがこの会話を聞いたらどうなるのか? 一瞬の茫然自失の後、私は兄さんがこの真っ黒な廊下へ居ませんように……、と半ば祈るように呟いた。

「兄さん……」

 けれど祈りはどこにも届く事はなく、彼はそこに居た。真っ黒な通路へ、兄さんは座り込んでいた。
 声も立てず、泣きもせず、何の身動きもせずに……。

「兄さん……」

 今すぐ無理やりにでも、ここから兄さんを引き剥がそう。二人でベッドへ潜り込み、全てが悪い夢であったという事にしよう。
 そう願うけれど、兄さんのあまりの様子に私の体は動かない。まるで石になってしまったかのように、足先から首までガチガチに固まってしまい、ただ……大好きな彼を見つめている事しかできなかった。

「ノゾミ! いい? 友人としてこれだけは言っとくわ」

 何も聞こえなければいい、時間が止まってしまえばいい、と願うのにバーからは相変わらず2人の声が響いてくる。

「良く考えなさい! アキラ君は医者になるってあんなに頑張ってるでしょう? それはノゾミがしっかりとあの子に……」
「何もしてない! 何一つしてあげられてない! こんなの……アキラのご両親に申し訳なくて……。」

 ――そこからどうやって家まで帰り着いたのか、はっきり覚えていない。ただ覚えているのは、兄さんがまるで糸の切れた人形のようだったこと。4月だというのに、その体が恐ろしく冷たかったこと。そして、ベッドに潜り込むまで必死に声を押し殺していたこと。

「……っっっ」

 同じ毛布にくるまりながら、兄さんのブルブルと震えている体を強く抱きしめていた。何も言葉が出ない。何かを言おうと思うのに、それは叫びにしかならなそうで……。
 つい数時間前まで平和だった世界が突如、ドロリとした残酷な本性をあらわしたような気がして。

「桜……」
「に、兄さん……?」

 どれぐらいそうやって抱き合っていたのか、ポツリと兄さんが呟いた。暗闇の中でさえ、うつろだとわかる真っ黒な瞳で私を見つめながら。

「母さんに……義母さんにさ……。さっきの事、言わないで」
「え?」

 小さいささやき声と共に、私の背中に回された兄さんの手に力が入る。まるで赤子のようにギュッとしがみつきながら彼は呟く。

「だって、ボクが知った事を気づいたら……きっと母さんは、義母さんは悲しむから」
「――っっっ!!」

 その時に胸を走りぬけた激情は、今も何だったのかはっきりとはわからない。怒りなのか、悲しみなのか、同情なのか、哀れみなのか。
 ただ私に出来たのは、彼の震えている頭を強く、強く胸に抱きしめる事だけだった。私の鼓動で彼の凍りついた体をとかそう……とでもいう風に。

「桜?」
「泣いてよ! あきらくん! 自分自身の為に! 誰かのためじゃなくて、自分の為に泣いていいんだから! 泣いてよ。あきらくん、お願いだから!」

 きちんとそう言えたかどうか覚えていない。ただポロポロと涙をこぼしながら、私はぎゅっとあきらくんの頭を、全身を抱きしめていた。

「あきらくん。あきらくんはバカだ。私より、ずっと、ずっとバカだよ。泣いてよ。自分の為に。お願いだから! あきらくん、あきらくん!」

 怒り、悔しさ、悲しみと愛しさ。私ではどうやっても先生の代わりにはなれないって痛いほどわかる。でもその時の私ができる精一杯の『おーきゅーしょち』だった。

「――っ」

 静かに、声を押し殺しながら『あきらくん』が泣く。熱い涙がゆっくりと私の胸を濡らしていった。暗闇の中で、『何か』を言わなければいけないって思うのに、どうしてもその『何か』が見つけられなくて。

「さくら、さくら……母さん、お母さん……」
「あきらくん。あきらくん……」

 ずっと側に居ようって、その時改めて固く誓った。静かな……悲しいくらい静かな泣き声を聞きながら。


 ◇◇◇


 ゆっくりと机から身を起こし、ジンジンと痺れた腕に苦笑しながら私はアクビを一つした。

「なんて夢」

 我ながら赤面しちゃうくらい懐かしい記憶。私が住むこの看護大学女子寮……ここから見える桜の木の所為だろうか?
 あの時と同じくらいピンク色の花びらが綺麗で……。

「あきらくん……だって」

 兄さんも今頃、医大生としてこの桜の花びらの下で頑張っているんだろう。かくいう私もあと1年でここを卒業し、念願の看護士になるのだけど。
 兄さんが東京の中学へ進学してから、すっかり離れ離れになった。けれど胸の奥から兄さんの姿が消えた事は一度もない。
 あの時の誓いは――わずかも色あせることなく――いまも胸の中へドクドクと息づいている。

「んっ」

 背伸びを一つしながら立ち上がる。外出にはちょっとラフすぎる格好だけれど、すぐ近くのコンビニだから問題ない。
 時計をチラリと見れば、夜の7時。夜食とちょっとスイーツなんかを買って勉強しようと決める。

「……」

 とんとんとスニーカーを履いて、髪を後ろに縛りながらゆっくりと玄関を出る。幾人かの友人と後輩へ軽く手を挙げて挨拶。
 ハラハラと舞い落ちてくる花びらに、少し浮かれながら足を出す。風が強く、もうすぐ来る夏を予感させるように少し温かい。

「ふふっ」

 元気に横をすり抜けていく子供。兄妹だろうか? きっと目的地は同じコンビニに違いない。仲良く手をつなぎながら、互いに何かを言い合いつつ走っている。まるで、幼い頃の私と兄さんのようで……。

「?」

 コンビニはすぐそこ。この横断歩道を渡れば5メートルもない。やっぱり兄妹と目的地は同じみたいで、遊歩道で並んで経って待つ。なんだか少し嬉しい。

 ――けれど、そこで私は見る。信号が変わった直後、待ちきれずに駆け出す兄妹と、それに気付かずに右折してくるトラックを。
 そして、私は…………。



 ・ 幕間 終



 ※※作者つぶやき※※

次は恋と司書の微エロ予定で。リハビリがてら。ちょっと本編が重いので。すまぬ、すまぬ。



[24259] ◇ 挿話 ・神無月恋 『アキラを待ちながら』 前編
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:0ae6ecc9
Date: 2011/10/05 14:57
 神無月恋 『アキラを待ちながら』 前編


 ◆


 早朝4時の目覚め……新江崎家第二秘書として、水仙原みづきの朝は早い。それは彼女の従えるべき主人――沙織お嬢様――が夏休みに入っても変わる事はなかった。
 沙織お嬢様が合気道の練習に備えて4時半に起床する前に、身だしなみを整えておかねばならないからだ。
 今年で25歳、中学、高校、大学と続けてきたテニスの成果か、均整のとれたスタイルをダークグレーのスーツで包む。肩ほどの長さ、ゆるくウェーブした軽い赤毛の髪を丁寧にブラシでとかし、ごく軽く化粧を終える。
 そうして、同じく幼少から学び続けてきた茶道で身につけた、優雅さの漂う動作でお嬢様の部屋の扉を開く。
 時刻はきっちりと4時30分。この数年、一度もずれたことは無い。

「おはようございます、沙織お嬢様。こちらにジャスミンティーをご用意しております」
「ん……ありがとう、みづきさん」

 寝起き直後の沙織お嬢様は普段のツンとした様子とは異なり、年齢相応の無防備さが見える。赤と白のギンガムチェックのパジャマにはいくつものシワがより、艶やかな黒髪も乱れていた。
 あくびを押し殺し、眠そうな様子を必死に見せないように我慢している所も可愛い……と、みづきはいつも思う。この無防備な姿を見る為なら、毎朝4時に起きる事さえ構わないとも。
 ベッドから部屋中央にあるチェアへゆっくりと腰掛け、寝起き直後のピンク色をした唇を白磁のティーカップへとつける沙織お嬢様。
 その様子を見守りつつ、みづきはさりげなく口を開く。大切な主人をちょっとからかいたくて。

「そう言えば……。お嬢様、今日は待ちに待った金曜日ですね」
「――っっ! みづきさん、私っ、べ、別に待ちに待ってなんかっ」

 みづきの予想通り、思いっきり動揺した様子で顔を赤らめるお嬢様。あわてて立ち上がろうとして、ガタンッ! とテーブル――イタリアの職人が作った高級品――が揺れた。
 母親――新江崎家現当主――譲りのクールな美貌が、動揺の為か可愛らしく見える。

「そうですか? 夏休みに入って初めて何も予定の無い日ですので、さぞかし楽しみにされているだろう……と、思っていたのですが」
「えっ、あ! そ……そうね。その……うん、そう、今日は暇ですわ。ええ」

 胸の奥からこみ上げそうになる笑いに堪えながら、何食わぬ顔でみづきはジャスミンティーのお替りを注ぐ。周囲へ立ち昇るえもいわれぬ花の香り。その芳香がしばしの沈黙を誘った。
 未だに顔を赤らめたまま、気持ちを静めるようにくるくると長い黒髪を指先で弄っているお嬢様。その姿を横目で捉えつつ、再度みづきは爆弾を放り込む。
 あくまでもさりげなく――これぞ秘書のたしなみ――だ。

「お嬢様、今日は図書館で過ごされるのですか?」
「――んっ!!! な、なんでっ!!」

 軽くジャスミンティーに咽つつ、普段の様子からはありえないほど大声を上げるお嬢様。耳はおろか、ギンガムチェックのパジャマからみえる首筋まで赤く紅潮している。
 その理由を百も承知しながら、みづきはあくまでも何気なく言葉を返した。

「いえ。最近、お嬢様はよく図書館へおいでですので。もし来られるのであれば、昼食の手配でも……、と」
「う……、わ、わからないわ。暇で仕方なく、そうよっ、退屈したら仕方なく行きます。あ、あとお昼はいらないわ。その……どこかで食べるから」
「はい、かしこまりました」

 カチャリとカップを片付けながら、お嬢様に一礼をしてみづきは部屋を出る。いまにも笑みがこぼれそうになるのを必死で堪えつつ。
 みづきの脳裏に浮かぶのは先週の金曜日、そう……お嬢様の1学期最後となる金曜日の事だ。

「ねえ姫……じゃなかった。新江崎さんってさ、夏休みは暇なの?」
「――っ! 全く……柊クンと一緒にしないで頂ける? 私、新江崎家の次期当主としてとーっても忙しいの。そうよ、今日だって、すっごく無理してるんだからね! 感謝しなさい!」
「うっ、ありがとう」

 図書館と医療関係の本が収めてある小部屋を隔てる扉の前で、たまたま掃除をしていたみづきの耳に聞こえてきた声。それはまぎれもなく彼女の主人である新江崎沙織と友人? の柊アキラ君の声だった。
 こういう盗み聞きは秘書としてあるまじき行為……とわかっているが、あまりにも楽しそうな内容につい、聞き耳を立ててしまう。

「その……それで何?」
「ん?」
「だから、私がもし、もしもよ! 仮に暇だったら何なの? さっさと言いなさいよっ」

 再び響くお嬢様のツンケンとした不機嫌そうな声。けれど、みづきは知っていた。あの誕生日パーティーの夜から……『何か』お嬢様の態度が違うという事を。
 柊君、みづきの目から見ても誠実そうで真面目な少年。しかしずば抜けてかっこいい訳でもなく、いつも眠そうにしている……という印象が強かった。だが、どうもお嬢様の態度がおかしい。
 チラチラと横目で彼の唇を見たり、指先をみつめたりしている時があった。彼が何かを言うだけで、顔を赤らめる事もしばしば。
 もしかしたらキスでも……と思ったが、それにしては少年の態度は平然としすぎており、どうも良くわからない。が、お嬢様が少年に好意を抱いているのは確実で、秘書としても、姉代わり保護者代わりの立場としても、みづきはこの会話を聞き逃す訳にはいかない。

「ん? 前も少し言ったけどさ、夏休みの間も毎週金曜に図書館を使わせて欲しいなぁって。その、新江崎さんの予定はどう?」
「っ!」

 聞こえてきた内容に、思わずみづきの頬が笑みで緩む。
 つい1週間ほど前になるが、沙織お嬢様が「夏休み期間中も、金曜日だけは絶対に予定をいれないように!」と言っていた事を思い出したから。

「ふ、ふーん。そんな事言ってたかしら? 柊クンの都合なんて興味ないし、全然覚えてなかったわ。それで?」
「え、何が?」

 扉越しにさえ、お嬢様の声が嬉しそうにほんの少しうわずっているのがわかる。と言っても、ほんの僅かしかトーンが変わらない為、少年には相変わらず不機嫌そうに聞こえるだろうけれども。

「ねえ柊クン? つまり貴方は忙しい私に、どうしても金曜日に来て欲しいってお願いしてる訳よね。なら、何かお礼をしたいとか思わないのかしら?」
「姫が無理ならボク独りでも別に……」
「何かおっしゃいました?」
「う、ううん。別にっ」

 この年頃の男の子というのは、やはり恋愛ごとに興味がないのだろう……と改めてみづきは思った。
 お嬢様が毎週金曜日の放課後、彼が図書館を訪れる30分も前から鏡で何度も制服をチェックし、ニキビを必死にファンデーションとコンシーラーで隠しているなど、彼は想像した事もないはずだ。

「なら、お礼に昼ご飯を作ってくるよ。サンドウィッチとかでいい?」
「柊クンが作るの!?」
「うん、味はまぁまぁだと思うけど……嫌いなものってある?」

 ほとんど不審者のように聞き耳を立てながら、みづきは興味津々で成り行きを見守った。(と、言っても見てはいないが)
 彼女の主人である沙織お嬢様の数少ない欠点が、料理が不得意だという事だから。まあなにぶん、新江崎家のキッチンは広すぎ、また取り揃えてある調味料も多すぎる為に、初心者では料理がしにくい環境だという事もあるのだろう。
 それに普段食べている料理は一流シェフの作るモノばかり。自然、比較する対象のハードルは高くなる。
 という訳で、過去に何度か料理に挑戦したお嬢様は、あまり結果に納得出来なかったこともあり、今では調理器具を握る事もない。

「特に無いけど……」
「そっか。じゃあお礼の意味を込めて、丁寧に作ってくる。ありがとう、新江崎さん」
「っ! 期待なんてしないわよっ」
「あははっ、わかってるよ」

 一通りの会話を聞き終えたみづきは、すばやく扉の前を離れた。それから何食わぬ顔で事務処理を始めたのだが……数分後、お手洗いに資料室から出てきた沙織お嬢様の顔を見て、笑いをこらえるのが大変だった。
 なんとか平静を装おうとしているお嬢様――普段どおりにツンと背筋を伸ばし、優雅に足を出している――だったが、口元は幸せそうに微笑んでいたから。

 ――それがちょうど先週の事。図書館の司書として、新江崎家第二秘書として、そして単なる野次馬として、今日は絶対に図書館で一日中仕事をしよう……と、水仙原みづきは決意した。


 ◇


 神無月恋は小学校2年の夏、あと数週間で夏休みが始まる……という、どこか浮ついた時期に京都から転校してきた。
 小学校6年の今でこそ、恋は委員長として皆から頼られて人望もあり、明るく活発な超美少年? という評判を得ているが、転校当初はまったく違っていた。
 関西から関東へ引っ越してきた場合――しかも閉鎖的なこの町で――最も標的になるのが言葉……いわゆる関西弁。
 それに加えて、恋の目立ちすぎるほど可愛い顔――なんと言っても、60人という学年全員が今度の転校生は女子だと思っていたくらい――が、悪い意味で作用した。
 同級生の中で、郡を抜いて華奢で小さな体格。肌は抜けるように真っ白で、瞳はパッチリとした二重。ぷっくりした唇は艶々と自然に輝き、子猫のような柔らかな髪は軽いくせっ毛で、ふんわりと耳を隠すくらいのショートボブ。
 シンプルな黄色のTシャツ、半ズボンという格好でさえ、まるでTVの子役女優のよう。

「今度のよそ者はおかま」
「ハードゲイ」
「おとこおんな」

 間が悪い事に、その当時にゲイを売り物にした芸人が流行しており、恋は格好の標的となった。友達と呼べる存在などまだ当然おらず、またイジメ――といってもからかいのようなレベルだったが――に加担していないクラスメート達は、目前に迫った夏休みが楽しみで、擁護する者など現れない。

「やめてよっ。ボクはゲイちゃう……違うもん。っっっ……」
「泣いた、よそ者が泣いたぞ。あははっ」
「違う、違うからっ……。ボク、ボク……」

 家に帰っても厳しい祖父と無口な祖母がいるだけで、頼れる雰囲気はなく相談もしにくい。転校直後の恋は、昼休みや休み時間になると、独りでポツンと校舎外れのベンチに座るのが日課になった。
 が、そうなると上級生や先生がやたらと声をかけてくるのだが、決まって……、

「えっ、君って男の子なの? うそっ、だってこんなに色も白いし……髪だって」
「やめて、男だもん。ボクは男……。いいから、かまわんとって!」

 父や母、京都にいる友人が恋しくて、さびしくて仕方がなく、周囲からの好奇の視線が辛かった。関西弁をからかわれる事から、言葉を喋る事そのものが怖くなり先生にさえ相談できない。
 また、恋が女の子と誤解されやすい要因の一つとしてあった髪型。それは恋の茶色でふんわりした髪質とあいまって、まさに少女のように見えた。似合いすぎた……と言ってもいい。
 髪を他の男子くらいに短く切れ……と祖父などは言うが、恋にはどうしても切りたくない理由があった。何もかもが手詰まりで、小さな恋はただ苦しみ、遠くはなれた父母を慕って泣いてばかり。
 
 ――恋がアキラと出会い、会話をしたのはちょうどそんな時期。真っ赤な夕焼けが見える校舎の外れのベンチ、蒸し暑くけだるい時間だった。

「なあ、怪我でもしたの?」
「……」

 恋は知る由もなかったけれど、その夜にアキラは母親と外食に行く約束をしており――結局、急患の為に行けなかったが――非常に機嫌が良かった。その為、普段は他人に興味の無い彼が、珍しく思いやりを発揮した瞬間だった。

「……怪我なんか」
「ふーん。なら、なんでうつむいてるの? どっか痛い? 保健室につれていこっか?」
「うるさい!」

 互いにクラスメートだとは知らず、ただすれ違いの会話だけが続く。ここで幸運だったのは、桜――アキラの一学年下で妹同然の存在――が、その日は父親が工場から家へ戻ってくる日であったためにすでに帰宅しており、アキラには時間が有り余っていた事。

「だってさ、桜が『女の子には親切にするものよ』って、よく言ってるし」
「――っっ! ちゃうもん、ボク男だもん。もうやだ。こんな、こんなのっ、うううっっ」
「へ?」

 恋は何気ないアキラの言葉をきっかけにして、こらえていた感情があふれ出し堰を切ったように泣き出してしまう。
 この時点で、すでにアキラはめんどくさい……と思い始めていたのだけれど、なにぶん号泣している人を見捨てるほどには、まだ冷たくなかった。
 恋の座るベンチの隣へ腰掛け、ポンポンと優しく背中をなでる。手のかかる幼馴染が泣いた時に、いつもしているように。

「ごめんね。ごかいしちゃってさ」
「うぅ……」

 泣いている恋の横顔を見ながら、アキラは内心(バカ桜より可愛い顔してるよなぁ……)と少し思いつつ、改めて口を開く。

「じゃあさ、髪きればいいじゃない?」

 アキラは小学校でも珍しくなってきた坊主頭――幼馴染の『ママ』がバリカンで刈ってくれる――で、元々あまり外見に気を使うタイプではない。彼としては純粋に好意で提案したのだが、それは恋の強い反発を招いた。

「いや! ボクの髪は母さんが最後に切ってくれたんや。『これがボクには一番似合う』って! だから、だから……」
「……」

 父と母が別居することになり、いくつかの理由で祖父母へとひきとられた恋。離れ離れになった母との思い出がつまった髪型だった。
 お風呂で洗ってもらった日々や、忙しい時間の合間をぬって散髪をしてくれた事。舞台の稽古で忙しく、あまり会話をする事がなかった父から、くしゃくしゃと頭を撫でられた喜び。
 遠く離れても、せめて母が褒めてくれた髪型でいたい……と、それは恋にとって頑なに守るべき願い。

「そっか……。うん、確かにすっごく似合ってる。お母さんの言うとおりだね」
「……っ」

 それはお世辞だったのかもしれないし、なんとか泣き止ませたいアキラの方便だったのかもしれない。けれど恋にとっては、この町に来て初めてとも呼べる優しい言葉だった。

「お父さんとお母さんと一緒に住んでないの? さっき、最後にって」
「うん、きっとボクのせいなんや。お父さんとお母さん、ボクのコトでいつも喧嘩しとってん」
「……ん」

 ポロポロと未だに泣きながら、しかし恋はゆっくりと口を開く。京都で暮らしている間、自分が原因で何度も両親が喧嘩していたのを見てきた。
 漠然としか理由はわからない。けれど幼い子供にだって、自分が原因になっている事くらいはわかる。両親の怒鳴りあいの中で、『伝統』や『風習』、そして頻繁に自分の名前が出ていたのだから。
 ぐちゃぐちゃな感情の中、夕日の差し込むベンチで恋はポツリポツリと呟いた。アキラに聞かせよう……という訳ではない。ただどうしようもなく辛くて、言わずにいられなかった。

「ふうん。でも、ボクにもよくわかんないけどさ……」
「……」

 ふぅ……と子供らしからぬため息をつきながらアキラは口を開く。大好きな母親『先生』が、診療室で患者さんに必ず言っている言葉を伝えるために。
 母さんは患者さんに、この言葉を何度も何度も言っていた。物陰や待機室で、アキラが何度も聞いた台詞。

「それって、絶対に君の所為じゃないよ。だって、君がお父さんとお母さんが喧嘩しろって考えてた訳じゃないよね?」
「そんなのっ、あたりまえ……。いつも仲良くして、仲良くしてほしかってんっ!」
「うん」

 大きな二重の瞳から涙をこぼしつつ、初めて恋はアキラの顔を見た。ほんのり茶色をしたその瞳と、アキラの真っ黒な瞳が見つめあう。

「だから、悪いのは絶対に君じゃないんだ。ボクの母さんはいつも言ってる。『悪いのは病気です、絶対にあなたが悪い訳じゃない。けっして自分を責めないで下さい』って」

 大きな病気になってしまった人は、どうしても自分を責める。私が怪我をしたから、私が病気になったから、親に、子供に、夫に、妻に、友人に、迷惑をかけて申し訳ない。自分の所為で……と己を責めて卑屈になってしまう。
 でも、それは絶対に違うのだと。患者さんが望んで病気になった訳じゃない。卑屈になり、己を責めて、自己を嫌うのは間違ってる。

「決して君の所為じゃないよ。悔やんだり、泣いたりするのは、病気に……状況に負けるって事なんだ」
「ボク……の所為じゃない?」

 医者は患者が病気と戦うのを手助けすることしか出来ない。患者がしなければいけない事は、医者と共に病気と戦い打ち勝つ事であって、決して自分を責めることじゃない、と。
 完全に母親の受け売りであったけれど、アキラは子供特有の熱っぽさで真剣に語った。

「ほんと……?」
「そうだよ、絶対にそうだ! 泣いたり、悲しんだり、そんなに辛いのが君のせいなワケないじゃんかっ」
「……」

 アキラの真っ黒な瞳は夕日に照らされ、恋の目にはまるで燃えているように見えた。少年の全身からわきだす圧倒的な思い――母親『先生』が間違った事をいうハズがない――が、恋の心に伝染するかのよう。

「あ、ありがとう」

 小学2年生という年齢では、アキラの母親が言いたい事などまだ理解できていないかもしれない。
 けれど恋にとって『君は絶対に悪くない』と、存在を肯定された事だけはわかったし、それは何よりも嬉しかった。大げさに言えば、この瞬間……恋は救われたようにさえ感じた。
 自分は自分でいいのだと。
 未だに少し潤んだ瞳で、けれど恋はニッコリとした笑顔を浮かべた。それはアキラの心にズキンとした衝撃を与えるほど可愛らしい微笑みで……。

「あ、いや。別にっ……ていうか、ボク帰る!」
「えっ」

 どこか慌てたように駆け出すアキラの背中を、恋はベンチに座ったまま見つめ続けた。両親と離れ離れになってしまった寂しさは消えない。
 けれど、少しだけ自分の気持ちが楽になった事を感じていた。自分の顔、体の事、両親の事……今まで恋を苦しめてきた色々な要因は確かに、アキラの言葉をきっかけにして薄れ始めていた。

「……ありがとう」

 ポツリ、と誰もいない空間に呟いて、恋も立ち上がり家へと歩き始める。その足取りは少し軽く、元気そうに見えた。



 ◇◇◇


「みづきさん。そのねっ……すっごく退屈でしかたないの。だから行きたくないけど……えっと、図書館に送って貰えないかしら?」

 朝の9時。新江崎家の私室で作業をしていたみづきにかけられた言葉。
 いつのまにそんな時間に……、と少々驚きつつも彼女は椅子から立ち上がり、主人――沙織お嬢様――の方向を見た。
 と、そこには「暇だ……」と言う割りに不自然なくらいおしゃれをしている沙織お嬢様がいて、思わず浮かびそうになる微笑みをみづきは必死で我慢する羽目になった。

「かしこまりました沙織様。私も今日は図書館で司書をしますので、ちょうど良かったです」
「そ、そうなの!?」
「はい。何か不都合でも?」
「べ、別にありませんわっ」

 今日のお嬢様は黒髪をきっちりと頭部へ編み、ほっそりしたうなじと首元を大胆に露出したスタイル。そこをピンク色のスパンコール付カチューシャで飾りつけ、耳には星とハートのイヤリング。
 洋服はノースリーブタイプの白色ワンピース。裾は膝くらいの長さ、体のラインがわかるタイトなデザイン。足元は軽めのサンダルでまとめており、普段のかっちりした印象とは真逆の可愛らしいファッション。

「お嬢様はスタイルがいいですから、何をお召しになっても似合いますね」
「――っ、たまたま……手に取った服がコレだっただけ。もう、行くわよ!」
「ええ、ふふっ」

 ガレージへと向かい早足で進むお嬢様の後を、みづきはぴったりとついていく。近くに寄ると、今日のお嬢様はうっすらと化粧をしている事に気づいた。唇には輝きのあるグロス、ぱっちりした瞳にはマスカラなど。
 あくまでも、ごくさりげなく……といった感じだけれど。これから会う人に可愛く思われたい、けれどもわざわざおしゃれをしてきたと思われたくない……といった所だろうか? そういった天邪鬼な部分は母親譲りだと、みづきはいつも思う。

「みづきさん、もしかして笑ってない?」
「いえ、とんでもない。ふふっ」
「ほら、やっぱり笑ってる。もうっ」

 そんな楽しい掛け合いを続けつつ、車へと乗り込む。そうしてお嬢様は、後部座席へポスンッといった感じで勢いよく座り込み、むき出しの腕を組む。その指先には丁寧にネイルアートまでされていて、それがまたみづきの笑いを誘う。

「もうっ、みづきさんったら」
「失礼しました。それでは行きますね」

 ゆっくりとキーをまわし、なめらかな感触のアクセルを踏み込む。チラチラとミラーでお嬢様の様子を見れば、どこかそわそわとした待ちきれない雰囲気。ツンとした表情の中に、どこか焦がれるような切なさが見て取れた。

「沙織お嬢様」
「え?」
「今日は楽しんで下さいね」

 みづきは大切な主人へ慈しみを込めて言う。普段のお嬢様がどれくらい大変なのか、それを一番よく知っていたから。
 ――合気道、茶道、書道は幼少の頃からみっちりと。小学校3年くらいから、新体操、テニス、クラシックバレエ、ピアノにバイオリンと遊ぶ時間などほとんどない稽古の日々。加えて、勉強の方も全国で上位を常に維持し続けているのだから、その努力はいったいどれほどのものだろうか?

「その、みづきさん?」
「はい」
「送ってくれてありがとう」
「ふふ、お気になさらず。明日のテニスではみっちり鍛えて差し上げますから」

 主従関係ながらも年齢の離れた姉妹のようでもある二人。みづきはゆったりと左手で髪をかきあげながら、鏡越しに美しく微笑む。
 本日のお嬢様のささやかなデート。それを誰にも邪魔はさせない……と、決意しながら。

 ◆

 お嬢様と一緒に図書館に到着し、手際よく司書の業務をみづきが引き継いだのが9時30分。ちょうど図書館の開館する時刻だった。
 が、肝心の彼――柊あきら君――の姿はまだなく、みるみる不機嫌になっていくお嬢様の相手をみづきは務めることになった。当初こそ入り口近くのソファーに腰掛け、ピンク色に紅潮した頬で何度も入り口を――さりげなく――ソワソワと眺めていたお嬢様だったが、開館から5分、10分と時が経つにつれ不穏な雰囲気へと変わりだす。
 まだ誰もいない図書館の中に言葉にできないプレッシャーが充満していて、みづきは空気に耐えられずに口を開いた。

「お嬢様? あの、ジャスミンティーでもご用意しま……」
「そんなのいらないっ、コーヒーにして!」

 一ヶ月くらい前までコーヒー(けれどミルクがたっぷり入ったモノ)が好きだったお嬢様は、ここ最近ではジャスミンティーを愛飲している――理由は不明だが。けれど気にいらなかったらしく、みづきは久々にコーヒー豆を挽く事になった。
 図書館の増築された場所にある新江崎家の倉庫――まあ倉庫とは言っても休憩室を兼ねており、まるでリビングのようにくつろげる部屋だけれども――へ向かいコーヒーミルをとってこようとした時、華やかな笑い声が聞こえた。

「ふふふっ。アキラって、ほーんと勉強好きだよね。夏休みも図書館なんてさ」
「うっせ。オマエだって今から走るんだろ? この運動バカ」
「もう、ひっどい。そんなの親友に言うかなぁ。ふふっ、お詫びに明日、何か買ってよ?」
「ふざけんなっ、映画みたらすぐ帰るから」
「そんな事言って。決めた、絶対になにか奢ってもらうもんねっ」

 ふと目を向ければ、隣接した小学校からこの図書館へ向かい歩いている二つの影。一つは待ちに待った柊君で、もう一つは……。

「あっ、司書さん……じゃなくって、水仙原さん。おはようございます」
「え!? あ、始めまして。ボク、アキラの親友で神無月恋って言います。おはようございます!」
「ええ、おはようございます」

 みづきは優雅に一礼を行いながらも、柊君の隣へ寄り添うように立っている神無月君? ちゃん? を見た。
 ――背は小さめで華奢な体型。けれど体操着から伸びる褐色の手足は引き締まっていて、弾けそうなほど元気が満ち溢れている。髪はふんわりとしたボブカットでキャラメルのような柔らかな色合い。
 ぱっちりとした大きな瞳に長く繊細そうなまつ毛。ぷっくりしたピンク色の唇はニコニコと楽しそうに微笑んでいる。顔立ちはすばらしく可愛い――お嬢様の美しさをバラに例えるなら、こちらは向日葵のよう――で、しかも中性的な不思議な透明感が漂っている。
 たぶん男の子なのだろうけれど、スパッツから伸びた太ももは健康的ながらも、どこか色っぽい。

「じゃあな恋。ボク図書館に入るから」
「うんっ、じゃあね。後で邪魔にきちゃうかもよ? あははっ」
「バカ、さっさと行けよ」

 柊君より頭一つ低い神無月君は、下から見上げるように彼に笑いかけて、元気よく校庭まで駆けていく。その後姿までみずみずしい活力に溢れているように、みづきには見えた。

「水仙原さん、今日もお邪魔します。……えっと、それで新江崎さんは?」
「ええ。とっくに図書館の中でお待ちですよ」

 お嬢様がどれほど機嫌が悪いか……など予想もしていないのだろう。柊君は大きめの手提げバッグを持ったまま、のんびりした足取りで入り口へと向かっていく。ごく普通のジーンズにグレーのTシャツ姿……、今日が図書館での『デート』とは欠片も思ってない様子。
 待ち受けているであろうお嬢様との修羅場を見たい……とみずきは強く思ったが、秘書らしく自分をぐっと抑えてコーヒーミルを取りに行くことにする。
 なぜなら、見なくてもある程度予想がついていたから。

「お嬢様……」

 きっと最初の一分くらい散々に罵倒し、それからなにげなく隣にたって一緒に医療資料室へ向かうのだろう。内心、ものすごく喜び、安堵しながら。
 それは子供の頃から何一つ変わってないお嬢様のスタイル。まだ幼い頃、仕事で遅くなった父親に文句を言いながらも、すぐにべったりと甘えていた姿を思い出す。
 ――医者という仕事は、家庭を、幼い我が子を悲しませてもなお、やり通さなければならない仕事だったのだろうか? 脳裏に浮かぶお嬢様の父親――そしてみづきの初恋の相手――へ、いろいろな感情が混じったまま、彼女は小さくため息をついた。

 ◆

 みづきは独り、図書館の準備室でコーヒーを飲みながら壁につけられている時計を眺めた。時刻は一時をまわったあたり。今頃、お嬢様と柊君は仲良く食事をしているだろうか? そうだったらいい……とぼんやり思いつつも、2時間ほど前にポットとカップを持っていった時の事を考える。

「失礼しますね。コーヒーをお持ちしました」
「……静かに入って」

 扉を小さくノックし医療資料室へ入ろうとしたみづきへ、沙織お嬢様のごく小さな――けれど強い――声が届いた。いったい何事? といぶかしげに思いつつ扉を開くと……。

「――っ!」

 医療資料室の机に座っている少年を見て、みづきは思わず息を呑む。その少年のすぐ隣に、寄り添うように――もしくは守るように――座っているお嬢様に気づくけれど、会釈する事さえ忘れてしまう。

「……」

 無言のまま視線だけで、近くの机へ置いておいて……とお嬢様が指示をだす。それに従いつつも瞳は少年の横顔から離れない。

(こんな……)

 みづきは本を読む事が好きで、物語に夢中になって本の世界へ入り込む事も当然あった。そういう時は、人に話しかけられても上の空になるし、そもそも何を言われたかなんて耳に入らない。
 けれど目前に座っている少年――つい数時間まではぼんやりした普通の男の子――は、それとは全く違う。まるで命そのものを削っているかのよう。
 鬼気迫るという表現そのままに、少年は目の前に置いてある本を読みながら指先を小さく動かしていた。少年はみづきが入室した事も、ひょっとすると隣にお嬢様がいることさえ気づいていないのかもしれない。
 平凡だったはずの少年の顔は引き締まり、まるで試練に挑む苦行者じみて見える。いつも眠そうにしている瞳は爛々と輝き、みづきの背筋がうすら寒くなるほど活力に満ちていた。
 そして、その指先の動き……。

「いったい?」

 何かの目的を持って指先を動かしていることはわかった。たぶん、少年のイメージではハサミのようなモノを動かしているのだろう、と。
 だが、そのスピード……。苦しそうに歯を食いしばり、額に若干の汗さえにじませながら、少年は凄まじい速度で精緻な動作を反復していた。まるで機械のようにさえ見える。
 みづきは少年――ついさっきまで平凡だと思っていた小学生――の体からあふれている迫力に飲まれ、その場に立ちすくんでしまう。
 その時、お嬢様の柔らかな声が響く。

「柊クン、休憩にいたしましょう?」

 柔らかな……まるで子供をあやす母親のように優しい響きを持った声。しかし、少年は一切の反応を見せずに一心不乱に指先を動かしていた。が、お嬢様は辛抱強く、何度も少年に声をかける。けっして声を荒げず、あくまでも少年を慈しむように……。

「……っ」

 みづきはその空気に耐えられず、そっと資料室をでた。背中の冷たい汗を感じつつ。
 ――お嬢様は、毎週あんなふうに過ごしていたのだろうか? ひたむきに本へ没頭している少年を守るように。週に一度の短い自由時間を、ほとんど会話もせずただ見つめているだけで。

「なんて……」

 あまりに不器用で一途な初恋だろう。お嬢様の端整な美貌、小学生とは思えぬスタイルからすれば――それこそ母親である現当主のように――男性を支配し君臨する事も簡単だろうに。
 しかし現実はまるで逆。この町の時期支配者――なにせ町の税収の90%以上は新江崎関連の施設からでているのだ――とも言える少女は、助手やメイドのように少年を見守っているだけで。

「それに」
 
 そもそも、新江崎家の現当主がこの事を知ったら唯ではすまない。
 現当主――沙織お嬢様の実母――が、この町唯一の医者である柊ノゾミを憎々しく思っているのは周知の事実。時期当主として教育と期待をよせている娘が、よりにもよって憎い女医の息子と週に一回図書館で会っているなどと知ったら。
 みづきは自分の役目として、現当主にこの事実を報告すべきか? と考える。

「……」

 深く椅子に座り直し、コーヒーを飲みながら窓の外をぼんやりと眺める。今の憂鬱な気分にぴったりの暗い空が広がっており、時折雨も降っているようだった。
 そして、お嬢様の事は報告しない……とみづきは決断する。主人の初恋の味方をする……という理由だけではなく、沙織お嬢様の性格を考えると、母親から妨害が入った場合にとんでもない暴走をする恐れがあった。
 けれど、このまま放置していてもあの初恋は燃え上がるかもしれない。その時はどうすればいいのか? 考えても仕方ないと思うけれど、未来の事を思うとみづきは気が滅入る。

「……エステでも行きたいわね」

 みづきは大学時代からエステに通うのが好きで、それが高じてエステティシャンの資格まで持っていた。元々はテニスの後に筋肉をほぐす為に行っていたのだが。今となっては、仕事で疲れた体を癒すほうが多い。
 すでに昼からは別の司書が勤務しており――元々お嬢様の予定に合わせ、みづきも今日は休みではあった――特に用もない。閉館時間までこの準備室で読書をして過ごし、お嬢様を屋敷へと送った後でエステに行こう……と予定を立てる。
 それに、窓の外の雨はますます激しさを増しており、読書日和と言えなくもなかった。みづきは気分を入れ替えるように椅子から立ち上がり、自分の本をとる為に窓際にある本棚へと歩く。

「――?」

 その時、視界の端に何かがうつった。窓の外、少し出っ張った雨よけのひさしの部分に誰かが座り込んでいるような……。
 目をこらして見れば間違いない。それは小柄でびしょぬれの体操服を着た、とても可愛い顔立ちの男の子。まぎれもなく朝に挨拶をしたあの少年だった。




 ※雑記

 本編はコレのあとに更新するず。本編はがっちり暗いかもw
 あとコメ返信、近況報告はぼちぼちブログでやっていきます。応援いつもありがとう。愛してる。
 ところで最近、むっちゃ調子よくなってきたwww ついついエロいブログばっか見てしまい更新ができなくなっちまうずww
 
 


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