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[22727] スルトの子
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/10/25 09:27
 初めまして、活字狂いと申します。
私の駄作「スルトの子」は、地球に似た架空の世界を舞台とした物語です。歴史や年代、国の名前などは、私たちの暮らす世界と変わりありませんが、この世界では、“あるもの”が無い代わり、“あるもの”が発達しています。そのため、史実とは少し異なる、所謂並行世界と思ってくだされば結構です。
 なお、仕事が忙しいため、投稿する日は、毎週の月曜日、および土日となります。
では、どうぞしばしのご拝聴を、宜しくお願いいたします。


ーそれは、炎であったー



[22727] スルトの子 序幕  煉獄という名の災厄
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:31
ーそれは、炎であったー


 この日。
 この日も、都市は、いつもと変わらぬ日常を過ごしていた。
 クリスマス・イブということで、商店街はレースや小物、アクセサリーで飾られ、気の早い店では、正月用の門松が売り出されており、歩く人々の表情も明るい。
 商店街の先にある総合病院では、創立20周年を記念し、院長の祝辞が述べられており、
 その周囲にある幾つもの教会では、灯される蝋燭の下、子ども達がこの日のために練習した賛美歌を歌っている。
 かすかな歌声が、風に乗って聞こえてくる公園、そこにあるクリスマスツリーの下では、夫婦や恋人、家族連れや友人同士が、肌寒い空気をものともせず、ゆっくりと、日が沈むのを待っていた。
 そう、
この日、この時まで、皆、この日常が、永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
だが、燃える炎のように赤い夕陽が、完全に沈む、その瞬間、



ー都市は、煉獄の炎に包まれたー





 目の前に広がる地獄の光景を、男は地面に座り込み、光を失った瞳でただ呆然と眺めていた。

 何もかもが、燃えていた。

 商店が、教会が、病院が、公園が、
 木が、草が、花が、河川が、大地が、
 そして何より、万を越す人々が、

 その全てが燃えていくのを、男は、ただ呆然と、眺めているしかできなかった。
 着ている服は、その所々が煤け焼け焦げている。おそらく、身体には大小幾つもの火傷を負っているだろう。

 先程、彼は飛び込もうとしたのだ。絶叫を上げ、狂ったように泣き喚きながら。

 父と母を、妻と娘を、そして、妻のお腹に宿っていた新しい命を、
 自分の全てを奪った業火、その中に。
 
 炎にまみれるその寸前で、男を止めたのは、彼の隣りで必死に消火活動をしている消防隊員だった。だが、必死の消火活動に関わらず、炎の勢いは止まらない。いや、むしろ、炎はますます膨らんでいき、そして、


 巨大な爆発とともに、消火活動を行っていた隊員を三名、その内に飲み込んだ。


 自分の周囲で新たな地獄が生まれる中、男は、
 涙も汗も鼻水も、自分の流せるもの、その全てを流しつくした男は、
 周囲で、どれほどの人間が死のうとも、
 周囲で、どれほどの惨劇が生まれようとも、
 目の前の巨大な炎を、ただ呆然と、眺めていた。


 彼は、思ってしまったのだ。


 自分の家族を含め、数多の命をその内に飲み込み、今尚成長しようとしている、憎悪しなければならないはずのこの煉獄の炎を、




               美しい、と







 男は目を見開き、ガチガチと奥歯を鳴らしながら、目の前の光景を眺めていた。



 彼が今いるのは、公園に設置された、臨時の野外病院だった。
 いや、病院と言うよりは、ここは死体置き場というほうが正しいだろう。
 人々の憩いの場であるこの場所は、重度の火傷を負った患者で埋め尽くされていた。

 彼らは果たして患者と言えるのだろうか。彼らを治療できる医者のほとんどは、ここにはいない。彼らがいるのは、ちゃんとした設備のある病院で、そこに運び込まれているのは、助かる見込みのある人間だけだったから。



 かすれた声を出し、母を求めて泣く子がいる。
 痛みに泣き叫び、地面を転げ回る男がいる。
 黒く染まった皮膚を掻き毟り、ぶつぶつと呟く女がいる。


 
 彼は、或いは、彼女らは、



 男の目の前で、皆、静かに死んでいった。



 ふと、我に返った男は、自分の奥歯が、もう鳴っていないのに気付いた。いや、むしろ自分は、この光景を見て、微かに笑っている。
 そのことに気付いたとき、彼は、自分の内側から湧き上がる、黒い悦びを感じていた。




 黒い死者が埋め尽くす、この地獄ヶ原で




―西暦2000年、皇紀元年、12月24日、この日、高知県太刀浪市西部にて発生し、後に「聖夜の煉獄」という名で呼ばれる大災厄は、五日の間燃え上がり、
総勢、二万五千余の死者を出し、終わった。


そして、


片や、自分の全てを飲み込んだ、赤い炎に魅せられた男、
片や、死に行く人々の、その叫びに、黒い悦びを見出した男、


この日、二人の男に生まれた感情が、15年後の事件の、始まりと終わりの要因だった。



[22727] スルトの子 第一幕   夏の日に見た、胡蝶の夢①
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:31
西暦2015年(皇紀15年)6月31日、12時05分

 眼下に、蒼い海が広がっている。


 自分の瞳と同じ色をしているその景色を、少年はぼんやりと眺めていた。
肌は透き通るように白く、その髪もまた、透き通るように白い。
一見すると、先天性白皮症、所謂アルビノと間違えられそうだが、夏の日差しの中、少年の白い肌は、髪の毛一筋分も赤くなっていない。
『アテンションプリーズ、本日は、蒸気飛空船“アルバトロス”号にご乗客頂き、誠にありがとうございます。当機はまもなく、目的地である太刀浪空港に到着いたします。安全のため、席をお立ちにならないよう、お願いいたします。繰り返し連絡いたします。本日は……』
 機内に、機長の声が響き渡る。と、少年の胸元が、微かに震えた。
「……静かにしていろ」
 少年が指で押さえると、震えは収まった。それを見て微かに笑うと、彼はまた窓から外を眺めた。
 蒼い海の彼方、微かに白く輝く大地が見える。それはやがて段々と近づいてきた。



「あれが日本……そして、太刀浪市、か」





 星聖亜(ほしせいあ)の携帯に、バイト先から電話が掛かってきたのは、昼休み、彼が食堂でカレーを食べ始めたときだった。
「はい、聖っす……なんだ、祭さんじゃないっすか」
『なんだはねえだろ、なんだは……まあいい。聖、お前今日の配達、忘れてないだろうな』
「へ? 配達……すか?」
 真向かいでラーメンを食べている女子生徒が、何か言いたげに見つめてくる。それに手を振りながら、ぼんやりと聞き返すと、途端に電話の向こうから悪態をつく女の声が聞こえた。
『この馬鹿っ、テメエ、あれだけ忘れるなって言っておいたのに、やっぱり忘れてやがったなっ!!』
「え? い、いや、そんなわけ無いじゃないですか、いくら俺でも、そこまで馬鹿じゃないですよ」
『……本当にそうかよ、まあいい。とにかく、今日の配達、しっかり頼んだぜ。それから、もし忘れてたら……分かってんだろうな?』
 最後の言葉と一緒に、電話は切れた。携帯電話をしまうと、星亜はげっそりと息を吐いた。
「バイトか? 聖」
「うん、まったく、こっちにも用事があるっていうのに、いきなり頼むなんて、非常識にも程があるっすよ」
 ぶつくさ言う少年を見て、彼の親友は、呆れたようにため息を吐いた。
「聖……お前、急に頼まれたんじゃなくて、忘れてたんだろ」
「うっ! い、いや、そんなこと無いですよ、ちゃんと覚えてましたですよ? いや、その、たぶん、きっと……ほんのちょっぴり」
 慌てて首を振る少年の顔に、彼の真向かいに座っている親友は、褐色の指をびしりと突きつけた。
「お前な、嘘つく時、変な敬語を使う癖、いい加減に直したらどうだ? まったく……秋野と福井の凸凹コンビには、私のほうから言っておくから、お前はちゃんとバイトに行って来い。お前を頼りにしている人がいるんだから」
「あう、ご、ゴメンなさいっす、準」
「いいって、まあ、七夕祭のための、いい小遣い稼ぎと思えばいいじゃないか。それより」
 準は、少年に突きつけた指で、そっと彼の頬に触れた。
「おべんとが付いてるぞ。まったく、お前は私がいないと、本当に駄目だな」
 彼の頬に付いていたご飯粒を取ると、少女はそれを、ぱくりと口の中に入れた。
その嬉しそうな表情に、どうしようもなく頬が赤くなる。赤くなった頬をごまかすように、聖亜は慌てて窓の外を見た。



 青い空の中を、一隻の飛空船が飛んでいた。




西暦2015年(皇紀15年)6月31日、17時20分

「どう、聖ちゃん、進み具合は」
「あ、大丈夫っすよ、神楽(かぐら)婆ちゃん、洗濯物の取り込みぐらい、任せてくださいっす」
 夕方、バイト先である喫茶店の人気メニュー「店長のお勧めグラタン」を配達しに来た聖亜は、なぜか洗濯物を取り込んでいた。
「まあ、ずいぶん進んだこと。やっぱり男の子がいるといいわねえ。さ、休憩して頂戴。お茶を入れますから」
「あ。お構いなくっす、神楽婆ちゃん」
 口ではそう答えながらも、聖亜は縁側に洗濯籠を置くと、その横に腰掛けた。
夏の午後の日差しを浴びながら、洗濯物を取り込むのは、背の低い自分には、予想以上にきつい作業だった。ふうっと息を吐いたとたん、急に疲労が襲ってきた。
「あら、男の子が遠慮なんかしちゃ駄目よ、聖ちゃん。この家に引っ越してきてから、毎日が退屈で、こうやって遊びに来てくれる聖ちゃんとお話しすることが、唯一の楽しみなんだから」
「あの、神楽婆ちゃん、おれ、遊びにじゃなくて、一応仕事できてるっすけど」
「あら、じゃあ私とのお話も、お仕事に追加してもらおうかしら」
 勘弁してくれっす、そう呟いた聖亜だが、彼自身、この品の良い老婦人との会話は、楽しみの一つとなっていた。
 聖亜がこの老婦人と初めて会ったのは、今から半年ほど前だ。旧市街で道に迷っていた彼女に声を掛けたのをきっかけに、知り合いとなった。その後、どこで知ったのか、彼がバイトをしている喫茶店のことを知り、よくこうして配達を頼んでくる。
 多いときなど、毎日配達を頼まれた。金払いも良く、今ではお得意様となっている彼女が、何故自分に配達させるのか、それが良く分からず、彼は一度だけ、そのことを聞いたことがあった。
『そうね、きっと、聖ちゃんが奪われてしまった私の坊やに似ているからでしょうね』
 悲しげに答える彼女に、聖亜はそれ以上聞くのを辞め、その代わりに
「さあさあ、お茶にしましょう。お茶菓子は何がいいかしら。お饅頭? お煎餅?
ああ、けど若い子は、やっぱりクッキーやジュースがいいかしら」
「えと、じゃあ、オレンジジュースとクッキーで」
 にこにこと上品に笑う彼女に、精一杯甘えてみることにした。




西暦2015年(皇紀15年)6月31日、18時30分

「こちら聖です。神楽さんへの配達、終わりました」
『お、ご苦労だったな、聖。けど、ずいぶん遅くなったな、また婆さんに捕まったんだろう』
 あの後、神楽の好意についつい甘えてしまった聖亜は、予定よりずいぶん遅れて彼女の家を後にした。本来なら、今頃は喫茶店に戻っている頃だ。
 この時間帯、街は白く霞む。電気設備が完備されている新市街とは違い、旧市街では、いまだに蒸気機関が稼動しており、そこから排出される水蒸気が霧となり、街を覆うためだ。今も地下から送られてくる蒸気で、少年の横のガス灯に、ぼんやりと明かりが灯る。
『はは、まあいいだろう。本当なら、こっちに戻ってきて、もう二,三ほど、手伝って欲しいことがあったんだがな。今日はまっすぐ帰っていいぞ』
「はあ、ありがとうございますっす」
『なんだ、余り嬉しくなさそうだな。あまり夜うろつくのは感心せんぞ。ただでさえお前は女子に間違えられやすいんだからな』
「う、ひ、人の気にしていることを、軽く言わないで欲しいっす」
 うつむきながら、聖亜は自分の髪を触った。この黒く長い髪と、女性的な顔付き、そして160に満たない身長のため、聖亜は一瞥すると、少女にしか見えない。
『まあそういうな、教えその31だ。短所は時に長所でもある。特に、女顔ということは、相手を油断させるには申し分ない』
「そりゃそうっすけ『まあ、本当は俺が楽しみたいだけなんだがな』……この変態めっ」
 毒づく聖亜だったが、笑いながら電話を切られた。結局、最後まで相手のペースだった。
(師匠を超えるのは、まだまだ先っすね)
 苦笑しながら、霧が晴れた路地を抜け、見慣れたいつもの道に出る。夕陽に照らされる中、ちらほらと家に帰る人の姿が見えた。
「あ、落としたっすよ」
 若い母親と、おそらくまだ幼稚園児なのだろう、小さな女の子が脇を通り過ぎたとき、女の子のポケットから、可愛らしいひよこ柄のハンカチが落ちた。拾い上げ、女の子に差し出す。
「あ、すいません。ほら、よっちゃん、ありがとうは?」
 母親に促され、女の子が、とてとてと懸命に歩いてくる。優しげに笑い、聖亜はそっとしゃがみ込んだ。
「はい、もう落としちゃ駄目っすよ」
「あい、あいがと、おねえたん」
 たどたどしいお礼の言葉に、自分はお姉ちゃんじゃないんだけどな~、と、聖亜はちょっとだけ苦笑いを浮かべた。
 そして、少女の小さな指が、ハンカチに触れた、その瞬間



 視界が、黒一色に染まった。


                                  続く


 こんにちは、活字狂いと申します。
「スルトの子 第一幕 夏の日に見た、胡蝶の夢①」はどうだったでしょうか。
さて、ここでネタバレを一つ。一番最初に書いた“あるもの”の内、無いのは石油であります。この世界は、石油がまったく発見されなかった世界なのです。そのかわり、発達したものとして、蒸気機関があります。といっても、物語の舞台では、すでに蒸気機関ではなく、電機が主流になっていますが、それでも、ちらほらと蒸気機関は舞台に出てきます。

さて、つぎはいよいよ、第一幕の佳境に入ります。
では、しばしご清聴の程を



[22727] スルトの子 第一幕   夏の日に見た、胡蝶の夢②
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:32

「……あ……え?」
 聖亜は、ぼんやりと辺りを見渡した。
 どうやら、少しの間、呆然としていたらしい。時間にして、わずか数秒ほどだろう。
「……よ、る?」
 だが、聖亜には、その数秒が、まるで何時間にも感じられた。
 なぜなら、黒いのだ。道も、建物も、人も、空も、その全てが。
 強引に、夜の帳を下ろしたかのように。だが、
(星が、一つも、無い)
 いつもなら、晴れ渡る夜空に浮かぶ満天の星も、その中で一際輝く青白い月も、まるで漆黒のベールに包まれたようにそこには無く、さらに何かに押しつぶされるかのように、息苦しい。

 とにかくここにいてはいけない。そう結論を出すと、聖亜は重く感じる足をゆっくりと前に押し出した。
 不意に、ずくりと、音を立てそうなほど強い恐怖が、自分の身体を包んだ。
逃げろ、と、誰かが言う。その言葉どおり、必死に逃げようとしているのに、足は、まるで地面に縫い付けられたかのように動かない。


 そのとき、ゆらりと、前方の黒い闇が動いた。

悲鳴を上げそうに鳴るが、聖亜は、ふと、のどまで込上げた悲鳴を飲み込んだ。闇が動いたと言うことは、この時、この場に、自分以外の誰かがいて、そして動いていることになる。
「よかった、誰かいっ……」
 胸に安堵感が広がり、今まで重かった足も、元通り動く。すぐに、気配のするほうに走り出そうとした聖亜は、だが、不意に立ち止まると、近くの店の陰に、そっとしゃがみ込んだ。

  自分の中の何かが言ったのだ、見つかるな、と

 聖亜が身を隠したのと、黒い闇の中から、“それ”が現れたこと、それは、どちらが早かっただろうか。前方から現れたもの、それは、

(か……面?)

 それは、青白い光を放つ、二つの仮面であった。
 大きさは、人の顔ほど。どちらも中央に縦線が走っており、周りが緑色に縁取られている。一見すると、同じ仮面に見えるが、そこに描かれた表情は、まったく異なっていた。


一つは、憤怒の表情を、
もう一つは、涙を流す悲しげな表情を、それぞれが浮かべていた。


 ここまでなら、変わったところは余り無い。演劇などで、似たような仮面を被る人はいるし、手品師の中にも、自分の表情を隠すため、仮面を被る人がいる。
なにより、二つの仮面の内、悲哀の表情を浮かべている仮面は、去年のハロウィンで、友達の秋野と福井に被せられたそれにそっくりだったから、
 だから、聖亜はその時、恐怖を忘れ、声を掛けようとした。
だが、次の瞬間、少年の忘れていた恐怖は、少年に、倍になって襲い掛かった。
「……ひっ」
 なぜなら、仮面を被っているのは、人間ではなく、
「……」
「……」
 人間がどんなに真似をしようとしても、決して真似できないほど、人間にそっくりな、

 二体の、人形であったから


 その姿はほとんど人間と変わらない。だが関節の部分には螺子が巻かれ、褐色の肌の所々には、わずかに節目が見える。これがなければ、聖亜は彼らに向け、飛び出していただろう。だが、寸での所で、彼は自分を捕らえようとする死神の指から、ほんのわずかに、逃れることが出来た。


 さて、聖亜が恐怖に駆られている間に、人形は彼のほうに向けて歩き出す。躊躇の無いその動きに、まさか見つかったか? と聖亜は思ったが、人形は、少年の前を通り過ぎると、彼らの前方に立っているサラリーマン風の男に、ゆっくりと近づいていった。
(……え?)
 聖亜は、いきなり現れたその男に、ふと首を傾げた。今まで、この黒い空間には、自分しかいなかったはずだ。それなのに、人形達は、その男に向けて、迷わず歩き出していた。
 だが、そのことに疑問をはさむ余裕は、少年には与えられなかった。
(いったい何を……あ)
 少年の見つめる先で、憤怒の仮面を付けた人形が、男の前にゆっくりと進み出る。そして、その右手を、ゆっくりと男に向けると、


ずぶりと、手は男の中に潜り込んだ。


「ひ……あ、あ……」
 途端に、男の表情が変わる。今まで能面のような表情だったそれが、いきなり苦しみだし、人形の手が身体から離れると、男は、がくがくと身体を震わせ、


ばたりと、地面に倒れ伏した。


「く、なんっすか、なんなんすか、これっ」
 がくがくと、再び恐怖が込上げてくる。今すぐにでも此処から逃げ出したい。だが、下手に動けば、すぐに彼らに見つかるだろう。ならば、このまま此処でやり過ごしたほうがいいだろうか。
 恐怖と葛藤で動けない彼の目の前で、手を引き抜いた人形が、もう片方の人形に手を向ける。と、そこには、今まで無かった、こぶし大の白い球が握られていた。
悲哀の仮面を被った人形は、それを恭しく受け取ると、腰に下げていたバッグの中に入れる。その間に、人形は別の人間に向かっていき、先ほどと同じように、その身体に手を差し入れた。
(に、逃げないと、逃げないと、こ、殺されっ)
 少年の中で、見つかることの恐怖より、ここにいることへの恐怖が勝った。がくがくと震える足を何とか動かし、じりじりと後ずさりする。
 と、その足に、何かが当たった。視線を、何とか下に向ける。と、
「……」
 少年の瞳が、一瞬細まった。
 それは先ほど、彼が最後に話した、若い母親と、小さい女の子だった。おそらく、もう襲われた後なのだろう。どちらの顔も苦痛に歪んでいる。だが、母親が、娘を抱きかかえるその姿は、親が、子を庇っているように見えた。
 おそらく、単なる偶然だろう。だが、一瞬だけ、彼は逃げるのを忘れ、そして、


そして、その細まった瞳で、人形を見つめた。


「……ふむ」
 少年の視線に気付いた人形が、引き抜いた白い球を、別の人形に渡し、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「まさか、我らの“狩場”で、動ける“家畜”がいるとはな。貴様の仕業か?“ビショップ”」
「……ご冗談を。主ならともかく、私には何も出来ぬ哀れな“家畜”を、必要以上に弄ぶ趣味はありません」
「ふん、そうだったな」
 憤怒の人形から発せられる、自分の中の何かを抑え付けているような声に、悲哀の人形は、その表情に合う、悲しげな声で答えた。
「……」
 その間も、聖亜は二体の人形を、じっと睨み続けた。
「……それで、この“家畜”はどうしますか? “ポーン”」
「決まっている。回収するだけだ」
 憤怒の人形が、ゆっくりと近づいてくる。その動きをぎりぎりまで見てから、聖亜は、動いた。
「なにっ!?」
 自分の伸ばした手が避けられるとは思わなかったのだろう。ゆっくりと伸ばされた手の下をかいくぐると、聖亜は、前に向かって走り出した。


 そう、悲哀の表情を浮かべた人形の、腰に備え付けられたバッグに向かって。だが、
「……無礼ではありませんか?」
「う……」
 その動きは、のど元に突きつけられた、硬い杖によって遮られた。
「やれやれ、すまんな、“ビショップ”よ」
「かまいません。それより“狩場”でこれほど俊敏に動けるならば、“彼ら”の可能性があります」
「……ふむ、それにしては“玩具”を出さぬが……まあいい、早く回収してしまうとしよう」
「うぁっ」
 頭が、後ろから強い力で持ち上げられる。じたばたと動き、何とか足で人形の身体を蹴るが、相手は何の痛痒も感じていないらしい。
「無力……やはり“奴ら”ではないか、まあいい。すまんな小娘、痛みの中回収される、己の悲運を呪うが良い」
 誰が小娘だっ! そう叫びたいが、痛みと恐怖で声が出ない。人形の手が、ゆっくりとこちらに伸ばされる。一度は逃げた死神の指が再び彼を捉えようとした、その時、


 ヒュンッ

 
 すさまじい速度で飛来した“それ”が、少年を抑え付けていた人形の腕を切り裂いた。
「ぬっ」
 腕を切り裂かれた人形は、聖亜を地面に放り投げると自分の手を傷つけたそれを睨みつける。


 それは、黒い世界の中、唯一白く輝く、一本の小太刀だった。


「ぐ、あ、はあ、はあ、はあ!」
 地面に投げ出された聖亜は、仰向けのまま、ぜいぜいと大きく息を吸った。視界が涙で滲む。と、塗れた視界の中、誰かが自分の横に立つのが見えた。
「……」
 それは、少年であった。肩の所で切りそろえた髪は、雪のように白く、その肌も髪同様に白い。そして、人形を睨み付けるその瞳は、



見る者に海を思わせる、深い蒼であった。



「貴様……何者か」
 憤怒の仮面を被った人形が、その表情にふさわしい声を出し少年を睨む。その人形に、彼は笑みを浮かべることで答えた。まるで氷のように冷たい笑みを。
「何者かと聞いている!!」
 怒声と共に、少年に向かって人形が大きく腕を振る。その動きは、先ほど聖亜を捕らえた時より、倍ほども速い。
 だが、その速さでも、少年を捉えることは出来なかった。振り下ろした腕は、少年に当たることなく、彼が立っていた地面に、無様に食い込んだだけであった。
「キュウ」
 不意に、頭上で静かな声がした。聖亜が見上ると、ガス灯の上に先程の少年が立っている。
「……どうした? まさかこの程度の“エイジャ”相手に、助言が必要なわけでもあるまい」
 その声に、どこからか別の声が応える。それは、男とも、女とも分からない、低い声であった。
「違う、口を挟むなと言おうとしたんだ。単純な攻撃しか出来ない雑種など、ふん、“魔器”を使う価値も無い」
「な、貴様ぁ!」
 激昂した人形が、少年に突きを放つ。だが、少年は、あろうことか自分に突き出された手に乗り、そのまま人形のわき腹に、自らの肘を強かに打ちつけた。
「ぐ……むっ」
 続けて、右足で人形の首筋を蹴り上げる。まるで踊るようなその動きに、聖亜は、一瞬見とれた。
「が、く、調子に乗るなよ、小僧。捕まえたぞ!!」
「っ!?」
 首筋に食い込んだその足を、人形は強引に掴むと、よほど体重が軽いのだろう、たやすく少年の身体を持ち上げ、
「くらえっ!」
 ぶんっと勢いをつけ、その身体を、近くのブロック塀に、思い切り放り投げた。
がらがらと音を立て、ブロック塀が崩れ落ちる。ふんっと鼻を鳴らし、人形が近づいたときだった。
「ぐ、があああああああっ!!」
 絶叫を上げたのは、人形の方だった。
「……勝利を確信したときこそ、油断するな。そう教わらなかったのか?」
砂埃の中から、少年が何事も無かったかのように歩み出てくる。と、その右手には、先ほどはなかった、白く輝く、一本の太刀が握られていた。
 冷ややかに笑う少年にを、右肩を切り裂かれた人形は、仮面を真っ赤に染めて睨み付けたが、やがて、何かに気付いたかのように、後ろに下がった。
「……白髪、氷のような表情、そしてその刀。貴様……知っているぞ、玩具使い“百殺の絶対零度”!」
「ポーン、もし、彼が百殺ならば、相手が悪すぎます。我らが同胞百名を、一夜にして滅した相手です。此処は一端、退くべきかと」
「……それが最善だが、ビショップよ、奴は簡単に逃がしてはくれまい」
「よく分かってるじゃないか。なるほど、能無しの雑種かと思ったが、少なくとも相手を警戒するだけの知恵はあるようだ。中級クラスか……けど、大人しくやられたほうがいいぞ。抵抗すると、痛いだけだからな!」
「く、ほざくな、絶対零度!!」
「きゃっ!」
 ビショップという名の人形の持つバッグに、強引に手を突っ込むと、ポーンという名の人形は、その中から引き抜いた大剣を振り上げ、向かってくる少年に振り下ろした。
ガキンッと音がして、剣と刀が打ち合う。そのままぎりぎりと鍔競り合いが続くが、やはり力では相手のほうが勝っているのだろう。やがて、少年は徐々に押し込まれていき、とうとう片膝を付いた。
「これで、止めだっ!!」
 傍らにあるガス灯を、肩を引き裂かれた方の手で掴むと、ポーンはその手をぐいっと捻った。すると、ぽきりという音が聴こえそうなほど簡単に、ガス灯は途中で折れた。
 辺りに、管に詰まっていた蒸気が立ち込める。視界が悪い中、人形は、身動きが取れない少年に、ガス灯をぶちあてた。
 どすっ、と、何かをえぐる音が、周囲に響いた。
「ふん、今度こそ潰れたか?」
 口ではそう言いながらも、人形は暫くガス灯を地面に押し付けた。が、少年が出てこないのを確認すると、今度こそ、ガス灯を持ち上げた。
 段々と霧が晴れていく。それにあわせるかのように、人形の身体が、ぶるぶると震えだした。
「馬鹿な……ばかなバカナ馬鹿なっ!! いないだと!!」
 そこに、少年の潰れた姿は無かった。いや、それだけではない。辺りに飛び散るはずの鮮血も、そこには一滴も付着していなかった。
「馬鹿な……どこへ消えた、どこへ消えたっ!! 絶対零度っ!!」
 その時、完全に霧が晴れた。
「あなた、上ですっ!!」
 相方の悲鳴のような言葉に、ポーンはふと空中を見たが、次の瞬間、ばっと自分の持っていたガス灯を手放した。
 だがその動きより、少年がガス灯をつたって、人形の懐に飛び込むほうが速かった。
「ふっ!!」
 小さく息を吐き、少年の持つ刀が、人形の右わき腹を存分に切り裂いた。
「……がっ……ぐっ」
 よたよたと後退し、人形はがくりと片膝を付いた。
「あなた、これ以上は無理ですっ!! 一度帰って、あの方に見ていただかなくては」
「ぐ……敵を前に背を向けるのは武人の恥だが、致し方あるまい。くっ」
「もう一度言って欲しいのか? 逃がさない」
 そう呟き、少年が人形に向けて走り出す。だが彼の刃が人形に届くより、ビショップがバッグから取り出した小瓶を地に叩きつけるほうが速かった。
 小瓶が砕け、辺りに黒い液体が飛び散る。鼻につんと来る異臭を放ちながら、それはやがて、ごぽごぽと盛り上がる。
「お前、吹奏者(すいそうしゃ)だったのか」
「ええ。私自身に戦闘力はありませんが、こうやって“使徒”を生み出すことは出来ます。さあ、生まれなさい黒き獣よ。そして喰らいなさい。目の前にいる玩具使いを」
 その声にあわせ、盛り上がった液体は、徐々にその形を変えていく。やがて現れたのは、狼に似た頭部を持ち、手に三本の爪と、足に突き出た鍵爪を持つ、三体の獣だった。少年を見る目は、どう見ても友好的ではない。
「私たちを追うのはいいですが、その間に、彼らはあなた以外の“家畜”に襲い掛かるかもしれませんよ。それでは、今日のところは下がらせてもらいます」
「……」
 後ろに下がっていく人形の代わりに、少年に黒い獣が襲い掛かる。その牙で、爪で、鍵爪で、少年を引き裂くために。
 だが、彼は心底面倒くさそうにため息を吐くと、刀を軽く水平に払った。



 勝負は、その一撃で付いた。



 首を払われ、胴を引き裂かれ、足を断たれた獣がずぶずぶと元の黒い液体に戻っていくのを、聖亜は呆然と眺めていた。
 と、息苦しさが無くなった。辺りのガス灯に再び明かりが灯り、遠くには人々の声も聞こえる。どうやら、何かが終わったらしい。それが何かは、彼には分からなかったが。
「ふむ、逃がしたようだな」
 不意に、少年の前に、黒い小さな影が降りた。
「仕方ないだろう、一般人を巻き込むわけには行かない」
「やれやれ、そなた相変わらず甘いな」
 先ほど聴こえた、男とも女とも分からない声で喋る、その声の持ち主、それは夜空に似た毛並みを持ち、紫電の瞳をした、一匹の猫だった。
「さて、これからどうする?」
「決まっているだろう、奴らを追う」
 と、少年は自分の胸に、いきなり太刀を突き刺した。
「あ……」
 慌てて聖亜が立ち上がるが、太刀はずぶずぶと少年の身体に、いや、少年の首に掛けられているペンダントの中に入っていく。やがて太刀を完全に押し込むと、少年は、聖亜の脇を通り、地面に突き刺さったままの小太刀を引き抜くと、同じようにペンダントの中に突き入れた。
「さて、終わった。じゃあ、行くぞ、キュウ」
「うむ」
「あ、ちょ、ちょっと待ってくださいっす」
 歩き出そうとする少年と猫に、聖亜は慌てて声を掛けた。まだ頭は混乱してるが、どうやら自分はこの少年に助けられたようだ。ならば、きちんと礼を言わなければならないだろう。
「えっと、助けてもらって、どうもありがとうございました」
 自分に向かって頭を下げる聖亜を、少年は不思議そうに見ていたが、不意に、首を傾げた。
「そういえばキュウ、なんで“こいつ”は、奴らの狩場の中で動いていたんだ?」
「ふん、奴らのやりそうなことだ。こやつ一人の自我を奪わず、恐怖で逃げるこやつを相手に、狩りを楽しんでおったのだろう。それで、どうする?」
「……決まっているだろう」
「ふん、それもそうだな。おい、小僧」
「うぁえ、な、何っす……か?」
 いきなり声を掛けてきた猫の瞳を、聖亜は真正面から見た。と、その瞳が金色に輝く。その輝きは、呆然としている自分を包み込んだ。
 辺りが金色の光に満ちる。身体を横たえ、ゆっくりと眠りに落ちる自分を、聖亜は自分の部屋で気が付くまで、ぼんやりと眺めていた。それはまるで、そう、まるで、自分の身体から抜け出し、蝶になった自分が、もう一人の自分を見つめる、



 胡蝶の夢がごとく。


                                 続く



こんにちは。活字狂いです。はてさて、どうだったでしょうか。「スルトの子 第一幕  夏の日に見た、胡蝶の夢②」は。
さて、主人公の聖亜は、どこにでもいる普通の高校生です。自分の低い身長と、女顔にコンプレックスを持つ、とんでもないへたれです。ですが、本当にそれだけでしょうか……おっと、喋りすぎたようですね。確かに彼はへたれではありますが、それだけではありません。むしろ……おっと、また悪い癖が出てしまったようだ。では、この辺で今日はお開きを。では、次は「スルトの子 第二幕  灰色街の歪んだ日常」で、お会いしましょう。

最後に、この物語のテーマは、「嘘」あるいは「偽者」です。それを頭の片隅に置き、それでは次の幕が上がるまでのしばしの間、どうぞお休みを。    



[22727] スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常①
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:32
 
夢を、見た


 誰かが優しい子守唄を、歌っている夢

 ねんねんころり ねんころり
 
 眠りなさいな 愛し子よ
 
 ねんねんころり ねんころり
 
 星たちが眠る 時間まで
 
 ねんねんころり ねんころり

 眠りなさいな 幼な子よ
 
 ねんねんころり ねんころり

 朝顔がおきる 時間まで

 
 歌っているのは若い娘だ。彼女は画用紙に一生懸命絵を描いている幼子を、優しい笑みを浮かべ、見守っている。
 だが、その手が幼子の右手に触れた瞬間、


 娘の体は、赤く燃え上がった。



西暦2015年(皇紀15年)7月1日、午前1時05分



 薄暗い部屋の中で我に返ったとき、聖亜は自分が泣いていることに気づいた。
“彼女”の夢を見るのは、本当に久しぶりだった。穏やかで優しく、切なくて寂しく、そして震えるほどに恐ろしい、そんな夢。

 ぼんやりとした意識の中辺りを見渡すと、ふと棚のところで目が止まった。小型の目覚し時計や、準にもらった本が散乱する中に、何枚かの画用紙が散らばっている。ここからでは、そこに何が描いてあるかは見えない。



 だが、再び眠くなるまで、聖亜はその見えない画用紙を、じっと見続けていた。



西暦2015年(皇紀15年)7月1日 8時10分



 灰色街の一角、蜘蛛の巣と呼ばれる入り組んだ雑踏区の片隅で、女はいつもと同じように雑貨屋を営んでいた。
 といっても、大した物は売っていない。布の切れ端や欠けた茶碗、良くてゴミ捨て場から拾ってきた、壊れた蒸気機械の部品がある程度だ。
 そんなものだから、客はめったに来ない。大体、右を見ても左を見ても、同じような雑貨屋が軒を連ねているのだ。客がやってきても、数十軒、いや、百軒以上ある店の中からこの店にに客が来るなど、女は思ってもいない。
 

 それに第一、この雑貨屋は、カモフラージュでしかないのだ。


 だから、店を開けてまだ10分も経たないうちに、女は既に欠伸を繰り返していた。
「……おや?」

 その少年を見たのは、今日何度目かの欠伸をした後だった。ジャケットとジーンズという、この街では高級な服を着込んでいる、白髪の少年だった。ずいぶん整った顔立ちをしており、少女に見えなくもない。そのため、すれ違った男たちが、ときおり彼のほうを振り返っている。
 だが、あの程度の容姿なら、快楽区では中の上ということだ。それほど珍しいものではない。女が注目したのは、少年が歩いているのを見たのが、10分という短い間に、これで5回目だということだ。
「はぁん……“橋向い”からのお客かい」
 橋向い、つまり街の外から来た少年を見て、女は顔に出ないように、口の中で小さく舌なめずりをし、値踏みした。周りの店のやつらも、同じようなことを考えているのだろう、少年にしきりに声をかけ、商品を薦めている。だが、少年は売り物をちらりと見ただけで、後は何かを探すように、きょろきょろと辺りを見渡しながら歩いている。
「道にでも迷ったかい? とすると……くくっ、ついてるね。“一見”さんかい。それも、どうやら外国からのお客のようだ」
 足元に置いてある鍋を、3回叩く。しばらくして、奥で同じように3回、何かを叩く音が聞こえてきた。
 それを聞いてから、女は慣れた様子で、作り笑いを浮かべた。
「坊ちゃん、そこを行く坊ちゃん、そう、あんただよあんた」
 自分を呼んでいることに気づかなかったのか、そのまま店を通り過ぎようとしている少年の裾を、女は慌てて掴んだ。
「……私に何か?」
 その青い瞳を、不機嫌そうに細め、少年はこちらを見た。
「そうだよ。あんた、さっきから何をうろちょろしてるんだい? どこか行きたいところがあるなら、おばちゃんに言ってごらん。教えてあげるからさ」
 優しげな声を出し、女は内心でほくそえんだ。なるほど、やはり大当たりのようだ。男の癖に私、などというのは、金持ちの家に生まれた子供だけだ。
「……」
「さ、どこに行きたいんだい? それとも、何か欲しい物でもあるのかい? 大抵の物は見つけてあげられるし、若い女の子が欲しいなら、快楽区まで案内してあげるよ。ああ、お金が無くても心配は要らないさ。工場区に行けばいくらでも仕事は見つかるからねえ」
 命と引き換えにね、と内心で吐き捨て、さりげなく鍋を2回叩く。
「さ、言ってごらんよ」
「……鎮めの森に行きたい」
 少年の言葉に、女は一瞬、そう、ほんの一瞬だけ、眉を顰めた。だが、すぐに作り笑いを浮かべる。
「おや、あそこに行きたいということは、観光かい? 確かにあそこはいい所だよ。こんな所と違って、空気も澄んでるしさ。ああ、もちろん知ってるよ。あたしゃここに、10年は住んでるからねえ。けど、こっちも商売だ。さ、教える代わりに、何か買っとくれ」
「い、いや、買っとくれって、言われても」
 並べられている商品を、少年は気まずそうに見つめた。何か礼をしたいという気持ちはあるのだろう。そんな彼に、女は笑って手を振った。
「ああ、大丈夫だって。ここにあるのは、あたしらが使う生活品さ。さ、坊ちゃんにはこっちの方がお似合いだよ」
 笑いながら、足元にある箱を引っ張り出す。中には瓶詰めになった粉末やら、緑色の宝石をはめ込んだ小さな指輪などが入っている。が、そのほとんどは偽物だ。媚薬と描かれた小瓶の中の粉末は、単なる動物の骨を砕いたものだし、指輪についている緑色の石は、宝石などではなく、そこいらに転がっていた石を塗ったものだ。
 箱の中身を見て、少年はまた気まずそうな表情をしたが、やがて、がさごそと物色し始めた。
「……これをもらおうか」
 彼が箱の中から取り出したものを見て、女は軽くした打ちした。それは、所々黒ずんでいるが、桜の花の飾りがついた、桃色の髪留めだった。女が舌打ちしたのは、これは自分たちが作った偽物ではなく、焼け跡から拾ってきたものだったからだ。
(まあいいさ、どうせすぐに戻ってくる)
「ああ、いい物に目を付けたねえ。それはこの店一番の目玉商品さ。さる貴婦人が使っていたものでねえ。そうさね、2万・・・・・・といいたい所だけど、大まけにまけて1万。ドルだったら、円に換える手間もかかるから、120ってところだね」
 髪留めを袋に入れる女を一瞥すると、少年は小さくため息を吐いてから、胸ポケットに手をやった。しばらくごそごそとしていたのは、迷っていたからだろうか。だが、やがて、中からゆっくりと黒い財布を取り出した。
「……」
 財布から、百ドル札が一枚、十ドル札が二枚出てくる。久々に見る大金に、周りの見物人が、どよどよとざわめいた。
 その連中を睨んでから、女はにこやかに金を受け取ると、継ぎ接ぎだらけのズボンのポケットに、素早くねじ込んだ。
「ありがとうね、さ、これが商品だ。後、これはおまけ。胸にでも挿してごらん、女の子にきゃあきゃあ言われるよ……ああ、約束だったね。鎮めの森は、あの角を曲がったところさ」
「……」
 胸に白い花を刺した少年は、小さくお辞儀をしてから、女が指差した曲がり角に向かって歩いて行った。


「……くくっ、馬鹿だねえ」
 少年の姿が完全に見えなくなってから、女は“いつもの”笑みを浮かべた。
 無論、先ほど教えた道は嘘だ。大体、この蜘蛛の巣は、鎮めの森を囲むように広がっている。だから、わき道に逸れれば、すぐに森が見えるが、女が教えた道の先は、単なる行き止まりだ。
「さあお前たち、仕事だよ、出ておいで。久々の上玉だ、逃がしたら承知しないからね!!」
 鍋をガンッと勢いよく叩く。と、店の奥から体格の良い、だが薄汚れた男が4人出てきた。
「おう、そいつ、そんなに上玉か?」
「ああそうさ。くくっ、かなりの別嬪さんだ。男色野郎に売れば、半年は遊んで暮らせるほどのね」
「へ、へへ、なあ、おいら、ちょいと味見してもいいかな?」
「いいけど、“壊す”んじゃないよ。安く買い叩かれるからね。さあ行きな! 目印は白髪と、胸に挿した雑草だ。あんな細いガキ、あんたらなら簡単だろ」
「あたぼうよ、おい、行くぞ手前ら」
 リーダー格の男を先頭に、4人はぞろぞろと歩いていく。それを見送ると、女は鼻歌を歌いながら、すぐにでも聞こえるだろう、少年の悲鳴を心待ちにしていた。
 だが、
「が、があああああ!!」
「ひ、やめ、やめええええええ!!」
「ぐふえっ!!」
「わ、悪かった、わるっ、ぎゃあああああああ!!」
「な、なんだい、いったい!!」
 聞こえてきたのは、聞きなれた男たちの悲鳴と絶叫だった。
 慌てて行き止まりに向かう。そして、角を曲がった女が見たものは、

 辺り一面の、血の海だった。

「ちょ、どうしたんだい!! あんた達」
 慌てて、すぐ近くの男を抱き起こす。
「が、ごぼっ、何が簡単、だ。や、奴は、化け、物」
 肋骨の一部が、体を突き破って出ている。肺を傷つけたのか、喋るたびにごぼごぼと口から血を吐いていた。
 男の隣では、顎を“失った”男が呻いている。他の2人も、それぞれ足と手を砕かれ、呻いていた。
「くっ、あのガキは、あのガキはどこに消えたんだい!!」
「う……鎮めの、ぐあっ」
 気絶した男を放り出すと、女は銃を取りに、店に向かって駆け出した。
「許さない、許さないよ、あのガキ!! 腕と足を切り落として、見世物小屋に売ってや……な、何やってんだい、あんた達!!」
 だが、女の店は、10人ほどの男に物色されていた。皆ぼさぼさの髪と、灰色に濁った眼をしている。
「ちょ、やめな“鼠”共、そこはあたしの店だよ、やめろ!!」
 慌てて“鼠”を掻き分け、店に置いてある銃に向かう。だが、銃にもう少しで手が届きそうになった時、女の腕は横からガシッと掴まれた。
「「「「「「…………」」」」」」
「ひっ」
 何の感情も映していない、灰色の眼が、じっとこちらを眺めていた。
「女……」
「……金」
「……女」
「金……」
「ひっ、来るんじゃない、来るんじゃないよ化物(けもの)共!! ひっ、ああああああああああ!!」



 三日後、蜘蛛の巣の近くの排水溝、腐食した無数の死体が浮かんでいるところに、髪も目も、歯も手も、足も何もかもが無い、男の死体が4体、浮かんでいた。


 女の行方は、未だに知れない。


 
 だがそれすら、灰色の街にとっては、いつもの光景にすぎなかった。

 

 ああなんて、歪んだ日常。



 高知県南西にある都市、太刀浪市(たちなみし)周囲を山と海に囲まれ、かつては蒸気機械の一大生産地だったこの都市は、今では別の理由から、日本、いや、世界中に有名になっていた。
すなわち、災厄の起こった都市として。


災厄―その名を聖夜の煉獄という。


 12年前のクリスマス・イブ、その夕方、10年前に完成した総合病院を中心に、繁華街として賑わっていた都市西部を、突如、謎の大爆発が襲った。
 後の調査で、爆発は、病院の地下で稼動していた大型蒸気機械の暴走・及び爆発、それに伴う、別の蒸気機械が次々に誘爆したためと発表されたが、人々は原因よりも、被害のあまりの大きさに戦慄した。すなわち、


 形が残っている死者、およそ5千
 形が残って“いない”死者、およそ2万
 

 当時の総人口の、実に2割近くを失った人的被害と、都市西部壊滅という経済的打撃を受けた都市は、15年後、3つの街に分かれた。
 被害が無かった都市東部は、市外へ抜ける高速道路が走り、市役所や警察署・学校など、都市機能のほとんどを受け持つ新市街に、五万十川(ごまんとがわ)が間にあった為、爆発による被害は無かったが、強烈な爆風による建物倒壊など、多少の被害を受けた都市中央部は、太刀浪駅を中心に、南には空港、西には太刀浪神社を中心とした観光通り、東にはジャストを中心としたデパート通りが広がっている旧市街に。
 そして、2つの街とは大川を挟んで隣り合う、災厄による壊滅的な被害を受け、現在も復興が続けられている復興街に。
 だが、復興はほとんど進まず、浮浪者や犯罪者がはびこるようになったこの街を、他の2つの街、特に新市街に住む人々は、侮蔑をこめ、こう呼んでいた。



 排煙と汚水にまみれた街―灰色街と。



「ここが、鎮めの森、か」
 道端に、蒸気を通す太い管やら、修理もされずに転がっている機械やらが散乱する中、頬にべっとりと付いた返り血を拭うと、ヒスイは目の前で口をあけている巨大な森を眺めた。
「うむ、聖夜の煉獄の中心地、かつては大きな病院のあった場所だ。それよりもヒスイ、あまりぼんやりとするな。先刻のような事になっても、我は知らんぞ」
 傍らにいる黒猫が指摘しているのは、男達に襲われた一件だった。無論“エイジャ”を狩る自分に、単なる人間がかなうはずが無い。男達は自らの軽率な行動の代償を、自らの体で償った。
「しかし、ふんっ、街中で騒ぎが起こっても誰も見向きもせんとは、かつて世界有数の機関都市の、これがなれのはてか」
 愚痴をこぼす黒猫の脇を、薄汚れた子供が数人駆け出して行く。その中の一人が跳ねた泥水をもろにかぶり、キュウは毛を逆立てて、大きく震えた。
「ふふっ、そう、だな。そろそろ入るぞ」
 寒そうにくしゃみを繰り返す相棒を抱き上げ、ヒスイは暗い森に向け、足を一歩踏み出した。
                                   続く

 こんにちは、活字狂いです。今回は、少し投稿が遅くなりました。申し訳ありません。というのも、勤務している博物館が、文化の日に向けて忙しかったからです。昨日も休みなし。けど、代わりに今日休みが入ったので、こうして投稿させていただきました。
 さて、いかがだったでしょうか、「スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常①」は。この街は、本当に歪んでいます。強盗や殺人は当たり前。騙す奴より、騙されるほうが悪い、そんな街です。一応、自警団らしいものはいますが・・・・・・さて、では次回、「スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常②」でお会いいたしましょう。



[22727] スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常②
Name: 活字狂い◆e0323915 ID:b7707b89
Date: 2016/05/07 12:32
西暦2015年(皇紀15年)7月1日、6時40分

 結局眠れなかった。

 目の下に真っ黒なクマをつけ、いつもは束ねている長髪をばらばらにした、まるで幽鬼のような格好で、濃い霧に包まれた通学路を、聖亜はとぼとぼと歩いていた。
 朝になると、地下から排出される水蒸気と、海から来る霧に包まれ、旧市街は白く霞む。体に害は無いが、視界はすこぶる悪い。
 まとわり付く霧を払うように、聖亜はぼんやりと首を振った。
 彼は、感情が高ぶったり、変に気落ちしたりすると、一睡もできなくなるという、悪い癖があった。
 原因は分かっている。昨日の騒動のせいだ。はっきりと覚えていないが、黒い世界で、人間を襲う2体の人形、その人形を軽くあしらう少年、黒い獣に、黒い猫。
 最初は悪い夢だと思った。だが、洗面所で顔を洗って、目の前の鏡を見た瞬間、現実にあった出来事だと確信した。



 そう、首に付いている、紫色の痣を見て。


 その部分を、聖亜はしばらく擦っていた。そしてそのまま、角を曲がった時、
「うわっ」
 霧の中、道の端に黒い物体が目に留まる。あれは、昨日の―
「カァ」
「……へ?」
 その鳴き声に、凍り付いていた少年の体は、一瞬で氷解した。
「な、なんだ、カン助じゃないっすか」
 そこにいたのは、一羽の烏だった。右目が潰れており、体にも所々古い傷跡があるため、聖亜はこの烏をカン助と呼んでいた。
「けど、珍しいっすね、カン助がこっちに来るなんて」
 他の都市と同様、太刀浪市にも、無論烏はいる。だが、彼らの縄張りは山の中だ。どうやら、山腹にある荒れ寺を住処にしているらしい。聖亜の通う学校は、その山の麓にあるため、よくこの烏から食べ物を奪われていた。
 カン助と呼ばれた烏は、首を傾げる少年を一瞥すると、やがて歩き出した。が、数歩歩くと、立ち止まってこちらを振り向く。飛ぶ気配も無い。ついて来いということだろうか。
「えっと、何すか?」
 どうせ眠れないため、いつもより早く家を出たためか、まだ時間に余裕はある。烏の後をとことことついて行くと、烏は隅にあるゴミ捨て場で立ち止まった。
「いったい何が……あ」
 ゴミ捨て場の隅にいたのは、右の羽に矢が刺さった、一羽の烏だった。
「ひどい……誰がこんな事を」
 慌てて駆け寄ると、その烏は途端に騒ぎ立てた。カン助と違い、あまり人間になれていないのだろう。だが、カン助が甲高い声で鳴くと、びくりと停止した。
「大丈夫、矢を抜くだけっすから」
 矢が変なところを傷つけないように腕で烏を押さえると、ゆっくりと矢を引き抜く。痛みで暴れる烏の羽がびしびしと当たるが無視し、最後は一気に引き抜いた。
「これでよし、ちょっと待っててくださいっす、今包帯を巻くっすからね」
 もしもの時に備え、バッグの中には包帯や絆創膏が入っている。念のため、薬は使わない。きつくない程度に巻いてやると、それを見届けたカン助が、カァっと一声鳴き、空に飛び上がった。それに続き、もう一羽も慌てた様子で飛び上がる。
「じゃあ、気をつけて帰るっすよ」
 飛び去っていく二羽の烏を見送っていると、不意に睡魔が襲ってきた。
「あ~~~~~、なんかすっげえ眠いっすね」
 かくんと頭を垂れ、少年は再び学校に向けて歩き出した。




西暦2015年(皇紀15年)7月1日、7時20分


 その場所は、外と比べ、静寂に満ちていた。
 一人と一匹が歩く小道の両端には、白い小石が所狭しと敷き詰められている。

 まるで、墓石のように

「空気が重いな」
「……それだけではない。生き物の気配が、全く感じられん。まるで」
 まるで、この世が終わったあとの景色のようだ。
 最後は口の中で呟くと、黒猫は周囲を見渡した。
「爆発の原因は分かっているのか?」
「表向きには、病院の地下に設置されていた、大型の蒸気機械の暴走となっているが」
 口を閉ざし、自分の言葉を否定するためか、黒猫は、ふるふると頭を振った。
「そんなはずは無い。都市の三分の一を吹き飛ばす爆発など、いったいどれほどの機械だというのだ。それに、他の機械の誘爆にしても、時間に差は出るはずだ。だが」
「ほぼ同時に、爆発は起こった……そこにいる人々が、逃げる間もないほど、唐突に」
「うむ、だからこそ、ここに住む者は、災厄に煉獄という名を付けたのだ。その名前の、真の意味も知らずにな」
 いつもより、彼らの口数は多い。無理も無い。そうしなければ、彼らでさえ、とても耐えられないのだ。

 総合病院の跡地、災厄の発生地に作られた、この森の雰囲気に。

「じゃあ、やはりあの爆発は、奴らの……と、着いたようだな」
 不意に、彼らはぽっかりと開いた空間に出た。
「……気付いているか、ヒスイ」
 ふと、黒猫が低く唸った。
「ああ、まったく、何が“澄んでいる”だ、濁りきってるじゃないか」
 頷いて、首を右に逸らす。半瞬後、今まで首があった場所を、何か冷たい物が通り過ぎた。
「ふん、スフィルにもなれぬ死霊の集まりか、どうする? ヒスイ」
「見過ごすわけには行かないだろう」
 胸ポケットからペンダントを取り出したヒスイを見て、黒猫は、呆れて首を振った。
「やれやれ、死霊を相手にするなど、面倒なだけだ。これからの事を考えれば、体力の消耗は控えたほうが良いのではないか?」
「分かっている。けど、このまま放置していれば、こいつらはもっと数を増やして、終いには街に溢れ出す……それに」
 辺りに漂う死霊の群れを見渡し、ヒスイは悲しげな表情を浮かべた。彼らは皆、苦悶と絶望の表情をし、飢えている。
「それに、早く開放してやりたい」
「……ふふ、相変わらず“こういった存在”には優しいの。先程の男達など、弁明する機会も与えなかったくせに」
「黙れ、私はああいう、自分を律する事のできない奴が一番嫌いなんだ。とにかく、さっさとやるぞ」
 黒猫の軽口に、不機嫌そうに言い返すと、ヒスイはペンダントから現れた“それ”を、一気に引き抜いた。


西暦2015年(皇紀15年)7月1日、7時40分


 柳準(やなぎじゅん)は、その端正な顔を、嫌悪感たっぷりに歪ませ、目の前でだらだらと喋る男を睨み付けた。
「何度も言っているだろう、断る」
「だ~か~ら、こっちも何度も言ってるじゃないか。僕の父は大会社の社長で、しかももうすぐ市議会議員になる。その息子であるこの僕と付き合えば、いろいろと贅沢をさせてあげるよ」
 にやにやと下品に笑う男の目は、先程から、自分の胸に注がれていた。

 吐き気がする。

 中学の時は、一人を除き、自分に話しかけてくる男はいなかったくせに、中学の終わりごろから急に育ち始めたこの胸のせいで、彼女は一日に3度は必ず告白された。しかも、その全員が、不機嫌そうな自分の顔ではなく、大きく育ったこの胸を、にやにやと下品な顔で見るのだ。

 見られている方の気持ちなど、考えもせずに。

「悪いが、私は贅沢なんて興味ないし、お前にはもっと興味が無い」
 そう、自分に触れていい男は一人だけだ。彼のために、自分は女である事を受け入れたのだから。
 きびすを返し、学校に向かおうとした彼女の肩を、男は慌てて掴んだ。
「ちょ、ちょっと待てよ、話はまだ終わってねえぞ!!」
「……離せ」
「ふん、知ってるぜ、お前の男って、あのへたれだろ、あんなちびのどこがいいんだか。大体、あいつ今は下町に住んでるけど、本当はスラムの出身だってうわ」
「離せと言っている!!」
 めきょっと音がして、振り向きざまにはなった褐色の足が、男の股間に食い込んだ。
「……あ…………がっ」
「俺の“唯一”を侮辱するなら容赦しねえ、まあ、あいつが聞いたら、その時点でお前の命なんざ無くなってるだろうがな」
 口から泡を出し、がくがくと崩れ落ちる男を無視し、準は再び歩き出したが、男の体が完全に見えないところにくると、強く舌打ちをした。




「……潰れなかったか」




「ん?」
 準が彼に気付いたのは、もう少しで学校に着く時だった。自分の前方を、誰かがふらふらと歩いている。小柄で、伸ばした髪があたりに散らばってる姿をを見て、準は嬉しそうに笑った。
「せ~い、こんな所でなにやってんだよ」
「うわっ、じゅ、準、重いっすよ」
 少女に思いっきり伸し掛かられ、聖亜はばたばたと手足を動かした。その拍子に、小さな頭が準の胸の間にすっぽりと挟まる。
「お、おい、こんな所で……ふふ、なあ、このまま一緒に学校に行くか? って、何だよ聖、お前、目の下真っ黒じゃないか」
「や、その、大丈夫っすよ? その、あんまり、眠れなかっただけっすから……ふぁっ」
「眠れなかったって、お前な……ほら、さっさと学校に行って寝ろ。ふふ、それとも」
 胸の中で欠伸をされるくすぐったさに笑いながら、準はますます少年を抱きしめた。
「それとも、学校なんかサボって、そこいらの森で、私と一緒に寝るか?」
「え? い、いやその、が、学校に行って寝るっす」
「なんだよう、あの女の方が良いのかよう」
 可愛らしく口を尖らせて、準は半ば少年を抱きかかえながら、学校への道を急いだ。
 
 二人が通う学校―市立根津高等学校は、旧市街の北に広がる山脈の麓にある。元々は、明治初期に建てられた師範学校を改築したもので、それから100年以上、生徒達を受け入れ、そして卒業させていった。
 だが、戦後も幾度か改築をした建物も、老朽化が進み、10年ほど前に、それまでの校舎の隣に新しく校舎が建てられた。以来生徒達は第二校舎と名づけられた新校舎で学んでいるが、第一校舎と呼ばれるようになった旧校舎は取り壊されずに残っており、屋上にある、師範学校時代にイギリスから送られた記念の鐘「平和の鐘」も、鐘楼の中にしっかりと安置されている。

「まったく、眠れなくなったらすぐ来いって行っただろうが」
「あう、す、すいませんっす。氷見子(ひみこ)先生」
 第二校舎の一階、その右端にある保健室の主、兼聖亜の担任である植村氷見子(うえむらひみこ)は、ベッドに横たわる生徒を見て、呆れたようにシュガーチョコを噛み砕いた。
「ま、一時限目はあたしの授業だから、ここでゆっくり寝てな。けど、二時限目からはしっかり出席するんだぞ。とくに、三時限目は口うるさい教頭の授業だ。お前が遅れたら、あたしが説教されるんだ。だから、絶対に出ろよ。いいな」
 癖のある黒い長髪をがしがしとこすっていた氷見子は、不意ににやりと笑った。
「……それとも、この前の話、受けてみる気になったか?」
「えっと、この前の話っていうと……」
 自分に伸し掛かってくる、獲物を狙う美しい雌豹を見上げ、聖亜は顔を真っ赤にして俯いた。
「だからさ、あたしの婿になるって話。学校なんか中退で大丈夫だって。姉貴も妹も、そんなの気にしない奴らだから、さ」
 白い頬をなぜられ、準よりさらに大きな胸を押し付けられる。その胸を押し返そうと、しばらくもがいていた聖亜のその瞳が、ふと細まった。
「……すまない、氷見子。もう少しだけ考えさせてくれ」
 先程までの弱々しいそれとは違う、鋭く凍てついた視線が、自分に容赦なく突き刺さってくる。本当に親しい人間か、容赦しない敵にしか見せない少年の、それが本質だった。
「うあ、わ、分かった、じゃ、じゃあ、あたしは行くから、ちゃ、ちゃんと眠れよ」
 体の底から湧き上がる恐怖と、特別と思われている事への悦びから、保健室を出た彼女の体は、がくがくと震えだした。


西暦2015年(皇紀15年)7月1日、9時30分


 その子供は、今日も泣いていた。
 自分が何でここにいるのか、子供には分からない。覚えているのは、強烈な熱さと痛み、それが過ぎ去った後に訪れた、どこまでも続く寂しさだった。
《熱いよう、怖いよう、お母さん》
 暗い地の底で、子供は他の“人”達と一緒に、ぐるぐると渦を巻くように動いていた。だが、ある日上から、僅かなな光が差し込んだのだ。
 その光の向こうに、母親はいる。そう思った子供は、周りの“人”と一緒に、光の中に飛び込んだ。

 だが、光の中に出た子供を待っていたのは、母親の温もりなどではなく、先程まで感じる事の無かった、圧倒的な飢餓だった。

 飢えと孤独に苦しむ霊は、死霊になりやすい。その例に漏れず、子供の霊も、何時しか死霊へと変化していった。
 その日も、半ば死霊と化した子供は、耐え難い飢えを満たすために、獲物が来るのをひたすら待っていた。
 そんな時だ。

―リンッ

 誰かに呼ばれたのは。

 熱が自分を包み込む。だが、それは子供が体験した、地獄の業火ではなく、むしろ、母親の温もりに似た、柔らかな温かさだった。
《お母さん?》

―リンッ、リンッ

 困惑しながらも、自分を呼ぶ声に、ゆっくりと近づいていく。その先に、ぼんやりと誰かの姿が見えた。
《ああ、お母さん!!》
 子供は、目の前にいる母親に、胸を嬉しさでいっぱいに満たし、抱きついた。

「…………ぐっ」
 漂う死霊の群れ、その最後の一体をペンダントの中に吸い込むと、ヒスイはがくりと膝をついた。だらだらと脂汗が流れる。吐き気がする。強く噛み過ぎたのか、唇の端から赤い液体が一筋、流れた。
 ぶるぶると震える手から、先程まで鳴らしていたそれ―金剛鈴が、ぽとりと落ちた。
「無事か、ヒスイ」
「……ああ。けど、三百はさすがに、きつい、な」
「まったく、刀で祓えばいいものを。ヒスイよ、そなた、なぜこうも自分の肉体を痛めつけるのだ」
「……うるさい、刀では、駄目だ。刀では、彼らが、また、苦しむ」
 ヒスイが行ったのは、いわゆる浄化と呼ばれるものだった。死霊を鈴の音色で引き寄せ、自信に取り込む事で、その苦しみと絶望を肩代わりし、昇天させる。もちろん、現在では自分の体ではなく、道具を使うが、それでも三百という数は、その反動だけでも並大抵のものではなかった。
 何とか息を整え、がくがくと震える足で立ち上がると、ヒスイは前方にある、巨大な木に目をやった。先端が二又になっている大きな杉の木だ。この辺りが吹き飛んで、一年後、鎮魂祭を執り行った時、屋久島から樹齢800年の杉の木を取り寄せ、鎮魂樹として植えたものらしい。元々、二又木は神木としてあがめられている。それが“穴”を塞いでいる限り、死霊など生まれないはずだが。
「ふん、穴を無理やり塞いだ代償か。見ろ、根の一部が腐れている」
「……キュウ、修復はできるか?」
「うむ、少し待て」
 根を見つめる紫電の瞳が、金色に輝く。やがてその光が治まると、黒猫はほっと息を吐いた。
「これで良し。半ば死んでいた細胞を活性化させた。もう死霊は吹き出ないし、後二,三日で切り口も塞がるだろう」
「そうか……ありがとう」
 疲れたのか、目をぱちぱちと動かす黒猫を、ヒスイはゆっくりと抱き上げた。
「まったく、我らの使命は、奴らの討伐だというのに。ヒスイよ、以前指摘したと思うが、そなたは使命と情に挟まれれば、どうも情に流されやすい。悪い癖だぞ」
 その胸に抱かれ、黒猫はしばし愚痴をこぼしていたが、やがて、ゆっくりと目を閉じた。
「……自分が未熟なのは、自分が一番良く知っている。それでも」
 眠りについた黒猫をそっと降ろし、ヒスイはゆっくりと杉の木に歩み寄った。見下ろすと、丈の長い草に隠れている、小さな鉄板が目に映った。
「……」
 胸に挿してある白い花を引き抜くと、その上にそっと置く。そのまま、ヒスイは鉄板に刻まれた文字を、指でゆっくりとなぞった。
「それでも、私は戦う以外の道を知らない。他の生き方なんて出来ない。だから」
 立ち上がり、ゆっくりと頭を下げた。
「だから、安心して眠ってください。災厄は、二度と起こさせませんから……絶対に」

 ヒスイ達が立ち去った後、杉の木の葉が、ざわざわと揺れた。

 一筋の風も、吹かなかったのに。

西暦2015年(皇紀15年)7月1日、10時45分


 聖亜が目を覚ましたのは、二時限目が終わった直後だった。授業の終わりを告げる鐘の音が、ぼんやりした頭に響く。どうやら、二時間ほど熟睡できたらしい。氷見子先生の姿は見当たらないが、枕元にジャムパンが置いてあった。それを見て、急にお腹が鳴る。そういえば、麻からほとんど何も食べていない。
 ジャムパンをかじりながら教室に向かうと、窓から外の景色が見えた。山の麓という事で、あまり広くないグラウンドから、クラスメイトが次々に校舎の中に入っていく。その中に、準達の姿を見かけ、そういえば、今日は持久走の試験があったな、などと思いながら、角を曲がった時、
「うわっ」
「……おや?」
ドンッと、誰かとぶつかった。
「あ……す、すいません、校長先生」
「ああ、いえいえ、いいんですよ。君は……確か、星君でしたね」
 ぶつかった相手は、腹の突き出た、五十歳ほどの男だった。狸山六郎(たぬやまろくろう)、ここ、根津高等学校の校長を務めている。朗らかで優しく、多少の校則違反は見逃すため、生徒からの評判はまずまずだ。
「植村先生から話は聞いています。いいですか、体調管理はしっかり行ってくださいね。健康第一、ですよ」
 笑いながら去っていく校長を見て、聖亜はほっと息を吐いた。
 確かに、“甘い”校長ではあるが、自分はどうもあの先生が苦手だった。まるで、内心を隠し、笑顔の仮面を無理やり張り付かせているような―
 ぼけっとしている聖亜の耳に、授業5分前を知らせる鐘が響いた。慌てて残りのパンを口に押し込むと、少年は、教室に向かって駆け出していった。

「先週も説明したとおり、イギリスで第一次産業革命が起こると、ワットの手により蒸気機関の雛形、すなわちプロトタイプが作られ……」
 厳しい声が、しんと静まる教室に響く。この授業で、というより、この先生の前で私語をする生徒はいない。もし、私語をしたら、その生徒の昼休みと放課後は無くなってしまうだろう。
「蒸気は、長い間代替品が見つからなかった事もあり、二百年の間、電力と共に主要なエネルギーとして活躍してきた。現在は次世代のエネルギーとして、ガス、及び原子力が注目されているが」
 声の持ち主は、四十台後半の厳しい顔をした男だった。鍋島進(なべじますすむ)、彼は教頭を勤める傍ら、こうやって世界史も教えている。
「だが、世界の約半分の国々、特に中東やアフリカは、未だに蒸気と、そしてそれを動力として動く蒸気機関に頼っているのが現状だ。それはなぜか……星、答えなさい」
「え? あ、はい。えっと、気化石の発明があったからです」
「その通り。正解なのだから、もっと堂々と答えるように」
 びしりと釘を刺され、聖亜はすごすごと席に座りなおした。どうもこの教頭は、校長とは別の意味で苦手だった。
「日本人発明家、黒塚鉄斎により発明された気化石が、世界に与えた影響は大きい。なぜなら、この石一つで石炭の数十倍のエネルギーを生み出す事が可能で、さらに排出されるのは、人間の体になんら害を及ぼさない水蒸気だ。だが、これが発明された当初は、そのあまりのエネルギーに絶えられる蒸気機械は存在せず、そのため耐久性を中心に、蒸気機械は次々に強化されていった。その例が、今でも空を飛んでいる装甲飛空船の開発だが、第一次蒸気大戦中は、この飛空船に武装を積み込み……」
 それでも、聖亜はこの先生が嫌いではなかった。確かに厳しいが、それは生徒を思ってのことであり、彼らを好きにさせている校長とはまるで違う。
 話し続ける教頭の顔を眺めていると、やがて授業終了を告げる鐘の音が聞こえてきた。

「よう聖、今日遅かったじゃねえか」
「そうそう、なにやらかしたんだよ」
 四時限目が終わり、学生食堂に来た聖亜に、二人の男子生徒が話しかけてきた。
「何でもないっすよ、秋野、福井」
「ったく、何でもないなら持久走サボるなよな」
「そう言うなって秋野、どうせ、保健室で植村先生といちゃついてたんだろう」
 金髪の男子、秋野茂(あきのしげる)が、スプーンを咥えたまま愚痴をこぼすと、その隣で、二杯目のカツ丼を頬張っていた福井敏郎(ふくいとしろう)が、にやにやと笑いながらちゃちゃを入れた。
「別にそんなんじゃないっすよ。って、福井、何か昨日と髪型変わってないっすか?」
「おいおい、気付くのが遅いぜ、聖ちゃんよ」
 笑いながら、福井は自分同様、長く伸びた髪をさらりと撫ぜた。確か昨日まではアフロだったはずだ。
「なあ、聞いてくれよ、聖。敏郎の奴、また彼女変えたんだぜ」
「ああ、それで」
「おいおいしげちゃんよ、誰も彼女を変えてなんかないっての。ただ、もう一人増えたってだけ」
「……これで何人めっすか、福井」
 へらへらした友人を、呆れたように眺め、聖亜は二人の向かい側に座った。この大男はなぜかもてる。女好きで、軟派な性格だが、やはり堀の深い顔つきと、体格がいいくせに、お菓子作りが趣味のためなのだろうか、女子と話しているのを良く見かける。
「そんなの三人から数えてねえよ。何だ二人とも、女が欲しいのか? ならさ、今度合コンして見ねえか? お膳立てぐらいしてやるぜ」
「お、それいいな。なあ聖、お前も……」
 笑いながら自分のを見た秋野の顔が、びしりと固まった。
「ん? どうしたっすか? 秋「聖をくだらない事に巻き込むんじゃない。この凸凹コンビ」……あ、準」
 褐色の肌を持つ女子生徒が、何時の間にか自分の後ろに立っていた。縮こまる二人を一瞥すると、いつもの席―聖亜の隣に腰を下ろす。
「ほら、お前の分」
「あ、ありがとっす、準」
 渡されたチャーハンに、早速蓮華を伸ばす。はふはふとおいしそうに食べる少年を幸せそうに眺め、準もラーメンに取り掛かった。
「ちぇ、なんだよ柳、凸凹コンビって」
「実際に凸凹コンビだろ。まったく、福井、合コンなんて言葉、栗原が聞いたらめちゃくちゃ言われるぞ」
 げっと大げさに飛びのき、デコ―百八十を越す長身の福井は、おそるおそる辺りを見渡した。だが、そこに彼らのクラス、1年E組の、鬼のクラス委員の姿はない。
「おいおい、あんまり福井を脅かすな。栗原の奴、今日はソフトボールの県大会で公欠だろ」
 親友の慌てる姿を見て、ボコ―聖亜よりは幾分背が高いが、それでも百七十に届かない秋野は、二人に向き直った。
「まあ、合コンの話は置いといて、それより、そろそろ七夕が近いだろ? 恒例のパーティー、今年もやろうぜ」
「恒例って、まだ去年一回しかやってないじゃないすか。まあ、いいっすけどね。準もどうっすか?」
「ん? ああ、大丈夫だ。けど福井、お前、当日は“ナヌカボシ”で忙しいんじゃなかったのか?」
「へ、ありゃ元々寺の仕事だ。それを親父の奴、神社でもやるなんて言い出しやがって」
 ふてくされながら、三杯目のカツ丼に手を伸ばす神主の息子を見て、準は呆れたように頭を振った。


西暦2015年(皇紀15年)7月1日、12時30分


「それで、ヒスイよ、これからどうする?」
 お昼時、鎮めの森を離れたヒスイ達は、再び蜘蛛の巣を歩いていた。街は相変わらず灰色の煙と汚水に包まれ、じめじめと蒸し暑い。
「そうだな、まず拠点に決めた場所に行こう。そこで休んだ後、この街を中心にエイジャを探す」
「ふむ、ならば問うが、なぜこの街なのだ?」
 黒猫の問いかけには、疑問を投げかけるというより、生徒の答えを確認する、教師のような口ぶりだった。 
「先日の“狩り”を見ると、奴らはこの都市で人を襲う事に慣れていた。つまり、すでに何人かの犠牲者は出ている。けど、新市街、それに旧市街でも、警戒している様子は全くなかった。なら」
 路上に並べられた、縄だか紐だか分からない細長い物をまたぐと、それを並べていた男がじろりと睨んできた。
「人間が消えてもおかしくない、この歪んだ街で狩られているということか、ふむ、50点」
「……随分と厳しい評価だな」
 ヒスイが苦笑すると、キュウはまだまだだな、という風に首を振った。
「この街を狩場に選んだのなら、なぜわざわざ川の向こう側、旧市街に出現した?奴らの目的は不明だが、なぜ気付かれる危険をわざわざ冒す?」
「それは……必要な数をそろえたか、旧市街でなければならない理由があったのか」
「狩りを終えたのなら、奴らは速やかに次の行動に移る。つまり、そこでなければならない理由があったのだ。つまり」
 話を続けている黒猫のお腹が、クウと鳴った。
「どういう理由にしろ、人間を襲ったエイジャを討つことに変わりはない。それより、“教会”に行く前に何か食べよう。朝から歩き通しだからな、さすがにお腹が空いた」
 小さく笑い、きょろきょろと周りを見ると、さほど遠くない所に、一軒の“めしや”が見えた。


西暦2015年(皇紀15年)7月1日、18時20分


 旧市街で人気のスポットはどこか。そう聞かれたら、皆3つの場所を答えるだろう。デパート通り、神社前の土産物売り場、そして、空港の前、喫茶店が軒を連ねる、空船通り(そらふねどおり)を。
 夕日が射す中、通りの一角にある二階建ての喫茶店「キャッツ」で、そのウエイトレスはうんざりした顔で給仕をしていた。
「聖ちゃ~ん、お水頂戴」
「あ、ずるいぞお前、ちゃんと注文しろよ。“聖華”ちゃ~ん、俺はレンジジュースね」
 カウンターが1つ、他にテーブルが4,5席あるだけの小さな店内は、今日も客(大部分は男)で混み合っていた。メニューが豊富で、しかもお手ごろ価格という事もあるが、それ以上に彼らが楽しみにしているのは、この店の看板娘を見ることにあった。いや、正確には、“娘”じゃないんだが……。
「……はぁ」
 その看板娘(?)黒い猫耳と、同じ色の尻尾をつけた小柄なウエイトレスは、客を一通りさばき終え、物陰でげっそりと息を吐いた。
「あらら、な~に勝手に休んでるのさ、看板娘のせ・い・かちゃん」
「……祭(まつり)さんまで、チャン付けで呼ばないでくださいっす、気持ち悪い」
 もうお分かりだろうが、聖華―ウエイトレスの格好をさせられた聖亜が愚痴をこぼすと、茶色い耳と尻尾を付けた活発な大学生は、へっとはき捨てるように笑った。
「あらら、いいのかな、口答えして。この前、スケベな客に迫られてたの、誰が助けてやったんだっけ」
「……祭さんっすよ、すいませんね、口答えして」
「あはは、謝らなくていいよ、聖ちゃん、祭ちゃん、ただ不貞腐れてるだけだから」」
 そこに、お揃いのピンクの耳と尻尾を付けた小柄なウエイトレスが二人、両手に汚れた食器を持ってやってきた。
「あ、昴(すばる)姉、北斗(ほくと)姉、お疲れさまっす」
「「うん、お疲れ様、聖ちゃん」」
「お疲れさんと、けどよ姉さま方、不貞腐れてるはねえだろ、不貞腐れてるはよ」
「「だって、女の子の祭ちゃんより、男の子の聖ちゃんのほうが人気あるんだもの。不貞腐れるのは当然よ。ね~」」
 姿形だけでなく、声まで同じな双子に笑われ、祭は小さく舌打ちしたが、すぐににやりと笑った。
「ああ、でも一番はやっぱりお姉さま方だよな。なんたって、この中じゃ一番の古株なん、だ……から」
 その瞬間、周りの空気が、びしりと変わった。
「……あ? だれが10以上も年上のおばさんですって?」
「そうそう、誰が若作りしなきゃ彼氏も出来ない婆さんなのかしら」
「え? いや、誰もそんなこと言って……」
「言い訳禁止。聖ちゃん、ちょっとマスターを手伝ってきてくれる?」
「そうそう、あたし達は身の程知らずな小娘ちゃんに、ちょ~っとお話があるから」
「は、はひ、い、行って来まふ」
「「いい子ね、聖ちゃん。さ、こっちにいらっしゃい、祭ちゃん……いろいろと教育しなおしてあげるから」」
 どこまでも低い双子の声に、がたがた震えながら回れ右をすると、聖亜は急いで逃げ出した。

―数秒後、店内に少女の悲鳴が響き渡った。

「はは、相変わらず女性陣に振り回されているな。いかんぞ、聖」
「……いかんぞと言われても、勝ち目ないっすよ、マスター」
 調理場とは別にある、カウンターの隅にある小さなキッチンに逃げてきた聖亜を迎えたのは、「キャッツ」のマスターを務める、荒川白夜(あらかわびゃくや)だった。自分より頭二つ分の身長、30台前半の渋い顔つき、黒髪を後ろに撫で付けた、訪れる女性に大人気のクールな二枚目である。
「まったく、男子がそんな事でどうする。教えその三十三、男たるもの、女の一人や二人、立派に尻の下に敷いてみせろ」
……多少、性格に問題はあるが。
 笑いながら、白夜はクッキングヒーターの上にあるフライパンを右手で器用に動かし―炎が苦手な聖亜のために、奥の調理場と違い、飲み物のつまみを作るここには、ガス台は置かれていない―空いた左手で、横にある汚れた食器を指差す。洗えという事だろう。
「けど、マスターだって市葉(いちは)さんに、頭が上がらないじゃないっすか」
「おいおい、あれは頭が上がらないんじゃない。俺が妥協してやってるだけさ」
「………………あら、そうだったのですか」
 笑いながら作業を続ける二人の男、その背後から、冷たい声が響いた。二人とも、ぎぎぎっと、そろって首を後ろに回し、何時の間にか立っていた、声の持ち主を見た。
「だんな様がそんな風に思っていたなんて、知りませんでしたわ。ふふ、今度から妥協なんてされないよう、本気を出さないと」
 調理場から現れたのは、艶のある黒髪をした、妙齢な女性だった。顔は穏やかだが、その目は全く笑っていない。
「い、いや、市葉、お手柔らかに頼む」
 はいはい、とにこやかに笑う料理長に、ひたすら頭を下げるこの店のマスターを見て、聖亜は心の中でそっとつぶやいた。
(……師匠、だめすぎっす)

「そ、そうだ市葉、何か用なんだろう?」
「あら、すっかり忘れてたわ」
 軽く両手を叩き、一度調理場に戻った市葉だったが、すぐに戻ってきた。その手に、さっきまで無かった大きなバスケットを抱えて。
「ねえ聖ちゃん、悪いのだけれど、お医者様に、いつもの頼めるかしら」 
「……あの、今からっすか?」
 時間は、すでに19時を過ぎている。不安げに見上げてくる少年に、市葉はすまなさそうに頷いた。
「ごめんなさい、どうしても届けて欲しいって連絡があったの。お得意様だし、断れなかったのよ」
「……まあ、お二人以外で、あの“街”に詳しいのは自分っすから、俺が行かなきゃ行けないのは分かるんすけど……分かりましたよ、行ってきます」
 ごめんね、と言う市葉からバスケットを受け取ると、耳と尻尾を取り外し、聖亜は裏口からそっと出て行った。

西暦2015年(皇紀15年)7月1日、20時13分


 がたごとと、調子の悪い機関(エンジン)の音が車内に響く。
 整備がおざなりだな。そう思いながら、ウエイトレスの格好をしたまま、聖亜は灰色に包まれた街を、ぼんやりと眺めていた。

「いや、すまんな、聖」
「いいっすよ、先生には、俺もお世話になったっすから」
 聖亜がバスケット―夜食と少量の医薬品を届けた相手は、灰色街にある蜘蛛の巣の一角で、もぐりの医者をしている初老の男だった。といっても、患者はほとんど来ない。この街で重症を負う事は、十中八九死を意味したからだ。
 今日の配達は、どうやら蜘蛛の巣の有力者の娘が病気になり、その薬が足りなかったらしい。
「しかし、聖、相変わらず女装が似合うな」
「……相手しろ、なんていったら殺しますからね」
 先程薬を取りに来た男達にじろじろと見られ、機嫌の悪い聖亜は、ずけずけと言いながら、ふと、周りを見た。
「なんか今日、お客さんが多いっすね」
 所々ひび割れ、ほこりかぶった建物の中には、四十人ほどの患者がいた。むろん清潔なベッドなど無い。皆床や階段の隅に寝かされている。よほど重症なのか、ぴくりとも動かない。
「や、こいつらは患者じゃねえんだ。ちょっと見てみろ」
 促され、聖亜は近くで寝ている一人の男に歩み寄った。彼は苦悶の表情を浮かべ眠っている。いや、これは眠っているんじゃない?
「先生……この人は」
「三日前、排水溝近くで自警団の連中に発見された。体の所々に古傷あり。身に着けている物はボロ、と、一般的な格好だが……どうだ、おかしな所は分かるか?」
「おかしいって、どこも……って、ちょっと待ってください。排水溝の近くって言いましたよね」
「ああ」
「じゃあ、手足があるのはおかしいっすよ。あそこは“鼠”の巣に近いっすから」
 聖亜のいう鼠とは、言葉通りの生き物ではない。災厄の後、街に巣食うようになった数多くの化物(けもの)の一種だ。ぼさぼさの髪と、灰色ににごった目を持つ、生物の三大欲求―食欲、性欲、睡眠欲と、もう一つ、金欲で動いている。そして食欲の主な対象は、人間だ。
「ああ、奴らは生きた人間も、死んだ人間も見境なしに“喰らう”だが、この男を含め、他の四十人以上の老若男女、その全てが“喰われて”いない。つまりこいつらは、生きても死んでもいないことになる。そして、もう一つ、共通しているのは」
 男の胸にかかっているボロを剥ぎ取ると、ちょうど心臓がある場所に、5つの紫色の痣があった。
「先生……これって」
「ううむ、見当がつかん。物凄い力で指を押し当てたらこういう風になるが、化物の中で、これが出来るのは狒々(ひひ)だけだが、奴らは心臓を“喰らう”。だが、見ての通り無傷だ……と、バスが来たな。ごくろうさん」
 紫色の痣を呆然と見つめる聖亜の耳に、遠くからガタゴトと、調子の悪い機関音が聞こえてきた。

(あれは、たぶん昨日の奴らの仕業っすかね)
 先程見た紫色の痣を見て、聖亜は無意識のうちに、首を掻いた。薄くなっているが、そこには彼らと同じ痣がある。だが、確実にそうだといえるわけではない。なぜなら―
 ふと、聖亜はバスの中を見た。
 復興街を走る装甲バスの中には、自分と運転手以外、誰もいない。夜になると、この街の治安は急激に悪化する。治安維持のために結成された自警団の勤務時間が終わるためだ。ある程度安全な昼と比べ、夜の街は、文字通り快楽と暴力、そして残虐な街となる。
 そんな街に来たがる外部の人間は、旧市街、ましてや彼らを人間と思っていない新市街の中には、もうほとんどいない。
(災厄が起こる前は、こんなにひどい差別は無かったって、親父は言ってたけど)
 そんな昔の事は知らない。聖亜が覚えているのは、差別する人間とされる人間、その間で右往左往する自分達だけだ。
「そろそろ橋に差し掛かりますぜ。お客さん」
「……ふえ? ああ、はいっす」
 自分を呼ぶ運転手の声に我に返る。どうやら、考えながらうとうととしてしまったようだ。
「しかし、こっちにくるお客さんなんて、最近はほとんどいませんな。一昔前は、蜘蛛の巣で売られている薬を買おうと、結構なお客さんを乗せたもんですが」
「そうなんっすか」
「今日も、朝一番で若いお客を乗せたきりで、やっぱりこの街は時代に取り残されるんですかねえ」
「はあ……どうでもいいけど、ちゃんと前見て運転してほしいっす」
「ああ、大丈夫ですよ。この道は13年間、毎日運転してるんだ。それに、こんな街の奴ら、一匹や二匹ひき殺したぐらいじゃ、罪に問われることもな」
 ふと、運転手の声が途切れた。それだけではない。いつのまにか、装甲バスも止まっている。
「あの、運転手さん?」
 何か嫌な予感に首をかしげながら、聖亜は運転手に声をかけた。返事は無い。しんと静まるバスの中に、自分の声がむなしく響く。
「あの、本当に大丈夫っすか? 運転手さ」
 近寄って、彼の肩に手を置いた聖亜は、何気なくバスの前を見て、

―そして、固まった。

                                   続く



[22727] スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常③
Name: 活字狂い◆e0323915 ID:a8247099
Date: 2010/12/27 11:32
 それが何に似ているか。
 そう聞かれれば、見た人間はそろって答えるだろう。
 
 “饅頭”に似ていると。

 確かに、丸く、少し平べったいそれは、饅頭に見えなくも無い。

 ただし、色は黒く、その大きさは、バスと同じぐらいあったが


「う……あ」
 それを見た途端、聖亜は自分の体を、悪寒と吐き気が走るのを感じた。
 がくがくと足が震える。立っていられなくなり、床に蹲った。間違いない。この感覚は、彼が昨日感じたものだ。

 そう、黒い世界で、人形に襲われた時に感じた、あの絶望に

 蹲り、必死に吐き気をこらえる少年の先で、巨大な黒い饅頭は、ぐにぐにとその形を変え始めた。
 まず、饅頭に似た形が、縦に伸びていく。バスの倍ほどの大きさまで伸びると、その左右に、ぶつぶつと無数の突起物が生まれ始めた。女子供や、気の弱い人が見れば卒倒するだろうが、幸か不幸か、聖亜は気絶することなく、その変化を見続けていた。
 生まれた突起物は、横に長く伸びていく。やがて、その先端から、さらに細い突起物が四本出てきた。
「……っ!」
 次の変化を見たとき、聖亜は声にならない悲鳴を上げた。伸びた体の真ん中に、縦にびしりと亀裂が入り、ぐぱりと左右に広がった。
 その中に入っていたのは、幾重にも重なった、紫色にぬめぬめと光る、大きさが、赤子ほどもある牙だった。

 饅頭、いや、黒い化け物は、自分の体に生まれた口で、吼えた。元々発声器官が無いのだろう、それは単に空気を振るわせただけだったが、化け物が吼えた瞬間、左右に生えた無数の突起物―腕が、何かを探すように辺りに広がった。
 暫く闇雲に辺りを探っていた黒い手だったが、その一つが微かにバスに触れた時、散らばっていた他の手が、競い合うようにこちらに向かってきた。
「……ひっ」
 震える体で何とか立ち上がると、聖亜は隣にいる運転手を持ち上げようとした。だが、その体は、まるで座席に吸い付いたように離れない。外そうともがいていると、バスの前面に、黒い手がべたべたと張り付いてきた。
「…………くっ」
 一瞬、運転手を見る。だが、次の瞬間、聖亜は銃弾にも耐える強化窓を突き破って入ってきた無数の黒い手の、その僅かに出来た隙間に、体を強引にねじ込んだ。
 幸いな事に、小柄な体は手に触れることなく、外に向かって転がり落ちた。

 バンッ

「痛っ!」
 地面の上をごろごろと転がる。地面に打ちつけた右肩が痛むが、どうやら折れてはいないようだ。せいぜい、明日紫色の痣が出来るぐらいだろう。もっとも、明日まで生きていられたらの話だが。
 じんじんと痛む肩を押さえ、ふらふらと立ち上がる。化け物は、胴体に出来た口で、引き寄せたバスを噛み砕く作業で忙しいらしい。あれでは、運転手は生きてはいないだろう。
 それを横目で見ると、聖亜はゆっくりと歩き出した。この黒い世界に“端”があるかは分からないが、一先ずここから移動しなければならない。
 だが、

「あら、どこに行くのかしら、お嬢ちゃん」

 その動きをさえぎるように、辺りに楽しげに笑う、女の声が響いた。


「あなたがポーンとビショップの言っていた家畜? けど、ビショップの作り上げた穴だらけの“黒空間”とは違う、私の完全な“封縛空間”の中で動けるなんて……特別変異か何かかしらね」
 声の持ち主は、首を軽くかしげながら、少年に近づいてくる。その表情は分からない。いや、表情だけではない。彼女の顔すら、聖亜には分からなかった。

 なぜなら、彼女は人ではなかったから。顔に笑顔を張り付かせた仮面を着け、両手にあたる部分には、代わりに左右一本ずつ、鋭い突撃槍(ランス)を装着し、腰から下には、馬のように四本の足を持っている。
 まるで、ケンタウロスのような格好をした彼女の体には、所々に節目が出来ている。そう、昨日の人形と、同じように。
「ふふん、まあ、良いわ。逃げも隠れも、抵抗すらしない羊を狩るのには飽き飽きしていたところよ。狐を狩るように―いえ、そこまでは期待しないわ。せいぜい野兎を狩るぐらいには楽しませて頂戴」
 笑う人形の後ろから、先程の化け物が三体、のそのそと歩いてくる。それに、バスを食べ終えた一体が加わり、計四体が、聖亜に物欲しそうに手を伸ばそうとしている。
「あら、あなた達は手を出しては駄目よ。“お楽しみ”がすぐに終わってしまうじゃない。さてと、では、せいぜい無様にお逃げなさいな。野兎ちゃん」
 化け物から聖亜に視線を移した、人形のその表情は、どこまでも残酷な笑みだった。

「ぐあっ!!」
 不意に、強烈な殺気が吹き付ける。それを受ける瞬間、聖亜は咄嗟に横に跳んだ。半瞬、いや、四半瞬後、今まで彼がいた場所を、何かが物凄い勢いで通り過ぎた。
「くくくっ、中々やるじゃない、お嬢ちゃん。さっきの突きを避けるなんて」
「……お、お褒めの言葉、どうも」
 相手の軽口に答えながら、聖亜は必死に逃げ道を探した。少しでも早く避ければ軌道を変えられ、少しでも遅く動けばその時点でゲーム・オーバーとなる。だから、ぎりぎりの所で動いたのだが、突き自体は避けても、その風圧は、まるで鋼のように、少年の体を打ちつけた。
「けれど、ふふ、風圧自体は避けられないでしょう? その痛む体で、果たして後どれぐらい避けられるかしら」
 右から、左から、前から、後ろから、強烈な風圧を伴って、突進が繰り返される。その死神の鎌を、聖亜は何とか避け続けていたが、四回目の突進を避けたところで、がくりと膝をついた。小柄な体には、もうほとんど体力は残っていない。
「あはははは、こんなに楽しい狩りは本当に久しぶり。けど残念ね。どうやらこれでお終いみたい」
 突進の姿勢を解いた人形が、笑いながら近づき、左の槍で服を刺すと、そのまま持ち上げた。諦めたのか、少年は俯いたまま、人形の好きにされている。
「ねえ、何か最後に言いたいことはあるかしら。何でも良いのよ? どうせ、あなたはここで死ぬんですもの」
「……死ぬ?」
「……?」
「じゃあ、一つだけ」
 “死”という言葉に、少年の気配が変わった。今までの、単なる狩られるそれから、細く鋭い、突き刺すようなそれに。
 人形が困惑する、その前で、聖亜は俯いていた顔を上げると、相手をじっと見た。

 その、細い瞳で。

「何であんたは、そう悲しそうに笑ってるんだ?」
「っ!! あなた、私を侮辱する気!!」
 激昂した人形が、少年に向け、右の槍を振り上げた、その瞬間、


 黒い窓を砕いて現れた白刃が、その槍を切断した。


「ぐっ……そ、そういえば、あなたがいたのよね、すっかり忘れていたわ。百殺の絶対零度」
 激痛と屈辱の中、人形は聖亜を放り出すと、槍を切断し、ゆっくりと立ち上がった、白髪の少年を、笑いながら見た。
 その視線に、彼は冷たく笑みを返していたが、ふと、傍らで蹲る少年に目を向けた。
「こいつ、また襲われたのか」
「ふん、まあ、どうせ我らの事など覚えていまい。さっさと終わらせて、また記憶を封じればいいだけだ」
 少年の足元で、黒猫が興味なさそうに呟いた。が、
「……いや、ちゃ、ちゃんと、覚えてるっすよ。助けてくれて、ありがとうございます」
 息を整え、立ち上がると、聖亜は黒猫に向け、にっこりと微笑んだ。
「……馬鹿な、我の“忘却の術”が効かなかっただと?」
「別に効果が無かったら無かったでいいだろう」
「し、しかしな、我にも術に対する誇りというものがあってだな」
「……いい加減にしてもらえるかしら」
 切断された槍を隅に蹴ると、人形は笑い顔のまま、低い声を出す。右手に持った太刀を一度振ると、少年は、改めて人形に向き直った。
「……片方の槍を失ったお前に、勝機は無い。諦めたらどうだ」
 少年の言葉に答えず、人形は残った槍を彼に向ける。と、その背後から、黒い化け物が、四体とも前に進み出た。
「……“集合種”の陰に隠れて、自分は逃げ出すか。無様だな」
「あら、挑発のつもり? 乗ってあげてもいいけど、さすがに集中力を欠いた状態で、あなたとやり合うのは御免こうむるわ……くっ」
 下がる人形に追いすがる少年だが、行く手を阻むかのように化け物が三体、その無数の手を伸ばし始める。残りの一体は、どうやら痛みと疲労で満足に動けない聖亜を標的に選んだようだ。ゆっくりと、だが確実にこちらに迫ってくる。
 それを見て、小さく舌打ちをすると、少年は聖亜の方に一度下がった。
「たかが四体の集合種、大した敵じゃないけど」
「ふむ、だがなヒスイよ。この小僧はどうするつもりだ」
 黒猫の問いに、少年は暫く考えるように前を向いていたが、やがてため息を吐き、こちらを振り返った。
「な、なんっす……うむっ」
 突然、口が塞がれた。少年の手によって、では無い。彼の両手は、それぞれ太刀と小太刀で塞がれている。だから、聖亜の口を塞いでいるのは、少年の手ではなく、
「あ……う」
 少年の、小さく、そして柔らかい唇だった。
 周りにくちゅくちゅと音が響く。少年の舌が口内を蹂躙し、相手の唾が入り込んでくる。気持ち悪さと、若干感じる気持ちよさに吐き出そうとするが、出入り口が塞がっているため、吐き出す事が出来ない。あまりの苦しさに、ついこくりと飲んでしまう。それを確認し、少年は唇を離した。
「な、い、いきなり何するっすか、このへ―あれ?」
 顔を真っ赤に染めて立ち上がると、怒鳴ろうと一歩踏み出し、はたと立ち止まった。今まで体中に纏わりついていた痛みと疲労が、綺麗に無くなっている。
「……ヒスイよ、いいのか?」
「医療行為だ。それに、足手まといになられるよりはましだ……おい、これを貸してやるから、自分の身ぐらい、自分で護って見せろ」
 足元に、少年が投げた小太刀が突き刺さる。屈んでそれを引き抜いた時、彼は化け物に向かって駆け出していた。

「うわっ」
 這うように向かってくる手に、聖亜は慌てて小太刀を振り上げた。思ったより軽い。狙いをしっかりと付け、足元に迫ったそれに、思い切り突き刺す。
「うわ、とっと」
 少年がバランスを崩したのは、感じるはずの抵抗が、水を突いたように薄かったからだ。バスを突き破る手は、簡単に引き裂かれ、じたばたと暴れる。だが、すぐにしゅうしゅうと臭気を発しながら消滅した。
「……なんなんすか、この威力」
「小僧、呆けるな、次が来るぞ!!」
 すぐ近くから聞こえる黒猫の声に、はっと我に返ると、今度は空中から襲い掛かる手に、慌てて小太刀を振り回した。
 黒い手が四本ほど、まとめて引き裂かれ、地に落ちた。
「ふん、どうやら振り回すぐらいは出来るようだな」
「お、お褒めの言葉、どうもっす」
 黒い手は、どれほど切っても絶える気配は無い。どうやら、後ろにいる本体が、次々に生み出しているようだ。その猛攻に、聖亜は壁際に徐々に追い詰められていった。
「ふん、だが、もう追い詰められたか、情けない」
「う……」
「しかし、初めてにしては中々だ。まあ、少しばかり手助けをしてやろう。そこで見ているが良い、半人前の青二才」
 くくっと低く笑うと、黒猫は少年の前に進み出る。当然、少年に襲い掛かる手は、その標的を変えた。
「ちょ、危ないっすよ!!」
 慌てて駆け出そうとした聖亜は、手がいきなりあらぬ方向に伸びるのを見て、立ち止まった。
「何を立ち止まっている、今のうちに本体を叩かぬか」
「へ? ああ、はい」
 取っ組み合い、絡み合う手の間を身長に潜り抜けると、奥に佇む本体に、聖亜はえいっと小太刀を突き刺した。
 その途端、悲しげな声を発し、化け物はずずんっと崩れ落ち、消えた。
「……え? これで、終わりっすか?」
「ふん、図に乗るな。貴様の力ではない。小太刀“護鬼”の切れ味が鋭いだけよ」
 得意げに胸を張った黒猫が、右肩に飛び乗ってくる。伸し掛かる重みに少し眉をひそめ、聖亜はきょろきょろと辺りを見渡した。
「そういえば、あの変態はどこっすか?」
「……変態とは随分な言い草だな。まあいい、あそこだ」
 黒猫が右を向く。それにつられ、振り向いた少年の瞳は、それを見た。

 幾つもの黒い手が、地を張って向かってくる。それを後ろに下がる事で避け、次の瞬間、彼はぱっと横に飛んだ。前から迫ってくる手と、後ろから襲い掛かろうとした手がぶつかり、こんがらがる。
 それに目もくれず、少年は跳躍すると、無防備な二体を、頭から太刀で下まで一気に切り裂いた。

 
 鬼だ


 自分の何倍もの大きさを持つ化け物を、簡単に殺す少年を見て、聖亜はふと、思った。

 だがその動きは、どこまでも美しかった。

「ふむ、終わったようだな」
「へ? あ、ああ、そうっすね」
 どうやら、すでに一体倒していたらしい。少年は、黒く染まった太刀を一振りし、こちらに戻ってきた。
「ご苦労だったな、ヒスイ」
「別に苦労なんてしていない。それより……誰が変態だ」
「え、あ、その」
 どうやら、先程の会話が聞こえていたらしい。慌てふためく少年から小太刀を奪い取った時、
「あら、随分と早かったのね」
 暗がりから、人形がゆっくりと歩いてきた。

「ふん、これでお前を護る者は、誰もいなくなったな」
「護る者、ですって? ふふ、あの子達は私が集中力を回復するまでの、単なる時間稼ぎよ」
「……もう一度言って欲しいのか? 片腕を失ったお前に、もう勝機は無い」
 少年の言葉に、人形はころころと笑い声を上げた。
「ええ、確かに片腕では分が悪いわ。けどね、まだ私は本気で走っていないのよ。ああ、それと、お嬢ちゃん」
「へ? 俺っすか?」
「そう、さっきの質問に答えてあげる。私はね……この姿になってから、笑いたいと思ったことは一度も無いの。さて、と、無駄話はお終い」
 人形が、ゆっくりと腰を下ろし、槍を構えると、
「さあ、この私“ナイト”の本気の突撃、受けて御覧なさい!!」
 その体が、いきなり八つに“ぶれた”。
「!!」
 空気が爆発した。そう思うほど強烈な爆風と共に、前後左右から、ほぼ同時に人形が襲い掛かってきた。
「くっ!!」
 向かってくる人形に、少年は太刀を叩きつける。その一撃で人形は掻き消えるが、後ろから別の人形がぶち当たった。
「うあっ」
 前につんのめった少年に、左右からさらに人形がぶち当たる。どうやら、分身自体に攻撃力は無いらしい。だが、度重なる衝撃で、少年の体は、ふらふらとふらついてきた。
「ちょ、な、なんかまずくないっすか?」
 風で飛ばされそうになる猫を抱え、閉じそうになる瞼を必死に開ける。
「ふん……小僧、貴様ヒスイを何だと思っている。あれぐらい、窮地のうちにも入らん」
「……へ?」
 とうとう片膝を着いた少年を見てか、彼の前方に、ナイトはすたりと降り立った。
「ふふ、どうやらもう動けないようね」
「……」
「喋る気力も無し、か。あはは、中々楽しかったわ絶対零度。けど残念ね。これでお終いよ!!」
 どうやら、今度は分身を作らないらしい。前足で地面をカッカッと掻くと、後ろ足に力を込め―突進した。
「……ああ、お前がな!!」

 突き出された槍の穂先を、小太刀で受け流すと、脇を走り抜けようとした人形の、その右前足を、少年は、太刀でざっくりと切り裂いた。

「あああああああっ!!」
「これで、ご自慢の突進は出来なくなったな。足をやられた馬なんて、ロバにも劣る」
「ロバ……ですってぇ!!」
 足を切られ、滑るように地面に倒れた人形が、笑い顔のまま、ぎりぎりと少年を睨み付ける。その視線を受けた相手は、だが、それをさらりと受け流し、すずしげな顔で見返した。
「……ふ、ふふ、まさか“緑界”の龍騎兵だったこの私が、こんな所で果てる事になるなんて、ね」
 諦めたのか、軽やかに笑う人形を、少年はじっと見つめたが、やがて、太刀を振り上げ、
「これで、一体目」
 人形の首めがけ、振り下ろ―

 キンッ

「っ!!」
 振り下ろした太刀は、どこからか飛んできた黒い短剣に弾かれ、宙を舞った。
「あははは、やるやる、さすがは絶対零度」
「……何者だ、お前」
 痺れの残る手を振ると、小太刀を両手に持ち直し、くるくると踊るように舞う短剣を受け止めたその男を、少年はきつく睨み付けた。

 黒い空の上には、何時の間にか、灰色の月が生まれていた。


「やれやれ、手持ちの駒で、一番強い物を出したのに、この程度とは、ねぇ」
「……もう一度聞く。何者だ」
 怒りを隠さないで睨む少年に、男はにやりと笑うと、折れかかったガス灯からひらりと降り立ち、優雅に一礼した。
「さてさて、それでは自己紹介を。生まれは“青界”育つは“黒界”、手につけた職は一級道化師、“仮装道化師”ドートスと申します。どうぞ、一時の喜劇をご堪能くださいませ」
 その姿は、サーカスで見かけるピエロに瓜二つだ。赤と黒の縞模様の帽子を被り、端正な顔にはおしろいを塗りたくっている。襟首には初夏だというのに白いマフラーを巻き、緑色の服から出ている足は、異様に大きい。
「ドートス……知っているか、キュウ」
「いや、知らぬ。我の記憶陣に埋め込んでいるのは、“大戦”以前のエイジャのみだ」
「……なら、大した事はないか」
 口ではそう言いながらも、油断無く睨みつけてくる少年に、ドートスは大げさに首を振った。
「ああああ、そう警戒なさらずに。折角の劇がだ~いなしになってしまう。大丈夫、今日はただ、その“役立たず”を回収しに来ただけだからねえ」
 役立たず―その言葉にナイトは反論しようとしたが、やがて、ぐっと俯いた。それをにやにやと笑いながら見ると、道化師はぱちりと指を鳴らした。と、傷ついた人形の体が光り、彼が開いた手の中に吸い込まれていく。彼がにこやかに笑いながらこちらに見せたのは、所々破損している、チェスの駒だった。
「……それが人形の正体か」
「そうさ、魂をチェスの駒に封じ込め、使役させる“トライアングル・チェスター”。こいつらは凶悪な罪人だって聞いていたんだけどねえ」
 ドートスはナイトの駒を茶化すように指で弾くと、緑色の服についているポケットの中から三角形の板を取り出した。破損しているポーンの隣に、ナイトの駒をぐりぐりと差し込む。
「さて、用事も済んだ事だし、僕としてはこのまま帰りたいんだ・け・ど」
「……逃がすと思っているのか?」
「だよねえ、なら、どうする? ほらほら」
「その前に一つ聞く。お前が、全ての元凶か」
「そうで~す、なら、やる事は一つだよね、ね、ね」
「なら、ここでお前を討てば、全て終わる!!」
 にこやかに笑う道化師に、少年は小太刀を構え、走り出す。相手は動かない。その刃が届く瞬間、
 彼は、ぱちんと、指を鳴らした。
 
 キンッと、小太刀はドートスの胸に当たり、ぽとりと落ちた。
「うっ」
「言ったはずだよ、僕は仮装道化師だと。自分の肉体を、好きなように変化させられる。鋼鉄に変化させれば、刃なんて、通るはずがないよ、お・ば・か、さん」
 足元に転がる小太刀を拾い上げ、暫く指で弄んでいたが、やがて、つまらなそうに放り投げた。
「このままお暇する予定だったけど、どうやら君は御しやすい相手のようだ。結構。なら、今この場でぶち殺して差し上げよう」
「く、なめるな!!」
 無造作に投げられた黒い短剣を避けると、少年は木立に向けて駆け出した。だが、不意に、何かに躓いたかのように転がった。
 少年が見上げると、先程避けた短剣が、ふわふわと浮かんでいるのが見えた。再び襲い掛かってきたそれを右足で蹴り飛ばすと、短剣は、くるくると回りながら、“縦”に割れた。
「なっ」
「幻想短剣(イリュージョン・ナイフ)。本当はもっと数を増やせるんだけど、無様に寝転ぶ君には二本で十分さ。それじゃ、さようなら、絶対零度」
 短剣が二本、その刃を白髪の少年に向ける。立ち上がろうとしたとき、右足がずきりと痛んだ。見ると、足首がかすかに裂け、血が滲んでいる。どうやら、先程蹴り飛ばした時に付いたものらしい。
 傷自体は深くないが、一瞬、体勢が崩れた。
「あははははは、それじゃ、さようなら、愚かで馬鹿な玩具使い!!」
 道化師が鳴らした指に答え、襲い掛かる短剣が、今まさに突き刺さる、その瞬間、
「ちょっと待ってもらおうか」
 冷たい声と共に振るわれた太刀が、短剣を叩き落した。


「……おや? 誰だい、君は」
「別に誰だっていいだろ。大体、こいつのすぐ後ろにいたのに、手前、ずっと無視してたじゃねえか」
「あたり前じゃないか。玩具使いでも何でもない、単なる家畜一匹に、どうして目を向けなきゃならないんだい? 中層氏民である、この僕が」
 聖亜が道化師と睨みあっている、その脇を、黒猫が少年に駆け寄った。それを気配で感じると、彼はほっとしたように息を吐き、改めて道化師を睨みつけた。
「へえ、なら、何で手前は、その家畜一匹を殺せないのかねえ。簡単だろ、手前の言うとおり、俺にはなんの力も無いんだから」
「ふん、言われなくたって、今す……ぐ?」
 不意に、ドートスは、自分の体が強張るのを感じた。
 別に何かされたわけではない。なら、何故動けない? 何とか目を動かし、目の前にいる家畜を見た。


 目と目が、ふと合った。


―そうだ、こいつの、この家畜の目だ。ただの家畜の、単なる細い瞳が、自分を恐れもせず、侮蔑を込めて見つめてくる。体の底から湧きあがる、この感情、これは
「ふは、は、ふははははははは、僕が、この僕が恐怖を感じているだって? 単なる家畜に? ただ喰われるしか能が無い豚に? ふざ、ふざけんじゃねえよ!! 俺が、この俺が家畜なんか怖がるはずねえだろうがっ!!」
 虚勢を張ってみるが、背中を滑り落ちる冷たい汗は、嘘をつかない。
「……ふ、ふふ、良いだろう、今日の所は、見逃してやろう。けど、次にあったら容赦はしねえ。手前も、手前が後ろで護っている糞馬鹿玩具使いも、この俺様が、まとめて生きたまま貪り喰ってやる。覚えてやがれ!!」
 捨て台詞を一つ吐くと、道化師は、ガス灯からガス灯へと跳躍しながら、徐々に遠ざかっていった。


「あの……大丈夫っすか?」
 道化師の姿が完全に見えなくなると、周りが徐々に見慣れた景色に戻っていった。完全に戻ったのを確認してから、聖亜は後ろで俯く少年に、太刀を差し出す。白髪の少年はぼんやりと聖亜を見上げたが、やがて息を吐き、太刀を奪い取った。
「……キュウ」
「ふむ、何だ?」
「……また、頼む」
「うむ、やっても良いが、ヒスイよ、こやつにはなぜか我の術が効かなかった。おそらく今度も効かぬだろう。ならば」
「……巻き込めというのか、一般人を」
「仕方ないであろう。記憶を封じる事が出来ぬ以上、我らの監視下に置いたほうが、こやつの身の為だ。大体、ヒスイ、そなた今日一日歩いて、奴らの巣窟どころか、それ以前に拠点と決めた教会すら見つけられなかったではないか」
「う……」
 黒猫に睨まれ、少年は暫く考え込んでいたが、やがておずおずと立ち上がった。
「あ、あの……」
「は、はい、何っすか?」
「さっきは、その、助かった」
「へ? あ、ああ、いいっすよ、別に。お互い様っす」
 パタパタと手を振る聖亜を前に、未だに迷っていた少年だったが、黒猫の視線に、諦めたように口を開いた。
「それで、その、聞きたい、というより、復興街の中で、行きたい場所が、あるんだが」
「へ? あの、今からっすか?」
 嫌そうに顔をしかめた聖亜を、少年はむっとして睨んだ。
「いや、いやならいい。忘れてくれ」
「あ、違うっす、別に嫌じゃないっすけど、この時間帯、結構危なくなる場所があるんすよ」
「……小僧、お主先程の戦闘を見たであろう。人外と戦う我らが、単なる人間に後れを取ると、本気で思っているのか?」
 ぶつくさと呟く少年に呆れてか、黒猫が肩に飛び乗ってきた。その紫電の瞳に睨みつけられ、聖亜はやれやれと被りを振る。
「はあ、そうは思わないっすけど、けど出てくるの、人間だけじゃなく、化物も……まあ、大丈夫とは思うっすけどね、それで、どこに行きたいっすか?」
「ああ、その、聖エルモ教会に行きたいんだが……どうかしたのか?」
 不意に、顔をこわばらせる聖亜を、少年は首を傾げて眺めた。白髪が、彼の動きに合わせてさらりと雪のように流れる。
「………………へ? ああ、いや、その、何でもないでっすよ、本当に、ええもう、まったく」
「……?」
「と、とにかく、そこだったら大丈夫でやんす、この時間帯、一番治安が良い場所にありますですから」
 変な敬語を使う聖亜を、少年は蒼い瞳で訝しげに見つめていたが、彼があたふたと歩き出したのを見て、ゆっくりとその後に続いた。



西暦2015年(皇紀15年)7月1日、21時30分



 少年は、ヒスイと名乗った。

「えっと、ヒスイ……何さんすか?」
「……ヒスイ・T・D、だ」
「じゃあ、T・Dさ「……ヒスイでいい」じゃ、じゃあ、ヒスイ、俺は、星聖亜っていいます」
「星、聖亜……分かった。ところで、星」
「ああ、聖亜でいいすよ、何っすか、ヒスイ」
「……聖亜、教会は、本当に“こっち”でいいんだろうな」
 先程の場所から30分ほど歩き、今二人がいるのは、復興街の南、海に面している地区、娼館や風俗店が立ち並ぶ、快楽区と呼ばれる場所だった。
 この辺りは、比較的災厄の被害が少なかったらしい。ガス灯の灯りが辺りをぼんやりと照らす。派手な化粧と薄い服を着た娼婦達が、道行く男を黄色い声で誘っており、道の両端にある建物からは、時折甲高い嬌声が響く。
「え? ああ、こっちっすよ、ここら辺は、災厄の被害が少なくて、けっこう教会とか残ってるっすけど、その中で聖エルモ教会っていうのは一軒だけっす」
「そう、なのか? それに、治安が一番良いていったけど、その、やっぱり相当悪いと思うんだけど」
 居心地が悪いのか、時折もじもじとしながら、ヒスイは辺りを見渡した。パイプから紫色の煙を吸っている半裸の女が、2階の窓からこちらを見て笑いかける。慌てて目を逸らすと、路地裏に横たわっている、幾人もの男の姿が見えた。
「けど、これでも治安は良いんすよ、ほら」
 人ごみの中、聖亜は一つの店を指差した。店の前では、数人の男が、娼婦達とげらげらと談笑している。ライフルを担ぐ腕には、「E」の文字があった。
「……あれは?」
「自警団の奴らっすよ、つっても、今は快楽区を根城にする、単なるチンピラ集団っすけどね」
 最後の言葉は、相手に聞こえるように言ったのか、女と話していた男の一人が、じろりとこちらを睨んできた。と、ウエイトレスの格好をしている聖亜を、商売女と勘違いしたらしい。にやにやと下品そうに笑いながら近づいてくる。だが、聖亜の顔が判別できるところまで来た途端、男はぎょっとした様に後ずさり、だっと逃げ出した。どうやら、その男がリーダーだったらしい。他の男も、ぞろぞろと後に続く。
「何だ、あれ」
「さあ? けど、ひどいっすよね、人の顔を見て逃げるな「聖ちゃんっ!!」わぷっ」
 へらへらと笑っていた聖亜の顔が、いきなり抱きしめられた。
「やっぱり聖ちゃんだ~、聖ちゃん、聖ちゃん」
「……」
「う、ぷはっ、ちょ、楓(かえで)姉さん、苦しいっすよ」
「いいじゃんいいじゃん、こちとら薄汚れた男の相手ばっかで疲れてるんだからさ、ん~、癒される」
 その娼婦は、聖亜に暫く頬を擦り付けていたが、ふと、不機嫌そうに佇むヒスイを見た。
「あらやだ、お友達?」
「あう、いや、友達じゃなくて、こいつ、爺さんの知り合いらしいっす」
「……そう、あの人の」
 娼婦は暫くヒスイを眺めていたが、やがて、着いといで、と、聖亜を抱えて歩き出した。


「……これは」
 ヒスイは、目の前の光景を見て、呆然と呟いた。
彼の目に映ったのは、崩れ落ちた建物の残骸だった。僅かに残っている建物の一部に、微かに十字架が彫られているが、それはほとんど焼け焦げている。
「これは、災厄、でか?」
「ん? 違うよ、数年前の火事のせいさ。建物が皆焼けちまってねえ」
 残骸の上には、幾つもの黒い足跡がある。どうやら、火事の後略奪に遭ったらしい。娼婦は悲しく笑うと、ふと、聖亜を気遣わしげに見た。
「その火事で、住んでいた神父さんも焼け死んじまって、残っているのは崩れた廃墟だけってわけさ……ごめんね、そろそろ戻るよ」
 古い腕時計を覗き、女はひらひらと手を振って去っていった。だが、ヒスイの視線は、傍らで無言のまま佇む、一人の少年に、ずっと注がれていた。



西暦2015年(皇紀15年)7月1日、22時10分


「……それで、ここからどうするっすか?」
「さての、教会に泊まる事ばかり考えていたからな。その場所がないとなると、他に行く当ては無い」
「……キュウ、何なら、私は野宿でもいいが」
 あの後―我に返った聖亜に連れられ、ヒスイと黒猫―キュウと名乗った―は、復興街を出て、旧市街を歩いていた。復興街と違い、街は綺麗に整備されており、所々に電柱や自動販売機が見える。
 結局、聖亜はバイト先に戻らず、まっすぐ家に帰ることにした。一度家に帰ってからバイトに行くため、財布や携帯以外は、全部家においてある。一応配達をしたことを白夜に告げ(報告が遅いと、散々におちょくられた)、げっそりと息を吐いた。
「……野宿って、ここら辺、海に近いから、初夏でも結構寒いっすよ。近くの民宿にでも泊まったらどうっすか?」
「……そうしたいのは山々だけど、その、お金が無い」
 恥ずかしそうにぽつりと呟き、ヒスイは胸ポケットから財布を取り出し、広げて見せた。聖亜が覗き込むと、中には綺麗に折りたたまれた百ドル札が二枚見えるだけだ。
「む、実はな、昼間、こやつが食べ過ぎての」
「だ、黙れ馬鹿猫、それ以上言うと、その髭引っこ抜くぞ!」
 頬を僅かに染め、逃げる黒猫を追いかけるヒスイを、聖亜は暫く笑ってみていたが、彼が黒猫を捕まえたところで、パンパンッと手を叩いた。
「あはは、分かったっす。じゃあ、俺の家にでも来るっすか? 助けてもらったお礼もしたいっすから。ちょっと古いっすけど、まあ広いから、一人と一匹ぐらい楽に泊まれるっす」
「え、いや、そんな事をしてもらう理由は「ふむ、ならばお言葉に甘えようかの」お、おい、キュウ」
 腕の中でにやりと笑う黒猫に、ヒスイは呆れたように声をかけたが、
「黙れヒスイ。我はもう、復興街の隙間の吹く安宿で眠るのは真っ平なのだ。大体、散々吹っかけられて、眠れたのは薄い毛布があるだけのボロ部屋だったではないか」
「う……わ、分かった」
「あはは、まあ、あの街じゃしょうがないっすよ。それじゃ、速く帰りましょうっす」
 すまなさそうに頭を下げるヒスイに手を振って、聖亜は何時間ぶりかの我が家に向けて歩き出した。


                                   続く



こんにちは、活字狂いです。「スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常③」、いかがだったでしょうか。今回出てきたのは、新しい人形と、残酷な道化師です。さて、この後、彼らは物語で、どのような配役を務めるのでしょう。では、次回はそれを少しお見せしましょう。幕間「黒」、および、第三幕「世界の表側」をお楽しみに。



[22727] スルトの子 幕間   「黒」
Name: 活字狂い◆e0323915 ID:b7707b89
Date: 2010/11/22 13:51

 薄暗い闇の中、その音は何時までも続いていた。

 ガッ  ガッ  ガッ

 何かを硬い物で打つ鈍い音だ。そしてその音と共に、時折くぐもった悲鳴が闇の中に微かに響く。
 それが、およそ二時間ほど続いただろうか。ドートスは“隠れ家”の中でふうっと満足そうに息を吐くと、持っていた棒を傍らにある机の上にぽいっと投げ捨てた。
「さてと、これだけ“お仕置き”されれば、頭の中に木片しか詰まっていない君達でも少しは反省したと思うんだけど」
 道化師の微笑に、今まで彼に散々打ち据えられていた人形達は無言で答えた。言うことがなかったのではない。彼らは何も言えなかったのだ。何故なら
「やれやれ、僕はなんて慈悲深いんだろう。何の役にも立たない君達をまだ手元においてあげてるなんて」
 なぜなら、人形に絶えずエネルギーを供給しているはずの台座は道化師の手によってその供給を止められており、先の戦闘で傷ついた肉体を癒す事ができないでいた。
「しかし、君達は本当に罪人なのかい? 特にビショップ、君は何でまた罪人なんかになったのさ、名誉ある吹奏者のくせにさぁ!!」
 叫び声と共に、道化師は悲しげな表情を浮かべる人形を殴りつけた。
「…………やり、すぎよ」
 怒りが疲労に勝ったのか、ナイトは震える足で立ち上がった。だが絶対零度に切断された槍は再生しておらず、半ばまで切り裂かれた右前足に体重をかけないように立つその姿は、まるで壊れたマリオネットのようだ。
「大体、あんたがもたもたしてるから絶対零度が来たんじゃ……きゃっ」
「……自分の無能を、人のせいにしないでほしいんだけど?」
 ナイトの傷ついた右前足に、絶対に“当たる”ように気をつけながら、ドートスは彼女を蹴り飛ばした。当然のように床に倒れた彼女の仮面を足でぐりぐりと踏みつけながら、道化師はぺっと唾を吐いた・
「絶対零度が来ても、君達がちゃんと撃退すれば何の問題もなかったんだよ。なのに倒すどころかいい様にあしらわれて終わりだなんて……無様としか言いようがないよ」
 笑顔の仮面を暫く踏みつけた後、ようやく彼は足を離した。
「じゃ、僕は定期報告をしなきゃいけないからもう行くけど、罰として暫くエネルギーは送ってあげないよ。まあいい子にしていればそのうち送ってあげるさ。そのうちね」
 
 道化師が去った後、三体の人形は声を出さずに―泣いた。


 がくがくと両足が震える。伸し掛かる圧力に立っていられなくなり、脂汗を流しながら、ドートスは惨めに床に這い蹲った。

 おかしい  なぜ、“彼ら”がこの世界にいる。

「…………失態だな、ドートス」
 前方の闇の中から、強烈な重圧を発していた者の声が聞こえる。その低い声に、周囲の闇がざわりと揺れた。
「あ、ああああのですが、それはわた、私のせいではなく、人形共「黙れ」ひぃっ!!」
「……言い訳を聞くつもりはないぞドートス。それに貴様、この三月の間私にどのような報告をしたか忘れているようだな」
「で、ですがあれは」
「……言い訳は聞かぬ、そう言った筈だ」
「がっ!!」
 闇の中から現れた漆黒の腕が、ドートスの首を掴んだ。
「大体貴様は言ったではないか。自分に任せてくれれば、単なる家畜など百体といわず、千でも万でも狩って見せましょうと。なのに」
 酸素を求めぱくぱくと金魚のように口を開く道化師を、漆黒の腕の持ち主は自らに引き寄せ、囁いた。
「なのに貴様が狩った家畜は、この三月で必要な数の半数に満たぬ。分かっているのかドートス、百という数は“あれ”を開く最低限の数なのだぞ。どうやら貴様には恩を感じるほどの脳みそがないようだな。酒場で燻っていた貴様を、せっかく拾ってやったというのに。それとも、また下層氏民に戻りたいのか?」
 そう、この道化師は生まれながらの中層氏民ではない。下層階級の生まれである彼は、酒場で燻っていたところを偶然拾われたに過ぎない。
「ひが、お、お許じぐだざいお館ざまっ」
「……ふん、まあ良いだろう。このまま貴様の細首を砕いてやろうと思ったが、その無様な顔に免じて猶予をやろう」
「あ、ああありがどうございまず、お館ざま」
 心底呆れた声と共に床に投げ出された道化師は、ぜえぜえと息を整いながらも、相手の機嫌を損ねないように必死に床に這い蹲った。
「だが、玩具使いが現れた以上うかうかしていられん。幸いこの地に舞い降りた玩具使いは一匹だけだ。いくらでもやり様はある。しかし、いつ増援が送られてくるか分からん……いいだろう、一度だけ手助けをしてやろう」
「……は? といいますと」
「奴の気を逸らしてやろう。その間にどんな方法でも構わん。貴様は一刻も早く“入り口”を開け。そうしなければドートス、貴様は“狭間”を泳ぐ巨大魚バハムートの腹の中で、生きたままじわじわと溶けることになるぞ。何をしている、分かったら下がれ、汚らわしい」
「は、はい、失礼いたします」
 がくがくと震えながら一礼すると、道化師は一目散に逃げ出した。

「やはりあのような下賎な奴には、このような大業は無理だったのでしょうな、むは、むははははは」
 道化師が去った後、闇の中に下品な笑い声を上げる男の声が響いた。
「ふん、元々奴には何の期待もしていない。道化らしく、せいぜい喜劇を演じてもらうさ……クイーン」
「はい」
 また別の声がする。今度は若い女の声だ。
「分かっているな」
「はい。早急に手配いたします」
「それで良い。しかし」
 闇の中から、それはゆっくりと歩み出てた。全身を漆黒のローブで隠しているそれは、何かを懐かしむように、ゆっくりと深呼吸をする。
「本当に何百年ぶりだろうな、この世界に現れたのは」



「くそっ、くそっ、くそっ!!」
 男は荒れていた。
「あの糞女、人が折角雌奴隷にしてやろうというのに断りやがって!!」
 今日の朝、言い寄った女に股間を蹴り飛ばされた男は、ぶつぶつと呟きながら、左手に持った手製のボウガンで“獲物”に向け矢を放っていた。
 獲物というのはそこらを徘徊する野良犬や野良猫、あるいは鳩等だ。昨日は獲物が中々見つからず、一羽の烏の羽に矢を放っただけだが、今日は運が良いのか、驚くほど獲物が見つかった。
 最初は野良犬、次は野良猫、次は鳩―もちろん一撃で殺すなんて馬鹿な真似はしない。わざと急所を外し、じわじわとなぶり殺しにする。
 
 それが、男が最近はまっている“ゲーム”だった。

「けど、やっぱ犬や猫ばっかり相手にしていてもつまんねえな。今度は……そうだ、スラムの人間を撃ってみるか。いいよな、あいつらは人間じゃないし……そうだ、それがいい」
 ぶつぶつと呟きながら、ゴミ捨て場を漁っている野良犬に狙いを付け、射る。
矢はまっすぐに飛んでいき、犬の首筋にぶつりと突き刺さった。
「はっは~、百点満点っ!!」
 首に矢を刺したまま、よたよたと逃げる野良犬に、男は次々に矢を放った。それは犬の足や腹部に突き刺さり、流れる血の量はだんだんと増えていく。野良犬は必死に逃げていたが、やがて自分の流した血に滑り、地面に倒れた。
「はんっ、ついに力尽きたか。ひとの出したゴミを漁るしか能のない害獣めっ!!」
 最後の矢を番えると、男はひくひくと痙攣する犬の頭に狙いを付け―撃った。
「ち、矢が無くなりやがったか」
 右目に矢が突き刺さり、絶命した犬を置き去りにして男は暗い道を家まで歩き出したが、数分歩いたところで、ふと立ち止まった。
「……何か暗すぎねえか?」
 彼の住む新市街は、道路に無数に設置された電灯の為、夜でも昼間のように明るい。だが、男の周りは電灯の明かりどころか家の灯りも、何より星や月も出ていなかった。
「なんなんだよ、これ」
 眉をひそめながら、用心のため、腰のポーチに手を伸ばす。だが、中にあるはずの矢は一本も無かった。
「ち、そういえばさっき使い切ったんだった。さっさと死なねえあの糞犬のせいだ。くそっ」
 悪態をつきながら、少し早足で歩き出した時だった。
「……ん?」
 ひたっ、ひたっと後ろで何か足音がする。最初は気にせずに歩いていたが、やがてひたひたと何時までも付いてくる足音が鬱陶しくなり、男は眉をしかめながら振り向いた。
「んだ手前、こんな夜中に歩きやが……て」
 だが、自分の後ろにいる“それ”を見た途端、男は口を限界まで開けた。
「……んだよ、んだよこれ!!」
 後ろを付いてきたのは、一匹の野良犬だった。ただの野良犬ではない。体中に何本もの矢が突き刺さっているその犬は、間違いなく自分がなぶり殺しにした獲物だった。
 完全に息絶えたはずの野良犬が、矢の突き刺さっていない左目で、自分をぼんやりと眺めている。
「なんだよ、こっち見てんじゃねえよ、糞害獣!!」
 ぺっと唾を吐き、走り出す。野良犬は当然のように向かってくるが、幸いな事に相手の足には矢が刺さっている。あまり早くは走れないはずだ。
 何度目かの角を曲がり、振り切ったと確信した時、

 ―ヴルルルルルル―

「ひっ」

 行く手から、口の中に矢が刺さった野良猫が一匹、よたよたと現れた。その小さい頭部には矢は大きすぎたのだろう。頭部の後ろに突き出した矢は、猫が歩くたびかくかくと上下に揺れた。
「ひっ、ひいいいいいいいいっ!!」
 顔を涙と鼻水でぐしょぐしょにしながら、男は今度こそ全力で走り出した。だが、行く先々でなぶり殺したはずの犬や猫、鳩が襲い掛かる。牙や爪、嘴に襲われながら逃げていた男は、不意に腕を掴まれた。
「あぐっ!!」
「早く、こっちです!!」
 一瞬心臓が止まりそうになったが、次の瞬間男はへなへなと崩れ落ちた。彼の腕を掴んでいるのは、生きている少女であったから。
「……なんだよ、驚かせやがって」
「ごめんなさい。それよりあなたこそこんな場所で一体何をしているのです?」
「何って、化物から逃げてたんだよ」
 角から様子を伺うと、害獣達は自分を見失ったようだ。うろうろと辺りを動き回っている。
「奴らから逃げるなんて……他の人達なら、何も出来ずに殺されてしまうというのに」
 少女の言葉に気を良くしたのか、男は少し胸を張った。
「ま、まあな。けどそれほどすごいことじゃねえよ」
「いいえ、“玩具使い”の生み出した奴らから逃げられるなんて、あなたは本当に特別な存在だわ」
「特別? 俺が特別ねえ」
 目を輝かせている少女の胸や太ももを、男はじろじろと眺めた。綺麗な少女だ。胸もでかい。何より自分を見る目は完全に崇拝している目だ。
 と、自分の視線に気付いたのか、少女は顔を赤らめ、ゆっくりと目を閉じる。
 男が鼻息を荒くして、少女の唇に吸い付いた瞬間、


 彼の意識は、闇の中に落ちていった。


                                   続く


 こんにちは、活字狂いです。ここ二週間ばかり、学芸員の方の調査に同行して岩手県に行ってきました。合間を見て遠野市の博物館を見学したのですが、オシラサマという蚕の神様がありました。さすがは遠野物語の舞台、変な神様が多いです。それはともかく、今回は幕間として、敵側を一部公開しました。道化師がひれ伏す相手は誰か、彼らの目的は、男の運命は……それを語る前に、まずはこの世界の「表側」をお楽しみ下さい。それでは次回「スルトの子 第三幕  世界の表側」でお会いいたしましょう。



[22727] スルトの子 第三幕   世界の表側
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:a8247099
Date: 2010/12/27 11:32
 

 
 暗い道を、一人歩く。



 これは夢だ。そう認識しているはずなのに、地面を踏みしめる感覚は鮮明に伝わってくる。
そして道の先にあるものを、少年は知っていた。
だから行きたくない、行きたくないと必死に叫ぶのに、それは掠れた声としてしか外には漏れず、歩いているうちに顔には笑みが広がり、家に帰る父親のようにその足取りは軽い。


  
  どれぐらい歩いただろうか。ふと道の先に、ぼんやりと明かりが見えてきた。



 笑顔の下で泣き喚き、必死にしゃがもうとしても、見えない何かに引きずられるように足はずるずると明かりに向かって進んでいく。


 やがて、見えてきたのは―燃え盛る炎に包まれた、一軒の古びた教会だった。



 見たくない。入りたくない。



 それなのに、心にしみこんだ“過去”という名の光景は瞼に焼き付き、“思い出”という名の見えない手はずるずると自分を引っ張っていく。




 そして、燃え盛る炎の中に一人たたずんでいるのは





 燃える蝋燭を両手に持ち、涙を流しながら笑っている、“  ”だった。





西暦2015年(皇紀15年)7月2日、6時30分


「うあっ……あうっ、むぷ?」
 自分の見た悪夢に叫び声をあげようとした聖亜は、顔に伸し掛かる圧迫に呻いた。暗い。意識は覚醒しており、目もちゃんと開けている。体感時間から考えても、いつもより三十分ほど寝すぎたようだ。なのに暗い。まるで自分の顔が何かに塞がれているかのように。
「う……ぷっ、うくっ」
「ん、朝っぱらか? お盛んだの、若君」
 と、いきなり抱きしめられた。顔を塞いでいた柔らかい何かがぎゅうぎゅうと自分の顔を圧迫し、息をするのも困難なほどだ。
「ふぐ……いったいなんなんすむっ!!」
 柔らかく、心地よいそれから無理やり顔を引き剥がすと、今度は思い切り口を吸われた。
「はむっ、く……なにするっすかいきなり!!」
 何とか唇を引き剥がし、相手を睨み付ける。睨まれた相手―赤い髪を肩まで垂らした美しい女は、舌で自分の唇をぺろりと怪しげに舐めた。
「ふふっ、なに、小姫が手篭めにされても困るでの。わらわの方で搾り取ってやろうとやろうとしただけじゃ」
「いや……手篭めにするって、そんなこと」
「しないとでも? 昨夜裸体を覗いておいてよく言うわ」
「あうっ」
 女の指摘に、聖亜は彼女を挟んで反対側に寝ている白髪の少年―いや、はだけた寝間着から、白い肌を覗かせている少女を見て、顔を真っ赤に染めながら、昨夜の出来事を思い出していた。



西暦2015年(皇紀15年)7月2日、午前1時05分


「なんだか……随分と広い家だな」
 それが、ヒスイが聖亜の住んでいる家を始めてみたときの感想だった。
 太刀浪駅の西側、太刀浪神社を中心とした観光地区から脇に逸れた深い竹薮の中に、それはひっそりと佇んでいた。
 九百坪はある広大な庭の中心に、木造三階建ての巨大な母屋があり、その左右には離れが備え付けられている。庭には小さいながらも川が流れており、水は脇にある池に流れ込む。だが、池にはゴミが溜まっておりに、建物も随分埃を被っている。
「まあ、昔は宿坊をしていたようっすから、そりゃ広いと言えば広すぎるほど広いっすけど、その代わりめちゃくちゃ古いっすよ。あまりに広すぎて掃除も最低限しかしてないし」
 ぎしぎしと悲鳴を上げる戸を強引に開けると、聖亜は傍らのスイッチを手探りで押した。天井に備え付けられた蒸気式のランプに蒸気が送られ、ぼんやりと明るくなっていく。
「最低限だと?」
「はいっす。えっと……ある程度きれいなのは、俺の部屋と友達が遊びに来た時用の客間、それから台所とかお風呂場とかトイレぐらいっすかね」
「……本当に最低限だな。それで? 私は客間に寝ればいいのか?」
「あの、それなんすけど、客間は友達が荷物を置きっぱなしにしてるから、出来れば俺の部屋に眠ってくださいっす」
「……」
 ヒスイに睨まれながら、聖亜はランプに照らされた廊下を進む。一歩歩くたびに床の埃が辺りに飛び散り、背の低い黒猫は思わず目をぱちぱちとさせた。
 それを見て笑いながら、聖亜は突き当りの部屋の前で立ち止まった。どうやらここが目的の部屋らしい。
「それじゃ、お風呂とお茶の準備して来るっすから、先に部屋の中に入っててくださいっす」
「いや、その前に親御さんに挨拶を」
「へ? 親父は今居ないっすよ。旅をするのが好きな道楽親父っすから、半年か一年に一度しか帰って来ないっす。今どこで何やってるっすかね」
 へらへらと笑いながら戻っていく少年を見送ると、ヒスイは目の前の障子を静かに引いた。薄暗い部屋を覗き込むと、十二畳ほどの部屋の隅にテーブルと棚があり、その前に布団が一つ無造作にたたんで置かれている。畳の上に散らばっている画用紙を手に取ると、青い絵の具で描かれた小さい花がある。もっとよく見ようと、暗闇を手探りで探り、壁際のスイッチを押すと、部屋の四隅に備えられたランプがぼんやりと光を放ち始めた。
「……やれやれ、これでは足の踏み場も無いぞ」
「お前が泊まりたいと言ったんだろう。文句言うな」
 ぶつくさと呟くキュウを一瞥すると、部屋の隅に重ねられた座布団を二枚取り、一枚を黒猫にやり、もう一枚にゆっくりと正座する。そのまま手の中にある画用紙を、改めて覗き込んだ。
「……きれいな絵だな」
「ふん、確かに中々の出来栄えだが、どれも同じ絵ではないか。これは……睡蓮か?」
「そうっすよ。っと」
 両手に持っていたお盆をひとまず畳みの上に置いてから、聖亜は隅にあるテーブルをヒスイの前に持ってきた。
「えっと、ヒスイはかりんとう好きっすか?」
「ああ。和菓子はみんな好きだ、ありがとう」
テーブルの上に置かれた器の中からカリントウを摘まみ、蒸気式の発熱ポットで沸かされたお茶を飲む。ゆったりとした時間が流れる中、ヒスイは唐突に口を開いた。
「……それで、何から聞きたい」
「へ? いや,無理に聞こうとは思わないっすよ」
 ぱたぱたと手を振る少年を見て、ヒスイは傍らで寝そべっている相棒を見た。その視線を受け、黒猫は重々しく口を開く。
「いや、そうはいかぬ。今回出現した人形―ナイトだったか―は、明らかにお前を知っていたし、何よりお前は道化師を挑発した。奴は根に持つタイプのようだからな。今度はお前を真っ先に狙うだろう」
「う……」
「だからこそ、せめて奴らのことを知識として知っておけ。そうしなければ、戦うことも逃げることも出来ん」
「は、はいっす。じゃあまず最初の質問なんすけど……あいつら、結局何者なんすか?」
「……奴らはエイジャと呼ばれる存在だ。人間を家畜と侮蔑し、その生気を喰らう化け物」
「ば、化け物っすか」
「もっとも、奴らは自分達の事を伝道者などと呼んでいるがな。人間に知識という餌を与え、太らせたのは自分達なのだから、家畜として扱うのも自由なんだそうだ」
「け、けどエイジャなんて、今まで聞いた事はないっすよ」
「奴らの人を襲う手段が巧妙だからだ。まず人間を自分達の“狩場”に誘いこむ。そこではただの人間は意識を保っていることが出来ないから、自由に襲うことが出来る。それに、ただの人間はそれを視覚でも聴覚でも認識することは出来ないから、外から見ても何も分からない。なにより」
「な、なにより?」
「奴らは別にこの世界に住んでいるわけじゃない。奴らの住んでいるのは、こことは違う場所、違う世界。私たちはその世界を獄界と呼んでいる。地獄と言う意味だ」
「じ、地獄っすか……けど、別の世界と言っても、そこから自由に来れるんじゃ、やっぱり知らないのはおか「誰が自由に来れると言った」へ? 違うんすか?」
 聖亜の問いに、ヒスイは温くなったお茶を飲み干し、頷いた。
「エイジャは確かに強力な力を持つ。だがその反面、獄界から自由にこの世界―奴らは現界と呼んでいるが―に来ることは出来ない。昔はこちら側から呼ぶしか来る方法が無かったんだ」
「え? こちら側って……まさか人が呼んでるって事っすか?」
「大半はな。けど別に驚くことじゃないだろう。人間の欲望にはきりが無い。それこそ、自分を神と称する悪魔に魂を売るほどにな」
「……」
 絶句する少年の前で、黒猫は深々とため息を吐いた。
「だが近年、と言っても二千年は昔になるが、奴らは人間に呼び出される以外にもう一つ、“門”を通り、こちらに来る術を学んだ」
「門……すか?」
 黒猫の言葉に、聖亜は自分の家の具合の悪い戸を思い浮かべた。
「いや、その門ではない。要するにこの世界と奴らの世界を結んでいる、狭間と呼ばれる道、その出入り口のことだ。そして、その門を最初に発見したのは」
 そこで一端言葉を切ると、キュウはその紫電の瞳で、傍らで静かに二杯目のお茶を飲むヒスイに目をやった。が、それはほんの一瞬だった。
「小僧、貴様イデアと呼ばれる言葉を知っているか?」
「イデアっすか? 言葉ぐらいは知ってるっすけど、詳しくは」
「覚えておけ、エイジャの語源となった言葉だ。その意味は本質、もしくは真の姿。古き時代、プラトンと言う哲学者が唱えた思想だ」
「もちろん、何の材料も無くその思想が生まれるわけは無い。それじゃあ、何故その言葉が生まれたかと言うと」
「……まさか」
 自分の言葉に顔を引きつらせた少年を見て、ヒスイはゆっくりと頷いた。
「そのまさかだ。プラトンは実際に覗いたんだ。門を開き、本質の世界―獄界を」
 辺りに沈黙が重く伸し掛かる。その中で、聖亜は頭の中の情報を必死に整理していた。
「つまり、まとめると……エイジャは人間を喰らう、別の世界から来る化け物で、昔は人が呼び出すしかこっちにはこれなかったけど、今ではプラトンって人が開いた門を通ってこちらに自力で来れるってことっすか?」
「ああ。けど、自力と言っても自由にじゃない。狭間の道は荒れた海のように険しい。そのため門を通ってこちらに来たエイジャの多くは空腹を抱え、見境無く人間を襲う」
「えっと、じゃあもしかしてポーンとかビショップとかいう人形が人を襲っていたのは、お腹が空いていたから?」
「いや、それは違うだろう」
 聖亜の問いに、黒猫が小さく首を振った。
「奴らが人間を襲っていたのは魂を狩るためだ。これを抜き取られた人間は生きても死んでも居ない状態になる。植物人間と言うのが一番近いだろうな。むろん、人間の魂を喰らうことはできるが、ただのエイジャにとって、人間の魂は劇薬と同じだ。生気のように軽々しく喰えるものではない」
「じゃ、じゃあ何であいつらはその、魂を狩っていたっすか」
 少年の脳裏に、守ることが出来なかった親子の姿が浮かぶ。知らず、声が大きくなった。
「さての、人間の魂には様々な利用法があるが、ありすぎて検討が付かぬ」
「……そうっすか」
 キュウの言葉に聖亜が黙り込むと、部屋の外からぴぴっと言う音が聞こえてきた。どうやらお風呂が沸いたらしい。
「あ、お風呂沸いたっすね。先に入ってくださいっす」
「いや、家主より先に入るわけには……分かった。入らせてもらう」
 さすがに断ろうとしたヒスイだったが、埃塗れの相棒に無言で睨まれ、あきらめたように立ち上がった。
「じゃあどうぞっす。あ、お風呂は廊下の一番左端っすよ」
 聖亜の言葉に頷くと、黒猫を抱えたヒスイは、ゆっくりと部屋から出て行った。それを見送ってから、聖亜はしばらく部屋の片づけと、寝る準備をしていた。正直頭の中は混乱しており、言われたことの半分も理解できなかったが、こういうときは体を動かした方が考えはまとめやすい。
 テーブルを脇に寄せ、押入れから布団を出したところで、聖亜はふと顔を上げた。
「そういえば、石鹸切れてたっすね」
 台所に向かい、棚の中に無造作に放置されたバッグの中から真新しい石鹸を取り出し、風呂場に向かう。さすがに入るのは気が引けるが、風呂場は洗面所と繋がっている。そこから呼べば、中に入らなくてもいいはずだ。
 がらりと勢いよく洗面所の戸を開ける。と、聖亜の目に、少年の裸体が飛び込んできた。
「あ、ヒスイ。石鹸持ってきた……すよ?」
「……」
「……」
「…………」
「…………へ?」
「っ、この、変態がっ!!」
 頬にばきりと拳がめり込む。床に倒れながら、聖亜は意識を失うまで、目の前にいる“少女”の薄い胸のふくらみを、まじまじと眺めていた。


西暦2015年(皇紀15年)7月2日、6時32分



「いや、あれはその、男の子だとばかり思ってたから」
「ふふ、それでは言い訳にはならぬの。若君」
 真っ赤になってぶつくさと呟く少年を、女はしばらくおかしげに笑っていたが、やがて反対側ですやすやと眠っている少女をゆさゆさと揺さぶった。
「ほれ小姫。いい加減に起きられよ。小松が朝餉を持ってまいるぞ」
「ふにゃ……やあだ小梅。あと5分だけ~」
「やれやれ、相変わらず朝が弱いのう。ふふ、若君に手篭めにされても知らぬぞ」
 女が少女の耳元で囁いた言葉は、絶大な効果を発揮した。ヒスイはぱちりと目を覚ますと、聖亜をまるで獣を見るような目で見つめ、ずりずりと勢い良く後ずさった。
「あ、あの、おはようございます」
「……」
「えっと、あの昨日は、その」
「……」
「……あ、あうう」
「……ふうっ、いい加減に許してやれ、ヒスイ」
 聖亜を哀れに思ったのか、それとも耳元で騒がれるのがいやなのか、座布団の上で眠っていた黒猫がのそりと起き上がった。その体に掛かっていたタオルケットがぱらりと落ちる。
「けど……」
「ふん、ならばこうしようではないか。小僧、貴様次にヒスイの裸体を覗いたらその一物、我が牙で噛み砕くぞ。分かったな」
 紫電の瞳に睨まれ、聖亜はこくこくと勢い良く頷いた。


「えっと、じゃあ改めて……この人、誰っすか?」
 布団をしまい、テーブルを持ってきた所で、聖亜は目の前に居る女を指差した。彼女はどこからか取り出した徳利に口をつけ、美味しそうに飲んでいる。
「ああ、こいつは私の」
「小姫の従者の小梅と申す。よろしゅうに、若君」
「従者って……昨日はいなかったじゃないっすか」
「……そういえば、この姿を見たのは初めてだったな。小梅、監視ご苦労だった」
 小さく頷くと、ヒスイは小梅に向かって手を伸ばした。小梅は慣れた手つきで、その手にそっと触れる。途端に彼女の体は消えうせ、そこには少女が昨日使っていた、一本の刀があった。
「……ああ、なるほど」
「気がついたお前に襲われないように、こいつに見張りを頼んでいたんだ」
「つまり、刀のお化けさんっすね」
「私たちはお化けではない!!」
 不意に、廊下から別の声が響いた。少年が振り向くと、そこには青い髪をポニーテールにした子供が、お盆を持って立っていた。
「おはよう、小松」
「おはようございますヒスイ様。ヒスイ様、私はやはり反対です。こんなケダモノの世話になるなど」
「いや、ケダモノって」
「男の私から見ても、貴様は十分にケダモノだ!! ヒスイ様、こんな所、早く出て行きましょう」
 不機嫌そうに顔をしかめ、小松と呼ばれた少年はヒスイの前に食器を並べていく。それが終わると、今度はさぞ嫌そうに、仕方が無いと言う風に、聖亜の前に乱暴に食器を置いていった。
「ありがとう、小松」
「い、いえ、それでは失礼いたします」
 頬を染め、ぺこりとお辞儀すると、小松はおずおずとヒスイが伸ばした手に触れた。次の瞬間、小松の姿は無く、少女の手には一本の小太刀が握られていた。
「さ、食事にしよう」
「……」
 嬉しそうに箸を取るヒスイを見ながら、消える寸前、小松から殺気をこめた目で睨まれた聖亜は、げっそりと息を吐いた。


「それで、これからどうするっすか?」
 焼いた鮭とご飯、油揚げの味噌汁を食べ終え、一息ついた頃、ふと聖亜はヒスイに尋ねた。
「もちろんエイジャを探す。と言いたいが、やはりいつまでも世話になるわけには行かない。奴らも戦力が低下しているから、すぐには出てこないだろう。その間、援助の要請と情報交換のため、司(つかさ)に連絡を取る」
「……司(つかさ)さんっすか?」
「人の名前じゃない。私同様、エイジャを倒すことを生業にしている者の事だ」
「はあ……けど、別に遠慮しないでいいっすよ。部屋はたくさんありすぎるっすから」
「……そんなわけにいくか、馬鹿者」
 聖亜の言葉に、食後の睡眠を取っていた黒猫が、目を閉じたまま呟いた。
「……じゃ、じゃあ自分は学校に行ってくるっす」
「こんな早くにか?」
 棚に置かれた目覚まし時計を見て、ヒスイはこてんと首をかしげた。まだ七時を少し過ぎたところだ。いくらなんでも早すぎるだろう。
「学校まで一時間ぐらい掛かるから、これでも遅いほうっすよ。それじゃ、行ってきます」
 念のために合鍵を少女に渡すと、ここ数年間使っていなかった言葉を発して、温かな日差しに目を細めながら、聖亜は学校に向けて走っていった。



 少年が出かけた後、食器の後片付けを人の姿に戻った小松に任せ、ヒスイは縁側からぼんやりと外の景色を眺めた。
 家の周囲を囲んでいる笹の葉がさらさらと静かに揺れ、葉の一枚が少女の足元に落ちてきた。
「それで、いつ出かける」
「お腹が落ち着いたら、すぐにでも」
 膝の上に乗ってきた黒猫の、夜空に似た毛並みを撫ぜながら、ヒスイは部屋の中で聖亜が食べた食器を嫌そうに盆に載せる小松に目をやった。
「小松……嫌なら私がやるぞ」
「へ? い、いえ、それは落としそうで危険……ではなくてですね、恐れ多いです。ええ。それよりヒスイ様、本当にあんなケダモノの世話になるおつもりですか?」
殺気から随分とそこにこだわっているな。まあ、今から会う司との話し合いが無事に終われば、そんなことにはならないさ。けど万が一ということもある」
「わ、分かりました。その時はこの小松が、全身全霊をかけて“男”になり、ヒスイ様を守ってご覧にいれます」
「ありがとう……ああ、それからひとつ頼みがあるんだが」
「はい!! なんなりと!!」
座って嬉しそうに命令を待つ小松は、次の瞬間、敬愛する主が発した命令に、心底泣きそうな顔をした。




西暦2015年(皇紀15年)7月2日、12時03分


 周囲がやけにざわついているので、聖亜はぼんやりと目を開けた。


 確か今は鍋島先生の授業中……のはずが、教室は喧騒に包まれており、どうみても厳しい教頭の授業ではない。
―まさか、寝てた?
 ぼんやりとした頭を振って、何とか意識をはっきりさせながら時計を見て……絶句した。時計の針は最後に見たときから一時間強は進んだ場所にあった。確か授業が始まってすぐに時計を見たはずだから……


 鍋島先生の授業中、丸々眠っていたことになる。


 ため息を吐いて突っ伏した机には、準の文字でメモが張ってあった。

『鍋島先生より伝言、起きたら生徒指導室に来るように、だそうだ。その前に顔を洗った方がいい。PS、落書きは秋野と福井の凸凹コンビがやったものです』
 そういえば、クラスの連中が自分を見て妙にニヤニヤと笑っている。寝ぼけすぎた自分にあきれるように、聖亜は再び机に突っ伏した。



「何故呼ばれたのか分かっているな」
「……はい」
 近くの水飲み場で顔を洗った後、二階の生徒指導室で、聖亜は厳しい顔をした教頭と向き合っていた。
「星、確かお前はアルバイトをしていたな。生活費を稼ぐ必要があるから許可したが、学業に支障が出るほど忙しいなら、別のアルバイトを探すことを薦める」
「いえ、これはアルバイトのせいじゃないです」
「では何故だ? 春なら眠くなるのも仕方が無いが、今は初夏だ。暖かいというより暑い中で眠るのは相当疲労が溜まっている証拠だと思うが。美術部に所属しているお前が、それほど体力を消耗するはずはないだろう」
「それは……そのっ」
 ふと、聖亜は目の前の教頭に昨日と一昨日あった事を何もかも話してしまいたくなった。だが喉まで出掛ったその言葉を必死に飲み込む。化物(けもの)と違い、完全な化け物がいるなどと言ったら十中八九正気を疑われる。例え信じてもらうことが出来ても巻き込んでしまう。
「……どうした?」
「へ!? いや、何でもないでございますです」
「……」
「……」
 室内に重苦しい沈黙が流れる。何か別の話題はないかと、必死に辺りを見た聖亜の目に、それは飛び込んできた。
「えと、先生、それはなんですか?」
「……ああ、これか」
 鍋島は立ち上がると、窓際にいくつも置いてある古ぼけた人形を手に取った。手の中にすっぽりと納まる小さな人形を、大事そうに抱える彼を見て、聖亜がいたたまれない気持ちになったとき、

 突然、お腹が鳴った。

「あ、あうっ」
「……ふうっ、今日はここまでにしておこう。今度からはもう少し早く寝るように」
「は、はい。失礼します」
 聖亜が顔を赤らめて出て行くのを見送ると、鍋島は優しげな、そして悲しげな表情で手の中のウサギの人形を見た。
「…………これは、娘へのクリスマスプレゼント、だったものだ」



西暦2015年(皇紀15年)7月2日、12時30分


「や、おまたせしました」
 目の前でこめつきバッタのように何度も頭を下げる男を、ヒスイは不機嫌そうに眺めた。
「いや、申し訳ございません。まさかご高名な百殺の絶対零度様が来られるとは、夢にも思わなかったもので。あ、私太刀浪市を担当している守護司(しゅごのつかさ)、森岡と申します」
「……」
 二人が居るのは、空船通りにある喫茶店の中だ。ヒスイの機嫌が悪いのは、目の前の男のせいでもあるが、ここに来るのに四時間も掛かったことだった。
 不機嫌な表情のまま、差し出された名刺に目を映す。そこには黒塚銀行高知支店支店長と、でかでかと書かれてあった。
「本来ならば、料亭で一献設けたい所ですが、なにせ今朝いきなり連絡をもらったもの「御託はいい」……はあ」
「単刀直入に聞かせていただく。この地でエイジャの活動が感知されたのは今から三ヶ月ほど前。それから今まで、あなたは一体何をしていた」
「いや、お怒りはごもっともでございます。申し訳ございません。私も今回の事態を重く見まして、“高天原”本部に増援を要請したのですが」
 冷淡な声で問いかけてくる二回りは年下の少女に、森岡はへこへこと頭を下げていたが、不意に顔を寄せてきた。
 きついポマードの臭いに、鼻が曲がりそうになる。
「実は、本部の方で何かあったらしく、何度連絡しても一向に増援が送られてこないのです」
「……増援を待つ必要があるのか? 守護司になるためには、あの儀式を成功させる必要があると聞いた。守護司を名乗っている以上、あなたにも何かしらの能力はあるはずだ」
「や、や、お恥ずかしい。“力”にもピンからキリまでございまして。私などもうキリ中のキリ。ただ道を探ることしか出来ません」
「……」
「や、それでも何とか奴らの事を探ろうとして「もういい」……は?」
 いきなり立ち上がったヒスイを、森岡はぽかんとした顔で眺めた。
「現在この都市で活動しているエイジャに対し、貴方が何の対処もしていないことが分かった。私は私で勝手にやる」
「ちょ、ちょっとお待ちください。せめて資金援助など、なにかしらお手伝いを」
 一瞬、少女の脳裏に軽くなった財布と、そして何故か少年の顔が浮かんだが、ヒスイはむっつりと頭を振った。
「必要ない。私と貴方は同じ組織に所属しては居ないのだから。そのようなことをされては迷惑なだけだ」
「はあ、あの、でしたら一つ情報の提供と、お頼みしたいことが」
「……」
 いぶかしげに眉をひそめる少女に顔を寄せると、森岡はぼそぼそと話し始めた。




 少女が去った後、
 
 男は営業顔をやめると、ちっと強く舌打ちし、椅子に深々と座りなおした。
胸ポケットから最高級の葉巻を取り出し、深く吸う。
「……百殺の絶対零度といっても、所詮は年端のいかねえ小娘。警戒する必要は無いと思うが、念には念をだ」
 そのまましばらく煙の味を楽しんでいたが、やがて傍らの携帯電話を取り出し、相手にかける。
 何度目かのコールの後、相手は出た。
『……』
「俺だ。少々厄介なことになった。外から面倒くさい奴が来た」
『……!』
「そう心配するな。ピエロにこだわっている以上、心配はいらねえ。だが万が一ということもある。悪いがそっちでしばらく監視しておいてくれや」
『……』
「あ? くくっ、お前も好きだねえ。ま、俺にはそんな趣味は無いから好きにしな。じゃあな、また連絡するぜ」
電話を切ると、森岡は椅子から対上がり、窓から外を眺めた。
「……俺には力がある。あのときには無かった力がな」
 ぐっと強く手を握る男の瞳には、隠し通せない狂気の炎があった。



「さて、どう見る? ヒスイ」
「どう見ると言われても……別に大したこの無い奴に見えたけど」
喫茶店を出たヒスイは、傍らを歩く黒猫とともに、暫らく旧市街を歩いていた。復興街と違って道は整備され、歩道の脇には均等に花が植えられている。
「確かに。エイジャの活動を知りながら、何の対処もしていないのは、愚かとしか言いようが無いが、しかし、それは別の見方も出来る」
「別の見方?」
「うむ、すなわちあの森岡という男が、彼の道化師と手を結んでいる場合だ」
「敵と手を結ぶ? そんなことありえない」
 立ち止まって少し睨んでくる少女の視線を、黒猫はため息を吐いて見つめ返した。
「ヒスイよ、我が愛しき未熟者よ。我は以前言ったはずだ。全てを疑えとな」
「……分かった。その件はひとまず保留にしよう。ところで」
「どうした?」
「ここ、どこだ?」
 困惑した顔で周囲の木を見るヒスイに、キュウはあきれたように首を振った。




西暦2015年(皇紀15年)7月2日、16時20分


 息を止め、ぐっと最後の一押しをする。その白い部分を自分の好きな色に染める行為を、聖亜は何よりも気に入っていた。
「お、中々の仕上がりだね。聖亜君」
「あ、お疲れ様です。城川先生」
 青い花を描いたキャンパスを覗き込む若い美術部の顧問に、聖亜は軽く頭を下げた。
「それにしても、やっぱり県のコンクールには、青い睡蓮の絵で挑戦するのかい? 君は肖像画の方が上手だと思うんだけど」
「はあ……でも人の絵は小学生以来描いていませんから」
「そうかい? けどあの時君が描いた女性の絵は、すごく気持ちが込められていて、僕は好きだったんだけどなあ……そうだ聖亜君、話は変わるけど、これもらってくれないかい?」
「……またみたらし団子っすか?」
 観光地区にある和菓子の老舗「城川屋」の跡取り息子に差し出された大きな紙袋を見て、聖亜は眉をしかめて尋ねた。中を覗き込むと、予想したとおり袋の中にみたらし団子のパックがずらりと並んでいる。
「君も知ってると思うけど、僕の奥さん、みたらし団子を作るのがすごく好きでさ。そのくせ本人は甘いものが苦手だから、余っちゃって余っちゃって。とにかく受け取ってよ。処分するのももったいないし」
「はあ……ところで今回はどれぐらい作ったんすか?」
「大体三百本と言うところだね。他の部員にも渡すけど、一人大体三十本ぐらいあるから」
 聖亜の呆れた顔に手を振りながら、少年の年上の幼馴染は他の部員にも紙袋を押し付けていった。

 美術室に、次々に生徒たちの悲鳴が沸き起こった。



西暦2015年(皇紀15年)7月2日、17時40分


「……あれ?」
 納得のいく絵を描き終え、家に帰った聖亜を待っていたのは、昨日までとはまるで違う景色だった。丈の長い雑草に覆われた庭は整理され、汚れや埃が目立つ巨大な家は、きれいに掃き清められていた。
「ああ、おかえり」
「ただいまっす。これ、ヒスイがやってくれたっすか?」
 雑巾でぴかぴかに磨かれた縁側で、ゆっくりとお茶を楽しむ少女に、聖亜はそう尋ねた。
「いや、私じゃない。ほとんど小松がやってくれたんだ。私も帰ってから手伝おうとしたんだけれど」
「ヒスイ様に手伝ってもらっては、逆に手間がかか……いえ、お疲れのようでしたから」
 ふと、後ろから声がした。振り返ると、蒸気式炊飯器を両手で抱えた小柄な少年が、不機嫌そうに立っていた。
「何をぼんやりしている。こっちは夕食の準備で忙しいんだ。手伝うつもりが無いならさっさとどいてくれ」
「あ、す、すいませんっす」
 どうにも強気に出れない家主を睨みつけながら、少年はせかせかと歩いていった。



「アルバイトっすか?」
 埃をきれいに掃かれた座敷で夕食を食べ終え、一息ついている時、ヒスイが発した言葉に、聖亜は熱いお茶を思わずごくりと飲み込んだ。途端にむせる。
「そうだ。資金援助は断ってしまったし、アメリカから送金してもらうまで、何もしないわけにはいかないからな……大丈夫か?」
 心配そうに見つめてくる少女に頷くと、聖亜はふうっと息を吐いた。
「別にそんなことしなくていいっすよ。お金には困ってないっすから」
「いや、それでは逆にこっちが困る。小松が家事をしている以上、その主である私が何もしないわけにはいかない」
「そうっすか? なら探してみるっすけど……そうだヒスイ、早速で悪いっすけど、これ食べるの手伝ってくれないっすか?」
「それは構わないけど……この量は二人でも多いと思うぞ。小松たちは食べる必要はないし……中身はなんだ?」
「みたらし団子っすよ。別に嫌いじゃないっすけど、さすがに量が多すぎ……ヒスイ?」
 みたらし団子という言葉に、途端に目を輝かせた少女を、聖亜はいぶかしげに眺めた。



 熱いお湯の中にゆっくりと体を沈める。一度深呼吸すると、聖亜はう~んっと大きく伸びをした。
「しかし、ヒスイの好物がみたらし団子で助かったっすね」
 風呂に入る前に見た、少女が次から次へとみたらし団子を口の中に入れる光景を思い出し、少年はおもわずくすりと笑った。
「けど、さすがに二十五本は食べすぎな気がするっす」
 そう呟き、体を洗おうと立ち上がったときだった。
「そう申すな若君。小姫の父君は優しいが厳しい方での。団子は一日に一本と決めておられたのじゃ。暫らく口に入れてなかったし、歯止めが利かなくなったのであろうよ……どうかしたかの?」
 ぽかんとした顔でこちらを見る少年に、小梅は妖しく笑うと、持っていた酒杯の中身を一気に飲み干した。
「……どどどどうしたはこっちの台詞っすよ!!ななななんで小梅さんがこここにいるっすか!?」
「ん? ああ、中庭にある露天風呂で月を見ながら一献傾けておったのじゃが、さすがにふやけてしまっての。それより、体を洗うならわらわが体で洗ってやるが?」
「いいいいや、えええ遠慮するっす。じゃじゃじゃ、じゃあ自分は先に上がるっすから」
「おや若君。今は出ぬ方が良いぞ」
「へ? 何か言ったっすか?」
 良く聞こえなかったため、聞き返しながら洗面所と隣接している戸をがらりと開けたとき、
「……」
「……」
「…………あれ?」
 体にバスタオルを巻いた小柄な少年と、ばっちりと目が合った。
「……え~と」
「っ!! この、ケダモノがぁっ!!」
「はうっ!!」

 
 股間に感じた強力な痛みと衝撃にがくがくと震えながら、聖亜の意識は遥か彼方へと旅立っていった。



西暦2015年(皇紀15年)7月3日、8時15分


「…………おはよっす」
 次の日、聖亜は俯いて教室に入った。クラスメイトが何人か挨拶をしてくるのに答えながら窓際の自分の席に座ると、後ろの席の女子が背中に寄りかかってきた。
「おはよっす、準」
「ああ……って、聖、お前何だか顔色が悪いぞ」
「い、いや、なんでもないっすよ」
 そう言いながらも、聖亜はげっそりとため息を吐いた。昨夜、風呂場での災難の後、一時間ほど気絶していた彼は、気がつくと自分の部屋に寝かされていた。股間にタオル一枚巻いた状態で。
 男として何かを失った気持ちになりながら、気落ちしている聖亜に寄りかかり、準は眠そうな顔で分厚い本をぱらりとめくった。読書好きな彼女は、夜遅くまで本を呼んでいることが多い。今読んでいるのは、確かこの街の郷土史だった。
「準こそ、また夜更かしっすか?」
「ああ。中々面白くて、ついな」
 そんな他愛も無い話をしていると、黒板の前に居た三つ編みの少女が、厳しい顔で歩いてきた。
「ちょっと星君、昨日日直だったでしょ。黒板消し汚いままよ!!」
「へ? あ、すいませんっす。栗原さん」
 頭を下げる聖亜に、だが鬼の学級委員の異名を持つ栗原美香は、神経質そうに目を細めた。
「それから、一昨日は三時限目から出席したんですって? 駄目じゃない!! ちゃんと授業にでなきゃ!!」
「あうっ、けどその、気分が悪くて」
「言い訳しない!!」
 バンッと強く机が叩かれる。その音で周囲の生徒がひそひそと声を細めて喋りだした。

「何だか機嫌悪いよね、栗原さん」
「やっぱりこの前の中間考査で星君に負けたこと、根に持ってるんじゃない?」
「いくら一年でソフト部のエースに選ばれたからって、ちょっと調子に乗りすぎだよね」
「なっ、あ、あんた達ねえっ!!」
 栗原が回りに大声で怒鳴ろうとしたとき、
「おはよう諸君!!」
「……」
 入り口から秋野が入ってきた。その後ろから何故か帽子を被った福井が続く。だがいつも暑苦しいほどの笑顔を振りまく彼が、何故か今日はその巨体を縮めていた。
「おはよっす秋野。それと……福井?」
「……おう」
 聖亜が声をかけても、俯いたまま細い声を出すだけだ。首をかしげる聖亜を見て、秋野がにやにやと笑いながら、ばっと親友の帽子を剥ぎ取った。
「ぶっ、ど、どうしったっすか、その頭!!」
「う、うるせえっ!! 昨日姉ちゃんたちに剃られたんだ、ちくしょ~!!」
 文字通り光っている頭を抑え、福井はこの世の終わりという顔で絶叫した。途端に教室中で大爆笑が起こる。それは結局、植村先生が入ってくるまで続いたのだった。

 植村氷見子は、外の景色を見ながら静かに歩く少女を見て、咥えていたシュガーチョコを思いっきり噛み砕いた。
「あ、あの……植村先生?」
「……あ?」
 そんな彼女に好意を寄せる新米教師がおそるおそる声をかけるが、不機嫌そうに睨まれ、慌てて教室に入った。
「……あ~、ヒスイ、だったか」
 彼女は今朝校長からいきなり押し付けられた女子生徒に声をかけた。だが少女はこちらをちらりと見ただけで、結局また外の景色を見た。
「お前、さっきから何見てんだよ」
「……いや、桜の花を探しているんだが」
「はあ? 馬鹿かお前、桜は春に咲く奴だろ、今は夏だ。時期が違うだろうが」
「そうなのか?」
「そうなの。それよりさっさと教室に入るぞ、ホームルーム始めっから」


「うそだろ……」
 目の前で氷見子に紹介されている少女を見て、聖亜はがくりと項垂れた。端正な顔つきのため、周りで男子がひそひそと話している転校生は、間違いなく今朝別れたばかりの少女に他ならなかった。
「あ~、というわけで、夏休み直前というへんな時期に転校してきたが、アメリカからの留学生だ。ほら、自己紹介しな」
「……ヒスイ・T・Dだ」
「……ったく、それだけかよ。まあ良い。いいかお前ら、恒例の質問は休み時間にしな。授業に入るぞ。それからヒスイの席はっと」
 周りを見渡すと、ちょうど空席が見えた。というか空席はそこしかない。彼の隣りに女を座らせたくはないが、しょうがない。
「……んじゃ星、悪いけどヒスイの面倒見てくれよ」
「え? ちょ、ちょっと氷見子先生!!」
 慌てて立ち上がるが、それは逆効果だった。こちらを見つめる少女とばっちり目が合う。数瞬見詰め合うと、ヒスイはゆっくりとこちらに近づいてきた。
「なんだ、お前この学校だったのか」
「……そうっすよ」
「は? なにヒスイ、星の事知ってるのか?」
「ああ、一昨日からこいつの家に厄介になっている」
「……おい、それってどういう「「「えええええええええええ~!?」」」くっ」
 少女の言葉に、聖亜の後ろにいる準が慌てて立ち上がるが、彼女の言葉は周囲から発せられた驚愕の声にかき消された。




西暦2015年(皇紀15年)7月3日、12時10分


「まったく、何なんだお前のクラスは、騒がしいにも程があるぞ」
「……それはしょうがないと思うっすけど」
「けど、別に転校生が珍しいわけじゃないんだろう」
「いや、そっちじゃなくて、俺の家に住んでる方……」
「事実だ」
 きっぱりと言い放つ少女にため息を吐くと、聖亜は小松お手製の重箱に箸を伸ばした。
 あの後は大変だった。準と氷見子には説明しろと詰め寄られ、福井と秋野からははやし立てられ、栗原からは怒鳴られた。騒ぎは結局隣で授業をしていた鍋島先生が注意に来たことで、やっと収まった。
 だが、授業中も周りからの視線―中でも後ろからの突き刺すような視線に生きた心地がせず、昼休みに入ると同時にいつも昼寝しに来ている、本来は立ち入り禁止の旧校舎の屋上にヒスイをつれて逃げ出したのだ。
「それで、どうして学校にいるっすか?」
「それは私が聞きたい。昨日司と情報交換をしたとき、この学校にドートスに関係ある人間がいるから、生徒として潜り込み監視してくれと言われたんだ」
「関係のある人間って……誰っすか?」
「……さっき注意しに来た男、この学校の教頭を努める鍋島という男だ」
 予想もしなかった人物の名前に、聖亜はぽかんと口を開けた。当然だろう。彼は生徒に厳しいがそれ以上に自分に厳しい。そんな人がドートスと関係があるとは思えなかった。
「それって本当なんすか?」
「どうだろうな、確証はまだないし、今日彼を見て、ますます疑問が湧いた」
「確証はないって……仲間なんすよね、証拠とか見せてもらえなかったっすか?」
 聖亜の質問に、ヒスイは暫く首を傾げていたが、やがてああと頷いた。
「仲間という言葉は、正確には違う。確かに同じエイジャを狩る存在と言う意味では仲間だが、同じ組織に所属しているわけじゃない」
「へ? そうなんすか?」
「ああ。そうだな、簡単に説明すると」
 ヒスイは重箱の中に残っていた肉団子を三つ取ると、それを蓋の上に順番に並べた。
「一つ目は、私が所属している“魔女達の夜”と呼ばれる組織。これはアメリカに本拠地を置き、世界中で活動している」
 そこで一端言葉を切ると、少女は肉団子の一つを口の中に入れた。
「二つ目は、日本で活動している“高天原”と呼ばれる組織で、先程言った司で構成されているが……」
「いるが?」
 先程の自分同様、首をこてんと傾げた少年に、少女は少し侮蔑を込めて言った。
「この連中は人手不足を理由に日本以外でエイジャの討伐をすることは無い。陰で“臆病者”と呼ばれるほど消極的なんだ」
「臆病者って、随分な言い方っすね。でもそうなると分からないことがあるんすけど」
「ん? 何がだ」
 重箱の中から玉子焼きを取り出し、口に運ぶ。ほど良く焼かれたそれは、ほんのりと甘かった。
「日本には、その高天原という組織があるんすよね、なのにどうしてアメリカからヒスイが来たんすか?」
「ああ、その事か」
 今度は煮豆に手を伸ばす。が、中々取れない。悪戦苦闘している少女に笑いながら、聖亜はかわりに煮豆をつまむと、それを少女の口の中に入れてやった。
「ん、すまない。今から三ヶ月ほど前、“羅針盤”にエイジャの活動が感知された。本来なら高天原の連中に討伐されるはずだったんだが」
「……されなかった?」
「ああ。結局二ヵ月半ほど経過して、教授達が臨時の対策会議を開き、確認と討伐のために誰かを送ることが決まり、日本語が達者な私が選ばれたというわけだ」
「……何か同じ日本人としてごめんなさい」
「別にいい。日本には来たかったし。それで、もう質問は無いか?」
「そうっすね……そういえば、魔女達の夜と高天原で二つ、後一つは何ていう組織っすか?」
「……」
 ヒスイはその問いには答えず、屋上の中心に作られた鐘楼に目をやった。かつては時を知らせるために鳴っていた巨大な鐘は、今はもう動いていない。
「あれはもう鳴らないのか?」
「へ? ああ、十年ほど前から鐘の音を音響機関で流してるんすよ。それに、海ツバメが巣を作っちゃって。あの、それよりもう一つは」
「ああ、もう一つは“彷徨う者”と呼ばれる組織なんだが……これは」
「……これは、その『この者達は、先の大戦で本拠地を失った者たちの集団だ』……おい、キュウ」
「あれ? 黒猫さん、来てるっすか?」
 周囲をきょろきょろと見渡す。だが立ち入り禁止のこの場所には、自分とヒスイ以外誰もいない。その様子を呆れた表情で見つめると、ヒスイは胸ポケットから一つのペンダントを取り出した。
「キュウはここにはいない。このペンダントが通信機の役割を果たしているんだ」
「な、何だかお鍋のような形っすね」
 聖亜の言葉通り、ペンダントは丸く、両側に突起がある。まるで鍋を上から見た感じだ。
「“尽きざる物”という。言葉の意味ぐらい自分で調べろ。要するに、通信機と収納袋を一緒にしたものだ。それよりキュウ、あの大戦のことは」
「別に隠すようなことではない。良いか小僧、人間とエイジャは、かつて二度の大戦を引き起こした。一度目は単なる小競り合いだが、二度目は規模は違う。彷徨う者とは、この二度目の大戦“嘆きの大戦”にて、本拠地を失った者をいう」
「嘆きの大戦……すか」
「……其れは嘆きの黒樹なり。身を包む表皮は漆黒の憎悪にして、流れる体液は恨みの涙。その歩みを止める術は無し」
 初夏のぽかぽかと暖かい日差しの中、御腹が一杯になった少年は、うつらうつらとしていたが、やがて少女の子守唄に、その意識を体と共にゆっくりと横たえていった。



 その頬に、硬い屋上ではない、柔らかい何かを感じながら。




西暦2015年(皇紀15年)7月3日、15時30分


「準、ちょっといいっすか?」
 放課後、聖亜はむすっとした顔で帰ろうとしていた少女に声をかけた。
「何だよ浮気者」
「浮気者って……お昼一緒に食べなかった事は謝るから、許してくださいっす」
「……ふうっ、分かったよ。それでどうした?」
「いや、準は“尽きざるもの”っていう鍋知ってるっすか?」
 昼間ヒスイから聞いた、尽きざるものという単語がどうしても気になってしょうがなかった。
「“尽きざるもの”って呼ばれる鍋? ああ、そういえばケルト神話にそんな物があったな」
「ケルト神話……すか?」
「そう。確かダーナ神族の主神が持っていた、お粥を無限に生み出す大鍋が、そんな名前だった気がする」
「……そうっすか、どうもありがとっす」
「別にいい。それより聖、これから時間あるか?」
「え? ああ、別に用はないっすよ、コンクールに出す絵も仕上がったし」
「そうか、なら今日は久しぶりにデートしないか。駅前通りの本屋で買いたい物もあるし」
「ええっ? 荷物持ちっすか?」
「そう言うな、好きなもの奢ってやるから」
「そうっすか?ならい「すまないが、こいつは私と約束がある」って、ちょっとヒスイ?」
 不意に、少年の横から少女の声がした。振り向くと、帰り支度を終えた少女が、こちらを不機嫌そうに睨んでいる。
「……聖はないって言ったぞ」
「そうだな。私が今決めた。今日はこいつに旧市街を案内してもらう」
((今決めたって、約束って言わないんじゃ))
「……お前、あんまり調子に乗るなよ」
 残っている生徒が聞き耳を立てる中、二人の少女は少年を挟んで睨みあった。聖亜は二人の間で暫くおろおろとしていたが、やがて埒が明かないというようにため息を吐き、
「……いい加減にしろ、二人共」
 バンッと、机を強く叩いた。
「っつ、いや、すまない聖、けどこいつが」
「……」
 聖亜の鋭い視線に縮こまる準とは対照的に、ヒスイは呆然と少年を見た。なぜなら、その怜悧な表情は、今までの表情とは打って変わっていたからだ。むしろ、それは一昨日少年がドートスに発した物に近い。
「とにかく、放課後は三人で出かける。それでいいな、準。ヒスイも」
「け、けど「……」あうっ、分かった」
「ああ、別に構わない」
 二人の少女が頷いたのを確認し、聖亜は表情を崩し、にっこりと微笑んだ・



 観光地区にある神社通り、通称お立ち通りから北東に行くと、太刀浪駅が見える。都市最大のモノレール駅だ。その南側にある、ゲームセンターや本屋が立ち並ぶ駅前通りは、学生に人気のスポットとなっていた。
 その通りの隅で立ち止まると、聖亜は両手に持った紙袋を下ろし、大きく息を吐いた。
「おいおい、何やってんだよ聖」
「そうだ。じゃんけんに負けたんだから、ちゃんと持て」
 少年のすぐ前では、茶髪の少女が指差した店を見て、半透明に見えるほど透き通る白髪をした少女が、成る程と頷いている。準は面倒見のいい性格だし、ヒスイも素直な性格だ。すぐに打ち解けたのだろう。それは良い事だ。良い事なのだが。
「けど、何で見る場所が、本屋さんとお菓子屋さんだけなんすか」
「しょうがないじゃないか。私は面白そうな本を探しているんだし、ヒスイのお目当てはみたらし団子だ」
「そうだ。それにさっき奢ってやっただろう」
「……みたらし団子一本だけっすけどね」
「そう言うな、ほら」
 座り込んだ聖亜の腕を、準が掴んで立ち上がらせる。腕に伝わる膨らみに真っ赤になりながら、聖亜はあきらめたように荷物を抱え直した。


「……やっぱりこの街にはいないか」
「は? なにがっすか」
 休憩に立ち寄った公園のベンチで、ヒスイはぽつりと呟いたのは、さすがにみたらし団子一本では悪いと思ったのか、準が公園の広場で売られているクレープを買いに行った時だった。放課後のためか、公園は学生でひどく混雑している。
「何って、エイジャに決まっているだろう。お前、まさか私が何の目的もなくただ街を歩いていただけとでも思っていたのか」
「みたらし団子買ってたじゃないっすか」
「……と、とにかく、これで奴らの活動が復興街に限定されているのが分かった」
「限定って……自分が一番最初に襲われたの、この街でなんすけど」
『ふむ、一つ確認するがな、小僧。お主が襲われたのは、旧市街のどの辺りだ」
 不意に、ペンダントから黒猫の声が響いた。慌てて辺りを見渡すが、気付いた人間はいないようだ。
「えっと、いや、そんなことはないっすよ。街の……中心辺りっすね」
「……キュウ?」
『……』
 少女の問いに、ペンダントの向こう側にいる黒猫は、暫く沈黙していたが、
『ヒスイよ、そなたも習ったと思うが、エイジャが人間の魂を使う最悪のケースは二つある』
「ああ、自分をより上位の存在に進化させるためと、もう一つ、“爵持ち”を呼び出す儀式に使うんだろう?」
『さよう、もし道化師の目的が自らを進化させるためならば、何の問題も無い。なぜならこれは十中八九失敗するからだ。だが』
「……だが?」
 聖亜はちらりと準の方を見た。彼女はまだ列の中だ。話している時間はあるだろう。
『問題なのはもう片方、爵持ち―つまり貴族階級を呼び出すために、人間の魂を集めているとしたら』
「……最悪、この都市に住む全ての人間が狩られるか」
「え? ちょ、ちょっと待ってくださいっす。この都市って、十万人以上はいるっすよ?」
『別に驚くことではない。嘆きの大戦では爵持ちを呼び出すために、万単位で人間が狩られることなど日常茶飯事であったからな』
「けど、さすがにドートスの実力で、それほどの人間を襲うのは無理なんじゃないか?」
『……一つだけ方法がある。五芒星陣(ごぼうせいじん)を使う方法がな』
「ご……何すか?」
『五芒星陣(ごぼうせいじん)、門を開く場所を中心として、周囲五つの場所で人間の魂を狩り、陣を敷く。そして中央で集めた魂を爆発させる。この方法ならば、使う魂の数は最小限に抑えられるが、無論開くための条件は多い。一つは奴らの世界に近い場所、要するに、海の底や地の底だ。そして第二に、その場所に大量の魂が眠っていること」
「大量の……魂が」
「ようするに、巨大な災厄が襲った場所だ。ペルシア連邦のファールスという都市、バミューダ・トライアングルという海域、これが奴らの世界に近い。そしてこの都市では、条件を満たす場所はただ一つ」
「……復興街にある、静めの森。だから、道化師は復興街で人を襲っていた。自分が旧市街で襲われたのは、そこが五つの場所の一つだったから」
『そういうことだ。恐らくな』
 段々と赤く染まっていく空を見ながら、聖亜は軽く首を振った。
「って、そういえば準の奴どうしたっすかね。幾らなんでも遅すぎじゃないっすか」
 夕焼けで真っ赤に染まった公園の中を、聖亜はきょろきょろと見渡していたが、やがて公園の隅にいる彼女を発見した。

 ただし、数人の男に囲まれていたが。



「だから、親戚に少し金を貸してくれって頼んでいるだけじゃねえか」
「そうそう、なあ婆ちゃんよ、親戚の俺ら金無くて困ってるんだわ」
「……嘘を吐くな」
 目の前でにやにやと笑う男達を見て、準は呆れたように首を振った。彼らは十七、八歳ほどの青年で、皆中古の服を着ている。だが後ろの老婦人は着飾っていないが、品の良い格好だ。恐らくは新市街の人間だろう。
「婆さん、こいつらはあんたの親戚か?」
「いいえ、私の子どもは三人だし、孫の顔もみんな知ってるけど、この中に孫はいないわねえ」
「だ、そうだ」
 準が睨み付けると、男達は顔を見合わせたが、やがて二人を取り囲むように散った。
「ちっ、おい婆さん、あんたはさっさと逃げろ」
「あら、大丈夫?」
「ああ。けど出来れば助けを呼んできた欲しい」
「そう……分かったわ、気をつけてね」
 老婦人が入り口に向かうと、男の一人がそれを遮ろうと走り出した。
「手前!! 何勝手に動いてんだうごっ!!」
 だが、男はいきなり前につんのめった。
「準、大丈夫っすか?」
 男を突き飛ばした、自分の唯一を見て、少女は安心したように小さく笑みを浮かべた。
「ああ。けど遅いぞ、聖」
「あはは、ごめんっす。けど準、呼んでくれれば良かったのに」
「ふふっ、こいつら程度、わざわざお前が出る必要は無い」
「く、手前、嘗めてんじゃねえぞ!!」
 起き上がった男が不意を突いて殴りかかってきた。目を細め、それを軽く避けると、聖亜はよろめいた男の脚を軽く払った。
「ぐ、くそ、調子に乗りやがって」
「……っ! お、おい、まずいぞ」
「ああ、なにがだよ」
 別の男が、聖亜の顔を見て、急に青ざめた。
「あいつ、“血染めの吸血鬼”だ」
「……は? 嘘だろ? 血染めの吸血鬼って言えば、二年前まで三馬兄弟と並ぶジ・エンドの幹部で、相手を九割九分殺すっていう、“最狂”だぜ」
「お、俺も知ってる。確か教会に火を放って、神父を焼き殺したっていう狂人だよな」
「へえ……狂人すか、ひどい言い方っすよね。けど」
 その時、駆けつけたヒスイが見たのは、じりじりと後退する男達と、軽く下を向いた少年の後姿だった。
「けど、しょうがないんすよ? 顔も知らない親を憎んで、憎んで憎んで憎んで憎みすぎた子供は」
 
 ぞくりと、空気が震えた。

「……狂うしか、ないじゃないっすか」
 再び顔を上げたとき、聖亜は笑っていた。今までのどこか困ったような笑みではなく、どこまでも冷たい、まるで“私”がするような笑顔を。
「あ……く、来るな、ひいいいいいいっ!!」
 絶叫を上げ、少年の近くにいた男の一人が逃げ出す。それを追いかけようとした聖亜の足が、



          危険度65% 許容範囲外“封印”強制発動



「……う、あ」
 突然、止まった。
「聖!! 馬鹿、だから出るなって言ったんだ!!」
 地面に膝を突き、苦しげに呻く少年の背中を、準は必死に擦った。
「……あ? 何だ、見掛け倒しかよ」
「あ、そう言えば血染めの吸血鬼って、二年前に組織を放り出されたって話だぜ。確か、人に襲い掛かろうとすると、吐くとかで」
「おいおい、何だよそれ、ったく驚かせやがって」
 逃げかけていた男が、ぞろぞろと戻ってくる。その中でも大柄の男―おそらくリーダーなのだろう―が、準を押しのけ、蹲っている聖亜の長髪を掴んだ。
「聖亜!! っく」
 準が慌てて駆け寄ろうとするが、聖亜との間に、数人の男が立ちふさがった。
「慌てるなって、お前の相手は後でたっぷりとしてやるから。おい、聞いてんのか?」
 聖亜の顔が、男にぐりぐりと踏まれた。
「何が血染めの吸血鬼だ、何が九割九分殺すだ、ふざけんじゃねえぞ、このヘタレコウモリが!!」
 男の右足が、少年の顔を踏み砕こうと大きく持ち上げられる。そして、それが落ちる寸前、
「いい加減にしろ」
「ふべっ」

 男の体は、大きく吹き飛ばされた。

「あ、あふぉが、おふぇのあふぉがぁっ!!」
「うるさい」
 男の顎を殴った白髪の少女は、男が聖亜にしようとしていたように、その顔を容赦なく踏み砕いた。
「な、手前!!」
 準を取り囲んでいた男が一斉に襲い掛かってくる。ヒスイはそれを軽く避けながら、相手の足や腕を軽く蹴飛ばした。
 途端にごきりと音がして、男の腕や足が簡単に砕けた。
「がああああっ!!」
「ひいっ、ひいいいいい!!」
「ふん、この程度か」
 痛みにのた打ち回り、気絶する男達を退屈そうに一瞥すると、彼女は周りに残っている男達を見渡した。だが、彼らは皆じりじりと後退し、次の瞬間、喚きながら逃げていった。


「……負傷した仲間を置き去りにするか。下種が」
 逃げていく男を睨むと、ヒスイは聖亜の方に駆け寄った。
「あ、はいっす……もう落ち着いたっすよ、準」
 ぎゅっと抱きついてくる準を優しく撫ぜると、聖亜は息を吐きながら立ち上がった。その体が少し左右に揺れる。
「……変わってるな、お前達」
「へ? 何がっすか?」
 不思議そうに尋ねる少年を見て、頬に付いた返り血を拭うと、ヒスイは呆れたようにため息を吐いた。
「普通、男の顎を砕いたり、骨を折った女を見れば、怖がらないか?」
「いや、俺は準で見慣れてるっすから」
「私だって、聖で見慣れてる。もっとひどいのもな」
「もっとひどいの? それはどうい「聖!! 準!! ヒスイ!!」ん?」
 不意に、三人を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、氷見子先生」
「う……」
 公園の入り口から担任が走ってくる。彼女は三人の前まで来ると、気絶した男達を見渡し、頭をがしがしと掻いた。
「聖、お前まさか“また”やったのか?」
「へ? いや、俺じゃなくて「私だ」……ヒスイ」
「……おいおい、お前も問題児かよ」
 小さな胸を張るヒスイを見て、氷見子は困ったように笑みを浮かべた。
「……あれ? そう言えばどうして氷見子先生がここにいるっすか?」
「ああ、そ「私が呼んだのよ」……話の途中なのですが、神楽様」
 と、氷見子の背後から、先程の老婦人がゆっくりと歩いてきた。
「はれ? 神楽さん?」
「ん? 知り合いなのか、聖」
 きょとんとした顔で、準が聖亜と神楽を見比べた。
「ええ、私、彼がお仕事してる喫茶店のお得意様なの。それから、さっきはありがとうね」
「い、いや……」
 突然お礼を言われて、準は照れたように俯いた。彼女は人から礼を言われることに慣れていないのだ。
「それはそうと、聖、顔に泥が付いてるぞ」
「うわ、これぐらい平気っすよ」
 氷見子が取り出したハンカチで、頬をごしごしと擦られる。くすぐったさに笑いそうになったとき、今度はいきなり抱きしめられた。
「うわっぷ」
「頼むから、頼むからあまり危険なことはしないでくれ」
「……うん。ごめん、氷見子」
「分かればいい。ほら」
 頬を持ち上げられた。近づいてくる唇に、思わず目を閉じたとき、
「……何しようとしたんだ、お前」
「うわっ、じゅ、準」
次の瞬間、聖亜の顔は準に強く抱きしめられていた。
「何って、唇にも泥が付いていたからな。取ってやらないと」
「唇でか? いい加減、俺の聖に近づくのはやめろ、この年増」
「誰が年増だこの売女、お前こそそのでかい脂肪で聖を窒息させるな」
「なんだとっ!!」
 激昂した準が、さらに聖亜を抱きしめた時、
「はいはい、そこまでよ」
 パンパンと手を打ち、神楽が二人の間に割って入った。
「か、神楽様」
「言い訳しないの。それと、準ちゃん、だったかしら。そろそろ離してあげないと、聖ちゃんが窒息しちゃうわよ」
「あ、す、すまない聖。大丈夫か?」
 神楽に指摘され、準は慌てて聖亜を離した。彼の顔は真っ赤に染まっており、目も回っている。
「えへへ、大丈夫っすよ。はにゃ? なんだかヒスイが一杯いるっす」
「……大丈夫じゃないだろ、それ」
 ため息を吐き、ヒスイは聖亜を自分に寄り掛からせた。別に他意はない。だから二人共、そう睨まないで欲しい。
「さ、お騒ぎは此処まで。行きましょう、ひいちゃん」
「……はい。聖、準、ヒスイ、お前ら、寄り道しないで帰れよ」
 
 自分の受け持つ三人の生徒にそういうと、氷見子は神楽に付き従うように、公園の外に向かって歩き出した。



「お久しぶりね、ひいちゃん」
「……この半年、消息がつかめず本当に心配したんですよ、神楽様」
 公園の脇に止めてある最新式の電気自動車に乗り込むと、氷見子は呆れたようにため息を吐いた。
「ごめんなさい。けど、ふふっ、再会して早々、面白いものが見れたわ。男嫌いのひいちゃんが、年下の男の子を取り合うなんて」
「か、神楽様!!」
「あらあら、冷やかしになっちゃったかしら。ごめんなさい……それで、どうだったの?」
 二人を乗せた車は新市街に向け走行していく。運転手はいない。最新式であるこの電気自動車には高度な人工知能を搭載しており、入力された目的地に自動で走行する。
 
 
 その車の中で、今までの穏やかな雰囲気が、一変した。


「は、ドートスを呼び出したのは、復興外の工場地区で工場を経営していた男のようです。ですが」
「ですが?」
「先日、その男の住居に踏み込んだ際、男は干からびて死亡していました。家族も同様に」
「そう……ならピエロ君は、呼び出した人間を殺した単なる迷子という事かしら」
「いえ、それにしては不可解な点が二つほど」
 そこで一端言葉を切ると、氷見子は胸元から一枚の紙を取り出した。そこにはびっしりと文字が刻まれている。
「まずドートス、及びその配下である三体の人形による被害は、この三ヶ月でおよそ四十人。奴は下級のエイジャです。何に使うか分かりませんが、それほど多くの魂が必要とは考えられません」
「なるほどねえ、それで? 二つ目は?」
「はい。こちらは根本的な疑問になります。男がドートスを呼び出したとして、一体どうやってその術を知ったかということです」
「……なるほど、つまりひいちゃんはこう言いたいのね? 誰かがその男にエイジャを“喚起”する方法を教えたと」
 不意に、完璧に保たれているはずの車内の温度が、間違いなく低下した。
「……なら、今帰るわけには行かないわね。ちょっとお仕置きしなきゃいけない人がいるかもしれないし」
「で、ですが神楽様、今年の出雲神楽までもう三月を切りました。御当主であられる、神楽様がいなければ」
「あらあら、そんなもの陽ちゃんか真ちゃんに任せておけばいいじゃない。私はね」
 穏やかな表情で、だが見るもの全てを凍死させる凍てついた空気を発しながら、
黒塚神楽(くろづかかぐら)は、ふと窓の外を見た。
「少しでも長くこの都市にいたいのよ。私の大事な大事な考ちゃんを奪っておいて、それでものうのうと存在しているこの都市が」
 窓の外では、恐らく恋人同士なのだろう、男子生徒と女子生徒が、仲良く手をつないで歩いていた。その微笑ましい光景を見て、神楽は軽く微笑んだ。



「どれほど惨めに滅んでくれるか、それを特等席で見るために、ね」





 西暦2015年(皇紀15年)7月3日、19時00分


「随分遅くなったっすね」
 両手にお菓子袋を持ちながら、聖亜は沈もうとしている夕陽を眺めた。
 
 公園での騒動の後、三人は太刀浪通りまで戻ってきた。通りの南側に家がある準と別れ、聖亜とヒスイは静まり返った西側、所謂下町と呼ばれる通りを歩いていた。
「ああ、それよりもう大丈夫なのか?」
「はは、大丈夫っすよ。それより、さっきはごめんなさいっす」
「構わない。私だってああいう奴らは好きじゃない」

 ふと、辺りに沈黙が下りた。
 
 そのまま、夕陽で赤く染まった道を、二人はゆっくりと歩いていく。だが、下町と竹薮を結ぶ小さな橋に通りかかった時、その歩みは止まった。
「……夕陽が何で赤いか知ってるっすか?」
「波長の長い赤色光が多く届くためだろう?」
 その小さな橋の上で座り込み、沈む太陽を眺める聖亜の、その横顔を、ヒスイはじっと見つめた。
「……夕陽が赤いのは、空の神様が、大地の神様と抱き合っていたのを、親に無理やり引き裂かれ、その痛みと悲しみで、赤い血を流しているから……子供を引き裂くのが親なら、俺にはそんな親なんていらない。必要ない」
「……」
 ぽつぽつと小さな声で話す聖亜の横に、ヒスイはそっと腰掛けた。
「……なんで、何も聞かない?」
「何を聞けっていうんだ?」
 顔を伏せ、呟くように聞いてくる少年に、ヒスイは冷たく言い返した。
「……その、血染めの吸血鬼、とか、教会を燃やして、人を、こ、殺した、とか」
「別に聞く必要はない」
 冷たく、どこまでも冷たくヒスイは言い放つ。それが、たとえ少年の心を抉る行為になったとしても。
「そんな、たった九歳で、俺は自分が育った教会を燃やしたんだぞ、ただのケンカで、相手を瀕死まで殴る狂「それがどうした」……なっ」
 少女の言葉に、さすがに苛立ったのか、聖亜はきっと上を向いた。



 ヒスイの、冷たい、氷のような瞳が、自分を容赦なく射抜いていた。



「もう一度言う。それがどうした?」
「……異常だと思わないのか? 狂ってるって罵らないのか? 普通そうするだろ」
「普通? 普通だと?」
 ヒスイは、聖亜と目を合わせたまま、冷笑を浮かべた。
「そう言えば、私達がなんと呼ばれているか話してなかったな。いいか聖亜、高天原の連中が守護司(しゅごのつかさ)と呼ばれているのに対し、私達は魔器使(まきし)と呼ばれている。魔に器として使われている、哀れで蔑まれる存在という意味だ」
「ま……きし」
「それに、たった一人焼き殺しただけで狂人だと? 異常だと? くだらない。嘆きの大戦で何人死んだか分かるか? キュウ、答えてやれ」
『……西欧諸国の死者だけで、およそ二千万人だ』
「に……せん、まん」
「もっとも、戦で死んだのは五百万人ほどだ。後の千五百万人は、なぜ死んだと思う、嘆きの大戦、その最終局面で、“黒死の担い手”が放った疫病のせいだ。そのせいで、免疫の弱い老人や女子供が、ばたばたと死んでいった。それが誰のせいにされたと思う? エイジャと死に物狂いで戦って、疫病に効く薬を必死に開発した私達の先祖だ。薬を作れるなら、疫病も作れると噂されてな!!」
 そこで一端話すのをやめると、少女は哀しげに眼を伏せた。
「そのくだらない噂のせいで、私達の先祖は魔女として百年の間処刑され続けた。逃げ延びることが出来たのは、コロンブスの舟に航海士として乗り込んだ、わずか数人だけだった。ようするに、私達は世界三代宗教の一つから、その存在を否定されたんだ……結局、一人焼き殺したぐらいで喚くのは、お前が“世界の表側”の人間だからだ」
「……」
 聖亜は何も言わない。いや、言うことは出来ない。
 
 
 なぜなら、怒りで肩を震わせているヒスイは、エイジャという化け物と対等に渡り合う鬼というより、



 年頃の、小さな少女にしか見えなかったから。



 だから、慰めの言葉を掛けられない少年は、涙を流さずに泣いている少女に、そっと寄り掛かった。



   少女が、心の中で泣いている少女が、泣き止むまで


                                   続く

 こんにちは、活字狂いです。「スルトの子 第三幕  世界の表側」はいかがだったでしょうか。さて、前の方でも言いましたが、この物語は「嘘」と「偽者」がテーマです。その最初の嘘、つまりヒスイは少女!! まあ、あまり大層な嘘ではないですが。さて、この後物語は急展開を迎えますが、その前に幕間を一つ。
では次回「スルトの子 幕間  氷のアルバイト」及び「スルトの子 第四幕  世界の裏側」でお会いいたしましょう。

PS  自衛隊の試験を受けているのですが、懸垂が出来ません。がっくり



[22727] スルトの子 幕間   「氷のアルバイト」
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:a8247099
Date: 2010/12/06 11:58

「それで、何でここに連れてきた?」


 根津高校に入った次の日、ヒスイは聖亜に連れられて、空船通りにある喫茶店の前に来ていた。
「何でって……ヒスイが言ったんすよ? アルバイト紹介してくれって」
「それは、確かに言ったけど、でもこれは」
 少女は喫茶店の看板と、中の様子を見て顔を引きつらせた。看板は巨大な猫の形をしており、その中に「キャッツ」と書かれている。今は準備中のためか、店の中では猫耳と尻尾をつけたウエイトレスが掃除をしていた。
「ほ、本当にここしかなかったのか?」
「まあ、探せば別の所もあるかもしれないっすけど、それだとエイジャに襲われたとき大変じゃないっすか……特に俺が。だったら一緒に働いていた方がいいっす」
「それはそうだが」
「まあ、マスターはいい人だから大丈夫っすよ……変態だけど」
 最後の言葉は少女に聞こえないように呟き、聖亜は喫茶店の中に入っていった。ヒスイはそれでも戸惑っていたが、やがてあきらめたようにその後に続いた。




「あ、すいませんお客さん、今準備中……って、聖じゃねえか。まったく、謝って損したぜ」
「祭さん……損って何すか損って」
にこやかな笑みからけっと顔を一瞬で歪ませた、茶色の猫耳と尻尾をつけた先輩の言葉に、聖亜はがくりと項垂れた。
「それで、どうしたんだよ。今日はシフト入ってないだろ?」
「ああ、それなんすけど、ちょっと紹介したい人がいまして……あ、ヒスイ。こっちっすよ!!」
 中に入って来た白髪の少女に向かって聖亜は軽く手を振った。それを見て安心したのか、こちらに小走りで近寄ってきた。
「は? 聖、お前の紹介したい人って、もしかしてお前のこれか?」
「これって、ちょっと下品っすよ。それにまったく違うっす。彼女、事情があって俺の家に居候しているんすけど、アルバイトがしたいって言うから連れてきたっす。それで? マスターはどこっすか?」
「ん? ああ、確か今は二階でパソコン使ってる。けどお前が“あれ”したら、あの変態、すぐに来ると思うぜ?」
「……あれ? 聖亜、あれって何だ?」
 ヒスイの純真な視線にうっとたじろくと、聖亜は暫らく嫌そうに顔を歪めていたが、やがて仕方ないという風に壁を向き、大きく息を吸った。



「……にゃ、にゃ~ん!!」



「……」
「……」
「…………」
「…………」
 店内に白けた空気が流れる。ヒスイの視線に耐え切れなくなった聖亜が、がくりと俯いた時だった。



 ドタドタドタ、バタンッ!!



「どこじゃあ、猫たん!!」
「な!?」
 誰かが階段をものすごい勢いで下りるのが聞こえる。そう思ったら、目の前の扉がいきなり開き、三十台の男が走りこんできた。
「ん? 聖じゃないか。まあそんなことはどうでもいい。それより猫たんはどこだ、猫たんは」
 そう言って周囲を見渡した白夜の眼が、ふとヒスイを見た。
「…………ア?」
「は?」
 呆然とした顔で見てくるこの店のマスターを、ヒスイはぽかんとした顔で見返した。
「あ……ああ、何でもない。それより聖、まさか柳君以外に女がいたとはな」
「だ、だからそうじゃないっすよ。またく、どいつもこいつも。彼女バイト探しているんすけど、ここで面倒見てもらえないっすか?」
「バイトか? まあ一人ぐらい大丈夫だが……よし、一つ質問をしよう。ええと」
「ヒスイだ」
「うむ。ではヒスイ君、一つだけ質問をいいかね」
「あ、ああ」
 先程とは打って変わって真剣な表情で見つめてくるナイスミドルに、ヒスイも姿勢を正した。


「ではやるぞ……ヒスイ君、君は猫派かね? それとも犬派かね?」
 質問の意味が分からず、ヒスイは傍らの少年にすがるような視線を向けた。
「えっと、マスター無類の猫好きなんすよ。この店も半分道楽でやってるっすからね。猫好きな人じゃないと、採用しないっす」
「道楽とは何だ道楽とは。俺はな、聖。猫たんの魅力を広めるために喫茶店を開いたのだ。それで、どうなのかねヒスイ君。答えてくれたまえ」
「……ま、まあ、私は黒猫を連れているし、どちらかというとね「よし採用」……早っ」
「ふっふっふ、猫を飼っている人は無条件で採用だ……女性限定でな。では聖、彼女をロッカールームに案内したまえ。さて、君には何色が似合うかな」
「……なるほど、確かに変態だな」
 高らかに笑う白夜を見て、ヒスイが呟いた言葉に、聖亜と祭は心底同意した。


「あの、ヒスイ、大丈夫っすか?」
「……」
 少女のサポートを任された聖亜は、いつものウエイトレスの格好をしながら、隣で子供達に囲まれている大きな白猫に、恐る恐る声をかけた。
 白猫は何も答えず、集まってきた子供に風船を渡している。


その中には、無論ヒスイが入っていた。



一時間前、幸か不幸か喫茶店のウエイトレスに採用されたヒスイは、ロッカールームで白い猫耳と尻尾、そして制服を着て、開店した店に出たのだが、ここで彼女の欠点が判明した。



 戦闘時以外の彼女は、なんととてつもない不器用だったのだ。



 皿を洗わせれば五枚中四枚は割り、料理を運ばせれば転んで台無しにする。(ここで料理長の顔がびしりと引きつった)
 豪胆な白夜も、さすがに「これはひどい」と唸り、結局不器用さが直るまで、彼女はこうして大きな黒猫の着ぐるみを身につけ、子供達に風船を渡す係になったのだ。
 彼女の周りには子供達が群がり、大胆な子は抱きついたりしているが、彼女は嫌がることなく子供の頭を撫ぜ、風船を渡してやっている。結構子供好きらしい。

 と、空船通りに設置された時計が、18時の鐘を鳴らした。

「はい皆、そろそろ時間っすよ」
「え~、もっと遊びたいよう。馬鹿聖」
「駄目っす。子供は家に帰る時間っすよ。お父さんとお母さんが心配しているっす」
「は~い、じゃあまた遊んでね。猫さん」
 元気よく帰っていく子供達を見送ってから、黒猫は自分の頭を取った。中にいた白髪の少女が、ぐったりと息を吐く。
「……ふうっ、中はさすがに熱いな」
「あはは、そうっすね。それじゃ、中に入りましょうか」
 そう答え、聖亜は扉に手をかけた。




「それで、聖。彼女はやっていけそうかね?」
「まあ、子供好きそうですし、大丈夫とは思うっすよ」
「ふん? ま、不器用な所は気長に直していくさ」
 皿を洗いながら答えると、白夜は楽しそうに笑って頷いた。
「それよりマスター、聞いてもいいっすか?」
「ん、どうした?」
「その、ヒスイをはじめて見た時、何か呟いてましたよね、何とかアって」
「…………まあ、彼女が昔の知り合いに似ていたのでな。そんなはずはないんだが……第一、彼女の髪は短い白髪ではなく、長い青髪だった。それより」
「は? 何す……わあっ!!」
 聖亜はびくりと体を震わせた。白夜がいきなり服の中に手を入れてきたのだ。彼の手は自分の胸の部分を弄っている。
「まったく、女みたいな声を出すな……聖、お前昨日気分が悪くなったな」
「あ、それは、その」
「まったく、いつも言っているだろう。感情を高ぶらせるなと。ま、これぐらいならまだ“割れない”か」
「は?」
「いや、何でもな「……聖ちゃんの胸に手をやって、何が問題ないのかしら」……ひっ」
 不意に、背後から氷河のように冷たい声が響いた。
「い、市葉」
 つやのある長い黒髪をうねうねと不気味に動かしている料理長が、ぼうっとした顔でオレンジジュースを持ったヒスイと共に奥の厨房から出てきた。
「まったく……人に教育を押し付けて、自分は過去の女の話をしながら聖ちゃんにセクハラですか……これは少し教育が必要かしらね」
「い、いや、あの、市葉、それは勘違「問答、無用!!」ふべっ!!」
「……ふ、ふふふ、いいぞ、もっとやれ」
「ヒ、ヒスイが壊れたっす!!」
 渡されたオレンジジュースを飲んでいた聖亜は、先程まで市葉から教育という名のセクハラを受けていたヒスイの呟きに、ぶっと口の中のジュースを吐き出した。



こうして、ヒスイのアルバイトは、まったく順調に始まらなかった。ちゃんちゃん










 周囲に交わった後のすえた臭いが漂う中、楓は体を思い切りベッドに沈めた。
「……ふうっ」
 彼女のすぐ横で眠る客の相手をするのは、これで三回目だ。男は細身の癖に体力は無尽蔵らしく、娼婦の仕事に慣れている自分が、こうして倒れこむほど体力を消耗する。
「さって、それじゃ、湯を浴びさせてもらうよ」
「……」
 この日、男は始終無言だった。無言のまま自分を組み敷き、無言のまま犯し、そして無言のまま粗末なベッドで眠っている。
 まあ、始めと二回目はうっとうしいほど喋っていたから、たまにはこんなのもいいかもしれない。
 
そう思って、立ち上がったときだった。

「……どこへ行くんだい?」
「は? さっき言っただろ。湯を浴びに行くんだよ。ったく、今日はもう出来ないよ。さすがに体力がない」
 男が逆上するかと思ったが、楓はぶっきらぼうに言った。快楽区では、女は大事な“商品”だ。乱暴に扱う客には、自警団「ジ・エンド」が黙っていない。もっとも、護ってもらうためには高い代金を支払う必要があるが、自分達の縄張りで騒ぎが起こるのが嫌なのか、彼らはよく働いてくれる。

「……体力がない? そんなの意味ないよ。どうせ君達はもうすぐ喰われるんだ。誰一人例外なく、誰一人逃げられずに」
「……あんた、頭大丈夫かい?」
 不愉快そうに眉をしかめ、さっさと扉に向かう。金払いの良い客だが、頭のおかしい奴にいつまでも付き合っていられない。さっさと自警団の連中に突き出してやろう。
 
 そう思って、扉に手をかけた時だった。
「……え?」

 自分の胸から突き出した“手”と、その手が握っている“物”を、楓は呆然と見つめた。
「……そう、君達家畜は誰一人逃げることは出来ない。僕達エイジャから」
「あ…………く、せ、聖」
 愛しい弟分の名前を呟いたのを最後に、彼女は床にどっと倒れた。それを見て、男―ドートスは彼女の魂を握り締めたまま、狂ったように笑い続けた。




 床の上では、古い腕時計が、いつまでも哀しげに時を刻んでいた。


                                   続く



[22727] スルトの子 第四幕   世界の裏側
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/06 13:04
   
  夢を、見た。

 だがそれは、いつもの暗い道を行く夢ではない。少年は一人、深い霧が立ち込める草原の中に立っていた。

 ここはどこだろう、見覚えの無い場所だ。なのに、見覚えの無い場所に一人で居るはずなのに、不思議と恐怖は感じない。

 首を傾げながら歩いていると、不意に、霧が晴れた。

 途端に周りの風景が鮮明になってくる。草原の西側には広大な森があり、東側には大きな川が流れていた。

 ふと、少年はその川の岸辺に居る、誰かの姿を見た。



 それは、その人は、青く澄んだ長い青髪をした女性だ。反対側を向いているため、顔は分からない。



  だが少年には、何故か彼女の、痛々しいほど凛々しいその顔が分かった気がした。




     そう、自分の知っている誰かに瓜二つの、その顔が。



 彼女に向かって歩き出そうとした、その途端、両足がずぶずぶと地面に飲み込まれていく。それとほぼ同時に、彼女の向こう側から大きな砂埃がやってくるのが見えた。

 彼女は右手に青く光る刃を持ち、その砂埃に向かっていく。


 そして、地面に完全に飲み込まれるその瞬間、





 少年は、砂埃の中に消えていく、彼女の最後の姿を見た。




西暦2015年(皇紀15年)7月6日 12時30分


 それから三日ほどは、特に何事も無く過ぎた。
 といっても、ヒスイにアルバイトを紹介するなど、いろいろと忙しかったのだが、少なくともエイジャからの襲撃はない。
 どうやら、ドートスの配下は三体の人形だけらしく、その回復を待っているのだろう、とはキュウの判断であった。
「じゃあ、もう二,三日は大丈夫っすね」
「ん? 何が大丈夫なんだ? 聖」
 聖亜の呟きに、彼の右横でサラダを口に運んでいた準が顔を上げた。彼女になんでもないと首を振って答えると、少年は自分の真向かいでエビピラフのエビを突いている白髪の少女をちらりと見た。


 三日前、一緒に買い物をした事で打ち解けたのだろう。準はヒスイが自分の隣に居ることに、あまり文句は言わなくなった。ただし、学校や外では彼女はいつも自分のそばに居る。彼女曰く、男達が復讐しにこないか心配なためらしいが、それらしい動きは無い。昨日氷見子先生に聞いたところ、既に“処理”したらしい。
 が、聖亜はそれを自分一人の胸にしまって置いた。準が自分のことを心配してくれるのは嬉しいし、何より彼も男なのだ。美少女二人に囲まれて、悪い気はしない。そのため、彼はこの三日の間に、陰で三股野郎と囁かれていた。ただし
「よ、何ぼんやりしてるんだよ、この三股野郎っ!!」
ただし、皆が陰で呼んでいるわけではなかった。


「……」
「ん? どうしたんだよ、三股野郎」
「秋野、何すかその三股野郎って」
 左横に座ってきた秋野の言葉に、聖亜はむうっと頬を膨らませた。
「だって聖、お前柳だろ、植村先生だろ、でもって今度はヒスイだろ。充分三股野郎じゃねえか」
 胸を張って答える秋野に、聖亜はげっそりとため息を吐いた。他の生徒が陰で自分を三股野郎と呼んでいるのは知っていたが、面と向かってからかってくるのは、彼と、そしてもう一人
「別にそんなんじゃないっすよ。それより……福井、いいかげんに元気だせっす」
「……うるせえな、これは頭剃られて落ち込んでるんじゃねえよ」
 秋野の向かいに座った福井が、いろいろな意味で光っている頭を俯かせ、好物のカツ丼をぼそぼそと食べ始めた。
「そうそう。福井の奴、昨日付き合ってる奴全員に振られたんだぜ」
「……ああ」
 その事は聖亜も良く知っていた。昨日の放課後、空船通りで彼女とデートしているところを別の彼女に発見され、それから浮気が芋づる的に発覚したらしい。しかも、その時彼女達に一斉に言われた“ハゲ!!”が一番堪えたようだ。
「……無節操なことをしてるからだ」
「そうっすよ。ちゃんと別れてから別の人と付き合わないと、女の人に失礼っす」
「いや聖亜、それを三股野郎のお前に言われたくねえよ。それにヒスイ、大家族の中で下の俺って結構ストレス溜まるんだぜ。せっかく作ったお菓子は食い散らかれるし、おかずも奪われるし、いじめられるし。少しぐらい発散してもいいじゃねえか」
「……ああ、だからお前はあんなにお菓子を作るのがうまいのか」
 ヒスイがこの凸凹コンビと話すようになったのは、家庭科の授業の調理実習が原因だった。その時福井が作ったチーズケーキを試食し、感動のあまり暫らく震えていたのだ。
「発散って、それが由緒ある神社の息子の言う台詞か?」
「いいじゃねえかよ準、どうせ神社は兄貴が継ぐんだし」
 準の言葉に言い返すと、福井は二杯目のカツ丼に取り掛かった。だが半分ほど食べたところで、はあっと上を向く。
「あ~あ、俺もう髪が元通りに伸びるまで学校来るのやめようかな」
「あれ? いいんすか」
「あ? 何がいいってんだよ、聖」
「だって、来週新市街の学校と合同で水泳の授業があるっすよ。福井、かわいい女の子がたくさんいるからって、先月から楽しみにしてたじゃないっすか」
「……おお、そうだったな。んじゃ、しょうがねえから学校休むのは、再来週以降にしてやるか!!」
「……いや、再来週って、もう夏休みに入ると思うっす」
 お、そうだったな。と笑いながら、福井はカツ丼の残りを豪快に頬張った。
「でさ、話は変わるんだけどよ、お前ら放課後になったら一緒にジャストにいかねえか」
「はあ? ジャストっすか?」
 ジャストとは、今年駅北側のデパート通りに出来たばかりの総合デパートだ。千台の車を収容できる立体駐車場だけではなく、付近にはなんと小型の飛空船の発着場まで設けている。そのため県内や国内だけでなく、国外からの買い物客も多かった。
「おう、せっかくだから来週に向けて水着を新調したいんだよ。お前は来るよな、茂」
「……そりゃ行ってもいいけどよ、ジャストって事は月命館の奴らも来るんだろ?」
 聖亜の隣で、今まで話に混ざらずカレーライスを頬張っていた秋野が、カレーを口に入れたまま、もごもごと呟いた。
「ああ、そういえば秋野、月命館の生徒さんと仲悪いっすよね」
 月命館は、2年ほど前に新市街に出来た高校だった。本校は東京付近の都市にあるエスカレーター式のマンモス学校で、その都市は月命館に通う生徒のための寮や娯楽施設、教員の宿舎で出来ている、所謂学園都市だった。新市街に出来たのは月命館高知第二分校であるが、それでも最新式の高校である。入学するためには高い学力か運動能力、または莫大な入学金が必要で、代議士や大会社の社長の子供が通うエリート校といえた。しかも大金をばら撒けば多少の犯罪を見逃すという黒い噂がある。
「ああ。中学ん時の同級生がさ、何人かあの学校に通っているんだよ。ったく、顔合わすたんびに馬鹿にしやがって……それによ、知ってるか? 先月退校したA組の小池、どうやら陸上の新星として引き抜かれたらしい」
「ふ~ん、んじゃどうする? ジャストに行くのやめるか?」
「…………いや、行くよ。あいつらから逃げたようで癪だしな」
 苦々しく笑うと、秋野はカレーの残りを一気に食べ始めた。




 真上にある太陽が、いつもより無慈悲に輝いているように、男には思えた。
「……」
「お、おい木村、お前大丈夫かよ」
 取り巻きの一人が心配そうに、恐る恐る肩に手を置いてきた。胸に「月」のペイントがされている体操服を着たその男を、彼はじろりと睨んだ。



 青白い顔の真ん中で、眼だけが異様なほど光っていた。



「ひっ」
「……ああ。すこぶるいい調子だ。まるで世界が俺を中心に回っているみたいだ」
「そ、そうか。そりゃ良かったな」
「ああ、本当ににいい気分だぜ」
 くくくっと不気味に笑う男を、声を掛けた取り巻きは心底不気味に感じていたが、無視するわけにはいかない。なぜなら彼の父親は、この男の父親が経営する会社に勤務しているからだ。
「そ、そうだ木村、放課後ジャストに行かないか? 久しぶりにナンパしようぜ」
「ナンパか……いいな」
「あ、ああ。そうだろ、いいだろ」
「ああ、とても、いい」
 整備されたグラウンドの片隅で、男はビキビキと血管が浮き上がり始めた両目を青すぎる空に向け、腹の底から笑い声を上げた。





西暦2015年(皇紀15年)7月6日 16時20分


「それで? 何故私まで付き合ってるんだ?」
 その日の放課後、学生や家族連れで込み合う駅北側のデパート街で、白髪の少女はむすっと眉をしかめた。
「……しょうがないじゃないっすか。断りきれなかったんすから」
 聖亜は今日美術部で絵のチェックをしたかったのだが、それは明日でも良いだろうと福井に押し切られたのだ。聖亜が行くという事で準も同意し、最終的にヒスイもしぶしぶ頷いたのだった。
「まったく、こうしている間にも人形達の傷は回復している。こちらから攻めるべきだと思うがな」
「けど、あいつらの居場所、分かってるんすか?」
「う……」
 少年の言葉に、少女はちょっとたじろいた。
「それより、五芒星陣……でしたっけ? その頂点の五ヶ所を取り払った方が早いと思うんすけど」
『否、それは出来ん』
「へ? そうなんすか?」
 ヒスイの持つペンダントから発せられる黒猫の声に、聖亜はちょこんと首を傾げた。
『うむ。頂点の五ヶ所にあるのは眼に見える何かでも、襲われたものの霊体でも、ましてや物でもない。其処にあるのは“絶望”という思念だけだ』
「……思念」
「眼に見える何かならどかす事が出来る。霊体ならば浄化する事が出来る。物であれば壊す事が出来る。けど思念は違う。それは、それだけは何も出来ない。何年、いや何十年もかけて、少しずつ消えるのを待つしかない」
「……」
「まあ、奴らの目的が人の魂を使って爵持ちを呼び出す事なら、いずれ鎮めの森に来る。それがいつになるかは分からないけどな」
 ヒスイの苦笑が混じった声を聞きながら、聖亜は少し先にいる三人を眺めた。秋野と福井の凸凹コンビが、総合デパートの中に出店しているあちこちの店を覗きこみ、その様子を見て準が呆れたようにため息を吐いている。
「とにかく、今は奴らの出方を待つしかないという事だ」
「そうっすね……ところで」
 微笑みながら、聖亜は両手に持っている大量の買い物袋の幾つかを少女に差し出した。
「はい、荷物半分持ってくださいっす」
「……それはいいが、聖亜、お前ジャンケン少し弱すぎじゃないか?」
「う……それは言わないお約束と言うことで」
 それでも半分持ってくれるのは彼女の優しさだろう。とにかく荷物が半分になったのは確かだ。片手の荷物を両手に持ち帰ると、ジャンケンに負けて荷物持ちになった少年は、ヒスイと二人、前にいる友達に追いつこうと少し足を速めた。





「それで、これはどう思う? 聖」
「え……えっと」
 ジャストの二階にある水着売り場で、目の前のそれから聖亜は必死に眼を背けようとした。だが無意識に見てしまうのは、男としての性(さが)だろう。
「ふふ、やっぱりこっちの露出が多い方が好きか。ならこっちにしよう」
 顔を真っ赤に染めた少年を見て嬉しそうに笑うと、準は布の薄い黒いビキニをレジに持っていこうとした。
「え? ちょ、ちょっと準、それ学校の授業で着るっすか?」
慌ててレジに向かおうとしている少女の腕を掴む。だが振り向いた彼女は、してやったりという風に笑っていた。
「そんなわけないだろう。私の裸を見ていい、見せたい唯一の男はお前だけだ。“あの時”からな。まあ授業の時は学校指定の水着にするよ。けど」
 不意に、彼女は自分より幾分背の低い少年を、ぎゅっと抱き締めた。
「けどお前が望むなら、その、水着の鑑賞会を開いてやってもいい。お前だけの……な」
「あ……あうう」
「……変態だな」
「ああ、変態だ」
「うむ、まったくもって変態すぎる」
「ちょっ、そこの三人、うるさいっすよ!!」
 その様子をしらけた顔で見つめる三人に、顔を真っ赤にしながら聖亜は抗議の声を出した。
「大体、人の事をからかう前に、そっちはもう水着選び終わったんすか?」
「ん? 俺はいつものブランド品。新作が出ていたからな」
「……ふっふっふ、俺は今年はこいつで決める!!」
「……何すか、それ」
 福井が後ろから取り出したものを見て、聖亜は肩を落とした。
「何ってボクサーパンツに決まってるだろ!! ふふふ、毛がない分、今年は下半身で勝負だ」
「まったく……お前も十分変態だな」
「う、うるせっ、そういうヒスイはどんな物にしたんだよ」
「わ、私か? 私は別に買わない」
「いや、人の事を変態と言っておいて、自分だけ買わないのは不公平だ。よし、私が選んでやる」
 今まで聖亜を抱きしめていた準が寄って来る。それに合わせ、ヒスイはじりじりと後退した。
「え? いや、遠慮する」
「いいって。何だ? 貧乳なのを気にしているのか?」
「いや、そうじゃなくて、本当にえ」
 不意に、ヒスイは後退するのをやめると、辺りを鋭い眼で探った。先程までとまったく違う彼女の様子に、彼女に迫っていた準が、それを面白そうに眺めていた福井と秋野の凸凹コンビが、そろって訝しげな視線をやった。だがその中で、聖亜は、聖亜だけは顔を微かに強張らせていた。
「ヒスイ……」
「静かにしろ。すまないが急用を思い出した。先に帰らせてもらう」
「ちょ、ヒスイ、それってどういう事だよ!!」
 秋野の叫び声を無視しながら、ヒスイは一階に駆け下りていく。聖亜は彼女が下りていった階段を暫らく見つめていたが、やがて彼女の後を追うために走り出した。



「ったく、今日は中々いい女がいないぜ。な、なあ木村」
取り巻きがおびえた表情で話しかけてくるのを、男は上の空で聞いていた。
彼は酷い空腹だった。まるで、何ヶ月も何も食べていないかのように。だから、
「お。なあ、あいつなんてどうだ? 胸がでかい所なんて、お前の好みだろ。どう思う木村……木村?」

 だから、男は自分のすぐそばでぴいぴいと喚く“家畜”の頭と肩を掴むと、

「へ? あ……が、がああああああああああっ!!」
 その首に、がぶりと喰らいついた。
 ぶちりと首の肉を引き千切り、ぐにゅぐにゅと噛み、飲み込む。家畜の首筋からでた真っ赤な液体が周囲に滝のように溢れ出した。その一滴が、彼らの様子を呆然と見ていたメスの家畜の頬に付着する。
「え? ひ、きゃあああああああああ!!」
 それが何だか分かった家畜の悲鳴を合図に、周りにいた家畜が我先に逃げ出していった。



「く、やはりスフィルか。しかも“寄生種”とは……厄介だな」
 一階に下りたヒスイは、自分に向かって押し寄せる群衆の間を掻き分けながら、彼らの先にいる“それ”に神経を集中させた。
『ヒスイ、人の記憶を“ぼかす”のは後だ。まずはこれ以上被害が出ぬよう、空間を“封縛”せよ』
「分かっている!!」
 胸元のペンダントから聞こえてくる黒猫の声に苛立ちを込めて答えると、ヒスイはパンッと両手を打ち合わせた。今度はその手を、指先を合わせたままゆっくりと離していく。
「……ふっ!!」
 手と手の間に出来た隙間に、少女は息を強く吹きかけた。と、息は隙間を通って急速にあたりに広がっていき、やがてジャストをすっぽりと覆った。
『ふむ、何とか出来たな。だがヒスイ、もう少し精進せよ。所々に罅割れが目立つ。これではすぐに破られるぞ』
「うるさい、一々言われなくても分かって「……何すか、あれ」なっ、お前!?」
 突然、背後から声がした。
 ヒスイがはっと振り返ると、其処には先ほど別れたばかりの少年が呆然と立っていた。
「お前……聖亜、何故ここにいる!?」
「え? 何でって……今普通に階段を下りてきただけなんすけど」
「……そんな、確かに封縛であのスフィルだけを取り込んだはずだ。私がどんなに未熟でも、ただの人間が通れるはずがない」
『……普通の人間? ふむ』
 ヒスイの言葉に、ペンダントの向こう側でキュウはふと首をかしげた。まるで、遠い昔の何かを思い出そうとするかのように。

 だが、それはヒスイに、ましてや聖亜に気づかれることはなかった。

「そんなことより、“あれ”は一体何なんすか?」
 聖亜は、僅かに震える指で通路の先を指差した。
「……あれはスフィルという。要するにエイジャの下僕だ。お前も依然見たはずだぞ。黒い獣と、黒い巨体の化け物を」
「へ? けど、俺が今まであったのは皆色が黒くて、なにより周りが“黒い時”だったすよ。けど今辺りは暗くないし、大体あれは」
「……」
「あれは、“人”じゃないっすか」
 自分でも気づかないうちに声が大きくなっていたのだろう。しゃがみ込んでいた男が、ふと顔を上げた。その眼は血走っている。いや、血走っているのではない。眼の上を血管がびっしりと埋め尽くしており、口の回り同様真っ赤に染まっていた。聖亜はかつて復興街でこれと似た“化物(けもの)”と遭遇したことがあったが、幸いなことにその化物(けもの)は既にこの世にはいない。
「……グルッ」
 “それ”は暫らく辺りを探っていたが、警戒心に空腹が勝ったのだろう。やがてしゃがみ込むと、先程と同じように“食事”を再開した。
「……ぷはっ」
「気をつけろ、馬鹿っ」
「う、すいませんっす。けど、本当に何なんすか? あれ」
『小僧、先程のヒスイの説明を聞いていなかったのか? スフィルだ』
「いや、だから」
「……スフィルには三種類のタイプが存在する。狼に似た頭部を持ち、鋭い牙と爪を武器に襲い掛かってくる個体種、幼体の時に結合し、巨大な一つの体となる集合種。この二つはお前も見ただろう。そして最後……あれと同様、人間に取り付く寄生種だ」
『寄生種は宿主となった人間の体内で、宿主の生命力を吸って急速に成長する。そして、やがて宿主の体を乗っ取る』
「乗っ取る……じゃあ、あれは」
「ああ。奴はどこかで寄生種の幼体を埋め込まれたんだろう。だが最後にあってから今まで、ドートスはおろか人形達の気配はまったくしなかった。どういうことだ? それに、あれはそろそろ」
 不意に、食事をしていた“それ”が、びくりと地面に蹲った。石のように真っ白になった体は、今はもう倍以上に膨れ上がっており、その表面には細かい血管がびっしりと浮き出ている。

 


        その背中が、びしりと音を立てて、割れた。


 

「……う」
 周囲に強烈な臭気が漂う。吐き気を感じた聖亜は、口元を抑えてしゃがみ込んだ。その隣でヒスイも眉をぎゅっと顰めている。
「……やはり“脱皮”寸前だったか」
「脱皮すか……うえっ」
「こんなところで吐くなよ。寄生種は宿主の体内で成長しきると、急に活動を活発化させる。そして」
『そして、その後半日ほどで宿主の体を突き破り、成体となって出てくる』
 涙で霞んだ視界の中、聖亜は“それ”が殻を突き破り、飛び出してくるのを見た。


 最初に出てきたのは、先端が蛇の頭をした尻尾だった。次に虎の足が、狸に似た胴が飛び出し、最後に猿のような頭部が現れた。
「あれは……」
「寄生種は宿主によって成体時の姿が大きく変化するが、これは……キマイラか?」
『いや、日本には鵺(ぬえ)の伝承があったな。頭部が一つしかない。おそらくはそちらであろう』
 聖亜達が眺めるその先で、胴から繋がっているまるで蝙蝠のような翼を広げると、その怪物はひよお、ひよおと甲高く鳴いた。




         それはまるで、人間の悲鳴のようだった。




「聖亜、お前は避難していろ」
「え? けど」
「うるさい、寄生種は下手すると人形、いやドートスよりも厄介になるんだ」
 胸元のペンダントから太刀と小太刀を引き抜くと、ヒスイはじりじりと壁の端に近寄った。そこから覗き込むと、鵺は今まで貪っていた人間を頭から一気に丸呑みにした。
 それでもまだ空腹なのか、獲物を求めてうろうろと動き回っている。
『ヒスイ、今はまだ尾の蛇は目覚めておらぬようだ。奴がこちらに背を向けたその瞬間がが好機と考えよ』
「分かっている。その時一気に片をつける!!」
 二本の刀を握り締め、相手の隙をうかがう少女の視線の先で、鵺はふと、向こう側を向いた。
『今だ!!』
「……ふっ」
 一度強く息を吐き、鵺に向けて低く駆け出す。相手はようやくこちらの存在に気づいたようだが、脱皮した直後のためか、その動きは鈍い。完全に少女の射程内だった。
「喰らえっ!!」
 気合の声と共に、先手必勝と小太刀を相手の首めがけ突き刺す。だが、


 ガキンッ!!


「くっ」
 鈍い音がして、必殺の一撃は相手の硬い皮膚に弾かれた。小太刀はくるくると回りながら、遥か後方に飛んでいく。
『何という硬質皮だ。ヒスイ、一端下がれ』
「あ、ああ」
 だが、今度は鵺の方が素早かった。ひいいっと一度甲高く鳴くと、怪物の周囲に黒く渦巻く雲が漂い始める。その中でバチバチと小さく音が響いた。
『これは……いかん、避けよヒスイ!!』
 キュウの声に、ヒスイは反射的に身を地面に投げ出す。だが左肩が僅かに遅れた。黒い雲の中心から放たれた白く輝く雷の束が、彼女の細い肩を容赦なく貫いた。
「くあっ」
 左肩がぐっと引っ張られ、壁に叩きつけられる。その激痛と衝撃で、ヒスイはがくりと意識を失った。





「え……と、これはちょっとやばそうな。ひっ」
 壁際からその様子を見ていた聖亜は、いきなりこちらに飛んできた小太刀に、慌てて首をすくめた。
「あうっ」
 壁に当たり、小太刀は小柄な少年の姿に変わった。少年―小松はふらつく体で何とか起き上がるが、途端に肩膝をつき、悔しそうに床を叩いた。
「え、えっと、大丈夫っすか? 小松君」
「うるさいっ!! どうせ私は、性別がまだ“ない”無能な半人前だ!! くそっ」
「……は? 性別が、ない?」
「う……」
 小松は、余計なことを喋ってしまったという風に肩をびくりと震わせたが、やがて小さく下を向き、ぼそぼそと話し始めた。
「…………普通、製造された魔器は無性で生まれる。その後、精神が成長することで男か女になる。けど」
 小松は、また弱々しく床を叩いた。
「けど私は……作られて三年経つのに、まだ男にならない。こんなに、こんなにヒスイ様を慕っているのに!!」
「あの……けどそんなに焦る必要はないと思うんすけど」
「黙れっ、何も知らないくせに!! 魔器はな、性別が確定して初めて切れ味が増すんだ。さっきだって……さっきだって私ではなく、護鬼で攻撃していたら、倒せたはずなのに」
 眼に涙を浮かべながら、小松が三度床を叩いた時だった。
 


 バチバチと音がする。二人が慌てて振り返ると、白い雷に肩を貫かれ、壁に叩きつけられ崩れ落ちる姿が見えた。
「ヒ、ヒスイ様!!」
「ちょ、どこへ行くっすか!! 小松く……ちゃん?」
「放せ馬鹿っ!! それと人をちゃん付けで呼ぶな!! それよりヒスイ様が危ないんだ。何とかお助けしなければ」
「む、無理っすよ。そんなに震えてちゃ」
 少年の言うとおりだった。小松の体はぶるぶると小刻みに震えており、足も竦んでいる。とても戦える状態ではない。
「う、うるさいっ!! どうせ私は、小太刀の姿でしか戦ったことのない臆病者だ!!」
「じゃ、じゃあその姿で戦えば……」
「はあ? 馬鹿かお前!! 小太刀の姿でどうやって戦えというんだ。それに、第一誰が私を持って、攻撃が通らない奴と戦うとい「俺がやる」ひうっ」
 



 冷たく、そして鋭い瞳が小松を射抜いた。




「俺がお前を持って、あの化け物と戦う。攻撃が通じないにしても、ヒスイが目覚める間の囮ぐらいは出来る」
「け、けど」
「うるさいっ!! ここには準達もいるんだ!! もしヒスイが奴に食われたら、次に襲われるのはあいつらかもしれない。ぐずぐずせず、さっさと変われ!!」
「け、けど……あっ!!」
 差し出された手を、小松は体を震わせながら眺めていたが、やがて堪忍袋の緒が切れたのか、聖亜は強引に手を握った。その瞬間小松は何だか分からない感覚に、別の意味で体を震わせながら、自分の意思とは関係なく小太刀へと戻っていった。






 動かなくなった少女を貪ろうと歩み寄った鵺は、頭に何かが当たった感覚に、鳴きながら頭の向きを変えた。
 視線の先で、手がひらひらと揺れている。
 鵺は暫らくその手と床に横たわる少女を見比べていたが、獲物を多く捕らえる方を選んだのか、その手にむかってのそのそと歩き出した。

『……スイ、ヒスイよ、いい加減眼を覚ませ』
「…………うっ、キュウ?」
『うむ。傷の方はどうだ?』
 胸元から聞こえてくる黒猫の声に、ヒスイはぼんやりと目を覚ました。軽く肩に触れる。支給されたばかりの制服は黒く焼け焦げているが、内側から覗く白い肌には、傷も、そして雷による黒こげも付いていない。
「大丈夫だ。だが奴は何で私を喰らわなかった? その機会はいくらでもあったはずだ」
『うむ。数分前に現れた、ひらひらと揺れる手を追っていった……まあ、十中八九あの未熟者で半人前以下の小僧だがな』
「……聖亜、あの、馬鹿っ」
 吐き捨てるように呟いくヒスイの眼は、暫らく空中を彷徨っていたが、ふと自分の手首を見た。
「……」
 そこには、黒く細いリストバンドが巻かれている。ヒスイはおずおずと手を伸ばすと、そこにそっと触れた。
『やめよ、ヒスイ』
「う……」




           黒猫の声が、低く、冷徹に響いた。




『これぐらいの事で“それ”を使うのならば、我はそなたを殺さなければならん』
「けど……」
『ヒスイ、我が愛しき未熟者よ。悩み考え、そして動け。そなたの父親が言った言葉であろう』
「……父、様」
 尊敬する父親の事を思い出し、ヒスイはぐっと手を握り締めた。
『うむ、では行くぞ、百殺の絶対零度。その名に恥じぬ戦いを、我に見せてみよ』





「うわっ、くっ、とぉ!!」
 襲い掛かる爪を弾き返し、頭から齧り付こうとする牙を避けながら、聖亜はジャストの中を必死に逃げ回った。
 あの時、鵺の注意をこちらにひきつけたのは良かったが、どうやら相手の速さは自分が思っていた以上に俊敏で、しかも知恵まであるようだ。段々脇道の少ない方に追い詰められていき、気づいた時には行き止まりに追い込まれてしまった。鵺の動きは制限されるが、逃げ道が塞がれている。
「く、この!!」
 必死に突き出した、小太刀が、猿に似た顔を掠めた。
「ひいいいいいっ!」
「ひいひい言いたいのはこっちだ。ったく」
 一気に勝負をつけようというのだろう。鵺が甲高く鳴くと、あたりに黒い雲が渦を巻き始める。あれに当たればどんな幸運の持ち主でも間違いなく皮膚が黒焦げになる。だがその時、鵺の動きが一瞬止まった。
「……」
 どうやら、雷を生み出すのは、鵺にとっても一苦労らしい。バチバチと黒雲の中で音がして、白く輝く光の束が吐き出される瞬間、聖亜は動きの止まった鵺の横を、小太刀で相手の足を掠めながら、一気に走り抜けた。
「ひいいいいいいっ!!」
 バランスを崩した鵺が、鳴きながら床の上を滑っていく。それを見る聖亜の顔にはだが余裕はない。極度の集中力により、体の所々が痛み出したのだ。
「ま、まずは助かっ……た?」
 起き上がれない鵺から、一刻も早く離れようと駆け出した聖亜の足が、ふと鈍った。
「……いや、それは冗談きついって」
 怪物の背から生えていた蝙蝠のそれに似た翼が、ばさりと大きく広がる。それが一,二度大きく羽ばたくと、鵺の体はゆっくりと宙に浮き上がった。
「……はっ、第二段階ってわけか」
 これでは逃げるのは無理だ。背を向けた途端に空から襲われる。
 小太刀を両手で構えなおした少年を、鵺はその赤い目で凝視し低く鳴いていたが、不意に鼻をひくひくと動かし、天井に向かっていった。
「へ?」
 あっけに取られる聖亜の前で、鵺の体当たりに一瞬は耐えた天井が無残に崩れ落ちる。天井に開いた穴から飛び出していった鵺を、聖亜は呆然と見送っていたが、やがてはっと何かに気づいたのか、逃げていたときの倍の速さで階段に向かって走っていった。
「くそ、俺の馬鹿、二階には準達がいるだろうがっ!!」




 目の前に居る獲物を見て、鵺はにやりとほくそ笑んだ。
 やはりそうだ。目の前に居るこの雌の家畜は、極上の獲物だ。胸にある脂肪は美味であるし、その他の部分は良く引き締まっており噛み応えがありそうだ。
 そしてなにより、これほどきれいな雌はめったに居ない。食う前に犯すのもいいだろう。ゆらりと尻尾の先端が持ち上がり、少女に向かって走っていく。そして、それが雌に触れる瞬間、




「おい……手前何人の女襲おうとしてんだよ」
 蛇の頭部に似た尾が、いきなり踏みつけられた。





 危険度87%―超危険領域につき、封印強制発動。




「ぐっ」
 聖亜の胸にびきりと痛みを伴う吐き気が走り、重圧が体を床に縫いつけようとする。だが、
「……いい加減に、しろ、糞野郎がっ!!」
 痛みにふらついても、吐き気に目の前がぼやけても、たった一つの武器である小太刀を取り落としても、聖亜は蛇の頭に似た尾を必死で踏み続けた。だが、その背後から口を大きく開いた鵺が迫る。生きたまま一気に飲み込もうというのだろう。咄嗟に頭を手で押さえた時、
『中々の囮ぶりだったぞ、小僧』
 黒猫の笑い声と、鵺の絶叫が同時に響いた。



 床に落ちていた小太刀を拾い上げ、少年を今まさに飲み込もうとしている鵺の右目を、ヒスイは懇親の力を込めて突いた。
「……いがっ、ひいっ、が」
 あまりの激痛にどうやら声もうまく出せないらしい。だらだらと涎を垂らす口の中に、今度は太刀を根元まで突き刺す。
 右目に小太刀を、口の中に太刀を突き刺され、それでも鵺は必死に飛ぼうとする。だが、すぐに頭が虹色の壁にぶつかった。くるくると回りながら、どす黒い血をあたりに撒き散らす鵺の脳を、床に落ちた太刀で、ヒスイは一気に貫いた。
「ひ……が……あ」
 ずしんと音を立て、鵺は床に落ちる。ひくりと痙攣すると、一瞬絶望と苦悶の表情を浮かべた男の姿になったが、それはすぐにどす黒い液体へと変わった。






「……終わったか。キュウ、記憶の消去を頼む」
『それは構わぬがな、ヒスイよ、不特定多数の人間の記憶を消すのは手間が掛かる。小梅を呼び出せ』
「ああ」
 黒猫に短く答えると、ヒスイは太刀を一振りし、こびりついた黒い液体を振り払うと、今度はそれを上に放り投げた。太刀はくるくると回転しながら落ちてきたが、地面に降り立ったのは太刀ではなく、ヒスイの従者である妖艶な笑みを浮かべた美女だった。
「……やれやれ、人使いが荒いのう、小姫」
「うるさい、ぼやいていないで、早くキュウの“忘却”を広げてくれ」
「承知。して、範囲と忘れさせる内容と対象者は?」
「範囲は都市全体。内容はエイジャに対する全てと、寄生種に変化した男の事。対象者は今日デパートに来た人・その家族、そして彼らから話しを聞いた人達と、最後に男に関わりのある全ての人間」
「それはまた手間が掛かるのう。用心のし過ぎではないか? まあ良い。小姫、暫らく時間が掛かるゆえ、その間に休息なされよ」
「分かった」
 ヒスイからペンダントを受け取ると、小梅は外に出て行った。それを見送ってから、ヒスイはふうっと床に座り込んだ。暫らくゆったりとしていたが、ふと、すぐ横から視線を感じる。そちらを振り向くと、気絶している少女をぎゅっと抱きしめている少年がこちらを硬い表情で睨んでいた。


「……なんだ?」
 見つめ返すヒスイに、聖亜は少し言いよどんだが、やがてため息を吐いて口を開いた。
「……人を殺しておいて、随分と気楽っすね」
「ああ、そんな事か」
「そんな事? 人を殺しておいてそんな事っすか!?」
 腕の中で眠る少女を強く抱きしめながら、少年は白髪の少女を睨む瞳に力を込めた。
 だが、やがて悲しげに眼を伏せた。
「……その、取り付かれただけなら、殺さなくても、取り除くとか、隔離するとか」
「聖亜、それは無理だ。寄生種に取り付かれた人間はほとんど助からない。寄生されてすぐに専門の病院で手術すれば取り除けるかもしれないが、それでも廃人となり、まともな生活は送れない。それに隔離することも不可能だ。嘆きの大戦の時、寄生種に取り付かれた人間を研究する組織ががあったけれど、結局“それら”は全て、エイジャでも人間でもない“物”になり、組織を壊滅させた。だから」
「……だから?」
「だから、寄生種に取り付かれた人に対しての一番の慈悲は、“殺してやること”なんだ」
「……」
 少女の言葉に、聖亜は俯いたまま押し黙った。確かに廃人や何だか分からない物になるんだったら、殺してやる方が慈悲深いかもしれない。頭の中ではそう思ったが、やはり完全に納得するのは無理だ。
 と、話している間に結構時間が過ぎたのか、外に出ていた小梅が戻ってきた。だがその顔に浮かぶ表情はいつもの妖艶な笑みではなく、険しく引き締まっている。
「……どうした? 小梅」
「小姫、気を抜かれるな。西の方で何か厭な気配がしておる」
「西で? ……まさか!!」
 はっと顔を上げ、ヒスイは外に駆け出した。首を傾げながら、抱いていた準を小梅に預け、聖亜も外へと歩き出した。


 外にある立体駐車場の片隅で、ヒスイは西の空を眺めていた。
「ヒスイ? どうしたっすか?」
「……分からないか? 風が泣いているだろう?」
「……そういえば」
 少女の言う通り、肌に感じる風が、夏だというのにまるで真冬のように冷たい。



 まるで、風が涙を流しているかのようだ。



「あの、ヒスイ……一体何が」
「……囮だったというわけだ。寄生種の襲撃、それ自体が」
 ヒスイの厳しい視線の先には、復興街と、その中心にある鎮めの森があった。





西暦2015年(皇紀15年)7月6日 19時30分


 冷水を、頭から一気に被る。

 本来なら澄んだ湖か川の水を使いたいが、そのどちらもここにない以上、浄水機関の水を使うほかは仕方がなかった。
 何度か冷水を被ると、身に纏った白く薄い服は体に張り付き、少女の白く、それこそ一筋の傷も、痣も付いていない肌を月明かりの中に浮かび上がらせる。それは息を飲む美しさだが、それを称える者はこの場にはいない。
 身を清め終えると、少女はペンダントとは違う小物入れから、小さな子安貝を取り出し、慎重に開いた。
中に入っているのはほんの少しの紅だ。小指に僅かに付着させ、そっと唇に塗る。
 それが終わると、彼女は小物入れの中から別の物を取り出し、白髪にそっと着ける。


 それは、この都市に来た最初の麻に買った、桃色の髪飾りだった。





               決戦前の死に化粧



 それが、年若き少女に許された、唯一のおしゃれだった。



 ヒスイが家の中から出てくるのを、聖亜は暗くなった空をぼんやりと見ながら待っていた。彼の隣には黒猫がいる。まるで、少年を見張るように。
「……別に覗いたりしないっす」
「ふんっ、信用できんな。お主には前科があるからの」
「……そうっすか」
「うむ。ところで小僧」
「……だから、覗かないって」
 呆れて振り返った少年は、ふと振り返った。いつも彼を冷やかすように見つめる黒猫の眼が、今は真剣な表情で自分を見つめていたからだ。
「……何すか?」
「小僧、お主今宵の戦いについてくるつもりか?」
「当たり前じゃないっすか。ここまで来てはいさよならは嫌っすよ」
「そうか。ならば覚悟せよ。今宵が“世界の裏側”に踏み込んだ、そなたの最後の夜になるかもしれぬと。三体の人形はともかく、道化師は追い詰められたら何をするか分からぬ。我が心配なのは、奴がある手段を取ることだ」
「……ある手段?」
「うむ。奴の手元には、狩られた人間の魂がある。その数は百に満たぬはずだ。なれば爵持ちを呼ぶ事は出来ぬはずだが、何か考えがあるのだろう。それより我が案じているのは、
奴がその魂を」
「奴が、その魂を?」
 その時、家から準備を終えたヒスイが出てきた。ジーパンとジャケット、手首には黒いリストバンドと、いつもと変わらない服装だが、唇には紅を付けており、白い髪には桃色の髪留めをつけている。そして、その表情はどこまでも硬い。
「……あれ?」
「ん? どうした」
「いや、なんでもないっす」
 聖亜は、その髪留めにどこか見覚えがあった気がしたが、やがて首を横に振った。
 
 彼が少女と話しているとき、黒猫は彼に聞こえぬように下を向き、呟いた。


「その魂を……喰らうことだ」




西暦2015年(皇紀15年)7月6日 21時40分


 鎮めの森は、いつもと変わらぬ、重苦しい静寂に包まれていた。

 
 だが、いつもの清涼な雰囲気はどこにもない。あるのはただ、深い深い漆黒の闇だけだ。


「……いるな。間違いない」
 家を出て二時間後、目の前にぽっかりと開いた闇への入り口をみて、ヒスイはぽつりと呟いた。
「うむ。だが数はそう多くなかろう。道化師に三体の人形、そして固体種と集合種のスフィルが二,三十体というところだろうな」
「スフィルが二,三十体って、充分多いじゃないっすか」
「ふんっ、寄生種以外のスフィルなど単なる闇の塊に過ぎん。例え千体のスフィルがいたとしても、十体のエイジャに劣る」
「ああ……そうだ、そんな事より、聖亜」
「は、はい。何すか?」
 不意に、少女が真剣な表情で見つめてきた。
「この戦いが終わったら、お前一体どうするつもりだ? 記憶が封じられない以上、ドートスを倒しても、別のエイジャに狙われる」
「……え、と」
「本来なら、高天原に保護してもらうのが一番いい。けど」
 少女は勝気な彼女には珍しく、おずおずと話し始めた。心なし、その頬は赤い。
「その、お前さえ良ければ、私と、一緒にこ「無駄話は其処までだ。来るぞ!」っ!!」
ざわりと、空気が震えた。
 黒猫の叫びとほぼ同時に、闇の中から這い出してきた黒い手が四本、少年に向かう。それを前に進み出たヒスイは軽く弾き、隙を突くように飛び掛ってきた固体種の、狼に似た頭部を両断した。




 振り下ろした太刀で饅頭のような頭部を切り裂くと、振り向きざまに伸ばされた爪を腕ごと飛ばす。伸びてきた無数の黒い手を懐に飛び込むことで避けると、集合主の体に、ヒスイは小太刀を深々と突き刺した。
 鎮めの森に入ってから僅か二十五分、その間にこの場にいたスフィルの二十体以上がヒスイに倒され、どす黒い液体へと変わった。
「……相変わらずすごいっすね」
「別にヒスイがすごいのではない。相手が弱すぎるだけだ……ヒスイよ、本命が来たぞ」
「ああ、分かっている」



 不意に、闇がその密度を増した。



「……現れたか、百殺の絶対零度」
「ふふ、それにお嬢ちゃんも」
 闇の中に現れた二体の人形に身構えたヒスイは、彼らの様子を見て、ふと眉を潜めた。
「お前達……傷がほとんど治っていないな」
 彼女の言うとおり、表面の傷は見えないが、体のバランスは良くない。何より彼らの表情に余裕がなかった。
「うるさいわね、怪我なんてしてても、あんたに関係ないじゃな……くっ」


 ガキンッ


と、槍と太刀とが打ち合った。自分に押し込まれる太刀を、ナイトは必死に押し返そうとするが、その時、ナイトの右前足ががくりと崩れた。
「ナイト? うおおおおおおおっ!!」
 徐々に体制を崩していくナイトを救おうと、ポーンがヒスイの背中に向かって切りかかる。だが、
「やらせないっ!!」
「がっ!」
 その脇腹に、聖亜は思いっきりぶつかった。本来ならそれは簡単に振り払うことができた。だが、彼の手が、僅かに以前ヒスイに切られた部分に当たった。
 一瞬、ぐらりと体制が崩れる。その瞬間、怒りの表情を浮かべた仮面、その中心に、ヒスイが後ろ手で放った小太刀が深々と突き刺さった。
「ポーン、このっ!!」
 激昂したナイトが、以前切断された方の槍を突き出す。だが


 ズキッ


「くうっ」
 切断されたときの痛みが残っていたのか、動きが止まった。
「……これで、さよならだ」
 笑顔の仮面の下で、苦しげに呻くナイトの腹部を、ヒスイは太刀で思い切り払った。



 地面に、二つのチェスが転がった。



「やったっすね、ヒスイ……ヒスイ?」
「……」
 二体の人形が消えたのを見て、聖亜は少女に駆け寄った。だが、彼女の表情はなぜか浮かない。
「えっと、ヒスイ?」
「……ああ、何でもない。行くぞ」
 所々欠けた二つのチェスを拾うと、少女は前方にある巨大な樹を黙って睨んだ。


 先程から黙って走る少女の背中を、聖亜は後ろからぼんやりと眺めた。
 彼女は冷たく怒っていた。無論エイジャに。その中でも特に、仲間の傷をそのままにして、彼らの誇りを傷つけたドートスに。
「……ヒスイよ、もう少し感情を抑えよ」
「言われなくても分かっている。少し黙ってろ、馬鹿猫」
「……」
 少女の言葉に、横で走る黒猫が黙り込んだとき、


 不意に、視界が開けた。到着したのだ。巨大な樹に。だが、
「えっと……ドートスはどこっすか?」
「……」
 その場所には、ドートスどころか、スフィル一匹いなかった。
「……もしかして、さっきのは全部囮じゃ」
「いや、奴の配下は三体の人形だけだ。でなければ、もっと早く行動していたはずだからな。なのにその貴重な戦力を、わざわざ囮にするはずが……っ!!」
「ちょ、どうしたっすか!?」
「誰かが襲われている。こっちだ!!」
 薄暗い森の中に入っていく少女の後を追って、聖亜も森の中に足を踏み入れた。いつもは生き物の気配がまったく感じないほど澄んだ森の中が、今日はなぜかざわついている。
 五分ほど走っただろうか。不意にヒスイの腕が、少年の体を押しとどめた。
「……ヒスイ?」
「静かにしていろ。あそこに誰かいる」
「あそこって……あ」
 眼を凝らしてよく見ると、薄暗い森の中、右手に杖を持った三体の人形の最後の一体が、左手で女の首を絞めているのが見えた。
「あれは……楓ねえさむぐっ」
「馬鹿、大声を出すな」
 聖亜の口を、ヒスイは慌てて塞いだ。だが少し遅かったようだ。人形は女の首から手を離すと、悲しげな表情の仮面をこちらに向けた。
「……あなた方が来たという事は、あの人とナイトは敗れたということですね」
「……」
 ヒスイは、悲しげな表情で俯く人形に向けて、ゆっくりと歩き出すと、その首筋に太刀を押し当てた。
「……逃げないのか?」
「確かに、私達吹奏者は使徒を呼び出すことしかできません。そして、呼び出せる道具はもうない。けれど」
 人形は、悲しげな表情のまま、悲しげな声で、太刀を杖で打ち払った。
「それでも私は、使命を果たさなければなりません!!」
 


 ヒスイが戦っている間、聖亜は倒れたままの楓に駆け寄り、その脈を取った。
「良かった。生きてる」
 とにかく安全な場所に運ぼう。そう思って、彼女を背負った時だった。
「……キュウ?」
 少年の行く手を塞ぐように、冷たい表情の黒猫が前方に座っていた。
「小僧……半人前以下の未熟者よ。そやつから離れろ」
「な、何すか未熟者って!!」
 黒猫の言葉に、反論しようとした聖亜だったが、紫電の瞳に睨まれ、うっとたじろいだ。
「ふん、感情に左右され、好機を逃す馬鹿など、未熟者で充分だ。それより」
 黒猫は、聖亜が背負っている女に向け、毛を逆立てて唸りだした。
「死にたくなければ、早くその“道化師”から離れろ!!」
「え?」
 背後で何かの気配がした。はっとそちらを見た聖亜の眼に、白い刃が飛び込んだ。



「キュウっ!!」
「何!?」
 突き出された杖を打ち払い、首筋に太刀の柄を叩き込んだ時、ヒスイの耳に少年の悲鳴が聞こえた。
 ヒスイがはっと振り返ると、視線の先にぐったりと倒れている相棒と、相棒を必死に抱きしめている少年、そして笑いながら浮かぶ女の姿があった。
「あははははは、おしいなあ。もう少しでその馬鹿な餓鬼を殺せる所だったのに!!」
「貴様……ドートスかっ!!」
 笑っている女の姿が、ふと歪んだ。その体は一ヶ所に渦を巻くように吸い込まれていき、次の瞬間、ぽんっと道化師を吐き出した。
「あはははは、ご名答、絶対零度。けどその餓鬼は分からなかったようだねえ。ま、殺せなかったのは仕方ないけど、その小癪な黒猫を殺せただけでも充分さ」
「……」
「怒ったかい? まったく……僕に構わずさっさと設置した魂を探して回収してしまえばいいのにさ。けど、もう遅い」
 心底嬉しそうに、道化師は両手をいっぱいに広げた。
「集めた魂は五十に満たないけど、僕は以前保険として、巨大な樹の根に傷をつけておいたのさ。そして、魂は樹のてっぺんにある」
「……傷?」
 ふと、ヒスイの眉が動いた。
「さあ、絶望に彩られた魂達よ! 起爆剤となり、地の底にある万を越す魂を呼び覚ましておくれ。そして」


 かっと、道化師は両目を大きく開いた。


「そして、門よ、あれ!!」


 その瞬間、巨大な樹を漆黒の光が取り囲んだ。





「……………………あれ?」


 だが、何も起こらず、光はすぐに収まった。慌てて樹に向かおうとしたドートスは、次の瞬間、ばっと横に飛び退いた。
「ちっ」
 今まで自分がいた場所を、白刃が通り過ぎる。飛び退いた自分に、左右から交互に太刀と小太刀が襲い掛かった。
「くっ、しつこいんだよ、手前!!」
 以前同様、鋼に変化させた右腕で刃を受け止めると、無防備になった少女の首めがけ、袖口からナイフを突き出す。


 だが、それは小太刀によって受け止められた。


「……そうか。お前があの傷をつけたのか」
「何?」
「三百の……三百の死霊を浄化するのは、本当に大変だったんだからな!!」
 小太刀でナイフを弾き返し、ヒスイは相手の右腕を、懇親の力を込めて切り飛ばした。



「がああああああああああああっ!!」
 絶叫を上げ、地面に激突する。右腕ははるか遠くに落ち、傷口からはどす黒い血が大量に噴き出した。
「ぐぅっ、て、手前!! 何で鋼の腕を、切り飛ばせるんだよ!!」
「お前の腕が鋼に変化しても、その中の気配は変わらなかった。つまりお前が変化させられるのは、表面だけだという事だ!!」
「ぐ、くそ、いけ、幻想短剣(イリュージョン・ナイフ)!!」
 左腕から放たれた短剣が、今度は六つに分裂して少女に襲い掛かる。さらにその後ろから別の短剣が向かってきた。だが、ヒスイは呆れたようにため息を吐くと、太刀を水平に払った。
「なっ!!」
 弾き飛ばされた短剣は、ぼとぼとと地に落ちた。と、柄から黒い液体がどぷりと湧き出す。
「ふん、やはり飛行できるスフィルで動かしていたか」
 時間差で襲い掛かる短剣も同じように払うと、ヒスイは柄の部分を踏み砕いた。
「ぐ、くそがあああ!!」
 左腕で地面に落ちた短剣の一本を拾い上げると、道化師は少女目掛けて突進した。


 だが、その動きはあまりにも直線的だった。


「……これで、終わりだ」
 突き出された短剣を軽く避け、ヒスイは小太刀を放り投げると、太刀を両手に持ち替え、道化師の体を、右肩から一気に切り下ろした。




 ドートスが完全に動かなくなったのを確認してから、ヒスイは黒猫を抱きしめ、俯いている少年に向かって歩き出した。
「聖亜、お前いつまでキュウを抱きしめているつもりだ。早く離せ」
 呆れた声で言うが、彼は弱々しく首を振っただけだった。
「別に首を突かれただけだろう。いいから、さっさとそいつを放せ」
「……お前、自分の相棒が死んだんだぞ、よくそんなひどい事が言えるな」
「は? 誰が死んだだって? おい馬鹿猫、さっさと起きろ」
「……へ?」
 きょとんとしている少年から、なぜか苛立たしく黒猫を奪い取ると、ヒスイはその髭を軽く引っ張った。
「ふ、ふぎゃ、何をするか、馬鹿者!!」
「いつまでも起きないからだ。それより馬鹿猫、お前死んだのか?」
「馬鹿はどっちだ。地獄の錬金術師(ヘル・アルケミスト)ヘルメスが作り上げた最高クラスのホムンクルスである我が、高々首を突かれたぐらいで死ぬはずがなかろう」
 首筋を前足で掻き、黒猫はにやりと笑った。先程短剣を深々と突き刺されたはずのそこは、だが傷一つ見当たらない。
「ま、中々の抱き心地だったぞ。小僧」
「……だ」
「だ?」
「騙されたっす~!!」


 
 少年の絶叫が、周りに響き渡った。



「騙されたっす、もうっ」
「だから、悪かったと言っておる。それより、奴はちゃんと滅したのであろうな。ヒスイ」
「ん、ああ。ちゃんとそこに転がって……いない?」
 少女は、ふと眉を潜めた。胴を切り裂かれ瀕死の状態だった道化師の姿はそこにはない。ただ黒い血が点々と巨大な樹に向かっていた。
「……あいつ、一体何をするつもりだ?」
「追い詰められた鼠は、何をするか分からぬ。追うぞ、ヒスイ」
「……ああ、分かった」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっす!!」
 巨大な樹に向け、一人と一匹が走り出す。慌てて立ち上がると、聖亜も彼女達の後に続いていった。




 道化師は、樹に寄りかかっていた。
 門は開かなくとも、数十の絶望した魂を衝突させた効果は大きかったのだろう。御神木として屋久島から運ばれてきた、樹齢八百年を越す巨大な杉の樹は、所々無残に傷ついていた。
「ここまでだな、道化師」
「……」
 ヒスイが太刀を向けても、ドートスは動く気配がない。片腕を切り飛ばされ、胴を裂かれ血を流しすぎたのだろう。その肌は蒼白だった。
「せめてもの情けだ。一撃で滅してやる」
「……滅する、だと?」
 不意に、道化師はその蒼白な顔を、上げた。
「ふ、ふふ、ふふふ。僕が何か悪いことをしたかい? ただ家畜を狩っていただけじゃないか。君達だって牛や豚を狩るだろう? 一体どこが違うというんだ」
「戯言を!!」
 ヒスイは道化師に向かって走り出した。だが、その白刃が道化師に届こうとしたとき、


 ドートスは、最後に狩った娼婦の魂を、丸ごと飲み込んだ。


「何? くっ」
 道化師の体から、大量の臭気が噴き出した。
「死にたくない……死にたくない。まだおいしい物を食べきっていない。いい女も抱いていない。ちやほやされていない。死にたくない……死にたくない。じゃあどうすればいい? あ、何だ。簡単じゃないか」
「く、これはやはり!!」
 毛を逆立てる黒猫の前で、ドートスの体は、異様なほど膨れ上がった。
「進化すればいいんだ。誰も……そう、あいつらさえ敵わない存在に!!」
「人間の魂を、喰らったか!!」
 そして、それは現れた。




 その大きさは、巨大な杉の樹とほぼ同様だろう。
 形状はヒキガエルに近い。だがその手足は八本あり、それぞれの大きさも違う。 体全体にいぼが生えており、時々臭気を噴き出している。内臓もおかしいのか、腹部は異様なほど膨れ上がっていた。
 さらに頭部の右半分が腐れかかっており、眼はずるりと垂れ下がっている。


 それはいわゆる、奇形だった。


「ううっ、何すか、これ」
「……魂の使用方法の中で、最悪の物は何か、以前話したな。爵持ちを呼び出すためと、もう一つ自らを上位の存在に進化させるために使う」
「けど、後者は十中八九成功しないで、暴走するって話じゃ」
「うむ。だが奴はもう正気ではなかったのだろう。このままでも奴は自滅するが、どうする? ヒスイよ」
「もちろん、“滅殺”する」
 黒猫の問いに、少女は迷うことなく頷いた。
「それが、奴に食われた魂だけでなく、奴自身も救うことになる」
「……ふふ、相変わらず優しいな。ならば奴に見せてやれ、百殺の絶対零度の力をな」
「ああっ!!」
 無造作に振り下ろされた、大木ほどもある腕を避けると、少女はにやりと笑って見せた。


 かつて、ドートスと呼ばれた存在は、腐りかけた眼でぼんやりと周囲を見渡した。自分の周りには、何もない。幼い頃、自分を虐めた氏民も、自分の才能を理解せず、入学金が払えないというだけで、門前払いした吹奏者を養成する音楽学校の教師も、乞食同然に地面に転がっていたとき、蔑みの眼を向けて来た子供達も、そして何より、作業が遅いと自分を罵るあの黒衣の男もいなかった。



―いい気分だ。



 ひび割れた石のような口で笑うと、その存在は前に歩き出そうとした。



 そのとき、ふと右手が落ちた。それを拾おうとのろのろと身をかがめた時、頭を蚊が刺した。どうやらぶんぶんと周囲を飛び回っているらしい。無視してもいいが、うっとうしいことに変わりはないし、何よりひどい空腹だった。


 もはやその存在からドートスの意識は完全に掻き消えた。あるのは空腹を満たしたいと満たしたい欲求、ただそれだけであった。




「くっ」
 伸びてきた舌を間一髪で避け、ヒスイはそれに逆に切りかかる。だが太刀は舌の上をつるつると滑るだけだった。
「……なるほど、蝦蟇の油というわけか。面倒だな」
 太刀を良く見ると、所々にぬめりはこびり付いていた。先程渾身の力を込め、大木ほどの大きさがある腕を切り落とした際に付着したのだろう。だが切り落とされた腕は、怪物が持ち上げ、切り口に押し当てると、何事もなかったかのように付着した。
「ち、滅するには脳を叩くしかないか」
 一度太刀を振ってぬめりを振り払うと、ヒスイは再び怪物に向け駆け出した。


「……あれ? 何かあまり切れてないような気が」
 ヒスイが戦っている場所から少し離れた森の中から、聖亜は彼女の様子を見守っていた。
「奴の体を、ゲル状の液体が覆っているのだ。おそらくあれが、護鬼の切れ味を鈍らせているのだろう」
「えっと、それってちょっとまずいんじゃ」
「まずいだと? くははは。小僧、そなた魔器という物が何か、理解しておらぬようだな。よいか、魔器とは本来武器ではない」
「武器じゃ……ない?」
「さよう。魔器とは名前の通り魔の器。本来は魔を封じて置くための器であった。それを改良し、武器として使えるようにしたのが、マイスター・へファトだ。故に」
 ちらりと、黒猫はヒスイの持つ太刀を見た。
「故に武器としての切れ味は、さほど重要ではない。重要なのはその中に、どのような魔が封じられているかだ。そして」
 黒猫の視線の先で、怪物の頭部目掛けヒスイは小太刀を投げつけた。怪物がそれを腕で振り払うと、開いた隙間を潜り抜け、怪物の腹部目掛け、両手に持ち替えた太刀を突き刺した。それは、始めはぬめりに押されて通らなかったが、
「そして、ヒスイの持つ魔器、鬼護りに封じられているのは、二体の鬼。前鬼と後鬼。まあ、小松は正確に言えば後鬼ではないが……それでも」
 だが、そのぬめりごと太刀はずぶずぶと腹に突き刺さっていく。根元まで突き刺さったその太刀を、今度は一気に、
「それでも、あの魔器は一級品だ。鬼護り、その名の由来は鬼に護られているのでも、鬼から護られているのでもない」
 腹を、縦に裂いた。
「鬼すらその身を護るほど、強力な太刀という意味だ」
 黒猫が口を閉じたのと同時に、怪物は、ズズンっと地響きを上げ、倒れた。



「はあ、はあ、はあ……ふっ」
 倒れた怪物の傍らで、ヒスイは苦しそうに片膝を付いた。
 さすがにぬめりと同時に、その硬い皮膚に太刀を突き刺し、一気に引き裂くのは彼女の体力を著しく消耗させた。だが、それなりの成果はあったようだ。
「油断するな、ヒスイ」
「ああ。分かっている」
 近寄ってきた黒猫に頷くと、ヒスイは息を整えて立ち上がり、怪物の頭部に向かって歩き出した。だが、
「……う?」
「ヒスイ? むっ」
「へ? どうしたっすか、二人共」
 突然、彼女達の動きが止まった。どうやら、怪物のいぼから放たれる煙には、麻痺性の毒があるらしい。慌てて聖亜は駆け寄ろうとするが、次の瞬間、彼は何かに思い切り殴り飛ばされた。
「うあっ」
「聖亜、ぐっ!!」
「……なんという執念か、まさか、自らの内臓すら武器にするとは」
 聖亜を投げ飛ばしたもの、それは怪物の巨大な腸だった。
 体を覆う痺れで動けない彼らの前で、怪物はのそりと起き上がった。倒れた衝撃で頭部は完全に崩れているが、顔の下半分は無事の
ようだ。無論口と、そして、その中にある長い舌も。
「うあっ、ぐっ」
 その舌が自分に強く巻きつき、ずるずると口の中に引きずり込もうとしている。何とか振りほどこうともがくが、痺れが残る体は自由に動かない。
「ヒ、ヒスイ、むうっ」
 キュウは必死に動かぬ体を持ち上げようとした。だが体が小さい分、ヒスイより痺れが強く効いているのだろう。横にころりと転がると、もはや髭一本動かなかった。



「……う、げほ、げほっ」
 腸に弾き飛ばされ、近くの草むらに転げ落ちる。その上をごろごろと転がると、喉の詰まりを感じ、聖亜は思い切り咳をした。草むらに少量の血が飛び散る。どうやら口の中を少し切ったらしい。
「う……ヒスイ達、は?」
 涙でにじむ視界の中、必死に怪物を見て、そして固まった。そこには、怪物のほうに引きずられ、今まさに食われようとしている少女の姿があった。
「ヒ、スイ……うあ、あ、あああああああああああっ!!」



   危険度89%―超危険領域!! 超危険領域!! 超危険領い……ピー



 がくがくと震える足で立ち上がり、がちがちとうるさく鳴る歯を食いしばると、聖亜は一歩、また一歩と、少女に向けて歩き出した。

 カシンッ


 胸の中で、何かが音を立てて軋んだ。




 ぐばりと、怪物の崩れかかった口が開き、少女を飲み込もうとする。その瞬間を予想し、ヒスイは思わず眼をぎゅっとつぶった。
「おい」
 聞き覚えのある声が暗闇に響く。同時に、舌の動きが急に止まった。


「ったく、往生際が悪いんだよ、手前」
 口の端から流れる血を拭うと、聖亜は先程拾った小太刀を、ぐりぐりと舌に突き刺した。体の底から、どくどくと熱が湧き上がる。中学以来、久しく感じる事のなかったどす黒い感情に、少年は半ば酔っていた。
「それからヒスイ、お前は逆に往生際が良すぎ。ったく、助けてぐらい言えよな」
 少女の体を縛っていた舌を振りほどくと、聖亜は崩れ落ちる彼女の体をそっと支えてやった。
「う……」
「それで、どうする? 自分で止めを刺すか? それとも」
 草むらの中に転がっている太刀を拾い上げると、聖亜はそれも舌に突き刺した。
「それとも、俺が生きたまま“解体”してやろうか?」
「せ、聖亜、お主」
「……いや、私が止めを刺す」
 先程までとはまったく違う少年の様子に、黒猫は目を見張ったが、少女は首を振ると、そっと太刀を手に取った。
「……分かったよ。ならあいつのところまで背負ってやる」
 冷ややかに笑うと、少年は少女の動けない体を無理に背負った。自分より小さい背に手を置くと、少女はなぜかその背中に顔を埋めたくなった。
「さ、ついたぞ」
「あ? あ、ああ」
 当たり前だが、怪物との距離は短いため、背負ってもらう時間も短い。少し名残惜しいが、止めを刺すことを選んだのは自分だ。やらなければならない。
 ふらつく足で地面に降りると、ひくひくと痙攣している怪物を、ヒスイは哀れみを込めて見つめた。
「……止めだ。安らかに滅せ」
 静かな、本当に静かな声と共に、少女は怪物の脳目掛け、太刀をゆっくりと振り下ろした。
 その一撃は、ひび割れた頭蓋骨を容易く貫通し、半ば腐った脳を、完全に粉砕した。


「グ……バアアアァッ」
 ため息に似た声を出し、かつてドートスと呼ばれていた怪物は、どこか安堵の表情を浮かべながら、ゆっくりと掻き消えた。
 


     それが、聖夜の煉獄での、戦いの幕引きだった。





西暦2015年(皇紀15年)7月7日 12時10分


 午後の日差しが、屋上いっぱいに広がる。
 その日差しの中、聖亜は寝転びながら大きく伸びをした。
「ふうっ、まったく、だらしがないぞ。聖亜」
「別にいいじゃないっすか。終わったんすから」
 ちぇっと軽く舌を出して、聖亜は自分を覗き込むヒスイの顔を見上げた。
「……それで、ヒスイはこれからどうするっすか?」
「そうだな。ドートスと繋がっていたという鍋島教頭の調査は結局出来なかったし、神木もだいぶ傷ついた」
 戦いが終わった後、キュウの手により傷ついた神木の細胞は活性化されたが、傷が完全に癒えるまで後数ヶ月はかかるらしい。
「その間、太刀浪市はエイジャに狙われやすくなる。守護司に後を頼むにしても、あれ以来何故か連絡が取れないし、どちらにしても、しばらく様子を見なければならないな。それに」
「それに?」
「……あ、いや、なんでもない」
 ごまかすように海を見る少女に、聖亜は首を傾げたが、やがて同じように彼方の海を眺めた。
「……そういえば、三体の人形はどうなるっすか?」
 戦いが終わった後、道化師が倒れていた場所から、三体の人形を収容するための台座が見つかった。さらに付近の草むらからビショップの駒も見つかっている。
「人間を襲ったことに変わりはない。おそらく魂を粉砕されるだろう」
 人形達のことを思い浮かべ、聖亜はため息を吐いた。笑った仮面、怒りの仮面、悲しみの仮面。ナイトは笑いたいと思ったことは一度もないと言っていた。笑いたくないのに笑う事を強制されるのは、一体どれだけ辛いのだろう。
「聖亜……」
 考え込んだ少年に、少女が何か言おうとしたときだった。
「あ、やっぱりここにいた」
「あれ? 準。それに秋野と福井も。いったいどうしたっすか?」
 その時、屋上に準が上がってきた。さらにその後ろから、秋野と福井も続く。
「ったく、どうしたじゃねえって。今日は七夕だぜ。パーティー、するって言ったじゃないか」
「ああ、そうだったっすね。ヒスイもいいっすか?」
「は? ちょっと待て。何で私に聞く」
「だってヒスイ、聖亜の家に居候してるんだろ? パーティー、そこでするんだよ」
「それに、ヒスイの歓迎会もしないといけないからな」
 準が腕を組んで笑うと、それにつられるように、ヒスイも苦笑を浮かべた。
「……みたらし団子は出るんだろうな」
「ああ。出る出る。お立通りの団子屋で、いっぱい買ってきてやるよ」
「……そ、それじゃあやってもい」





           下らん戯言だな、玩具使い





 太刀浪市全体が漆黒の空に覆われ、準達が倒れるのと、聖亜を突き飛ばし、咄嗟に身を伏せたヒスイの肩を細身の剣が貫くのは、ほぼ同時だった。
「く、あああああああっ!!」
 悲鳴を上げ、それでも前に体を倒して剣を抜くと、少女は床に転がったペンダントから咄嗟に小太刀を引き抜いた。
「むは、むはははははっ!! さすがだな玩具使い。心の臓を貫くはずの、我輩の必殺の一撃を回避するとは!!」
「……何すか、あれ」
 地面にへたり込んだ聖亜が見た物、それは漆黒の空に浮かぶ、三体の石の人形と、彼らを付き従えている、圧倒的な気配を持つ、黒衣の人物だった。




「むはははははっ!! なるほど、ピエロがやられるわけだ。だがな、奴と我ら上層氏民を一緒にするなよ。ん?」
 少女を背後から奇襲した石の人形が、下品に笑いながら蓄えた髭をなぜた。
「くっ、別働隊、だと?」
「むは、むはははははっ、違うな。奴は所詮捨て駒。我らこそが本隊なのだ。あの方を呼び出すための「キング、黙れ」……は」
 キングと呼ばれた石人形は、黒衣の男の命令に従い、ほかの二体の人形がいる場所まで下がった。
「……さて、玩具使い。先程キングが言ったと思うが、貴様が今まで相手にしていた道化師は、単なる捨て駒に過ぎん。しかも、何の役にもたたなかった、な。まあ奴はその無能を、死という形で償ったわけだが」
「なる、ほど。つまり、お前たちがいる限り、今回の戦いは終わらないというわけか……ならっ!!」
 黒衣の男目掛け、ヒスイは小太刀を構える。だが、
「戦う相手の技量も分からぬのか、絶対零度……ルーク」
「……グッ」
 ルークと呼ばれた、まるで塔のように巨大な石人形は、石で出来たその腕を、“そこ”に向けた。
「な、や、やめっ」
 巨大な石の拳が人形から放たれる。それは百年の間、休みなく鳴り続けた鐘をを、鐘楼ごと一撃で粉砕した。




 その中にある、ウミツバメの巣もろとも。



「……さて玩具使い。これでもまだ我らと戦うか?」
「……要求は、何だ」
「ヒス、イ?」
「ほう、潔い事だ。玩具使い。我らがわざわざ出向いたのは、そなたを捕らえるためだ。いいだろう、取引をしよう。貴様が大人しく捕まるならば、この都市に住むすべての家畜に手は出さぬ。約束しよう。だが」
 男は黒衣に包まれた腕を上げると、背後の三体の石人形と共に、その気配を一層強めた。
「だが、貴様があくまで抵抗しようというならば、この都市を灰燼に帰し、十万を越す家畜の魂を、その絶望ごと喰らってやろう」
 その言葉に、ヒスイは
「……」
項垂れ、そして、ふっと肩を落とした。
「ふん、それでいいのだ。ルーク」
「……ゴッ」
 再び人形の拳が飛ぶ。それは、今度は屋上に立つ少女を握り締め、ゆっくりと戻った。
「さあ、帰還するぞ。キング、ルーク、クイーン。さて家畜共、我らの主が降臨するまでのしばしの間、動けぬその身にせいぜい絶望を溜め込んでおくがいい!!」
 黒衣の男を先頭に、彼らが漆黒の空の彼方へ消えるのを、聖亜はただ呆然と眺めていた。





 眺めているしか、出来なかった。




                                   続く

 こんにちは。活字狂いす。さて、今回は戦闘を中心に書きました。今回でドートス他三体の人形は倒されましたが、人形はまだ出演します。そして、いよいよ次回
「スルトの子 第五幕   蛇神降臨」にて、ボスが出場します。お楽しみに。


PS  自衛隊に合格したのはいいですが、やっぱり懸垂が出来ません。



[22727] スルトの子 第五幕   蛇神降臨
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:32
 悪夢を、見た


 死ね


 死ね


 死んで


 死ねよ


 死んでください



 死んでくれ



 何で、お前ばかり生きている



 過去という名の亡霊が、私の死を望み、恨みを込めて囁く。




 いや、違う



 死を望んだのは、誰でもない私自身ではなかったか






 犯してしまった罪への、大罪として



 なあ、友よ




 もし、この身を滅ぼせば、救われるのだろうか





 私は




 神奈川県横須賀市、ここは日本有数の軍港として発祥してきた。おそらく、滅びるときも軍港として滅びるだろう。
 この軍港に数多くある、海軍基地の一つは、今大きな混乱に包まれていた。

「状況はどうなっている!!」
「はい、やはり二時間前から、太刀浪市との全ての通信が途絶えたままです!!」
 太刀浪市監視責任者、緒方隆三一佐は、部下の発した声に深いため息を吐いた。
「とにかく通信の回復を急いでくれ。あの都市には日本人だけでなく、多くの外国人観光客がいる。もし彼らに何かあれば、日本皇国は世界中から非難を浴びることになるぞ」
「は、全力を尽くします!!」
 頼むぞ。それだけ言って敬礼すると、緒方はデスクに戻り、コーヒーを飲んだ。三十分前に入れたコーヒーは、すっかり冷めてしまっている。それをまずそうに飲み干すと、不意にドアがノックされた。
「失礼します。一佐、東京から通信です」
「ああ、すまない」
 秘書から渡された書類をぱらぱらと捲る。だが、やがてその手は止まり、体はぶるぶると震え始めた。
「あの、一佐、どうかなさいましたか?」
「……今回の件、我々は手出し無用、監視するだけという命令だ。すでにこれと同じ文章がこの基地だけでなく、自衛軍、全ての基地に届いている」
「そ、それは、現状維持というわけですか」
 部下の言葉を聞き流し、緒方はガッと机を殴りつけた。
「これではあの時と同じじゃないか!! 十五年前の災厄の、あの時と!!」





 漆黒に染まった空を、聖亜は旧校舎の屋上でぼんやりと眺めていた。
 エイジャの姿はない。そして、澄んだ白髪を持った少女も、ここにはいなかった。

 どれぐらい時間が過ぎただろうか。不意に、頬を叩かれた。
「……か、おい、しっかりしないか、星」
「あ……鍋島、先生?」
 見知った厳しい顔が、自分を覗き込んでいる。聖亜が気づいたことで安心したのか、彼は地面に倒れている三人の頬を叩いて回った。
「……教頭先生、これって」
「駄目か……星、何故お前が“この状態”で動けるのかは聞かない。だが動けるなら今すぐこの学校、いや、この都市から逃げろ」
 三人の意識が無い事を確認すえると、鍋島は暫らく自嘲気味に眼を瞑っていたが、やがて出入り口に向かって歩き出そうとした。
「け、けど先生、彼女が、ヒスイがあいつらに!!」
「あいつら、だと? 星、お前一体何を知っている? そして一体何を隠している?」
「そ、それは……」
 この空間でこうして動けている限り、鍋島先生も無関係ではないのだろう。だが彼の鋭い視線が自分を詰問しているように感じ、聖亜はぐっと喉を詰まらせた。
『……ふむ、ならばそこにいる未熟な小僧の代わりに、我が答えてやろう』
 不意に、足元で聞きなれた黒猫の声が響いた。おそらくあの時咄嗟に投げ捨てたのだろう、ヒスイがいつも胸ポケットに厳重に入れていたペンダントが、そこにはあった。
「あ……キュウ!!」
『嬉しそうな声を出すな、まったく。だが鍋島とやら、この状態で動けるのであれば、そなたも高天原の関係者なのだろう?』
「ああ。だが守護司ではない。単なる構成員だ……まあ、私の事はどうでもいい。それより、何があった?」
『うむ、実はな……』
 キュウが鍋島先生と話している間に、聖亜は準の傍らに歩み寄った。彼女は眼を見開いたまま、まるで石のように動かない。そしてその瞳には、何も映ってはいなかった。
「……なるほど、大体の事情は分かった。星、本来ならすぐに話しておくべきだったな」
「う……す、すいません」
「まあいい。それより、先程も言ったが、今すぐこの都市から逃げろ。危険だが、山中を通っていけば近道になるはずだ」
 そう言って、再び建物の中に入ろうとした鍋島先生の動きを遮るように、聖亜は彼の前に立ち塞がった。
「ちょ、ちょっと待ってください。それって準達を見捨てろって事っすか? それにヒスイだって、あいつ、俺達を助けるために、あいつ等に抵抗もせずに捕まって……」
「……星、辛いのは分かる。だが奴らはお前が今まで遭遇した鵺や人形、そして道化師とはまるで違う。見ろ、この状態を」
 彼は、両手を一杯に広げた。
「奴らは町全体を覆える空間を、一瞬で作り出せる。エイジャの中でも、もっとも上位に位置する存在なのだろう。お前では到底太刀打ちできん。無論、私にもな」
「………………鍋島先生も、逃げるんすか?」
 俯いて呟いた聖亜を気の毒そうに見つめると、鍋島は小さく、だがしっかりと首を振った。
「いや、私にはやることがある。だから逃げない。いや、もう逃げることは出来ないんだ。私は」 
「…………」
「だが星、お前は違う。まだ逃げることが出来る。だから逃げろ……いや、頼む、逃げて、そして生き延びてくれ……ではな」
 厳しい表情を一度だけ緩ませると、鍋島先生は呆然と立っている聖亜の脇をゆっくりと歩き、やがて建物の中に消えていった。





 それから、一体どれぐらいの時間が経っただろうか。



 聖亜は、先程と同様、呆然と漆黒の空を眺めていた。先程と違う所があるとすれば、一人ではないという点だろう。
『……小僧、いい加減正気に戻れ。それに、これから一体どうするつもりだ』
「どうするって……分からないっす」
『ふむ、ならば質問を変えよう。小僧、そなた何故逃げぬ』
「……」
『鍋島とやらの話を聞いたであろう。確かに奴の言ったとおり、先程の石人形達はヒスイが倒した人形とは格が違う。それらを率いる、あの黒衣のエイジャもな』
「……」
『それなのに、なぜそなたは逃げる事を選択しない? 簡単なことだろう。逃げればよい』
「……戦えって、言わないんすか?」
 少年の呟きに、ペンダントの向こう側、少年の家の中で、黒猫は小さく笑った。
『言えぬさ、そんな事は。本職である魔器使ですら適わぬ相手に、“ただ”の人間であるそなたでは、抵抗すら出来ずに殺されるだろうからな』
「……“ただ”の人間では、抵抗すら出来ない?」
『……? 小僧?』
 不意に、聖亜は頭の中に答えが浮かんでくるのを感じた。始めのうち、それは何かは分からずただ俯いて地面を見ていたが、やがて落ちているペンダントを拾い上げると、学校の外に向けて駆け出していった。







 ビシッ 


 鋭い音と共に、頬に強烈な痛みが走る。
 その痛みで、ヒスイはぼんやりと意識を覚醒させた。
「誰が寝ていいといった、玩具使い」
 その途端、白い頬にびしりと鋭い痛みが走る。前を晴れ上がった眼で見つめると、目の前で趣味の悪い王冠を頭に載せた石の人形が、にやにやと笑いながら自分を見上げているのが映った。
 その手に持っているのは、黒い皮製の鞭だ。どうやらあれで強く殴られたらしい。


 学校の屋上で捉えられてから半刻ほどたっただろうか。今彼女は天井から垂れ下がる鎖に縛り付けられていた。暗闇で何も見えないが、きついかびの臭いがする。どうやら長い間使用されていない倉庫のようだ。
 この場所で、彼女は目の前で下品な笑みを浮かべている石人形に、さんざん痛めつけられていた。
「いやあ、だが安心したぞ玩具使い。まさかルークに殴られただけで気を失うとは思っていなかったものでな。まあ、単なる家畜なら、先程の一撃で腹が真っ二つに裂けていただろうから、なるほど、そこそこの実力はあるらしい」
「……」
 人形の背後に、微かに塔のような頭部を持つ、巨大な石人形の姿がある。腕を組み、不機嫌そうに沈黙を続けていた。
「さあて、尋問を続けようではないか、ん?」
「……ッ」
 鞭の先端が、先程殴られて出来た頬の傷にぐりぐりと押し込まれる。吐き気を伴う激痛に、ヒスイは眼を閉じ、耐えた。
「では同じ質問を繰り返させてもらうが、第一に、貴様ら玩具使いの穢れた巣である“ヴァルキリプス”は、一体どこにある!!」
「……」 

 ビシッ

「第二に、貴様ら玩具使いの総数は!! 第三に、貴様らの指導者の名は!! 第四に、そやつの能力は!! そして!!」
 
 ビシッ、ビシッ、ビシッ!! 

 質問と共に黒い鞭が振るわれ、少女の体を容赦なく蹂躙し、痛めつける。もはや彼女が身に纏っていた服は跡形も無く、振るわれる黒い鞭は、彼女の白い肌に赤い傷を付けていった。

「そして何より、貴様らに加担している伝道者は、何者だ!!」

 最後の質問と共に、鞭の先端が延び、少女の首にぎりぎりと容赦なく巻きつく。だが、彼女はそれでも、閉じていた眼を開き、薄く笑った。
「……だ」
「ん? ようやく喋る気になったか。それで? 何者なのだ?」
わざとらしく顔を近づけてくる石人形に、ヒスイは掠れた小さい声で、だがはっきりと、言った。
「哀れだと、そう言ったんだ。お前達エイジャを憎悪する私達が、憎むべきお前達の力を借りることなど、絶対にありえない。まったく、そんな事も分からないのか、この……うあっ」
 首筋から脇腹にかけて、今までに無い痛みと衝撃が走った。そしてそれが納まらない内に、今度は彼女の顔を石の手が強く握った。
「貴様……きさまキサマ貴様!! 手を抜いてやればいい気になりやがって!! よかろう、それほど苦痛を望むなら、その体、使徒共に辱めさせ、魂を肉体ごと喰らってや「……待て」っ!!」

 その時、倉庫の扉が、ギギギッと軋んだ音を立て、左右に開いた。

 外から入ってきたのは、三体の石人形、その最後の一体を従えた黒衣の男だった。背は人形と比べ幾分小さいが、発している気の重圧は、人形達の軽く十倍はある。
「やりすぎだな、キング。この者は我らが主を呼び出した後の主食となる。あまり痛めつけるな……ルーク」
「……グ」
 短く答えると、巨大な石人形は、少女を縛っていた鎖を掴み、ぐっと握った。分厚い鎖は、まるで薄紙のように引きちぎれ、彼女の体は地面に投げ出された。ドンッという衝撃に、ヒスイはわずかに呻いた。
「で、ですがお館様、こいつは我ら伝道者をエイジャと蔑み、そして哀れだとさえ言ったのですぞ!!」
「黙れ、キング」
「で、ですが……」
「キングよ、何度も言わせるな。黙れ。クイーン、手当てをしてやれ」
「はい」
 黒衣の男に付き従っていた石人形―クイーンは短く答え、少女に近づく。それを見て、今まで彼女を痛めつけていた石人形―キングは、ぎりぎりと歯軋りをした。
「さて、キング、ルーク、お前達には儀式の準備が完了するまで、ここの守りをしてもらう」
「……グ」
「了解致しましたお館様。ですが、本当に玩具使いの仲間が来るとお考えで?」
 恭しく尋ねてくる石人形を、黒衣の男は、その隙間から僅かに覗く金色の瞳で見つめた。
「これが三度目だ。“黙れ”分かったな」
「ぐ……は、はい」
 震えながら引き下がる人形を一瞥すると、男は一度外に出た。漆黒の空に、黒く染まった三日月が浮かんでいる。
「……ひ、ひひひ、随分と待たせますなあ」 
 不意に、横の暗がりから笑い声が響いた。
「……ふん、もうすぐだ。楽しみに待っているがいい」
「ひ、ひひ、忘れないでくださいよ。私があなた様を呼び出し、ここまで協力してきたのは」
「……分かっている。しかし、貴様も奇妙な契約者だな。不老不死も、まして富みもいらないとは」
「ひ、ひひ、私は善良な人間でしてねえ。ただ、もう一度見たいだけなんですよ。あれを……ああ、それからもう一つ」
「ん? 何だ」
「ええ、出来ればでいいのですが、その、主食にされる前に、あの小娘、ちょっと“味見”してもよろしいでしょうか」
「……まあ、主が許せば良いだろう。それより……むっ」
「ひっ」
 突然、男は前方に腕を突き出した。何かが当たったような音と共に、黒衣が弾け飛び、中から現れた手がぶすぶすと煙を上げた。だが男は眉を少し顰めただけで、緑色の鱗がついた腕を振るう。
「ぐ……ぐがははははははっ。早速来てくれたようだ。キング、ルーク、さあ出番だ。入り込んだ客人を、丁重にお招きしてやれ!!」
 そのエイジャは、蜥蜴に似た顔を歪ませると、声高々に笑った。

 開いた口からは、何本もの牙が覗いていた。






「小僧、そなた何か考えがあるのだろうな」
「……あるから、ちょっと黙っててくださいっす」
 学校から出た聖亜は、都市の外に逃げるのではなく、旧市街にある自分の家に向かった。家に着くと、出迎えた黒猫から早速詰問される。
「えっと、確かこの辺に」
 きれいに掃除され、今ではヒスイの部屋となった座敷に入り、隅にある荷物を漁る。といっても、ほとんどペンダントの中に入っているため、数はそう多くなく、探し物はすぐに見つかった。
「……小僧、そなたそれを使って、一体何をするつもりだ?」
 聖亜が荷物の中から取り出したもの、それは三本のチェスが乗っている一つの台座だった。万が一を考え、ペンダントに入れずに封印布ぐるぐる巻きにしてここに放置されていたそれを持ち上げ、慎重に布を取りはずす。だが、
「……あれ? 何も起きないっすね」
 だが、台座は沈黙したままだ。今はもういない道化師が使役していた人形達も、その姿を現さない。
「当たり前だ小僧。これはエイジャの道具だぞ。そなたに使えるはずが……む?」
 愚痴を零していたキュウは、不意に口を閉ざした。台座に向け、ごく微量ではあるが、聖亜の指先から何かが流れ込んでいる。彼自身はまったく気づいていないが、それでも絶え間なく注ぎ込まれていき、やがてそれは台座一杯に広がった。
「え? な、何すか?」
 両手で持っている台座がぶるぶると震える。その動きは段々強くなっていき、聖亜はとうとう台座を床に下ろした。
 その途端、ボンッという音を立て、目の前につい先日死闘を繰り広げた三体の人形が、傷一つない姿で具現した。

「…………あ、あら?」
 ナイトはふと辺りを見渡した。自分は確か絶対零度に敗れたはずだ。だが自分の体には傷一つ付いておらず、異常も見られない。いや、それどころかドートスに使役されている時より、よほど調子がいい。
 左右を見ると、ポーンとビショップがいる。彼らも傷一つない自分の体を、不思議そうに触っていた。
「……ナイト、これは一体どういうことだ。我々は確か絶対零度に敗れたはずだ。なのにこの体には傷一つ付いていない。それに、この重苦しい空気は、考えたくはないが、まさか……」
「さあ? 今がどういう状況なのか、私にも分からないけど、それを知っている人は、どうやら目の前にいるみたいよ。ね、お嬢ちゃん」
「や、やっと出た……それと、訂正させてもらうっすけど、自分は女じゃなくて男っすよ」
「あら、そうなの? まあいいわ。それで坊や、これは一体どういうことかしら?」
 ナイトは、目の前でひっくり返っている少年に、にっこりと笑みを浮かべているその仮面を向けた。


「なるほど、やっぱりお館様が出てきたってわけ」
 聖亜から説明を受けたナイトは、苦々しく呟いた。聖亜とキュウ、そして具現化した人形達は、今茶の間にいる。ヒスイの部屋で話をしても良かったが、あそこは一人が使う分には広すぎるが、一人と一匹、そして三体の人形が座るには少し狭かった。
「えっと、あんた達は今どういう状況か知ってるんすか?」
「もちろん。けどその前に、私達の目的を教えておく必要があるわね。ビショップ、お願い」
「はい。私達の目的、それは主を現界に呼び出すことです」
「……やはりの。それでドートスに魂狩りを命じたのか」
「はい。ですが私達が聖地……と、これは門を開く場所のことで、こちらでは鎮めの森というのでしたね……で敗れたこと。そしてドートスが倒された事を考えますと、別の計画が発動したのだと思われます」
「と言っても、計画は二つしかないけどね。私達が家畜……ごめんなさい、要するに人間の魂を使って門を開けるか、それとも」
「……強引にでも、主をこの世界に呼び出すか、そのどちらかだ。だが、一つ解せぬ点がある」
 組んでいた腕を離すと、ポーンはその怒りの仮面で、聖亜をきつく睨み付けた。
「少年……そなたなぜ我らを呼び起こした? 敵の数が増えるとは考えなかったのか?」
「いや……それはもちろん考えたっすけど、けど、こういう話を知ってるっすか?」
「……何?」
「だから、呼び出された人形は、呼び出した人に、服従しなければならないって話」
「貴様っ!!」
 激昂したポーンは、背負っていた剣を引き抜くと、少年の首筋にぴたりと当てた。少しでも押したり引いたりすれば、苦痛を感じることなく首は飛ぶだろう。だが、聖亜は黙って彼を見つめ返した。
「……呆れた。坊や、あなた私達に裏切り者になれってわけ? 従う相手ぐらい選ぶわよ、私達だって」
「……なるほど、ならあんた達は心からあのピエロに忠誠を誓っていたってわけか」
 口を歪ませた聖亜を、ナイトは暫らく見つめていたが、やがてくつくつと静かに、だが遂には堪えきれないというように笑い出した。
「あはははははははっ!! いや、笑わせてくれるわね、あなた。首筋に剣を当てられて、まだそんな口がきけるなんて。人形になってから、こんなに笑ったのは初めてよ。ええ、確かに私達は、ドートスに心から従っていたわけじゃない。いいえ、むしろ恨んでいたと言ってもいい。分かったわ、笑わせてくれたお礼。坊や、いえ、聖亜と言ったわね。あんたに味方してやろうじゃないの」
 そう答えると、ナイトは左右を見渡した。
「それで、二人はどうするの? ポーン、ビショップ」
「私は……そうですね。お供いたします。といっても、使徒を呼び出せない私には、治療と結界を張るぐらいしか出来ませんが……ポーン、あなたは」
「……正直に言えば反対だ。成功する確率は限りなく低い。だが」
 聖亜の首から剣を離すと、ポーンはゆっくりとビショップの手をとった。
「だがビショップ、お前がこの少年に味方をするというのであれば、伴侶である俺が味方をしないわけにはいかない」
「あなた……」
「はいはい、一生やってなさい。それで、そっちで何か考え事をしている黒猫も、それでいいわね」
「…………む? まあいいだろう。だが奴らの住処に付いたら、我は別行動を取らせてもらう。一刻も早くヒスイを助け出さねば成らぬからな。その間、小僧、お主はこやつらと共に、暫らく陽動に徹しておれ」
「は、はいっす」
 決戦前なのか、自分を見つめる黒猫の瞳がいつもより険しい。すこしおびえながら聖亜が頷いたのを確認すると、ナイトはゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ聖亜、案内してあげる。決して楽には死ねない……地獄の四丁目にね」
 そう言って振り返ると、人形は意地悪そうに笑った。






「……本当にここっすか?」
「あら? 疑ってるわけ? あいつらが移動していないなら、住処は間違いなくここよ」
 ナイトの背に乗ってたどり着いたのは、三つの地区で構成されている復興街の中で、もっとも治安の悪い地区、崩れた工場や廃墟が立ち並ぶ、いわゆる工場区と呼ばれる場所だった。
 彼らがいるのは、その中でも特に巨大な廃工場の前だった。暗闇の中、気配もなくしんと静まり返っている。
「ま、来た当初は巨大な猿だとか、灰色の人間だとかがぞろぞろと出てきて鬱陶しかったけど、何人か見せしめにぶっ飛ばしたら、もう誰も寄り付かなくなったわ」
「は、はあ。けど、やっぱり何の気配もしな「しっ」……っ」
 不意に、前方を警戒していたポーンが剣を抜いた。じりじりと前に出て、いったん立ち止まると、すぐに脇に飛び退く。
 次の瞬間、暗闇をひゅっと何かが通り過ぎた。同時に白刃が閃く。暗闇からごとりと出てきたのは、狼に似た頭部だった。だが、すぐに異臭を放つ黒い液体に変わる。
「……ちっ、囲まれたわね。いい聖亜、使徒っていうのはね、弱い代わりにそれ自体が気薄だから、気配が薄いの。それに、黒いから暗闇じゃ見えにくいしね」
「え、でも囲まれたって、俺達が来たこと、いつから分かってたんすか?」
「さあ。ま、それはあそこで高笑いしている奴に聞けば分かるんじゃないかしら」


 そう言って両腕の槍を構えたんナイトの視線の先には、高く積まれた機材の上で笑う、石人形の姿があった。



「むははははははっ!! まさか鼠を追いかけて、別の鼠に遭うとはな。しかも貴様ら、ピエロの下僕ではないか。とうの昔に倒されたと思っていたが、鼠と一緒にいる所を見ると、どうやら命乞いして裏切ったようだな」
「……は、裏切ったんじゃなくて、勝ち目のある方についたって言って欲しいわね」
 左右から襲い掛かってくるスフィルを払いのけながら、ナイトは軽口を叩いた。そんな彼女に、石人形―キングはよりいっそう大声で笑った。
「むはははは、は~はっは!! 勝ち目のある方だと? 阿呆か貴様ら。貴様らに勝ち目など、どこにもないではないか。ふん、まあいい。先程の鼠はルークに取られてしまったからな。貴様らの相手は、この俺様と、三百の使徒がしてやろう。光栄に思うがいい!!」
 ひゅんっと音を立てて、上空から黒い鞭が飛んでくる。それを避けたナイトに、今度は四方八方からスフィルが襲い掛かる。その第一陣を、ナイトは左右の槍を突き出し、体を回転させる事で倒したが、次の第二陣に意識を集中させたとき、再び鞭が飛んできた。
「痛っ」
「だ、大丈夫っすか?」
「これぐらい平気。それより頭出すんじゃないの!! ビショップ、聖亜のお守りは頼んだわよ!!」
「はい。承りました」
 ナイトの声に応え、傍らで杖を振っていたビショップが、聖亜の前に進み出る。小さく何かを唱え、地面に杖を強く突き立てる。と、襲い掛かってきたスフィルが二体、彼らの周りを覆った青白い膜に弾き飛ばされた。
「結界……」
「ええ。私には、これぐらいしか出来ませんから……ポーン、そちらはどうですか?」
「今のところ問題はない。だが、数が多すぎて捌ききれん」
 剣を振るいながら、ポーンは怒りの仮面で答えた。その言葉通り、彼の周りには数十体のスフィルが群がっている。ナイトが加勢に行こうとしているが、その度に鞭に阻まれる。それに気を取られていると、新たなスフィルに囲まれ、再び鞭が飛ぶ。悪循環だった。
「……キュウはいないし、せめてあの鞭がなくなればいいんすけど」
 家の中で取り決めたとおり、ここに着いた途端、黒猫はペンダントを加え、自分達とは別行動を取った。一刻も早くヒスイを助けたいのだろう。反対はしなかったが、大多数の敵に対しては、同士討ちさせる黒猫の光る目が、何よりも効果的だった。
「ん? 光る……か」
 少し頭を捻ると、聖亜は背負っていたバッグを開けた。中には万が一のために持ってきた薬や食料が入っている。台座は置いてきた。離れていても、エネルギー自体はきちんと供給されるらしい。その他に小振りのナイフなどがあるが、どうせスフィルには効かないだろう。彼が取り出したのは、武器ではなかった。
「えっと、ビショップさん、火、着けて欲しいんすけど」
「すいません、今手が離せないので、ご自分でお願いします」
「……はい」
 取り出したマッチを擦ろうとして、聖亜はぶるぶると震えだした。火は苦手だったが、こんな時にそんな事は言っていられない。ぶるぶると震える手で、何とかマッチをシュッと擦る。
 ポッと小さい火がともった。途端に吐き気が込み上げてくる。逃げ出したいが、そんな事は出来ない。なるべく火を見ないようにしながら、聖亜は取り出したそれに火をつけた。
「そんじゃ、いくっすよ……それ!!」
 少年のかけ声と同時に発射したロケット花火は、しゅるしゅると上に向かって飛んでいき、
「ん? ぐ、ぐおおおおっ!!」
 丁度覗き込んでいたキングの左目に見事にぶち当たり、ぱあんっと、漆黒の空に大きな花を咲かせた。
「ぐあああああああっ!!」
 左目に来た衝撃と激痛に、キングは地面を転げまわったが、そこは生憎と足場の悪い機材である。当然ながら、キングはバランスを崩し、ガラガラと崩れる機材と共に、反対側に消えていった。
「……え、え~と、あれ?」
 その様子を、聖亜はぽかんと口を開けて見ていた。周囲では、いきなり眩しい光を見たためか、あちこちでスフィルが地面に這い蹲って呻いている。
「あははははっ、聖亜、あなたやるじゃない!!」
 その一体一体に止めを刺しながら、ナイトが嬉しそうに歩いてきた。
「ほんと、こんなにおかしいの、生まれて初めてよ。どうしましょう、あなたの事好きになっちゃいそうよ」
「へ? いや、まあ、自分もナイトさんの事、好きっすよ」
 聖亜が何気なく言った言葉は、そちらの方面に疎い彼女に対し、絶大な効果を発揮した。ばっとすごい勢いで聖亜から離れると、ナイトは仮面の顔を背けた。だが、時折こちらをちらちらと見てきて、恐る恐る擦り寄ってきた。
「え? あの、ナイトさん?」
「へ? い、いえ、なんでもないわ。さ、さあ、使徒は粗方片付けたし、キングも逃げた。この調子でどんどん進みましょう!!」




 外から聞こえてきた、バアンッと何かが弾ける音に、少女に薬を塗っていたクイーンは、ふと顔を上げた。
「……なんでしょう、さっきから」
 扉を開け、外の様子を伺う。だが、周囲には何の変化もいない。
 新たな侵入者が来たことは分かっていた。だが、キングが大量の、それこそここを守っていた使徒すら連れて出て行ったのだ。性格に多少どころではなく難があり、実力もそれほど無いが、以前は騎士長をしていたと言っていた。まず負けはあるまい。
 扉を閉め、再びしゃがみ込んだ彼女は、暗闇のためか、完全に閉じる瞬間、僅かな隙間から飛び込んだ黒い小さな影に気づけなかった。
「……おい、小娘」
「なっ!?」
 いきなり声をかけられ、ばっと後ろを振り向く。だが、それがいけなかった。光る紫電の瞳とばっちりと眼があった。途端に、ざわざわと自分の体を何かが這い上がるのを感じた。恐る恐る下を見ると、


 無数のグロテスクな虫が、自分の体を這い上がってくるのが見えた。


「ひ、ひいいいいいいっ!!」
 絶叫を上げ、必死に虫を振り払っている彼女の横を、一匹の黒猫が通り過ぎていった。


「……イ、おい、ヒスイよ、いい加減に起きぬか」
「う……キュ、ウ?」
 ヒスイは、自分を呼ぶ声に、ぼんやりと意識を浮上させた。ぼやけて見える視界の中、見知った黒猫の顔が映っている。
「ふん、随分と手ひどくやられたようだな。まったく、これが終わったら、また修行のやり直しだ」
「……ぜ?」
「ふむ、なぜ来たと? 未熟者で、半人前以下の小僧が、半人前のお主を助けるために、ここに乗り込んだのだ。三匹の共を連れてな」
「……いあ?」
そういうことだ。そう呟くと、黒猫は少女の傍にペンダントを押しやった。震える手でそれを掴むと、ヒスイはぎゅっと握り締める。と、頬に徐々にではあるが、生気が戻ってきた。
「……く、心配、かけたな」
「かまわん。お主が無茶をするのはいつもの事だからな。それより」
 黒猫は、少女の格好を見て、ふんっと鼻を鳴らした。
「傷が癒えたのなら、さっさと服を着ろ。まったく、そんな格好では、小僧に襲われても、文句は言えんぞ」



 暗闇の中、キュウの目が発する僅かな光を頼りに、ヒスイはいつもの服に着替えた。最後に手首にリストバンドをつけると、ペンダントの中から太刀を引き抜く。
「そういえばヒスイよ、お主あの時護鬼を引き抜いていたな。小松はどうしたのだ?」
「わからない。けどここに着いた時には握り締めていたから、たぶん奴らに捨てられたんだろう。この暗闇の中で、泣いていなければいいけど」
「……男になることを望む魔器に対し、泣いているかどうかの心配などしてどうする」
「いや、やっぱり心配はする。小松は私にとって弟や妹のような存在なんだ。もちろん、どちらになってもな」
「やれやれ、報われんな、あやつも」
 ヒスイを慕っている生真面目な魔器の顔を思い浮かべ、黒猫は微かに首を振ったが、ふと、傍らで自分の体を必死に掻き毟っている人形を見た。
「それでヒスイ、“これ”はどうする?」
「……討つ、と言いたいが、治療をしてもらった。すまないが、監視を頼む」
「うむ」
 黒猫が頷いたのを確認し、扉に向かって歩き出した、丁度その時、向かっていた扉は、勢いよく開いた。
「はあっ、はあっ、はあっ、に、逃がさんぞ玩具使い」
「……ヒスイよ、こやつは」
「……」
「むはははははっ、恐ろしくて声も出ぬか。奴らが陽動だと考えた我が目に狂いは無かったわ。そのため、こうして急ぎ戻ってきたのだ。そうそう、クイーンが貴様に塗りこんだ薬だが、あれには若干の痺れ薬が混ざっている。どうだ、満足に動けんだろう。うげほ、げほっ、げほ」
「…………」
「むはっ、むははは!! せめてもの慈悲だ。一撃で葬り去ってや「邪魔だ」うぺ?」
 腰の剣を抜こうとした時、目の前にいる少女が斜め上に移動した。いや、違う。これは少女が移動しているのではなく、自分が斜め下に移動している?
「お前の質問に一つだけ答えてやる。私達の訓練には、毒に対する抵抗を強める物がある。さすがにドートスの毒は効いたが、これぐらいの毒、効くはずが無いだろう。人形の中で、お前が一番惨めで、そして無様だったな」
 ずしんと音を立てて、石人形の上半身が上に落ちる。それを見ることなく、ヒスイは開いた扉から、外へと駆け出していった。



 聖亜達は周囲を警戒しながら、暗闇の中を奥へと進んでいった。時折スフィルが飛び掛ってくるだけで、危険はほとんど無い。
「……こんなに順調でいいんすかね」
「いいんじゃないの? キングは逃げて行ったし、ルークは別の侵入者を追いかけていったんでしょ? 残っているのは、お館とクイーンだけだけど、絶対零度の監視に、人形の一体は必ず必要よ。つまり、相手の駒が尽きたってわけ。けど、そうね。キングの実力はたかが知れてるけど、ルークは警戒したほうがいいかしら」
「……もう一方の侵入者って、間違いなく鍋島先生っすよね」
「あら、知り合い?」
「そうっすけど……あの、何でそうくっついてるんすか?」
 先程から、ナイトは何故か聖亜にべったりとくっついていた。少年を守るためだと言っているが、その表情はとても嬉しそうだ。
「あら、あんな激しい告白をしておいて、照れなくてもいいじゃない」
「は、はあ、そうっすか」
 軽口を叩く余裕すら出来た、そんな時だった。
 不意に、ポーンが立ち止まる。それに合わせて、ナイトも話すのをやめ、臨戦態勢を取った。
「えと、ポーン、さん?」
「……静かにしていろ。次の角を曲がった所で、誰かが戦っている」
 耳を澄ますと、確かに前方で物音がする。どうやら、一方がもう一方を追い詰めているらしい。
「……キング?」
「いや、残念ながら違う。戦いが一方的過ぎる。恐らくルークと、その鍋島という男だろう」
「そう……それで、どうする? 聖亜」
「どうするって……何がっすか?」
「迂回するか、加勢するかということだ。だが、相手はキングの数十倍、我らの数倍は強いぞ」
「…………あの、ナイト」
 言いにくそうに俯いている少年を見て、ナイトははいはいと仕方なさそうに肩をすくめた。
「分かったわ。加勢する。聖亜、あなたはその辺に隠れてなさい。ポーン、ビショップ、行くわよ。どうやら三人がかりでないと、手に負えない奴みたいだから」
「分かった」
「はい、分かりました」
 ポーンとビショップが頷いたのを確認すると、ナイトは一度だけ聖亜を振り返った。すまなそうにしている彼に笑いかけると、そのまま振り返ることなく、前に駆け出して行った。
「……俺、何すればいいっすかね」
 壁に寄りかかって、聖亜はぼんやりと漆黒の空を見上げた。戦闘に加わりたかったが、正直自分が加勢しても、何の役にも立たないだろう。むしろ邪魔になるだけだ。
 自分の無力さに軽くため息を吐いた聖亜の耳に、不意に誰かの押し殺した泣き声が聞こえてきた。




 やっぱり自分は無能な臆病者だ。

 顔を膝の間に埋めながら、小松は暗闇の中、必死に嗚咽と涙を堪えていた。
 ここに連れてこられてすぐ、小松はにたにたと笑う石の人形に、自分の体である小太刀を遠くに投げ捨てられた。暫らく痛みと衝撃に耐えていたが、それが収まると、小松は敬愛する主人を助け出そうと、倉庫の窓から中の様子を覗いたのだ。
だが、その眼に飛び込んできたのは、


 黒い鞭で打たれ、殴られ、水攻めにされ、傷だらけになった主の姿だった。


 それを見て、小松は逃げた。怖くて、怖くて、どうしようもなく怖くて、もしかしたら、自分も同じような目に遭うかもしれない。そう考えただけで、怖くて。
 それから、小松はずっとここで震えていた。ずっとずっと、長い間。
 


 ガタッ



「ひっ」
 すぐ傍で物音がして、小松は見つからないように必死に体を縮ませ、目をぎゅっと瞑った。だが、
「えっと、大丈夫っすか? 小松ちゃん」
 聞こえてきたのは、自分を心配する声で、触れるのは、頭をやさしく撫ぜる手だった。



 聖亜は、自分を涙でぬれた目で、呆然と見つめる子供の、その黒髪を優しく撫ぜてやった。
「……な、き、貴様、な、なぜここにいる!!」
「なぜって……ヒスイと小松ちゃんを助けに来たんすけど」
「助け? 助けだと!?」
 立ち上がって怒鳴ろうとするが、先程の光景が恐怖と共に蘇って、どうしても立つ事ができない。悔しさで体を震わせていると、今度は優しく両手を握られた。
「な、何をする、貴様っ!!」
「怖かったんすね。でも、もう大丈夫っすよ。助けに来たから」
 悔しさと、怒りと、そしてそれを上回る何かに怯え、小松はその手を振り払った。
「うるさい、私の事など放っておけ!! どうせ私は無能な臆病者だ。男になって、男になってヒスイ様を守ると決めたのに、助けなければならないのに、怖くて、どうしようもなく怖くて逃げ出したんだ、私は!!」
 再び膝に顔を埋めて震える。聖亜は小松のそんな様子を暫らく見つめていたが、やがて、ぎゅっと抱きしめた。
「あ……」
「ゆっくりでいいよ。そんなに焦らなくても、好きな女の子がいるなら、いつかちゃんと男になれるから」
「け、けど、私は弱くて、何もできなく、て」
「いや、料理とか掃除とか、ちゃんとできるじゃないか、とても助かってる」
「そ、そんなの、男のすることじゃない」
「いや、俺の友達に、福井って奴がいるんだけど、あいつ、熊みたいな男のくせに、将来はお菓子屋さんになりたいらしいんだ」
 笑いながら話す聖亜を見て、小松は思わず想像してしまった。大柄で毛むくじゃらな熊が、料理人の格好をしてお菓子を作る、その光景を。
「ぷ、あはは、変なの」
 思わず笑ってしまった。まだ怖い気持ちは無くならず、震えも全部は止まらないけど、取りあえず、目の前にいるこの男の事は信じて見てもいい。そう思えたから。
「うん、いい顔だな」
「う、うるさいっ!!」
 と、小松は今になって、聖亜の顔があまりに近い事に気づいた。
 よく考えれば当たり前だ。なぜなら、自分はこの男に、抱きしめられているのだから。
「う、うわっ」
 どくん、と胸が鳴った。同時に体中が軋む。まるで、自分が自分でなくなるそんな感覚だった。先程とは違う恐怖に、小松は自分を抱きしめる聖亜に必死に縋り付いた。
「へ? 小松ちゃん? うわっ」
 聖亜は、腕の中の子供が、いきなり大きくなった気がして、慌てて抱き直した。手に当たる感触が、先程とはまるで違う。ふにゃりと柔らかく、そしてぽよんと弾力があった。
「…………え?」
「……れ」
「はい?」
 腕の中にいる、豊かな胸を持つ少女はぶるぶると震え、泣きながらぽかぽかと殴ってきた。
「私を“女”にした責任を取れ、馬鹿ぁ!!」



「ぐ、くそっ!!」
 物陰に隠れながら、鍋島は迫ってくる塔の様な巨大な石人形に、手に持ったライフルで、必死に銃撃を繰り返していた。
 効果が無いのは分かっている。並みのスフィルならまとめて四,五体を粉砕する銃弾が、無様に弾かれているのだ。
「……グ」
巨大な拳が振り下ろされる。横に飛び退くことで直撃は避けたが、発生した衝撃波で壁に叩きつけられた。
「……ぐはっ」
 ぬるり、と嫌な感触が額を伝った。どうやら切ったらしい。だが、それでも
「……ぐらいで」
「……ガ?」
「これぐらいで、負けられるか!!」
 走りながら素早く弾丸を込め、連射する。硬い人形の肉体が、わずかに削られた。
「……ゴ」
 業を煮やしたのか、人形が腕をこちらに向けた。嫌な予感はしたが、もう避けられるほどの体力は残っていなかった。
 死神が石の拳となって発射される。自分に向かってくるそれを、だが鍋島は、目を閉じる事無く睨み付けた。
「あら、駄目じゃない、ちゃんと逃げなきゃ」
 不意に体を持ち上げられた。同時に、今まで自分がいた場所に、拳が猛スピードで激突した。速度を加えることで威力が増すのか、拳は壁を容易くぶち抜くと、ぐるりと向きを変え、元の場所にゆっくりと収まった。
「お前は……人形か、ぐっ」
「騒がないの。出血がひどいわね……ビショップ、この命知らずの手当て、頼んだわよ」
「はい。簡単な治療術しか使えませんが」
 傷口に手が添えられる。ぽうっと暖かい光が灯り、痛みが徐々に引いていった。横たわりながら鍋島が目をやると、前方で二体の人形が、巨大な人形の動きを牽制しているのが見えた。
「ち、めちゃくちゃ硬いわね。さすが黒石で作られているだけの事はあるか。そっちはどう、ポーン」
「駄目だ。まるで刃が通らん。同じ場所に何度も攻撃を加えるしかなさそうだ」
「同感ね……行くわよ!!」
「……お前達は、仲間ではないのか?」
「仲間、でした。少なくとも昨日までは。けど」
 傷口を粗方塞いだビショップは、今度は取り出した布で、こびり付いた血糊を優しく拭き始めた。
「けど、聖亜さんに言われてしまったんです。お前達は、心からドートスに忠誠を誓っていたのかって」
「星が……か」
「ええ。さ、これでお終いです。暫らく安静にしておいてください」
 優しく言う、悲しみの仮面を着けた人形に、だが鍋島はふるふると首を振った。
「いや、それは出来ない。私は、戦わなければならないんだ」
「……なぜです? 失礼ですが、貴方では」
「違う、適う適わないの問題ではない。私は……私は戦う事で、己を保っているんだ」
「……理由を聞いてもよろしいですか?」
「…………十五年ほど前まで、私は県の教育委員会に勤めていた。将来を有望され、子供の頃から好きだった幼馴染と結婚し、娘も出来た。それは素晴らしい人生だった。いや、素晴らしい人生になるはずだった。あの時までは」
「十五年前……聖夜の煉獄で、ですか?」
「……当時、妻は妊娠して、県内でも有数の病院である太刀浪総合病院に入院していた。まだ幼い娘と、私の両親が付き添っていた。だが、あの日」
 鍋島は、両手で顔を強く抑えた。
「クリスマスの日、あの赤い景色は、私から全てを奪っていった。父も、母も、愛する妻と娘も、何より、生まれてくるはずだった、息子の命すらも!!」
「……」
「その後、災厄を巻き起こしたのが、エイジャと呼ばれる化け物であることを知り、私は対エイジャ組織、高天原に入った。訓練は年を取った私にはきつかったが、そんな物、どうでも良かった。私の中にある、決して消えることの無い憎悪に比べれば」
「……私達に対する、憎悪」
「いや、それならば話は簡単だった。だが、私が心の底から、それこそ狂うほど憎んでいるのは、エイジャではない」
 傷口が開いたのだろう、彼の頭は流れる血と、内側から溢れ出る憎悪の炎で真っ赤に染まっていた。
「私が本当に憎んでいるのは、地獄の業火の中、私から全てを奪っていった赤い景色を、憎むどころか、美しいと感じ、見惚れてしまった自分自身なのだ!!」
「……」
 血と涙を流す男に、ビショップは何も言わない。いや、何も言えなかった。彼女に出来るのは、ただ黙って、開いた傷口を癒す事だけだった。




 幾度と無く同じ場所に攻撃を加えた成果だろう。ようやく、人形の右肩にびしりと亀裂が入った。
「ぜっ、まったく、はっ、硬かったわね」
「ああ、だが、ぐっ、あと少しだ」
 その分体力は消耗しているが、それは台座から送られてくるエネルギーで回復する。だが武器が疲弊していた。ナイトの槍は片方がひしゃげ、ポーンの剣にも所々亀裂が入っている。恐らく次の一撃で砕けるだろう。
「く、一度台座に戻れば回復できるけど」
「無いものねだりを言っても仕方ないだろう。それに、もしあったとしても、そんな暇は与えてくれそうに無い」
 再び飛んできた拳を左右に飛ぶことで避ける。だが、
「……グハッ」
「なっ!?」
 動きが読まれていたのだろう。ナイトが気づいた時には、人形はもう自分のすぐ傍まで迫っていた。
「くっ」
 咄嗟にひしゃげた槍で体を守る。だが、
「……ハッ」
「そ、そんな」
 人形が突き出した拳は、無事なほうの槍に当たる。槍は無残に砕け散った。
「ナイト!!」
「……く、痛みはあるけど、平気。けどまずったわね。武器が無い」
「……俺が、何とか後一撃で片を付ける。すまないが、陽動を頼む」
「……しょうがないわね。そんな役回りだけど、槍を失った私にも責任はある。ぐだぐだ言っていられないか!!」
 巨体の正面に向かって駆ける。当然拳が振り下ろされるが、最初から相手を引き付けるのが目的なのだ。軽く避けられる。だが衝撃波はあえて受け止めた。先程の速度をもう一度出されても困るし、ポーンを標的にされても困る。
「さあさあ鬼さん手の鳴る方へ……うあっ」
 衝撃波だけでも痛みは襲ってくる。何度か受け続けると、前足がかくんと折れた。
「く、ポーン、これ以上はもたないわよ!!」
「ああ、分かっている!!」
 全身の力を剣に込め、狙いを亀裂が走っている肩に定める。そこを切断すれば、少なくとも片腕は使えなくなるはずだ。
「……ふっ」
 軽く息を吐くと、ポーンは塔のような巨体に向かって駆け出した。幸いなことに、相手はナイトに意識を集中させている。こちらに気づいた様子は無い。
「うおおおおおおおおおっ!!」
 狙い済ました一撃は、ひび割れた肩の部分に直撃した……いや、したはずだった。
「……おいおい、後ろから襲ってくるなんて、随分と卑怯じゃねえの」
「な……」
 だが、剣は背中から出てきた一回り小さい手に、軽く取り押さえられていた。
 ばきりと剣が二つに折れる。同時に、ナイトに向かっていた腕が、ポーンの体に食い込んだ。
「……があっ!!」
「ポーン!! ち、まさか両面だったなんて」
 人形の後頭部が開き、中から別の顔が現れた。青白く、どこまでも卑しげに、その顔は笑っていた。
「ひゃはははははっ、最高にいい気分だぜ。何の抵抗も出来なくなった相手を、散々いたぶってぶっ殺せるんだもんなあ!!」
「……グ」
「おいおい、そう不満げな顔をするなよ相棒。ちゃんとお前の分も残しておいてやるからさあ!!」
 笑いながら、人形は地面に膝をつくナイト達を見下ろした。
「さあ、まず誰から死にたい? ひゃははは「なら、まずお前が死ね」へ?」
 一筋の光が宙を走ると、高笑いを続ける口に、一本の太刀が差し込まれた。渾身の力を込めて突き入れられた太刀は奥まで進み、反対側の顔を突き抜けた。
「グ……ゴ、ガ」
 ずしん、と、大きな音を立てて、巨大な石人形は崩れ落ちた。
「……あ、あなた、絶対零度」
「……」
 ナイトの震える声に、ヒスイはゆっくりと彼女に太刀を向けた。だがその顔に殺意は見当たらない。やがて、少女はため息と共に太刀を下ろした。
「……はあっ、まったく、びっくりさせないでよね。助けに来た相手に殺されるところだったわ」
「私が助けてと頼んだわけじゃない。ところで」
 ふと、ヒスイは辺りを見渡した。
「聖亜の馬鹿はどこにいる? あいつ、人がせっかく犠牲になったというのに……一発殴ってやる」
「……あ」
 少女の問いに、ナイトは慌てて後ろを向いた。巨大な人形に全神経を集中させていたため、彼の行動まで把握していなかったのだ。
「ま、まさか聖亜、使徒にやられたんじゃないでしょ「お~い!!」あ、いた」
 暗闇の向こうからやってくる少年を見て、ナイトは槍を上げようとしたが、その途端、びしりと固まった。
「ヒスイ、良かった。助かったんすね!」
「ああ。だが聖亜、お前」
「はい、何すか? っと」
 聖亜は、ずり落ちそうになった“豊富な胸を持つ”少女を、優しく抱えなおした。
「聖亜……あなたの腕の中で泣いているその子、一体誰かしら」
「え? ああ、この子は「……ヒスイ様?」あ」
 不意に、少女がヒスイを見た。夜空の色をしたその瞳を見て、ヒスイはふと目を見張った。
「お前……もしかして小松か? 無事だったか。それより、その姿は」
「こ、こいつに、無理やり“女”にされたんです!!」
 少女―小松の一言で、再び辺りがびしりと固まった。
「聖亜……お前、小松に手を出したのか」
「え、いや、その」
 右からヒスイが詰め寄れば、
「あら、私も詳しい話をぜひ聞きたいわね」
 左から、小松の豊富な胸を見て、むっとした表情のナイトが迫る。
「大丈夫とは言えませんが、犬に噛まれたと思ってあきらめてください」
 ビショップの、小松に対する優しい言葉で、
「「この、変態がぁ!!」」
「ぶべえっ!!」
 敵陣だというのに、聖亜は味方であるはずの二人に、思い切り殴り飛ばされた。



「なるほど、そういうわけだったのか」
「あら、私は信じてたわよ。ね、聖亜」
 頬が腫れ上がった少年の代わりに、小松が事情を説明すると、納得したのか、ヒスイは優しく彼女の頭を撫ぜた。
 彼らは今小休止を取っていた。ナイトとポーンの傷をビショップが治している間に、聖亜とヒスイ、そして鍋島は、聖亜が持ってきたパンをぼそぼそと食べていた。
「……そんな事はどうでもいい。それより、これからどうする?」
「どうする、とは?」
 傷が粗方治り、辺りを警戒していたポーンの言葉に、ヒスイは冷たく聞き返した。
「……我々は、絶対零度、つまりお前を助けるために少年と手を結んだ。目的が果たされた以上、長居は無用だろう」
「そう、だな。聖亜、お前は逃げろ」
 パンを食べ終えた鍋島が、ゆっくりと立ち上がった。だが血を流しすぎたのか、時折苦しそうに息を吐いた。
「せ、先生はどうするっすか?」
「これ以上、家族の眠るこの都市で勝手な真似はさせん。ここで決着をつける」
「……その体では無理だ」
 ため息を吐いて立ち上がると、ヒスイは鍋島の前に立ち、彼の鳩尾に拳を軽く突き入れた。
「がっ」
 疲労していた鍋島は、その一撃で崩れ落ちた。少女は彼の肩を支えると、そっと物陰に寝かせてやった。
「後は私がやる。人形、お前達も手伝え」
「あら、どうして私達が?」
 面白そうに、ナイトはヒスイの前に立った。
「お前達が聖亜に味方をした事は事実だ。ここで改めて向こうについても、粛清されるだけだろう」
「……ま、ね」
「それに、人を襲った罪は消えないが、手を貸せば罪一等は何とか免じてやる。魂の粉砕ではなく……封印でどうだ?」
「それもやだけど……ポーン、ビショップ、どうしたらいいかしら」
 ナイトが振り返ると、二体の人形は暫らく顔を見合わせていたが、やがてそろって頷いた。
「決まりね。それじゃ、行きましょっか」
「そうだな……小松」
「は、はい」
 名前を呼ばれ、聖亜に小言を繰り返していた少女は、びくりと肩を震わせ立ち上がった。
「いけるか?」
「はい。もちろんです」
 ヒスイが手を伸ばすと、小松はその手に触れた。途端に彼女の姿は掻き消え、代わりに一本の刀が現れた。今までの小太刀より幾分長いが、太刀よりは短い。中間ほどの長さだ。
「……少し使いづらいが、まあその内慣れるだろう。聖亜、お前はもういい。避難していろ」
「へ? いや、俺も行くっすよ。このままじゃ、準達も危ないっすから」
「そうか……勝手にしろ」
 吐き捨てるように答えると、絶対零度の異名を持つ少女は前を向いて歩きだした。



 魔器使としての役目を、果たしに行くために。



「……そういえばナイト」
「あら、どうしたの?」
 暗い通路を進んでいるとき、ヒスイはふと、隣にいる人形に顔を向けた。
 彼らは別に闇雲に進んでいるわけではない。遠くからでも分かるほど、黒衣のエイジャが発する気配は強かった。まるで、誘っているかのように。
「なぜあの黒衣のエイジャは、人を狩ろうとしない? 都市全体が強力な狩場に包み込まれたんだ。狩り放題だろう」
「あら、そういえば、何でかしらね」
「……我々はドートスの配下だったからな。計画の詳しい点は、何も聞かされていなかった。ただ、主を呼び出すといわれただけだ」
「……何か、嫌な感じがするっすね」
「ええ……と、どうやら到着したようです」
 不意に、目の前に巨大な鉄の扉が現れた。ヒスイが押すとゆっくりと開く。鍵はかかっていない。入って来いということだろう。
「とにかく、全ての答えはこの奥にある。行くぞ!!」
 二本の刀を構えると、ヒスイは足で扉を蹴り、その中に一気に踏み込んだ。





 薄暗い部屋、魔方陣が描かれた中央に、それはいた。





「……ようやく来たようだな」
 部屋の四方に所々肉片がこびり付いた骸骨が立っており、頭蓋骨の上から蝋燭が不気味に灯っているのを見て、聖亜は思わず口に手をやった。
「ふむ、どうやらこの場所はお気に召さなかったようだ」
「黙れ。儀式の最中のようだが、どうやら間に合ったようだ。お前の部下はもういない。ここで討たせてもらう」
 刀を構えるヒスイに対し、だがそのエイジャは呆れたように首を振った。
「やれやれ、せっかちな事だ。だが間に合ったとはこちらの言い分だ。それに、よくぞ我が下僕を倒してくれたな」
「……なに?」
「ふむ……出でよ」
 エイジャが緑色の鱗が付いた手を一振りすると、キングとルークの残骸、そして
「む?」
「キュウ!!」
 体を震わせているクイーンが、胸の辺りに黒猫を乗せ、突然現れた。
「聖亜か、ここは」
「……ふん、随分と痛めつけられたものだ。目覚めよ」
 黒猫の問いに聖亜が答える前に、エイジャが緑色の足で床をトンッと叩いた。すると、キングの上半身が下半身と融合し、ルークの傷が癒え、クイーンがぱちりと目を開けた。
「こ、ここは?」
「……グ?」
「ま、まさかお館様……助けてくださったのですか? あ、ありがとうございます」
 起き上がり、目の前の男に口々に感謝の言葉を述べる人形達を見て、エイジャは数十の牙を持つ口を歪ませた。
「当たり前ではないか。誰が大事なお前達を見捨てるものか」
「「お、お館様」」
「……ゴッ」
 自分の足元に跪く人形達を、細く黄色い瞳で見つめ飛び退いた瞬間、
「そう、その身に貴重な何千もの魂を保有するそなたらを、なぜ楽に死なせられよう」
「おや……かた、さま?」
「……ガ?」
「え……」




 それは発動した。




「うえええええっ」
目の前で行われている光景に、聖亜は先程食べたパンを、思わず床にぶちまけた。傍らのヒスイも、口に手を当て、必死に吐き気を堪えている。

 それほどに、間の前の光景は残酷だった。

 人形達が、魔方陣から現れた無数の黒い蛇に、生きながら石の体を食われていく。振り払おうともがいても、その手は黒蛇をすり抜ける。しかも、彼らはその中で“死ねない”のだ。死ねずに自分の肉体を、魂を食い破られていく。
 やがて、彼らの全てが、黒い蛇に食われた。
「……満足したか?」
 不意に、エイジャが暗闇の中に目をやった。吐いた後の気だるさの中、聖亜も無意識に目をやる。
「……ええ、ええ。見事な絶叫でした。満足しましたとも。ひひ、うひひひっ」
「う……狸山、校長先生?」
「おや、駄目じゃないですか星君。健康第一ですよ。でないと」
 奥から出てきたその男は、でっぷりと太った腹を突き出して、笑った。
「一生懸命絶叫を上げられませんからねえ!! ひ、ひひ、うひひひひひっ」



「な、何で校長先生がここにいるっすか!!」
「決まっているだろう。この男が」
 製あの叫びに、ヒスイは刀を構えることで答えた。
「この男が、エイジャを召喚した張本人だからだ」
「おやおや? それは半分しか当たっておりませんよ? 確かにここにいるリザリスさん達を呼び出したのは私ですが、ひひっ、ドートスさん達は違います。彼らを呼び出したのは、復興街の工場長です」
「……そやつに魔道書を渡したのか」
「ええ。お金に困っていたようですので。助けてくれると思ったのでしょうね。ひひひっ」
 キュウの視線を受け、狸山は下品な笑顔を浮かべた。
「……エイジャを呼び出した人間は排除の対象になるが、その前に一つだけ聞いてやる。貴様、なぜエイジャを呼び出した」
「何故? 簡単なことです。私はね、15年前のあの日に聞いた、死んでゆく人々の黒い絶叫をもう一度聞きたいんですよ。あれを聞いたせいで、仕事にも身が入らなくてねえ。結局あんな私立高校の校長なんてやらされる羽目になりましたけど。でもいいんですよ。あの絶叫をもっと聞くことが出来れば。さあ、お喋りはここまで。リザリスさん、それではまた聞かせてください。死にながら叫ぶ絶叫を!!」
「いや……それは無理だ」
「……へ?」
 不意に、緑色の手が、狸山の首を掴んだ。
「ひっ? り、リザリスさん?」
「……戯けがっ」
 黒猫が心底嫌悪したように吐き捨てる。その視線の先では、喚く狸山が、部屋の中央に引きずられていく。
「な、何をなさるのですリザリスさん!!」
「……貴様は満足したと言ったな。ならば代償をいただくとしよう」
「だ、代償ですって? そんな事、あいつは一言も……ひ、ぎゃあああああっ!!」
 部屋の中央、つまり魔方陣の中央に投げ出された狸山は必死に逃げようとしたが、その手足に太い杭が打ち込まれた。噴出した血が、魔方陣の上にだらだらと流れた。


 ドクンッ と、部屋が脈打った。
「……うあ、くっ」
「ヒスイ?」
 少女の体が床に沈む。慌てて駆け寄ろうとした聖亜は、次の瞬間、魔方陣から一斉に吹き出た黒い煙を見た。
 それは、喚き続ける狸山の中に吸い込まれていき、そして、その体が内側から弾けとんだ時、
「……まったく、八百年ぶりにこの世界に出てくるための寄り代が、脂ぎった男なんて、最悪だと思わない? ねえ」




 この世界に、地獄が現れた。




「あらあら、ようやく現れたわねえ」
 太刀浪市の郊外にある小高い丘の上で、お茶を楽しんでいた神楽は、優しげな笑みを浮かべ、漆黒に覆われた都市を見た。
「神楽様、まさか知っておられたのですか? 爵持ちが現れることを」
「あら? 当然じゃないひいちゃん。言ったでしょ、この都市が惨めに滅んでいくのを見るって」
「ですが、それにしてもこの重圧は」
 その横では、氷見子が苦しげに眉を顰めていた。
「……簡単なことさ。呼応したんだよ。貴族の出現に、煉獄の地下に蠢く万を越す魂が」
 不意に、二人の後ろで、明るい声がした。
「あら? お客様?」
「ふふ、久しぶりですね。黒塚家の鬼子」
「……まあまあ、あなただったの」
 闇の中から現れたのは、黒い礼服に身を包み、シルクハットを被った青年だった。
「ええ。今宵の宴を見物させてもらおうと思いまして」
「ふふ、いいわよ。ところで、飲み物は何が良いかしら」
 紅茶の葉を取り出す神楽に、青年は柔らかく首を振った。
「いえ、すぐに行かなければなりませんので。お構いなく」
「そうなの、残念ね」
 会話を続ける二人の横では、氷見子が草むらに倒れ付し、喘いでいた。
 爵持ちの重圧にも耐えられる彼女が、まったく耐えられないほどの重圧が、この二人から発せられていたからだ。
「さて、それではこれで失礼を」
「あら、もう行ってしまうのかしら」
「ええ。名残惜しいですが、探し物がようやく見つかったもので」
 青年は優雅に一礼すると、暗闇の中にすっと消えていった。


 ぴこぴこと、二本の長い黒耳を揺らしながら。




 地獄は、女の格好をしていた。

 一見すれば、美しいと思えるだろう。体を覆う黒いドレスから覗くのは、はち切れんばかりの胸。黒く艶のある長い黒髪が流れ、唇は真っ赤に染まり、肌はどこまでも白い。
「ご無事でのご降臨、お喜び申し上げます。子爵閣下」
「ありがとう、リザリス。けど、あまりいい寄り代とはいえないわね」
「それは、申し訳ございません」
「まあいいわ、ところで」
 女は、黒く染まった瞳で、床に突っ伏しているヒスイを見た。
「あれが、今宵の主食?」
「は。一夜にて百殺を成し遂げた絶対零度。この家畜にしみ込んだ絶望は、さぞ美味かと」
「そう、なら遠慮なく頂くわ」
「……だ、まれ」
 刀を床に差し、震える体を何とか持ち上げる。がくがくと震える膝に力を入れ、ヒスイは女の格好をした地獄を強く睨み付けた。
「人を、勝手に、食い物に……するなっ!!」
 太刀を振り上げ、駆け出そうとする。だが、
「あらあら、元気がいいこと……“控えよ”」
「ぐ、あ……」
 その体は、再び地面に沈んだ。
「ヒスイっ! 大丈夫っすか!?」
「あら?」
 少女に向かって歩き出そうとした女は、自分より先に駆け寄った少年に視線を移した。
「あらあら、なぜあなたは動けるのかしら。わたくし、言いましたわよね。控えよって」
 周りを見ると、ヒスイだけでなく、キュウも、三体の人形も、そしてリザリスという名のエイジャですら、揃って倒れていた。


 まるで、恭しく頭を垂れているかのごとく。


「……普通に動ける。それより、何なんだあんたは」
「…………あら、そういう事」
 少年の質問には答えず、女はその白い手を彼に伸ばした。
「最近は全く見当たらないから、絶滅したと思っていたのだけれど、例外はいるのね。ねえ、“結界喰らい”」
 聖亜が動くより早く、伸びてきた白い手が彼の頬に添えられる。優しげな感触に、だが聖亜は恐怖と絶望しか感じなかった。
「う、あ……」
「では目覚めさせましょうか……そして、一緒に楽しみましょう。この黒い宴を」
 言葉と共にされた口付けは、絶望の味がした。



 危険度120%―超過! 超過!! ちょ…………



「……変化しない。全く、つまらないわね。リザリス、退屈よ。何かなさい」
 崩れ落ちた少年を放り投げると、女は欠伸を噛み殺し、辺りの重圧を解いた。
「はっ!! さあ哀れな人形共、閣下はご退屈だ。踊って差し上げろ。せいぜい無様に」
「……え?」
 次の瞬間、最後尾にいたビショップは、自分の喉を食い破る牙と、自分を見つめる黄色い瞳を見た。


―ンッ


「び、ビショップ? う、うお、うおおおおおおおっ!!」
 おぼろげにポーンに手を伸ばし、ビショップはチェスの駒に戻った。だがそれすら、リザリスは口の中に入れ、噛み砕く。
 それを見て、ポーンは絶叫を上げて立ち上がった。まだ体が軋むが、そんな事、知ったことではない。
「ほう、起き上がるか。なるほど、さすがは元衛兵隊長だけのことはある」
「黙れ!! 貴様、貴様だけは絶対に許さん! リザリス!!」
「ぽ、ポーン、無茶よ!!」
 欠けた剣でリザリスに向かうポーンを静止しようと、ナイトは必死に叫んだ。だが、怒り狂う彼に、声は全く届いていない。
「……愚かな」
 突き出された剣を首を捻って避けると、リザリスは逆にポーンの腹部に手を突き入れた。
「ぐがっ!!」
「このままチェスに戻った貴様を握りつぶしてやろう……む?」
 だが、両腕は彼の腹の中で、ピクリとも動かなかった。
「ぐ……今だ! 絶対零度!!」
「はあああああああっ!!」
 白刃が閃き、緑色の腕が二本、床に落ちた。
「ぐむっ」
 リザリスが飛び退くと、ポーンは怒りの仮面を満足そうに歪ませ、ふっと掻き消えた。


―キン


「く、切れ味が鋭すぎる。制御が出来ないとは。だが、これで貴様の攻撃手段はほぼ無くなったな」
 硬い鱗に覆われた腕を難なく切り裂き、さらに床まで一気に食い込んだ刀を渾身の力を込めて引き抜くと、ヒスイは苦しげに呻くリザリスに、止めを刺すために駆け出した。
「ぐっ、そうだな…………と、言うとでも思ったか?」
「え?」
 ずるりと、肩の付け根から新しく生えた腕が飛び出し、刀を掴んだ。
「馬鹿な、腕が再生した? きゃっ」
 そのまま、壁にむかって叩きつけられる。激痛が背中を走り、ヒスイはくたりと崩れ落ちた。
「言っていなかったか? 我は不老不死だ。それこそ、どんな攻撃も効かぬ。それに」
「ちょ、何?」
 背後から襲いかかったナイトの体は、逆に何かに押さえつけられた。
「う、腕が……」
「このように、離れた手足も自由に動かせる。つまり、お前達が我を攻撃すればするほど、我の攻撃手段が増えるというわけだ」
 首と胴体を拘束している手の間から、細かい粉がぱらぱらと落ちるのを見て、ナイトは悲しげに呻いた。その傍らに歩み寄ると、リザリスはナイトに優しく話しかけた。
「ナイト、元龍騎兵よ。同郷のよしみだ。お前が改めて閣下に忠誠を誓うならば、奴隷として生かしてやろう。どうだ?」
「ふん、奴隷なんてお断りよ。それに、私はね」
 ぎりぎりと押さえつけられながら、彼女は死んだように動かない少年を見た。
「私はね、人形にされてから今まで、ずっと笑いたくも無いのに笑っていたの。それこそ、悲しい時も苦しい時も、ずっとずっと。ひどいものだったわ」
 その少年に向け、彼女は腕を伸ばした。
「けど、聖亜に会って、私は始めて心から笑うことが出来た。それにねリザリス、聖亜は好きって言ってくれたの。人形になってからも、なる前も、誰も言ってくれなかった言葉をね。だから」
 心の底から笑いながら、彼女はリザリスを哀れみを込めて見上げた。
「だから、偽物の笑顔なんて、もうお断りよ」
 ずんっと首に衝撃が走る。笑ったまま、ナイトは掻き消えた。


 からんと、仮面を一つ、床に残して。



―パキンッ



「ヒスイ、ヒスイ、無事か」
「ああ。だがキュウ、奴は不老不死なのか?」
「いや、そんな物存在しない。恐らく、高い再生能力だろう」
「再生能力、か」
「……ヒスイ?」
 黒猫は、ふと流れる冷気を髭に感じた。
「ヒスイ……お主まさか」
「……くっ」
 リストバンドを強引に引き千切ると、手首に埋め込まれた緑色の宝石に、ヒスイは太刀を当てた。太刀の中に蓄えられていたエネルギーが、宝石の力で外に押し出される。
 ふらふらと立ち上がると、ヒスイは目の前の蜥蜴を強く睨み付けた。
「なら、その能力ごと、奴を“断つ”!!」


 忌々しげにチェスを踏み潰していたリザリスは、ふと心地よい冷気を肌に感じた。
「……む?」
 だが、それは急速に強まっていく。煩わしさを感じた彼は、その冷気が漂う方向を見た。
「……あら?」
 退屈そうに欠伸をしていた女も、興味深げにそれを見る。
 太刀の中から流れ出るエネルギーが、今度は冷気となって刀に急激に吸い込まれていく。やがて、刀の許容範囲を超えたのか、その冷気は、刀の周りで渦を巻き始めた。
「なんなのだあれは……ふ、ふん、まあいい。どのような技も、我には効かぬ」
 太刀を覆い尽くすほどの渦は、やがて急速に冷えて固まり、そこには、青い刃を持つ、巨大な刀が現れた。
「……成功、させたか。だがヒスイよ、その“絶技”を禁技としたのは、お主自身なのだぞ?」
 キュウは、青い刀を持つ少女を、むしろ憐れみを込めて眺めた。
「……ヒスイよ、我が愛しき氷河よ。それを撃てば、間違いなくそなたの婚約者が出てこよう。だが、それでもお主はそれを放つというのだな」
「ふうっ、ぐ、うあっ」
 寒さと重さで、体ががくがくと震える。だが、ヒスイは唇を血がにじむほどかみ締めると、今ではもう五倍以上に膨れ上がった刀をゆっくりと持ち上げ、そして叫んだ。


「絶対、零度(アブソリュート、ゼロ)!!」


 最初に押し寄せてきたのは、青い冷気だった。リザリスは、その冷気を腕を盾にすることで防ごうとする。だが、その冷気に当たった瞬間、腕は瞬時に凍りつき、粉々に砕けた。
 狼狽するリザリスに、今度は冷気の波に乗った少女が、すさまじい速度で、青い刃を振り下ろした。

 リザリスの体は、その瞬間、二つに断たれた。


「ぐああああああああっ!!」
 痛みと屈辱に、リザリスは絶叫を上げた。再生できるといっても、痛みは発生する。まして胴を二つに分断されたのだ。
「ぐ、だが再生すれば問題は……何だ?」
 再生できない。いつもなら容易に出来るはずのそれは、なぜか反応すらしなかった。
「なるほど、急激な冷気で、細胞の動きまで停止させたのね。お見事ですわ」
「か……閣下、閣下ぁ!! なにとぞ、なにとぞお助けください!!」
「ええ、分かっているわ、リザリス。けど」
 必死に伸ばされた手を、女は優しく握り締めた。
「けどごめんなさい。わたくし、今とってもお腹が空いてるの」
 その瞬間、二つに断たれた蜥蜴の肉体は、どちらも女の中に吸い込まれていった。



「ああ、おいしかった。貴方の絶望も中々だったわ、リザリス」
「お前……自分の仲間を」
「仲間? わたくし以外の貴族は、いったいどこにいるのかしら」
 体に襲い掛かる反動で、指一本動かせないヒスイに、女は優しく微笑んだ。
「……くっ」
 だが、それでもヒスイは、光を決して消さない瞳で、女を睨み付けた。
「あらあら、そんな顔しない方がよろしくてよ? 味が落ちてしまうから、あまり痛めつけたくないの」
「……一つ、聞きたい事がある」
「あら? いいわよ、何なりと」
「獄界で、贅の限りを尽くす爵持ちが、なぜわざわざこっちに出てきた」
「あら、そんなこと」
 笑いながら頷くと、女は顔を赤らめ、遥か彼方を見た。
「もう一度味わいたいからよ。喉を潤す甘美な悲鳴を。絶望に彩られ、もがき苦しみながら喉をするりと落ちていく魂を。聞けば、この都市には十万以上の家畜が生息しているって話じゃない。だからリザリスに命じたの。彼らをほとんど損なう事無く、わたくしをこちらに呼びなさいとね」
「……」
 くすくすと笑う、その女の答えを聞いた時、ヒスイの心に宿ったもの、それは恐怖でも、そして怒りでもなかった。
「……もう、いい。分かった」
 少女は、自分に付けられた称号である百殺の称号に似つかわしくない、優しい心を持つ少女は、今度こそ最後の力で立ち上がり、
「……あら?」
 絶対零度という異名に似合わぬ、灼熱の憎悪を心に宿し、
「お前は……いや、貴様だけは、例え四肢が砕かれても、例え、この体に流れる全ての血を失っても」
 自らの魔器を、構えた。
「必ず、滅殺する!!」



「あらあら、食事の前に、軽いダンスがお望みかしら」
 突き出された刃を手で軽く打ち払い、女は大きく後ろに下がった。
「では、その前に自己紹介をしなければなりませんわね」
 女は、そこでドレスの裾を掴み、優雅に一礼した。
「わたくし、黒界七王国が一、ニブルヘイムが子爵、“嘲笑する虐殺者”ニーズへッグと申します」
 振り下ろされた太刀をくるりと回転して避けると、女―ニーズへッグは、少女の胸にそっと手を添え、
「どうぞ、ダンスのお相手を、絶対零度」
 少女を、大きく吹き飛ばした。
「……ッ」
「あらあら、まさかもうお終い? まだ手を添えただけですわよ」
 壁に激突し、ずるずると滑り落ちた少女に向け、ニーズヘッグは穏やかな笑みを浮かべて歩き出した。と、
「ふぎゃっ!!」
「あら」
 そんな彼女に、物陰から小さな黒い影が飛び掛った。片手で捕まえると、それは自分に向かって必死に爪を伸ばす、一匹の黒猫だった。
「ごめんなさい、わたくし猫ってそれほど好きじゃないの。食事が終わって、小腹が空いていたらデザートにでも頂くわ」
 にゃあにゃあと鳴く黒猫を、半分ほど開いた窓から外に放り投げる。
「さて「はあああああああっ」あら?」
 改めて少女に向かおうとしたニーズヘッグの目前に白刃が迫る。避ける暇は無い。それは彼女の肩を存分に貫―ぬかなかった。
「……なっ」
「ふふ、見事なステップね。けどそんな攻撃では、わたくしの体には届かないわよ?」
 彼女の肩、その僅か一ミリ手前で停止した突きを見て、一瞬動きを止めた少女の腰を、ニーズヘッグは優しく抱きかかえた。
「ぐ、このっ!!」
「そう暴れないの。まずはターンと行きましょう?」
 腰を掴まれ、振り回されながらも、ヒスイは二本の刀を必死に振るった。至近距離からの一撃は、外れることは無かったが、やはり攻撃は彼女の手前で停止していた。
「あらあら、踊っている間、相手のドレスを踏んでは駄目よ。絶対零度」
 首に振り下ろされた太刀と、胸を突こうとした刀をそれぞれ二本の指で摘むと、ニーズヘッグは先程黒猫を投げた窓目掛け放り投げた。二本の刀はそれぞれくるくると回りながら窓を割り、闇の中に消えていった。
「う……」
 かすむ瞳でそれを見送ると、ヒスイはそっと、右手を握り締めた。
「さあ、これで玩具は全部無くなったわ。それで? これからどうやって戦うつもり?」
「……こう、やって、だ」
 その時、ニーズヘッグは自分の脇腹に、少女の手が添えられるのを見た。
「あら、それが精いっぱ……い?」
 その右手に、どこからか冷気が集まってくる。先程の攻撃は、確か刀の中に蓄えられていたエネルギーを使ったはずだ。そしてなにより、
「なめる、なよ。例え善鬼が無くても、代用できるものはある!!」
 その冷気は、赤い色をしていた。
「おほほほほほっ、大した自己犠牲ですこと。自分の血を冷気に、右手を玩具の代わりに使うだなんて。けどよろしいんですの? 手が砕けますわよ?」
「……言った、はずだ」
 微笑を浮かべると、少女はニーズヘッグの漆黒の瞳を、正面から見据えた。
「例え、四肢が砕けても、例え、この体に流れる全ての血を失っても、必ず滅殺すると……くらえっ!!」
 赤い冷気が、右手をグローブのように包み込む。正真正銘、これが最後に撃てる一撃。
「くらえ、絶対、零度(アブソリュート、ゼロ)!!」
 その赤い冷気は、巨大な衝撃と共に、ニーズヘッグの脇腹に突き刺さり、その腹部を粉々に粉砕した。


「う……あ」
 ニーズヘッグが崩れ落ちるのを確認すると、ヒスイは床に転がった。幸い右手が砕かれることは無かった。おそらく冷気の練り方が甘かったのだろう。だが、衝撃で肩が抜けたようだ。それにひどく寒い。だが、
「……は、ぁ」
 だが、最早指一本動かせるだけの体力も残っていない。それに、血液の八分の一を失った。死んでもおかしくない。
「……ふうっ」
 それでも満足そうに息を吐くと、ヒスイは目を閉じた。
「……あら、眠りますの? なら、そろそろ食事にしましょうか」
 ぼんやりとした意識の中、微かに聞こえる声を子守唄に、ヒスイの意識は、深い闇の中に落ちていった。



  そして、何も分からなくなった。



 ガキンッ



 その時、音を立てて、それは砕けた。

 

                                   続く

 こんにちは、活字狂いです。最近テイルズオブグレイセスエフにはまっており、眠いです。とりあえずアスベルとシェリア、そしてソフィが家族になって嬉しい。後パスカルが猫っぽい。
 さて、今回いよいよ敵のボス、蛇神ニーズヘッグが出現しました。ニーズヘッグは竜神とも言われていますが、あえて蛇神にしました。そしていよいよ物語は佳境に入ります。では次回「スルトの子 第六幕  スルトの子」そして「幕間 湖畔にて」を、どうぞお楽しみに。



[22727] スルトの子 第六幕   スルトの子
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2015/12/19 23:09
スルトルは南からやってくる



枝に燃え立つ火を持って



剣は輝き



死者の神々の太陽は輝く



石の頂は砕かれ



そして女巨人達は歩き出す



兵士達はヘルから続く路を歩く



そして





そして 天は割れてしまう


(古エッダ 『巫女の予言』より)



  夢を、見た。


 いつもの夢だ。燃える教会と、その中で燃える蝋燭を両手に持ち、笑っている子供。そうだ、あいつだ。あいつが、俺から全てを奪っていった。
「おい手前、何他人のせいにしてるんだよ」
「……え?」
 気づいた時、聖亜はどこまでも続く黒い空間で、目の前にいる、その少女と向き合っていた。
 

 おかしい。自分は確か、白髪の少女と、そして


「あ……」
 三体の人形のことを思い出したとき、聖亜はなぜかぽろぽろと涙を流した。
「お、おい、大丈夫か?」
 目の前にいる、緋色の髪と同色の瞳を持った少女が、わたわたと慌てながら覗き込んできた。
「あ、ああ。大丈夫。ところで……あんた、一体誰だ?」
「へ? って、そうだったな。まだ分かんないか、ん?」
 がしがしと緋色の髪を掻く少女を暫らく見て、聖亜は何かに気づいたかのように、はっと顔を強張らせた。普通に考えればそんなことはありえない。そんなことはありえないのだが、
「え……なんで?」


 彼女は、自分そっくりだった。


「やっと気づきやがったか。そうさ、俺はお前、そしてあそこで笑っているのも、お前だ」
 首を左に曲げられる。黒い空間の中、ぼんやりと燃える教会が見えた。
 無論、その中で笑っている子供の姿も
「ち、違う、そんなはずは無い!! だって、だって俺、あの時ちゃんと見たもの!!」
「ああ見ていたさ。鏡に映った、自分自身の姿をなあ!!」
 にやりと笑う少女に、聖亜は嘘だと叫ぼうとして、違うと叫ぼうとして、はたと口を閉ざした。あの時、教会になかっただろうか、子供の全身を映せるほど、大きな鏡が。
「ははは、やっと思い出したようだなっ!! そう、あの時お前は神父が姉貴を強姦しようとしているのを止めようとし、逆に殴られた。だから、燭台に刺さっていた蝋燭で燃やしたんだよ。神父と姉貴を、教会もろともさっ!!」
 どんっと手で押される。その途端、聖亜は奈落の底に向かって物凄い速さで落下し始めた。いや、そもそも何もないこの空間で、自分は今まで一体どうやって立っていられた?
「ひゃははははっ!! 今まであの野郎に封じられてきたが、ここにきてやっと枷がぶっ壊れやがった。今度は聖亜、お前が暗い闇の底で眺めてな。この俺様が、世界を焼き尽くすところをさっ!!」
 黒い空間に、少女の笑い声が響き渡る。闇の底に落ちながら、聖亜は嘘だ、嘘だと、それだけを呟いていた。




「……まったく、たかが家畜の攻撃で、貴族たるこのわたくしが傷つくと、本気で思っていたのかしら」
 意識を失っている少女の首に手をかけ、持ち上げると、ニーズヘッグは血の気のない白すぎる頬に舌を這わせた。先程ヒスイの最後の一撃を受けて粉砕されたはずの腹部は、だが傷も、痣すらも付いていない。
「ふふ、本当においしそう。安心なさって。あなたの絶望を一気に味わうなんてことはしないから。少しずつ、ゆっくりと食べて差し上げませんと……ふふ、では、いただきまがっ!!」
 口を開け、目の前の肉にまさに喰らいつこうとしたその瞬間、ニーズヘッグは横から思い切り殴り飛ばされた。

 そのせいで、捕らえていたせっかくの獲物を放してしまった。それでも空中で一回転し、床にすたりと降り立ったのは流石だろう。そしてその時にはもう、彼女は自分を殴りつけた相手の正体を悟っていた。
「……随分と無礼な方ね。目覚めさせない方が良かったかしら」
「はっ、手前で目覚めるきっかけを作っておいて、よく言うぜ、婆さん」
「……口の利き方には気をつけなさい、“小娘”」
 彼女を殴った相手、それは床に惨めに転がっていた少年だった。だがその長髪は黒ではなく灼熱に輝き、瞳はまるでルビーのよう。そして何より、“彼女”はもう、少年ではなく少女であった。
「へっ、何百年も生きているんだから、やっぱり婆じゃねえか」
「お黙りなさい……それで、あなたは一体誰なのかしら。見たところ、“赤界”の出身らしいけど」
「は? いや、実はさ、俺目覚めたばっかりで、どこの誰かも分からないんだよな」
「……あら、名前も無いのかしら、無様ね」
 首を捻る灼熱の髪を持つ少女に、その異名の通り、ニーズヘッグは嘲笑を浮かべた。
「いや、聖亜ってくだらなすぎる名前があるんだけどさ、あまりにくだらなすぎて、俺この名前嫌いなんだよね……うっし、決めた」
 顔を上げ、にやりと笑うと、少女はどん、と足を踏み出し、ぎゅっと両手を握った。すると、その手からボッと炎が噴出す。


「我、炎也(ほのおなり)。七月に生まれた炎の子、名付けて七月炎也(ななつきえんや)! それが俺の名前だ!!」
 そう叫ぶと、炎を纏った拳で、炎也はニーズヘッグに向かって殴りかかった。




「……まったく、煩わしいわね。この絶対防衛陣である“黒水”は炎だけは通すわ。まあ、それもわたくし自身に炎がほとんど効かないからなのだけれど」
 向かってくる拳を避け、或いは弾き飛ばしながら、ニーズヘッグは不機嫌そうに眉を顰めた。
「はっ、何だよ、防戦一方じゃねえか。らあっ!!」
 炎也が突き出した拳が、彼女の肩にガッと当たる。その衝撃と僅かな痛みに小さく呻くと、ニーズヘッグはばっと後方に飛んだ。
「いい加減になさいな、小娘……出でよ、毒霧の剣(どくきりのつるぎ)」
 手のひらを下に向けると、その中心から細長くどす黒い色をした物が伸びた。ニーズヘッグは炎也を見て一度くすりと笑い、無礼な少女に向かって、それを勢い良く水平に振った。
「うおっ!!」
 間一髪、炎也は上に跳び上がることでそれを避けた。横に飛ばなかったのは運が良かった。なぜなら、剣といっているくせに、まるで鞭のような動きを見せるそれは、今まで彼女がいた場所を横一直線に通り過ぎ、後ろの壁に激突したからだ。
「うへぇ~、何だよあれ、どろどろに溶けてやがる」
 炎也が呆れて言ったとおり、毒霧の剣が接触した壁は、強烈な毒を吹き付けられたかのようにどろどろに溶けていた。
「どう? これがわたくしの剣。触れたもの全てを毒によって“切断”し、鞭のようにしなやかな動きが出来る業物。さあ、あなたは一体どこまで逃げられるかしらね」
 ひゅんひゅんという音と共に、毒の鞭が赤髪の少女に襲い掛かる。炎也は最初の内は懸命に避けていたが、やがて段々と目が死んできた。
「…………ああもう、面倒臭え、面倒面倒面倒臭え!! やってられるかこんなもん……うあああああああああっ!!」
 気合を入れながら、左足を引き、右足を前に出す。完全な無防備だ。
「おほほほほ、どうやらもうあきらめたようねえ。さあ、そろそろその生意気な顔を、どろどろに溶かして差し上げる「うるせえよ」なっ」
 ニーズヘッグが気づいた時、炎也はもう目の前まで迫っていた。慌てて剣を振るう。だが触れたものを瞬時に溶かすその刀身は、少女に触れた途端、じゅっと小さく音を立てて消え去った。
「まさか……全身に炎を纏ったというの!?」
「そういうことだ! らあっ!!」
 狼狽した相手に全身をぶつけて押し倒すと、炎也はその端正な顔を肘で思い切りぶっ叩いた。
「がっ、くそっ、この、わたくしの顔を、よくも!!」
「ははっ、中々いい顔になったじゃねえか。うおっ」
 たまらず、ニーズヘッグは顔に打ち付けられた肘を掴み、放り投げた。
「小娘が……調子に乗ってぇ!!」
 度重なる屈辱に、ニーズヘッグはとうとう先程までの優雅な表情をかなぐり捨てた。それに呼応するように彼女の髪がざわざわと揺れ、ばらける。
「ふふふ、もう手加減はしないわ。貴族たるこのわたくしを本気にさせた事、後悔させてやる!!」
 ばらけた髪の一本一本が太くなり、そしてまるで蛇のようにするすると炎也に向かって伸びていった。
「うえっ、気色悪い!!」
 嫌悪感をあらわにしながら必死に打ち払うものの、髪は後から後から伸びてきて、遂にその一本が彼女の足に絡まった。
「うわっ、くそっ!!」
 次の瞬間、髪は漆黒の胴体を持つ蛇へと変わった。狼狽している間に他の髪も彼女の体に巻きつき、次々に蛇となってぎゅうぎゅうと締め付け、徐々に主の方へと引き摺って行く。
「ぐ……」
「ほほほほっ、いらっしゃい。どんなに炎を纏っても、ただ闇雲に殴りつけることしか出来ない屑なんて、こうやって捕まえられたらそこでもうお終い。さあ炎也とやら、わたくしの口付けをお受けなさい」
「婆さんに口付けされる趣味はね……がっ」
 首筋にぶつりと牙が突き立てられる。その瞬間、少女の体に激痛が走った。
「あ……が、ぐ」
「ふふふ、どうかしらわたくしの死の接吻は。毒霧の剣は、私の体内で生成している毒を固定した物。ならば武器としての形を取らず、毒をこうやって直接流し込むことも出来る。ふふ、巨大魚バハムートすら悶え苦しむ猛毒よ。でも安心して。最初は溶けずにこの世のものとは思えない激痛が走るだけだから。さあ、わたくしに逆らったこと、後悔しながらじわじわと無様に死んでいきなさい」
「~~~~っ!!」
 床に放り捨てられ、炎也は声に鳴らない悲鳴を上げ、ごろごろと転げまわった。体の中がじゅうじゅうと溶けていく気がする。激痛が走り、目の前で侮蔑を込めて見つめてくる女に、今にも縋りついて許しを請いたくなってくる。だが、
「ぎ……く、くそったれ、が。確かに、きついけど、よ」


 だが、それは彼女の意地が許さなかった。


「う……が、ああああああああっ!!」
「あら?」
 不意に、部屋の中の温度が上がった。眉を潜めたニーズヘッグは、ふと、赤髪の少女の周囲が揺らめいているのに気づいた。彼女が体内から高熱を発しているのだ。
「ふふ、最後の悪あがき? いいでしょう。受けてたちましょう」
 攻撃を予想して、ニーズヘッグは軽く身構えた。だが、
「……くっ、誰が、攻撃するって言ったよ。ううううううっ、がっ!!」
「……?」
 彼女が発した高熱は、炎にはならず、そのまま彼女の中に吸い込まれていく。熱を全て吸い込むと、炎也はがくりと膝を突いた。だが、ニーズヘッグを見る目の輝きは強い。
「ど、どうよ、は、ご自慢の毒は、消した、ぜ」
「……呆れた、体内に熱を送り込むことで毒を消すなんて、物凄い力技だこと。けどどうやらここまでのようね。今の姿でも簡単に殺せるけど、ここまでコケにされて、それでは全く面白くないわ。まあいいでしょう。神話に語られる、世界樹の根を食み、死者の血を啜るとされる我が真体、その瞳に焼き付けて、絶望の中死になさい」
 そう言うとニーズヘッグは、身に着けている黒衣で、自らの体をすっぽりと覆った。



 その瞬間、空気すら、そこにいる事に絶望した。



「まあまあ、やっと出たわ」
 空中に広がったそれを見て、神楽は紅茶を楽しみながら嬉しそうに微笑んだ。
「さあさあ、これでお終い。私の大事な孝ちゃんを奪った都市が、無様で惨めに喰われて滅んでいく」





「……なんだ、ありゃ」
 黒衣に身を包み、天井を突き破って外に飛び出したニーズエッグを追って、意識を失っているヒスイを担いで外に出た炎也は、空中に浮かぶ、都市をすっぽりと覆う巨大な黒い湖を、ぽかんと口を開けて眺めた。
「……ぐ、馬鹿な。奴め、自らの居城すら持ってきたか」
 だが、少女の疑問に答えたのはニーズヘッグではなく、物陰からよろよろと這い出てきた、紫電の瞳を持つ黒猫だった。
「はあ? 何だよ馬鹿猫。自分の居城って」
「誰が馬鹿猫だ誰が。居城とは城主の住む所だ。そんな事も分からんのか小僧、いや、今は小娘であったか」
「……ふふふ、これぞわたくしの身を包む黒水の正体にして居城、フヴェルゲルミル。その深度は星ほどに深い。だからどのような武器も、どの様な技もわたくしには届かない。まして単なる家畜の攻撃など、ただ水面を揺らがせるだけ」
 その時、黒い湖の中から、都市ほどもある巨大な黒い蛇がゆっくりと這い出てきた。いや、それは蛇と呼ぶべきなのか、頭部には二本の角があり、その皮膚は光沢のある鱗で覆われている。それは黒い竜とも言えた。いや、やはり蛇なのだろう。 元々あったはずの翼は無残に焼け爛れ、四肢は微かに根元の部分が残っているだけで、そこから先は無く、頭部の角でさえ、一本は無残に折れていた。
「……」
「ふふふ、この姿がそんなに醜いかしら? 貴方達が思っている通り、わたくしは元は蛇神ではなく竜神。緑界から黒界の伯爵家に嫁いできた者……それが、彼の大戦で、忌々しいあの女に翼を焼かれ、四肢を砕かれ、角を折られた。そのせいで領地を縮小され、夫とは死に別れ……くくくっ、もう、家畜を喰らうしか楽しみが無いのよ。さあ、お喋りはもうお終い。生まれなさいわたくしの子供達。そして家畜共を存分に狩りなさい!!」
 不意に、湖が脈打つと、次の瞬間、その中からぞろぞろと無数の蛇が湧き出てきた。ビルほどの太さを持つ蛇がいるかと思えば、逆に腕ほどの太さしかない蛇もいるが、その色は皆揃って黒い。
 蛇達は、最初は中央にいるニーズヘッグにまるで親に甘えるように身を摺り寄せていたが、やがて都市全体に広がり始め、地面に倒れている“家畜”に襲い掛かり始めた。
「う……くそっ、重えっ」
 だが、それを追う事は炎也には出来なかった。なぜなら彼女には湧き出た蛇の中で、最大の蛇が襲い掛かってきたからだ。その大きさはほとんどニーズヘッグと大差なく、大人の背丈ほどもある巨大な牙からは毒が滴り落ちている。
「ほほほ、どう? その子はその気になればリザリスすら一飲みに出来る、わたくしが一番初めに産んだ子よ。さあ、早くその生意気な小娘を飲み込んでお挙げなさい!!」
 悪戦苦闘している少女を見て、ニーズヘッグはその巨大な口を愉快そうに歪めた。
「……小娘、そなた炎を纏わり付かせるだけで、飛ばすことは出来ないのか?」
「はあっ? 飛ばすなんて器用なこと出来るはずがないだろ!! この忙しいときに、ちょっと黙ってろ馬鹿猫!!」
「何だと? 赤界の出身ならば、例え最下級のエイジャでも小さな火を飛ばすぐらいは出来るぞ。出来ないのは人間ぐ……そうか、お主は」
「は?」
 一端言葉を切ると、キュウは空中に浮かぶ黒い湖と、そこから無数に湧き出る蛇を見上げた。このままでは、太刀浪市に住む住人の全てが食われてしまうだろう。そしてその中には、傍らで眠る白髪の少女も、無論含まれている。ならば、
「……ええい、くそっ、我が行くしかないか!!」
 黒い毛皮をどことなく赤く染め、黒猫は炎也の胸に飛び乗った。
「うわっ、邪魔だ馬鹿猫」
「黙れ小娘。いいか、この小さき蛇を暫らく抑えておくがいい」
「は? これで小さいって……うおっと!!」
 意識をそらした途端、蛇の牙から滴り落ちた毒が、下顎を持つ手にじゅっとかかったからだ。毒で今にも消えそうな炎を、炎也は懸命に燃え上がらせた。




「……中々粘るわね。しかし、どういうことかしら。どの子もまだ魂を持ち帰ってこない。いえ、これは……数が急速に減って来ている?」
 ニーズヘッグが疑問に思ったとおり、魂を狩るために飛び出していった蛇達は今だ戻らず、それどころか急速にその気配は消えている。彼女は暫し考え込んだが、やがて頭を振った。どうせ、湖の中には無数に卵があるのだ。数千、いや数万匹が殺されたところで痛くもかゆくもない。そう結論付け、目の前で必死に蛇を支えている赤髪の小娘を嘲笑することに意識を集中させた。




 時間は少し遡る。
 湖から湧き出た最初の一匹、大木ほどの太さを持つ蛇が獲物に選んだのは、道端に転がっている茶髪の少女だった。喜び勇んで家畜に向かい、その首筋に噛み付く、その寸前。
「やれやれ、すまんが店の従業員に手を出すのはやめてもらおうか」
 その頭部は、一瞬にして吹き飛ばされた。
 
 蛇の頭が吹き飛んだのを横目でちらりと見ると、白夜は軽く右手を振った。その途端、彼の半径数キロにいる蛇が、ことごとく粉砕される。
「祭ちゃん、大丈夫でしょうか」
「ま、大丈夫だろうさ。けど念のため守ってやってくれ」
「分かりました。では北斗、昴」
「「は~い、市葉姉様」」
 艶のある黒髪を持つ、自分の主人に声をかけられ、双子はその姿を二丁の銃へと変化させた。


 銃―S&W M500

 世界最強のマグナム銃として知られるそれを、"片手で”くるくると回転させると、市葉は襲い掛かってくる蛇に向けて乱射した。
「けど、どうしましょう。このままではきりがありません」
「分かっている。俺が出て、本体をぶっ殺せばすぐに終わるんだが」
 ビルほどの大きさを持つ蛇の頭部をデコピンで吹き飛ばすと、白夜は大きくため息を吐いた。
「だが、俺が表舞台に出ることは、黒塚家と縁を切ったときから禁じられている。聖に賭けるしかないだろうな」
「……あなた」
「……そうならないように、せめてエイジャとの戦いに巻き込まれないように、結界喰らい、その“エイジャ”の側である聖の力と破壊衝動に封印を掛けたのに、二年と保てなかった。やはり、あの時殺しておくべきだったか」
 そう呟いて、だが白夜は自分の言葉を否定するかのように、苦しげに首を振った。
「だが、頭で分かっていても実際に出来るはずがない。聖は俺の親友の忘れ形見だ。束縛を嫌い、海の向こうへ飛んでいってしまった、ただ一人の親友の」



『この海の向こう側に、どんな世界が広がっているか、俺、それを直に見てみたいんだ』



 親友と最後にあった時、彼が発した言葉を思い出し、白夜はまたため息を吐いた。
「……だから、俺に出来ることは、聖の心が少しでも傷つかないようにする事、ただそれだけだ……いくぞ、白崩(びゃくほう)!!」
 低い、そして強い唸り声と共に、白夜は両腕を前に突き出した。




 その瞬間、“白い毛”に覆われた手から、巨大な衝撃波が周囲に放たれる。それは建物を、自然を、そして人や動物をすり抜け、人に襲いかかろうとしていた黒い蛇だけを飲み込み、粉砕させた。








 落ちていく


「嘘だ……嘘だ、嘘だ」
暗い闇の中を、泣きながらどこまでも、どこまでも落ちていく。


 暗い闇―すなわち自らの深層意識の中を―


 優しかった神父、明るかった姉。だが神父は実際には好色で、姉を女としてしか見ていなかった。

 だから、止めようとした―駄目だった。


 だから、火を放った―騒がれた。


 だから、殺した。


「違う、違う……違う」
 だが、どんなに嘘だと叫んでも、どんなに違うと泣き喚いても、過去はまるで映写機のようにその場面を何度も映し出す。本来なら、この時点で聖亜の意識は完全に溶けてなくなっているはずだった。だが、幸か不幸か彼の意識は今だ保たれたままであった。



 不意に、がくんと衝撃が来て、落下が止まった。




「……やあ、お迎えに参りました。お姫様……あら?」
 過去の映像を何度も見せられている内に、精神が子供に戻ってしまったのだろう。聖亜は自分を支える青年の、頭から生えている黒い耳を、涙でにじむ瞳で、じっと眺めた。
「男の子? でも波動は確かに……えっと、君、名前は?」
「……名前? 聖亜。星、聖亜」
「うん、自分の名前もしっかり言えてる。けど、あれえ? じゃあ何で男の子?」
「……? あなた、は?」
「え? ああ、これは失礼を」
 青年は、子供に戻った聖亜を優しく抱えなおすと、優雅に一礼した。
「僕は“案内人”まあ、名前はちょっと発音しにくいので、気軽に黒ウサギとでも呼んでください。それより」
 顔を上げると、白手袋を嵌めた手で、彼は聖亜の頬をゆっくりと撫ぜた。
「こんなに泣いて。けど、もう大丈夫ですよ、お姫様。もう怖いことは何もありませんから」
「あ、ありがとう。けどお姫様って……俺、男の子、だよ?」
「ふうっ、そうなんですよねえ。けどおかしいなあ、彼の一族は女しか生まれないから、わざわざ“男”の姿で来たのに」
「……?」
「ああ、またまた失礼。僕の悪い癖だ。行き詰るとすぐに考え込んでしまう」
「……ふふっ」
 どうやら悪い人ではないようだ。くすくすと笑いながら、聖亜は頭を掻く青年の、ぴょこんと突き出ている黒い耳に、そっと手を伸ばした。
「……可愛らしい。ああもう、男の子でも良いか。僕が“女”になればいいだけなんだから。では……ふふ、あなたに祝福を。聖亜」
「ん……あっ」
 ふと、目の前の青年の姿がぼやけ、一人の女に変わった。ぼんやりと首をかしげる聖亜に、彼女の唇が優しく重なった、その瞬間、
「……くっ!!」
 突如襲ってきた氷の鞭に聖亜を抱えていた腕を吹き飛ばされ、彼女はばっと横に離れる。再び落下し始めた聖亜は、今度は別の腕に支えられた。
「ひどいなあまったく……お久しぶりです。“叔母様”」
「……そなた、ここで何をしておる、“次元破壊者”!!」



 それは、美しい女だった。



 長い銀髪を持ち、晴れ渡った夜空の色をしたドレスを纏っている。何より印象的な紫電の瞳は、両方とも目の前にいる黒ウサギに対する憎悪と怒りの炎で、赤く燃え上がっていた。
「もう一度聞く。数多の次元を破壊した貴様が、ここで一体何をしておるか!!」
 彼女の罵声に、だが次元破壊者と呼ばれた黒ウサギは、笑って首を振った。
「破壊者とはひどい言い方ですね。僕は案内人ですよ。その名の通り、ただ導くだけです。ま、今まで僕が導いた次元の幾つかは、確かに滅んでしまいましたが、それは僕ではなく、そこに住む人々の責任でしょう?」
 笑った顔を崩さずに、黒ウサギは聖亜を見た。
「……白きウサギはアリスを導き、黒きウサギは災禍を導く。このままニーズヘッグさんが勝ってしまえば、劇はそこで終わってしまいます。それではせっかく始まった物語が面白くなくなってしまう。ですから導き、目覚めさせたんですよ……深淵という名の災禍を」
 黒ウサギが楽しげに喋っている間にも、聖亜を抱えている女は氷の鞭で彼女をずたずたに引き裂いていく。だが、どうやら何の痛痒も感じていないらしい。
「ちっ、精神体か。攻撃が効いていないとはな」
「ふふふ、そうでもないですよ。おかげでこの体はズタズタです。けどこんな事をしていていいんですか? そろそろ、“目覚め”ますよ」
「何?」




 その時、ドクンっと、少年の胸が、鳴った。




「……あ、ぐ、かっ」


 
 熱い


 聖亜が一番初めに感じたのは、それだった。
 右腕が熱い。いや、腕だけではなく、体中が熱い。まるで体内に高温の蒸気を入れられたように熱い。まるで熱で真っ赤に染まった鉄棒をむりやり押し付けられたかのように熱い。
「聖亜!!」
 氷の鞭を消し、女が両手で必死に少年の体を支えている間に、黒ウサギの体は、段々とぼやけていった。
「……この世に勇者なんて存在しません。英雄なんて要りません。あるのは、必要なのは災禍を狩るための災禍のみ。そしてその災禍を狩るために別の災禍が生まれ、生まれた災禍を狩るために、さらに災禍が生まれる。こうやって物語は永遠に続いていくんです。それでは、名残惜しいですがこれで失礼を。御機嫌よう、王子様なお姫様。いずれ、お迎えにあがります」

 最後に優雅に一礼すると、黒くて長い耳を生やした女は、するりとまるで溶けるように消えていった。


「うあっ、うぐぅううううううっ!!」
 黒ウサギがいなくなっても、聖亜の体内にある熱は消えてはくれなかった。いや、むしろますますひどくなっていく。吐き出したい。吐き出して楽になりたい。そう思っても、一体どうすればこの熱を吐き出せるのか、聖亜にはまったく見当が付かなかった。
「くっ、ええい、埒が明かぬ!!」
 少年を救ったのは、暴れる彼を必死に支えていた女だった。頬を微かに染めると、少年の唇に、自分の唇を重ねた。
「……っ!!」
 接触した口を通じて、少年の体内で渦を巻いていた高熱が、彼女の体内に移動してくる。体内に充満してくる熱を無理やり押さえつけながら、彼女は必死に熱を吸い上げ続けた。



 やがて、少年の体内で渦を巻いていた高熱は、そのほとんどが女の体内へと移動した。
「ぐっ」
 唇を離すと、女は膝を突き、苦しげに呻く。
「……あ、れ?」
 体を蝕んでいた強烈な熱が収まり、ふらふらする頭を、聖亜は傍らで荒い息をしている女にそっと預けた。
「く……どう、やら、収まったようだの。まったく、聖亜、お主一体こんな所で何をしておる」
「何をって……何?」
首を傾げる“幼子(おさなご)”の頭を優しく撫ぜると、女はそっと手を翻した。真っ黒な空間に、ぼんやりと外の景色が見える。黒い湖と、そこから姿を見せている、巨大な黒蛇の姿が。
「あれは……」
「あれこそがニーズヘッグの真体。愚かな黒蛇だ。だが例え愚かといえど、人間のいかなる武器も奴には通じぬ。だが聖亜、お主の“手”ならば、奴を殺せるだろう」
静かに語りかけてくる女に、だが聖亜は幼い子供がいやいやをするように、首を振った。
「無理だよ、あんな奴に適いっこない。それに、それに俺が出て行けば、また誰か人が死ぬ」
「……ふむ、初めてそなたの口から無理という言葉が出たな。しかし人が死ぬ、か。すまぬがそなたの過去はこの空間を通るときに見せてもらった。教会の出来事が、なるほど、そなたにとって重荷になっているようだの」
 声を出さずに泣いている少年の頭を、女は優しく撫ぜていたが、ふと彼方を見た。
「……昔々、ある所に娘がいた。寡黙で厳しいが、優しい父親と、穏やかな笑みを浮かべる母親に育てられ、学校では友達も出来て、淡い初恋も体験した。だが」
「……」
「だが娘は、一夜にて友と初恋の相手を失った。四十八の仲間、五十のエイジャと共に……その娘が、ヒスイだ」
「……え?」
 ヒスイ、その名に白髪の少女のことを思い出し、聖亜ははっと頭を上げた。だが、銀髪の女はそれを優しく制すると、まるで子守唄を歌うように、話を続ける。
「百人を殺せば殺人鬼、百体のエイジャを殺せば英雄。なら一度に五十の人間と五十のエイジャを殺したものは、一体何になるのであろうな」
「……分からない、分からないよ、俺には」
 聖亜は、ふるふると首を振った。だがそこには、先程までの幼稚な雰囲気はもうない。彼は無意識の内に、赤く熱した右手を握り締めていた。
「そう。そなたに分からず、我にも分からず、そしてヒスイ自身にも、また分からぬ。だが、彼女の父親であるヌアダは、せめて彼女の身を守るために、彼女を偽の英雄に仕立て上げた……百殺の絶対零度という名の英雄に、な」
「……」
「聖亜、そなたにヒスイのようになれとは言わぬ。いや、言えぬ。だがな、甘えるのはお終いにして、いい加減に目を覚ませ」
「う……」
 不意に、睡魔が襲ってきた。必死に首を振るが、瞼は段々と下がり、視界はぼやけていく。
「待って……まだ貴方の名前、聞いて、ない」
「……元青王にして、“真理の探求者”コ×××トス。この名、覚えておくがいい。聖夜に生まれし炎の子よ」
 苦笑しながら自分を見つめてくる、優しい紫電の瞳を最後に、聖亜は穏やかな眠りに落ちていった。




 聖亜が完全に寝入ったのを確認すると、元青皇は苦しげにため息を吐いた。
「行ったか。それにしても、やはり疲れるの。時代すら焼き尽くす、黄昏の炎を吸い込むのは」
 右手を高く掲げると、少年から吸い取った高熱が、巨大な炎となって黒い空間に迸った。
 それは、まるで意志があるかのように逃れようとしていたが、彼女がぐっと手を握り締めると、ぎぎぎっと元の場所に収まった。
「さて、どうしてくれよう。面倒で厄介な事この上ない炎を」
 しばしの間沈黙していた彼女は、ふと頭を上げた。そういえば、先程から少年の周りで、何か白い物が三つ、ふわふわと飛んでいるのが見える。
「ふむ、自らの肉体を失っても、まだ聖亜と共にいる事を望むか……ならば」
 燃え上がる炎に、彼女はそっと左手を向け、それを上下左右に動かした。炎はまるで斬られたように分裂し、やがて三つに纏まった。
「ふむ……上級氏民、三つ分か。では行くが良い。自らが望んだ場所へと」
 彼女の声に導かれるように、三つの白い物体は、それぞれ炎の中に吸い込まれ、やがて消えていった。




 それを見届けると、嘗ての青王は、がくりと崩れ落ちた。






 目の前に、大きな黒い洞窟がある。

 
 寝起きのぼんやりとした頭で何だろうと考えていると、その洞窟は急に閉じようとした。
『馬鹿っ!! 避けろ!!』
「へ? うわっ」
 頭の中で突如響いた声に、聖亜は半ば無意識に右手を突き出した。すると、その“赤い”右手は、すぐ目の前まで迫っていた巨大な蛇の頭部を、一瞬で溶解させた。
「……あれ?」
「馬鹿者、何を呆けている、新手が来るぞ!!」
「あ、キュウ……新手って?」
 なぜか胸の上にいる黒猫に首を傾げた聖亜だったが、彼ははっと前方を見た。先程より小さい、だが巨木ほどの太さを持つ蛇が、群れを成して襲い掛かってくる。
「くっ!!」
 咄嗟に身構える聖亜だが、その必要はなかった。蛇達は少年の五メートルほどまで迫ると、“赤い”右手の発する高熱で、皆瞬時に蒸発していく。
「……キュウ、何なんだ、これ」
「今は説明している暇はない。蛇神が来るぞ!!」
 少年の胸から飛び降りた黒猫が、がくりと膝を付く。だがその心配をしている余裕はなかった。


 黒猫の言うとおり、空中に浮かぶ巨大な黒い湖から突き出ている、都市ほどもある巨大な蛇神が、その巨体をずるずると少年のほうに動かしたからだ。その表情は、驚愕と、そして恐れ。
「……“深淵の御手”でっすて、まさか」
 赤く、そして鋼鉄のごとく硬いその右手を見て、ニーズヘッグは一瞬微かに震えた。
「……そんなはずはない。大戦以降、“王”がこの世界に出現したという話は聞かない。それに」
 遥か昔に受けた傷の痛みを思い出すかのように、彼女は苦痛を堪えるような表情をする。


「それにそれは、最強の“真紅の御手”ではないか!!」



「……真紅の、御手?」
 首を傾げる聖亜の目の前で、不意に、右腕がその姿を変えた。
 腕は、始め一本の巨大な戦斧に変化したが、すぐに別の形に変わった。




 それを一言で表すならば、歪であろう。



 肩からは四本の排気口が飛び出し、鉄の腕からは何本ものパイプが突き出ている。腕と腕をつなぐ間接部では、歯車がぎちぎちと軋む音を立て、手のあった部分には灼熱に輝く剣が飛び出し、そして腕と剣を結ぶ手首は、“縦”に回転するタービンに変わっていた。
「ひぐっ、う、うぁあああああああっ!!」
「聖亜っ!! 馬鹿者、しっかりと気を持たぬか!!」
 突然手首を襲ってきた激痛に、聖亜は地面を転げまわった。当たり前だ。いくら形が変化しても、これは自分の右腕であることに変わりはない。つまり、回転しているタービンは、己の手首なのだ。縦に回転するタービンの中で、ぶちぶちと神経が千切れていく音がする。動脈が、そして静脈がごりごりと磨り潰され、その中を流れる血液が燃え上がる。だが、それはすべて幻聴だ。神経が通っているから、激痛は絶え間なく続き、血管が無事だから、排気口の先から赤い蒸気が噴出し、タービンは熱を剣に送り続ける。
「あらあら、どうやらうまく使いこなせない見たいねえ」
 嘲笑し、ニーズヘッグは口を限界まで広げた。その中に黒い霧が渦を巻いて出現する。いや、黒い霧ではない。あれは彼女の体内で生成される毒、その塊だった。
「ふふふっ、喰らいなさい。全てを溶かす、わたくしの吐息をっ!!」
口を歪ませ、彼女は毒の息を吐き出した。触れたもの全てを溶かす毒の息は、聖亜に当たる前に熱で蒸発していく。だが大量に、絶え間なく吐き出される毒に、さすがの高熱も、徐々に弱まっていった。




「……うっ」
 鍋島は、強烈な熱風で目を覚ました。周りを見ると、崩れた建物の側に居ることが分かった。ちょうど瓦礫と瓦礫の間に挟まって気を失っていたらしい。
「こ、こは?」
 立ち上がった彼の前に広がるのは、赤い景色だ。正確には、開いた傷口から流れる血で目が染まり、赤く見えるだけだが、彼には、その光景が、あの時と同じものに見えた。


 そう、15年前、全てが焼き尽くされた、あの時と。


「……帰ってきたのか、俺は。あの時、あの場所に」
 手で辺りを探ると、傍らに長年使用してきたライフルがあった。それを持ち上げ、損傷を確かめる。だいぶ痛んでいるが、どうやら後一発ぐらい撃てそうだ。
 痛む体を無理やり起こし、赤い景色の中、彼はそれを見上げた。赤く染まる、巨大な蛇の姿を。
「……く、くは、ははは、俺は馬鹿だ。こんな光景を、美しいと思ってしまったとはな。だが」
 だが、今は違う。今はもう、この光景を憎み、蔑むことができる。だから、
 鍋島は、服の裏側に厳重に縫い付けていたそれを、強引に引き千切った。
「これを、使えば……」
 それは、一発の黒い弾丸だった。自分に対する憎悪を抑えきれず、“降り神”の儀式に失敗した自分に与えられた、彼が持つ武器の中で唯一、爵持ちにすら傷を与えることの出来る物。だが呪い(まじない)ではなく、呪い(のろい)を込めたこれを使えば、呪いの一部が逆流し、自分も傷を負うと言われた。
「だが、それでも」
 それでも、その黒い弾丸をライフルに込め、血で滲む視界の中、必死に撃つ部分を探す。硬い鱗に覆われた肌は効果が薄い。口の中を狙っても、蛇神が吐き出している毒を貫けるかは分からない。なら、狙うのはただ一つ、奴の目だけだ。あそこなら間違いなく重傷を負わせられる。そして自分は、おそらく死ぬだろう。



 それでも、



「親父……おふ、くろ」
 ぶるぶると震える手でライフルを持ち上げ、


「清美、芳江」
 必死に目に狙いをつけると、


「明雄……」
 生まれてくる息子につける筈だった名前を呟き、


「お父さんに、力を、貸してくれ」
 彼は、引き鉄を、静かに引いた。





 地面の上で転げまわっている少年に、もう少しで吐き出す毒が届く、その瞬間、
「ぎっ!? ぎゃぁあああああああっ!!」
 いきなり左目に生じた激痛に、ニーズヘッグは毒を吐くのをやめ、天高く吼えた。
「がぁああああああああっ!!」
 並みの痛みではない。左目は完全に潰れてしまった。しかも、痛みは徐々に顔全体へと広がっていく。
「ぐぅうううううっ! さ、探せ蛇共、そしてここに連れて来い!! 私に傷を負わせた、不遜な輩ををををっ!!」
 ずるずると湖の中に逃げ込む親の命令に、黒い湖から新たに蛇の群れが飛び出す。だが、
「あら、残念。動きがちょっと遅いわね」
 だが次の瞬間、蛇達は一陣の風により、ばらばらに切り裂かれた。
「なっ!! 何者だ、貴様ぁっ!!」
「ふん、名乗る名前など無い!!」
 ビルほどもある巨大な蛇が、胴を真っ二つにされ地面に叩きつけられる。それでも何匹かは顔を黒く変色させた鍋島を見つけ、殺到した。
「……駄目ですよ、安らかに逝こうとしている方の邪魔をするのは、元“黒巫女”として許しません」
 しかし、彼らは赤く光る杖から放たれる光の帯に遮られ、ぼろぼろと崩れていった。

「なるほど、あの時私達を呼び出すことが出来たのは、“あなた”がエイジャだったから、か」
「……う、あ?」
 激痛の中、ゆさゆさと体を揺さぶられ、聖亜はぼんやりと目を開けた。目の前に誰かいる。いや、誰かではない。意識がはっきりすると、目の前に、五十センチほどの小さい人形の姿が現れた。
「あら、私の事、忘れちゃった? 坊や」
「……ナイ、ト?」
 馬の人形にまたがり、右手に真紅の槍を、左手に盾を持つ、まるで人形劇の人形のようなその姿は始めてみるが、その声は、間違いなく消滅したはずの、彼女のものだった。
「……その姿、は?」
「これ? 親切な元女王様にもらったの。それより、まだ痛む?」
 心配そうに覗き込む彼女に、聖亜は弱々しく首を振った。確かに激痛は続いており、熱も引いてはいないが、それでも耐えられないほどではなくなってきた。
「そう、なら周りの蛇達はどうにか足止めするから、あなたはあの高飛車な貴族をお願い。さて、ポーン! ビショップ! 行くわよ!!」
「はい」
「承知っ!」
 空を駆けるナイトの左から、赤い鎧兜に身を包み、巨大な戦斧を持った人形が、右から赤いローブを纏い、赤く光る杖を持った人形が続く。彼らを見送ると、聖亜はよろよろと立ち上がった。
「けど、どうやって倒したら」
「ふむ、分からぬか、聖亜よ」
 足元に黒猫が擦り寄る。首の辺りを撫ぜてやると、“彼女”は気持ちよさそうに鳴いた。
「ふにゃ、まったく、しょうがないのう。おい、馬鹿娘」
『……何だよ馬鹿猫』
 ふと、頭の中にふてくされた少女の声が響いた。
「お前……誰だ?」
『お前じゃねえ!! ちゃんと炎也って名前がある!! ったく、どいつもこいつも』
「貴様の名前なぞ馬鹿娘で十分だ。それより出番をくれてやる。貴様、聖亜の変わりにこの熱と痛みを、暫らく受けておれ」
『は? 何だよその役まわ……いでっ、あぢっ! いでちちちちちちっ!!』
 不意に、熱が引いた。同時に手首の痛みも消えている。同時に頭の中で少女がやかましく悲鳴を上げ始めた。痛みと熱は、どうやら彼女に移ったらしい。
「さて聖亜、黒き蛇神は湖に潜り、傷を癒している最中だ。あの湖は星ほどに深い。人間のいかなる武器も奴には届かん。さあどう戦う」
 聖亜は、空中に浮かぶ黒い湖を、ちらりと横目で見た。
「……干上がらせて、引きずり落とす」
「ふむ、引きずり落とすか。よかろう。真紅の御手は剣にあらず、それはお前の右腕だ、聖亜」
「……なら、その姿形を変えろ、真紅の御手」
 冷徹に、聖亜は自らの右腕に命じた。一度ぶるりと震え、剣はその形を変える。少年の望む姿へと。
「無限に伸び、そして奴を捕らえろ!!」
 主の声に応え、先端に赤い鉤爪を持つ、赤い鎖に姿を変えた彼の右手は、黒い湖に向かって一直線に伸びていった。



 異変を感じたのは、黒い水に傷ついた体を浸している時だった。


 明らかに水の量が減っている。そんなはずはない。そもそも減っていると感じることすらおかしいのだ。星ほどの深さをもつこの湖は、自分と自分の眷属、その全てを飲み込んでも、遥か遠くまで広がっているから。
 苛立たしげに身を起こし、その原因を探ろうとした時、



 それは、黒い鱗を砕き、首筋にぶつりと食い込んだ。


「ぐがっ!!」
 そのまま、ずりずりと外に向かって引きずり出される。痛みに身をくねらせ、何とか逃れようとするが、首に食い込んだ鉤爪は、まったく離れない。
 やがて、彼女は居心地のいい湖の中から、外へと引きずり出された。
「なっ!!」
 その時、彼女の目の前で、今まで自分が潜っていた黒い湖は、跡形もなく蒸発した。
「なによ、なによなんなのよ、これはぁあああっ!!」
 


『へ、へへっ。蛇の一本釣りってか?』
「……騒ぐな馬鹿娘、まだこれからだ」
『へいへい、ったく、それが痛みと熱を肩代わりしてやった、もう一人の“自分”に対する言葉かねぇ』
「……再び姿を変えろ、鉤爪。剣へと」
 頭の中で喚く少女を無視し、聖亜は鎖の付け根を優しく撫ぜた。それに応えるように、鎖は瞬時に先程の剣へと戻る。黒い蛇神は、一瞬空中に浮いたと思うと、ズズンッと、地面にその巨体を横たわらせた。
 聖亜は、痛みでのた打ち回るその蛇を一瞥すると、ゆっくりと歩み寄った。
「……」
「きさ、貴様っ!! 汚らわしい家畜の血を持つ、呪われた混血児の分際で、神たるこのわたくしを殺せると、本気で思っているのかっ!!」
「……ああ、確かに人間、お前の言う家畜の力では、お前を殺すのは無理だろうさ。けれど」


 冷たく笑い、聖亜が剣に変わった右手を、高く上げると、
「けれど、どうやら俺のこの手は、人間の“それ”ではないらしい」
 細く尖った枝のような刀身に、天をも焦がせと、炎が迸る。
「さあ、真紅の御手よ、お前に名前をつけてやる!! かつて世界を焼き尽くしたといわれる魔剣、その偽物の名を!!」
「ぎ、がああああっ!!」
「黙れ」
 闇の底のように黒く暗い瞳を鈍く光らせ、冷徹に、そしてどこまでも冷酷に、
「やめろ、いえ、お願いだからやめてぇええええっ!!」
「喚くな、蛇」
 その名を叫び、振り下ろす。


「全てを屠り、そして焼き尽くせ! 炎の偽剣、レバンテイン!!」


 振り下ろされた剣―レバンテインは、その名前の通り、黒き蛇神を焼き尽くした。




 一つの灰も、残す事無く









  森岡は逃げていた。



 彼は、確かに高天原に所属し、エイジャと戦う守護司だった。だが金遣いが荒く、特に賭け事にのめり込んだ彼は、自分の借金を肩代わりしてもらうため、知り合いだった狸山に手渡したのだ。


 厳重に封印せねばならなかったエイジャを呼び出す禁断の魔道書、“喚起の書”を。


「早く、早く逃げねえと……ひっ」
 目の前でまた一匹、空中から落ちてきた蛇が燃えて消える。黒い湖が消えうせ、親であるニーズヘッグが滅んだことで、その体を維持できなくなったのだ。
「これは夢だ。そうだ。エイジャが……その中でも神と呼ばれるお貴族様が、たかだか人間に殺されるはずがねえっ!!」
 目の前の黒い鳥居を潜り、その先にある黒い鳥居を潜り、さらにその先にある黒い鳥居に手をかけた時、森岡は、ふと足を止めた。
「……なんだ? こりゃあ」



 彼の前に立ち並ぶのは、何百、何千もの、黒い鳥居だった。



 慌てて後ろを振り返る。だが、そこに彼が走っていた道はない。前と同じように、無数の黒い鳥居が立ち並ぶだけだ。


―とおりゃんせ  とおりゃんせ―


「ひっ」


―ここは どこの ほそみちじゃ―


 その時、ふと微かに歌声が聞こえてきた。


―てんじんさまの ほそみちじゃー


 その歌は、だんだんこちらに近づいてくる。
「こ、木霊っ!!」
 森岡は、必死に左手を前に突き出した。手のひらの中央から、何本もの木の根が飛び出す。これが、彼の持つ“降り神”だった。
 だが、大した神ではない。木の数と同数いるといわれる木霊、その中でも最下級の神だ。むろんエイジャと渡り合う力もない。以前白髪の少女に言ったとおり、ただ道を探るだけだ。だが、この場合はその能力が役に立つ。役に立つ、はずだった。
 森岡の手から生まれた木の根はぞろぞろと目の前の空間に伸びていったが、目の前の闇に触れたとき、それはふっと掻き消えた。
「う、嘘だ!! 俺の、俺の木霊がぁあああっ!!」
 半狂乱になった森岡は、震える足をばたばたと動かし、黒い鳥居の間をどこまでも走る。だがどれほど走っても、鳥居が途切れることはなかった。


―いきはよいよい かえりはこわい―


 遥か遠くから聞こえていたはずの歌は、まるで耳元でささやく様に聞こえてくる。



そして


―こわいながらも とおりゃんせ―



そして森岡は、目の前に広がった闇に、自ら飲まれた。



「とおりゃんせっと」
「……お食事は終わりましたか、神楽様」
「ええ、あんまりおいしくなかったけれどね」
 手渡されたナプキンで口を拭うと、神楽はにっこりと笑った。
「……それで?」
「はい。やはり絶対零度を編入させたのは、監視下に置き、有事の際は即座に捕らえられるようにするため、だそうです」
「あらあら、それは災難だったわねえ」
「ええ……それで、結局この都市はどうするおつもりですか?」
「そうねえ、黒蛇さんも死んじゃったし、私が直に手を下すのも面白いけど、どうしようかしら……ねえ、白夜ちゃん」
「っ!!」
 彼女が眼を向けた闇に、氷見子はばっと身構えた。



 闇の中、金色に光る二つの瞳が浮かび上がっていた。
「…………久シブりデスな、神グら様」
「ええ。けど、ふふ、力を使いすぎたみたいね、中々“戻れない”でしょう」
「……マあ、モうスグ戻れマすガね。トこロデ、この都市ヲ本当に滅ボすツモりでスか?」
「さて、どうしようかしらね」
「イイのですか? この都市にハ、聖ガいマすよ」
「あら、確かに聖ちゃんはかわいいけれど、それと私の恨み、どちらが強いかといったら、ねえ」
「……ふう、やっと戻れた。ま、こうなったら一つ種明かしをしましょうか。聖の母親ですが、×××です」
「……」
 闇の中から出てきた男の言葉に、神楽は穏やかな笑みのまま、右の眉をピクリと動かした。
「……あら、それはどういう意味かしら」
「さあ、それは自分で考える事ですな。では俺はこれで。玄や青流によろしく」
 笑いながら去っていく白夜を見送ると、神楽はふうっと息を吐いた。
「あの、神楽様……」
「……さて、もう帰りましょうか、ひいちゃん」
「は、はい。それで、今後どういたしますか?」
「そうね、ふふ。学校も少し壊れちゃったし、聖ちゃんは“こっち”で預かろうかしら」
「聖を手元に置くのは賛成……って、そうではなくてですね、この都市のことです」
「この都市? 白夜ちゃんにでも任せておけばいいじゃない」
「……あの男は、もはや黒塚家とは何の関係もありません」
 首を振る氷見子を見て、神楽は暫らく考え込んでいたが、やがてぽんっと手を打った。
「分かったわ。それでは雷ちゃんを派遣しましょう」
「雷ちゃん……神楽様、まさか“雷神の申し子”ではないでしょうね」
「あら、駄目かしら」
 可愛らしく笑う、“三十代前半”の姿をした神楽に、彼女の側女、“八雷姉妹”の五女―伏雷である八雷氷見子は、呆れたようにため息を吐いた。


                                   続く



 こんにちは、活字狂いで…………やあ、始めまして、と言うべきかな。おや、僕が誰かって? この“喜劇”を見てくれた人なら、すでに分かるはずだよ。まあ、一応自己紹介を。次元を渡りし案内人、名を黒ウサギ。ヘボ作者の変わりに、どうぞお見知りおきを。さて、「スルトの子 第六幕   スルトの子」はいかがだったかな? 王子様なお姫様の腕に生まれた深淵の御手は、確かに最強ではあるけれど、それを使いこなすのは、まだ彼には無理っぽいね。ま、そこはおいおい期待するとして、では次回「幕間   湖畔にて」そして「終幕   朝日の中の抱擁」を、どうぞお楽しみに。では…………す。あれ?



[22727] スルトの子 幕間   「湖畔にて」
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2016/05/07 12:17

 アメリカ合衆国―五大湖、スペリオル湖周辺―



 強い寒気のため、“別の世界”であれば重工業地帯として発展するはずだったここは、温暖な気候を保つこの世界では、豊かな農園地帯へと、その姿を変えていた。

 その農園地帯の間を走る砂利道を、古い蒸気トラックが走っている。ガタガタとうるさい音を立てるのは、蒸気エンジンの状態があまり良くないからだろう。
 やがて、トラックは農園地帯を離れ、近くの森の中へと入っていった。




 その男は、黙って釣り糸を垂らしていた。



 短く刈った黒髪と、整えた黒髭を持つ美丈夫だ。年は四十代前半ほど。だが、彼の一番の特徴は、その右腕が銀で出来た義手であることだろう。


 ふと、彼の膝の上で眠っていた赤子がむず痒いた。
 その頭を撫ぜ、振り返った男の視線の先に、トラックがガタゴトとやってくるのが見えた。



「先生、ヌアダ先生!!」
「……マーク、か」
「はい。お久しぶりっす!!」
 トラックから出てきたのは、男より頭一つ分低い、陽気な感じの青年だった。頭一つ低いといても、男の身長は二メートル以上あるので、彼も百八十センチ以上ある。
「……ここには、あまり車で来て欲しくないんだがな」
「う、すいません、配達の途中だったもので。あ、これ奥さんからです」
 ハムとチーズのサンドイッチを手渡され、男は顔を顰めた。彼はチーズが苦手なのだ。
「……マーク」
「駄目っすよ、ちゃんとチーズ食わなきゃ、俺がネヴァンさんに叱られます。それから」
 青年は、懐から一枚の封筒を取り出し、彼の横に置いた。
「これ親父からです。必ず渡すようにって」
「……そうか。いつもすまないな」
「いえ、じゃあ配達があるんで、これで」
 青年の運転する車が、またギシギシと音を立てて遠ざかる。それが見えなくなってから、男―ヌアダはまた、腰を下ろした。
「……」
 手紙の中身は、見なくとも分かる。
 封筒に押された、自らの尾を食む竜の蝋印、これは
「……査問会の、招集、か」


 不意に、ヌアダは何かに堪えるように目を閉じた。
「娘よ……」
 彼の重々しい呟きに、鳥の声が止まり、森のざわめきが止まり、河のせせらぎが止まり、


 そして、


 そして、風が止まった。


「娘よ……そなたを救うため、英雄として戦う道を選ばせた父を許すな。心優しいお前に、絶望と悲しみを味あわせる愚かな父を、決して許すな」
 苦しげに呟く懺悔の言葉は、彼の膝で眠っている赤子以外、誰にも聞こえることはなかった。




 西暦2015年7月8日。第二級魔器使、ヒスイ・T・D、本名ヒスイ・トゥアハ・デ・ダナン、禁技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)”の使用につき、査問会の査問対象に決する。
















          けふのうちに
          とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
          みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
         (あめゆじゆとてちてちてけんじや)




 女は逃げていた。


「何なの? 何なのよ、あれ」
 必死に逃げながら、彼女は後ろをちらりと振り向いた。
 彼女の視線の向こうに、八本の足を壁に器用に掛けながら向かってくる、大蜘蛛の姿が見えた。






          うすあかくいつさう陰惨なくもから
          みぞれはびちよびちよふつてくる
         (あめゆじゆとてちてけんじや)




 分からない。自分は確か図書館から帰宅している途中だった。なのに、なぜあんな化け物に襲われているんだろう。





          青いじゅんさいのもやうのついた
          これらふたつのかけた陶碗に
          おまへがたべるあめゆきをとらうとして
          わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
          このくらいみぞれのなかに飛びだした
         (あめゆじゆとてちてけんじや)



 何度目かの角を曲がったとき、不意にぐらりと体が傾いた。恐怖に顔を引きつらせ、足元を見ると、化け物が吐き出した所々変色した白い糸が、彼女の右足にきつく絡まっていた。





          蒼鉛いろの暗い雲から
          みぞれはびちよびちよ沈んでくる




「うっ、くぁ」
 必死にもがく彼女の上に、蜘蛛が降り立つ。右手に持ったバッグを振って必死に抵抗するが、それは八本ある足の中の一本で、軽く弾き飛ばされた。
「ひっ……う」
 もう抵抗することは出来ない。両手両足はそれぞれ四本の足で押さえつけられ、残りの四本の腕は、まるで食事の前に手を合わせているかのようだ。




          ああとし子
          死ぬといふいまごろになつて
          わたくしをいつしやうあかるくするために
          こんなさつぱりした雲のひとわんを
          おまへはわたくしにたのんだのだ




「……っ」
 そして、ぐぱりと、口が開いた。
 もう声を出すことも出来ない。怪物の牙が、恐怖で怯える彼女の首に突き刺さろうとした時、


 ヒュッ

 
「……グガッ?」
 蜘蛛の顎は、どこからか飛んできた鋼糸で、きつく縛り付けられた。




          ありがとうわたくしのけなげないもうとよ
          わたくしもまつすぐにすすんでいくから
         (あめゆじゆとてちてけんじや)




ギャリリリリリリッ!!
「……え?」
 そして次の瞬間、蜘蛛の頭は、上から降ってきた“それ”に、一撃で粉砕された。





          はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
          おまへはわたくしにたのんだのだ
          銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
          そらからおちた雪のさいごのひとわんを




「……」
 巨大な蜘蛛の頭部を一撃で粉砕した武器は、目の前の男が振るった巨大な二つのチェーンソーだった。こびり付いた肉片を振り払うと、男はむっつりと彼女を見る。
 その身長は百九十センチ以上。疲れきった老人のような白髪は重力に逆らうように天に伸び、自分を見つめる灰色の瞳は、鈍い光を放っている。
「あ、あの、どうもありがとう」
「……」
「……?」
 立ち上がって礼を述べても、男は不気味に彼女を見つめてくるだけだ。
 もう一度礼をし、立ち去ろうとした、その瞬間、


ギャリッ
「…………え?」
ギャリリリリリリリッ!!





          ……ふたきれのみかげせきざいに
          さびしくたまつたみぞれである
          わたくしはそのうへにあぶなくたち
          雪と白のまつしろな二相系(にそうけい)をたもち
          すきとほるつめたい雫にみちた
          このつややかな松のえだから
          わたくしのやさしいいもうとの
          さいごのたべものをもらつていかう





「あああああああああっ!!」
 右腕を切り飛ばされ、彼女は地面に倒れ伏した。辺りにはおいただしい“緑色”の血が飛び散り、彼女は必死に男から逃げようとした。
「……」
「どうして、どうして私“まで”殺そうとするのっ!! あなたたち玩具使いが討つのは、人間に害をなした伝道者だけのはずでしょう!? なのに、なんで私までころそ「……うるさい」ひっ、あああああっ!!」
 頭から飛び出ている触角の一つを切り飛ばされ、巨大な蜂の姿をしたエイジャは、平衡感覚を失って、ぱたりと地に落ちた。
「……な、なぜ」





          わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
          みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
          もうけふおまへはわかれてしまふ
         (Ora Orade Shitori egumo)




「……我正す、故に我あり」
「ひっ」
 男の灰色の瞳が、彼女を何の表情も宿さず、見た。
「この荒んだ世界に必要なのは、絶対的な、そして僅かな綻びも無い正義だ。だがお前達エイジャは悪だ。悪は潰す事で正さなければならない。人に危害を加えていないから討たれないだと? くだらん。もう一度言ってやる。貴様らエイジャは、ここに“存在”するだけで悪だ!!」
「っ、うる、さい!!」
 ほんの僅か掠めただけで、巨象をも殺す猛毒を持つ針が、男に向けて伸ばされる。だが、男は一度ふんっと鼻を鳴らすと、それを右手で持ったチェーンソーで軽く打ち払った。
「くっ」
「本来なら“千分割”にするところだが、貴様が俺の質問に答えるならば、今回だけは許してやろう。“緑界”出身の貴様なら知っているはずだ。“レッド・ドラゴン”の残党はどこにいる」
「れ、レッド・ドラゴンですって? 知らない、あんな“奴ら”、私が知っているはずが無い!! 喋ったからもういいでしょう、放してよっ!!」
「……」
 彼女の答えを聞いて、ほんのわずか気落ちした男から、蜂のエイジャは必死に逃げようとした。だが、
「……どこへいくつもりだ?」
「きゃっ!!」
 足の片方が、チェーンソーによって地面に押さえつけられた。
「どうして、ちゃんと私は言った。知らないって!! なのになぜ!!」
「解放するとは誰も言っていない。千分割をやめてやると言ったんだ。まあ、九百九十九分割で勘弁してやろう」
「そんな、そんな……あ、あなっ!」



 ギャリメリドガグシャガギギギギギギッ!!





          ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
          あああのとざされた病室の
          くらいびやうぶやかやのなかに
          やさしくあをじろく燃えてゐる
          わたくしのけなげないもうとよ
          この雪はどこをえらぼうにも
          あんまりどこもまつしろなのだ




「……お楽しみの所、すまないね」
 “解体”作業をしていた男は、後ろから聞こえてきた女の声に、一瞬ちらりとそちらを見た。
 だが、すぐにまた目の前の肉塊の解体作業に戻っていく。
「ふん、相変わらず一つの事に熱中すると、周りが見えなくなるねえ」
「……何のようだ」
 男のぶしつけな質問に口を尖らせると、彼女は先程蜘蛛の頭を押さえた鋼糸を、左腕にゆっくり巻き付けた。
「おやおや、つれないね。まあいい。査問本部から連絡だ。魔器使の一人が日本で違反を犯したってさ」
「……そんな奴、下級査問官にでも任せておけばいいだろう。わざわざ“俺達”が出向く必要は無い」
「……へえ、いいのかい? 違反を犯した魔器使って、“絶対零度”なんだけどねえ」
「何だと?」
 彼女が放った言葉の一つに、男はひくひくと動く肉塊から顔を上げた。






          あんなおそろしいみだれたそらから
          このうつくしい雪がきたのだ
         (うまれでくるたて
          こんどはこたにわりやのごとばかりで
          くるしまないようにうまれてくる)





「……く、くくっ、そうか。あいつが、あいつが遂に罪を犯したか。なあ、“一殺多生”」
「ふん、なんだい“閃光”」





          おまへがたべるこのふたわんのゆきに
          わたくしはいまこころからいのる



「やはりこの世界に理想郷など無いな、特にイーハトーヴォなど、どこにも無い!!」
「……ふん、また宮沢賢治かい」
「ああ。そして、理想郷がどこにもないのなら、やはり絶対的な正義で、悪を断つしかないよなっ!!」
 五百分割余の力を込めた一撃を肉塊にぶつけた男は、狂気の笑みを顔に乗せながら、漆黒の夜空を仰ぎ見て、低い、どこまでも低い声で、笑い続けた。





          どうかこれが兜卒(とそつ)の天の食に変つて
          やがてはおまへとみんなとに
          聖い糧(かて)をもたらすことを









          わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

            (宮沢賢治『永訣の朝』)

                                   続く



[22727] スルトの子 終幕   朝日の中の抱擁
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:a8247099
Date: 2015/12/19 23:00
 西暦2015年(皇紀15年)7月8日 6時00分

 
 長い漆黒の夜が、明けた。


 海の向こうから太陽が昇ってくるのを、聖亜は瓦礫の上に座ってぼんやりと眺めていた。

 彼の周りには、膝の上で死んだように眠っている白髪の少女と、彼女を心配そうに見つめる黒猫の姿しかない。

 復活した三体の人形は、ニーズヘッグが滅ぶのと同時に力尽き、物言わぬ人形になり、今は少年が持ってきたバッグの中で眠っている。
 先程まで頭の中で喚いていた炎也と言う名の少女も、熱さと疲労でへばったのか、沈黙したままだ。


 そして、鍋島先生は、


 彼は瓦礫に埋もれて死んでいた。
 その顔はどす黒く変色しており、特に左目は完全に潰れてしまっていた。まるで、

 まるで、あの蛇神と同じように。だが、



 だがその表情は、眠るように穏やかだった。


「そう悲しげな顔をするな、聖亜」
「……キュウ」
 彼の遺体の前で悲しげに俯く少年の肩に、飛び乗ると、黒猫は聖亜の頬に軽く擦り寄った。


 まるで、涙を流さず泣いている少年を、慰めるかのように


「それより、右腕は大事無いか?」
「うん。大丈夫」
 あの時、ニーズヘッグを灰も残さず焼き尽くした彼の右腕は、今は普段の、つまり人間の腕に戻っていた。もっともキュウが言うには、それは戻ったのではなく、人間の腕に“擬態”しているだけらしい。
 なるほど、言われてみれば確かに多少違和感はあった。


「ならば良い。それよりヒスイが目覚めたら移動するぞ。ここに留まっていたら、厄介な事に巻き込まれかねん」
「……」
 黒猫の声に何も答えず、聖亜は俯いたまま、そっと右腕に触れた。
「……聖亜、そなた一体何を悩んでいる? そなたはニーズヘッグを、神たる貴族を滅ぼした。もっと己を誇ってもいいと思うがな」
「…………キュウ、結界喰らいって、何だ?」
「……何?」
「何で俺はこんな力が使える? 何で右腕が変化した? 何で俺は、ああも残酷に笑えた? 俺は、俺は」


 人間じゃ、無いのか?


「それは……」
 右腕をぎゅっと押さえ、必死に何かに耐えている少年を、黒猫は何も言わず見つめていたが、やがてため息を吐き、彼方の海を眺めた。
「…………結界喰らいとは、エイジャの張った狩り場の効果を無効化する能力を持つ者のことだ。狩り場自体ではないぞ、そなたも取り込まれていただろう。無効化できるのは、あくまで狩り場に取り込まれる事で発生する意識の消失、その他身体的障害のみだ」
「……」
「そして、その能力はエイジャにも、まして人間にも持つことは出来ない。そなたがこの能力を持っているのは、そなたが……そなたがエイジャと人間の、“混血”であるからだ」
「混血……なら」
 なら、あの黒い蛇神が発した言葉は本当なのだろうか、自分が、呪われた混血児である事は。
「……そして、その腕“真紅の御手”だが」
 一度言葉を切り、少年が落ち着いたのを確認すると、黒猫は彼の顔をじっと見つめた。
「獄界に四王あり。すなわち北に黒皇南に赤王、西に青王東に緑王。彼ら、あるいは彼女らは、それぞれが世界を消し、銀河を砕き、宇宙を滅する能力を持つ。そしてその力こそ……深淵の御手(しんえんのおて)」
「黒、赤、青、緑……じゃあ俺は」
「……赤王に連なる何者が、そなたの片親なのだろうな。だが真紅の御手の名がレバンテインだと? 何とも偽者臭い名前だの。なぜレーヴァティンではない?」
「……だって、これは世界を滅ぼす剣なんかじゃなくて、俺の右腕だし、俺なんかにそんな格好いい名前、似合うはずが無いから」
 笑いながら聖亜は答えた。そして、笑いながら、彼は




「……んっ」
 ヒスイは顔に落ちた水滴で、ぼんやりと目を覚ました。まだ意識がはっきりしない。けれど、頬にぽつぽつと落ちる水滴の感触は、なぜかはっきりと分かる。
「雨、か?」
 それにしては、唇に当たった水滴の味はしょっぱい。目をごしごしと擦り、上を仰ぎ見た少女の瞳に、ふと少年の顔が見えた。



 笑いながら泣いている、その顔が。



 彼は、泣いていた。

「聖亜、そなた……」
「会いたい、な。父さんと母さんに。どこで知り合って、何で好きになって、そして……そして、どうして俺なんか生んだのか、会ってちゃんと、聞きたいな」


 ―俺は、親なんていらない―


 あの時、夕陽で真っ赤に染まった橋の上で、そう言った少年が、親を求めて、泣いていた。



 その少年を見て、ヒスイは


 母として甘えさせるには 包容力が無く

 姉として叱るには 経験が足らず

 妹として甘えるには、矜持がありすぎ

 恋人になるには、婚約者がいるから不可能で

 友達とは、はっきり呼べない

 その全てになれない少女は、だが、





 だが、その全ての代わりに、抱き締めた。


 母の代わりに、姉の代わりに、妹の代わりに、恋人の代わりに、友達の代わりに


 朝日が照らす中、自分が泣いている事に気付かない幼子(おさなご)を、少女はいつまでも、





 いつまでも  いつまでも  抱き締めていた



                                   続く


 こんにちは、活字狂いです。いや、何とか今年中にスルトの子を書き終えることが出来ました。が、当然ながらまだ終わりません。全体で言えば、スルトの子は完全な序幕です。さて、では設定を書き込み、誤字脱字を修正し、一月中頃からは、「スルトの子Ⅱ 炎と雷と閃光と」をお送りしたいと思います。では皆様、良いクリスマス、そして良いお年を。



[22727] スルトの子   設定
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:33

1.登場人物編(その他・エイジャ以外、身長・体重を記載)


主要登場人物


星聖亜(ほしせいあ)
 スルトの子の主人公。市立根津高等学校一年生で、空船通りにある喫茶店「キャッツ」でアルバイトをしている。15歳。黒い長髪を持ち、顔つきも中性的というよりは女顔のため、バイト先の制服を着ると本当に女にしか見えない。そのためよく間違えられて男に言い寄られる。性格はヘタレな小心者。現在は太刀浪市旧市街観光地区の外れ、下町の中にある八百坪ほどの巨大な家(元宿坊)に一人で住んでいる。家族は父がいるが、旅好きなためほとんど家にいることはない。ヒスイ達と出会い、エイジャとの戦いに巻き込まれていく。今のところ恋人は柳準、友人は秋野と福井。師匠は一応荒川白夜。好きなものはかりんとう。嫌いなものは火。
身長 156センチ 体重47キロ 一人称は「俺」 童貞ではない。


 現在まで判明している真実。

1 実は旧市街の出身ではなく、太刀浪市西部に広がる復興街と呼ばれる地域の出身。快楽区にあった聖エルモ教会で五歳の頃まで育てられていたが、その後子供のいない星家に養子に出された。それでもちょくちょく教会に遊びに来ていたが、八歳の頃ある事件がきっかけで教会を全焼させ(この事が原因で火が嫌いになった)、その後快楽区を中心に活動する自警団「ジ・エンド」に入団。十歳になる頃には幹部になり、“最狂”または“血染めの吸血鬼”として恐れられていたが、中学二年の時に脱退。その後は性格が一変し、現在のようなヘタレになった。

2 彼は結界喰らいと呼ばれる者であり、これは後述で詳しく語るが、完全な人間ではなく、キュウが言うには人間とエイジャのハーフらしい。詳しいことは不明だが、荒川白夜やキュウ、ナイトは、彼こそエイジャの部分と言っている。

3 人を傷つけることにより激痛が走るが、これは意識の中に厳重に組み込まれた封印のせい(荒川白夜が組み込んだものと思われる)。だが物語が終わった時点で砕け散っており、封印が施される前の性格に戻っている可能性がある。


武器  炎の偽剣“レバンテイン”
 ニーズヘッグとの戦闘中に突如目覚めた聖亜の武器。正式名称は“深淵の御手”の一つ“赤き御手”。彼の右腕が変化したもので、第一形態は真紅に染まった鋼鉄の腕で、この状態でも彼に害をなそうとするエイジャは、下級であれば腕が発する高熱により近づいただけで蒸発する。第二形態は肩からは四本の排気口が、腕のあちこちからはパイプが飛び出し、間接部は歯車、手首はタービンになっており、手首から先の部分が武器に変化する。基本は剣だが、聖亜の命令でその形を自由自在に変化させる。ニーズヘッグを引きずり落とすために聖亜が変化させたのは先端に鉤爪が付いた赤い鎖だが、これは空気中にあるメタンを吸収して鎖を作っているため、どこまでも伸びていく。その威力は爵持ちを完全に消滅させるほど。だが第二形態になった時は激しい高熱と激痛に襲われ、自由に動かすことが出来ない。現在は人間の腕に擬態している。

今までの形状
 剣形態 第二形態の基本。体内の血を燃焼させることで高熱を発生させ、破壊力を増す。その威力は爵持ちを一撃で消滅させるほど。
 鉤爪形態 手首から先が鉤爪の付いた赤い鎖になる。鎖はパイプから空気中のメタンを吸収して作られるため、理論上どこまでも無限に伸びる。元ネタはアクエリオンの「無限拳」

七月炎也(ななつきえんや)
 ニーズヘッグとの戦闘中に突如目覚めた聖亜の別人格。彼女が表に出ている際、外見は灼熱の髪とルビーのように赤く光る瞳を持った少女になる。性格は自分では残忍といっているが、倒壊する建物からヒスイを救出するなど、どこかお人よしの部分がある。全身に炎を纏わせることができ、爵持ちにもダメージを与えることが可能。また体内に高熱を送り込むことで毒を中和することができる。彼女の詳しい詳細は今のところ不明。

ヒスイ・T・D
 スルトの子の、もう一人の主人公。16歳。本名はヒスイ・トゥアハ・デ・ダナン。アメリカを中心に世界中で活動する対エイジャ組織“魔女達の夜”に所属する第二級魔器使(まきし)。過去に百殺を成し遂げ、“百殺の絶対零度”の異名を持つ。透き通るような短い白髪と蒼い瞳を持ち、中性的でスレンダーな体格から聖亜は最初彼女を少年だと思って接していたが、実際には少女であり、彼女は一度とて自分を男だといった覚えは無い。性格は冷静沈着を心がけているが、冷徹というわけではなく、子供好きで心優しいところがある。家族構成は少なくとも父と母がいる。戦闘能力は高く、中級のエイジャであれば圧倒できるが、流石に上級には苦戦、爵持ちとなると歯が立たない。相棒は黒猫のキュウ。武器は二振りの刀の形をした魔器「鬼護り」 強くて天然で乙女でお嬢様で年上。
 身長167センチ 体重49キロ 一人称は「私」
モデルはガンパレード・マーチの芝村舞。外見は変更したが、一応性格は似せた。

現在判明している真実
1 鬼護りを使っての戦闘だけでなく、簡単な封鎖結界を張ったり、手首に埋め込んだ宝石で太刀の中に蓄えられていたエネルギーを解放して絶技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)”を使用することが可能。しかしこれは彼女自らが禁技としており、もし使用した場合は罪を犯したことになり査問会に掛けられる。

2 彼女はエイジャを百体殺したのではなく、五十の人間と五十のエイジャを一度に殺したが、彼女の父によりエイジャを百体殺したことにされ、百殺の異名を持つようになった。この詳細は不明。

武器  魔器「鬼護り」
 マイスター・ヘファトが作成した魔器。「鬼から護られるのでも、鬼に護られるのでもない、鬼すら身を護るほどの切れ味を持つ」という意味で作られた。太刀「善鬼」・小太刀「護鬼」の二振りで構成されている。スフィルや中級のエイジャであれば一撃で倒すことが出来、上級とも互角に渡り合えるが、爵持ちには歯が立たない。

キュウ
 ヒスイの相棒兼師匠兼お目付け役を務める雌の黒猫。3歳。紫電の瞳と黒い毛皮を持つ。性格は厳格にして尊大。ヒスイを半人前、聖亜を半人前以下の未熟者と呼んでからかう。だが思慮深く、本当に困っているときは助言を行う。瞳を光らせて相手を混乱させたり、記憶を消去したり、細胞を活性化させて治癒能力を高めたりすることができる。
 身長五十センチ 体重は不明 一人称は「我」 

 現在判明している真実
1実は地獄の錬金術師により作られたホムンクルスであり、ドートス程度の攻撃による傷は瞬時に癒える。その構造は不明。

2時折何千年も生きているような口ぶりで喋り、エイジャのことにも詳しいが、その詳細も不明。

小松
 ヒスイを慕う彼女の小姓。外見年齢11歳ほどで、晴れ渡った夜空のような瞳を持つ。その正体はヒスイの持つ魔器の一つ「護鬼」で、普段は小太刀の形をしているが、本体は人型のほうであり、炊事洗濯など家事全般が得意。性格は強がりな所があるが、本当は怖がりで泣き虫で意気地なし。ヒスイが心を許していると思われる聖亜を毛嫌いしている。
身長 140センチ 体重不明 一人称は「私」

現在判明している真実
1本人は男だと言い放っているが、本当は無性。というのも魔器はそのほとんどが最初は無性で作られるためであり、成長するに従い男か女の性になり、この時になって初めて切れ味が増す。小松は男になることを望んでいたが三年経過してもなることが出来ず、逆に聖亜に触れられ、叱咤され、慰められ、抱きしめられたことで僅か一週間で女になってしまった。今はぶつぶつと文句を言っているが、ヒスイと一緒にお風呂に入るのが楽しみ。ただ彼女より胸が大きいので睨まれる事がある。


小梅
 ヒスイの小姓。外見年齢は24歳ほどの、黒い艶のある髪と色気のある細い瞳を持つ女。その正体はヒスイの持つ魔器の一つ「善鬼」で、普段は太刀の形をしているが、小松同様人型が本体。性格は歓楽的で、酒を嗜み、聖亜をからかう事を楽しみにしている。上記の通り性が確定しているため切れ味は凄まじく、異形の姿になったドートスでさえ切り刻むことが出来る。また、人型の時にはキュウの記憶消去を広範囲に広げることができ、太刀の場合は絶対零度(アブソリュート・ゼロ)を使用するときの武器になるなど、活躍の場は広い。
 身長172センチ 体重不明 一人称は「妾(わらわ)」



柳準(やなぎ じゅん)
 市立根津高等学校に通う女子生徒。十五歳。肩まで伸びる多少癖のある天然の茶髪と褐色の肌、中性的な美貌と巨乳を持つ聖亜の唯一にして一応恋人。以前は男に相手にもされず、今はその胸のせいでじろじろと見られ、一日に何度も告白されるため聖亜以外の男を毛嫌いしているが、その分聖亜に対してはべた惚れで、ほとんど依存しているといってもいい。だが聖亜も彼女が教われそうになった時は我を忘れるほどに激昂しているため、互いに依存している関係にある。両親は海外出張しているため、現在は旧市街の観光地区にある祖母の家に居候しているが、実家は新市街にあるらしい。趣味は読書。
身長175センチ 体重54キロ  一人称は「私」「俺」

現在判明している真実
1聖亜とは高校に入る前、少なくとも彼がヘタレになる以前からの知り合いで、どんな経緯があってべた惚れになったのかは今のところ不明。
2また、意識が無かったとはいえ、なぜ彼女がヒスイの放った隔離結界の中にいたのかも、詳しい詳細は不明。


市立根津高等学校の人物 

秋野茂(あきの しげる)
 市立根津高等学校に通う男子生徒。15歳。金髪と黒目という、一風変った外見を持つ、聖亜の友人。福井とは親友同士で、よく柳からは凸凹(デコボコ)コンビと言われている。お調子者な性格だが、福井といると彼のストッパーに回ることもある。
 身長165センチ 体重61キロ  一人称は「俺」
 
 現在判明している真実
1実は実家は新市街にあり、その中でも結構裕福な家庭らしい。それがなぜ旧市街の高校に通っているのかは今のところ不明。

福井俊夫(ふくい としお)
 市立根津高等学校に通う男子生徒。十六歳。聖亜の友人であり秋野の親友。柳からは秋野と二人で凸凹コンビと呼ばれている。性格は豪快で単純なスケベだが、高身長とある程度整った外見と体格のため、彼女が多数いる。彼曰く浮気ではなくあくまでも彼女が複数いるというだけらしい。お菓子作りが好きであり、ヒスイと話すようになったのも家庭科の授業で作った菓子で、彼女を唸らせたのが理由。好物はお菓子とカツ丼。
 身長189センチ 体重81キロ 一人称は「俺」

 現在判明している真実
① 家は観光地区の中心である太刀浪神社。だが彼は多数いる兄弟の中でも下のほうで、ある夜寝ているとき姉達から頭を剃られ、それが原因で付き合っている彼女全員から振られた(単に浮気がばれた)

植村氷見子(うえむらひみこ)
 市立根津高等学校の女経論。聖亜の担任兼保健室の先生。外見年齢は20代前半。聖亜に惚れており、彼を自分の婿にするために誘惑している。そのため柳とは犬猿の仲だが、彼に女が近づくと一緒になって詰め寄る。タバコをくわえているが、実はそれはシュガーチョコ。姉と妹がいる。
 身長177センチ 体重60キロ  一人称「私」

 現在判明している真実
1実は彼女は黒塚家、その中でも当主である黒塚神楽に使える側女であり、八雷姉妹と呼ばれる姉妹の中の五女で、通称は伏雷(ふすいかずち)。彼女の能力、素性、その全てが不明。

鍋島進(なべじますすむ)
 市立根津高等学校の教頭兼世界史の先生。48歳。自他共に厳しい性格だが、それは生徒のことを思ってのことであり、聖亜達一部の生徒からは甘いだけの狸山校長よりよほど慕われている。ただ授業中に私語をした生徒は昼休みと放課後を潰されるため、その他の生徒からはあまり好かれてはいない。
 身長173センチ 体重72キロ  一人称「私」

 現在判明している真実
1 実は彼は高天原に所属する構成員。だが自分に対する憎悪を抑えられずに降り神の儀式に失敗し、守護司にはなれなかった。その代わりに爵持ちにも傷を負わせられる一つの弾丸を与えられた。根津高等学校に来たのは家族が眠るこの都市が、再び蹂躙されるのを防ぐためであり、人事異動であればむしろ左遷である。リザリス達により太刀浪市全体が狩り場にされた後は彼らの本拠地に乗り込み、始めルークと対戦し傷を負い、その後ニーズヘッグに黒い弾丸を撃ち込み、勝利への要因を作った後、跳ね返ってきた呪いに犯され死亡した。この時使用していたのはライフル銃で、弾丸はいつも使用する呪い(まじない)と、特別製である呪い(のろい)を込めた物。

2 15年前の聖夜の煉獄により家族を全て失っている。またこの時家族を飲み込んだ炎に魅入られてしまい、その時から自分を狂うほど憎んでいた。
 

狸山六郎
 市立根津高等学校の校長。53歳。優しい性格、というより多少の校則違反は見逃すという甘い性格をしている。でっぷりと太っており、まるで狸。
 身長160センチ 体重110キロ

 現在判明している真実
1 実は彼こそリザリス達を召還し、人々が上げる絶叫を聞きたいと願った黒幕。だがリザリスの配下である三体の人形が絶叫をあげながら殺されたとき、迂闊にも満足したといってしまったため、リザリスによりニーズヘッグを呼び出すための生け贄にされてしまい、死亡。ヒスイを狙っていたこともあり、ロリコンでもあったようだ。

2 15年前までは市役所に勤めていたが、公園で死に行く人々の絶叫を聞き、それに快感を見出すようになったらしい。まさしく鍋島先生とは正反対の性格である。



喫茶店「キャッツ」

荒川白夜(あらかわびゃくや)
 空船通りにある喫茶店「キャッツ」の店長兼マスターであり、聖亜の師匠。外見年齢は30代だが、聖亜が始めてあったときからほとんど姿が変っていないらしい。髪を後ろに撫で付けたクールなナイスミドルだが、その中身は猫好きで可愛い物好きな変態であり、良く連れ合いの市葉に殴られている。だが本当は聖亜達を優しく見守っている思慮深い性格……なのかもしれない。
 身長 193センチ   体重85キロ

 現在判明している真実
1 ヒスイと始めてあった時、彼女と誰かを見間違えた。だがその詳細は不明。

2 ニーズヘッグがその真体を現し、都市を無数の蛇が覆ったとき、市葉、そして北斗・昴達と共に対応。圧倒的な破壊力を持って蛇の群れを消し飛ばした。また、その際口にした言葉から、聖亜に封印を施したのは彼であり、その理由として彼が親友の息子であることを呟いているが、その詳細は不明。

3黒塚神楽とも面識があり、終盤で彼女と会話。その際人ではなく別の何かになっており、時間を掛けて戻ったのだが、その詳細は不明。また彼女とどのような関係なのかも不明。

市葉
 喫茶店「キャッツ」の料理長で、白夜の連れ合い。外見年齢は20代後半。柔和な笑みを浮かべるが、実は少々嫉妬深い。が、被害は主に白夜が被っているため他に被害は無い。なお調理師免許はずっと以前に取ったらしい。
身長 168センチ   体重不明

現在判明している真実
1北斗と昴が変化したマグナム銃を使用してエイジャと渡り合うことが出来る。その詳細・実力共に不明。


園村祭
 喫茶店「キャッツ」のウエイトレス。男勝りな性格で、聖亜の良き姉貴分。

北斗・昴
 喫茶店「キャッツ」の双子のウエイトレス。外見年齢は12歳ほど。背が小さく、子供のように見えるが、実はウエイトレスの中で一番の古株であり、そのことを祭にからかわれてはお仕置きしている。
 身長120センチ   体重不明

現在判明している真実
1都市に無数の蛇が出現したとき、マグナム銃に変化し、市葉の手に握られ蛇を迎え撃った。その詳細は不明。


その他


 復興街にある快楽区で風俗嬢をして生計を立てていた女。29歳。聖亜が教会で暮らしていたときの姉貴分で、彼をよく可愛がっていた。

 現在判明している真実
1客として訪れたドートスに魂を狩られ、死亡。


黒塚神楽(くろづかかぐら)
 新市街に住んでいる品の良い老婦人。外見年齢は60~70歳ほど。事件の少し前に聖亜と知り合い、彼を気に入って何かとお喋りをしている。数年前に子供を失ったらしい。

現在判明している真実
1 日本有数の旧家「黒塚家」の頭首。一見穏やかな性格に見えるが、その内には途轍もない冷徹と冷酷さを秘めており、笑いながら都市の滅亡を望むほど。氷見子の主人でもある。
2 高天原ともなんらかの関係があり、自らの手で罰した守護司に代わる人物の派遣を軽く決められるほど。その詳細は不明。
3 森岡を処刑した際、どのような方法を使用したのかは不明。また、処刑が終わった後外見が半分ほど若返っているが、その詳細も全く不明。

森岡(もりおか)
 高天原から太刀浪市を警戒するために派遣された守護司。外部の人間のため、都市の人々が敬遠している煙草や葉巻を遠慮なく吸っている。また黒塚銀行の支店長という表の顔を持ち、営業面と真の面を瞬時に切り替えることが出来る。

現在判明している真実

1 今回の事件の原因の人物。賭博で借金を重ね、それを肩代わりしてもらうために狸山に偶然(?)入手した喚起の書を提供。その後は身を隠していたが、ニーズヘッグが滅した後都市を逃げ出す所を神楽に処刑され、文字通り闇に食われた。
2 守護司になるには“降り神”の儀式に成功せねばならず、儀式の詳細は不明だが、彼の降り神は木霊。その中でも格の低い神であり、手のひらから飛び出す木の根を使用して道を探ることしか出来ない。


 木村
 準に言い寄っていた男。大会社の社長の息子で、金の力でこれまでに何人もの女を食い物にしており、裏で処理させてきた。自分さえよければ後はどうでも良いという性格をしており、夜な夜な犬や猫、鳥を手製のボウガンで射殺して悦に入っている。月命館高知分校に通っていたらしい。

現在判明している真実
1 クイーンに寄生種の卵を植え付けられ、三日後に鵺となる。その際取り巻きの一人を食い殺し、ヒスイを失神させたが、準に手を出そうとしたため聖亜の怒りを買い、彼に足止めされている間に目覚めたヒスイに口に太刀を突き入れられて死亡した。さらにその後キュウの手で自分の記憶を消去させられたため、家族すら自分のことを忘れるという、哀れな末路になった。

 男の取り巻き
 男の取り巻きの一人。男の父親が経営している会社に父親が勤めている関係で、彼の取り巻きとなっている。といっても女のおこぼれにあやかったりと、それなりにいい思いはしていたようだ。男と同様月命館に通っていた。

現在判明している真実
1寄生種として目覚めた男に食い殺され死亡。


 
エイジャ
 この世界とは違う、獄界という世界に住み、そこからやって来て人間の生気を喰らう化け物。自らを伝道者と呼び、氏民という階級で分かれている。その上には貴族がいて、爵持ちと呼ばれる彼らは他とは違い圧倒的な力を持って君臨する。さらにその遥か彼方には“皇”と呼ばれる存在がいるらしいが、その詳細は不明。エイジャという名前は、最初に世界と獄界を結ぶ狭間の道を通ったプラトンの提唱したイデア論から取っているらしいが、彼らの正体、獄界の様子などは全く不明。

ドートス
 “仮装道化師”の異名を持つエイジャ。中級氏民。外見年齢は28歳ほど。ピエロに似た格好をしており、その性格も陽気で残忍。ある目的のために人間の魂を狩っていたが、怠惰な性格のため目標の数を集め終えるまでにヒスイ達と遭遇した。武器は三つのチェスを人形として使役するトライアングル・チェスターと、分裂して敵に襲い掛かる幻想短剣(イリュージョン・ナイフ)。また、仮装道化師の名の通り自分の体を好きなように変化させることが出来る。モデルはトード(蛙)。

 現在判明している真実
1 ある目的とは鎮めの森にある聖夜の煉獄で犠牲になった人々の魂を使用して貴族が出現するための門を強引にこじ開けること。そのためには最低で百個の人間の魂を必要としていたが、四十一個しか集まっていなかった。しかし以前魂の出入り口を支える杉の木の根に傷を付けており、そこに魂をぶつけることで門を作ろうとしていたが、その傷はキュウに修復され、結局門が開くことは無かった。

2 実は中級氏民ではなく下級氏民の出身。本人は吹奏者になる事を目指していたが、実力も金も無く酒場で燻ぶっていたところをリザリスに拾われ、トライアングル・チェスターなどの武器を授けられた。

3 鎮めの森にて人形達をヒスイに倒され、幻想短剣が非行型スフィルによって操られていたこと、自分の体を変化させられるのが表面だけということを見破られ、さらには門を開くことにも失敗し、自暴自棄となり、十中八九失敗する魂を喰らうことでの上位への覚醒をしようとしたが、やはり失敗。異形の姿となり、一度はヒスイを捕らえるが、ぶち切れた聖亜によってヒスイを奪い返され、最後はヒスイの攻撃で半ば腐った脳を太刀で壊され、死亡した。


ナイト
 ドートスの配下である、チェスの駒が変化した人形の一体。笑いの仮面を被り、両手の変わりにランスを装備し、下半身は馬同様四本足をしている。誇り高い性格であり、実力もかなりのものがあるが、相手を見くびりやすいのが欠点。聖亜達と最初は敵対していたが……。武器はランスと四本足を生かした突撃。本気になれば音速を超える。
モデルはケンタウロス。

現在判明している真実
1 実は罪人であり、チェスの駒に魂を封じられて使役されてきた。また、笑いの仮面をつけてからは悲しい時も苦しい時も笑っていなくてはならなかったため、苦痛だったらしい。どのような罪により罪人になったかは不明だが、緑界の出身で、元龍騎兵だったらしい。
2 鎮めの森でヒスイに敗れた後、リザリスによってヒスイが拉致された事で聖亜に呼び出され、彼に言われた一言で協力することに。さらに彼と行動することで笑えるようになり、段々と彼に惹かれていく事になる。だがキングを退けたものの、ルークとの戦闘で傷つき、リザリスに首を砕かれチェスに戻ったところをさらに粉になるまで踏み潰され、死亡。
3 それでも聖亜の側にいたとき、“親切な女皇”様の手で復活。馬に乗り、赤い盾と槍を持った50センチほどの人形劇に出てくるような人形の姿になったが、きちんと喜怒哀楽の表情を出せるようになった。また、その能力も格段に上昇しており、ニーズヘッグよりは劣るが、その突進は彼女の生み出した蛇を粉砕できるほど。

ポーン
  聖亜が一番初めに遭遇したエイジャで、ドートスの配下であるチェスの駒が変化した人形の一体。憤怒の表情を浮かべた仮面を被り、普段は素手での攻撃を行うが、本気を出した時には大剣を使用して戦う。激しやすい性格で、冷静さを失いやすいが戦士としての実力は充分備わっている。モデルは騎士の甲冑。

現在判明している真実
1 彼も罪人であるが、ビショップとは実は恋人同士。なぜ二人揃って罪人になったかは不明。
2 鎮めの森でヒスイに敗れた後、聖亜の手で呼び出された。最初はリザリス達との戦力差から聖亜に協力することを拒んでいたが、ビショップが協力する事になり、彼も同意した。キングを退けたものの、ルークとの戦いで武器を失い、さらにリザリスにビショップを殺されたことで我を失い、リザリスの攻撃を腹部に受けたが、それを腹部に力を入れることで押さえつけ、ヒスイの攻撃のアシストをした。だが結局チェスをリザリスに粉々にされ、死亡。
3 ナイト達と同様復活。赤い鎧兜に身を包み、巨大な戦斧を振り回して戦う。その威力は一撃で巨大な蛇の胴体を真っ二つにするほど。

ビショップ
聖亜が一番初めに遭遇したエイジャで、ドートスの配下であるチェスの駒が変化した人形の一体。悲しげな表情を浮かべた仮面を被り、戦闘能力はほとんど無いが、スフィルを召還する技を持った吹奏者。また結界を張ったり、簡単な治療を施すことも出来る。悲観的な性格だが、根はしっかりとしている。モデルは教会のシスター。

現在判明している真実
1 彼女も罪人であり、ポーンとは恋人同士。なぜ罪人になったのかはやはり不明。
2 鎮めの森でヒスイに敗れた後、聖亜の手によって呼び出される。吹奏者ということでドートスに嫉妬から虐待を受けていたため、聖亜に協力するようになる。キングとの戦いでは聖亜を護り、ルークとの戦いでは傷ついた鍋島を治療していた。リザリスに真っ先にやられ、チェスを牙で磨り潰された。
3 ナイト達と同様復活。赤いローブに身を包み、赤い杖を使用して結界を張ることが可能。しかも結界は触れた悪意のあるものは弾き飛ばし、さらにその身を粉々に出来る優れもの。

リザリス
 ドートスの上司であるエイジャ。ある目的のためにドートスを利用し、魂を集めていたが、彼の作業が遅いのに怒り、自ら世界を渡った。黒衣に身を包んでいるが、その正体は緑色に光る鱗を生やした爬虫類。ドートスと違って冷静沈着だが、やはり冷酷で残忍。人間を家畜としてしか見ていない。武器は自らの牙と爪、そして三体の石人形。
モデルはリザード(蜥蜴)

現在判明している真実
1 狸山によって呼び出されたエイジャ。少なくとも上級氏民であり、ニーズヘッグの執事を務めている。
2 ドートスが敗れた次の日、学校の屋上に突如出現。都市を覆うような狩り場を張り、ヒスイを拉致。その後はニーズヘッグを呼び出す儀式の準備をしていたが、魂が揃わないままヒスイたちが到着。しかし敗れた配下の三体の石人形を呼び出し、彼らを儀式の生け贄に使用。さらに自らを呼び出した狸山を罠に嵌め、その肉体を生け贄にニーズヘッグを呼び出した。
3 その実力も凄まじく、ほぼ一瞬のうちにビショップ・ポーン・ナイトを撃破。ヒスイを退けた。高い再生能力を持ち、例え両腕が切り落とされても、新たに両腕を生やし、さらに切り落とされた肉体を遠隔操作することが可能。だがヒスイの絶技“絶対零度(アブソリュート)”により胴体を両断され、再生しようとするが細胞が凍死したため出来ず、ニーズヘッグに助けを求めたが、無残にも喰われた。

キング
 リザリス配下の石人形。石の王冠と髭を持つ人形で、性格はとにかく残酷で下品。戦闘能力も低いが、拷問と指揮能力は強い。

現在判明している真実
1 元騎士長と自分では言っているが、戦闘能力の低さから疑問がもたれている。
2 ドートスが敗れた翌日、リザリスと共に出現し、ヒスイに不意打ちを仕掛けた。その後ヒスイを連れ去り倉庫の中で拷問し、聖亜達が来たときは三百のエイジャを率いて迎撃に出たが、聖亜により敗走。その後倉庫に逃げ帰ったが、そこでヒスイにあっさりと斬られた。
3 その後、リザリスに蘇生されたが、ニーズヘッグを呼び出すための材料にされた。保有する人間の魂は七百.

クイーン
 リザリス配下の石人形。頭部にサークレットを被っている。性格は冷静。前線で戦うより裏方に徹する方を好む。また、彼女もビショップと同じ吹奏者であり、スフィルを呼び出すことが可能。

現在判明している真実
1 動物を殺して悦に入っていた男に寄生種を植え付けた。
2 ヒスイが捕まり拷問された後、彼女の治療をしていたが、黒猫に不意をつかれ混乱し、戦闘不能に。
3 その後、リザリスの手で正気に戻ったが、ニーズヘッグを呼び出すための材料にされた。保有する人間の魂は二千。


ルーク
 リザリス配下の石人形。塔のような頭部を持つ巨大な人形で、表情は乏しく無口。しかし戦闘力は強く、また希少価値の高い超硬度物質“黒石”で作られているため、攻撃はほとんど通らない。巨大な拳を飛ばすことも可能で、その威力は鋼鉄を一撃で粉砕させるほど。

現在判明している真実
1 ドートスが敗れた翌日、リザリスと共に出現し、鐘楼の中に安置されていた鐘を一撃で粉砕し、さらに旧校舎も半分ほど倒壊させた。その後キングと共にヒスイの拷問をしていたが、あまり乗り気ではなかったようだ。
2 侵入してきた鍋島を追い、彼の攻撃をものともせず、止めを刺そうとしていたところを裏切ったナイト・ポーンに阻まれる。だが彼ら二体がかりでも苦戦するほど彼は強く、さらに一瞬だけ猛スピードでナイトに迫り、槍を粉砕した。また両面であり、背後にあるもう一方の顔は残忍な性格をしているが、突如現れたヒスイに口の中に太刀を突き刺され、倒れた。
3 その後リザリスの手で復活。だがニーズヘッグを呼び出すために喰われた。保有する人間の数は七千三百。


ニーズヘッグ
 リザリス達を使い、この世界に現れたエイジャの貴族。黒界七王国の一つ、ニブルヘイムの子爵で、異名を“嘲笑する虐殺者”。圧倒的な力を持ち、格下の存在は彼女に頭を垂れるしかない。はち切れんばかりの肉体を黒いドレスに包んだ妖艶な美女。性格は残忍であり、自分の執事のリザリスでさえヒスイに倒された後は、空腹というだけで食べた。その身を包む漆黒のドレス“黒水”により炎以外の全ての攻撃を無効化し、たとえヒスイの絶技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)であっても黒水の表面を微かに揺らすだけである。また体内に猛毒を保有しており、それを使って作り上げた毒霧の太刀で攻撃するほか、相手に噛み付くことで直接毒を流し込む事が出来る

現在判明している真実
1 彼女がこの世界に来た目的は、絶望していく家畜の魂を喰らうことであり、リザリスたちには家畜をほとんど損なわないように呼び出すことを命じたため、リザリスは石人形達が保有している魂を使うことにした。
2 女の姿をしているが、その真体は都市ほどもある巨大な蛇。元々竜神であったらしいが、その四肢・翼・片方の角は失われている。その詳細は不明。
3 黒水の真の姿、星ほどの深さを持つ黒い湖“フヴェルゲルミル”にその姿を隠し、無数の眷族を生み出し都市を襲わせたが、眷族である蛇はそのほとんどが白夜に狩られ、さらに覚醒した聖亜によってフヴェルゲルミルを失い、最後は助命を懇願するが、レバンテインによって灰も残さず消滅した。


真理の探求者
 聖亜の深層意識に現れた謎(まあ、読者の方はすぐにわかると思うが)の女性。元青皇であることからエイジャであると思われる。長い銀髪と紫電の瞳、夜空に似たドレスを羽織るその姿は、この世のものとは思えないほど美しい(この時点で9割の人はその正体が分かる)。性格は冷静で尊大だが穏やかで優しい。氷の鞭での攻撃を得意とする。

現在判明している真実
1 人の意識の中に入り込むことが出来る。その際は相手に触れていなければならない。
2 相手の力を吸収し、それを使用して物体の創造が出来る。つまり“死”と“生”を自由に操れる。

黒ウサギ
 聖亜の深層意識に出現し、彼の深淵の御手を目覚めさせた張本人。真理の探求者と面識があったり、ニーズヘッグをさん付けで呼んでいることからエイジャだと思われる。性格は紳士的。劇や物語を好む。
現在判明している真実
1 自分の行きたい所を自由に行き来することが出来る。それが別次元でも、はたまた人の意識の中でもお構いなし。
2 人が秘めている力を必要以上に、その人の許容範囲を超えるほど引き出すことが出来る。そのため“案内人”と呼ばれているが、真理の探求者からは“次元破壊者”と呼ばれている。その能力で聖亜の力を目覚めさせたが、彼は自分の中で発生する高熱で危うく死ぬところだった。
3 黒塚神楽と面識があったり、さらに自分の性別を自由に変えられるが、その詳細は不明。

 モデル 不思議の国のアリスのウサギの擬人化。しかし黒。


ちょっとしか出ていない人達

ヌアダ
 本名ヌアダ・トゥアハ・デ・ダナン。ヒスイの父親で、アメリカの農園地帯で暮らしている。先生と呼ばれているから、どこかの教師らしい。チーズが苦手。妻の名前はネヴァン。短い黒髪と整えられた黒髭を持つ、二メートル以上の身長を持つ美丈夫。

マーク
 ヌアダの知り合い。配達の途中でヌアダに届け物をしていたことから、仕事は宅急便だと思われる。

閃光
 本名不明。二振りのチェーンソーを操り、エイジャを撲殺する魔器使。エイジャを存在するだけで悪だと言っており、なによりも正義であることにこだわる。ヒスイとなんらかの関係があるらしい。狂気を内に秘めた男。天に逆らって伸びる白髪と、何も映さない灰色の瞳を持つ。

一殺多生
 本名不明。性別は女。鋼糸を操る魔器使。閃光とは同僚だと思われる。



用語編

この世界
 現実世界と地理や国家等は大体同じ。ただ違う点として、石油が全く発見されなかったため、中東は貧しいながらどこからも侵攻されず、ペルシア連邦として一つになった。また、石油が発見されなかったため蒸気機関が発達し、さらに日本人が発明した気化石により飛空船が発達。現在の主力な交通手段として使用されているが、今はさすがに電気が主力であり、モノレールや電気自動車が普通に動き、家電製品が売られている。それでも下町や貧困の国では蒸気を使用しており、その需要は高い。

 太刀浪市
 日本皇国 高知県の西南部にある都市。主な産業は蒸気機関・漁業・観光・農業。世界有数の工業都市だったが、15年前、聖夜の煉獄により工業地区を含めた西部が壊滅。現在では復興街という名が付けられているが、復興は全く進まず、巨大な河に掛けられた橋の旧市街側には、検問が敷かれている。
 現在は市役所や警察署など、行政機能を持つ東部の新市街、観光地やデパートが立ち並ぶ旧市街、荒れ果てた復興街に分けられる。

復興街
 復興街は三つの地区に分けられる。まず災厄の中心地、鎮めの森の周りに蜘蛛の巣状に作られた雑踏地区、その北側、かつては一大工業地区として栄えていた工場地区、そして海に面した南側、外からの人間も訪れるという風俗店や売春宿が立ち並ぶ快楽区である。

旧市街
 都市の経済の中心地。太刀浪駅を中心に、西側に観光地区、北にデパート地区、南に商店街と、その先に空港がある。観光地の中心は太刀浪神社で、その通りはお立通りと呼ばれている。蒸気機関と電気が混合する、幻想的な町であり、この物語の主要な舞台。

新市街
 大会社や月命館高知分校など、上流階級が住む街であり、エリート意識が高い。

聖夜の煉獄
 15年前のクリスマス・イブの夕方に太刀浪市西部を襲い、二万五千余の死者を出した大爆発にして大災厄。これほどの被害を出した背景には、クリスマス・イブということで人が集中していたこと、そして自衛軍に対する出動命令が出されなかったことがある。表向きには巨大な蒸気機関の爆発とあるが、その詳細は全く不明。なお、爆発の中心地で、かつて総合病院があった場所は、今は鎮めの森となっており、中央には屋久島から取り寄せた巨大な杉の木が置かれている。

市立根津高等学校
 旧市街の外れにある聖亜達が通う高等学校。学科は普通科と商業科、そして情報科の三つがあり、聖亜は普通科に所属している。嘗て師範学校だった第一校舎(旧校舎)と近年建築された第二校舎(新校舎)の二つがあり、新校舎が使用されているが、旧校舎の屋上に出ることも出来る(本当は禁止)。また、旧校舎の屋上にはかつて外国から送られた“平和の鐘”が安置されており、その音色は今もチャイムとして流れている。
現在判明している真実。
 ルークによって平和の鐘が破壊され、また校長・教頭が死亡したことから、今後どうなるのかは不明。

対エイジャ組織
魔女達の夜
 嘗てエイジャとの間に起こった大戦、嘆きの大戦の際に活躍した人々が、魔女として狩られた暗黒時代、新天地に逃げ延びて作り上げた対エイジャ組織。その規模は不明だが、世界中で活動していることからかなりの大規模だと思われる。また、キングが言っていたヴァルキリプスとは何なのか、今のところ不明。
 魔器使
 魔女達の夜に所属し、エイジャと戦う者達。「魔を封じ込めた器を使う者、または魔に使われる器」と、二つの意味がある。一級、二級、三級とあり、もちろん一級が一番階級が高い。
魔器
 魔の力と意志を持つ武器。元々は魔物や妖怪を封じるための器であったが、マイスター・ヘファトの手により武器として製造された。大切なのは切れ味ではなく、中に封じ込めた魔の力らしい。

高天原
 日本皇国で活動している対エイジャ組織。ただし人材不足を理由として積極的な攻勢に出ず、またその活動も国内に限定されているため他の組織からの評判は、“臆病者”と罵られるほど低い。また彷徨う者達ほどではないが秘匿性が高く、情報の公開が求められている。
守護司
 魔器使に相当する役職。一つの都市に一人ずつ配置されているが、その数ではエイジャに対抗することなど出来るはずはなく、あくまで増援が来るまでのエイジャの調査・監視が目的らしいが、“降り神”と呼ばれる儀式を行い何らかの力を得ているらしく、本当に対抗できないのかは不明。また、守護司になれなくとも、構成員として活動することは可能らしい。

降り神
 自らの身に神を降ろし、その力を具現化して使用する術。体のどこかに媒体を植え付け、そこから神の力を使うらしいが、その詳細は不明。

彷徨う者
 三つの対エイジャ組織の中で最も秘匿性が高い組織。その規模・人員・兵器など全てが不明だが、嘆きの大戦において本拠地を失ったものの集まりらしい。

嘆きの大戦
 嘗て大陸を舞台に繰り広げられた人間とエイジャとの大戦。欧州だけで二千万というとんでもない数の死者を出して終結した。だがその詳細は不明であり、さらにこの大戦がきっかけで魔女狩りが始まるようになった。




                                   以上


 こんにちは、活字狂いです。今回は設定を書いてみました。また誤字・脱字も直してみましたが、さらっとだけなので、他にどこか間違っているところがあったら感想・意見と共に遠慮なく言ってください。それでは、次回予告をどうぞ




 黒い蛇神の脅威は去り、少年と少女はつかの間の安息を得た。

 だが、次なる嵐はもう目前にまで迫っていた。

 若者を中心に、都市に広がりつつある新型ドラッグ「K」、そしてその影にちらつく異形の影、


 そして、太刀浪市に外部から二組の男女がやってくる。


 一組は白髪の少女の罪を裁くために


 一組は新たなる脅威に備えるために


 少年は彼らと出会い、自分の将来を模索し始める。



 次回、「スルトの子Ⅱ 炎と雷と閃光と 序幕 炎舞う」一月中旬公開!! どうぞご期待下さい。



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 序幕   炎舞う
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2016/02/18 13:56
 あけましておめでとうございます。活字狂いです。今年は自分にとっていろいろと勝負の年になりますが、挫けず頑張りますので、応援よろしくお願いします。さて、スルトの子は、これから二作目に入ります。永遠の別れと新たな出会いを経験した少年は、これからどのような人生を歩むのでしょうか。今作のテーマは、「出会い」と「選択」になります。ではまず、序幕「炎舞う」そして第一幕「嵐の前」を、どうぞご覧下さい。








 炎が、舞っていた




 その日、冬の夜空に、雪ではなく、真っ赤な炎が舞っていた。




 少女が目覚めたのは偶然だった。瓦礫の間で気絶していた彼女は、何かが当たる感触で眼を覚ますと、ぼんやりとした頭で周りを見渡し、そして、自分はまだ夢を見ていると思った。


 何故なら、彼女の周りにあるのは、ビルやデパートが立ち並ぶいつもの光景ではなく、赤と黒、二つの色に覆われた世界だったから。



 その光景を一言で表せば地獄だろう、二言で示せば世界の終わりだろう。だが、そのどちらも知らない少女の目には、その光景は昨日、祖父と祖母の見ている前で、画用紙に描いた絵に似ていた。




  赤と黒のクレヨンで、白い画用紙が、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた景色




(―あ)
 祖父母のことを考えた所で、少女はふと家族のことを思い出した。そうだ、確か今日は妊娠して入院しているお母さんのお見舞いに、病院に来たんだった。だが、退屈そうにしている自分を見た祖父母が、デパートでクリスマスのプレゼントを買ってくれたのだ。
 彼らを探すため、少女は自分が入っていた隙間からのそのそと這い出た。と、彼女の少し癖のある髪の間から小さな石が転がり落ちる。どうやらそれが当たった感覚で目が覚めたらしい。別段気にする事無く立ち上がると、少女はあたりを見渡した。だが周りは赤と黒に覆われ、人影どころか、建物すらどこにも見えない。


「…………?」


 その時、彼女は自分の体が、何か黒い色に覆われていることに気付いた。手でこすると、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。首を傾げながらも、ぱたぱたと服を振ってそれを払うと、彼女は病院のある方角に向かって歩き始めた。周りに見慣れた建物はない。だが、北の方角に微かに山が見える。あれは病院の北側にある山だ。そして、デパートは病院の南側にある。
 こくんと小さく頷くと、少女は山に向かって歩き始めた。彼女が進むたび、足に踏まれ、黒い色をした物が零れ落ちていく。それが原形をとどめていなかったのは、彼女には幸運だった。
        
 
 

                                     何故ならそれは、人が生きながら炭化し、ぼろぼろに崩れた物だったから





 自分以外の誰もいないことに気付かない少女は、自分以外の誰かを探しながら病院に向け歩き続ける。だが、やはり誰も居ない。居るわけがない。人間が炎に焼かれ、生きながら一瞬で炭へと変えられたこの地獄に、奇跡的に助かった彼女以外、誰が居るというのか。
 それでも、少女は病院に向けて歩く。時々躓き、時々転びながら、少女はようやく、病院が見える角までたどり着いた。




       そして、彼女の眼に飛び込んできたもの、それはー





    病院が、大地もろとも、跡形もなく消え去って出来た、巨大な穴と






           その上で踊る、赤と黒の炎だった











15年後―





2015年 7月10日 17時40分


 アメリカ合衆国某所  魔女達の夜本部“ヴァルキリプス”

 
  

 退屈な会議は、長々と続いていた。



「それでは次の議題、魔器論理学のデヴィソン助教授より、自分の受け持つ第二級魔器使“赤髭”バルバ君の第一級魔器使への推薦についてですが」
 書類を読んでいた壮年の男ガが右手をさっと上げると、会議室の中央にあるスクリーンに、口の周りを赤髭でこんもりと覆った青年が映し出された。
「いや、それはまだ早いよ。バルバ君は確かに“黒翼の誇り”第十一支部制圧作戦で華々しい戦果を挙げたけど、その指揮能力には疑問が残る」
「そうよ。第一級魔器使はその場にいる二級・三級の魔器使を統率する権利と義務を持つわ。なのにこの……赤髭君だったかしら? は、書類を見る限り個人の戦闘能力は高いけど、連携しての戦いより一人で突進するほうが好きみたい。それによって被害が結構出ている。それでは駄目ね。少なくとも後千回は戦闘を経験してもらわなければ」
「ふんっ、それにこいつは自分の持つ魔器を極端まで疲労させる。おそらく力任せにぶっ叩いているからだろうが、そんな扱いをする野郎を一級にするわけにはいかねえな」
 部屋の北側に座っている男女が、それぞれ穏やかに微笑し、軽蔑したように笑い、不機嫌そうに吐き捨てて反対した。
「はい。ではこの議題については不可ということで……では次の議題、っとこれは議題ではなく報告ですね。第一級魔器使“機関士”ネビル君より報告が入っています。“黒翼の誇り”に包囲されているモスクワへの強行突入、及び物資の補給に成功。現地にて生存している魔器使達の指揮を取るとの事です」
「へえ……予想していた日時より大分早いね。さすがはヘファト教授の傑作魔器“グラシャ=ラ=ボラス”を持つだけの事はある」
「ふん、当然だな!!」
 細目の穏やかそうな壮年の男にそう言われ、その横に座っている濃い髭面の男はぶっきら棒にそう答えたが、自分の作り上げた魔器をほめられて嬉しいのか、頬が微かに染まっていた。
「……今日の会議はこれで終わりかしら。そろそろ研究所に戻りたいのだけれど」
 髭面の男のちょうど反対側に座っている若い女が、窓の外を見てふと呟いた。すでに日が傾いている。首に巻いた赤いスカーフを軽く弄り、その女ははあっと退屈そうに息を吐いた。
「おや? もうこんな時間ですか。それにしてもヘルメス教授、ホムンクルスの製造は確かに大切ですが、根を詰めすぎると身体によくありませんよ」
「うるさいわよグリアス教授。ま、それもあるのだけど、私最近量産型魔器の開発をしているの。知ってるわよね?」
「……ああ、あの役にたたねえ“屑物”か」
「あら…………今何か言ったかしら、ヘファト教授」
 髭面の男―ヘファト教授の嫌味に、女―ヘルメス教授はすっと目を細めた。
「ああ言ったさ。いいかヘルメス、魔器はな、それを使用する魔器使との“相性”が一番大事なんだ。それを無視して誰にでも使用できる安物を作っていると、碌な結果にならねえ」
「ふん、けどヘファト、あなたの作れる魔器は一年に十個も無いじゃない。最近“緑原の征服者”の活動が活発になってきてるし、何より今は質より量の時代。戦力の増強は必至よ」
「はっ!! それでエイジャに効果の無い魔器を与えて、魔器使を無駄死にさせるってのか!! そんな屑ばかり作っているから、手前の作るホムンクルスの性能だって中途半端なんだ!!」
「…………ヘファト、あんた言ってくれんじゃない」
 二人の教授が立ち上がって睨みあう。そんな一触即発の空気に、周囲に緊張が走った時だった。
「……落ち着かぬか、お主ら」
 彼らの後方、一段高くなっている議長席から、低い声が響いた。


「し、しかしマクレガー副学長」
 彼に講義しようとするヘルメスの動きを、初老の男は右手を挙げて制した。
「落ち着けヘルメス。ヘファトもだ。量産型魔器の製作は、我がヘルメスに命じたこと。言いたいことがあるならばまず我に言うがよい。大体会議はまだ終わっては居らぬ。なのに教師を束ねる“四大教授”のうち、二人が争ってどうするつもりだ」


「「……」」


 静かだが、反論を決して許さない厳格な声に、二人は黙って席に着いた。



「……流石はマクレガー副学長。さてと、残る議題は後一つだね」
 軽く拍手をして、彼らの間に座っていた教授―グリアスは司会を務める助教授に、穏やかな笑みを向けた。
「は、はい。これが本日最後の議題になります。一昨日、つまり2015年7月8日に日本皇国高知県太刀浪市にて、同地に派遣した第二級魔器使“絶対零度”ヒスイ・T・D、本名ヒスイ・トゥアハ・デ・ダナンが、自ら禁技と定めた絶技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)を二度使用した事についてです。これは懲罰法第三十条、“自身の力量を超えた技の使用禁止事項”に触れます。この件についての査問が提案されていますが……」
「あら、まさかヌアダ教授のご息女が法を破るなんて……絶技は一歩間違えば都市を吹き飛ばし、大地を切り裂き、海を干上がらせる危険な技よ。それを二度も使用するなんて……例え暴走させなくとも、これは充分懲罰の対象になるわね」
「へっ、結局は暴走しなかったからいいじゃねえか。それに報告書は読んでいる。相手は爵持ちだったようだな。なら絶技の使用は仕方ないんじゃねえか?」
「……いや、どんな理由があれ、彼女は過去の事件により自ら禁技とした絶技を使用したんだ。やはり一度査問会に掛けなければならないよ。そういえば……休職中のヌアダ教授は何て言ってるんだい?」
「は、はい……それがその“彼女はもう子供ではないのだから、犯した罪に対する責任は自分で取れるはずだ”だ、そうです」
「ふ~ん、さすがは“三傑”の一人にして、冷徹無慈悲な“銀の腕”。それが例え自分の娘でも容赦無しか。それでは査問会にかけるということで。それで? どうします副学長、一度呼び戻しますか?」
 グリアスに声をかけられ、マクレガーは暫し下を向いて考え込んでいたが、やがて大きく頭を振った。
「……いや、今あの都市から魔器使を出すわけにはいかぬ。せっかく高天原の勢力圏に入り込んだのだ。こちらから査問官を派遣しよう。それでよいな?」
「はい。構いません。それで誰を送ります? こう言っては何ですが、僕達は先の痛ましい事件―“魔女狩り”があったせいで、仲間意識が非常に高い。誰も好き好んで仲間を裁きたいとは思わないはずです……仕方ない。あまり乗り気はしませんが、ここは僕「あ、あの」……なんだい?」
 話の途中で割り込まれ、グリアスは恐る恐る手を挙げた一人の助教授に、その細い眼をさらに細くして向けた。
「ひっ……は、はい。それがその“閃光”が名乗りを上げていますが」
「……閃光だぁ?」
 その言葉に、ヘファトは思わずがたりと音を立てて立ち上がった。会議室に先程とは違う緊張が走り、出席している教師達がざわざわと騒ぎながら互いに顔を見合わせた。表情を変えていないのはこの場に三人―ヘルメスとグリアス、そしてマクレガー副学長だけだ。
「……へっ、まさか“大罪人”若しくは“反逆者”に対し派遣される“極刑”の執行権利を持つ最高査問官が、直々に赴くとはな……どういうことだ、あの餓鬼は一体何考えてやがる」
「……へ、ヘファト教授、仮にもザラフシュトラ副学長のお孫さんに対し、餓鬼などというお言葉は」
「うるせえ!! 黙ってろ!!」
 助教授の一人にそう言われ、ヘファトは思い切り目の前の机を殴りつけた。ガァン!! という強い音が周囲に響き渡る。それが収まると、ヘファトはちっと忌々しげに舌打ちをし、会議室を出て行った。
「……やれやれ。ではヒスイ君に対する査問は、太刀浪市に最高査問官であり第一級魔器使である“閃光”のスヴェン君を派遣することでよろしいですね」
「うむ……だが念のためだ。同じ最高査問官である、“一殺多生”も同行させよう。では、これにて本日の会議を終了する!!」
 マクレガー副学長が最後にそう締めくくると、会議に参加していた教師達は立ち上がってお辞儀し、次々に部屋の外へと出て行った。



 そんな中、今だ座っているヘルメスは、唇の端をふと怪しげに歪ませた。







 会議が終了し、1時間ほど経った頃―




 切り落とされた胎児や、複数の動物を組み合わせたようなグロテスクな標本が浮かぶ瓶が、所狭しと置かれている研究室の中で、ヘルメスはテレビ電話と向き合っていた。


『……今何と言ったか』


 画面に映っているのは、整えられた黒髪と髭を持つ美丈夫だ。彫りの深い顔の中、二つの瞳が自分を冷徹に見つめている。
「ふふっ、どうやらよく聞こえなかったみたいね。ならもう一度言ってあげましょう。ヌアダ教授、あなた自分の娘が査問会に掛けられることはもう知っているわよね。しかも査問官は最高査問官である“閃光”。彼とあなたの娘との間にある因縁、まさか知らないはずがないでしょう? もしかしたら、“極刑”なんて事になるかもしれないわねえ」

『……何が言いたい』

 相手―ヌアダが低い声で尋ねると、ヘルメスは気持ち悪いほど穏やかな笑みを浮かべた。
「あら、せっかちね。まあいいけど……閃光は二年前まで私が受け持つ生徒だったわ。今でも若干の交流はある。私が言えば、少なくとも極刑だけは取り止めるはずよ。そうね……どんなに重くとも、記憶の封印ぐらいじゃないかしら」

『……』

 沈黙する男を眺め、ヘルメスはその穏やかな笑みをにやりと歪ませた。

「けど、もちろんそれには条件がある。あなたの持つ最高クラスの魔器“光輝の剣”クラウ=ソラス。これを私に研究材料として提供するなら、口利きをしてあげましょう。どう? たかだか剣一本で愛しの娘が助かるのよ? これほどいい取引はないと思わない?」

『……返事は今すぐ必要か?』

「ええ。出来れば今す『断る』なっ!! ……ごめんなさい、今なんとおっしゃったかしら?」

 喉まででかかった罵声を必死に飲み込むと、ヘルメスはヌアダを睨み付けた。自分の娘が死ぬかもしれないというのに、この男は眉一本分も、その表情を変えようとしない。

『聞こえなかったようだな。ならばもう一度言おう……断る。戦う事を決めたのは娘自身だ。自分の始末ぐらい自分で付けられるだろう。それにクラウ=ソラスはわが一族の秘宝の一つ。愚かな娘の命と引き換えなど、到底出来るものではない』

「……そう、分かったわ。ええ分かりましたとも。残念ねぇ。人がせっかくチャンスをあげたというのに。いいでしょう。ならばもう取引は持ち掛けないわ。その代わり、次にあなたが娘を見るときは、きっと葬式のときでしょうよ!!」
 苛立たしげにテレビ電話のスイッチを切ると、それでも怒りが収まらないのか、彼女は辺りの瓶を手当たり次第に殴りつけた。鬢が割れ、その中の標本がどろりと床に落ちる。鋭い瓶の破片が手に突き刺さり、彼女の両手は真っ赤に染まっていった。


 と、その手がいきなりぼろぼろと崩れ落ちた。


「あら? 今回は随分と早いのね。まあいいわ。“替え”は幾らでもある。私がホムンクルスを作り始めたのは、そもそも“この”ためなんだから」
 くくくっと笑うと、彼女は首に巻いたスカーフをしゅるしゅると解きながら、隣の部屋へと入っていった。
「さてと、男達はどんな肉体が好みかしら。豊満? それとも幼児体形?」

 そして、彼女がスカーフを完全に取り去ったとき、そこには



  そこには、卵形の、巨大なルビーが埋まっていた。








 同時刻 日本皇国島根県出雲市

 ここ、出雲市には、巨大な出雲大社を中心に大中数十の社殿が軒を連ねている。小さい社殿を含めれば百を軽く越すこの社殿群こそ、“日本の影の支配者”はたまた“裏天皇家”と呼ばれ畏怖される、黒塚家の総本山であった。



「……」
 百以上ある社殿の中心、出雲大社の一室で、男は手に取った書類を不機嫌そうに眺めていた。

 年は三十代後半。いがぐり頭と浅黒く日焼けした肌、右頬にある巨大な傷跡、鋭い瞳を隠す黒いサングラスなど、見た者にヤクザを思い浮かばせる。

 だが、その物腰からは理知的な雰囲気が滲み出ていた。


「あら? 何だか不機嫌そうね。玄(げん)ちゃん」
 向かいの席で紅茶を嗜んでいる中年の女性にそう言われ、彼は疲れたように息を吐いた。
「……ちゃん付けで呼ぶのはおやめ下さい。神楽様」
「けちねえ。そらぐらい良いでしょう? “私”の執事長なんだから」

 黒塚家執事長を務める、黒沼玄(くろぬまげん)は、半年間行方不明になっていた、目の前で優雅に笑っている黒塚家当主、黒塚神楽を見て、再びため息を吐いた。
「……太刀浪市に新たな人材を派遣することには賛成です。それが“雷神の申し子”であることにも反対はいたしません。今まではあの都市の重要性を隠すため、わざと能力の低い、信用できない者を配置しましたが、魔器使が来た以上、こちらも能力の高い者を置かないと押し切られますからね……ですが」
 一端口を閉ざすと、彼は二枚目の書類に目をやった。
「ですが、気に入った少年を“立志院”に入れ、将来的には高天原に入隊させたいですと? 別に立志院に入れるのは構いませんが、高天原への入隊は、その“最高司令官”としてどうかと思います。私達は“素人”の力を必要とするほど戦力が無い訳ではありませんし、何より日本の防衛など、本来私“一人”で充分です」
「それはそうでしょうけど……なら玄ちゃん、この子がニーズヘッグを殺したのだとしたら?」
「……は? いえ、それはありえません。いいですか神楽様、ニーズヘッグは爵位は低いですが貴族であり、そしてエイジャの貴族は本物の“神”なのです。神を滅ぼすことが出来るのは、同等の力を持つものだけであり、現在の日本では私と雷神の申し子、炎の鉄槌、そしてあと数人でしょう。もちろん日本に来た絶対零度では、例え彼女が百人いても不可能。あの都市に白夜が潜伏していることはすでに判明しています。ニーズヘッグを滅ぼしたのは、恐らく奴でしょう」
「あら、それは無いわねえ。だって彼は“戒め”を受けているのだから。第一玄ちゃん、あなた私が嘘を吐いているとでも言うの?」
 不意に、部屋の温度が急激に低下した。だが空気すら凍らせる寒さの中でも、玄はけろりとしたままだ。
「いえ、それは……ふうっ、分かりました。良いでしょう。本当に信じがたいことですが、念のためです。監視を含めその少年を、ひとまず“立志院”に入れましょう。ですが」
「ですが……なあに?」
 神楽が可愛らしく笑うと、途端に温度が元に戻っていく。それを肌で感じながら、玄は深いため息を吐いた。
「ですが、本当に爵持ちを滅ぼせるだけの実力があるのかどうか調べるために、夏季に行う“行事”に参加してもらいます。そこで合格すれば良し。不合格ならばその実力が無かったと見て不可。それでよろしいですね」
「……まあ良いわ。って、もうこんな時間じゃない。そろそろ失礼させていただくわね。旦那様にお食事を作ってあげないといけないし」
「ええ。わざわざのご足労、ありがとうございました。あと、”食事”はお控えください」
「あらあら、ちょっと”つまんだ”だけじゃない」
 一礼する彼に、朗らかに笑うと、神楽は鼻歌を歌いながら部屋を出て行った。それを見送ると、本日何度目かになるか分からないため息をげっそりと吐き、右手で胃の部分を押さえ、玄は傍らに設置してある電話の受話器を取った。
「…………ああ、俺だ。いや、俺々詐欺じゃない。黒沼だ。鈴原の奴は今どこにいる? いや、親ではなく子供のほうだ。ああ、そうか。なら繋げてくれ」
 暫らく音信中のプルルルという音が聞こえ、それが終わると、

『は~い、何ですか司令。こちとら今忙しいんですけどねえ』

 受話器の向こうから、何かを殴りつける音と共に、苛ついたが聞こえてきた。


「……忙しいだと? 鈴原、貴様に命じたのは“奴ら”の監視だけのはずだが?」

『はあ、そりゃそうですけど、奴ら何処からか攫ってきた女の子を魚に酒盛りしようとしたんで、今ぶっ飛ばしている最中です……っち、うっとおしいんだよ、手前ら!!』

 強い舌打ちと共に、何かが爆発する音と、ギャアギャアという悲鳴が聞こえてきた。

『で? この糞忙しいときに、一体何のようですか? くだらない話なら俺怒りますからね?』

「……高天原最高司令官としての命令だ。“雷神の申し子”は其処での任務が終了しだい、高知県太刀浪市に赴き、守護司としての任を果たせ」

『……は? 何ですあんた。人に監視なんて面倒くさい任務押し付けといて、次は退屈な守護司の仕事をしろですって? いいですか司令、俺はこの任務が終わったら、ホテルに直行して千里といちゃいちゃしたいんですよ。こちとらもう三日も出してないんだ。さすがにそろそろ溜まってるんですがね』

 ぶつくさという声に、玄は痛む胃を抑え、苦しげに眉を顰めた。

「……これは黒塚家当主、黒塚神楽様からの直々の要請だがな」

『だから何です? あんな婆さんより俺はぴちぴちな千里を抱いていた……ぶべっ』

 その時、


  ドゴッ


という音を立て、向こう側で誰かが吹き飛んだ。


『……黒塚家当主様からの御命令、確かにお受けいたします』


 と、今度は落ち着いた感じの女性の声が聞こえてきた。
「……いつもすまんな、水口君」

『いえ、慣れていますから。とにかく雷(らい)の補佐はお任せ下さい。では任務に戻りますので、これで失礼します』

 物静かな女性の声を最後に、通信が切れる。受話器を電話の上に置くと、玄はむうっと苦しげに呻き、テーブルに置いている愛用の胃薬に手を伸ばした。














 炎が 舞っていた




 かつて病院があり、今は大地すらないこの場所で、一人の少女を観客に、くるくる、くるくる、くるくると、二つの炎が、舞っていた。


 それは赤 気高さすら感じる澄んだ炎


 それは黒 どろどろと歪み、濁った炎




 炎は離れては近付き、近付いては離れる。それはまるで



 そう。まるで、踊っているかのよう






 少女は―もはや希望も絶望も何もかもが消えうせ、空っぽになってしまった少女は、仰向けに倒れたまま、炎の踊りを、眺め続けた。



 意識を失う前も、そして、意識を失った後も



 自分から全てを奪った炎を、光が消えた両目で、いつまでも





 いつまでも、いつまでも、眺めていた。





                                   続く



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 第一幕   嵐の前
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:a8247099
Date: 2016/02/18 13:59
 
西暦2015年(皇紀15年) 7月13日 15時40分

 頬にいきなり柔らかなそれが当たったのを感じ、星聖亜(ほしせいあ)は思わず自分の頬に手をやり、続いてちらりと自分に接吻したその小さい生き物が飛んでいった方を見た。家の屋根に腰掛け、それはくすくすと笑いながら自分を眺めている。

 その姿は物語に出てくる妖精に近い。15センチほどの身長と、背中に二対の羽を持つ少女だ。服は何も身につけていない。その裸体を見て、聖亜はさっと頬を染めて視線をそらした。
「ふふ、どうしたのかしら、聖亜」
「いや、別に……」
 傍らに座っている50センチほどの人形に微笑まれ、彼はばつが悪そうに俯いた。
「まあ、彼女達のことは気にしなくてもいいわよ。そこいらにたくさん飛んでいるんだから」
「けど、やっぱり気にする。だってその……裸、なんだし」
「そう? 昨日も言ったと思うけど、彼女達は氏民にもなれない最下級の伝……いえ、エイジャよ。人の生気を吸わず、花の蜜を吸って生きる存在。別に害は無いけれど、鬱陶しいなら追い払ってあげましょうか?」
「……ナイト、お前ちょっと意地悪だな」
 そうかしら、そう言って彼女は嬉しそうに笑った。自分より弱い存在に危害を加えることを嫌うこの少年が、彼女達に何も出来ないことはわかっていた
「けど、どうして俺の周りに集まるんだ? 今までいなかったのに」
「いなかったんじゃない。隠れていただけよ。彼女達はスフィルと同じで存在自体が着薄だから、その気になれば完全に気配を遮断することが出来る。それこそ、玩具使いに見つかる事無く……ね。それに」
 一端言葉を切ると、ナイトは少年の右腕にそっと触れた。
「それに、自分達の住む場所に“深淵の御手”なんて馬鹿げた物を持つ人が現れたのなら偵察に来るのは当然よ。それで危険な存在なら逃げるし、逆に庇護してくれそうなら媚を売る。あなたは……そうね、懐かれたみたい」
「懐かれたって……」
 屋根に座っている妖精の隣りに、別の妖精が舞い降りる。これで二匹目だ。いや、今までどこに隠れていたのだろうか、少年の周りには、十匹以上の妖精がいて、笑いながら自分を見たり、庭に植えてある花にそっと口を寄せて生気を吸ったりしている。
「……」
 その穏やかな光景を眺めながら、聖亜は無意識に口元を緩めた。
「……話は変わるけど、聖亜、昨日の提案考えてくれたかしら」
 だが、傍らにいる人形が呟いた言葉に、すぐにその笑みを消す。
「昨日の話……この世界を離れること、か」
「ええ……このままこの世界にいれば、あなたは必ず人間に“殺される”。彼らは不可解なものを排除したがるから……聖亜、人間とエイジャの混血児であるあなたは、人間にとってもっとも不可解な存在よ。けれど」
 不意に、ナイトは口元から笑みを消した。
「けれど私達……つまりエイジャの住む“四界”であれば排除される心配は無い。私達の世界では、力が全てだから。なら深淵の御手を持つあなたを排除できる存在など、いるはずが無い。いいえ、逆に皆あなたにひれ伏す事になるでしょう。だから聖亜、私達と一緒に四界に行きましょう。もしあなたが望むなら、赤界に行ってあなたの親戚を探せばいい。深淵の御手を所持しているエイジャは王だけだから、見つけるのはそう難しく無いわ」
 親戚を探す、ナイトの魅力ありすぎる言葉に、聖亜はぼんやりと空を見上げた。
「……ごめん、ナイト。もう少しだけ考えさせてくれないか?」
「……ええ、いいわよ。それにこの世界に残っても良いのだし、その時は私があなたを必ず護るから」
 あっさりそう言うと、ナイトはそっと聖亜の頬に口付けした。
「そうか……ありがとう。けど無理はしないでくれよ」
「ふふ、心配してくれるの? ありがとう。けど大丈夫…それより見て御覧なさい、そろそろ動くわよ」
 ナイトが眺めている庭に目をやって、聖亜は少し顔を引き締めた。

 
 一人と一体は、黙って見詰め合っていた。


 一人は両手で木刀を持つ白髪の少女だ。肩の所で切りそろえた髪が風でさらさらと揺れる中、相手をしっかりと見据えている。

 一体は赤い鎧兜に身を包んだ人形だ。身長はナイトと同じ50センチほど。人形劇に出れば子供達に喜ばれそうだが、その表情は引き締まっている。


 彼らは一時間ほどその場で睨みあっているだけだ。だがその気迫により、その周囲に妖精は飛び回っていない。

 やがて、一際強い風が吹き、家の周囲にある竹薮がざわりと揺れた。青葉が一枚ぷつりと千切れ、ふらふらと舞いながら彼らの間に落ちた、その瞬間―
「むっ!!」
「はぁっ!!」
 二人は、同時に地を蹴り、空に舞い上がった。


キィンッ!!

ガキッ!!

 木刀と拳が打ち合った音が聞こえ、それが止むのとほぼ同時に、一人と一体は、相手がいた場所に同時に着地していた。
「むっ」
「く……」
 地面に足を着いたとき、人形は僅かにへこんだ脇腹を押さえ、少女は右肩を抑えた。聖亜には拳と木刀が一度打ち合ったことしか分からなかったが、どうやらその他に数合打ち合っていたらしい。
「ふむ……正面からならほぼ互角か」
「ああ、いい鍛錬になった。ありがとう」
 互いに向き合い一礼すると、一人と一体は少年のいる縁側に向かって歩いてきた。
「ヒスイ、ポーン、お疲れ様」
「ああ。さて、次はお前の番だな、聖亜」
「う……」
 白髪の少女―ヒスイが差し出した木刀を見て、聖亜は一瞬たじろいだ。これが普通の木刀なら、もちろん1000回や2000回は軽くこなせる。だがこの木刀は、
「……」
 無言のまま、差し出された木刀を手に取る。途端にがくんと前につんのめった。木刀の先端が、完全に地面にめり込む。
「くっ、そ!! やっぱり重すぎるぞ、これ!!」
 
 そう、この木刀は普通の木刀の万倍の重さがあるのだ。

 愚痴を零しながら、それでも懸命に木刀を持ち上げる。その姿は先程のヒスイの動きと比べるとまさに月とスッポンだが、少女の顔に浮かぶのは驚きの表情だ。
「私としては、重すぎるといいながらもそれを扱えるほうがおかしいんだがな、その“膝打丸”は、形状は確かに普通の木刀だが、ヘファト教授が片手間に作り上げた練習用の魔器だ。片手間で練習用といっても、スフィル程度なら一撃で潰せるし、エイジャにも多少抵抗は出来る。その代わり巨大な神木を一本丸ごと使っているから、並大抵の重さではないはずなんだが……さすがは“結界喰らい”と言うべきか」
 ヒスイの放った言葉に、聖亜はふと眉を顰めた。
 もちろん彼女にあざけりや侮蔑は無い。ただ事実を淡々と述べているだけだ。

 それが分かっていても、やはりいい気分ではない。

「なあ、ヒスイ」
「ん? どうした聖亜」
「……いや、なんでもない」
「そうか、ならさっさと素振りを始めろ。目標は百回だ」
「う……」
 少女の厳しい口調に、聖亜は仕方なく振り上げた木刀を一気に振り下ろした。がくんと腕に強い衝撃が走る。これでは百回もすれば腕が折れそうだ。慌ててポーンとビショップに縋るような視線を送るが、
「ふむ、これも若のためだ。どれ、俺が動きを見てやろう」
「そうそう。聖亜はまだ“深淵の御手”をうまく使えないんだから、ちゃんと訓練しないとね」
「う……わ、分かったよ。二……三」
「それでは木刀に振り回されるだけだ。もっと腰を落とせ」
(腰を落としたって、百回なんて出来るわけないだろ!!)
 ポーンの指導に心の中でそう愚痴りながらも、聖亜は懸命に木刀を振っていった。

「……様になってはいないが、まあ昨日よりはましだな」
 少年が木刀を振り回すのを見て、縁側に腰掛けていたヒスイがそう呟いた時、
「そうね。けど一体どうして聖亜に訓練をさせているのかしら」
「……」
 彼女の隣にいるナイトが、ふと尋ねた。
「大体絶対零度、あなたエイジャの討伐は終了したのでしょう? さっさと帰ればいいじゃない。ああ、それから万が一にも聖亜に手出ししようとなんて考えないことね。彼の従者である私達が許さないし、それ以前にあなたでは彼に近寄ることすら出来ないわよ……って、それは無いか。普通は戦う相手をわざわざ鍛えたりしないものね」
 ヒスイは暫らく前を向いていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……帰るのは無理だ。キュウが今回の事件に関して報告したらしいが、まだ帰還命令が出ていないからな。上層部は恐らくこの事件をきっかけに、高天原の縄張りであるここ日本に足場を作るつもりなんだろう。それに鎮めの森でドートスが放った数十個の魂のせいで、神木がかなり傷ついた。幸い“門”が開かれることは無かったが、キュウが細胞を活性化させても、傷がふさがるまで最低でも三月はかかるし、何より眠っている数万の魂が活発化してしまった。それを狙って、エイジャがこの都市に来やすくなる。高天原の守護司が行方不明の今、ここを離れるわけにはいかない。それに」
「それに?」
「……聖亜は半分エイジャの血を引いている。人に害を与えないのなら私は放置しても問題は無いと思うが、魔器使の中にはエイジャであれば全て滅ぼしてしまえという強硬派がいることも確かだ。彼らが聖亜の事を知れば、間違いなく襲撃してくる」
「そう。けど絶対零度、あなただって玩具……魔器使じゃない。何でわざわざ同じ魔器使いに狙われる聖亜に訓練なんて……あなた、もしかして彼の事」
 ナイトが自分と懸命に素振りを繰り返す少年を交互に見る。そんな彼女の様子に、ヒスイは呆れたように首を振った。
「お前の言いたいことは分かっている。けどそれは絶対にない。いや、別に聖亜の事が嫌いというわけではないんだ。好きか嫌いかで言えば間違いなく好きだろう。けど」
「けど?」
「……私には婚約者がいる。彼を裏切ることは出来ない。だから、あいつを異性として見ることは最初から出来ないんだ」
「そう、結構複雑な事情があるのね、あなたにも」
 そう呟いたナイトが、そっと午後の空を見上げたときだった。
「そろそろ夕方なりますよ、訓練は一端やめにして、お茶の時間にしませんか?」
「……」
 台所に続く廊下の奥から、赤いローブに身を包んだ50センチほどの人形と、晴れ渡った夜空に似た髪と瞳を持つ少女が歩いてきた。それぞれ手に盆を持っているが、少女は自分が言う台詞を人形に取られたためか、ちょっとむくれていた。
「そうだな……ポーン、聖亜はどれぐらい素振りをした?」
「……ふむ、大体五十回前後といったところだ。昨日の三十回よりは多いが……どうする? やめさせるか?」
「……いや、最低でも七十回は振らせてくれ。それぐらい振り終わったら、休憩するように言ってほしい。小松、湯は沸いているか?」
「……え? は、はい。湧いております」
「そうか。ならお茶の前に少し湯を浴びさせてもらおう。小松、一緒に来て背中を流してくれ」
「えっ!? そ、そんな、駄目ですヒスイ様!!」
 顔を赤くして綿綿と手を振る小松を、ヒスイは不思議そうに見つめた。
「え? 何が駄目なんだ? 女の子同士だろう」
「へぅっ、それはそうなんですけど、けどあの、まだちょっと無性の頃の感覚が……」
 あたふたと呟く少女を見て、ヒスイはふっと微笑した。
「何だそんなことか。なら、やはり一緒に湯を浴びねばな。まだ慣れていないから、上手く体を洗えないだろう。いっておくが、拒否権は無いからな」
「あうう、は、はい」
 観念したように下を向く少女と共に、ヒスイは軽く鼻歌を歌いながら、風呂場へと向かっていった。


「……ろく、じゅうはち……ろく、じゅ……きゅ」
 意識を朦朧とさせながらも、聖亜は必死に糞重い木刀を振り続けた。時々木刀がぬるりとすべる。おそらく手の平の皮が破け、血が滲み出ているのだろう。もうポーンの声も聞こえない。あと少し動けば、自分はもう気絶して、そのまま目を覚まさなくなるかもしれない。そう思いながらも、何とか木刀を振り上げ、最後の一振りをする。
「…………な……な、じゅ……う」
 その時、ぽんと右足を軽く叩かれる。終わりの合図だ。
「く……はっ」
 木刀を手放し、庭に仰向けに転がる。手足や顔に泥が付くが、聖亜は気にせず大きく息を吸った。
「……じか? か」
 意識の彼方からポーンの声が微かに響く。それにのろのろと真っ赤に染まった右手を上げて応えると、聖亜はずりずりと縁側まで這って行った。
「……ぶなの? 聖」
 おぼろげな視界の中、ナイトが覗き込んでくるのが分かる。それに笑いかけると、彼は壁に寄りかかって歩き出した。とにかく水でもいいから風呂に入ってさっぱりしよう。
 心底そう思いながら。

「……ちょ……さま、そんな……と」
「むう……や……松のむ……大きい……」
 いつもなら10秒もかからずにたどり着く風呂場に、3分かけてたどり着くと、彼は風呂場の戸に手をかけ、ふと顔を上げた。
「……ああ、そうだ。服……脱がないとな」
 上着とズボンを脱ぎ、シャツとパンツも脱ぐ。細く引き締まった身体が露になるが、それを見るものは、ここにはいない。
 とにかく裸になって、今度こそ風呂場の戸に手を置くと、

 ガラリッ

 と、一気に開けた。

「けど、どうして私より胸が大きいんだ……」
「そ、そんな事私に言われても……」

「……」
「……」
「……ふうっ」
 呆然とこちらを見る二人の少女の前を通り過ぎ、何故か湧いている風呂の中に入る。疲れきった身体に温かい湯が染み込んできて、意識がはっきりしたとき、
「…………ん?」
 聖亜は、こちらを見つめる二人の裸の少女と、ばっちりと目が合った。
「……あれ? ヒスイと小松ちゃん。どうして風呂に? いつから入ってきたんだよ」
「「っ!! この、あほんだら~!!」」

ドガメギャグシ!!

「ふべ!! な……なんで、さ」
 二人の少女の拳を顔に受け、聖亜はぶくぶくと風呂の中に沈んでいった。



 風呂場での騒動から10分ほど経った後、聖亜達は座敷に移動した。といっても聖亜の顔は殴られたせいでぼこぼこになっており、彼を見る少女の目はきつい。
 そのためあまりくつろげないでいるが、それでも二人は出されたお茶を飲み、それぞれ好みの菓子を摘んでいた。三体の人形は聖亜から微量なエネルギーを常に供給されるため食事を取る必要は無く、魔器である小松は顔を真っ赤に染めて小言をぶつぶつと呟いたあと、刀に変化して、今はヒスイの横に置かれている。
「……」
「その……すまなかった」
 みたらし団子を手に取り、食べ始めた時もこちらを睨むのをやめない少女に、聖亜は深々と頭を下げた。それで少しは気が済んだのか、少女の怒りが段々と収まっていく。
「……まあ訓練で扱きすぎたこちらにも責任はある。それより、少し聞きたい事があるんだが」
「ん? どうした、ヒスイ」
 気を取り直してかりんとうを食べ始めた少年を、ヒスイは串を皿の上に置き、そっと見つめた。
「いや、なんだか以前とは雰囲気が違うと思ってな」
「……そうか?」
「うん。前と比べて気配が張り詰めている気がする」
「あら、そうね。~っす、て言わなくなったし」
 少女の言葉に、テレビを見ていたナイトが同意するように頷いた。彼女達人形はどういうわけかテレビが気に入ったらしい。といっても番組の内容ではなく、箱の中から様々な映像が飛び出すのが面白いらしい。ただ一昔前のテレビのため、少し映りが悪い。聖亜自身はあまりテレビを見ないため気にしなかったが、流石にそろそろ買い換えるべきだろう。
「そうか? けど別に意識してそういう口調にしていたわけじゃなくて、自然に出ていた言葉だからな……まあ前の方が良いなら何とか直してみるけど」
「いや、そうじゃない。どちらかというと今の口調のほうが良い。前の話し方は、聞いていて少し苛々したからな」
「ああ、だから別に直す必要は無いぞ」
 そう言って微笑むと、ヒスイは別のみたらし団子を手に取り、ひょいひょいと口の中に入れていった。確かこれで15本目だ。明らかに普通よりも多い本数だが、まあみたらし団子自体は知り合いから強引に押し付けられるため不自由はしていない。

(けど、こんなに食っているのにぜんぜん体格が変らないのは、やっぱりエイジャとの戦いで疲労しているからだろうな)

 そう思いながら、自分もかりんとうを口の中に入れたとき、


『げ、またかりんとうかよ、いい加減飽き飽きしたぜ』


 不意に、頭の中に少女の声が響いた。


「……っ!!」
 それとほぼ同時に右腕が疼きだす。咄嗟に左手で押さえるが、その手の中で右腕はドッ、ドッ、ドッ、と強く脈打った。
「聖亜……また“奴”か?」
「……ああ、けど大丈夫だ。“表”には出ていない」
 咄嗟に傍らの刀に手を伸ばした少女に笑いかけると、聖亜は茶箪笥の上においてある鏡を見た。そこには長い髪も、二つの瞳も黒いままの自分がいる。大丈夫、どこも“赤く”なってはいない。

(急に話しかけてくるな、炎也)

『けどよ、この五日間お菓子がずっとかりんとうと煎餅だけっていうのは飽きたんだよ、たまにはケーキやクッキーが食いたいし、お茶の代わりにジュースが飲みたい』

 頭の中でぶつくさと文句を言う少女に、聖亜は呆れたように首を振った。五日前、蛇神との戦いの時突如目覚めた彼女は、今は聖亜に体の主導権を明け渡しているものの、今までいた深層意識には戻らず、“表”付近に居座り、時々こうやって話しかけてくる。

(味がする分、前より良いだろ)

『ああ。今まではお前が食ってるの見るだけで、味も匂いも何もしなかったから、それより良いといえばいいんだけどよ、なあ頼むよ。いい加減どっかでケーキでも買って食ってくれ』

(……分かったよ、けど明日は駄目だ。用事がある。けど明後日以降なら、何とか都合つけるから)

『本当か? ラッキー!! 約束だからな。それじゃ、俺はそれまでもう一眠りさせてもらうぜ』

(ああ、お休み)

 彼女の気配が段々薄れると同時に、右腕の疼きも収まっていく。それが完全に収まると、聖亜はふうっと息を吐き、左手を放した。
「大変だな、内に自分以外の何かがいるというのも」
「……もう慣れたよ。ところで、さっきから気になっていたんだけど」
「ん? どうした?」
「いや、何だかキュウの姿が見えないと思って」
 お茶を飲んでいるヒスイに、聖亜は周囲を見渡しながら尋ねた。
「……お前、今頃気づいたのか。いや、あいつは何もないときは昼過ぎまで眠っているから、気づかないのも仕方ないのだけれど……あいつは午前中のうちに、“尽きざる物”を持って出かけたぞ」
「は? 出かけたって……どこにだよ」
「詳しくは知らないが、確か古い知り合いに会うとか行っていたな」
 湯飲みをことりとテーブルの上に置き、ヒスイはふと外の景色を眺めた。それにつられるように、聖亜も外に目をやる。家の周囲にある竹薮が、風に吹かれさらさらと流れていた。



『次のニュースです。市内で若者を中心に流行しつつある新型ドラッグ“K”について、警察は取り締まりの強化を発表しました』



西暦2015年(皇紀15年) 7月13日 15時00分

 午後の日差しが照りつける中、旧市街の西に広がる田園地帯,その間を通る細道を、一匹の黒猫がゆっくりと歩いていた。
 その毛皮は日の光を浴びてまるで黒真珠のように輝き、前方をしっかりと見つめる紫電の瞳は、威厳に満ち溢れている。

「……変らんの、この風景は。どれほどの歳月が過ぎても」
 不意に、彼女はそう呟いた。

『以前にも、ここを通ったことがおありなのですか?』

 その呟きに、どこからか女の声が響いた。周囲には人影どころか、犬猫一匹見当たらない。だが黒猫は全く慌てることなく、微かに頷いた。
「だいぶ昔にな。そうさな……あれからもう5,60年ほどになるか、早いものだ」
 目を細めると、彼女は道の左右に広がる田園地帯を懐かしそうに眺めた。

『……しかし、本当に“奴ら”の手を借りるおつもりなのですか?』

「うむ。神木が傷ついた以上、この地が再びエイジャに狙われるは必至。ならば今我らがすべきことは、都市全体に一刻も早く監視の目を広げ、奴らの動きを掴むことだ。だが都市全体を監視するなど、我らだけでは不可能であるし、仮に聖亜と人形達に全面的に協力してもらえたとしても、数が足りなすぎる。ヴァルキリプスから増援を呼んでもよいが、それが到着するのはどんなに早くとも一週間はかかる。今はどんな手でも打っておきたいのだ。高天原も何らかの手は打つと思うが、不確定要素に頼るのは危険だからの」

『確かに……』

「……それに」
 不意に、黒猫は髭を悲しげに揺らした。
「それにヒスイは禁技を使用した。査問会にかけられる筈が、しかし一向に召還命令が来ぬ。まあ、あちらから誰かが派遣されてくるとは思うが、もしそれが“奴”であった場合、“極刑”の可能性が高い。ある程度の罰は受けさせるが、さすがに極刑はやりすぎだ。それに対抗するための手段は、多いほうがよい」

『……大変ですね、小姫も』

「小梅、そなた随分と心配性だの。ヒスイが未熟なのが悪いのだ……っと、見えてきたな」
 前方を見る黒猫の視線の先に、深い木々に囲まれた一軒の建物が微かに見えた。



  それは、古びた荒れ寺だった。



 市街地から外れた山の麓にある事から参拝者はほとんど居らず、昭和初期に老いた住職が居たという記録を最後に管理する者もなく、その由来も建てられた年代も、そして名前すら不明であり、市街地にあったならすぐさま取り壊しの運命にあったこの寺は、だが幸か不幸かこの場所にあることで逆にひっそりと残っており、今では“彼ら”にとって格好の根城と化していた。


 そう、忌み嫌われることを受け入れた代わりに、知恵を持った彼らの根城に


「……ふんっ、居るな」
 荒れ寺に入ってすぐ、こちらを殺気を込めて見つめる幾つもの視線に、キュウはふんっと鼻を鳴らした。

『囲まれていますね……少し減らしましょうか』

 そんな黒猫に、小梅がそっと声をかける。それと同時に、黒猫の首に下げているペンダントが微かに揺れた。
「いや、こやつら“雑魚”に、そなたの力を借りる必要はない!!」
 わざとらしく声を張り上げると、彼女を取り囲む気配に混ざっている殺気が、一気にその容量を増した。




『こやつ、猫の分際で我らを侮辱した!!』

『雑魚!? こやつ、今我らを雑魚と言ったか!!』

『猫の分際で我ら“松次郎一家”の根城に侵入した無礼、その身に味わらせてやれ!!』

『まて、若頭からは様子を見るだけにせよといわれたはずだぞ!!』

『何だと!! 三番隊、貴様ら怖気づいたか!!』

『ここでこやつを取り逃がせば、猫共は調子に乗ってここに攻め寄せるぞ!!』

『100年の間守り通した我らの根城に、そのような最期を迎えさせてなるものか!!』

『猫共への見せしめだ!! ここで奴の体を肉に変えてやれ!!』

『ま、まて、だから早まるなというに!!』

『ええいっ!! 三番隊の弱羽共は引っ込んでいろ!! 俺が行く!!』

『おお、さすが我ら二番隊の隊長、犬すら抉る“強襲”が誇る嘴の威力、あの猫に存分に思い知らせてやれ!!』

『おうともさ、行くぞ!!』


 ガアッと甲高い鳴き声が聞こえたかと思うと、気配の一つがキュウに向かって一直線に飛び込んできた。並みのスピードではない。だが、その嘴が黒猫の背中を抉ろうとした、その瞬間
「……甘い」
 キュウはその一撃を体を横にそらす事で難なく避けると、再び上昇しようとしているその黒い影を、右前足でむんずと押さえつけた。
「ガッ!? ガアッ、ガアアッ、ガッ!!」
 彼女の足の下で暴れているのは、一羽の鴉であった。大きさは普通の鴉の1,5倍ほど。絶体絶命の危機だというのに、こちらを睨むその瞳には力が篭っている。

『馬鹿なっ!! “強襲”の松兵衛が、たかが猫一匹に敗れただと!?』

『馬鹿者がっ!! だから迂闊に手を出すなといったのだ!!』

『うるさいっ!! こうなってしまってはそんなことを言っている場合ではないだろう!! このまま隊長を見殺しにすれば、我ら二番隊の名折れ、救出に向かうぞ。数で押し切る。皆我に続け!!』

『『『応っ!!』』』

 鴉が一羽木の上から飛び上がると、それに続くようにあちこちの木がざわざわと揺れ、中から黒い影が一斉に飛び出してきた。その数は少なくとも数十羽はいる。彼らは急にその鋭い嘴を向け、今にも襲い掛かろうとしている。だが、

『……待て』

『『『ッ!!』』』

 だがその動きは、本堂の中から発せられた鋭い声によって遮られた。


「……ふん、どうやら少しは話の分かる奴が出てきたか」

 本堂の中から出てきたのは、やはり一羽の鴉だった。背格好は普通の鴉と何ら変らないが、あちこちに傷を負い、特に右目はまるで鋭い爪によって抉られたかのように失われている。

 そして何より、その気配は鴉、いや鳥などに収まるものではなかった。

『……客人、子分共の軽率な行動、どうぞお許し下せえ。そして出来うるならばお前様が押さえつけているその馬鹿の命、圧死に預けてくださらねえでしょうか』

「……」

『無論、ただとは言わねえ。この不肖の命がお望みなら、いくらでも差し上げやしょう』

『だ、駄目だ若頭、これは俺の責任だ!! 若頭が死ぬ必要はね『うるせえっ!!』ひっ』

 黒猫の下で喚く鴉に向かって、片目の鴉はガアッと甲高く鳴いた。

『いいか松兵衛、子分の不手際は兄貴の不手際だ。それに手前が隊を預かっている以上、若頭である俺が責任を取るしかねえだろうが!!』

「ふむ……随分と潔い事だな。そなた、名はなんと言う」

『へえ、“渡り”の松五郎と申しやす。見ての通り、何のとりえもねえ若輩者でござんすが、幸運にも叔父の松次郎親分に目をかけて頂いて、分不相応にも若頭なんぞを務めさせていただいておりやす』

「……その名は聞き覚えがある。貴様、鴉のくせに鷹と戦って勝ったなどという“鷹殺し”か。まあいい、我の目的は殺戮ではない。それに貴様の命なんぞもらったところで、腹は膨れぬ」
 皮肉を込めてそう呟くと、キュウは鴉を押さえつけていた前足をそっとどかした。自由になった鴉は一言ガアッと叫ぶと、猫の爪が届かない空へと一目散に飛び上がった。

『……礼を申しやす。しかし、松兵衛を軽くいなすそのお手並み、さぞ名のある方とお見受けしましたが……そんな方がこんな場所に一体何の御用で?』

「ふん、別に大した用事ではない。ここから出て行けと言いにきたわけでもないしの。我はただ、旧友に会いに来ただけだ。松五郎と言ったな、そなたの主、“洟垂れ(はなたれ)”の松次はこの中か?」

『……訂正していただきやしょう。この中にいらっしゃるのは、洟垂れなんぞではなく、高知の鴉社会を束ねなさる、齢60を超える大鴉、“欠け嘴(かけくちばし)”の松次郎親分で』

「我から見れば60歳など、おしめも取れぬ洟垂れ小僧にすぎんさ。どうでも良いが、案内するつもりが無いなら、さっさと其処をどかぬか」

『……』

 黒猫と片目の鴉は暫し見つめあったが、負い目があるからだろうか、松五郎という名の鴉は、警戒しながらもゆっくりと本堂に向けて歩き出した。

『……本来なら馬鹿な事を言うんじゃねえと一蹴する所ですが、今日はこちらに非がありやす。案内いたしやしょう。ただし親分はご老体ですので、くれぐれも失礼の無いようにお願いいたしやす』

 その言葉に微かに頷くと、キュウは鴉の後に続いて、本堂の中へと歩いていった。



 本堂の中は、外側同様荒れ果てていた。


 障子は破れ、柱は半ば腐りかかり、辺りには鼠やら猫やらの腐敗した死骸が転がっている。
 それらが発する死臭に、キュウは髭をピクリと揺らした。

『ここでございやす』

 ふと、先を行く松五郎が立ち止まり、羽で通路の左側にある部屋を指した。以前は住職が使っていた部屋なのだろう。他の部屋同様汚れているが、中に何かが居る気配がする。
「分かった、案内ご苦労だったな。もう下がってよいぞ」

『いえ、そういうわけにはめえりやせん。まだあなた様を完全に信用したわけではありやせんので』

「……何かあれば、自分の身を盾にしてでも主を護るか。殊勝だが、無駄な心掛けだな。まあ良い。とにかく入らせてもらうぞ」
 冷徹にそう言い放つと、キュウは目の前の障子を、前足で一気に開け放った。


 ビュッ!!


 障子を開けて部屋の中に足を踏み入れた黒猫の目に飛び込んだのは、鴉の鋭い爪だった。だが片方の羽に包帯を巻いたその年若い鴉は、キュウの後ろにいる松五郎が一声甲高くなくと、びくりと羽を震わせ、寸での所で床に舞い降りた。

『父様(ととさま)、なぜ止める!!』

『この馬鹿娘が!! この方は侵入者ではなくれっきとした客人だ。それに第一相手の力量も分からねえのか、そんなんだから余計な傷を負うんだ!!』

『けど父様、ここには!!』

『うるせえっ!! ごちゃごちゃぬかしやがると、ここからおっぽり出すぞ!!』

『…………確かにうるせえな。手前ら、客人の前(めえ)で一体何騒いでやがる』

 と、部屋の隅にある木の葉がもそりと動いた。
「ふん、久しいな……“洟垂れ”の松五」

『……あっしの昔のあだ名を知っていなさるか。それに久しぶりとは……客人、お前様はどこのどちら様で?』

「……どうやら耄碌したようだな、小僧」
 不意に、ぞわりと部屋が震えた。半ば腐りかけた柱がガクガクと揺れ動き、天井にはビシビシと亀裂が入る。


 それほど巨大な気配が、キュウの体から発せられているのだ。


『ッ!! お前様は、まさか……やめろ松五、このお方に無礼は許さねえ!!』

 黒猫に咄嗟に飛び掛ろうとした松五郎は、その一言でびくりと停止した。もう一羽の若い鴉は、圧倒的な気配の前に、体を一寸たりとも動かすことが出来ない。
「ふん、ようやく思い出したか」

 キュウが気配を弱めると、木の葉の中からよたよたと一羽の鴉が這い出てきた。だいぶ年を取っているのか、所々に白い物が混じっており、嘴の先が酷く欠けている。

『お久しぶりでございやす“姐さん”。いや驚きました。まさか生きている間にもう一度お目にかかれるとは』

「ふん、我も少しばかり驚いたぞ。あの時の洟垂れ小僧が、今では親分と呼ばれる立場に居るのだからな……小梅」

『はい』

 キュウがペンダントに声をかけると、その中から大きな買い物袋が幾つも飛び出してきた。その中には小梅に買わせた肉や魚が大量に入っている。
「少ないが土産だ。皆で食べてくれ」

『いや、こいつはありがたいこって。最近はいい生ごみを出す店が少なくて、特に15年前に西が焼かれてからは、あっちに迂闊に近づくと、こっちが食い物にされちまいますから、犬や猫との縄張り争いが激しいの何の』

「……15年前か、松次、そなた災厄があったとき、何が起こったか知っているか?」

『いえ、あっしは当時四国を離れて、九州にあるお袋の実家に行っておりやしたから、詳しいことは何も……ただ』

「ただ、何だ?」

『へえ、当時留守を任せていた若い者の話じゃ、西は何もかも、それこそ“一瞬”で燃えちまったようなんで』

 老鴉の言葉に、キュウはほんの少し、目を伏せた。
「何もかも……人も動物も植物も、それこそ大地すら一瞬のうちに、か」
 彼女の脳裏に、地獄絵図が浮かび上がる。何一つ不自由の無い生活から、燃え盛る炎に包まれ、一瞬で全てを、それこそ命すら奪われた者達の苦痛と絶望は、一体どれほどのものがあっただろうか。

『……ああ、それからもう一つ思い出しやした』

「ふむ、もう一つだと?」
 老鴉の声に、キュウは伏していた顔を上げ、彼の顔を覗き込んだ。

『ええ。あの災厄が発生た直後、若い者が何羽か偵察に行ったらしいんですが、結局戻ってきたのは一羽だけで。そいつもまもなく死んじまったんですが、死ぬ寸前、妙なことを口走ったんです』

「……妙なこと?」

『ええ。何でも燃え盛る炎の中に、数名の人間が入っていったようなんです。うわ言で奴が言っていたのは……そう、確か修験者のような格好だったとか』

「修験者か……とすると、高天原の連中か? いや、別におかしくは無い。ここは彼らの勢力圏だからな。おかしくは無いが……」
 考え込んでしまった黒猫を、松次郎は暫しの間見つめていたが、やがておずおずと話し掛けた。

『あの、姐さん』

「…………ん? 何だ、松次」

『いえ、まさか……60年前のような“戦”が、また起こるんで?』

「なんだ、怖いのか松次、まったく、怖がりなのは変らんな」
 そう少し嘲笑したキュウに、だが老鴉は一度弱々しく、それでもはっきりと鳴いた。

『怖い? 怖いですって? ええ怖いですとも。あの戦のせいで、あっしの一族はほとんどやられちまいやしたからね。先代の親父も、跡目を継ぐはずだった兄貴も、あっしと卵から孵ったばかりの妹を残して、皆死んじまいやがった。怖いはずがねえでしょうよ……ですがね姐さん、見てくだせえ、あっしのこの老いた身体』

 ひょこひょこと鴉が歩いてくる。その身体からは羽毛がほとんど抜け落ちており、もう飛ぶことは出来ないだろう。
「……」

『いくらあっしが“ヤタ”一族の血を引いているとしても、少々無駄に生きすぎやした。幸い跡継ぎの松五には、他の鴉を引き付ける魅力のようなものがございやす。安心して後を任せられるでしょう。ですがね姐さん、あっしはごめんなんでさ。親兄弟が戦場で華々しく散ったというのに、この“欠け嘴の松次郎”が、一羽だけぬくぬくした布団の中で、寝小便たれながらおっ死ぬなんざ、決してね!!』

「……」
 辺りに重苦しい沈黙が落ちる。それを破ったのは、黒猫が苦しげに吐いたため息であった。
「……そうか」
 ぎらぎらとした目でこちらを見つめる老いた鴉に、キュウはもう何も言わなかった。いや、何も言えなかった。なぜなら、彼にはもう何を言っても無駄であるから。自分に出来るのは、ただ彼の望む死に場所を与えてやることだけだ。
「“欠け嘴”の松次郎、そなたの覚悟は分かった。いいだろう。そなたとそなたの率いる郎党の力、今一度だけ借りるとしよう。だが覚悟せよ、そなたらの前に広がる道は、誰からも祝福されぬ修羅の道ぞ」

『承知していやす。“あの時”だって人間は、必死に戦った俺達に対して礼の一つも言わなかった。それがもう一度繰り返されるだけって話です。それで姐さん、あっしらはまず何をすれば良いんで?』

「うむ。それなのだが、まずそなたの手下を使って都市の警戒に当たってほしい。そしてどんな些細なことでも良いから、何か変ったことがあればすぐさま我に知らせよ……ああ、それから」

『へい、それから、何をいたしやしょう』

 急に生き生きとした表情を見せる鴉に苦笑すると、黒猫はそっと声を落とした。
「実はある少年を見張って欲しいのだ。そのために誰でも良いから一羽借りたい……我もその少年といつも居られるわけではないからの」

『分かりやした。ですが姐さん、見張るより此処に監禁した方が楽じゃございやせんか?』

「いや、そういうわけにはいかぬ。別に敵対しているわけではないからな。それにもしもの時、あやつの力は頼りになる」

『そういうことでしたら。見張りには気配を消すことに長けた奴が良いんですが……おい松五、三番隊の末松なんてどうだ?』

『へえ、確かに末松の奴は気配を消すことは上手いですが、“いびき”がうるさくていけねえ。そうですな、自分も気配を消すことは出来やすが……姐さん、見張る少年とは一体どこのどちらさんで?』

「うむ。星聖亜という、黒い長髪と瞳を持つ、小柄でまるで少女のような……どうした?」
 聖亜の名前と特徴を言った途端、部屋の片隅に控えていた鴉がはっと顔を上げた。その様子に松五郎はカアッと呆れたように鳴いた。

『いえ……星聖亜という名前には聞き覚えがありやす。人間のくせに自分達鴉を嫌悪しねえ妙な野郎で、あっしも何度か餌を頂戴したことがありやすが……』
 
 一度振り返ると、松五郎は開いているほうの目を先程の鴉に向けた。

『こいつ、あっしの娘で加世(かよ)っていうんですが、すばしっこいのと気配を消すことだけはあっしの上をいくんですが、気が短いのと喧嘩っ早いのが欠点で、以前人間に襲われたとき、片方の羽に矢傷を受けましてね。その時その星聖亜という小僧に助けられましたんでさ』

『う……』

「ふむ、それはちょうど良い。そなた……佳代といったか」
 紫電の瞳に見つめられ、その鴉―加世は恐る恐る歩み寄った。
「……なるほど。父親からはヤタの血、そしてもう一つ……鴉天狗(からすてんぐ)の血を引いているな。これは母親の方か?」

『へ、へい。こいつの母親、つまりあっしの連れ合い何ですが、確かにほんの僅かではありやすが、鴉天狗の血を引いておりやした』

「……引いていた?」

『……母様(ははさま)は、昔鷹に襲われたとき、私を庇って』

「そうか……分かった。では佳代、聖亜の見張りはそなたに頼むとしよう」

『は、はい。身に余る光栄にございます』

「うむ。だが鴉の姿では万一の時聖亜をつれて逃げることは難しいだろう……そうだな。少し待っておれ」
 自分を見つめる紫電の瞳の奥が、不意にちかちかと光った。その光は段々強くなっていくのを見て、加世は知らず知らずのうちに後ずさった。と、
「…………むっ!!」

『きゃっ』

 紫電の瞳の奥にある光が、一瞬部屋一杯に光り輝く。咄嗟に羽で目を覆うとしたが、加世はその時、自分の羽が黒ではなく肌色であることに気付いた。いや、これは羽ではなく、
「……え? え、え? な、何ですかこれは!?」
 自分が羽と思って持ち上げたのは、人間の腕だった。それに視界がだいぶ高い。恐る恐る辺りを見渡すと、黒猫も、父も、尊敬する大叔父も、皆自分よりかなり背が低かった。

『……あ、姐さん、娘に一体何を』

「なに、眠っている鴉天狗の血を目覚めさせ、“天狗”の姿にしてやっただけのことよ。加世、背中の翼は自由に動かせるか?」
「え? は、はい。大丈夫です」
 彼女の羽はいつの間にか背中から生えていた。意識して動かすと、翼はばさっ、ばさっと大きく羽ばたき、体が少し空に浮き上がる。左腕には包帯がきつく巻かれており、それにそっと触れると、佳代はさっと赤面した。

『ほう、なかなか別嬪さんじゃねえか』

 松次郎の言葉通りだった。短い黒髪はさらさらと風に流れ、その肌は健康そうな小麦色。胸は少々小振りだが、充分美しいといえるだろう。
「ふむ、まあ母親に似たのであろうな。では加世は連れて行く。おぬし達は先程言った通り、新市街・旧市街・復興街、その区別なく見張り、何かあればすぐ我に知らせよ。それでは……ところで佳代、そなた一体いつまで裸で居るつもりだ?」
「え? あの……はだかって何ですか?」
「……もう良い。小梅、すまぬがヒスイの着替えを出してくれ。こやつの体格なら、おそらくぴったりと合うはずだ」
 困惑している加世に服の着方を教え、ようやく彼女が一人で着られるようになった時、日はもう大分傾いていた。
 疲れた顔で本堂から出た佳代に、友達の鴉が数羽舞い降りる。他の鴉の気配は無い。どうやらさっそく都市全体に散らばったようだ。自分が出した、監視という命令を実行するために。
 佳代の様子を見ていたキュウは、ふと遥か彼方、海の方角を見た。





「……嵐が来るな。日は陰り、晴れの日は長くは続かぬ……か」





西暦2015年(皇紀15年) 7月13日 20時40分


 曇りきった空の上を、一隻の飛空船がゆっくりと飛んでいった。

『アテンションプリーズ、本日は悪天候の中、当上級飛空船“シャイニングスター”号にご登場いただき、まことにありがとうございます。当機は後三時間ほどで太刀浪空港に到着いたします。到着の一時間ほど前にもう一度ご連絡いたしますので、それまで皆様、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ。繰り返しご連絡いたします……』

「ああもう、二時間ごとに同じ放送を入れるんじゃないよ、まったく!!」
 シャイニングスター号の特等席で、その女は苛立たしげに頭を掻いた。

 美しい女だ。

 年は20歳前後。だが東洋人風の顔付きは、彼女を実年齢よりも若く見せている。ポニーテールにしている薄紫色の髪は十中八九染めたものだが、けばけばしいほどではなく逆に妖しげな美しさをかもし出しており、少々くせっ毛なのか、先端ピンと跳ねているのもチャーミングだ。

 だが黙っていればそれだけで男が寄って来そうな(実際に何人もの男が声をかけてきたが、彼らは彼女に一撃でぶん殴られ、先程まで床に伸びていた)彼女の表情は今は心底不機嫌そうに歪んでいた。
「ったく、それもこれも“スヴェン”。あんたのせいだよ。本当なら昨日の特級飛空船に乗れたはずなのに、あんたが寝坊なんてするから」
「……いつも朝7時に起床するのに、いきなり朝5時に起きれるわけがないだろう。その事についてはきちんと謝ったはずだ。大体それをいうなら“エリーゼ”貴様とて化粧に時間をかけすぎだ。あれがなければ一昨日辞令を受けてすぐに出立できたはずなんだがな」
「……ちっ、本ばかり読んでいるくせに、よく観察していること!!」
「……」
 ぶつくさと呟かれる悪態を聞き流し、彼女の隣りに座っている大柄な男は、今まで読んでいた本に再び目を落とした。

 年は女とそう変らないだろう。身長は180センチを軽く超え、精悍な顔付きとがっしりとした筋肉を持つ偉丈夫だ。だが重力に逆らって空に伸びる髪は、疲れきった老人のようにぼさぼさな灰色の髪で、本を読み進める髪同様灰色の瞳からは、何の感情も見えない。
「……そういえばあんた、さっきから何読んでるんだい? というかこんなぐらついた飛空船で、本なんてよく読めるね」
「俺には振動すら感じないんだがな。まあいい。これは銀河鉄道の夜だ」
「銀河鉄道の夜って……はぁっ、あんたって本当に童話が好きだね」
「……別におかしくはないだろう。大体俺は「失礼いたします」……む?」
 その時、通路の先にある扉がシュッと開き、キャビンアテンダントがワゴンを押して入ってきた。
「ワゴンサービスか。こりゃいいねえ。丁度腹が減っていたんだ。お~いお姉さん、こっちこっち!!」
「……やめろ、恥ずかしい」
 立ち上がってぶんぶんと手を振る相方を、スヴェンは軽く嗜めた。だが彼自身空腹なのだろう。無理に止めようとはせず、キャビンアテンダントが来るのをじっと待っていた。
「お待たせいたしましたお客様。お肉とお魚のコースがございますが、どちらになさいますか?」
「そうさねえ。がっつりいきたい気分だから、肉の方にしようか。スヴェン、あんたはどうする?」
「そうだな……これをもらおう」
「あの、お客様、こちらは……」
 エリーゼにビーフステーキを手渡していたキャビンアテンダントは、スヴェンが指差した料理を確認すると、顔を引き攣らせた。
 ハンバーグやポテト、デザートにゼリーが付いているその料理はどこからどう見ても、
「も、申し訳ございませんお客様。こちらの“お子様ランチ”は、12歳以下のお子様が対象となっておりまして、その」
「……俺はちょうど12歳なのだが、何か問題があるのか」
 スヴェンがそう呟くと、キャビンアテンダントだけではなく、特等室の空気そのものがびしりと固まった。
 分厚い肉に思いっきり齧り付きながら、必至に笑いを堪えているエリーゼを軽く睨むと、スヴェンはその灰色の瞳でキャビンアテンダントを見据えた。その鋭く力強い視線は、どう考えても12歳の少年には真似できないだろう。だが、
「あはは、そう困らせるなってスヴェン。けどキャビンアテンダントさん、こいつはこんな“なり”でもれっきとした12歳なんだよ」
「は、はあ。でしたら、どうぞ」
 手渡されたお子様ランチを静かに受け取ると、スヴェンはスプーンを使って器用に食べ始めた。
 キャビンアテンダントは時折こちらをちらちらと振り返っていたが、やがて他の乗客に食事を勧めることに集中しはじめた。
「あははははっ!! 毎度のことだけど笑わせてくれるねえ。これだからあんたと“仕事”をするのは面白いんだよ。で? これで何度目だいスヴェン、“大人”に間違えられたの」
「……モノレールや船、そして飛空船に乗った回数とほぼ同程度だと記憶している。食事をしながら笑うな、肉片が飛ぶ」
 そのまま二人は暫らく食事をしていたが、やがて思い出したかのようにエリーゼが顔を上げた。
「それで? あんた本当に“極刑”に処すつもりかい?」
「……ああ。あの女はそれだけの罪を犯した」
「それだけのって……たかが禁技をぶっ放したぐらいじゃ、どんなに重くとも本部送還のうえ謹慎処分だよ。大体あれは力量不足と判断した本人が申告するもんだ。それをせず絶技をぶっ放して暴走させた例なんて、それこそ腐るほどある」
「……エリーゼ、貴様はその暴走で自分の命より大切な存在を奪われたことがあるか?」
「…………いいや、無いね。そもそもあたしには、もう命より大切な存在なんて、この世には何一つ残っていないのさ。けどいいかいスヴェン、任務に私情を挟むのは禁物だよ」
「分かっている。だがエリーゼ、我々に与えられた権限の中には“極刑”も含まれていることを忘れたわけではあるまい」
「そりゃ忘れてはいないけどさ……ったく、しかし本当に誰なんだい。あんたを“最高査問官”に推薦した奴は」
「……分かりきったことを聞くな。あの狂った錬金術師だ」
「そうだったね……そう言えばスヴェン、あんた最高査問官になるとき、一体何を“差し出した”んだい?」
「……人にそれを聞く前に、まずお前が言ったらどうだ? お前だって最高査問官だろう」
「ありゃ? 言ってなかったっけ。まあいいけどさ。いいかいスヴェン、あたしが差し出したもの、それは……」

 不意に、エリーゼは水平線の向こうに微かに見えてきた都市を眺め、低い声で呟いた。




「それは…………あたしの全てさ」




同時刻、

 高知県にある深い山の中を、二人の虚無僧歩いていた。頭にはすっぽりと天蓋と呼ばれる深編笠を被っているため、顔は分からない。だが一人は背が高いのに比べ、もう一人は相方と比べると幾分背が低かった。

 と、山中を抜けたのだろうか、二人は突然小高い丘の上に出た。遠くに微かに町の明かりが見える。その明かりを確認した瞬間、背の高い虚無僧はがくりと膝を付いた。
「……や、やっと着いた」
「まだです。この町を越えて、さらにその後ろにある町を越えて到着です」
 その虚無僧の呟きに、相方の虚無僧が冷静に応えると、膝をついた虚無僧は被っている籠の上から両手で思いっきり天蓋を押さえた。
「ぬお~っ!! 俺達一体どれぐらい歩いてきたと思ってんだよ。これって何? 一種の拷問か!? マジで!!」
「……そろそろ夜も近いですから、静かにしてください。ですが本当に長い時間歩きましたね。輸送飛空船が燃料切れになってからですから、およそ二日といった所でしょうか」
「くっ、それもこれも全部あのおっさんのせいだ!! 人がせっかく仕事を終わらせて、これから千里といちゃいちゃ出来ると思ったのに!! 何が行方不明になった野郎の後任として着任しろだ? 何が魔器使の行動を監視しろだ? そんな物、出世欲の高い奴らに任せておけばいいんだよ!! 大体あいつら、いつも威勢のいいことばっかり言ってるくせに、いざとなったら人の足引っ張るだけ引っ張りやがって!!」
「……非難の対象が変わっていますよ。ですが、確かに魔器使程度に私達を出すのは、少しおかしい気がしますね」
「はっ!! どうせ何か厄介なことがあるんだろうさ。あの婆さんのやりそうなことだ」
「……日本広しといえど、あの方を婆さん呼ばわりできるのはあなたぐらいでしょうね、“雷”」
「いいじゃねえかよ、本当に婆さんなんだから。ったく、若い者に後を任せてさっさと引退しろっての……まあ、お前と一緒だから文句は無いんだけどさ。な、“千里”」
「…………いつも言ってるでしょう。屋外でそういうことはや・め・て・く・だ・さ・いっ!!」

ドガッ!!

「ふげっ!!」

 しゃがみながら自分の尻を撫ぜてくる相方の背中を思いっきり殴ると、背の小さい虚無僧はすたすたと歩き出した。
 背の高い虚無僧は暫らく痛みでのた打ち回っていたが、慌てて“彼女”に追いつこうと、わたわたと走りだした。




  この日、かつて災厄が襲った都市に向け、二組の男女が足を踏み入れようとしていた。



  そしてそれは、少年と少女を巻き込む、新たな事件の始まりだった。




                                   続く





 こんにちわ、活字狂いです。悲しい事に5年前に買った自分のパソコンがぶっ壊れました。卒論とかで頑張ってくれたのに……ですので今は近くのネットカフェにて書いています。まあ、パソコン自体は昨日NECのLavie Lを買ったのでいいですが。
 さて、今回のお話はいかがだったでしょうか。序幕でも出てきた二組の男女が、いよいよ太刀浪市に入ります。彼らは少年と少女に、一体どのような影響を及ぼすのでしょうか。それでは次回、「スルトの子2 炎と雷と閃光と 第二幕   永久の別れと新たな出会い(とわのわかれとあらたなであい)」を、どうぞお楽しみに。


 追記  最近マクロスFにはまっており、先日イツワリノウタヒメのハイブリットパックを購入しました。自分はアルト×シェリル派なので、劇場版は大満足です。マクロスは初代・2・プラス・ゼロ・7と全部見てきましたので、2月放映のサヨナラツバサも楽しみです。

 追記2 第二次スーパーボット大戦Zが4月に発売されるのですが、コードギアスとマクロスFが参戦してくれて嬉しいです。ただしR2の最後、ルルーシュ対シュナイゼルで、彼らはどちらの陣営に味方するのでしょうか。まあ、ブライト艦長らが黒の騎士団の無能で無知な奴らとは違う事を祈っています。出来ればルルーシュには生きてほしいです。しかし、くっ!! 3月29日から自衛隊に入隊するのですぐに買えない!! がっくり。まあ、アナザーセンチュリーエピソードポータブルと戦場のヴァルキュリア3が買えるからいいか。しかしRで蜃気楼がとにかく弱すぎだ。もうちょっと頑張ってくれ、ルルーシュ。



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 第二幕   永久の別れと新たな出会い
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:3d0d579c
Date: 2011/01/24 10:14
 正義とは何かと、目の前にいる三人の男に聞いたら彼らはこう答えるだろう。

 灰色髪の男は、正義は悪を打ち砕く絶対的な力だと

 金髪の青年は、大切な存在を護るための力だと


 そして、小柄で少女のように見える少年はこう答える。



 正義など、どこにもないと







 この世界には、人を襲う化け物がいる。

 嘗て災厄を襲った都市に出没する化物(けもの)という中途半端な存在ではなく、絶対的な力と知識を持ち、時に人を陥れ、時に力づくで人を襲う彼らは、自らの事を伝道者と称していたが、彼らの事を知る人々は、古の哲学者が唱えた思想を元に、こう呼ぶことにした。



 すなわち、エイジャと。



 だが彼らは人間の住む世界に自由に来れるわけではない。狭間と呼ばれる道を通って来ることは出来るが、その方法はひどく体力を消耗する。それゆえ彼らはもう一つの方法を使う。人の欲望を糧に、彼らに自分達を喚起させるやり方を。


 西暦2015年、高知県太刀浪市を襲ったエイジャも、そうやってこの世界に出現した。
最初は自らを仮装道化師と称するエイジャと、その配下の人形達が人を襲い、次はその上司である蜥蜴の姿をしたエイジャが自ら出陣し、エイジャの貴族―爵持ちたるニーズヘッグを呼び出した。
 一時は浪市に住む全ての人々が犠牲になるかと思われた事件は、だが何とか“なった”。ニーズヘッグは滅び去り、太刀浪市に再び平穏が戻ったのである。


 しかし、それは犠牲無しに勝ち得た平穏ではなかった。


 
西暦2015年(皇紀15年) 7月14日 8時10分


「……おはよう」
「おう星、おは……よう?」
「あ、星君久しぶ……り?」

 その日、教室に入った聖亜に、何人かの同級生が挨拶を返し……そしてふと首を捻った。
「……星? お前何か雰囲気変わってないか?」
「……そうかな?」
「そうだよ。何か先週までの星君と違って、なんか……ダーク系の美少年って感じ?」
 女子生徒にそう言われ、聖亜は軽く頭を掻いて笑った。いつもは伸ばしっぱなしだった髪は、今日はきちんと梳かされ紐で一つに結ってある。隠れ気味だった細面な顔が前に飛び出し、怜悧な表情を覗かせていた。確かに彼女の言ったとおり、少し冷たい感じの美少年に見えなくも無い。
「そうそう。どうしたんだよお前、イメチェンか?」
「は? いや、イメチェンじゃなくて、元に戻っただ「聖!!」……うぷっ」
 と、いきなり誰かに抱きしめられた。顔全体をぎゅうぎゅうと柔らかい物が包む。暫らくその感覚を楽しんでいたが、流石に息苦しくなったのと、後ろにいるヒスイの視線が段々きつくなってきたので、しぶしぶと顔を放した。
「おはよう準、6日ぶりだな」
「ああ。久しぶりだな聖。ん~、聖のにおいだ」
 自分に頬ずりしてくる準に軽く笑いかけると、聖亜は席に向かって歩き出した。その途中声をかけてきた同級生達が、彼の変化に戸惑ったような顔をしていた。
「……な、なあ柳、星の奴なんか変わってないか?」
 と、一人の男子生徒が、聖亜の左腕に抱きついている準に恐る恐る声をかけてきた。
「……あ?」
 二人きりのひと時を邪魔され、準は不機嫌そうにその男子生徒を睨んだが、その時、ふと聖亜の顔をまじまじと見つめた。
「そういえば……聖、お前なんか昔に戻っていないか?」
「そうか?」
「そ。そうだ。駄目だぞ聖、私以外の女に手を出しちゃっ!!」
「……まあ、今の所お前以外に“抱く”気はないよ」
 聖亜が苦笑しながらそう言うと、周囲はきゃあきゃあと騒ぎ出し、準はぼっと顔を赤く染めた。
「……どうでもいいが、さっさと席に着かないか?」
「…………ん? ああ、いたのかヒスイ。おはよう」
「おはよう柳。一応聖亜のすぐ後ろにいたんだがな」
そう言いながら、ヒスイが席に着くと、その隣りに聖亜が、そしてその前の席に準がそれぞれ座った。
「けど聖もそうだけど、ヒスイも本当に久しぶりだな。二人は病院にいなかったけど、軽かったのか? 貧血」
「貧血? ……てっ!!」
 準が最後に言った言葉に、聖亜はふと首を傾げ、傍らの少女に脇腹を突っつかれた。
「ああ。私達は大分症状が軽かったからな、自宅療養ですんだ。柳は重いほうだったのか?」
「まあな。けどおかしいよな、市内で一斉に貧血の症状が出るなんて」
「そ、そうだな!! ははっ」
 頭を掻きながら、聖亜は誤魔化すように笑った。

 思い出した。

 あの戦いが終わってすぐ、キュウが小梅の力を借りて都市全体に封鎖の術を使用して記憶を書き換えたのだった。都市に住む全ての人間が、貧血を起こして倒れたという、馬鹿な記憶に。

「ま、幸い死者はほとんど……それこそ一人しか出なかったからな」
「……ああ」
 最後は苦虫を潰したような表情で言った準に同調するように頷くと、聖亜はぼんやりと窓の外を眺めー

「……ん?」
 ふと、目を瞬いた。
「ん? どうしたんだよ、聖」
「いや、あの枝の所に何かが……」
「何かって、鴉が一羽止まっているだけだぞ」
 聖亜の見ている方向を確認し、ヒスイが小さく呟いた。彼の視線の先にある大きな木の枝の一つに鴉が止まってこちらをじっと見つめている。
「聖、あの鴉がどうかしたのか?」
「いや……あの鴉じゃなくて、その隣りに何か」
「隣り? いや、何も見えないぞ」
 首を傾げる聖亜につられ、準も枝のほうを見る。が、やはり彼女にも何も見えない。首を横に振る彼女に、聖亜ガ目を凝らしてじっと見つめた、ちょうどその時

「うっすっ!!」
「おはよう皆、6日ぶりだね」
 教室の戸をガラッと大きく開き、秋野と福井の凸凹(デコボコ)コンビが中に入ってきた。
「貧血で休んでいたくせに、随分調子がいいじゃないか」
「ちぇっ、何だよ準、6日ぶりに会った友達にその言い方は。大体貧血って言ったって、皆軽い症状だろ。ま、夏休み前に休めてよかったけどな」
「そうそう。けど何で今日登校しなきゃいけないんだろうな、もう夏休みまで何日も無いんだし、ずっと休みでも良かったぜ」
「……終業式とかやっていないだろ」
「そりゃそうだけど……って、お前聖か?」
 こちらを見て唖然とした表情を見せる秋野に、聖亜は苦笑して頷いた。
「ああ。まったく、どうして皆同じことしか言えないんだ?」
「いや、そりゃお前が180度変わっているからだよ。てか何だよその格好、結構いい感じじゃねえか。どうだ、お前さえ良ければ、合コンやってみるかって、いや、冗談だからそう睨まんでくれ、柳」
 聖亜をじろじろと眺めていた福井は、その途端彼の背後から睨んでくる少女の視線に、慌てて両手を振って弁明した。
「まあ、合コンもいいが、福井、お前はまず髪をちゃんと伸ばすことを考えるんだな」
「いや、そりゃそうなんだけどよ、何だかこの光っている頭も気に入っちまってな。結局他校との合同水泳授業もお流れになったし、もうちよっとこの頭でいるよ。散髪代もかからないしな。それよりよ」
 と、福井は聖亜達3人に顔を寄せた。
「さっき秋野と話したんだが、俺ら今年の七夕パーティー出来なかったろ? でさ、俺ん家で明日祭りがあるんだが、皆していかねえか?」
「は? けどなんで明日……ああ、七夕祭りの変わりか。俺は別に構わないけど、準、ヒスイ、2人はどうする?」
「私は行くさ。聖亜が変な女に引っかからないように見張らなきゃいけないしな。ヒスイはどうする?」
「わ、私か? そりゃ日本の祭りには前から興味があったけど……浴衣が」
「ははっ、金が無くて買えないのか。安心しろ、私のお古貸してやるか」
 ポケットから取り出した財布の中身を見てため息を吐いた少女を見て、準はからからと笑いながらそう言った。
「そ、そうか? じゃあ……一緒に行く」
「おう、決まりだな。じゃあ明日の夕方神社に集合……もし学校が休みになるなら、昼過ぎに学校で落ち合うということで。って、もう時間じゃねえか。そろそろ席に着こうぜ」

 放しこんでいる間に結構時間が過ぎたのか、頭上からチャイム代わりの鐘の音が響いてきた。それを聞いて、周りの生徒が次々に自分の席に座る。秋野や福井と別れ、聖亜も自分の席に座り、ふと窓から見える旧校舎を見た。5日前、巨大な石人形に破壊された旧校舎は、今ではビニールシートがかけられている。修復するのは難しく、おそらく取り壊されるだろう。自分のお気に入りの場所が無くなる事の寂しさからか、彼はそっと目を伏せ、担任である氷見子が入ってくるのを待った。



 その頃、聖亜が見ていた枝では

『いや、驚いたな。まさかこちらに気付くとは』

 そう言うと、枝に止まっていた鴉は、何もない自分の横をちらりと見た。

『だがまあ、最低でもこれぐらいの力が無ければ、あの方もわざわざ見張りを命じることも無いか。なあ“佳代”』

 無論、その声に答える者は誰もいない。だがその時、枝の先についている葉が一枚、風も無いのに微かに揺れた。

『……ふむ、確かに此処では見つかる危険があるか。そうだな、一度上に上がるとしよう』

 そう呟くと、鴉は羽を広げ、空へと舞い上がった。


 次にその鴉が舞い降りたのは、急斜面になっている校舎の屋根だった。人間が決して立ち入ることの出来ない此処は、だが羽のある彼らにとっては、いい休憩場所になっている。

『さて、もういいぞ、佳代』

「ああ」

 と、鴉の横で声がしたかと思うと、いきなり少女が出てきた。下手をすれば一気に下までずり落ちるこの場所で、だがその少女は危なげなく腰を降ろしている。
 と、その背中に生えている翼が、一度大きく広がった。
「ん、やっぱり長い間折りたたんでいると疲れるな」

『ふむ、だがそう愚痴をこぼしてばかりもいられまい。少し休憩したら、また見張りに戻らねばな』

「うん。けどやっぱりあいつはすごいな。気配を完全に消して、しかも姿形さえ隠しているというのに、間違いなく私を見ていた」

『ああ。だが勘が鋭いのもあろうが、そなたがその術をきちんと使いこなせていないせいでもあると思うぞ』

 傍らの鴉のからかう様な口ぶりに、佳代はぷうっと頬を膨らませた。
「しょうがないだろう、この姿になったのも、あの方に“隠れ蓑”の術を教わったのも、昨日が初めてなんだからな。けど、鍛錬を重ねれば、それこそ隣りにいても気付かれる心配は無くなる」

『さてさて、その前に年を越さねばいいが』

「う、うるさいぞ末松、お前だっていびきがうるさいじゃないか!!」

『おおっと、怖い怖い。では俺はそろそろ西の監視に行くから、お前も見張りをがんばってくれ。近づきすぎて、せいぜい気付かれんようにな』

「うるさい、さっさと行け……それから、もし父様に会うことがあったら、佳代は大丈夫ですとでも伝えておいてくれ」

『うむ、ではな』

 最後にカアッと一声鳴いて空に舞い上がった鴉を見送ると、佳代はう~んっと一度大きく伸びをし、再び翼を広げ、今度はその大きな翼で自分お体をすっぽりと覆い隠した。
 と、その姿が周囲に溶け込むように透明になっていく。その姿が完全に見えなくなると、彼女は再び空に舞い上がった。



 校舎の屋根で自分を見張っている鴉天狗の少女が、再び透明になったとき、

 見張られていることに気付かない少年は、体育館で体育座りをしていた。
 体育館にいるのは彼と同級生だけではない。自分達一年生のほかに、二年生と三年生も同じように集まっている。
「え~、本日皆さんに集まってもらったのは他でもありません。先日の貧血騒動は皆さんも、知っているかと思いますが、その騒動の際、残念なことにこの学校の教頭を務めておられた鍋島先生が、事故でお亡くなりになりました。本来ならここで校長先生から説明があるのですが、校長先生は先日体調不良を理由に辞職されたため、え~、三年の学年主任である私が代わって説明します」
 壇上で髪の薄い40代の教師が話している間、聖亜は前を向き、そして僅かにため息を吐いた。
 5日前の戦いで死亡した鍋島先生は、崩れた工場の傍らで見つかった。なぜこんな所で死んでいるのか、そしてそもそもなぜ工場が崩れたのか疑問に思う者もいないではなかったが、なにぶん復興街での騒動のため警察の捜査もおざなりであり、結局事故という形で捜査は打ち切られたらしい。
「……けど、なんでこんな時に校長先生辞めたんだろうな」
「なんだ、お前知らないのか? 校長の奴、辞めたんじゃなくて実際には行方不明らしいぜ」
「……は? それって本当かよ」
「本当本当、しかも校長と教頭、けっこう仲悪かったろ、実は教頭は事故で死んだんじゃなくて、校長に殺されたって噂もあるぜ」
「げっ、けど仲が悪いぐらいで殺すか普通」
「それがさ、ここだけの話、校長は実は学校の金を横領していたらしい。しかもその横領した金で、児童ポルノ買ったり中学生や高校生と援交してたらしいぜ」
「うえ、ロリコンかよ」
「そうそう、あいつって結構甘いんだけど、ニヤニヤと笑いながらこっち見てたんだよね。ほんと気持ち悪かったよ」
「……まあ、今思えば校長なんかより教頭のほうが百倍は良かったよな。あの人厳しかったけど、それって俺達のことちゃんと考えてくれてたからで」
「そうそう。この前コンタクト落としちゃったとき、探すのを手伝ってくれたしね」
 学年主任が話している間、あちこちでそんなざわめきが聞こえてきた。
「お前ら五月蝿いぞ!! 今先生が話しているんだ、ちょっとは静かにしていろ!!」
 だが、二年の学年主任の一喝で、ひそひそとした囁き声に変わる。
「いや、すいませんね、鈴木先生。ではここで、亡き鍋島教頭先生を偲び、一分間の黙祷をささげたいと思います。では―黙祷」
 壇上の教師がそう言って軽く頭を下げるのを見て、体育座りをしている生徒達も皆そろって下を向いた。確かに厳しかった先生だが、それなりに人望はあったようだ。周囲で嗚咽を堪える声や、啜り泣きが聞こえる。
 そんな中、彼の本当の死因を知っている聖亜は、目を閉じながらあの時のことを思い出していた。



 呪詛の反動を受けたのだろう。そう言ったのはキュウだった。彼の顔はどす黒く変色しており、先程滅ぼした蛇神同様、片方の目は完全に埋没している。とても見られるような顔ではないが、だがその顔はどこまでも安らかであり、そして彼女の言葉が真実なら、恐らく自分が蛇神を殺すことが出来たのは、彼の攻撃を受けた蛇神が後退し、態勢を整えることができたからだ。
「けど、死ぬと分かっていて、どうして撃ったんだろう」
 彼の傍らには、銃口が完全に融解したライフルが転がっていた。これほどの威力を持つ弾丸だ。撃てばその反動で死ぬことぐらい分かっていただろう。なのに……
「……恐らく、この者はエイジャによって全てを失ったのだろうな。そういう人間が一番始末が悪い。なにせエイジャを倒す目的が、名誉でも富でもなく、復讐のためなのだから」
「……復讐」
「復讐を望む者達は、相手を倒すこともそうであるが、それ以前に家族の元に逝くことを望む。だが覚えておけ聖亜、死は何も生み出さぬ。楽になることも出来ん。死に縋るのは、ただの逃げだ」
「逃げって……そんな酷い言い方しなくても」
「酷かろうがなかろうが、それが事実なのだ。それより、ヒスイが起きたらさっさと移動するぞ。よいな、聖亜」
「……ああ」


 
(逃げに過ぎない、か)
 目を瞑りながら、黒猫に言われたことを述懐する。確かに死は逃げることかもしれない。けれど、逃げることを望んでいる人も、世の中に入るだろう。
「……い、おい、聖亜」
「……ん? 秋野?」
 と、考え込んでいる彼の肩を、すぐ後ろにいる秋野が突いた。
「お前、何時まで黙祷してるんだよ。そりゃお前は教頭先生と仲良かったから、気持ちは分からなくはないけどさ」
「いや、そうだな。ごめん」
 彼に軽く謝ると、聖亜は横目で辺りを見渡した。黙祷をしている生徒はもういない。自他共に厳しく、生徒と必要以上に関わろうとしない教師であったから、皆彼の死をすんなりと受け入れたらしい。

 誰にも気付かれないように小さくため息を吐くと、聖亜は壇上で話す教師の顔を、ぼんやりと眺め続けた。




「お~っし、お前らちゃんと席に着け」
 体育館から戻った後、聖亜は暫らく準達と話していたが、やがて氷見子が入ってきたため、慌てて席に着いた。
「さてと、そんじゃホームルーム始めるぞ。まず最初に体育館でも話があったが、先日の貧血騒動の際、鍋島教頭が亡くなられた。まあ、厳しい先生だったから嫌いな奴もいるとは思うが、本来教頭ってのはあんな物だ。校長のように甘いのがおかしかったんだよ。で、これからなんだが」
 其処で一端言葉を切ると、彼女は傍らにある紙袋を手に取り、中身を一番前の席にいる生徒に順に渡していった。前から渡されたそれを見て、聖亜は軽く眉を顰めた。
「え……? 先生、あの~、これは?」
 同じように眉を顰め、学級委員を務める栗原美香が、恐る恐る氷見子に話しかけた。
「何って、夏休み中にやる宿題だ。まあ夏休みまで後一週間ほどだからな。ちょっと早いかもしれないが、先日校長が体調不良で辞職したこともあり、次の校長と教頭が決まるまで、皆が期待してる通り夏休みにしようという話になった。だが、いいかお前らっ!! 休みが多くなったからといって怠けるんじゃないぞ。宿題は何時もの倍出すし、試験の点数が悪かった奴は、もれなく夏期講習をプレゼントだ!!」
 途端に辺りでげっと叫ぶ声が聞こえる。頭を抱え机に突っ伏す福井を見て、ヒスイが呆れたように首を振るのが見えた。
「何だ何だお前ら、そのげって言うのは……まあいい。それからもう一つ、実は私夏休み中は県外にある実家に戻らなくちゃいけないから、どうしても緊急のとき以外は電話を寄越すな。まあ夏期講習は隣のクラスの鈴木先生が見てくれるし、さっき宿題と一緒に渡したプリントに、彼女の連絡先が書いてあるから、何かあったらきちんと電話するように。ああ、それから男子、溜まっているから相手してくださいって言うのは、幾らなんでもやったらしめるからな!!」
「いや、あのおばちゃん先生にそんなことする奴いませんって!!」
 秋野の言葉に、周囲の男子がうんうんと頷いた。確かにどんなに溜まっていても、さすがにトドのような体格をした50過ぎの先生に手を出す男はいないだろう。にっと笑ってから、氷見子は咥えていたシュガーチョコを一気に噛み砕いた。
「ま、そりゃ確かにそうだな。それじゃ次は夏期講習の日程を言うぞ~」
 その言葉に、再び絶叫があがるのを聞きながら、聖亜は戻ってきた日常をかみしめていた。


「聖、ちょっといいか」
「はあ、別にいいですけど」
 氷見子が声をかけてきたのは、聖亜が教室の窓を拭いているときだった。ホームルームはすでに終了し、今は掃除の時間になっている。
「いや、さっきも言ったと思うけど、夏休み中私いないからさ、今のうちに貰って置こうと思って」
「……えっと、何を?」
 首を傾げる聖亜に苦笑すると、彼女は隣の窓を拭き始めた。
「つまり……お前の事を姉貴や妹に話す許可」
「…………この前の話、冗談じゃなかったのか」
「当ったり前だろ、乙女の告白、一体なんだと思ってるんだよ」
 少し間をおいて、呆然と呟いた少年に、氷見子は軽く突っ込みを入れた。
「確かに性格はちょっと変わっちまったようだが、私がお前を好きになったのは性格とかそんなんじゃないからな……まあ、駄目なら駄目でいいけど」
「……いや、別に駄目って言ってるんじゃないけど」
「そっか……ありがとな。と言うわけで」
 唇の端に感じた柔らかい感触に、聖亜ははっと口を押さえた。
「あ~っ!! な、何やってんだ年増!! 人がゴミ出しに行っている隙に!!」
 その時、ちょうどいいタイミングでゴミを片付けに行っていた準とヒスイが教室に入ってきた。
「はっ、残念だったね小娘、今回はどうやら私の勝ちのようだ」
「くっ!! ふ、ふん。けどたかがキスぐらいでいい気になるなよ。私なんてもう聖亜に百単位でキスされてるんだからな!!」
「なっ!! 聖亜、お前こんな小娘相手に不順異性交遊かよ。するんだったら今度から大人の私にしろ! いいな」
「いいわけないだろ、いい機会だ。聖、お前この年増と私と、一体どっちが好きなんだ。はっきりさせろ」
「確かにいい機会だな。聖亜、こんな小娘より私のほうがいろいろと満足させてやれるぞ」
「いや、その……頼むから、二人とも落ち着け、な」
 両手をばたばたと振って何とか二人の女傑を宥めようとするも、段々と押し切られ、聖亜は遂に壁際に追いやられてしまった。
「……まったく、さっぱり掃除が進まないじゃないか」
 机を運びながらぽつりと呟いたヒスイの言葉に、周囲の生徒は、皆そろって頷いたのだった。


 


西暦2015年(皇紀15年) 7月14日 12時40分



 夏の日差しが、頭上からじりじりと容赦なく降り注いでくる。
「ちっ、たく……何なんだいこの暑さは!!」
「……」
 悪態を吐きながら、エリーゼは大きく開いた胸元の中に手をぱたぱたと振った。昨日着ていた服は、今彼らがチェックインしているホテル「ニュー秋野」に置いてきており、今は涼しげな格好をしているのだが、それでも暑いものは暑いらしい。
「夏だから仕方ないだろう。大体お前がそういうなら、先程の彼らは蒸し風呂に入っているようなものだぞ」
 そんな相方に、スヴェンは表情一つ変えずに答えた。
「ま、そりゃそうだけど、あいつらはそれが仕事だからね」
 数分前の出来事を思い出し、エリーゼはからかう様に口を歪ませた。


 太刀浪市の中心にある旧市街と西側にある復興街は、その間を流れる巨大な川、五万十川によって隔てられている。二つの川を行き来するには川に掛けられている五万十大橋(ごまんとおおはし)を渡るしかないが、先日二つの町を行き来する蒸気バスが破壊されてからは、橋は旧市街側から完全に封鎖されていた。

「……ん?」

 その日の昼ごろ、じりじりと暑い中、橋の監視という退屈な仕事を押し付けられたその若い巡査は、旧市街のほうから橋に向かってくる一組の男女に気づいた。
 女の方は薄紫の髪をしたグラマラスな美女であり、
 男の方は髪も目も灰色をした、背の高い偉丈夫だ。
「あ~、すいませんが二人とも、この橋は今通れませんよ」
「……何故だ?」
「何故だって……ああ、外からのお客さんですか? いや、それは秘密……分かりましたよ、そんなに睨まんで下さい。何でも旧市街と復興街を行き来するバスが一台滅茶苦茶に破壊されまして、それに先週の貧血騒ぎでしょ? 新市街のお偉方が皆神経質になっちまって、一昨日から封鎖してるんですよ。ま、何か問題が起きるたびちょくちょく封鎖していたんで、今回は一ヶ月ぐらいで解除されると思いますよ」
 男の灰色の目に見つめられ、元々気が弱い性格なのだろう、その若い警官はしどろもどろに話し始めた。
「おいおい手前、何機密情報べらべらと喋ってんだ」
「痛てっ!! いや、すいません先輩!!」
 その時、近くの休憩所から出てきた幾分年上の警官が、彼の頭を一発ぽかりと殴った。男が胸に視線をやると、巡査部長の階級が見える。
「ま、そういうわけでお二人さん、此処は今通ることが出来ないから、復興街に入ることは出来ませんよ。まあそれ以前に、あの町にまともな神経の奴が入りたいと思うことは無いと思いますがね」
「……」
 沈黙している男に、巡査部長はしっしっと追い払うように手を振った。
「いや、そういうわけにも行かないよ。こっちも仕事があるからね」
 と、今まで成り行きを見守っていた薄紫色の髪の女が始めて口を開いた。
「は? いえ、どんな仕事にしても、今復興街に入ることは出来ません。もし強引に入ろうというなら、申し訳ありませんが公務執行妨害で逮捕させていただきますが」
「ほお、公務執行妨害ねえ」
 わざとらしく驚きの表情を見せた女に、巡査部長は不機嫌そうに顔を歪ませたが、彼女が懐から取り出したカードに目をやり、はっと固まった。
「こ、これは……」
「……先輩?」
 そんな彼の様子に、若い巡査は不安げに目をやるが、彼はそれに気づかず、じっと女を見返した。
「……確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「ああいいよ。幾らでも確認しておくれ」
 先程とは違う彼の様子に、女は面白そうに口の端を吊り上げた。男のほうはむっつりとした表情のまま、近くの壁に身を預けている。
 いったん休憩所に戻った巡査部長は、数分たって戻ってきたが、その表情は先程とは違い終始笑顔だった。
「いや、申し訳ありません。しかし驚きました。わざわざ外国からこんな所に、一体何の御用です?」
「すまないが、こちらも機密でね。で? 通してくれるんだろうね」
「あ、はい。それはもちろんです。お~い、封鎖を一端解除しろ」
 巡査部長が橋のほうに呼びかけると、端を封鎖していた数台のパトカーがゆっくりと移動した。
「ふん、ごくろうさん」
「いえ、それより復興街はかなり治安が悪いので注意してくださいね。まあ、あなた方にはいらぬ世話かもしれませんが」
「……まったくだ。ではな、仕事ご苦労」
 そう言うと、灰色の男はゆっくりと橋に向かって歩き出した。
「あ、ちょっと待てよスヴェン。ったく、そんじゃ、邪魔したね」
 ひらひらと手を振りながら、男の後を追う女の後姿を、若い警官はぽかんと口を開けながら見送った。
「あの、先輩? あいつら一体何者なんですか?」
「……お前、FBIってもちろん知ってるよな」
「は? そりゃもちろん知っていますよ。国家安全保障局ですよね。けど彼らとそのFBIと、一体どんな関係があるんです?」
「……FBIには、絶対的な権限を持つ8人の捜査官がいるという噂があるんだが」
「あの、先輩……それってまさか、今の2人が」
「ああ。まさか噂ではなく本当に存在していたとはな。特務捜査官か……給料高いんだろうな。さ、そろそろ封鎖するぞ。いつまでも開けていたら、上が五月蝿いからな」
「あ、はいっす!!」
 巡査部長の言葉に、若い巡査が大きく手を振り合図を送る。その合図に応え、パトカーはまたごとごとと動き出した。
 そのときにはもう、二人の姿は点ほどにしか見えなくなっていた。



「やっぱり“表”の階級が高いと楽でいいねえ」
「……」
 復興街の中心、雑踏区の中を歩きながら、エリーゼは先程のカードをひらひらと振る。と、そのカードはいきなり宙に掻き消えた。
「しっかしここは本当に治安が悪くなったね。この数分の間にスリに遭遇したのなんて、これで4度目だよ」
 そう言うと、彼女はスヴェンに首を押さえつけられている男に目をやった。男はたった今彼にぶつかって、懐をさぐった男だった。
「ひいっ、た、助けてくれえ!!」
 男は道行く人に助けを求めるが、そもそもこの街で他人を助けるものなど存在するはずが無かった。
「さあて、この男を一体どうしようかしらねえ」
「……窃盗は紛れもなく悪だ。悪は報いを受けねばな」
「た、頼む!! 許して、許してくれえっ!!」
 だが、スヴェンは喚く男の身体を軽がると宙に持ち上げ、


 グチャッ


「ぐべっ」


 そのまま、顔面から一気に地面に叩き付けた。
「……行くぞ」
「はいはい。しかしスヴェン、あんた相変わらず“悪”には容赦がないね」
「当然だ。この世界は、悪が生きられるほど広くはないからな」
 顔を潰され、ひくひくと痙攣している男をそのままに、二人は雑踏区の奥へと消えて行った。
 彼らの姿が見えなくなると、倒れている男に周囲の人達が近寄り、男の荷物を物色し始めた。

「しかし、なんだってこっちに来たんだい?」
 雑踏区を北に進みながら、エリーゼはぽつりとスヴェンに尋ねた。
「……絶対零度を極刑に出来るほどの、確かな証拠がほしい。それには奴が爵持ちと戦った現場を調査するのが一番だからな」
「そりゃそうだけどさ。昨日も言ってるだろ、あたしらには確かに極刑の権限はあるが、それは重大な犯罪を犯した奴や、敵と結びついていた反逆者にのみ適応されるものであって、たかが禁技を使ったぐらいで出来るものじゃないよ」
「…………イル」
 だが、スヴェンはエリーゼの愚痴には応えず、不意に虚空に呼びかけた。

『……はい』

 彼の言葉に、何処からともなく応答がある。それに頷くと、スヴェンはじっと前を見つめた。
「……絶対零度と爵持ちの戦闘は、確かにこっちの方角か?」

『はい。マスター。微量ながら爵持ちの気配が残っております。戦闘が行われた場所は、ここから北に6キロメートルほど進んだ廃工場です』

「そうか……間違いはないだろうな」

『もちろんです。私の探知能力に狂いはございません。無能な“ウル”とは違います』

『はっ!! 流石はイ“ヌ”ちゃんよねえ。お鼻をひくひくさせて、地面を嗅ぐのだけは得意かしら』

 と、虚空からさらに別の声が聞こえてきた。最初の冷静な声と比べ、どこか残忍なほど陽気な感じがする。

『黙れウル、私は力押ししか出来ない貴様のような無能とは違う!! 第一貴様には、その探知能力すらないではないか!!』

『ふふんっ、その代わり戦闘で活躍しているのはこっちのほうじゃないか。あんたはただあたしのアシストをしてるだ・け!! あはははははっ』

『……ウル、どうやらその口、物理的に潰してほしいようだな』

 冷静な声の中に怒気が含まれ、空気がびりびりと震えだした。

『へえ? あたしと殺(や)り合おうっての? いいじゃない、返り討ちにしてや「……黙れ」ひっ!!』

 その時、辺りに怒気を無理やり抑えたような、低い声が響いた。

「……イル、ウル。貴様ら、どうやら仕置きが必要なようだな」

『も、申し訳ありませんマスター。私の不手際でございます』

『す、すいませんご主人様。お願いだからあれだけはおやめ下さい。お願いですから!!』

「……」
 虚空に響き渡る懇願の声に、スヴェンは暫らく沈黙していたが、やがてふっと気を緩めた。
「……ならさっさと現場に案内しろ」

『はっ、はい。畏まりましたマスター。こ、こちらでございます』



 それからおよそ20分後、
「こりゃまたひどく壊したもんだねえ」
 大きな瓦礫の上に座り、感心したように笑うエリーゼを、その隣りで建物の残骸を検分していたスヴェンは、むっつりと睨み付けた。
「エリーゼ……座っていないで手伝え」

 ヒュッ

 だが、その言葉に対する返答は瓦礫だった。投げつけられた瓦礫をかるがるとキャッチすると、スヴェンは再びしゃがみ込んで残骸を検分し始めた。
「あ~あ、本当なら今頃ハワイに新しく出来たリゾートで、肌をほんのり焼きながら男共を悩殺できたはずなのに、何でこんな奴と一緒に瓦礫の山なんかにいるんだろう」
「……エリーゼ、やる気がないならさっさとアメリカに帰れ」
 どこか不機嫌そうな声を出し、こちらを睨みつけてくるスヴェンに、だがエリーゼははんっと吐き捨てるように笑った。
「そりゃいい考えだけどねスヴェン。あんたあたしがいなくなったらどうやって飛空船に乗るんだい? 12歳以下の子供は保護者同伴でないと乗れない決まりだろう?」
「……」
 にやにやと笑ってくるエリーゼを、スヴェンは暫らく睨みつけていたが、やがてこれ以上イっても無駄だというように、黙って背を向けて歩き出した。恐らく別の場所を探すのだろう。
「そんなに頑張っても、戦闘が行われたのは6日前だ。幾らなんでも物的証拠はあの猫が消していると思うがねぇ。ま、気持ちは分からんでもないけどさ」
 スヴェンの後姿を見ながら、ぽつりとそう呟き、エリーゼはよいしょっと瓦礫から飛び降りた。
「しかしなんだね。資料を見た限り、絶対零度の得物は太刀だ。絶技もその対象は複数ではなく単体。もしこの建物をぶっ壊したのが彼女の絶技なら、それにしては少し壊れ“過ぎている”。恐らく爵持ちが真体に変化したからだと思うが、それを二級の魔器使が倒せるかね」
 日陰を探しながら辺りをきょろきょろと見渡す彼女の目に、ふとそれが映った。
「おや? これは……おいスヴェン、ちょいとこっちに来てみな」
「……何だ」
 自分を呼ぶ声に、反対側を探していたスヴェンは近寄ると、エリーゼの指差したその物体を見て、ふと目を細めた。
「何だこれは?」
「さてね。けどこれは明らかに人のものじゃない。だとするとエイジャの物になるわけだけど、これほどの大きさだ。まず爵持ちだろうね」
 瓦礫の中にあったことで、黒猫にも発見されずに残っていたのだろう。身の丈ほどもあるその巨大な物体は黒く染まっており、風に吹かれて表面がぼろぼろと崩れていく。
「イル、これは何だ」

『はい…………検索完了。この物体は巨大な鱗です。データ照合の結果、下級の爵持ちであるニーズヘッグのそれと一致しました』

「ニーズヘッグ? ああ、あの蛇神か。鱗ということは、奴は真体となった……ということでいいね」

『はい。ですが疑問点が一つ。ニーズヘッグの鱗は確かに黒い色をしていますが、光沢だったはずです。ですがこれは明らかに炭化しています。まるで巨大な炎に焼きつくされたかのように』

「……炎だと? 絶対零度は氷の使い手だ。正反対だろう。イル、鱗がここまで炭化するのに必要な最低温度は幾らだ」

『お待ち下さい…………そんなっ!!』

「ん? どうしたんだい?」
 驚愕の叫びを上げた虚空の声に、エリーゼは軽く眉を顰めた。

『必要最低温度、およそ10万度。ですがこの鱗はほぼ一瞬に炭化されていますから、どれほど低く見積もっても、最低でも100万度以上の高熱、すなわちコロナと同様の温度にさらされたことになります!!』

「……笑えない冗談だね。100万度か。スヴェン、まさかあんたの仕業じゃないだろうね」
「……俺でも100万度の高熱を発生させるのは容易ではない。第一それほどの高熱を放てば、少なくとも半径10キロは間違いなく溶解される。しかし周囲にはその形跡は全くなかった。ならば考えられる可能性は唯一つ、極限まで固体化された炎で、対象のみを焼き尽くしたのだろう。だがそんなことが出来る人間を、俺は知らん」
「なら考えられる可能性は一つ、ニーズヘッグは少なくとも同等以上の力を持つ、炎を使用するエイジャによって滅ぼされたことになる」
 額に指をやり、軽くため息を吐いたエリーゼは、スヴェンが下を向いて肩を震わせているのに気づいた。
「……スヴェン?」
「……く、くくくっ。そうか。エイジャと繋がっていたか、絶対零度。ならばエリーゼ、これは間違いなく敵と繋がっていた反逆者ということになる。これほどの罪を犯したのだ。絶対零度の極刑は、まず間違いないだろう」
「ま、それが真実ならね」
「真実か。真実など幾らでも変化する。だが俺にとっての真実は唯一つ、奴が悪だという、ただそれのみだ」
 最後は何かを押し殺すように低く呟くと、スヴェンは廃墟の外に向けて歩き出した。それを見てエリーゼはやれやれと首を振り、彼の後に向けて歩き出し―

「っと、どうしたんだい、立ち止まって」

 だが、僅か数歩歩いただけで、彼女はスヴェンの背に激突しそうになった。
「……黙れ。ふむ、どうやら囲まれたようだ」
「囲まれたぁ? 囲まれたって誰にさ」
「……どうやら誰に、ではなく“何”に、のようだ」
 スヴェンの声に合わせ、周囲から強烈な殺気が膨れ上がった。


 それは、白い毛皮を纏った化け物だった。

 体長は2メートルを軽く超え、腕も足も、太さは人間の3倍はある。その口からは巨大な牙が二本空に向かって伸びており、こちらを見る黄色い目からは怒気と殺気以外の感情を感じない。

 だが、そんな大の大人でも見た瞬間卒倒する姿を持った化け物に周囲を完全に囲まれているにもかかわらず、スヴェンとエリーゼ、この二人は眉一つ動かさなかった。
「……なんだい、脅かせるんじゃないよ。エイジャでもスフィルでもないじゃないか」
「ふん……イル、こいつらは何だ」

『少々お待ち下さい……検索終了。太刀浪市復興街に出没する化物(けもの)、通称狒々(ひひ)です。中型の化物の中では最大の腕力を持ち、人間の背骨を軽くへし折ります。生息地は主に復興街北側にある工場区、つまりここです。好物は人間の肉、中でも心臓の部位。戦闘能力はスフィルの10分の1です。数はおよそ150匹』

『スフィルの10分の一? くっだらない!! ねえご主人様、あたしがさっさと片付けちゃいましょうか?』

 だが、虚空から聞こえる陽気で残忍な声に、スヴェンは首を横に振った。
「いや、こんな“獣”程度、わざわざ魔器を使う必要もない。絶対零度に刑を執行する前の良い肩ならしだ。俺がやろう」
「そうかい。じゃ、あたしはゆっくりと見物させてもらうよ。服が汚れるのも嫌なんでね」
「……勝手にしろ」
 100体以上の化物に囲まれ、それでも恐怖を欠片も見せない二人に、彼らを囲む狒々は僅かにたじろいだが、本能が勝ったのだろう。グォオッ!!と一声甲高く叫ぶと、一斉に二人に向けて飛び掛った。



 あたりに、鮮血が舞った。


 飛び掛ってきた狒々の顔を右手で掴むと、スヴェンはそれを軽く握りつぶした。辺りに濃い血の臭いが立ち込める。手にこびり付いた脳漿を振り払わず、今度は横から襲ってきた狒々に蹴りを放つ。その強烈な一撃は軽々と狒々の腹部を貫き、そのまま振り回した足で、近くにいる狒々を数体まとめて吹き飛ばした。

 最初の狒々が倒されてから5分、ほんの僅かなこの時間で、地面に倒れている狒々の死体は少なくとも30体を越していた。
「ふん、やはりこの程度か」
 左右から同時に襲い掛かる狒々の頭部を、左右の拳でそれぞれ粉砕すると、スヴェンはつまらなそうに頭を振り、低い姿勢から一気に飛び掛ってきた狒々を、その背中から軽く踏みつけた。
 グチャリと音を立て、足が狒々の身体を貫通する。自分の足の先でぶらぶらと揺れるその狒々を、スヴェンは遠くにいる狒々に向かって投げ飛ばした。

「グギャギャッ!!」

 その頃になって、狒々はようやく自分達がとんでもない相手に手を出してしまったことを知った。だが逃げるわけにも行かない。最近は獲物も少なく、彼らは皆空腹なのだ。
 この男に自分達は敵わない。手ぶらで逃げることも出来ない。どうすればよいか。
 そう考え、彼らは実にシンプルな答えを出した。

 そう。この男に敵わないのであれば、狙う獲物を替えれば良いのだ。

「おや? こっちにきたようだね」
 スヴェンが戦っている間に、その脇を潜り抜け、こちらに向かってきた十数匹の狒々を見て、エリーゼは軽く笑みを浮かべた。
「ま、いいさ。ちょうど退屈していたんだ。せめてお遊びぐらいにはなっておくれね……バジっ!!」

『……』

 エリーゼが虚空に向かって叫ぶと、彼女の両手に何かがすとんと落ちる。それを握り締めると、エリーゼは自分に向かってくる狒々にそれを向け、にやりと笑った。
「さあ、空腹なんだろ? たっぷりと喰らいな……鉛弾をねっ!!」
 引き金を引くと、彼女の持つ二丁のサブマシンガンから無数の銃弾が狒々達に向かって一気に降り注いだ。それを受け、前方にいる数体が倒れる。
「あははははっ!! さあ、いい声で啼いとくれ!! 坊や達!!」
だが、仲間の死体を乗り越え、一匹の狒々が遂に彼女の肩に触れた。
「おや? あたしと力比べをしようってのかい」
 だが、狒々の手は軽く曲げられていた。いや、手だけではない。その狒々の身体はエリーゼの手の動きに合わせ、ごきごきと鳴りながら回転を続ける。やがて、狒々の身体は絞られた雑巾のような形になった。
「やれやれ、女のあたしだったら勝てるとでも思ったかい? 残念だけど、あたしはこれでも第一級魔器使“一殺多生”さ。なめてもらっちゃ困るね。さあどうする? 今なら逃がしてやるけど」
 血に塗れたエリーゼの姿に、狒々の一匹が戦意を喪失してか、じりじりと後退して行く。そして、後ろを向いて逃げようとしたとき、

「グギャギャギャギャッ!!」

 その狒々は、背後から物凄い力で首を握られ、宙に持ち上げられた。
「スヴェン? いや、違うね。親玉か」
 彼らの背後から現れたのは、身の丈3メートルはあろうかという巨大な狒々だった。首には人間の頭蓋骨で作ったネックレスをかけており、普通の狒々の口から2本の牙が突き出ているのに対し、この狒々からは4本、つまり片方の口の端から2本の巨大な牙が宙に突き出ている。
 その巨大な狒々は、先程逃げようとしていた狒々を軽々と持ち上げると、


 グチャリ

 と、その狒々の頭を噛み砕いた。

「おやおや、派手なこと」
「……単なる演出だ。しかし、奴を殺せば他の獣共は戦意を喪失して逃げ出すか」
「おやスヴェン、そっちはもう終わったのかい?」
「ああ。後は此処に残っている奴らだけだ」
 エリーゼの後ろから、真っ赤に染まったスヴェンが歩いてきた。身体にこびり付いた血の臭いが辺りに広がり、エリーゼはちっと舌打ちした。
「ったく、ちゃんと後で風呂に入ってくれよ。それよりどうする? あの親玉を先に叩くかい?」
「そ「グギャギャッ!!」……」
 彼女の問いにスヴェンが答えようとしたその時、狒々の親玉が首のない狒々を持ったまま走ってきた。エリーゼのほうには目をくれず、スヴェンに向かって自分の胸をどすどすと叩く。
「おやスヴェン、あんた挑戦されたようだね」
「……くだらん。だが、戦うというなら相手になってやる」
 そう呟くと、スヴェンはゆっくりと前に向かって歩き出した。そんな彼ににいっと笑うと、親玉はまず自分が喰らった狒々を彼に投げ飛ばした。
 身体を捻って避けたスヴェンに、今度は右腕が風を切って襲い掛かる。地面すれすれに向かってくるその腕を、彼は真上に跳躍して避ける。だが一瞬無防備になった彼の身体に、今度は左腕が頭上から襲いかかった。

 ガッ

 と鈍い音がして、腕の下から血が噴出す。それを見て親玉はゲギャギャギャと下品に笑ったが、次の瞬間、その笑みは驚愕と激痛に歪んだ。
「……やはりこの程度か」
「ギャアアアアッ!!」
 親玉の左腕がゆっくりと持ち上げられる。と、その下から潰れたはずのスヴェンが現れた。彼は傷一つ負っていない。血を流しているのは親玉のほうだ。左腕の一部が抉られ、赤黒い肉が覗いている。
「では、次は俺の番だな」
「グギャッ!?」
 スヴェンが掴んでいる左腕が、ぎりぎりと捻られ、そして次の瞬間、

 ぶちりと音を立て、腕が身体から離れた。

「グゲゲゲゲッ!!」
 ふらつき、膝を突いた親玉にゆっくりと近づくと、スヴェンはその頭に手をやり、

「ふんっ!!」
 少しだけ気合を入れ、地面に一気に叩き付けた。
「ガ……ゲッ」
 一度ひくりと痙攣すると、10年の間工場区の一角を占拠していた大狒々は、もう二度と動かなくなった。

「はっ、中々お見事。さてと、それじゃ他の獣共はどうする?」
「……」
 立ち上がったスヴェンがあたりを睨むと、親玉の死骸を呆然と眺めていた狒々は、ギャッギャッと叫びながら四方に逃げようとした。だが、
「……我正す、故に我あり。人間の肉を喰らう獣は悪だ。俺の前に現れたからには一匹たりとも逃がさん。イル! ウル! 具現せよ!!」

『は~いっ!! 待ってました。ご主人様!!』

『マスター、私の身体、存分にお使い下さい』

 不意に、虚空から2本の柄が飛び出してくる。それを握ると、スヴェンは一気に引き抜いた。
「傑作魔器の一つ“悪魔笑い”のチェーンソー。その破壊力、自らの身で存分に味わえ!! 閃光絶技“千空(せんくう)”!!」
 一括し、両手にある巨大なチェーンソーを振ると、懸命に彼から逃げようとしていた狒々の全てが、ばらばらと崩れ落ちた。
「……さて、此処での用事はもう終わった。戻るぞエリーゼ」
「はいはい。ったく、さっさとホテルに帰ってシャワーを浴びたいよ」
 紫色の髪にこびりついた血を拭うと、エリーゼは疲れたようにため息を吐いた。
「勝手にしろ……さあ、いよいよだ。待っていろ絶対零度、邪悪なる貴様の首を我が魔器によって切り飛ばしてやる!!」
 無表情な顔に凄みのある笑みを浮かべると、スヴェンは近くにある炭化した巨大なニーズヘッグの鱗を、チェーンソーで粉々に粉砕した。


 鱗は灰に変わり、やがて風に乗ってひらひらと飛んでいった。




 
西暦2015年(皇紀15年) 7月14日 17時40分



「お待たせ致しました。こちらご注文のコーンスープになります」
「……へ?」
 前に出されたコーンスープを見て、客は呆然としながら、それを運んできたウエイターを見上げた。
「……お客様、どうかなさいましたか?」
「え? い、いえ。何でもないです。はいっ」
「そうですか。ではどうぞごゆっくり」
 一礼して去っていく少年を見送ると、客はのろのろとスプーンを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。


 そのコーンスープは、ほんのりと温かかった。


「……え~っと、聖?」
「はい、何ですか祭さん」
 戻ってきた少年に、祭は呆然と声をかけ、その身体をぺたぺたと触った。
「……一体何するんですか、祭さん」
「いや、あんた本当に聖? 何か随分と印象が変わったような」
「そうですか? 別に変わっていないように思えるんですけど」
 そう答えると、聖亜は汚れた食器をさっと食器台に置いた。
「いや、充分変わってるって。大体お前、何でウエイトレスの格好じゃないのさ」
「何でって……別に俺、女じゃないですから」
 そう答える聖亜は、今までの猫耳付きの付いたウエイトレス用の服ではなく、執事の着るような黒い燕尾服を着ていた。これはウエイトレスの格好をすることを徹底的に、それこそマスターの顔を殴り飛ばしてまで拒否した彼に、そのマスターが土下座しながら出してきた服だった。なんでも彼のお古らしい。
「け、けどさ、今までその……“聖華”ちゃんを目当てに来ている客もいることだから」
「……別にいいと思いますが? 元々聖華なんていないんですから。というかなんでそんなに気にしてるんです?」
「いや、だってお前、その……」
「?」
 首を傾げる聖亜の前で、祭はあたふたと手を振り、そっぽを向いた。言えるはずがない。まさか執事姿の聖亜に、“見とれていた”などと。
 真っ赤になっている祭に首を傾げながらも、聖亜は厨房から出された料理を運ぶ事にした。お盆からはみ出るほどの巨大なジャンボイチゴパフェを、でっぷりと太った青年の前におく。
「お待たせいたしましたお客様、こちらがご注文の“ドキッ!! イチゴだらけのスペシャルジャンボパフェ”になります」
「な、何なんだな君は。聖華ちんはどこに行ったんだな、聖華ちんは!!」
 だが、太った青年はパフェには目もくれず、顔の肉に食い込んだ瓶底眼鏡で、聖亜をきっと睨んだ。
「……申し訳ございませんがお客様、当店に聖華という名前のウエイトレスは居りませんが」
「そ、そんなの嘘なんだな!! だ、だって聖華たんは僕を見て笑いかけてくれたんだな、あ、あれは絶対僕に気があるんだな!! 大体、き、君は一体誰なんだな!!」
 だんだんとテーブルを叩きながら喚く青年に、周りの客が露骨に眉を顰める。それを横目でちらりと見ると、聖亜は軽く目を細めた。

 正直、聖華であった自分としては、心底気色悪い。

「私ですか? 私は先日からこの店で働いている、星 聖亜と申しますが」
「ほ、星聖亜? も、もしかして君、聖華たんの……」
「ええ。兄になります。聖華の方は先の貧血騒ぎで少し体調を崩しましたので、店をやめさせました。それより」
 青年のつばが飛んだテーブルを拭くために屈みながら、聖亜はその顔をそっと相手に近づけた。
「……さっさと食って、さっさと帰りやがれ。でないと潰すぞ。この豚野郎」
「ぶひっ!!」
 他の客には聞こえないように低い声でそう囁かれ、豚―失礼、太った青年はガタガタと震えながら、物凄い勢いでつば入りのジャンボパフェを貪ると、そのままレジに向かって走っていった。
「……失礼致しましたお客様、どうぞお寛ぎ下さい」
 それを見送ると、聖亜はくるりと回転し、周りの客に微笑みながら一礼した。女性客の何人かが、その笑みに顔を赤く染める。それを見て心の中でしてやったりという風に笑うと、聖亜はカウンターに向かって歩いていった。


 カウンターでは、右頬を腫らしたこの店のマスターが、不機嫌そうに料理を作っていた。
「何不機嫌そうにしてるんですか、マスター」
「いや……だってなあ、俺はお客様にお尻を撫ぜられて恥らう猫耳姿の聖華ちゃんを見るのが好きだったのに、今俺の前にいるのは“昔”とあんまり変わらない毒舌家の聖亜だからな、そりゃ気分も乗らなくなるさ」
「何ですかそりゃ。まったく……しっかりしてくださいよ。第一、“猫”要素だったらちゃんと身につけているでしょう?」
「そりゃそうなんだがな」
 ぶつぶつと文句を言いながら、白夜は聖亜の胸元に付いているネームプレートを見た。彼の自信作であるネームプレートは、店の看板同様猫の形をしていた。
「……まあいいか。そんじゃ聖、さっさとこっちに来て洗い物手伝ってくれ」
「はいはい。そう言えば、ヒスイは大丈夫ですか?」
「ん? ああ。ほれ」
 白夜が親指を向けた方、つまり厨房の方を覗き込むと、其処には北斗と昴、この二人に監視されながらジャガイモを剥いている白髪の少女の姿が見えた。エイジャとの戦闘で太刀を使用しているせいか、最初はぎこちなかった彼女の動きは、今は別人のように早い。
「良かった。あれなら大丈夫そうですね」
「まあな。だが不器用なのは直っていないようだ。先程洗わせた皿なんだが……」
「……ありゃ」
 流し台の中にある皿を見て、聖亜は苦笑した。どの皿にも所々ひびが入っている。これでは捨てるしかないだろう。
「ま、子供の相手とか野菜の皮むきとか、やれる事は幾らでもあるんだがな。ところで聖、いい加減に教えてもらうぞ。あんな可愛い子、一体何処で知り合ったんだ? それから、ちゃんと口説いたんだろうな」
 聖亜は一瞬、にやにやと聞いてくる白夜の顔を再び殴ってやりたい衝動に駆られたが、やがてため息を吐くと、汚れた食器を洗い始めた。
「彼女、俺の命の恩人なんですよ。だから口説くとかそんなことはしないです」
「……そうか。いや、変なこと聞いて悪かったな」
「いえ、まあ変な関係じゃないから、そんな気にしないでください」
 分かった分かった。そう言って料理に集中した白夜を見て、聖亜も目の前の汚れ物に集中することにした。


 洗い物が粗方なくなった頃だろうか、会計を済ませ出て行った本日最後の客と入れ違いになるように入ってきた二人の男を見て、聖亜は片方の眉をピクリと動かした。
 二人は、片方が中年で、もう片方は若い。中年の方の男はこちらに目を遣ると、片手を挙げて歩いてきた。
「よ、久しぶり、マスター」
「はっはっは。本当に久しぶりですな。俺としては、もう二度と会いたくなかったですがね、栗原“警部補”殿」
 白夜に階級付けで呼ばれ、カウンターに座った中年の刑事は、ごまかすように薄い頭を掻いた。
「まあそう邪険にしなさんな。確かにきちんと証拠をそろえないで強制的にガサ入れをしたのは俺だよ? けどなあ、今日は客としてきたんだ。もうちっと愛想良くしてもいいんじゃねえかな。ま、とりあえずコーヒー。おい、お前は何飲む?」
「え? 自分ですか? じゃ、じゃあ自分もコーヒーで」
 だみ声で突然そう尋ねられ、彼の後ろで暇そうに立っていた若い刑事はあたふたと慌てながら答えた。
「はい。コーヒー2つね……聖、お前そろそろ休憩時間だろ。此処はいいから、従業員室で休んどけ」
「……え? は、はい」
 刑事の方を見ないように俯いて皿を拭いていた聖亜は、白夜の言葉に皿を置いて奥に行こうとした。だが、
「おっと待った。それはちょいと待ってくれねえか? 今日はお前さんに用があってきたんだよ」
 栗原の放っただみ声に、びくりとその身体を震わせた。
「……何ですか?」
「なに、そう大したことじゃねえ。おい、例の物出せや」
「は、はい」
 部下が取り出した、白い粉が入った透明の包みを強引に奪い取ると、栗原はそれをカウンターの上に置いた。
「……これは?」
「最近巷を騒がせている新型ドラッグだ。名をKと言う。効果はコカインのおよそ数倍だ。ひどい物だろう? そのひどい物がな、今新市街の若者を中心に広がりつつある」
「新市街でですか? だったら俺には関係ないですよ」
「まあ話は最後まで聞けって」
 と、栗原は今度は自分の胸ポケットから別の白い粉が入った袋を取り出した。
「さて、こっちは先日旧市街に不法に侵入してきた復興街の連中をとっ捕まえたときに押収したものなんだが……この2つ、実は同じ成分だということが分かった」
「……何が言いたいんです?」
「ま、つまりだ。今新市街で広まりつつある新型ドラッグは、復興街から流れて来た物だと俺は睨んでいる。で、だ。幾ら復興街の連中が怖いもの知らずとはいえ、流石に俺達が厳重に取り締まっている新市街まで来る度胸はないだろう。なら可能性は唯一つ。“橋”のこちら側に、奴らの代わりにドラッグを新市街に流している奴がいると思うんだが」
「……つまり、それが俺だって事ですか?」
 無表情にこちらを見つめる聖亜に、栗原はまた頭を掻いた。
「ま、確証はないがな。だが聖亜、お前さんが一番怪しいんだよ。だってそうだろう、今じゃこっち側に住んでいるとはいえ、お前さんは元々“あっち側”の人間で、しかも復興街最大の組織“ジ・エンド”の元最高幹部でもある。疑わない方がおかしいってもんだ」
 そう言うと、栗原はこちらに向かってぐいっと身を乗り出してきた。
「なあ。此処は一つ俺に逮捕されてくれないか? ま、豚箱に10年もいれば出てこられるだろうからさ。なんなら、刑務官に“お友達”が出来るところを紹介してやってもいいぜ」
「……なるほど、結局は出世の為の点数稼ぎですか」
「なっ、お前、警部補に向かってなんだその口の利き方は!!」
 彼の物言いに、若い刑事が掴みかかろうとする。それをまあまあと押さえながら、栗原は口の端を吊り上げた。だが、その目は全く笑っていない。
「まあな。こちとらもう40過ぎだ。とてもじゃないが若い頃のような動きは出来ねえんだよ。それにだ。知ってるとは思うが俺の一人娘が、何の因果かお前さんと一緒のクラスにいる。こいつがまた俺と違って出来がいいときた。親としては、犯罪者と一緒に居させたくないんだよ」
「そうですか……なら娘さんに免じて本当のことを言いますが、“ジ・エンド”じゃ先代の頃から薬を扱ったものは、どんな理由であれ8割殺しにして夜の工場区に放り込みます。俺にはとてもそんな勇気はないですね」
 そう答えると、聖亜はにっこりと笑ってみせた。


 それは、残酷なほど明るい笑みだった。


「…………そうかい。分かったよ。邪魔したな」
 静かにそう言うと、栗原は出されたコーヒーを一気に飲み干して立ち上がり、そのまま出口に向かって歩き出した。その後ろに、慌てて若い刑事が続く。彼が外に出る扉を開けると、栗原は立ち止まって、ふとこちらを見た。
「けどな、聖亜。もし手前が犯人だったら、俺はその場で手前を半殺しにして豚箱に送り込んでやる。覚悟しておくんだな」
 そして、今度こそ本当に去っていった。

「……」
 栗原たちが居なくなった後、聖亜は暫らく物思いにふけりながら皿を拭いていた。彼が考えているのはただ一つ、自分が昔所属していた“ジ・エンド”の事だった。

(……やっぱり、一度戻ってみるか)

 そう結論付け、再び皿を拭き始めたときだった。
「……おい聖、そろそろ店の看板出しといてくれ」
「……はい? いや、俺今皿を拭いているんですけど」
「ったく、何が拭いているだ。それはな聖、拭いているんじゃなくて、磨いているんだ」
 苦笑する白夜の視線の先、自分の持っている皿を見て、聖亜はふっと自嘲気味に笑った。
 皿は自分の顔が写るほどぴかぴかに光っている。確かにこれ以上はないだろう。
「分かりました。けど珍しいですね。閉店前に閉めるなんて」
「ああ、客もいないし、一雨そうな天気だ。早めに閉めちまおう」
 白夜の言葉に、、聖亜はふと顔を上げて窓の外を見た。店の奥からかすかに見える空は、なるほど、確かにどんよりと曇っている。
「夏のこの時間は、稼ぎ時なんですけどね」
 そう言いながら、聖亜はカウンターの影にある「閉店」の看板を持って外に出た。もともと喫茶店「キャッツ」では酒などの類は出していないため、21時には一応閉店する。その後はゆっくりと寛ぎたい客のために一時間ほど音楽を流し、完全に閉めるのは22時過ぎだ。
もっとも、聖亜は未成年なので、閉店前には問答無用で帰されていた。
 やはり、白夜や市葉、それに祭達にとっては、自分はまだ弟といった感じなのだろう。
 
 それが嫌だといっているのではない。そう、嫌ではないのだが。

「……まったく、俺は何時までたっても弟扱いか」
ぶつくさとそう呟き、看板を店の前に置いた、その時、
聖亜は、はっと飛び退り、前方の暗がりを見た。

 暗がりの向こうから、異常なほど強力な気配を持った何者かがやってくる。先日のニーズヘッグでさえ上回るその気配に、聖亜はいつでも逃げれるように身構えた。
「あ~っ!! 待った待った。この喫茶店、もう閉めるのか?」
 と、聖亜ガ見つめる暗がりから、男の陽気そうな声が聞こえてきた。思わずぽかんと口を開けた聖亜の前に、二人の虚無僧が現れた。一人は背が高く、もう一人は自分とほぼ同じぐらいだ。背が高い方の虚無僧は長い袋を背負っているが、疲れたようにそれを地面に置き、のろのろと頭に被っていた天蓋を下ろした。

 篭の中から出てきたのは、随分と若い青年だった。恐らく20歳ほどだろう。ぼさぼさに伸ばした金髪とサングラスをした、随分と軽そうな青年だ。青年の後ろで、もう一人の虚無僧も被っていた篭を降ろす。こちらは肩のところで黒髪を切りそろえ、眼鏡をかけた美しく理知的な女性だ。も自分より2,3歳ほど年上だろう。
「……え? あ、はい。いつもは9時ごろに閉めるんですけど、お客さんも居ないし、雨が降りそうだからって、マスターが」
「げ、マジかよ。なんなんだその大名商売!! なあ、なんか食わせてくれないか? 今この都市に着いたばかりで、ほんと腹減ってんだ。マジで頼むよ」
「いえ、あの……それはマスターに聞いてみないと」
「まったく、はしたないですよ、“雷(らい)”。けどごめんなさい、本当に空腹なの。お願いできないかしら。」
「あ、はい。いい……です」
青年のほうがそれこそ拝む格好をしてきたため、聖亜は仕方なく2人を中に入れてやった。


  むろん、女性の豊かな胸元が、ちらりと見えたからではない。



 がふがふっ、がふ

 はふはふ、はふ
 
「……」
「……」
 人気のない店内に響き渡る箸の音に、聖亜は呆然と突っ立っていた。隣りでは野菜の皮を剥き終えたのか、厨房から出てきたヒスイが居るが、こちらもあっけに取られたように彼らの様子を見ていた。
「ふぐふぐ……ぷっは~、食った食った。ご馳走さんありがとうな少年、やっと生き返ったよ。いや、マジで」
積み重なった皿の間で、大盛りのドリアの最後のひとかけらを勢いよく口の中に入れてから、青年は幸せそうに伸びをした。
「は、はあ。それはどうも。けどよくこんなに食べれましたね」
「まあ、一昨日からずっと山の中歩きっぱなしだったからな。この都市に入って一番最初に入ろうとしたレストランからは、門前払いをくらうし」
「山の中……ああ、新市街の方から来たんですか。それじゃしょうがないですよ。あっちは外見で人を区別しますからね。その格好じゃ、じろじろと見られたでしょう?」
「ええ。まるで見世物か何かのように……あ、ごめんなさい。自己紹介がまだでしたね。私は水口千里(みずぐちちさと)、そしてこちらは鈴原雷牙(すずはららいが)といいます」
「おう、よろしくな、少年」
「は、はあ。どうも」
 金髪の青年―鈴原雷牙にそう言われ、聖亜は軽く頭を下げた。彼の横ではヒスイが食べ終わった皿の枚数を数えている」
「……しかしすごい食欲だな。特性ステーキにビーフシチューにカレーライス、オムライスにスパゲッティ、ホットケーキにジャンボパフェまで残さず食べ終えている」
「うむ。おかげで明日の仕込みをやり直さねばならなくなった。まったく、少しは遠慮したらどうかね。雷牙君」
「はっはっは。これでも腹八分目なんですよ、白夜さん」
 厨房の奥からモンブランを運んできた白夜が笑いかけると、雷牙はにかっと笑みを返した。
「……あれ?」
 その会話を聞いて、聖亜はふと首を傾げた。彼の名前を千里が言ったとき、白夜は厨房に居て聞いていなかったはずだ。となると、
「マスター、知り合いだったんですか?」
「ん? 気になるか、まあ昔の教え子といったところだ。で、雷牙君、この少女のような顔をして毒舌を吐く少年が、君の弟弟子になる星聖亜だ。昔の君のように未熟者だが、まあ仲良くやってくれ」
「へえ、珍しいですね、白夜さんが弟子を取るなんて。兄弟子としてよろしくな、聖亜君」
「は、はあ……どうも」
 正直話についていけなかったが、聖亜は出された手を握り返した。と、そんな彼の視線の隅に、雷牙が持っていた長い包みが映った。
「ん? これが気になるかい? 聖亜君」
「え? はあ、まあ少しだけ」
 少年の視線に気づくと、雷牙は笑いながらするするとその包みを解いた。

 その中から現れたのは、一つの古びた木剣だった。所々に札が巻かれているのと、かなり古いこと意外は、怪しい部分はない。
「へえ、珍しいですね、木剣なんて。刀とかは、よく博物館で見ますけど。」
特別に触らせてもらいながら、聖亜はしげしげと木剣をみた。彼はあまりこういった骨董品には興味はないが、歴史好きの準なら興味を示すだろう。
「ん?ええと、ここに何か彫られていますよね。ふ……つの?」
 木剣の腹に彫られた漢字を読もうと、聖亜は目を凝らした。だがかなり昔に彫られたその文字は、所々風化していたほとんど読めない。
 あきらめて木剣から目を離すと、聖亜はふと雷牙が自分を見ていことに気づいた。目が合うと、彼は一瞬ではあるが真剣な顔で千里のほうを見たような気がした。
「あ……あ~うん、どうだろう。俺もさっぱり読めんのよ。マジで。なんて書いてあるんだろうね」
聖亜から木剣を受け取ると、雷牙はするするとそれを袋にしまいこんだ。
不思議に思いながらも、聖亜はヒスイと共に食器をキッチンに運んでいった。


 雷が鳴り響いたのは、ちょうどその時だった。


「……さてと、そろそろお暇しようか、千里。雨も降ってきたしな。白夜さん、お勘定」
そう言いながら席を立つ雷牙は、だが彼から手渡された伝票を見てぴたりと止まった。
「千里……お前、いくら持っている?」
「滞在費用は十分持っておりますが、初めからこれに手を付けるわけには行きません。ご自分の分は、ご自分でお願いします」
「いや、けどなあ。ちょいとばっかし融通してくれないか?」
 そう言って、彼が相棒に手を合わせたとき、
「……ほおう、金が足りないのかね。雷牙君、皿洗いでもしてみるかね。」
 そういって、白夜はぼきぼきと指を鳴らして彼の横に腰掛けた。祭や他のウエイトレスも、ほうきを逆手に持って身構えている。
「え、えーと……ああそうだ、白夜さん、あれありませんかあれ。喫茶店で定番の、大盛り料理、時間内に食えたら何万円ってやつ!」
その雷牙の言葉に、喫茶店の中の時間が一瞬止まった。
「ば、馬鹿、なんてこというのよ、あんたは!」
「そうですよ! “あれ”に挑戦したお客さん、介抱するの大変なんですから。」
「あの、やめといたほうがいいですよ」
聖亜を含めた面々がそろって言う。だが、それはもう遅かった。
「ほおう、勇気があるね、雷牙君、あれに挑戦しようとは」
 炎を背中から吹き出し(ように見える)ながら立ち上がると、荒川はにやりと笑った。
「いえ、それほどでもないですよ。ということは……あるんですね。」
 雷牙のほうもにやりと笑う。それにつられ、荒川はその大きな指をパチンと鳴らした。
「園村君、特注の器を用意したまえ! 聖亜、お前は厨房から例の箱をもってこい! ヒスイはクラッカーとくす玉を用意しろ! 諸君、ぐずぐずするなっ!! この無謀な青年が、もしかしたら初の達成者になるかもしれないんでな!」
 と、いきなり動き出す白夜と、こうなったら楽しまなきゃ損という風に動き出した祭、そしてため息を吐きながら厨房に向かう聖亜を見て、
「……えーと、どゆこと?」
当の本人は、ぽかんと口をあけた。



 それは、デザートと呼ぶには、あまりにも巨大すぎた。


 その巨体は、雪を被ったエベレストのごとく。周りに突き刺さっているのは、切り立った岩だろうか。呆然としている雷牙の前に現れたのは、
『店長特性!愚か者さんの絶叫が鳴り響く!超弩級パフェ~夏場のエベレストにはむやみに上らないほうがいいですよ、雪崩が起きますから~バージョン2・0スペシャル』
と書かれた、3メートルほどのパフェだった。その形状はどこまでも垂直に伸びており、断崖絶壁を思い浮かばせる。しかもその周りには生クリームとバニラアイスでコーティングされた、50個もの厚めにカットされた果物(パイナップルやスイカ、メロンなど巨大な果物ばかり)が敷き詰められており、一番下には巨大な猫の形をしたチョコレートが鎮座していた。総重量20キロ。いままで無謀な挑戦者、その全てを粉砕してきた喫茶店「キャッツ」最強の存在である。
「ふ、ふ、ふ。この天才級にいい男、荒川白夜でさえも、未熟者の馬鹿弟子を実験台にし、開発までに1年もの年月をかけてしまった超弩級パフェだ。時間無制限一本勝負。もしこれを完食できたら、今日の勘定をただにするだけではない! この喫茶店キャッツ、一年分のただ券をやろう! さあ、挑戦してみるが良い!」
 応援用の旗やクラッカーをもったウエイトレスが取り囲む中、荒川はそう叫ぶと、雷牙に太い指を突きつける。それに対し、雷牙はぶるぶると目を閉じて震えていた。

(ギブアップしたほうがいいですよ、最悪の事態にならないうちに)

 1年前から試食品を大量に食べさせられ、そのたびにトイレに駆け込んだ未熟者の馬鹿弟子である聖亜は、そう心の中で忠告したが、雷牙はその瞬間、かっと目を見開くと胸を張って立ち上がった。
「いいだろう、その挑戦、受けよう。この秘密潜水艦、千里がな!」
「人に奇天烈な名前を付けないでください。ライ」
調子に乗ってそう言った雷牙を、千里は手に持っていた文庫本でバシッと叩いた。
「いて、だって千里、俺にこんなもの食べられるわけないじゃないか。けど、千里なら楽勝だろう?」
「それは私が大食いということですか? まあ、これほど巨大なデザートは、確かに興味がありますけど」
 そう答えると、千里はスプーンを手に取った。
「ふ、千里嬢、君が挑戦するのかね。本来ならば代理は認めんのだが、その勇気と豊かな胸を認め、特別に許可して進ぜよう。まあせいぜいそのきれいな肌がべたべたにならんようにせいぜい気をつけたまえ……さあ、用意は良いな。ではスタート!」
「やっちゃえ、千里!」
 騒ぎ立てる男2人と、囃し立てる周りの人間に、小さくため息をつきながら、千里はその巨大な物体に、スプーンを伸ばしていった。

 勝負がついたのは、それから30分ほどあとのことだった

「いやー、途中から白夜さんの顔の変化が面白かったな。しかし、すまんね聖亜君、安い旅館に案内してもらって」
「いいんですよ、これぐらい。それにマスターもこれで少しは懲りたと思うし、たまにはいい薬です。けど、おなか大丈夫ですか?千里さん」
「大丈夫ですよ、聖君。よく言うでしょう、甘いものは別腹だって。」
 くすりと笑う千里に、そうですね、と聖亜も苦笑して返す。彼らは今、雷牙と千里が泊まるという、旧市街の旅館に向かっていた。
「しかし、食費が浮いたのは良かったな。ここに滞在している間、一年間は毎日あそこでただ飯が食える。」
 そう笑いながら、雷牙は手に持った紙の束をひらひらとさせた。そこには黒猫が背伸びをしている絵が書かれている。

 喫茶店「キャッツ」のただ券だった。

「一年以上居るって……仕事か何かですか?」
「ん、まあ、そんなとこさ」
 と、彼らが話している脇では、ヒスイが先程市葉から渡された紙袋の中身をのぞき込んでいた。
「それは……浴衣ですか?」
「ああ」
 そこに、千里が静かに話しかける。こちらを見る穏やかな視線に、ヒスイは軽く見返した。
「まったく、雷は後輩が出来たことが本当に嬉しいようですね」
「……あなた達は恋人同士なのか?」
 ヒスイの質問に、千里は微笑してかすかに頷いた。
「ええ。彼はあたしの恋人です。ですが、そんな言葉では表現できないほど、私達の絆は深い。そう……まるで大地と、それに根付く木のように」
「……」
 微笑を浮かべたまま西を見つめる彼女に、ヒスイが何か言おうと口を開いたとき、
「千里~っ!! ここ泊まれるってよ!!」
「分かりました。今行きます。ではヒスイさん、これで失礼しますね」
「あ、ああ。さようなら」
 聖亜が戻ってくるまで、ヒスイは金髪の青年に向かって歩いていく彼女を、ただじっと眺め続けた。



『……』
「そうか。そんな事が」
 西から大急ぎで駆け込んできた鴉の報告を聞き、黒猫はそっと目を伏せた。
「西……復興街の北側にて大規模な戦闘を感知、か。100以上の狒々を短時間で倒すことが出来るのは単なる人間には不可能だ。それを成し遂げた、灰色の男……遂に来たか、閃光」
 と、先程彼女に報告した鴉がばさばさっと空に飛び上がる。どうやら未熟な少年少女が帰ってきたようだ。
 深々とため息を吐くと、キュウは出迎えのため、玄関に向かっていそいそと歩き始めた。

 
西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 7時40分


 心地よい風が、潮の香りを運んでくる祭り日和の朝、秋野茂は父が経営するホテルの厨房で、汚れた皿を懸命に洗っていた。
「ったく、何が小遣いが欲しければ働けだ、あの糞親父」
 そんな愚痴をこぼしているが、彼は別に小遣いをもらっていないわけではない。月に5000円の小遣いをしっかりもらっている。だがそれは親友である福井に付き合って買い食いなんかしているとすぐ足りなくなり、その度に彼は修行をかねてこうやってバイトをしているのだ。
 もちろん何度が小遣いの値上げを要求したことはあった。だが貧しい少年時代を経験した彼の父はその度に彼を叱り、そして稀に拳を使って諭した。すなわち、お前はあんな馬鹿野郎共の仲間入りをしたいのか、と。
 その馬鹿野郎共というのは、新市街に住む連中の事だ。彼も中2の前半までは派手な生活を好む母親に連れられ、新市街の中学に通っていたのだが、夏休み中に父と母が離婚し、彼は旧市街にある中学へと転校させられた。転校してすぐは同級生を見下していたのだが、今では気の合う友達が出来るまでになっていた。

 だから彼は別に父親のことが嫌いではない。いや、以前遭遇した新市街に居た時付き合っていた連中の変わり様を見ると、むしろ感謝すらしたくなってくる。

「けどなあ、せめて祭りがある時ぐらい黙って小遣いくれないもんかね、なあ福井」
 ぶつくさとそう呟きながら、秋野は隣りで自分と同じように皿洗いをしている親友に話しかけた。だが、
「ん? 福井、何ごそごそしてんだ?」
 だが、福井は皿洗いを中断し、床に座って何やらごそごそと手を動かしていた。首をかしげながら皿洗いを中断し、濡れた手で彼の肩を叩いた。

「ふごっ!!」
「うわっ!!」

 途端にびくりと肩を震わせ、福井は分厚い胸板をまるでゴリラのように叩き始めた。
「……って、福居お前なあ、客の食べ残したデザート食ってんじゃねえよ!!」
「ふぶっ……ぐぐっ、ぷはあっ!! いや、けどな。このイチゴのタルト、マジで旨いんだって!!」
「だからって、普通客の食い残し食うか? ちゃんと朝飯食っただろうが。しかも人の三倍食いやがって。親父さんとは大違いだな」
 そう叫びながら、秋野は大柄の福井とは違い、線の細い彼の父親を思い出した。彼は実は自分の父とは幼馴染であり、若い頃は外国に貧乏旅行に行った経歴を持つ。だからこそ、父は自分を親友の息子が居る中学に転校させたのだ。
「ったく、そんなに腹減ってるんだったら、後でちゃんとした物作ってもらうから、そんな物食うなよ」
「お、サンキュー。けどなんでこんなに旨いもの残すかね」
「さあな、新市街の奴らの考えることなんざ知るかよ」
 秋野の言葉に、そうだなと言いながら福井が立ち上がる。そして二人が皿洗いに戻ったとき、
「お~い、雑用係1と2、皿洗いはもういいから、ルームサービス届けてきてくれ」
と、奥の方から2人を呼ぶ声がした。
「はあ、ルームサービスっすか? 別にいいっすけど、何処に届ければいいんです?」
「おう、8階の5号室だ。下まで降りてくるのが面倒だから直接部屋に運んでくれっていわれてな。其処にあるから、早く持って行ってくれ」
「あ、これっすね。って、先輩、これ滅茶苦茶重いんですけど!!」
 厨房の隅にあるカートを押して、秋野はぶつくさとそう言った。カートの中には限界まで料理が詰め込まれており、福井と2人がかりでなければ動かすことが出来ない。8階まではエレベーターを使っていけるのだが、厨房から一番近いエレベーターまで200メートル以上ある。
「あ? 何か文句あるってのか? 社長に報告して自給下げてもらうぞ?」
「げ、勘弁してくださいよ。文句なんてないですから!! じゃ、じゃあさっさと行くぞ、秋野」
「お、おう。じゃ、行って来ま~す」
 重いカートを福井と共にゆっくりと押しながら、秋野は8階へと向かっていった。

 
「ぜっ、ぜっ、はっ、やっと……着いた」
「ああ、まさか一番近いエレベーターが清掃中だったなんて、な」
「つ、次の従業員用のエレベーターまで500メートルはあるし、で、でかすぎるんだよ、ここ」
 8階の廊下の隅で、秋野達はぜえぜえと息を吐いてしゃがみこんでいた。
「つか、5号室がエレベーターの出口の反対側にあるし!! あの先輩、絶対清掃中だって知ってやがったな!!」
「……秋野、お前結構元気いいな。けどよ、8階って特別な客用のスイートルームだろ? 一体どんな客が泊まってるんだろうな」
「そんなの俺が知るかよ。どうせ特別な客だろ。さ、とっととルームサービス渡して、さっさと帰るぞ……失礼します、ご注文のルームサービス、お持ちいたしました」
 荒い息を何とか整えると、秋野は5号室のドアをコンコンと叩いた。
「……お、やっと来た。って、なんだ、随分と若いボーイさんじゃないか」
 そう言ってドアを開けた客を見て、秋野と福井はそろって目を剥いた。
「……特別だな」
「ああ、特別だ」
 羽織っているバスタオルから、それこそはみ出すほどの胸を凝視している2人に、彼女は怪訝な顔をしたが、やがて納得がいったようにああとうなずいた。
「ああ、こんな格好でごめんよ。昨日余計な“運動”をして、今までシャワーを使っていたものでね」
「い、いえ、滅相もないです」
「そそ、そうです。な、中々結構なものをお持ちで」
「そうかい? ま、さっさと入っとくれ」
 彼女に促され、秋野と福井ははっと我に返り、カートを部屋の中に押し込んだ。
「ありがとさん。こりゃうまそうだ」
 更に盛り付けられた料理を見て、彼女は軽く微笑んだ。
「い、いえっ!! 当ホテルのシェフが腕によりをかけたものですが、お口にあってくれれば幸いです。そ、それでは、しし失礼致します!! おい、何時まで眺めてんだ、失礼だろ!!」
「お、おう」
 料理の入った皿をテーブルの上に並べ、部屋を出て行こうとしたとき、
「ああ、ちょいと待っとくれ。聞きたい事があるんだよ」
 
「「は、はひっ!!」」

 彼女に呼ばれ、2人はそろって回れ右をした。

「いや、そんなに緊張する必要もないだろう。簡単なことさ。昨日からあの辺りが騒がしいのが気になってね」
 そういうと、彼女は薄紫色の髪に当てていた手を離し、旧市街の神社の辺りを指差した。
「あ、ああ。今日は祭りがあるんですよ。本当は7日にやるはずだったんですけど、何でかしらないけど皆貧血になっちまって、今日に延期になったんです」
「……ああ、そういえばあたしが居た時も、そんな祭りがあったね。すっかり忘れていたよ」
「居た時……って、お客様は旧市街に住んでいたことがあるんですか?」
 福井の何気ない質問に、だが彼女はピクリと片方の眉を動かしただけだった。
「お、おい福井、何失礼なこと聞いてんだよ。申し訳ございません、お客様っ!!」
 福井の頭に手を置いて下げさせながら、自分も同じように頭を下げた秋野を、相手はじっと見つめていたが、やがてふっと笑って首を振った。
「……いや、いいんだよ。ああ、確かにこの都市に住んでいたことはあるさ。けど5,6歳、それこそ小学校に入る前までだけどね。だから記憶なんてほとんどないのさ。さ、着替えたいんだ。そろそろ出て行っておくれ」
 最後にお礼だよと2人の右頬にキスをし、彼女は2人の少年を外に押し出した。

「……」
「……」

 外に押し出された秋野と福井は、暫らく呆然とキスをされた右頬を手で押さえていたが、やがて顔を見合わせ、肘で互いをつつきながらカートを押して厨房へと戻っていった。



 さて、2人を押し出したエリーゼと言えば、

「…………ふうっ」
 一度深くため息を吐くと、身に纏っていたバスタオルをばさりと剥ぎ取った。
 途端にその白い肌があらわになる。だが、そこにあるのはそれだけではなかった。
 
 腹部を中心に、背中・腰・太ももにかけて、ケロイド状のひどい火傷後があった。だがエリーゼはそのケロイドをむしろ愛おしそうに撫ぜると、いそいそと服を着始めた。
「……っと、そう言えばそろそろあいつを起こさなきゃね」
 シャツとズボンを着込むと、エリーゼはつかつかと外に出て、隣の部屋「4号室」のドアをドンドンと叩いた。
「こらスヴェン、あんた何時まで寝てるんだい!! さっさと起きなっ!!」
 しかし中からはさっぱり動く気配がない。もう一度ドンドンと叩くと、ようやくもぞもぞと動く気配がした。だが

「……………………ぐ~」

 その声を聞いた彼女の頭の中で、ぶちっと何かが切れる音がした。

「いい加減に起きやがれ!! このクソガキがっ!!」



 その時、ドゴンッという音と共に、ホテル「ニュー秋野」が微かに揺れた。

 
西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 8時12分



 チチチッと小鳥の鳴く声が聞こえる。

「……ん」

その優しいさえずりに、少女はぼんやりと意識を浮上させた。
彼女に掛かっているのは一枚のタオルケットだけだ。それ以外は寝巻きも、そして下着すら彼女は身に纏っていない。
「……そうでした。昨日は久しぶりでしたからね」
 タオルケットを押さえて身を起こすと、千里はぼんやりと辺りを見渡した。薄暗い部屋の隅で、こぽこぽと湯が沸いている。
 腰に力が入らないので、膝を突いてそこまで行くと、彼女はお湯を湯飲み茶碗に注ぎ、一口ゆっくりと飲んだ。そのまま洗面所に向かうと、相方の親切か、ぬるま湯の中にタオルが浮いてあった。
 それを手に取り、情事で汚れた肌をゆっくりと拭っていく。所々鬱血した部分があるのは、昨日そこを強く吸われすぎたためだ。
「……雷?」
 不意に、彼女は自分の相棒がいないことに気づいた。
「雷? どこですか? 雷」
 途端に身体がガタガタと震える。不安と恐怖で頭が真っ白になる。ああ、自分は捨てられたのだ。やはり自分は彼には相応しくなかったのだ。
「う……ひくっ、うあ、うああっ」
 涙が溢れてくる。子供のように泣きじゃくる彼女の横で、部屋の戸がギイッと開いた。
「……ん? 起きたのか、千里」
「はい。お早うございます、雷。こんな早くに一体どこに行っていたのですか?」
 彼の姿を見た瞬間、千里はいつもの冷静な表情に戻った。だが頬を伝った涙の跡はそのままだ。それに気づかない振りをしながら、雷牙は小さく笑った。
「もう8時過ぎなんだけどな。ちょっと温泉に入ってきたんだよ。いや、朝風呂もいいものだぞ、マジで」
「そうですか。なら私も後でいただきます。ところで今日はどうしますか?」
彼から受け取ったタオルと下着を備え付けのハンガーにかけると、千里は静かに尋ねた。
「そうだな。まずは現状の確認だ。この都市で何が起こり、そして守護司は一体何処に消えたのか。まあ見つからないとは思うがな、マジで。その後はまあゆっくり観光ながら辞令を待とう」
「……随分とゆっくりですね」
「ん、まあな。しかし表の身分がないと自由に動くことは出来ないだろう? まあ俺達は教育学部にいるから、たぶん教師という形でどこかの学校に配属されるとは思うけどな。それより……」
 不意に、雷牙は窓から西の方を見た。朝日の中、遠くに微かに巨大な樹が見える。
「あそこが鎮めの森か……千里、もう乗り越えたのか?」
「……いえ、まだ少し。駄目ですね私は。あれからもう長い時が経ったというのに」
「ああ。けどな、あれからまだ15年しか経っていないんだ。あのくそったれな災厄からな」
 肩にぎゅっと抱きついてきた恋人の頭をゆっくりと撫ぜ、キスをする。
「大丈夫だ……千里、俺はずっとお前の側にいて、お前を護る。絶対にだ」

 太陽の光に目を細めると、雷牙は再び、今度は厳しい目つきで外の景色を眺めた。


 
西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 13時40分



 目の前の画用紙に描いた睡蓮の絵を、聖亜は険しい目つきで眺めた。
「……聖亜? どうかしたのか?」
「ん? ああ……いや、なんでもない」
 窓の側で退屈そうに座っているヒスイの声に、少年は軽く頭を振った。
 一週間以上前に仕上げたこの絵は県のコンクールに出す絵だったが、今見てみるとどうもいまいちだ。


 夏休みに入って始めの日、聖亜とヒスイ、そして準の3人は学校に来ていた。ここで秋野達と待ち合わせをしているためだ。彼らと合流し、夕方になったらその足で神社で行われる祭りに行く事になっていた。そのため傍らにいるヒスイの格好は何時ものジャケットとジーパンといったラフな格好ではなく、昨日市葉から借りた青をベースにした浴衣を着ている。絵柄になっている朝顔が可愛らしい。
「そういえば、さっき柳が愚痴っていたぞ。せっかく似合いそうな浴衣があったのに、てな」
 歴史研究会に所属している準は、学校についてから、研究会が部室代わりに使っている教室に行った。ついでに言うと、準の着ている浴衣は紅を主体にし、大きな花火が描かれていた。
「あれは……ちょっと子供向きだと思う」
「ははっ、確かに。まああいつが中学の時の浴衣だからな。でもちょうどいいと思うぞ」
「……それは私の体格が子供だということか?」
「いや、準は中学のときから背が高かったからな、ちょうど今のヒスイぐらいなんだよ。あとあの時の準と似ているところといえば、む……いや、なんでもない」
「……」
 慌てて口をつぐんだ少年に、ヒスイは強い視線を向けたが、ふっと窓の外を見た。
 それを見てほっと息を吐いてから、聖亜は再び絵とにらみ合った。確かによく出来きた睡蓮とは思うが、コンクールにはこの程度の絵はいくらでも出品されるだろう。
「やっぱり人物画の方がいいか。けどな……」
 けれど人物画を描くのは抵抗がある。やはり過去のトラウマがまだ残っているのだろうか。
 もう一度ため息を吐くと、聖亜は画用紙から目を離し、ふと外を眺めているヒスイの横顔を眺めた。
 じっと外を眺めている彼女の横顔は、エイジャと死闘を繰り広げているときと違い、随分と幼い感じがした。
 無意識のうちに、聖亜は横においてある鉛筆を手に取った。それを縦にし、そっとヒスイと重ね合わせる。
「ん? どうした?」
「……え? あ、いや、何でもない」
 そうか、そう呟き、再び外に視線をやったヒスイの顔を、聖亜は何故か見ることが出来なかった。

 見ることが嫌なのではない、いや、むしろ見たいと思う。ただ、何となく気恥ずかしいのだ。

「そ、そうだヒスイ、ヒスイはどうしてエイジャと戦っているんだ?」
 気恥ずかしさを紛らわすように、聖亜はふとそんなことを尋ねた。
「……なぜそんなことを聞く?」

 その時、不意に室内の温度が凍りついた。

「……いや、何となく」

『何となくで女の過去を知ろうとするでない、この青二才』

こちらを冷たく睨みつけてくる少女の変わりに、彼女が持っていたペンダントの中から黒猫の声が聞こえてきた。
「……なんだよ、青二才って」

『ふん、女の過去をむやみに探る男など、青二才で充分だ。それよりヒスイ、そなた今日本当に祭りなんぞに行くつもりか?』

「ああ。別にエイジャの気配もしないし……駄目なのか?」

『別に駄目といっているわけではないが……まあ良い。好きにせよ』

 いつもの口調とは違い、少し言いよどんでいるキュウに、ヒスイは軽く首を傾げた。その様子を見ていた聖亜がふと窓の方に視線を映すと、庭を秋野と福井が歩いてくるのが見えた。
「ああ、やっと来た……って、何かぼうっとしてないか?」
「……そういえばそうだな。それに2人とも右頬を押さえている。虫歯にでもなったか?」
「いや、秋野はともかく、福井は大食いなのに今まで虫歯が一本もない。たぶん違うだろう。けど、本当に何やってるんだ、2人とも」
 こちらが見ている事に気づいたのか、彼らは右頬を押さえたままのろのろと手を振ってきた。

 何時もの陽気な感じではない。だが別に病気というわけでもない。ただぼんやりとしているだけだ。


 どこかおかしい彼らの様子に、聖亜とヒスイは、揃って首を傾げた。



 
西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 18時40分


「なんだ、キスされてぼうっとしていただけか、まったく」
「いただけてなんだよいただけって、本当にすごかったんだから」
「すごかったって……秋野はともかく、福井、お前は恋人が沢山いたんだから“しなれてる”だろ」
「いや、そうなんだけど、あれはなあ」
 夕方、未だに様子がおかしい凸凹コンビと一緒に、聖亜とヒスイ、そして準の3人はお立ち通りを歩いていた。普段は物静かな石畳の道は、だが今は両端に屋台が立ち並び、客を呼び込む的屋の声で騒がしかった。
 その騒がしい道を5人で歩く。浴衣のヒスイと準、甚平を羽織った秋野と福井の両名とは違い、聖亜は学生服だ。別に家に甚平がないわけではない。というか準の背負っているリュックの中には、彼女が自分に着せようとした甚平が入っているが、聖亜は丁重にお断りした。幾ら背が低いといっても、小学生用の甚平は流石にきつい。いろんな意味で。
「それで? まず何から食う?」
「福井……お前は食うことしか頭にないのか」
「あ? んなことねえだろ、ちゃんとそれ以外も考えてるって。例えば」
 自分たちと同じように石畳の道を神社へと向かう、浴衣姿の女を見て、福井はニヤニヤと鼻の下を伸ばした。
 彼の様子を見て、何を考えているのか分かったヒスイは、呆れたようにため息を吐くと、福井の頭をポカッと叩いた。
「痛てっ!! 何すんだよ、ヒスイ」
「お前がスケベなことしか考えていないからだ。大体、祭りの醍醐味は神輿やお囃子を見ることだろう?」
「あのな、俺って一応この神社の息子だぜ? 神輿は一週間に一度、掃除のために必ず見るし、お囃子をしているのも家族や親戚ばっかりだ。別に興味な……痛いっての!!」
 ヒスイが再び、今度は少し力を入れて殴ると、福井は頭を抱えて秋野の後ろに隠れた。彼らの様子を見ながら、聖亜は先程買ったクレープを頬張った。どろりとしたきつい生クリームが、口の中一杯に入ってくる。
「ん? 珍しいな聖、お前がクレープ食べるなんて。洋菓子は苦手だろ」
「……ん、そりゃそうなんだけどさ、義務というか何というか」
 “頭の中”にいる少女のために、眉を顰めながらもごもごとクレープを食べているしている少年に、準は水筒の中に入れておいた麦茶を差し出した。目礼してから受け取ると、一気に飲み干す。くどい甘さが麦茶によって流され、聖亜はほっと息を吐いた。
「それで、どういう風に見て回る? 俺はあまり屋台とかに興味がないから、先に神社の方に行くけど」
「あ、私もいく。動く前の神輿を見てみたいしな」
「聖が行くなら、もちろん私も行く。福井に秋野、お前達はどうする?」
 準にそう尋ねられ、秋野と福井の両名は顔を見合わせ何やらこそこそと話していたが、やがて秋野がこちらを向いた。
「いや、俺達は食べ歩きしてるよ。実は昼飯食い損ねてさ」
「んで俺がその案内な。だから二手に分かれる形でどうだ?」
「……それはいいけど、あまりナンパはするなよ。今日はお前の家でやってる祭りだ。ナンパなんかしたら、一発でばれるからな」
「う……分かってるよ。けどちょっとだけならいいだろ?」
「そうそう、あ、神社に行ったらちゃんと俺達の分の席も取っておいてくれよ。えっと、野外コンサートって20時からだよな」
 野外コンサートというのは、社殿の前に設置されたステージで行われるアマチュアのコンサートだ。ロックや演歌など歌の種類は問わず、飛び入りも自由ということなので、結構人気があった。
「ああ。あと2時間以上あるから充分席は取れると思うけど、あまり遅くなるなよ。それから、あまり食いすぎないこと。去年みたいな目にあっても知らないからな」
「う……わ、分かってるって聖亜。んじゃ頼むな~!!」
 去年屋台で食べ過ぎたため、コンサートの途中で吐いた秋野は、手をひらひらとさせながら福井と共に人ごみの中へと消えていった。
「さと、俺達も行くか。けどヒスイ、お前日本の祭りは初めてだろ? のんびり屋台を覗きながら行こうぜ」
「そうだな。少し空腹だし、ちょうどいい。けどみたらし団子売っている店なんてあるだろうか」
「まあ城川屋なら出しているんじゃないか? 私も林檎飴食べたいし、さ、早く行こう、聖」
「はいはい。お姫方のエスコートはちゃんとしますよ」
 準と手をつなぎ、左側にヒスイを伴いながら、聖亜は神社に向けて歩き出した。



―聖亜サイドー

「お、射的がある。やってみないか、ヒスイ」
 3人で歩き始めて少し時間が経った頃、屋台の一角に射的屋を見つけ、聖亜はヒスイに声をかけた。
「射的? まさか本物の銃を使っているんじゃないだろうな」
「いや、木製の銃でコルクを打ち出すんだ。そしてコルクが並んでいる景品に当たれば、それがもらえる。まず私がやってみるから、聖、ちょっと荷物持っててくれ」
 先程買ったヤキソバと綿菓子を聖亜に預けると、準は店番をしている中年の親父にお金を払い、木製の銃を手に取った。傍らにある箱の中からコルクを一つ取り出し、景品の一つに身長に狙いを定め、撃つ。
 だが、コルクは景品には当たらず、その隣をまっすぐに飛んでいった。
「とまあ、こんな具合だ。つかやっぱり取れないとむかつくよな……このっ、このっ」
 再びコルクを込め、発射するが、それでもやはり景品には当たらない。三回目でも同じだった。残念そうに肩を落としながら、準はヒスイに銃を渡した。
「それじゃ、次ヒスイの番な」
「ああ……これが弾か。随分軽いな」
 コルクをしげしげと眺め、それを木製の銃に込めると、ヒスイは軽めに銃を向け、撃った。コルクはまっすぐ飛んでいくが、やはり初めてなのか、景品と景品の間に向かっていく。だが、
「……あれ?」
「おいおい、嘘だろ」
 景品と景品の間を通り過ぎようとしたとき、コルクはぐぐっと右にカーブし、並べてあった景品を直撃した。
「これでもらえるんだよな」
「あ、ああ。けどすごいなヒスイ、弾をカーブさせるなんて」
 景品のお菓子をもらっているヒスイに、準は感心したような声を送るが、当の本人は軽く首を振っただけだった。
「別にすごくない。銃はアメリカに居た頃、鹿狩りをする時なんかで頻繁に使っていたからな。鉄じゃないコルクの弾道を曲げるように撃つことなど、朝飯まえだ」
 そう言って軽く笑うヒスイを見ていると、聖亜はコルクがまだ一つ残っているのに気づいた。
「なあ準、ヒスイ、最後の一発、俺がやってもいいかな」
「ん? ああ、好きにしろ」
「っと、すまない聖、荷物をありがとうな」
 そう言って手を伸ばす準に荷物を預けると、聖亜は最後のコルクを銃に込め、目の前の景品を品定めした。それほど大したものは置いていないが、その中で“まし”と思われる物に狙いをつけ、軽く引き鉄を引く。発射されたコルクは、景品に向かってまっすぐに飛んでいき、それをかこんと叩き落した。
「よし、命中っと。どうも」
 おそらくこの店で一番値打ちのある景品なのだろう。苦々しい顔をしている親父から小さな箱を受け取ると、聖亜は興味津々と行った感じの2人の少女の元へと急いだ。
「聖、それなんだ?」
「ん? ああ、イヤリングだ。といっても安物だけどな。けど耳に穴を開けるタイプのものじゃないから、2人とも、此処で付けて見たらどうだ? ちょうど2人分あるし」
「あ、ああ。ありがとう、聖」
 渡された箱を開き、中に入っていた二つのイヤリングのうち、蒼い方をヒスイにやると、準は赤いイヤリングを早速耳につけた。ハート型のイヤリングが、形の良い耳で揺れている。彼女の横では、ヒスイがちょっと手間取りながらも、蒼い星型のイヤリングを耳につけていた。
「どうだ聖、似合うか?」
「うん。似合ってる。ヒスイもな」
「そ、そうか?」
「……ヒスイもっていうのは少し気に食わないけど、ありがとう。で、これは私からのお返しだ」
 そう言うと、準は聖亜の右頬にちょんっと触れるだけのキスをした。
「ほら、ヒスイも」
「うぇ!? わ、私もするのか?」
「当たり前だろう。お前、イヤリングをもらっておいて何の礼もしないつもりか?」
 準にそう言われ、ヒスイは暫らく俯いていたが、やがて決心したように顔を上げた。
「いや、別にしなくてもいいから」
「いや、そういうわけにはいかない。準の言うとおり、私はイヤリングをもらったからな。その礼は……ちゃんとする」
 そう呟くと、ヒスイはまるでエイジャと遭遇したときのように真剣な顔をして聖亜に近づき、先程準がキスした方とは反対側、すなわち左頬へとその唇を寄せ、


 微かに、本当にされたのだろうかと思うほど微かに、彼の左頬にキスをした。


「…………」
「……い、聖!!」
「……あ? あ、ああ。どうした準?」
「どうしたって……一体何時までぼけっとしてるつもりだよ。まるで凸凹コンビみたいだったぞ」
「いや、まさかしてくれるとは思わなかったから」
 向こう側を向いているヒスイを見ながらそう呟き、ぼんやりと左頬に手を沿える少年にむっとしたのか、準は両手で彼の頬をがしっと掴むと、
「準? 一体どうし……うむぅっ!!」
 聖亜の唇に自分の唇を重ね、彼の口内を蹂躙した。
「……ぷはぁっ!! ご馳走様、聖」
「…………ご馳走様じゃないだろ。それよりさっさと次にいくぞ。ヒスイも何時までそっち見てるんだよ、次はお前の好きなみたらし団子を売ってる店だぞ」
「……ああ。って、ちょっとおい」
 ぜえぜえと息を吐いてから、聖亜はヒスイに呼びかけた。こちらを振り向いた彼女の頬はまだ赤く染まったままだ。彼女と準の手を強引に掴むと、聖亜は和菓子屋に向かってずかずかと歩き出した。



 だが、和菓子屋の前に屋台は出ていなかった。

「おかしいな……祭りのときはいつも屋台が出ているのに」
「ああ。確か去年も出していたな。で、売れ残ったみたらし団子を4人で必死になって食べたんだ」
「……店自体はやっているようだけど、入ってみるか?」
 ヒスイの言うとおり、屋台は出ていないが店自体はやっているようだ。ちらりと準の方を見ると、彼女はヒスイに同意するように頷いた。
「……そうだな、分かった。入ってみよう。先生に絵の事で相談したいこともあるし」
 そう言って聖亜は店に向かって歩いていった。いきなり入らずに店の中を覗くと、客はあまり居らず、カウンターの所に彼の年上の幼馴染であり、美術部の顧問を務める城川屋の跡取り息子が退屈そうに座っているのが見えた。
「……ん? ああ聖亜君か。いらっしゃい」
 こちらに気づいたのか、彼は重く沈んだ声でそう言うと、ちょいちょいっと手招きをした。
「あ、はい。どうしたんですか? 屋台も出さずに……ああ、ヒスイ、準、入ってこいよ」
「あ、ああ」
「……お邪魔します」
「おや? 君達も来たのか。いらっしゃい」
 ケースの中に並んでいるみたらし団子が気になるヒスイは置いておき、聖亜と準は城川先生に近づいた。いつものほほんとしている彼が、今日は何故か青ざめている。
「……どうしたんですか? こんなに青ざめて」
「ああ、いや実はね……香がまたいなくなってさ」
「香がぁ!? ったく、またかよあの馬鹿女」
 準の大声に、ケースの中を見ていたヒスイがこちらを向いた。
「柳……香って誰だ?」
「ん? ああ、僕の妹さ。で、柳君と聖亜君の中学の時の同級生」
 先生がヒスイに説明している間に、聖亜は香の姿を思い浮かべた。中学の時はおどおどとした、髪を三つ編みにしている小動物のような彼女は、だが女子高に入った途端その性格が一変した。金髪に染めた髪にはパーマをかけ、耳には幾つもピアスを付け、幾日も男と遊び回った。その度に彼女は両親に説教されていたが、2,3日も経つと、彼らに対するあてつけのようにまた別の男と遊び回った。
「いや、最近は結構大人しかったんだけどね、この前の貧血騒動のあと、急に家を飛び出しちゃってさ、もう5日も帰っていないんだよね。いつもならどんなに長くとも3日目には一応帰ってきていたんだけど」
「う~ん、出て行く前に何か言ってませんでした?」
「いや、特にはね。けどいつもの事は言っていたよ。“皆どうせ私の事なんてどうでもいいんでしょ”だってさ」
「……っち、あのクソ女が。相変わらず自分が話題の中心でないと気がすまないようだな」
 準が忌々しげに吐き捨てる。それを見て聖亜はげんなりと息を吐いた。高校に入学してすぐ、彼は性格が変わった彼女に自分の男にならないかと誘われたのだ。そしてその事を準に見られ、彼はそれから一週間彼女に奢らされたのだ。
「それで皆探しに出ていてさ、とても屋台を出せる状況じゃないんだよ。嫁さんも心配してさ。寝込まれても悪いからいつもと同じ事をさせているんだけど……はい、みたらし団子」
「あ……」
 みたらし団子のパックがぎっしり詰まった紙袋を差し出され、ヒスイはちらりと聖亜の方を見た。彼女は確かにみたらし団子が好きだが、この状況で受け取れるほど無神経ではない。
「ごめん、もらっといてくれ……じゃあ、まあみたらし団子もらったし、俺達も手伝いますよ。いいよな、準、ヒスイ」
「……まああいつのことは気に食わないけど、いないとやっぱり気になるしな」
「ああ。ギブアンドテイクだ。まかせてくれ」
「そうか、ありがとう3人とも。じゃ、お礼としてもう一袋「いや、もういいですから」……そうかい? けど今日は祭りを楽しんでおくれ。この辺りはもう探し尽くしたし、あんな妹のために楽しみを奪っては申し訳ないからね」
「そうですか。じゃあ何か分かったら見かけますので。失礼します」
 一礼すると、聖亜は外に向かって歩き出した。その後ろから同じように一礼をして準とヒスイも続く。彼らを見送ってから、城川は椅子に座りなおすと、悲しげな顔で深々とため息を吐いた。
「ったく、何をやってるんだ、あの馬鹿」

「それで? 何処から探す?」
「取り合えず通っていた女子高に行ってみよう。それから彼女と親しかった友達を探して、次に男関係を探る」
 店のすぐ近くにあるベンチに座り、聖亜はヒスイの質問に淡々と答えた。
「随分と面倒くさいな」
「……準はあまり香と仲良くなかったからな」
 むっつりとした顔で呟いた準を見て、聖亜は苦笑して息を吐いた。
「けど、やっぱり見て見ぬ振りはできない。別に知らない奴がどうなろうと、俺の知ったことじゃないけど、知り合いがいなくなっていて、何か事件に巻き込まれているのなら、ちゃんと助けてやりたい」
「…………ふうっ、分かったよ。“俺”の負けだ。こうなりゃちゃんと見つかるまで付き合う。そんで見つかったらその場で一発ぶん殴る。いいな」
「ああ。ヒスイも手伝ってくれよ? ……ヒスイ?」
 白髪の少女の返事がない。後ろを振り返ると、そこではヒスイが何やらごそごそとやっていた。
「……おい、何みたらし団子食ってんだよ!!」
「あうっ、あ……いやその、すまない」
 みたらし団子を口に入れたまま、もごもごとすまなさそうに俯いた白髪の少女を見て、聖亜と準は顔を見合わせると、ぷっとそろって吹き出した。




 3人がいるベンチから遥か後方の石畳で、その男は彼らの様子をじっと見て、ぎりぎりと手を握り、口の両端を限界まで吊り上げた。

「…………ようやく、ようやく見つけたぞ。絶対零度!!」







―秋野サイド―

「あの……お姉さん、一緒に屋台見て回りませんか?」
 紫色の浴衣を着た、OL風の観光客にそう声をかけた秋野は、だが一瞥しただけで手を振って歩き去る彼女の後姿を見て、がっくりとうな垂れた。

 これでナンパを開始してから20回連続で振られている。軽く息を吐くと、秋野は近くの屋台で大盛の焼きそばを頬張っている福井の隣りにしゃがみ込んだ。
「ふぉいふぉい、ふぉうしたんふぁよ、調子ふぁるいじゃねえふぁ」
「……悪い、何言ってるか分かんねえよ」
「んぐんぐ、ごくん……っと、悪い悪い。じゃあ改めて、おいおい、どうしたんだよ。調子悪いじゃねえか」
 三杯目の焼きそばを食べ終え、満足そうに腹をさすると、福井は秋野にほれっとチョコバナナを差し出した。
「……どうも」
「いやいいって。けどよ、お前趣味変わったのか? 前は高校、いってもせいぜい大学生がお前の範囲内だったろ? 今までそいつらを対象にナンパの練習をしていたくせに、いきなり自立しているお姉さま方を相手に出来るわけないだろうが」
「……うるせえな、分かってるよ。けどお前だってぜんぜんナンパしてないじゃないか」
 チョコバナナを食っている親友にそう文句を言われ、福井はそうなんだよな~っと頭を掻いた。
「いや~、聖亜にも言われたんだけどさ、家の近くでナンパしたらやばいだろ。そりゃ俺が声をかければ一発でナンパは成功するよ? この髪形もナンパするとき笑い話として使えるしさ。けどもしそれが母ちゃんにばれたら……ひいいっ!!」
「いや、悪かった。な、元気出せ」
 ガタガタと震えだした親友の肩をぽんぽんと叩くと、秋野はチョコバナナの串を捨てるため立ち上がり、そしてふと前の人混みを見た。
「……あれ?」
「ん? どうしたんだよ」
「いや、何か今遠くに小池の姿が見えたんだけど」
「……はぁ? 小池って言ったらお前、俺らの学校裏切って月命館に入ったA組の奴じゃねえか。秋野、お前顔知ってたのか?」
「いや、別に知りたくもなかったんだけどな、あいつ月命館に行くとき、散々俺に自慢してきたんだよ」
「ふ~ん、ま、災難だったな。つかなんで月命館の寮に引っ込んだ奴が旧市街を歩いてるんだよ」
「そんなの俺が知るか。どうせママのおっぱいが恋しくなったんだろうよ。さてと、ナンパの再開だ」
 気合を入れて立ち上がった彼を見て、福井は新たに買ったイチゴ味のかき氷を、思いっきり頬張った。口いっぱいに冷たく甘い味が広がる。
「でもさ秋野、お前の趣味が変わったのって、やっぱりあのお客さんのせいか?」
「ぶっ!! な、何馬鹿なことを言ってるんだよ!! そそそそんな事ああああるわけないだろが!!」
「へいへい。お前ってほんとに分かりやすいよな。それじゃそろそろ移動しようぜ。あっちでイカ焼き売ってるの見たんだよ」
「おいおい、まだ喰うのかよ。去年の俺のようになってもしらねえぞ? まあい……いや、ちょっと待て。もう一回だけ声かけてからな」
 目の前をさっと通り過ぎたスーツ姿の女性の左右に振られた尻を見て、秋野はごくりと唾を飲み込んだ。
「はいはい。勝手にやってなさいよっと。おやっさん、カキ氷もう一杯。次はメロンソーダでね!!」
 女の尻を追いかけた親友に激励の手を振ると、福井は出されたカキ氷にスプーンを伸ばした。



「あ、あの……すいません」
「……」
「あのっ、すいません!!」
「ん? ああ、あたしか。誰だい?」
 スーツ姿の女性に追いついた秋野は、振り返った彼女を見てはっと息を呑んだ。さっきまでは暗くてよく分からなかったが、独特の薄紫色の髪を持った豊満な体を持つ彼女は、間違いなく今朝自分にキスをしてくれた客だった。
「あ、あの……お客様ですか?」
「ん? ああ、今朝の坊やか。奇遇だね、こんな所で出会うなんて。祭りにでも来たのかい?」
「……は、はい!! お客様もですか?」
 ふっと笑った彼女に一瞬見惚れた秋野だったが、あわあわとそう尋ねた。
「いや、最初はそのつもりだったんだけど、ちょいと連れとはぐれちまってね」
「は、はぁ……あ、俺探すの手伝いますよ。どんな人なんですか?」
「おや? 良いのかい。んじゃ頼もうかね。灰色の髪と目をした大男なんだけど……おや? どうしたんだい?」
 男と聞いてがっくりとうな垂れた秋野を見て、彼女は不思議そうに首をかしげたが、
「いや……もしかしてその人、恋人か旦那さんですか?」
 少年のその言葉に、ぷっと吹き出した。
「恋人か旦那? そんなわけないじゃないか。そうするにはちょいと年が違いすぎるからねえ」
「え? そ、そうだったんですか!! うっし。こっちはもう探したんですよね? なら神社の方角じゃないかな。自分も神社に行くんで、一緒に行きましょう!!」
「おや? そいつはありがたいね……そういえばお前さんの名前を聞いていなかったね」
「は、はいっ。秋野茂って言います……あの、お客様は?」
「そういや言ってなかったね。あたしはエリーゼっていうんだ。よろしくな、アキノ」
 はいっと元気良く返事をした少年に顔を近づけると、途端にどぎまぎする彼を見て、エリーゼはにっと笑った。






 ギャリッ、ギャリッと音を立てながら近づいてくるその男を、聖亜は呆然と眺めた。
 
 
 自分の周りからヒスイ以外の生き物が一瞬で掻き消えたのは、もう少しで神社に着く頃だった。
 最初、エイジャの奇襲と判断したヒスイがペンダント“尽きざる物”から護鬼を引き抜いたが、近づいてくる男を見た瞬間、彼女は太刀を落とし、悲しげに俯いた。

 身長は自分より遥かに高い。重力に逆らうように夜空に伸びる髪は、ヒスイ同様色素がないが、彼女の髪が澄んだ雪のような白髪なのに比べ、これは疲れきった老人に似た灰色だ。そして傍らの少女の瞳が空を思わせる蒼なのに比べ、男のそれは


 男のそれは、何の感情も写っていない灰色だった。


 いや、違う。その灰色の瞳には抑えきれない感情が見え隠れしている。憎悪、怒気、


 そしてそれらを凌駕する、途轍もなく強大な、狂喜。


 ギャリギャリと鳴っているのは、男が両手に持っている巨大なチェーンソーだ。一つ100キロ近くありそうなそれを、だがこの男は左右に一つずつ、軽々と持っている。

 男は、呆然とこちらを見つめる聖亜と、そしてその隣りで悲しげに俯いている少女の前まで来ると、右手に持ったチェーンソーを天高く上げ、

「……くくっ、くはっ、くひゃははははっ!! 死ね、絶対零度っ!!」


 白髪の少女に向け、勢い良く振り下ろした




   ギャリリリリリリリッ!!



                                      続く

 こんにちは。活字狂いです。仕事が忙しく、一週間抜けてしまいました。その分今回はちょっと長いです。容量でいうと200キロバイトくらい。さて、チェーンソーに襲われるヒスイの運命は? 幕間「蠢くもの」を挟みつつ、第三幕 「過去との邂逅」を、どうぞお楽しみに。
 ところで、最近ブラックラグーン熱が再熱しました。聖亜は特別な力がなくとも、楽にロアナプラで暮らせます。戦闘能力はレヴィとロベッタの2人と一度に戦って勝てるぐらい。まあ、バラライカ様の率いる遊撃隊には一歩劣りますが。それにしても、バラライカ様の座る椅子になりたくて、ヘンゼル(グレーテルかな?)がロックに見せたスカートの中身を見たいと思う俺は死んだほうがいいですかそうですか。

 というわけで、第三幕はバイオレンスです。いやマジで


追記1 アナザーセンチュリーエピソードポータブルがさっぱり面白くありません。ストーリー性が全くないうえに、オープニングの歌もない。こうなったら戦場のヴァルキュリア3とガンダムジージェネレーションワールドに期待するしかないか。ヴァルキュリア3はマルチエンドということなので、ダルクスの少女とのエンディングを目指します。


追記2 もう一つ、アリスソフトから発売される大帝国がマジでほしい。けど4月に発売だからすぐに買えない。くっ

追記3 どうでもいいですが、最近江口洋介主演のスクールを見ております。話は面白いんですが、いじめを主導している女子生徒がマジできもい。どうにかならなかったのだろうか。



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 幕間   「蠢くもの」
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:3d0d579c
Date: 2011/01/31 11:39


 ハァッ ハァッ ハァッ


 少年は、荒い息を吐きながら人混みの中を走っていた。

 途中でぶつかった何人かが不愉快げな顔で睨み付けるが、彼は足を止めようとはせず、ただ前を見ながら狂ったように走り続けた。
やがて、少年は人気のない場所まで来ると、ぜえぜえと肩で息をしながらがくりと膝をついた。うつろな目であたりを探ると、隅に水道の蛇口が見える。這うようにそこまで近づくと、がくがくと震える手で蛇口をひねり、出てきた水を貪るように飲んだ。


「……おや? もう逃げないのかい?」


「うぶっ!!」


 別の少年の声が闇の中に響いたのは、その直後だった。

「やれやれ、僕は君に走れと言った覚えはないよ、小池君。確かに君は走るのは得意だけれど、別にそれを熱演してもらう必要はこれっぽっちもない」
 闇の中から現れたのは、どこにでもいる単なる少年だった。年齢は小池よりわずかに下であろう。特徴らしい特徴はなく、あえて特徴をあげるならば“普通”という名が付くほどに平凡な少年だが、小池はこの少年の内面が、その外側と全く違うことを知っていた。



いや、思い知らされた。 



「ん、んなこと言ったって、出来るわけねえだろうが!!」
「そうかい? けど“これ”欲しさに何でもやると言ったのは君だよ? なに、簡単なことじゃないか。コンサートに来た人に配られる飲み物に、“青酸カリ”を入れるぐらい」
 平然とそう言った少年を、小池はがくがくと震えながら睨み付けた。
「で、出来るわけないだろ!! そんな事したら、何百という人間が死ぬぞ!! なんで、なんでそんな事……」
「なんでって? 決まってるじゃないか」
 暗闇の中、少年はまるでスポットライトを浴びているかのように、空に向かって両手を高々と広げた。


「“僕”が楽しいからさ!! それ以外に、一体どんな理由がいるというんだい?」


 狂ってる。 


 目の前で楽しげに笑っている少年を見て、小池は心の底からそう思い、そしてこの最悪な少年と関わってしまったことを、心底後悔していた。


 小池がこの少年と出会ったのは、今から半月ほど前、陸上の成績が伸びずイラついていた時だった。
 根津高等学校から陸上のエースとして引き抜かれた彼だったが、陸上部の面々、中でも金持ちからの侮蔑を込めた嫌がらせにストレスがたまり、さらに特待生は成績が振るわなければ即退学、しかも多額の違約金を支払う必要がある事からプレッシャーを感じ、成績が振るわなくなり、担当教師から勧告を受けた。


 その時だ、この少年が良い物があると言って、白い粉を差し出してきたのは


 少年は、初めはその白い粉を一種のドーピング剤だと言っていた。どんな検査にも引っかからない、まさに魔法の粉だと。
 確かに彼の言うとおり、この粉を服用した直後は高揚感が体全体を包み、全身に力がみなぎる感じがした。つい先日行われた夏の大会への選抜試験でも、ほかの部員を圧倒し、見事勝利することができた。


 だが、体の異変は、すぐに表れた。


 薬が切れることでの強力な脱力感と疲労、そして強烈な吐き気。それを抑えるためにさらに少年から粉を購入し、そのせいでさらに体の調子がおかしくなる。何度かそれを繰り返している間に、小池はこの白い粉がコカイン、いやヘロインすら上回る強力な麻薬だということにようやく気付いたが、その時には、もう彼の体は中毒症状に陥っており、少年に対する借金も膨大なものになっていた。


 少年がある提案をしたのは、ちょうどそんな時だった。

 
 初めは簡単なことだった。この麻薬「K」を新市街に住む若者に売る手伝いをするというならば、定期的にこれを供給するというのだ。少年の提案に、小池は無我夢中で飛びつき、学生を中心に、「K」は若者の間に広まりつつあった。


 だが、ここで警察の取り締まりが強化された。


 彼と同じように薬を売っていた下っ端の一人が初歩的なミスで警察に捕まり、麻薬が押収された。そのため新市街での販売が困難になった時、少年は小池に今回の提案をしたのだ。


 すなわち、祭りの日にコンサート会場で配られる飲み物に、青酸カリを入れろと。


 人が死ぬかという事態になって、小池はようやく自分のしていることの恐ろしさに気付き、こうやって逃げ出したのだ。だが



「さてと、逃げ出したネズミはさっさと“駆除”しないとね」


「ひっ、や、やめ、やめてくれっ!!」

 少年がポケットから取り出したものを見て、小池は恐怖に震え上がった。彼が取り出したのは単なる切れ味の悪い折り畳み式のナイフだ。おそらくよほど力を入れなければ何も切れないだろう。だが小池は、この少年が組織の金をちょろまかした男をその切れ味の悪いナイフで軽々と一寸刻みにしているのを見ていた。

「そうはいかないよ。裏切り者には血の制裁をしなければならないからね……じゃあね、小池君」

 少年の振るナイフが、するすると彼の指に伸びた時、


 
ズンチャカズンチャカズンドコドン♪



 不意に、周囲に陽気な音楽が響いた。




「♪ あなたの、欲をかなえましょう♪」

ズンチャ ズンチャ ズンチャカチャ


「♪ あなたの、望みをかなえましょう♪」

ズンドコ ズンドコ ズンズンズン


 呆気にとられる小池と苦笑している少年の前に、陽気な音楽と共に現れたのは赤と黒のバニースーツに身を包んだ2人の女だった。彼女達が踊りながら左右に広がると、さらに奥の闇から派手な服に身を包んだ壮年の男が踊りながら現れた。

「♪ この曲は、あなたの欲望を叶えるあバード協会がお贈りしました ♪」


 男が一礼すると、それに続いて2人の女も一礼し、音楽はぴたりと止まった。


「……やれやれ、お楽しみを邪魔しないで欲しいですね、大鳥(おおとり)さん」
「いえいえ、お客様のお楽しみを邪魔するつもりはありませんよ? ですがわたくしからお客様へ提供した代物の代金が多大なものになっておりまして、その返済をお願いしたいと思いまして」
 男はにこやかな笑みでそう答えると、呆然としている小池にすすすっと近づいた。

「お初にお目にかかります。わたくし皆様の欲望を叶えるバード商会会長、大鳥孫左衛門(おおとりまござえもん)と申します。ああ、別に覚えてもらわなくても結構ですよ。それではお願いします」

 男がパンパンっと手を2回叩くと、2人の女がそれぞれ小池の腕を持ち、固定した。


「ひっ、な、何しやがる!! 放せ!!」

 足をバタバタと動かして抵抗するも、彼女達はまるで鉄のように硬く動かない。と、男はふところに手をやると、そこから飴玉ぐらいの大きさをした、禍々しい黒色をした一つの物体を取り出した。

「いやあ、あの“組織”に合流する前に、以前開発したこれの性能を試したかったんですよ……ではご堪能ください。この世のものとは思えないほど極上な、絶望の味を」

「や、やめ……ふぐっ」
 口を閉じて抵抗するも、ものすごい力でこじ開けられ、無理やりそれを飲まされる。強烈なドブの臭いに吐きそうになるが、口を閉じられているため、飲み込むしかなかった。

「ぐっ……あ、があああああっ」
「おや? お口に合いませんか? それはそれは失礼を。その味はわたくし達にとっては、甘美な至高の味になるのですがねえ。さて、お客様」
 男は体をくるりと回転させると、一連の作業を見守っていた少年に、優雅に一礼した。
「これで代金の半分はお支払いいただきました。後の半分も早急にお支払いください。ところで話は変わりますが、そろそろこの街を出たほうがよろしいかと……少々厄介な連中も現れたことですし」
「……そうかい? ならしかたがないね。まあ、そろそろあの子が待っている復興街に帰ろうと思っていたことだし。それにこれほど強烈な麻薬なら、彼らも喜んで買うだろうさ」



 そう答えると、少年はふと虚空の彼方を見つめた。




「これで……僕は君に近づけるかな? ねえ、“最狂”」





                                   続く


こんにちは、活字狂いです。今回はちょっと短いですが、これがなければ次回の幕は上げられません。さて、今回新たに出てきた二人の男、壮年の男と少年は、聖亜達にどのようにかかわってくるのでしょうか。それを踏まえつつ、次回「スルトの子2 炎と雷と閃光と 第三章   過去との邂逅」どうぞお楽しみに。


追記 戦場のヴァルキュリア3が面白いです。クルトは飴をがりがりかじる糖尿病予備軍だし、イムカは牛乳とコーヒーときのこが嫌いなお子様だし、リエラの髪はイチゴシロップがかかったかき氷だし……しかし海水浴イベントは強烈だった。自分はスレンダーな方が好きなので、やっぱりイムカタ(ズキューン)……バタリ




[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 第三幕   過去との邂逅
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:8e78fcae
Date: 2011/02/16 22:25

 注 今回は後半少しバイオレンスな場面があります。苦手な人はあまり見ない方がいいかも。



幼い頃の記憶は、あまり良い物じゃない。



いや、俺の記憶は、正直3年前まで最悪と言ってよかった



目の前に見えるのは他人の体から流れ出た鮮血


手に伝わるのは相手の肉を引き千切る鈍い感触


耳に聞こえるのは瀕死の状態で呻く弱者の悲鳴


 幾つもの戦いに勝ち、千を超える人間を再起不能にした俺は、いつのころからかこう呼ばれることになった。



  すなわち、“最狂”と





 少年の体が動いたのは、ほとんど無意識にだった。


 未だ俯いたままの少女にぶち当たるように飛びつくと、振り下ろされたチェーンソーが彼女の体をえぐるより一瞬早く、2人は少し離れた地面に転げ落ちた。
 だが、それで攻撃が止んだわけではなかった。ギャリギャリと地面を抉っていたチェーンソーが、そのままの勢いで地面を削りながら迫ってくる。

「くっ!!」

「……」

 目前まで迫った刃を、聖亜は傍らに落ちていた刀で受け止めた。刃と刃が合わさり、ギリギリと鍔迫り合いが続く。だが、ギャリギャリと回転する刃を受け止めた時、聖亜は刀が一瞬震えるのを感じた。


「ちっ!!」


 回転する刃を受け止めつつ、刀を斜めにして受け流そうとする。だがそれは相手も分かっているのだろう。チェーンソーを押す手に力がこもった。

「……くそっ!!」


 一か八か手に持っていた刀をぱっと放す。今度は上手くいった。力の入れすぎか男の体はわずかにぐらつき、チェーンソーが振り下ろされるより一瞬早く、聖亜は体を思いっきり右に投げ出した。チェーンソーは髪を一房と、髪留め代わりに使っていた紐を掠めると、キチキチと鈍い音を立てて停止した。


「…………貴様、何者だ」
「何者って、それはこっちの台詞だくそ野郎が。いきなり襲いかかってきやがって。あんた一体何者なんだ? まさかまたエイジャだって言うんじゃないだろうな」
「エイジャ……だと? くっ、くくっ、貴様の罪状が増えたな絶対零度。一般人に奴らのことを教えるのは非常時を除いて禁じられているはずだ」
「……」
「絶対零度? あんたエイジャじゃなくて、それでヒスイを知っているということは……こいつと同じ魔器使だろ? 何で仲間を襲うんだよ!!」
「……仲間? 仲間だと!?」


 俯いたままの少女の代わりに、ほどけた髪を抑え、聖亜が厳しい口調で詰問すると、灰色の男はかっと目を見開いた。
「俺と“これ”を一緒にするな!! 俺は悪を打ち滅ぼす正義の力を得た者だ。こんな“邪悪”な存在と仲間なはずがあるか!!」
「……」
 聖亜は、喚きたてる男をただ呆然と眺めた。それを見て戦意が喪失したと考えたのだろう、男は両手に持ったチェーンソーを構えなおした。
「分かったらさっさとそこをどけ、一般人。俺に逆らった罪は重いが、今なら全ての記憶を消して廃人にすることで許してやる」
「………………許してやる、だって?」
 不意に、髪の長い少年はぽつりと呟いた。そのまま何かに耐えるように胸を抑えていたが、やがて耐え切れないといった感じで震え出した。


 泣いているのか? 灰色の男、スヴェンは最初そう思った。だがすぐにその考えを打ち消した。なぜなら、


 なぜなら顔をあげた少年の表情は、心底可笑しいという風に笑っていたからだ。


「……あ、あは、あははははははっ!! そうか、あんたそういう奴か。なるほどねぇ、自分は正義、自分は正しい、そう思っている自己陶酔野郎か!!」
「何だと? 貴様……もう一度言ってみろ!!」
「ああ、何度でも言ってやるさ。いいか自己陶酔野郎、この世界には正義も悪もないんだよ、あるのは力の有無だけだ。力のある奴が好き勝手に正義を名乗って、そうでない奴を悪として処断する。それだけさ!!」
「貴様……こいつが過去に何をしたのか分かっていっているのか!? こいつはな、過去に50人もの人間を殺した極悪人なんだよ!!」
「……っ!!」
 声を張り上げ、少女の罪を糾弾するスヴェンに、ヒスイは唇をぐっと噛み締めた。
「本来ならこの世のありとあらゆる責め苦を永久に受けるところを、ただ一度殺すだけで許してやるんだ!! 充分慈悲深いだろうが!!」
「……一度殺してやるだけで許してやるねえ? あんたそれほど偉いのか? 自己陶酔野郎。たかが50人殺してそれなら、何百人もの人間をぶっ潰した俺は、一体何回殺されれば許されるんだ?」
「……どうやら、貴様もこれと同様邪悪のようだな」
 そう呟くと、スヴェンは圧倒的な殺気を込めて聖亜を睨み付けた。だが聖亜はその殺気を、むしろ心地良さそうに受け止めていた。これぐらいの殺気、“あの場所”にいた彼は日常茶飯事に受けていた。
「ああ、邪悪も邪悪、最低最悪さ。さあ来いよ自己陶酔野郎、鬼も仏もぶっ潰した俺が、お前に現実というものを教えてやるから」
「……」
 ガキンと音を立てて、チェーンソーの刃が動き始める。それを見つめる聖亜の顔に恐れの表情はない。いや、むしろ彼の顔に浮かぶのは穏やかな笑みだ。自分があるべき場所に戻ったような、そんな表情。


 そして、2人が一歩足を踏み出した時、



「っ!!」
「なっ!!」

 ザァーッと音を立てて、上空から無数の砂が2人に降り注いだ。




「……ったく、何やってんだいあんたら」

 砂まみれになり、ごほごほと咳き込む2人の男を見て、エリーゼは薄紫色の髪を呆れたように掻いた。
「……邪魔をするなエリーゼ、俺はこれからこの悪を殺さねばならん」
「殺さねば……って、スヴェン、自分の言ってる事理解してるのかい? 一般人を殺せばそれは単なる犯罪だ。それこそあんたが一番嫌っている悪じゃないか。復興街での件は正当防衛だから仕方ないけど、ヒスイの釈明も聞かずにいきなり殺そうとした件といい、これ以上の勝手は許さないよ?」
「……どうやら、あんたは少しは話が分かるようだな」
 灰色の男を諭す女を見て、聖亜はゆっくりと構えを解いた。彼女は自分と少女を問答無用で殺そうとは考えていないらしい。それに彼女はヒスイのことを名前で呼んだ。少なくとも事情を聴くことはできるだろう。
「ん? ああ、巻き込んじまってすまなかったね、坊や。あたしはエリーゼ。そしてこの灰色男はスヴェンってんだ。けどスヴェン、どういうつもりだい? 結界も張らずにドンパチやるなんて」
「……結界なら張っている」
 エリーゼの黒い瞳に睨まれ、スヴェンは叱られた子供のようにむっつりと呟いた。
「はぁ? って、確かに結界が張られているね。ならこの坊やはどうしてこの空間に居られるんだい?」
「そんな事、俺が知るはずないだろう。だがこれで絶対零度の罪状が一つ増えたな、一般人を戦闘に巻き込んだ」
 エリーゼが来ても、いまだに俯いたままの少女に、スヴェンは鋭い視線を向ける。それから少女を守るように、聖亜は2人の間にゆっくりと移動した。
「待てよ。ヒスイはエイジャに襲われていた俺を助けてくれたんだ。巻き込んだわけじゃない。そのせいでこいつが罰せられるというなら、その前に俺が相手になるぜ」
「……」
 そう言って再び身構えた聖亜を見て、スヴェンもチェーンソーをかちゃりと構える。そんな彼らの様子に、エリーゼはやれやれと頭を振った。
「ったく、いい加減にしな2人とも。一般人に協力を求めるのは、非常事態に限り認められている。爵持ちが相手だったんだ。充分非常事態だったろうさ。ほら、さっさと結界を解いて、あんたは一旦ホテルに戻りな、スヴェン」
「……貴様に指図されるいわれはないぞ、エリーゼ」
「ほほう、そうかい。第一級魔器使には、その地にいる魔器使を統率する権利を持つ。それをあんたが忘れたとは思わないけどね。それから、もし一級の魔器使が複数いた場合は年の順ということも知ってるだろ?」
「…………っち」
 忌々しげに舌打ちすると、スヴェンは両手に持っていたチェーンソーを天高く放り投げた。それはくるくると舞いながら落ちてくると、地面に落ちてくる瞬間、メイド服を着た2人の少女に変わった。白いメイド服に身を包んだ方は理知的で怜悧な表情を見せ、黒いメイド服に身を包んだもう片方は陽気で残酷な笑みを浮かべている。
「……この女の言った事は正しい。帰還するぞ、イル、ウル」
「はいマスター。私達がこの地を離れた一分後に結界が自動解除するように設定いたします」
「はいは~いっ!! 了解ですご主人様。ところでこの生意気な糞餓鬼、殺しちゃっていいですか?」
 黒いメイド服を着た少女が陽気に笑いながらこちらを見た。だがスヴェンは微かに首を振ると、少女の頭を掴んで歩きだす。
「いだっ、いだだだだだだっ!! ごめんなさいご主人様、もう余計なことは言いませんから放してください!! むぎゅっ」
 遠くでどさりと何かが地面に落ちた音を聞き、エリーゼはやれやれと首を振ると、聖亜の方に向き直った。
「さて、と。こんなところで立ち話もなんだから、結界が解けたらどっか落ち着ける場所で話したいんだけど?」
「……ああ、あんたならいいぜ。少なくとも男の方より話が通じそうだからな。西の竹藪の中にある家に行っててくれ。俺達も連れに適当に言い訳して帰るから」
「言い訳? その必要はないよ。だって今外は……」
 くるりと少年に背を向けると、彼女は手をひらひらと振って歩き出した。

「だって外は今、すごい土砂降りだからね」


 
 エリーゼとかいう女の言ったとおりだった。

 肩を揺さぶられる感触にはっと我に返ると、聖亜は人々が早足で建物の中に避難する道の真ん中で、空から降ってくる大粒の雨に濡れるのも構わず、ぼんやりと立ち尽くしていた。
のろのろと視線を横にやると、白髪の少女が青ざめた表情でしゃがみ込んでいるのが見えた。先ほどのやりとりは、どうやら幻ではなかったようだ。
「……い、おい、聖ってば、聞いてるのか?」
「…………あ、ああ。どうした? 準」
 肩を揺さぶってくる少女の方に視線をやると、準は雨に濡れながらやれやれと首を振った。
「どうした、はこちらの台詞だよ。ヒスイと一緒に駆け出したと思ったら、こんなところでぼんやり突っ立って……まあいい。それよりいきなり雨も降ってきたし、これからどうする? このままだと風邪をひくぞ?」
「あ、ああ。そうだな、今日はもう帰ろう。悪いけど、秋野達に帰るって連絡入れてくれ」
 
 分かった。そう言って雨の当たらない軒下に移動する準を見送ると、聖亜はのろのろと空を仰ぎ見た。


 どんよりと曇った空からは、少年の顔めがけ、尽きることのない水滴が降り注いでいた。


 それはまるで


 まるで、傍らで蹲る泣けない少女の代わりに



 天が泣いているかのごとく





西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 20時50分

「さてと、じゃあ改めて自己紹介といこうか」
 そう言うと、薄紫色の髪をした女は軽く膝を崩した。
 彼女に灰色の男との戦いを止められてから、すでに一時間余りが経過していた。雨が降ってきたこととヒスイの調子が悪いことを理由に、聖亜は準と別れて一足先に家に戻ってきた。それから三体の人形に少しの間身を隠すように指示し、ヒスイの体調が多少なりとも良くなった頃、彼女はこの家に訪ねてきた。
「先ほどちらりといったと思うけど、あたしの名前はエリーゼ、そこにいるヒスイの嬢ちゃんと同じ魔器使さ。しかもちょっとした知り合いときている」
「そうなのか? ヒスイ」
 彼女の向かい側に座りながら、聖亜は隣にいる白髪の少女に視線を向けた。彼女は少年の視線を受け、ただ黙って俯いていたが、やがてため息とともにゆっくりと頷いた。
「……ああ、知り合いだ。何度か訓練の指導をしてもらったこともある」
「そ。だからそう警戒しなさんな。あたしゃスヴェンと違ってヒスイを問答無用で殺したりしないから」
「スヴェンって……あの灰色の髪と目をした男のことか。で、あんた達はなんで太刀浪市にやってきたんだ?」
 少年の問いに答えず、エリーゼは目の前の茶を飲んで、ぶっと思いっきり吐き出した。
「な、なんだいこりゃ……すごい渋いじゃないか!!」
「……ああ、すまない。いつも家事をやってもらっている人が今いないから、俺が自分で淹れたんだけど、口に合わなかったようだな」
 目の前でごほごほと咳き込むエリーゼに、聖亜は多少の皮肉を込めて答えた。それもそのはず、いつもお茶を入れていたのは小松とビショップであり、小松はチェーンソーによって傷つき、ビショップは姿を現すことはできない。
「ま、いいさ。話を戻すよ……ヒスイ」
 エリーゼは、静かにこちらを見つめる少女に顔を向けた。
「先日―7月8日に爵持ちであるニーズヘッグとの戦闘で、自らが禁技とした絶技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)”を二度使用、間違いないね」
「ああ、間違いない」
 そう答えると、ヒスイはゆっくりと頷いた。
「……どういうことだ?」
 身を乗り出して詰め寄る少年に、エリーゼは大したことじゃないよと手を振った。
「ようするに、ヒスイは違反したのさ。で、魔器使であると同時に査問官であるあたしともう一人が派遣されたってわけ。けど安心しな、禁技を使っただけじゃ大した罰にはならない。精々本部に送還の上数か月の自宅謹慎さ」
「そっか……良かった」
 ほっと息を吐いて腰かけた聖亜に、しかしエリーゼはただし、と付け加えた。
「いろいろと調査した結果、一つ不審な点が見つかった。ニーズヘッグはあんたの絶技で倒されたんじゃない。“炎”によって倒された。そうだね?」
「え? ああ、そうだが」
 唐突に話題が変わったことに、ヒスイは意味が分からないといった感じでエリーゼを見た。
「なら話はだいぶ変わってくる。こちらに来て戦いのあった元廃工場を調査したのだけれど、そこで100万度の高熱により、一瞬にして炭化したニーズヘッグの鱗を発見した。こんなことができるのはそういない。スヴェンでも全力を出さないと無理だ……で、ヒスイ、正直にいいな。ニーズヘッグをぶっ倒したのは、一体どこの“何”なんだい?」
「……そ、それは」
 先ほどとは違い、鋭い口調で問うエリーゼに、ヒスイは暫く視線を泳がせていたが、やがて無意識にだろうか、不意に傍らの少年をちらりと見やった。
「……はあ? ヒスイ、誤魔化すのも大概におしよ。この器量よしだが、どこにでもいる何の変哲もない坊やに、ニーズヘッグを倒すことなんざ、まして炎に強い竜の鱗を一瞬で炭にすることなど出来やしない。それこそニーズヘッグより格が高いエイジャでないと「そうだ一殺多生、エイジャが現れたのよ」……やっと来たかい、馬鹿猫め」
 その時、廊下から黒猫の声が響いた。彼女はゆっくりと部屋の中に入ると、聖亜の横にしゃがみ、ふああっと退屈そうに欠伸をした。
「それで? エイジャが現れたってのはどういうことだい? スヴェンはヒスイが前々からエイジャと繋がっていると主張している。そんな馬鹿な話はないと思うが、反論がない限り、あたしはスヴェンの主張を本部―ヴァルキリプスに送らなきゃならない。それがどういう事態になるかわかっているのかい? 反逆罪は少なくとも魂を粉砕されるだけじゃすまないよ?」
「ふむ、最高査問官の中で一番“甘い”そなたの言葉とは思えんな」
「はっ!! いいかい馬鹿猫、一殺多生ってのは一人を殺して多を生かすって意味だ。つまり見せしめに一人殺して、後に続く奴が出ないようにするのがあたしの役目さ」
 一殺多生の異名を持つ女の切った啖呵に、キュウはふむと頷いた。
「それもそうだの。では真相を語ろうか。そなたの言ったとおり、ニーズヘッグを倒したのはヒスイではない。赤界のエイジャ……しかも赤皇に連なるものだ」
「……何の冗談だい、そりゃ……いや、あんたは沈黙することはあっても嘘がつける様には“出来ていない”から、赤皇に連なる存在が現れたことは本当で、そいつならニーズヘッグを倒せる炎を操ることも簡単だろうけど、ならそのエイジャはなぜ出てきたんだい?」
 エリーゼの問いに、キュウは面白そうにくくっと喉を鳴らした。
「さて、ニーズヘッグを倒してすぐどこかに行ってしまったから詳細はわからんが、恐らく“頭上”で騒がれるのを嫌ったのであろうよ」
「……」
 説明を続ける黒猫に、エリーゼは最初胡散臭げな眼を向けていたが、やがて忌々しげに頭を振った。
「……分かったよ、本部にはあたしの方から報告しておく。けど何らかの処分は覚悟しときなよ。それと、そんな説明じゃスヴェンは納得しないと思うよ」
「……あの灰色頭も、あんたと同じ魔器使なのか?」
「ぷっ、何だいその呼び方……ま、確かにスヴェンはあたしと同じ第一級魔器使だよ。それに加えて最高査問官の一人でもある。それがどうかしたかい? 坊や」
 エリーゼの坊やという言葉に微かに眉をひそめると、聖亜は傍らの少女に目をやった。
「いや……仲間にしては、ヒスイに対する視線に殺気がありすぎたのが気になって」
「ああ、その事かい……ヒスイ、あたしが話してやろうか?」
 突然話しかけられ、何か考え事をしていたのだろう、湯呑みを持ったままぼんやりとしていたヒスイは、はっと我に返り、落としそうになった湯呑みを慌てて握りしめた。
「いや、それには及ばない。私がい「そんな死にそうな顔して何言ってるんだい、ここはあたしに任せて、あんたはさっさと風呂にでも入ってきな」……う」
 自分より格が上の魔器使にそう言われても、ヒスイは考え込んでいるのか、暫く下を向いていたが、聖亜が行って来いよと声をかけると、やがてしぶしぶと席を立った。それに続いて、座布団の上に寝そべっていたキュウも立ち上がり、一人と一匹はそろって部屋を出て行った。
「さて……と、スヴェンがどうしてヒスイを殺気を込めて見るか、だったよね」
 彼女たちの気配が完全に消えてから、エリーゼは完全に冷めたお茶を一気に飲み干した。相変わらずの苦みに顔をしかめるが、今度は文句を言うことはない。聖亜が姿勢を正すのを見て、重々しく口を開いた。
「スヴェン……あいつがヒスイを殺気を込めて見るのは、実際に殺したいほど憎んでいるからさ。そして、なぜそれほど憎んでいるかというと……」
「…………いうと?」
「……あいつは奪われたからね。自分の一番大切だった存在を、婚約者であるヒスイに」
「……」


 その時、弱まっていた雨が、いきなり強く降り出した。


 彼女の言葉を、少年以外誰も聞くことの無いように、



 強く、強く





 30分後、ヒスイが風呂から上がって座敷に戻ってきたとき、そこにはエリーゼの姿はなく、この家の主が押入れの中に頭を突っ込んで何かごそごそ探しているだけだった。
「聖亜、エリーゼは?」
「ん~? 5分前に帰ったぜ。スヴェンの方はなんとかフォローしておくってさ」
 少年のいつもと変わらない口調に、ヒスイはそうかと呟くと、そっと彼の隣に腰を下ろした。
「その……聞いたの、だろう?」
「まあおおよその事はな~、お前が暴発させた絶技で、スヴェンの大事な奴が死んだとか、あと……あいつがお前の婚約者とか何とか、そんなとこ。で、なにか付け足しておきたいことはあるか?」
「……いや、もうない。その大事な奴というのは、私の同級生で親友だった。だからそれが故意ではなくとも、私の罪は深い」
「ふ~ん、ま、俺としてはそっちより、あいつがお前の婚約者だって方が驚いたけどな」
「…………おいまて、お前そっちが気になるのか?」
 相変わらず押入れの奥をがさごそとやっている少年の足を、ヒスイは手の甲でこんこんと叩いた。
「やめろって……まあ、婚約者に憎まれる気分って、どういうのか気にはなるよ」
「……別に好きあっていたわけじゃない。能力の高い者同士を結婚させ、そのより強い次の世代を作り出すのは義務だったからな。まあ、3年前のあいつは9歳だったから、男と女の営みなどできるはずはないだろうけど」
「……何か今、すごい衝撃的な言葉が飛び出したような……3年前に9歳って、今あのスヴェンって奴一体何歳なんだよ!!」
「確か先月で12歳になったと思うが……それより聖亜、お前さっきから押入れの中で何やってるんだ?」
 しかし、その問いに対して返事はなかった。不審に思ったヒスイが近づくと、彼は押入れの中で何かぶつぶつと呟いている。耳を澄ますと、12歳の奴に負けそうになったとか、腕が鈍ったとか、そもそもあの体格で12歳はあり得ないだろ、などという言葉が微かに呟いてきた。それを聞いて呆れたようにため息を吐くと、ヒスイは外に飛び出している彼の足を、思い切り踏んづけた。

「いだっ!? い、いきなり何すんだ、ヒスイ!!」
「……お前が人の質問に答えないからだ。聖亜、お前さっきから一体何をしてるんだ?」
 押入れから出て、こちらを睨み付けてくるヒスイを涙目で仰ぎ見ると、聖亜は先ほど彼女に踏まれた足をゆっくりとさすった。
「何って……まあ大工道具?」
「なんだその大工道具? っていうのは。どこか壊れたのか?」
「いや……壊れたっていうか、これから壊す? ま、明日になればわかるさ。ヒスイも一緒に来るか? もし来るんだったら、たかが50人殺しただけで罪だ罰だって騒ぐのが、一体どれだけ馬鹿げているか、ちゃんと証明してやるよ」
 少年が持つ“それ”を見て、ヒスイは訝しげに首を傾けたが、やがて微かに頷いた。
「決まり。じゃ、今日は早く寝よう。明日は早いぞ」


 そう言って立ち上がった彼の表情は、どこまでも嬉しそうだった。




西暦2015年(皇紀15年) 7月16日 6時40分




 厚い雲の隙間から、日差しが微かに覗いている。


 昨日の夜から降り続いた雨は、明け方にはもう止んだらしい。だが道には大きな水たまりができ、五万十川の水量も増大しているなど、その名残はそこかしこに見られた。

 その五万十川の土手には、古い建物がいくつも連なっている。ここは何年か前に復興街から来た人々が作り上げた地区で、道をゆく人々もみすぼらしい格好をしているが、命を狙われる心配がないためだろう、その表情に少なくとも恐怖はない。
 さて、この地区の一角に古ぼけた喫茶店がある。24時間営業しているためか、まだ朝の7時前だというのに、中からは人の話し声が聞こえてくる。だいぶ人気の高い喫茶店なのだろう。


 人影は、人気の高い喫茶店の前で歩みを止めると、やがてその中にゆっくりと入っていった。



「あら? いらっしゃ~い」
 カウンターの前にある小さなキッチンに立ち、馴染みの客との会話を楽しんでいた喫茶店のマスターである沢井丸夫(さわいまるお)通称マルは、入り口に付けてある鈴のカランコロンという音と共に入ってきた客に対し、心からの笑顔を見せた。
「……」
「……あら? どうしたのかしら? 僕」
 だが、その笑顔はすぐに警戒感が混ざった物に変わる。入ってきた客は小さく、13歳前後の髪の長い少年だ。だがその顔は頭から被った野球帽に隠れて見えず、さらにその両手はズボンのポケットに入れたままであるため、その中に何があるのかわからない。
 彼の警戒心が客に伝わったのだろう、周りの視線を受けながら、少年はカウンターに向かってゆっくりと歩いてきた。
「……いらっしゃい、何にしようかしら?」
 カウンターに座った少年に、水の入ったカップを出しながら、マルちゃんはその少年に内側の警戒心をなるべく出さないようにしながら注文を聞く。だが僅かに外に出たのだろう、笑顔の表情が、微かに引きつっていた。
 その警戒心を感じてか、少年は声を出さずに薄く笑うと、そっと耳の後ろを掻いた。
「「「……っ!! 手前!!」」」
 それを見て、店内にいる男が皆立ち上がった。耳の後ろを掻く何気ない仕草は、だが彼らにとっては“その組織”の一員であることを示す合図であったから。
「ちょ、ま、待ちなさいあなた達!!」
 その動きを制止しようとしたマルちゃんの声が彼らに届くより一瞬早く、立ち上がった少年は自分に向かってきた男達の僅かな間を疾風のようにすり抜けると、今までポケットに突っこんでいた手を出し、それを水平に軽く振った。

「「ぐあっ!!」」
 
 と、いきなり2人の男が地面に倒れた。隣りにいる別の男が慌てて抱え起こすと、首の付け根の部分に何かが埋まっているのが分かった。
「な、何だよこれ、根元まで埋まって、全然取れねえ!!」
「ああ、取らない方がいいぞ、無理やり取ると血がどばっと吹き出すから、な!!」
「な!? がぁっ!!」
 耳元で陽気な声が響いた瞬間、後頭部に来た衝撃で、男の意識は闇に落ちた。

「な、ななな、何なんだお前!!」
「俺が何かって? さてな、自分でもよくわからん」
 そう朗らかに笑うと、少年は血に染まった“それ”を失神している男の後頭部からべりべりと引き剥がし、震えながらこちらに問いかけた男に歩み寄った。
「それとも……俺が何か、お前が教えてくれるのか?」
 そう言って、少年が“それ”を無慈悲に振り上げた瞬間、


 ダァン、という音が、周囲に響き渡った。


「……そこまでよ、僕」
「やれやれ……ニードルガンか、旧式の銃で正確にこちらを狙えるなんて……腕は鈍っていないようだな、“女王蜂”」
 先ほど自分がいた場所に打ち込まれた数本の鋭い針を見て、それが届く寸前にテーブルの上に飛び乗った少年は、だがむしろ嬉しそうに笑った。
「……あなたもね、“最狂”。金槌と釘を使って3人の男を瞬く間に重体においやるその手際の良さ、どうやら復活したみたいね」
「……あ、兄貴、“最狂”って、もしかしてあの“最狂”ですかい?」
 ニードルガンを油断なく少年に構えるマルちゃんに、その傍らで頭を抱えて震えていた男が恐る恐る尋ねた。
「あなた、私の事は兄貴じゃなくて姉御って呼べっていつも言ってるでしょ!! けどそうね、あなたの言うとおり、“これ”はその“最狂”で間違いないわ」
「じゃ、じゃあこいつが……化物を100匹惨殺したっていう、あの伝説の?」
「そうね。正確には何匹だったかしら……ねえ“最狂”?」
「ん? ああ……確か150匹ぐらいはいたな。全部ぐしゃぐしゃのどろどろにしてやったから、正確な数なんて誰にもわからないけど……それで? どうする“女王蜂”このまま睨み合いを続けるか? それもいいけど、あんまり長引くと警察が飛んでくるぞ?」
「……あなたが先に金槌と釘を下ろしなさいな」
「下ろした瞬間に針を打ち込む気じゃないだろうな……ま、いい。今日は別に戦闘がしたい気分じゃないしな。ほらよ」
 やれやれといった感じに、だが少年はぽいっと簡単に両手に持った金槌と釘を床に投げた。一瞬で無防備になった少年に、だが周りの男達は近づこうともしない。いや、それどころか彼がカウンターに向かって歩くと、一刻も早く逃げようという風に後ずさりする。だが、彼らのボスであるマルはそれを咎めようとはしなかった。同じ立場であったら、自分もそうするのが分かり切っていたからだ。
「さてと、それじゃ改めて……久しぶりだな、女王蜂」
「そうね。あなたが3年前にあそこを出て以来だから、3年ぶりになるかしら……それで? この3年、あなたはどこで何をしていたの?」
「ま、いろいろとあったんだよ……しかし、お前こそ何でこんなところで喫茶店なんかやっているんだ? 一応俺と同じ“最高幹部”だったろ」
「ま、私もいろいろとあったのよ、それで? 今日はいったい何の御用かしら?」
 少年の好物である、はちみつをたっぷりかけたホットケーキを出すと、彼はカウンターに座りなおした。
「それだ。ちょっと情報が欲しい。一つ目、こちら側でかつて俺が撲滅した組織がばらまいていた麻薬が改良されて出回っている。これについての情報が欲しい。二つ目、警察に見つからず、密かにあちら側に渡れる浅瀬を教えて欲しい。そして最後になるが……お前がここにいるとしたら、今あそこを仕切っているのは誰かわかるか? まさか磯垣の奴じゃないだろうな」
 少年の問いに、丸夫はしばらく考え込んでいたが、やがて小さく頭を振った。
「ごめんなさい、私もあなたが出て行ってすぐにこちらに来たから、今のあそこの様子はほとんど知らないの。麻薬についても同じよ、ただ私が知らないということは、少なくとも正規のルートを使ってこちらに流れていないことは確かね……ああ、それから一つだけ、磯垣は死んだわ」
「……は? すまないが最後の言葉、もう一度言ってくれないか? 磯垣がどうしたって?」
 呆然と聞き返す少年を見て、丸夫は一度大きくため息を吐いた。
「磯垣は死んだわ。これは事実よ。2年以上前に、五万十川に頭部を撃ち抜かれたあいつの死体が浮いていたわ。排水溝に捨てなかったのを見ると、私への警告かしらね、戻ってくればお前もこうなるぞっていう」
「そうか……しかし、あの磯垣がねえ。まあいろいろとあくどい事をしていたから、後ろから撃たれるぐらいされると思ってはいたが、じゃあなにか? 俺とお前がここにいて、最後の一人である磯垣が死んだということは、今あそこに最高幹部は誰もいないことになるぞ」
「そうね、団長である仁さんも死んじゃったし……それで、あちらに渡る方法なのだけれど」
 一旦言葉を着ると、丸夫は店内にいる男の一人に目で合図した。彼は店の奥に消えて行ったが、すぐに一枚の紙を持って戻ってきた。男からその紙を受け取ると、丸夫はそれを少年の前にばらりと広げる。
「あなたも知ってると思うけど、現在五万十大橋は警察によって封鎖されている。そうすると、その近くの抜け道を通ったら見つかる危険性が大きいわね。ならこことここの抜け道なのだけど、この二か所はあそこも知ってる可能性は高いわ。となるときちんと渡れるのは、最後に残ったこのルートね。ここは最近見つけた抜け道だから、まだ彼らも知らないはずよ」
 説明しながら、丸夫は広げた地図の上に指を走らせた。その指の動きを少年は目で追っていったが、彼の説明が終わると、ゆっくりと顔を上げた。
「……分かった。ここまで分かれば十分だ。ま、後の二つについては、あっちに行ってら自分で調べるよ」
「そう、ま、気をつけなさいな。それで……報酬なんだけれど」
「……サービスじゃないのか、ま、いい。いい医者を紹介してやる。あんたの“お友達”は助かるだろう。釘もそれほど長い物は使っていないからな。じゃ、俺はこれで」
 少年が立ち上がると、彼を遠巻きに見ていた男達がざっと左右に引いた。その間を入り口まで進み、ドアノブに手をかけた時、少年はふとこちらを振り返った。
「ああそうだ。女王蜂、お前香って女を知らないか?」
「香? いえ、知らないわ。調べておきましょうか」
「……いや、いい。それから最後に一つだけ……返り咲きたいんだったら、今のうちに兵隊を集めておいた方がいいぜ」
 薄く笑いながら言った少年の言葉を理解するのに、丸夫はしばし時間がかかったが、やがてはっと顔を上げた。
「ちょ、聖ちゃん、それってどういう!!」
「さてね、俺はもうあっちに戻る気はないし、磯垣も死んだ。まあお前は女に興味がないようだし、“ちょっとした混乱”を利用して返り咲くぐらいやってみたらどうだ? それじゃ、お互い生きていたらまた会おうぜ」
 少年が出ていくのを、丸夫は呆然としながら見つめていたが、ふと周囲からの視線に顔を上げた。
「……あなた達、何してるの、早くその3人を寝かせなさい。それからそこのあなた、バンちゃんとチィちゃんの所に行って、、すぐこっちに来るように伝えて」
「へ? あ、あに……いや姉御、一体これから何が始まるんで?」
「そうね、あの子の言ったとおり、ちょっとした混乱というところかしら……それよりさっさと行かねえか!! これからマジで忙しくなるんだからよ!!」
丸夫に啖呵を切られ、質問をした男は慌てて外に飛び出していく。それを見送ると、丸夫はふと首にかけられたペンダントを手に取った。
「……仁さん、あの子が帰ってきたわよ。濁った街から、すべての膿を流すためにね」
 ペンダントにそっと口づけすると、丸夫は顔を上げ、周りの男達にせかせかと指示を出し始めた。



 土手に腰掛けながら、ヒスイは増水した五万十川を呆然と眺めていた。

 だが、不意に街の方からこちらに来る気配を感じ、ゆっくりと振り返った。
「……結構時間がかかったな」
 こちらに向かって歩いてくる少年に、微かに不満を加えてそういうと、少年―聖亜はすまなそうに頭を掻いた。
「ごめん、ちょっとあったからさ。それより、橋を渡らずに復興街に行くルートが見つかった。さっそく行くぞ」
「今からか? 別に構わないが、橋を渡らずにいったいどうやって向こう側まで行くつもりだ」
「ま、それは見てのお楽しみということで、な」
 川岸を歩く少年に付き添いながら歩き始めたヒスイは、ふと血の臭いを嗅いだ。その臭いは、どうやら前を行く少年から漂ってくる。軽く観察してみるが、怪我をしているわけではないらしい。ならば考えられる可能性はただ一つ、

(返り血、か)

 警察に見つからずに川を渡る方法を話し合っていた時、彼が知人に聞きに行ったのは今から20分ほど前だ。その間に彼が何をしてきたか、具体的には知らないが、おそらく流血沙汰だろう。だが一般人なら血相を変えて逃げ出すその臭いに、ヒスイは軽く眉をしかめただけだった。
「そういえば……どうして復興街に行くんだ?」
「どうしてって……昨日言ったろ、たかだが50人やそこら殺しただけでうじうじしているお前に、現実というものを見せてやるんだよ。それともう一つ、香の探索もある」
「香……ああ、昨日頼まれた人探しか。だが探すならまずはこちら側ではないのか?」
 ヒスイの問いに、だが前を行く聖亜は小さく首を振って否定した。
「いや、城川屋は結構従業員が多いから、旧市街はほとんど探しただろうし、顧客には新市街の連中も多いから、彼らに頼めば警察も動くだろう。つまり香が今いるのは、警察の手が及ばず、従業員も足を踏み入れることができない復興街にいるとみて間違いない。大体あいつは刺激を求めていたからな、毎日が暇なんだとさ……っと、ここだな」
「ここは……」
 少年が立ち止った場所を見て、ヒスイは軽く首を傾げた。周りには丈の長い草が生えている以外、川は他の部分と何ら変わっていない。橋の所からだいぶ離れているから、見つかる心配はまずないが、まさかここを泳いでいくつもりだろうか。
 どうやら内心の疑問が表情に出てしまったらしい。ヒスイの顔を見て、聖亜はまあ見ていろと軽く言い放つと、川に向かって歩いて行った。
「お前、いくら夏だからって泳ぐつもり……え?」
 ヒスイの言葉は、途中で止まった。聖亜はざぶざぶと川に入っていくが、いくら進んでも、川の深さは腰までしかない。
「ここ、ほかの場所に比べて結構浅いんだ。五万十川はでかいからな、それこそ深いところもあれば、雨で増水しても腰までしか届かない浅い部分はある。ま、そのせいで昔は船が結構転覆したらしいけど……ほら、入ってこいよ」
 そう言って手招きしてくる少年に向かって、ヒスイは観念したように歩き出した。


 2人が川を渡りきったのは、それから20分ほどたった後だった。

 いくら浅瀬といっても、所々足がつかないほど深い場所があり、そのたびに泳がなければならず、さらに何度か足を踏み外したことも含め、向こう岸についたとき、結局2人は下半身だけでなく上半身もずぶぬれになっていた。
「……っち、女王蜂め、何がきちんと渡れるだ、だいぶ泳いだじゃないか」
「そうだな、ずいぶん濡れてしまった。どこかで乾かせればいいけど」
「ああ、けどその前に……」
 水を吸って重くなった髪を手でわしゃわしゃとかき混ぜてから、聖亜はふと前の茂みを見た。
「その前に、ごみ掃除と行こうか」

 そう呟いて薄く笑うと、彼はポケットから取り出した釘を、茂美めがけて勢いよく投げつけた。

「ぐあっ!!」
 茂みの中から、くぐもった悲鳴と共に男が一人転がってきた。右手首を抑える左手の間から、だらだらと血が流れている。その男に目をくれることなく、聖亜は新たに飛び出してきた数人の男に向かっていった。
「くそっ、こっちに来やがった!!」
 男が振り下ろした棍棒を難なく避けると、その腹部に金槌を思い切り突き入れる。泡を吹いて男が昏倒するのを見て、彼を囲む男達が怯んだ隙に、しゃがんで地面の砂を掴むと、それを彼らに叩きつけた。

「うわっ、こ、こいつ!!」

「くそ、目が見えねえ!!」

 武器を取り落し、慌てて両目をこする男達に近寄ると、聖亜は呆れたようにため息を吐き、金槌で一人ずつ殴って気絶させていった。
「やっぱりこの程度か、もう少し楽しませてくれると持ったんだけどな……しかし女王蜂め、誰にも知られていない抜け道のくせに、しっかり待ち伏せされてるじゃないか。情報通の看板下ろしやがれ、ったく」
 地面に倒れた男を軽く蹴り、その背中に座ると聖亜は形のいい顎をさすった。
「しかし、この後どうやってあそこに潜入するかな……まあ正面から乗り込んでみてもいいけど、親玉が分からない以上強行突入すると逃げられる可能性があるしな」
「おい聖亜……」
「ん? 何だよ」
 愚痴を零していた聖亜は、自分と同じように襲いかかってきた男達を軽く倒したヒスイに声をかけられ、彼女が指差した先を見た。みすぼらし小屋の間を、ぼろを着た男達がこちらに向かって走ってくる。先程の男達は先遣隊だったのだろう、人数は軽く数倍手にはそれぞれ棍棒やら古びたナイフやらを所持していた。わずかにだが、手製の弓を持っている者もいた。
 彼らは2人の所まで来ると、こちらを囲むように輪になった。
「ふん、増援か……まあいい、1人2人残して、後は皆“潰す”か」
 そう言って立ち上がった聖亜の瞳に恐怖の色はない。接近戦で負ける気はしないし、飛び道具も避ける自信がある。一斉に襲いかかってこられては少し面倒だが、どうやら相手は腰が引けているようだ。その心配はまずないだろう。
「さて、と……覚悟しな? 雲散霧消のカス共。おとなしくしていれば、恐らく痛みはそれほどな「うぉおおおおおっ!!」やれやれ、聞く耳持たず、か」
 台詞の途中にいきなり襲いかかってきた大柄の男に軽く肩を竦めると、男が振り下ろした鉄パイプの下を掻い潜り、その首めがけ金槌を振るおうとした、その瞬間

「ま、待って下せえ、兄貴っ!!」

 小屋の方から聞こえてきた鋭い声に、その動きはぴたりと止まった。

 小屋の方から歩いてきたのは、細身の男だった。頬がこけ、前歯が少し飛び出している。その鋭い眼は、周囲の男達を怒りを込めて眺めていた。
「お前ら、俺はこの肩を丁重にお招きしろと言ったはずだぁ!! 何襲いかかってやがんだぁ!! 逆にこっちが全滅するぞ!!」
 男は周りの連中の頬をばしばしと殴りつけながら聖亜の前に来ると、その場でばっと土下座した。
「この度の一件、申し訳ございませんっ!! 兄貴っ!!」
「いや、別にそんなに疲れていないからいいけど……それ以前に、お前一体誰だっけ?」
「へ? あ、あっしの事覚えてないんで?」
「いや、どっかで見た記憶はあるんだが……悪いな、人の顔覚えるの苦手なんだよ」
「そ、そんな……ひどいですぜ兄貴、偵察とか交渉によく使ってくださったじゃないですか」
 顔を上げた男は、両目を潤ませると、慌ててごしごしと擦った。
「偵察や交渉ねぇ……俺はそんなもの、数える程度しかしなかったから、使った奴は大体覚えてるけど、いやまてよ……その出っ歯、まさかお前“イタチ”か?」
「へ、へぇっ! 思い出してくださったんですね、兄貴!!」
 立ち上がり、がばっと抱きついてくる男の頭を苦笑して撫ぜてやると、聖亜はヒスイが困惑した表情でこちらを見ているのに気付いた。
「ん? ああ、こいつ俺がこっちにいた頃の手下でさ、“イタチ”っていうんだ。喧嘩はあまり強くないけど、小柄ですばしっこいし、人の機嫌を取るのが上手だから、偵察や交渉を任せていたんだけど……けどイタチ、お前俺が出て行った時一応幹部だったよな、何でこんな所でそんなみすぼらしい格好してるんだ?」
「い、いやその、それがで「へくちっ!!」……おや?」
 話の途中で聞こえてきた可愛らしいくしゃみに、イタチは聖亜の傍らにいる白髪の少女に目を向けた。
「あ……す、すまない」
「いえ、こちらこそ気が利かなくてすいません、お2人は川を渡ってこられたんですよね、それじゃずぶ濡れになっても仕方ねえ。それじゃ、立ち話もなんですから、あっしの家にお出で下せえ……おい、何ぼさっとしてやがる手前!! さっさとこの人達を俺の家に案内しねえかぁ!!」
「痛っ、は、はい旦那。ど、どうぞこちらでございます」
 彼の隣にいたことで不運にも殴られた男が、聖亜とヒスイを小屋の方に案内すると、イタチは残った手下に、気絶している男達の処理を命令していった。



「いや、あらためて、本当にお久しぶりでございます、兄貴」
「ああ、久しぶりだな、イタチ」
 みすぼらしい小屋が立ち並ぶ一角、ほかの場所よりはマシな小屋の中で、出された湯を使って体を拭いた聖亜とヒスイに、イタチは深々と頭を下げた。今2人は濡れた服を取り換え、ペンダントから取り出した予備の服に着替えている。濡れた服は……まあ匂いが結構きついためここに残しておくことにした。
「へえ、それで兄貴、こちらには一体何の御用で?」
「ん? ああ、それなんだが……その前にイタチ、さっきも尋ねたと思うが、お前何でこんな所にいる?」
「こんな所とはひどいですぜ兄貴、これでもあそこよりいい部分もありやす。例えば五万十川を流れるごみを拾う事も出来やす。実際ここにあるもののほとんどは、川から拾ってきたものを再利用してますからね、それに水場が近いことで毎日水浴びができるし、小さいながら畑も作っております。あそこと比べて、随分快適に暮らしていますぜ」
「俺は何でここにいるかと聞いたんだ、イタチ。別に今の暮らしぶりを聞いたわけじゃないんだがな」
「こ、こいつは失礼を……あっしは兄貴が出て行かれた後も、暫くあそこにいたんですがね、実は磯垣の野郎といざこざを起こしちまって、必死の思いでこちらに逃げてきたんでさ……ああ、それで磯垣の野郎ですが」
「話は聞いた、五万十川に浮かんだんだろう? まあこの腐った街に相応しい死に方だな。それで? 今あそこを仕切っているのは誰だ?」
「へ、へえ、それなんですが、その」
 そこで一旦言葉を濁すと、イタチはヒスイの方をちらりと見た。
「お前……ヒスイは大丈夫だぞ?」
「い、いや、そうじゃねえんで。ただここから先は、その、女に話すのはちょっと」
「……言いにくいなら出ていくが?」
「すまない、そうしてくれるか? 大丈夫な話になったら呼ぶから」
 そう言って聖亜がすまなさそうに頭を下げると、ヒスイは気にするなという風に頭を振り、そっと小屋の外に出て行った。
「すいやせん、兄貴の女に手間をかけさせちまって」
「……別に俺の女じゃない。それで? 今あそこ……ジ・エンドを仕切っているのは、一体どこの誰だ?」
「へえ、それなんですが……兄貴は三馬兄弟(さんばきょうだい)と呼ばれる3人をご存じで?」
「三馬兄弟? いや、知らないが……そいつらがジ・エンドを仕切っているのか?」
「実際には、三馬兄弟の長兄である統馬(とうま)って奴なんですがね。こいつは以前、磯垣の下にいた奴なんですが、いやもうただ酒は飲むは薬はばらまくは、素人女は強姦するわと最低な野郎で、それでついたあだ名が“最低”ってわけで」
「……いや、ちょっと待て、酒を飲むのは禁止されてはいないが、素人に手を出すのと、まして薬をばらまくのは鉄の結束で禁止されていたはずだろ? その何とか馬って奴はまさか仁さんがいた当時からそんなことをしていたのか?」
 自分でも知らず知らずのうちに怒りが湧いていたのだろう、硬くなった眉間をほぐしながら、聖亜はそれで、と促した。
「そ、それがですね、確かに仁団長のいた当時から、統馬って奴はそんな悪事を重ねていやした。けど、だれも奴に逆らえなかったんでさ。何しろあいつの近くには、いつも弟分である数馬(かずま)がいたんですから」
「……数馬? そいつも聞かないな。誰だ」
「へえ、身の丈が軽く3メートルを超す化物並みの野郎で。その体格に合わせ腕力とタフさも化物並み、一発で壁を粉砕し、こちらが何発殴ってもけろりとしてやがる。ま、その分おつむは空っぽですがね、噂では奴を腹に宿した母親が、化物に犯されてできたのがあいつらしいんで」
「なるほどな、それじゃ磯垣の手には負えないだろう。奴は半ば放置していたのか……なら磯垣を殺したのはその2人か?」
「と、いうのがもっぱらの噂です。ですが兄貴、分からねえことが二つ」
「……何だ?」
 ふと声を潜めたイタチに合わせて、聖亜は彼に顔を近づけた。
「へえ、一つは奴らが磯垣を殺したとして、なぜ五万十川に浮かばせたか、ということです。工場区に死体を投げこめば、跡形もなく処理してくれるんですがね。それから二つ目、磯垣の野郎は頭を撃たれて死んでます。怪力を誇る“最凶”数馬がいるのに、なぜ銃なんか使ったんでしょうか」
「……つまり、その2人は磯垣殺しには関与していないという事か? そういえば三馬兄弟と言っていたな、最低の統馬、最凶の数馬と来て……もう一人は誰だ?」
「ああいや、もう1人は大したことの無い野郎で、幻馬(げんま)っていうガキなんですがね? こいつは特徴らしいものがないのが特徴という、平凡を人間の形にしたような野郎で、一応他の2人に合わせて“最悪”なんて名乗っていますが、ほとんど表に出ることもなく、中に引っ込んでるだけの玉無しで……兄貴?」
 その時、イタチは目の前の少年の様子が微かに変化したことに気付いた。
「……幻、馬?」

 脳裏に小柄な少年の姿が浮かぶ。いつも自分の後を兄ちゃん、兄ちゃんと追いかけてきた少年だ。存在感が薄いため、わずらわしさを感じなかったから傍に置いていたが、ジ・エンドに入って数日後、気付いたらいなくなっていた。いてもいなくても同じような奴だったから今まで思い出しもしなかったが、本当は違う。


 自分は心のどこかで恐れていたのだ。自分がどんなに人を潰しても、血まみれの自分を見て顔色一つ変えず、にこにこと平凡に笑っていたあの少年を。


「……き、兄貴、一体どうしたんで?」
「…………あ? いや、なんでもない。いいかイタチ、平凡な奴っていうのが実は一番恐ろしいんだ。感情が表に出ている奴と比べて、自分の考えを内側に隠すから、何を狙っているのか分からないからな。よく覚えておけ」
「へ、へえ。肝に銘じやす……それで兄貴、これからいかがなさるおつもりで?」
「そうだな……もし俺の知っている誰かがジ・エンドを仕切ってるなら、今すぐ快楽区に行って脅せば済むと考えていたが、そうもいかなくなった。それでイタチ、その三馬兄弟とやらは一体どこにいる」
「ちょ、ちょいとお待ちを。え~と、統夜がいる建物の名前ならすぐにわかるんですが、他の二人が今どこにいるかまではちょっと」
「……“余り”なんてどうでもいい、とにかく統馬ってやつがいる建物の名前をさっさと答えろ。もしそれも忘れているんだったら」
 思い出させてやるが? そう呟いて右手を握りしめた少年に、イタチはとんでもねえと両手を振った。
「統馬のいる建物なら知っていやす。妖しい夢と書いて、妖夢館という、快楽区のほぼ中央に立つでっけえ屋敷で」
「快楽区の中央に立つでかい屋敷? イタチ……それはお前幼い夢と書いて幼夢館と呼ぶ“俺”の家だった所だぞ」
 今でも思い出す。ジ・エンドが快楽区全てを手中に収めた時、仁から報酬として受け取ったのがあの家だった。といってもそのころ自分はすでに復興街に住んでいたため、一週間の約半分しかいることができなかったが。
 それでも花が好きな娼婦に屋敷の管理を任せていたため、帰ってくるといつも様々な花が咲き乱れていた。もっとも、別の花も咲き乱れていたが。
「その統馬に会わなきゃならない理由が増えたな。あの野郎、人の家で一体何してやがんだ」
「ま、まあまあ兄貴、落ち着いて下せえ。しかし嬉しいですぜ。ようやく兄貴がこの街に帰ってこられた。“最狂”の兄貴がいれば、ジ・エンドを叩き潰し、兄貴を筆頭とした新しい自警団が誕生するのも時間の問題でさ」
 だが、興奮するイタチを見る聖亜の瞳は、どこまでも冷めていた。
「……イタチ、お前何馬鹿言ってるんだ? 俺は別にジ・エンドを叩き潰すために、ましてや復興街に君臨するために帰ってきたんじゃない。まあ、統馬って奴の出方次第でジ・エンドは潰すかもしれないが、それが終わったら、俺は向こうに帰るつもりだ」
「そ、そんなっ!! じゃあ俺達は一体どうすればいいんで!? 確かにここでの平凡な暮らしは悪くないですが、やっぱり今のジ・エンドのやり方は納得がいきやせん!!」
「……そう興奮するな、お・ち・つ・けっ!!」
「うぐっ!!」
 顎をがしっと掴まれ、ぎりぎりと押される。その重圧に、イタチは床にカエルのように這いつくばった。
「ひっ、すいやせん兄貴、調子に乗りすぎやした」
「……ま、勘弁してやる。それと人の話は最後まで聞け。俺は確かに向こうに帰るが、代わりに兵隊を連れて女王蜂がこちらに来る。頭部を失った怪物を潰すことぐらい、奴にとっては簡単だろう」
 そう言って軽く笑うと、聖亜は掴んでいたイタチの顎をそっと放した。
「す、すいやせん。そうですか、女王蜂の旦那が……けど兄貴、それじゃ快楽区の半分がオカマバーになっちまいやすぜ」
「今よりはマシだろ。さて……統馬のいるその妖夢館に、いつ乗り込むかだが……」
「あの兄貴、ここは夜にしやせんか? 昼間はジ・エンドの兵隊も屋敷の近くにいるだろうし、ですが夜なら……ねえ」
「……そうだな、そうさせてもらう」
 人を小馬鹿にするような笑みを浮かべるイタチに、呆れたようにため息を吐いてから、聖亜は床にゆっくりと寝そべった。
「よしっ!! そうと決まれば今日は宴会だ。っと、そうだ、その前に紹介したい、いえ、兄貴も知ってる奴がいるんですが」
「俺の知ってる奴? 誰だ?」
「へえ、お~い、入ってこいよ」
 イタチがパンパンっと2回手を叩くと、小屋の奥につけられている古いカーテンがそろそろと開けられ、中から小柄な一人の少女が出てきた。少女といっても自分より2,3歳ほど年上だろう。黒髪を肩の所で切りそろえ、目を少し伏せた彼女に、聖亜は確かに見覚えがあった。
「あ~、お前確かあれだよな、以前俺が助けた」
「……」
 無言のまま小さく頷いた彼女に、聖亜は微かに目を細めたが、やがて仕方ないという感じで頭を振った。
 なぜなら、自分がこの女に初めて会った時、彼女は男達に路地裏で強姦されようとしていたのだから。幸い未遂に終わったが、その時の恐怖からか、彼女は言葉を失ってしまったらしい。面倒くさくなった聖亜は、彼女を目の前の男に預けたのだ。
「それで? なんでこの男と一緒に……ああ、もういい、分かった」
 微かに頬を染めた彼女に、付き合いきれないという風に首を振ると、聖亜はいまだに照れているイタチの頭を軽く叩いた。
「いてっ!! ひどいっすよ兄貴」
「うるさい。ま、おめでとう。お前も今年で23か4だろ? そんなに年も離れていないし、お似合いだと思うぞ」
「へえ、ありがとうございやす。それでですね、その……こいつ腹に赤ん坊がいるんですが、兄貴にその子の名付け親になってもらえればなと思って」
「……おいおい、子供までいるのかよ。しかも俺に名付け親になれだって? イタチ、最狂の俺に頼む何ざ、いい度胸してるじゃねえか」
「とんでもねえ、兄貴がいいんです。いえ、兄貴じゃなきゃダメなんです。なんだかんだ言って、兄貴は身内には優しいですから……その、駄目でしょうか」
「……分かったよ、けど変な名前になっても恨むんじゃないぞ、俺はまだ16だ。親になんてなったことないんだから」
「そ、そうですか、ありがとうございます、ありがとうございます!!」
「……」
 イタチとその妻に頭を下げられ、聖亜は照れ隠しのように顔を背けた。
「さあ、それじゃあ宴会にしましょうや。といっても、ここにあるのは野菜ぐらいなものですがね。そうだ、子分達に兄貴の武勇伝を聞かせてもいいですか? 4強時代を終結させた、あの“400人潰し”とか、30人の女の処女を一夜で奪った“花壇散らし”とか」
「……勝手にしろ」
 400人潰しはともかく、花壇散らしの方はヒスイには聞かせられないな。そう思いながら宴会までの短い時間、聖亜は体を休めるため、ゆっくりと眠りについた。


西暦2015年(皇紀15年) 7月16日 21時45分



「うっぷ、食いすぎた」
「……調子に乗って食べすぎだ。そんな事で大丈夫なのか?」
 周囲に夜の帳が落ちた頃、聖亜はヒスイと共に快楽区の中を歩いていた。イタチとその子分達には女王蜂が来るまでで待つように言ってある。あの男は抜け目がないから、こちらに来るのはどんなに早くとも明日の朝だろう。これは別に乱戦になるのを警戒しての事ではない。“自分”の戦いに巻き込まれないようにするためだ。
「しかし、前も思ったが、ひどいありさまだな」
 地面にまき散らされた汚物を避けて歩くと、ヒスイは道の両端に折り重なるように倒れている男達に目をやった。どれも皆うつろな目つきをしており、とても正気とは思えない。
「……昔はこんなんじゃなかったけどな。少なくとも仁さんが生きていた頃はきちんと統率がとれていて、少しずつだけれど復興も進んでいたんだ。大体快楽区ができたのは女に仕事をやるためと、もう一つ、絶望しきった男達に生きる気力を与えるためだったらしい。それが今じゃ犯罪の巣窟となっている。皮肉なものだな」
「そうか……それで? 一体どうやって忍び込むつもりだ」
 宴会が終わった後、ヒスイにはこれから行く所を説明しておいた。快楽区に行くということであまりいい顔はしなかったが、説得を続けるとしぶしぶといった顔で了承してくれた。
「ま、あそこは元々俺の家だからな、改築されていなければ大体の構造は頭に叩き込んでいる。別に正面から乗り込んで行ってもいいけど、それじゃ統馬って奴が逃げる可能性があるからな……ま、何とかなるだろうさ」
 蹲っている男を跨いで答えると、聖亜は前方に目を向けた。


 彼の視線の先には、微かに懐かしい“我が家”が見えてきた。



 その建物は、昭和中期にある華族の別荘として造られた。
 4階建てのレンガ造りの建物で、戦前はここで毎週のように舞踏会が開かれていたらしい。その後その華族が没落したため、暫く市役所として使用されていたが、建物の老朽化が進んだことと都市の東側に行政機関が移ったため、災厄が起こる前は博物館として利用されていた。その災厄でも大きな被害は受けなかったが、内部に展示してあった装飾品などは災厄直後の混乱の際に略奪され、廃墟になっていた所を聖亜が譲り受けたのだ。
「ま、そんなわけだからいろいろと隠し通路とかあるんだよ。で、ここもその一つって訳さ」
 元は脱出用に作られた通路なのだろう、両端の壁にある蒸気ランプが周囲をぼんやりと照らす地下通路を、聖亜とヒスイはゆっくりと進んでいった。
 
 屋敷の近くまで来たのはよかったが、門の所に数人の男達がいるのを確認した聖亜は強行突破を断念した。彼らぐらいなら瞬く間に潰せるだろうが、雑魚を相手にしてもつまらない。彼の獲物はこの屋敷の主人である統馬だけだった。
 そのため、その近くにある入り口から地下へと潜り、こうして屋敷に向かっているのだが、聖亜はこの時点で統馬を“小物”と判断した。何せ調べればすぐわかるところにあるこの地下通路に、人の気配がまったくしないためだ。恐らくこの地下通路の存在すら知らないのだろう。
「それで? この地下通路はどこにつながってるんだ?」
「ん~、俺がいた時と変わっていなければ食糧庫だろう。で、屋敷の中に入ってからの手順なんだけど……まあ人数はそれなりにいるだろうから、ちょっと家の一部を破壊してから、向かってくる奴らを適当に相手しつつ統馬を探すってことでいいか?」
「構わない……っと」
 前方に壁がいきなり現れたため、ヒスイは思わず立ち止まった。その少女の横で聖亜は薄暗い壁に手をやると、ある地点で壁を押す。と、手の動きに合わせて壁の一部が奥に引っ込んだ。同時に上の方からがらがらと音を立てて梯子が下りてくる。
「じゃ、行こうぜヒスイ。お前に見せてやるよ、最狂の戦い方って奴をさ」



 その日、1階の警備をしていたジ・エンドの若い“兵隊”は、退屈そうに欠伸をした。
「おいおい、いくら暇だからってそんなにでかい欠伸してんじゃねえよ」
「だってよ、他の奴らは今頃女と楽しくやってるんだぜ? いくら賭け事に負けたって言っても、来るはずの無い敵に対してする警備なんて、やる意味ないじゃねえか」
「確かにな。この復興街で俺達ジ・エンドに喧嘩を売る馬鹿な野郎はいねえ。しかも今夜の“商談”がまとまれば、旧市街に打って出ることもできるだろう。ま、どんなにクソの街でも、その頂点に立っちまえば住みやすいもんだ。でよ、退屈しのぎにやるか、これ?」
「お、良い物持ってるじゃねえか。いくら夏だからって夜は寒いし、きちんと暖を取らにゃならんなぁ」
 賭け事に負けた相方が取り出した酒瓶を見て、兵隊はにやりと笑った。そういう事さと言いながらまず相方が酒瓶をぐいっとラッパ飲みし、催促するように手を出した兵隊に手渡してやる。濃厚な酒の香りにごくりとつばを飲み込み、慌てて口に運んだ時だった。


 ドゴォン!! と大きな音を立てて、後ろの壁が爆発したと思うと、黒こげになった2人は目の前の壁に叩きつけられた。焼けただれた棒のような手から、酒瓶がころころと転がっていく。
「ったく、警備もしないで酒盛りとはな。いい度胸してるぜ、ったく」
 その酒瓶を足で踏み割ると、聖亜は被っていたぼろ布をばさっと放り捨てた。
「ごほっ、ごほ。しかしすごい爆発だったな。まさか小麦で爆発が起きるなんて、思いもしなかった」
「ま、粉塵爆発って奴さ。立てるか?」
「ああ。けふ……けふ、ちょっと爆発が強すぎたようだな」
 咳き込みながら頷くと、ヒスイは伸ばされた手をぎゅっと握って立ち上がった。
「さてと、お約束なら親玉は最上階にいると思うけど、たぶんこの爆発でこっちが来たことは知ってると思うから、ここからは手早くいくぞ。まずは二階に上がる。いいな」
 自分の言葉にヒスイが頷くのを確認すると、聖亜は薄く笑いながら―右に軽く手を振った。
「ぐあっ!!」
「ぐ……」
 騒ぎを聞きつけ駆け付けた兵隊のうち、2人が右目と喉に釘を受けのけ反る。他の兵隊が唖然としながらも慌てて銃を構えるより早く、聖亜は彼らの懐に飛び込むと、その首めがけ金槌を叩きつけた。
「こ、こいつっ!!」
 それでさらに3人が血を吐いて倒れる。最後の一人になった兵隊は銃を撃つのではなく逆さにしてしゃがみ込んだ侵入者に振り下ろしたが、それを右足で難なく受け止めると、聖亜は小指を引き金にかけ、無造作に撃った。
「がっ!!」
 腹部を撃たれ、壁に叩きつけられた兵隊がずるずると沈むのを見ることなく、聖亜は新たに駆けつけた兵隊の群れに足に乗っかっていた銃を蹴り飛ばした。
それは狭い通路を塞いでいた兵の一人にぶち当たると、どこかイカレタのか、周囲に銃弾をまき散らす。それを浴びてさらに4人の兵隊がハチの巣になったところで、聖亜は横にいるヒスイをちらりと見た。彼女はちょうど斧を振り回してくる大男の首筋に蹴りを叩きこんでおり、彼女の周りには兵がさらに数人倒れている。
「結構やるじゃないか」
「見くびるな。しかしこんな“素人”に武器を持たせるなんて、指揮官は一体何を考えているんだ? 狭い通路で戦うから、むやみに銃を撃つこともできない」
「さあな、小物の考えなんてわかるかよ。それよりさっさと2階に上がるぞ。ここは4階まであるんだ。さっさとしないと、統馬を逃がすどころか朝になってしまう」
「そうだな……ふっ」
 突き出された大型のナイフを避け、相手の顔に肘を叩きこむと、ヒスイは先を行く聖亜同様、奥に向かって走り出した。


「な、何やってやがるお前ら!! 相手は高々2人だぞ。しかも一人は小さいガキでもう一人は女じゃねえか、何で手こずるんだよ!!」
「し、知りませんよそんな「ぐぁっ!!」ひっ!!」
 すぐ前から聞こえてきた悲鳴に、ジ・エンドに入ったばかりの若い兵隊は頭を抱えてしゃがみ込んだ。彼は元々雑踏区にいるチンピラで、食い扶持を稼ぐために先日ジ・エンドに入ったばかりだった。ここに入れば食い物と女が目当てで入ったのに、すぐこんな化物の相手をするなど聞いていない。

「ぐあっ!!」

「ぶぐっ!!」

「ひいい、ひいっ!!」

 それでも班長に睨まれ、がたがたと震えながらバリケードの上から様子をうかがう。だが、すぐに顔をひっこめ、そして見たことを後悔した。

 彼が見たのは、少年と女ではなかった。そこにいたのは自分達の数倍、いや十倍以上の人間を叩き潰し、彼らの血に塗れた赤い化物だった。
「か、勝てるわけねえ、あんな奴らに俺達が勝てるわけねえ!!」
「ま、待ちやがれ!!」
 蹲り、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら赤い2匹の化物から遠ざかろうとする彼のズボンを、班長は必死に押さえつけた。
「は、放せ、放してくれぇ。俺はもうこんな所にいたくねえ!! 奴らなんて見たくねえよ!!」
「うるせえ!! 泣いてる暇があるなら、さっさとこれを奴らに転がしやがれ!!」
「ひ……ぐ」
 がたがたと震えながら、それでも必死に手渡された手榴弾を受け取る。投げるタイプではなく、棒のついた転がすタイプだ。震える手でピンを何とか引き抜くと、バリケードの隙間からそっと転がす。当たり前だが、それは彼らに向かってころころと転がっていった。
「やった!! これであの化け物共も終わ……へ?」
 自分の立てた戦果に喜び勇んで立ち上がる。だがその時、彼はこちらに向かって飛んでくるそれを見た。それは彼の足元に落ち、そして、


 ガァアアアンと巨大な爆風を、その場に生んだ。


「やれやれ、やっと道ができたか」
バリケードの破片と赤黒い肉片が散乱する中を、聖亜は別段慌てることなく前に進んでいった。足元でブヨブヨとした感触がするが、欠伸を噛み殺しながら歩く彼にはまったく気にした様子がない。それはその後に続く少女も同様だった。
「で、どうだヒスイ、エイジャと戦うお前から見て、俺の戦い方は」
「そうだな……一言で表せば危なげのない戦い方、だな。戦いが始まってから今まで、聖亜、お前は興奮も恐怖もせず、ただ落ち着いている。さっきもそうだ」
 彼女の言うさっきとは、こちらに向かって手榴弾が転がってきた時のことだ。普通の人間なら慌てて何の対処もできずにいるところを、だがこの男はそれを右足で受け止め、そのまま相手に向かって蹴り飛ばしたのだ。
「ま、ああいうのは焦ったら負けだからな。こいつらとは潜り抜けてきた修羅場が違うんだよ」
 そう言って口にくわえていた釘をぺっと手の中に吐きだすと、聖亜は地面に転がっている黒焦げの首を、ぎりぎりと踏み砕いた。
『……潜り抜けてきた修羅場が違うと言っていたが、聖亜よ、人間誰しも戦闘になれば血に酔い興奮するものだぞ? だがそなたは全くそのようなことがない。なぜだ?』
「さてね……ま、俺が人間じゃなくて、結界喰らいだからじゃないのか?」
『たわけ、そんなわけがあるか。結界喰らいといえど、きちんと感情は持つ。だが聖亜よ、そなたは真逆だ。戦いが長引けば長引くほど、そなたの中から感情の波は消える。そなた一体どんな訓練をしてきたのだ』
「どんなって……最初は丁寧に教えてくれる奴なんていなかったから、ほとんど実戦だな。最初は勝てそうな奴としかやらなかったし、手強い奴は寝込みを襲ってぼこぼこにしたり。けどさすがにやりすぎたのか、二十人くらいに囲まれたことがあったな」

 その時のことを、聖亜は今でも忘れない。殴られ、蹴られ、いよいよ殺されそうになった時、少年はその男に助けられたのだ。

『よう、ガキ。酒持ってないか?』

 なんて笑いながら言った、その猿のような男に

「……猿のような男? マスターじゃなくてか?」
「俺が今の師匠とあったのは、ジ・エンドが復興街の頂点に上り詰めて、大きな闘争がなくなってからだよ」
 物陰から襲いかかってきた男の顎に金槌を叩きこむと、彼は退屈そうに欠伸をした。
「で、酒と引き換えに武術を習ったな。まあ、ほとんど実戦形態だったけど。それでその猿に習っているうち、血を見てもそれほど興奮しなくなった。殴られてもそれを客観的に見つめられるようになったし……その後半年ぐらい経ってから師匠が飽きたとかなんとか言って旅だってから、喧嘩がするのが馬鹿らしくなって、今に至るというわけさ」
「……何というか、随分破天荒な師匠だな。なあキュウ……キュウ?」
『……』
 ヒスイの声に、ペンダントの向こうにいる黒猫は反応しなかった。そこにいる気配は伝わってくる。だが何か考え事をしているらしい。
『……む? ああ、すまぬ。その猿のような男だが、我の知り合いに思えたのだ。いや、まさかな。“あの男”が酒と引き換えに武術を教えることなどありえぬ。忘れてくれ』
「分かった、忘れる。ところでそろそろ4階に続く階段が見えてくるころ「うはははははっ!!」っと、何だ?」
 その時、角を曲がろうとした聖亜は、突然向こうから聞こえてきた高笑いに、上げていた足をゆっくりと下ろした。



「ぬははははっ!! 来るなら来てみるがいい侵入者め。この俺の百を超える防御術と、この3丁のガトリングガンで、貴様をひき肉に変えてくれるわ!!」
 そう言うと、ベレー帽をかぶった大柄の男は声高々に笑った。
 その言葉通り、彼の前には鋼鉄製のバリケードが敷かれ、その隙間からは3丁のガトリングガンが鈍く光っている。しかも4階の兵隊が皆ここに集結しており、それぞれ銃や手製の弓矢を油断なく前方に向けていた。
 確かに鉄壁の布陣ではあるが、先ほど同じようにバリケードを張った班が全滅しているためか、彼らの顔色は悪い。
「あ、あの隊長、本当に大丈夫なのでしょうか? ここは一旦団長を連れて屋敷を脱出した方が「この、馬鹿者がぁあああっ!!」ふべっ」
 未だに笑っている屋敷の警備隊長に、部下の一人が恐る恐る声をかけ、そしていきなり指揮棒で殴られた。
「お前は俺達の職務を忘れたのか!! 俺達の職務はただ一つ、この屋敷をあらゆる侵入者から護ることだ!! 現に団長は今も逃げずに4階で俺達の活躍を見ていらっしゃるではないか!! なのにお前という男は、この恩知らずが!! それになんだその隊長というのは!! いつも言ってるだろう、俺のことは教官と呼べ、教官と!!」
 バシッ、バシッと鈍い音を立てて指揮棒が振るわれる。顔がジャガイモになるまで殴られた部下は、邪魔にならないところに捨て置かれたが、それは彼にとって、むしろ幸運だったろう。
「た……教官!! 来ました!!」
「何ぃ!! よし、相手が完全に姿を現すまで引き付けろ!!」
 隊長……いや教官の言葉に、彼の部下達はごくりと唾をのんで目の前の人影を凝視した。
 そして、その人影が完全に彼らの視界に入った時、
「よし、今だ……撃てぇ!!」



 ガガガガガガがガガガッ



 ものすごい音を立てて、三丁のガトリングガンを中心に、彼らの持つ銃が一斉に火を噴いた。
 放たれた銃弾は現れた人影に一直線に飛んでゆき、それをずたずたに引き裂いていく。やがてそれがずたずたのミンチになった時、ようやく銃声は止まった。
「う……うはっ、うははははっ!! 見たか侵入者!! これが貴様の哀れな末路だ!!」
甲高い銃声に思わず耳を塞いでいた教官は、もはや人としての原形をとどめていないそれに向け、再び声高々に笑った。だが、
「あ、あの教官? あいつ明らかに報告にあった侵入者と姿形が違うんですが……」
「ふん、そんなはずないだろう!! 大体お前ら、その侵入者というのを実際に見たの「ほ、報告いたします!!」なんだぁ!!」
 その時、一人の兵隊が前方から小走りに走ってきた。
「は、はい!! 例の侵入者ですが、そろそろ4階に到達するという情報がありました!!」
「何だとぉ!? そんなわけあるか、侵入者ならそこでずたずたにしてやったわ!! 大体4階に続く階段は此処しかないのに、一体どこにいるというのだ!!」
「……へえ? やっぱり階段は此処しかなかったか。新しく作ったりとしかしてないのな、 お前らのボスってほんと馬鹿じゃないのか?」
「何ぃ? 貴様どこの班の奴だ!! 姓名と所属部隊を言え!!」
 その時になって、教官はようやくその兵隊が、小柄で髪の長いまるで女のような男であることに気付いた。
「所属部隊? そんなのはないよ。まああえて言うなら……水先案内人第一班って所かな? なあおい」
 貴様!! そう叫ぼうとした教官は、だがその言葉が出てこなかった。大きく開けた口に金槌が入れられ、そのまま地面に引き倒される。口が切れ、その痛みに絶叫を上げて転げまわっている間に、兵隊の服を着た聖亜は突然のことに反応しきれていない周りの連中を、わずか一呼吸で地に沈めた。
「く、くそっ!!」
 それでも1人が何とか暴力の嵐から難を逃れ、一兆のガトリングガンに飛びつく。そしてそれをこちらに背を向ける侵入者に向けた途端、
「お前、私を忘れていないか?」
「へ? ぐあっ!!」
 氷のような声を最後に、彼の意識は闇へと消えて行った。


「ぐっ、ぐぐっ、お、おのれ貴様、何者だ!!」


 口を押えながら、それでも教官はなんとか起きあがり、侵入者である少年に懐から取り出したごてごてとした銃を向けた。
「ぬははははっ!! これは商談相手から友好の印に譲られたマカロフPMを、さらに改良し殺傷能力並びに速射性を高めた至高の一品!! これを喰らえば貴様の頭はザクロのように吹き飛ぶこと間違いなし!! さあ、いまこそこの俺に懺悔しながら死んでゆくがい「敵を前に台詞が長いんだよ、このボケ」ぐがっ!!」
 と、今度は頭の横を思い切り蹴られた。衝撃でふらつく彼の足をさっと払い、再び床に無様に転がった彼の腹部を起き上がれないように踏みつけると、聖亜は陽気で残虐な笑みを男に向けた。
「ば、馬鹿な……この俺がこんな所で死ぬというのか、かつて最狂と互角に渡り合い、敗退させたこの俺が!!」
「……あ? 俺が敗退したって? そりゃ一体いつの事だ?」
 そう呟いて、聖亜は彼の顔を覗き込んだ。むろん相手の目の中に自分の顔がくっきりと浮かぶ。そのうち、男の顔が目に見えて青くなった。
「なっ!! き、貴様その顔……まさ、まさかさ、さいきょへぶっ!!」
「正解だよ、ああ……その情けない顔見て思い出した。お前、俺がジ・エンドに反抗した組織を壊滅させたとき、部下がみんなやられるのを見て、ションベン漏らして土下座してきた間抜けなボスだったな。もう二度と楯突きませんって懇願する姿が面白かったから見逃してやったが……どうやらその事、すっかり忘れているようだな」
「ひっ、ひいいい!!」
 喚く男の額に、ごとりと硬い物が押し当てられる。それが先ほどまで自分が持っていた銃の銃口で、押しつけているのが自分にまたがっている少年だと認識した時、じわりと男の下半身が濡れた。
「おいおい、また漏らしたのかよ。けどあの時お前は二度と楯突かないと俺に言ったんだ。その言葉通り二度目はない。ああ、それから地獄に行く前に二つほど指摘しておいてやる」
 男の額に銃口を強く押し当てながら、聖亜は心底楽しそうに笑っていた。
「まず一つ目、銃の種類を叫ぶな、馬鹿が。マカロフといったな、ロシア製の銃か……となると商談相手というのはロシアン・マフィアだな? しかもこんなクソみたいな街に来るなら、恐らく勢力争いで負けている方のマフィアだろう。ま、俺に楯突いた以上、いずれ必ずぶっ潰すけどな。そしてもう一つ」
 そう言うと、聖亜は男に押し当てていた銃を窓に向けて放り投げた。銃は曲線を描いて窓に向かい、パリンと音を立てて外に消えて行った。
 助かった、一瞬そう思った男の額に、再び硬い物が押し付けられる。
「武器なんてものは、必ずしも銃やナイフである必要はないんだ。相手に苦痛を与えて、負傷させて、死に追いやることができればそれはもう立派な武器だ。例えば俺が今持っているこの金槌もな。勉強になったろ? さて、じゃあ今習った事を胸に秘め、さっさと地獄の閻魔様にでも会いに行け。じゃあな」

 ガゴッ!!

 振り上げられた金槌が、まったく躊躇されずに振り下ろされる。それを額に受けた男は、ひび割れた床にめり込んだ。

「……っち」
 だが、起き上がった聖亜の顔は不機嫌そうに歪んでいた。床に倒れている男の上半身は完全にめり込んでいるが、突き出ている下半身はぴくぴくと痙攣している。
「生きているのか……大した頑丈さだな」
「牛乳の飲みすぎで骨が丈夫なんだろ。こういう“非常識”な奴が一番手に負えない。ま、この騒動が収まるまでは寝てるからほっとけ」
 ぶつくさと呟き、床から突き出した足を思い切り蹴ると、聖亜は薄暗い階段の先を仰ぎ見た。
「さてと、中ボスと雑魚キャラは倒した。後はラスボスといこうか。それでヒスイ、ここまでのご感想は?」
「……死者は54人、負傷者は60人。100人以上を叩き潰すのにかかった時間は20分。私でもこれぐらいはできるが、ここまでの感想を一つ……聖亜、お前は大した狂人だ」
「当たり前だろ? 何たって俺の異名は“最狂”なんだからな」
 ヒスイの言葉にからからと笑うと、聖亜は一足先に階段へと足を踏み入れた。


 4階はひっそりと静まっていた。彼の記憶が正しければ4階には一つの部屋しかなく、階段とその部屋の間には、ただ長く薄暗い廊下が伸びているだけだった。

 だが自分の部屋があったこの階に足を踏み入れた時、聖亜が感じたのは懐かしさではなく強い嫌悪だった。彼の好きだった何の飾りもなかった廊下には、部屋まで伸びる赤い絨毯を初めとして、壁には蒸気で光るシャンデリアが幾つも光り輝いており、所々にはなんと大理石の彫像まであった。
「……随分と趣味が悪いな、この屋敷の主人は」
「言っておくが俺じゃないからな。俺はひっそりと静かな方が好きなんだ」
「確かに……」
 軽く笑うと、ヒスイは彼の部屋の状態を思い出した。確かに散らかっていたが、それは年頃の少年の部屋ならどこでもそうだし、彼の部屋にあったのは見栄えより実用性を考慮したものばかりだった。
「で、俺達は向こうの部屋に行くわけだが……やっぱりそう簡単に通してくれるわけないよな」
「ふむ、そりゃそうじゃ」
 少年の呟きに、部屋の前で茶を飲んでいた男が柔和な笑みを浮かべて立ち上がった。痩躯と見事に白い総髪をした、70か80ぐらいの、ここにいることが似合わないほど、どこにでもいるただの老人である。
 だがその老人を見た途端、聖亜はこの屋敷に来て初めて構えらしきものを取った。金槌と釘が入った重い上着を脱ぐと、腰を低くし、両手を顔の前に持ってくる。
「……ほう、中々整った姿勢じゃな。しかし残念じゃのう、生きておればさぞ名のある武人になれたろうに、ここで死なねばならぬとは」
 不意に、老人がふっと消える。その瞬間、聖亜は右側に思い切り足を突き出した。


 ガキッ!!


「くっ!!」
「ふむ……」


 半瞬後、現れた老人の腕と聖亜の突き出した足とが激突した。老人は奇襲が失敗した事に落胆どころかむしろ楽しげな表情を見せると、くるくると空中を回転しながら先ほどの場所に戻り、のんびりと茶を啜った。だが、聖亜の方はそれほど楽観的にはなれない。奇襲はなんとか防いだものの、足に来た衝撃でがくりと床に膝をつく。
「……達人だな」
「ああ、それも一瞬でも気を抜けば簡単に即死させてくれる親切なタイプのな……足で迎撃しなかったら、確実に首を飛ばされていた。けど」
「……それでもお前は笑えるか、やはり狂人だな、お前は」
「ああ、さっきも言ったが俺は狂人も狂人、“最狂”だからな。さてと、あのご老人を失望させないために、今度はこちらから仕掛ける……かっ!!」
 最後の言葉と同時に、聖亜はいきなり前に駈け出した。本来ならば決してとることの無い愚行な策だが、老人は楽しげに彼が向かってくるのを待った。
「さて爺さん、今度は俺の攻撃を喰らってみるか?」
 そう言って思い切り振り上げた彼の拳が老人の頭に振り下ろされる。だが老人は茶をのんびりと飲み干すと、片手で軽くそれをはらった。
「ふむ、中々に鋭い一撃じゃが、まだまだだの。素質は申し分ないが経験が足りぬ。それではわしには届かぬ……なっ!!」
 少年の手をはらった老人の手が、手刀となって彼の首筋を狙う。しかし、
「よっと」
「む? ……ぐっ」
 今度は老人が軽く目を見張る番だった。即死させるための一撃が、少年に軽く避けられたのだ。
 その直後、一瞬無防備になった老人の頭を、先ほど痛んだ足が襲った。老人はさすがに直撃は避けたが、それでも耳の後ろを軽く掠めた。
「はははっ!! 爺さん、あんたの狙いは正確だ。確実に急所を狙って即死させようとしてくる。けどな、正確だからこそ逆に避けやすいんだよ」
「……やれやれ、これだから戦いはやめられんの。この年になって若造から教えられる羽目になるとは!!」
 彼らの会話は、拳と蹴りの応酬の中で行われた。聖亜の突き出した右手が老人の頬を掠めると、老人の放った蹴りが少年のズボンを皮一枚ごと持って行った。
「つうかさ、何でこれほどの実力を持ってるくせに、何で統……何とかの手下なんてやってるんだ?」
「お主……自分が乗り込んだ屋敷の主人の名前を忘れたのか、まあ良い。わしは物心ついてから今までずっと戦いの中で生きてきた。まあそれでも人並みに結婚をして、娘もできたがの。じゃが家族ができても、わしは戦う方を選んだ。それこそ妻が死に、娘が死に、孫が結婚しても気にせず、ただ獣のように戦う相手を求め続けた」
「ふ~ん、それで?」
 少年のこめかみを掠めた老人の一撃が、彼の後ろにあった大理石の彫像を粉々にする。その彫像の破片の中で一番大きなものを、聖亜は右足を使って老人に蹴り飛ばした。
「しかし生物である以上、老人に近づくほど体力は衰える。ふと気が付いたとき、わしの胸にあったのは家に帰りたいという気持ちじゃった。じゃがの、日本に帰ってきたとき、わしの住んでいる街は災厄によって滅び、孫は娼婦に身を落としていた」
「なるほど……ああ分かった、その孫から激しく罵られたんだろ?」
 飛んできた大理石を粉々にし、ついでに少年の首を狙って放たれた老人の蹴りと、同じように老人の首を狙って放った聖亜の蹴りが空中でがきっと合わさる。
「……罵られた方がどんなに楽だったか。娼婦となった孫を何とか探し当てた時、彼女はぼろ小屋の中で死病に喘いでおった。恐らくわしが誰かも分からなかったであろう、じゃが死の寸前、わしは孫から託された……彼女の娘をな」
 ため息を吐いて力を抜いた老人を弾き飛ばすと、聖亜は膝をついた老人の首めがけ踵を落とした。それを後ろに跳躍して避けると、老人はふぅっと深く息を吸った。
「じゃからひ孫を守るためなら、わしは修羅にでもなろう……例え気にくわぬ男の下に付いたとしてもな!!」
 その瞬間、老人を中心にごうっと気が竜巻のようにあふれ出した。
「へぇ、それがあんたの本気か、爺さん」
「……うむ、わしが深山の奥地で編み出した、人にして獣の肉体を持つ術、名付けて“獣人変化”すまぬの少年、もはや楽に死なせてやる事は出来ぬ。この術は……ぐっ!! 理性を……失う、ガラ、ガッ!! ガァアアアアアア!!」
 うめき声をあげた老人の体が、徐々に膨れ上がっていく。やがて老人の頭が天井すれすれまで膨れ上がり、ようやく膨張は収まった。


 そこにいるのは、もはや老人でも、それ以前に人間でもなかった。身の丈は3倍以上、体を覆う肉の壁は10倍以上に膨れ上がっている。まさに獣というにふさわしい。
 獣は目の前の少年を睨み付けると、グルルっと一鳴きし、旋風のように襲い掛かった。
「ち、こういうでか物はスピードが落ちているはずなのにな……くっ!!」
 襲いかかってくる肉の壁を紙一重で避けると、聖亜は無防備になった背中を思いっきり蹴りつけた。だがその獣は何の痛痒も感じていないらしく平然としている。それどころか逆に攻撃した聖亜がふらふらと膝をつく。
「……何だこれ、鉄を蹴ったみたいだ」
 だが休んでいる暇はない。こちらを振り向いた獣が再び突進してくる。それはダンプカーが音速で激突してくるに等しい。よく劇を受ければ少年の体は簡単に粉砕されるだろう。運良く左右に避けられたとしても、突進の際発生する衝撃波で動きを止められ、そのまま叩き潰される。
「……この方法しかないか」
 一度大きく深呼吸して立ち上がると、聖亜は向かってくる獣との距離を測り、いきなり“上”に飛んだ。
「……グ?」
 標的を見失ったことで、獣は突進をやめ、周囲を見渡す。だがどこにも彼の姿はなかった。続けて上を見ようとした時、目の前にいきなり手が突き出される。
「いくら獣でも、さすがに目をやられりゃ痛いだろ!!」
「ガアッ!!」
 聖亜の突き出した拳は寸分たがわず獣の右目に当たったが、拳に伝わる硬い手ごたえに強く舌打ちした。
「まさかまぶたで受け止められる日が来るなんてな……うおっ」
 多少の痛みは与えられたのか、右手で顔を抑えながら、獣は左手で彼を掴むとぎりぎりと顔から引き離そうとする。
「くそ、そっちがその気なら!!」
 こちらを掴む左手に、聖亜は自分から抱きつくと、そのまま体全体で腕をねじった。打撃は効かなかったが、こちらは多少効果があるようだ。獣の顔が苦痛に歪む。それを見て、聖亜が一度離れようとした時、
「うあっ!!」
 彼の体は、ねじられた腕で天井まで持ち上げられ、そのまま床に勢いよく叩きつけられた。


ドガァン!!


「聖亜!!」

『ふむ、死んだかの』


 強烈な音と共に床に叩きつけられた聖亜を見て、ヒスイはさすがに大声を出した。だが彼女の相棒であるキュウは、ペンダントの中で皮肉気に呟いただけだった。
「不吉なことを言うなキュウ、お前が慌てていないということは、少なくとも死んでいないのだろう?」

『当然。奴は結界喰らいぞ? あれぐらいで死ぬわけがあるまい』

 黒猫の言う通りだった。痙攣していた聖亜は次の瞬間がばりと起き上がると、彼女達の方まで後退してきた。床に叩きつけられた時額を切ったのか、顔全体が真っ赤に染まっている。
「どうやら苦戦しているようだな……交代するか?」
「…………馬鹿言ってるんじゃない、ようやく楽しめる相手に出会ったんだ。余計な手出しをするんじゃねえよ」

『ふむ、そうは言うがな、聖亜よ。奴は身体能力・技量・経験、その全てがそなたの倍以上だ。しかもご丁寧にあの肉の壁に硬気法まで使用しておる。このままではそなたの攻撃は奴には届かんぞ』

「……気法? なるほど、気法ねぇ」

 シャツを脱いでこびり付いた血をぬぐうと、傷口をぎゅっと縛る。獣はどうやらこちらが仕掛けるまで待つつもりのようだ。当然だろう、こちらの攻撃はほとんど効かないのだから。しかし、
「気法を打ち消せば、少なくとも攻撃は通る、か」

『うむ、だが聖亜、そなた一体どうやって気法を破るつもりだ?』

「……ま、見てな。おら獣!! 覚悟しやがれっ!!」
「え? ……ちょっ、何やってる、馬鹿っ!!」
 獣に向かって正面から突っ込んでいった少年を見て、一瞬呆然としたヒスイは慌てて走り出そうとし、その場で固まった。
 獣に正面から突っ込んでいった聖亜は、獣の伸ばした手の下を掻い潜り、さらに身を滑らせて足の間を通り抜けると、獣の後ろにあった“それ”を手に取った。
「おいデカ物、こっちだ!!」
「グル?」
 聖亜の挑発めいた啖呵にゆっくりと振り返った獣の目に、彼が投げたそれ勢いよく飛んでくる。顔を庇おうと手を上げるが、それより一瞬早く、熱湯の入った陶器製のポットは、獣の顔にぶち当たった。
「グガッ!? ガ、ガァアアア!!」
 割れたポットから流れる熱湯が、獣の顔に降りかかり、辺りに蒸気が立ち上る。その熱湯と湯気で、獣の呼吸が一瞬止まった。
「はぁあああああっ!!」
 むろんその一瞬を見逃す聖亜ではない。苦し紛れに振り回された獣の剛腕の下を掻い潜ると、相手の鳩尾に高速で何発もの拳を叩きこむ。
「グォッ!!」
 その猛攻に、獣が最初で最後の膝をついた。下がってきた顎に三度の蹴りを放つと、聖亜は獣の肩に足をかけ、空中に飛びあがり、落下しながら首めがけて踵を思い切り突き入れた。
「グ……あ」
 ふらふらと揺れる顔の中で、獣の目に理性の光が宿った。どうやら変身が解けるらしい。床にドカッと倒れたその体が、みるみる縮んでいく。だが、追撃を仕掛けられる余裕は少年にはなかった。血を流しすぎたためか、朦朧とする意識の中、壁に体を預けてなんとか倒れるのを防ぐ。
「聖亜……無事か?」
「…………ああ、何とかな」
 そうは言うものの、駆け寄ってきたヒスイが、ペンダントから取り出した布で傷口から新たに流れる血をふき取っていくと、青ざめた彼の顔があらわになる。
「聖亜、少し休んだらどうだ? 後は私がやっておくから」
「いや、お前に俺の戦い方を見せるって言ったんだ。最後まで俺がやり通す。余計なことはするな」
「するなって……こんなことを続けていれば、お前絶対いつか死ぬぞ。何でそう意固地になる……くっ」
 その時、ヒスイはものすごい力で壁に押し付けられた。覗き込んでくる漆黒の瞳に、怒りの炎が点っているのが見える。
「俺はヒスイ、お前に戦いをなんて、本当はもうどうでもいいんだ。ただ俺は許せないんだよ。人の家をこんな滅茶苦茶にしてくれた奴がな。それから、戦っている以上死ぬような目にあったのは一度や二度じゃないんだ。こんな傷でガタガタ騒ぐな、いいな」
「……」
 憮然としながら引き下がったヒスイを一瞥すると、老人との戦いが始まる前に脱いだ上着を拾い、肌の上から直接纏う。そして、聖亜は奥の部屋に向かって重い足取りで歩き出した。だが、今度は左足をがしっと掴まれる。
「……何だ爺さん」
「い、行かせるわけにはいかぬ。お主が行けば、ひ孫に危害が及ぶ……そ、それだけは断じて出来「あのな爺さん、あんたのひ孫なんざ知ったことじゃないんだよ」ぐっ」
 左足を必死に抑えている手を、右足で容赦なく踏み潰す。自由になった足で老人の体を軽く蹴ると、聖亜は不敵に笑って見せた。
「爺さん、あんたの大事なひ孫がどうなろうと、俺の知ったことか。例え男達に犯されようが、その後殺されて穴に埋められようが、それは俺の責任でもなんでもない。あんたの弱さが招いたことだ。分かったらさっさと寝てな!!」
「ぐがっ!! か……は」
 老人の体を踏む足に体重をかけると、彼は一度びくりと痙攣し、そのまま気を失った。そのまま歩き出そうとした聖亜であったが、2,3歩歩いて立ち止まると、こちらを何か言いたそうな目で見ているヒスイに振り返った。
「…………ああもう、分かったよくそっ。行きがけの駄賃だ。この爺さんのひ孫の事も聞いてきてやるよ。けど期待はするなよ? この街じゃ年齢の関係なしに弱い奴はすべてを奪われるしかないんだからな」
「……ふ、ああ。分かった」
 聖亜の言葉に軽く微笑むと、ヒスイは気絶した老人に歩み寄った。息はしている。どうやら気絶したままのようだ。
「じゃあ俺は部屋に入るけど、ヒスイ、お前はこの爺さんが起きて自害しないように見張っといてくれ」
「それは構わないが……本当に大丈夫か?」
「……ま、大丈夫だろう。この先にいるのは小物だけだからな」
 そう呟くと、少年は思い樫で作られた両開きの扉に手をかけ、ぎぎっと軋ませながら開くと、薄暗い部屋へと進んでいった。


 その部屋に入ってまず初めに聖亜が思ったことは、“こんな部屋で暮らしたくない”だった。窓際には首が痛くなるほど巨大なテレビがどんと置かれており、その両側には大理石の彫像が並んでいる。真ん中には巨大なチェスの台とソファがあり、台の上には一本数十万はするかというワインが並んでいた。部屋の奥にあるキングサイズのダブルベッドからは、酒と体液と血の臭いが離れたこちらまで漂ってくる。
 その臭いを嗅いだことで強い不快感を感じた聖亜は、高級絨毯の上にベッと唾を吐くと、台の上にあったビリヤードの球を一つ掴み、部屋の奥で蠢いている黒い影に向かって投げつけた。


 ガシャァン!!

 
「ひ、ひい!!」
 ガラスが割れる音と同時に、床に身を投げ出した影から情けない悲鳴が聞こえてくる。重い頭を呆れたように振ると、聖亜はその影に向かって歩き出した。
「ひいいいっ!! く、来るな!! 来るんじゃねえ!!」
「……」
 割れた窓から差し込む月の光に照らされて、影の正体が浮かび上がる。それは両手で重い鞄をしっかりと抱きしめた小太りの男だった。艶のない乾いた黒髪とひげを持ち、その目は逃げ道を探しているのか、絶えず左右にぎょろぎょろと動いている。
「何なんだ、何なんだよ手前はっ!! 俺に何の恨みがあってここに来た!!」
「……恨み? あんたなんかに恨みなんてないよ。ちょっと尋ねたいことがあるだけだ」
「ひへ!? そ、そうなのか?」
「ああそうだ、だからその重い鞄をおいて、さっさとこちらに来いや、な?」
 聖亜の言葉に、途端に安堵した表情を浮かべる男の手から黒い鞄を取り上げると、それを床の上に放り投げる。きちんと閉じていなかったのか、カバンの中から数十カラットはするであろう大粒の宝石が幾つも床に散らばった。
「や、やめろ馬鹿野郎!! そ、それはこの統馬様のものだぁ!!」
 男―統馬は立ち上がると、こちらを見つめる聖亜を押しのけ、床に散らばった宝石を這い蹲って拾い始めた。
 小物だ。聖亜は心の底からそう思った。恐らくこの男は、目の前にある富にしか興味がないのだろう。そしてそれを手に入れるためなら、平気で他者を利用し、簡単に裏切るのだろう。話し合う価値もない男、そう結論付けると、聖亜は台の上に置いてあるビリヤードのキューを手に取り、宝石を必死に拾っている男に近づいた。
「なあ、お前さんが統馬でいいんだよな?」
「だ、だったらどうだって言うんだよ、その前にお前もこっちに来て手伝えよ!! お前がばら撒いたんだか……ぐえっ!!」
 ぶつくさと文句を言ってくる統馬の襟首を片手でつかむと、聖亜は男の体を台の上に放り投げ、先ほど手に取ったキューを彼の肩に思い切り突き刺した。
「ぐええっ!! て、手前何すんだ!! お、俺には100人以上の部下がいるんだぞ!! こ、こんなことしてタダで済むと思ってんのか!!」
「あのなあ、俺がここに来たことでそれぐらい察しろや。その100人以上いる部下は、俺がここに来るまでに皆殺すか再起不能にしてやったよ」
「な!? さ、騒ぎが始まってまだ一時間と経っていないんだぞ!! な、何者だ手前!!」
「おや、これは失礼。まだ俺の名前を言っていなかったな。俺の名は星聖亜。かつてこの街で“最狂”と呼ばれていた男だ」
「最狂? 誰だそ…………ひっ、ま、まさかお前、ち、血染めの吸血……あああああっ!!」
 少年が誰なのか、やっと理解したのだろう。台の上でじたばたと騒ぐ男の上に乗ると、聖亜は男の右手の指に、いきなり釘を突き刺した。
「ぐぎぇ!!」
「騒ぐな屑。さて統馬、これから俺はお前に質問をするが、それは頭の回転が遅いお前でも簡単に答えられるように、はいかいいえの二択にしてやる。だからそれ以外の言葉をしゃべったり騒いだりしたら容赦なくお前の指をぶち切る。分かったな」
「う、うるせえ!! 何の権利があってお前にそんな事されなきゃ……ぎっ!?」
「はいかいいえ以外はしゃべるなといったはずだぞ? ん?」
 突き刺した釘に、上着から取り出した金槌を思い切り振り下ろす。ガキンっという音と共に、床に赤黒い“それ”がぽとりと転がった。
「がぁあああああっ!!」
「……まあ悲鳴ぐらいは許してやろう。ではまず一つ目の質問だ。磯垣を殺したのはお前か?」
「い、磯垣? そ、そんな奴はしらな……ぎゃあああああっ!!」
 ガキン、という音と共に、別の指がまた床に転がる。台の上はもう血で赤黒く染まっていた。
「はいかいいえの言葉で答えろと言ったはずだぞ? それで、はいか? それともいいえか?」
「い、いいえだ!! いいえ!! 磯垣を殺したのは俺じゃねえ!! だから、だから許してくれぇ!!」
「……ふん、まあいいだろう。では次だ。最近旧市街と新市街にこちら側の薬が出回っているが、それはお前の仕業か?」
「ち、違う!! 俺じゃねえ!! 大体俺は薬なんて今までやったことは一度もね……ぐぇええ!!」
「嘘をつくなよ、お前が薬をしているのを見たという奴がいるんだ。おっと困った、まだ質問は二つ目なのに、指がもう3本も飛んでしまった。まあ、指が全部なくなったら手首をもらって、その後は足首を、最後は首でも貰うか」
「ま、待てぇ!! 分かった!! 分かったよ!! 確かに俺は薬で商売をしている!! それで得た資金で武器を買ってジ・エンドを乗っ取った!! けど向こうで薬をばらまいているのは俺じゃねえっ!! 幻馬の野郎だ!!」
 涙と血でぐちゃぐちゃになった顔を振り回し、必死に叫ぶ男を見て、聖亜は軽く首を振った。恐らくこいつの言っていることは正しいだろう。そもそもこんな小物に、旧市街はともかく新市街で警察の目を掻い潜り薬をばら撒くことなどできそうにない。
「分かった、信じよう。じゃ、続けるぞ? 肝心のその幻馬という男は、今一体どこにいるか分かるか?」
「い、いいえだ!! けど奴のねぐらがどこにあるかは知っている!! ほ、本当だ!! 嘘じゃねえ!!」
 4本目の指を叩き落そうとした聖亜に懇願するような視線を向けると、彼は暫く金槌を振りかぶっていたが、やがて舌打ちと共にそれを下ろした。
「……いいだろう、それで? そのねぐらは一体どこにある」
「げ、幻夢館というところだ!! 放してくれたら案内してやる!! だから、だからもう勘弁してくれ、このままじゃどっちみち死んじまう!!」
「……ふん、まあいい。質問はこれで最後にしてやる。旧市街からこっちに香という女が来たはずだ。彼女は今どこにいる?」
「そ、その名なら知ってる!! 5日ほど前、子分の一人が連れていた女の名だ!! け、けどその子分は翌日五万十川に浮かんでいて、そのあとその女の姿を見た者はいねぇ!! 本当だよ!!」
「……そうか、香の奴やっぱりこっちに来ていたか。分かったよ、放してやるからさっさと幻夜の所に行く準備をしろ」
「ぐぇっ!! くそ、言いたい放題言いやが……いや、何でもねえよ、本当に」
 ビリヤードの台から床に放り投げられ、カエルが潰れたような声で呻くと、統馬は赤黒くそまっている、先程より“半分”ほどに減った指をタオルで抑えると、小さな声でぶつくさと文句を言っていたが、聖亜の視線に慌てて彼から離れた。
「……それより、なあ最狂、あんたどうして乗り込んできたんだ?」
「先程言っただろう? お前に質問するため“だけ”だ」
「……質問するためだけに100人以上の人間を叩き潰したのかよ!? は~、さすがは元ジ・エンドの最高幹部。ん? まてよ? なら別に俺を殺してジ・エンドの頂点に立ちたいとかそんなわけじゃないんだよな?」
 そう尋ねながら、外に行くため上着を取り出すふりをして、洋服ダンスの中にしまっていたそれを取り出すと、背中にそっと隠した。
「……今のジ・エンドはクソの街に浮かぶ小舟のような物だ。誰が好き好んで頂点になんて立つかよ」
「そ、そうか!! そうだよな!! よし聖亜、お前の強さを見込んで頼みがある。俺の親友になってくれ!! あ、いや、別にここにいてくれというつもりはねえよ、ただ名を貸してくれれば良いだけさ。“最狂”が後ろ盾にいるとすれば、もうこの街で俺達に楯突く者は誰も居なくなるからな!!」
「……ま、この用事がすんだら考えておいてやるよ。ああ、それから一つ質問が残っていたな、まあそう警戒するな。もう“遊んだり”はしないから」
 質問という言葉にひっと大げさに悲鳴を揚げる彼に、心配ないという風に手を振ってやると、彼は先ほど自分が入ってきた扉の方を見た。
「あの扉の向こうに爺さんがいたんだが、あんた彼のひ孫を人質に取っているそうだな? なあ、親友のよしみでそいつの居所を教えてくれないか?」
「爺のひ孫? ……ああ、思い出した。泣きわめいて煩いから頬2,3発ひっぱたいてロシアのマフィアに売ってやったぜ。本当は犯してやってもよかったんだけどよ、処女の方が高く売れるからな、手は出してねえ。なんでもロシアで作る裏ビデオで、処女を出演させると高く売れるそうだぜぇ?」
「…………そうか、やっぱりな」
 彼の答えに、聖亜はすっと目を細めたが、それは彼の背中を見ている統馬には分からなかった。
「おいおい、軽蔑したのかよ。言っておくがな、このクソのような街じゃ、信じる方が馬鹿を見るんだよ。お前だって分かってるだろ? なあ親友」
「ああ、そうだな。けどロシアに連れて行かれたか……面倒くさいな」

 今だ。

 爺に何と言おうか迷っているのか、目の前で僅かに肩を落とした少年を見て、統馬は5本ともそろっている手の方で銃を構え、その銃口を彼の背中に向けた。相手がどんな化け物でも、この距離で撃たれた銃を避けることはできないだろう。

「そうそう、だからな親友、この街じゃ誰も信じない方がいいんだ……ぜっ!!」

 最後の台詞と共に、銃の引き金を引く。だが、どんなに引き金を引いても、銃弾どころか煙一筋も出なかった。それどころか、きちんと握っていたはずの銃が、手からぽとりと落ちる。
「くそっ!! ……あれ? あれ!? おかしいな、と、取れねえ!! 何でだよ!!」
「忠告ありがとうな統馬、かなり勉強になったぜ。でだ、俺からも言いたいことは山ほどあるが、親友としてのよしみだ。お礼にたった一言で勘弁してやろう……お前、俺を聖人か何かだと勘違いしてやしないか?」
 “液体”の中に浮かぶ銃を取ろうとして、必死に手を動かす統馬を心底軽蔑した目で一瞥すると、聖亜は彼を台の上に置いたとき、念のために手首に巻きつけていたそれを、くるくると巻いた。
「どうした? きちんと取れよ……自分の“手首”をな」
「う、うぉっ!! うぉおおおおおっ!!」
 雲が晴れ、月の光で再び照らされた部屋の中、統馬は床に落ちている物を見て、驚愕と後から押し寄せてきた痛みに絶叫を上げた。何度やっても銃をとることができない理由が分かったからだ。取れないはずだ。なにせ赤い液体の中に浮かんでいるのは、銃と、そしてそれを持っていた自分の手首なのだから。
「ま、学校にあった小説を見て真似してみたんだが、結構使えるものだな、これ」
 くるくると巻いたピアノ線―しかし極限まで研いだため、刃のように鋭い―を上着の胸ポケットにしまうと、聖亜は取り出した金槌を蹲る統馬に向け、にやりと笑った。
「さて統馬、もうお前に用はないからさっさと死んでくれ。俺はこれから幻馬の居場所を探して奴と“話し合い”をして、その後さっさとロシアに行かなきゃならないんでな」
「……ま、待てよ、なあ、許してくれよ、ほんの出来心だったんだよ、ジ・エンドも、この街も全部お前にやるから、だから、だから命だけはぁ!!」
「うるさいな、今まで散々楽しんできたんだろ? ま、人間誰しも一度は死ぬんだ。お前の場合、それが今日になっただけの話さ。じゃあな、いろいろと楽しかったぜ」


 そう言うと、聖亜は蹲る男の頭めがけ、最初の一発を無慈悲に振り下ろし―

「……っち、遊びすぎたか」

 ―かけた瞬間、壁の向こうから近づいてくる強烈な気配に、その体を地面に投げ出した。


 ガァン!!

 少年の動きとほぼ同時に、部屋の右側の壁が粉砕し、壁の向こうにいた“その物体”がのそりと這い出してきた。

「く……そ、遅ぇんだよ、数馬」
 それは、3メートルを優に超す巨人だった。先程の老人が獣に変化した姿と似ているが、あちらが術で変化したのに対し、こちらは恐らく生まれつきだろう。
 ともかく、その巨人は血を流しすぎてぐったりとしている兄の姿を見ると、聖亜に怒りの目を向けた。
「で、でめえがぁ、おでのあにぎをやっだのは!!」
「……だったらどうした、お前もこうなりたいのか? そらよ、お前の愛する兄ちゃんの手だぜ?」
 床に転がっている手首をぽんと巨人に蹴り飛ばしてやると、その巨人―数馬は目に涙を浮かべてそれをキャッチした。
「あ、あにぎのでぐびぃ!! ずまねえあにぎ、おでがでがげでいだばっがりに!! ごいづはおでがごろずぅ!!」
 うぉおおんと一声鳴くと、数馬はこちらに向かって、恐らく本人は全速力なのだろう、だが先ほどの老人の動きと比べれば、亀より鈍い速度で走ってきた。
「……」
「ぐががががっ!! じねえ!!」
だが、聖亜はどこにも逃げずに、自分に向かって振り回された、本来なら簡単に避けられるはずの巨人の右腕をあえて受ける。がぎり、と硬い音がして、巨人は満足そうに微笑んだ。
「ん~、じんだが「……おいおい、誰が死んだって? くだらないこと言ってんじゃねえよ」……んが?」
 数馬が手をどけた時、そこにいたのはこちらを笑みを浮かべて眺める少年の姿だった。
「ご、ごいづ、なんでじんでねぇ!?」
「ふん、さっきの爺さんがやっていた硬気法の見よう見まねさ。ぶっつけ本番だったが、まあ何とか猿まね程度には出来たか……で、いいのか? 俺と戦っている間に、お前の兄貴は間違いなく死ぬぜ」
「う? ……がっ、あに、あにぎぃ!!」
「……馬鹿、気付くのが遅いん、だよ」
 顔の色が青からどす黒い紫色に変化した当馬を見て、数馬は泣きながら彼を抱えると、先ほど自分が開けた穴から外に飛び出していった。



「逃げたか……まあ、ここまでは予定通りだな」
 そう呟くと、聖亜は穴のすぐ近くに寄り掛かった。がんがんと重く鳴り響く頭を振って、ふらふらと外に出て行こうとする。
「聖亜!! お前何してる!!」
「……」
 その動きを止めたのは、部屋の中に響き渡る少女の声だった。部屋の中に入ってきたヒスイは、決して健全とはいえない少年の様子に、慌てて彼の肩を掴む。
「……ヒスイ、離してくれないか? 俺はこれからあのクソ共を追わなきゃならないんだ。奴らは十中八九幻馬の所にいる。そいつを抑えれば、今回の件は全て解決するはずなんだ……くっ」
 先ほどの数馬の攻撃をきちんと防いでいなかったのか、突如襲ってきた強烈な吐き気と痛みに、聖亜はがくりとヒスイに寄り掛かった。
「ほら、お前ほとんど歩けもしないじゃないか。少し休め」
「……休む暇なんてないんだよ、あいつらを見失ってしまう」
 遥か遠くに微かに見える巨体を見て、聖亜は必死になって起き上がろうとした。彼の言う通り、だんだん遠ざかっていく巨体を追うには、今が絶好のチャンス―というより、今しかないだろう。
『……ふむ、致し方あるまい。それは我に任せておくがいい』

「……キュウ?」
 ヒスイの腕の中で必死にもがいていた時、耳元でいきなり聞こえてきた黒猫の声に、聖亜はかすむ視線でペンダントを見た。
「けどキュウ、お前ここにはいないんだろう? どうやってあいつらを追うんだよ」

『別に直接追うわけではない。我にも知り合いというものがいてな、そやつに頼む。だから聖亜、そなたはさっさと寝ておれ』

「…………降参だ、分かったよ。けど一つだけいいか?」

『ふむ、何だ?』

 ヒスイに抱かれ、彼女の冷たく、だが甘い匂いに身を任せながらも、聖亜はぼんやりと部屋の外を見た。
「……爺さんのひ孫、どうやら今すぐには返してやれそうにない……だから、悪いけど、あの人の記憶を操作して、ひ孫の事を暫く忘れさせてやってくれ。そして、俺が取り戻したら、ちゃんと思い出せるように……し」
 最後にふぅっと深く息を吐く気配がしたかと思うと、ヒスイは自分の胸に少年の頭が乗っかるのを感じた。


「……眠ったようだな」


『うむ。最後の最後まで言いたいことを言ってな……しかし、なるほどな。こやつが最狂と言われる理由がもう一つ分かった。この歪んだ町で、この男はなんだかんだ言いながら、他人を助けようとする。それがこの街では狂っているように見えるのだろう』

「そうか……それで、キュウ」

『案ずるな、分かっておる。ゴリアテのごとき巨人の追跡と、老人の記憶操作であったな。巨人の追跡はもう向かわせた。後は記憶の操作か。やれやれ、骨が折れるの』

 ぶつくさとそう呟きながらも、やる気を見せている黒猫に苦笑すると、ヒスイは彼女の胸に寄り掛かって眠っている少年の長い髪を手で優しく梳いてやり、その額にそっと唇を落とした。



 まるで、眠っている幼子を見守っている、母親のように






「ふ~ん、それでおめおめと帰ってきたんだ。とことん無様だね、兄さん達」
「……うるせぇ」
 赤い炎が点る暖炉の前にしゃがみ、傷だらけの統馬とそれを抱えている数馬を見て、どこにでもいそうな感じのするその少年は、薄く微笑んだ。
「くっ……大体幻馬(げんま)、手前が悪いんだぞ。手前が絶対どんな邪魔も入らない、なんて大口叩きやがるから、薬をばら撒くことを許可したのに……おかげでこの様だ。手下も100人以上奴に叩き潰された。もう再起を図ることもできねぇ!!」
「ふ~ん、それはご愁傷様。ま、生きてればそんな事もあるよ。それよりさ」
 少年―幻馬は、彼の手下に包帯を巻かれてぐったりとしている統馬にきらきらと目を輝かせながら近づいた。
「どうだった最狂は? 僕の言ったとおりとっても強かったでしょ」
「……強いというより、あいつは異常だ。その名の通り狂ってやがる。人の指を、まるで蠅を手で追い払うように簡単に叩き落としやがる……奴には良心ってものがねえのか!!」
「あはは、そんなのあるわけないじゃん。だって最狂だよ? 狂ってるんだよ? ああ、もう一度見たいなぁ。あの人が戦って、敵を無残に撲殺していくところ……ま、だから薬をばら撒いていたんだけどね」
「…………おい幻馬、手前今聞き捨てならねえことを言わなかったか? 奴が戦うところを見たくて薬をばら撒いただと? まさか手前、最初から奴がこっちに来るのが分かってたっていうのか!!」
 くすくすと笑っている義弟を、統馬は血の気がない表情で睨み付けた。彼の後ろで数馬がのそりと立ち上がるが、幻馬は当然じゃん、と笑った。
「そもそも何で僕が兄さんにジ・エンドをやったと思ってるんだい? この日のためじゃないか。向こうに去ったあの人が、こっちに来て悪行を続ける兄さんをぶっ潰せるようにじゃないか!!」


 狂ってる


 笑いながら再び炎に目をやった彼を見て、統馬は心底そう思った。幻馬から遠ざかるようにじりじりと後退すると、先程自分がこの家に入るときに使った入り口に向け、脱兎のごとく駆け出した。だが、


「……おっと、これは失礼を」
「うがっ」

 
 その動きは、目の前に突然現れた壮年の男にぶつかることで止まった。いや、ぶつかっているのではない。彼は男の指一本で額を抑えられ、それ以上前に進むことも、それ以前に離れることもできないでいた。
「ですが困りますねえ、せっかくの余興の前に退出されるのは。もう少しここにいてくれませんかね?」
「う、うるせえ!! 誰がこんな所に居たいと思うんだっ!! か、数馬ぁ!!」
 自由にならない体の中で、唯一自由になる口を動かし、力以外に何も持っていない義弟を呼ぶ。だが、彼がこちらに向かってくる気配は一向にしなかった。
「くそっ、何やってやがる数馬、この脳無しがっ!! さっさとこのくそ野郎をぶっ殺せ!!」
「おやおや、無駄ですよ? そんな事を言っても。さ、見てください」
「何だよ、何だってんだよ……ひっ」
 男の指に額をはじかれ、くるくると駒のように回転した統馬は、その回転が止まった瞬間、目に映るそれを見て、声にならない絶叫を上げた。


 目の前では、数馬がこちらを見返してくる。口も鼻も床に沈んで、ただ二つの目だけでこちらを!!


「……あ……あ……あ」
「どうです、喜んでくださいましたか? まあこんなもの、これから起こる“劇”からすればほんのお遊びにすぎません。ではあなたもその二つの目で……二つの目だけでご覧になっていてください。現実と空想が混じり合う、狂気の劇を」
「……もしかして大鳥さん、あの人がここに来るの?」
「ええ、もうそろそろここに到着いたしますよ幻馬様。さて、彼をお招きする準備を始めなければ……ねぇ?」
 統馬の体をずぶずぶと床に沈めながら、暗闇でごそごそと動く影に目をやると、大鳥はくくくっと不気味に笑った。


 数馬と同じように、目だけを床の上に出している統馬は、その笑みを見て、先程死んだ方が100倍マシだったと思いながら、唯一流せる涙をだらだらと流し続けた。


西暦2015年(皇紀15年) 7月17日 深夜



「本当にここなのか?」

『……ほほう聖亜、そなたいい度胸だの。我の知り合いが持ち帰った情報に文句を言うとは』

「あのな……普通言うだろうが!!」

 ペンダントの中から聞こえる黒猫の声にそう反論すると、聖亜は目の前に広がる洞穴を見て、硬くなった体をごきごきと動かした。
 1時間ほど眠って起きた時、彼は何故か屋敷ではなく、海辺の砂浜に寝かされていた。近くにいたヒスイに訪ねると、どうやら寝ている間に彼女に運ばれたらしい。その時言われた軽かったぞと言う言葉が、今でも胸に突き刺さっている。
「それで? 本当に2人は入っていったのか? 3年前俺が探検した時は、家なんて影も形もなかったぞ」

『……さっきからごちゃごちゃと。聖亜、そなたなぜそれほど不満そうなのだ』

「だってキュウ、お前の知り合いって……さっき飛んで行った鴉だったろうが!!」

 少年が目覚めて最初に見たのは、ヒスイがガァガァと鳴く鴉と向かい合っている姿だった。彼女に尋ねると、どうやらその鴉はキュウの知り合いで、統馬達の動きを追跡してくれたらしい。
 鴉は少年がこちらを見ていることに気付くと、見てんじゃねえぞという風にギラッと目を光らせ、漆黒の空に向かって飛んで行ったのだ。

「まあ鴉は鳥の中でも高い知能を持っているからな、これぐらいの事はできるのだろう……キュウが鴉と知り合いだったというのは初めて知ったが」

『ヒスイよ、そなたまで文句を言うか。ではこうしようではないか。もしこの洞穴の中に家があったら、そなたら2人には我に向かって頭を下げてもらうぞ』

「……上等じゃないか。分かった。ヒスイもそれでいいだろ?」
「私もか? ……分かった。この中に家があったら、聖亜と一緒にお前に謝る」

『ふん、言ったな。ではさっさと入るぞ、そしてさっさと謝ってもらおうではないか』

ペンダントの中で喚く黒猫に急かされるように、2人は薄暗い洞穴の中へと足を踏み入れた。




「「ごめんなさい」」


 平たい岩の上に置かれたペンダントに、聖亜とヒスイの2人が深々と頭を下げたのは、それからわずか5分後の事だった。

 なぜなら洞穴に入ってすぐ、目の前にこじんまりとした一軒家が現れたからだ。丸太で作られたそれは、どちらかというとログハウスに近いが、それでも家である事に変わりはない。

『ま、これで自分達が未熟だと分かっただろう。せいぜい精進するがよい』

 おそらくペンダントの向こう側で胸を張っているだろう黒猫の声に、聖亜とヒスイはため息を吐いて顔を上げた。
「さて、ちょっとここで待っててくれ。恐らく統馬と数馬も中にいるだろうから、これから中に入って、3人まとめてぶっ潰してくる」
「あ、ああ。気をつけろ、よ?」
 ヒスイの激励に右手を上げて家に近づくと、聖亜は目の前にあるドアをいきなり蹴った。ガシガシと何度か蹴ると、何の補強もされていない木のドアはぐらぐらと揺れ、向こう側に簡単に倒れていった。
「……暗くてよく見えないな。おいクソ馬鹿兄弟、死にたくなかったらさっさと出てこい!!」
 中に入ると、床代わりに敷き詰められた丸太を蹴りながら、聖亜は薄暗い部屋の中を見渡した。木で作られた椅子とテーブルが部屋の真ん中に一つと、あとは壁際に炎が消えた暖炉があるだけで、他には何もない。それどころか、ここに入ったはずの統馬達の姿すらどこにも見当たらなかった。


 話が違うじゃねえか!!


 外にいるヒスイ……というよりキュウに文句を言おうとした聖亜は、その瞬間暗がりからいきなり現れた影に、いきなり抱きつかれた。

 奇襲か!?

 ばっと飛びのこうとした聖亜は、自分に抱きついているその少年を見て、ふと眉を潜めた。自分より幾分背が小さい少年は、自分に抱きついたまま追撃をかけてこない。いや、それどころか自分に向かってすりすりと頬を摺り寄せてくる。

「くっ、何すんだ……この、放せ!!」
「やだよ、久しぶりなんだもん、兄ちゃんにこうやって抱き着くの」

 少年がそう答えた瞬間、家の四隅に備え付けられていたランプが、いっせいに光り輝いた。


「……ああ、久しぶりだな。だから放してくれ、幻(げん)」
「……は~い」
 抱きついてくる少年の頭に優しく手を置くと、彼は名残惜しそうにしながらもしぶしぶ体を放した。
「で、久しぶりだな。幻」
「うん、兄ちゃんもほんとに久しぶり!!」
 木で出来た椅子に腰かけると、すかさず少年―幻がすり寄ってくる。その頭を優しく撫ぜてやると、聖亜は不意に真顔になった。
「でだ幻、少し聞きたいことがあるんだが、構わないか?」
「もちろんだよ兄ちゃん。兄ちゃんの知りたいことならなんでも答えるよ? えっとね、じゃあ最初に、僕がどうやってクズを解体していくかなんだけど」
「いや、そんなこと誰も聞いてないから、俺の質問だけに答えろよ? でだ、幻、お前が幻馬なのか?」
「うん、そうだよ。僕が“最悪”幻馬。よくわかったね、さすが兄ちゃん。それで? 次は次は?」
「……磯垣を殺したのはお前だな?」
「うん。だってあいつうっとおしかったんだもん。抱かせろってさ。で、いいよって返事して、あいつが帰ろうと背中を向けた途端、ズドンてやっちゃた」
 嬉しそうに話す目の前の少年を見て、聖亜は深々と息を吐いた。
「次、新市街に薬をばら撒いているのもお前か」
「もちろん。だってこうでもしないと兄ちゃん来てくれないでしょう? 別にいじゃん、“豚”が何匹廃人になろうがさ……で、考えた通り、兄ちゃんは僕の所に来てくれたんだ。でさ、兄ちゃん」
「……何だ」
 足の位置をずらした時、靴底に丸太とは違う感触が伝わった。ちらりと下を見ると、涙を流しながらこちらを見上げる二つの目とばっちりと目があった。
「兄ちゃんがこっちに帰ってきてくれたってことはさ、この腐った街の頂点に立つんだよね? この街を狂気と恐怖で支配して、旧市街と新市街に打って出るんだよね? そしてずっとずっと、僕のそばにいてくれるんだよね?」
「……」
 足を一度大きく上げると、その目に向かって振り下ろす。ダンッという音を立て、足は床に埋まっていた男の顔を踏み砕いた。
「……幻、いや幻馬。一つだけ答えてやる。俺がこっちに来たのは薬を流している奴を見つけてそいつを潰すためと、行方知れずになった知り合いを探すためだ。それがすんだら、俺はさっさとこの街から出ていく。だから幻馬、お前が薬を流している張本人というなら、俺はお前を叩き潰してさっさと家に帰る。それだけだ。それで? 何か最後に言いたいことはあるか?」
「…………」
「……何もないようだな、ならさっさとすませよう。まあ知り合いとしてのよしみだ。安心しろ、殺しはしないさ。ただ死ぬまで手足が動かないようにするだけだ」
 俯いたまま何も答えない少年を一瞥すると、聖亜はテーブルの上にあった木の切れ端を手に取り、軽く振る。ビュンっと風を切る手応えに一つ頷き、再び少年に視線を向けた時、彼はふと動きを止めた。



 彼は、俯きながら笑っていたのだ。



「……」
「……ふ、ふふっ、残念だよ兄ちゃん。せっかく僕をあげる機会を与えてやったのに……けどそうだよね、兄ちゃんは人から与えられるものには興味ないよね。いつだってそうだ……だから僕は兄ちゃんがこの世で一番好きなんだ。だから、だからね兄ちゃん、力づくで僕の物にしてあげるよ……じゃ、よろしく頼むよ、大鳥さん」
「……? 他にまだ誰かいる……っち!!」
「聖亜!! くっ」


「はい、お任せくださいお客様。我々バード商会は、お客様の求めるすべての欲望にお応えいたします」


 家の中に突然湧き上がった強烈な気配を察知して駆け込んできたヒスイは、上から雨のように降りかかる重圧に床に這い蹲った。
 一度強く舌打ちすると、聖亜は今まで座っていた椅子から飛びのき、倒れているヒスイを守るように、彼女の前に立つと、目の前の闇からその存在が出てくるのを、ただじっと待っていた。





                                   続く


 こんにちは。活字狂いです。いや、バイオレンスは難しいですな。2週間半かかりました。さて、今幕で聖亜の別の部分がだいぶ見えたと思います。というかこっちが彼の本性なのです。ま、平和な時を過ごしてだいぶ丸くなっていますが、それでも本質はなかなか変わりません。そしてさらに、謎の男が彼らの前に姿を現します。では次回「スルトの子2 炎と雷と閃光と 第四幕   双頭の鷲」を、どうぞお楽しみに。


 それは、欲望を支配する赤き荒鷲。



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 第四幕   双頭の鷲
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:8e78fcae
Date: 2016/02/18 14:14

狂え 狂え 欲望の亡者よ



自らの欲に狂え



自らの望みに狂え



家族を見捨て、他人を欺き、自らの欲望のために踊り狂え






踊れ 踊れ 金の亡者よ



地獄の金貨の中で踊れ



赤き黄金で出来た針山で踊れ




家族を売り払い 他人を殺して得た財宝の中で狂い踊れ




我は汝の強欲を叶えし者




我の前で偽善ぶっても無駄である




この欲望の小箱は 汝の強欲をすべて映し出す







 暗い闇の中から現れた“それ”は、床に片膝をついて苦しげに呻くヒスイと、彼女を守るように立っている聖亜を見て、優雅にお辞儀をした。

「お初にお目にかかります。私皆様の欲望を“お叶え”するバード商会会長、大鳥孫左衛門と申します。お客様のどのようなご要望にも即座にお応え「はぁああああっ!!」おやぁ?」
 しますと言って顔を上げようとした大鳥は、少女の掛け声と同時に目の前に突き出された刀「護鬼」の切っ先を、鳥類のかぎ爪のような2本の指で軽く抑えた。
「くっ!」
「おやおや、いけませんねぇ。そんなに暴れられては、我がバード商会の名に傷がついてしまうじゃないです……かっと!!」
 刀の切っ先を掴んだまま薄く笑った男の首筋めがけ、ヒスイはペンダントから新たに取り出した太刀「善鬼」を振るう。大鳥は空いている手でそれをはじき返すと、護鬼の切っ先を少女の体ごと持ち上げ、聖亜に向かってひょいと投げ飛ばした。
「うわっ!!」
 こちらに向かって飛んできた少女の体を慌てて支えると、聖亜は大鳥をきっと睨み付けた。
「お前……エイジャか」
「おや? 私達伝道者の事を知っていなさるとは……中々扱いづらい“商品”でございますね」
 ほう、と軽く目を見開くと、大鳥は薄暗い闇の中から、こちらに一歩足を踏み出した。途端にヒスイの体が床に沈み込む。これほどの重圧を発することができるエイジャは、2人が知っている限り一つしかいない。
「お前、爵持ちか」

『否、正確には違う。こやつは貴族の階級を金で買った単なる商人だ。そうであろう? “渡り商人”』

「……おやおや、私の異名までご存じとは。これでは名乗らないわけにはまいりませんな」
 そう言って薄く笑うと、大鳥はそのかぎ爪のような手を、天井に向けてぱちんと鳴らした。

「あなたの、欲を叶えましょう」

「あなたの望みを叶えましょう」

 その時、どろりと天井が歪み、赤と黒のバニースーツを着た2人の女が飛び出してきた。いや、それは女ではない。最初、その形状は確かに女であったが、やがてそれはぐにぐにと形を変えながら、大鳥の頭部に吸い付くように埋もれた。

「……」

 それが完全に頭と一体化すると、今度は大鳥の顔だったものが胴体の中に埋まりだした。それに合わせ、腹部がぽっかりと広がっていき、やがてそれは幾重にも連なる牙をもった、巨大な口へと変わっていく。


 そして、顔が完全に胴体に埋まった時、


「……こいつは」


 そこにいたのは、鷲に似た頭部を二つ持ち、腹部からは巨大な口が開いた、どこからどう見ても人間には見えない存在だった。
 その存在は、巨大なかぎ爪をもつ手を胸まで持ってくると、ゆっくりと一礼した。


「私、赤界“ボルケイノ山脈”に住まう男爵“渡り商人”マモンと申します。皆様の欲望をお叶えするのが私の使命、私の喜び。ですが注意事項を一つ、お客様の本当の願いが叶うことは……残念ですが、絶対にございません」


「……キュウ」
 目の前で一礼する鷲頭を睨み付け、ヒスイはじりじりと後退した。


『ふむ、何だ?』


「この爵持ちの戦闘能力はどれぐらいだ?」


『それほど強くはない。元は上級のエイジャで、しかも戦士ではなく一介の商人だからの。爵位も金銭を積んだのと、彼の大戦―嘆きの大戦によって、こやつの指揮する私兵団が多少の戦果を挙げたからにすぎん。前回の爵持ち、ニーズヘッグとは、比べる価値もないわ』



「そうか。そうすると厄介なのはその私兵団だが……」
 周囲の闇を、ヒスイは鋭く見渡した。
「だが、他のエイジャが隠れている気配はない。どうやらご自慢の私兵団を連れてこなかったようだな」
「ええまあ、私兵団と言っても所詮は傭兵。戦争が終わって給金を支払えば主人の下を去っていく忠誠心のかけらもない者たちです。ですがご安心ください。確かに私兵団はいませんが、その代わりに私は決して裏切らない兵士を作り上げました。それがこちらです」


 こちらですと言われても、目の前にいる爵持ち以外、エイジャの気配はない。油断なく刀を構えながら、不審に思ったヒスイが形のいい眉をピクリと動かした時だった。
「……ヴ、ヴ……ヴォ」
「……? 何だ?」
 奥の暗闇から、呻き声と共に、その物体が現れたのは。


 それは、でっぷりと太った男だった。だがその太り方はどこかおかしい。まるで内側にいる何かが成長し、それが外見を無理やり巨大化させているような感じだ。そして聖亜は、その形に見覚えがあった。
「これは……」

『間違いない、寄生種だ。だがどういうことだ? 寄生された人間がこの形態になるには、少なくとも3日はかかる。しかしこの3日間、狩り場の発生は感知しておらぬ』

 ペンダントから聞こえるキュウの疑問に答えるように、マモンはその嘴をくくっと不気味に歪ませた。
「それは当然です。何せこの人間に使徒の幼体を植え付けたのは、3日前ではなく昨日の夜ですからね。3日前に感知するなど、出来るはずがないですよ」
「昨日の夜? そうか……スヴェンによって封鎖結界が張られた時か。それでは狩り場を感知するのは無理だな」
「おや? そんな事があったのですか。まあとにかく、あなた方玩具使いが仲間内でもめ事を起こしてくれたおかげで、容易く使徒の卵を植え付けることができましたよ……それではご紹介いたしましょう。私が改良した即効性の卵より生まれし使徒……名付けてプロトα(アルファ)です」
 マモンがそう言った瞬間、男の体がビキビキとひび割れ、中からぬめりを帯びた緑色の表皮が現れた。
「これ…………蟷螂か」
 聖亜の言ったとおりだった。男の体が完全に弾けると、その中から二対の鎌を持った蟷螂のような昆虫が現れた。
「そのようだな……けどこれは」
 だが、その形状はどこか歪だ。頭ははち切れんばかりに膨れ上がり、逆に腹部は赤子の手のように細い。三つある眼球は皆うつろで、五つある足はふらふらと震えていた。
「……やはりそれほど出来は良くありませんねえ。特に防御力は最悪だ。ま、普通は3日かかる時間を1日に短縮したから仕方ありませんか」
四つの鋭い目で巨大な蟷螂の姿をじろじろと見ると、マモンはもう興味が失せたといった様に首を振った。
「まあそれでも攻撃力と速度は一定水準を保っているから良しとしましょうか。では行きなさい、プロトα。この玩具使いの首、すぱっと切断しなさい。ああ、少年の方は駄目ですよ? こちらは大事な商品ですからね」
「……ヴ……ヴ……ヴォオオオオオオッ!!」
「くっ!!」
 マモンの声が聞こえたのか、蟷螂のような形状をした寄生種は五つのうつろな目をヒスイに向け、閉じていた背中の羽をばさりと広げると、二対の鎌を振り上げヒスイに襲いかかった。

 ガキンッ!! と音を立て、四本ある鎌のうち二本が刀と合わさる。だが残り二本ある鎌が無防備な彼女の体に向かって襲い掛かった。

「…………ヴ?」

 と、その動きがぴたりと止まった。蟷螂にとっても不思議だったのだろう。動かなくなった自分の鎌をしげしげと眺めている。

「……なるほどね、どうやら本当に防御力が紙みたいだ。まさか釘で穴が開くなんてな」

 そう呟くと、聖亜は手に釘を持ったまま薄く笑った。よく見ると鎌と胴体をつなぐ関節部に、微かに釘が刺さっているのが見える。
「けどま、同じ手は使えないだろうな」
 少年の言う通りだった。攻撃を受けた蟷螂は、少女よりこちらを標的に選んだらしい。ぶんっと鎌を一振りしてヒスイを弾き飛ばすと、その隙に少年に向かって飛びかかってきた。

「うわっ!!」

 こちらに一瞬で間合いを詰めてきた蟷螂の鎌が、こちらに向かって振り下ろされる。首を狙って振り下ろされた鎌を寸前で避けるが、服の一部が持って行かれた。さらに横に振られた鎌をしゃがんで避けると、頬に鋭い痛みが走る。どうやら鎌の先端についていた棘が掠ったようだ。
「くそっ、こうなったら……」
勢い余って丸太に突き刺さった鎌を引き抜こうとしている蟷螂から離れると、聖亜は右腕にぐっと力を込めた。
「聖亜? まさか……」
 丸太に激突して少しの間気絶していたヒスイは、聖亜から噴き出してきた熱にぼんやりと顔を上げた。間違いない。彼は“あれ”を使おうとしているのだ。

『やめよ聖亜っ!! 無闇にそれを使うでないっ!!』

そう叫ぶ黒猫の声は、意識を集中している彼にはもう届かなかった。だが

「はぁああああ…………あれ?」
 不意に、聖亜は力を込めるのをやめ、ぽかんとした表情で右腕を見た。彼の考えた通りなら、瞬時に全てを焼き尽くすあの真紅の腕に変わるはずが、いつまでたっても変わる気配がない。
「……どうなってるんだ、これ」
 その時、ふと彼の脳裏にある考えが浮かんだ。そもそも、自分は一体どうやってこの腕を、人間の腕に擬態させているのだ?

(おい炎也、どうなってるんだ?)

『……』

 頭の中にいる少女に声を出さずに問いかけるが、彼女からの応答はない。どうやら眠っているようだ。まあ、今は深夜であるから眠っていてもしょうがない。しかし、彼女の意識がない状態で、腕が変化しないということはー
「つまり、あれに変化させるにはあの馬鹿が起きていないと駄目だという事か……くそったれ」
 軽く舌打ちした少年に向け、丸太からようやく鎌を引き抜いた蟷螂が向かってくる。再び避けようと身構えた聖亜であったが、不意に床がぐらりと揺れた。
「と、わっ、これってまさか……床を切ったのか!?」
 彼の考えた通りだった。蟷螂はどうやら多少頭は回るらしく、少年を攻撃する前にまず彼が立っている床を切り裂いたのだ。床は丸太で出来ているため、それ自体は不可能ではない。そして体調を崩した彼に向け、鎌が文字通り死神の鎌となって襲い掛かった。
「くっ!!」
 顔の前で両腕をクロスさせ、何とか致命傷を避けようとした聖亜は、ふと彼に向かってくるくると回転しながら飛んでくる“それ”を見た。
 蟷螂の鎌が自分に届くその寸前、聖亜は飛んできた刀の柄を右手で受け止めると、鎌を受け流し、そのまま付け根の部分に向け、思い切り突き入れた。

「ヴ……ヴォオオオオオオッ!!」

 半ば切断された鎌の付け根からどくどくと黒い液体を流し、蟷螂は痛みに絶叫を上げながら残りの鎌を周囲に滅茶苦茶に振り回した。
「くそ、これはこれで近づけ「はぁああああっ!!」なっ!?」
 闇雲に振り回される鎌の間を何とか潜り抜けようとした聖亜の横を一陣の風のように通り過ぎると、ヒスイは蟷螂の背に飛び乗り、その首めがけ太刀を思いっきり叩き込んだ。
 元々防御力はないに等しかった蟷螂の首は、その一撃で簡単に跳ね飛ばされ、首を失った蟷螂の体はふらふらと暫く横に揺れていたが、次の瞬間ドゥッと音を立てて前に倒れこむと、一瞬絶望しきった少年の姿に変わり、どろどろとした液体となって崩れ落ちた。

「……やれやれ、やっぱりまだまだ改良しなければなりませんか」

 ヒスイに首を切断され、無残にも敗れたプロトαの残骸を眺めると、だがマモンは面白そうに嘴を鳴らした。
「……そんな悠長にしていていいのか? 寄生種はもういない。つまりお前を守る存在はもはやここにはいないということだ」
「おや、怖い怖い。ですが私も“彼ら”と合流するために日本に来たのです。ここで滅ぼされるわけにはいきませんねえ。ああ、ではこうしましょう」
 不意に、マモンの胴体にある巨大な口が、ぺっと何かを吐きだした。それを鍵爪の付いた手で拾うと、エイジャはそれをヒスイに向けうやうやしく差し出して見せた。
「……何だそれは」
「これですか? これは“欲望の小箱”と申します。対象が心底欲している物を映し出し、それに対する欲求を増大させるものです」
「なるほど……あんたそれを使って三馬“鹿”兄弟を操っていたのか」
「操っていたなどととんでもない。私はただお客様があなた様を欲するという欲望を増大させたにすぎません。さて、お喋りは此処までにして、あなた方の欲望を覗いてみましょうか」
 爪でピンッと小箱を弾くと、箱の蓋がキチキチと音を立てて開き、中から霧のようなものがシューッと吹き出してきた。それはマモンの前で輪になるように広がっていき、やがて人が一人すっぽりと収まるほどの輪と変わった。
「さて、あなた方が心から欲するものは一体なんでしょ……うね?」
 マモンはこちらに向かって太刀を向けている白髪の少女を霧の輪の向こう側から見た後、短い時間でさっと通り過ぎた。以前も玩具使いの欲望を覗いたことがあるが、彼らの望みはすべて同じだった。それは自分たちエイジャの抹殺であり、実際に彼女が望んでいるのもそれだったのだ。だが、次に少年に目を向けた瞬間、マモンは絶句して立ちすくんだ。

 少年の中にあるのは、少女と同様自分にある殺意だ。だがその密度は少女とはまるで違う。要するに“底”が見えないのだ。彼の中には、見ているこちらが狂うほどの狂気、憎悪、そして殺意が渦巻いている。
「ば、馬鹿な……こ、これほどの混沌を内に秘めた人間がいるなど……聞いたことがない!! しかも、なんですかこれは!! われら伝道者の気配がするなど!!」
「……ま、どんな事にも始めてはあるもんだ。で、それ以前に手前、誰に断わって覗き見なんてしてるんだ?」
「ひっ!! ひぃいいいいいっ!!」
 聖亜が護鬼で霧の輪を払うと、マモンは信じられないという顔で後ずさりした。
「なるほど、確かにあの蛇とは比べる価値もないな」
 薄く笑い、マモンの手に付いた鍵爪を切り払う。噴き出した血で全身を赤く染めながら、聖亜は護鬼を振り上げた。

ガキィン!!

「ッ!!」

 だが振り下ろした刃は、横から突き出された別の刃が交わり、強い火花を散らした。


「お、遅いですよハリティーさん!!」
「手を出すなと言ったのはお前の方なんだがな、マモン」
 闇の中から突如現れたその女は、聖亜が振り下ろした刀を弾き飛ばすと、逆に少年の首に刃をぴたりと当てた。
「くっ、また別のエイジャか」
「……人を勝手に人外にするな。私はれっきとした「このっ!!」む……」
 少年の背後から襲いかかってきた少女の一撃を、女は後ろに下がりながら受け止めると、そのまま2人は激しくつば競り合いをする。その技量はほぼ互角だ。ヒスイの方が僅かに早いが、その分を女は力で押し切ろうとしている。
「くそ、何がエイジャじゃないだよ。この状態で動ける奴なんて、エイジャしかいないじゃないか」

『いや聖亜、奴はエイジャではない。それほどの圧力は感じぬ……あの女は恐らく寄生種に寄生された人間であろう』

「人間? けど寄生種に寄生された人って、皆ああなるだろ?」
 恐らく戦闘に入る前に投げ捨てられたのだろう、傍の床に置かれたペンダントの中から聞こえてくる黒猫の答えに反論するように、聖亜は先ほど蟷螂だった黒い液体を見た。蟷螂になる前の男は内側で育つ寄生種の影響でブクブクに太っていたが、ヒスイと切り結んでいる女は全く太っていない。

『ふむ……稀にあるのだ。植え付けられた寄生種の幼体と宿主との思考が完全に一致した場合、宿主はその意識と形状を保ったまま寄生種の能力を得る。つまり人型の寄生種という事だな』

「思考が完全に一致って……ならあの女は一体何を考えていたんだ?」

『先ほどマモンの奴はあの女にハリティと呼びかけたな。ならば考えられることは一つ……あの女、恐らく自らの子を失ったのだろう』

 キュウの声が聞こえたのか、ヒスイの持つ太刀に向かって何度か三日月形の剣を叩きこみ少女を後退させると、女―ハリティはこちらにちらりと目をやった。その目は戦闘により血走っていたが、はっきりと理性の光が見える。

「……どこから聞こえているのかは分からないが、その声の言う通りだ。私は災厄により3歳になったばかりの、たった一人の我が子を失った。しかもその後に発生した暴動の中強姦された私の子宮は傷つき、もはや子を産むことはできない。あの子を取り戻すためなら、私はなんだってする。例えこの身を悪魔に売り払うことになろうともな。だから」

 ぶんっと三日月形の剣を一振りすると、ハリティは背中に背負った鞘からもう一つの剣を取り出し、聖亜の方に向けた。

「だからその邪魔をするならば、例え年端のいかぬ子供であろうとも私は決して許さない。例え殺すことになったとしてもだ!!」
 そう叫ぶと、ハリティは後退したヒスイに向け、双剣で襲いかかった。

 洞窟の外から入り込んだ太陽の光が、彼女の目を照らしたのは、まさにその時であった。

「……う?」

 太陽の光をまともに浴びたためか、剣を一振りして向かってくるヒスイを牽制すると、ハリティは跳躍し、マモンの傍に降り立った。
「……もう朝ですか。名残惜しいですが今回は此処までのようですね」
「ちょっ、待ってよ大鳥さん、僕の望みはどうなるんだよ!!」
 立ち上がって抗議してきた幻馬を見て、聖亜から受けた傷を撫ぜていたマモンは呆れたようにため息を吐いた。
「やれやれ、いいですかお客様。チャンスは今回だけではありません。彼らが私を追う以上、チャンスは近いうちに再び訪れます。それに」
 彼の四つの目は、睨み付けてくる少年を侮蔑を込めて見返した。
「それにお客様は私の本当の“ご契約者”ではありません。ですから本来、私はあなたの言う事を聞く必要はないんですよ」
「う……そ、それは」
「……どうでもいいが、撤退するならするで早くしてくれ。さすがに2人を相手では私でも厳しい」。
 ハリティの言葉に、おっと、そうでしたと呟くと、マモンは軽く手を振った。すると、彼らに向かおうとしていたヒスイの体が途端に沈んだ。
「く……」
「さてさて、それではこれで失礼させていただきましょうか。また近いうちにお会いいたしましょう……ではこれにて」
 マモンがさっと一礼すると、彼の体から赤い羽根が無数に飛び出してきた。それが聖亜とヒスイの視界を遮り、やがてそれが消えた時、

「……逃がしたか」
「ああ。それに三馬“鹿”兄弟もいない。せっかくそのくだらない人生に終止符を打ってやろうと思ったのに」
 忌々しそうに吐き捨て、床の丸太を蹴る聖亜から護鬼を受け取ると、ヒスイは軽くため息を吐き、床に転がっているペンダントに深々と突き刺した。刀はなんの抵抗もなしにずぶずぶとペンダントの中に入り込み、やがて消えて行った。
「不貞腐れている所を悪いが、さっさと旧市街に帰るぞ。新しい爵持ちも現れたことだし、その対策を考える必要が出てきたからな」
「ん? ああ、そうだな……けどその前に快楽区に寄ってくれ。たぶんもう“けり”はついていると思うけど、一応な」
「何が一応なんだ? まあいい。けどそれが終わったらまっすぐ帰るからな。一晩中起きていたせいか、結構眠い」
「ははっ、分かったよ。それじゃ、さっさと行ってさっさと帰ろうか」
 朝日の差し込む家の中、こびり付いた血をぬぐって聖亜が見せた笑顔は、ヒスイには年相応の笑みにしか見えず、一瞬この少年が夜中にやった虐殺は、夢だったんじゃないかと思ってしまった。

 
 だが一時間ほどかけて快楽区にある妖夢館に着いたとき、彼女は昨日の出来事は現実にあった事だと改めて思い知らされた。巨大な館の壁は、そのあちこちが爆発や衝撃で穴が開いており、夜中に聖亜が叩き潰した100人以上の人間が、死んでいる者は穴に埋められ、生きている者は皆一か所に縛られて放置されている。ヒスイが傍らの聖亜に視線をやると、彼はその視線を無視し生存者の監視をしている青い服を着た男に歩み寄った。
「よう、久しぶりだな」
「せ、聖さん……そうですね。久しぶりです」
 青い服を着た男は、周りにいる他の見張りより少し上の立場にいるのだろう。彼が目で合図すると、他の見張り達は皆四方に散っていった。
「しかし、相変わらず無茶をしましたね。後片付けが大変でしたよ」
「けどそのおかげであんた達は楽にここの制圧ができたんだろ? いいじゃないか」
「ええ、そうなんですがね。ま、後は夜中本拠地にいなかったジ・エンドの奴らを捕まえてお終いです。見ていてください、きっと住みやすい街にして見せますよ」
「……まあ頑張れ。それで女王蜂の奴は中か?」
 そう尋ねると、聖亜は半壊している館を仰ぎ見た。自分が破壊したため文句は言わないが、やはり少しだけ名残惜しい。
「はい。中で今後の生活について議論しています。お会いになりますか?」
「……いや、やめておくよ。旧市街に去った俺に、口を挟む権利はないからな。じゃ、俺はこれで戻るけど、イタチともちゃんとうまくやってくれよ」
「イタチ……ああ、川べりに住んでジ・エンドと対立していたグループのリーダーですね兄……いや姉御とも面識があるようだし、悪いようにはしません」
「そうか……じゃあもう言う事はない。女王蜂によろしく言っておいてくれ。じゃあな」
 は、と敬礼してくる男と2,3言葉を交わした後、ひらひらと手を振りながら、聖亜はヒスイの方に向かって歩き出した。
「もういいのか?」
「ああ。女王蜂が快楽区を収めていく以上、相手を叩き潰すことしかできない俺は必要じゃないからな。俺は今の俺の家に帰るさ。腹も減ったし、何より俺も一晩中起きてたから眠いんだよ」
「そうか。ならさっさと帰るぞ……ところで」
「ん? 何だよ」
「別に大したことじゃないが……帰るときはやっぱりあの浅瀬を通って帰るのか?」
「あ……まあ、そういうことになる、かな」
 そう言ってごまかすように笑みを浮かべた聖亜を小突こうと、ヒスイは右手を固めて彼に向かって歩き出した。




「……う……あ」
 薄暗い中、掠れた声だけが、微かに周囲に響いた。
 その声の持ち主は、地面に転がっている少年だった。どこにでもいそうな平凡な顔をしたこの少年、名を幻馬という。
 彼は今、両手両足を縛られた格好で、薄暗い部屋の中に放り込まれていた。よく見ると体のあちこちに裂傷が見られる。どれも皆新しく、付いてまだ半日と経っていない。
 どのぐらい時間が経っただろうか。不意に目の前の扉がギィっと軋みながら開き、部屋の中に髪を金髪に染めた少女が入ってきた。彼女は地面に無様に転がっている少年を侮蔑を込めて見つめると、右手に持った硬く尖っている棒を、彼に容赦なく振り下ろした。
「うぁ……がっ」
 それが裂傷の部分に当たり、幻馬の体は海老のようにのけ反って跳ねた。さらに2度、3度と棒が振るわれ、彼の体に新しい裂傷ができてきた。
 やがて気がすんだのか、それとも疲れたのか、女は棒を振るのをやめると、ハイヒールで少年の顔を強く踏みつけた。
「ひ……」
「ふん、無様ね」
 ぐりぐりと踏みつけると、女は幻馬の髪を掴み、顔をこちらに向かせた。
「本当に無様ね幻馬。本来の役目を忘れて、“あの女”を殺そうともせず、自分の欲望のためだけに奔走した挙句、失敗して計画の殆どを駄目にするなんて」
 そう言いながら、女は彼の頬についている裂傷にぎりぎりと爪を押し込んだ。
「あなたに“鷲”を貸してあげたのが誰か忘れたのかしら? それは私よね。つまり私が命じれば、奴はあなたの言う事なんかこれっぽっちも聞かなくなるわけ。なのにあなたは私の命令を無視して、さっさと自分の棲み家に帰ってしまった。この代償は高いわよ?」
「……」
 自分を見つめる少年の目から光が消えたのを確認すると、女は退屈そうに彼の髪を放し、近くのソファに腰を下ろした。と、どこからか紅茶とスコーンが差し出される。
「あら、相変わらず手際がいいわね、鷲」
「ええ。私の仕事は、お客様の全ての欲望をお叶えすることですから」
 人の形態に戻り、彼女に菓子を差し出したマモンは、そう答えるとうやうやしく一礼した。
「それでご契約者様、他に望みはありますでしょうか」
「……とりあえず今はないわ。けど鷲、私の本当の望みは変わっていない。ちゃんと分かってるでしょうね」
「ええ、分かっておりますとも。しかし此度の一件で、持ち駒の一つを失ってしまいました。ここまでの代金を含め、そろそろ回収したいのですが」
 あくまでにこやかにほほ笑む彼を鼻で笑うと、女は地面に蹲っている幻馬を軽く蹴った。
「ならこいつと、あと統馬と数馬の2人、あんたにやるから煮るなり焼くなり好きにしなさいな。もちろん殺してしまっても構わないわよ」
「いえいえ、殺すなどとんでもない。そんなことをしてしまっては何の価値もありませんからね。では一つ……こちらを試してみるとしましょうか」
 マモンが包帯を巻いた指をぱちんと鳴らすと、虚空の闇から突如現れた2人のバニーが、幻馬の体を強く押さえつけた。
「……あ……や」
 自分が何をされるかわかったのだろう。弱々しく首を振って抵抗しようとするも、傷ついたその体では、抵抗できるのはそこまでだった。
「やれやれ、静かにしてくれませんか? この後他の2人にも同じことをしなければならないんですから、結構忙しいのですよ」
 バニーの一人が幻馬の口を押え、強引に開かせる。マモンはふところから小瓶を取り出すと、その中にある、拳大のざわざわと奇妙に動く黒い物体を大事そうに持ち、それを開いた口の中に押し込んだ。
「ぐぇ……え……え」
 なんとか吐き出そうともがくも、出口はマモンの手で閉じられているため黒い物体の進む道は喉の奥しかない。
 やがて、息が続かなくなったのか、幻馬は口内に入っている物体を、ごくりと飲み込んだ。
「……ひ……ぐぇ」
 体内に何かがべたべたと入りつき、同時にそれが自分から何かを吸い取っているのが分かる。ひどい脱力感と疲労、そして途方もない空腹感に、少年はその意識を手放した。

「それで? 分かってるんでしょうね、マモン」
 
意識を手放した少年をバニー達に運ばせ、部屋を出て行こうとしたマモンを、女は軽く睨み付けた。
「ええ、お任せくださいご契約者様。私は善良な商人でございますゆえ、お代金分の仕事はさせていただきます」
「ふん、それでいいのよ。けどもうそんなに待てないからね」
「分かっております。恐らく後一週間以内に、ご契約者様の望みはすべて叶う事でしょう」
「あ、そう……じゃあそれを楽しみに待ってるわ。さっさと“あの女”を殺してちょうだい」
 そう言って薄く笑うと、女は手をしっ、しっ、と振って、出て行くように促した。
 一礼して廊下に出たマモンは、手でドアをかちゃりと閉めると、心底楽しそうに微笑んだ。

「……ですが残念なことに、お客様の本当の願いは、決して叶いませんが、ね」


 西暦2015年(皇紀15年)7月20日 12時40分



 ガツガツガツ、とそんな音が聞こえそうな勢いで、目の前の皿からスパゲティの大盛りが消えていくのを、聖亜は半ば呆れ、半ば感心しながら見つめていた。
 皿の上にあるスパゲティを平らげると、それを何枚もの皿が重なっているその一番上に置き、最後にコーラを一気飲みすると、エリーゼは男らしくゲプッと息を吐いた。
「いや~、うまかった。それで? 何の話だっけ」
「話の前に……スヴェンの姿が見えないようだが」
「ああ、あいつはいいの。どうせ居たって殺し合いになるだけだろ? 止めるのも面倒くさいからホテルに置いてきたよ」
 からからと笑うと、エリーゼは不意に真面目な顔をして、向かい側にいるヒスイを見つめた。
「けど、この先どうするかちゃんと考えなよ? 仮にも婚約者なんだからさ」
「……分かっている」
 ヒスイの答にそうかいと男らしく頷くと、エリーゼは爪楊枝で歯を掃除しながら、話の続きを促した。
「ああ、その……もう気付いていると思うが、この太刀浪市に新たな爵持ちが出現した。名はマモン、爵位は男爵だ」
「マモン……ふ~ん、“渡り商人”か。商人にして獄界の12122体の研究者の一人。嘆きの大戦で配下のエイジャ達が捕まえてきた捕虜を生きたまま切り刻んで生体実験に使った奴。それで? 戦ってみた感想は?」
「ああ。実際それほど強いとは感じられなかったな。まああっちは単なる商人だし……けど気になることが一つ」
「ふん? 何だい、聞こうじゃないか」
 平らげた皿をテーブルの隅に追いやると、エリーゼはこちらに身を乗り出してきた。
「……奴が配下として使用していた寄生種、これが少し妙なんだ」
「妙? どんな風に。その前にどんな形だった?」
「ああ、蟷螂のような形で、速度と攻撃力は優れていたんだが、その反面防御力はほとんどなかった……こいつ、聖亜の投げた釘ですら関節部分に突き刺さったからな」
「……ん?」
 いきなり名を呼ばれ、右手をさすりながら彼女らの話をぼんやりと聞いていた聖亜は、はっと顔を上げた。
 そんな彼に何でもないという風に手を振ると、ヒスイはまたエリーゼと話をしていた。
 それをぼんやりと聞き流しながら、聖亜は昨日の会話を思い出していた。



 西暦2015年(皇紀15年)7月19日 13時30分

「……封印だって?」
 復興街から帰って一日たった日の昼頃(ちなみにその一日は聖亜とヒスイは2人とも食事をとらずに爆睡してしまい、目が覚めたら今日の朝だった)、突如キュウから言われた言葉に、聖亜は親子丼の入っている丼から顔を放すと、黒猫の顔をまじまじと見た。
「……お「あらあら、何やってんのよ聖亜、頬にご飯粒がついてるわよ」くっ!!」
「あ、ああ。悪い……って、何怒ってるんだ、小松」
 くすくすと笑うナイトに頬を突っつかれ、聖亜は照れ臭そうに笑って礼を言った後、隣でなぜか不機嫌そうな顔で給仕をしている小松の方をちらりと見た。
「…………何でもない」
「……ふ~ん?」
 こちらを見ないように顔を背け、ぶっきらぼうに呟く彼女に聖亜は軽く首を傾げたが、彼女が何でもないと言っている以上尋ねても無駄だろう。そう結論付けると、聖亜は黒猫に改めて向かい合った。
「それで? 何だよ封印って」
「……聖亜、そなた封印の意味も分からぬのか。封印とは簡単に言うと対象が出てこぬようにすることだ」
「意味ぐらい分かってるよ。俺が聞いているのは、何でそんな話になったかという事だ」
 朝食が始まってすぐ、キュウは聖亜に重々しい口調で言ったのだ。彼の“御手”を封印すると。
「そんなことは決まっておるだろう。汝が御手を完全に使いこなせていないからだ。一昨日の戦闘を思い出してみるがよい。そなた御手を出そうとして結局出せず、一瞬無防備になったであろう? 大事にならなかったからよかったが、御手があると思っているからこそ使いたくなるのだ。ならばいっそのこと使えないようにしてしまえばよい」
「……けど、御手を封印するってことは、つまり炎也も封じるってことだろ? それはさすがにちょっと」
 なおも渋る聖亜を見て、さすがに気の毒に思ったのか、ヒスイはちらりと黒猫を見た。相棒の視線に、キュウはやれやれと首を振った。
「……まあ、完全に封じなくとも、発動だけを止める方法もある。これならばあの馬鹿娘も封じられることはあるまい」
「そっか……ならそれで頼む」
 ほっとした顔をする少年を見て、皮肉気に、だがどこか可笑しげに笑うと、キュウはその紫電の瞳を妖しく光らせた。
「うわっ!?」
 その光が自分の右腕を照らしたのを見て、聖亜は驚いた声を上げたが、別に違和感は感じない。その内に光は右腕を覆うように動き、やがて消えて行った。
「ふむ、これで良いはずだ。だが良いか聖亜、あまり感情を高ぶらせるな。封印がはじけ飛ぶからな」
「……はじけ飛ぶ?」
 聞きなれない言葉に首を傾げる彼に頷くと、キュウはそっと目を伏せた。
「完全に封印するならそんなことはないが、これはあくまで発動を封じるだけだからの。さすがに結界喰らいの激情には耐えられん」
「……」
「だから完全に封じる方が安全なのだが……そなたが嫌だというなら仕方がない。無理強いしても良い結果にはならぬからの」
「そうか……分かった」
 少年が頷くと、黒猫はせいぜい気を付けることだなと呟き、食後の睡眠に入った。





西暦2015年(皇紀15年)7月20日 12時50分


「なるほどねぇ、マモンはこの都市で生体実験をしてるってわけか……気に食わない奴だねぇ、まったく」
 ぶつくさと言いながら、エリーゼは忌々しげに舌打ちした。その音で昨日のことを思い出していた聖亜がはっと顔を上げると、彼女はもう立ち上がった所だった。
「分かったよ。あたしの方でも調査をしておく。それから一度本部に連絡して、この後どうすべきか尋ねてみるよ」
「……ここにずっといるわけではないのか?」
「ん~、確かに上の連中は高天原の勢力圏に組み込みたいようだけどさ、少なくともあたしとスヴェンは一旦帰国すると思うよ? 一つの都市に2人も一級の魔器使が配属されるなんて、前例がないからね」
 そう言うと、エリーゼは立ち上がって2,3歩歩き出したが、ああと思い出したように振り返った。
「それから、指示が出るまではくれぐれも軽率な行動は慎むこと。特にヒスイ、あんたは冷静に見えて感情的に動きやすいから、くれぐれも自嘲する事。前回の絶技使用の件については一応様子見という形での謹慎処分になったけど、うかつな行動はあんたの不利にしかならないよ。いいね」
「あ、ああ」
 頷いたヒスイを見て満足そうに笑うと、彼女は手をひらひらと振って歩き去った。

「……要するに、どういうことだ?」
「指示が出るまで何もするなという事だ。それにしても」
 テーブルの上に散乱した何枚もの皿を見て、ヒスイは呆れたようにため息を吐いた。
「この料理の代金は、もしかして私達が払わなければいけないのか?」
「……ま、さっさと払って城川先生の所に行くぞ。香の事も話さないといけないしな」
 彼女の問いに首を振って答えると、聖亜は財布を取り出して立ち上がった。





西暦2015年(皇紀15年)7月20日 16時10分



「そうか……香は復興街に」
 聖亜から香が復興街に足を踏み入れた事を聞くと、城川は悲しげに首を振った。
「はい。けど行方不明になっているだけで、死んでいるというわけではないようです……すいません、こんな報告で」
「いや、君のせいじゃないよ、聖亜君。妹が自分で決めたことだ」
 そう言って、彼は番茶を一口すすった。
「それと……安心、というわけではありませんが、旧市街で4日前、“ちょっとした混乱”がありました。まあ簡単に言うとある組織のトップが変わったんですけど、新しいトップはそれほど女に興味がない、というより女の気持ちが理解できる男なので、命の危険はまったくない……とは言えませんが、それほど高くはないと思います」
「そう……それなら安心だ」
 苦笑いを浮かべる城川の前で、聖亜は出された番茶を彼と同じように口に含んだ。そのお茶はいつもより苦く、そして少しだけしょっぱかった。
「さてと、話は変わるのだけれど聖亜君、君夏休みはどうするんだい? 県の絵画コンクールは9月、夏休みの後半だ。それまで絵を描き直したいなら付き合うけど」
「え……あの、それは……え~と、し、暫らく考えさせてください」
「そうかい? まあ描き直したくなったらいつでもいってくれて構わないからね」
「は、はい。そういえばヒスイ、遅いですね」
 店に来た時、彼女がみたらし団子を好物だと知った城川の妻により、ヒスイは強引に厨房に引きずり込まれた。みたらし団子の作り方を教えるためである。
「……まあ、僕の奥さんみたらし団子の事になると人が変わるからね。すまないけれど、もうちょっと待っていてくれるかな?」
「はあ……」
 みたらし団子の事になると人が変わるのはヒスイも同じだな。そう思いながら、聖亜はまた一口番茶を口にした。


「さっきも言ったけど、おいしいみたらし団子を作るのに大切なのは、きちんと団子粉を練る事だからね」
「は、はい!!」
 おっとりした感じのかわいらしい女性にそう言われ、ヒスイは目の前の入れ物に入れてある団子粉を懸命に練った。
「ほら、さっきと同じ間違いをまたやってる。それじゃ力を入れすぎって言ったはずでしょ、団子粉の硬さは、耳たぶと同じ柔らかさなんだから」
「あ……」
 手をぴしゃりと叩かれて、ヒスイは粉を練るのをやめた。確かに彼女の言う通り先ほどと同じでこねすぎた様だ。手をさすりながら流しの隅に捨てられた硬すぎる団子の粉を見て、少女はさっと顔を赤く染めた。
「……うん、けどこれぐらいなら大丈夫。さてと、次はたれを作りましょうか」
「はい」
 そう言って大きな貯蔵庫に向かう女性―城川先生の妻である城川春奈の後に続くと、ヒスイは彼女が貯蔵庫の中から出したでん粉や醤油などを受け取った。
「そういえば、ヒスイちゃんはアメリカから来たのよね、どうしてみたらし団子が好きなのかしら」
「それは……父がよく作ってくれたものですから」
「そう、いいお父さんね。私の理由もちょっと似てるかな……私はね、大好きな人に私の作った物を食べてもらっておいしいよって言ってくれるのが見たいから作ってるの。けどいつも作りすぎるみたいで……あんまり食べてくれないのがちょっと寂しいかな」
 砂糖と醤油を混ぜたものにでん粉を入れ、とろみが出るまで混ぜながら、春奈は優しく、だがちょっと寂しげに微笑んだ。
「……本当に好きなんですね、城川先生の事」
「まあ、幼馴染でずっと一緒にいようって約束したからね。でもそれを言うならヒスイちゃんだってそうでしょ?」
「……は? あの、私が何でしょう」
 蒸気式のヒーターでお湯を沸かしていたヒスイは、春奈が言った言葉の意味が分からずぽかんとした顔で聞き返した。
「だからヒスイちゃん、作ったみたらし団子聖ちゃんにあげるんでしょ?」
「……すいません、あの、何で私が聖亜にみたらし団子をあげなければならないんでしょうか」
 ヒスイの呟くような質問に嬉しそうな、だがどこか面白そうな笑みを浮かべると、春奈は少女の耳元にそっと口を近づけた。
「だって好きでしょ、ヒスイちゃん、聖ちゃんの事」
「んなっ!?」
 耳元で囁かれた言葉に、ヒスイは団子の形に丸めた生地をぐっと押しつぶした。
「な、なんでいきなりそんな事を言うんです? そりゃ好きか嫌いかと聞かれたら、好きと答えるでしょうが、それは異性としてではなく……そうだ、大体聖亜には準がいます。恋人がいる男を好きになるなんてありえません」
 何日か前ナイトに言った言葉を、だがこの時ヒスイはなぜか動揺して答えると、あたふたと丸めた生地を湯の中に入れた。
「そう? けど確かに重婚は犯罪だけど、別に二股ぐらいいいんじゃないかしら。大体、それ以前に準ちゃん一人で聖ちゃんを受け止め続けるなんて無理よ。“壊れちゃう”から」
「こ、“壊れる”!?」
「まあ、それは聖ちゃんから直に聞いてみて。さ、そろそろお団子に葛餡をかけるわよ。手伝ってちょうだいね」
 愕然としているヒスイを見てくすくすと小さく笑うと、春奈は鍋の火を止め、程よく煮た団子を皿に盛りつけ始めた。



「どうしたんだ、ヒスイ」
「…………何でもない」
「そうか?」
 城川屋からの帰り道、聖亜は手作りのみたらし団子を持ちながら、傍らでぐったりとしているヒスイに声をかけた。何故かは分からないが、彼女は厨房から出てからこの状態だった。
「まあ何でもないならそれでいいけど……それより、香が見つかったら俺ちょっとロシアに行ってくるよ」
「……は?」
 聖亜の放った言葉に、ヒスイはぽかんと口をあけて少年を見つめた。だが思い当たる節があったのか、すぐにああと頷いた。
「あの老人のひ孫を見つけに行くのか?」
 老人というのは、聖亜がジ・エンドを叩き潰した際に唯一苦戦した相手の事だ。彼は聖亜に敗れた後、ひ孫に関しての記憶をキュウに封じられ、今では妖夢館で警備隊長をしている。これは彼が女王蜂に頼んだためであり、女王蜂の方は隠居させることを提案したのだが、彼が強引に押し通した。
「そうだ。あともう一つ。というかこっちが本題なんだが、ジ・エンドに武器を売っていたロシアン・マフィアを探し出して叩き潰す。まあひ孫はそいつらに連れて行かれただろうから、運が良ければマフィアを潰している間に見つかるだろう」
 ついでにロシア料理でも食べてみるか。そう呟き、まるで遠足に行く子供のように笑う少年を見て、ヒスイはふぅっと一度大きくため息を吐いた。
「まあロシアに行くというなら止めたりしないが……せっかくの夏休みだろう、恋人と遊んだりしなくていいのか?」
「は? 恋人……だって?」
 ヒスイの言葉に、先程の彼女と同じく、聖亜はぽかんとした表情で目の前の少女を見つめた。
「おいおいヒスイ、お前何勘違いしてるんだ、俺に恋人なんていないよ」
「……嘘を言うな、なら準はお前にとって一体何なんだ」
「準か……そういえばヒスイにはまだ言っていなかったっけ。準は俺にとって“唯一”なんだ」
「ゆい、いつ?」
「そう唯一。恋人でも友人でも、仲間でも夫婦でもなくて、それらを足した以上に俺に取って必要な女……それがあいつだ」
「必要な女、か」
 聖亜の言った言葉を呟いたとき、ふとヒスイの中に小さな感情が生まれた。何だかむかむかとして、それがひどく気分を害する。それはいわゆる嫉妬という感情だったが、この時のヒスイにはその感情が何なのかさっぱりわからなかった。
「しかし、すごいな……そんなふうに思えるなんて、さぞ劇的な出会いだったんだろう」
「劇的か、そりゃ劇的と言えば劇的だったけど……」
「……?」
 不意に、少年の歯切れが悪くなった。首を傾げてこちらを見つめてくるヒスイに、聖亜は暫らく考え込むようにしていたが、やがてため息を吐いた。
「俺と準はさ、中学の時初めて会ったんだけど、あいつその時一年でしかも女子のくせに喧嘩が強くてさ、番長みたいなのやってたんだ。で、入学して一月ほどして喧嘩吹っかけてきてさ……返り討ちにして、その後家に連れ込んで三日三晩犯しぬいた」
「…………お、おかむぐむぐ」
 愕然とした後、叫ぼうとしたヒスイの口を聖亜は慌てて塞いだ。道行く人々がちらりとこちらを見るが、何事もなく去っていく。
「……ぷはっ、お前、それで良く唯一なんて言えるな」
「いやまあ、壊れる寸前で優しく抱いてやったら滅茶苦茶惚れられて……それで彼女の先輩だった春奈さんのグループに呼び出されてぼこぼこにされて、そのうち俺に取ってなくてはならない唯一の存在になったって訳さ」
「……いろいろと言ってやりたいことはあるが、まあいい。それにしても春奈さん、不良グループにいたのか」
「まあ、あの人ああ見えて俺より強いからな、柔術と剣術の達人だし……しかし香の奴一体どこにいるんだ? 女王蜂の部下に写真渡して探してくれるように頼んであるけど、あの情報通が三日掛けて見つけられないんだ。恐らくもう復興街にはいないだろうな」
「それも気になるが、まず何よりしなければならないのはマモンの討伐だ。それほど実力はないとはいえ、爵持ちのエイジャであり、人に害を及ぼしたことに変わりはない。早急に探し出して討伐する必要がある」
 それまでの表情とは一変し、冷徹な表情を見せた彼女に、聖亜も重々しく頷いた。





西暦2015年(皇紀15年)7月20日 20時40分



「……すいませんがもう一度言ってくれませんかね」
 その日の夜、ホテル「ニュー秋野」の8階にあるスイートルームで、エリーゼは携帯電話を耳に当て、険しい表情を浮かべていた。

『あら、よく聞こえなかったのかしら? ならもう一度言ってあげるわ。エリーゼ、白髪の小娘……絶対零度を抹殺しなさい』

 携帯電話の向こうから聞こえてくるのは10歳ほどの明るい少女の声だ。だがその内容は年端もいかない少女に出来るものでは決してない。眉をぎゅっと強く顰めると、エリーゼは加えていたフライドチキンの骨を思いっきり噛み砕いた。
「あのですね教授、報告書はもう送りましたよね。確かにヒスイの奴は絶技を使用しましたが、それだけで処刑対象にはなりません。実際に本部の決定は様子見という形になりました。それは教授もよくご存じのはずでしょう? それに今回連絡したのは、爵持ちであるマモンの討伐許可を得るためです。一級魔器使が高天原の勢力内で爵持ちと戦うのには上の許可が入りますからね。いつ出していただけます?」
 彼女の反論に、電話の向こうにいる少女はころころと笑い声を上げたが、ふとそれが途絶えた。

『マモンなんて下等な爵持ち、軽く消し飛ばせばいいじゃない。まああなたでは無理でしょうけど、スヴェンがいるでしょう? いざとなったら“あれ”を使えば、マモンなんて一瞬で消し飛ぶわ。それにエリーゼ、私は“お願い”をしているのではないの。私はね、あなたにやれと“命令”してるのよ?』

「……」
 無言のまま、エリーゼはぎりぎりと骨を噛み砕いた。
「……分かりましたよ。これよりスヴェンと共に絶対零度の抹殺任務に入ります」

『そうそう、最初からそう言っていればいいのよ。大体あなたは私に大きな借りがあるんだから、どんな命令も断れないものね』

「そりゃそうですがね……ああ、一つ確認していいですか?」

『あら? なあに?』

 口の中にある骨を傍らのごみ箱にぺっと吐き捨てると、エリーゼはがしがしと頭を掻いた。
「今回の抹殺任務、もちろんあなた以外の教授方も知っておられるんでしょうね。ヘルメス教授。いやですよ、そっちに帰ってそうそう仲間殺しでぶっ殺されるのは」

『それなら心配はいらないわ。あなた達には通達ミスで本部の決定がきちんと届かなかったことにするから。ま、なにかあっても“処分”されるのは憎しみの感情に流されて“不可抗力”で絶対零度を殺してしまったスヴェンと、彼を野放しにしたあなたにしか及ばないから……じゃ、くれぐれも失敗しないようにね。健闘を期待しているわ』

 言いたいことを言いたいだけ言うと、電話の向こうにいるヘルメスはさっさと電話を切ってしまった。ツーという無機質な音が流れ出してから、エリーゼはちっと忌々しげに舌打ちした。
「ったくあの糞女、自分の言いたいことばかり言ってさっさと切っちまった……しかしなんだってそんなにヒスイの抹殺にこだわるのかね。あいつとヘルメス教授との間に別に接点はないし」
 ヘルメスがヌアダの魔器を強請り取ろうとして、一蹴されたことを知らない彼女は、訳がわからないといった風に頭をひねっていたが、やがてここで考えていても始まらないという結論に達したらしく、一度部屋を出ると、スヴェンがいる隣の部屋へと入っていった。

 隣の部屋の中は薄暗かった。カーテンは閉め切っており、周囲には投げ散らかった衣服が散乱している。部屋の隣にあるベッドルームに入ると、エリーゼは忌々しげに舌打ちし、こんもりと盛り上がっているベッドを思い切り蹴った。
「……む」
 ベッドが揺れた衝撃で、その中に入っている人物は軽く呻いた。身長は180を優に超えており、巨大なベッドが小さく見えるほどだ。
「ったく、いつまで寝てるんだいスヴェン」
「……」
 ベッドを蹴った彼女を睨むと、スヴェンはまたベッドに潜り込もうとした。その動きを彼の熊の模様が入った大きなパジャマを踏んづけて止めると、エリーゼは散らかっている服を拾い上げ、スヴェンに向かって投げつけた。
「何をする」
「何をするじゃないよまったく。幾ら本部からの通達でヒスイが殺せなくなったからと言ったって、昼間から寝ていることはないだろ」
「……お前に何が分かる」
「そりゃ分からないさ。分からなくもないね。人間が人間を憎むなんてさ。憎むなら人間よりエイジャにしな。この“あたし”のようにね」
「……」
 むっつりとベッドに腰掛けたスヴェンを見てため息を吐くと、エリーゼは出来の悪い弟を諭すようにその肩をポンポンと叩いた。
「ま、そんなに落ち込むこともないだろ。実はね、さっきあの狂った科学者から、あんたの喜ぶような連絡があったんだよ」
「……?」
 その言葉にスヴェンは軽く首を傾げたが、数秒後、彼はエリーゼの言ったとおり狂ったように笑い声をあげて喜んだ。




 

二つの事件は、その日の夜に起きた。

最初の事件は復興街で起きた。ジ・エンドを牛耳っていた三馬兄弟とその部下たちが聖亜の手により壊滅したことで、苦しい生活を強いられてきた快楽区の人々は喜び、明日から始まる忙しい復興の前に一時のパーティーが開催された。といっても路上に飲み物や食べ物を並べて雑談するという簡素なものであったが、皆の顔には希望に満ちた笑顔に変わった。


 その笑顔が絶望に変わったのは、僅か30分後の事であった。

妖夢館の東部が再び爆発したかと思うと、その中からうつろな目をした人間が多数這い出てきたのだ。彼らを見た者は、皆驚愕し、続けて恐怖した。

なぜなら彼らは、以前聖亜によって叩き潰された三馬兄弟の部下達だったからだ。つまり全員が生きる屍、ゾンビだったのである。

 ゾンビ達は驚愕している人々に襲いかかったが、それらは皆館の警備隊長である老人の手によって叩き壊され、大事には至らなかった。だが彼らのほとんどが破壊され、生き残ったほんのわずかなゾンビが逃げ去った後、彼らは一人の女がいないことに気付いた。

 2年以上の長きに渡ってジ・エンドと抗争を続けたグループのリーダーであり、この度晴れて新幹部となった男―イタチの妻である。


 もう一つの事件は、旧市街のお立通りでほぼ同時刻に起きた。夜といっても旧市街の道の両端にはガス灯が煌めき、また警察による夜の巡回がされているため、子供でも安心して外を歩くことができる。まあ、子供が出歩いていた場合問答無用で家に帰されるが。
 その安全な道を、城川春奈は聖亜の家に向けて歩いていた。といっても大した用事ではない。今日出会ったヒスイという少女にレシピを渡すためである。
 だがあと少しで彼らの家を囲む竹藪に着く、その瞬間―

 
 彼女の姿は、ふっと掻き消えた。

 ガス灯の光はあるが人通りのない道であったため、彼女が消えた姿を見た者は誰もいなかった。


 そう、昼夜問わず街を飛び回っている“彼ら”以外には





西暦2015年(皇紀15年)7月20日 22時20分


 聖亜達が異変に気付いたのは、夕食と風呂を終え、寝る寸前だった。

 最初に気付いたのはキュウだった。ビショップと小松が共同で作った夕食を食べ終え、うとうととしていた時、彼女ははっと目を見開き黒い空を見上げた。
「ん? どうしたキュウ」
 風呂から上がったばかりで髪を拭いていたヒスイが彼女の様子に気づき、ふと声をかけた。
「……空気が重い。闇の中で何かが蠢いている」
「何かって……何だ?」
 布団を敷き終えた聖亜の問いに、キュウは分からんと首を振りながらも、ふとその紫電の瞳を伏せた。
「分からんが良い物では決してない。恐らく、恐らくだが……」
 彼女が言葉を続けようとした時、家の戸がどんどんと強く叩かれた。
「おいおい、もう夜の10時過ぎだぞ。誰だよこんな時間に」
 ぶつくさ言いながら、聖亜は玄関に向かった。戸を叩いているのはどうやら男らしい。そしてその姿形を見て、聖亜はふと首を傾げた。
「え? 城川……先生? 待ってください、今開けます」
 サンダルを履いて戸を開けると、外には思ったとおり彼の年上の幼馴染であり教師でもある城川がいたが、その顔はいつもはおっとりとしている彼の表情とはまったく違っていた。
「ど、どうしたんですか? 城川先生」
「はぁ、はぁ、はぁ!! せ、聖君、ここに僕の奥さん来なかったかい?」
「奥さん……春奈さんですか? いえ、来てませんけど。春奈さん、どうかしたんですか?」
「そ、それが……一時間前にこの家に行くと言ったきり、何の連絡もなくて。香もまだ見つかっていないし、心配になって来てみたんだけど」
 恐らく全力疾走してきたのだろう、がくりと片膝を付いた彼の横を通り過ぎると、聖亜は家を囲んでいる竹藪を抜け、お立通りに続く道を駆け抜けた。身体の弱い城川では疲れる道も、彼にとっては数分の距離でしかない。だが春奈の姿はどこにもなく、10分後気落ちした表情で、聖亜は家に戻ってきた。
「聖君、やっぱりいなかったかい?」
「ええ。けど本当にどうしたんでしょうか。何か事件に巻き込まれたといっても、俺より強い春奈さんを傷つけられるような奴が、復興街にいるはずっ」
 テーブルに座って帰りを待っていた城川の問いにため息交じりに頷くと、自分もテーブルに座ろうとした彼は、ふと口を閉ざした。
「ん? どうしたんだい、何か思い当たる節でも?」
「……いえ」
 軽く頭を振ると、城川に気付かれぬよう傍らにいるヒスイに視線を送る。と、こちらの視線に気づいた彼女は間違いないという風に微かに頷いた。
「あの聖君、こういう時はやっぱり警察に届けたほうがいいのかな? やっぱり行方不明だし、もし事件に巻き込まれているとしたら、早く助けてあげないと」
「え? いや、それはやめておいた方がいいと思いますよ。まだ一時間しか経っていないですし、警察に届けてもどこかに寄り道しているか、それとも家出という形で処理されます」
 警察に頼ろうとしている城川を、聖亜は慌てて止めた。もし自分たちが考えている通りなら、警察が動いたとしても犠牲が大きくなるだけだ。城川もそれほど警察を信じてはいないらしく、すぐにそうだねと頷き、ふと顔を歪ませた。
「やっぱり出て行っちゃたのかな」
「……は? 何言ってるんですか、城川先生」
「だってそうだろう、僕みたいな弱くて取り柄と言ったら絵を描くことぐらいしかなくて、和菓子屋の跡取り息子のくせに甘いものもそんなに食べられない生きてる価値のない男に、あんなに綺麗で格好良くて強くて優しくて何でも出来て美人な春奈ちゃんが、高々幼馴染というだけでお嫁さんに来てくれた事自体おかしいんだよ。出て行っちゃったんだよ、きっと」
 また始まった。内心でため息を吐くと、聖亜は目の前でうじうじしている男を殴ってやりたくなった。城川は身体の弱い自分にコンプレックスを持っており、自分と妻である春奈を比較して一年に一度はこうやっていじけてしまう。ちっと微かに舌打ちすると、聖亜は再びヒスイに目をやった。彼の考えていることを察したヒスイがいまだにいじけている城川の後ろに回り、その首に手刀を極々軽めに叩き込んだ。


「それで、どう思うヒスイ」
「どう思うも何も、これはマモンの仕業だ。先程キュウが何かに気付いた事と照らし合わせてみても、間違いないだろう」
 彼女の手刀を首筋に受け、気絶した城川を聖亜の布団に寝かせると、聖亜はヒスイと共に隣の部屋に移った。ここには2人の他にキュウと小松・小梅、そしてナイトを初めとする三体の人形が居り、少々狭い。
「いや、仮にマモンの仕業だとして、何で春奈さんが攫われる前に気付かなかったんだ? いつもならエイジャの気配にすぐに気づいていただろ」
「……昼間の事を忘れたのか聖亜。エリーゼから手出し禁止と言われていただろう。一級魔器使は自分より格下の魔器使に指示を出す権利と義務を持つ。彼女から手出し禁止と言われた以上、その気配を探ることも許されん」
「何だよそれ……まあいい、とにかく今は早急に春奈さんの居場所を突き止め、彼女を救出することにしよう。ナイト、ポーン、ビショップ、お前達も力を貸してくれるな」
「そんなの当たり前じゃない聖。私はあなたの物なんだから」
「承知。しかし聖亜の配下になった初陣がマモンとはいえ爵持ちとは……腕が鳴るな」
「構いませんよ。ですが行く前にお夜食を作らなければなりませんね」
 ナイトが笑いながら、ポーンが重々しく、そしてビショップが微笑んで同意すると、聖亜は三体の人形に向かって頷き、立ち上がった。
「待て聖亜、どこに行く」
「どこって……もちろん春奈さんを助けに行くに決まってるだろ。ああ、あんた達は来なくていい。どうせ上から命令されて動けないだろうからな」
「……」
彼女の方を見ず忌々しく吐き捨てるように言った聖亜は、ゆえに目を細め、傍らの小松に指示を出したヒスイの様子に気づくことはなかった。
「おい、待て馬鹿者」
 今度は黒猫が容赦ない言葉で呼びかけてくる。その言葉に誰が馬鹿だと反論しようと振り返った聖亜は、次の瞬間むぎゅっとなにか柔らかい物に顔を挟まれた。
「むぐっ」
「あ……そ、そんな、あ、いきなりっ」
 結構すごい勢いで振り返ったため、その柔らかい物の奥まで顔がめり込んでしまい、容易に抜け出すことができない。なんとか抜け出そうとしていると、すぐ近くで誰かの喘ぎ声が聞こえてきた。
「…………何をやっている、馬鹿」
 ヒスイの冷たい声が聞こえ、聖亜はその柔らかい物から顔を引き剥がされた。上を見ると、顔を真っ赤にした小松が荒い息をして胸を抑えている。どうやら今までそこに顔を埋めていたようだ。
「あ、悪い」
「……い、いや」
 頬を染めながら崩れた着物の襟を正している小松を見ていると、不意に隣で咳ばらいがした。振り向くとむっつり顔をしたヒスイがこちらを睨んでいる。
「それで、どうして呼び止めた? 早く春奈さんを探しに行きたいんだけどな」
「……誰も探すのを手伝わないとは言っていない。第一春奈さんは私にとってみたらし団子を作る際の師に当たる。弟子には師を助ける“権利”があるはずだ」
 自分の問いに対するヒスイの答えに、聖亜はぽかんと口を開けて彼女を見ていたが、やがてふっと微笑した。
「……すまない、知り合いが誘拐されたものだから気が立っていたんだ。けどいいのか? あのエリーゼって女からはマモンに何もするなと言われたんだろう?」
「私は春奈さんを助けに行くだけだ。マモンと戦うとは言っていない。まあ、人命救助の際、偶然マモンと戦うことになるかもしれないが、それはあくまで“偶然”だからな」
「ははっ、そうか偶然か」
 先に部屋の中に戻ったヒスイに続いて部屋に入ると、聖亜は軽く息を吐いた。
「さてと、なら問題を整理してみようか。1時間以上前、ここに来るはずだった春奈さんが行方不明になった。城川屋からここまでは歩いても15分ほどで着くから何らかの事件か事故に巻き込まれたとみて間違いないだろう。けどさっきも言ったと思うが春奈さんは俺よりも強い。例え拳銃持った50人のやくざに囲まれても顔色変えずにぼこぼこの再起不能に出来るほどだ。けどこれとほぼ時を同じくしてキュウが何かの気配を察知していたから、恐らくエイジャによって拉致されたものとみて間違いない。その理由は分からないが、今しなければならないのは理由の解明ではなく、一刻も早く春奈さんの居場所を探す事……って、何皆してぽかんとしてるんだ?」
 テーブルの脇に腰掛けて話し始めた聖亜は、こちらを何か言いたげな表情で見てくるヒスイたちの視線に一旦話すのをやめると、少しむっとして見返した。
「いや……お前って結構考えてるんだな」
「……ん、まあ猿師匠から言われていたんだよ。考えることをやめなければおのずと勝つ方法が見つかるってな」
「そうか」
 その説明に納得したのか、ヒスイはこくりと頷いて表情を和らげた。
「で、話を戻すけどどうやって春奈さんの居場所を探す? 一通りもないし、それ以前にエイジャの手によって攫われたなら気付くはずもないだろうし」
「ふむ……まあ確かに人間には無理だろうな。だが聖亜よ、お主は一つ忘れていることがある」
「忘れている事?」
 首を傾げる聖亜の横を通り過ぎ、キュウは縁側に出ると暗い空をじっと見上げた。
「うむ。この街にいるのは人だけではない。犬や猫といった動物も暮らしている。そしてその中で一番頭が良いのはこやつらだ……加世、いるか」
「加世?」
 誰もいない外に向かって声をかけた黒猫を見て、聖亜も外を見たが、やはり誰もいない。何もいないじゃないかと、傍らのキュウに抗議しようとした時だった。
「―ここに」
「うわっ!?」
 不意に、庭の木の陰から一人の女が姿を現した。年の頃は自分とそう変わらない。夜風に揺れる短い黒髪と小麦色の肌を持つ、美少女と言ってもいい風貌だが、何より聖亜の目を引いたのは、彼女の背中から生えている黒い大きな翼だった。
「加世は鴉天狗の血を僅かだが引いていてな、その血を活性化させてこの姿にしてやったのだ」
 少年の視線に気づいたキュウがそう言うと、佳代という名の鴉天狗はこちらに目を向け、だがすぐにそっぽを向いた。包帯が巻かれている左腕を、右手で強く抑えながら。
「……?」
 その包帯にどこか見覚えがある気がした聖亜が、口を開こうとしたとき
「さて加世、そなたを呼び出した理由は分かっておるな」
 彼よりも先に、キュウが彼女に向かって話しかけた。
「はい。先程この街で発生した異様な気配は、すでに仲間が追っています。それともう一つ……」
「もう一つ? 何だよ」
 質問した聖亜を加世はちらりと見たが、何も答えずに再びキュウの方に向き直った。
「都市の西南で何かしらの騒ぎがあったようです。人間達が騒いでいるのを耳にした仲間からの連絡では、なんでも死体が動き出したとか」
「死体が動き出しただと? 確かにエイジャの技術を使えば屍が動くぐらい簡単にできるが……それをやるとして、なぜ復興街の方に行った」
「それは私には……っと、来たようです」
 加世が見上げた夜空の向こうから、バサッバサッと鴉が一羽飛んできて彼女の肩に止まり、カァカァと何かを囁く。彼女が頷くと、鴉はまた空の向こうへと飛んで行った。
「……とりあえず気配がどこに行ったかは分かりました。ここから北東にある廃墟です。数日前からそこに何かの気配がするという話はあったのですが、詳しくは」
「そうか、ごくろうだった……という訳だ聖亜、これから北東に向かうぞ」
「へ? あ、ああ……北東ならデパート通りだな。そういえば去年閉店してそのままになっているデパートがあったけど、そこか」
「うむ。ではそのデパートに向かうぞ。ヒスイ、用意はいいか」
「……本当は化粧をしたいが、その暇はないか。しょうがない、これで我慢しよう」
 ペンダントから取り出した桜の髪留めを髪に付けると、ヒスイは小松と小梅に目をやった。2体の魔器は一つ頷くと、その姿を本来の形である刀に変えた。
「よし、行くぞ」
「うむ……では加世、我らはこれからその廃墟に向かうが、そなたはどうする? 戻るか」
「……いえ、私もお供いたします。これでも多少短刀の心得がありますので」
 身に着けている服の袖からきらりと光る刃を覗かせた彼女を見て一つ頷くと、キュウはふと空を見上げた。

 空には星々の中に、大きすぎる月が覗いていた。

「……今夜は何かが起こるの。月がきれいすぎる」



 その日、準が夜遅くに外を出歩いていたのは偶然だった。午後から学校の図書館にいたのだが、夏休みに入ってからの夜更かしが続いたため、つい眠りこけてしまったのだ。
 それでも宿直の先生によって起こされ、9時前には学校を出たのだが、学校から家までは1時間ほどかかるため、途中のコンビニで夜食を買って帰るとどうしてもこの時間になってしまう。まあ、家には誰もいないから遅くなっても注意されることはないが。
「まったく、聖の奴全然遊びに誘わないし……そろそろこっちから押し掛けてやろうか」
 ここで他の男に乗り換えようと考えないあたり、彼女は聖亜に心底惚れているのだろう。と、もうそろそろ家に着くとき、彼女は暗い道をばたばたと走る複数の人影を見た。

「ん? あれは……聖亜か?」

 見えたのは一瞬だけだが、彼女は想い人を見間違えるようなことはしない。わずかな時間家と少年が通って行った道を交互に見たが、やがて意を決したかのように、少年が通った道へと走り出した。


それが、彼女の運命を決するとも知らずに




「……っ!!」
「……」
「…………!!」

「……う?」
 春奈は甲高い女の声に、ふと目を開いた。
 
 分からない。何故自分は気を失ってしまったのだろうか。自宅から聖亜の家に行く途中だったのは覚えているが、その後の記憶がない。身体を動かそうとすると、縛られているのか手首と足首がそれぞれ縛られているのか、微かに音を立てただけだった。
 だが、その音に気付いたのだろう。今まで甲高い声を出して何かを言っていた女が、ふとこちらを向いた。

「あら、お目覚めかしらお姉さま」
「……香、ちゃん?」
 そこにいたのは長い金髪をした女だった。年は14,5歳ほど。だがけばけばしい化粧のせいで実年齢より4,5歳は老けて見える。
「香ちゃん、あなた今まで一体どこに行ってたの? 私もあの人も、一生懸命に探していたの「兄さんを気安くあの人だなんて呼ばないで欲しいわね」あうっ!!」
 春奈は女―香にいきなり顔を踏みつけられた。そのままぐりぐりと踏んで満足したのか、一度爪先で頬を強めに蹴ると、香はしゃがんで春奈に笑いかけた。
「ねえお姉さま、今どういう状態かわかっていらっしゃる? お姉さまは縛られていて私は縛られていないわよね。これっていったいどういうことかしら」
「……香、ちゃん、あなたまさか」
 彼女の言ったとおり、香はどこも縛られた様子はなく、しかも暴行を受けた形跡もない。ならば考えられることはただ一つだ。
「あははははっ!! そう、そうよその通り!! 私がお姉さまを攫ってこさせたのよ。どう? 義理の妹に誘拐された気分は」
「香ちゃん……どうして、どうしてこんな事」
「どうして……ですって?」
 春奈の髪を掴んで容赦なく上を向かせると、香は彼女の汚れた頬に向かって唾をぺっと吐いた。
「そんなの分かりきってるじゃない!! あんたが私から兄さんを奪ったからよ!! あんたに兄さんを奪われて、私がどれほど絶望したかわかる? どれほどあなたを憎んだか理解できる? 出来ないでしょうね、なんでもできるあんたには!!」
「……香ちゃん、まさかあなた、あの人の事」
「ええ愛してるわよ。可笑しい? 可笑しいわよね、妹が実の兄を好きになるなんて!! けどね、私は兄さんが好きだった。親に叱られた時、何も言わずに庇ってくれる兄さんが好きだった。喧嘩して家出しても、いつもちゃんと探しに来てくれる兄さんが好きだった。近くの悪がき連中にいじめられてる時、体が弱いくせにいつも助けに来てくれた兄さんが好きだった。けどある時から兄さんは私の方を見てくれなくなった。それがいつ頃からかわかる? あんたと付き合い始めてからよ!!」
「……っ!!」
 髪を持ったまま、香は春奈の頬をバシッと張り飛ばした。
「それでも何時の日かあんたと別れて、また兄さんが私だけを見てくれる日が来ると信じていた。けど何、結婚ですって? しかも家で一緒に暮らしちゃって……あんた達の新婚生活を見ながら、私がどれだけ憎しみを募らせてきたかわかる? それを少しでも発散させるために高校に入ってから髪とか染めてピアスをしたのも、兄さんにあげるはずだった処女を他の男にやったのも、家を出て何日も帰らないのも、全部あんたのせいよ!!」
 香の言葉と共に、暗い空間に頬を打つ音が響き渡る。やがて満足したのか、それとも手が痺れてこれ以上叩けなくなったのか、香は掴んでいた髪を放した。ごっと鈍い音を立てて、頬が真っ赤になった春奈の頭が床に落ちる。
「ふん、いい気味ね。大体お姉さま、何であんたみたいな完璧超人が凡人以下の兄さんと結婚なんかしたのよ、それが良く分からないわ……ああ、あれ? 捨てられて震えている犬や猫にするみたいな同情って奴? ふん、同情で結婚なんてして欲しくないわね!!」
「……がう」
 不意に、地面に転がっている春奈の口から、か細い声が辺りに響いた。
「がう? がうって何よ? はっきり言ってみなさいよ、ええ?」
「……私があの人を、祐君を好きになったのは同情なんかじゃない……可哀そうに思ったからなんかじゃ決してない。あの人が……体の悪い祐君が本当は誰よりも強いことを知ったからよ。いじめられているあなたを助けるために、自分より体の大きな人達に必死になって向かっていくあの人を見て……ね」
 掠れる声でそう言うと、春奈は愕然としている少女に、そっと寄り添った。
「だから、もう家に帰りましょう。祐君が待っているあの和菓子屋さんに……私たち2人で」
「……い」
「え?」
 だがその瞬間、彼女の体は再び地面に突き飛ばされた。
「うるさいって言ってるのよ!! この状態であたしに向かって説教するなんて、あんた一体何様? どうせ私の事頭がおかしい可哀そうな子と思ってるんでしょ。もういい。散々いたぶった後一思いに殺してあげようと思ったけど、それほど私が可哀そうなら、あんたも私と同じ目に合わせてあげる……これからあんたを真っ裸にひん剥いて、近くのホームレス連中にくれてやるわ。犬以下の連中に犯される中で、後悔しながら死になさい!!」
「……っ!!」
 彼女の言葉に、春奈がさすがに顔を青ざめさせた時だった。
「……ちょっとよろしいですか?」
 暗闇の中から、男の声が聞こえてきた。


「何よ大鳥、人が楽しんでいるときに」
「これはこれは申し訳ございません。ですが先ほどは何で殺してないのよと罵られたような気がしますが」
「ふん、確かに最初はこの女を殺していなかったことに腹を立てたわ。けど今は感謝してもいいぐらいよ。この女をいたぶることができるのですものね。それで? 何の用? 私は今とても忙しいのだけれど」
「はい。お楽しみの所申し訳ございませんが、どうやら“ネズミ”が2,3匹ほど潜りこんだようです。恐らく」
 そこで、大鳥と呼ばれた男は床に転がっている春奈をちらりと見た。
「恐らくこの“商品”を奪還しに来た様子。それでどういたします? 迎え撃ちますか?」
「そんなの当たり前じゃな……いえ、中々面白いことになってきたじゃな