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[22727] スルトの子
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/10/25 09:27
 初めまして、活字狂いと申します。
私の駄作「スルトの子」は、地球に似た架空の世界を舞台とした物語です。歴史や年代、国の名前などは、私たちの暮らす世界と変わりありませんが、この世界では、“あるもの”が無い代わり、“あるもの”が発達しています。そのため、史実とは少し異なる、所謂並行世界と思ってくだされば結構です。
 なお、仕事が忙しいため、投稿する日は、毎週の月曜日、および土日となります。
では、どうぞしばしのご拝聴を、宜しくお願いいたします。


ーそれは、炎であったー



[22727] スルトの子 序幕  煉獄という名の災厄
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:31
ーそれは、炎であったー


 この日。
 この日も、都市は、いつもと変わらぬ日常を過ごしていた。
 クリスマス・イブということで、商店街はレースや小物、アクセサリーで飾られ、気の早い店では、正月用の門松が売り出されており、歩く人々の表情も明るい。
 商店街の先にある総合病院では、創立20周年を記念し、院長の祝辞が述べられており、
 その周囲にある幾つもの教会では、灯される蝋燭の下、子ども達がこの日のために練習した賛美歌を歌っている。
 かすかな歌声が、風に乗って聞こえてくる公園、そこにあるクリスマスツリーの下では、夫婦や恋人、家族連れや友人同士が、肌寒い空気をものともせず、ゆっくりと、日が沈むのを待っていた。
 そう、
この日、この時まで、皆、この日常が、永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
だが、燃える炎のように赤い夕陽が、完全に沈む、その瞬間、



ー都市は、煉獄の炎に包まれたー





 目の前に広がる地獄の光景を、男は地面に座り込み、光を失った瞳でただ呆然と眺めていた。

 何もかもが、燃えていた。

 商店が、教会が、病院が、公園が、
 木が、草が、花が、河川が、大地が、
 そして何より、万を越す人々が、

 その全てが燃えていくのを、男は、ただ呆然と、眺めているしかできなかった。
 着ている服は、その所々が煤け焼け焦げている。おそらく、身体には大小幾つもの火傷を負っているだろう。

 先程、彼は飛び込もうとしたのだ。絶叫を上げ、狂ったように泣き喚きながら。

 父と母を、妻と娘を、そして、妻のお腹に宿っていた新しい命を、
 自分の全てを奪った業火、その中に。
 
 炎にまみれるその寸前で、男を止めたのは、彼の隣りで必死に消火活動をしている消防隊員だった。だが、必死の消火活動に関わらず、炎の勢いは止まらない。いや、むしろ、炎はますます膨らんでいき、そして、


 巨大な爆発とともに、消火活動を行っていた隊員を三名、その内に飲み込んだ。


 自分の周囲で新たな地獄が生まれる中、男は、
 涙も汗も鼻水も、自分の流せるもの、その全てを流しつくした男は、
 周囲で、どれほどの人間が死のうとも、
 周囲で、どれほどの惨劇が生まれようとも、
 目の前の巨大な炎を、ただ呆然と、眺めていた。


 彼は、思ってしまったのだ。


 自分の家族を含め、数多の命をその内に飲み込み、今尚成長しようとしている、憎悪しなければならないはずのこの煉獄の炎を、




               美しい、と







 男は目を見開き、ガチガチと奥歯を鳴らしながら、目の前の光景を眺めていた。



 彼が今いるのは、公園に設置された、臨時の野外病院だった。
 いや、病院と言うよりは、ここは死体置き場というほうが正しいだろう。
 人々の憩いの場であるこの場所は、重度の火傷を負った患者で埋め尽くされていた。

 彼らは果たして患者と言えるのだろうか。彼らを治療できる医者のほとんどは、ここにはいない。彼らがいるのは、ちゃんとした設備のある病院で、そこに運び込まれているのは、助かる見込みのある人間だけだったから。



 かすれた声を出し、母を求めて泣く子がいる。
 痛みに泣き叫び、地面を転げ回る男がいる。
 黒く染まった皮膚を掻き毟り、ぶつぶつと呟く女がいる。


 
 彼は、或いは、彼女らは、



 男の目の前で、皆、静かに死んでいった。



 ふと、我に返った男は、自分の奥歯が、もう鳴っていないのに気付いた。いや、むしろ自分は、この光景を見て、微かに笑っている。
 そのことに気付いたとき、彼は、自分の内側から湧き上がる、黒い悦びを感じていた。




 黒い死者が埋め尽くす、この地獄ヶ原で




―西暦2000年、皇紀元年、12月24日、この日、高知県太刀浪市西部にて発生し、後に「聖夜の煉獄」という名で呼ばれる大災厄は、五日の間燃え上がり、
総勢、二万五千余の死者を出し、終わった。


そして、


片や、自分の全てを飲み込んだ、赤い炎に魅せられた男、
片や、死に行く人々の、その叫びに、黒い悦びを見出した男、


この日、二人の男に生まれた感情が、15年後の事件の、始まりと終わりの要因だった。



[22727] スルトの子 第一幕   夏の日に見た、胡蝶の夢①
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:31
西暦2015年(皇紀15年)6月31日、12時05分

 眼下に、蒼い海が広がっている。


 自分の瞳と同じ色をしているその景色を、少年はぼんやりと眺めていた。
肌は透き通るように白く、その髪もまた、透き通るように白い。
一見すると、先天性白皮症、所謂アルビノと間違えられそうだが、夏の日差しの中、少年の白い肌は、髪の毛一筋分も赤くなっていない。
『アテンションプリーズ、本日は、蒸気飛空船“アルバトロス”号にご乗客頂き、誠にありがとうございます。当機はまもなく、目的地である太刀浪空港に到着いたします。安全のため、席をお立ちにならないよう、お願いいたします。繰り返し連絡いたします。本日は……』
 機内に、機長の声が響き渡る。と、少年の胸元が、微かに震えた。
「……静かにしていろ」
 少年が指で押さえると、震えは収まった。それを見て微かに笑うと、彼はまた窓から外を眺めた。
 蒼い海の彼方、微かに白く輝く大地が見える。それはやがて段々と近づいてきた。



「あれが日本……そして、太刀浪市、か」





 星聖亜(ほしせいあ)の携帯に、バイト先から電話が掛かってきたのは、昼休み、彼が食堂でカレーを食べ始めたときだった。
「はい、聖っす……なんだ、祭さんじゃないっすか」
『なんだはねえだろ、なんだは……まあいい。聖、お前今日の配達、忘れてないだろうな』
「へ? 配達……すか?」
 真向かいでラーメンを食べている女子生徒が、何か言いたげに見つめてくる。それに手を振りながら、ぼんやりと聞き返すと、途端に電話の向こうから悪態をつく女の声が聞こえた。
『この馬鹿っ、テメエ、あれだけ忘れるなって言っておいたのに、やっぱり忘れてやがったなっ!!』
「え? い、いや、そんなわけ無いじゃないですか、いくら俺でも、そこまで馬鹿じゃないですよ」
『……本当にそうかよ、まあいい。とにかく、今日の配達、しっかり頼んだぜ。それから、もし忘れてたら……分かってんだろうな?』
 最後の言葉と一緒に、電話は切れた。携帯電話をしまうと、星亜はげっそりと息を吐いた。
「バイトか? 聖」
「うん、まったく、こっちにも用事があるっていうのに、いきなり頼むなんて、非常識にも程があるっすよ」
 ぶつくさ言う少年を見て、彼の親友は、呆れたようにため息を吐いた。
「聖……お前、急に頼まれたんじゃなくて、忘れてたんだろ」
「うっ! い、いや、そんなこと無いですよ、ちゃんと覚えてましたですよ? いや、その、たぶん、きっと……ほんのちょっぴり」
 慌てて首を振る少年の顔に、彼の真向かいに座っている親友は、褐色の指をびしりと突きつけた。
「お前な、嘘つく時、変な敬語を使う癖、いい加減に直したらどうだ? まったく……秋野と福井の凸凹コンビには、私のほうから言っておくから、お前はちゃんとバイトに行って来い。お前を頼りにしている人がいるんだから」
「あう、ご、ゴメンなさいっす、準」
「いいって、まあ、七夕祭のための、いい小遣い稼ぎと思えばいいじゃないか。それより」
 準は、少年に突きつけた指で、そっと彼の頬に触れた。
「おべんとが付いてるぞ。まったく、お前は私がいないと、本当に駄目だな」
 彼の頬に付いていたご飯粒を取ると、少女はそれを、ぱくりと口の中に入れた。
その嬉しそうな表情に、どうしようもなく頬が赤くなる。赤くなった頬をごまかすように、聖亜は慌てて窓の外を見た。



 青い空の中を、一隻の飛空船が飛んでいた。




西暦2015年(皇紀15年)6月31日、17時20分

「どう、聖ちゃん、進み具合は」
「あ、大丈夫っすよ、神楽(かぐら)婆ちゃん、洗濯物の取り込みぐらい、任せてくださいっす」
 夕方、バイト先である喫茶店の人気メニュー「店長のお勧めグラタン」を配達しに来た聖亜は、なぜか洗濯物を取り込んでいた。
「まあ、ずいぶん進んだこと。やっぱり男の子がいるといいわねえ。さ、休憩して頂戴。お茶を入れますから」
「あ。お構いなくっす、神楽婆ちゃん」
 口ではそう答えながらも、聖亜は縁側に洗濯籠を置くと、その横に腰掛けた。
夏の午後の日差しを浴びながら、洗濯物を取り込むのは、背の低い自分には、予想以上にきつい作業だった。ふうっと息を吐いたとたん、急に疲労が襲ってきた。
「あら、男の子が遠慮なんかしちゃ駄目よ、聖ちゃん。この家に引っ越してきてから、毎日が退屈で、こうやって遊びに来てくれる聖ちゃんとお話しすることが、唯一の楽しみなんだから」
「あの、神楽婆ちゃん、おれ、遊びにじゃなくて、一応仕事できてるっすけど」
「あら、じゃあ私とのお話も、お仕事に追加してもらおうかしら」
 勘弁してくれっす、そう呟いた聖亜だが、彼自身、この品の良い老婦人との会話は、楽しみの一つとなっていた。
 聖亜がこの老婦人と初めて会ったのは、今から半年ほど前だ。旧市街で道に迷っていた彼女に声を掛けたのをきっかけに、知り合いとなった。その後、どこで知ったのか、彼がバイトをしている喫茶店のことを知り、よくこうして配達を頼んでくる。
 多いときなど、毎日配達を頼まれた。金払いも良く、今ではお得意様となっている彼女が、何故自分に配達させるのか、それが良く分からず、彼は一度だけ、そのことを聞いたことがあった。
『そうね、きっと、聖ちゃんが奪われてしまった私の坊やに似ているからでしょうね』
 悲しげに答える彼女に、聖亜はそれ以上聞くのを辞め、その代わりに
「さあさあ、お茶にしましょう。お茶菓子は何がいいかしら。お饅頭? お煎餅?
ああ、けど若い子は、やっぱりクッキーやジュースがいいかしら」
「えと、じゃあ、オレンジジュースとクッキーで」
 にこにこと上品に笑う彼女に、精一杯甘えてみることにした。




西暦2015年(皇紀15年)6月31日、18時30分

「こちら聖です。神楽さんへの配達、終わりました」
『お、ご苦労だったな、聖。けど、ずいぶん遅くなったな、また婆さんに捕まったんだろう』
 あの後、神楽の好意についつい甘えてしまった聖亜は、予定よりずいぶん遅れて彼女の家を後にした。本来なら、今頃は喫茶店に戻っている頃だ。
 この時間帯、街は白く霞む。電気設備が完備されている新市街とは違い、旧市街では、いまだに蒸気機関が稼動しており、そこから排出される水蒸気が霧となり、街を覆うためだ。今も地下から送られてくる蒸気で、少年の横のガス灯に、ぼんやりと明かりが灯る。
『はは、まあいいだろう。本当なら、こっちに戻ってきて、もう二,三ほど、手伝って欲しいことがあったんだがな。今日はまっすぐ帰っていいぞ』
「はあ、ありがとうございますっす」
『なんだ、余り嬉しくなさそうだな。あまり夜うろつくのは感心せんぞ。ただでさえお前は女子に間違えられやすいんだからな』
「う、ひ、人の気にしていることを、軽く言わないで欲しいっす」
 うつむきながら、聖亜は自分の髪を触った。この黒く長い髪と、女性的な顔付き、そして160に満たない身長のため、聖亜は一瞥すると、少女にしか見えない。
『まあそういうな、教えその31だ。短所は時に長所でもある。特に、女顔ということは、相手を油断させるには申し分ない』
「そりゃそうっすけ『まあ、本当は俺が楽しみたいだけなんだがな』……この変態めっ」
 毒づく聖亜だったが、笑いながら電話を切られた。結局、最後まで相手のペースだった。
(師匠を超えるのは、まだまだ先っすね)
 苦笑しながら、霧が晴れた路地を抜け、見慣れたいつもの道に出る。夕陽に照らされる中、ちらほらと家に帰る人の姿が見えた。
「あ、落としたっすよ」
 若い母親と、おそらくまだ幼稚園児なのだろう、小さな女の子が脇を通り過ぎたとき、女の子のポケットから、可愛らしいひよこ柄のハンカチが落ちた。拾い上げ、女の子に差し出す。
「あ、すいません。ほら、よっちゃん、ありがとうは?」
 母親に促され、女の子が、とてとてと懸命に歩いてくる。優しげに笑い、聖亜はそっとしゃがみ込んだ。
「はい、もう落としちゃ駄目っすよ」
「あい、あいがと、おねえたん」
 たどたどしいお礼の言葉に、自分はお姉ちゃんじゃないんだけどな~、と、聖亜はちょっとだけ苦笑いを浮かべた。
 そして、少女の小さな指が、ハンカチに触れた、その瞬間



 視界が、黒一色に染まった。


                                  続く


 こんにちは、活字狂いと申します。
「スルトの子 第一幕 夏の日に見た、胡蝶の夢①」はどうだったでしょうか。
さて、ここでネタバレを一つ。一番最初に書いた“あるもの”の内、無いのは石油であります。この世界は、石油がまったく発見されなかった世界なのです。そのかわり、発達したものとして、蒸気機関があります。といっても、物語の舞台では、すでに蒸気機関ではなく、電機が主流になっていますが、それでも、ちらほらと蒸気機関は舞台に出てきます。

さて、つぎはいよいよ、第一幕の佳境に入ります。
では、しばしご清聴の程を



[22727] スルトの子 第一幕   夏の日に見た、胡蝶の夢②
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:32

「……あ……え?」
 聖亜は、ぼんやりと辺りを見渡した。
 どうやら、少しの間、呆然としていたらしい。時間にして、わずか数秒ほどだろう。
「……よ、る?」
 だが、聖亜には、その数秒が、まるで何時間にも感じられた。
 なぜなら、黒いのだ。道も、建物も、人も、空も、その全てが。
 強引に、夜の帳を下ろしたかのように。だが、
(星が、一つも、無い)
 いつもなら、晴れ渡る夜空に浮かぶ満天の星も、その中で一際輝く青白い月も、まるで漆黒のベールに包まれたようにそこには無く、さらに何かに押しつぶされるかのように、息苦しい。

 とにかくここにいてはいけない。そう結論を出すと、聖亜は重く感じる足をゆっくりと前に押し出した。
 不意に、ずくりと、音を立てそうなほど強い恐怖が、自分の身体を包んだ。
逃げろ、と、誰かが言う。その言葉どおり、必死に逃げようとしているのに、足は、まるで地面に縫い付けられたかのように動かない。


 そのとき、ゆらりと、前方の黒い闇が動いた。

悲鳴を上げそうに鳴るが、聖亜は、ふと、のどまで込上げた悲鳴を飲み込んだ。闇が動いたと言うことは、この時、この場に、自分以外の誰かがいて、そして動いていることになる。
「よかった、誰かいっ……」
 胸に安堵感が広がり、今まで重かった足も、元通り動く。すぐに、気配のするほうに走り出そうとした聖亜は、だが、不意に立ち止まると、近くの店の陰に、そっとしゃがみ込んだ。

  自分の中の何かが言ったのだ、見つかるな、と

 聖亜が身を隠したのと、黒い闇の中から、“それ”が現れたこと、それは、どちらが早かっただろうか。前方から現れたもの、それは、

(か……面?)

 それは、青白い光を放つ、二つの仮面であった。
 大きさは、人の顔ほど。どちらも中央に縦線が走っており、周りが緑色に縁取られている。一見すると、同じ仮面に見えるが、そこに描かれた表情は、まったく異なっていた。


一つは、憤怒の表情を、
もう一つは、涙を流す悲しげな表情を、それぞれが浮かべていた。


 ここまでなら、変わったところは余り無い。演劇などで、似たような仮面を被る人はいるし、手品師の中にも、自分の表情を隠すため、仮面を被る人がいる。
なにより、二つの仮面の内、悲哀の表情を浮かべている仮面は、去年のハロウィンで、友達の秋野と福井に被せられたそれにそっくりだったから、
 だから、聖亜はその時、恐怖を忘れ、声を掛けようとした。
だが、次の瞬間、少年の忘れていた恐怖は、少年に、倍になって襲い掛かった。
「……ひっ」
 なぜなら、仮面を被っているのは、人間ではなく、
「……」
「……」
 人間がどんなに真似をしようとしても、決して真似できないほど、人間にそっくりな、

 二体の、人形であったから


 その姿はほとんど人間と変わらない。だが関節の部分には螺子が巻かれ、褐色の肌の所々には、わずかに節目が見える。これがなければ、聖亜は彼らに向け、飛び出していただろう。だが、寸での所で、彼は自分を捕らえようとする死神の指から、ほんのわずかに、逃れることが出来た。


 さて、聖亜が恐怖に駆られている間に、人形は彼のほうに向けて歩き出す。躊躇の無いその動きに、まさか見つかったか? と聖亜は思ったが、人形は、少年の前を通り過ぎると、彼らの前方に立っているサラリーマン風の男に、ゆっくりと近づいていった。
(……え?)
 聖亜は、いきなり現れたその男に、ふと首を傾げた。今まで、この黒い空間には、自分しかいなかったはずだ。それなのに、人形達は、その男に向けて、迷わず歩き出していた。
 だが、そのことに疑問をはさむ余裕は、少年には与えられなかった。
(いったい何を……あ)
 少年の見つめる先で、憤怒の仮面を付けた人形が、男の前にゆっくりと進み出る。そして、その右手を、ゆっくりと男に向けると、


ずぶりと、手は男の中に潜り込んだ。


「ひ……あ、あ……」
 途端に、男の表情が変わる。今まで能面のような表情だったそれが、いきなり苦しみだし、人形の手が身体から離れると、男は、がくがくと身体を震わせ、


ばたりと、地面に倒れ伏した。


「く、なんっすか、なんなんすか、これっ」
 がくがくと、再び恐怖が込上げてくる。今すぐにでも此処から逃げ出したい。だが、下手に動けば、すぐに彼らに見つかるだろう。ならば、このまま此処でやり過ごしたほうがいいだろうか。
 恐怖と葛藤で動けない彼の目の前で、手を引き抜いた人形が、もう片方の人形に手を向ける。と、そこには、今まで無かった、こぶし大の白い球が握られていた。
悲哀の仮面を被った人形は、それを恭しく受け取ると、腰に下げていたバッグの中に入れる。その間に、人形は別の人間に向かっていき、先ほどと同じように、その身体に手を差し入れた。
(に、逃げないと、逃げないと、こ、殺されっ)
 少年の中で、見つかることの恐怖より、ここにいることへの恐怖が勝った。がくがくと震える足を何とか動かし、じりじりと後ずさりする。
 と、その足に、何かが当たった。視線を、何とか下に向ける。と、
「……」
 少年の瞳が、一瞬細まった。
 それは先ほど、彼が最後に話した、若い母親と、小さい女の子だった。おそらく、もう襲われた後なのだろう。どちらの顔も苦痛に歪んでいる。だが、母親が、娘を抱きかかえるその姿は、親が、子を庇っているように見えた。
 おそらく、単なる偶然だろう。だが、一瞬だけ、彼は逃げるのを忘れ、そして、


そして、その細まった瞳で、人形を見つめた。


「……ふむ」
 少年の視線に気付いた人形が、引き抜いた白い球を、別の人形に渡し、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「まさか、我らの“狩場”で、動ける“家畜”がいるとはな。貴様の仕業か?“ビショップ”」
「……ご冗談を。主ならともかく、私には何も出来ぬ哀れな“家畜”を、必要以上に弄ぶ趣味はありません」
「ふん、そうだったな」
 憤怒の人形から発せられる、自分の中の何かを抑え付けているような声に、悲哀の人形は、その表情に合う、悲しげな声で答えた。
「……」
 その間も、聖亜は二体の人形を、じっと睨み続けた。
「……それで、この“家畜”はどうしますか? “ポーン”」
「決まっている。回収するだけだ」
 憤怒の人形が、ゆっくりと近づいてくる。その動きをぎりぎりまで見てから、聖亜は、動いた。
「なにっ!?」
 自分の伸ばした手が避けられるとは思わなかったのだろう。ゆっくりと伸ばされた手の下をかいくぐると、聖亜は、前に向かって走り出した。


 そう、悲哀の表情を浮かべた人形の、腰に備え付けられたバッグに向かって。だが、
「……無礼ではありませんか?」
「う……」
 その動きは、のど元に突きつけられた、硬い杖によって遮られた。
「やれやれ、すまんな、“ビショップ”よ」
「かまいません。それより“狩場”でこれほど俊敏に動けるならば、“彼ら”の可能性があります」
「……ふむ、それにしては“玩具”を出さぬが……まあいい、早く回収してしまうとしよう」
「うぁっ」
 頭が、後ろから強い力で持ち上げられる。じたばたと動き、何とか足で人形の身体を蹴るが、相手は何の痛痒も感じていないらしい。
「無力……やはり“奴ら”ではないか、まあいい。すまんな小娘、痛みの中回収される、己の悲運を呪うが良い」
 誰が小娘だっ! そう叫びたいが、痛みと恐怖で声が出ない。人形の手が、ゆっくりとこちらに伸ばされる。一度は逃げた死神の指が再び彼を捉えようとした、その時、


 ヒュンッ

 
 すさまじい速度で飛来した“それ”が、少年を抑え付けていた人形の腕を切り裂いた。
「ぬっ」
 腕を切り裂かれた人形は、聖亜を地面に放り投げると自分の手を傷つけたそれを睨みつける。


 それは、黒い世界の中、唯一白く輝く、一本の小太刀だった。


「ぐ、あ、はあ、はあ、はあ!」
 地面に投げ出された聖亜は、仰向けのまま、ぜいぜいと大きく息を吸った。視界が涙で滲む。と、塗れた視界の中、誰かが自分の横に立つのが見えた。
「……」
 それは、少年であった。肩の所で切りそろえた髪は、雪のように白く、その肌も髪同様に白い。そして、人形を睨み付けるその瞳は、



見る者に海を思わせる、深い蒼であった。



「貴様……何者か」
 憤怒の仮面を被った人形が、その表情にふさわしい声を出し少年を睨む。その人形に、彼は笑みを浮かべることで答えた。まるで氷のように冷たい笑みを。
「何者かと聞いている!!」
 怒声と共に、少年に向かって人形が大きく腕を振る。その動きは、先ほど聖亜を捕らえた時より、倍ほども速い。
 だが、その速さでも、少年を捉えることは出来なかった。振り下ろした腕は、少年に当たることなく、彼が立っていた地面に、無様に食い込んだだけであった。
「キュウ」
 不意に、頭上で静かな声がした。聖亜が見上ると、ガス灯の上に先程の少年が立っている。
「……どうした? まさかこの程度の“エイジャ”相手に、助言が必要なわけでもあるまい」
 その声に、どこからか別の声が応える。それは、男とも、女とも分からない、低い声であった。
「違う、口を挟むなと言おうとしたんだ。単純な攻撃しか出来ない雑種など、ふん、“魔器”を使う価値も無い」
「な、貴様ぁ!」
 激昂した人形が、少年に突きを放つ。だが、少年は、あろうことか自分に突き出された手に乗り、そのまま人形のわき腹に、自らの肘を強かに打ちつけた。
「ぐ……むっ」
 続けて、右足で人形の首筋を蹴り上げる。まるで踊るようなその動きに、聖亜は、一瞬見とれた。
「が、く、調子に乗るなよ、小僧。捕まえたぞ!!」
「っ!?」
 首筋に食い込んだその足を、人形は強引に掴むと、よほど体重が軽いのだろう、たやすく少年の身体を持ち上げ、
「くらえっ!」
 ぶんっと勢いをつけ、その身体を、近くのブロック塀に、思い切り放り投げた。
がらがらと音を立て、ブロック塀が崩れ落ちる。ふんっと鼻を鳴らし、人形が近づいたときだった。
「ぐ、があああああああっ!!」
 絶叫を上げたのは、人形の方だった。
「……勝利を確信したときこそ、油断するな。そう教わらなかったのか?」
砂埃の中から、少年が何事も無かったかのように歩み出てくる。と、その右手には、先ほどはなかった、白く輝く、一本の太刀が握られていた。
 冷ややかに笑う少年にを、右肩を切り裂かれた人形は、仮面を真っ赤に染めて睨み付けたが、やがて、何かに気付いたかのように、後ろに下がった。
「……白髪、氷のような表情、そしてその刀。貴様……知っているぞ、玩具使い“百殺の絶対零度”!」
「ポーン、もし、彼が百殺ならば、相手が悪すぎます。我らが同胞百名を、一夜にして滅した相手です。此処は一端、退くべきかと」
「……それが最善だが、ビショップよ、奴は簡単に逃がしてはくれまい」
「よく分かってるじゃないか。なるほど、能無しの雑種かと思ったが、少なくとも相手を警戒するだけの知恵はあるようだ。中級クラスか……けど、大人しくやられたほうがいいぞ。抵抗すると、痛いだけだからな!」
「く、ほざくな、絶対零度!!」
「きゃっ!」
 ビショップという名の人形の持つバッグに、強引に手を突っ込むと、ポーンという名の人形は、その中から引き抜いた大剣を振り上げ、向かってくる少年に振り下ろした。
ガキンッと音がして、剣と刀が打ち合う。そのままぎりぎりと鍔競り合いが続くが、やはり力では相手のほうが勝っているのだろう。やがて、少年は徐々に押し込まれていき、とうとう片膝を付いた。
「これで、止めだっ!!」
 傍らにあるガス灯を、肩を引き裂かれた方の手で掴むと、ポーンはその手をぐいっと捻った。すると、ぽきりという音が聴こえそうなほど簡単に、ガス灯は途中で折れた。
 辺りに、管に詰まっていた蒸気が立ち込める。視界が悪い中、人形は、身動きが取れない少年に、ガス灯をぶちあてた。
 どすっ、と、何かをえぐる音が、周囲に響いた。
「ふん、今度こそ潰れたか?」
 口ではそう言いながらも、人形は暫くガス灯を地面に押し付けた。が、少年が出てこないのを確認すると、今度こそ、ガス灯を持ち上げた。
 段々と霧が晴れていく。それにあわせるかのように、人形の身体が、ぶるぶると震えだした。
「馬鹿な……ばかなバカナ馬鹿なっ!! いないだと!!」
 そこに、少年の潰れた姿は無かった。いや、それだけではない。辺りに飛び散るはずの鮮血も、そこには一滴も付着していなかった。
「馬鹿な……どこへ消えた、どこへ消えたっ!! 絶対零度っ!!」
 その時、完全に霧が晴れた。
「あなた、上ですっ!!」
 相方の悲鳴のような言葉に、ポーンはふと空中を見たが、次の瞬間、ばっと自分の持っていたガス灯を手放した。
 だがその動きより、少年がガス灯をつたって、人形の懐に飛び込むほうが速かった。
「ふっ!!」
 小さく息を吐き、少年の持つ刀が、人形の右わき腹を存分に切り裂いた。
「……がっ……ぐっ」
 よたよたと後退し、人形はがくりと片膝を付いた。
「あなた、これ以上は無理ですっ!! 一度帰って、あの方に見ていただかなくては」
「ぐ……敵を前に背を向けるのは武人の恥だが、致し方あるまい。くっ」
「もう一度言って欲しいのか? 逃がさない」
 そう呟き、少年が人形に向けて走り出す。だが彼の刃が人形に届くより、ビショップがバッグから取り出した小瓶を地に叩きつけるほうが速かった。
 小瓶が砕け、辺りに黒い液体が飛び散る。鼻につんと来る異臭を放ちながら、それはやがて、ごぽごぽと盛り上がる。
「お前、吹奏者(すいそうしゃ)だったのか」
「ええ。私自身に戦闘力はありませんが、こうやって“使徒”を生み出すことは出来ます。さあ、生まれなさい黒き獣よ。そして喰らいなさい。目の前にいる玩具使いを」
 その声にあわせ、盛り上がった液体は、徐々にその形を変えていく。やがて現れたのは、狼に似た頭部を持ち、手に三本の爪と、足に突き出た鍵爪を持つ、三体の獣だった。少年を見る目は、どう見ても友好的ではない。
「私たちを追うのはいいですが、その間に、彼らはあなた以外の“家畜”に襲い掛かるかもしれませんよ。それでは、今日のところは下がらせてもらいます」
「……」
 後ろに下がっていく人形の代わりに、少年に黒い獣が襲い掛かる。その牙で、爪で、鍵爪で、少年を引き裂くために。
 だが、彼は心底面倒くさそうにため息を吐くと、刀を軽く水平に払った。



 勝負は、その一撃で付いた。



 首を払われ、胴を引き裂かれ、足を断たれた獣がずぶずぶと元の黒い液体に戻っていくのを、聖亜は呆然と眺めていた。
 と、息苦しさが無くなった。辺りのガス灯に再び明かりが灯り、遠くには人々の声も聞こえる。どうやら、何かが終わったらしい。それが何かは、彼には分からなかったが。
「ふむ、逃がしたようだな」
 不意に、少年の前に、黒い小さな影が降りた。
「仕方ないだろう、一般人を巻き込むわけには行かない」
「やれやれ、そなた相変わらず甘いな」
 先ほど聴こえた、男とも女とも分からない声で喋る、その声の持ち主、それは夜空に似た毛並みを持ち、紫電の瞳をした、一匹の猫だった。
「さて、これからどうする?」
「決まっているだろう、奴らを追う」
 と、少年は自分の胸に、いきなり太刀を突き刺した。
「あ……」
 慌てて聖亜が立ち上がるが、太刀はずぶずぶと少年の身体に、いや、少年の首に掛けられているペンダントの中に入っていく。やがて太刀を完全に押し込むと、少年は、聖亜の脇を通り、地面に突き刺さったままの小太刀を引き抜くと、同じようにペンダントの中に突き入れた。
「さて、終わった。じゃあ、行くぞ、キュウ」
「うむ」
「あ、ちょ、ちょっと待ってくださいっす」
 歩き出そうとする少年と猫に、聖亜は慌てて声を掛けた。まだ頭は混乱してるが、どうやら自分はこの少年に助けられたようだ。ならば、きちんと礼を言わなければならないだろう。
「えっと、助けてもらって、どうもありがとうございました」
 自分に向かって頭を下げる聖亜を、少年は不思議そうに見ていたが、不意に、首を傾げた。
「そういえばキュウ、なんで“こいつ”は、奴らの狩場の中で動いていたんだ?」
「ふん、奴らのやりそうなことだ。こやつ一人の自我を奪わず、恐怖で逃げるこやつを相手に、狩りを楽しんでおったのだろう。それで、どうする?」
「……決まっているだろう」
「ふん、それもそうだな。おい、小僧」
「うぁえ、な、何っす……か?」
 いきなり声を掛けてきた猫の瞳を、聖亜は真正面から見た。と、その瞳が金色に輝く。その輝きは、呆然としている自分を包み込んだ。
 辺りが金色の光に満ちる。身体を横たえ、ゆっくりと眠りに落ちる自分を、聖亜は自分の部屋で気が付くまで、ぼんやりと眺めていた。それはまるで、そう、まるで、自分の身体から抜け出し、蝶になった自分が、もう一人の自分を見つめる、



 胡蝶の夢がごとく。


                                 続く



こんにちは。活字狂いです。はてさて、どうだったでしょうか。「スルトの子 第一幕  夏の日に見た、胡蝶の夢②」は。
さて、主人公の聖亜は、どこにでもいる普通の高校生です。自分の低い身長と、女顔にコンプレックスを持つ、とんでもないへたれです。ですが、本当にそれだけでしょうか……おっと、喋りすぎたようですね。確かに彼はへたれではありますが、それだけではありません。むしろ……おっと、また悪い癖が出てしまったようだ。では、この辺で今日はお開きを。では、次は「スルトの子 第二幕  灰色街の歪んだ日常」で、お会いしましょう。

最後に、この物語のテーマは、「嘘」あるいは「偽者」です。それを頭の片隅に置き、それでは次の幕が上がるまでのしばしの間、どうぞお休みを。    



[22727] スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常①
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:32
 
夢を、見た


 誰かが優しい子守唄を、歌っている夢

 ねんねんころり ねんころり
 
 眠りなさいな 愛し子よ
 
 ねんねんころり ねんころり
 
 星たちが眠る 時間まで
 
 ねんねんころり ねんころり

 眠りなさいな 幼な子よ
 
 ねんねんころり ねんころり

 朝顔がおきる 時間まで

 
 歌っているのは若い娘だ。彼女は画用紙に一生懸命絵を描いている幼子を、優しい笑みを浮かべ、見守っている。
 だが、その手が幼子の右手に触れた瞬間、


 娘の体は、赤く燃え上がった。



西暦2015年(皇紀15年)7月1日、午前1時05分



 薄暗い部屋の中で我に返ったとき、聖亜は自分が泣いていることに気づいた。
“彼女”の夢を見るのは、本当に久しぶりだった。穏やかで優しく、切なくて寂しく、そして震えるほどに恐ろしい、そんな夢。

 ぼんやりとした意識の中辺りを見渡すと、ふと棚のところで目が止まった。小型の目覚し時計や、準にもらった本が散乱する中に、何枚かの画用紙が散らばっている。ここからでは、そこに何が描いてあるかは見えない。



 だが、再び眠くなるまで、聖亜はその見えない画用紙を、じっと見続けていた。



西暦2015年(皇紀15年)7月1日 8時10分



 灰色街の一角、蜘蛛の巣と呼ばれる入り組んだ雑踏区の片隅で、女はいつもと同じように雑貨屋を営んでいた。
 といっても、大した物は売っていない。布の切れ端や欠けた茶碗、良くてゴミ捨て場から拾ってきた、壊れた蒸気機械の部品がある程度だ。
 そんなものだから、客はめったに来ない。大体、右を見ても左を見ても、同じような雑貨屋が軒を連ねているのだ。客がやってきても、数十軒、いや、百軒以上ある店の中からこの店にに客が来るなど、女は思ってもいない。
 

 それに第一、この雑貨屋は、カモフラージュでしかないのだ。


 だから、店を開けてまだ10分も経たないうちに、女は既に欠伸を繰り返していた。
「……おや?」

 その少年を見たのは、今日何度目かの欠伸をした後だった。ジャケットとジーンズという、この街では高級な服を着込んでいる、白髪の少年だった。ずいぶん整った顔立ちをしており、少女に見えなくもない。そのため、すれ違った男たちが、ときおり彼のほうを振り返っている。
 だが、あの程度の容姿なら、快楽区では中の上ということだ。それほど珍しいものではない。女が注目したのは、少年が歩いているのを見たのが、10分という短い間に、これで5回目だということだ。
「はぁん……“橋向い”からのお客かい」
 橋向い、つまり街の外から来た少年を見て、女は顔に出ないように、口の中で小さく舌なめずりをし、値踏みした。周りの店のやつらも、同じようなことを考えているのだろう、少年にしきりに声をかけ、商品を薦めている。だが、少年は売り物をちらりと見ただけで、後は何かを探すように、きょろきょろと辺りを見渡しながら歩いている。
「道にでも迷ったかい? とすると……くくっ、ついてるね。“一見”さんかい。それも、どうやら外国からのお客のようだ」
 足元に置いてある鍋を、3回叩く。しばらくして、奥で同じように3回、何かを叩く音が聞こえてきた。
 それを聞いてから、女は慣れた様子で、作り笑いを浮かべた。
「坊ちゃん、そこを行く坊ちゃん、そう、あんただよあんた」
 自分を呼んでいることに気づかなかったのか、そのまま店を通り過ぎようとしている少年の裾を、女は慌てて掴んだ。
「……私に何か?」
 その青い瞳を、不機嫌そうに細め、少年はこちらを見た。
「そうだよ。あんた、さっきから何をうろちょろしてるんだい? どこか行きたいところがあるなら、おばちゃんに言ってごらん。教えてあげるからさ」
 優しげな声を出し、女は内心でほくそえんだ。なるほど、やはり大当たりのようだ。男の癖に私、などというのは、金持ちの家に生まれた子供だけだ。
「……」
「さ、どこに行きたいんだい? それとも、何か欲しい物でもあるのかい? 大抵の物は見つけてあげられるし、若い女の子が欲しいなら、快楽区まで案内してあげるよ。ああ、お金が無くても心配は要らないさ。工場区に行けばいくらでも仕事は見つかるからねえ」
 命と引き換えにね、と内心で吐き捨て、さりげなく鍋を2回叩く。
「さ、言ってごらんよ」
「……鎮めの森に行きたい」
 少年の言葉に、女は一瞬、そう、ほんの一瞬だけ、眉を顰めた。だが、すぐに作り笑いを浮かべる。
「おや、あそこに行きたいということは、観光かい? 確かにあそこはいい所だよ。こんな所と違って、空気も澄んでるしさ。ああ、もちろん知ってるよ。あたしゃここに、10年は住んでるからねえ。けど、こっちも商売だ。さ、教える代わりに、何か買っとくれ」
「い、いや、買っとくれって、言われても」
 並べられている商品を、少年は気まずそうに見つめた。何か礼をしたいという気持ちはあるのだろう。そんな彼に、女は笑って手を振った。
「ああ、大丈夫だって。ここにあるのは、あたしらが使う生活品さ。さ、坊ちゃんにはこっちの方がお似合いだよ」
 笑いながら、足元にある箱を引っ張り出す。中には瓶詰めになった粉末やら、緑色の宝石をはめ込んだ小さな指輪などが入っている。が、そのほとんどは偽物だ。媚薬と描かれた小瓶の中の粉末は、単なる動物の骨を砕いたものだし、指輪についている緑色の石は、宝石などではなく、そこいらに転がっていた石を塗ったものだ。
 箱の中身を見て、少年はまた気まずそうな表情をしたが、やがて、がさごそと物色し始めた。
「……これをもらおうか」
 彼が箱の中から取り出したものを見て、女は軽くした打ちした。それは、所々黒ずんでいるが、桜の花の飾りがついた、桃色の髪留めだった。女が舌打ちしたのは、これは自分たちが作った偽物ではなく、焼け跡から拾ってきたものだったからだ。
(まあいいさ、どうせすぐに戻ってくる)
「ああ、いい物に目を付けたねえ。それはこの店一番の目玉商品さ。さる貴婦人が使っていたものでねえ。そうさね、2万・・・・・・といいたい所だけど、大まけにまけて1万。ドルだったら、円に換える手間もかかるから、120ってところだね」
 髪留めを袋に入れる女を一瞥すると、少年は小さくため息を吐いてから、胸ポケットに手をやった。しばらくごそごそとしていたのは、迷っていたからだろうか。だが、やがて、中からゆっくりと黒い財布を取り出した。
「……」
 財布から、百ドル札が一枚、十ドル札が二枚出てくる。久々に見る大金に、周りの見物人が、どよどよとざわめいた。
 その連中を睨んでから、女はにこやかに金を受け取ると、継ぎ接ぎだらけのズボンのポケットに、素早くねじ込んだ。
「ありがとうね、さ、これが商品だ。後、これはおまけ。胸にでも挿してごらん、女の子にきゃあきゃあ言われるよ……ああ、約束だったね。鎮めの森は、あの角を曲がったところさ」
「……」
 胸に白い花を刺した少年は、小さくお辞儀をしてから、女が指差した曲がり角に向かって歩いて行った。


「……くくっ、馬鹿だねえ」
 少年の姿が完全に見えなくなってから、女は“いつもの”笑みを浮かべた。
 無論、先ほど教えた道は嘘だ。大体、この蜘蛛の巣は、鎮めの森を囲むように広がっている。だから、わき道に逸れれば、すぐに森が見えるが、女が教えた道の先は、単なる行き止まりだ。
「さあお前たち、仕事だよ、出ておいで。久々の上玉だ、逃がしたら承知しないからね!!」
 鍋をガンッと勢いよく叩く。と、店の奥から体格の良い、だが薄汚れた男が4人出てきた。
「おう、そいつ、そんなに上玉か?」
「ああそうさ。くくっ、かなりの別嬪さんだ。男色野郎に売れば、半年は遊んで暮らせるほどのね」
「へ、へへ、なあ、おいら、ちょいと味見してもいいかな?」
「いいけど、“壊す”んじゃないよ。安く買い叩かれるからね。さあ行きな! 目印は白髪と、胸に挿した雑草だ。あんな細いガキ、あんたらなら簡単だろ」
「あたぼうよ、おい、行くぞ手前ら」
 リーダー格の男を先頭に、4人はぞろぞろと歩いていく。それを見送ると、女は鼻歌を歌いながら、すぐにでも聞こえるだろう、少年の悲鳴を心待ちにしていた。
 だが、
「が、があああああ!!」
「ひ、やめ、やめええええええ!!」
「ぐふえっ!!」
「わ、悪かった、わるっ、ぎゃあああああああ!!」
「な、なんだい、いったい!!」
 聞こえてきたのは、聞きなれた男たちの悲鳴と絶叫だった。
 慌てて行き止まりに向かう。そして、角を曲がった女が見たものは、

 辺り一面の、血の海だった。

「ちょ、どうしたんだい!! あんた達」
 慌てて、すぐ近くの男を抱き起こす。
「が、ごぼっ、何が簡単、だ。や、奴は、化け、物」
 肋骨の一部が、体を突き破って出ている。肺を傷つけたのか、喋るたびにごぼごぼと口から血を吐いていた。
 男の隣では、顎を“失った”男が呻いている。他の2人も、それぞれ足と手を砕かれ、呻いていた。
「くっ、あのガキは、あのガキはどこに消えたんだい!!」
「う……鎮めの、ぐあっ」
 気絶した男を放り出すと、女は銃を取りに、店に向かって駆け出した。
「許さない、許さないよ、あのガキ!! 腕と足を切り落として、見世物小屋に売ってや……な、何やってんだい、あんた達!!」
 だが、女の店は、10人ほどの男に物色されていた。皆ぼさぼさの髪と、灰色に濁った眼をしている。
「ちょ、やめな“鼠”共、そこはあたしの店だよ、やめろ!!」
 慌てて“鼠”を掻き分け、店に置いてある銃に向かう。だが、銃にもう少しで手が届きそうになった時、女の腕は横からガシッと掴まれた。
「「「「「「…………」」」」」」
「ひっ」
 何の感情も映していない、灰色の眼が、じっとこちらを眺めていた。
「女……」
「……金」
「……女」
「金……」
「ひっ、来るんじゃない、来るんじゃないよ化物(けもの)共!! ひっ、ああああああああああ!!」



 三日後、蜘蛛の巣の近くの排水溝、腐食した無数の死体が浮かんでいるところに、髪も目も、歯も手も、足も何もかもが無い、男の死体が4体、浮かんでいた。


 女の行方は、未だに知れない。


 
 だがそれすら、灰色の街にとっては、いつもの光景にすぎなかった。

 

 ああなんて、歪んだ日常。



 高知県南西にある都市、太刀浪市(たちなみし)周囲を山と海に囲まれ、かつては蒸気機械の一大生産地だったこの都市は、今では別の理由から、日本、いや、世界中に有名になっていた。
すなわち、災厄の起こった都市として。


災厄―その名を聖夜の煉獄という。


 12年前のクリスマス・イブ、その夕方、10年前に完成した総合病院を中心に、繁華街として賑わっていた都市西部を、突如、謎の大爆発が襲った。
 後の調査で、爆発は、病院の地下で稼動していた大型蒸気機械の暴走・及び爆発、それに伴う、別の蒸気機械が次々に誘爆したためと発表されたが、人々は原因よりも、被害のあまりの大きさに戦慄した。すなわち、


 形が残っている死者、およそ5千
 形が残って“いない”死者、およそ2万
 

 当時の総人口の、実に2割近くを失った人的被害と、都市西部壊滅という経済的打撃を受けた都市は、15年後、3つの街に分かれた。
 被害が無かった都市東部は、市外へ抜ける高速道路が走り、市役所や警察署・学校など、都市機能のほとんどを受け持つ新市街に、五万十川(ごまんとがわ)が間にあった為、爆発による被害は無かったが、強烈な爆風による建物倒壊など、多少の被害を受けた都市中央部は、太刀浪駅を中心に、南には空港、西には太刀浪神社を中心とした観光通り、東にはジャストを中心としたデパート通りが広がっている旧市街に。
 そして、2つの街とは大川を挟んで隣り合う、災厄による壊滅的な被害を受け、現在も復興が続けられている復興街に。
 だが、復興はほとんど進まず、浮浪者や犯罪者がはびこるようになったこの街を、他の2つの街、特に新市街に住む人々は、侮蔑をこめ、こう呼んでいた。



 排煙と汚水にまみれた街―灰色街と。



「ここが、鎮めの森、か」
 道端に、蒸気を通す太い管やら、修理もされずに転がっている機械やらが散乱する中、頬にべっとりと付いた返り血を拭うと、ヒスイは目の前で口をあけている巨大な森を眺めた。
「うむ、聖夜の煉獄の中心地、かつては大きな病院のあった場所だ。それよりもヒスイ、あまりぼんやりとするな。先刻のような事になっても、我は知らんぞ」
 傍らにいる黒猫が指摘しているのは、男達に襲われた一件だった。無論“エイジャ”を狩る自分に、単なる人間がかなうはずが無い。男達は自らの軽率な行動の代償を、自らの体で償った。
「しかし、ふんっ、街中で騒ぎが起こっても誰も見向きもせんとは、かつて世界有数の機関都市の、これがなれのはてか」
 愚痴をこぼす黒猫の脇を、薄汚れた子供が数人駆け出して行く。その中の一人が跳ねた泥水をもろにかぶり、キュウは毛を逆立てて、大きく震えた。
「ふふっ、そう、だな。そろそろ入るぞ」
 寒そうにくしゃみを繰り返す相棒を抱き上げ、ヒスイは暗い森に向け、足を一歩踏み出した。
                                   続く

 こんにちは、活字狂いです。今回は、少し投稿が遅くなりました。申し訳ありません。というのも、勤務している博物館が、文化の日に向けて忙しかったからです。昨日も休みなし。けど、代わりに今日休みが入ったので、こうして投稿させていただきました。
 さて、いかがだったでしょうか、「スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常①」は。この街は、本当に歪んでいます。強盗や殺人は当たり前。騙す奴より、騙されるほうが悪い、そんな街です。一応、自警団らしいものはいますが・・・・・・さて、では次回、「スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常②」でお会いいたしましょう。



[22727] スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常②
Name: 活字狂い◆e0323915 ID:b7707b89
Date: 2016/05/07 12:32
西暦2015年(皇紀15年)7月1日、6時40分

 結局眠れなかった。

 目の下に真っ黒なクマをつけ、いつもは束ねている長髪をばらばらにした、まるで幽鬼のような格好で、濃い霧に包まれた通学路を、聖亜はとぼとぼと歩いていた。
 朝になると、地下から排出される水蒸気と、海から来る霧に包まれ、旧市街は白く霞む。体に害は無いが、視界はすこぶる悪い。
 まとわり付く霧を払うように、聖亜はぼんやりと首を振った。
 彼は、感情が高ぶったり、変に気落ちしたりすると、一睡もできなくなるという、悪い癖があった。
 原因は分かっている。昨日の騒動のせいだ。はっきりと覚えていないが、黒い世界で、人間を襲う2体の人形、その人形を軽くあしらう少年、黒い獣に、黒い猫。
 最初は悪い夢だと思った。だが、洗面所で顔を洗って、目の前の鏡を見た瞬間、現実にあった出来事だと確信した。



 そう、首に付いている、紫色の痣を見て。


 その部分を、聖亜はしばらく擦っていた。そしてそのまま、角を曲がった時、
「うわっ」
 霧の中、道の端に黒い物体が目に留まる。あれは、昨日の―
「カァ」
「……へ?」
 その鳴き声に、凍り付いていた少年の体は、一瞬で氷解した。
「な、なんだ、カン助じゃないっすか」
 そこにいたのは、一羽の烏だった。右目が潰れており、体にも所々古い傷跡があるため、聖亜はこの烏をカン助と呼んでいた。
「けど、珍しいっすね、カン助がこっちに来るなんて」
 他の都市と同様、太刀浪市にも、無論烏はいる。だが、彼らの縄張りは山の中だ。どうやら、山腹にある荒れ寺を住処にしているらしい。聖亜の通う学校は、その山の麓にあるため、よくこの烏から食べ物を奪われていた。
 カン助と呼ばれた烏は、首を傾げる少年を一瞥すると、やがて歩き出した。が、数歩歩くと、立ち止まってこちらを振り向く。飛ぶ気配も無い。ついて来いということだろうか。
「えっと、何すか?」
 どうせ眠れないため、いつもより早く家を出たためか、まだ時間に余裕はある。烏の後をとことことついて行くと、烏は隅にあるゴミ捨て場で立ち止まった。
「いったい何が……あ」
 ゴミ捨て場の隅にいたのは、右の羽に矢が刺さった、一羽の烏だった。
「ひどい……誰がこんな事を」
 慌てて駆け寄ると、その烏は途端に騒ぎ立てた。カン助と違い、あまり人間になれていないのだろう。だが、カン助が甲高い声で鳴くと、びくりと停止した。
「大丈夫、矢を抜くだけっすから」
 矢が変なところを傷つけないように腕で烏を押さえると、ゆっくりと矢を引き抜く。痛みで暴れる烏の羽がびしびしと当たるが無視し、最後は一気に引き抜いた。
「これでよし、ちょっと待っててくださいっす、今包帯を巻くっすからね」
 もしもの時に備え、バッグの中には包帯や絆創膏が入っている。念のため、薬は使わない。きつくない程度に巻いてやると、それを見届けたカン助が、カァっと一声鳴き、空に飛び上がった。それに続き、もう一羽も慌てた様子で飛び上がる。
「じゃあ、気をつけて帰るっすよ」
 飛び去っていく二羽の烏を見送っていると、不意に睡魔が襲ってきた。
「あ~~~~~、なんかすっげえ眠いっすね」
 かくんと頭を垂れ、少年は再び学校に向けて歩き出した。




西暦2015年(皇紀15年)7月1日、7時20分


 その場所は、外と比べ、静寂に満ちていた。
 一人と一匹が歩く小道の両端には、白い小石が所狭しと敷き詰められている。

 まるで、墓石のように

「空気が重いな」
「……それだけではない。生き物の気配が、全く感じられん。まるで」
 まるで、この世が終わったあとの景色のようだ。
 最後は口の中で呟くと、黒猫は周囲を見渡した。
「爆発の原因は分かっているのか?」
「表向きには、病院の地下に設置されていた、大型の蒸気機械の暴走となっているが」
 口を閉ざし、自分の言葉を否定するためか、黒猫は、ふるふると頭を振った。
「そんなはずは無い。都市の三分の一を吹き飛ばす爆発など、いったいどれほどの機械だというのだ。それに、他の機械の誘爆にしても、時間に差は出るはずだ。だが」
「ほぼ同時に、爆発は起こった……そこにいる人々が、逃げる間もないほど、唐突に」
「うむ、だからこそ、ここに住む者は、災厄に煉獄という名を付けたのだ。その名前の、真の意味も知らずにな」
 いつもより、彼らの口数は多い。無理も無い。そうしなければ、彼らでさえ、とても耐えられないのだ。

 総合病院の跡地、災厄の発生地に作られた、この森の雰囲気に。

「じゃあ、やはりあの爆発は、奴らの……と、着いたようだな」
 不意に、彼らはぽっかりと開いた空間に出た。
「……気付いているか、ヒスイ」
 ふと、黒猫が低く唸った。
「ああ、まったく、何が“澄んでいる”だ、濁りきってるじゃないか」
 頷いて、首を右に逸らす。半瞬後、今まで首があった場所を、何か冷たい物が通り過ぎた。
「ふん、スフィルにもなれぬ死霊の集まりか、どうする? ヒスイ」
「見過ごすわけには行かないだろう」
 胸ポケットからペンダントを取り出したヒスイを見て、黒猫は、呆れて首を振った。
「やれやれ、死霊を相手にするなど、面倒なだけだ。これからの事を考えれば、体力の消耗は控えたほうが良いのではないか?」
「分かっている。けど、このまま放置していれば、こいつらはもっと数を増やして、終いには街に溢れ出す……それに」
 辺りに漂う死霊の群れを見渡し、ヒスイは悲しげな表情を浮かべた。彼らは皆、苦悶と絶望の表情をし、飢えている。
「それに、早く開放してやりたい」
「……ふふ、相変わらず“こういった存在”には優しいの。先程の男達など、弁明する機会も与えなかったくせに」
「黙れ、私はああいう、自分を律する事のできない奴が一番嫌いなんだ。とにかく、さっさとやるぞ」
 黒猫の軽口に、不機嫌そうに言い返すと、ヒスイはペンダントから現れた“それ”を、一気に引き抜いた。


西暦2015年(皇紀15年)7月1日、7時40分


 柳準(やなぎじゅん)は、その端正な顔を、嫌悪感たっぷりに歪ませ、目の前でだらだらと喋る男を睨み付けた。
「何度も言っているだろう、断る」
「だ~か~ら、こっちも何度も言ってるじゃないか。僕の父は大会社の社長で、しかももうすぐ市議会議員になる。その息子であるこの僕と付き合えば、いろいろと贅沢をさせてあげるよ」
 にやにやと下品に笑う男の目は、先程から、自分の胸に注がれていた。

 吐き気がする。

 中学の時は、一人を除き、自分に話しかけてくる男はいなかったくせに、中学の終わりごろから急に育ち始めたこの胸のせいで、彼女は一日に3度は必ず告白された。しかも、その全員が、不機嫌そうな自分の顔ではなく、大きく育ったこの胸を、にやにやと下品な顔で見るのだ。

 見られている方の気持ちなど、考えもせずに。

「悪いが、私は贅沢なんて興味ないし、お前にはもっと興味が無い」
 そう、自分に触れていい男は一人だけだ。彼のために、自分は女である事を受け入れたのだから。
 きびすを返し、学校に向かおうとした彼女の肩を、男は慌てて掴んだ。
「ちょ、ちょっと待てよ、話はまだ終わってねえぞ!!」
「……離せ」
「ふん、知ってるぜ、お前の男って、あのへたれだろ、あんなちびのどこがいいんだか。大体、あいつ今は下町に住んでるけど、本当はスラムの出身だってうわ」
「離せと言っている!!」
 めきょっと音がして、振り向きざまにはなった褐色の足が、男の股間に食い込んだ。
「……あ…………がっ」
「俺の“唯一”を侮辱するなら容赦しねえ、まあ、あいつが聞いたら、その時点でお前の命なんざ無くなってるだろうがな」
 口から泡を出し、がくがくと崩れ落ちる男を無視し、準は再び歩き出したが、男の体が完全に見えないところにくると、強く舌打ちをした。




「……潰れなかったか」




「ん?」
 準が彼に気付いたのは、もう少しで学校に着く時だった。自分の前方を、誰かがふらふらと歩いている。小柄で、伸ばした髪があたりに散らばってる姿をを見て、準は嬉しそうに笑った。
「せ~い、こんな所でなにやってんだよ」
「うわっ、じゅ、準、重いっすよ」
 少女に思いっきり伸し掛かられ、聖亜はばたばたと手足を動かした。その拍子に、小さな頭が準の胸の間にすっぽりと挟まる。
「お、おい、こんな所で……ふふ、なあ、このまま一緒に学校に行くか? って、何だよ聖、お前、目の下真っ黒じゃないか」
「や、その、大丈夫っすよ? その、あんまり、眠れなかっただけっすから……ふぁっ」
「眠れなかったって、お前な……ほら、さっさと学校に行って寝ろ。ふふ、それとも」
 胸の中で欠伸をされるくすぐったさに笑いながら、準はますます少年を抱きしめた。
「それとも、学校なんかサボって、そこいらの森で、私と一緒に寝るか?」
「え? い、いやその、が、学校に行って寝るっす」
「なんだよう、あの女の方が良いのかよう」
 可愛らしく口を尖らせて、準は半ば少年を抱きかかえながら、学校への道を急いだ。
 
 二人が通う学校―市立根津高等学校は、旧市街の北に広がる山脈の麓にある。元々は、明治初期に建てられた師範学校を改築したもので、それから100年以上、生徒達を受け入れ、そして卒業させていった。
 だが、戦後も幾度か改築をした建物も、老朽化が進み、10年ほど前に、それまでの校舎の隣に新しく校舎が建てられた。以来生徒達は第二校舎と名づけられた新校舎で学んでいるが、第一校舎と呼ばれるようになった旧校舎は取り壊されずに残っており、屋上にある、師範学校時代にイギリスから送られた記念の鐘「平和の鐘」も、鐘楼の中にしっかりと安置されている。

「まったく、眠れなくなったらすぐ来いって行っただろうが」
「あう、す、すいませんっす。氷見子(ひみこ)先生」
 第二校舎の一階、その右端にある保健室の主、兼聖亜の担任である植村氷見子(うえむらひみこ)は、ベッドに横たわる生徒を見て、呆れたようにシュガーチョコを噛み砕いた。
「ま、一時限目はあたしの授業だから、ここでゆっくり寝てな。けど、二時限目からはしっかり出席するんだぞ。とくに、三時限目は口うるさい教頭の授業だ。お前が遅れたら、あたしが説教されるんだ。だから、絶対に出ろよ。いいな」
 癖のある黒い長髪をがしがしとこすっていた氷見子は、不意ににやりと笑った。
「……それとも、この前の話、受けてみる気になったか?」
「えっと、この前の話っていうと……」
 自分に伸し掛かってくる、獲物を狙う美しい雌豹を見上げ、聖亜は顔を真っ赤にして俯いた。
「だからさ、あたしの婿になるって話。学校なんか中退で大丈夫だって。姉貴も妹も、そんなの気にしない奴らだから、さ」
 白い頬をなぜられ、準よりさらに大きな胸を押し付けられる。その胸を押し返そうと、しばらくもがいていた聖亜のその瞳が、ふと細まった。
「……すまない、氷見子。もう少しだけ考えさせてくれ」
 先程までの弱々しいそれとは違う、鋭く凍てついた視線が、自分に容赦なく突き刺さってくる。本当に親しい人間か、容赦しない敵にしか見せない少年の、それが本質だった。
「うあ、わ、分かった、じゃ、じゃあ、あたしは行くから、ちゃ、ちゃんと眠れよ」
 体の底から湧き上がる恐怖と、特別と思われている事への悦びから、保健室を出た彼女の体は、がくがくと震えだした。


西暦2015年(皇紀15年)7月1日、9時30分


 その子供は、今日も泣いていた。
 自分が何でここにいるのか、子供には分からない。覚えているのは、強烈な熱さと痛み、それが過ぎ去った後に訪れた、どこまでも続く寂しさだった。
《熱いよう、怖いよう、お母さん》
 暗い地の底で、子供は他の“人”達と一緒に、ぐるぐると渦を巻くように動いていた。だが、ある日上から、僅かなな光が差し込んだのだ。
 その光の向こうに、母親はいる。そう思った子供は、周りの“人”と一緒に、光の中に飛び込んだ。

 だが、光の中に出た子供を待っていたのは、母親の温もりなどではなく、先程まで感じる事の無かった、圧倒的な飢餓だった。

 飢えと孤独に苦しむ霊は、死霊になりやすい。その例に漏れず、子供の霊も、何時しか死霊へと変化していった。
 その日も、半ば死霊と化した子供は、耐え難い飢えを満たすために、獲物が来るのをひたすら待っていた。
 そんな時だ。

―リンッ

 誰かに呼ばれたのは。

 熱が自分を包み込む。だが、それは子供が体験した、地獄の業火ではなく、むしろ、母親の温もりに似た、柔らかな温かさだった。
《お母さん?》

―リンッ、リンッ

 困惑しながらも、自分を呼ぶ声に、ゆっくりと近づいていく。その先に、ぼんやりと誰かの姿が見えた。
《ああ、お母さん!!》
 子供は、目の前にいる母親に、胸を嬉しさでいっぱいに満たし、抱きついた。

「…………ぐっ」
 漂う死霊の群れ、その最後の一体をペンダントの中に吸い込むと、ヒスイはがくりと膝をついた。だらだらと脂汗が流れる。吐き気がする。強く噛み過ぎたのか、唇の端から赤い液体が一筋、流れた。
 ぶるぶると震える手から、先程まで鳴らしていたそれ―金剛鈴が、ぽとりと落ちた。
「無事か、ヒスイ」
「……ああ。けど、三百はさすがに、きつい、な」
「まったく、刀で祓えばいいものを。ヒスイよ、そなた、なぜこうも自分の肉体を痛めつけるのだ」
「……うるさい、刀では、駄目だ。刀では、彼らが、また、苦しむ」
 ヒスイが行ったのは、いわゆる浄化と呼ばれるものだった。死霊を鈴の音色で引き寄せ、自信に取り込む事で、その苦しみと絶望を肩代わりし、昇天させる。もちろん、現在では自分の体ではなく、道具を使うが、それでも三百という数は、その反動だけでも並大抵のものではなかった。
 何とか息を整え、がくがくと震える足で立ち上がると、ヒスイは前方にある、巨大な木に目をやった。先端が二又になっている大きな杉の木だ。この辺りが吹き飛んで、一年後、鎮魂祭を執り行った時、屋久島から樹齢800年の杉の木を取り寄せ、鎮魂樹として植えたものらしい。元々、二又木は神木としてあがめられている。それが“穴”を塞いでいる限り、死霊など生まれないはずだが。
「ふん、穴を無理やり塞いだ代償か。見ろ、根の一部が腐れている」
「……キュウ、修復はできるか?」
「うむ、少し待て」
 根を見つめる紫電の瞳が、金色に輝く。やがてその光が治まると、黒猫はほっと息を吐いた。
「これで良し。半ば死んでいた細胞を活性化させた。もう死霊は吹き出ないし、後二,三日で切り口も塞がるだろう」
「そうか……ありがとう」
 疲れたのか、目をぱちぱちと動かす黒猫を、ヒスイはゆっくりと抱き上げた。
「まったく、我らの使命は、奴らの討伐だというのに。ヒスイよ、以前指摘したと思うが、そなたは使命と情に挟まれれば、どうも情に流されやすい。悪い癖だぞ」
 その胸に抱かれ、黒猫はしばし愚痴をこぼしていたが、やがて、ゆっくりと目を閉じた。
「……自分が未熟なのは、自分が一番良く知っている。それでも」
 眠りについた黒猫をそっと降ろし、ヒスイはゆっくりと杉の木に歩み寄った。見下ろすと、丈の長い草に隠れている、小さな鉄板が目に映った。
「……」
 胸に挿してある白い花を引き抜くと、その上にそっと置く。そのまま、ヒスイは鉄板に刻まれた文字を、指でゆっくりとなぞった。
「それでも、私は戦う以外の道を知らない。他の生き方なんて出来ない。だから」
 立ち上がり、ゆっくりと頭を下げた。
「だから、安心して眠ってください。災厄は、二度と起こさせませんから……絶対に」

 ヒスイ達が立ち去った後、杉の木の葉が、ざわざわと揺れた。

 一筋の風も、吹かなかったのに。

西暦2015年(皇紀15年)7月1日、10時45分


 聖亜が目を覚ましたのは、二時限目が終わった直後だった。授業の終わりを告げる鐘の音が、ぼんやりした頭に響く。どうやら、二時間ほど熟睡できたらしい。氷見子先生の姿は見当たらないが、枕元にジャムパンが置いてあった。それを見て、急にお腹が鳴る。そういえば、麻からほとんど何も食べていない。
 ジャムパンをかじりながら教室に向かうと、窓から外の景色が見えた。山の麓という事で、あまり広くないグラウンドから、クラスメイトが次々に校舎の中に入っていく。その中に、準達の姿を見かけ、そういえば、今日は持久走の試験があったな、などと思いながら、角を曲がった時、
「うわっ」
「……おや?」
ドンッと、誰かとぶつかった。
「あ……す、すいません、校長先生」
「ああ、いえいえ、いいんですよ。君は……確か、星君でしたね」
 ぶつかった相手は、腹の突き出た、五十歳ほどの男だった。狸山六郎(たぬやまろくろう)、ここ、根津高等学校の校長を務めている。朗らかで優しく、多少の校則違反は見逃すため、生徒からの評判はまずまずだ。
「植村先生から話は聞いています。いいですか、体調管理はしっかり行ってくださいね。健康第一、ですよ」
 笑いながら去っていく校長を見て、聖亜はほっと息を吐いた。
 確かに、“甘い”校長ではあるが、自分はどうもあの先生が苦手だった。まるで、内心を隠し、笑顔の仮面を無理やり張り付かせているような―
 ぼけっとしている聖亜の耳に、授業5分前を知らせる鐘が響いた。慌てて残りのパンを口に押し込むと、少年は、教室に向かって駆け出していった。

「先週も説明したとおり、イギリスで第一次産業革命が起こると、ワットの手により蒸気機関の雛形、すなわちプロトタイプが作られ……」
 厳しい声が、しんと静まる教室に響く。この授業で、というより、この先生の前で私語をする生徒はいない。もし、私語をしたら、その生徒の昼休みと放課後は無くなってしまうだろう。
「蒸気は、長い間代替品が見つからなかった事もあり、二百年の間、電力と共に主要なエネルギーとして活躍してきた。現在は次世代のエネルギーとして、ガス、及び原子力が注目されているが」
 声の持ち主は、四十台後半の厳しい顔をした男だった。鍋島進(なべじますすむ)、彼は教頭を勤める傍ら、こうやって世界史も教えている。
「だが、世界の約半分の国々、特に中東やアフリカは、未だに蒸気と、そしてそれを動力として動く蒸気機関に頼っているのが現状だ。それはなぜか……星、答えなさい」
「え? あ、はい。えっと、気化石の発明があったからです」
「その通り。正解なのだから、もっと堂々と答えるように」
 びしりと釘を刺され、聖亜はすごすごと席に座りなおした。どうもこの教頭は、校長とは別の意味で苦手だった。
「日本人発明家、黒塚鉄斎により発明された気化石が、世界に与えた影響は大きい。なぜなら、この石一つで石炭の数十倍のエネルギーを生み出す事が可能で、さらに排出されるのは、人間の体になんら害を及ぼさない水蒸気だ。だが、これが発明された当初は、そのあまりのエネルギーに絶えられる蒸気機械は存在せず、そのため耐久性を中心に、蒸気機械は次々に強化されていった。その例が、今でも空を飛んでいる装甲飛空船の開発だが、第一次蒸気大戦中は、この飛空船に武装を積み込み……」
 それでも、聖亜はこの先生が嫌いではなかった。確かに厳しいが、それは生徒を思ってのことであり、彼らを好きにさせている校長とはまるで違う。
 話し続ける教頭の顔を眺めていると、やがて授業終了を告げる鐘の音が聞こえてきた。

「よう聖、今日遅かったじゃねえか」
「そうそう、なにやらかしたんだよ」
 四時限目が終わり、学生食堂に来た聖亜に、二人の男子生徒が話しかけてきた。
「何でもないっすよ、秋野、福井」
「ったく、何でもないなら持久走サボるなよな」
「そう言うなって秋野、どうせ、保健室で植村先生といちゃついてたんだろう」
 金髪の男子、秋野茂(あきのしげる)が、スプーンを咥えたまま愚痴をこぼすと、その隣で、二杯目のカツ丼を頬張っていた福井敏郎(ふくいとしろう)が、にやにやと笑いながらちゃちゃを入れた。
「別にそんなんじゃないっすよ。って、福井、何か昨日と髪型変わってないっすか?」
「おいおい、気付くのが遅いぜ、聖ちゃんよ」
 笑いながら、福井は自分同様、長く伸びた髪をさらりと撫ぜた。確か昨日まではアフロだったはずだ。
「なあ、聞いてくれよ、聖。敏郎の奴、また彼女変えたんだぜ」
「ああ、それで」
「おいおいしげちゃんよ、誰も彼女を変えてなんかないっての。ただ、もう一人増えたってだけ」
「……これで何人めっすか、福井」
 へらへらした友人を、呆れたように眺め、聖亜は二人の向かい側に座った。この大男はなぜかもてる。女好きで、軟派な性格だが、やはり堀の深い顔つきと、体格がいいくせに、お菓子作りが趣味のためなのだろうか、女子と話しているのを良く見かける。
「そんなの三人から数えてねえよ。何だ二人とも、女が欲しいのか? ならさ、今度合コンして見ねえか? お膳立てぐらいしてやるぜ」
「お、それいいな。なあ聖、お前も……」
 笑いながら自分のを見た秋野の顔が、びしりと固まった。
「ん? どうしたっすか? 秋「聖をくだらない事に巻き込むんじゃない。この凸凹コンビ」……あ、準」
 褐色の肌を持つ女子生徒が、何時の間にか自分の後ろに立っていた。縮こまる二人を一瞥すると、いつもの席―聖亜の隣に腰を下ろす。
「ほら、お前の分」
「あ、ありがとっす、準」
 渡されたチャーハンに、早速蓮華を伸ばす。はふはふとおいしそうに食べる少年を幸せそうに眺め、準もラーメンに取り掛かった。
「ちぇ、なんだよ柳、凸凹コンビって」
「実際に凸凹コンビだろ。まったく、福井、合コンなんて言葉、栗原が聞いたらめちゃくちゃ言われるぞ」
 げっと大げさに飛びのき、デコ―百八十を越す長身の福井は、おそるおそる辺りを見渡した。だが、そこに彼らのクラス、1年E組の、鬼のクラス委員の姿はない。
「おいおい、あんまり福井を脅かすな。栗原の奴、今日はソフトボールの県大会で公欠だろ」
 親友の慌てる姿を見て、ボコ―聖亜よりは幾分背が高いが、それでも百七十に届かない秋野は、二人に向き直った。
「まあ、合コンの話は置いといて、それより、そろそろ七夕が近いだろ? 恒例のパーティー、今年もやろうぜ」
「恒例って、まだ去年一回しかやってないじゃないすか。まあ、いいっすけどね。準もどうっすか?」
「ん? ああ、大丈夫だ。けど福井、お前、当日は“ナヌカボシ”で忙しいんじゃなかったのか?」
「へ、ありゃ元々寺の仕事だ。それを親父の奴、神社でもやるなんて言い出しやがって」
 ふてくされながら、三杯目のカツ丼に手を伸ばす神主の息子を見て、準は呆れたように頭を振った。


西暦2015年(皇紀15年)7月1日、12時30分


「それで、ヒスイよ、これからどうする?」
 お昼時、鎮めの森を離れたヒスイ達は、再び蜘蛛の巣を歩いていた。街は相変わらず灰色の煙と汚水に包まれ、じめじめと蒸し暑い。
「そうだな、まず拠点に決めた場所に行こう。そこで休んだ後、この街を中心にエイジャを探す」
「ふむ、ならば問うが、なぜこの街なのだ?」
 黒猫の問いかけには、疑問を投げかけるというより、生徒の答えを確認する、教師のような口ぶりだった。 
「先日の“狩り”を見ると、奴らはこの都市で人を襲う事に慣れていた。つまり、すでに何人かの犠牲者は出ている。けど、新市街、それに旧市街でも、警戒している様子は全くなかった。なら」
 路上に並べられた、縄だか紐だか分からない細長い物をまたぐと、それを並べていた男がじろりと睨んできた。
「人間が消えてもおかしくない、この歪んだ街で狩られているということか、ふむ、50点」
「……随分と厳しい評価だな」
 ヒスイが苦笑すると、キュウはまだまだだな、という風に首を振った。
「この街を狩場に選んだのなら、なぜわざわざ川の向こう側、旧市街に出現した?奴らの目的は不明だが、なぜ気付かれる危険をわざわざ冒す?」
「それは……必要な数をそろえたか、旧市街でなければならない理由があったのか」
「狩りを終えたのなら、奴らは速やかに次の行動に移る。つまり、そこでなければならない理由があったのだ。つまり」
 話を続けている黒猫のお腹が、クウと鳴った。
「どういう理由にしろ、人間を襲ったエイジャを討つことに変わりはない。それより、“教会”に行く前に何か食べよう。朝から歩き通しだからな、さすがにお腹が空いた」
 小さく笑い、きょろきょろと周りを見ると、さほど遠くない所に、一軒の“めしや”が見えた。


西暦2015年(皇紀15年)7月1日、18時20分


 旧市街で人気のスポットはどこか。そう聞かれたら、皆3つの場所を答えるだろう。デパート通り、神社前の土産物売り場、そして、空港の前、喫茶店が軒を連ねる、空船通り(そらふねどおり)を。
 夕日が射す中、通りの一角にある二階建ての喫茶店「キャッツ」で、そのウエイトレスはうんざりした顔で給仕をしていた。
「聖ちゃ~ん、お水頂戴」
「あ、ずるいぞお前、ちゃんと注文しろよ。“聖華”ちゃ~ん、俺はレンジジュースね」
 カウンターが1つ、他にテーブルが4,5席あるだけの小さな店内は、今日も客(大部分は男)で混み合っていた。メニューが豊富で、しかもお手ごろ価格という事もあるが、それ以上に彼らが楽しみにしているのは、この店の看板娘を見ることにあった。いや、正確には、“娘”じゃないんだが……。
「……はぁ」
 その看板娘(?)黒い猫耳と、同じ色の尻尾をつけた小柄なウエイトレスは、客を一通りさばき終え、物陰でげっそりと息を吐いた。
「あらら、な~に勝手に休んでるのさ、看板娘のせ・い・かちゃん」
「……祭(まつり)さんまで、チャン付けで呼ばないでくださいっす、気持ち悪い」
 もうお分かりだろうが、聖華―ウエイトレスの格好をさせられた聖亜が愚痴をこぼすと、茶色い耳と尻尾を付けた活発な大学生は、へっとはき捨てるように笑った。
「あらら、いいのかな、口答えして。この前、スケベな客に迫られてたの、誰が助けてやったんだっけ」
「……祭さんっすよ、すいませんね、口答えして」
「あはは、謝らなくていいよ、聖ちゃん、祭ちゃん、ただ不貞腐れてるだけだから」」
 そこに、お揃いのピンクの耳と尻尾を付けた小柄なウエイトレスが二人、両手に汚れた食器を持ってやってきた。
「あ、昴(すばる)姉、北斗(ほくと)姉、お疲れさまっす」
「「うん、お疲れ様、聖ちゃん」」
「お疲れさんと、けどよ姉さま方、不貞腐れてるはねえだろ、不貞腐れてるはよ」
「「だって、女の子の祭ちゃんより、男の子の聖ちゃんのほうが人気あるんだもの。不貞腐れるのは当然よ。ね~」」
 姿形だけでなく、声まで同じな双子に笑われ、祭は小さく舌打ちしたが、すぐににやりと笑った。
「ああ、でも一番はやっぱりお姉さま方だよな。なんたって、この中じゃ一番の古株なん、だ……から」
 その瞬間、周りの空気が、びしりと変わった。
「……あ? だれが10以上も年上のおばさんですって?」
「そうそう、誰が若作りしなきゃ彼氏も出来ない婆さんなのかしら」
「え? いや、誰もそんなこと言って……」
「言い訳禁止。聖ちゃん、ちょっとマスターを手伝ってきてくれる?」
「そうそう、あたし達は身の程知らずな小娘ちゃんに、ちょ~っとお話があるから」
「は、はひ、い、行って来まふ」
「「いい子ね、聖ちゃん。さ、こっちにいらっしゃい、祭ちゃん……いろいろと教育しなおしてあげるから」」
 どこまでも低い双子の声に、がたがた震えながら回れ右をすると、聖亜は急いで逃げ出した。

―数秒後、店内に少女の悲鳴が響き渡った。

「はは、相変わらず女性陣に振り回されているな。いかんぞ、聖」
「……いかんぞと言われても、勝ち目ないっすよ、マスター」
 調理場とは別にある、カウンターの隅にある小さなキッチンに逃げてきた聖亜を迎えたのは、「キャッツ」のマスターを務める、荒川白夜(あらかわびゃくや)だった。自分より頭二つ分の身長、30台前半の渋い顔つき、黒髪を後ろに撫で付けた、訪れる女性に大人気のクールな二枚目である。
「まったく、男子がそんな事でどうする。教えその三十三、男たるもの、女の一人や二人、立派に尻の下に敷いてみせろ」
……多少、性格に問題はあるが。
 笑いながら、白夜はクッキングヒーターの上にあるフライパンを右手で器用に動かし―炎が苦手な聖亜のために、奥の調理場と違い、飲み物のつまみを作るここには、ガス台は置かれていない―空いた左手で、横にある汚れた食器を指差す。洗えという事だろう。
「けど、マスターだって市葉(いちは)さんに、頭が上がらないじゃないっすか」
「おいおい、あれは頭が上がらないんじゃない。俺が妥協してやってるだけさ」
「………………あら、そうだったのですか」
 笑いながら作業を続ける二人の男、その背後から、冷たい声が響いた。二人とも、ぎぎぎっと、そろって首を後ろに回し、何時の間にか立っていた、声の持ち主を見た。
「だんな様がそんな風に思っていたなんて、知りませんでしたわ。ふふ、今度から妥協なんてされないよう、本気を出さないと」
 調理場から現れたのは、艶のある黒髪をした、妙齢な女性だった。顔は穏やかだが、その目は全く笑っていない。
「い、いや、市葉、お手柔らかに頼む」
 はいはい、とにこやかに笑う料理長に、ひたすら頭を下げるこの店のマスターを見て、聖亜は心の中でそっとつぶやいた。
(……師匠、だめすぎっす)

「そ、そうだ市葉、何か用なんだろう?」
「あら、すっかり忘れてたわ」
 軽く両手を叩き、一度調理場に戻った市葉だったが、すぐに戻ってきた。その手に、さっきまで無かった大きなバスケットを抱えて。
「ねえ聖ちゃん、悪いのだけれど、お医者様に、いつもの頼めるかしら」 
「……あの、今からっすか?」
 時間は、すでに19時を過ぎている。不安げに見上げてくる少年に、市葉はすまなさそうに頷いた。
「ごめんなさい、どうしても届けて欲しいって連絡があったの。お得意様だし、断れなかったのよ」
「……まあ、お二人以外で、あの“街”に詳しいのは自分っすから、俺が行かなきゃ行けないのは分かるんすけど……分かりましたよ、行ってきます」
 ごめんね、と言う市葉からバスケットを受け取ると、耳と尻尾を取り外し、聖亜は裏口からそっと出て行った。

西暦2015年(皇紀15年)7月1日、20時13分


 がたごとと、調子の悪い機関(エンジン)の音が車内に響く。
 整備がおざなりだな。そう思いながら、ウエイトレスの格好をしたまま、聖亜は灰色に包まれた街を、ぼんやりと眺めていた。

「いや、すまんな、聖」
「いいっすよ、先生には、俺もお世話になったっすから」
 聖亜がバスケット―夜食と少量の医薬品を届けた相手は、灰色街にある蜘蛛の巣の一角で、もぐりの医者をしている初老の男だった。といっても、患者はほとんど来ない。この街で重症を負う事は、十中八九死を意味したからだ。
 今日の配達は、どうやら蜘蛛の巣の有力者の娘が病気になり、その薬が足りなかったらしい。
「しかし、聖、相変わらず女装が似合うな」
「……相手しろ、なんていったら殺しますからね」
 先程薬を取りに来た男達にじろじろと見られ、機嫌の悪い聖亜は、ずけずけと言いながら、ふと、周りを見た。
「なんか今日、お客さんが多いっすね」
 所々ひび割れ、ほこりかぶった建物の中には、四十人ほどの患者がいた。むろん清潔なベッドなど無い。皆床や階段の隅に寝かされている。よほど重症なのか、ぴくりとも動かない。
「や、こいつらは患者じゃねえんだ。ちょっと見てみろ」
 促され、聖亜は近くで寝ている一人の男に歩み寄った。彼は苦悶の表情を浮かべ眠っている。いや、これは眠っているんじゃない?
「先生……この人は」
「三日前、排水溝近くで自警団の連中に発見された。体の所々に古傷あり。身に着けている物はボロ、と、一般的な格好だが……どうだ、おかしな所は分かるか?」
「おかしいって、どこも……って、ちょっと待ってください。排水溝の近くって言いましたよね」
「ああ」
「じゃあ、手足があるのはおかしいっすよ。あそこは“鼠”の巣に近いっすから」
 聖亜のいう鼠とは、言葉通りの生き物ではない。災厄の後、街に巣食うようになった数多くの化物(けもの)の一種だ。ぼさぼさの髪と、灰色ににごった目を持つ、生物の三大欲求―食欲、性欲、睡眠欲と、もう一つ、金欲で動いている。そして食欲の主な対象は、人間だ。
「ああ、奴らは生きた人間も、死んだ人間も見境なしに“喰らう”だが、この男を含め、他の四十人以上の老若男女、その全てが“喰われて”いない。つまりこいつらは、生きても死んでもいないことになる。そして、もう一つ、共通しているのは」
 男の胸にかかっているボロを剥ぎ取ると、ちょうど心臓がある場所に、5つの紫色の痣があった。
「先生……これって」
「ううむ、見当がつかん。物凄い力で指を押し当てたらこういう風になるが、化物の中で、これが出来るのは狒々(ひひ)だけだが、奴らは心臓を“喰らう”。だが、見ての通り無傷だ……と、バスが来たな。ごくろうさん」
 紫色の痣を呆然と見つめる聖亜の耳に、遠くからガタゴトと、調子の悪い機関音が聞こえてきた。

(あれは、たぶん昨日の奴らの仕業っすかね)
 先程見た紫色の痣を見て、聖亜は無意識のうちに、首を掻いた。薄くなっているが、そこには彼らと同じ痣がある。だが、確実にそうだといえるわけではない。なぜなら―
 ふと、聖亜はバスの中を見た。
 復興街を走る装甲バスの中には、自分と運転手以外、誰もいない。夜になると、この街の治安は急激に悪化する。治安維持のために結成された自警団の勤務時間が終わるためだ。ある程度安全な昼と比べ、夜の街は、文字通り快楽と暴力、そして残虐な街となる。
 そんな街に来たがる外部の人間は、旧市街、ましてや彼らを人間と思っていない新市街の中には、もうほとんどいない。
(災厄が起こる前は、こんなにひどい差別は無かったって、親父は言ってたけど)
 そんな昔の事は知らない。聖亜が覚えているのは、差別する人間とされる人間、その間で右往左往する自分達だけだ。
「そろそろ橋に差し掛かりますぜ。お客さん」
「……ふえ? ああ、はいっす」
 自分を呼ぶ運転手の声に我に返る。どうやら、考えながらうとうととしてしまったようだ。
「しかし、こっちにくるお客さんなんて、最近はほとんどいませんな。一昔前は、蜘蛛の巣で売られている薬を買おうと、結構なお客さんを乗せたもんですが」
「そうなんっすか」
「今日も、朝一番で若いお客を乗せたきりで、やっぱりこの街は時代に取り残されるんですかねえ」
「はあ……どうでもいいけど、ちゃんと前見て運転してほしいっす」
「ああ、大丈夫ですよ。この道は13年間、毎日運転してるんだ。それに、こんな街の奴ら、一匹や二匹ひき殺したぐらいじゃ、罪に問われることもな」
 ふと、運転手の声が途切れた。それだけではない。いつのまにか、装甲バスも止まっている。
「あの、運転手さん?」
 何か嫌な予感に首をかしげながら、聖亜は運転手に声をかけた。返事は無い。しんと静まるバスの中に、自分の声がむなしく響く。
「あの、本当に大丈夫っすか? 運転手さ」
 近寄って、彼の肩に手を置いた聖亜は、何気なくバスの前を見て、

―そして、固まった。

                                   続く



[22727] スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常③
Name: 活字狂い◆e0323915 ID:a8247099
Date: 2010/12/27 11:32
 それが何に似ているか。
 そう聞かれれば、見た人間はそろって答えるだろう。
 
 “饅頭”に似ていると。

 確かに、丸く、少し平べったいそれは、饅頭に見えなくも無い。

 ただし、色は黒く、その大きさは、バスと同じぐらいあったが


「う……あ」
 それを見た途端、聖亜は自分の体を、悪寒と吐き気が走るのを感じた。
 がくがくと足が震える。立っていられなくなり、床に蹲った。間違いない。この感覚は、彼が昨日感じたものだ。

 そう、黒い世界で、人形に襲われた時に感じた、あの絶望に

 蹲り、必死に吐き気をこらえる少年の先で、巨大な黒い饅頭は、ぐにぐにとその形を変え始めた。
 まず、饅頭に似た形が、縦に伸びていく。バスの倍ほどの大きさまで伸びると、その左右に、ぶつぶつと無数の突起物が生まれ始めた。女子供や、気の弱い人が見れば卒倒するだろうが、幸か不幸か、聖亜は気絶することなく、その変化を見続けていた。
 生まれた突起物は、横に長く伸びていく。やがて、その先端から、さらに細い突起物が四本出てきた。
「……っ!」
 次の変化を見たとき、聖亜は声にならない悲鳴を上げた。伸びた体の真ん中に、縦にびしりと亀裂が入り、ぐぱりと左右に広がった。
 その中に入っていたのは、幾重にも重なった、紫色にぬめぬめと光る、大きさが、赤子ほどもある牙だった。

 饅頭、いや、黒い化け物は、自分の体に生まれた口で、吼えた。元々発声器官が無いのだろう、それは単に空気を振るわせただけだったが、化け物が吼えた瞬間、左右に生えた無数の突起物―腕が、何かを探すように辺りに広がった。
 暫く闇雲に辺りを探っていた黒い手だったが、その一つが微かにバスに触れた時、散らばっていた他の手が、競い合うようにこちらに向かってきた。
「……ひっ」
 震える体で何とか立ち上がると、聖亜は隣にいる運転手を持ち上げようとした。だが、その体は、まるで座席に吸い付いたように離れない。外そうともがいていると、バスの前面に、黒い手がべたべたと張り付いてきた。
「…………くっ」
 一瞬、運転手を見る。だが、次の瞬間、聖亜は銃弾にも耐える強化窓を突き破って入ってきた無数の黒い手の、その僅かに出来た隙間に、体を強引にねじ込んだ。
 幸いな事に、小柄な体は手に触れることなく、外に向かって転がり落ちた。

 バンッ

「痛っ!」
 地面の上をごろごろと転がる。地面に打ちつけた右肩が痛むが、どうやら折れてはいないようだ。せいぜい、明日紫色の痣が出来るぐらいだろう。もっとも、明日まで生きていられたらの話だが。
 じんじんと痛む肩を押さえ、ふらふらと立ち上がる。化け物は、胴体に出来た口で、引き寄せたバスを噛み砕く作業で忙しいらしい。あれでは、運転手は生きてはいないだろう。
 それを横目で見ると、聖亜はゆっくりと歩き出した。この黒い世界に“端”があるかは分からないが、一先ずここから移動しなければならない。
 だが、

「あら、どこに行くのかしら、お嬢ちゃん」

 その動きをさえぎるように、辺りに楽しげに笑う、女の声が響いた。


「あなたがポーンとビショップの言っていた家畜? けど、ビショップの作り上げた穴だらけの“黒空間”とは違う、私の完全な“封縛空間”の中で動けるなんて……特別変異か何かかしらね」
 声の持ち主は、首を軽くかしげながら、少年に近づいてくる。その表情は分からない。いや、表情だけではない。彼女の顔すら、聖亜には分からなかった。

 なぜなら、彼女は人ではなかったから。顔に笑顔を張り付かせた仮面を着け、両手にあたる部分には、代わりに左右一本ずつ、鋭い突撃槍(ランス)を装着し、腰から下には、馬のように四本の足を持っている。
 まるで、ケンタウロスのような格好をした彼女の体には、所々に節目が出来ている。そう、昨日の人形と、同じように。
「ふふん、まあ、良いわ。逃げも隠れも、抵抗すらしない羊を狩るのには飽き飽きしていたところよ。狐を狩るように―いえ、そこまでは期待しないわ。せいぜい野兎を狩るぐらいには楽しませて頂戴」
 笑う人形の後ろから、先程の化け物が三体、のそのそと歩いてくる。それに、バスを食べ終えた一体が加わり、計四体が、聖亜に物欲しそうに手を伸ばそうとしている。
「あら、あなた達は手を出しては駄目よ。“お楽しみ”がすぐに終わってしまうじゃない。さてと、では、せいぜい無様にお逃げなさいな。野兎ちゃん」
 化け物から聖亜に視線を移した、人形のその表情は、どこまでも残酷な笑みだった。

「ぐあっ!!」
 不意に、強烈な殺気が吹き付ける。それを受ける瞬間、聖亜は咄嗟に横に跳んだ。半瞬、いや、四半瞬後、今まで彼がいた場所を、何かが物凄い勢いで通り過ぎた。
「くくくっ、中々やるじゃない、お嬢ちゃん。さっきの突きを避けるなんて」
「……お、お褒めの言葉、どうも」
 相手の軽口に答えながら、聖亜は必死に逃げ道を探した。少しでも早く避ければ軌道を変えられ、少しでも遅く動けばその時点でゲーム・オーバーとなる。だから、ぎりぎりの所で動いたのだが、突き自体は避けても、その風圧は、まるで鋼のように、少年の体を打ちつけた。
「けれど、ふふ、風圧自体は避けられないでしょう? その痛む体で、果たして後どれぐらい避けられるかしら」
 右から、左から、前から、後ろから、強烈な風圧を伴って、突進が繰り返される。その死神の鎌を、聖亜は何とか避け続けていたが、四回目の突進を避けたところで、がくりと膝をついた。小柄な体には、もうほとんど体力は残っていない。
「あはははは、こんなに楽しい狩りは本当に久しぶり。けど残念ね。どうやらこれでお終いみたい」
 突進の姿勢を解いた人形が、笑いながら近づき、左の槍で服を刺すと、そのまま持ち上げた。諦めたのか、少年は俯いたまま、人形の好きにされている。
「ねえ、何か最後に言いたいことはあるかしら。何でも良いのよ? どうせ、あなたはここで死ぬんですもの」
「……死ぬ?」
「……?」
「じゃあ、一つだけ」
 “死”という言葉に、少年の気配が変わった。今までの、単なる狩られるそれから、細く鋭い、突き刺すようなそれに。
 人形が困惑する、その前で、聖亜は俯いていた顔を上げると、相手をじっと見た。

 その、細い瞳で。

「何であんたは、そう悲しそうに笑ってるんだ?」
「っ!! あなた、私を侮辱する気!!」
 激昂した人形が、少年に向け、右の槍を振り上げた、その瞬間、


 黒い窓を砕いて現れた白刃が、その槍を切断した。


「ぐっ……そ、そういえば、あなたがいたのよね、すっかり忘れていたわ。百殺の絶対零度」
 激痛と屈辱の中、人形は聖亜を放り出すと、槍を切断し、ゆっくりと立ち上がった、白髪の少年を、笑いながら見た。
 その視線に、彼は冷たく笑みを返していたが、ふと、傍らで蹲る少年に目を向けた。
「こいつ、また襲われたのか」
「ふん、まあ、どうせ我らの事など覚えていまい。さっさと終わらせて、また記憶を封じればいいだけだ」
 少年の足元で、黒猫が興味なさそうに呟いた。が、
「……いや、ちゃ、ちゃんと、覚えてるっすよ。助けてくれて、ありがとうございます」
 息を整え、立ち上がると、聖亜は黒猫に向け、にっこりと微笑んだ。
「……馬鹿な、我の“忘却の術”が効かなかっただと?」
「別に効果が無かったら無かったでいいだろう」
「し、しかしな、我にも術に対する誇りというものがあってだな」
「……いい加減にしてもらえるかしら」
 切断された槍を隅に蹴ると、人形は笑い顔のまま、低い声を出す。右手に持った太刀を一度振ると、少年は、改めて人形に向き直った。
「……片方の槍を失ったお前に、勝機は無い。諦めたらどうだ」
 少年の言葉に答えず、人形は残った槍を彼に向ける。と、その背後から、黒い化け物が、四体とも前に進み出た。
「……“集合種”の陰に隠れて、自分は逃げ出すか。無様だな」
「あら、挑発のつもり? 乗ってあげてもいいけど、さすがに集中力を欠いた状態で、あなたとやり合うのは御免こうむるわ……くっ」
 下がる人形に追いすがる少年だが、行く手を阻むかのように化け物が三体、その無数の手を伸ばし始める。残りの一体は、どうやら痛みと疲労で満足に動けない聖亜を標的に選んだようだ。ゆっくりと、だが確実にこちらに迫ってくる。
 それを見て、小さく舌打ちをすると、少年は聖亜の方に一度下がった。
「たかが四体の集合種、大した敵じゃないけど」
「ふむ、だがなヒスイよ。この小僧はどうするつもりだ」
 黒猫の問いに、少年は暫く考えるように前を向いていたが、やがてため息を吐き、こちらを振り返った。
「な、なんっす……うむっ」
 突然、口が塞がれた。少年の手によって、では無い。彼の両手は、それぞれ太刀と小太刀で塞がれている。だから、聖亜の口を塞いでいるのは、少年の手ではなく、
「あ……う」
 少年の、小さく、そして柔らかい唇だった。
 周りにくちゅくちゅと音が響く。少年の舌が口内を蹂躙し、相手の唾が入り込んでくる。気持ち悪さと、若干感じる気持ちよさに吐き出そうとするが、出入り口が塞がっているため、吐き出す事が出来ない。あまりの苦しさに、ついこくりと飲んでしまう。それを確認し、少年は唇を離した。
「な、い、いきなり何するっすか、このへ―あれ?」
 顔を真っ赤に染めて立ち上がると、怒鳴ろうと一歩踏み出し、はたと立ち止まった。今まで体中に纏わりついていた痛みと疲労が、綺麗に無くなっている。
「……ヒスイよ、いいのか?」
「医療行為だ。それに、足手まといになられるよりはましだ……おい、これを貸してやるから、自分の身ぐらい、自分で護って見せろ」
 足元に、少年が投げた小太刀が突き刺さる。屈んでそれを引き抜いた時、彼は化け物に向かって駆け出していた。

「うわっ」
 這うように向かってくる手に、聖亜は慌てて小太刀を振り上げた。思ったより軽い。狙いをしっかりと付け、足元に迫ったそれに、思い切り突き刺す。
「うわ、とっと」
 少年がバランスを崩したのは、感じるはずの抵抗が、水を突いたように薄かったからだ。バスを突き破る手は、簡単に引き裂かれ、じたばたと暴れる。だが、すぐにしゅうしゅうと臭気を発しながら消滅した。
「……なんなんすか、この威力」
「小僧、呆けるな、次が来るぞ!!」
 すぐ近くから聞こえる黒猫の声に、はっと我に返ると、今度は空中から襲い掛かる手に、慌てて小太刀を振り回した。
 黒い手が四本ほど、まとめて引き裂かれ、地に落ちた。
「ふん、どうやら振り回すぐらいは出来るようだな」
「お、お褒めの言葉、どうもっす」
 黒い手は、どれほど切っても絶える気配は無い。どうやら、後ろにいる本体が、次々に生み出しているようだ。その猛攻に、聖亜は壁際に徐々に追い詰められていった。
「ふん、だが、もう追い詰められたか、情けない」
「う……」
「しかし、初めてにしては中々だ。まあ、少しばかり手助けをしてやろう。そこで見ているが良い、半人前の青二才」
 くくっと低く笑うと、黒猫は少年の前に進み出る。当然、少年に襲い掛かる手は、その標的を変えた。
「ちょ、危ないっすよ!!」
 慌てて駆け出そうとした聖亜は、手がいきなりあらぬ方向に伸びるのを見て、立ち止まった。
「何を立ち止まっている、今のうちに本体を叩かぬか」
「へ? ああ、はい」
 取っ組み合い、絡み合う手の間を身長に潜り抜けると、奥に佇む本体に、聖亜はえいっと小太刀を突き刺した。
 その途端、悲しげな声を発し、化け物はずずんっと崩れ落ち、消えた。
「……え? これで、終わりっすか?」
「ふん、図に乗るな。貴様の力ではない。小太刀“護鬼”の切れ味が鋭いだけよ」
 得意げに胸を張った黒猫が、右肩に飛び乗ってくる。伸し掛かる重みに少し眉をひそめ、聖亜はきょろきょろと辺りを見渡した。
「そういえば、あの変態はどこっすか?」
「……変態とは随分な言い草だな。まあいい、あそこだ」
 黒猫が右を向く。それにつられ、振り向いた少年の瞳は、それを見た。

 幾つもの黒い手が、地を張って向かってくる。それを後ろに下がる事で避け、次の瞬間、彼はぱっと横に飛んだ。前から迫ってくる手と、後ろから襲い掛かろうとした手がぶつかり、こんがらがる。
 それに目もくれず、少年は跳躍すると、無防備な二体を、頭から太刀で下まで一気に切り裂いた。

 
 鬼だ


 自分の何倍もの大きさを持つ化け物を、簡単に殺す少年を見て、聖亜はふと、思った。

 だがその動きは、どこまでも美しかった。

「ふむ、終わったようだな」
「へ? あ、ああ、そうっすね」
 どうやら、すでに一体倒していたらしい。少年は、黒く染まった太刀を一振りし、こちらに戻ってきた。
「ご苦労だったな、ヒスイ」
「別に苦労なんてしていない。それより……誰が変態だ」
「え、あ、その」
 どうやら、先程の会話が聞こえていたらしい。慌てふためく少年から小太刀を奪い取った時、
「あら、随分と早かったのね」
 暗がりから、人形がゆっくりと歩いてきた。

「ふん、これでお前を護る者は、誰もいなくなったな」
「護る者、ですって? ふふ、あの子達は私が集中力を回復するまでの、単なる時間稼ぎよ」
「……もう一度言って欲しいのか? 片腕を失ったお前に、もう勝機は無い」
 少年の言葉に、人形はころころと笑い声を上げた。
「ええ、確かに片腕では分が悪いわ。けどね、まだ私は本気で走っていないのよ。ああ、それと、お嬢ちゃん」
「へ? 俺っすか?」
「そう、さっきの質問に答えてあげる。私はね……この姿になってから、笑いたいと思ったことは一度も無いの。さて、と、無駄話はお終い」
 人形が、ゆっくりと腰を下ろし、槍を構えると、
「さあ、この私“ナイト”の本気の突撃、受けて御覧なさい!!」
 その体が、いきなり八つに“ぶれた”。
「!!」
 空気が爆発した。そう思うほど強烈な爆風と共に、前後左右から、ほぼ同時に人形が襲い掛かってきた。
「くっ!!」
 向かってくる人形に、少年は太刀を叩きつける。その一撃で人形は掻き消えるが、後ろから別の人形がぶち当たった。
「うあっ」
 前につんのめった少年に、左右からさらに人形がぶち当たる。どうやら、分身自体に攻撃力は無いらしい。だが、度重なる衝撃で、少年の体は、ふらふらとふらついてきた。
「ちょ、な、なんかまずくないっすか?」
 風で飛ばされそうになる猫を抱え、閉じそうになる瞼を必死に開ける。
「ふん……小僧、貴様ヒスイを何だと思っている。あれぐらい、窮地のうちにも入らん」
「……へ?」
 とうとう片膝を着いた少年を見てか、彼の前方に、ナイトはすたりと降り立った。
「ふふ、どうやらもう動けないようね」
「……」
「喋る気力も無し、か。あはは、中々楽しかったわ絶対零度。けど残念ね。これでお終いよ!!」
 どうやら、今度は分身を作らないらしい。前足で地面をカッカッと掻くと、後ろ足に力を込め―突進した。
「……ああ、お前がな!!」

 突き出された槍の穂先を、小太刀で受け流すと、脇を走り抜けようとした人形の、その右前足を、少年は、太刀でざっくりと切り裂いた。

「あああああああっ!!」
「これで、ご自慢の突進は出来なくなったな。足をやられた馬なんて、ロバにも劣る」
「ロバ……ですってぇ!!」
 足を切られ、滑るように地面に倒れた人形が、笑い顔のまま、ぎりぎりと少年を睨み付ける。その視線を受けた相手は、だが、それをさらりと受け流し、すずしげな顔で見返した。
「……ふ、ふふ、まさか“緑界”の龍騎兵だったこの私が、こんな所で果てる事になるなんて、ね」
 諦めたのか、軽やかに笑う人形を、少年はじっと見つめたが、やがて、太刀を振り上げ、
「これで、一体目」
 人形の首めがけ、振り下ろ―

 キンッ

「っ!!」
 振り下ろした太刀は、どこからか飛んできた黒い短剣に弾かれ、宙を舞った。
「あははは、やるやる、さすがは絶対零度」
「……何者だ、お前」
 痺れの残る手を振ると、小太刀を両手に持ち直し、くるくると踊るように舞う短剣を受け止めたその男を、少年はきつく睨み付けた。

 黒い空の上には、何時の間にか、灰色の月が生まれていた。


「やれやれ、手持ちの駒で、一番強い物を出したのに、この程度とは、ねぇ」
「……もう一度聞く。何者だ」
 怒りを隠さないで睨む少年に、男はにやりと笑うと、折れかかったガス灯からひらりと降り立ち、優雅に一礼した。
「さてさて、それでは自己紹介を。生まれは“青界”育つは“黒界”、手につけた職は一級道化師、“仮装道化師”ドートスと申します。どうぞ、一時の喜劇をご堪能くださいませ」
 その姿は、サーカスで見かけるピエロに瓜二つだ。赤と黒の縞模様の帽子を被り、端正な顔にはおしろいを塗りたくっている。襟首には初夏だというのに白いマフラーを巻き、緑色の服から出ている足は、異様に大きい。
「ドートス……知っているか、キュウ」
「いや、知らぬ。我の記憶陣に埋め込んでいるのは、“大戦”以前のエイジャのみだ」
「……なら、大した事はないか」
 口ではそう言いながらも、油断無く睨みつけてくる少年に、ドートスは大げさに首を振った。
「ああああ、そう警戒なさらずに。折角の劇がだ~いなしになってしまう。大丈夫、今日はただ、その“役立たず”を回収しに来ただけだからねえ」
 役立たず―その言葉にナイトは反論しようとしたが、やがて、ぐっと俯いた。それをにやにやと笑いながら見ると、道化師はぱちりと指を鳴らした。と、傷ついた人形の体が光り、彼が開いた手の中に吸い込まれていく。彼がにこやかに笑いながらこちらに見せたのは、所々破損している、チェスの駒だった。
「……それが人形の正体か」
「そうさ、魂をチェスの駒に封じ込め、使役させる“トライアングル・チェスター”。こいつらは凶悪な罪人だって聞いていたんだけどねえ」
 ドートスはナイトの駒を茶化すように指で弾くと、緑色の服についているポケットの中から三角形の板を取り出した。破損しているポーンの隣に、ナイトの駒をぐりぐりと差し込む。
「さて、用事も済んだ事だし、僕としてはこのまま帰りたいんだ・け・ど」
「……逃がすと思っているのか?」
「だよねえ、なら、どうする? ほらほら」
「その前に一つ聞く。お前が、全ての元凶か」
「そうで~す、なら、やる事は一つだよね、ね、ね」
「なら、ここでお前を討てば、全て終わる!!」
 にこやかに笑う道化師に、少年は小太刀を構え、走り出す。相手は動かない。その刃が届く瞬間、
 彼は、ぱちんと、指を鳴らした。
 
 キンッと、小太刀はドートスの胸に当たり、ぽとりと落ちた。
「うっ」
「言ったはずだよ、僕は仮装道化師だと。自分の肉体を、好きなように変化させられる。鋼鉄に変化させれば、刃なんて、通るはずがないよ、お・ば・か、さん」
 足元に転がる小太刀を拾い上げ、暫く指で弄んでいたが、やがて、つまらなそうに放り投げた。
「このままお暇する予定だったけど、どうやら君は御しやすい相手のようだ。結構。なら、今この場でぶち殺して差し上げよう」
「く、なめるな!!」
 無造作に投げられた黒い短剣を避けると、少年は木立に向けて駆け出した。だが、不意に、何かに躓いたかのように転がった。
 少年が見上げると、先程避けた短剣が、ふわふわと浮かんでいるのが見えた。再び襲い掛かってきたそれを右足で蹴り飛ばすと、短剣は、くるくると回りながら、“縦”に割れた。
「なっ」
「幻想短剣(イリュージョン・ナイフ)。本当はもっと数を増やせるんだけど、無様に寝転ぶ君には二本で十分さ。それじゃ、さようなら、絶対零度」
 短剣が二本、その刃を白髪の少年に向ける。立ち上がろうとしたとき、右足がずきりと痛んだ。見ると、足首がかすかに裂け、血が滲んでいる。どうやら、先程蹴り飛ばした時に付いたものらしい。
 傷自体は深くないが、一瞬、体勢が崩れた。
「あははははは、それじゃ、さようなら、愚かで馬鹿な玩具使い!!」
 道化師が鳴らした指に答え、襲い掛かる短剣が、今まさに突き刺さる、その瞬間、
「ちょっと待ってもらおうか」
 冷たい声と共に振るわれた太刀が、短剣を叩き落した。


「……おや? 誰だい、君は」
「別に誰だっていいだろ。大体、こいつのすぐ後ろにいたのに、手前、ずっと無視してたじゃねえか」
「あたり前じゃないか。玩具使いでも何でもない、単なる家畜一匹に、どうして目を向けなきゃならないんだい? 中層氏民である、この僕が」
 聖亜が道化師と睨みあっている、その脇を、黒猫が少年に駆け寄った。それを気配で感じると、彼はほっとしたように息を吐き、改めて道化師を睨みつけた。
「へえ、なら、何で手前は、その家畜一匹を殺せないのかねえ。簡単だろ、手前の言うとおり、俺にはなんの力も無いんだから」
「ふん、言われなくたって、今す……ぐ?」
 不意に、ドートスは、自分の体が強張るのを感じた。
 別に何かされたわけではない。なら、何故動けない? 何とか目を動かし、目の前にいる家畜を見た。


 目と目が、ふと合った。


―そうだ、こいつの、この家畜の目だ。ただの家畜の、単なる細い瞳が、自分を恐れもせず、侮蔑を込めて見つめてくる。体の底から湧きあがる、この感情、これは
「ふは、は、ふははははははは、僕が、この僕が恐怖を感じているだって? 単なる家畜に? ただ喰われるしか能が無い豚に? ふざ、ふざけんじゃねえよ!! 俺が、この俺が家畜なんか怖がるはずねえだろうがっ!!」
 虚勢を張ってみるが、背中を滑り落ちる冷たい汗は、嘘をつかない。
「……ふ、ふふ、良いだろう、今日の所は、見逃してやろう。けど、次にあったら容赦はしねえ。手前も、手前が後ろで護っている糞馬鹿玩具使いも、この俺様が、まとめて生きたまま貪り喰ってやる。覚えてやがれ!!」
 捨て台詞を一つ吐くと、道化師は、ガス灯からガス灯へと跳躍しながら、徐々に遠ざかっていった。


「あの……大丈夫っすか?」
 道化師の姿が完全に見えなくなると、周りが徐々に見慣れた景色に戻っていった。完全に戻ったのを確認してから、聖亜は後ろで俯く少年に、太刀を差し出す。白髪の少年はぼんやりと聖亜を見上げたが、やがて息を吐き、太刀を奪い取った。
「……キュウ」
「ふむ、何だ?」
「……また、頼む」
「うむ、やっても良いが、ヒスイよ、こやつにはなぜか我の術が効かなかった。おそらく今度も効かぬだろう。ならば」
「……巻き込めというのか、一般人を」
「仕方ないであろう。記憶を封じる事が出来ぬ以上、我らの監視下に置いたほうが、こやつの身の為だ。大体、ヒスイ、そなた今日一日歩いて、奴らの巣窟どころか、それ以前に拠点と決めた教会すら見つけられなかったではないか」
「う……」
 黒猫に睨まれ、少年は暫く考え込んでいたが、やがておずおずと立ち上がった。
「あ、あの……」
「は、はい、何っすか?」
「さっきは、その、助かった」
「へ? あ、ああ、いいっすよ、別に。お互い様っす」
 パタパタと手を振る聖亜を前に、未だに迷っていた少年だったが、黒猫の視線に、諦めたように口を開いた。
「それで、その、聞きたい、というより、復興街の中で、行きたい場所が、あるんだが」
「へ? あの、今からっすか?」
 嫌そうに顔をしかめた聖亜を、少年はむっとして睨んだ。
「いや、いやならいい。忘れてくれ」
「あ、違うっす、別に嫌じゃないっすけど、この時間帯、結構危なくなる場所があるんすよ」
「……小僧、お主先程の戦闘を見たであろう。人外と戦う我らが、単なる人間に後れを取ると、本気で思っているのか?」
 ぶつくさと呟く少年に呆れてか、黒猫が肩に飛び乗ってきた。その紫電の瞳に睨みつけられ、聖亜はやれやれと被りを振る。
「はあ、そうは思わないっすけど、けど出てくるの、人間だけじゃなく、化物も……まあ、大丈夫とは思うっすけどね、それで、どこに行きたいっすか?」
「ああ、その、聖エルモ教会に行きたいんだが……どうかしたのか?」
 不意に、顔をこわばらせる聖亜を、少年は首を傾げて眺めた。白髪が、彼の動きに合わせてさらりと雪のように流れる。
「………………へ? ああ、いや、その、何でもないでっすよ、本当に、ええもう、まったく」
「……?」
「と、とにかく、そこだったら大丈夫でやんす、この時間帯、一番治安が良い場所にありますですから」
 変な敬語を使う聖亜を、少年は蒼い瞳で訝しげに見つめていたが、彼があたふたと歩き出したのを見て、ゆっくりとその後に続いた。



西暦2015年(皇紀15年)7月1日、21時30分



 少年は、ヒスイと名乗った。

「えっと、ヒスイ……何さんすか?」
「……ヒスイ・T・D、だ」
「じゃあ、T・Dさ「……ヒスイでいい」じゃ、じゃあ、ヒスイ、俺は、星聖亜っていいます」
「星、聖亜……分かった。ところで、星」
「ああ、聖亜でいいすよ、何っすか、ヒスイ」
「……聖亜、教会は、本当に“こっち”でいいんだろうな」
 先程の場所から30分ほど歩き、今二人がいるのは、復興街の南、海に面している地区、娼館や風俗店が立ち並ぶ、快楽区と呼ばれる場所だった。
 この辺りは、比較的災厄の被害が少なかったらしい。ガス灯の灯りが辺りをぼんやりと照らす。派手な化粧と薄い服を着た娼婦達が、道行く男を黄色い声で誘っており、道の両端にある建物からは、時折甲高い嬌声が響く。
「え? ああ、こっちっすよ、ここら辺は、災厄の被害が少なくて、けっこう教会とか残ってるっすけど、その中で聖エルモ教会っていうのは一軒だけっす」
「そう、なのか? それに、治安が一番良いていったけど、その、やっぱり相当悪いと思うんだけど」
 居心地が悪いのか、時折もじもじとしながら、ヒスイは辺りを見渡した。パイプから紫色の煙を吸っている半裸の女が、2階の窓からこちらを見て笑いかける。慌てて目を逸らすと、路地裏に横たわっている、幾人もの男の姿が見えた。
「けど、これでも治安は良いんすよ、ほら」
 人ごみの中、聖亜は一つの店を指差した。店の前では、数人の男が、娼婦達とげらげらと談笑している。ライフルを担ぐ腕には、「E」の文字があった。
「……あれは?」
「自警団の奴らっすよ、つっても、今は快楽区を根城にする、単なるチンピラ集団っすけどね」
 最後の言葉は、相手に聞こえるように言ったのか、女と話していた男の一人が、じろりとこちらを睨んできた。と、ウエイトレスの格好をしている聖亜を、商売女と勘違いしたらしい。にやにやと下品そうに笑いながら近づいてくる。だが、聖亜の顔が判別できるところまで来た途端、男はぎょっとした様に後ずさり、だっと逃げ出した。どうやら、その男がリーダーだったらしい。他の男も、ぞろぞろと後に続く。
「何だ、あれ」
「さあ? けど、ひどいっすよね、人の顔を見て逃げるな「聖ちゃんっ!!」わぷっ」
 へらへらと笑っていた聖亜の顔が、いきなり抱きしめられた。
「やっぱり聖ちゃんだ~、聖ちゃん、聖ちゃん」
「……」
「う、ぷはっ、ちょ、楓(かえで)姉さん、苦しいっすよ」
「いいじゃんいいじゃん、こちとら薄汚れた男の相手ばっかで疲れてるんだからさ、ん~、癒される」
 その娼婦は、聖亜に暫く頬を擦り付けていたが、ふと、不機嫌そうに佇むヒスイを見た。
「あらやだ、お友達?」
「あう、いや、友達じゃなくて、こいつ、爺さんの知り合いらしいっす」
「……そう、あの人の」
 娼婦は暫くヒスイを眺めていたが、やがて、着いといで、と、聖亜を抱えて歩き出した。


「……これは」
 ヒスイは、目の前の光景を見て、呆然と呟いた。
彼の目に映ったのは、崩れ落ちた建物の残骸だった。僅かに残っている建物の一部に、微かに十字架が彫られているが、それはほとんど焼け焦げている。
「これは、災厄、でか?」
「ん? 違うよ、数年前の火事のせいさ。建物が皆焼けちまってねえ」
 残骸の上には、幾つもの黒い足跡がある。どうやら、火事の後略奪に遭ったらしい。娼婦は悲しく笑うと、ふと、聖亜を気遣わしげに見た。
「その火事で、住んでいた神父さんも焼け死んじまって、残っているのは崩れた廃墟だけってわけさ……ごめんね、そろそろ戻るよ」
 古い腕時計を覗き、女はひらひらと手を振って去っていった。だが、ヒスイの視線は、傍らで無言のまま佇む、一人の少年に、ずっと注がれていた。



西暦2015年(皇紀15年)7月1日、22時10分


「……それで、ここからどうするっすか?」
「さての、教会に泊まる事ばかり考えていたからな。その場所がないとなると、他に行く当ては無い」
「……キュウ、何なら、私は野宿でもいいが」
 あの後―我に返った聖亜に連れられ、ヒスイと黒猫―キュウと名乗った―は、復興街を出て、旧市街を歩いていた。復興街と違い、街は綺麗に整備されており、所々に電柱や自動販売機が見える。
 結局、聖亜はバイト先に戻らず、まっすぐ家に帰ることにした。一度家に帰ってからバイトに行くため、財布や携帯以外は、全部家においてある。一応配達をしたことを白夜に告げ(報告が遅いと、散々におちょくられた)、げっそりと息を吐いた。
「……野宿って、ここら辺、海に近いから、初夏でも結構寒いっすよ。近くの民宿にでも泊まったらどうっすか?」
「……そうしたいのは山々だけど、その、お金が無い」
 恥ずかしそうにぽつりと呟き、ヒスイは胸ポケットから財布を取り出し、広げて見せた。聖亜が覗き込むと、中には綺麗に折りたたまれた百ドル札が二枚見えるだけだ。
「む、実はな、昼間、こやつが食べ過ぎての」
「だ、黙れ馬鹿猫、それ以上言うと、その髭引っこ抜くぞ!」
 頬を僅かに染め、逃げる黒猫を追いかけるヒスイを、聖亜は暫く笑ってみていたが、彼が黒猫を捕まえたところで、パンパンッと手を叩いた。
「あはは、分かったっす。じゃあ、俺の家にでも来るっすか? 助けてもらったお礼もしたいっすから。ちょっと古いっすけど、まあ広いから、一人と一匹ぐらい楽に泊まれるっす」
「え、いや、そんな事をしてもらう理由は「ふむ、ならばお言葉に甘えようかの」お、おい、キュウ」
 腕の中でにやりと笑う黒猫に、ヒスイは呆れたように声をかけたが、
「黙れヒスイ。我はもう、復興街の隙間の吹く安宿で眠るのは真っ平なのだ。大体、散々吹っかけられて、眠れたのは薄い毛布があるだけのボロ部屋だったではないか」
「う……わ、分かった」
「あはは、まあ、あの街じゃしょうがないっすよ。それじゃ、速く帰りましょうっす」
 すまなさそうに頭を下げるヒスイに手を振って、聖亜は何時間ぶりかの我が家に向けて歩き出した。


                                   続く



こんにちは、活字狂いです。「スルトの子 第二幕   灰色街の歪んだ日常③」、いかがだったでしょうか。今回出てきたのは、新しい人形と、残酷な道化師です。さて、この後、彼らは物語で、どのような配役を務めるのでしょう。では、次回はそれを少しお見せしましょう。幕間「黒」、および、第三幕「世界の表側」をお楽しみに。



[22727] スルトの子 幕間   「黒」
Name: 活字狂い◆e0323915 ID:b7707b89
Date: 2010/11/22 13:51

 薄暗い闇の中、その音は何時までも続いていた。

 ガッ  ガッ  ガッ

 何かを硬い物で打つ鈍い音だ。そしてその音と共に、時折くぐもった悲鳴が闇の中に微かに響く。
 それが、およそ二時間ほど続いただろうか。ドートスは“隠れ家”の中でふうっと満足そうに息を吐くと、持っていた棒を傍らにある机の上にぽいっと投げ捨てた。
「さてと、これだけ“お仕置き”されれば、頭の中に木片しか詰まっていない君達でも少しは反省したと思うんだけど」
 道化師の微笑に、今まで彼に散々打ち据えられていた人形達は無言で答えた。言うことがなかったのではない。彼らは何も言えなかったのだ。何故なら
「やれやれ、僕はなんて慈悲深いんだろう。何の役にも立たない君達をまだ手元においてあげてるなんて」
 なぜなら、人形に絶えずエネルギーを供給しているはずの台座は道化師の手によってその供給を止められており、先の戦闘で傷ついた肉体を癒す事ができないでいた。
「しかし、君達は本当に罪人なのかい? 特にビショップ、君は何でまた罪人なんかになったのさ、名誉ある吹奏者のくせにさぁ!!」
 叫び声と共に、道化師は悲しげな表情を浮かべる人形を殴りつけた。
「…………やり、すぎよ」
 怒りが疲労に勝ったのか、ナイトは震える足で立ち上がった。だが絶対零度に切断された槍は再生しておらず、半ばまで切り裂かれた右前足に体重をかけないように立つその姿は、まるで壊れたマリオネットのようだ。
「大体、あんたがもたもたしてるから絶対零度が来たんじゃ……きゃっ」
「……自分の無能を、人のせいにしないでほしいんだけど?」
 ナイトの傷ついた右前足に、絶対に“当たる”ように気をつけながら、ドートスは彼女を蹴り飛ばした。当然のように床に倒れた彼女の仮面を足でぐりぐりと踏みつけながら、道化師はぺっと唾を吐いた・
「絶対零度が来ても、君達がちゃんと撃退すれば何の問題もなかったんだよ。なのに倒すどころかいい様にあしらわれて終わりだなんて……無様としか言いようがないよ」
 笑顔の仮面を暫く踏みつけた後、ようやく彼は足を離した。
「じゃ、僕は定期報告をしなきゃいけないからもう行くけど、罰として暫くエネルギーは送ってあげないよ。まあいい子にしていればそのうち送ってあげるさ。そのうちね」
 
 道化師が去った後、三体の人形は声を出さずに―泣いた。


 がくがくと両足が震える。伸し掛かる圧力に立っていられなくなり、脂汗を流しながら、ドートスは惨めに床に這い蹲った。

 おかしい  なぜ、“彼ら”がこの世界にいる。

「…………失態だな、ドートス」
 前方の闇の中から、強烈な重圧を発していた者の声が聞こえる。その低い声に、周囲の闇がざわりと揺れた。
「あ、ああああのですが、それはわた、私のせいではなく、人形共「黙れ」ひぃっ!!」
「……言い訳を聞くつもりはないぞドートス。それに貴様、この三月の間私にどのような報告をしたか忘れているようだな」
「で、ですがあれは」
「……言い訳は聞かぬ、そう言った筈だ」
「がっ!!」
 闇の中から現れた漆黒の腕が、ドートスの首を掴んだ。
「大体貴様は言ったではないか。自分に任せてくれれば、単なる家畜など百体といわず、千でも万でも狩って見せましょうと。なのに」
 酸素を求めぱくぱくと金魚のように口を開く道化師を、漆黒の腕の持ち主は自らに引き寄せ、囁いた。
「なのに貴様が狩った家畜は、この三月で必要な数の半数に満たぬ。分かっているのかドートス、百という数は“あれ”を開く最低限の数なのだぞ。どうやら貴様には恩を感じるほどの脳みそがないようだな。酒場で燻っていた貴様を、せっかく拾ってやったというのに。それとも、また下層氏民に戻りたいのか?」
 そう、この道化師は生まれながらの中層氏民ではない。下層階級の生まれである彼は、酒場で燻っていたところを偶然拾われたに過ぎない。
「ひが、お、お許じぐだざいお館ざまっ」
「……ふん、まあ良いだろう。このまま貴様の細首を砕いてやろうと思ったが、その無様な顔に免じて猶予をやろう」
「あ、ああありがどうございまず、お館ざま」
 心底呆れた声と共に床に投げ出された道化師は、ぜえぜえと息を整いながらも、相手の機嫌を損ねないように必死に床に這い蹲った。
「だが、玩具使いが現れた以上うかうかしていられん。幸いこの地に舞い降りた玩具使いは一匹だけだ。いくらでもやり様はある。しかし、いつ増援が送られてくるか分からん……いいだろう、一度だけ手助けをしてやろう」
「……は? といいますと」
「奴の気を逸らしてやろう。その間にどんな方法でも構わん。貴様は一刻も早く“入り口”を開け。そうしなければドートス、貴様は“狭間”を泳ぐ巨大魚バハムートの腹の中で、生きたままじわじわと溶けることになるぞ。何をしている、分かったら下がれ、汚らわしい」
「は、はい、失礼いたします」
 がくがくと震えながら一礼すると、道化師は一目散に逃げ出した。

「やはりあのような下賎な奴には、このような大業は無理だったのでしょうな、むは、むははははは」
 道化師が去った後、闇の中に下品な笑い声を上げる男の声が響いた。
「ふん、元々奴には何の期待もしていない。道化らしく、せいぜい喜劇を演じてもらうさ……クイーン」
「はい」
 また別の声がする。今度は若い女の声だ。
「分かっているな」
「はい。早急に手配いたします」
「それで良い。しかし」
 闇の中から、それはゆっくりと歩み出てた。全身を漆黒のローブで隠しているそれは、何かを懐かしむように、ゆっくりと深呼吸をする。
「本当に何百年ぶりだろうな、この世界に現れたのは」



「くそっ、くそっ、くそっ!!」
 男は荒れていた。
「あの糞女、人が折角雌奴隷にしてやろうというのに断りやがって!!」
 今日の朝、言い寄った女に股間を蹴り飛ばされた男は、ぶつぶつと呟きながら、左手に持った手製のボウガンで“獲物”に向け矢を放っていた。
 獲物というのはそこらを徘徊する野良犬や野良猫、あるいは鳩等だ。昨日は獲物が中々見つからず、一羽の烏の羽に矢を放っただけだが、今日は運が良いのか、驚くほど獲物が見つかった。
 最初は野良犬、次は野良猫、次は鳩―もちろん一撃で殺すなんて馬鹿な真似はしない。わざと急所を外し、じわじわとなぶり殺しにする。
 
 それが、男が最近はまっている“ゲーム”だった。

「けど、やっぱ犬や猫ばっかり相手にしていてもつまんねえな。今度は……そうだ、スラムの人間を撃ってみるか。いいよな、あいつらは人間じゃないし……そうだ、それがいい」
 ぶつぶつと呟きながら、ゴミ捨て場を漁っている野良犬に狙いを付け、射る。
矢はまっすぐに飛んでいき、犬の首筋にぶつりと突き刺さった。
「はっは~、百点満点っ!!」
 首に矢を刺したまま、よたよたと逃げる野良犬に、男は次々に矢を放った。それは犬の足や腹部に突き刺さり、流れる血の量はだんだんと増えていく。野良犬は必死に逃げていたが、やがて自分の流した血に滑り、地面に倒れた。
「はんっ、ついに力尽きたか。ひとの出したゴミを漁るしか能のない害獣めっ!!」
 最後の矢を番えると、男はひくひくと痙攣する犬の頭に狙いを付け―撃った。
「ち、矢が無くなりやがったか」
 右目に矢が突き刺さり、絶命した犬を置き去りにして男は暗い道を家まで歩き出したが、数分歩いたところで、ふと立ち止まった。
「……何か暗すぎねえか?」
 彼の住む新市街は、道路に無数に設置された電灯の為、夜でも昼間のように明るい。だが、男の周りは電灯の明かりどころか家の灯りも、何より星や月も出ていなかった。
「なんなんだよ、これ」
 眉をひそめながら、用心のため、腰のポーチに手を伸ばす。だが、中にあるはずの矢は一本も無かった。
「ち、そういえばさっき使い切ったんだった。さっさと死なねえあの糞犬のせいだ。くそっ」
 悪態をつきながら、少し早足で歩き出した時だった。
「……ん?」
 ひたっ、ひたっと後ろで何か足音がする。最初は気にせずに歩いていたが、やがてひたひたと何時までも付いてくる足音が鬱陶しくなり、男は眉をしかめながら振り向いた。
「んだ手前、こんな夜中に歩きやが……て」
 だが、自分の後ろにいる“それ”を見た途端、男は口を限界まで開けた。
「……んだよ、んだよこれ!!」
 後ろを付いてきたのは、一匹の野良犬だった。ただの野良犬ではない。体中に何本もの矢が突き刺さっているその犬は、間違いなく自分がなぶり殺しにした獲物だった。
 完全に息絶えたはずの野良犬が、矢の突き刺さっていない左目で、自分をぼんやりと眺めている。
「なんだよ、こっち見てんじゃねえよ、糞害獣!!」
 ぺっと唾を吐き、走り出す。野良犬は当然のように向かってくるが、幸いな事に相手の足には矢が刺さっている。あまり早くは走れないはずだ。
 何度目かの角を曲がり、振り切ったと確信した時、

 ―ヴルルルルルル―

「ひっ」

 行く手から、口の中に矢が刺さった野良猫が一匹、よたよたと現れた。その小さい頭部には矢は大きすぎたのだろう。頭部の後ろに突き出した矢は、猫が歩くたびかくかくと上下に揺れた。
「ひっ、ひいいいいいいいいっ!!」
 顔を涙と鼻水でぐしょぐしょにしながら、男は今度こそ全力で走り出した。だが、行く先々でなぶり殺したはずの犬や猫、鳩が襲い掛かる。牙や爪、嘴に襲われながら逃げていた男は、不意に腕を掴まれた。
「あぐっ!!」
「早く、こっちです!!」
 一瞬心臓が止まりそうになったが、次の瞬間男はへなへなと崩れ落ちた。彼の腕を掴んでいるのは、生きている少女であったから。
「……なんだよ、驚かせやがって」
「ごめんなさい。それよりあなたこそこんな場所で一体何をしているのです?」
「何って、化物から逃げてたんだよ」
 角から様子を伺うと、害獣達は自分を見失ったようだ。うろうろと辺りを動き回っている。
「奴らから逃げるなんて……他の人達なら、何も出来ずに殺されてしまうというのに」
 少女の言葉に気を良くしたのか、男は少し胸を張った。
「ま、まあな。けどそれほどすごいことじゃねえよ」
「いいえ、“玩具使い”の生み出した奴らから逃げられるなんて、あなたは本当に特別な存在だわ」
「特別? 俺が特別ねえ」
 目を輝かせている少女の胸や太ももを、男はじろじろと眺めた。綺麗な少女だ。胸もでかい。何より自分を見る目は完全に崇拝している目だ。
 と、自分の視線に気付いたのか、少女は顔を赤らめ、ゆっくりと目を閉じる。
 男が鼻息を荒くして、少女の唇に吸い付いた瞬間、


 彼の意識は、闇の中に落ちていった。


                                   続く


 こんにちは、活字狂いです。ここ二週間ばかり、学芸員の方の調査に同行して岩手県に行ってきました。合間を見て遠野市の博物館を見学したのですが、オシラサマという蚕の神様がありました。さすがは遠野物語の舞台、変な神様が多いです。それはともかく、今回は幕間として、敵側を一部公開しました。道化師がひれ伏す相手は誰か、彼らの目的は、男の運命は……それを語る前に、まずはこの世界の「表側」をお楽しみ下さい。それでは次回「スルトの子 第三幕  世界の表側」でお会いいたしましょう。



[22727] スルトの子 第三幕   世界の表側
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:a8247099
Date: 2010/12/27 11:32
 

 
 暗い道を、一人歩く。



 これは夢だ。そう認識しているはずなのに、地面を踏みしめる感覚は鮮明に伝わってくる。
そして道の先にあるものを、少年は知っていた。
だから行きたくない、行きたくないと必死に叫ぶのに、それは掠れた声としてしか外には漏れず、歩いているうちに顔には笑みが広がり、家に帰る父親のようにその足取りは軽い。


  
  どれぐらい歩いただろうか。ふと道の先に、ぼんやりと明かりが見えてきた。



 笑顔の下で泣き喚き、必死にしゃがもうとしても、見えない何かに引きずられるように足はずるずると明かりに向かって進んでいく。


 やがて、見えてきたのは―燃え盛る炎に包まれた、一軒の古びた教会だった。



 見たくない。入りたくない。



 それなのに、心にしみこんだ“過去”という名の光景は瞼に焼き付き、“思い出”という名の見えない手はずるずると自分を引っ張っていく。




 そして、燃え盛る炎の中に一人たたずんでいるのは





 燃える蝋燭を両手に持ち、涙を流しながら笑っている、“  ”だった。





西暦2015年(皇紀15年)7月2日、6時30分


「うあっ……あうっ、むぷ?」
 自分の見た悪夢に叫び声をあげようとした聖亜は、顔に伸し掛かる圧迫に呻いた。暗い。意識は覚醒しており、目もちゃんと開けている。体感時間から考えても、いつもより三十分ほど寝すぎたようだ。なのに暗い。まるで自分の顔が何かに塞がれているかのように。
「う……ぷっ、うくっ」
「ん、朝っぱらか? お盛んだの、若君」
 と、いきなり抱きしめられた。顔を塞いでいた柔らかい何かがぎゅうぎゅうと自分の顔を圧迫し、息をするのも困難なほどだ。
「ふぐ……いったいなんなんすむっ!!」
 柔らかく、心地よいそれから無理やり顔を引き剥がすと、今度は思い切り口を吸われた。
「はむっ、く……なにするっすかいきなり!!」
 何とか唇を引き剥がし、相手を睨み付ける。睨まれた相手―赤い髪を肩まで垂らした美しい女は、舌で自分の唇をぺろりと怪しげに舐めた。
「ふふっ、なに、小姫が手篭めにされても困るでの。わらわの方で搾り取ってやろうとやろうとしただけじゃ」
「いや……手篭めにするって、そんなこと」
「しないとでも? 昨夜裸体を覗いておいてよく言うわ」
「あうっ」
 女の指摘に、聖亜は彼女を挟んで反対側に寝ている白髪の少年―いや、はだけた寝間着から、白い肌を覗かせている少女を見て、顔を真っ赤に染めながら、昨夜の出来事を思い出していた。



西暦2015年(皇紀15年)7月2日、午前1時05分


「なんだか……随分と広い家だな」
 それが、ヒスイが聖亜の住んでいる家を始めてみたときの感想だった。
 太刀浪駅の西側、太刀浪神社を中心とした観光地区から脇に逸れた深い竹薮の中に、それはひっそりと佇んでいた。
 九百坪はある広大な庭の中心に、木造三階建ての巨大な母屋があり、その左右には離れが備え付けられている。庭には小さいながらも川が流れており、水は脇にある池に流れ込む。だが、池にはゴミが溜まっておりに、建物も随分埃を被っている。
「まあ、昔は宿坊をしていたようっすから、そりゃ広いと言えば広すぎるほど広いっすけど、その代わりめちゃくちゃ古いっすよ。あまりに広すぎて掃除も最低限しかしてないし」
 ぎしぎしと悲鳴を上げる戸を強引に開けると、聖亜は傍らのスイッチを手探りで押した。天井に備え付けられた蒸気式のランプに蒸気が送られ、ぼんやりと明るくなっていく。
「最低限だと?」
「はいっす。えっと……ある程度きれいなのは、俺の部屋と友達が遊びに来た時用の客間、それから台所とかお風呂場とかトイレぐらいっすかね」
「……本当に最低限だな。それで? 私は客間に寝ればいいのか?」
「あの、それなんすけど、客間は友達が荷物を置きっぱなしにしてるから、出来れば俺の部屋に眠ってくださいっす」
「……」
 ヒスイに睨まれながら、聖亜はランプに照らされた廊下を進む。一歩歩くたびに床の埃が辺りに飛び散り、背の低い黒猫は思わず目をぱちぱちとさせた。
 それを見て笑いながら、聖亜は突き当りの部屋の前で立ち止まった。どうやらここが目的の部屋らしい。
「それじゃ、お風呂とお茶の準備して来るっすから、先に部屋の中に入っててくださいっす」
「いや、その前に親御さんに挨拶を」
「へ? 親父は今居ないっすよ。旅をするのが好きな道楽親父っすから、半年か一年に一度しか帰って来ないっす。今どこで何やってるっすかね」
 へらへらと笑いながら戻っていく少年を見送ると、ヒスイは目の前の障子を静かに引いた。薄暗い部屋を覗き込むと、十二畳ほどの部屋の隅にテーブルと棚があり、その前に布団が一つ無造作にたたんで置かれている。畳の上に散らばっている画用紙を手に取ると、青い絵の具で描かれた小さい花がある。もっとよく見ようと、暗闇を手探りで探り、壁際のスイッチを押すと、部屋の四隅に備えられたランプがぼんやりと光を放ち始めた。
「……やれやれ、これでは足の踏み場も無いぞ」
「お前が泊まりたいと言ったんだろう。文句言うな」
 ぶつくさと呟くキュウを一瞥すると、部屋の隅に重ねられた座布団を二枚取り、一枚を黒猫にやり、もう一枚にゆっくりと正座する。そのまま手の中にある画用紙を、改めて覗き込んだ。
「……きれいな絵だな」
「ふん、確かに中々の出来栄えだが、どれも同じ絵ではないか。これは……睡蓮か?」
「そうっすよ。っと」
 両手に持っていたお盆をひとまず畳みの上に置いてから、聖亜は隅にあるテーブルをヒスイの前に持ってきた。
「えっと、ヒスイはかりんとう好きっすか?」
「ああ。和菓子はみんな好きだ、ありがとう」
テーブルの上に置かれた器の中からカリントウを摘まみ、蒸気式の発熱ポットで沸かされたお茶を飲む。ゆったりとした時間が流れる中、ヒスイは唐突に口を開いた。
「……それで、何から聞きたい」
「へ? いや,無理に聞こうとは思わないっすよ」
 ぱたぱたと手を振る少年を見て、ヒスイは傍らで寝そべっている相棒を見た。その視線を受け、黒猫は重々しく口を開く。
「いや、そうはいかぬ。今回出現した人形―ナイトだったか―は、明らかにお前を知っていたし、何よりお前は道化師を挑発した。奴は根に持つタイプのようだからな。今度はお前を真っ先に狙うだろう」
「う……」
「だからこそ、せめて奴らのことを知識として知っておけ。そうしなければ、戦うことも逃げることも出来ん」
「は、はいっす。じゃあまず最初の質問なんすけど……あいつら、結局何者なんすか?」
「……奴らはエイジャと呼ばれる存在だ。人間を家畜と侮蔑し、その生気を喰らう化け物」
「ば、化け物っすか」
「もっとも、奴らは自分達の事を伝道者などと呼んでいるがな。人間に知識という餌を与え、太らせたのは自分達なのだから、家畜として扱うのも自由なんだそうだ」
「け、けどエイジャなんて、今まで聞いた事はないっすよ」
「奴らの人を襲う手段が巧妙だからだ。まず人間を自分達の“狩場”に誘いこむ。そこではただの人間は意識を保っていることが出来ないから、自由に襲うことが出来る。それに、ただの人間はそれを視覚でも聴覚でも認識することは出来ないから、外から見ても何も分からない。なにより」
「な、なにより?」
「奴らは別にこの世界に住んでいるわけじゃない。奴らの住んでいるのは、こことは違う場所、違う世界。私たちはその世界を獄界と呼んでいる。地獄と言う意味だ」
「じ、地獄っすか……けど、別の世界と言っても、そこから自由に来れるんじゃ、やっぱり知らないのはおか「誰が自由に来れると言った」へ? 違うんすか?」
 聖亜の問いに、ヒスイは温くなったお茶を飲み干し、頷いた。
「エイジャは確かに強力な力を持つ。だがその反面、獄界から自由にこの世界―奴らは現界と呼んでいるが―に来ることは出来ない。昔はこちら側から呼ぶしか来る方法が無かったんだ」
「え? こちら側って……まさか人が呼んでるって事っすか?」
「大半はな。けど別に驚くことじゃないだろう。人間の欲望にはきりが無い。それこそ、自分を神と称する悪魔に魂を売るほどにな」
「……」
 絶句する少年の前で、黒猫は深々とため息を吐いた。
「だが近年、と言っても二千年は昔になるが、奴らは人間に呼び出される以外にもう一つ、“門”を通り、こちらに来る術を学んだ」
「門……すか?」
 黒猫の言葉に、聖亜は自分の家の具合の悪い戸を思い浮かべた。
「いや、その門ではない。要するにこの世界と奴らの世界を結んでいる、狭間と呼ばれる道、その出入り口のことだ。そして、その門を最初に発見したのは」
 そこで一端言葉を切ると、キュウはその紫電の瞳で、傍らで静かに二杯目のお茶を飲むヒスイに目をやった。が、それはほんの一瞬だった。
「小僧、貴様イデアと呼ばれる言葉を知っているか?」
「イデアっすか? 言葉ぐらいは知ってるっすけど、詳しくは」
「覚えておけ、エイジャの語源となった言葉だ。その意味は本質、もしくは真の姿。古き時代、プラトンと言う哲学者が唱えた思想だ」
「もちろん、何の材料も無くその思想が生まれるわけは無い。それじゃあ、何故その言葉が生まれたかと言うと」
「……まさか」
 自分の言葉に顔を引きつらせた少年を見て、ヒスイはゆっくりと頷いた。
「そのまさかだ。プラトンは実際に覗いたんだ。門を開き、本質の世界―獄界を」
 辺りに沈黙が重く伸し掛かる。その中で、聖亜は頭の中の情報を必死に整理していた。
「つまり、まとめると……エイジャは人間を喰らう、別の世界から来る化け物で、昔は人が呼び出すしかこっちにはこれなかったけど、今ではプラトンって人が開いた門を通ってこちらに自力で来れるってことっすか?」
「ああ。けど、自力と言っても自由にじゃない。狭間の道は荒れた海のように険しい。そのため門を通ってこちらに来たエイジャの多くは空腹を抱え、見境無く人間を襲う」
「えっと、じゃあもしかしてポーンとかビショップとかいう人形が人を襲っていたのは、お腹が空いていたから?」
「いや、それは違うだろう」
 聖亜の問いに、黒猫が小さく首を振った。
「奴らが人間を襲っていたのは魂を狩るためだ。これを抜き取られた人間は生きても死んでも居ない状態になる。植物人間と言うのが一番近いだろうな。むろん、人間の魂を喰らうことはできるが、ただのエイジャにとって、人間の魂は劇薬と同じだ。生気のように軽々しく喰えるものではない」
「じゃ、じゃあ何であいつらはその、魂を狩っていたっすか」
 少年の脳裏に、守ることが出来なかった親子の姿が浮かぶ。知らず、声が大きくなった。
「さての、人間の魂には様々な利用法があるが、ありすぎて検討が付かぬ」
「……そうっすか」
 キュウの言葉に聖亜が黙り込むと、部屋の外からぴぴっと言う音が聞こえてきた。どうやらお風呂が沸いたらしい。
「あ、お風呂沸いたっすね。先に入ってくださいっす」
「いや、家主より先に入るわけには……分かった。入らせてもらう」
 さすがに断ろうとしたヒスイだったが、埃塗れの相棒に無言で睨まれ、あきらめたように立ち上がった。
「じゃあどうぞっす。あ、お風呂は廊下の一番左端っすよ」
 聖亜の言葉に頷くと、黒猫を抱えたヒスイは、ゆっくりと部屋から出て行った。それを見送ってから、聖亜はしばらく部屋の片づけと、寝る準備をしていた。正直頭の中は混乱しており、言われたことの半分も理解できなかったが、こういうときは体を動かした方が考えはまとめやすい。
 テーブルを脇に寄せ、押入れから布団を出したところで、聖亜はふと顔を上げた。
「そういえば、石鹸切れてたっすね」
 台所に向かい、棚の中に無造作に放置されたバッグの中から真新しい石鹸を取り出し、風呂場に向かう。さすがに入るのは気が引けるが、風呂場は洗面所と繋がっている。そこから呼べば、中に入らなくてもいいはずだ。
 がらりと勢いよく洗面所の戸を開ける。と、聖亜の目に、少年の裸体が飛び込んできた。
「あ、ヒスイ。石鹸持ってきた……すよ?」
「……」
「……」
「…………」
「…………へ?」
「っ、この、変態がっ!!」
 頬にばきりと拳がめり込む。床に倒れながら、聖亜は意識を失うまで、目の前にいる“少女”の薄い胸のふくらみを、まじまじと眺めていた。


西暦2015年(皇紀15年)7月2日、6時32分



「いや、あれはその、男の子だとばかり思ってたから」
「ふふ、それでは言い訳にはならぬの。若君」
 真っ赤になってぶつくさと呟く少年を、女はしばらくおかしげに笑っていたが、やがて反対側ですやすやと眠っている少女をゆさゆさと揺さぶった。
「ほれ小姫。いい加減に起きられよ。小松が朝餉を持ってまいるぞ」
「ふにゃ……やあだ小梅。あと5分だけ~」
「やれやれ、相変わらず朝が弱いのう。ふふ、若君に手篭めにされても知らぬぞ」
 女が少女の耳元で囁いた言葉は、絶大な効果を発揮した。ヒスイはぱちりと目を覚ますと、聖亜をまるで獣を見るような目で見つめ、ずりずりと勢い良く後ずさった。
「あ、あの、おはようございます」
「……」
「えっと、あの昨日は、その」
「……」
「……あ、あうう」
「……ふうっ、いい加減に許してやれ、ヒスイ」
 聖亜を哀れに思ったのか、それとも耳元で騒がれるのがいやなのか、座布団の上で眠っていた黒猫がのそりと起き上がった。その体に掛かっていたタオルケットがぱらりと落ちる。
「けど……」
「ふん、ならばこうしようではないか。小僧、貴様次にヒスイの裸体を覗いたらその一物、我が牙で噛み砕くぞ。分かったな」
 紫電の瞳に睨まれ、聖亜はこくこくと勢い良く頷いた。


「えっと、じゃあ改めて……この人、誰っすか?」
 布団をしまい、テーブルを持ってきた所で、聖亜は目の前に居る女を指差した。彼女はどこからか取り出した徳利に口をつけ、美味しそうに飲んでいる。
「ああ、こいつは私の」
「小姫の従者の小梅と申す。よろしゅうに、若君」
「従者って……昨日はいなかったじゃないっすか」
「……そういえば、この姿を見たのは初めてだったな。小梅、監視ご苦労だった」
 小さく頷くと、ヒスイは小梅に向かって手を伸ばした。小梅は慣れた手つきで、その手にそっと触れる。途端に彼女の体は消えうせ、そこには少女が昨日使っていた、一本の刀があった。
「……ああ、なるほど」
「気がついたお前に襲われないように、こいつに見張りを頼んでいたんだ」
「つまり、刀のお化けさんっすね」
「私たちはお化けではない!!」
 不意に、廊下から別の声が響いた。少年が振り向くと、そこには青い髪をポニーテールにした子供が、お盆を持って立っていた。
「おはよう、小松」
「おはようございますヒスイ様。ヒスイ様、私はやはり反対です。こんなケダモノの世話になるなど」
「いや、ケダモノって」
「男の私から見ても、貴様は十分にケダモノだ!! ヒスイ様、こんな所、早く出て行きましょう」
 不機嫌そうに顔をしかめ、小松と呼ばれた少年はヒスイの前に食器を並べていく。それが終わると、今度はさぞ嫌そうに、仕方が無いと言う風に、聖亜の前に乱暴に食器を置いていった。
「ありがとう、小松」
「い、いえ、それでは失礼いたします」
 頬を染め、ぺこりとお辞儀すると、小松はおずおずとヒスイが伸ばした手に触れた。次の瞬間、小松の姿は無く、少女の手には一本の小太刀が握られていた。
「さ、食事にしよう」
「……」
 嬉しそうに箸を取るヒスイを見ながら、消える寸前、小松から殺気をこめた目で睨まれた聖亜は、げっそりと息を吐いた。


「それで、これからどうするっすか?」
 焼いた鮭とご飯、油揚げの味噌汁を食べ終え、一息ついた頃、ふと聖亜はヒスイに尋ねた。
「もちろんエイジャを探す。と言いたいが、やはりいつまでも世話になるわけには行かない。奴らも戦力が低下しているから、すぐには出てこないだろう。その間、援助の要請と情報交換のため、司(つかさ)に連絡を取る」
「……司(つかさ)さんっすか?」
「人の名前じゃない。私同様、エイジャを倒すことを生業にしている者の事だ」
「はあ……けど、別に遠慮しないでいいっすよ。部屋はたくさんありすぎるっすから」
「……そんなわけにいくか、馬鹿者」
 聖亜の言葉に、食後の睡眠を取っていた黒猫が、目を閉じたまま呟いた。
「……じゃ、じゃあ自分は学校に行ってくるっす」
「こんな早くにか?」
 棚に置かれた目覚まし時計を見て、ヒスイはこてんと首をかしげた。まだ七時を少し過ぎたところだ。いくらなんでも早すぎるだろう。
「学校まで一時間ぐらい掛かるから、これでも遅いほうっすよ。それじゃ、行ってきます」
 念のために合鍵を少女に渡すと、ここ数年間使っていなかった言葉を発して、温かな日差しに目を細めながら、聖亜は学校に向けて走っていった。



 少年が出かけた後、食器の後片付けを人の姿に戻った小松に任せ、ヒスイは縁側からぼんやりと外の景色を眺めた。
 家の周囲を囲んでいる笹の葉がさらさらと静かに揺れ、葉の一枚が少女の足元に落ちてきた。
「それで、いつ出かける」
「お腹が落ち着いたら、すぐにでも」
 膝の上に乗ってきた黒猫の、夜空に似た毛並みを撫ぜながら、ヒスイは部屋の中で聖亜が食べた食器を嫌そうに盆に載せる小松に目をやった。
「小松……嫌なら私がやるぞ」
「へ? い、いえ、それは落としそうで危険……ではなくてですね、恐れ多いです。ええ。それよりヒスイ様、本当にあんなケダモノの世話になるおつもりですか?」
殺気から随分とそこにこだわっているな。まあ、今から会う司との話し合いが無事に終われば、そんなことにはならないさ。けど万が一ということもある」
「わ、分かりました。その時はこの小松が、全身全霊をかけて“男”になり、ヒスイ様を守ってご覧にいれます」
「ありがとう……ああ、それからひとつ頼みがあるんだが」
「はい!! なんなりと!!」
座って嬉しそうに命令を待つ小松は、次の瞬間、敬愛する主が発した命令に、心底泣きそうな顔をした。




西暦2015年(皇紀15年)7月2日、12時03分


 周囲がやけにざわついているので、聖亜はぼんやりと目を開けた。


 確か今は鍋島先生の授業中……のはずが、教室は喧騒に包まれており、どうみても厳しい教頭の授業ではない。
―まさか、寝てた?
 ぼんやりとした頭を振って、何とか意識をはっきりさせながら時計を見て……絶句した。時計の針は最後に見たときから一時間強は進んだ場所にあった。確か授業が始まってすぐに時計を見たはずだから……


 鍋島先生の授業中、丸々眠っていたことになる。


 ため息を吐いて突っ伏した机には、準の文字でメモが張ってあった。

『鍋島先生より伝言、起きたら生徒指導室に来るように、だそうだ。その前に顔を洗った方がいい。PS、落書きは秋野と福井の凸凹コンビがやったものです』
 そういえば、クラスの連中が自分を見て妙にニヤニヤと笑っている。寝ぼけすぎた自分にあきれるように、聖亜は再び机に突っ伏した。



「何故呼ばれたのか分かっているな」
「……はい」
 近くの水飲み場で顔を洗った後、二階の生徒指導室で、聖亜は厳しい顔をした教頭と向き合っていた。
「星、確かお前はアルバイトをしていたな。生活費を稼ぐ必要があるから許可したが、学業に支障が出るほど忙しいなら、別のアルバイトを探すことを薦める」
「いえ、これはアルバイトのせいじゃないです」
「では何故だ? 春なら眠くなるのも仕方が無いが、今は初夏だ。暖かいというより暑い中で眠るのは相当疲労が溜まっている証拠だと思うが。美術部に所属しているお前が、それほど体力を消耗するはずはないだろう」
「それは……そのっ」
 ふと、聖亜は目の前の教頭に昨日と一昨日あった事を何もかも話してしまいたくなった。だが喉まで出掛ったその言葉を必死に飲み込む。化物(けもの)と違い、完全な化け物がいるなどと言ったら十中八九正気を疑われる。例え信じてもらうことが出来ても巻き込んでしまう。
「……どうした?」
「へ!? いや、何でもないでございますです」
「……」
「……」
 室内に重苦しい沈黙が流れる。何か別の話題はないかと、必死に辺りを見た聖亜の目に、それは飛び込んできた。
「えと、先生、それはなんですか?」
「……ああ、これか」
 鍋島は立ち上がると、窓際にいくつも置いてある古ぼけた人形を手に取った。手の中にすっぽりと納まる小さな人形を、大事そうに抱える彼を見て、聖亜がいたたまれない気持ちになったとき、

 突然、お腹が鳴った。

「あ、あうっ」
「……ふうっ、今日はここまでにしておこう。今度からはもう少し早く寝るように」
「は、はい。失礼します」
 聖亜が顔を赤らめて出て行くのを見送ると、鍋島は優しげな、そして悲しげな表情で手の中のウサギの人形を見た。
「…………これは、娘へのクリスマスプレゼント、だったものだ」



西暦2015年(皇紀15年)7月2日、12時30分


「や、おまたせしました」
 目の前でこめつきバッタのように何度も頭を下げる男を、ヒスイは不機嫌そうに眺めた。
「いや、申し訳ございません。まさかご高名な百殺の絶対零度様が来られるとは、夢にも思わなかったもので。あ、私太刀浪市を担当している守護司(しゅごのつかさ)、森岡と申します」
「……」
 二人が居るのは、空船通りにある喫茶店の中だ。ヒスイの機嫌が悪いのは、目の前の男のせいでもあるが、ここに来るのに四時間も掛かったことだった。
 不機嫌な表情のまま、差し出された名刺に目を映す。そこには黒塚銀行高知支店支店長と、でかでかと書かれてあった。
「本来ならば、料亭で一献設けたい所ですが、なにせ今朝いきなり連絡をもらったもの「御託はいい」……はあ」
「単刀直入に聞かせていただく。この地でエイジャの活動が感知されたのは今から三ヶ月ほど前。それから今まで、あなたは一体何をしていた」
「いや、お怒りはごもっともでございます。申し訳ございません。私も今回の事態を重く見まして、“高天原”本部に増援を要請したのですが」
 冷淡な声で問いかけてくる二回りは年下の少女に、森岡はへこへこと頭を下げていたが、不意に顔を寄せてきた。
 きついポマードの臭いに、鼻が曲がりそうになる。
「実は、本部の方で何かあったらしく、何度連絡しても一向に増援が送られてこないのです」
「……増援を待つ必要があるのか? 守護司になるためには、あの儀式を成功させる必要があると聞いた。守護司を名乗っている以上、あなたにも何かしらの能力はあるはずだ」
「や、や、お恥ずかしい。“力”にもピンからキリまでございまして。私などもうキリ中のキリ。ただ道を探ることしか出来ません」
「……」
「や、それでも何とか奴らの事を探ろうとして「もういい」……は?」
 いきなり立ち上がったヒスイを、森岡はぽかんとした顔で眺めた。
「現在この都市で活動しているエイジャに対し、貴方が何の対処もしていないことが分かった。私は私で勝手にやる」
「ちょ、ちょっとお待ちください。せめて資金援助など、なにかしらお手伝いを」
 一瞬、少女の脳裏に軽くなった財布と、そして何故か少年の顔が浮かんだが、ヒスイはむっつりと頭を振った。
「必要ない。私と貴方は同じ組織に所属しては居ないのだから。そのようなことをされては迷惑なだけだ」
「はあ、あの、でしたら一つ情報の提供と、お頼みしたいことが」
「……」
 いぶかしげに眉をひそめる少女に顔を寄せると、森岡はぼそぼそと話し始めた。




 少女が去った後、
 
 男は営業顔をやめると、ちっと強く舌打ちし、椅子に深々と座りなおした。
胸ポケットから最高級の葉巻を取り出し、深く吸う。
「……百殺の絶対零度といっても、所詮は年端のいかねえ小娘。警戒する必要は無いと思うが、念には念をだ」
 そのまましばらく煙の味を楽しんでいたが、やがて傍らの携帯電話を取り出し、相手にかける。
 何度目かのコールの後、相手は出た。
『……』
「俺だ。少々厄介なことになった。外から面倒くさい奴が来た」
『……!』
「そう心配するな。ピエロにこだわっている以上、心配はいらねえ。だが万が一ということもある。悪いがそっちでしばらく監視しておいてくれや」
『……』
「あ? くくっ、お前も好きだねえ。ま、俺にはそんな趣味は無いから好きにしな。じゃあな、また連絡するぜ」
電話を切ると、森岡は椅子から対上がり、窓から外を眺めた。
「……俺には力がある。あのときには無かった力がな」
 ぐっと強く手を握る男の瞳には、隠し通せない狂気の炎があった。



「さて、どう見る? ヒスイ」
「どう見ると言われても……別に大したこの無い奴に見えたけど」
喫茶店を出たヒスイは、傍らを歩く黒猫とともに、暫らく旧市街を歩いていた。復興街と違って道は整備され、歩道の脇には均等に花が植えられている。
「確かに。エイジャの活動を知りながら、何の対処もしていないのは、愚かとしか言いようが無いが、しかし、それは別の見方も出来る」
「別の見方?」
「うむ、すなわちあの森岡という男が、彼の道化師と手を結んでいる場合だ」
「敵と手を結ぶ? そんなことありえない」
 立ち止まって少し睨んでくる少女の視線を、黒猫はため息を吐いて見つめ返した。
「ヒスイよ、我が愛しき未熟者よ。我は以前言ったはずだ。全てを疑えとな」
「……分かった。その件はひとまず保留にしよう。ところで」
「どうした?」
「ここ、どこだ?」
 困惑した顔で周囲の木を見るヒスイに、キュウはあきれたように首を振った。




西暦2015年(皇紀15年)7月2日、16時20分


 息を止め、ぐっと最後の一押しをする。その白い部分を自分の好きな色に染める行為を、聖亜は何よりも気に入っていた。
「お、中々の仕上がりだね。聖亜君」
「あ、お疲れ様です。城川先生」
 青い花を描いたキャンパスを覗き込む若い美術部の顧問に、聖亜は軽く頭を下げた。
「それにしても、やっぱり県のコンクールには、青い睡蓮の絵で挑戦するのかい? 君は肖像画の方が上手だと思うんだけど」
「はあ……でも人の絵は小学生以来描いていませんから」
「そうかい? けどあの時君が描いた女性の絵は、すごく気持ちが込められていて、僕は好きだったんだけどなあ……そうだ聖亜君、話は変わるけど、これもらってくれないかい?」
「……またみたらし団子っすか?」
 観光地区にある和菓子の老舗「城川屋」の跡取り息子に差し出された大きな紙袋を見て、聖亜は眉をしかめて尋ねた。中を覗き込むと、予想したとおり袋の中にみたらし団子のパックがずらりと並んでいる。
「君も知ってると思うけど、僕の奥さん、みたらし団子を作るのがすごく好きでさ。そのくせ本人は甘いものが苦手だから、余っちゃって余っちゃって。とにかく受け取ってよ。処分するのももったいないし」
「はあ……ところで今回はどれぐらい作ったんすか?」
「大体三百本と言うところだね。他の部員にも渡すけど、一人大体三十本ぐらいあるから」
 聖亜の呆れた顔に手を振りながら、少年の年上の幼馴染は他の部員にも紙袋を押し付けていった。

 美術室に、次々に生徒たちの悲鳴が沸き起こった。



西暦2015年(皇紀15年)7月2日、17時40分


「……あれ?」
 納得のいく絵を描き終え、家に帰った聖亜を待っていたのは、昨日までとはまるで違う景色だった。丈の長い雑草に覆われた庭は整理され、汚れや埃が目立つ巨大な家は、きれいに掃き清められていた。
「ああ、おかえり」
「ただいまっす。これ、ヒスイがやってくれたっすか?」
 雑巾でぴかぴかに磨かれた縁側で、ゆっくりとお茶を楽しむ少女に、聖亜はそう尋ねた。
「いや、私じゃない。ほとんど小松がやってくれたんだ。私も帰ってから手伝おうとしたんだけれど」
「ヒスイ様に手伝ってもらっては、逆に手間がかか……いえ、お疲れのようでしたから」
 ふと、後ろから声がした。振り返ると、蒸気式炊飯器を両手で抱えた小柄な少年が、不機嫌そうに立っていた。
「何をぼんやりしている。こっちは夕食の準備で忙しいんだ。手伝うつもりが無いならさっさとどいてくれ」
「あ、す、すいませんっす」
 どうにも強気に出れない家主を睨みつけながら、少年はせかせかと歩いていった。



「アルバイトっすか?」
 埃をきれいに掃かれた座敷で夕食を食べ終え、一息ついている時、ヒスイが発した言葉に、聖亜は熱いお茶を思わずごくりと飲み込んだ。途端にむせる。
「そうだ。資金援助は断ってしまったし、アメリカから送金してもらうまで、何もしないわけにはいかないからな……大丈夫か?」
 心配そうに見つめてくる少女に頷くと、聖亜はふうっと息を吐いた。
「別にそんなことしなくていいっすよ。お金には困ってないっすから」
「いや、それでは逆にこっちが困る。小松が家事をしている以上、その主である私が何もしないわけにはいかない」
「そうっすか? なら探してみるっすけど……そうだヒスイ、早速で悪いっすけど、これ食べるの手伝ってくれないっすか?」
「それは構わないけど……この量は二人でも多いと思うぞ。小松たちは食べる必要はないし……中身はなんだ?」
「みたらし団子っすよ。別に嫌いじゃないっすけど、さすがに量が多すぎ……ヒスイ?」
 みたらし団子という言葉に、途端に目を輝かせた少女を、聖亜はいぶかしげに眺めた。



 熱いお湯の中にゆっくりと体を沈める。一度深呼吸すると、聖亜はう~んっと大きく伸びをした。
「しかし、ヒスイの好物がみたらし団子で助かったっすね」
 風呂に入る前に見た、少女が次から次へとみたらし団子を口の中に入れる光景を思い出し、少年はおもわずくすりと笑った。
「けど、さすがに二十五本は食べすぎな気がするっす」
 そう呟き、体を洗おうと立ち上がったときだった。
「そう申すな若君。小姫の父君は優しいが厳しい方での。団子は一日に一本と決めておられたのじゃ。暫らく口に入れてなかったし、歯止めが利かなくなったのであろうよ……どうかしたかの?」
 ぽかんとした顔でこちらを見る少年に、小梅は妖しく笑うと、持っていた酒杯の中身を一気に飲み干した。
「……どどどどうしたはこっちの台詞っすよ!!ななななんで小梅さんがこここにいるっすか!?」
「ん? ああ、中庭にある露天風呂で月を見ながら一献傾けておったのじゃが、さすがにふやけてしまっての。それより、体を洗うならわらわが体で洗ってやるが?」
「いいいいや、えええ遠慮するっす。じゃじゃじゃ、じゃあ自分は先に上がるっすから」
「おや若君。今は出ぬ方が良いぞ」
「へ? 何か言ったっすか?」
 良く聞こえなかったため、聞き返しながら洗面所と隣接している戸をがらりと開けたとき、
「……」
「……」
「…………あれ?」
 体にバスタオルを巻いた小柄な少年と、ばっちりと目が合った。
「……え~と」
「っ!! この、ケダモノがぁっ!!」
「はうっ!!」

 
 股間に感じた強力な痛みと衝撃にがくがくと震えながら、聖亜の意識は遥か彼方へと旅立っていった。



西暦2015年(皇紀15年)7月3日、8時15分


「…………おはよっす」
 次の日、聖亜は俯いて教室に入った。クラスメイトが何人か挨拶をしてくるのに答えながら窓際の自分の席に座ると、後ろの席の女子が背中に寄りかかってきた。
「おはよっす、準」
「ああ……って、聖、お前何だか顔色が悪いぞ」
「い、いや、なんでもないっすよ」
 そう言いながらも、聖亜はげっそりとため息を吐いた。昨夜、風呂場での災難の後、一時間ほど気絶していた彼は、気がつくと自分の部屋に寝かされていた。股間にタオル一枚巻いた状態で。
 男として何かを失った気持ちになりながら、気落ちしている聖亜に寄りかかり、準は眠そうな顔で分厚い本をぱらりとめくった。読書好きな彼女は、夜遅くまで本を呼んでいることが多い。今読んでいるのは、確かこの街の郷土史だった。
「準こそ、また夜更かしっすか?」
「ああ。中々面白くて、ついな」
 そんな他愛も無い話をしていると、黒板の前に居た三つ編みの少女が、厳しい顔で歩いてきた。
「ちょっと星君、昨日日直だったでしょ。黒板消し汚いままよ!!」
「へ? あ、すいませんっす。栗原さん」
 頭を下げる聖亜に、だが鬼の学級委員の異名を持つ栗原美香は、神経質そうに目を細めた。
「それから、一昨日は三時限目から出席したんですって? 駄目じゃない!! ちゃんと授業にでなきゃ!!」
「あうっ、けどその、気分が悪くて」
「言い訳しない!!」
 バンッと強く机が叩かれる。その音で周囲の生徒がひそひそと声を細めて喋りだした。

「何だか機嫌悪いよね、栗原さん」
「やっぱりこの前の中間考査で星君に負けたこと、根に持ってるんじゃない?」
「いくら一年でソフト部のエースに選ばれたからって、ちょっと調子に乗りすぎだよね」
「なっ、あ、あんた達ねえっ!!」
 栗原が回りに大声で怒鳴ろうとしたとき、
「おはよう諸君!!」
「……」
 入り口から秋野が入ってきた。その後ろから何故か帽子を被った福井が続く。だがいつも暑苦しいほどの笑顔を振りまく彼が、何故か今日はその巨体を縮めていた。
「おはよっす秋野。それと……福井?」
「……おう」
 聖亜が声をかけても、俯いたまま細い声を出すだけだ。首をかしげる聖亜を見て、秋野がにやにやと笑いながら、ばっと親友の帽子を剥ぎ取った。
「ぶっ、ど、どうしったっすか、その頭!!」
「う、うるせえっ!! 昨日姉ちゃんたちに剃られたんだ、ちくしょ~!!」
 文字通り光っている頭を抑え、福井はこの世の終わりという顔で絶叫した。途端に教室中で大爆笑が起こる。それは結局、植村先生が入ってくるまで続いたのだった。

 植村氷見子は、外の景色を見ながら静かに歩く少女を見て、咥えていたシュガーチョコを思いっきり噛み砕いた。
「あ、あの……植村先生?」
「……あ?」
 そんな彼女に好意を寄せる新米教師がおそるおそる声をかけるが、不機嫌そうに睨まれ、慌てて教室に入った。
「……あ~、ヒスイ、だったか」
 彼女は今朝校長からいきなり押し付けられた女子生徒に声をかけた。だが少女はこちらをちらりと見ただけで、結局また外の景色を見た。
「お前、さっきから何見てんだよ」
「……いや、桜の花を探しているんだが」
「はあ? 馬鹿かお前、桜は春に咲く奴だろ、今は夏だ。時期が違うだろうが」
「そうなのか?」
「そうなの。それよりさっさと教室に入るぞ、ホームルーム始めっから」


「うそだろ……」
 目の前で氷見子に紹介されている少女を見て、聖亜はがくりと項垂れた。端正な顔つきのため、周りで男子がひそひそと話している転校生は、間違いなく今朝別れたばかりの少女に他ならなかった。
「あ~、というわけで、夏休み直前というへんな時期に転校してきたが、アメリカからの留学生だ。ほら、自己紹介しな」
「……ヒスイ・T・Dだ」
「……ったく、それだけかよ。まあ良い。いいかお前ら、恒例の質問は休み時間にしな。授業に入るぞ。それからヒスイの席はっと」
 周りを見渡すと、ちょうど空席が見えた。というか空席はそこしかない。彼の隣りに女を座らせたくはないが、しょうがない。
「……んじゃ星、悪いけどヒスイの面倒見てくれよ」
「え? ちょ、ちょっと氷見子先生!!」
 慌てて立ち上がるが、それは逆効果だった。こちらを見つめる少女とばっちり目が合う。数瞬見詰め合うと、ヒスイはゆっくりとこちらに近づいてきた。
「なんだ、お前この学校だったのか」
「……そうっすよ」
「は? なにヒスイ、星の事知ってるのか?」
「ああ、一昨日からこいつの家に厄介になっている」
「……おい、それってどういう「「「えええええええええええ~!?」」」くっ」
 少女の言葉に、聖亜の後ろにいる準が慌てて立ち上がるが、彼女の言葉は周囲から発せられた驚愕の声にかき消された。




西暦2015年(皇紀15年)7月3日、12時10分


「まったく、何なんだお前のクラスは、騒がしいにも程があるぞ」
「……それはしょうがないと思うっすけど」
「けど、別に転校生が珍しいわけじゃないんだろう」
「いや、そっちじゃなくて、俺の家に住んでる方……」
「事実だ」
 きっぱりと言い放つ少女にため息を吐くと、聖亜は小松お手製の重箱に箸を伸ばした。
 あの後は大変だった。準と氷見子には説明しろと詰め寄られ、福井と秋野からははやし立てられ、栗原からは怒鳴られた。騒ぎは結局隣で授業をしていた鍋島先生が注意に来たことで、やっと収まった。
 だが、授業中も周りからの視線―中でも後ろからの突き刺すような視線に生きた心地がせず、昼休みに入ると同時にいつも昼寝しに来ている、本来は立ち入り禁止の旧校舎の屋上にヒスイをつれて逃げ出したのだ。
「それで、どうして学校にいるっすか?」
「それは私が聞きたい。昨日司と情報交換をしたとき、この学校にドートスに関係ある人間がいるから、生徒として潜り込み監視してくれと言われたんだ」
「関係のある人間って……誰っすか?」
「……さっき注意しに来た男、この学校の教頭を努める鍋島という男だ」
 予想もしなかった人物の名前に、聖亜はぽかんと口を開けた。当然だろう。彼は生徒に厳しいがそれ以上に自分に厳しい。そんな人がドートスと関係があるとは思えなかった。
「それって本当なんすか?」
「どうだろうな、確証はまだないし、今日彼を見て、ますます疑問が湧いた」
「確証はないって……仲間なんすよね、証拠とか見せてもらえなかったっすか?」
 聖亜の質問に、ヒスイは暫く首を傾げていたが、やがてああと頷いた。
「仲間という言葉は、正確には違う。確かに同じエイジャを狩る存在と言う意味では仲間だが、同じ組織に所属しているわけじゃない」
「へ? そうなんすか?」
「ああ。そうだな、簡単に説明すると」
 ヒスイは重箱の中に残っていた肉団子を三つ取ると、それを蓋の上に順番に並べた。
「一つ目は、私が所属している“魔女達の夜”と呼ばれる組織。これはアメリカに本拠地を置き、世界中で活動している」
 そこで一端言葉を切ると、少女は肉団子の一つを口の中に入れた。
「二つ目は、日本で活動している“高天原”と呼ばれる組織で、先程言った司で構成されているが……」
「いるが?」
 先程の自分同様、首をこてんと傾げた少年に、少女は少し侮蔑を込めて言った。
「この連中は人手不足を理由に日本以外でエイジャの討伐をすることは無い。陰で“臆病者”と呼ばれるほど消極的なんだ」
「臆病者って、随分な言い方っすね。でもそうなると分からないことがあるんすけど」
「ん? 何がだ」
 重箱の中から玉子焼きを取り出し、口に運ぶ。ほど良く焼かれたそれは、ほんのりと甘かった。
「日本には、その高天原という組織があるんすよね、なのにどうしてアメリカからヒスイが来たんすか?」
「ああ、その事か」
 今度は煮豆に手を伸ばす。が、中々取れない。悪戦苦闘している少女に笑いながら、聖亜はかわりに煮豆をつまむと、それを少女の口の中に入れてやった。
「ん、すまない。今から三ヶ月ほど前、“羅針盤”にエイジャの活動が感知された。本来なら高天原の連中に討伐されるはずだったんだが」
「……されなかった?」
「ああ。結局二ヵ月半ほど経過して、教授達が臨時の対策会議を開き、確認と討伐のために誰かを送ることが決まり、日本語が達者な私が選ばれたというわけだ」
「……何か同じ日本人としてごめんなさい」
「別にいい。日本には来たかったし。それで、もう質問は無いか?」
「そうっすね……そういえば、魔女達の夜と高天原で二つ、後一つは何ていう組織っすか?」
「……」
 ヒスイはその問いには答えず、屋上の中心に作られた鐘楼に目をやった。かつては時を知らせるために鳴っていた巨大な鐘は、今はもう動いていない。
「あれはもう鳴らないのか?」
「へ? ああ、十年ほど前から鐘の音を音響機関で流してるんすよ。それに、海ツバメが巣を作っちゃって。あの、それよりもう一つは」
「ああ、もう一つは“彷徨う者”と呼ばれる組織なんだが……これは」
「……これは、その『この者達は、先の大戦で本拠地を失った者たちの集団だ』……おい、キュウ」
「あれ? 黒猫さん、来てるっすか?」
 周囲をきょろきょろと見渡す。だが立ち入り禁止のこの場所には、自分とヒスイ以外誰もいない。その様子を呆れた表情で見つめると、ヒスイは胸ポケットから一つのペンダントを取り出した。
「キュウはここにはいない。このペンダントが通信機の役割を果たしているんだ」
「な、何だかお鍋のような形っすね」
 聖亜の言葉通り、ペンダントは丸く、両側に突起がある。まるで鍋を上から見た感じだ。
「“尽きざる物”という。言葉の意味ぐらい自分で調べろ。要するに、通信機と収納袋を一緒にしたものだ。それよりキュウ、あの大戦のことは」
「別に隠すようなことではない。良いか小僧、人間とエイジャは、かつて二度の大戦を引き起こした。一度目は単なる小競り合いだが、二度目は規模は違う。彷徨う者とは、この二度目の大戦“嘆きの大戦”にて、本拠地を失った者をいう」
「嘆きの大戦……すか」
「……其れは嘆きの黒樹なり。身を包む表皮は漆黒の憎悪にして、流れる体液は恨みの涙。その歩みを止める術は無し」
 初夏のぽかぽかと暖かい日差しの中、御腹が一杯になった少年は、うつらうつらとしていたが、やがて少女の子守唄に、その意識を体と共にゆっくりと横たえていった。



 その頬に、硬い屋上ではない、柔らかい何かを感じながら。




西暦2015年(皇紀15年)7月3日、15時30分


「準、ちょっといいっすか?」
 放課後、聖亜はむすっとした顔で帰ろうとしていた少女に声をかけた。
「何だよ浮気者」
「浮気者って……お昼一緒に食べなかった事は謝るから、許してくださいっす」
「……ふうっ、分かったよ。それでどうした?」
「いや、準は“尽きざるもの”っていう鍋知ってるっすか?」
 昼間ヒスイから聞いた、尽きざるものという単語がどうしても気になってしょうがなかった。
「“尽きざるもの”って呼ばれる鍋? ああ、そういえばケルト神話にそんな物があったな」
「ケルト神話……すか?」
「そう。確かダーナ神族の主神が持っていた、お粥を無限に生み出す大鍋が、そんな名前だった気がする」
「……そうっすか、どうもありがとっす」
「別にいい。それより聖、これから時間あるか?」
「え? ああ、別に用はないっすよ、コンクールに出す絵も仕上がったし」
「そうか、なら今日は久しぶりにデートしないか。駅前通りの本屋で買いたい物もあるし」
「ええっ? 荷物持ちっすか?」
「そう言うな、好きなもの奢ってやるから」
「そうっすか?ならい「すまないが、こいつは私と約束がある」って、ちょっとヒスイ?」
 不意に、少年の横から少女の声がした。振り向くと、帰り支度を終えた少女が、こちらを不機嫌そうに睨んでいる。
「……聖はないって言ったぞ」
「そうだな。私が今決めた。今日はこいつに旧市街を案内してもらう」
((今決めたって、約束って言わないんじゃ))
「……お前、あんまり調子に乗るなよ」
 残っている生徒が聞き耳を立てる中、二人の少女は少年を挟んで睨みあった。聖亜は二人の間で暫くおろおろとしていたが、やがて埒が明かないというようにため息を吐き、
「……いい加減にしろ、二人共」
 バンッと、机を強く叩いた。
「っつ、いや、すまない聖、けどこいつが」
「……」
 聖亜の鋭い視線に縮こまる準とは対照的に、ヒスイは呆然と少年を見た。なぜなら、その怜悧な表情は、今までの表情とは打って変わっていたからだ。むしろ、それは一昨日少年がドートスに発した物に近い。
「とにかく、放課後は三人で出かける。それでいいな、準。ヒスイも」
「け、けど「……」あうっ、分かった」
「ああ、別に構わない」
 二人の少女が頷いたのを確認し、聖亜は表情を崩し、にっこりと微笑んだ・



 観光地区にある神社通り、通称お立ち通りから北東に行くと、太刀浪駅が見える。都市最大のモノレール駅だ。その南側にある、ゲームセンターや本屋が立ち並ぶ駅前通りは、学生に人気のスポットとなっていた。
 その通りの隅で立ち止まると、聖亜は両手に持った紙袋を下ろし、大きく息を吐いた。
「おいおい、何やってんだよ聖」
「そうだ。じゃんけんに負けたんだから、ちゃんと持て」
 少年のすぐ前では、茶髪の少女が指差した店を見て、半透明に見えるほど透き通る白髪をした少女が、成る程と頷いている。準は面倒見のいい性格だし、ヒスイも素直な性格だ。すぐに打ち解けたのだろう。それは良い事だ。良い事なのだが。
「けど、何で見る場所が、本屋さんとお菓子屋さんだけなんすか」
「しょうがないじゃないか。私は面白そうな本を探しているんだし、ヒスイのお目当てはみたらし団子だ」
「そうだ。それにさっき奢ってやっただろう」
「……みたらし団子一本だけっすけどね」
「そう言うな、ほら」
 座り込んだ聖亜の腕を、準が掴んで立ち上がらせる。腕に伝わる膨らみに真っ赤になりながら、聖亜はあきらめたように荷物を抱え直した。


「……やっぱりこの街にはいないか」
「は? なにがっすか」
 休憩に立ち寄った公園のベンチで、ヒスイはぽつりと呟いたのは、さすがにみたらし団子一本では悪いと思ったのか、準が公園の広場で売られているクレープを買いに行った時だった。放課後のためか、公園は学生でひどく混雑している。
「何って、エイジャに決まっているだろう。お前、まさか私が何の目的もなくただ街を歩いていただけとでも思っていたのか」
「みたらし団子買ってたじゃないっすか」
「……と、とにかく、これで奴らの活動が復興街に限定されているのが分かった」
「限定って……自分が一番最初に襲われたの、この街でなんすけど」
『ふむ、一つ確認するがな、小僧。お主が襲われたのは、旧市街のどの辺りだ」
 不意に、ペンダントから黒猫の声が響いた。慌てて辺りを見渡すが、気付いた人間はいないようだ。
「えっと、いや、そんなことはないっすよ。街の……中心辺りっすね」
「……キュウ?」
『……』
 少女の問いに、ペンダントの向こう側にいる黒猫は、暫く沈黙していたが、
『ヒスイよ、そなたも習ったと思うが、エイジャが人間の魂を使う最悪のケースは二つある』
「ああ、自分をより上位の存在に進化させるためと、もう一つ、“爵持ち”を呼び出す儀式に使うんだろう?」
『さよう、もし道化師の目的が自らを進化させるためならば、何の問題も無い。なぜならこれは十中八九失敗するからだ。だが』
「……だが?」
 聖亜はちらりと準の方を見た。彼女はまだ列の中だ。話している時間はあるだろう。
『問題なのはもう片方、爵持ち―つまり貴族階級を呼び出すために、人間の魂を集めているとしたら』
「……最悪、この都市に住む全ての人間が狩られるか」
「え? ちょ、ちょっと待ってくださいっす。この都市って、十万人以上はいるっすよ?」
『別に驚くことではない。嘆きの大戦では爵持ちを呼び出すために、万単位で人間が狩られることなど日常茶飯事であったからな』
「けど、さすがにドートスの実力で、それほどの人間を襲うのは無理なんじゃないか?」
『……一つだけ方法がある。五芒星陣(ごぼうせいじん)を使う方法がな』
「ご……何すか?」
『五芒星陣(ごぼうせいじん)、門を開く場所を中心として、周囲五つの場所で人間の魂を狩り、陣を敷く。そして中央で集めた魂を爆発させる。この方法ならば、使う魂の数は最小限に抑えられるが、無論開くための条件は多い。一つは奴らの世界に近い場所、要するに、海の底や地の底だ。そして第二に、その場所に大量の魂が眠っていること」
「大量の……魂が」
「ようするに、巨大な災厄が襲った場所だ。ペルシア連邦のファールスという都市、バミューダ・トライアングルという海域、これが奴らの世界に近い。そしてこの都市では、条件を満たす場所はただ一つ」
「……復興街にある、静めの森。だから、道化師は復興街で人を襲っていた。自分が旧市街で襲われたのは、そこが五つの場所の一つだったから」
『そういうことだ。恐らくな』
 段々と赤く染まっていく空を見ながら、聖亜は軽く首を振った。
「って、そういえば準の奴どうしたっすかね。幾らなんでも遅すぎじゃないっすか」
 夕焼けで真っ赤に染まった公園の中を、聖亜はきょろきょろと見渡していたが、やがて公園の隅にいる彼女を発見した。

 ただし、数人の男に囲まれていたが。



「だから、親戚に少し金を貸してくれって頼んでいるだけじゃねえか」
「そうそう、なあ婆ちゃんよ、親戚の俺ら金無くて困ってるんだわ」
「……嘘を吐くな」
 目の前でにやにやと笑う男達を見て、準は呆れたように首を振った。彼らは十七、八歳ほどの青年で、皆中古の服を着ている。だが後ろの老婦人は着飾っていないが、品の良い格好だ。恐らくは新市街の人間だろう。
「婆さん、こいつらはあんたの親戚か?」
「いいえ、私の子どもは三人だし、孫の顔もみんな知ってるけど、この中に孫はいないわねえ」
「だ、そうだ」
 準が睨み付けると、男達は顔を見合わせたが、やがて二人を取り囲むように散った。
「ちっ、おい婆さん、あんたはさっさと逃げろ」
「あら、大丈夫?」
「ああ。けど出来れば助けを呼んできた欲しい」
「そう……分かったわ、気をつけてね」
 老婦人が入り口に向かうと、男の一人がそれを遮ろうと走り出した。
「手前!! 何勝手に動いてんだうごっ!!」
 だが、男はいきなり前につんのめった。
「準、大丈夫っすか?」
 男を突き飛ばした、自分の唯一を見て、少女は安心したように小さく笑みを浮かべた。
「ああ。けど遅いぞ、聖」
「あはは、ごめんっす。けど準、呼んでくれれば良かったのに」
「ふふっ、こいつら程度、わざわざお前が出る必要は無い」
「く、手前、嘗めてんじゃねえぞ!!」
 起き上がった男が不意を突いて殴りかかってきた。目を細め、それを軽く避けると、聖亜はよろめいた男の脚を軽く払った。
「ぐ、くそ、調子に乗りやがって」
「……っ! お、おい、まずいぞ」
「ああ、なにがだよ」
 別の男が、聖亜の顔を見て、急に青ざめた。
「あいつ、“血染めの吸血鬼”だ」
「……は? 嘘だろ? 血染めの吸血鬼って言えば、二年前まで三馬兄弟と並ぶジ・エンドの幹部で、相手を九割九分殺すっていう、“最狂”だぜ」
「お、俺も知ってる。確か教会に火を放って、神父を焼き殺したっていう狂人だよな」
「へえ……狂人すか、ひどい言い方っすよね。けど」
 その時、駆けつけたヒスイが見たのは、じりじりと後退する男達と、軽く下を向いた少年の後姿だった。
「けど、しょうがないんすよ? 顔も知らない親を憎んで、憎んで憎んで憎んで憎みすぎた子供は」
 
 ぞくりと、空気が震えた。

「……狂うしか、ないじゃないっすか」
 再び顔を上げたとき、聖亜は笑っていた。今までのどこか困ったような笑みではなく、どこまでも冷たい、まるで“私”がするような笑顔を。
「あ……く、来るな、ひいいいいいいっ!!」
 絶叫を上げ、少年の近くにいた男の一人が逃げ出す。それを追いかけようとした聖亜の足が、



          危険度65% 許容範囲外“封印”強制発動



「……う、あ」
 突然、止まった。
「聖!! 馬鹿、だから出るなって言ったんだ!!」
 地面に膝を突き、苦しげに呻く少年の背中を、準は必死に擦った。
「……あ? 何だ、見掛け倒しかよ」
「あ、そう言えば血染めの吸血鬼って、二年前に組織を放り出されたって話だぜ。確か、人に襲い掛かろうとすると、吐くとかで」
「おいおい、何だよそれ、ったく驚かせやがって」
 逃げかけていた男が、ぞろぞろと戻ってくる。その中でも大柄の男―おそらくリーダーなのだろう―が、準を押しのけ、蹲っている聖亜の長髪を掴んだ。
「聖亜!! っく」
 準が慌てて駆け寄ろうとするが、聖亜との間に、数人の男が立ちふさがった。
「慌てるなって、お前の相手は後でたっぷりとしてやるから。おい、聞いてんのか?」
 聖亜の顔が、男にぐりぐりと踏まれた。
「何が血染めの吸血鬼だ、何が九割九分殺すだ、ふざけんじゃねえぞ、このヘタレコウモリが!!」
 男の右足が、少年の顔を踏み砕こうと大きく持ち上げられる。そして、それが落ちる寸前、
「いい加減にしろ」
「ふべっ」

 男の体は、大きく吹き飛ばされた。

「あ、あふぉが、おふぇのあふぉがぁっ!!」
「うるさい」
 男の顎を殴った白髪の少女は、男が聖亜にしようとしていたように、その顔を容赦なく踏み砕いた。
「な、手前!!」
 準を取り囲んでいた男が一斉に襲い掛かってくる。ヒスイはそれを軽く避けながら、相手の足や腕を軽く蹴飛ばした。
 途端にごきりと音がして、男の腕や足が簡単に砕けた。
「がああああっ!!」
「ひいっ、ひいいいいい!!」
「ふん、この程度か」
 痛みにのた打ち回り、気絶する男達を退屈そうに一瞥すると、彼女は周りに残っている男達を見渡した。だが、彼らは皆じりじりと後退し、次の瞬間、喚きながら逃げていった。


「……負傷した仲間を置き去りにするか。下種が」
 逃げていく男を睨むと、ヒスイは聖亜の方に駆け寄った。
「あ、はいっす……もう落ち着いたっすよ、準」
 ぎゅっと抱きついてくる準を優しく撫ぜると、聖亜は息を吐きながら立ち上がった。その体が少し左右に揺れる。
「……変わってるな、お前達」
「へ? 何がっすか?」
 不思議そうに尋ねる少年を見て、頬に付いた返り血を拭うと、ヒスイは呆れたようにため息を吐いた。
「普通、男の顎を砕いたり、骨を折った女を見れば、怖がらないか?」
「いや、俺は準で見慣れてるっすから」
「私だって、聖で見慣れてる。もっとひどいのもな」
「もっとひどいの? それはどうい「聖!! 準!! ヒスイ!!」ん?」
 不意に、三人を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、氷見子先生」
「う……」
 公園の入り口から担任が走ってくる。彼女は三人の前まで来ると、気絶した男達を見渡し、頭をがしがしと掻いた。
「聖、お前まさか“また”やったのか?」
「へ? いや、俺じゃなくて「私だ」……ヒスイ」
「……おいおい、お前も問題児かよ」
 小さな胸を張るヒスイを見て、氷見子は困ったように笑みを浮かべた。
「……あれ? そう言えばどうして氷見子先生がここにいるっすか?」
「ああ、そ「私が呼んだのよ」……話の途中なのですが、神楽様」
 と、氷見子の背後から、先程の老婦人がゆっくりと歩いてきた。
「はれ? 神楽さん?」
「ん? 知り合いなのか、聖」
 きょとんとした顔で、準が聖亜と神楽を見比べた。
「ええ、私、彼がお仕事してる喫茶店のお得意様なの。それから、さっきはありがとうね」
「い、いや……」
 突然お礼を言われて、準は照れたように俯いた。彼女は人から礼を言われることに慣れていないのだ。
「それはそうと、聖、顔に泥が付いてるぞ」
「うわ、これぐらい平気っすよ」
 氷見子が取り出したハンカチで、頬をごしごしと擦られる。くすぐったさに笑いそうになったとき、今度はいきなり抱きしめられた。
「うわっぷ」
「頼むから、頼むからあまり危険なことはしないでくれ」
「……うん。ごめん、氷見子」
「分かればいい。ほら」
 頬を持ち上げられた。近づいてくる唇に、思わず目を閉じたとき、
「……何しようとしたんだ、お前」
「うわっ、じゅ、準」
次の瞬間、聖亜の顔は準に強く抱きしめられていた。
「何って、唇にも泥が付いていたからな。取ってやらないと」
「唇でか? いい加減、俺の聖に近づくのはやめろ、この年増」
「誰が年増だこの売女、お前こそそのでかい脂肪で聖を窒息させるな」
「なんだとっ!!」
 激昂した準が、さらに聖亜を抱きしめた時、
「はいはい、そこまでよ」
 パンパンと手を打ち、神楽が二人の間に割って入った。
「か、神楽様」
「言い訳しないの。それと、準ちゃん、だったかしら。そろそろ離してあげないと、聖ちゃんが窒息しちゃうわよ」
「あ、す、すまない聖。大丈夫か?」
 神楽に指摘され、準は慌てて聖亜を離した。彼の顔は真っ赤に染まっており、目も回っている。
「えへへ、大丈夫っすよ。はにゃ? なんだかヒスイが一杯いるっす」
「……大丈夫じゃないだろ、それ」
 ため息を吐き、ヒスイは聖亜を自分に寄り掛からせた。別に他意はない。だから二人共、そう睨まないで欲しい。
「さ、お騒ぎは此処まで。行きましょう、ひいちゃん」
「……はい。聖、準、ヒスイ、お前ら、寄り道しないで帰れよ」
 
 自分の受け持つ三人の生徒にそういうと、氷見子は神楽に付き従うように、公園の外に向かって歩き出した。



「お久しぶりね、ひいちゃん」
「……この半年、消息がつかめず本当に心配したんですよ、神楽様」
 公園の脇に止めてある最新式の電気自動車に乗り込むと、氷見子は呆れたようにため息を吐いた。
「ごめんなさい。けど、ふふっ、再会して早々、面白いものが見れたわ。男嫌いのひいちゃんが、年下の男の子を取り合うなんて」
「か、神楽様!!」
「あらあら、冷やかしになっちゃったかしら。ごめんなさい……それで、どうだったの?」
 二人を乗せた車は新市街に向け走行していく。運転手はいない。最新式であるこの電気自動車には高度な人工知能を搭載しており、入力された目的地に自動で走行する。
 
 
 その車の中で、今までの穏やかな雰囲気が、一変した。


「は、ドートスを呼び出したのは、復興外の工場地区で工場を経営していた男のようです。ですが」
「ですが?」
「先日、その男の住居に踏み込んだ際、男は干からびて死亡していました。家族も同様に」
「そう……ならピエロ君は、呼び出した人間を殺した単なる迷子という事かしら」
「いえ、それにしては不可解な点が二つほど」
 そこで一端言葉を切ると、氷見子は胸元から一枚の紙を取り出した。そこにはびっしりと文字が刻まれている。
「まずドートス、及びその配下である三体の人形による被害は、この三ヶ月でおよそ四十人。奴は下級のエイジャです。何に使うか分かりませんが、それほど多くの魂が必要とは考えられません」
「なるほどねえ、それで? 二つ目は?」
「はい。こちらは根本的な疑問になります。男がドートスを呼び出したとして、一体どうやってその術を知ったかということです」
「……なるほど、つまりひいちゃんはこう言いたいのね? 誰かがその男にエイジャを“喚起”する方法を教えたと」
 不意に、完璧に保たれているはずの車内の温度が、間違いなく低下した。
「……なら、今帰るわけには行かないわね。ちょっとお仕置きしなきゃいけない人がいるかもしれないし」
「で、ですが神楽様、今年の出雲神楽までもう三月を切りました。御当主であられる、神楽様がいなければ」
「あらあら、そんなもの陽ちゃんか真ちゃんに任せておけばいいじゃない。私はね」
 穏やかな表情で、だが見るもの全てを凍死させる凍てついた空気を発しながら、
黒塚神楽(くろづかかぐら)は、ふと窓の外を見た。
「少しでも長くこの都市にいたいのよ。私の大事な大事な考ちゃんを奪っておいて、それでものうのうと存在しているこの都市が」
 窓の外では、恐らく恋人同士なのだろう、男子生徒と女子生徒が、仲良く手をつないで歩いていた。その微笑ましい光景を見て、神楽は軽く微笑んだ。



「どれほど惨めに滅んでくれるか、それを特等席で見るために、ね」





 西暦2015年(皇紀15年)7月3日、19時00分


「随分遅くなったっすね」
 両手にお菓子袋を持ちながら、聖亜は沈もうとしている夕陽を眺めた。
 
 公園での騒動の後、三人は太刀浪通りまで戻ってきた。通りの南側に家がある準と別れ、聖亜とヒスイは静まり返った西側、所謂下町と呼ばれる通りを歩いていた。
「ああ、それよりもう大丈夫なのか?」
「はは、大丈夫っすよ。それより、さっきはごめんなさいっす」
「構わない。私だってああいう奴らは好きじゃない」

 ふと、辺りに沈黙が下りた。
 
 そのまま、夕陽で赤く染まった道を、二人はゆっくりと歩いていく。だが、下町と竹薮を結ぶ小さな橋に通りかかった時、その歩みは止まった。
「……夕陽が何で赤いか知ってるっすか?」
「波長の長い赤色光が多く届くためだろう?」
 その小さな橋の上で座り込み、沈む太陽を眺める聖亜の、その横顔を、ヒスイはじっと見つめた。
「……夕陽が赤いのは、空の神様が、大地の神様と抱き合っていたのを、親に無理やり引き裂かれ、その痛みと悲しみで、赤い血を流しているから……子供を引き裂くのが親なら、俺にはそんな親なんていらない。必要ない」
「……」
 ぽつぽつと小さな声で話す聖亜の横に、ヒスイはそっと腰掛けた。
「……なんで、何も聞かない?」
「何を聞けっていうんだ?」
 顔を伏せ、呟くように聞いてくる少年に、ヒスイは冷たく言い返した。
「……その、血染めの吸血鬼、とか、教会を燃やして、人を、こ、殺した、とか」
「別に聞く必要はない」
 冷たく、どこまでも冷たくヒスイは言い放つ。それが、たとえ少年の心を抉る行為になったとしても。
「そんな、たった九歳で、俺は自分が育った教会を燃やしたんだぞ、ただのケンカで、相手を瀕死まで殴る狂「それがどうした」……なっ」
 少女の言葉に、さすがに苛立ったのか、聖亜はきっと上を向いた。



 ヒスイの、冷たい、氷のような瞳が、自分を容赦なく射抜いていた。



「もう一度言う。それがどうした?」
「……異常だと思わないのか? 狂ってるって罵らないのか? 普通そうするだろ」
「普通? 普通だと?」
 ヒスイは、聖亜と目を合わせたまま、冷笑を浮かべた。
「そう言えば、私達がなんと呼ばれているか話してなかったな。いいか聖亜、高天原の連中が守護司(しゅごのつかさ)と呼ばれているのに対し、私達は魔器使(まきし)と呼ばれている。魔に器として使われている、哀れで蔑まれる存在という意味だ」
「ま……きし」
「それに、たった一人焼き殺しただけで狂人だと? 異常だと? くだらない。嘆きの大戦で何人死んだか分かるか? キュウ、答えてやれ」
『……西欧諸国の死者だけで、およそ二千万人だ』
「に……せん、まん」
「もっとも、戦で死んだのは五百万人ほどだ。後の千五百万人は、なぜ死んだと思う、嘆きの大戦、その最終局面で、“黒死の担い手”が放った疫病のせいだ。そのせいで、免疫の弱い老人や女子供が、ばたばたと死んでいった。それが誰のせいにされたと思う? エイジャと死に物狂いで戦って、疫病に効く薬を必死に開発した私達の先祖だ。薬を作れるなら、疫病も作れると噂されてな!!」
 そこで一端話すのをやめると、少女は哀しげに眼を伏せた。
「そのくだらない噂のせいで、私達の先祖は魔女として百年の間処刑され続けた。逃げ延びることが出来たのは、コロンブスの舟に航海士として乗り込んだ、わずか数人だけだった。ようするに、私達は世界三代宗教の一つから、その存在を否定されたんだ……結局、一人焼き殺したぐらいで喚くのは、お前が“世界の表側”の人間だからだ」
「……」
 聖亜は何も言わない。いや、言うことは出来ない。
 
 
 なぜなら、怒りで肩を震わせているヒスイは、エイジャという化け物と対等に渡り合う鬼というより、



 年頃の、小さな少女にしか見えなかったから。



 だから、慰めの言葉を掛けられない少年は、涙を流さずに泣いている少女に、そっと寄り掛かった。



   少女が、心の中で泣いている少女が、泣き止むまで


                                   続く

 こんにちは、活字狂いです。「スルトの子 第三幕  世界の表側」はいかがだったでしょうか。さて、前の方でも言いましたが、この物語は「嘘」と「偽者」がテーマです。その最初の嘘、つまりヒスイは少女!! まあ、あまり大層な嘘ではないですが。さて、この後物語は急展開を迎えますが、その前に幕間を一つ。
では次回「スルトの子 幕間  氷のアルバイト」及び「スルトの子 第四幕  世界の裏側」でお会いいたしましょう。

PS  自衛隊の試験を受けているのですが、懸垂が出来ません。がっくり



[22727] スルトの子 幕間   「氷のアルバイト」
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:a8247099
Date: 2010/12/06 11:58

「それで、何でここに連れてきた?」


 根津高校に入った次の日、ヒスイは聖亜に連れられて、空船通りにある喫茶店の前に来ていた。
「何でって……ヒスイが言ったんすよ? アルバイト紹介してくれって」
「それは、確かに言ったけど、でもこれは」
 少女は喫茶店の看板と、中の様子を見て顔を引きつらせた。看板は巨大な猫の形をしており、その中に「キャッツ」と書かれている。今は準備中のためか、店の中では猫耳と尻尾をつけたウエイトレスが掃除をしていた。
「ほ、本当にここしかなかったのか?」
「まあ、探せば別の所もあるかもしれないっすけど、それだとエイジャに襲われたとき大変じゃないっすか……特に俺が。だったら一緒に働いていた方がいいっす」
「それはそうだが」
「まあ、マスターはいい人だから大丈夫っすよ……変態だけど」
 最後の言葉は少女に聞こえないように呟き、聖亜は喫茶店の中に入っていった。ヒスイはそれでも戸惑っていたが、やがてあきらめたようにその後に続いた。




「あ、すいませんお客さん、今準備中……って、聖じゃねえか。まったく、謝って損したぜ」
「祭さん……損って何すか損って」
にこやかな笑みからけっと顔を一瞬で歪ませた、茶色の猫耳と尻尾をつけた先輩の言葉に、聖亜はがくりと項垂れた。
「それで、どうしたんだよ。今日はシフト入ってないだろ?」
「ああ、それなんすけど、ちょっと紹介したい人がいまして……あ、ヒスイ。こっちっすよ!!」
 中に入って来た白髪の少女に向かって聖亜は軽く手を振った。それを見て安心したのか、こちらに小走りで近寄ってきた。
「は? 聖、お前の紹介したい人って、もしかしてお前のこれか?」
「これって、ちょっと下品っすよ。それにまったく違うっす。彼女、事情があって俺の家に居候しているんすけど、アルバイトがしたいって言うから連れてきたっす。それで? マスターはどこっすか?」
「ん? ああ、確か今は二階でパソコン使ってる。けどお前が“あれ”したら、あの変態、すぐに来ると思うぜ?」
「……あれ? 聖亜、あれって何だ?」
 ヒスイの純真な視線にうっとたじろくと、聖亜は暫らく嫌そうに顔を歪めていたが、やがて仕方ないという風に壁を向き、大きく息を吸った。



「……にゃ、にゃ~ん!!」



「……」
「……」
「…………」
「…………」
 店内に白けた空気が流れる。ヒスイの視線に耐え切れなくなった聖亜が、がくりと俯いた時だった。



 ドタドタドタ、バタンッ!!



「どこじゃあ、猫たん!!」
「な!?」
 誰かが階段をものすごい勢いで下りるのが聞こえる。そう思ったら、目の前の扉がいきなり開き、三十台の男が走りこんできた。
「ん? 聖じゃないか。まあそんなことはどうでもいい。それより猫たんはどこだ、猫たんは」
 そう言って周囲を見渡した白夜の眼が、ふとヒスイを見た。
「…………ア?」
「は?」
 呆然とした顔で見てくるこの店のマスターを、ヒスイはぽかんとした顔で見返した。
「あ……ああ、何でもない。それより聖、まさか柳君以外に女がいたとはな」
「だ、だからそうじゃないっすよ。またく、どいつもこいつも。彼女バイト探しているんすけど、ここで面倒見てもらえないっすか?」
「バイトか? まあ一人ぐらい大丈夫だが……よし、一つ質問をしよう。ええと」
「ヒスイだ」
「うむ。ではヒスイ君、一つだけ質問をいいかね」
「あ、ああ」
 先程とは打って変わって真剣な表情で見つめてくるナイスミドルに、ヒスイも姿勢を正した。


「ではやるぞ……ヒスイ君、君は猫派かね? それとも犬派かね?」
 質問の意味が分からず、ヒスイは傍らの少年にすがるような視線を向けた。
「えっと、マスター無類の猫好きなんすよ。この店も半分道楽でやってるっすからね。猫好きな人じゃないと、採用しないっす」
「道楽とは何だ道楽とは。俺はな、聖。猫たんの魅力を広めるために喫茶店を開いたのだ。それで、どうなのかねヒスイ君。答えてくれたまえ」
「……ま、まあ、私は黒猫を連れているし、どちらかというとね「よし採用」……早っ」
「ふっふっふ、猫を飼っている人は無条件で採用だ……女性限定でな。では聖、彼女をロッカールームに案内したまえ。さて、君には何色が似合うかな」
「……なるほど、確かに変態だな」
 高らかに笑う白夜を見て、ヒスイが呟いた言葉に、聖亜と祭は心底同意した。


「あの、ヒスイ、大丈夫っすか?」
「……」
 少女のサポートを任された聖亜は、いつものウエイトレスの格好をしながら、隣で子供達に囲まれている大きな白猫に、恐る恐る声をかけた。
 白猫は何も答えず、集まってきた子供に風船を渡している。


その中には、無論ヒスイが入っていた。



一時間前、幸か不幸か喫茶店のウエイトレスに採用されたヒスイは、ロッカールームで白い猫耳と尻尾、そして制服を着て、開店した店に出たのだが、ここで彼女の欠点が判明した。



 戦闘時以外の彼女は、なんととてつもない不器用だったのだ。



 皿を洗わせれば五枚中四枚は割り、料理を運ばせれば転んで台無しにする。(ここで料理長の顔がびしりと引きつった)
 豪胆な白夜も、さすがに「これはひどい」と唸り、結局不器用さが直るまで、彼女はこうして大きな黒猫の着ぐるみを身につけ、子供達に風船を渡す係になったのだ。
 彼女の周りには子供達が群がり、大胆な子は抱きついたりしているが、彼女は嫌がることなく子供の頭を撫ぜ、風船を渡してやっている。結構子供好きらしい。

 と、空船通りに設置された時計が、18時の鐘を鳴らした。

「はい皆、そろそろ時間っすよ」
「え~、もっと遊びたいよう。馬鹿聖」
「駄目っす。子供は家に帰る時間っすよ。お父さんとお母さんが心配しているっす」
「は~い、じゃあまた遊んでね。猫さん」
 元気よく帰っていく子供達を見送ってから、黒猫は自分の頭を取った。中にいた白髪の少女が、ぐったりと息を吐く。
「……ふうっ、中はさすがに熱いな」
「あはは、そうっすね。それじゃ、中に入りましょうか」
 そう答え、聖亜は扉に手をかけた。




「それで、聖。彼女はやっていけそうかね?」
「まあ、子供好きそうですし、大丈夫とは思うっすよ」
「ふん? ま、不器用な所は気長に直していくさ」
 皿を洗いながら答えると、白夜は楽しそうに笑って頷いた。
「それよりマスター、聞いてもいいっすか?」
「ん、どうした?」
「その、ヒスイをはじめて見た時、何か呟いてましたよね、何とかアって」
「…………まあ、彼女が昔の知り合いに似ていたのでな。そんなはずはないんだが……第一、彼女の髪は短い白髪ではなく、長い青髪だった。それより」
「は? 何す……わあっ!!」
 聖亜はびくりと体を震わせた。白夜がいきなり服の中に手を入れてきたのだ。彼の手は自分の胸の部分を弄っている。
「まったく、女みたいな声を出すな……聖、お前昨日気分が悪くなったな」
「あ、それは、その」
「まったく、いつも言っているだろう。感情を高ぶらせるなと。ま、これぐらいならまだ“割れない”か」
「は?」
「いや、何でもな「……聖ちゃんの胸に手をやって、何が問題ないのかしら」……ひっ」
 不意に、背後から氷河のように冷たい声が響いた。
「い、市葉」
 つやのある長い黒髪をうねうねと不気味に動かしている料理長が、ぼうっとした顔でオレンジジュースを持ったヒスイと共に奥の厨房から出てきた。
「まったく……人に教育を押し付けて、自分は過去の女の話をしながら聖ちゃんにセクハラですか……これは少し教育が必要かしらね」
「い、いや、あの、市葉、それは勘違「問答、無用!!」ふべっ!!」
「……ふ、ふふふ、いいぞ、もっとやれ」
「ヒ、ヒスイが壊れたっす!!」
 渡されたオレンジジュースを飲んでいた聖亜は、先程まで市葉から教育という名のセクハラを受けていたヒスイの呟きに、ぶっと口の中のジュースを吐き出した。



こうして、ヒスイのアルバイトは、まったく順調に始まらなかった。ちゃんちゃん










 周囲に交わった後のすえた臭いが漂う中、楓は体を思い切りベッドに沈めた。
「……ふうっ」
 彼女のすぐ横で眠る客の相手をするのは、これで三回目だ。男は細身の癖に体力は無尽蔵らしく、娼婦の仕事に慣れている自分が、こうして倒れこむほど体力を消耗する。
「さって、それじゃ、湯を浴びさせてもらうよ」
「……」
 この日、男は始終無言だった。無言のまま自分を組み敷き、無言のまま犯し、そして無言のまま粗末なベッドで眠っている。
 まあ、始めと二回目はうっとうしいほど喋っていたから、たまにはこんなのもいいかもしれない。
 
そう思って、立ち上がったときだった。

「……どこへ行くんだい?」
「は? さっき言っただろ。湯を浴びに行くんだよ。ったく、今日はもう出来ないよ。さすがに体力がない」
 男が逆上するかと思ったが、楓はぶっきらぼうに言った。快楽区では、女は大事な“商品”だ。乱暴に扱う客には、自警団「ジ・エンド」が黙っていない。もっとも、護ってもらうためには高い代金を支払う必要があるが、自分達の縄張りで騒ぎが起こるのが嫌なのか、彼らはよく働いてくれる。

「……体力がない? そんなの意味ないよ。どうせ君達はもうすぐ喰われるんだ。誰一人例外なく、誰一人逃げられずに」
「……あんた、頭大丈夫かい?」
 不愉快そうに眉をしかめ、さっさと扉に向かう。金払いの良い客だが、頭のおかしい奴にいつまでも付き合っていられない。さっさと自警団の連中に突き出してやろう。
 
 そう思って、扉に手をかけた時だった。
「……え?」

 自分の胸から突き出した“手”と、その手が握っている“物”を、楓は呆然と見つめた。
「……そう、君達家畜は誰一人逃げることは出来ない。僕達エイジャから」
「あ…………く、せ、聖」
 愛しい弟分の名前を呟いたのを最後に、彼女は床にどっと倒れた。それを見て、男―ドートスは彼女の魂を握り締めたまま、狂ったように笑い続けた。




 床の上では、古い腕時計が、いつまでも哀しげに時を刻んでいた。


                                   続く



[22727] スルトの子 第四幕   世界の裏側
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/06 13:04
   
  夢を、見た。

 だがそれは、いつもの暗い道を行く夢ではない。少年は一人、深い霧が立ち込める草原の中に立っていた。

 ここはどこだろう、見覚えの無い場所だ。なのに、見覚えの無い場所に一人で居るはずなのに、不思議と恐怖は感じない。

 首を傾げながら歩いていると、不意に、霧が晴れた。

 途端に周りの風景が鮮明になってくる。草原の西側には広大な森があり、東側には大きな川が流れていた。

 ふと、少年はその川の岸辺に居る、誰かの姿を見た。



 それは、その人は、青く澄んだ長い青髪をした女性だ。反対側を向いているため、顔は分からない。



  だが少年には、何故か彼女の、痛々しいほど凛々しいその顔が分かった気がした。




     そう、自分の知っている誰かに瓜二つの、その顔が。



 彼女に向かって歩き出そうとした、その途端、両足がずぶずぶと地面に飲み込まれていく。それとほぼ同時に、彼女の向こう側から大きな砂埃がやってくるのが見えた。

 彼女は右手に青く光る刃を持ち、その砂埃に向かっていく。


 そして、地面に完全に飲み込まれるその瞬間、





 少年は、砂埃の中に消えていく、彼女の最後の姿を見た。




西暦2015年(皇紀15年)7月6日 12時30分


 それから三日ほどは、特に何事も無く過ぎた。
 といっても、ヒスイにアルバイトを紹介するなど、いろいろと忙しかったのだが、少なくともエイジャからの襲撃はない。
 どうやら、ドートスの配下は三体の人形だけらしく、その回復を待っているのだろう、とはキュウの判断であった。
「じゃあ、もう二,三日は大丈夫っすね」
「ん? 何が大丈夫なんだ? 聖」
 聖亜の呟きに、彼の右横でサラダを口に運んでいた準が顔を上げた。彼女になんでもないと首を振って答えると、少年は自分の真向かいでエビピラフのエビを突いている白髪の少女をちらりと見た。


 三日前、一緒に買い物をした事で打ち解けたのだろう。準はヒスイが自分の隣に居ることに、あまり文句は言わなくなった。ただし、学校や外では彼女はいつも自分のそばに居る。彼女曰く、男達が復讐しにこないか心配なためらしいが、それらしい動きは無い。昨日氷見子先生に聞いたところ、既に“処理”したらしい。
 が、聖亜はそれを自分一人の胸にしまって置いた。準が自分のことを心配してくれるのは嬉しいし、何より彼も男なのだ。美少女二人に囲まれて、悪い気はしない。そのため、彼はこの三日の間に、陰で三股野郎と囁かれていた。ただし
「よ、何ぼんやりしてるんだよ、この三股野郎っ!!」
ただし、皆が陰で呼んでいるわけではなかった。


「……」
「ん? どうしたんだよ、三股野郎」
「秋野、何すかその三股野郎って」
 左横に座ってきた秋野の言葉に、聖亜はむうっと頬を膨らませた。
「だって聖、お前柳だろ、植村先生だろ、でもって今度はヒスイだろ。充分三股野郎じゃねえか」
 胸を張って答える秋野に、聖亜はげっそりとため息を吐いた。他の生徒が陰で自分を三股野郎と呼んでいるのは知っていたが、面と向かってからかってくるのは、彼と、そしてもう一人
「別にそんなんじゃないっすよ。それより……福井、いいかげんに元気だせっす」
「……うるせえな、これは頭剃られて落ち込んでるんじゃねえよ」
 秋野の向かいに座った福井が、いろいろな意味で光っている頭を俯かせ、好物のカツ丼をぼそぼそと食べ始めた。
「そうそう。福井の奴、昨日付き合ってる奴全員に振られたんだぜ」
「……ああ」
 その事は聖亜も良く知っていた。昨日の放課後、空船通りで彼女とデートしているところを別の彼女に発見され、それから浮気が芋づる的に発覚したらしい。しかも、その時彼女達に一斉に言われた“ハゲ!!”が一番堪えたようだ。
「……無節操なことをしてるからだ」
「そうっすよ。ちゃんと別れてから別の人と付き合わないと、女の人に失礼っす」
「いや聖亜、それを三股野郎のお前に言われたくねえよ。それにヒスイ、大家族の中で下の俺って結構ストレス溜まるんだぜ。せっかく作ったお菓子は食い散らかれるし、おかずも奪われるし、いじめられるし。少しぐらい発散してもいいじゃねえか」
「……ああ、だからお前はあんなにお菓子を作るのがうまいのか」
 ヒスイがこの凸凹コンビと話すようになったのは、家庭科の授業の調理実習が原因だった。その時福井が作ったチーズケーキを試食し、感動のあまり暫らく震えていたのだ。
「発散って、それが由緒ある神社の息子の言う台詞か?」
「いいじゃねえかよ準、どうせ神社は兄貴が継ぐんだし」
 準の言葉に言い返すと、福井は二杯目のカツ丼に取り掛かった。だが半分ほど食べたところで、はあっと上を向く。
「あ~あ、俺もう髪が元通りに伸びるまで学校来るのやめようかな」
「あれ? いいんすか」
「あ? 何がいいってんだよ、聖」
「だって、来週新市街の学校と合同で水泳の授業があるっすよ。福井、かわいい女の子がたくさんいるからって、先月から楽しみにしてたじゃないっすか」
「……おお、そうだったな。んじゃ、しょうがねえから学校休むのは、再来週以降にしてやるか!!」
「……いや、再来週って、もう夏休みに入ると思うっす」
 お、そうだったな。と笑いながら、福井はカツ丼の残りを豪快に頬張った。
「でさ、話は変わるんだけどよ、お前ら放課後になったら一緒にジャストにいかねえか」
「はあ? ジャストっすか?」
 ジャストとは、今年駅北側のデパート通りに出来たばかりの総合デパートだ。千台の車を収容できる立体駐車場だけではなく、付近にはなんと小型の飛空船の発着場まで設けている。そのため県内や国内だけでなく、国外からの買い物客も多かった。
「おう、せっかくだから来週に向けて水着を新調したいんだよ。お前は来るよな、茂」
「……そりゃ行ってもいいけどよ、ジャストって事は月命館の奴らも来るんだろ?」
 聖亜の隣で、今まで話に混ざらずカレーライスを頬張っていた秋野が、カレーを口に入れたまま、もごもごと呟いた。
「ああ、そういえば秋野、月命館の生徒さんと仲悪いっすよね」
 月命館は、2年ほど前に新市街に出来た高校だった。本校は東京付近の都市にあるエスカレーター式のマンモス学校で、その都市は月命館に通う生徒のための寮や娯楽施設、教員の宿舎で出来ている、所謂学園都市だった。新市街に出来たのは月命館高知第二分校であるが、それでも最新式の高校である。入学するためには高い学力か運動能力、または莫大な入学金が必要で、代議士や大会社の社長の子供が通うエリート校といえた。しかも大金をばら撒けば多少の犯罪を見逃すという黒い噂がある。
「ああ。中学ん時の同級生がさ、何人かあの学校に通っているんだよ。ったく、顔合わすたんびに馬鹿にしやがって……それによ、知ってるか? 先月退校したA組の小池、どうやら陸上の新星として引き抜かれたらしい」
「ふ~ん、んじゃどうする? ジャストに行くのやめるか?」
「…………いや、行くよ。あいつらから逃げたようで癪だしな」
 苦々しく笑うと、秋野はカレーの残りを一気に食べ始めた。




 真上にある太陽が、いつもより無慈悲に輝いているように、男には思えた。
「……」
「お、おい木村、お前大丈夫かよ」
 取り巻きの一人が心配そうに、恐る恐る肩に手を置いてきた。胸に「月」のペイントがされている体操服を着たその男を、彼はじろりと睨んだ。



 青白い顔の真ん中で、眼だけが異様なほど光っていた。



「ひっ」
「……ああ。すこぶるいい調子だ。まるで世界が俺を中心に回っているみたいだ」
「そ、そうか。そりゃ良かったな」
「ああ、本当ににいい気分だぜ」
 くくくっと不気味に笑う男を、声を掛けた取り巻きは心底不気味に感じていたが、無視するわけにはいかない。なぜなら彼の父親は、この男の父親が経営する会社に勤務しているからだ。
「そ、そうだ木村、放課後ジャストに行かないか? 久しぶりにナンパしようぜ」
「ナンパか……いいな」
「あ、ああ。そうだろ、いいだろ」
「ああ、とても、いい」
 整備されたグラウンドの片隅で、男はビキビキと血管が浮き上がり始めた両目を青すぎる空に向け、腹の底から笑い声を上げた。





西暦2015年(皇紀15年)7月6日 16時20分


「それで? 何故私まで付き合ってるんだ?」
 その日の放課後、学生や家族連れで込み合う駅北側のデパート街で、白髪の少女はむすっと眉をしかめた。
「……しょうがないじゃないっすか。断りきれなかったんすから」
 聖亜は今日美術部で絵のチェックをしたかったのだが、それは明日でも良いだろうと福井に押し切られたのだ。聖亜が行くという事で準も同意し、最終的にヒスイもしぶしぶ頷いたのだった。
「まったく、こうしている間にも人形達の傷は回復している。こちらから攻めるべきだと思うがな」
「けど、あいつらの居場所、分かってるんすか?」
「う……」
 少年の言葉に、少女はちょっとたじろいた。
「それより、五芒星陣……でしたっけ? その頂点の五ヶ所を取り払った方が早いと思うんすけど」
『否、それは出来ん』
「へ? そうなんすか?」
 ヒスイの持つペンダントから発せられる黒猫の声に、聖亜はちょこんと首を傾げた。
『うむ。頂点の五ヶ所にあるのは眼に見える何かでも、襲われたものの霊体でも、ましてや物でもない。其処にあるのは“絶望”という思念だけだ』
「……思念」
「眼に見える何かならどかす事が出来る。霊体ならば浄化する事が出来る。物であれば壊す事が出来る。けど思念は違う。それは、それだけは何も出来ない。何年、いや何十年もかけて、少しずつ消えるのを待つしかない」
「……」
「まあ、奴らの目的が人の魂を使って爵持ちを呼び出す事なら、いずれ鎮めの森に来る。それがいつになるかは分からないけどな」
 ヒスイの苦笑が混じった声を聞きながら、聖亜は少し先にいる三人を眺めた。秋野と福井の凸凹コンビが、総合デパートの中に出店しているあちこちの店を覗きこみ、その様子を見て準が呆れたようにため息を吐いている。
「とにかく、今は奴らの出方を待つしかないという事だ」
「そうっすね……ところで」
 微笑みながら、聖亜は両手に持っている大量の買い物袋の幾つかを少女に差し出した。
「はい、荷物半分持ってくださいっす」
「……それはいいが、聖亜、お前ジャンケン少し弱すぎじゃないか?」
「う……それは言わないお約束と言うことで」
 それでも半分持ってくれるのは彼女の優しさだろう。とにかく荷物が半分になったのは確かだ。片手の荷物を両手に持ち帰ると、ジャンケンに負けて荷物持ちになった少年は、ヒスイと二人、前にいる友達に追いつこうと少し足を速めた。





「それで、これはどう思う? 聖」
「え……えっと」
 ジャストの二階にある水着売り場で、目の前のそれから聖亜は必死に眼を背けようとした。だが無意識に見てしまうのは、男としての性(さが)だろう。
「ふふ、やっぱりこっちの露出が多い方が好きか。ならこっちにしよう」
 顔を真っ赤に染めた少年を見て嬉しそうに笑うと、準は布の薄い黒いビキニをレジに持っていこうとした。
「え? ちょ、ちょっと準、それ学校の授業で着るっすか?」
慌ててレジに向かおうとしている少女の腕を掴む。だが振り向いた彼女は、してやったりという風に笑っていた。
「そんなわけないだろう。私の裸を見ていい、見せたい唯一の男はお前だけだ。“あの時”からな。まあ授業の時は学校指定の水着にするよ。けど」
 不意に、彼女は自分より幾分背の低い少年を、ぎゅっと抱き締めた。
「けどお前が望むなら、その、水着の鑑賞会を開いてやってもいい。お前だけの……な」
「あ……あうう」
「……変態だな」
「ああ、変態だ」
「うむ、まったくもって変態すぎる」
「ちょっ、そこの三人、うるさいっすよ!!」
 その様子をしらけた顔で見つめる三人に、顔を真っ赤にしながら聖亜は抗議の声を出した。
「大体、人の事をからかう前に、そっちはもう水着選び終わったんすか?」
「ん? 俺はいつものブランド品。新作が出ていたからな」
「……ふっふっふ、俺は今年はこいつで決める!!」
「……何すか、それ」
 福井が後ろから取り出したものを見て、聖亜は肩を落とした。
「何ってボクサーパンツに決まってるだろ!! ふふふ、毛がない分、今年は下半身で勝負だ」
「まったく……お前も十分変態だな」
「う、うるせっ、そういうヒスイはどんな物にしたんだよ」
「わ、私か? 私は別に買わない」
「いや、人の事を変態と言っておいて、自分だけ買わないのは不公平だ。よし、私が選んでやる」
 今まで聖亜を抱きしめていた準が寄って来る。それに合わせ、ヒスイはじりじりと後退した。
「え? いや、遠慮する」
「いいって。何だ? 貧乳なのを気にしているのか?」
「いや、そうじゃなくて、本当にえ」
 不意に、ヒスイは後退するのをやめると、辺りを鋭い眼で探った。先程までとまったく違う彼女の様子に、彼女に迫っていた準が、それを面白そうに眺めていた福井と秋野の凸凹コンビが、そろって訝しげな視線をやった。だがその中で、聖亜は、聖亜だけは顔を微かに強張らせていた。
「ヒスイ……」
「静かにしろ。すまないが急用を思い出した。先に帰らせてもらう」
「ちょ、ヒスイ、それってどういう事だよ!!」
 秋野の叫び声を無視しながら、ヒスイは一階に駆け下りていく。聖亜は彼女が下りていった階段を暫らく見つめていたが、やがて彼女の後を追うために走り出した。



「ったく、今日は中々いい女がいないぜ。な、なあ木村」
取り巻きがおびえた表情で話しかけてくるのを、男は上の空で聞いていた。
彼は酷い空腹だった。まるで、何ヶ月も何も食べていないかのように。だから、
「お。なあ、あいつなんてどうだ? 胸がでかい所なんて、お前の好みだろ。どう思う木村……木村?」

 だから、男は自分のすぐそばでぴいぴいと喚く“家畜”の頭と肩を掴むと、

「へ? あ……が、がああああああああああっ!!」
 その首に、がぶりと喰らいついた。
 ぶちりと首の肉を引き千切り、ぐにゅぐにゅと噛み、飲み込む。家畜の首筋からでた真っ赤な液体が周囲に滝のように溢れ出した。その一滴が、彼らの様子を呆然と見ていたメスの家畜の頬に付着する。
「え? ひ、きゃあああああああああ!!」
 それが何だか分かった家畜の悲鳴を合図に、周りにいた家畜が我先に逃げ出していった。



「く、やはりスフィルか。しかも“寄生種”とは……厄介だな」
 一階に下りたヒスイは、自分に向かって押し寄せる群衆の間を掻き分けながら、彼らの先にいる“それ”に神経を集中させた。
『ヒスイ、人の記憶を“ぼかす”のは後だ。まずはこれ以上被害が出ぬよう、空間を“封縛”せよ』
「分かっている!!」
 胸元のペンダントから聞こえてくる黒猫の声に苛立ちを込めて答えると、ヒスイはパンッと両手を打ち合わせた。今度はその手を、指先を合わせたままゆっくりと離していく。
「……ふっ!!」
 手と手の間に出来た隙間に、少女は息を強く吹きかけた。と、息は隙間を通って急速にあたりに広がっていき、やがてジャストをすっぽりと覆った。
『ふむ、何とか出来たな。だがヒスイ、もう少し精進せよ。所々に罅割れが目立つ。これではすぐに破られるぞ』
「うるさい、一々言われなくても分かって「……何すか、あれ」なっ、お前!?」
 突然、背後から声がした。
 ヒスイがはっと振り返ると、其処には先ほど別れたばかりの少年が呆然と立っていた。
「お前……聖亜、何故ここにいる!?」
「え? 何でって……今普通に階段を下りてきただけなんすけど」
「……そんな、確かに封縛であのスフィルだけを取り込んだはずだ。私がどんなに未熟でも、ただの人間が通れるはずがない」
『……普通の人間? ふむ』
 ヒスイの言葉に、ペンダントの向こう側でキュウはふと首をかしげた。まるで、遠い昔の何かを思い出そうとするかのように。

 だが、それはヒスイに、ましてや聖亜に気づかれることはなかった。

「そんなことより、“あれ”は一体何なんすか?」
 聖亜は、僅かに震える指で通路の先を指差した。
「……あれはスフィルという。要するにエイジャの下僕だ。お前も依然見たはずだぞ。黒い獣と、黒い巨体の化け物を」
「へ? けど、俺が今まであったのは皆色が黒くて、なにより周りが“黒い時”だったすよ。けど今辺りは暗くないし、大体あれは」
「……」
「あれは、“人”じゃないっすか」
 自分でも気づかないうちに声が大きくなっていたのだろう。しゃがみ込んでいた男が、ふと顔を上げた。その眼は血走っている。いや、血走っているのではない。眼の上を血管がびっしりと埋め尽くしており、口の回り同様真っ赤に染まっていた。聖亜はかつて復興街でこれと似た“化物(けもの)”と遭遇したことがあったが、幸いなことにその化物(けもの)は既にこの世にはいない。
「……グルッ」
 “それ”は暫らく辺りを探っていたが、警戒心に空腹が勝ったのだろう。やがてしゃがみ込むと、先程と同じように“食事”を再開した。
「……ぷはっ」
「気をつけろ、馬鹿っ」
「う、すいませんっす。けど、本当に何なんすか? あれ」
『小僧、先程のヒスイの説明を聞いていなかったのか? スフィルだ』
「いや、だから」
「……スフィルには三種類のタイプが存在する。狼に似た頭部を持ち、鋭い牙と爪を武器に襲い掛かってくる個体種、幼体の時に結合し、巨大な一つの体となる集合種。この二つはお前も見ただろう。そして最後……あれと同様、人間に取り付く寄生種だ」
『寄生種は宿主となった人間の体内で、宿主の生命力を吸って急速に成長する。そして、やがて宿主の体を乗っ取る』
「乗っ取る……じゃあ、あれは」
「ああ。奴はどこかで寄生種の幼体を埋め込まれたんだろう。だが最後にあってから今まで、ドートスはおろか人形達の気配はまったくしなかった。どういうことだ? それに、あれはそろそろ」
 不意に、食事をしていた“それ”が、びくりと地面に蹲った。石のように真っ白になった体は、今はもう倍以上に膨れ上がっており、その表面には細かい血管がびっしりと浮き出ている。

 


        その背中が、びしりと音を立てて、割れた。


 

「……う」
 周囲に強烈な臭気が漂う。吐き気を感じた聖亜は、口元を抑えてしゃがみ込んだ。その隣でヒスイも眉をぎゅっと顰めている。
「……やはり“脱皮”寸前だったか」
「脱皮すか……うえっ」
「こんなところで吐くなよ。寄生種は宿主の体内で成長しきると、急に活動を活発化させる。そして」
『そして、その後半日ほどで宿主の体を突き破り、成体となって出てくる』
 涙で霞んだ視界の中、聖亜は“それ”が殻を突き破り、飛び出してくるのを見た。


 最初に出てきたのは、先端が蛇の頭をした尻尾だった。次に虎の足が、狸に似た胴が飛び出し、最後に猿のような頭部が現れた。
「あれは……」
「寄生種は宿主によって成体時の姿が大きく変化するが、これは……キマイラか?」
『いや、日本には鵺(ぬえ)の伝承があったな。頭部が一つしかない。おそらくはそちらであろう』
 聖亜達が眺めるその先で、胴から繋がっているまるで蝙蝠のような翼を広げると、その怪物はひよお、ひよおと甲高く鳴いた。




         それはまるで、人間の悲鳴のようだった。




「聖亜、お前は避難していろ」
「え? けど」
「うるさい、寄生種は下手すると人形、いやドートスよりも厄介になるんだ」
 胸元のペンダントから太刀と小太刀を引き抜くと、ヒスイはじりじりと壁の端に近寄った。そこから覗き込むと、鵺は今まで貪っていた人間を頭から一気に丸呑みにした。
 それでもまだ空腹なのか、獲物を求めてうろうろと動き回っている。
『ヒスイ、今はまだ尾の蛇は目覚めておらぬようだ。奴がこちらに背を向けたその瞬間がが好機と考えよ』
「分かっている。その時一気に片をつける!!」
 二本の刀を握り締め、相手の隙をうかがう少女の視線の先で、鵺はふと、向こう側を向いた。
『今だ!!』
「……ふっ」
 一度強く息を吐き、鵺に向けて低く駆け出す。相手はようやくこちらの存在に気づいたようだが、脱皮した直後のためか、その動きは鈍い。完全に少女の射程内だった。
「喰らえっ!!」
 気合の声と共に、先手必勝と小太刀を相手の首めがけ突き刺す。だが、


 ガキンッ!!


「くっ」
 鈍い音がして、必殺の一撃は相手の硬い皮膚に弾かれた。小太刀はくるくると回りながら、遥か後方に飛んでいく。
『何という硬質皮だ。ヒスイ、一端下がれ』
「あ、ああ」
 だが、今度は鵺の方が素早かった。ひいいっと一度甲高く鳴くと、怪物の周囲に黒く渦巻く雲が漂い始める。その中でバチバチと小さく音が響いた。
『これは……いかん、避けよヒスイ!!』
 キュウの声に、ヒスイは反射的に身を地面に投げ出す。だが左肩が僅かに遅れた。黒い雲の中心から放たれた白く輝く雷の束が、彼女の細い肩を容赦なく貫いた。
「くあっ」
 左肩がぐっと引っ張られ、壁に叩きつけられる。その激痛と衝撃で、ヒスイはがくりと意識を失った。





「え……と、これはちょっとやばそうな。ひっ」
 壁際からその様子を見ていた聖亜は、いきなりこちらに飛んできた小太刀に、慌てて首をすくめた。
「あうっ」
 壁に当たり、小太刀は小柄な少年の姿に変わった。少年―小松はふらつく体で何とか起き上がるが、途端に肩膝をつき、悔しそうに床を叩いた。
「え、えっと、大丈夫っすか? 小松君」
「うるさいっ!! どうせ私は、性別がまだ“ない”無能な半人前だ!! くそっ」
「……は? 性別が、ない?」
「う……」
 小松は、余計なことを喋ってしまったという風に肩をびくりと震わせたが、やがて小さく下を向き、ぼそぼそと話し始めた。
「…………普通、製造された魔器は無性で生まれる。その後、精神が成長することで男か女になる。けど」
 小松は、また弱々しく床を叩いた。
「けど私は……作られて三年経つのに、まだ男にならない。こんなに、こんなにヒスイ様を慕っているのに!!」
「あの……けどそんなに焦る必要はないと思うんすけど」
「黙れっ、何も知らないくせに!! 魔器はな、性別が確定して初めて切れ味が増すんだ。さっきだって……さっきだって私ではなく、護鬼で攻撃していたら、倒せたはずなのに」
 眼に涙を浮かべながら、小松が三度床を叩いた時だった。
 


 バチバチと音がする。二人が慌てて振り返ると、白い雷に肩を貫かれ、壁に叩きつけられ崩れ落ちる姿が見えた。
「ヒ、ヒスイ様!!」
「ちょ、どこへ行くっすか!! 小松く……ちゃん?」
「放せ馬鹿っ!! それと人をちゃん付けで呼ぶな!! それよりヒスイ様が危ないんだ。何とかお助けしなければ」
「む、無理っすよ。そんなに震えてちゃ」
 少年の言うとおりだった。小松の体はぶるぶると小刻みに震えており、足も竦んでいる。とても戦える状態ではない。
「う、うるさいっ!! どうせ私は、小太刀の姿でしか戦ったことのない臆病者だ!!」
「じゃ、じゃあその姿で戦えば……」
「はあ? 馬鹿かお前!! 小太刀の姿でどうやって戦えというんだ。それに、第一誰が私を持って、攻撃が通らない奴と戦うとい「俺がやる」ひうっ」
 



 冷たく、そして鋭い瞳が小松を射抜いた。




「俺がお前を持って、あの化け物と戦う。攻撃が通じないにしても、ヒスイが目覚める間の囮ぐらいは出来る」
「け、けど」
「うるさいっ!! ここには準達もいるんだ!! もしヒスイが奴に食われたら、次に襲われるのはあいつらかもしれない。ぐずぐずせず、さっさと変われ!!」
「け、けど……あっ!!」
 差し出された手を、小松は体を震わせながら眺めていたが、やがて堪忍袋の緒が切れたのか、聖亜は強引に手を握った。その瞬間小松は何だか分からない感覚に、別の意味で体を震わせながら、自分の意思とは関係なく小太刀へと戻っていった。






 動かなくなった少女を貪ろうと歩み寄った鵺は、頭に何かが当たった感覚に、鳴きながら頭の向きを変えた。
 視線の先で、手がひらひらと揺れている。
 鵺は暫らくその手と床に横たわる少女を見比べていたが、獲物を多く捕らえる方を選んだのか、その手にむかってのそのそと歩き出した。

『……スイ、ヒスイよ、いい加減眼を覚ませ』
「…………うっ、キュウ?」
『うむ。傷の方はどうだ?』
 胸元から聞こえてくる黒猫の声に、ヒスイはぼんやりと目を覚ました。軽く肩に触れる。支給されたばかりの制服は黒く焼け焦げているが、内側から覗く白い肌には、傷も、そして雷による黒こげも付いていない。
「大丈夫だ。だが奴は何で私を喰らわなかった? その機会はいくらでもあったはずだ」
『うむ。数分前に現れた、ひらひらと揺れる手を追っていった……まあ、十中八九あの未熟者で半人前以下の小僧だがな』
「……聖亜、あの、馬鹿っ」
 吐き捨てるように呟いくヒスイの眼は、暫らく空中を彷徨っていたが、ふと自分の手首を見た。
「……」
 そこには、黒く細いリストバンドが巻かれている。ヒスイはおずおずと手を伸ばすと、そこにそっと触れた。
『やめよ、ヒスイ』
「う……」




           黒猫の声が、低く、冷徹に響いた。




『これぐらいの事で“それ”を使うのならば、我はそなたを殺さなければならん』
「けど……」
『ヒスイ、我が愛しき未熟者よ。悩み考え、そして動け。そなたの父親が言った言葉であろう』
「……父、様」
 尊敬する父親の事を思い出し、ヒスイはぐっと手を握り締めた。
『うむ、では行くぞ、百殺の絶対零度。その名に恥じぬ戦いを、我に見せてみよ』





「うわっ、くっ、とぉ!!」
 襲い掛かる爪を弾き返し、頭から齧り付こうとする牙を避けながら、聖亜はジャストの中を必死に逃げ回った。
 あの時、鵺の注意をこちらにひきつけたのは良かったが、どうやら相手の速さは自分が思っていた以上に俊敏で、しかも知恵まであるようだ。段々脇道の少ない方に追い詰められていき、気づいた時には行き止まりに追い込まれてしまった。鵺の動きは制限されるが、逃げ道が塞がれている。
「く、この!!」
 必死に突き出した、小太刀が、猿に似た顔を掠めた。
「ひいいいいいっ!」
「ひいひい言いたいのはこっちだ。ったく」
 一気に勝負をつけようというのだろう。鵺が甲高く鳴くと、あたりに黒い雲が渦を巻き始める。あれに当たればどんな幸運の持ち主でも間違いなく皮膚が黒焦げになる。だがその時、鵺の動きが一瞬止まった。
「……」
 どうやら、雷を生み出すのは、鵺にとっても一苦労らしい。バチバチと黒雲の中で音がして、白く輝く光の束が吐き出される瞬間、聖亜は動きの止まった鵺の横を、小太刀で相手の足を掠めながら、一気に走り抜けた。
「ひいいいいいいっ!!」
 バランスを崩した鵺が、鳴きながら床の上を滑っていく。それを見る聖亜の顔にはだが余裕はない。極度の集中力により、体の所々が痛み出したのだ。
「ま、まずは助かっ……た?」
 起き上がれない鵺から、一刻も早く離れようと駆け出した聖亜の足が、ふと鈍った。
「……いや、それは冗談きついって」
 怪物の背から生えていた蝙蝠のそれに似た翼が、ばさりと大きく広がる。それが一,二度大きく羽ばたくと、鵺の体はゆっくりと宙に浮き上がった。
「……はっ、第二段階ってわけか」
 これでは逃げるのは無理だ。背を向けた途端に空から襲われる。
 小太刀を両手で構えなおした少年を、鵺はその赤い目で凝視し低く鳴いていたが、不意に鼻をひくひくと動かし、天井に向かっていった。
「へ?」
 あっけに取られる聖亜の前で、鵺の体当たりに一瞬は耐えた天井が無残に崩れ落ちる。天井に開いた穴から飛び出していった鵺を、聖亜は呆然と見送っていたが、やがてはっと何かに気づいたのか、逃げていたときの倍の速さで階段に向かって走っていった。
「くそ、俺の馬鹿、二階には準達がいるだろうがっ!!」




 目の前に居る獲物を見て、鵺はにやりとほくそ笑んだ。
 やはりそうだ。目の前に居るこの雌の家畜は、極上の獲物だ。胸にある脂肪は美味であるし、その他の部分は良く引き締まっており噛み応えがありそうだ。
 そしてなにより、これほどきれいな雌はめったに居ない。食う前に犯すのもいいだろう。ゆらりと尻尾の先端が持ち上がり、少女に向かって走っていく。そして、それが雌に触れる瞬間、




「おい……手前何人の女襲おうとしてんだよ」
 蛇の頭部に似た尾が、いきなり踏みつけられた。





 危険度87%―超危険領域につき、封印強制発動。




「ぐっ」
 聖亜の胸にびきりと痛みを伴う吐き気が走り、重圧が体を床に縫いつけようとする。だが、
「……いい加減に、しろ、糞野郎がっ!!」
 痛みにふらついても、吐き気に目の前がぼやけても、たった一つの武器である小太刀を取り落としても、聖亜は蛇の頭に似た尾を必死で踏み続けた。だが、その背後から口を大きく開いた鵺が迫る。生きたまま一気に飲み込もうというのだろう。咄嗟に頭を手で押さえた時、
『中々の囮ぶりだったぞ、小僧』
 黒猫の笑い声と、鵺の絶叫が同時に響いた。



 床に落ちていた小太刀を拾い上げ、少年を今まさに飲み込もうとしている鵺の右目を、ヒスイは懇親の力を込めて突いた。
「……いがっ、ひいっ、が」
 あまりの激痛にどうやら声もうまく出せないらしい。だらだらと涎を垂らす口の中に、今度は太刀を根元まで突き刺す。
 右目に小太刀を、口の中に太刀を突き刺され、それでも鵺は必死に飛ぼうとする。だが、すぐに頭が虹色の壁にぶつかった。くるくると回りながら、どす黒い血をあたりに撒き散らす鵺の脳を、床に落ちた太刀で、ヒスイは一気に貫いた。
「ひ……が……あ」
 ずしんと音を立て、鵺は床に落ちる。ひくりと痙攣すると、一瞬絶望と苦悶の表情を浮かべた男の姿になったが、それはすぐにどす黒い液体へと変わった。






「……終わったか。キュウ、記憶の消去を頼む」
『それは構わぬがな、ヒスイよ、不特定多数の人間の記憶を消すのは手間が掛かる。小梅を呼び出せ』
「ああ」
 黒猫に短く答えると、ヒスイは太刀を一振りし、こびりついた黒い液体を振り払うと、今度はそれを上に放り投げた。太刀はくるくると回転しながら落ちてきたが、地面に降り立ったのは太刀ではなく、ヒスイの従者である妖艶な笑みを浮かべた美女だった。
「……やれやれ、人使いが荒いのう、小姫」
「うるさい、ぼやいていないで、早くキュウの“忘却”を広げてくれ」
「承知。して、範囲と忘れさせる内容と対象者は?」
「範囲は都市全体。内容はエイジャに対する全てと、寄生種に変化した男の事。対象者は今日デパートに来た人・その家族、そして彼らから話しを聞いた人達と、最後に男に関わりのある全ての人間」
「それはまた手間が掛かるのう。用心のし過ぎではないか? まあ良い。小姫、暫らく時間が掛かるゆえ、その間に休息なされよ」
「分かった」
 ヒスイからペンダントを受け取ると、小梅は外に出て行った。それを見送ってから、ヒスイはふうっと床に座り込んだ。暫らくゆったりとしていたが、ふと、すぐ横から視線を感じる。そちらを振り向くと、気絶している少女をぎゅっと抱きしめている少年がこちらを硬い表情で睨んでいた。


「……なんだ?」
 見つめ返すヒスイに、聖亜は少し言いよどんだが、やがてため息を吐いて口を開いた。
「……人を殺しておいて、随分と気楽っすね」
「ああ、そんな事か」
「そんな事? 人を殺しておいてそんな事っすか!?」
 腕の中で眠る少女を強く抱きしめながら、少年は白髪の少女を睨む瞳に力を込めた。
 だが、やがて悲しげに眼を伏せた。
「……その、取り付かれただけなら、殺さなくても、取り除くとか、隔離するとか」
「聖亜、それは無理だ。寄生種に取り付かれた人間はほとんど助からない。寄生されてすぐに専門の病院で手術すれば取り除けるかもしれないが、それでも廃人となり、まともな生活は送れない。それに隔離することも不可能だ。嘆きの大戦の時、寄生種に取り付かれた人間を研究する組織ががあったけれど、結局“それら”は全て、エイジャでも人間でもない“物”になり、組織を壊滅させた。だから」
「……だから?」
「だから、寄生種に取り付かれた人に対しての一番の慈悲は、“殺してやること”なんだ」
「……」
 少女の言葉に、聖亜は俯いたまま押し黙った。確かに廃人や何だか分からない物になるんだったら、殺してやる方が慈悲深いかもしれない。頭の中ではそう思ったが、やはり完全に納得するのは無理だ。
 と、話している間に結構時間が過ぎたのか、外に出ていた小梅が戻ってきた。だがその顔に浮かぶ表情はいつもの妖艶な笑みではなく、険しく引き締まっている。
「……どうした? 小梅」
「小姫、気を抜かれるな。西の方で何か厭な気配がしておる」
「西で? ……まさか!!」
 はっと顔を上げ、ヒスイは外に駆け出した。首を傾げながら、抱いていた準を小梅に預け、聖亜も外へと歩き出した。


 外にある立体駐車場の片隅で、ヒスイは西の空を眺めていた。
「ヒスイ? どうしたっすか?」
「……分からないか? 風が泣いているだろう?」
「……そういえば」
 少女の言う通り、肌に感じる風が、夏だというのにまるで真冬のように冷たい。



 まるで、風が涙を流しているかのようだ。



「あの、ヒスイ……一体何が」
「……囮だったというわけだ。寄生種の襲撃、それ自体が」
 ヒスイの厳しい視線の先には、復興街と、その中心にある鎮めの森があった。





西暦2015年(皇紀15年)7月6日 19時30分


 冷水を、頭から一気に被る。

 本来なら澄んだ湖か川の水を使いたいが、そのどちらもここにない以上、浄水機関の水を使うほかは仕方がなかった。
 何度か冷水を被ると、身に纏った白く薄い服は体に張り付き、少女の白く、それこそ一筋の傷も、痣も付いていない肌を月明かりの中に浮かび上がらせる。それは息を飲む美しさだが、それを称える者はこの場にはいない。
 身を清め終えると、少女はペンダントとは違う小物入れから、小さな子安貝を取り出し、慎重に開いた。
中に入っているのはほんの少しの紅だ。小指に僅かに付着させ、そっと唇に塗る。
 それが終わると、彼女は小物入れの中から別の物を取り出し、白髪にそっと着ける。


 それは、この都市に来た最初の麻に買った、桃色の髪飾りだった。





               決戦前の死に化粧



 それが、年若き少女に許された、唯一のおしゃれだった。



 ヒスイが家の中から出てくるのを、聖亜は暗くなった空をぼんやりと見ながら待っていた。彼の隣には黒猫がいる。まるで、少年を見張るように。
「……別に覗いたりしないっす」
「ふんっ、信用できんな。お主には前科があるからの」
「……そうっすか」
「うむ。ところで小僧」
「……だから、覗かないって」
 呆れて振り返った少年は、ふと振り返った。いつも彼を冷やかすように見つめる黒猫の眼が、今は真剣な表情で自分を見つめていたからだ。
「……何すか?」
「小僧、お主今宵の戦いについてくるつもりか?」
「当たり前じゃないっすか。ここまで来てはいさよならは嫌っすよ」
「そうか。ならば覚悟せよ。今宵が“世界の裏側”に踏み込んだ、そなたの最後の夜になるかもしれぬと。三体の人形はともかく、道化師は追い詰められたら何をするか分からぬ。我が心配なのは、奴がある手段を取ることだ」
「……ある手段?」
「うむ。奴の手元には、狩られた人間の魂がある。その数は百に満たぬはずだ。なれば爵持ちを呼ぶ事は出来ぬはずだが、何か考えがあるのだろう。それより我が案じているのは、
奴がその魂を」
「奴が、その魂を?」
 その時、家から準備を終えたヒスイが出てきた。ジーパンとジャケット、手首には黒いリストバンドと、いつもと変わらない服装だが、唇には紅を付けており、白い髪には桃色の髪留めをつけている。そして、その表情はどこまでも硬い。
「……あれ?」
「ん? どうした」
「いや、なんでもないっす」
 聖亜は、その髪留めにどこか見覚えがあった気がしたが、やがて首を横に振った。
 
 彼が少女と話しているとき、黒猫は彼に聞こえぬように下を向き、呟いた。


「その魂を……喰らうことだ」




西暦2015年(皇紀15年)7月6日 21時40分


 鎮めの森は、いつもと変わらぬ、重苦しい静寂に包まれていた。

 
 だが、いつもの清涼な雰囲気はどこにもない。あるのはただ、深い深い漆黒の闇だけだ。


「……いるな。間違いない」
 家を出て二時間後、目の前にぽっかりと開いた闇への入り口をみて、ヒスイはぽつりと呟いた。
「うむ。だが数はそう多くなかろう。道化師に三体の人形、そして固体種と集合種のスフィルが二,三十体というところだろうな」
「スフィルが二,三十体って、充分多いじゃないっすか」
「ふんっ、寄生種以外のスフィルなど単なる闇の塊に過ぎん。例え千体のスフィルがいたとしても、十体のエイジャに劣る」
「ああ……そうだ、そんな事より、聖亜」
「は、はい。何すか?」
 不意に、少女が真剣な表情で見つめてきた。
「この戦いが終わったら、お前一体どうするつもりだ? 記憶が封じられない以上、ドートスを倒しても、別のエイジャに狙われる」
「……え、と」
「本来なら、高天原に保護してもらうのが一番いい。けど」
 少女は勝気な彼女には珍しく、おずおずと話し始めた。心なし、その頬は赤い。
「その、お前さえ良ければ、私と、一緒にこ「無駄話は其処までだ。来るぞ!」っ!!」
ざわりと、空気が震えた。
 黒猫の叫びとほぼ同時に、闇の中から這い出してきた黒い手が四本、少年に向かう。それを前に進み出たヒスイは軽く弾き、隙を突くように飛び掛ってきた固体種の、狼に似た頭部を両断した。




 振り下ろした太刀で饅頭のような頭部を切り裂くと、振り向きざまに伸ばされた爪を腕ごと飛ばす。伸びてきた無数の黒い手を懐に飛び込むことで避けると、集合主の体に、ヒスイは小太刀を深々と突き刺した。
 鎮めの森に入ってから僅か二十五分、その間にこの場にいたスフィルの二十体以上がヒスイに倒され、どす黒い液体へと変わった。
「……相変わらずすごいっすね」
「別にヒスイがすごいのではない。相手が弱すぎるだけだ……ヒスイよ、本命が来たぞ」
「ああ、分かっている」



 不意に、闇がその密度を増した。



「……現れたか、百殺の絶対零度」
「ふふ、それにお嬢ちゃんも」
 闇の中に現れた二体の人形に身構えたヒスイは、彼らの様子を見て、ふと眉を潜めた。
「お前達……傷がほとんど治っていないな」
 彼女の言うとおり、表面の傷は見えないが、体のバランスは良くない。何より彼らの表情に余裕がなかった。
「うるさいわね、怪我なんてしてても、あんたに関係ないじゃな……くっ」


 ガキンッ


と、槍と太刀とが打ち合った。自分に押し込まれる太刀を、ナイトは必死に押し返そうとするが、その時、ナイトの右前足ががくりと崩れた。
「ナイト? うおおおおおおおっ!!」
 徐々に体制を崩していくナイトを救おうと、ポーンがヒスイの背中に向かって切りかかる。だが、
「やらせないっ!!」
「がっ!」
 その脇腹に、聖亜は思いっきりぶつかった。本来ならそれは簡単に振り払うことができた。だが、彼の手が、僅かに以前ヒスイに切られた部分に当たった。
 一瞬、ぐらりと体制が崩れる。その瞬間、怒りの表情を浮かべた仮面、その中心に、ヒスイが後ろ手で放った小太刀が深々と突き刺さった。
「ポーン、このっ!!」
 激昂したナイトが、以前切断された方の槍を突き出す。だが


 ズキッ


「くうっ」
 切断されたときの痛みが残っていたのか、動きが止まった。
「……これで、さよならだ」
 笑顔の仮面の下で、苦しげに呻くナイトの腹部を、ヒスイは太刀で思い切り払った。



 地面に、二つのチェスが転がった。



「やったっすね、ヒスイ……ヒスイ?」
「……」
 二体の人形が消えたのを見て、聖亜は少女に駆け寄った。だが、彼女の表情はなぜか浮かない。
「えっと、ヒスイ?」
「……ああ、何でもない。行くぞ」
 所々欠けた二つのチェスを拾うと、少女は前方にある巨大な樹を黙って睨んだ。


 先程から黙って走る少女の背中を、聖亜は後ろからぼんやりと眺めた。
 彼女は冷たく怒っていた。無論エイジャに。その中でも特に、仲間の傷をそのままにして、彼らの誇りを傷つけたドートスに。
「……ヒスイよ、もう少し感情を抑えよ」
「言われなくても分かっている。少し黙ってろ、馬鹿猫」
「……」
 少女の言葉に、横で走る黒猫が黙り込んだとき、


 不意に、視界が開けた。到着したのだ。巨大な樹に。だが、
「えっと……ドートスはどこっすか?」
「……」
 その場所には、ドートスどころか、スフィル一匹いなかった。
「……もしかして、さっきのは全部囮じゃ」
「いや、奴の配下は三体の人形だけだ。でなければ、もっと早く行動していたはずだからな。なのにその貴重な戦力を、わざわざ囮にするはずが……っ!!」
「ちょ、どうしたっすか!?」
「誰かが襲われている。こっちだ!!」
 薄暗い森の中に入っていく少女の後を追って、聖亜も森の中に足を踏み入れた。いつもは生き物の気配がまったく感じないほど澄んだ森の中が、今日はなぜかざわついている。
 五分ほど走っただろうか。不意にヒスイの腕が、少年の体を押しとどめた。
「……ヒスイ?」
「静かにしていろ。あそこに誰かいる」
「あそこって……あ」
 眼を凝らしてよく見ると、薄暗い森の中、右手に杖を持った三体の人形の最後の一体が、左手で女の首を絞めているのが見えた。
「あれは……楓ねえさむぐっ」
「馬鹿、大声を出すな」
 聖亜の口を、ヒスイは慌てて塞いだ。だが少し遅かったようだ。人形は女の首から手を離すと、悲しげな表情の仮面をこちらに向けた。
「……あなた方が来たという事は、あの人とナイトは敗れたということですね」
「……」
 ヒスイは、悲しげな表情で俯く人形に向けて、ゆっくりと歩き出すと、その首筋に太刀を押し当てた。
「……逃げないのか?」
「確かに、私達吹奏者は使徒を呼び出すことしかできません。そして、呼び出せる道具はもうない。けれど」
 人形は、悲しげな表情のまま、悲しげな声で、太刀を杖で打ち払った。
「それでも私は、使命を果たさなければなりません!!」
 


 ヒスイが戦っている間、聖亜は倒れたままの楓に駆け寄り、その脈を取った。
「良かった。生きてる」
 とにかく安全な場所に運ぼう。そう思って、彼女を背負った時だった。
「……キュウ?」
 少年の行く手を塞ぐように、冷たい表情の黒猫が前方に座っていた。
「小僧……半人前以下の未熟者よ。そやつから離れろ」
「な、何すか未熟者って!!」
 黒猫の言葉に、反論しようとした聖亜だったが、紫電の瞳に睨まれ、うっとたじろいだ。
「ふん、感情に左右され、好機を逃す馬鹿など、未熟者で充分だ。それより」
 黒猫は、聖亜が背負っている女に向け、毛を逆立てて唸りだした。
「死にたくなければ、早くその“道化師”から離れろ!!」
「え?」
 背後で何かの気配がした。はっとそちらを見た聖亜の眼に、白い刃が飛び込んだ。



「キュウっ!!」
「何!?」
 突き出された杖を打ち払い、首筋に太刀の柄を叩き込んだ時、ヒスイの耳に少年の悲鳴が聞こえた。
 ヒスイがはっと振り返ると、視線の先にぐったりと倒れている相棒と、相棒を必死に抱きしめている少年、そして笑いながら浮かぶ女の姿があった。
「あははははは、おしいなあ。もう少しでその馬鹿な餓鬼を殺せる所だったのに!!」
「貴様……ドートスかっ!!」
 笑っている女の姿が、ふと歪んだ。その体は一ヶ所に渦を巻くように吸い込まれていき、次の瞬間、ぽんっと道化師を吐き出した。
「あはははは、ご名答、絶対零度。けどその餓鬼は分からなかったようだねえ。ま、殺せなかったのは仕方ないけど、その小癪な黒猫を殺せただけでも充分さ」
「……」
「怒ったかい? まったく……僕に構わずさっさと設置した魂を探して回収してしまえばいいのにさ。けど、もう遅い」
 心底嬉しそうに、道化師は両手をいっぱいに広げた。
「集めた魂は五十に満たないけど、僕は以前保険として、巨大な樹の根に傷をつけておいたのさ。そして、魂は樹のてっぺんにある」
「……傷?」
 ふと、ヒスイの眉が動いた。
「さあ、絶望に彩られた魂達よ! 起爆剤となり、地の底にある万を越す魂を呼び覚ましておくれ。そして」


 かっと、道化師は両目を大きく開いた。


「そして、門よ、あれ!!」


 その瞬間、巨大な樹を漆黒の光が取り囲んだ。





「……………………あれ?」


 だが、何も起こらず、光はすぐに収まった。慌てて樹に向かおうとしたドートスは、次の瞬間、ばっと横に飛び退いた。
「ちっ」
 今まで自分がいた場所を、白刃が通り過ぎる。飛び退いた自分に、左右から交互に太刀と小太刀が襲い掛かった。
「くっ、しつこいんだよ、手前!!」
 以前同様、鋼に変化させた右腕で刃を受け止めると、無防備になった少女の首めがけ、袖口からナイフを突き出す。


 だが、それは小太刀によって受け止められた。


「……そうか。お前があの傷をつけたのか」
「何?」
「三百の……三百の死霊を浄化するのは、本当に大変だったんだからな!!」
 小太刀でナイフを弾き返し、ヒスイは相手の右腕を、懇親の力を込めて切り飛ばした。



「がああああああああああああっ!!」
 絶叫を上げ、地面に激突する。右腕ははるか遠くに落ち、傷口からはどす黒い血が大量に噴き出した。
「ぐぅっ、て、手前!! 何で鋼の腕を、切り飛ばせるんだよ!!」
「お前の腕が鋼に変化しても、その中の気配は変わらなかった。つまりお前が変化させられるのは、表面だけだという事だ!!」
「ぐ、くそ、いけ、幻想短剣(イリュージョン・ナイフ)!!」
 左腕から放たれた短剣が、今度は六つに分裂して少女に襲い掛かる。さらにその後ろから別の短剣が向かってきた。だが、ヒスイは呆れたようにため息を吐くと、太刀を水平に払った。
「なっ!!」
 弾き飛ばされた短剣は、ぼとぼとと地に落ちた。と、柄から黒い液体がどぷりと湧き出す。
「ふん、やはり飛行できるスフィルで動かしていたか」
 時間差で襲い掛かる短剣も同じように払うと、ヒスイは柄の部分を踏み砕いた。
「ぐ、くそがあああ!!」
 左腕で地面に落ちた短剣の一本を拾い上げると、道化師は少女目掛けて突進した。


 だが、その動きはあまりにも直線的だった。


「……これで、終わりだ」
 突き出された短剣を軽く避け、ヒスイは小太刀を放り投げると、太刀を両手に持ち替え、道化師の体を、右肩から一気に切り下ろした。




 ドートスが完全に動かなくなったのを確認してから、ヒスイは黒猫を抱きしめ、俯いている少年に向かって歩き出した。
「聖亜、お前いつまでキュウを抱きしめているつもりだ。早く離せ」
 呆れた声で言うが、彼は弱々しく首を振っただけだった。
「別に首を突かれただけだろう。いいから、さっさとそいつを放せ」
「……お前、自分の相棒が死んだんだぞ、よくそんなひどい事が言えるな」
「は? 誰が死んだだって? おい馬鹿猫、さっさと起きろ」
「……へ?」
 きょとんとしている少年から、なぜか苛立たしく黒猫を奪い取ると、ヒスイはその髭を軽く引っ張った。
「ふ、ふぎゃ、何をするか、馬鹿者!!」
「いつまでも起きないからだ。それより馬鹿猫、お前死んだのか?」
「馬鹿はどっちだ。地獄の錬金術師(ヘル・アルケミスト)ヘルメスが作り上げた最高クラスのホムンクルスである我が、高々首を突かれたぐらいで死ぬはずがなかろう」
 首筋を前足で掻き、黒猫はにやりと笑った。先程短剣を深々と突き刺されたはずのそこは、だが傷一つ見当たらない。
「ま、中々の抱き心地だったぞ。小僧」
「……だ」
「だ?」
「騙されたっす~!!」


 
 少年の絶叫が、周りに響き渡った。



「騙されたっす、もうっ」
「だから、悪かったと言っておる。それより、奴はちゃんと滅したのであろうな。ヒスイ」
「ん、ああ。ちゃんとそこに転がって……いない?」
 少女は、ふと眉を潜めた。胴を切り裂かれ瀕死の状態だった道化師の姿はそこにはない。ただ黒い血が点々と巨大な樹に向かっていた。
「……あいつ、一体何をするつもりだ?」
「追い詰められた鼠は、何をするか分からぬ。追うぞ、ヒスイ」
「……ああ、分かった」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっす!!」
 巨大な樹に向け、一人と一匹が走り出す。慌てて立ち上がると、聖亜も彼女達の後に続いていった。




 道化師は、樹に寄りかかっていた。
 門は開かなくとも、数十の絶望した魂を衝突させた効果は大きかったのだろう。御神木として屋久島から運ばれてきた、樹齢八百年を越す巨大な杉の樹は、所々無残に傷ついていた。
「ここまでだな、道化師」
「……」
 ヒスイが太刀を向けても、ドートスは動く気配がない。片腕を切り飛ばされ、胴を裂かれ血を流しすぎたのだろう。その肌は蒼白だった。
「せめてもの情けだ。一撃で滅してやる」
「……滅する、だと?」
 不意に、道化師はその蒼白な顔を、上げた。
「ふ、ふふ、ふふふ。僕が何か悪いことをしたかい? ただ家畜を狩っていただけじゃないか。君達だって牛や豚を狩るだろう? 一体どこが違うというんだ」
「戯言を!!」
 ヒスイは道化師に向かって走り出した。だが、その白刃が道化師に届こうとしたとき、


 ドートスは、最後に狩った娼婦の魂を、丸ごと飲み込んだ。


「何? くっ」
 道化師の体から、大量の臭気が噴き出した。
「死にたくない……死にたくない。まだおいしい物を食べきっていない。いい女も抱いていない。ちやほやされていない。死にたくない……死にたくない。じゃあどうすればいい? あ、何だ。簡単じゃないか」
「く、これはやはり!!」
 毛を逆立てる黒猫の前で、ドートスの体は、異様なほど膨れ上がった。
「進化すればいいんだ。誰も……そう、あいつらさえ敵わない存在に!!」
「人間の魂を、喰らったか!!」
 そして、それは現れた。




 その大きさは、巨大な杉の樹とほぼ同様だろう。
 形状はヒキガエルに近い。だがその手足は八本あり、それぞれの大きさも違う。 体全体にいぼが生えており、時々臭気を噴き出している。内臓もおかしいのか、腹部は異様なほど膨れ上がっていた。
 さらに頭部の右半分が腐れかかっており、眼はずるりと垂れ下がっている。


 それはいわゆる、奇形だった。


「ううっ、何すか、これ」
「……魂の使用方法の中で、最悪の物は何か、以前話したな。爵持ちを呼び出すためと、もう一つ自らを上位の存在に進化させるために使う」
「けど、後者は十中八九成功しないで、暴走するって話じゃ」
「うむ。だが奴はもう正気ではなかったのだろう。このままでも奴は自滅するが、どうする? ヒスイよ」
「もちろん、“滅殺”する」
 黒猫の問いに、少女は迷うことなく頷いた。
「それが、奴に食われた魂だけでなく、奴自身も救うことになる」
「……ふふ、相変わらず優しいな。ならば奴に見せてやれ、百殺の絶対零度の力をな」
「ああっ!!」
 無造作に振り下ろされた、大木ほどもある腕を避けると、少女はにやりと笑って見せた。


 かつて、ドートスと呼ばれた存在は、腐りかけた眼でぼんやりと周囲を見渡した。自分の周りには、何もない。幼い頃、自分を虐めた氏民も、自分の才能を理解せず、入学金が払えないというだけで、門前払いした吹奏者を養成する音楽学校の教師も、乞食同然に地面に転がっていたとき、蔑みの眼を向けて来た子供達も、そして何より、作業が遅いと自分を罵るあの黒衣の男もいなかった。



―いい気分だ。



 ひび割れた石のような口で笑うと、その存在は前に歩き出そうとした。



 そのとき、ふと右手が落ちた。それを拾おうとのろのろと身をかがめた時、頭を蚊が刺した。どうやらぶんぶんと周囲を飛び回っているらしい。無視してもいいが、うっとうしいことに変わりはないし、何よりひどい空腹だった。


 もはやその存在からドートスの意識は完全に掻き消えた。あるのは空腹を満たしたいと満たしたい欲求、ただそれだけであった。




「くっ」
 伸びてきた舌を間一髪で避け、ヒスイはそれに逆に切りかかる。だが太刀は舌の上をつるつると滑るだけだった。
「……なるほど、蝦蟇の油というわけか。面倒だな」
 太刀を良く見ると、所々にぬめりはこびり付いていた。先程渾身の力を込め、大木ほどの大きさがある腕を切り落とした際に付着したのだろう。だが切り落とされた腕は、怪物が持ち上げ、切り口に押し当てると、何事もなかったかのように付着した。
「ち、滅するには脳を叩くしかないか」
 一度太刀を振ってぬめりを振り払うと、ヒスイは再び怪物に向け駆け出した。


「……あれ? 何かあまり切れてないような気が」
 ヒスイが戦っている場所から少し離れた森の中から、聖亜は彼女の様子を見守っていた。
「奴の体を、ゲル状の液体が覆っているのだ。おそらくあれが、護鬼の切れ味を鈍らせているのだろう」
「えっと、それってちょっとまずいんじゃ」
「まずいだと? くははは。小僧、そなた魔器という物が何か、理解しておらぬようだな。よいか、魔器とは本来武器ではない」
「武器じゃ……ない?」
「さよう。魔器とは名前の通り魔の器。本来は魔を封じて置くための器であった。それを改良し、武器として使えるようにしたのが、マイスター・へファトだ。故に」
 ちらりと、黒猫はヒスイの持つ太刀を見た。
「故に武器としての切れ味は、さほど重要ではない。重要なのはその中に、どのような魔が封じられているかだ。そして」
 黒猫の視線の先で、怪物の頭部目掛けヒスイは小太刀を投げつけた。怪物がそれを腕で振り払うと、開いた隙間を潜り抜け、怪物の腹部目掛け、両手に持ち替えた太刀を突き刺した。それは、始めはぬめりに押されて通らなかったが、
「そして、ヒスイの持つ魔器、鬼護りに封じられているのは、二体の鬼。前鬼と後鬼。まあ、小松は正確に言えば後鬼ではないが……それでも」
 だが、そのぬめりごと太刀はずぶずぶと腹に突き刺さっていく。根元まで突き刺さったその太刀を、今度は一気に、
「それでも、あの魔器は一級品だ。鬼護り、その名の由来は鬼に護られているのでも、鬼から護られているのでもない」
 腹を、縦に裂いた。
「鬼すらその身を護るほど、強力な太刀という意味だ」
 黒猫が口を閉じたのと同時に、怪物は、ズズンっと地響きを上げ、倒れた。



「はあ、はあ、はあ……ふっ」
 倒れた怪物の傍らで、ヒスイは苦しそうに片膝を付いた。
 さすがにぬめりと同時に、その硬い皮膚に太刀を突き刺し、一気に引き裂くのは彼女の体力を著しく消耗させた。だが、それなりの成果はあったようだ。
「油断するな、ヒスイ」
「ああ。分かっている」
 近寄ってきた黒猫に頷くと、ヒスイは息を整えて立ち上がり、怪物の頭部に向かって歩き出した。だが、
「……う?」
「ヒスイ? むっ」
「へ? どうしたっすか、二人共」
 突然、彼女達の動きが止まった。どうやら、怪物のいぼから放たれる煙には、麻痺性の毒があるらしい。慌てて聖亜は駆け寄ろうとするが、次の瞬間、彼は何かに思い切り殴り飛ばされた。
「うあっ」
「聖亜、ぐっ!!」
「……なんという執念か、まさか、自らの内臓すら武器にするとは」
 聖亜を投げ飛ばしたもの、それは怪物の巨大な腸だった。
 体を覆う痺れで動けない彼らの前で、怪物はのそりと起き上がった。倒れた衝撃で頭部は完全に崩れているが、顔の下半分は無事の
ようだ。無論口と、そして、その中にある長い舌も。
「うあっ、ぐっ」
 その舌が自分に強く巻きつき、ずるずると口の中に引きずり込もうとしている。何とか振りほどこうともがくが、痺れが残る体は自由に動かない。
「ヒ、ヒスイ、むうっ」
 キュウは必死に動かぬ体を持ち上げようとした。だが体が小さい分、ヒスイより痺れが強く効いているのだろう。横にころりと転がると、もはや髭一本動かなかった。



「……う、げほ、げほっ」
 腸に弾き飛ばされ、近くの草むらに転げ落ちる。その上をごろごろと転がると、喉の詰まりを感じ、聖亜は思い切り咳をした。草むらに少量の血が飛び散る。どうやら口の中を少し切ったらしい。
「う……ヒスイ達、は?」
 涙でにじむ視界の中、必死に怪物を見て、そして固まった。そこには、怪物のほうに引きずられ、今まさに食われようとしている少女の姿があった。
「ヒ、スイ……うあ、あ、あああああああああああっ!!」



   危険度89%―超危険領域!! 超危険領域!! 超危険領い……ピー



 がくがくと震える足で立ち上がり、がちがちとうるさく鳴る歯を食いしばると、聖亜は一歩、また一歩と、少女に向けて歩き出した。

 カシンッ


 胸の中で、何かが音を立てて軋んだ。




 ぐばりと、怪物の崩れかかった口が開き、少女を飲み込もうとする。その瞬間を予想し、ヒスイは思わず眼をぎゅっとつぶった。
「おい」
 聞き覚えのある声が暗闇に響く。同時に、舌の動きが急に止まった。


「ったく、往生際が悪いんだよ、手前」
 口の端から流れる血を拭うと、聖亜は先程拾った小太刀を、ぐりぐりと舌に突き刺した。体の底から、どくどくと熱が湧き上がる。中学以来、久しく感じる事のなかったどす黒い感情に、少年は半ば酔っていた。
「それからヒスイ、お前は逆に往生際が良すぎ。ったく、助けてぐらい言えよな」
 少女の体を縛っていた舌を振りほどくと、聖亜は崩れ落ちる彼女の体をそっと支えてやった。
「う……」
「それで、どうする? 自分で止めを刺すか? それとも」
 草むらの中に転がっている太刀を拾い上げると、聖亜はそれも舌に突き刺した。
「それとも、俺が生きたまま“解体”してやろうか?」
「せ、聖亜、お主」
「……いや、私が止めを刺す」
 先程までとはまったく違う少年の様子に、黒猫は目を見張ったが、少女は首を振ると、そっと太刀を手に取った。
「……分かったよ。ならあいつのところまで背負ってやる」
 冷ややかに笑うと、少年は少女の動けない体を無理に背負った。自分より小さい背に手を置くと、少女はなぜかその背中に顔を埋めたくなった。
「さ、ついたぞ」
「あ? あ、ああ」
 当たり前だが、怪物との距離は短いため、背負ってもらう時間も短い。少し名残惜しいが、止めを刺すことを選んだのは自分だ。やらなければならない。
 ふらつく足で地面に降りると、ひくひくと痙攣している怪物を、ヒスイは哀れみを込めて見つめた。
「……止めだ。安らかに滅せ」
 静かな、本当に静かな声と共に、少女は怪物の脳目掛け、太刀をゆっくりと振り下ろした。
 その一撃は、ひび割れた頭蓋骨を容易く貫通し、半ば腐った脳を、完全に粉砕した。


「グ……バアアアァッ」
 ため息に似た声を出し、かつてドートスと呼ばれていた怪物は、どこか安堵の表情を浮かべながら、ゆっくりと掻き消えた。
 


     それが、聖夜の煉獄での、戦いの幕引きだった。





西暦2015年(皇紀15年)7月7日 12時10分


 午後の日差しが、屋上いっぱいに広がる。
 その日差しの中、聖亜は寝転びながら大きく伸びをした。
「ふうっ、まったく、だらしがないぞ。聖亜」
「別にいいじゃないっすか。終わったんすから」
 ちぇっと軽く舌を出して、聖亜は自分を覗き込むヒスイの顔を見上げた。
「……それで、ヒスイはこれからどうするっすか?」
「そうだな。ドートスと繋がっていたという鍋島教頭の調査は結局出来なかったし、神木もだいぶ傷ついた」
 戦いが終わった後、キュウの手により傷ついた神木の細胞は活性化されたが、傷が完全に癒えるまで後数ヶ月はかかるらしい。
「その間、太刀浪市はエイジャに狙われやすくなる。守護司に後を頼むにしても、あれ以来何故か連絡が取れないし、どちらにしても、しばらく様子を見なければならないな。それに」
「それに?」
「……あ、いや、なんでもない」
 ごまかすように海を見る少女に、聖亜は首を傾げたが、やがて同じように彼方の海を眺めた。
「……そういえば、三体の人形はどうなるっすか?」
 戦いが終わった後、道化師が倒れていた場所から、三体の人形を収容するための台座が見つかった。さらに付近の草むらからビショップの駒も見つかっている。
「人間を襲ったことに変わりはない。おそらく魂を粉砕されるだろう」
 人形達のことを思い浮かべ、聖亜はため息を吐いた。笑った仮面、怒りの仮面、悲しみの仮面。ナイトは笑いたいと思ったことは一度もないと言っていた。笑いたくないのに笑う事を強制されるのは、一体どれだけ辛いのだろう。
「聖亜……」
 考え込んだ少年に、少女が何か言おうとしたときだった。
「あ、やっぱりここにいた」
「あれ? 準。それに秋野と福井も。いったいどうしたっすか?」
 その時、屋上に準が上がってきた。さらにその後ろから、秋野と福井も続く。
「ったく、どうしたじゃねえって。今日は七夕だぜ。パーティー、するって言ったじゃないか」
「ああ、そうだったっすね。ヒスイもいいっすか?」
「は? ちょっと待て。何で私に聞く」
「だってヒスイ、聖亜の家に居候してるんだろ? パーティー、そこでするんだよ」
「それに、ヒスイの歓迎会もしないといけないからな」
 準が腕を組んで笑うと、それにつられるように、ヒスイも苦笑を浮かべた。
「……みたらし団子は出るんだろうな」
「ああ。出る出る。お立通りの団子屋で、いっぱい買ってきてやるよ」
「……そ、それじゃあやってもい」





           下らん戯言だな、玩具使い





 太刀浪市全体が漆黒の空に覆われ、準達が倒れるのと、聖亜を突き飛ばし、咄嗟に身を伏せたヒスイの肩を細身の剣が貫くのは、ほぼ同時だった。
「く、あああああああっ!!」
 悲鳴を上げ、それでも前に体を倒して剣を抜くと、少女は床に転がったペンダントから咄嗟に小太刀を引き抜いた。
「むは、むはははははっ!! さすがだな玩具使い。心の臓を貫くはずの、我輩の必殺の一撃を回避するとは!!」
「……何すか、あれ」
 地面にへたり込んだ聖亜が見た物、それは漆黒の空に浮かぶ、三体の石の人形と、彼らを付き従えている、圧倒的な気配を持つ、黒衣の人物だった。




「むはははははっ!! なるほど、ピエロがやられるわけだ。だがな、奴と我ら上層氏民を一緒にするなよ。ん?」
 少女を背後から奇襲した石の人形が、下品に笑いながら蓄えた髭をなぜた。
「くっ、別働隊、だと?」
「むは、むはははははっ、違うな。奴は所詮捨て駒。我らこそが本隊なのだ。あの方を呼び出すための「キング、黙れ」……は」
 キングと呼ばれた石人形は、黒衣の男の命令に従い、ほかの二体の人形がいる場所まで下がった。
「……さて、玩具使い。先程キングが言ったと思うが、貴様が今まで相手にしていた道化師は、単なる捨て駒に過ぎん。しかも、何の役にもたたなかった、な。まあ奴はその無能を、死という形で償ったわけだが」
「なる、ほど。つまり、お前たちがいる限り、今回の戦いは終わらないというわけか……ならっ!!」
 黒衣の男目掛け、ヒスイは小太刀を構える。だが、
「戦う相手の技量も分からぬのか、絶対零度……ルーク」
「……グッ」
 ルークと呼ばれた、まるで塔のように巨大な石人形は、石で出来たその腕を、“そこ”に向けた。
「な、や、やめっ」
 巨大な石の拳が人形から放たれる。それは百年の間、休みなく鳴り続けた鐘をを、鐘楼ごと一撃で粉砕した。




 その中にある、ウミツバメの巣もろとも。



「……さて玩具使い。これでもまだ我らと戦うか?」
「……要求は、何だ」
「ヒス、イ?」
「ほう、潔い事だ。玩具使い。我らがわざわざ出向いたのは、そなたを捕らえるためだ。いいだろう、取引をしよう。貴様が大人しく捕まるならば、この都市に住むすべての家畜に手は出さぬ。約束しよう。だが」
 男は黒衣に包まれた腕を上げると、背後の三体の石人形と共に、その気配を一層強めた。
「だが、貴様があくまで抵抗しようというならば、この都市を灰燼に帰し、十万を越す家畜の魂を、その絶望ごと喰らってやろう」
 その言葉に、ヒスイは
「……」
項垂れ、そして、ふっと肩を落とした。
「ふん、それでいいのだ。ルーク」
「……ゴッ」
 再び人形の拳が飛ぶ。それは、今度は屋上に立つ少女を握り締め、ゆっくりと戻った。
「さあ、帰還するぞ。キング、ルーク、クイーン。さて家畜共、我らの主が降臨するまでのしばしの間、動けぬその身にせいぜい絶望を溜め込んでおくがいい!!」
 黒衣の男を先頭に、彼らが漆黒の空の彼方へ消えるのを、聖亜はただ呆然と眺めていた。





 眺めているしか、出来なかった。




                                   続く

 こんにちは。活字狂いす。さて、今回は戦闘を中心に書きました。今回でドートス他三体の人形は倒されましたが、人形はまだ出演します。そして、いよいよ次回
「スルトの子 第五幕   蛇神降臨」にて、ボスが出場します。お楽しみに。


PS  自衛隊に合格したのはいいですが、やっぱり懸垂が出来ません。



[22727] スルトの子 第五幕   蛇神降臨
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:32
 悪夢を、見た


 死ね


 死ね


 死んで


 死ねよ


 死んでください



 死んでくれ



 何で、お前ばかり生きている



 過去という名の亡霊が、私の死を望み、恨みを込めて囁く。




 いや、違う



 死を望んだのは、誰でもない私自身ではなかったか






 犯してしまった罪への、大罪として



 なあ、友よ




 もし、この身を滅ぼせば、救われるのだろうか





 私は




 神奈川県横須賀市、ここは日本有数の軍港として発祥してきた。おそらく、滅びるときも軍港として滅びるだろう。
 この軍港に数多くある、海軍基地の一つは、今大きな混乱に包まれていた。

「状況はどうなっている!!」
「はい、やはり二時間前から、太刀浪市との全ての通信が途絶えたままです!!」
 太刀浪市監視責任者、緒方隆三一佐は、部下の発した声に深いため息を吐いた。
「とにかく通信の回復を急いでくれ。あの都市には日本人だけでなく、多くの外国人観光客がいる。もし彼らに何かあれば、日本皇国は世界中から非難を浴びることになるぞ」
「は、全力を尽くします!!」
 頼むぞ。それだけ言って敬礼すると、緒方はデスクに戻り、コーヒーを飲んだ。三十分前に入れたコーヒーは、すっかり冷めてしまっている。それをまずそうに飲み干すと、不意にドアがノックされた。
「失礼します。一佐、東京から通信です」
「ああ、すまない」
 秘書から渡された書類をぱらぱらと捲る。だが、やがてその手は止まり、体はぶるぶると震え始めた。
「あの、一佐、どうかなさいましたか?」
「……今回の件、我々は手出し無用、監視するだけという命令だ。すでにこれと同じ文章がこの基地だけでなく、自衛軍、全ての基地に届いている」
「そ、それは、現状維持というわけですか」
 部下の言葉を聞き流し、緒方はガッと机を殴りつけた。
「これではあの時と同じじゃないか!! 十五年前の災厄の、あの時と!!」





 漆黒に染まった空を、聖亜は旧校舎の屋上でぼんやりと眺めていた。
 エイジャの姿はない。そして、澄んだ白髪を持った少女も、ここにはいなかった。

 どれぐらい時間が過ぎただろうか。不意に、頬を叩かれた。
「……か、おい、しっかりしないか、星」
「あ……鍋島、先生?」
 見知った厳しい顔が、自分を覗き込んでいる。聖亜が気づいたことで安心したのか、彼は地面に倒れている三人の頬を叩いて回った。
「……教頭先生、これって」
「駄目か……星、何故お前が“この状態”で動けるのかは聞かない。だが動けるなら今すぐこの学校、いや、この都市から逃げろ」
 三人の意識が無い事を確認すえると、鍋島は暫らく自嘲気味に眼を瞑っていたが、やがて出入り口に向かって歩き出そうとした。
「け、けど先生、彼女が、ヒスイがあいつらに!!」
「あいつら、だと? 星、お前一体何を知っている? そして一体何を隠している?」
「そ、それは……」
 この空間でこうして動けている限り、鍋島先生も無関係ではないのだろう。だが彼の鋭い視線が自分を詰問しているように感じ、聖亜はぐっと喉を詰まらせた。
『……ふむ、ならばそこにいる未熟な小僧の代わりに、我が答えてやろう』
 不意に、足元で聞きなれた黒猫の声が響いた。おそらくあの時咄嗟に投げ捨てたのだろう、ヒスイがいつも胸ポケットに厳重に入れていたペンダントが、そこにはあった。
「あ……キュウ!!」
『嬉しそうな声を出すな、まったく。だが鍋島とやら、この状態で動けるのであれば、そなたも高天原の関係者なのだろう?』
「ああ。だが守護司ではない。単なる構成員だ……まあ、私の事はどうでもいい。それより、何があった?」
『うむ、実はな……』
 キュウが鍋島先生と話している間に、聖亜は準の傍らに歩み寄った。彼女は眼を見開いたまま、まるで石のように動かない。そしてその瞳には、何も映ってはいなかった。
「……なるほど、大体の事情は分かった。星、本来ならすぐに話しておくべきだったな」
「う……す、すいません」
「まあいい。それより、先程も言ったが、今すぐこの都市から逃げろ。危険だが、山中を通っていけば近道になるはずだ」
 そう言って、再び建物の中に入ろうとした鍋島先生の動きを遮るように、聖亜は彼の前に立ち塞がった。
「ちょ、ちょっと待ってください。それって準達を見捨てろって事っすか? それにヒスイだって、あいつ、俺達を助けるために、あいつ等に抵抗もせずに捕まって……」
「……星、辛いのは分かる。だが奴らはお前が今まで遭遇した鵺や人形、そして道化師とはまるで違う。見ろ、この状態を」
 彼は、両手を一杯に広げた。
「奴らは町全体を覆える空間を、一瞬で作り出せる。エイジャの中でも、もっとも上位に位置する存在なのだろう。お前では到底太刀打ちできん。無論、私にもな」
「………………鍋島先生も、逃げるんすか?」
 俯いて呟いた聖亜を気の毒そうに見つめると、鍋島は小さく、だがしっかりと首を振った。
「いや、私にはやることがある。だから逃げない。いや、もう逃げることは出来ないんだ。私は」 
「…………」
「だが星、お前は違う。まだ逃げることが出来る。だから逃げろ……いや、頼む、逃げて、そして生き延びてくれ……ではな」
 厳しい表情を一度だけ緩ませると、鍋島先生は呆然と立っている聖亜の脇をゆっくりと歩き、やがて建物の中に消えていった。





 それから、一体どれぐらいの時間が経っただろうか。



 聖亜は、先程と同様、呆然と漆黒の空を眺めていた。先程と違う所があるとすれば、一人ではないという点だろう。
『……小僧、いい加減正気に戻れ。それに、これから一体どうするつもりだ』
「どうするって……分からないっす」
『ふむ、ならば質問を変えよう。小僧、そなた何故逃げぬ』
「……」
『鍋島とやらの話を聞いたであろう。確かに奴の言ったとおり、先程の石人形達はヒスイが倒した人形とは格が違う。それらを率いる、あの黒衣のエイジャもな』
「……」
『それなのに、なぜそなたは逃げる事を選択しない? 簡単なことだろう。逃げればよい』
「……戦えって、言わないんすか?」
 少年の呟きに、ペンダントの向こう側、少年の家の中で、黒猫は小さく笑った。
『言えぬさ、そんな事は。本職である魔器使ですら適わぬ相手に、“ただ”の人間であるそなたでは、抵抗すら出来ずに殺されるだろうからな』
「……“ただ”の人間では、抵抗すら出来ない?」
『……? 小僧?』
 不意に、聖亜は頭の中に答えが浮かんでくるのを感じた。始めのうち、それは何かは分からずただ俯いて地面を見ていたが、やがて落ちているペンダントを拾い上げると、学校の外に向けて駆け出していった。







 ビシッ 


 鋭い音と共に、頬に強烈な痛みが走る。
 その痛みで、ヒスイはぼんやりと意識を覚醒させた。
「誰が寝ていいといった、玩具使い」
 その途端、白い頬にびしりと鋭い痛みが走る。前を晴れ上がった眼で見つめると、目の前で趣味の悪い王冠を頭に載せた石の人形が、にやにやと笑いながら自分を見上げているのが映った。
 その手に持っているのは、黒い皮製の鞭だ。どうやらあれで強く殴られたらしい。


 学校の屋上で捉えられてから半刻ほどたっただろうか。今彼女は天井から垂れ下がる鎖に縛り付けられていた。暗闇で何も見えないが、きついかびの臭いがする。どうやら長い間使用されていない倉庫のようだ。
 この場所で、彼女は目の前で下品な笑みを浮かべている石人形に、さんざん痛めつけられていた。
「いやあ、だが安心したぞ玩具使い。まさかルークに殴られただけで気を失うとは思っていなかったものでな。まあ、単なる家畜なら、先程の一撃で腹が真っ二つに裂けていただろうから、なるほど、そこそこの実力はあるらしい」
「……」
 人形の背後に、微かに塔のような頭部を持つ、巨大な石人形の姿がある。腕を組み、不機嫌そうに沈黙を続けていた。
「さあて、尋問を続けようではないか、ん?」
「……ッ」
 鞭の先端が、先程殴られて出来た頬の傷にぐりぐりと押し込まれる。吐き気を伴う激痛に、ヒスイは眼を閉じ、耐えた。
「では同じ質問を繰り返させてもらうが、第一に、貴様ら玩具使いの穢れた巣である“ヴァルキリプス”は、一体どこにある!!」
「……」 

 ビシッ

「第二に、貴様ら玩具使いの総数は!! 第三に、貴様らの指導者の名は!! 第四に、そやつの能力は!! そして!!」
 
 ビシッ、ビシッ、ビシッ!! 

 質問と共に黒い鞭が振るわれ、少女の体を容赦なく蹂躙し、痛めつける。もはや彼女が身に纏っていた服は跡形も無く、振るわれる黒い鞭は、彼女の白い肌に赤い傷を付けていった。

「そして何より、貴様らに加担している伝道者は、何者だ!!」

 最後の質問と共に、鞭の先端が延び、少女の首にぎりぎりと容赦なく巻きつく。だが、彼女はそれでも、閉じていた眼を開き、薄く笑った。
「……だ」
「ん? ようやく喋る気になったか。それで? 何者なのだ?」
わざとらしく顔を近づけてくる石人形に、ヒスイは掠れた小さい声で、だがはっきりと、言った。
「哀れだと、そう言ったんだ。お前達エイジャを憎悪する私達が、憎むべきお前達の力を借りることなど、絶対にありえない。まったく、そんな事も分からないのか、この……うあっ」
 首筋から脇腹にかけて、今までに無い痛みと衝撃が走った。そしてそれが納まらない内に、今度は彼女の顔を石の手が強く握った。
「貴様……きさまキサマ貴様!! 手を抜いてやればいい気になりやがって!! よかろう、それほど苦痛を望むなら、その体、使徒共に辱めさせ、魂を肉体ごと喰らってや「……待て」っ!!」

 その時、倉庫の扉が、ギギギッと軋んだ音を立て、左右に開いた。

 外から入ってきたのは、三体の石人形、その最後の一体を従えた黒衣の男だった。背は人形と比べ幾分小さいが、発している気の重圧は、人形達の軽く十倍はある。
「やりすぎだな、キング。この者は我らが主を呼び出した後の主食となる。あまり痛めつけるな……ルーク」
「……グ」
 短く答えると、巨大な石人形は、少女を縛っていた鎖を掴み、ぐっと握った。分厚い鎖は、まるで薄紙のように引きちぎれ、彼女の体は地面に投げ出された。ドンッという衝撃に、ヒスイはわずかに呻いた。
「で、ですがお館様、こいつは我ら伝道者をエイジャと蔑み、そして哀れだとさえ言ったのですぞ!!」
「黙れ、キング」
「で、ですが……」
「キングよ、何度も言わせるな。黙れ。クイーン、手当てをしてやれ」
「はい」
 黒衣の男に付き従っていた石人形―クイーンは短く答え、少女に近づく。それを見て、今まで彼女を痛めつけていた石人形―キングは、ぎりぎりと歯軋りをした。
「さて、キング、ルーク、お前達には儀式の準備が完了するまで、ここの守りをしてもらう」
「……グ」
「了解致しましたお館様。ですが、本当に玩具使いの仲間が来るとお考えで?」
 恭しく尋ねてくる石人形を、黒衣の男は、その隙間から僅かに覗く金色の瞳で見つめた。
「これが三度目だ。“黙れ”分かったな」
「ぐ……は、はい」
 震えながら引き下がる人形を一瞥すると、男は一度外に出た。漆黒の空に、黒く染まった三日月が浮かんでいる。
「……ひ、ひひひ、随分と待たせますなあ」 
 不意に、横の暗がりから笑い声が響いた。
「……ふん、もうすぐだ。楽しみに待っているがいい」
「ひ、ひひ、忘れないでくださいよ。私があなた様を呼び出し、ここまで協力してきたのは」
「……分かっている。しかし、貴様も奇妙な契約者だな。不老不死も、まして富みもいらないとは」
「ひ、ひひ、私は善良な人間でしてねえ。ただ、もう一度見たいだけなんですよ。あれを……ああ、それからもう一つ」
「ん? 何だ」
「ええ、出来ればでいいのですが、その、主食にされる前に、あの小娘、ちょっと“味見”してもよろしいでしょうか」
「……まあ、主が許せば良いだろう。それより……むっ」
「ひっ」
 突然、男は前方に腕を突き出した。何かが当たったような音と共に、黒衣が弾け飛び、中から現れた手がぶすぶすと煙を上げた。だが男は眉を少し顰めただけで、緑色の鱗がついた腕を振るう。
「ぐ……ぐがははははははっ。早速来てくれたようだ。キング、ルーク、さあ出番だ。入り込んだ客人を、丁重にお招きしてやれ!!」
 そのエイジャは、蜥蜴に似た顔を歪ませると、声高々に笑った。

 開いた口からは、何本もの牙が覗いていた。






「小僧、そなた何か考えがあるのだろうな」
「……あるから、ちょっと黙っててくださいっす」
 学校から出た聖亜は、都市の外に逃げるのではなく、旧市街にある自分の家に向かった。家に着くと、出迎えた黒猫から早速詰問される。
「えっと、確かこの辺に」
 きれいに掃除され、今ではヒスイの部屋となった座敷に入り、隅にある荷物を漁る。といっても、ほとんどペンダントの中に入っているため、数はそう多くなく、探し物はすぐに見つかった。
「……小僧、そなたそれを使って、一体何をするつもりだ?」
 聖亜が荷物の中から取り出したもの、それは三本のチェスが乗っている一つの台座だった。万が一を考え、ペンダントに入れずに封印布ぐるぐる巻きにしてここに放置されていたそれを持ち上げ、慎重に布を取りはずす。だが、
「……あれ? 何も起きないっすね」
 だが、台座は沈黙したままだ。今はもういない道化師が使役していた人形達も、その姿を現さない。
「当たり前だ小僧。これはエイジャの道具だぞ。そなたに使えるはずが……む?」
 愚痴を零していたキュウは、不意に口を閉ざした。台座に向け、ごく微量ではあるが、聖亜の指先から何かが流れ込んでいる。彼自身はまったく気づいていないが、それでも絶え間なく注ぎ込まれていき、やがてそれは台座一杯に広がった。
「え? な、何すか?」
 両手で持っている台座がぶるぶると震える。その動きは段々強くなっていき、聖亜はとうとう台座を床に下ろした。
 その途端、ボンッという音を立て、目の前につい先日死闘を繰り広げた三体の人形が、傷一つない姿で具現した。

「…………あ、あら?」
 ナイトはふと辺りを見渡した。自分は確か絶対零度に敗れたはずだ。だが自分の体には傷一つ付いておらず、異常も見られない。いや、それどころかドートスに使役されている時より、よほど調子がいい。
 左右を見ると、ポーンとビショップがいる。彼らも傷一つない自分の体を、不思議そうに触っていた。
「……ナイト、これは一体どういうことだ。我々は確か絶対零度に敗れたはずだ。なのにこの体には傷一つ付いていない。それに、この重苦しい空気は、考えたくはないが、まさか……」
「さあ? 今がどういう状況なのか、私にも分からないけど、それを知っている人は、どうやら目の前にいるみたいよ。ね、お嬢ちゃん」
「や、やっと出た……それと、訂正させてもらうっすけど、自分は女じゃなくて男っすよ」
「あら、そうなの? まあいいわ。それで坊や、これは一体どういうことかしら?」
 ナイトは、目の前でひっくり返っている少年に、にっこりと笑みを浮かべているその仮面を向けた。


「なるほど、やっぱりお館様が出てきたってわけ」
 聖亜から説明を受けたナイトは、苦々しく呟いた。聖亜とキュウ、そして具現化した人形達は、今茶の間にいる。ヒスイの部屋で話をしても良かったが、あそこは一人が使う分には広すぎるが、一人と一匹、そして三体の人形が座るには少し狭かった。
「えっと、あんた達は今どういう状況か知ってるんすか?」
「もちろん。けどその前に、私達の目的を教えておく必要があるわね。ビショップ、お願い」
「はい。私達の目的、それは主を現界に呼び出すことです」
「……やはりの。それでドートスに魂狩りを命じたのか」
「はい。ですが私達が聖地……と、これは門を開く場所のことで、こちらでは鎮めの森というのでしたね……で敗れたこと。そしてドートスが倒された事を考えますと、別の計画が発動したのだと思われます」
「と言っても、計画は二つしかないけどね。私達が家畜……ごめんなさい、要するに人間の魂を使って門を開けるか、それとも」
「……強引にでも、主をこの世界に呼び出すか、そのどちらかだ。だが、一つ解せぬ点がある」
 組んでいた腕を離すと、ポーンはその怒りの仮面で、聖亜をきつく睨み付けた。
「少年……そなたなぜ我らを呼び起こした? 敵の数が増えるとは考えなかったのか?」
「いや……それはもちろん考えたっすけど、けど、こういう話を知ってるっすか?」
「……何?」
「だから、呼び出された人形は、呼び出した人に、服従しなければならないって話」
「貴様っ!!」
 激昂したポーンは、背負っていた剣を引き抜くと、少年の首筋にぴたりと当てた。少しでも押したり引いたりすれば、苦痛を感じることなく首は飛ぶだろう。だが、聖亜は黙って彼を見つめ返した。
「……呆れた。坊や、あなた私達に裏切り者になれってわけ? 従う相手ぐらい選ぶわよ、私達だって」
「……なるほど、ならあんた達は心からあのピエロに忠誠を誓っていたってわけか」
 口を歪ませた聖亜を、ナイトは暫らく見つめていたが、やがてくつくつと静かに、だが遂には堪えきれないというように笑い出した。
「あはははははははっ!! いや、笑わせてくれるわね、あなた。首筋に剣を当てられて、まだそんな口がきけるなんて。人形になってから、こんなに笑ったのは初めてよ。ええ、確かに私達は、ドートスに心から従っていたわけじゃない。いいえ、むしろ恨んでいたと言ってもいい。分かったわ、笑わせてくれたお礼。坊や、いえ、聖亜と言ったわね。あんたに味方してやろうじゃないの」
 そう答えると、ナイトは左右を見渡した。
「それで、二人はどうするの? ポーン、ビショップ」
「私は……そうですね。お供いたします。といっても、使徒を呼び出せない私には、治療と結界を張るぐらいしか出来ませんが……ポーン、あなたは」
「……正直に言えば反対だ。成功する確率は限りなく低い。だが」
 聖亜の首から剣を離すと、ポーンはゆっくりとビショップの手をとった。
「だがビショップ、お前がこの少年に味方をするというのであれば、伴侶である俺が味方をしないわけにはいかない」
「あなた……」
「はいはい、一生やってなさい。それで、そっちで何か考え事をしている黒猫も、それでいいわね」
「…………む? まあいいだろう。だが奴らの住処に付いたら、我は別行動を取らせてもらう。一刻も早くヒスイを助け出さねば成らぬからな。その間、小僧、お主はこやつらと共に、暫らく陽動に徹しておれ」
「は、はいっす」
 決戦前なのか、自分を見つめる黒猫の瞳がいつもより険しい。すこしおびえながら聖亜が頷いたのを確認すると、ナイトはゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ聖亜、案内してあげる。決して楽には死ねない……地獄の四丁目にね」
 そう言って振り返ると、人形は意地悪そうに笑った。






「……本当にここっすか?」
「あら? 疑ってるわけ? あいつらが移動していないなら、住処は間違いなくここよ」
 ナイトの背に乗ってたどり着いたのは、三つの地区で構成されている復興街の中で、もっとも治安の悪い地区、崩れた工場や廃墟が立ち並ぶ、いわゆる工場区と呼ばれる場所だった。
 彼らがいるのは、その中でも特に巨大な廃工場の前だった。暗闇の中、気配もなくしんと静まり返っている。
「ま、来た当初は巨大な猿だとか、灰色の人間だとかがぞろぞろと出てきて鬱陶しかったけど、何人か見せしめにぶっ飛ばしたら、もう誰も寄り付かなくなったわ」
「は、はあ。けど、やっぱり何の気配もしな「しっ」……っ」
 不意に、前方を警戒していたポーンが剣を抜いた。じりじりと前に出て、いったん立ち止まると、すぐに脇に飛び退く。
 次の瞬間、暗闇をひゅっと何かが通り過ぎた。同時に白刃が閃く。暗闇からごとりと出てきたのは、狼に似た頭部だった。だが、すぐに異臭を放つ黒い液体に変わる。
「……ちっ、囲まれたわね。いい聖亜、使徒っていうのはね、弱い代わりにそれ自体が気薄だから、気配が薄いの。それに、黒いから暗闇じゃ見えにくいしね」
「え、でも囲まれたって、俺達が来たこと、いつから分かってたんすか?」
「さあ。ま、それはあそこで高笑いしている奴に聞けば分かるんじゃないかしら」


 そう言って両腕の槍を構えたんナイトの視線の先には、高く積まれた機材の上で笑う、石人形の姿があった。



「むははははははっ!! まさか鼠を追いかけて、別の鼠に遭うとはな。しかも貴様ら、ピエロの下僕ではないか。とうの昔に倒されたと思っていたが、鼠と一緒にいる所を見ると、どうやら命乞いして裏切ったようだな」
「……は、裏切ったんじゃなくて、勝ち目のある方についたって言って欲しいわね」
 左右から襲い掛かってくるスフィルを払いのけながら、ナイトは軽口を叩いた。そんな彼女に、石人形―キングはよりいっそう大声で笑った。
「むはははは、は~はっは!! 勝ち目のある方だと? 阿呆か貴様ら。貴様らに勝ち目など、どこにもないではないか。ふん、まあいい。先程の鼠はルークに取られてしまったからな。貴様らの相手は、この俺様と、三百の使徒がしてやろう。光栄に思うがいい!!」
 ひゅんっと音を立てて、上空から黒い鞭が飛んでくる。それを避けたナイトに、今度は四方八方からスフィルが襲い掛かる。その第一陣を、ナイトは左右の槍を突き出し、体を回転させる事で倒したが、次の第二陣に意識を集中させたとき、再び鞭が飛んできた。
「痛っ」
「だ、大丈夫っすか?」
「これぐらい平気。それより頭出すんじゃないの!! ビショップ、聖亜のお守りは頼んだわよ!!」
「はい。承りました」
 ナイトの声に応え、傍らで杖を振っていたビショップが、聖亜の前に進み出る。小さく何かを唱え、地面に杖を強く突き立てる。と、襲い掛かってきたスフィルが二体、彼らの周りを覆った青白い膜に弾き飛ばされた。
「結界……」
「ええ。私には、これぐらいしか出来ませんから……ポーン、そちらはどうですか?」
「今のところ問題はない。だが、数が多すぎて捌ききれん」
 剣を振るいながら、ポーンは怒りの仮面で答えた。その言葉通り、彼の周りには数十体のスフィルが群がっている。ナイトが加勢に行こうとしているが、その度に鞭に阻まれる。それに気を取られていると、新たなスフィルに囲まれ、再び鞭が飛ぶ。悪循環だった。
「……キュウはいないし、せめてあの鞭がなくなればいいんすけど」
 家の中で取り決めたとおり、ここに着いた途端、黒猫はペンダントを加え、自分達とは別行動を取った。一刻も早くヒスイを助けたいのだろう。反対はしなかったが、大多数の敵に対しては、同士討ちさせる黒猫の光る目が、何よりも効果的だった。
「ん? 光る……か」
 少し頭を捻ると、聖亜は背負っていたバッグを開けた。中には万が一のために持ってきた薬や食料が入っている。台座は置いてきた。離れていても、エネルギー自体はきちんと供給されるらしい。その他に小振りのナイフなどがあるが、どうせスフィルには効かないだろう。彼が取り出したのは、武器ではなかった。
「えっと、ビショップさん、火、着けて欲しいんすけど」
「すいません、今手が離せないので、ご自分でお願いします」
「……はい」
 取り出したマッチを擦ろうとして、聖亜はぶるぶると震えだした。火は苦手だったが、こんな時にそんな事は言っていられない。ぶるぶると震える手で、何とかマッチをシュッと擦る。
 ポッと小さい火がともった。途端に吐き気が込み上げてくる。逃げ出したいが、そんな事は出来ない。なるべく火を見ないようにしながら、聖亜は取り出したそれに火をつけた。
「そんじゃ、いくっすよ……それ!!」
 少年のかけ声と同時に発射したロケット花火は、しゅるしゅると上に向かって飛んでいき、
「ん? ぐ、ぐおおおおっ!!」
 丁度覗き込んでいたキングの左目に見事にぶち当たり、ぱあんっと、漆黒の空に大きな花を咲かせた。
「ぐあああああああっ!!」
 左目に来た衝撃と激痛に、キングは地面を転げまわったが、そこは生憎と足場の悪い機材である。当然ながら、キングはバランスを崩し、ガラガラと崩れる機材と共に、反対側に消えていった。
「……え、え~と、あれ?」
 その様子を、聖亜はぽかんと口を開けて見ていた。周囲では、いきなり眩しい光を見たためか、あちこちでスフィルが地面に這い蹲って呻いている。
「あははははっ、聖亜、あなたやるじゃない!!」
 その一体一体に止めを刺しながら、ナイトが嬉しそうに歩いてきた。
「ほんと、こんなにおかしいの、生まれて初めてよ。どうしましょう、あなたの事好きになっちゃいそうよ」
「へ? いや、まあ、自分もナイトさんの事、好きっすよ」
 聖亜が何気なく言った言葉は、そちらの方面に疎い彼女に対し、絶大な効果を発揮した。ばっとすごい勢いで聖亜から離れると、ナイトは仮面の顔を背けた。だが、時折こちらをちらちらと見てきて、恐る恐る擦り寄ってきた。
「え? あの、ナイトさん?」
「へ? い、いえ、なんでもないわ。さ、さあ、使徒は粗方片付けたし、キングも逃げた。この調子でどんどん進みましょう!!」




 外から聞こえてきた、バアンッと何かが弾ける音に、少女に薬を塗っていたクイーンは、ふと顔を上げた。
「……なんでしょう、さっきから」
 扉を開け、外の様子を伺う。だが、周囲には何の変化もいない。
 新たな侵入者が来たことは分かっていた。だが、キングが大量の、それこそここを守っていた使徒すら連れて出て行ったのだ。性格に多少どころではなく難があり、実力もそれほど無いが、以前は騎士長をしていたと言っていた。まず負けはあるまい。
 扉を閉め、再びしゃがみ込んだ彼女は、暗闇のためか、完全に閉じる瞬間、僅かな隙間から飛び込んだ黒い小さな影に気づけなかった。
「……おい、小娘」
「なっ!?」
 いきなり声をかけられ、ばっと後ろを振り向く。だが、それがいけなかった。光る紫電の瞳とばっちりと眼があった。途端に、ざわざわと自分の体を何かが這い上がるのを感じた。恐る恐る下を見ると、


 無数のグロテスクな虫が、自分の体を這い上がってくるのが見えた。


「ひ、ひいいいいいいっ!!」
 絶叫を上げ、必死に虫を振り払っている彼女の横を、一匹の黒猫が通り過ぎていった。


「……イ、おい、ヒスイよ、いい加減に起きぬか」
「う……キュ、ウ?」
 ヒスイは、自分を呼ぶ声に、ぼんやりと意識を浮上させた。ぼやけて見える視界の中、見知った黒猫の顔が映っている。
「ふん、随分と手ひどくやられたようだな。まったく、これが終わったら、また修行のやり直しだ」
「……ぜ?」
「ふむ、なぜ来たと? 未熟者で、半人前以下の小僧が、半人前のお主を助けるために、ここに乗り込んだのだ。三匹の共を連れてな」
「……いあ?」
そういうことだ。そう呟くと、黒猫は少女の傍にペンダントを押しやった。震える手でそれを掴むと、ヒスイはぎゅっと握り締める。と、頬に徐々にではあるが、生気が戻ってきた。
「……く、心配、かけたな」
「かまわん。お主が無茶をするのはいつもの事だからな。それより」
 黒猫は、少女の格好を見て、ふんっと鼻を鳴らした。
「傷が癒えたのなら、さっさと服を着ろ。まったく、そんな格好では、小僧に襲われても、文句は言えんぞ」



 暗闇の中、キュウの目が発する僅かな光を頼りに、ヒスイはいつもの服に着替えた。最後に手首にリストバンドをつけると、ペンダントの中から太刀を引き抜く。
「そういえばヒスイよ、お主あの時護鬼を引き抜いていたな。小松はどうしたのだ?」
「わからない。けどここに着いた時には握り締めていたから、たぶん奴らに捨てられたんだろう。この暗闇の中で、泣いていなければいいけど」
「……男になることを望む魔器に対し、泣いているかどうかの心配などしてどうする」
「いや、やっぱり心配はする。小松は私にとって弟や妹のような存在なんだ。もちろん、どちらになってもな」
「やれやれ、報われんな、あやつも」
 ヒスイを慕っている生真面目な魔器の顔を思い浮かべ、黒猫は微かに首を振ったが、ふと、傍らで自分の体を必死に掻き毟っている人形を見た。
「それでヒスイ、“これ”はどうする?」
「……討つ、と言いたいが、治療をしてもらった。すまないが、監視を頼む」
「うむ」
 黒猫が頷いたのを確認し、扉に向かって歩き出した、丁度その時、向かっていた扉は、勢いよく開いた。
「はあっ、はあっ、はあっ、に、逃がさんぞ玩具使い」
「……ヒスイよ、こやつは」
「……」
「むはははははっ、恐ろしくて声も出ぬか。奴らが陽動だと考えた我が目に狂いは無かったわ。そのため、こうして急ぎ戻ってきたのだ。そうそう、クイーンが貴様に塗りこんだ薬だが、あれには若干の痺れ薬が混ざっている。どうだ、満足に動けんだろう。うげほ、げほっ、げほ」
「…………」
「むはっ、むははは!! せめてもの慈悲だ。一撃で葬り去ってや「邪魔だ」うぺ?」
 腰の剣を抜こうとした時、目の前にいる少女が斜め上に移動した。いや、違う。これは少女が移動しているのではなく、自分が斜め下に移動している?
「お前の質問に一つだけ答えてやる。私達の訓練には、毒に対する抵抗を強める物がある。さすがにドートスの毒は効いたが、これぐらいの毒、効くはずが無いだろう。人形の中で、お前が一番惨めで、そして無様だったな」
 ずしんと音を立てて、石人形の上半身が上に落ちる。それを見ることなく、ヒスイは開いた扉から、外へと駆け出していった。



 聖亜達は周囲を警戒しながら、暗闇の中を奥へと進んでいった。時折スフィルが飛び掛ってくるだけで、危険はほとんど無い。
「……こんなに順調でいいんすかね」
「いいんじゃないの? キングは逃げて行ったし、ルークは別の侵入者を追いかけていったんでしょ? 残っているのは、お館とクイーンだけだけど、絶対零度の監視に、人形の一体は必ず必要よ。つまり、相手の駒が尽きたってわけ。けど、そうね。キングの実力はたかが知れてるけど、ルークは警戒したほうがいいかしら」
「……もう一方の侵入者って、間違いなく鍋島先生っすよね」
「あら、知り合い?」
「そうっすけど……あの、何でそうくっついてるんすか?」
 先程から、ナイトは何故か聖亜にべったりとくっついていた。少年を守るためだと言っているが、その表情はとても嬉しそうだ。
「あら、あんな激しい告白をしておいて、照れなくてもいいじゃない」
「は、はあ、そうっすか」
 軽口を叩く余裕すら出来た、そんな時だった。
 不意に、ポーンが立ち止まる。それに合わせて、ナイトも話すのをやめ、臨戦態勢を取った。
「えと、ポーン、さん?」
「……静かにしていろ。次の角を曲がった所で、誰かが戦っている」
 耳を澄ますと、確かに前方で物音がする。どうやら、一方がもう一方を追い詰めているらしい。
「……キング?」
「いや、残念ながら違う。戦いが一方的過ぎる。恐らくルークと、その鍋島という男だろう」
「そう……それで、どうする? 聖亜」
「どうするって……何がっすか?」
「迂回するか、加勢するかということだ。だが、相手はキングの数十倍、我らの数倍は強いぞ」
「…………あの、ナイト」
 言いにくそうに俯いている少年を見て、ナイトははいはいと仕方なさそうに肩をすくめた。
「分かったわ。加勢する。聖亜、あなたはその辺に隠れてなさい。ポーン、ビショップ、行くわよ。どうやら三人がかりでないと、手に負えない奴みたいだから」
「分かった」
「はい、分かりました」
 ポーンとビショップが頷いたのを確認すると、ナイトは一度だけ聖亜を振り返った。すまなそうにしている彼に笑いかけると、そのまま振り返ることなく、前に駆け出して行った。
「……俺、何すればいいっすかね」
 壁に寄りかかって、聖亜はぼんやりと漆黒の空を見上げた。戦闘に加わりたかったが、正直自分が加勢しても、何の役にも立たないだろう。むしろ邪魔になるだけだ。
 自分の無力さに軽くため息を吐いた聖亜の耳に、不意に誰かの押し殺した泣き声が聞こえてきた。




 やっぱり自分は無能な臆病者だ。

 顔を膝の間に埋めながら、小松は暗闇の中、必死に嗚咽と涙を堪えていた。
 ここに連れてこられてすぐ、小松はにたにたと笑う石の人形に、自分の体である小太刀を遠くに投げ捨てられた。暫らく痛みと衝撃に耐えていたが、それが収まると、小松は敬愛する主人を助け出そうと、倉庫の窓から中の様子を覗いたのだ。
だが、その眼に飛び込んできたのは、


 黒い鞭で打たれ、殴られ、水攻めにされ、傷だらけになった主の姿だった。


 それを見て、小松は逃げた。怖くて、怖くて、どうしようもなく怖くて、もしかしたら、自分も同じような目に遭うかもしれない。そう考えただけで、怖くて。
 それから、小松はずっとここで震えていた。ずっとずっと、長い間。
 


 ガタッ



「ひっ」
 すぐ傍で物音がして、小松は見つからないように必死に体を縮ませ、目をぎゅっと瞑った。だが、
「えっと、大丈夫っすか? 小松ちゃん」
 聞こえてきたのは、自分を心配する声で、触れるのは、頭をやさしく撫ぜる手だった。



 聖亜は、自分を涙でぬれた目で、呆然と見つめる子供の、その黒髪を優しく撫ぜてやった。
「……な、き、貴様、な、なぜここにいる!!」
「なぜって……ヒスイと小松ちゃんを助けに来たんすけど」
「助け? 助けだと!?」
 立ち上がって怒鳴ろうとするが、先程の光景が恐怖と共に蘇って、どうしても立つ事ができない。悔しさで体を震わせていると、今度は優しく両手を握られた。
「な、何をする、貴様っ!!」
「怖かったんすね。でも、もう大丈夫っすよ。助けに来たから」
 悔しさと、怒りと、そしてそれを上回る何かに怯え、小松はその手を振り払った。
「うるさい、私の事など放っておけ!! どうせ私は無能な臆病者だ。男になって、男になってヒスイ様を守ると決めたのに、助けなければならないのに、怖くて、どうしようもなく怖くて逃げ出したんだ、私は!!」
 再び膝に顔を埋めて震える。聖亜は小松のそんな様子を暫らく見つめていたが、やがて、ぎゅっと抱きしめた。
「あ……」
「ゆっくりでいいよ。そんなに焦らなくても、好きな女の子がいるなら、いつかちゃんと男になれるから」
「け、けど、私は弱くて、何もできなく、て」
「いや、料理とか掃除とか、ちゃんとできるじゃないか、とても助かってる」
「そ、そんなの、男のすることじゃない」
「いや、俺の友達に、福井って奴がいるんだけど、あいつ、熊みたいな男のくせに、将来はお菓子屋さんになりたいらしいんだ」
 笑いながら話す聖亜を見て、小松は思わず想像してしまった。大柄で毛むくじゃらな熊が、料理人の格好をしてお菓子を作る、その光景を。
「ぷ、あはは、変なの」
 思わず笑ってしまった。まだ怖い気持ちは無くならず、震えも全部は止まらないけど、取りあえず、目の前にいるこの男の事は信じて見てもいい。そう思えたから。
「うん、いい顔だな」
「う、うるさいっ!!」
 と、小松は今になって、聖亜の顔があまりに近い事に気づいた。
 よく考えれば当たり前だ。なぜなら、自分はこの男に、抱きしめられているのだから。
「う、うわっ」
 どくん、と胸が鳴った。同時に体中が軋む。まるで、自分が自分でなくなるそんな感覚だった。先程とは違う恐怖に、小松は自分を抱きしめる聖亜に必死に縋り付いた。
「へ? 小松ちゃん? うわっ」
 聖亜は、腕の中の子供が、いきなり大きくなった気がして、慌てて抱き直した。手に当たる感触が、先程とはまるで違う。ふにゃりと柔らかく、そしてぽよんと弾力があった。
「…………え?」
「……れ」
「はい?」
 腕の中にいる、豊かな胸を持つ少女はぶるぶると震え、泣きながらぽかぽかと殴ってきた。
「私を“女”にした責任を取れ、馬鹿ぁ!!」



「ぐ、くそっ!!」
 物陰に隠れながら、鍋島は迫ってくる塔の様な巨大な石人形に、手に持ったライフルで、必死に銃撃を繰り返していた。
 効果が無いのは分かっている。並みのスフィルならまとめて四,五体を粉砕する銃弾が、無様に弾かれているのだ。
「……グ」
巨大な拳が振り下ろされる。横に飛び退くことで直撃は避けたが、発生した衝撃波で壁に叩きつけられた。
「……ぐはっ」
 ぬるり、と嫌な感触が額を伝った。どうやら切ったらしい。だが、それでも
「……ぐらいで」
「……ガ?」
「これぐらいで、負けられるか!!」
 走りながら素早く弾丸を込め、連射する。硬い人形の肉体が、わずかに削られた。
「……ゴ」
 業を煮やしたのか、人形が腕をこちらに向けた。嫌な予感はしたが、もう避けられるほどの体力は残っていなかった。
 死神が石の拳となって発射される。自分に向かってくるそれを、だが鍋島は、目を閉じる事無く睨み付けた。
「あら、駄目じゃない、ちゃんと逃げなきゃ」
 不意に体を持ち上げられた。同時に、今まで自分がいた場所に、拳が猛スピードで激突した。速度を加えることで威力が増すのか、拳は壁を容易くぶち抜くと、ぐるりと向きを変え、元の場所にゆっくりと収まった。
「お前は……人形か、ぐっ」
「騒がないの。出血がひどいわね……ビショップ、この命知らずの手当て、頼んだわよ」
「はい。簡単な治療術しか使えませんが」
 傷口に手が添えられる。ぽうっと暖かい光が灯り、痛みが徐々に引いていった。横たわりながら鍋島が目をやると、前方で二体の人形が、巨大な人形の動きを牽制しているのが見えた。
「ち、めちゃくちゃ硬いわね。さすが黒石で作られているだけの事はあるか。そっちはどう、ポーン」
「駄目だ。まるで刃が通らん。同じ場所に何度も攻撃を加えるしかなさそうだ」
「同感ね……行くわよ!!」
「……お前達は、仲間ではないのか?」
「仲間、でした。少なくとも昨日までは。けど」
 傷口を粗方塞いだビショップは、今度は取り出した布で、こびり付いた血糊を優しく拭き始めた。
「けど、聖亜さんに言われてしまったんです。お前達は、心からドートスに忠誠を誓っていたのかって」
「星が……か」
「ええ。さ、これでお終いです。暫らく安静にしておいてください」
 優しく言う、悲しみの仮面を着けた人形に、だが鍋島はふるふると首を振った。
「いや、それは出来ない。私は、戦わなければならないんだ」
「……なぜです? 失礼ですが、貴方では」
「違う、適う適わないの問題ではない。私は……私は戦う事で、己を保っているんだ」
「……理由を聞いてもよろしいですか?」
「…………十五年ほど前まで、私は県の教育委員会に勤めていた。将来を有望され、子供の頃から好きだった幼馴染と結婚し、娘も出来た。それは素晴らしい人生だった。いや、素晴らしい人生になるはずだった。あの時までは」
「十五年前……聖夜の煉獄で、ですか?」
「……当時、妻は妊娠して、県内でも有数の病院である太刀浪総合病院に入院していた。まだ幼い娘と、私の両親が付き添っていた。だが、あの日」
 鍋島は、両手で顔を強く抑えた。
「クリスマスの日、あの赤い景色は、私から全てを奪っていった。父も、母も、愛する妻と娘も、何より、生まれてくるはずだった、息子の命すらも!!」
「……」
「その後、災厄を巻き起こしたのが、エイジャと呼ばれる化け物であることを知り、私は対エイジャ組織、高天原に入った。訓練は年を取った私にはきつかったが、そんな物、どうでも良かった。私の中にある、決して消えることの無い憎悪に比べれば」
「……私達に対する、憎悪」
「いや、それならば話は簡単だった。だが、私が心の底から、それこそ狂うほど憎んでいるのは、エイジャではない」
 傷口が開いたのだろう、彼の頭は流れる血と、内側から溢れ出る憎悪の炎で真っ赤に染まっていた。
「私が本当に憎んでいるのは、地獄の業火の中、私から全てを奪っていった赤い景色を、憎むどころか、美しいと感じ、見惚れてしまった自分自身なのだ!!」
「……」
 血と涙を流す男に、ビショップは何も言わない。いや、何も言えなかった。彼女に出来るのは、ただ黙って、開いた傷口を癒す事だけだった。




 幾度と無く同じ場所に攻撃を加えた成果だろう。ようやく、人形の右肩にびしりと亀裂が入った。
「ぜっ、まったく、はっ、硬かったわね」
「ああ、だが、ぐっ、あと少しだ」
 その分体力は消耗しているが、それは台座から送られてくるエネルギーで回復する。だが武器が疲弊していた。ナイトの槍は片方がひしゃげ、ポーンの剣にも所々亀裂が入っている。恐らく次の一撃で砕けるだろう。
「く、一度台座に戻れば回復できるけど」
「無いものねだりを言っても仕方ないだろう。それに、もしあったとしても、そんな暇は与えてくれそうに無い」
 再び飛んできた拳を左右に飛ぶことで避ける。だが、
「……グハッ」
「なっ!?」
 動きが読まれていたのだろう。ナイトが気づいた時には、人形はもう自分のすぐ傍まで迫っていた。
「くっ」
 咄嗟にひしゃげた槍で体を守る。だが、
「……ハッ」
「そ、そんな」
 人形が突き出した拳は、無事なほうの槍に当たる。槍は無残に砕け散った。
「ナイト!!」
「……く、痛みはあるけど、平気。けどまずったわね。武器が無い」
「……俺が、何とか後一撃で片を付ける。すまないが、陽動を頼む」
「……しょうがないわね。そんな役回りだけど、槍を失った私にも責任はある。ぐだぐだ言っていられないか!!」
 巨体の正面に向かって駆ける。当然拳が振り下ろされるが、最初から相手を引き付けるのが目的なのだ。軽く避けられる。だが衝撃波はあえて受け止めた。先程の速度をもう一度出されても困るし、ポーンを標的にされても困る。
「さあさあ鬼さん手の鳴る方へ……うあっ」
 衝撃波だけでも痛みは襲ってくる。何度か受け続けると、前足がかくんと折れた。
「く、ポーン、これ以上はもたないわよ!!」
「ああ、分かっている!!」
 全身の力を剣に込め、狙いを亀裂が走っている肩に定める。そこを切断すれば、少なくとも片腕は使えなくなるはずだ。
「……ふっ」
 軽く息を吐くと、ポーンは塔のような巨体に向かって駆け出した。幸いなことに、相手はナイトに意識を集中させている。こちらに気づいた様子は無い。
「うおおおおおおおおおっ!!」
 狙い済ました一撃は、ひび割れた肩の部分に直撃した……いや、したはずだった。
「……おいおい、後ろから襲ってくるなんて、随分と卑怯じゃねえの」
「な……」
 だが、剣は背中から出てきた一回り小さい手に、軽く取り押さえられていた。
 ばきりと剣が二つに折れる。同時に、ナイトに向かっていた腕が、ポーンの体に食い込んだ。
「……があっ!!」
「ポーン!! ち、まさか両面だったなんて」
 人形の後頭部が開き、中から別の顔が現れた。青白く、どこまでも卑しげに、その顔は笑っていた。
「ひゃはははははっ、最高にいい気分だぜ。何の抵抗も出来なくなった相手を、散々いたぶってぶっ殺せるんだもんなあ!!」
「……グ」
「おいおい、そう不満げな顔をするなよ相棒。ちゃんとお前の分も残しておいてやるからさあ!!」
 笑いながら、人形は地面に膝をつくナイト達を見下ろした。
「さあ、まず誰から死にたい? ひゃははは「なら、まずお前が死ね」へ?」
 一筋の光が宙を走ると、高笑いを続ける口に、一本の太刀が差し込まれた。渾身の力を込めて突き入れられた太刀は奥まで進み、反対側の顔を突き抜けた。
「グ……ゴ、ガ」
 ずしん、と、大きな音を立てて、巨大な石人形は崩れ落ちた。
「……あ、あなた、絶対零度」
「……」
 ナイトの震える声に、ヒスイはゆっくりと彼女に太刀を向けた。だがその顔に殺意は見当たらない。やがて、少女はため息と共に太刀を下ろした。
「……はあっ、まったく、びっくりさせないでよね。助けに来た相手に殺されるところだったわ」
「私が助けてと頼んだわけじゃない。ところで」
 ふと、ヒスイは辺りを見渡した。
「聖亜の馬鹿はどこにいる? あいつ、人がせっかく犠牲になったというのに……一発殴ってやる」
「……あ」
 少女の問いに、ナイトは慌てて後ろを向いた。巨大な人形に全神経を集中させていたため、彼の行動まで把握していなかったのだ。
「ま、まさか聖亜、使徒にやられたんじゃないでしょ「お~い!!」あ、いた」
 暗闇の向こうからやってくる少年を見て、ナイトは槍を上げようとしたが、その途端、びしりと固まった。
「ヒスイ、良かった。助かったんすね!」
「ああ。だが聖亜、お前」
「はい、何すか? っと」
 聖亜は、ずり落ちそうになった“豊富な胸を持つ”少女を、優しく抱えなおした。
「聖亜……あなたの腕の中で泣いているその子、一体誰かしら」
「え? ああ、この子は「……ヒスイ様?」あ」
 不意に、少女がヒスイを見た。夜空の色をしたその瞳を見て、ヒスイはふと目を見張った。
「お前……もしかして小松か? 無事だったか。それより、その姿は」
「こ、こいつに、無理やり“女”にされたんです!!」
 少女―小松の一言で、再び辺りがびしりと固まった。
「聖亜……お前、小松に手を出したのか」
「え、いや、その」
 右からヒスイが詰め寄れば、
「あら、私も詳しい話をぜひ聞きたいわね」
 左から、小松の豊富な胸を見て、むっとした表情のナイトが迫る。
「大丈夫とは言えませんが、犬に噛まれたと思ってあきらめてください」
 ビショップの、小松に対する優しい言葉で、
「「この、変態がぁ!!」」
「ぶべえっ!!」
 敵陣だというのに、聖亜は味方であるはずの二人に、思い切り殴り飛ばされた。



「なるほど、そういうわけだったのか」
「あら、私は信じてたわよ。ね、聖亜」
 頬が腫れ上がった少年の代わりに、小松が事情を説明すると、納得したのか、ヒスイは優しく彼女の頭を撫ぜた。
 彼らは今小休止を取っていた。ナイトとポーンの傷をビショップが治している間に、聖亜とヒスイ、そして鍋島は、聖亜が持ってきたパンをぼそぼそと食べていた。
「……そんな事はどうでもいい。それより、これからどうする?」
「どうする、とは?」
 傷が粗方治り、辺りを警戒していたポーンの言葉に、ヒスイは冷たく聞き返した。
「……我々は、絶対零度、つまりお前を助けるために少年と手を結んだ。目的が果たされた以上、長居は無用だろう」
「そう、だな。聖亜、お前は逃げろ」
 パンを食べ終えた鍋島が、ゆっくりと立ち上がった。だが血を流しすぎたのか、時折苦しそうに息を吐いた。
「せ、先生はどうするっすか?」
「これ以上、家族の眠るこの都市で勝手な真似はさせん。ここで決着をつける」
「……その体では無理だ」
 ため息を吐いて立ち上がると、ヒスイは鍋島の前に立ち、彼の鳩尾に拳を軽く突き入れた。
「がっ」
 疲労していた鍋島は、その一撃で崩れ落ちた。少女は彼の肩を支えると、そっと物陰に寝かせてやった。
「後は私がやる。人形、お前達も手伝え」
「あら、どうして私達が?」
 面白そうに、ナイトはヒスイの前に立った。
「お前達が聖亜に味方をした事は事実だ。ここで改めて向こうについても、粛清されるだけだろう」
「……ま、ね」
「それに、人を襲った罪は消えないが、手を貸せば罪一等は何とか免じてやる。魂の粉砕ではなく……封印でどうだ?」
「それもやだけど……ポーン、ビショップ、どうしたらいいかしら」
 ナイトが振り返ると、二体の人形は暫らく顔を見合わせていたが、やがてそろって頷いた。
「決まりね。それじゃ、行きましょっか」
「そうだな……小松」
「は、はい」
 名前を呼ばれ、聖亜に小言を繰り返していた少女は、びくりと肩を震わせ立ち上がった。
「いけるか?」
「はい。もちろんです」
 ヒスイが手を伸ばすと、小松はその手に触れた。途端に彼女の姿は掻き消え、代わりに一本の刀が現れた。今までの小太刀より幾分長いが、太刀よりは短い。中間ほどの長さだ。
「……少し使いづらいが、まあその内慣れるだろう。聖亜、お前はもういい。避難していろ」
「へ? いや、俺も行くっすよ。このままじゃ、準達も危ないっすから」
「そうか……勝手にしろ」
 吐き捨てるように答えると、絶対零度の異名を持つ少女は前を向いて歩きだした。



 魔器使としての役目を、果たしに行くために。



「……そういえばナイト」
「あら、どうしたの?」
 暗い通路を進んでいるとき、ヒスイはふと、隣にいる人形に顔を向けた。
 彼らは別に闇雲に進んでいるわけではない。遠くからでも分かるほど、黒衣のエイジャが発する気配は強かった。まるで、誘っているかのように。
「なぜあの黒衣のエイジャは、人を狩ろうとしない? 都市全体が強力な狩場に包み込まれたんだ。狩り放題だろう」
「あら、そういえば、何でかしらね」
「……我々はドートスの配下だったからな。計画の詳しい点は、何も聞かされていなかった。ただ、主を呼び出すといわれただけだ」
「……何か、嫌な感じがするっすね」
「ええ……と、どうやら到着したようです」
 不意に、目の前に巨大な鉄の扉が現れた。ヒスイが押すとゆっくりと開く。鍵はかかっていない。入って来いということだろう。
「とにかく、全ての答えはこの奥にある。行くぞ!!」
 二本の刀を構えると、ヒスイは足で扉を蹴り、その中に一気に踏み込んだ。





 薄暗い部屋、魔方陣が描かれた中央に、それはいた。





「……ようやく来たようだな」
 部屋の四方に所々肉片がこびり付いた骸骨が立っており、頭蓋骨の上から蝋燭が不気味に灯っているのを見て、聖亜は思わず口に手をやった。
「ふむ、どうやらこの場所はお気に召さなかったようだ」
「黙れ。儀式の最中のようだが、どうやら間に合ったようだ。お前の部下はもういない。ここで討たせてもらう」
 刀を構えるヒスイに対し、だがそのエイジャは呆れたように首を振った。
「やれやれ、せっかちな事だ。だが間に合ったとはこちらの言い分だ。それに、よくぞ我が下僕を倒してくれたな」
「……なに?」
「ふむ……出でよ」
 エイジャが緑色の鱗が付いた手を一振りすると、キングとルークの残骸、そして
「む?」
「キュウ!!」
 体を震わせているクイーンが、胸の辺りに黒猫を乗せ、突然現れた。
「聖亜か、ここは」
「……ふん、随分と痛めつけられたものだ。目覚めよ」
 黒猫の問いに聖亜が答える前に、エイジャが緑色の足で床をトンッと叩いた。すると、キングの上半身が下半身と融合し、ルークの傷が癒え、クイーンがぱちりと目を開けた。
「こ、ここは?」
「……グ?」
「ま、まさかお館様……助けてくださったのですか? あ、ありがとうございます」
 起き上がり、目の前の男に口々に感謝の言葉を述べる人形達を見て、エイジャは数十の牙を持つ口を歪ませた。
「当たり前ではないか。誰が大事なお前達を見捨てるものか」
「「お、お館様」」
「……ゴッ」
 自分の足元に跪く人形達を、細く黄色い瞳で見つめ飛び退いた瞬間、
「そう、その身に貴重な何千もの魂を保有するそなたらを、なぜ楽に死なせられよう」
「おや……かた、さま?」
「……ガ?」
「え……」




 それは発動した。




「うえええええっ」
目の前で行われている光景に、聖亜は先程食べたパンを、思わず床にぶちまけた。傍らのヒスイも、口に手を当て、必死に吐き気を堪えている。

 それほどに、間の前の光景は残酷だった。

 人形達が、魔方陣から現れた無数の黒い蛇に、生きながら石の体を食われていく。振り払おうともがいても、その手は黒蛇をすり抜ける。しかも、彼らはその中で“死ねない”のだ。死ねずに自分の肉体を、魂を食い破られていく。
 やがて、彼らの全てが、黒い蛇に食われた。
「……満足したか?」
 不意に、エイジャが暗闇の中に目をやった。吐いた後の気だるさの中、聖亜も無意識に目をやる。
「……ええ、ええ。見事な絶叫でした。満足しましたとも。ひひ、うひひひっ」
「う……狸山、校長先生?」
「おや、駄目じゃないですか星君。健康第一ですよ。でないと」
 奥から出てきたその男は、でっぷりと太った腹を突き出して、笑った。
「一生懸命絶叫を上げられませんからねえ!! ひ、ひひ、うひひひひひっ」



「な、何で校長先生がここにいるっすか!!」
「決まっているだろう。この男が」
 製あの叫びに、ヒスイは刀を構えることで答えた。
「この男が、エイジャを召喚した張本人だからだ」
「おやおや? それは半分しか当たっておりませんよ? 確かにここにいるリザリスさん達を呼び出したのは私ですが、ひひっ、ドートスさん達は違います。彼らを呼び出したのは、復興街の工場長です」
「……そやつに魔道書を渡したのか」
「ええ。お金に困っていたようですので。助けてくれると思ったのでしょうね。ひひひっ」
 キュウの視線を受け、狸山は下品な笑顔を浮かべた。
「……エイジャを呼び出した人間は排除の対象になるが、その前に一つだけ聞いてやる。貴様、なぜエイジャを呼び出した」
「何故? 簡単なことです。私はね、15年前のあの日に聞いた、死んでゆく人々の黒い絶叫をもう一度聞きたいんですよ。あれを聞いたせいで、仕事にも身が入らなくてねえ。結局あんな私立高校の校長なんてやらされる羽目になりましたけど。でもいいんですよ。あの絶叫をもっと聞くことが出来れば。さあ、お喋りはここまで。リザリスさん、それではまた聞かせてください。死にながら叫ぶ絶叫を!!」
「いや……それは無理だ」
「……へ?」
 不意に、緑色の手が、狸山の首を掴んだ。
「ひっ? り、リザリスさん?」
「……戯けがっ」
 黒猫が心底嫌悪したように吐き捨てる。その視線の先では、喚く狸山が、部屋の中央に引きずられていく。
「な、何をなさるのですリザリスさん!!」
「……貴様は満足したと言ったな。ならば代償をいただくとしよう」
「だ、代償ですって? そんな事、あいつは一言も……ひ、ぎゃあああああっ!!」
 部屋の中央、つまり魔方陣の中央に投げ出された狸山は必死に逃げようとしたが、その手足に太い杭が打ち込まれた。噴出した血が、魔方陣の上にだらだらと流れた。


 ドクンッ と、部屋が脈打った。
「……うあ、くっ」
「ヒスイ?」
 少女の体が床に沈む。慌てて駆け寄ろうとした聖亜は、次の瞬間、魔方陣から一斉に吹き出た黒い煙を見た。
 それは、喚き続ける狸山の中に吸い込まれていき、そして、その体が内側から弾けとんだ時、
「……まったく、八百年ぶりにこの世界に出てくるための寄り代が、脂ぎった男なんて、最悪だと思わない? ねえ」




 この世界に、地獄が現れた。




「あらあら、ようやく現れたわねえ」
 太刀浪市の郊外にある小高い丘の上で、お茶を楽しんでいた神楽は、優しげな笑みを浮かべ、漆黒に覆われた都市を見た。
「神楽様、まさか知っておられたのですか? 爵持ちが現れることを」
「あら? 当然じゃないひいちゃん。言ったでしょ、この都市が惨めに滅んでいくのを見るって」
「ですが、それにしてもこの重圧は」
 その横では、氷見子が苦しげに眉を顰めていた。
「……簡単なことさ。呼応したんだよ。貴族の出現に、煉獄の地下に蠢く万を越す魂が」
 不意に、二人の後ろで、明るい声がした。
「あら? お客様?」
「ふふ、久しぶりですね。黒塚家の鬼子」
「……まあまあ、あなただったの」
 闇の中から現れたのは、黒い礼服に身を包み、シルクハットを被った青年だった。
「ええ。今宵の宴を見物させてもらおうと思いまして」
「ふふ、いいわよ。ところで、飲み物は何が良いかしら」
 紅茶の葉を取り出す神楽に、青年は柔らかく首を振った。
「いえ、すぐに行かなければなりませんので。お構いなく」
「そうなの、残念ね」
 会話を続ける二人の横では、氷見子が草むらに倒れ付し、喘いでいた。
 爵持ちの重圧にも耐えられる彼女が、まったく耐えられないほどの重圧が、この二人から発せられていたからだ。
「さて、それではこれで失礼を」
「あら、もう行ってしまうのかしら」
「ええ。名残惜しいですが、探し物がようやく見つかったもので」
 青年は優雅に一礼すると、暗闇の中にすっと消えていった。


 ぴこぴこと、二本の長い黒耳を揺らしながら。




 地獄は、女の格好をしていた。

 一見すれば、美しいと思えるだろう。体を覆う黒いドレスから覗くのは、はち切れんばかりの胸。黒く艶のある長い黒髪が流れ、唇は真っ赤に染まり、肌はどこまでも白い。
「ご無事でのご降臨、お喜び申し上げます。子爵閣下」
「ありがとう、リザリス。けど、あまりいい寄り代とはいえないわね」
「それは、申し訳ございません」
「まあいいわ、ところで」
 女は、黒く染まった瞳で、床に突っ伏しているヒスイを見た。
「あれが、今宵の主食?」
「は。一夜にて百殺を成し遂げた絶対零度。この家畜にしみ込んだ絶望は、さぞ美味かと」
「そう、なら遠慮なく頂くわ」
「……だ、まれ」
 刀を床に差し、震える体を何とか持ち上げる。がくがくと震える膝に力を入れ、ヒスイは女の格好をした地獄を強く睨み付けた。
「人を、勝手に、食い物に……するなっ!!」
 太刀を振り上げ、駆け出そうとする。だが、
「あらあら、元気がいいこと……“控えよ”」
「ぐ、あ……」
 その体は、再び地面に沈んだ。
「ヒスイっ! 大丈夫っすか!?」
「あら?」
 少女に向かって歩き出そうとした女は、自分より先に駆け寄った少年に視線を移した。
「あらあら、なぜあなたは動けるのかしら。わたくし、言いましたわよね。控えよって」
 周りを見ると、ヒスイだけでなく、キュウも、三体の人形も、そしてリザリスという名のエイジャですら、揃って倒れていた。


 まるで、恭しく頭を垂れているかのごとく。


「……普通に動ける。それより、何なんだあんたは」
「…………あら、そういう事」
 少年の質問には答えず、女はその白い手を彼に伸ばした。
「最近は全く見当たらないから、絶滅したと思っていたのだけれど、例外はいるのね。ねえ、“結界喰らい”」
 聖亜が動くより早く、伸びてきた白い手が彼の頬に添えられる。優しげな感触に、だが聖亜は恐怖と絶望しか感じなかった。
「う、あ……」
「では目覚めさせましょうか……そして、一緒に楽しみましょう。この黒い宴を」
 言葉と共にされた口付けは、絶望の味がした。



 危険度120%―超過! 超過!! ちょ…………



「……変化しない。全く、つまらないわね。リザリス、退屈よ。何かなさい」
 崩れ落ちた少年を放り投げると、女は欠伸を噛み殺し、辺りの重圧を解いた。
「はっ!! さあ哀れな人形共、閣下はご退屈だ。踊って差し上げろ。せいぜい無様に」
「……え?」
 次の瞬間、最後尾にいたビショップは、自分の喉を食い破る牙と、自分を見つめる黄色い瞳を見た。


―ンッ


「び、ビショップ? う、うお、うおおおおおおおっ!!」
 おぼろげにポーンに手を伸ばし、ビショップはチェスの駒に戻った。だがそれすら、リザリスは口の中に入れ、噛み砕く。
 それを見て、ポーンは絶叫を上げて立ち上がった。まだ体が軋むが、そんな事、知ったことではない。
「ほう、起き上がるか。なるほど、さすがは元衛兵隊長だけのことはある」
「黙れ!! 貴様、貴様だけは絶対に許さん! リザリス!!」
「ぽ、ポーン、無茶よ!!」
 欠けた剣でリザリスに向かうポーンを静止しようと、ナイトは必死に叫んだ。だが、怒り狂う彼に、声は全く届いていない。
「……愚かな」
 突き出された剣を首を捻って避けると、リザリスは逆にポーンの腹部に手を突き入れた。
「ぐがっ!!」
「このままチェスに戻った貴様を握りつぶしてやろう……む?」
 だが、両腕は彼の腹の中で、ピクリとも動かなかった。
「ぐ……今だ! 絶対零度!!」
「はあああああああっ!!」
 白刃が閃き、緑色の腕が二本、床に落ちた。
「ぐむっ」
 リザリスが飛び退くと、ポーンは怒りの仮面を満足そうに歪ませ、ふっと掻き消えた。


―キン


「く、切れ味が鋭すぎる。制御が出来ないとは。だが、これで貴様の攻撃手段はほぼ無くなったな」
 硬い鱗に覆われた腕を難なく切り裂き、さらに床まで一気に食い込んだ刀を渾身の力を込めて引き抜くと、ヒスイは苦しげに呻くリザリスに、止めを刺すために駆け出した。
「ぐっ、そうだな…………と、言うとでも思ったか?」
「え?」
 ずるりと、肩の付け根から新しく生えた腕が飛び出し、刀を掴んだ。
「馬鹿な、腕が再生した? きゃっ」
 そのまま、壁にむかって叩きつけられる。激痛が背中を走り、ヒスイはくたりと崩れ落ちた。
「言っていなかったか? 我は不老不死だ。それこそ、どんな攻撃も効かぬ。それに」
「ちょ、何?」
 背後から襲いかかったナイトの体は、逆に何かに押さえつけられた。
「う、腕が……」
「このように、離れた手足も自由に動かせる。つまり、お前達が我を攻撃すればするほど、我の攻撃手段が増えるというわけだ」
 首と胴体を拘束している手の間から、細かい粉がぱらぱらと落ちるのを見て、ナイトは悲しげに呻いた。その傍らに歩み寄ると、リザリスはナイトに優しく話しかけた。
「ナイト、元龍騎兵よ。同郷のよしみだ。お前が改めて閣下に忠誠を誓うならば、奴隷として生かしてやろう。どうだ?」
「ふん、奴隷なんてお断りよ。それに、私はね」
 ぎりぎりと押さえつけられながら、彼女は死んだように動かない少年を見た。
「私はね、人形にされてから今まで、ずっと笑いたくも無いのに笑っていたの。それこそ、悲しい時も苦しい時も、ずっとずっと。ひどいものだったわ」
 その少年に向け、彼女は腕を伸ばした。
「けど、聖亜に会って、私は始めて心から笑うことが出来た。それにねリザリス、聖亜は好きって言ってくれたの。人形になってからも、なる前も、誰も言ってくれなかった言葉をね。だから」
 心の底から笑いながら、彼女はリザリスを哀れみを込めて見上げた。
「だから、偽物の笑顔なんて、もうお断りよ」
 ずんっと首に衝撃が走る。笑ったまま、ナイトは掻き消えた。


 からんと、仮面を一つ、床に残して。



―パキンッ



「ヒスイ、ヒスイ、無事か」
「ああ。だがキュウ、奴は不老不死なのか?」
「いや、そんな物存在しない。恐らく、高い再生能力だろう」
「再生能力、か」
「……ヒスイ?」
 黒猫は、ふと流れる冷気を髭に感じた。
「ヒスイ……お主まさか」
「……くっ」
 リストバンドを強引に引き千切ると、手首に埋め込まれた緑色の宝石に、ヒスイは太刀を当てた。太刀の中に蓄えられていたエネルギーが、宝石の力で外に押し出される。
 ふらふらと立ち上がると、ヒスイは目の前の蜥蜴を強く睨み付けた。
「なら、その能力ごと、奴を“断つ”!!」


 忌々しげにチェスを踏み潰していたリザリスは、ふと心地よい冷気を肌に感じた。
「……む?」
 だが、それは急速に強まっていく。煩わしさを感じた彼は、その冷気が漂う方向を見た。
「……あら?」
 退屈そうに欠伸をしていた女も、興味深げにそれを見る。
 太刀の中から流れ出るエネルギーが、今度は冷気となって刀に急激に吸い込まれていく。やがて、刀の許容範囲を超えたのか、その冷気は、刀の周りで渦を巻き始めた。
「なんなのだあれは……ふ、ふん、まあいい。どのような技も、我には効かぬ」
 太刀を覆い尽くすほどの渦は、やがて急速に冷えて固まり、そこには、青い刃を持つ、巨大な刀が現れた。
「……成功、させたか。だがヒスイよ、その“絶技”を禁技としたのは、お主自身なのだぞ?」
 キュウは、青い刀を持つ少女を、むしろ憐れみを込めて眺めた。
「……ヒスイよ、我が愛しき氷河よ。それを撃てば、間違いなくそなたの婚約者が出てこよう。だが、それでもお主はそれを放つというのだな」
「ふうっ、ぐ、うあっ」
 寒さと重さで、体ががくがくと震える。だが、ヒスイは唇を血がにじむほどかみ締めると、今ではもう五倍以上に膨れ上がった刀をゆっくりと持ち上げ、そして叫んだ。


「絶対、零度(アブソリュート、ゼロ)!!」


 最初に押し寄せてきたのは、青い冷気だった。リザリスは、その冷気を腕を盾にすることで防ごうとする。だが、その冷気に当たった瞬間、腕は瞬時に凍りつき、粉々に砕けた。
 狼狽するリザリスに、今度は冷気の波に乗った少女が、すさまじい速度で、青い刃を振り下ろした。

 リザリスの体は、その瞬間、二つに断たれた。


「ぐああああああああっ!!」
 痛みと屈辱に、リザリスは絶叫を上げた。再生できるといっても、痛みは発生する。まして胴を二つに分断されたのだ。
「ぐ、だが再生すれば問題は……何だ?」
 再生できない。いつもなら容易に出来るはずのそれは、なぜか反応すらしなかった。
「なるほど、急激な冷気で、細胞の動きまで停止させたのね。お見事ですわ」
「か……閣下、閣下ぁ!! なにとぞ、なにとぞお助けください!!」
「ええ、分かっているわ、リザリス。けど」
 必死に伸ばされた手を、女は優しく握り締めた。
「けどごめんなさい。わたくし、今とってもお腹が空いてるの」
 その瞬間、二つに断たれた蜥蜴の肉体は、どちらも女の中に吸い込まれていった。



「ああ、おいしかった。貴方の絶望も中々だったわ、リザリス」
「お前……自分の仲間を」
「仲間? わたくし以外の貴族は、いったいどこにいるのかしら」
 体に襲い掛かる反動で、指一本動かせないヒスイに、女は優しく微笑んだ。
「……くっ」
 だが、それでもヒスイは、光を決して消さない瞳で、女を睨み付けた。
「あらあら、そんな顔しない方がよろしくてよ? 味が落ちてしまうから、あまり痛めつけたくないの」
「……一つ、聞きたい事がある」
「あら? いいわよ、何なりと」
「獄界で、贅の限りを尽くす爵持ちが、なぜわざわざこっちに出てきた」
「あら、そんなこと」
 笑いながら頷くと、女は顔を赤らめ、遥か彼方を見た。
「もう一度味わいたいからよ。喉を潤す甘美な悲鳴を。絶望に彩られ、もがき苦しみながら喉をするりと落ちていく魂を。聞けば、この都市には十万以上の家畜が生息しているって話じゃない。だからリザリスに命じたの。彼らをほとんど損なう事無く、わたくしをこちらに呼びなさいとね」
「……」
 くすくすと笑う、その女の答えを聞いた時、ヒスイの心に宿ったもの、それは恐怖でも、そして怒りでもなかった。
「……もう、いい。分かった」
 少女は、自分に付けられた称号である百殺の称号に似つかわしくない、優しい心を持つ少女は、今度こそ最後の力で立ち上がり、
「……あら?」
 絶対零度という異名に似合わぬ、灼熱の憎悪を心に宿し、
「お前は……いや、貴様だけは、例え四肢が砕かれても、例え、この体に流れる全ての血を失っても」
 自らの魔器を、構えた。
「必ず、滅殺する!!」



「あらあら、食事の前に、軽いダンスがお望みかしら」
 突き出された刃を手で軽く打ち払い、女は大きく後ろに下がった。
「では、その前に自己紹介をしなければなりませんわね」
 女は、そこでドレスの裾を掴み、優雅に一礼した。
「わたくし、黒界七王国が一、ニブルヘイムが子爵、“嘲笑する虐殺者”ニーズへッグと申します」
 振り下ろされた太刀をくるりと回転して避けると、女―ニーズへッグは、少女の胸にそっと手を添え、
「どうぞ、ダンスのお相手を、絶対零度」
 少女を、大きく吹き飛ばした。
「……ッ」
「あらあら、まさかもうお終い? まだ手を添えただけですわよ」
 壁に激突し、ずるずると滑り落ちた少女に向け、ニーズヘッグは穏やかな笑みを浮かべて歩き出した。と、
「ふぎゃっ!!」
「あら」
 そんな彼女に、物陰から小さな黒い影が飛び掛った。片手で捕まえると、それは自分に向かって必死に爪を伸ばす、一匹の黒猫だった。
「ごめんなさい、わたくし猫ってそれほど好きじゃないの。食事が終わって、小腹が空いていたらデザートにでも頂くわ」
 にゃあにゃあと鳴く黒猫を、半分ほど開いた窓から外に放り投げる。
「さて「はあああああああっ」あら?」
 改めて少女に向かおうとしたニーズヘッグの目前に白刃が迫る。避ける暇は無い。それは彼女の肩を存分に貫―ぬかなかった。
「……なっ」
「ふふ、見事なステップね。けどそんな攻撃では、わたくしの体には届かないわよ?」
 彼女の肩、その僅か一ミリ手前で停止した突きを見て、一瞬動きを止めた少女の腰を、ニーズヘッグは優しく抱きかかえた。
「ぐ、このっ!!」
「そう暴れないの。まずはターンと行きましょう?」
 腰を掴まれ、振り回されながらも、ヒスイは二本の刀を必死に振るった。至近距離からの一撃は、外れることは無かったが、やはり攻撃は彼女の手前で停止していた。
「あらあら、踊っている間、相手のドレスを踏んでは駄目よ。絶対零度」
 首に振り下ろされた太刀と、胸を突こうとした刀をそれぞれ二本の指で摘むと、ニーズヘッグは先程黒猫を投げた窓目掛け放り投げた。二本の刀はそれぞれくるくると回りながら窓を割り、闇の中に消えていった。
「う……」
 かすむ瞳でそれを見送ると、ヒスイはそっと、右手を握り締めた。
「さあ、これで玩具は全部無くなったわ。それで? これからどうやって戦うつもり?」
「……こう、やって、だ」
 その時、ニーズヘッグは自分の脇腹に、少女の手が添えられるのを見た。
「あら、それが精いっぱ……い?」
 その右手に、どこからか冷気が集まってくる。先程の攻撃は、確か刀の中に蓄えられていたエネルギーを使ったはずだ。そしてなにより、
「なめる、なよ。例え善鬼が無くても、代用できるものはある!!」
 その冷気は、赤い色をしていた。
「おほほほほほっ、大した自己犠牲ですこと。自分の血を冷気に、右手を玩具の代わりに使うだなんて。けどよろしいんですの? 手が砕けますわよ?」
「……言った、はずだ」
 微笑を浮かべると、少女はニーズヘッグの漆黒の瞳を、正面から見据えた。
「例え、四肢が砕けても、例え、この体に流れる全ての血を失っても、必ず滅殺すると……くらえっ!!」
 赤い冷気が、右手をグローブのように包み込む。正真正銘、これが最後に撃てる一撃。
「くらえ、絶対、零度(アブソリュート、ゼロ)!!」
 その赤い冷気は、巨大な衝撃と共に、ニーズヘッグの脇腹に突き刺さり、その腹部を粉々に粉砕した。


「う……あ」
 ニーズヘッグが崩れ落ちるのを確認すると、ヒスイは床に転がった。幸い右手が砕かれることは無かった。おそらく冷気の練り方が甘かったのだろう。だが、衝撃で肩が抜けたようだ。それにひどく寒い。だが、
「……は、ぁ」
 だが、最早指一本動かせるだけの体力も残っていない。それに、血液の八分の一を失った。死んでもおかしくない。
「……ふうっ」
 それでも満足そうに息を吐くと、ヒスイは目を閉じた。
「……あら、眠りますの? なら、そろそろ食事にしましょうか」
 ぼんやりとした意識の中、微かに聞こえる声を子守唄に、ヒスイの意識は、深い闇の中に落ちていった。



  そして、何も分からなくなった。



 ガキンッ



 その時、音を立てて、それは砕けた。

 

                                   続く

 こんにちは、活字狂いです。最近テイルズオブグレイセスエフにはまっており、眠いです。とりあえずアスベルとシェリア、そしてソフィが家族になって嬉しい。後パスカルが猫っぽい。
 さて、今回いよいよ敵のボス、蛇神ニーズヘッグが出現しました。ニーズヘッグは竜神とも言われていますが、あえて蛇神にしました。そしていよいよ物語は佳境に入ります。では次回「スルトの子 第六幕  スルトの子」そして「幕間 湖畔にて」を、どうぞお楽しみに。



[22727] スルトの子 第六幕   スルトの子
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2015/12/19 23:09
スルトルは南からやってくる



枝に燃え立つ火を持って



剣は輝き



死者の神々の太陽は輝く



石の頂は砕かれ



そして女巨人達は歩き出す



兵士達はヘルから続く路を歩く



そして





そして 天は割れてしまう


(古エッダ 『巫女の予言』より)



  夢を、見た。


 いつもの夢だ。燃える教会と、その中で燃える蝋燭を両手に持ち、笑っている子供。そうだ、あいつだ。あいつが、俺から全てを奪っていった。
「おい手前、何他人のせいにしてるんだよ」
「……え?」
 気づいた時、聖亜はどこまでも続く黒い空間で、目の前にいる、その少女と向き合っていた。
 

 おかしい。自分は確か、白髪の少女と、そして


「あ……」
 三体の人形のことを思い出したとき、聖亜はなぜかぽろぽろと涙を流した。
「お、おい、大丈夫か?」
 目の前にいる、緋色の髪と同色の瞳を持った少女が、わたわたと慌てながら覗き込んできた。
「あ、ああ。大丈夫。ところで……あんた、一体誰だ?」
「へ? って、そうだったな。まだ分かんないか、ん?」
 がしがしと緋色の髪を掻く少女を暫らく見て、聖亜は何かに気づいたかのように、はっと顔を強張らせた。普通に考えればそんなことはありえない。そんなことはありえないのだが、
「え……なんで?」


 彼女は、自分そっくりだった。


「やっと気づきやがったか。そうさ、俺はお前、そしてあそこで笑っているのも、お前だ」
 首を左に曲げられる。黒い空間の中、ぼんやりと燃える教会が見えた。
 無論、その中で笑っている子供の姿も
「ち、違う、そんなはずは無い!! だって、だって俺、あの時ちゃんと見たもの!!」
「ああ見ていたさ。鏡に映った、自分自身の姿をなあ!!」
 にやりと笑う少女に、聖亜は嘘だと叫ぼうとして、違うと叫ぼうとして、はたと口を閉ざした。あの時、教会になかっただろうか、子供の全身を映せるほど、大きな鏡が。
「ははは、やっと思い出したようだなっ!! そう、あの時お前は神父が姉貴を強姦しようとしているのを止めようとし、逆に殴られた。だから、燭台に刺さっていた蝋燭で燃やしたんだよ。神父と姉貴を、教会もろともさっ!!」
 どんっと手で押される。その途端、聖亜は奈落の底に向かって物凄い速さで落下し始めた。いや、そもそも何もないこの空間で、自分は今まで一体どうやって立っていられた?
「ひゃははははっ!! 今まであの野郎に封じられてきたが、ここにきてやっと枷がぶっ壊れやがった。今度は聖亜、お前が暗い闇の底で眺めてな。この俺様が、世界を焼き尽くすところをさっ!!」
 黒い空間に、少女の笑い声が響き渡る。闇の底に落ちながら、聖亜は嘘だ、嘘だと、それだけを呟いていた。




「……まったく、たかが家畜の攻撃で、貴族たるこのわたくしが傷つくと、本気で思っていたのかしら」
 意識を失っている少女の首に手をかけ、持ち上げると、ニーズヘッグは血の気のない白すぎる頬に舌を這わせた。先程ヒスイの最後の一撃を受けて粉砕されたはずの腹部は、だが傷も、痣すらも付いていない。
「ふふ、本当においしそう。安心なさって。あなたの絶望を一気に味わうなんてことはしないから。少しずつ、ゆっくりと食べて差し上げませんと……ふふ、では、いただきまがっ!!」
 口を開け、目の前の肉にまさに喰らいつこうとしたその瞬間、ニーズヘッグは横から思い切り殴り飛ばされた。

 そのせいで、捕らえていたせっかくの獲物を放してしまった。それでも空中で一回転し、床にすたりと降り立ったのは流石だろう。そしてその時にはもう、彼女は自分を殴りつけた相手の正体を悟っていた。
「……随分と無礼な方ね。目覚めさせない方が良かったかしら」
「はっ、手前で目覚めるきっかけを作っておいて、よく言うぜ、婆さん」
「……口の利き方には気をつけなさい、“小娘”」
 彼女を殴った相手、それは床に惨めに転がっていた少年だった。だがその長髪は黒ではなく灼熱に輝き、瞳はまるでルビーのよう。そして何より、“彼女”はもう、少年ではなく少女であった。
「へっ、何百年も生きているんだから、やっぱり婆じゃねえか」
「お黙りなさい……それで、あなたは一体誰なのかしら。見たところ、“赤界”の出身らしいけど」
「は? いや、実はさ、俺目覚めたばっかりで、どこの誰かも分からないんだよな」
「……あら、名前も無いのかしら、無様ね」
 首を捻る灼熱の髪を持つ少女に、その異名の通り、ニーズヘッグは嘲笑を浮かべた。
「いや、聖亜ってくだらなすぎる名前があるんだけどさ、あまりにくだらなすぎて、俺この名前嫌いなんだよね……うっし、決めた」
 顔を上げ、にやりと笑うと、少女はどん、と足を踏み出し、ぎゅっと両手を握った。すると、その手からボッと炎が噴出す。


「我、炎也(ほのおなり)。七月に生まれた炎の子、名付けて七月炎也(ななつきえんや)! それが俺の名前だ!!」
 そう叫ぶと、炎を纏った拳で、炎也はニーズヘッグに向かって殴りかかった。




「……まったく、煩わしいわね。この絶対防衛陣である“黒水”は炎だけは通すわ。まあ、それもわたくし自身に炎がほとんど効かないからなのだけれど」
 向かってくる拳を避け、或いは弾き飛ばしながら、ニーズヘッグは不機嫌そうに眉を顰めた。
「はっ、何だよ、防戦一方じゃねえか。らあっ!!」
 炎也が突き出した拳が、彼女の肩にガッと当たる。その衝撃と僅かな痛みに小さく呻くと、ニーズヘッグはばっと後方に飛んだ。
「いい加減になさいな、小娘……出でよ、毒霧の剣(どくきりのつるぎ)」
 手のひらを下に向けると、その中心から細長くどす黒い色をした物が伸びた。ニーズヘッグは炎也を見て一度くすりと笑い、無礼な少女に向かって、それを勢い良く水平に振った。
「うおっ!!」
 間一髪、炎也は上に跳び上がることでそれを避けた。横に飛ばなかったのは運が良かった。なぜなら、剣といっているくせに、まるで鞭のような動きを見せるそれは、今まで彼女がいた場所を横一直線に通り過ぎ、後ろの壁に激突したからだ。
「うへぇ~、何だよあれ、どろどろに溶けてやがる」
 炎也が呆れて言ったとおり、毒霧の剣が接触した壁は、強烈な毒を吹き付けられたかのようにどろどろに溶けていた。
「どう? これがわたくしの剣。触れたもの全てを毒によって“切断”し、鞭のようにしなやかな動きが出来る業物。さあ、あなたは一体どこまで逃げられるかしらね」
 ひゅんひゅんという音と共に、毒の鞭が赤髪の少女に襲い掛かる。炎也は最初の内は懸命に避けていたが、やがて段々と目が死んできた。
「…………ああもう、面倒臭え、面倒面倒面倒臭え!! やってられるかこんなもん……うあああああああああっ!!」
 気合を入れながら、左足を引き、右足を前に出す。完全な無防備だ。
「おほほほほ、どうやらもうあきらめたようねえ。さあ、そろそろその生意気な顔を、どろどろに溶かして差し上げる「うるせえよ」なっ」
 ニーズヘッグが気づいた時、炎也はもう目の前まで迫っていた。慌てて剣を振るう。だが触れたものを瞬時に溶かすその刀身は、少女に触れた途端、じゅっと小さく音を立てて消え去った。
「まさか……全身に炎を纏ったというの!?」
「そういうことだ! らあっ!!」
 狼狽した相手に全身をぶつけて押し倒すと、炎也はその端正な顔を肘で思い切りぶっ叩いた。
「がっ、くそっ、この、わたくしの顔を、よくも!!」
「ははっ、中々いい顔になったじゃねえか。うおっ」
 たまらず、ニーズヘッグは顔に打ち付けられた肘を掴み、放り投げた。
「小娘が……調子に乗ってぇ!!」
 度重なる屈辱に、ニーズヘッグはとうとう先程までの優雅な表情をかなぐり捨てた。それに呼応するように彼女の髪がざわざわと揺れ、ばらける。
「ふふふ、もう手加減はしないわ。貴族たるこのわたくしを本気にさせた事、後悔させてやる!!」
 ばらけた髪の一本一本が太くなり、そしてまるで蛇のようにするすると炎也に向かって伸びていった。
「うえっ、気色悪い!!」
 嫌悪感をあらわにしながら必死に打ち払うものの、髪は後から後から伸びてきて、遂にその一本が彼女の足に絡まった。
「うわっ、くそっ!!」
 次の瞬間、髪は漆黒の胴体を持つ蛇へと変わった。狼狽している間に他の髪も彼女の体に巻きつき、次々に蛇となってぎゅうぎゅうと締め付け、徐々に主の方へと引き摺って行く。
「ぐ……」
「ほほほほっ、いらっしゃい。どんなに炎を纏っても、ただ闇雲に殴りつけることしか出来ない屑なんて、こうやって捕まえられたらそこでもうお終い。さあ炎也とやら、わたくしの口付けをお受けなさい」
「婆さんに口付けされる趣味はね……がっ」
 首筋にぶつりと牙が突き立てられる。その瞬間、少女の体に激痛が走った。
「あ……が、ぐ」
「ふふふ、どうかしらわたくしの死の接吻は。毒霧の剣は、私の体内で生成している毒を固定した物。ならば武器としての形を取らず、毒をこうやって直接流し込むことも出来る。ふふ、巨大魚バハムートすら悶え苦しむ猛毒よ。でも安心して。最初は溶けずにこの世のものとは思えない激痛が走るだけだから。さあ、わたくしに逆らったこと、後悔しながらじわじわと無様に死んでいきなさい」
「~~~~っ!!」
 床に放り捨てられ、炎也は声に鳴らない悲鳴を上げ、ごろごろと転げまわった。体の中がじゅうじゅうと溶けていく気がする。激痛が走り、目の前で侮蔑を込めて見つめてくる女に、今にも縋りついて許しを請いたくなってくる。だが、
「ぎ……く、くそったれ、が。確かに、きついけど、よ」


 だが、それは彼女の意地が許さなかった。


「う……が、ああああああああっ!!」
「あら?」
 不意に、部屋の中の温度が上がった。眉を潜めたニーズヘッグは、ふと、赤髪の少女の周囲が揺らめいているのに気づいた。彼女が体内から高熱を発しているのだ。
「ふふ、最後の悪あがき? いいでしょう。受けてたちましょう」
 攻撃を予想して、ニーズヘッグは軽く身構えた。だが、
「……くっ、誰が、攻撃するって言ったよ。ううううううっ、がっ!!」
「……?」
 彼女が発した高熱は、炎にはならず、そのまま彼女の中に吸い込まれていく。熱を全て吸い込むと、炎也はがくりと膝を突いた。だが、ニーズヘッグを見る目の輝きは強い。
「ど、どうよ、は、ご自慢の毒は、消した、ぜ」
「……呆れた、体内に熱を送り込むことで毒を消すなんて、物凄い力技だこと。けどどうやらここまでのようね。今の姿でも簡単に殺せるけど、ここまでコケにされて、それでは全く面白くないわ。まあいいでしょう。神話に語られる、世界樹の根を食み、死者の血を啜るとされる我が真体、その瞳に焼き付けて、絶望の中死になさい」
 そう言うとニーズヘッグは、身に着けている黒衣で、自らの体をすっぽりと覆った。



 その瞬間、空気すら、そこにいる事に絶望した。



「まあまあ、やっと出たわ」
 空中に広がったそれを見て、神楽は紅茶を楽しみながら嬉しそうに微笑んだ。
「さあさあ、これでお終い。私の大事な孝ちゃんを奪った都市が、無様で惨めに喰われて滅んでいく」





「……なんだ、ありゃ」
 黒衣に身を包み、天井を突き破って外に飛び出したニーズエッグを追って、意識を失っているヒスイを担いで外に出た炎也は、空中に浮かぶ、都市をすっぽりと覆う巨大な黒い湖を、ぽかんと口を開けて眺めた。
「……ぐ、馬鹿な。奴め、自らの居城すら持ってきたか」
 だが、少女の疑問に答えたのはニーズヘッグではなく、物陰からよろよろと這い出てきた、紫電の瞳を持つ黒猫だった。
「はあ? 何だよ馬鹿猫。自分の居城って」
「誰が馬鹿猫だ誰が。居城とは城主の住む所だ。そんな事も分からんのか小僧、いや、今は小娘であったか」
「……ふふふ、これぞわたくしの身を包む黒水の正体にして居城、フヴェルゲルミル。その深度は星ほどに深い。だからどのような武器も、どの様な技もわたくしには届かない。まして単なる家畜の攻撃など、ただ水面を揺らがせるだけ」
 その時、黒い湖の中から、都市ほどもある巨大な黒い蛇がゆっくりと這い出てきた。いや、それは蛇と呼ぶべきなのか、頭部には二本の角があり、その皮膚は光沢のある鱗で覆われている。それは黒い竜とも言えた。いや、やはり蛇なのだろう。 元々あったはずの翼は無残に焼け爛れ、四肢は微かに根元の部分が残っているだけで、そこから先は無く、頭部の角でさえ、一本は無残に折れていた。
「……」
「ふふふ、この姿がそんなに醜いかしら? 貴方達が思っている通り、わたくしは元は蛇神ではなく竜神。緑界から黒界の伯爵家に嫁いできた者……それが、彼の大戦で、忌々しいあの女に翼を焼かれ、四肢を砕かれ、角を折られた。そのせいで領地を縮小され、夫とは死に別れ……くくくっ、もう、家畜を喰らうしか楽しみが無いのよ。さあ、お喋りはもうお終い。生まれなさいわたくしの子供達。そして家畜共を存分に狩りなさい!!」
 不意に、湖が脈打つと、次の瞬間、その中からぞろぞろと無数の蛇が湧き出てきた。ビルほどの太さを持つ蛇がいるかと思えば、逆に腕ほどの太さしかない蛇もいるが、その色は皆揃って黒い。
 蛇達は、最初は中央にいるニーズヘッグにまるで親に甘えるように身を摺り寄せていたが、やがて都市全体に広がり始め、地面に倒れている“家畜”に襲い掛かり始めた。
「う……くそっ、重えっ」
 だが、それを追う事は炎也には出来なかった。なぜなら彼女には湧き出た蛇の中で、最大の蛇が襲い掛かってきたからだ。その大きさはほとんどニーズヘッグと大差なく、大人の背丈ほどもある巨大な牙からは毒が滴り落ちている。
「ほほほ、どう? その子はその気になればリザリスすら一飲みに出来る、わたくしが一番初めに産んだ子よ。さあ、早くその生意気な小娘を飲み込んでお挙げなさい!!」
 悪戦苦闘している少女を見て、ニーズヘッグはその巨大な口を愉快そうに歪めた。
「……小娘、そなた炎を纏わり付かせるだけで、飛ばすことは出来ないのか?」
「はあっ? 飛ばすなんて器用なこと出来るはずがないだろ!! この忙しいときに、ちょっと黙ってろ馬鹿猫!!」
「何だと? 赤界の出身ならば、例え最下級のエイジャでも小さな火を飛ばすぐらいは出来るぞ。出来ないのは人間ぐ……そうか、お主は」
「は?」
 一端言葉を切ると、キュウは空中に浮かぶ黒い湖と、そこから無数に湧き出る蛇を見上げた。このままでは、太刀浪市に住む住人の全てが食われてしまうだろう。そしてその中には、傍らで眠る白髪の少女も、無論含まれている。ならば、
「……ええい、くそっ、我が行くしかないか!!」
 黒い毛皮をどことなく赤く染め、黒猫は炎也の胸に飛び乗った。
「うわっ、邪魔だ馬鹿猫」
「黙れ小娘。いいか、この小さき蛇を暫らく抑えておくがいい」
「は? これで小さいって……うおっと!!」
 意識をそらした途端、蛇の牙から滴り落ちた毒が、下顎を持つ手にじゅっとかかったからだ。毒で今にも消えそうな炎を、炎也は懸命に燃え上がらせた。




「……中々粘るわね。しかし、どういうことかしら。どの子もまだ魂を持ち帰ってこない。いえ、これは……数が急速に減って来ている?」
 ニーズヘッグが疑問に思ったとおり、魂を狩るために飛び出していった蛇達は今だ戻らず、それどころか急速にその気配は消えている。彼女は暫し考え込んだが、やがて頭を振った。どうせ、湖の中には無数に卵があるのだ。数千、いや数万匹が殺されたところで痛くもかゆくもない。そう結論付け、目の前で必死に蛇を支えている赤髪の小娘を嘲笑することに意識を集中させた。




 時間は少し遡る。
 湖から湧き出た最初の一匹、大木ほどの太さを持つ蛇が獲物に選んだのは、道端に転がっている茶髪の少女だった。喜び勇んで家畜に向かい、その首筋に噛み付く、その寸前。
「やれやれ、すまんが店の従業員に手を出すのはやめてもらおうか」
 その頭部は、一瞬にして吹き飛ばされた。
 
 蛇の頭が吹き飛んだのを横目でちらりと見ると、白夜は軽く右手を振った。その途端、彼の半径数キロにいる蛇が、ことごとく粉砕される。
「祭ちゃん、大丈夫でしょうか」
「ま、大丈夫だろうさ。けど念のため守ってやってくれ」
「分かりました。では北斗、昴」
「「は~い、市葉姉様」」
 艶のある黒髪を持つ、自分の主人に声をかけられ、双子はその姿を二丁の銃へと変化させた。


 銃―S&W M500

 世界最強のマグナム銃として知られるそれを、"片手で”くるくると回転させると、市葉は襲い掛かってくる蛇に向けて乱射した。
「けど、どうしましょう。このままではきりがありません」
「分かっている。俺が出て、本体をぶっ殺せばすぐに終わるんだが」
 ビルほどの大きさを持つ蛇の頭部をデコピンで吹き飛ばすと、白夜は大きくため息を吐いた。
「だが、俺が表舞台に出ることは、黒塚家と縁を切ったときから禁じられている。聖に賭けるしかないだろうな」
「……あなた」
「……そうならないように、せめてエイジャとの戦いに巻き込まれないように、結界喰らい、その“エイジャ”の側である聖の力と破壊衝動に封印を掛けたのに、二年と保てなかった。やはり、あの時殺しておくべきだったか」
 そう呟いて、だが白夜は自分の言葉を否定するかのように、苦しげに首を振った。
「だが、頭で分かっていても実際に出来るはずがない。聖は俺の親友の忘れ形見だ。束縛を嫌い、海の向こうへ飛んでいってしまった、ただ一人の親友の」



『この海の向こう側に、どんな世界が広がっているか、俺、それを直に見てみたいんだ』



 親友と最後にあった時、彼が発した言葉を思い出し、白夜はまたため息を吐いた。
「……だから、俺に出来ることは、聖の心が少しでも傷つかないようにする事、ただそれだけだ……いくぞ、白崩(びゃくほう)!!」
 低い、そして強い唸り声と共に、白夜は両腕を前に突き出した。




 その瞬間、“白い毛”に覆われた手から、巨大な衝撃波が周囲に放たれる。それは建物を、自然を、そして人や動物をすり抜け、人に襲いかかろうとしていた黒い蛇だけを飲み込み、粉砕させた。








 落ちていく


「嘘だ……嘘だ、嘘だ」
暗い闇の中を、泣きながらどこまでも、どこまでも落ちていく。


 暗い闇―すなわち自らの深層意識の中を―


 優しかった神父、明るかった姉。だが神父は実際には好色で、姉を女としてしか見ていなかった。

 だから、止めようとした―駄目だった。


 だから、火を放った―騒がれた。


 だから、殺した。


「違う、違う……違う」
 だが、どんなに嘘だと叫んでも、どんなに違うと泣き喚いても、過去はまるで映写機のようにその場面を何度も映し出す。本来なら、この時点で聖亜の意識は完全に溶けてなくなっているはずだった。だが、幸か不幸か彼の意識は今だ保たれたままであった。



 不意に、がくんと衝撃が来て、落下が止まった。




「……やあ、お迎えに参りました。お姫様……あら?」
 過去の映像を何度も見せられている内に、精神が子供に戻ってしまったのだろう。聖亜は自分を支える青年の、頭から生えている黒い耳を、涙でにじむ瞳で、じっと眺めた。
「男の子? でも波動は確かに……えっと、君、名前は?」
「……名前? 聖亜。星、聖亜」
「うん、自分の名前もしっかり言えてる。けど、あれえ? じゃあ何で男の子?」
「……? あなた、は?」
「え? ああ、これは失礼を」
 青年は、子供に戻った聖亜を優しく抱えなおすと、優雅に一礼した。
「僕は“案内人”まあ、名前はちょっと発音しにくいので、気軽に黒ウサギとでも呼んでください。それより」
 顔を上げると、白手袋を嵌めた手で、彼は聖亜の頬をゆっくりと撫ぜた。
「こんなに泣いて。けど、もう大丈夫ですよ、お姫様。もう怖いことは何もありませんから」
「あ、ありがとう。けどお姫様って……俺、男の子、だよ?」
「ふうっ、そうなんですよねえ。けどおかしいなあ、彼の一族は女しか生まれないから、わざわざ“男”の姿で来たのに」
「……?」
「ああ、またまた失礼。僕の悪い癖だ。行き詰るとすぐに考え込んでしまう」
「……ふふっ」
 どうやら悪い人ではないようだ。くすくすと笑いながら、聖亜は頭を掻く青年の、ぴょこんと突き出ている黒い耳に、そっと手を伸ばした。
「……可愛らしい。ああもう、男の子でも良いか。僕が“女”になればいいだけなんだから。では……ふふ、あなたに祝福を。聖亜」
「ん……あっ」
 ふと、目の前の青年の姿がぼやけ、一人の女に変わった。ぼんやりと首をかしげる聖亜に、彼女の唇が優しく重なった、その瞬間、
「……くっ!!」
 突如襲ってきた氷の鞭に聖亜を抱えていた腕を吹き飛ばされ、彼女はばっと横に離れる。再び落下し始めた聖亜は、今度は別の腕に支えられた。
「ひどいなあまったく……お久しぶりです。“叔母様”」
「……そなた、ここで何をしておる、“次元破壊者”!!」



 それは、美しい女だった。



 長い銀髪を持ち、晴れ渡った夜空の色をしたドレスを纏っている。何より印象的な紫電の瞳は、両方とも目の前にいる黒ウサギに対する憎悪と怒りの炎で、赤く燃え上がっていた。
「もう一度聞く。数多の次元を破壊した貴様が、ここで一体何をしておるか!!」
 彼女の罵声に、だが次元破壊者と呼ばれた黒ウサギは、笑って首を振った。
「破壊者とはひどい言い方ですね。僕は案内人ですよ。その名の通り、ただ導くだけです。ま、今まで僕が導いた次元の幾つかは、確かに滅んでしまいましたが、それは僕ではなく、そこに住む人々の責任でしょう?」
 笑った顔を崩さずに、黒ウサギは聖亜を見た。
「……白きウサギはアリスを導き、黒きウサギは災禍を導く。このままニーズヘッグさんが勝ってしまえば、劇はそこで終わってしまいます。それではせっかく始まった物語が面白くなくなってしまう。ですから導き、目覚めさせたんですよ……深淵という名の災禍を」
 黒ウサギが楽しげに喋っている間にも、聖亜を抱えている女は氷の鞭で彼女をずたずたに引き裂いていく。だが、どうやら何の痛痒も感じていないらしい。
「ちっ、精神体か。攻撃が効いていないとはな」
「ふふふ、そうでもないですよ。おかげでこの体はズタズタです。けどこんな事をしていていいんですか? そろそろ、“目覚め”ますよ」
「何?」




 その時、ドクンっと、少年の胸が、鳴った。




「……あ、ぐ、かっ」


 
 熱い


 聖亜が一番初めに感じたのは、それだった。
 右腕が熱い。いや、腕だけではなく、体中が熱い。まるで体内に高温の蒸気を入れられたように熱い。まるで熱で真っ赤に染まった鉄棒をむりやり押し付けられたかのように熱い。
「聖亜!!」
 氷の鞭を消し、女が両手で必死に少年の体を支えている間に、黒ウサギの体は、段々とぼやけていった。
「……この世に勇者なんて存在しません。英雄なんて要りません。あるのは、必要なのは災禍を狩るための災禍のみ。そしてその災禍を狩るために別の災禍が生まれ、生まれた災禍を狩るために、さらに災禍が生まれる。こうやって物語は永遠に続いていくんです。それでは、名残惜しいですがこれで失礼を。御機嫌よう、王子様なお姫様。いずれ、お迎えにあがります」

 最後に優雅に一礼すると、黒くて長い耳を生やした女は、するりとまるで溶けるように消えていった。


「うあっ、うぐぅううううううっ!!」
 黒ウサギがいなくなっても、聖亜の体内にある熱は消えてはくれなかった。いや、むしろますますひどくなっていく。吐き出したい。吐き出して楽になりたい。そう思っても、一体どうすればこの熱を吐き出せるのか、聖亜にはまったく見当が付かなかった。
「くっ、ええい、埒が明かぬ!!」
 少年を救ったのは、暴れる彼を必死に支えていた女だった。頬を微かに染めると、少年の唇に、自分の唇を重ねた。
「……っ!!」
 接触した口を通じて、少年の体内で渦を巻いていた高熱が、彼女の体内に移動してくる。体内に充満してくる熱を無理やり押さえつけながら、彼女は必死に熱を吸い上げ続けた。



 やがて、少年の体内で渦を巻いていた高熱は、そのほとんどが女の体内へと移動した。
「ぐっ」
 唇を離すと、女は膝を突き、苦しげに呻く。
「……あ、れ?」
 体を蝕んでいた強烈な熱が収まり、ふらふらする頭を、聖亜は傍らで荒い息をしている女にそっと預けた。
「く……どう、やら、収まったようだの。まったく、聖亜、お主一体こんな所で何をしておる」
「何をって……何?」
首を傾げる“幼子(おさなご)”の頭を優しく撫ぜると、女はそっと手を翻した。真っ黒な空間に、ぼんやりと外の景色が見える。黒い湖と、そこから姿を見せている、巨大な黒蛇の姿が。
「あれは……」
「あれこそがニーズヘッグの真体。愚かな黒蛇だ。だが例え愚かといえど、人間のいかなる武器も奴には通じぬ。だが聖亜、お主の“手”ならば、奴を殺せるだろう」
静かに語りかけてくる女に、だが聖亜は幼い子供がいやいやをするように、首を振った。
「無理だよ、あんな奴に適いっこない。それに、それに俺が出て行けば、また誰か人が死ぬ」
「……ふむ、初めてそなたの口から無理という言葉が出たな。しかし人が死ぬ、か。すまぬがそなたの過去はこの空間を通るときに見せてもらった。教会の出来事が、なるほど、そなたにとって重荷になっているようだの」
 声を出さずに泣いている少年の頭を、女は優しく撫ぜていたが、ふと彼方を見た。
「……昔々、ある所に娘がいた。寡黙で厳しいが、優しい父親と、穏やかな笑みを浮かべる母親に育てられ、学校では友達も出来て、淡い初恋も体験した。だが」
「……」
「だが娘は、一夜にて友と初恋の相手を失った。四十八の仲間、五十のエイジャと共に……その娘が、ヒスイだ」
「……え?」
 ヒスイ、その名に白髪の少女のことを思い出し、聖亜ははっと頭を上げた。だが、銀髪の女はそれを優しく制すると、まるで子守唄を歌うように、話を続ける。
「百人を殺せば殺人鬼、百体のエイジャを殺せば英雄。なら一度に五十の人間と五十のエイジャを殺したものは、一体何になるのであろうな」
「……分からない、分からないよ、俺には」
 聖亜は、ふるふると首を振った。だがそこには、先程までの幼稚な雰囲気はもうない。彼は無意識の内に、赤く熱した右手を握り締めていた。
「そう。そなたに分からず、我にも分からず、そしてヒスイ自身にも、また分からぬ。だが、彼女の父親であるヌアダは、せめて彼女の身を守るために、彼女を偽の英雄に仕立て上げた……百殺の絶対零度という名の英雄に、な」
「……」
「聖亜、そなたにヒスイのようになれとは言わぬ。いや、言えぬ。だがな、甘えるのはお終いにして、いい加減に目を覚ませ」
「う……」
 不意に、睡魔が襲ってきた。必死に首を振るが、瞼は段々と下がり、視界はぼやけていく。
「待って……まだ貴方の名前、聞いて、ない」
「……元青王にして、“真理の探求者”コ×××トス。この名、覚えておくがいい。聖夜に生まれし炎の子よ」
 苦笑しながら自分を見つめてくる、優しい紫電の瞳を最後に、聖亜は穏やかな眠りに落ちていった。




 聖亜が完全に寝入ったのを確認すると、元青皇は苦しげにため息を吐いた。
「行ったか。それにしても、やはり疲れるの。時代すら焼き尽くす、黄昏の炎を吸い込むのは」
 右手を高く掲げると、少年から吸い取った高熱が、巨大な炎となって黒い空間に迸った。
 それは、まるで意志があるかのように逃れようとしていたが、彼女がぐっと手を握り締めると、ぎぎぎっと元の場所に収まった。
「さて、どうしてくれよう。面倒で厄介な事この上ない炎を」
 しばしの間沈黙していた彼女は、ふと頭を上げた。そういえば、先程から少年の周りで、何か白い物が三つ、ふわふわと飛んでいるのが見える。
「ふむ、自らの肉体を失っても、まだ聖亜と共にいる事を望むか……ならば」
 燃え上がる炎に、彼女はそっと左手を向け、それを上下左右に動かした。炎はまるで斬られたように分裂し、やがて三つに纏まった。
「ふむ……上級氏民、三つ分か。では行くが良い。自らが望んだ場所へと」
 彼女の声に導かれるように、三つの白い物体は、それぞれ炎の中に吸い込まれ、やがて消えていった。




 それを見届けると、嘗ての青王は、がくりと崩れ落ちた。






 目の前に、大きな黒い洞窟がある。

 
 寝起きのぼんやりとした頭で何だろうと考えていると、その洞窟は急に閉じようとした。
『馬鹿っ!! 避けろ!!』
「へ? うわっ」
 頭の中で突如響いた声に、聖亜は半ば無意識に右手を突き出した。すると、その“赤い”右手は、すぐ目の前まで迫っていた巨大な蛇の頭部を、一瞬で溶解させた。
「……あれ?」
「馬鹿者、何を呆けている、新手が来るぞ!!」
「あ、キュウ……新手って?」
 なぜか胸の上にいる黒猫に首を傾げた聖亜だったが、彼ははっと前方を見た。先程より小さい、だが巨木ほどの太さを持つ蛇が、群れを成して襲い掛かってくる。
「くっ!!」
 咄嗟に身構える聖亜だが、その必要はなかった。蛇達は少年の五メートルほどまで迫ると、“赤い”右手の発する高熱で、皆瞬時に蒸発していく。
「……キュウ、何なんだ、これ」
「今は説明している暇はない。蛇神が来るぞ!!」
 少年の胸から飛び降りた黒猫が、がくりと膝を付く。だがその心配をしている余裕はなかった。


 黒猫の言うとおり、空中に浮かぶ巨大な黒い湖から突き出ている、都市ほどもある巨大な蛇神が、その巨体をずるずると少年のほうに動かしたからだ。その表情は、驚愕と、そして恐れ。
「……“深淵の御手”でっすて、まさか」
 赤く、そして鋼鉄のごとく硬いその右手を見て、ニーズヘッグは一瞬微かに震えた。
「……そんなはずはない。大戦以降、“王”がこの世界に出現したという話は聞かない。それに」
 遥か昔に受けた傷の痛みを思い出すかのように、彼女は苦痛を堪えるような表情をする。


「それにそれは、最強の“真紅の御手”ではないか!!」



「……真紅の、御手?」
 首を傾げる聖亜の目の前で、不意に、右腕がその姿を変えた。
 腕は、始め一本の巨大な戦斧に変化したが、すぐに別の形に変わった。




 それを一言で表すならば、歪であろう。



 肩からは四本の排気口が飛び出し、鉄の腕からは何本ものパイプが突き出ている。腕と腕をつなぐ間接部では、歯車がぎちぎちと軋む音を立て、手のあった部分には灼熱に輝く剣が飛び出し、そして腕と剣を結ぶ手首は、“縦”に回転するタービンに変わっていた。
「ひぐっ、う、うぁあああああああっ!!」
「聖亜っ!! 馬鹿者、しっかりと気を持たぬか!!」
 突然手首を襲ってきた激痛に、聖亜は地面を転げまわった。当たり前だ。いくら形が変化しても、これは自分の右腕であることに変わりはない。つまり、回転しているタービンは、己の手首なのだ。縦に回転するタービンの中で、ぶちぶちと神経が千切れていく音がする。動脈が、そして静脈がごりごりと磨り潰され、その中を流れる血液が燃え上がる。だが、それはすべて幻聴だ。神経が通っているから、激痛は絶え間なく続き、血管が無事だから、排気口の先から赤い蒸気が噴出し、タービンは熱を剣に送り続ける。
「あらあら、どうやらうまく使いこなせない見たいねえ」
 嘲笑し、ニーズヘッグは口を限界まで広げた。その中に黒い霧が渦を巻いて出現する。いや、黒い霧ではない。あれは彼女の体内で生成される毒、その塊だった。
「ふふふっ、喰らいなさい。全てを溶かす、わたくしの吐息をっ!!」
口を歪ませ、彼女は毒の息を吐き出した。触れたもの全てを溶かす毒の息は、聖亜に当たる前に熱で蒸発していく。だが大量に、絶え間なく吐き出される毒に、さすがの高熱も、徐々に弱まっていった。




「……うっ」
 鍋島は、強烈な熱風で目を覚ました。周りを見ると、崩れた建物の側に居ることが分かった。ちょうど瓦礫と瓦礫の間に挟まって気を失っていたらしい。
「こ、こは?」
 立ち上がった彼の前に広がるのは、赤い景色だ。正確には、開いた傷口から流れる血で目が染まり、赤く見えるだけだが、彼には、その光景が、あの時と同じものに見えた。


 そう、15年前、全てが焼き尽くされた、あの時と。


「……帰ってきたのか、俺は。あの時、あの場所に」
 手で辺りを探ると、傍らに長年使用してきたライフルがあった。それを持ち上げ、損傷を確かめる。だいぶ痛んでいるが、どうやら後一発ぐらい撃てそうだ。
 痛む体を無理やり起こし、赤い景色の中、彼はそれを見上げた。赤く染まる、巨大な蛇の姿を。
「……く、くは、ははは、俺は馬鹿だ。こんな光景を、美しいと思ってしまったとはな。だが」
 だが、今は違う。今はもう、この光景を憎み、蔑むことができる。だから、
 鍋島は、服の裏側に厳重に縫い付けていたそれを、強引に引き千切った。
「これを、使えば……」
 それは、一発の黒い弾丸だった。自分に対する憎悪を抑えきれず、“降り神”の儀式に失敗した自分に与えられた、彼が持つ武器の中で唯一、爵持ちにすら傷を与えることの出来る物。だが呪い(まじない)ではなく、呪い(のろい)を込めたこれを使えば、呪いの一部が逆流し、自分も傷を負うと言われた。
「だが、それでも」
 それでも、その黒い弾丸をライフルに込め、血で滲む視界の中、必死に撃つ部分を探す。硬い鱗に覆われた肌は効果が薄い。口の中を狙っても、蛇神が吐き出している毒を貫けるかは分からない。なら、狙うのはただ一つ、奴の目だけだ。あそこなら間違いなく重傷を負わせられる。そして自分は、おそらく死ぬだろう。



 それでも、



「親父……おふ、くろ」
 ぶるぶると震える手でライフルを持ち上げ、


「清美、芳江」
 必死に目に狙いをつけると、


「明雄……」
 生まれてくる息子につける筈だった名前を呟き、


「お父さんに、力を、貸してくれ」
 彼は、引き鉄を、静かに引いた。





 地面の上で転げまわっている少年に、もう少しで吐き出す毒が届く、その瞬間、
「ぎっ!? ぎゃぁあああああああっ!!」
 いきなり左目に生じた激痛に、ニーズヘッグは毒を吐くのをやめ、天高く吼えた。
「がぁああああああああっ!!」
 並みの痛みではない。左目は完全に潰れてしまった。しかも、痛みは徐々に顔全体へと広がっていく。
「ぐぅうううううっ! さ、探せ蛇共、そしてここに連れて来い!! 私に傷を負わせた、不遜な輩ををををっ!!」
 ずるずると湖の中に逃げ込む親の命令に、黒い湖から新たに蛇の群れが飛び出す。だが、
「あら、残念。動きがちょっと遅いわね」
 だが次の瞬間、蛇達は一陣の風により、ばらばらに切り裂かれた。
「なっ!! 何者だ、貴様ぁっ!!」
「ふん、名乗る名前など無い!!」
 ビルほどもある巨大な蛇が、胴を真っ二つにされ地面に叩きつけられる。それでも何匹かは顔を黒く変色させた鍋島を見つけ、殺到した。
「……駄目ですよ、安らかに逝こうとしている方の邪魔をするのは、元“黒巫女”として許しません」
 しかし、彼らは赤く光る杖から放たれる光の帯に遮られ、ぼろぼろと崩れていった。

「なるほど、あの時私達を呼び出すことが出来たのは、“あなた”がエイジャだったから、か」
「……う、あ?」
 激痛の中、ゆさゆさと体を揺さぶられ、聖亜はぼんやりと目を開けた。目の前に誰かいる。いや、誰かではない。意識がはっきりすると、目の前に、五十センチほどの小さい人形の姿が現れた。
「あら、私の事、忘れちゃった? 坊や」
「……ナイ、ト?」
 馬の人形にまたがり、右手に真紅の槍を、左手に盾を持つ、まるで人形劇の人形のようなその姿は始めてみるが、その声は、間違いなく消滅したはずの、彼女のものだった。
「……その姿、は?」
「これ? 親切な元女王様にもらったの。それより、まだ痛む?」
 心配そうに覗き込む彼女に、聖亜は弱々しく首を振った。確かに激痛は続いており、熱も引いてはいないが、それでも耐えられないほどではなくなってきた。
「そう、なら周りの蛇達はどうにか足止めするから、あなたはあの高飛車な貴族をお願い。さて、ポーン! ビショップ! 行くわよ!!」
「はい」
「承知っ!」
 空を駆けるナイトの左から、赤い鎧兜に身を包み、巨大な戦斧を持った人形が、右から赤いローブを纏い、赤く光る杖を持った人形が続く。彼らを見送ると、聖亜はよろよろと立ち上がった。
「けど、どうやって倒したら」
「ふむ、分からぬか、聖亜よ」
 足元に黒猫が擦り寄る。首の辺りを撫ぜてやると、“彼女”は気持ちよさそうに鳴いた。
「ふにゃ、まったく、しょうがないのう。おい、馬鹿娘」
『……何だよ馬鹿猫』
 ふと、頭の中にふてくされた少女の声が響いた。
「お前……誰だ?」
『お前じゃねえ!! ちゃんと炎也って名前がある!! ったく、どいつもこいつも』
「貴様の名前なぞ馬鹿娘で十分だ。それより出番をくれてやる。貴様、聖亜の変わりにこの熱と痛みを、暫らく受けておれ」
『は? 何だよその役まわ……いでっ、あぢっ! いでちちちちちちっ!!』
 不意に、熱が引いた。同時に手首の痛みも消えている。同時に頭の中で少女がやかましく悲鳴を上げ始めた。痛みと熱は、どうやら彼女に移ったらしい。
「さて聖亜、黒き蛇神は湖に潜り、傷を癒している最中だ。あの湖は星ほどに深い。人間のいかなる武器も奴には届かん。さあどう戦う」
 聖亜は、空中に浮かぶ黒い湖を、ちらりと横目で見た。
「……干上がらせて、引きずり落とす」
「ふむ、引きずり落とすか。よかろう。真紅の御手は剣にあらず、それはお前の右腕だ、聖亜」
「……なら、その姿形を変えろ、真紅の御手」
 冷徹に、聖亜は自らの右腕に命じた。一度ぶるりと震え、剣はその形を変える。少年の望む姿へと。
「無限に伸び、そして奴を捕らえろ!!」
 主の声に応え、先端に赤い鉤爪を持つ、赤い鎖に姿を変えた彼の右手は、黒い湖に向かって一直線に伸びていった。



 異変を感じたのは、黒い水に傷ついた体を浸している時だった。


 明らかに水の量が減っている。そんなはずはない。そもそも減っていると感じることすらおかしいのだ。星ほどの深さをもつこの湖は、自分と自分の眷属、その全てを飲み込んでも、遥か遠くまで広がっているから。
 苛立たしげに身を起こし、その原因を探ろうとした時、



 それは、黒い鱗を砕き、首筋にぶつりと食い込んだ。


「ぐがっ!!」
 そのまま、ずりずりと外に向かって引きずり出される。痛みに身をくねらせ、何とか逃れようとするが、首に食い込んだ鉤爪は、まったく離れない。
 やがて、彼女は居心地のいい湖の中から、外へと引きずり出された。
「なっ!!」
 その時、彼女の目の前で、今まで自分が潜っていた黒い湖は、跡形もなく蒸発した。
「なによ、なによなんなのよ、これはぁあああっ!!」
 


『へ、へへっ。蛇の一本釣りってか?』
「……騒ぐな馬鹿娘、まだこれからだ」
『へいへい、ったく、それが痛みと熱を肩代わりしてやった、もう一人の“自分”に対する言葉かねぇ』
「……再び姿を変えろ、鉤爪。剣へと」
 頭の中で喚く少女を無視し、聖亜は鎖の付け根を優しく撫ぜた。それに応えるように、鎖は瞬時に先程の剣へと戻る。黒い蛇神は、一瞬空中に浮いたと思うと、ズズンッと、地面にその巨体を横たわらせた。
 聖亜は、痛みでのた打ち回るその蛇を一瞥すると、ゆっくりと歩み寄った。
「……」
「きさ、貴様っ!! 汚らわしい家畜の血を持つ、呪われた混血児の分際で、神たるこのわたくしを殺せると、本気で思っているのかっ!!」
「……ああ、確かに人間、お前の言う家畜の力では、お前を殺すのは無理だろうさ。けれど」


 冷たく笑い、聖亜が剣に変わった右手を、高く上げると、
「けれど、どうやら俺のこの手は、人間の“それ”ではないらしい」
 細く尖った枝のような刀身に、天をも焦がせと、炎が迸る。
「さあ、真紅の御手よ、お前に名前をつけてやる!! かつて世界を焼き尽くしたといわれる魔剣、その偽物の名を!!」
「ぎ、がああああっ!!」
「黙れ」
 闇の底のように黒く暗い瞳を鈍く光らせ、冷徹に、そしてどこまでも冷酷に、
「やめろ、いえ、お願いだからやめてぇええええっ!!」
「喚くな、蛇」
 その名を叫び、振り下ろす。


「全てを屠り、そして焼き尽くせ! 炎の偽剣、レバンテイン!!」


 振り下ろされた剣―レバンテインは、その名前の通り、黒き蛇神を焼き尽くした。




 一つの灰も、残す事無く









  森岡は逃げていた。



 彼は、確かに高天原に所属し、エイジャと戦う守護司だった。だが金遣いが荒く、特に賭け事にのめり込んだ彼は、自分の借金を肩代わりしてもらうため、知り合いだった狸山に手渡したのだ。


 厳重に封印せねばならなかったエイジャを呼び出す禁断の魔道書、“喚起の書”を。


「早く、早く逃げねえと……ひっ」
 目の前でまた一匹、空中から落ちてきた蛇が燃えて消える。黒い湖が消えうせ、親であるニーズヘッグが滅んだことで、その体を維持できなくなったのだ。
「これは夢だ。そうだ。エイジャが……その中でも神と呼ばれるお貴族様が、たかだか人間に殺されるはずがねえっ!!」
 目の前の黒い鳥居を潜り、その先にある黒い鳥居を潜り、さらにその先にある黒い鳥居に手をかけた時、森岡は、ふと足を止めた。
「……なんだ? こりゃあ」



 彼の前に立ち並ぶのは、何百、何千もの、黒い鳥居だった。



 慌てて後ろを振り返る。だが、そこに彼が走っていた道はない。前と同じように、無数の黒い鳥居が立ち並ぶだけだ。


―とおりゃんせ  とおりゃんせ―


「ひっ」


―ここは どこの ほそみちじゃ―


 その時、ふと微かに歌声が聞こえてきた。


―てんじんさまの ほそみちじゃー


 その歌は、だんだんこちらに近づいてくる。
「こ、木霊っ!!」
 森岡は、必死に左手を前に突き出した。手のひらの中央から、何本もの木の根が飛び出す。これが、彼の持つ“降り神”だった。
 だが、大した神ではない。木の数と同数いるといわれる木霊、その中でも最下級の神だ。むろんエイジャと渡り合う力もない。以前白髪の少女に言ったとおり、ただ道を探るだけだ。だが、この場合はその能力が役に立つ。役に立つ、はずだった。
 森岡の手から生まれた木の根はぞろぞろと目の前の空間に伸びていったが、目の前の闇に触れたとき、それはふっと掻き消えた。
「う、嘘だ!! 俺の、俺の木霊がぁあああっ!!」
 半狂乱になった森岡は、震える足をばたばたと動かし、黒い鳥居の間をどこまでも走る。だがどれほど走っても、鳥居が途切れることはなかった。


―いきはよいよい かえりはこわい―


 遥か遠くから聞こえていたはずの歌は、まるで耳元でささやく様に聞こえてくる。



そして


―こわいながらも とおりゃんせ―



そして森岡は、目の前に広がった闇に、自ら飲まれた。



「とおりゃんせっと」
「……お食事は終わりましたか、神楽様」
「ええ、あんまりおいしくなかったけれどね」
 手渡されたナプキンで口を拭うと、神楽はにっこりと笑った。
「……それで?」
「はい。やはり絶対零度を編入させたのは、監視下に置き、有事の際は即座に捕らえられるようにするため、だそうです」
「あらあら、それは災難だったわねえ」
「ええ……それで、結局この都市はどうするおつもりですか?」
「そうねえ、黒蛇さんも死んじゃったし、私が直に手を下すのも面白いけど、どうしようかしら……ねえ、白夜ちゃん」
「っ!!」
 彼女が眼を向けた闇に、氷見子はばっと身構えた。



 闇の中、金色に光る二つの瞳が浮かび上がっていた。
「…………久シブりデスな、神グら様」
「ええ。けど、ふふ、力を使いすぎたみたいね、中々“戻れない”でしょう」
「……マあ、モうスグ戻れマすガね。トこロデ、この都市ヲ本当に滅ボすツモりでスか?」
「さて、どうしようかしらね」
「イイのですか? この都市にハ、聖ガいマすよ」
「あら、確かに聖ちゃんはかわいいけれど、それと私の恨み、どちらが強いかといったら、ねえ」
「……ふう、やっと戻れた。ま、こうなったら一つ種明かしをしましょうか。聖の母親ですが、×××です」
「……」
 闇の中から出てきた男の言葉に、神楽は穏やかな笑みのまま、右の眉をピクリと動かした。
「……あら、それはどういう意味かしら」
「さあ、それは自分で考える事ですな。では俺はこれで。玄や青流によろしく」
 笑いながら去っていく白夜を見送ると、神楽はふうっと息を吐いた。
「あの、神楽様……」
「……さて、もう帰りましょうか、ひいちゃん」
「は、はい。それで、今後どういたしますか?」
「そうね、ふふ。学校も少し壊れちゃったし、聖ちゃんは“こっち”で預かろうかしら」
「聖を手元に置くのは賛成……って、そうではなくてですね、この都市のことです」
「この都市? 白夜ちゃんにでも任せておけばいいじゃない」
「……あの男は、もはや黒塚家とは何の関係もありません」
 首を振る氷見子を見て、神楽は暫らく考え込んでいたが、やがてぽんっと手を打った。
「分かったわ。それでは雷ちゃんを派遣しましょう」
「雷ちゃん……神楽様、まさか“雷神の申し子”ではないでしょうね」
「あら、駄目かしら」
 可愛らしく笑う、“三十代前半”の姿をした神楽に、彼女の側女、“八雷姉妹”の五女―伏雷である八雷氷見子は、呆れたようにため息を吐いた。


                                   続く



 こんにちは、活字狂いで…………やあ、始めまして、と言うべきかな。おや、僕が誰かって? この“喜劇”を見てくれた人なら、すでに分かるはずだよ。まあ、一応自己紹介を。次元を渡りし案内人、名を黒ウサギ。ヘボ作者の変わりに、どうぞお見知りおきを。さて、「スルトの子 第六幕   スルトの子」はいかがだったかな? 王子様なお姫様の腕に生まれた深淵の御手は、確かに最強ではあるけれど、それを使いこなすのは、まだ彼には無理っぽいね。ま、そこはおいおい期待するとして、では次回「幕間   湖畔にて」そして「終幕   朝日の中の抱擁」を、どうぞお楽しみに。では…………す。あれ?



[22727] スルトの子 幕間   「湖畔にて」
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2016/05/07 12:17

 アメリカ合衆国―五大湖、スペリオル湖周辺―



 強い寒気のため、“別の世界”であれば重工業地帯として発展するはずだったここは、温暖な気候を保つこの世界では、豊かな農園地帯へと、その姿を変えていた。

 その農園地帯の間を走る砂利道を、古い蒸気トラックが走っている。ガタガタとうるさい音を立てるのは、蒸気エンジンの状態があまり良くないからだろう。
 やがて、トラックは農園地帯を離れ、近くの森の中へと入っていった。




 その男は、黙って釣り糸を垂らしていた。



 短く刈った黒髪と、整えた黒髭を持つ美丈夫だ。年は四十代前半ほど。だが、彼の一番の特徴は、その右腕が銀で出来た義手であることだろう。


 ふと、彼の膝の上で眠っていた赤子がむず痒いた。
 その頭を撫ぜ、振り返った男の視線の先に、トラックがガタゴトとやってくるのが見えた。



「先生、ヌアダ先生!!」
「……マーク、か」
「はい。お久しぶりっす!!」
 トラックから出てきたのは、男より頭一つ分低い、陽気な感じの青年だった。頭一つ低いといても、男の身長は二メートル以上あるので、彼も百八十センチ以上ある。
「……ここには、あまり車で来て欲しくないんだがな」
「う、すいません、配達の途中だったもので。あ、これ奥さんからです」
 ハムとチーズのサンドイッチを手渡され、男は顔を顰めた。彼はチーズが苦手なのだ。
「……マーク」
「駄目っすよ、ちゃんとチーズ食わなきゃ、俺がネヴァンさんに叱られます。それから」
 青年は、懐から一枚の封筒を取り出し、彼の横に置いた。
「これ親父からです。必ず渡すようにって」
「……そうか。いつもすまないな」
「いえ、じゃあ配達があるんで、これで」
 青年の運転する車が、またギシギシと音を立てて遠ざかる。それが見えなくなってから、男―ヌアダはまた、腰を下ろした。
「……」
 手紙の中身は、見なくとも分かる。
 封筒に押された、自らの尾を食む竜の蝋印、これは
「……査問会の、招集、か」


 不意に、ヌアダは何かに堪えるように目を閉じた。
「娘よ……」
 彼の重々しい呟きに、鳥の声が止まり、森のざわめきが止まり、河のせせらぎが止まり、


 そして、


 そして、風が止まった。


「娘よ……そなたを救うため、英雄として戦う道を選ばせた父を許すな。心優しいお前に、絶望と悲しみを味あわせる愚かな父を、決して許すな」
 苦しげに呟く懺悔の言葉は、彼の膝で眠っている赤子以外、誰にも聞こえることはなかった。




 西暦2015年7月8日。第二級魔器使、ヒスイ・T・D、本名ヒスイ・トゥアハ・デ・ダナン、禁技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)”の使用につき、査問会の査問対象に決する。
















          けふのうちに
          とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
          みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
         (あめゆじゆとてちてちてけんじや)




 女は逃げていた。


「何なの? 何なのよ、あれ」
 必死に逃げながら、彼女は後ろをちらりと振り向いた。
 彼女の視線の向こうに、八本の足を壁に器用に掛けながら向かってくる、大蜘蛛の姿が見えた。






          うすあかくいつさう陰惨なくもから
          みぞれはびちよびちよふつてくる
         (あめゆじゆとてちてけんじや)




 分からない。自分は確か図書館から帰宅している途中だった。なのに、なぜあんな化け物に襲われているんだろう。





          青いじゅんさいのもやうのついた
          これらふたつのかけた陶碗に
          おまへがたべるあめゆきをとらうとして
          わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
          このくらいみぞれのなかに飛びだした
         (あめゆじゆとてちてけんじや)



 何度目かの角を曲がったとき、不意にぐらりと体が傾いた。恐怖に顔を引きつらせ、足元を見ると、化け物が吐き出した所々変色した白い糸が、彼女の右足にきつく絡まっていた。





          蒼鉛いろの暗い雲から
          みぞれはびちよびちよ沈んでくる




「うっ、くぁ」
 必死にもがく彼女の上に、蜘蛛が降り立つ。右手に持ったバッグを振って必死に抵抗するが、それは八本ある足の中の一本で、軽く弾き飛ばされた。
「ひっ……う」
 もう抵抗することは出来ない。両手両足はそれぞれ四本の足で押さえつけられ、残りの四本の腕は、まるで食事の前に手を合わせているかのようだ。




          ああとし子
          死ぬといふいまごろになつて
          わたくしをいつしやうあかるくするために
          こんなさつぱりした雲のひとわんを
          おまへはわたくしにたのんだのだ




「……っ」
 そして、ぐぱりと、口が開いた。
 もう声を出すことも出来ない。怪物の牙が、恐怖で怯える彼女の首に突き刺さろうとした時、


 ヒュッ

 
「……グガッ?」
 蜘蛛の顎は、どこからか飛んできた鋼糸で、きつく縛り付けられた。




          ありがとうわたくしのけなげないもうとよ
          わたくしもまつすぐにすすんでいくから
         (あめゆじゆとてちてけんじや)




ギャリリリリリリッ!!
「……え?」
 そして次の瞬間、蜘蛛の頭は、上から降ってきた“それ”に、一撃で粉砕された。





          はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
          おまへはわたくしにたのんだのだ
          銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
          そらからおちた雪のさいごのひとわんを




「……」
 巨大な蜘蛛の頭部を一撃で粉砕した武器は、目の前の男が振るった巨大な二つのチェーンソーだった。こびり付いた肉片を振り払うと、男はむっつりと彼女を見る。
 その身長は百九十センチ以上。疲れきった老人のような白髪は重力に逆らうように天に伸び、自分を見つめる灰色の瞳は、鈍い光を放っている。
「あ、あの、どうもありがとう」
「……」
「……?」
 立ち上がって礼を述べても、男は不気味に彼女を見つめてくるだけだ。
 もう一度礼をし、立ち去ろうとした、その瞬間、


ギャリッ
「…………え?」
ギャリリリリリリリッ!!





          ……ふたきれのみかげせきざいに
          さびしくたまつたみぞれである
          わたくしはそのうへにあぶなくたち
          雪と白のまつしろな二相系(にそうけい)をたもち
          すきとほるつめたい雫にみちた
          このつややかな松のえだから
          わたくしのやさしいいもうとの
          さいごのたべものをもらつていかう





「あああああああああっ!!」
 右腕を切り飛ばされ、彼女は地面に倒れ伏した。辺りにはおいただしい“緑色”の血が飛び散り、彼女は必死に男から逃げようとした。
「……」
「どうして、どうして私“まで”殺そうとするのっ!! あなたたち玩具使いが討つのは、人間に害をなした伝道者だけのはずでしょう!? なのに、なんで私までころそ「……うるさい」ひっ、あああああっ!!」
 頭から飛び出ている触角の一つを切り飛ばされ、巨大な蜂の姿をしたエイジャは、平衡感覚を失って、ぱたりと地に落ちた。
「……な、なぜ」





          わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
          みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
          もうけふおまへはわかれてしまふ
         (Ora Orade Shitori egumo)




「……我正す、故に我あり」
「ひっ」
 男の灰色の瞳が、彼女を何の表情も宿さず、見た。
「この荒んだ世界に必要なのは、絶対的な、そして僅かな綻びも無い正義だ。だがお前達エイジャは悪だ。悪は潰す事で正さなければならない。人に危害を加えていないから討たれないだと? くだらん。もう一度言ってやる。貴様らエイジャは、ここに“存在”するだけで悪だ!!」
「っ、うる、さい!!」
 ほんの僅か掠めただけで、巨象をも殺す猛毒を持つ針が、男に向けて伸ばされる。だが、男は一度ふんっと鼻を鳴らすと、それを右手で持ったチェーンソーで軽く打ち払った。
「くっ」
「本来なら“千分割”にするところだが、貴様が俺の質問に答えるならば、今回だけは許してやろう。“緑界”出身の貴様なら知っているはずだ。“レッド・ドラゴン”の残党はどこにいる」
「れ、レッド・ドラゴンですって? 知らない、あんな“奴ら”、私が知っているはずが無い!! 喋ったからもういいでしょう、放してよっ!!」
「……」
 彼女の答えを聞いて、ほんのわずか気落ちした男から、蜂のエイジャは必死に逃げようとした。だが、
「……どこへいくつもりだ?」
「きゃっ!!」
 足の片方が、チェーンソーによって地面に押さえつけられた。
「どうして、ちゃんと私は言った。知らないって!! なのになぜ!!」
「解放するとは誰も言っていない。千分割をやめてやると言ったんだ。まあ、九百九十九分割で勘弁してやろう」
「そんな、そんな……あ、あなっ!」



 ギャリメリドガグシャガギギギギギギッ!!





          ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
          あああのとざされた病室の
          くらいびやうぶやかやのなかに
          やさしくあをじろく燃えてゐる
          わたくしのけなげないもうとよ
          この雪はどこをえらぼうにも
          あんまりどこもまつしろなのだ




「……お楽しみの所、すまないね」
 “解体”作業をしていた男は、後ろから聞こえてきた女の声に、一瞬ちらりとそちらを見た。
 だが、すぐにまた目の前の肉塊の解体作業に戻っていく。
「ふん、相変わらず一つの事に熱中すると、周りが見えなくなるねえ」
「……何のようだ」
 男のぶしつけな質問に口を尖らせると、彼女は先程蜘蛛の頭を押さえた鋼糸を、左腕にゆっくり巻き付けた。
「おやおや、つれないね。まあいい。査問本部から連絡だ。魔器使の一人が日本で違反を犯したってさ」
「……そんな奴、下級査問官にでも任せておけばいいだろう。わざわざ“俺達”が出向く必要は無い」
「……へえ、いいのかい? 違反を犯した魔器使って、“絶対零度”なんだけどねえ」
「何だと?」
 彼女が放った言葉の一つに、男はひくひくと動く肉塊から顔を上げた。






          あんなおそろしいみだれたそらから
          このうつくしい雪がきたのだ
         (うまれでくるたて
          こんどはこたにわりやのごとばかりで
          くるしまないようにうまれてくる)





「……く、くくっ、そうか。あいつが、あいつが遂に罪を犯したか。なあ、“一殺多生”」
「ふん、なんだい“閃光”」





          おまへがたべるこのふたわんのゆきに
          わたくしはいまこころからいのる



「やはりこの世界に理想郷など無いな、特にイーハトーヴォなど、どこにも無い!!」
「……ふん、また宮沢賢治かい」
「ああ。そして、理想郷がどこにもないのなら、やはり絶対的な正義で、悪を断つしかないよなっ!!」
 五百分割余の力を込めた一撃を肉塊にぶつけた男は、狂気の笑みを顔に乗せながら、漆黒の夜空を仰ぎ見て、低い、どこまでも低い声で、笑い続けた。





          どうかこれが兜卒(とそつ)の天の食に変つて
          やがてはおまへとみんなとに
          聖い糧(かて)をもたらすことを









          わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

            (宮沢賢治『永訣の朝』)

                                   続く



[22727] スルトの子 終幕   朝日の中の抱擁
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:a8247099
Date: 2015/12/19 23:00
 西暦2015年(皇紀15年)7月8日 6時00分

 
 長い漆黒の夜が、明けた。


 海の向こうから太陽が昇ってくるのを、聖亜は瓦礫の上に座ってぼんやりと眺めていた。

 彼の周りには、膝の上で死んだように眠っている白髪の少女と、彼女を心配そうに見つめる黒猫の姿しかない。

 復活した三体の人形は、ニーズヘッグが滅ぶのと同時に力尽き、物言わぬ人形になり、今は少年が持ってきたバッグの中で眠っている。
 先程まで頭の中で喚いていた炎也と言う名の少女も、熱さと疲労でへばったのか、沈黙したままだ。


 そして、鍋島先生は、


 彼は瓦礫に埋もれて死んでいた。
 その顔はどす黒く変色しており、特に左目は完全に潰れてしまっていた。まるで、

 まるで、あの蛇神と同じように。だが、



 だがその表情は、眠るように穏やかだった。


「そう悲しげな顔をするな、聖亜」
「……キュウ」
 彼の遺体の前で悲しげに俯く少年の肩に、飛び乗ると、黒猫は聖亜の頬に軽く擦り寄った。


 まるで、涙を流さず泣いている少年を、慰めるかのように


「それより、右腕は大事無いか?」
「うん。大丈夫」
 あの時、ニーズヘッグを灰も残さず焼き尽くした彼の右腕は、今は普段の、つまり人間の腕に戻っていた。もっともキュウが言うには、それは戻ったのではなく、人間の腕に“擬態”しているだけらしい。
 なるほど、言われてみれば確かに多少違和感はあった。


「ならば良い。それよりヒスイが目覚めたら移動するぞ。ここに留まっていたら、厄介な事に巻き込まれかねん」
「……」
 黒猫の声に何も答えず、聖亜は俯いたまま、そっと右腕に触れた。
「……聖亜、そなた一体何を悩んでいる? そなたはニーズヘッグを、神たる貴族を滅ぼした。もっと己を誇ってもいいと思うがな」
「…………キュウ、結界喰らいって、何だ?」
「……何?」
「何で俺はこんな力が使える? 何で右腕が変化した? 何で俺は、ああも残酷に笑えた? 俺は、俺は」


 人間じゃ、無いのか?


「それは……」
 右腕をぎゅっと押さえ、必死に何かに耐えている少年を、黒猫は何も言わず見つめていたが、やがてため息を吐き、彼方の海を眺めた。
「…………結界喰らいとは、エイジャの張った狩り場の効果を無効化する能力を持つ者のことだ。狩り場自体ではないぞ、そなたも取り込まれていただろう。無効化できるのは、あくまで狩り場に取り込まれる事で発生する意識の消失、その他身体的障害のみだ」
「……」
「そして、その能力はエイジャにも、まして人間にも持つことは出来ない。そなたがこの能力を持っているのは、そなたが……そなたがエイジャと人間の、“混血”であるからだ」
「混血……なら」
 なら、あの黒い蛇神が発した言葉は本当なのだろうか、自分が、呪われた混血児である事は。
「……そして、その腕“真紅の御手”だが」
 一度言葉を切り、少年が落ち着いたのを確認すると、黒猫は彼の顔をじっと見つめた。
「獄界に四王あり。すなわち北に黒皇南に赤王、西に青王東に緑王。彼ら、あるいは彼女らは、それぞれが世界を消し、銀河を砕き、宇宙を滅する能力を持つ。そしてその力こそ……深淵の御手(しんえんのおて)」
「黒、赤、青、緑……じゃあ俺は」
「……赤王に連なる何者が、そなたの片親なのだろうな。だが真紅の御手の名がレバンテインだと? 何とも偽者臭い名前だの。なぜレーヴァティンではない?」
「……だって、これは世界を滅ぼす剣なんかじゃなくて、俺の右腕だし、俺なんかにそんな格好いい名前、似合うはずが無いから」
 笑いながら聖亜は答えた。そして、笑いながら、彼は




「……んっ」
 ヒスイは顔に落ちた水滴で、ぼんやりと目を覚ました。まだ意識がはっきりしない。けれど、頬にぽつぽつと落ちる水滴の感触は、なぜかはっきりと分かる。
「雨、か?」
 それにしては、唇に当たった水滴の味はしょっぱい。目をごしごしと擦り、上を仰ぎ見た少女の瞳に、ふと少年の顔が見えた。



 笑いながら泣いている、その顔が。



 彼は、泣いていた。

「聖亜、そなた……」
「会いたい、な。父さんと母さんに。どこで知り合って、何で好きになって、そして……そして、どうして俺なんか生んだのか、会ってちゃんと、聞きたいな」


 ―俺は、親なんていらない―


 あの時、夕陽で真っ赤に染まった橋の上で、そう言った少年が、親を求めて、泣いていた。



 その少年を見て、ヒスイは


 母として甘えさせるには 包容力が無く

 姉として叱るには 経験が足らず

 妹として甘えるには、矜持がありすぎ

 恋人になるには、婚約者がいるから不可能で

 友達とは、はっきり呼べない

 その全てになれない少女は、だが、





 だが、その全ての代わりに、抱き締めた。


 母の代わりに、姉の代わりに、妹の代わりに、恋人の代わりに、友達の代わりに


 朝日が照らす中、自分が泣いている事に気付かない幼子(おさなご)を、少女はいつまでも、





 いつまでも  いつまでも  抱き締めていた



                                   続く


 こんにちは、活字狂いです。いや、何とか今年中にスルトの子を書き終えることが出来ました。が、当然ながらまだ終わりません。全体で言えば、スルトの子は完全な序幕です。さて、では設定を書き込み、誤字脱字を修正し、一月中頃からは、「スルトの子Ⅱ 炎と雷と閃光と」をお送りしたいと思います。では皆様、良いクリスマス、そして良いお年を。



[22727] スルトの子   設定
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2010/12/27 11:33

1.登場人物編(その他・エイジャ以外、身長・体重を記載)


主要登場人物


星聖亜(ほしせいあ)
 スルトの子の主人公。市立根津高等学校一年生で、空船通りにある喫茶店「キャッツ」でアルバイトをしている。15歳。黒い長髪を持ち、顔つきも中性的というよりは女顔のため、バイト先の制服を着ると本当に女にしか見えない。そのためよく間違えられて男に言い寄られる。性格はヘタレな小心者。現在は太刀浪市旧市街観光地区の外れ、下町の中にある八百坪ほどの巨大な家(元宿坊)に一人で住んでいる。家族は父がいるが、旅好きなためほとんど家にいることはない。ヒスイ達と出会い、エイジャとの戦いに巻き込まれていく。今のところ恋人は柳準、友人は秋野と福井。師匠は一応荒川白夜。好きなものはかりんとう。嫌いなものは火。
身長 156センチ 体重47キロ 一人称は「俺」 童貞ではない。


 現在まで判明している真実。

1 実は旧市街の出身ではなく、太刀浪市西部に広がる復興街と呼ばれる地域の出身。快楽区にあった聖エルモ教会で五歳の頃まで育てられていたが、その後子供のいない星家に養子に出された。それでもちょくちょく教会に遊びに来ていたが、八歳の頃ある事件がきっかけで教会を全焼させ(この事が原因で火が嫌いになった)、その後快楽区を中心に活動する自警団「ジ・エンド」に入団。十歳になる頃には幹部になり、“最狂”または“血染めの吸血鬼”として恐れられていたが、中学二年の時に脱退。その後は性格が一変し、現在のようなヘタレになった。

2 彼は結界喰らいと呼ばれる者であり、これは後述で詳しく語るが、完全な人間ではなく、キュウが言うには人間とエイジャのハーフらしい。詳しいことは不明だが、荒川白夜やキュウ、ナイトは、彼こそエイジャの部分と言っている。

3 人を傷つけることにより激痛が走るが、これは意識の中に厳重に組み込まれた封印のせい(荒川白夜が組み込んだものと思われる)。だが物語が終わった時点で砕け散っており、封印が施される前の性格に戻っている可能性がある。


武器  炎の偽剣“レバンテイン”
 ニーズヘッグとの戦闘中に突如目覚めた聖亜の武器。正式名称は“深淵の御手”の一つ“赤き御手”。彼の右腕が変化したもので、第一形態は真紅に染まった鋼鉄の腕で、この状態でも彼に害をなそうとするエイジャは、下級であれば腕が発する高熱により近づいただけで蒸発する。第二形態は肩からは四本の排気口が、腕のあちこちからはパイプが飛び出し、間接部は歯車、手首はタービンになっており、手首から先の部分が武器に変化する。基本は剣だが、聖亜の命令でその形を自由自在に変化させる。ニーズヘッグを引きずり落とすために聖亜が変化させたのは先端に鉤爪が付いた赤い鎖だが、これは空気中にあるメタンを吸収して鎖を作っているため、どこまでも伸びていく。その威力は爵持ちを完全に消滅させるほど。だが第二形態になった時は激しい高熱と激痛に襲われ、自由に動かすことが出来ない。現在は人間の腕に擬態している。

今までの形状
 剣形態 第二形態の基本。体内の血を燃焼させることで高熱を発生させ、破壊力を増す。その威力は爵持ちを一撃で消滅させるほど。
 鉤爪形態 手首から先が鉤爪の付いた赤い鎖になる。鎖はパイプから空気中のメタンを吸収して作られるため、理論上どこまでも無限に伸びる。元ネタはアクエリオンの「無限拳」

七月炎也(ななつきえんや)
 ニーズヘッグとの戦闘中に突如目覚めた聖亜の別人格。彼女が表に出ている際、外見は灼熱の髪とルビーのように赤く光る瞳を持った少女になる。性格は自分では残忍といっているが、倒壊する建物からヒスイを救出するなど、どこかお人よしの部分がある。全身に炎を纏わせることができ、爵持ちにもダメージを与えることが可能。また体内に高熱を送り込むことで毒を中和することができる。彼女の詳しい詳細は今のところ不明。

ヒスイ・T・D
 スルトの子の、もう一人の主人公。16歳。本名はヒスイ・トゥアハ・デ・ダナン。アメリカを中心に世界中で活動する対エイジャ組織“魔女達の夜”に所属する第二級魔器使(まきし)。過去に百殺を成し遂げ、“百殺の絶対零度”の異名を持つ。透き通るような短い白髪と蒼い瞳を持ち、中性的でスレンダーな体格から聖亜は最初彼女を少年だと思って接していたが、実際には少女であり、彼女は一度とて自分を男だといった覚えは無い。性格は冷静沈着を心がけているが、冷徹というわけではなく、子供好きで心優しいところがある。家族構成は少なくとも父と母がいる。戦闘能力は高く、中級のエイジャであれば圧倒できるが、流石に上級には苦戦、爵持ちとなると歯が立たない。相棒は黒猫のキュウ。武器は二振りの刀の形をした魔器「鬼護り」 強くて天然で乙女でお嬢様で年上。
 身長167センチ 体重49キロ 一人称は「私」
モデルはガンパレード・マーチの芝村舞。外見は変更したが、一応性格は似せた。

現在判明している真実
1 鬼護りを使っての戦闘だけでなく、簡単な封鎖結界を張ったり、手首に埋め込んだ宝石で太刀の中に蓄えられていたエネルギーを解放して絶技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)”を使用することが可能。しかしこれは彼女自らが禁技としており、もし使用した場合は罪を犯したことになり査問会に掛けられる。

2 彼女はエイジャを百体殺したのではなく、五十の人間と五十のエイジャを一度に殺したが、彼女の父によりエイジャを百体殺したことにされ、百殺の異名を持つようになった。この詳細は不明。

武器  魔器「鬼護り」
 マイスター・ヘファトが作成した魔器。「鬼から護られるのでも、鬼に護られるのでもない、鬼すら身を護るほどの切れ味を持つ」という意味で作られた。太刀「善鬼」・小太刀「護鬼」の二振りで構成されている。スフィルや中級のエイジャであれば一撃で倒すことが出来、上級とも互角に渡り合えるが、爵持ちには歯が立たない。

キュウ
 ヒスイの相棒兼師匠兼お目付け役を務める雌の黒猫。3歳。紫電の瞳と黒い毛皮を持つ。性格は厳格にして尊大。ヒスイを半人前、聖亜を半人前以下の未熟者と呼んでからかう。だが思慮深く、本当に困っているときは助言を行う。瞳を光らせて相手を混乱させたり、記憶を消去したり、細胞を活性化させて治癒能力を高めたりすることができる。
 身長五十センチ 体重は不明 一人称は「我」 

 現在判明している真実
1実は地獄の錬金術師により作られたホムンクルスであり、ドートス程度の攻撃による傷は瞬時に癒える。その構造は不明。

2時折何千年も生きているような口ぶりで喋り、エイジャのことにも詳しいが、その詳細も不明。

小松
 ヒスイを慕う彼女の小姓。外見年齢11歳ほどで、晴れ渡った夜空のような瞳を持つ。その正体はヒスイの持つ魔器の一つ「護鬼」で、普段は小太刀の形をしているが、本体は人型のほうであり、炊事洗濯など家事全般が得意。性格は強がりな所があるが、本当は怖がりで泣き虫で意気地なし。ヒスイが心を許していると思われる聖亜を毛嫌いしている。
身長 140センチ 体重不明 一人称は「私」

現在判明している真実
1本人は男だと言い放っているが、本当は無性。というのも魔器はそのほとんどが最初は無性で作られるためであり、成長するに従い男か女の性になり、この時になって初めて切れ味が増す。小松は男になることを望んでいたが三年経過してもなることが出来ず、逆に聖亜に触れられ、叱咤され、慰められ、抱きしめられたことで僅か一週間で女になってしまった。今はぶつぶつと文句を言っているが、ヒスイと一緒にお風呂に入るのが楽しみ。ただ彼女より胸が大きいので睨まれる事がある。


小梅
 ヒスイの小姓。外見年齢は24歳ほどの、黒い艶のある髪と色気のある細い瞳を持つ女。その正体はヒスイの持つ魔器の一つ「善鬼」で、普段は太刀の形をしているが、小松同様人型が本体。性格は歓楽的で、酒を嗜み、聖亜をからかう事を楽しみにしている。上記の通り性が確定しているため切れ味は凄まじく、異形の姿になったドートスでさえ切り刻むことが出来る。また、人型の時にはキュウの記憶消去を広範囲に広げることができ、太刀の場合は絶対零度(アブソリュート・ゼロ)を使用するときの武器になるなど、活躍の場は広い。
 身長172センチ 体重不明 一人称は「妾(わらわ)」



柳準(やなぎ じゅん)
 市立根津高等学校に通う女子生徒。十五歳。肩まで伸びる多少癖のある天然の茶髪と褐色の肌、中性的な美貌と巨乳を持つ聖亜の唯一にして一応恋人。以前は男に相手にもされず、今はその胸のせいでじろじろと見られ、一日に何度も告白されるため聖亜以外の男を毛嫌いしているが、その分聖亜に対してはべた惚れで、ほとんど依存しているといってもいい。だが聖亜も彼女が教われそうになった時は我を忘れるほどに激昂しているため、互いに依存している関係にある。両親は海外出張しているため、現在は旧市街の観光地区にある祖母の家に居候しているが、実家は新市街にあるらしい。趣味は読書。
身長175センチ 体重54キロ  一人称は「私」「俺」

現在判明している真実
1聖亜とは高校に入る前、少なくとも彼がヘタレになる以前からの知り合いで、どんな経緯があってべた惚れになったのかは今のところ不明。
2また、意識が無かったとはいえ、なぜ彼女がヒスイの放った隔離結界の中にいたのかも、詳しい詳細は不明。


市立根津高等学校の人物 

秋野茂(あきの しげる)
 市立根津高等学校に通う男子生徒。15歳。金髪と黒目という、一風変った外見を持つ、聖亜の友人。福井とは親友同士で、よく柳からは凸凹(デコボコ)コンビと言われている。お調子者な性格だが、福井といると彼のストッパーに回ることもある。
 身長165センチ 体重61キロ  一人称は「俺」
 
 現在判明している真実
1実は実家は新市街にあり、その中でも結構裕福な家庭らしい。それがなぜ旧市街の高校に通っているのかは今のところ不明。

福井俊夫(ふくい としお)
 市立根津高等学校に通う男子生徒。十六歳。聖亜の友人であり秋野の親友。柳からは秋野と二人で凸凹コンビと呼ばれている。性格は豪快で単純なスケベだが、高身長とある程度整った外見と体格のため、彼女が多数いる。彼曰く浮気ではなくあくまでも彼女が複数いるというだけらしい。お菓子作りが好きであり、ヒスイと話すようになったのも家庭科の授業で作った菓子で、彼女を唸らせたのが理由。好物はお菓子とカツ丼。
 身長189センチ 体重81キロ 一人称は「俺」

 現在判明している真実
① 家は観光地区の中心である太刀浪神社。だが彼は多数いる兄弟の中でも下のほうで、ある夜寝ているとき姉達から頭を剃られ、それが原因で付き合っている彼女全員から振られた(単に浮気がばれた)

植村氷見子(うえむらひみこ)
 市立根津高等学校の女経論。聖亜の担任兼保健室の先生。外見年齢は20代前半。聖亜に惚れており、彼を自分の婿にするために誘惑している。そのため柳とは犬猿の仲だが、彼に女が近づくと一緒になって詰め寄る。タバコをくわえているが、実はそれはシュガーチョコ。姉と妹がいる。
 身長177センチ 体重60キロ  一人称「私」

 現在判明している真実
1実は彼女は黒塚家、その中でも当主である黒塚神楽に使える側女であり、八雷姉妹と呼ばれる姉妹の中の五女で、通称は伏雷(ふすいかずち)。彼女の能力、素性、その全てが不明。

鍋島進(なべじますすむ)
 市立根津高等学校の教頭兼世界史の先生。48歳。自他共に厳しい性格だが、それは生徒のことを思ってのことであり、聖亜達一部の生徒からは甘いだけの狸山校長よりよほど慕われている。ただ授業中に私語をした生徒は昼休みと放課後を潰されるため、その他の生徒からはあまり好かれてはいない。
 身長173センチ 体重72キロ  一人称「私」

 現在判明している真実
1 実は彼は高天原に所属する構成員。だが自分に対する憎悪を抑えられずに降り神の儀式に失敗し、守護司にはなれなかった。その代わりに爵持ちにも傷を負わせられる一つの弾丸を与えられた。根津高等学校に来たのは家族が眠るこの都市が、再び蹂躙されるのを防ぐためであり、人事異動であればむしろ左遷である。リザリス達により太刀浪市全体が狩り場にされた後は彼らの本拠地に乗り込み、始めルークと対戦し傷を負い、その後ニーズヘッグに黒い弾丸を撃ち込み、勝利への要因を作った後、跳ね返ってきた呪いに犯され死亡した。この時使用していたのはライフル銃で、弾丸はいつも使用する呪い(まじない)と、特別製である呪い(のろい)を込めた物。

2 15年前の聖夜の煉獄により家族を全て失っている。またこの時家族を飲み込んだ炎に魅入られてしまい、その時から自分を狂うほど憎んでいた。
 

狸山六郎
 市立根津高等学校の校長。53歳。優しい性格、というより多少の校則違反は見逃すという甘い性格をしている。でっぷりと太っており、まるで狸。
 身長160センチ 体重110キロ

 現在判明している真実
1 実は彼こそリザリス達を召還し、人々が上げる絶叫を聞きたいと願った黒幕。だがリザリスの配下である三体の人形が絶叫をあげながら殺されたとき、迂闊にも満足したといってしまったため、リザリスによりニーズヘッグを呼び出すための生け贄にされてしまい、死亡。ヒスイを狙っていたこともあり、ロリコンでもあったようだ。

2 15年前までは市役所に勤めていたが、公園で死に行く人々の絶叫を聞き、それに快感を見出すようになったらしい。まさしく鍋島先生とは正反対の性格である。



喫茶店「キャッツ」

荒川白夜(あらかわびゃくや)
 空船通りにある喫茶店「キャッツ」の店長兼マスターであり、聖亜の師匠。外見年齢は30代だが、聖亜が始めてあったときからほとんど姿が変っていないらしい。髪を後ろに撫で付けたクールなナイスミドルだが、その中身は猫好きで可愛い物好きな変態であり、良く連れ合いの市葉に殴られている。だが本当は聖亜達を優しく見守っている思慮深い性格……なのかもしれない。
 身長 193センチ   体重85キロ

 現在判明している真実
1 ヒスイと始めてあった時、彼女と誰かを見間違えた。だがその詳細は不明。

2 ニーズヘッグがその真体を現し、都市を無数の蛇が覆ったとき、市葉、そして北斗・昴達と共に対応。圧倒的な破壊力を持って蛇の群れを消し飛ばした。また、その際口にした言葉から、聖亜に封印を施したのは彼であり、その理由として彼が親友の息子であることを呟いているが、その詳細は不明。

3黒塚神楽とも面識があり、終盤で彼女と会話。その際人ではなく別の何かになっており、時間を掛けて戻ったのだが、その詳細は不明。また彼女とどのような関係なのかも不明。

市葉
 喫茶店「キャッツ」の料理長で、白夜の連れ合い。外見年齢は20代後半。柔和な笑みを浮かべるが、実は少々嫉妬深い。が、被害は主に白夜が被っているため他に被害は無い。なお調理師免許はずっと以前に取ったらしい。
身長 168センチ   体重不明

現在判明している真実
1北斗と昴が変化したマグナム銃を使用してエイジャと渡り合うことが出来る。その詳細・実力共に不明。


園村祭
 喫茶店「キャッツ」のウエイトレス。男勝りな性格で、聖亜の良き姉貴分。

北斗・昴
 喫茶店「キャッツ」の双子のウエイトレス。外見年齢は12歳ほど。背が小さく、子供のように見えるが、実はウエイトレスの中で一番の古株であり、そのことを祭にからかわれてはお仕置きしている。
 身長120センチ   体重不明

現在判明している真実
1都市に無数の蛇が出現したとき、マグナム銃に変化し、市葉の手に握られ蛇を迎え撃った。その詳細は不明。


その他


 復興街にある快楽区で風俗嬢をして生計を立てていた女。29歳。聖亜が教会で暮らしていたときの姉貴分で、彼をよく可愛がっていた。

 現在判明している真実
1客として訪れたドートスに魂を狩られ、死亡。


黒塚神楽(くろづかかぐら)
 新市街に住んでいる品の良い老婦人。外見年齢は60~70歳ほど。事件の少し前に聖亜と知り合い、彼を気に入って何かとお喋りをしている。数年前に子供を失ったらしい。

現在判明している真実
1 日本有数の旧家「黒塚家」の頭首。一見穏やかな性格に見えるが、その内には途轍もない冷徹と冷酷さを秘めており、笑いながら都市の滅亡を望むほど。氷見子の主人でもある。
2 高天原ともなんらかの関係があり、自らの手で罰した守護司に代わる人物の派遣を軽く決められるほど。その詳細は不明。
3 森岡を処刑した際、どのような方法を使用したのかは不明。また、処刑が終わった後外見が半分ほど若返っているが、その詳細も全く不明。

森岡(もりおか)
 高天原から太刀浪市を警戒するために派遣された守護司。外部の人間のため、都市の人々が敬遠している煙草や葉巻を遠慮なく吸っている。また黒塚銀行の支店長という表の顔を持ち、営業面と真の面を瞬時に切り替えることが出来る。

現在判明している真実

1 今回の事件の原因の人物。賭博で借金を重ね、それを肩代わりしてもらうために狸山に偶然(?)入手した喚起の書を提供。その後は身を隠していたが、ニーズヘッグが滅した後都市を逃げ出す所を神楽に処刑され、文字通り闇に食われた。
2 守護司になるには“降り神”の儀式に成功せねばならず、儀式の詳細は不明だが、彼の降り神は木霊。その中でも格の低い神であり、手のひらから飛び出す木の根を使用して道を探ることしか出来ない。


 木村
 準に言い寄っていた男。大会社の社長の息子で、金の力でこれまでに何人もの女を食い物にしており、裏で処理させてきた。自分さえよければ後はどうでも良いという性格をしており、夜な夜な犬や猫、鳥を手製のボウガンで射殺して悦に入っている。月命館高知分校に通っていたらしい。

現在判明している真実
1 クイーンに寄生種の卵を植え付けられ、三日後に鵺となる。その際取り巻きの一人を食い殺し、ヒスイを失神させたが、準に手を出そうとしたため聖亜の怒りを買い、彼に足止めされている間に目覚めたヒスイに口に太刀を突き入れられて死亡した。さらにその後キュウの手で自分の記憶を消去させられたため、家族すら自分のことを忘れるという、哀れな末路になった。

 男の取り巻き
 男の取り巻きの一人。男の父親が経営している会社に父親が勤めている関係で、彼の取り巻きとなっている。といっても女のおこぼれにあやかったりと、それなりにいい思いはしていたようだ。男と同様月命館に通っていた。

現在判明している真実
1寄生種として目覚めた男に食い殺され死亡。


 
エイジャ
 この世界とは違う、獄界という世界に住み、そこからやって来て人間の生気を喰らう化け物。自らを伝道者と呼び、氏民という階級で分かれている。その上には貴族がいて、爵持ちと呼ばれる彼らは他とは違い圧倒的な力を持って君臨する。さらにその遥か彼方には“皇”と呼ばれる存在がいるらしいが、その詳細は不明。エイジャという名前は、最初に世界と獄界を結ぶ狭間の道を通ったプラトンの提唱したイデア論から取っているらしいが、彼らの正体、獄界の様子などは全く不明。

ドートス
 “仮装道化師”の異名を持つエイジャ。中級氏民。外見年齢は28歳ほど。ピエロに似た格好をしており、その性格も陽気で残忍。ある目的のために人間の魂を狩っていたが、怠惰な性格のため目標の数を集め終えるまでにヒスイ達と遭遇した。武器は三つのチェスを人形として使役するトライアングル・チェスターと、分裂して敵に襲い掛かる幻想短剣(イリュージョン・ナイフ)。また、仮装道化師の名の通り自分の体を好きなように変化させることが出来る。モデルはトード(蛙)。

 現在判明している真実
1 ある目的とは鎮めの森にある聖夜の煉獄で犠牲になった人々の魂を使用して貴族が出現するための門を強引にこじ開けること。そのためには最低で百個の人間の魂を必要としていたが、四十一個しか集まっていなかった。しかし以前魂の出入り口を支える杉の木の根に傷を付けており、そこに魂をぶつけることで門を作ろうとしていたが、その傷はキュウに修復され、結局門が開くことは無かった。

2 実は中級氏民ではなく下級氏民の出身。本人は吹奏者になる事を目指していたが、実力も金も無く酒場で燻ぶっていたところをリザリスに拾われ、トライアングル・チェスターなどの武器を授けられた。

3 鎮めの森にて人形達をヒスイに倒され、幻想短剣が非行型スフィルによって操られていたこと、自分の体を変化させられるのが表面だけということを見破られ、さらには門を開くことにも失敗し、自暴自棄となり、十中八九失敗する魂を喰らうことでの上位への覚醒をしようとしたが、やはり失敗。異形の姿となり、一度はヒスイを捕らえるが、ぶち切れた聖亜によってヒスイを奪い返され、最後はヒスイの攻撃で半ば腐った脳を太刀で壊され、死亡した。


ナイト
 ドートスの配下である、チェスの駒が変化した人形の一体。笑いの仮面を被り、両手の変わりにランスを装備し、下半身は馬同様四本足をしている。誇り高い性格であり、実力もかなりのものがあるが、相手を見くびりやすいのが欠点。聖亜達と最初は敵対していたが……。武器はランスと四本足を生かした突撃。本気になれば音速を超える。
モデルはケンタウロス。

現在判明している真実
1 実は罪人であり、チェスの駒に魂を封じられて使役されてきた。また、笑いの仮面をつけてからは悲しい時も苦しい時も笑っていなくてはならなかったため、苦痛だったらしい。どのような罪により罪人になったかは不明だが、緑界の出身で、元龍騎兵だったらしい。
2 鎮めの森でヒスイに敗れた後、リザリスによってヒスイが拉致された事で聖亜に呼び出され、彼に言われた一言で協力することに。さらに彼と行動することで笑えるようになり、段々と彼に惹かれていく事になる。だがキングを退けたものの、ルークとの戦闘で傷つき、リザリスに首を砕かれチェスに戻ったところをさらに粉になるまで踏み潰され、死亡。
3 それでも聖亜の側にいたとき、“親切な女皇”様の手で復活。馬に乗り、赤い盾と槍を持った50センチほどの人形劇に出てくるような人形の姿になったが、きちんと喜怒哀楽の表情を出せるようになった。また、その能力も格段に上昇しており、ニーズヘッグよりは劣るが、その突進は彼女の生み出した蛇を粉砕できるほど。

ポーン
  聖亜が一番初めに遭遇したエイジャで、ドートスの配下であるチェスの駒が変化した人形の一体。憤怒の表情を浮かべた仮面を被り、普段は素手での攻撃を行うが、本気を出した時には大剣を使用して戦う。激しやすい性格で、冷静さを失いやすいが戦士としての実力は充分備わっている。モデルは騎士の甲冑。

現在判明している真実
1 彼も罪人であるが、ビショップとは実は恋人同士。なぜ二人揃って罪人になったかは不明。
2 鎮めの森でヒスイに敗れた後、聖亜の手で呼び出された。最初はリザリス達との戦力差から聖亜に協力することを拒んでいたが、ビショップが協力する事になり、彼も同意した。キングを退けたものの、ルークとの戦いで武器を失い、さらにリザリスにビショップを殺されたことで我を失い、リザリスの攻撃を腹部に受けたが、それを腹部に力を入れることで押さえつけ、ヒスイの攻撃のアシストをした。だが結局チェスをリザリスに粉々にされ、死亡。
3 ナイト達と同様復活。赤い鎧兜に身を包み、巨大な戦斧を振り回して戦う。その威力は一撃で巨大な蛇の胴体を真っ二つにするほど。

ビショップ
聖亜が一番初めに遭遇したエイジャで、ドートスの配下であるチェスの駒が変化した人形の一体。悲しげな表情を浮かべた仮面を被り、戦闘能力はほとんど無いが、スフィルを召還する技を持った吹奏者。また結界を張ったり、簡単な治療を施すことも出来る。悲観的な性格だが、根はしっかりとしている。モデルは教会のシスター。

現在判明している真実
1 彼女も罪人であり、ポーンとは恋人同士。なぜ罪人になったのかはやはり不明。
2 鎮めの森でヒスイに敗れた後、聖亜の手によって呼び出される。吹奏者ということでドートスに嫉妬から虐待を受けていたため、聖亜に協力するようになる。キングとの戦いでは聖亜を護り、ルークとの戦いでは傷ついた鍋島を治療していた。リザリスに真っ先にやられ、チェスを牙で磨り潰された。
3 ナイト達と同様復活。赤いローブに身を包み、赤い杖を使用して結界を張ることが可能。しかも結界は触れた悪意のあるものは弾き飛ばし、さらにその身を粉々に出来る優れもの。

リザリス
 ドートスの上司であるエイジャ。ある目的のためにドートスを利用し、魂を集めていたが、彼の作業が遅いのに怒り、自ら世界を渡った。黒衣に身を包んでいるが、その正体は緑色に光る鱗を生やした爬虫類。ドートスと違って冷静沈着だが、やはり冷酷で残忍。人間を家畜としてしか見ていない。武器は自らの牙と爪、そして三体の石人形。
モデルはリザード(蜥蜴)

現在判明している真実
1 狸山によって呼び出されたエイジャ。少なくとも上級氏民であり、ニーズヘッグの執事を務めている。
2 ドートスが敗れた次の日、学校の屋上に突如出現。都市を覆うような狩り場を張り、ヒスイを拉致。その後はニーズヘッグを呼び出す儀式の準備をしていたが、魂が揃わないままヒスイたちが到着。しかし敗れた配下の三体の石人形を呼び出し、彼らを儀式の生け贄に使用。さらに自らを呼び出した狸山を罠に嵌め、その肉体を生け贄にニーズヘッグを呼び出した。
3 その実力も凄まじく、ほぼ一瞬のうちにビショップ・ポーン・ナイトを撃破。ヒスイを退けた。高い再生能力を持ち、例え両腕が切り落とされても、新たに両腕を生やし、さらに切り落とされた肉体を遠隔操作することが可能。だがヒスイの絶技“絶対零度(アブソリュート)”により胴体を両断され、再生しようとするが細胞が凍死したため出来ず、ニーズヘッグに助けを求めたが、無残にも喰われた。

キング
 リザリス配下の石人形。石の王冠と髭を持つ人形で、性格はとにかく残酷で下品。戦闘能力も低いが、拷問と指揮能力は強い。

現在判明している真実
1 元騎士長と自分では言っているが、戦闘能力の低さから疑問がもたれている。
2 ドートスが敗れた翌日、リザリスと共に出現し、ヒスイに不意打ちを仕掛けた。その後ヒスイを連れ去り倉庫の中で拷問し、聖亜達が来たときは三百のエイジャを率いて迎撃に出たが、聖亜により敗走。その後倉庫に逃げ帰ったが、そこでヒスイにあっさりと斬られた。
3 その後、リザリスに蘇生されたが、ニーズヘッグを呼び出すための材料にされた。保有する人間の魂は七百.

クイーン
 リザリス配下の石人形。頭部にサークレットを被っている。性格は冷静。前線で戦うより裏方に徹する方を好む。また、彼女もビショップと同じ吹奏者であり、スフィルを呼び出すことが可能。

現在判明している真実
1 動物を殺して悦に入っていた男に寄生種を植え付けた。
2 ヒスイが捕まり拷問された後、彼女の治療をしていたが、黒猫に不意をつかれ混乱し、戦闘不能に。
3 その後、リザリスの手で正気に戻ったが、ニーズヘッグを呼び出すための材料にされた。保有する人間の魂は二千。


ルーク
 リザリス配下の石人形。塔のような頭部を持つ巨大な人形で、表情は乏しく無口。しかし戦闘力は強く、また希少価値の高い超硬度物質“黒石”で作られているため、攻撃はほとんど通らない。巨大な拳を飛ばすことも可能で、その威力は鋼鉄を一撃で粉砕させるほど。

現在判明している真実
1 ドートスが敗れた翌日、リザリスと共に出現し、鐘楼の中に安置されていた鐘を一撃で粉砕し、さらに旧校舎も半分ほど倒壊させた。その後キングと共にヒスイの拷問をしていたが、あまり乗り気ではなかったようだ。
2 侵入してきた鍋島を追い、彼の攻撃をものともせず、止めを刺そうとしていたところを裏切ったナイト・ポーンに阻まれる。だが彼ら二体がかりでも苦戦するほど彼は強く、さらに一瞬だけ猛スピードでナイトに迫り、槍を粉砕した。また両面であり、背後にあるもう一方の顔は残忍な性格をしているが、突如現れたヒスイに口の中に太刀を突き刺され、倒れた。
3 その後リザリスの手で復活。だがニーズヘッグを呼び出すために喰われた。保有する人間の数は七千三百。


ニーズヘッグ
 リザリス達を使い、この世界に現れたエイジャの貴族。黒界七王国の一つ、ニブルヘイムの子爵で、異名を“嘲笑する虐殺者”。圧倒的な力を持ち、格下の存在は彼女に頭を垂れるしかない。はち切れんばかりの肉体を黒いドレスに包んだ妖艶な美女。性格は残忍であり、自分の執事のリザリスでさえヒスイに倒された後は、空腹というだけで食べた。その身を包む漆黒のドレス“黒水”により炎以外の全ての攻撃を無効化し、たとえヒスイの絶技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)であっても黒水の表面を微かに揺らすだけである。また体内に猛毒を保有しており、それを使って作り上げた毒霧の太刀で攻撃するほか、相手に噛み付くことで直接毒を流し込む事が出来る

現在判明している真実
1 彼女がこの世界に来た目的は、絶望していく家畜の魂を喰らうことであり、リザリスたちには家畜をほとんど損なわないように呼び出すことを命じたため、リザリスは石人形達が保有している魂を使うことにした。
2 女の姿をしているが、その真体は都市ほどもある巨大な蛇。元々竜神であったらしいが、その四肢・翼・片方の角は失われている。その詳細は不明。
3 黒水の真の姿、星ほどの深さを持つ黒い湖“フヴェルゲルミル”にその姿を隠し、無数の眷族を生み出し都市を襲わせたが、眷族である蛇はそのほとんどが白夜に狩られ、さらに覚醒した聖亜によってフヴェルゲルミルを失い、最後は助命を懇願するが、レバンテインによって灰も残さず消滅した。


真理の探求者
 聖亜の深層意識に現れた謎(まあ、読者の方はすぐにわかると思うが)の女性。元青皇であることからエイジャであると思われる。長い銀髪と紫電の瞳、夜空に似たドレスを羽織るその姿は、この世のものとは思えないほど美しい(この時点で9割の人はその正体が分かる)。性格は冷静で尊大だが穏やかで優しい。氷の鞭での攻撃を得意とする。

現在判明している真実
1 人の意識の中に入り込むことが出来る。その際は相手に触れていなければならない。
2 相手の力を吸収し、それを使用して物体の創造が出来る。つまり“死”と“生”を自由に操れる。

黒ウサギ
 聖亜の深層意識に出現し、彼の深淵の御手を目覚めさせた張本人。真理の探求者と面識があったり、ニーズヘッグをさん付けで呼んでいることからエイジャだと思われる。性格は紳士的。劇や物語を好む。
現在判明している真実
1 自分の行きたい所を自由に行き来することが出来る。それが別次元でも、はたまた人の意識の中でもお構いなし。
2 人が秘めている力を必要以上に、その人の許容範囲を超えるほど引き出すことが出来る。そのため“案内人”と呼ばれているが、真理の探求者からは“次元破壊者”と呼ばれている。その能力で聖亜の力を目覚めさせたが、彼は自分の中で発生する高熱で危うく死ぬところだった。
3 黒塚神楽と面識があったり、さらに自分の性別を自由に変えられるが、その詳細は不明。

 モデル 不思議の国のアリスのウサギの擬人化。しかし黒。


ちょっとしか出ていない人達

ヌアダ
 本名ヌアダ・トゥアハ・デ・ダナン。ヒスイの父親で、アメリカの農園地帯で暮らしている。先生と呼ばれているから、どこかの教師らしい。チーズが苦手。妻の名前はネヴァン。短い黒髪と整えられた黒髭を持つ、二メートル以上の身長を持つ美丈夫。

マーク
 ヌアダの知り合い。配達の途中でヌアダに届け物をしていたことから、仕事は宅急便だと思われる。

閃光
 本名不明。二振りのチェーンソーを操り、エイジャを撲殺する魔器使。エイジャを存在するだけで悪だと言っており、なによりも正義であることにこだわる。ヒスイとなんらかの関係があるらしい。狂気を内に秘めた男。天に逆らって伸びる白髪と、何も映さない灰色の瞳を持つ。

一殺多生
 本名不明。性別は女。鋼糸を操る魔器使。閃光とは同僚だと思われる。



用語編

この世界
 現実世界と地理や国家等は大体同じ。ただ違う点として、石油が全く発見されなかったため、中東は貧しいながらどこからも侵攻されず、ペルシア連邦として一つになった。また、石油が発見されなかったため蒸気機関が発達し、さらに日本人が発明した気化石により飛空船が発達。現在の主力な交通手段として使用されているが、今はさすがに電気が主力であり、モノレールや電気自動車が普通に動き、家電製品が売られている。それでも下町や貧困の国では蒸気を使用しており、その需要は高い。

 太刀浪市
 日本皇国 高知県の西南部にある都市。主な産業は蒸気機関・漁業・観光・農業。世界有数の工業都市だったが、15年前、聖夜の煉獄により工業地区を含めた西部が壊滅。現在では復興街という名が付けられているが、復興は全く進まず、巨大な河に掛けられた橋の旧市街側には、検問が敷かれている。
 現在は市役所や警察署など、行政機能を持つ東部の新市街、観光地やデパートが立ち並ぶ旧市街、荒れ果てた復興街に分けられる。

復興街
 復興街は三つの地区に分けられる。まず災厄の中心地、鎮めの森の周りに蜘蛛の巣状に作られた雑踏地区、その北側、かつては一大工業地区として栄えていた工場地区、そして海に面した南側、外からの人間も訪れるという風俗店や売春宿が立ち並ぶ快楽区である。

旧市街
 都市の経済の中心地。太刀浪駅を中心に、西側に観光地区、北にデパート地区、南に商店街と、その先に空港がある。観光地の中心は太刀浪神社で、その通りはお立通りと呼ばれている。蒸気機関と電気が混合する、幻想的な町であり、この物語の主要な舞台。

新市街
 大会社や月命館高知分校など、上流階級が住む街であり、エリート意識が高い。

聖夜の煉獄
 15年前のクリスマス・イブの夕方に太刀浪市西部を襲い、二万五千余の死者を出した大爆発にして大災厄。これほどの被害を出した背景には、クリスマス・イブということで人が集中していたこと、そして自衛軍に対する出動命令が出されなかったことがある。表向きには巨大な蒸気機関の爆発とあるが、その詳細は全く不明。なお、爆発の中心地で、かつて総合病院があった場所は、今は鎮めの森となっており、中央には屋久島から取り寄せた巨大な杉の木が置かれている。

市立根津高等学校
 旧市街の外れにある聖亜達が通う高等学校。学科は普通科と商業科、そして情報科の三つがあり、聖亜は普通科に所属している。嘗て師範学校だった第一校舎(旧校舎)と近年建築された第二校舎(新校舎)の二つがあり、新校舎が使用されているが、旧校舎の屋上に出ることも出来る(本当は禁止)。また、旧校舎の屋上にはかつて外国から送られた“平和の鐘”が安置されており、その音色は今もチャイムとして流れている。
現在判明している真実。
 ルークによって平和の鐘が破壊され、また校長・教頭が死亡したことから、今後どうなるのかは不明。

対エイジャ組織
魔女達の夜
 嘗てエイジャとの間に起こった大戦、嘆きの大戦の際に活躍した人々が、魔女として狩られた暗黒時代、新天地に逃げ延びて作り上げた対エイジャ組織。その規模は不明だが、世界中で活動していることからかなりの大規模だと思われる。また、キングが言っていたヴァルキリプスとは何なのか、今のところ不明。
 魔器使
 魔女達の夜に所属し、エイジャと戦う者達。「魔を封じ込めた器を使う者、または魔に使われる器」と、二つの意味がある。一級、二級、三級とあり、もちろん一級が一番階級が高い。
魔器
 魔の力と意志を持つ武器。元々は魔物や妖怪を封じるための器であったが、マイスター・ヘファトの手により武器として製造された。大切なのは切れ味ではなく、中に封じ込めた魔の力らしい。

高天原
 日本皇国で活動している対エイジャ組織。ただし人材不足を理由として積極的な攻勢に出ず、またその活動も国内に限定されているため他の組織からの評判は、“臆病者”と罵られるほど低い。また彷徨う者達ほどではないが秘匿性が高く、情報の公開が求められている。
守護司
 魔器使に相当する役職。一つの都市に一人ずつ配置されているが、その数ではエイジャに対抗することなど出来るはずはなく、あくまで増援が来るまでのエイジャの調査・監視が目的らしいが、“降り神”と呼ばれる儀式を行い何らかの力を得ているらしく、本当に対抗できないのかは不明。また、守護司になれなくとも、構成員として活動することは可能らしい。

降り神
 自らの身に神を降ろし、その力を具現化して使用する術。体のどこかに媒体を植え付け、そこから神の力を使うらしいが、その詳細は不明。

彷徨う者
 三つの対エイジャ組織の中で最も秘匿性が高い組織。その規模・人員・兵器など全てが不明だが、嘆きの大戦において本拠地を失ったものの集まりらしい。

嘆きの大戦
 嘗て大陸を舞台に繰り広げられた人間とエイジャとの大戦。欧州だけで二千万というとんでもない数の死者を出して終結した。だがその詳細は不明であり、さらにこの大戦がきっかけで魔女狩りが始まるようになった。




                                   以上


 こんにちは、活字狂いです。今回は設定を書いてみました。また誤字・脱字も直してみましたが、さらっとだけなので、他にどこか間違っているところがあったら感想・意見と共に遠慮なく言ってください。それでは、次回予告をどうぞ




 黒い蛇神の脅威は去り、少年と少女はつかの間の安息を得た。

 だが、次なる嵐はもう目前にまで迫っていた。

 若者を中心に、都市に広がりつつある新型ドラッグ「K」、そしてその影にちらつく異形の影、


 そして、太刀浪市に外部から二組の男女がやってくる。


 一組は白髪の少女の罪を裁くために


 一組は新たなる脅威に備えるために


 少年は彼らと出会い、自分の将来を模索し始める。



 次回、「スルトの子Ⅱ 炎と雷と閃光と 序幕 炎舞う」一月中旬公開!! どうぞご期待下さい。



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 序幕   炎舞う
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:b7707b89
Date: 2016/02/18 13:56
 あけましておめでとうございます。活字狂いです。今年は自分にとっていろいろと勝負の年になりますが、挫けず頑張りますので、応援よろしくお願いします。さて、スルトの子は、これから二作目に入ります。永遠の別れと新たな出会いを経験した少年は、これからどのような人生を歩むのでしょうか。今作のテーマは、「出会い」と「選択」になります。ではまず、序幕「炎舞う」そして第一幕「嵐の前」を、どうぞご覧下さい。








 炎が、舞っていた




 その日、冬の夜空に、雪ではなく、真っ赤な炎が舞っていた。




 少女が目覚めたのは偶然だった。瓦礫の間で気絶していた彼女は、何かが当たる感触で眼を覚ますと、ぼんやりとした頭で周りを見渡し、そして、自分はまだ夢を見ていると思った。


 何故なら、彼女の周りにあるのは、ビルやデパートが立ち並ぶいつもの光景ではなく、赤と黒、二つの色に覆われた世界だったから。



 その光景を一言で表せば地獄だろう、二言で示せば世界の終わりだろう。だが、そのどちらも知らない少女の目には、その光景は昨日、祖父と祖母の見ている前で、画用紙に描いた絵に似ていた。




  赤と黒のクレヨンで、白い画用紙が、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた景色




(―あ)
 祖父母のことを考えた所で、少女はふと家族のことを思い出した。そうだ、確か今日は妊娠して入院しているお母さんのお見舞いに、病院に来たんだった。だが、退屈そうにしている自分を見た祖父母が、デパートでクリスマスのプレゼントを買ってくれたのだ。
 彼らを探すため、少女は自分が入っていた隙間からのそのそと這い出た。と、彼女の少し癖のある髪の間から小さな石が転がり落ちる。どうやらそれが当たった感覚で目が覚めたらしい。別段気にする事無く立ち上がると、少女はあたりを見渡した。だが周りは赤と黒に覆われ、人影どころか、建物すらどこにも見えない。


「…………?」


 その時、彼女は自分の体が、何か黒い色に覆われていることに気付いた。手でこすると、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。首を傾げながらも、ぱたぱたと服を振ってそれを払うと、彼女は病院のある方角に向かって歩き始めた。周りに見慣れた建物はない。だが、北の方角に微かに山が見える。あれは病院の北側にある山だ。そして、デパートは病院の南側にある。
 こくんと小さく頷くと、少女は山に向かって歩き始めた。彼女が進むたび、足に踏まれ、黒い色をした物が零れ落ちていく。それが原形をとどめていなかったのは、彼女には幸運だった。
        
 
 

                                     何故ならそれは、人が生きながら炭化し、ぼろぼろに崩れた物だったから





 自分以外の誰もいないことに気付かない少女は、自分以外の誰かを探しながら病院に向け歩き続ける。だが、やはり誰も居ない。居るわけがない。人間が炎に焼かれ、生きながら一瞬で炭へと変えられたこの地獄に、奇跡的に助かった彼女以外、誰が居るというのか。
 それでも、少女は病院に向けて歩く。時々躓き、時々転びながら、少女はようやく、病院が見える角までたどり着いた。




       そして、彼女の眼に飛び込んできたもの、それはー





    病院が、大地もろとも、跡形もなく消え去って出来た、巨大な穴と






           その上で踊る、赤と黒の炎だった











15年後―





2015年 7月10日 17時40分


 アメリカ合衆国某所  魔女達の夜本部“ヴァルキリプス”

 
  

 退屈な会議は、長々と続いていた。



「それでは次の議題、魔器論理学のデヴィソン助教授より、自分の受け持つ第二級魔器使“赤髭”バルバ君の第一級魔器使への推薦についてですが」
 書類を読んでいた壮年の男ガが右手をさっと上げると、会議室の中央にあるスクリーンに、口の周りを赤髭でこんもりと覆った青年が映し出された。
「いや、それはまだ早いよ。バルバ君は確かに“黒翼の誇り”第十一支部制圧作戦で華々しい戦果を挙げたけど、その指揮能力には疑問が残る」
「そうよ。第一級魔器使はその場にいる二級・三級の魔器使を統率する権利と義務を持つわ。なのにこの……赤髭君だったかしら? は、書類を見る限り個人の戦闘能力は高いけど、連携しての戦いより一人で突進するほうが好きみたい。それによって被害が結構出ている。それでは駄目ね。少なくとも後千回は戦闘を経験してもらわなければ」
「ふんっ、それにこいつは自分の持つ魔器を極端まで疲労させる。おそらく力任せにぶっ叩いているからだろうが、そんな扱いをする野郎を一級にするわけにはいかねえな」
 部屋の北側に座っている男女が、それぞれ穏やかに微笑し、軽蔑したように笑い、不機嫌そうに吐き捨てて反対した。
「はい。ではこの議題については不可ということで……では次の議題、っとこれは議題ではなく報告ですね。第一級魔器使“機関士”ネビル君より報告が入っています。“黒翼の誇り”に包囲されているモスクワへの強行突入、及び物資の補給に成功。現地にて生存している魔器使達の指揮を取るとの事です」
「へえ……予想していた日時より大分早いね。さすがはヘファト教授の傑作魔器“グラシャ=ラ=ボラス”を持つだけの事はある」
「ふん、当然だな!!」
 細目の穏やかそうな壮年の男にそう言われ、その横に座っている濃い髭面の男はぶっきら棒にそう答えたが、自分の作り上げた魔器をほめられて嬉しいのか、頬が微かに染まっていた。
「……今日の会議はこれで終わりかしら。そろそろ研究所に戻りたいのだけれど」
 髭面の男のちょうど反対側に座っている若い女が、窓の外を見てふと呟いた。すでに日が傾いている。首に巻いた赤いスカーフを軽く弄り、その女ははあっと退屈そうに息を吐いた。
「おや? もうこんな時間ですか。それにしてもヘルメス教授、ホムンクルスの製造は確かに大切ですが、根を詰めすぎると身体によくありませんよ」
「うるさいわよグリアス教授。ま、それもあるのだけど、私最近量産型魔器の開発をしているの。知ってるわよね?」
「……ああ、あの役にたたねえ“屑物”か」
「あら…………今何か言ったかしら、ヘファト教授」
 髭面の男―ヘファト教授の嫌味に、女―ヘルメス教授はすっと目を細めた。
「ああ言ったさ。いいかヘルメス、魔器はな、それを使用する魔器使との“相性”が一番大事なんだ。それを無視して誰にでも使用できる安物を作っていると、碌な結果にならねえ」
「ふん、けどヘファト、あなたの作れる魔器は一年に十個も無いじゃない。最近“緑原の征服者”の活動が活発になってきてるし、何より今は質より量の時代。戦力の増強は必至よ」
「はっ!! それでエイジャに効果の無い魔器を与えて、魔器使を無駄死にさせるってのか!! そんな屑ばかり作っているから、手前の作るホムンクルスの性能だって中途半端なんだ!!」
「…………ヘファト、あんた言ってくれんじゃない」
 二人の教授が立ち上がって睨みあう。そんな一触即発の空気に、周囲に緊張が走った時だった。
「……落ち着かぬか、お主ら」
 彼らの後方、一段高くなっている議長席から、低い声が響いた。


「し、しかしマクレガー副学長」
 彼に講義しようとするヘルメスの動きを、初老の男は右手を挙げて制した。
「落ち着けヘルメス。ヘファトもだ。量産型魔器の製作は、我がヘルメスに命じたこと。言いたいことがあるならばまず我に言うがよい。大体会議はまだ終わっては居らぬ。なのに教師を束ねる“四大教授”のうち、二人が争ってどうするつもりだ」


「「……」」


 静かだが、反論を決して許さない厳格な声に、二人は黙って席に着いた。



「……流石はマクレガー副学長。さてと、残る議題は後一つだね」
 軽く拍手をして、彼らの間に座っていた教授―グリアスは司会を務める助教授に、穏やかな笑みを向けた。
「は、はい。これが本日最後の議題になります。一昨日、つまり2015年7月8日に日本皇国高知県太刀浪市にて、同地に派遣した第二級魔器使“絶対零度”ヒスイ・T・D、本名ヒスイ・トゥアハ・デ・ダナンが、自ら禁技と定めた絶技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)を二度使用した事についてです。これは懲罰法第三十条、“自身の力量を超えた技の使用禁止事項”に触れます。この件についての査問が提案されていますが……」
「あら、まさかヌアダ教授のご息女が法を破るなんて……絶技は一歩間違えば都市を吹き飛ばし、大地を切り裂き、海を干上がらせる危険な技よ。それを二度も使用するなんて……例え暴走させなくとも、これは充分懲罰の対象になるわね」
「へっ、結局は暴走しなかったからいいじゃねえか。それに報告書は読んでいる。相手は爵持ちだったようだな。なら絶技の使用は仕方ないんじゃねえか?」
「……いや、どんな理由があれ、彼女は過去の事件により自ら禁技とした絶技を使用したんだ。やはり一度査問会に掛けなければならないよ。そういえば……休職中のヌアダ教授は何て言ってるんだい?」
「は、はい……それがその“彼女はもう子供ではないのだから、犯した罪に対する責任は自分で取れるはずだ”だ、そうです」
「ふ~ん、さすがは“三傑”の一人にして、冷徹無慈悲な“銀の腕”。それが例え自分の娘でも容赦無しか。それでは査問会にかけるということで。それで? どうします副学長、一度呼び戻しますか?」
 グリアスに声をかけられ、マクレガーは暫し下を向いて考え込んでいたが、やがて大きく頭を振った。
「……いや、今あの都市から魔器使を出すわけにはいかぬ。せっかく高天原の勢力圏に入り込んだのだ。こちらから査問官を派遣しよう。それでよいな?」
「はい。構いません。それで誰を送ります? こう言っては何ですが、僕達は先の痛ましい事件―“魔女狩り”があったせいで、仲間意識が非常に高い。誰も好き好んで仲間を裁きたいとは思わないはずです……仕方ない。あまり乗り気はしませんが、ここは僕「あ、あの」……なんだい?」
 話の途中で割り込まれ、グリアスは恐る恐る手を挙げた一人の助教授に、その細い眼をさらに細くして向けた。
「ひっ……は、はい。それがその“閃光”が名乗りを上げていますが」
「……閃光だぁ?」
 その言葉に、ヘファトは思わずがたりと音を立てて立ち上がった。会議室に先程とは違う緊張が走り、出席している教師達がざわざわと騒ぎながら互いに顔を見合わせた。表情を変えていないのはこの場に三人―ヘルメスとグリアス、そしてマクレガー副学長だけだ。
「……へっ、まさか“大罪人”若しくは“反逆者”に対し派遣される“極刑”の執行権利を持つ最高査問官が、直々に赴くとはな……どういうことだ、あの餓鬼は一体何考えてやがる」
「……へ、ヘファト教授、仮にもザラフシュトラ副学長のお孫さんに対し、餓鬼などというお言葉は」
「うるせえ!! 黙ってろ!!」
 助教授の一人にそう言われ、ヘファトは思い切り目の前の机を殴りつけた。ガァン!! という強い音が周囲に響き渡る。それが収まると、ヘファトはちっと忌々しげに舌打ちをし、会議室を出て行った。
「……やれやれ。ではヒスイ君に対する査問は、太刀浪市に最高査問官であり第一級魔器使である“閃光”のスヴェン君を派遣することでよろしいですね」
「うむ……だが念のためだ。同じ最高査問官である、“一殺多生”も同行させよう。では、これにて本日の会議を終了する!!」
 マクレガー副学長が最後にそう締めくくると、会議に参加していた教師達は立ち上がってお辞儀し、次々に部屋の外へと出て行った。



 そんな中、今だ座っているヘルメスは、唇の端をふと怪しげに歪ませた。







 会議が終了し、1時間ほど経った頃―




 切り落とされた胎児や、複数の動物を組み合わせたようなグロテスクな標本が浮かぶ瓶が、所狭しと置かれている研究室の中で、ヘルメスはテレビ電話と向き合っていた。


『……今何と言ったか』


 画面に映っているのは、整えられた黒髪と髭を持つ美丈夫だ。彫りの深い顔の中、二つの瞳が自分を冷徹に見つめている。
「ふふっ、どうやらよく聞こえなかったみたいね。ならもう一度言ってあげましょう。ヌアダ教授、あなた自分の娘が査問会に掛けられることはもう知っているわよね。しかも査問官は最高査問官である“閃光”。彼とあなたの娘との間にある因縁、まさか知らないはずがないでしょう? もしかしたら、“極刑”なんて事になるかもしれないわねえ」

『……何が言いたい』

 相手―ヌアダが低い声で尋ねると、ヘルメスは気持ち悪いほど穏やかな笑みを浮かべた。
「あら、せっかちね。まあいいけど……閃光は二年前まで私が受け持つ生徒だったわ。今でも若干の交流はある。私が言えば、少なくとも極刑だけは取り止めるはずよ。そうね……どんなに重くとも、記憶の封印ぐらいじゃないかしら」

『……』

 沈黙する男を眺め、ヘルメスはその穏やかな笑みをにやりと歪ませた。

「けど、もちろんそれには条件がある。あなたの持つ最高クラスの魔器“光輝の剣”クラウ=ソラス。これを私に研究材料として提供するなら、口利きをしてあげましょう。どう? たかだか剣一本で愛しの娘が助かるのよ? これほどいい取引はないと思わない?」

『……返事は今すぐ必要か?』

「ええ。出来れば今す『断る』なっ!! ……ごめんなさい、今なんとおっしゃったかしら?」

 喉まででかかった罵声を必死に飲み込むと、ヘルメスはヌアダを睨み付けた。自分の娘が死ぬかもしれないというのに、この男は眉一本分も、その表情を変えようとしない。

『聞こえなかったようだな。ならばもう一度言おう……断る。戦う事を決めたのは娘自身だ。自分の始末ぐらい自分で付けられるだろう。それにクラウ=ソラスはわが一族の秘宝の一つ。愚かな娘の命と引き換えなど、到底出来るものではない』

「……そう、分かったわ。ええ分かりましたとも。残念ねぇ。人がせっかくチャンスをあげたというのに。いいでしょう。ならばもう取引は持ち掛けないわ。その代わり、次にあなたが娘を見るときは、きっと葬式のときでしょうよ!!」
 苛立たしげにテレビ電話のスイッチを切ると、それでも怒りが収まらないのか、彼女は辺りの瓶を手当たり次第に殴りつけた。鬢が割れ、その中の標本がどろりと床に落ちる。鋭い瓶の破片が手に突き刺さり、彼女の両手は真っ赤に染まっていった。


 と、その手がいきなりぼろぼろと崩れ落ちた。


「あら? 今回は随分と早いのね。まあいいわ。“替え”は幾らでもある。私がホムンクルスを作り始めたのは、そもそも“この”ためなんだから」
 くくくっと笑うと、彼女は首に巻いたスカーフをしゅるしゅると解きながら、隣の部屋へと入っていった。
「さてと、男達はどんな肉体が好みかしら。豊満? それとも幼児体形?」

 そして、彼女がスカーフを完全に取り去ったとき、そこには



  そこには、卵形の、巨大なルビーが埋まっていた。








 同時刻 日本皇国島根県出雲市

 ここ、出雲市には、巨大な出雲大社を中心に大中数十の社殿が軒を連ねている。小さい社殿を含めれば百を軽く越すこの社殿群こそ、“日本の影の支配者”はたまた“裏天皇家”と呼ばれ畏怖される、黒塚家の総本山であった。



「……」
 百以上ある社殿の中心、出雲大社の一室で、男は手に取った書類を不機嫌そうに眺めていた。

 年は三十代後半。いがぐり頭と浅黒く日焼けした肌、右頬にある巨大な傷跡、鋭い瞳を隠す黒いサングラスなど、見た者にヤクザを思い浮かばせる。

 だが、その物腰からは理知的な雰囲気が滲み出ていた。


「あら? 何だか不機嫌そうね。玄(げん)ちゃん」
 向かいの席で紅茶を嗜んでいる中年の女性にそう言われ、彼は疲れたように息を吐いた。
「……ちゃん付けで呼ぶのはおやめ下さい。神楽様」
「けちねえ。そらぐらい良いでしょう? “私”の執事長なんだから」

 黒塚家執事長を務める、黒沼玄(くろぬまげん)は、半年間行方不明になっていた、目の前で優雅に笑っている黒塚家当主、黒塚神楽を見て、再びため息を吐いた。
「……太刀浪市に新たな人材を派遣することには賛成です。それが“雷神の申し子”であることにも反対はいたしません。今まではあの都市の重要性を隠すため、わざと能力の低い、信用できない者を配置しましたが、魔器使が来た以上、こちらも能力の高い者を置かないと押し切られますからね……ですが」
 一端口を閉ざすと、彼は二枚目の書類に目をやった。
「ですが、気に入った少年を“立志院”に入れ、将来的には高天原に入隊させたいですと? 別に立志院に入れるのは構いませんが、高天原への入隊は、その“最高司令官”としてどうかと思います。私達は“素人”の力を必要とするほど戦力が無い訳ではありませんし、何より日本の防衛など、本来私“一人”で充分です」
「それはそうでしょうけど……なら玄ちゃん、この子がニーズヘッグを殺したのだとしたら?」
「……は? いえ、それはありえません。いいですか神楽様、ニーズヘッグは爵位は低いですが貴族であり、そしてエイジャの貴族は本物の“神”なのです。神を滅ぼすことが出来るのは、同等の力を持つものだけであり、現在の日本では私と雷神の申し子、炎の鉄槌、そしてあと数人でしょう。もちろん日本に来た絶対零度では、例え彼女が百人いても不可能。あの都市に白夜が潜伏していることはすでに判明しています。ニーズヘッグを滅ぼしたのは、恐らく奴でしょう」
「あら、それは無いわねえ。だって彼は“戒め”を受けているのだから。第一玄ちゃん、あなた私が嘘を吐いているとでも言うの?」
 不意に、部屋の温度が急激に低下した。だが空気すら凍らせる寒さの中でも、玄はけろりとしたままだ。
「いえ、それは……ふうっ、分かりました。良いでしょう。本当に信じがたいことですが、念のためです。監視を含めその少年を、ひとまず“立志院”に入れましょう。ですが」
「ですが……なあに?」
 神楽が可愛らしく笑うと、途端に温度が元に戻っていく。それを肌で感じながら、玄は深いため息を吐いた。
「ですが、本当に爵持ちを滅ぼせるだけの実力があるのかどうか調べるために、夏季に行う“行事”に参加してもらいます。そこで合格すれば良し。不合格ならばその実力が無かったと見て不可。それでよろしいですね」
「……まあ良いわ。って、もうこんな時間じゃない。そろそろ失礼させていただくわね。旦那様にお食事を作ってあげないといけないし」
「ええ。わざわざのご足労、ありがとうございました。あと、”食事”はお控えください」
「あらあら、ちょっと”つまんだ”だけじゃない」
 一礼する彼に、朗らかに笑うと、神楽は鼻歌を歌いながら部屋を出て行った。それを見送ると、本日何度目かになるか分からないため息をげっそりと吐き、右手で胃の部分を押さえ、玄は傍らに設置してある電話の受話器を取った。
「…………ああ、俺だ。いや、俺々詐欺じゃない。黒沼だ。鈴原の奴は今どこにいる? いや、親ではなく子供のほうだ。ああ、そうか。なら繋げてくれ」
 暫らく音信中のプルルルという音が聞こえ、それが終わると、

『は~い、何ですか司令。こちとら今忙しいんですけどねえ』

 受話器の向こうから、何かを殴りつける音と共に、苛ついたが聞こえてきた。


「……忙しいだと? 鈴原、貴様に命じたのは“奴ら”の監視だけのはずだが?」

『はあ、そりゃそうですけど、奴ら何処からか攫ってきた女の子を魚に酒盛りしようとしたんで、今ぶっ飛ばしている最中です……っち、うっとおしいんだよ、手前ら!!』

 強い舌打ちと共に、何かが爆発する音と、ギャアギャアという悲鳴が聞こえてきた。

『で? この糞忙しいときに、一体何のようですか? くだらない話なら俺怒りますからね?』

「……高天原最高司令官としての命令だ。“雷神の申し子”は其処での任務が終了しだい、高知県太刀浪市に赴き、守護司としての任を果たせ」

『……は? 何ですあんた。人に監視なんて面倒くさい任務押し付けといて、次は退屈な守護司の仕事をしろですって? いいですか司令、俺はこの任務が終わったら、ホテルに直行して千里といちゃいちゃしたいんですよ。こちとらもう三日も出してないんだ。さすがにそろそろ溜まってるんですがね』

 ぶつくさという声に、玄は痛む胃を抑え、苦しげに眉を顰めた。

「……これは黒塚家当主、黒塚神楽様からの直々の要請だがな」

『だから何です? あんな婆さんより俺はぴちぴちな千里を抱いていた……ぶべっ』

 その時、


  ドゴッ


という音を立て、向こう側で誰かが吹き飛んだ。


『……黒塚家当主様からの御命令、確かにお受けいたします』


 と、今度は落ち着いた感じの女性の声が聞こえてきた。
「……いつもすまんな、水口君」

『いえ、慣れていますから。とにかく雷(らい)の補佐はお任せ下さい。では任務に戻りますので、これで失礼します』

 物静かな女性の声を最後に、通信が切れる。受話器を電話の上に置くと、玄はむうっと苦しげに呻き、テーブルに置いている愛用の胃薬に手を伸ばした。














 炎が 舞っていた




 かつて病院があり、今は大地すらないこの場所で、一人の少女を観客に、くるくる、くるくる、くるくると、二つの炎が、舞っていた。


 それは赤 気高さすら感じる澄んだ炎


 それは黒 どろどろと歪み、濁った炎




 炎は離れては近付き、近付いては離れる。それはまるで



 そう。まるで、踊っているかのよう






 少女は―もはや希望も絶望も何もかもが消えうせ、空っぽになってしまった少女は、仰向けに倒れたまま、炎の踊りを、眺め続けた。



 意識を失う前も、そして、意識を失った後も



 自分から全てを奪った炎を、光が消えた両目で、いつまでも





 いつまでも、いつまでも、眺めていた。





                                   続く



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 第一幕   嵐の前
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:a8247099
Date: 2016/02/18 13:59
 
西暦2015年(皇紀15年) 7月13日 15時40分

 頬にいきなり柔らかなそれが当たったのを感じ、星聖亜(ほしせいあ)は思わず自分の頬に手をやり、続いてちらりと自分に接吻したその小さい生き物が飛んでいった方を見た。家の屋根に腰掛け、それはくすくすと笑いながら自分を眺めている。

 その姿は物語に出てくる妖精に近い。15センチほどの身長と、背中に二対の羽を持つ少女だ。服は何も身につけていない。その裸体を見て、聖亜はさっと頬を染めて視線をそらした。
「ふふ、どうしたのかしら、聖亜」
「いや、別に……」
 傍らに座っている50センチほどの人形に微笑まれ、彼はばつが悪そうに俯いた。
「まあ、彼女達のことは気にしなくてもいいわよ。そこいらにたくさん飛んでいるんだから」
「けど、やっぱり気にする。だってその……裸、なんだし」
「そう? 昨日も言ったと思うけど、彼女達は氏民にもなれない最下級の伝……いえ、エイジャよ。人の生気を吸わず、花の蜜を吸って生きる存在。別に害は無いけれど、鬱陶しいなら追い払ってあげましょうか?」
「……ナイト、お前ちょっと意地悪だな」
 そうかしら、そう言って彼女は嬉しそうに笑った。自分より弱い存在に危害を加えることを嫌うこの少年が、彼女達に何も出来ないことはわかっていた
「けど、どうして俺の周りに集まるんだ? 今までいなかったのに」
「いなかったんじゃない。隠れていただけよ。彼女達はスフィルと同じで存在自体が着薄だから、その気になれば完全に気配を遮断することが出来る。それこそ、玩具使いに見つかる事無く……ね。それに」
 一端言葉を切ると、ナイトは少年の右腕にそっと触れた。
「それに、自分達の住む場所に“深淵の御手”なんて馬鹿げた物を持つ人が現れたのなら偵察に来るのは当然よ。それで危険な存在なら逃げるし、逆に庇護してくれそうなら媚を売る。あなたは……そうね、懐かれたみたい」
「懐かれたって……」
 屋根に座っている妖精の隣りに、別の妖精が舞い降りる。これで二匹目だ。いや、今までどこに隠れていたのだろうか、少年の周りには、十匹以上の妖精がいて、笑いながら自分を見たり、庭に植えてある花にそっと口を寄せて生気を吸ったりしている。
「……」
 その穏やかな光景を眺めながら、聖亜は無意識に口元を緩めた。
「……話は変わるけど、聖亜、昨日の提案考えてくれたかしら」
 だが、傍らにいる人形が呟いた言葉に、すぐにその笑みを消す。
「昨日の話……この世界を離れること、か」
「ええ……このままこの世界にいれば、あなたは必ず人間に“殺される”。彼らは不可解なものを排除したがるから……聖亜、人間とエイジャの混血児であるあなたは、人間にとってもっとも不可解な存在よ。けれど」
 不意に、ナイトは口元から笑みを消した。
「けれど私達……つまりエイジャの住む“四界”であれば排除される心配は無い。私達の世界では、力が全てだから。なら深淵の御手を持つあなたを排除できる存在など、いるはずが無い。いいえ、逆に皆あなたにひれ伏す事になるでしょう。だから聖亜、私達と一緒に四界に行きましょう。もしあなたが望むなら、赤界に行ってあなたの親戚を探せばいい。深淵の御手を所持しているエイジャは王だけだから、見つけるのはそう難しく無いわ」
 親戚を探す、ナイトの魅力ありすぎる言葉に、聖亜はぼんやりと空を見上げた。
「……ごめん、ナイト。もう少しだけ考えさせてくれないか?」
「……ええ、いいわよ。それにこの世界に残っても良いのだし、その時は私があなたを必ず護るから」
 あっさりそう言うと、ナイトはそっと聖亜の頬に口付けした。
「そうか……ありがとう。けど無理はしないでくれよ」
「ふふ、心配してくれるの? ありがとう。けど大丈夫…それより見て御覧なさい、そろそろ動くわよ」
 ナイトが眺めている庭に目をやって、聖亜は少し顔を引き締めた。

 
 一人と一体は、黙って見詰め合っていた。


 一人は両手で木刀を持つ白髪の少女だ。肩の所で切りそろえた髪が風でさらさらと揺れる中、相手をしっかりと見据えている。

 一体は赤い鎧兜に身を包んだ人形だ。身長はナイトと同じ50センチほど。人形劇に出れば子供達に喜ばれそうだが、その表情は引き締まっている。


 彼らは一時間ほどその場で睨みあっているだけだ。だがその気迫により、その周囲に妖精は飛び回っていない。

 やがて、一際強い風が吹き、家の周囲にある竹薮がざわりと揺れた。青葉が一枚ぷつりと千切れ、ふらふらと舞いながら彼らの間に落ちた、その瞬間―
「むっ!!」
「はぁっ!!」
 二人は、同時に地を蹴り、空に舞い上がった。


キィンッ!!

ガキッ!!

 木刀と拳が打ち合った音が聞こえ、それが止むのとほぼ同時に、一人と一体は、相手がいた場所に同時に着地していた。
「むっ」
「く……」
 地面に足を着いたとき、人形は僅かにへこんだ脇腹を押さえ、少女は右肩を抑えた。聖亜には拳と木刀が一度打ち合ったことしか分からなかったが、どうやらその他に数合打ち合っていたらしい。
「ふむ……正面からならほぼ互角か」
「ああ、いい鍛錬になった。ありがとう」
 互いに向き合い一礼すると、一人と一体は少年のいる縁側に向かって歩いてきた。
「ヒスイ、ポーン、お疲れ様」
「ああ。さて、次はお前の番だな、聖亜」
「う……」
 白髪の少女―ヒスイが差し出した木刀を見て、聖亜は一瞬たじろいだ。これが普通の木刀なら、もちろん1000回や2000回は軽くこなせる。だがこの木刀は、
「……」
 無言のまま、差し出された木刀を手に取る。途端にがくんと前につんのめった。木刀の先端が、完全に地面にめり込む。
「くっ、そ!! やっぱり重すぎるぞ、これ!!」
 
 そう、この木刀は普通の木刀の万倍の重さがあるのだ。

 愚痴を零しながら、それでも懸命に木刀を持ち上げる。その姿は先程のヒスイの動きと比べるとまさに月とスッポンだが、少女の顔に浮かぶのは驚きの表情だ。
「私としては、重すぎるといいながらもそれを扱えるほうがおかしいんだがな、その“膝打丸”は、形状は確かに普通の木刀だが、ヘファト教授が片手間に作り上げた練習用の魔器だ。片手間で練習用といっても、スフィル程度なら一撃で潰せるし、エイジャにも多少抵抗は出来る。その代わり巨大な神木を一本丸ごと使っているから、並大抵の重さではないはずなんだが……さすがは“結界喰らい”と言うべきか」
 ヒスイの放った言葉に、聖亜はふと眉を顰めた。
 もちろん彼女にあざけりや侮蔑は無い。ただ事実を淡々と述べているだけだ。

 それが分かっていても、やはりいい気分ではない。

「なあ、ヒスイ」
「ん? どうした聖亜」
「……いや、なんでもない」
「そうか、ならさっさと素振りを始めろ。目標は百回だ」
「う……」
 少女の厳しい口調に、聖亜は仕方なく振り上げた木刀を一気に振り下ろした。がくんと腕に強い衝撃が走る。これでは百回もすれば腕が折れそうだ。慌ててポーンとビショップに縋るような視線を送るが、
「ふむ、これも若のためだ。どれ、俺が動きを見てやろう」
「そうそう。聖亜はまだ“深淵の御手”をうまく使えないんだから、ちゃんと訓練しないとね」
「う……わ、分かったよ。二……三」
「それでは木刀に振り回されるだけだ。もっと腰を落とせ」
(腰を落としたって、百回なんて出来るわけないだろ!!)
 ポーンの指導に心の中でそう愚痴りながらも、聖亜は懸命に木刀を振っていった。

「……様になってはいないが、まあ昨日よりはましだな」
 少年が木刀を振り回すのを見て、縁側に腰掛けていたヒスイがそう呟いた時、
「そうね。けど一体どうして聖亜に訓練をさせているのかしら」
「……」
 彼女の隣にいるナイトが、ふと尋ねた。
「大体絶対零度、あなたエイジャの討伐は終了したのでしょう? さっさと帰ればいいじゃない。ああ、それから万が一にも聖亜に手出ししようとなんて考えないことね。彼の従者である私達が許さないし、それ以前にあなたでは彼に近寄ることすら出来ないわよ……って、それは無いか。普通は戦う相手をわざわざ鍛えたりしないものね」
 ヒスイは暫らく前を向いていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……帰るのは無理だ。キュウが今回の事件に関して報告したらしいが、まだ帰還命令が出ていないからな。上層部は恐らくこの事件をきっかけに、高天原の縄張りであるここ日本に足場を作るつもりなんだろう。それに鎮めの森でドートスが放った数十個の魂のせいで、神木がかなり傷ついた。幸い“門”が開かれることは無かったが、キュウが細胞を活性化させても、傷がふさがるまで最低でも三月はかかるし、何より眠っている数万の魂が活発化してしまった。それを狙って、エイジャがこの都市に来やすくなる。高天原の守護司が行方不明の今、ここを離れるわけにはいかない。それに」
「それに?」
「……聖亜は半分エイジャの血を引いている。人に害を与えないのなら私は放置しても問題は無いと思うが、魔器使の中にはエイジャであれば全て滅ぼしてしまえという強硬派がいることも確かだ。彼らが聖亜の事を知れば、間違いなく襲撃してくる」
「そう。けど絶対零度、あなただって玩具……魔器使じゃない。何でわざわざ同じ魔器使いに狙われる聖亜に訓練なんて……あなた、もしかして彼の事」
 ナイトが自分と懸命に素振りを繰り返す少年を交互に見る。そんな彼女の様子に、ヒスイは呆れたように首を振った。
「お前の言いたいことは分かっている。けどそれは絶対にない。いや、別に聖亜の事が嫌いというわけではないんだ。好きか嫌いかで言えば間違いなく好きだろう。けど」
「けど?」
「……私には婚約者がいる。彼を裏切ることは出来ない。だから、あいつを異性として見ることは最初から出来ないんだ」
「そう、結構複雑な事情があるのね、あなたにも」
 そう呟いたナイトが、そっと午後の空を見上げたときだった。
「そろそろ夕方なりますよ、訓練は一端やめにして、お茶の時間にしませんか?」
「……」
 台所に続く廊下の奥から、赤いローブに身を包んだ50センチほどの人形と、晴れ渡った夜空に似た髪と瞳を持つ少女が歩いてきた。それぞれ手に盆を持っているが、少女は自分が言う台詞を人形に取られたためか、ちょっとむくれていた。
「そうだな……ポーン、聖亜はどれぐらい素振りをした?」
「……ふむ、大体五十回前後といったところだ。昨日の三十回よりは多いが……どうする? やめさせるか?」
「……いや、最低でも七十回は振らせてくれ。それぐらい振り終わったら、休憩するように言ってほしい。小松、湯は沸いているか?」
「……え? は、はい。湧いております」
「そうか。ならお茶の前に少し湯を浴びさせてもらおう。小松、一緒に来て背中を流してくれ」
「えっ!? そ、そんな、駄目ですヒスイ様!!」
 顔を赤くして綿綿と手を振る小松を、ヒスイは不思議そうに見つめた。
「え? 何が駄目なんだ? 女の子同士だろう」
「へぅっ、それはそうなんですけど、けどあの、まだちょっと無性の頃の感覚が……」
 あたふたと呟く少女を見て、ヒスイはふっと微笑した。
「何だそんなことか。なら、やはり一緒に湯を浴びねばな。まだ慣れていないから、上手く体を洗えないだろう。いっておくが、拒否権は無いからな」
「あうう、は、はい」
 観念したように下を向く少女と共に、ヒスイは軽く鼻歌を歌いながら、風呂場へと向かっていった。


「……ろく、じゅうはち……ろく、じゅ……きゅ」
 意識を朦朧とさせながらも、聖亜は必死に糞重い木刀を振り続けた。時々木刀がぬるりとすべる。おそらく手の平の皮が破け、血が滲み出ているのだろう。もうポーンの声も聞こえない。あと少し動けば、自分はもう気絶して、そのまま目を覚まさなくなるかもしれない。そう思いながらも、何とか木刀を振り上げ、最後の一振りをする。
「…………な……な、じゅ……う」
 その時、ぽんと右足を軽く叩かれる。終わりの合図だ。
「く……はっ」
 木刀を手放し、庭に仰向けに転がる。手足や顔に泥が付くが、聖亜は気にせず大きく息を吸った。
「……じか? か」
 意識の彼方からポーンの声が微かに響く。それにのろのろと真っ赤に染まった右手を上げて応えると、聖亜はずりずりと縁側まで這って行った。
「……ぶなの? 聖」
 おぼろげな視界の中、ナイトが覗き込んでくるのが分かる。それに笑いかけると、彼は壁に寄りかかって歩き出した。とにかく水でもいいから風呂に入ってさっぱりしよう。
 心底そう思いながら。

「……ちょ……さま、そんな……と」
「むう……や……松のむ……大きい……」
 いつもなら10秒もかからずにたどり着く風呂場に、3分かけてたどり着くと、彼は風呂場の戸に手をかけ、ふと顔を上げた。
「……ああ、そうだ。服……脱がないとな」
 上着とズボンを脱ぎ、シャツとパンツも脱ぐ。細く引き締まった身体が露になるが、それを見るものは、ここにはいない。
 とにかく裸になって、今度こそ風呂場の戸に手を置くと、

 ガラリッ

 と、一気に開けた。

「けど、どうして私より胸が大きいんだ……」
「そ、そんな事私に言われても……」

「……」
「……」
「……ふうっ」
 呆然とこちらを見る二人の少女の前を通り過ぎ、何故か湧いている風呂の中に入る。疲れきった身体に温かい湯が染み込んできて、意識がはっきりしたとき、
「…………ん?」
 聖亜は、こちらを見つめる二人の裸の少女と、ばっちりと目が合った。
「……あれ? ヒスイと小松ちゃん。どうして風呂に? いつから入ってきたんだよ」
「「っ!! この、あほんだら~!!」」

ドガメギャグシ!!

「ふべ!! な……なんで、さ」
 二人の少女の拳を顔に受け、聖亜はぶくぶくと風呂の中に沈んでいった。



 風呂場での騒動から10分ほど経った後、聖亜達は座敷に移動した。といっても聖亜の顔は殴られたせいでぼこぼこになっており、彼を見る少女の目はきつい。
 そのためあまりくつろげないでいるが、それでも二人は出されたお茶を飲み、それぞれ好みの菓子を摘んでいた。三体の人形は聖亜から微量なエネルギーを常に供給されるため食事を取る必要は無く、魔器である小松は顔を真っ赤に染めて小言をぶつぶつと呟いたあと、刀に変化して、今はヒスイの横に置かれている。
「……」
「その……すまなかった」
 みたらし団子を手に取り、食べ始めた時もこちらを睨むのをやめない少女に、聖亜は深々と頭を下げた。それで少しは気が済んだのか、少女の怒りが段々と収まっていく。
「……まあ訓練で扱きすぎたこちらにも責任はある。それより、少し聞きたい事があるんだが」
「ん? どうした、ヒスイ」
 気を取り直してかりんとうを食べ始めた少年を、ヒスイは串を皿の上に置き、そっと見つめた。
「いや、なんだか以前とは雰囲気が違うと思ってな」
「……そうか?」
「うん。前と比べて気配が張り詰めている気がする」
「あら、そうね。~っす、て言わなくなったし」
 少女の言葉に、テレビを見ていたナイトが同意するように頷いた。彼女達人形はどういうわけかテレビが気に入ったらしい。といっても番組の内容ではなく、箱の中から様々な映像が飛び出すのが面白いらしい。ただ一昔前のテレビのため、少し映りが悪い。聖亜自身はあまりテレビを見ないため気にしなかったが、流石にそろそろ買い換えるべきだろう。
「そうか? けど別に意識してそういう口調にしていたわけじゃなくて、自然に出ていた言葉だからな……まあ前の方が良いなら何とか直してみるけど」
「いや、そうじゃない。どちらかというと今の口調のほうが良い。前の話し方は、聞いていて少し苛々したからな」
「ああ、だから別に直す必要は無いぞ」
 そう言って微笑むと、ヒスイは別のみたらし団子を手に取り、ひょいひょいと口の中に入れていった。確かこれで15本目だ。明らかに普通よりも多い本数だが、まあみたらし団子自体は知り合いから強引に押し付けられるため不自由はしていない。

(けど、こんなに食っているのにぜんぜん体格が変らないのは、やっぱりエイジャとの戦いで疲労しているからだろうな)

 そう思いながら、自分もかりんとうを口の中に入れたとき、


『げ、またかりんとうかよ、いい加減飽き飽きしたぜ』


 不意に、頭の中に少女の声が響いた。


「……っ!!」
 それとほぼ同時に右腕が疼きだす。咄嗟に左手で押さえるが、その手の中で右腕はドッ、ドッ、ドッ、と強く脈打った。
「聖亜……また“奴”か?」
「……ああ、けど大丈夫だ。“表”には出ていない」
 咄嗟に傍らの刀に手を伸ばした少女に笑いかけると、聖亜は茶箪笥の上においてある鏡を見た。そこには長い髪も、二つの瞳も黒いままの自分がいる。大丈夫、どこも“赤く”なってはいない。

(急に話しかけてくるな、炎也)

『けどよ、この五日間お菓子がずっとかりんとうと煎餅だけっていうのは飽きたんだよ、たまにはケーキやクッキーが食いたいし、お茶の代わりにジュースが飲みたい』

 頭の中でぶつくさと文句を言う少女に、聖亜は呆れたように首を振った。五日前、蛇神との戦いの時突如目覚めた彼女は、今は聖亜に体の主導権を明け渡しているものの、今までいた深層意識には戻らず、“表”付近に居座り、時々こうやって話しかけてくる。

(味がする分、前より良いだろ)

『ああ。今まではお前が食ってるの見るだけで、味も匂いも何もしなかったから、それより良いといえばいいんだけどよ、なあ頼むよ。いい加減どっかでケーキでも買って食ってくれ』

(……分かったよ、けど明日は駄目だ。用事がある。けど明後日以降なら、何とか都合つけるから)

『本当か? ラッキー!! 約束だからな。それじゃ、俺はそれまでもう一眠りさせてもらうぜ』

(ああ、お休み)

 彼女の気配が段々薄れると同時に、右腕の疼きも収まっていく。それが完全に収まると、聖亜はふうっと息を吐き、左手を放した。
「大変だな、内に自分以外の何かがいるというのも」
「……もう慣れたよ。ところで、さっきから気になっていたんだけど」
「ん? どうした?」
「いや、何だかキュウの姿が見えないと思って」
 お茶を飲んでいるヒスイに、聖亜は周囲を見渡しながら尋ねた。
「……お前、今頃気づいたのか。いや、あいつは何もないときは昼過ぎまで眠っているから、気づかないのも仕方ないのだけれど……あいつは午前中のうちに、“尽きざる物”を持って出かけたぞ」
「は? 出かけたって……どこにだよ」
「詳しくは知らないが、確か古い知り合いに会うとか行っていたな」
 湯飲みをことりとテーブルの上に置き、ヒスイはふと外の景色を眺めた。それにつられるように、聖亜も外に目をやる。家の周囲にある竹薮が、風に吹かれさらさらと流れていた。



『次のニュースです。市内で若者を中心に流行しつつある新型ドラッグ“K”について、警察は取り締まりの強化を発表しました』



西暦2015年(皇紀15年) 7月13日 15時00分

 午後の日差しが照りつける中、旧市街の西に広がる田園地帯,その間を通る細道を、一匹の黒猫がゆっくりと歩いていた。
 その毛皮は日の光を浴びてまるで黒真珠のように輝き、前方をしっかりと見つめる紫電の瞳は、威厳に満ち溢れている。

「……変らんの、この風景は。どれほどの歳月が過ぎても」
 不意に、彼女はそう呟いた。

『以前にも、ここを通ったことがおありなのですか?』

 その呟きに、どこからか女の声が響いた。周囲には人影どころか、犬猫一匹見当たらない。だが黒猫は全く慌てることなく、微かに頷いた。
「だいぶ昔にな。そうさな……あれからもう5,60年ほどになるか、早いものだ」
 目を細めると、彼女は道の左右に広がる田園地帯を懐かしそうに眺めた。

『……しかし、本当に“奴ら”の手を借りるおつもりなのですか?』

「うむ。神木が傷ついた以上、この地が再びエイジャに狙われるは必至。ならば今我らがすべきことは、都市全体に一刻も早く監視の目を広げ、奴らの動きを掴むことだ。だが都市全体を監視するなど、我らだけでは不可能であるし、仮に聖亜と人形達に全面的に協力してもらえたとしても、数が足りなすぎる。ヴァルキリプスから増援を呼んでもよいが、それが到着するのはどんなに早くとも一週間はかかる。今はどんな手でも打っておきたいのだ。高天原も何らかの手は打つと思うが、不確定要素に頼るのは危険だからの」

『確かに……』

「……それに」
 不意に、黒猫は髭を悲しげに揺らした。
「それにヒスイは禁技を使用した。査問会にかけられる筈が、しかし一向に召還命令が来ぬ。まあ、あちらから誰かが派遣されてくるとは思うが、もしそれが“奴”であった場合、“極刑”の可能性が高い。ある程度の罰は受けさせるが、さすがに極刑はやりすぎだ。それに対抗するための手段は、多いほうがよい」

『……大変ですね、小姫も』

「小梅、そなた随分と心配性だの。ヒスイが未熟なのが悪いのだ……っと、見えてきたな」
 前方を見る黒猫の視線の先に、深い木々に囲まれた一軒の建物が微かに見えた。



  それは、古びた荒れ寺だった。



 市街地から外れた山の麓にある事から参拝者はほとんど居らず、昭和初期に老いた住職が居たという記録を最後に管理する者もなく、その由来も建てられた年代も、そして名前すら不明であり、市街地にあったならすぐさま取り壊しの運命にあったこの寺は、だが幸か不幸かこの場所にあることで逆にひっそりと残っており、今では“彼ら”にとって格好の根城と化していた。


 そう、忌み嫌われることを受け入れた代わりに、知恵を持った彼らの根城に


「……ふんっ、居るな」
 荒れ寺に入ってすぐ、こちらを殺気を込めて見つめる幾つもの視線に、キュウはふんっと鼻を鳴らした。

『囲まれていますね……少し減らしましょうか』

 そんな黒猫に、小梅がそっと声をかける。それと同時に、黒猫の首に下げているペンダントが微かに揺れた。
「いや、こやつら“雑魚”に、そなたの力を借りる必要はない!!」
 わざとらしく声を張り上げると、彼女を取り囲む気配に混ざっている殺気が、一気にその容量を増した。




『こやつ、猫の分際で我らを侮辱した!!』

『雑魚!? こやつ、今我らを雑魚と言ったか!!』

『猫の分際で我ら“松次郎一家”の根城に侵入した無礼、その身に味わらせてやれ!!』

『まて、若頭からは様子を見るだけにせよといわれたはずだぞ!!』

『何だと!! 三番隊、貴様ら怖気づいたか!!』

『ここでこやつを取り逃がせば、猫共は調子に乗ってここに攻め寄せるぞ!!』

『100年の間守り通した我らの根城に、そのような最期を迎えさせてなるものか!!』

『猫共への見せしめだ!! ここで奴の体を肉に変えてやれ!!』

『ま、まて、だから早まるなというに!!』

『ええいっ!! 三番隊の弱羽共は引っ込んでいろ!! 俺が行く!!』

『おお、さすが我ら二番隊の隊長、犬すら抉る“強襲”が誇る嘴の威力、あの猫に存分に思い知らせてやれ!!』

『おうともさ、行くぞ!!』


 ガアッと甲高い鳴き声が聞こえたかと思うと、気配の一つがキュウに向かって一直線に飛び込んできた。並みのスピードではない。だが、その嘴が黒猫の背中を抉ろうとした、その瞬間
「……甘い」
 キュウはその一撃を体を横にそらす事で難なく避けると、再び上昇しようとしているその黒い影を、右前足でむんずと押さえつけた。
「ガッ!? ガアッ、ガアアッ、ガッ!!」
 彼女の足の下で暴れているのは、一羽の鴉であった。大きさは普通の鴉の1,5倍ほど。絶体絶命の危機だというのに、こちらを睨むその瞳には力が篭っている。

『馬鹿なっ!! “強襲”の松兵衛が、たかが猫一匹に敗れただと!?』

『馬鹿者がっ!! だから迂闊に手を出すなといったのだ!!』

『うるさいっ!! こうなってしまってはそんなことを言っている場合ではないだろう!! このまま隊長を見殺しにすれば、我ら二番隊の名折れ、救出に向かうぞ。数で押し切る。皆我に続け!!』

『『『応っ!!』』』

 鴉が一羽木の上から飛び上がると、それに続くようにあちこちの木がざわざわと揺れ、中から黒い影が一斉に飛び出してきた。その数は少なくとも数十羽はいる。彼らは急にその鋭い嘴を向け、今にも襲い掛かろうとしている。だが、

『……待て』

『『『ッ!!』』』

 だがその動きは、本堂の中から発せられた鋭い声によって遮られた。


「……ふん、どうやら少しは話の分かる奴が出てきたか」

 本堂の中から出てきたのは、やはり一羽の鴉だった。背格好は普通の鴉と何ら変らないが、あちこちに傷を負い、特に右目はまるで鋭い爪によって抉られたかのように失われている。

 そして何より、その気配は鴉、いや鳥などに収まるものではなかった。

『……客人、子分共の軽率な行動、どうぞお許し下せえ。そして出来うるならばお前様が押さえつけているその馬鹿の命、圧死に預けてくださらねえでしょうか』

「……」

『無論、ただとは言わねえ。この不肖の命がお望みなら、いくらでも差し上げやしょう』

『だ、駄目だ若頭、これは俺の責任だ!! 若頭が死ぬ必要はね『うるせえっ!!』ひっ』

 黒猫の下で喚く鴉に向かって、片目の鴉はガアッと甲高く鳴いた。

『いいか松兵衛、子分の不手際は兄貴の不手際だ。それに手前が隊を預かっている以上、若頭である俺が責任を取るしかねえだろうが!!』

「ふむ……随分と潔い事だな。そなた、名はなんと言う」

『へえ、“渡り”の松五郎と申しやす。見ての通り、何のとりえもねえ若輩者でござんすが、幸運にも叔父の松次郎親分に目をかけて頂いて、分不相応にも若頭なんぞを務めさせていただいておりやす』

「……その名は聞き覚えがある。貴様、鴉のくせに鷹と戦って勝ったなどという“鷹殺し”か。まあいい、我の目的は殺戮ではない。それに貴様の命なんぞもらったところで、腹は膨れぬ」
 皮肉を込めてそう呟くと、キュウは鴉を押さえつけていた前足をそっとどかした。自由になった鴉は一言ガアッと叫ぶと、猫の爪が届かない空へと一目散に飛び上がった。

『……礼を申しやす。しかし、松兵衛を軽くいなすそのお手並み、さぞ名のある方とお見受けしましたが……そんな方がこんな場所に一体何の御用で?』

「ふん、別に大した用事ではない。ここから出て行けと言いにきたわけでもないしの。我はただ、旧友に会いに来ただけだ。松五郎と言ったな、そなたの主、“洟垂れ(はなたれ)”の松次はこの中か?」

『……訂正していただきやしょう。この中にいらっしゃるのは、洟垂れなんぞではなく、高知の鴉社会を束ねなさる、齢60を超える大鴉、“欠け嘴(かけくちばし)”の松次郎親分で』

「我から見れば60歳など、おしめも取れぬ洟垂れ小僧にすぎんさ。どうでも良いが、案内するつもりが無いなら、さっさと其処をどかぬか」

『……』

 黒猫と片目の鴉は暫し見つめあったが、負い目があるからだろうか、松五郎という名の鴉は、警戒しながらもゆっくりと本堂に向けて歩き出した。

『……本来なら馬鹿な事を言うんじゃねえと一蹴する所ですが、今日はこちらに非がありやす。案内いたしやしょう。ただし親分はご老体ですので、くれぐれも失礼の無いようにお願いいたしやす』

 その言葉に微かに頷くと、キュウは鴉の後に続いて、本堂の中へと歩いていった。



 本堂の中は、外側同様荒れ果てていた。


 障子は破れ、柱は半ば腐りかかり、辺りには鼠やら猫やらの腐敗した死骸が転がっている。
 それらが発する死臭に、キュウは髭をピクリと揺らした。

『ここでございやす』

 ふと、先を行く松五郎が立ち止まり、羽で通路の左側にある部屋を指した。以前は住職が使っていた部屋なのだろう。他の部屋同様汚れているが、中に何かが居る気配がする。
「分かった、案内ご苦労だったな。もう下がってよいぞ」

『いえ、そういうわけにはめえりやせん。まだあなた様を完全に信用したわけではありやせんので』

「……何かあれば、自分の身を盾にしてでも主を護るか。殊勝だが、無駄な心掛けだな。まあ良い。とにかく入らせてもらうぞ」
 冷徹にそう言い放つと、キュウは目の前の障子を、前足で一気に開け放った。


 ビュッ!!


 障子を開けて部屋の中に足を踏み入れた黒猫の目に飛び込んだのは、鴉の鋭い爪だった。だが片方の羽に包帯を巻いたその年若い鴉は、キュウの後ろにいる松五郎が一声甲高くなくと、びくりと羽を震わせ、寸での所で床に舞い降りた。

『父様(ととさま)、なぜ止める!!』

『この馬鹿娘が!! この方は侵入者ではなくれっきとした客人だ。それに第一相手の力量も分からねえのか、そんなんだから余計な傷を負うんだ!!』

『けど父様、ここには!!』

『うるせえっ!! ごちゃごちゃぬかしやがると、ここからおっぽり出すぞ!!』

『…………確かにうるせえな。手前ら、客人の前(めえ)で一体何騒いでやがる』

 と、部屋の隅にある木の葉がもそりと動いた。
「ふん、久しいな……“洟垂れ”の松五」

『……あっしの昔のあだ名を知っていなさるか。それに久しぶりとは……客人、お前様はどこのどちら様で?』

「……どうやら耄碌したようだな、小僧」
 不意に、ぞわりと部屋が震えた。半ば腐りかけた柱がガクガクと揺れ動き、天井にはビシビシと亀裂が入る。


 それほど巨大な気配が、キュウの体から発せられているのだ。


『ッ!! お前様は、まさか……やめろ松五、このお方に無礼は許さねえ!!』

 黒猫に咄嗟に飛び掛ろうとした松五郎は、その一言でびくりと停止した。もう一羽の若い鴉は、圧倒的な気配の前に、体を一寸たりとも動かすことが出来ない。
「ふん、ようやく思い出したか」

 キュウが気配を弱めると、木の葉の中からよたよたと一羽の鴉が這い出てきた。だいぶ年を取っているのか、所々に白い物が混じっており、嘴の先が酷く欠けている。

『お久しぶりでございやす“姐さん”。いや驚きました。まさか生きている間にもう一度お目にかかれるとは』

「ふん、我も少しばかり驚いたぞ。あの時の洟垂れ小僧が、今では親分と呼ばれる立場に居るのだからな……小梅」

『はい』

 キュウがペンダントに声をかけると、その中から大きな買い物袋が幾つも飛び出してきた。その中には小梅に買わせた肉や魚が大量に入っている。
「少ないが土産だ。皆で食べてくれ」

『いや、こいつはありがたいこって。最近はいい生ごみを出す店が少なくて、特に15年前に西が焼かれてからは、あっちに迂闊に近づくと、こっちが食い物にされちまいますから、犬や猫との縄張り争いが激しいの何の』

「……15年前か、松次、そなた災厄があったとき、何が起こったか知っているか?」

『いえ、あっしは当時四国を離れて、九州にあるお袋の実家に行っておりやしたから、詳しいことは何も……ただ』

「ただ、何だ?」

『へえ、当時留守を任せていた若い者の話じゃ、西は何もかも、それこそ“一瞬”で燃えちまったようなんで』

 老鴉の言葉に、キュウはほんの少し、目を伏せた。
「何もかも……人も動物も植物も、それこそ大地すら一瞬のうちに、か」
 彼女の脳裏に、地獄絵図が浮かび上がる。何一つ不自由の無い生活から、燃え盛る炎に包まれ、一瞬で全てを、それこそ命すら奪われた者達の苦痛と絶望は、一体どれほどのものがあっただろうか。

『……ああ、それからもう一つ思い出しやした』

「ふむ、もう一つだと?」
 老鴉の声に、キュウは伏していた顔を上げ、彼の顔を覗き込んだ。

『ええ。あの災厄が発生た直後、若い者が何羽か偵察に行ったらしいんですが、結局戻ってきたのは一羽だけで。そいつもまもなく死んじまったんですが、死ぬ寸前、妙なことを口走ったんです』

「……妙なこと?」

『ええ。何でも燃え盛る炎の中に、数名の人間が入っていったようなんです。うわ言で奴が言っていたのは……そう、確か修験者のような格好だったとか』

「修験者か……とすると、高天原の連中か? いや、別におかしくは無い。ここは彼らの勢力圏だからな。おかしくは無いが……」
 考え込んでしまった黒猫を、松次郎は暫しの間見つめていたが、やがておずおずと話し掛けた。

『あの、姐さん』

「…………ん? 何だ、松次」

『いえ、まさか……60年前のような“戦”が、また起こるんで?』

「なんだ、怖いのか松次、まったく、怖がりなのは変らんな」
 そう少し嘲笑したキュウに、だが老鴉は一度弱々しく、それでもはっきりと鳴いた。

『怖い? 怖いですって? ええ怖いですとも。あの戦のせいで、あっしの一族はほとんどやられちまいやしたからね。先代の親父も、跡目を継ぐはずだった兄貴も、あっしと卵から孵ったばかりの妹を残して、皆死んじまいやがった。怖いはずがねえでしょうよ……ですがね姐さん、見てくだせえ、あっしのこの老いた身体』

 ひょこひょこと鴉が歩いてくる。その身体からは羽毛がほとんど抜け落ちており、もう飛ぶことは出来ないだろう。
「……」

『いくらあっしが“ヤタ”一族の血を引いているとしても、少々無駄に生きすぎやした。幸い跡継ぎの松五には、他の鴉を引き付ける魅力のようなものがございやす。安心して後を任せられるでしょう。ですがね姐さん、あっしはごめんなんでさ。親兄弟が戦場で華々しく散ったというのに、この“欠け嘴の松次郎”が、一羽だけぬくぬくした布団の中で、寝小便たれながらおっ死ぬなんざ、決してね!!』

「……」
 辺りに重苦しい沈黙が落ちる。それを破ったのは、黒猫が苦しげに吐いたため息であった。
「……そうか」
 ぎらぎらとした目でこちらを見つめる老いた鴉に、キュウはもう何も言わなかった。いや、何も言えなかった。なぜなら、彼にはもう何を言っても無駄であるから。自分に出来るのは、ただ彼の望む死に場所を与えてやることだけだ。
「“欠け嘴”の松次郎、そなたの覚悟は分かった。いいだろう。そなたとそなたの率いる郎党の力、今一度だけ借りるとしよう。だが覚悟せよ、そなたらの前に広がる道は、誰からも祝福されぬ修羅の道ぞ」

『承知していやす。“あの時”だって人間は、必死に戦った俺達に対して礼の一つも言わなかった。それがもう一度繰り返されるだけって話です。それで姐さん、あっしらはまず何をすれば良いんで?』

「うむ。それなのだが、まずそなたの手下を使って都市の警戒に当たってほしい。そしてどんな些細なことでも良いから、何か変ったことがあればすぐさま我に知らせよ……ああ、それから」

『へい、それから、何をいたしやしょう』

 急に生き生きとした表情を見せる鴉に苦笑すると、黒猫はそっと声を落とした。
「実はある少年を見張って欲しいのだ。そのために誰でも良いから一羽借りたい……我もその少年といつも居られるわけではないからの」

『分かりやした。ですが姐さん、見張るより此処に監禁した方が楽じゃございやせんか?』

「いや、そういうわけにはいかぬ。別に敵対しているわけではないからな。それにもしもの時、あやつの力は頼りになる」

『そういうことでしたら。見張りには気配を消すことに長けた奴が良いんですが……おい松五、三番隊の末松なんてどうだ?』

『へえ、確かに末松の奴は気配を消すことは上手いですが、“いびき”がうるさくていけねえ。そうですな、自分も気配を消すことは出来やすが……姐さん、見張る少年とは一体どこのどちらさんで?』

「うむ。星聖亜という、黒い長髪と瞳を持つ、小柄でまるで少女のような……どうした?」
 聖亜の名前と特徴を言った途端、部屋の片隅に控えていた鴉がはっと顔を上げた。その様子に松五郎はカアッと呆れたように鳴いた。

『いえ……星聖亜という名前には聞き覚えがありやす。人間のくせに自分達鴉を嫌悪しねえ妙な野郎で、あっしも何度か餌を頂戴したことがありやすが……』
 
 一度振り返ると、松五郎は開いているほうの目を先程の鴉に向けた。

『こいつ、あっしの娘で加世(かよ)っていうんですが、すばしっこいのと気配を消すことだけはあっしの上をいくんですが、気が短いのと喧嘩っ早いのが欠点で、以前人間に襲われたとき、片方の羽に矢傷を受けましてね。その時その星聖亜という小僧に助けられましたんでさ』

『う……』

「ふむ、それはちょうど良い。そなた……佳代といったか」
 紫電の瞳に見つめられ、その鴉―加世は恐る恐る歩み寄った。
「……なるほど。父親からはヤタの血、そしてもう一つ……鴉天狗(からすてんぐ)の血を引いているな。これは母親の方か?」

『へ、へい。こいつの母親、つまりあっしの連れ合い何ですが、確かにほんの僅かではありやすが、鴉天狗の血を引いておりやした』

「……引いていた?」

『……母様(ははさま)は、昔鷹に襲われたとき、私を庇って』

「そうか……分かった。では佳代、聖亜の見張りはそなたに頼むとしよう」

『は、はい。身に余る光栄にございます』

「うむ。だが鴉の姿では万一の時聖亜をつれて逃げることは難しいだろう……そうだな。少し待っておれ」
 自分を見つめる紫電の瞳の奥が、不意にちかちかと光った。その光は段々強くなっていくのを見て、加世は知らず知らずのうちに後ずさった。と、
「…………むっ!!」

『きゃっ』

 紫電の瞳の奥にある光が、一瞬部屋一杯に光り輝く。咄嗟に羽で目を覆うとしたが、加世はその時、自分の羽が黒ではなく肌色であることに気付いた。いや、これは羽ではなく、
「……え? え、え? な、何ですかこれは!?」
 自分が羽と思って持ち上げたのは、人間の腕だった。それに視界がだいぶ高い。恐る恐る辺りを見渡すと、黒猫も、父も、尊敬する大叔父も、皆自分よりかなり背が低かった。

『……あ、姐さん、娘に一体何を』

「なに、眠っている鴉天狗の血を目覚めさせ、“天狗”の姿にしてやっただけのことよ。加世、背中の翼は自由に動かせるか?」
「え? は、はい。大丈夫です」
 彼女の羽はいつの間にか背中から生えていた。意識して動かすと、翼はばさっ、ばさっと大きく羽ばたき、体が少し空に浮き上がる。左腕には包帯がきつく巻かれており、それにそっと触れると、佳代はさっと赤面した。

『ほう、なかなか別嬪さんじゃねえか』

 松次郎の言葉通りだった。短い黒髪はさらさらと風に流れ、その肌は健康そうな小麦色。胸は少々小振りだが、充分美しいといえるだろう。
「ふむ、まあ母親に似たのであろうな。では加世は連れて行く。おぬし達は先程言った通り、新市街・旧市街・復興街、その区別なく見張り、何かあればすぐ我に知らせよ。それでは……ところで佳代、そなた一体いつまで裸で居るつもりだ?」
「え? あの……はだかって何ですか?」
「……もう良い。小梅、すまぬがヒスイの着替えを出してくれ。こやつの体格なら、おそらくぴったりと合うはずだ」
 困惑している加世に服の着方を教え、ようやく彼女が一人で着られるようになった時、日はもう大分傾いていた。
 疲れた顔で本堂から出た佳代に、友達の鴉が数羽舞い降りる。他の鴉の気配は無い。どうやらさっそく都市全体に散らばったようだ。自分が出した、監視という命令を実行するために。
 佳代の様子を見ていたキュウは、ふと遥か彼方、海の方角を見た。





「……嵐が来るな。日は陰り、晴れの日は長くは続かぬ……か」





西暦2015年(皇紀15年) 7月13日 20時40分


 曇りきった空の上を、一隻の飛空船がゆっくりと飛んでいった。

『アテンションプリーズ、本日は悪天候の中、当上級飛空船“シャイニングスター”号にご登場いただき、まことにありがとうございます。当機は後三時間ほどで太刀浪空港に到着いたします。到着の一時間ほど前にもう一度ご連絡いたしますので、それまで皆様、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ。繰り返しご連絡いたします……』

「ああもう、二時間ごとに同じ放送を入れるんじゃないよ、まったく!!」
 シャイニングスター号の特等席で、その女は苛立たしげに頭を掻いた。

 美しい女だ。

 年は20歳前後。だが東洋人風の顔付きは、彼女を実年齢よりも若く見せている。ポニーテールにしている薄紫色の髪は十中八九染めたものだが、けばけばしいほどではなく逆に妖しげな美しさをかもし出しており、少々くせっ毛なのか、先端ピンと跳ねているのもチャーミングだ。

 だが黙っていればそれだけで男が寄って来そうな(実際に何人もの男が声をかけてきたが、彼らは彼女に一撃でぶん殴られ、先程まで床に伸びていた)彼女の表情は今は心底不機嫌そうに歪んでいた。
「ったく、それもこれも“スヴェン”。あんたのせいだよ。本当なら昨日の特級飛空船に乗れたはずなのに、あんたが寝坊なんてするから」
「……いつも朝7時に起床するのに、いきなり朝5時に起きれるわけがないだろう。その事についてはきちんと謝ったはずだ。大体それをいうなら“エリーゼ”貴様とて化粧に時間をかけすぎだ。あれがなければ一昨日辞令を受けてすぐに出立できたはずなんだがな」
「……ちっ、本ばかり読んでいるくせに、よく観察していること!!」
「……」
 ぶつくさと呟かれる悪態を聞き流し、彼女の隣りに座っている大柄な男は、今まで読んでいた本に再び目を落とした。

 年は女とそう変らないだろう。身長は180センチを軽く超え、精悍な顔付きとがっしりとした筋肉を持つ偉丈夫だ。だが重力に逆らって空に伸びる髪は、疲れきった老人のようにぼさぼさな灰色の髪で、本を読み進める髪同様灰色の瞳からは、何の感情も見えない。
「……そういえばあんた、さっきから何読んでるんだい? というかこんなぐらついた飛空船で、本なんてよく読めるね」
「俺には振動すら感じないんだがな。まあいい。これは銀河鉄道の夜だ」
「銀河鉄道の夜って……はぁっ、あんたって本当に童話が好きだね」
「……別におかしくはないだろう。大体俺は「失礼いたします」……む?」
 その時、通路の先にある扉がシュッと開き、キャビンアテンダントがワゴンを押して入ってきた。
「ワゴンサービスか。こりゃいいねえ。丁度腹が減っていたんだ。お~いお姉さん、こっちこっち!!」
「……やめろ、恥ずかしい」
 立ち上がってぶんぶんと手を振る相方を、スヴェンは軽く嗜めた。だが彼自身空腹なのだろう。無理に止めようとはせず、キャビンアテンダントが来るのをじっと待っていた。
「お待たせいたしましたお客様。お肉とお魚のコースがございますが、どちらになさいますか?」
「そうさねえ。がっつりいきたい気分だから、肉の方にしようか。スヴェン、あんたはどうする?」
「そうだな……これをもらおう」
「あの、お客様、こちらは……」
 エリーゼにビーフステーキを手渡していたキャビンアテンダントは、スヴェンが指差した料理を確認すると、顔を引き攣らせた。
 ハンバーグやポテト、デザートにゼリーが付いているその料理はどこからどう見ても、
「も、申し訳ございませんお客様。こちらの“お子様ランチ”は、12歳以下のお子様が対象となっておりまして、その」
「……俺はちょうど12歳なのだが、何か問題があるのか」
 スヴェンがそう呟くと、キャビンアテンダントだけではなく、特等室の空気そのものがびしりと固まった。
 分厚い肉に思いっきり齧り付きながら、必至に笑いを堪えているエリーゼを軽く睨むと、スヴェンはその灰色の瞳でキャビンアテンダントを見据えた。その鋭く力強い視線は、どう考えても12歳の少年には真似できないだろう。だが、
「あはは、そう困らせるなってスヴェン。けどキャビンアテンダントさん、こいつはこんな“なり”でもれっきとした12歳なんだよ」
「は、はあ。でしたら、どうぞ」
 手渡されたお子様ランチを静かに受け取ると、スヴェンはスプーンを使って器用に食べ始めた。
 キャビンアテンダントは時折こちらをちらちらと振り返っていたが、やがて他の乗客に食事を勧めることに集中しはじめた。
「あははははっ!! 毎度のことだけど笑わせてくれるねえ。これだからあんたと“仕事”をするのは面白いんだよ。で? これで何度目だいスヴェン、“大人”に間違えられたの」
「……モノレールや船、そして飛空船に乗った回数とほぼ同程度だと記憶している。食事をしながら笑うな、肉片が飛ぶ」
 そのまま二人は暫らく食事をしていたが、やがて思い出したかのようにエリーゼが顔を上げた。
「それで? あんた本当に“極刑”に処すつもりかい?」
「……ああ。あの女はそれだけの罪を犯した」
「それだけのって……たかが禁技をぶっ放したぐらいじゃ、どんなに重くとも本部送還のうえ謹慎処分だよ。大体あれは力量不足と判断した本人が申告するもんだ。それをせず絶技をぶっ放して暴走させた例なんて、それこそ腐るほどある」
「……エリーゼ、貴様はその暴走で自分の命より大切な存在を奪われたことがあるか?」
「…………いいや、無いね。そもそもあたしには、もう命より大切な存在なんて、この世には何一つ残っていないのさ。けどいいかいスヴェン、任務に私情を挟むのは禁物だよ」
「分かっている。だがエリーゼ、我々に与えられた権限の中には“極刑”も含まれていることを忘れたわけではあるまい」
「そりゃ忘れてはいないけどさ……ったく、しかし本当に誰なんだい。あんたを“最高査問官”に推薦した奴は」
「……分かりきったことを聞くな。あの狂った錬金術師だ」
「そうだったね……そう言えばスヴェン、あんた最高査問官になるとき、一体何を“差し出した”んだい?」
「……人にそれを聞く前に、まずお前が言ったらどうだ? お前だって最高査問官だろう」
「ありゃ? 言ってなかったっけ。まあいいけどさ。いいかいスヴェン、あたしが差し出したもの、それは……」

 不意に、エリーゼは水平線の向こうに微かに見えてきた都市を眺め、低い声で呟いた。




「それは…………あたしの全てさ」




同時刻、

 高知県にある深い山の中を、二人の虚無僧歩いていた。頭にはすっぽりと天蓋と呼ばれる深編笠を被っているため、顔は分からない。だが一人は背が高いのに比べ、もう一人は相方と比べると幾分背が低かった。

 と、山中を抜けたのだろうか、二人は突然小高い丘の上に出た。遠くに微かに町の明かりが見える。その明かりを確認した瞬間、背の高い虚無僧はがくりと膝を付いた。
「……や、やっと着いた」
「まだです。この町を越えて、さらにその後ろにある町を越えて到着です」
 その虚無僧の呟きに、相方の虚無僧が冷静に応えると、膝をついた虚無僧は被っている籠の上から両手で思いっきり天蓋を押さえた。
「ぬお~っ!! 俺達一体どれぐらい歩いてきたと思ってんだよ。これって何? 一種の拷問か!? マジで!!」
「……そろそろ夜も近いですから、静かにしてください。ですが本当に長い時間歩きましたね。輸送飛空船が燃料切れになってからですから、およそ二日といった所でしょうか」
「くっ、それもこれも全部あのおっさんのせいだ!! 人がせっかく仕事を終わらせて、これから千里といちゃいちゃ出来ると思ったのに!! 何が行方不明になった野郎の後任として着任しろだ? 何が魔器使の行動を監視しろだ? そんな物、出世欲の高い奴らに任せておけばいいんだよ!! 大体あいつら、いつも威勢のいいことばっかり言ってるくせに、いざとなったら人の足引っ張るだけ引っ張りやがって!!」
「……非難の対象が変わっていますよ。ですが、確かに魔器使程度に私達を出すのは、少しおかしい気がしますね」
「はっ!! どうせ何か厄介なことがあるんだろうさ。あの婆さんのやりそうなことだ」
「……日本広しといえど、あの方を婆さん呼ばわりできるのはあなたぐらいでしょうね、“雷”」
「いいじゃねえかよ、本当に婆さんなんだから。ったく、若い者に後を任せてさっさと引退しろっての……まあ、お前と一緒だから文句は無いんだけどさ。な、“千里”」
「…………いつも言ってるでしょう。屋外でそういうことはや・め・て・く・だ・さ・いっ!!」

ドガッ!!

「ふげっ!!」

 しゃがみながら自分の尻を撫ぜてくる相方の背中を思いっきり殴ると、背の小さい虚無僧はすたすたと歩き出した。
 背の高い虚無僧は暫らく痛みでのた打ち回っていたが、慌てて“彼女”に追いつこうと、わたわたと走りだした。




  この日、かつて災厄が襲った都市に向け、二組の男女が足を踏み入れようとしていた。



  そしてそれは、少年と少女を巻き込む、新たな事件の始まりだった。




                                   続く





 こんにちわ、活字狂いです。悲しい事に5年前に買った自分のパソコンがぶっ壊れました。卒論とかで頑張ってくれたのに……ですので今は近くのネットカフェにて書いています。まあ、パソコン自体は昨日NECのLavie Lを買ったのでいいですが。
 さて、今回のお話はいかがだったでしょうか。序幕でも出てきた二組の男女が、いよいよ太刀浪市に入ります。彼らは少年と少女に、一体どのような影響を及ぼすのでしょうか。それでは次回、「スルトの子2 炎と雷と閃光と 第二幕   永久の別れと新たな出会い(とわのわかれとあらたなであい)」を、どうぞお楽しみに。


 追記  最近マクロスFにはまっており、先日イツワリノウタヒメのハイブリットパックを購入しました。自分はアルト×シェリル派なので、劇場版は大満足です。マクロスは初代・2・プラス・ゼロ・7と全部見てきましたので、2月放映のサヨナラツバサも楽しみです。

 追記2 第二次スーパーボット大戦Zが4月に発売されるのですが、コードギアスとマクロスFが参戦してくれて嬉しいです。ただしR2の最後、ルルーシュ対シュナイゼルで、彼らはどちらの陣営に味方するのでしょうか。まあ、ブライト艦長らが黒の騎士団の無能で無知な奴らとは違う事を祈っています。出来ればルルーシュには生きてほしいです。しかし、くっ!! 3月29日から自衛隊に入隊するのですぐに買えない!! がっくり。まあ、アナザーセンチュリーエピソードポータブルと戦場のヴァルキュリア3が買えるからいいか。しかしRで蜃気楼がとにかく弱すぎだ。もうちょっと頑張ってくれ、ルルーシュ。



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 第二幕   永久の別れと新たな出会い
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:3d0d579c
Date: 2011/01/24 10:14
 正義とは何かと、目の前にいる三人の男に聞いたら彼らはこう答えるだろう。

 灰色髪の男は、正義は悪を打ち砕く絶対的な力だと

 金髪の青年は、大切な存在を護るための力だと


 そして、小柄で少女のように見える少年はこう答える。



 正義など、どこにもないと







 この世界には、人を襲う化け物がいる。

 嘗て災厄を襲った都市に出没する化物(けもの)という中途半端な存在ではなく、絶対的な力と知識を持ち、時に人を陥れ、時に力づくで人を襲う彼らは、自らの事を伝道者と称していたが、彼らの事を知る人々は、古の哲学者が唱えた思想を元に、こう呼ぶことにした。



 すなわち、エイジャと。



 だが彼らは人間の住む世界に自由に来れるわけではない。狭間と呼ばれる道を通って来ることは出来るが、その方法はひどく体力を消耗する。それゆえ彼らはもう一つの方法を使う。人の欲望を糧に、彼らに自分達を喚起させるやり方を。


 西暦2015年、高知県太刀浪市を襲ったエイジャも、そうやってこの世界に出現した。
最初は自らを仮装道化師と称するエイジャと、その配下の人形達が人を襲い、次はその上司である蜥蜴の姿をしたエイジャが自ら出陣し、エイジャの貴族―爵持ちたるニーズヘッグを呼び出した。
 一時は浪市に住む全ての人々が犠牲になるかと思われた事件は、だが何とか“なった”。ニーズヘッグは滅び去り、太刀浪市に再び平穏が戻ったのである。


 しかし、それは犠牲無しに勝ち得た平穏ではなかった。


 
西暦2015年(皇紀15年) 7月14日 8時10分


「……おはよう」
「おう星、おは……よう?」
「あ、星君久しぶ……り?」

 その日、教室に入った聖亜に、何人かの同級生が挨拶を返し……そしてふと首を捻った。
「……星? お前何か雰囲気変わってないか?」
「……そうかな?」
「そうだよ。何か先週までの星君と違って、なんか……ダーク系の美少年って感じ?」
 女子生徒にそう言われ、聖亜は軽く頭を掻いて笑った。いつもは伸ばしっぱなしだった髪は、今日はきちんと梳かされ紐で一つに結ってある。隠れ気味だった細面な顔が前に飛び出し、怜悧な表情を覗かせていた。確かに彼女の言ったとおり、少し冷たい感じの美少年に見えなくも無い。
「そうそう。どうしたんだよお前、イメチェンか?」
「は? いや、イメチェンじゃなくて、元に戻っただ「聖!!」……うぷっ」
 と、いきなり誰かに抱きしめられた。顔全体をぎゅうぎゅうと柔らかい物が包む。暫らくその感覚を楽しんでいたが、流石に息苦しくなったのと、後ろにいるヒスイの視線が段々きつくなってきたので、しぶしぶと顔を放した。
「おはよう準、6日ぶりだな」
「ああ。久しぶりだな聖。ん~、聖のにおいだ」
 自分に頬ずりしてくる準に軽く笑いかけると、聖亜は席に向かって歩き出した。その途中声をかけてきた同級生達が、彼の変化に戸惑ったような顔をしていた。
「……な、なあ柳、星の奴なんか変わってないか?」
 と、一人の男子生徒が、聖亜の左腕に抱きついている準に恐る恐る声をかけてきた。
「……あ?」
 二人きりのひと時を邪魔され、準は不機嫌そうにその男子生徒を睨んだが、その時、ふと聖亜の顔をまじまじと見つめた。
「そういえば……聖、お前なんか昔に戻っていないか?」
「そうか?」
「そ。そうだ。駄目だぞ聖、私以外の女に手を出しちゃっ!!」
「……まあ、今の所お前以外に“抱く”気はないよ」
 聖亜が苦笑しながらそう言うと、周囲はきゃあきゃあと騒ぎ出し、準はぼっと顔を赤く染めた。
「……どうでもいいが、さっさと席に着かないか?」
「…………ん? ああ、いたのかヒスイ。おはよう」
「おはよう柳。一応聖亜のすぐ後ろにいたんだがな」
そう言いながら、ヒスイが席に着くと、その隣りに聖亜が、そしてその前の席に準がそれぞれ座った。
「けど聖もそうだけど、ヒスイも本当に久しぶりだな。二人は病院にいなかったけど、軽かったのか? 貧血」
「貧血? ……てっ!!」
 準が最後に言った言葉に、聖亜はふと首を傾げ、傍らの少女に脇腹を突っつかれた。
「ああ。私達は大分症状が軽かったからな、自宅療養ですんだ。柳は重いほうだったのか?」
「まあな。けどおかしいよな、市内で一斉に貧血の症状が出るなんて」
「そ、そうだな!! ははっ」
 頭を掻きながら、聖亜は誤魔化すように笑った。

 思い出した。

 あの戦いが終わってすぐ、キュウが小梅の力を借りて都市全体に封鎖の術を使用して記憶を書き換えたのだった。都市に住む全ての人間が、貧血を起こして倒れたという、馬鹿な記憶に。

「ま、幸い死者はほとんど……それこそ一人しか出なかったからな」
「……ああ」
 最後は苦虫を潰したような表情で言った準に同調するように頷くと、聖亜はぼんやりと窓の外を眺めー

「……ん?」
 ふと、目を瞬いた。
「ん? どうしたんだよ、聖」
「いや、あの枝の所に何かが……」
「何かって、鴉が一羽止まっているだけだぞ」
 聖亜の見ている方向を確認し、ヒスイが小さく呟いた。彼の視線の先にある大きな木の枝の一つに鴉が止まってこちらをじっと見つめている。
「聖、あの鴉がどうかしたのか?」
「いや……あの鴉じゃなくて、その隣りに何か」
「隣り? いや、何も見えないぞ」
 首を傾げる聖亜につられ、準も枝のほうを見る。が、やはり彼女にも何も見えない。首を横に振る彼女に、聖亜ガ目を凝らしてじっと見つめた、ちょうどその時

「うっすっ!!」
「おはよう皆、6日ぶりだね」
 教室の戸をガラッと大きく開き、秋野と福井の凸凹(デコボコ)コンビが中に入ってきた。
「貧血で休んでいたくせに、随分調子がいいじゃないか」
「ちぇっ、何だよ準、6日ぶりに会った友達にその言い方は。大体貧血って言ったって、皆軽い症状だろ。ま、夏休み前に休めてよかったけどな」
「そうそう。けど何で今日登校しなきゃいけないんだろうな、もう夏休みまで何日も無いんだし、ずっと休みでも良かったぜ」
「……終業式とかやっていないだろ」
「そりゃそうだけど……って、お前聖か?」
 こちらを見て唖然とした表情を見せる秋野に、聖亜は苦笑して頷いた。
「ああ。まったく、どうして皆同じことしか言えないんだ?」
「いや、そりゃお前が180度変わっているからだよ。てか何だよその格好、結構いい感じじゃねえか。どうだ、お前さえ良ければ、合コンやってみるかって、いや、冗談だからそう睨まんでくれ、柳」
 聖亜をじろじろと眺めていた福井は、その途端彼の背後から睨んでくる少女の視線に、慌てて両手を振って弁明した。
「まあ、合コンもいいが、福井、お前はまず髪をちゃんと伸ばすことを考えるんだな」
「いや、そりゃそうなんだけどよ、何だかこの光っている頭も気に入っちまってな。結局他校との合同水泳授業もお流れになったし、もうちよっとこの頭でいるよ。散髪代もかからないしな。それよりよ」
 と、福井は聖亜達3人に顔を寄せた。
「さっき秋野と話したんだが、俺ら今年の七夕パーティー出来なかったろ? でさ、俺ん家で明日祭りがあるんだが、皆していかねえか?」
「は? けどなんで明日……ああ、七夕祭りの変わりか。俺は別に構わないけど、準、ヒスイ、2人はどうする?」
「私は行くさ。聖亜が変な女に引っかからないように見張らなきゃいけないしな。ヒスイはどうする?」
「わ、私か? そりゃ日本の祭りには前から興味があったけど……浴衣が」
「ははっ、金が無くて買えないのか。安心しろ、私のお古貸してやるか」
 ポケットから取り出した財布の中身を見てため息を吐いた少女を見て、準はからからと笑いながらそう言った。
「そ、そうか? じゃあ……一緒に行く」
「おう、決まりだな。じゃあ明日の夕方神社に集合……もし学校が休みになるなら、昼過ぎに学校で落ち合うということで。って、もう時間じゃねえか。そろそろ席に着こうぜ」

 放しこんでいる間に結構時間が過ぎたのか、頭上からチャイム代わりの鐘の音が響いてきた。それを聞いて、周りの生徒が次々に自分の席に座る。秋野や福井と別れ、聖亜も自分の席に座り、ふと窓から見える旧校舎を見た。5日前、巨大な石人形に破壊された旧校舎は、今ではビニールシートがかけられている。修復するのは難しく、おそらく取り壊されるだろう。自分のお気に入りの場所が無くなる事の寂しさからか、彼はそっと目を伏せ、担任である氷見子が入ってくるのを待った。



 その頃、聖亜が見ていた枝では

『いや、驚いたな。まさかこちらに気付くとは』

 そう言うと、枝に止まっていた鴉は、何もない自分の横をちらりと見た。

『だがまあ、最低でもこれぐらいの力が無ければ、あの方もわざわざ見張りを命じることも無いか。なあ“佳代”』

 無論、その声に答える者は誰もいない。だがその時、枝の先についている葉が一枚、風も無いのに微かに揺れた。

『……ふむ、確かに此処では見つかる危険があるか。そうだな、一度上に上がるとしよう』

 そう呟くと、鴉は羽を広げ、空へと舞い上がった。


 次にその鴉が舞い降りたのは、急斜面になっている校舎の屋根だった。人間が決して立ち入ることの出来ない此処は、だが羽のある彼らにとっては、いい休憩場所になっている。

『さて、もういいぞ、佳代』

「ああ」

 と、鴉の横で声がしたかと思うと、いきなり少女が出てきた。下手をすれば一気に下までずり落ちるこの場所で、だがその少女は危なげなく腰を降ろしている。
 と、その背中に生えている翼が、一度大きく広がった。
「ん、やっぱり長い間折りたたんでいると疲れるな」

『ふむ、だがそう愚痴をこぼしてばかりもいられまい。少し休憩したら、また見張りに戻らねばな』

「うん。けどやっぱりあいつはすごいな。気配を完全に消して、しかも姿形さえ隠しているというのに、間違いなく私を見ていた」

『ああ。だが勘が鋭いのもあろうが、そなたがその術をきちんと使いこなせていないせいでもあると思うぞ』

 傍らの鴉のからかう様な口ぶりに、佳代はぷうっと頬を膨らませた。
「しょうがないだろう、この姿になったのも、あの方に“隠れ蓑”の術を教わったのも、昨日が初めてなんだからな。けど、鍛錬を重ねれば、それこそ隣りにいても気付かれる心配は無くなる」

『さてさて、その前に年を越さねばいいが』

「う、うるさいぞ末松、お前だっていびきがうるさいじゃないか!!」

『おおっと、怖い怖い。では俺はそろそろ西の監視に行くから、お前も見張りをがんばってくれ。近づきすぎて、せいぜい気付かれんようにな』

「うるさい、さっさと行け……それから、もし父様に会うことがあったら、佳代は大丈夫ですとでも伝えておいてくれ」

『うむ、ではな』

 最後にカアッと一声鳴いて空に舞い上がった鴉を見送ると、佳代はう~んっと一度大きく伸びをし、再び翼を広げ、今度はその大きな翼で自分お体をすっぽりと覆い隠した。
 と、その姿が周囲に溶け込むように透明になっていく。その姿が完全に見えなくなると、彼女は再び空に舞い上がった。



 校舎の屋根で自分を見張っている鴉天狗の少女が、再び透明になったとき、

 見張られていることに気付かない少年は、体育館で体育座りをしていた。
 体育館にいるのは彼と同級生だけではない。自分達一年生のほかに、二年生と三年生も同じように集まっている。
「え~、本日皆さんに集まってもらったのは他でもありません。先日の貧血騒動は皆さんも、知っているかと思いますが、その騒動の際、残念なことにこの学校の教頭を務めておられた鍋島先生が、事故でお亡くなりになりました。本来ならここで校長先生から説明があるのですが、校長先生は先日体調不良を理由に辞職されたため、え~、三年の学年主任である私が代わって説明します」
 壇上で髪の薄い40代の教師が話している間、聖亜は前を向き、そして僅かにため息を吐いた。
 5日前の戦いで死亡した鍋島先生は、崩れた工場の傍らで見つかった。なぜこんな所で死んでいるのか、そしてそもそもなぜ工場が崩れたのか疑問に思う者もいないではなかったが、なにぶん復興街での騒動のため警察の捜査もおざなりであり、結局事故という形で捜査は打ち切られたらしい。
「……けど、なんでこんな時に校長先生辞めたんだろうな」
「なんだ、お前知らないのか? 校長の奴、辞めたんじゃなくて実際には行方不明らしいぜ」
「……は? それって本当かよ」
「本当本当、しかも校長と教頭、けっこう仲悪かったろ、実は教頭は事故で死んだんじゃなくて、校長に殺されたって噂もあるぜ」
「げっ、けど仲が悪いぐらいで殺すか普通」
「それがさ、ここだけの話、校長は実は学校の金を横領していたらしい。しかもその横領した金で、児童ポルノ買ったり中学生や高校生と援交してたらしいぜ」
「うえ、ロリコンかよ」
「そうそう、あいつって結構甘いんだけど、ニヤニヤと笑いながらこっち見てたんだよね。ほんと気持ち悪かったよ」
「……まあ、今思えば校長なんかより教頭のほうが百倍は良かったよな。あの人厳しかったけど、それって俺達のことちゃんと考えてくれてたからで」
「そうそう。この前コンタクト落としちゃったとき、探すのを手伝ってくれたしね」
 学年主任が話している間、あちこちでそんなざわめきが聞こえてきた。
「お前ら五月蝿いぞ!! 今先生が話しているんだ、ちょっとは静かにしていろ!!」
 だが、二年の学年主任の一喝で、ひそひそとした囁き声に変わる。
「いや、すいませんね、鈴木先生。ではここで、亡き鍋島教頭先生を偲び、一分間の黙祷をささげたいと思います。では―黙祷」
 壇上の教師がそう言って軽く頭を下げるのを見て、体育座りをしている生徒達も皆そろって下を向いた。確かに厳しかった先生だが、それなりに人望はあったようだ。周囲で嗚咽を堪える声や、啜り泣きが聞こえる。
 そんな中、彼の本当の死因を知っている聖亜は、目を閉じながらあの時のことを思い出していた。



 呪詛の反動を受けたのだろう。そう言ったのはキュウだった。彼の顔はどす黒く変色しており、先程滅ぼした蛇神同様、片方の目は完全に埋没している。とても見られるような顔ではないが、だがその顔はどこまでも安らかであり、そして彼女の言葉が真実なら、恐らく自分が蛇神を殺すことが出来たのは、彼の攻撃を受けた蛇神が後退し、態勢を整えることができたからだ。
「けど、死ぬと分かっていて、どうして撃ったんだろう」
 彼の傍らには、銃口が完全に融解したライフルが転がっていた。これほどの威力を持つ弾丸だ。撃てばその反動で死ぬことぐらい分かっていただろう。なのに……
「……恐らく、この者はエイジャによって全てを失ったのだろうな。そういう人間が一番始末が悪い。なにせエイジャを倒す目的が、名誉でも富でもなく、復讐のためなのだから」
「……復讐」
「復讐を望む者達は、相手を倒すこともそうであるが、それ以前に家族の元に逝くことを望む。だが覚えておけ聖亜、死は何も生み出さぬ。楽になることも出来ん。死に縋るのは、ただの逃げだ」
「逃げって……そんな酷い言い方しなくても」
「酷かろうがなかろうが、それが事実なのだ。それより、ヒスイが起きたらさっさと移動するぞ。よいな、聖亜」
「……ああ」


 
(逃げに過ぎない、か)
 目を瞑りながら、黒猫に言われたことを述懐する。確かに死は逃げることかもしれない。けれど、逃げることを望んでいる人も、世の中に入るだろう。
「……い、おい、聖亜」
「……ん? 秋野?」
 と、考え込んでいる彼の肩を、すぐ後ろにいる秋野が突いた。
「お前、何時まで黙祷してるんだよ。そりゃお前は教頭先生と仲良かったから、気持ちは分からなくはないけどさ」
「いや、そうだな。ごめん」
 彼に軽く謝ると、聖亜は横目で辺りを見渡した。黙祷をしている生徒はもういない。自他共に厳しく、生徒と必要以上に関わろうとしない教師であったから、皆彼の死をすんなりと受け入れたらしい。

 誰にも気付かれないように小さくため息を吐くと、聖亜は壇上で話す教師の顔を、ぼんやりと眺め続けた。




「お~っし、お前らちゃんと席に着け」
 体育館から戻った後、聖亜は暫らく準達と話していたが、やがて氷見子が入ってきたため、慌てて席に着いた。
「さてと、そんじゃホームルーム始めるぞ。まず最初に体育館でも話があったが、先日の貧血騒動の際、鍋島教頭が亡くなられた。まあ、厳しい先生だったから嫌いな奴もいるとは思うが、本来教頭ってのはあんな物だ。校長のように甘いのがおかしかったんだよ。で、これからなんだが」
 其処で一端言葉を切ると、彼女は傍らにある紙袋を手に取り、中身を一番前の席にいる生徒に順に渡していった。前から渡されたそれを見て、聖亜は軽く眉を顰めた。
「え……? 先生、あの~、これは?」
 同じように眉を顰め、学級委員を務める栗原美香が、恐る恐る氷見子に話しかけた。
「何って、夏休み中にやる宿題だ。まあ夏休みまで後一週間ほどだからな。ちょっと早いかもしれないが、先日校長が体調不良で辞職したこともあり、次の校長と教頭が決まるまで、皆が期待してる通り夏休みにしようという話になった。だが、いいかお前らっ!! 休みが多くなったからといって怠けるんじゃないぞ。宿題は何時もの倍出すし、試験の点数が悪かった奴は、もれなく夏期講習をプレゼントだ!!」
 途端に辺りでげっと叫ぶ声が聞こえる。頭を抱え机に突っ伏す福井を見て、ヒスイが呆れたように首を振るのが見えた。
「何だ何だお前ら、そのげって言うのは……まあいい。それからもう一つ、実は私夏休み中は県外にある実家に戻らなくちゃいけないから、どうしても緊急のとき以外は電話を寄越すな。まあ夏期講習は隣のクラスの鈴木先生が見てくれるし、さっき宿題と一緒に渡したプリントに、彼女の連絡先が書いてあるから、何かあったらきちんと電話するように。ああ、それから男子、溜まっているから相手してくださいって言うのは、幾らなんでもやったらしめるからな!!」
「いや、あのおばちゃん先生にそんなことする奴いませんって!!」
 秋野の言葉に、周囲の男子がうんうんと頷いた。確かにどんなに溜まっていても、さすがにトドのような体格をした50過ぎの先生に手を出す男はいないだろう。にっと笑ってから、氷見子は咥えていたシュガーチョコを一気に噛み砕いた。
「ま、そりゃ確かにそうだな。それじゃ次は夏期講習の日程を言うぞ~」
 その言葉に、再び絶叫があがるのを聞きながら、聖亜は戻ってきた日常をかみしめていた。


「聖、ちょっといいか」
「はあ、別にいいですけど」
 氷見子が声をかけてきたのは、聖亜が教室の窓を拭いているときだった。ホームルームはすでに終了し、今は掃除の時間になっている。
「いや、さっきも言ったと思うけど、夏休み中私いないからさ、今のうちに貰って置こうと思って」
「……えっと、何を?」
 首を傾げる聖亜に苦笑すると、彼女は隣の窓を拭き始めた。
「つまり……お前の事を姉貴や妹に話す許可」
「…………この前の話、冗談じゃなかったのか」
「当ったり前だろ、乙女の告白、一体なんだと思ってるんだよ」
 少し間をおいて、呆然と呟いた少年に、氷見子は軽く突っ込みを入れた。
「確かに性格はちょっと変わっちまったようだが、私がお前を好きになったのは性格とかそんなんじゃないからな……まあ、駄目なら駄目でいいけど」
「……いや、別に駄目って言ってるんじゃないけど」
「そっか……ありがとな。と言うわけで」
 唇の端に感じた柔らかい感触に、聖亜ははっと口を押さえた。
「あ~っ!! な、何やってんだ年増!! 人がゴミ出しに行っている隙に!!」
 その時、ちょうどいいタイミングでゴミを片付けに行っていた準とヒスイが教室に入ってきた。
「はっ、残念だったね小娘、今回はどうやら私の勝ちのようだ」
「くっ!! ふ、ふん。けどたかがキスぐらいでいい気になるなよ。私なんてもう聖亜に百単位でキスされてるんだからな!!」
「なっ!! 聖亜、お前こんな小娘相手に不順異性交遊かよ。するんだったら今度から大人の私にしろ! いいな」
「いいわけないだろ、いい機会だ。聖、お前この年増と私と、一体どっちが好きなんだ。はっきりさせろ」
「確かにいい機会だな。聖亜、こんな小娘より私のほうがいろいろと満足させてやれるぞ」
「いや、その……頼むから、二人とも落ち着け、な」
 両手をばたばたと振って何とか二人の女傑を宥めようとするも、段々と押し切られ、聖亜は遂に壁際に追いやられてしまった。
「……まったく、さっぱり掃除が進まないじゃないか」
 机を運びながらぽつりと呟いたヒスイの言葉に、周囲の生徒は、皆そろって頷いたのだった。


 


西暦2015年(皇紀15年) 7月14日 12時40分



 夏の日差しが、頭上からじりじりと容赦なく降り注いでくる。
「ちっ、たく……何なんだいこの暑さは!!」
「……」
 悪態を吐きながら、エリーゼは大きく開いた胸元の中に手をぱたぱたと振った。昨日着ていた服は、今彼らがチェックインしているホテル「ニュー秋野」に置いてきており、今は涼しげな格好をしているのだが、それでも暑いものは暑いらしい。
「夏だから仕方ないだろう。大体お前がそういうなら、先程の彼らは蒸し風呂に入っているようなものだぞ」
 そんな相方に、スヴェンは表情一つ変えずに答えた。
「ま、そりゃそうだけど、あいつらはそれが仕事だからね」
 数分前の出来事を思い出し、エリーゼはからかう様に口を歪ませた。


 太刀浪市の中心にある旧市街と西側にある復興街は、その間を流れる巨大な川、五万十川によって隔てられている。二つの川を行き来するには川に掛けられている五万十大橋(ごまんとおおはし)を渡るしかないが、先日二つの町を行き来する蒸気バスが破壊されてからは、橋は旧市街側から完全に封鎖されていた。

「……ん?」

 その日の昼ごろ、じりじりと暑い中、橋の監視という退屈な仕事を押し付けられたその若い巡査は、旧市街のほうから橋に向かってくる一組の男女に気づいた。
 女の方は薄紫の髪をしたグラマラスな美女であり、
 男の方は髪も目も灰色をした、背の高い偉丈夫だ。
「あ~、すいませんが二人とも、この橋は今通れませんよ」
「……何故だ?」
「何故だって……ああ、外からのお客さんですか? いや、それは秘密……分かりましたよ、そんなに睨まんで下さい。何でも旧市街と復興街を行き来するバスが一台滅茶苦茶に破壊されまして、それに先週の貧血騒ぎでしょ? 新市街のお偉方が皆神経質になっちまって、一昨日から封鎖してるんですよ。ま、何か問題が起きるたびちょくちょく封鎖していたんで、今回は一ヶ月ぐらいで解除されると思いますよ」
 男の灰色の目に見つめられ、元々気が弱い性格なのだろう、その若い警官はしどろもどろに話し始めた。
「おいおい手前、何機密情報べらべらと喋ってんだ」
「痛てっ!! いや、すいません先輩!!」
 その時、近くの休憩所から出てきた幾分年上の警官が、彼の頭を一発ぽかりと殴った。男が胸に視線をやると、巡査部長の階級が見える。
「ま、そういうわけでお二人さん、此処は今通ることが出来ないから、復興街に入ることは出来ませんよ。まあそれ以前に、あの町にまともな神経の奴が入りたいと思うことは無いと思いますがね」
「……」
 沈黙している男に、巡査部長はしっしっと追い払うように手を振った。
「いや、そういうわけにも行かないよ。こっちも仕事があるからね」
 と、今まで成り行きを見守っていた薄紫色の髪の女が始めて口を開いた。
「は? いえ、どんな仕事にしても、今復興街に入ることは出来ません。もし強引に入ろうというなら、申し訳ありませんが公務執行妨害で逮捕させていただきますが」
「ほお、公務執行妨害ねえ」
 わざとらしく驚きの表情を見せた女に、巡査部長は不機嫌そうに顔を歪ませたが、彼女が懐から取り出したカードに目をやり、はっと固まった。
「こ、これは……」
「……先輩?」
 そんな彼の様子に、若い巡査は不安げに目をやるが、彼はそれに気づかず、じっと女を見返した。
「……確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「ああいいよ。幾らでも確認しておくれ」
 先程とは違う彼の様子に、女は面白そうに口の端を吊り上げた。男のほうはむっつりとした表情のまま、近くの壁に身を預けている。
 いったん休憩所に戻った巡査部長は、数分たって戻ってきたが、その表情は先程とは違い終始笑顔だった。
「いや、申し訳ありません。しかし驚きました。わざわざ外国からこんな所に、一体何の御用です?」
「すまないが、こちらも機密でね。で? 通してくれるんだろうね」
「あ、はい。それはもちろんです。お~い、封鎖を一端解除しろ」
 巡査部長が橋のほうに呼びかけると、端を封鎖していた数台のパトカーがゆっくりと移動した。
「ふん、ごくろうさん」
「いえ、それより復興街はかなり治安が悪いので注意してくださいね。まあ、あなた方にはいらぬ世話かもしれませんが」
「……まったくだ。ではな、仕事ご苦労」
 そう言うと、灰色の男はゆっくりと橋に向かって歩き出した。
「あ、ちょっと待てよスヴェン。ったく、そんじゃ、邪魔したね」
 ひらひらと手を振りながら、男の後を追う女の後姿を、若い警官はぽかんと口を開けながら見送った。
「あの、先輩? あいつら一体何者なんですか?」
「……お前、FBIってもちろん知ってるよな」
「は? そりゃもちろん知っていますよ。国家安全保障局ですよね。けど彼らとそのFBIと、一体どんな関係があるんです?」
「……FBIには、絶対的な権限を持つ8人の捜査官がいるという噂があるんだが」
「あの、先輩……それってまさか、今の2人が」
「ああ。まさか噂ではなく本当に存在していたとはな。特務捜査官か……給料高いんだろうな。さ、そろそろ封鎖するぞ。いつまでも開けていたら、上が五月蝿いからな」
「あ、はいっす!!」
 巡査部長の言葉に、若い巡査が大きく手を振り合図を送る。その合図に応え、パトカーはまたごとごとと動き出した。
 そのときにはもう、二人の姿は点ほどにしか見えなくなっていた。



「やっぱり“表”の階級が高いと楽でいいねえ」
「……」
 復興街の中心、雑踏区の中を歩きながら、エリーゼは先程のカードをひらひらと振る。と、そのカードはいきなり宙に掻き消えた。
「しっかしここは本当に治安が悪くなったね。この数分の間にスリに遭遇したのなんて、これで4度目だよ」
 そう言うと、彼女はスヴェンに首を押さえつけられている男に目をやった。男はたった今彼にぶつかって、懐をさぐった男だった。
「ひいっ、た、助けてくれえ!!」
 男は道行く人に助けを求めるが、そもそもこの街で他人を助けるものなど存在するはずが無かった。
「さあて、この男を一体どうしようかしらねえ」
「……窃盗は紛れもなく悪だ。悪は報いを受けねばな」
「た、頼む!! 許して、許してくれえっ!!」
 だが、スヴェンは喚く男の身体を軽がると宙に持ち上げ、


 グチャッ


「ぐべっ」


 そのまま、顔面から一気に地面に叩き付けた。
「……行くぞ」
「はいはい。しかしスヴェン、あんた相変わらず“悪”には容赦がないね」
「当然だ。この世界は、悪が生きられるほど広くはないからな」
 顔を潰され、ひくひくと痙攣している男をそのままに、二人は雑踏区の奥へと消えて行った。
 彼らの姿が見えなくなると、倒れている男に周囲の人達が近寄り、男の荷物を物色し始めた。

「しかし、なんだってこっちに来たんだい?」
 雑踏区を北に進みながら、エリーゼはぽつりとスヴェンに尋ねた。
「……絶対零度を極刑に出来るほどの、確かな証拠がほしい。それには奴が爵持ちと戦った現場を調査するのが一番だからな」
「そりゃそうだけどさ。昨日も言ってるだろ、あたしらには確かに極刑の権限はあるが、それは重大な犯罪を犯した奴や、敵と結びついていた反逆者にのみ適応されるものであって、たかが禁技を使ったぐらいで出来るものじゃないよ」
「…………イル」
 だが、スヴェンはエリーゼの愚痴には応えず、不意に虚空に呼びかけた。

『……はい』

 彼の言葉に、何処からともなく応答がある。それに頷くと、スヴェンはじっと前を見つめた。
「……絶対零度と爵持ちの戦闘は、確かにこっちの方角か?」

『はい。マスター。微量ながら爵持ちの気配が残っております。戦闘が行われた場所は、ここから北に6キロメートルほど進んだ廃工場です』

「そうか……間違いはないだろうな」

『もちろんです。私の探知能力に狂いはございません。無能な“ウル”とは違います』

『はっ!! 流石はイ“ヌ”ちゃんよねえ。お鼻をひくひくさせて、地面を嗅ぐのだけは得意かしら』

 と、虚空からさらに別の声が聞こえてきた。最初の冷静な声と比べ、どこか残忍なほど陽気な感じがする。

『黙れウル、私は力押ししか出来ない貴様のような無能とは違う!! 第一貴様には、その探知能力すらないではないか!!』

『ふふんっ、その代わり戦闘で活躍しているのはこっちのほうじゃないか。あんたはただあたしのアシストをしてるだ・け!! あはははははっ』

『……ウル、どうやらその口、物理的に潰してほしいようだな』

 冷静な声の中に怒気が含まれ、空気がびりびりと震えだした。

『へえ? あたしと殺(や)り合おうっての? いいじゃない、返り討ちにしてや「……黙れ」ひっ!!』

 その時、辺りに怒気を無理やり抑えたような、低い声が響いた。

「……イル、ウル。貴様ら、どうやら仕置きが必要なようだな」

『も、申し訳ありませんマスター。私の不手際でございます』

『す、すいませんご主人様。お願いだからあれだけはおやめ下さい。お願いですから!!』

「……」
 虚空に響き渡る懇願の声に、スヴェンは暫らく沈黙していたが、やがてふっと気を緩めた。
「……ならさっさと現場に案内しろ」

『はっ、はい。畏まりましたマスター。こ、こちらでございます』



 それからおよそ20分後、
「こりゃまたひどく壊したもんだねえ」
 大きな瓦礫の上に座り、感心したように笑うエリーゼを、その隣りで建物の残骸を検分していたスヴェンは、むっつりと睨み付けた。
「エリーゼ……座っていないで手伝え」

 ヒュッ

 だが、その言葉に対する返答は瓦礫だった。投げつけられた瓦礫をかるがるとキャッチすると、スヴェンは再びしゃがみ込んで残骸を検分し始めた。
「あ~あ、本当なら今頃ハワイに新しく出来たリゾートで、肌をほんのり焼きながら男共を悩殺できたはずなのに、何でこんな奴と一緒に瓦礫の山なんかにいるんだろう」
「……エリーゼ、やる気がないならさっさとアメリカに帰れ」
 どこか不機嫌そうな声を出し、こちらを睨みつけてくるスヴェンに、だがエリーゼははんっと吐き捨てるように笑った。
「そりゃいい考えだけどねスヴェン。あんたあたしがいなくなったらどうやって飛空船に乗るんだい? 12歳以下の子供は保護者同伴でないと乗れない決まりだろう?」
「……」
 にやにやと笑ってくるエリーゼを、スヴェンは暫らく睨みつけていたが、やがてこれ以上イっても無駄だというように、黙って背を向けて歩き出した。恐らく別の場所を探すのだろう。
「そんなに頑張っても、戦闘が行われたのは6日前だ。幾らなんでも物的証拠はあの猫が消していると思うがねぇ。ま、気持ちは分からんでもないけどさ」
 スヴェンの後姿を見ながら、ぽつりとそう呟き、エリーゼはよいしょっと瓦礫から飛び降りた。
「しかしなんだね。資料を見た限り、絶対零度の得物は太刀だ。絶技もその対象は複数ではなく単体。もしこの建物をぶっ壊したのが彼女の絶技なら、それにしては少し壊れ“過ぎている”。恐らく爵持ちが真体に変化したからだと思うが、それを二級の魔器使が倒せるかね」
 日陰を探しながら辺りをきょろきょろと見渡す彼女の目に、ふとそれが映った。
「おや? これは……おいスヴェン、ちょいとこっちに来てみな」
「……何だ」
 自分を呼ぶ声に、反対側を探していたスヴェンは近寄ると、エリーゼの指差したその物体を見て、ふと目を細めた。
「何だこれは?」
「さてね。けどこれは明らかに人のものじゃない。だとするとエイジャの物になるわけだけど、これほどの大きさだ。まず爵持ちだろうね」
 瓦礫の中にあったことで、黒猫にも発見されずに残っていたのだろう。身の丈ほどもあるその巨大な物体は黒く染まっており、風に吹かれて表面がぼろぼろと崩れていく。
「イル、これは何だ」

『はい…………検索完了。この物体は巨大な鱗です。データ照合の結果、下級の爵持ちであるニーズヘッグのそれと一致しました』

「ニーズヘッグ? ああ、あの蛇神か。鱗ということは、奴は真体となった……ということでいいね」

『はい。ですが疑問点が一つ。ニーズヘッグの鱗は確かに黒い色をしていますが、光沢だったはずです。ですがこれは明らかに炭化しています。まるで巨大な炎に焼きつくされたかのように』

「……炎だと? 絶対零度は氷の使い手だ。正反対だろう。イル、鱗がここまで炭化するのに必要な最低温度は幾らだ」

『お待ち下さい…………そんなっ!!』

「ん? どうしたんだい?」
 驚愕の叫びを上げた虚空の声に、エリーゼは軽く眉を顰めた。

『必要最低温度、およそ10万度。ですがこの鱗はほぼ一瞬に炭化されていますから、どれほど低く見積もっても、最低でも100万度以上の高熱、すなわちコロナと同様の温度にさらされたことになります!!』

「……笑えない冗談だね。100万度か。スヴェン、まさかあんたの仕業じゃないだろうね」
「……俺でも100万度の高熱を発生させるのは容易ではない。第一それほどの高熱を放てば、少なくとも半径10キロは間違いなく溶解される。しかし周囲にはその形跡は全くなかった。ならば考えられる可能性は唯一つ、極限まで固体化された炎で、対象のみを焼き尽くしたのだろう。だがそんなことが出来る人間を、俺は知らん」
「なら考えられる可能性は一つ、ニーズヘッグは少なくとも同等以上の力を持つ、炎を使用するエイジャによって滅ぼされたことになる」
 額に指をやり、軽くため息を吐いたエリーゼは、スヴェンが下を向いて肩を震わせているのに気づいた。
「……スヴェン?」
「……く、くくくっ。そうか。エイジャと繋がっていたか、絶対零度。ならばエリーゼ、これは間違いなく敵と繋がっていた反逆者ということになる。これほどの罪を犯したのだ。絶対零度の極刑は、まず間違いないだろう」
「ま、それが真実ならね」
「真実か。真実など幾らでも変化する。だが俺にとっての真実は唯一つ、奴が悪だという、ただそれのみだ」
 最後は何かを押し殺すように低く呟くと、スヴェンは廃墟の外に向けて歩き出した。それを見てエリーゼはやれやれと首を振り、彼の後に向けて歩き出し―

「っと、どうしたんだい、立ち止まって」

 だが、僅か数歩歩いただけで、彼女はスヴェンの背に激突しそうになった。
「……黙れ。ふむ、どうやら囲まれたようだ」
「囲まれたぁ? 囲まれたって誰にさ」
「……どうやら誰に、ではなく“何”に、のようだ」
 スヴェンの声に合わせ、周囲から強烈な殺気が膨れ上がった。


 それは、白い毛皮を纏った化け物だった。

 体長は2メートルを軽く超え、腕も足も、太さは人間の3倍はある。その口からは巨大な牙が二本空に向かって伸びており、こちらを見る黄色い目からは怒気と殺気以外の感情を感じない。

 だが、そんな大の大人でも見た瞬間卒倒する姿を持った化け物に周囲を完全に囲まれているにもかかわらず、スヴェンとエリーゼ、この二人は眉一つ動かさなかった。
「……なんだい、脅かせるんじゃないよ。エイジャでもスフィルでもないじゃないか」
「ふん……イル、こいつらは何だ」

『少々お待ち下さい……検索終了。太刀浪市復興街に出没する化物(けもの)、通称狒々(ひひ)です。中型の化物の中では最大の腕力を持ち、人間の背骨を軽くへし折ります。生息地は主に復興街北側にある工場区、つまりここです。好物は人間の肉、中でも心臓の部位。戦闘能力はスフィルの10分の1です。数はおよそ150匹』

『スフィルの10分の一? くっだらない!! ねえご主人様、あたしがさっさと片付けちゃいましょうか?』

 だが、虚空から聞こえる陽気で残忍な声に、スヴェンは首を横に振った。
「いや、こんな“獣”程度、わざわざ魔器を使う必要もない。絶対零度に刑を執行する前の良い肩ならしだ。俺がやろう」
「そうかい。じゃ、あたしはゆっくりと見物させてもらうよ。服が汚れるのも嫌なんでね」
「……勝手にしろ」
 100体以上の化物に囲まれ、それでも恐怖を欠片も見せない二人に、彼らを囲む狒々は僅かにたじろいだが、本能が勝ったのだろう。グォオッ!!と一声甲高く叫ぶと、一斉に二人に向けて飛び掛った。



 あたりに、鮮血が舞った。


 飛び掛ってきた狒々の顔を右手で掴むと、スヴェンはそれを軽く握りつぶした。辺りに濃い血の臭いが立ち込める。手にこびり付いた脳漿を振り払わず、今度は横から襲ってきた狒々に蹴りを放つ。その強烈な一撃は軽々と狒々の腹部を貫き、そのまま振り回した足で、近くにいる狒々を数体まとめて吹き飛ばした。

 最初の狒々が倒されてから5分、ほんの僅かなこの時間で、地面に倒れている狒々の死体は少なくとも30体を越していた。
「ふん、やはりこの程度か」
 左右から同時に襲い掛かる狒々の頭部を、左右の拳でそれぞれ粉砕すると、スヴェンはつまらなそうに頭を振り、低い姿勢から一気に飛び掛ってきた狒々を、その背中から軽く踏みつけた。
 グチャリと音を立て、足が狒々の身体を貫通する。自分の足の先でぶらぶらと揺れるその狒々を、スヴェンは遠くにいる狒々に向かって投げ飛ばした。

「グギャギャッ!!」

 その頃になって、狒々はようやく自分達がとんでもない相手に手を出してしまったことを知った。だが逃げるわけにも行かない。最近は獲物も少なく、彼らは皆空腹なのだ。
 この男に自分達は敵わない。手ぶらで逃げることも出来ない。どうすればよいか。
 そう考え、彼らは実にシンプルな答えを出した。

 そう。この男に敵わないのであれば、狙う獲物を替えれば良いのだ。

「おや? こっちにきたようだね」
 スヴェンが戦っている間に、その脇を潜り抜け、こちらに向かってきた十数匹の狒々を見て、エリーゼは軽く笑みを浮かべた。
「ま、いいさ。ちょうど退屈していたんだ。せめてお遊びぐらいにはなっておくれね……バジっ!!」

『……』

 エリーゼが虚空に向かって叫ぶと、彼女の両手に何かがすとんと落ちる。それを握り締めると、エリーゼは自分に向かってくる狒々にそれを向け、にやりと笑った。
「さあ、空腹なんだろ? たっぷりと喰らいな……鉛弾をねっ!!」
 引き金を引くと、彼女の持つ二丁のサブマシンガンから無数の銃弾が狒々達に向かって一気に降り注いだ。それを受け、前方にいる数体が倒れる。
「あははははっ!! さあ、いい声で啼いとくれ!! 坊や達!!」
だが、仲間の死体を乗り越え、一匹の狒々が遂に彼女の肩に触れた。
「おや? あたしと力比べをしようってのかい」
 だが、狒々の手は軽く曲げられていた。いや、手だけではない。その狒々の身体はエリーゼの手の動きに合わせ、ごきごきと鳴りながら回転を続ける。やがて、狒々の身体は絞られた雑巾のような形になった。
「やれやれ、女のあたしだったら勝てるとでも思ったかい? 残念だけど、あたしはこれでも第一級魔器使“一殺多生”さ。なめてもらっちゃ困るね。さあどうする? 今なら逃がしてやるけど」
 血に塗れたエリーゼの姿に、狒々の一匹が戦意を喪失してか、じりじりと後退して行く。そして、後ろを向いて逃げようとしたとき、

「グギャギャギャギャッ!!」

 その狒々は、背後から物凄い力で首を握られ、宙に持ち上げられた。
「スヴェン? いや、違うね。親玉か」
 彼らの背後から現れたのは、身の丈3メートルはあろうかという巨大な狒々だった。首には人間の頭蓋骨で作ったネックレスをかけており、普通の狒々の口から2本の牙が突き出ているのに対し、この狒々からは4本、つまり片方の口の端から2本の巨大な牙が宙に突き出ている。
 その巨大な狒々は、先程逃げようとしていた狒々を軽々と持ち上げると、


 グチャリ

 と、その狒々の頭を噛み砕いた。

「おやおや、派手なこと」
「……単なる演出だ。しかし、奴を殺せば他の獣共は戦意を喪失して逃げ出すか」
「おやスヴェン、そっちはもう終わったのかい?」
「ああ。後は此処に残っている奴らだけだ」
 エリーゼの後ろから、真っ赤に染まったスヴェンが歩いてきた。身体にこびり付いた血の臭いが辺りに広がり、エリーゼはちっと舌打ちした。
「ったく、ちゃんと後で風呂に入ってくれよ。それよりどうする? あの親玉を先に叩くかい?」
「そ「グギャギャッ!!」……」
 彼女の問いにスヴェンが答えようとしたその時、狒々の親玉が首のない狒々を持ったまま走ってきた。エリーゼのほうには目をくれず、スヴェンに向かって自分の胸をどすどすと叩く。
「おやスヴェン、あんた挑戦されたようだね」
「……くだらん。だが、戦うというなら相手になってやる」
 そう呟くと、スヴェンはゆっくりと前に向かって歩き出した。そんな彼ににいっと笑うと、親玉はまず自分が喰らった狒々を彼に投げ飛ばした。
 身体を捻って避けたスヴェンに、今度は右腕が風を切って襲い掛かる。地面すれすれに向かってくるその腕を、彼は真上に跳躍して避ける。だが一瞬無防備になった彼の身体に、今度は左腕が頭上から襲いかかった。

 ガッ

 と鈍い音がして、腕の下から血が噴出す。それを見て親玉はゲギャギャギャと下品に笑ったが、次の瞬間、その笑みは驚愕と激痛に歪んだ。
「……やはりこの程度か」
「ギャアアアアッ!!」
 親玉の左腕がゆっくりと持ち上げられる。と、その下から潰れたはずのスヴェンが現れた。彼は傷一つ負っていない。血を流しているのは親玉のほうだ。左腕の一部が抉られ、赤黒い肉が覗いている。
「では、次は俺の番だな」
「グギャッ!?」
 スヴェンが掴んでいる左腕が、ぎりぎりと捻られ、そして次の瞬間、

 ぶちりと音を立て、腕が身体から離れた。

「グゲゲゲゲッ!!」
 ふらつき、膝を突いた親玉にゆっくりと近づくと、スヴェンはその頭に手をやり、

「ふんっ!!」
 少しだけ気合を入れ、地面に一気に叩き付けた。
「ガ……ゲッ」
 一度ひくりと痙攣すると、10年の間工場区の一角を占拠していた大狒々は、もう二度と動かなくなった。

「はっ、中々お見事。さてと、それじゃ他の獣共はどうする?」
「……」
 立ち上がったスヴェンがあたりを睨むと、親玉の死骸を呆然と眺めていた狒々は、ギャッギャッと叫びながら四方に逃げようとした。だが、
「……我正す、故に我あり。人間の肉を喰らう獣は悪だ。俺の前に現れたからには一匹たりとも逃がさん。イル! ウル! 具現せよ!!」

『は~いっ!! 待ってました。ご主人様!!』

『マスター、私の身体、存分にお使い下さい』

 不意に、虚空から2本の柄が飛び出してくる。それを握ると、スヴェンは一気に引き抜いた。
「傑作魔器の一つ“悪魔笑い”のチェーンソー。その破壊力、自らの身で存分に味わえ!! 閃光絶技“千空(せんくう)”!!」
 一括し、両手にある巨大なチェーンソーを振ると、懸命に彼から逃げようとしていた狒々の全てが、ばらばらと崩れ落ちた。
「……さて、此処での用事はもう終わった。戻るぞエリーゼ」
「はいはい。ったく、さっさとホテルに帰ってシャワーを浴びたいよ」
 紫色の髪にこびりついた血を拭うと、エリーゼは疲れたようにため息を吐いた。
「勝手にしろ……さあ、いよいよだ。待っていろ絶対零度、邪悪なる貴様の首を我が魔器によって切り飛ばしてやる!!」
 無表情な顔に凄みのある笑みを浮かべると、スヴェンは近くにある炭化した巨大なニーズヘッグの鱗を、チェーンソーで粉々に粉砕した。


 鱗は灰に変わり、やがて風に乗ってひらひらと飛んでいった。




 
西暦2015年(皇紀15年) 7月14日 17時40分



「お待たせ致しました。こちらご注文のコーンスープになります」
「……へ?」
 前に出されたコーンスープを見て、客は呆然としながら、それを運んできたウエイターを見上げた。
「……お客様、どうかなさいましたか?」
「え? い、いえ。何でもないです。はいっ」
「そうですか。ではどうぞごゆっくり」
 一礼して去っていく少年を見送ると、客はのろのろとスプーンを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。


 そのコーンスープは、ほんのりと温かかった。


「……え~っと、聖?」
「はい、何ですか祭さん」
 戻ってきた少年に、祭は呆然と声をかけ、その身体をぺたぺたと触った。
「……一体何するんですか、祭さん」
「いや、あんた本当に聖? 何か随分と印象が変わったような」
「そうですか? 別に変わっていないように思えるんですけど」
 そう答えると、聖亜は汚れた食器をさっと食器台に置いた。
「いや、充分変わってるって。大体お前、何でウエイトレスの格好じゃないのさ」
「何でって……別に俺、女じゃないですから」
 そう答える聖亜は、今までの猫耳付きの付いたウエイトレス用の服ではなく、執事の着るような黒い燕尾服を着ていた。これはウエイトレスの格好をすることを徹底的に、それこそマスターの顔を殴り飛ばしてまで拒否した彼に、そのマスターが土下座しながら出してきた服だった。なんでも彼のお古らしい。
「け、けどさ、今までその……“聖華”ちゃんを目当てに来ている客もいることだから」
「……別にいいと思いますが? 元々聖華なんていないんですから。というかなんでそんなに気にしてるんです?」
「いや、だってお前、その……」
「?」
 首を傾げる聖亜の前で、祭はあたふたと手を振り、そっぽを向いた。言えるはずがない。まさか執事姿の聖亜に、“見とれていた”などと。
 真っ赤になっている祭に首を傾げながらも、聖亜は厨房から出された料理を運ぶ事にした。お盆からはみ出るほどの巨大なジャンボイチゴパフェを、でっぷりと太った青年の前におく。
「お待たせいたしましたお客様、こちらがご注文の“ドキッ!! イチゴだらけのスペシャルジャンボパフェ”になります」
「な、何なんだな君は。聖華ちんはどこに行ったんだな、聖華ちんは!!」
 だが、太った青年はパフェには目もくれず、顔の肉に食い込んだ瓶底眼鏡で、聖亜をきっと睨んだ。
「……申し訳ございませんがお客様、当店に聖華という名前のウエイトレスは居りませんが」
「そ、そんなの嘘なんだな!! だ、だって聖華たんは僕を見て笑いかけてくれたんだな、あ、あれは絶対僕に気があるんだな!! 大体、き、君は一体誰なんだな!!」
 だんだんとテーブルを叩きながら喚く青年に、周りの客が露骨に眉を顰める。それを横目でちらりと見ると、聖亜は軽く目を細めた。

 正直、聖華であった自分としては、心底気色悪い。

「私ですか? 私は先日からこの店で働いている、星 聖亜と申しますが」
「ほ、星聖亜? も、もしかして君、聖華たんの……」
「ええ。兄になります。聖華の方は先の貧血騒ぎで少し体調を崩しましたので、店をやめさせました。それより」
 青年のつばが飛んだテーブルを拭くために屈みながら、聖亜はその顔をそっと相手に近づけた。
「……さっさと食って、さっさと帰りやがれ。でないと潰すぞ。この豚野郎」
「ぶひっ!!」
 他の客には聞こえないように低い声でそう囁かれ、豚―失礼、太った青年はガタガタと震えながら、物凄い勢いでつば入りのジャンボパフェを貪ると、そのままレジに向かって走っていった。
「……失礼致しましたお客様、どうぞお寛ぎ下さい」
 それを見送ると、聖亜はくるりと回転し、周りの客に微笑みながら一礼した。女性客の何人かが、その笑みに顔を赤く染める。それを見て心の中でしてやったりという風に笑うと、聖亜はカウンターに向かって歩いていった。


 カウンターでは、右頬を腫らしたこの店のマスターが、不機嫌そうに料理を作っていた。
「何不機嫌そうにしてるんですか、マスター」
「いや……だってなあ、俺はお客様にお尻を撫ぜられて恥らう猫耳姿の聖華ちゃんを見るのが好きだったのに、今俺の前にいるのは“昔”とあんまり変わらない毒舌家の聖亜だからな、そりゃ気分も乗らなくなるさ」
「何ですかそりゃ。まったく……しっかりしてくださいよ。第一、“猫”要素だったらちゃんと身につけているでしょう?」
「そりゃそうなんだがな」
 ぶつぶつと文句を言いながら、白夜は聖亜の胸元に付いているネームプレートを見た。彼の自信作であるネームプレートは、店の看板同様猫の形をしていた。
「……まあいいか。そんじゃ聖、さっさとこっちに来て洗い物手伝ってくれ」
「はいはい。そう言えば、ヒスイは大丈夫ですか?」
「ん? ああ。ほれ」
 白夜が親指を向けた方、つまり厨房の方を覗き込むと、其処には北斗と昴、この二人に監視されながらジャガイモを剥いている白髪の少女の姿が見えた。エイジャとの戦闘で太刀を使用しているせいか、最初はぎこちなかった彼女の動きは、今は別人のように早い。
「良かった。あれなら大丈夫そうですね」
「まあな。だが不器用なのは直っていないようだ。先程洗わせた皿なんだが……」
「……ありゃ」
 流し台の中にある皿を見て、聖亜は苦笑した。どの皿にも所々ひびが入っている。これでは捨てるしかないだろう。
「ま、子供の相手とか野菜の皮むきとか、やれる事は幾らでもあるんだがな。ところで聖、いい加減に教えてもらうぞ。あんな可愛い子、一体何処で知り合ったんだ? それから、ちゃんと口説いたんだろうな」
 聖亜は一瞬、にやにやと聞いてくる白夜の顔を再び殴ってやりたい衝動に駆られたが、やがてため息を吐くと、汚れた食器を洗い始めた。
「彼女、俺の命の恩人なんですよ。だから口説くとかそんなことはしないです」
「……そうか。いや、変なこと聞いて悪かったな」
「いえ、まあ変な関係じゃないから、そんな気にしないでください」
 分かった分かった。そう言って料理に集中した白夜を見て、聖亜も目の前の汚れ物に集中することにした。


 洗い物が粗方なくなった頃だろうか、会計を済ませ出て行った本日最後の客と入れ違いになるように入ってきた二人の男を見て、聖亜は片方の眉をピクリと動かした。
 二人は、片方が中年で、もう片方は若い。中年の方の男はこちらに目を遣ると、片手を挙げて歩いてきた。
「よ、久しぶり、マスター」
「はっはっは。本当に久しぶりですな。俺としては、もう二度と会いたくなかったですがね、栗原“警部補”殿」
 白夜に階級付けで呼ばれ、カウンターに座った中年の刑事は、ごまかすように薄い頭を掻いた。
「まあそう邪険にしなさんな。確かにきちんと証拠をそろえないで強制的にガサ入れをしたのは俺だよ? けどなあ、今日は客としてきたんだ。もうちっと愛想良くしてもいいんじゃねえかな。ま、とりあえずコーヒー。おい、お前は何飲む?」
「え? 自分ですか? じゃ、じゃあ自分もコーヒーで」
 だみ声で突然そう尋ねられ、彼の後ろで暇そうに立っていた若い刑事はあたふたと慌てながら答えた。
「はい。コーヒー2つね……聖、お前そろそろ休憩時間だろ。此処はいいから、従業員室で休んどけ」
「……え? は、はい」
 刑事の方を見ないように俯いて皿を拭いていた聖亜は、白夜の言葉に皿を置いて奥に行こうとした。だが、
「おっと待った。それはちょいと待ってくれねえか? 今日はお前さんに用があってきたんだよ」
 栗原の放っただみ声に、びくりとその身体を震わせた。
「……何ですか?」
「なに、そう大したことじゃねえ。おい、例の物出せや」
「は、はい」
 部下が取り出した、白い粉が入った透明の包みを強引に奪い取ると、栗原はそれをカウンターの上に置いた。
「……これは?」
「最近巷を騒がせている新型ドラッグだ。名をKと言う。効果はコカインのおよそ数倍だ。ひどい物だろう? そのひどい物がな、今新市街の若者を中心に広がりつつある」
「新市街でですか? だったら俺には関係ないですよ」
「まあ話は最後まで聞けって」
 と、栗原は今度は自分の胸ポケットから別の白い粉が入った袋を取り出した。
「さて、こっちは先日旧市街に不法に侵入してきた復興街の連中をとっ捕まえたときに押収したものなんだが……この2つ、実は同じ成分だということが分かった」
「……何が言いたいんです?」
「ま、つまりだ。今新市街で広まりつつある新型ドラッグは、復興街から流れて来た物だと俺は睨んでいる。で、だ。幾ら復興街の連中が怖いもの知らずとはいえ、流石に俺達が厳重に取り締まっている新市街まで来る度胸はないだろう。なら可能性は唯一つ。“橋”のこちら側に、奴らの代わりにドラッグを新市街に流している奴がいると思うんだが」
「……つまり、それが俺だって事ですか?」
 無表情にこちらを見つめる聖亜に、栗原はまた頭を掻いた。
「ま、確証はないがな。だが聖亜、お前さんが一番怪しいんだよ。だってそうだろう、今じゃこっち側に住んでいるとはいえ、お前さんは元々“あっち側”の人間で、しかも復興街最大の組織“ジ・エンド”の元最高幹部でもある。疑わない方がおかしいってもんだ」
 そう言うと、栗原はこちらに向かってぐいっと身を乗り出してきた。
「なあ。此処は一つ俺に逮捕されてくれないか? ま、豚箱に10年もいれば出てこられるだろうからさ。なんなら、刑務官に“お友達”が出来るところを紹介してやってもいいぜ」
「……なるほど、結局は出世の為の点数稼ぎですか」
「なっ、お前、警部補に向かってなんだその口の利き方は!!」
 彼の物言いに、若い刑事が掴みかかろうとする。それをまあまあと押さえながら、栗原は口の端を吊り上げた。だが、その目は全く笑っていない。
「まあな。こちとらもう40過ぎだ。とてもじゃないが若い頃のような動きは出来ねえんだよ。それにだ。知ってるとは思うが俺の一人娘が、何の因果かお前さんと一緒のクラスにいる。こいつがまた俺と違って出来がいいときた。親としては、犯罪者と一緒に居させたくないんだよ」
「そうですか……なら娘さんに免じて本当のことを言いますが、“ジ・エンド”じゃ先代の頃から薬を扱ったものは、どんな理由であれ8割殺しにして夜の工場区に放り込みます。俺にはとてもそんな勇気はないですね」
 そう答えると、聖亜はにっこりと笑ってみせた。


 それは、残酷なほど明るい笑みだった。


「…………そうかい。分かったよ。邪魔したな」
 静かにそう言うと、栗原は出されたコーヒーを一気に飲み干して立ち上がり、そのまま出口に向かって歩き出した。その後ろに、慌てて若い刑事が続く。彼が外に出る扉を開けると、栗原は立ち止まって、ふとこちらを見た。
「けどな、聖亜。もし手前が犯人だったら、俺はその場で手前を半殺しにして豚箱に送り込んでやる。覚悟しておくんだな」
 そして、今度こそ本当に去っていった。

「……」
 栗原たちが居なくなった後、聖亜は暫らく物思いにふけりながら皿を拭いていた。彼が考えているのはただ一つ、自分が昔所属していた“ジ・エンド”の事だった。

(……やっぱり、一度戻ってみるか)

 そう結論付け、再び皿を拭き始めたときだった。
「……おい聖、そろそろ店の看板出しといてくれ」
「……はい? いや、俺今皿を拭いているんですけど」
「ったく、何が拭いているだ。それはな聖、拭いているんじゃなくて、磨いているんだ」
 苦笑する白夜の視線の先、自分の持っている皿を見て、聖亜はふっと自嘲気味に笑った。
 皿は自分の顔が写るほどぴかぴかに光っている。確かにこれ以上はないだろう。
「分かりました。けど珍しいですね。閉店前に閉めるなんて」
「ああ、客もいないし、一雨そうな天気だ。早めに閉めちまおう」
 白夜の言葉に、、聖亜はふと顔を上げて窓の外を見た。店の奥からかすかに見える空は、なるほど、確かにどんよりと曇っている。
「夏のこの時間は、稼ぎ時なんですけどね」
 そう言いながら、聖亜はカウンターの影にある「閉店」の看板を持って外に出た。もともと喫茶店「キャッツ」では酒などの類は出していないため、21時には一応閉店する。その後はゆっくりと寛ぎたい客のために一時間ほど音楽を流し、完全に閉めるのは22時過ぎだ。
もっとも、聖亜は未成年なので、閉店前には問答無用で帰されていた。
 やはり、白夜や市葉、それに祭達にとっては、自分はまだ弟といった感じなのだろう。
 
 それが嫌だといっているのではない。そう、嫌ではないのだが。

「……まったく、俺は何時までたっても弟扱いか」
ぶつくさとそう呟き、看板を店の前に置いた、その時、
聖亜は、はっと飛び退り、前方の暗がりを見た。

 暗がりの向こうから、異常なほど強力な気配を持った何者かがやってくる。先日のニーズヘッグでさえ上回るその気配に、聖亜はいつでも逃げれるように身構えた。
「あ~っ!! 待った待った。この喫茶店、もう閉めるのか?」
 と、聖亜ガ見つめる暗がりから、男の陽気そうな声が聞こえてきた。思わずぽかんと口を開けた聖亜の前に、二人の虚無僧が現れた。一人は背が高く、もう一人は自分とほぼ同じぐらいだ。背が高い方の虚無僧は長い袋を背負っているが、疲れたようにそれを地面に置き、のろのろと頭に被っていた天蓋を下ろした。

 篭の中から出てきたのは、随分と若い青年だった。恐らく20歳ほどだろう。ぼさぼさに伸ばした金髪とサングラスをした、随分と軽そうな青年だ。青年の後ろで、もう一人の虚無僧も被っていた篭を降ろす。こちらは肩のところで黒髪を切りそろえ、眼鏡をかけた美しく理知的な女性だ。も自分より2,3歳ほど年上だろう。
「……え? あ、はい。いつもは9時ごろに閉めるんですけど、お客さんも居ないし、雨が降りそうだからって、マスターが」
「げ、マジかよ。なんなんだその大名商売!! なあ、なんか食わせてくれないか? 今この都市に着いたばかりで、ほんと腹減ってんだ。マジで頼むよ」
「いえ、あの……それはマスターに聞いてみないと」
「まったく、はしたないですよ、“雷(らい)”。けどごめんなさい、本当に空腹なの。お願いできないかしら。」
「あ、はい。いい……です」
青年のほうがそれこそ拝む格好をしてきたため、聖亜は仕方なく2人を中に入れてやった。


  むろん、女性の豊かな胸元が、ちらりと見えたからではない。



 がふがふっ、がふ

 はふはふ、はふ
 
「……」
「……」
 人気のない店内に響き渡る箸の音に、聖亜は呆然と突っ立っていた。隣りでは野菜の皮を剥き終えたのか、厨房から出てきたヒスイが居るが、こちらもあっけに取られたように彼らの様子を見ていた。
「ふぐふぐ……ぷっは~、食った食った。ご馳走さんありがとうな少年、やっと生き返ったよ。いや、マジで」
積み重なった皿の間で、大盛りのドリアの最後のひとかけらを勢いよく口の中に入れてから、青年は幸せそうに伸びをした。
「は、はあ。それはどうも。けどよくこんなに食べれましたね」
「まあ、一昨日からずっと山の中歩きっぱなしだったからな。この都市に入って一番最初に入ろうとしたレストランからは、門前払いをくらうし」
「山の中……ああ、新市街の方から来たんですか。それじゃしょうがないですよ。あっちは外見で人を区別しますからね。その格好じゃ、じろじろと見られたでしょう?」
「ええ。まるで見世物か何かのように……あ、ごめんなさい。自己紹介がまだでしたね。私は水口千里(みずぐちちさと)、そしてこちらは鈴原雷牙(すずはららいが)といいます」
「おう、よろしくな、少年」
「は、はあ。どうも」
 金髪の青年―鈴原雷牙にそう言われ、聖亜は軽く頭を下げた。彼の横ではヒスイが食べ終わった皿の枚数を数えている」
「……しかしすごい食欲だな。特性ステーキにビーフシチューにカレーライス、オムライスにスパゲッティ、ホットケーキにジャンボパフェまで残さず食べ終えている」
「うむ。おかげで明日の仕込みをやり直さねばならなくなった。まったく、少しは遠慮したらどうかね。雷牙君」
「はっはっは。これでも腹八分目なんですよ、白夜さん」
 厨房の奥からモンブランを運んできた白夜が笑いかけると、雷牙はにかっと笑みを返した。
「……あれ?」
 その会話を聞いて、聖亜はふと首を傾げた。彼の名前を千里が言ったとき、白夜は厨房に居て聞いていなかったはずだ。となると、
「マスター、知り合いだったんですか?」
「ん? 気になるか、まあ昔の教え子といったところだ。で、雷牙君、この少女のような顔をして毒舌を吐く少年が、君の弟弟子になる星聖亜だ。昔の君のように未熟者だが、まあ仲良くやってくれ」
「へえ、珍しいですね、白夜さんが弟子を取るなんて。兄弟子としてよろしくな、聖亜君」
「は、はあ……どうも」
 正直話についていけなかったが、聖亜は出された手を握り返した。と、そんな彼の視線の隅に、雷牙が持っていた長い包みが映った。
「ん? これが気になるかい? 聖亜君」
「え? はあ、まあ少しだけ」
 少年の視線に気づくと、雷牙は笑いながらするするとその包みを解いた。

 その中から現れたのは、一つの古びた木剣だった。所々に札が巻かれているのと、かなり古いこと意外は、怪しい部分はない。
「へえ、珍しいですね、木剣なんて。刀とかは、よく博物館で見ますけど。」
特別に触らせてもらいながら、聖亜はしげしげと木剣をみた。彼はあまりこういった骨董品には興味はないが、歴史好きの準なら興味を示すだろう。
「ん?ええと、ここに何か彫られていますよね。ふ……つの?」
 木剣の腹に彫られた漢字を読もうと、聖亜は目を凝らした。だがかなり昔に彫られたその文字は、所々風化していたほとんど読めない。
 あきらめて木剣から目を離すと、聖亜はふと雷牙が自分を見ていことに気づいた。目が合うと、彼は一瞬ではあるが真剣な顔で千里のほうを見たような気がした。
「あ……あ~うん、どうだろう。俺もさっぱり読めんのよ。マジで。なんて書いてあるんだろうね」
聖亜から木剣を受け取ると、雷牙はするするとそれを袋にしまいこんだ。
不思議に思いながらも、聖亜はヒスイと共に食器をキッチンに運んでいった。


 雷が鳴り響いたのは、ちょうどその時だった。


「……さてと、そろそろお暇しようか、千里。雨も降ってきたしな。白夜さん、お勘定」
そう言いながら席を立つ雷牙は、だが彼から手渡された伝票を見てぴたりと止まった。
「千里……お前、いくら持っている?」
「滞在費用は十分持っておりますが、初めからこれに手を付けるわけには行きません。ご自分の分は、ご自分でお願いします」
「いや、けどなあ。ちょいとばっかし融通してくれないか?」
 そう言って、彼が相棒に手を合わせたとき、
「……ほおう、金が足りないのかね。雷牙君、皿洗いでもしてみるかね。」
 そういって、白夜はぼきぼきと指を鳴らして彼の横に腰掛けた。祭や他のウエイトレスも、ほうきを逆手に持って身構えている。
「え、えーと……ああそうだ、白夜さん、あれありませんかあれ。喫茶店で定番の、大盛り料理、時間内に食えたら何万円ってやつ!」
その雷牙の言葉に、喫茶店の中の時間が一瞬止まった。
「ば、馬鹿、なんてこというのよ、あんたは!」
「そうですよ! “あれ”に挑戦したお客さん、介抱するの大変なんですから。」
「あの、やめといたほうがいいですよ」
聖亜を含めた面々がそろって言う。だが、それはもう遅かった。
「ほおう、勇気があるね、雷牙君、あれに挑戦しようとは」
 炎を背中から吹き出し(ように見える)ながら立ち上がると、荒川はにやりと笑った。
「いえ、それほどでもないですよ。ということは……あるんですね。」
 雷牙のほうもにやりと笑う。それにつられ、荒川はその大きな指をパチンと鳴らした。
「園村君、特注の器を用意したまえ! 聖亜、お前は厨房から例の箱をもってこい! ヒスイはクラッカーとくす玉を用意しろ! 諸君、ぐずぐずするなっ!! この無謀な青年が、もしかしたら初の達成者になるかもしれないんでな!」
 と、いきなり動き出す白夜と、こうなったら楽しまなきゃ損という風に動き出した祭、そしてため息を吐きながら厨房に向かう聖亜を見て、
「……えーと、どゆこと?」
当の本人は、ぽかんと口をあけた。



 それは、デザートと呼ぶには、あまりにも巨大すぎた。


 その巨体は、雪を被ったエベレストのごとく。周りに突き刺さっているのは、切り立った岩だろうか。呆然としている雷牙の前に現れたのは、
『店長特性!愚か者さんの絶叫が鳴り響く!超弩級パフェ~夏場のエベレストにはむやみに上らないほうがいいですよ、雪崩が起きますから~バージョン2・0スペシャル』
と書かれた、3メートルほどのパフェだった。その形状はどこまでも垂直に伸びており、断崖絶壁を思い浮かばせる。しかもその周りには生クリームとバニラアイスでコーティングされた、50個もの厚めにカットされた果物(パイナップルやスイカ、メロンなど巨大な果物ばかり)が敷き詰められており、一番下には巨大な猫の形をしたチョコレートが鎮座していた。総重量20キロ。いままで無謀な挑戦者、その全てを粉砕してきた喫茶店「キャッツ」最強の存在である。
「ふ、ふ、ふ。この天才級にいい男、荒川白夜でさえも、未熟者の馬鹿弟子を実験台にし、開発までに1年もの年月をかけてしまった超弩級パフェだ。時間無制限一本勝負。もしこれを完食できたら、今日の勘定をただにするだけではない! この喫茶店キャッツ、一年分のただ券をやろう! さあ、挑戦してみるが良い!」
 応援用の旗やクラッカーをもったウエイトレスが取り囲む中、荒川はそう叫ぶと、雷牙に太い指を突きつける。それに対し、雷牙はぶるぶると目を閉じて震えていた。

(ギブアップしたほうがいいですよ、最悪の事態にならないうちに)

 1年前から試食品を大量に食べさせられ、そのたびにトイレに駆け込んだ未熟者の馬鹿弟子である聖亜は、そう心の中で忠告したが、雷牙はその瞬間、かっと目を見開くと胸を張って立ち上がった。
「いいだろう、その挑戦、受けよう。この秘密潜水艦、千里がな!」
「人に奇天烈な名前を付けないでください。ライ」
調子に乗ってそう言った雷牙を、千里は手に持っていた文庫本でバシッと叩いた。
「いて、だって千里、俺にこんなもの食べられるわけないじゃないか。けど、千里なら楽勝だろう?」
「それは私が大食いということですか? まあ、これほど巨大なデザートは、確かに興味がありますけど」
 そう答えると、千里はスプーンを手に取った。
「ふ、千里嬢、君が挑戦するのかね。本来ならば代理は認めんのだが、その勇気と豊かな胸を認め、特別に許可して進ぜよう。まあせいぜいそのきれいな肌がべたべたにならんようにせいぜい気をつけたまえ……さあ、用意は良いな。ではスタート!」
「やっちゃえ、千里!」
 騒ぎ立てる男2人と、囃し立てる周りの人間に、小さくため息をつきながら、千里はその巨大な物体に、スプーンを伸ばしていった。

 勝負がついたのは、それから30分ほどあとのことだった

「いやー、途中から白夜さんの顔の変化が面白かったな。しかし、すまんね聖亜君、安い旅館に案内してもらって」
「いいんですよ、これぐらい。それにマスターもこれで少しは懲りたと思うし、たまにはいい薬です。けど、おなか大丈夫ですか?千里さん」
「大丈夫ですよ、聖君。よく言うでしょう、甘いものは別腹だって。」
 くすりと笑う千里に、そうですね、と聖亜も苦笑して返す。彼らは今、雷牙と千里が泊まるという、旧市街の旅館に向かっていた。
「しかし、食費が浮いたのは良かったな。ここに滞在している間、一年間は毎日あそこでただ飯が食える。」
 そう笑いながら、雷牙は手に持った紙の束をひらひらとさせた。そこには黒猫が背伸びをしている絵が書かれている。

 喫茶店「キャッツ」のただ券だった。

「一年以上居るって……仕事か何かですか?」
「ん、まあ、そんなとこさ」
 と、彼らが話している脇では、ヒスイが先程市葉から渡された紙袋の中身をのぞき込んでいた。
「それは……浴衣ですか?」
「ああ」
 そこに、千里が静かに話しかける。こちらを見る穏やかな視線に、ヒスイは軽く見返した。
「まったく、雷は後輩が出来たことが本当に嬉しいようですね」
「……あなた達は恋人同士なのか?」
 ヒスイの質問に、千里は微笑してかすかに頷いた。
「ええ。彼はあたしの恋人です。ですが、そんな言葉では表現できないほど、私達の絆は深い。そう……まるで大地と、それに根付く木のように」
「……」
 微笑を浮かべたまま西を見つめる彼女に、ヒスイが何か言おうと口を開いたとき、
「千里~っ!! ここ泊まれるってよ!!」
「分かりました。今行きます。ではヒスイさん、これで失礼しますね」
「あ、ああ。さようなら」
 聖亜が戻ってくるまで、ヒスイは金髪の青年に向かって歩いていく彼女を、ただじっと眺め続けた。



『……』
「そうか。そんな事が」
 西から大急ぎで駆け込んできた鴉の報告を聞き、黒猫はそっと目を伏せた。
「西……復興街の北側にて大規模な戦闘を感知、か。100以上の狒々を短時間で倒すことが出来るのは単なる人間には不可能だ。それを成し遂げた、灰色の男……遂に来たか、閃光」
 と、先程彼女に報告した鴉がばさばさっと空に飛び上がる。どうやら未熟な少年少女が帰ってきたようだ。
 深々とため息を吐くと、キュウは出迎えのため、玄関に向かっていそいそと歩き始めた。

 
西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 7時40分


 心地よい風が、潮の香りを運んでくる祭り日和の朝、秋野茂は父が経営するホテルの厨房で、汚れた皿を懸命に洗っていた。
「ったく、何が小遣いが欲しければ働けだ、あの糞親父」
 そんな愚痴をこぼしているが、彼は別に小遣いをもらっていないわけではない。月に5000円の小遣いをしっかりもらっている。だがそれは親友である福井に付き合って買い食いなんかしているとすぐ足りなくなり、その度に彼は修行をかねてこうやってバイトをしているのだ。
 もちろん何度が小遣いの値上げを要求したことはあった。だが貧しい少年時代を経験した彼の父はその度に彼を叱り、そして稀に拳を使って諭した。すなわち、お前はあんな馬鹿野郎共の仲間入りをしたいのか、と。
 その馬鹿野郎共というのは、新市街に住む連中の事だ。彼も中2の前半までは派手な生活を好む母親に連れられ、新市街の中学に通っていたのだが、夏休み中に父と母が離婚し、彼は旧市街にある中学へと転校させられた。転校してすぐは同級生を見下していたのだが、今では気の合う友達が出来るまでになっていた。

 だから彼は別に父親のことが嫌いではない。いや、以前遭遇した新市街に居た時付き合っていた連中の変わり様を見ると、むしろ感謝すらしたくなってくる。

「けどなあ、せめて祭りがある時ぐらい黙って小遣いくれないもんかね、なあ福井」
 ぶつくさとそう呟きながら、秋野は隣りで自分と同じように皿洗いをしている親友に話しかけた。だが、
「ん? 福井、何ごそごそしてんだ?」
 だが、福井は皿洗いを中断し、床に座って何やらごそごそと手を動かしていた。首をかしげながら皿洗いを中断し、濡れた手で彼の肩を叩いた。

「ふごっ!!」
「うわっ!!」

 途端にびくりと肩を震わせ、福井は分厚い胸板をまるでゴリラのように叩き始めた。
「……って、福居お前なあ、客の食べ残したデザート食ってんじゃねえよ!!」
「ふぶっ……ぐぐっ、ぷはあっ!! いや、けどな。このイチゴのタルト、マジで旨いんだって!!」
「だからって、普通客の食い残し食うか? ちゃんと朝飯食っただろうが。しかも人の三倍食いやがって。親父さんとは大違いだな」
 そう叫びながら、秋野は大柄の福井とは違い、線の細い彼の父親を思い出した。彼は実は自分の父とは幼馴染であり、若い頃は外国に貧乏旅行に行った経歴を持つ。だからこそ、父は自分を親友の息子が居る中学に転校させたのだ。
「ったく、そんなに腹減ってるんだったら、後でちゃんとした物作ってもらうから、そんな物食うなよ」
「お、サンキュー。けどなんでこんなに旨いもの残すかね」
「さあな、新市街の奴らの考えることなんざ知るかよ」
 秋野の言葉に、そうだなと言いながら福井が立ち上がる。そして二人が皿洗いに戻ったとき、
「お~い、雑用係1と2、皿洗いはもういいから、ルームサービス届けてきてくれ」
と、奥の方から2人を呼ぶ声がした。
「はあ、ルームサービスっすか? 別にいいっすけど、何処に届ければいいんです?」
「おう、8階の5号室だ。下まで降りてくるのが面倒だから直接部屋に運んでくれっていわれてな。其処にあるから、早く持って行ってくれ」
「あ、これっすね。って、先輩、これ滅茶苦茶重いんですけど!!」
 厨房の隅にあるカートを押して、秋野はぶつくさとそう言った。カートの中には限界まで料理が詰め込まれており、福井と2人がかりでなければ動かすことが出来ない。8階まではエレベーターを使っていけるのだが、厨房から一番近いエレベーターまで200メートル以上ある。
「あ? 何か文句あるってのか? 社長に報告して自給下げてもらうぞ?」
「げ、勘弁してくださいよ。文句なんてないですから!! じゃ、じゃあさっさと行くぞ、秋野」
「お、おう。じゃ、行って来ま~す」
 重いカートを福井と共にゆっくりと押しながら、秋野は8階へと向かっていった。

 
「ぜっ、ぜっ、はっ、やっと……着いた」
「ああ、まさか一番近いエレベーターが清掃中だったなんて、な」
「つ、次の従業員用のエレベーターまで500メートルはあるし、で、でかすぎるんだよ、ここ」
 8階の廊下の隅で、秋野達はぜえぜえと息を吐いてしゃがみこんでいた。
「つか、5号室がエレベーターの出口の反対側にあるし!! あの先輩、絶対清掃中だって知ってやがったな!!」
「……秋野、お前結構元気いいな。けどよ、8階って特別な客用のスイートルームだろ? 一体どんな客が泊まってるんだろうな」
「そんなの俺が知るかよ。どうせ特別な客だろ。さ、とっととルームサービス渡して、さっさと帰るぞ……失礼します、ご注文のルームサービス、お持ちいたしました」
 荒い息を何とか整えると、秋野は5号室のドアをコンコンと叩いた。
「……お、やっと来た。って、なんだ、随分と若いボーイさんじゃないか」
 そう言ってドアを開けた客を見て、秋野と福井はそろって目を剥いた。
「……特別だな」
「ああ、特別だ」
 羽織っているバスタオルから、それこそはみ出すほどの胸を凝視している2人に、彼女は怪訝な顔をしたが、やがて納得がいったようにああとうなずいた。
「ああ、こんな格好でごめんよ。昨日余計な“運動”をして、今までシャワーを使っていたものでね」
「い、いえ、滅相もないです」
「そそ、そうです。な、中々結構なものをお持ちで」
「そうかい? ま、さっさと入っとくれ」
 彼女に促され、秋野と福井ははっと我に返り、カートを部屋の中に押し込んだ。
「ありがとさん。こりゃうまそうだ」
 更に盛り付けられた料理を見て、彼女は軽く微笑んだ。
「い、いえっ!! 当ホテルのシェフが腕によりをかけたものですが、お口にあってくれれば幸いです。そ、それでは、しし失礼致します!! おい、何時まで眺めてんだ、失礼だろ!!」
「お、おう」
 料理の入った皿をテーブルの上に並べ、部屋を出て行こうとしたとき、
「ああ、ちょいと待っとくれ。聞きたい事があるんだよ」
 
「「は、はひっ!!」」

 彼女に呼ばれ、2人はそろって回れ右をした。

「いや、そんなに緊張する必要もないだろう。簡単なことさ。昨日からあの辺りが騒がしいのが気になってね」
 そういうと、彼女は薄紫色の髪に当てていた手を離し、旧市街の神社の辺りを指差した。
「あ、ああ。今日は祭りがあるんですよ。本当は7日にやるはずだったんですけど、何でかしらないけど皆貧血になっちまって、今日に延期になったんです」
「……ああ、そういえばあたしが居た時も、そんな祭りがあったね。すっかり忘れていたよ」
「居た時……って、お客様は旧市街に住んでいたことがあるんですか?」
 福井の何気ない質問に、だが彼女はピクリと片方の眉を動かしただけだった。
「お、おい福井、何失礼なこと聞いてんだよ。申し訳ございません、お客様っ!!」
 福井の頭に手を置いて下げさせながら、自分も同じように頭を下げた秋野を、相手はじっと見つめていたが、やがてふっと笑って首を振った。
「……いや、いいんだよ。ああ、確かにこの都市に住んでいたことはあるさ。けど5,6歳、それこそ小学校に入る前までだけどね。だから記憶なんてほとんどないのさ。さ、着替えたいんだ。そろそろ出て行っておくれ」
 最後にお礼だよと2人の右頬にキスをし、彼女は2人の少年を外に押し出した。

「……」
「……」

 外に押し出された秋野と福井は、暫らく呆然とキスをされた右頬を手で押さえていたが、やがて顔を見合わせ、肘で互いをつつきながらカートを押して厨房へと戻っていった。



 さて、2人を押し出したエリーゼと言えば、

「…………ふうっ」
 一度深くため息を吐くと、身に纏っていたバスタオルをばさりと剥ぎ取った。
 途端にその白い肌があらわになる。だが、そこにあるのはそれだけではなかった。
 
 腹部を中心に、背中・腰・太ももにかけて、ケロイド状のひどい火傷後があった。だがエリーゼはそのケロイドをむしろ愛おしそうに撫ぜると、いそいそと服を着始めた。
「……っと、そう言えばそろそろあいつを起こさなきゃね」
 シャツとズボンを着込むと、エリーゼはつかつかと外に出て、隣の部屋「4号室」のドアをドンドンと叩いた。
「こらスヴェン、あんた何時まで寝てるんだい!! さっさと起きなっ!!」
 しかし中からはさっぱり動く気配がない。もう一度ドンドンと叩くと、ようやくもぞもぞと動く気配がした。だが

「……………………ぐ~」

 その声を聞いた彼女の頭の中で、ぶちっと何かが切れる音がした。

「いい加減に起きやがれ!! このクソガキがっ!!」



 その時、ドゴンッという音と共に、ホテル「ニュー秋野」が微かに揺れた。

 
西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 8時12分



 チチチッと小鳥の鳴く声が聞こえる。

「……ん」

その優しいさえずりに、少女はぼんやりと意識を浮上させた。
彼女に掛かっているのは一枚のタオルケットだけだ。それ以外は寝巻きも、そして下着すら彼女は身に纏っていない。
「……そうでした。昨日は久しぶりでしたからね」
 タオルケットを押さえて身を起こすと、千里はぼんやりと辺りを見渡した。薄暗い部屋の隅で、こぽこぽと湯が沸いている。
 腰に力が入らないので、膝を突いてそこまで行くと、彼女はお湯を湯飲み茶碗に注ぎ、一口ゆっくりと飲んだ。そのまま洗面所に向かうと、相方の親切か、ぬるま湯の中にタオルが浮いてあった。
 それを手に取り、情事で汚れた肌をゆっくりと拭っていく。所々鬱血した部分があるのは、昨日そこを強く吸われすぎたためだ。
「……雷?」
 不意に、彼女は自分の相棒がいないことに気づいた。
「雷? どこですか? 雷」
 途端に身体がガタガタと震える。不安と恐怖で頭が真っ白になる。ああ、自分は捨てられたのだ。やはり自分は彼には相応しくなかったのだ。
「う……ひくっ、うあ、うああっ」
 涙が溢れてくる。子供のように泣きじゃくる彼女の横で、部屋の戸がギイッと開いた。
「……ん? 起きたのか、千里」
「はい。お早うございます、雷。こんな早くに一体どこに行っていたのですか?」
 彼の姿を見た瞬間、千里はいつもの冷静な表情に戻った。だが頬を伝った涙の跡はそのままだ。それに気づかない振りをしながら、雷牙は小さく笑った。
「もう8時過ぎなんだけどな。ちょっと温泉に入ってきたんだよ。いや、朝風呂もいいものだぞ、マジで」
「そうですか。なら私も後でいただきます。ところで今日はどうしますか?」
彼から受け取ったタオルと下着を備え付けのハンガーにかけると、千里は静かに尋ねた。
「そうだな。まずは現状の確認だ。この都市で何が起こり、そして守護司は一体何処に消えたのか。まあ見つからないとは思うがな、マジで。その後はまあゆっくり観光ながら辞令を待とう」
「……随分とゆっくりですね」
「ん、まあな。しかし表の身分がないと自由に動くことは出来ないだろう? まあ俺達は教育学部にいるから、たぶん教師という形でどこかの学校に配属されるとは思うけどな。それより……」
 不意に、雷牙は窓から西の方を見た。朝日の中、遠くに微かに巨大な樹が見える。
「あそこが鎮めの森か……千里、もう乗り越えたのか?」
「……いえ、まだ少し。駄目ですね私は。あれからもう長い時が経ったというのに」
「ああ。けどな、あれからまだ15年しか経っていないんだ。あのくそったれな災厄からな」
 肩にぎゅっと抱きついてきた恋人の頭をゆっくりと撫ぜ、キスをする。
「大丈夫だ……千里、俺はずっとお前の側にいて、お前を護る。絶対にだ」

 太陽の光に目を細めると、雷牙は再び、今度は厳しい目つきで外の景色を眺めた。


 
西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 13時40分



 目の前の画用紙に描いた睡蓮の絵を、聖亜は険しい目つきで眺めた。
「……聖亜? どうかしたのか?」
「ん? ああ……いや、なんでもない」
 窓の側で退屈そうに座っているヒスイの声に、少年は軽く頭を振った。
 一週間以上前に仕上げたこの絵は県のコンクールに出す絵だったが、今見てみるとどうもいまいちだ。


 夏休みに入って始めの日、聖亜とヒスイ、そして準の3人は学校に来ていた。ここで秋野達と待ち合わせをしているためだ。彼らと合流し、夕方になったらその足で神社で行われる祭りに行く事になっていた。そのため傍らにいるヒスイの格好は何時ものジャケットとジーパンといったラフな格好ではなく、昨日市葉から借りた青をベースにした浴衣を着ている。絵柄になっている朝顔が可愛らしい。
「そういえば、さっき柳が愚痴っていたぞ。せっかく似合いそうな浴衣があったのに、てな」
 歴史研究会に所属している準は、学校についてから、研究会が部室代わりに使っている教室に行った。ついでに言うと、準の着ている浴衣は紅を主体にし、大きな花火が描かれていた。
「あれは……ちょっと子供向きだと思う」
「ははっ、確かに。まああいつが中学の時の浴衣だからな。でもちょうどいいと思うぞ」
「……それは私の体格が子供だということか?」
「いや、準は中学のときから背が高かったからな、ちょうど今のヒスイぐらいなんだよ。あとあの時の準と似ているところといえば、む……いや、なんでもない」
「……」
 慌てて口をつぐんだ少年に、ヒスイは強い視線を向けたが、ふっと窓の外を見た。
 それを見てほっと息を吐いてから、聖亜は再び絵とにらみ合った。確かによく出来きた睡蓮とは思うが、コンクールにはこの程度の絵はいくらでも出品されるだろう。
「やっぱり人物画の方がいいか。けどな……」
 けれど人物画を描くのは抵抗がある。やはり過去のトラウマがまだ残っているのだろうか。
 もう一度ため息を吐くと、聖亜は画用紙から目を離し、ふと外を眺めているヒスイの横顔を眺めた。
 じっと外を眺めている彼女の横顔は、エイジャと死闘を繰り広げているときと違い、随分と幼い感じがした。
 無意識のうちに、聖亜は横においてある鉛筆を手に取った。それを縦にし、そっとヒスイと重ね合わせる。
「ん? どうした?」
「……え? あ、いや、何でもない」
 そうか、そう呟き、再び外に視線をやったヒスイの顔を、聖亜は何故か見ることが出来なかった。

 見ることが嫌なのではない、いや、むしろ見たいと思う。ただ、何となく気恥ずかしいのだ。

「そ、そうだヒスイ、ヒスイはどうしてエイジャと戦っているんだ?」
 気恥ずかしさを紛らわすように、聖亜はふとそんなことを尋ねた。
「……なぜそんなことを聞く?」

 その時、不意に室内の温度が凍りついた。

「……いや、何となく」

『何となくで女の過去を知ろうとするでない、この青二才』

こちらを冷たく睨みつけてくる少女の変わりに、彼女が持っていたペンダントの中から黒猫の声が聞こえてきた。
「……なんだよ、青二才って」

『ふん、女の過去をむやみに探る男など、青二才で充分だ。それよりヒスイ、そなた今日本当に祭りなんぞに行くつもりか?』

「ああ。別にエイジャの気配もしないし……駄目なのか?」

『別に駄目といっているわけではないが……まあ良い。好きにせよ』

 いつもの口調とは違い、少し言いよどんでいるキュウに、ヒスイは軽く首を傾げた。その様子を見ていた聖亜がふと窓の方に視線を映すと、庭を秋野と福井が歩いてくるのが見えた。
「ああ、やっと来た……って、何かぼうっとしてないか?」
「……そういえばそうだな。それに2人とも右頬を押さえている。虫歯にでもなったか?」
「いや、秋野はともかく、福井は大食いなのに今まで虫歯が一本もない。たぶん違うだろう。けど、本当に何やってるんだ、2人とも」
 こちらが見ている事に気づいたのか、彼らは右頬を押さえたままのろのろと手を振ってきた。

 何時もの陽気な感じではない。だが別に病気というわけでもない。ただぼんやりとしているだけだ。


 どこかおかしい彼らの様子に、聖亜とヒスイは、揃って首を傾げた。



 
西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 18時40分


「なんだ、キスされてぼうっとしていただけか、まったく」
「いただけてなんだよいただけって、本当にすごかったんだから」
「すごかったって……秋野はともかく、福井、お前は恋人が沢山いたんだから“しなれてる”だろ」
「いや、そうなんだけど、あれはなあ」
 夕方、未だに様子がおかしい凸凹コンビと一緒に、聖亜とヒスイ、そして準の3人はお立ち通りを歩いていた。普段は物静かな石畳の道は、だが今は両端に屋台が立ち並び、客を呼び込む的屋の声で騒がしかった。
 その騒がしい道を5人で歩く。浴衣のヒスイと準、甚平を羽織った秋野と福井の両名とは違い、聖亜は学生服だ。別に家に甚平がないわけではない。というか準の背負っているリュックの中には、彼女が自分に着せようとした甚平が入っているが、聖亜は丁重にお断りした。幾ら背が低いといっても、小学生用の甚平は流石にきつい。いろんな意味で。
「それで? まず何から食う?」
「福井……お前は食うことしか頭にないのか」
「あ? んなことねえだろ、ちゃんとそれ以外も考えてるって。例えば」
 自分たちと同じように石畳の道を神社へと向かう、浴衣姿の女を見て、福井はニヤニヤと鼻の下を伸ばした。
 彼の様子を見て、何を考えているのか分かったヒスイは、呆れたようにため息を吐くと、福井の頭をポカッと叩いた。
「痛てっ!! 何すんだよ、ヒスイ」
「お前がスケベなことしか考えていないからだ。大体、祭りの醍醐味は神輿やお囃子を見ることだろう?」
「あのな、俺って一応この神社の息子だぜ? 神輿は一週間に一度、掃除のために必ず見るし、お囃子をしているのも家族や親戚ばっかりだ。別に興味な……痛いっての!!」
 ヒスイが再び、今度は少し力を入れて殴ると、福井は頭を抱えて秋野の後ろに隠れた。彼らの様子を見ながら、聖亜は先程買ったクレープを頬張った。どろりとしたきつい生クリームが、口の中一杯に入ってくる。
「ん? 珍しいな聖、お前がクレープ食べるなんて。洋菓子は苦手だろ」
「……ん、そりゃそうなんだけどさ、義務というか何というか」
 “頭の中”にいる少女のために、眉を顰めながらもごもごとクレープを食べているしている少年に、準は水筒の中に入れておいた麦茶を差し出した。目礼してから受け取ると、一気に飲み干す。くどい甘さが麦茶によって流され、聖亜はほっと息を吐いた。
「それで、どういう風に見て回る? 俺はあまり屋台とかに興味がないから、先に神社の方に行くけど」
「あ、私もいく。動く前の神輿を見てみたいしな」
「聖が行くなら、もちろん私も行く。福井に秋野、お前達はどうする?」
 準にそう尋ねられ、秋野と福井の両名は顔を見合わせ何やらこそこそと話していたが、やがて秋野がこちらを向いた。
「いや、俺達は食べ歩きしてるよ。実は昼飯食い損ねてさ」
「んで俺がその案内な。だから二手に分かれる形でどうだ?」
「……それはいいけど、あまりナンパはするなよ。今日はお前の家でやってる祭りだ。ナンパなんかしたら、一発でばれるからな」
「う……分かってるよ。けどちょっとだけならいいだろ?」
「そうそう、あ、神社に行ったらちゃんと俺達の分の席も取っておいてくれよ。えっと、野外コンサートって20時からだよな」
 野外コンサートというのは、社殿の前に設置されたステージで行われるアマチュアのコンサートだ。ロックや演歌など歌の種類は問わず、飛び入りも自由ということなので、結構人気があった。
「ああ。あと2時間以上あるから充分席は取れると思うけど、あまり遅くなるなよ。それから、あまり食いすぎないこと。去年みたいな目にあっても知らないからな」
「う……わ、分かってるって聖亜。んじゃ頼むな~!!」
 去年屋台で食べ過ぎたため、コンサートの途中で吐いた秋野は、手をひらひらとさせながら福井と共に人ごみの中へと消えていった。
「さと、俺達も行くか。けどヒスイ、お前日本の祭りは初めてだろ? のんびり屋台を覗きながら行こうぜ」
「そうだな。少し空腹だし、ちょうどいい。けどみたらし団子売っている店なんてあるだろうか」
「まあ城川屋なら出しているんじゃないか? 私も林檎飴食べたいし、さ、早く行こう、聖」
「はいはい。お姫方のエスコートはちゃんとしますよ」
 準と手をつなぎ、左側にヒスイを伴いながら、聖亜は神社に向けて歩き出した。



―聖亜サイドー

「お、射的がある。やってみないか、ヒスイ」
 3人で歩き始めて少し時間が経った頃、屋台の一角に射的屋を見つけ、聖亜はヒスイに声をかけた。
「射的? まさか本物の銃を使っているんじゃないだろうな」
「いや、木製の銃でコルクを打ち出すんだ。そしてコルクが並んでいる景品に当たれば、それがもらえる。まず私がやってみるから、聖、ちょっと荷物持っててくれ」
 先程買ったヤキソバと綿菓子を聖亜に預けると、準は店番をしている中年の親父にお金を払い、木製の銃を手に取った。傍らにある箱の中からコルクを一つ取り出し、景品の一つに身長に狙いを定め、撃つ。
 だが、コルクは景品には当たらず、その隣をまっすぐに飛んでいった。
「とまあ、こんな具合だ。つかやっぱり取れないとむかつくよな……このっ、このっ」
 再びコルクを込め、発射するが、それでもやはり景品には当たらない。三回目でも同じだった。残念そうに肩を落としながら、準はヒスイに銃を渡した。
「それじゃ、次ヒスイの番な」
「ああ……これが弾か。随分軽いな」
 コルクをしげしげと眺め、それを木製の銃に込めると、ヒスイは軽めに銃を向け、撃った。コルクはまっすぐ飛んでいくが、やはり初めてなのか、景品と景品の間に向かっていく。だが、
「……あれ?」
「おいおい、嘘だろ」
 景品と景品の間を通り過ぎようとしたとき、コルクはぐぐっと右にカーブし、並べてあった景品を直撃した。
「これでもらえるんだよな」
「あ、ああ。けどすごいなヒスイ、弾をカーブさせるなんて」
 景品のお菓子をもらっているヒスイに、準は感心したような声を送るが、当の本人は軽く首を振っただけだった。
「別にすごくない。銃はアメリカに居た頃、鹿狩りをする時なんかで頻繁に使っていたからな。鉄じゃないコルクの弾道を曲げるように撃つことなど、朝飯まえだ」
 そう言って軽く笑うヒスイを見ていると、聖亜はコルクがまだ一つ残っているのに気づいた。
「なあ準、ヒスイ、最後の一発、俺がやってもいいかな」
「ん? ああ、好きにしろ」
「っと、すまない聖、荷物をありがとうな」
 そう言って手を伸ばす準に荷物を預けると、聖亜は最後のコルクを銃に込め、目の前の景品を品定めした。それほど大したものは置いていないが、その中で“まし”と思われる物に狙いをつけ、軽く引き鉄を引く。発射されたコルクは、景品に向かってまっすぐに飛んでいき、それをかこんと叩き落した。
「よし、命中っと。どうも」
 おそらくこの店で一番値打ちのある景品なのだろう。苦々しい顔をしている親父から小さな箱を受け取ると、聖亜は興味津々と行った感じの2人の少女の元へと急いだ。
「聖、それなんだ?」
「ん? ああ、イヤリングだ。といっても安物だけどな。けど耳に穴を開けるタイプのものじゃないから、2人とも、此処で付けて見たらどうだ? ちょうど2人分あるし」
「あ、ああ。ありがとう、聖」
 渡された箱を開き、中に入っていた二つのイヤリングのうち、蒼い方をヒスイにやると、準は赤いイヤリングを早速耳につけた。ハート型のイヤリングが、形の良い耳で揺れている。彼女の横では、ヒスイがちょっと手間取りながらも、蒼い星型のイヤリングを耳につけていた。
「どうだ聖、似合うか?」
「うん。似合ってる。ヒスイもな」
「そ、そうか?」
「……ヒスイもっていうのは少し気に食わないけど、ありがとう。で、これは私からのお返しだ」
 そう言うと、準は聖亜の右頬にちょんっと触れるだけのキスをした。
「ほら、ヒスイも」
「うぇ!? わ、私もするのか?」
「当たり前だろう。お前、イヤリングをもらっておいて何の礼もしないつもりか?」
 準にそう言われ、ヒスイは暫らく俯いていたが、やがて決心したように顔を上げた。
「いや、別にしなくてもいいから」
「いや、そういうわけにはいかない。準の言うとおり、私はイヤリングをもらったからな。その礼は……ちゃんとする」
 そう呟くと、ヒスイはまるでエイジャと遭遇したときのように真剣な顔をして聖亜に近づき、先程準がキスした方とは反対側、すなわち左頬へとその唇を寄せ、


 微かに、本当にされたのだろうかと思うほど微かに、彼の左頬にキスをした。


「…………」
「……い、聖!!」
「……あ? あ、ああ。どうした準?」
「どうしたって……一体何時までぼけっとしてるつもりだよ。まるで凸凹コンビみたいだったぞ」
「いや、まさかしてくれるとは思わなかったから」
 向こう側を向いているヒスイを見ながらそう呟き、ぼんやりと左頬に手を沿える少年にむっとしたのか、準は両手で彼の頬をがしっと掴むと、
「準? 一体どうし……うむぅっ!!」
 聖亜の唇に自分の唇を重ね、彼の口内を蹂躙した。
「……ぷはぁっ!! ご馳走様、聖」
「…………ご馳走様じゃないだろ。それよりさっさと次にいくぞ。ヒスイも何時までそっち見てるんだよ、次はお前の好きなみたらし団子を売ってる店だぞ」
「……ああ。って、ちょっとおい」
 ぜえぜえと息を吐いてから、聖亜はヒスイに呼びかけた。こちらを振り向いた彼女の頬はまだ赤く染まったままだ。彼女と準の手を強引に掴むと、聖亜は和菓子屋に向かってずかずかと歩き出した。



 だが、和菓子屋の前に屋台は出ていなかった。

「おかしいな……祭りのときはいつも屋台が出ているのに」
「ああ。確か去年も出していたな。で、売れ残ったみたらし団子を4人で必死になって食べたんだ」
「……店自体はやっているようだけど、入ってみるか?」
 ヒスイの言うとおり、屋台は出ていないが店自体はやっているようだ。ちらりと準の方を見ると、彼女はヒスイに同意するように頷いた。
「……そうだな、分かった。入ってみよう。先生に絵の事で相談したいこともあるし」
 そう言って聖亜は店に向かって歩いていった。いきなり入らずに店の中を覗くと、客はあまり居らず、カウンターの所に彼の年上の幼馴染であり、美術部の顧問を務める城川屋の跡取り息子が退屈そうに座っているのが見えた。
「……ん? ああ聖亜君か。いらっしゃい」
 こちらに気づいたのか、彼は重く沈んだ声でそう言うと、ちょいちょいっと手招きをした。
「あ、はい。どうしたんですか? 屋台も出さずに……ああ、ヒスイ、準、入ってこいよ」
「あ、ああ」
「……お邪魔します」
「おや? 君達も来たのか。いらっしゃい」
 ケースの中に並んでいるみたらし団子が気になるヒスイは置いておき、聖亜と準は城川先生に近づいた。いつものほほんとしている彼が、今日は何故か青ざめている。
「……どうしたんですか? こんなに青ざめて」
「ああ、いや実はね……香がまたいなくなってさ」
「香がぁ!? ったく、またかよあの馬鹿女」
 準の大声に、ケースの中を見ていたヒスイがこちらを向いた。
「柳……香って誰だ?」
「ん? ああ、僕の妹さ。で、柳君と聖亜君の中学の時の同級生」
 先生がヒスイに説明している間に、聖亜は香の姿を思い浮かべた。中学の時はおどおどとした、髪を三つ編みにしている小動物のような彼女は、だが女子高に入った途端その性格が一変した。金髪に染めた髪にはパーマをかけ、耳には幾つもピアスを付け、幾日も男と遊び回った。その度に彼女は両親に説教されていたが、2,3日も経つと、彼らに対するあてつけのようにまた別の男と遊び回った。
「いや、最近は結構大人しかったんだけどね、この前の貧血騒動のあと、急に家を飛び出しちゃってさ、もう5日も帰っていないんだよね。いつもならどんなに長くとも3日目には一応帰ってきていたんだけど」
「う~ん、出て行く前に何か言ってませんでした?」
「いや、特にはね。けどいつもの事は言っていたよ。“皆どうせ私の事なんてどうでもいいんでしょ”だってさ」
「……っち、あのクソ女が。相変わらず自分が話題の中心でないと気がすまないようだな」
 準が忌々しげに吐き捨てる。それを見て聖亜はげんなりと息を吐いた。高校に入学してすぐ、彼は性格が変わった彼女に自分の男にならないかと誘われたのだ。そしてその事を準に見られ、彼はそれから一週間彼女に奢らされたのだ。
「それで皆探しに出ていてさ、とても屋台を出せる状況じゃないんだよ。嫁さんも心配してさ。寝込まれても悪いからいつもと同じ事をさせているんだけど……はい、みたらし団子」
「あ……」
 みたらし団子のパックがぎっしり詰まった紙袋を差し出され、ヒスイはちらりと聖亜の方を見た。彼女は確かにみたらし団子が好きだが、この状況で受け取れるほど無神経ではない。
「ごめん、もらっといてくれ……じゃあ、まあみたらし団子もらったし、俺達も手伝いますよ。いいよな、準、ヒスイ」
「……まああいつのことは気に食わないけど、いないとやっぱり気になるしな」
「ああ。ギブアンドテイクだ。まかせてくれ」
「そうか、ありがとう3人とも。じゃ、お礼としてもう一袋「いや、もういいですから」……そうかい? けど今日は祭りを楽しんでおくれ。この辺りはもう探し尽くしたし、あんな妹のために楽しみを奪っては申し訳ないからね」
「そうですか。じゃあ何か分かったら見かけますので。失礼します」
 一礼すると、聖亜は外に向かって歩き出した。その後ろから同じように一礼をして準とヒスイも続く。彼らを見送ってから、城川は椅子に座りなおすと、悲しげな顔で深々とため息を吐いた。
「ったく、何をやってるんだ、あの馬鹿」

「それで? 何処から探す?」
「取り合えず通っていた女子高に行ってみよう。それから彼女と親しかった友達を探して、次に男関係を探る」
 店のすぐ近くにあるベンチに座り、聖亜はヒスイの質問に淡々と答えた。
「随分と面倒くさいな」
「……準はあまり香と仲良くなかったからな」
 むっつりとした顔で呟いた準を見て、聖亜は苦笑して息を吐いた。
「けど、やっぱり見て見ぬ振りはできない。別に知らない奴がどうなろうと、俺の知ったことじゃないけど、知り合いがいなくなっていて、何か事件に巻き込まれているのなら、ちゃんと助けてやりたい」
「…………ふうっ、分かったよ。“俺”の負けだ。こうなりゃちゃんと見つかるまで付き合う。そんで見つかったらその場で一発ぶん殴る。いいな」
「ああ。ヒスイも手伝ってくれよ? ……ヒスイ?」
 白髪の少女の返事がない。後ろを振り返ると、そこではヒスイが何やらごそごそとやっていた。
「……おい、何みたらし団子食ってんだよ!!」
「あうっ、あ……いやその、すまない」
 みたらし団子を口に入れたまま、もごもごとすまなさそうに俯いた白髪の少女を見て、聖亜と準は顔を見合わせると、ぷっとそろって吹き出した。




 3人がいるベンチから遥か後方の石畳で、その男は彼らの様子をじっと見て、ぎりぎりと手を握り、口の両端を限界まで吊り上げた。

「…………ようやく、ようやく見つけたぞ。絶対零度!!」







―秋野サイド―

「あの……お姉さん、一緒に屋台見て回りませんか?」
 紫色の浴衣を着た、OL風の観光客にそう声をかけた秋野は、だが一瞥しただけで手を振って歩き去る彼女の後姿を見て、がっくりとうな垂れた。

 これでナンパを開始してから20回連続で振られている。軽く息を吐くと、秋野は近くの屋台で大盛の焼きそばを頬張っている福井の隣りにしゃがみ込んだ。
「ふぉいふぉい、ふぉうしたんふぁよ、調子ふぁるいじゃねえふぁ」
「……悪い、何言ってるか分かんねえよ」
「んぐんぐ、ごくん……っと、悪い悪い。じゃあ改めて、おいおい、どうしたんだよ。調子悪いじゃねえか」
 三杯目の焼きそばを食べ終え、満足そうに腹をさすると、福井は秋野にほれっとチョコバナナを差し出した。
「……どうも」
「いやいいって。けどよ、お前趣味変わったのか? 前は高校、いってもせいぜい大学生がお前の範囲内だったろ? 今までそいつらを対象にナンパの練習をしていたくせに、いきなり自立しているお姉さま方を相手に出来るわけないだろうが」
「……うるせえな、分かってるよ。けどお前だってぜんぜんナンパしてないじゃないか」
 チョコバナナを食っている親友にそう文句を言われ、福井はそうなんだよな~っと頭を掻いた。
「いや~、聖亜にも言われたんだけどさ、家の近くでナンパしたらやばいだろ。そりゃ俺が声をかければ一発でナンパは成功するよ? この髪形もナンパするとき笑い話として使えるしさ。けどもしそれが母ちゃんにばれたら……ひいいっ!!」
「いや、悪かった。な、元気出せ」
 ガタガタと震えだした親友の肩をぽんぽんと叩くと、秋野はチョコバナナの串を捨てるため立ち上がり、そしてふと前の人混みを見た。
「……あれ?」
「ん? どうしたんだよ」
「いや、何か今遠くに小池の姿が見えたんだけど」
「……はぁ? 小池って言ったらお前、俺らの学校裏切って月命館に入ったA組の奴じゃねえか。秋野、お前顔知ってたのか?」
「いや、別に知りたくもなかったんだけどな、あいつ月命館に行くとき、散々俺に自慢してきたんだよ」
「ふ~ん、ま、災難だったな。つかなんで月命館の寮に引っ込んだ奴が旧市街を歩いてるんだよ」
「そんなの俺が知るか。どうせママのおっぱいが恋しくなったんだろうよ。さてと、ナンパの再開だ」
 気合を入れて立ち上がった彼を見て、福井は新たに買ったイチゴ味のかき氷を、思いっきり頬張った。口いっぱいに冷たく甘い味が広がる。
「でもさ秋野、お前の趣味が変わったのって、やっぱりあのお客さんのせいか?」
「ぶっ!! な、何馬鹿なことを言ってるんだよ!! そそそそんな事ああああるわけないだろが!!」
「へいへい。お前ってほんとに分かりやすいよな。それじゃそろそろ移動しようぜ。あっちでイカ焼き売ってるの見たんだよ」
「おいおい、まだ喰うのかよ。去年の俺のようになってもしらねえぞ? まあい……いや、ちょっと待て。もう一回だけ声かけてからな」
 目の前をさっと通り過ぎたスーツ姿の女性の左右に振られた尻を見て、秋野はごくりと唾を飲み込んだ。
「はいはい。勝手にやってなさいよっと。おやっさん、カキ氷もう一杯。次はメロンソーダでね!!」
 女の尻を追いかけた親友に激励の手を振ると、福井は出されたカキ氷にスプーンを伸ばした。



「あ、あの……すいません」
「……」
「あのっ、すいません!!」
「ん? ああ、あたしか。誰だい?」
 スーツ姿の女性に追いついた秋野は、振り返った彼女を見てはっと息を呑んだ。さっきまでは暗くてよく分からなかったが、独特の薄紫色の髪を持った豊満な体を持つ彼女は、間違いなく今朝自分にキスをしてくれた客だった。
「あ、あの……お客様ですか?」
「ん? ああ、今朝の坊やか。奇遇だね、こんな所で出会うなんて。祭りにでも来たのかい?」
「……は、はい!! お客様もですか?」
 ふっと笑った彼女に一瞬見惚れた秋野だったが、あわあわとそう尋ねた。
「いや、最初はそのつもりだったんだけど、ちょいと連れとはぐれちまってね」
「は、はぁ……あ、俺探すの手伝いますよ。どんな人なんですか?」
「おや? 良いのかい。んじゃ頼もうかね。灰色の髪と目をした大男なんだけど……おや? どうしたんだい?」
 男と聞いてがっくりとうな垂れた秋野を見て、彼女は不思議そうに首をかしげたが、
「いや……もしかしてその人、恋人か旦那さんですか?」
 少年のその言葉に、ぷっと吹き出した。
「恋人か旦那? そんなわけないじゃないか。そうするにはちょいと年が違いすぎるからねえ」
「え? そ、そうだったんですか!! うっし。こっちはもう探したんですよね? なら神社の方角じゃないかな。自分も神社に行くんで、一緒に行きましょう!!」
「おや? そいつはありがたいね……そういえばお前さんの名前を聞いていなかったね」
「は、はいっ。秋野茂って言います……あの、お客様は?」
「そういや言ってなかったね。あたしはエリーゼっていうんだ。よろしくな、アキノ」
 はいっと元気良く返事をした少年に顔を近づけると、途端にどぎまぎする彼を見て、エリーゼはにっと笑った。






 ギャリッ、ギャリッと音を立てながら近づいてくるその男を、聖亜は呆然と眺めた。
 
 
 自分の周りからヒスイ以外の生き物が一瞬で掻き消えたのは、もう少しで神社に着く頃だった。
 最初、エイジャの奇襲と判断したヒスイがペンダント“尽きざる物”から護鬼を引き抜いたが、近づいてくる男を見た瞬間、彼女は太刀を落とし、悲しげに俯いた。

 身長は自分より遥かに高い。重力に逆らうように夜空に伸びる髪は、ヒスイ同様色素がないが、彼女の髪が澄んだ雪のような白髪なのに比べ、これは疲れきった老人に似た灰色だ。そして傍らの少女の瞳が空を思わせる蒼なのに比べ、男のそれは


 男のそれは、何の感情も写っていない灰色だった。


 いや、違う。その灰色の瞳には抑えきれない感情が見え隠れしている。憎悪、怒気、


 そしてそれらを凌駕する、途轍もなく強大な、狂喜。


 ギャリギャリと鳴っているのは、男が両手に持っている巨大なチェーンソーだ。一つ100キロ近くありそうなそれを、だがこの男は左右に一つずつ、軽々と持っている。

 男は、呆然とこちらを見つめる聖亜と、そしてその隣りで悲しげに俯いている少女の前まで来ると、右手に持ったチェーンソーを天高く上げ、

「……くくっ、くはっ、くひゃははははっ!! 死ね、絶対零度っ!!」


 白髪の少女に向け、勢い良く振り下ろした




   ギャリリリリリリリッ!!



                                      続く

 こんにちは。活字狂いです。仕事が忙しく、一週間抜けてしまいました。その分今回はちょっと長いです。容量でいうと200キロバイトくらい。さて、チェーンソーに襲われるヒスイの運命は? 幕間「蠢くもの」を挟みつつ、第三幕 「過去との邂逅」を、どうぞお楽しみに。
 ところで、最近ブラックラグーン熱が再熱しました。聖亜は特別な力がなくとも、楽にロアナプラで暮らせます。戦闘能力はレヴィとロベッタの2人と一度に戦って勝てるぐらい。まあ、バラライカ様の率いる遊撃隊には一歩劣りますが。それにしても、バラライカ様の座る椅子になりたくて、ヘンゼル(グレーテルかな?)がロックに見せたスカートの中身を見たいと思う俺は死んだほうがいいですかそうですか。

 というわけで、第三幕はバイオレンスです。いやマジで


追記1 アナザーセンチュリーエピソードポータブルがさっぱり面白くありません。ストーリー性が全くないうえに、オープニングの歌もない。こうなったら戦場のヴァルキュリア3とガンダムジージェネレーションワールドに期待するしかないか。ヴァルキュリア3はマルチエンドということなので、ダルクスの少女とのエンディングを目指します。


追記2 もう一つ、アリスソフトから発売される大帝国がマジでほしい。けど4月に発売だからすぐに買えない。くっ

追記3 どうでもいいですが、最近江口洋介主演のスクールを見ております。話は面白いんですが、いじめを主導している女子生徒がマジできもい。どうにかならなかったのだろうか。



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 幕間   「蠢くもの」
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:3d0d579c
Date: 2011/01/31 11:39


 ハァッ ハァッ ハァッ


 少年は、荒い息を吐きながら人混みの中を走っていた。

 途中でぶつかった何人かが不愉快げな顔で睨み付けるが、彼は足を止めようとはせず、ただ前を見ながら狂ったように走り続けた。
やがて、少年は人気のない場所まで来ると、ぜえぜえと肩で息をしながらがくりと膝をついた。うつろな目であたりを探ると、隅に水道の蛇口が見える。這うようにそこまで近づくと、がくがくと震える手で蛇口をひねり、出てきた水を貪るように飲んだ。


「……おや? もう逃げないのかい?」


「うぶっ!!」


 別の少年の声が闇の中に響いたのは、その直後だった。

「やれやれ、僕は君に走れと言った覚えはないよ、小池君。確かに君は走るのは得意だけれど、別にそれを熱演してもらう必要はこれっぽっちもない」
 闇の中から現れたのは、どこにでもいる単なる少年だった。年齢は小池よりわずかに下であろう。特徴らしい特徴はなく、あえて特徴をあげるならば“普通”という名が付くほどに平凡な少年だが、小池はこの少年の内面が、その外側と全く違うことを知っていた。



いや、思い知らされた。 



「ん、んなこと言ったって、出来るわけねえだろうが!!」
「そうかい? けど“これ”欲しさに何でもやると言ったのは君だよ? なに、簡単なことじゃないか。コンサートに来た人に配られる飲み物に、“青酸カリ”を入れるぐらい」
 平然とそう言った少年を、小池はがくがくと震えながら睨み付けた。
「で、出来るわけないだろ!! そんな事したら、何百という人間が死ぬぞ!! なんで、なんでそんな事……」
「なんでって? 決まってるじゃないか」
 暗闇の中、少年はまるでスポットライトを浴びているかのように、空に向かって両手を高々と広げた。


「“僕”が楽しいからさ!! それ以外に、一体どんな理由がいるというんだい?」


 狂ってる。 


 目の前で楽しげに笑っている少年を見て、小池は心の底からそう思い、そしてこの最悪な少年と関わってしまったことを、心底後悔していた。


 小池がこの少年と出会ったのは、今から半月ほど前、陸上の成績が伸びずイラついていた時だった。
 根津高等学校から陸上のエースとして引き抜かれた彼だったが、陸上部の面々、中でも金持ちからの侮蔑を込めた嫌がらせにストレスがたまり、さらに特待生は成績が振るわなければ即退学、しかも多額の違約金を支払う必要がある事からプレッシャーを感じ、成績が振るわなくなり、担当教師から勧告を受けた。


 その時だ、この少年が良い物があると言って、白い粉を差し出してきたのは


 少年は、初めはその白い粉を一種のドーピング剤だと言っていた。どんな検査にも引っかからない、まさに魔法の粉だと。
 確かに彼の言うとおり、この粉を服用した直後は高揚感が体全体を包み、全身に力がみなぎる感じがした。つい先日行われた夏の大会への選抜試験でも、ほかの部員を圧倒し、見事勝利することができた。


 だが、体の異変は、すぐに表れた。


 薬が切れることでの強力な脱力感と疲労、そして強烈な吐き気。それを抑えるためにさらに少年から粉を購入し、そのせいでさらに体の調子がおかしくなる。何度かそれを繰り返している間に、小池はこの白い粉がコカイン、いやヘロインすら上回る強力な麻薬だということにようやく気付いたが、その時には、もう彼の体は中毒症状に陥っており、少年に対する借金も膨大なものになっていた。


 少年がある提案をしたのは、ちょうどそんな時だった。

 
 初めは簡単なことだった。この麻薬「K」を新市街に住む若者に売る手伝いをするというならば、定期的にこれを供給するというのだ。少年の提案に、小池は無我夢中で飛びつき、学生を中心に、「K」は若者の間に広まりつつあった。


 だが、ここで警察の取り締まりが強化された。


 彼と同じように薬を売っていた下っ端の一人が初歩的なミスで警察に捕まり、麻薬が押収された。そのため新市街での販売が困難になった時、少年は小池に今回の提案をしたのだ。


 すなわち、祭りの日にコンサート会場で配られる飲み物に、青酸カリを入れろと。


 人が死ぬかという事態になって、小池はようやく自分のしていることの恐ろしさに気付き、こうやって逃げ出したのだ。だが



「さてと、逃げ出したネズミはさっさと“駆除”しないとね」


「ひっ、や、やめ、やめてくれっ!!」

 少年がポケットから取り出したものを見て、小池は恐怖に震え上がった。彼が取り出したのは単なる切れ味の悪い折り畳み式のナイフだ。おそらくよほど力を入れなければ何も切れないだろう。だが小池は、この少年が組織の金をちょろまかした男をその切れ味の悪いナイフで軽々と一寸刻みにしているのを見ていた。

「そうはいかないよ。裏切り者には血の制裁をしなければならないからね……じゃあね、小池君」

 少年の振るナイフが、するすると彼の指に伸びた時、


 
ズンチャカズンチャカズンドコドン♪



 不意に、周囲に陽気な音楽が響いた。




「♪ あなたの、欲をかなえましょう♪」

ズンチャ ズンチャ ズンチャカチャ


「♪ あなたの、望みをかなえましょう♪」

ズンドコ ズンドコ ズンズンズン


 呆気にとられる小池と苦笑している少年の前に、陽気な音楽と共に現れたのは赤と黒のバニースーツに身を包んだ2人の女だった。彼女達が踊りながら左右に広がると、さらに奥の闇から派手な服に身を包んだ壮年の男が踊りながら現れた。

「♪ この曲は、あなたの欲望を叶えるあバード協会がお贈りしました ♪」


 男が一礼すると、それに続いて2人の女も一礼し、音楽はぴたりと止まった。


「……やれやれ、お楽しみを邪魔しないで欲しいですね、大鳥(おおとり)さん」
「いえいえ、お客様のお楽しみを邪魔するつもりはありませんよ? ですがわたくしからお客様へ提供した代物の代金が多大なものになっておりまして、その返済をお願いしたいと思いまして」
 男はにこやかな笑みでそう答えると、呆然としている小池にすすすっと近づいた。

「お初にお目にかかります。わたくし皆様の欲望を叶えるバード商会会長、大鳥孫左衛門(おおとりまござえもん)と申します。ああ、別に覚えてもらわなくても結構ですよ。それではお願いします」

 男がパンパンっと手を2回叩くと、2人の女がそれぞれ小池の腕を持ち、固定した。


「ひっ、な、何しやがる!! 放せ!!」

 足をバタバタと動かして抵抗するも、彼女達はまるで鉄のように硬く動かない。と、男はふところに手をやると、そこから飴玉ぐらいの大きさをした、禍々しい黒色をした一つの物体を取り出した。

「いやあ、あの“組織”に合流する前に、以前開発したこれの性能を試したかったんですよ……ではご堪能ください。この世のものとは思えないほど極上な、絶望の味を」

「や、やめ……ふぐっ」
 口を閉じて抵抗するも、ものすごい力でこじ開けられ、無理やりそれを飲まされる。強烈なドブの臭いに吐きそうになるが、口を閉じられているため、飲み込むしかなかった。

「ぐっ……あ、があああああっ」
「おや? お口に合いませんか? それはそれは失礼を。その味はわたくし達にとっては、甘美な至高の味になるのですがねえ。さて、お客様」
 男は体をくるりと回転させると、一連の作業を見守っていた少年に、優雅に一礼した。
「これで代金の半分はお支払いいただきました。後の半分も早急にお支払いください。ところで話は変わりますが、そろそろこの街を出たほうがよろしいかと……少々厄介な連中も現れたことですし」
「……そうかい? ならしかたがないね。まあ、そろそろあの子が待っている復興街に帰ろうと思っていたことだし。それにこれほど強烈な麻薬なら、彼らも喜んで買うだろうさ」



 そう答えると、少年はふと虚空の彼方を見つめた。




「これで……僕は君に近づけるかな? ねえ、“最狂”」





                                   続く


こんにちは、活字狂いです。今回はちょっと短いですが、これがなければ次回の幕は上げられません。さて、今回新たに出てきた二人の男、壮年の男と少年は、聖亜達にどのようにかかわってくるのでしょうか。それを踏まえつつ、次回「スルトの子2 炎と雷と閃光と 第三章   過去との邂逅」どうぞお楽しみに。


追記 戦場のヴァルキュリア3が面白いです。クルトは飴をがりがりかじる糖尿病予備軍だし、イムカは牛乳とコーヒーときのこが嫌いなお子様だし、リエラの髪はイチゴシロップがかかったかき氷だし……しかし海水浴イベントは強烈だった。自分はスレンダーな方が好きなので、やっぱりイムカタ(ズキューン)……バタリ




[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 第三幕   過去との邂逅
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:8e78fcae
Date: 2011/02/16 22:25

 注 今回は後半少しバイオレンスな場面があります。苦手な人はあまり見ない方がいいかも。



幼い頃の記憶は、あまり良い物じゃない。



いや、俺の記憶は、正直3年前まで最悪と言ってよかった



目の前に見えるのは他人の体から流れ出た鮮血


手に伝わるのは相手の肉を引き千切る鈍い感触


耳に聞こえるのは瀕死の状態で呻く弱者の悲鳴


 幾つもの戦いに勝ち、千を超える人間を再起不能にした俺は、いつのころからかこう呼ばれることになった。



  すなわち、“最狂”と





 少年の体が動いたのは、ほとんど無意識にだった。


 未だ俯いたままの少女にぶち当たるように飛びつくと、振り下ろされたチェーンソーが彼女の体をえぐるより一瞬早く、2人は少し離れた地面に転げ落ちた。
 だが、それで攻撃が止んだわけではなかった。ギャリギャリと地面を抉っていたチェーンソーが、そのままの勢いで地面を削りながら迫ってくる。

「くっ!!」

「……」

 目前まで迫った刃を、聖亜は傍らに落ちていた刀で受け止めた。刃と刃が合わさり、ギリギリと鍔迫り合いが続く。だが、ギャリギャリと回転する刃を受け止めた時、聖亜は刀が一瞬震えるのを感じた。


「ちっ!!」


 回転する刃を受け止めつつ、刀を斜めにして受け流そうとする。だがそれは相手も分かっているのだろう。チェーンソーを押す手に力がこもった。

「……くそっ!!」


 一か八か手に持っていた刀をぱっと放す。今度は上手くいった。力の入れすぎか男の体はわずかにぐらつき、チェーンソーが振り下ろされるより一瞬早く、聖亜は体を思いっきり右に投げ出した。チェーンソーは髪を一房と、髪留め代わりに使っていた紐を掠めると、キチキチと鈍い音を立てて停止した。


「…………貴様、何者だ」
「何者って、それはこっちの台詞だくそ野郎が。いきなり襲いかかってきやがって。あんた一体何者なんだ? まさかまたエイジャだって言うんじゃないだろうな」
「エイジャ……だと? くっ、くくっ、貴様の罪状が増えたな絶対零度。一般人に奴らのことを教えるのは非常時を除いて禁じられているはずだ」
「……」
「絶対零度? あんたエイジャじゃなくて、それでヒスイを知っているということは……こいつと同じ魔器使だろ? 何で仲間を襲うんだよ!!」
「……仲間? 仲間だと!?」


 俯いたままの少女の代わりに、ほどけた髪を抑え、聖亜が厳しい口調で詰問すると、灰色の男はかっと目を見開いた。
「俺と“これ”を一緒にするな!! 俺は悪を打ち滅ぼす正義の力を得た者だ。こんな“邪悪”な存在と仲間なはずがあるか!!」
「……」
 聖亜は、喚きたてる男をただ呆然と眺めた。それを見て戦意が喪失したと考えたのだろう、男は両手に持ったチェーンソーを構えなおした。
「分かったらさっさとそこをどけ、一般人。俺に逆らった罪は重いが、今なら全ての記憶を消して廃人にすることで許してやる」
「………………許してやる、だって?」
 不意に、髪の長い少年はぽつりと呟いた。そのまま何かに耐えるように胸を抑えていたが、やがて耐え切れないといった感じで震え出した。


 泣いているのか? 灰色の男、スヴェンは最初そう思った。だがすぐにその考えを打ち消した。なぜなら、


 なぜなら顔をあげた少年の表情は、心底可笑しいという風に笑っていたからだ。


「……あ、あは、あははははははっ!! そうか、あんたそういう奴か。なるほどねぇ、自分は正義、自分は正しい、そう思っている自己陶酔野郎か!!」
「何だと? 貴様……もう一度言ってみろ!!」
「ああ、何度でも言ってやるさ。いいか自己陶酔野郎、この世界には正義も悪もないんだよ、あるのは力の有無だけだ。力のある奴が好き勝手に正義を名乗って、そうでない奴を悪として処断する。それだけさ!!」
「貴様……こいつが過去に何をしたのか分かっていっているのか!? こいつはな、過去に50人もの人間を殺した極悪人なんだよ!!」
「……っ!!」
 声を張り上げ、少女の罪を糾弾するスヴェンに、ヒスイは唇をぐっと噛み締めた。
「本来ならこの世のありとあらゆる責め苦を永久に受けるところを、ただ一度殺すだけで許してやるんだ!! 充分慈悲深いだろうが!!」
「……一度殺してやるだけで許してやるねえ? あんたそれほど偉いのか? 自己陶酔野郎。たかが50人殺してそれなら、何百人もの人間をぶっ潰した俺は、一体何回殺されれば許されるんだ?」
「……どうやら、貴様もこれと同様邪悪のようだな」
 そう呟くと、スヴェンは圧倒的な殺気を込めて聖亜を睨み付けた。だが聖亜はその殺気を、むしろ心地良さそうに受け止めていた。これぐらいの殺気、“あの場所”にいた彼は日常茶飯事に受けていた。
「ああ、邪悪も邪悪、最低最悪さ。さあ来いよ自己陶酔野郎、鬼も仏もぶっ潰した俺が、お前に現実というものを教えてやるから」
「……」
 ガキンと音を立てて、チェーンソーの刃が動き始める。それを見つめる聖亜の顔に恐れの表情はない。いや、むしろ彼の顔に浮かぶのは穏やかな笑みだ。自分があるべき場所に戻ったような、そんな表情。


 そして、2人が一歩足を踏み出した時、



「っ!!」
「なっ!!」

 ザァーッと音を立てて、上空から無数の砂が2人に降り注いだ。




「……ったく、何やってんだいあんたら」

 砂まみれになり、ごほごほと咳き込む2人の男を見て、エリーゼは薄紫色の髪を呆れたように掻いた。
「……邪魔をするなエリーゼ、俺はこれからこの悪を殺さねばならん」
「殺さねば……って、スヴェン、自分の言ってる事理解してるのかい? 一般人を殺せばそれは単なる犯罪だ。それこそあんたが一番嫌っている悪じゃないか。復興街での件は正当防衛だから仕方ないけど、ヒスイの釈明も聞かずにいきなり殺そうとした件といい、これ以上の勝手は許さないよ?」
「……どうやら、あんたは少しは話が分かるようだな」
 灰色の男を諭す女を見て、聖亜はゆっくりと構えを解いた。彼女は自分と少女を問答無用で殺そうとは考えていないらしい。それに彼女はヒスイのことを名前で呼んだ。少なくとも事情を聴くことはできるだろう。
「ん? ああ、巻き込んじまってすまなかったね、坊や。あたしはエリーゼ。そしてこの灰色男はスヴェンってんだ。けどスヴェン、どういうつもりだい? 結界も張らずにドンパチやるなんて」
「……結界なら張っている」
 エリーゼの黒い瞳に睨まれ、スヴェンは叱られた子供のようにむっつりと呟いた。
「はぁ? って、確かに結界が張られているね。ならこの坊やはどうしてこの空間に居られるんだい?」
「そんな事、俺が知るはずないだろう。だがこれで絶対零度の罪状が一つ増えたな、一般人を戦闘に巻き込んだ」
 エリーゼが来ても、いまだに俯いたままの少女に、スヴェンは鋭い視線を向ける。それから少女を守るように、聖亜は2人の間にゆっくりと移動した。
「待てよ。ヒスイはエイジャに襲われていた俺を助けてくれたんだ。巻き込んだわけじゃない。そのせいでこいつが罰せられるというなら、その前に俺が相手になるぜ」
「……」
 そう言って再び身構えた聖亜を見て、スヴェンもチェーンソーをかちゃりと構える。そんな彼らの様子に、エリーゼはやれやれと頭を振った。
「ったく、いい加減にしな2人とも。一般人に協力を求めるのは、非常事態に限り認められている。爵持ちが相手だったんだ。充分非常事態だったろうさ。ほら、さっさと結界を解いて、あんたは一旦ホテルに戻りな、スヴェン」
「……貴様に指図されるいわれはないぞ、エリーゼ」
「ほほう、そうかい。第一級魔器使には、その地にいる魔器使を統率する権利を持つ。それをあんたが忘れたとは思わないけどね。それから、もし一級の魔器使が複数いた場合は年の順ということも知ってるだろ?」
「…………っち」
 忌々しげに舌打ちすると、スヴェンは両手に持っていたチェーンソーを天高く放り投げた。それはくるくると舞いながら落ちてくると、地面に落ちてくる瞬間、メイド服を着た2人の少女に変わった。白いメイド服に身を包んだ方は理知的で怜悧な表情を見せ、黒いメイド服に身を包んだもう片方は陽気で残酷な笑みを浮かべている。
「……この女の言った事は正しい。帰還するぞ、イル、ウル」
「はいマスター。私達がこの地を離れた一分後に結界が自動解除するように設定いたします」
「はいは~いっ!! 了解ですご主人様。ところでこの生意気な糞餓鬼、殺しちゃっていいですか?」
 黒いメイド服を着た少女が陽気に笑いながらこちらを見た。だがスヴェンは微かに首を振ると、少女の頭を掴んで歩きだす。
「いだっ、いだだだだだだっ!! ごめんなさいご主人様、もう余計なことは言いませんから放してください!! むぎゅっ」
 遠くでどさりと何かが地面に落ちた音を聞き、エリーゼはやれやれと首を振ると、聖亜の方に向き直った。
「さて、と。こんなところで立ち話もなんだから、結界が解けたらどっか落ち着ける場所で話したいんだけど?」
「……ああ、あんたならいいぜ。少なくとも男の方より話が通じそうだからな。西の竹藪の中にある家に行っててくれ。俺達も連れに適当に言い訳して帰るから」
「言い訳? その必要はないよ。だって今外は……」
 くるりと少年に背を向けると、彼女は手をひらひらと振って歩き出した。

「だって外は今、すごい土砂降りだからね」


 
 エリーゼとかいう女の言ったとおりだった。

 肩を揺さぶられる感触にはっと我に返ると、聖亜は人々が早足で建物の中に避難する道の真ん中で、空から降ってくる大粒の雨に濡れるのも構わず、ぼんやりと立ち尽くしていた。
のろのろと視線を横にやると、白髪の少女が青ざめた表情でしゃがみ込んでいるのが見えた。先ほどのやりとりは、どうやら幻ではなかったようだ。
「……い、おい、聖ってば、聞いてるのか?」
「…………あ、ああ。どうした? 準」
 肩を揺さぶってくる少女の方に視線をやると、準は雨に濡れながらやれやれと首を振った。
「どうした、はこちらの台詞だよ。ヒスイと一緒に駆け出したと思ったら、こんなところでぼんやり突っ立って……まあいい。それよりいきなり雨も降ってきたし、これからどうする? このままだと風邪をひくぞ?」
「あ、ああ。そうだな、今日はもう帰ろう。悪いけど、秋野達に帰るって連絡入れてくれ」
 
 分かった。そう言って雨の当たらない軒下に移動する準を見送ると、聖亜はのろのろと空を仰ぎ見た。


 どんよりと曇った空からは、少年の顔めがけ、尽きることのない水滴が降り注いでいた。


 それはまるで


 まるで、傍らで蹲る泣けない少女の代わりに



 天が泣いているかのごとく





西暦2015年(皇紀15年) 7月15日 20時50分

「さてと、じゃあ改めて自己紹介といこうか」
 そう言うと、薄紫色の髪をした女は軽く膝を崩した。
 彼女に灰色の男との戦いを止められてから、すでに一時間余りが経過していた。雨が降ってきたこととヒスイの調子が悪いことを理由に、聖亜は準と別れて一足先に家に戻ってきた。それから三体の人形に少しの間身を隠すように指示し、ヒスイの体調が多少なりとも良くなった頃、彼女はこの家に訪ねてきた。
「先ほどちらりといったと思うけど、あたしの名前はエリーゼ、そこにいるヒスイの嬢ちゃんと同じ魔器使さ。しかもちょっとした知り合いときている」
「そうなのか? ヒスイ」
 彼女の向かい側に座りながら、聖亜は隣にいる白髪の少女に視線を向けた。彼女は少年の視線を受け、ただ黙って俯いていたが、やがてため息とともにゆっくりと頷いた。
「……ああ、知り合いだ。何度か訓練の指導をしてもらったこともある」
「そ。だからそう警戒しなさんな。あたしゃスヴェンと違ってヒスイを問答無用で殺したりしないから」
「スヴェンって……あの灰色の髪と目をした男のことか。で、あんた達はなんで太刀浪市にやってきたんだ?」
 少年の問いに答えず、エリーゼは目の前の茶を飲んで、ぶっと思いっきり吐き出した。
「な、なんだいこりゃ……すごい渋いじゃないか!!」
「……ああ、すまない。いつも家事をやってもらっている人が今いないから、俺が自分で淹れたんだけど、口に合わなかったようだな」
 目の前でごほごほと咳き込むエリーゼに、聖亜は多少の皮肉を込めて答えた。それもそのはず、いつもお茶を入れていたのは小松とビショップであり、小松はチェーンソーによって傷つき、ビショップは姿を現すことはできない。
「ま、いいさ。話を戻すよ……ヒスイ」
 エリーゼは、静かにこちらを見つめる少女に顔を向けた。
「先日―7月8日に爵持ちであるニーズヘッグとの戦闘で、自らが禁技とした絶技“絶対零度(アブソリュート・ゼロ)”を二度使用、間違いないね」
「ああ、間違いない」
 そう答えると、ヒスイはゆっくりと頷いた。
「……どういうことだ?」
 身を乗り出して詰め寄る少年に、エリーゼは大したことじゃないよと手を振った。
「ようするに、ヒスイは違反したのさ。で、魔器使であると同時に査問官であるあたしともう一人が派遣されたってわけ。けど安心しな、禁技を使っただけじゃ大した罰にはならない。精々本部に送還の上数か月の自宅謹慎さ」
「そっか……良かった」
 ほっと息を吐いて腰かけた聖亜に、しかしエリーゼはただし、と付け加えた。
「いろいろと調査した結果、一つ不審な点が見つかった。ニーズヘッグはあんたの絶技で倒されたんじゃない。“炎”によって倒された。そうだね?」
「え? ああ、そうだが」
 唐突に話題が変わったことに、ヒスイは意味が分からないといった感じでエリーゼを見た。
「なら話はだいぶ変わってくる。こちらに来て戦いのあった元廃工場を調査したのだけれど、そこで100万度の高熱により、一瞬にして炭化したニーズヘッグの鱗を発見した。こんなことができるのはそういない。スヴェンでも全力を出さないと無理だ……で、ヒスイ、正直にいいな。ニーズヘッグをぶっ倒したのは、一体どこの“何”なんだい?」
「……そ、それは」
 先ほどとは違い、鋭い口調で問うエリーゼに、ヒスイは暫く視線を泳がせていたが、やがて無意識にだろうか、不意に傍らの少年をちらりと見やった。
「……はあ? ヒスイ、誤魔化すのも大概におしよ。この器量よしだが、どこにでもいる何の変哲もない坊やに、ニーズヘッグを倒すことなんざ、まして炎に強い竜の鱗を一瞬で炭にすることなど出来やしない。それこそニーズヘッグより格が高いエイジャでないと「そうだ一殺多生、エイジャが現れたのよ」……やっと来たかい、馬鹿猫め」
 その時、廊下から黒猫の声が響いた。彼女はゆっくりと部屋の中に入ると、聖亜の横にしゃがみ、ふああっと退屈そうに欠伸をした。
「それで? エイジャが現れたってのはどういうことだい? スヴェンはヒスイが前々からエイジャと繋がっていると主張している。そんな馬鹿な話はないと思うが、反論がない限り、あたしはスヴェンの主張を本部―ヴァルキリプスに送らなきゃならない。それがどういう事態になるかわかっているのかい? 反逆罪は少なくとも魂を粉砕されるだけじゃすまないよ?」
「ふむ、最高査問官の中で一番“甘い”そなたの言葉とは思えんな」
「はっ!! いいかい馬鹿猫、一殺多生ってのは一人を殺して多を生かすって意味だ。つまり見せしめに一人殺して、後に続く奴が出ないようにするのがあたしの役目さ」
 一殺多生の異名を持つ女の切った啖呵に、キュウはふむと頷いた。
「それもそうだの。では真相を語ろうか。そなたの言ったとおり、ニーズヘッグを倒したのはヒスイではない。赤界のエイジャ……しかも赤皇に連なるものだ」
「……何の冗談だい、そりゃ……いや、あんたは沈黙することはあっても嘘がつける様には“出来ていない”から、赤皇に連なる存在が現れたことは本当で、そいつならニーズヘッグを倒せる炎を操ることも簡単だろうけど、ならそのエイジャはなぜ出てきたんだい?」
 エリーゼの問いに、キュウは面白そうにくくっと喉を鳴らした。
「さて、ニーズヘッグを倒してすぐどこかに行ってしまったから詳細はわからんが、恐らく“頭上”で騒がれるのを嫌ったのであろうよ」
「……」
 説明を続ける黒猫に、エリーゼは最初胡散臭げな眼を向けていたが、やがて忌々しげに頭を振った。
「……分かったよ、本部にはあたしの方から報告しておく。けど何らかの処分は覚悟しときなよ。それと、そんな説明じゃスヴェンは納得しないと思うよ」
「……あの灰色頭も、あんたと同じ魔器使なのか?」
「ぷっ、何だいその呼び方……ま、確かにスヴェンはあたしと同じ第一級魔器使だよ。それに加えて最高査問官の一人でもある。それがどうかしたかい? 坊や」
 エリーゼの坊やという言葉に微かに眉をひそめると、聖亜は傍らの少女に目をやった。
「いや……仲間にしては、ヒスイに対する視線に殺気がありすぎたのが気になって」
「ああ、その事かい……ヒスイ、あたしが話してやろうか?」
 突然話しかけられ、何か考え事をしていたのだろう、湯呑みを持ったままぼんやりとしていたヒスイは、はっと我に返り、落としそうになった湯呑みを慌てて握りしめた。
「いや、それには及ばない。私がい「そんな死にそうな顔して何言ってるんだい、ここはあたしに任せて、あんたはさっさと風呂にでも入ってきな」……う」
 自分より格が上の魔器使にそう言われても、ヒスイは考え込んでいるのか、暫く下を向いていたが、聖亜が行って来いよと声をかけると、やがてしぶしぶと席を立った。それに続いて、座布団の上に寝そべっていたキュウも立ち上がり、一人と一匹はそろって部屋を出て行った。
「さて……と、スヴェンがどうしてヒスイを殺気を込めて見るか、だったよね」
 彼女たちの気配が完全に消えてから、エリーゼは完全に冷めたお茶を一気に飲み干した。相変わらずの苦みに顔をしかめるが、今度は文句を言うことはない。聖亜が姿勢を正すのを見て、重々しく口を開いた。
「スヴェン……あいつがヒスイを殺気を込めて見るのは、実際に殺したいほど憎んでいるからさ。そして、なぜそれほど憎んでいるかというと……」
「…………いうと?」
「……あいつは奪われたからね。自分の一番大切だった存在を、婚約者であるヒスイに」
「……」


 その時、弱まっていた雨が、いきなり強く降り出した。


 彼女の言葉を、少年以外誰も聞くことの無いように、



 強く、強く





 30分後、ヒスイが風呂から上がって座敷に戻ってきたとき、そこにはエリーゼの姿はなく、この家の主が押入れの中に頭を突っ込んで何かごそごそ探しているだけだった。
「聖亜、エリーゼは?」
「ん~? 5分前に帰ったぜ。スヴェンの方はなんとかフォローしておくってさ」
 少年のいつもと変わらない口調に、ヒスイはそうかと呟くと、そっと彼の隣に腰を下ろした。
「その……聞いたの、だろう?」
「まあおおよその事はな~、お前が暴発させた絶技で、スヴェンの大事な奴が死んだとか、あと……あいつがお前の婚約者とか何とか、そんなとこ。で、なにか付け足しておきたいことはあるか?」
「……いや、もうない。その大事な奴というのは、私の同級生で親友だった。だからそれが故意ではなくとも、私の罪は深い」
「ふ~ん、ま、俺としてはそっちより、あいつがお前の婚約者だって方が驚いたけどな」
「…………おいまて、お前そっちが気になるのか?」
 相変わらず押入れの奥をがさごそとやっている少年の足を、ヒスイは手の甲でこんこんと叩いた。
「やめろって……まあ、婚約者に憎まれる気分って、どういうのか気にはなるよ」
「……別に好きあっていたわけじゃない。能力の高い者同士を結婚させ、そのより強い次の世代を作り出すのは義務だったからな。まあ、3年前のあいつは9歳だったから、男と女の営みなどできるはずはないだろうけど」
「……何か今、すごい衝撃的な言葉が飛び出したような……3年前に9歳って、今あのスヴェンって奴一体何歳なんだよ!!」
「確か先月で12歳になったと思うが……それより聖亜、お前さっきから押入れの中で何やってるんだ?」
 しかし、その問いに対して返事はなかった。不審に思ったヒスイが近づくと、彼は押入れの中で何かぶつぶつと呟いている。耳を澄ますと、12歳の奴に負けそうになったとか、腕が鈍ったとか、そもそもあの体格で12歳はあり得ないだろ、などという言葉が微かに呟いてきた。それを聞いて呆れたようにため息を吐くと、ヒスイは外に飛び出している彼の足を、思い切り踏んづけた。

「いだっ!? い、いきなり何すんだ、ヒスイ!!」
「……お前が人の質問に答えないからだ。聖亜、お前さっきから一体何をしてるんだ?」
 押入れから出て、こちらを睨み付けてくるヒスイを涙目で仰ぎ見ると、聖亜は先ほど彼女に踏まれた足をゆっくりとさすった。
「何って……まあ大工道具?」
「なんだその大工道具? っていうのは。どこか壊れたのか?」
「いや……壊れたっていうか、これから壊す? ま、明日になればわかるさ。ヒスイも一緒に来るか? もし来るんだったら、たかが50人殺しただけで罪だ罰だって騒ぐのが、一体どれだけ馬鹿げているか、ちゃんと証明してやるよ」
 少年が持つ“それ”を見て、ヒスイは訝しげに首を傾けたが、やがて微かに頷いた。
「決まり。じゃ、今日は早く寝よう。明日は早いぞ」


 そう言って立ち上がった彼の表情は、どこまでも嬉しそうだった。




西暦2015年(皇紀15年) 7月16日 6時40分




 厚い雲の隙間から、日差しが微かに覗いている。


 昨日の夜から降り続いた雨は、明け方にはもう止んだらしい。だが道には大きな水たまりができ、五万十川の水量も増大しているなど、その名残はそこかしこに見られた。

 その五万十川の土手には、古い建物がいくつも連なっている。ここは何年か前に復興街から来た人々が作り上げた地区で、道をゆく人々もみすぼらしい格好をしているが、命を狙われる心配がないためだろう、その表情に少なくとも恐怖はない。
 さて、この地区の一角に古ぼけた喫茶店がある。24時間営業しているためか、まだ朝の7時前だというのに、中からは人の話し声が聞こえてくる。だいぶ人気の高い喫茶店なのだろう。


 人影は、人気の高い喫茶店の前で歩みを止めると、やがてその中にゆっくりと入っていった。



「あら? いらっしゃ~い」
 カウンターの前にある小さなキッチンに立ち、馴染みの客との会話を楽しんでいた喫茶店のマスターである沢井丸夫(さわいまるお)通称マルは、入り口に付けてある鈴のカランコロンという音と共に入ってきた客に対し、心からの笑顔を見せた。
「……」
「……あら? どうしたのかしら? 僕」
 だが、その笑顔はすぐに警戒感が混ざった物に変わる。入ってきた客は小さく、13歳前後の髪の長い少年だ。だがその顔は頭から被った野球帽に隠れて見えず、さらにその両手はズボンのポケットに入れたままであるため、その中に何があるのかわからない。
 彼の警戒心が客に伝わったのだろう、周りの視線を受けながら、少年はカウンターに向かってゆっくりと歩いてきた。
「……いらっしゃい、何にしようかしら?」
 カウンターに座った少年に、水の入ったカップを出しながら、マルちゃんはその少年に内側の警戒心をなるべく出さないようにしながら注文を聞く。だが僅かに外に出たのだろう、笑顔の表情が、微かに引きつっていた。
 その警戒心を感じてか、少年は声を出さずに薄く笑うと、そっと耳の後ろを掻いた。
「「「……っ!! 手前!!」」」
 それを見て、店内にいる男が皆立ち上がった。耳の後ろを掻く何気ない仕草は、だが彼らにとっては“その組織”の一員であることを示す合図であったから。
「ちょ、ま、待ちなさいあなた達!!」
 その動きを制止しようとしたマルちゃんの声が彼らに届くより一瞬早く、立ち上がった少年は自分に向かってきた男達の僅かな間を疾風のようにすり抜けると、今までポケットに突っこんでいた手を出し、それを水平に軽く振った。

「「ぐあっ!!」」
 
 と、いきなり2人の男が地面に倒れた。隣りにいる別の男が慌てて抱え起こすと、首の付け根の部分に何かが埋まっているのが分かった。
「な、何だよこれ、根元まで埋まって、全然取れねえ!!」
「ああ、取らない方がいいぞ、無理やり取ると血がどばっと吹き出すから、な!!」
「な!? がぁっ!!」
 耳元で陽気な声が響いた瞬間、後頭部に来た衝撃で、男の意識は闇に落ちた。

「な、ななな、何なんだお前!!」
「俺が何かって? さてな、自分でもよくわからん」
 そう朗らかに笑うと、少年は血に染まった“それ”を失神している男の後頭部からべりべりと引き剥がし、震えながらこちらに問いかけた男に歩み寄った。
「それとも……俺が何か、お前が教えてくれるのか?」
 そう言って、少年が“それ”を無慈悲に振り上げた瞬間、


 ダァン、という音が、周囲に響き渡った。


「……そこまでよ、僕」
「やれやれ……ニードルガンか、旧式の銃で正確にこちらを狙えるなんて……腕は鈍っていないようだな、“女王蜂”」
 先ほど自分がいた場所に打ち込まれた数本の鋭い針を見て、それが届く寸前にテーブルの上に飛び乗った少年は、だがむしろ嬉しそうに笑った。
「……あなたもね、“最狂”。金槌と釘を使って3人の男を瞬く間に重体においやるその手際の良さ、どうやら復活したみたいね」
「……あ、兄貴、“最狂”って、もしかしてあの“最狂”ですかい?」
 ニードルガンを油断なく少年に構えるマルちゃんに、その傍らで頭を抱えて震えていた男が恐る恐る尋ねた。
「あなた、私の事は兄貴じゃなくて姉御って呼べっていつも言ってるでしょ!! けどそうね、あなたの言うとおり、“これ”はその“最狂”で間違いないわ」
「じゃ、じゃあこいつが……化物を100匹惨殺したっていう、あの伝説の?」
「そうね。正確には何匹だったかしら……ねえ“最狂”?」
「ん? ああ……確か150匹ぐらいはいたな。全部ぐしゃぐしゃのどろどろにしてやったから、正確な数なんて誰にもわからないけど……それで? どうする“女王蜂”このまま睨み合いを続けるか? それもいいけど、あんまり長引くと警察が飛んでくるぞ?」
「……あなたが先に金槌と釘を下ろしなさいな」
「下ろした瞬間に針を打ち込む気じゃないだろうな……ま、いい。今日は別に戦闘がしたい気分じゃないしな。ほらよ」
 やれやれといった感じに、だが少年はぽいっと簡単に両手に持った金槌と釘を床に投げた。一瞬で無防備になった少年に、だが周りの男達は近づこうともしない。いや、それどころか彼がカウンターに向かって歩くと、一刻も早く逃げようという風に後ずさりする。だが、彼らのボスであるマルはそれを咎めようとはしなかった。同じ立場であったら、自分もそうするのが分かり切っていたからだ。
「さてと、それじゃ改めて……久しぶりだな、女王蜂」
「そうね。あなたが3年前にあそこを出て以来だから、3年ぶりになるかしら……それで? この3年、あなたはどこで何をしていたの?」
「ま、いろいろとあったんだよ……しかし、お前こそ何でこんなところで喫茶店なんかやっているんだ? 一応俺と同じ“最高幹部”だったろ」
「ま、私もいろいろとあったのよ、それで? 今日はいったい何の御用かしら?」
 少年の好物である、はちみつをたっぷりかけたホットケーキを出すと、彼はカウンターに座りなおした。
「それだ。ちょっと情報が欲しい。一つ目、こちら側でかつて俺が撲滅した組織がばらまいていた麻薬が改良されて出回っている。これについての情報が欲しい。二つ目、警察に見つからず、密かにあちら側に渡れる浅瀬を教えて欲しい。そして最後になるが……お前がここにいるとしたら、今あそこを仕切っているのは誰かわかるか? まさか磯垣の奴じゃないだろうな」
 少年の問いに、丸夫はしばらく考え込んでいたが、やがて小さく頭を振った。
「ごめんなさい、私もあなたが出て行ってすぐにこちらに来たから、今のあそこの様子はほとんど知らないの。麻薬についても同じよ、ただ私が知らないということは、少なくとも正規のルートを使ってこちらに流れていないことは確かね……ああ、それから一つだけ、磯垣は死んだわ」
「……は? すまないが最後の言葉、もう一度言ってくれないか? 磯垣がどうしたって?」
 呆然と聞き返す少年を見て、丸夫は一度大きくため息を吐いた。
「磯垣は死んだわ。これは事実よ。2年以上前に、五万十川に頭部を撃ち抜かれたあいつの死体が浮いていたわ。排水溝に捨てなかったのを見ると、私への警告かしらね、戻ってくればお前もこうなるぞっていう」
「そうか……しかし、あの磯垣がねえ。まあいろいろとあくどい事をしていたから、後ろから撃たれるぐらいされると思ってはいたが、じゃあなにか? 俺とお前がここにいて、最後の一人である磯垣が死んだということは、今あそこに最高幹部は誰もいないことになるぞ」
「そうね、団長である仁さんも死んじゃったし……それで、あちらに渡る方法なのだけれど」
 一旦言葉を着ると、丸夫は店内にいる男の一人に目で合図した。彼は店の奥に消えて行ったが、すぐに一枚の紙を持って戻ってきた。男からその紙を受け取ると、丸夫はそれを少年の前にばらりと広げる。
「あなたも知ってると思うけど、現在五万十大橋は警察によって封鎖されている。そうすると、その近くの抜け道を通ったら見つかる危険性が大きいわね。ならこことここの抜け道なのだけど、この二か所はあそこも知ってる可能性は高いわ。となるときちんと渡れるのは、最後に残ったこのルートね。ここは最近見つけた抜け道だから、まだ彼らも知らないはずよ」
 説明しながら、丸夫は広げた地図の上に指を走らせた。その指の動きを少年は目で追っていったが、彼の説明が終わると、ゆっくりと顔を上げた。
「……分かった。ここまで分かれば十分だ。ま、後の二つについては、あっちに行ってら自分で調べるよ」
「そう、ま、気をつけなさいな。それで……報酬なんだけれど」
「……サービスじゃないのか、ま、いい。いい医者を紹介してやる。あんたの“お友達”は助かるだろう。釘もそれほど長い物は使っていないからな。じゃ、俺はこれで」
 少年が立ち上がると、彼を遠巻きに見ていた男達がざっと左右に引いた。その間を入り口まで進み、ドアノブに手をかけた時、少年はふとこちらを振り返った。
「ああそうだ。女王蜂、お前香って女を知らないか?」
「香? いえ、知らないわ。調べておきましょうか」
「……いや、いい。それから最後に一つだけ……返り咲きたいんだったら、今のうちに兵隊を集めておいた方がいいぜ」
 薄く笑いながら言った少年の言葉を理解するのに、丸夫はしばし時間がかかったが、やがてはっと顔を上げた。
「ちょ、聖ちゃん、それってどういう!!」
「さてね、俺はもうあっちに戻る気はないし、磯垣も死んだ。まあお前は女に興味がないようだし、“ちょっとした混乱”を利用して返り咲くぐらいやってみたらどうだ? それじゃ、お互い生きていたらまた会おうぜ」
 少年が出ていくのを、丸夫は呆然としながら見つめていたが、ふと周囲からの視線に顔を上げた。
「……あなた達、何してるの、早くその3人を寝かせなさい。それからそこのあなた、バンちゃんとチィちゃんの所に行って、、すぐこっちに来るように伝えて」
「へ? あ、あに……いや姉御、一体これから何が始まるんで?」
「そうね、あの子の言ったとおり、ちょっとした混乱というところかしら……それよりさっさと行かねえか!! これからマジで忙しくなるんだからよ!!」
丸夫に啖呵を切られ、質問をした男は慌てて外に飛び出していく。それを見送ると、丸夫はふと首にかけられたペンダントを手に取った。
「……仁さん、あの子が帰ってきたわよ。濁った街から、すべての膿を流すためにね」
 ペンダントにそっと口づけすると、丸夫は顔を上げ、周りの男達にせかせかと指示を出し始めた。



 土手に腰掛けながら、ヒスイは増水した五万十川を呆然と眺めていた。

 だが、不意に街の方からこちらに来る気配を感じ、ゆっくりと振り返った。
「……結構時間がかかったな」
 こちらに向かって歩いてくる少年に、微かに不満を加えてそういうと、少年―聖亜はすまなそうに頭を掻いた。
「ごめん、ちょっとあったからさ。それより、橋を渡らずに復興街に行くルートが見つかった。さっそく行くぞ」
「今からか? 別に構わないが、橋を渡らずにいったいどうやって向こう側まで行くつもりだ」
「ま、それは見てのお楽しみということで、な」
 川岸を歩く少年に付き添いながら歩き始めたヒスイは、ふと血の臭いを嗅いだ。その臭いは、どうやら前を行く少年から漂ってくる。軽く観察してみるが、怪我をしているわけではないらしい。ならば考えられる可能性はただ一つ、

(返り血、か)

 警察に見つからずに川を渡る方法を話し合っていた時、彼が知人に聞きに行ったのは今から20分ほど前だ。その間に彼が何をしてきたか、具体的には知らないが、おそらく流血沙汰だろう。だが一般人なら血相を変えて逃げ出すその臭いに、ヒスイは軽く眉をしかめただけだった。
「そういえば……どうして復興街に行くんだ?」
「どうしてって……昨日言ったろ、たかだが50人やそこら殺しただけでうじうじしているお前に、現実というものを見せてやるんだよ。それともう一つ、香の探索もある」
「香……ああ、昨日頼まれた人探しか。だが探すならまずはこちら側ではないのか?」
 ヒスイの問いに、だが前を行く聖亜は小さく首を振って否定した。
「いや、城川屋は結構従業員が多いから、旧市街はほとんど探しただろうし、顧客には新市街の連中も多いから、彼らに頼めば警察も動くだろう。つまり香が今いるのは、警察の手が及ばず、従業員も足を踏み入れることができない復興街にいるとみて間違いない。大体あいつは刺激を求めていたからな、毎日が暇なんだとさ……っと、ここだな」
「ここは……」
 少年が立ち止った場所を見て、ヒスイは軽く首を傾げた。周りには丈の長い草が生えている以外、川は他の部分と何ら変わっていない。橋の所からだいぶ離れているから、見つかる心配はまずないが、まさかここを泳いでいくつもりだろうか。
 どうやら内心の疑問が表情に出てしまったらしい。ヒスイの顔を見て、聖亜はまあ見ていろと軽く言い放つと、川に向かって歩いて行った。
「お前、いくら夏だからって泳ぐつもり……え?」
 ヒスイの言葉は、途中で止まった。聖亜はざぶざぶと川に入っていくが、いくら進んでも、川の深さは腰までしかない。
「ここ、ほかの場所に比べて結構浅いんだ。五万十川はでかいからな、それこそ深いところもあれば、雨で増水しても腰までしか届かない浅い部分はある。ま、そのせいで昔は船が結構転覆したらしいけど……ほら、入ってこいよ」
 そう言って手招きしてくる少年に向かって、ヒスイは観念したように歩き出した。


 2人が川を渡りきったのは、それから20分ほどたった後だった。

 いくら浅瀬といっても、所々足がつかないほど深い場所があり、そのたびに泳がなければならず、さらに何度か足を踏み外したことも含め、向こう岸についたとき、結局2人は下半身だけでなく上半身もずぶぬれになっていた。
「……っち、女王蜂め、何がきちんと渡れるだ、だいぶ泳いだじゃないか」
「そうだな、ずいぶん濡れてしまった。どこかで乾かせればいいけど」
「ああ、けどその前に……」
 水を吸って重くなった髪を手でわしゃわしゃとかき混ぜてから、聖亜はふと前の茂みを見た。
「その前に、ごみ掃除と行こうか」

 そう呟いて薄く笑うと、彼はポケットから取り出した釘を、茂美めがけて勢いよく投げつけた。

「ぐあっ!!」
 茂みの中から、くぐもった悲鳴と共に男が一人転がってきた。右手首を抑える左手の間から、だらだらと血が流れている。その男に目をくれることなく、聖亜は新たに飛び出してきた数人の男に向かっていった。
「くそっ、こっちに来やがった!!」
 男が振り下ろした棍棒を難なく避けると、その腹部に金槌を思い切り突き入れる。泡を吹いて男が昏倒するのを見て、彼を囲む男達が怯んだ隙に、しゃがんで地面の砂を掴むと、それを彼らに叩きつけた。

「うわっ、こ、こいつ!!」

「くそ、目が見えねえ!!」

 武器を取り落し、慌てて両目をこする男達に近寄ると、聖亜は呆れたようにため息を吐き、金槌で一人ずつ殴って気絶させていった。
「やっぱりこの程度か、もう少し楽しませてくれると持ったんだけどな……しかし女王蜂め、誰にも知られていない抜け道のくせに、しっかり待ち伏せされてるじゃないか。情報通の看板下ろしやがれ、ったく」
 地面に倒れた男を軽く蹴り、その背中に座ると聖亜は形のいい顎をさすった。
「しかし、この後どうやってあそこに潜入するかな……まあ正面から乗り込んでみてもいいけど、親玉が分からない以上強行突入すると逃げられる可能性があるしな」
「おい聖亜……」
「ん? 何だよ」
 愚痴を零していた聖亜は、自分と同じように襲いかかってきた男達を軽く倒したヒスイに声をかけられ、彼女が指差した先を見た。みすぼらし小屋の間を、ぼろを着た男達がこちらに向かって走ってくる。先程の男達は先遣隊だったのだろう、人数は軽く数倍手にはそれぞれ棍棒やら古びたナイフやらを所持していた。わずかにだが、手製の弓を持っている者もいた。
 彼らは2人の所まで来ると、こちらを囲むように輪になった。
「ふん、増援か……まあいい、1人2人残して、後は皆“潰す”か」
 そう言って立ち上がった聖亜の瞳に恐怖の色はない。接近戦で負ける気はしないし、飛び道具も避ける自信がある。一斉に襲いかかってこられては少し面倒だが、どうやら相手は腰が引けているようだ。その心配はまずないだろう。
「さて、と……覚悟しな? 雲散霧消のカス共。おとなしくしていれば、恐らく痛みはそれほどな「うぉおおおおおっ!!」やれやれ、聞く耳持たず、か」
 台詞の途中にいきなり襲いかかってきた大柄の男に軽く肩を竦めると、男が振り下ろした鉄パイプの下を掻い潜り、その首めがけ金槌を振るおうとした、その瞬間

「ま、待って下せえ、兄貴っ!!」

 小屋の方から聞こえてきた鋭い声に、その動きはぴたりと止まった。

 小屋の方から歩いてきたのは、細身の男だった。頬がこけ、前歯が少し飛び出している。その鋭い眼は、周囲の男達を怒りを込めて眺めていた。
「お前ら、俺はこの肩を丁重にお招きしろと言ったはずだぁ!! 何襲いかかってやがんだぁ!! 逆にこっちが全滅するぞ!!」
 男は周りの連中の頬をばしばしと殴りつけながら聖亜の前に来ると、その場でばっと土下座した。
「この度の一件、申し訳ございませんっ!! 兄貴っ!!」
「いや、別にそんなに疲れていないからいいけど……それ以前に、お前一体誰だっけ?」
「へ? あ、あっしの事覚えてないんで?」
「いや、どっかで見た記憶はあるんだが……悪いな、人の顔覚えるの苦手なんだよ」
「そ、そんな……ひどいですぜ兄貴、偵察とか交渉によく使ってくださったじゃないですか」
 顔を上げた男は、両目を潤ませると、慌ててごしごしと擦った。
「偵察や交渉ねぇ……俺はそんなもの、数える程度しかしなかったから、使った奴は大体覚えてるけど、いやまてよ……その出っ歯、まさかお前“イタチ”か?」
「へ、へぇっ! 思い出してくださったんですね、兄貴!!」
 立ち上がり、がばっと抱きついてくる男の頭を苦笑して撫ぜてやると、聖亜はヒスイが困惑した表情でこちらを見ているのに気付いた。
「ん? ああ、こいつ俺がこっちにいた頃の手下でさ、“イタチ”っていうんだ。喧嘩はあまり強くないけど、小柄ですばしっこいし、人の機嫌を取るのが上手だから、偵察や交渉を任せていたんだけど……けどイタチ、お前俺が出て行った時一応幹部だったよな、何でこんな所でそんなみすぼらしい格好してるんだ?」
「い、いやその、それがで「へくちっ!!」……おや?」
 話の途中で聞こえてきた可愛らしいくしゃみに、イタチは聖亜の傍らにいる白髪の少女に目を向けた。
「あ……す、すまない」
「いえ、こちらこそ気が利かなくてすいません、お2人は川を渡ってこられたんですよね、それじゃずぶ濡れになっても仕方ねえ。それじゃ、立ち話もなんですから、あっしの家にお出で下せえ……おい、何ぼさっとしてやがる手前!! さっさとこの人達を俺の家に案内しねえかぁ!!」
「痛っ、は、はい旦那。ど、どうぞこちらでございます」
 彼の隣にいたことで不運にも殴られた男が、聖亜とヒスイを小屋の方に案内すると、イタチは残った手下に、気絶している男達の処理を命令していった。



「いや、あらためて、本当にお久しぶりでございます、兄貴」
「ああ、久しぶりだな、イタチ」
 みすぼらしい小屋が立ち並ぶ一角、ほかの場所よりはマシな小屋の中で、出された湯を使って体を拭いた聖亜とヒスイに、イタチは深々と頭を下げた。今2人は濡れた服を取り換え、ペンダントから取り出した予備の服に着替えている。濡れた服は……まあ匂いが結構きついためここに残しておくことにした。
「へえ、それで兄貴、こちらには一体何の御用で?」
「ん? ああ、それなんだが……その前にイタチ、さっきも尋ねたと思うが、お前何でこんな所にいる?」
「こんな所とはひどいですぜ兄貴、これでもあそこよりいい部分もありやす。例えば五万十川を流れるごみを拾う事も出来やす。実際ここにあるもののほとんどは、川から拾ってきたものを再利用してますからね、それに水場が近いことで毎日水浴びができるし、小さいながら畑も作っております。あそこと比べて、随分快適に暮らしていますぜ」
「俺は何でここにいるかと聞いたんだ、イタチ。別に今の暮らしぶりを聞いたわけじゃないんだがな」
「こ、こいつは失礼を……あっしは兄貴が出て行かれた後も、暫くあそこにいたんですがね、実は磯垣の野郎といざこざを起こしちまって、必死の思いでこちらに逃げてきたんでさ……ああ、それで磯垣の野郎ですが」
「話は聞いた、五万十川に浮かんだんだろう? まあこの腐った街に相応しい死に方だな。それで? 今あそこを仕切っているのは誰だ?」
「へ、へえ、それなんですが、その」
 そこで一旦言葉を濁すと、イタチはヒスイの方をちらりと見た。
「お前……ヒスイは大丈夫だぞ?」
「い、いや、そうじゃねえんで。ただここから先は、その、女に話すのはちょっと」
「……言いにくいなら出ていくが?」
「すまない、そうしてくれるか? 大丈夫な話になったら呼ぶから」
 そう言って聖亜がすまなさそうに頭を下げると、ヒスイは気にするなという風に頭を振り、そっと小屋の外に出て行った。
「すいやせん、兄貴の女に手間をかけさせちまって」
「……別に俺の女じゃない。それで? 今あそこ……ジ・エンドを仕切っているのは、一体どこの誰だ?」
「へえ、それなんですが……兄貴は三馬兄弟(さんばきょうだい)と呼ばれる3人をご存じで?」
「三馬兄弟? いや、知らないが……そいつらがジ・エンドを仕切っているのか?」
「実際には、三馬兄弟の長兄である統馬(とうま)って奴なんですがね。こいつは以前、磯垣の下にいた奴なんですが、いやもうただ酒は飲むは薬はばらまくは、素人女は強姦するわと最低な野郎で、それでついたあだ名が“最低”ってわけで」
「……いや、ちょっと待て、酒を飲むのは禁止されてはいないが、素人に手を出すのと、まして薬をばらまくのは鉄の結束で禁止されていたはずだろ? その何とか馬って奴はまさか仁さんがいた当時からそんなことをしていたのか?」
 自分でも知らず知らずのうちに怒りが湧いていたのだろう、硬くなった眉間をほぐしながら、聖亜はそれで、と促した。
「そ、それがですね、確かに仁団長のいた当時から、統馬って奴はそんな悪事を重ねていやした。けど、だれも奴に逆らえなかったんでさ。何しろあいつの近くには、いつも弟分である数馬(かずま)がいたんですから」
「……数馬? そいつも聞かないな。誰だ」
「へえ、身の丈が軽く3メートルを超す化物並みの野郎で。その体格に合わせ腕力とタフさも化物並み、一発で壁を粉砕し、こちらが何発殴ってもけろりとしてやがる。ま、その分おつむは空っぽですがね、噂では奴を腹に宿した母親が、化物に犯されてできたのがあいつらしいんで」
「なるほどな、それじゃ磯垣の手には負えないだろう。奴は半ば放置していたのか……なら磯垣を殺したのはその2人か?」
「と、いうのがもっぱらの噂です。ですが兄貴、分からねえことが二つ」
「……何だ?」
 ふと声を潜めたイタチに合わせて、聖亜は彼に顔を近づけた。
「へえ、一つは奴らが磯垣を殺したとして、なぜ五万十川に浮かばせたか、ということです。工場区に死体を投げこめば、跡形もなく処理してくれるんですがね。それから二つ目、磯垣の野郎は頭を撃たれて死んでます。怪力を誇る“最凶”数馬がいるのに、なぜ銃なんか使ったんでしょうか」
「……つまり、その2人は磯垣殺しには関与していないという事か? そういえば三馬兄弟と言っていたな、最低の統馬、最凶の数馬と来て……もう一人は誰だ?」
「ああいや、もう1人は大したことの無い野郎で、幻馬(げんま)っていうガキなんですがね? こいつは特徴らしいものがないのが特徴という、平凡を人間の形にしたような野郎で、一応他の2人に合わせて“最悪”なんて名乗っていますが、ほとんど表に出ることもなく、中に引っ込んでるだけの玉無しで……兄貴?」
 その時、イタチは目の前の少年の様子が微かに変化したことに気付いた。
「……幻、馬?」

 脳裏に小柄な少年の姿が浮かぶ。いつも自分の後を兄ちゃん、兄ちゃんと追いかけてきた少年だ。存在感が薄いため、わずらわしさを感じなかったから傍に置いていたが、ジ・エンドに入って数日後、気付いたらいなくなっていた。いてもいなくても同じような奴だったから今まで思い出しもしなかったが、本当は違う。


 自分は心のどこかで恐れていたのだ。自分がどんなに人を潰しても、血まみれの自分を見て顔色一つ変えず、にこにこと平凡に笑っていたあの少年を。


「……き、兄貴、一体どうしたんで?」
「…………あ? いや、なんでもない。いいかイタチ、平凡な奴っていうのが実は一番恐ろしいんだ。感情が表に出ている奴と比べて、自分の考えを内側に隠すから、何を狙っているのか分からないからな。よく覚えておけ」
「へ、へえ。肝に銘じやす……それで兄貴、これからいかがなさるおつもりで?」
「そうだな……もし俺の知っている誰かがジ・エンドを仕切ってるなら、今すぐ快楽区に行って脅せば済むと考えていたが、そうもいかなくなった。それでイタチ、その三馬兄弟とやらは一体どこにいる」
「ちょ、ちょいとお待ちを。え~と、統夜がいる建物の名前ならすぐにわかるんですが、他の二人が今どこにいるかまではちょっと」
「……“余り”なんてどうでもいい、とにかく統馬ってやつがいる建物の名前をさっさと答えろ。もしそれも忘れているんだったら」
 思い出させてやるが? そう呟いて右手を握りしめた少年に、イタチはとんでもねえと両手を振った。
「統馬のいる建物なら知っていやす。妖しい夢と書いて、妖夢館という、快楽区のほぼ中央に立つでっけえ屋敷で」
「快楽区の中央に立つでかい屋敷? イタチ……それはお前幼い夢と書いて幼夢館と呼ぶ“俺”の家だった所だぞ」
 今でも思い出す。ジ・エンドが快楽区全てを手中に収めた時、仁から報酬として受け取ったのがあの家だった。といってもそのころ自分はすでに復興街に住んでいたため、一週間の約半分しかいることができなかったが。
 それでも花が好きな娼婦に屋敷の管理を任せていたため、帰ってくるといつも様々な花が咲き乱れていた。もっとも、別の花も咲き乱れていたが。
「その統馬に会わなきゃならない理由が増えたな。あの野郎、人の家で一体何してやがんだ」
「ま、まあまあ兄貴、落ち着いて下せえ。しかし嬉しいですぜ。ようやく兄貴がこの街に帰ってこられた。“最狂”の兄貴がいれば、ジ・エンドを叩き潰し、兄貴を筆頭とした新しい自警団が誕生するのも時間の問題でさ」
 だが、興奮するイタチを見る聖亜の瞳は、どこまでも冷めていた。
「……イタチ、お前何馬鹿言ってるんだ? 俺は別にジ・エンドを叩き潰すために、ましてや復興街に君臨するために帰ってきたんじゃない。まあ、統馬って奴の出方次第でジ・エンドは潰すかもしれないが、それが終わったら、俺は向こうに帰るつもりだ」
「そ、そんなっ!! じゃあ俺達は一体どうすればいいんで!? 確かにここでの平凡な暮らしは悪くないですが、やっぱり今のジ・エンドのやり方は納得がいきやせん!!」
「……そう興奮するな、お・ち・つ・けっ!!」
「うぐっ!!」
 顎をがしっと掴まれ、ぎりぎりと押される。その重圧に、イタチは床にカエルのように這いつくばった。
「ひっ、すいやせん兄貴、調子に乗りすぎやした」
「……ま、勘弁してやる。それと人の話は最後まで聞け。俺は確かに向こうに帰るが、代わりに兵隊を連れて女王蜂がこちらに来る。頭部を失った怪物を潰すことぐらい、奴にとっては簡単だろう」
 そう言って軽く笑うと、聖亜は掴んでいたイタチの顎をそっと放した。
「す、すいやせん。そうですか、女王蜂の旦那が……けど兄貴、それじゃ快楽区の半分がオカマバーになっちまいやすぜ」
「今よりはマシだろ。さて……統馬のいるその妖夢館に、いつ乗り込むかだが……」
「あの兄貴、ここは夜にしやせんか? 昼間はジ・エンドの兵隊も屋敷の近くにいるだろうし、ですが夜なら……ねえ」
「……そうだな、そうさせてもらう」
 人を小馬鹿にするような笑みを浮かべるイタチに、呆れたようにため息を吐いてから、聖亜は床にゆっくりと寝そべった。
「よしっ!! そうと決まれば今日は宴会だ。っと、そうだ、その前に紹介したい、いえ、兄貴も知ってる奴がいるんですが」
「俺の知ってる奴? 誰だ?」
「へえ、お~い、入ってこいよ」
 イタチがパンパンっと2回手を叩くと、小屋の奥につけられている古いカーテンがそろそろと開けられ、中から小柄な一人の少女が出てきた。少女といっても自分より2,3歳ほど年上だろう。黒髪を肩の所で切りそろえ、目を少し伏せた彼女に、聖亜は確かに見覚えがあった。
「あ~、お前確かあれだよな、以前俺が助けた」
「……」
 無言のまま小さく頷いた彼女に、聖亜は微かに目を細めたが、やがて仕方ないという感じで頭を振った。
 なぜなら、自分がこの女に初めて会った時、彼女は男達に路地裏で強姦されようとしていたのだから。幸い未遂に終わったが、その時の恐怖からか、彼女は言葉を失ってしまったらしい。面倒くさくなった聖亜は、彼女を目の前の男に預けたのだ。
「それで? なんでこの男と一緒に……ああ、もういい、分かった」
 微かに頬を染めた彼女に、付き合いきれないという風に首を振ると、聖亜はいまだに照れているイタチの頭を軽く叩いた。
「いてっ!! ひどいっすよ兄貴」
「うるさい。ま、おめでとう。お前も今年で23か4だろ? そんなに年も離れていないし、お似合いだと思うぞ」
「へえ、ありがとうございやす。それでですね、その……こいつ腹に赤ん坊がいるんですが、兄貴にその子の名付け親になってもらえればなと思って」
「……おいおい、子供までいるのかよ。しかも俺に名付け親になれだって? イタチ、最狂の俺に頼む何ざ、いい度胸してるじゃねえか」
「とんでもねえ、兄貴がいいんです。いえ、兄貴じゃなきゃダメなんです。なんだかんだ言って、兄貴は身内には優しいですから……その、駄目でしょうか」
「……分かったよ、けど変な名前になっても恨むんじゃないぞ、俺はまだ16だ。親になんてなったことないんだから」
「そ、そうですか、ありがとうございます、ありがとうございます!!」
「……」
 イタチとその妻に頭を下げられ、聖亜は照れ隠しのように顔を背けた。
「さあ、それじゃあ宴会にしましょうや。といっても、ここにあるのは野菜ぐらいなものですがね。そうだ、子分達に兄貴の武勇伝を聞かせてもいいですか? 4強時代を終結させた、あの“400人潰し”とか、30人の女の処女を一夜で奪った“花壇散らし”とか」
「……勝手にしろ」
 400人潰しはともかく、花壇散らしの方はヒスイには聞かせられないな。そう思いながら宴会までの短い時間、聖亜は体を休めるため、ゆっくりと眠りについた。


西暦2015年(皇紀15年) 7月16日 21時45分



「うっぷ、食いすぎた」
「……調子に乗って食べすぎだ。そんな事で大丈夫なのか?」
 周囲に夜の帳が落ちた頃、聖亜はヒスイと共に快楽区の中を歩いていた。イタチとその子分達には女王蜂が来るまでで待つように言ってある。あの男は抜け目がないから、こちらに来るのはどんなに早くとも明日の朝だろう。これは別に乱戦になるのを警戒しての事ではない。“自分”の戦いに巻き込まれないようにするためだ。
「しかし、前も思ったが、ひどいありさまだな」
 地面にまき散らされた汚物を避けて歩くと、ヒスイは道の両端に折り重なるように倒れている男達に目をやった。どれも皆うつろな目つきをしており、とても正気とは思えない。
「……昔はこんなんじゃなかったけどな。少なくとも仁さんが生きていた頃はきちんと統率がとれていて、少しずつだけれど復興も進んでいたんだ。大体快楽区ができたのは女に仕事をやるためと、もう一つ、絶望しきった男達に生きる気力を与えるためだったらしい。それが今じゃ犯罪の巣窟となっている。皮肉なものだな」
「そうか……それで? 一体どうやって忍び込むつもりだ」
 宴会が終わった後、ヒスイにはこれから行く所を説明しておいた。快楽区に行くということであまりいい顔はしなかったが、説得を続けるとしぶしぶといった顔で了承してくれた。
「ま、あそこは元々俺の家だからな、改築されていなければ大体の構造は頭に叩き込んでいる。別に正面から乗り込んで行ってもいいけど、それじゃ統馬って奴が逃げる可能性があるからな……ま、何とかなるだろうさ」
 蹲っている男を跨いで答えると、聖亜は前方に目を向けた。


 彼の視線の先には、微かに懐かしい“我が家”が見えてきた。



 その建物は、昭和中期にある華族の別荘として造られた。
 4階建てのレンガ造りの建物で、戦前はここで毎週のように舞踏会が開かれていたらしい。その後その華族が没落したため、暫く市役所として使用されていたが、建物の老朽化が進んだことと都市の東側に行政機関が移ったため、災厄が起こる前は博物館として利用されていた。その災厄でも大きな被害は受けなかったが、内部に展示してあった装飾品などは災厄直後の混乱の際に略奪され、廃墟になっていた所を聖亜が譲り受けたのだ。
「ま、そんなわけだからいろいろと隠し通路とかあるんだよ。で、ここもその一つって訳さ」
 元は脱出用に作られた通路なのだろう、両端の壁にある蒸気ランプが周囲をぼんやりと照らす地下通路を、聖亜とヒスイはゆっくりと進んでいった。
 
 屋敷の近くまで来たのはよかったが、門の所に数人の男達がいるのを確認した聖亜は強行突破を断念した。彼らぐらいなら瞬く間に潰せるだろうが、雑魚を相手にしてもつまらない。彼の獲物はこの屋敷の主人である統馬だけだった。
 そのため、その近くにある入り口から地下へと潜り、こうして屋敷に向かっているのだが、聖亜はこの時点で統馬を“小物”と判断した。何せ調べればすぐわかるところにあるこの地下通路に、人の気配がまったくしないためだ。恐らくこの地下通路の存在すら知らないのだろう。
「それで? この地下通路はどこにつながってるんだ?」
「ん~、俺がいた時と変わっていなければ食糧庫だろう。で、屋敷の中に入ってからの手順なんだけど……まあ人数はそれなりにいるだろうから、ちょっと家の一部を破壊してから、向かってくる奴らを適当に相手しつつ統馬を探すってことでいいか?」
「構わない……っと」
 前方に壁がいきなり現れたため、ヒスイは思わず立ち止まった。その少女の横で聖亜は薄暗い壁に手をやると、ある地点で壁を押す。と、手の動きに合わせて壁の一部が奥に引っ込んだ。同時に上の方からがらがらと音を立てて梯子が下りてくる。
「じゃ、行こうぜヒスイ。お前に見せてやるよ、最狂の戦い方って奴をさ」



 その日、1階の警備をしていたジ・エンドの若い“兵隊”は、退屈そうに欠伸をした。
「おいおい、いくら暇だからってそんなにでかい欠伸してんじゃねえよ」
「だってよ、他の奴らは今頃女と楽しくやってるんだぜ? いくら賭け事に負けたって言っても、来るはずの無い敵に対してする警備なんて、やる意味ないじゃねえか」
「確かにな。この復興街で俺達ジ・エンドに喧嘩を売る馬鹿な野郎はいねえ。しかも今夜の“商談”がまとまれば、旧市街に打って出ることもできるだろう。ま、どんなにクソの街でも、その頂点に立っちまえば住みやすいもんだ。でよ、退屈しのぎにやるか、これ?」
「お、良い物持ってるじゃねえか。いくら夏だからって夜は寒いし、きちんと暖を取らにゃならんなぁ」
 賭け事に負けた相方が取り出した酒瓶を見て、兵隊はにやりと笑った。そういう事さと言いながらまず相方が酒瓶をぐいっとラッパ飲みし、催促するように手を出した兵隊に手渡してやる。濃厚な酒の香りにごくりとつばを飲み込み、慌てて口に運んだ時だった。


 ドゴォン!! と大きな音を立てて、後ろの壁が爆発したと思うと、黒こげになった2人は目の前の壁に叩きつけられた。焼けただれた棒のような手から、酒瓶がころころと転がっていく。
「ったく、警備もしないで酒盛りとはな。いい度胸してるぜ、ったく」
 その酒瓶を足で踏み割ると、聖亜は被っていたぼろ布をばさっと放り捨てた。
「ごほっ、ごほ。しかしすごい爆発だったな。まさか小麦で爆発が起きるなんて、思いもしなかった」
「ま、粉塵爆発って奴さ。立てるか?」
「ああ。けふ……けふ、ちょっと爆発が強すぎたようだな」
 咳き込みながら頷くと、ヒスイは伸ばされた手をぎゅっと握って立ち上がった。
「さてと、お約束なら親玉は最上階にいると思うけど、たぶんこの爆発でこっちが来たことは知ってると思うから、ここからは手早くいくぞ。まずは二階に上がる。いいな」
 自分の言葉にヒスイが頷くのを確認すると、聖亜は薄く笑いながら―右に軽く手を振った。
「ぐあっ!!」
「ぐ……」
 騒ぎを聞きつけ駆け付けた兵隊のうち、2人が右目と喉に釘を受けのけ反る。他の兵隊が唖然としながらも慌てて銃を構えるより早く、聖亜は彼らの懐に飛び込むと、その首めがけ金槌を叩きつけた。
「こ、こいつっ!!」
 それでさらに3人が血を吐いて倒れる。最後の一人になった兵隊は銃を撃つのではなく逆さにしてしゃがみ込んだ侵入者に振り下ろしたが、それを右足で難なく受け止めると、聖亜は小指を引き金にかけ、無造作に撃った。
「がっ!!」
 腹部を撃たれ、壁に叩きつけられた兵隊がずるずると沈むのを見ることなく、聖亜は新たに駆けつけた兵隊の群れに足に乗っかっていた銃を蹴り飛ばした。
それは狭い通路を塞いでいた兵の一人にぶち当たると、どこかイカレタのか、周囲に銃弾をまき散らす。それを浴びてさらに4人の兵隊がハチの巣になったところで、聖亜は横にいるヒスイをちらりと見た。彼女はちょうど斧を振り回してくる大男の首筋に蹴りを叩きこんでおり、彼女の周りには兵がさらに数人倒れている。
「結構やるじゃないか」
「見くびるな。しかしこんな“素人”に武器を持たせるなんて、指揮官は一体何を考えているんだ? 狭い通路で戦うから、むやみに銃を撃つこともできない」
「さあな、小物の考えなんてわかるかよ。それよりさっさと2階に上がるぞ。ここは4階まであるんだ。さっさとしないと、統馬を逃がすどころか朝になってしまう」
「そうだな……ふっ」
 突き出された大型のナイフを避け、相手の顔に肘を叩きこむと、ヒスイは先を行く聖亜同様、奥に向かって走り出した。


「な、何やってやがるお前ら!! 相手は高々2人だぞ。しかも一人は小さいガキでもう一人は女じゃねえか、何で手こずるんだよ!!」
「し、知りませんよそんな「ぐぁっ!!」ひっ!!」
 すぐ前から聞こえてきた悲鳴に、ジ・エンドに入ったばかりの若い兵隊は頭を抱えてしゃがみ込んだ。彼は元々雑踏区にいるチンピラで、食い扶持を稼ぐために先日ジ・エンドに入ったばかりだった。ここに入れば食い物と女が目当てで入ったのに、すぐこんな化物の相手をするなど聞いていない。

「ぐあっ!!」

「ぶぐっ!!」

「ひいい、ひいっ!!」

 それでも班長に睨まれ、がたがたと震えながらバリケードの上から様子をうかがう。だが、すぐに顔をひっこめ、そして見たことを後悔した。

 彼が見たのは、少年と女ではなかった。そこにいたのは自分達の数倍、いや十倍以上の人間を叩き潰し、彼らの血に塗れた赤い化物だった。
「か、勝てるわけねえ、あんな奴らに俺達が勝てるわけねえ!!」
「ま、待ちやがれ!!」
 蹲り、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら赤い2匹の化物から遠ざかろうとする彼のズボンを、班長は必死に押さえつけた。
「は、放せ、放してくれぇ。俺はもうこんな所にいたくねえ!! 奴らなんて見たくねえよ!!」
「うるせえ!! 泣いてる暇があるなら、さっさとこれを奴らに転がしやがれ!!」
「ひ……ぐ」
 がたがたと震えながら、それでも必死に手渡された手榴弾を受け取る。投げるタイプではなく、棒のついた転がすタイプだ。震える手でピンを何とか引き抜くと、バリケードの隙間からそっと転がす。当たり前だが、それは彼らに向かってころころと転がっていった。
「やった!! これであの化け物共も終わ……へ?」
 自分の立てた戦果に喜び勇んで立ち上がる。だがその時、彼はこちらに向かって飛んでくるそれを見た。それは彼の足元に落ち、そして、


 ガァアアアンと巨大な爆風を、その場に生んだ。


「やれやれ、やっと道ができたか」
バリケードの破片と赤黒い肉片が散乱する中を、聖亜は別段慌てることなく前に進んでいった。足元でブヨブヨとした感触がするが、欠伸を噛み殺しながら歩く彼にはまったく気にした様子がない。それはその後に続く少女も同様だった。
「で、どうだヒスイ、エイジャと戦うお前から見て、俺の戦い方は」
「そうだな……一言で表せば危なげのない戦い方、だな。戦いが始まってから今まで、聖亜、お前は興奮も恐怖もせず、ただ落ち着いている。さっきもそうだ」
 彼女の言うさっきとは、こちらに向かって手榴弾が転がってきた時のことだ。普通の人間なら慌てて何の対処もできずにいるところを、だがこの男はそれを右足で受け止め、そのまま相手に向かって蹴り飛ばしたのだ。
「ま、ああいうのは焦ったら負けだからな。こいつらとは潜り抜けてきた修羅場が違うんだよ」
 そう言って口にくわえていた釘をぺっと手の中に吐きだすと、聖亜は地面に転がっている黒焦げの首を、ぎりぎりと踏み砕いた。
『……潜り抜けてきた修羅場が違うと言っていたが、聖亜よ、人間誰しも戦闘になれば血に酔い興奮するものだぞ? だがそなたは全くそのようなことがない。なぜだ?』
「さてね……ま、俺が人間じゃなくて、結界喰らいだからじゃないのか?」
『たわけ、そんなわけがあるか。結界喰らいといえど、きちんと感情は持つ。だが聖亜よ、そなたは真逆だ。戦いが長引けば長引くほど、そなたの中から感情の波は消える。そなた一体どんな訓練をしてきたのだ』
「どんなって……最初は丁寧に教えてくれる奴なんていなかったから、ほとんど実戦だな。最初は勝てそうな奴としかやらなかったし、手強い奴は寝込みを襲ってぼこぼこにしたり。けどさすがにやりすぎたのか、二十人くらいに囲まれたことがあったな」

 その時のことを、聖亜は今でも忘れない。殴られ、蹴られ、いよいよ殺されそうになった時、少年はその男に助けられたのだ。

『よう、ガキ。酒持ってないか?』

 なんて笑いながら言った、その猿のような男に

「……猿のような男? マスターじゃなくてか?」
「俺が今の師匠とあったのは、ジ・エンドが復興街の頂点に上り詰めて、大きな闘争がなくなってからだよ」
 物陰から襲いかかってきた男の顎に金槌を叩きこむと、彼は退屈そうに欠伸をした。
「で、酒と引き換えに武術を習ったな。まあ、ほとんど実戦形態だったけど。それでその猿に習っているうち、血を見てもそれほど興奮しなくなった。殴られてもそれを客観的に見つめられるようになったし……その後半年ぐらい経ってから師匠が飽きたとかなんとか言って旅だってから、喧嘩がするのが馬鹿らしくなって、今に至るというわけさ」
「……何というか、随分破天荒な師匠だな。なあキュウ……キュウ?」
『……』
 ヒスイの声に、ペンダントの向こうにいる黒猫は反応しなかった。そこにいる気配は伝わってくる。だが何か考え事をしているらしい。
『……む? ああ、すまぬ。その猿のような男だが、我の知り合いに思えたのだ。いや、まさかな。“あの男”が酒と引き換えに武術を教えることなどありえぬ。忘れてくれ』
「分かった、忘れる。ところでそろそろ4階に続く階段が見えてくるころ「うはははははっ!!」っと、何だ?」
 その時、角を曲がろうとした聖亜は、突然向こうから聞こえてきた高笑いに、上げていた足をゆっくりと下ろした。



「ぬははははっ!! 来るなら来てみるがいい侵入者め。この俺の百を超える防御術と、この3丁のガトリングガンで、貴様をひき肉に変えてくれるわ!!」
 そう言うと、ベレー帽をかぶった大柄の男は声高々に笑った。
 その言葉通り、彼の前には鋼鉄製のバリケードが敷かれ、その隙間からは3丁のガトリングガンが鈍く光っている。しかも4階の兵隊が皆ここに集結しており、それぞれ銃や手製の弓矢を油断なく前方に向けていた。
 確かに鉄壁の布陣ではあるが、先ほど同じようにバリケードを張った班が全滅しているためか、彼らの顔色は悪い。
「あ、あの隊長、本当に大丈夫なのでしょうか? ここは一旦団長を連れて屋敷を脱出した方が「この、馬鹿者がぁあああっ!!」ふべっ」
 未だに笑っている屋敷の警備隊長に、部下の一人が恐る恐る声をかけ、そしていきなり指揮棒で殴られた。
「お前は俺達の職務を忘れたのか!! 俺達の職務はただ一つ、この屋敷をあらゆる侵入者から護ることだ!! 現に団長は今も逃げずに4階で俺達の活躍を見ていらっしゃるではないか!! なのにお前という男は、この恩知らずが!! それになんだその隊長というのは!! いつも言ってるだろう、俺のことは教官と呼べ、教官と!!」
 バシッ、バシッと鈍い音を立てて指揮棒が振るわれる。顔がジャガイモになるまで殴られた部下は、邪魔にならないところに捨て置かれたが、それは彼にとって、むしろ幸運だったろう。
「た……教官!! 来ました!!」
「何ぃ!! よし、相手が完全に姿を現すまで引き付けろ!!」
 隊長……いや教官の言葉に、彼の部下達はごくりと唾をのんで目の前の人影を凝視した。
 そして、その人影が完全に彼らの視界に入った時、
「よし、今だ……撃てぇ!!」



 ガガガガガガがガガガッ



 ものすごい音を立てて、三丁のガトリングガンを中心に、彼らの持つ銃が一斉に火を噴いた。
 放たれた銃弾は現れた人影に一直線に飛んでゆき、それをずたずたに引き裂いていく。やがてそれがずたずたのミンチになった時、ようやく銃声は止まった。
「う……うはっ、うははははっ!! 見たか侵入者!! これが貴様の哀れな末路だ!!」
甲高い銃声に思わず耳を塞いでいた教官は、もはや人としての原形をとどめていないそれに向け、再び声高々に笑った。だが、
「あ、あの教官? あいつ明らかに報告にあった侵入者と姿形が違うんですが……」
「ふん、そんなはずないだろう!! 大体お前ら、その侵入者というのを実際に見たの「ほ、報告いたします!!」なんだぁ!!」
 その時、一人の兵隊が前方から小走りに走ってきた。
「は、はい!! 例の侵入者ですが、そろそろ4階に到達するという情報がありました!!」
「何だとぉ!? そんなわけあるか、侵入者ならそこでずたずたにしてやったわ!! 大体4階に続く階段は此処しかないのに、一体どこにいるというのだ!!」
「……へえ? やっぱり階段は此処しかなかったか。新しく作ったりとしかしてないのな、 お前らのボスってほんと馬鹿じゃないのか?」
「何ぃ? 貴様どこの班の奴だ!! 姓名と所属部隊を言え!!」
 その時になって、教官はようやくその兵隊が、小柄で髪の長いまるで女のような男であることに気付いた。
「所属部隊? そんなのはないよ。まああえて言うなら……水先案内人第一班って所かな? なあおい」
 貴様!! そう叫ぼうとした教官は、だがその言葉が出てこなかった。大きく開けた口に金槌が入れられ、そのまま地面に引き倒される。口が切れ、その痛みに絶叫を上げて転げまわっている間に、兵隊の服を着た聖亜は突然のことに反応しきれていない周りの連中を、わずか一呼吸で地に沈めた。
「く、くそっ!!」
 それでも1人が何とか暴力の嵐から難を逃れ、一兆のガトリングガンに飛びつく。そしてそれをこちらに背を向ける侵入者に向けた途端、
「お前、私を忘れていないか?」
「へ? ぐあっ!!」
 氷のような声を最後に、彼の意識は闇へと消えて行った。


「ぐっ、ぐぐっ、お、おのれ貴様、何者だ!!」


 口を押えながら、それでも教官はなんとか起きあがり、侵入者である少年に懐から取り出したごてごてとした銃を向けた。
「ぬははははっ!! これは商談相手から友好の印に譲られたマカロフPMを、さらに改良し殺傷能力並びに速射性を高めた至高の一品!! これを喰らえば貴様の頭はザクロのように吹き飛ぶこと間違いなし!! さあ、いまこそこの俺に懺悔しながら死んでゆくがい「敵を前に台詞が長いんだよ、このボケ」ぐがっ!!」
 と、今度は頭の横を思い切り蹴られた。衝撃でふらつく彼の足をさっと払い、再び床に無様に転がった彼の腹部を起き上がれないように踏みつけると、聖亜は陽気で残虐な笑みを男に向けた。
「ば、馬鹿な……この俺がこんな所で死ぬというのか、かつて最狂と互角に渡り合い、敗退させたこの俺が!!」
「……あ? 俺が敗退したって? そりゃ一体いつの事だ?」
 そう呟いて、聖亜は彼の顔を覗き込んだ。むろん相手の目の中に自分の顔がくっきりと浮かぶ。そのうち、男の顔が目に見えて青くなった。
「なっ!! き、貴様その顔……まさ、まさかさ、さいきょへぶっ!!」
「正解だよ、ああ……その情けない顔見て思い出した。お前、俺がジ・エンドに反抗した組織を壊滅させたとき、部下がみんなやられるのを見て、ションベン漏らして土下座してきた間抜けなボスだったな。もう二度と楯突きませんって懇願する姿が面白かったから見逃してやったが……どうやらその事、すっかり忘れているようだな」
「ひっ、ひいいい!!」
 喚く男の額に、ごとりと硬い物が押し当てられる。それが先ほどまで自分が持っていた銃の銃口で、押しつけているのが自分にまたがっている少年だと認識した時、じわりと男の下半身が濡れた。
「おいおい、また漏らしたのかよ。けどあの時お前は二度と楯突かないと俺に言ったんだ。その言葉通り二度目はない。ああ、それから地獄に行く前に二つほど指摘しておいてやる」
 男の額に銃口を強く押し当てながら、聖亜は心底楽しそうに笑っていた。
「まず一つ目、銃の種類を叫ぶな、馬鹿が。マカロフといったな、ロシア製の銃か……となると商談相手というのはロシアン・マフィアだな? しかもこんなクソみたいな街に来るなら、恐らく勢力争いで負けている方のマフィアだろう。ま、俺に楯突いた以上、いずれ必ずぶっ潰すけどな。そしてもう一つ」
 そう言うと、聖亜は男に押し当てていた銃を窓に向けて放り投げた。銃は曲線を描いて窓に向かい、パリンと音を立てて外に消えて行った。
 助かった、一瞬そう思った男の額に、再び硬い物が押し付けられる。
「武器なんてものは、必ずしも銃やナイフである必要はないんだ。相手に苦痛を与えて、負傷させて、死に追いやることができればそれはもう立派な武器だ。例えば俺が今持っているこの金槌もな。勉強になったろ? さて、じゃあ今習った事を胸に秘め、さっさと地獄の閻魔様にでも会いに行け。じゃあな」

 ガゴッ!!

 振り上げられた金槌が、まったく躊躇されずに振り下ろされる。それを額に受けた男は、ひび割れた床にめり込んだ。

「……っち」
 だが、起き上がった聖亜の顔は不機嫌そうに歪んでいた。床に倒れている男の上半身は完全にめり込んでいるが、突き出ている下半身はぴくぴくと痙攣している。
「生きているのか……大した頑丈さだな」
「牛乳の飲みすぎで骨が丈夫なんだろ。こういう“非常識”な奴が一番手に負えない。ま、この騒動が収まるまでは寝てるからほっとけ」
 ぶつくさと呟き、床から突き出した足を思い切り蹴ると、聖亜は薄暗い階段の先を仰ぎ見た。
「さてと、中ボスと雑魚キャラは倒した。後はラスボスといこうか。それでヒスイ、ここまでのご感想は?」
「……死者は54人、負傷者は60人。100人以上を叩き潰すのにかかった時間は20分。私でもこれぐらいはできるが、ここまでの感想を一つ……聖亜、お前は大した狂人だ」
「当たり前だろ? 何たって俺の異名は“最狂”なんだからな」
 ヒスイの言葉にからからと笑うと、聖亜は一足先に階段へと足を踏み入れた。


 4階はひっそりと静まっていた。彼の記憶が正しければ4階には一つの部屋しかなく、階段とその部屋の間には、ただ長く薄暗い廊下が伸びているだけだった。

 だが自分の部屋があったこの階に足を踏み入れた時、聖亜が感じたのは懐かしさではなく強い嫌悪だった。彼の好きだった何の飾りもなかった廊下には、部屋まで伸びる赤い絨毯を初めとして、壁には蒸気で光るシャンデリアが幾つも光り輝いており、所々にはなんと大理石の彫像まであった。
「……随分と趣味が悪いな、この屋敷の主人は」
「言っておくが俺じゃないからな。俺はひっそりと静かな方が好きなんだ」
「確かに……」
 軽く笑うと、ヒスイは彼の部屋の状態を思い出した。確かに散らかっていたが、それは年頃の少年の部屋ならどこでもそうだし、彼の部屋にあったのは見栄えより実用性を考慮したものばかりだった。
「で、俺達は向こうの部屋に行くわけだが……やっぱりそう簡単に通してくれるわけないよな」
「ふむ、そりゃそうじゃ」
 少年の呟きに、部屋の前で茶を飲んでいた男が柔和な笑みを浮かべて立ち上がった。痩躯と見事に白い総髪をした、70か80ぐらいの、ここにいることが似合わないほど、どこにでもいるただの老人である。
 だがその老人を見た途端、聖亜はこの屋敷に来て初めて構えらしきものを取った。金槌と釘が入った重い上着を脱ぐと、腰を低くし、両手を顔の前に持ってくる。
「……ほう、中々整った姿勢じゃな。しかし残念じゃのう、生きておればさぞ名のある武人になれたろうに、ここで死なねばならぬとは」
 不意に、老人がふっと消える。その瞬間、聖亜は右側に思い切り足を突き出した。


 ガキッ!!


「くっ!!」
「ふむ……」


 半瞬後、現れた老人の腕と聖亜の突き出した足とが激突した。老人は奇襲が失敗した事に落胆どころかむしろ楽しげな表情を見せると、くるくると空中を回転しながら先ほどの場所に戻り、のんびりと茶を啜った。だが、聖亜の方はそれほど楽観的にはなれない。奇襲はなんとか防いだものの、足に来た衝撃でがくりと床に膝をつく。
「……達人だな」
「ああ、それも一瞬でも気を抜けば簡単に即死させてくれる親切なタイプのな……足で迎撃しなかったら、確実に首を飛ばされていた。けど」
「……それでもお前は笑えるか、やはり狂人だな、お前は」
「ああ、さっきも言ったが俺は狂人も狂人、“最狂”だからな。さてと、あのご老人を失望させないために、今度はこちらから仕掛ける……かっ!!」
 最後の言葉と同時に、聖亜はいきなり前に駈け出した。本来ならば決してとることの無い愚行な策だが、老人は楽しげに彼が向かってくるのを待った。
「さて爺さん、今度は俺の攻撃を喰らってみるか?」
 そう言って思い切り振り上げた彼の拳が老人の頭に振り下ろされる。だが老人は茶をのんびりと飲み干すと、片手で軽くそれをはらった。
「ふむ、中々に鋭い一撃じゃが、まだまだだの。素質は申し分ないが経験が足りぬ。それではわしには届かぬ……なっ!!」
 少年の手をはらった老人の手が、手刀となって彼の首筋を狙う。しかし、
「よっと」
「む? ……ぐっ」
 今度は老人が軽く目を見張る番だった。即死させるための一撃が、少年に軽く避けられたのだ。
 その直後、一瞬無防備になった老人の頭を、先ほど痛んだ足が襲った。老人はさすがに直撃は避けたが、それでも耳の後ろを軽く掠めた。
「はははっ!! 爺さん、あんたの狙いは正確だ。確実に急所を狙って即死させようとしてくる。けどな、正確だからこそ逆に避けやすいんだよ」
「……やれやれ、これだから戦いはやめられんの。この年になって若造から教えられる羽目になるとは!!」
 彼らの会話は、拳と蹴りの応酬の中で行われた。聖亜の突き出した右手が老人の頬を掠めると、老人の放った蹴りが少年のズボンを皮一枚ごと持って行った。
「つうかさ、何でこれほどの実力を持ってるくせに、何で統……何とかの手下なんてやってるんだ?」
「お主……自分が乗り込んだ屋敷の主人の名前を忘れたのか、まあ良い。わしは物心ついてから今までずっと戦いの中で生きてきた。まあそれでも人並みに結婚をして、娘もできたがの。じゃが家族ができても、わしは戦う方を選んだ。それこそ妻が死に、娘が死に、孫が結婚しても気にせず、ただ獣のように戦う相手を求め続けた」
「ふ~ん、それで?」
 少年のこめかみを掠めた老人の一撃が、彼の後ろにあった大理石の彫像を粉々にする。その彫像の破片の中で一番大きなものを、聖亜は右足を使って老人に蹴り飛ばした。
「しかし生物である以上、老人に近づくほど体力は衰える。ふと気が付いたとき、わしの胸にあったのは家に帰りたいという気持ちじゃった。じゃがの、日本に帰ってきたとき、わしの住んでいる街は災厄によって滅び、孫は娼婦に身を落としていた」
「なるほど……ああ分かった、その孫から激しく罵られたんだろ?」
 飛んできた大理石を粉々にし、ついでに少年の首を狙って放たれた老人の蹴りと、同じように老人の首を狙って放った聖亜の蹴りが空中でがきっと合わさる。
「……罵られた方がどんなに楽だったか。娼婦となった孫を何とか探し当てた時、彼女はぼろ小屋の中で死病に喘いでおった。恐らくわしが誰かも分からなかったであろう、じゃが死の寸前、わしは孫から託された……彼女の娘をな」
 ため息を吐いて力を抜いた老人を弾き飛ばすと、聖亜は膝をついた老人の首めがけ踵を落とした。それを後ろに跳躍して避けると、老人はふぅっと深く息を吸った。
「じゃからひ孫を守るためなら、わしは修羅にでもなろう……例え気にくわぬ男の下に付いたとしてもな!!」
 その瞬間、老人を中心にごうっと気が竜巻のようにあふれ出した。
「へぇ、それがあんたの本気か、爺さん」
「……うむ、わしが深山の奥地で編み出した、人にして獣の肉体を持つ術、名付けて“獣人変化”すまぬの少年、もはや楽に死なせてやる事は出来ぬ。この術は……ぐっ!! 理性を……失う、ガラ、ガッ!! ガァアアアアアア!!」
 うめき声をあげた老人の体が、徐々に膨れ上がっていく。やがて老人の頭が天井すれすれまで膨れ上がり、ようやく膨張は収まった。


 そこにいるのは、もはや老人でも、それ以前に人間でもなかった。身の丈は3倍以上、体を覆う肉の壁は10倍以上に膨れ上がっている。まさに獣というにふさわしい。
 獣は目の前の少年を睨み付けると、グルルっと一鳴きし、旋風のように襲い掛かった。
「ち、こういうでか物はスピードが落ちているはずなのにな……くっ!!」
 襲いかかってくる肉の壁を紙一重で避けると、聖亜は無防備になった背中を思いっきり蹴りつけた。だがその獣は何の痛痒も感じていないらしく平然としている。それどころか逆に攻撃した聖亜がふらふらと膝をつく。
「……何だこれ、鉄を蹴ったみたいだ」
 だが休んでいる暇はない。こちらを振り向いた獣が再び突進してくる。それはダンプカーが音速で激突してくるに等しい。よく劇を受ければ少年の体は簡単に粉砕されるだろう。運良く左右に避けられたとしても、突進の際発生する衝撃波で動きを止められ、そのまま叩き潰される。
「……この方法しかないか」
 一度大きく深呼吸して立ち上がると、聖亜は向かってくる獣との距離を測り、いきなり“上”に飛んだ。
「……グ?」
 標的を見失ったことで、獣は突進をやめ、周囲を見渡す。だがどこにも彼の姿はなかった。続けて上を見ようとした時、目の前にいきなり手が突き出される。
「いくら獣でも、さすがに目をやられりゃ痛いだろ!!」
「ガアッ!!」
 聖亜の突き出した拳は寸分たがわず獣の右目に当たったが、拳に伝わる硬い手ごたえに強く舌打ちした。
「まさかまぶたで受け止められる日が来るなんてな……うおっ」
 多少の痛みは与えられたのか、右手で顔を抑えながら、獣は左手で彼を掴むとぎりぎりと顔から引き離そうとする。
「くそ、そっちがその気なら!!」
 こちらを掴む左手に、聖亜は自分から抱きつくと、そのまま体全体で腕をねじった。打撃は効かなかったが、こちらは多少効果があるようだ。獣の顔が苦痛に歪む。それを見て、聖亜が一度離れようとした時、
「うあっ!!」
 彼の体は、ねじられた腕で天井まで持ち上げられ、そのまま床に勢いよく叩きつけられた。


ドガァン!!


「聖亜!!」

『ふむ、死んだかの』


 強烈な音と共に床に叩きつけられた聖亜を見て、ヒスイはさすがに大声を出した。だが彼女の相棒であるキュウは、ペンダントの中で皮肉気に呟いただけだった。
「不吉なことを言うなキュウ、お前が慌てていないということは、少なくとも死んでいないのだろう?」

『当然。奴は結界喰らいぞ? あれぐらいで死ぬわけがあるまい』

 黒猫の言う通りだった。痙攣していた聖亜は次の瞬間がばりと起き上がると、彼女達の方まで後退してきた。床に叩きつけられた時額を切ったのか、顔全体が真っ赤に染まっている。
「どうやら苦戦しているようだな……交代するか?」
「…………馬鹿言ってるんじゃない、ようやく楽しめる相手に出会ったんだ。余計な手出しをするんじゃねえよ」

『ふむ、そうは言うがな、聖亜よ。奴は身体能力・技量・経験、その全てがそなたの倍以上だ。しかもご丁寧にあの肉の壁に硬気法まで使用しておる。このままではそなたの攻撃は奴には届かんぞ』

「……気法? なるほど、気法ねぇ」

 シャツを脱いでこびり付いた血をぬぐうと、傷口をぎゅっと縛る。獣はどうやらこちらが仕掛けるまで待つつもりのようだ。当然だろう、こちらの攻撃はほとんど効かないのだから。しかし、
「気法を打ち消せば、少なくとも攻撃は通る、か」

『うむ、だが聖亜、そなた一体どうやって気法を破るつもりだ?』

「……ま、見てな。おら獣!! 覚悟しやがれっ!!」
「え? ……ちょっ、何やってる、馬鹿っ!!」
 獣に向かって正面から突っ込んでいった少年を見て、一瞬呆然としたヒスイは慌てて走り出そうとし、その場で固まった。
 獣に正面から突っ込んでいった聖亜は、獣の伸ばした手の下を掻い潜り、さらに身を滑らせて足の間を通り抜けると、獣の後ろにあった“それ”を手に取った。
「おいデカ物、こっちだ!!」
「グル?」
 聖亜の挑発めいた啖呵にゆっくりと振り返った獣の目に、彼が投げたそれ勢いよく飛んでくる。顔を庇おうと手を上げるが、それより一瞬早く、熱湯の入った陶器製のポットは、獣の顔にぶち当たった。
「グガッ!? ガ、ガァアアア!!」
 割れたポットから流れる熱湯が、獣の顔に降りかかり、辺りに蒸気が立ち上る。その熱湯と湯気で、獣の呼吸が一瞬止まった。
「はぁあああああっ!!」
 むろんその一瞬を見逃す聖亜ではない。苦し紛れに振り回された獣の剛腕の下を掻い潜ると、相手の鳩尾に高速で何発もの拳を叩きこむ。
「グォッ!!」
 その猛攻に、獣が最初で最後の膝をついた。下がってきた顎に三度の蹴りを放つと、聖亜は獣の肩に足をかけ、空中に飛びあがり、落下しながら首めがけて踵を思い切り突き入れた。
「グ……あ」
 ふらふらと揺れる顔の中で、獣の目に理性の光が宿った。どうやら変身が解けるらしい。床にドカッと倒れたその体が、みるみる縮んでいく。だが、追撃を仕掛けられる余裕は少年にはなかった。血を流しすぎたためか、朦朧とする意識の中、壁に体を預けてなんとか倒れるのを防ぐ。
「聖亜……無事か?」
「…………ああ、何とかな」
 そうは言うものの、駆け寄ってきたヒスイが、ペンダントから取り出した布で傷口から新たに流れる血をふき取っていくと、青ざめた彼の顔があらわになる。
「聖亜、少し休んだらどうだ? 後は私がやっておくから」
「いや、お前に俺の戦い方を見せるって言ったんだ。最後まで俺がやり通す。余計なことはするな」
「するなって……こんなことを続けていれば、お前絶対いつか死ぬぞ。何でそう意固地になる……くっ」
 その時、ヒスイはものすごい力で壁に押し付けられた。覗き込んでくる漆黒の瞳に、怒りの炎が点っているのが見える。
「俺はヒスイ、お前に戦いをなんて、本当はもうどうでもいいんだ。ただ俺は許せないんだよ。人の家をこんな滅茶苦茶にしてくれた奴がな。それから、戦っている以上死ぬような目にあったのは一度や二度じゃないんだ。こんな傷でガタガタ騒ぐな、いいな」
「……」
 憮然としながら引き下がったヒスイを一瞥すると、老人との戦いが始まる前に脱いだ上着を拾い、肌の上から直接纏う。そして、聖亜は奥の部屋に向かって重い足取りで歩き出した。だが、今度は左足をがしっと掴まれる。
「……何だ爺さん」
「い、行かせるわけにはいかぬ。お主が行けば、ひ孫に危害が及ぶ……そ、それだけは断じて出来「あのな爺さん、あんたのひ孫なんざ知ったことじゃないんだよ」ぐっ」
 左足を必死に抑えている手を、右足で容赦なく踏み潰す。自由になった足で老人の体を軽く蹴ると、聖亜は不敵に笑って見せた。
「爺さん、あんたの大事なひ孫がどうなろうと、俺の知ったことか。例え男達に犯されようが、その後殺されて穴に埋められようが、それは俺の責任でもなんでもない。あんたの弱さが招いたことだ。分かったらさっさと寝てな!!」
「ぐがっ!! か……は」
 老人の体を踏む足に体重をかけると、彼は一度びくりと痙攣し、そのまま気を失った。そのまま歩き出そうとした聖亜であったが、2,3歩歩いて立ち止まると、こちらを何か言いたそうな目で見ているヒスイに振り返った。
「…………ああもう、分かったよくそっ。行きがけの駄賃だ。この爺さんのひ孫の事も聞いてきてやるよ。けど期待はするなよ? この街じゃ年齢の関係なしに弱い奴はすべてを奪われるしかないんだからな」
「……ふ、ああ。分かった」
 聖亜の言葉に軽く微笑むと、ヒスイは気絶した老人に歩み寄った。息はしている。どうやら気絶したままのようだ。
「じゃあ俺は部屋に入るけど、ヒスイ、お前はこの爺さんが起きて自害しないように見張っといてくれ」
「それは構わないが……本当に大丈夫か?」
「……ま、大丈夫だろう。この先にいるのは小物だけだからな」
 そう呟くと、少年は思い樫で作られた両開きの扉に手をかけ、ぎぎっと軋ませながら開くと、薄暗い部屋へと進んでいった。


 その部屋に入ってまず初めに聖亜が思ったことは、“こんな部屋で暮らしたくない”だった。窓際には首が痛くなるほど巨大なテレビがどんと置かれており、その両側には大理石の彫像が並んでいる。真ん中には巨大なチェスの台とソファがあり、台の上には一本数十万はするかというワインが並んでいた。部屋の奥にあるキングサイズのダブルベッドからは、酒と体液と血の臭いが離れたこちらまで漂ってくる。
 その臭いを嗅いだことで強い不快感を感じた聖亜は、高級絨毯の上にベッと唾を吐くと、台の上にあったビリヤードの球を一つ掴み、部屋の奥で蠢いている黒い影に向かって投げつけた。


 ガシャァン!!

 
「ひ、ひい!!」
 ガラスが割れる音と同時に、床に身を投げ出した影から情けない悲鳴が聞こえてくる。重い頭を呆れたように振ると、聖亜はその影に向かって歩き出した。
「ひいいいっ!! く、来るな!! 来るんじゃねえ!!」
「……」
 割れた窓から差し込む月の光に照らされて、影の正体が浮かび上がる。それは両手で重い鞄をしっかりと抱きしめた小太りの男だった。艶のない乾いた黒髪とひげを持ち、その目は逃げ道を探しているのか、絶えず左右にぎょろぎょろと動いている。
「何なんだ、何なんだよ手前はっ!! 俺に何の恨みがあってここに来た!!」
「……恨み? あんたなんかに恨みなんてないよ。ちょっと尋ねたいことがあるだけだ」
「ひへ!? そ、そうなのか?」
「ああそうだ、だからその重い鞄をおいて、さっさとこちらに来いや、な?」
 聖亜の言葉に、途端に安堵した表情を浮かべる男の手から黒い鞄を取り上げると、それを床の上に放り投げる。きちんと閉じていなかったのか、カバンの中から数十カラットはするであろう大粒の宝石が幾つも床に散らばった。
「や、やめろ馬鹿野郎!! そ、それはこの統馬様のものだぁ!!」
 男―統馬は立ち上がると、こちらを見つめる聖亜を押しのけ、床に散らばった宝石を這い蹲って拾い始めた。
 小物だ。聖亜は心の底からそう思った。恐らくこの男は、目の前にある富にしか興味がないのだろう。そしてそれを手に入れるためなら、平気で他者を利用し、簡単に裏切るのだろう。話し合う価値もない男、そう結論付けると、聖亜は台の上に置いてあるビリヤードのキューを手に取り、宝石を必死に拾っている男に近づいた。
「なあ、お前さんが統馬でいいんだよな?」
「だ、だったらどうだって言うんだよ、その前にお前もこっちに来て手伝えよ!! お前がばら撒いたんだか……ぐえっ!!」
 ぶつくさと文句を言ってくる統馬の襟首を片手でつかむと、聖亜は男の体を台の上に放り投げ、先ほど手に取ったキューを彼の肩に思い切り突き刺した。
「ぐええっ!! て、手前何すんだ!! お、俺には100人以上の部下がいるんだぞ!! こ、こんなことしてタダで済むと思ってんのか!!」
「あのなあ、俺がここに来たことでそれぐらい察しろや。その100人以上いる部下は、俺がここに来るまでに皆殺すか再起不能にしてやったよ」
「な!? さ、騒ぎが始まってまだ一時間と経っていないんだぞ!! な、何者だ手前!!」
「おや、これは失礼。まだ俺の名前を言っていなかったな。俺の名は星聖亜。かつてこの街で“最狂”と呼ばれていた男だ」
「最狂? 誰だそ…………ひっ、ま、まさかお前、ち、血染めの吸血……あああああっ!!」
 少年が誰なのか、やっと理解したのだろう。台の上でじたばたと騒ぐ男の上に乗ると、聖亜は男の右手の指に、いきなり釘を突き刺した。
「ぐぎぇ!!」
「騒ぐな屑。さて統馬、これから俺はお前に質問をするが、それは頭の回転が遅いお前でも簡単に答えられるように、はいかいいえの二択にしてやる。だからそれ以外の言葉をしゃべったり騒いだりしたら容赦なくお前の指をぶち切る。分かったな」
「う、うるせえ!! 何の権利があってお前にそんな事されなきゃ……ぎっ!?」
「はいかいいえ以外はしゃべるなといったはずだぞ? ん?」
 突き刺した釘に、上着から取り出した金槌を思い切り振り下ろす。ガキンっという音と共に、床に赤黒い“それ”がぽとりと転がった。
「がぁあああああっ!!」
「……まあ悲鳴ぐらいは許してやろう。ではまず一つ目の質問だ。磯垣を殺したのはお前か?」
「い、磯垣? そ、そんな奴はしらな……ぎゃあああああっ!!」
 ガキン、という音と共に、別の指がまた床に転がる。台の上はもう血で赤黒く染まっていた。
「はいかいいえの言葉で答えろと言ったはずだぞ? それで、はいか? それともいいえか?」
「い、いいえだ!! いいえ!! 磯垣を殺したのは俺じゃねえ!! だから、だから許してくれぇ!!」
「……ふん、まあいいだろう。では次だ。最近旧市街と新市街にこちら側の薬が出回っているが、それはお前の仕業か?」
「ち、違う!! 俺じゃねえ!! 大体俺は薬なんて今までやったことは一度もね……ぐぇええ!!」
「嘘をつくなよ、お前が薬をしているのを見たという奴がいるんだ。おっと困った、まだ質問は二つ目なのに、指がもう3本も飛んでしまった。まあ、指が全部なくなったら手首をもらって、その後は足首を、最後は首でも貰うか」
「ま、待てぇ!! 分かった!! 分かったよ!! 確かに俺は薬で商売をしている!! それで得た資金で武器を買ってジ・エンドを乗っ取った!! けど向こうで薬をばらまいているのは俺じゃねえっ!! 幻馬の野郎だ!!」
 涙と血でぐちゃぐちゃになった顔を振り回し、必死に叫ぶ男を見て、聖亜は軽く首を振った。恐らくこいつの言っていることは正しいだろう。そもそもこんな小物に、旧市街はともかく新市街で警察の目を掻い潜り薬をばら撒くことなどできそうにない。
「分かった、信じよう。じゃ、続けるぞ? 肝心のその幻馬という男は、今一体どこにいるか分かるか?」
「い、いいえだ!! けど奴のねぐらがどこにあるかは知っている!! ほ、本当だ!! 嘘じゃねえ!!」
 4本目の指を叩き落そうとした聖亜に懇願するような視線を向けると、彼は暫く金槌を振りかぶっていたが、やがて舌打ちと共にそれを下ろした。
「……いいだろう、それで? そのねぐらは一体どこにある」
「げ、幻夢館というところだ!! 放してくれたら案内してやる!! だから、だからもう勘弁してくれ、このままじゃどっちみち死んじまう!!」
「……ふん、まあいい。質問はこれで最後にしてやる。旧市街からこっちに香という女が来たはずだ。彼女は今どこにいる?」
「そ、その名なら知ってる!! 5日ほど前、子分の一人が連れていた女の名だ!! け、けどその子分は翌日五万十川に浮かんでいて、そのあとその女の姿を見た者はいねぇ!! 本当だよ!!」
「……そうか、香の奴やっぱりこっちに来ていたか。分かったよ、放してやるからさっさと幻夜の所に行く準備をしろ」
「ぐぇっ!! くそ、言いたい放題言いやが……いや、何でもねえよ、本当に」
 ビリヤードの台から床に放り投げられ、カエルが潰れたような声で呻くと、統馬は赤黒くそまっている、先程より“半分”ほどに減った指をタオルで抑えると、小さな声でぶつくさと文句を言っていたが、聖亜の視線に慌てて彼から離れた。
「……それより、なあ最狂、あんたどうして乗り込んできたんだ?」
「先程言っただろう? お前に質問するため“だけ”だ」
「……質問するためだけに100人以上の人間を叩き潰したのかよ!? は~、さすがは元ジ・エンドの最高幹部。ん? まてよ? なら別に俺を殺してジ・エンドの頂点に立ちたいとかそんなわけじゃないんだよな?」
 そう尋ねながら、外に行くため上着を取り出すふりをして、洋服ダンスの中にしまっていたそれを取り出すと、背中にそっと隠した。
「……今のジ・エンドはクソの街に浮かぶ小舟のような物だ。誰が好き好んで頂点になんて立つかよ」
「そ、そうか!! そうだよな!! よし聖亜、お前の強さを見込んで頼みがある。俺の親友になってくれ!! あ、いや、別にここにいてくれというつもりはねえよ、ただ名を貸してくれれば良いだけさ。“最狂”が後ろ盾にいるとすれば、もうこの街で俺達に楯突く者は誰も居なくなるからな!!」
「……ま、この用事がすんだら考えておいてやるよ。ああ、それから一つ質問が残っていたな、まあそう警戒するな。もう“遊んだり”はしないから」
 質問という言葉にひっと大げさに悲鳴を揚げる彼に、心配ないという風に手を振ってやると、彼は先ほど自分が入ってきた扉の方を見た。
「あの扉の向こうに爺さんがいたんだが、あんた彼のひ孫を人質に取っているそうだな? なあ、親友のよしみでそいつの居所を教えてくれないか?」
「爺のひ孫? ……ああ、思い出した。泣きわめいて煩いから頬2,3発ひっぱたいてロシアのマフィアに売ってやったぜ。本当は犯してやってもよかったんだけどよ、処女の方が高く売れるからな、手は出してねえ。なんでもロシアで作る裏ビデオで、処女を出演させると高く売れるそうだぜぇ?」
「…………そうか、やっぱりな」
 彼の答えに、聖亜はすっと目を細めたが、それは彼の背中を見ている統馬には分からなかった。
「おいおい、軽蔑したのかよ。言っておくがな、このクソのような街じゃ、信じる方が馬鹿を見るんだよ。お前だって分かってるだろ? なあ親友」
「ああ、そうだな。けどロシアに連れて行かれたか……面倒くさいな」

 今だ。

 爺に何と言おうか迷っているのか、目の前で僅かに肩を落とした少年を見て、統馬は5本ともそろっている手の方で銃を構え、その銃口を彼の背中に向けた。相手がどんな化け物でも、この距離で撃たれた銃を避けることはできないだろう。

「そうそう、だからな親友、この街じゃ誰も信じない方がいいんだ……ぜっ!!」

 最後の台詞と共に、銃の引き金を引く。だが、どんなに引き金を引いても、銃弾どころか煙一筋も出なかった。それどころか、きちんと握っていたはずの銃が、手からぽとりと落ちる。
「くそっ!! ……あれ? あれ!? おかしいな、と、取れねえ!! 何でだよ!!」
「忠告ありがとうな統馬、かなり勉強になったぜ。でだ、俺からも言いたいことは山ほどあるが、親友としてのよしみだ。お礼にたった一言で勘弁してやろう……お前、俺を聖人か何かだと勘違いしてやしないか?」
 “液体”の中に浮かぶ銃を取ろうとして、必死に手を動かす統馬を心底軽蔑した目で一瞥すると、聖亜は彼を台の上に置いたとき、念のために手首に巻きつけていたそれを、くるくると巻いた。
「どうした? きちんと取れよ……自分の“手首”をな」
「う、うぉっ!! うぉおおおおおっ!!」
 雲が晴れ、月の光で再び照らされた部屋の中、統馬は床に落ちている物を見て、驚愕と後から押し寄せてきた痛みに絶叫を上げた。何度やっても銃をとることができない理由が分かったからだ。取れないはずだ。なにせ赤い液体の中に浮かんでいるのは、銃と、そしてそれを持っていた自分の手首なのだから。
「ま、学校にあった小説を見て真似してみたんだが、結構使えるものだな、これ」
 くるくると巻いたピアノ線―しかし極限まで研いだため、刃のように鋭い―を上着の胸ポケットにしまうと、聖亜は取り出した金槌を蹲る統馬に向け、にやりと笑った。
「さて統馬、もうお前に用はないからさっさと死んでくれ。俺はこれから幻馬の居場所を探して奴と“話し合い”をして、その後さっさとロシアに行かなきゃならないんでな」
「……ま、待てよ、なあ、許してくれよ、ほんの出来心だったんだよ、ジ・エンドも、この街も全部お前にやるから、だから、だから命だけはぁ!!」
「うるさいな、今まで散々楽しんできたんだろ? ま、人間誰しも一度は死ぬんだ。お前の場合、それが今日になっただけの話さ。じゃあな、いろいろと楽しかったぜ」


 そう言うと、聖亜は蹲る男の頭めがけ、最初の一発を無慈悲に振り下ろし―

「……っち、遊びすぎたか」

 ―かけた瞬間、壁の向こうから近づいてくる強烈な気配に、その体を地面に投げ出した。


 ガァン!!

 少年の動きとほぼ同時に、部屋の右側の壁が粉砕し、壁の向こうにいた“その物体”がのそりと這い出してきた。

「く……そ、遅ぇんだよ、数馬」
 それは、3メートルを優に超す巨人だった。先程の老人が獣に変化した姿と似ているが、あちらが術で変化したのに対し、こちらは恐らく生まれつきだろう。
 ともかく、その巨人は血を流しすぎてぐったりとしている兄の姿を見ると、聖亜に怒りの目を向けた。
「で、でめえがぁ、おでのあにぎをやっだのは!!」
「……だったらどうした、お前もこうなりたいのか? そらよ、お前の愛する兄ちゃんの手だぜ?」
 床に転がっている手首をぽんと巨人に蹴り飛ばしてやると、その巨人―数馬は目に涙を浮かべてそれをキャッチした。
「あ、あにぎのでぐびぃ!! ずまねえあにぎ、おでがでがげでいだばっがりに!! ごいづはおでがごろずぅ!!」
 うぉおおんと一声鳴くと、数馬はこちらに向かって、恐らく本人は全速力なのだろう、だが先ほどの老人の動きと比べれば、亀より鈍い速度で走ってきた。
「……」
「ぐががががっ!! じねえ!!」
だが、聖亜はどこにも逃げずに、自分に向かって振り回された、本来なら簡単に避けられるはずの巨人の右腕をあえて受ける。がぎり、と硬い音がして、巨人は満足そうに微笑んだ。
「ん~、じんだが「……おいおい、誰が死んだって? くだらないこと言ってんじゃねえよ」……んが?」
 数馬が手をどけた時、そこにいたのはこちらを笑みを浮かべて眺める少年の姿だった。
「ご、ごいづ、なんでじんでねぇ!?」
「ふん、さっきの爺さんがやっていた硬気法の見よう見まねさ。ぶっつけ本番だったが、まあ何とか猿まね程度には出来たか……で、いいのか? 俺と戦っている間に、お前の兄貴は間違いなく死ぬぜ」
「う? ……がっ、あに、あにぎぃ!!」
「……馬鹿、気付くのが遅いん、だよ」
 顔の色が青からどす黒い紫色に変化した当馬を見て、数馬は泣きながら彼を抱えると、先ほど自分が開けた穴から外に飛び出していった。



「逃げたか……まあ、ここまでは予定通りだな」
 そう呟くと、聖亜は穴のすぐ近くに寄り掛かった。がんがんと重く鳴り響く頭を振って、ふらふらと外に出て行こうとする。
「聖亜!! お前何してる!!」
「……」
 その動きを止めたのは、部屋の中に響き渡る少女の声だった。部屋の中に入ってきたヒスイは、決して健全とはいえない少年の様子に、慌てて彼の肩を掴む。
「……ヒスイ、離してくれないか? 俺はこれからあのクソ共を追わなきゃならないんだ。奴らは十中八九幻馬の所にいる。そいつを抑えれば、今回の件は全て解決するはずなんだ……くっ」
 先ほどの数馬の攻撃をきちんと防いでいなかったのか、突如襲ってきた強烈な吐き気と痛みに、聖亜はがくりとヒスイに寄り掛かった。
「ほら、お前ほとんど歩けもしないじゃないか。少し休め」
「……休む暇なんてないんだよ、あいつらを見失ってしまう」
 遥か遠くに微かに見える巨体を見て、聖亜は必死になって起き上がろうとした。彼の言う通り、だんだん遠ざかっていく巨体を追うには、今が絶好のチャンス―というより、今しかないだろう。
『……ふむ、致し方あるまい。それは我に任せておくがいい』

「……キュウ?」
 ヒスイの腕の中で必死にもがいていた時、耳元でいきなり聞こえてきた黒猫の声に、聖亜はかすむ視線でペンダントを見た。
「けどキュウ、お前ここにはいないんだろう? どうやってあいつらを追うんだよ」

『別に直接追うわけではない。我にも知り合いというものがいてな、そやつに頼む。だから聖亜、そなたはさっさと寝ておれ』

「…………降参だ、分かったよ。けど一つだけいいか?」

『ふむ、何だ?』

 ヒスイに抱かれ、彼女の冷たく、だが甘い匂いに身を任せながらも、聖亜はぼんやりと部屋の外を見た。
「……爺さんのひ孫、どうやら今すぐには返してやれそうにない……だから、悪いけど、あの人の記憶を操作して、ひ孫の事を暫く忘れさせてやってくれ。そして、俺が取り戻したら、ちゃんと思い出せるように……し」
 最後にふぅっと深く息を吐く気配がしたかと思うと、ヒスイは自分の胸に少年の頭が乗っかるのを感じた。


「……眠ったようだな」


『うむ。最後の最後まで言いたいことを言ってな……しかし、なるほどな。こやつが最狂と言われる理由がもう一つ分かった。この歪んだ町で、この男はなんだかんだ言いながら、他人を助けようとする。それがこの街では狂っているように見えるのだろう』

「そうか……それで、キュウ」

『案ずるな、分かっておる。ゴリアテのごとき巨人の追跡と、老人の記憶操作であったな。巨人の追跡はもう向かわせた。後は記憶の操作か。やれやれ、骨が折れるの』

 ぶつくさとそう呟きながらも、やる気を見せている黒猫に苦笑すると、ヒスイは彼女の胸に寄り掛かって眠っている少年の長い髪を手で優しく梳いてやり、その額にそっと唇を落とした。



 まるで、眠っている幼子を見守っている、母親のように






「ふ~ん、それでおめおめと帰ってきたんだ。とことん無様だね、兄さん達」
「……うるせぇ」
 赤い炎が点る暖炉の前にしゃがみ、傷だらけの統馬とそれを抱えている数馬を見て、どこにでもいそうな感じのするその少年は、薄く微笑んだ。
「くっ……大体幻馬(げんま)、手前が悪いんだぞ。手前が絶対どんな邪魔も入らない、なんて大口叩きやがるから、薬をばら撒くことを許可したのに……おかげでこの様だ。手下も100人以上奴に叩き潰された。もう再起を図ることもできねぇ!!」
「ふ~ん、それはご愁傷様。ま、生きてればそんな事もあるよ。それよりさ」
 少年―幻馬は、彼の手下に包帯を巻かれてぐったりとしている統馬にきらきらと目を輝かせながら近づいた。
「どうだった最狂は? 僕の言ったとおりとっても強かったでしょ」
「……強いというより、あいつは異常だ。その名の通り狂ってやがる。人の指を、まるで蠅を手で追い払うように簡単に叩き落としやがる……奴には良心ってものがねえのか!!」
「あはは、そんなのあるわけないじゃん。だって最狂だよ? 狂ってるんだよ? ああ、もう一度見たいなぁ。あの人が戦って、敵を無残に撲殺していくところ……ま、だから薬をばら撒いていたんだけどね」
「…………おい幻馬、手前今聞き捨てならねえことを言わなかったか? 奴が戦うところを見たくて薬をばら撒いただと? まさか手前、最初から奴がこっちに来るのが分かってたっていうのか!!」
 くすくすと笑っている義弟を、統馬は血の気がない表情で睨み付けた。彼の後ろで数馬がのそりと立ち上がるが、幻馬は当然じゃん、と笑った。
「そもそも何で僕が兄さんにジ・エンドをやったと思ってるんだい? この日のためじゃないか。向こうに去ったあの人が、こっちに来て悪行を続ける兄さんをぶっ潰せるようにじゃないか!!」


 狂ってる


 笑いながら再び炎に目をやった彼を見て、統馬は心底そう思った。幻馬から遠ざかるようにじりじりと後退すると、先程自分がこの家に入るときに使った入り口に向け、脱兎のごとく駆け出した。だが、


「……おっと、これは失礼を」
「うがっ」

 
 その動きは、目の前に突然現れた壮年の男にぶつかることで止まった。いや、ぶつかっているのではない。彼は男の指一本で額を抑えられ、それ以上前に進むことも、それ以前に離れることもできないでいた。
「ですが困りますねえ、せっかくの余興の前に退出されるのは。もう少しここにいてくれませんかね?」
「う、うるせえ!! 誰がこんな所に居たいと思うんだっ!! か、数馬ぁ!!」
 自由にならない体の中で、唯一自由になる口を動かし、力以外に何も持っていない義弟を呼ぶ。だが、彼がこちらに向かってくる気配は一向にしなかった。
「くそっ、何やってやがる数馬、この脳無しがっ!! さっさとこのくそ野郎をぶっ殺せ!!」
「おやおや、無駄ですよ? そんな事を言っても。さ、見てください」
「何だよ、何だってんだよ……ひっ」
 男の指に額をはじかれ、くるくると駒のように回転した統馬は、その回転が止まった瞬間、目に映るそれを見て、声にならない絶叫を上げた。


 目の前では、数馬がこちらを見返してくる。口も鼻も床に沈んで、ただ二つの目だけでこちらを!!


「……あ……あ……あ」
「どうです、喜んでくださいましたか? まあこんなもの、これから起こる“劇”からすればほんのお遊びにすぎません。ではあなたもその二つの目で……二つの目だけでご覧になっていてください。現実と空想が混じり合う、狂気の劇を」
「……もしかして大鳥さん、あの人がここに来るの?」
「ええ、もうそろそろここに到着いたしますよ幻馬様。さて、彼をお招きする準備を始めなければ……ねぇ?」
 統馬の体をずぶずぶと床に沈めながら、暗闇でごそごそと動く影に目をやると、大鳥はくくくっと不気味に笑った。


 数馬と同じように、目だけを床の上に出している統馬は、その笑みを見て、先程死んだ方が100倍マシだったと思いながら、唯一流せる涙をだらだらと流し続けた。


西暦2015年(皇紀15年) 7月17日 深夜



「本当にここなのか?」

『……ほほう聖亜、そなたいい度胸だの。我の知り合いが持ち帰った情報に文句を言うとは』

「あのな……普通言うだろうが!!」

 ペンダントの中から聞こえる黒猫の声にそう反論すると、聖亜は目の前に広がる洞穴を見て、硬くなった体をごきごきと動かした。
 1時間ほど眠って起きた時、彼は何故か屋敷ではなく、海辺の砂浜に寝かされていた。近くにいたヒスイに訪ねると、どうやら寝ている間に彼女に運ばれたらしい。その時言われた軽かったぞと言う言葉が、今でも胸に突き刺さっている。
「それで? 本当に2人は入っていったのか? 3年前俺が探検した時は、家なんて影も形もなかったぞ」

『……さっきからごちゃごちゃと。聖亜、そなたなぜそれほど不満そうなのだ』

「だってキュウ、お前の知り合いって……さっき飛んで行った鴉だったろうが!!」

 少年が目覚めて最初に見たのは、ヒスイがガァガァと鳴く鴉と向かい合っている姿だった。彼女に尋ねると、どうやらその鴉はキュウの知り合いで、統馬達の動きを追跡してくれたらしい。
 鴉は少年がこちらを見ていることに気付くと、見てんじゃねえぞという風にギラッと目を光らせ、漆黒の空に向かって飛んで行ったのだ。

「まあ鴉は鳥の中でも高い知能を持っているからな、これぐらいの事はできるのだろう……キュウが鴉と知り合いだったというのは初めて知ったが」

『ヒスイよ、そなたまで文句を言うか。ではこうしようではないか。もしこの洞穴の中に家があったら、そなたら2人には我に向かって頭を下げてもらうぞ』

「……上等じゃないか。分かった。ヒスイもそれでいいだろ?」
「私もか? ……分かった。この中に家があったら、聖亜と一緒にお前に謝る」

『ふん、言ったな。ではさっさと入るぞ、そしてさっさと謝ってもらおうではないか』

ペンダントの中で喚く黒猫に急かされるように、2人は薄暗い洞穴の中へと足を踏み入れた。




「「ごめんなさい」」


 平たい岩の上に置かれたペンダントに、聖亜とヒスイの2人が深々と頭を下げたのは、それからわずか5分後の事だった。

 なぜなら洞穴に入ってすぐ、目の前にこじんまりとした一軒家が現れたからだ。丸太で作られたそれは、どちらかというとログハウスに近いが、それでも家である事に変わりはない。

『ま、これで自分達が未熟だと分かっただろう。せいぜい精進するがよい』

 おそらくペンダントの向こう側で胸を張っているだろう黒猫の声に、聖亜とヒスイはため息を吐いて顔を上げた。
「さて、ちょっとここで待っててくれ。恐らく統馬と数馬も中にいるだろうから、これから中に入って、3人まとめてぶっ潰してくる」
「あ、ああ。気をつけろ、よ?」
 ヒスイの激励に右手を上げて家に近づくと、聖亜は目の前にあるドアをいきなり蹴った。ガシガシと何度か蹴ると、何の補強もされていない木のドアはぐらぐらと揺れ、向こう側に簡単に倒れていった。
「……暗くてよく見えないな。おいクソ馬鹿兄弟、死にたくなかったらさっさと出てこい!!」
 中に入ると、床代わりに敷き詰められた丸太を蹴りながら、聖亜は薄暗い部屋の中を見渡した。木で作られた椅子とテーブルが部屋の真ん中に一つと、あとは壁際に炎が消えた暖炉があるだけで、他には何もない。それどころか、ここに入ったはずの統馬達の姿すらどこにも見当たらなかった。


 話が違うじゃねえか!!


 外にいるヒスイ……というよりキュウに文句を言おうとした聖亜は、その瞬間暗がりからいきなり現れた影に、いきなり抱きつかれた。

 奇襲か!?

 ばっと飛びのこうとした聖亜は、自分に抱きついているその少年を見て、ふと眉を潜めた。自分より幾分背が小さい少年は、自分に抱きついたまま追撃をかけてこない。いや、それどころか自分に向かってすりすりと頬を摺り寄せてくる。

「くっ、何すんだ……この、放せ!!」
「やだよ、久しぶりなんだもん、兄ちゃんにこうやって抱き着くの」

 少年がそう答えた瞬間、家の四隅に備え付けられていたランプが、いっせいに光り輝いた。


「……ああ、久しぶりだな。だから放してくれ、幻(げん)」
「……は~い」
 抱きついてくる少年の頭に優しく手を置くと、彼は名残惜しそうにしながらもしぶしぶ体を放した。
「で、久しぶりだな。幻」
「うん、兄ちゃんもほんとに久しぶり!!」
 木で出来た椅子に腰かけると、すかさず少年―幻がすり寄ってくる。その頭を優しく撫ぜてやると、聖亜は不意に真顔になった。
「でだ幻、少し聞きたいことがあるんだが、構わないか?」
「もちろんだよ兄ちゃん。兄ちゃんの知りたいことならなんでも答えるよ? えっとね、じゃあ最初に、僕がどうやってクズを解体していくかなんだけど」
「いや、そんなこと誰も聞いてないから、俺の質問だけに答えろよ? でだ、幻、お前が幻馬なのか?」
「うん、そうだよ。僕が“最悪”幻馬。よくわかったね、さすが兄ちゃん。それで? 次は次は?」
「……磯垣を殺したのはお前だな?」
「うん。だってあいつうっとおしかったんだもん。抱かせろってさ。で、いいよって返事して、あいつが帰ろうと背中を向けた途端、ズドンてやっちゃた」
 嬉しそうに話す目の前の少年を見て、聖亜は深々と息を吐いた。
「次、新市街に薬をばら撒いているのもお前か」
「もちろん。だってこうでもしないと兄ちゃん来てくれないでしょう? 別にいじゃん、“豚”が何匹廃人になろうがさ……で、考えた通り、兄ちゃんは僕の所に来てくれたんだ。でさ、兄ちゃん」
「……何だ」
 足の位置をずらした時、靴底に丸太とは違う感触が伝わった。ちらりと下を見ると、涙を流しながらこちらを見上げる二つの目とばっちりと目があった。
「兄ちゃんがこっちに帰ってきてくれたってことはさ、この腐った街の頂点に立つんだよね? この街を狂気と恐怖で支配して、旧市街と新市街に打って出るんだよね? そしてずっとずっと、僕のそばにいてくれるんだよね?」
「……」
 足を一度大きく上げると、その目に向かって振り下ろす。ダンッという音を立て、足は床に埋まっていた男の顔を踏み砕いた。
「……幻、いや幻馬。一つだけ答えてやる。俺がこっちに来たのは薬を流している奴を見つけてそいつを潰すためと、行方知れずになった知り合いを探すためだ。それがすんだら、俺はさっさとこの街から出ていく。だから幻馬、お前が薬を流している張本人というなら、俺はお前を叩き潰してさっさと家に帰る。それだけだ。それで? 何か最後に言いたいことはあるか?」
「…………」
「……何もないようだな、ならさっさとすませよう。まあ知り合いとしてのよしみだ。安心しろ、殺しはしないさ。ただ死ぬまで手足が動かないようにするだけだ」
 俯いたまま何も答えない少年を一瞥すると、聖亜はテーブルの上にあった木の切れ端を手に取り、軽く振る。ビュンっと風を切る手応えに一つ頷き、再び少年に視線を向けた時、彼はふと動きを止めた。



 彼は、俯きながら笑っていたのだ。



「……」
「……ふ、ふふっ、残念だよ兄ちゃん。せっかく僕をあげる機会を与えてやったのに……けどそうだよね、兄ちゃんは人から与えられるものには興味ないよね。いつだってそうだ……だから僕は兄ちゃんがこの世で一番好きなんだ。だから、だからね兄ちゃん、力づくで僕の物にしてあげるよ……じゃ、よろしく頼むよ、大鳥さん」
「……? 他にまだ誰かいる……っち!!」
「聖亜!! くっ」


「はい、お任せくださいお客様。我々バード商会は、お客様の求めるすべての欲望にお応えいたします」


 家の中に突然湧き上がった強烈な気配を察知して駆け込んできたヒスイは、上から雨のように降りかかる重圧に床に這い蹲った。
 一度強く舌打ちすると、聖亜は今まで座っていた椅子から飛びのき、倒れているヒスイを守るように、彼女の前に立つと、目の前の闇からその存在が出てくるのを、ただじっと待っていた。





                                   続く


 こんにちは。活字狂いです。いや、バイオレンスは難しいですな。2週間半かかりました。さて、今幕で聖亜の別の部分がだいぶ見えたと思います。というかこっちが彼の本性なのです。ま、平和な時を過ごしてだいぶ丸くなっていますが、それでも本質はなかなか変わりません。そしてさらに、謎の男が彼らの前に姿を現します。では次回「スルトの子2 炎と雷と閃光と 第四幕   双頭の鷲」を、どうぞお楽しみに。


 それは、欲望を支配する赤き荒鷲。



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 第四幕   双頭の鷲
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:8e78fcae
Date: 2016/02/18 14:14

狂え 狂え 欲望の亡者よ



自らの欲に狂え



自らの望みに狂え



家族を見捨て、他人を欺き、自らの欲望のために踊り狂え






踊れ 踊れ 金の亡者よ



地獄の金貨の中で踊れ



赤き黄金で出来た針山で踊れ




家族を売り払い 他人を殺して得た財宝の中で狂い踊れ




我は汝の強欲を叶えし者




我の前で偽善ぶっても無駄である




この欲望の小箱は 汝の強欲をすべて映し出す







 暗い闇の中から現れた“それ”は、床に片膝をついて苦しげに呻くヒスイと、彼女を守るように立っている聖亜を見て、優雅にお辞儀をした。

「お初にお目にかかります。私皆様の欲望を“お叶え”するバード商会会長、大鳥孫左衛門と申します。お客様のどのようなご要望にも即座にお応え「はぁああああっ!!」おやぁ?」
 しますと言って顔を上げようとした大鳥は、少女の掛け声と同時に目の前に突き出された刀「護鬼」の切っ先を、鳥類のかぎ爪のような2本の指で軽く抑えた。
「くっ!」
「おやおや、いけませんねぇ。そんなに暴れられては、我がバード商会の名に傷がついてしまうじゃないです……かっと!!」
 刀の切っ先を掴んだまま薄く笑った男の首筋めがけ、ヒスイはペンダントから新たに取り出した太刀「善鬼」を振るう。大鳥は空いている手でそれをはじき返すと、護鬼の切っ先を少女の体ごと持ち上げ、聖亜に向かってひょいと投げ飛ばした。
「うわっ!!」
 こちらに向かって飛んできた少女の体を慌てて支えると、聖亜は大鳥をきっと睨み付けた。
「お前……エイジャか」
「おや? 私達伝道者の事を知っていなさるとは……中々扱いづらい“商品”でございますね」
 ほう、と軽く目を見開くと、大鳥は薄暗い闇の中から、こちらに一歩足を踏み出した。途端にヒスイの体が床に沈み込む。これほどの重圧を発することができるエイジャは、2人が知っている限り一つしかいない。
「お前、爵持ちか」

『否、正確には違う。こやつは貴族の階級を金で買った単なる商人だ。そうであろう? “渡り商人”』

「……おやおや、私の異名までご存じとは。これでは名乗らないわけにはまいりませんな」
 そう言って薄く笑うと、大鳥はそのかぎ爪のような手を、天井に向けてぱちんと鳴らした。

「あなたの、欲を叶えましょう」

「あなたの望みを叶えましょう」

 その時、どろりと天井が歪み、赤と黒のバニースーツを着た2人の女が飛び出してきた。いや、それは女ではない。最初、その形状は確かに女であったが、やがてそれはぐにぐにと形を変えながら、大鳥の頭部に吸い付くように埋もれた。

「……」

 それが完全に頭と一体化すると、今度は大鳥の顔だったものが胴体の中に埋まりだした。それに合わせ、腹部がぽっかりと広がっていき、やがてそれは幾重にも連なる牙をもった、巨大な口へと変わっていく。


 そして、顔が完全に胴体に埋まった時、


「……こいつは」


 そこにいたのは、鷲に似た頭部を二つ持ち、腹部からは巨大な口が開いた、どこからどう見ても人間には見えない存在だった。
 その存在は、巨大なかぎ爪をもつ手を胸まで持ってくると、ゆっくりと一礼した。


「私、赤界“ボルケイノ山脈”に住まう男爵“渡り商人”マモンと申します。皆様の欲望をお叶えするのが私の使命、私の喜び。ですが注意事項を一つ、お客様の本当の願いが叶うことは……残念ですが、絶対にございません」


「……キュウ」
 目の前で一礼する鷲頭を睨み付け、ヒスイはじりじりと後退した。


『ふむ、何だ?』


「この爵持ちの戦闘能力はどれぐらいだ?」


『それほど強くはない。元は上級のエイジャで、しかも戦士ではなく一介の商人だからの。爵位も金銭を積んだのと、彼の大戦―嘆きの大戦によって、こやつの指揮する私兵団が多少の戦果を挙げたからにすぎん。前回の爵持ち、ニーズヘッグとは、比べる価値もないわ』



「そうか。そうすると厄介なのはその私兵団だが……」
 周囲の闇を、ヒスイは鋭く見渡した。
「だが、他のエイジャが隠れている気配はない。どうやらご自慢の私兵団を連れてこなかったようだな」
「ええまあ、私兵団と言っても所詮は傭兵。戦争が終わって給金を支払えば主人の下を去っていく忠誠心のかけらもない者たちです。ですがご安心ください。確かに私兵団はいませんが、その代わりに私は決して裏切らない兵士を作り上げました。それがこちらです」


 こちらですと言われても、目の前にいる爵持ち以外、エイジャの気配はない。油断なく刀を構えながら、不審に思ったヒスイが形のいい眉をピクリと動かした時だった。
「……ヴ、ヴ……ヴォ」
「……? 何だ?」
 奥の暗闇から、呻き声と共に、その物体が現れたのは。


 それは、でっぷりと太った男だった。だがその太り方はどこかおかしい。まるで内側にいる何かが成長し、それが外見を無理やり巨大化させているような感じだ。そして聖亜は、その形に見覚えがあった。
「これは……」

『間違いない、寄生種だ。だがどういうことだ? 寄生された人間がこの形態になるには、少なくとも3日はかかる。しかしこの3日間、狩り場の発生は感知しておらぬ』

 ペンダントから聞こえるキュウの疑問に答えるように、マモンはその嘴をくくっと不気味に歪ませた。
「それは当然です。何せこの人間に使徒の幼体を植え付けたのは、3日前ではなく昨日の夜ですからね。3日前に感知するなど、出来るはずがないですよ」
「昨日の夜? そうか……スヴェンによって封鎖結界が張られた時か。それでは狩り場を感知するのは無理だな」
「おや? そんな事があったのですか。まあとにかく、あなた方玩具使いが仲間内でもめ事を起こしてくれたおかげで、容易く使徒の卵を植え付けることができましたよ……それではご紹介いたしましょう。私が改良した即効性の卵より生まれし使徒……名付けてプロトα(アルファ)です」
 マモンがそう言った瞬間、男の体がビキビキとひび割れ、中からぬめりを帯びた緑色の表皮が現れた。
「これ…………蟷螂か」
 聖亜の言ったとおりだった。男の体が完全に弾けると、その中から二対の鎌を持った蟷螂のような昆虫が現れた。
「そのようだな……けどこれは」
 だが、その形状はどこか歪だ。頭ははち切れんばかりに膨れ上がり、逆に腹部は赤子の手のように細い。三つある眼球は皆うつろで、五つある足はふらふらと震えていた。
「……やはりそれほど出来は良くありませんねえ。特に防御力は最悪だ。ま、普通は3日かかる時間を1日に短縮したから仕方ありませんか」
四つの鋭い目で巨大な蟷螂の姿をじろじろと見ると、マモンはもう興味が失せたといった様に首を振った。
「まあそれでも攻撃力と速度は一定水準を保っているから良しとしましょうか。では行きなさい、プロトα。この玩具使いの首、すぱっと切断しなさい。ああ、少年の方は駄目ですよ? こちらは大事な商品ですからね」
「……ヴ……ヴ……ヴォオオオオオオッ!!」
「くっ!!」
 マモンの声が聞こえたのか、蟷螂のような形状をした寄生種は五つのうつろな目をヒスイに向け、閉じていた背中の羽をばさりと広げると、二対の鎌を振り上げヒスイに襲いかかった。

 ガキンッ!! と音を立て、四本ある鎌のうち二本が刀と合わさる。だが残り二本ある鎌が無防備な彼女の体に向かって襲い掛かった。

「…………ヴ?」

 と、その動きがぴたりと止まった。蟷螂にとっても不思議だったのだろう。動かなくなった自分の鎌をしげしげと眺めている。

「……なるほどね、どうやら本当に防御力が紙みたいだ。まさか釘で穴が開くなんてな」

 そう呟くと、聖亜は手に釘を持ったまま薄く笑った。よく見ると鎌と胴体をつなぐ関節部に、微かに釘が刺さっているのが見える。
「けどま、同じ手は使えないだろうな」
 少年の言う通りだった。攻撃を受けた蟷螂は、少女よりこちらを標的に選んだらしい。ぶんっと鎌を一振りしてヒスイを弾き飛ばすと、その隙に少年に向かって飛びかかってきた。

「うわっ!!」

 こちらに一瞬で間合いを詰めてきた蟷螂の鎌が、こちらに向かって振り下ろされる。首を狙って振り下ろされた鎌を寸前で避けるが、服の一部が持って行かれた。さらに横に振られた鎌をしゃがんで避けると、頬に鋭い痛みが走る。どうやら鎌の先端についていた棘が掠ったようだ。
「くそっ、こうなったら……」
勢い余って丸太に突き刺さった鎌を引き抜こうとしている蟷螂から離れると、聖亜は右腕にぐっと力を込めた。
「聖亜? まさか……」
 丸太に激突して少しの間気絶していたヒスイは、聖亜から噴き出してきた熱にぼんやりと顔を上げた。間違いない。彼は“あれ”を使おうとしているのだ。

『やめよ聖亜っ!! 無闇にそれを使うでないっ!!』

そう叫ぶ黒猫の声は、意識を集中している彼にはもう届かなかった。だが

「はぁああああ…………あれ?」
 不意に、聖亜は力を込めるのをやめ、ぽかんとした表情で右腕を見た。彼の考えた通りなら、瞬時に全てを焼き尽くすあの真紅の腕に変わるはずが、いつまでたっても変わる気配がない。
「……どうなってるんだ、これ」
 その時、ふと彼の脳裏にある考えが浮かんだ。そもそも、自分は一体どうやってこの腕を、人間の腕に擬態させているのだ?

(おい炎也、どうなってるんだ?)

『……』

 頭の中にいる少女に声を出さずに問いかけるが、彼女からの応答はない。どうやら眠っているようだ。まあ、今は深夜であるから眠っていてもしょうがない。しかし、彼女の意識がない状態で、腕が変化しないということはー
「つまり、あれに変化させるにはあの馬鹿が起きていないと駄目だという事か……くそったれ」
 軽く舌打ちした少年に向け、丸太からようやく鎌を引き抜いた蟷螂が向かってくる。再び避けようと身構えた聖亜であったが、不意に床がぐらりと揺れた。
「と、わっ、これってまさか……床を切ったのか!?」
 彼の考えた通りだった。蟷螂はどうやら多少頭は回るらしく、少年を攻撃する前にまず彼が立っている床を切り裂いたのだ。床は丸太で出来ているため、それ自体は不可能ではない。そして体調を崩した彼に向け、鎌が文字通り死神の鎌となって襲い掛かった。
「くっ!!」
 顔の前で両腕をクロスさせ、何とか致命傷を避けようとした聖亜は、ふと彼に向かってくるくると回転しながら飛んでくる“それ”を見た。
 蟷螂の鎌が自分に届くその寸前、聖亜は飛んできた刀の柄を右手で受け止めると、鎌を受け流し、そのまま付け根の部分に向け、思い切り突き入れた。

「ヴ……ヴォオオオオオオッ!!」

 半ば切断された鎌の付け根からどくどくと黒い液体を流し、蟷螂は痛みに絶叫を上げながら残りの鎌を周囲に滅茶苦茶に振り回した。
「くそ、これはこれで近づけ「はぁああああっ!!」なっ!?」
 闇雲に振り回される鎌の間を何とか潜り抜けようとした聖亜の横を一陣の風のように通り過ぎると、ヒスイは蟷螂の背に飛び乗り、その首めがけ太刀を思いっきり叩き込んだ。
 元々防御力はないに等しかった蟷螂の首は、その一撃で簡単に跳ね飛ばされ、首を失った蟷螂の体はふらふらと暫く横に揺れていたが、次の瞬間ドゥッと音を立てて前に倒れこむと、一瞬絶望しきった少年の姿に変わり、どろどろとした液体となって崩れ落ちた。

「……やれやれ、やっぱりまだまだ改良しなければなりませんか」

 ヒスイに首を切断され、無残にも敗れたプロトαの残骸を眺めると、だがマモンは面白そうに嘴を鳴らした。
「……そんな悠長にしていていいのか? 寄生種はもういない。つまりお前を守る存在はもはやここにはいないということだ」
「おや、怖い怖い。ですが私も“彼ら”と合流するために日本に来たのです。ここで滅ぼされるわけにはいきませんねえ。ああ、ではこうしましょう」
 不意に、マモンの胴体にある巨大な口が、ぺっと何かを吐きだした。それを鍵爪の付いた手で拾うと、エイジャはそれをヒスイに向けうやうやしく差し出して見せた。
「……何だそれは」
「これですか? これは“欲望の小箱”と申します。対象が心底欲している物を映し出し、それに対する欲求を増大させるものです」
「なるほど……あんたそれを使って三馬“鹿”兄弟を操っていたのか」
「操っていたなどととんでもない。私はただお客様があなた様を欲するという欲望を増大させたにすぎません。さて、お喋りは此処までにして、あなた方の欲望を覗いてみましょうか」
 爪でピンッと小箱を弾くと、箱の蓋がキチキチと音を立てて開き、中から霧のようなものがシューッと吹き出してきた。それはマモンの前で輪になるように広がっていき、やがて人が一人すっぽりと収まるほどの輪と変わった。
「さて、あなた方が心から欲するものは一体なんでしょ……うね?」
 マモンはこちらに向かって太刀を向けている白髪の少女を霧の輪の向こう側から見た後、短い時間でさっと通り過ぎた。以前も玩具使いの欲望を覗いたことがあるが、彼らの望みはすべて同じだった。それは自分たちエイジャの抹殺であり、実際に彼女が望んでいるのもそれだったのだ。だが、次に少年に目を向けた瞬間、マモンは絶句して立ちすくんだ。

 少年の中にあるのは、少女と同様自分にある殺意だ。だがその密度は少女とはまるで違う。要するに“底”が見えないのだ。彼の中には、見ているこちらが狂うほどの狂気、憎悪、そして殺意が渦巻いている。
「ば、馬鹿な……こ、これほどの混沌を内に秘めた人間がいるなど……聞いたことがない!! しかも、なんですかこれは!! われら伝道者の気配がするなど!!」
「……ま、どんな事にも始めてはあるもんだ。で、それ以前に手前、誰に断わって覗き見なんてしてるんだ?」
「ひっ!! ひぃいいいいいっ!!」
 聖亜が護鬼で霧の輪を払うと、マモンは信じられないという顔で後ずさりした。
「なるほど、確かにあの蛇とは比べる価値もないな」
 薄く笑い、マモンの手に付いた鍵爪を切り払う。噴き出した血で全身を赤く染めながら、聖亜は護鬼を振り上げた。

ガキィン!!

「ッ!!」

 だが振り下ろした刃は、横から突き出された別の刃が交わり、強い火花を散らした。


「お、遅いですよハリティーさん!!」
「手を出すなと言ったのはお前の方なんだがな、マモン」
 闇の中から突如現れたその女は、聖亜が振り下ろした刀を弾き飛ばすと、逆に少年の首に刃をぴたりと当てた。
「くっ、また別のエイジャか」
「……人を勝手に人外にするな。私はれっきとした「このっ!!」む……」
 少年の背後から襲いかかってきた少女の一撃を、女は後ろに下がりながら受け止めると、そのまま2人は激しくつば競り合いをする。その技量はほぼ互角だ。ヒスイの方が僅かに早いが、その分を女は力で押し切ろうとしている。
「くそ、何がエイジャじゃないだよ。この状態で動ける奴なんて、エイジャしかいないじゃないか」

『いや聖亜、奴はエイジャではない。それほどの圧力は感じぬ……あの女は恐らく寄生種に寄生された人間であろう』

「人間? けど寄生種に寄生された人って、皆ああなるだろ?」
 恐らく戦闘に入る前に投げ捨てられたのだろう、傍の床に置かれたペンダントの中から聞こえてくる黒猫の答えに反論するように、聖亜は先ほど蟷螂だった黒い液体を見た。蟷螂になる前の男は内側で育つ寄生種の影響でブクブクに太っていたが、ヒスイと切り結んでいる女は全く太っていない。

『ふむ……稀にあるのだ。植え付けられた寄生種の幼体と宿主との思考が完全に一致した場合、宿主はその意識と形状を保ったまま寄生種の能力を得る。つまり人型の寄生種という事だな』

「思考が完全に一致って……ならあの女は一体何を考えていたんだ?」

『先ほどマモンの奴はあの女にハリティと呼びかけたな。ならば考えられることは一つ……あの女、恐らく自らの子を失ったのだろう』

 キュウの声が聞こえたのか、ヒスイの持つ太刀に向かって何度か三日月形の剣を叩きこみ少女を後退させると、女―ハリティはこちらにちらりと目をやった。その目は戦闘により血走っていたが、はっきりと理性の光が見える。

「……どこから聞こえているのかは分からないが、その声の言う通りだ。私は災厄により3歳になったばかりの、たった一人の我が子を失った。しかもその後に発生した暴動の中強姦された私の子宮は傷つき、もはや子を産むことはできない。あの子を取り戻すためなら、私はなんだってする。例えこの身を悪魔に売り払うことになろうともな。だから」

 ぶんっと三日月形の剣を一振りすると、ハリティは背中に背負った鞘からもう一つの剣を取り出し、聖亜の方に向けた。

「だからその邪魔をするならば、例え年端のいかぬ子供であろうとも私は決して許さない。例え殺すことになったとしてもだ!!」
 そう叫ぶと、ハリティは後退したヒスイに向け、双剣で襲いかかった。

 洞窟の外から入り込んだ太陽の光が、彼女の目を照らしたのは、まさにその時であった。

「……う?」

 太陽の光をまともに浴びたためか、剣を一振りして向かってくるヒスイを牽制すると、ハリティは跳躍し、マモンの傍に降り立った。
「……もう朝ですか。名残惜しいですが今回は此処までのようですね」
「ちょっ、待ってよ大鳥さん、僕の望みはどうなるんだよ!!」
 立ち上がって抗議してきた幻馬を見て、聖亜から受けた傷を撫ぜていたマモンは呆れたようにため息を吐いた。
「やれやれ、いいですかお客様。チャンスは今回だけではありません。彼らが私を追う以上、チャンスは近いうちに再び訪れます。それに」
 彼の四つの目は、睨み付けてくる少年を侮蔑を込めて見返した。
「それにお客様は私の本当の“ご契約者”ではありません。ですから本来、私はあなたの言う事を聞く必要はないんですよ」
「う……そ、それは」
「……どうでもいいが、撤退するならするで早くしてくれ。さすがに2人を相手では私でも厳しい」。
 ハリティの言葉に、おっと、そうでしたと呟くと、マモンは軽く手を振った。すると、彼らに向かおうとしていたヒスイの体が途端に沈んだ。
「く……」
「さてさて、それではこれで失礼させていただきましょうか。また近いうちにお会いいたしましょう……ではこれにて」
 マモンがさっと一礼すると、彼の体から赤い羽根が無数に飛び出してきた。それが聖亜とヒスイの視界を遮り、やがてそれが消えた時、

「……逃がしたか」
「ああ。それに三馬“鹿”兄弟もいない。せっかくそのくだらない人生に終止符を打ってやろうと思ったのに」
 忌々しそうに吐き捨て、床の丸太を蹴る聖亜から護鬼を受け取ると、ヒスイは軽くため息を吐き、床に転がっているペンダントに深々と突き刺した。刀はなんの抵抗もなしにずぶずぶとペンダントの中に入り込み、やがて消えて行った。
「不貞腐れている所を悪いが、さっさと旧市街に帰るぞ。新しい爵持ちも現れたことだし、その対策を考える必要が出てきたからな」
「ん? ああ、そうだな……けどその前に快楽区に寄ってくれ。たぶんもう“けり”はついていると思うけど、一応な」
「何が一応なんだ? まあいい。けどそれが終わったらまっすぐ帰るからな。一晩中起きていたせいか、結構眠い」
「ははっ、分かったよ。それじゃ、さっさと行ってさっさと帰ろうか」
 朝日の差し込む家の中、こびり付いた血をぬぐって聖亜が見せた笑顔は、ヒスイには年相応の笑みにしか見えず、一瞬この少年が夜中にやった虐殺は、夢だったんじゃないかと思ってしまった。

 
 だが一時間ほどかけて快楽区にある妖夢館に着いたとき、彼女は昨日の出来事は現実にあった事だと改めて思い知らされた。巨大な館の壁は、そのあちこちが爆発や衝撃で穴が開いており、夜中に聖亜が叩き潰した100人以上の人間が、死んでいる者は穴に埋められ、生きている者は皆一か所に縛られて放置されている。ヒスイが傍らの聖亜に視線をやると、彼はその視線を無視し生存者の監視をしている青い服を着た男に歩み寄った。
「よう、久しぶりだな」
「せ、聖さん……そうですね。久しぶりです」
 青い服を着た男は、周りにいる他の見張りより少し上の立場にいるのだろう。彼が目で合図すると、他の見張り達は皆四方に散っていった。
「しかし、相変わらず無茶をしましたね。後片付けが大変でしたよ」
「けどそのおかげであんた達は楽にここの制圧ができたんだろ? いいじゃないか」
「ええ、そうなんですがね。ま、後は夜中本拠地にいなかったジ・エンドの奴らを捕まえてお終いです。見ていてください、きっと住みやすい街にして見せますよ」
「……まあ頑張れ。それで女王蜂の奴は中か?」
 そう尋ねると、聖亜は半壊している館を仰ぎ見た。自分が破壊したため文句は言わないが、やはり少しだけ名残惜しい。
「はい。中で今後の生活について議論しています。お会いになりますか?」
「……いや、やめておくよ。旧市街に去った俺に、口を挟む権利はないからな。じゃ、俺はこれで戻るけど、イタチともちゃんとうまくやってくれよ」
「イタチ……ああ、川べりに住んでジ・エンドと対立していたグループのリーダーですね兄……いや姉御とも面識があるようだし、悪いようにはしません」
「そうか……じゃあもう言う事はない。女王蜂によろしく言っておいてくれ。じゃあな」
 は、と敬礼してくる男と2,3言葉を交わした後、ひらひらと手を振りながら、聖亜はヒスイの方に向かって歩き出した。
「もういいのか?」
「ああ。女王蜂が快楽区を収めていく以上、相手を叩き潰すことしかできない俺は必要じゃないからな。俺は今の俺の家に帰るさ。腹も減ったし、何より俺も一晩中起きてたから眠いんだよ」
「そうか。ならさっさと帰るぞ……ところで」
「ん? 何だよ」
「別に大したことじゃないが……帰るときはやっぱりあの浅瀬を通って帰るのか?」
「あ……まあ、そういうことになる、かな」
 そう言ってごまかすように笑みを浮かべた聖亜を小突こうと、ヒスイは右手を固めて彼に向かって歩き出した。




「……う……あ」
 薄暗い中、掠れた声だけが、微かに周囲に響いた。
 その声の持ち主は、地面に転がっている少年だった。どこにでもいそうな平凡な顔をしたこの少年、名を幻馬という。
 彼は今、両手両足を縛られた格好で、薄暗い部屋の中に放り込まれていた。よく見ると体のあちこちに裂傷が見られる。どれも皆新しく、付いてまだ半日と経っていない。
 どのぐらい時間が経っただろうか。不意に目の前の扉がギィっと軋みながら開き、部屋の中に髪を金髪に染めた少女が入ってきた。彼女は地面に無様に転がっている少年を侮蔑を込めて見つめると、右手に持った硬く尖っている棒を、彼に容赦なく振り下ろした。
「うぁ……がっ」
 それが裂傷の部分に当たり、幻馬の体は海老のようにのけ反って跳ねた。さらに2度、3度と棒が振るわれ、彼の体に新しい裂傷ができてきた。
 やがて気がすんだのか、それとも疲れたのか、女は棒を振るのをやめると、ハイヒールで少年の顔を強く踏みつけた。
「ひ……」
「ふん、無様ね」
 ぐりぐりと踏みつけると、女は幻馬の髪を掴み、顔をこちらに向かせた。
「本当に無様ね幻馬。本来の役目を忘れて、“あの女”を殺そうともせず、自分の欲望のためだけに奔走した挙句、失敗して計画の殆どを駄目にするなんて」
 そう言いながら、女は彼の頬についている裂傷にぎりぎりと爪を押し込んだ。
「あなたに“鷲”を貸してあげたのが誰か忘れたのかしら? それは私よね。つまり私が命じれば、奴はあなたの言う事なんかこれっぽっちも聞かなくなるわけ。なのにあなたは私の命令を無視して、さっさと自分の棲み家に帰ってしまった。この代償は高いわよ?」
「……」
 自分を見つめる少年の目から光が消えたのを確認すると、女は退屈そうに彼の髪を放し、近くのソファに腰を下ろした。と、どこからか紅茶とスコーンが差し出される。
「あら、相変わらず手際がいいわね、鷲」
「ええ。私の仕事は、お客様の全ての欲望をお叶えすることですから」
 人の形態に戻り、彼女に菓子を差し出したマモンは、そう答えるとうやうやしく一礼した。
「それでご契約者様、他に望みはありますでしょうか」
「……とりあえず今はないわ。けど鷲、私の本当の望みは変わっていない。ちゃんと分かってるでしょうね」
「ええ、分かっておりますとも。しかし此度の一件で、持ち駒の一つを失ってしまいました。ここまでの代金を含め、そろそろ回収したいのですが」
 あくまでにこやかにほほ笑む彼を鼻で笑うと、女は地面に蹲っている幻馬を軽く蹴った。
「ならこいつと、あと統馬と数馬の2人、あんたにやるから煮るなり焼くなり好きにしなさいな。もちろん殺してしまっても構わないわよ」
「いえいえ、殺すなどとんでもない。そんなことをしてしまっては何の価値もありませんからね。では一つ……こちらを試してみるとしましょうか」
 マモンが包帯を巻いた指をぱちんと鳴らすと、虚空の闇から突如現れた2人のバニーが、幻馬の体を強く押さえつけた。
「……あ……や」
 自分が何をされるかわかったのだろう。弱々しく首を振って抵抗しようとするも、傷ついたその体では、抵抗できるのはそこまでだった。
「やれやれ、静かにしてくれませんか? この後他の2人にも同じことをしなければならないんですから、結構忙しいのですよ」
 バニーの一人が幻馬の口を押え、強引に開かせる。マモンはふところから小瓶を取り出すと、その中にある、拳大のざわざわと奇妙に動く黒い物体を大事そうに持ち、それを開いた口の中に押し込んだ。
「ぐぇ……え……え」
 なんとか吐き出そうともがくも、出口はマモンの手で閉じられているため黒い物体の進む道は喉の奥しかない。
 やがて、息が続かなくなったのか、幻馬は口内に入っている物体を、ごくりと飲み込んだ。
「……ひ……ぐぇ」
 体内に何かがべたべたと入りつき、同時にそれが自分から何かを吸い取っているのが分かる。ひどい脱力感と疲労、そして途方もない空腹感に、少年はその意識を手放した。

「それで? 分かってるんでしょうね、マモン」
 
意識を手放した少年をバニー達に運ばせ、部屋を出て行こうとしたマモンを、女は軽く睨み付けた。
「ええ、お任せくださいご契約者様。私は善良な商人でございますゆえ、お代金分の仕事はさせていただきます」
「ふん、それでいいのよ。けどもうそんなに待てないからね」
「分かっております。恐らく後一週間以内に、ご契約者様の望みはすべて叶う事でしょう」
「あ、そう……じゃあそれを楽しみに待ってるわ。さっさと“あの女”を殺してちょうだい」
 そう言って薄く笑うと、女は手をしっ、しっ、と振って、出て行くように促した。
 一礼して廊下に出たマモンは、手でドアをかちゃりと閉めると、心底楽しそうに微笑んだ。

「……ですが残念なことに、お客様の本当の願いは、決して叶いませんが、ね」


 西暦2015年(皇紀15年)7月20日 12時40分



 ガツガツガツ、とそんな音が聞こえそうな勢いで、目の前の皿からスパゲティの大盛りが消えていくのを、聖亜は半ば呆れ、半ば感心しながら見つめていた。
 皿の上にあるスパゲティを平らげると、それを何枚もの皿が重なっているその一番上に置き、最後にコーラを一気飲みすると、エリーゼは男らしくゲプッと息を吐いた。
「いや~、うまかった。それで? 何の話だっけ」
「話の前に……スヴェンの姿が見えないようだが」
「ああ、あいつはいいの。どうせ居たって殺し合いになるだけだろ? 止めるのも面倒くさいからホテルに置いてきたよ」
 からからと笑うと、エリーゼは不意に真面目な顔をして、向かい側にいるヒスイを見つめた。
「けど、この先どうするかちゃんと考えなよ? 仮にも婚約者なんだからさ」
「……分かっている」
 ヒスイの答にそうかいと男らしく頷くと、エリーゼは爪楊枝で歯を掃除しながら、話の続きを促した。
「ああ、その……もう気付いていると思うが、この太刀浪市に新たな爵持ちが出現した。名はマモン、爵位は男爵だ」
「マモン……ふ~ん、“渡り商人”か。商人にして獄界の12122体の研究者の一人。嘆きの大戦で配下のエイジャ達が捕まえてきた捕虜を生きたまま切り刻んで生体実験に使った奴。それで? 戦ってみた感想は?」
「ああ。実際それほど強いとは感じられなかったな。まああっちは単なる商人だし……けど気になることが一つ」
「ふん? 何だい、聞こうじゃないか」
 平らげた皿をテーブルの隅に追いやると、エリーゼはこちらに身を乗り出してきた。
「……奴が配下として使用していた寄生種、これが少し妙なんだ」
「妙? どんな風に。その前にどんな形だった?」
「ああ、蟷螂のような形で、速度と攻撃力は優れていたんだが、その反面防御力はほとんどなかった……こいつ、聖亜の投げた釘ですら関節部分に突き刺さったからな」
「……ん?」
 いきなり名を呼ばれ、右手をさすりながら彼女らの話をぼんやりと聞いていた聖亜は、はっと顔を上げた。
 そんな彼に何でもないという風に手を振ると、ヒスイはまたエリーゼと話をしていた。
 それをぼんやりと聞き流しながら、聖亜は昨日の会話を思い出していた。



 西暦2015年(皇紀15年)7月19日 13時30分

「……封印だって?」
 復興街から帰って一日たった日の昼頃(ちなみにその一日は聖亜とヒスイは2人とも食事をとらずに爆睡してしまい、目が覚めたら今日の朝だった)、突如キュウから言われた言葉に、聖亜は親子丼の入っている丼から顔を放すと、黒猫の顔をまじまじと見た。
「……お「あらあら、何やってんのよ聖亜、頬にご飯粒がついてるわよ」くっ!!」
「あ、ああ。悪い……って、何怒ってるんだ、小松」
 くすくすと笑うナイトに頬を突っつかれ、聖亜は照れ臭そうに笑って礼を言った後、隣でなぜか不機嫌そうな顔で給仕をしている小松の方をちらりと見た。
「…………何でもない」
「……ふ~ん?」
 こちらを見ないように顔を背け、ぶっきらぼうに呟く彼女に聖亜は軽く首を傾げたが、彼女が何でもないと言っている以上尋ねても無駄だろう。そう結論付けると、聖亜は黒猫に改めて向かい合った。
「それで? 何だよ封印って」
「……聖亜、そなた封印の意味も分からぬのか。封印とは簡単に言うと対象が出てこぬようにすることだ」
「意味ぐらい分かってるよ。俺が聞いているのは、何でそんな話になったかという事だ」
 朝食が始まってすぐ、キュウは聖亜に重々しい口調で言ったのだ。彼の“御手”を封印すると。
「そんなことは決まっておるだろう。汝が御手を完全に使いこなせていないからだ。一昨日の戦闘を思い出してみるがよい。そなた御手を出そうとして結局出せず、一瞬無防備になったであろう? 大事にならなかったからよかったが、御手があると思っているからこそ使いたくなるのだ。ならばいっそのこと使えないようにしてしまえばよい」
「……けど、御手を封印するってことは、つまり炎也も封じるってことだろ? それはさすがにちょっと」
 なおも渋る聖亜を見て、さすがに気の毒に思ったのか、ヒスイはちらりと黒猫を見た。相棒の視線に、キュウはやれやれと首を振った。
「……まあ、完全に封じなくとも、発動だけを止める方法もある。これならばあの馬鹿娘も封じられることはあるまい」
「そっか……ならそれで頼む」
 ほっとした顔をする少年を見て、皮肉気に、だがどこか可笑しげに笑うと、キュウはその紫電の瞳を妖しく光らせた。
「うわっ!?」
 その光が自分の右腕を照らしたのを見て、聖亜は驚いた声を上げたが、別に違和感は感じない。その内に光は右腕を覆うように動き、やがて消えて行った。
「ふむ、これで良いはずだ。だが良いか聖亜、あまり感情を高ぶらせるな。封印がはじけ飛ぶからな」
「……はじけ飛ぶ?」
 聞きなれない言葉に首を傾げる彼に頷くと、キュウはそっと目を伏せた。
「完全に封印するならそんなことはないが、これはあくまで発動を封じるだけだからの。さすがに結界喰らいの激情には耐えられん」
「……」
「だから完全に封じる方が安全なのだが……そなたが嫌だというなら仕方がない。無理強いしても良い結果にはならぬからの」
「そうか……分かった」
 少年が頷くと、黒猫はせいぜい気を付けることだなと呟き、食後の睡眠に入った。





西暦2015年(皇紀15年)7月20日 12時50分


「なるほどねぇ、マモンはこの都市で生体実験をしてるってわけか……気に食わない奴だねぇ、まったく」
 ぶつくさと言いながら、エリーゼは忌々しげに舌打ちした。その音で昨日のことを思い出していた聖亜がはっと顔を上げると、彼女はもう立ち上がった所だった。
「分かったよ。あたしの方でも調査をしておく。それから一度本部に連絡して、この後どうすべきか尋ねてみるよ」
「……ここにずっといるわけではないのか?」
「ん~、確かに上の連中は高天原の勢力圏に組み込みたいようだけどさ、少なくともあたしとスヴェンは一旦帰国すると思うよ? 一つの都市に2人も一級の魔器使が配属されるなんて、前例がないからね」
 そう言うと、エリーゼは立ち上がって2,3歩歩き出したが、ああと思い出したように振り返った。
「それから、指示が出るまではくれぐれも軽率な行動は慎むこと。特にヒスイ、あんたは冷静に見えて感情的に動きやすいから、くれぐれも自嘲する事。前回の絶技使用の件については一応様子見という形での謹慎処分になったけど、うかつな行動はあんたの不利にしかならないよ。いいね」
「あ、ああ」
 頷いたヒスイを見て満足そうに笑うと、彼女は手をひらひらと振って歩き去った。

「……要するに、どういうことだ?」
「指示が出るまで何もするなという事だ。それにしても」
 テーブルの上に散乱した何枚もの皿を見て、ヒスイは呆れたようにため息を吐いた。
「この料理の代金は、もしかして私達が払わなければいけないのか?」
「……ま、さっさと払って城川先生の所に行くぞ。香の事も話さないといけないしな」
 彼女の問いに首を振って答えると、聖亜は財布を取り出して立ち上がった。





西暦2015年(皇紀15年)7月20日 16時10分



「そうか……香は復興街に」
 聖亜から香が復興街に足を踏み入れた事を聞くと、城川は悲しげに首を振った。
「はい。けど行方不明になっているだけで、死んでいるというわけではないようです……すいません、こんな報告で」
「いや、君のせいじゃないよ、聖亜君。妹が自分で決めたことだ」
 そう言って、彼は番茶を一口すすった。
「それと……安心、というわけではありませんが、旧市街で4日前、“ちょっとした混乱”がありました。まあ簡単に言うとある組織のトップが変わったんですけど、新しいトップはそれほど女に興味がない、というより女の気持ちが理解できる男なので、命の危険はまったくない……とは言えませんが、それほど高くはないと思います」
「そう……それなら安心だ」
 苦笑いを浮かべる城川の前で、聖亜は出された番茶を彼と同じように口に含んだ。そのお茶はいつもより苦く、そして少しだけしょっぱかった。
「さてと、話は変わるのだけれど聖亜君、君夏休みはどうするんだい? 県の絵画コンクールは9月、夏休みの後半だ。それまで絵を描き直したいなら付き合うけど」
「え……あの、それは……え~と、し、暫らく考えさせてください」
「そうかい? まあ描き直したくなったらいつでもいってくれて構わないからね」
「は、はい。そういえばヒスイ、遅いですね」
 店に来た時、彼女がみたらし団子を好物だと知った城川の妻により、ヒスイは強引に厨房に引きずり込まれた。みたらし団子の作り方を教えるためである。
「……まあ、僕の奥さんみたらし団子の事になると人が変わるからね。すまないけれど、もうちょっと待っていてくれるかな?」
「はあ……」
 みたらし団子の事になると人が変わるのはヒスイも同じだな。そう思いながら、聖亜はまた一口番茶を口にした。


「さっきも言ったけど、おいしいみたらし団子を作るのに大切なのは、きちんと団子粉を練る事だからね」
「は、はい!!」
 おっとりした感じのかわいらしい女性にそう言われ、ヒスイは目の前の入れ物に入れてある団子粉を懸命に練った。
「ほら、さっきと同じ間違いをまたやってる。それじゃ力を入れすぎって言ったはずでしょ、団子粉の硬さは、耳たぶと同じ柔らかさなんだから」
「あ……」
 手をぴしゃりと叩かれて、ヒスイは粉を練るのをやめた。確かに彼女の言う通り先ほどと同じでこねすぎた様だ。手をさすりながら流しの隅に捨てられた硬すぎる団子の粉を見て、少女はさっと顔を赤く染めた。
「……うん、けどこれぐらいなら大丈夫。さてと、次はたれを作りましょうか」
「はい」
 そう言って大きな貯蔵庫に向かう女性―城川先生の妻である城川春奈の後に続くと、ヒスイは彼女が貯蔵庫の中から出したでん粉や醤油などを受け取った。
「そういえば、ヒスイちゃんはアメリカから来たのよね、どうしてみたらし団子が好きなのかしら」
「それは……父がよく作ってくれたものですから」
「そう、いいお父さんね。私の理由もちょっと似てるかな……私はね、大好きな人に私の作った物を食べてもらっておいしいよって言ってくれるのが見たいから作ってるの。けどいつも作りすぎるみたいで……あんまり食べてくれないのがちょっと寂しいかな」
 砂糖と醤油を混ぜたものにでん粉を入れ、とろみが出るまで混ぜながら、春奈は優しく、だがちょっと寂しげに微笑んだ。
「……本当に好きなんですね、城川先生の事」
「まあ、幼馴染でずっと一緒にいようって約束したからね。でもそれを言うならヒスイちゃんだってそうでしょ?」
「……は? あの、私が何でしょう」
 蒸気式のヒーターでお湯を沸かしていたヒスイは、春奈が言った言葉の意味が分からずぽかんとした顔で聞き返した。
「だからヒスイちゃん、作ったみたらし団子聖ちゃんにあげるんでしょ?」
「……すいません、あの、何で私が聖亜にみたらし団子をあげなければならないんでしょうか」
 ヒスイの呟くような質問に嬉しそうな、だがどこか面白そうな笑みを浮かべると、春奈は少女の耳元にそっと口を近づけた。
「だって好きでしょ、ヒスイちゃん、聖ちゃんの事」
「んなっ!?」
 耳元で囁かれた言葉に、ヒスイは団子の形に丸めた生地をぐっと押しつぶした。
「な、なんでいきなりそんな事を言うんです? そりゃ好きか嫌いかと聞かれたら、好きと答えるでしょうが、それは異性としてではなく……そうだ、大体聖亜には準がいます。恋人がいる男を好きになるなんてありえません」
 何日か前ナイトに言った言葉を、だがこの時ヒスイはなぜか動揺して答えると、あたふたと丸めた生地を湯の中に入れた。
「そう? けど確かに重婚は犯罪だけど、別に二股ぐらいいいんじゃないかしら。大体、それ以前に準ちゃん一人で聖ちゃんを受け止め続けるなんて無理よ。“壊れちゃう”から」
「こ、“壊れる”!?」
「まあ、それは聖ちゃんから直に聞いてみて。さ、そろそろお団子に葛餡をかけるわよ。手伝ってちょうだいね」
 愕然としているヒスイを見てくすくすと小さく笑うと、春奈は鍋の火を止め、程よく煮た団子を皿に盛りつけ始めた。



「どうしたんだ、ヒスイ」
「…………何でもない」
「そうか?」
 城川屋からの帰り道、聖亜は手作りのみたらし団子を持ちながら、傍らでぐったりとしているヒスイに声をかけた。何故かは分からないが、彼女は厨房から出てからこの状態だった。
「まあ何でもないならそれでいいけど……それより、香が見つかったら俺ちょっとロシアに行ってくるよ」
「……は?」
 聖亜の放った言葉に、ヒスイはぽかんと口をあけて少年を見つめた。だが思い当たる節があったのか、すぐにああと頷いた。
「あの老人のひ孫を見つけに行くのか?」
 老人というのは、聖亜がジ・エンドを叩き潰した際に唯一苦戦した相手の事だ。彼は聖亜に敗れた後、ひ孫に関しての記憶をキュウに封じられ、今では妖夢館で警備隊長をしている。これは彼が女王蜂に頼んだためであり、女王蜂の方は隠居させることを提案したのだが、彼が強引に押し通した。
「そうだ。あともう一つ。というかこっちが本題なんだが、ジ・エンドに武器を売っていたロシアン・マフィアを探し出して叩き潰す。まあひ孫はそいつらに連れて行かれただろうから、運が良ければマフィアを潰している間に見つかるだろう」
 ついでにロシア料理でも食べてみるか。そう呟き、まるで遠足に行く子供のように笑う少年を見て、ヒスイはふぅっと一度大きくため息を吐いた。
「まあロシアに行くというなら止めたりしないが……せっかくの夏休みだろう、恋人と遊んだりしなくていいのか?」
「は? 恋人……だって?」
 ヒスイの言葉に、先程の彼女と同じく、聖亜はぽかんとした表情で目の前の少女を見つめた。
「おいおいヒスイ、お前何勘違いしてるんだ、俺に恋人なんていないよ」
「……嘘を言うな、なら準はお前にとって一体何なんだ」
「準か……そういえばヒスイにはまだ言っていなかったっけ。準は俺にとって“唯一”なんだ」
「ゆい、いつ?」
「そう唯一。恋人でも友人でも、仲間でも夫婦でもなくて、それらを足した以上に俺に取って必要な女……それがあいつだ」
「必要な女、か」
 聖亜の言った言葉を呟いたとき、ふとヒスイの中に小さな感情が生まれた。何だかむかむかとして、それがひどく気分を害する。それはいわゆる嫉妬という感情だったが、この時のヒスイにはその感情が何なのかさっぱりわからなかった。
「しかし、すごいな……そんなふうに思えるなんて、さぞ劇的な出会いだったんだろう」
「劇的か、そりゃ劇的と言えば劇的だったけど……」
「……?」
 不意に、少年の歯切れが悪くなった。首を傾げてこちらを見つめてくるヒスイに、聖亜は暫らく考え込むようにしていたが、やがてため息を吐いた。
「俺と準はさ、中学の時初めて会ったんだけど、あいつその時一年でしかも女子のくせに喧嘩が強くてさ、番長みたいなのやってたんだ。で、入学して一月ほどして喧嘩吹っかけてきてさ……返り討ちにして、その後家に連れ込んで三日三晩犯しぬいた」
「…………お、おかむぐむぐ」
 愕然とした後、叫ぼうとしたヒスイの口を聖亜は慌てて塞いだ。道行く人々がちらりとこちらを見るが、何事もなく去っていく。
「……ぷはっ、お前、それで良く唯一なんて言えるな」
「いやまあ、壊れる寸前で優しく抱いてやったら滅茶苦茶惚れられて……それで彼女の先輩だった春奈さんのグループに呼び出されてぼこぼこにされて、そのうち俺に取ってなくてはならない唯一の存在になったって訳さ」
「……いろいろと言ってやりたいことはあるが、まあいい。それにしても春奈さん、不良グループにいたのか」
「まあ、あの人ああ見えて俺より強いからな、柔術と剣術の達人だし……しかし香の奴一体どこにいるんだ? 女王蜂の部下に写真渡して探してくれるように頼んであるけど、あの情報通が三日掛けて見つけられないんだ。恐らくもう復興街にはいないだろうな」
「それも気になるが、まず何よりしなければならないのはマモンの討伐だ。それほど実力はないとはいえ、爵持ちのエイジャであり、人に害を及ぼしたことに変わりはない。早急に探し出して討伐する必要がある」
 それまでの表情とは一変し、冷徹な表情を見せた彼女に、聖亜も重々しく頷いた。





西暦2015年(皇紀15年)7月20日 20時40分



「……すいませんがもう一度言ってくれませんかね」
 その日の夜、ホテル「ニュー秋野」の8階にあるスイートルームで、エリーゼは携帯電話を耳に当て、険しい表情を浮かべていた。

『あら、よく聞こえなかったのかしら? ならもう一度言ってあげるわ。エリーゼ、白髪の小娘……絶対零度を抹殺しなさい』

 携帯電話の向こうから聞こえてくるのは10歳ほどの明るい少女の声だ。だがその内容は年端もいかない少女に出来るものでは決してない。眉をぎゅっと強く顰めると、エリーゼは加えていたフライドチキンの骨を思いっきり噛み砕いた。
「あのですね教授、報告書はもう送りましたよね。確かにヒスイの奴は絶技を使用しましたが、それだけで処刑対象にはなりません。実際に本部の決定は様子見という形になりました。それは教授もよくご存じのはずでしょう? それに今回連絡したのは、爵持ちであるマモンの討伐許可を得るためです。一級魔器使が高天原の勢力内で爵持ちと戦うのには上の許可が入りますからね。いつ出していただけます?」
 彼女の反論に、電話の向こうにいる少女はころころと笑い声を上げたが、ふとそれが途絶えた。

『マモンなんて下等な爵持ち、軽く消し飛ばせばいいじゃない。まああなたでは無理でしょうけど、スヴェンがいるでしょう? いざとなったら“あれ”を使えば、マモンなんて一瞬で消し飛ぶわ。それにエリーゼ、私は“お願い”をしているのではないの。私はね、あなたにやれと“命令”してるのよ?』

「……」
 無言のまま、エリーゼはぎりぎりと骨を噛み砕いた。
「……分かりましたよ。これよりスヴェンと共に絶対零度の抹殺任務に入ります」

『そうそう、最初からそう言っていればいいのよ。大体あなたは私に大きな借りがあるんだから、どんな命令も断れないものね』

「そりゃそうですがね……ああ、一つ確認していいですか?」

『あら? なあに?』

 口の中にある骨を傍らのごみ箱にぺっと吐き捨てると、エリーゼはがしがしと頭を掻いた。
「今回の抹殺任務、もちろんあなた以外の教授方も知っておられるんでしょうね。ヘルメス教授。いやですよ、そっちに帰ってそうそう仲間殺しでぶっ殺されるのは」

『それなら心配はいらないわ。あなた達には通達ミスで本部の決定がきちんと届かなかったことにするから。ま、なにかあっても“処分”されるのは憎しみの感情に流されて“不可抗力”で絶対零度を殺してしまったスヴェンと、彼を野放しにしたあなたにしか及ばないから……じゃ、くれぐれも失敗しないようにね。健闘を期待しているわ』

 言いたいことを言いたいだけ言うと、電話の向こうにいるヘルメスはさっさと電話を切ってしまった。ツーという無機質な音が流れ出してから、エリーゼはちっと忌々しげに舌打ちした。
「ったくあの糞女、自分の言いたいことばかり言ってさっさと切っちまった……しかしなんだってそんなにヒスイの抹殺にこだわるのかね。あいつとヘルメス教授との間に別に接点はないし」
 ヘルメスがヌアダの魔器を強請り取ろうとして、一蹴されたことを知らない彼女は、訳がわからないといった風に頭をひねっていたが、やがてここで考えていても始まらないという結論に達したらしく、一度部屋を出ると、スヴェンがいる隣の部屋へと入っていった。

 隣の部屋の中は薄暗かった。カーテンは閉め切っており、周囲には投げ散らかった衣服が散乱している。部屋の隣にあるベッドルームに入ると、エリーゼは忌々しげに舌打ちし、こんもりと盛り上がっているベッドを思い切り蹴った。
「……む」
 ベッドが揺れた衝撃で、その中に入っている人物は軽く呻いた。身長は180を優に超えており、巨大なベッドが小さく見えるほどだ。
「ったく、いつまで寝てるんだいスヴェン」
「……」
 ベッドを蹴った彼女を睨むと、スヴェンはまたベッドに潜り込もうとした。その動きを彼の熊の模様が入った大きなパジャマを踏んづけて止めると、エリーゼは散らかっている服を拾い上げ、スヴェンに向かって投げつけた。
「何をする」
「何をするじゃないよまったく。幾ら本部からの通達でヒスイが殺せなくなったからと言ったって、昼間から寝ていることはないだろ」
「……お前に何が分かる」
「そりゃ分からないさ。分からなくもないね。人間が人間を憎むなんてさ。憎むなら人間よりエイジャにしな。この“あたし”のようにね」
「……」
 むっつりとベッドに腰掛けたスヴェンを見てため息を吐くと、エリーゼは出来の悪い弟を諭すようにその肩をポンポンと叩いた。
「ま、そんなに落ち込むこともないだろ。実はね、さっきあの狂った科学者から、あんたの喜ぶような連絡があったんだよ」
「……?」
 その言葉にスヴェンは軽く首を傾げたが、数秒後、彼はエリーゼの言ったとおり狂ったように笑い声をあげて喜んだ。




 

二つの事件は、その日の夜に起きた。

最初の事件は復興街で起きた。ジ・エンドを牛耳っていた三馬兄弟とその部下たちが聖亜の手により壊滅したことで、苦しい生活を強いられてきた快楽区の人々は喜び、明日から始まる忙しい復興の前に一時のパーティーが開催された。といっても路上に飲み物や食べ物を並べて雑談するという簡素なものであったが、皆の顔には希望に満ちた笑顔に変わった。


 その笑顔が絶望に変わったのは、僅か30分後の事であった。

妖夢館の東部が再び爆発したかと思うと、その中からうつろな目をした人間が多数這い出てきたのだ。彼らを見た者は、皆驚愕し、続けて恐怖した。

なぜなら彼らは、以前聖亜によって叩き潰された三馬兄弟の部下達だったからだ。つまり全員が生きる屍、ゾンビだったのである。

 ゾンビ達は驚愕している人々に襲いかかったが、それらは皆館の警備隊長である老人の手によって叩き壊され、大事には至らなかった。だが彼らのほとんどが破壊され、生き残ったほんのわずかなゾンビが逃げ去った後、彼らは一人の女がいないことに気付いた。

 2年以上の長きに渡ってジ・エンドと抗争を続けたグループのリーダーであり、この度晴れて新幹部となった男―イタチの妻である。


 もう一つの事件は、旧市街のお立通りでほぼ同時刻に起きた。夜といっても旧市街の道の両端にはガス灯が煌めき、また警察による夜の巡回がされているため、子供でも安心して外を歩くことができる。まあ、子供が出歩いていた場合問答無用で家に帰されるが。
 その安全な道を、城川春奈は聖亜の家に向けて歩いていた。といっても大した用事ではない。今日出会ったヒスイという少女にレシピを渡すためである。
 だがあと少しで彼らの家を囲む竹藪に着く、その瞬間―

 
 彼女の姿は、ふっと掻き消えた。

 ガス灯の光はあるが人通りのない道であったため、彼女が消えた姿を見た者は誰もいなかった。


 そう、昼夜問わず街を飛び回っている“彼ら”以外には





西暦2015年(皇紀15年)7月20日 22時20分


 聖亜達が異変に気付いたのは、夕食と風呂を終え、寝る寸前だった。

 最初に気付いたのはキュウだった。ビショップと小松が共同で作った夕食を食べ終え、うとうととしていた時、彼女ははっと目を見開き黒い空を見上げた。
「ん? どうしたキュウ」
 風呂から上がったばかりで髪を拭いていたヒスイが彼女の様子に気づき、ふと声をかけた。
「……空気が重い。闇の中で何かが蠢いている」
「何かって……何だ?」
 布団を敷き終えた聖亜の問いに、キュウは分からんと首を振りながらも、ふとその紫電の瞳を伏せた。
「分からんが良い物では決してない。恐らく、恐らくだが……」
 彼女が言葉を続けようとした時、家の戸がどんどんと強く叩かれた。
「おいおい、もう夜の10時過ぎだぞ。誰だよこんな時間に」
 ぶつくさ言いながら、聖亜は玄関に向かった。戸を叩いているのはどうやら男らしい。そしてその姿形を見て、聖亜はふと首を傾げた。
「え? 城川……先生? 待ってください、今開けます」
 サンダルを履いて戸を開けると、外には思ったとおり彼の年上の幼馴染であり教師でもある城川がいたが、その顔はいつもはおっとりとしている彼の表情とはまったく違っていた。
「ど、どうしたんですか? 城川先生」
「はぁ、はぁ、はぁ!! せ、聖君、ここに僕の奥さん来なかったかい?」
「奥さん……春奈さんですか? いえ、来てませんけど。春奈さん、どうかしたんですか?」
「そ、それが……一時間前にこの家に行くと言ったきり、何の連絡もなくて。香もまだ見つかっていないし、心配になって来てみたんだけど」
 恐らく全力疾走してきたのだろう、がくりと片膝を付いた彼の横を通り過ぎると、聖亜は家を囲んでいる竹藪を抜け、お立通りに続く道を駆け抜けた。身体の弱い城川では疲れる道も、彼にとっては数分の距離でしかない。だが春奈の姿はどこにもなく、10分後気落ちした表情で、聖亜は家に戻ってきた。
「聖君、やっぱりいなかったかい?」
「ええ。けど本当にどうしたんでしょうか。何か事件に巻き込まれたといっても、俺より強い春奈さんを傷つけられるような奴が、復興街にいるはずっ」
 テーブルに座って帰りを待っていた城川の問いにため息交じりに頷くと、自分もテーブルに座ろうとした彼は、ふと口を閉ざした。
「ん? どうしたんだい、何か思い当たる節でも?」
「……いえ」
 軽く頭を振ると、城川に気付かれぬよう傍らにいるヒスイに視線を送る。と、こちらの視線に気づいた彼女は間違いないという風に微かに頷いた。
「あの聖君、こういう時はやっぱり警察に届けたほうがいいのかな? やっぱり行方不明だし、もし事件に巻き込まれているとしたら、早く助けてあげないと」
「え? いや、それはやめておいた方がいいと思いますよ。まだ一時間しか経っていないですし、警察に届けてもどこかに寄り道しているか、それとも家出という形で処理されます」
 警察に頼ろうとしている城川を、聖亜は慌てて止めた。もし自分たちが考えている通りなら、警察が動いたとしても犠牲が大きくなるだけだ。城川もそれほど警察を信じてはいないらしく、すぐにそうだねと頷き、ふと顔を歪ませた。
「やっぱり出て行っちゃたのかな」
「……は? 何言ってるんですか、城川先生」
「だってそうだろう、僕みたいな弱くて取り柄と言ったら絵を描くことぐらいしかなくて、和菓子屋の跡取り息子のくせに甘いものもそんなに食べられない生きてる価値のない男に、あんなに綺麗で格好良くて強くて優しくて何でも出来て美人な春奈ちゃんが、高々幼馴染というだけでお嫁さんに来てくれた事自体おかしいんだよ。出て行っちゃったんだよ、きっと」
 また始まった。内心でため息を吐くと、聖亜は目の前でうじうじしている男を殴ってやりたくなった。城川は身体の弱い自分にコンプレックスを持っており、自分と妻である春奈を比較して一年に一度はこうやっていじけてしまう。ちっと微かに舌打ちすると、聖亜は再びヒスイに目をやった。彼の考えていることを察したヒスイがいまだにいじけている城川の後ろに回り、その首に手刀を極々軽めに叩き込んだ。


「それで、どう思うヒスイ」
「どう思うも何も、これはマモンの仕業だ。先程キュウが何かに気付いた事と照らし合わせてみても、間違いないだろう」
 彼女の手刀を首筋に受け、気絶した城川を聖亜の布団に寝かせると、聖亜はヒスイと共に隣の部屋に移った。ここには2人の他にキュウと小松・小梅、そしてナイトを初めとする三体の人形が居り、少々狭い。
「いや、仮にマモンの仕業だとして、何で春奈さんが攫われる前に気付かなかったんだ? いつもならエイジャの気配にすぐに気づいていただろ」
「……昼間の事を忘れたのか聖亜。エリーゼから手出し禁止と言われていただろう。一級魔器使は自分より格下の魔器使に指示を出す権利と義務を持つ。彼女から手出し禁止と言われた以上、その気配を探ることも許されん」
「何だよそれ……まあいい、とにかく今は早急に春奈さんの居場所を突き止め、彼女を救出することにしよう。ナイト、ポーン、ビショップ、お前達も力を貸してくれるな」
「そんなの当たり前じゃない聖。私はあなたの物なんだから」
「承知。しかし聖亜の配下になった初陣がマモンとはいえ爵持ちとは……腕が鳴るな」
「構いませんよ。ですが行く前にお夜食を作らなければなりませんね」
 ナイトが笑いながら、ポーンが重々しく、そしてビショップが微笑んで同意すると、聖亜は三体の人形に向かって頷き、立ち上がった。
「待て聖亜、どこに行く」
「どこって……もちろん春奈さんを助けに行くに決まってるだろ。ああ、あんた達は来なくていい。どうせ上から命令されて動けないだろうからな」
「……」
彼女の方を見ず忌々しく吐き捨てるように言った聖亜は、ゆえに目を細め、傍らの小松に指示を出したヒスイの様子に気づくことはなかった。
「おい、待て馬鹿者」
 今度は黒猫が容赦ない言葉で呼びかけてくる。その言葉に誰が馬鹿だと反論しようと振り返った聖亜は、次の瞬間むぎゅっとなにか柔らかい物に顔を挟まれた。
「むぐっ」
「あ……そ、そんな、あ、いきなりっ」
 結構すごい勢いで振り返ったため、その柔らかい物の奥まで顔がめり込んでしまい、容易に抜け出すことができない。なんとか抜け出そうとしていると、すぐ近くで誰かの喘ぎ声が聞こえてきた。
「…………何をやっている、馬鹿」
 ヒスイの冷たい声が聞こえ、聖亜はその柔らかい物から顔を引き剥がされた。上を見ると、顔を真っ赤にした小松が荒い息をして胸を抑えている。どうやら今までそこに顔を埋めていたようだ。
「あ、悪い」
「……い、いや」
 頬を染めながら崩れた着物の襟を正している小松を見ていると、不意に隣で咳ばらいがした。振り向くとむっつり顔をしたヒスイがこちらを睨んでいる。
「それで、どうして呼び止めた? 早く春奈さんを探しに行きたいんだけどな」
「……誰も探すのを手伝わないとは言っていない。第一春奈さんは私にとってみたらし団子を作る際の師に当たる。弟子には師を助ける“権利”があるはずだ」
 自分の問いに対するヒスイの答えに、聖亜はぽかんと口を開けて彼女を見ていたが、やがてふっと微笑した。
「……すまない、知り合いが誘拐されたものだから気が立っていたんだ。けどいいのか? あのエリーゼって女からはマモンに何もするなと言われたんだろう?」
「私は春奈さんを助けに行くだけだ。マモンと戦うとは言っていない。まあ、人命救助の際、偶然マモンと戦うことになるかもしれないが、それはあくまで“偶然”だからな」
「ははっ、そうか偶然か」
 先に部屋の中に戻ったヒスイに続いて部屋に入ると、聖亜は軽く息を吐いた。
「さてと、なら問題を整理してみようか。1時間以上前、ここに来るはずだった春奈さんが行方不明になった。城川屋からここまでは歩いても15分ほどで着くから何らかの事件か事故に巻き込まれたとみて間違いないだろう。けどさっきも言ったと思うが春奈さんは俺よりも強い。例え拳銃持った50人のやくざに囲まれても顔色変えずにぼこぼこの再起不能に出来るほどだ。けどこれとほぼ時を同じくしてキュウが何かの気配を察知していたから、恐らくエイジャによって拉致されたものとみて間違いない。その理由は分からないが、今しなければならないのは理由の解明ではなく、一刻も早く春奈さんの居場所を探す事……って、何皆してぽかんとしてるんだ?」
 テーブルの脇に腰掛けて話し始めた聖亜は、こちらを何か言いたげな表情で見てくるヒスイたちの視線に一旦話すのをやめると、少しむっとして見返した。
「いや……お前って結構考えてるんだな」
「……ん、まあ猿師匠から言われていたんだよ。考えることをやめなければおのずと勝つ方法が見つかるってな」
「そうか」
 その説明に納得したのか、ヒスイはこくりと頷いて表情を和らげた。
「で、話を戻すけどどうやって春奈さんの居場所を探す? 一通りもないし、それ以前にエイジャの手によって攫われたなら気付くはずもないだろうし」
「ふむ……まあ確かに人間には無理だろうな。だが聖亜よ、お主は一つ忘れていることがある」
「忘れている事?」
 首を傾げる聖亜の横を通り過ぎ、キュウは縁側に出ると暗い空をじっと見上げた。
「うむ。この街にいるのは人だけではない。犬や猫といった動物も暮らしている。そしてその中で一番頭が良いのはこやつらだ……加世、いるか」
「加世?」
 誰もいない外に向かって声をかけた黒猫を見て、聖亜も外を見たが、やはり誰もいない。何もいないじゃないかと、傍らのキュウに抗議しようとした時だった。
「―ここに」
「うわっ!?」
 不意に、庭の木の陰から一人の女が姿を現した。年の頃は自分とそう変わらない。夜風に揺れる短い黒髪と小麦色の肌を持つ、美少女と言ってもいい風貌だが、何より聖亜の目を引いたのは、彼女の背中から生えている黒い大きな翼だった。
「加世は鴉天狗の血を僅かだが引いていてな、その血を活性化させてこの姿にしてやったのだ」
 少年の視線に気づいたキュウがそう言うと、佳代という名の鴉天狗はこちらに目を向け、だがすぐにそっぽを向いた。包帯が巻かれている左腕を、右手で強く抑えながら。
「……?」
 その包帯にどこか見覚えがある気がした聖亜が、口を開こうとしたとき
「さて加世、そなたを呼び出した理由は分かっておるな」
 彼よりも先に、キュウが彼女に向かって話しかけた。
「はい。先程この街で発生した異様な気配は、すでに仲間が追っています。それともう一つ……」
「もう一つ? 何だよ」
 質問した聖亜を加世はちらりと見たが、何も答えずに再びキュウの方に向き直った。
「都市の西南で何かしらの騒ぎがあったようです。人間達が騒いでいるのを耳にした仲間からの連絡では、なんでも死体が動き出したとか」
「死体が動き出しただと? 確かにエイジャの技術を使えば屍が動くぐらい簡単にできるが……それをやるとして、なぜ復興街の方に行った」
「それは私には……っと、来たようです」
 加世が見上げた夜空の向こうから、バサッバサッと鴉が一羽飛んできて彼女の肩に止まり、カァカァと何かを囁く。彼女が頷くと、鴉はまた空の向こうへと飛んで行った。
「……とりあえず気配がどこに行ったかは分かりました。ここから北東にある廃墟です。数日前からそこに何かの気配がするという話はあったのですが、詳しくは」
「そうか、ごくろうだった……という訳だ聖亜、これから北東に向かうぞ」
「へ? あ、ああ……北東ならデパート通りだな。そういえば去年閉店してそのままになっているデパートがあったけど、そこか」
「うむ。ではそのデパートに向かうぞ。ヒスイ、用意はいいか」
「……本当は化粧をしたいが、その暇はないか。しょうがない、これで我慢しよう」
 ペンダントから取り出した桜の髪留めを髪に付けると、ヒスイは小松と小梅に目をやった。2体の魔器は一つ頷くと、その姿を本来の形である刀に変えた。
「よし、行くぞ」
「うむ……では加世、我らはこれからその廃墟に向かうが、そなたはどうする? 戻るか」
「……いえ、私もお供いたします。これでも多少短刀の心得がありますので」
 身に着けている服の袖からきらりと光る刃を覗かせた彼女を見て一つ頷くと、キュウはふと空を見上げた。

 空には星々の中に、大きすぎる月が覗いていた。

「……今夜は何かが起こるの。月がきれいすぎる」



 その日、準が夜遅くに外を出歩いていたのは偶然だった。午後から学校の図書館にいたのだが、夏休みに入ってからの夜更かしが続いたため、つい眠りこけてしまったのだ。
 それでも宿直の先生によって起こされ、9時前には学校を出たのだが、学校から家までは1時間ほどかかるため、途中のコンビニで夜食を買って帰るとどうしてもこの時間になってしまう。まあ、家には誰もいないから遅くなっても注意されることはないが。
「まったく、聖の奴全然遊びに誘わないし……そろそろこっちから押し掛けてやろうか」
 ここで他の男に乗り換えようと考えないあたり、彼女は聖亜に心底惚れているのだろう。と、もうそろそろ家に着くとき、彼女は暗い道をばたばたと走る複数の人影を見た。

「ん? あれは……聖亜か?」

 見えたのは一瞬だけだが、彼女は想い人を見間違えるようなことはしない。わずかな時間家と少年が通って行った道を交互に見たが、やがて意を決したかのように、少年が通った道へと走り出した。


それが、彼女の運命を決するとも知らずに




「……っ!!」
「……」
「…………!!」

「……う?」
 春奈は甲高い女の声に、ふと目を開いた。
 
 分からない。何故自分は気を失ってしまったのだろうか。自宅から聖亜の家に行く途中だったのは覚えているが、その後の記憶がない。身体を動かそうとすると、縛られているのか手首と足首がそれぞれ縛られているのか、微かに音を立てただけだった。
 だが、その音に気付いたのだろう。今まで甲高い声を出して何かを言っていた女が、ふとこちらを向いた。

「あら、お目覚めかしらお姉さま」
「……香、ちゃん?」
 そこにいたのは長い金髪をした女だった。年は14,5歳ほど。だがけばけばしい化粧のせいで実年齢より4,5歳は老けて見える。
「香ちゃん、あなた今まで一体どこに行ってたの? 私もあの人も、一生懸命に探していたの「兄さんを気安くあの人だなんて呼ばないで欲しいわね」あうっ!!」
 春奈は女―香にいきなり顔を踏みつけられた。そのままぐりぐりと踏んで満足したのか、一度爪先で頬を強めに蹴ると、香はしゃがんで春奈に笑いかけた。
「ねえお姉さま、今どういう状態かわかっていらっしゃる? お姉さまは縛られていて私は縛られていないわよね。これっていったいどういうことかしら」
「……香、ちゃん、あなたまさか」
 彼女の言ったとおり、香はどこも縛られた様子はなく、しかも暴行を受けた形跡もない。ならば考えられることはただ一つだ。
「あははははっ!! そう、そうよその通り!! 私がお姉さまを攫ってこさせたのよ。どう? 義理の妹に誘拐された気分は」
「香ちゃん……どうして、どうしてこんな事」
「どうして……ですって?」
 春奈の髪を掴んで容赦なく上を向かせると、香は彼女の汚れた頬に向かって唾をぺっと吐いた。
「そんなの分かりきってるじゃない!! あんたが私から兄さんを奪ったからよ!! あんたに兄さんを奪われて、私がどれほど絶望したかわかる? どれほどあなたを憎んだか理解できる? 出来ないでしょうね、なんでもできるあんたには!!」
「……香ちゃん、まさかあなた、あの人の事」
「ええ愛してるわよ。可笑しい? 可笑しいわよね、妹が実の兄を好きになるなんて!! けどね、私は兄さんが好きだった。親に叱られた時、何も言わずに庇ってくれる兄さんが好きだった。喧嘩して家出しても、いつもちゃんと探しに来てくれる兄さんが好きだった。近くの悪がき連中にいじめられてる時、体が弱いくせにいつも助けに来てくれた兄さんが好きだった。けどある時から兄さんは私の方を見てくれなくなった。それがいつ頃からかわかる? あんたと付き合い始めてからよ!!」
「……っ!!」
 髪を持ったまま、香は春奈の頬をバシッと張り飛ばした。
「それでも何時の日かあんたと別れて、また兄さんが私だけを見てくれる日が来ると信じていた。けど何、結婚ですって? しかも家で一緒に暮らしちゃって……あんた達の新婚生活を見ながら、私がどれだけ憎しみを募らせてきたかわかる? それを少しでも発散させるために高校に入ってから髪とか染めてピアスをしたのも、兄さんにあげるはずだった処女を他の男にやったのも、家を出て何日も帰らないのも、全部あんたのせいよ!!」
 香の言葉と共に、暗い空間に頬を打つ音が響き渡る。やがて満足したのか、それとも手が痺れてこれ以上叩けなくなったのか、香は掴んでいた髪を放した。ごっと鈍い音を立てて、頬が真っ赤になった春奈の頭が床に落ちる。
「ふん、いい気味ね。大体お姉さま、何であんたみたいな完璧超人が凡人以下の兄さんと結婚なんかしたのよ、それが良く分からないわ……ああ、あれ? 捨てられて震えている犬や猫にするみたいな同情って奴? ふん、同情で結婚なんてして欲しくないわね!!」
「……がう」
 不意に、地面に転がっている春奈の口から、か細い声が辺りに響いた。
「がう? がうって何よ? はっきり言ってみなさいよ、ええ?」
「……私があの人を、祐君を好きになったのは同情なんかじゃない……可哀そうに思ったからなんかじゃ決してない。あの人が……体の悪い祐君が本当は誰よりも強いことを知ったからよ。いじめられているあなたを助けるために、自分より体の大きな人達に必死になって向かっていくあの人を見て……ね」
 掠れる声でそう言うと、春奈は愕然としている少女に、そっと寄り添った。
「だから、もう家に帰りましょう。祐君が待っているあの和菓子屋さんに……私たち2人で」
「……い」
「え?」
 だがその瞬間、彼女の体は再び地面に突き飛ばされた。
「うるさいって言ってるのよ!! この状態であたしに向かって説教するなんて、あんた一体何様? どうせ私の事頭がおかしい可哀そうな子と思ってるんでしょ。もういい。散々いたぶった後一思いに殺してあげようと思ったけど、それほど私が可哀そうなら、あんたも私と同じ目に合わせてあげる……これからあんたを真っ裸にひん剥いて、近くのホームレス連中にくれてやるわ。犬以下の連中に犯される中で、後悔しながら死になさい!!」
「……っ!!」
 彼女の言葉に、春奈がさすがに顔を青ざめさせた時だった。
「……ちょっとよろしいですか?」
 暗闇の中から、男の声が聞こえてきた。


「何よ大鳥、人が楽しんでいるときに」
「これはこれは申し訳ございません。ですが先ほどは何で殺してないのよと罵られたような気がしますが」
「ふん、確かに最初はこの女を殺していなかったことに腹を立てたわ。けど今は感謝してもいいぐらいよ。この女をいたぶることができるのですものね。それで? 何の用? 私は今とても忙しいのだけれど」
「はい。お楽しみの所申し訳ございませんが、どうやら“ネズミ”が2,3匹ほど潜りこんだようです。恐らく」
 そこで、大鳥と呼ばれた男は床に転がっている春奈をちらりと見た。
「恐らくこの“商品”を奪還しに来た様子。それでどういたします? 迎え撃ちますか?」
「そんなの当たり前じゃな……いえ、中々面白いことになってきたじゃない。そういえばゾンビ共が灰色街を襲って攫ってきた女がいたわね。すぐに殺してしまうと思ったのだけれど、なにあのハリティって言う女、腹の中に子がいるから手出しはさせないですって? 何様よ本当に!!」
「……なるほど、それは確かに面白そうでございますね。よろしいかと存じます」
「あ、そ。ならさっさと準備しなさい。私もこの女を連れてすぐに行くから」
 香の高慢な言い方に顔色一つ変えることなく、大鳥ははいと一礼して再び消えて行く。それを見送ることなく、香は春奈に歩み寄ると、不意に微笑を浮かべた。
「さあお姉さま、これからショーを一つご覧にいれますわ。ショーの題名は「紐なしバンジージャンプ、落ちてゆく2人の女のうち、君はどちらを見捨てどちらを助けるか、です。もちろん気に入っていただけるでしょうね、お姉さま」
 その微笑は暫くして本物の笑みに変わり、終いには、彼女は声高々に笑いだした。



「ったく、何匹いるんだこいつら」
 襲ってくる黒いしみのようなものに覆われたゾンビの腕を掻い潜ると、聖亜は相手の胸に護鬼を突き入れた。
 ぼろぼろと崩れ落ちていくそれを見ず、後ろから羽交い絞めにしようとしたゾンビを、下から掬い上げるように切り裂く。
「恐らく小型のスフィルで動かしているんだろうが、姿形がだいぶ違う。市内から死体をかき集めたな」
殆ど骨だけになっているゾンビの頭蓋骨を太刀―善鬼で粉砕しながらヒスイが毒づいた。彼女の言う通りゾンビの姿は千差万別で、人間とほとんど変わらないものもいれば、逆にほとんど白骨化したものもいる。さらに先ほどなど火葬さればらばらになった骨の欠片が一斉に襲ってきたこともあった。
「個々の能力はそれほど強いわけではないようです。ですが油断なさいませんように」
 先ほど骨の欠片を突風を起こして吹き飛ばした加世が、短刀を舞うように振るう。その動きに合わせて、彼女を取り囲んでいた数体のゾンビがバラバラになった。

 彼らがゾンビに襲われたのは、デパートに侵入してすぐの事だ。1階にはそれこそ床が見えないぐらい大量のゾンビがいたのだが、それをナイト達に任せると、3人は2階へと上がっていった。春奈の探索を鼻が利くキュウに任せ、その間彼らは敵の注意をこちらに引き付けるため、あえてゾンビ達から隠れずに戦っているのだ。
「……よし、これが最後の一匹だな」
 自分の折れた肋骨を持って向かってきたゾンビを脳天から思いっきり唐竹割りにする。死んでいるくせにゾンビは人間よりタフで、しかも数が多いこともあり、2階のゾンビを全滅させたとき、聖亜は壁に寄り掛かり、ふうっと息を吐いた。
「……大丈夫ですか?」
 そんな彼に、ふと隣から声がかかった。ちらりとそちらを見ると、先程の戦闘で短刀に付いた汚れを落としている加世の姿が目に留まった。
「あ? ああ、大丈夫。怪我は無いし、少し休んで体力が回復すればまだまだいけるさ」
 偵察に出ているらしく、ヒスイの姿はない。見知らぬ美少女と2人きりでいることに、聖亜はなんだか落ち着かなくなった。
「……あ~、そういえばこうやって話すのって初めてだったな。俺は星聖亜というんだ。よろしくな」
「はい。よろしくお願いいたします。聖亜様」
「……いや、俺そんなたいそうな人間じゃないから、そんなに礼儀正しい挨拶なんてされてもあんまり嬉しくない……というより敬語をやめて、普通に話してくれよ」
 正座して深々とお辞儀してきた加世に、聖亜は慌ててそう言ったが、彼女はいえ、それはできませんと強く首を振った。
「いや、けどこっちが落ち着かないというか……けど本当にどうして敬語なんて使うんだ? 確か初対面だったと思うけど」
「……はい。確かにこの姿でお会いするのは初めてです。ですが私は以前聖亜様に命を助けられております。命の恩人に尽くすのは、可笑しいことでしょうか?」
「命の恩人って……そう言えば鴉天狗って言っていたな、それにその包帯……まさかあんた、あの時俺が治療した鴉か?」
「は……はい!!」
 聖亜の質問というよりは確認する言葉に、加世はぱっと顔を明るくして頷いた。
「へぇ~、あんた雌だったのか。そういえば、あの時一緒にいた鴉はどうした? ほら、片目が潰れている鴉」
「あれは父です。それよりあの時は本当にありがとうござました、聖亜様」
「いや……だからその様づけで呼ぶのはやめろって」
「そうですか? ではまだ早いかと思いますが……旦那様で」
「んなっ!? な、何だよその旦那様って!?」
 自分の言葉に驚いている少年を、加世は不思議そうに見つめた。
「人間がどうかわかりませんが、私達鴉にとって、一度受けた恩は一生の物なのです。ゆえに大叔父様はあの方に協力することに決めましたし……何より私はあなたに命を助けられました。命の借りがある場合、同性なら命で、異性ならその体で相手に恩を返すのが普通なのです。人間と鴉という事で恩を返すことはできないと思っておりましたが、こうしてあなたと同じ姿になったことで恩を返せます……どうかご奉仕させてください、旦那様」
「ご、ご奉仕って……そんな」
 すり寄ってきた加世の体から放たれる甘い匂いに、少年が善戦空しく陥落しようとしたとき、
「……いい加減にしろ、馬鹿」
「あいてっ!!」
 彼は急に頭をごちんと叩かれた。

「痛いって小松」
「ふん、お前がデレデレしてるのが悪い」
 少年の頭を叩いたのは、刀の形態で彼に使われていた小松である。どうやらだらしない顔をした聖亜を見て我慢しきれなくなったらしい。
「“私の”旦那様に何をなさいます」
「誰が旦那様だ。それに今は戦闘中だ。い……いちゃいちゃするなら、戦闘が終わってからにしろ」
「……誰もいちゃついてなんていないだろ。それより小松、そろそろヒスイが戻ってくるぞ。刀の姿に戻ってろ、それから佳代もだ。呼び方は聖亜様で構わないから、少なくとも旦那様というのだけはやめてくれ」
「……分かった」
「承知いたしました、聖亜様」
 不承不承ながらも頷いた小松が刀に戻り、様づけで呼ぶことを許可してもらった加世が嬉しそうに微笑んだ時、3階の偵察に行っていたヒスイが戻ってきた。
「3階にはほとんどゾンビはいなかったな。そのかわり4階で何者かの気配がした。恐らく3階と4階の戦力を結集させて待ち受けていると思うんだが……どうした?」
「いや、なんでもない。そうだな……このデパートは4階までしかないから、マモン達がいるとすればそこか屋上だろう。体力もだいぶ回復したし、急ごう」
 その言葉通り、確かに体力は回復していたが、精神的な疲労は残った。それを戦闘で発散しようと考え、聖亜は手の中の刀を軽く握りしめた。




「確かにゾンビはいないな」
「……ああ」
「そうですね、確かに“ゾンビ”は居りません」
「……」

 3階に着いてすぐ、聖亜達は黒い獣に囲まれていた。獣、と言ってもその形が獣に似ているだけで、本来は全く別の生き物だ。
「けど、こんなにスフィルがいたんじゃ厄介なことに変わりないだろうが!!」
 聖亜の声に反応したのか、黒い獣―スフィルの個体種がグルルルとうなり声をあげて、こちらを見る目に力を込めた。
「……すまないな。だが本当にさっきはいなかったんだ。床に黒い液体が広がってもいなかった。まあ、恐らく4階から階段を通って流れてきたんだろうな」
 ヒスイの言う通り、遠くにある階段の上に黒い染みが付いているのが見えた。恐らく彼女が戻ってきた後に流されたものだろう。
「……まあとにかく、さっさとこいつらを片付けて上に行くぞ」
「そうだな、だがマモンは一体何を考えているんだ? こんな風に戦力を小出しにして。これでは各個撃破されるだけじゃないか。私なら1階に全ての戦力を集めて入ってきた敵に一斉に奇襲攻撃を仕掛ける」
「そうですね。奴らと私達にはそれほどの戦力差があるのですから、私もそうします。恐らく私達が疲労するのを目的としているようですが、こんな雑魚相手に疲労などしません」
 話をしながら、3人は襲いかかってくる黒い獣を切り飛ばしていった。スフィルの黒い頭が、腕が、足が、胴体がそれぞれバラバラにされて宙に舞い、一瞬で黒い液体に戻っていく。
 15分ほど戦っただろうか、もうスフィルはほとんど残っておらず、残りのスフィルも4階に逃げるように上がっていった。
「……逃げたか。どうする、追うか?」
「いや、奴らに考える能力はない。恐らく逃げたと見せかけて4階で奇襲するつもりだろう」
「私もそう思います。ですが9割方殺されてから撤退するなど、引き際が悪すぎます。一体何を考えているのでしょう」
「……馬鹿の考えなんて分かるかよ。どちらにしてもさっさと上がるぞ。たとえ待ち受けているのが罠でも、どっちみち上がらなきゃならないんだからな」
 そう呟いて4階に続く階段に足を掛けた聖亜の動きが、不意にぴたりと止まった。敵がいたからではない。いや、敵がいたほうがまだましだったろう。彼が停止したのは、上から下品な笑い声が聞こえてきたからだった。

「ぬばばばばばっ、ぎ、ぎで見ろ侵入じゃ、この、おおおでざまがはじのずにがえでやる」
「……誰だよ、あいつをゾンビにしたの」
 狂ったように笑いながら、右腕と一体化しているガトリングガンを振り回す巨漢を見て、物陰からその様子を伺っていた少年は呆れたようにため息を吐いた。
「聖亜様はあの狂人を知っているのですか?」
「知りたくなかったがな……俺が数日前に叩き潰した正真正銘の馬鹿だ」
「だが馬鹿でも……いや、馬鹿だからこそ体力はあるようだ。スフィルに浸食されても言葉を話すことができるとはな」
 ヒスイの言う通り、巨漢に纏わりついている黒い粉にしか見えないほど小さいスフィルが、巨漢が暴れるごとに離れてはくっ付き、離れてはくっ付きを繰り返している。どうやら本物の化け物にもあの男は手に余るようだ。
「それで? どうやってあいつを殺す? 4階には奴とゾンビしかいない。恐らくマモンは屋上にいるんだろう」
「そうだな……なら俺が囮になるから、あいつの首でも断ち切ってくれ。加世、協力してくれるか?」
「もちろんです、聖亜様」
「……まあいいか。じゃあさっさと行くぞ。ったくあの馬鹿、三度も人の手を煩わせやがって。今度こそ完全に息の根を止めてやる」

 巨漢が自分に向かってくる気配に気づいたのは、退屈しのぎにガトリングガンを振り回していた時だった。
「ぬばばばば、やっどきだのか、侵入……ジャ?」
 笑いながらガトリングガンを向けた巨漢の動きが、相手を見てふと止まった。自分より遥かに背の低いその少年に、彼の体ががたがたと震え始めた。
「ひ……ひぎ、ぎ」
「よう糞野郎、閻魔様にでも追い返されたのか? まあいい、ならこっちも送り返してやるだけだ!!」
 そう言ってにやりと残酷なほど無邪気に笑うと、聖亜は手を伸ばし、巨漢の頬をぴしゃりと叩いた。
「ぎゃああああああっ!! ぐ、ぐるなあああ!!」
「へえ? 今度はきちんと俺の事を覚えてるみたいだな。脳みそ腐っちまった方が頭良いんじゃねえか? でよ」
 聖亜は今度は巨漢が振り回しているガトリングガンを、ぽんぽんと叩いた。
「お前さ、せっかくでっかい武器持ってるのに、何で撃たないで振り回してるだけなんだ?」
「撃づ? そ、そうだっだ!! ぬばばばば、死ねぇ!!」
 ようやく自分の持っている武器に気付いたのか、巨漢は聖亜にガトリングガンの銃口を向けた。だが向けられた聖亜に恐怖はない。ただ呆れたように首を振っただけだ。
「お前さあ、敵に教えられるなよな」
 その呟きに対する返答は、巨大な銃口から放たれた無数の銃弾だった。銃弾が飛び出す反動で男の体がふらふらとあちこちに揺れ、近くにいるゾンビやスフィルを粉々に粉砕していく。
「ぬばばばば、ど、どうだ……じ、死んだ! あのバゲモノが死んだぞ「おいおい、人を勝手に化け物にするんじゃねえよ」……べ?」
 不意に、男の頭が蹴られた。爪先でける軽い一撃だったが、男の巨体はふらふらと揺れ、どしんと尻餅をついた。
「ぐ、ぐぞ……あれ?」
 慌てて立ち上がろうとした男は、だが自分の体が下に沈んでいくのを感じた。
「あ、あで? あでぇ?」
「そりゃ沈むだろうさ。ただでさえ整備されないでもろくなっているのに、さらに銃弾をくらったんだ。そこにお前のでっかい尻がどしんと乗っかれば、床は簡単に崩れ落ちる……ヒスイ」
 “空中”に浮き上がっている聖亜は、傍らでこちらの様子を伺っている白髪の少女に声をかけた。彼女は一つ頷くと、辺りに必死に手を伸ばす男に近寄り、太刀でその首を無造作に切り落とした。
 白目を向いた男の顔が床にごとりと落ちる。首が落ちても胴体の方はまだ手をバタバタと動かしていたが、やがてその動きも止まり、ゆっくりと下に落ちて行った。
「……やっとこの非常識な奴から解放されるよ。ああ、ありがとうな加世」
「いえ、お役にたてれば幸いです」
 胴体が下の階に落ちたのを見て、空中にいた聖亜は床に地面におり、後ろにいる佳代に礼を言った。何のことはない。少年の後ろにいた加世が銃弾が発射される瞬間、彼の体を持って空に舞い上がったのだ。
「それで、やはりマモンは上か」
「うむ、それと攫われた春奈という女もな」
「キュウ……やっぱりいなかったか」
 物陰から現れた黒猫は、聖亜の落胆して言った言葉に重々しく頷くと前足で顔を掻いた。
「まあ、建物の中にいなかっただけの話だ。恐らくマモン達と共に屋上にいるのだろう……何をぐずぐずしている、急ぐぞ」
 勝手に仕切るな。からかうようなキュウの言葉にそう反論しようとした聖亜だが、一の小言に反論すれば十の小言が返ってくるだけだ。あきらめてため息を吐くと、後ろにいる2人の少女に頷き、聖亜は屋上に続く階段を早足で駆け上がっていった。


 

 それから5分ほどたった後、
 
 屋上に上がった聖亜達は、月光の中にたたずむその男と対峙していた。
「ようこそ皆様、お早いお着きで」
「……」
 優雅に一礼した男―マモンに、聖亜達はそれぞれ刃を向けるが、相手の様子に恐れは全くない。それどころかおやおやと呟き、軽い笑みさえ浮かべていた。
「よろしいのですか? 異なる勢力圏で貴族と戦闘を行うことは原則として禁じられているはずですよ。それでも私と戦うおつもりで?」
「……別に貴様を倒す事が目的じゃない。私達はただ春奈さんを探しに来ただけだ。その途中で“偶然”貴様と遭遇し、“偶然”戦って、“偶然”勝つに過ぎない」
「そうさ。で、お前をぶっ潰す前に一つだけ聞いてやる……マモン、お前一体何で春奈さんを攫った? 関係ない人だろう」
「関係ない? いえいえ、そんなことはありません。むしろ私の狙いは彼女なのですから」
「……どういう事ですか、春奈さんという方がどのような人かは分かりませんが、一般人のはずです。なのになぜ攫う必要がある「私が命令したからよ」……?」
 短刀を構えて詰問した佳代の声に紛れて、マモンの背後から髪を金色に染めた女が姿を見せた。
「ん? お前……香か」
「ええ。久しぶりね、聖亜」
 少年の訝しげな視線を受け、女はにっこりと笑って見せた。
「聖亜……香って確か城川先生の」
「ああ、行方不明になっていた妹だ。けどどうしてマモンと一緒に……ああ、そういう事か」
「聖亜様、何かお分かりになったのですか?」
 控えめに尋ねる佳代の質問に、聖亜はああと言って頷いた。
「恐らくこいつがマモンの契約者なんだろう。で、この香って女は城川先生の事が好きでさ、たぶん春奈さんを殺して、自分が落ち込んでいる先生を慰めてやろうとでも思ったんじゃないか?」
「あら? 逆に義姉さんの方が黒幕で、私は人質となってここにいるとは考えなかったのかしら」
「はは、考える必要はないだろ、こんな場でそんなに堂々としている人質がいるか馬鹿。それに春奈さんがどうしてお前を攫う必要があるんだアホ、あの人は好きだった城川先生と結婚できて、本当に幸せそうだったんだからなこのクズ」
「……っ! 人をおちょくるのもいい加減にして欲しいわね、聖亜。あれをごらんなさい?」
「……?」
 ぎりぎりと歯ぎしりした香が指差した方を見て、聖亜は軽く眉を顰めた。屋上から突き出た鉄棒の先端に縄がぶら下がっており、その下にそれぞれ一人ずつ女が括り付けられていた。
「あれは……春奈さんに、それと」
「以前見たな、確かイタチとかいう奴の妻だったと思うが」
 ヒスイの声に、聖亜は深々とため息を吐き、香の方を向いた。
「そうか……快楽区であった騒ぎはこれか」
「あれですか? 実はつい先日新鮮な死体を手に入れたのですが、新鮮すぎたのか、まだ奇数本能が残っていたのでしょうね。家に帰ろうとするので無理に止めず、誰か1人攫ってくるように命じてみたのですが……いやはや、お知り合いとは知りませんでした」
「別にそんなに深い知り合いじゃないがな……まあいい。香、馬鹿な真似はやめて今すぐ春奈さん達を放せ、そうすれば今なら尻を百回ぶっ叩くだけで勘弁してやる。けど」
 聖亜は、護鬼をかちゃりと構えなおした。
「けどもしその2人を傷つけてみろ、幾らお前でも叩き潰す」
「……あら、いい度胸ね。逃げ場のないこの場所で戦おうとするなんて」
「それはこちらの台詞だ。確かにスフィルやゾンビの数は多かったがただそれだけだ。それがいない今、お前達に勝つ手段はない。それに」
 その時、4階に続く階段から、3体の人形がそれぞれ現れた。
「聖、1階にいたゾンビ達は皆ぶっ倒したわ。ま、最近暴れられなかったし、いいストレス発散になったわよ」
「ふん、だが物足りん。ここは一つ大物を頂くとしよう」
「あらあなた、油断は禁物ですよ? まあ、ここにそんな相手はおりませんが」
 聖の前に進み出たナイトとポーンがそれぞれ槍と剣を構え、ビショップが真ん中で結界を張る準備を行う。
「なるほど……あなたからエイジャの気配がしたのは周りに裏切り者がいたからですか。ま、こういうことはまれにあるんですよ。まれにですがね……ですが馬鹿ですねぇあなた達も。私が何の準備もしていないとお思いで?」
「……どういう事だ?」
 圧倒的に不利な状態で、それでも余裕な顔を崩さないマモンに聖亜が首を傾げていると、彼の目の前でマモンの顔が二つに割れ、それぞれが縦に伸び、鷲の姿に変わると、腹部がばくりと開き、そこからぎらぎらと光る牙が覗いた。
「なに、簡単なことですよ……ハリティさん」
「……」
 本来の姿に戻ったマモンに呼ばれ、彼の付近に控えていたハリティが右手に何かを持ってずるずると近づいてくる。それはぎりぎりまで太った3人の男だった。
「……まさかそいつら、三馬鹿兄弟か。けどそんなに膨れて……ああ、寄生種か。で? この状態でスフィルが3体増えたぐらいで、逆転できると思ってるのか?」
「いいええ、3体の使徒を呼び出すなど、そんな事は致しません。今は量より質でございますから。まあ、ご覧ください」
「……」
 マモンの声に警戒しながらも、どこか余裕の表情を見せる聖亜の前に、ハリティが放り投げた3人がごろりと転がった。
 と、ここで聖亜が妙なことに気付いた。3人が一塊になって転がったのだ。別に紐か何かで繋がっているわけではない。なのにまるで皮膚がくっ付いているかのようにぴたりと同じ動きをしている。
「これは……どういう事だ」
「なに、簡単なことですよ。私が開発していたのは何も即効性に出来る使徒を生み出す卵だけではありません。実はもう一つ、逆の効果を発揮するものも開発していましてね。それが彼らに植え付けたプロトβ。複数の家畜に植え付け結合することで、3体の使徒ではなく強力な1体の使徒を生み出す卵……さあ、私の研究成果、存分にご堪能ください!!」
 嬉しそうに説明する鷲の前で、三馬兄弟の体が、びきりと罅割れた。


 最初にそれぞれの体の中から現れたのは、九つの巨大な蛇の頭だった。が、すぐにそれは一つに纏まり、やがて巨大な一匹の蛇へと変わっていく。3体の巨大な蛇はずりずりと体を出していったが、やがて何かに引っ掛かった様にその動きが止まった。それでも無理に体を押し出すと、やがてその後ろから、それぞれの体の太さの軽く3倍以上はある胴体が現れた。その胴体にはそれぞれ前に2本、後ろに2本、そして左右に4本ずつ足が生えている。
「……」
「はははっ!! は~はっはっは!! ご覧ください。これぞ私の研究成果、ヒドラの体細胞で作られた使徒の卵をさらに増強して作り上げた、その名もハイパーヒドラ、略してハドラです!! さあハドラ、あなたのその力を、勝利を確信していたくだらないごみ虫連中に見せつけて御上げなさい!! それから、まあハリティさんも頑張ってくださいね。出ないと……」
「分かっている。与えられた仕事はきちんと果たす」
 マモンの哄笑にむっつりした返事を返すと、ハリティは腰にぶら下げていた三日月形の剣をシャラッと引き抜いた。
「さて少年少女、お前達に恨みはないが、これも私の願いのためだ。すまぬがここ死んでくれ!!」
 そう叫ぶと、彼女は呆気にとられたままの聖亜達に向かって走り出した。

「くっ、聖亜!!」
「へ? うわっ!!」
 巨大な三つ首の怪物を呆然と見ていた聖亜は、隣からぶつかってきたヒスイによって横に投げ出された。ガキンと刃と刃が合わさる音がして、ハリティの刀とヒスイの太刀とが激突する。
「聖、ぼうっとしないの!! それりどうする? あの怪物、下手したら貴族並みの実力を持つわよ」
「え? あ……ああ、そうだな。けどあの怪物の相手は後回しだ。まずは春奈さんたちを助ける」
「それはいい考えね。でも一体どうやって?」
「そうだな……ヒスイ!!」
 暫し首をひねった聖亜は、ヒスイに向かって手に持った護鬼を投げつけた。ヒスイはそれを取ることなく、飛んできたそれあ自分に当たる瞬間、ひょいとしゃがんだ。
「……む」
 刀はヒスイの頭上を通り過ぎ、彼女に刀を突き入れようとしたハリティの肩を掠めた。後退するハリティに刀を拾って追いすがるヒスイから目を放すと、聖亜はこちらに向かってドシドシと歩いてくる怪物―ハドラに向き直った。
「取りあえずナイトと佳代で春奈さんたちの救助に向かってくれ。その間、そっちに怪物が行かないように俺とポーンで牽制する。ビショップは結界の展開を頼む」
「はい、分かりました」
「承知。だが聖亜、奴相手に手ぶらでは分が悪い。それにお主の能力は封印されている。何か武器を探してこい」
「それはそうだけど……怪物の力に耐えられる武器なんて「ふむ、ならばこれを使えキュウ?」
 困惑する聖亜の隣に、いつの間にかペンダントを首から下げた黒猫が近寄ってきた。よく見るとペンダントから何かの柄が飛び出ている。
「キュウ、これは……」
「お主が鍛練用に使っていた木刀“膝打丸”だ。殺傷能力はないが、怪物の一撃に耐えられるだけの硬さはある。ここが男の見せ場ぞ、聖亜」
「ああ、分かっているさ。行くぞ」
 飛び出た柄を掴むと、ずっしりと重い木刀を引き抜く。鍛錬の時は辟易していたその重さが、今では逆に頼もしい。その事に軽く微笑むと、聖亜は怪物に向かって打ちかかっていった。

「あらあら、聖も随分と頑張ってるじゃない。なら私達も頑張らなきゃ。ね、加世ちゃん」
「それはそうだが、人の背中に乗って話すな。それと、聖亜様を聖、なんて呼び捨てにするのはやめろ。失礼だろう」
「え~? けど聖亜様、なんて似合わないじゃない。うん、やっぱり聖は聖じゃなきゃ」
「……お前、それで良くあの方の従者が務まるな」
 不機嫌そうに呟いた佳代の言葉に、ナイトはそうね、と笑った。
「聖が私達に服従することを望むなら、私もナイトもビショップもその通りにするわ。けど聖は私達に服従なんて望んでいない。そんなんだから一緒に居たいと思うし、ちょっと物足りない時もある。でもそんなものじゃない、男と女の間柄なんて」
「……お前は聖亜様を男として慕っているのか?」
「さてね……さてと、無駄話はお終い。見えてきたわよ」
 ナイトの声に前方を向くと、紐にぶら下がっている2人の女の姿が見えた取りあえず縄を切ろうと短刀を取り出した時、背中で軽い衝撃がした。
「ナイト?」
「……やっぱり来たわね、マモン。じゃ、加世ちゃん、私は奴の相手をするから、あとはお願いね」
「え? あ、ああ」
 佳代が見送る中、ナイトは向かってくる巨大な陰に向かって空を駆った。

「おや? 裏切り者さん、わざわざあなたの方から向かってきてくれるとは思いませんでしたよ」
「そう? ま、あなたの相手ぐらい、私一人で十分だってことよ」
「ほう、中々剛毅な……ですがよろしいのですか? あなたの事は知っていますが、たかだか中級で貴族たる私に勝てると思っているのです……かっ!!」
マモンの声に合わせ、右の鷲がナイトに向かって真っ赤な炎を吐きだした。それを間一髪で避けたナイトに、左の鷲が再び炎を吐く。さらにその合間からはマモンの突き出す爪が襲ってくる。それは実質1対3であった。
「くっ、この!!」
 マモンの首を狙って突進したナイトの体が、腹部にある口からでた舌に弾き飛ばされ、さらに伸びてきた嘴に突き刺されそうになる。何とか体を捻って避けるが、左手をぶつりと引き千切られた。
「あく……痛」
 人形の体といっても感覚はある。襲ってきた激痛に一瞬動きが止まった彼女に、右の鷲の嘴がぱかりと開いた。
「……く」
 嘴の奥から赤い炎が見える。それが身動きの取れない彼女に吐き出される、その寸前
「はぁああああっ!!」
「ぐむっ!?」
 鷲の頭を踏みつけた人影が、ナイトの体を抱きしめて上空に舞い上がった。

「……加世ちゃん、あなた」
「安心しろ、2人はちゃんと助け出した。後は聖亜様の元に戻るだけだ……くっ」
「っ!! あなたまさか」
 先ほどから空を飛ぶ佳代の動きがおかしい。よく見ると辺りに黒い羽根が舞い散っている。
「……大したことじゃない。それにお前が倒れれば聖亜様が悲しまれる。それに私もつまらなくなるからな」
「……ふふ、それって恋敵が減るから?」
「いや、私は別に妻が多数いても気にしない。群れの女を従えるのは強い男の特権だからな。ただお前がいなくなればあの方に奉仕する女が少なくなってしまう。それだけだ」
「……あらまあ」
 真顔でとんでもないことを言う少女を見上げ、ナイトはぽかんとした顔をしたが、やがてくすくすと笑いだした。
「そうね、なら一緒にご奉仕しましょうか」
「……ん」
 笑顔で言ったナイトの言葉に、加世は微かに頬を染めて頷いた。



「く、この!!」
 振り下ろされた爪を木刀で受け流すと、聖亜はハドラの皮膚に木刀を叩きつけた。だが鉄より硬いその皮膚には歪み一つはいることはない。
 それは先ほど試して判明したことだ。だが実質ポーンしか相手を傷つける能力を持っていない以上、自分が少しでも攻撃を与えて注意を向けるしかない。

 しかし、と頭の中で思うと、聖亜は軽く舌打ちした。

 このハドラという怪物は、思っていた以上の化け物だった。50cmほどの厚さを持つ爪はポーンの攻撃をはじき返し、その皮膚も彼が何度も攻撃してやっと損傷を与えられるほど硬い。しかも口の中を攻撃しようとしても、この怪物は口からそれぞれ炎、毒、氷の息を吐くのだ。
「くそ、決め手がない」
 こちらに対しての攻撃はビショップの張った結界によりなんとか塞がれているが、その結界も皹が無数に入り、いつ砕かれてもおかしくない状態だ。

 そして、木刀の重さにふらついた聖亜に向かって振り下ろされた爪が、ついに皹だらけの結界を砕いた。

「聖亜!!」
 近くにいるはずのポーンの声が、遥か遠くで聞こえる。自分に向かってくる爪の動きがスローモーションに見える。それが、彼の頭を砕こうとした瞬間、

「まったく、何をぼけっとしてる、馬鹿」
「……あ?」
 爪は、突き出された白刃によって彼方に弾き飛ばされた。
「ぼさっとするな聖亜、疲れたのなら後ろで休んでいろ」
「う……うん」
 目の前にいるヒスイに言われ、聖亜はぼんやりと頷くと、怪物に向かう彼女の邪魔にならないようにビショップの方に下がった。
「大丈夫ですか聖亜」
「あ……うん」
 ビショップの放つ光によって疲れが癒されていく。ぼんやりとした意識が徐々に戻っていくと、傍らに片腕を失ったナイトと、翼を傷つけられた佳代の姿が見えた。
「ナイト、佳代、2人とも大丈夫か?」
「聖亜様……はい。私は翼をやられましたが、しばらく休めば再生します」
「私も大丈夫。私の場合再生はしないけど、ちゃんと佳代ちゃんがちぎれた腕を確保してくれたから、このまま休めばくっ付くわ」
「そうか……良かった、本当に」
 手で千切れた腕を抑えているナイトを見て、聖亜は心の底からほっとすると、2人の頬にそれぞれ口を軽く押しつけた。
「あ……、も、もう、聖」
「あ、ありがとうございます、聖亜様」
「ん、ところでヒスイはどうしてこれたんだ?」
 真っ赤になっているナイトと佳代に笑いかけると、聖亜はビショップに尋ねた。
「はい。先程ヒスイさんがハリティの剣を弾き飛ばし、鳩尾に刀を叩き込んだんです。まだ生きてはいますが、もう戦闘はできないでしょう」
「そうか……なら後はあの怪物とマモンだけだな」
「ええ、ですからきちんと休んでください。いいですね」
「……はい」
 母親のようにたしなめてくるビショップに苦笑すると、聖亜は暫くの間目を閉じた。

「ふん、確かに中々硬いな」
「うむ、だが大体攻撃パターンは読めた。後はどうやって打撃を与えるか、だが」
 そんな会話をしながら、ヒスイとポーンは爪の攻撃を掻い潜り、硬い皮膚に刃を叩き込んでいく。

「口は駄目だな。さっき攻撃したら炎を吐かれた。目はどうだ?」
「目も駄目だ。先程予備の戦斧を投げつけてみたのだが、命中したにもかかわらず弾き返された。どうやら透明の膜によって守られているようだ。それに」
「……それ以前に攻撃を加えようとすれば、その隙をついて他の首から炎や氷や毒を吐き出されるか」
 足の間を掻い潜ったヒスイが後ろから攻撃しようと刀を振り上げるが、それは横殴りに襲いかかってきた三つの尾によって止められた。
「まあ、人質も取り返したし、もう一体の寄生種は戦闘不能になった。少しずつ攻撃を加えていくしかないだろう」
「そのようだな……むんっ!!」
 ポーンが力を入れて放った一撃が、ハドラの足に浅く傷を入れる。それは相手にとってはほとんど痛痒を感じさせないものであったが、それを見ていた怪物の主人の心には、どうやら大きな打撃を与えた様だ。

「……いけませんねえ、このままではせっかくの傑作が損傷してしまいます。一度下げましょうか」
「……ちょっと鷲、どういう事よ、春奈も取り返されちゃったし、一体いつになったらあいつを殺してくれるの?」
「……」
 マモンは自分に甲高い声で話してくる家畜を、鷲の顔で苦笑しながら見つめていたが、やがてため息を吐いてその顔を近づけた。
「やれやれ、いいですか契約者様、私があなたの命令に従っているのは、研究を終えるまでのほんの気まぐれ。研究の成果を確認した後は、私は此処にいる理由がないんで「……く」おや?」
 と、香に詰め寄っていたマモンの耳に、微かなうめき声が聞こえてきた。
「おやおや、あなたは高々玩具使いに敗れたハリティさんじゃないですか、一体何をなさっているのです? さっさと死んでくれませんかね?」
「く……ま、マモン、頼む。私の、私の息子を返してくれ、頼む」
 マモンは腹部からどす黒い血を流し、必死にこちらに懇願するハリティを冷ややかに見つめていたが、やがて深々とため息を吐いた。
「……ま、いいでしょう。あなたも私のために懸命に闘ってくれましたからね。研究はあなたのおかげで成功したといってもいいでしょう。さあ、手を出しなさい。今あなたの息子を出してあげましょう」
「す、すまない……ああ、私の坊や」
 瞳から涙を流し、こちらに向かって両手を伸ばしてくる彼女の手の上に手をやると、マモンはぶつぶつと呪文を唱え始めた。その呪文に合わせ、空中に何かの形が出来上がってくる。それは、幼い子供の形をしていた。
「ああ、坊や」
「さあ、受け取りなさいハリティさん、あなたの息子ですよ。ですが注意事項を一つ……申し訳ありませんが、あなたの本当の願いが叶うことは、決してありません」
「……え?」
 その時、ハリティの手に何かが落ちてきた。彼女は呆然と手の中を見て、そしてそれを地面にポトリと落とした。
「おや、どうしたのですか? あなたの息子ですよ? 炎に巻かれて、黒こげになっていますがね。おやぁ?」
 地面に落ちている黒焦げた幼児の死体にわざとらしく足を乗せると、マモンはそれをぐしゃりと踏みつぶした。
「ひっ!!」
「おや? これはこれは申し訳ありません。私としたことが踏みつぶしてしまいました。まあ、粉々になっていますが、どうぞ息子さんを抱きしめてやってください……ねえ?」
「あ、あ……あ……ああああああああっ!!」


「な、何だ?」
 先ほど傷がついた部分に、さらに一撃を加えようとしたヒスイは、横からいきなり聞こえてきた女の絶叫に思わずそちらを向いた。
 その隙にハドラは足を振り上げたが、口笛によって後ろに下がる。
 
 その巨体が離れたことにより、ヒスイは絶叫を上げたのがハリティであり、そして彼女の変化に絶句した。
「……何だあれは」
 絶叫を上げる彼女のわき腹と背中から、ずりずりと新しい腕が伸びている。
「あああ……あああああ……ああおおおお……オオオオオオッ!!」

「くっ!!」

 そこにいたのは、もはや先ほどの姿とは打って変わった彼女の姿だった。6つ生えている腕にはそれぞれ先ほどの2倍の太さと長さを持つ刀が握られており、黒い皮膚には複雑な模様が刻まれている。そして肌と同じ色の瞳からは、赤い涙が血のようにあふれ出ていた。

「はは、ははははは、素晴らしい。素晴らしい姿ですよハリティさん!! さあ、その武器であなたの敵を叩き切って差し上げなさい!!」

「オオオオオオッ!!」
 マモンの声にハリティは暫く空に向かって吠えていたが、やがてふらふらとこちらを向くと、そのゆらゆらと揺れている6本の刀をヒスイに向けて振り上げた。
「くっ!! マモン、貴様善良な商人のくせに嘘をつくのか!?」
「嘘? いえいえ、私は嘘などつきませんよ。お客様の求めにはきちんとお応えいたします……ですがねぇ、この場所の一体どこに私のお客様がいるんです? いるのはただあなた方家畜ではないですか!! 私にとってのお客様とは同じ貴族の称号を持つ伝道者のみ。それともあなた方は、家畜と交渉いたしますか?」
「……やっぱりそういう事か」
 四方八方から襲いかかってくる刀を弾き返しながら、ヒスイはぎゅっと唇をかんだ。マモンと契約を交わしたのはこの女の自業自得であるが、それでもこれは少しひどすぎるだろう。
「く、加勢するぞ絶対零……どっ!?」
 だが、走り始めたポーンに向かって再びハドラが向かってくる。その対応に追われ、彼はヒスイに加勢することができないでいた。

「くそ、こうなったら俺が」
「そなたでは無理だ聖亜。近づいただけで叩き切られるし、それに動揺したヒスイもまたやられる」
「くそ、ならキュウ、頼むから腕の封印を解いてくれ。この腕ならあいつを倒せるんだろ?」
「うむ、それはそうだが……あの馬鹿娘が起きているという確証はない。しかし、このままではじり貧だ。ううむ」
 彼女にしては珍しく、難しい顔で唸る黒猫の足元で、何かがふと輝いた。



「おやおや、あれじゃそろそろ負けるね。どうするスヴェン」
「……」
 双眼鏡を覗き、面白そうな声を上げたエリーゼの隣で、スヴェンはむっつりとした顔で両手に持つチェーンソーにスイッチを入れた。
「我正す。故に我有り……エイジャを殺し、その後であの女も殺す。それだけだ」
「あはは、そりゃそうだ。そんじゃいくよ、バジ」

『……』

 彼女の声に無言で答えると、2人を乗せている“岩”は、ゆっくりと動き出した。



 その光に気付いたのは、黒猫ではなくその横にいた佳代だった。
「あの、すいませんが姐様……足元が光っていますよ」
「加世、そんなものは後にせよ……む?」
 ヒスイの様子を見ていたキュウは、最初彼女を見ずにそう答えたが、やがて光が強まると、気にしないのが難しくなり、仕方なく下を見た。
 光っているのはヒスイの持つペンダントだった。いや、どうやらペンダントの中にある何かが光っているらしい。
「何だよ、これ」
「ふむ……取り出してみるか」
 黒猫がペンダントを軽く突くと、その中から光り輝く物が飛び出してきた。それを見た黒猫と聖亜は、呆然と顔を見合わせた。

「あうっ!!」
 何度目か打ち合った時、ヒスイは横から迫ってきた別の刀に善鬼を向け、そしてそちらに注意が向いた瞬間、力が緩んだ護鬼にさらに別の刀がぶち当たったことで弾き飛ばされた。
 弾き飛ばされた時、刀はどこかに飛ばされたらしい。素手になったヒスイに、ハリティが持つ6本の刀が振り上げられる。

 そして、それが振り下ろされようとした時、

「おっと、そこまでだ」
 その間に、ヒスイを守るように聖亜が割り込んできた。


「ちょ、離れろ聖亜、危な……え?」
「……」
 少年に向かって叫ぼうとしたヒスイは、絶句しているハリティを見て目を見張った。
 彼女の動きが止まっている。それだけではない。彼女がだらりと下げた手から、6本の刀がそれぞれぽとりと落ちた。
「聖亜、一体どうしたんだ? それにその光は」
「し、いいから見てろ」
 そう言うと、聖亜はハリティに向かって光り輝く鈴を掲げた。その鈴に、ヒスイはもちろん見覚えがある。以前鎮めの森に漂っていた霊を鎮めるために使った道具だ。なぜそれが今光っているのだろう。それに
「……ぼう、や?」
 それに、なぜハリティはこの鈴に向かってこうも愛おしげに笑いかけるのだろうか。
「ふむ、どうやらヒスイ、そなたがあの森で最後に吸収した童の霊、この者の子であったらしい」
「……そうか」
 鈴の音が辺りに響き渡り、空中にぼんやりと子供の姿を映し出す。それは怪物になった母に向け、それでも必死に手を伸ばした。

『マ……マ』

「ああ、坊や……坊や!!」

 もはや血ではなく、透明な涙を流しながら、彼女が愛する息子を抱きしめようとした、その時


ブツ


「……え」


 彼女の体から突き出た刃が、回転しながらその体を十字に引き千切った。




 ギャリリリリリりり!! 





                                  続く


 こんばんわ、活字狂いです。さて、「スルトの子2 炎と雷と閃光と 第四幕双頭の鷲」はいかがだったでしょうか。この幕で出てきたマモンは、今回の幕では単なる脇役にすぎません。本当の闘いはこれからになりますが、その前に幕間「そのころ、鈴原君は」を、どうぞお楽しみに


 追記1 ガンダムジージェネレーションをやった感想……ガンダムだらけの
     スーパーロボット大戦?

 追記2 マクロスF映画を観た感想……アルトォ!! シェリルゥ!! 



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 幕間   「そのころ、鈴原君は」
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:8e78fcae
Date: 2011/03/04 17:51

 さて、復興街の川べり付近で、聖亜がイタチと再会していた頃、鈴原君は




「どういう事ですか署長!!」

夏の日差しが照りつける中、新市街にある太刀浪警察署、その署長室で栗原はデスクに座っている壮年の男に詰め寄っていた。
「どうしたもこうしたもないよ栗原君、ドラッグ“K”による被害は沈静化しつつある。わざわざ事を荒げる必要はないだろう」
 彼の問いにそう答えると、その細い顔から狐署長というあだ名がつけられている警察署署長は、自分の顔をつるりと撫ぜた。
「しかしですね、星聖亜が麻薬組織と何らかの関わり合いがある可能性はゼロではありません。それ以前に奴は復興街の出身、今は確かにおとなしくしていますが、いつ隠し持っている牙を表に出すかわかった物ではありません!! それなのに取り締まりを元のレベルまで落とすというのは」
「……やれやれ、正義感が強いのも困ったものだね、栗原君」
 困った様に苦笑すると、署長はデスクから立ち上がり、ブラインドが下りている窓へと歩いて行った。
「私はね栗原君、正直復興街や旧市街がどうなろうと興味はないのだよ。確かに旧市街は観光名所としてこの都市の財源に一役買っているし、復興街があるおかげで各地から復興のための援助金が送られている。しかしだ、旧市街はともかく、復興街のために都市の金が使われることはここ10年一度たりともない。これがどういう事かわかるかね?」
「……いえ」
「ふむ……つまりだね、復興街に“復興”されては困るのだよ。あの場所にはいつまでも“被害者”でいてもらいたい。そういう事だ」
「署長……まさかその援助金を横りょ……」
 栗原の言葉は途中で止まった。狐署長の細目が、睨むように自分を見ていたからだ。
「……馬鹿なことを言ってはいけないよ、栗原警部補。復興街が本当の意味で復興するには、まずここ“新市街”の発展が不可欠だ。そのためにはここに住んでいる方々に協力してもらわなければならず、ならば彼らがこの街で快適に過ごせるよう、こちらも様々な手を打たねばならない……例えドラッグが出回っていたとしても、いつまでも取り締まりの強化を続けていたらいろいろと困る人もいるということだよ」
「……」
「ま、建前として取り締まりの強化はして、実際に被害は収まってきている。万事解決という訳だ。さて、もう話は終わりかな? では出て行ってくれないかね、これから大事な来客を迎えなければならないんでね」
 栗原は目の前の狐顔を殴りつけてやりたい衝動に駆られたが、唇を血が滲むほどギリギリと噛み締めると、教科書通りに敬礼して、署長室から出て行った。

「くそっ、あの狐野郎が!!」
 署長室から所属している捜査二課に戻ると、栗原は自分の机を思い切り殴りつけた。
「け……警部補殿、大丈夫ですか?」
 真っ赤になった彼の拳を見て、以前一緒に喫茶店に行った彼の部下が恐る恐る声をかけたが、栗原が睨むと、すぐにひっと小さく悲鳴を揚げて自分の机に逃げ帰った。
「ったく、せっかくあの糞餓鬼を捕まえるチャンスだってのに」
 長年刑事をしてきた自分の勘が言う。あの男はすでに何人もの命を奪っていると。だが上司である捜査二課の課長や、直接署長に直談判しても返ってくるのは静観や傍観、ただそれだけだ。
「くそ、やってられねえぜ」
 吐き捨てるようにそう呟き、それでも机の上にある書類と格闘する。夕方近くになり、ふと喉の渇きを覚え、何か飲もうと席を立った時、


「あ、ちょっとすいませ~ん!!」


 通路の方から、陽気な声が聞こえてきた。


「……何です?」
 ちょうど立っていた事もあり応対に出た栗原を待っていたのは、どこかおちゃらけた青年と、それとは対照的に理知的な顔をしている女性だった。
「いや、さっき受付でも聞いたんですがね? 署長室ってどこでしょうか? ちょっと迷ってしまったもので」
「署長室? 署長と何かお約束でもあるんですか?」
「ええ、午後に。それで、もしよろしければ案内してくれますか?」
 理知的な女性の方に言われ、栗原はふと彼女を見た。別に見とれていたわけではない。その表情が、少し自分の娘である美香に似ていたからだ。
「ええ……それは構いませんが」
「ああ、じゃ頼んますね!!」
 女性を見つめる栗原から彼女を隠すように、おちゃらけた感じの青年が前に進み出て、ぶんぶんと手を取って握手する。
 それに厳めしい彼には珍しく苦笑しながら、栗原はその2人を自分が先ほど出たばかりの署長室に向け案内した。


「や~、お待ちしておりました鈴原様、水口様」


 栗原の案内で署長室に入った鈴原雷牙と水口千里は、にこやかな笑みで迎える狐顔の警察署長に勧められ、高価なソファに腰を下ろした。
「いやしかし驚きました。まさか黒塚家の関係者の方がお出でになってくれるとは」
 署長が彼らの来訪を知ったのは午前中の事だった。最初はいたずらかと思ったが、いたずらでも黒塚家の名を騙った者は“秘密裡”に処分される事を思い出し、こうして待っていたのだ。
 午後に来るという事で栗原を下がらせた後、いろいろと準備していたのだが、夕方近くに来たせいでだいぶ予定が狂ってしまった。実はもう今日は来ないんじゃないかと思って用意していた物の殆どを撤去してしまったのだ。
「それで一体どのような要件なのでしょうか」
「ああ、それなんですけどね署長さん、黒塚銀行高知支店長の森岡って人がどこに行ったか知りたいんですが」
「黒塚銀行支店長の森岡様……ああ、あの恰幅の良い方ですね? 少々お待ちください」
 そう答えた署長がどこかに電話をかけている間、雷牙は前のテーブルに置かれている紅茶を持ち上げ一口飲むと、微かに眉を潜めた。
 それは最高級のダージリンの、それも少なくともTGFOP(ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ級)以上のものだ。とても一介の警察署長が飲める代物ではない。
「ああ、それですか? 知り合いの貿易会社の方が誕生日に贈って来てくれたんですよ。どうです? いい味でしょう? まあ私としてはワインの方が良かったんですがねぇ」
 そう言いながら同じようにソファに座りがぶがぶと遠慮なく紅茶を飲む署長を、雷牙の隣にいる千里は眼鏡の奥で軽蔑しながら見ていたが、署長の方はそれに気づかないのかそれとも無頓着なのか、何かをメモした紙をテーブルの上に置いた。
「ええとですね、森岡氏は先週転勤されていますね。何でも本社の方に栄転されたとか……いや、羨ましいですな」
「……ふ~ん? 栄転ねぇ」
 おや、ご存じなかったので? そう言いながらこちらを見つめてくる署長に一度目をやると、雷牙は高すぎる紅茶を一気に飲み干し、足早に署長室を出て行った。その後を一礼した千里が追いかける。彼らがいなくなった後には、ぽかんとした表情をしている署長が1人残されていた。


「栄転か……こりゃ間違いなく粛清されたな」
「粛清ですか? ですが守護司を断罪するにはまず本部に呼び戻す必要があります。その過程を省いての断罪は罪を問われますが」
「おいおい千里、その罪を問われない人が一人だけいるだろう?」
「罪を問われない人? いえ、幾ら司令でも規則を破ればいくらか罰は受けなけれ……まさか」
 絶句している千里の前で欠伸を一つすると、雷牙はふと赤くなっていく空を見上げた。
「やれやれ、自分で殺しておいて、何で俺をここに配属させたのかね、あの婆さんは」
「だから婆さんという言い方はおやめください。まあ、私も少々気になってはいますが……荒川氏の監視ではないのですか?」
「いや、それはないだろうさ。俺とあの人は師弟関係にあった。だから離反した彼の傍に俺を置いたら、また離反するのではないかと思うのが基本だ。なのに婆さんはあえて俺を指名してこの地に派遣した。恐らくここには何かあるんだろうな。いや……いると言った方が正しいか」
「いる……ですか?」
 自分の言葉に可愛らしく首を傾げた千里を見て、雷牙は軽く微笑んだ。
「ああ。例えば俺の弟弟子になった星聖亜、彼は“これ”の表面に刻まれた文字を微かにではあるが読みやがった。ありえねぇって、マジで」
 そう言って、彼は背負っていた棒状の風呂敷包みを持ち上げて見せた。それは警察署に行く時も、署長室に案内されるときも、そして狐顔の署長と話している時も背負っていたのに、誰一人これに目を向ける者はいなかった。まあ、それが普通なのだが。
「確かに……ではまさか、私達が此処に来たのは、あの少年を見張るためですか?」
「いや、恐らくそれだけじゃないだろうな、多分彼を……ん?」
「……どうしました? 雷」
 不意に西の方角を見た雷牙を見て、千里は首を傾げて彼を見た。
「いや……西でエイジャの気配がしてな。ま、気配からして単なる爵持ちだから、俺達が出る幕でもないと思うが、一応警戒はしておくか。マジで」
「……」
 その言葉に、千里は視線を青年から西の暗くなっていく空へと移しー

「……ですから外でそのようなことをするのはやめてく・だ・さ・い!!」

「痛で!?」
 ーかけた所で、自分の尻に伸びてきた彼の手を、思い切り抓った。






 さて、聖亜とヒスイが春奈を助けにマモンの下へ向かっていた時、鈴原君は

 
 宿の風呂を使った後、渇いた喉を潤すため麦茶を飲んでいた千里は、部屋の戸を開ける気配にふとそちらを向いた。
「ええ、今現在この都市で活動している爵持ちはその一体だけです。で、どうします? 正直俺達が出るほどでもないと思うんですけど……はあ、それは確かにむかつきますがね。え? それだけじゃなく? ははあ、やっぱりね。まあ何とかやってみますよ、はい」
 彼女の視線の先で、携帯電話で誰かと話している雷牙が部屋に入ってくるのが見えた。
「雷……誰とですか?」
「ん、司令。今回の爵持ちの事で連絡したんだけど、どうやら下級のマモンって奴らしい。で、今この地に来た魔器使達が追ってるんだが、それでこちらが何もしないというのは甘くみられるし、対応に向かってくれだってさ」
「そうですか……手助けは必要ですか?」
「ん~、まあ魔器使の“程度”にもよるけど、俺一人で十分じゃないかな。あ、もちろん千里が来てくれるならうれしいけど」
 微笑みながらそう答えた雷牙に、千里は軽くため息を吐いた。
「……そうですね、一緒に行きます。あなたは少し“やりすぎる”部分がありますから。ところで」
「ん? どうした?」
「ええ、先程それ以外にも何か話していたと思うのですが、何を話されていたのですか?」
「ああ、それか」
 千里の問いに答えず、携帯電話をズボンのポケットにねじ込むと、彼は腰に手を当て冷蔵庫の中の牛乳を一気飲みした。そのリラックスしている様子からは、とてもこれから戦いに行くようには見えない。
「なに、単なる人材発掘さ。しかも、司令も半信半疑だったしね」


 そう答えると、雷牙は棒状の風呂敷包みをいそいそと解きにかかった。



                                   続く

こんにちは、活字狂いです。スルトの子2 炎と雷と閃光と 幕間  「そのころ、鈴原君は」をお送りします。ちょっと早めですがその分短いです。まあ、その分次の幕が長いのでご了承ください。

 では次回「スルトの子2 炎と風と閃光と 第五幕   炎と雷と閃光と」を、どうぞお楽しみに。



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 第五幕   炎と雷と閃光と
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:dde6378c
Date: 2011/03/23 22:49

 寄生種のスフィルに浸食された女の体が、無慈悲なチェーンソーによって十字に断たれ、さらに幾つもの肉片に切り刻まれていくのを、聖亜は呆然と見つめていた。

偶然だろうか、切り刻まれていく肉片のうち僅かに形を残している指が鈴の方に向いたが、それもすぐに粉々にされていく。
「……」
 やがて、切り刻まれた肉片は黒い液体へと変わり、それをした男に最後の意趣返しと言わんばかりにばしゃりと降り注いだ。

「……汚らわしいな。だがまあ、これで悪はまた一つ消え去った」
「……お前」
 黒い液体まみれになった髪を撫でつけ、付いた汚れを振り払いながら向かってくるスヴェンの姿を見て、聖亜は知らず知らずのうちにぎりぎりと唇を噛み締めた。
「スヴェン……どうしてこんなことを」
「どうして、だと? ふんっ、くだらん」
 悲しげな表情で尋ねるヒスイを睨むと、スヴェンは彼女にチェーンソーの先端を向けた。
「エイジャは邪悪、ならばその配下も悪だ。断罪するのは当然の事だろう」
「悪か……でもあれはエイジャではなく寄生種に侵された人間だ。それに、最後に子供を抱きしめるだけの時間を与えてやるぐら「我正す、故に我有り」う……」
 少女に向けたチェーンソーがきちきちと唸りを上げて回転する。
「例え人間であろうと何であろうと、一度エイジャの配下になったらそいつは悪だ。情けはかけん。徹底的に断罪する……それだけだ!!」
 そう叫ぶと、スヴェンはヒスイに向かってチェーンソーを振り上げ、一気に振り下ろした。

ガギギッ

「……ふん、また貴様か」
「……聖亜」
 その一撃を受け止めたのは、少年が横から突き出された一本の木刀だった。
「……」
 木刀でチェーンソーを受け止めた聖亜は、ヒスイの呟きに何も答えず、無言でスヴェンを睨みつけた。
「ふん、どうした。言いたいことがあるならはっきりと言え、“弱者”」
「……別にいう事なんてないさ。あんたが殺したあの女は、あんたより弱かったから死んだ。ただそれだけだ。でもな」
嘲笑が混じったスヴェンの挑発に、木刀を振ってチェーンソーを弾き返すと、聖亜は軽く息を整えてそう言うと、
「でもな……それ以前に目の前で女を八つ裂きにする奴って、なんか見てるとムカつくんだよ、本当にさぁ!!」
 スヴェンの顔めがけ、拳を思いっきり突き出した。
「……女だと? 下らんな。自分に関係のない、しかも寄生種に侵された女を殺しただけでそうも怒るか。俺にはまったくもって理解できない感情だが……まあいいだろう、敵対するというならば絶対零度共々滅するだけだ!!」
 突き出された拳を軽く避けると、スヴェンは聖亜の首めがけてチェーンソーを振るう。それを木刀で受け流すと、横から唸りを上げて迫ってきたもう片方のチェーンソーをしゃがんで避け、聖亜は逆にスヴェンの腹部に木刀を叩き込んだ。
「……っち、弱者のくせに!! 生意気な!!」
後ろに飛びのいて最小限のダメージで済ませると、スヴェンは2振りのチェーンソーを水平に構えた。
「……? 何だ?」
「あれは……やめろスヴェン、それを……“絶技”を人に使ったらどういうことになるかわかっているのか!!」
「ふん、どんなに良くても極刑だろうな。だが絶対零度、貴様を殺せるなら俺の命がどうなろうと……俺の正義がどうなろうと構わん。死ね、閃光絶技……千「何やってるんだい、スヴェン」くぶっ!?」
 だが、絶技を振るう寸前、スヴェンは誰かに頭を殴られ前のめりに地面に倒れた。


「まったく、あたしが来る前に始めるんじゃないよ……や、ヒスイ。半日ぶりだね」
 そう言うと、相方の頭を思いっきり蹴りながら着地したエリーゼは、自分の右腕にしゅるしゅると紐のようなものを巻きつけた。
「エリーゼ……これはいったいどういう事だ?」
「おやおや、どうしたもこうしたもないだろう? ここにエイジャがいる以上、あたしらはそれを討滅しなきゃいけない」
「そうじゃない、そういう事を聞きたいんじゃなくて……大体、上層部に許可は取ったのか?」
「ん? ああ……まあ上の許可は取ったよ。ま、マモンなんて下級の爵持ち、その気にな起きな!!」
 ヒスイの問いに答えると同時に、彼女はスヴェンの背中に再び蹴りを入れた。ドスッと重い音がして、彼の体が一度大きく跳ねる。
「ぐむっ!? エリーゼ……貴様一度ならず二度までも」
「さっさと起きないあんたが悪いんだよ。それにヒスイを殺すより先にエイジャの討伐が先だろ? さてと」
 スヴェンが立ち上がるのを見ると、エリーゼは呆然と佇むマモンの方に向き直った。
「待たせたね下級爵持ち、ああ名前は名乗らなくていいよ。もう知ってるし。それ以前にすぐ死ぬ奴の名前なんて興味ないからね」
「……すぐ死ぬですと? 申し訳ありませんがたった2人玩具使いが増えただけで、私が作り上げたこのハドラが倒されるとは思いませんが?」
 マモンの声に合わせ、彼の傍に控えていた巨大な三つ首の怪物がのそりと進み出て、スヴェンとエリーゼを睨みつける。2人を映しているその瞳にあるのは凶暴な殺気だ。
「ふ~ん、中々の物だね。で? どうするスヴェン」
「……くだらん。こんな獣、俺一人で十分だ」
 嘲笑して前に進み出ると、スヴェンはかちりとチェーンソーのスイッチを入れた。一度停止した刃が再び回転する。
「さあ来い獣、10秒でひき肉に変えてやる」
「ガァアアアア!!」
 その言葉に一声吠えると、ハドラは自分を獣と罵った目の前の無礼な男に向かって、鉤
爪を振り下ろした。

「……」
 その爪をスヴェンはチェーンソーで受け止めた。その衝撃で彼の立っている床にビキビキと皹が割れる。そのまま押し込めようとしたハドラは、だが次の瞬間ばっと爪を離した。一度大きく後退すると、自分の爪をしげしげと見つめる。2本ある前足のうち、片方の足の爪が深々と抉れていた。
「それで終わりか? 獣」
 チェーンソーに張り付いている白い粉を一振りすると、スヴェンはハドラに向かって進み出た。彼の全身に合わせて後退した怪物の3つの口に、それぞれ赤・青・緑の色が混じる。やがてそれが口いっぱいに広がった時、

 轟ッ

 と大きな音を立てて、怪物の口から3色の息が吹き上がった。

「……ぬ」
 スヴェンに最初に襲いかかってきたのは、空中の酸素を吸収して巨大化した赤い炎だった。
 チェーンソーを前方に押し出して直撃を避けるが、左右に広がった炎によってじりじりと炙られる。
 それに耐えている彼に今度は青白い氷の息が炎で熱された地面を凍らせながら向かってくる。炎に耐えきったスヴェンがチェーンソーを振り上げて、もはや巨大な氷の塊に変わった息に、激突の寸前で振り下ろす。

 バキィンッ

 と、塊は粉々に砕け散ったが、それは元々実態を持たない息だ。スヴェンの体に向かってびしびしと細かい刃の用に突き刺さると、最後に禍々しい緑色をした毒の息が彼の体をすっぽりと覆い隠した。
「スヴェン!!」
「おや? 死んだかい?」
 それを見て叫び声を上げたヒスイとは対照的に、エリーゼはつまらなそうに欠伸をした。そして彼女達と違い、哄笑した者がいた。自らの傑作を獣と罵られたマモンである。
「ふかかかかかっ!! 何という、何という他愛の無さ!! 自分が獣と罵った相手に、ほんの数分で殺されるとは!! いやあ、さすがは玩具使い、笑わせてくれま「……やはりこの程度、か」なっ!?」
 その時、不意に聞こえてきた“聞こえるはずの無い”声に、マモンは笑みを浮かべたまま絶句すると、緑色の塊を凝視した。
 緑色の塊はいうなれば毒の塊である。しかも一瞬でもふれた相手をほんの数秒で溶かし切る猛毒だ。それがもう5分以上経っているのに、まったく中の玩具使いを溶かしているようには見えない。
 
 そしてその塊が、絶句しているマモンの見ている前で、唐突に―弾けた。

「なっ!?」

「ふん、少しは楽しませてくれると思ったが、やはり下等な爵持ちが作り上げた低能の獣だな。この程度の攻撃しかできないとは」
 そう呟くと、スヴェンは今まで自分を覆っていた緑色の塊の欠片をぐしゃりと踏みつぶした。彼の全身はまるで蛍光灯のように発光している。どうやら、それが毒を防いでいたようだが、その事実をマモンは受け入れることができなかった。
「……ま、まぐれだ。まぐれに決まっている!! 鉄すら溶かす猛毒が、た、高々一匹の玩具使いに防げるはずがない!! 行きなさいハドラ、今度はあの小癪な家畜を、その巨大な顎で飲み込んでやりなさい!!」
「ガァアア!!」
 マモンの声が響くのとほぼ同時に、怒り狂ったハドラがスヴェンに飛びかかり、その三つ首のうち真ん中にある竜の口で彼を咥え、一息で飲み込もうとする。だが首の途中まで飲み込んだ時、
「グギャ!? グルギャギャギャ!!」
 怪物は、すさまじい苦痛に耐えきれないというように辺りをのた打ち回った。聖亜達が呆気にとられてみていると、首の真ん中部分がいきなりばっくりと左右に開いた。
「……ふん、内側からなら攻撃されないとでも思ったか?」
「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な!! なぜこのような事が!! 貴様は一体何者だァ!!」
「俺が……何者か、だと?」
 赤黒い血で全身を濡らしているスヴェンは、慌てふためくマモンを見て薄く笑った。
「我正す……故に我有り。第一級魔器使にして最高査問官が1人“閃光”のスヴェン。正義の名において貴様を裁くものだ」
 そう答え、マモンに向かって歩むスヴェンの手の中で、二振りのチェーンソーの中央にうっすらと何かの文様が浮かび上がる。一つは鋭い稲妻の形に、そしてもう一方は巨大な竜の顎のような形に。
「貴様、そ……それは」
「我が魔器……“堕ちた賢者”インドラ、そして“狂った暴竜”ウリドラを封じ込めた、マイスター・ヘファトが製造した傑作魔器。これに会えば悪魔ですら笑うしかなくなる……さあ、貴様は一体何秒持つかな?」
「ぐっ……調子に乗るな、家畜がぁ!!」
 首の下部をばっくりと開けたハドラがしっぽを巻いて暗闇の中に逃げ込むのと同時に、空に舞い上がったマモンが急降下しながら襲ってくる。その鋭い爪の一撃をあっさりと避けたスヴェンに向け、マモンは両の口から炎を吐き出した。
 二筋の炎は途中で交わり、強烈な炎となって彼に向かっていく。それは避けようともしないスヴェンにもろに激突した。
「ふは、ふははははっ!! 貴族の炎を直に喰らったのだっ!! これではいくら貴様でもただではすむま「……ただではすまん、か……ではどうなるというんだ?」がっ!!」
 再び上昇しようとしたマモンの翼をチェーンソーが掠める。片方の翼を傷つけられ上昇能力を急激に失ったマモンが大地に激突する。起き上がろうと顔を上げたマモンの目の前に、チェーンソーがカチリと突きつけられた。
「さて……もう終わりか?」
「ひっ!!」
 ずざざざっと後ずさりしたマモンに合わせ、スヴェンはゆっくりと前進する。その灰色の瞳に映っているのは明らかな侮蔑の表情だ。それをマモンはハッキリと悟ったが、この状況ではどうすることもできない。逃げるにしても隙がない。何かないかと4つの目が上下左右を忙しく動き回った時、視界の片隅に、ふと誰かの姿が映った。
「ふ、ふは、ふはひひひひひっ!!」
 けたけたと引きつくような笑い声を上げながら、マモンはチェーンソーの一撃を避け、地上へと舞い降りた。それでも僅かに掠めたのか空中にばっと羽が舞い降りる。
「……あいつ、一体何を見つけたんだ?」
「さてねえ、ま、何を見つけたにせよさっきの戦闘という名の“虐め”を見ただろう? 高々下級の爵持ちが、インドラとウリドラを封じた魔器を持つスヴェンに勝つこと何ざ不可能なんだよ。さてと……スヴェン!! あたしらも下に降りるよ、でもってあの嘴野郎にさっさと止めを刺してやんな!!」
「それぐらい、言われずともやる……下級の爵持ちを討滅したら、次は貴様の番だ。絶対零度」
「……」
 スヴェンが屋上から地面に飛び降りる時言い放った言葉に軽く俯いてから、キュウを右肩に乗せたヒスイも、スヴェンに続いて地上へと飛び降りた。
「えっと……俺も飛び降りた方がいいか?」
「……出来ないことを言うんじゃないよ。ほら」
「え? いやちょっと待って、まだ心の準備がうわっ!?」
 と、聖亜はいきなり抱きかかえられた。スヴェン達が来てから物陰に隠れていたナイト達と佳代が息を飲む中、彼を抱えたエリーゼは、ヒスイ達を追って屋上から飛び降りて行った。




「おやおや、あんまり遅いんで様子を見に来たら面白いことになっていますね」
 聖亜達がいる廃デパートから遠く離れたビルの屋上に立ち、戦闘の様子を眺めていたその人物は呆れるように薄く笑った。

 その姿は黒いマントに覆われていて、男か女かも定かではない。ただ口調と声の柔らかさから言って恐らくは女性であろう。
「正直あんな人はいらないんですが……まあ“招待状”を送っている以上無視はできませんか」
 ばさり、とマントを取り払うと、そこから現れたのは以外にも若い女だ。良くて20代前半ほどだろう。
「さてさて、迎えに行きましょうか……ま、愛しい姫王子の姿を一目見るのもいいですしね」
 軽く微笑むと、女の姿はビルの屋上からふっと消え去った。



「……もう逃げられんぞ、下級爵持ち」
 エリーゼが聖亜を抱えて飛び降りた時、決着はもうほとんどついていた。
 スヴェンが突きつけるチェーンソーによってマモンは逃げ場のない壁際に追い詰められており、その様子を少し離れた場所でヒスイが見守っている。
「逃げ場が……無いと?」
 だが追い詰められているにも関わらず、マモンの二つの嘴には笑みが浮かんでいた。
「く、くくくくっ……そうかもしれません。確かにこのままでは私は勝つどころか逃げることすら出来ずにあなたに殺されるでしょう……ですがね」
 不意に、マモンは左腕を何もない暗闇に伸ばした。そのすぐ先にあるのは壁のはずなのに、腕は暗闇に向かってずるずると伸びていく。やがて腕は伸びるのをやめると、するするとマモンの元に戻って来た。


 その手に、一人の気絶している少女を抱えて



「……」
「ふはっ、ふは~はっはっはっ!! さあ、この娘の命が惜しければ私に手を出すのはやめなさい!! それとも……関係のない一般人が死んでもよろしいのですか!?」
 少女の首を鍵爪で押さえているマモンは、彼女をスヴェンに向けながらゆっくりと後退していく。その時、スヴェンの横に聖亜を抱えたエリーゼが降り立った。
「おやスヴェン、あんたちょいと腕が落ちたかい? まさかまだマモンを殺していないなんて」
「痛ぅ……まったく、いきなり飛び降り」
 4階から落ちた衝撃で、彼女の腕から地面に転げ落ちた聖亜はエリーゼに抗議しようと立ち上がったが、その時マモンの方を、いや、実際には彼が抱えている少女を見てふと口を閉ざし、そして
「……おい、どういうことだ、何で、何でここに準がいる!!」
 そして次の瞬間、叫び声を上げた。
「おやぁ? この方はあなたのお知り合いでしたかそうですか」
 こちらに向かって走ろうとして、それをエリーゼに抑えられている聖亜を見てくくくっと笑うと、マモンは空いている方の手を、空中でさっと回転させた。
 次に彼が手を開いたとき、その手の中にあったのは一つの黒い物体だ。大きさはゴルフボールより一回り小さいほどだが、それは見ている人間が吐き気を覚えるほど不気味に蠢いていた。
「手前……今すぐ準を離さねえと、生きたまま地獄を見ることになるぞ!!」
「おや、怖い怖い。あまりに怖すぎて手が震えます……おっと」
 その時、わざとらしく(実際にわざとだが)震えたマモンの指から、その黒い物体が準の胸元へと落ちていき
「準ー!!」
 絶叫を上げる少年の目の前で、それは少女の胸にするりと飲み込まれていった。


「う……あ……」
「ひひゃ、ひゃ~はっはっは!! いいですよその絶望しきった顔、すべての望みを失った家畜の表情を見るのは美酒に酔うのと同じぐらい心地よい!! さあさあ、そろそろお暇させていただきましょうか。ああ、ご安心ください。この雌の家畜は私が責任を持って優秀な使徒にしてさしあげますか「……せ」ら?」
 寄生種の幼体を植え付けた自分の“戦利品”を抱えたまま飛び上がろうとしたマモンは、ふと微かに聞こえてきた少年の呟きに彼の方を見た。周囲を見渡すと、白髪の少女も、少年に弾き飛ばされた薄紫色の髪をした女も、黒猫も、そして自分を散々痛めつけていた白髪の髪と目を持つ男ですらその少年の方を見ていた。
「……聞こえなかったのか? 今すぐその汚い手を、準から離せと言ったんだ」
「……は、ははっ、あなた馬鹿ですか? 今ここでこの家畜を離したら、私死ぬじゃないですか。それに」
「……」
「それに離したところで一旦使徒の卵を植え付けた家畜が元に戻ることなどありません。どちらにせよこの雌の家畜は、私達伝道者と共に生きる他に、道はないので「言いたいことはそれだけか?」……は?」
「地獄に行く前に、言いたいことはそれだけかって聞いたんだ」
 
 ぷつり、と何かが切れたような音と共に、少年の体から異なる2つの感情が渦となって噴き出した。


 一つは、凍てついた炎のような怒り


 一つは、灼熱の氷河のような憎悪


 その2つの感情の渦は少年の右腕に絶え間なく吸い込まれていき、そして


 そして数日前、黒猫が張った仮初めの封印を、一瞬にして掻き消した。



「…………え?」
 目の前の少年に起こった変化に、しばらく呆然としていたマモンは、ようやくそれだけを呟いた。
 それほどに、彼の変化は異常だった。体中からは強烈な熱が噴出し、さらにその右腕は赤く光る硬質な物に変化している。そしてマモンはその形状に見覚えがあった。
「……ま、まさかそれは……し、深淵の御……ひぃい!!」
 その名称を、しかし彼は最後までいうことができなかった。軽く顔を伏せた聖亜が、そのままマモンの方に一歩踏み出したからだ。
 彼が踏みしめた大地が赤く発光し、どろりと溶けて彼の足跡を残す。右腕から発せられる高熱で空気中の酸素が燃え、炎が渦となって彼を取り囲んだ。
「……聖亜、炎が苦手なはずなのに」
「恐らく激しい怒りで自我を失っているのであろうよ。しかもあの小娘の目覚めた様子もない。どうやら狂うほどの憎悪で激痛すら麻痺しているようだ」
 聖亜を眺めているヒスイがそう呟くと、その横でキュウが深々と息を吐いた。
「怒りと……憎悪」
「うむ。どちらも時として必要にはなる感情であるが、怒りはともかく憎悪は人を狂わせやすい……それほど大切であったのだろうな。聖亜にとって、準という名の娘は」
「……」
 キュウの呟きに沈黙したヒスイの目の前で、ゆっくりと進んでいた聖亜がついにマモンの下までたどり着いた。
「……これが最後だ。準を離せ」
「……ふ、ふふ、あなたが何者で、どうして深淵の御手を持っているかは存じませんが、それはできませんね。この家畜を離したら、あなたは私を殺すおつもりでしょう? ならばやはりこの家畜を盾にしてあなたから逃げさせていただきます。ああ、別に攻撃しても構いませんよ? そうなれば私諸共この家畜が死ぬだけの事ですから」
「……」
 無言で俯く聖亜からじりじりと後退すると、マモンはばさりと空に舞い上がった。
「さて、そろそろお暇させていただきましょう。ではこ「なら死ね」……へ?」
 その時、聖亜はゆっくりと顔を上げて目の前エイジャを見た。真ん中が灼熱に染まっている瞳で。

 そして彼は自らの右腕をゆっくりと振り上げ、
「安心しろマモン、すぐには殺さないから……自分の体が蒸発していく恐怖をしっかりと脳裏に植え付けてやる」
 マモンに向かって、ゆっくりと突き出した。


 最初に襲ってきたのは、強烈な熱風であった。それが自分に激突する寸前、マモンは腕の中の準を前方に押し出して直撃を避けようとしたが、準の体に触れる瞬間、その熱風はまるで意思があるかのごとく2つに割れ、一旦後ろに回り込んだかと思うと、マモンの右側の顔を覆い隠した。
「うが……ぐぅ!!」
 強烈な熱風に息が詰まる。幾ら炎に慣れているとはいってもこの熱気は自分が扱う炎とはどこか、いや全く違うものだ。どこか粘つく感じがするし、付着して離れようとしない。
 そしてその熱風を伝って、高温すぎて青く見える炎が熱風に覆われている右顔を焼き尽した。
「うぎゃっ!? ぎゃぁああああああっ!!」
 炎に炙られる激痛にマモンは絶叫を上げた。しかも粘つく熱風が燃料の代わりになっているのか、炎はいつまでたっても燃え尽きる気配がない。
「ぐぅっ!! くそ、こうなったらっ!!」
 抱えていた準を投げ飛ばすと、マモンは懐から取り出した短刀を、まだ燃えている顔の付け根に思い切り突き刺した。
「……へぇ」
 倒れこむ準を抱えた聖亜は、マモンの行為に感心した声を上げた。彼は突き刺した短刀をぎりぎりと横に動かし、ぶちりと切り離したのだ。
 切り落とした顔は地面に落ちてもまだ燃えていたが、段々と炎の勢いは収まり、やがて消え去った。
 その後には、最早何も残っていなかった。
「ぐがっ……はぁっ、はぁっ、ぐっ……まさかこんな事になるとは」
「……中々やるじゃないか。自分の首を切り離すなんて。でもまさか俺の攻撃がこれで終わりだとは思っていないだろうな」
「ぐ……」
 準を左手で抱え、聖亜は再び右腕―深淵の御手をマモンに向けた。その手に再び赤い炎が灯る。
「それじゃ、次は左の首でも貰おうか。で、それが終わったら最後に胴体を手足共々焼き尽して、最後に魂を粉砕する。そうすりゃお前はもう生まれ変わることもできないだろう。俺の“唯一”に手を出したんだ。慈悲は一切掛けない」
「……」
 顔の一つを失った痛みと絶望で、もう一方の顔を蒼白にしているマモンに向かって再び熱風が向かっていく。それが動かないマモンの顔に纏わりつこうとした時、
「……いや、それはちょっと待ってください」
 そう言いながら、マモンの前に降り立った人物が翻したマントの中に、直撃するはずだった熱風は一気に吸い込まれていった。


「……あんた、何者だ」 
 熱風が際限なく吸い込まれていくのを見て、これ以上やっても無駄な事を悟った聖亜が右手を下ろすと、マントを整えた人物はにこりと笑ってお辞儀をした。
「初めまして……ですかね、姫王子様。私はこの床に這い蹲っている哀れな鳥を迎えに来た者です。まあ気軽に“案内人”とでも呼んでください」
「……案内人、ね。お前、どこかであったか?」
「いいえ? 実際に会うのは、これが初めてですが?」
 笑みを浮かべた案内人の言葉にそうかと呟くと、聖亜は再び右手を向けた。
「まあいい、あんたが何の目的で来たにせよ、さっさとそこをどいてもらおう。話があるなら後にしてくれ。殺して欲しいなら、マモンを殺した後で同じように殺してやるから」
「ふふっ……構いませんよ? お出来になるなら」
 相変わらず微笑んだままの案内人にぴくりと片方の眉を動かすと、右手から熱風ではなく青色の炎を直に出した。だが己に向かってくる炎を、案内人は再びマントの中に吸い込んでいく。
「無駄ですよ、この服は虚構空間へと繋がっています。幾ら深淵の御手といっても、無限でありゼロである空間の中では跡形もなく消滅し「ああそうかい」ま?」
 その時、炎と共に飛び込んできた聖亜の右腕が、案内人のマントを打ち払った。
「……やれやれ、そう来ましたか」
 マントの中から現れたのは中性的な容姿を持つ女だった。美女とも言っていいだろうが、聖亜は軽く目を見張っただけだった。
「女、か……なら殺すのはやめにしてやる。そのかわり両手両足を砕いて壊れるまで犯しつくす」
「ふふ、それは何とも楽しそう。でも私にも仕事というものがありますから、それはまたの機会に……それで? マモンさん、一体いつまで呆けているのです?」
 案内人に突然話しかけられ、彼女の後方でしゃがんで身を震わせていたマモンは、今では片方だけになってしまった鳥頭をはっと上げた。
「……な、何をやっていたんです案内人、あなたの迎えが遅かったせいで私は頭部を一つ失ってしまったのですよ!?」
「何ですかそれぐらいで。そんなの別の頭を付けてしまえばいいだけでしょう? それよりさっさと行きますが、何か忘れ物はないですか?」
「忘れ物……ですか? ああ、この廃屋の屋上に私が作り上げたプロトβという名の使徒がいるのですが、それも連れていってはくれませんか? 多少の役には立つでしょう」
マモンの言葉にふむとその小さな顎を可愛らしく傾げると、案内人は自分に向かって殴りかかる聖亜を遠くに弾き飛ばし、マントをバッと翻した。
「……これでいいですが、正直言ってあまり役に立つとはもえませんね。私としては短時間で量産が可能なプロトαの方が良いのですが……まあそれは向こうで改良していただくとして、さて、では参りましょうか」
「ええ……随分と遅くなりましたが、おかげで良い経験が積めましたよ。では玩具使いの方々、そして不可解な家畜、これで失礼させていただきます」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……」
 マモンが案内人と共にこの場を去ろうとした時、彼らに声をかけた者がいた。屋上からやっとの思いで降りてきた香である。
「あ、あんた帰るってどういうつもり? わ、私の願いを叶えるんじゃなかったの?」
「願い……ですか? ああ、そうでしたそうでした。あなたがお兄様と結ばれるようにするのでしたね。正直貴女に出会ったせいで私は顔を一つ失ったのですが……まあいいでしょう。ただし」
 マモンは香の頭に手を伸ばすと、その手をさっと横に振った。
「ただし、あなたの本当の願いは、決して叶いませんがね」
「……え?」
 それだけ呟くと、彼女は目をぐるりと回転させ、地面にぐたりと沈んだ。
「これで目覚めた時、あなたの見る世界には愛しいお兄様しか見えなくなりますよ。ではそろそろ行きましょうか、案内人……ああ、それから」
 倒れた香をそのままに、マモンはふと聖亜に向き直った。
「立ち去る前に、一つ忠告をして差し上げましょう。星聖亜とやら……あなたはその強大な力を持つが故に、近い将来同族に妬まれ、疎まれ……そして死ぬ」
それだけ言うと、マモンは案内人に向かって頷いた。それに返礼すると、案内人は聖亜ににっこりと笑って一礼し、マントで自分とマモンの体を覆い隠し、ふっと消え去った。



「逃げた……か」

 マモンと案内人が消え去って数秒後、ヒスイの方から飛び降りたキュウはぽつりと呟いた。
「……ああ。けど」
 その言葉に頷くと、ヒスイは意識の無い準の体をぎゅっと抱きしめている聖亜の姿を見て、悲しげに目を伏せた。
「……キュウ」
「ふむ……どうした聖亜」
「……準を助けるには、どうしたらいい?」
「……」
 少女を抱きしめたままこちらに問う少年に、だがキュウは無言のまま、残酷なほどきっぱりと首を横に振った。
「その娘を助けることはできぬ。確かに専門の施設なら寄生種自体は取り除けるが、その後に残っているのは廃人としての人生だ。これは完全に寄生種を取り除けないからであるが……そのようになるまで生を望むより、殺してやった方が慈悲深いかもしれぬ」
「……そんな事、そんな事出来るかよ!!」
 左手で準を抱え直すと、聖亜は深淵の御手と変化した右手で地面をダンッと叩きつけた。
その右手をちらりと見て、彼ははっと目を見開いた。
「そうだ、この右手で寄生種だけを焼き尽せば!!」
「……確かに深淵の御手ならば寄生種を完全に消滅させることも可能だ。だがそのためには娘の体内にその手を直に突き入れなければならぬ。そなたの技量では十割失敗し、娘の体ごと焼き尽す。不可能だ」
「……くっ」
 再び地面を殴りつける少年を見て、一度深々とため息を吐くと、キュウはふと空を見上げた。彼女の紫電の瞳には、暗い結界の外側で徐々に広がりつつある雨雲が見えていた。
「……一雨きそうだな。聖亜、今すぐその娘を殺せとは言わぬ。とにかくこの場所を離れるとしよう」
「……ああ」
 黒猫の言葉に悲しく呟き、聖亜は準を抱えて歩き出した。深淵の御手は彼女の冷たい体をほのかに温めている。だが、キュウの言う通り今の自分では寄生種を取り除こうとすればその宿主さえも焼き尽してしまうだろう。そんな自分に今できることはただ一つ、彼女を一刻も早く暖かい布団の中に寝かせてやることだけだ。

 そう思って、聖亜が一歩踏み出した時だった。

「……」
「……なんだよ」
 歩き出そうとした自分の前に立ちふさがった人間を見て、聖亜は苛立たしく呟いた。だがその呟きにその人間―スヴェンは何も答えず、ただ一度、くっと笑った。
「っ!! お前……何笑ってんだよ」
「……スヴェン?」
 ヒスイが不審そうに尋ねると、スヴェンは再びくくっと笑いだし、やがてそれは哄笑へと変わった。
「くはははははっ!! そうか……貴様が絶対零度と手を結んでいるエイジャだったか……まさか自分から正体を現してくれるとは思わなかったぞ」
 そう言い放つと、スヴェンは再びチェーンソーのスイッチを押した。
「まてスヴェン、これには深い訳が「……ヒスイ、庇ってもらわなくてもいい」……聖亜?」
 そんな彼に抗議しようとしたヒスイに声をかけ、聖亜は彼女に腕の中の準をそっと押しやった。
「聖亜……お前」
「……ちょっと準の事頼む。俺はこのクソ餓鬼の根性、叩き直してくるから」
「……」
 無言のままこちらを見つめてくる少女微かに笑うと、聖亜は険しい顔つきでスヴェンに向き直った。
「さあ来いよ自己陶酔してるクソ餓鬼野郎、手前の根性叩き直してやる!!」


 聖亜に向かってきた最初の一撃は、横殴りに向かってくるチェーンソーだった。それを木刀を斜めにして打ち払うと、聖亜はスヴェンの足めがけて蹴りつける。だがその動きは読まれていたのかスヴェンは飛び上がって軽くかわすと、スヴェンは逆に聖亜が持っている木刀を蹴り落とし、さらに体制の崩れたこちらの首めがけて回転する刃を振り下ろした。

ガキィン!!

 と、大きな音を立てて右腕とチェーンソーがぶつかり合う。だがどうやらこちらの発する熱の方が強いようだ。熱に充てられた刃が真っ赤に染まり、その先端がぶすぶすと焼けていく。本来なら魔器が損傷する前に離れるのだが、スヴェンはそのままチェーンソーで彼の右腕を抑え込み、もう一方のチェーンソーを彼の右わき腹めがけて振り回した。
「くっ!!」
 右手を大きく振りながらチェーンソーを弾き飛ばすと、聖亜は後ろに下がり紙一重でわき腹への直撃を避けた。だが完全に避けきれなかったのか、服が千切られその中にあるわき腹に、赤い一筋の線ができていた。

「聖亜!? エリーゼ、頼むからスヴェンを止めてくれ!!」
 その様子を見ていたヒスイは、彼女と同様2人の戦いを見物しているエリーゼに声をかけた。だが、この場で恐らく唯一スヴェンを止められるはずのエリーゼは、黙って首を振った。
「すまないねヒスイ、幾らあんたの頼みでも、“エイジャ”と戦っているスヴェンを止める義務はあたしにはないよ。それに……」
 そして、彼女はヒスイに向かって、邪悪な笑みを見せた。
「それにヒスイ、あんたには上層部から抹殺命令が出ている。どんなに懇願されても、抹殺対象者の頼みごとを聞くわけにはいかないさ」
「……」
「……何、抹殺命令だと!?」
 エリーゼの言葉に反応したのは、呆然としているヒスイではなく、その隣にいるキュウであった。
「馬鹿な……抹殺対象者に指定されるのはAAA(トリプルA)クラスの罪を犯した物だけのはずだ。それ以前に四大教授による重要会議が必要であり、抹殺対象者として確定するには何ヶ月もかかるはず……どういうことだ、エリーゼ」
「そんなのあたしが知るはずないだろ? あたしはただあの狂った科学者からあんたの抹殺を命じられただけ……おっと」
 言い過ぎたとさして困った様子もなく言い放つエリーゼを見て、キュウは忌々しげに舌打ちした。
「……なるほど、ヘルメスの仕業か。我の推測が正しいなら、確かに奴はヒスイに対して抹殺命令を出すだろう。しかもそれが発覚した場合、当事者が自分の命令を無視して行った、と言えば済むことだしな。それに」
 木刀を拾い上げ、スヴェンと打ち合っている聖亜の様子を見てから、キュウは深々と息を吐いた。
「それに、そなたとスヴェンはヘルメスからの命令には逆らえまい。まあ、我にそなたを止めるすべはないが、ヒスイを抹殺するのはこの決着がついてからにせよ」
「……ああ、そうさせてもらうよ。スヴェンがこれだけ手間がかかる敵なんて、今までいなかったからね」
 そう呟くと、エリーゼもキュウとヒスイに続き、戦っている2人の少年を眺めた。

「くっ!!」
「……む」
 2人と1匹が見つめる中、聖亜とスヴェンは膠着状態に陥っていた。練習用の木刀といっても巨木を丸ごと一本の木刀にしたためか、チェーンソーでも短時間では砕けないらしい。それにもう一方のチェーンソーはこちらに向かって伸びてくる聖亜の右手を防ぐために使われていた。
「……イルドラ、あとどれぐらいで木刀を砕ける」

『申し訳ありませんマスター、先程燃える右腕で受け止められた際、少々刃こぼれしてしまったようです。いましばらく時間がかかるかと』

『はっ!! ダサいわね~!! ねえご主人様、無能なイ“ヌ”の代わりに、あたしが木刀を砕きましょうか?』

「……いらぬ世話だウリドラ。それに貴様でなければこの右腕は抑え込めないだろう」

『ま、そりゃあたしはイ“ヌ”ちゃんと違って炎に強い最強の龍ですから? これぐらいの炎は昔は日常茶飯事に浴びてましたけど……けどこの炎、なんかまだ全力じゃないっぽいんですよねぇ』

「……なるほど。全力ではない、か。全力を出せないのか、それともあえて出さずにこちらを馬鹿にしているのか……まあ、さっさとこいつを切り刻むだけだ。それが俺の正義なのだからな!!」
「うぁっ!!」
 不意に、こちらに向かって押し付けられるチェーンソーの重みが増し、聖亜はがくりと片膝を付いた。どうやら相手が力を込めてきたらしい。だが片膝を付きながらも、聖亜はチェーンソーをぎりぎりと押し上げて行った。
「……ったく、また正義かよ。このクソ餓鬼が。一体全体、手前はどうしてそう正義なんかにこだわるんだ」
「こだわるだと? 勘違いするな。俺が正義を行うのは……それが俺に取っての生存理由だからだ!!」
「……生存、理由?」
「そうだ。貴様などには分かるまい……代々ヴァルキリプスの副学長を輩出してきた名家であるザラシュフトラ家に生まれながら、生まれた際地球を滅ぼす者の一人になるだろうという予言を受け、捨てられた者の気持ちなど!!」

 ああそうか、と自分が戦っている目の前の男を見て、聖亜は唐突に理解した。

 この男は子供なのだ。どんなに体が大きくとも、どれほど戦闘能力が高くとも、結局は幼い子供なのだと。

 そしてその幼い子供が唯一縋ることができる物こそ、正義なのだろう。

「……なら一つ聞いてやる。それほど正義にこだわるあんたが、どうしてヒスイを狙う? エリーゼって人から聞いた話じゃ、ヒスイはあんたの大事な姉さんとやらを死なせたようだけど、それって事故だったんだろう? 許してやるのが正義じゃないのか?」
「許す……許すだと? そんな事ができるものか!! あの屈辱の日々の中、俺を唯一支えてくれたのが姉上だ!! その姉上を、あの女は自分勝手に殺したんだよ!! 百回殺しても許せない、千年絶望を味あわせてもなお許せない!! あいつを殺せるなら、自分の信念など捨ててやる!!」
「……ああそうかい」
「ぐっ!?」
 スヴェンの叫びに低い声で返すと、聖亜は木刀を振るってスヴェンを弾き飛ばした。
「馬鹿な……どうなっている、インドラ!!」

『そ、それが、木刀が赤く発光して……間違いありません、彼の右手から発生している熱が、体を通って木刀に伝わって……きゃっ』

 いちいち解説しているチェーンソーを右手で弾き飛ばして黙らせると、聖亜はスヴェンに向かって木刀と手で殴り続けた。
「ぐっ!! この……悪の分際ぐあっ!!」
「ああそうさ、初めに会った時もいったが、俺は邪悪さ。けどなクソ餓鬼、この世にはお前が信じている正義なんざどこにもないんだよ」
 突き出された刃を飛び上がることで避けると、聖亜は痛みと屈辱で歪んでいるスヴェンの顔を蹴り飛ばした。
「本当なら問答無用で殺してるところだが、俺は餓鬼は殺さない。けど口で言って分からない馬鹿は身体で教えてやるしかないんでね!!」

「……へえ、すごいじゃないか。あのスヴェンが苦戦してるよ」
 聖亜に押されているスヴェンを見て、エリーゼは感心したかのような笑みを浮かべた。

「木は熱を伝えやすい。恐らく聖亜の感情が高ぶった時に発生した熱が、木刀に流れ込んだのだろう。確かにこのままいけば聖亜はスヴェンを倒せるだろう……このままいけば、だが」
「……?」
 どこか歯切れが悪いキュウの言葉に、ヒスイがそちらを向いた一瞬、

カランッ

「……う」
「あ……聖亜!?」
「ふむ、やはりか」
 振り向いたヒスイの視線の先で、圧倒的優位に立っていた少年の手から、木刀がぽとりと転がり落ちた。

「……う、あ」
 突然体を襲った激痛に、スヴェンに馬乗りになっていた聖亜はがくがくと震えながら木刀を振り落とし、続いてスヴェンの横にごとりと崩れ落ちた。
「あ、が……がぁあああああっ!!」
「……ふ、ふん。やはり正義は偉大だ。悪である貴様にこうして罰を与えているではないか……なぁ!!」
 立ち上がったスヴェンが、頭を踏み砕こうと足を思いっきり振り下ろしてくる。絶え間なく襲ってくる激痛の中で木刀を拾い、なんとかそれを受け止めるが、手にほとんど力が入らない。
「キュウ、これはいったいどういう事だ!!」
「なんてことはない。奴は今まで準という娘を汚された怒りと憎悪で激痛を一時的に忘れていたにすぎん。それが収まれば、激痛がぶり返すのはむしろ当然であろう。それより、今のままでは奴はスヴェンに殺されるぞ」
「そんな……」
 黒猫の非情な言葉に愕然としながら、ヒスイはスヴェンに嬲られ続ける聖亜を眺めることしかできないでいた。

「……く」
 もはや意識すら朦朧としている中、聖亜はぎりぎりとこちらに押し込められるチェーンソーを木刀で必死に抑え込んでいた。腹部をスヴェンに踏まれているため逃げることはできない。しかも意識を失おうとすると、ドンっと腹部に強い衝撃が来る。どうやらこのまま嬲り殺しにするようだ。
「ふん、そろそろ観念したらどうだ悪。どれほど貴様が抵抗したところで、天罰が下った貴様のたどる道はもはやここで死ぬしかないのだ。だからせいぜい無様に殺されろ、この俺に!!」
「ぐ……あ」
 勝ち誇ったような笑みを見せるスヴェンに何か言い返そうとするが、口は微かに震えるだけで声は出ない。木刀を持つ手の力も段々と失われていき、今にも取り落としそうだ。

 しかし、どうやら自分よりもその木刀の方が限界に来たようだ。

 回転する刃を受け止め続けた木刀は、一瞬大きく震えると、ビキリと音を立てて罅割れた。
「くは、ははは!! さあ死ね、ほら死ね……今すぐ、死ねぇ!!」
 けたけたと狂ったように笑いながらスヴェンが押し込んでくる刃が、木刀の亀裂をビキビキと広げる。

 そして次の瞬間、回転する刃に耐えきれなくなったのか、木刀は半ばから真っ二つに折れた。
「……っ!!」
 迫りくる刃に、聖亜は無意識のうちに目を閉じそうになった。だが最後の力を振り絞ってそれだけはなんとか避ける。


 決して目を閉じずに、自分の最後を見届ける。それが千近くの人間を殺してきた少年の、けじめであったから。


 振り下ろされたチェーンソーは、ガギリと鈍い音を出し、それを抉った。


「……」
 スヴェンは自分が抉った大地を無表情に見つめると、10メートルほど前方で蹲る聖亜をむっつりと見た。
「ちょっと、大丈夫? 聖亜」
「う……ナイ、ト?」
 ぼんやりとした視界の中、こちらを覗きこんでくる人形の顔がはっきりと見える。何とか体を起こすと、自分とスヴェンの間に、ポーンとビショップ、そして佳代がいるのが分った。彼らは自分を取り囲み、スヴェンと対峙している。まるで彼から自分を守ろうとしているかのように。
「……何のつもりだ、雑魚共」
「雑魚とはひどい言い方だな……見てわからんのか? 貴様から聖亜を守っているのだ」
 そう呟いてナイトが戦斧を構えるその横で、
「そうですね。申し訳ありませんが、あなたにこの人を殺させるわけにはいきません」
 ビショップが、赤い杖を前にだし強力な結界を周囲に張ると、
「……私には、お前が何者かは分からない。けど」
 黒い翼をもった少女が、厳しい表情でスヴェンを睨んだ。
「……ば、馬鹿、やめろ……お前達じゃ無理だ」
「そう? やってみないと分からないじゃない。私達だってあなたの眷属になったことで、少しは格が上がってるのよ……多分、あなたが逃げる時間稼ぎぐらいはできるわ」
 そう言って聖亜に微笑むと、ナイトは片腕がとれたままの人形の姿で飛び上がり、ポーンの隣にすたりと降り立った。
「さて、そういうわけよ“玩具使い”主を殺したかったら、その前に私達を倒してみることね」
「……」
 ナイトの挑発めいた言葉に、だがスヴェンは無言で返し、自らの魔器を構えた。それに対し、ナイト達も身構える。聖亜に言われずとも、最初から敵との亜一党的な力量差は悟っていた。でも自分たちは退けない。それ以前に退く気はない。なぜなら自分たちが退けば、後ろにいる主が奴の手で殺されるからだ。だから、たとえ自分達が死んでも、退くことだけはできない。

 そう思って、まずナイトが一気に突進しようとした、その時だった。

「……くだらん、貴様ら雑魚に手間をかけるつもりはない。一瞬で死ね……閃光絶技“千空”!!」
 最後の言葉を言い終えると、スヴェンは今だ遠くにいるナイト達に向け、2振りのチェーンソーをぶんっと強く振った。

「な? きゃっ!!」
「くっ! がぁ!!」
「あうっ!!」
 空を“千”に断つ衝撃波が、ナイト達に激突する。その衝撃でポーンとビショップ、そして佳代は全身に傷を負いながら弾き飛ばされ、後方の壁に激突し、がくりと頭を垂れた。
「くっ……ポーン、ビショップ、佳代ちゃん、無事?」
 ただ一人、傷を負いながらも弾き飛ばされなかったナイトが彼らに声をかけると、微かにだがうめき声が聞こえてくる。どうやら死んではいないらしい。だが、動けないほどのダメージを負ったのは事実だ。そしてまた、自分も。
「ほう……今の一撃を耐えるか。なるほど、単なる雑魚ではないようだ」
「……あ」
 全身に傷を負い、今にもばらばらになりそうなナイトに向かって、絶技を放ったスヴェンがゆっくりと歩み寄る。もはや自分の勝利を疑っていないのだろう、その動きに焦りや不安は全く見られない。
「……ま、まだよ、まだやられるものですか」

 勝てない

 傷を負いながらも未だに動くことすら出来ない自分の前に立ち、必死に庇ってくれるナイトを見て、聖亜は心の底からそう思った。


 自分では、目の前の男には決して勝てない。勝つことなど全く考えられない。

 ならもうどうしようもないのか? このまま自分もナイトも、ポーンもビショップも佳代も、そして自分達が殺された後はヒスイと……そして準はもう殺されるしかないのか?

 
 否、それだけは出来ない、許せない、認めることは欠片もできない。


ならどうすればいい? 簡単なことだ。こいつを倒せる可能性を秘めた奴を呼べばいい。


そしてその存在を、彼は一人しか知らなかった。


だから呼ぶ。最後の力を振り絞って、心の底から


「……こい」
「む?」

 まずは動けないナイトに止めを刺そうと歩いていたスヴェンは、ふと聖亜が呟いた言葉にその歩みを止めた。


「来い……炎也ぁ!!」
「なっ!?」

 意識を失う瞬間、少年は自分の中から湧き上がる、暑苦しいほどの炎を感じていた。



「……何だ、これは」
 目の前の出来事を見て、歩みを止めたスヴェンはそれだけを呟いた。

 今まで意識を保っているのが不思議なほどだった少年が突然起き上がると、彼の体から強烈な炎が天高く舞い上がったのだ。
「まだ何か隠し玉があったのか……だが最早俺の……正義の勝利は揺るぎはしない。どのような事になろうともな」
 一度頭を振って、僅かに生まれた警戒心を振り払うと、スヴェンはまずナイトに止めを刺そうと再び歩き出し、そして呆然と炎を眺めていたナイトのすぐ背後に着くと、チェーンソーをゆっくりと振り上げた。


 だが、それがナイトを傷つけることはなかった。


 炎の中から飛び出してきた“それ”が、振り下ろしかけたチェーンソーをがしりと掴む。
「何っ!?」
 だが全身に炎を纏った“それ”はチェーンソーを振り払うと、一瞬呆けたスヴェンの顔に向かって、炎に包まれた拳をまっすぐに突き出した。
「く!!」
 間一髪、顔を左に起きく傾けることで直撃は避けたが、それでも頬に一筋火傷の痕が残る。じんじんと痛む頬に軽く舌打ちすると、それでもスヴェンは別段慌てることなく無防備な“それ”のわき腹にチェーンソーを叩きつけた。
「ぎゃいっ!!」

 炎の中から聞こえてきたのは、以外にも若い女の声だった。だがスヴェンは別に相手が女だから手を抜くといった感情は持ち合わせていない。相手がわき腹に突き刺さったチェーンソーを弾き飛ばすのとほぼ同時に、こんどは首めがけもう一方のチェーンソーを振り下ろした。
「む? がっ!!」
 だが、次の瞬間痛みに声を上げたのは自分の方だった。なんと相手は振り下ろされたチェーンソーのほぼ真ん中を拳で殴り飛ばすと、そのままの勢いでこちらにぶち当たってきたのだ。

 衝撃と炎の熱さに2,3歩ほど後退したスヴェンの前で、“それ”の周りを包んでいた炎がばっと掻き消えた。


 それは、少女であった。


 赤い髪は炎のようにゆらゆらと揺らめき、髪と同じ色をした瞳はぎらぎらと輝いている。端正な口からは発達した犬歯が覗いている。
「ったく、人が気持ちよく寝てるってのに大声で叩き起こしやがって……これが終わったらケーキどころじゃ済まさねえからな。クレープにプリン、アップルパイも頼んでやる」
 ぶつくさとそう呟くと、炎の化身のような少女はスヴェンに向かって獰猛な獣のように笑いかけた。
「よう、どうやら手前が俺の相棒をぎったぎたにしてくれた野郎のようだな。でよ、お前の名前なんてゆうんだ? いや、今まで寝ていたから聞いてなくてさ」
「……第一級魔器使“閃光”のスヴェンだ。何故名前など聞く」
「いや、だって聞いとかなきゃいけないだろ? 何たって俺は今から……手前をぶっ殺すんだからさぁ!!」
「ぐっ!?」
 少女の叫び声が辺りに響くか響かないかの一瞬のうちに、彼女はすでにスヴェンの間合いの内側にいた。慌てて飛びのこうとするが、そんなスヴェンの腹部を、少女は右手で思い切り“抉った”。
「がっ!!」
「ほらほら、まだ倒れるには早いぜ!! そういや俺の名前を言っていなかったな、我炎也(われほのおなり) !! 七の月に生まれた炎の子、名付けて七月炎也(ななつきえんや)!! 久々の登場だぜ!! らぁっ!!」
 倒れこむスヴェンの頭を無造作に蹴り飛ばし、炎也はスヴェンの喉元を赤く発光する右手で押さえつけた。その右手を見て、キュウはニャッ!! と一度驚きの声を上げた。なぜならそれは、蛇神との戦いでは炎也に使う事の出来なかった、聖亜より遥かに小さく、炎の勢いも弱いが、間違いなく“深淵の御手”であったから。

「小娘!! 貴様何故それが使える!?」
「はっ!! 驚くことないだろ馬鹿猫。相棒は自分の意志で俺を呼んだんだ。ならあいつの能力を俺が使えるのは当たり前だろうが!! さあクソ餓鬼、手前には泣き喚く暇も、許しを請う時間も与えねえ!! このまま俺に殴られながらさっさと死にやがれ!!」
「ぐっ……黙れ!!」
「おっと」
 顔を殴られ、血反吐を吐きながらも、スヴェンは握りしめているチェーンソーを振り回し、一旦炎也を下がらせた。
「貴様は……貴様だけは殺してやる!! 絶技“千空”!!」

 先ほどナイト達を一撃で戦闘不能にした衝撃波が炎也に迫る。だが彼女は自分に向かってくる真空の刃をつまらなそうに眺めると、右手を突き出し、指で何かを軽くはじく真似をした。
「何!? ぶっ!!」
 その途端、彼女に向かっていた衝撃波がそのままの勢いでこちらに逆流してくる。自分の放った衝撃波に弾き飛ばされ、スヴェンは地面に頭から激突した。身体には無数の切り傷を負っており、息をしているものの、口からはごほごほと血が噴き出している。どうやら内臓を痛めたらしい。
「おいおい、ちょっと指でパチンとしただけでもう終わりかよ。ま、中々楽しめたから良しとするか……んじゃ、そろそろ終わりにしようぜ」
 笑いながら、炎也は右手にぐっと力を込めた。途端に手を炎が包みこむ。そして炎に包まれた右手を、炎也はゆっくりと振り上げた。
「……ぐっ」
「いいかクソ餓鬼、殺す前に一つだけ言っておいてやる。この世界に正義なんてものはないんだよ。聖亜の野郎はああ見えて女子供を殺せない甘ちゃんだから、なんとかお前に教えようとしていたようだが、俺は違う。俺は平然と年下のお前を殺すことができる。さてと、右手もいい感じに温まってきたことだし、そろそろ行くか? 俺のこの手が真っ赤に燃える!! てな!!」
 炎が拳の形を作り、炎也の手を覆う。文字通り2倍に脹れあがた右手を、炎也はスヴェンに向けて思いっきり振り下ろした。

「……待ってくれ!!」
「んあ?」
 振り下ろした拳がスヴェンに直撃する寸前、突如聞こえてきた少女の声に、炎也は思わずそちらを向いた。そのせいか右手を包んでいた炎は消え去り、しかも速度が落ちたせいで、スヴェンの体に当たった一撃は、彼を包み込むウリドラの防御を破ることができなかった。
「……おいおい、待ってくれとはどういうことだよヒスイ、こいつはお前を殺そうとしたんだぜ」
「……それは、分かっている」
 呆れたように問いただす炎也の言葉に、先ほど彼女を止めたヒスイは悲しげな表情で頷いた。

 彼女らが話している中、スヴェンは右手に持ったチェーンソーを、ゆっくりと握りしめた。

「分かってるならどうして止めるんだよ。ここでこいつを殺してしまえば、後は狙われることないだろうが。そっちの女はあんまり気のりしてないようだしな」
「……ま、確かにね。あたしにとってはスヴェンが死のうとヒスイが生きようとどうでもいいことさ」
 少女の視線を受け、エリーゼは軽く息を吐いて頷いた。その様子を見て、炎也はやれやれと首を振る。
「手前の相棒が死にそうだってのにそんな態度かよ……それで? もう一度聞くがそれが分かっていてどうして止めた? 場合に寄っちゃあんたであろうともぶっ殺すが?」
「……スヴェンはまだ子供だ」
「は? なんだその答え。言っておくが俺は凶器を持って、それを使う事にためらいを持たない餓鬼に容赦はしない。ぶっ殺すだけだ」
「……もう一度言う。炎也、スヴェンは子供なんだ。私が彼の大切なものを奪ってしまったせいで、どうしていいかわからず正義に縋ってしまった幼い子供なんだ。だから、私には彼に償う義務がある。それに」
「……それに?」
「それに私はあいつと約束したんだ。どんなことがあってもスヴェンを死なせないって。だからもしお前がスヴェンを殺すつもりなら、私はお前を止める。例え」
 ヒスイは、白髪の少女は、手に持った太刀を彼女に向けた。
「例え、絶技を再び使うことになってもだ」

「……」
「……」
 彼女の言葉に、周囲に沈黙が落ちる。太刀を構えたヒスイと、炎を纏っていない炎也はは暫く睨み合っていたが、やがて赤髪の少女が視線を逸らした。
「……ありがとう」
「っち、言っておくがな、見逃すのは今回だけだ。そんなに大切ならしっかり手綱を握っておけ……いいな」
「ああ。わか「……その必要は、ない」な!?」

 その時、炎也の右肩に、背後からチェーンソーがぎちぎちと食い込んだ。
「がっ!! て、手前……」
「……くははははっ!! 礼を言うぞ絶対零度、貴様のおかげでこの“絶技”を放つための力を溜めることができたんだからな」
「っち、やぱりこうなりやがったか……ぐ」
 激痛が走る中、炎を吹きだして食い込んだ刃を何とか押し出そうとするが、スヴェンはどうやら全体重をかけて刃を押し込んでいるらしい。右肩であるため、深淵の御手で弾き飛ばすこともできず、やがて炎也の体はぐらりとよろめいた。
「これで最後だ。万物尽く粉砕せよ……閃光絶技弐の太刀“千裂”!!」


 そして、彼女の体は、一瞬で切り刻まれた。


「……ふん、中々しぶといな。まだ生きているか」
「……うぇ」
 ふらつく体を支え、口元からは血を流しながら、それでもスヴェンは目の前の肉塊を見て笑みを浮かべた。千裂、一瞬で相手の肉体を千に引き裂く技であるが、この技が出る半瞬ほど先に、炎也は発生させる炎を全開にして、何とか即死だけは避けた様だ。

 だがその体は無残にも抉られ、あちこちで赤い肉が見えている。こちらが手を出さなくとも、やがて死ぬだろう。
「……っ」
「どうする女? このまま無残に死んでいくのを眺めて欲しいか? それとも慈悲で即死させてやろうか? まあどちらにせよ俺をここまで追い詰めたエイジャは貴様が初めてだからな、好きな方を選ばせてやる」
「……好きな、方か。なら俺は……手前を、ぶっ飛ばしてえな」
「くははっ!! その状態でまだ軽口が叩けるか!! いいだろう……一撃で死なせてやる」
 笑いながら、スヴェンは炎也の胸に刃を置いた。これが回転すれば、もはや彼女の命はないだろう。だが
「……ああ、くそっ、ついてないぜ。気持ちよく眠っていた所をたたき起こされて、しかもこんなずたぼろにされるなんて、な」
「……む?」
「お前の“痛み”は、俺が持って行ってやる。だからまた少し眠らせてくれや……聖亜」
「くっ!!」
 その時、スヴェンは彼が今まで感じたことの無い何かに突き動かされるように、チェーンソーの刃を回転させる。

 だがそれは、“彼”の右手に当たって止まった。


「な……馬鹿な!!」


 避けられるのなら理解でき、弾かれるならまだわかる。だが全力で押し付けた刃が、彼の右手によって止められているのだ。


「……炎也の奴、結局最後は俺に任せるのかよ」
 回転する刃を掌で止めながら、聖亜は苦笑した。そしてそのまま、右手を“剣”の形に変化させ、チェーンソーを弾く。
「くっ!!」
 押し戻されたスヴェンが下がると同時に、聖亜はゆっくりと立ち上がり、そしてゆっくりと彼を見た。
「さてクソ餓鬼、第二ラウンドと行こうじゃないか……ま、俺もお前もどちらもぼろぼろだ。恐らく次の一瞬で決着がつくだろうが、だからこそ全力を出させてもらう。“炎の偽剣”レバンテイン」
 少年の呟きに、彼の右手はその姿を変えていく。肩からは何本ものパイプが飛び出て、関節部は歯車に、手首はタービンへと変化し、そして手首から先は炎を結晶にしたような赤い刀身を持つ剣に変わった。
「……くだらん、たかだか手を変化させただけで俺に叶うものか。ウリドラ」

『は、はいご主人様』

「あれを使う。いいな」

『あれ? ちょっと待ってくださいよご主人様!! あれってあれですよね? まだ未完成の技じゃないですか!!』

「それがどうした……俺は奴を、奴をどうしても殺したいんだよ!!」

『ひっ!! わ、分かりました……ったく、イル、あんたのせいだからね。これが終わったらいっぱい虐めてやるんだから!!』

 地面に転がっているイルドラにぶつくさと文句を呟くと、ウリドラは魔器に残っている全てのエネルギーを解放させた。それに合わせ、チェーンソーの刃が巨大化していく。

「ふん、それがあんたの全力って訳か」
「ああ。全力には全力で応えねばならないからな……だがいいのか? 剣では俺の魔器に勝つことは出来んぞ?」
「……さあ、それはやってみなくちゃわからないんじゃないか?」
 にやりと笑いながらレバンテインを構える聖亜を見て、スヴェンもふっと笑った。
「それもそうだな……では行くぞ、悪!!」
「おお!! 来いやクソ餓鬼」
 
 そして、2人はほぼ同時に相手に向かって駆け出した。


「絶身奥技“血桜千斬(ちざくらせんざん)”!!」
 
 最初に放たれたのは、スヴェンの一撃だった。彼の全力は、向かってきた聖亜の体を確実にとらえ、そしてー通り過ぎた。
「な!? 上か!!」
「はははっ!! 誰がこれを剣って言ったよ!! 変われレバンテイン、剣から、すべてを貫く槍へと!!」
 剣の両側に生まれた翼で空に舞い上がり、スヴェンの一撃を避けた聖亜は、そのまま相手に向かって急降下する。彼の右手は、今度は突撃槍に変化していた。どこまでも鋭く、何物をも貫く赤い槍に。
「行くぜ!! レバンテイン・突撃槍型秘技“紅鴉(べにがらす)”!!」
 急降下する彼の体を、レバンテインから放たれた炎が包む。それはまるで、獲物を狙う紅の鴉に似ていた。

「く!! だがその攻撃を防げば貴様の動きは止まる!! まだだ!!」
 光を失ったチェーンソーを頭上にかざし、スヴェンは聖亜の一撃を受け流そうと身構えた。だが
「アホ!! 俺の目的は最初からそっちだよ!!」
 槍は一直線に、チェーンソーの中央に突き刺さった。
「くっ、馬鹿な!!」
 そのまま槍を引くと、それが突き刺さっている魔器も同様に引かれていく。バランスを崩しかけたスヴェンの鳩尾に、聖亜は思い切り膝蹴りを叩き込んだ。
 スヴェンはふらふらと伸ばした手を聖亜の肩に置いたが、やがてがくりと崩れ落ちた。
「スヴェン!!」
「死んでねえよ、約束だからな……いいかクソ餓鬼、戦いには駆け引きが大事なんだ。よく覚えとけ……で」
 右手からぷすぷすと煙を出しながら、聖亜は青ざめているヒスイに笑いかけ、その隣にいるエリーゼに目を向けた。
「あんたはどうする? そこで寝てるやつと一緒に帰るっていうなら見逃してやってもいいけど」
「……出来ればそうしたいんだけどねぇ、悪いけどこっちも上司の命令があるのさ。それに」
「それに? 何だよ」
 首を傾げる聖亜に鋭い視線を投げかけると、エリーゼはばっと後ろに飛び退いた。
「同僚を痛めつけられて退散するほど、あたしゃ不義理じゃないんでね!!」
「……っち!!」
 彼女の後を追おうとした聖亜に向かって、前方から何かが飛んでくる。打ち払おうと剣の形に戻ったレバンテインを振るうが、それはまるで意思があるあのようにひらりと浮き上がり、彼の首に巻きついた。
「ぐっ!! な、なんだこりゃ!?」
「これがあたしの魔器、“蛇眼刀(じゃがんとう)”さ。ま、糸の先端に刃を結びつけた暗器で、正面からぶつかり合う事は出来ないし、複数を一度に倒す事も出来ないが、こうやって不意を突けばこれほど恐ろしい魔器はないよ」
「っち、けどこれぐらいなら……う」
 首に巻きついた糸を振りほどこうとした聖亜は、ちくりとした感触にその動きを止めた。
「言ってなかったかい? 糸の先端には刃が結び付けられてるって。こいつは鉤爪の形をしていてねぇ、一度食い込んだら容易には外れない。しかも麻痺性の毒が塗られているから、ほぅら、少しずつ動けなくなっていくだろ」
「……う……が」
「聖亜!!」
「ああ、動くんじゃないよヒスイ。麻痺性の毒じゃ死ぬことはないが、あたしが糸をちょっとでも引けば坊やの心臓に刃が突き刺さる……あたしの勝ちさね。さ、観念しな」
 走り出そうとしたヒスイの動きを止め、エリーゼが糸を巻きながらこちらに向かってくる。そして、彼女が聖亜の首に手をやった時、


 ドクンッ


 不意に、大気が震えた。

「……あ? 何だい」

 聖亜に止めを刺そうとしていたエリーゼは、突如聞こえてきた振動に、訝しげに振り返った。そこには意識を失って倒れているスヴェンしかいない。だが彼からはドッ、ドッ、ドッと、力強い胸の鼓動が聞こえてくる。
「何だい、脅かすんじゃないよまったく。スヴェン、目が覚めたのかい……スヴェン?」
 だが、ゆっくりと立ち上がった少年を見て、エリーゼは怪訝そうに目を細めた。こちらを見たスヴェンの表情が虚ろだったからだ。その表情は、どう見ても意識があるようには見えない。
「ちょ、スヴェン!! あんた一体どうしたんだい!!」
 聖亜の首から手を放し、ついでに魔器も外すと、エリーゼはスヴェンに駆け寄った。崩れ落ちた少年の体を、慌ててヒスイが支える。
「聖亜、大丈夫か?」
「なん、とかな。けどどういう事……だ? 死なないように手加減したとはいえ、一週間は意識が戻らないはずなのに」
「……あれは起きてるのではない」
 聖亜の疑問に答えたのは、厳しい表情をしたキュウだった。彼女はスヴェンを見て、威嚇するように毛を逆立てた。
「……キュウ?」
「我の考えが間違っていることを望むが、間違っていなければ、あれは……」
「スヴェン、あんた大丈夫かい?」
 黒猫の見ている先で、エリーゼがスヴェンの頬をぴしゃりと叩いた時だった。

 少年のうつろな目が、突然ぞわりと赤く染まった。

「きゃっ!!」
 振り払われたエリーゼが尻餅をついて悲鳴を揚げる。と、スヴェンの魔器である2つのチェーンソーがかたかたと揺れ、持ち主に向かって飛んできた。
「く、やはりあれは!!」
 チェーンソーはスヴェンの手には戻らず、彼の脇腹にぶすりと突き刺さり、ずぶずぶと入り込んでいく。すると、それと同時に顔の両端に別の顔が生まれてきた。
「……な、何なんだいこいつは……あ、あたしはこんなの知らない、知らないよ!!」
「エリーゼ、貴様が知らぬのも無理はない。これははるか昔に失われたはずの禁術だからの」
「き、禁術だって!? そりゃどういう事だいキュウ!!」
 チェーンソーが完全にスヴェンの体に埋まると、少年の背がばくりと割れ、中からゆらうらと揺れる頑強な腕が2対飛び出てきた。剣や戟といった凶暴な武器を持った腕が完全に出てくると、彼の体がいきなり膨れ上がる。それと同時に、顔の両端にある別の顔がぴくぴくと動き、それぞれが空に向かって歓喜の声を上げた。

『ガァアアアアア!!』


「ひっ!!」
「……ヘルメスめ、やはり復活させておったか!! 最悪の禁術が一つ“装魔降身”を!!」



「そ、装魔降身!? 何だいそりゃ!!」
 理性がないのか、所構わず手に持った凶器で粉砕していく怪物から隠れるように身を縮めたエリーゼは、初めて聞く言葉に黒猫を見た。
「魔器は元々魔を封印する物だという事は知っているだろう、装魔降身とは、その魔を自らに宿し、魔人へと変化する術だ。今では禁術になっているはずなのだがな」
「禁術って……ならどうしてスヴェンが使え……まさか」
「ふん、おそらくそのまさかだ。ヘルメスの奴の仕業だろう。意識が失ったら発動するように設計して、な」
「……別にどんな術だっていいさ」
 ふと、彼女らの脇で声がした。キュウがそちらに目をやると、ヒスイに支えられながら、聖亜がゆっくりと立ち上がるのが見えた。
「聖亜よ、その身体でどうするつもりだ。まさか奴を止めようというのではなかろうな。やめておけ、死ぬぞ」
「……上等、どうせ俺は楽な死に方はしないよ。それに俺は、あきらめが悪い方でね……やめておけという言葉が嫌いなんだ」
 そう答えて低く笑うと、聖亜はまだ麻痺が残る体を引きずるようにしながら、怪物へと近づいて行った。
「聖亜……あの馬鹿」
「致し方あるまい、それが奴の生き方なのだろう。それより我らは結界の補強をするぞ。このままではいつ瓦解するか分からぬからな」
「あ、ああ。わか「いえ、その必要はありません」っ、誰だ!!」
 黒猫の指示に頷き立ち上がりかけたヒスイの肩を、誰かがいきなりポンと叩く。振り向いた彼女は、ここにいるはずの無いその人物を見て、ぽかんと口を開けた。


「……くっ、このデカ物が!!」
 聖亜は八方から襲いかかっていくる凶器を弾きながら、何とか怪物に近づこうとしていた。だが麻痺は消えたものの、疲労している今の状態では怪物の攻撃を防ぐことすら彼にはこんなんであった。

『悪……悪アクアクアクッ!!』

ズムッ!!

「がっ!!」

 頭上から襲ってくる刀をレバンテインで受け止めた聖亜の腹に、死角から襲ってきた戟が叩き込まれた。いくら補強しているといっても、容赦のないその一撃に、彼は身体の骨がバラバラになるのを感じた。実際に、何本かあばら骨をやられたのか、呼吸が苦しい。
「……うぇ、ぐ……アホが、こんな時まで悪悪って」


『我は正義!! 然るに我が行いはすべて正しい!! 故に我に刃向うものはこれ全て悪也!!』


「しかもクソ餓鬼の時より数段性質が悪いじゃねえか……ああ、なるほどな。クソ餓鬼が可笑しくなったのはこいつのせいか……同情するぜ」

『小僧……我を前に勝手を言うとは……どうなるかわかっているのか』

「さてね。あんたの言う通り俺は大人じゃなくて小僧だからわかるわけないだろ。大体、俺は大人になりたいんじゃなくて“男”になりたいんだよ……うらぁ!!」
 右から襲いかかってきた戦斧を弾き返すと、突き出された槍の下を掻い潜り、聖亜は怪物の足の間を通り抜けた。そのまま怪物の背中に飛び乗り、首の付け根にレバンテインを思いっ切り突き刺す。だが、首に刺した刃は堅い音を立てて弾かれた。
「く……」


『無駄だ小僧、我は正義と炎の主神アフラ・マズダーなり。炎が我に……効くか!!』


「アフロだかアロエだか知らないが、効かないっていうなら効くまでぶん殴るだ……うわっ」
 再び右手を振り上げた聖亜の目に、首がくるりと回転し、顔の一つがこちらに口を開くのが見えた。ぱかりと開いた口からは、赤い炎がちらちらと見える。そしてそれは、聖亜に向かって勢いよく吹き出された。


「……う?」
 聖亜が目を覚ましたのは、それから僅か数分の事だった。赤黒い視界の中、巨大な死神がゆっくりとこちらに近づいてくるのが見える。重傷を負った主の体を深淵の御手が回復させていくが、その動きはあまりにも鈍すぎた。
「……まあ、ここら辺が潮時、かな」
 動けと自分の中の何かが言う。戦えと自分の中の誰かが言う。だがそれは、今の彼にはあまりにも重かった。
「しょうがないだろ……相手はニーズヘッグ以上の化け物だ。俺にはもう……どうすることもできない」
 視界が滲んでいく。恐怖からか、それとも悔しさからか、聖亜は知らず知らずのうちに涙を流していた。そして、



「おいおい弟弟子、仮にもあの人の弟子なら、しょうがないなんて言葉は使うんじゃねえよ、マジで」


 そして彼は、自分の前に立つ、光り輝く雷光を見た。



『ふん、どうやらまた一匹虫けらが現れたか……潰す前に名前ぐらいは聞いてやろう。名乗れ』


「おやおや、怪物さんのくせに律儀な事で。それとも相手の事が分からないと不安で戦えなくなる臆病者ちゃんなのかね。いやマジで」
 乱入者の軽率な態度に、怪物、アフラは正面の顔を不気味に歪ませ、煩わしげに槍を突き出した。だが顔を狙って突き出されたその槍を顔をひょいと倒し、男はにっこりと笑って見せた。


『ふん……どうやらそこの死にぞこないよりはやるようだ。何者だ? 貴様』


「俺かい? ま、あんたに散々痛めつけられた坊主の兄弟子って所さ。名は……鈴原雷牙」
「鈴原……鈴原だって!!」
 男―鈴原雷牙の名乗りに、成り行きを見守っていたエリーゼははっと顔を上げた。
「くっ!! なんて事だい、誰か来るとは思っていたけど、よりにもよってあんたが出てくるとはね。 高天原最大戦力“雷神の申し子”、わずか10代で“三雄”に選ばれた“規格外”」
「何だよ、俺の事よく知ってるじゃないか。マジパねえ……んじゃ千里、方陣の方よろしく」
「……了解。六角五方陣、発動します」
 雷牙の声に応え、ヒスイの横にいた女性が懐から出した六枚の紙を空中に飛ばす。紙はアフラと雷牙を取り囲むように大地に突き刺さり、次の瞬間、それは巨大な六角形の壁となった。


『……くだらん、たかが結界ごときで我の動きを封じられると思っているのか』


「ま、あんただったら時間を掛ければこの方陣を破壊することも可能だろ。けど残念、これはあんたを封じ込める結界じゃなくて、俺とあんたの特別リング……そして」
 雷牙は背負っていた長い包みを引き抜き、それを自分の胸に突き刺した。
「そして俺の力を外部に漏らさないための物さ……俺の力は、ちと強大すぎて、ね」
「……エリーゼ、三雄というのはもしかして」
「……三雄、嘆きの大戦で活躍した三傑にちなんで作られた称号であり、一夜にして上級エイジャを千体屠った者か、十体の貴族を滅ぼした物に与えられる……別名、“規格外”」


「一夜にて、千の悪鬼を屠りしは、虚空を切り裂く我が雷なり。具現せよ、降り神……“タケミカヅチ”」


 ヒスイ達の視線の先で、彼の胸に突き刺さった木剣がぎちぎちと音を立てて開き、雷牙の体を包み込みながらその色をメタリックブルーに変化させていく。やがて雷牙の体が完全に隠れた時、


結界の中のはずなのに、一筋の稲妻が、彼に降り注いだ。


「……“雷神の申し子”タケミマン、参上」


 雷光が晴れた時、そこにいたのは子供用の番組に出てくるヒーローだった。だがその肩や靴の先端が鋭く尖っており、どちらかというとヒーローというより悪役と言った方が正しい。そしてその先端からは、バチバチと小さく稲妻が走っていた。
「さあ来い、偽物のお前に本当の正義というのを教えてやる」

『っ!! ほざけ!!』

 雷牙―いや、タケミマンの挑発に、アフラは巨大な刀を左右から同時に振り下ろした。前方に転がることで避けた相手に、今度は戦斧を横殴りにする。だがタケミマンは、あろうことかその戦斧の上に乗っていた。

『なっ!! 小僧ッ!!』

「この得物はお前の手が持っている。そして手は腕、腕は胴体に繋がっている。単純で簡単な答えだ。喰らえ……雷光拳“イナズマブロー”!!」
 腕を駆け上がったタケミマンが、右手を大きく振り上げる。バチバチと稲妻が包みこむその拳を、彼はアフラの胸に深々と突き刺した。


『オグッ!! ちょ、調子に乗るなぁ!!』


 うるさい蠅を振り払うように武器を振り回し、相手を飛び退かせると、アフラは先ほど聖亜に放った炎を吐き出した。だがそれをタケミマンは空に飛び上がることで避けようとするが、吐き出される炎は途切れることなく続き、とうとう彼の体を飲み込んだ。
『ふん、焼け死んだか「……冗談だろ、この程度でくたばっているようじゃ、三雄は名乗れん」な!?』

 未だ吐き出される炎の中を突っ切るように、彼の体がこちらに向かって飛び出してきた。
「炎を吐き出している間は口を開いていなければならない。そして炎が効かなければ、口の中は無防備になる……取ったぞ、“超電磁(レールガン)・キック”!!」



『グガッ!?』


「そして……ブレイク!!」
 左側の顔に突き刺さった足がバチバチと放電する。そして、それはいきなり弾けた。

『ガァアアアアアッ!!』

 アフラの体を何千万ボルトという電撃が包みこみ、その皮膚を黒こげにしていく。ぷすぷすと音を立てて煙が上がる真っ黒な巨体を背に、タケミマンは大地にすたりと降り立った。
「討伐……終了」


「…………あ」
「どうだ弟弟子、これが戦いだ。圧倒的な力と力のぶつかり合い。敵を殺すことに一瞬のためらいも見せてはならない。まあ、魔器使は本来敵ではないから殺してはいないがね」
 巨大な敵をあっさりと倒した彼は、震えている聖亜に優しく声をかけた。
「……あんた、一体何なんだ?」
「さてね……ま、いうなれば強力すぎる力を持った未熟者……と言ったところか」
「……」
 そして、雷牙は被っているヘルメットをゆっくりと取った。

『隙を見せたな!! 愚か者が!!』

 と、その頭めがけてアフラが黒こげになった刀を振り下ろす。完全な不意打ちだったが、それは雷牙の頭上すれすれで止まっていた。


『……な』


「ごくろうさん、千里」
「いえ」
 その刀を抑えていたのは、眼鏡をかけた理知的な女だった。彼女の細腕が、自分の身長ほどもある巨大な刀を、片手で軽々と抑えている。


『ば、馬鹿な……小娘がぁ!!』


「その単なる小娘に、“雷神の申し子”のパートナーが務まるとお思いですか? 具現しなさい、我が降り神……“タケミナカタ”」


 不意に、彼女の両腕が、巨大な鋼の腕(かいな)へと変わった。


「よし千里、そのまま打ち上げてくれ」
「それは構いませんが……どれぐらいチャージ出来ました?」
「ま、僅か0.05%だが、さすがにこれ以上溜めると核になってる魔器使君も消しちまうからな。それじゃ頼む」
「了解。打ち上げます……目標、成層圏」
 あくまで冷静に答えながら、千里は片方の鉄の腕でアフラの巨体を、まるで紙を持ち上げるかのごとく軽々と持ち上げ、


『な!? な……なぁあああああ!?』


 もう一方の手で、その巨体を思い切り上に殴りつけた。


『グェエエエエエエ!!』


「さてと、それじゃ行きますか……いいか、よく聞け偽の正義、本当の正義っていうのはな、悪を倒すための力じゃない……大切な人を、守るための力なんだよ」
 そう呟いた雷牙の胸の装甲がばくりと開く。その中にあったのは、一抱えほどもある巨大な黄金の球体だ。
「0.05%分のチャージ、きちんと味わいな……荷電粒子砲、喰らえぇええ!!」


 不意に、空に向かって一筋の稲妻が走った。


 それはどこまでもどこまでも伸びていき、月にクレーターを一つ作って、ようやく消えた。



 傷ついた者も、そうでない者も皆、我に返るまで、ただ呆然と空を見上げることしか、出来なかった。






「さてと、これで戦闘は終わったけれど……最後の奴らが残ってるな、マジで」
 装魔降身が解除され、ぼろぼろの状で空から落ちてきたスヴェンに駆け寄ったエリーゼとヒスイ、そしてキュウを見送り、雷牙は地面に寝かされている人形と佳代、そして準の姿を見た。
「ちょ、ちょっと待てよ……どういう事だ!!」
「どうもこうもないよ弟弟子君、彼らはエイジャと人外、そして寄生種に寄生された人間だ。ここで始末した方が後々楽だろう?」
 立ち上がれない聖亜に冷酷に笑いかけ、雷牙は準たちのいる方向にゆっくりと近づいて行った。
 と、その足が急に止まる。雷牙が足元をちらりと見ると、重傷だった聖亜が、必死にズボンのすそを掴んでいるのが見えた。
「やれやれ弟弟子君、君じゃ俺には勝てないよ。経験と知識、そして何より力の差がありすぎる。君は力と経験はそれなりにあるが、戦うために必要な知識が圧倒的に足りない……離した方がいいと思うけどね」
「放せ、るかよ……準は俺の唯一なんだ。それにナイト達や佳代も俺の仲間だ。その仲間がやられようとしているのに、黙って見ていられるか」
「……」
 こちらを睨んでくる少年を無言で見返して、雷牙はゆっくりと歩き出した。だがずるずると引きずられながらも、聖亜は歯を食いしばって放すのをやめない。やがて数歩ほど歩いたところで、彼はあきらめたようにため息を吐いた。
「……千里、彼女はまだ治せるか?」
「取り除くことは可能です。その後は本人の気力次第でしょう。そんな事を聞いてどうするのです? 雷牙」
「……いや、この状態を一気に解決するいい案を思いついたんだけどさ、いやマジで」
 そう呟いて小さく笑うと、雷牙は屈んで少年の肩にポンッと手を置いた。
「弟弟子君……いや聖亜、君……いい体してるね」

「……は?」

 雷牙が唐突に言った言葉に、聖亜は暫くぽかんとしていたが、彼が次に発した言葉に暫く考え込み……そして、ゆっくりと頷いた。


 その“選択”が、新たな出会いを生むとも知らずに



                                   続く


 こんばんは、活字狂いです。まず最初に今回の地震、皆さんは大丈夫だったでしょうか。自分は山形に住んでいるため直接の被害は断水と停電だけだったのですが、仙台に知人が幾人かいるため、安否の確認をして投稿するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。しかも入隊するはずだった多賀〇駐屯地が宮城にあるため、急遽遠い遠い九州に入隊することになりました。そのため時間の都合上、次に載せるはずだった幕間を省き、「スルトの子2 炎と雷と閃光と 終幕  スルトの御子」をお送りします。お待ちください。

 追記 つい先日うみねこのなく頃にのエピソード1から8をプレイしたのですが、何とも複雑で分かりにくかったんですがまあまあ面白かったです。そのためいつかその他掲示板で書くかもしれません。十八×幾子とか、戦人×ヤスとか(ベアト? 譲何とか? 誰ですかそれ?) まあ、二次創作はあまり好きではないのであくまで予定ですが、お待ちください。




[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と 終幕   スルトの御子
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:dde6378c
Date: 2015/12/19 22:58

 カツーン、カツーン


 と、静まり返った暗い廊下に一つの甲高い足音を響かせ、マモンは奥へ奥へと進んでいった。


 
 あの時、案内人と名乗る伝道者と共に転移したのは一つの部屋だった。貴族の自分から見ても高価な調度品が並べられているその部屋で、彼はまず湯に浸かり、その後切り落とした首の付け根に再生能力が込められた薬が塗られた。そしてたっぷりと睡眠をとった後、正装に着替え、暗い廊下の中をこうやって案内されているのだ。

 そこで、彼はふと自分の前を進む、恐らくこの屋敷の従僕の一人であろう伝道者を見た。その従僕は下半身を引きずるようにゆっくりと進んでいく。だがだいぶ年を取っているその従僕は、今まで全く彼の思考の中に入ってこなかった。
「おい、一体後どれぐらい歩くのだ」
「……はい、後もう少しでございます。今暫らくのご辛抱を」
 ざわざわと虫が這いまわるような微かな声でそういうと、老僕は低く頭を下げ、再びゆっくりと這いずるように進んでいく。
「ところで、これは一体何の集まりなのだ?」
「……さあ、私のような下賤な輩にはとても理解できません。“招待状”に書かれていると思うのですが」
「ああ、書かれていた。“案内人”に従えと、ただそれだけがな」
「……それでいいのでございます。では参りましょう。もうすぐそこでございますので」
 再び周囲に沈黙が落ちる。その中を半刻ほども歩いた時、マモンは耐え切れずに再び前を行く老僕に声をかけようとした。
「お「こちらでございます」……なっ!?」
 だが、その言葉は老僕によって遮られた。彼がカンテラを照らす方向を見て、マモンは呆然としたようにそれを仰ぎ見た。

 それは、天まで届くかという巨大な鉄の扉であった。マモンがその扉を見上げていると、不意に辺りに明かりが灯る。ぎくりとしながら辺りを見渡すと、絨毯に自分の足跡が微かに残っているのが見えた。その先を追っていくと、わずか数メートルほどしか離れていない扉の前で、その足跡は消えていた。


 それの意味するところが分かり、マモンはぶるぶると身を震わせる。彼が知っている限り、この不可解な現象を引き起こすものは一つしか思いつかなかった。

 すなわち、嘆きの大戦にて失われた古代技術の一つ、“迷宮回廊(ラビリントス)”。数多の侵入者用の罠の中でも、道案内される他に抜け出すことのできない最大級の罠である。
「……どうなさいましたか?」
「……い、いや、何でもない」
「左様でございますか……ではどうぞ中へお入りください。もう大部分のお客様がお見えになられておりますので」
「あ、ああ……そうだな。そう、させてもらう」
 得体のしれない恐怖に身を震わせながらも、マモンは彼の前で自動で開かれた鉄の扉の中に、ゆっくりと歩いて行った。




 会場に入って彼が一番最初にしたのは、呆然と立ち竦むことだった。
なぜなら会場の中は、あまりにも広大で、そしてあまりにも美しかったから。

 遥か彼方にある天井、その真ん中にあるクリスタルで出来たシャンデリアを中心に、千を優に超す宝石細工のシャンデリアによって照らされた室内は円形に席が設けられており、どこかオペラ劇場に似ている。部屋の四隅ではそれぞれ200人を超える楽団が演奏しており、自分と同じように案内されてきたのか、会食ができるように設置されたテーブルの周囲には、無数の伝道者が腰掛け談笑していた。
「……お待ちしておりました、マモン様」
 不意に、横から声をかけられ、マモンはびくりとそちらを振り向いた。タキシードを着た羊の角を持った伝道者が、こちらに完璧な動作でお辞儀をしている。恐らくこの屋敷の執事であろう。
「申し訳ございません、お席に着かれる前にお手持ちの招待状をお見せいただけますでしょうか」
「あ、ああ……これだ」
 マモンが差し出した用紙を受け取ると、執事はなんとそれをむしゃむしゃと食べ始めた。ごくりと飲み込んだところで、もう一度深々とお辞儀をする。
「本物でございます……ようこそ選ばれしお客様。お席の方にご案内せていただきます。ああ、申し遅れましたが、私この屋敷の執事でありますメェール第89号と申します。何か用事がございましたら、どうぞご遠慮なさらずにお申し付けくださいませ」
「う、うむ……すまんな」
 とんでもございません、そう答えてメェールが案内したのは、無数にあるテーブルから少し下がった所だった。そこには巨大なテーブルが一つと、その周りに12の席があるだけだ。その座席のうち、7つほどがすでに埋まっていたが、そこに座っている伝道者は上で会食している無数の伝道者とは違い、皆無言で給仕を受けている。
「……こちらでございます」
 そう言って、メェールはマモンをゆったりとしたローブを着こんだ青年と、優しげな笑みを浮かべている女性の間に案内した。
「では皆様が参られるまで、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」
「あ、ああ……ありがとう」
 一礼して去っていくメェールを見送ると、小腹が空いていた彼はさっそく目の前の料理に取り掛かった。赤ヒラメのムニエルに舌鼓を打ち、天然のグリーングレープを発酵させた60年物の緑ワインで喉を潤す。と、右隣の青年が話しかけたそうにちらちらとこちらを見ているのに気付いた。取りあえずお辞儀をすると、にっこりと笑ってお辞儀をし、椅子をこちらに寄せてくる。
「あなたも、この会に呼ばれたんですか?」
「ええ、という事は貴殿もですか?」
 マモンが頷くと、青年はああ、これは失礼と立ち上がり、胸にしまっていた眼鏡を拭いて掛けると優雅に一礼して見せた。
「私は黒界七王国が一つ、ミッドガルドで特級書記官をしていますアルタロスと申します。よろしくお願いいたします」
「ミッドガルドの特級書記官? ではあなたはまさかミッドランド国王陛下の……」
「遠縁にあたります。何の能力も持たない若輩者でございますが、一応子爵の地位を戴いております」
「それはそれは……ああ、こちらも申し遅れました。赤界の男爵であるマモンと申します。どうぞお見知りおきを」
「これはご丁寧に。こちらこそ嘆きの大戦にて戦果を上げられた先輩を前にして、心が震えております」
「あら、そちらだけで盛り上がらないでくださいな」
 不意に、マモンの左隣にいる女性が優しげに声をかけてきた。重く巨大な杖を脇に置いた、恐らく500歳(20代後半)ほどの年齢だろう。
「おや、これは失礼を。つい話が弾んでしまいまして。あなた様のお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ふふ、殿方はいつもそうですものね。私はウォぺと申します。青界のハンヴィという都市で、神官長をさせていただいておりますわ」
「神官長をお勤めとは。確かハンヴィを治めているのはウィ侯爵のはず、失礼ですが侯爵閣下と何か御関係が?」
「私の父に当たりますの。といっても、書物が好きなだけの単なる偏屈親父ですわ」
「そんな偏屈親父などと……ヴィ閣下とは彼がミッドガルドにいらした時一度お目にかかったことがありますが、さすがは数多の書をお書きになられただけの事はある。とても有意義な時間を過ごさせていただきました」
「あらあら、そんな事を本人の前で言ってはいけませんわよ? 少なくとも一週間は話が途切れませんので」
 マモン達3人が優雅に談笑していると、不意に向こう側の席でガシャンと大きな音がした。ふとそちらを見ると、細面の神経質そうな男が、背の低い、だが筋骨逞しい中年の男を体をがくがくと揺らして睨み付けていた。
「……何ですかあの場違いな男は」
「さあ? 見た覚えがないですね。彼に睨まれている男性ならわかるのですが。赤界に昔から住んでいる、鍛冶の上手いドヴェルグという種族の……確かレギス殿でしたね。嘆きの大戦にも一族を率いて参加していた長老格です。大戦後の混乱で行方不明になっていましたが、最近になって帰還したと聞いています。その方を睨むなど、なんて愚か者のカスなんでしょう」
 アルタロスが蔑みながら見つめるその先で、男はレギスに向かって詰め寄っていた。
「手前、俺の武器を作れないとはどういう了見だ、おら?」
「……」
「いいか手前、俺はな、案内人から懇願されて仕方なくここに来てんだ。手前のようなクズとは格が違うんだよ!!」
「…………」
「て、手前っ!! 無視してんじゃねえよ!! うらぁ!!」
「お、落ち着いてください、オータ様っ!!」
 自分を無視して酒を飲み続けるレギスに切れたのか、掴みかかろうとした男の肩を執事が慌てて引き止め、遠い席へと引きずっていく。引きずられながらも男―オータは口から泡を吹いてレギスを罵っていたが、やがてしぶしぶ席に着いた。
「……やれやれ、あの道化にも困ったことですな」
「何でも案内人様が世界を渡っている時に無理やりついてきて、仕方ないから道化として飼ってやっているだけだというのに」
「自分の身をわきまえず、恐れ多くもレギス殿に対してあの不敬な態度……自分の立場を理解する必要がありそうですな」
 上にいる無数の伝道者が、皆オータを嘲笑している中、マモン達3人もやれやれと席に着いた。
「しかし、アルタロス殿といいウォペ殿といい、この席には特別な方々が集まっているようですね。できれば他の人たちについてもお聞きしたいのですが」
「ええ、構いませんよ。私と席を2つ離して座っておられるのが、赤界にて重装騎兵を率いておられた“恐熊”ナヌーク卿、そして彼と一緒に肉の食べ比べをしておられるのが、青界の名門中の名門、フォモール家の嫡子であられるクルハ公子。そして最後に、彼の向かい側の席に腰掛け、瞑想しておられるのが嘆きの大戦の撤退時、体を張って数万の敵軍を迎え撃ち、多くの味方を逃がし、自分も帰還することに成功した“城壁”エレムス殿です」
「……何と、エレムス殿にナヌーク卿だけでなく、青界において三公を輩出したフォモール家の御嫡子までおられるとは、この会を開いたのは一体どこのどなたなのです?」
「さあ……それは分かりませんが、一つだけ言えることが……見てください、私達がいる一段下の所に長いテーブルと六席の豪華な椅子が並べられているでしょう? 恐らくあの場所には、私達など想像もできないほど高貴な方が座られるはずです。そんな方々をお呼び出来る以上、それ相応の地位でないと……」
 マモンとアルタロスが話していると、不意に部屋の中が暗くなった。舞台と思われる中央の広い床がぱっと明るくなり、その上で自分を連れてきた案内人が優雅に一礼する。
「お集まりの紳士淑女の皆様、この度は当屋敷で行われる会に出席いただき誠にありがとうございます。只今よりセレモニーを執り行いますが、その前に賓客の方々のご入場です。では皆様、大きな拍手でお出迎えいただきますよう、よろしくお願い申し上げます」
 案内人が言い終えると同時に、部屋の右側がぱっと明るくなった。垂れ下がっていた暗幕がするすると上げられ、最初に羽を生やした黒界のピクシー達が花びらを巻きながら登場する。


 そしてその後から現れた彼らを見て、会場にいる者は皆、一斉に息を飲んだ。


「ではまず一人目のお客様をご紹介いたします。黒界七王国を束ねる黒皇陛下の下で長年要職を務められ、嘆きの大戦では六大黒将の一柱“黒騎将”として活躍された公爵―レイン公です」
 案内人の言葉と共に、骨で作られた装飾を身に着けた黒馬に跨った騎士がゆっくりと進み出る。鎧の形からしてどうやら女性のようだが、その首から先は消失していた。
「続いて2人目、赤界にて機械魔城の城主を務められ、前赤皇陛下の下で大臣を務められた、クロック・クイーン閣下のご登場です」
 レインの後ろから現れたのは、金属でできた生きた人形であった。クイーンというならば、恐らくは女性であろうが、その顔はまるで時計のようだった。いや、時計そのものと言ってもいいだろう。
「3人目と4人目の方はご一緒に登場していただきましょう。“黒き魔女侯”モリガン様と、“百鬼教授”小角様です」
 クイーンの陰から、今度は二つの人影が現れた。一方は背の高いグラマラスな美女で、もう片方は頭を覆面で隠した女の腹部辺りまでの背をした小柄な男である。覆面の隙間から金色に光る二つの目だけが覗いていた。
「モルガンに小角? どちらも家畜ではないか」
「いやいや、お主は知らぬだろうが、モルガン候は黒界に漆黒の森という領地をもつ立派な侯爵閣下だ。小角殿も、赤界において陛下の信頼が厚い呪術師だと聞いている。並みの貴族ではその影に触れることすら出来ぬとか」
 彼らを見て、会場にざわめきが走る。だがそれは案内人が手をパンパンっと叩くと、ゆっくりと静まっていた。
「おほん、それでは五番目―と言いたいところですが、この方はまだ来ていらっしゃらないので、最後に賓客筆頭をご紹介いたします」


 静まり返った会場に向け奥からカシン、カシィン、と音がする。やがて、彼はゆっくりとその姿を見せた。


「……な!! まさかあの方は」
「そんな、あの方は無限回廊の中に封じられていたはずだ」
「うむ、嘆きの大戦の際、家畜などに味方した愚かな前青皇をお諫めしてな。まさか出てこられていたとは」
「ではご紹介いたしましょう。全てを消し去る“消滅の魔眼”の異名を持つ青界が大公―バロ・フォモール閣下であります!!」
 最初に現れたのは先端が布で隠された杖だった。だが直ぐにその持ち主が現れる。右目を眼帯で隠し、黒い髪と髭を持ち、軍服に身を包んだ男の姿が。



 彼は案内人の最上級の礼に軽く頷くと、ゆっくりと席に向かっていった。



「まさかバロール大公閣下がいらっしゃるとは……この会はあの方が開いたのですか?」
「恐らく違うだろう、彼は賓客筆頭と呼ばれていた。ならば彼も招待された側だろう。だが四界において大公閣下を招くことができる存在など、もはや四皇方しか……まさか!!」
「いや、それこそ違う。今の陛下方の現状を見ろ。竜王と称される緑皇陛下ならともかく、他の方々には覇気がない。特に四界を束ねる責任ある立場にいるはずの、黒皇陛下ときたら」
「まあいいではありませんか。どちらにせよ貴族の方々と会う機会などめったにないのです。ここは少しでも印象を良くしておきましょう」
 紹介された賓客が皆席に着くと、再び会場がざわついた。その多くは自分たちを招待したのが誰かという話であったが、中には貴族と接点を持ちたいと考える氏民の声も聞こえていた。
「皆様、お喋りは紹介がすべて済んでからにしてくださいませ。では続いて、この会を主催するにあたっての進行役をご紹介させていただきます」
 彼女の声にざわめきがゆっくりと収まっていく。と、先程賓客達が現れた通路から、今度は3人の女性が姿を現した。


 一人は、青い髪の間から二本の角を生やした、冷徹そうに見える女性。


 一人は、髪飾りをした金髪と、赤い瞳をした艶めかしい美女。


 そして最後の一人は、長い銀髪をして、目隠しをしている神秘的な少女。


 彼女達は案内人の傍まで来ると、客席の伝道者に向けゆっくりと一礼した。
「ではここから先は、進行役のセイルさんにお任せするとして、私は下がらせていただきます。ああ、私の事は今後“黒ウサギ”とお呼びください」
 案内人はそういうと、ぺこりとお辞儀をして会場の外へと姿を消していった。



 その頭から生えている2つの長い黒耳を、ぴこぴこと揺らしながら。



 彼女がいなくなった後、角を生やした女性が一歩前に進み出た。
「……さて、お集まりの方々、先程黒ウサギから紹介があったと思うが、私が進行役のリーダーを務めるセイルです。この度は私共のお招きに応じていただき誠に感謝します。私達の目的はただ一つ、皆様の“退屈”を紛らわせるお手伝いをさせていただくことです」
「……退屈ですか?」
 マモンの隣にいるアルタオスが不思議そうに首を傾げた。確かに四界の暮らしは退屈である。特に上流階級であり、働く必要のない彼らにとっては、毎日が退屈の連続であった。
「そう。私達は昔に比べて早死にする傾向にあります。それはなぜか。ただ惰性的に日々を過ごしているため、生きようとする気力がわかないからです。そのため私共はその退屈を紛らわすため、ある計画を立てました」
「ある計画? それは一体なんです?」
「……その計画の全容はまだ明かせませんが、皆様に協力していただく物です。そしてそれが最終的に、皆様の退屈を紛らわせてくれる良い“刺激”となるでしょう。それでは、私達の主であり、この会の主催者にお出でいただきたいと思います……ヤエル」
「はいは~い、それじゃ皆さん、ご起立し、最上級の礼をしてお待ちくださぁ~い!!」
 セイルの隣にいる艶めかしい美女、ヤエルの合図で伝道者達は皆立ち上がり、右手を心臓の上に押し当てた姿勢で主催者の登場を待った。それに合わせ、四隅で演奏されている曲が変わる。重々しくも広大な曲、即ち皇帝行進曲である。


 その曲に合わせ、会場の中央にある天幕が、ゆっくりと引き上げられていく。


 そして、それが全て巻き上がった時、



 そこには、一人の少年が立っていた。


「……」
「……」
「…………」
「…………?」
 彼の姿を、伝道者達は皆無言で見つめていたが、やがて一人の上級氏民が首を傾げ、どすどすと彼に近づいていく。執事達が止めようとするが、それを押しのけ少年の前に立ったその伝道者は、狂ったように笑いだした。
「は、ははははははっ!! これは傑作だ!! バロール閣下もお出でになったから、どれほど高貴な方だと思ったが、何だこれは!! 家畜の餓鬼ではないか!!」
 そう、そこにいたのは彼らが家畜と蔑む人間の少年であった。長い黒髪に赤い瞳をした、中性的な少年である。見目麗しいという言葉が付くかもしれないが、残念ながら彼らは家畜を見ておいしそうとは思っても美しいと思う心はなかった。
「……えっと、セイル」
 伝道者の視線を受けた少年が、困った様に進行役のセイルを見ると、彼女はすまなさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません、どうやら相手の力量も分からぬ“愚者”が混ざっていたようです」
「ぐ……愚者!? 貴様、緑界において代々氏族長を務める一族に生まれた俺に対して愚者といったか!! もう良い!! 何がしたいかは分からぬが、ここでこの家畜を喰らってしまえば全てお終いだ!!」
「……申し訳ありません主様、どうぞこの愚者を粛正することをお許しください」
「ううん、君がそんな事をする必要はないよ。この不埒者を狩るのは、主催者である僕の役目だからね」
「……ふ、ふはははははっ!! こいつは驚いた!! 単なる家畜がこの俺を狩るだと!? 面白い……やってみろ!!」
 不意に、伝道者の体が膨れ上がっていく。人型をやめて本来の姿に戻っていくのだ。口からは巨大な牙が幾本も生え、その身体は頑強そうな土色の鱗に覆われている。
「行くぞ家畜、頭から食いちぎってやる!!」
 怪物に変化した伝道者が、少年に向かって駆け出す。だが、少年は一度軽くため息を吐くと、左手をゆっくりと前に向けた。そして一言、呟く。
「おいで……僕の“真紅の御手”」
「「「なっ!?」」」
 怪物が突進する様子を面白そうに見ていた他の伝道者は、だが次の瞬間自分の目を疑った。無理もない。少年の千倍もの重量を持つ怪物の突進が、少年の左手によって軽々と止められているのだ。

 そしてそれを成し遂げた少年の左手は、肩まで灼熱の“赤”に染まっていた。

「ば、馬鹿な……貴様、いやあなた様はもしや……ひっ!! お、お許しください!!」
「いや、許さないよ。ここで君を許してしまっては、増長する者が現れるからね。では喰らうと良い。全てを崩壊に導く灼熱の崩剣(ほうけん)……レーヴァティン」
 少年がその名を呼ぶと、真っ赤に染まった掌から真っ赤な刀身がゆっくりと現れた。それを持ち、少年はあくまで軽めに切りつける。だがそれが触れた瞬間、怪物の姿は一瞬にして掻き消えた。


「お見事です“リウ”様……さて各々方、未まだリウ様に従えぬ者がいるならば申し出るが良い。この方がその全てを一刀のもとに消し去るだろう。だがもし従うというのであれば、頭を垂れて跪き、臣下の礼を取るが良い!!」
 セイルの言葉に、伝道者は皆顔を見合わせていたが、やがて最前席にいた五名の上流貴族がそろって彼に跪いたのを初めとし、皆競うように彼に跪いた。
「……よろしい。リウ様、“六者の上客”、“十二の中客”、そして“無数の下客”……その全てがあなた様に頭を垂れ、臣下として跪いています。どうぞ主催者たる“スルトの御子”として、開会の宣言を!!」
「うん。では貴兄らに対し、赤界の正統なる後継者であり、深淵の御手の中で最強と称される、“真紅の御手”を持つ“スルトの御子”たるリウがここにー」



 一旦言葉を切ると、少年―リウは自らが持つ灼熱の剣を高く掲げた。



「ここに、“赤王の晩餐会(せきおうのばんさいかい)”の、開催を宣言する!!」



                                   続く



[22727] スルトの子2 炎と雷と閃光と   設定
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:dde6378c
Date: 2011/03/29 15:16

 スルトの子2 炎と雷と閃光と(ほのおといかずちとせんこうと)設定



 今回は時間の都合上、新しく出てきた人だけを紹介します。




“最狂” 星聖亜

 スルトの子の主人公。前回のヘタレな部分は彼に施された封印が消滅するのと一緒に消え去り、“最狂”あるいは“血染めの吸血鬼”と呼ばれた本来の冷徹な性格が戻ってきており、妖夢館に乗り込んだ時は、その残忍さを発揮して100人を超える相手を叩き潰した。
 性格は上記に書いた通り冷徹であるが、女子供は殺さないという信念の持ち主でもある。また“最狂”という異名はその狂ったような戦い方から来ているが、それでも自分を頼って来た者、一度部下にした者に対しては面倒見がよく、慕われている。そのため黒猫のキュウからは、裏切り裏切られ、騙し騙されるのが当たり前な復興街において良心を忘れずに行動しているその姿こそ、他者から見て“狂っている”と称されたのだろうと思われている。


 今回判明した事実
 2年前まで復興街最大の組織であり自警団でもあったジ・エンドに所属し、その最高幹部をしていたらしい。またジ・エンドに入る前に、半年ほど猿と呼んでいる師匠の下で修業を行い、戦闘における興奮や肉体の疲労などを完璧に制御できるようになったらしいが、マモンやスヴェンとの戦いでは効果がなかった。


モデル   「暁の護衛」の朝霧海斗





“閃光” スヴェン・ゾロ・ザラフシュトラ
 
 “絶技”を使用したヒスイの査問に来た魔器使であり、聖亜の宿敵になる男。第二級魔器使のヒスイより格が上の第一級魔器使であり、同時に8人しかいない最高査問官の1人でもある。性格は冷徹にして厳格。名門であるザラフシュトラ家に生まれながら、地球を滅ぼすと予言されたため迫害を受けた。そのため正義であることを自分の存在理由としており、僅かな悪事も見逃さずに悪を粛正する。だが、それは聖亜にしてみれば自分の行動に酔っているだけらしい。戦闘能力はずば抜けて高く、魔器“インドラ”による情報収集に加え、魔器“ウリドラ”を持つことで龍の防御力が彼を守るため、ほとんどの攻撃が彼には効かず、さらに魔器の攻撃力と合わせ、まさに最強と呼ぶにふさわしい実力を持っているが、メンタル面が弱い。そのため暴走することもしばしばあり、単独行動を禁止されている。


今回判明した事実その1
 彼は180を優に超す偉丈夫だが、実は12歳。そのため童話を読むのが好きであり、また好物はお子様ランチ。そんな彼がこの肉体になったのは、どうやらヘルメスが関係しているらしい。

 
今回判明した事実その2
 彼は査問対象となったヒスイを強く憎悪しているが、同時に彼女の婚約者でもある。その婚約者に対し自らの存在理由である正義を失ってでも殺そうとするのは、ヒスイが彼の大切な存在を奪ってしまったためらしいが、詳細は不明。


 技

 閃光絶技“千空” 魔器を振るって周囲に衝撃波を放つ絶技。衝撃波は鎌鼬のように相手を切り刻むため、防御力の低い相手ならばこの一撃で終わる。

 閃光絶技“千裂” 千空のエネルギーを一点に集め、単体を無数に切り刻む技。複数の相手を一度に攻撃することはできないが、単体に与えるダメージは想像を絶するものがあり、その威力は深淵の御手を持つ炎也にすら重傷を負わせるほど。

 絶身奥技“血桜千斬” スヴェンが最後の一撃として放った技。まだ未完成であり、さらに聖亜に避けられたため、どのような技かは不明。

 装魔降身 魔器を自らの体内に取り込み、魔人に変身する技。だが実際にはスヴェンの意識が無い状態で発動したため彼自身の技ではなく、ヘルメスによって設計されたもの。魔人の名はアフラ・マズダー・詳細は下記。



魔器“悪魔笑いのチェーンソー”
 マイスター・ヘファト教授が作成した傑作魔器の一つ。神さえ屠る暴竜ウリドラとそのウリドラを計略によって打ち取ったインドラを封じ込めており、最高クラスの能力を持つ。その形は2振りのチェーンソーであり、相手を一撃で殺さず、じわじわと嬲り殺しにすることも可能。その攻撃力に、最早悪魔も笑う事しかできなくなる。


“堕ちた賢者”インドラ
 チェーンソーに封じ込められた魔の一つ。冷静沈着な性格をしており、主に調査や敵の解析などを担当する。相方のウリドラより攻撃能力は劣るが、それでも中級のエイジャなら一瞬で、上級でも難なく倒す実力を持つ。ウリドラとは仲が悪い。通称イル。


“狂った暴竜”ウリドラ
 チェーンソーに封じ込められた魔の一つ。享楽的な性格をしているが、切れ味のみを追求したその攻撃力は最高クラスであり、爵持ちすら圧倒する。さらに竜の気を全身に纏う事で防御力をも高める事ができる。インドラとは仲が悪く、彼女の事をイ“ヌ”と呼んでからかっている。通称ウル。



アフラ・マズダー
 スヴェンが装魔降身によって変化した魔人。ゾロアスター教の主神に当たるが、今は魔として代々ザラフシュトラ家の人間の体内に眠っていた。外見は7メートルを超す灼熱の胴体をもち、3つの頭と6本の腕を持った屈強な戦士で、その実力は中級の爵持ち(伯爵)と同程度。正義と炎の神であり、聖亜の攻撃は効果が薄い。またスヴェンが異様なまでに正義にこだわっているのは、これの影響もある。その圧倒的な攻撃能力により聖亜を瀕死に追い込むが、突如乱入してきた鈴原雷牙によってあっさりと叩き潰された。その姿形は阿修羅に近い。



“雷神の申し子” 鈴原雷牙

 聖亜がバイトしている喫茶店「キャッツ」に来た青年。ぼさぼさの長い金髪とサングラスをしており、また随分と軽い性格をした今どきの青年だが、時折物事の核心を突いた発言をすることもある。聖亜の師匠である荒川白夜とは知り合いのようで、聖亜を気に入り彼を弟弟子と呼んでいる。恋人である水口千里の事を自分の命より大切に思っており、彼女を傷つける者はたとえそれが親でも容赦しない。
 その正体は高天原に所属する守護司。しかも並みの守護司ではなく、降り神“タケミカヅチ”と契約した高天原の“最大戦力”。さらに一夜にして千の上級エイジャか十の爵持ちを屠った者が選ばれる三雄の1人でもあり、まさに“規格外”の戦闘能力を持つ。
 口癖は「マジで」、「パねえ」



戦闘形態“タケミマン”
 雷牙の戦闘形態。彼が持つ木剣“フツノミタマ”が展開して雷牙の体を覆い、そこに稲妻が落ちることで変化する。形状は黄金に輝くアーマーに身を包み、肩や足の先端が鋭く尖り、さらにヘルメットの先端にはユニコーンのように角が生えている。


今回判明した事実
 本来は別の場所で何らかの任務に就いていたが、黒沼玄の命令によって太刀浪市に配属となった。だがその目的は都市の防衛だけではなく、荒川白夜の監視、及び聖亜の力の見極めとスカウトも含まれていた。


 技

 雷光拳“イナズマブロー”
 基本技。拳を稲妻で包んで相手に叩き込む。発生した稲妻の量や質で威力が増し、最終的には爵持ちを一撃で屠ることも可能。

 趙電磁(レールガン)キック、アンドブレイク
 基本技+必殺技。尖った足の先端を相手に叩き込む技と、その後稲妻を相手の体内に発生させて焼き尽す技。上級の爵持ち(侯爵クラス)に重傷を負わせることができる。

 荷電粒子砲
 趙必殺技。胸部の装甲がバクリと開き、そこにある金色の球体から強烈なビーム砲を発射する。そのエネルギーは時間と共にチャージされるが、僅か0.05%でも大気圏を突き抜け月にクレーターを生み出すほどの威力がある。またチャージした量に伴い、名前が変わるらしい。

 モデル「ドッコイダースーツ」を着たリアルバウトスクールの東方流玄。


 
 3人の戦闘能力の比較

鈴原雷牙(タケミマン)>>>>>>>>……>>>(常識? 何それおいしいの?)>>>>>(越えられない壁)>>>>>アフラ・マズダー>>>>>星聖亜(レバンテイン装備)>>>スヴェン=炎也>星聖亜(深淵の御手)。



佳代

 今作から聖亜に従う少女。本来の姿は鴉であるが、母親が鴉天狗の血を引いているため、自らも多少同じ血をひいており、その血をキュウにより活性化されて黒い羽の生えた少女の姿になった。高知の鴉社会を束ねる“欠け嘴”の松次郎の妹の息子である松五郎の娘であり、以前は大叔父の身の回りの世話をしていた。礼儀正しい性格であり仁義に厚いが、短気な部分もある。武器は小刀。また、天狗の能力を使う事もできるが、まだまだ未熟である。


 天狗の技
 隠れ蓑 自分の体を羽で覆い隠して透明にする技。これで聖亜の監視をしていた。


“一殺多生”エリーゼ
 スヴェン同様ヒスイを査問しに来た魔器使。スヴェンと同じく第一級魔器使であり最高査問官の1人。さっぱりして面倒見の良い性格であり、ヒスイの鍛錬によく付き合っていた。査問官として時に冷酷になることもあるが、それは1人を見せしめとして殺すことで多くの人間に同じ道を歩ませないようにするためである。魔器は糸や縄の先端に刃を取り付けた“蛇眼刀”と呼ばれる暗器であり、主に暗闇で相手を仕留めるのに使うため複数の人間を相手にすることはできない。また、そのほかに石を自在に操る事ができる。
外見は薄紫色の髪をした美女。どうやら日本人らしい。


 今回判明した事実
 ヘルメスには逆らえないらしく、ヒスイの抹殺命令を舌打ちしながら受け入れた。その身体にはケロイド状のひどい火傷跡がある。


 バジ
 “蛇眼刀”に封じられている魔。その詳細は不明。


水口千里
 雷牙に付き添って太刀浪市にやってきた守護司。理知的な女性で、セクハラをしてくる雷牙をよく殴ったりしているが、それでも恋人である彼を心から愛している。結界を張る能力に長ける他、降り神“タケミナカタ”を具現し自らの両腕を鋼の腕にして相手を叩きのめす。


 今回判明した事実
 聖夜の煉獄には何かしらの思いがあるらしく、じっと鎮めの森の方向を見ていた。



 高天原


黒沼玄
 黒塚家の執事長であり、高天原の最高司令官。いがぐり頭と日焼けした肌を持ち、右頬に鋭い傷跡を残す30代の男。サングラスをかけているため、風貌からその手の筋の者と勘違いされやすいが、実際には冷静沈着で理知的。しかしそのために自由気ままな黒塚神楽と、配下の鈴原雷牙には手を焼いており、胃薬が欠かせなくなってしまった。



 魔女達の夜
 
マクレガー副学長。
 魔女達の夜の本部であり教育機関でもあるヴァルキリプスにおいて副学長を務める男。学長ともう一人の副学長が表に出てこないため、実質的には教員を束ねる彼がトップという事になる。

 
グリアス
 魔女達の夜に所属する青年。“四大教授”の1人を務める穏やかな性格の持ち主。ヘファトとヘルメスの間に挟まれて影が薄いが、その眼光は他者を怯ませるほどの圧力を放つ。


ヘファト
 魔女達の夜に所属する髭面の男。“四大教授”の1人を務めるほか、魔器を製造しているが、時間をかけて作るため一年に出来上がる魔器は2,3個ほど。非常に気難しい。
“マイスター”の異名を持つ。

 モデルはギリシャ神話に出てくるヘファイストス。



ヘルメス
 魔女達の夜に所属する女性。“四大教授”の1人を務めるほか、未熟な魔器使を補佐するホムンクルスの製造及び量産型魔器の開発を行っている。質より量を重視するためヘファトと非常に仲が悪い。また、ヌアダの魔器“クラウ=ソラス”を狙っており、彼に拒否されたことに腹を立て、エリーゼにヒスイの抹殺を命じた。さらにその身体は本来の物ではないらしい。
“地獄の錬金術師(ヘル・アルケミスト)”の異名を持つ。

モデルは錬金術師であるヘルメス・トリスメギストス



 残りの四大教授は、三傑の1人であるヌアダである。




その他の人間


三馬兄弟


統馬
 聖亜が去った後のジ・エンドを牛耳っていた男。だが彼には人の上に立つために必要な素質が全くなく、単なる小悪党。ジ・エンドを牛耳ってやりたい放題をしていたが、聖亜とヒスイに100人以上いた部下を叩き潰され、自分も拷問を受け撤退、最後には他の2人と共に三つ首のパドラの材料にされた。

数馬
 統馬の弟分。化物並みの力を持つが頭の中は空っぽで、指示を出してくれる統馬を慕っている。瀕死の彼を連れて幻馬の所に逃げ出すが、マモンによってスフィルを埋め込まれ、パドラの材料にされた。

幻馬
 三馬兄弟最後の1人で、新型ドラッグ「K」を新市街にばら撒いて荒稼ぎしていた。どこにでもいる平凡な少年のように見えるが、些細なミスをした部下を楽しみながら殺すなど残忍なところがある。マモンと繋がりがあり、逃げてきた統馬と幻馬を見限ってマモンに提供したが、結局自分も香に見限られてパドラの材料にされた。
 実は彼は元々聖亜の下にいた少年であったが、闘いに興味を持たなくなった聖亜と違って彼は段々自分より弱い相手を痛めつけることに喜びを見出していったため、聖亜に放っておかれた。聖亜が復興街を去った後は捨てられたと勘違いし、自分にしつこく付きまとっていた最高幹部の1人である磯垣を罠にはめて殺害し、統馬にジ・エンドをそっくり差し出し、聖亜が彼を叩き潰しに来るのを待つなど策士の部分がある。


老人
 統馬の屋敷である妖夢館で彼の護衛をしている老人。細身のどこにでもいる老人に見えるが、実は武術の達人であり聖亜が唯一苦戦した相手でもある。若いころから家族を顧みず山中で武術にのめり込んでいたが、久しぶりに下山した時家族がいる太刀浪市で災厄が起こったことを知り急ぎ帰国。しかしその時には家族の居場所は分からず、数年たってようやく孫を見つけた時、彼女は娼婦に身を落とし、あばら家で重病を患っていた。その後彼はひ孫を託されたが、今度はそのひ孫を人質に取られ統馬に従うことになる。
 聖亜との戦いでは急所を狙って即死させようとしたが、狙いがあまりに完璧だったため聖亜に避けられ、一気に勝負を決めようと自らを獣人に変化させる獣人変化を使い、さらにその身に硬気を纏って聖亜を圧倒するが、聖亜の投げつけた茶によって呼吸が乱れた所を攻撃されて敗北した。その後はひ孫に関する記憶をキュウの手で抹消され、新しくジ・エンドの団長となった沢井丸夫の下で警備隊長をしながらゆっくりとした日々を過ごしている。
 なお彼のひ孫はロシアマフィアに売られており、聖亜はロシアのマフィアを叩き潰すついでにそのひ孫を助け出すことを約束している。


沢井丸夫
 旧市街の外れで古い喫茶店を営む男。おねえ系だが面倒見がいいため部下に慕われている。元は聖亜同様ジ・エンドの最高幹部であり、聖亜とも馬が合った。団長である仁が死亡し、聖亜も居なくなった後のジ・エンドに未練はなく、部下を引き連れて旧市街へと落ちのびたが、今回聖亜と再会し、彼に叩き潰されたジ・エンドの団長となり復興街を本当の意味で復興することを誓う。情報通で、聖亜に復興街に行く道を教えた。武器はニードルガンを使用。そのため“女王蜂”と呼ばれることもある。


イタチ 
 復興街の河岸を縄張りにしているひょろ長い男。実は聖亜の元部下であり、彼に現在のジ・エンドの様子を伝えた。口の聞けない妻がいて、近々父親になる。


城川春奈
 城川先生の妻であり、聖亜と準の幼馴染でもある女性。完璧と言われるほどの美貌と能力を持ち、聖亜いわく「自分より強い」また準を可愛がっており、彼女を凌辱した聖亜を笑顔でぼこぼこにした過去を持つ。夫とはラブラブで、体の弱い彼を懸命に支えている。夢は子供をたくさん産むこと。義妹の香を心配しているが、その態度が逆に彼女をイラつかせており、物語の終盤にて香の命令を受けたマモンによって拉致されるが、聖亜達によって無事助け出された。


栗原
 太刀浪警察署に勤務する警部補。栗原美香の父親で、復興街出身の聖亜を付け狙う。だがそれは彼の正義感からによるもの。そのため横領をしている署長や上層部の連中にイラついている。


城川香
 今回の事件の黒幕。城川先生の妹であり、聖亜と準の中学時代の同級生。中学の時はおどおどとした内気な性格だったが、女子高で悪い友達と付き合うようになり性格が一変。朝帰りや無断外泊が多くなり、親との衝突が絶えない。だがそれは兄夫婦の生活を見たくないためであり、また兄を取った春奈を強く憎んでいる。そしてその憎悪をマモンに嗅ぎつけられ兄を手に入れるため彼と契約を交わした。最終戦にて、撤退するマモンに食って掛かった後崩れ落ちる。



欠け嘴の松次郎一家
 太刀浪市の荒れ寺を縄張りとし、高知の鴉社会を束ねる一家。齢60を超す大親分、松次郎を筆頭に、彼の甥である松五郎が若頭を務めている。キュウには恩義を感じているらしく、彼女の命令に従い、市内の巡回と聖亜の監視を行っている。


エイジャ


“渡り商人”マモン
 今回太刀浪市で活動していたエイジャ。赤界出身の商人であり、男爵。薬を餌に三馬兄弟の1人、幻馬を操って自らのスフィル強化の研究を進め、最終的には統馬、数馬、幻馬の3人を取り込んだ最強のスフィルを作り上げた。その後は契約者である香の命令に従って彼女の義姉である春奈を誘拐したが、それが聖亜達を呼び寄せてしまい、結界的に退却することになる。その後は案内人に案内され、赤皇の晩餐会に参加する。


ハリティ
 マモンに従い、彼の用心棒を務めるスフィル。寄生種に侵された元人間であるが、寄生種と同調したため、意識を失うことはなかった。マモンに従っているのは聖夜の煉獄によって失われた息子を取り戻すためであったが、最終戦でヒスイに敗れ、マモンによって目の前で子供の焼死体を粉々にされてしまったため気が狂い、寄生種に完全に乗っ取られ、黒い肌に六本の刀を持つ怪物に変化した。その後はヒスイ達を圧倒していたが、ヒスイの持つ鈴によって息子と再会、抱きしめる寸前、スヴェンによってばらばらにされる。


小池
 マモンによって新型寄生種の実験台にされた少年。元は根津高校にいたが、その後陸上のエースとしてスカウトされて月命館高知分校に転校する。しかし思うように結果が伸びずあと少しで退学になるところを幻馬の甘言によって薬に手を出し、落ちぶれてマモンによって新型寄生種プロトαを植え付けられた。その後聖亜達の前に現れた時は膨れ上がった姿で現れ、スフィルとなって襲い掛かった。しかし寄生種の出来が良くなかったため不安定な姿となり、ヒスイによって滅ぼされる。


 三つ首のパドラ
 マモンによって作り出された彼の最高傑作。三馬兄弟に新型寄生種プロトβを植え付け完成したスフィル。ヒドラの寄生種を三人に植え付け、九つの首が固まって一本の首になっている。また左右から4本、前後からそれぞれ2本ずつの巨大な足が生えている。さらにそれぞれの首から炎・冷気・毒の息を吐くほか、ヒドラの再生能力を高めたことにより少しの傷であれば一瞬で、深手を負っても段々と回復するなど、まさにハイパーヒドラである。最終戦によってヒスイ達を圧倒したが、スヴェンによって軽く蹴散らされ、その後は案内人によって引き取られる。




赤皇の晩餐会(せきおうのばんさんかい)
 マモンが招待されたエイジャの組織。詳細は不明だが、最上流貴族である大公も招待したことからかなりの組織であると考えられる。
また、招待されたエイジャはそれぞれ“六者の上客”、“十二の中客”、“無数の下客”と呼ばれ、男爵のマモンは十二の中客に位置する。



盟主

リウ
 赤皇の晩餐会の盟主。しかしその姿は家畜、つまり人間の少年である。黒い長髪と赤い瞳をした中性的な少年で、穏やかな性格をしているが、増長する者が出ないように反抗したものを厳格に処分する事もある。
 また、その左腕に最強の深淵の御手である“真紅の御手”を宿している。その威力は軽く“撫でた”だけで上級のエイジャを一瞬で滅ぼす。

「全てを崩壊に導く灼熱の崩剣ーレーヴァティン」




主な出席者(六者の上客のみ)

“消滅の魔眼”バロ・フォモール
 賓客筆頭。青界の名門中の名門、フォモール家の出身で、前青皇の下で大公を務めていたが、ある事情により無限回廊の中に封印されていた。現在は解放され表舞台に出てきた。外見は黒髪黒髭を持つ隻眼の偉丈夫。手に布を被せた杖を持つ。


黒公 レイン
 六者の上客の一名。元々は黒界で要職を務め、公爵の爵位を持ち、嘆きの大戦では黒騎将として一軍を率いていた。鎧を着こんだ女のようだが首から上がなく、さらに骨の馬に乗っている。


“黒き魔女候”モリガン
 元人間でありながら侯爵の地位にある女。黒界に漆黒の森という領地を持つが、その場所は不明。


“百鬼教授”小角
 モルガンの腹までしかない歪曲した背を持つ、頭から頭巾をすっぽりと被った男か女かも定かではない存在。噂では元人間らしいが、並みの貴族ではその影に入っただけで消滅するという。現在は赤界に住んでおり、皇の信頼も厚い。


“機械女王”クロック・クイーン
 六者の上客の中でもっとも異色な姿をした客。頭の部分に時計に似た(というより、時計そのもの)頭部を持っており、手足は金属でできている。赤界の機械魔城を治めており、嘗ては大臣も務めた。


残り1名―不明






次回予告


 モノレールと蒸気機関車を乗り継ぎ、少年は無人の駅にゆっくりと降り立つ。

 蝉しぐれの鳴り響くその駅に一人立った少年は、不思議な感覚に襲われた。

 だが、それは不愉快な感じではなかった。

 その感情は、一種の“懐かしさ”に似ていた。


 どこか懐かしさを感じるこの地で、彼は2人の少女と出会う。

 一人は東北の奥地、昔話の中から現れた花の名を持つ少女。

 もう一人は女王と称される厳しくも暖かい少女。

 この2人は、少年と一体どのような出会いを果たすのだろうか。


 そして、少年が去った街に、新たな脅威が現れる。


 次回、「スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 序幕   最悪な街の最高な男」を、どうぞお楽しみに!!

 なお、今回で序章は終わり、次回は第一部「赤皇の晩餐会編」になります。ご了承ください。


 ちなみにこの物語はハーレムものですが、主人公最強ものではありません。








 ちょっとおまけ




なんてことはない、これは迷子の子猫の物語だ。

迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのおうちはどこですか

子猫の周りには、そう聞いてくれる犬のおまわりさんがたくさんいた。

だが、その子猫には何も答えることができなかった。

何故なら子猫は知らないからだ。

自分の本当の家も、自分の本当の家族も、そして、

自分の本当の名前すらも

何もかもが偽物の中で生きてきた子猫は、ある日自分と同じ迷子の子猫と出会う。


なんてことはない。


これは、迷子の子猫達が、自分の本当を探す物語。




 こんにちは、活字狂いです。今回で序章は終わりになり、次からは第一部「赤皇の晩餐会編」をお送りします。ですが以前言ったとおり九州に行くため、再開は早くて半年後になります。なおスルトの子3はかなり長いです。大体1.5メガバイトぐらい。後自分の尊敬する学者として小泉八雲と柳田國男がいます。それをふまえてどうぞお待ちください。あ、それとこの物語はハーレム物です。そうしなきゃまとまりがつかないので。

ではしばしの間、さようなら。



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 序幕 最悪な町の最高な男
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:12ec9d4a
Date: 2011/04/30 16:31





-中東―


史実では化石燃料の発見と採掘によりオイルマネーで栄える一方で、変わりに欧米の圧力を受け続けたこの地域は、だが化石燃料が発見されなかったこの世界では欧米の手が伸びなかった代わり(要するに無視されていた)に、貧困に喘いでいた。


その貧困から抜け出そうと、数十年前に一つの連邦国家が誕生する。大国であるイランとサウジアラビアが合併し、周辺の国々が次々と吸収されてできたこの連邦国家は、かつてイランに栄えていた帝国の名を継いで自らをこう名乗っている。


すなわち、ペルシア連邦と



だが、何事にも亀裂というのは生じる。連邦が生まれて10年ほどはうまくいっていたものの、徐々に貧富の差、なにより同じイスラム教徒でありながら対立する二つの宗派の意見の食い違いが目立つようになっていた。そして、現在では連邦議会を掌握して自らの宗派が政治の主導権を握ろうと、互いの隙をうかがうまでになっていた。

上層部がこうであるから、もちろん下のほうもうまくいくわけがない。特に貧しい港町は、海賊やマフィアがしのぎを削りあう舞台と変わっていた。



さて、そんな港町の中でもっとも最悪な町がどこかと聞かれれば、人々はそろって同じ町の名を口にするであろう。

ペルシア連邦の南東に浮かぶ名も無き島、そこにあるたった一つの港町を



その港町の名は、ラチャーチと言った。





「……ん?」
ラチャーチに数多ある酒場の一つを営んでいる男は、戸口から差し込む光が翳ったことに気づき、磨いていたグラスをそっと脇に置いた。続けて流し台のそばに立てかけてあるショットガンに軽く触れ、その存在を確認する。
ショットガンを店に置くようになったのは、一週間ほど前からだ。ラチャーチは周りから最悪と呼ばれているとおり、確かに治安は悪いが、現在では4つの勢力が均衡を保っており、少なくとも問答無用で撃たれることはない。それでも強盗や殺人は日常茶飯事に発生しているが、ほとんどの酒場はショバ代を払っているため、4つの勢力のいずれかに守ってもらっていた。

そんな酒場に銃を持つようになったのは、今から一ヶ月前の、とある事件がきっかけだった。



さて、男が銃から手を離したとき、外の人影がゆっくりと中に入ってきた。初めは軽く体を強張らせていた男だったが、やがて息をふっと吐き出した。
「……いらっしゃい、お嬢ちゃん、何か食うかい?」
「あら、ありがとう。でもごめんなさい、今はあまりお腹がすいていないの。それより、何か飲み物をもらえるかしら」
入ってきた人影、ふわりと整えられたブロンド髪を持つ少女は、椅子に座ってふふっと微笑んだ。
「ああ、昼間作っておいた取って置きのマンゴージュースがある。待ってな」
そう言って後ろを向くと、男は昼間こしらえておいた黄色い液体が詰まったビンを取り出した。
「それで? こんな町にいったい何のようだい、お嬢ちゃん。言っちゃ悪いが、この街をあまりうろつかんほうがいいぜ」
「ご忠告ありがとう。けど私はこの町で人を探しているのよ。ねえ、“青海運送会社”って小さな運送会社を知らないかしら」
「……青海運送会社ぁ?」
少女にジュースが入ったグラスを差し出した男は、訝しげに眉を顰めた。
「……お嬢ちゃん、“あの”会社にいったい何のようだい?」
「あら、運送会社に物を運ぶ以外いったいどんな仕事があると言うのかしら。ま、“裏”の仕事があるなら別でしょうけど」
ジュースを飲み干し、空のグラスを置いて微笑む少女を見て、男はやれやれと首を振った。
「なんだよ、“裏”の仕事を知っていると言うことは、あんたもその筋の人間ってわけか……確かに知ってると言えば知ってるがよ、今はやめといたほうがいい。“あの人”は寝起きの機嫌が悪いからな……そうだ、暇つぶしに何か話でも聞かないか、ひとつ面白い話があるぜ」
「あら、それはいいわね。面白いお話は大好きよ」
男の言葉にそう応えると、少女は相手が話し出すのを笑いながら待った。



それは、“最悪”の街で起こった、“いつも”の物語。



その事件の最初の被害者は、男同様酒場を営んでいた50代の男だった。4つの勢力の一つ、アメリカマフィアのグループである“キル・ザ・ジャック”1500人という勢力の中で2番目に大きな子の組織は、当然ながら経営している酒場や娼館から入ってくる徴収金も莫大なものとなっていた。

その勢力に属している酒場の一つが、何者かに襲われたのだ。そして、事件から一時間後に駆けつけた男たちが見たものは、

床一面の血の池と、バラバラにされた、かつて人間だった“物”だった。


この事件を受け、“キル・ザ・ジャック”のボスであるジョースは自らの勢力圏内に戒厳令を敷くとともに、他の勢力にも犯人探しを要請するが、その間にも彼の傘下にある酒場が4件、立て続けに襲われ、店主とそして見張りについていた男達、そして客が殺されていった。皆、その体をバラバラにされて。

この知らせに“きれた”ジョースは他の勢力のトップに会談を要求、応じない場合は犯人として無差別に攻撃するとまで言い放った。




さて、ラチャーチの東側では、一つの地区がすっぽり入るほどの小島が、街と橋で繋がっていた。
その橋の上を、今青い車が猛スピードで小島のほうに向かって走っている。車は橋の上を一気に通り過ぎ、小島に入ると次は両端に露天が立ち並ぶ狭い道を強引に突っ切った。
露天を営んでいる人々は慣れているのか、車が通り過ぎる瞬間商品をさっと取り上げて、通り過ぎると同時にさっと道に並べ替える。だが不慣れな者は、猛スピードで駆け抜ける車に商品をつぶされて半泣きになっていた。

青い車はそのまま道を突っ切ると、奥のT字路強引に左に曲がり、古びた建物の前で回転しながら急停車した。砂煙がもうもうと立ち込める中、車から出てきたのは青髪に蒼い瞳を持つ隻眼の美女である。右目は眼帯で隠れてわからないが、残った左目に宿っているのは、今にも炎となって噴出しそうなほど強烈な怒気であった。
彼女は煙が大量に噴出している車を激しい怒りを込めて見つめると、懐から巨大なマグナム銃を取り出し、車に向けて容赦なくぶっ放した。自分の放った銃弾が防弾性の窓ガラスを粉々にするのを確認すると、女は目の前の古びた建物にずかずかと入っていった。


その建物の上にある、今にも落ちそうな看板にはこう書かれていた。


すなわち、“青海運送会社”と




「あ、いらっしゃ……げ」

受付の椅子に寄りかかってグラビア雑誌を暇そうに眺めていた男は、入ってきた女を見て顔を引きつらせた。
「あ、姉御……お早いお帰りで」
「……あの馬鹿はいるか」
「へ?」
自分の不真面目な態度に起こっていたと思っていた男は、一瞬ぽかんとした顔をして、そして次の瞬間、その頭をマグナム銃で粉々に打ち砕かれた。
「…………もう一度だけ聞いてやる。あの馬鹿は今どこにいる? 0秒で答えろ。出なければ今度は“核”を撃ちぬく」
「……か、勘弁してください姉御、“頭”吹き飛ばされたぐらいじゃ死にませんが、さすがに“核”をやられたら冗談抜きで終わりなんすから」
きれいに消し飛ばされた頭をぐにぐにと再生させながら男はそういったが、女の一瞥を受けてひっと悲鳴を上げ、一番奥の部屋を指差した。
「あ、ああ“兄貴”なら一番奥の部屋でお休みです。昨夜は夜遅くまで楽しんでい」
下品なことを言おうとした男の頭をもう一度撃ち抜いてから、女は廊下を進み、一番奥にある半ば傾いた扉を思いっきり蹴り砕いた。



その部屋の中は、かなり散らばっていた。机の上には飲みかけのウイスキーのボトルが何本も無造作に転がっており、その横には読みかけの雑誌が今にも崩れ落ちそうなほど重なっていた。床の上には食べかすのクッキーのカスが散らばっており、時折かさこそと鼠が這い回っている。
そんな部屋の中央にある、まったく似合わないソファの上は、新聞を頭の上に乗せた男が、ぐっすりと眠りこけていた。
扉を蹴破って中に入った女は、そのまま男に近づくと、その胸を踏みつけ、銃の中に残っているすべての弾を、男の頭めがけ何の躊躇もせずに撃ちつくした。
衝撃と轟音で部屋がびりびりと震える。男はソファの上から反対側の壁まで一気に吹き飛ばされたが、やがてふあっと一度あくびをし、のそのそと起き上がった。
「……ったく、人がいい気持ちで眠ってるのに、いきなり何するんだマリー、昨日はあんなに」
「黙れストール!!」
女―マリーは数秒で銃弾を空の銃に詰めると、それが尽きるまで男の顔に撃ち続けた。しかし、銃弾の雨がやんだとき、そこにあったのはやはり先ほどと変わらない格好でたっている男の姿だった。
年は30半ばほど。細身だが鍛え抜かれた体つきをしている。だがその顔はわからない。口元以外を両側に角が生えている牛の頭蓋骨のような仮面がすっぽりと覆っているからだ。見えるのはその口元と、そして仮面の隙間から生えている長い黒髪だけだ。
「いや、あのなマリー、頼むから照れ隠しで銃をぶっ放すのはやめてくれ。俺に効かないにしても、部屋の中が滅茶苦茶になる」
「う、うるさいっ!! それより貴様、いったいここで何をしている!! 今日は午後から会合があったはずだろう!!」
「……あ~、そういやあれって今日の午後だっけ? ったく、ジョースの野郎も非常識だな。会合は普通夜だろうが」
「……貴様が、夜は眠いから昼間にしろと散々ごねたんだろうが!!」
「うべっ!?」
のんきなことを言っている男、ストールの腹に拳を叩き込むと、くの字に曲がって崩れ落ちた彼の仮面についている角を掴み、マリーはずるずると外に引きずっていった。
その頃にはすでに“青海運送会社”のほかの社員達も集まってきたが、何時もの事と、“社長”より強い“副社長”には逆らえないので、ただ黙って2人を見送るだけであった。






ラチャーチにある、とある集会所にて


「……今回で5件目だ。いったいどこの誰の仕業だ?」
「そんなの知らないわ。それよりジョース、あなた新参者の癖に私達を呼び出すなんて、ずいぶんと偉くなったわね」
「ほっ、ほっ、ほ。まあそう言うてやるなエカテリーナ。小僧もたまには囀りたいのじゃろう」
「くっ、長老……俺を馬鹿にするのもいい加減にしてもらおうか」
街のどこかにある集会所の中には、今4人分の影があった。すなわち、

脂ぎった髪を後ろに撫で付けた、40台ほどの神経質そうな男ー会合を設けた“キル・ザ・ジャック”のボス、ジョース。

20代後半の金髪美女、ロシア最大のマフィア“グローヌイ”のペルシア支部長であるエカテリーナ。

そして4つの勢力で最も多い人数を保持し、長老と称される中国系マフィア“九頭竜”の頭 、齢95歳の流大龍とその孫娘、10代後半の少女、流小龍である。


「……まあいい。今のところ、俺が容疑者として考えているのはストールの奴だ。なぜなら奴は今この場にいないのだからな」
「そう? いつもどおりただ眠りこけているだけだと思うのだけれど」
「ふむ、そうよのう。対して我々が一番怪しんでおるのは……小龍」
「……はい、ジョース……の、自作自演……です」
「なっ!? 自作自演だと!?」
片言で喋る小娘の言葉に、ジョースは思わず声を張り上げた。
「そう、自作自演。自分の酒場を自分で攻撃すれば、犯人は決して見つからない。そしてそのうち、自分が最も邪魔だと思っている相手を犯人に仕立て上げる。ストール……彼を犯人に仕立て上げれば、あの小島はそっくりそのままあなたの取り分になる。ま、とんだ浅知恵だったわね」
小龍に続いてエカテリーナにまで言われ、ジョースは違う、違うと首を振りながら扉に向かって後ずさりする。やがて、その背が扉に触れたとき、

バンッ!!

「んがっ!?」
彼の体は、いきなり開いた扉によって前方に突き飛ばされた。

「いや~、悪い悪い。ちょっと遅れちまった……って、そんな所に寝そべって何やってんだジョー、昼寝か?」
「ぐっ、ストール……て、手前!!」
高等部に大きなたんこぶをつけたジョースが、ぎりぎりと歯軋りしながらこちらを眺めてくる。と、その手が懐に伸びた。それを見たエカテリーナ、小龍、そしてマリーが、殺気とともにジョースに銃を向けた。
「ジョース、あなたその手を後一ミリでもふところに近づければ……分かってるわね?」
「……死」
「そういうことだ……この2人に合わせるのは癪だがな」
「わ、分かったよ。ちょっとした冗談じゃねえか……さすがにトップ同士の殺し合いは“ボス”に禁止されているしな」
ふところから手を離し、ジョースはじりじりと後退した。彼の言うボスとはこの街のすべてを取り仕切る謎の男のことである。自分も一度会ったことはあるが、そのときは影だけだった。
「そ、そういやボスはこんなときにも来ないんだな。一体どこで何してやがるんだ?」
「……ボスは基本的には表に出ないわ。例えこの町に住む人間、そのすべてが死に絶えても。それよりストールも来た事だし、一度状況を整理してみない?」
「そ、そうだな。お前らも知っていると思うが、最近俺の所の酒場が立て続けに襲われている。昨日でもう5件目だ。死者はすでに50人を超えている」
「ふ~ん。それで? ちゃんと酒場に来る連中の身体検査はしてるのか? ジョース」
「当たり前だ。福の中、神の中、爪の中……それこそ客から娼婦、神父まで皆調べている!!」
「その日店に現れた客はきちんと把握している? 写真は撮った?」
エカテリーナの問いに頷くと、ジョースはズボンのポケットから数枚の写真を取り出し床に放った。そこには屈強な男達や娼婦の姿が映っている。
「……どれも武器無しで複数の人間を、それも短時間で行えるとは思えないわね。それで? この人達は本当に全員死んでいるの?」
「いや、それが今回は特に念入りに“こま切れ”にされていてな、正直あそこにあったのが“何人分”かすら分からなかった」
「ふうん、残酷ね……ストール、どうかした?」
話に加わらず、写真の一枚を拾い上げ熱心に見ている仮面の男に、エカテリーナはふと声をかけた。
「いや……この黒髪の奴がどうも気になってな」
その途端、ストールの体に3方向から強烈な蹴りが叩き込まれた。マリー、エカテリーナ、小龍の攻撃を受け悶絶しながら、それでも仮面の中に隠れた彼の瞳は、写真の中にある黒髪の娼婦をただじっと見続けていた。


とりあえず各々が警備を強化することで合意すると、ストールはマリーの運転するポンコツ車に乗り、事務所への帰路についた。
「……何か考え事をしているようだな」
「……考え事? 俺が? ははっ、何言ってるんだよマリー、俺がそんなことするはずがないだろ?」
ごまかす様に笑うストールを見て、マリーは軽くため息を吐いた。
「まったく、何年一緒にいると思っている。少なくともその仮面の下で、今貴様が笑っていない事ぐらい分かるつもりだ」
「…………そうか。適わないな、マリーには」
「ふん、当然だ……あの黒髪の娼婦のことか?」
ストールの手の中には、先程彼が眺めていた、黒髪の娼婦が写っている写真がある。ジョースに頼み込んでもらってきたのだ。
「その小娘に屈強な男達をバラバラにするなど、普通無理だと思うが」
「“普通”なら、な」
つまらなそうに欠伸をすると、ストールは写真を放り投げ、座席に背を傾けた。
「とりあえず娼館に人をやってこの女を探らせてくれ。それと、もしかしたら“船”を使うかもしれないから、そちらの用意も頼む」
「“船”だと? まさか……」
「ああ。そのまさかも考えて動いてくれ……悪い、少し眠る」
襲ってきた睡魔に身を任せ、ストールはゆっくりと意識を手放していった。

「……ったく、“奴ら”もいい加減にあきらめたらいいんだけどな」



それから、一週間ほどが経過した。
連日発生していた殺人事件は今のところ発生しておらず、街の大半の人間が事件が終わったと考え始めた頃、その事件は起きた。

「……なるほど、バラバラだな」

エカテリーナの連絡を受け、貧民区の一角に駆けつけたストールが見たのは、この部屋に住んでいた娼婦の変わり果てた姿だった。
「しかもこま切れどころかミンチよ。犯人はどうやら娼婦に対して何らかの悪意を持っているようね。ほんと、最悪だわ」
「ったく、この街でその台詞が聞けるとは思わなかったぞエカテリーナ。それで? 目撃者は?」
先に現場に駆けつけていたエカテリーナに目をやると、彼女は吸っていたタバコを彼に差し出した。
「殺害されたのは昨日の夜、しかも深夜よ。目撃者はゼロだわ。けれど被害者と顔見知りの娼婦の話では、何でも2,3週間ほど前、“これ”は人間を拾ったらしいの」
「……ふうん、人間ねえ」
渡された煙草を深く吸うと、ストールはそれを寄りかかってきたエカテリーナの口に戻した。
「そ、黒髪の可愛らしいお嬢ちゃんらしいわ。何でも“そっち向け”のビデオに出演していたようだけれど、いやになって逃げてきたらしいの……貴方の勘が当たったわねえストール、今ジョースが灰化の連中を使って黒髪のお嬢ちゃんを必死に探してるらしいわ。何でも7万ドルの賞金までつけて、ね」
「……7万ドルか。あのけちにしてはよく出したな。ま、見つかるのは時間の問題だろうよ」
ジョースが出した賞金首の情報が書かれた紙をつまらなそうに千切るストールを見て、エカテリーナはおかしげに笑みを浮かべていたが、ふと声を潜めた。
「けどストール、これは相手が“単なる”殺人鬼であった場合よ。あなたの言っている“奴ら”なら、ジョースの手には負えないわ」
「分かっている。ま、ジョースは確かに小物だが悪い奴じゃない。いなくなったらいなくなったで寂しくなるからな……ま、そいつが本当に単なる殺人鬼なら、両手足砕いてあいつに差し出すさ。けど」
血の池に浸りながらこちらを見つめてくる目玉を見つめ返し、ストールは仮面に付いている角を軽く押さえた。

「けど“奴ら”の関係者というなら話は別だ。生まれてきたことを後悔する暇も与えずに殺してやる……どこまでも無残にな」






「どこだっ!!」
「探せっ!! おらっ!!」
翌日、街のあちこちで、黒髪の娼婦を探し回る男達の姿が見られた。ジョースの配下の連中だけではない。7万ドルという賞金に目がくらんだ他の勢力の下っ端、それと賞金首もこぞって探し回っている。

と、ジョースの配下の男が、道を歩く黒髪の人間を見かけた。写真と違って髪は短いが、そんなものは切ってしまえばいいだけの話だ。近寄ってその肩を掴み、一気にこちらを向かせる。
「痛っ!! もう、何ですかいきなり」
「な!? 手前……男、か?」
「ええ。男ですが、何か?」
こちらを向いた顔はやや中世的だが、それでも女と間違えるほどではない。男はちっと舌打ちすると、他の連中を引き連れてまた走り出した。

「……やれやれ、ずいぶんと乱暴だなあ」
地面に散らばった荷物を拾い上げ、その男はふっと細い笑みを浮かべた。
「……さて、そろそろ潮時ですか。ま、これだけ引っ掻き回せば充分でしょう……ねえ、盗賊さん」
そう呟いた男の瞳には、狂気の炎がちらついていた。


その日の夜、ストールは薄暗い公園をゆっくりと歩いていた。

別に特別なことではない。彼は考え事があるときなどは、事務所から離れ付近を歩く癖があった。それが、今回は公園だった。ただそれだけのことである。
「……ふうっ」
一度ゆっくり息を吐くと、ストールは公園の中央にある噴水の、そのすぐ傍にあるベンチに寄りかかった。いつもより体が重い。無理もない。今日これからする事を考えるのならば。


その時、不意に周りの空気がざわりと揺れた。





「……いるんだろ? 出てこいよ」
前方の茂みに、ストールは沈んだ声をかけ、再びため息を吐いた。彼の声に応える様に、前方の茂みの中で、ざわりと何かが動いた。
待つ事数秒、茂みの奥から、長い黒髪をした少女がよろよろと這い出てきた。
「あ……あの、お願いです、助けてください。さっき怒り狂った男の人達に襲われて、その」
「怒り狂った男達……ああ、ジョースの手下達か。あいつらは短気だからな……それは悪いことをしたな、後であいつらに謝らせる」
「あ……いえ、いいんです。あなたって優しい人ですね」
「……別に俺は優しくなんてねえよ」
「いえ、とっても優しい人ですよ……すごく」
ふらついた足取りで、ゆっくりと、だが確実に少女が近づいてくるのを、ストールは無表情で見つめ続けた。後数歩で少女が自分にたどり着く、その時
「俺は優しくねえ……優しくなんてねえ。なぜなら、俺は今からお前を殺すんだからな」
「っ!?」
ストールの冷たい声に、少女は彼からばっと飛びのいた。その半瞬後、彼女が今までいた場所に、無数の銃弾の雨が降り注ぐ。
その雨は後ろに下がる少女をまるで蛇が獲物を追うように迫っていく。少女は最初戸惑った顔をしていたが、やがてちっと舌打ちすると、降り注ぐ死の雨に対し、その右手を一閃させた。
「……なるほど、仕込み刀か」
「……あははははっ!! やるじゃないか!! 雑魚の分際でさぁ!! さすがは“あの方々”がもっとも危険視するだけの事はある!! けどどうして分かったんだい? 僕が刺客っていうことに!!」
「……」
右腕の付け根から生やした刀を振り回し、銃弾を断ち切りながらこちらに向かってくる殺人鬼を眺め、ストールは悲しげに息を吐いた。
「なるほどな、やっぱり奴らの差し金か。ならここで殺すことになるな……まあ、冥土の土産に答えてやる……お前、男娼だろ」
「へえ? よく分かったねえ、僕が男だってことに!!」
「ま、確かに変装すりゃ女にしか見えないが、こちとらもう女は何百回と抱いてるんだ。骨盤見ただけで、相手が男か女かぐらい分かる。それに右腕の付け根が少し広がっていた。何より」
ストールは、悲しげな表情で自分に向かってくる殺人鬼を見続けた。
「……その笑顔は冷え切っている。お前をここに送り込んだ奴ら同様に、な」
彼の言葉に、公園はしんっと静まり返った。ストールが片手を挙げたため、銃弾が治まっているのだ。
「さすがは僕達“北欧同盟”にとって最大最強の障害なだけの事はある。まあいいでしょう。じゃ、そろそろ死んでもらいましょうか。いっておきますが、僕はS-101、最強のSナンバーを持つものです。貴方が今まで殺してきた雑魚とは違いますよ?」
「……今まで俺のところに来た連中は、皆そういったよ。自分は前の奴より強いってな。けど俺から見れば結局皆どんぐりの背比べだ。で、最後に一度だけ聞いてやる。お前、奴らと手を切るつもりはないか?」
彼に見つめられ、殺人鬼はぽかんと仮面を見つめ返していたが、やがて狂ったように笑い出し、右手の刀を振動させた。
「言っている意味がよく分かりませんね。僕は金目当ての連中とは違います。あの方々に心からの忠誠を誓い、Sナンバーの称号を与えられた最強の刀使いですよ? あの方々を裏切るはず……ないじゃないですかぁ!!」
絶叫を上げて、殺人鬼はストールの首めがけて刀を突き出した。彼はうつむいたまま動こうとしない。やがて、刀は露出している彼の首に届いた。
「取っ……なっ!?」
狂気の声を高々に上げて刀を押し込めようとした殺人鬼は、だがその刀がもはや一ミリも動かないことに気づき、愕然と自分の相棒を見下ろした。
「……やっぱり、この程度、か」
「ひっ!? ひぃ!?」
「……はぁ」
ストールはパニックになっている相手を、むしろ慈悲を込めて見つめると、殺人鬼が左手で振り回してきた大降りのナイフを一瞬で掴み、固まっている刀に軽く手を当てた。
「なぁ!?」
それだけで、ただそれだけで刀は砕けた。絶句した彼の体を、ナイフを引き寄せることで引き寄せ、その胸に軽く手を添える。
「……殺拳……“通し”」
「ッ!!」
次の瞬間、声にならない悲鳴を上げて、殺人鬼の体額足りと寄りかかってくる。その背中を、ストールは子供をあやすように優しくなぜた。
「……もういいだろ、このまま眠ってな」
「…………っ」
「……」
右腕の刀を失っても、ナイフを取り上げられても殺人鬼の目から狂気の炎は消えない。いや、むしろ倍増しているようにも見え、ストールは再び悲しげに息を吐いた。この少年は、おそらく自分より一回りも年下だろう。
「……あなたにわかりますか? 北欧の寒村に生まれた者は、兵士か娼婦になるほか道はない。僕は体が弱かったから、男なのに体を売るしかなかった。あの屈辱的な日々!! 右腕を切り落とされ、泣いているところを犯されたこともあった!! そんなときです。僕があの方と出会ったのは。あの方は僕に優しくしてくれた。僕に暖かい食べ物と寝床を与えてくれた。だから僕はあの方の望みである“回帰”のためならなんでもする。それが、あの方への恩返しになるのだから!!」
「……そうか」
首に向かって喰らいつこうとしてくる少年の腰を掴むと、ストールは彼を子供のように持ち上げた。
「……酒場を襲撃したのは混乱を引き起こすためというのは分かる。だが自分をかくまった娼婦まで殺したのなら話は別だ。だから」
「うえっ!!」
少年の腹を蹴り上げ、宙に浮かすと、浮き上がった彼の頭を掴み、その胸に再び手を置いた。
「その女の分だ。せいぜい苦しんで死ね。殺拳……“砕き”」
「ぐっ!!」
ストールの手が、少年の肋骨を砕く。砕かれた肋骨が、彼の心臓と肺にぶすりと突き刺さった。
激痛と血が流れる恐怖に、大地に転がった少年はびくびくと痙攣して震えた。
「……ふ、ふふ。なるほど、理解したよ。あな、あなたがこの街の支配者。だから他の勢力が守るように動くわけだ。さ、最初からジョースを狙ったんじゃない。彼、しか、隙が、なかった」
「……」
ごほごほと血を吐く少年の瞳から、狂気の光がゆっくりと消えていくのを、ストールはただじっと見続けた。
「羨ましい……あな、あなたは、人間じゃ、な、ないという、のに」
事切れた少年を膝の上に乗せ、ストールはその髪を優しく撫ぜ続ける。そんな彼の様子に、銃撃の指揮をしていた3人の女性は何もいうことができないでいた。

「「「……」」」

「……すまないが、こいつをいつもどおり海に流してやってくれ。月の光に照らされた穏やかな海が、この少年を来世に無事送り届けるように」
「……ああ。あとストール、“船”からの連絡だ。奴らの監視船と思われる船を3隻、その場で撃沈したそうだ」
「そうか。ならマリーはそちらの後片付けを頼む。エカテリーナは連中を帰らせてくれ。小龍は死体を頼む」
「了解」
「分かったわ」
「……うん。ストール、は?」
「……俺なら大丈夫だ。けど、そうだな。いつもより、少しだけ胸が空っぽだ」
「ん……じゃ、今夜は3人で行くね」
小龍の小ぶりな胸に包まれた彼の頭が、微かに上下に揺れた。




上弦の月



明かりのない薄暗い部屋の中を、月の光だけがゆっくりと照らしていた。
その部屋にあるのは、巨大なベッドと小さな棚だけだ。その他には何もない。必要ないのだ。なぜならここは、彼を癒すためだけにあるのだから。
そして、彼はいつも被っている、牛に似た動物の骨で作られた仮面を棚の上に置き、窓から月を見上げていた。
彼の黒く長い髪は月光に照らされ美しく、中性的で美しい顔立ちは、まるで王侯貴族を思い浮かばせる。そしてその顔の中にある黒い瞳には、いつも強い意志の輝きが宿っていた。

だが、今夜はその輝きが、ほんのわずか揺らいで見えた。




―満たされない―


それは、最近彼の体に病魔のように入り込んでくるどす黒い感情だった。それは、たとえば仲間と離れて一人でいる時、例えば夢を見たとき、そして、


そして、例えば自分が殺した、年端もいかない殺人鬼の、その最期を看取ったとき。



「……アルフォルズ、お前のやり方は最高だよ。この俺に昔の感情を思い出させるなんてな」
胸にまるで心臓のように張り付いている大きな青い真珠をぎゅっと抑え、ストールは苦しげに呻いた。まるで、その真珠を引きちぎろうとするかのように。と、その背にすがりつく者がいた。
「ストール、また満たされないのか?」
「……」
「もし満たされないなら、お前はどこかに行ってしまうのか?」
「……マリー」
「もし、もしそうなら、私は、私達はどうすればいい? 私も、エカテリーナも、小龍も、お前がいなくなったら、どうすればいいか分からなくなる。だから、だからストールいか、な「行かないよ、どこにも」……あ」
うつむいて肩を震わせるマリーの頬に、彼はそっとキスをした。
「「行かないよ、どこにも。若い頃のように満たされないからといってあちこちふらふらと飛び回るには、今の俺には大切なものが増えすぎた。けど悪いマリー、奴らは、北欧同盟の奴らだけは許せないんだ」
「……いい、“約束”を守ってくれるなら、私達はお前にどこまでも付き合う。だから、今は安心して、眠……て」
ゆっくりとこちらに倒れこみ、すやすやと寝息を立てるマリーをエカテリーナと小龍の間に寝かせると、彼は再び夜空に浮かぶ月を見上げた。

「……すまない、もう少しだけ、そっちで待っていてくれ。お前達の所へ今すぐ行くには、俺には大切なものが増えすぎた。だからそっちで、あいつと一緒に……なあ、スルト」


その呟きは、彼以外には、部屋を優しく照らす月にしか届くことはなかった。





「というわけで、この街は再び平和を取り戻したというわけさ」
男の話が終わった後、少女ははっと我に返り、そして自分が呆然と話に聞き入っていたことに気づいて苦笑した。
「そう……ふふ、中々苦労しているのね、略奪者も」
「……“略奪者”?」
聞き覚えのない言葉に男が眉を顰めたとき、酒場の扉が勢いよく開かれ、外から牛骨に似た仮面をつけた男が入ってきた。
「ふう、今日はあっちいな。というわけで、おっちゃん、まずはビールね」
「お、今日は早いじゃないかストール、不景気か?」
「ま、そんなとこ。最近“お客さん”も少なくてね……っと、お客さんか?」
仮面の男、ストールは、立ち上がりこちらに向けて一礼したその少女を見て、仮面の下でふと目を見張った。
「……お前」
「貴方が“略奪者”ストール卿ですか? 私、“魔狩りの兄妹”が片割れ、レテルと申します。本日は“青界の略奪者”たる貴殿に、“盟約”に基づき“日本”へ送っていただきたく、参上いたしました」
「……」

にこやかな笑みを浮かべ続けるその少女を、ストールは無言で見つめ続けた。






続く




お久しぶりです。活字狂いです。入隊して一ヶ月ほどがたちましたが、いやもう訓練がきついきつい。それでも何とか付いていくことができ、無事連休を迎えたので登校しております。さて、今回もう一人の主人公というべき男が現れましたが、この男については後々その正体が分かります。では次回、スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 幕間 晩餐会の風景と、第一幕 来たりし少年をお待ちください。




なおラチャーチというのはフランス語で最悪という意味を持つ単語をもじったものです。



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 幕間 晩餐会の風景
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:12ec9d4a
Date: 2011/05/01 16:02


「赤皇の晩餐会」は、盟主であるリウが3人の側近を連れて退場したことで、賑やかな会食場へと変わっていた。


賑やかといっても、無数の下客と呼ばれる者でさえ上級氏民の集まりである。そのため皆最低限のマナーは心得ており、大声を出す者はほとんどいない。ただ隣同士、多くてもテーブル同士で雑談するだけだ。

そして、彼らの一段下、より中央に近いところにいる12の中客として招待された下級貴族達もまた、マナーを守りつつ穏やかに談笑していた。嘗ての大戦“嘆きの大戦”に参加したものは、彼の大戦にて自分が立てた功績を慎ましく話し、死んでいった同胞への哀悼の意味をこめて杯を交わした。
だが、この和やかな会食の場にも異色の存在は無論いる。例えばレギスとオータの2人である。もっとも、レギスが気難しい老人によくあるように、厳しい顔つきで杯を口に運んでいるのに対し、オータの方はぶつぶつと何事かを低く呟きながら酒を飲んでいるが、そのほとんどが服にこぼれてしまう。明らかに飲みすぎだろう。
「……しかし、12の中客、つまり私達のことですが、少々空席が目立ちますね」
そんなオータに侮蔑をこめた視線を投げかけ、アルタロスはふとそう呟いた。
「そうですね。12の席に9人、本当なら後3人来るはずなのに、盟主殿が現れても来る気配がないとは……」
ブラックダイヤモンドと評される最高級のサクランボを口に運び、相槌を打ったマモンの肩が、いきなりがっと掴まれた。
「なっ!?」
「おうお前ら、何話してんだよ」
「こ、これはクロウ卿。いえ、大したことではないのです」
マモンの背後に立っていたのは、赤い鬣を持つ獅子のような男だった。両肩には緑界に生息するといわれる巨大バジリスクの頭蓋骨が付着している。自分より遥かに歳は若いが、それでも青界の名門中の名門、フォモール家の御曹司に対し、マモンは慌てて畏まった。
「おう、いいぜそんな事しなくて。気楽にいこうや気楽によ」
「は、はあ……」
がははっと豪快に笑いながら巨大な骨付き肉に歯を当てるクロウの言葉に、マモンは失礼の無いようにゆっくりと立ち上がった。
「それで、確かお前らが話していたのってここに来ていない連中のことだよな」
「は、はあ。そうですが」
アルタロスが頷くと、クロウはにっと獰猛に笑った。
「がははっ、喜べお前ら。どうやら後から来る奴は、どいつもこいつも女らしいぜ」
天高く笑う彼に、マモンとアルタロスはただ互いの顔を見合わせるしかなかった。





「まったく、随分とやかましいじゃない、あなたの甥」
自分達がいる場所から一段上にある席で響く笑い声を聞いて、黒き魔女侯と称されるモルガンは、その端正な顔を忌々しげに顰めた。
「否定はせぬ。我が甥はまだ幼い。仕置きが必要だ……しかしよく来る気になったな、黒き森の支配者よ」
「ま、森の奥にこもって研究を続けるのも飽きてきたことだしね。ちょうどいいわよ……それより、まさかあんたが人前に出るとは思わなかったわ。ねえ、“首無し公”?」
「……私をその名で呼ぶな」
モルガンのからかいに、彼女の真向かいに腰掛けていた鎧が、かちゃりと音を立てて揺れた。空洞になっている首の部分から、ひゅうひゅうという風の流れとともに低い女の声が響く。
「私がここに来た目的はただ一つ、失った我が首を探し出し、その不名誉な称号を撤回させることにある」
「ふ~ん、まあ見つかっても十中八九腐っていると思うけどね。ま、そのときは今度は腐れ首公爵とでも呼んであげるわよ」
「……モルガン、貴様どうやら死にたいようだな」
「あら? あなたにできるかしら……この私を殺すことが」
「……」
モルガンの挑発めいた言葉に、鎧ーレインは黙ってその右手を高く掲げる。と、その中に瞬時に赤黒い槍が出現した。

「……ブラッド・レ」
「ダーク・レ・モー」

槍が翻り、モルガンがその指を鳴らそうとした、その瞬間

「……いい加減にせぬか、そなた達」

「「!!」」

コンッと何かが床を叩く音と、低い静かな声がその動きを止めた・


「……う、ご、ごめんなさいバロール大公」
「……ゆ、許されよフォモール卿」
バロ・フォモールの静かな声に、ぶつかり合う寸前だったモルガンとレインは、すごすごと自分の席に戻っていった。
「うむ……ところでクイーン、小角殿、そなた達もそんな所にいないで話に加わらぬか?」
2人の様子を見て、彼は自分の隣でくるくると時計頭を回転させている女王と、その隣にいるフードをすっぽりと被った小男に声をかけた。だが、
「クロッククロックロックロックロック、あたしは狂ったクロッククイーン」
「………………」
「……もう良い」
彼のため息に、クイーンは頭の回転を早くし、小角は沈黙したまま椅子の上でゆっくりと足を組んだ。
「……ところで話は戻るのだけれど、結局上の空いている席には誰が座るのかしら」
「……中席に座る者の内、1人については心当たりがある。嘗て私の下で旗持ちをさせていた騎士だ。確か今北の大地で“黒翼の誇り”、その一部隊を率いている。おそらくもうそろそろ来るだろう」
「ほかの2人については我が知っている。といっても1人は医者というほかわからぬがな。だがもう1人……いや1組というべきか、は“魔狩りの兄妹”だ」
「へえ? 大戦後に名前が挙がってきた伝道者じゃない。確か対玩具使いのエキスパートで、これまで300の玩具使いどもをぶち殺したとか」
「うむ、そしてこちらももうすぐ着くという連絡があったようだ……それより」
モルガンの言葉に頷くと、バロールは不意にこの場で唯一空いている席を見つめた。
「我としては、まだ来ぬ“奴”の方が気にかかるのだがな」
「“奴”……そうよね、緑界最強最悪の存在であり、“竜殺し”を簡単にやってのける者、彼の竜王が何とか封印したと聞いていたけど……この場に緑界出身者がいないわけだわ。誰も“奴”には勝てないもの」
「……まあ、奴は最強の戦闘能力を誇るが、それゆえに“戦闘狂”でもあるからな。今頃どこかで戦っているのだろう……それより我らも楽しもうぞ、この晩餐会を」
「そうよね……せっかく来たんだもの、楽しまなきゃ損だわ」
そう呟くと、モルガンは椅子にゆったりと腰掛け、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアをぼんやりと見続けた。




晩餐会は、今日も続いている




続く



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第一幕   降り立つ少年
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:85e3043f
Date: 2011/12/04 07:16


 昔々、その昔


 毛皮をまとった姫若様は


 来る日も来る日も森の中


 大鳥様と 遊んでた


 
 は~、ちゃんぽん




 けれどもあるとき姫若様は


 金銀財宝と引き換えに


 遠い異国へ売られていった



 さ~、よいよい




 ―出雲に伝わる童歌より―





「……ん?」

 モノレールと蒸気機関車を乗り継いで、蝉しぐれが鳴り響く無人の駅に降り立った時、少年は不思議な感覚に囚われた。


 それは、決して不愉快なものではない。いや、むしろ逆だ。



 もしその感覚を言葉か何かで表すことができるのなら……そう、懐かしさ、であろうか。



 気を取り直すため一度頭を大きく振り、一歩踏み出した少年は、はっと周囲を見渡した。


 誰かに呼ばれた気がしたのだ。


 だが彼を乗せてきた蒸気機関車はすでになく、この寂れた無人駅には自分以外、甲高くなく蝉しかいない。


 気のせいだったのかと首をかしげながら駅を後にする少年に向かって、どこからか風がゆっくりと吹く。



 少年がこの地に来たことを歓迎するように



 あるいは



 少年がこの地に来て“しまった”ことを、憐れむように


 
 優しい、どこまでも優しい風が、さやさやと囁きながら少年の体を抱きしめた。





 

 おかえり、出雲の子









 深い木々が生い茂る山道を、一人の少年がゆっくりと歩いていた。木の葉が日差しを遮っているのと、朝まで雨が降っていたためか少しは涼しく感じられたが、それでも夏の暑さに変わりはない。少年の白い肌には玉のような汗がじっとりと噴出しており、彼は時々頬を伝う汗をぬぐいながら歩いていた。

 ふと、少年の歩みが止まった。辺りを見渡す少年の視界の隅に、右側の少しがけになっている場所の隙間から、澄んだ水がちろちろと流れているのが見えた。
「……」
 彼は考えるように青空を見上げていたが、それはほんの少しの間で、喉の渇きに耐えられなくなったのか、やがて水に向かって歩き出す。そして、流れる水のすぐ傍までたどり着くと、両手で水を掬い上げゆっくりと飲み干していく。
「……ふう」
飲み終わって一息つくと、ふと少年は水溜りに映っている自分の顔を見た。細身で背が低く、艶のある黒髪と充分美少女で通る中性な美しい顔つき、そして自分を睨み付ける、刺すようなほど強すぎる意志を持った瞳。


 その瞳から逃げるように、少年は視線を道の先に、そしてさらにその後方にある、どこまでも広がる青空へと向けた。


「……遠いな」


 彼が、星聖亜が目指す場所は、まるでこの空のように遠かった。






 雨が、降っていた


「……もう一度、言ってくれないか?」

 雨が滝のように降り注ぐ道の真ん中で、聖亜はその両腕で自分の“唯一”である少女を抱きしめ、その様子を面白そうに見つめる目の前の金髪の青年を射抜くように睨み付けた。

 復興街のどんな猛者でも一瞬で気絶するその視線を受け、だがその青年、鈴原雷牙は面白そうにへらへらと笑っているだけだった。
「うん? 聞こえなかったかな? ならもう一度言ってあげるけど……聖亜君、君もし腕の中の女の子を助けたいんだったら、俺達の仲間にならないかい?」
「……それは、あんた達の奴隷になれってことか?」
「あはは、ごめんごめん、ちょっと言い方がきつかったかな」
 雨に濡れてへばり付いた金髪を撫でながら、青年は顔ににっこりと笑みを浮かべたまま、その両目をすっと細めた。
「なあ聖亜君、俺は別に強制なんかしないよ。けどね、もし君がこちらの提案を拒否るんだったら……俺は今君が必死に抱きしめているその子をスフィルとして排除しなきゃならない。それともう一つ」
 その時、青年の右手がぎゅっと握られた。その拳から、バチバチと小さな、だが鋭い雷鳴が鳴り響く。
「……う」
「もう一つ、君を脅威と判断してこれまた排除しなきゃならない。当然だろう? 君は貴族クラスの蛇神を滅ぼし、マモンを敗走させ、最高査問官の一人である閃光のスヴェンを戦闘不能にまで追い込んだ。これを脅威といわずになんと言う? そしてその脅威がもし自分達と敵対する羽目になったら? だからこそ手元において置くのが一番いい。そういう事さ」
「……」
「ちょ、ちょっと待て、仲間にということは、それは聖亜を高天原に取り込むという事か?」
 俯いて黙り込む少年に代わって雷牙に反論したのは、彼の横で成り行きを見守っていた、透き通るほど綺麗な白い髪をした少女だった。
「……間違っちゃいないけど、さすがに取り込むという表現はひどいなあ、ヒスイちゃん。けど考えてくれないかな、エイジャとの戦いに巻き込まれ、その挙句巨大な力を持つにいたった彼が、この先今迄どおりの生活を遅れると思っているのかい?」
「そ、それは」
 うろたえる少女、ヒスイを雷牙はどこか見下したように見つめる。その視線を受け、ヒスイは聖亜同様俯いて押し黙った。これからも彼はエイジャとの戦いに巻き込まれていくだろう。そしてその戦いに、今回のように彼の周りの人々が巻き込まれないという保証はない。それになにより
「なにより、一番最初に彼をこの馬鹿げた戦いに巻き込んだのは……“君だ”」
 そう、彼を戦いに巻き込んだのは自分なのだ。自分がもっと早く人形達を探し当てて倒していたら、自分が蛇神を倒せるぐらいに強かったら、そしてなにより、

 なにより、父の提案を断り、一人でここに来なかったら


「待て、それを言うなら聖亜がエイジャとの戦いに巻き込まれた根本的原因は、そちらに所属している呪術師の裏切りが原因であろう? その始末はどうするつもりだ」
 その時、ヒスイの足元から一匹の黒猫が出てきた。頼りない二人に代わり、その紫電の瞳で青年を厳しく睨み付ける。だが、それでも雷牙の表情は涼しげであった。
「やあ、あなたが“女王陛下”ですか、お目にかかれて光栄です。ま、確かに前任者の仕出かした事については返す言葉もありませんが、ご安心してください。彼はもう消去してしまったので」
「貴様、我の事を……いや待て、死刑ならまだ分かる。だが転生も許さぬ消去だと?まさか、あの小娘が直接手を下したとでも言うのか!?」
「ま、それはご想像にお任せします。さてと、さあどうする聖亜君、こうやって無駄話をしている間にも、君の愛しい人の体内はスフィルが犯している最中だ。もうあまり時間はないよ?」
 雷牙のその、答えがどこまでも判りきっているような陽気で無邪気な笑顔を受け、聖亜は彼を強く睨み返していたが、やがてその顔を何かに耐えるように苦しげに歪ませ、僅かに、ほんの僅かに、顔を、縦に振った。


振ることしか、できなかった。


「……せ、あ」
「よし、決まりだね。じゃあもうすぐ高天原専属の医療チームが到着するから、聖亜君は家に帰って休むといい。ああ、彼女……準ちゃんといったかな、彼女のご家族にはこっちで説明しておくから、君が気を病む必要はないよ」
 悲しげな表情で少年を見つめる少女の呟きを陽気な声で遮りながら、雷牙は自分の広報で事の成り行きを見守っている理知的な女に向け、軽く手を上げた。その合図に一つため息をつくと、彼女ー水口千里は聖亜の前にゆっくりと進み出た。
「……」
「星君、いえ、これからは聖亜君と呼ばせていただきます。さて聖亜君、準さんをお預かりしますが、よろしいでしょうか」
「……」
 これが雷牙であったなら、彼は命がけで抵抗しただろう。そして彼女の瞳に少しでも揺らぎが見られれば、彼は準を渡すことを拒否していただろう。だが、目の前にいる千里の瞳の中には、一寸の揺らぎも影もなく、ただこちらを真摯に見つめているだけだった。だから、聖亜は
「……頼む」
 だから聖亜は、千里にゆっくりと、決して壊してはいけない、所々ひび割れた自分の宝物を押しやった。
「ありがとうございます……これはだいぶ侵食が進んでいますね。医療チームは後10分ほどで到着しますが……念のためここは呪を施しましょう……はっ!!」
「準!?」
 千里が準の体に素早く指を突きつけると、その体が一度大きく跳ねた。それを見て聖亜は立ち上がりかけたが、少女の顔に生気が戻ったのを確認すると、やがてよろよろと崩れ落ちた。
「これで医療チームが到着するまでなんとか保つでしょう。それより」
 そこでいったん言葉を切ると、千里は眼鏡をくいっと押し上げ、遠くで黒焦げの男に必死に応急処置を施している薄紫色の髪をした女を、鋭く見つめた。
「魔女達の夜所属、第一級魔器使にして最高査問官第七位、エリーゼ・ル・クアルドレア卿、ここは私達高天原の管轄地域です。第三位のスヴェン卿と共に、即時退去を勧告いたします」
 どこまでもこちらを見下している女のふざけた言い方に、エリーゼは薄紫の長髪をがしがしと乱暴に掻くと、勝ち目がないことはわかっているのだろう。やがてため息を吐いて立ち上がった。
「ま、見逃してくれるってならありがたいよ。こいつもヴァルプルギスの治癒院に連れてかにゃならんしね」
「そうですか。ではお気をつけて。ああ、それから最後に彼が使用した禁術、あれは私達が使用する神降ろしに類似しています。どうやらあなた方はずいぶんと猿真似が得意なようですね」
「……さてね」
 むかつく女のむかつく言葉に忌々しく舌打ちしながら、エリーゼは首から提げている笛を思い切り吹いた。すると音のない音色に導かれたのか、何もない空間にいきなり巨大な岩でできた腕が現れた。
「ったく、藪をつついて蛇でも竜でもなく雷神が出てくるなんて最悪だよ。行くよ、バジ」
 スヴェんを持ち上げ、開いた手のひらに飛び乗った彼女の声に応え、岩石でできた腕はゆっくりと浮き上がっていく。ある程度の高さまでくると、エリーゼは忌々しげに千里のほうを向いた。
「あんたに降りた神、タケミナカタだったか。この借りはいずれ返すよ、いずれね」
「そうですか、いつでもお待ちしています」
 自分の放った宣戦布告の言葉をさらりと受け流す千里に、これ以上の屈辱はないという風に顔を歪めると、エリーゼは右足で岩でできた手のひらを強く蹴り飛ばす。それに応え、彼らを乗せた岩石の腕は夜の闇の中にゆっくりと消えていった。


「……」
「さて、これで邪魔者はいなくなりましたね。では聖亜君、これからのあなたの行動について説明します」
 巨大な腕が消えていった夜の闇をぼんやりと見つめている聖亜に、千里はいつもと変わらぬ事務的な口調で話しかけた。
「……え? ごめん、聞いてなかった。なんだって?」
「まったく、まあいいでしょう。聖亜君、あなたには明日、いいえ、厳密には今日ですね。今日の朝一番の蒸気機関車で、早速林間学校が開催される出雲まで向かってもらいます。行事があるのは今から3日後、ここからだとどんなに急いでも出雲につくまで2日はかかります。旅の疲労を回復し、準備するのに1日ほど要すると考えると、やはり朝早くにこの町を出発しなければならないでしょう。分かりましたか?」
「要するに、今から帰って旅支度をしろってことだろ?」
「結構。では朝早く迎えにあがりますので、それまでに準備を整えておいてください。ああ、それから被害者の方々については私たちの方ですべて対処するのでご心配無く……ああ、来ましたね」
 淡々と説明する千里が、ふと顔を上げた。それに釣られて上を見る聖亜の耳に、ばたばたと何かが回転する音が聞こえてくる。彼が何だと考えるより早く、それは現れた。
「……あれは?」
「私達高天原が移動のため使用している高速輸送艦です。大型の気化石を4つ搭載しており、北海道から沖縄まで無補給で往復することができます。本来任務のためだけに使用が許されるのですが、今回はは緊急のため特例として医療チームを乗せて出雲から飛んできてもらいました」
「ちょっと待て、あれは出雲から来たと言ったな。なら俺もあれに乗っていけばすぐなんじゃないのか?」
「……もう一度言いましょうか? あれは高天原が使用する機体です。高天原に所属しているのではなく、ましてや楽をしようと考えている人間を、どうして乗せなければならないのですか?」
 聖亜の問いを千里が軽くいなしている間に、輸送機の後方が開き、中から白衣をまとった数人の男女が現れた。
「ああ、お疲れ様。それじゃ大事なお客さんを頼むよ」
「はっ!!」
 壁に寄りかかって目を瞑っていた雷牙の言葉に、先頭にいるリーダーの男がさっと胸に手を当て敬礼する。その間に千里から準を受け取った看護士が、もって来た担架に彼女をゆっくり寝かせた。
「……準」
 聖亜は担架の上に寝かせられた準に近づくと、その頬にそっと触れた。少女の顔は千里の術のおかげで生気が戻ったためかほんのりと温かく、彼には何事も無く眠っているようにしか見えない。だが、この間にも彼女は確実に人間ではなくなっていく。
「……必ず、必ず殺してやる、マモン」
「……聖亜」
 怒りと憎悪で唇を噛みすぎ、一筋の血を流す少年を見て、ヒスイはただ彼の名を呟くしかできなかった。それは彼の表情にどこか恐れを感じてしまったためと、その恐れを抱いてしまった自分を憎悪したため、そして何より、これほどまでに彼に想われている少女に対し、なぜか嫉妬してしまったためである。




 嫉妬する権利など、自分にはまったく無いというのに



「それはいい事だねえ。けど相手は格下でも爵持ち、なにより傷を負ったためか、もともと智謀に長けるのに慎重になってしまった。ま、会うのは当分先かな。ああ、それと朗報を一つ、君の使役している人形達、高天原だったら直せるかもしれないよ」
 聖亜の怒りの表情を満足そうに見つめると、雷牙は地面に寝かされている3体の人形、スヴェンの攻撃から身を呈して庇ったナイト、ポーン、ビショップにちらりと目をやった。
「それは……本当か?」
「ホントホント、呪術師の中には人形を使用する人や、式神を使う人もいるからね、それらを直す工房みたいなのがあるんだ。ま、少なくとも問答無用で殺そうとする誰かさんたちよりはよほどましだろう? さてと、これで話はお終い。契約も無事成立、それじゃ朝迎えに行くから、寝坊しないようにね。行くよ千里」
「はい。それでは聖亜君、一緒に仕事ができることを楽しみにしています。それから準さんのことはお任せください。私と雷の名に懸けて、必ず治療して見せます」
「……頼み、ます」
 そう呟き、深々と頭を下げる少年に微笑を浮かべて頷くと、千里は先に乗り込んだ雷牙を追って輸送機の中に入っていく。彼らを乗せた輸送機は、先程の巨大な腕同様、暗い夜空の向こうへと消えていった。

「……帰るか」
 輸送機が完全に消えたのを確認すると、聖亜はしゃがみ込んで地面に横たえられた3対の人形を大事そうに抱えあげた。驚くほど軽く、そして冷たい彼らの体をぎゅっと抱きしめると、ふと周囲を見渡した。だがそこにマモンに囚われていた人質の姿は無い。むろん、兄に歪んだ愛を抱いた少女の姿も。
「仕事が速いな……どうした? 帰るぞ」
「……え?」
 自分に向けられた声に、それまで俯いていたヒスイははっと顔を上げ、少年の顔をまじまじと見つめた。信じられなかった。自分は彼と死闘を繰り広げ、この状況を作り上げたスヴェンと同じ組織に所属しており、さらには彼の婚約者でもある。そして何より彼を戦いに巻き込んでしまった張本人だ。罵倒され殴られ、追い出されるのが普通だ。殺されても文句は言えない。なのに
「怒って、無いのか?」
「別に。準は死んでいないし、人質もみんな無事に救出した。ナイト達も治療の目途が立った。つまり犠牲はまったく出ていない。なのになぜ怒る必要がある? そんなことよりさっさと帰る支度をしてくれ……正直、一分でも早くこの場所を離れたいんだ」
「あ、ああ」
 いそいそと帰り支度を始めた少女を視界の端に僅かに捕らえ、聖亜は重苦しいため息を吐いた。そんな少年の隣に一つの影が舞い降りる。それは背中に黒い羽を生やした、美しい和服の少女であった。
「旦那様」
「……加世か」
 自分の愛する少年に名を呼ばれ、加世は嬉しそうに微笑んだが、やがてその顔を怒りで歪ませ、帰り支度をしているヒスイを睨み付けた。
「あの女、旦那様の大切な方を傷つけた男の仲間でありながら図々しくも旦那様の傍にいるなど、もしお許しくださるならば、今ここであの女を討ち果たし「やめろ」で、ですが旦那様!!」
「……おれはやめろといったはずだぞ、加世。すまないがしばらく一人にしておいてくれ」
「は、はい……その、失礼、いたします」
 聖亜のそっけない言葉に悲しげに俯くと、加世は背中にある黒羽をばさりと広げ宙に舞い上がった。そして聖亜の方を一度見つめると、そのまま夜空へと消えていった。
 少女の姿が見えなくなったのを確認すると、彼は厳しい顔つきのまま、闇に覆われた空を見上げた。
「……別に許したわけじゃない。憎んでいないわけでもない。けどもうどうしようもないんだ、怒っても、憎んでも」
 時はまるでこの雨のようだ。一度地に落ちた雨が天に帰ることが無いように、過ぎ去った時間が元に戻ることは無い。そのことを誰よりも理解して、それでもなお、時が戻ることを誰よりも渇望している少年は、やがて頭を軽く振り、ゆっくりと歩き始めた。


「……ったく、まだ着かないのか」
 ここ2日ほど降り続いた雨のせいでぬかるんだ地面の上を、一歩一歩踏みしめるように歩きながら、聖亜はちっと軽く舌打ちした。
「しかし、これほど歩いても町どころか人家一つ無いなんて、くそ、降りる駅を間違えたか?」
 先程湧き水のところで休憩を取ってからすでに2時間は経過している。陽も傾き始めており、このまま人家が見つからなければ今夜はおそらく野宿になるだろう。
「……ま、いいかそれでも」
 別に家の中だけで生活していたわけじゃないしな。心の中でそう呟いた瞬間、彼はふと歩みを止めた。先程から妙にだるい。風邪でもこじらせたかと頭に手をやっても、熱を出している様子は無い。
「……あれ?」
 気を取り直して再び歩き始めた聖亜は、だがちらりと周囲に眼をやった。どうも先程から何かの視線を感じる。しかし、相変わらず人影は見当たらない。それにこれは先程降りた駅で感じた、どこか優しげなものではなく、どこか警戒心を含んだ視線だ。
「何だってん……ぐっ!?」
 視線の主を探そうと一歩足を踏み出した少年の体が、急に沈んだ。
「ぐっ!? がっ!?」
 巨大な岩が伸し掛かったように靴が地面に埋まり、背骨がぎしぎしと鳴り響く。しかしそれでも彼の瞳から力は消えない。いや、むしろこういう展開を望んでいたかのように輝いており、口の端には笑みすら浮かんでいる。やがて、彼は沈み込んだ足を震わせながら持ち上げ、一歩一歩ずぶずぶと沈みながら先へと進んでいった。

 そのままの体勢で10歩ほども進んだだろうか、やってきたときと同様、彼に伸し掛かっていた重圧は一気に消え去った。
「ぐえっ!! はっ!! はぁっ、はあ、はあ」
 重さが突然消えた事と、いきなり自覚した疲労とで、聖亜は其の場に蹲ると荒い息を吐いた。流れてくる大量の汗のせいで目が霞み、吐き出した唾には少量の血が混じっている。
「ったく、一体なんだったんだ……あん?」
 重い頭を振りつつ上半身を起こした彼の視線の隅に、長い草の丈に隠れるようにたっている古い石像が見えた。おそらく数百年前に立てられたのだろう。それはもう姿形すらはっきりとは分からない。遠目には、単なる石にしか見えないだろう。
 少年が目を凝らして周囲を見渡すと、なるほど、そんな古い石像が木の陰や岩の陰などに幾つも置かれてあった。
「ったく、お前らの仕業か?」
 再び歩き始めて数分、今まで道の両端を覆っていた木々が突然無くなり、彼は真ん中に巨大な岩があるだけの広い草原に出た。おそらく石像達はこの草原を守っていたのだろう。彼の都市でエイジャと呼ばれる人外の化け物と戦った結果、聖亜は今まで御伽噺だと想っていた存在が実際にあるものだということを知った。ならばおそらく草や木、そして石や岩にも何らかの意思があるのだろう。
「……ま、深く考えることじゃない。とりあえず今日の寝床はここだな」
 どこか鳥が翼を広げたようにも見える岩の片隅に腰を下ろすと、聖亜は段々と赤く染まっていく空を見ながらふと何気ないしぐさで首の後ろに手を回した。だがそこに以前は当たり前のようにあった髪は無い。その代わり彼の手に触れたのは小さな桃色の髪飾りだ。その事実に寂しげに笑いながら、少年は太陽が向こうの山の彼方に消えていくのを、飽くことなく見続けていた。


「聖亜、その、一ついいか」
「……別にかまわないが、手短に頼む。いま少し忙しいんだ」
 大きなバックの中に下着を入れていた聖亜は、声をかけて来たヒスイにぶっきらぼうに応えた。
「す、すまない、その、大したことじゃ、無いんだ。ただ、お前にこれをもっていて欲しくて」
 雀が鳴くよりか細い声で、ヒスイは聖亜に右手を差し出した。しぶしぶ振り向いた少年の視界に、彼女の手の上にある桃色の物体が目に留まった。
「それ、確かお前がいつも身に着けていた」
「その、男に桃色の髪飾りなんて渡すのはどうかと思うけど、私は、その、私服以外ほとんど私物を持っていなくて、だから、あの」
 聖亜は俯く少女をじっと見詰めていたが、やがてふっと息を吐くと、彼女にゆっくりと向き直った。
「ありがとう。でもいいのか? 気に入っていたんだろ?」
「あ、ああ。だからやるんじゃない。貸すだけだ。いいか、だから、必ず戻って来い。その、準と一緒に」
「……それは、俺が帰るまでここにいるということか?」
「あ……いや、その、そんな図々しいまねをするつもりは無い。ただ連絡をくれれば、その」
「いや、いいよ」
 慌てふためく少女を見て、聖亜は数時間ぶりに微笑した。ヒスイは冷静ではあるが、少なくとも冷酷ではない。ましてや冷徹ですらない。雷牙やスヴェンなどよりは、よほど好感が持てた。
「そうだな。ならすまないが、俺が留守にしている間、この家の管理を頼む。家というのは誰も住む人がいないとすぐに廃れてしまうから……ああそうだ、もう一つ頼みたいことがあるんだが、言いか?」
「あ、ああ……もちろんだ。私にできることなら、何でも」
 と、力む少女を見てくくっと笑うと、彼は茶箪笥の中から一つの細長い筒を取り出した。彼が右手を軽く動かすと、筒の表面がかちりと言う音と共に動き、隙間から白い光が見えた。
「……聖亜?」
「別にたいしたことじゃない。ただ、俺がこれからすることを見ていて欲しい。ただそれだけだ」
 そう呟くと、聖亜は絶句している少女の前で鞘から抜いた短刀を首まで持っていき、


「あ」



 そして、自分の長い黒髪を、ばっさりと切り落とした。



「まあ、月並みではあるけど、気持ちを入れ替えるって事で」
 周囲に黒いまっすぐな髪がひらひらと零れ落ちていく。そのようすを首筋をなぜながら見つめていた聖亜は、右手に持っていた短刀をぱちんと鞘の中に戻した。
「あの、聖亜」
「そんな顔をするなってヒスイ。別に手足を切り落としたわけじゃないさ。ただ、ここ数年切っていなかったからな……やっぱりなんだか変な気分だな」
「……数年も? その、理由を聞いてもいいか?」
 肩に張り付いた髪の毛を振り払うと、聖亜は少女の問いに答えず、冷たい3体の人形をバックの中に詰め込んだ。
「あ、すまない。聞いてはいけないことだったのか?」
「……別にたいしたことじゃない。ただ、あいつが、準が俺は長髪のほうが似合うらしいから、つい、な」
「あ……その、す、すまない」
「気にすることは無いといったはずだ。大体準は死んでいない、何度も言わせるな」
 どこか怒ったような口調で返しながら、聖亜は最後に長い間使用していた筆をバックの中に入れた。
「これでよしと。じゃあ俺は2時間ほど眠るから、ヒスイももう休んでくれ」
「え? あ、ああ」
 ヒスイの答えを待つことなく、聖亜はさっさと敷きっぱなしの布団にもぐりこんだ。10秒とたたずに聞こえてくるすうすうと静かないびきにかるく微笑みながら、ヒスイはゆっくりと部屋を後にした。


「……強いな、聖亜は」
「……」
 縁側に腰掛け、ヒスイは小さくそう呟いた。彼女の傍らでは、キュウが雨が降り注ぐ暗い夜空を見上げていた。
「……しかし、厄介なことになったの。よりにもよって雷神の申し子だと? 高天原最大戦力の一つにして三雄の一柱、よもや規格外を出してくるとは……あの女、一体何を考えている」
「……キュウ、一つ尋ねたい。雷神の申し子と呼ばれる呪術師の能力は、私も資料を読んである程度は把握していた。けど怪物に変化したスヴェンを圧倒し、しかも月に届くほどの一撃を放つなど、奴は一体何者なんだ?」
「ふむ、まあよいか。別に話すのが禁じられているわけではないしの」
 少女の問いに、キュウはしばらく考え込んでいたが、やがてその紫電の瞳をゆっくりとヒスイに向けた。
「雷神の申し子、本名鈴原雷牙。年齢は21歳、日本有数の武神であるタケミカズチを祭る神社の神主の息子として生まれ、その身に幼いころから尋常ではない力を持っていたとされる……その力のあまりの強さに、最上層部が漢詩を決めたほどの、な」
「最上層部が監視を? まさか」
 黒猫の言葉にヒスイは軽く目を見張った。無理も無い。上層部が監視するのは爵持ち以上のエイジャだけだ。それこそ、王と呼ばれるクラスの。
「奴はおそらく能力の高いもの同士が何世代にもわたって結婚を繰り返してきた結果生まれた突然変異なのだろうよ。実際に奴の父親も優れた呪術師でな、現在は高天原の精鋭部隊の隊長を勤めている」
「……突然変異」
「別に驚くことではないだろう。我らも一般人から見れば突然変異に分類される」
 その言葉に頷きながら、ヒスイは聖亜の眠っている部屋をちらりと見た。確かに自分たちは一般人から遠くかけ離れている。だが聖亜は、彼は自分に普通に接してくれた。もっとも、彼の過去も普通ではなかったようだが。
「……ふふっ」
「何を笑っている。話を戻すぞ。先程言ったとおり、鈴原雷牙は幼少のころにはもう父親の力を越していた。が、それでもそのころはまだ規格内の実力だった。奴が規格外となり、雷神の申し子の異名、そして三雄となったのは数年前に起きたある事件のせいだ」
「……ある事件?」
「さよう。少し前までは極秘にされていたが、奴が正式に三雄になったとき、その理由として公開された情報なのだが……今から8年前、赤き竜王ヴィーヴルが眷族を率いて門のすぐ傍まで侵攻してきたことがあった」
「ヴィーヴル……まさか、獄界で12強に数えられる奴が? 冗談だろう、奴の爵位は大公だぞ。その眷属といったら、どれほどの数になるか」
「性格には25万と少しだったらしい……だが」
 キュウは信じられないといった顔をするヒスイに頷くと、微かにひげを振るわせた。
「だがそのヴィーヴルを25万強の眷属もろとも滅したのが、当時13歳になったばかりの奴であった。それからよ、奴が規格外と呼ばれるようになったのは、な。性格は軽いようだが、聖亜を言葉巧みに誘導して、逃げ場の無い袋小路に追い込むなど、どうやら軍師としての才能もあるようだ」
「……」
 聖亜、という名にヒスイはびくりと肩を震わせ、ちらりと部屋のほうを見た。
「……ヒスイよ、それほどまでにこの未熟者のことが気になるなら、自分の体を使って雁字搦めにしてしまえばよかったのだ。あの男は自分の身内、特に女子供にはひどく甘い。それをしなかったのは、小僧という覚悟が足りなかったというべきだろうよ」
「か、体でって……冗談にしてもひどいぞ、キュウ!!」
 顔を真っ赤に染めて睨んでくる少女にくくっと笑うと、夜空を見つめるのに飽きたのか、それとも単に眠くなったのか、キュウはゆっくりと立ち上がり、後ろの部屋の戸をあけた。
「お、おい」
「静かにせぬと小僧が起きるぞ。まtったく、これだから男を知らぬ小娘は困る。ま、自分のことを覚えておいてほしかったら、やつの胃袋でも握って見せるとよい」
「胃袋……そういうことか、ありがとう、キュウ」
 先程とは打って変わって嬉しそうな顔をして去っていくヒスイを見送ると、キュウは少年の眠っている布団の中にもぐりこみ、ゆっくりと丸くなった。
「……せいぜい励むがよい。まあ、我も人の事をとやかく言えぬがの」
 生まれてはじめて男の布団の中にもぐりこんだ彼女は、無意識に自分を抱きしめる聖亜の、その心臓の音を聞きながら、ゆっくりと眠りに着いた。

「……さま……てください、……さま」
「……んあ?」
 誰かが静かに、そして優しく肩を揺すってくる。その感覚で、聖亜はぼんやりと意識を浮上させた。
 何か変な夢を見ていた気がするが、ほとんど覚えていない。微かに覚えているのはどこまでも続く夜の帳と、笑う三日月、それだけだった。
「ん、加世か?」
「はい、おはようございます、旦那様」
「……ん、おはよう」
 布団から身を起こした聖亜に向かって、彼の横にいる黒羽の少女はゆっくりと頭を下げた。そんな彼女に頷くと、聖亜はいつの間にか抱きしめていたキュウを布団の中に寝かせ、大きく伸びをした。
「……まて加世、どうしてここにいる?」
「は、はい。その、出発なさる前に朝餉をと考えまして、先程参りました。その、勝手にお台所を使ってしまい、申し訳ありません」
「ん、まあ、いいよ」
 深々と頭を下げる少女を優しく撫でると、それだけで少女の顔に笑みが浮かぶ。それに微笑すると、聖亜は常に身に着けている古い腕時計に目をやった。朝6時15分、どうやら15分ほど寝過ごしてしまったが、始発は確か8時のはずだ。まだ時間にはだいぶ余裕がある。
「……そういえば、ヒスイを知らないか?」
「は、はい。あのおん、いえ、ヒスイ殿でしたら、私を招き入れた後、少し休むといって部屋の中に行ってしまいましたが、随分と疲れているご様子でした」
「そうか、まあいいさ。そういえば、朝食の用意をしてくれたんだったな、案内してもらえるだろうか」
「は、はい!! こちらにございます!!」
 嬉しそうな声に頭を掻きながら立ち上がり、彼女の後ろを歩く少年に向け、隣の部屋からおいしそうな匂いが立ち込めてくる。茶の間になっている部屋に入ると、白米に味噌汁、鮭の切り身や玉子焼きなどが置かれていた。
「さあ、お召し上がりください、旦那様、給仕をいたします」
「……そんなことはしなくていい。それより、一緒に朝食を食べてくれると嬉しいんだけどな」
「一緒に、ですか? ですが、そのような失礼をするわけには」
「こういうとき、断るほうが失礼だと思うけどな」
 縮こまる少女に苦笑すると、聖亜はその小さな手に茶碗を握らせた。加世がぼうっとこちらを見ている間に、自分はさっさと朝食に取り掛かる。
「その……だんな、さま」
「うるさい、反論は認めない。それから、俺は召使なんて欲しくないし、ちゃんと名前もある。これからは名前で呼ぶこと、いいな」
そう言い放つと、今度は玉子焼きを口に運ぶ。綺麗な黄色い玉子焼きは、ほんのりと甘かった。もう少し甘さを抑えたほうが好みだな、そう思いながら、今度は豆腐と油揚げの味噌汁に手を伸ばす。そんな彼の横で、加世もおずおずと茶碗に端を伸ばした。
 しばらく二人きりの静かな食事が続く。だが4分の3ほど食べたところで、少年はぱちりと箸を置いた。
「ごめん、さすがにもう食べられない」
「はい、私もです。申し訳ありませんだんな様、少し作りすぎました」
「だから名前で呼んでくれって……まあいいさ、ありがとう、美味かったよ」
「は、はい……」
「ん。さて、と……そろそろ出るか」
 こちらを熱烈に見つめてくる少女の視線に照れたように笑うと、聖亜は立ち上がって外を見た。いまだ雨が降り続いている外はどんよりと曇っている。そんな彼の様子にくすりと笑うと、加世はふと真顔になった。
「旦那様……いえ、聖亜様、一つお願いがございます」
「……お願い? 何だ?」
 真剣な表情でこちらを見つめる少女に、聖亜も座りなおすと彼女をじっと見つめ返した。
「どうか此度の長旅、私にお供させてください」
「……」
「重ねてお願い申し上げます。私は、加世は……聖亜様のお傍にいたいので「駄目だ」……そんなっ」
 絶句している少女の前で、少年は黙って首を横に振った。
 「なぜですか、私は決して邪魔にはなりません。足を引っ張るようなら捨てていかれても、殺していただいてもかまいません。あなた様のお傍にいたいのです。ずっと」
「加世、俺は駄目だといったはずだ」
「……あ」
 聖亜は涙をためている少女の目を、しっかりと見つめ返した。
「加世の気持ちは嬉しい。俺はこの都市の外に出たことが無いから、一人だと本当に不安なんだ。ついてきてくれたらどんなに嬉しいだろうか……けど、駄目だ」
「……なぜ、でございますか?」
「……あの2人は同行者について何も言わなかった。それは連れてきてもいいと取れるし、反対に駄目だとも取れる。もし連れて行ってはいけなかった場合、何らかのペナルティはあるだろう。なら不安要素は最初から排除しておきたいんだ。それに」
「……それ、に」
少女の髪を撫ぜ、ゆっくりと頬に触れる。うっとりとしながら手に僅かに触れてくる加世を見て、聖亜はふと愛しいと思った。
「それにもしこの都市に再びエイジャが出現した場合、一番頼りになるのは加世、お前たちなんだ。魔器使とは昨夜戦ったばかり出し、高天原とかいう連中も心から信用することはできない。だから加世、もしエイジャが着たら知らせて欲しい。どんなところにいても、必ず駆けつける」
「……そんなことを言われてしまったら、ここにいるしかないではありませんか、聖亜様」
「……すまんな」
 目を伏せる少女から手を離すと、聖亜は玄関に向けて歩き出した。見送りのためだろうか、少年の後ろに加世がついてくる。玄関に着くと、聖亜は夜のうちにまとめていたバックを担ぎ、彼女に向き直った。
「じゃあ加世、行ってくる」
「はい、お帰りをお待ちしています、聖……いえ、旦那様」
「うん。はは、また旦那様に戻っているぞ、加世」
「いえ、いいのです。あなたはやはり私が心から使えたいと思う、たった一人の方なのですから」
「そうか、ならいいさ。ならこの旅から帰ったら、祝言だな」
「しゅ、祝言ですか!? え、あの、旦那様? え?」
 外に出て、戸を閉めた少年の背後から大きな音が聞こえる。それに苦笑しながら聖亜は門に向かって歩き出し、



 そして、その歩みを僅か数歩で止めた。



「……」
「……小松、か。どうした、見送りか?」
 聖亜は門の前にいる少女をじっと見つめた。僅かに苛立ちをこめたその視線を受けても、その少女ー小松は怯むどころか逆にこちらを見つめ返してくる。そのまま数秒ほど見詰め合っただろうか、やがて少年がすっと視線をそらした。
「……ふ、駆ったぞ」
「おい、何の勝負もしていないだろうが」
 ふふんと勝ち誇ったように笑う小松に苦笑しながら、聖亜は門に向かってまた一歩踏み出し、
「お前、行く覚悟はあるのか」
「……」
 踏み出し、損ねた。


「……どういうこと、だ。覚悟なんて、とっくの昔に」
「ああ、できているだろうな。好きな女の命と引き換えに自分の身を粉にして働く覚悟はな。だが」
 そして、小松は今まで見せたことの無い笑みを、少年に向けた。
「だが、したくも無いことを強要される事に対する覚悟は無いだろう。無抵抗な相手を殺す覚悟も、たとえそれが女子供でも殺さなければならない覚悟も、お前には無い」
「っ!!」
ガンッ
 その時、少年は少女の首を、ぎりぎりと締め上げていた。
「……あは、あはははっ、やっぱりだ。お前には女子供を殺す度胸なんて無いじゃないか。なのに何が覚悟はある、だ」
「お、お前に、お前に一体何が分か「分かるさ」っ」
 叫ぼうとしていた少年の声が、少女の小さな声にかき消された。
「分かる、さ。忘れたのか? 私は刀だぞ。ヒスイ様が主となるときに鍛えなおされたが、その前もやっぱり小太刀だったんだ。それも、無抵抗な女子供を拷問する道具としての、な」
「う……」
 少女の言葉に、自分を見つめてくる少女の瞳に、聖亜は彼女を掴んでいた手を、ゆっくりと降ろした。
「がはっ、ごほっ!! ふん、やっぱりお前は甘ちゃんだよ。道具となる覚悟もない。女子供を殺す覚悟もな「……ある」あ?」
 せき込みながらこちらを見上げてくる少女に、聖亜はふっと微笑した。
「あるさ。悪党になる覚悟ぐらい。俺は準を助けるためなら、たとえ千人殺しても、自分の臓物を引きずり出してもかまわない。それぐらいの覚悟ぐらい、とっくにある」
「……ははっ。分かった、なら何も言わない。せいぜい他人の血に塗れて錆付け」
「……言われなくとも」
「ふん……まて、忘れ物だ」
 しゃがんでいる少女の傍を通り過ぎ、門から外に出ようとした少年の後頭部に、ガンッと大きな音を立てて何かが当たった。
「痛っ、今度は何だってんだ? 風呂敷包み?」
「お前がスヴェンと戦ったときに壊した木刀と、それからその他細々とした物だ……中に入っている生物は、一応早めに処理しろ」
「あ、ああ……それじゃ、行ってくる」
「ふん、早く挫折して帰って来い……膝枕ぐらい、してやる」
「ん、まあその時は準と一緒に頼む」
 そう呟き、最後に右手に持った風呂敷包みを掲げて門を閉じた少年の後姿を、小松はいつまでも見送っていた。




「ふんふっふふ~ん」
「……嬉しそうですね、神楽様」
「あら玄ちゃん、分かる?」
 九時が入れた最高級の紅茶を味わいながらにこにこと笑う神楽を見つめ、“試験”の準備が整ったことを報告に来た黒沼玄は厳しい顔を微かに下に向けた。
「……気に入られた少年が来るから、ですか?」
「そうよう、さすがは雷ちゃん!! 何もいわずに自分の仕事をきっちりこなす。それがプロというものねえ」
「……ただ強いだけでは三雄は名乗れませんよ。物事の全てを客観的に捉え、常に絶対的な勝利を味方にもたらす“軍神”でなければ」
「そうそう。ああ楽しみだわ。あ、そうだわ。どうせなら一緒に住んじゃおうかしら、ほら、やっぱりまだ若いもの。あっちの世話もして見たいじゃない」
「……立志院は全寮制です。過度な特別扱いは彼を孤立させるだけだと思いますが」
「む~、けちねえ」
「けちで結構。それより此度の試験について2つほど報告が」
「あら? 報告書を読むだけでは駄目なのかしら?」
「ええ。残念ながら。といっても一つはたいしたことはございません。小物が入り込んでいるだけのようです。ただこやつ、予知者が言うには少々厄介な存在になるのではないかと」
「あはは、面白いじゃない。いいわ、それも試験ということにしましょう。それで、もう一つは? もしこっちもたいしたことがないようなら……」
 その瞬間、部屋の中の温度が一瞬に零度以下まで下がった。
「……は、先日、東北からの“贈り物”が届きました」
「あらまあ、“あの子”やっと来たの」
 常人なら気絶したほうがマシな空間の中、玄は眉をぴ栗とも動かすことなく耐えている。と、部屋の中の気温が元に戻った。どうやらこちらの報告はおきに召したらしい。
「はい。予定通り“試験”の方に名前を入れておきます。あの……それから最後にもう一つ」
「あら? なあに?」
「は、それが……お、お館様のことなのですが」
「あら、私の旦那様がどうしたのかしら」
「は……それが、その、自ら、部屋より出られたようで」
「……あらまあ、それはびっくりねえ」
 さして驚いてはいない顔で、それでも神楽は片方の眉をぴくりと震わせた。




 その日も、少年はその場所に向かっていた。


 最近はここに来る回数が増えている気がする。しょうがない。陰険で権力に取り付かれた父と、その父そっくりな兄。そろそろ高校に進学するというのに何かあるとすぐ暴力に訴える弟の間で、彼は心底疲れきっていた。
 そんな時、彼はいつもここに来る。ここにいれば一人になれるからだ。数年前に見つけた、彼一人の憩いの場所、なのに

「……誰なんだろう、この女、いや……男の子、だよね」
自分の一番のお気に入りの場所で図々しくも眠っている少年を見て、それでもなぜか彼は疲労を感じることは無かった。




 夢を、見ていた。


 その夢の中で、自分は群青色の空の下にある、黄金の草原の中に立っていた。一人ではない。前方に誰かいる。前を向いている、自分と同じぐらいの少年と、そしてその少年の傍らにまるで母親のように寄り添う巨大な鳥だ。

 不意に、空にぽつぽつと小さな黒い染みが浮かんできた。その染みは次第に膨れ上がり、やがて空全体を覆うまでに広がった。

 そして、その染みが少年に向けずるずると這い出してきたとき、



 彼の隣にいた鳥が、その翼を誇り高く広げ、鳴いた。








ぺち、ぺちぺちっ
「……う?」
 聖亜は頭を誰かが軽く叩く感覚で意識を浮上させた。どうも最近誰かに起こされる事が多い。小松に偉そうなことを言ったくせに覚悟が足りないな。そう思って起き上がりかけ、彼はその動きをぴたりと止めた。


 誰が、自分の頭を叩いている?


「くそっ」
「え? うわっ」
 顔に触れてくる手を握り、そのまま相手の体に伸し掛かる。そして開いているほうの手で殴り返そうとして、聖亜と少年の視線が合った。
「……お前」
「けほ、ひどいなあもう、人がせっかく起こそうとしてあげたのにさ」
聖亜の下にいるのは、自分の同じ年頃の少年だった。髪の色は同じ黒、中性的な、だが自分よりももう少し女性的な印象がする顔つき、そして、自分を見上げてくる瞳は、頭上にある空と同じ色だった。
「あ、ああ。それは悪かった」
「ん、いいよ。僕のほうこそ叩いちゃってごめんね。けど君、どうしてこんなところにいるんだい? 一応ここは私有地だよ」
「ああ、すまない。実は道に迷ってしまって。出雲市街に行くつもりが、昨日は半日ほど山道を歩き回っちまった」
「半日だって? ああ、分かった。君旧出雲駅で降りたでしょう。あっちは昔使っていた駅だよ。たまに林業の人が降りるから廃止してはいないけど、車掌さんに変な顔されなかった?」
「……そういやされたような」
 草原に座り、腕を組んだ聖亜を見て、その少年はふふっと微笑した。
「まあ、街に行くならこの草原を西に行けばすぐだよ」
「ああ、ありがとう。えっと」
「え? ああ、自己紹介だね。ごめんね、僕こういうの慣れていなくて」
 もう一度ふふっと笑うと、彼は聖亜に左手を差し出してきた。
「僕は理宇って言うんだ。君は?」
「聖亜、星聖亜っていうんだ。いろいろとありがとうな」
「ううん、いいよ。けどお礼がしたいって言うなら、一つお願いしてもいいかな」
 もじもじと顔を赤く染めて恥ずかしそうに俯く理宇に、聖亜は戸惑いつつ頷いた。
「あ、ああ。何だ?」
「あ、ありがとう。たいしたことじゃないんだよ。ただ時々ここに来て話し相手になってくれると嬉しいなって」
「そんなことぐらい構わないって。じゃ、時間も時間だし俺はもう行くな。世話になったな、理宇」
 そう言って歩き出した聖亜を、理宇は手を振って見送っていたが、不意にその表情から笑みが消えた。
「……青柳、いるかい?」
「……はい。ここに」
 少年の呼びかけに応え、何もない空間から一人の女性が現れた。青みがかった黒髪を持つ、理知的な長身の女性である。年のころは20代後半だろうか。
「確かここは結界を張っていたよね、一番強力なのをさ」
「はい。間違いなく。この場所に来ようとしても、ほかの場所に着く、最強の人払いの呪が施されております」
「だよねえ、だとすると彼は一体誰なんだろう。その強力な結界を破り、あまつさえ神奈備であるこの地に来れる人間……おそらく今回の行事の参加者なのだろうけど……ふふ、楽しくなってきたなあ」
「ええ。ですが今回は、その、お館様が出てこられるようで」
「へ? お祖父様が?」
 青柳の言葉に、理宇―黒塚理宇は、自分の祖母と同じように、眉を少し上げて驚いた。


 時は、少し遡る。


 彼は薄暗い部屋の中央に正座し、静かに瞑想をしていた。その細い両手足には、幾重にも鉄の鎖が巻かれ、その先には巨大な鉄球が付けられている。

 年ははっきりとは分からない。しなやかな細身の肉体を持つ20代のようにも見えるし、かと思えば乾いた白髪が垂れ下がる80を越した老人にも見える。
 そんな彼が今いる場所は、確かに豪華な調度品に囲まれているが、その四方は鉄でできた格子で覆われている、いわゆる座敷牢であった。

 その牢獄の中、飽きもせず瞑想を繰り返していた男のその目が、ふと開いた。

「…………朱華」
 彼の低い声が、さして広くないその牢屋の中に響いた。
「……は、どうかなされましたでしょうか、お館様」
 暗黒の中から聞こえる、男とも女とも分からぬ声に、彼は傍らにある徳利に口を付け、ごくごくと飲み干した。
「ふうっ……今年の試験は終わったか?」
「は。スカウト組は午前中に全て。志願組も午後から始まりますが」
「ふん、それで? 何か収穫はあったか?」
「……いえ、いつもどおりでございます」
 外から聞こえてくるか細い声にちっと舌打ちすると、男はゆらりと立ち上がった。
「……分かった。午後からの試験は、俺が試そう」
「お、お館さま、それはここから出られるということですか?」
「……」
 外であわてる気配を感じ取ると、男はくくっと僅かながらに苦笑した。
「お、お待ちくださいお館様、いま出られ「出せ」……ひっ」
 己の冷徹な声に、やがて外からガチャガチャと言う音と、ぎいっと扉が開く音が聞こえた。
「……お、お待たせいたしました旦那様。ですが、そのお体で長時間外に居られるのは」
「分かっている。俺の体はそれほど長い時間日光の光を浴びることはできないからな……朱華、準備を頼む」
「はっ!! すぐさま着替えをお持ちいたします。お館様……いえ、奈妓様」
 男ー奈妓が外に出ると、それまでそこにいた気配がすうっと薄れていく。それを見送るように軽く笑うと、彼は其処においてある徳利を掴み、がぶりと煽った。
「……ふん、どうしたんだろうな、今年はやけに気が高まってやがる。久々に外に出たせいか?」
 空になった2本目の徳利を放り投げると、黒塚奈妓は思い鉄球のついた鎖をジャラジャラと鳴らし、ふらつく足取りで日光の中へと歩いていった。





 草原の中で理宇と名乗る少年に教えられた道を通り、聖亜が出雲市外に着いたとき、時刻はすでに12時を回っていた。
「ここが出雲か……なるほど、たしかに発展してそうだな。それにしてもちょっと腹が空いてきたな」
 食事ができる場所を探しながら、聖亜は街中をぼんやりと見物してみた。雷牙は日本の裏首都などといっていたが、そう呼ぶにはこの場所は少し寂れている気がする。
 商店街の間を通り、角にあった定職屋に入る。中は結構客がいたが、何とか空いている席に座ることができた。
「おう、らっしゃい。なんだか随分と汗だくじゃねえか。ほら、水でも飲みな」
「ん? ああ。ありがとう」
 定食屋を切り盛りしているらしい40代ほどの親父が水を出してくる。礼を言って受け取ると、聖亜はそれを一気に飲み干した。
「おう、いい呑みっぷりじゃねえか。それで? なんにする?」
「えっと……じゃあきつねうどんを一つ」
「あいよ、きつねうどん一丁」
 親父が料理をしている間、聖亜は雷牙に渡された書類を取り出して呼んでみた。立志院林間学校とでかでかと書かれたその書類には、日時が書かれている。それによればもう午前中から行事は始まっているが、どうやら午後からの参加でもいいらしい。
「そういやお前さん、この辺じゃ見ない顔じゃねえか」
「……分かるのか?」
 出されたきつねうどんをすすっている聖亜の前に、ちょうど暇になったのか店主が話しかけてきた。
「おう。これでも俺ぁここで20年以上店をやっていてな、客がどういう奴かは大体検討がつく。それで俺の見る所……お前さん、堅気じゃねえな」
「……」
 声を潜めて話す店主を見つめながら、少年はもう一度うどんをすすった。
「で? お前さん、どうしてこの街に来た?」
「……どうやらあんたは、かなりの詮索好きみたいだな」
「ま、見てのとおり田舎なんでな。楽しみといえばそれぐらいしかないのよ。後はまあ、立志院で行われ……おっと、言い過ぎた」
「……なあ、立志院の場所を知らないか? 俺はそこに用があってきたんだが」
「……ほう」
 少年の問いに、不意に店主の目が細まった。値踏みするように聖亜をみるが、やがてうんと一つ頷く。
「ま、いいだろう。立志院はここの通りをまっすぐ進んだところだ。ただし気をつけな、あそこの連中はかなり血の気が強いぜ」

「そうか、ありがとう……お勘定」
 うどんの代金を払い、聖亜は店の中をゆっくりと歩いて外へ出た。と、外へ出る間際、視線の先に古い一枚の写真が張っているのが見えた。高校の制服を着た男子生徒が3人、腕を組んでピースをしている。
「……」
 そのどこにでもある写真を僅かな時間見つめると、彼は今度こそ店の外へと出て行った。


 店から出た後は簡単だった。店主の言うとおり、道をまっすぐ歩いていくと、程なく巨大な時計塔が見えた。さらに数分歩くと、グラウンドに数百人もの気配がするのが分かった。
「……あれが全部林間学校に参加する奴らなのか。暇なんだな」
 そう呟くと、彼は校門の前にある受付に近づいた。向かってくる自分に気づいたのか、座っている係の女性がこちらを見るのが分かった。
「あら、随分とゆっくりなのね。後10分で受付が終わっていたところよ」
「すまない。ここに来る前に山の中を少し散歩していたんだ」
「そう、それじゃここに名前書いて、それから入学試験用の受験票を出して」
「……は?」
受験票という言葉に、彼にしては珍しく、ぽかんとした顔をした。
「あの、すまない。林間学校に受験票なんているのか?」
「林間学校? なに言ってるの、今日は林間学校なんてしてないわよ。ほら」
「……」
 絶句する少年の前で、受付の係を務める女性はその太い指を横に向けた。
「今日は正真正銘、私立立志院高等学校の、特別入学試験よ」
 その言葉を肯定するかのように、校門の横には縦に置かれたプレートに、でかでかとこう書かれていた。



『2015年 私立立志院高等学校  入学試験会場』


 と。




 どうやら聖亜の行く先は、前途多難なようである。



                                     

                                   続く



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第二幕  姫二人~遠野の姫~
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:6f3c8842
Date: 2011/12/25 05:57
  

 東北の


 山々に囲まれた奥地には


 遠野と呼ばれる里がある



 人里まばらなこの里から



 さらに山越え谷超えて



 鹿すら迷う森の奥



 ぽつんと古びた屋敷が見える



 そしてこの



 古びた屋敷の主人こそ





 座敷童子であるという









 少年は、自分に向かってくる衝撃を蹲って耐えていた。

 腕の中で暗闇を見つめる彼の目には何も映っていない。いや、かすかに悲しげな表情が見え隠れしているが、ほとんど虚ろな状態だ。

 ドゴッと、再び上から衝撃が走る。少年はそれから逃げようとするかのようにピクリと指を動かしかけたが、やがて小さく息を吐いてやめた。
 どうせいつもと同じだ。こうやって耐えていればいずれ終わるだろう。

 

 その瞳にある悲しみは、やがて諦めへと変わっていった。









「……さすがにこの展開は予想していなかったな」
 聖亜は校舎裏に座り込み、呆れたようにため息を吐いた。

 あの後、校門での騒ぎを聞きつけたのか、受付の女性の上司であろう太った男が2人のところにやってきた。そして聖亜はその男から、今日行われるのは正真正銘立志院高等学校の特別入学試験であり、断じて林間学校ではないことを教えられた。

(……結局手駒にするつもりか……ならここでやるか?)


 そう考えると同時に、右手をぎゅっと握り締める。確かに長旅と野宿で多少疲れてはいるが、ただの人間相手に遅れをとるつもりはない。この2人だけなら一瞬で、校庭にいる数百の人間も、数時間で決着がつくだろう。


     

             だが




(……)


 殺気を放つ寸前、聖亜は握り締めた右手をゆっくりと開いた。確かに彼らを殺すのは簡単だ。それに自分の目的のためならたとえ女子供でも、立ちふさがる者には容赦しないと小松に誓った。

 だが己の目的とは、あくまでも準を救う事である。殺戮は手段であって目的ではない。

「……目的と手段を履き違えるな、か」
「おや、何かおっしゃいましたか?」
「いや、なんでもない。それよりここで行われるのは本当に林間学校じゃないのか?
「ええ、本当ですよ。ったく、この忙しい時に……いったい誰から林間学校なんてデマを吹き込まれたんですか?」
「……これを見ればわかる」
「あん? なんだこのこぎたねえ封筒。中身は……は?」
 こちらを見下しながら、封筒をびりびりと乱暴に破り、中の白い紙を見た男の動きが、ぴたりと止まった。そしてその体がぶるぶると震えたかとおもうと、彼はいきなり地面にその太った体を投げ出した。
「おおお、お許しくださいませ!! まま、まさか彼の“軍神”鈴原雷牙様じきじきのご推薦の方とは!! 平に、平にご容赦を!!」
「……別に怒ってない。それより入っていいのか、あと少しで受付も終わるんだろ?」
「は、はい。ですがその、午後からの試験は“スカウト枠”ではなく“志願枠”の試験でして。その、内容もスカウトのほうより数倍難しく……」
「……そのスカウトってのがどれぐらいの難易度かわからないから、比較自体できないんだが……まあいい、とにかく志願のやつでいいから通らせてもらうぞ。正直少し休みたい」
「わ、わかりました。休憩所は校庭の隅になりますので」
 ぺこぺことお辞儀をする男と、ぽかんとした顔で成り行きを見つめる女を後にして、聖亜は校庭へと入っていった。



「……のは良かったんだがな」
 もう一度息を吐くと、聖亜は煩わしげにどんよりと曇ってきた空を仰ぎ見た。校庭で休憩するはずだった彼がなぜこんなところにいるかというと、何のことはない。ただ周囲の視線が鬱陶しかっただけである。
 そう、校庭に入った彼を待っていたのは、校門での騒ぎを見ていたのだろう、軽く百を越す人間からの、あまり好意的ではない視線だった。いや、言い方を変えれば、それは悪意そのものといってもいいだろう。憎悪、殺意といった感情が、聖亜にビシビシと突き刺さってくる。だが聖亜はその視線を軽く受け流した。むしろ彼の最低な街で暮らした彼にとっては、一般人が放つ殺意など、そよ風にもなりはしない。
 ならばなぜ彼は逃げるようにこんなところにいるのか。答えは簡単である。向けられる視線の中に、殺意でも憎悪でもなく、もっと別の感情がこめられていたからだ。彼が気持ち悪いと思うほど強烈なその感情の名は、



 “妬み”であった。


 彼の灰色に覆われた街で、彼にその感情を向けてきたものはいなかった。確かに最低で最悪な街では会ったが、みな生きるのに精一杯であり、他人に目を向けることなどなかったし、聖亜ほどの人物になると、妬みより先に恐怖され畏怖される。旧市街では羨ましいと言われることはあったが、それは友人同士の会話であり、このように話してもいない連中から向けられるものでは決してなかった。
 
 ただの憎悪なら受け流し、殺意ならば笑って殺す。それが出来る聖亜は、だがわけがわからない感情に恐怖を感じ、そして逃げ出したのだ。


「……しかし、雷牙の糞野郎……何が林間学校だ」
 
 バキッ!! ドカッ!!

「…………あの野郎、絶対わざとだろ」

 ドゴッ!! ゲシッ!!

「………………今度あったら、絶対一発殴ってや「っち、手が疲れちまった。おい誰か石もってこい石、こいつの顔を蛙みたいにつぶしてや」ああもう、さっきからうっせえなおい!!」
 強く舌打ちして立ち上がると、聖亜は死角になっているところで騒いでいる数人の男の一人に近づき、後ろから思いっきり殴り飛ばした。
「ふげっ!?」
 殴られた衝撃で、男は振り下ろそうとしていた人の頭ほどもある大きな石を落とした。下―つまり自分の頭に向けて。
「葛谷!? 手前、なにしやがぁ!!」
「くそ、何なんだよこいつ!! うげっ!?」
異変に気づいて振り返った2人をまとめて蹴り飛ばし、ようやく事態に気づいて向かってきた男の腹部に膝蹴りを放つ。向かってくる拳をひょいと頭を傾けることで軽く避け、逆に相手の手首をつかんで投げ飛ばした。
「な、何なんだよこいうがっ!!」
 最後に逃げようとした男の髪の毛を掴むと、その顔を壁に思いっきりぶち当てた。
 壁に血と折れた歯を残してずるずると崩れ落ちた男を眺める聖亜の耳に、ふとぱちぱちと言う音が聞こえてきた。
「……」
「やあ、見事だね」
「……あんたがこいつらの頭か。けどどういうつもりだ? 仲間がやられて拍手するなんて」
 拍手をしたのは、壁に寄りかかっている優男だった。自分よりずいぶんと背が高い。それに年齢も自分より5歳ほどは年上だろう。男は聖亜の問いにぽかんとした顔をしたが、やがて可笑しそうに笑い出した。
「はは!! なにを言ってるんだい? ここに僕の仲間なんていないじゃないか。ここにいるのは君と僕と、そして地面に無様に転がっている芋虫達だけさ。ああ、それとひき蛙が一匹いたっけ」
「……そうか、わかった」
「おや、随分と物分りがいいね。どうだろう、ここであったのも何かの縁、僕達手を組まな「わかった。生かしておく必要はない」ぶべらっ!!!?」
 
ドゴッ!!  バギッ!! メキョッ!!

自慢げに話している男の足を払い、腹部に肘鉄を当てると、聖亜は彼のその優雅な顔を右足で思いっきり踏んづけた。
「ぐ、ぐぅ……離しやがれ糞野郎!!」
「へえ、それがあんたの本性か。いいねえ、最初からそうしてれば良かったんだ。ま、運が無かったな……死ね」
 右足をゆっくりと持ち上げる。これを思いっきり振り下ろせば、男の頭蓋骨ぐらい簡単に粉砕できるだろう。だが、
「っ!!」

 ビュッ!!

 次の瞬間、聖亜は横に思いっきり飛びのいた。同時に彼の頬を掠めて跳んでいった何かがガツンと音を立てて壁に“突き刺さった”。
「……マジかよ」
「なにをしている、お前達!!」
 壁に突き刺さった木刀を唖然と見ている聖亜だったが、後ろから聞こえてきた女の声に面倒くさそうに振り向いた。

 そこにいたのは、長い黒髪を後ろで結んだ少女だった。年は自分より1,2歳年上だろう。美少女と言ってもいい姿だが、その黒い瞳の中に移っているのは強い怒りであった。
「まったく、騒ぎがあると言う知らせに駆けつけてみれば、また貴様が原因か、森谷」
「あ、ち、違うんだあお「……私を名前で呼ぶなと言ったはずだな」ひっ!! いえ、そ、総長。僕達なにもしていないのに、この男がいきなり殴りかかってきふがっ」
「黙れ。貴様のように性根の腐った男が何もしないわけが無いだろう……まあいい。実際に貴様はこうして倒れているわけだし、やられたのは事実なのだろう。それで」
 豚のように喋る守屋の口を踏みつけ、少女はこちらに鋭い視線を向けた。
「これをやったのは、本当にお前か?」
「……ああ。そうだけど?」
「ふん、随分あっさりと認めたな。なら次の質問だ。一体なぜこんなことをした?」

(なぜ、か)

 少女の問いに、聖亜は視界の隅で蹲っている森谷がひき蛙と言った物体―いや、一人の人間に目を向けた。だが結局黙って首を横に振ると、ふんっと不貞腐れたようにそっぽを向いた。
「……まったく、どうせ貴様も黒塚の名欲しさに集まった受験生の一人なのだろう。最近は本当にろくなやつがいないな。森谷といい、貴様といい。まあいい。とにかく騒がないように。それからそろそろ校庭に戻れ。試験の説明がある」
 聖亜の態度に呆れたように首を振ると、少女は壁に突き刺さった木刀を右手で軽く引き抜き、校庭のほうへ戻っていく。それを見送る聖亜の横でよろよろと立ち上がると、森谷はこちらに血走った眼を向け、同じように校庭へと走っていった。
「……結局仲間を見捨てて自分だけ逃げるか」
 彼らが去った方向を見て、聖亜は軽く頭を振った。森谷は論外にしても、あの少女も少し苦手だった。真面目すぎて融通が効かない、彼女のようなタイプはどうも苦手なのだ。
「……ね、ねえ」
「……あ? ああ、すまない。どうした?」
 と、彼の耳にか細い声が聞こえてきた。ここにいるのは自分以外気を失っている連中と、そしてあと一人しかいない。声のしたほうを見ると、予想通り今まで暴行を受けていた、小柄な少年とばっちり目が合った。
 彼の外見ははっきりいって醜い。小太りな体の上に、なるほど、まるでひき蛙が潰れたような顔が乗っかっている。だが彼の姿を見て、聖亜はふと首をかしげた。なぜかその姿に、軽く違和感を感じたからだ。
「どうしたって……君、どうしてあんなことしたのさ。別に助けてなんて頼んだわけじゃないのに」
「……別にお前を助けるためにあいつらをぶちのめしたわけじゃないさ。ちょっとむかつくことがあってな。正直憂さ晴らしできるなら、相手は誰でも良かったんだ」
「誰でもって……君、結構暴力的だよね。嫌いだよ、そういう人」
 俯いて下を見ている少年に、聖亜は再び、今度ははっきりとした違和感を感じた。彼の姿は確かに歪(いびつ)ではあるが、その口調は何も知らない少女のようだ。
「とにかく、お礼なんていわないからね」
 何か考え込んでいる聖亜の前で、少年はふるふると立ち上がり、校庭に向け歩き出す。だがその足取りはおぼつかない。今まで受けていた暴行を考えれば当然だろう。聖亜は考えるのをやめ、少年のその姿をじっと見つめていたが、やがて首を振りつつその体を抱きかかえた。

「ちょっ!? 何するのさ、離してよ!!」
「別に、単なる気まぐれだ。気にするな」
「気にするよ!!」
 じたばたと動く彼の体を抱えながら、聖亜は校庭に向かって歩き始めた。はっきりいって彼の体は軽い。まるでふわふわした綿を抱えているような感じだ。
 と、あきらめたのだろう、腕の中で暴れていた少年の動きがやんだ。聖亜がちらりと下を向くと、そっぽを向いている少年の顔があった。
「……どうして僕なんかにかまうのさ。はっきりいって、僕ってすごく醜いでしょう?」
「……それはもしかして外見のことを気にしているのか? くだらない。俺が一昔前にいたところなんて、外見を気にするやつはほとんどいなかったぞ」
 まあ、財布の中身を気にするやつは大勢いたけどな。そう声に出さずにつぶやく聖亜を、少年はじっと見上げた。
「……君、おせっかいって言われたことない?」
「……残念ながら、冷酷とか残忍とか狂人とか言われたことはあるけど、おせっかいと言われたことはないな」
「……そう」
 狂人と言う言葉に少年は少しの間視線をさまよわせていたが、やがて何かを決意したのか、ゆっくりと口を開いた。
「……僕、遠野ゆ……百合夫。君は?」
「星聖亜。聖亜でいい……っと、着いたな」
 聖亜が少年―百合夫を抱えて校庭に入ると、彼らの姿を見た他の受験生がざざっと道を開けた。無理もない。聖亜は百合夫をいわゆるお姫様抱っこで抱えている。正直言って関わり合いになりたくないのが当たり前だ。
 彼らの視線に気づいたのか、百合夫がくいっと裾を引いてくる。降ろせという意思表示だろう。頷いて彼を降ろすと、百合夫は一度こちらをじっと見て、そのまま人混みの中へ走っていった。
「……それで、何のようだ」
「……おや? 気づいていたんですか。さすがですね」
「あれだけ殺気を放たれていれば、馬鹿でも分かる」
 少年の後姿が見えなくなるまで見送っていた聖亜は、自分の後ろにいる男をちらりと見た。
「いえね、あんな出会い方だったので、お互いに誤解を解いておこうと思いまして。ああ、申し遅れました。僕は森谷といいます」
「……星聖亜」
 はたして彼の後ろにいたのは、先ほど聖亜が這い蹲らせたあの男だった。吐き気がするほど嫌いなタイプであるが、名乗られた以上、こちらも名乗らなければならない。
「星聖亜君ですか。僕は京都から来たんですが、あなたはどこの出身で?」
「……高知だ。けど何故そんなことを聞く?」
「いえね、僕は京都でも少しは名の知れた神社の生まれなのですが……鞄の中に強力な式を3体も持っているあなたは、高知のどの寺社の出身なのかと思いまして」
 男の言葉に、聖亜は軽く目を細めた。どうやら目の前の男は多少出来るらしい。自分が背負っている鞄の中には、確かにナイト達がいる。だが彼らは活動を停止しており、ただの人形にしか見えないはずだ。
「……どうやら式使いのようですね。僕も少しは式を扱うのですが……それは家に伝わるものなのですか?」
「……拾い物だ。それに俺は単なる一般人だ。寺や神社なんかとは何の関係も無い」
「……そうですか。ま、志願枠じゃそうですよね。僕は3年前からスカウト枠で受験しているのですが、今年は志願枠で受験してみようと思いまして」
「……」


 それはお前に実力が無いだけじゃないのか?


 聖亜はそう言いたかったが、結局黙って頭を振った。
「それでどうでしょう。あなたはどうやら今回が初めての受験のようですし、もしよろしければ協力しませんか?」
「……悪いが豚と一緒に臭い残飯をあさる趣味は無い」
「そうですか。それは残念です。ああ、それから最後に」
 その時、今までにこやかに微笑んでいた彼の顔が、一変した。
「手前、分かってんだろうな。今回受験者が1300人を超すのに対し、合格者はわずかに4人。しかもそのうちの一人はすでに決まっている。俺は今回の受験に合格するために金をばら撒き、年齢も誤魔化した。もし手前が邪魔をするとい」
 ふと、腐った泥のような息で脅してきた森谷の声が止んだ。彼を鬱陶しく感じた聖亜が黙らせたのではない。正直そうしてやろうかと手を伸ばしかけたそのときに、彼はいきなり止まったのだ。
「……?」
 ふと、聖亜は周囲を見渡した。いつの間にかざわめきが止んでいる。それだけではない。皆、ある一点を見つめていた。首をかしげながらも聖亜は振り返り、そして





 そして、その男を見た






「……」
 その男は、奇妙な風貌をしていた。

 姿形だけならば、2メートル近い長身に端正な顔をした美丈夫だ。だがその肌に輝きは無く、腰まで伸びた髪は老人のように白い。だがその両目は、まるで猛禽類のように光っていた。
 男がこちらをその鋭い瞳で見てくるのを感じながら、聖亜はふと、彼の手足首に括り付けられた鎖と、そしてその先にある巨大な鉄球を見た。
 その鉄球を見ていると、息を荒げて走っていく壮年の男の姿が映った。マイクを持っているから、おそらくは試験の進行役だろう。彼にとっても予想外の出来事らしく、何か抗議に行くらしい。
 

彼らの様子をぼんやりと見ていた、次の瞬間


「な!? ぐっ!!」


聖亜の体は、何かに伸し掛かれたかのように地面に押し倒された。


“それ”が起こるまで、森谷はこれから自分に向かってやってくる栄華を想像してほくそ笑んでいた。

 彼は確か二名家の出身であり、そして実力、容姿とも高水準を保っているのだが、今までの立志院の入学試験はすべて落ちていた。
 最初は確かにスカウト枠で受験させられた。だがスカウトされても、ただそれだけで合格できるわけではない。結局一番初めの試験は、何も分からずに不合格となった。
 そして、後で分かったことだが、立志院を運営しているのは日本を影で支配している世界屈指の名家、黒塚家であるという。もし立志院で活躍すれば、当然上層部の目に留まる。そうすれば栄華は間違いなかった。
 そのため彼は親に頼み込み、再びスカウト枠を手に入れた。そのときは少なくとも数千万ほど金をばら撒いた。そして試験管の一人を買収し、見事に合格した―と思いきや、最後の最後、彼は小部屋に連れて行かれ、そしてそのまま不合格となったのだ。
 あのときの屈辱には相当なものがあった。そしてさらに悪いことに、彼はこの時であった黒塚葵という少女に惹かれた。何でも一年で生徒会の総長を務めているらしい。彼女を手に入れるため、そして自分の栄華のために彼は3度目の試験に挑もうとしたが、さすがに前回のように金をばら撒くことは出来ず、しかも年齢的に試験を受けること自体不可能になっていた。
 そのため、彼は今度は大量の受験者が集まる志願組みで受験することにした。この中の何人かは彼の取り巻きであり、この時のために今まで必死に努力してきた。もう不合格はないだろう。


 
 これからの栄華を思い浮かべ、自分に舞い降りる栄光にほくそ笑みながら、彼はばったりとその場に倒れた。




「……ふん、結局いつもと同じじゃねえか」
 男はそう呟くと、退屈そうに首を振った。その動きにあわせて長い白髪が左右に揺れる。ふんっと軽く息を吐くと、彼は甚平の中に手を突っ込み、胸をぼりぼりとかきながら、右手に持った徳利の中身を一気にあおった。
 そのとき振り回して鉄球が、隣でわめいている男の方にあたり相手をふっ飛ばしたようだが、彼はまったく気にしていない。
「……っち、たくよ。今日はなんか面白くなりそうだから出てきたってのに、これなら去年のほうがよほど面白いじゃねえ……あん?」
 不意に、男は自分の目の前に死屍累々と倒れている、1000人以上の人間を見て軽く目を見張った。その中で唯一人、少年ががくがくと足を震わせて、それでも必死になって立ち上がろうとしているのだ。
「……ほう」
 正直その動きは亀より鈍く、もう一度気を当てればまた無様に倒れるだろう。それでも、目の前の少年が再び立ち上がろうとするのは、なぜか男には容易に理解できた。
「……なるほどな。こいつは面白え……朱華!!」
「はっ!!」
 男の声に、彼の脇に一瞬のうちに緋色の髪の女が現れ、跪いた。
「今日はなかなか面白かった。そろそろ“牢”へ帰るぞ」
「……お館様、牢という表現は」
「はっ!! 実際に牢獄だろうが。あの女が俺を好きにするために作り上げた最低のな。まあいい、倒れている連中を開放してやれ」
 彼女にそう命じて数歩歩くと、男はふと後ろを振り返った。その視線が、立ち上がってこちらを睨み付ける少年の視線とぶつかる。
「……」
 少年は背が低く、まるで美少女のように端正な顔つきをしている。だがこちらを睨み付けて来る瞳の中にあるのは、猛獣のように危険な光と、強すぎて発することの出来ない意志だ。


「……る」
「は? 何か仰いましたか? お館様」
 命令を実行しようと歩きかけた朱華は、主人が呟いた言葉にふと振り向いた。だが男は彼女の視線になんでもないと首を振ると、今度は歩みを止めることなく、その場から立ち去っていった。




「……なんて化け物だ」
 身を押しつぶすような衝撃に何とか耐え、維持だけで顔を上げた聖亜はげっそりと息を吐いた。正直意識が飛びそうになったが、幼いころから幾度も死地を乗り越えてきた成果だろう、何とか耐えることが出来た。

「……世界は広いな」
 正直、そう思った。世界は広く、行ったことのない場所にはまだ見ぬ強敵がたくさんいる。聖亜は準を助けると言う目的のほかに、なぜか沸き立つものを感じていた。
「……ん?」
 そのとき、視界の隅に見慣れた小柄な少年が倒れているのが見えた。涎をたらし、白目を向いている森谷の顔を踏んづけ、その少年、遠野百合夫に向かって近づく。
「……」
 彼の気絶した顔はやはり醜い。だがその表情にはあどけないものがある。気になった聖亜がふと彼に左手を伸ばした時、

「っ!?」

 ふと、その動きが止まった。


少年に伸ばした左手に何かが巻きついている。それは糸のように見えたが、右手で触れると指先にぷつんと赤い玉が生まれた。間違いない。糸のように見えたそれは、鋭い鋼糸であった。
「……」
 左手に巻かれた鋼糸は、聖亜が動かなくなったのを感じ取ったのか、彼が見つめる先でするすると解けた。どうやら害がないことが分かってくれたらしい。
行為とはそのまま、少年の服の中へと入っていった。
「……まあ、いいか」
 ここにいる以上、この少年も何かの能力を持っているのだろう。起こそうとも考えたが、鋭い鋼糸が守っている限り彼に害はない。自然に起きるのを待ったほうがよさそうだ。

 そう結論付けると、聖亜は気絶している百合夫が目覚めるまで、その横で静かに待ち続けた。

「え、え~、申し訳ございません。お待たせいたしました。それではこれより2015年度私立立志院高等学校特別入学試験を開催いたします」
 先ほどの騒動から1時間後、全員が目覚めたことを確認してから、顔に包帯を巻いた司会者がそう語るのを、聖亜はぼんやりと聞いていた。
 彼の隣では、5分ほど前に起きた百合夫がこちらにそっぽを向いて座っている。その動きはどこかぎこちない。当然だろう。周りがみんな起きて、やはり起こそうと思い直した聖亜が屈みこんだちょうどその時、彼はばっちりと目を覚ましたのだ。

(こりゃ、嫌われたかな)

 こちらを見ないようにしながら、それでもちらちらと振り返ってくる少年の態度に苦笑すると、聖亜は再び司会者のほうを見て

「……というわけで、これから2人組になってもらいます」
「……へ?」
 壇上で長々と話をする男の声を、左から右に聞き流していた聖亜は、ふと司会者の言葉に顔をあげた。
「……2人組?」
「もう一度説明いたしますが、本日組になった2人は試験終了まで、いいえ、合格した後もパートナーとして働いてもらいますので、よく考えて組んでください」
 司会者の言葉に、聖亜の周りでがやがやと人が動き、次々に2人組が作られていく。屈強な男同士で組むもの、女同士で組むもの、それぞれをの欠点を補ったり長所を伸ばしたりする組み合わせなどさまざまだが、誰も聖亜に離しかけようとはしない。
と、彼の背後で軽い地響きがした。振り向くと、まるで山のような男を従えた森谷が見えた。あちらもこっちに気づいたのか、下品な笑いをこちらに向けてくる。
「……さて、どうするか」
 とりあえず森谷は殺そうと考えながら、彼は辺りを見渡した。当然だが、彼の周りにはもう一人しかいない。そして相手は、自分以上に困っているようだ。ならやることは一つであろう。

「なあ、俺と組まないか?」



「……え?」


 遠野百合夫は、自分に声をかけてきた少年の顔をまじまじと見上げた。

 彼は、自分が故郷を離れてみた人間、その全てと違っていた。今まで通り過ぎた人間のほとんどは彼に軽蔑の視線を向けていた。実際に殴ったり蹴られたりした事も一度や二度ではない。極まれに哀れんだ表情をしてくる人間もいたが、彼らも自分が顔を向けると逃げるように去っていく。
 何でそうするのか、初めはわからなかった。だが長い旅を続けていくうちに理解した。彼らは自分の外見を見てそうしたのだ。小太りで背が低く、ひき蛙のような顔をしていれば、普通は皆そうするだろう。最初は愕然としたが、もうほとんどあきらめかけていた。なのに


「ん? どうした?」
「……」

 なのにこの男は自分の醜い顔をまったく躊躇せずに見つめてくる。その黒真珠のような瞳に覗き込まれると、なんだかそわそわとしてくるのだ。
「…………き、君、僕なんかと組まないほうがいいよ。だって僕体力ないし、頭悪いし、何の力も持っていないし、それに、それに…………不細工だし」
「最後のやつは関係ないだろう」
 おどおどとしている少年に苦笑すると、聖亜はゆっくりと右手を差し出した。
「別に友達になるんじゃない。信頼してくれなくてもいい。ただ俺にはやらなきゃならないことがある。こんなところで躓くわけにはいかないんだ。絶対に。だから……頼む」
 差し出された右手を百合夫はしばらく呆然と見つめていたが、その手がいつまでも下ろされないのを見て、やがて観念したかのようにため息を吐いた。
「…………ああもう、分かったよ。組むよ。僕にもやらなきゃいけないことがあるしさ。それに僕にはもう、帰るところなんて……ないし」
「……そうか」
 自分の手を握る百合夫の、驚くほどすべすべした手の感触に、聖亜はふと、もう少しだけ触っていたい感覚にとらわれた。



 聖亜のそんなあどけない様子を、校舎の屋上で3本の足をした鴉が見守っていた。









「あらあらまあまあ」
 2人の少年が握手している光景を、自分の式を通してみていた神楽は、嬉しそうに笑った。
「あら、嬉しそうですね。神楽様」
 そんな主人の様子に、彼女の空になったカップに紅茶を注いでいた少女がふと声をかけた。
 白銀の髪をした少女だが、右目は負傷したためか眼帯をしており、さらによほど大きな傷なのだろう、その傷跡は眼帯を軽く飛び出していた。
「ええ、嬉しいわ雪ちゃん。だってそうでしょう、私の聖亜ちゃんが、予想通りの行動をしてくれたもの」
「予想通り……ですか?」
 神楽の答えに、今度はクッキーを運んできた少女が聞き返した。こちらは右頬に傷があるが、それ以外は雪ちゃんと呼ばれた少女そっくりだった。
「ええ。嬉しいわよ。だって人の外見ではなく中身を見れる人なんて、そういるものではないでしょう? けれど聖亜ちゃんは違うわ。彼はそもそも人の外見になんて興味がないから、相手の内面を極自然に見れるのよ」
「……随分とお気に入りのようですね。ところで、聖亜と話しているあの少年、一体何者なんですか?」
「あら? 前に言わなかったかしら。届け物がくるって。あの子は私の古いお友達からのお届け者よ。恐らく、この世に唯一人残った、本物の……」
 少女の問いに薄く笑いながら、神楽はふと窓の外を見た。



 まるで、遠い昔を思い出そうとするかのように



「……お楽しみのところ申し訳ありません、神楽様」
「あら、どうしたのかしら、火夜ちゃん」
 と、新たに部屋に入ってきた赤髪の女が神楽に声をかけた。大柄で戦士を思わせる女性であるが、その右腕はどこかぎこちない。
「はい。神楽様が及びになられたお客様が参られました。お通ししてもよろしいでしょうか」
「まあ、やっときたのね。ええ、いいわよ。お通しなさって」
 主人の嬉しそうな声に招致しましたと頭を下げると、火夜と呼ばれた女は一礼し、ゆっくりと扉を閉めた。

 だが、その扉はすぐに開かれた。


「やあやあ、お久しぶりでございます。我らが姫君」
 入ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ男だった。年は30代前半ほど。眼鏡をかけ、どこまでも理知的な表情をしている。

「ええ、ええ。久しぶりねえ……シュウちゃん」


 彼を迎えた神楽の顔に、今までとは違う笑みが浮かんだ。



「……ふう」
 ベッドの上に身を投げ出すと、聖亜は大きく伸びをした。そんな彼の様子を見て、隣のベッドにいる百合夫が軽く眉をしかめた。
「ねえ、あんまりばたばたと動かないでくれないかな、ほこりが飛ぶんだけど」
「ん? ああ、すまない」
「……別に」
 そう呟いてそっぽを向く少年に苦笑すると、聖亜はベッドの横に備え付けられた冷蔵庫から水の入ったビンを取り出すと、ふたを開けてそのまま一気にあおった。



 あの後、2人組が無事完成したのを見届けると、包帯顔の司会者は自分達を最新式の電気バスに乗せた。そのまま試験をすると思いきや、連れてこられたのはかなりの高級ホテルだった。男の長ったらしい説明をまとめると、どうやら今日はハプニングが発生したので、試験開始は急遽明日になったらしい。
「ハプニング、か。あの男の事、だな」
 あの時、自分を押しつぶすほど強力な気を放つ男のことを思い出し、聖亜は軽く身震いした。
「……どうしたの?」
「いや、なんでもない。それよりそろそろ夕食だろう? 一度風呂に入ったほうがいいな。時間もないし、一緒に入るか?」
「なっ!?」
 聖亜の言葉に、百合夫は飛び上がらんばかりに驚くと、ずささっと物凄い速度で彼から距離をとった。
「そそそ、そんなのだめだよ!!お、お風呂は一人で入らなきゃ!! じゃ、じゃあ僕から入るから、は、早く出てってよ!!」
「お、おい!! ちょっと!?」
 驚く聖亜の背中をぐいぐいと押して外に出すと、百合夫は鍵をかけて大きく息を吐いた。
「い、一緒に入ろうなんて……なに考えてるんだよ、まったく」
 荒い息を整えると、彼は自分の着ている服をゆっくりと脱ぎだした。上着を脱いだところで、彼はそのうちポケットに縫い付けてあるものに、そっと手を触れた。

「あの馬鹿が覗きにこないように、ちゃんと見張っておいてね、オシラサマ」

 持ち主の言葉に、上着の内ポケットが、かすかに揺れた。




「……別に普通じゃねえか? 男同士が一緒に入るなんて」
 薄暗い廊下で、聖亜は壁に寄りかかりながらぼんやりと呟いた。
 
 窓の外にはここと同じようなホテルや旅館が多数見える。1000人以上の人数を収容するには、やはり2,3のホテルでは足りないらしく、ホテルのほとんどは受験生のためにわざわざ建てたものらしい。

 ということを、彼は先ほどシーツを運んでいた女性従業員から聞いた。
 話の最中に、彼女から意味深な視線を幾度か投げかけられていたが、聖亜はそれには気づかないふりをした。行きずりの女を抱くほど彼は性欲が強くないし、何より疲れていたこともある。
「とにかく、30分ほど外に出てるか」
 やれやれと頭を振りながら、何か飲み物でも買おうと階段に向かって歩き始めた、その時
「きゃっ」
「ん?」
 角を曲がったとき、聖亜はふと誰かにぶつかりそうになり、横にばっと飛んだ。相手は聖亜が避けることを予想していなかったのだろう、そのまま体制を崩しながら前に出て、前方の壁に頭を思いっきり打ち付けた。
「いった~い!!」
 激突した頭を両手で押さえて立ち上がると、相手はこちらを振り向きにらみつけた。

 相手は小柄な少女だった。背の低い自分の顔の半分ほどに彼女の頭の天辺がある。ちらりと視線を下にやると、赤くなった額を押さえ、涙目になった少女が頬を膨らませてこちらをにらみつけていた。

 その姿は、どこかリスに似ていた。

 髪の毛が茶色いのと、くりくりとした瞳も、まさにリスそのものである。

「ちょっとあんた、謝りなさ……はにゃっ!?」
「……よしよし」
 茶色いリスの頭を優しく撫ぜる。あまり人間が好きではない彼だったが、その分小動物は結構好きであった。
「ちょちょちょちょっと!! 人の頭勝手に撫ぜないでよ!!」
「よしよし」
「んも~!! こうなったら……がぶっ!!」

「…………」

「ふふん、どう? 痛かったらさっさと離し「……よしよし」って、なんでよ~!!」
 リスがその小さな口で嚙んできた気がしたが、聖亜は別に気にしなかった。逆に涙目になっているリスの頬を撫ぜようとして、手を下げようとしたとき


 ズクリ


「っ!!」

 背後から感じた、ただそれだけで人を殺せそうなほど濃厚で鋭い殺気に、聖亜はリスを離して大きく前方に跳ぶと、着地と同時にさっと振り向いて身構えた。だが
「……だ、大丈夫ですか、お嬢様」
「ほ、北条!! あんたジュース買うのに一体どれだけ時間かかってるのよ!!」
 だが、後ろの暗い廊下から現れたのは、随分なよっとした少年だった。黒い髪に黒い瞳を持つ平凡な少年で、少女にしかられたためかびくびくとしている。
「……」
 と、その瞳が身構えたままの聖亜を捕らえた。その瞳は相変わらず怯えていたが、聖亜はその中にある、消しきれなかったかすかな殺気を垣間見た。
「あああの、お嬢様、こちらのお方は?」
「あ、そうだった。聞いてよ北条、こいつのせいで頭ぶつけちゃったんだから」
「頭を? はあ、まあいつものことですね」
 少年は納得したかのように頷くと、聖亜に深々と一礼した。
「あの、緑お嬢様が大変失礼いたしました。あ、僕は北条優。お嬢様の従者です」
「……従者にお嬢様?」
「ふふん、そうよ」
 優の言葉に、それまで頬を膨らませていた少女がそのない胸を張った。
「私は柿崎緑。こうみえてk&kっていう会社の跡取りなんだから」
「……k&k?」
「あ、k&kっていうのは柿崎乾物会社の略称です。柿崎家は戦後に乾物屋を開いて大もうけした一家なんですよ」
「ちょ、ちょっと北条、白状しないの!!」
「乾物屋、ね」
「な、なによ、乾物屋の何が悪いっての? もういい、あたし部屋に帰る!! ああ、それとそこのむかつく奴、あんた名前は?」
「……聖亜、星聖亜だ」
 聖亜が答えると、緑は口の中で何度か呟き、やがて頷いた・
「星聖亜、ね。覚えたわ……いい聖亜、ここに来たということは、あんたも受験生なんでしょう? けど残念ね。このあたしがいる限り、あんたは不合格よ、覚悟しなさい!!」
「……ああ」
 ずんずんと床を鳴らして去っていく少女に続いて、北条も戻ろうとする。だが
「……おい、待て」
「はい、何でしょう」
 その後姿に、聖亜は低い声を発した。振り向いた北条と自分の視線が数秒重なり合う。

「……」
「……」

 ぶっちょうずらの聖亜の顔と、笑みを絶やさない優の顔が相手の瞳の中に写っている。2人は数秒ほど相手の瞳の中の自分を見つめていたが、やがて同時に視線をはずした。
「……では僕はお嬢様のお世話に戻ります」
「ああ、引き止めて悪かったな」
 一礼してゆっくりと遠ざかる少年を見て、聖亜はふっと息を吐いた。知らず知らずおうちに握り締めていた右手を開くと、じっとりと汗が吹き出ていた。
 彼の目、あれは獰猛な獣のそれだ。自分とほぼ同様の


「……ま、何かあったらあったで考えるとして、そろそろ戻るか。さすがにあがっただろう」
 最後にもう一度息を吐くと、聖亜は相棒が待っているはずの部屋に向かって歩き出した。




「……」
 だが、鍵を開けて入った部屋の中に百合夫の姿はなかった。一瞬まだ風呂かと思ったが、浴場から気配は感じられない。部屋の中を一通り見渡して自分のベッドに腰掛けたとき、左手の小指に鈍い痛みが走った。
「……ん?」
 視線を左に向けると、ベッドがどこか可笑しいことに気づいた。なんというか……盛り上がっているのだ。
「……ああ、なるほど」
 盛り上がったベッドの中に探し人の気配を感じ、聖亜は納得したように頷いた。ベッドの周りには、まるでくもの巣のように鋼糸が張り巡らされている。百合夫のためならこちらのほうがいいと思うが、見た感じ髪が乾いている様子はない。
 仕方なく、聖亜は右手を彼の方に伸ばした。

 思ったとおり、即座に鋼糸が彼の右腕に巻きついてくる。このまま右手を彼に伸ばせば、確実に落とされるだろう。だが、
「悪いな、無駄だ」
 その声に反応したのか、彼の右腕に巻きつく糸がぎゅっと縮まった、その瞬間


 鋼糸は、一瞬で焼失した。


 やがて、少年を包んでいた糸が全て燃えると、その中から宝物のように毛布に包まれた少年の姿があった。
「やっぱり乾かしていないじゃないか」
 聖亜はそっと彼の髪に触れた。指先にかすかに水滴がつく。眠っている少年の体を、起きないように注意して持ち上げ、頭をひざの上に乗せると、まるで小さな子供にするように、聖亜はその髪を備え付けのタオルでゆっくりと拭き始めた。
「……ん……」
 どれくらいそうしただろうか、ふと、聖亜のひざの上で少年が身をよじり、赤子のように擦り寄ってきた。一瞬起こしたかと思ったが、それにしては気配が薄い。案の定、百合夫は彼の服を掴むと、安心したように喉を鳴らした。
「……ば……ちゃ」
 時折寝言を言いながら、ぐっすりと眠り続ける少年を優しげな表情で見つめると、聖亜は飽くことなくその髪を拭き続けた。





「あははははっ。なにその顔、傷だらけじゃない」
「……」
 翌朝、顔中に引っかき傷を作って旅館の外に出た聖亜は、こちらに気づいた柿崎緑に散々笑われた。
「どこかの女の人にでも迫ったのふぁしは……ひょ、ひょっと!! なにひゅんのひょ!!」
 ぴいぴいとうるさくなくリスの頬を軽くつねって黙らすと、聖亜は朝食の時間から、いや、起きたときからまったく口を利いてくれないパートナーをちらりと見た。
 原因は分かっている。彼の髪を拭いているとき、想像以上に疲れがたまっていたのか、聖亜はついうとうととしてしまい、そしてそのまま朝まで眠りこんでしまったのだ。
 麻になって、相棒の甲高い悲鳴によって起きることはできたが……それからが地獄だった。
 離してと叫びながら顔を引っかいてくる。離したら離したで凶暴な獣を見るような視線を向けられ、姉妹にはまったく口を聞いてくれなくなった。ただタオルで髪を拭いていただけだという説明で、何とか一緒にいてもらっている。
「……なあ、いい加減許してくれないか?」
「……ふん」
「……分かった。もういい」
 そっぽを向いた百合夫にため息を吐き、からかおうと近寄ってきた少女の頬を再びつねる。
「んにゃ!? ふぁ、ふぁたふぉいつ!! ふぉ、ふぉうふぁったは……はむっ!!」
 頬を抓られながらそれでも懸命にこちらの腕を嚙んでくる。しかしそもそも嚙む力があまりないのか、甘がみされているようにしか感じない。よしよしとその頭を撫ぜると、隣の百合夫がなぜかにらんでくるのが見えた。
「ん? どうした?」
「……ふぇ? な、何でも……あ」
 こちらをぼんやりと見て来る少年は、無視していたことを忘れて答えたが、やがて顔を赤くして俯いた。
「……あ、2人ってもしかして、危ない関係って奴?」
「……危ない?」
「……え?」
 なぜか目を輝かせてこちらを見てくるリスに、聖亜と百合夫は顔を見合わせ、ゆっくりと彼女から距離をとった。だが百合夫は、自分の外見を気にしていない少女に、どこか戸惑っている様子だ。
「そう!! 危ない関係!! お父様の秘書が読んでいたんだけど、どちらが受けでどちらが攻め? ところで受けとか攻めとか何のこと?」
「……あう、僕知らない。君は知ってる?」
「……ああ、いや、俺も知らない。すまないな」
 無邪気な百合夫と緑の視線に、聖亜は視線を彷徨わせた。あの街で男に迫られたことは一度や二度ではない。男娼の誘いも何度かあったから、攻めや受けの意味も大体分かるが、さすがにぽよぽよした2人に離すわけにはいかないだろう。
「さあさあお嬢様、その辺にしてはいかがですか?」
「あ、北条」
 2人に攻められていた聖亜に、ようやく助け舟が現れてくれた。緑の従者である優である。手には2本のパイナップルジュースが握られていた。
「遅いじゃないの、北条」
「はあ、申し訳ありません。何せお嬢様の好きなパイナップルジュースがホテルになかったので、別の旅館にまで探しに行ってきました。ああ、おはようございます、聖亜さん」
 手を伸ばしてくる少女にパイナップルジュースを渡すと、優は彼女の隣にいる百合夫にもにこやかに微笑んでジュースを渡した。
「ああ、おはよう。しかし大変だな、あんたも」
「いえいえ、お嬢様のわがま……頼みには慣れています。ああ、それより」
不意に、北条はこちらに顔を寄せてきた。
「……どうも夜中に作業をしていた連中が要るようです」
「……」
 北条の声に、聖亜の目が細まる。それを確認すると、北条はゆっくりと微笑した。
「恐らくは今日の試験のための準備なのですが……一体なにをするんでしょうね」
「別に内容なんてどうでもいい。それよりなぜ競争相手にそんなことを教える?」
「ああ、別に構いませんよ。ほかの受験生はほとんど知っていますから。恐らく試験の内容すら、ね」
「……金、か」
 恐らくは、と北条が呟いたとき、一台の電気自動車が近づいてきた。車は受験生達の前で止まり、そこから昨日の包帯男が現れた。
「え~、皆さんおはようございます。では早速ですが、これから一次試験の説明をさせていただきます。青木君、よろしく」
「は、はい」
 包帯男の声に、車の中から紙の束を持った気弱な青年が降りてきた。彼は500枚以上ある紙を、一組に一枚ずつ渡していく。渡された聖亜の目には、墨で書かれた円が飛び込んできた。
「これは?」
「さあ? 分からないが受験に関係するものだろう」
「え~、一次試験の内容は物探しです。このホテルを中心に、半径5キロの場所にこの紙にかかれたものが隠されています。それを探していただきますが、残念ながら250個しかありません。しかも偽者も大量に混ざっています。つまりこの試験で700人以上が落とされるわけですね」
「……ふん、半数以上か」
 男の説明にざわめく広場の中、聖亜は青くなって俯いている相棒の頬を、優しく撫ぜてやった。
「ちょ、な、なにするのさ!!」
「え~、話を続けます。一応タイムリミットは今日中です。ですがもちろん本物が250個集まった時点で終了となります。それでは……試験、開始!!」
「ほら、始まるぞ」
「ふぇ? う、うん」
 包帯男の掛け声と同時に周囲にいる受験生達が一斉に走り出す。百合夫も走り出そうとしたが、その動きは聖亜が止めた。
「ちょ、ちょっと!! 先越されちゃうよ?」
「別にかけっこじゃないんだから、早く行っても仕方ないだろう。それに運よく見つかっても、審査員に違うと言われればそれまでだ」
「あう……それはそう、だけど」
「だからほかの受験生が一体どういうものをもってくるか、見てからでもいいだろ。丸い円だけじゃ何のヒントにもならないしな。それに」
「それに?」
「灯台下暗し、案外この場所に隠されてるかもしれない……こことかな」
「ふぇ?」
 聖亜が指差した場所を、百合夫はきょとんとした顔で見た。そこは花壇だったが、聖亜の指の先は土が軽く盛られたところに向けられている。
「え……と?」
「一応ここも捜査範囲の中には入っているな。よし、あったぞ」
「これ……ビー玉?」
「だろうな。くそ、偽者だったか。ま、やるよ」
「……へ?」
聖亜の手の中にあるビー玉を見つめていた百合夫は、差し出したこちらの顔を呆然と眺めていたが、次の瞬間ぼっと顔を赤く染めた。
「い、いらないよそんなの。べ、別にもらう理由だってないし」
「……ま、あえて言うならこれからもよろしくって意味だ。いらないならいらないで構わない。捨てるだけだしな」
「え、あの、ちょ、ちょっと待ってよ」
 本当にどこかに放り投げようとする彼の手を抑えると、百合夫はその中にあるビー玉を乱暴にもぎ取った。
「……ふふっ」
「ま、まあ僕は君のせいで盛大な迷惑をこうむったわけだから、これは謝罪の品としてもらっておくよ、うん」
「……まあ、それでいいよ」
 苦笑して眺める聖亜の視線の先で、百合夫は手の中のビー玉をゆっくりとかざした。彼女の手の中で、ビー玉は太陽の光を反射してきらきらと光っている。
「きれい」
「喜んでもらえて何よりだ。さてと、探し物も判明したことだし、そろそろ出るか」
「あ……うん、あの、それと」
「ん? どうした?」
 歩き出そうとした聖亜は、ビー玉を両手で握り締め、もじもじとしている少年に笑いかけた。
「あ、ありがとう。大切にするよ」
「うん、そうしてくれると俺も嬉しい。じゃ、そろそろ行こうか」

 すっかり機嫌が直った少年に手を引かれながら、聖亜は苦笑して歩き出した。





「これも違う、な」
「そうなの?」
 何気なく呟いた言葉が聞こえたのか、隣にいる百合夫が手の中を覗き込んできた。それにああと頷きながら、聖亜は12個目のビー玉を彼に渡してやった。
 それを百合夫は嬉しそうに懐に入れる。そんなにたくさんなにに使うのか尋ねようかと思ったが、結局聞かなかった。せっかく機嫌がいいのだ。へんなことを聞いてまた機嫌が悪くなるのは避けたい。
 そう結論付けると、彼は頭上から照りつける太陽を見上げた。ホテルを出てからすでに3時間ほど経過している。じりじりと真夏の太陽が容赦なく照り付けてくる。今まで怪しいと思ったところ、その全てを探したが、見つかったのはどれもビー玉だけだ。まあ百合夫が嬉しそうだからよしとしよう。
「やれやれ、一体どこにあるんだ?」
「……別に僕はこれでもいいけど」
 嬉しそうな百合夫の声に、そうもいかないだろうと苦笑しながら言った、その時


 ズンッ


「……っち」
「な、なに?」

 一度大きな地響きがしたかと思うと、2人の体がかすかに震えた。呆然とする百合夫をかばうように前に出た聖亜の耳に、音がだんだん大きくなって聞こえてくる。やがて、前方の家の影から、巨大な腕がのそりと現れた。

 そして、腕の次にはその持ち主が姿を現した。その持ち主は3メートルを優に越す巨体の持ち主だった。額とあごが突き出ており、まるでモアイ像を思わせる。聖亜は大男の影から出てくる男を見て、再び舌打ちした。
「おや? 随分と汗だくですね」
 聖亜の思ったとおり、その男は森谷だった。相変わらず胸ポケットに櫛でも入れていそうなキザ男である。
「……なんのようだ。あんただって受験生なんだから、こんなところで無駄話してる暇はないんじゃないのか」
 聖亜の物言いに、枯葉ははっとわざとらしく笑った。
「ご冗談を。探し物なんてとっくの昔に見つけていますよ。今はここにいる熊と観光の途中なんです」
「……ああそうかい。それじゃあその邪魔になるだろうから、俺達はもう行くぜ。じゃあな」
「あ、ちょっとお待ちください」
 百合夫の手を握って立ち去ろうとした聖亜の背後に、森谷の声がかかった。あからさまに舌打ちすると、不機嫌そうに振り返る。
「……何だ」
「いえ、ちょっと提案がありまして。どうです? 僕と手を組みませんか?」
「……すまない、豚の言葉が分かるほど博識じゃあないんだ」
 思わずそう呟いた聖亜に、森谷は眉を顰めて耐えた。
「ぐっ……つまりですね、僕とパートナーになるということです。その蛙男は熊と組ませておけば問題ないでしょう。正直この男は力は強いんですが頭は悪いし食欲と性欲は十人分はあるし、難儀しているんですよ。その点あなたなら合格です。どうです? 出来れば今すぐ返事「断る」……はい?」
 大男を恐怖の表情で見て、自分の後ろに隠れた百合夫の手を優しく握ってやると、聖亜は森谷にいつものー復興街において相手を殺す寸前に浮かべる、どこまでも冷たく、どこまでも美しい笑みを浮かべた。
「……すいません、もう一度いってくれませんか?」
「どうやら豚に人間の言葉はわからないようだな。断る。そういったんだ。豚が」
「……手前!!」
 聖亜の挑発に森谷は完全に乗ってきた。彼がさっと右手を上げると、熊と呼ばれた大男がのそのそと近寄ってくる。だが聖亜は彼に何の恐怖も感じなかった。正直、以前死闘を繰り広げた老人と比べる価値すらない。


(ここで本当に2人とも殺してしまおうか)


 いまだに震えている少年の手を、指を絡めてぎゅっと強く握り締める。それから優しく離すと、聖亜はゆっくりと前に進み出た。感情で勝てないと分かっているのだろう。熊は自分が歩くたび、じりじりと後退していった。
「な、なにやってんだよ手前!! さっさとそいつを叩き潰せ!!」
「……う」
「ふん、やめておけ。どうやら本能で分かってるようだからな。俺には勝てないって。なんだ、手前よりよほど利口じゃないか……なあ」
「ぐっ……こいつ、恥かかせやがって!!」
 怒りで顔を赤く沸騰させた守屋が熊のすねをげしげしと蹴る。
「ほら、さっさといけよ。手前には馬鹿力しかねえんだから、そいつなら片手でつぶせるだろうが!!」
 最後に思いっきり蹴ると、森谷は聖亜は血走った目でにらみつけた。熊が恐怖で泣きそうな顔をしてこちらに向かってくる。
「……かわいそうだから、デカブツは半殺しで許してやるか」
 そう呟き、向かってくる男に聖亜が身構えた、その時
「なにをしている!! 受験生同士の死闘は禁止されているはずだぞ!!」


 4人の頭上に、凛とした声が響いた。


「あ、あお……総長」

 突如その場に姿を現した黒い長髪の少女を見て、森谷はじりじりと後退した。それを軽蔑の目で見つめると、彼女はさっと右手を上げた。と、彼女の後ろにいた2人の少女が、聖亜と熊との間に割って入る。
「む……またお前達か。少しは他人の迷惑というのを考えて行動してほしいものだな」
「……すまない、あんたの言うとおりだ」
 こちらを呆れたように見つめる少女に、聖亜は黙って頭を下げた。ここは復興街ではない。普通の人が住む普通の街なのだ。軽率な行動を恥じる聖亜を見て、少女はふっと微笑した。
「いや、いい。しかしなんとも思わないのか? 女に注意されているんだぞ」
「別に俺が悪いのは事実だからな。ああ、自己紹介がまだだったな。俺は聖亜。星聖亜だ」
「……葵。黒塚葵だ」
「葵か。よろしく……ん? 黒塚?」
 首を傾げて見つめてくる聖亜の視線に、彼女はため息を吐いて頷いた。
「お前の考えている通り、私は黒塚家の人間だ。現当主は私の祖母で、ついでに立志院の生徒総会の総長をしている」
「ああ、だから総長か。てっきりその手の人かと思った」
「お前な……いや、それより私が黒塚の人間と聞いて、何も思わないのか?」
「は? なぜだ?」
 きょとんとした顔をする聖亜を、葵は信じられないといった風に見つめた。黒塚家の一員と聞けば、ほぼ全ての人間が媚びへつらう。それがいやだから、めったに苗字を言わなかったのに。

 なのにこの男は、自分が黒塚家の一員であることに、何の感情も抱いていないのだ。


 だが、それは彼女の感情を害するものでは決してなかった。


「……いや、いい。それよりあまり騒ぎは起こすなよ。ひどいようなら受験資格を取り消すからな」
「ん、了解」
 素直に頷く聖亜に微笑を浮かべると、彼女は後ろに「総番」と描かれた丈の長い制服をひるがえし歩き出そうとした。だが
「ちょ、ちょっと待てよ、葵!!」
「……」
だがその背中に声をかけた馬鹿がいる。森谷であった。彼の甲高い声に、彼女の浮かべていた微笑はたちまちのうちに掻き消えた。
「……なんだ森谷。貴様に話しかけられると虫唾が走るんだがな」
「そ、そう言うなって!! 過去の件は忘れてやるからさ」
 あくまで気軽に声をかけてくる森谷に、葵の視線は険しさを増していく。それを見て、聖亜は百合夫を抱えて移動した。
「ほう、過去の件とは何だ? 貴様が私をナンパしたことか? それとも我が校の生徒を拉致して強姦しようとしたことか? いや、暴走族を町に引き込んで暴れさせたこともあったな?」
「いや、そ……っ」
 言い訳しようとした森谷のすぐ脇を、一筋の光が通り過ぎる。彼が横目でちらりと見ると、自分の頬のすぐ脇に木刀が突き刺さっているのが見えた。それも、後ろの鉄筋コンクリートで作られたビルに。

 その時、たらりと一筋の血が頬から流れた。

「ひっ!!」
「失せろ。二度と私の前に顔を見せるな」
「わ、分かったよ。くそ、行くぞ熊!!」
「……」
 吐き捨てるようにわめきながら小走りで逃げていく森屋に続いて、熊ものそのそと遠ざかっていく。彼らの姿が完全に見えなくなってから、葵はふうっとため息を吐くと、いまだ震えている百合夫に柔らかく微笑んだ。
「すまない。怖がらせてしまったな。あの男はたいした実力もないのに絡んでくる小物でね。私に絡んでくるなら叩き潰すだけでいいが、あの男、欲だけは人一倍あるからな」
「そうか。大変だな、あんたも……ほら百合夫、もう大丈夫だぞ」
「う、うん」
 聖亜に促され、彼の背後から百合夫が怯えたように出てきた。
「あ、あの……僕、遠野百合夫っていいます」
「ああ、私は葵という。よろしくな」
 微笑して差し出された手を見て、百合夫はわずかに怯えを見せたが、聖亜が頷くと、やがておずおずとその手を握り締めた。
「さて、そろそろお昼だろう。どうだ、良かったらこの後一緒に食事をしな「総長」……何だ」
 後ろにいる小女に声をかけられ、葵は少し不機嫌そうに後ろを見た。
「申し訳ありません。昼食は先日説明した相手との会食となっております。ですのでそろそろ」
「……ああ、そうだったな」
 彼女の言葉に心底いやそうに首を振ると、葵はこちらに頭を下げた。
「すまない。食事に誘いたかったが先約があるものでね。といっても向こうは私を家付きの金のなる木としか見ていないが」
「いや、気にしないでいい。いろいろと大変なんだな、あんたも……そうだな、なら俺達も昼飯にするか、百合夫」
「え? う、うん」
 聖亜の言葉に百合夫は素直に頷いた。そんな彼らに、葵は再び頭を下げる。
「本当にすまない。ならいい店を紹介しよう。うちの生徒が学校帰りによく利用する店でね。量が多くて味もうまい。値段もそれほど「総長、そろそろ本当に」ああもう、分かった。ではな、星に遠野。またどこかで合おう」
「ああ、すまない」
「え、えと、ありがと」
 メモ帳にさらさらと簡単な地図を書いて百合夫に渡すと、葵は2人の少女を引き連れて去っていく。それを見送った聖亜の耳に、くうっと小さな音が聞こえた。振り向くと、百合夫が顔を赤くして俯いている。
「さてと、午前中はこの辺にして、昼飯にしようか」
「う、うん」
赤い顔のまま少年が伸ばしてきた手を掴むと、聖亜はおいしそうなにおいがする道をゆっくりと歩き出した。


「おいおい何だよ、店ってここか?」
「ふぇ? 知ってるの?」
「ん、まあな」
 歩き始めておよそ10分、聖亜は葵に教えられた店の前に立っていた。そしてこの店に聖亜は見覚えがあった。それもそのはずである。この店は彼がこの街に着て初めて
「あん? 何だまたあんたか」
「あんたかって、ひどい言い草だな」
 店の前で掃除をしていた、愛想のない厳つい親父の口調に、聖亜は苦笑した。
「まあいい。それで一体何のようだ。見ての通りまだ準備中なんだがな」
「それは困った。2人とも空腹なんだけど。それに今日は勧められてやってきたんだ。黒塚葵って知ってるか?」
「……ふん、黒塚のお嬢かよ!! 珍しいな。男嫌いのあの人があんたらに便宜を図るなんて。まあいいだろう、簡単なものしか作れないぞ。それでも良かったら入れよ。きたねえ店で悪いがな」
「ん、全然問題ない。百合夫もここでいいだろ?」
「え、う、うん。お腹ぺこぺこだし」
「んだよ、お前さんはともかくこっちのちびはすげえ痩せてんじゃねえか。肉喰えよ肉をよ。しょうがねえなあ」
 百合夫をじろじろと見た男は息を吐くと、入りなと一声かけて店の中へ消えていった。



「……」
「どうした? 喰わないのか?」
「む、むりだよこんなに」
 目の前にこんもりと盛られた肉の壁を見て、百合夫はふるふると首を振った。
「まあ確かにこいつを完食しろってのは無理か。俺はまだ余裕があるし、手伝ってやるよ」
「う、うん。ごめん、お願いしていいかな」
「ん」
 こうなることを予想して軽くそばを食べるにとどめた聖亜の前に、肉が山ほど乗ったどんぶりが差し出される。そのうちの半分をそばが盛られていた皿の上により分けた。
「これぐらいでいいか。後は食べられるか?」
「えっと、少し残してもいい?」
「……別に少しぐらいならいいと思うが、そういえば本当に痩せてるな。一体今までなに食べてたんだ?」
「あの、えっと、蕨とかふきとか、小魚とか」
「小魚はともかく、蕨やふきって山菜じゃないか。ま、今から食べればいいんだよ」
 そう呟きながら、聖亜は肉の山に取り掛かった。肉は量だけでなく一枚一枚が分厚い。だが味は決して悪くない。むしろあっさりとして何枚でも食べられそうだ。
しばらく店の中には、かちゃかちゃと箸がなる音だけが響いた。
 と、20分ほど食べ続けただろうか。不意に店の戸ががらりと開いて、この店の主が顔を覗かせた。
「お、ちゃんと喰ってるじゃねえか……ってお前さん、何腹押さえてるんだ」
「いや……なんでもな、げぷっ」
 結局肉の山盛り丼は聖亜がほとんど処理した。そのため苦しさを通り越して吐きそうになりながら、何とか親父に答える。百合夫はと言うと、お腹がいっぱいになったことで睡魔が襲ってきたのか、うとうとと舟を漕いでいる。
「こっちの小僧は随分眠そうじゃねえか。どうする? 店の奥にある部屋でしばらく寝かせておくか?」
「ん、すまない。俺が運ぶよ」
 苦しむ腹を押さえて立ち上がると、聖亜は百合夫の近くに回り込み、その方と腰にそっと手をやった。
「……」
 その時、思ったとおり彼の服の中から細い鋼糸が飛び出し、聖亜の腕にぎっちりと巻きついてくる。
「……何もしないよ。布団に寝かせるだけだ。だから離してくれないか? これじゃあこいつを運べない」
 少年の言葉に、鋼糸はしばらく腕に巻きついていたが、やがて何もするなよと言う風に、しぶしぶと戻っていった。
「これで良し。親父さん、この奥でいいんだな」
「おう、突き当りの右の部屋だ。横にしたら戻ってこい。料金代わりに扱き使ってやる」
「……へいへい。ったく、人使いの荒い親父さんだね」
 苦笑しながら少年の顔を覗き込む。百合夫はふにゅふにゅとかわいらしい寝息を立て、聖亜の胸にこてんとその頭を乗せた。

 その髪を優しく撫ぜると、聖亜は店の奥へ向かって歩き出した。



「お、戻ってきたな。んじゃまずはここにある皿から頼む」
「ここにあるって……どう見ても百枚以上ないか?」
「あん? これぐらいでがたがた言うな。俺なんてかみさんが出て行ってから一人でこの店切り盛りしてるんだ。それより随分遅かったな。男同士でいちゃついてたのか?」
「そういう冗談は嫌いなんだよ。一度おきたから寝かせてきたんだ」
 これは嘘だ。布団に彼を寝かせて戻ろうとしたとき、聖亜は百合夫の指が自分を掴んで離さないのに気づいた。起こそうとしたり無理に引き剥がしたりするとまた鋼糸に襲われかねない。仕方なく掴んでいる指を優しくさすりながら自然に離れるのを待っていたのだ。
「そいつは悪かった。ま、お詫びといっちゃ何だが、金に困ったらいつでも来い。お前さん、どうせ受験生だろ?」
「それはそうだが……よく分かるな」
「ま、昨日も言ったが俺はこの店をもう二十年以上続けていてな。毎年この時期に受験生が来るもんだから、すっかり見分けがつくようになっちまった。ついでにいうと、俺も実は立志院の卒業生なんだぜ? よろしくな、後輩」
「よろしくお願いします。じゃあ、この写真に写ってるのは、親父さんなんですか?」
 皿を洗いながら、聖亜は厨房の壁にかかっている一枚の写真を見た。写真の中には校舎を背にして3人の男子生徒が写っている。
「ん? ああ、こいつか……そうだな。俺と、今立志院で用務員をやっている奴と、そしてもう一人……最低の糞野郎だ」
「最低の糞野郎、ですか」
「ああ。この写真を最後に行方不明になって、そのまま外国で死んじまったって噂を聞いた。昔は3人でよくつるんでたんだけどな」
 中央の顔が塗りつぶされた学生を見て、忌々しげに鼻を鳴らすと、店の主はそのまま仕込みに取り掛かった。
「……」
 その厳しい顔の舌に、幾分さびしさを感じた聖亜は、何も言わず、ただ皿を洗い続けた。



「ねえ、お代本当に良かったのかな」
「ま、親父さんがいいって言ったしいいんだろう。それより俺は筋肉痛だよ、糞」
「……あの、それって僕を運んだせい?」
「あ? 違う違う。皿を200枚ほど洗ったせいだ。ま、おかげでただになったし、良かった良かった」
 すまなそうにこちらを見上げる少年の頭をぽんぽんと優しく叩くと、その頭をゆっくりと撫ぜたやった。
「もう腹は空いてないな? 後眠くないな?」
「うん。けどごめんね、僕のせいでこんなに時間過ぎちゃって」
 そう呟いて下を向いた百合夫の頭をもう一度撫ぜてやりながら、聖亜はいいよと呟いた。彼らが店を出たのは15時過ぎだ。日はすでに傾いており、道を歩く人影は長く伸びている。
「どうしよう。みつからなかったら2人とも不合格になっちゃうよ」
「不合格か、それは大変……っていうかまあ本物の場所に心当たりはあるんだ」
「ふぇ? そうなの?」
「そうなの。だから心配するなよ」
 そういって安心させると、聖亜は急ぐぞと呟き、少年の手をとって駆け出した。







「これも偽者ですね。残念、不合格です。また来年お待ちしています」
 青年がにこやかにそう告げると、彼の前にいた2人はしばし呆然としていたが、やがて相手をにらみ、ののしりあった
 どうも相手に責任を押し付けたいらしい。青年はその様子を呆れた表情で見ていたが、やがてぱんぱんっと手を叩いた。と、どこからか男達が現れて、2人をずるずると引きずっていった。
「しかし、今回は簡単すぎましたかねえ」
 彼らがいなくなった後、青年はやれやれと本物を取り出した。本物と偽者の区別は微量な力を込めているかいないかにある。つまり腕力や頭脳の勝負ではない。力を感じることが出来なければ、そもそも立志院ではやっていけないのだ。
「さて、今合格した組は232組。時間制限は今日中って言ってもそろそろお開きにしたほうがいいですかね……ん?」
 そろそろ終了しようかと考えていた青年が、痛む腰を上げつつ立ち上がったときだった。
「あ、ちょっと待った。まだ時間大丈夫だよな」
「え? ええまあ。大丈夫ですよ」
 沈みそうな夕日の向こうから、一人の少年が走ってくるのが見えた。その背には随分と醜い少年を背負っている。青年はまあいいかと再び座りなおした。
「ではご提出お願いします。一つでも本物があれば結構ですので」
「ああ。とりあえず本物っぽいもの持ってきた。これでいいか?」
「……あ、あの、なんですこれ?」
 少年が青年に差し出したのは、拳大の大きさをした一つの玉だった。光り輝き、中央には鳥が羽ばたいたような形が浮かび上がっている。
「何ってこれが本物だろう? いや、大変だったぜ。立志院の交渉が鷹だったから恐らく鷹の巣の中にあると思って探し回ったらビンゴ、一番高い木に作られた巣の中にあったよ。これでいいよな?」
「いや、これでいいよなと言われても……あ、あのほかにはないですか? 例えばビー玉とか」
「あれ? あれって偽物だろ? まあいいけど。おい百合夫、ビー玉一個貸してくれ」
「……ん。18個あるから、1個貸してあげる」
 ありがとな、と探しつかれて眠ってしまった百合夫からビー玉を一つ受け取ると、聖亜は青年に手渡した。
「どうせ偽者だろうけど、見たかったら見てみろよ」
「い、いえ。これが本物で間違いないですよ。あの、もしかして残りの17個も全部」
「いや、これは俺のじゃなくて百合夫のだから、こいつにしっかり許可もらってくれ。やってもいいか?」
「……ん、駄目」

 聖亜の問いに、彼の背でほとんど眠っている少年は、のろのろと、だがはっきりと首を横にふった。

「……だそうだ、悪いな」
「い、いえ。それでは2名とも合格ということで、こちらにどうぞ」
 青年に促され、聖亜は右側にある建物に向かって歩き始めた。途中何人か言い争う姿を見かけたが、恐らく不合格者たちだろう。彼はその中からとある人物を探した。もちろん森谷ではない。奴は小物に過ぎない。彼が探しているのは別の人間だった。出来ればここにいてほしい人間である。


 だが、やはりというか当然というか、その人物は建物の中にいた。

「おや、お2人とも合格おめでとうございます」
「……ああ、あんたもな」
 建物の中に入った聖亜達を出迎えたのは、柿崎緑と北条優の2人だった。彼らも試験に参加したはずなのに、まったくといっていいほど汗をかいていない。
「あんた……いつ見つけた?」
「私ですか? ええと、始まって30分ほどでですね。2番目ですが」
「……2番目? あんたなら一番に合格出来たろ」
 聖亜に見つめられ、優はまあと軽く頷いた。
「普通に出来ますが、残念ながら一番目は森谷さんですよ。どうも審査員の一人を買収されたようで。本物がどこにあるのかまで知っていたようです。何でも数百万ほど渡したとか」
「数百万ね。けど何でそうまでして入りたいんだ? ただの学校なのに」
「……まさかご存じないんですか? 立志院は黒塚家が経営している三大高等学校の一つです。ほかには月命館と天照女学校の二つがあります。そして黒塚家は日本皇国の政治・経済・文化、その全てを握っているのです。ですのでもしこの学校に入ることが出来れば、栄達は間違いない。後の人生は安泰……ということでしょう」
「ああ、それは森谷が言っていたけど、それって要するに奴らの飼い犬になれってことだろ? くだらない生き方だな」
「くだらない……ですか? ではあなたは一体なぜここにいるのです?」
 目を細めて尋ねてくる北条のその視線から、聖亜はふっと目をそらした。
「……単なる自己満足のためだ」
「そうですか。まあ詳しくは聞きませんが……合格するのは4人ですので、他に優秀な人がいなければ私達と聖亜達が合格できればいいですね。そうすればあなたの嫌いな飼い犬になるわけですが」
「……まあな。ああ、そういえばあんた、黒塚葵って知ってるか?」
「黒塚葵様ですか? もちろんです」
 聖亜の問いに当然と言う風に頷くと、彼はポケットから一つのメモ帳を取り出した。
「ええと、黒塚葵。私立立志院高等学校特別進学科2年B組所属。年齢は17歳。生徒総会の総長を勤めておられます。父は文部省に勤めておられ、母が天照女学校の理事長を勤めておられる黒塚陽子様ですね。性格は凛として誇り高く堅物。特技は剣術。17歳にして一刀流の免許皆伝の腕前を持っています。体格はまずバストが」
「別にそこまで言わなくていい!!」
「そうですか? では最後に一つだけ。どうも彼女は最近頻繁にお見合いさせられているようですね。理由は不明ですが」
「……見合い、ね」
 北条の言葉に聖亜は彼女の凛とした誇り高い、だがすぐにぽっきり折れてしまいそうな表情を思い浮かべた。


 どうやら、彼女も黒塚家の犠牲者らしい。


「分かった。すまなか「あ~!! なにやってるのよ2人で」……」
 礼を言おうとした時、彼の声は突然聞こえてきた無邪気な声にかき消された。
「……ああ、あんたもいたんだったな。リス」
「誰がリスよ!! もう、いくら探してもいないからしんぱじゃなくてからかえなかったじゃない!!」
「やれやれ、元気だな」
「ええ。お嬢様はば……いえ、無邪気ですので」
「そうらしいな」
 北条と顔を見合わせてくすくすと笑いあう。それが気に食わないのか、緑はぷうっと頬を膨らませた。
「もう、なによう2人で盛り上がっちゃって。あ、これが攻めと受けってや「寝てる奴がいるから、静かにな」ふにゃふにゃ」
 大声を出そうとしたかの序の口を片手で抑えると、聖亜は顔を後ろに動かし、椅子に寝かせている百合夫を見た。
「ぷはっ!! あ、ごめんなさい。ゆりっち眠ってるの?」
「ん、ちょっと今日歩き回ったからな。東の山の麓まで行って来たんだよ」
「東の山の麓? 確かに範囲内ですが、なぜですか?」
「いや、なぜってこれを探してたんだよ」
 そう言うと、聖亜は百合夫がぎゅっと握っている大きな玉を2人に見せた。
「……」
「へえ、きれいだねえ。これどこで見つけたの?」
「ん? ああ、鷹の巣の中だ。いや、一番大きな木に登るのは大変だったぞ。これが本物だと思っていたんだけどな……どうした、北条」
「……え? いえ、ちょっと文献の中に似たようなものがあったのですが、恐らく違うでしょう。その文献もほとんど信憑性がないですし」
「ふうん? ま、いいわ。どっちにしろ眠ってる人がいるならうるさく出来ないし、あたしもう行くわね。それじゃ、そろそろ行くわよ北条」
 ばいばいと手を振って駆け出した緑を追うように、北条も一礼して歩き出そうとした。
「……一つ言っていいか? 俺はあんたとはあまり戦いたくないな」
「それは……ありがとうございます。僕達では恐らくどちらかが死ぬまで戦う必要がありそうですからね」
 呟くように言うと、北条は一瞬無表情になったが、やがて一礼して去っていった。その姿を見送りながら、聖亜はずり落ちそうになった百合夫の体を背負い、人のいない場所へと歩いていった。

 建物で行われたのは、簡単な説明と好評、そして一次試験の合格者を祝うための立食会だった。北条達と別れたあと、空腹を感じた聖亜は百合夫を抱えたまま炭のテーブルで食事をしていた。時折背中をゆすっては少年を起こし、その口に食べ物を入れてやる。
 野菜を半分寝ぼけながら咀嚼する少年を苦笑しながら見ると、聖亜はそのまま周囲を見渡した。随分と人数が減ってきている。

(一次試験で500人以下に減ったらしいな)

 遥か遠くで食事をしている森谷に見つからないよう、聖亜はゆっくりと会場を移動した。迎えが来るのは1時間後だ。だいぶ早いが、外で待っていてもいいだろう。
「……ふにゅ」
「ん? どうした、本格的に眠くなったか?」
「…………ふにゃ」
「分かった。じゃあ寝とけ」
「……くう」
 彼の声が聞こえたかどうかわ分からないが、百合夫はもう完全に寝る体制に入っている。その醜くも純粋な寝顔を優しく眺めると、ゆっくりと外に出て行く。
 彼が通るたびちらちらと女や男が振り返る。だが彼の背負っている少年を見て、まるでいやなものを見たと言わんばかりに目をそらした。


(……どいつもこいつも糞野郎か)

 聖亜は彼らをそう評価した。外見だけで判断し、内面を見ようとしない彼らである。無邪気だが、それゆえに百合夫の内面に気づいた緑や、誰にでも同じように接する北条とは雲泥の差だ。

 だが、どうじに聖亜は仕方ないとも思った。なぜなら人は他人の美点より、欠点を良く探そうとする生き物だからだ。

「準に、会いたいな」

 満天の星空を見て、聖亜はふとそう呟いた。彼女は今市内中心部にある大型総合病院に入院しているが、会うことはまだ出来ない。時間がなかったこともあるが、それ以前に自分の心の整理がつかないのだ。だが彼女は建物の中にいる糞野郎達よりはよほどましだろう。彼女なら百合夫を外見で判断せず、内面の美点をしっかりみるはずだ。
「頼んであわせてもらうか」
 先ほどの説明では、明日一日は休みらしい。随分とゆっくり進む試験だが、今回は好都合だ。
「……ふにゃにゃ」
「……まってろ百合夫、明日は俺の唯一に会わせてやるからな」

 完全に寝入った少年を背負いなおし、聖亜は満天の星空の中を、ゆっくりと歩き出した。







 闇の中、私に向かって声が響く







 堕ちろ







 堕ちろ








 堕ちろ








 堕ちろ






 その声は始め鋭い刃のように私の体に食い込んだが、最近は随分と弱まってきた。闇の中に漂う私の周りに光の膜ができ、それが声のほとんどを遮断しているのだ。

 だが、完全に遮断することはできない。膜を通り抜けてきたか細い声が、細い針のように突き刺さってくる。それは最初はちくちくした痛みだが、やがて耐えがたいものへと変わっていった。



 そして、身を捩った私の耳元に、再びあの声が聞こえてきた。






 堕ちろ








 堕ちろ








 堕ちろ








 堕ちろ








 ああ、その方が、楽かもしれない



 ふとそう思う。すると光の膜は薄くなり、声はまるでワインのように私の中に酔いを入れてきた。だが、



 だがその酔いに身をゆだねようとした私の体を、誰かが強引に抱き寄せた。







「……ああ、私にはお前がいたんだったな、聖亜」




 苦しいほどに力強く、宵を忘れるほど心地よいその腕に身を寄せ、私はゆっくりと目を閉じた。






 白い病室の中、ただ一つしかないベッドの上で目覚めた準を、聖亜は上から無遠慮に覗き込んだ。
「よう、目が覚めたか準。この寝て食うだけの豚女」
「……ふん、人の寝込みを襲おうとする奴に言われたくないな。この変態が」
 互いに皮肉を相手に言い合う。だがすぐに笑いあうと、2人は互いの額をこすりつけた。
「すまない、来るのが少し遅くなった」
「構わないさ。こうして来てくれたんだから」
 そう言って笑うと、準は聖亜の首に腕を回し、彼に触れるだけのキスをした。
「……髪を、切ったのだね。私のせいか?」
「いや、別に。単なる心境の変化さ」 小鳥がついばむようなキスを繰り返し、聖亜は彼女の首筋にゆっくりと顔をうずめた。かぎ慣れた匂いにを吸い込もうと、ゆっくり深呼吸する。
「そうか、それは少し残念だな。では話は変わるが……私は一体いつ治る?」
「……」
 自分の問いかけに無言になった聖亜を見て、準はそうかと軽く息を吐いた。彼は必要なら平気で嘘を吐くし、ごまかしもする。だがこういう場所で嘘を吐ける人間ではない。その彼が口をつぐんでいるのは、つまり
「治らない、か」
「そうじゃない。いつ治るか分からないんだ」
 今日の朝、いまだ包帯が取れない司会者に外出の許可をもらった聖亜は、蒸気バスを乗り継いで黒塚家が経営しているこの病院までやってきた。
 担当する医師の話では、どうやら経過は良好らしい。医師はレポートを書きたいといっていたが、聖亜がにらみつけるとすぐに撤回した。自分の唯一をモルモットのように扱われたのだ。怒るのは当然だろう。
「そ……か。ならまだお前の子供を生むチャンスは残ってるわけだ」
「こ、子供!?」
「なにを驚いている。女であればいとしい男の子供を生みたいと思うのは当たり前だろう。ま、お前は私の唯一なんだし、それぐらい要求してもいいはずだ」
「そうだな……けど、子供か。今まで考えたこともなかった」
「お前な……あれだけ中で出しておいてそれはないだろう? と言うか普通あれだけ出せば子供は生まれると思うんだがな」
「それは……ごめん、たぶん俺の方に子供を作る能力が欠けてるからだと思う」
 そう呟くと、聖亜は準の胸に顔を埋めた。準は愛しい少年の頭を、よしよしと子供のように撫ぜた。
「まあ、今すぐと言うわけじゃない。それよりすまない。私のために何か危険なことをしているのだろう?」
「別にいい。それに、準が入院したのは俺のせいでもあるし」
「それは……どういう意味だ」
 準の問いに聖亜はあわてて口を閉じたが、もう襲い。滑らせた言葉は出てしまった。自分の胸から少年を離し、彼にとっての唯一が真剣な表情で見つめてくる。
「それは」
「もちろん言いたくないならそれでもいい。けどな聖亜、一人で悩むな。お前の悪い癖だぞ。それに私のことなのだろう? 私にも聞く権利はある」
「……」
 準の穏やかな瞳に見つめられ、母親が子供にするように抱き寄せられ、それでも聖亜はしばらく俯いていたが、やがてぽつぽつと話し始めた。あの日であった白髪の少女のこと、人語を話す黒猫のこと、3体の人形のこと、そして、


 そして、人外の化け物のことを



 今まで誰にも言えなかった言葉が、堰を壊したように彼の中からあふれ出す。準は彼の言葉を黙って聴いていたが、聖亜が離し終わるとふうっと息を吐いた。
「……別に信じてもらえなくてもいい。頭が可笑しくなったと思ってくれて構わない。けど準、全部本当のことなんだ」
「いや、信じるよ。何年お前に連れ添ってきたと思ってる。今のお前が嘘をついているかいないかぐらい、すぐに分かるさ。いや、なんだろうな、ファンタジーだな、完全に」
「……ん」
「しかし悲劇のヒロインって柄じゃないんだけどな。寄生種か、そいつが私に植え付けられたんだな。くやしいな……お前の子種なら、喜んで受け入れるのに」
「……」
「自分を抱きしめる腕がかすかに震えるのを聖亜は感じた。おれは恐らく悲しみより怒りによるものだろう。準はこういったときは決してなかない。逆に怒るのだ。


 だから聖亜は、彼女の胸に顔を埋めながら、時折感じる冷たい滴に、気づかないふりをした。



 30分後、病院を出た聖亜はぼんやりと空を仰ぎ見た。相変わらず太陽は無慈悲に彼に降り注いでいる。腕時計を見ると、すでに13時を回っていた。
「準、少し痩せていたな」
 病室であった自分の唯一を思い出し、また彼女に話してしまったことと、彼女を巻き込んでしまったこと、何より心の中に生じた、ほっとした気持ちに、彼はふっとため息を吐いた。
「……そういや百合夫はどこまでいったんだ?」
 朝病院の前で別れた少年を思い出し、聖亜は周囲を見渡した。今日は準に対する見舞いもあるが、なにより百合夫を紹介するのが目的だった。だがこちらは少年にかたくなに拒否された。どうやら病院という場所がいやなようだ。
「ま、探してみるか。最悪市内にはいるだろう」


 広い市内の中から、人見知りの激しい少年を探す苦労を思い、聖亜は再びため息を吐いた。

 だが彼の予想に反して、探している少年はすぐに見つかった。病院の近くにある公園内を歩いていた時、聖亜は左手に軽く巻きつく糸を感じたのだ。
「……おい、頼むからこういうときぐらい鋼糸じゃなくしてくれ。簡単に左手がスパッといっちまう」
 自分も鋼糸を武器として使うが、さすがに意志を持たせることはできない。冷や汗をかきながらそう呟くが相手はどうやら待ってくれないらしい。動かなければ間違いなく左手を切り落とされるだろう。やれやれと頭を振りながら、聖亜は茂みに向かって歩き出した。


 百合夫の姿は、深い茂みの中の一番奥にあった。体を丸めて横になって眠っている。その周りには彼に暑い日ざしがかからないよう、糸による日傘が作られていた。
「やれやれ。ああ、大丈夫。何もしないよ」
 聖亜が近づくと、糸はピクリと反応した。それに両手を挙げて応えると、近くの木の下にゆっくりと腰を下ろす。
「……少なくとも、信頼はされてきたみたいだな」
 この少年とは3日前にあったばかりだというのに、もう随分と長い時間一緒にいる気がした。最初は外見と内側のギャップに驚くこともあったが、今ではそのようなこともなくなった。純粋で心が優しい少年であってくれればそれでいい。
「けど、やっぱり何か引っかかるんだよな」
 確かに少年としてはだいぶ違和感がある。だが、これがもし反対ならどうだろうか。
「……ん?」
 ふと、聖亜は自分の考えがあながち間違っていないように思え、眠っている少年の顔をじっと見た。そこにいるのはやはり外見と内面のギャップが激しい醜い少年である。
「……少し確かめてみるか」
 そう呟く少年の心には何も他意はない。ただこのままでは、彼が余りにも不憫だと考えただけだ。だが


 ビュンっ!!

「っ!!」
 風を切る音と共に、彼の首筋に鋼糸が巻きついた。
「ぐ……あのな、別に確かめるだけで、別に他意はな……あぐっ」
 言い訳をしようとする彼の首を、鋼糸がぐいぐいと締め付ける。やがて、ぷつっと小さい赤い線が走った。
「ぐっ!! いい加減に、しろ!!」
 不意に、夏の暑さすら冷水と思えるほど強烈な熱風が、彼の周りを吹き荒れた。

「はあ、はあ、はっ」

 体内から炎を発生させ、絡み付いていた鋼糸を焼き尽くすと、聖亜はぜえぜえと思い息を吐いた。スヴェンとの死闘を経験した成果だろうか、彼は短期間であれば何とか自力で炎を出せるほどに成長した。だが主に出すことができるのは右手だけであり、こうやって全身から出すと死ぬほど疲労する。
 膝をついた彼に、再び鋼糸が巻き付こうと迫ってくる。だが聖亜はそれを、今度はきっとにらみつけた。
「いい加減にしろ!! お前達だってこのままでいいと思ってるわけじゃないだろ!! おれだって百合夫が誰にも受け入れられないなんていやなんだよ!!」
 少年の叫びに、彼の首に迫っていた鋼糸の束はぴたりと止まった。そしてそのままゆっくりと解けていき、少年の服の中にするすると入っていった。
「分かって……くれたか」
 息を整えて立ち上がり、聖亜は百合夫に向け歩き出した。彼は周囲の騒ぎにまったく気づかずに眠っている。それに苦笑すると、聖亜はその頬を軽くつついた。

「ったく、のんきに眠りやがって。まってろよ、今にすごく忙しくなるからな」


 愚痴をこぼす少年の顔は、だがどこまでも優しかった。









「……ねえ」
「ん? どうした?」
 ホテルに帰ってからの夕食時、ナイフで目の前のステーキを優雅に切り刻んでいた聖亜は、ぼんやりとサラダをつついていた少年の声にふと顔を上げた。
「あの、別に言いたくなければそれでもいいけど、今日、誰のお見舞いだったの?」
「ああ、そのことか」
 切り分けた肉を口に運び、ゆっくりと嚙む。その動きは水が流れるように美しく完璧だ。「ジ・エンド」にいた頃、教育熱心な仁にいろいろと教わったのだ。
「単なる知り合い……と呼ぶには少し深い関係だな。準っていって、関係は……そうだな、恋人以上夫婦未満ってところ。一言で言うと、唯一だ」
「……え?」
 一気に答えた聖亜の言葉に、少年はしばらく呆然としていたが、やがてはっと我に返り、慌ててサラダを口に運んだ。その動きは、どこかぎこちない。
「そ、そうなんだ。ちゃんと恋人いたんだ」
「……恋人と呼ぶには、もう少し深い関係だけどな」
 そう呟いて、再び食事に取り掛かった聖亜を、百合夫は焦点の合わない目でぼんやりと見つめ続けた。




「……ふん」
 食事が終わった後、少年は一人あてがわれたベッドの上で不貞腐れていた。相方の聖亜という名の少年は今大浴場に行っている。彼が今ここにいない事で、少年は少しほっとしたが、同時に胸に何かもやもやしたものを感じていた。
「何だよ……何なんだよ、これ」
 その感情を彼は知らない。どこまでも無邪気で、どこまでも純粋な彼の心の中にはじめて生まれた負の感情、それは嫉妬であった。
「ねえ、オシラサマ。何だろうね、これ」
 苦しい胸を押さえ、彼は自分の上着をぎゅっと抑えた。上着の内ポケットには2体の人形が入っている。それは人と馬の人形だ。この2体の人形は幼い頃から持っていたもので、糸を生み出すことが出来る。それは上質な絹糸であり、彼が今着ている服も人形が簡単に作り上げたものだった。

 だが、糸を繰り出し、服を作り上げる人形も、このときはまったく役に立たないそう少年は思った。
「ふん、ふん」
 いじけながら百合夫はベッドの上に散らかしたビー玉を弾いた。もらったときはあんなに嬉しかったのに、今ではもやもやを増幅する物でしかない。

ピッ カン

「……」
 と、弾いたビー玉が一際大きな玉に当たった。2人で協力して鷹の巣から見つけた宝物だった。てに持つとほんのりと暖かい。
「……もう、本当にどうしたらいいんだよう」
 そう呟いて、玉をぎゅっと握り締めたとき、




 彼の脇に置かれた上着が、ふらふらと浮かび上がった。






 オシラサマは本来蚕の神である。能力は糸を生み出すだけだが、主人が服が欲しいと願えば上質な絹糸を出して服を作り、危険が迫れば自動的に鋼糸を出して敵を切り刻む。

 しかし意識を失った百合夫は鋼糸の存在に気づいていない。それに作られる服は少年の心の奥にある望みを読み取って作られる。たとえ本人が気づいていなくとも、だ。


 それは、いじけている少年の、目の前で起こった。



「……あ、ちょっと、なにするんだよ!!」



 2体の人形が生み出したのは魔法の絹糸。それがくるくると絡まり一つの服を作り出していく。
 少年が声を荒げたのは、その服の装飾に、彼が大事にしているビー玉と大きな玉が使われたことだ。

 少年が立ち上がりかけたその目の前で、その服は出来上がった。青い生地を主体として、裾にはかわいらしいフリルがついている。服の周りにはビー玉がつけられ、胸元には一際大きな玉がブローチのようにつけられていた。


 それは、どこからどうみても、女の子用のドレスだった。


「……きれい。あ」

 その服を呆然と見ていた百合夫は、自分の呟いた言葉にはっと我に返ると、頬を染めて俯いた。そんな彼の周りを、上着から出た2体の人形がくるくると回り、まるで娘にプレゼントするように、青いドレスをその膝の上に置いた。
「……こんなの」
 膝の上に置かれたドレスを指でなぞり、少年はポツリポツリと言葉をつむぐ。
「……こんなの、似合うはずないじゃ、ないか。だって」
 服をなぞっていた指が、胸に取り付けられた宝玉に触れる。その時、その宝玉に、滴がポツリと落ちた。


「だって僕は、男の子、何だからさ」


 そうなのだ。自分は男でなければならないのだ。自分を育ててくれた人がそうい望んだのだから。だから自分は男でなければならない。そう、誰にも自分が男でないことは、知られてはならないのだ。



 けれど




 ふと、百合夫は部屋に備え付けられた、人がひとり簡単に写せるほど大きな鏡に、目を向けた。



 けれど、誰もいない今なら、この服を着てもいいのではないだろうか。
 何より、もしこの服を着て聖亜の前に出たら、彼は一体どんな顔をするだろう。

「……」

 無言で鏡の前に立つと、来ている服の結び目を解き、肩の部分をするするとはずしていく。驚くほど白い肌があらわになる。服を腕まではずすと、背中に手をやり、そこにつけてあった紐を一気に引き抜いた。


 するり



 と言う音が聞こえそうなほど簡単に、それははずれ、同時にかかっていた効果も消えうせた。


 ぼさぼさの髪の代わりに現れたのは、柿崎緑に良く似た茶髪だ。しかしその色素は少し薄い。潰れた蛙のような顔はすでになく、端正というよりは花のつぼみのように愛らしい、そしてどこか儚げな少女の顔が、そこにはあった。


 そしてなにより印象に残るのは、太陽の光をそのまま写し取ったような、その金色の瞳であった。


「こんなの、男の子の僕に似合うはず、ないのに……でも、でも一度くらい、い、いいよね」

 少年ーいや、少女が自分に言い訳するように呟きながら、そっとドレスに腕を通したとき、




「なるほど、それが本当の姿か」


「っ!?」

 自分以外誰もいないはずの部屋に、一人の少年の声が響いた。





(やっぱりこういうことか)

 聖亜は目の前にいる、呆然と鏡に映っている自分を見つめている少女を見て、そっと目を見張った。
 彼が浴場に行くといって出たのは無論嘘である。部屋を出た彼はそのまま近くの休憩場に行き15分ほど暇をつぶした後、足を忍ばせて戻ってきたのだ、
 そして彼の想像通り、その目に飛び込んできたのは、蛙のような顔を持つ醜い少年ではなく、白百合のように可愛らしい少女だった。
 だが、無論彼女の正体を知ったとしても、聖亜にどうこうするつもりはない。あの公園で思ったとおり、彼、いや彼女が周囲の人間に受け入れてもらえればそれでいいのだ。

(けどここまで変わるとなると、他の奴らに見せるのはやっぱり惜しいな)

 だが少なくとも北条と柿崎には知らせるべきだろう。2人とも少女がまだ少年の姿だったころから差別しなかった。特に緑は彼女のよい友達になってくれるだろう。

 自分の考えを伝えようと、その肩に触れようとした、その瞬間



バシッ


「なっ!?」



少女はその手を振り払い、部屋の外へと駆け出していった。









 見られた






 誰もいない場所へ涙目で向かっていく少女の頭にあるのは、先ほど突き飛ばした少年のことではなく、青いドレスのことでもなく、その言葉だけがぐるぐると渦巻いていた。




 誰にも、誰にも見られてはいけなかったのに









『誰にも見られてはいけないよ』


 それが、彼女を半月前まで育てていた老婆の口癖だった。

 少女が半月前まで住んでいたのは、ここから遥か東北の山奥にある遠野と呼ばれる里を、さらに超えたところだった。山奥になぜか一つだけ建っている古い屋敷、その中で彼女は一人の老婆と共に暮らしていた。
 両親はいない。いや、それ以前に彼女には両親とは何なのかすら分からない。なぜなら彼女は物心ついたときには、すでに薄暗い土蔵の中で暮らしていたからだ。

『外に出てはいけないよ。誰かに見られてしまうからね』

 物心ついたときから言われ続けた言葉のせいで、少女は屋敷の外には老婆が語る化け物がいると思い込んでいた。

『ここにはお前さんの遊び道具がたくさんある。さあ、どれでも好きなものでお遊び』

 老婆の言うとおり、土蔵の中には手まりや人形、おはじきなど女の子が好きそうなおもちゃがたくさん眠っていた。

 だが彼女が最も喜んだのは、おもちゃが入っていた箱にへばりついていた、2体の古い人形であった。


 彼女がこの2体にオシラサマという名前をつけたのは、人形の形が馬と人だったからである。それは老婆の昔話に出てきた、蚕の神様に似ていた。

 見つけた当初は単なる人形と思った普通に遊んでいた彼女は、だがある時目にすることになる。人形の周りに、上質な絹糸が散らばっていたのである。

 祖母事に気づいたとき、少女はすぐに老婆に知らせようとしたが、それを邪魔したのは当の人形達だった。老婆が着て彼女が知らせようとすると、その口をそっとふさぐのである。
 なぜああしたのか、それは今でも分からない。ただ老婆と共に暮らし、不安な点がまったくないとすると、そうではなかった。

 彼女は一日に何度か外に出て遊んでいた。といっても屋敷の庭がせいぜいであり、遊ぶこともあまり出来ないが、それでも土蔵の中にはないものがそこにはあった。だが、同時に誰かに見られているような感覚に襲われた。そしてそのうち、彼女は外に出ることをやめ、土蔵の中に引きこもるようになったのだ。




 老婆が重い病気で倒れたのは、そんなときだった。






『誰にも見られてはいけないよ』

 少女を家の中に入れた老婆は、彼女に繰り返しそう言うと、枯れ木のような手でそっと撫ぜた。

『私が死んだらお前はここを出なくてはならなくなる。けれど安心おし。私の友人にお前の事は頼んであるから。けど』

 くぼんだ両目に異様な光を放ちながら、老婆は少女の腕をがちりと掴んだ。

『けど誰にもお前の姿を見られてはいけないよ。私が死んだら、そこの箪笥の一番上にある服を着なさい。そうすればお前の姿は誰にも見られないから』

 それだけ言うと、老婆は首をかきむしって、すさまじい表情で事切れた。


 老婆が死んだ後、少女は泣いた。それこそ一日中泣き続けた。老婆が死んだことが悲しかったが、それと同時にこの小さな世界で一人ぼっちになったことがつらかったのである。


 泣き疲れて眠り込んだ少女の耳に、ききっという聴きなれない音が聞こえたのは、次の日の朝だった。


 目覚めた少女が土蔵の窓から外を覗いたとき、そこにあったのは巨大な黒い鉄の塊だった。それはリムジンと呼ばれるものであったが、車を知らない彼女には巨大な怪物に見えた。

 だから、リムジンから女が出てきたとき、少女は彼女を人とは思わず、化け物だと思った。黒服に身を包んでいたことが、余計に彼女の恐怖心をあおったのである。

 だから少女は女が入ってきた時、咄嗟に老婆から託された服を着た。それとほぼ同時に女が自分の姿を見た。薄暗い部屋の中に一人だけしゃがみ込んだ、醜い少年の姿を。

『お迎えにあがりました』

 女は少女の変わり果てた姿に眉一つ動かさずそう答えた。なんでも自分の主人が友人に頼まれ、自分に迎えに行くように命じたらしい。

『ですが申し訳ありません。主人はあなたに一人で自分のところに来るようにとの事です。ですので駅までは送りますが、あなたにはそこから一人で旅に出てもらいます。それが出来ないのなら、ここで朽ち果てるのもまたよいでしょう』


 それは残酷な選択だった。今まで一度も屋敷の外に出たことがない少女が、容易に外に出られるはずがない。またここに残っていたとしても、自炊能力のない彼女なら、一週間程度で死ぬだろう。


 思い悩んだ少女は、苦難の道を選んだ。







 彼女は知らない。


 彼女が黒服の女と共に屋敷を出たわずか数分後、屋敷が風化し、何百年も使用されない廃屋になったことを。




 彼女は知らない。



 それから一時間後、廃墟と化した屋敷の前に別のリムジンが止まり、中から屈強な男達に守られた脂ぎった好色そうな男が現れ、呆然と立ちすくむことを。




 そして彼女は知らない。




 今まで親のように慕っていた老婆が本当は自分を愛好家に売ろうと考えていた強欲な老婆であることを。







 その全てを知らない少女は、老婆の言葉に縛られて逃げる。彼女を守るように、あるいは隠すように、月は雲に覆われ光を失い、周囲は本物の闇に包まれた。




 その闇の中、一羽の鴉が音を立てずに飛び去っていった。








「あらあら、女の子を泣かせるなんて、聖ちゃんもまだまだねえ」
 式が映し出す光景を見て、神楽はくすくすと笑った。
「……それで? 彼女は一体何者なのです? あなたの側女であるヨモツシコメを差し向けてまで手に入れる価値があると言うのですか?」
 神楽の前で優雅に紅茶を飲んでいた青年が、ふと尋ねた。
「あらあらシュウちゃん、彼女に興味があるのかしら。でも駄目よ。彼女は聖ちゃんにプレゼントするんですもの」
「プレゼントですか。ですがどうやら2人の間には亀裂が入ってしまったようですね」
「あら、それは大丈夫よ、シュウちゃん」
 そう答えると、彼女は皿に盛られたクッキーを上品に口に入れた。

「だって彼女にとって聖ちゃんは外に出て……いいえ、恐らく物心ついてから始めて自分を受け入れてくれた人だもの。今はまだ混乱してるけど、心の奥底ではもう彼に惹かれているのよ」
「はあ、そうですか。しかしどうやって彼女のことを知ったのです? 東北の奥地、しかもほとんど知られていない場所でしょう? さすがのあなたでももっと時間がかかると思っていたのですが」
「ひどい事いうわねえ。まあ否定はしないわ。実は競売にかけられていた彼女を不憫に思った私の古い友人に頼まれたのよ。彼女を守って欲しいって」

 その時、彼女の笑みにふと嘲りが生まれた。

「正直言って呆れたわ。何せ本物の、しかもこの世に残った最後の“座敷童子”を単なるロリコン共に売ろうとしていたんですもの」
「それはそれは。ところで話は変わりますが、遠野の白き姫君とは別の、もう一人の姫はどうなさるおつもりで?」
「もう一人の姫? ああ、葵ちゃんの事? あの子はわがままなんだから。昨日のお見合いも結局壊してしまったのよ。もう、聖ちゃんに押し付けようかしら」
 苦笑する神楽を見て、男はゆっくりと首を振った。
「やれやれ、姫二人を一人の少年にですか。それほど聖亜という少年を気に入っているのですか?」
「あら、もちろんよ。だってあの子ほど愛しい存在はないもの。だってあの子は破壊と慈悲との混沌なんだから」
「破壊と慈悲との混沌、ですか」
「そう。女子供にはとっても優しく、一度内側に引き入れた者にもとことん甘いくせに、目的を達成するためなら百人殺しても眉一つ動かさない。ふふ、素晴らしいわ。あの子にお姫様達を与えたら、どんな未来が待っているのかしら」
「少し悪趣味ですよ、神楽様。まあいいでしょう。こちらの方の準備も完了しております。器となる人間も見つけましたし」
「あらそうなの。ま、そんなことはどうでもいいわ。話はこれでお終い。私はもう休むわよ。あなたも休みなさいな」
 小さくあくびをすると、神楽はゆっくり席を立った。それを見送るように目礼すると、シュウと呼ばれた男は冷めた紅茶をゆっくりと飲み干した。




「……どうしろってんだ、くそったれ」
愚痴をこぼしながら、聖亜は薄暗い廊下を駆けていた。
「そりゃまあ確かに少し強引過ぎたよ。けどああしなきゃ一歩も前には進めな痛っ
!! 痛いって、おい」
 空中に浮かぶ人形にぺしぺしと頭を叩か、聖亜は思わず叫び声を上げた。
頭を手でかばっても、今度は体を叩いてくる。なんだか地味に痛い。
「分かった。探すよ。探すって。ったく、女の子の隠れる場所なんか分からないよ」
 ぶつくさと呟きながら、それでも聖亜は外に向かって走った。実は中は今まで探していたのだが、結局見つかっていない。ならやはり外だろう。彼女はかなりの怖がりだ。きっとすぐ近くにいるに違いない。
「……」
 正直こうやって探すより戻ってくるのを待ったほうがいいとも思ったが、彼女の壁を壊してしまったのは自分だ。なら最後まで面倒を見なければならないだろう。
「いやまて、最後までって何だよ最後までって」
 自分の考えに聖亜はさっと顔を赤くした。これでは結婚するようなものではないか。と、そんな彼の邪な考えを察したのか、人形の攻撃が激しさを増してくる。
「いやまて、冗談抜きで痛いって。分かった。へんな考えはしない。だから悪かったって!!」
 人形にせかされながら外に出ると、聖亜はまず茂みの中を探してみた。彼女は自然の中にいるのを好む。昼間見つけたのも茂みの中だった。

「……」

 はたして、今回少女を見つけたのは、ホテルの裏にある巨大な木の根元だった。

 泣きつかれたのだろう、頬に涙の後を残し、青いドレスをしっかりと抱きしめながら、少女は眠っていた。

 そんな少女を守るように、あるいは隠すように、彼女の周りには無数の蛍が光を放っていた。その光の中、聖亜は彼女の隣に静かに腰を下ろした。
「まったく、心配させんな」
「……ん」
 少し怒ったような口調で、だが本当に優しい目で少女を見ると、聖亜は涙の跡にそっと触れた。
「うん……あにゅ」
 彼の指にくすぐったそうに身を捩ると、偶然だろうか、彼女の頭が少年の膝の上に乗った。
「……」
 その様子に優しげな笑みを浮かべると、聖亜はそっと少女の髪を撫ぜ、ゆっくりと空を見上げた。月はまだ曇り空に隠れて見えないが、代わりに無数の蛍が彼らの間を飛び回っている。




 その幻想的な光景を、聖亜は少女を守りながら、いつまでも眺めていた。









 続く



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校?  幕間    鬼神の呼び声
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:cd3a5d09
Date: 2012/03/03 16:20


 闇の中、男は一人、座して何かを待っていた。外見はよく見えないが、ただそこにいるだけで周りの者を震え上がらせるほど、その身体は“覇気”に包まれていた。おそらく、気の弱い人間なら、彼の前に立っただけで失神するだろう。

 さて、どれ程の時が過ぎただろうか。男は閉じていた目蓋をかすかに震わせ、ふっと薄目を開いた。遥か彼方から、何かの気配がこちらに向かってくる。おそらくそれは、男がここ数ヶ月の間、待ち望んだものであろう。

 やがて、かつかつと床を踏む靴の音がして、彼の前に一筋の光がともった。その光は徐々に大きくなっていき、やがて男の鋭い外見を映し出す。

「……」

「死刑囚№1889、出ろ」

 光の中から聞こえてきた感情のまったくない声に、男はすっと立ち上がった。同時にガチャガチャと音がして、彼に向かって10以上の小銃が向けられる。
 その銃口は、微かにではあるが震えていた。

-まるで、手足を鋼鉄で作られた枷をはめられ、何日も食事はおろか、水すら飲んでないこの男を、心底恐れているかのように-

 
 男がゆっくりと歩き出すと、銃口を持った男達-完全武装をし、フルフェイスで顔を隠した特殊刑務官達は、その動きにあわせてじりじりと後退していった。まだ若い刑務官などは、フェイスの中でがちがちと歯を鳴らす物や、中には引き金に指をおこうとしている者までいる始末である。
「死刑囚№1899、今日この日はわれらにとって人生最良の日となるだろう。なぜなら貴様の顔をもう二度と見なくてすむのだからな。歩け!!」
 刑務隊長の怒鳴り声に、死刑囚は静かに男を見つめた後、ゆっくりと歩き出した。

「……轟(とどろき)大佐ぁ!!」
 男がある牢屋の前に通りかかったとき、その牢屋の扉がわずかに震え、男の名を呼ぶ声が辺りに響いた。
「轟大佐ぁ!! 長い間一人では待たせません!! 我等もすぐに彼岸の彼方へと参ります!! 正義の徒である我「ええい、黙らせろ!!」……ぎゃああああっ
!!」
 隊長の怒鳴り声に反応して、銃を持った刑務官が二人、その牢屋の中に入っていく。やがて、ドゴッ、ボギッ、と肉を叩く音と、骨を折る音が聞こえ、辺りに濃い血の匂いが漂った。
「……」
「ふん、自分を慕うかつての部下が痛めつけられているのに眉一つ動かさず、息一つ乱さないとはな。さすがは皇民1000人を虐殺した冷酷鬼だけのことはある」
「……」
「ふん、言い返す気力すらないか。本来ならば貴様に殺害された1000人の家族全員に生きたまま八つ裂きにされても文句が言えぬところを、絞首刑で済ませるのだ。感謝してほしいものだな!!」
 隊長が発する罵声にも、男は眉一つ動かさず歩き続けた。その様子に隊長がチッと舌打ちしたときである。長い廊下の先に、目的地である巨大な鋼鉄の扉が見えてきた。その扉の左右には、機関銃を持った刑務官が4名待機している。
「さあ着いたぞ冷酷鬼。貴様が生きているうち、最後に入る部屋だ……開けろ」
 隊長の命令に、死刑囚に銃を向けていた若い隊員がさっと敬礼し、扉の隣にあるパネルのようなものを操作する。すると、鋼鉄の扉はギギギッと音を立てて左右に開いた。
「さあ早く入れ、正直貴様の顔なんぞもう一秒たりとも見たくはないのだからな」
 隊長に背中を蹴られ、その衝撃で倒れこむように部屋の中に入った男の背後で、とたんに扉ががしゃんと閉じた。

「……」

男が見つめる部屋の中央には、おそらく何百人という数をあの世へ送ったであろう、巨大な首吊り台があった。
「ようこそ、死刑囚№1899、本名轟雄一郎。元自衛軍大佐にして、特殊部隊隊長であった貴様が、なぜクーデターなど企てた? なぜ無辜の民を1000人も虐殺した? 死ぬまでにせめて言い訳ぐらい聞いてやろう」
 中央の男が目配せすると、彼の隣にいるまだ若い男が何かを指示する。すると、死刑囚の、轟の口を覆っていた枷がガチャリと外れた。
「……」
「もう一度聞く、何故だ?」
「…………ない」
「何?」
 不意に、轟はポツリと呟いた。だがそれはどこまでも乾いた、感情のまったくない声だった。
「無辜の民など、この国にはいない。いるのはただ、腐った大地に生えた木からなる、腐った果実に他ならない。それを叩き潰すことに、誰が罪悪感など感じるものか」
「何だと!!」
 轟の言葉に、先ほど指示を出した若い男が激昂して防弾ガラスに張り付いた。彼は等々力が起こしたクーデターにより妻子を虐殺されていた。
「今の皇国は、奴ら……黒塚家によって実質的に支配されている。このままではこの国の破滅は近い。それを防ぐためには、一度血を流すのがよいと考えたのだ」
「貴様、殺してやる!! この世で一番残酷なやり方で、苦しみながら殺してや「待て」……し、しかし中将閣下」
激昂し、今にも部屋を出て行こうとした男を、中央にいる初老の男が止めた。
「貴官の気持ちはわかる。だがこの男が絞首刑により死刑となることは、すでに最高裁により決定している」
「……はっ」
 彼の落ち着いた声に、男は気落ちしたように肩を落としたが、それでも何とか敬礼し、元の場所に戻っていく。憎い男の最後を見届けるために。彼の行動に満足そうに頷くと、中将の地位にいる男はさっと右手を上げた。
 
 それが合図となったのか、部屋の中で轟に銃を向けていた刑務官のうち、3名がさっと敬礼し、彼の身体をがっちりとつかみ、処刑台へと引きずっていく。
「轟大佐、せめてもの情けだ。何か最後に言い残すことはないか?」
「……願わくば」
 首に縄をかけられる中、轟はポツリと呟いた。
「…………願わくば、我の死をきっかけとして、民が目覚め、この腐った国が再生されんことを」
「…………やれ」


 中将の声に応え、首吊り代の床が、ばかりと開いた。


 

 轟は自分の首がぎりぎりと締め付けられる感覚に耐えていた。死は恐れていない。だが幸か不幸か、極限まで鍛え抜かれた彼の身体は意外に軽く、首を絞められてもまだ死ねずにいた。
(……)
 激しい苦痛の中、轟は思い出す。病弱であり、腹の中にいる赤子と共に車に轢かれて死んだ妻のことを。
(……まあ、いい。これで、妻たちの所へ逝ける)
「本当にそう思っているのかい?」
 不意に、ぼやけていた頭が強引に覚まされた。
「……なに?」
 気づいたとき、轟は暗闇の中にいた。地に足が着いている感覚はない。それに今まで感じていた苦痛が消えている。わけがわからないが、幾度も死線を潜り抜けてきたためか、恐怖は感じられなかった。
「……」
「もう一度聞くよ? 君は本当に奥さんと子供の所にいけると思っているのかい?」
 警戒していたためか、いきなり出現した気配に轟は十分に反応することができた。半ば反射的に振り返り、相手の首をつかむ。そのまま引きずり倒そうとしたところで、とどろきはふと眉をしかめた。手ごたえがない。
「さすがは冷酷鬼。まったく動揺していないとはね」
 被っている真っ赤なフードの中で微笑みながら、相手はふふっと微笑した。
「……何者だ?」
「僕が何者なんてどうでもいいだろう?」
 相手は、男か女か区別のつかない声で囁く。男にしては高く、女にしては低いその声は、轟の中の何かを刺激する力があった。
「君は本当に奥さんと子供の所に逝けると思っているのかい? 1000人の血にまみれた手を持つ君が? 君が行くのは地獄に他ならないよ……今のままでは、ね」
「……うあ」
「ねえ、君は本当にこのままでいいのかい? このままでは駄目だと自分を犠牲にしてまで戦ったのに、たとえこの国が一度滅びかけようとも、その下から芽が出ることを望んで殺し続けただけなのに、地獄に行くなんて」
「……うああ」
「それに、まだ復讐もしていないというのに!!」
「うああああああああっ!!」
 そうだ。自分がクーデターを起こしたのは単なる私怨からだった。妻を轢き殺した男は黒塚家の遠縁に当たる者で、裁かれることはまったくなかった。だから彼の起こしたクーデターは、黒塚家に対する復讐でしかない。
「けど安心していいよ。君は今のままでは確かに単なるテロリストだけど、この国を蘇らせる事ができれば救世主として天国に逝ける。さあ、君は望むだけでいい。万を殺す力を、大地を破壊するだけの技を!!」
「……い」
「ん? 何だって?」
 俯き、肩を震わせる轟に、相手はそっと寄りかかった。
「足りない。殺したりない。犯したりない。壊したりない。まったくもって足りない。新たな国を作るには、新たな秩序を作るには、俺の乾いた心を満たすには!!」

 轟は絶叫した。それは、絶望にも、そして欲望にも満ちた声だった。

「ふふ、その欲望、実にいいね。では君に与えよう。すべてを破壊する、巨大な鬼の力を」
 微笑みながら、相手は一度離れると、男の額に愛しげに接吻した。途端に、彼の意識が何物かに押し潰されていく。轟は一瞬耐えることができたが、やがてその巨大な力の前に、彼の意識は粉々に砕け散った。

「……やっと死んだか」
 将校達が退席した部屋で、若い男はほっと息を吐いた。

 とどろきは、首を絞められながら、だが30分以上も耐えて見せた。その途中で将校達は退席してしまったが、彼はただ一人、憎む男の最後を確認するためにこうして残っていた。
「……しかし、こうも長い間抵抗するとはな。さすがは極限まで鍛え上げられた兵士だけのことはある」
 だが、その最高の兵士も今はもう何も言わない死体でしかない。何か虚しさを感じた男は、刑務官達が死体を降ろすのを横目で見ながら退席しようと後ろを向いた。

 ビチャリ


「ん?」
 
 その時、何かが防弾ガラスに当たった音に、男は反射的に振り返り、そして見てしまった。


-刑務官の、上顎から“上”の部分が、防弾ガラスにべチャリとへばり付いているのを-

「な、ななななな、なんだこ」

 何だこれは、そう叫ぼうとした男の目に、右手に刑務官の死体を持った“それ”が、防弾ガラスを割って飛び込んでくるのが見えた。




「……」
 自分が踏み潰した男を、“それ”は無表情に見つめていた。“それ”の外見は、先ほど死刑になったはずの轟に瓜二つである。違う所があるとすれば、額にどす黒い血の色をした球体がはまっているのと、そしてもう一つ、頭に2本の角が生えている事ぐらいか。その姿は、鬼と呼ばれるにふさわしい。

「……現世へのご降臨、お喜び申し上げます。陛下」
「……何者だ、女」
 鬼は、一瞬で自分の背後に現れた、血の色のフードを被った相手に向かって、さして動揺することなく呟いた。
「はい。かつてあなた様にお仕えした者の末裔であります。どうぞ再び刀を手に取り、この世に破壊という名の秩序をお築きください……鬼神、悪路王陛下」
 悪路王-そう呼ばれた鬼は、何かを懐かしむかのように、血の色をした目を細めた。
「さよう、我が名はアテルイ。異名を悪路王。女、貴様が何故破壊を望むかはわからぬ。だが良いだろう、我を呼び覚ましたということは、再び騒乱の時が訪れたということだ。他の者は? 目覚めている者達はどこにいる?」
「はい。現在目覚めている方々は、鬼神、酒呑童子様、地獄の番人、牛頭馬頭様、そして鬼女であられる紅葉様です」
「ふん、そうか。酒呑の奴がな……いいだろう、“あのお方”の復活まで、存分に暴れてやろうではないか。女、貴様の名は?」
「はい……鬼神の導きを祈る鬼導衆が最高幹部、天華と申します。どうぞお見知り置きを……陛下」



 フードから除く彼女の髪は、アテルイの瞳同様、真っ赤に染まっていた。







                                   続く



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第三幕 魔狩人は海より来(きた)る 前篇
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:bc68e621
Date: 2015/02/26 18:12

 森の中をさまよっていたヘンゼルとグレーテルは、




 森の奥でお菓子のお家を見つけました。


 
 喜んでお菓子を食べ始めた二人でしたが、



 実はそこは恐ろしい魔女のすみかだったのです





 ~中略~





 こうして、魔女を倒したヘンゼルとグレーテルは、






 色とりどりの宝石や真珠をもって




 お父さんとお母さんがいる我が家へ向かって歩き出しました


               (グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」)






「幽霊船?」

「そ、幽霊船幽霊船」

 喫茶店「キャッツ」のカウンター席に座っている秋野茂の前に、彼が注文したイチゴパフェを置くと、ヒスイは微かに眉をひそめた。



 夏真っ盛りのこの時期、太刀浪市の玄関口である空港周辺の喫茶店は、どこも涼しさを求めて入ってくる客の姿で一杯だった。


 中でも「キャッツ」に入ってくる客の数はかなり多い。可愛らしいウエイトレスが多数いることも理由の一つであるが、ほかにも手ごろな値段でレストラン顔負けの料理が出てくる事、粋なマスターの面白い話などが噂となり、県外からわざわざやってくる客もいるほどだ。そのため普段は人付き合いがあまり得意でない理由から厨房で皿洗いをしているヒスイでさえ、休みを取って彼女と旅行に行った(ということになっている)少年の代わりにウエイトレスとして忙しく働いている。まあ、その分時給も上がっているのだが。


 そんな「キャッツ」にヒスイの同級生である秋野が雑誌を手にやってきたのは、夕方になり客足が収まった時だった。



「確かに夏に“そういう”怪談話が出てくるのは昔からだけど、それって十中八九眉唾物だろう?」
「う~ん、まあそりゃそうだけどさ。実際幽霊船の記事が載っているこの雑誌も三流のゴシップ記事だし」

 秋野自身も記事を信じているわけではないらしく、雑誌をわきに置くと、スプーンを手に取り目の前のパフェに取り掛かった。実はその記事が“本物”であることを知っているヒスイは、一瞬その事を言ってしまおうかとも考えたが、もちろん言えるはずもなく、少年が置いた雑誌にちらりと目をやっただけに留めた。雑誌の表紙には、「夏の怪奇特集」と赤文字で書かれており、その下に霧が立ち込める海上に、ぼんやりと白く光る船の影があった。

「……とにかく、そろそろ営業時間は終わりだ。それを食べてさっさと帰れ」
「分かったよ。ったく、聖達がいないと暇で暇でしょうがねえ」

 ぶつくさ言いながら、パフェを口に運ぶスピードを速めた秋野を不機嫌そうに睨んでから、ヒスイは空の容器を下げるため、他の席へと向かっていく。

 そんな彼女の胸元で、鍋の形をしたペンダントが一つ、微かに揺れた。


「……はぁ」
 


 バイトからの帰り道、ヒスイはふと息を吐いた。

『どうしたヒスイ、ため息など吐きおって』

 そんな少女をからかうように、彼女の胸元にあるペンダントから低い声が響いた。

「……なんでもない」

『その返答は答えにはおらんぞ。まあ、現状を考えればため息の一つも吐きたくなるか』
「分かってる。分かってるから少し黙っていてくれ」

 太刀浪神社の境内を通り、脇道にある小さな橋の上で立ち止まると、ヒスイは不意に橋に寄り掛かった。「キャッツ」のマスターからもらった土産が入った袋を地面に下し、沈んでいく夕日をぼんやりと眺める。

 いま彼女を悩ませているのは、4つの出来事だった。まず前回の戦闘で逃亡したマモンの行方がわからないことである。本来ならすぐ探索し、今度こそとどめを刺さなければならないのだが、日本皇国は高天原の勢力下にあり、ヒスイ達では自由に探すことはできない。

 次にスヴェンの事である。先の戦いで高天原最強の呪術師にして三雄の一人、“雷神の申し子”の異名を持つ鈴原雷牙にぼこぼこにされた少年は、あまりに傷がひどいため本部への輸送が困難と判断されたため、新市街にある病院に入院している。手当てを受け、貫通された肩の傷以外はほとんど完治しているらしい。

 この2つに関しては、ヒスイはあまり深刻に悩んではいない。確かにマモンの行方が分からないのは問題ではあるが、いざとなったら高天原の連中に丸投げしてしまえばいいし、スヴェンの事も彼の婚約者として心配はしているが、命に別状はない。だが、問題は次の2つだった。



 そのうちの1つは自分個人の問題であるため、他人に知られることなく自分だけでけりをつけることはできる。だが、最後の事だけは、彼女だけではどうしようもないだろう。





 最後の問題、すなわち新たな敵の到来だけは。




「……魔狩りの兄妹、か」






 その女がやってきたのは、聖亜が出雲に旅立った翌日の事だった。いつも通り朝の鍛錬を終了し、風呂に入って軽く汗を流している時、ヒスイは彼女の従者である小松が、来訪者を迎える声を聴いた。彼女が出ているなら、おそらくは自分の関係者だろう。
もう少し汗を流したかったが、どうやらそうもいかなくなったようだ。


「や、おはようさん。2日ぶりだねえ、ヒスイ」
「……あなたか、エリーゼ」


 彼女の予想通り、玄関で小松と話していたのは彼女の所属する組織“魔女達の夜”に所属する、つまりは同僚である紫色の髪を持つ女、エリーゼであった。気さくな性格の彼女だが、それでもヒスイは警戒を解くことができない。当然だろう、彼女とは2日前殺しあったばかりなのだから。
「何の用だ? いや、そもそもなぜあなたはここにいる? あなたは鈴原氏から日本での活動を禁止させられたはずだが」
「はん、それは“魔器師”としての活動だろう? ただの観光客として日本にいることの何が悪いっていうんだい。もう少し頭を柔軟にしなよ、“絶対零度”」
「……」

 言い負かされ、押し黙ったヒスイを見てにやりと笑うとエリーゼはずかずかと客間へと入り、そのまま腰を下ろした。

「あの、よろしいんですか? ヒスイ様」
「仕方ないだろう。小松、すまないがお茶を2つ用意してくれ」
 小松にそう頼むと、ヒスイはため息を吐き、エリーゼの待つ客間へと歩き出した。



「それで? いったい何の用だ?」
「……さすがに殺しあった相手に敬語を使えとは言わないけど、もう少しその態度を直したらどうだい?」



 エリーゼの向かい側に座り、そう尋ねるヒスイに向かってエリーゼは呆れたように肩をすくめて見せた。




「しょうがないだろう。こういう性格なんだ」
「まあ、いいけどね。今日来たのはあんたに3つほど伝達事項があるためさ。まず1つ目、スヴェンの容体だが、最後の一撃で貫通した肩以外の傷はそれほどひどくない。まあ、さすがに肩は当分使い物にならないけどね」


「……そうか」


 彼女の言葉に、ヒスイは安心したように息を吐いた。先日敵対し、あわや殺害される寸前までいったが、スヴェンは自分の婚約者であり、それ以前にまだほんの子供なのだ。

「ま、そのうち見舞いにでも行っておやり。さて、2番目の要件だ。あんたにかかっている、禁術を使用したことに対しての懲罰だが、ひとまず猶予を与えることになった。高天原の連中が出張ってきたからね、戦力は多いほうがいい。という上の判断だ。けど罪は罪だ。今度罰として何か仕事をしてもらうから、そのつもりでいておくれ」

「分かった……礼を言う」

「ああ、構わないよ。ま、さすがに禁術を使ったぐらいでそんな思い罪にはならないさ。あんたを殺害しようとしたのだって、ほとんどスヴェンの独断でやったことだしね。さて、最後何だが」

 と、不意にエリーゼは口を閉ざした。明朗活発で、いつもはきはきとした口調で話す彼女が口籠るのを見て、ヒスイもすっと背筋を伸ばした。恐らくこれが本題だろう。



「……魔狩りの兄妹の姿が確認された。しかも、ここ太刀浪市へ向かっているらしい」






「……え?」

 エリーゼが重々しく口にしたその名を聞いて、ヒスイはぽかんと口を開けたまま、ぼんやりと彼女を眺め、

「魔狩りの兄妹が!? まさか」

 そして、声を張り上げて立ち上がった。その大声に、隣の座布団の上に寝そべっている黒猫が、ピクリと薄目を開けてヒスイを見たが、その視線に気づいた少女が黒猫をちらりと見た時、すでにその眼は閉じられていた。


 そのため、ヒスイは気づかなかった。魔狩りの兄妹の名を聞いた黒猫の、その紫電の瞳の奥深くに、強烈な殺気がこもっていたことを。




 魔狩りの兄妹、それは魔器使キラーと呼ばれるエイジャである。嘆きの大戦後に台頭してきたエイジャであり、現在に至るまでおよそ300を超す魔器使を屠ってきた。そして問題なのは、その異名以外彼らの名前も、姿さえも何一つ不明ということである。


「魔狩りの兄妹……私達魔器使にとって最も恐ろしいエイジャか。けどそれほど悩まなくともいいんじゃないか? ここに来るのならば、私達が戦う必要はない。それこそ高天原の連中に対応してもらえばいい。ここには三雄の一人、鈴原雷牙がいる。それほど苦戦するとも思えないが」
「それはそうなんだけどさ……実はここに来る前、彼らの事務所に立ち寄ってね……これを渡されたよ」

 ちっと舌打ちしながら投げ渡された紙切れに書かれている文字を読み、ヒスイは唇を強く噛みしめた。
「……これは、本気なのか?」
「そこは正気なのか、と問うべきだろうね。あいつらのことだ。こちらの戦力の消耗か、あわよくば共倒れでも狙っているんだろうさ」
 ヒスイが覗き込んだ紙切れには長々と文章が書いてあったが、要約すると彼らが言いたいことはただ一つだ。すなわち



『自分達はまだこの町に来たばかりで戦う準備ができていない。今回はそちらに先手を譲ってやる。もちろん手出しはしないから、好きにやってくれ』




 と、いうことだった。


「とりあえず、今わかっていることを整理したいが……まず何といっても、魔狩りの兄妹がこちらに向かっているというのは本当なのか?」
「ああ、それは間違いない。何せ“婆さん”の占いだからね。知ってるだろう、あの人の占いの的中率」
「……なら、本当なのか」

 ヒスイは深々と溜息を吐いた。別に死ぬのが怖いわけではない。死ぬ覚悟など、魔器使になる前にできている。彼女がため息を吐いたのは、天敵と死闘を繰り広げることへの恐怖からではなく、自分が死んだら、この家の主である少年に、二度と会えなくなるだろうなと考えてしまったからだ。
「それで、奴らはいったいどうやってここに来るつもりだ? 太刀浪市はただでさえ広いうえに、海に面しているからな。どのような手段を使ってここに来るかが分からなければ、防ぎようがない」
「ああ。それも“婆さん”の占いに出てたらしいんだけど……ヒスイ、あんた“略奪者”って知っているかい?」
「略奪者? いや、知らないが」
「……青界の略奪者の事か?」

 不意に、ヒスイの隣で小さな声がした。ヒスイとエリーゼが目をやると、黒猫が小さなあくびをしてから、すくりと起き上がるのが見えた。

「キュウ、知っているのか?」
「うむ、青界の略奪者は主に中東のペルシャ連邦を拠点として活動するエイジャの組織でな、他の組織“緑原の征服者”や“黒翼の誇り”ほどの巨大勢力ではないが、白く巨大な船を所有し、北欧同盟の輸送船を何隻も沈めている。そうか……奴らの船で来るか。ヒスイ、エリーゼ、覚悟しておけ。奴らは北欧同盟以外とは積極的に戦おうとはしないが、もし戦おうとすれば必ず魔狩りの兄妹より厄介な相手になるぞ」

 黒猫の紫電の瞳ににらまれ、女達は静かに頷いたのだった。









『何を呆けているのだ、ヒスイ』


 橋の上で、地下から排出される蒸気に隠れ、段々見えなくなっていく夕日を眺めていたヒスイは、胸元から聞こえてくる声にふと我に返った。
「……何でもない、行くぞ。早く帰って魔狩りの兄妹に備えなければならないからな」
『ふん、そのように呆けた顔で備えなど出来るものか、“小娘”が』
「小娘か……ひどいな」
『戦いに備えなければならない時に呆ける者など小娘で充分よ。魔狩りの兄妹の事で悩んでいるだけではないな。大方、あの小僧の事もあるのあろう』
 キュウのからかいの言葉に、ヒスイはさっと頬を朱に染めた。
「そ、それはちが」
『いいや違わぬさ。ヒスイよ、我が愛しい未熟な小娘よ。今そなたの胸に渦巻いているのは欲望だ。その欲は人が持つ欲望の中で、最も醜い物の一つであるが、同時に最も尊いものだ。せいぜい大切にするがいい』
「……」
『それと、我は明日朝早くに出かけるが、そなたも白髪の小僧の見舞いに行ってやるといい』
「え? キュウ、明日どこに行くんだ?」
『……』
「……ああもう!!」

 言いたいことだけ言うと、ペンダントは沈黙した。もはや何も語らないペンダントをちょんと突くと、ヒスイは聖亜が帰ってきたら、少しだけ話かと思いながら、完全に蒸気に覆われた空の下をゆっくりと家路についた。




「ふうん、魔狩りの兄妹ねぇ」




 時間は少し遡る。その日の朝早く“雷神の申し子”の異名を持ち、三雄の一人でもある鈴原雷牙は、新市街にある事務所の二階で、相棒であり恋人でもある水口千里が提出した書類を流し読みすると、それをぽいっと目の前のテーブルの上に放り投げた。

「はい。魔狩りの兄妹は魔器使キラーとも呼ばれているエイジャです。その名の通り300名の魔器使を殺害しており、そのためエリーゼさんもこちらに助力を頼んできたのでしょう」
 千里の声に雷牙は現在1階で彼の返事を待っている美女の姿を思い浮かべ、気の毒そうに眼を伏せた。
「けど助力ができないことは千里もわかっているだろう? 高天原からの知らせでは、確認できる“鬼”の数が激減しているようだ。殲滅されているのならその報告もあるだろうし……それが無いということは」
「……鬼が集結しているとお考えですか?」
 あまり表情を変えない千里の細い眉がピクリと動いたのを見て、雷牙はふっと微笑した。
「恐らくはな。となると問題となってくるのが、鬼を統率する存在だ。そして俺の予想した中でもっとも最悪な場合、太刀浪市を放棄し、速攻で本部に行かなければならない……気の毒だが助力は無理だな」
「しかし、それでは彼らが今後協力的な立場をとるとは思えませんが」
「まあ、それならそれで構わないさ。あちらさんには三雄になれるほどの実力を持っているものはいない。いや、さすがに四大教授や学長あたりなら話は違うけれど、アメリカにエイジャの組織の中で最大級の規模を持つ“緑原の征服者”が巣食っている限り、彼らがこちらに来るとは考えにくい。だからほっとけ」
「分かりました。では、そのように」


 一礼して千里が出ていくのを見送ってから、雷牙は窓からこの時間地下から排出される蒸気により灰色になっている空を見上げ、胸元から煙草を一本取り出し、火をつけた。


「気化石といえど、発生する水蒸気により青空を奪うか。最後に朝日を見たのはいつだろうね……それより、本来群れ単位でしか行動しない鬼達を従わせるには、彼らを力と恐怖で縛り上げるしかない。群れのボスよりさらに強力な鬼……まさかな」 


 
 その呟きは、誰にも聞こえることなく、煙と共に消えていった。






「……はあ」


 古びた寺の境内を竹箒で掃きながら、加世は小さなため息を吐いた。鴉の姿から人の姿に変化してから、毎日朝夕に掃除をするのが彼女の日課となっていたが、最近は全く身が入っていなかった。


「旦那様……いえ、聖亜様」

 原因ははっきりしている。彼女の思い人がいないからだ。彼、聖亜がこの街を離れてから彼女の心はここにないかのようにふわふわとしていた。隠してあった大量の小判を換金し、それを元に寺の修繕、食料品の買い出しなど忙しい日々を過ごしている時は気を紛らわせる事ができるが、こうやってぼんやりとする時間があると、どうしても彼の事を考えてしまう。

『加世さん、どうしたのです? 手が止まっていますよ』
「あ、すいません。何でもないんです、トメさん」
『何でもないのでしたら、ふふ、そのように同じ場所ばかり掃くのはなぜでしょうね』

 少女のすぐそばに雌の鴉が舞い降り、優しくたしなめてきた。長年に渡り親分である松五郎の世話をしてきた鴉で、人間でいえば初老ほどの年齢である。加世が小さいころ躾を教えてもらっていた教師的存在であると同時に、卵の時はその羽で温めてくれた母親的存在でもあった。

「あ……申し訳ありません、トメさん」
『いえいえ、まあしょうがないのでしょうね。私達雌というものは、慕っている殿方が遠くに行ってしまうと何も手が付けられない生き物なのですから』
 そんなことはないです。そう言いかけ、加世ははっと口を閉ざした。それはこの雌鴉がここではなく、どこか遠くを見ているように思えたからだ。

 彼女は自分たちの親分である“欠け嘴”の松五郎が九州に行った時に出会った鴉だと聞いている。当時すでに長老と呼ばれるほどの年齢だった老鴉とまだ若く、艶やかな黒羽を持っていた彼女の間に何があったかは知らないが、それでも雄と雌の間柄だったことは薄々ではあるが分かる。その証拠に、彼女は時々ほかの世話役を追い出して、ただ一匹で病身の松五郎の世話をすることがあった。

『それで、加世さん。あなたほどの器量良しが好きになる殿方って、いったいどんな方なのかしら』
「え、えっと、その……とてもきれいな方です。男性なのにまるで美しい女性のような……って、何を言わせるんですか」
『ふふ、ごめんなさい。けど本当にその方の事が好きなのね……あら?』

 くすくすと笑っている鴉は、不意に町に続く古道の方を向いた。最近寺の周りを遊び場にしている子供たちが来たのだろうかと振り向いた少女の目に飛び込んできたもの、それはこちらに向かって歩いてくる、黒猫の姿であった。






「ずいぶんと片付いておるな」
『まあ、年ごろの娘っこもおりますんで、ある程度は片付けねえと』
 加世に案内された部屋で、キュウは嘴の端が欠けている老鴉と向かい合っていた。老鴉は高知だけでなく、四国全土の鴉社会に名を轟かせる“欠け嘴”の松五郎と呼ばれる親分で、黒猫の古い知り合いであった。
『それで? 今日はいったい何の御用です?』
「うむ……先日マモン討伐の際力を貸してもらったばかりで悪いのだが、再び加世の力を貸してもらうことになりそうだ」
 キュウの言葉に、老鴉は欠けた嘴を奇妙に歪めた。それは怒り、悲しみ、そして喜びが奇妙に混じり合った表情であった。
「そんな顔をするな松五郎、力を借りるといってもさすがに無理はさせん。けがをすることはあるかもしれんが、死なせはせんさ」
『へ……それで姐さん、今回の相手はどんな野郎ですかい』
「うむ……我らの同胞を300人屠り、そして一つの国を滅ぼした化け物の中の化け物、魔狩りの兄妹の異名を持つエイジャだ」

 
 その時、ふと加世は刺すような寒気を感じた。そんなはずはない。今は夏真っ盛りであり、この部屋は涼しくなるように工夫がされているが、それでもこの寒気は異常だった。
「……う」
「……その国は外にほかの国があることを知らず、人の間にある争いを知らず、善良な若い国王の下、平和を満喫しておった。あの時までは」

 その時の事を、キュウは……否、“彼女”は決して忘れない。平和な国が一夜にして滅んだあの時の事を、平和を愛する人々が一瞬で灰塵と化したあの時の事を、そして、彼らを愛し、そして愛されていた国王は、今でもさまよいながらどこかで生きている。


「決して忘れぬ。決して許さぬ。彼の国の事を誰も知らずとも、どの文献に乗らずとも、我だけは知っている。我だけは覚えている。彼らの苦痛、彼らの嘆き、そして彼らの絶望を」

 キュウの言葉を聞いていた加世は、ふと寒さがどこからか出ているのか分かった。彼女が発しているのだ。紫電の瞳を持つ美しい黒猫が、地獄の業火をも凍てつかせるような、強烈な冷気を


「……ひ……」
「む…………すまぬ、少し感情を高ぶらせてしまった、許せ」
 少女ががくがくと震えていることに気づくと、キュウはすまなそうに頭を下げた。途端に冷気が弱まり、段々夏の暑さが戻ってくる。
「い……いえ、申し訳ありません。だい、丈夫です」
「そうか……だが少し休め。我ももう戻ろう。準備があるのでな。加世、今から準備を頼む。松五郎、すまんが手伝ってやってくれ」
『へい、やり合える様に、準備だけはしっかりとさせます。いつでも声をかけてくだせえ』
「……ああ、頼んだぞ」
 そう呟き、部屋を出ていく黒猫の背中は、加世にはどこか寂しげに見えた。





 病室に入ったヒスイの目に最初に写ったのは、こちらにめがけて飛んでくる花瓶だった。恐らく全力で投げられたであろうそれは、だが少女が首をひょいと動かしただけではずれた。

「そんな事をしていては、治るものも治らないぞ、スヴェン」
「……黙れ、この俺を罵りに来たのか、絶対零度」
「そんなわけあるか、見舞いだ見舞い」


 白髪の少年が向けてくる強烈な殺気に内心溜息を吐きながら、ヒスイは途中の花屋で買い求めたユリの花を、先ほどまで花瓶が置いてあった棚に置いた。彼女が見舞いに来たのは、エリーゼとキュウにそれとなく勧められたのもあったが、それ以上に彼女自身、この年端もいかない少年の事が心配だったのである。

 ヒスイが物音を聞きつけてやってきた看護師に割れた花瓶の片付けを頼んでいる間、スヴェンはただむっつりと外の景色を眺めていた。新市街にある総合病院の、それも個人病室に入るにはそれなりに金がかかるのだが、彼ら最高査問官が月に使用できる予算は100万を軽く超える。入院費用など、大した金額ではないのだろう。
 看護師が片づけを終えて出ていくと、ヒスイはスヴェンの方に顔を向けた。彼の屈強な体には、幾重にも包帯が巻かれており、一番重傷である右肩はゴムでできた拘束具でベッドとがっちり固定されている。その痛々しい姿を見て、ヒスイは再び溜息を吐いた。この少年は自分を殺したいほど憎悪しているし、そもそも彼がこうなったのはほとんど自業自得であるのだが、それでも彼はまだ子供なのだ。間違いも失敗もするだろう。心配しない方がどうかしている。


「……何をぼさっとしている。やることはもう終わったんだろう、さっさと俺の視界から消え失せろ。それとも、この無様な姿を嘲笑いに来るのが貴様の目的か?」

「そうじゃない、本当に心配だから来たんだ」

 悲しげにうつむく少女を、スヴェンは殺気を込めて見つめた。
「心配してくれと誰が望んだ、誰が頼んだ。このクソ女、いいだろう。今ここで殺してや……ぐっ」
 怒りに任せて体を起こしたスヴェンは、右肩に走る激痛に思わず呻き声をあげた。それを見たヒスイが思わず近づこうとしたが、それはスヴェンの殺気と憎悪を込めた視線によって阻まれた。


「こっちに来るな。さっさと消え失せろ売女!! 貴様に対する制裁許可は解除されたが、それでも貴様を見ていると殺したくなってくる」
「分かった。けど最後に一つだけ……エリーゼから聞いていると思うけれど、現在太刀浪市に“魔狩りの兄妹”が向かってきている。絶対に戦おうとするな。その身体では命を落とすことになる……私を殺すんだろう? それまでは長生きしてくれよ」

 最後の言葉と同時に悲しげに微笑むと、ヒスイは呆然とこちらを見つめるスヴェンに手を振り、病室を後にした。そのまま病院を出ると、束の間蒸気が晴れ、さわやかな青色を覗かせる空を見上げた。

「さて、やるか」


 相手がどんなに強大な敵であろうとも、自分達の天敵と呼ばれる相手であろうとも、戦う覚悟は、魔器使になると決めた時にすでに出来ている。気合を入れるため、頬を両手でバシッと叩くと、ヒスイは旧市街にある家に向かって小走りで駆け出した。








「……ふん」

 ヒスイの気配が完全に消え去ったのを確認すると、スヴェンはむっつりと起き上がった。途端に右肩がずきりと痛むが、ぴくりと眉を動かしただけで、そこを固定している器具に左手を伸ばした。

「いけません、ご主人様」

 不意に、伸ばした左手が何かに包まれる。それは柔らかく、そして暖かい誰かの手であった。少年が不機嫌そうに顔をあげると、そこには彼を心配している一人のメイドの姿があった。

「……放せ、イル」
「いいえ、放すことはできません。その器具を外し、あなたは一体どこに行くつもりですか? お願いですから、ご自身の体をご自愛ください」
「……どけ」


 少年の血の気の薄い大きな手が、魔器を押しのけようと動く。だがその動きは痛みが走るのか、どこかぎこちなかった。

「いいえ、どきません。あなたの体はあなたが思っている以上に消耗しているのです。その状態でこの部屋を出すわけには「お前のせいだ」っ」

 その瞬間、イルは時が凍りついたような感覚に襲われた。


「俺がこんな体になったのは誰のせいだ? あの時絶対零度を殺せなかったのは誰のせいだ? 名も知らない単なる人間に苦戦したのは誰のせいだ? 全部お前のせいだ!!」


「……そ、それ、は」


 スヴェンの言葉にショックを受けたのか、彼の左手を握っているイルの力がふっと緩んだ。その隙をついて彼女を押しのけると、病室を出て行った。



「……」
「な~にやってんのよ、イ“ヌ”」
「……ウルか」

 少年が消えていった病室の中で悲しげにうつむいていたイルの耳に、あまりそりが合わない相方の声が響いた。同時に何もない空間が揺らぎ、胸元が大きく開いているメイドが飛び出てくる。


「別に何言われても気にすることないじゃな~い。あんたは正真正銘の無能なんだから。しっかしあんたも変わってるわね。私達は確かにご主人様の魔器ではあるけれど、そもそも本来の契約者は違うでしょう? なのにあんなに罵られてまで従わなくてもいいじゃない」
「……そういえば、お前は小さいころのあの方を知らなかったな。私はあの方の父上と契約していたから、ご主人様の事は生まれた時から知っている。情も湧くさ」
「ふうん、ま、私は今のご主人様が死んだら別の人のところに行くだけだから、どうでもいいけどね」
「……そうか」


 相方であるウリドラの言葉に、インドラはどこか寂しげな笑みを浮かべた。




「……この辺でいいか」


 自分の魔器である少女達が話している頃、スヴェンは空いている病室へと入り込んでいた。この病室はナースセンターから最も遠い場所にあり、さらにすぐそばの階段を下りると霊安室へ行くためか平時ではほとんど人が来ることがない。
 どことなく埃っぽい空気に舌打ちすると、少年はベッドに腰を下ろし、空中を睨みつけた。何秒かそうしていると、不意に目の前の空気がゆがみ、ぼんやりとどこかの景色が映し出る。


「……くそ、本調子ではないからな。映像もぼやけるか……まあいい。おい、そこにいるんだろう、クソババア!!」
『……うるさいわねぇ、そんな大声出さなくたって聞こえているわよ。それに誰がババアよ、このウスラトンカチ』

 スヴェンの大声に、歪む空間の中に少女が映し出された。美少女といってもいいその外見は、だがそれが本来の彼女の姿ではないことを、少年は知っていた。


「やっと来たか。グリアス、貴様に一つ尋ねる。なぜ絶対零度の抹殺命令が取り消された!!」
『はあ? そんなの簡単じゃない。弱いあんたが高天原の縄張りで暴れすぎたからよ』


 グリアスと呼ばれた少女が面倒臭そうに答えると、スヴェンの額にびしりと青筋が走った。

「貴様……俺のせいだというつもりか!! それにこの俺が弱いだと? 閃光の異名を持ち、最高査問官の一人でもあるこの俺が!!」
『ええ弱いわよ。だってあなた今まで弱者としか戦ってきてないじゃない。あなたは確かに高い素質があるし、血の滲むような訓練もしてきた。けど実践で苦戦したことはあったかしら。無いでしょう? それはあなたが今まで格下としか戦ってきてないからよ。だから自分より実力のあるものと戦ったら必ず負ける。ま、今回は死ななかっただけましだったって所ね。けどこれからは気をつけなさい。このまま同じ戦い方をしていると、そう遠くないうちに必ず死ぬわよ』

「……」

 散々に貶しながらも、微かに心配そうにそう言ってから、グリアスはひらひらと手を振った。と、ぼんやりと映し出されていた景色が徐々に消えていく。通信が切られようとしているのだ。


「待て」
『……あら、まだ何か用があるのかしら』

 スヴェンの低い声に、空間の消滅がふと止まった。



「俺の魔器……インドラは使えん。別の魔器に変えろ」
『変えてくれって……あなたねえ、自分が何を言っているのか分かっているの? ヘファトが最初期に作り上げた12種の神話級の魔器の一つ、それがインドラよ。それを 弱いですって? その言葉、撤回しなさい』
「……断る。ウリドラに比べてインドラは確実に劣っている。つい先日も、敵の攻撃を防ぎきれなかったのだからな」
『先日の敵? ああ、報告にあったマモンね。けどスヴェン、それはあんたの戦い方が力任せだからよ。その戦い方を変えない限り、あなたはインドラの力を引き出せないでしょうね』


 ぼんやりと歪む景色の中、グリアスが皮肉げに笑うのをスヴェンは感じていた。



『それじゃあ絶対零度を殺すことなんか無理でしょうよ。それこそなりたがっている三雄の一人になるなんて夢のまた夢。ああ、そういえばエリーゼから報告があったのだけれど、あなた“装魔降身”の術を使ったんですって? 駄目よあれを使っては。あれは嘆きの大戦の際に使用された術の一つだけれど、今では禁術になっているんですもの。それこそ使用したら間違いなく死刑になるほどのね』

「……貴様、そのことを知っていてなぜ俺に」
『施したのか、ですって? もちろん実験のためよ。体内にこれでもかと憎悪を秘めたあなたならあるいは制御できるかと思ったけれど、とんだ期待はずれだったわね。まあ、それでも制御できないという実験結果が得られたから、私に損はないけれど』
「……」


『それじゃ、今度こそ失礼するわよ。ああ、それから聞いていると思うけれど、いま日本に魔狩りの兄妹が接近しているわ。けど援軍は出せないわよ。せいぜいエリーゼの申請した武器が送れるだけね。だって当然でしょう? そちらは高天原の勢力下だから彼らに任せておけばいいうえに、勝てない相手に援軍を送って、わざわざ戦力を消耗させようなんて馬鹿はいないもの。ま、せいぜい気をつけなさいな。坊や』




 嘲笑するような声とともに、今度こそ歪みは消え去った。スヴェンはしばらく目の前の空間を睨みつけていたが、不意に近くの壁を思い切り殴りつけると、むっつりと部屋を出て行った。








 その壁には、血で真っ赤に染まったこぶしの後だけが残った。











 その日は、いつもより霧と蒸気が深い朝だった。












「そろそろだな」

 霧と蒸気に包まれた海岸の隅にある物置小屋の中から、ヒスイは外を眺めてぽつりとそう呟いた。その言葉に、彼女の隣にいる加世がこくりと頷く。魔狩りの兄妹がこの海岸に到着するという知らせがエリーゼの頼んだ補給物資と共に本部から到着したのは2日前の夕方だった。それから加世の協力で、彼女の仲間である鴉達に偵察してもらい、ここからさほど遠くない海に不審な船が見つかったのは昨日の事だった。恐らく今日にも上陸してくるだろう。


「その船が青海の略奪者の船か……彼らが上陸してくる可能性はあるか?」
「……いや、ないだろう。彼の者達は北欧同盟とは積極的に戦っているが、それ以外は不干渉に近い。恐らく魔狩りの兄妹を降ろした後は退去するはずだ」
「そして、それを追う戦力はこちらにはない、と」


 キュウの言葉に、銃の撃鉄を起こしたエリーゼが咥えていた煙草をペッと吐き出して答えた。

「そういうことだ。それより迎撃の準備はできているのだろうな」
「はっ!! そりゃもちろん」


 キュウの視線に吐き捨てるように言うと、エリーゼは隣にある大きなボストンバックをポンと叩いた。その中には本部から送られてきた武器が大量に入っている。

「型落ちのスタームルガーMP9が2丁、視力と共に能力を一時的にマヒさせる術式を刻み込んだスタングレネードが10個。すでにクレイモア地雷は8個設置してある。そして取って置きのXM109ペイロード対物狙撃銃だ。これは中古だけど、実際に大型のエイジャを仕留めた一級品だよ」



「楽観視するな。それではまだ足りん。本来ならあの装備も必要なはずだ」
「あの装備って……まさか昨年開発されたばかりのAGM-129Bかい!? あれは本来軍に引き渡されるのを無理やりもぎ取って術式を刻んだ巡航ミサイルだよ。確かにあれは超大型エイジャの射程外から攻撃できるけど、使うために学長が20枚の書類にサインする必要があるし、そもそもグラシャ¬=ラ=ボラスのような乗り物型の魔器に搭載して使用する兵器だ。第一今回貼った結界ではその威力に耐えられない。幾らなんでも無理があり過ぎるよ」





「それほどの準備が必要な相手だということだ」



「う……わ、分かったよ」




 エリーゼの反論を、キュウはじろりと睨んで黙らせた。どうも最近この黒猫は怖い。いつもの飄々とした態度は消えうせ、どこか余裕がない感じなのだ。
「……話はそこまでだ。沖の方から何かが近づいてくる」
 不意に、ヒスイが低い声で囁いた。その声につられるように、エリーゼが壁の隙間から外の景色を覗くと、なるほど、確かに深い霧の中、何かが動く気配があった。
「……人除けの術は展開している。どうやら当たりのようだね。それで、いつ仕掛ける?」
「地雷が作動してからだ。その前に仕掛ければ、最悪の場合青海の略奪者をも相手にすることになる。それだけは避けたい」
「わかった。爆発が確認されたら、まず私が先行する」

 そう言って、ヒスイが善鬼と呼ばれる太刀を構えたのと、爆音とともに砂が空中に飛び散ったのは、ほぼ同時であった。

「さっそく来たな……仕掛ける!!」
 太刀を肩に構えると、ヒスイは小屋の戸を蹴破り、砂塵に向かって駆け出した。彼女の突撃を支援するため、後方で加世がグレネードのピンを抜いて遥か前方へと投げる。埋まっている地雷は連動して爆発するタイプのため、もう残っている地雷はない。だが大型のエイジャですら吹き飛ばす地雷が一斉に爆発したのだ。恐らく相手は何らかの手傷を負っているだろう。


「……なんだこれは」


 だが、砂塵の中目標である魔狩りの兄妹を探していたヒスイは、それを見た途端足が止まってしまった。

 彼女が見たのは、砂の上に置かれている巨大な黒い球体だった。どこか黒いゴム毬に似たそれは、一度大きく震えたかと思うと、いきなり弾けて周囲に飛び散った。

「ぐっ」

 漂ってきたひどい臭いに、ヒスイは思わず口に手を当てた。恐らく毒もかなり含んでいる黒い液体が砂浜を黒く染めるその中央で、その少女はこちらが呆けてしまうほど、可憐に微笑んでいた。



「何やってんだい!! ヒスイ」



 甲高いエリーゼの罵声で、ヒスイははっと我に返った。彼女のすぐそばをサブマシンガンから放たれた銃弾が少女にむかっていく。命中しているそれは、だが少女に何の痛痒も与えているようには見えなかった。

「ち、やっぱ効果ないか……ならこれでどうだ!!」

 一度強く舌打ちすると、小屋の傍まで下がったエリーゼは壁際に立てかけてある巨大な狙撃銃を手に取った。スコープを覗き、照準を少女の額に素早く合わせると躊躇わずに引き金を引く。シュッという空気を切るような音と共に、弾丸が狙いを過たず、少女の額へと向かっていった。


「あら」


 自分に向かってくる弾丸を見て、少女は初めて言葉を発した。そして弾丸が当たる寸前、ヒョイと首をかしげてそれを避けた。

「避けられたか……まあいい、避けたということはこの武器は効果があるってことだ。ヒスイ、牽制を続けな!!」


 だが、2射目が発射されることはなかった。エリーゼの言葉にヒスイが返答しようといた時、少女の影から突如出現した黒い手がエリーゼを弾き飛ばすと、彼女の持っていた狙撃銃を掴み、握りつぶしたのだった。

「……随分と無粋な歓迎ですわね」


 岩陰に転げ落ちるエリーゼに駆け寄ろうとしていたヒスイの耳に、小鳥のさえずりの様な声が響いた。


「随分と無粋な歓迎ですわね。まだ名乗りを上げてもいないというのに」
「黙れっ!!」


 明らかにこちらを見下している少女の声に返答するように、ヒスイは刀を薙いだ。それを少女は余裕をもって避けたが、ふと、その姿勢が崩れる。

「……ふっ!!」

 一瞬にも満たないそのわずかな時間に、相手の間合いの内側に飛び込んだヒスイは、その勢いのまま、彼女の首めがけて薙ぎ払った。


キィン


「なっ!?」

 だが、その必殺の一撃は少女が空中から取り出した大鎌により払われた。幾人もの首を刈り取ってきただろうその刃は赤黒く光っている。死神の鎌がこちらの首を刈ろうと伸ばされる。それを打ち払うと、ヒスイは大きく後方に下がり身構えた。それに追撃しようと前に出ようとした少女は、ふと立ち止まり、首筋に手をやった。

「あら」

 そこには、ヒスイの刀が掠ったのか、一筋の赤い線があった。手を放した少女は、しばしその手を見つめていたが、ふと笑みを浮かべた。


「……随分と久しぶりに自分の血を見ましたわ。どうやらこちらが名乗るだけの力量は持ち合わせているようですね」


 口の両端を吊り上げる、妙に不気味な笑みを浮かべながら、少女は青いスカートの両端を持ち上げ、恭しく一礼した。


「私、上級氏民を務めますレテルと申します。本日は、私達のダンスのお相手、どうぞよろしくお願いいたします……ねえ、お兄様」
 少女―レテルが顔を上げるのと同時に、彼女の影からそれは飛び出した。



 少女の影から飛び出したのは、一言でいえば黒い樽であった。その樽に黒い手足と頭をつけ、その頭はつばのない帽子と道化師の付ける仮面で覆われている。何ともふざけた格好をした黒人形であったが、それでもヒスイは油断せず身構えた。先ほどエリーゼを弾き飛ばしたのは、恐らくはこれだろう。どこかスフィルに似た感じもするが、気配は全く違う。少なくとも、中級のエイジャ程のの実力はあるだろう


「お兄様? じゃあこの黒い樽がもう一人の“魔狩りの兄妹”ってわけかい」
 加世の手を借り、ようやく顔を上げたエリーゼが忌々しげに吐き捨てる。その声に反応したのか、黒い樽と呼ばれた人形はぐにゃりと足を曲げると、その体からは想像もつかない速さで飛び上がり、ヒスイとエリーゼの間に降り立った。


ブンッ


「くっ」

 そしてそのまま自分の体を回転させ、長い腕をヒスイ達に叩きつけるように振るう。威力も速度もそれほどではなかったため、ヒスイはエリーゼたちの前に自分の体を割り込ませると、その攻撃に合わせ下から刀を振り上げた。ガキンという鈍い音と共に衝撃が伝わり、腕が痺れる。

 
 だが耐えられない痺れではなかった。上に弾かれた長い腕の下を掻い潜り、無防備になった胴に向け、思いっきり太刀を叩きつける。


  グゥウウウウウウッ、ポンッ


 


「……はあ?」

 だが斬撃を受けた相手の体はその太刀筋に合わせてへこみはしたが、切ることはできなかった。ある程度まで身体がへこむと、そのまま弾かれてしまう。



「っち、面倒臭い。まるでゴムだな。だがそれならそれでやりようはある!!」



 強く舌打ちしたヒスイは、今度は足を払おうと伸ばされた腕を跳躍して避け、刃を下に向け、そのまま相手の体に突き刺した。狙い通り刀の半分まで相手の体に刺さったことを確認すると、ヒスイは残忍そうな笑みを浮かべようとし、次の瞬間、相手の体の上から慌てて飛び降りた。



 黒い樽の様な体から体液がまるで蛇口の壊れた水道のように吹き出す。だがその液体は水とは違い凄まじい臭気と毒を放っていた。その濃さといったら、体液が降り注いだ砂浜が砂であるはずなのにずぶずぶと溶けるほどであった。



「くそっ」



 ヒスイは左手で口を覆いながら毒づいた。先ほど慌てて飛び降りたため、刀をその場に置いたままだったのだ。毒程度でどうこうするほど柔なつくりではないが、それでも武器を一つ失ったのは大きな痛手だった。




「何やってんだいヒスイ、待ってな。いま取ってやるよ」


 
 立ち上がったエリーゼが、左そでの中に隠していた縄を取り出した。刀はもはや原形をとどめていない相手の黒い体を貫通し、その下の砂浜に突き刺さっているため、縄をひっかけて手繰り寄せればとれるはずだ。

「分かった。さあ、後はお前だけだ。観念するんだな」


 エリーゼに頷くと、ヒスイは胸元のペンダントから護鬼と呼ばれる、先ほどの刀より幾分短い刀を取り出し、レテルに向けた。



 だが、レテルは全く反応しなかった。黒い人形が崩れ落ちた場所を、黙って眺めているだけだ。そんな彼女に、ヒスイが一歩近づいた、その時である。

「ふ、ふふっ」


「何がおかしい。まさか、恐怖で頭のねじが外れたか?」

 ヒスイは薄気味悪く笑っている彼女に近づこうとして、だがその足をふと止めた。顔を上げたレテルの表情が、何ともおかしいという風に笑っていたからである。

「恐怖? ええ、恐怖していますわ。あなた方のばかさ加減に。だって、ねえ、あなた方、もしかして私のお兄様が、ただ一人だと本気で思っていて?」

「……何だと?」

 笑いながら、レテルはまるでタップダンスをするかのごとく、踵を何度も鳴らす。その音に合わせ、彼女の小さな体に似合わぬ巨大な影から、にょきにょきと何本もの黒い腕が這い出してきた。

「さあさあ出ておいでなさい、私の“お兄様方”腐って食べることもできない餌どもを、その黒い体で押しつぶしてくださいな」

 レテルの声に応えるかのごとく、その陰から何体もの黒い人形が湧き出てくる。だが、何より恐ろしいのは、その中に不完全な人形もあるということだ。身体が半分崩れたようなその人形は、周囲に黒い体液と共に臭気と毒をまき散らしている。

「うぐっ」

 臭いに耐え切れなくなったのか、エリーゼと共にヒスイの刀に縄をひっかけていた加世は口元を抑え、慌てて小屋の影に走って行った。

「……まさかあの小娘、影の中に“魔女煮えの大釜”を仕込んでおるのか!?」
「魔女煮えの大……がま? 何ともふざけた名前じゃないか」

 段々と濃くなってくる臭気に唾を吐いたヒスイは、加世の傍にいるキュウの言葉に、思わず悪態をついた。

「古くは魔女狩りの時代まで遡る。魔女として捉えた女達を拷問した最悪な方法の一つ、それが釜茹でだ。魔女煮えの大釜は魔女狩りが始まった当初から最後まで、ずっと使用されていた道具でな。拷問し、殺した女達は数百では足らぬらしい……加世、我慢せずに吐いてしまえ。その方が楽になる」
「は、はい……すいません」

 蹲った加世が吐いている間も、湧き出るように人形は出てくる。最後の一体が出てきたとき、砂浜には百を超す人形の姿があった。


「この臭気……そうか。その人形を形作っているのは処刑された者達の怨念だな」
「……ふふ、随分と賢い猫さんですわね。そう、彼らは無念にも殺された無実の女性達。そしてそれを止めようとして処刑された家族の方々の怨念が形をとった者。ねえ、あなた方って本当に残酷な化け物よね。だって何の理由もなく同胞を拷問し、殺すことができるんですもの!!」

 霧が薄まり、灰色の蒸気の間から見えるわずかな太陽を見上げながら、レテルは歌うように話し出した。

「それに比べて私達氏民の何と高潔で慈悲深い事!! だって私達は彼らに復讐の機会を与えているし、理由無しに争いをすることなんてないんですもの。私達があなた達を襲うのは、あなた方が“捕食対象”だから!! それ以外にも理由はあるわ。“北”の王様が戦っているのは、自分と部下の譲れない誇りのため!! “東”で龍が暴れているのは、それが彼らの存在意義だから!! “南”で海賊が略奪するのは、奪われた大切なものを取り戻すため!! ではあなた達“家畜”が殺しあう理由ってなんなのかしら……ねぇ?」










「……言いたいことはそれだけか」











 自分の言葉に酔うレテルに、カチャリと刃が向けられた。それは先ほどと自分に向けられた刀だった。それを見て、あら、とレテルは眉を微かに上げた。どうやら先ほどの“歌劇”は相手のお気に召さなかったらしい。血の気が失せ、手の震えと共に大きく震える白光の刀身同様に、真っ白な顔を俯かせるヒスイの足はがくがくと震え、一度大きくよろめいたがそれでもしっかりと砂を踏みしめていた。その時、ふとレテルの耳に、小さな地鳴りが聞こえた。地震かしらとレテルは一瞬思ったが、その考えは、顔を上げたヒスイの、白すぎる顔に、ただ2つだけ燃え上がる、あまりの熱さに蒼く見えるその炎を見て、たちどころに消え失せた。





 その時レテルの頭によぎったのは微かな、だが確かな恐怖だった。殺される自分を、切り裂かれる自分を想像してしまったためによぎった恐怖だった。その恐怖を感じ取ったのか、百の人形のうち最前列にいる数体がヒスイに襲いかかる。
 



 だが、彼らの体はヒスイが何気なく振るった一太刀で一瞬にして上下に分断され、少女の後方に転がった。





 それはヒスイにとっては自爆にも等しかった。なぜなら彼らを傷つければ傷つけるほど、臭気が空中に漂い、毒が砂浜を汚すからである。









 だがそうはならなかった。地面に無残に転がった人形の体からは臭気も毒も発生しなかった。それはヒスイの異名である“絶対零度”の名のもとに、切り裂かれた傷口が瞬時に凍りついたこともあるだろうが、それよりも、ああ、そんな些細なことよりも、もっと大事なことがある。もっと重要なことがある。なんと彼女に切り裂かれた人形は、最初の一体のようにどろどろに溶けるのではなく、怨念を臭気と毒に変えて周囲にまき散らすことなく、ふっと一瞬のうちに消えたのだ。






 そう、まるで眠るように、消えたのだ。










「貴様が高潔でなどあるものか。貴様が慈悲深くなどあるものか。貴様らが本当に高潔なら、慈悲深いなら、なぜ無念のうちに死んだ人々を、死んでなおも苦しむ人々を救ってやろうとしない。憐れんでやろうとしない。そんな貴様らの都合など知ったことか。誇り、存在意義、大切なもの、それらはすべて貴様らが私達から奪ったものだ。ああ、それでも貴様の一言だけは肯定してやるよ。私は確かに残忍な化け物だ。なぜなら貴様エイジャを殺すのは、私個人の身勝手な復讐だからだ。けど、けどな、それを貴様に、貴様らに、どうこう言われる筋合いはない!!」






 きっぱりと言い放った少女の胸元で、小さな鍋の形をしたペンダントが白く燃え上がる。いや、燃えているのは彼女の薄い胸そのものだ。その白い炎に引き寄せられたかのように、さらに数体の人形がふらふらと彼女に向かっていくが、それらはヒスイが持つ刀のたった一振りで、今度は凍ることなく一瞬のうちに掻き消えた。
 




「……なるほど、ようやく理解しました。あなたが彼の有名な“百殺の絶対零度”お会いできて光栄と言っておきます」




 呟くレテルの目の前で、暴風が刃を伴って周囲を蹂躙する。暴風の中心にいるのはただ一人の少女だ。なのに、ああそれなのに暴風に巻き込まれた哀れな人形達は、何もできず、否、何もせずにただ消えていく。




 しかしそれを見るレテルの表情に焦りの色はなかった。彼らはいくらでも出てくるし、何より彼女の手駒の中で、彼らはもっとも“出来の悪い”存在であったからだ。



「ふふ、ならばあなたのその心と体をへし折って差し上げましょう。さあ、おいでなさい。私の“大きなお兄様方”」



 
 その声に反応したのか、彼女の影の中に隠されている巨大な釜が、一際大きくごぽりと鳴った。








 自分に向かってくる腕の群れを、ヒスイは無意識のうちに断ち切った。力はほとんど入れていない。いや、もはや自分が刀を振るっていることすら少女はとうに忘れていた。
 


 彼女が覚えているのは、自分の胸の中で燃え上がる強烈な炎だけだった。その炎の熱さといったら!! 何かしなかったらそのあまりの熱さで自分が溶けて消えてしまいそうになるほどだった。だがその少女に、自分の尊大な相棒に未熟な小娘と愛情たっぷりに罵られることが日常茶飯事な少女にできる事などたかが知れていた。未熟な少女がただ一つできることがあるとすればそれは、剣技ではなく、氷を操る異能でもなく、ただ自分が未熟であることを知ることだけだろう。




 だから未熟な少女は、ああ、もしかしたら少女はこの時狂っていたのかもしれない。なぜなら彼女の目には、未熟である事を自覚している彼女の目には、自分に向かってくる黒い人形達が、毒をまき散らす黒い人形達が、ただの……そう、ただの哀れな人間に見えていたのだ。



 彼らは自分に向かってその手を伸ばす 男も女も老人も子供も 救ってくれと この牢獄から解放してくれと縋り付く だがそんな事ができないのは少女が一番よく知っていた。確かに自分の胸元で揺れているペンダントの中には、その音色で死者の魂を安らげることができる道具はある。その道具ならば死者を成仏させることも幾分かはできる。ああ、けど、けれど、目の前の怨念の何と凄まじいことか、その憎悪の何と濃いことか!! なぜなら彼らは殺されたから。聖夜の煉獄の際の死者のように、災害で死んだわけではない。彼女が米国で初めて救った幼子(おさなご)と猫のように事故で死んだわけでもない。彼らは同じ人間に殺されたから。何もしていないのに魔女だと決めつけられて殺されたから。家族を助けようとして殺されたから。殺された人間の数は確かに凄まじいだろう。だがそれでも有限だ。けれど、ああ、けれど少女は知っている。怨念は無限だということを。彼らの憎悪に終わりはないということを。それを晴らす道具は持っているけれど、それを扱う方法も知ってはいるけれど、それでも自分が未熟なせいでそれを使っても彼らを成仏させることができないことを!!


「ごめんなさい…………ごめん、なさいっ!!」



 ああ、だからだろうか、少女は、自分が未熟であることを知っている哀れな少女は泣いていた。そんな自覚がないまま、いつしか泣きながら謝っていた。なぜなら少女には何もできないから。彼らを救うことも、彼らのために死ぬこともできないから。ああそうだ、自分の命はもう自分のものではない。あの時自分をかばって死んだ親友のものだ。そしてその家族であるスヴェンのものだ。だから縋り付いてくる彼らにこの命をやることはできない。ここで死んで安らぐことなど彼女には許されない。だから彼女にできるのは泣くことだけだ。泣いて謝り、彼らに自分は何もできないのだと伝え、そして許してくれと懇願するために、伸ばされた手に、必死に自分の手を伸ばすことだけだ。ごめんなさい ごめんなさい 許してください あなた方に何もしてやれない私をどうか許してください そう叫びながら彼女は泣いていた。その涙は、自分の中で爛々と燃え上がる炎を消すほど流れてはいるが、それでも、ああ、それでも消せない。消すことなどできるものか。なぜならその炎の名前は怒りだから。自分を残忍な化け物と罵った彼女の中にある、彼らをこのような目に合わせた者を怒る、死してなお縛られる彼らを使役する者を怒る、そして何より、哀れで愛しい彼らを救えない未熟な自分を怒る、あまりにも高潔で慈悲深い、誇り高い怒りであるから!!




「ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、ごめんなさい」






 謝りながら手を伸ばす。それがいったいどのぐらい続いただろう。不意に、少女は自分の肩が誰かに掴まれているのに気付いた。次の瞬間、頬に衝撃と鋭い痛みが走る。その衝撃と痛みで、少女は、死者を憐れむ未熟な少女は、自分が、残酷で残忍で無慈悲な氷の刃でエイジャを切り裂き、彼らの恐怖の対象となる“百殺の絶対零度”であるヒスイだということを思い出した。





「しっかりしろ!! 小娘っ!!」

 百殺の異名に相応しく、百体は居たであろう黒人形達をすべてかき消し、それでも狂ったように刀を振り回す少女の肩を掴み、その頬を遠慮なしにぶん殴ったエリーゼは、今度は両肩を掴んでがくがくと揺さぶった。


「……あれ、私……今、何して?」
「やれやれ、どうやら気づいたようだね」

 目の焦点があってきたヒスイを見て、エリーゼは彼女の頬を殴った右手をひらひらとさせて笑った。遠慮なく殴ったせいでこちらの手の方がずっと痛い。その時、ふと、彼女は自分が涙を流しているのに気付いた。

「ははっ、まいったね。そんなに強くぶん殴ったつもりじゃなかったのに、手の痛みで泣いちまうなんて」

 こみあげてくる何かをごまかすように目をごしごしと擦る。けれど彼女の両目から流れる涙は止まる気配が全くなかった。





 なぜなら、その涙は痛みとは関係なしに流れているものだから






「…………馬鹿者が、馬鹿者が!! だからそなたは未熟者だというのだ。あまりにも未熟で、未熟すぎて、相手にまっすぐ向かっていくことしかできぬ馬鹿者めっ!!」



 紫電の瞳からあふれ出そうになる涙を必死にこらえるように、キュウは俯きながら自分の相棒である少女を罵っていた。だがその言葉には愛があった。そしてなにより誇りがあった。自分の相棒が未熟である事こそが彼女の誇りであった。そして未熟なままに行動する少女であるからこそ、あの日まだ幼い彼女を自分は相棒に選んだのだ。



「未熟であれ!! そしてその未熟のまままっすぐに突き進め!! 考えることなど他人に任せておけばよい!! 我が愛しい愚かな娘よ……どうした、加世」
「分かり、ません。でも、なんだか涙が止まらないんです、なぜなんでしょう」



 もはや毒など消え失せて、一片の臭気すらも感じぬ砂浜にしゃがみ込み、加世はただただ泣きじゃくっていた。



「なるほどお前は鴉であったな。人より感性が強いそなたならばはっきりとは分からず、それでも感じ取れたのだろう、たった今ヒスイが何をしたのかを。あやつが何をしたのかを一言で答えるなら……そう、彼女は舞ったのだよ!! 何の道具もなしに、怨念と憎悪を鎮め、彼らを成仏させる舞いをな。あやつが普段使う道具など、所詮は道具でしかない!! 未熟なあやつの事だ、そのことも、そして自分がしたことも恐らく理解はできぬだろうが……だがそれでいい。否、そうでなければ、あの時契約した意味がない!!」




 いまだに泣きじゃくっている少女を温かいまなざしで見つめると、キュウは彼女を慰めるかのように自らの頬をこすりつけた。


「さあ、敵はまだ残っているぞ。といっても、相手はもう何もできぬ小娘にすぎんがな」





「動けっ!! 動きなさい!! 動けって言ってるでしょうが!! このグズ共!!」




 先ほどまでの上品な話し方はどこへやら、こちらが彼女の本性なのだろう。巻き毛の付いた金髪を振り回し、青いドレスを砂で汚しながら、レテルは先ほど影から呼び出した巨大な三体の人形を蹴り続けていた。



 この三体の人形は、先ほどまでの出来損ないとはわけが違っていた。なぜなら彼らの“素”になっているのは哀れな女やその家族ではなく、彼らを哀れと思い、魔女狩りに反対し、逆に謀反の疑いをかけられて無念のうちに死んだ数十名の騎士なのだから。彼らは数こそ出来損ないには及ばないが、その実力たるや、その怨念たるや、たとえ出来損ないが数百いても彼らにはかなわないだろう。分厚い漆黒の鎧兜に身を包み、凶悪なりし大剣、戦斧、鉄槌を武器として持つ彼らは材料の都合上、三体しか作れないが、それでも今まで自分を殺そうと向かってきた哀れな魔器使達を、レテルは全てこの人形で屠ってきた。



 だが、呼び出したのは良いにしても、まさかぴくりとも動かなくなるとは、彼女には思いもしなかった。





「何で動かないのよ、このグズ共が!!」
「はっ!! そりゃ無理ってものさ。先ほどの光景を見せつけられたらね」


 無様に騒ぎ立てるレテルに声をかけたのはエリーゼであった。こちらを嘲笑し、軽蔑しきったその口調に血走った目をじろりと向けると、レテルはさっと巨大な黒人形―否、黒騎士達の背後に隠れた。


「っち、この期に及んでまだ隠れるかっ!! 救いようがないクソガキだねぇ!!」



 のろのろとした足取りでこちらに向かってくる騎士を見つめ、エリーゼは一歩前に進み出た。


「……ま、まてエリーゼ、私が、やる」
「いや、あんたは下がってなヒスイ。さっきの戦闘で精も根も尽き果てただろう……年下の後輩があれだけ頑張ったんだ。ちっとは先輩に手柄を譲りなよ」


 笑いながら彼女は左の袖をたくし上げる。その中に隠れているのは細長い糸の先に刃が付いた小さな暗器だ。威力はさほどでもない。加世の持つ小刀の方がずっと切れ味が良い。だが、ああ、だがこれこそが、これこそが彼女を上級魔器使たらしめる物、これこそが彼女を最高査問官たらしめる物!! 彼女は兵器を扱うことがうまく、それで今まで多数のエイジャを屠ってきた。けれどそんなもので上級になれるだろうか。いや、なれはしない。そしてそんなもので名誉ある最高査問官になどなれはしない!!


 なら彼女を最高査問官たらしめるのは何か、それこそがこの暗器、否魔器だ。糸の先に小さな刃が付いただけの、今にも壊れそうなこの魔器なのだ。


 糸の中ほどを握りしめ、エリーゼはひゅんひゅんと刃の付いた先端を回し始めた。最初はただ刃が風を切る音しかしなかったが、やがてキーンという甲高い音へと変わっていく。



「ま、待ってくれ、エリーゼ。お願いだ。私にやらせてくれ」
「はぁ? 何言ってんだいヒスイ。手柄を独り占めしようってのかい?」



 からかう言葉のその端々に、だが隠しきれない気遣いを滲ませ、エリーゼは目の前の敵が向かってくるのも構わずにヒスイと目を合わせた。彼女の瞳にもはや怒りの感情はない。少女の瞳にあるものはその名の示す通り、どこまでも続く草原を思わせる、澄んだ翡翠色だけだった。



「……ふぅ、分かったよ。好きにしな」
「すまない……ありがとう」





 魔器を振り回すのをやめ、後ろに下がったエリーゼの代わりにヒスイは前に進み出た。だが彼女は相手に向かっていこうとはしなかった。右手に持った魔器を構えようともしない。彼女のしたことはただ一つ、その澄んだ瞳で、自分に向かってくる三体の黒騎士を見つめただけだった。




 その瞳に導かれるように、彼女の目の前、手を伸ばせばもはや触れることすらできる距離まで騎士達は来た。そこで彼らは何をしただろうか。自らが持つ巨大な戦斧で彼女の首を刈っただろうか、大剣で頭から唐竹割りにしただろうか、叩き潰そうと鉄槌を振り下ろしただろうか。



 否、そんなことはしなかった。そんなことをするはずがなかった。巨大な、目の前の少女の実に三倍以上はあるだろう巨大な彼らは、その場で迷うことなく跪くと、主が家畜と呼ぶ少女に向かって恭しく頭(こうべ)を垂れたのだ。その光景を見たのが画家であったなら、迷わず絵にしたことだろう。その光景を見たのが詩人ならば、間違いなくどこかの酒場で声高々に歌ったことだろう。だがその場にいたのは、その場にいてその光景を見ているのは戦うことしか知らない女達だった。だが、それでもなお彼女等の目には、それは美しい一枚の絵画に見えた。



「なるほど、どんなに怨念と憎悪に染まっても、高潔な騎士の魂は失ってはいなかったか」




 そう呟いた黒猫が見つめるその先で、ヒスイは自分に首を垂れる騎士達に向かって手を伸ばした。その手にもはや刀はない。自分に忠誠を誓う騎士達に向ける武器などあるものか。自分に伸ばされた手を、騎士達はその鉄仮面の隙間から一筋の透明な液体を流して見つめると、恐る恐る、自らの手を伸ばした。




 だが、その手が触れることは、決してなかった




 プチリと何かが切れる音と、そして耳をつんざく悲鳴のような音と共に、ヒスイの意識は途切れた。








「…………さん……てください……イさん!!」
「……?」



 誰かに呼ばれたような気がして、ヒスイはぼんやりと目を開けた。今まで自分は何をしていただろう、確か騎士に手を伸ばしたはずだったのだが。
 



「ヒスイさん、大丈夫ですか!? 気を確かにもってください!!」
「う…………か、よ?」




「ヒスイさん!! ああ、よかった、目を覚まされたんですね」

 自分を呼んでいたのは加世であった。泣きすぎたのか、彼女の目は充血して赤く染まっている。彼女を安心させようとヒスイは起き上がろうとしたが、それはできなかった。


 身体に、力が入らないのだ。


「……あ、れ? 私」
「動くな。血を大量に失ったのだ。しばらく横になっておれ」
「……キュウ?」



 加世の横に、自分の相棒である黒猫がいる。彼女はヒスイを叱るように、少女の頬を前足でぺしぺしと叩いた。


「一体……なに、が?」
「何が起こったか……か、単刀直入に言おう。そなたは黒騎士の攻撃を受け、負傷しここに寝かされている。ああ、エリーゼにあとで礼を言っておけ。あやつがそなたに魔器を巻きつけ、後ろに引いたおかげで死なずに済んだのだからな」

 キュウの声に促されるように、ヒスイはとろんとした目を横に向けた。彼女のすぐそばの砂が赤黒く変色している。だがそんなものはどうでもいい。彼女が知りたかったのはその先、自分が下がった後の戦場の様子だった。

 




「あははははははっ!! なんて無様なんでしょう!!」
「……」





 俯いて必死に何かをこらえているエリーゼの目の前で、レテルは口を吊り上げて笑っていた。

「ねえ、いったいどんな気持ちですの? 絶対零度。決して攻撃されないと確信している相手から攻撃される気分って」


 
 あの時、自分を裏切った黒騎士達が跪き、伸ばされたヒスイの手を取ろうとしたまさにその時、レテルは怒りと屈辱の中、堪忍袋が切れるのを感じた。そして感情に流されるまま、彼女は奥の手を一つ切った。自分の得物、魂を刈る大鎌を横に持ち、柄の部分に口をつけたのである。大鎌は、確かに鎌として使えるが、それは実際には鎌の形をした笛であった。鳴り響く音色はもちろん楽しいものではない、心地よいものではない。暗く、どす黒い、死神の息吹のような音色だった。そして効果は見ての通り。自分の配下である騎士達を縛り付け、強制的に動かせる。




 騎士達は、音色に縛られてもなお、抵抗するかのようにその動きはぎこちなく、鉄仮面の隙間からは今なお透明の液体を流している騎士達は、それでもただ一人前線に残ったエリーゼに向かって歩み、自らの武器である戦斧を、大剣を、鉄槌を振り下ろす。
 それをエリーゼは俯いたまま避け続けた。しかし三方から攻撃されては後ろに下がるしかない。彼女は俯いたまま後退を続け、ついにその背は小屋の壁に達した。



「さあさあ!! もう逃げ場はなくてよ!! いったいどうするのかしら? ねえお姉さま!!」


 
 レテルは笑い続けた。それはまるで出来損なった喜劇のクライマックスを貶すような、哀れな道化の演技を嘲笑するかのような、そんな冷たい笑みであった。




「……しな」
「あらあら? 何か言ったかしら。さあさあ、大きな声でもう一度!! さあどうぞ!!」
「いい加減にしなといったんだ。小娘ぇっ!!」



 

 小屋の壁に追い詰められたエリーゼは、俯いた顔を上げるとレテルを睨みつけた。彼女の右目は、ああ、この時まさに紫色に変化していた!!


 その瞳が輝いた瞬間、大剣を構え、今まさに振り下ろそうとしていた騎士の体が、その恰好のまま、びしりと音を立てて、石へと変わっていた。




「……は?」

 
 レテルはその光景を呆然と眺めた。確かに先ほどまで、自分の操る哀れな騎士達は相手を追い詰め、屠ろうとしていた。

 なのに、今はどうだ!? エリーゼの正面にいた騎士はもはや完全に石となって砕け散り、他の騎士もそれぞれ右半分と左半分が石になり、無様に転がっている。自分が石にならなかったのは、騎士の後ろに隠れていたこともあるが、それ以上にエリーゼがその瞳をとっさに手で覆い隠したからであった。



「……なるほど、思い出しましたわ。ここよりはるか東の大陸に、かつて我が同胞数百を一つの街と共に一瞬で石にした怪物がいるということを。絶対零度など比べようもないほど残忍な殺戮の魔女……“邪眼冷嬢”!!」

「……その、忌まわしい、名前で……人を呼ぶんじゃ、ないよ。あたし、は……一殺多生だ。一を殺す代わりに多を生かす。そんな優しい魔女様なんだ……ぐっ!?」


 右目に走る強烈な痛みに、エリーゼはその場に蹲った。それはこの忌々しい瞳を使ったために発する痛みではない。これは自身の本当の能力―見たものすべてを石化する能力を押さえつける時に発する痛みだ。


 
「くっ けどね、これぐらい……後ろで寝ている単純馬鹿が受けた痛みに比べれば、どうってことないんだよ!!」

 激痛が走る右目を押さえつけ、もう片方の手に魔器を巻きつけながら、エリーゼは前へ、レテルの方へと歩き出した。
 もはや彼女たちの間を遮るものは何もない。あとは手に持ったこの魔器―自分の忌々しい力を込め、突き刺した相手を石に変える―による一撃を、レテルにぶち込むだけだ。




「忌々しい、忌々しい忌々しい忌々しいっ!!」





 エリーゼがこちらに向かってくるのを見ながら、レテルは役に立たない騎士達を罵っていた。そして彼女は気づいた。この現状を打破できる最悪の一手を。




「そう、役に立たないなら切り捨ててもいいわよね。さあグズ共っ!! 最後の仕事よ!!」

 もはや動くこともままならない哀れな二体の騎士を睨みつけると、レテルは大鎌の形をした笛に、再び口をつけた。




 背後のかすかな物音に、エリーゼは右の砂浜にその身を投げ出した。左肩を強烈な痛みが走る。砂浜を転がり見上げると、そこには、蒸気が消え去り、完全に出てきた太陽の光による逆光で黒く見える、巨大な肉の塊があった。




 それは、ああそれはなんだろう、怨念の極みともいうべきか、憎悪の果てとでもいうべきか、彼女に一撃を加えたのは、もはや騎士としての形をとっていない。そもそも人の形をとっていない。形容しがたい巨大な肉塊であった。大きさは先ほどの騎士の五割増し、割れた鉄仮面が左右からくっついて、その間には縦に走る巨大な瞳がある。身体全体に無数のひだが生え、その先端は姿かたちも大きさも、まさしく赤子の顔のそれであった。丸太の様な腕は左右に二本ずつ、全部で四本生えており、その先端には残酷で無慈悲な武器が赤黒い光を放ちながら自らの存在を誇示していた。




「……くそったれがぁ!!」




 エリーゼが吐き捨てるように叫んだのはその姿に恐怖したからではない。もっと形容しがたいものを見たこともあった。ではなぜ彼女は叫んだのか、




 それは、ああそれは、たとえそんな姿になっても、その鉄仮面から、赤子の目から、そして縦に割れたその巨大な瞳からも、透明な液体が、これでもかという風に流れ出していたからに他ならなかった!!




 彼女にもはや攻撃はできない。なぜなら声を出さずに泣く赤子の顔を見てしまったから。鉄仮面から流れ出る液体を見ても、彼女はその騎士を石化することができた。そうすることが救いになると考えたからだ。けれど、ああけれど、優しい魔女であり、それ以前に子を産む女である彼女には、泣き続ける赤子の顔を攻撃することなど出来ようはずがなかった!!


「あははははっ!!」



 レテルの笑い声が辺りに響き渡る中、巨大な肉塊は、大釜の中にあった怨念がすべて吐き出され、騎士達に覆いかぶさり一つになった憎悪の極みは、泣きながら、涙を流しながら、子が母親を求めるかのようにエリーゼに向かって這い進む。そして遂にその手が、天高く持ち上げられ、





 振り下ろされた。



  腕が持ち上がった時、エリーゼはギュッと目を瞑った。別に振り下ろされる腕が怖かったわけではない。彼女の右目に宿る魔眼は、時々自分の制御とは関係なしに発動することがある。彼女は、ああ、このどこまでも優しい魔女は、自分が死ぬかもしれないというその瞬間でも、自分に振り下ろされる腕よりもなお、紫色の瞳が暴走し、目の前の赤子を石にする方こそを恐れたのだ。







「……おい」




 だが、待っていた衝撃は決して現れなかった。その代わりに暗黒の中、突如として響いた、決して聞こえることがないしわがれた男の声に、エリーゼははっと目を開けた。






 そこにいたのは、屈強な白髪の男であった。


「……スヴェン、なぜ、ここに?」
「その口を開くな絶対零度。貴様の声を聴いただけで吐き気がするんだ……ふん、まあいい。貴様のその哀れな姿に免じて質問に答えてやろう」

 エリーゼに振り下ろされた腕を、二本一対になっている魔器“悪魔笑いのチェーンソー”の一本、インドラで受け止めると、スヴェンは足元で転がっているエリーゼにも、そして先ほど自分に質問した憎むべき少女にも目をくれず、ただ目の前にある、泣く赤子の顔を睨みつけて言い放った。




「……こいつらが気に食わん。ただそれだけだ」




 そして、目の前の赤子の顔を、もう一本のチェーンソー、ウリドラで、粉微塵に粉砕した。



 エリーゼが負傷した右肩を抑えて後退する間、そこにあったのは一方的な殺戮だった。肉塊が、形容しがたいその四本の腕を、伸縮自在なひだを無数に伸ばして攻撃してくる。無数のひだには赤子の顔―涙でだけでなく、もはや鳴き声さえ出すそれは、相手の士気を下げるため、レテルがあえて出させているものだった―があり、普通ならば攻撃するのをためらうものだが、ああ、ああだがこの男が、閃光の異名を持つ白一色の無慈悲で残忍極まりないこの男がためらうはずがない。インドラの力によってその屈強な体の周りを強力な結界で覆っているスヴェンは、相手の攻撃を避ける事すらせず、ただ両手に持つチェーンソーを力任せに振るった。その一撃一撃が赤子の頭を粉砕し、そのつど周囲に甲高い絶叫が響き渡る。後方にいる女達にはその声が余程堪えるのだろう。エリーゼは肩に走る激痛すら忘れて両手で耳を必死にふさぎ、ヒスイと加世は両目を滲ませ、そしてキュウでさえも顔をゆがませていたが、響き渡る絶叫の中心にいる、その原因である男は眉一つ動かすことはなかった。


 彼が考えているのは怒りでも憎悪でも快楽でもない。淡々と繰り返される作業を、ただつまらないと思うことだけだった。







 その殺戮は、不意にぴたりとやんだ。





「あははははっ!! ようやく力尽きたのねっ!! さあ、そいつを押しつぶしてやりなさい!!」


 動かなくなったスヴェンを見て、レテルは、もはや目は血走り、限界まで吊り上った口の端から涎を垂れながす少女は、その首まで届く長い舌で舌なめずりをしてその瞬間を待ち望んだ。
 彼女の目の前で、怨念の塊が、ところどころ黒い体液を垂れ流す憎悪の極みがスヴェンに覆いかぶさる。そして、四方八方から隙間なくスヴェンを埋め尽くした。




「ぎゃははははははははっ!!」




  
 その光景を見て、少女は、もう可憐などとだれも思うまい少女は天を振り仰いだ。もはや自分を止める者は誰もいない。影の中にある大釜は、もう一度怨念を貯めなければ使用できないが、そんなものはこの都市の家畜どもを殺し合わせれば手に入る。最後の勝者には自分に食われるという褒美を与えてやろう。そして自分は誰もいない廃墟を一番高いビルから見下ろし、晩餐会からの迎えに優雅にこう答えてやるのだ。




「あら、遅かったですわね」とっ!!





 だが、確定していない未来の光景は、現在では幻でしかなかった。




「……つまらん」
 不意に、覆いかぶさった肉塊の中から低い男の声が響いた。空耳か? と訝しむレテルの目の前で、怨念により一つとなった巨大な肉の塊は、ゆっくりと、だが確実に持ち上げられていった。
 ぼたぼたと体液をこぼしながら、肉塊は持ちあがっていく。その中から現れたのは相変わらず白一色の男だった。零れ落ちる体液は、スヴェンの体に触れる寸前、彼が発する高熱によって瞬時に蒸発していく。





「何よ、何なのよ、これは!!」

「何よ、だと? それはこちらの台詞だ。飽きたんだよ。死ぬ危険があると聞かされてやってきたと思えばなんだこれは。喚き散らすただの肉の塊が俺の相手だと? 馬鹿にしているのか?」
 
 喚くレテルを、表情を全く変えずに一瞥すると、スヴェンは持ち上げた肉塊を地面に叩きつけた。潰された赤子のくぐもった悲鳴が辺りに響き渡る。だがスヴェンは意に介さず、自力では起き上がることができないその肉塊を踏みつけた。

「……ふん、貴様にはもったいない技ではあるが、もはやその姿など見たくもないんでな。特別にくれてやる。ありがたく味わうといい……閃光技“千裂”!!」


 肉塊に突き刺したウリドラが、強烈な熱を発しながら回転する。その熱は、怨念の塊である哀れな肉塊を、内側からことごとく粉砕し、蹂躙し、そして一片残さず爆発させた。



 後に残っているのは、砂浜に立つ、スヴェンただ一人であった。




「どうした? まさかこれで終わりということはないだろうな」
 
 表情を変えぬまま、動けなくなった得物を追い詰める虎のように、スヴェンはゆっくりとレテルに近づいた。



「う、うるさい!! 近づくな、この野獣!!」
「野獣か。面白い呼び方だな。で? それだけか? お前にできる事は喚き散らすことだけか?」


 じりじりと後退していたレテルは、不意に足元の小石に躓き、その場に転げた。もはや立ち上がる暇もない。手に持つ大鎌を必死に振るうが、それは何気なく振るわれたチェーンソーによってあっけなく少女の手から離れた。

「これが我ら魔器使の天敵だと? 期待外れもいい方だったが……まあいい、リハビリ程度にはなった。じゃあな、せいぜいあの世で後悔しろ……ああ、無理か。俺の一撃は魂すら粉砕するからな」


 レテルの首を粉砕するために振り下ろされたチェーンソーは、しかしその役目を果たすことなく、少女の脇の砂浜に突き刺さった。




 「……何?」




 その時スヴェンの一撃をそらしたのは少女の影から伸びる一本のレイピアであった。正直チェーンソーとまともにかち合えばぽきりと折れるぐらい細いそれは、チェーンソーの表面をなぞるように突き出され、その軌道を変えたのだ。

「っち」

 舌打ちし、それでも砂浜を抉りながらレテルに向かうチェーンソーは、今度は白い盾で阻まれる。

「……お、にい、ちゃん」

 呆然としているレテルの影、その中にあるひび割れた大釜が粉々に砕けるその瞬間、憎悪と怨念の奥底にいたそれ―白銀の鎧兜に身を包み、白い盾と銀のレイピアを持つ騎士―は、優雅に砂浜に降り立った。


「おにいちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん!!」
『……』


 自分に縋り付いてくるレテルを一瞥すると、白騎士は一度下がったスヴェンに向き直り、レイピアの切っ先を向けた。

「挑発のつもりか? 馬鹿馬鹿しい……だが少なくとも先ほどの肉塊よりは楽しめそうだ」

 向かってくる白騎士を見て、楽しそうに口を歪ませると、スヴェンはチェーンソーを横に薙ぎ払った。だが相手は横薙ぎの一撃の、その下を潜り抜けて回避するとスヴェンに向けてレイピアを突き出す。
 最初、スヴェンはその一撃を気にも留めなかった。なぜなら自分はインドラの結界によって守られている。ならば相手の攻撃など自分には通用しない。そう思っていたスヴェンは、だが無意識のうちに大きく体をのけぞらせていた。
 シュッと風を切る鋭い音と共に、スヴェンの首筋から鮮血が舞った。恐らく避けていなければ首を貫かれていただろう。


「何!? く、くそがぁ!!」


 突然の痛みと屈辱に顔色をどす黒く染め、スヴェンは双振りのチェーンソーを力任せに振るう。斬撃の嵐を白騎士は軽々と潜り抜け、今度は手の甲を切りつけた。

「うがぁ!!」

 突如鋭い痛みが走る。その手に持っていたウリドラが遠くの砂浜に弾き飛ばされる。白騎士の速さについていけなくなったのか、もはや少年にできる事は、インドラを盾にして、じっとしているだけであった。

 

  うまい



 

 血を流し過ぎて、いまだに起き上がれないヒスイは、白騎士の戦い方をそう評した。彼女が評価した通り、白騎士の戦い方は強いというより、むしろうまいとった方が正しかった。彼はスヴェンの大ぶりな攻撃を受けることなく巧みに潜り抜け、そして隙をついて確実に一撃を加えている。

「けど、加勢しないとまずいな。キュウ、行くぞ……キュウ?」


 起き上がろうと片肘を付いたヒスイは、自分の相棒の様子がおかしいことに気づいた。黒猫は、その紫電の瞳でただ呆然と白騎士を見ていたのだ。


「キュウ、おいキュウ、どうした?」
「……あやつ、あやつは」


 震えだした黒猫の姿を異常と見て取ったのか、加世から手当てを受けていたエリーゼがこちらに血の気のない顔を向けてきた。

「あやつって……影から出てきたんだ。さっきの奴らと同じで怨念の塊だろ」
「……違う」
「は? 違うって何がさ」

 エリーゼの問いに答えることなく、キュウは首を横に振った。
「違う。あやつが誰かを恨むはずがない。そもそも本来怨念が黒く染まるのは、他者を激しく憎んでいるからだ。だがあの者は違う。その証拠にあの体は光り輝き、一片も黒に染まってはおらぬ。もしあやつが憎んでいるものがあるとすれば、それは」
「……それは?」


「……それはあやつ自身だ。そうだ、彼の白騎士が憎んでいるのは、恨んでいるのは他人ではなく、己自身なのだ」

「ぐうっ!!」
 その時である、白騎士の攻撃を受け続けていたスヴェンが、耐えきれなくなったのかくぐもった悲鳴を上げてぐらりとその身体をよろめかせ、顔を伏せた。それを見て、白騎士がとどめを刺そうとまっすぐに突き進む。だが、




「……はっ!! かかったな、阿呆!!」






 不意に顔を上げたスヴェンの顔は、狂喜に歪んでいた。


 
 白騎士の渾身の一撃を、ここに来る前にむりやり投与した麻酔により痛みを感じる事がない右肩で受けると、スヴェンは左手に持ったチェーンソーを振り上げた。



「閃光奥義“血桜千斬”!!」



 その技を放った時、スヴェンは勝利を確信していた。本来なら両方のチェーンソーに力を極限まで高め、それを相手に叩き込むこの奥義は、いまだ未完成であったが、例え一本だけでもその威力は大規模結界に守られたグリアス教授の実験室の壁をその結界ごと粉砕し、粉々にするほどの威力があった。しかし、前回の戦いで聖亜が避けられた例を挙げても分かるであろうが、力を極限まで高めなければならないため相手に避けられやすい。白騎士の様な素早い相手ならなおさらだ。そのためスヴェンは一計を案じたのだ。すなわち相手の攻撃をわざと身体深くに受け、力を溜めた一撃を食らわせる。それは彼が考えた、作戦と呼ぶにはあまりにも稚拙なものだったが、どうやら成功したらしい。





 チェーンソーの圧倒的な力で、防ごうとした相手の盾が粉々になる。兜が空中高く吹き飛ぶ。次に来るのは、切り裂かれた傷口から吹き出し、桜が舞い落ちるように飛び散る鮮血だ。しかし……ああしかし、兜の中から現れた美しい黄金の髪も、小麦色の肌も、晴れ渡った夜空を思わせるその二つの瞳も、まったく傷ついた様子はなかった!!


「……あ? ぐべっ!!」


 飛び散る鮮血が幻で終わったことに呆然としたスヴェンは次の瞬間、白騎士に殴られ、レイピアを肩に刺したまま無様に吹き飛ばされた。吹き飛び、砂浜に無様に倒れたスヴェンに近づくと、白騎士は彼の右肩からレイピアを引き抜き、その首にぴたりとそれを押し当てた。


「まずい!! っく」


 いまだにふらつく体で、それでも刀を杖代わりにしたヒスイは何とか立ち上がった。そして加勢しようと歩きかけたその足は、だが次の瞬間止まってしまった。









「……ウィル?」









 自分の相棒である黒猫が発した、たった一つの名前によって









「……ウィル、そなたなのか?」

 スヴェンが倒れたのも、ヒスイが立ち上がったのも、黒猫には全く見えていなかった。
 彼女に見えているのは黄金の髪、小麦色の肌、そして何より晴れ渡った夜空を思わせるその瞳だけだった。

「あら、そこの黒猫さんは私のお兄ちゃんを知ってるの? ふふ、ねえお兄ちゃん、そんな奴に構わないでこっちに来て!!」

 レテルの声に応えるように、完全に気を失ったスヴェンを一瞥すると、ウィルと呼ばれた白騎士は、少女に向かって歩き出す。やってきた白騎士のその胸に甘えるように顔をうずめ、レテルは黒猫に勝ち誇った笑みを浮かべた。

「きさ、まっ!!」



「うふふっ!! さあ、一つの昔話をいたしましょう」
「……」
 呆然とする黒猫の目の前で、白騎士に抱きしめられながら、レテルは小鳥のさえずりの様な声で話し始めた。




「昔々その昔、果ての海の果ての島に、一つの王国がありました」
「……れ」



「蒼き海を統治する聡明な女神に守られたその国は、他に国がある事を知らず、人と人の間にある争いを知らず、若く美しい王の下、春には色とりどりの花を摘み、夏には海や川で泳ぎ、秋にはあふれ出る美食に舌鼓を打ち、冬には暖炉のそばで老人に昔話をせがむ、いつまでも続くはずの平和を謳歌していました。ですが」
「……まれ」


「ですがその平和は、永遠に続くことはなかったのです!!」
「黙れぇえええええええっ!!」






 キュウの叫びと共に、周囲に突然雷鳴が鳴り響いた。否、鳴り響くだけではない。雷撃は一つに集まり、龍の姿となって笑うレテルに向かって突き進む。

「あら怖い、ねえ、レテルを助けて? お兄ちゃん」

 抱きついてくるレテルに頷くと、白騎士は雷で作られた龍に向かって手を伸ばした。そして、ああ、ああそして、なんということだろう彼に触れるか触れないかといった瞬間、龍はふっと何もなかったかのように消え去ったのだ!!


「……絶対不可侵領域“女神の情愛”やはり、そなたはウィルなのだな」
「あら、相変わらず物知りなのね、黒猫さん。ならこれは知ってる? ねえお兄ちゃん、私、お友達がほしいの」

 レテルの言葉に再び頷くと、騎士はレイピアの切っ先は砂浜に向けた。するとどうだろう。彼が剣の先を向けた砂浜が光り出し、そしてその光が収まったとき、そこには緑色の髪を垂らし、腰に剣を差した美しい女の姿があった。彼女は白騎士の姿を確認すると、彼に向かって恭しく跪いた。




『妖精騎士ヴィヴィアン、変わらぬ忠義により参上いたしました』




「これは……」
「どう? すごいでしょ。お兄ちゃんはね、何の代償もなしに、妖精や精霊を召喚することができるのよ。ねえ、知ってた? 黒猫さん」

「……知っている。ウィルは生まれた時、すでに妖精王オベロンと、女王ティターニアを無意識に召喚できた。それほど彼は妖精に愛され、そして忠誠を誓われているのだ」

 レテルがキュウの方を向いている間、ヴィヴィアンは騎士を愛おしそうに見つめ、彼の手甲に恭しく接吻した。

「あ、ずるい、じゃあ私はこっちにキスしちゃおっと……んむ」


 騎士の首をこちらに向かせると、レテルは彼の唇に自分の唇を押し付けた。そして、あまりの怒りに震えている黒猫を、勝ち誇った目で眺めた。







「っ!?」




 その時、突然ヒスイの胸を激しい痛みが襲った。魔器使はその相棒であるホムンクルスと契約するとき、念話での通信を可能にするため感情の一部を共用する。そのためあまりに激しい感情は、自分だけでなく相手にも流れ込むのだ。今までは自分の感情がキュウに流れ込むことはあっても、彼女の感情が自分に流れ込むことはなかった。






 だが、今初めてキュウの感情が流れ込んできた。そして流れ込んできたのは負の感情であった。絶望が、悲しみが、怒りが彼女の胸を襲う。それは体力を消耗し、血を流し過ぎた彼女の肉体を強く打ちのめした。




「……う」




 ふらふらとよろめいたヒスイは、耐え切れずにそのまま地面に倒れこんだ。薄れて行く意識の中、彼女の耳にエリーゼが何かを呼び出す声と、レテルの笑い声、そしてキュウの叫び声が微かに響いた。









  それを最後に、少女の意識は、闇へと落ちた。




                              続く






あとがき

 久しぶり、あるいは始めまして。活字狂いと申します。このたび怪我により退職し、
 再び「スルトの子」を執筆することになりました。いろいろ前の奴と違っているところはありますが、ご了承ください。
 さて、今回は出雲に聖亜達が行っている間のヒスイサイドになります。未熟な彼女が、未熟なままに突き進む様子はいかがだったでしょうか。じつはこの第三幕は、もともと7万字を超す一つの幕だったのですが、いざ投稿しようとしたときにパソコンを落としてしまい、修理するときデータが全部消えてしまいました。そのため大幅に見直し、結果前篇、後篇に分けることにしました。
 さて、後篇は一か月先、遅くても二か月先になります。
 
 追記1
 現在少し暇になったので、RPGツクールVXACEを使用してスルトの子の第二部をゲームとして作ってみました。第一部とは全く違う話になりますが第一部が終わり次第投稿します。まあ、まだまだ先ですけど。
 追記2
 この前、姪が生まれました。しかも誕生日が自分と一緒!! 写真を見ましたがぽっちゃり系の美人になりそうです。

 さてそれでは皆様、次はスルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第三幕 魔狩人は海より来(きた)る 後篇でお会いいたしましょう!!

 



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第三幕 魔狩人は海より来(きた)る 後篇
Name: 活字狂い◆a6bc9553 ID:6b5589af
Date: 2015/08/25 22:01

 出血多量と、相棒であるキュウから流れ込んできた強烈な感情により意識を失ったヒスイは、高熱と体力の低下によりそれから五日の間、目を覚ますことはなかった。
 
 意識がない状態で、彼女は様々な夢を見た。家族の夢、親友の夢、戦いのための訓練の夢、そして自分が“百殺の絶対零度”と呼ばれるようになった事件の夢などを、繰り返し見ていた。
 夢のほとんどは自分に関係のある夢であったが、彼女の見たのはそれだけではなく、全く関係のない夢も見続けた。例えば雲一つない青空の下、草原に一人立っている夢。すべてが青白い塊となった、不思議な街の中にいる夢など、起きた時にはその大半は忘れてしまったが、それでも今なお、おぼろげに覚えている夢もあった。

 その中の一つに、どこまでも続く青い海の中にただ一つ浮かぶ、不思議な王国の風景があった。

 最初に見たのはどこかの城の一室だった。金髪の青年が、本当にうれしそうな顔をして、自分と同じ金髪の赤子を抱き上げている。彼らのすぐそばにあるベッドでは、晴れ渡った夜空の瞳を持った女性がにこにこと笑いながら彼らを見ていた。そして、そんなどこにでもある、この世で最も美しい光景の一つを、彼らのすぐそばで、だが彼らには全く気付かれないまま、背中に美しい蝶の羽をはやした一組の男女が、微笑を浮かべて赤子を見ていた。

 次に見たのはどこかの森の中の風景だった。美しい金髪と、晴れ渡った夜空の瞳を持った少年が、大きな木のうろの中で泣いている。大好きだった母が病気で亡くなり、そのことを受け入れられないでいるのだ。どのくらい泣いていたのだろう、少年がふと顔を上げると、彼の目の前に、青いドレスを着た、美しい銀髪の女性が笑いかけているのが見えた。その紫電の瞳を細めて。

 三つ目の夢は黄金色の髪をした青年が、引退した父に代わって玉座に座った時の風景であった。王となった翌日、青年は少年のころから遊び場であった森へ行き、幼いころから自分を優しく見守ってくれていた女性に告白をした。愛していると、ずっとそばにいてくれと。それを聞いた女性の、王国とそこに住む人々を見守っていた女神の返事は、悪態と、そして微かな同意の頷きであった。

 そして最後、四つ目の夢。彼女はこの夢を何度も忘れたいと願ったが、それは決して叶うことはなかった。
 燃える城下町、周囲には血と臓物が散らばり、炎と共に全てを真っ赤に染めている。城門前で万を超す化け物と戦っている若い王は見た。生き残った人々が避難している城を、巨大な黒い雷が襲い、彼の愛する全ての者たちが、男も女も、老人も赤子も関係なく、生きながら焼かれていく光景を。そして、狂ったような叫び声をあげ、若い王はまだ残っている化け物に突っ込んでいった。それはもはや勝つためではない。愛する者をすべて失った彼には、生こそ苦痛であったのだ。だから彼は望んだ。化け物の爪や牙の餌食になり、苦痛の中で死ぬことを。死んで彼が愛する臣民と同じ所へ行くことを。
 だが、化け物達の攻撃は、全て王に届く前に消えていく。誰にもできないのだ。海の女神に愛された、この美しい王を傷つけることは。そして、砂浜まで流血の道を作り出した王は、王家に代々伝わる宝剣をその首に自ら突き刺し、死んだ。



「・・・・・・げほっ、げほっ、げほっ」
「おや、気が付かれましたか」
 重い泥沼に浸かっているような眠りから覚めたヒスイは、喉の痛みに思わず急き込んだ。少女が目覚めたのを確認すると、彼女の傍らで椅子に座って本を読んでいた眼鏡をかけた女性が立ち上がり、水差しとコップを持ってきた。
「・・・・・・う、す、すまない」
 差し出されたコップを受け取り、中の水を貪るように飲み干す。ほっと息を吐いたヒスイは、ふと眉をしかめた。周囲の空気が、どことなくおかしいように感じたためだ。
「さあ、もう少しお眠りなさい。まだ体力が完全に回復していないのですから。私はあなたが目覚めたことを皆さんに知らせてきます」
「あ・・・・・・ああ、すまない、水口さん」
 水差しとコップをベッドのわきに置くと、水口千里はいえ、と微かに言って窓の方をちらりと見ると、ベッドに入ったヒスイが目を閉じるのを確認し、ふっとため息を吐いた。


「・・・・・・もしかしたら、目覚めない方が幸せだったかもしれませんけどね」


 再びヒスイが目覚めたのは、その日の午後遅くだった。一度大きく伸びをした後、両手を閉じたり開いたりして体の様子を確かめる。寝すぎたためか少しだるい感じがするが、痛みや疲労はない。どうやら完全に回復したようだ。立ち上がって部屋のドアまで近づくと、彼女はドアノブに手をかけ、ゆっくりと

「うっ」
 
 開きかけたところで、その手を不意に止めた。ドアの向こうから、途轍もなく濃い臭いが漂ってきたためである。それは恐らく甘いと感じられるものであろうが、あまりに濃すぎるその臭いは、瘴気そのものに感じられた。瘴気を吸い込まないように息を止めて廊下に出る。濃い桃色の靄に覆われた廊下に立って周囲の様子をうかがうと、階段を挟んで反対側の部屋のドアが微かに開き、中に入るエリーゼがこちらに向かって手招きをしているのが見えた。息を止めたまま頷き、だっと駆けだすと、彼女がいる部屋に一気に駆け込んだ。部屋の中は結界が張っているらしく、瘴気は漂ってこない。一度大きく深呼吸すると、ヒスイは改めて部屋の中を見渡した。それほど大きくない部屋の中には、先ほど手招きしたエリーゼのほか、加世、スヴェン、高天原に所属している水口千里と、そしてもう一人、


「なぜあなたがここにいる、鈴原雷牙」
「そりゃいるだろうさ、なんたってここは俺の事務所なんだからね」

 
 三雄の一人に数えられる青年、鈴原雷牙はそう軽口を叩いたが、同時にどこか疲れたような溜息を吐いた。よく見ると目元に薄い隈までできている。どうやら事態は思った以上にひどくなっているらしい。

「さて、ヒスイちゃん。何か質問はないかな、といってもあまり答えている時間はないけれど」
「あ、ああ。まず、私はいったいどれぐらい眠っていたんだ?」
「ちょうど五日ほどです。かなり重傷でしたからね。それに失った血と傷口から入り込んだ毒素のせいで、なかなか熱が下がりませんでした」

 ヒスイの質問に答えたのは、お茶の用意をしている千里だった。どうやら自分が寝込んでいる間、ずっと彼女が世話をしてくれていたらしい。
「五日間も・・・・・・それはすまなかった。お礼を言います」
「いえ、気にしないでください」

 頭を下げるヒスイに微笑して答えると、千里は雷牙の隣に腰を下ろした。それを見て、ヒスイも彼らの反対側、エリーゼの隣に腰を下ろした。
「それで次の質問だが、私が眠っている一週間の間、いったい何が起こったんだ? 廊下に出た途端、吐き気を覚えるほど強烈に甘い香りがした。これは一体なんだ?」
「あれだよ」
 ヒスイの隣で紅茶をすすっていたエリーゼが、ちらりと窓の方を見た。それにつられるようにヒスイも窓を見て、そして絶句した。窓の外、一週間前、ちょうど魔狩りの兄妹の異名を持つレテルと死闘を演じた海岸の空気が、不気味に歪んでいた。
「あれは、あれは一体なんだ?」
「私達が退却してすぐ現れた結界さ。十中八九レテルの仕業だろうよ。あれがこの甘い香りを、まあ、私達は“甘い霧”と呼んでいるがね、それを発生しているのさ」




 ヒスイ達が眺めている歪んだ空間の中、広大な森のほぼ中央に、濃厚すぎて毒にしかならない甘い臭いを発生させながらそれは静かに佇んでいた。

 その姿は、まさしくお菓子の城と呼ぶにふさわしい物だ。壁はクッキー、屋根はチョコレート、噴水から流れ出るのは青い炭酸水、所々に建っている彫刻は、石像ではなく飴でできた飴細工だ。壁変わりであるクッキーの補強のため、割れた裂け目にヨーグルトを塗りこんでいるトランプの兵隊達を、白の最上階にある自分の部屋で、レテルはつまらなそうに眺めていた。むろん、彼女の傍らには常に白騎士が控えているが、それ以外の黒人形達は影も形もない。彼らを呼びだす大窯はすでにない。今城にいるトランプの兵達は皆、別の手段で呼び出したものだ。

「しかし暇ねぇ、五日も迎えをよこさないなんて、向こうはこちらを出迎える気が本当にあるのかしら」

 彼女が待っているのは、自分を招待したはずの組織、赤王の晩餐会からの使者であった。だがすでにこの地に着いているのは知っているはずなのに、彼らは連絡一つよこさないのだ。
「この招待状だって、偽物じゃないの?」
 少女がそう言って、テーブルに置いてある、何も書かれていない手紙を手に取った時、ふと、傍らの騎士が腰に差している剣に手を置いた。

「ええ、それは紛れもなく本物、偽物などでは決してございませんよ」
「・・・・・・遅かったじゃないの」

 部屋の片隅の空間が一瞬歪んだかと思うと、そこには燕尾服を着た、声の口調から男が立っていた。顔は分からない。なぜならその顔には、仮面舞踏会で付けるような黒猫を模した仮面が付けられていたからだ。

「あいすいません、何しろ誰も手が離せなかったものですから」
「ふん、招待客を待たせるなんて、どうにもいい加減な晩餐会です事。それで? あなたは一体誰なのかしら」
「はい、私晩餐会に置きまして、皆様方のお世話をさせていただいております、名無しの召使いの一人でございます。お迎えが遅くなってしまったこと、大変申し訳ございません。何しろ予言の解読に、時間がかかってしまっていますので」
 そう答えると、名前無き仮面の召使いは深々とお辞儀をした。だがその時にはもう、レテルの関心ごとは他に移っていた。

「予言? 予言って、なに?」
「は? いやいやご冗談を。あなたほどの方が予言を知らないはずがございませんでしょう。そもそも、四界にいるもので彼の予言を知らない者がいるはずが……ああなるほど、そういうことでしたか」
「何を勝手に分かったような顔をしていらっしゃるのかしら?」
 召使いの言っていることが分からないことに苛立ちを覚えたレテルが指を一度鳴らすと、部屋のドアが開きトランプでできた兵士が入ってきた。彼は恭しく一礼すると、空になったカップに紅茶を注ぎ、一礼して去っていく。

「いえいえ、何でもございません。それから大変申し訳ないのですが、どうやら馬車の到着は明日になりそうなのです。申し訳ありませんが、もうしばらくお待ちいただけないでしょうか」

「・・・・・・まあ、いいわ。この空間にいれば奴らが来ることなんて絶対にできないだろうし。けどせいぜい最高級の馬車にすることね」

「ええ、それはもう。では私はこれで失礼させていただきます」
 一礼すると、召使いはドアを開けて廊下へ出た。チョコレートの甘い臭いに仮面であるはずの鼻をひくひくと動かす。いや、それは仮面ではない。黒猫こそ、彼の本当の顔なのだ。
「どうやら予定が少し狂ってきましたね。こうなれば彼らが来てくれることを願うしかないですが・・・・・・まあ、多少小細工はしておきましょうか」
 その眼を縦に細めると、名もなき猫執事は大きく息を吸い、そして窓から吐いた。その息はどこまでも続き、やがて城全体を追い始めた。



「てなわけで、あの城から発生している甘ったるい空気のせいで、海岸に近づいた人が倒れて病院に運ばれている。今は数人だけど、このまま放っておいたらもっと増えるだろうね」
「こんな状況でも、あなた達は動かないつもりか!?」

 人的被害が出ていることを軽く言い放ったように聞こえたヒスイは、雷牙をきっと睨みつけた。高潔すぎる彼女には、守らなければならない人々を守れる力を持っていながら、彼らを守らない彼の態度がどうにも気に入らないのだ。

「動かないさ。いや、正確には動けないといったところかな」
「どういうことだ?」

 ヒスイの声に応えず、雷牙は薄くクマが出来た目元を指で押さえ、千里の方をちらりと見た。視線に一つ頷くと、千里は近くの机まで歩いていき、その上に置いてある紙束を持って戻ってきた。

「二日前、私達“高天原”の本拠地である出雲が襲撃を受けました。襲撃直後はまだ通信が出来ていたのですが、今は完全に連絡がつかない状態です」
「そんな・・・・・・じゃあ、出雲に行った聖亜とも連絡がつかないのか!?」
「ええ、取れていません。それと、一つ訂正していただきますが」
 ふと、千里は考え込むようなそぶりを見せ、雷牙を見た。彼女の視線を受けた雷牙は、仕方がないという風に頷いて見せた。
「彼、星聖亜を出雲に向かわせたのは高天原への入隊試験を受けさせるためです。襲撃前日に最終試験へ進んだと報告がったので、恐らく合格しているでしょう。何せ、最終試験は合格するか死ぬかのどちらかでしょうから」
「入隊試験!? あなたは、あなた方は聖亜を本格的にエイジャとの戦いに巻き込むつもりか!!」
「最初に巻き込んだのはそっちだよ、ヒスイちゃん」

 激昂して千里に詰め寄ったヒスイは、雷牙の言葉にぐっと唇をかんで俯いた。

「それに聖亜君は日本皇国の国民だ。ならば君達魔女達の夜より、高天原に入れるのは当然だろう? とにかく本部との連絡が取れない以上、俺達は有事に備えてここで待機していなくちゃならない。高々低級のエイジャ一匹のせいで、数人が倒れたぐらいでは、動くわけにはいかないんだよ」
「ッ!!」
 彼の言葉が、俯いているヒスイの胸に突き刺さる、彼は暗にこう言っているのだ。自分達は、その低級のエイジャ一体倒せない無能だと。

「さあ、話は終わりだ。後はあのエイジャがこのままさっさと町を出ていくのを待っていればいいだけさ」
「いや、どうやらそうはいかなくなったようだね」
「はあ? いったいそりゃどういう事・・・・・・クソッタレが!!」

 話に加わらず、窓から外の景色を眺めていたエリーゼの呟きに一瞬眉をひそめた雷牙が、次の瞬間ドンッと壁を殴りつけた。何かあったのかと問いかけたヒスイだったが、慌ててぎゅっと口を閉じた。結界のため、今まで感じなかった瘴気が強く感じられたのだ。恐らく、外はもっとひどいだろう。

「エリーゼ、これは」
「ふん、あいつ、こちらを挑発してきやがった。どうやら素直に出ていくわけではないようだね。さて、どうするんだい三雄さん。あんたの目論見が違えたせいで、このまま放っておけば一両日中にこの都市は滅ぶよ?」
「~ッ!! 分かったよ、今回は俺が折れよう。だが先ほども言ったとおり、俺自身は動くわけにはいかない・・・・・・千里、行ってくれるな?」
「ええ、分かりました」

 雷牙の言葉に頷き立ち上がると、千里はヒスイ達に向かって深々と頭を下げた。

「守護司補佐、高天原上級呪術師を務める水口千里、レテル討伐のため皆様にご協力いたします」
 顔を上げた彼女の顔は、どこまでも淡々としていた。





 それからこまごまとした打ち合わせを行い、出発するのは明朝ということになった。その準備のためあてがわれた部屋に戻ったヒスイはベッドに腰掛けると、ふぅっとため息を吐いた。
「そうだ。キュウ、どこにいる?」
 ふと、ヒスイの頭に相棒であるキュウの姿が浮かんだ。黒猫は、自分の寝ていた部屋にも、先ほど皆が集まった部屋の中にはなかった。もしや一人であの城に乗り込んだのではないかと不安になったヒスイが何度かペンダントに呼びかけると、
『・・・・・・うるさい、そんなに呼ばなくとも聞こえておる』
 というどこか覇気のない声とともに、微かに開いている窓の隙間から、探していた猫がひょっこり入ってきた。
 だがそれが本当に自分の相棒なのだろうか。常に手入れを欠かすことのない艶やかな黒い毛皮は今では汚れきっており、耳は垂れ、紫電の瞳からは輝きが消えていた。
「それで? どういう事になった」
「あ、ああ、その、明朝、城に向かうことになった。それで、だから・・・・・・」
 キュウの問いに、ヒスイはまごつきながら答えた。彼女は三年前、自分が正式な魔器使に任命されたときに与えられたホムンクルスであり、それからずっと共に戦ってきた。ホムンクルスは魔器使候補生が正式に任命されるとき、試験管に保存してある肉体を目覚めさせる。そのためキュウは三歳のはずだ。それなのに


「・・・・・・」


 口を開き、何もいう事が出来ずにまた閉じる事を繰り返す少女の様子を見て呆れたように溜息を吐くと、キュウはスタッとヒスイの膝の上に飛び乗った。すると、恐る恐る伸びてきた手が、黒猫の背を優しくなで始めた。

「彼の白騎士・・・・・・我がウィルと呼んだ男の事だがな」
「うん」
「奴はかつて南海に人知れず存在していた小さな島国、その最後の王だ」
「最後・・・・・・じゃあその国はもうないのか?」
「ああ、とっくの昔に滅んだ。だが戦争や疫病で滅んだのではない。かつて楽園の名で呼ばれていた彼の国は、確かに亡びる直前までは何も知らぬ楽園であったのだろう」
「・・・・・・」
 背中を撫でられ、心地よさそうに話す黒猫は、だがヒスイには、どこか悲しげに感じられた。

「美しき楽園が滅んだのは、その国を守護していた愚かな女神のせいだ。嘆きの大戦において人間に味方し、同族から追われるようになった愚かな女神が私事で国を離れたせいで奴―レテルに滅ぼされたのだ」

 いつしか、黒猫を撫でるヒスイの手が止まっていた。

「我はその愚かな女神を決して許さぬ。いや、奴はそもそも女神などではない。自分の責務を放り出し、色に狂った女でしかない。その女のせいで楽園は・・・・・・いや、そこは本当に楽園だったのだろうか、楽園は楽園でも、虚ろな楽園であったのではなかろうか。その虚ろな楽園は、そこに住む数千の人々と共に、深い海の底に沈み、そして滅んだのだ。永遠(とわ)の牢獄に捕えられた、最後の王を残してな」

「それで、あの白騎士を解放してやる手段は何かあるのか?」


 少女の問いに、キュウは項垂れ、首を振った。


「ない。絶対不可侵領域、それは色に狂った女が彼女に愛された哀れな王に授けた、決して自分から逃れられないようにするための呪いだ。その名の通り、奴にはどんな攻撃も聞かぬ。確かに鎧兜は砕けることはあるだろうが、それでも王自身にはそよ風ほどの衝撃も与えられん。奴の体に触れる瞬間、まるでそれが罪だといわんばかりに、攻撃そのものが消滅してしまうのでな」

「いや待て、それならひとつ疑問が残る。なぜ彼は、レテルが操る大釜の中にいたんだ」
「・・・・・・一つだけ、例外がある。他者によって傷つけられることはなくても、自身の手で傷つけることは可能だ。つまり自害したのだ。王は、ウィルヘルムは国が滅び、守るべき民が死に絶えたその日に。自らの首を手に持つ剣で刺し、死んだのだ」

「そう、か」

 キュウの答えに、ヒスイは重々しくため息を吐いた。愛する人々がすべて死に絶え、たった一人生き残った王は生きる苦しみよりも死んで楽になることを選んだのだ。
「さあ、明日出発なのだろう、さっさと準備を終えて休むといい。我ももう休む」
 そう呟いて丸くなった黒猫の背を再び撫で始めながら、ヒスイはふと窓の外、歪んだ空間が広がっている海岸を見た。あそこにレテルがいる。倒さなければならない相手が。ならば倒す、それが自分の役目であり、そして自分にはそれしかできない。そう思い、ひすいはぎゅっと唇を噛み締めた。



「・・・・・・」
 ヒスイが決意を新たにしているちょうどその頃、宛がわれた一室でスヴェンは暗闇の中むっつりと押し黙っていた。

「どうしたんですかぁ? ご主人様」
「ウルか・・・・・・何でもない」

 暗闇の中、少年をからかうような声と共に、彼の魔器であるウルが虚空に姿を現した。

「明日も早いんですから、さっさとお休みになられた方がいいですよ。それより本気なんですかぁ? 明日イルを連れて行かないなんて」
 ウルの問いに応えず、スヴェンは部屋の片隅にある彼の魔器を侮蔑を込めた視線で眺めた。放り捨てられた魔器は、その周りを鎖でがっちりと固められており、一番上の部分にはスヴェンの血で封と書かれた紙が貼られてあった。
「決まっているだろう、役にも立たん武器を持っていく必要はない。ウル、貴様も封印刑に処されたくなければせいぜい励むことだ」
 スヴェンのあくまでも淡々とした声に、ウルは少年に気づかれないよう眉をピクリと動かした。現在彼女の相方であるイルに課せられている封印刑は、その名の通り魔器の身体と精神を鎖で縛り上げられる罰だ。それは女の肉体と意識を持つ魔器にとっては耐え難い凌辱以外の何物でもない。
「はぁ~い。でもご主人様、もし負けたら、今度はどうなさるおつもりなんです?」
「決まっている、その時は貴様らを破棄し、より強力な魔器と契約するだけの事だ」
 躊躇なく言い放ったそのことばを聞いて、ウルは一瞬身体をびくりと固めたが、すぐに皮肉そうな笑みを浮かべた。
「へ・・・・・・へぇ~、そうですか、よく分かりました。あ、そうだ。もう眠ったほうがいいですよ。ご主人様夜更かしすると朝なかなか起きれませんからね。ああ、それと最後に一つだけ」

 ぼんやりと消えていくウルは、さも今思い出したという顔をしてスヴェンを見た。

「私は確かに封じられるまでは暴龍といわれて暴れまわっていましたけど、それを倒したのは誰だと思います? イルですよ。つまり彼女が悪いんじゃなくて、ご主人様の使い方が「黙れ!!」・・・・・・」

 激昂して殴りかかったスヴェンの拳は、だが何も言わず消え去ったウルには当たらず、彼女のいた空間を通り過ぎただけだった。
「俺が悪いんじゃない。弱い貴様らが悪いんだ、俺を勝たせ無い貴様らが全部悪いんだ!!」

 封じられているイルをガッガッ、と何度も蹴りながらスヴェンはしばらくぶつぶつと呟いていたが、やがて無表情のまま宛がわれたベッドへともぐりこんだ。
 
 
 鎖で縛られ、身動きできない魔器が、微かに震えていることに気付かないまま


 
 次の日の早朝、ヒスイは六日前に戦闘を繰り広げた海岸にいた。唇に薄く紅を差した彼女の横には、キュウ、エリーゼ、加世の他、スヴェンと今回に限り協力することになった水口千里の姿が居る。これからこの五人と一匹で、レテルの貼った結界の中に突入するのだが

「随分と様変わりしているな」

 海岸の様子を見て、ヒスイはポツリと呟いた。砂浜には白いテントがいくつも並び、白衣を着た男女が忙しそうに歩き回っている。彼らの近くには迷彩服を着た警護兵が周囲を監視していた。そんな彼らに共通しているのは、全員が防護マスクを着用していることだろう。

「こちらです、ついて来てください」
「あ、ああ」

 千里に促され、ヒスイ達は彼女に従って歩き出した。マスクを着けていない彼らを、周囲の医師や兵士達は訝しげに見るが、兵士はともかく、医師はそんなことに構っていられないといった風に仕事に戻っていった。
 彼らの視線を受けながら歩いていたヒスイ達は、やがて一際大きなテントの前にたどり着いた。テントの前で警戒していた兵士が二人こちらに向かってくるが、千里の顔を確認すると慌てて敬礼し、道を譲った。
「・・・・・・大したもんじゃないか、尉官クラスを慌てさせるなんて」
「それほど大したものでもありません。皇国軍の中にも高天原の協力者がいて、彼らはその部下であるというだけの事です」
「ふん、よく言うよ。軍そのものが黒塚家の配下にあるってことは、とっくに調べがついてるんだけどね」
「・・・・・・否定はしませんよ、否定はね」

 小声でけん制し合いながら中に入っていく二人に続いてヒスイ達も中に入っていく。テントの中はあちこちに通信機材やら書類やらが散乱しており、その中央でいかつい顔をした男が部下に指示を出していた。恐らく、彼がこの場所全体の指揮官だろう。襟元の階級章は、中佐を示していた。
「奥村中佐、お待たせしました」
「ん? おお、水口のお嬢さんか」
 最新式の通信機でどこかと話していた奥村という名の指揮官は、千里が近づいてくるといかつい顔に似合わず穏やかに微笑んだが、後ろにいるヒスイ達に目をやると険しい顔をした。彼の周りにいる部下達も、部外者を見るような視線を投げかけてくる。
「千里君、彼らが米国からの来訪者かね? できれば外で待っていてもらいたいんだが」
「いえ、そうもいきません。事態は一刻を争います。できればこのまま状況を説明していただきたいのですが」

 奥村はしばらく考え込むように宙を仰いでいたが、やがて観念したように溜息を吐いた。
「分かった。我々は五日前の早朝に本部から指示を受けて高知基地を出立、その日の午後にはここに陣地を敷いた。隣接している市街には訓練と説明し、一般人の立ち入りを禁止したため、昨日までなんとか被害を出さずにすんでいたのだが」
 いったん言葉を切ると、奥村は手に持った資料を千里に手渡した。

「見ろ、昨夜から瘴気の濃度が急激に上がっている。そのためここからほど近い地区では意識不明の重体者が出るほどだ。まだ死者が出ていないのは不幸中の幸いだが、このまま放置していれば三日で都市は全滅する」

「ええ、ですがそうさせないために私達が来たのです。それと、出雲とはまだ連絡が付きませんか?」
 千里の質問に、奥村は重々しく首を振って応えた。

「ない。最後に連絡が付いたのは四日前の事だ。それからは全く音沙汰がない」
「分かりました。では手順通り、本部と連絡が取れないため、動けない鈴原守護司に代わり、守護司補佐である私、水口千里が突入、敵エイジャである“魔狩りの兄妹”レテルを撃破しますので、引き続き一般の方々が入り込まないように監視をお願いいたします」
「うむ、分かった。気を付けてな」
 奥村がビシッと敬礼したのに対し、千里も微笑して敬礼した。


「あの中佐も高天原の一員なのか?」

 司令部のあるテントから出て、ふとヒスイは千里に尋ねた。奥村という指揮官からは、千里の様な呪力が感じられなかったためである。

「ええ、そうですよ。といっても彼は支援部隊ですけど」
「支援部隊、ですか?」
「そうです。我々高天原には、実働部隊である呪術師のほか、資金調達のために会社を興している者、軍に入り規制など後方支援を行っている者など、様々な人達がいます。彼らがいるからこそ、私達は日本防衛を行えるのです」
 あまり好ましくない感情を込めた視線を受けたためか、少々俯き加減に尋ねた加世にそう答えると、千里はふと立ち止まった。目指している場所に到着したためである。そこは結界の内部にある景色が不気味に歪んで見える場所で、明らかに他の場所より結界の強度が薄い場所だった。
「さて、目的の場所に付いたわけですが・・・・・・皆さん、一度向こう側に入れば、レテルを倒すまでこちら側に戻れませんが、覚悟はよろしいですか?」

「・・・・・・覚悟、だと?」

 振り返ってそう質問した千里に、朝から何も喋っていないスヴェンが低い声で呟いた。
「ここにいるのは皆覚悟が出来ているものだと思うが・・・・・・まあ、そこの女どもはどうか知らんがな」
「心配するなスヴェン、私達だって、ちゃんと覚悟はできている」
 明らかに自分に対していているスヴェンに一度大きく頷くと、ヒスイは胸元のペンダントから自分の魔器である日本の太刀を取り出した。両手は、いつも通り握っている刀の重さを強く伝えてくる。その重さが、ヒスイに覚悟を決めさせているのだ。

「分かりました。では結界の一部分を一瞬だけ開きます。私に続いて中に飛び込んでください」

 そう言うと、千里は歪む空間に向けて右手を突き出した。彼女の右手は人差し指と中指が伸ばされ、後は握られている。そのまま彼女は眼をすっと閉じ、次の瞬間、目をカッと見開くと同時に、突き出した右手を振り上げ、勢いよく振り下ろした。と、歪む空間が左右に分かれ、ぽっかりと黒い空間が目の前に現れる。
「さあ、行くぞっ!!」

 仲間と、そして自分を勇気付けるために力強く叫ぶと、ヒスイは黒い空間の中に飛び込んでいった。




 目の前に飛び込んできた黒い影に向かって、ヒスイはほぼ無意識に刀を振るった。何かを断ち切った手応えに、ぼんやりとしていた意識が次第に元に戻ってくる。
「・・・・・・ここ、は?」
「ぼさっとするな!! 次が来るぞ!!」
 その時、耳元でキュウの甲高い声が響いた。はっと意識を取り戻すと、左右から同時に襲ってきた小さな黒い物体を二本の太刀でほぼ同時に切り裂く。
「キュウ、皆は!?」
「案ずるな、皆無事だ。それよりどんどん来るぞ!!」
 キュウが言ったとおり、黒い物体は無尽蔵に湧き出してくる。その形は蟻や蜘蛛、バッタといった昆虫の形をしていた。それらを切り払いながら、ヒスイは周囲を見渡してみた。
彼女の右側ではエリーゼが暗器を自在に振り回しながら虫を切り払い、その横ではスヴェンがつまらなそうに踏み潰している。左側にいる千里は黙々と虫を殴り続け、取り零しは加世が短刀で的確に処理していた。


 こうして、溢れるほどいた黒虫の群れは、いつの間にかいなくなっていた。


「しかし、何なんだこいつら・・・・・・ああ、スフィルか」
 刀を突き刺した黒虫が消滅するのを見て、ヒスイは軽くうなずいた。その消え方が、小型のスフィルとまったく同様だったからである。
「しかしそうなると妙だね、スフィルがいるなら、この前の戦闘の時どうして出してこなかったんだい?」
「さあ? 私は直接対峙してはいないので分かりませんが・・・・・・それにしても、相手を少し侮っていたようですね」
「それって、どういう事ですか?」
 千里の呟いた言葉に、隣で短刀の状態を確認していた加世がそう尋ねた。彼女が所持している短刀は鎌倉時代に作られたもので、合戦場に放置していたのを先祖が拾って保管していたらしい。
「想定していたより、ずっと領域が広いということだ。上級のエイジャは、皆領域と呼ばれる別の空間に存在する住居を持つ。むろん、上に行くほど領域は広くなっていくが、これほど広いとは、我も思っていなかった」
 加世にキュウが説明している間、ヒスイは改めて周囲を見渡した。彼女の視線に飛び込んでくるのは深い森だった。しかも薄暗く、遠くまで確認することができない。それでも、木々の隙間から自分達が目指す場所は確認できた。ここから北、2kmほどの所にある瘴気を発する古びた城、そこにレテルがいる。彼女を倒し、この瘴気を一刻も早く止める。その決意を胸に込め、再び襲ってきたスフィルの群れに対し、ヒスイは太刀を構えた。


 それから、三十分ほど歩いただろうか、襲いかかる多数のスフィルを倒しながら順調に城に向かっていたヒスイ達は、不意にぽっかりと開けた場所に出た。距離はさほどでもなかったが、ぬかるみ、倒木などを乗り越えながらスフィルと戦い進んできたため、皆多少ではあるが疲労していた。そのため、千里の少し休憩しましょうという提案に、皆、スヴェンでさえ無言ではあるが賛成した。


「ふぅっ」


 ヒスイは近くの倒木に腰を下ろすと、襟元を開き、パタパタと手で仰いだ。森に入ってから彼女はずっと先頭で戦ってきた。相手が小型のスフィルであるためそれほど疲れてはいないが、それでも湿気の多い森の中では汗をかく。
「お疲れ様です。どうぞ」
「あ、すまない。ありがとうございます」
 息が整い、だんだん近づいてくる城を眺めていたヒスイの前に、水筒が差し出された。それを持つ千里に礼を言って受け取ると、ヒスイは一口だけ飲んで返した。もっと飲みたかったが、後どれぐらいいるかわからないのだ。節約するに越したことはない。
「それにしても、以前も拝見させていただきましたがヒスイさんは刀を使うのですね」
「ああ、父が剣を使っていたからな、私も本来なら剣を使うところを、父に刀を勧められた。腕力のない私は、叩き切る剣より刀の方があっているらしい」
 実はもう一つ、自分と父が日本の時代劇が好きで、八犬伝などを読みふけっていたためというのもあるが、そちらはまあ別に話さなくてもいいだろう。
「そちらの武器はやはりその籠手か? ずいぶんと頑丈なようだけど」
 そう尋ね、ヒスイは千里の両手を見た。彼女の両手には、鈍い光を放つ頑丈そうな籠手がそれぞれ装備されている。彼女は先ほどの戦闘の際、その籠手でスフィルを殴りつけ、叩き潰していたのだ。

「ええ、魔除けの効果がある銀で作られた籠手です。熟練の鍛冶師で作られ、また守護の紋様も刻んでいるため、ある程度の攻撃なら受け止めることができます」

 そう言うと、千里は籠手をヒスイに見えるように持ち上げた。五指までしっかり作られているそれは、一見すると籠手というよりはグローブに近い感じだが、その破壊力はグローブのそれではない。ふと、チリンと小さな音色が響いた。よく見ると、手首のあたりに鈴が一つずつ付いている。ヒスイは最初、籠手を動かしたため鳴ったと思っていたが、千里の真剣な表情を見る限り、どうやらそうではないらしい。


「休憩は終わりのようです。皆さん、敵が来ます。迎撃の用意をしてください!!」


 絶え間なく鳴る鈴の音の中で、再び戦いが始まった。


「くそっ、切りがない!!」
 数十体目のスフィルを切り払いながら、ヒスイはそう吐き捨てた。さほど広くない広場は、数百を超すスフィルで埋まっている。仲間とも分断され、身動きが思うように取れない。
「ヒスイ、そっちは大丈夫かい!?」
「エリーゼッ!! 合流できそうか?」
 広間の端からエリーゼの声がする。同時に何かが風を切る音と共に、そこにいるスフィルが十体ほどまとめて切り払われた。
「ちょいと無理そうだね。それより今からスヴェンが大技で城への道を作る!! そしたら一気に駆け抜けな!!」
「ああ、分かった!!」

 向かってきた五体ほどのスフィルを刀で切り払いながら叫ぶヒスイの声は、だが次の瞬間あたりに響いた爆音と強烈な光にかき消された。光は途中のスフィルをまとめて吹き飛ばし、遠くに微かに見える城門に衝突、門を粉々に吹き飛ばした。

「今だ、走れ!!」

 すぐ近くでキュウが叫ぶ。彼女の言葉に従い力を込めた一撃で周囲のスフィルを薙ぎ払うと、ヒスイは出来たばかりの道を駆け抜けた。スフィルの群れを抜け、彼女の後ろにエリーゼ達が続く。どうやら皆無事のようだ。
「よし、あと少し・・・・・・何だ?」
 破壊された城門までたどり着き、後ろから来る仲間の様子を確認しようと振り向いたヒスイは、ふと、森の様子がおかしいことに気付いた。遠くの方にあるはずの広場がなく鳴り、逆に小山の様な樹の影が暗く見える。いや、それが樹でないことはすぐに分かった。なぜならそれはゆっくりとではあるがこちらに向かって歩いているのだ。周囲にいるスフィルをその身体に取り込みながら。


「ああ、なるほど、そういう事ですか」


 小山が何か判明した時、千里が冷静にそう呟いた。小山の正体、それは表面が波打っている茶色い巨人だ。所々どろどろに溶けているそれは、びちゃびちゃと何かの液体をこぼしながらゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。それだけならば問題はない。それだけ“ならば”、だ。問題はただ一つ、その肌が無数の幼子によっており、それを見過ごせない人間が少なくとも一人、ここにいるということだ。
「ひどい・・・・・・ひどすぎます!! なんなのですか、あれは!!」
「恐らくはこの森そのものでしょう。別に珍しい事ではありません。そもそも中世において深い森は魔物が潜む恐ろしい場所というイメージがありました。そのため育てられない幼児を捨てることが横行したのです。あれはそういった森の負の部分が形となって表れているにすぎません。実際に幼子で構成されているのではなく、あくまでそういったイメージであるというだけの事です。ああ、それならば前の貴方達の戦闘の際スフィルが出なかったのも頷けます。あれも森で死んだ幼子の絶望が形になったものですからね、森の外に発生出来るわけが・・・・・・何ですか?」
 口元を抑えて震える加世の問いに冷静に答えていた千里は、不意に自分の首元に突き付けられた刃に軽く眉を顰めた。自分に細い暗器の先端を向けた紫色の髪をした女は、俯いて微かに震えていたが、やがて顔を上げ、涙を滲ませて充血している両目で彼女を睨みつけた。
「なに冷静に話していられるんだい。あんたには聞こえないのかい? あそこに捕えられている赤ん坊の泣き声が!!」
「それは幻聴にすぎません。それに先ほども言ったとおり、実際あの化け物が幼児の死体で出来ているわけではありません。なのに、なぜそうも感情的になるのです?」
「・・・・・・あんたはっ!!」
 あくまで冷静に話す千里にエリーゼが手を振り上げるが、こちらに迫ってくる巨人の姿が目に映ったのか、チッと強く舌打ちして手を降ろした。
「これだからこいつらは嫌いなんだ・・・・・・ヒスイ、皆を連れて先に行きな。あいつらを振り切っても、どの道レテルとの戦いのとき乱入される恐れがある」
「エリーゼ・・・・・・じゃあ私も一緒にっ!!」
 残る、そう言いかけたヒスイだったが、エリーゼに睨まれてぐっと押し黙った。
「必要ない。足手まといになるだけさ。それに一人であの子達を止めるわけじゃない。取って置きを出す・・・・・・バジリスク!!」
 エリーゼが自分の魔器である蛇眼刀を掲げると、その中央にある宝玉から、紫色の煙が漏れ、周囲に漂い出した。それは段々と一つに集まり、そして煙が消えた時、そこには巨大な怪物がいた。
 その怪物の形状は、二足歩行の蜥蜴に似ている。だが顔の中央に巨大な瞳があり、それを囲むように、さらに八つの瞳が並んでいた。そして灰色の肌は、まるで石でできているかのように固い。
「さあ行くよバジッ!! 後ろにいる冷徹女を見返してやろうじゃないか!!」
 エリーゼの言葉にグルルルと一度大きく唸ると、バジと呼ばれた怪物はのしのしと力強い足取りで、巨人に向かっていった。


 エリーゼが自分のホムンクルスであるバジリスクと共に森からの敵の侵入を防いでいる間、ヒスイ達は甘すぎて痺れるような香りが立ち込める城の中を無言で駆け抜けていた。途中トランプに手足を取り付けたような衛兵が何体も出てきたが、それは彼女達を止めるには全くの力不足であり、スヴェンが殴りつけると、数体まとめて塵となって消えていった。
「ここで一端敵の様子を見ましょうか」
 千里がそう提案したのは、城門を抜け本丸に入り、初めに見えた小部屋に侵入した時だった。彼女の言葉にヒスイは頷いたが、そこには森の広間で見せた表情とは打って変わって頑なであった。
「・・・・・・ふん」
 そんなヒスイの様子を見て、くだらないといった風に鼻を鳴らすと、スヴェンは壁に寄り掛かって目を閉じた。その横では、さすがに付き合っていられないのか、加世がほつれた黒髪を手櫛で直していた。

「ヒスイさん、ちょっとよろしいですか?」
「・・・・・・・・・・・・なんですか」

 ヒスイの声は、何かに耐えているかのように低く冷たい。
「いえ、これからの事を話しておかねばと思いまして。レテルという少女型のエイジャは、話を聞いていると、どうも自己顕示欲の強い性格のようです。そういった敵は最上階にいるのが多い物です。そのため、まずは一直線に上まで行こうと思うのですが」
「別に・・・・・・良いんじゃないですか?」
「いい加減にせぬか、小娘」
 いつまでも硬い表情を崩さないヒスイを叱るためか、彼女の傍にいたキュウが前足で少女の左足をぺしりと叩いた。さすがに子供じみていたと思ったのか、ヒスイは足をさすりながら千里にすいませんと小さく謝った。
「いえ、私の方こそ確かに言いすぎたようです。それで・・・・・・よろしければお聞きしたいのですが、エリーゼさんはどうも赤子や幼児に対し並々ならぬ執着というか、愛着を抱いているようなのですが、理由を聞かせていただいてもよろしいですか?」
 千里の問いに、ヒスイは罰の悪そうな顔をしてキュウを見た。黒猫はしばらく考え込んでいたが、やがて仕方ないという風に頭を振った。
「三年前に流産したのだ。階段で転倒してな」
「それは・・・・・・すいませんでした」
「かまわん、別に隠すようなことでもない。あの小娘は家族に恵まれなくてな、早いうちに結婚した。相手は彼女の同期の一人で、勇敢だったが愚かな男であった。そのため何度目かの戦闘で先走って死に、彼女はそのショックでしばらく寝込んでいたが、立ち直ったと思ったその日に転倒し、流産したせいで子供ができない体になった。それからだ、彼女が赤子や幼児など、年端もいかぬ子供らに異常ともいえるほど執着するようになったのは」
「すいません、鬼の中には、女性や赤子に姿を変えて襲ってくる奴もいるので、どうしても警戒してしまいました」
「警戒するのは悪い事ではない。しかし忠告しておく。そなたはもう少し口を慎むべきだ」
 キュウにじろりと睨まえ、千里はしゅんとしたように肩をすくめた。その様子を見る限り、彼女も冷徹というわけではないようだ。まあ、本当に冷徹なら、そもそも巨大なパフェをおいしそうに頬張るようなことはしないだろう。
「さあ、そろそろ出発しよう。どうせ最強戦力は手元に置いておくだろうし、出てくるのはトランプ達だけだろう。千里さんの言うとおり、一気に最上階まで駆け抜けよう」
 それから、彼女等は先ほどまでのぎすぎすした雰囲気がまるで嘘のように城の中を駆け抜けていった。その途中にも何体かのトランプ兵が向かってくるが、それらは全てスヴェンが一撃で屠っていき、ヒスイ達はただ眺めているだけで済んだ。だが
「スヴェン、お前大丈夫か?」
「・・・・・・あ?」
 蹴り抜いたトランプ兵が消えても、まだぐりぐりと足を動かしている少年を、ヒスイは訝しげに見た。
「大丈夫かだと絶対零度、貴様一体何様のつもりだ? 俺がこんなクソ共にやられるわけないだろうが」
 そう吐き捨てると、スヴェンは次の得物を求めてか先へと進んでいく。その様子を見て、千里はふぅっとため息を吐いた。
「閃光のスヴェンですか・・・・・・強力な魔器使とは聞いていますが、随分とストレスがたまっているようですね」
「あの小僧にとって生きがいは戦うことだけだからな。なのに弱い敵ばかりでは、逆にストレスがたまるのも無理はない。だが」

 いったん言葉を切ると、キュウはじっと前方を見つめる。彼女の視線の先には、立ち尽くすスヴェンの姿があった。彼の足もとには、茶色い何かの残骸が転がっている。恐らく扉か何かだろう。
「やっと追いつきましたが・・・・・・何か変ですね。震えているようにも見えます。まさか、怯えているんでしょうか」
「ふん、あやつが怯える物かよ。奴が震えているのは恐怖からではない、喜びでだ。加世よ、気を付けるが良い。この先に強敵が待ち構えているようだ」
 加世の呟きを聞いたキュウが、皮肉げにそう答えた。どうやらスヴェンが破壊した扉の先は広間になっており、その中央にいる物の気配が、びりびりと痺れるほどに伝わってくる。
「どうやら、一筋縄ではいかない相手らしいな」
 そう言って魔器を構えなおしたヒスイの前で、それはゆっくりと立ち上がった。



 気配の正体は、黒い甲冑を着こんで大剣を握った騎士だった。しかし大きさが違う。高さ三十メートルはあるであろう広間の、優に三分の一を超すほどの巨体だ。だがそれ以外はシンプルで、以前砂浜で戦った肉の塊と違って異様な姿もしてはいない。だが
「・・・・・・くそ、踏み込めない」
 だが、広間の中心で仁王立ちするその騎士には、隙というものが全くなかった。恐らく広間に一歩でも踏み込めば、その瞬間巨体に見合った大剣で襲ってくるだろう。それほどまでに相手のリーチが長すぎるのだ。かといって、無視して通り過ぎることもできない。無理に先に行こうとすれば、背中から袈裟切りにされるのが落ちだ。さて、どうするかとヒスイが悩んでいると、ふと、隣にいた少年が前に進み出た。
「スヴェン!?」
「・・・・・・奴は俺の獲物だ。貴様らはとっとと失せろ」
「お前・・・・・・まさか一人で相手をするつもりか?」
「奴と一人で戦えるのは、俺とそこにいるメガネの女だけだ。だがそいつはあの忌々しい白騎士を相手にするのに必要だろう。なら必然的に俺がここに残ることになる。それだけのことだ」
「けど、一人では」
「やらせてやれ、ヒスイ」
 少年の言葉に戸惑うヒスイに、キュウが声をかけた。確かにこの少年が言ったとおり、ここで全員でこの黒騎士の相手をすれば、怪我を負う危険があり、レテルとの対決に大きな支障をもたらすだろう。それよりは、強大な力を持つスヴェンが一人で足止めしていた方がいい。
「分かった。けど絶対に無理はしないでくれ。危なくなったらすぐに逃げろ、いいな」
「黙れ、弱者に心配される謂れはない。さっさと消えろ」
 吐き捨てるようにそう答えると、スヴェンは広間に一歩足を踏み入れ、次の瞬間ばっと横に飛んだ。その数瞬後、今までスヴェンがいた場所に大剣が叩きつけられる。
「いまだ、行くぞ!!」
 キュウが叫ぶと同時に、ヒスイ達は広間の奥にある階段に向けて駆け出した。当然、それを阻止するために剣が唸りを上げて押し寄せてくるが、それはスヴェンが振るったチェーンソーに弾かれ、そのまま切り結ぶ。一合、二合、三合と、甲高く剣戟が鳴り響く中で階段にたどり着くと、ヒスイは一度スヴェンの方をちらりと見た後、上へと駆け上がっていった。
「なるほど、トランプ兵よりは楽しめるな」
 風を切って振り下ろされる大剣を、だが余裕をもって弾き返しながらスヴェンはふんっと鼻を鳴らした。確かに相手は見上げるような巨躯の持ち主で、一撃一撃も重い。防御担当のイルを保持していない今、当たれば大けがを負うだろう。だが、それはあくまでも当たればの話だ。
「しかし、大ぶりが多いな。余裕で避けられるぞ」
 頭上に振り下ろされた大剣を掻い潜り、スヴェンは軽々と相手の間合いの内側に飛び込んだ。すでに彼の持っている魔器“悪魔笑いのチェーンソー”は最大限にまで回転しており、伸ばされた手を上に飛んで回避したスヴェンは、自らの魔器を騎士の首筋に叩き込んだ。


 ギャリリリリリリッ


 金属が鉄を切る音と共に、チェーンソーが騎士の体を断ち切っていく。手応えから見て、内部はどうやらがらんどうのようだ。だが、たとえ中身があったとしても結果は変わらなかっただろう。スヴェンが地上に降りたのとほぼ同時に、首から脇腹まで大穴を開けられた騎士はぐらりと揺れ、そのまま崩れ落ちた。
「弱い・・・・・・くそ、中途半端に戦ったから余計にいらついてきやがった」
 変に疼く頭を押さえ、スヴェンは階段へと歩き出した。こうなれば、レテルの傍らにいる白騎士と切り合ってこの疼きを止めるしかない。そう考え、フラフラと歩いていたからだろうか、背後から迫る気配にとっさに身を躱そうとしたスヴェンの動きは一瞬遅れ、ものすごい衝撃と共に床に放り投げられた。
「ガハッ!! くそ、何だ!!」
 全身に走る激痛に耐えながら、それでも機敏に立ち上がったスヴェンの目に、自分をなぎ倒した大剣と、それを持つ腕、そしてその持ち主である、先ほど自分が切り倒したはずの騎士の姿が見えた。だが、その騎士には自分が先ほどつけた傷が、跡形もなく消えていた。
「くそ、再生型と似たような相手か。厄介だな」
 スヴェンの言う再生型とは、要求のエイジャにまれにいるタイプで、本体である核と、それを守っている“皮”で構成されており、どれだけ皮を破壊しようとも、攻撃が核に届かなければ瞬時に再生することができる。
「ふん、だがそうとわかれば対処は簡単だ。核ごと粉砕してしまえばいい」
 再びチェーンソーを回転させる。相手の攻撃は相変わらず遅く、回転率を上げながら余裕で避けることができた。
「今度こそ死ね、閃光技“千烈”!!」
 騎士の右足めがけ、再び回転する刃が襲う。だがたかが足どころでは終わらせない。体制を崩したところで、間髪入れずに粉々になるまで攻撃する。そうなる、そう。そうなるはずであった。だが

 ギッ

「あ?」
 だが刃は、先程の一撃とは打って変わって相手を切り刻むことはなく、甲冑に一筋の傷を残しただけで停止した。そして、呆然とするスヴェンの腹部に、騎士の重いつま先が深々とめり込んだ。
「グガッ!!」
 常人なら腹部が破裂するその攻撃を耐えたのはさすがだろう。しかし強烈な痛みに身動きが取れない。そのまま追撃をかけられれば、ただでは済まなかっただろう。しかし騎士はそれ以上動かず、先ほどスヴェンが付けたかすり傷を訝しげに見た。
『ほう、この鎧に対し、二度目の攻撃で傷をつけるとは』
 不意に、どこからかひび割れた男の声がした。それはどうやら目の前にある甲冑から発せられているらしく、それは考えるように大剣を持っていない方の手を顎にやった。
 チャンスだ。ふと、スヴェンはそう思った。目の前の相手は、それほどまでに無防備で隙だらけだった。だが、なぜかウリドラを持つ手に力が入らない。それはこの身体になってから初めて感じる恐怖という感情であったが、少年がそれに気付くことはなかった。
『しかも先ほどの一撃を受けてまだ動けるとは、なんと面白い研究材料ではないか。確か魔器使といったか? 呪われしものの魂を封じ込めた魔器という武器を使う、枯れた木になる腐った果実共』
「い、いったい何なんだ、貴様はっ!!」
 こちらをまるで値踏みするような声に、スヴェンは思わずそう叫んだ。
『ほう、儂が何者かだと? 何とも愚かな問いではあるが、まあ良い。どのような問いにも答えてやるのが真の研究者というもの。儂はこの試作甲冑を作成した者の残留思念じゃ。そしてこの甲冑を作成した者・・・・・・つまり儂の名はパラケルスス。かつてこちらの世界にいたしがない錬金術師にして科学者じゃよ』
「パラ・・・・・・ケルススだと? 馬鹿な!!」
 パラケルスス、四台精霊を発見したその錬金術師の名をスヴェンはもちろん知っていた。だが彼は何百年も前に死んだはずである。
『まあ、儂がそちらを去ってから恐らく数百年ほどは過ぎているだろうが、そんなものはどうでもよい。今はこの試作甲冑の性能を試したいのでな。そう、御手の一つをインプットしたこの甲冑の性能をの』
「御手、だと!?」
『さよう、そなたらが獄界と呼んでいる世界、そこの黒界を統治する黒皇のみが使用できるという、最高たる漆黒の御手じゃ。小僧、貴様は漆黒の御手がなぜ最高たるや知るか? 答えは漆黒の御手の能力にある。すなわち受けた攻撃を瞬時に解析し、二度と同じ攻撃でダメージを負わない無限の学習能力、そして攻撃した相手を倒せるように主を進化させる。まさに神の偉業じゃ。残念ながら人の身たる儂には進化させる能力は出来ず、また一度受けたダメージを完全に防御する事も不十分であるが、それでも攻撃を受けた後、違う攻撃を受けるまでその攻撃からはダメージを負わないという性能の甲冑を作り出すことはできた』
「貴様、何を考えてそんなものを」
『作ったか・・・・・・じゃと? 簡単じゃ、飽きたのじゃよ。すべての知識を得て、知らぬものが何もなくなった時、儂はこの世界に飽きた。そして、邪法を用いてあちらの世界に行ったのじゃ。それからしばらくしてこの鎧を作り上げたのじゃが……はて、“奴”に売った鎧が、なぜこちらの世界にあるのじゃ?』
 そんなこと知るか。スヴェンはそう叫んだつもりだったが、結局声は出ず、ただ奥歯がカチカチとなっただけだった。
『ふむ、これだけ隙を見せても攻撃もせず、逃げもせず、ただ震えているだけとは、少々期待はずれか? ま、良い。では実験を開始するとしよう。はたしてそなた達魔器使の実力はいかなるものがあるか』
 その時、ふと少年の周りに影が落ちた。普段のスヴェンであれば、余裕をもって避けられたであろうそれを、だがこの時、彼はただ自分に向かって落ちてくるそれを、ただ呆然と眺めていた。そして、ずしんという重い衝撃と共に、激痛が少年の体全体に広がり、彼は吠えた。
「があああああっ!!」
 少年は、自分を踏みつけている騎士の右足を何とか押し戻そうとするが、家と同じぐらいの重量が右足という一点に集中して込められているのだ。もがけばもがくほど足は彼の体に深く食い込んでいく。
『耐久性はかろうじてD-といったところか。じゃがそれ以外がひどい。腕力E、判断力E-、反応力E-、はっきりいって子供以下じゃな』
「うる、せぇ」
 よろよろと振り上げたチェーンソーの切っ先が、スヴェンを踏んでいる足に当たった。弱弱しい手でスイッチを回転させると、ぎちぎちと鈍い音を出して刃が食い込む。
『ふん・・・・・・なるほどな』
 つまらなそうに鼻を鳴らすと、騎士はスヴェンを蹴り飛ばした。
「がっ!!」
 蹴り飛ばされたスヴェンは、反対側の壁まで吹き飛び、激突した。クッキーで作られている壁は予想以上に脆かったのか、びしりとひび割れ、破片が崩れ落ちたスヴェンの体にぱらぱらと落ちてくる。
『なるほど、強いのは貴様ではなくてその魔器か・・・・・・ふむ、少年よ、お前に一度だけチャンスをやろう』
「・・・・・・あ? チャンス、だと」
『そう、チャンスだ。もしお前がその魔器を儂に研究材料として差し出すのなら、命を助けてやってもよい。いや、それだけでなく、この領域から外に出してやろう。その後はひっそりと隠れて暮らすが良い。鼠のようにな』
 これがエリーゼならば一笑しただろう、これがヒスイならば激怒し、誇りに賭けて何としても騎士を倒そうとしただろう。しかし一笑するには度胸がなく、倒そうと考えるほどの誇りも持たない少年は、手元の魔器を見て、そして思ってしまった。

 
 主人が助かるためなら、道具は喜んでその身を差し出すのではないか?


『へぇ? そういう事考えちゃうんだ』

 その時、彼が持つ魔器から、冷たい少女の声が響いた。

 魔器使とホムンクルスが互いに感情を共有しているのと同様、魔器使と魔器も、互いの感情を接続し共有している。普段の戦闘では、いちいち相方の感情が流れ込んでくると面倒なため魔器の方で接続を切っているが、今回はたまたまそれを切り忘れたのか、それとも意図的にか、ウリドラはその接続を切ってはいなかった。

 そして、彼女に流れ込んできたのは、たとえ自分を差し出しても生き延びたいと願う主の、浅ましく、卑しい感情であった。

 魔器がカタカタと震え、宙に浮きあがるとそれは一人の少女の姿となった。彼女は笑みを浮かべているが、その瞳は笑っておらず、逆に憎悪に満ちている。
「ウ・・・・・・ウル、貴様、何のつもりだ!!」
「呆れたご主人様、いえ、もう元ご主人様かしら。そんなことも分からないの? もうあなたに愛想が尽きたってこと。私の手で殺してもいいのだけれど、今まで苦楽を共にしてきたし、それは勘弁してあげるわ。じゃあねクソ餓鬼、せいぜい苦しんで死になさい」
 最後に凄味の笑みを浮かべると、ウリドラはあっけなく掻き消えた。
「あ・・・・・・」
『ふむ、自分の道具にすら見捨てられたか。是非もない。最後の情けだ。せめて苦しまずに殺してやろう』
「ひっ!!」
 こちらに向かってゆっくりと歩いてくる騎士から、スヴェンは這うように遠ざかる。だが少年の手足はただ床を掻いただけで、全く進まなかった。そして、その間に近づいてきた騎士が、ゆっくりと右足を上げる。
「ひっ、い・・・・・・だ、いやだ、死にたくない、死ぬのは嫌だ!! 助けて……姉さん、父さん、母さんッ!!」
 少年を踏みつけようと振り下ろされた右足は、だが少年の肩をかすめ、そのすぐ横の床へと突き刺さった。
『む・・・・・・』
 騎士が狙いを外したのは別に同情したからではない。城から突如発せられた激震に、巨体を支えていた左足がわずかに滑った。ただそれだけである。
『そうか、変わるか・・・・・・誰だか知らぬが、変わらん方が幸運だったと思うがな。ま、良い。儂は儂でさっさとこいつを殺してしまうとしようか』
 そう呟くと、黒くまがまがしく変わる城の中で、騎士は改めてスヴェンに向き直った。





 時は少し遡る。

 大広間にいる巨大な騎士をスヴェンに任せ、ヒスイ達は千里を先頭にどこまでも続く巨大な螺旋階段を駆け上がっていった。途中、何体ものトランプ兵が出てきたが、所詮は薄っぺらい相手だ。敵ではない。しかし彼らを難なく切り払うヒスイの表情は曇っていた。
「スヴェンさんが心配ですか?」
「・・・・・・いや、そういうわけじゃない」
 そんな彼女の様子が気になったのか、先頭を走っていた千里が不意に口を開いた。
「私としては、なぜあんな“子供”に魔器を与え、しかも最高査問官の一人にしたのか理解できません。どんなに肉体が強化されても、彼の精神はそれに追いついていない。12歳と聞いてはいますが、あれでは赤子が駄々をこねているようなものです」
「返す言葉はない。あいつがああなったのは、私のせいなんだ」
「あなたが絶対零度の異名を持つにいたった際の事件ですか。彼の事件については、私達“高天原”でも把握はしています。ですが過去ばかりに目を向け、復讐を名目に自分の行いを正当化しているだけでは、とても精神的成長は見込めないでしょう」
「・・・・・・」
 千里の言葉には、一切の容赦がない。そしてそんな彼女に何も言い返せないヒスイは、ただ黙ってため息を吐いた。
「無駄話はそこまでにせよ、小娘共。どうやら最終地点のようだ」
 どうやら話している間に最上階に着いたらしい。傍らにいる黒猫の声に顔を上げると、目の前に巨大な黒い扉が見えた。その扉は、今までの菓子で出来た扉とは全く違っている。黒く、そして光沢のあるその扉は、よく見ると何か黒い鱗がびっしりとはめ込まれていた。
「これは・・・・・・ドラゴンの鱗か!!」
「しかも黒龍の鱗だ。どうやらこの城の本来の持ち主はあの小娘ではないようだな」
「え、そうなのですか?」
 光沢のある鱗を不思議そうに撫ぜていた加世が、黒猫の言葉に対しそう聞いた。
「うむ。黒龍は野生の龍の中で最も強大な力を持っておる。巨大魚であるバハムートを食料として狩るほどのな。黒龍の鱗がここにびっしりとはめ込まれていうということは、少なくともこの城の持ち主は黒龍を倒すだけの実力を持っているということになる。だがあの小娘にそれほどの力があるとは思えん」
「まあ、どちらにしろこの扉を開ける必要があるな」
 そう呟き、ヒスイはこんこんと黒い鱗がはめ込まれた扉を叩いた。龍族と戦ったのは、以前ニーズヘッグと戦った時以外では自分が絶対零度の異名を持つようになった“あの事件”でしかない。しかもニーズヘッグは傷を負った状態でさえ、こちらの攻撃をほとんど受け止めて見せた。まあ、鱗がはめ込まれているだけだから危険はないが、それでも砕くためには何度も攻撃しなければならないだろう。そう考え、うんざりしたように溜息を吐いた時だった。
「そうですね、こんな場所で手こずるわけにはいきませんし、ここは私が何とかいたしましょう」
「・・・・・・は?」
 静かな声でそう言うと、千里は鱗を撫ぜていた手を放し、それを懐へと入れ、中から分厚い紙の束を取り出し、空にばら撒いた。それはしばらく空を漂っていたが、やがて千里の両派時に巨大な拳の形を作って纏まった。
「こいつは」
「私の呪い具“タケミナカタの腕”です。タケミナカタの失われた腕を模した呪い具。一撃とは言いませんが、恐らく二、三回当てれば破壊できるでしょう」
 唖然としているヒスイ達の前で、千里はふふっと楽しそうに微笑した。




「さあ、来てみなさい餌ども、この扉が破れるなら!!」




黒龍の鱗がはめ込まれた巨大な扉の向こう側で、レテルは腕を組んで仁王立ちをしていた。少女に付き従っているのは白騎士であるヴィルヘルム、彼が召喚した妖精騎士ヴィヴィアン、そして十数体のトランプ兵が合体して出来た巨大なトランプ兵10体を含む無数のトランプ兵である。
「これは中々荘厳な眺めですな。しかし、見たところスフィルがいないようですが・・・・・・必要ございませんかな?」
「は? スフィルって何よ」
 レテルの傍らに控える猫顔の燕尾服を着た召使いが周囲を見渡してそう尋ねると、レテルは訳が分からないという風に聞き返した。
「まさか、スフィルをご存じないのですか? それはそれは」
 どこか小ばかにしているように鼻をひくひくとさせている猫執事に対し、レテルが口を開きかけた時だった。

 ィーンッ


 あまりに高すぎて、ほぼ超音波となった音と共に、彼女が絶対の自信を持っていた扉に、無数のひびが入った。


「・・・・・・は?」


 そしてそれから間をおかず、今度は巨大な爆発音と共に扉が文字通り吹き飛んだ。粉々になった扉がこちらに向かってくる。先が尖っているのは黒龍の鱗の破片だ。それに切り裂かれ、あるいは突き刺され、トランプ兵達が一瞬で倒されていく。こちらに向かってくる破片は白騎士が前に出て防いだものの、無数にいたはずのトランプ兵は、もはや影も形もない。


「何よ・・・・・・なんなのよ、これはぁ!!」


 粉々に砕け散った扉を見て、レテルは絶叫した。無理もない、“初めて目にしたにもかかわらず”彼女はこの扉が並大抵の攻撃では破れないことを知っていたのだ。それが二度の攻撃を受けて破壊されたのだ。彼女を襲った衝撃は大きかった。

 呆然としている彼女に向かって、一際大きな破片が飛んでくる。それは彼女を守るために前に出たヴィルヘルムによって粉々に粉砕されたが、一瞬埃が辺りに立ち込め視界が悪くなる。そしてその一瞬の間に白騎士の傍らを走り抜けたヒスイがレテルに肉薄し、刀を横に薙ぎ払った。


キィンッ!!


「くっ、防がれたか!!」

 しかし、不意を突いた一撃は、横から伸びてきた長剣により弾かれた。その持ち主は緑色の髪をした妖精騎士ヴィヴィアンである。一合、二合、三合と数えきれないほどの打ち合いが続いた後、二人は同時に飛びのいた。ヒスイの頬からは一筋の血が流れ、相手は左肩の肩当てを失っている。どうやら、両者の剣の腕前はほぼ同じのようだ。


「何よ、何をしてるのよ!! ウィルヘルム、さっさとこっちに来て害虫どもをつぶしなさい!!」


 レテルの言葉に、だが白騎士は従うことはできなかった。彼女の下へ戻ろうとしたウィルヘルムの前に、巨大な腕が立ちふさがる。それはウィルヘルムに攻撃を加えることはなく、向きを変えた白騎士の行く手を塞ぐように展開されていた。
「絶対不可侵領域、聞き言葉はよいが要するにただ攻撃を防ぐだけのものだ。レテルの傍から離してしまえばよい。それが奇襲の本当の目的だ」
 巨大な腕、“タケミナカタの腕”を操作する千里の傍らで黒猫がにやりと笑った。
「しかし、ヒスイさんはもう一体の方にかかりきりになっています。この間に、もし逃亡されてしまったら」
「その心配はない。奴の相手は加世がする」
「加世さんですか? ですが、失礼ですが彼女の腕前はあまり・・・・・・」
「高くはないか? おぬしはなにか誤解をしているようだが、加世は戦士ではないぞ。あの小娘は鴉天狗、正面から戦うタイプではない。まあ、見ているがいい」


「ああもう、どいつもこいつも無能共が!!」


 侵入者たちに手こずっている白騎士と妖精騎士を睨みつけると、レテルは忌々しく舌打ちをした。さらに、先ほどから猫執事の姿が見えない。まあ、執事というからには戦闘能力は当てにならないだろう。

「しょうがないわね。一端森の中に隠れましょう」
そう呟き、レテルは窓から外に広がる暗く深い森に目をやった。あそこならば何日も見つからずに隠れることが出きる。妖精騎士は倒れるだろうが、白騎士が倒れることはまずない。彼が迎えに来てくれるまで待っていればよいのだ。
 そう考え、踵を返そうとした少女の視界の隅に、細長い何かが数本、こちらに向かって飛んでくるのが見えた。とっさに体をひねると、幾本かレテルの脇をすり抜け床にカンッと鈍い音を立てて転がった。
「これは・・・・・・黒い羽根?」
 自分に向かて投げつけられた黒色の羽のうち、一本を手に取ると、レテルは呆れたように溜息を吐いた。こんなもの、何十本刺さろうが自分が傷を負うことなどない。
「随分と馬鹿にしてくれたものだこと・・・・・・ねえ?」
 薄く笑いながら、さらに羽が向かってくる。避けるのも面倒なのか、手を小さく振って大きな鎌を出現させると、一振りでそのすべてを四散させ、さらに背後から襲ってくる少女を切り裂いた。
「くふふっ、所詮はこの程度。さあどうします? あなた方の仲間が一匹死にましたよ?」
 にたにたと下品に笑いながら、レテルはヒスイ達の方を振り返った。窓に到着した少女の顔には余裕が見える。しかし、ヒスイも千里もそんな少女には構わず、目の前の敵に集中していた。
「あら、随分と冷徹なのですね。仮にも自分達のお仲間でしょうに。まあそれならそれでいいですわ、私はさっさと逃げさせてもらいます。では、ごきげんよう」
 けなすようにそう言い放ち、窓から外へ飛び出しかけたところで、レテルは自分の体に起こった異変に気が付いた。身体の自由がきかない。もっと正確に言うと、半身が痺れている。
「・・・・・・あ、なたたち、いったい、何をし・・・・・・」
 もはやろれつが回らなくなった口で問いかけながらぎぎっと振り返った少女の目に、先ほど自分が切り捨てた人間、否、身体から赤い粉を周囲にまき散らしている人形と、その人形そっくりな小娘が一匹、自分の懐に潜り込み、小太刀を突き刺そうとしているのが見えた。
「・・・・・・あ・・・・・・あ」
 普段のレテルであれば、例え懐に飛び込まれても避けることはできただろう。だが強力な痺れ粉を大量に吸い込み、動くことがままならない彼女にそれはできず、小娘―加世の突きだした小太刀は、狙いたがわず、小さな少女の胸に深々と突き刺さった。
「そ・・・・・・な、わ・・・たし、が」
 震える手で、自分に小太刀を突き刺した小娘に手を伸ばす。しかし加世は無言のままその手を払いのけ、レテルの首筋を薙いだ。ぱっくりと横に割れた首から鮮血が周囲に飛び散り、レテルは前のめりに、ゆっくりと崩れ落ちた。
「毒を使うとは・・・・・・卑怯者め!!」
「卑怯? 何か勘違いしておらぬか? 彼女は騎士でも戦士でもなく忍びだ。毒を使い、相手を弱らせてから仕留めるのが彼女たちの流儀だ。別に問題はない。それより妖精騎士よ、己の身の心配をした方が良いぞ」
「何? それは一体どういうこと・・・・・・だ」
 レテルが崩れ落ちたのを見て、ヒスイと切り結んでいたヴィヴィアンは罵りの声を上げた。その罵りに、ヒスイは無言で応えた。彼女自身、理解はできても納得いかなかったのである。少女の代わりに返答したのはキュウだった。そして、黒猫の言葉に妖精騎士が問いかけようとした時、

「これでおしまいです」

 レテルが倒れたのを見て、動かなくなった白騎士をその場に放置した千里の操る巨大な拳が、ヴィヴィアンの頭上に振り下ろされた。

 ぐちゃりと音を立て、巨大な拳が地面にめり込む。そしてそれが持ち上がった時、すでにヴィヴィアンの姿はなかった。
「召喚された妖精の肉体は所詮仮初めのものでしかないからな。獄界に戻ったのだろう。さて、とりあえずこれで終わった。さっさとこの領域を出るとしよう。主を失った領域だ。すぐに崩れ去る」
「ああ。けど、そいつはどうするんだ?」
 呆然と立っている騎士を眺めていたヒスイの問いに、黒猫はしばらく黙って目を閉じていたが、やがて静かに首を振った。
「どうもせん。奴はすでに死んでいる。あとはその身が朽ち果てるのを待てばよい。それが、奴にとって一番良い結末なのだ」
「・・・・・・そう、か」
 どこか寂しげに言う相棒の言葉に軽く肩をすくめると、ヒスイはこちらに向かって歩いてくる加世をねぎらうため足を向けた。



 その、歩き出そうとしていた足が、不意に止まった。



「加世っ!!」
「ッ!!」

 
  ヒスイの言葉に、加世ははっと飛びのくと、小太刀を構えなおした。少女たちの視線の先に、ゆらりと立ち上がる影がある。それは、胸を小太刀で突かれ、首をぱっくりと切り裂かれたレテルであった。
「そんな、首をほとんど切断したはずです!! それでもまだ生きていられるというのですか!!」
「高位のエイジャであればな。だがさすがに致命傷を受けて立っていられるというのもおかしな話だ。何かあるぞ、気をつけろ!!」
 キュウの言葉に、ヒスイ達は身構えた。しかし、レテルは彼女たちをしり目に、ただぼんやりと立っているだけだった。


「・・・・・・申し訳、ありません。お兄様」


 不意に、周囲にレテルの声が響いた。それはヒューヒューと空気の漏れる音と共にかすかに聞こえる物であったが、それでも後方にいた千里にさえ、その声は届いた。
「なんなんですか、これは」
「わからない、だが今のうちに決着をつけたほうがよさそうだ!!」

 呆然としている加世にそう答え、ヒスイは刀を構え駆けだした。このまま放っておけば大変なことになる。そんな考えが、彼女を支配していた。

「滅びろっ!!」
 一気に肉薄し、刀を突きだす。だが渾身の力を込めたその一撃が届く前に、だらりと垂れさがっていたレテルの左手が持ち上がり、手のひらからほとばしった強烈な衝撃波が、ヒスイをキュウたちの所まで吹き飛ばした。
「ヒスイさん!! 大丈夫ですか?」
「あ、ああ。怪我はない。だがこれではもう近づけないな」
 衝撃波がレテルの周囲を走る強烈な突風に代わっていく様子を眺めながら、ヒスイはふらふらと起き上がった。
「ようやく・・・・・・理解、しました。自分がなぜ・・・・・・何も知らない、のか」
 その間に、突風は暴風となってレテルを包み込み、その姿は風の向こうにぼんやりとしか映らなくなってしまった。
「お兄様・・・・・・今、この身体を・・・・・・お返し、いたします」
 ヒスイ達が見守る中、暴風に包まれたレテルの体はまるで刃の様な風に切り刻まれ、バラバラになった。
「・・・・・・どう、なっているんだ? 私には、レテルの体がバラバラになったように見えたが」
「それで間違いはない。どうやら、あの小娘は単なる前哨戦であったようだ。ここからが本番らしい」


 ヒスイの呟きにキュウがそう答えた時、暴風の中、細切れになったレテルの肉片が再び一つに集まった。それは互いを取り込み、侵食しあいながら巨大化していき、そして風が完全に止まった時、そこには怪物の姿があった。





「・・・・・・」





 その怪物は、三メートルを優に超す偉丈夫だった。筋肉質の大きな肉体、角張った顔の下半分はひげで覆われ、表情は俯いていてわからない。そして、その身体から放たれる悪臭は、男がずっと風呂に入っていないことを忠実に物語っていた。



 だが、なによりの特徴は男の両肩から生えている、巨大な二匹の蛇であった。胴体は牛ほどもあり、その長さは男の身長を軽く越している。ちろちろと長い舌を伸ばすこの二匹の顔にあるのは、超絶な飢餓であった。



「う・・・・・・こ、このっ!!」
「やめよ、ヒスイっ!!」



 偉丈夫が放つ強烈な何かに怯えたのか、ヒスイは思わず刀を構え駆けだしていた。そんなヒスイをとろんとした表情で見つめるだけで、蛇たちは何もせず寝そべっている。そして男はいまだ俯いたままだ。殺せる、そう思い、渾身の力を入れて男の首に刀を突きだす。だが、ヒスイが突き出した刀は、男の首めがけて突き出されたその刀は、男の首を覆うそれに、ただカンッと弾かれただけだった。

「龍の、鱗?」

 刀を弾いたもの、それは銀色の光沢を放つ鱗であった。しかし、鱗が現れたのは彼女が攻撃した首の部分だけで、残りは人間の皮膚である。ならばと思い立ち、今度は脇腹に向けて刀を薙いだ。しかし、そこもやはり弾かれる。そして首同様、銀色の鱗が現れていた。
「こいつ、人の肌の下に鱗を隠し持っているのか!?」
 自分の内側が恐怖で支配されるのを感じながら、それでもヒスイは懸命に冷静でいることに努めた。確か龍族は人に変化できる者ほど高位の存在であるはずだった。実際、以前戦ったニーズヘッグも本体を表すまで、人としての姿を保っていた。


「・・・・・・六百年」


 なら今度は、鱗が生えていない目の部分を狙おう。そうヒスイが考えた時、男が初めて声を出した。その声は、この世のすべてを憎み、ねたみ、滅ぼすような、そんな声だった。


「人形を作り出し、この肉体を封じ、眠りについてからの六百年は長かったぞ。その間、本来の役目を忘れ、好き勝手に動いてくれた人形にももちろん罪はある。だがそれ以上に」
 不意に、ヒスイは自分に向かって伸びる気配を感じ、咄嗟に刀を前に出した。だが男が突き出した拳の直撃を避けることはできたものの、その一撃は体重の軽いヒスイを吹き飛ばすには充分な重さを兼ね備えていた。


「う・・・・・・ぐ」
「ヒスイ!!」
 壁に激突し、くたりと体を崩したヒスイにキュウが駆け寄る。少女が軽い打ち身や擦り傷以外に負傷していないのを見て、安心したようにほっと息を吐いた。


「だがそれ以上に情けないのは、貴様ら家畜だ!! せっかく貴様らでも倒せるように力を落とした人形を作ってやったというのに、それを六百年も倒せないのは、ふがいないの他に言いようがないぞ!!」


 吠えるように叫びながら、男はゆっくりと顔を上げた。鉛色の瞳には、こちらを侮蔑する感情が渦巻いている。


「お・・・・・・前、何者、だ」


 刀を杖代わりに使い、ふらつきながらヒスイは立ち上がった。身体がぎしぎしと音を立てている。このまま眠る事が出来ればどれほどいいだろう。だが、そんな安息は自分には許されない。自分は戦わなければならない。人々を害する全てのものと。



「何者だ、だと? 貴様ら家畜風情が、余の名を聞くことができると本気で考えているのか? ふん、まあよかろう」



 男が両手を上げる。その動きに合わせ、彼の両肩から生えている巨大な二匹の蛇が、面倒臭そうにしゅるしゅると起き上がった。





「聞け、そして我が名に絶望せよ!! 余は緑界に住むナーガ族の王にして八大竜将の一角。すべてを貪る飢えたる三頭龍!! “餓竜将”ザッハークである!!」




「ザッハーク、だと?」
「・・・・・・キュウ?」


 俯いて身を震わせる相棒を見て、ヒスイは一瞬自分の尊大な相棒が、恐怖で震えているのではないかと思った。しかし、実際には違っていた。彼女の相棒である紫電の瞳を持つ黒猫は、恐怖で震えているのではなかった。彼女は、さもおかしいという風に笑っていたのだ。


「はははははっ、これは傑作よな!! ザッハーク、蛇達の愚かなりし王、この世界に初めて降臨した時はカイ・ホスローにより封印され、次は大穴に落とされ焼き尽くされ、最後には彼の解放王アルスラーンに首をはねられ、それでも無様に逃げて生還し、嘆きの大戦において主君を守れなかった男が、まだ生きていたとはな!!」
「貴様・・・・・・余を愚弄する気か」
「愚弄するともさ!! 嘆きの大戦において、貴様は主君が敗れた時、他の者が殉死する中、ただ一匹逃げ出した臆病者ではないか!!」
「黙れっ!! そもそも余はあの“全無し”が自分の主君であると認めたわけではない!! ただ王の息子として生まれただけで、牙も、鱗も、角も、翼も持たない全無しの奇形王子を、どうやって主君と仰げというのだ!!」


「・・・・・・お話し中、申し訳ございません」

 キュウの蔑みに蛇王が吼える。そのままにらみ合いが続くかに思われたその時、ふと、静かな声が響いた。呼吸を整えたヒスイが辺りを見渡すと、ザッハークの巨躯に隠れるように、細身の執事がただ一体、立っているのが見えた。そして驚くことに、その人影の頭は猫のそれであった。
「何だ貴様、青界にあるドリームランドの住民が、一体余に何の用だ」
「・・・・・・ドリーム、ランド」
 その時、不意にキュウが呟いたのをヒスイは微かに聞いていたが、次の瞬間、何かに刈り取られるように、いつも通りきれいさっぱりとそのことを“忘れていた”。まるで、初めから聞かなかったかのように。


「はい。まずは復活のお祝いをと申しまして。すでに主の命によりお迎えの準備は出来ております。どうかこのような家畜たちには構わず、用意した馬車にお乗りください」
 猫頭の執事が指を鳴らすと、窓の向こうに巨大な黄金馬車が現れる。どうやら、少し前、レテルに迎えが来ていないと言ったのは真っ赤な嘘だったようだ。
「くだらん、貴様は家畜風情に背を向けて逃げよというのか。まあ良い、こやつらを貪り食った後、その馬車に乗ってやろう」
「ありがとうございます。ああ、それからひとつ伺いたいことがございます。よろしいでしょうか」
「ふん、何だ」
 空腹のためか、それとももともと短気な性格のためか、ザッハークはどんどんと足を踏み鳴らした。
「いえ、簡単なことです。緑界に伝わる予言、それをお教えいただきたいのです」
「予言だと? 貴様ら、まさかあのくだらん“たわごと”を信じているのか?」
「ええ、まあ。我が主君は様々なことを研究されていますので。予言もその一環ということです」
「・・・・・・まあ良い。だがその前に」
 その時、今までほとんど動かなかった蛇達が、いきなり猫執事の肩と足にそれぞれ食らいついた。
「な、何をなさいます!!」
「六百年、余は空腹をごまかしてきた。だがそれもそろそろ限界に近いのでな。貴様を食わせてもらうぞ」
「お、おやめください!! 私にはあなた様を迎えるという役目があがっ!!」
 太い手が、喚く猫執事の喉を強く掴む。息もできないのか、彼はやがて泡を吹き始めた。
「どうせ、“向こう”でみているのだろう。なら答えてやる。余が知っているのは、終焉の果てに現れるという四界すべてを治める四界皇とやらが、緑王陛下を側室の一人に迎えるということだ。くだらんっ!! あんな大年増、誰が嫁にもらいたがるかよ!! それになにより、それはつまり緑界から皇帝が出ないということになる。もし緑界から皇帝が出るのであれば、緑王を正妻にするはずだからな。四界において最強の存在である我ら竜族が、龍でも何でもないただ一人に屈しようというのだ!! これほど腹の立つ話はあるまい!!」
 ザッハークの叫び声が上がる中、彼の肩から生える二匹の蛇はそれぞれ足と肩から猫執事を貪り食っていく。二匹の蛇は、ちょうど胴体の真ん中で相方と出会った。
「ふん、こんなもの、腹の足しにもならんわ・・・・・・さて」
 最後に残った小さな頭部を握りつぶすと、ザッハークは血と肉片の付いた指を舐め、ヒスイ達に向き直った。
「次は貴様らを食らうとしようか。かつて大魚バハムートを食らった余だ。貴様らごとき腹の足しにはならんが、まあ、前菜ぐらいにはなるだろう」
「うるさい、それほど腹が減っているのなら、自分の城でもかじってろ!!」
「この城を食らえだと? ふはははははっ!! そうか、貴様はこの城が、菓子で出来た甘ったるい城に見えるか。よかろう、貴様に真実という名の絶望を見せてやろう」

 啖呵を切ったヒスイに高笑いすると、ザッハークは両手を高々と上げた。

「さあ出でよ我が城、腐れ城(くされじょう)よ!! 真の主が帰ってきたぞ!! その外皮を脱ぎ捨て、本当の姿を現すが良い!!」




 そして、激震と共に、絶望がその姿を見せた。




「あ・・・・・・ああ」
「・・・・・・」
 自分を見つめる顔を見て、加世はその場にぺたりと座り込んだ。ヒスイも目の前の壁を見ながら、ただひたすら吐き気を堪えていた。



 ザッハークの言葉により本来の姿を見せた城、それは数多の人間がどろどろに溶け、混ざり合ったものだった。しかもすべてが溶けているわけではない。手や足、頭部が溶け残っており、どこからか人の呻き声すら聞こえてくる。一言でいえば、それは地獄の光景であった。

「どうだ、我が居城である“腐れ城”の出来栄えは。領地にいる間は暇なのでな、こうして家畜どもの肉を材料に、城を作るほか楽しみはないのだ」

 もはやザッハークの言葉はヒスイの耳には届いていない。彼女は吐き気も忘れ、ただ震えながら目の前で泣き続ける半分溶けた赤子の姿を凝視していた。彼女は、可愛いというよりも凛々しいと言われることを好む少女らしからぬ少女は、自分でもわからないままに泣いていた。なぜ、生まれたばかりの罪もない赤ん坊がこのような目に合わなければいけないのだろう、なぜ、彼らは解放されないのだろう。そしてなぜ、彼らにこのようなことをしたあの蛇王は声高々に笑っているのだろう。

「・・・・・・ヒスイ?」

 自分の横を通り過ぎ、ただ一振りの刀を持ってザッハークに向かっていく少女をキュウは止めようとしたが、その動きはふと止まった。なぜならこの時、黒猫は彼女の瞳に宿る、怒りを材料としてあまりにも熱く燃えすぎて青く見える炎を見てしまったから。
 ヒスイは相棒である黒猫から声をかけられたことも気づかず、胸元のペンダントからもう一振り太刀を引き抜くと、両手に持った刀を構え、ザッハークに向けて駆け出した。
「ほう、来るか小娘、いい度胸だ。だが愚か・・・・・・余が腹の中で身の程を知れ!!」
 ザッハークがそう叫ぶと、彼の右肩に生えている蛇がその巨大な咢を持ち上げ、ゆっくりとヒスイに向かっていく。その動きは緩慢で、ヒスイを恐れている様子はまったく感じなかった。当然だろう、長身とはいえない少女の体など、巨大な蛇がその気になったら一飲みにできるのだ。つかつかとこちらに一直線に向かってくる少女に向かって、大蛇が丸呑みにしようと口を開いた時、


 蛇の体は、“縦”に真っ二つに裂けた。


「ほぅ」
 自分の肩から生える蛇が一太刀で切り裂かれたのを見て、ザッハークはむしろ感嘆した。蛇の鱗は自分と同じぐらいに固い。それを一太刀で切り裂くとは、どうやらこの小娘は、なかなかの手だれのようだ。
「ならばこれはどうだ?」
 二つに裂かれた蛇の胴体からぼこぼこと何十、何百という数の蛇が這い出る。そのカラフルな鱗は、彼らがすべて毒蛇であることを意味していた。
 だが、それらの蛇ではヒスイに近づくことすらできなかった。蛇達は、みなヒスイに近づこうとした途端、瞬時に凍りつき、砕かれていく。
「ははっ!! 面白い、この程度では話にもならんか。だが残念だったな、余の肩からは、蛇などいくらでも生えてくるのだ!!」
 ザッハークが自分の右肩に生える蛇を引き抜くと、そこから新たに別の蛇が出てきた。その大きさは、先ほどヒスイに切り裂かれた蛇より一回りほど大きい。
「さあ小娘、貴様は一体、どこまで粘れるかな!?」


「・・・・・・」
「何なのですか、あれは」
「ヒスイは感情がある一定水準を超えるまで高ぶると、あの状態になる。我はバーサークと呼んでいるがな。攻撃能力が飛躍的に向上する代わり、思考が単調になり、あのように敵にまっすぐ向かっていくしかなくなるのだ」
 白騎士を抑えていたため、戦闘に参加していなかった千里の質問に、キュウはため息を吐きつつ答えた。彼女がこの状況になったのは、今までも数度あった。海岸での戦闘の際、絶望にとらわれる者たちに対する憐れみが極限まで達した時、そして一番初めは、彼女が絶対零度の異名を持つ事になった、あの忌まわしい事件で、果てなき憎悪にとらわれた時。
「それでは一種の殺戮機械ではありませんか。あなた方魔器使というのは、皆あのような能力を持っているのですか?」
「いや、我が知っているかぎり、この状態になるのは2人だけだ。もっとも、ヒスイと違ってもう片方はこの能力を完全に使いこなせていたがな。ようするに、小娘があのようになるのはあやつが未熟なためだ。それよりそなたも構えろ、ザッハークは、あの程度の攻撃で倒せる相手ではないからな」

 キュウの言葉通り、ザッハークが繰り出す蛇達を切り刻んできたヒスイの斬撃は、ザッハークの鱗にひびを入れることはできたものの、ただそれだけで、中の肉を切ることはできず、相手に受け止められていた。
「くははははっ!! 面白い、余の鱗にひびを入れることができる者など、嘆きの大戦でも数えるほどしかいなかったぞ。では、貴様の強度はどうだ!?」
 不意に、ザッハークの背後から太く長い尾が伸び、ヒスイを打ち据えた。だがそれはヒスイが無意識に向けたもう一本の刀によって受け止められ、受け流される。
「くくっ!! 良いぞ良いぞ、 意識が半ばなくとも余の攻撃を受け流すほどの技量を持つか、ならばこちらも得物を持たねば失礼というもの。だが、残念ながら余の武器は嘆きの大戦中に失われてな・・・・・・む? くくっ、なかなかいいものがあるではないか」
 刀を、それを持つヒスイごと持ち上げ投げ飛ばすと、ザッハークは巨体に似合わぬ速度で大きく後ろに下がり、呻く人々で出来た壁の中にその手を差し入れた。途端に、あたりに絶叫が響き渡る。それを心地よさそうに聞きながら、ザッハークが手を引き抜いた時、そこにはじたばたと暴れる一人のメイドの姿があった。


「放せ、放しなさい!! この下郎!!」
「・・・・・・ウル?」

 
 蛇王の手に捕らわれた少女を見て、投げ飛ばされた衝撃で我に返ったのか、ふらつく頭を振りながら起き上ったヒスイが呟いた。
「ウル、お前、どうしてここにいる? スヴェンはどうした?」
「はっ!! あたしを差し出して、自分だけ助かろうなんて考えるクソ餓鬼は見捨てたにきまってるじゃない!! それより、さっさと助けなさいよ!!」
「くだらんな、自ら抜け出そうと考えず、他者を頼るか。ウリドラよ」
 ぎゃあぎゃあとわめき散らすウルの姿に呆れたのかため息を吐きながらザッハークがそう言うと、ウルーウリドラはびくりと肩を竦ませながら自分を拘束している相手を見た。
「なっ!? あ、あんたザッハーク!!」
「久しいな。最後にあってから数百年ぶりになるか、ウリドラ。いや、正確には本人ではなくウリドラの分体であったか? まあ良い、たとえウリドラ本人ではなくとも、余の武器となるには充分だ。さあ、我が腹の中で絶望と憎悪に浸るが良い」
 ザッハークがにやりと笑うのと同時に、左肩から生えている蛇が口を開け、悲鳴を上げようとしていたウルを頭から飲み込んだ。
「ウルッ!!」
「貴様ら家畜は時々おかしなことをする。自分より賢い存在を許せず、魔女、異端、そんな言葉を作って狩り、拷問にかけて苦しめ、狂死させる。それを繰り返した結果、溜まりに溜まった絶望と憎悪を人形は戦闘員を作るために利用していたようだが、王たる余にそんなものは必要ない。圧倒的な力で踏みつぶせばいいだけだ。だが、膨大な量の絶望と憎悪、それを朽ちるままにしておくのは惜しい。ゆえに見るが良い、絶望と憎悪の中より生まれいでたる余の武器を」

 蛇が口を開ける。その中に迷いなく手を入れ、探るように動かした後、引き抜いたザッハークの手には、巨大な武器があった。



 それは巨大な戦斧だった。大きさは4メートルを軽く超え、紫色をした刃の先からは何かがぽたぽたと滴り落ちている。そして柄の部分に縛り付けられ、苦悶の表情を浮かべている女の肖像は、あろうことかウルによく似ていた。


「我がうちに眠る絶望と憎悪の塊にウリドラを浸したものだ。そうさな・・・・・・ウリドラ怨(オン)とでも名付けるか」

「ウル!? 貴様ッ!!」
「ほう、来るか」
「ヒスイ、無策に突っ込むな!!」

 苦悶にあえぐウルを、ヒスイは駆けだした。キュウが制止の声を上げるが、それよりもザッハークが巨大な戦斧を振る方が早かった。強烈な衝撃波が真空の刃となってヒスイに襲いかかる。自分に襲いかかる刃を、ヒスイは躱しあるいは受け流しながらザッハークに迫るが、全て受け切れるわけではない。傷を負い、道半ばで少女はついに膝をついてしまった。
「ほう、ようやくあきらめたか、まあ、なかなかに楽しめた。その礼として、せめて苦しまずに食らってやろう。ありがたく思うが良い」
「うる・・・・・・さいっ!!」
「ほう、まだ起き上がるか。やめておけ、その傷では余に近づくことすらできん」
 体中に傷を負い、もはや動くこともままならないはずの少女がそれでも起き上がったことに感嘆の声を上げながら、ザッハークは笑みを浮かべた。それは勝利を確信している、余裕たっぷりの笑みであった。
「黙れっ!! 私が負った痛みなど、ウルが負った痛みの何万分の一にも届かない、心を汚された者の気持ちが、貴様なんかに理解できるものかっ!!」
「別に理解するつもりはないし、その必要もない。しかし・・・・・・くくっ、なるほど、ただの小娘と思ったら、案外そうでもないらしい。よかろう、気に入った。家畜、喜ぶがいい。貴様を余の妾(めかけ)にしてやろう。永遠に続く快楽に酔いしれるが良い」
「はっ、くだらない!! 貴様に抱かれるぐらいなら自害した方がましだ!! まっていろ、すぐにそんな戯言が言えないようにしてやる!!」
「刀を杖代わりにしないと立ち上がれない体たらくでよく吼える。いいだろう、貴様の両手足の腱を全て切り、舌を抜き、自殺できなくなったところを犯してくれる」
 ザッハークが歩いてくるのを、ヒスイは額から流れる血で滲む眼で睨みつけ、そっと呼吸を整え始めた。恐らく自分ではザッハークには勝てないだろう、だが相手はどうやらこちらをすぐに殺すつもりはないらしい。恐らく散々もてあそんでから殺すはずだ。ならばそれでもいい。その間に、こっちは絶技を叩きこむだけだ。そう悲痛な決意を固めたヒスイが、刀に冷気を漂わせ、自分に向かってくるザッハークの手を眺めた時、


「全く、見ていられませんね」


 どこか呆れたような言葉と共に、蛇王と少女の間に、巨大な拳が割り込んだ。



「あなたが蛇王とやらと刺し違えるのはあなたの勝手です。ですが死ぬなら、相手に勝つため、足掻いてからでも遅くはないでしょう、違いますか?」
「千里? どうして」
「・・・・・・まあ、見ていられなかった、それだけの事です」
 冷静な表情の中に、どこか苦笑するような笑みを浮かべながら、千里はぽつりとそう呟いた。
「貴様、余の楽しみを邪魔する気か」
「女性を弄んで楽しむなど、最低の趣味をお持ちのようですね。とにかく、足止めさせていただきます」
 加世に付き添われて後方に下がったヒスイがくたりと気絶したのを確認し、自らの武器である巨大な拳をザッハークに叩き込む。それは相手の持つ斧で防がれたが、どうやら衝撃自体は伝わったらしい。蛇王は口の端をにやりと歪ませた。
「ぐくくっ、中々楽しませてくれる。だが貴様では余の食指は動かぬ。さっさと退場してもらうとしようか」
 巨大な戦斧による斬撃が暴風のように千里に襲いかかる。それは斧に負けず劣らず巨大な拳により防がれたが、千里はわずかに眉を歪めた。どうやら感覚が繋がっているらしく、衝撃が彼女にも伝わっているようだ。
「そら、そら、そら、そら!!」
 巨大な拳に向け、幾度も斧が振り下ろされる。拳はかろうじて攻撃を防いでいたが、何度目かの斬撃を受けた後、びしりとひびが入った。
「くっ」
「おや? 偉そうなことを言っていた割にもう終わりか。ならばこのまま粉砕してくれよう、そらぁ!!」
 大ぶりの攻撃がひびの入った拳に迫る。だがその一撃が叩き込まれる瞬間、巨大な拳はふっと掻き消えた。
「なにっ!?」
「隙ありです」
 驚愕し、一瞬動きが止まったその隙に、ザッハークの間合いの内側に入り込むと、千里は巨大な鱗に包まれた相手の腹部に籠手を身に着けた手を当て、
「はっ!!」
 という掛け声とともに、ぐっと力を入れた。パンッと軽く何かが破裂する音と共に、蛇王の体はぐらりと大きく揺らめいた。
「ぐっ!! ぐ、く・・・・・・なるほ、どな。鱗が破れなければ、直接肉の方を破壊してきたか。少々驚いたぞ」
「・・・・・・」
 口の端から血を垂らし、それでもまだ余裕の笑みを浮かべるザッハークとは対照的に、千里は無言のまま内心で汗をかいていた。先ほどの掌底によく似た技は“鎧通し”といって、彼女の扱える技の中でも特に攻撃力の高い物だった。全力で叩き込んだその一撃を受け、立っていられるどころか相手はいまだに余裕の笑みを浮かべている。
「ですが、何度も打撃を与えていれば、いずれ倒れるはずです」
「確かにそうだが、そう簡単にはいかんぞ。貴様が余の体に触れることはもうないからな。余が龍である事を忘れておらぬか? 龍にはこういった攻撃のやり方もあるのだ・・・・・・カァッ!!」
 千里が自分に言い聞かせるようにつぶやいた言葉を聞き、にやりと笑ったザッハークは大きく後方に飛びのき、自身の口と両肩の蛇の口、合わせて三つの口から、同時に紫色のガスを吐きだした。ガスの動きは非常にゆっくりとしたものだが、広範囲に広がりながらこちらに向かってきており、さらにガスが触れた個所が、ぶすぶすと腐れ落ちていく。
「これは!? 猛毒のガスですか」
「せめてブレス、とでも言わんか。さあどうする? 近づくことすらかなわず、どうやって余に打ち勝つつもりだ?」
 蛇王の言葉に、千里は奥歯を強く噛みしめた。自分は近接特化型であり、近づかない限り攻撃手段はない。このガスの中では、呪符も腐れ落ちるだろう。タケミナカタの拳が出せれば話は別だったが、損傷を受けた呪い具では相手の攻撃を防ぐことは難しく、自己修復を待つしかない。
 彼女が思案している間にも、紫色のガスは広間に広がっていく。それが逃げ回る千里に追いつき、ついに触れようとした、まさにその時だった。
「千里さん、伏せてください!!」
 自分のすぐ後ろから聞こえる加世の声に、千里は反射的にしゃがみこんだ。そのすぐ上を突風がガスに向かって突き進んでいく。突風が衝突すると、紫色のガスは瞬く間に四散していった。
「加世さんっ!?」
「どうやらうまくいっているみたいですね。鴉天狗印の大団扇、どんなものでも吹き飛ばして見せます。さあ、どんどん行きますよ!!」
 加世が手に持った巨大な団扇を振ると、そのたびに突風が吹き荒れ、ガスが消え去っていく。二十回ほど振っただろうか、周囲に充満していたガスは、全て散っていた。
「ほう、中々面白い物を持っているな。だがそんなもの、余が再びブレスを吐けば意味はなくなるぞ」
「そうはさせませんよ、食らいなさい!!」
 加世が懐から取り出した物を投げつける。自分に向かって飛んでくる赤い小さな玉を捕まえて、面倒臭そうに握りつぶすと、そこからばふっと赤い粉が周囲に弾けた。
「む、これは・・・・・・」
「どうですか、秘伝の痺れ粉の御味は。これでもう、あなたの体は満足に動きませんよ」
「ふん、くだらん」
 不愉快そうに口を歪めると、ザッハークはピリピリと痺れる右手を強引に振って、自分に向かってきた加世の襟首をつかむと、床に叩きつけた。
「くぁっ、そ、そんな・・・・・・」
「高々人形を封じる程度の毒で、余の動きを防ぐことができると本気で思っていたのか? 己の軽率な行動を悔いて潰れ爆ぜろ!!」
 激痛で床に蹲る少女に、蛇王は戦斧を振り下ろす。それが届く寸前、巨大な拳が横から斧を弾き飛ばした。だが完全に弾き飛ばすことはできず、塞がりかかっていたひびの部分に刃が当たり、大きな亀裂が走った。
「くっ!?」
「ふん、失策だな。余を倒そうと考えるなら貴様はこの家畜を見捨てるべきであった。情に流されるからこういうことになる」
「情に流される方が、情に流されないよりよほどましだと思いますがね」
「仲間の絆とやらか? くだらん、そんなもの圧倒的な王者の力の前には塵に等しい。だが・・・・・・そうだな、貴様らを絶望させるために、三度絶望というものを見せてやろう」
 ザッハークが言い終えると同時に、彼の右肩から伸びる蛇がしゅるしゅるとかなりの速さで動いた。それは身構える千里の傍らを通り過ぎ、まだ意識が戻らぬヒスイを介抱しているキュウを跳ね飛ばし、レテルが倒されてからただ呆然と立っている白騎士に巻きついた。
「貴様ら家畜の中には、時々面白い能力を持った者が生まれてくる。神に愛されたもの、とでもいうのか。余には人形の記憶もあってな、こやつが妖精を召喚できることは知っておる。だが、ふん、これの真の能力はそんなものではない。こやつはな、その体自体が巨大な門なのだ。見せてやろう」
 ザッハークが右手を伸ばすと、白騎士に巻きついたまま蛇が空に伸び、彼らを中心に、不気味な文様が浮かび上がった。そして、騎士の体の中心に縦に光が走ったかと思うと、そこから軍勢が現れた。



 最初に出てきたのは中に火がともったカンテラを手に先導する、カボチャ頭の群れだった。さらにその周りを淡い小さな光の球が漂っている。それはよく見ると小さな羽をもった少女の姿だった。そして彼らに導かれ、猫の顔をした小柄な剣士や、血の滴る斧を持った子鬼が無数に続き、その中央、8体の黒翼持つ女剣士たちに守られ、灰色の馬に乗った王冠を被った老人が現れた。


「オベロン? まさか、貴様なのか!?」
「・・・・・・」
「貴様、仮にも黒界七王国の一国、アルフヘイムの王である貴様が、なぜザッハークなどの召喚に応じた!! ティターニアを失い、それほど気落ちしたか!!」
「・・・・・・黙れ」
 食って掛かるように叫ぶ黒猫を、オベロンと呼ばれた老人はそのくぼんだ目で睨みつけた。
「貴様らは知り合いであったか。まあ良い、さあどうする家畜ども。力、数、全てにおいて貴様らは劣っている。だが安心しろ、この者たちの役目は観客だ。家畜を潰す楽しみを、他の奴らにやるものかよ」
 にやりと笑い、ザッハークは“タケミナカタの拳”の亀裂が入った部分に手を当て、体重をかけた。ビシビシと音を立てて亀裂が広がっていく。このままではそれほど長く持たないだろう、かといって収納すれば自分達を守るものがなくなり、すぐに蹂躙される。万事休すですか、そう思った千里が、ぎりっと唇をかみしめた時、



「すまない、遅くなった」



 その言葉と共に、彼女の脇を、冷たく、だが清らかな風が駆け抜けていった。



「ヒスイ」
 時は微かに遡る。オベロンの変わり果てた姿を見た後、キュウは悲しげな顔をして、いまだに意識が戻らないヒスイを見下ろした。
「ヒスイ・・・・・・我が愛しの小娘よ、このままではそなた達は皆あのザッハークに殺されるだろう。いや、人として死ねるならば、それがそなたにとって一番良い事なのかもしれん。だが、そなたはそれを望むまい」
 キュウは彼女にしては迷うように妖精たちが飛び交う空を眺めていたが、やがて深いため息を吐いた。
「ヒスイよ、安寧な死より、苦痛に満ちた生を望む少女よ、今よりそなたにかけた“封印”の一部を解く。そうすれば、巨大な力の一部を使えるようになるだろう、だが同時に、そなたは人から遠ざかるだろう。それが良い事かどうかは、我にはわからぬ。ただ願わくば・・・・・・そなたに人としての死が訪れんことを」
 そして、キュウはその頭を、ゆっくりとヒスイの胸に置いた。




「くははははっ!! 面白い、先程とはまるで動きが違うではないか!!」
 四方から繰り出される斬撃を浴びながら、ザッハークは喜びの声を上げた。自分に攻撃してくるのは先ほどの翡翠色の瞳を持った少女だ。しかし、先程までの彼女とは違い、フェイントや引っかけを織り交ぜた彼女の素早い攻撃は、ザッハークの巨体では避けきれないのか、蛇王の体は、所々その鱗にひびが入っていた。
「・・・・・・」
 ザッハークの哄笑に、だがヒスイは答えることなく斬撃を繰り返す。その瞳は攻撃する一瞬、蒼い瞳に代わり、その強烈な斬撃はザッハークの鱗の一部を弾き飛ばした。



「ヒスイさん、すごいですね!!」
「ええ、そうですね。このままいけば勝てるでしょう、ですが・・・・・・」
 ヒスイがザッハークと切り結んでいる間、後方に下がった千里は、加世の傷の手当てをしながらヒスイの戦闘を見ていてが、不意に自分の傍らでヒスイを悲しげに眺める黒猫を見下ろした。
「・・・・・・」
「・・・・・・む、どうした? 千里」
「いえ、なんでもありません」
「・・・そうか、なら早く回復を済ませておけ、ヒスイのあの状態はそう長くは続かん。最後には総力戦になるぞ」



 キュウの言葉通りだった。戦いが長引いていくほど、ヒスイの速度は落ち、次第にザッハークの戦斧で防がれる回数が増えていく。同時に、ヒスイの目が蒼くなっている時間がだんだんと伸びていった。
「どうした? 所詮こんなものか? ならばもうあきらめてしまえ、そして余の腕の中で快楽に酔いしれるがいい」
「・・・・・・ッ!!」
 奥歯を噛み締め、より一層瞳を蒼い炎で燃やしたヒスイが、ザッハークに向けて一直線に駆け出す。蛇王の大ぶりの一撃を戦斧の下を掻い潜って躱すと、ただまっすぐに刀を突きだした。
「おっと」
 自分に向かって放たれた突きに対し、ザッハークはほとんど無意識のうちに軽く頭をのけ反らせると、ヒスイを捕まえようと手を伸ばす。だが、彼の手が瞬間、ヒスイの身体はふっと霜のように掻き消えた。
「な!?」
 驚いたように片眉を上げたザッハークが、ヒスイを探そうと辺りを見渡す。だが彼は少女を見つけることが出来なかった。なぜなら、この時すでに蛇王の脳は、その機能を停止させていたからである。



「・・・・・・霞剣(かすみけん)、“啄木鳥(きつつき)”」



 ザッハークの頭部に、後ろから刀を脳まで突き刺して、ヒスイは呟いた。かつて父であるヌアダが編み出し、何度練習してもできなかった技を、少女はこの時初めて成功させた。霜で分身を作り出し、一直線に駆け寄り、相手が分身に気を取られているうちに背後に回り、のけ反った頭部に渾身の一撃を繰り出す。邪剣といってもいい技であり、一度避けられると二度目は通用しないが、どうやら今回は成功したようだ。


「ああああああああっ!!」


全身の力を込め、脳に突き刺した刀を横に薙ぎ払う。血と肉と脳しょう、そして骨と鱗が飛び散り、ザッハークの頭がはじけ飛ぶ。勢い余って右肩に生えている蛇も胴体を叩きわり、どす黒い広間の床に食い込んで、何とか刀はその動きを止めた。


「はぁっ、はぁっ、はぁ・・・・・・・」


 ザッハークの巨体が倒れたのを確認すると、ヒスイはずきずきと痛む眼を抑えて蹲った。なぜか気絶から目覚めたら、いつも無意識に使用していた、キュウからバーサークといわれる力を引き出せるようになっていた。そのため負担にならないよう、攻撃の時だけその力を引き出して戦ったのだが、いつもできなかった霞剣まで使えるようになっていたとは思わなかった。

「・・・・・・まあ、考えるのは、後にするか。さすがに疲れたし」

 いまだに痛む眼を抑えながら、ヒスイはふらふらと立ち上がった。ふと、遠くにいるキュウ達が何か叫んでいるのが見えた。心配ないと口を開きかけた時、彼女の身体は、後ろから殴られ、大きく吹き飛んだ。

「そんな・・・・・・頭部を破壊されたんですよ!! なのになんでまだ生きていられるんですか!?」
 頭部を失い、それでもまだ立っていられるどころか、ヒスイを殴り倒したザッハークを、加世は信じられないという風に見つめた。彼女の見ている前で蛇王の身体が一度大きく屈んだと思うと、首の所から肉の瘤のようなものが現れた。それは徐々に肥大し、先程はじけ飛んだ頭部そっくりな形にまで成長した。

「・・・・・・・・・・・・ふぅ、まさか頭部が潰されるとは思わなかったぞ。だが残念だったな、余の愛しい玩具よ。たとえ三首すべてが爆散しようとも、心臓と肺を粉々にされても余は再生できる」
「ぐっ・・・・・・」

 倒れ伏したヒスイの服を掴み、一気に引き千切る。敗れた服の中に隠されていた、彼女の白い乳房があらわになった。

「まあ、これから余の妾になるのだから特別に教えてやるが、余の急所は何十万枚もある鱗の中に、ただ一枚だけある逆さになった鱗だ。逆鱗と呼ばれているがな。それを完全に破壊しない限り、余は何度でも復活する。さあ、反撃はもう終わりか? ならお楽しみと行こう。おっと、自害はするなよ、貴様が自害したら、この都市に住むすべての家畜を生きながらに食らってやる」
 純潔を奪われる前に自害しようとしたヒスイは、ぐっと唇を強く噛みしめた。あまりに噛みすぎたせいか、口の端から血が一筋流れ出る。


「さあ、まずは貴様の右手首の腱を砕こうか、次は左手首、そして両足の腱を砕き、最後に舌を切り落としてから快楽の中に沈めてやる」

 ザッハークの哄笑が響く中、ヒスイは何かに耐えるようにギュッと目を瞑った。脳裏に小柄で女顔をした、黒髪の少年の姿が浮かび上がる。そして、彼女が涙に滲む瞳を開けた時、







彼女の視界を、真っ赤な炎の翼が覆い尽くした。



                                  続く


 どうも、活字狂いです。本日は予定を変更し、スルトの子の続編をお送りいたします。さて、今回新たに登場したザッハーク、両肩に蛇をはやした巨大な敵です。ヒスイたちを圧倒したこの敵を、どうやって倒すのか、それはスルトの子3の最終幕までお待ちください。

 さて、次回はスルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第四幕をお送りいたします。
 舞台は再び出雲に戻り、再び聖亜が主人公として登場します。そして彼は、自分に流れる血について、少しではありますが知ることになります。どうぞ、気長にお待ちくださいませ。



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第四幕 姫二人~月の姫と鉄の古武者~
Name: 活字狂い◆a6bc9553 ID:6b5589af
Date: 2015/12/19 23:54



彼は一人、どこまでも続く美しい都のざわめきの中にいた。








 これが夢だというのはすぐに分かった。その理由は二つ、一つは道を行き交う者の中に、人外の者が多く居たためであり、そしてもう一つが、星一つない黒い空にただ一つ浮かぶ、笑う満月の存在だった。 
 だが、青年は気にすることなく、道をまっすぐに進む。すれ違う者たちが時々少年に声をかけてくるが、彼はそれが人であれ、人外であれ、変わらず笑顔で返した。
 
 道を歩いていくと、目の前に巨大な城が現れた。黒一色の城の最長部からは、世界全体を照らして、それでもなお余る光が輝いている。青年が城の門の前に立つと、門はまるで、主を迎えるがごとく、自動的に開いた。

 しっかりと整理整頓がされた城の中は、多くの人々で溢れていた。無論、その中には人外の者も多く居たが、彼はそれが当然とばかりに歩き続け、とある巨大な扉の前に立った。ちょっと迷うように視線をさまよわせた後、意を決して一歩近づくと、扉はゆっくりと青年を招き入れた。

 そこは、ただ一人のために作られた部屋だった。そう、すなわち城の主の部屋である。そして、青年を迎えたのはその部屋の主であった。黒真珠のような美しい黒髪、こちらを見つめてくる、誇り高く優しげな紫水晶の瞳、どのような絵師でも決して描くことができない美貌を持つ娘が、こちらを愛おしげに見つめている。そして、彼女を見た青年の胸の中にも、深い愛情が広がっていった。

 青年は娘に向け歩き出す。娘も、青年を待ちきれないという風に手を伸ばし、愛しい青年の名前を呼んだ。



             



             













                  “アベル”



















「違うっ!!」

 自分の発した声で、星聖亜は目を覚ました。ホテルの薄暗い部屋の中、ヴーンというエアコンの音と、電子時計のチッ、チッ、と時を刻む音以外、聞こえるのは自分の荒い吐息だけだった。

「俺は聖亜・・・・・・星聖亜だ、間違いない」

 なのに、どういうわけか夢の中で、自分はアベルという名で呼ばれた。それは別に構わない。彼が本当に否定したいのは、自分の“唯一”である準以外の女を心の底から“愛しい”と思ってしまったことだった。

「ったく、馬鹿げてるにもほどがある。会ったこともない女だぞ? それを愛しいと思うなんて・・・・・・ん?」

 不意に、聖亜は自分の体に、布団以外の何かが載っているのに気付き、一瞬だけ殺気を込めたものの、思い当たる節があったのかすぐにそれを消し去り、ため息を一つ吐くと、いつのまにかベッドにもぐりこんで眠っている小さな少女の頭を優しく撫ぜ始めた。

 
 時計は午前三時を指していた。もう一眠りできそうな時間だったが、聖亜はただ、暗い天井をずっと眺めていた。





「ぶべ!?」


 今日何度聞いたかわからない悲鳴を上げる男の顎を、聖亜は退屈そうにあくびをしながら、足で踏み砕いた。恐らく、これで男はもう二度と固形物を食べることはできないだろう。少年の周りには、同じように倒れている男たちが十名ほどいたが、そのどれもが足を折られ、手首を外され、ひどい物だと片目が抉り出されたり、耳が片方削がれたりしていた。彼らはもう五体満足で一生を送ることはできない。

「何だよ、何なんだよ、お前はっ!!」

 仲間を瞬く間に倒され、最後に残ったリーダー格の男は震えながら叫んだ。彼らはどの町にもいるような不良グループで、その中でもひときわ暴力的なチームだった。彼を襲ったのも金のためで、つい先日、身なりのいい男から彼を襲撃して傷の一つでも負わせたら大金をやると持ちかけられたのだ。物陰から観察してみると、少年はかなりの女顔で、チームの中にいる美少年を犯すのが好きな男などは舌なめずりをしていた(その男は、真っ先に股間を砕かれた)。それ以外にも、皆弱者を痛めつけるのを好む残虐な男たちばかりだ。失敗はない、そのはずだった。

 なのに結果はごらんのとおり。十人ほどいた仲間はものの数分で倒れ伏し、最後に残った自分はがたがたと震えるしかできない。

「ああ?」


 自分の指差しているリーダー格の男を、聖亜は不機嫌そうな顔で睨みつけた。彼が不機嫌なのは、寝不足と、準の見舞いに行く途中で絡まれたことに対する苛立ちのためだった。


「それで? せっかくの逢瀬を邪魔してくれたんだ。どれがいい?」
「な、なに、が?」
「決まっている。失ってもいいと思う箇所だ。お前で最後だからな。選んだ場所以外の全部を、一生使えなくしてやる」
「ひっ!? う、うがあああああああ!!」
 少し凄みを聞かせて睨みつける自分に恐慌し混乱したのか、男は所々錆びたナイフを取り出すとめちゃくちゃに振り回しながら聖亜に向かってきた。
 男の混乱した様子を見て、呆れたように溜息を吐くと、自分に向かって伸びるナイフの柄を掴み、くるりと回転させた。


「あああああああああ・・・・・・あ?」


 喚きながら手を振り回していた男は、ふとナイフを落としていることに気付き、慌てて拾おうとした。だがなぜかナイフを拾うことができない。いや、そもそも指の感覚がなかった。

「あ・・・・・・あ・・・・・・ぎゃあああああっ!!」

 右手の指が五本とも切断されて転がっているのを認識した男は、襲いかかってくる苦痛に悲鳴を上げた。その声が耳に触ったのか、聖亜が顎を蹴りあげると、男は口から血と歯の欠片を吹き出して気絶した。


「・・・・・・くだらね」

 面白くなさそうにため息を吐き、聖亜は地面に落ちているナイフを拾い上げた。一昔前の彼なら、気絶している男たち全員の息の根を容赦なく止めていたことだろう。

「ま、この程度の奴らを殺したら、準が悲しむからな」

 どこか照れたように笑い、ナイフをなんとなく空中に放り上げた時、


「何をしているっ!!」

 血で真っ赤に染まった路地裏に、強い怒声と共に、三人の少女が駆け込んできた。





「何なんだ、この惨状は」

 血で染まる路地裏を見て、立志院生徒会において総長を務める黒塚葵は、恐怖というよりは、まるで信じられないものを見ているというように固まっていた。彼女が監視対象となっていた不良グループが一人の少女をつけまわしているという報告を受けたのは、二人の友人と一緒に通学路の見回りをしている最中だった。それからこの場所にたどり着くまで、十分と経過していない。なのに不良たちは全員血の海の中に倒れており、その中心にいる少女は返り血すら浴びていなかった。
「た、大変です、そこのあなた、大丈夫ですか!?」
「まて、詩音(しおん)」
 一年生にして立志院生徒会で会計を務め、また自分の幼馴染でもある木村詩音が少女に駆け寄ろうとしたのを葵は厳しい口調で静止した。
「そうだよ~、しぃちゃん。あいつに近寄るのはちょっとやばい」
「お、お姉ちゃんまで」
 詩音にお姉ちゃんと呼ばれた、ボーイッシュな少女―立志院生徒会の会計であり、もう一人の幼馴染でもある木村華音(かおん)が詩音を止めている間、葵は手に木刀を持ったまま、静かに少女の下へと近づいて行った。

「そこの者、怪我はないか」
「・・・・・・あん? ああ、無いけど」

 聖亜は自分に声をかけてきた少女を見て、ふと眉を潜めた。黒い長髪を持つ少女が美しいためではない。彼女が腰に下げている太刀に目が行ったわけでもない。彼女がつい先日、下卑た笑みを浮かべる青年に絡まれたときに乱入してきた少女だからだった。確か、名を葵といったか。

「そうか、それはよ・・・・・・お前、また会ったな」
「・・・・・・別に覚えていなくてもよかったけどな」

 聖亜のため息交じりの答えに、葵は手に持った木刀を構えた。

「答えろ、これをやったのは貴様か」
「あ? ああ、絡んできたからな。いわゆる正当防衛ってやつだ」
「正当防衛? 正当防衛だと!? 貴様は、正当防衛だからといってここまでやるのか!!」


「はぁ?」


 葵の叫びに、聖亜は素っ頓狂な声で応えた。彼にとっては、襲いかかってくる相手は再起不能になるまで叩き潰すのが当たり前だというのに、彼女にとってそれはやり過ぎとのことらしい。

「そういう甘い考えだから、こういった奴らがのさばるんだろうが。それともそんなことも分からない無能なのか、お前」
「っ、貴様ッ!!」

 聖亜の挑発めいた言葉に頭に血が上ったのか、葵は木刀を構え駆けだした。それは人にしてはかなりの速度であったが、ヒスイやエイジャの動きを見ている聖亜にとっては十分対応できるものだった。


カンッ


「あっ!!」


 自分に向かって木刀が振り下ろされる。その瞬間を狙って聖亜はそれを蹴りあげた。衝撃と共に少女の手から木刀が放れ、くるくると空中を舞って遠くの地面に落ちていく。

「へぇ、やるじゃん。総長の木刀って、中に鉄芯を仕込んでるっていうより、鉄を木刀の形にして外側を木刀に似せた物だから、並みの日本刀より打撃力があるってのに」

 手に持った長い袋から薙刀を取り出しながら感心したように笑みを浮かべると、手を抑えている葵と、彼女に近づこうとする聖亜の間に割り込んだ。
「あ?」
「葵君を一蹴するなんて、君、なかなかやるじゃないか。うん、何か久しぶりにぞくぞくしてきちゃったよ」
 笑いながら、華音は薙刀の刃に舌を這わせた。その様子を下がりながら見ていた葵はため息を吐いた。彼女は普段はおっとりとした性格をしているが、楽しめる相手が目の前にいると興奮するという妙な性癖を持つ。そして厄介なことに、彼女の戦闘能力だけは自分の遥か上を行っていた。
「・・・・・・戦闘狂か」
「君だって同じようなものじゃないか。匂いでわかるよ、“同類”さん・・・・・・せやっ!!」
 笑みを浮かべたまま、華音は薙刀を振るった。長い刃が唸りを上げて向かってくる。先ほどの葵の振るった攻撃より、数倍早いその一撃を少年は何とか避けたが、完全に避けることはできなかったらしい。その頬に一筋、赤い糸が走った。
「・・・・・・」
「あはは、すごいすごい!! まさか全力で振るった一撃が避けられるなんてね。なら今度は数で攻めてみようか!!」
 いったん後退した華音が、今度は連続で刃を突き出してきた。かなり早いが、どうやら正確に狙わずに突いているらしい。避けきれる速さではあったが、聖亜が避けようとする気配を感じたかのように、刃がその方向へと突き出される。軽く舌打ちしながら、聖亜は後方へと下がっていった。
「お姉ちゃん、無理しないで!!」
「あははっ!! まあ安心してよ詩音ちゃん。こんなやつ、ちょちょいと取り押さえるからさ」
 後退していく聖亜を壁際まで追いつめ、もはや避けきれないだろうと判断したのか、華音は薙刀を峰に持ち替えると、大きく振り上げた。
「ま、骨の一本や二本は覚悟しなよ!!」
「・・・・・・・・・・・・飽きた」
 不意に、聖亜はポツリと呟いた。微かに聞こえたその言葉に、華音が首を傾げた時、

 彼女の身体は、大きく後方へと吹き飛んだ。


「・・・・・・は?」

 その動きを、葵は全く目で追うことができなかった。彼女に見えたのは、薙刀を振り上げた華音が、いきなり吹き飛んだ、ただそれだけだった。そして、彼女が相手をしていた少年の姿は、どこにもなかった。
「ど、どこにいった!?」
 消えた少年に、葵は思わず腰の太刀に手をやった。だがどんなに柄を引いても、刃はまるで鞘と一体化しているかのように出てくることはなかった。

「なぜだ・・・・・・なぜおまえは私に応えてくれない、三日月宗近!!」

 少女の悲痛な叫びに、天下五剣といわれるほどの切れ味を持つ太刀、三日月宗近は何も応えることなく、沈黙したまま鞘に収まっていた。






「ったく、服がぼろぼろだ」

 少女が悲痛な叫びをあげていた時、聖亜は薙刀によってずたずたに引き裂かれた服を見ながらげっそりとため息を吐いた。彼があの場から逃げる時に使ったのは縮地といわれる技だ。特殊な呼吸を行うことで数十メートルの距離を一瞬で移動できる技だが、彼は今までこれをほとんど使ったことはない。並みの人間相手ならたとえ何十人いても使わずに倒せる自信はあったし、逆にエイジャ相手には全く効果がないというのは、黒猫のキュウから教わって知っていた。しかもこの技自体が未完成であるため、彼はいまだ数メートルを移動するしかできない。
 それでも移動している最中、彼の姿は常人には見えず、今回のように女子供が相手で面倒な時などに利用している。だが

「戦闘狂や“お嬢ちゃん”はともかく、あの眼鏡女、明らかにこっちの動きを目で追っていたな」
 眼鏡女とは、自分と戦闘狂の戦闘を見守っていた、どこか鈍そうな感じのする少女だった。しかし、ただの鈍い少女に自分の動きが見れるとは思えない。

「ま、いいか。もう会うこともないだろうし・・・・・・それより、さすがにこの服装じゃ見舞いには行けないか。どっかで服買わないといけないな」
 ずたずたになった服を隠すように、逃げる途中に拝借した暴漢の服を羽織る。だがそれは160㎝に届かない自分には大きすぎて、ついでに洗っていないのかどこか臭い。灰色街といわれる、太刀浪市西部にある復興街で暮らしていた聖亜は服装には無頓着だが、さすがにこれでは自分はともかく準は大恥をかくだろう。そう思いながら、裏路地から大通りに出た時、




びくっ






「ひっ!!」


 その男とすれ違った時、聖亜は得体のしれない恐怖に総毛立った。重い首を動かし、何とか振り向くと、すでに男の姿は人ごみの中に消えていた。相手は夏だというのに黒い色のスーツを着込み、さらにその上から黒い外套を羽織った、身痩身だが引き締まった体つきの持ち主で、自分より頭一つ分背が高い、黒髪と黒目の、どこにでもいるような男だった。

 だが、そのどこにでもいる男とすれ違った時、聖亜の身体を今まで感じたことのない恐怖が貫いた。たとえ百の銃口を向けられても、人外の化け物を見ても、自分は恐怖を抱かない自信があった。なのに震えが止まらない。彼には本能的に分かっていたのだ。今の自分では、先程の男ともし殺しあうようなことがあれば、絶対に勝てないと。






「・・・・・・は、ははっ、随分魔窟じゃねえか、ここは」






 いまだ震えが収まらない身体を掻き抱き、人のぬくもりを求めるかのように、聖亜は人ごみの中へと歩き出した。




 






「・・・・・・はぁ」
 気絶した華音と、重傷を負った不良たちのために救急車を手配した後、葵は日差しが強くなってきた歩道を歩いていた。詩音は華音に付き添っているため、彼女は一人で通学路の見回りをしている。右手に持つ三日月宗近は結局抜くことが出来なかった。というより、高校に進学した際に母から渡されてから、自分はこの太刀を一度も抜けてはいない。どこか楽観的なところがある母は気にするなと言ってくれているが、それでも自分の手持ちの中で最強の武器であるこれを扱えないのは、彼女にとって大きな負い目であった。





「まったく、お前はどうして私に応えようとしないんだ」




 
 そう呟き、宗近の柄を少し強めに叩く。すると、まるで抗議するかのように柄頭にある鈴がチリンと鳴った。
 ため息を吐いて、次の角を曲がった時である。赤信号で止まっている車の一つに、見知った人物の姿があった。
「あ、お婆さま?」
「・・・・・・あら?」
 黒い電気自動車に乗っていた三十代ほどの女性、黒塚神楽は、自分に声をかけてきた少女を見て、微笑を浮かべて首を傾げた。
「え~っと、あなたいったい誰だったかしら?」
「え? お、お婆さま!?」
「・・・・・・神楽さま、あなたの孫娘である黒塚葵さまです。ご長女である黒塚照子さまの」
 隣に座っている、背の高い女に説明され、神楽は今初めて思い出したかといった風に頷いた。彼女は確か神楽の側近である、“八雷姉妹”の異名を持つ八人のうちの一人だったか、などと葵はぼんやりと思いだした。
「ああ、あの出来損ないの娘の、これまた出来損ないの子供ね。興味が全くない物だから、すっかり忘れていたわ。ところであなた、娘から三日月ちゃんを譲られたようだけど、抜けるようになった?」
「そ、それは・・・・・・」
「あら、やっぱりできていないの。もう随分経つのに、あなたもやっぱり娘と同じで出来損ないなのかしら。ならしょうがないわね、さっさと次に三日月ちゃんを返してもらおうかしら、それとも男たちに抱かれて子供を産んでもらおうかしら」
「っ!!」
 にこやかな笑みのまま、どこまでも冷酷で残忍なことを神楽は話す。彼女の事を知らない人間ならば、冗談と思い一笑しただろう。だが、葵はもちろん、彼女が本気で行っていることを知っていた。なぜなら、彼女の父親が若くして鬼籍に入ったのも、穏やかな性格の彼が、妻と妻の母親の間で行われる、想像を絶する諍いに耐えられず自殺したためであった。

「神楽様、御戯れはその位になさいませ」
「あら黒ちゃん、あなたこんな出来損ないを擁護するの?」
「まさか。ただその出来損ないに時間を費やすほど、神楽様はお暇ではないということです。そろそろ先方との待ち合わせ時間ですので」
「あら、そうね。出発しましょっか。じゃあね葵ちゃん、さっさとどうするか決めて頂戴。子を孕むか、それとも三日月ちゃんを手放すか」
「・・・・・・は・・・・・・い」
 青ざめた顔を俯かせ、擦れるような声を出した葵をもはや意識の外に追い出した神楽は、隣にいる女とにこやかに談笑しながら去っていった。

 その場にただ一人、泣きだしたくなるのを必死に耐える少女を残して








「どこ行ってたのさ・・・・・・って、君、大丈夫?」
 自分が眠っているうちに外に出た少年に抗議するように、可愛らしい茶色の髪をした少女がむっとして聖亜をみる。だが、服がずたずたに切り裂かれた彼の様子にただ事ではない何かを感じたのか、慌てて駆け寄ってきた。

「あ? ああ。大丈夫だ。それよりいいのか? 変装しないで?」
「・・・・・・へ?」

 その時になって、少女は初めて自分の恰好に気付いた。少女は昨日の醜い遠野百合夫という名の少年ではなく、可愛らしい少女のままだ。

「え・・・・・・なに? どうしたの!? ねえ、オシラサマ!!」

 いつもなら眠っているうちに、式神であるオシラサマが自動的に少女を醜い少年に変える。そのため、彼女は今も醜い少年の姿だと勘違いしていたらしい。何度か不安そうに名を呼び続けていた少女は、いつも応えてくれていた父親と母親のような存在である式神がどこにもいないという事実に気づき、へなへなとその場所に座り込むと、ひっく、ひっくとしゃっくりを上げ、ポタポタと涙を流したと思うと、次の瞬間、大声を上げて泣き出した。

「うわっ、そんなに泣くな、目が腫れるぞ」
「だ・・・・・・って、ひく、僕、僕何かして、嫌われて、だ、だからオシラ、サマ、どっかに行っちゃって、ぇええええええん!!」

 聖亜が慌てて駆け寄ると、少女は彼のずたずたの服を力いっぱい握りしめ泣きじゃくった。それから十数分ほど経っただろうか、聖亜が宥めすかし、頭を撫ぜ、背中をぽんぽんと優しくたたいてやると、ようやく落ち着いたのか、少女はグスグスと鼻を鳴らしているものの、どうにか泣き止んだ。

「どうだ? 落ち着いたか」
「落ち着けるわけないじゃないか。だって、いつも一緒にいてくれた人たちがどっか行っちゃったんだよ!?」
「・・・・・・まあ、そうだな。けどそんなに気にすることないって。俺の親父なんて、何してるか知らないが、一度出かけると数年は帰ってこないぜ。そのうちひょっこりと帰ってくるって」
「僕、今までそんなことなかったもん。まさか、君のせいとかじゃないよね」
「ないない・・・・・・じゃあこうしよう、あんたの式神、オシラサマだったか? それを見つけるの手伝ってやるから、な? それでいいだろ?」

「・・・・・・きっとだよ」

 聖亜の言葉に、べそをかいていた少女が頬を膨らませて呟く。どこか小動物の様なその可愛らしさに、聖亜は思わずその頭を撫ぜた。

「んで? え~っと、名前なんて呼べばいい? さすがにその格好で百合夫はへんだろ」
「・・・・・・小百合(さゆり)。遠野小百合。婆ちゃんがそう呼んでた」
「ん、分かった。遠野小百合だな。よろしく、小百合」



 出会って三日目で、ようやく本名を明かしてくれた少女の、そのふんわりとした茶髪を、聖亜は微笑を浮かべ、優しく撫ぜてやった。











 日本皇国における対エイジャ組織である高天原、その本拠地がある出雲には、総本山である出雲大社を守るように、その東西南北に巨大なビルが建造されている。すなわち北に玄武山、東に青竜宮、南に朱雀門、西に白虎穴。かつて平安京を守るため四方に祭られた四聖獣の名を冠するビルの一つ、南にある朱雀門の最上階にある部屋で、ビルの持ち主は一人の客人を迎えていた。


(少しやつれたな)


 ビルの持ち主である朱華の部屋に通され、“母”の顔を見た時、夏の暑い日に黒いスーツを着込んでいる日村総一郎は、ふとそう思った。
「ごめんなさい、人がいないものだから。総ちゃんは紅茶、好きだったわね」
「え、ええ」
 目の前のテーブルに置かれた紅茶に口をつけ、彼はふと眉を潜めた。朱華は紅茶好きだ。自分で飲むのも好きだが、紅茶を入れて人にふるまうのを好む。そういう事もあって、四年前、自分が旅立つ以前には、ここには数々の茶葉があった。しかし今それらは影も形も見当たらず、総一郎が口にしたのも、淹れ方は完璧だったが、どこにでもある市販の物だ。朱雀門は出雲市に住む人々の陳情を受け付けることを仕事としているため、ビルの中はいつも人でごった返していた。だが現在ビルの中は閑散としており、廊下ですれ違ったわずかな職員の中にも見知った者はおらず、その対応はどこまでもマニュアルに沿ったものだった。


 やはり朱華が失脚したという噂は本当だったらしい。かつては当主の側近を務め、病気により彼の妻である神楽がその地位を引き継いでからは、長女である黒塚陽子の後見人を務めていた彼女だが、最近神楽と陽子の対立が深まり、後見人まで解任された彼女は、病気になった当主の世話をただ黙々と続けている。

「あの、朱華先生、自分にできる事があれば何でもおっしゃってください」
「あら、いいのよそんなことは。総ちゃんには、妹さんの行方を探すっていう目的があるでしょう?」
「ですが、あの時先生に拾われなければ、自分は野垂れ死にしていました。なのに四年前、私は自分勝手にここを飛び出して・・・・・・どれほど迷惑をかけたことか」
「子供に迷惑をかけられて、嫌がる親がどこにいるのかしら。とにかく、せっかく帰ってきたんだし、皆の所に顔を出してあげなさいな。何か手伝ってくれるなら、それからでも充分。ああ、悪いけど、雷ちゃんはいないわよ、今仕事で太刀浪市に出向しているから」

「鈴原がですか?」

 数少ない友人の一人である、高天原最強戦力に数えられる男の名を呟くと、総一郎は眉間に僅かに皺をよせた。性格は正反対であるが、彼の実力は最高クラスだ。彼が赴いたとなると、また何か面倒なことが起きているのだろうか。

 朱華に気付かれないよう、微かにため息を吐くと、総一郎は退出するため、脇にかけたコートを手に取った。




 次の日は、朝から空がどんよりと黒く染まり、ぱらぱらと大粒の雨が降っていた。そんなどこか憂鬱な天気の中、聖亜は百合夫、否、本名を小百合という少女と共に、他の志願者達の面々と共にバスに乗り、古びた小さなトンネルの前に来た。ふと横を見ると、ぼろぼろになり苔むした小さい社が一つ、深い木々の中に埋もれていた。



「・・・・・・」
「え~、それではですね、第二試験といたしまして今からこのトンネルに入ってもらい、奥にある旗の所まで行ってもらいます。今回は上位何人が合格とか、そういう事はありません。全員が旗の所までたどり着けば全員が第二試験合格となります。ただ」
 いったん言葉を切ると、試験官である痩せて眼鏡をかけた、どこか神経質そうな男は、無表情で二百人の志願者達を見渡した。
「今回の試験は命の保証はできません。つまり死ぬ危険があるということです。もし命が惜しい方がいらしたら、ここで試験を辞退することもできますが・・・・・・いかがなさいますか?」

 死ぬ危険がある。試験官の言葉に、さすがに志願者達はざわめいた。彼らをつまらなそうに眺める聖亜の後ろで、小百合が少しだけ彼の裾を掴んだ。その時である。

「あっはっは!! 何を言うかと思えばそんな事ですか!! ご安心ください試験官殿、この場に逃げ出すような卑怯者など一人も居はしませんよ。なあ皆!!」

 大げさに両手を空に挙げ、大声で叫びながら周りを見た青年、森谷の事を聖亜は殺してやりたくなった。彼がこちらをちらりと見て勝ち誇った笑みを浮かべたからではなく、その言動があまりにもうざかったためである。

「あ、ああ。彼の言うとおりだ、逃げるような卑怯者なんてここにはいない」
「そ、そうよ。私達は高天原に入隊するためにここに来たんですから」

 森谷に負けじと、二百人いる受験者たちのうち、聖亜と小百合、そしてにこやかな執事姿の青年―北条優と、その後ろに小動物のように隠れている乾物屋の娘―柿崎緑を除くほぼ全員が威勢のいいことを言いながら試験官に詰め寄っていた。どうやら彼らにとっては、有るか無いかわからない命の危険よりも、試験に合格することで得られる黒塚家とのつながりの方が大きいらしい。

「分かりました。それでは前回の試験で組となった二名ずつお入りください。前の組が入った三十秒後にまた次の組が入る、という感じでお願いいたします。何しろ狭いトンネルですので。それではお願いいたします」

 試験官に促され、一組目が薄暗いトンネルの中に入っていく。それからきっかり三十秒後に次の組が、さらにそれから三十秒後に次の組がという風に続き、たっぷり二時間ほど経過した後で、最後に残った聖亜達の番になった。


「面倒臭いな、さっさと終わらすか。ほら、行くぞ」
「う、うん」

 裾をぎゅっと握って離さない小百合の頭をもう片方の手で優しく撫ぜてやってから、聖亜は薄暗いトンネルの中に入っていった。




「こりゃ随分と長いな」




 トンネルに入って、五分も歩いただろうか。壁の所々に備え付けられた蒸気ランプ以外に照明がないトンネルの中は薄暗く、前を進んでいるはずのほかの受験者の姿は全く見えない。


「・・・・・・怖いか?」
「えっ!? そ、そんなことないよ!!」
わずかに震える手で、しっかりと裾を掴んで離さない小百合は、聖亜の問いかけに一瞬びくりと大きく体を震わせると、慌てて裾から手を放した。その手を今度は聖亜がぎゅっと握る。


「あ・・・・・・」
「強いんだな。悪いが、ちょっと手を握らせてくれ。俺は弱いからな。どうもこういう薄暗い所は怖いんだ」
「・・・・・・それって皮肉? 僕なんかよりずっと強いじゃんか」
「いや、俺は実際強くないよ。身長体重は女以下、腕力でいえば子供並み。多少すばしっこい所があるから、今までなんとかやってこれたが、こういう狭い場所だとそれもあまり意味がないからな。守ってくれると助かる」
「そ、そうなんだ・・・・・・しょうがないな、僕が守ってあげるよ」
「ああ、そうしてくれると助か・・・・・・ッ」
「え? ど、どうしたの!?」


 不意に、聖亜はこめかみを抑えて蹲った。目の前の景色が不気味に歪み、目をぎゅっと閉じた暗闇の中でガンガンと何かが響く。しかしそれは一瞬の事で、頭を振りつつ聖亜はゆっくりと立ち上がった。




「だ、大丈夫?」
「ああ、ちょっと頭痛がしたけど、もう大丈夫だ。それよりほら、出口が見えてきたぞ」

 心配そうに見上げてくる小百合を安心させるように、つないだ手をぎゅっと握りしめると、聖亜は遥か前方に見える出口に向かって歩き始めた。
 






「・・・・・・」

「へぇ、依然読んだ小説の中に、トンネルを抜けると、そこは雪国だった。というのがあったけど、なるほど、どうやら事実は小説より奇なりというのは本当だったらしな」


 トンネルを抜けた先の景色を見て、小百合は絶句し、聖亜はこちらに漂ってくる腐臭にふんっと鼻を鳴らした。

 トンネルを抜けた先の景色は、鬱蒼と生い茂った森であった。振り返ると、そこには小高い丘があるだけで、自分達が通ってきたトンネルは影も形も見当たらない。どうやら、一方通行であったらしい。
「な、何のんきに後ろなんか向いてんのさ、あ、あれ」
「ああ、分かってるよ、ったく、面倒臭いな」



 小百合が震える手で裾をぐいぐいと引っ張るのに合わせ、聖亜は面倒臭そうに振り返った。先ほどの景色に、二つほど森にはない物がある。一つは少なく見て百人以上はあるだろう、おびただしい量の血と腐肉、そしてもう一つは、それを貪る“それ”の姿だった。


 それは、まさしく怪物と呼ぶにふさわしい形をしていた。歪曲したサルの様な体の上に、赤子の頭を乗せたような格好だが、両目は充血し。口からはびっしりと鋭い牙が生え、さらに両手の中指は巨大な爪となっている。その爪を使い、化け物達は器用に腐肉を切り裂き、口に運んでいた。
「トンネルの先がここに繋がっていたということは、試験官の連中はこいつらの事を最初から知っていたってわけだ。ったく、何が旗の所まで行けばクリアだ」
 岩陰に隠れて彼らの様子を観察した後、聖亜は目を細めて辺りを見渡した。すると右奥、視界の遥か彼方、恐らく20kmほど先にある山の頂上に、微かに森にあるものとは違う何かが見える。恐らく、あれが旗だろう。
「ど、どうしよう、このまま気づかれずにやり過ごせるかな?」
「いや、無理だろうな、奴らこっちに気付いたようだ」
 少年の言葉にびくりと体を震わせ、小百合は恐る恐る岩陰から顔を出した。見ると、怪物たちは肉を貪るのを止め、鼻をひくひくと動かしながらカチカチととがった歯を鳴らしている。どうやら、あれが彼らの会話らしい。と、こちらに一番近い所にいる怪物が突然こちらを振り向いた。だが真正面にいる小百合の姿が見えているはずなのに、怪物は少女が見えていないのか、別の方向を向いた。
「どうやら目が見えないらしいな。その代わりに聴覚と嗅覚が発達してるか・・・・・・ちょっとここで待ってろ」
「ふぇ? ど、どこに行くのさ」

 目を丸くしている少女に軽く微笑むと、聖亜はすたすたと何気ない足取りで一番近い怪物に近づき、つい先日不良から奪った錆びたナイフでごく自然な動きでその首を跳ね飛ばした。そして次にこちらを振り向き、金切り声をあげようとした怪物の喉を抉り、その時になってようやく異変に気付いた二匹の怪物のうち、一体の怪物の脳天にナイフを突き刺し、もう一体が突き出した爪をひらりと避け、その頭を思い切り蹴り飛ばすと、怪物の頭からナイフを抜き取り、小百合を背後から襲おうとしていた最後の怪物の眉間めがけて投げつけた。





 時間にして七秒。それが、彼が歩き始めてから最後の怪物が倒れるまでに要した時間であった。



「・・・・・・すごい」

 自分の背後に怪物という名の死が迫っていたことにも気づかず、小百合はただ呆然と聖亜のどこか踊りにも似た戦いを、半ば呆然としてみていた。しかし、相手に死をもたらす舞踊を踊った当の本人は、納得がいかないのかしきりに手を開いたり閉じたりしていた。

「どうしたの?」
「いや、ちょっと手応えが・・・・・・」
 
 聖亜が首を傾げているのは、三匹目の怪物に突き刺したナイフがすんなりと相手の頭蓋を突き抜け、脳まで刺さったことだった。あまりに深く刺さり過ぎたナイフを抜くのに一瞬手間取り、四匹目をナイフで倒すはずが、蹴りで倒したのである。
「何というか、赤ん坊の骨を砕いた感触に似てるな」
「あ、あるの? 赤ちゃんを殺したこと」
「ん? ああ、違う違う。俺の育った街の一番地下には、水が溜まるところがあってさ、そこにいろいろ流れ着くんだよ・・・・・・そう、本当にいろいろ」
 不意に、聖亜は目を細めて空を仰いだ。彼が幼少のころ住んでいた太刀浪市の復興街は、他の街同様地下を蒸気パイプが走っており、そのさらに下に排水が溜まる下水がある。下水につながるマンホールは地上にいくつかあり、ごみ収集車といった高級なものがなかったあの町では、そのマンホールをゴミ箱代わりにいろいろなものが捨てられた。雑貨から腐敗した食べ物、それこそ、育てられなくなったか、それともそもそも育てる気がなくて生んだのか、小さな赤子まで。

 聖亜が所属していたところでは、下水に引っかかったそれらを回収するのも仕事の一つだったが、その中で最も忌避されたのが死んだ赤子の回収だった。放置しておくと、復興街に巣食う化物(けもの)の餌となり、彼らの数を増やしてしまう。ただ浮かんでいるものは持ち上げればいいだけだが、パイプの隙間に引っかかって取れない死体は、その部分を切る必要があった。聖亜が赤子の骨の強度を知っているのは、かつてそういった死体を回収したことがあったからである。

「いろいろ?」
「・・・・・・や、何でもない。もう過ぎたことだ。それより早く旗の所まで移動するぞ。こいつらは別に強くもなんともないが、いちいち相手をするのも面倒くさいからな」





 聖亜が悪態をつきながら移動を始めたちょうどそのころ、出雲大社の中にある自室で、黒塚神楽はにこにこと笑みを浮かべながら大きな水晶玉を覗きこんでいた。


『かっかっか、今年も沢山の“肉”と“子袋”をいただき、誠にありがとうございます。神楽様』
「あら、いいのよ、お礼なんて」


 神楽の覗き込んでいる水晶玉の中には、先程聖亜が片づけた怪物の姿があった。ただし彼が瞬殺した怪物と違い、肌の色は銀色で一回りほど体格がよく、二倍以上伸びた歯と爪を持っている。水晶の中に作られた隔離空間、その大部分を占める森と山に巣食う小鬼族の一種である屍喰らい、その長である彼は、長い牙をカチカチと鳴らしながら笑っていた。

「私があなた達に望むのはただ一つ、例年通り“あれ”を監視してくれればいいの。そうしていれば、いくらでも餌を送ってあげるわ」


『何とも寛大なお言葉。分かりました。しっかりと見張っておきましょう。それと同時に、いつも通り餌の何匹かはわざと逃がしますので。ですが神楽様、“あの場所”に生きてたどり着ける者がいるとは考えられません。それに、我が一族も増えました。もしやすると、餌を全て食い殺してしまう、ということも考えられますな』

「そう。なら賭けをしましょうか」

『賭け、でございますか?』

「ええ。私のお気に入りの子が、あなた達から無事逃げおおせれば私の勝ち。逃げられなかったらあなた方の勝ち。どう、簡単でしょ? 私が勝っても何もいらないけれど、あなた達が勝ったらもっと広い土地を用意してあげるわ。それこそ、一年中餌に困らないところをね」


 その提案に、怪物の長はその小さな脳みそをフル回転させて考え込んだ。神楽は別に優しさや憐みから自分達を飼っているわけではない。“あれ”を隠すための番犬として飼っているにすぎないというのは、とうに分かっていた。しかし、同族の腐肉すら喰らうため忌み嫌われ、四界に居場所を無くした自分達も随分と数が増えてきた。このままいけば、遠からず神楽から与えられる餌だけでは足りなくなり、最悪の場合共食いをしなければならなくなる。その時、真っ先に食われるのはそのような事態にした自分だ。それだけは何としても避けたい。それに、別に負けてもペナルティは無いのだ。


『分かりました。その賭けをお受けいたしましょう。それで、神楽様。そのお気に入りとは一体?』


「ええ、私のお気に入りの子はね」


 その名を口にし、神楽は心底嬉しそうな笑みを浮かべた。










「星聖亜っていうのよ」























「ああもうっ、切りがねぇ!!」

 左から噛みついてくる一体を蹴り飛ばし、右から爪を伸ばしてきた二体の手をナイフで切り飛ばしながら、聖亜は草や低木で走りにくい道を必死に走っていた。途中、いくつもの死体が転がっていたが、そんなものに構っては居られなかった。

「あの、ご、ごめんね、僕が足挫いちゃったせいで」
「あ? ああ、別にそれは良いよ。さすがにこの状況だと担いでいった方が早いからな」

 自分の背におぶさり謝ってくる小百合を心配させないようにそう言って、聖亜は自分が走っている原因を振り返って眺めた。

 それ、正確に言うとそれらは数十体、いや、軽く百体は越えているだろう怪物の群れだった。最初は数匹単位で襲いかかってきた怪物たちが、あっという間に数が膨れ上がり、今では地響きを上げながらこちらを追いかけてくる。彼らから逃げるという意味では、数が多くなる前に転んで足を挫いた小百合をおぶさって移動したのは好都合と言えた。


「くそっ、腕が使えれば簡単だっていうのに」
「腕?」
「あ、ああいや、なんでもない」


 小さな両手で必死に背中にしがみついている小百合が少年の言葉に首を傾げる。それに対し、聖亜はごまかすように首を振り、追いついてきた怪物の腹を蹴り飛ばした。彼が言っている腕とは太刀浪市で使っていた、炎の偽剣という名を付けた、真紅の御手という武装に変化する左腕の事である。だが、その強力すぎる威力は自らの身体も燃やす。そのため使用するには、火力を制御してくれる炎也の協力が不可欠であったが、前回スヴェンと戦った時にダメージを受け過ぎたのか、自分の別人格である彼は眠りから覚めることはない。むろん炎也が居なくても使えるが、自分の身体を燃やすという大博打をするほどまだ切羽詰ってはいなかった。


「とにかくこのまま突っ走って、さっさと旗の所に行くぞ。早く帰って泥を洗い流したい」


 そう小百合に言って、背後から襲いかかってきた怪物の頭にナイフを叩きつけた時だった。

「げっ、やば」

 もともと錆びていた所に無理をさせ過ぎたのか、バキリと嫌な音を立ててナイフは根元から折れた。動揺からか、一瞬足が止まる。その隙を逃がさず、怪物たちが一斉に飛びかかってきた。

「ひっ!!」
「くそ・・・・・・たれっ!!」

 もう迷っている暇はない。背中にしがみつく小百合を庇うように振り向き、左腕に力を込める。そして、レバンテインを発動しようとしたその時、


 目の前に迫ってきた怪物たちが、瞬時にバラバラになった。



「こっちです」
「は? うおっ!?」


 目の前に迫ってきた怪物が、一瞬でバラバラになったことにあっけに取られた聖亜は、ぐいっと強い力で左の草むらの中に引きずり込まれた。そのすぐ脇を、追っていた自分達を見失ったことにも気付いていない怪物の群れがばたばたと走り過ぎていく。


 やがて最後の一匹が走り去った後、数分おいてから、自分と小百合を草むらの中に引きこんだ少年はため息を吐いて立ち上がった。

「大丈夫ですか?」
「ああ。すまない、助かった」

 少年―北条優の差し出した手を取って立ち上がると、聖亜は急に動いたため着いていけず、自分の背中で目を回している小百合をそっと降ろしてやった。
「しかし、随分えげつない武器を持っているじゃないか」
「え? ああ、これですか」
 聖亜の視線を受け、優は両手に持っている、巨大なグルガナイフを持ち上げて見せた。彼は使いづらそうなその巨大な刃物を使って、一瞬のうちに怪物たちをバラバラにしたのだ。
「ま、昔取った何とやら、というやつです。お嬢様を守るためには、こういうやつも必要ですからね」
「ふぅん、そういや肝心の“お嬢様”ってのは、どこにいるんだ?」
「ああ、安全なところに隠していますよ。ちょっと休憩しましょう。こっちです」
「ああ、そうだな。こいつも介抱してやりたいし」

 やっぱり元々は裏の人間か。そう思いながら、聖亜は小百合を抱き上げ、優の後へと続いていった。



 優が案内したのは、先程の場所から十分ほど歩いたところにある、茨が生い茂った場所だった。なるほど、確かにここなら怪物が寄ってくることもほとんどない。小さな隙間を身を屈めながら進むと、ほぼ中央、ぽっかりと空いたところに優の上着を毛布代わりに、彼のお嬢様である柿崎緑が横たわっているのが見えた。最初は傷を負って横たわっているのかと思ったが、耳を澄ますとすぴ、すぴー、と寝息が聞こえる。どうやらただ眠っているだけのようだ。

「しかし、のんきな奴だな」
「いえ、これはその、怪物を見たお嬢様が気絶なさいましたので、起きる前にさっさと終わらせようと考えまして、眠り薬を使わせていただきました」
「・・・・・・あっそ。それで? これからどうする?」

「難しいですね。相手の数が多すぎますし、このまま夜まで待ってから移動する事を考えていたんですが、残念ながら相手が夜行性である可能性もありますし、第一この空間は夜が来るのも分かりません。正直に言って、聖亜さんたちが来るまで手詰まりでした」
「分かった。なら協力して山頂にある旗の所まで行こう。それでいいか?」
「ええ。それではまず、分かっている情報を整理してみましょうか」

 どうやら、優の方も怪物を観察していたらしく、視力が著しく弱い事、言葉は話せずカチカチと牙を鳴らすことが伝達能力になっていること、攻撃方法は牙か爪である事、常に複数で行動していることなどを話し合った。そして
「今まで男性の遺体しか見ていないのです。確か今回の試験には、お嬢様とそちらの方を含めて女性は全部で二十名おりましたよね」
今回の試験では、小百合の姿は最初から醜い男ではなく名前の通り可憐な少女のそれだ。が、優の方は別に気にしていないようだ。
「どうせ子供でも生ませるつもりでさらったんだろう、どうでもいいことだ」
「ふむ、助けに行こうとは考えないのですか?」
「なぜだ? 命の危険があるって最初に説明があったんだ。こうなることは覚悟していただろう? それに知らない連中を助けてこいつを危険にさらすより、見捨ててさっさと行く方がよっぽど理にかなっている」
「それもそうですね。僕としても見ず知らずの人を助けに行ってお嬢様を危険にさらすことはできません。さっさと脱出することにしましょう」

 そうだな、そう呟くと聖亜は小百合のさらさらと流れるような茶髪を撫ぜ始めた。それは三十分後、小百合が目覚めるまで続いたのだった。


 山に近い森の中、三匹の小柄な怪物は、自分達に向かってガチガチと歯を激しく鳴らしている一回り大きな怪物の前で萎縮したように縮こまっていた。彼らは斥候で、餌が必ず通るであろう山道周辺の見張りを任されていた。しかしほかの餌は十分に狩ることはできたが、肝心の標的は、全く発見することが出来なかった。

 業を煮やしたのか、リーダー格は目の前に縮こまっている怪物の頭をむんずと掴むと、ぎりぎりと力を込めて握り続け、遂には握りつぶした。早く見つけないとお前らもこうなるぞという脅しである。恐れをなした二匹の怪物が去っていくのを満足げに見届け、巣に帰ろうとしたまさにその時、怪物の意識は永遠の闇に沈みこんだ。

「よっと・・・・・・大体こんなもんだな」

 細い木の枝の先端に怪物の爪を括り付けた、即席の槍で大型の怪物の頭部を貫き即死させた聖亜は、怪物の血でどす黒く染まった爪を近くの木にこすり付けて汚れを落とした。


「一撃で即死させるとは・・・・・・なかなかやりますね」
「一瞬で怪物二匹バラバラにしたそっちに言われたくはないね。おっと、小百合、もういいぞ」
「そんな大声で呼ばなくても、聞こえてるよ」
 聖亜が後ろの茂みに声をかけると、その中からいまだ気楽そうに眠りこけている柿崎に肩を貸している小百合の姿が出てきた。
「やっぱり僕も戦った方がいいんじゃないのかな、足も治ったし」
「そんな事はありませんよ。あなたがお嬢様を守ってくださっているから、僕たちは怪物の相手に専念できるのです。この試験が終わったら、お嬢様と友達になってくだされば助かります」
「え? け、けど・・・・・・僕なんかが友達になっても、うれしくないと思うよ?」
「そんなことはありませんよ。お嬢様はあれでかなり人見知りする方ですから。ですのであなたの様な方が友達になってくださると、僕としても安心なんです」
「そ・・・・・・そう? じゃ、じゃあ試験が終わったら、ちょっと話してみよっかな」
 小百合が小さい花のような笑みを浮かべる。それを見て、聖亜はふと、自分が小さな嫉妬を抱いていることに気付いた。
「・・・・・・さ、そろそろ出発しようぜ。ここから先は山道だ。隠れる場所は少ない。気を引き締めていくぞ」
 胸の中に抱いたその感情を振り払うように、少し早口で言いながら、聖亜は真っ先に歩き始めた。


 四人(一名はぐっすりと眠っている)が足を踏み入れた山道は、思ったより急な斜面ではなかったが、それでも草一本生えていない岩だらけの道は歩きづらいことこの上なく、さらに道幅もそれほど広いとは言えなかった。

「こういうところでは襲われたくありませんね」
「そうだな、道幅が狭く、岩だらけで走りづらい。加えて」
 いったん言葉を切って、聖亜はちらりと隣を見た。山道の横は、底が見えないほど深い崖となっている。落ちれば間違いなく命はないだろう。

「とりあえず、いつ襲われてもいいように準備だけはしておくぞ。悪い予感ってのは、結構当たりやすいからな」
 
 だが、その予想に反して彼らが怪物に襲われることはなかった。理由はすぐに分かった。山の中腹に差し掛かった時、先頭を歩いていた優がさっと右手を挙げたので、聖亜は小百合の肩を掴むとさっと岩陰に隠れた。

「いたか?」
「ええ。どうやらこの先で、誰かを襲っているらしいです。少なくとも数十匹はいますね」
「・・・・・・分かった。少し偵察してくる。悪いけどちょっと隠れていてくれ。あと、三十分して戻らなかったら死んだと思って、先に行っててくれ」

 何か言いたげな優であったが、最後には微かに頷いた。それに返答するように一度頷くと、聖亜は岩壁の適当な所に足をかけながら、するすると登って行った。







「・・・・・・なるほど、あれは確かに目立つな」









 
 それから五分ほど経っただろうか、岩壁の上、少し平らになっている所に足をかけ、背中をぴたりと壁に着けながら、聖亜はそっと下の様子をうかがっていた。
 怪物たちに襲われているのは二人の男だった。一人は大男で、その丸太の様な腕や背中に何匹もの怪物が取りついており、体中血だらけになっている。もう一人は卑怯にもその大男を盾にし、札の様なものを投げつけて怪物を攻撃していた。


「しかしどうするかな、迂回できなくもないし、奴らがおとりになってくれるなら、それはそれで好都合だが」
 

 二人のうち、一人が先ほどトンネルに入る際、大げさに演説してくれた森谷とかいうキザ男であるのに気付き、すでに彼らを助けるという考えは聖亜の中にはなかった。この時点で彼の中にあるのはただ一つ、彼らが襲われている間、どうやって迂回しながら進むか、だけであった。しかし、



「助けに行こうよ」



 聖亜が戻って状況を説明した後、最初に発した小百合の言葉がそれだった。

「え? あの小百合さん、状況を分かってらっしゃいますか? 狭い山道で、数十匹が相手なのですよ? それに、助ける相手というのが」
「つい先日お前に暴行を働いていた奴等の主犯格だ。わざわざ危険を冒してまで助けに行くような相手か? それより、奴らをおとりに使うというのがこの場合最も楽なやり方だ。それでも助けたいか?」

「うん、助けたい」

 聖亜の問いに、小百合は迷うことなく頷いた。

「僕は何も知らない世間知らずで、常識とか、一番いいやり方とかそんなのも分からない。けどね、ここで困ってる人を見捨てたら、僕はきっと、この子に友達になってなんて言えないと思うんだ。だから助けたい・・・・・・甘い考えかな?」

 甘いどころではなく、はっきり言って甘すぎ、とても社会では通用しない考えだろう。けれど、彼女のそういったところが、途轍もない美点であるということを、聖亜は知っていた。


「・・・・・・優、お嬢ちゃんとこの甘ちゃんを守りながら、旗の所まで行けるか?」
「正直厳しいです。彼らを襲っているのが、怪物のすべてだとも思えませんし。お嬢様一人なら、ナイフを使って彼らを切り抜けることは可能ですが、二人となると・・・・・・」
「分かった。おい、甘ったれの御姫様、お前にも危険な目にあってもらうぞ? あいつら助けて、胸を張ってこのお嬢ちゃんに友達になろうって言いたいんだろう? せいぜい頑張れ」
「う、うん。僕、頑張るよ!!」


 小さな手をぐっと握りしめる少女を見て大きくため息を吐くと、聖亜は携行している武器を確かめた。牙を木の棒に括り付けた槍が一振り、そして投げつける牽制用の爪が幾つか。充分な装備とは言えなかったが、それでもやるしかない。


「てなわけで、俺達が助けに行くから、一足先に旗の所に向かってくれ」
「・・・・・・いいのですか?」

「ま、最悪死なない程度に頑張るよ。そっちも気を付けてな、大部分をこっちが引き付けるといっても、相手がどれほどいるかわからないんだ」

「そちらも気を付けてください。怪物よりも、むしろ森谷という男の方に。奴は恐らく真正のクズです」
「分かってる。喚くようなら、引きずって連れてくさ」



 優の気遣いに聖亜は頷いて見せたが、彼は忘れていた。真正のクズが、どれほど愚かなのかを。






「くそ、くそ、くそっ!! おい、何やってんだよこのうすのろが!!」


 谷に落ちるぎりぎりのところまで追いつめられた森谷は、罵りながら盾にしている大男を蹴り続けていた。
 彼の中には、大男に盾になってもらっているとか、彼を助けるとかいう考えは全くない。彼の頭にあるもの、それは如何にして他者を陥れ、己が勝つか、ただそれだけであった。


 この試験においても、彼はその残虐さをいかんなく発揮した。自分の方に怪物が向かっている時は、他の受験者が隠れている方に石を投げておとりにし、あるいは一緒に隠れているときに相手を背後から蹴落としておとりにし、数十人が襲われている間、ただ一人逃げ出して先に進んだ。大男を連れているのは彼の優しさからではない。最後に盾にするためだ。

 そうやって何とか山にまで来たのに、いつのまにか数十匹は居る怪物に囲まれてしまった。最初は後ろから追いかけられていたので、大男を盾にして逃げようとしたが、すぐに前からも怪物の群れがやってきて、こうやって追いつめられている。


「おい、おいって! どうせそこらで試験官が見てるんだろ? 本当に危なくなったら助けてくれるんだろう? なあ、なあって!!」


 トンネルに入る前は威勢のいいことを言っていても、今まで一度も死ぬほどの危険に遭遇したことのない彼にとって、死とはどこか遠い存在だった。もちろん彼も戦うことはできる。だが彼の戦い方は術が込められた札をただ投げるというやり方であり、その札ももうなくなってしまった。切り札はあるが、あれは、無断で持ち出した家宝であり、こんな所で使っていい物ではなかった。


 
「ひっ!!」



 そして、遂に一匹の怪物が、盾となっている大男の脇を抜け、森谷へと向かってきた。その口いっぱいに生えた鋭い牙を見て、森谷が頭を抱えてしゃがみこんだ、その時である。

 今まさに森谷を食い殺そうとしていた怪物の頭に、こつんと何かが当たった。

「お・・・・・・お~い、こっちだよ!!」
 その衝撃は小さい物だったが、怪物の注意を引くことは成功したらしい。怪物が周囲を見渡すと、下り坂の隅に、小さい少女の姿があった。あれは確か、決して逃がしてはけない標的が連れていた女だ。ということは、標的も近くにいるのだろう。

 ガチガチガチガチッと、周囲に歯を鳴らす音が一斉に響き渡り、怪物のほとんどが少女に襲いかかる。狭い山道のため、何匹かは崖に落下していくが、そんなもの、他の怪物は気にも留めなかった。彼らの小さい脳みそにあったのはただ一つ、標的を殺さなければ自分達が殺されてしまう。ただそれだけであり、女の所まであと数歩と迫ったところで、落下してきた大岩に潰されて死ぬその瞬間まで、彼らはその事しか考えてはいなかった。巨大な岩に押しつぶされ、先頭の十数匹は即死し、そのすぐ後ろの怪物たちも手か足、顔にひどい傷を負ってもがいている。さらに大岩の直撃を避けた怪物もすぐに速度を緩められるようなものではなく、無傷で残ったほとんどの怪物も岩に衝突し、そのまま谷底まで落ちていった。



「・・・・・・ま、ざっとこんなもんか」



 下の様子を見て、聖亜は満足そうに頷いた。彼がやったのは簡単である。すなわち小百合をおとりにして、彼女に怪物が殺到するのに合わせ、岩を落としただけだ。常在戦場を意識し、周りにあるものを何でも使え、それが、彼が幼少のころ師匠から最初に教えられたことであった。

 岩壁の多少飛び出している部分を足場に、タンッ、タンッ、と軽やかに山道まで下りていきながら、聖亜は腰に差し、ナイフ代わりに使用している怪物の爪を取り出した。木の棒に牙を括り付けた簡素な槍は、大岩を落とす際のテコとして使ったのでもうない。しかし、半死半生になってもがいている怪物の相手など、持ちづらい即席のナイフでも十分だった。

 聖亜が山道に降り立つと同時に、死の暴風が周囲を包み込んだ。怪物たちは彼の姿を見る事ことなく皆一瞬のうちに絶命していく。苦痛を長引かせない戦い方は、彼なりの優しさなのであろうか。


「よし、これであと残っているのは、あっちにいる奴だけだな」


 最後に残った怪物の頭に爪を叩きこむと、聖亜は森谷たちの方を見た。あちらにいる怪物のほとんどがこっちに向かってきたため、残っているのは大男にまとわりついている十数匹ほどしかいない。


「小百合、あっちの怪物を片付けてくるから、ちょっと待ってろ」
「え? えっと、僕も一緒に行くよ。僕が言い出したことだから、最後までちゃんとやりたいんだ」
「・・・・・・そうだな、分かった」


 少女を独りで残したら、もしかしたら生き残った怪物に襲われるかもしれない。それよりは一緒にいたほうがいいだろう。そう考えた聖亜は、一度大岩に乗り、小百合を引き上げ、抱きついてくる小百合を抱えたまままた飛び降りた。

「ねえ、優さんたちはちゃんと旗の所まで行けたかな?」
「・・・・・・ま、こっちがこれほど大騒ぎしてるんだ。残ってる怪物もあいつらじゃなくてこっちの方に来るだろう。今頃は旗の所に着いてるさ」
「うん、そうだよね。それじゃあ、早くあの人たちを助けてあげよう!!」

 優たちが無事に逃げられたのが嬉しいのか、小百合はギュッと手を握りしめ、大男の方に小走りに駆けていく。苦笑して少女を追いかける聖亜の視界の隅に、岩壁の隅でガタガタと震えている森谷の姿が見えた。さっさと逃げるか、それとも大男を助けるかすればいいのに、何もせずただ隅で震えている。だが、邪魔されるよりは正直言ってそっちの方がましだ。

 だが、聖亜が考えている以上に森谷は追い詰められていたようだ。自分に向かってきた怪物の口にびっしりと生えていた牙を見た瞬間、彼の中で何かが切れてしまったらしい。

「ひ・・・・・・ひゃは、ひゃはははははっ!!」

 彼は上着をめくると裏に縫い付けていた札をむしり取り、前方の地面に投げ飛ばした。地面に触れた札はどぷんと沈み、やがて地中から平安時代の検非違使のような格好をした式神が現れた。

 そんなのがあるなら、最初から使えよ。そう思いながら、聖亜は大男に噛みついている怪物を一匹ずつ殺してはがしていく。だが、目を離したのがいけなかったようだ。

「ひゃ、ひゃはは、やれ、義嗣(よしつぐ)!!」

 義嗣と呼ばれた式神が向かってくる。だが、それが攻撃をしたのは怪物ではなかった。聖亜や小百合でもなかった。式神が攻撃したのは、大男の立っている地面だった。

「まずい・・・・・・こっちだ、小百合!!」

「え?」

 地面が崩れ、大男がぐらりと倒れこむ。聖亜は慌てて小百合を呼んだが、それは遅すぎた。

 大男が倒れてくるのを見て、慌てて避けた少女の足元が崩れる。それを見て、聖亜は崩れる地面と一緒に、今まさに落ちようとしている小百合へと駆け寄り、彼女の小さな体をぎゅっと抱きしめた。

「きゃっ!?」

「悪い、ちょっとだけ、目を閉じてろ」

怪物と共に大男が落下していく。そのすぐ横で、聖亜は落下しながらなんとか岩壁に点在するでっぱりに足を乗せて減速していったが、何度目かに足をかけた岩が突然崩れた。唇を血が出るほど強く噛むと、少年は少女の身体を強く抱きしめ、その背中を岩壁へと押し付けた。ずざざっという音と共に、落ちていく速度が低下する。だが、同時に彼の背中を途轍もない痛みが走った。当然だろう、背中が尖った岩などで抉れているのだ。










 激痛で意識が薄れる中、聖亜は久しぶりに死を覚悟した。








































 昼食を知らせる鐘が、帝都一杯に響き渡る。

 黒界は今日も快晴だ。といっても、笑う月が沈むことのないこの世界では、厳密に言えば昼というのは存在しない。この世界に光をもたらしているのは、帝都中央にある城の、その最上階で光り輝く巨大なクリスタルだ。輝き始めて朝が始まり、一番強く光る時に昼となり、段々弱まって夜となる。クリスタルは世界が始まる前より存在すると言われており、現在黒界だけでなく四界すべてを照らしている。その神々しさは、クリスタルを神体とする宗教が出来上がるほどだ。
 

 クリスタルがある城の一角でお茶を楽しんでいた青年と女性の逢瀬は、扉をノックされたことで終わりを告げた。女性が何か言うと、右頬に鱗をはやした一人の女官が入ってきた。先々帝の時に実施された各種族の混血は実を結び、今は種族の違いにより差別されるということはほとんどなくなった。無論中には混血を拒否する者もおり、彼らは自分達を純血と称して、混血の者たちに対しての迫害を行っていたが、それも現在、少しずつだが改善されつつある。
 その女官は青年とも顔見知りなのか、軽く挨拶すると女性に何事か囁いた。女性はむっと頬を膨らませたが、やがてあきらめたのか、青年に一言二言何かを言って、頬に軽く接吻をしてから部屋を出ていく。一人残された青年は、お茶を飲み干すと、窓から見える平和な世界を眺め、にっこりと微笑んだ。



「な~に笑ってるんです? ダーリン」



 不意に、青年に誰かが後ろから抱きついた。彼が笑みを浮かべて振り向くと、そこには黒いショートヘアの可愛らしい少女が立っている。何か言おうと口を開いた青年の身体は、だが次の瞬間、びくりと震えた。


 なぜなら、少女の瞳は、真っ暗で何の光も灯していなかったから。


「あら~? あらあら~? 私の目を見てダーリンが怖がるなんて今までなかったことですよ? 一体どうしちゃったんです? いえ、そもそもあなたって、本当に私の知っているダーリンなんですかねぇ? どうです? あなたが一番好きな人の名前が言えますか? 黙示録の四姉妹、そのすべての名前が言えますか? そして何より、私の名前が言えますか?」

 ふと、部屋の中が暗くなっていく。青年は震えながら後ずさったが、やがて静かに一人の少女の名前を呟いた。準、と。それを聞き、目の暗い少女はにっと微笑んだ。光が全くないと思っていた瞳の奥に、ちらちらと何かが見える。それは、怒りという名の炎だ。





「ああ、なるほどぉ、分かっちゃいました。ねえあなた、さっさと自分の居場所に帰ってくれませんかねぇ? だってあなたはまだ世界に裏切られてないでしょう? だってあなたはまだ、その身体を焼き焦がす絶望を味わってないでしょう? そのどちらも味わっていない人が、ここに居ていい権利なんてないんですよ。だからさっさとダーリンの中から、そしてこの世界から出て行ってくれませんかねぇ、星聖亜さん!!」









「・・・・・・え、ねえ、起きてってば!!」




「う・・・・・・あ?」

 誰かが体を揺すっている。そのわずかな揺れと、そして背中を走る想像を絶する激痛に、聖亜はふと我に返った。真っ暗な世界の中、目の前に涙目になっている小百合がいる。



「・・・・・・さゆ、り?」
「あ、やっと起きた。いっぱい血を流しるし、僕、もう君が、し、死んじゃったかと、思っ、ひく、う、うぇええっ!!」


 泣きじゃくる小百合が抱き着いてくる。背中の激痛に耐えながら、聖亜は少女の背中を優しく撫ぜてやった。


「悪い。少しの間死んでた」
「もう、言っていい冗談と悪い冗談があるよ。なにさ、ちょっとの間死んでたって」
「ああ、そうだな。その通りだ。本当は、ちょっと夢を見ていただけなんだ。そう、それだけ」

 
 そう、あれは夢だ。あの温かく、そして優しい人達しかいない世界が、本当にあるはずがない。


 自分にそう言い聞かせると、聖亜は痛む背中を無視し、足に力を入れて立ち上がりかけ、次の瞬間、がくりとひざを折った。どうやら奇跡的に助かったのは良いが、身体中傷だらけらしい。ふと手のひらを見ると、どこで切れたのか、こちらも血で真っ赤に染まっている。

「大丈夫!?」
「・・・・・・いや、悪い。何かあんまり大丈夫じゃない。悪いけど、ちょっと肩を貸してくれないか?」
「う、うん。さ、掴まって!!」
 少女の方に寄り掛かるように立ち上がり、聖亜は辺りを見渡した。日が差さないこの場所は薄暗く、所々苔の様なものが生えている。どうやら、谷底の一番深いところまで落ちてきたようだ。ふと横を見ると、すぐ近くに大男と、それに噛みついて一緒に落ちていった怪物の死体が転がっていた。
「とり、あえず、登れる道を、探すぞ。ここに、いつまでもいたら、怪物たちが、やって、来るだろうから、な」
「う、うん。でも無理しちゃだめだよ、本当に大怪我なんだから」
 心配そうに見上げてくる少女に無理やり笑みを浮かべてやると、聖亜はゆっくりと歩き出した。





「わ、悪い、ちょっと、止まってくれ」
「あ、ご、ごめん、ちょっとだけ休憩しよっか」

 体全体を走る激痛に、聖亜は小百合に声をかけた。自分の体を支えながら歩く彼女も汗だくで、二人は五分ほど歩いて休憩を取るという、牛歩よりなお遅いスピードで、上に続く道を探して歩き続けていた。

「ちょっと待ってて、今水を持ってくるから」
「・・・・・・ああ、あまり、遠くへは、行くなよ」

 小百合はもう薄着を着ているだけだ。上着は所々にたまっている水に浸す布として使い、身体も泥でかなり薄汚れてしまっている。自分が泥だらけになっていることなど、彼女は気にも留めないでいた。休憩するたび、倒れる聖亜のために、少女は上着に水を含ませて持ってくる。それで唇を湿らせ、再び進んでいたのだが、それもどうやら限界が近いようだ。
 傷を負ったところが高熱を発し、他の部分は震えるほどに体温が低下している。休憩を終え、岩壁に手をついて立ち上がりかけた聖亜は、ずるっと滑りながら倒れた。

「あ、ねえ、駄目だよ、起きてよぅ!!」

「あ・・・・・・悪い、もう、かなり、限界で」

 涙目になった小百合が体を揺すっている。それをだんだん暗くなっていく視界に捕えたまま、聖亜は最後にふっと笑みを浮かべた。



「・・・・・・・・・・・・るい、じ・・・・・・ん」



 その時、彼の命が尽きようとするまさにその時、ガコンと音を立て、聖亜が体を預けている岩壁が、横へいきなり“スライド”した。




「・・・・・・あ?」

 
 体を襲った衝撃に、聖亜はぼんやりと目を開けた。見るとさっきまであった岩壁がなくなっている。苔がびっしりと生えた洞窟の、その一番奥に何かが座っているのが見えた。

「えっと、ねえ、あれ何かな?」

 小百合がその何かを指さして呟く。小百合を守るように、体力など全くない体でふらふらと立ち上がると、聖亜は洞窟の中にゆっくりと歩いて行った。





 それは、全長五メートルを超す、巨大な黒い鎧兜だった。血で染まった手のひらを当ててみるとひんやりと冷たい。恐らく鉄でできているのだろう。形としては、家にある図鑑に載っていた大鎧が一番近いだろうか。苔むし、錆びまで浮いているが、所々にある傷跡が、これが決して美術品や芸術品の類などではなく、実際に使用されていたものだということを明確に物語っていた。

 俺達も、もし出られなければこうやって朽ちていくのかな。

 絶望的な状況だというのに、おかしくてつい笑ってしまう。そして、危険はないと小百合の方に向いた時、


バカンッ!!


「は?」


 錆が浮いた鎧の前が何の前触れもなく開き、そこから無数の触手が少年に伸びてきた。

「え、ねえ、何が起きて、え?」


「馬鹿、来るな!!」

 力が入らない身体で、必死に触手から逃れようとする。だが彼はあっけなく掴まり、鎧の中へと引きずり込まれた。彼を取り込んだ鎧は、先程同様、バタンと音を立てて閉じた。


 




 鎧の中は、不思議と温かかった。ぐにゅぐにゅとした感触はあまり好きではないが、傷を負った部分の痛みがなくなっていく。





―生体認証開始―


 その時、ふと何処からか機械的な男の声がした。


―生体認証 三十パーセント終了、血液判定により、黒塚家の人間と判明―


―生体認証 五十パーセント終了、血液判定により、最先任操縦者である黒塚奈妓の生体認証に類似していることが判明、彼の縁者と予測 搭乗者として登録―


―生体認証 八十パーセント終了、重傷箇所多数確認、治療プログラム発動―


―生体認証 百パーセント終了、上方に敵性存在を多数感知。応急処置完了後、隔離空間の出口に向け移動開始、脱出後、最先任操縦者である黒塚奈妓の所まで移動開始―


 不意に、目の前が明るくなった。と思ったら、こちらを心配そうに見つめる小百合の姿が映った。


―前方に生体反応あり、未成年の少女と判明。保護対象であるため救出後、共に隔離空間より脱出―

「へ? え? 何? なんな・・・・・・きゃっ!?」


 自分を取り込んだ鎧がいきなり立ち上がり、訳が分からないといった感じの小百合を掴む。だが傷つけないように扱うその態度に、小百合は段々警戒心を解いていった。

「えっと、君、なの?」

 ああ、そうだ。そう頷こうと思った自分の意思を読み取ってか、巨大な鉄の鎧は頭を上下に動かした。

「え? じゃあ、大丈夫なんだね、よかった~」

 ほっとした途端、力が抜けたのか、少女は鎧の巨大な手に寄り掛かった。それを確認すると、鎧―巨大な鉄の古武者はゆっくりと上を向いた。


―応急処置完了、搭乗者に操縦能力がないと予測、自動運転により脱出開始。上方に岩盤を確認、だがこの程度、全く問題なし―

 少女の体を傷つけないように、巨大な両手で少女の身体を完全に包み込むと、鉄の武者は一度大きくしゃがみ、次の瞬間、飛んだ。


 バキバキと音を立てて岩盤の中を突き進む。だが、聖亜に衝撃は全く伝わってこなかった。恐らくそれは、古武者の手の中で保護されている小百合も同じだろう。

 どれぐらい岩盤の中を飛んでいっただろうか、ふと、周りの景色が開けた。どうやら岩の中を抜けたらしい。


―下方に敵性存在を多数確認。武装がないため交戦は不利と判断 搭乗者、及び保護対象たる少女の身の安全を第一に考え、自動的に撤退を開始。この借りは返すぞ、怪物ども―


「なあ、あんたは一体誰なんだ?」


 機械的な声にも、どうやら感情というものがあったらしい。彼らに対して怒り、小百合を助けてくれるなら悪い奴ではないな、そう判断すると、彼は自分を中に取り込んだ鉄武者にそう尋ねた。


―搭乗者の問いに回答。兵器名 戦術級自動歩行兵器試作型壱号。通称“黒塚印の戦国無双”または“戦国無双”。製造年月日 千九百五十三年。製造者 黒塚鉄矢、最先任操縦者 黒塚奈妓。千九百五十三年七月 使用開始、千九百五十七年十一月 敵性存在と戦闘中に大破。最新の記録に欠損有、最後に戦闘を行っていた敵性存在不明、何故ここに眠っていたかも不明、不明、不明―


「わ、分かった。悪かったよ」


 悲鳴のように不明、不明と繰り返す鉄武者に謝ると、聖亜は下を見た。眼下には、大勢の怪物に追いかけられている森谷の姿が映ったが、別に助けようとは思わなかった。幸い、小百合も身体を鉄武者に抱きかかえられているため、下の様子を見ることはない。自業自得だ、そう思いながら、聖亜は段々と近づいてくるこの忌々しい空間の出口を眺め続けた。





「・・・・・・あらあらあらあら」


 鉄の武者が聖亜を取り込み、小百合を抱きかかえながら隔離空間から脱出していく様子を、水晶玉を覗いて見ていた神楽は、口の端をわずかに吊り上げるだけの笑みを浮かべた。

 これは相当怒ってるな。傍らに控える神楽の側近である八雷姉妹の一人、“黒雷”八雷黒曜はそう思ったが、無論、優秀な彼女は、その言葉を口に出すほど愚かではなかった。




「これは一体どういう事かしら?」

『は、どういう事かしら、と申されましても、はい、神楽様のお気に入りが脱出に成功したため、賭けはそちらの勝ちということに』

「あら~? 私はそんな事言っているのではないのよ? なぜ五十年以上も封じ込めていた厄介な“あれ”が起動して、しかもそこから抜け出しているのかしら?」

『は、いえ。まさか谷底まで落ちて、それでも生きているものがいるというのは、その、我々にとっても予想外でして』

「・・・・・・」

『予想外でして、そ、その、我々は悪くないと言いますか、はい』

「・・・・・・あらそう、素直に謝れば、まだかわいげがあったと思うけれど、もういいわ。分かりました。よく考えてみます。それでは、ごきげんよう」

『は? お、御待ちを、神楽様? 神楽様っ!!』


 交信を一方的に終了すると、神楽はう~んと可愛らしく首をひねっていたが、やがてにっこりと微笑んだ。

「そうね、良く考えたけど、やっぱりごみは処分してしまうのが一番いいわ。さ、行きなさい“佑姫(すけひめ)”」

 神楽の言葉に、彼女の影がごぽりと動いたかと思うと、何かが水晶玉の中へと入り込んだ。



 山の中にある怪物の巣は、いま大きな喧騒に包まれていた。長が落ち着けといっても、彼らは全く落ち着く様子がない。それどころか取っ組み合いのけんかまでしている。隅にいるのは、今回の狩りで得た戦利品の子袋だが、乱暴に扱われたそれは、見るも無残に引き裂かれている。

 その時、ふと隅の方で喧騒がやんだ。やっと落ち着いたか、そう思って長がそちらを眺めたが、どうやらそうではなかった。見ると隅の方にいた怪物が、皆絶望的な表情浮かべ絶命しているのが見えた。そして、それは段々と広がっていく。次々に仲間が死んでいき、それが広間の中間あたりまで来た時、遂に長は逃げることを決めた。
 仲間が次々に死んでいく中、長は必死に逃げる。だが、いきなり目の前に霧が現れたと思うと、長は絶望的な顔をしてこと切れた。そしてその時には、隔離空間に存在すべての生物が、捕えられている子袋という名の女も含め、全て絶命していた。

 否、全てではなかった。山道を必死に逃げていた森谷は、自分を追ってくる大勢の怪物がいきなり死んだのを見てさらにパニックになったのか、もはや口から泡を吹き出して逃げていた。そして、旗の所まであと一歩というところで、遂に彼は霧に追いつかれた。

「ひっ、よ、義嗣ぅ!!」

 森谷の声に応え、式神は彼の身体を持ち上げると旗の所まで投げ飛ばした。その時彼は見た。彼を含め、全ての者に絶望を与えるのにふさわしい、その顔を。



 式神が霧に包まれて崩れ去った時、森谷は無事、隔離空間から逃げ出すことに成功した。



その髪を、まるで老人のように真っ白にして。





「・・・・・・ん?」

「あ、起きた? 大丈夫?」

 
 聖亜は、自分がいつの間にかテントの中で寝かされているのに気付いた。朝ホテルを出る時持っていた荷物は、テントの隅に無造作に置かれている。そんな自分を小百合が心配そうにのぞきこんでいる。さらに北条と柿崎の姿も見えた。そして、遠くの方には見知らぬ白髪の少年の姿も見える。だが、ここに居るのはそれだけだった。トンネルに入る前は二百人いた受験者が、終わってみればたったの五人。ほとんどの人間が死んだことになる。

「そういえば、あいつは?」
「あいつって・・・・・・あの鎧の事? あれ、君を降ろした後、勝手にどっか飛んでっちゃったよ」
 そうか、そう呟くと、聖亜はきつく目を閉じた。あの時、自分を取り込んだあの鉄武者は確かにこういった。黒塚家の人間と判明、と。それはつまり、この出雲を支配するどこか狂った一族が、自分の親戚だということだ。


「え~!? じゃあ、これからまたあんな怪物とあう可能性があるってこと!?」
「あ、あのお嬢様、寝ている方もいらっしゃるのですから、お静かに」
「やだやだ、あたしもう受験するの止める、さっさと家に帰る!!」
「は、はあ。まあ、そもそも受験する私に着いてきたのはお嬢様のわがままですし、やめるとおっしゃられるのであればそれはそれで構いませんが・・・・・・痛っ」

 優の脛を思いっきり蹴り飛ばすと、柿崎は自分達の方を見ている小百合の視線に気づいたのか、振り向いて何か考え込むように下を向いていたが、やがて顔を上げ、少女に近づいて行った。
「えっと・・・・・・何?」

「あなた、名前は?」
「・・・・・・遠野小百合だけど」
「遠野小百合・・・・・・いい名前ね。ねえ、さゆりん」
「さ、さゆりん?」
「そ、可愛いでしょ。それでね、さゆりん。あの・・・・・・わ、私と友達になりなさい!!」
「へ? いや、その」
「いや? いやなの?」
「そ、そうじゃなくて、僕、今までずっと一人だったから、一緒にいても楽しくないと思うよ?」
「なにそれ、別に楽しみたいから友達になるわけじゃないわよ。私は、あなたと一緒にお話ししたり、買い物に行ったりしたいの・・・・・・な、なによ、泣くほどいやなの?」
「ち、違う、よ」

 自分でもわからないうちに、小百合はその小さな瞳から涙を流していた。ごしごしと擦っても、涙は絶え間なく溢れでる。少女は、泣きながらにっこりと笑った。



「うん、僕、君と友達になりたい。友達になってくれますか?」





 テントの中を、穏やかな空気が流れていた。

 聖亜は優と互いの戦い方について議論している。といっても時折笑い声が起こっているのを見ると、軽い調子で話しているのだろう。そして小百合は、友達になったばかりの柿崎緑と一緒に、笑いあいながら、随分と長い時間話し込んでいる。他一名、白髪となった森谷はテントの隅で、ただぶつぶつと呟いているだけだ。問題はない。


 と、穏やかな天気が流れていたテントの入り口が開き、先ほどトンネルを通る際に説明をしていた試験官が入ってきた。彼は聖亜達の様子を確認すると、そのまま静かに頷く。

「みなさん、どうやら体調は回復されたようですね。ここでお知らせがあります、今回の試験で、合格者が五名と少ないため、予定を急きょ変更し、試験を辞退された柿崎さんを除いた四名の方を仮合格といたします。では今から三十分後に立志院高等学校へのバスが来ますので、着替えなどがありましたらお早めにお願いいたします」

「・・・・・・おい、それだけか?」

「は? はあ、それだけですが」

「合格者が俺たち五名ということは、あそこにいた二百人のうち、百九十五人が死んだってことだ。それでも、あんたが言うのはそれだけなのか?」

「は? ああ、そうですね。お悔やみを申し上げます。ですが始まる前に、しっかり命の保証はしないと断っておきましたので、自己責任かと思いますが」




「・・・・・・もういい」
「そうですか? では、三十分後に迎えに上がりますので」

 あくまで事務的な態度を崩さず一礼すると、試験官はさっさとテントから出ていった。先ほどまであった穏やかな空気はもう流れていない。聖亜はふと目を閉じた。死んでいった、数多の少年少女達を悼むかのように。






 少年が死者を悼んでいる内も、時間は進んでいく。三十分後、時間通りに来たバスは聖亜達五人を乗せ、目的地である立志院高等学校へと移動を開始した。

 バスが進むにつれ、周りの景色が変わっていく。山道は舗装された道へと変わり、あたりには電信柱が立ち並ぶ。地下の蒸気パイプから水蒸気が地上へ吹き出し、あたり一面が霧のようになる。そんな見慣れたいつもの光景の中を、五人を乗せたバスは進んでいき、一時間ほど走っただろうか、バスは目的地である立志院高等学校の学生寮へと到着した。

「え~、それではですね。これからの予定を説明いたします。現在午後二時ちょうどです。午後六時より近くのホテルを貸し切っての合格パーティーを執り行います。それまでは自由時間ですので、あまり遠くに行かれないのであれば、高等学校の敷地内を歩いてみてもらっても構いません。ただ、安全のため校門から外に出ないようにお願いいたします。それと、部屋割りは二人一組になっております。星さんと遠野さんはペアですので、そのまま二人で一部屋をお使いください。あと、北条さん、森谷さんの二名は、パートナーが不合格のため、他の合格者が来るまでの間、おひとりで部屋を使っていただくことになります」

「ちょっとまて、他の合格者ってどういう事だ?」

 試験官の言葉に聞き捨てならない言葉を聞いた聖亜は彼に詰め寄った。

「はあ、合格者があまりにも少ないため、急きょ第一試験において不合格となった者から、ランダムで選んで合格といたします」
「おい、それってさっきの試験で死んだ奴らが、無駄死にってことじゃないか!!」
「はあ、と言われましても、何分上の決定ですので。それでは失礼いたします」

 静かに一礼して去っていく試験官を、唇を噛み締めながら眺めていた聖亜だったが、やがて溜息を吐くと、心配そうに見つめてくる小百合の下へと歩いて行った。


「ねぇ・・・・・・僕達って同じ部屋、なの?」
「ん? ああ。パートナーだからな」

 二人一組で使用する部屋は、壁際に縦にベッドやロッカー、蒸気ランプが備え付けられている他は、反対側に勉強机があるだけの簡素な部屋だった。まだむっとしている聖亜とは対照的に、小百合は同部屋という事に照れているのか、頬を僅かに染めてちらちらとこちらを見つめてくる。

「えっと、じゃあ僕、奥の方のベッド使うね」
「ん? ああ。俺はちょっと出かけてくるよ。五時までには戻るから」
「え? うん」

 軽く頷いた少女に笑いかけると、聖亜はひび割れた木刀を入れたバッグを担ぎ、そっと部屋を出ていった。




 太刀浪市から出雲に行く時、雷牙に教えられた鍛冶場は寮から少し歩いた坂道の上にあった。カンッ、カンッっという心地よい金槌の音と ジューッという熱い金属を水に浸す音が周囲に溢れかえっていた。


「で? これをどうして欲しいだって?」


 鍛冶場の親方である、眼帯をした四十代半ばの大柄な中年女は、熱い鉄を握るための、鉄で出来た手袋でひびの入った木刀を持ち、しげしげと眺めた。

「ああ、直してほしいんだ」

「あのな坊主、ここは鍛冶屋なんだよ? 分かるかい? 鉄を材料にしてるんだ。で、お前の持ってきたこれは木で出来てるだろ? お門違いさね」

 そういうと、女は丸い火傷の跡でまだらになっている手を振り、木刀を投げ捨てようとした。

「ふ~ん、つまりあんた、なんだかんだ言って出来ないんだな。分かったよ、もう頼まない。んじゃ、後直せるのは、これを作ったヘファトって奴だけか」

 その時、ぴたりと女の手が止まった。

「まて、今あんた何て言った? ヘファトって言ったかい?」
「ああ。けどあんたには関係ないだろ、直せないんだからな」
「坊主、あんたそれはこのあたしの腕が、あのくそ爺より劣っているってのかい!?」
「はあ? 直せないなら劣っているんだろうが。邪魔したな」
 
 さっさと帰ろうと、女の持っている木刀に手をかける。だが、女の握っている木刀は、ぴくりとも動かなかった。


「おい」
「・・・・・・あたしが、あの年食っただけのもうろく爺より劣るだって? 良いだろう、そこまで言うなら作ってやろうじゃないか。あのくそ野郎が作るものなんかより、よっぽど上等なものをさ!!」

 それからは大変だった。なぜか握力を調べるためと言われて重い物を持たされたり、上半身を裸にされて腕の長さを測られたり。

「あんた、本当に男かい?」
「あ? 見りゃわかるじゃねえかよ」

 呆れたように煙管を吹かす女に言われ、聖亜はむっとして言い返した。

「みりゃ分からねえから言ってんだよ。何だい、男のくせに女みたいな細い体しやがって。腕の太さなんかあたしの半分以下もないよ。ま、この木刀は重すぎて扱えないだろう。真ん中から叩き割るがいいかい?」
「別に愛着なんてないから好きなようにしてもらっていいけどさ。俺って、そんなに握力ないか?」
「女よりないね。っていうか、あんたって本当に女じゃないのかい? あんたの胸を見て、うちの男連中があそこおっ立ててるんだ。それでも男って言い張る気かい?」

 親方がじろりと辺りを見渡すと、周りで仕事をしている男たちのうち、二、三人がさっと顔を背ける。それを見て、聖亜は嫌悪感を顔に出した。


「ま、ここに居る奴ら、皆女日照りだからそんな気にしなさんな。とにかくあんたの腕で使える武器っていったら、せいぜい小太刀か軽い木槌ってところさね。ちゃんと扱える物作ってやるから、さっさと帰りな。合格者は六時からホテルで用事があるんだろ?」
「は? よく俺が合格者って分かったな」
「ま、この時期武器を作ってほしい奴が結構来るから忙しいのさ。あんたのような無理な注文をする奴は久しぶりに見るがね。とにかく、一両日中に作っといてやるから、少し待ってな」


 

 その日の夜、聖亜は小百合や優と共に、寮の管理人である五十歳ほどのおばさんに渡された小奇麗な服を着て、ホテルの会場にいた。部屋は電気ランプで光り輝き、天井の真ん中には巨大なシャンデリアまである。まず始めに、立志院高等学校の理事長である、黒塚神楽からの祝辞があったが、そのとき、“十代後半の”美しい少女の姿をした彼女が黒塚神楽であることに、聖亜を始め、そこにいた人間は誰も疑問に思うことはなかった。
 彼女の祝辞が終わると、後は談笑の時間だ。ワインやシャンパンなどの酒やノンアルコールの様々なジュース、そして豪華な料理が置かれた丸テーブルが無数にある部屋の中で、聖亜は小百合と共にジュースを片手にしばらく壁の花でいた。正装した小百合は可愛らしく、また自分も女顔であるという事で、何人か下卑た笑いを浮かべる男が近づいてくるが、聖亜が多少殺気を込めた目で睨みつけると、彼らはヒッと小さく悲鳴を上げ、他の女を物色しに去っていった。

「あ~!! こんな所にいた!」

 その時、大声と共に一人の少女がやってきた。柿崎緑である。緑色のドレスを着込んでいるが、美しいというよりは可愛らしいという感じだ。


「あ、緑ちゃん、緑ちゃんもきたの?」
「まあね、正直こういったところはあんまり好きじゃないんだけど、さゆりんが困ってるんじゃないかと思って。ね、一緒に見て回らない?」
「えっと」

 小百合がちらりとこちらを見る。緑と一緒に行きたいが、少年を独りにしておくのは気が引ける。そんな視線だった。

「ん? ああ、行って来い。迷子になるといけないから、部屋の外には出るなよ。後、あんまり食べすぎないように。明日朝飯食えなくなっても知らないからな」

 緑のすぐ後ろに北条優の姿を見止めた聖亜は軽く頷いた。彼が一緒ならば、そこらの男が来ても大丈夫だろう。きゃいきゃいと嬉しそうに話す少女二人と、最後にこちらに一礼した青年を見送ると、聖亜は再び壁の花でいることにした。









 黒塚理宇がこういったパーティーに出席するのは、日常茶飯事の事だった。黒塚神楽の長男であり、いくつもの会社を持ち、皇都東京にある月命館高等学校の理事長を務める父、黒塚月臣(つきおみ)に強制的に参加させられるのである。父親の秘書を務める一番上の冷徹な兄は、部屋の片隅で幾人かの大企業の社長と歓談しており、好戦的で残忍な二番目の兄は、周囲に女を侍らせてハーレムの王様気取りだ。そして母は、

 結婚した時から父に愛情など持ったことがないだろう母は、今日もパーティーに出席することはなかった。恐らく、愛人の家に出かけているのだろう。

「なんだかなぁ」

 先祖が天皇の遺児という事で、裏天皇家の異名を持ち、そして日本を支配しているといわれる一族といっても所詮はこんなものだ。家族仲は最悪だし、父は姉である叔母と権力争いの真っ最中だ。はぁっとため息を吐き、部屋の外に出ていこうとした時である。

「あれ? あの人は・・・・・・」

 部屋の隅にいる一人の少年を見た理宇の表情は、どこか恋する少女のそれに似ていた。







「や、久しぶり」
「・・・・・・ん?」

 言い寄ってくる男たちを追い帰し続けたためだろうか、もはや近づく者がいないことに満足し、目を閉じて一人壁の花をやっていた聖亜は、目の前にまた誰か立った気配を感じ、薄目を開けた。

 目の前に、一人の少年の姿が見える。ほぼ同じ背丈で、中性的で、そして自分よりさらに女顔な少年の名を聖亜は少々眠気交じりの頭で思い浮かべ、少年が悲しそうな表情をするようになった、たっぷり数十秒後、ああ、と軽く頷いた。

「・・・・・・理宇、だったか?」
「あ・・・・・・う、うん!! よかった、覚えていてくれたんだね!!」

嬉しそうに少年―理宇が微笑む。はたから見えれば少女二人が談笑しているようにしか見えないが、二人はれっきとした男であった。

「君、聖亜君だったよね、ここに居るってことは、立志院の入学試験に合格したの?」
「ああ、クソ忌々しい試験だったけどな」
「あ、ごめん」
 
 眉間に皺を寄せた聖亜を見て、少年が悲しげな表情で謝る。お前のせいじゃねえよ。そう呟くと、聖亜は大分温くなったリンゴジュースを飲み干した。

「ああ、そういや、お前はなんでこのパーティーにいるんだ?」
「父さんに無理やり付き合わされるんだ。今年だけで十回は出席したよ。いつも同じ顔ぶれだからね、もう出席してる人の名前だって覚えちゃったよ。例えばあそこにいるあのおじさん、びしっとしてるように見えるけど、じつは頭がカツラなんだ」

 厳格そうな中年の男を指さし、理宇が笑う。聖亜がつられるように笑うと、彼はあのおじさんは大の猫好きだとか、あのおばさんは実はジャニーズの追っかけだとか、いろいろな人の話をする。それが終わったのは、部屋の一角で黒塚神楽と話している、とある中年の女性を見た時だった。

「あれ? あの人」
「ん? どうした?」

 恰幅のいい中年の女性は、黒塚神楽に対し、眉間に皺を寄せて話し込んでいるが。神楽の方は、それを軽くいなしている。やがて神楽は首を横に小さく振り、さっさとどこかへ行ってしまった。中年の女性は、しばらくそれを見送っていたが、やがて足音を響かせて部屋の出口に向かっていく。そのとき、聖亜は女の後ろに静かに付き従う、大きく胸元が開いた黒いドレスを着た、黒塚葵の姿を見た。

「あの人、陽子おばさんだ。父さんの姉さんで、九州にある日照女学院の理事長さんだよ。お婆さまと仲が悪いから、ほとんどこっちには来ないのに。葵ちゃんが心配だから来たのかな」

「・・・・・・葵、あの黒いドレスを着た女か?」
「そう、陽子おばさんの娘で、僕の従妹なんだけど、最近、何回かお見合いしてるんだよね。まだ早いって陽子おばさんは言ってるんだけど、いくつかはお婆さまが強引に進めてるって話もあるし・・・・・・あ、ごめん、こんな話つまらないよね」

「いや、別にそんなことはない、ありがとうな」



 その後、二人はそれぞれ好きな食べ物の話とか、趣味とか、学校でどんな部活に入っているとか、そんな他愛ない話をして別れた。再び一人になった聖亜が小百合の姿を探すと、彼は柿崎と一緒に部屋の隅でゼリーを食べている。あまり食べると虫歯になるぞ。心の中でそう忠告すると、気分転換のため、彼は一人部屋の外へと出ていった。









































 満天の星々が夜空を飾る中、ホテルの中庭は電気ランプの輝きで、それ以上に光り輝いていた。




 その光の中、九州からこちらに来ていた母と別れ、一人になった黒塚葵は、隅に備え付けられたベンチの上で、ただ一人項垂れていた。

 ここは、少女の父がまだ生きていた頃は彼女のお気に入りであった。いまは電気ランプがともり、人工的な芝生や池が作られているが、このホテルの持ち主だった父がいた時は、ここはホテルの中庭でありながらもともとある自然をそのままに活用し、さらに池には蛍さえいた。当時この場所は一般人に無料開放されており、彼女も親子三人そろって毎年蛍を見るのを楽しみにしていたのだ。なのに


「・・・・・・はぁ」


 今日も神楽から見合いを勧められた。いや、勧められたというよりは半強制的なものだった。相手は三十代の会社社長で、こちらを好色な目で見つめる俗物だ。しかも愛人が何人もいるらしい。むろん、断ることもできるのだが、その場合三日月宗近、これを神楽に渡さなければならない。父がその父から譲り受け、さらにその父も、先祖代々守り通してきた刀を神楽は欲していた。

 とにかく、いつまでもここにはいられない。会場にはまだ神楽と、彼女が紹介した見合い相手がいるが、それでも逃げ出すわけにはいかなかった。そう考え、立ち上がった時である。



「つまらん場所だな」


 
 どこかで聞いたような声が、小さく聞こえた。




















「つまらん場所だな」




 会場から出て、ぶらぶらと歩いているうち中庭に出てしまった聖亜は、その場所をそう評した。中庭は豪華絢爛、星空にも負けない輝きを放ってはいるが、そんなもの、聖亜にとってはつまらない以外の何物でもない。もちろん彼だって満天の星空を美しいと思うことも、蛍が飛び交う池を幻想的だと思うこともある。だが、金と人手があれば誰にでも作る事の出来るこの場所に、聖亜は何の関心も抱かなかった。




「つまらない場所で悪かったな」





 自分の呟いた独り言に、中庭の隅から返答があった。だが、聖亜は別に驚かなかった。電気ランプの光の影でよく見えなかったが、そこに誰かいることは気配でわかっていたし、たぶんそうだろうと思ったとおり、胸元の大きく開いた黒いドレスをした少女が、むっとした顔で近づいてくる。


「なんだ、またあったな。“お嬢ちゃん”」
「ふん、またお前か。ここに居るという事は、試験には合格したという事か?」
「ああ、一応な」





 黒塚葵が、不機嫌そうな顔で睨んでくる。苦笑してそれに返すと、聖亜はすぐ近くにあるベンチに座った。

「で? お前はなんだってこんな所にいるんだ? 夏といってもここは寒いだろ」
「うるさいな・・・・・・会いたくない人がいるんだ」
「なんだそりゃ、何か言われたら睨みつけるか、ぶん殴ってやればいいじゃないか。人に木刀で殴りかかってきたんだ。それぐらいの事は出来るだろ?」

「・・・・・・でき、ない」

 聖亜の言葉に、葵は俯いて呟く。睨みつけたり、殴ったりすることが出来ればどれほど楽だろう。だが、それは彼女には許されない。聡明な彼女は、自分が駒にすぎないことを
理解していた。そして同時に、抵抗したい、逃げ出したい、そう思っても、決して逃げられないことを理解していた。







「・・・・・・」

 いつしか満天の星空は雲の中に隠れ、ぽつぽつと大粒の雨が降ってくる。雷まで鳴りだした天気の中、少女は雨に濡れて、泣き笑いのような顔をしたまま、一人立ち尽くしていた。そんな彼女を聖亜はしばらく眺めていたが、やがて溜息を吐くと同時に立ち上がり、彼女に近づくと、自分より多少背の高い彼女を抱き寄せた。少女は、葵は少しの間身動き一つしなかったが、やがて少年の服を掴むと、その華奢な肩に顔をうずめた。











 雨が降る。 空からも、そして声を殺して泣いている、少女の瞳からも
















「あらあら」

 ホテルの会場で、窓から中庭の様子を眺めていた神楽は、面白そうに微笑した。

「何を笑っているのです、神楽様。それより私の花嫁は一体どこへ消えてしまったんですか?」

 そんな神楽に向け、黒塚葵の見合い相手として彼女が選んだ中の一人である三十代の男は、黒塚家と縁ができる事と、そして美しい女子高生の身体を好きなようにできる事で興奮しているのか、鼻息荒く尋ねた。

「・・・・・・あらぁ? 私は別にあなたに葵ちゃんをやるなんて言ってないのだけれど」
「ですがこの場所には私以外に見合い相手はいない。ならつまりそういう事でしょう?」

 あたりをきょろきょろと落ち着かない様子で眺める男の手が、偶然か神楽に当たる。だが相手はそれに気付かないのか、謝罪も何もなかった。

「・・・・・・あらあらあら、ごめんなさい。やっぱりあなたは、葵ちゃんにはふさわしくないようねぇ」

「はぁ? いったい何を言ってるんです? どうせ他の奴等だって、四十とか五十とか、そんな年齢でしょう? なら私が一番年も近いしハンサムだし、彼女もきっと喜びますって」


 喚く男を、神楽はにこにこと聞いていたが、やがて歩き出した。すれ違う時に男の肩をポンッと叩く。



「ねえあなた、今までいったいどれぐらい女の人を堕胎させたのかしら。今から洗面所へ行って、生まれるはずだった赤ちゃんの分、自分の喉をペンで突いてごらんなさい」


「は? ・・・・・・!! ・・・・・・・・・・・・!!!!」


 神楽の言葉に、男は何か言おうとしたが、なぜか口は閉じられたままだ。必死に口を開けようとするが、その間に、彼の身体は自身の意思に反して動き、部屋を出ていく。





「・・・・・・いるかしら、沙希ちゃん」
「はい、先程からこちらに控えております」
「そう、いい子ね」

 神楽の声に、不意に彼女の右後ろから声がした。姿は見えない。だが確実にそこにいる何かに、神楽はにっこりと微笑んだ。

「命令よ。黒塚葵に対する見合いはすべてキャンセルなさい。同時に彼女の婚約者として星聖亜を登録。それを内外に知らせなさい。むろん、知らせる相手は分かっているわね」

「かしこまりました。ですが、葵様を婚約者にするだけの価値が、星聖亜にあるのでしょうか」
「何か勘違いしていないかしら? 葵ちゃんなんて、聖ちゃんの価値の、百万分の一もないじゃない。長年傍にいて、感情移入でもしちゃった?」
「いえ・・・・・・申し訳ありません。ところで、先ほど洗面所において”自殺”した男はどういたしましょうか。死んだ後もペンを喉に突き刺すため、周囲にインクと血が飛び散っているのですが」


 姿が見えない八雷姉妹の一人、“析雷”八雷沙希の言葉に、神楽は可愛らしく首を傾げた。







「あらぁ、沙希ちゃん、それっていったいどこのゴミかしら?」













 翌日の事である。


 夜中に振っていた雨は早朝には止み、地面に水たまりは出来ているものの、昨夜の雨が嘘であったような快晴の下、星聖亜は立志院高等学校の寮を出て、校舎へ向け歩いていた。といっても、彼はここで勉強する気はない。というのも、彼はまだ太刀浪高等学校の生徒であるし、家も太刀浪市にある。むろん、準がこちらの病院に入院しているため、強制されれば断れないが、とにかくそのことはこれから会うであろう教師に説明するつもりだった。


「そういえば、寮の中でほかの方とは会いませんでしたね」
「ああ、そうだな。ま、一次試験で不合格になったやつを急遽合格にするといっても、その日のうちにできる事じゃないだろ。それに、管理人さんの話じゃ、先輩たちはみんな実習に行っているらしいからな。ま、そのうち会えるさ。それよか小百合、やっぱり昨日食べ過ぎたんだろ。朝飯あんなに残して・・・・・・管理人さんが怒ってたぞ?」
「あうぅ、ごめんなさい」

 昨日、警告したにもかかわらず小百合は結局食べ過ぎてしまったらしい。まあ、彼女のいたところにはあまりお菓子などもなかっただろうから仕方ないが、さすがに次の日の朝食が取れないほどに食べるのは駄目だ。べそをかいている小百合の髪を乱暴に撫ぜてながら、少年はふと後方を見た。自分達よりだいぶ後ろを白髪のまるでミイラのような少年が、よたよたと狂人のようについてくる。あれではもう悪さもできないだろう。そう結論付けると、聖亜はその少年、森谷に哀れみの視線を向け、少し先を行く小百合達を追いかけ始めた。



 聖亜達が案内されたのは、立志院高等学校の一階の、西側の隅にある教室だった。躊躇なく入ると、恐らく先に来ていたであろう数人の男女がこちらに視線を向けるが、それはすぐに離れた。黒板に書いている席順に従い、聖亜は窓側の一番前の席に座る。


「よ、同級生さん!!」
「・・・・・・なんだ?」

 その時、聖亜の肩がポンッと叩かれた。聖亜が顔を上げると、バンダナをした陽気そうな男が立っている。彼はぼさぼさの髪をガシガシと掻きながら、にかっと笑った。

「俺、横尾忠義(よこおただよし)、あんたのすぐ後ろの席なんだ、よろしくっす!!」
「ん、よろしく」

 陽気な少年、横尾に頷くと、彼は人懐っこそうな笑みを浮かべ、聖亜の隣の席になった小百合にも挨拶をしている。彼女がしどろもどろになりながら、それでもちゃんと返答している所を見ると、どうやら悪い男ではないらしい。単なるお調子者のようだ。

「悪い、ちょっと机を横にずらしてくれねえか?」
「あ? ああ、ごめん」

 彼らの様子を見ていた聖亜の身体が、突如誰かの影に包まれる。慌てずに上を見ると、百八十センチをいくつか越している大男が、後ろの席に行こうとして難儀しているのが見えた。軽く謝罪して机を窓際に寄せると、大男はすまんなと、髪の毛が薄い頭を下げた。

「清原源二(きよはらげんじ)。今日から同級生になる。迷惑かけるかもしれねえが、よろしくな」
「星聖亜だ。こっちこそよろしく頼む」

 机を窓際の壁に付けると、清原は聖亜の実に三倍はありそうな筋肉でできた体を、机と机の間に滑り込ませるように歩いていき、一番後ろの席にドカッと座り込んだ。ギシギシと椅子が鳴る。それは、隣の女子生徒がひっと悲鳴を上げるほどだ。

「随分と大きな方ですね」
「ん? 清原っち? 俺あいつと一次試験で一緒になったんだけど、いい奴っすよ。せっかく探し物見つけたっていうのに、まだ見つけていない奴にやっちまったんすから」

 小百合の後ろの席になった優が、清原を感心したように見つめると、その隣に座った横尾がさっそく彼に話しかける。どうやら自分の後ろの席にいるこの少年は、静かにするという事を知らないようだ。

「ふぅん・・・・・・じゃ、あんたも似たような感じで落ちたのか?」
「へ? いやいやいや、俺っちは普通に見つからなくて落ちただけっす。それでもなぜか二人とも合格したし、ラッキーってやつっすね!!」
「・・・・・・そうか」

 確かに彼らはラッキーだろう。なにせ、命を落とすこともなく、こうしてここに居るのだから。


 キーンコーンカーンコーン


 その時、予鈴のチャイムが鳴った。ざわついていた同級生が、慌てて席に着く。だが、彼らが全員席に着く前に、がらっと乱暴に教室の扉が開いた。












 豚以下の屑







 聖亜は目の前にいる男をそう評した。

「あぁ? なんで手前らチャイムが鳴ったってのにまだざわついてんだ? 屑なのか? ああそうか、お前ら屑なのか。なら分かるわ。おい屑、なんでこの崇高たる菅間優一様が、お前ら屑の面倒何て見なきゃいけねえんだよ。おら、なんか行ってみろや、屑連中が。あぁ?」

 まだ二十をいくつか超えたばかりだというのに、目は充血し、頬はたるんでいる。頭はポマードでガッチガチに固めており、その臭いと彼自身の体臭とで、辺りに吐き気を催すどぶの様な匂いが充満している。聖亜は教師という名の最低最悪な人間に、今まで何度か遭遇したことがある。彼、菅間とかいう教師はその中でも確実にワースト三位に食い込んでいた。

「なあ屑、なんでお前らみたいなブ・タ・が、人間様の貴重な時間を潰してくれやがるんだ? 頼むから・・・・・・いやぁ? 人が豚に頼むのも変な話だよなぁ? おら豚、手前らさっさと潰されて死ね。この俺さまの時間を一分一秒だって無駄にすんじゃねえよ」

 目を吊り上げて、口の端がら涎を垂らしながら菅間は教師用の机をげしげしと蹴り飛ばしていたが、何度か蹴った時、蹴り損ねて足の脛が机にぶつかったのか、そこを抑えて蹲った。その滑稽な様子に、何人かの生徒がついぷっと笑ってしまう。

「・・・・・・あ? なぁに手前ら笑ってくれやがるんだ。ああそうか、お前ら死にたいんだな。分かった、なら望み通り殺してやるよぉ!! んじゃ死ねポチっとな」
「は?」


 なぜか最後は早口で捲し立てた菅間が、右手に持っていた何かを押す。聖亜はとっさに立ち上がろうとするが、それよりも目の前の男がボタンを押す方がずっと早かった。強い光が、聖亜や小百合、北条、横尾や清原、その他同級生を包み込む。



「ひひゃ、ひゃはははははははっ!!」




 豚以下の屑の、喚き散らすような笑い声聞いたのを最後に、聖亜はその意識を手放した。








続く





 どうも、活字狂いです。スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第四幕 姫二人~月の姫と鉄の古武者~をお送りします。いや長い長い。短くしようとしても、全然短くならなかった。さて、今回主人公である星聖亜は、自分が黒塚家の一員であることを知りました。そして、彼は次回、一人の少女と出会います。彼女と出会った彼が何をするのか、それは次回をお待ちください。並行して作成したので、12月中にお届けできると思います。

 追記1 読み返してみると誤字脱字が結構ありましたので、少しずつ修正していきます。

 追記2 好きな漫画家だった水木しげる先生がお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第五幕 逢魔が時に鬼と死合う
Name: 活字狂い◆a6bc9553 ID:e404681e
Date: 2015/12/28 11:02











 そこは、山陰地方にある、地図にも載っていないほど小さな村だった。

 人口は二百人。ほとんどが農家であり、ほぼ自給自足の生活をしていた。外とのつながりは、村に一軒しかない雑貨屋に月に二度来る業者で、それ以外は知る人もほとんどいない、ただ消えていくだけのような村であった。







 それは、月も星もない真っ暗な夜の、時間にして丑三つ時の事だった。村の中央を走る路地を、一人の少女が裸足でひたひたと歩いている。年のころは中学生ほど。花柄の着物を着た、赤毛の可愛らしい少女だ。だが、ただの娘ではない。人の気配が全くしない、足もとさえもろくに見えない明りのない真っ暗闇の中、鼻歌なんぞを歌いながら楽しげに歩いている少女が、ただの小娘であるものか。


 ただの小娘ではない少女は、さほど長くない距離を歩き、村のほぼ中央、村にある唯一つの憩いの場である噴水のある広場にたどり着くと、噴水を背に立ち、大きく両手を広げた。

「さあ、さあさあさあさあ!! お出でなさい、我が同胞。脆弱にして惰弱な人間の皮をかぶり、屈辱的な生活を送らざるを得なかった我が同胞たちよ。時はきた。復讐の時が、我らの恨みを晴らす時が。惰眠を貪る者たちに思い知らせてやる時が!!」

 少女の甲高い声が村全体に響き渡ると、不意に、広場にほど近いところにある家の戸が開き、中からおそらく夫婦であるだろう、一組の男女が出てきた。そして、その向かいにある家からも、その隣にある家からも、続々と人が集まり、それほど時を経ずして、村の全住人である二百人が、広間、そして狭い路地をぎっしりと埋め尽くした。

「さあ、今こそ本来の自分たちを取り戻しなさい。そして駆けるのです。愚かなりし彼の女に対する鏃として!!」



 不意に、群衆の先頭に立つ男がガタガタと震えながらしゃがみこんだ。どのぐらい震えた後だろう、突然、男の背中がびしりと“割れた”。

 その中から出てきたのは、どろりとした粘液に包まれた黒い皮膚だ。粘液に包まれていたせいか、てかてかと光る皮膚を持った“それ”は、以前喰らった人間の皮を剥ぎ、自分の本当の姿、すなわち頭部に黒い二本の角を持った、鬼と呼ばれる姿になった。それは男の後ろにいる他の住民も同じであった。大小の差こそあれ、皆喰らった人の皮を脱ぎ捨て、本来の鬼の姿へと変わっている。


「さあ、目指すは出雲!! 闇夜に紛れて移動し、決して悟られないように合流地点まで行きなさい。そしてすべてを破壊し尽くしなさい!!」


 変化した鬼を満足げに見つめ、少女―鬼を従え、導き、そして支配する鬼導衆の一員である天華が叫ぶと、彼女の声に従うように、鬼たちはくるりと向きを変え、ぞろぞろと闇の中へと消えていった。


『随分と手駒が増えたな』


「あら、まだまだですわ。これでようやく千を超したところ。せめて二万は集めませんと」
 自分の号令で消えていった鬼たちを満足そうに眺めていた天華の隣で、不意に男の声がした。そして、突如闇の中から赤い鎧を着た男が現れる。男のかつての名は轟。黒塚家に対しテロを起こした元軍人であった。だが

「それでどうです? お体の方は」
『ふん、随分と抵抗してくれたようだが、ようやく完全に消え去った。この体は完全に儂の物よ』
 
 頭部に巨大な二本の角と、周りにびっしりと小さな棘のように突き出ている角を持つその姿は、とても人とは思えなかった。



「ではまいりましょうか、悪路王様。我らに敵対する女狐、黒塚神楽を討ちに」
『ふん、相手がだれであろうと関係ない。儂が望むのはただ一つ、脆弱なる奴婢どもの血を浴びる、ただそれだけよ』



 誰一人いなくなった村の真ん中で、悪路王の異名を持つ鬼神アテルイは、血走った目と同様、血に染まって赤く染まった刃を持つ斬馬刀を、天高く突き上げた。


























「・・・・・・もしかして、俺は死んだのか?」

 

 薄暗い闇の中、聖亜はぼんやりと呟いた。

 確か自分は先ほどまで教室にいたはずだ。それがあの豚以下の屑である菅間とかいうキチガイ野郎が何かわめいたと思ったら、いきなり教室を光が包み込み、気付いたらこんなところにいたのだ。暗くてよく分からないが、どこからか川音が聞こえるあたり、ここは死んだ者が来るという三途の川なのだろうか。

「・・・・・・ま、いい。今まで散々好き勝手してきた俺だ。こうなるのも覚悟していたさ。後は準が天国に行くのを見届けてから、さっさと地獄に行くとしよう」

 今まで散々人を殺してきた自分が、準と同じ場所に行けるはずがない。それがわかっている聖亜は、むしろすがすがしい気分で近くの大岩に飛び乗ると、そのままごろりと横になった。

「さて、地獄に行ったら鬼と喧嘩でもしてみますかね」

 子供の頃絵本で見た鬼が、本物の地獄の鬼と同じかどうか確かめてみるか。そんなことを思いながら、聖亜はぼんやりと目を閉じた。














 キィ、キィ、キィ






「・・・・・・ん?」

 どれぐらい眠っていただろう、百年にも数分にも思える時間目を閉じていた聖亜は、ふと川音とは違う音を耳にし、ゆっくりと目を開けた。

「・・・・・・三途の川の渡し船でもやってきたのか?」

 体を起こし、大岩から飛び降りると、聖亜は川の方まで歩いてみることにした。数分程歩き、ふとした拍子に足元に落ちていた小石を蹴り飛ばした時である。

 その小石は、今まさに通り過ぎようとしていた、一隻の木造でできた壊れかけの船にこつんとあたった。

『・・・・・・』
「・・・・・・」

 船を襲った小さな衝撃に反応したのか、櫂を操り、船を動かしていた船頭がこちらを振り向き、偶然にも聖亜と目があった。といっても、顔はわからない。薄暗い世界だというのに、相手はすっぽりと布のようなものをまとっているためだ。フードの船頭は櫂を操る手を止め、何かを考えるように首を傾げるしぐさをした後、櫂を聖亜の方に向け、次に自分が動かしていた船の方に向けた。

「乗れってことか? 悪いが俺は準が来るまで地獄に行く気は・・・・・・っておい!!」

 いつまでも乗らない聖亜に業を煮やしたのか、相手はいきなり櫂を振り上げ、聖亜の体にグイッと押し付けた。痛みはさほどなかったが、衝撃で体が船に倒れるように入った。

「ってえな!! 何しやがる!!」

 死人なのに痛みを感じるというのもおかしいと思ったが、地獄で拷問されるのだからたとえ死人であっても痛みは感じるのだろう。立ち上がって殴りかかろうとした聖亜であったが、その額に櫂を突きつけられ、ぐっと押し黙った。聖亜がおとなしくなったのを見て、船頭は再び船を動かし始めた。

「ま、いいか。最悪ここから飛び込んで三途の川を泳いで逃げればいいし・・・・・・ん?」

 ふと、聖亜は目を凝らして周りを見た。船は案外広く、自分と船頭以外にも十数人ほどが乗っている。しかもそのうちの何人かは見知った存在だ。北条優、頭の毛が薄い大男、清原。おちゃらけた感じの三枚目である横尾、白髪の狂った少年である森谷、そして


「おいおい、何で小百合が俺と一緒の船に乗ってんだよ、こいつ絶対天国行けるだろ」


 自分のすぐ近くに小百合がいる。彼女が自分と同じ場所に行くとは思えなかった。人を散々殺してきた自分は当然だろうし、ほかの連中のことは知らないが、地獄に行くということは何かしらやっていたのだろう。だがこの少女だけは別だ。今まで人里離れた所にいて、ここに来てからはいじめられて、友達ができて泣くほどうれしがった彼女がなぜ地獄に行かなければならないのだろう。



「おい、船を戻せ・・・・・・戻せって!!」



 船頭に声をかけるが、相手はこちらのことなどまるで気にせず船を動かしている。その様子にカチンと来たのか、聖亜はつかつかと船頭に近づくと、相手がまとっているフードをバッとはぎ取った。

「・・・・・・ごめん」

 フードの中の人物を見て、聖亜は一瞬びくりと体をふるわせた後、小さく謝罪し、フードをかけなおした。彼はフードの中にいるのは、骸骨かゾンビ、はたまたその類の物だろうと思っていたが、実際には全く違っていた。船頭の正体、それは苦痛にあえぐ一人の老人であった。

 船頭は、そんな少年には目もくれず、ただ櫂を使って船を動かす。その姿に憐れみを感じながら、聖亜は先ほど座っていたところに戻ると、ただぼんやりと暗い川を眺め続けた。





「・・・・・・う?」

 それからどれぐらい時間が経っただろう、聖亜は前方に何か明りのようなものが見えた気がして、ゆっくりと顔を上げた。少しうとうととしていたようだ。周りを見ると、小百合達も自分と同じように座ったまま目を閉じている。どうやら眠り込んでいるらしい。死ぬと眠くなりやすいのかね、そう思いながら明かりのある方をぼんやりと見つめる。どうやらこの船は明りのある方に向かっているらしく、だんだん向こうの形がはっきりしてきた。


 それは、数十隻はあるだろう巨大な船団だった。しかも船一つ一つが無駄に大きい。が、聖亜はふと首を傾げた。どれもこれも現在の物とは違い、木造の船だ。見張りとして立っている者を見ると、古い甲冑を着込んでいる。それは、以前テレビで見た古い中国の甲冑によく似ていた。と、何かに気付いたのか、見張りが大声を上げる。するとそれからしばらくして、数十隻のうち十隻ほどの船が前に進んでいった。目を凝らしてよく見ると、船に乗っているのはほとんどがぼろを着た貧相な奴隷たちだ。老人に子ども、男や女、それらが海に飛び込もうと必死に船の縁に向かっていく。だが、見張りとしている何人かの兵士が槍や剣でそれを押しとどめているのが見えた。そうしているうち、なぜか兵士達だけが小舟で後方の船団に逃げ出している。残された奴隷たちは、もう正常な判断ができないのか、海に飛び込もうともせず、ただ船の上をうろうろしているだけだ。


「あれ・・・・・・なんだ?」


 その時、不意に川が大きく盛り上がった。盛り上がった川に奴隷を大勢載せた船は大きく傾き、奴隷が何人も川に落ちていく。と、川に落ちた奴隷達がいきなりもがきながら沈んでいった。そして、薄暗いこの世界でもそうとわかるほど、おびただしい血が川いっぱいに広がっていく。やがて落ちた奴隷が全て川の中に沈んだ後、それがその姿を見せた。

 それは巨大な蛇のような怪物だ。だが蛇と違うのは、身体の先が五股に分かれ、その先端に鋭い牙をびっしりと生やした巨大な口を持っていることだ。怪物はその牙で奴隷達を船ごと噛み砕き、老若男女の区別なく貪っている。さらに怪物はその一匹だけではないようで、すぐに川のあちこちから似たような怪物が現れ、奴隷を満載した船に群がっていく。その間、船団は怪物たちの横を通り過ぎて行くが、その時には奴隷達を食らいつくした怪物たちが一斉に船団に群がりはじめた。先ほどの奴隷達とは違い、こちらには兵士が乗っているので、矢を放ち、槍を突き出し抵抗しているが、それは怪物には何の痛痒も与えることはできなかったらしい。やがて一隻、また一隻と沈められ、数十隻あった船団は、最後にはわずか三隻ほどにまで減っていた。
聖亜達の乗っている船は、怪物が人を貪っているその隙間を縫うように静かに進んでいく。途中何度か怪物や船に当たりそうになったが、船はそれらをすり抜け、何事もなかったかのように通り過ぎた。




「やれやれ、一体何がどうなっているのやら」

 川に浮かんでいる木片に手を伸ばした聖亜は、自分の手が木片をすり抜けたのを見て訳が分からないという風にため息を吐いた。どうやら、これは今起きているものではないらしい。それとも、自分たちがもはや存在しないということなのだろうか。


 その間も、船獣達の謝肉祭から逃げ出した三隻とほぼ並走する形で川を進んでいく。話し相手もおらず、あまりに暇であったため、聖亜は並走する三隻の船のうち、最も豪華で巨大な船をぼんやりと見上げていた。船の上からは人々の笑い声に合わせ、音楽なども聞こえている。彼らの頭の中では、先ほど怪物と遭遇し、船のほとんどが人々と共に怪物の腹に収まったことなど、すっかり消え去っているのだろう。だんだんイラついてきたが、どうせ触れないのだ。放っておくことにしよう。

 少年が不貞腐れるように横になってからも、船は静かに進んでいく。それからどれぐらい時間がたっただろうか。ふと、周囲がまるで昼間のように明るくなった。聖亜が薄目を開けると、隣の巨大な船のマストが燃え上がり、巨大な松明のようになっている。そして、船の上で豪華な服を着た人々が皆前方を指さしているのが見えた。少年が起き上がって群衆の指さしている方を見ると、はるか前方に岸辺が見える。どうやら、あそこが巨大な船に乗っている人々の、そしてそれと並走しているということは、自分たちの目的地であるらしい。  

歓声を上げる人々を乗せ、三隻の巨大な船は速度を上げて進む。だが、その速度がいきなりがくんと下がった。どうやら暗礁に乗り上げたらしい。わめきながら、誰かが鞭打たれる音が聞こえる。やがてうめき声とともに誰かが倒れる音がし、それからすぐ、船の両舷に備え付けられた小舟が降ろされた。三十隻はある小舟の先頭にいるのは、一際豪華な服と冠を身に着けたひげ面の大男だ。彼が金でできた錫杖を振り上げると、小舟の集団はゆっくりと岸辺に向かって進んでいく。だが、幾らも進まないうちに、小舟は何かに引っ掛かったかのように動かなくなった。進むことも、そしてどうやら戻ることもできない舟の上で、男は何事か喚き散らしている。その声に応えるように、船の周りの水面から、ぼこぼこと無数の泡が湧き出てきた。そして、その泡が消え去った時、大男の前の川面から、ゆっくりと全裸の女が顔を出した。女は男を誘うように、その裸体をくねらせ、乳房を持ち上げながら小舟に近づいていく。さらに女は一人ではないらしく、三十隻の小舟を囲むように、川面から無数の何も身に纏っていない女たちが現れ、小舟へと向かっていく。やがて小舟に辿り着くと、女達は船縁を掴み、美しい歌声を響かせながら、男たちを誘っていく。そのうち、船に乗っていた兵士の一人が耐えきれなくなったのか光悦とした表情を浮かべて川に飛び込むと、それに続くように船に乗っていた人々は我先に川に飛び込み、女たちに抱き着いた。だが彼らが光悦とした表情を浮かべていたのはそれまでだった。女に抱き着いた男は、ひっと小さく悲鳴を上げた後、もがき苦しむようにじたばたと暴れながら女から放れようとするが、まったく振りほどけていない。そのうち、女に抱きしめられている男たちはみな何かを吸われているかのようにしわしわと萎れていき、やがてミイラ同然になり、事切れた。その様子を見て我に返ったのか、船に残った者達はここから逃れようと必死に櫂を動かす。だが小船は全く動かず、焦って川に飛び込んで逃げようとする者達も、そのすべてが女たちに捕らえられ干乾びていく。そして、小舟の方も安全ではなかった。縁に十数人の女たちが取り付き、手を動かして一隻、また一隻と沈めて行き、最後にはリーダーであろう大男が乗った小舟ただ一つだけになった。大男は最初金の錫杖をふるいながら女たちを撃退していたが、らちが明かないのを見て取ると予想外な、いや、おそらく大男にとっては当然のことなのだろう、周りで必死に戦っている兵士たちを背後から錫杖で殴り飛ばした。

 殴り飛ばされた兵士たちは、信じられないという顔で大男を見た後、群がってきた女たちに抱きしめられながら川の中へ沈んでいく。その間に大男は一人川に飛び込むと、そのまま岸辺に向かって泳ぎ始めた。それを見て、兵士たちを食べ終えた女たちが追いかけるが、大男はやけになったことで脳のリミッターが外れたのか、ものすごい速度で川を泳ぎ、岸辺まであと一歩と迫った所で勝ち誇った笑みを浮かべた、ちょうどその瞬間、


 岸辺に潜んでいたひときわ大きな体をした女が、大男の体をガシッと抱きすくめた。


 途端に大男の顔が苦痛にゆがむ。それでも岸辺まで泳ごうとする大男に、今度は追いついた女たちが左右から抱きついた。体を沈めながら、それでも大男は抵抗を続けていたが、やがてウォオオオオという絶望の声を上げ、ゆっくりと川の中に引きずり込まれていく。そして、最後に突き出ていた左腕が川の中に沈むと、周囲は先ほどの騒ぎが嘘のように静まり返った。



「何て馬鹿馬鹿しい」



 とっくの昔に岸辺に辿り着いて、その騒動を最初から最後まで眺めていた聖亜は心の底からそう呟いた。自分を守るために必死に戦っていた兵士たちを囮にしたことも、自分だけ助かろうとしたことも、聖亜にとってはあまりにも馬鹿馬鹿しく思えてならなかった。


 そんな馬鹿げたことを、何時までも気にしてはいられなかった。眠りながらゆっくりと歩き始めた十数人の最後尾にいる小百合の後に続いて、聖亜もゆっくりと歩きはじめる。こちらの岸辺は、先ほど自分がいた薄暗い岸辺とは違ってぼんやりと光っている。ふと足元の小石を手に取ってみると、手のひらの上でぼんやりとした光を放っている。どうやら、どこからか光が照らされているのではなく、岸辺に転がっている石自体が光っているらしい。そのどこか幻想的な光景に、聖亜はむしろ薄気味悪さを感じながら、先を行く小百合達の後ろに続いていった。


 それからどれぐらい歩いただろうか。川は遥か後方に過ぎ去り、だだっ広い草原に着いても、小百合達は疲れた様子など全く見せずに歩き続ける。逆に自分は汗だくだ。おそらくもう数時間、下手をしたら丸一日は歩いているだろう。それに、なぜか妙に寒い。とうとう地獄の入り口に近づいてきたか、そうぼんやり考えていた聖亜の視線の先に、草原の上に立つ一軒の建物が見えてきた。


「あそこが、地獄の入り口か?」


 歩き疲れたためか、少しいらだちながら呟くと、聖亜は建物に歩いていく小百合達を眺めた。ここが地獄の入り口であるならば、自分やほかの連中はともかく、小百合だけは絶対に守ってやらなければならない。このどこか儚げな少女が地獄に行くのは間違っているという思いは今でも変わらない。

「さて、鬼が出るか、それとも蛇が出てくるか・・・・・・ま、どちらにせよ皆殺しにして小百合を逃がす。俺がするのはそれだけだ」

 その建物は、家というにはあまりに巨大で、砦と言った方が正しかった。そしてあふれ出るこの寒さといったら!! しかもただの寒さではない。身を切り刻み、魂までも凍てつかせるような寒さだ。

「は・・・・・・さすがに、これは予想外だったな」

 ガタガタと震えながら、聖亜は砦の内部を歩いていた。小百合を含め、半ば眠っている人達は髪も服も霜で真っ白にしながら、それでも平然と砦の奥に向かって歩いていく。

「しっかし、ここは本当にどこなんだ?」

 長い廊下の両隅に立っている青白い石像を見上げながら、聖亜はそう毒づいた。あまりの寒さに息をしていると肺が凍りつきそうになってくる。それでも口を開いてないと上唇と下唇が凍りついて離れなくなりそうだから、寒さを紛らわすために自然と口数が多くなってしまう。ぶつくさ言いながら小百合達についていくと、やがて前方に巨大な青白い扉が見えてきた。


「・・・・・・あそこがこのくそったれな旅行の目的地か? くそっ、目眩がしてきやがった」


 寒さでかすんできた視界の中、聖亜を、そして小百合達を招き入れるように扉がギギッと音を立てて自動的に開く。中はさすがに吹きさらしの廊下よりはましだろう、そう思いながら、聖亜は小百合達に続いて部屋の中へと入っていった。





 そこは、ある意味では幻想的で美しいと言える部屋だった。巨大で端が見えない部屋の床、壁、天井、そのすべてが青い一枚の氷でできており、ところどころにあるランプの中には温かい炎の代わりに、まったく暖かさを感じない、人魂のような青い炎が揺らめいている。

 そして何より目をつくのは壁一面、それだけではなく天井まで埋め尽くす、膨大な数の武器だ。剣、槍、弓、銃など、古今東西に存在するすべての種類の武器がこの場所にあるように思える。












「まったく、またこの下らん時間がやってきたか」



 部屋の中央、空中に浮かぶ椅子に座り、少女は強く舌打ちをした。


 美しい少女である。蝶の形をした髪留めを付けた青い長髪、紫色をした切れ目を持つ美しい日本人離れした顔、瞳と同じ紫色の生地でできたゴシックロリータ系の服に身を包んだ小柄な体、そのすべてが完璧で、だが温かみの全くないその仕草は、見た者に名工が作り上げた一体の精巧な、だが血の通っていない西洋の人形を思い浮かばせる。




「ああ忌々しい、契約がなければ今すぐあの女の肉体を氷漬けにし、奴を信奉する下郎共々粉々にしてやるものを!!」



 わめき散らしながら少女が右手をかざすと、上空に巨大な氷河が現れた。八つ当たりをするように、少女が床めがけて氷河を投げつけると、それは粉々になって辺りに飛び散った。

「ふん、まあ良い。どうせいつも通り、ここへやってきたものは皆意識など持ってはいないだろうからな。そんな奴らに八つ当たりしても、妾(わらわ)が虚しいだけ、か」


 少女が毒づきながら左手を上げると、扉に入ってきた意識を持たない十数人の集団、その先頭にいる森谷の体がふわりと浮きあがり、少女のもとへと運ばれた。


「ああくだらん、何故こんなゴミ屑を相手にせねばならん? そもそもこれを与えるというのがどういうことかわかっているのか? 人間の欲というのは、まったく度し難い」

 ぶつくさ言いながら、今度は右手を挙げる。すると、無数にある武器の中から一振りの刀が浮き上がり、少女のもとへと運ばれていく。刀身がのこぎりのようにギザギザと尖っているその刀は、少女の手に収まると、一つの丸い球体となった。それを少女は、白髪の少年の体の中に埋め込んでいく。球体が全て少年の中に納まると、少女はつまらなそうに左手を下した。すると、今まで浮かび上がっていた少年の肉体がふらりと床に落ちる。


「ほれ、さっさと去ね。魂が半ば眠りについている輩の相手なんぞ、そう長々としていられるか、次だ次」

 
 森谷が部屋の奥にある出口へ歩いていくことなど気にもせず、再び左手を上げると、十数人のうちの二人目が浮かび上がって少女のもとへ連れてこられる。少女が先ほどと同じように右手を挙げると、今度は細長い槍が浮かび上がり、それもまた球体となって体に埋め込まれた。


 そうやって、三人目、四人目と次々に武器が体の中に埋め込まれていく。少女は先ほどと同じ作業をまるで感情がないかのように黙々と繰り返していた。その彼女が初めて感情らしいものを見せたのは、小百合の番になり、彼女が少女の前に立った時であった。


「・・・・・・ほう? どこから引っ張ってきたかわからぬが、はるか昔にこちらに残ることを選択した我が眷属の末裔を探し出してきたか」
 
 何かを懐かしむような、そして憐れむような優しい笑みを浮かべ、小百合の頭を優しく撫ぜると、少女は先程までとは違い、武器を与えることなく浮かび上がると、小百合を抱きしめたままゆっくりと床に降り立った。

「娘よ、我が眷属の末裔の、おそらくはその血を引く優しく哀れな最後の姫よ、そなたにここにある武器は与えぬ。なぜならここにあるのは、そなたに与えるにはあまりにも業が深すぎるゆえ。そなたに与えるは我が祝福、氷の女王の、愛しい娘に与える口づけじゃ」
 
 小百合の頬に、少女はそっと接吻をする。愛しい娘を見守るような優しいまなざしで、部屋から出ていく小百合を見送っていた少女は、最後に残った少年を、侮蔑を込めて見つめた。

「ああ忌々しい、何故我が眷属が最後ではないのじゃ。あの娘が最後であれば、妾は久方ぶりにすがすがしい気分でこの下らん作業を終えられたものを」

 怒りと屈辱、そして憎悪でその可憐な顔を歪ませ、少女は俯いている少年に近づいていく。そして少年に向けて左手を伸ばした時、少女にとって全く予想外のことが起きた。それは



 意識を持ってくるはずのない少年が、いきなり自分の左手を掴んだのである。



「な!? は、離せ下郎が!!」

 見下し、憎悪していた存在に腕を掴まれた少女は一瞬呆けていたが、はっと我に返ると、掴まれていない右手で思いっきり少年の頬を張った。バシッという甲高い音と共に、張られた少年の頬が真っ赤になっていく。

「・・・・・・あ? ああ、悪い」

 その痛みは少年の半ば朦朧としていた意識を目覚めさせるには充分であった。女顔の小柄な少年は、ぼんやりと辺りを見渡した後、自分が少女の手を掴んでいるのに気付いたのか、その手をぱっと離した。













 なんなんだ、この状況は。


 聖亜は目の前の光景がさっぱり理解できなかった。部屋の中は凍てついた風こそ吹いていないものの辺り一面が凍りついており、まったく温かみが感じられない。寒さで意識が朦朧とする中、伸ばされた手を反射的につかんだらいきなり頬が張られ、目の前に怒り狂った少女がいる。何がなんだかさっぱりわからないが、取りあえず少女に聞いてみることにしよう。



「あ~、悪い。いったい何がどうなってる?」
「貴様・・・・・・妾の手を掴んだだけでは飽き足らず、よくもそのような世迷言がほざけるな」

 左手を掴まれた少女は、ここ数十年感じたことのない激しい怒りを感じていた。当然だろう、何物にも代えがたい処女雪のように貴重な自分の手が、こんな下郎に掴まれたのだ。


「その行為、万死に値する!! 凍てついた氷の刃に貫かれ、永遠の苦痛にもがき苦しむが良い!!」


 少女が右手を挙げると、空中に数本の細長い氷柱が現れた。少女が右手を軽く振ると、氷柱はものすごい速度で聖亜に向かって突き進む。

「おっと」

 だが、ただ直線的に進む氷柱など、それがどんなに速くとも聖亜にとって避けるのは容易かった。向かってくる氷柱の一本目をひょいと体をひねって避け、同時に向かってくる数本の氷柱を飛び上がって避けると、怒りを通り越して感心したように見つめている少女の目の前に降り立った。

「ほう、意識が保てるだけでなく、そこまで動けるとは・・・・・・下郎、貴様本当に人間か?」

「いや、俺にもよく分からないんだけど、聞いた話だと、俺はどうやら結界喰らいというものらしい」
「ふむ、結界喰らいか。なるほど、それで合点がいった。それならば意識を失わずここに来ることも可能であろう。つまり貴様は下郎ではなく、混血の下種であったというわけか」

「・・・・・・さっきから人を下郎だの下種だの、あんたいったい誰だ? ここは地獄じゃないのか?」

「ふん、何故貴様の問いに答えてやらなければならぬ? 我ら伝道者たる氏民と、欲深な人という名の家畜との間に生まれた下種め」

「・・・・・・欲深? まあ、確かに人間は欲深いとは思うけれど、だからと言って全部の人間がそういうわけじゃないだろう?」

「否、人間ほど欲深い獣を妾はほかに知らぬ。意識があるということは、貴様はここに来る途中に渡っていた川の出来事を見たであろう? あれは死してなお不老不死を求めさまよう愚か者どもの、何千、何万と繰り返している姿よ。まったくもって下らぬ。羽虫でさえ、自らの死を悟れば素直に地に落ちる物を。最後に力尽き果てた男は確か始皇帝とかいったか。他者をすべて蹴落とし、皇帝になったのはいいが、誰も信じられずに不老不死という甘美な毒に惑わされている愚劣極まる男よ。奴がなぜこの川にいると思う? 禁忌の扉を開け、家畜の身に過ぎたる宝を得ようとしたからよ。ああ、貴様らをここに案内した船頭の名を教えてやろうか? ここを発見し、始皇帝に教えた老人の名だ。確か・・・・・・徐福とかいったか」

「・・・・・・」


「貴様からも随分と血の匂いがするぞ、下種よ。殺した数はおそらく数百どころの話ではなかろう、千は確実に超えているか。犯した女の数は何人だ? 百か? 二百か? 否、それでは足りんだろうなぁ。人の身でそれだけのことをやったのだ、死して地獄に行けるなどと思わぬことだな。貴様の魂は、天国にも地獄にも行けず、永遠にひき潰されるだろうよ」

「・・・・・・死んだ後の事なんか知るか。てか、死んでないならいったいここはどこなんだよ?」

「ふん、怒ることすらせぬか? ああ、なるほど。貴様の中に、どす黒い血で真っ赤に染まった貴様の中に、ただ一つ光が見えるぞ? くくっ、それが貴様の理性か。柳準とかいう、何処ぞの雌の家畜が貴様のひか・・・・・・む」

 聖亜の問いに応えず、蔑むように話していた少女の声がふと止まった。ムッと頬を膨らませながら、自分に殴り掛かってきた少年を見る。軽く俯き、わなわなと震えているその姿は、間違いなく怒りに震えていた。


「・・・・・・もう一度、言ってみろ」




「ほう、何百と女を犯してきた貴様が、ただ一人の女を蔑まれただけでこうも怒り狂うか。ならば何度でも言ってやる。貴様が大切に思っている女、柳準であったか? スフィルなどに寄生された哀れな娘よ。おそらく、人としての理性を保っていられるのもそう長くはないであろうなぁ? 理性を失い、獣と化した女を貴様が殺す時の絶望がどれほどの物か、想像するだけで快感に身が震えるわ!!」


「手前・・・・・・ぶっ飛ばす!!」


 怒りに身を任せ、少年が殴りかかってくる。笑いながら空に浮かびあがってそれを避けると、少女はゆっくりと浮かんでいる椅子に座りなおした。

「まったく、何故妾が貴様のような下種の相手をしなければならぬ? そんなもの、我が下僕で充分よ。さあ出て来い、我が第一の下僕、第一地獄“カイーナ”」


 椅子にゆったりと座った少女が軽く指を鳴らすと、少年の目の前の氷の床が盛り上がり、青い氷でできた、三メートルを超す人型の巨人が現れる。だが頭部には目や口といったものはなく、また氷の塊のような手には何も持っていない。

「我が第一の下僕、カイーナだ。くくっ、せめて四半刻ほどは耐えて見せよ、下種」

 いつの間にか肩に止まっている、青い翼をもつ鳥の羽を撫ぜながら、そう叫ぶ少女の声が戦いの合図となった。


 青い氷でできた巨人が殴りかかってくるのが見えたが、そんなもの、聖亜にとってはどうでもよかった。なぜなら彼は今、激しい怒りにその身を焦がしていたためである。怒りで視界が真っ赤に染まる。準との約束で女は殺さないが、それでも自分の唯一を汚し、今なお高笑いを浮かべている小娘に思い知らせる。それしかこの怒りを収めることはできないだろう。
 振り下ろされた氷のこぶしを、半ば無意識に避けながら相手の股座を通り抜け、その巨大な背を駆け上がると、聖亜は巨人の頭を思い切り殴りつけた。だがその一撃による攻撃は、巨人の頭になっている青い氷が少し欠けただけで、相手はひるみもせずに掴みかかってくる。どうやら素手では太刀打ちできそうにない。

「・・・・・・はっ、何やってるんだ俺、武器ならここにいくらでもあるだろうが」

 頭を振ると、聖亜は壁に立てかけられている武器の中から大剣を手に取った。別にそれを選んだわけではない。ただ手を伸ばして最初に取ったものがそれだったというだけの話だ。

 向かってきた氷の巨人の右足に大剣を叩き込む。さすがに先ほど殴った時より効いたらしく、巨人の脚から大きく氷の破片が飛び散った。ヴーンという、壊れた蒸気扇風機が出すような音で鳴く巨人の攻撃が、いきなり苛烈なものになった。

「傷つけられて怒りでもしたか? どこに考える頭があるかも分からねえが・・・・・・よっと」

 振り下ろされたこぶしを大剣で受け流すと、その腕に再び切りつける。何度同じことをしただろう、巨人の攻撃を幾度か受け続けた大剣は、ベキリと真っ二つに折れた。

「くそっ、使えねえ。次だ次」
「くくっ、おい下種、貴様が手にしている武器、それが何か知っているのか?」
「は? 知るかそんなもん」


 折れた大剣を投げ捨て、今度は槍を手にした聖亜を見て、椅子に座って彼と巨人の戦闘を眺めていた少女が、残酷そうに唇の端を歪めて聞いてきたのに対し、聖亜はそっけなくそう答えた。

「くくっ、知らぬか。そうであろうなあ。良いか下種、妾は今とても気分が良い。ゆえに教えてやろう。貴様が今しがた壊した大剣も、そして手に持つ槍も、ここに並ぶすべての武器の材料、それはなぁ・・・・・・」



 そこで一度言葉を切ると、少女はおかしくてたまらないという風に笑みを浮かべた。




「苦悶と絶望の中、もがき苦しみながら死んでいった人の魂を凝縮した物よ!! どうだ? これぞ人の業の最もたるものであろう? 死者に安らぎを与えず、死後もその魂を行使しているのだ。無論武器だけではない。この砦も、川原に落ちている小石の一粒でも同じことよ。船から降りた時、川辺が妙に光っていなかったか? あれは石にされた者の魂が絶望の声を発するときに光っておるのだ!!」



「あっそ。で? それがどうかしたのか?」


「・・・・・・何?」

 高笑いを上げる少女には目もくれず、巨人が伸ばしてきた腕の上に跨ると、聖亜はそのまま相手の肩まで駆け上がり、巨人の顔の部分に槍の穂先を思いっきり突き刺した。

 ベキリと音を立てて槍の柄が折れる。だが深々と突き刺さった刃は、巨人を仕留めるには充分であったらしい。もがき苦しみながらよたよたと数歩後退すると、巨人はどうっと仰向けに倒れ、ふっと掻き消えた。

「俺の知らないやつがどうなろうと、そんなの俺の知ったことじゃないね。俺は、俺と俺の唯一と、そして知っている奴らを助けるためなら、他の奴らは見殺しにする。顔も名前も知らないやつがどうなろうと知ったことか」

「・・・・・・」

「さ、早く下僕とやらを出せ。そいつらを全部ぶっ殺して、最後にお前を引きずり落とせば、こっちの勝ちだ」

 折れた槍を捨て、今度は双振りの小刀を手にする。身構える聖亜を、少女はムッとした表情で睨み付けていたが、やがて面白くなさそうにため息を吐いた。

「ふん、そうか。下種、貴様はそういう奴か。だが、我が下僕の一体を倒したぐらいでいい気になるなよ? 行け、第二の下僕、第二地獄“アンテノーラ”」

 少女の声に、彼女の肩に止まっている鳥がバサリと浮き上がり、甲高く嘶いた。と、鳥に向かって周囲の冷気が流れていくのがわかる。冷気を吸収し、百倍ほどに膨れ上がったその姿は、怪鳥と呼ぶにふさわしい物であった。怪鳥は敵意のある視線を聖亜に向けると、一度大きく羽ばたいた。すると、鳥の周囲に、巨大な氷塊がいくつも浮かび上がる。そして鳥が再び羽ばたくと、浮かんでいた氷塊が、聖亜に向かって一気に襲い掛かってきた。

「ふん、今度は鳥が相手かよ」

 愚痴をこぼしながら、降ってくる氷塊を躱していく。といっても、何発も降ってくる氷塊を避けるのは本当にギリギリだ。こういう時は、素直に小柄の肉体でよかったと思う。氷塊を投げつけ、相変わらず浮かんでいる鳥に舌打ちすると、聖亜は手に持った双振りの刃を放り投げ、近くにあった銃を手に取った。復興街にいた時、銃は何度か撃ったことがあるが、正直射撃の腕に自信はない。だが、相手があれほど大きければ、何処を狙っても当たるだろう。だが、狙って撃った弾丸は鳥に当たることは当たったが、豆鉄砲並みの威力もなかったらしい。相手は首を傾げて終わり、ただそれだけだった。

「くそっ、さっさと降りて来い、このバカ鳥!!」

 聖亜の怒鳴り声が聞こえたかどうかは知らないが、軽く首を傾げると、怪鳥は再び羽ばたきをする。また氷塊でもふって来るのか、と聖亜は身構えたが、冷気は氷塊となることはなく、怪鳥に纏わりついて固まっていく。そして、冷気が鳥の体のすべてを覆った時、そこにいるのは怪鳥ではなく、巨大な鳥の形をした、氷の彫像であった。

「おいおい、まさかだろ?」

 冷や汗を流しながら後ずさる聖亜の悪い予感は、どうやら当たっていたらしい。鳥の彫像はゆっくりと羽を畳むと、そのまま聖亜に向かって一直線に“降って”きた。

「くそったれ!!」

 毒づきながら横に大きく飛び退く。その瞬間、聖亜が先程まで居た空間を、何かが物凄い速度で通り抜けて行った。

ズゴンッ

 と、何かが衝突する音がして、部屋全体がびりびりと震える。立ち上がった聖亜が音のした方を向くと、壁に思いっきりぶつかってよたよたと千鳥足で歩いている。

 チャンスだ、そう思った聖亜は振り向きもせず、右手で辺りを探った。と、長い棒のようなものに手が当たる。それをぎゅっと握りしめ、ふらついている怪鳥に向けて駆け出した。

 しかし、怪鳥の所まであと数歩というところで、聖亜の歩みは止まった。それどころか彼の顔は青ざめ、体中がガタガタと震えている。

「くくっ、どうした下種、攻撃のチャンスだぞ?」
「て、めえ・・・・・・」

 そんな少年を見て、空中に浮かぶ椅子に座っている少女が蔑むように笑う。彼がそれ以上進めないのは、怪鳥の体から発せられる強烈な冷気のせいだ。少し近づいただけで、聖亜の体は凍りつき、ところどころ凍傷により皮膚が避け、さらにそこから血が噴き出し、その血ですら瞬時に凍りつき、彼の体に纏わりついていく。その間、怪鳥は正気を取り戻したのか、大きく羽ばたきながら再び空へ舞いあがった。

「じり貧だなぁ、下種よ。いいことを教えてやろう。今の貴様は精神体であるが、精神が死んだ場合、貴様の肉体は壊死する。さて、貴様が死んだ後も、あの女は柳準の世話をするだろうか? しないだろうなぁ。良くて研究材料、普通に考えれば、研究員共の慰み者であろうよ!!」

「黙れぇ!!」

 少女の嘲りは、準のことをけなされると激昂するという聖亜にとって唯一といってもいい弱点を的確に突いていた。しかし、それはかえって逆効果でもあった。

 再び怪鳥が氷の彫像となって突っ込んでくる。それに聖亜は真正面から突っ込んでいった。途端に冷気が体に吹き付け、あちこちの皮膚が避け、血が噴き出す。だが、激昂し、怒り狂うことで聖亜は凍傷による痛みを忘れていた。彫像の嘴部分が当たるその直前、聖亜は大きく跳躍し、相手の頭部に降り立つと、先ほど手に取った武器である巨大な木槌を振り上げ、思いっきり叩きつけた。一度目の打撃で氷にひびが入り、二度目の打撃で粉々に割れ、怪鳥がその姿を現す。三度目の打撃で目を回し、四度目の打撃で頭蓋骨にひびが入り、五度目、六度目、七度目と叩きつけていくうち、怪鳥の頭は粉々になっていき、聖亜が木槌を振り上げた時、その姿はふっと掻き消えた。





「ふむ、我が第二の下僕であるアンテノーラすら倒すとは、素直に賞賛してやろうではないか、下種よ。だが」

 ふと、少女は言葉を切ると、蔑みなどなく、むしろ憐れみを込めて聖亜を見下ろした。少年は床に倒れ、荒く息をしている。怒りで一時的に忘れていた凍傷の痛みが、倍になって襲ってきたためだ。



「その身体で、そなたはまだ妾に挑もうというのか? こちらには、まだ最後の下僕が残っているのだぞ? 今地べたに頭をこすり付けて謝罪すれば、ペットとして飼ってやっても良いが」

「・・・・・・うる、せえ。さっさと、下僕とやらを出せ、この、クソ餓鬼、が」

 もはや唸り声のようにしか聞こえない声を出し、凍った血がこびりついた右手を挙げ、中指を突き上げる。それを見て、少女はふんっと鼻を鳴らした。

「童の最後の良心を突っぱねるか。ならば死ぬが良い。言っておくが、アンテノーラを倒した貴様であっても、我が最後にして最強の下僕、第三地獄“トロメーア”を倒すのは不可能だ。奴は実力でいえば我ら氏民の下級貴族にも匹敵するからな。それと、何か勘違いをしているようだが、トロメーアはすでに貴様のそばにいるぞ?」

「は? 何言って・・・・・・ぐぁっ!?」

 背中を襲った衝撃に、聖亜は前に倒れた。痛む身体を無理やり動かして後ろを見るも、そこには何もない。だが、今度は鳩尾を何かが殴りつけたような衝撃に襲われた。そしてこの時、彼はようやく相手の正体を悟った。


「こいつ、透明か!!」


「なんだ、もう気づいたか。面白くない。だがその通り、我が最後にして最強の下僕たるトロメーアの正体は透明な氷よ。まさか目に見える氷だけが全てと思っているのではあるまいな? さて、透明な相手に貴様はいったいどうやって抵抗する?」

「透明だからって実体がないわけじゃねえだろ・・・・・・痛いけどしょうがねえか、くそっ」

 今度は腹部に横から衝撃が走る。激痛に顔を歪めながら木槌を振り上げ、自分の腹部に当たったそれに、思いっきり振り下ろした。

カンッ

「・・・・・・は?」

 だが、木槌が当たったのは、自分の体にぶち当たった見えない相手の武器ではなく、氷の床であった。外れたかと思ったが、いまだ腹部に相手の武器の感触がある。ということはつまり、

「ふん、トロメーアに実体などない。貴様が今までやってきた大剣による斬撃も、槍による刺突も、銃による銃撃も、そして木槌による打撃も、全て我が下僕の体をすり抜けるだけの話よ」

「そん・・・・・・な、卑怯だぞ、てめ、ぐっ!!」

 鳩尾に、何本もの棒が突き刺さる。そのまま持ち上げられた聖亜の体は、勢いをつけて床に叩きつけられた。

「がはっ!!」

 肺の中の酸素が、一気に外に押し出される。ぴくぴくと痙攣する少年の体を、実体のない敵は容赦なく踏みつけた。聖亜の中で、ぷつんと何かが切れたような音がし、その体から力がふっと抜けた。



「ふん、死んだか」



 少女は椅子からふわりと浮きあがると、動かなくなった少年の横に静かに降り立ち、その身体を小さな足で軽く蹴飛ばしてみた。反応はない。

「くくっ、妾にどうこうするとかほざいていた奴が、結局最後はこうなるか。ま、多少は楽しめた。下種・・・・・・否、もはやゴミか。おいゴミ、妾を楽しませたことだけは褒めてやるぞ」

 少年の体を蹴り飛ばすと、少女は再び浮かび上がり、ゆっくりと椅子に座りなおした。

「ふん、ゴミは後で片付けさせるとして・・・・・・だが、妾に唾吐いた代償は、あのゴミだけでは到足りんな。そうさな、あの柳準とかいう奴を殺して、永遠の地獄を体験させてやるか」

 少女が、本気とも冗談とも取れることをぼんやりと呟いた時、





                 ドクンッ





「・・・・・・む?」


 ふと、何かの鼓動を聞いたような気がして、少女はもはや関心を無くしたゴミをみた。ゴミは、相変わらず無様に床に転がっていたが、その身体が、いつの間にかぴくぴくと痙攣している。


「生き返ったか? だが、生き返ったからと言って同じこ・・・・・・ひっ!?」

 いきなり、砦が揺れた。それは彼女がここに居を構えてから初めての事であり、少女は本当に久しぶりに悲鳴を上げた。

「き、きさ、貴様ぁ!!」

ドクン、ドクン、ドクンッと、力強く脈打つ鼓動に合わせて静寂にして冷厳たる砦が震える。それに恐怖を覚えた少女は、右手を挙げ、空中に五十メートルはある巨大な氷河を出現させた。

「貴様はもはや影すら残さん!! 塵一つ残さず消え失せろ!!」

 少年の小さな体めがけ、巨大な氷河を投げつける。それは自らの発する冷気により周囲を凍てつかせながら少年に向かっていくが、ふと、その動きが止まった。それだけではない。氷河は一度大きく震えたかと思うと、その先端から溶けていき、五十メートルはあった氷河が溶けきるまで、一秒ほどもかからなかった。


「貴様・・・・・・貴様ッ!!」

「・・・・・・殺させない、準は絶対に殺させない。あいつは俺の唯一だ。何を犠牲にしても、たとえ俺が死んだとしても、あいつだけは絶対に殺させない!!」



 そして聖亜は、その右手を変えた。巨大な、炎そのものに。



 まず少年の細く、そして白い腕がその姿を変えた。ぼこぼこと醜く膨れ上がり、肉ではなく、どこか硬質な、鉄のようなものに変わっていく。肩が裂け、そこから巨大な排気口が四つ、その姿を見せた。腕からはパイプが何本も突き出し、排気口と共に周りに蒸気を噴出する。そして腕が全て変わると、今度は手だ。手首は回転するタービンにその姿を変え、手のあった部分は赤く光る灼熱の剣へと変わった。

 炎の偽剣、レバンテイン。彼の中でいまだ目覚めることのない炎也がいなければ、気が狂うほどの激痛に苛まれるその禁断の武器を、聖亜は発動させた。



「馬鹿な・・・・・・姿形は似ても似つかぬが、深淵の御手、その中で最強と言われる真紅の御手だと!? 貴様、赤王に連なるものか!!」


「親なんて知らないね。俺の家族であり唯一は準だけだ。だから絶対に準は殺させない、絶対に苦しめさせない、そう誓った。だから、あいつを、俺の唯一を傷つける手前は、ここで俺が潰す!!」


「トロメーア!!」


 少女の声に、実体無き透明な彼女の下僕が少年に襲いかかる。だが、聖亜が燃える剣を一閃すると、それは姿を現すことも悲鳴を上げることもせず、一瞬で溶け消えた。

「く、やはり赤王に連なるものに間違いないか。だがあの家に生まれるのは全て女のはず、男が生まれるなど、今までなかったことだ」

「何ぶつくさ言ってる、さっさと次の下僕を出せ。ああ、そういえばさっき最後って言ってたな。じゃああとはお前をぶっ潰せば、それで終わりってわけだ!!」

 聖亜が灼熱の剣を一振りすると、今度は真っ赤に燃える弓へとその姿を変えた。偽剣は剣に非ず。その最大の特徴は、自由自在に形を変えられることにある。聖亜が左手を弓に添えると、そこに燃え盛る矢が姿を見せた。たちまち左手が腕ごと火膨れになっていく。しかし、そんなものに構ってはいられない。ぎりぎりと力いっぱい弓を引くと、少女に向けて矢が放たれる。


「なめるな下種が!!」


 自分に向かってくる灼熱の矢を防ぐため、少女は何重もの巨大な氷の壁を前方に出現させた。しかし、そんな物は矢の発する熱の前には水滴に等しい。次々と氷の壁を溶かしながら、矢は少女に向け一直線に突き進む。

「くっ、来い!! 最終地獄“ジュデッカ”!!」

 少女が叫ぶのと、彼女に炎の矢が突き刺さるのは、ほぼ同時であった。辺りにモクモクと水蒸気が上がる。それに隠れて少女の姿は見えない。焼き殺したとは、聖亜は考えなかった。


 そしてそれは当たっていた。水蒸気の中から、何か細長い物がヒュッと空気を切り裂きながらこちらに向かってくる。それを、聖亜はとっさに右手を弓から剣に代えて弾いた。


「貴様・・・・・・貴様貴様貴様ッ!! 妾にこのような辱めを与えたこと、万死に値するぞ!!」

 水蒸気が晴れた時、そこにはあちこちを焦がした少女の姿があった。しかし、先ほどのゴシックロリータな服とは違い、青白い鎧兜に身を包み、右手に盾、左手には鞭と剣が一緒になったような、いわゆる連接剣と呼ばれるものを握っている。

「我が切り札たるこの最終地獄“ジュデッカ”。それを目に出来たことを光栄に思いながら切り刻まれろ!!」

 少女が連接剣を振り上げる。それは少女の頭上で巨大化し、さらに一つの巨大な刃が百の細長い刃に分かれていく。それはまるで蛇のように身をくねらせながら、聖亜に向かって行った。


「がぁあああああッ!!」

 
 絶叫を上げ、聖亜は前に駆け出した。巨大な刃が聖亜の左右に突き刺さり、時には聖亜の身体を削るように掠めていく。だが、身体に走る激痛も、少年の突撃を止めることはできなかった。

 だが、ついに連接剣の何本かが右腕に巻きつく。たちまち周囲に水蒸気が立ち込め、聖亜の姿も、そして少女の姿も濃い靄の中に隠れた。

「どうだ、この靄の中、妾の姿をとらえることは出来ぬであろう。だがジュデッカは確実に貴様を補足している。さあ、これで終いだ。何もかもな!!」
 
 勝ち誇った笑みを浮かべた少女が連接剣を振ると、その百に分かれた刃が全て前方に向かって行く。姿は見えないが、おそらく今頃はズタズタに切り刻まれているだろう少年の姿を思い描き、少女が残忍な笑みを浮かべた、その時

「阿呆が!!」
「クアッ!?」

 その腹部に、強い衝撃が走った。

「きさ、貴様、何故ここにいる!!」
 
 少女を殴り飛ばし、倒れたその身体の腹に足を乗せると、聖亜は先程彼女を殴り飛ばした木槌を右肩に担いだ。そしてそれを見て、少女は目を見開いた。先ほどまで醜く巨大な鉄と蒸気の塊になっていたその右腕は、今では焼け爛れているものの、すっかり元通りになっている。

「貴様、真紅の御手を解いたのか!?」
「ああ。あの腕はあんたらにとって特別なものらしいが、俺にとっては武器の一つにすぎないからな。邪魔になったら解除するだろ。さて」
「貴様、何時まで妾の上に乗っているつもりだ!! さっさとはな・・・・・・うぐっ!!」

 わめく少女を、聖亜は足に体重をかけて黙らせた。呼吸ができなくなったのか、少女は目を血走らせ、それでも屈しないという風に、憎悪を込めた視線で睨み付けてくる。

「さて、どうすっかな。ここでこいつを殴ってもこっちの気が晴れるだけで、どうせこいつの事だろうから、俺じゃなくて準の方に何かするに決まっているし、かといって何もしないっていうのも・・・・・・ああくそ、あれしかないか」

「は? な、何をするきだ、きさ「黙れ」むぐっ」


 


 今なおわめく少女の口を、聖亜は強引に塞いだ。 自らの口で 

































 それからどれぐらいたっただろうか。衣服が乱れ、剥き出しになっている小さな白い胸に赤い何本もの指の痕をつけ、身体全体を白濁の液で真っ白に染め上げ、陰部から血と精液が混じったものをごぽごぽと流している目に光がない少女を無表情で見下ろすと、聖亜は一度深くため息を吐いた後、自分の着ている服を脱ぎ、彼女の体の上に放り投げた。


「・・・・・・当然の報いだ」


 はっきり言って、彼女ぐらいの年齢の少女を犯したのはこれが初めてではない。復興街にいたころは、幼少のころに師匠に童貞を奪われてから、何百という数の女を彼は抱いてきた。そしてその中には、彼女と同年か、彼女より低い年齢の少女を犯したことも何度かある。だが、準と出会ってからはほかの女を犯すといったことはほとんどなくなり、たまに犯したとしても今感じているように、後には虚しさだけが残った。はっきり言えば、彼は性交という行為自体があまり好きではない。だが、この傲慢極まりない少女が準に危害を加えないようにするには、こうして“壊す”必要があった。


「当然の、報いだ」


 もう一度、自分の中の虚しさを吐き出すように呟く。その声に反応したのか、服の下にいる少女がビクッと震えた。 

「起きたか? ならさっさと消えろ。お前が準に手出ししないなら、もうどうでもいい」
「・・・・・・く」


 ふと、服の下にいる少女が呻いた。泣いているのか? そうぼんやりと思っている聖亜の前で、彼の服で裸体を隠した少女は、ゆっくりと起き上がった。

「く、くくくくくっ」
「なんだ、何処か壊れたか? それとも、まだ懲りてないのか?」

 少女は泣いていない。笑っているのだ。そのことに気付いた少年が立ち上がりかけた時である。


「くく、いや、さすがにこれ以上交われば身体に害が及びます。我が主」
「・・・・・・は?」

 少女は自分の身体を汚す精液を指で掬い、愛おしそうに顔に塗りたくると、その指をぱちんと鳴らした。すると、乱れたドレスも、彼女を汚す精液もそのすべてが一瞬で掻き消え、彼女は元の紫色のゴシックロリータなドレスに身を包み、そのドレスの両端を摘まむと、優雅に一礼して見せた。

「私(わたくし)、かつて青界の女王を務めておりました“真理の探究者”コキュートスと申します。以後、末永くご寵愛をくださいませ、我が主」
「・・・・・・お前、頭おかしいのか? 何で今まで殺しあったやつを、いきなり主だなんて呼ぶんだよ」
「それはもう、身も心も屈服しましたゆえ。私は、我が主が主のままでいらっしゃる限り、全ての問いに助言と答えを差し上げます。それがどのような問いであろうとも、必ず答えを差し上げましょう」
「・・・・・・」
 聖亜は、自分を光悦な表情で見つめる少女をしばらく訝しげに見つめていたが、やがてぽつりと一言、勝手にしろと言ってぷいっと横を向いた。

「んじゃ、今度こそ答えてくれるな。ここはいったいどこなんだ?」

「はい主様。ここは高天原最終試験の場所になります。私があの女、黒塚神楽に命じられたのは、ここに来ることができた者に、降り神の儀に成功した後使用する武器を与えるというものです。もちろん、ご主人様にもここから一つ、何かを持ち出す権利がございますが、まさかご主人様は、寵愛を与えた下僕をここに置き去りにはいたしませんよね?」

「・・・・・・まあ、別に武器は欲しくないし、お前を連れて行けって言うなら連れて行ってもいいんだけど、一ついいか?」
「はい、何でございましょう、主様」

 聖亜の言葉に嬉しそうな笑みを浮かべて小さな身体を摺り寄せ、ごろごろと猫のように喉を鳴らす少女の頭を優しく撫ぜると、聖亜はふと頭を傾げた。

「いや、俺って随分前、お前と同じ名前の奴にあったような気がしたような?」
「ああ、たぶん主様は、恥知らずの本体に逢われたのですわ」
「本体? じゃあお前は」
「ええ。私はコキュートスの分体になります。今から数十年前、想い人を亡くし、絶望した愚かな女が自分の力を恐れ、分離させた二つの分体、そのうち記録と情報をつかさどるのが私です。ですから私はあの女が使用していた深淵の御手、“最良”たる群青の御手は使えませんし、またコキュートスという名を使うことも忌避するため、今ではアンチパンドラと名乗っています」
「アンチ・・・・・・パンドラ?」
「ええ。ご主人様はパンドラの箱というものをご存知ですか? この世のすべての災厄を詰め込んだ箱、その奥底にあるたった一つの希望、それは忘却です。しかしコキュートスの記憶と情報を司る私は、何かを忘れるということができませんから・・・・・・ゆえに私は、アンチ(否定)パンドラというわけです。まあ、名前が長いと思われるなら、アドラでもアパラでも、お好きなように略していただいて結構です」
「あのな、女の名前をアパラなんて呼びたくないって。それよりはアドラ・・・・・・は、まだ女っぽくないな。ならドをトに代えて、アトラでどうだ?」
「アトラ・・・・・・ですか?」

 アトラ、アトラと少女はしばらく呟いていたが、やがて合点がいったのか、にっこりとほほ笑んだ。

「かしこまりました。ではこれより私のことは、アトラとお呼びください。あなたがあなたでいる限り、私はいつまでもあなたに従います。我が主」
「はいはい、まあこれからよろしくな。さてと、じゃあさっさとここから出るぞ。試験とやらは、もう終わったんだろ?」
「ええ、それでは出口にご案内いたします。ああ、少々お待ちを」
 少女、アトラが右手を挙げると、小さな氷でできた人型の人形が、部屋の中央に浮かび上がった。
「あれは?」
「私の代わりです。ま、あんなものでも今まで私がやっていた作業は出来ますから。さ、早く行きましょう、我が主」
「ん、ああ」

 ふわふわと浮かびながら前を行くアトラに従って、聖亜は氷の砦から外に出た。草原を歩いている途中、ふと遥か彼方に帆に炎を灯した三隻の巨大な船が見える。

「なあ、あいつらは何でここを目指すんだ?」

「ここに不老不死があると、本気で信じているからです。まあ、人の魂を取り込めば、その人間が生きた分だけ寿命が延びますけど・・・・・・主は、不老不死が欲しいですか?」
「・・・・・・いや、俺の夢は準と一緒に生きて、準と一緒に爺さんと婆さんになって、それから一緒に墓に入ることだ。不老不死になんかなったら、その夢がかなわないからな。たとえなってくれって懇願されても嫌だね」
「ふふ、それでこそ我が主。さ、ここが出口です」
 
 砦から草原を真北に歩いたところに、ぼんやりと光る靄のようなものがある。ここが、アトラの言っている出口なのだろう。軽く頷くと、聖亜は少女の手を握りながら靄の中に入っていく。

「・・・・・・あら?」

 その時、アトラはふと聖亜が腰に差している物に気付き、少し考え込んだ後、ふと微笑した。それは、彼が最後に使用していた、ただの古びた木槌であった。













「・・・・・・ん?」
「あ、起きた?」

 誰かがゆさゆさと自分の体をゆすっている。顔をしかめながらぼんやりと目を開けると、目の前に心配そうにこちらを見つめる小百合の顔があった。

「小百合? 俺・・・・・・寝てたのか?」
「君だけじゃなくて、みんな寝てたよ。僕が起きたのが十分ぐらい前で、みんなその前に起きたんだって」
「・・・・・・ああ、そうか」

 ぼんやりとした頭で周囲を見渡すと、自分が起きたことに安心したのか、優しげな笑みを浮かべる優の姿があった。廊下側の隅にいる森谷は相変わらず何かぶつぶつと呟いているし、後ろの席にいる横尾は、髪の薄い巨漢、清原と何事か話している。

「・・・・・・なら、さっきのは全部夢だったってこ『夢とはひどい言いぐさですね、我が主』うおっ!?」
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
「ああいや、なんでもない」

 頭の中に急に響いた少女の声にびくりと体を震わせた少年を心配してか、小百合が再び覗き込んでくる。安心させるように頭を撫ぜてやってから、聖亜は誤魔化すように机に突っ伏した。

(いきなり話しかけるなって、アトラ。お前がいるということは、さっきのは全部本当の事なのか?)

『ええ。私と主が戦ったのも、交じり合ったのもすべて実際にあったことです。まあ、精神体での話ですが・・・・・・しかし、随分と現界も変わりましたね』

(そうか? まあ、ずっとあの場所にいたというなら、こっちの様子はさすがにわからないか)

『そうですね。ふふっ、変わったこちらの様子を見れるだけでも、主についてきたかいがあったというものです。後でいろいろ見て回らせていただきますね』

(・・・・・・ま、好きにしたらいいさ)

『は。好きにさせていただきます。ところで主、お気をつけください。どこの馬の骨かはわかりませんが、主に蔑視の感情を抱いているものが向かってきます』

(蔑視? ああ・・・・・・あいつか)

 アトラとの会話を終えて、ゆっくりと顔を上げる。その数分後、教室のドアが開き、生理的に嫌悪感を抱かせる男が入ってきた。彼らの担任である菅間である。

「あ? なんだお前ら、死んでねえじゃねえか。屑どもが、人を煩わせるんじゃねえよ」

 ポマードで固めた髪をガシガシと掻きながら、二十代のくせに酒とたばこのやりすぎで臭い息を吐き、頬が弛みきった男は教室の壁をゲシゲシと何度か蹴った後、さも面倒くさそうな顔をして教壇に上がった。

「ま、お前ら屑には何も期待なんてしねえから、さっさと死んでくれや屑。というかお前ら、志願組のくせに何夢なんて持ってんの? 屑はさっさと死んでくれねえかな、ほんとによ!!」

 教壇を蹴りながら頭を掻いていた菅間は、仕方ないという風にため息を吐いた。
「取りあえず、手前らさっさとここから出てけ。あ~あ、明日もこいつらの面倒見なきゃいけないのかよ、こんな屑たちを気にかけてやるなんて、俺って優しいな、おい」

 いきなり自画自賛し始めた最悪な教師を、聖亜は殺してやりたくなったが、まだ我慢の限界ではなかったのと、先に立ち上がった優が声をかけてきたので、彼と小百合と連れ立って、寮に戻ることにした。


トン、トンッ

「ん? はい、誰だ?」

 聖亜達に割り当てられている部屋の戸が叩かれたのは、教室を出て寮に戻り、普段着に着替え終わった時だった。

「えっと、誰か来たの?」

 窓にかかっていたカーテンを外し、仕切りにした向こう側から小百合が顔だけ覗かせて心配そうに尋ねる。

「ああ。小百合、お前は念のためそっちにいてくれ」
「う、うん。分かった」

 自分の言葉に頷いて、小百合の顔がカーテンの向こう側に隠れたのを確認すると、聖亜はノックされた扉をゆっくりと開いていき、数センチほど開けた後、苦笑して残りを一気に開けた。

「う~っす、聖亜、遊びに来たッすよ」
「・・・・・・誰だっけ」
「え? いや、今朝方自己紹介したばかりじゃないっすか!! 横尾っすよ、横尾忠義!!」
「あのな、冗談だよ、冗談」

 必死に自分の名を繰り返す横尾を面白そうにみると、彼は横尾の後ろにいる北条優の姿を見た。苦笑している彼の手には、大きなビニール袋が二つ下がっている。

「それで? いったい何の用だ?」
「ああ、ちょっとこれから俺らの部屋で自己紹介も兼ねた歓迎会みたいなのをしようと思ったんすよ。けど、ほとんど誰も参加してくれなくて。今のところ、参加するのは俺と同部屋の、北条と清原だけっす」
 どうやら、同級生たちは横のつながりをあまり作りたがらないらしい。所詮、黒塚家とつながりを持つことを期待されて入学した生徒たちだ。そんな連中となんて、別に仲良くならなくてもいいだろう。

「分かった。ちょっと聞いてみる。小百合、聞こえていると思うけどそういうわけだ。歓迎会、出るか?」
「え・・・・・・歓迎会って、お菓子とかある?」
「あ、ああ。あるっすよ・・・・・・って、まさか聖さん、あんたまさか小百合さんと同部屋っすか!? 男女一緒の部屋何てふけぶふぁっ!!」
「はいはい、さ、早く行くぞ」
 喚き散らす横尾をぶん殴ると、聖亜はふっと微笑し、出てきた小百合の手を取ると、そのまま横尾たちが待っている廊下へと出ていった。



「ふ~ん、じゃ、聖さんは最初入学試験とは知らずに受けたんすか」
「ああ、まあな。じゃあみんなは最初から入学試験と知って受けたんだな」
 寮の一番奥にある三人部屋で、優が買ってきたリンゴジュースを飲みながら、聖亜は自分たちの身上を話した。彼の隣で小百合は小さい口で大きなクッキーをポリポリと栗鼠のように頬張っている。
「・・・・・・ていうか、知らねえで入ってくる方が珍しいだろ」
 ぽつりとつぶやいて、清原はコーラを喉に流し込んだ。コーラ好きなのか、すでに彼は四本目の瓶に突入している。
「そういえば、皆さんはどうして試験を受けられたんですか?」
 不意に、オレンジジュースを手に持って優しい笑みを浮かべている優がぽつりと呟いた。
「へ? あ、ああ。俺っちは友達の兄貴がここに入学したからっすよ。なんでも黒塚家とのつながりができて、そのまま高天原ってところに就職できるらしいんで、まあ、就職活動しなくていいらしいっすからね」
「・・・・・・俺はここに行けと言われただけだ」
「えっと、僕もそうだよ。育ててくれたばあちゃんが死んじゃった後、見知らぬ人が来て・・・・・・」
 
 嘘だな。小百合が話しているのを聞きながら、聖亜は横尾の顔をちらりと見た。彼はおちゃらけた三枚目を気取っているが、彼にはそれが何かの演技に思えてならなかった。それはおそらく、自分がかつて彼のように道化を演じていたことがあったからだろう。

「えっと、僕は自分の力を試したいとかそういう奴なんですが・・・・・・清原さんは何ですか? 志望理由」
「・・・・・・俺ぁ、親父に言われてきた」
「お父さんに? じゃあ僕たちとおんなじだね」
 仲間ができてうれしいのか、嬉しそうに笑う小百合に面喰い、清原は何かを隠すようにぐびりとコーラをあおった。
「いや、俺の場合はそういう親父ではなくて・・・・・・まあいい、どうせあんま変わらねえんだ。そっちの解釈でいいぜ」
 静かに言う清原のすぐ隣で、横尾が何か言ったのか北条がくすくすと笑っている。どうやら、横尾や清原は、友達にはなれなくとも仲間にはなれそうだな。そう思いながら、聖亜は静かに缶ジュースを傾けていた。





 歓迎会が終了し、部屋に戻った皆が寝静まった夜の事である。雲一つなく星いっぱいの空の下、コキュートスの分体であり、主である聖亜からアトラという名をもらった少女は、主の眠る寮の屋上で、そっとため息を吐いた。

「・・・・・・占星術も同じ。タロットカード、風水、気学九星、そして水晶占い。その他、妾の知るすべての占いで同じ結果となっている。なら、やはり我が主の居場所はこの世界には無い、か」

 伏し目になり、アトラは主と呼ぶ少年の事を思った。彼を主と呼ぶことに異議はない。否、むしろ彼を主と呼ぶことができることへの喜びが深まっていく。だからこそ、彼がこの世界にいたらどうなるかを、記憶の中にあるすべての占いで占ってみたのだが


 どうやら、その結果は芳しくなかったらしい。


「ま、良い。主の将来がどのようなものであっても、妾は主が主である限り、従うだけのことだ。さて、帰・・・・・・む?」

 ふと、アトラはその顔を西の空へ向けた。

「・・・・・・何かが来る。人ではなく、動物でもない。憎悪と怒りにその身を焦がす大勢の何者かが、ここに向かっている。どうやら、一波乱ありそうだぞ、我が主よ」



 目を閉じたアトラが、寮の屋根からふっと消える。その直後、西の空が真っ赤に染まった。







『これだけか?』

 出雲に向けて進軍する総数約八千の鬼を、小高い丘の上に立つアテルイは不満げに見下ろした。

「ええ。望んだ数の半分にも足りませんが、これ以上時間を費やすと、出雲に辿り着く前に確実に気づかれてしまいますからね」

『だがこれでは出雲に張られた結界を破ることはできないのではないか? 酒呑童子、奴の姿も見当たらないではないか』

「いいえ、今出雲に張られた結界は、昔と比べて確実に弱まっています。特に出雲の西部を守護する結界はないも同然。おそらく、それほど兵を浪費することなく、結界を破ることが可能でしょう。それに、酒呑童子様とは、残念ながら連絡が取れませんでした」


『悪知恵しか能のない小童が・・・・・・まあ良い、貴様の話を信じることにしよう。さて』




 不意に言葉を切ると、アテルイは後方に跪く巨大な二柱の鬼の方を向いた。

『貴様らにも存分に働いてもらうぞ、牛頭、馬頭よ。わざわざ地獄から引っ張ってきたのだ。儂を失望させるなよ?』

 アテルイの十倍の背丈を持つ、牛の頭をした鬼が巨大な戦斧を、馬の頭をした鬼が巨大な槍をドンドンッと地面に打ち付け、興奮したように鼻を鳴らす。

 それを見て満足そうに頷くと、アテルイは斬馬刀を引き抜き、前方に突き付けた。


『さあ、目指す地は出雲。今宵こそ奴らの血で、我らの喉を潤してくれようぞ!!』






 それに最初に気付いたのは、休暇中に恋人との逢瀬を楽しんでいた高天原の職員だった。


「ね、あれ・・・・・・何?」

 町はずれの川原で、二人で蛍を見て楽しんでいた時、彼女がふと、蛍が放つはずがない、どす黒い真っ赤な光を見て指さした。

「ん? なん・・・・・・だ?」

 振り向いた男の顔に、びしゃりと何かが付着する。それは、半ば両断された女の首からどくどくと溢れ出る、真っ赤な鮮血であった。

「あ、あがぁああっ!!」

 殺された恋人を見て、男は絶叫を上げようとしたが、今度はその口に、巨大な槍が叩き込まれた。びくん、びくんと痙攣しながら男は事切れる。だがその寸前、男は万一の時を考え、奥歯に埋め込むことが義務付けられているそれを強く噛んだ。それは毒でもなんでもない。高天原本部である出雲大社に、緊急を知らせる装置であった。



「・・・・・・うるせぇ」



 外が何か騒がしい。複数の人間が激しく動き回る気配に、聖亜はぼんやりと意識を浮上させた。いつの間にか上に乗っている小百合を静かに横に降ろし、時計を見ると深夜一時半を指している。と、ドンドンっといきなり部屋の扉が強く叩かれた。

「・・・・・・何です?」

 寝不足のため、すこしむっとしながらドアを開けると、見たくもない顔があった。自分たちの担任である菅間である。

「おい屑、緊急事態の時にいつまでも寝てんじゃねえよ、ったく、これだから手前らはダメなんだよ。おら、さっさと着替えて寮前に集合しろや、手前らがいくら屑でも、それぐらいは出来んだろ」

「・・・・・・」

 口の端から泡を吹き、血走った目でこちらに向かって何かわけのわからないことを喚いている男の言うことなど、聖亜はさっぱり理解できたなかったが、どうやら外に集合しろということらしい。聖亜はげっそりとした顔でため息を吐くと、取りあえず小百合を起こすため、ドアをぱたんと閉じた。






「それで、これから一体何が始まるんでしょうか」
「・・・・・・そんなの知るか」

 隣に立っている優の質問に、聖亜は眠たげに答えた。小百合など、彼に寄りかかってむにゃむにゃと眠りこけている。自分たち以外に集められた十数人も、どれも似たような感じだ。

「おせーぞ屑ども!! しかもまだ寝ぼけてやがるだと? なめてんのか手前ら!!」


 寮の中から、菅間が右手に木刀を持って現れる。その左後方に、着物を着た美しい女性が静かに付き添っていた。



「あの、先生? 緊急事態ってなんなんですか?」
「あ? 誰が緊急事態って言った? これはその・・・・・・「実習です」そう、実習だよ実習、お前ら高天原に入隊するんだ。今は見習いとっても・・・・・・あ~、その、「常在戦場です」そうそう、常在戦場、それを心掛けるためにもな、いついかなる時でも叩ける気構えってやつをだな」

『嘘ですわ、我が主』

(だろうな。それでアトラ、何が起きてる?)

 後ろに傅く女性に助けられながら、わけのわからないことを繰り返し話す菅間のことは気にせず、聖亜は自分の中にいるアトラと会話をしていた。

『ついさきほど、ここよりはるか西方にあまり良くない物を感じました。それも数千ほど。恐らく敵襲です。どうなさいます? 逃げることをお勧めいたしますが』

(いや、それは駄目だ。この街には準がいる。それに、小百合や優を置いていくわけにはいかない。ま、そのほかの連中がどうなろうと、俺の知ったことじゃないが)

『かしこまりました。ですがお気をつけください。あの菅間とかいう豚、何か企んでいるように見えます』

(ただの狂人にしか見えないけどな)


「つぅわけだ。今バスが来るから、手前らはさっさとそれに乗って、し・・・・・・いや、実習場所に行きやがれ!!」


 
「・・・・・・悪い、よく聞いてなかった。どんな話だった?」
 アトラとの会話を終えた聖亜の耳に、菅間の怒声が響く。話を全く聞いてなかった聖亜は、隣にいる優に小声でそう尋ねた。
「話などしていませんよ。単なる罵詈雑言です。しかも屑とか死ねとか、レパートリーが全くありませんでしたけど。それより、小百合さんを起こさなくてよろしいのですか?」
「バスまで俺が連れて行くよ。ま、もう少し寝かせといてやってくれ」

 




「状況はどうなっている!?」

 高天原総本山、出雲大社。その横にある巨大な建物の最上階に黒沼玄が入室したのは、緊急事態の一報を受けた三分後だった。

「はい司令、すでに偵察隊から報告が上がっています。間違いなく敵襲です。敵の種類は鬼、総数約八千。小型の鬼が大多数ですが、中型の鬼も四分の一ほど、おそらく大型の鬼が指揮を執っているものと思われます」

「八千か。今までにない数だな。結界の展開はどうなっている?」

「はい司令、すでに北部、東部共に対鬼用結界“鬼やらい”を発動。住民の地下壕への避難も八割がた完了しております。ですが、南部、および西部の結界を展開するのに、少々時間が必要です」

「分かった。ではいつも通り、四方の結界展開後、結界内より遠距離射撃による攻撃を行い、その後精鋭である第一部隊の攻撃による敵せん滅を行う。それから、結界が完全に展開するまでの間、鬼を食い止める決死隊を作る。だが決して強制はするな、志願者を募れ」


「それにつきまして、下級呪術師である菅間より入電が入っています。“志願者”数十名を確保、これより決死隊を率いて時間稼ぎを行う。だそうです」


「・・・・・・菅間が?」


 高天原の最高司令官である黒沼玄は、もちろん高天原にいるすべての呪術師の名を知っていた。その中には菅間の名前もあったが、彼がそんな殊勝なことをする人間だとは思えなかった。彼は性格的に問題ありと言われた男で、試験は全て不可である。その菅間が下級呪術師となれたのも、そして立志院高等学校特別クラスの担任になれたのも、彼が神楽のお気に入りだったからだ。


「・・・・・・くれぐれも無理はせず、決して死者を出すな。危なくなったらすぐに撤退を許可すると伝えろ。そうだ、神楽様への連絡はついたか」

「いえ、残念ながら音信不通です。結界を展開した場合、電話回線は全て一時的にマヒするため、その影響であると思われます」

「分かった。ではまず、結界の展開を急がせろ。敵は待ってはくれんぞ!!」



「「「はっ!!」」」



 黒沼玄の叱りつけるような鼓舞に、司令部の職員たちはあわただしく動き始めた。









「こんなところで実習か?」

 バスに乗り込んで三十分ほどたった後、出雲市から西に行った所にあるだだっ広い草原のど真ん中に、聖亜達十数人の少年少女は降ろされた。

「確かに、器材も人もいないところで実習というのは、いささか変ですね」
「う~、何ここ? 寒いよう」

 小百合がふるふると小さく震え抱きついてくる。夏とはいえ、やはり深夜は寒い。少女の体を抱きしめ、さすってやっているうち、ほかの生徒たちも異変に気付いたのか、不安そうにざわめいている。ふと、遠くから再びバスがやってきた。降りてきたのは聖亜達より少し年上の男女十数名である。皆、身体のところどころに大小様々な傷を負っており、そのほとんどが暗い表情をしていた。

「・・・・・・お前らが今年の志願組か?」
「は、はい。そうすけど、先輩方っすよね。今から何が始まるんすか? 俺ら実習としか聞いてないんすけど」
 人見知りしない横尾が、先頭にいる大柄な男に恐る恐る尋ねる。
「そうか、気の毒にな。菅間、あいつが去年担任になってから、志願組は地獄だぜ」
「じ、地獄っすか?」
 右頬が深く抉れている男は、からかうようなそぶりも見せず、心底気の毒そうにこちらを見てくる。ほかの生徒も、皆抱き合って泣いたり神に祈るようなしぐさをしていた。
「今までも同じようなことは何度かあったけどよ、さすがに今回は規模が違わぁ。奴ら、俺らのこと使い捨ての道具としか考えてねえんじゃねえか?」
「おい、うるせえぞ足立、さっさと準備しやがれ」
「わ、わぁったよ大場、そう怒るなよな、まったく」
 足立と呼ばれた、長髪の覇気のない青年は、近くにいる男からそう言われ、びくつきながら肩に担いでいるバッグを降ろした。
 バッグの中に入っているのは、剣や槍、木槌といった武器だ。だが手入れはされているが、そのどれもが使い古されている。
「おい一年坊主、お前らも好きなもの取れや。悪いな、本当はちゃんとした歓迎会をやりたかったんだが、初めての顔合わせがこんな感じでよ」

 リーダー格である、大場という名の男が気の毒そうにこちらを眺めてくる。今まで訳が分からなかった横尾たちも、何か辺りに流れる空気を感じ取ったらしい。皆、青ざめた顔で周囲を見渡している。

『おら、さっさと準備しろや、屑ども!!』

その時、バスの上に備え付けられているスピーカーから、菅間の声が辺りに響いた。そういえば、彼は後から行くと言ってバスに乗っていなかった。

「せ、先生、これはいったいどういうことなんすか!!」
 
『これが実習だなんて真っ赤な嘘だよ~ん、今出雲に鬼の大群が迫っている。その数はおよそ八千だ。手前ら屑どもは結界が展開するまでの間、少しでも敵の侵攻を遅らせろ!! 撤退なんかしてみろ、手前らの家族親類、全部地獄に落としてやるぜぇ? だからさっさと準備しろや肉壁!! お? いい言葉だなぁ、これからお前らは志願組じゃなくて、肉壁組だ肉壁組、ひゃはははははぶっ!?』


 菅間の高笑いの最後、いきなり何かが衝突するような音と共に、スピーカーからはもう何の音もしなくなった。

「あ、あたしたち死んじゃうの!?」

 スピーカーが止まってから数分後、皆呆然としていたが、やがて一人の少女が叫び声を上げたのを最初に、皆泣き出したり、頭を抱えこんだりしている。

「ねえ、逃げようよ!! こんなところにいたら、本当にやばいって!!」
「いや、それはやめとけ。あいつは正真正銘の屑だが、言ってることは本当だ。何人か逃げ出した奴がいたが、そいつらは家族と一緒に消されてる。事故という形でな」

「今までも、小規模な襲撃はあったんだ。数十匹、多くても百匹ぐらいでさ。そん時は、みんな傷を負うぐらいで済んだけど、今回はさすがに数が違ぇよ。八千だぜ八千、俺ら間違いなく骨まで食われちまうよぅ」

「足立ぃ!! 手前最初からあきらめるなって、何度言ったらわかるんだよ!! とにかく、奴らを引き付けながら少しずつ後退していくぞ。おい一年坊主、お前らも覚悟決めろ、ここを乗り切ったら、町で一番高い食いもの屋に連れて行ってやるからな!!」









 笑い転げる菅間を、日村総一郎は渾身の力を込めて殴り飛ばした。彼は養母である朱華の頼みで、しばらく朱雀門に陳情に来る人々の応対をしていたのだが、鬼襲来の一報を受け、出雲市の西側にある、かつては白虎穴と呼ばれていたビルにやってきたのである。そして、そこで彼は肉壁と連呼しながら笑い転げる、豚以下の屑と評した立志院高校に在学していた時の同級生と、まったくうれしくない再開をしたのだ。思わず義手の方の手で殴りつけてしまったが、おそらく死んではいないだろう。

「て、手前ぇ!! お、俺様を誰だと思ってやがるんだ。こんなことをして、た、ただで済むと思ってんのか!?」
「ああ、思っている。久しぶりだな、菅間優一」
「ひへっ? あ、手前、ひ、日村じゃねえか!!」
 怒気を込めてこちらを見つめる青年を、菅間は頬を腫らしながら怒鳴りつけたが、相手の正体がわかると、ひっと悲鳴を上げた。
「貴様、あのころとまったく変わっていないな。今肉壁とかいったか? いったいどういうことだ」
「ひ、ひひっ、どうもこうもねえよ。生きていても何の役にも立たねえ屑どもを、せいぜい有効利用しているだけだぜぇ」
「・・・・・・なるほど、そういうことか。分かった」
「お、おう、物分かりがいいじゃねえか」
「ああ、分かった。貴様を生かしておく必要がないということがな!!」
 

 再び義手を振り上げる。だが次の瞬間、彼はサッと横に跳んだ。今まで彼がいた場所を、いくつもの爆発が包み込む。


「お、遅ぇじゃねえかよ、ギン!!」
「すいません菅間様、結界の展開に手間取っていましたので。お久しぶりですね、日村総一郎」
 部屋に入ってきた女は、菅間を愛おしそうに眺めると、日村に対し、憎悪を込めた視線を向けた。
「・・・・・・女狐か。貴様、まだ菅間に傅いているのか?」
「ええ。この方には、返しきれない恩がありますので。それでどうします? ここで殺し合いを始めますか?」

 ゆらりと、女の来ている着物が持ち上がる。そしてその中から、十二本のふさふさした尻尾が出てきた。見ると、彼女の頭からも、二本の耳が飛び出している。

「・・・・・・争っている時間はないな。私はこれから、こいつが肉壁と嘲笑した子供たちを助けに行く。貴様はここで、一秒でも早く結界を張れ」
「あなたに言われなくともそうします。ところで、どうして助けに行くのです? 偽善を行いたいからですか?」
「偽善? 否、そうではない。私が助けたいから助けに行く。それは偽善でもなんでもない。単なる私の私欲だ」

 女の問いにそう答えると、彼はもう菅間も、そして彼に付き従う狐の妖怪―十二単衣のギンギツネーも見ず、黒いコートを翻し、窓に足をかけると、そのまま外へと飛び降りていった。










 ガチガチと、誰かの歯が鳴る音がする。ガクガクと、誰かの脚が震える音がする。聖亜達一年を真ん中に置き、半円で警戒していた志願組三十人弱の生徒たちは、こちらに向かってくる無数の赤い光に、そのほとんどが絶望的な顔をして立ち竦んでいた。

(さて、どうすっかな)

 その中で、絶望していない数少ない人間である星聖亜は、先ほど渡された使い古された槍を握り、前方の鬼達を見つめていた。正直、彼は目の前にいる鬼達がそれほど脅威とは感じられなかった。確かに数は多いが、それでも小百合や優を後方に逃がすのは何とかなる。だが

(・・・・・・まったく、俺もちょっと甘いのかね)

 だが、彼はほかの人間を見捨てるという選択肢が取れないことに気付いた。同級生は一日二日、先輩達も先程少し話しただけだが、彼らが死ぬというのは、どことなく目覚めが悪い。それに自分の背中に隠れるようにしている小百合も、きっと彼らを見捨てたくはないだろう。

「よう後輩、さっきから黙ってるけど、そんなにビビったのかよ」
「・・・・・・別にそれほどじゃないですけど。そういう先輩こそ、震えてるじゃないですか。あまり無理はしない方がいいですよ」
「は、俺はいつだってびくついて震えてるからいいんだよ。知ってるか? 俺は“三割の男”って呼ばれてるんだぜ?」

 恐怖を紛らわせるためか、鉄でできたところどころ錆びている鎚をもって隣に立っている、足立という青年が小声で話しかけてくる。細顔の整った、何処までも頼りない表情で、だが彼はニッと笑って見せた。

「三割? 何が三割何です? 野球の打率ですか?」
「はっ!! 違ぇよ。俺はな、他の野郎が十割できる所をたった三割しかできねえ。つまり人より七割劣ってるわけだ。要するに能無しだな、能無し」
 自分で能無しと言いながら笑っている。彼らの会話が聞こえたのか、絶望していた周りの生徒が、くすくすと笑いだした。
「人の四倍努力して、それでやっと追いついてる。ま、要するにだ。お前ら一年坊主どもより俺の方が明らかに劣ってるから、そう気張るなってことだ」
「おい足立ぃ、無駄話はそれぐらいにしとけ、お客さん、大勢でお出ましだぜ!!」
 大剣を担ぎ、獰猛な笑みを浮かべた大場が叫ぶ。彼の言うとおり、無数の鬼の軍勢は、その先頭がもう数百メートルの所まで来ていた。ぬめぬめとした光沢のある黒い肌、額から飛び出る二本の角、背丈は小さいが、その姿は間違いなく鬼と呼ばれるものだ。聖亜達を発見した鬼達は、そのまま小走りに駆け出してきた。恐らく、圧倒的な物量で押しつぶそうというのだろう。

「来たぞぉ!! いいか、決して攻撃しようとは思うな。けん制しつつ後ろに向かって前進だ!! わかってるな!!」

 大場の指示のもと、三十人は前を向いたまま後ろ向きに走り始めた。だが、暗い草原で、しかも足立により恐怖が緩和されたからといって、満足に動けるような状況でもない。足の速い小型の鬼の何頭かがたちまち追いついてくる。

「よっしゃあ、やってやるぜ!!」
 
 飛びかかってきた鬼の頭を、大場は大剣で叩き割った。戦い慣れているのか、他の先輩達も彼の左右で鉈を振るい、槍を突き刺し、一匹一匹確実に仕留めていく。もちろん後退するのは忘れない。聖亜達も、先輩たちが撃ち漏らし、彼らを襲おうとする鬼を何とか倒していった。

 そうやって、二十匹程の鬼を殺した時だった。うまくいくか? 皆がそう思い始めた時である。ズンッと辺りに振動が走り、鬼達の中で何かが盛り上がったかと思うと、ウォオオオオオと雄たけびを上げた。しかもそれは一体だけではない。鬼の群れのあちこちから出てくる。

「・・・・・・おいおい、うそだろ。ありゃいつもの小競り合いで連中の大将をやってるやつじゃねえか、何であんなにいるんだよ!!」
「馬鹿野郎、早川、足止めるな!!」

 斧を使って、小型の鬼を叩き殺していた生徒の一人が、それを見て呟く。そして彼はつい、足を止めてしまった。そんな彼に、数十匹ほどの鬼が一斉に群がり、押し倒し、爪や牙を使って引き裂いていく。

「ぎゃあああああ!!」

 周囲に絶叫が響き渡る。その声に恐れをなしたのか、半円の陣の中、一番後ろにいる白髪の少年がくるりと向きを変え、そのまま一目散に逃げ出した。

「ば、馬鹿!! 陣を乱すんじゃねぇ!! うおっ」

 白髪の少年、森谷を静止した男が、飛び出してきた鬼に足を取られ、よろける。その頭上が陰ったかと思うと、彼は降ってきた巨大な足に踏み潰され、悲鳴を上げる暇もなく圧死した。

「う、うわ、うわぁああああっ!!」

 それを見て、ついに我慢の限界に来たのか、さらに一年の一人が逃げ出す。そうなるともうおしまいだ。一人、また一人と全力で逃げ出し、半円陣は一瞬のうちにばらけた。

「くそ、こうなったら仕方がねえ。お前ら、ばらばらになって町に向かえ!! いいか、絶対振り返るな!!」

 逃げる仲間に声をかけると、大場は大剣を振り回した。彼らが逃げるために囮になるつもりなのだろう。だが、一人だけではやはり限界があった。倒しても倒しても波のようにやってくる鬼の群れに、ついに男が膝を屈した時、


「・・・・・・は?」
「よっと、こんなものだな」


 
 大場に掴みかかろうとしていた鬼の頭部が、いきなり吹き飛んだ。


 聖亜はおそらく尊敬に値するだろう先輩の視線を背中で受け、にっと獰猛に笑うと、槍で周囲を薙いだ。向かってくる鬼達が数匹、まとめて腹部を切り裂かれて絶命する。それを見ることなく、今度は踏みつけようと足を上げた中型の鬼の膝に飛び乗り、身体を駆け上がると、相手の喉仏に向けて、槍を渾身の力で突き出した。鬼の堅い皮膚は最初攻撃を受け止めていたが、やがてズズッと槍が入り込んでいく。その痛みに鬼はあたりかまわず暴れまわった。むろん、足もとにいる小型の鬼達は踏み潰され、殴り飛ばされていく。そのうち力尽きたのか、鬼は小鬼達を巻き込み、倒れた。

「お前・・・・・・」
「一人だけ犠牲になるような馬鹿な戦い方はやめてくださいよ、先輩。さ、今のうちに逃げましょう」

 向かってくる鬼と自分たちの間に、ちょうど巨大な鬼の身体が壁になるように倒れている。数秒だけの時間的余裕の間、聖亜は大場を助け起こすと、鬼の身体を乗り越えてやってくる小型の鬼の頭を槍で貫いた。

「・・・・・・すげえな、お前」
「俺よりすごいやつなんてたくさんいますよ。それに、別に全員が無様に逃げ出したわけじゃないですよ」

 彼の言うとおりだった。倒れた鬼の身体が邪魔になり、鬼達は鬼の死体の左右からこちらに向かってくるが、右側では北条が錆びた刀を捨て、得物であるグルガナイフを使って鬼を切り刻んでいるし、左側では巨漢の清原が盾を手に鬼の攻撃を防いでいる間、横尾とそして小百合が弓を使っておっかなびっくり遠距離から攻撃を加えている。


「よう大場ぁ、呆けてる場合ちゃうぞぉ?」
「う、うるっせえな足立、手前もう少しきびきび動きやがれ!!」
 
 優の脇で、彼が仕留め損ねた鬼の頭を鉄槌で粉砕してる足立がからかうように声をかけてくる。パニックが収まったのか、怒鳴り返して大剣を構えなおすと、大場はにやりと笑うと、倒れた鬼の身体を乗り越えてやってくる鬼達を大剣で切り払った。





『どうした? 鬼どもの進軍速度が鈍っているぞ?』

 八千を超す鬼達が、いまだ結界にすら到達していないその事実に、彼らの後方にいるアテルイは顔にびきびきと青筋を浮かべた。

「どうやら結界が張られるまで、少人数が鬼達を防いでいるようですね。物量で押し切れると思ったのですが、まさか中鬼が倒されるとは思いませんでした」

 彼の横で、ヒミコが考えるように唇をかむ。

『少人数でも、その気になれば大軍の脚を止めさせることはできる。かつて、儂も坂上田村麻呂の軍に対し行ったことがあるからな。くくっ、面白い。良かろう、予定より少し早いが、牛頭、馬頭を前線に出せ』

「彼らを出すと? それは少し過剰戦力というものではありませんか? 中鬼の何体で充分かと思いますが」
『それで、そのうち一体か二体を殺させ、相手の士気を高めるつもりか? くだらん。圧倒的な力をもって、完膚なきまでに叩き潰す。それが一番良いやり方よ。伝令、牛頭、馬頭に伝えよ。圧倒的な力をもって相手を叩き潰せと!!』







 その二体の鬼がやってきたのは、後退しながら反撃を繰り返し、出雲市まで道半ばを過ぎたころだった。

 一歩歩くごとに地面が振動する。咆哮を上げるだけで空気が割れ、耳を傷つける。先ほど聖亜が倒した中型の鬼の三倍の背丈を持つ、牛頭、馬頭と呼ばれる鬼は、残忍そうに光る戦斧と槍を持ち、口の端を吊り上げ、隙間から涎を垂れ流していた。


「こ、これが相手の大将ですか?」
「・・・・・・いや、おそらくその側近って所だろう。二体いるしな」


 後退する決死隊の、その殿を二人は務めていた。強制されたのではなく、むろん志願してのことだ。鬼の動きは鈍ったが、相変わらずその数は無尽蔵だ。仲間が退避するには殿を務める誰かが必要で、相手の攻撃を避けやすい二人が立候補したのである。



彼らは、小さな山ほどもある巨大な二体の鬼を、むしろ感心したように眺めていた。



「・・・・・・とりあえず、どっちがどっちの相手をする?」
「僕はどちらでも構いませんが、聖亜さんの方は、武器はまだ持ちますか?」



 優の指摘に、聖亜は手に持つ槍を見つめた。元々錆びていた槍は、百体目の鬼を薙ぎ払った時にひび割れ、二百体目の鬼に突き刺した時、刃が裂けた。


「僕のナイフを片方使いますか?」
「いや、いい。あんたは元々二刀使いなんだろ? それを急に一振りにしたらバランスが悪くなる。ま、何とかやってみるさ」


 不意に、牛の頭をした巨大な鬼が戦斧を振り上げ、轟音と共に振り下ろした。小型の鬼達が数十匹まとめて空高く舞い上がり、大粒の雨のように降ってくる。

「くそっ、山が降ってきやがった」
 
 巨大な戦斧を山にたとえ、聖亜は牛頭の股下を潜り抜けた。そのまま足の傍をぐるりと回ると、自分の背丈ほどもある巨大な相手の指先と爪の間に、壊れかけの槍の穂先を思いっきり突き刺す。



 ウモォオオオオオオオオオッ!!



 強烈な痛みに、牛頭は天高く吠えた。人間でいえば、指と爪の間に鉄串を差し込まれたのと同じぐらいの痛みが鬼を襲う。その痛みに耐えかね、巨大な鬼が地団太を踏む。周囲の地面が揺れる中、聖亜は相手に突き刺した槍に、必死にしがみついていた。


「うぁ!?」


 だが、その揺れは思わぬところで災難を招いた。馬頭の槍を受け流していた優の脚が、揺れる地面に足を取られ、彼は体勢を崩した。


「優ッ!!」


 気が逸れたのがいけなかった。槍の穂先がビキリと音を立てて真っ二つに割れる。鉄の棒にしがみついて、何とか振り落とされないように粘っていた聖亜の身体は、揺れる地面に投げ出された。


ドンッ


「ぐぁっ!!」

 地面に背中から衝突し、一瞬息ができない。痛みで悶える少年に、牛頭はゆっくりと近づくと、にぃっと不気味に笑いながら、その大きな足を振り下ろした。












「よく耐えた」











その時、戦場に一陣の風が吹いた。




「・・・・・・あ? え?」


 自分を抱きかかえる、夏だというのに黒いコートを着たその男は、自分を見上げる少年を、そっと地面に降ろした。


「今までよく耐えた。後は私に任せておけ」
「あんた・・・・・・誰だ?」

 細身の体に、かなり力強い何かを感じ、聖亜はこちらに背を向けた男を呆然と眺めた。






「日村総一郎。欲にまみれた、ただの人間だ」







 日村総一郎は、先ほど助けた少年の視線を背中に感じつつ、生身の方の拳をぎゅっと握りしめた。


 彼の中に渦巻くのは怒りだ。誰かに対する怒りではない、鬼達に対する怒りではない。彼が怒りを感じているのはなぜもっと早く来ることができなかったのかという、己に対しての怒りだ。その怒りを拳に込め、総一郎は牛頭に向けて駆け出した。

 こちらに向かってくる小癪な人間の愚かさを嘲笑するように唇をゆがめると、鬼は再びその戦斧を振り下ろした。だが、完全に叩き割ったと思った時、総一郎の身体は陽炎のように揺らめき、次の瞬間、彼は振り下ろされた戦斧の上に降り立っていた。

 戦斧の上を駆け、相手の腕に乗る。そのまま肩まで駆け上がり、さらに肩から、今度は相手の額の上に一気に跳躍した。牛頭が、頭の上に乗った小癪な羽虫を振り落とそうと頭を振る。だが、総一郎の身体はまるで吸い付いているかのように離れることはなかった。


「数多の若き命を奪ったこと、地獄の閻魔の前で申し開きをするが良い・・・・・・天誅!!」

 怒りを込めた拳を、牛頭の頭に力いっぱい叩き込む。その一撃は鬼の堅い頭蓋骨を粉々に砕き、さらにその中にある脳をつぶし、さらにさらに延髄、心臓、股間まで一気に粉々にした。

 ほぼ即死した牛頭が、ぐらりと音を立てて崩れ落ちる。その頭上めがけ、馬頭が槍の穂先を突き入れた。牛頭の頭がザクロのようにはじける。が、青年の動きの方が早い。彼は再び柄の上を駆け、馬頭へと迫った。

 と、ここで馬頭は予想外の行動に出た。何と自らの武器である槍を手放したのだ。空中に浮かび上がった総一郎の身体をとらえ、口に運ぶと、生きたまま丸呑みにする。ごくんと喉が鳴り、完全に青年は腹の中に納まった。誰もがそう思った時である。


 ぼこん、と、いきなり馬頭の腹部が盛り上がった。ぼこぼこぼこぼこ、力強い音と共に鬼の腹がいくつもいくつも盛り上がり、そして次の瞬間、爆ぜた。


 腹の中から総一郎が飛び出してくる。外傷など全くないその身体は血まみれだったが、どこか美しさを感じる物だった。膝をついた馬頭の馬面に走りよると、その額に渾身の力を込めて拳を叩き込む。


 その一撃で、馬頭の頭部は牛頭と同じように、粉々に砕けた。










「・・・・・・え?」

 その戦闘を、聖亜は信じられないといった風に眺めていた。ほんの五分、その間に自分と優を圧倒していた相手が、たった一人に叩き潰されたのだ。

 その一人が、こちらに向かって歩いてくる。細身の引き締まった体躯を持つ、凛々しい青年だ。彼は聖亜を見て微笑を浮かべると、その手をそっと彼に差し出した。

 差し出されたその手を見て、しばし戸惑っていた聖亜が、おずおずと掴む。その時、ようやく準備が完了したのか、出雲市の周りを不思議な虹色の幕が覆い、その内側から火砲による攻撃が、鬼の軍勢のほぼ中央に、絶え間なく撃ちこまれた。






 戦闘が終了したのは、それから数時間後の事だった。





 

 しかし、たとえ戦闘が終了しても、今夜の血の饗宴は終わらない。結界が展開されている街中の、西南にあるビルの最上階で、一人の男が避難することなく、目の前のパソコンに何かを熱心に打ちこんでいた。

 初老のその男は、黒塚家の現体制に反対しているメンバーの一人だ。だが彼は轟のように黒塚家全体を憎んでいるわけではない。彼が憎んでいるのは、あくまで黒塚神楽を頂点としている現体制だけである。彼は前黒塚家当主である黒塚奈妓の後輩の一人であり、若いころは彼に従って鬼やエイジャと戦っていたこともある。

 彼が今まとめているのは、仲間が集めてくれた、黒塚神楽が当主になってから裏で行われてきた不正の数々だ。政治献金、神楽を調査しているうち行方不明になった記者、そして様々な事件・事故のもみ消し。これだけの証拠があれば神楽を当主の座から引きずり落とし、病気という名目で軟禁状態にある黒塚奈妓を当主に戻すことができるはずだ。もちろん、その時は自分も高天原の幹部に戻ることができるだろう。当主が変わるときに追放された彼は、自分が再び権力を持つことを求めていた。

「・・・・・・ん?」

 その時、ふと彼は背後の窓が開いていることに気付いた。開いている窓から入ってくる外の風が体に当たる。眉をひそめて立ち上がり、窓を閉める。そして振り返った時、彼はぎょっとして後ずさった。


 机のすぐ前に誰かいる。それは男か女か、大人か子どもかもわからなかった。なぜなら相手は布製の仮面と、自分の体格を隠すために長いローブのようなものを纏っていたからである。

「き、貴様・・・・・・な、何者だ!!」

 ガタガタと震えながら、奥歯に仕込んだ救援信号をガチッと押す。だがどれほど待っても、下にいるはずの彼の護衛は上がってくる気配がなかった。



『無駄だ、貴様の手下は全て息の根が止まっている』



「な・・・・・・そ、そんな馬鹿な!! 彼らは少なくとも高天原に所属する中堅の呪術士と、ほぼ同じぐらいの実力があるのだぞ!?」

『中堅の呪術士・・・・・・残念ながら、そんな物百人集めた所で私に勝つのは不可能である。これより任務を遂行する。任務内容、黒塚神楽様を陥れようと画策した者の暗殺。対象:初老の男性一名』


「ま、待て!! 話をあがっ!?」


 相手を制止しようとした男の口に、躊躇なく白い刃が付きこまれる。それは相手のローブの中からいきなり出てきており、ローブからはほかにも青い光沢のある何かが見え隠れしていた。

 男の後頭部から白人の刃が飛び出す。布の仮面を被った何者かが刃をひねると、男の顔はザクロのようにはじけ飛んだ。


『任務完了、これより帰投する』


 血みどろの部屋の中、殺した男の贓物を容赦なく踏みつけ、窓を開けると、それは開けた窓から一気に飛び出した。









 翌日、男を含め数十人の死体が確認されたが、確認に来た高天原の憲兵部隊は、鬼の仕業として結論付け、死体をすべて焼切った。




 破壊されたパソコンには、一切目を付けることなく。









「失礼します」
「おう、こっちだこっち」


 鬼との戦闘が完全に終了した次の日、聖亜は市内の病院にいた。準の無事を確認するために来たのはもちろんだったが、ここにはそれ以外に昨日の戦闘で負傷した先輩や同級生が入院している。彼らから買い出しを頼まれたのだ。

 ナースセンターで場所を確認し、病室に行ってみると、六人ほどが頭や腕に包帯を巻いてベッドに入っており、その周囲にすでに見舞いに来ていた仲間がいた。立っている仲間も傷を負っていない者はなく、それぞれがどこかしらに包帯を巻いている。そして、彼らの数は、戦闘が始まる以前より、二十人ほどに減っていた。部屋に入った聖亜を出迎えたのは、退却の時横尾をかばって右肩に大きな裂傷を負った大場である。負傷した右肩は固定されていて動かないが、動く方の手を振って招いてくれた。


「悪いな、お前も体中包帯だらけなのに買い出し頼んじまって」
「いえ、別にかまいません。寝てなきゃならないほどではないですし」
「そうか。おい足立ぃ、手前もこいつ・・・・・・えっと、そういや後輩、お前、名前なんて言うんだ?」
「はぁ・・・・・・星聖亜ですけど」
「星聖亜か、うん、いい名だな。おい足立ぃ!! 星を見習えや、ボケ。何が貧血で動けねえだ!! 朝飯人の分まで食いやがって」

 周囲にどっと笑い声が広がる。へへ、すんませんと頭を掻く足立に、大場は動ける方の手で、買い物袋を放り投げた。受け取った足立が買い物袋を探り、中からリンゴジュースの缶を取り出し、小百合を庇って背中を噛み付かれた清原に回す。小さく礼を言うと、大男はそれを向かいのベッドに放り投げ、さらにそのベッドから次のベッドへという風に、部屋の中にいるすべての人間が何かしらの飲み物を持ったところで、部屋の中はしん、と静まり返った。

「・・・・・・死んでいった奴らに、乾杯」



「「「乾杯」」」



 














「ではこれより、査問会を開催する」


 病室の中で聖亜達が死者を悼んでいた時、日村総一郎は出雲大社の一室にいた。彼と向かい合うように、前方には高天原総司令である黒沼玄が座り、その左右に先ほど戦闘を終えたばかりの、高天原第一部隊隊長兼副指令である鈴原と、頬をいまだ腫らしている菅間が座る。また、総一郎を取り囲むように、現在出雲にいる全ての隊長格が、この場所にいた。

「被告、日村総一郎。貴官は鬼が大軍で押し寄せている間、結界の展開作業で多忙だった白虎穴に押し入り、下級呪術師である菅間優一に暴行を加え、逃亡。間違いないか?」

「ありません」
 
 鈴原が淡々と総一郎の罪状を読み上げる。それに対し、総一郎は目を閉じたままきっぱりと答えた。

「その後、大型の鬼二柱を倒した功績は大として認める。だが、万が一結界が発動しなければ、鬼は市内に入り込み、破壊の限りを尽くしただろう。何か申し開きはあるか?」

「ありません」

 次の問いにも、総一郎はきっぱりとそう答えた。鼻白んだ鈴原が困ったような視線を黒沼玄に投げると、彼はただまっすぐに総一郎を見つめた。



「“努力する天才”、または“炎の鉄槌”これが何を指すものかわかるかね?」

「立志院高等学校特別クラスにいた時の、私の異名だったと記憶しています」


「そう。三雄の一人に数えられる鈴原雷牙、彼と唯一互角に渡り合える君に与えられた異名だ。その異名を持つ君が、高校を卒業後高天原に入隊せず、各地を放浪した。無責任だと思わなかったのかね?」

「思いませんでした」


 再度きっぱりと答えを口にする総一郎を見て、玄は面白くて仕方がないという風に笑った。

「では質問を変えよう。何故君は大勢の鬼に立ち向かっていったのかね? 死ぬとは考えなかったのかな?」
「私が鬼と戦ったのは、自らの私欲のためです」
「ほら見てください!! 総司令、やっぱりこいつは私利私欲のために俺を殴り飛ばしたんだ!!」

 立ち上がり喚く菅間を、玄は手を挙げて制した。
「落ち着きたまえ菅間君。彼は私欲のためと入ったが、私利私欲のためと入っていない。どういうことか、説明してもらえるかな」

 その時、総一郎は初めて目を開き、玄の顔を何の恐れもせずに見つめた。


「放浪したのも、鬼と戦ったのも、全て自分の欲によるもの。其れ即ち私欲。言い訳をするつもりは毛頭ありません」





「・・・・・・わかった。追って沙汰する。それまで別室で待機するように」
「はい。失礼します」

 玄に向かって、びしっと完璧な一礼をすると、日村総一郎はきびきびと向きを変え、一度も俯くことなく部屋を出ていった。






「相変わらずでしたな、彼は」
「ああ、そうだな」

 総一郎がいなくなった後の部屋で、玄に話しかけたのは、前線で戦うには年を取ったことと、左手の指を何本か失うという重傷のため一線を退き教師となり、かつて立志院にいた総一郎に指導を行ったこともある中年の男だ。今も教師として立志院に在籍し、生徒たちにも慕われている。
 

 彼だけではない。ここにいる者のほとんどが、裏表のない、誠実な彼に対し少なからず好感を抱いていた。だが、好感を抱いているのはほとんどであって、全てではない。







「何をのんきに喋っているんですか!! あの野郎は、人の顔を殴りやがったんですよ!! 死刑にしてくださいよ!!」

「・・・・・・そういえば、君に対する査問がまだだったね」

 喚く菅間を蔑視を込めた視線で見ると、黒沼玄は面白くもなさそうにそう言った。

「は? 俺に対しての査問ってどういうことっすか!?」
「決まっている。確か君は、志願した決死隊を率いて鬼と戦っていたという話だったが、その君がなぜ、前線から大きく後ろにあった市内にある、白虎穴で総一郎君に殴られたんだね?」

「はぁ? そんなの決まってるじゃないですか!! 実際に戦うのなんて、屑どもに任せておけばいいんで・・・・・・あ」

「・・・・・・君の罪状について、こちらは多くのことを知っているつもりだ。恐らく、君こそ無事では済まされないだろうね」

「あ・・・・・・あ・・・・・・」






 屈強な憲兵に挟まれ、すごすごと退席していった菅間を見送ることなく、玄はため息を吐いた。

「さて、これで立志院高等学校、特別クラス“志願組”の教員の枠が空いたが、どうすればいいと思う? 諸君の意見を聞きたいのだが」
「すでにあなたの中で決まっていることを聞きますか? まあ、おそらくここにいる者は皆一人の青年を思い浮かべていることでしょうな」
「だが“彼”は教員免許を取っていたかな?」
「ええ。確か高等学校在籍中に、特例で取得していますよ。それに、旅に出た時も、本当にいいのかと随分悩んでいたみたいですし、責任感も問題ないでしょう」
「ふむ・・・・・・最近、朱雀門を守護する朱華の権力が低下したことにより、南側の結界の展開に大きな遅れが見られた。彼女の義理の息子である“彼”を担任にすれば、彼女の権力回復につながると思うが、どうだろうか」

 そう話すと、玄は周囲を見渡した。皆、微笑して頷いている。どうやら異論や異存はないようだ。


「分かった。では日村総一郎に対する罰則として、彼には責任の取り方というものを学んでもらうことにする。以上、閉会!!」



 その一時間後、別室で待機する日村総一郎のもとに、一枚の用紙が届いた。


















今回の騒動の罰則として、貴官を立志院高等学校特別クラス“志願組”の担任に命じる

~高天原最高司令官 黒沼玄~





















だが、話はこれで終わりではなかった。










 鬼の軍勢から、いの一番に逃げた白髪の青年、森谷は、何処をどう逃げたかわからないまま逃げ続けていた。最早彼の眼には周囲の様子など全く映っていない。彼に見えているのは、あるはずのない栄華の日々、ただそれだけだ。

 だが、その逃亡も終わりを告げる時が来た。走っていた森谷は、ドンッと何かにぶつかって、尻餅をついた。



「ひへっ!?」
『む?』
「あら?」


 森谷がぶち当たったもの、それは壁ではなかった。野太い声がしたかと思うと、彼は首を掴まれ、ぎりぎりと持ち上げられた。

「ひ、ひひ、ひひひっ」

『何だこ奴、狂人か?』
「どうなさいます、アテルイ様」

『無論殺す。狂人だからといって、生かしておけばどのような害になるか分からぬからな。それに、我が斬馬刀に血を吸わさねばならん』

「ひひっ、ひひひひひっ!!」

 森谷は笑っていた。見えない何者かが、腰に差した巨大な刀を引き抜いた時も、その何者かが、自分を放り投げ、刀を構えた時も、そして


『ふんっ!!』

 そして、自分の身体が、縦に両断されて絶命する最後の瞬間まで、森谷は自分の夢に、最後まで酔いしれていた。



『ふん。で? 七千と九百以上の鬼と、牛頭、馬頭という大鬼を囮に使用したこの作戦、うまくいくと思うか?』

 二つに分かれた、かつて森谷という人間だったその肉片に鬼達が群がる。それを一瞥すると、アテルイは前方の土を掘り進む鬼に目を向けた。

「ええ。結界は確かに強力ですけれど、長時間その効力が続くというわけではありません。それに結界というのは、外からの進入を防ぐもの。内側に入ってしまえば、何の支障もございませんわ」

『ふん、そうか。ならば急げ、我が下僕ども。今日中に高天原に乗り込み、小癪なあの女の血でのどを潤してくれる』















「失礼する」

 そう断ってから病室に入ってきた日村総一郎を見ても、何度かあったことのある聖亜にはそれがだれかわからなかった。というのも、一度目はただすれ違い、二度目は暗い夜の中で腰に抱えられていただけなので、まともに顔を見てはおらず、印象に残っているのが夏だというのに着込んでいた黒いスーツだけだったためである。
 
 今の彼は白い半そでのワイシャツに、下は黒いスラックスというラフな格好をしていた。そのため彼の左腕に装着された銀色の義手も剥き出しで、病室にいる何人かはぎょっとしてそれを眺めている。





「えっと、あなたは?」

「昨日会った者もいると思うが、改めて名乗らせてもらう。日村総一郎だ。今しがた、君たち立志院高等学校特別クラス“志願組”の担任に任命された。私自身未熟この上ない身ではあるが、よろしく頼む」
「へぅ? あ、はい」

 入口付近にいた小百合の問いに答えると、総一郎はびしっと背中をまっすぐに曲げ一礼した。


「ちょっと待て・・・・・・いや、待ってください。あなたが俺らの担任ってことは、前の担任である菅間・・・・・・先生は、どうなったんですか?」
「彼は更迭された。勝手に君たちを決死隊にして死地に送り出し、自分はのうのうと安全な後方にいた罪でな」
「罪? 罪ってなんですか!! 俺ら、司令部の命令だからって今まで散々あいつにこき使われて!! 今回の戦闘で死んだ奴だっているってのに・・・・・・ぐっ!?」
「落ち着け、傷に触る」
 立ち上がろうとした大場が傷の痛みに呻く。激昂する彼に近づくと、総一郎は彼の無事な方の肩を押さえ、ベッドに横たわらせた。
「気休めにもならないだろうが、これまでの罪により、菅間優一には何らかの罰が下されるはずだ。それで、どうか溜飲を下げてほしい」
「う・・・・・・わ、分かりました。俺の方こそすいません」

 年下の自分にしっかりと頭を下げる総一郎を見て、大場は肩の力を抜くと、ゆっくりとベッドに横たわった。


「早く傷を治すように。先ほども言ったとおり、夏休み後、私が君たちの担任となる。さて、話が二つほどある。まず一つ目、今までの戦闘で、高天原がどういう敵を相手にしているかはよく分かってもらえたと思う。それでひとつ確認を取りたい」


 そこで一端言葉を切ると、総一郎は病室にいる生徒たちを見渡した。







「この中で退学したいと思うものは、今私に申し出るように」
 






「・・・・・・あの、それってどういうことですか?」
「ふむ、単刀直入に言い過ぎたか。つまり、立志院高等学校をやめたい者は言って欲しい、ということだ」

 静まり返った部屋の中、北条がおずおずと声をかける。それにきっぱりと答えると、総一郎はその端正な顔を悲しげに歪ませた。

「むろん、君たちは何かしらの希望をもって立志院の試験を受け合格したのだろう。だが戦闘を経験し、現実がそう甘くないことは理解したはずだ。今回の戦闘で、君たちは運よく生き残った。だが戦闘はこれで終わりではない。鬼、エイジャ、その他皇国の平和を乱す者達と、私たちは戦い続けていかなければならない。無論、今回のような無茶な戦い方はしないし、させるつもりはない。それに、私は君たちが卒業するまでに、皆戦えるようにしっかりと訓練していくつもりだ。だが」

 総一郎は、俯いて聞いている二十人ほどの生徒を前に、嘘偽りない言葉を淡々と紡いでいく。

「だが、私自身未熟な若輩者であるから、教育の行き届かないこともあるだろう。その結果、君たちは負傷してしまうかもしれない。死んでしまうかもしれない。多少の犠牲は仕方がないと言う者もいる。確かに戦闘を行っている以上、負傷するのは避けられないし、もしかしたら死ぬほどの傷を負ってしまうことがあるかもしれない。それを見て恐怖し、逃げ出したいと思う者が出るのも仕方ないだろう。しかし、ここを卒業して高天原に入隊してから逃げ出すことは、敵前逃亡とみなされ罪に問われることになる。そのため、傷を負う覚悟、死ぬ覚悟のない者は、今のうちに退学届を出すように」


「・・・・・・」
「・・・・・・」

 総一郎の容赦ない言葉に、病室にいる者は顔を見合わせ、あるいは俯いている。そして五分ほどたっただろうか、おずおずと一人の少女が手を上げる。それに続いて、あちこちから手を上げる者が出てきた。その数は、合わせて八人ほどだろうか。


「三木、池畑、お前ら」
「わ、悪い大場。俺ら、さすがにこれ以上は無理だ」
「・・・・・・ごめん」

 生き残った数少ない三年の中で、脇腹を負傷した大柄な少年と、その横で頬に裂傷を受けた、小柄で眼鏡をかけた少女が手を上げる。それを見て、大場は悔しそうに彼らの名を呼んだ。

「・・・・・・いや、しょうがねえ。死んじまうよりはいいからな。けど先生、ここで辞めたやつら、罰則はないんですか?」

「罰則? いや、そんなものはない。高天原に正式に入隊したものが辞める時は何かしらあるとは思うが、君たちはまだ学校の生徒という立場にすぎない。私も高校を卒業後は高天原に入らず、各地を放浪していたからな。まあ、他言うんぬんに関しては、そもそも君たちが辞める時にエイジャや鬼に関しての記憶は消去するようになっている」

「そんな・・・・・・俺たち、ここやめたら家族ともども消されるぞって脅されたから、今まで耐えてきたってのに」

 二年の少年が悔しそうにつぶやく。その呟きを聞いて、聖亜の同級生が、さらに二人ほど手を挙げた。





「・・・・・・今のところ十人ほどか。後はいないか? よし、ではここで挙手したものは、傷が治り次第職員室まで来るように。ほかの高校への編入試験の手続きを行う。では次の連絡だ。皆の怪我が治り次第、簡単な二者面談を行う。だから今は、ゆっくりと養生するように」


 そう言うと、総一郎は一礼をして病室を出ていった。彼が去った病室の中には微妙な空気が流れている。自分たちを屑呼ばわりし、好き勝手に暴れまわった菅間が罪を受けることへの喜び、次の担任である総一郎が、少なくとも悪いやつではないという期待感と、なぜもっと早く来てくれなかったんだという苛立ち、そして去っていく者がいるという事実に対しての寂寥感、それらが混ざり合い、結局看護師が検温に来るまで、彼らが声を発することは一度もなかった。
















「は? あの、すいませんがもう一度おっしゃってください」

 立志院高等学校、その二階にある生徒会室で、生徒会総長を務める黒塚葵は、母の側近である八雷姉妹の一人、八雷黒曜の話したことが、一瞬理解できなかった。



「おや? 一度の説明で理解できませんでしたか? ならもう一度だけ言います。立志院高等学校生徒総会総長である黒塚葵、あなたの婚約者が決まりました。名は星聖亜。今回立志院高等学校特別クラス“志願組”の試験に合格した少年です。年は十五歳、あなたより年下ですね」

「は・・・・・・え?」

 説明し直しても、まだ内容が把握しきれていない葵に、黒曜は侮蔑を込めた視線を投げた。

「・・・・・・まったく、二度説明しても理解できないとは、黒塚葵、あなたはいったいどれだけ無能なのですか。とにかく、この話は決定事項です。たとえあなたが神楽様に三日月宗近を譲渡したところで覆すことはできません。では、失礼します」
「え? あの、ちょ、ちょっと待ってください!!」

 まだ混乱から立ち直れていない少女をその場に残し、黒曜は生徒会室からさっさと退出してしまう。その後ろ姿を呆然と眺める葵の肩を、にやにやとした笑みを浮かべている華音がぽんっと叩いた。

「へ~、なになに、どうしたの葵ちゃん、君、いつもだったら淡々と“了解しました”で答えるのに、今日に限ってめちゃくちゃ驚いてるじゃん。なに、例の少年と何かあった?」
「な、何もない!! な、なにも・・・・・・・・・・・・ない」
「へ? ちょ、ちょっと待って葵ちゃん、なに、まじでなんかあったわけ!?」

 中庭での出来事を思い出してか、顔を真っ赤にした葵が俯く。それを見て目を丸くした華音が、がくがくと彼女の両肩を揺さぶった。


「な、何もない!! とにかく、さっさと会議を進めるぞ。ええと、次の議案は何だったか」
「あの、総長、書類が逆さまです」
「う・・・・・・」


 ぎくしゃくした動きで書類を持つ葵に、詩音がくすくすと笑いながら指摘する。

「と、とにかく、次だ。ええと、今度新しく教師として立志院に来られた日村総一郎先生が、夏休み明けの全校集会で挨拶される。また、菅間先生が教師を辞められるそうだ」
「へ~、あの屑がねぇ」
「あ、あのお姉ちゃん、先生のことを屑呼ばわりするのは」
「あのね詩音ちゃん、私だって普通の先生は屑呼ばわりしないよ。けど菅間は別じゃん。休憩中や放課後に詩音ちゃんや、他の女の子や女の先生を追いかけまわしたり、休み時間中何もしていないのにいきなりほかのクラスに来ては生徒を屑や豚って罵ったり、ああいうのはね、教師としてだけではなく、人間としても失格、つまり屑なのよ」
「まあ、確かに理事長のお気に入りとか何とかで好き勝手やられていましたからね、あまり寂しがる人もいないんじゃないでしょうか」

 菅間に追いかけられたことがある生徒会役員の一人が、嫌悪感をあらわに華音に続く。ほかの女子も何度か追いかけられたことがあるのか、こくこくと頷いて同意している。

「分かった。ええと、次の議題だ。夏季休暇中の補習の日時について・・・・・・」

 
 こうして、生徒会での会議は順調に進んでいく。そう、進んでいくはずだった。















 最初に異変に気付いたのは、夕方の午後六時ごろ、生徒が学校に持ち寄った不要物を整理している時だった。ゲーム機や漫画、メンコやビー玉など様々な玩具が箱いっぱいに詰まっている。どこか子供っぽいな、笑みを浮かべながらビー玉を机の上に置いた時、

「は?」

 それは、ころころと机の上を滑り、すとんと床に落ちた。そして、




ズガァン!!



 誰かが口を開く前に、校舎が、いきなり“爆ぜた”


「なっ!?」
「きゃっ!?」
「うおっ!!」


 途端に部屋がぐらぐらと揺れる。壁に寄りかかり、あるいは机の下に潜り込みながら、彼らは揺れが収まるのを待った。それから数分後、揺れはまだ少しあるものの、大きな揺れは収まった部屋の中で、葵は何とか立ち上がった。


「何があった!! いや、まず先生方に連絡、それと並行して負傷者の救助を行う。詩音、ここの指揮をとれ。華音、一緒に来い。何が起こったか様子を見に行く!!」

「分かったぜ、葵ちゃん!!」
「はい、総長!!」

 頷いた詩音がほかの生徒たちを立ち上がらせ、てきぱきと指示を出していく。その間に、葵は木刀と宗近を持ち、薙刀を持った華音が自分に続くのを見ると、勢いよく部屋のドアを開け、





 そして、





「・・・・・・え?」
「は? なになに、何なのよこの状況!?」



 左右を確認し、西側を見た時、二人はあんぐりと口を開けて、その動きを止めた。


なぜなら、本来そこにあるはずの校舎が、地面ごと抉られて、きれいさっぱり瓦礫の山と化しているためである。


「な!? なんなんだこれ、おいっ!! 誰か巻き込まれた奴はいないか!!」
「落ち着きなよ葵ちゃん、今は夏休みだし、学校には私たち以外誰もいない。それより原因を調査する方が先じゃない?」
「そ、そうだな。瓦礫が内側に吹き飛んでいる・・・・・・間違いない、外から何らかの力が加えられたか。よし、外に出るぞ、華音」
「了解!!」

 幸い昇降口は無事だった。二人の少女は急いで靴を履き変え、外に出る。すると、校庭の真ん中に巨大な穴が開き、そこから校舎まで一直線に亀裂が走っているのが見えた。間違いない、あそこで何かあったのだろう。木刀を構え、三日月宗近を腰に差し、葵は校庭に続く階段を降りていく。だが、完全に階段を降りる直前、彼女は足を止め、木刀をゆっくりと構えなおした。なぜなら、





『小鬼どもめ、全く使えん!! まさか、途中で全て力尽きるとはな!!』

「まあまあアテルイ様、こうして結界の内側に出ることはできたのですから、後は出雲大社を目指すだけですわ・・・・・・あら?」

 
 校庭に空いた巨大な穴から出てきた、二体の鬼を見たからだ。
 
 



「お前たち、何者だ!!」


『しかし、ここからあの女の所までは結構あるぞ。まあ、立ちふさがるものは全て切り捨てればよいだけだが』
「そうですわね。ふふっ、夕闇に咲く赤い牡丹、さぞかし見応えがあることでしょう」

 木刀を正眼に構え、葵は唸るように問いただした。それに対し、二体の鬼は何ら反応することなく、ただ自分達だけで話をしている。


「だから、何者だと「やばいよ葵ちゃん、あれはまじでやばい物だって!!」ぐっ」
 駆け出そうとした葵の身体を、追いついた華音は慌てて引き留める。その時になって、ようやくこちらの存在に気付いたのか、鬼がこちらを振り向いた。途端に葵の身体が大地に沈む。鬼の発する威圧は、少女には到底耐えきれるものではなかった。

『先ほどから、随分うるさく羽虫が飛び回っているな。女二人か・・・・・・ふむ、攫って子を産ませるというのもあるが』
「あら? ふふっ、どうなさいます?」
『そんな暇はないし、何分腹が少々空いた。ふむ、皮を剥いで血を啜り、肉を食らうとしよう』



「う・・・・・・ぐぅ」

 鬼が発する威圧の中、葵は必死に立ち上がろうともがく。しかし、ただでさえ細身の少女の身体は、起き上がろうともがけばもがくほど地面に縫い付けられた。

『喜べ女、貴様はこれより現世におけるすべての苦しみから解き放たれる。そのことに感謝して儂に食われるが良い』

 アテルイと呼ばれた鬼が、葵にゆっくりと近づいていく。そして、その手が少女に伸ばされた時、

「はぁああああああっ!!」

『む?』


 その手を薙刀で打ち払うと、華音は葵とアテルイとの間に割り込んだ。


「くっ、だめだ華音、逃げろ!!」
「ははっ、その頼みは聞けないね葵ちゃん、こちとら君の親友なんだ。その親友を置いていけるわけないでしょ」

『ふん、つまり貴様から食われたいということか、よかろう。ならばまず貴様から喰らってやるとしよう』

「はっ!! 誰が食われるもんか!! 知ってるかい? 花には鋭い棘を持つ種類だってあるんだよ!!」


 華音の繰り出す薙刀が、ものすごい速度でアテルイに突き刺さる。しかしアテルイはひるんだ様子もなくその攻撃を受け続けると、いきなり薙刀の刃を手で持った。

「は?」

『ふん、これがその棘とやらか? 何の痛痒も感じぬわ。だが、少々仕置きをしてやらねばならんな・・・・・・ふん!!』

 アテルイがたいして力を込めることなく拳を握ると、彼が握っている刃が粉々に砕けた。次に刃が消えた薙刀の柄を握ると、華音の身体ごと空に持ち上げ、地面に思い切りたたきつける。


「くひゅっ!?」
「華音!!」


 肺から酸素が全て出たような悲鳴を上げ、華音は地に沈んだ。それを見ることなく葵に近づくと、アテルイは軽く彼女の身体を蹴り飛ばす。

「うぁっ!?」

 鬼に蹴り飛ばされた葵の身体は、校庭をゴロゴロと無様に転がっていく。それを退屈そうに眺めると、アテルイはゆっくりと葵に近づいた。


『まったく、素直に食われるという簡単なことが、貴様らは出来んらしいな。だがこれで終いだ。まずは貴様のはらわたを生きたまま踊り食いし、流れる血を啜ってやろう』

 地面に倒れる葵の身体を持ち上げると、アテルイはその巨大な口をガバッと開いた。鋭くとがった牙が、何重にも生えたその口の中央に、ちろちろとなまめかしく動く一本の下が見えた。

「ひっ!? い、いや・・・・・・」


 カタカタと震える葵の服を剥ぎ、露わになった白い肌に舌を這わせる。そして、ついにその巨大な口で、少女の肉を貪ろうとした時、





 轟音と共に上から降ってきたその物体が、アテルイの身体を弾き飛ばした。



『むっ!?』

 その物体が校庭に降り立った時に巻きあがった砂埃で、弾き飛ばされたときについ放してしまった葵の身体が隠れる。しかたない、もう一人の女の方を食らうか、そう考えたアテルイが体の向きを変えた時、砂埃の中から何かが自分に向かって突進してきた。


 それは自分とほぼ同じ体格をした鉄の人形だった。外見は自分が身に着けている大鎧に似ている。だが自分と違い、大鎧の上に面覆いと兜を着込んだその人形は、せっかくの餌である女達から自分を引き離すように自分の身体をぐぐっと校庭の隅に押しやってくる。

『ぐっ!! なめるな、人形風情が!!』

 両腕を抑え込まれる中、唯一自由に動く頭で強烈な頭突きを相手の頭部にぶち当てると、鉄人形はぐらりとよろめき、充分に葵たちから引き離したと判断したのか、ばっと後方に下がった。



 ―敵生命体の攻撃により、頭部に軽微な破損を確認。自己修復の範囲で再生可能―

 鉄人形は先程の攻撃による被害が軽微であると判断した。


 鉄の古武者がこの場所にやってきたのは、別に葵たちを助けるためではなかった。先日長年にわたり封じ込められていた隔離空間から搭乗者、および要救助者一名と共に脱出した後、彼は再先任操縦者である黒塚奈妓の行方を捜して近辺を飛び回っていたのだが、その途中、膨大な数の敵の気配を感じ舞い戻ったのである。機体の所々にガタがきて、さらにブースターが片方不調のため本来の速度が出ず、結果的に昨夜の鬼の襲撃には間に合わなかったが、こうして要救助対象である二人の少女は助けることができた。後は目の前にいる巨大な敵を倒せば、この戦闘は終了する。

―敵生命体の識別開始・・・・・・識別完了。種族:四界を構成する世界のうち、赤界に巣食うとされる鬼族(きぞく)と判明。嘆きの大戦後にこちらに残った種族と判断。その中でも特に強力な鬼と思われる。敵の戦闘能力を上方修正。現在使用できる武装確認、携帯武器:無し 内臓武器:ほとんどが破損。唯一使用できる武装として、胸部に装備している二連装散弾銃を確認 これより近接行動に移行する―


 彼は、戦術級自動歩行兵器の試作型壱号機であり、眠りにつく前に皆から“戦国無双”という名で呼ばれ、機械であれ仲間や操縦者に愛された鉄の古武者は、自らに残った唯一の武装を確認すると、地面を蹴り、目の前の鬼に再び組みついた。

『貴様・・・・・・血の通っていない人形の分際で、二度も儂に刃向うか!!』

 先ほどの奇襲と違い距離があるのか、アテルイが何度も殴りつけてくる。相手の攻撃で機体の所々を損傷させながら近づくと、鉄の古武者はアテルイの体に密着するように飛びつき、自らに残った最後の武器である、胸部にある散弾銃を全弾ぶっ放した。



ズガガガガガガッ



『ぐぉあ!?』


胸と両肩、そして首元に無数の弾丸を受け、アテルイは思わずのけぞった。鎧が半ば千切れ、元々来ていなかった部分は赤く焼けただれている。

『貴様・・・・・・調子に乗るな!!』

 散弾銃を売った反動により鉄武者がわずかに離れると、アテルイはそのわずかな隙間を使って腰の斬馬刀を抜き、相手の左腰から右肩に向けて下から一気に切り上げた。ピピッと音がして、ぐらりと鉄人形が揺らぐ。隙を見逃さず、今度は頭から袈裟切りにしようとするが、それは相手の両腕に阻まれた。




 戦国無双は、自らの機体に発生した損傷が、すでに自己修復の範囲内を突破したことを悟っていた。

―腰部から胸部にかけて、損傷三十パーセント突破。腕部損傷十パーセント突破、戦闘能力二十パーセント減少―


『ほう、動きが鈍ったかぁ』


 動きが鈍い鉄武者の腹部を蹴り飛ばすと、アテルイは人形の首を落とそうと首筋めがけ太刀を振るう。それを両手で何とか受け止めるが、鉄武者の人工知能は、次に何をすれば判断できなかった。彼は無人で動くこともできるが、とっさの判断はどうしても人の手を必要とする。相手の太刀に段々両手が潰されていく中、鉄武者は操縦者を欲して周囲を見渡した。近くにいる二人の少女は駄目だ。二人とも鬼に受けた傷がひどく、激しい操縦には耐えられないだろう。自爆覚悟で鬼の身体を持ち上げて飛ぶか、そんな考えにまで及んだ時、


 タッタッタ


 軽快な足取りでこちらに向かって走ってくる、一人の少年の姿が見えた。









 聖亜がその爆発を目にしたのは、病院を出て、小百合や優、そしてなぜかついてきた横尾と一緒に、近くの食堂で少し早い夕食をとった帰りだった。


 ズドォンという巨大な爆発音とともに地面が揺れ、向かっていた彼らの寮がある方向からもくもくと噴煙が立ち上る。パニックを起こし逃げ出す住民と対照的に、彼らは呆然とその噴煙を眺めていた。

「いやいやいや、なんなんすかありゃ!?」
「・・・・・・決まってるだろ、敵襲だよ!! 優、小百合と横尾を連れて日村先生を探しに行って来い、俺は爆心地の様子を見てくる!!」
「え? いや、お一人で大丈夫ですか? 僕か横尾君が一緒についていった方が」
「いや、俺一人の方が都合がいい。安心しろ、無理はしないさ。小百合、後は頼んだぞ」
「へ? う、うん」


 事態がまだよく呑み込めていないのか、茫然としている小百合にそう声をかけると、聖亜は逃げ出す人々とは正反対の方向に走っていく。


『あらあら、よろしいのですか主様、彼らと協力しないで』

(アトラか、こうなることがわからなかったのか?)

『分からない・・・・・・というのは厳密には違いますわ。数に任せて鬼を突撃させるという方法は、相手に対抗手段がなくて初めて成功するもの。対抗手段があってそれを仕掛けるということは、相手は膨大な数を囮にしている、という考えはありましたが、何処から奇襲を仕掛けてくるかはわかりませんでした。さて、先ほどの質問に答えていただきましょうか? 主様』

(万が一の場合、“炎の偽剣”を使う。もしかしたら、あいつらを巻き込んでしまうかもしれない。その危険性があるなら、俺一人で戦う。それだけだ)

『ふむ、何かしら腑に落ちないところもございますが、まあいいでしょう。ここで助言を一つ、立志院に行くには二つの道がありますが、遠回りである西の道が良いと思います』

(西の道? そういえば、鍛冶場はそっちにあったな。分かった、まずは鍛冶場に行くことにしよう。ありがとう、アトラ)


 
 聖亜が西の坂道をあがって鍛冶場に着いた時、そこは蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。鍛冶場の中心にいる女棟梁の指示で、男たちは火を消さないために必死に薪をくべている。また、作成中の武器をしまうもの、完成した武器をもって周囲の警戒に当たるものなどがいる。


「おう坊主、こっちだこっち」

 聖亜が鍛冶場に駆け込むと、片目に眼帯をした女棟梁が何かの包みを投げてよこした。慌てて受け取ると、それは案外軽かった。

「棟梁、これは?」
「注文の品だ。詳しい説明は省くが、あんたから預かった木刀を半分に割って、柊鰯(ひいらぎいわし)を溶かした液体に一昼夜漬けて浸透させた後、限界まで削って磨き上げた。ま、対鬼用になっちまったが、それは勘弁してくれ。校舎の方まで行くんだろ? あたしらはあいにくここを離れられないが、もう少ししたら高天原からの応援も来る。気張ってやんな!!」
「ああ、ありがとう。行って来る!!」

 手を振る女棟梁ににっと笑って頷くと、聖亜は走りながら包みをほどいた。中にあるのは木で作られた二本の小太刀だ。長さは三十センチほど。思ったより軽く、そして木製ということで攻撃力に難があると思うが、自分がするのは応援が来るまでの足止めだ。これで充分だろう。そう考えて二本の小太刀を握りなおした時、


「・・・・・・は?」


 木立の、真剣なら刃がある部分が、いきなり赤く染まった。無意識のうちに真紅の御手を発動してしまったのかと慌てるが、右手は何の変化もしていない。ということは、この小太刀自体に何かしらの仕掛けがあるのだろう。改めて小太刀を握りなおし、目前に迫った校庭に、少年は一気に駆け込んだ。








「はぁあああああああっ!!」



『むっ!?』


 自分に向かってくる少年の姿を、むろんアテルイは目にしていた。しかし、彼が構えているのが玩具のような木製の小太刀であるのを見ると、無視して鉄人形に向き直る。しかし、首筋に何か不愉快なものを感じたアテルイが振り返ると、首を狙って突き出された小太刀が、狙いを外して鬼の右腕を掠めた


『グ!? グォオオオオオオッ!!』


 その瞬間、右腕を襲った激痛にアテルイは絶叫を上げた。小太刀が掠った部分が、ぶすぶすと煙を上げて腐り落ちる。それが右腕全体を負った時、アテルイは左手に持つ太刀で、自分の右肩から下を躊躇なく切り落とした。



「・・・・・・なんなんだ、これ」



 聖亜は自分の攻撃を受けた鬼が、自身の右腕を切り落としたのを見ると、両手に持つ小太刀に目を落とした。これが対鬼用という女棟梁の話はどうやら本当だったようだ。恐る恐る小太刀の先端を触れてみるが、自分にはひんやりとした木の感触しか伝わってこない。


「まあいい、効果があるならそれはそれで好都合だ。このまま一気にぶっ殺す!!」


 校庭の隅で気絶している葵を見た少年の胸に怒りがわきあがる。あまりいい出会いとは言えなかったが、それでも自分の知る少女を傷つけられたという怒りが、彼の胸を熱くさせていた。


『グガッ、嘗めるな、小童ァ!!』


 痛みにうめき声をあげ、それでも闘志が衰えないのか、アテルイは左手一本で太刀を持ち、聖亜に向かって行く。だがその動きは激痛で鈍っており、さらに左手だけで持っているためか、太刀の切っ先が多少ぶれていた。

「そっちこそ嘗めるな!!」

 相手がよたよたと繰り出してくる斬撃を軽々避けると、聖亜は逆に相手の間合いの内側に飛び込み、小太刀を突き上げる。それは顔をそむけたアテルイの巨大な二本の角の片方を掠めた。

『グ、ガガガガガッ!?』

 顔の半分を腐らせ、頭蓋骨が露わになった鬼神がどうっと音を立てて崩れ落ちる。顔からぶすぶすと煙が立ち込め、すでに死んでいるだろう鬼に、念のためとどめをさそうと聖亜は駆け寄ったが、その間、花柄の着物を着た一人の少女が割り込んだ。

「お前・・・・・・人じゃないな」
「クスクスクス、それはあなたも同様でしょう? しかし随分と厄介な武器をお持ちのようですね、対鬼用の武器はいろいろと耳にしますが、これだけの威力を持つ武器は知りません。よろしければ、その武器の名前をお教えいただいてもよろしいでしょうか」

 名前か。そういえば、この小太刀の名を聞かなかったな。そう思った聖亜の脳裏に、これがまだ木刀であった頃、翡翠が呟いた名が浮かんだ。確か、“膝打丸”であったか。


「・・・・・・膝丸(ひざまる)と打丸(うちまる)。それがこいつらの名だ」

 小太刀を構え直し、殺意を込めて少女を見る。だが相手はおびえることなく、ただクスクスと笑みを浮かべていた。

「こんないたいけな少女にそんな殺意を向けるなんて。ふふっ、あなたは人間ではなく、むしろ私達“鬼”に近い存在に見えますわ」
「まさか鬼に鬼と呼ばれるとは思わなかったな。けど、そのデカブツが倒れた以上、あんたらに勝ち目はない。さっさと消えるか、ここで死ぬか、どちらかを選べ」
「あらそれは怖い。なら、私は第三の道を選ばせていただきましょう。ねえ、アテルイ様」

 やっぱり死んでなかったか。舌打ちして聖亜は小太刀を構えなおした。少年の目の前で、アテルイと呼ばれた鬼の骸は少女に声を駆けられてもしばし沈黙していたが、ふと、その指がピクリと動いた。

「けど、そいつがまだ死んでないからどうしたってんだ。こいつを使ってる限り、あんたらに勝ち目はないぞ」

「ふふ、確かに。対鬼用に特化されたその小太刀は、私たちを殺すには充分。ですがお忘れですか? この場所には、およそ八千の鬼の怨念が漂っているのですよ?」


 笑みを浮かべる少女がぱちんと指を鳴らすと、空から何か黒い靄のようなものが降ってきて、頭蓋骨が露わになった鬼の頭部に吸い込まれた。それは後から後から降ってきてついには黒い柱のようになり、そのすべてが鬼へと吸い込まれていく。無限に続くと思われたそれは、だが五分ほどで収まった。

「・・・・・・」

 自分の背中を、一筋の冷や汗が流れていく。その嫌な感触に突き動かされるように、聖亜は小太刀を構え駆け出した。鬼神はまだぴくぴくと痙攣しているだけで、起き上がる気配はない。今頭部を完全に粉砕すれば、相手は完全に死ぬだろう。そう結論付け、鬼の身体を超え駆け出すが、残念ながら頭部に到達するまでに鬼の身体が起き上がった。仕方なく、小太刀を二本、相手の心臓めがけ力任せに振り下ろした。



ガキッ


「は?」


 だが、少年が振り下ろした小太刀は、アテルイの心臓を粉砕することはなかった。小太刀は頭部に到達する直前、まるで何か堅い物に当たったような感触と共に弾かれたのだ。


『グ・・・・・・?』
「うわっ」


 しかも、それが鬼を完全に覚醒させてしまったらしい。眉をひそめて小太刀を眺める自分の身体が、不意に再生した鬼の右腕に捕まれた。じたばたともがきながら再び小太刀を振り下ろす。だが、それはやはり何かに阻まれて鬼の身体にまで到達してはいない。と、ここで聖亜は妙なことに気付いた。自分は確かに小柄な方で、鬼の身体は自分の三倍ほどもあったが、だがだからといって自分の身体を片手で握れるほどに巨大だっただろうか。疑問に思っている少年の前で、鬼はゆっくりと起き上がった。しかし、その身体は先程の三倍ほどに膨れ上がっており、先ほどまで身に纏っていた鎧は砕け、その中にある赤く剛毛を生やした筋肉質の体が姿を現した。

「ふふ、八千の鬼の魂を吸収したアテルイ様に、どれほど対鬼用に特化していたとしても、単なる小太刀など通用するはずがございませ・・・・・・きゃっ」

 その時、少女は初めて悲鳴を上げた。自分に向かって、少年の身体が投げ飛ばされたからである。

「あらあら、もはや理性など残ってはいませんか。やはりどれだけ怨念があろうとも、結局“代替品”ではこれほどの鬼の魂を吸収すれば、正気を失うのも無理はありませんか・・・・・・ふふっ、では私はこれで失礼させていただきます。狂えアテルイ、そしてすべてを破壊し尽くせ!!」

 
 自分が避けた少年の身体が地面に落ちていったのを見て嘲笑すると、いつの間にかアテルイが使っていた太刀を両手で持った少女は優雅に一礼し、その瞬間、ふっと消え失せた。











 かつて、仲間たちから“戦国無双”の愛称で呼ばれた鉄の古武者は、自己修復を行いながら、つい先日、自分に搭乗した少年と鬼との戦いをじっと観察していた。彼はその小太刀を使って、自分を負傷させた鬼を打倒したが、少女が指を鳴らした後、巨大化した鬼に投げ飛ばされ、今は地面に転がって呻いている。それを見て、元の身長の三倍ほどに膨れ上がった鬼は、左半分が頭蓋となったその顔をにやりとゆがませると、手を伸ばした。恐らくは喰らうつもりなのだろう。



―自己修復完了 戦闘能力の低下を十パーセントまで改善 戦闘続行可能 ただし操縦者不在のため、咄嗟の判断は不可。操縦者候補検索・・・・・・検索終了 少女二名は体力の著しい低下により継戦能力無し 少年一名は負傷しているも戦闘続行可能 操縦者決定、少年の確保に向かう―


 

「ぐ・・・・・・う」


 鬼に地面に投げ飛ばされた聖亜は、背中を打った衝撃と激痛で息もまともにできず、自分に向かってくる鬼の巨大な手をただじっと睨みつけていた。彼が握っていた二本の小太刀は、地面に打ち付けられたときにどこかに飛んで行ってしまった。最早鬼に対抗する手段は“真紅の御手”しかないが、全身が激痛で動けない今、それを発動させるのも難しいだろう。


「う・・・・・・ぐぽっ」


 何か言おうとしても、口の中だけでなく、喉まで血が溜まって何も言うことができない。そして、鬼の手が自分に触れる、その寸前、


 彼の身体は、横から飛んできた鉄武者に掻っ攫われた。





―少年の確保成功、負傷甚大により、これより治療プログラム発動―


 意識が半ばない状態の少年を鎧の腹部を開いて中に収納すると、鉄武者は鬼が振り下ろしてくる腕を避けながら、何か武器になるようなものを探して周囲を見渡した。


―周囲の探索開始・・・・・・探索完了 現在半径百メートル以内にある物のうち、武器は木刀壱 薙刀壱 小太刀弐 いずれも敵性存在である鬼に対して効果なしと判断 校庭の隅に少女が携帯していた太刀を発見 鞘から抜かれていないため威力は未知数 回収開始―



(・・・・・・ん?)


 鉄武者が校庭の隅に転がっている太刀―三日月宗近を回収するため移動している間、鉄武者の治療プログラムにより少しずつ身体が癒え、息をするのが楽になった聖亜は、ぼんやりと目を開けた。


―搭乗者の覚醒を確認。搭乗者に問う。貴官はまだあの適正存在と戦うつもりがあるか―


(・・・・・・あいつを野放しにしたら、小百合や優、何より俺の唯一である準が危ない。ああ、戦うさ。たとえ俺の身体がバラバラになったとしても)


―搭乗者の戦闘継続の意思を確認 これより搭乗者を黒塚奈妓に次ぐ次席操縦者として登録 搭乗者よ、貴官の名を訪ねる―



「・・・・・・星、星、聖亜」



―搭乗者の名を確認 星聖亜を次席操縦者として登録 これより情報のフィードバックを開始―

「は? フィードバックってな・・・・・・うぐっ!?」



 鋭く太い針のようなものが、いきなり首に刺さる。それだけならまだ耐えられた。聖亜が耐えられずに白目をむいたのは、頭に情報が怒涛のごとく流れ込んできたためである。

「う・・・・・・がぁ、ちくしょう!!」

 だが、白目をむいたのは一瞬のことで、聖亜はいきなり流れてきた情報のせいでずきずきと痛む頭を振り、鉄武者の暗い内部を探ると、左隅にある小さなボタンを押した。

 ヴンッとにぶい音がして、上にある照明がついた。それほど大きくない内部の中、痛みが大体収まった聖亜は操縦席に座りなおすと、備え付けられたベルトで自分の身体をがっちりと固定した。


「いきなり何すんだ、くそ痛ってぇ」


 愚痴を叩きながら、今度は目の前にある操作パネルの右上にある赤いボタンを押す。と、周囲にいきなり外の様子が映った。全周囲モニター(この言葉も先程流れ込んだ情報で知った)を見ると、鉄武者は自動で走りながら校舎の隅に向かって行く。


「次席操縦者よ」
「あ?」

 不意に、頭上から明朗な男の声がした。見上げると、照明の隣に赤く丸い物があり、声が発せられるたび点滅している。

「次席操縦者よ。私が“素人”である貴官に望むのは咄嗟の判断だけだ。それ以外、私は自動で動く」
「悪い、何言ってるかわからないんだけど」
「要するに、何処も触るなということだ。太刀を回収完了、これより鬼との戦闘に入・・・・・・む?」
「どうした? さっそくとっさの判断とやらが必要か?」

 どこか人間っぽい声ににやにやと笑いながら尋ねる。それに答えず鉄武者は太刀を鞘から引き抜こうと頑張っていたが、やがて何か分かったのか、ゆっくりと腰に構え、居合の構えを取った。

「少し驚いただけだ。こんなものでとっさの判断など必要ない。太刀の名と種類が判明。名称 三日月宗近 種類“血鳴刀(ちなきとう)”これは持ち主の血を吸い取って初めて抜くことができる、いわゆる妖刀だ」
「妖刀って・・・・・・あいつ、そんな物もっていたのか」
 モニターから見える外の景色の中、校庭の隅に転がっている葵を、聖亜は気の毒そうに眺めた。
「ここ十数年は使用された形跡がない。恐らく以前の持ち主が太刀の抜き方を教えていなかったのだろう。というわけで星聖亜、貴官の血をもらうぞ」
「は? 痛ッ」

 操縦席の左わきから小さな注射器がするすると伸びてきて、服の破れた部分から見える少年の腕に突き刺さった。先ほどとは違い痛みは微々たるものだが、それでもいきなりはやめてほしかった。ぶつくさと文句を言いながら左腕をさすっている聖亜を尻目に、鉄武者は左から伸びた管にある聖亜のルビーのように赤い血を、血鳴刀と呼ばれた太刀の鍔に滴らせた。



 ドクンッ



 周囲に聞こえるほど巨大な鼓動がし、太刀が鞘から抜ける。三日月宗近、三日月のように美しいとされる刀の赤い刃は、滴らせた血によって妖しく光っていた。その光に、聖亜は一瞬見惚れてしまった。

「・・・・・・」
「星聖亜、魅せられるな。妖刀とは時として人を魅せるから妖刀なのだ」
「・・・・・・あ、ああ。分かった。けどあんたよく“血鳴刀”なんて知ってたな」
「一時使用していたことがあったからな。私が使用していた血鳴刀は名を“鬼丸国綱”という。巨大な斬馬刀だ」
 太刀といっても、五メートルほどの鉄武者から見れば小太刀ほどしかない宗近を腰に構えると、こちらに向かってくる鬼に、逆にこっちから向かって行く。相手の突き出す左手を跳躍して避け、肘の部分に宗近を叩き込む。その一撃は、先ほど聖亜が小太刀でやった一撃のように巨大な鬼の身体に当たる寸前、弾かれた。


「ふむ、これは困った」
「何が困った、だ。全く効いてないじゃないか」
「やれやれ、星聖亜よ。もう少し余裕というものを持て。まず始め、貴官は剛毛の生えた胸部を攻撃した。それで効果がなかったため、次に私は剛毛に覆われていない関節部分、つまり赤い肌がむき出しになっている部分に攻撃を加え、やはり効果がなかった。なら後効果があると考えられるのは」
「頭蓋骨の部分・・・・・・か」
「そういうことだ。飛翔する」

 聖亜がモニターから見える鬼の頭部を眺めると、それと同時に鉄武者も上の方を向いて飛び上がった。その瞬間、先ほどいた場所を、鬼の剛腕が通り過ぎる。一度右肩に降り立つと、今度はそこに左手が襲い掛かってくるが、結局二本の腕しかもたず、そして理性がないため単調な攻撃しかできない相手だ。避けるのは容易い。結局一度も捕まることなく、鉄武者は頭蓋骨がむき出しになっている顔の左半分の前に到達すると、宗近を腰に構え、ぽっかりと空いている眼窩部分に突き進んだ。だが



ガキィンッ



「ふむ、ここも弾かれるか」
 鉄武者の身体は、眼窩に入る寸前、鈍い音をして弾かれた。

「おいおい、穴の部分まで弾かれるということは・・・・・・」
「可能性として考えられるのは、この巨大な敵の周りを何か見えないバリアのようなものが覆っているということだ。しかも」
「うおっ!?」

 会話の途中に、鉄武者が再び眼窩部分に突き進む。だがそれは再び弾かれた。

「バリアはどれほど強力な攻撃でも破壊することは不可能だ。星聖亜、このバリアについて、何か心当たりはないか?」
「は? 俺にあるわけ・・・・・・ああ、そういえば」

 そういえば、今はもういないが、鬼と一緒にいた少女が、八千の魂が何たら言っていたな。そう説明すると、鉄武者はしばらく考え込んでいたが、やがて人間がするようにため息を吐いた。

「ふう、なるほどな。恐らくこのバリアは、敵性存在の身体に入りきらなかったその魂によるものだ。魂は現存するいかなる武器でも効果はない。あるとすれば何かしら術のようなものだが、星聖亜、貴官は何か術が使えるか?」

「使えるっていえば、使える」

 聖亜が言ったのは、自らの最強の武器である真紅の御手の事である。だがあれは自らの身体すら焼き尽くしかねない諸刃の刃のようなものだ。前回使った時は精神体であったため身体に負担はないが、灼熱を制御してくれる炎也が目覚めていない今、短時間のうちに再び使うと、どのようなことになるかは容易に想像がついた。しかしそれ以外に術(すべ)がないというのであれば使うしかあるまい。

『ふふっ、お困りのようですね、我が主』

(なんだアトラ、あんたが制御でもしてくれるのか?)

『残念ながら、私が得意とするのは氷の属性。炎とは相性が悪いですわ。それより、主様の中で眠りこけているぐうたら小娘を叩き起こした方が確実です』

(炎也を? できるのか?)

『ま、何とかやってみましょう。それまでなんとか耐えていてくださいまし』









 聖亜が巨大な鬼と死闘を繰り広げている間、朱雀門にて朱華に教師として赴任したことを知らせていた日村総一郎は、轟音と地震が発生した時、ダッと外に飛び出した。そこで自分を探していた小百合達に出会い、事情を聴くと、そのままわき目もふらずに立志院まで駆け出す。走りながら呼吸を整える。常に冷静に、そして迅速に動け。それが立志院にいた時、妹を探すために躍起になって強くなろうとしていた自分に師匠であった人が言った言葉である。


 左腕に装着した義手を確かめる。幼少の頃に鬼に襲われ、両親を殺され妹を攫われ、そして自分も左腕を食われた後、彼を救助し、そして母として育ててくれた朱華が初めて送ってくれた時から装着していた義手は、何度か交換と改良を積み重ね、現在電気振動により己の意志で自由に動かせるようにまでになり、血こそ通っていないものの自身の第二の腕といってもいい物になっていた。


 何度目かの角を曲がり、立志院に続く大通りまで来た時だった。総一郎の歩みがゆっくりと止まり、彼は前方をキッと睨み付けた。


 彼がいる場所から三十メートルほど前方を、立ち入り禁止と大きく書かれた看板が塞いでいる。そこには高天原の精鋭部隊である第一部隊の腕章を付けた十数人ほどの人間と、そして布でできた仮面とローブをまとった、男か女か、そして人間かどうかも分からない者達が四名、彼らの中心にいる黒塚神楽を守るように立っている。


「・・・・・・あら?」


 こちらに向かってくる総一郎を見て、神楽はにこやかに微笑した。

「あなたは・・・・・・」

 神楽の前に総一郎が立つと、布製の仮面を付けた四名が神楽を守るように彼女と総一郎の間に立つ。いいのよ、そう言って四名を下がらせると、神楽は総一郎に向き直った。

「あなたがあのゴミの代わりに聖亜ちゃん達の担任になった総一郎君かしら。私は黒塚神楽というの、よろしくね」
「あなたが・・・・・・」
 黒塚家当主であり、そして高天原の最高権力者である彼女の名を、もちろん総一郎は知っていた。だが、彼にはとても目の前の彼女が神楽とは思えなかった。なぜなら


「・・・・・・一つお聞きしたいことがあります。黒塚神楽様は本来であればご高齢のはず、ですがあなたは十代の少女にしか見えない。あなたは本当に神楽様なのですか」


「・・・・・・あらあら」


 不意に、神楽の顔から笑みが消えた。彼女の姿を見て、惑わされなかったのは彼で五人目だった。彼女の顔から笑みが消えたのとほぼ同時に、布の仮面をした者が一名、総一郎に向かって何かを突き出す。彼はそれを義手で受け止めると、それに構わず神楽の方を睨み付けた。

「私の推測は二つ、まず一つ、あなたは元々黒塚神楽ではないか、そしてもう一つ、これは私が放浪していた時に見聞きした物ですが、その中にとある邪法について聞いたことがあります。人の魂を吸い取り、自らの身体を若返らせる・・・・・・まさか!!」


 総一郎は飛び退こうとしたが、その動きは遅すぎた。神楽の目が妖しく光ったかと思うと、総一郎を含めた周囲が、まるで時が止まったかのようにぴたりと止まる。


『・・・・・・神楽様、どうなさいますか』
「そうねぇ、まさか私の術まで知っている者がいるなんて思いもしなかったわ」
『よろしければ、こちらで処分いたしますが』
「あら~、それは駄目よ」
『駄目・・・・・・でございますか?』
「ええ。だってここで処分しちゃったら、誰が聖亜ちゃんを鍛えるのかしら。それに、見てごらんなさい」
 
 神楽が総一郎を指さす。仮面の者がそちらを見ると、時すら止まった空間の中、総一郎の身体がわずかに痙攣しているのがわかった。

『これはッ!?』
『まさか、“時止めの空間”の中で動ける者がいるとは』
「そういうこと。仕方ないわねえ、ここにいるみんなに忘却の術と、総一郎ちゃんに対してはそれに加えて誤認の術を強化して施すこととしましょうか・・・・・・しかし、さすがは炎の鉄槌、その異名は伊達ではなかったということかしら?」
 唇に笑みは浮かべているものの、目は全く笑っていない神楽は総一郎を見て、軽く首を傾げた。
「けれど、殺さないにしても手駒には欲しかったのだけれど、やっぱり脅すのは難しそうねぇ・・・・・・雷ちゃんの方がいいかしら」
 
 くく、くくくっと低く唸るような声で笑うと、興味をなくしたのか、軽く手を振った。すると、ゆっくりと白黒の画面に色が入るように、時が止まった白黒の世界に、徐々に色が戻っていった。







「ふむ、ここが主の中か」
 
 目覚めぬ炎也を起こすため、アトラは聖亜の精神の中に入り込んでいた。そこはドロドロとした溶岩が濁流のように流れている場所で、彼女は急な川のようなその場所を下流へと進んでいった。

「何とも暑そうな場所だが、所々にどす黒い炎があるのは、主が殺した人間達の怨念か、それとも主の自責の念か・・・・・・いや、後者は違うな。千人以上も殺した主が、自責の念など持つはずがない・・・・・・む?」

 アトラが進んでいくと、どす黒い沼のようなところから炎が噴き出し、その一つ一つが小さな骸となってアトラに向かってきた。

「ふん、くだらん。主ならばともかく、主にゴミのように纏わりついている怨念如きに私がやられるものか!!」


 アトラが右手を上げると、その上に氷でできた長剣が浮かび上がる。それを一振りすると、骸たちは凍りつき、粉々に砕け散った。しかし、骸たちは後から後から無数に湧き出てくる。

「ええい、きりがない。仕方ない、このまま突き進むか!!」

 長剣を振り回し、アトラは一心に突き進んでいく。所々長剣をかいくぐり、アトラにぶつかってくるものがいて、彼女の衣服はぶすぶすと焼け焦げて、アトラは痛みに顔を歪めたが、そのまま無視して突き進む。やがて、下流の底に、ぽっかりと小さく光る空間があった。

「なるほど、あれが主の唯一である、準を大切に思っている主の良心か」
 

 それは様々な花が咲き乱れる草原だった。その草原の真ん中に赤い屋根をした小さな家がある。木製の小さなドアを開けてアトラが中に入ると、目の前にいきなり誰かの顔が飛び出してきた。

「な!? これは・・・・・・絵か」

 それは一人の少女を描いた絵だった。一枚だけではない。壁という壁に、ただ一人を描いた絵が立て掛けてある。

「これは主の唯一である柳準という小娘か。ふん、しかし随分と大事にされているな」

 嫉妬を覚えたアトラが可愛らしく鼻を鳴らすと、その横を小さな猫が通り過ぎた。猫は全部で三匹居て、人懐っこいのかアトラにすり寄ってくる。
「ふむ、この猫は・・・・・・まあ良い、まずはねぼすけの小娘だ。あやつ、一体どこで寝ている?」

 動物好きなアトラが猫を持ち上げ、その首元を優しく撫ぜてやると、猫はころころと気持ちよさそうに喉を鳴らした。と、彼女の腕の中にいた猫が飛び降り、アトラの方を向いてにゃあと小さく一度鳴いた。

「ついて来いというのか? ふふっ、可愛いやつだな」

 優しく笑みを浮かべながら、アトラは猫を追いかけ始めた。猫は家の外に出て、花の咲き乱れる草原をゆっくりと歩いていく。その後を追いながら、アトラはふと、自分が先程まで居た家を振り返った。彼女の主である聖亜の中にこの空間があるのは、聖亜にとって唯一である準がいるためである。ならば、もし彼女が何らかの理由で死んでしまったら、ただ一人残された星聖亜は、はたして星聖亜のままでいられるのだろうか。

「私が主を見極めるのは、その時かもしれぬ・・・・・・ま、来るか来ないかの未来より、まずはここまで聞こえてくるほどのいびきを掻く小娘を叩き起こしてやらねばならんな」


 草原の中、ただ一本生えている木の、大きな樹洞の中から少しここまで聞こえるほどの高いいびきが聞こえる。額に青筋を浮かばせながら、家に戻っていく猫を視界の隅に入れ、アトラはそちらに向かって歩き出した



 深い木のうろの中、その最深部で少女はのんきに眠っていた。赤い灼熱の、炎のような髪を持つ少女だ。少女を見たとたんアトラがムッとしたのは、炎の属性の彼女と、氷の属性である自分は相性が悪いからだ。決して、彼女の胸が自分より大きいとか、そういった理由からではない。だから、これは私怨ではない。自分にそう言い聞かせ、だがにやりと笑うと、アトラは何やらごそごそと動いてから、よだれまで垂らしてのんきに眠っている少女を思いっきり蹴飛ばしてやった。


「んがっ!? いってえな、誰だよ人を蹴り飛ばしやがったのは!!」
「ほう? 寝起きでそれだけ吠えられるなら、もう傷は完全に癒えているということだな。おい小娘、我が主が真紅の御手を使用される。さっさと起きて制御しろ」
「はぁ? 何でてめえみたいな野郎にそんなことを言われなけりゃいけねえんだよ!!」
「何でだと? それは私が主様の従僕であるに決まっているだろう。それに誰が野郎だ。私の一体どこが男に見えるというのだ?」
 首が真横に曲がるほど強烈な蹴りを頭に受けた少女、炎也が首を押さえて立ち上がる。彼女は目の前のアトラを、殺意を込めて睨み付けていたが、やがてにやりと意地悪そうな笑みを浮かべた。

「あ~、わりいな小娘、けどさすがに胸がぺったんこじゃ、男と間違うのも無理はないって。ま、将来に期待できるんじゃねえの? 俺は将来なんて待たなくてもいいけどよ?」

 にやにやと笑いながら、自分の豊かな乳房を持ち上げて見せる炎也を見て、ビシリとアトラの額に青筋が走った。

「・・・・・・誰がぺったんこだ。それに私はすでに本体と共有した時間は三万年を優に超す。貴様などより遥かに年上なのだ。誰が小娘だ!!」
「あ? 三万歳って、なんでえ婆さんじゃねえか。聖亜の野郎も、もっと若いやつを従僕にしたらいいだろうによ」

 
ぷつん、と小さい音が聞こえたような気がしたのは、その時だった。

「・・・・・・ふ、ふふっ、小娘、言いたいことだけ言いおって。いいだろう、もとより素直についてくるとは思っていなかったのだ」
「は? ぐぇ!!」

 冷たい笑みを浮かべたアトラが、何か引っ張るような仕草をすると、炎也の身体がいきなり前につんのめった。その時になって、彼女はようやく、自分の腰に縄のようなものが巻き付いているのに気付いた。

「な、なんだよこれ、放しやがれ!!」
「黙れ小娘!! 貴様、今まで散々さぼっておったのだ。いい加減起きて主に奉仕するが良い」

 氷でできた縄の先を持ち、アトラは浮かび上がった。同時に、ぐえっとうめき声をあげた炎也の身体も浮かび上がる。空中を滑るように進み、樹洞から出ると、止まることなく今度は温かい空間から外に飛び出した。どろどろと溶岩が川のように流れる、その上流に向かって、アトラは突き進む。途中、来たとき同様に無数の骸が飛びかかってくるが、彼女はそれを完全に無視した。痛みに顔を歪めるアトラの中にあったのはただ一つ、一刻も早くこの小娘を主のもとへと連れて行く。ただそれだけであった。








「ああもう、アトラはまだか!!」

 左右から、鬼がその巨大な拳による一撃を繰り出してくる。それはほとんど鉄武者が自動で避けてくれるが、鬼の目がこちらの動きに慣れてきたのか、だんだん相手の攻撃が鉄武者を掠めるようになってきた。何度目かの攻撃が掠めた時、聖亜はつい愚痴をこぼした。

「貴官の言うアトラとやらが誰かは知らぬが、それより問題が一つ、先ほど敵性存在の腕が掠めた時、右足のバーニアに異常が発生した。同時に燃焼噴射推進器の一部に亀裂が走っている。そのため飛行速度、飛行可能時間共に三十パーセントダウン、このままではあと十分ほどで飛行不可能になる」
「たった十分で!? 直せないのか?」
「自己修復を開始すれば可能だが、それには一度機能を停止しなければならない。戦闘中は不可能だ」
「不可能って・・・・・・どっちにしろ、あと十分ほどで動かなくなるんだろ? どうすればいい?」
「簡単だ。私が戦闘不可能な状態に陥ったら、貴官を輩出するから、貴官は要救助者である二人の少女を連れて逃げろ。その間の囮ぐらい、私が何とかしよう」
「何とかしようって、お前な・・・・・・うおっ!?」

 機体すれすれを鬼の剛腕が掠め、さらにもう片方の手が伸びてくる。聖亜は咄嗟に操縦パネルの左わきにあるグリップを思い切り引き起こした。同時に鉄武者の頭部が上を向き、急上昇する。そのすぐ下を、鬼の突き出した手が突き抜けていった。

「ふ~、何とか躱せたか」
「・・・・・・星聖亜」
 額に流れる汗をぬぐい、ため息を吐いた少年の頭上で、無機質な男の声がした。
「なんだよ鉄武者」
「貴官の咄嗟の判断で敵性存在の攻撃を回避したのは、素人にしてはよくやったと言っておこう。だが問題が二つ、一つは下から敵性存在がこちらに向かって腕を伸ばしてきたこと」
「なんだそりゃ、それぐらい避ければいいだろ・・・・・・ん?」
 不意に、聖亜は外の景色がだんだん上がっていくのに気付いた。いや、これは逆だ。すなわち

「おい、これって」
「二つ目の問題として、先ほどの急上昇の結果、燃焼噴射推進器に入った亀裂が広がり、完全に飛行不可能になった」
「・・・・・・えっと、それはつまり?」
「落ちる、ということだ」


 落ちながら鉄武者がさらりと言った言葉に、聖亜は顔を青ざめて下を見る。にやりと笑みを浮かべ、口を大きく開いている巨大な鬼の顔が、すぐそこまで迫っていた。


「くそったれ!!」

 もはや燃え尽きる覚悟で発動するしかないか、自嘲気味に笑みを浮かべながら、自分の右手に意識を集中させた、その時


『待たせたなっ!!』


 少年の脳裏に、獰猛な獣を思わせる、少女の声が響いた。







『待たせたな聖亜、おいおい、随分とピンチじゃねえか。やっぱ手前は俺様がいねえと駄目だなぁ、本当によ!!』

「黙れねぼすけ女!! アトラはどうした?」

『あん? ああ、あの婆さんなら体中にやけどを負って、今は“中”で眠ってるよ。それより、随分と大物じゃねえか』

「ああ。デカブツだ。殺れるか?」

『はっ!! 俺様が制御する灼熱の炎にでかいも小さいも関係ねえ!! ただ全部そろって焼き尽くすだけだ!! 行くぜ聖亜、しっかり制御してやるから、全力で燃やしやがれ!!』

「ああ、行くぞ鉄武者!! 反撃開始だ!!」



 にやりと笑った聖亜が、真紅の御手を発動させる。それは少年の右手を変え・・・・・・なかった。

「む? これは・・・・・・」


 不意に、鉄武者は右手に握っている宗近を見た。赤い刀身が、今では灼熱の炎に変わっている。

「俺がここにいるのに右手変化させても意味がないからな。ダメもとでやってみた!!」

『おいおい、右手以外を変化させるなんて、ぶっつけ本番で、随分と無茶やらかすじゃねえか!! 気に入ったぜ!!』

「そりゃよかったな。とにかく、これで鬼の野郎をぶっ殺せる!! いくぞ鉄武者!!」
「ああ、了解だ!!」


 下半身はもうはや完全に動かなくなっているが、上半身は別だ。鉄武者は右手に握っていた三日月宗近を両手に持ち替え、高々と振りかぶると、もはや目前にまで迫った巨大な鬼の、その額の中央に灼熱の刀身をぶち当てた。それは一瞬、鬼の魂でできたバリアに弾かれたかに見えたが、それは本当に一瞬だけであり、灼熱の刀身はバリアを焼き切ると、そのまま鬼の身体を上から下に、まるで熱したバターを切るように、いとも簡単に断ち切った。

「・・・・・・よし、大体こんなもんか」

『へっ、俺様にかかればこんなもんよ』


 鬼を頭から股間まで一直線に断ち切り、地面に激突する寸前に回転して衝撃を最小限に抑えると、鉄武者と聖亜は先ほど自分が焼切った鬼を見上げた。鬼の身体は前面が二つに分かれており、奥にある巨大な背骨が見え隠れしている。左右に開いた体からは焼き焦げた内臓や、いまだ生の内臓がどろりと剥がれ落ち、周囲に物凄い臭気が立ち上った。

「星聖亜、見事、と言っておこう。後はこの残骸を片付けるだけだ」
「ああ、わかってる。動けないんだろ? 悪いな、俺が無理をさせたせいで。じゃ、降ろしてくれ。さっさと片付けるから」
「分かった。星聖亜、貴官の協力に感謝する」

 鉄武者が言い終えると同時に、ヴンっという音と共に操縦席の頭上が左右に開いた。ベルトを外し、操縦席に足をかけて一気に反動をつけて外に出ると、聖亜はう~んと伸びをした。そのまま一歩歩こうとして、少し体がよろめく。


 自分のすぐ上を何か細長い物が通り過ぎたのは、まさにその時だった。



「は?」



『おい、何をぼさっとしてやがる、さっさと飛び降りろ』

「え? うおっ」

 いきなり炎也の声が響いたかと思うと、今度は背中に強い衝撃が走り、聖亜の身体は鉄武者の上から地面に投げ出された。

「ぐ・・・・・・がはっ」

 背中をしたたかに撃たれたためか、一瞬息が詰まる。数秒後、大きく息を吐いた少年の口から、赤い血が数滴飛び散った。

「・・・・・・おい、一体、何が」


『おいおい・・・・・・冗談だろ?』



 どうやら、鬼の怨念というのはどこまでも執念深いらしい。まるでアジの開きのようになった鬼の身体から垂れ下がる大腸が、ゆらゆらと触手のように動き、こちらに向かってくるのが見えた。先ほどの細長い物体は、おそらく鬼の腸だったのだろう。所々焼け焦げた腸を動かせ、鬼はゆっくりとこちらに向かってきた。


「随分と気色悪い光景だな。死んだ野郎はそのまま黙って死んでやがれってんだ」

『それは全く同感だ。ま、さっさと真紅の御手を発動させて、奴を今度こそ焼きつぶしてやろうぜ』

「ああ・・・・・・ん?」


 不意に、聖亜の足もとが揺れた。何だと下を向いた聖亜の身体のすぐ前の地面から、おそらく地面の中通ってきたのだろう、細長い鬼の腸が飛び出し、聖亜の身体に巻き付いた。

「うあっ!?」


『お、おい聖、大丈夫かよ!?』


「ぐ・・・・・・大丈夫、じゃない。体が、動か・・・・・・ぐっ」


 細長い腸のどこにそんな力があるのか、ぎりぎりと締め付けてくる腸のせいで、聖亜は腕どころか、指一本動かすことはできなかった。聖亜を捕らえている腸とは別の腸が、鬼の肋骨をベキリとへし折り、そのとがった先端を動けない聖亜に向ける。そのゆっくりと持ち上がった肋骨が、死神の鎌に見え、聖亜はつい目をぎゅっと閉じてしまった。






「よく耐えた」







 聖亜が意識を失う直前、闇の中で、どこかで聞いたような声が、そう囁いた。








 “何の障害もなく、誰とも会うことなく”校庭に到着した日村総一郎は、巨大な鬼と、そして鬼の腸に捕らえられているこれから教え子になる少年を見て、迷うことなく駆け出すと、左手の義手を、聖亜を縛っている腸に渾身の力で叩き込んだ。内臓と言っても、その強度は石ほどもある。四年の間に改良を重ねた義手の先端に亀裂が走ったが、同時に少年を捕らえている腸は粉々に砕け散った。


「聖亜・・・・・・よく耐えた。後は私に任せておけ」


 そういえば、昨夜も同じことを言ったな。昨日のことを思い出し、意識を失っている少年に笑いかけると、総一郎はゆっくりと立ち上がり、こちらに向かってくる、身体がほぼ二つに分かれた鬼を見た。


「そのような体になってもまだ恨みを忘れないか。いいだろう、私の手で冥府に送ってやる。なぜ私が炎の鉄槌と呼ばれるのか、それを教えてやろう」

 足を肩幅ほどに開くと、総一郎はふっと軽く目を閉じた。自分の中から何かが湧き上がってくる。それは、怒りだろうか、憎しみだろうか、いや、違う。目の前の鬼に対する憐みだ。


「我は盾もたぬ者の盾、牙持たぬ者達の牙。我が手は弱者を守るためにあり、我が足は弱者を支える足である・・・・・・具現せよ、“蔵王権現”」


 その時、不意に、空気が沈んだ。そう思えるほどの重圧が、総一郎の身体から周囲に飛び出していく。彼の脚を支えているはずの校庭にひびが入り、校舎の残った東半分の窓が瞬時に粉々になった。そう、かけらになることはなく、いきなり粉末に変わったのである。








 しかし、それはまだ序曲にしか過ぎなかった。










「我が弱者を守ろうとするのは大義か? 否、それは我が私欲。我が鬼を殺そうとするのは大義か? 否、それは我が私欲。我が欲よ、その形を成せ!! 降臨せよ“火之迦具槌”」


 総一郎の身体がいきなり炎に包まれる。全てを焼き尽くすほどの高熱を発する炎は、だが蔵王権現を具現させた総一郎の身体を多少焦がすだけだ。そのうち、身体を包む炎は彼の右手に集まり一つの形を成していく。それは、柄の長い槌の形をしていた。

 ゆらり、と総一郎の身体が鬼に向かって行く。彼に恐怖を感じたのか、もはや死んでいるはずの鬼は後ずさりながら、武器である己の腸を必死に彼に伸ばしていく。だが、それは彼の身体に届く前に、一瞬で焼き尽くされ、蒸発していく。すべての腸を焼き尽くし、もはや半狂乱になった鬼が、その巨大な体をゆっくりと倒していく。校庭を優に飛び越すほどの巨体だ。それだけで充分、武器になるはずであった。だが


「・・・・・・」


 総一郎は自分に倒れこむ鬼の身体を見上げると、右手に持つ炎でできた槌を腰に構え、振り上げる。ただそれだけで、巨大な鬼の死骸は、ジュッと最後に音を立てて、その匂いすら焼き尽くされた。











「・・・・・・素晴らしい」


 生徒会室で、詩音は校庭で行われている戦闘を目にしていた。彼女以外に学校に残っている全ての人間は皆意識を失っている。本名を沙希という、八雷姉妹の一人にとって、こんなことは容易いことであった。

「さすがは炎の鉄槌、ただ一度の降り神の儀式でさえ、成功することは奇跡であるのに、その身に二つの神を降ろすことに成功した唯一の人間、“規格外”と並ぶ日本最大の戦力、日村総一郎」

 否、もしかしたら鈴原雷牙より上かもしれない。彼は黒塚家に代々仕える鈴原家の、その濃く混ざり合った血によって出来た最高傑作であるに比べ、日村総一郎は、元々は単なる一般家庭の出身だ。突然変異と言えるだろう。しかも、彼が初めに降ろしたのは主神クラスを焼き殺したとされる“火之迦具槌”なのだ。そのあまりの強大さに人の身では決して制御できないがゆえに、彼は二度目の降り神の儀式を行い、蔵王権現をその身に降ろし、巨大すぎる炎の神を制御することに成功したのだ。



「・・・・・・ないとは思いますが、もしかしたら神楽様にとって一番の強敵となるのは、彼かもしれませんね」




 とにかく、自分が結界を張っていたため、外にいる一般人には、単なる地震にしか見えなかったはずだ。あとはこの結界を解き、皆が目覚めるのに合わせて、自分も気絶していたふりをすればいい。頭を振り、何時ものおどおどした詩音の表情に戻ると、彼女は結界を解くために、サッと手を振った。





「・・・・・・ふぅ」


 巨大な鬼の骸が完全に消滅したのを確認してから、総一郎は降り神を解いた。彼に宿った火之迦具槌という名の神はあまりに強力なため、彼に宿る降り神である蔵王権現が彼の身を守ってくれているといっても、長時間展開することはできない。現に、ほんの数分発動させただけでも、強力な防火対策を施したはずの黒いコートはぶすぶすと焼け焦げている。それでも、高校の時に比べればずっとましだ。蔵王権現を発動し、さらに火之迦具槌を制御するのは当時の彼にはあまりにも難しく、訓練中に火だるまになったのは百回では足りない。あの時、もし師匠と出会うことがなかったら、自分は間違いなく道を外れ、この強大な力を間違った方向に使用していただろう。自分が星聖亜にとって、あの時の師匠のようになれればいいが。そう思いながら、いまだ意識を失っている聖亜を解放しようと近づいた彼の胸元で、唐突に携帯電話が鳴った。















「い・・・・・・おい、大丈夫か、聖亜」
「ん・・・・・・せん、せい?」

 聖亜は、自分の肩を強く揺さぶる誰かの声に、ぼんやりと意識を取り戻した。目の前に総一郎がいる。彼はどこか険しい顔をしてこちらを眺めていた。

「日村先生? あの鬼はどうなったんですか?」
「それは心配ない。私が完全に消滅させた。が、新たな問題が出てきた」
「問題・・・・・・って、何ですか?」

 頭を振りつつ聖亜が立ち上がると、総一郎もゆっくりと立ち上がり、先ほど破損した義手を確かめるように動かした。
「よく聞きなさい、現在君の故郷である高知県太刀浪市が、数日前から強力なエイジャに襲われている。私はこれから救援として赴く。君は小百合君たちと合流し、そのまま寮で待機していなさい」
「太刀浪市が? どういうことです先生、それに、数日前からって、なんで今になって分かったんですか?」
「理由は二つある。確かに数日前、彼の都市に守護司として着任した鈴原雷牙によりエイジャ襲撃の一報はあった。しかし、すでに高天原最大戦力である鈴原雷牙がいたことから、現地で何とかするだろうと考えていた上層部の判断により救援を送ることはしなかった。そしてもう一つ。先日、鬼の襲撃により結界を展開したのだが、街全体を包み込む強力な結界は、電波障害を引き起こす。つまり先ほどまで電話を使用することができず、太刀浪市の様子がわからなかった。そして、先ほど入ってきた情報だが」

 そこでいったん言葉を切ると、総一郎はじっと聖亜を見つめた。そして、彼がこちらを真剣な目で見つめていることを確認すると、小さく一度ため息を吐いて言葉を続行けた。

「現在、太刀浪市は一般人の目には見えない桃色の靄に包まれている。これは毒素を含んでおり、放っておけば住民に害が及ぶことから守護司補佐である水口千里、そして君の旧知であり魔器使であるヒスイ、エリーゼ、スヴェンの三名、協力者である加世が異空間にある敵の本拠地に潜入した。が、あまりに帰りが遅すぎるため、こちらに連絡が入った。上層部の判断は様子見ということだが、私はこれから独断で彼らの救援に赴く。君は寮で皆と一緒に待機していなさい」

 目を細め、優しいまなざしを聖亜に投げかけ、その肩をいたわるようにぽんっと叩くと、総一郎は出雲大社の隣にある司令部に行こうと一歩踏み出した。あそこには、緊急連絡用の電動式飛行連絡艇がある。あれに乗れば、太刀浪市まで小一時間ほどで着くだろう。だが問題なのは、果たしてそれを使うことを日和見気味の上層部が許可してくれるかどうかであった。まあ、その時は強行突破して離陸してしまえばいい。破損した義手の動きを確かめ、総一郎が駆け出そうとした時、視界の隅に巨大な鉄人形に向かって駆け出す聖亜の姿があった。

「おい鉄武者、お前、もう飛べるか?」

―肯定 戦闘能力は回復してはいないが、飛行するぐらいならば問題はない―

「聖亜、一体何をするつもりだ? 私は君に待機するよう指示したはずだが? それにこいつは」

 五メートルほどはある鉄人形の胸部が開く。自分の質問に答えず、聖亜はそこに乗り込んでいく。深い溜息を吐くと、総一郎も聖亜に続いてあまり広くない操縦席に乗り込んだ。

「聖亜、まさか太刀浪市に行くつもりか? 危険なことは担任として許可できない。今すぐ降りなさい」
「嫌だ。確かにあんたはいい先生かもしれない、けど、あそこには俺の知り合いが結構いるんだ。彼らを助けたい、それは間違っているんですか?」
「・・・・・・やれやれ、言っても聞かないようだな。分かった、少し待っていろ」



 再びため息を吐くと、総一郎は携帯電話を取り出し、どこかに連絡を入れた。彼が電話をしている間、聖亜は操縦席に深く腰掛けると、再び自分の身体を操縦席に固定する。



「はい、はい・・・・・・わかりました。すいません、お手数をおかけします。いえ、失礼します」

 総一郎が連絡をし終えたのは、鉄人形が起動し終えた、まさにその時だった。

「やれやれ、聖亜、君は里帰りするが、いまだ太刀浪市にはエイジャがいるため、安全を考えて教師である私も同行・・・・・・今回はそういうことになった。いいか、今回は特例だ。それと、後で罰則して寮にあるトイレのすべてをピカピカに磨いてもらう。それで? ここから高知までは三百キロほどの距離があるが、この鉄人形はいったいどれぐらいの時間で着ける?」

「質問に応答 三百キロの距離であれば、四半刻もかからずに到着する」

「ふむ・・・・・・ということは三十分かからずに行けるか。わかった、なら私もここに搭乗させてもらう。それから聖亜」
「え? 何ですか?」

 操縦席の隣にある小さな助手席に身を沈めると、総一郎は聖亜に声をかけたが、同時に鉄人形が飛び上がるときに発生する爆音が操縦席の中に響き渡った。

「いや、これから君に私の初授業を受けてもらう。題名はそうだな・・・・・・第一回“効率のいいエイジャの倒し方”と行った所か」
「はぁ? 何ですかそれは」
「要するに、戦闘時間を短くするためにどうすればいいのかを見てもらう。それより、高知に着く前に心を静めておくように。君はどうも熱くなりやすいタイプだからな」


 二人の男を乗せ、鉄武者は南へと発進する。その速度は速く、人形は数秒ほどで点となり、一分もかからず見えなくなった。




『・・・・・・プロトタイプの移動を確認。これより後を追跡する』




 彼らは気付かなかった。出雲大社のほぼ直上に、先ほど総一郎が遭遇した布仮面をまとった者が浮かんでいたことに。それは身に着けていた布の仮面と長いローブをはぎ取った。その中から出てきたのは、蒼い光沢の身体を持つ、どこか鉄武者に似た、三メートルほどの鉄人形だった。








続く





 最近鉄血のオルフェンズにはまっている活字狂いです。スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 第五幕 逢魔が時に鬼と死合うをお送りします。まさか前回よりさらに長くなるとは思いませんでした。ワードで114枚分にもなった今回、重要人物が二人登場します。一人は下僕になったアトラ、もう一人は聖亜の教師となる日村総一郎です。とてつもない実力の彼は、次回もとてつもないその実力を発揮してくれます。というわけで、幕間、そして終幕である「日村総一郎の初授業」は一月中にお送りします。それではみなさん、よいお年を。


 追記 RPGツクールmvを買いました。けどパソコンがOPEN GLとやらに対応しておらず使えません。パソコンにがたも来ているため、思い切って買い換えようと思います。というわけで、OPEN GLに対応しているパソコンをどなたかご存じないでしょうか、情報をお待ちしております。




[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 幕間 竜を食らう女猿
Name: 活字狂い◆a6bc9553 ID:e404681e
Date: 2015/12/28 15:47





 ユーラシア大陸の東端には、中国という国がある。史実であれば大戦を通して一つにまとまり、現在領土拡張に熱心な共産主義国家は、だがこの世界では史実のような大戦が発生せず、そのため清国は腐敗と粛清の嵐により何十にも分裂し、現在覇権を争って血みどろの内戦を繰り広げていた。




 そんな国の、海岸線にある北京という町で、一つの事件があった。本来ならば首都であるこの街は、摩天楼をいくつも所有する巨大な街並みとなるはずだったが、残念ながら現在でも土ぼこりが舞う地面と点在する木造の家屋しかない。





 その家屋の間を、一人の少女が必死の形相で走っている。彼女を追いかけまわすのは、かつて日本で使用されていた気化石を動力とする旧式の戦車にのった軍人達だ。現在皇国の戦車は全て電動式に切り替わったため、内戦状態が続く隣国に安値で払い下げている。無論、武器輸出禁止令により、本来であれば輸出などできるはずがないが、神楽の指示により、輸出はひそかに行われていた。


 戦車に搭載されている機銃が火を吹く。それは走っている少女の左右の地面をえぐり、飛び散った土が少女の身体を打つ。本来ならば即死も可能であろうが、酒を飲み、酔っ払っている軍人たちはそんなことはしない。彼らは楽しんでいるのだ。少女が倒れて、動かなくなるまで。


 それは、何度目かの機銃の斉射の時だった。抉られた土が、木造の酒場の屋外にあるテーブルで、今まさに酒を飲もうとしていた一人の女の、持っていたコップの中に入る。その女はしばらく呆然と酒の入ったコップを持っていたが、やがて忌々しげに舌打ちすると立ち上がった。それを見て、少女が女に走り寄り、その背に隠れる。




「おいクソ野郎ども、よくもあたしの酒に土を入れてくれたな」




 美しい女だった。青い長髪をポニーテールに結び、凛とした顔つきとグラマラスな体格をしている。だがその表情は、どこか山を駆けまわる野生の猿に似ていた。

 女の姿を見た軍人が数人戦車から降り、下卑た笑みを浮かべて近づいてくる。その手が彼女の肩に触れた時だった。

 いきなり、軍人の顔が苦痛にゆがんだ。女が軍人の首を片手で持ち上げ、容赦なく締め上げているためである。ぎりぎりと首を絞めていくうち、男の顔はザクロのように膨れ上がり、そしてはじけた。



 それを見て、周りの軍人が銃を構えて女に向かって撃つ。本来ならばハチの巣になるであろうそれは、しかし女は何の痛痒も感じないのか、彼らに向かって歩いていくと、何気なくその手を横に振るった。


スパンッ



 その手が軍人たちの首部分を通ると、甲高い音が聞こえるほど鮮やかに彼らの首は宙に舞い、首元からは真っ赤な血がまるでワインのように噴出した。それを見てさすがに異常事態に気付いたのか、戦車長が何かわめくと、旧式の戦車がガタガタと音を立ててこちらを向いた。まず機銃が女に向かって行く。だがそれを受けた女は退屈そうに欠伸をするだけだ。業を煮やした戦車長が何か言うと、戦車の主砲である105mm滑腔砲が女の方を向き、火を噴いた。巨大な徹甲弾が女に向かって行く。それは退屈そうに耳など掻いている女にまっすぐ向かって行く。

「はぁ~あ、下らねえ。よいしょっと」

 暇そうに伸びをすると、女は自分に向かってくる砲弾を軽く蹴った。カンッと軽い音がして、向きを変えた砲弾が自分達に返ってくるのを、軍人たちは信じられないという思いで見続け、そして死んだ。




「あ~、ウザかった」

 戦車が爆発したのを見届けると、女は大きく伸びをし、椅子に座りなおすといまだ瓶に残っている酒をラッパ飲みした。

「あ・・・・・・あの、ありがとうございます」
「あん? 別にいいっての。あたしはただ、人様の酒に土を入れてくれやがった奴が気に食わなかっただけの事さ」

 軽く答えて、しっしっと手を振る。行きな、という事だろう。気前のいい女にくすりと笑うと、少女は怪しげな顔をして近づいた。

「お姉さん、強いんですね。私、何かお礼をしたいな」

 ちろりと舌を出して笑う。この年端もいかない少女は、そうやって強い者を探しては籠絡していき、その命を啜ってきた。さすがに軍人に手を出したのはまずかったが、彼らを一蹴したこの女が一緒なら、彼らも手は出さないだろう。



「・・・・・・ははぁん、そういうことかい。ま、あたしも確かにセックスは好きだけどさ、あんたのは何というか生産的じゃあないんだよね。というわけで」



 何かがヒュッと空を切る。それが何か、少女は最期まで分からなかった。なぜなら、


 彼女の臀部から伸びる尻尾が少女の首を、一瞬で切り飛ばしたからである。



「さっさと死んで、男になって生まれ変わってきな、お嬢ちゃん。そしたら相手をしてあげるよ」




 それからどれぐらいたっただろうか。女が何本目かの酒瓶を空にした時、その尻尾がピクリと震えた。



「それで? いつまでそこに立っているつもりだい?」
「・・・・・・おや、隠行には自信がありましたが、お分かりでしたか」


 不意に、女の背後から誰かの声がする。それは冷淡な女性の声だった。


「はっ!! どれほどうまく隠れても、“竜”がこのあたしから逃げられるわけないだろう? 久しぶりだね」

「ええ、あなたも。嘆きの大戦以来ですか。“竜食い”」

「その異名はあんまり好きじゃないねえ。せめて“闘戦勝仏”って呼びな。それで? こっちに来たってことは、あたしのことを迎えに来たってわけかい?」

「そうです。いくら待っても、あなたがこちらに来ない。なら、迎えに来るのは当然でしょう?」

「けど、あたしゃ以前竜王に封印された身の上だ。今の実力は当時の何十分の一ほどに過ぎない。それでもあたしを使いたいってか?」

 フードをかぶった女が、酒を握っている女の真向かいに静かに座る。彼女の前に、“闘戦勝仏”の異名を持つ女はコップを置くと、その中に酒を注いでやった。それを、フードをかぶった女は持ち上げ、一気に呷る。

「は、良い飲みっぷりだ。いいだろう、その飲みっぷりに免じて、一緒に行ってやるよ。確か、晩餐会だっけか」

「ええ。ですがその前によって欲しいところがあります」
「んあ? そりゃ構わないけど、何処に行けってんだい?」
 
 瓶の中、底に残った酒を最後の一滴まで飲み干すと、女は興味を持ったかのようにうれしそうな顔をした。

「場所は日本、その中にある高知県太刀浪市というところです。本来来るはずのザッハークがまだ来ていないという連絡がありましたので、迎えに行きます」

「はぁ!? ザッハークかよ!! アルスラーンに負けた馬鹿な蛇王だろ? ほっとけほっとけ・・・・・・いや、あんたさっき太刀浪市って言ったか?」
「ええ、そうですが?」

 何が彼女の気を引いたのかが分からず、首を傾げる女の前で、彼女に“竜食い”と言われた女はにかっと鋭い笑みを浮かべた。



「いや~、実はあそこには弟子がいるんだよ。一年ほど教えただけだけどな。ま、童貞はもらったが、あの後どうなってんのか気になってさ。食いがいのあるやつになっていたらもう一度食ってやってもいいが、そうなっていなかったらぶっ殺す」

「・・・・・・相変わらず、多淫ですね。ハヌマン」

「あん? ふん、竜族である手前に言われたくはねえよセイル。リンドの坊やは残念ながら童貞奪う前に死んじまったが、あいつはきっちり食ってやったからな。さて」




 目の前の女、セイルにハヌマンと呼ばれた、四界の一つ、緑界において最強にして最悪の女は、酒を飲んで赤くなった顔でにやりと笑うと、ふと空を見上げた。









「ああ、楽しみだな。お前がどんな男に育っているか・・・・・・なあ、聖亜」








 彼女の見上げる空は、何処までも青く続いていた。













続く




 どうも、活字狂いです。有休を取って休んでいたため時間があり、ちょっと予定を変更して幕間をぱぱっと書いてみました。なお、終幕は予定通り一月にお送りします。今回登場したハヌマンという女は、以前にもたびたびその存在が示唆されていた主人公である星聖亜の師匠であり、いろいろな意味で彼の初めてを奪った相手です。いろいろな意味で最強最悪の彼女を相手に、聖亜だけでなく、彼に好意を持つ女たちがどう立ち向かうかも、見どころだと思います。では次回をお待ちください。



[22727] スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 終幕 日村総一郎の初授業
Name: 活字狂い◆a6bc9553 ID:ef34ce0e
Date: 2016/05/07 14:09





 思い出す






 その写真を見る度に、日村総一郎は思い出す


 
 かつての暮らし かつての居場所 そしてかつて家族であった人々の事を





 中小企業に勤めていた父 スーパーでパートをしており、帰ってくるのが遅かった母

 そして、八歳年下の妹


 夏は暑く、冬は隙間風が入り込む安アパートも、家族と共にいれば暖かかった。


 玩具といった類いのものはほとんどなくとも、妹と遊んでいるだけで、時間というのはあっという間に過ぎた。

 
 将来、家族に楽な暮らしをさせたいと、あまり得意ではなかった勉学も一生懸命に打ち込んだ。






  なのに








 今でも思う




 私の、全てを守りたいという私欲に応えてくれた蔵王権現


 私の、鬼達に復讐したいという私欲に応えてくれた火之迦具槌




 もし、あの時自分が今の年齢で、今と同様、この二柱の神を使う事が出来ていたら




 私は、家族を、助ける事が出来たのだろうか


















 ヒスイがザッハークに凌辱されそうになったまさにその時、ぐにゅぐにゅと不気味にうごめく壁を突き破り部屋の中に入ってきた炎の翼は、蛇王の身体にぶち当たると、その身体をヒスイから引きはがし、部屋の隅にズザザッと押しやった。


「ぬ!? 何をするか、下郎!!」


 ヒスイはぼろぼろになった服をかき集め、胸元を隠すと、中に飛び込んできたものを見た。


 それは、全長が五メートルはあるであろう巨大な鉄人形だった。炎の翼のように見えたのは、その足から噴出しているガスであった。鉄でできているはずなのに、なぜかその人形から強烈な怒りを感じる。呆然と見ているヒスイの視線の先で、鉄人形はザッハークの身体を持ち上げると、そのまま床に叩きつけ、さらにその上から殴りつけた。


「ぐっ!? なめるな、木偶の坊がっ!!」

 ザッハークの怒声に応え、彼の両肩に生えている巨大な蛇がするすると鉄人形に巻きつく。さすがに持ち上げられないようだが、それでも動きを封じると、蛇王は巨大な戦斧を目の前の鉄人形に叩きつけた。

 ズリッ!!

 だが、それは鉄人形が急に動いたため、その頭部をかすめるだけに留まった。足底にあるバーニアを噴射させて巨大な蛇の呪縛を振りほどくと、鉄の人形は呆然と眺めているヒスイ達の所にまで後退し、ゆっくりと停止した。


「・・・・・・な、何だこれは!?」
「ヒスイさんを守ってザッハークと戦ったという事は、敵ではないようにお見受けしますが」
「こやつ・・・・・・まさか」

 驚くヒスイとは対照的に、あくまでも冷静に観察する千里、そして記憶を辿っているキュウの目の前で、鉄人形の胸部がピシリと縦に割れ、ガバッと音を立てて左右に開いた。

 そして、そこから出え来た人影を見た時、ヒスイは自分の視界が涙でぼやけるのを止められなかった。


「ああもう、やっぱり素手じゃあっちよりでかくても適わないか。というか、蛇が邪魔だ邪魔っ!!」
「・・・・・・せ、いあ?」

 ここ数日、会いたい、顔を見たいと思っていた少年の姿がそこにはあった。当たり前だが、出雲に行った時同様短髪で、そして小柄な女顔。間違いなく、彼女の知っている星聖亜その人あった。


「よ、ヒスイ。数日ぶり。どうやら無事なようだな」
「星、感動の再開もいいが、早く降りてくれ、後がつかえている」
「え? あ、はい。すいません」

 
 後ろから聞こえてくる別の男の声に聖亜が素直に従ったのを見て、ヒスイは少し驚いた。そして、驚いたのは千里も同様であった。ただし彼女が驚いた理由はヒスイと同じではない。聖亜の後方から聞こえた声と、現れたその姿が、見知った者だったからである。


「まさか・・・・・・日村さん? 日村総一郎さんですか!?」
「ん?」

 名前を呼ばれた男―日村総一郎はしばし周囲を見渡していたが、やがて千里の方を向き、確証がいったのかふっと微笑した。

「水口さんか。鈴原がいるから君もいると思っていたが・・・・・・およそ四年ぶりになるか。変わりはないか?」
「ええ。幸いなことに変わりはありません。その口調ですと、雷とはもうお会いに?」
「ああ。こちらに来る前にな。そういえば」

 そこで、総一郎はヒスイの方をじっと見た。その静かな視線を受けて居心地が悪くなったのか、ヒスイはそっと聖亜の背中に隠れた。

「そういえば、なんですか?」
「・・・・・・いや、なんでもない。そうだ、ここに来る前鈴原の事務所にいたのだが、その時結界を開くためにインドラという魔器を預かった。結界内に入った後は主の下へ行くと言って別れたが、問題なかっただろうか?」

 ゆっくりと起き上がるザッハークからヒスイを守るように背中に隠すと、聖亜は総一郎の声を聴きながら、十五分ほど前の出来事を思い出していた。





「現時刻二十時十五分、現在地香川県上空。高度約八百メートル。光学迷彩の状態良好」

 鉄人形に乗って出雲を出発してからおよそ十五分、聖亜と総一郎を乗せた鉄武者は四国にたどり着いていた。飛んでいる時、船や飛空船から発見されないかと思った聖亜だったが、鉄武者にはどうやらレーダーやセンサーから自分の身を隠す装備があるらしく、時折下の海を蒸気船が通り過ぎて行ったが、闇夜であるため人の目にも見えず、発見されることはなかった。

「よし、この分だとあと十分ほどで着くな。なるだけ急いでくれ」
「いや。聖亜、目的地に行く前に、まず鈴原の所へ向かう」

 一刻も早くヒスイ達の所に急行したい聖亜の後ろで、目を閉じて静かに瞑想をしていた総一郎が静かに答えた。

「でも先生、それじゃ到着する時間が」
「遅くなるか? だが君の仲間は多少なりとも皆戦闘能力があるのだろう? もう少し仲間を信じてやるといい。それに、このまま到着しても異空間の中にある敵の本拠地にどうやって入るつもりだ? 周囲には高天原の職員や軍人がいる。このまままっすぐ行っても、彼らに止められ、下手をすれば戦闘になって余計に到着するのが遅くなる。それよりは、まず鈴原の所へ行って協力する旨を伝えたほうがいい」
「・・・・・・分かりました」
 
 総一郎の言葉は納得することは出来ないが、理解はできる。小さく頷くと、聖亜は自動で進む鉄武者に、行き先の変更を告げた。




「お~、来た来た~」

 旧友である日村総一郎から連絡をもらった鈴原雷牙は、外に出て空を見上げていた。数分ほどまっただろうか。北の空に小さく光る点が見え、それが徐々に近づいてくるのを見ると、彼はにやりと笑って手を振った。光の点にしか見えなかったそれは、近づくにつれ徐々に大きくなっていき、地面に降りた時は、本来の姿である巨大な鉄の人形となっていた。だが、予め連絡を受けていた雷牙の顔には焦りの色はない。笑みを浮かべる青年の前で、シュッと音を立てながら鉄人形の胸部が左右に開いた。

「おっす、お帰り。聖亜。そんでもって・・・・・・四年ぶりだな、総一郎」

 操縦席に座っている女顔の少年に気さくに声をかけると、雷牙は少年の後ろに座っている、生真面目な表情のままでこちらを眺める四年ぶりにあった旧友に視線を向けた。

「ああ。四年ぶりだ。だが、すまないが再会を喜んでいる時間はない。我々はこれより異空間にある敵本拠地に向けて攻勢を仕掛ける。そのため、異空間を取り囲んでいる関係者への通達をお願いしたい」
「相変わらず固い奴だねぇ。ま、オーケーオーケー。こっちから責任者に連絡入れて退避させとくから心配しなさんな。で? 異空間に入れるのか?」
「愚問だな。私の炎は異空間の壁など容易く破壊する。壁を破壊し、異空間に侵入。速やかに目標を沈黙させる」
「いや、総ちゃんのやり方じゃ確実に相手に気付かれると思うけど・・・・・・しゃあない、離れるなと言われてるけど結界は俺が「わ、私に、やらせてください」ん?」

 鈴原が顎に手をやり、首を傾げた時である。彼の事務所から、メイド服を着た一人の少女が出てきた。

「・・・・・・貴女は人ではないな。なるほど、魔器使が使用する魔器の人型か」
「はい。スヴェン様の魔器である“悪魔笑いのチェーンソー”の片割れ、インドラと申します」
総一郎の言葉に頷くと、インドラは静かに一礼をした。だが、顔を上げようとした時、ふらりと体がふらついた。

「ちょっとちょっと、まだ封印刑から身体が回復しきっていないんだから、無理しちゃ駄目だって」

「封印刑だと?」

 雷牙の言葉に、総一郎はすっと目を細めた。封印刑とは魔器使が罪を犯した魔器に行う重罰の一つであり、身体と精神の両方を蝕む。それは女の姿をした魔器にとっては、心と体を同時に犯されるに等しい。

「そこまでされて、どうして貴女は主の下へ行こうとする。共に行くというのは、自らに重い罰を与えた主を助けたいというのだろう」


「はい」


 総一郎の問いに、インドラは静かに、だがしっかりと頷いた。それを見て総一郎は少しの間目を瞑っていたが、やがて微かに頷いた。

「・・・・・・確かに私のやり方では、結界の内部にいる敵に、侵入したことをすぐに悟られるだろう。分かった、貴女の力を借りよう。すまないが操縦席は狭い。魔器の姿となり鉄武者の手に抱えられることになるがよろしいか?」

「構いません。よろしくお願いいたします」

 再び一礼すると、少女の身体はふっと掻き消え、その場所に一振りのチェーンソーが置かれていた。聖亜に鉄武者でそれを持つように指示を出してから、総一郎はふと妙なことに気付いた。確かにチェーンソーの形をしているが、刃はそれほど鋭くはない。否、そもそもこれは本当にチェーンソーとして使うのだろうか。回転する刃を支える土台となっている部分に、妙な違和感がある。

「んじゃ、連絡しておくから、あいつらの事頼んだぜ」
「・・・・・・ああ、そうだな。ではいくぞ聖亜。私達はこれから敵の拠点に乗り込む。充分注意するように」













 敵の巨大な足が降ってくる。それをいったい何度避け続けただろう。黒く不気味にかぐにゅぐにゅと動く床のおかげで相手は狙いを定める事が出来ないのか、何とか直撃は避け続けていたが、どうやら自分の限界もまた近いようだ。

「う、うううう、ひぐっ」

 敵の踏み付けが掠めた左足がずきずきと痛む。久しく感じていなかった痛みに、12歳の少年―スヴェンは泣きべそをかいた。だが、自分が泣こうが喚こうが、中身のない空っぽの黒騎士に通用するはずがない。

『ふむ、ゴキブリのように逃げ回っていたようだが、それもどうやら終いのようだな』

 空っぽの鎧に宿っているパラケルススの残留思念がつまらなそうに呟く。つま先で猫が鼠をいたぶるように蹴ると、スヴェンの身体は軽く宙を舞い、壁際まで吹き飛んだ。


「うぇえっ!!」

 
 腹部に受けた重い痛みに、スヴェンはびちゃびちゃと胃液を吐きだした。鍛錬や今までの戦いを通じて、痛みを何度か感じることがあったが、それは全てイルがコントロールし、スヴェンの身体に大きな負担がかかる痛みはほとんどなかった。
 だが今は別であった。何の加護もない、誰からも守られていない少年の身体はあまりにも脆弱で、攻撃を受ける度に体が引き裂かれるような痛みが走る。そして体を強化しているため楽に死ぬことは出来ず、ただ苦痛が長引いていた。


『さて、そろそろ終わりにさせてもらおう。いつまでも貴様一人に付き合っているわけにはいかないのでな』

「ひっ!?」

 もはや立ち上がる気力もない少年の身体を足でぐりぐりと弄ぶと、黒騎士は高々とその右足を上げた。それを見上げたスヴェンは、すぐに襲ってくるだろう衝撃と激痛に怯えるように、頭を両手で抱えるとその場に縮こまった。




 だが、いくら待っても“その時”は訪れなかった。




「よかった。何とか間に合ったようですね」
「・・・・・・イル!?」

 暗闇の中、聞きなれた女の声が響く。スヴェンがはっと目を開けると、インドラが自分に覆いかぶさっているのが見えた。頭から多少血を流しているのは、恐らく自分の代わりに黒騎士の攻撃を受けたからだろう。

「ふ、ふんっ!! 自力で封印刑を解けるはずがない。どうやら雷神に助けられたようだな!! まあいい。せいぜい俺の盾になっていろ!!」
「・・・・・・ご主人様、ウルはどうなさったのです」
「ウル? ウルだと!? ふ、ふん!! あいつは俺を見捨てて逃げ出した!! 戻ってきたら封印刑にして」


パシッ


 スヴェンは最後まで言葉を発することは出来なかった。哀れみを込めて見つめるインドラが、表情を変えることなくスヴェンの頬を張ったためである。

「な、何をする!!」
「私とウリドラは、二本で一つの魔器となっています。そのため彼女に起こったことは私にもわかります。どうしてあなたはそうなのです。自分がいつも正しくて、周りがすべて間違っている、自分の考えを否定するもの、役に立たない者はすべて悪。いいですか、魔器とは主の奴隷ではないのです。また好き勝手できる玩具とも違います。意志がある、一つの生命体なのです。ウリドラがあなたを見限るのも無理はありませんね」

「だ・・・・・・黙れっ!!」

『ふむ、そろそろ良いかの?』


 インドラの言葉に激昂したスヴェンが立ち上がった時、成り行きを見ていた黒騎士から老人の声が響いた。

『なるほど、新しい玩具か。中々研究し甲斐がありそうじゃの』

「・・・・・・なるほど、パラケルススの残留思念ですか。“相変わらず”非人道的な研究を行っているようですね」
「ふ、ふん。話は後だ。イル、さっさと魔器の姿に変われ。奴を叩き潰すぞ」
「いいえ、それはできません」
「なっ!? どういう事だ、それは!!」

 今まで自分の命令をインドラが拒否したことはなかった。その彼女に初めて命令を拒否され、スヴェンは思わず大声をだし、彼女に一歩近づいた。

「敵に魔器を奪われたあなたは、もはや最高査問官としても、そして魔器使・・・・・・いいえ、それよりも人間として失格です。残念ながら、私を扱う権利はありません。この鎧は、私が殲滅させていただきます」

「は? はは、何の冗談だ、それは」

『ほう。女、貴様儂の作成したこの鎧を殲滅するだと? 大きく出たな』

「簡単ですよ。それが二度目に受けたあらゆるダメージを無効化するというだけの代物なら、一撃で跡形もなく破壊すればいいだけの話ですので」

 一撃で破壊など無理だ。声に出さず、ただ口を歪めたスヴェンとイルめがけて黒騎士が迫る。だが、インドラはゆっくりと立ち上がると、慌てる様子もなく向かってくる騎士に向き直った。

 そして次の瞬間、目がくらむような閃光が、部屋いっぱいに広がった。そのあまりの眩さに、スヴェンは咄嗟に目を瞑った。それからどれぐらいたっただろう、もういいですよ、というイルの言葉に恐る恐る目を開けた時、目の前には黒騎士どころか、イルより前方にあるはずの壁も、床も、天井も、そのすべてが跡形もなく消滅していた。

「な・・・・・・なんだ、何なんだこれは!!」
「ふう、久しぶりに使用したせいか、だいぶ威力が弱まっていますね。それに武器形態で放っていないので収縮性もいまいち。やはり所々鈍っていますか」
「おい、俺の話を聞け、今お前は一体何をしたと聞いている!!」
 
 自分の問いに応えず、パンパンッと自分に着いた黒い破片を叩き落としているインドラにスヴェンは掴みかかろうとしたが、その手は彼女に押さえつけられた。

「なっ!?」

「触らないでください。魔器使として失格であるあなたはもはや私の主ではありません。まあ、説明はさせていただきます。改めまして自己紹介を。“砲撃特化型”魔器であるインドラと申します」
「砲撃型・・・・・・だと!? どうして最初に言わなかった!!」
「聞かれませんでしたので。疑問に思う事があったらまず調べ、分からないことがあったら素直に尋ねる。それがあなたに欠けている事でした。本来なら、貴女は魔器を敵に差しだそうとした罪により死刑か軽くても封印刑なのですが・・・・・・」

 いったん言葉を切ると、インドラは哀れみを込めた目でスヴェンを見つめた。

「・・・・・・あなたはまだ十二歳。三年前に姉君と死に別れ、その孤独により精神を病んだという解釈により、酌量される可能性もあるでしょう。その時は、あなたは私が一から鍛えなおします。いいですね」


 いつもと違う、厳しいまなざしでこちらを見つめるインドラに、スヴェンはただこくこくと頷くことしかできなかった。








「どうやら、向こうはうまくいった様だな」



 振動と共に聞こえてくる爆音を聞きながら、日村総一郎は左腕に装着した義手の状態を確かめた。アテルイとの戦闘で破損した義手は、手首から先の部分にスペアがあったらしく、彼は鉄武者の中にいた際破損していない部品と交換していた。

「貴様、我を目の前に随分と余裕だな。その余裕、どこまで通用するか確かめてくれる!!」
「・・・・・・それにしても悪趣味な城だな。臓物を思わせるような壁、肉が腐ったような腐臭、まるで豚小屋のようだ。いや」



 ザッハークの叫び声を無視して嘲ると、日村総一郎はぺっと床に唾を吐いた。



「この言い方では豚小屋に失礼だな。ここは豚小屋にも劣る。まさに肥溜めと呼ぶに等しい。いや、肥溜めは肥溜めで一応役に立つから、ここはそこ以下という事か」


 ブチン


 その時、何かがいきなり切れる音がした。聖亜が音のした方を見ると、ザッハークが自分と両肩の蛇の瞳を真っ赤に染めてこちらを、正確には総一郎を睨みつけている。

「貴様・・・・・・その言動、万死に値する!! もはや貴様の影すらこの世には残さぬ。我が腹の中で永遠にもだえ苦しむがいい!!」

 完全に切れた蛇王が、魔器ウリドラが変化した巨大な黒い大剣を振り回して向かってくる。だが総一郎は恐怖などまったく感じていないのか、聖亜に振り向きふっと微笑した。そんな青年に向け、刃が風を切って振り下ろされる。


「さて聖亜、今から私の初授業を始める。何分人に教えるという行為は初めてだから至らないところはあるかもしれないが、そこは大目に見てほしい」



「・・・・・・」



 総一郎の言葉を、聖亜はただ唖然として聞いていた。なぜなら、ザッハークが力任せに振り下ろした黒く染まった大剣を、総一郎はただ右手の指二本で軽く摘まんでいるためである。
「では授業を始める。今回はエイジャ、その中でも強大な攻撃力と防御力、そして無尽蔵な体力を持つドラゴンタイプだ。だが、彼らはその巨大な力をもつがゆえに誇り高く、そして些細な挑発に乗って簡単に切れやすい。これが第一の弱点だ。次に」


 どれほど力を込めても、大剣がピクリとも動かないことに業を煮やしたのか、蛇王の両肩に生えた巨大な蛇が鎌口を持ち上げ、食らいつこうと襲いかかってきた。

「第二の弱点として、自らの力を過信するあまりただ力任せの攻撃を繰り返すだけだ。確かにブレスという厄介な攻撃もあるが、そんなもの、気合で吹き飛ばしてしまえばそれでいい。そして」

 向かってくる蛇の口がカッと開き、中に紫色の毒々しい息の塊が湧き出る。それが吹き出される瞬間、総一郎は義手を横薙ぎに振るった。銀色の義手が一閃すると、今まさに毒の吐息を吐きだそうとしていた巨大な蛇の頭部が、左右纏めてはじけ飛んだ。


「最後にもっとも分かりやすい弱点として逆鱗というものがある。これはドラゴンの身体から生えている数百万を超す鱗の中にただ一つ、逆さまに生えている鱗の事を言うが、これを見分ける方法としては、まずこのように深手を負わせればいい」

 両肩の蛇が弾け飛び、重さを失ったザッハークの身体がぐらりと傾く。その隙を逃がさず戦斧を弾き飛ばすと、総一郎は右手を蛇王の口の中に突き入れ、

「はっ!!」

 と短く、だが鋭い気合を入れ、ぐっと力を込める。すると、ザッハークの頭部は柘榴のようにはじけ飛んだ。三つ首とも失ったザッハークの身体がぐらりとよろめくが、やがて首と両肩からぐにゅぐにゅと肉塊が盛り上がり、再生しようとしている。

「深手を負ったドラゴンは、このように再生しようとする。この時逆鱗は一瞬淡く光るため、そこを突けばいい」

 簡単に言ってくれる。ヒスイは、自分達があれほど苦戦していたザッハークに簡単に深手を負わせる総一郎の圧倒的な戦闘能力を、半ばあきれたように眺めていた。

「流石というかなんというか、全く変わっていませんね。あの人は」
「どういう人なんだ? 彼は」

 青年と顔見知りらしい千里が隣に来たので、ヒスイは彼女にそう聞いてみた。さすがにこの戦闘能力は異常すぎる。

「どういう人なんだと言われましても・・・・・・性格は誰かさんと違ってまじめで誠実、責任感が強く人々を守ろうとする気持ちが強いです。私と雷とは高校の時の同級生で、特に雷とは正反対の性格のくせに親友同士でした。そして、その戦闘能力は雷と同等と言われています。その理由として・・・・・・」

 千里は、聡明な彼女にしては珍らしく口をつぐんでいたが、今更だと思ったのだろう、やがて溜息を吐いた。

「高天原で行われる降り神の儀式によって呪術師に降りる神には等級というものがあります。下から下級、中級、上級、特級、特上級、規格外です。私のタケミナカタは特級、雷の建御雷は規格外。本来儀式によって一人に降ろす神は一神だけなのですが、総一郎さんは・・・・・・彼は、彼だけは唯一その身に二神を降ろすことに成功しました。すなわち特級の神である蔵王権現と、雷の宿す建御雷と同等の規格外、火之迦具槌」

「火之迦具槌だと!?」
「わっ!?」

 いつの間にかヒスイの足元まで寄ってきていたキュウが、彼女にしては珍しく驚愕していた。黒猫がこちらにきたのは、蛇王が呼び出した妖精の軍勢も、それを呼び出すために使われた白銀の騎士も、何ら動きを見せなかったからである。

「キュウ?」
「あ・・・・・・いや、なんでもない。ただ、我の知っている限り、火之迦具槌は人などには扱えぬ代物であるはずだが」
「ええ。ですので彼は普段蔵王権現の方を使用しています。それで片付かない相手のみ、火之迦具槌を使用し殲滅するのです。もっとも、彼に最初に降りたのは火之迦具槌のほうでしたが」

 彼女たちが話をしているそのすぐ目の前で、総一郎はしばらく蛇王が再生しているのを眺めていたが、ふいに駆けだすと、蛇王の右肩、巨大な蛇が生えている根元にある、わずかに光っている鱗めがけ、渾身の一撃を叩きこんだ。


「やった!?」
「並みのドラゴンならばな。だがどうやら腐っても貴族クラスのエイジャであるらしい。真体のお出ましだ」

 総一郎の言うとおり、彼に弱点である逆鱗を破壊された蛇王の身体は一瞬膨れ上がりはじけ飛んだが、それは例えるなら昆虫が古い殻を脱ぎ捨てる脱皮という行為に似ていた。古い殻の内側にはどろどろとした紫色の粘液を体中から垂れ流す、巨大すぎて飛ぶこともできない醜い三頭龍の姿があった。自らの三つ首を持ち上げ、龍が高々と吼える。だが、その時予想外の事が起こった。龍の体重を支え切れなくなったのか、黒い床にひびが入り、三つ首の龍がのそりと一歩踏み出した途端、ガラガラと崩れ始めたのである。龍は三つ首を空に向け声高々に吼えると、そのまま巨大な翼をはためかせ、ゆっくりと巨体を空に浮かび上がらせた。

「っと、これは予想外だな。しかし、アジ・ダハーカの眷属のようだが、随分と肥え太っているようだ。聖亜、体力が消耗した女性陣を救助するように。私は奴に止めを刺してくる」

「え!? は、はい」

 
 総一郎の言葉に、聖亜はヒスイ達の方に向かい、改めて彼女たちの様子を確認する。皆体力の消耗は激しいが、どうやら命に関わる怪我を負ってはいないようだ。

「えっと、久しぶり、ヒスイ」
「・・・・・・ああ」

 なぜかこちらを見ず、頬を軽く染めてそっぽを向いたヒスイに首を傾げていた聖亜だが、すぐに視線を彷徨わせ、自分の着ていた上着を脱ぐと彼女に放ってやった。すまない、そう小さくつぶやくと、ヒスイは聖亜の上着をぎゅっと抱きしめた。

「とりあえず脱出するぞ。動けないのは鉄武者に乗せていくけど、誰かいるか」
「ああ。加世が一番体力の消耗が激しい。彼女を乗せてやってくれ」
「加世か・・・・・・分かった。それとヒスイ、お前も結構限界だろ? 鉄武者の中に乗れ」
「え? い、いや、私は大丈夫・・・・・・きゃっ!?」

 ヒスイは聖亜の提案を断ろうとしたが、それを最後までいう事が出来なかった。いきなり聖亜に抱えられたのである。抵抗しようと手足をじたばたさせるが、予想以上に疲れているのか、その動きは弱い物だった。結局ほとんど抵抗できずに少年が乗っていた巨大な人形の中に、千里が運んできた加世ともども放り込まれてしまう。

「聖亜!?」
「頼んだぞ、鉄武者」
「了解。負傷者二名を確保。これより安全地帯へ向け撤退する」

 ヒスイの抗議の声を無視し、鉄武者に声をかけると、聖亜は胸部装甲を閉じて立ち上がった鉄武者を視界の片隅に置き、聖亜は崩れ落ちる部屋の中、まだ崩れずに残っている壁に身を寄せて、空中で行われる総一郎とザッハークの戦闘を眺めていた。

 右側から、大人数人分の背丈を持った巨大な龍の咢が襲いかかってくる。その鼻っ面を殴り飛ばすと、総一郎は、今度は左側にいる今まさに毒の息をはこうとしている龍の頭部を踏んづけて飛び、中央奥にある一際巨大な龍の額に拳を叩きこんだ。

「なるほど、強度・・・・・・というよりも、脂肪が邪魔か」

 だが、先程難なくザッハークの鱗を砕いた一撃は、相手の鱗にひびを入れることは出来たものの、分厚い脂肪が邪魔をして脳の方まで衝撃を与えることはできなかった。

「貴様、そうなるまでいったい何をどれだけ喰らった?」
「無事ですか、総一郎さん」

 龍を睨みつけている総一郎の傍らに、ヒスイ達を乗せた鉄武者が部屋の外へと脱出したのを確認した千里が援軍として駆け寄った。向かってくる龍の頭を殴り飛ばし、鱗にひびを入れるが、総一郎同様、内側にダメージは入っていないらしい。
「水口さんか・・・・・・うん、その手があったな。すまない、しばらく一人でこいつを抑えていてくれ」
「は? いや、少々お待ちください。それってどういう」
「つまり、外側がどんなに固くとも、内側まで硬いという事はないだろう、という事だ」

 
 千里ににっこりと微笑むと、総一郎は巨大な口をいっぱいに開いて迫ってくる龍の中に、自ら飛び込んだ。

「ちょっ!? ああもう、これだから男というのは!!」

 向かってくる龍の首を殴り飛ばしながら、千里は彼女にとっては珍しく毒づいた。






「ここが蛇王とやらの中か。なるほど、確かに巨大だな」

 赤黒い肉で作られた通路を、総一郎は奥へ奥へと向かっていった。時折天井から強い酸性の液体が滴り落ちてくる。総一郎がヒョイと首を傾げると、その横を通り過ぎ、赤黒い床に落ちてジュッと嫌な臭いをたてた。ここで内部から破壊してもいいが、そうしても首が一つ吹き飛ぶだけで、結局残りの二つに手間取っているうちに再生してしまうだろう。それよりは胴体の中にある核を潰してしまった方が手っ取り早い。

 ゆっくりと歩いていた総一郎の歩みが、ふと止まった。それだけではない。彼の肩はわなわなとふるえ、その両目は真っ赤に充血していた。



 首の終点、胴体の真ん中には、巨大な球根型の核があった。だが、それだけではない。それを覆うように巨大な黒い沼地と、そこに浮かぶ、数千数万を超す、無数の人の骨が、そこにはあった。骸骨は大小さまざまで、中には小さい骸骨を抱きしめ、必死に守ろうとして共に食われたのか、抱き合っている親子の骨まであった。そして、最も悲惨なのは、骸骨の一つ一つから、今なおドロドロと黒い何かが流れ出し、それが溜まりに溜まって沼地となっているのだ。つまり彼らはまだ完全に死んではいないのだ。たとえ肉体を失い、骨だけになっても、永遠に苦痛と絶望という名の牢獄に捕らわれているのだ。

 総一郎の身体が、一瞬完全に無防備になる。その隙を逃がさず、不意に赤黒い肉の壁から幅数センチほどの肉の槍が数本飛び出し、彼の身体を貫いた。


「っ!!」

「くくっ、どうだ?絶望の味は・・・・・・格別であろう」
「・・・・・・」

 不意に黒い沼が盛り上がり、先程彼が粉砕したはずの、蛇王の仮初めの肉体の姿を取った。

「どうだね、我が貪欲なる食欲を満たすこの黒き沼は。だがこれでさえ飢餓を満たすには不十分だ。そなたも我が養分として、永遠に生かしてやろう・・・・・・何とか言ったらどうなんだ」
「・・・・・・る」
「ふむ?」

 その時である。槍が突き刺さっている部分から血を流し、俯いている総一郎が、何事かを呟いた。

「名を知らぬ人々よ、顔を知らぬ人々よ・・・・・・だが私はあなた方が受けた痛みを知っている。あなた方が感じた苦しみを知っている。そして今なおあなた方を縛る絶望を知っている!! それはあなた方が感じた物の、ほんの何百万分の一にも満たないが、それでも、私の怒りを燃え上がらせるには充分だ・・・・・・カグツチッ!!」


 総一郎の叫びと共に、巨大な炎が彼の身体を包み込んだ。






 


  火之迦具槌という神について語ろう。




 生まれいでる時に母を殺し、絶望した父にその身を切り裂かれて殺されたこの哀れな神は、炎の神というよりは憎悪の神という方が正しい。この神は降り神の儀式の際、総一郎の鬼に対する果てなき憎悪に反応して降りたのだが、そのあまりにも巨大な力は、無論誰にも扱えることなく、神がその身に宿った瞬間、総一郎の身体は火だるまになった。その後、制御できないこの神を制御するためにもう一柱の神である蔵王権現を呼び出し、何とか制御することに成功しているのだが、その稼働時間は短く、連続で使用することもできないという、まさに諸刃の剣といってもいい。


『・・・・・・』


 だが、そんな神が、ただ一つの条件下においてのみ、総一郎に完全に従う時がある。それは、




 それは、総一郎の怒りが、“彼女”がその身に宿す憎悪を、完全に上回った時である。



 炎は一瞬総一郎を焼き殺すほど強く燃え上がったが、次の瞬間パッと四散した。だが消えたわけではない。青年の右後ろに、少女の姿をした炎が再び燃え上がり、総一郎に両手に持つ巨大な炎の槌を差し出した。



「ご苦労・・・・・・火乃花」



 彼女の差し出す炎の槌を受け取らず、総一郎は少女の頭を振り返らずに軽く撫ぜた。蔵王権現は黒い沼地に浮かぶ無数の人骨を見た時に一瞬で掻き消えた。そのため、少女の炎で出来た髪を撫ぜる度、その手はぶすぶすと燃え上がり、火ぶくれになり、そして皮膚も肉も、骨さえも焼き尽くされたような感覚に襲われる。だが、それが幻の痛みである事をすでに彼は知っていた。幻の痛みであるからこそ、その痛みは永遠に続くのだ。

 充分頭を撫ぜた総一郎の手が、今度こそ炎の槌を握る。しっかりとした重量を確かめると、彼はザッハークの核にゆっくりと歩き出した。

「よ、よ、寄るな下郎!!」


 ザッハークの姿をした黒い液体が喚くと、周囲の壁から赤黒い肉の槍が総一郎に向かっていく。だが、それらは彼の体に触れる瞬間、そのすべてが一瞬で燃え尽きた。

「ひっ!! い、いいのか、ここには我がとらえた百万を超す家畜どもの魂があるのだぞ!? 我を殺すという事は、こやつらもまた殺すという事だ!!」
「心配ない」
「なっ!?」


 ザッハークの、もはや泣きわめく言葉に、総一郎は低くつぶやいた。


「この槌は、私の怒りを具現化した物だ。私の怒りは貴様だけに向いている。つまり、貴様以外の何物をも滅ぼすことはない」

 黒い沼に総一郎が足を踏み入れると、彼の周りのどろりとした黒い液体が瞬く間に蒸発していく。そして目的の場所、すなわち自分の怒りを向けるにふさわしい蛇王の核の所まで来ると、総一郎は手に持つ炎の槌を振り上げ、渾身の力を入れて振り下ろした。


 一撃目、巨体が震えた。二撃目、黒い液体で出来たザッハークの姿が掻き消えた。三撃目、周囲を囲む黒い沼地が消滅した。四撃目、核の表面にひびが入った。五撃目、ひびが亀裂となり、六撃目、亀裂が全体に入った。そして、

「これで最後だ!!」


 七撃目に総一郎が炎の鉄槌を振り下ろしたとき、核は一瞬ぶるりと大きく震え、次の瞬間、粉々に砕け散った。


「終わりましたか」

 こちらに向かってくる巨大な二頭の龍の咢が、一瞬びくりと震えたのを見て、千里はポツリとそう呟いた。彼女の考えが当たったのか、龍の頭は千里に食らいつく寸前にその動きが止まり、ザッハークの巨体はぴしぴしと音を立ててひび割れ、そして落下していく。下にあるのは巨大な塔だ。落ちていく巨体がその先端に深々と突き刺さる。うぉおおおおおっという無念そうな響きと共に、蛇王の真体は黒ずみ、さらさらと風に流れていった。

 と、そこから落ちる影が二つあった。一つは総一郎、そしてもう一つはザッハークが隠れるために生み出した人形であるレテルだ。落ちている間、総一郎は意識のないレテルの身体を抱えると、そのまますっと地面に降り立った。

「・・・・・・ふう、終わったか」
「さすがですね、総一郎さん。ですがまだ終わっていません。その少女を倒さなくては」
 
 千里が拳を構えると、鉄武者の中にいて床の崩壊に巻き込まれるのを逃れたヒスイと、意識を取り戻した加世もそれぞれの武器を構える。彼女たちの殺気が届いたのか、ぼんやりと目を開けると、レテルはきょろきょろとあたりを見渡し、そして自分に突き付けられている刀の切っ先を見て、一瞬びくりと震えると、ひっと小さく悲鳴を上げ、自分を抱えている総一郎にしがみついた。

「レテル、お前の真の姿であるザッハークは打倒された。おとなしく裁きを受けろ」
「い、嫌、嫌よ!! 助けて、お兄ちゃんっ!!」

 少女の悲痛な叫びに、無理な召喚を強要されて今まで倒れこんでいた白銀の騎士がガバッと跳ね起き、こちらに向かってくる。同時にザッハークに観客でいることを命じられていた妖精たちも動き出した。

「いけない、避けろ聖亜!!」
「へ? うわっ!!」

 白騎士の向かう先に、ほとんど崩れ落ちた床から降りてきた聖亜の姿が重なる。当然、騎士は彼を排除しようと剣の切っ先を向ける。偶然かそれを紙一重で避けると、少年は反射的に肘を相手の首に付きだした。だが、それが無駄であることをヒスイは知っていた。絶対不可侵領域、その名で呼ばれる最強のシールドが、聖亜の攻撃を弾く。誰もがそう思ったその時、誰もが思わなかった予想外の事が起こった。

 こきゃっ

「ん?」
「・・・・・・は?」

 ほとんど無意識に突き出された肘は、なぜか弾かれることなく、白騎士ヴィルヘルムの首元にぐさりと突き刺さったのだ。

 騎士は一瞬その場に棒立ちになったが、やがてどうっと音を立てて崩れ落ちた。そして召喚者が意識を失ったからだろうか、空を埋め尽くし、今まさに攻撃しようとしていた妖精たちが、次々に消えていく。



「オベロン」

「人間たちよ!!」

 ほとんどの妖精が掻き消え、最後になった彼らの老いた王は、自分の名を呼ぶ黒猫の言葉を無視し、天高く両手を上げた。

「予言に記された終焉の時を告げる鐘が鳴らされる、その最初の音色はすぐそこまで迫っている!! ゆめゆめ忘れるな。備え、そして覚悟せよ。終焉の時こそが、その名の通り全ての終わりの時だと!!」


 最後に倒れているヴィルヘルムを哀れみを込めて見つめると、オベロンはふっと掻き消えた。




「・・・・・・」
「キュウ、終焉とは何だ?」

 黙りこんでいる黒猫に、ヒスイは恐る恐る尋ねた。

「・・・・・・下らん予言だ。獄界が終わり、新たなる世界が始まるというな。眉唾ものだが、それを信じている者がいるというのも事実だ。さて、妖精たちは去った。ヴィルヘルムも意識を失って倒れ伏している。ならば残っているのは後一体だ」

「ひっ!!」

 黒猫の絶対零度のように冷たい視線を受け、レテルは自分を支える総一郎に必死にしがみついた。だが、総一郎は目を細めて軽く息を吐くと、その手をはがし、そっと地面に降ろした。


「ザッハークは私が滅ぼした。この少女は恐らく、蛇王に食われた人間の少女の魂で作った人形だろう。それでも滅ぼさなければならないか?」
「当然だ。たとえザッハークでなくともこやつはエイジャ。滅ぼすべき存在だからな。やれ、ヒスイ」

 いつもより余裕のない黒猫に命令され、むっとした表情を浮かべながら、それでもヒスイはレテルに向かって歩き出した。総一郎は止めない。彼は確かに炎の鉄槌の異名を持つほどの実力者であるのに比べ、少々甘い所もあるが、それでも“敵”を倒すのを止めるほどではなかった。

「せめて苦しまないよう、一撃で滅してやる」

 太刀を振り上げ、ぐっと力を込める。もはや逃げる気力もなくし、あだ首を振っている少女の脳天に狙いを定めると、ヒスイはそれを一気に振り下ろした。


「・・・・・・はっ!?」


 ガキッ!!



「え?」

 だが、少女に達が当たる瞬間、信じられないことが起こった。総一郎が何かに気付いたかのようにはっと顔を上げ、義手で振り下ろされた太刀を殴り飛ばしたのである。

「何をっ・・・・・・す、る?」

 抗議の声を上げようとしたヒスイだが、虚空を厳しい目つきで見上げる総一郎を見て、言葉が出なかった。彼女の手から離れた太刀はくるくると回転しながら空へ飛んで行ったが、次の瞬間、何もない所で何かに当たったかのように、いきなり弾き飛ばされ、ヒスイのすぐ横の地面に突き刺さった。

「なっ!?」
「へえ、やるじゃんか。あたしの隠行を見破るなんてさ」


 太刀がいきなり方向を変えたことにヒスイが驚きの声を上げるのとほぼ同時に、周囲に笑う女の声が響き、何もない空間から、いきなり一人の女が現れた。

 吊り目の美しい女だ。すらりとした背の高い艶やかな女で、その唇は好色そうに光っている。青い長髪をポニーテールにし、そして臀部から伸びる一本の尻尾が、彼女が人間ではないことを明確に物語っていた。


「何者だ!!」


「いやぁ、しかしいったいどうやって見抜いたんだい? あたしゃ姿も気配も、見つかる要素のなにもかもを完全に隠していたんだよ?」

「何者かと聞いている!!」

 地面から太刀を引き抜き、ヒスイは彼女にしては珍しく、明確な殺気を込めて女を見た。それは、恐らく自分の身体を支配する何だかわからない、得体のしれない感情を必死に振り払うためであった。

「・・・・・・おい雌ガキ、あんたにゃ聞いてないんだよ。あたしは別に虫を殺す趣味はないが、それでもあまりに喧しいと潰しちまうよ? こういう風に、ね」

 
 ガッ!!


「ヒスイ!!」
「・・・・・・え?」


 その時、何が起こったのか、ヒスイには全く理解できなかった。女の左手が一瞬光ったと感じたのとほぼ同時に、彼女の前に総一郎が現れ、いきなり金属同士がぶつかり合う音がしたかと思うと、彼が蹲っていたのだ。彼の左手にある義手は粉々に破壊されており、跡形もなくなっている。


「まさかロンズデーライトを利用して作られたこの義手が、たった一撃で粉砕されるとはな・・・・・・ぐっ」
「いやぁ? 十分に固かったよ。あたしが殴りつけても、あんたの体が粉々にならなかったんだ。何百年ぶりだろうねえ、そんなことは。すくなくとも人間相手じゃ初めての事だよ。さて、と」

 義手を破壊され、破片で体中をずたずたに切り裂かれ、意識を失い、それでも闘志を衰えさせることのない総一郎を満足げに見てから、女はゆっくりとあたりを見渡した。
「んじゃ、さっそくだけど本題に入らせてもらうよ。あたしがここに来たのは蛇王ザッハークの回収のためさ。けど」

 呆れたように溜息を吐くと、彼女は自分の気に充てられたためか、口から泡を吹いて気絶しているレテルをちらりと見た。

「当のザッハークがぶっ殺され、残ったのは残骸同然の少女ときたもんだ。ま、それでも任務は任務さ。小娘と黒い大剣、ついでに人形も持って帰らせてもらうかね」


「なんなんだ・・・・・・なんなんだ!! お前は!!」



「三度目だよ、雌ガキ」


 ガタガタと震えながら、それでもスイカを止めないヒスイを軽く睨むと、女はすぐ脇に生えている木の枝をぽきりと折った。彼女の手にすっぽりと収まる小さな木の枝は、だが女が握りしめると、一メートルほどの棒に変化した。彼女がその棒を頭の上で軽く振ると、ビシリと音を立てて、文字通り世界が“割れた”


「は? うぷっ!?」


 粉々になった世界から落ちたヒスイは、何が起きたのか分からないまま落下し、どぽんと海の中に落ちた。どうやら現実世界に戻ってきたらしい。海面に顔を出し、口の中に入ってくる塩辛い海水をぺっと吐き出すと、ヒスイは周囲を見た。近くには片腕を失い、意識を失った総一郎と彼を介抱している千里、女を見て固まったかのように動かない聖亜と、そして彼の頭上で唸りを上げているキュウがいる。また、少し離れた所には空に浮かんでいる鉄人形と、彼の中に収容されている加世、そしてイルと彼女に支えられているスヴェンがいる。エリーゼの姿は見えないが、したたかなところがある彼女の事だ。恐らく大丈夫だろう。


「あっはっはっはっ!! いい様だねえ。んじゃ、あたしは帰らせてもらうよ・・・・・・っと、その前に、久しぶりだねぇ、坊や」

 自分の周囲にレテル、ヴィルヘルム、そしてウルが変化した黒い大剣を浮かばせた女が、聖亜を愛おしそうに見つめた。

「聖亜・・・・・・彼女を知っているのか?」

「知ってるも何も、あたしはこの坊やの師匠さ。といっても一年だけだけどね。そんでもって、坊やのファーストキスと、童貞と、そして処女をもらったのもあたしだ。さて、どれだけ成長したかね・・・・・・うん、いい臭いだ。軽く千人は殺してるね。無数の人間の恨みと憎悪がこびりついているよ。たくさん殺して、たくさん犯して、いい感じに堕ちてきてるじゃないか」

「っ!! 黙れ、いきなり消えやがって!! この馬鹿猿!!」

「しょうがないだろう? あたしは欲しがりで、そして飽きっぽいんだ。それよりこれほど殺したなら完全に堕ちてると思ったけど・・・・・・ああ、なるほど。他の女の臭いがするね。ったく、人様の物に勝手に手ぇ付けやがって・・・・・・殺してやろうかねぇ、その女」


 女が本気とも冗談ともとれる発言をしたその瞬間、不意に俯いた聖亜を中心に、周囲をぞくりと効果音が聞こえるほど強烈な殺気が駆け巡った。しかし、その殺気を一身に受けているはずの女は何の痛痒も感じていないらしい。いや、それどころか心地よさそうな表情をしている。

「う~ん、中々いい殺気を出すじゃないか。けど、まだ極上というには程遠いね。もうちょっと熟成させてみようか。どうやら時間切れのようだしねぇ」

 次の瞬間、パッと周囲が明るく照らされた。ヒスイがまぶしさに顔をしかめて光が差してくる方を見ると、一隻の船がこちらに向かってくるのが見えた。甲板に乗っているのは雷牙だ。ということは、あれは高天原所有の蒸気船か何かだろう。

「ま、セイルからはあまり目立つなと言われているし、今日の所はこれでお暇させてもらうよ。けどまあ、そこの雌ガキが何度も聞いてきたんだ。名前ぐらいは名乗ってやろうか」

 その時、不意に女は虚空を見上げてにやりと笑った。それにつられてヒスイも上を見上げるが、ただ夜空が広がるだけで何もなかった。

「あたしの名はハヌマン。詳しいことはそこにいる黒猫にでも聞くことだね。そしてあたしが今から所属する“赤王の晩餐会”は、今からここ日本を狙って活動するだろう。せいぜい怯えながら暮らすことだね」
「・・・・・・それは、宣戦布告ととらえてよろしいか?」
「そう聞こえなかったとしたら、あんたの耳が悪いんだろうさ」

 意識を取戻した総一郎に睨まれながら、最後まで余裕の笑みを絶やさず女―ハヌマンはゆっくりと消えていった。完全に消える瞬間、彼女はまるで別人のように優しげな微笑を浮かべて聖亜を見たが、俯いている少年がそれに気付くことはなかった。



 それから一時間ほど経過しただろうか、雷牙が指揮する黒塚家所有の蒸気戦艦に備え付けられている浴槽でザッハークとの戦闘の疲れをたっぷりと癒し、割り当てられた船室の中でヒスイは今日の出来事をぼんやりと思い返していた。今ここに居るのは自分とキュウ、そして隣室から来た聖亜だけだ。聖亜の担任になるらしい日村総一郎は現在医務室でけがの治療をしており、自分と同室の加世も医務室で仮眠を取っている。千里はハヌマンに宣戦布告されたことを雷牙と話し合っており、スヴェンは魂がここにはないような虚ろな顔をしてただ虚空を見ている。エリーゼは彼の所業を本国に報告するので忙しい。
 
「あの、キュウ」

「・・・・・・」

 
 ヒスイはこちらを厳しい表情で睨みつけてくる黒猫に怯えながら、おずおずと声をかけた。キュウは黙って少女を睨み続けていたが、やがて小さくため息を吐き、表情をふっと和らげた。

「冷静さを失ったな、小娘。しかしまあ、無理もなかろう。ハヌマンと対面したのだ。どんなに強い戦士であれ、彼女と真正面から向き合ったら恐怖で冷静さを失うだろう」
「キュウ、あの女・・・・・・ハヌマンとはいったい何者なんだ?」

「一言でいうならば最強、これしかあるまい。エイジャの中で最も身体的能力に優れた種族は“王”を除けば角と牙、そして鱗を持つ竜種だが、何事にも例外は存在する。その例外があの女、ハヌマンだ。“闘戦勝仏”、“竜喰い”といった様々な異名を持ち、一説には獄界が誕生する以前、宇宙より飛来した石の中から生まれたとされている。まあ、そんなことはどうでもよい。問題は奴の実力だが、ザッハークを一とするならば・・・・・・軽く一億を超す」

「・・・・・・・・・・・・は? え? いち、億?」


「しかもそれが本来の実力ではないぞ? 数百年ほど前、竜王の異名を持つ緑王と喧嘩をして、その力を百分の一まで落とされたからな。つまり本来の実力は、ザッハークの百億倍を優に超えるといったところか」


 もはや絶句するしかない。ヒスイは今まで数多のエイジャを倒し、その中にはザッハークなどの別格もいた。だが、あの女、ハヌマンはその蛇王の百億倍も強いという。もはや次元が違うという話でもない。ハヌマンはまさに神に等しい力を持っており、自分など虫けらにも思っていないのだろう。


「何か、その・・・・・・弱点はないのか?」
「ない。あえていうなら飽きっぽいのが弱点か。まあ数万年を生きているのだ。飽きっぽくもなろうさ。ここ数百年ほど名を聞かなかったが、まさかこちらに来ていたとはな。それより我にとっては、聖亜、お主がハヌマンの弟子というのが驚いた」
「弟子でいたのは一年ほどだけだ。それも五歳から六歳までの幼少のころの話だし・・・・・・けどまあ、確かに自由奔放で飽きっぽい所があったな」

「あの、な・・・・・・ところで、その、ハヌマンが言っていたことだけど」

「ん? ああ、確かに童貞も処女も全部奪われたな。処女というのはまあ、あいつは尻尾があるから、それでぐりぐりと」

「い、言うな馬鹿っ!! けど、その・・・・・・五歳でよく出来たな、あの、ごにょごにょを」
 顔を真っ赤にしながら俯くヒスイを見て面白そうに笑うと、聖亜は軽くひざを叩いて立ち上がった。
「確かにな、けど師匠が言うには鳥で五歳はもう大人もいい所なんだってさ・・・・・・悪い、ちょっと出てくる」
「・・・・・・あ、ああ。いいけど、どこに行くんだ?」
「別に大したことじゃない。黙って出てきたからな。ちょっと電話してくる」
「電話って・・・・・・誰にだ?」

 軽く首を傾げて尋ねる少女を見て、少年はふっと笑みを浮かべた。




「そうだな。ちょっと引っ込み思案で人見知りのする、けど無邪気で心優しい女の子に、さ」












「以上が今回の事の顛末となります」


 翌日、蒼い機械人形から送られてきたデータを解析した書類を、八雷黒曜は主である神楽へと差し出した。受け取った書類をぱらぱらと捲って軽く目を通すと、神楽はにこやかに笑みを浮かべた。
「あらあらあら、随分と大物が出てきたわねえ。所在が分からなかった最強のエイジャが、まさかこちら側にいたなんて」
「笑い事ではありません、神楽様。ハヌマンはこちらの監視に気付いていた様子です、今彼女と敵対するのは得策ではありません」
「それもそうねえ・・・・・・そういえば、肝心の“計画”は今どうなっているのかしら。ねえシュウちゃん」
「え? ええ、そうですね。計画の障害となる強硬派はアテルイの“脳なし”と一緒に全員滅んでくれました。後は予定通り、水面下において“あの方”の復活を進める事が出来ます」
「そう、それは良かったわ。こちらも予定通り昨夜の戦闘のどさくさで反乱分子を一掃することが出来たから大満足よ。まあ、総一郎ちゃんの実力が思っていたより上だった、というイレギュラーがあるけれど・・・・・・そうだ、いいことを思いついちゃった。ねえ黒曜ちゃん、アテルイの攻撃で半壊した立志院の校舎を直すのに、どれぐらい時間がかかるかしら」
「はい、見事に壊れましたので、およそ三か月といったところでしょうか。神無月にある降り神の儀式には間に合う予定です・・・・・・それが何か」
「ふふっ、その間、特別クラスの子供たちが学べる場所がないというのも可哀そうねぇ。確か太刀浪市にある根津高校、そこの旧校舎が以前エイジャによって破損したという話だったけれど、今はどうなっているのかしら」
「はい、ええと・・・・・・そうですね、確か一部が破損しただけですので、八月中に修理が完了するはずですが」


 黒曜の言葉に、神楽は嬉しそうに両手を合わせた。


「命令よ黒曜ちゃん、根津高校を買収しなさい。同時に旧校舎を改修、そこを特別クラスのための学舎とします。これなら聖ちゃんも友達と別れることもないし、総一郎ちゃんも出雲から遠ざけられる。さらには重要拠点である太刀浪市に、日本最強クラスである鈴原雷牙と日村総一郎という実力者を二名配置できるという一石二鳥の話よ」
「はい、確かにそれはそうですが・・・・・・日村総一郎に感化された星聖亜が、こちらの思い通りに動かなくなる可能性があると考えられますが」
「それは大丈夫。忘れたかしら、聖ちゃんの唯一大切な存在はこちらが握っているのよ? 彼女がいる限り星聖亜がこちらと敵対することは決してないわ。けどそうね・・・・・・すこし飴を与えましょうか。鬼の襲撃に対しての御褒美として、一泊二日の海水浴をプレゼントしましょう。どこか高知の良い海水浴場を見繕っていて頂戴」
「はい、ただいま調べてまいります」







「やれやれ、随分と可愛がりますね。では私もそろそろお暇いたします。今度こそ、まがい物ではない“本物”のアテルイを見つけなければなりませんからね」


 八雷黒曜が退出したのを見送り、紅茶を飲み干すと、青年もゆっくりと立ち上がった。

「あらそう、それじゃあ“ヒミちゃん”によろしくね、シュウちゃん」

「・・・・・・人の名をどう呼ぼうが、それはあなたの勝手ですがね、私はシュウではなく、あくまで“酒呑童子”ですので」

 その時、部屋を囲んでいた黒いカーテンの一部がそっと揺れ、外から太陽の光が一筋入り込み、青年の影を後ろの壁に浮かび上がらせる。その影は、頭に巨大な二本の角をはやしていた。


「それでは神楽様、我らの望む“終焉”のために」
「ええ、我らの望む終焉のために」

 一礼した青年―真の名を酒呑童子という―の姿が一瞬で消え去る。彼が完全に消え去ったのを確認した後、神楽はゆっくりと立ち上がり、窓の方へ向かった。窓からは出雲大社の境内と階段、そして先日の戦闘など嘘のように平穏とした出雲市の街並みが見える。その景色を、笑みをを絶やさず、神楽はしばらくの間眺め続けていた。








「もっとも、我らではなく、“私”が望む終焉だけれども、ね」









 米国にある魔器使達の組織、魔女達の夜。その本部であるヴァルプルギスは、その日大きな混乱の中にあった。なぜならエリーゼからの連絡により、敵対するエイジャに魔器を奪われたことが判明したためである。むろん、今までも持ち主である魔器使の戦死により魔器が奪われそうになった時はあった。だがそんなときは魔器に組み込まれた緊急の転移装置が働き、ヴァルプルギスに転送されることになっている。だが、この転移装置が働くのはあくまでも魔器使との繋がりが切れた時、つまり戦死した場合に限るため、魔器使はもし自分の所有する魔器が敵に奪われそうになった場合は、一命を賭しても奪還しなければならないという決まりごとがある。それなのに


「まさか、自分が助かりたいがために魔器を敵に差しだそうとして愛想を尽かされるとは・・・・・・これは弁護の余地はありませんな」
「さよう、魔器が相手に奪われたという事は、敵に魔器を防ぐ装備を研究されるのは必至。これはかなりの痛手ですぞ」
「そうですな。被告であるスヴェン君は、最高査問官の地位の剥奪、魔器使の資格停止はもちろん、他の罰も考えねばなりません。そこのところ、どうお考えですかな、ヘルメス様」


「・・・・・・あら? どうして私に振るのかしら」



 目の前で繰り広げられる混乱を、まるで他人事のように眺めていた少女―ヘルメスは、いきなり話題が自分に振られたのを、軽く眉を上げて驚いた口調で尋ねた。


「い、いや・・・・・・どうしてもなにも、スヴェン君はあなたの生徒だったではありませんか」

「スヴェンが私の生徒ですって? 何か大きな誤解があるようね。確かに私はスヴェンを手元においていたけれど、それは生徒としてではなく研究材料としてよ。死刑にするなり封印刑にするなりすればいいじゃないの」

「い、いや、さすがにそこまでは・・・・・・す、スヴェン君は副学長のお孫さん、しかもまだ十二歳ですぞ」

「否、例え我が孫であろうとも、いや、我が孫であるからこそ厳罰は必要である。しかも報告によれば、スヴェンは命惜しさに敵に魔器を差し出そうとしたそうではないか。そのような行為は正義ではない、ならばスヴェンはもはや我が孫でも何でもない。死刑にでもするが良い」

 ヘルメスの言葉に驚愕した教授の一人が議長席にいるザラフシュトラ副学長を見上げるが、孫であるスヴェンに対しての彼の言葉はどこまでも冷ややかなものであった。


「で、ではその・・・・・・け、結論が出ないようですので、四大教授の方々による採決を取りたいと思います。では、ヘルメス教授、グリアス教授、ヘファト教授の順でお願いいたします」

「面倒臭い、死刑でいいわよ、死刑で」

 と、ヘルメスがどうでもよさそうに言うと、

「いえ、死刑というのはさすがに可哀そうです。ですが今後このようなことが起きないよう厳罰は確かに必要ですね。無期限での封印刑ではいかがでしょう」
「あんた・・・・・・それってある意味死刑より恐ろしいわよ」

 たとえ肉体が朽ちても、魂を永遠に封じ込める、死刑よりも恐ろしい刑罰を、笑みを絶やさずに提案するグリアスを、彼の隣にいたヘルメスはぎょっとした顔で見た。

「・・・・・・監視付きによる再教育」
「それは少々甘すぎませんか、ヘファト教授」
「あのな、スヴェンはまだ十二の餓鬼なんだぜ? 怖くて小便ちびりそうになることだってあるだろうよ。それを何だ、死刑? 封印刑? 手前ら頭おかしいんじゃねえのか?」

 自分の言葉をグリアスが控えめに非難したのに対し、ヘファトはむっつりとした顔で呻くように答えた。

「けど困ったわね。みんなバラバラの意見か・・・・・・こうなったら、私も封印刑にしようかしら」
「いや、意見を変えるには及ばねえ。こちとらヌアダの分も入ってるからな。つまり再教育が二票、死刑が一票、封印刑が一票、再教育で決まりだ。お前らがいらねえってんなら、俺が小僧を預かるぜ」

「あら、いいの? 負債を抱えることになるわよ?」
「ふん、どうせ俺の所にゃ落ちこぼれしかいねえよ。おいグリアス、お前もそれでいいな!?」

「・・・・・・ええ、構いませんよ。ただし、最高査問官の地位の剥奪と魔器の資格停止の処分は確実にお願いいたします」

 その時、グリアスの隣にいたヘルメスは、ギリッという微かな音を聞いた。だが、それは本当に小さく、そして一瞬の事だったので、彼女は空耳と思うことにした。










 そこは、ドイツのルール地方にある大都市の、立ち並ぶ巨大な高層ビルの中でもひときわ大きなビルの最上階だった。蒸気ではなく、最新型の電動式エアコンで温度が一定に保たれた部屋の、その中央にある巨大な机の前に座り、一人の男が何か端末を操作していた。

 男は背が高く、彫りの深い顔立ちをした美丈夫だ。恐らく二十代前半だろう。ドイツ最高級のブランドスーツを着込む男の表情は、ただただむっつりと押し黙っていた。


 男が一端端末から顔を上げ、目を休めている時である。机に備え付けられている来客を告げるブザーが小さく鳴った。

「入れ」


 男が短く簡潔に答えると、机の前方にある透明なドアがプシュッと小さな音を立てて左右に開き、髪をきつく結った眼鏡をかけた女が、書類の束を持って入ってきた。

「お休みの所申し訳ございません、アルフォルズ総帥。上半期の収支報告書をお持ちいたしました。まず重工業・電化製品部門において、我が北欧統合会社は北欧の市場にてシェアを独占しています。また、欧州でも過半数のシェアを獲得、前々回首位に上ってから、いまだに首位を独走中です。さらに三年前から始まった北欧統合銀行、化学工業、保険分野においても急成長を遂げており、来年には北欧の市場を支配できるでしょう」

「そうか。結構・・・・・・それで? 昨年問題となっていた輸送業についての報告はどうした?」

 アルフォルズと呼ばれた男がじろりと睨むと、秘書である女は狼狽したように眼鏡をくいっと持ち上げた。

「・・・・・・はっ、欧州、及び米国への輸送業務は順調に業績を伸ばしています。ですが、アジア・中東における輸送業務は、前年度三十パーセントの低下となっています」

「三十パーセントの低下だと? それはもはや壊滅的打撃というのだ!! 海賊風情が、いつまでも調子に乗りおって!!」


 バンッと大きく机を叩いて立ち上がる。感情が表に出やすいのか、少々白すぎる肌がいきなり真っ赤に染まった。深呼吸して気持ちを抑えると、アルフォルズはすまんと一言つぶやいて椅子に座りなおした。


 
「まあ良い、収益については了解した。輸送業で出た損失は他の利益で十分に補える。だが、問題は別だ」
「問題でございますか?」

「ああ。海賊など一刻もたたずに全滅できると豪語しておきながら、今まで何度も敗北し、資金と時間を無駄に使用した馬鹿者の始末をつけねばならん」

 忌々しげに舌打ちすると、アルフォルズは机の隅についている複数の小さなボタンのうち、総合科学研究所と書かれたボタンを押した、

「私だ。いや、そう畏まらずともよい。命令を伝える。人体改造部門は本日をもって封鎖。必要な研究データを回収後、全ての資料を抹消するように。なお今までの失態により責任者を更迭とする。なおこれ以降は人魔融合部門を最優先の研究分野とする事。遅くとも一か月以内に結果を出せ。以上だ」

 冷たく言い放ち通話を終えると、アルフォルズはむっつりとした顔で押し黙った。


「あまり面白くなさそうですね」

「当然だろう。我々はエイジャと戦う立場にあるものだ。それが奴らの力を使うことになるのだぞ。不機嫌にもなる・・・・・・まあいい、少し“下”に行ってくる。いつも通り、明日までには戻る。その間、決裁が必要な書類をそろえておけ」

「・・・・・・かしこまりました。ご命令はそれだけでしょうか」
「何をむっとしている。あとはそうだな・・・・・・トールにあまりエイジャと戦いすぎるなと言っておけ。万が一もないとは思うが、腹違いとはいえ一応妹だからな」


 少し不機嫌そうな秘書に困惑したような表情を見せると、青年は机の裏側に隠されている指紋照合機にすっと指を滑らせた。ガクンッと机が乗っている床が軋み、ズズッと音を立てて下に降りていった。




 それから十数分ほどは降りただろうか。少なくとも数キロほど下降した後、青年が到着したのは、左右にどこまでも広がる巨大な地下通路であった。無数の電光灯が備え付けられており、地下だというのに日差しの下のように明るい。青年の前にはマシンガンやロケットランチャーなどで武装した十数人の兵士が二列になってこちらに敬礼している。彼らのすぐ隣には巨大な軍用車両が、後部座席を開けて主が来るのを待っていた。

「ご視察お疲れ様でございます、閣下!! 上より連絡がありましたので、お待ちしておりました」
「ああ。ご苦労」

 兵たちの列から一歩進み出てきた、整った顎髭を生やした精悍な顔つきの部隊長に軽くねぎらいの言葉をかけると、青年は車両の後部座席へと座った。その横に部隊長が乗り込むと、車両は自動で前方へと走り出した。

「それで、作業の進み具合はどうだ?」
「はい。施設は七割がたが完成しております。また、監視衛星であるフギン・ムニンとの接続も完了いたしました。これで地上にいるエイジャの行動を確実に把握できます」
「そうか・・・・・・数百年前に起きた嘆きの大戦により、我らの祖は故郷であるアスガルトを完膚なきまでに破壊つくされ、流浪の旅に出るしかなかった。そのため他の組織から我らは“彷徨う者”などの別称で呼ばれているが、それが訂正される日も近い。中々休暇を与えられなくてすまないが、どうかその時まで頑張ってほしい」
「とんでもございません。我らの祖の苦労を考えれば、地上に出られないことぐらい何の苦にもなりませんよ」

 アルフォルズと部隊長が会話を続けるその間も、車両は止まることなく進んでいく。巨大な二隻の飛空船を始めとし、数々の兵器が収容してある格納庫を通り過ぎ、宿舎及び訓練施設がある建物の間を通り過ぎると、車両はその先にある、巨大な鋼鉄の壁の前で停止した。


「ここにいろ」
「はっ!!」

 部隊長にそう命令すると、アルフォルズは巨大な鋼鉄の壁の、右隅に備え付けられている扉に近づくと、その左脇に設置されている網膜認識装置を覗きこんだ。ピピッと軽い音がして扉が開く。その先は薄暗い通路だ。その通路を進むこと数分、前方に見えてきた光の中を、目を細めながら潜ると、その先は真ん中に数キロほどの穴が開いている巨大な空間に出た。その穴の中にはブルーシートで覆われた、巨大な何かが置かれている。全幅は数キロ、その下部分は穴の中に納まっており先が見えない。少なくとも十数キロはあるだろう。覆っているシートの中からは、時折何かを溶接する工事の音が聞こえている。

「これは閣下、ご視察ですか」
「ああ。どうだ、建造の進み具合は」

 腕に総監督を示す腕章をつけた男が駆け寄ってくる。彼に軽く頷くと、青年は穴の中を見下ろした。



「そうですね、六割がた完成、といったところです」
「十数年かけて、ようやく六割が完成したか。ナメクジの歩みおりはるかに遅いな」
「仕方ありません。全長十数キロ、ステルス機能を装備し、さらに空を飛ばそうってんですからね。ステルス機能については何とか理解できますが、重力場発生装置・・・・・・でしたか? こいつは全く理解できません」
「設計図は見たのだろう? ならその通りに作ればいい」

 アルフォルズの厳しい視線を受け、彼の倍以上年を取っている総監督はうっと呻いた。

「で、ですが、これを設計したのは裏切りのドヴェルグと言われるイヴァルティですよ? たとえ同胞を裏切ったエイジャだとしても、我らに有利な情報を正確に出すとは思えませんが」
「それは大丈夫だ。父がイヴァルティに設計図を書かせた時、まず度数の高い火酒をしこたま飲ませてから書かせたからな」
「酔わせてから書かせたのですか? それはそれで問題な様な気がしますが」
「いや、ドヴェルグは酒好きだが、いくら飲んでも正気を失うという事はない。拷問や脅迫には決して屈さない頑固者だからな。ならば酒を飲ませておだてたほうが、相手も協力しやすいというものだ」


 しばらく総監督と会話をした後、アルフォルズは一時間ほどかけて巨大な穴の横を通り、光沢を放つ壁の前に立った。鋼でも鉄でもない不思議な壁の前で一度大きく息を吸って呼吸を止めると、両手を壁に付ける。


 ごぽり、と大きな音を立てて、青年の両手が壁の中に押し込まれる。そのまま身体ごと前に進んでいき、数分ほど壁の中を進んだだろうか。まず両手が壁の外に出て、続いて青年の身体が壁の向こう側に出た。


 それからどれぐらい歩いただろうか。もはや時も場所も定かではないほど歩き、鉄や鋼で出来た通路が暗闇と土と苔むした岩に変わってもまだ歩いた。ひそひそと誰かが話す声がする、何者かが耳元で引き返せと囁く。地面から湧き出る無数の手が自分の足を掴む。そのすべてを無視して歩き続ける青年の目に、彼の目的地がようやく見えてきた。

 そこは、二体の巨大な石像が両手を壁に付けている場所だった。二つの石像の、ちょうど真ん中に立つと、アルフォルズは一言叫んだ。「開け」と


 青年の声が洞窟の中を反射し、消えるとほぼ同時に二体の石像はゆっくりと軋みを上げて動き出し、両手で支えている壁をズズッと前に押し出した。僅かにできた隙間をしゃがんで通り過ぎると、苔の光だけがわずかに照らす暗闇の中を、アルフォルズはゆっくりと歩いていく。そして、その歩みは最奥に眠る女の前で止まった。


 眉の太い、妖艶な美しい女だった。だが可憐というよりは凛々しいといった言葉の方が似合うであろう。燃える炎の様な赤い長髪を持つが、その下にある二つの目はきつく閉じられている。髪と同じ色をしたドレスは所々ほつれており、その身体は青白い巨大な何本もの鎖できつく縛られている。


「気分はどうだ? まあ、良いわけはないか。重傷の身体をフェンリルの吐き出した、世界を凍らせる吐息で作った鎖で縛りつけられているのだからな。それから十五年、か。貴女は一度たりとも目を覚ますことはなかった。このまま終焉のその日まで眠っているつもりか? それもいいのかもしれないな」

 アルフォルズは目を閉じている女をじっと見つめていたが、ふと、右手を伸ばした。途端にバチリと火花が走り、伸ばした右手に激痛が走る。眉を顰めて引いた右手を見ると、ひどい火ぶくれになっていた。それでも、彼女に邪な感情を抱いた他の男よりはマシだ。彼女に邪な感情を抱いた男たちは数多く居り、その中には自分の父も含まれていたが、そのすべてが彼女に手を伸ばそうとしただけで、あるいは目を向けただけで灰も残らず蒸発したのである。

「父を含め、貴女に触れようとした数多くの男達はもう皆この世にはいない。ここに封じ込めるには、イヴァルティに命じて作らせた、何の感情も持たない石像を作り出すしかなかった。そしてその鎖がある限り、貴女はここに居るしかない。せめて安らかに眠っているがいい、この世が終わるまで、永遠に」


 初めて恋心を抱いた相手を、最後に名残惜しそうに見つめてから、アルフォルズはゆっくりと踵を返し、歩き出そうとして、



「おや、もうよろしいので?」


 突然聞こえてきた、聞きたくもなかった男の声に、彼の足はぴたりと止まった。





「なぜ貴様がここにいる? いや、そもそもお前はここに一体どうやって入っているのだ、ロキ」


 彼の問いはもっともであった。ここに来るには数十人の屈強な兵士が守っている通路、網膜認識装置により開く扉、その先にある、限られたものしか通る事の出来ない光沢のある壁、そして自分の言葉でしか開くことのない二体の石像、そもそもここは地面から数キロ下にある。だが目の前の黒いスーツと、同色のつばのない帽子を深々とかぶっているこの男は、全く気配を感じさせることなくここに現れたのだ。

「まあ、それは企業秘密でして。しかし、思い人を前にただ眺めているだけですか。どうです、貴方さえよければ、彼女に触れられるようにして差し上げ・・・・・・」

 ロキと言われた男は、だが最後まで言葉を発することは出来なかった。アルフォルズの頭上にある虚空から突如現れた巨大な槍が、彼の身体を粉々に粉砕したからである。

「誰であろうと、彼女を侮蔑する者は許さん・・・・・・分身体だったか、まあいい。これで当分現れないだろう」


 煙となって消え去ったロキの身体を忌々しげに睨みつけてから、アルフォルズはその場を歩み去った。




「・・・・・・やれやれ、短気な方ですねえ」



 青年が去って数分ほど経った頃だろうか。宙に漂っていた煙が一つにまとまり、黒いスーツと帽子に身を包んだ男の姿になった。


「自分の出生を知った時“北欧同盟”の総帥たるあなたがどんな反応を示すのか、実に楽しみです。例えば、ほかの男性が灰になる中、なぜ自分は火傷を負うだけで無事なのか・・・・・・とかね。いや、実に楽しみですねぇ、そう思いませんか? 炎の女皇帝様」


 最奥で眠る赤髪の女性に一礼すると、男の姿はふっと掻き消えた。










 闇の中にただ一人、眠りにつく一人の女性を残して


















 晩餐会は、今日も続いている。


 だが、その日は特別だった。晩餐会に、新たに三名の客が加わったのだ。といっても、下客と言われる参加者たちは日々増加しており、その正確な数は誰も知らないのではと囁かれるほどであった。

 では何が特別なのかというと、三名の参加者の素性が、であった。



「へえ、ここが晩餐会ねぇ」

 三名の参加者の中の一名、ハヌマンはこちらに向けられる無数の怯えた視線を感じ、にやりと獰猛な獣のように笑みを浮かべた。

「お待ちいたしておりました、ハヌマン様。無論、貴方様は文句なしで最上級の賓客にございます。これよりお席の方にご案内させていただきます・・・・・・おや」

 猫頭の執事に覗きこまれ、ハヌマンの背中に隠れるように張り付いていたレテルはひっと小さく悲鳴を上げた。

「ああ中客として招かれるはずだったザッハーク様、その“残りカス”様ですか」

 猫執事の、どこか蔑むような口調に、周囲から嘲笑と嘲りの声が響いた。

「さて、どういたしましょうか。ザッハーク様は“ぎりぎり”中客の中に入っておりますが、貴女様の実力ではとてもとても・・・・・・もしハヌマン様が後見役を務められるのであれば、中客としてお迎えすることもできますが」
「はぁ? 何であたしがそんな面倒臭いことをしなきゃいけないのさ。自分の事は自分でやりな」

 突け放すようにそう答えると、ハヌマンは一歩踏み出す。すると、いきなり前方にいたエイジャの群れがざっと左右に割れた。そのすべてはがたがたと震え、視線を合わせないように下を向いている。皆恐れているのだ、特に緑界出身の龍種はひどい。しゃがみ込んで頭を抱え、彼女の興味をひかないようにしている。ハヌマンが彼らを鼻で笑って通り過ぎた後、エイジャ達は皆そろってほっと息を吐いたが、その中の十名ほどが残ったレテルの方を向いた。

「ひっ!?」

 柱の隅に隠れているレテルをエイジャが囲む。そのうちの一体、蛸に似た頭部と吸盤を付けた何本もの触手を持つエイジャが好色そうな笑みを浮かべて、触手を彼女に伸ばす。だが、その触手が触れるか触れないかの所まで来た時、レテルの影から飛び出してきた白い人影が、伸ばされた触手を切り飛ばした。


「ぐぁ!? き、貴様っ!!」


 触手を切り飛ばされた痛みと屈辱に、蛸に似たエイジャが残った全ての触手を白の人影―ヴィルヘルムに向ける。だが、それは白騎士に当たる寸前、触手は彼の体に触れるのを“恥じる”ように、バッと四方に散った。

「・・・・・・あ?」


 周囲に旋風が巻き起こる。それは死を呼ぶ刃の風だ。触手が切り飛ばされ、最後に蛸に似た頭部が唐竹割りにされた。それを見て、レテルを囲んでいた他のエイジャ達はどっとどよめきの声を上げ、後ずさった。



「へぇ、なかなかやるじゃないか、あの白い坊や」
「笑い事ではないぞ、ハヌマンよ。ザッハーク・・・・・・否、レテルであったか、見目麗しい少女が下賎の者どもが集まる下客の立場にいれば、先程のような騒動は必ずまた起きよう。どうするつもりだ?」


 六者の上客という、六名のみが座ることを許された上段にある豪華絢爛な席に座り、下界の様子を面白そうに眺めているハヌマンに、顔見知りである黒界公爵レインは、がらんどうな鎧の中から女の声を出して尋ねた。

「はいはい、分かったよ。まあめんどいけどしょうがないか。おい、そこの猫頭」
「はい、何でございましょうか、閣下」

 すぐそばに控える猫執事を呼ぶと、酒を注文するとともに、ハヌマンは下を指さした。

「あたしが小娘、レテルの後見役を務めるよ。ま、あの餓鬼だけならともかく、白い坊やも一緒ならザッハークの代わりは勤まるだろうさ」
「は、かしこまりました」

「ほう、良いのか?」
 猫執事が去った後、レインは意外そうにハヌマンを見た。
「おいおい、どうにかしろって言ったのはあんただよ。ま、気まぐれってやつさ」
「ふむ、気まぐれか。しかし、上客の中に緑界の龍種がいないことがこれで理解できたぞ。さすがに“竜喰い”のそなたと一緒の席に座りたいと思う龍はいないだろうからな」
「その異名はあんまり好きじゃないんだけどねぇ」
 苦笑しながら、猫執事が持ってきた酒瓶を乱暴に受け取る。水晶で出来た瓶の蓋を開けると、コップに注ぐのも面倒なのか、そのまま口をつけて一気に呷った。そのまま半分ほど一気に飲み、満足そうに口を放すと、周囲に甘い酒の香りが広がっていく。
「相変わらずの酒好きだな。さて、私は少し席を外す」
「別に断る必要はないと思うけど、どこに行くんだい?」
「別に大したことではない。中客として、以前私の旗持ちを務めていたルティアという女騎士が来るのでな。出迎えてやらねばならん」
 黒い甲冑をカチャリと鳴らし立ち上がると、首なし公の異名を持つレインは隅にあるドアへと向かった。退屈しのぎにか、早くも二本目を飲み干し、三本目を開けたハヌマンも立ち上がり、彼女の後に続く。彼女の気配を背中に感じ、それでもレインは黙って歩き続けた。
「ところでそのルティアってやつは使えるのかい?」
「すぐれた指揮能力と作戦立案能力、そして優秀な戦闘能力を持つ。騎士幼年学校にいたころから目をかけていてな。その後は共に幾多の戦場を駆け抜けたが、嘆きの大戦の直前に結婚し、夫が負傷したため身動きが取れなくなり転身することが出来ず、今は“黒翼の誇り”に参加している。以前セイル殿が接触し、物資の援助の代わりにこちらに派遣されることになったのだ」
「ふ~ん、おっと、着いたようだね」
 ぐねぐねと曲がりくねった廊下を歩いていくと、不意に前方の廊下が消えうせ、いつの間にか彼女たちは中庭に立っていた。


「・・・・・・」

 それから半刻ほど過ぎただろうか。ハヌマンは四本目の酒瓶を開け、五本目に取り掛かっている。彼女から漂ってくる酒香に幾分辟易していたレインは、ふと鎧を空に向けた。
「どうやら来たようだな。だが、これは」
「おや? 来たんじゃないのかい?」
「ああ、来た。そのはずなのだが」

 レインが何か言おうとした時だった。バサバサッと力強い羽音が周囲に響き渡り、黒い星空の彼方から十数名が飛んでやってくると、中庭に降り立った。

 中庭に降りたのは、背に一対の白い翼をはやした少女達だ。皆真新しい鎧兜に身を包み、手に槍を持っている。彼女たちはレインの前に横一列に並ぶと、槍を両手で顔の前に持ってきて、彼女に最敬礼を行った。


「・・・・・・なんだい、この餓鬼ども」

 
 呆れたハヌマンが呟いたとおりだった。彼女達は皆十代前半ほどの姿をした年端もいかぬ少女達で、槍を持つ手は震え、最敬礼もぎこちない。鎧兜も着ているというよりは着られているといった感じで、落ち着かないのかそわそわと足を動かしている。
「まったく、これなら幼年学校の一年の方がまだましだ。ルティアの部下のようだが、彼女はお前たちにどのような教育を・・・・・・む」

 レテルが一歩前に出て叱責をしようとした時だった。一際大きな羽音が虚空に響き渡り、少女が一名、横一列に整列している少女たちの前に降り立った。右側に一枚の白い羽根を差したマスケットハットをかぶり、動きやすいなめした革で出来た服を着込んだ、十代後半ほどの少女だ。その背中には、二対の大きな翼をはやしている。

「そなたは?」
「はっ!! 遅参いたし、た、大変申し訳ありません。このたび黒翼の誇りの盟主、テュポーン様より命じられ参りました、有翼部隊第三小隊隊長、ルシアと申します。えっと・・・・・・レインさまでよろしいでしょうか」
「・・・・・・確かに私がレインだ。だが私が派遣するように頼んだのはルティアだぞ? どうやら彼女の身内のようだが、そなたは何者だ? そしてルティアはどうした?」
「・・・・・・有翼部隊の大隊長を務めていた母は一年ほど前、病にかかり身罷りました」
「そうか、身罷ったか」

 深く息を吐くと、レインは暗い夜空を見上げた。だが、感傷に浸っているのはわずかな時間で、すぐに少女に向き直る。

「それで代わりに派遣されたのかそなた達というわけだ。だが、年端もいかぬ、そして動きもぎこちないそなたらがいったい何の役に立つ? さっさと翼を畳んで去るが良い」
「お言葉ですが!!」

 翼をもつ者に対する最大限の侮蔑である言葉を発したレインに、ルシアという名の少女は気丈にも声を発した。
「確かに私はまだ若いです。ですが、母から戦場における様々な知識は教わりました。また、近年の訓練では私の方が勝ち点を多くとっていました。決して足手まといにはなりません。どうか、レインさまの御傍にお仕えさせていただけないでしょうか」

「・・・・・・」
「やれやれ、これじゃテコにも動きそうにないよ。どうにかしな、公爵閣下」
「・・・・・・わかった。ではそなたの実力を試そう。これより晩餐会の会場に赴き、そなたには下客たちと試合をしてもらう。もし彼らに負けるようなことがあれば、その場で追い返す。よいな」
「は、お任せください!!」


 勢いよく敬礼する少女を前に、レインは呆れたように溜息を吐いた。









「ほう、これは驚いたな」


 相手の攻撃を受け流し、固い鱗の隙間に剣を突きこんで勝利したルシアが、仲間とハイタッチをしている様子を眺め、レインは驚きの声を発した。

 これで五十戦全勝、先ほどの相手は龍種で、しかも下級貴族に連なるものだ。さらに言えば、少女は今まで借り物の細剣以外の得物を使用していない。

「ま、中々なんじゃないのかい」
「ああ、どうやら確かに戦闘能力だけを見れば、すでにルティアを上回っているな」
「それで、どうするのさ。まだ続けさせるかい?」
「いや、どうせ結果は同じだろう」

 感心したようにうなずいてから、レインはパンパンッと軽く両手を叩いた。すると、眼下にいる猫執事が、ルシアに何事か声をかける。それを聞いて、ルシアは自分の部下達と手を取ってはしゃいでいた。その様子を見ると、普通の少女にしか見えない。

「・・・・・・まあいい、では約束通り、私が後見役となってルシアの面倒を見させてもらう。また、彼女の部隊も私の保護下とする。彼女等に下劣な考えを起こしたものは、私に唾を吐いたのと同様とみなす。以上だ」

 どうやら、これから騒がしくなりそうである。頭の隅でルシアとその部下達への教育方法を考えながら、レインは天井に浮かぶシャンデリラを、しばし見上げていた。







「ではこれより会議を始める」

 大公バロ・フォモールがそう言うと、居並ぶ面々は皆ゆっくりと席に着いた。

 そこは、晩餐会の一室であった。だが華やかな会場とは違い、壁にかかった小さなランプの明かりだけが照らす、十人も入ればいっぱいになってしまうような小さな部屋である。

 その小さな部屋の中心にテーブルがあり、その周りに上座にいるバロールを含め、数名のエイジャが座っていた。バロールの右横には彼と同じ上客のモリガン、左側には中客のアルタロス及びクルハが座っていた。

「それでは、今まで分かったことを整理させていただきます。まず、終焉の予言、これ自体はやはり四界すべての世界に浸透しているようです。といっても、真剣に信じている方や単なるおとぎ話や言い伝えの類だと感じられている方など、捕え方は違っておられますが」

 司会進行役であるアルタロスが立ち上がり説明する。その間、他の面々はテーブルに置いてある羊皮紙を捲りあげていた。

「んで、先日ザッハークから聞けた予言はなんだっけ?」
「終焉の後に現れる始まりの王が、緑王陛下を妾にするという馬鹿げたものだ。あの方はもうかなりの御年。とても子を成せるとは思えん」

 モリガンが退屈そうに煙管を吹かすと、その真向かいにいるクルハまで煙が届いたのか軽く唸りを上げる。どうやら、皆それほどこの会議を重要なものとは思っていないらしい。
その後、ザッハークから聞いた予言以外にもちらほらと集められた予言の内容を精査してみるが、皆どれも信憑性に欠けていた。


「はぁ~あ、あほくさ。結局終焉なんて言い伝えとかおとぎ話、そんな類の物じゃないの」

「だが、実際に終焉に向けて暗躍しているものがいるというのも確かだ。それに、現界に住む家畜の中にも、どうやら終焉の事を知っているものがいるらしい。忘れるな、我々の目的は、終焉などという馬鹿げた事態を防ぎ、四界を存続させることにある。以上、解散する」

 バロールが解散を告げると、他の三名は席を立ち部屋を出ていく。どうやら会場に戻るようだ。彼らが退出したのを見届けると、バロールは立ち上がり、窓の方へと歩いて行った。窓から見える黒い空にはいつの間にかオーロラが浮かび上がり、不思議な色彩を放っている。


「・・・・・・今まで信憑性がある予言はただ一つ、“天からの光が太陽を破壊するとき、黒き世界の最後の王がその名を叫ぶだろう”であったか。恐らく太陽とは黒界の帝都に安置しているクリスタルだと思うが・・・・・・馬鹿馬鹿しい。なぜ恩恵ある太陽を自分達で破壊せねばならぬ。やはり、終焉などはまやかしだ。だが、そのために暗躍しているのも事実。不安の芽は確実に摘み取らなければならんな」




 軽くため息を吐くと、バロールも薄暗い会議室を出ていく。彼が去った後の無人の会議室を、オーロラはただ静かに照らし続けていた。
























 どうも、活字狂いです。出張のため二週間ほど遅くなりましたが、「スルトの子3 鬼が来たりし林間学校? 終幕 日村総一郎の初授業」をお送りします。今回では、終焉という言葉が多く使われました。自分たちの終焉を望むもの、そして終焉を回避しようとするもの、人・エイジャに限らず様々な者達が策を練り、暗躍しています。そして今回、エイジャと戦う三大組織、その最後の一つである北欧同盟がその姿を垣間見せました。彼らの舞台は欧州のため、聖亜達とは直接的な関係はありませんが、かかわる時は必ずあります。そしてその時、物語はどのような展開を見せるのでしょうか。




 では次回予告を













 美しい海原は、それを見る人々に過去を思い出させる。



 一匹の黒猫には、過去に交わした約束を





 一人の少女には、過去に犯した大罪を






 一人の少年には、血塗られた過去の光景を






 三人の大人たちには、自分たちが学生であったころの記憶を








 そして、彼には











 次回 「スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 序」をお楽しみに




 おそらく来週中には投稿できると思います。



[22727] スルトの子3 登場人物紹介
Name: 活字狂い◆a6bc9553 ID:ef34ce0e
Date: 2016/02/18 07:02

 スルトの子3で出てきた登場人物を紹介します。数が多いため、新たに出てきた人たちのみです。


日村総一郎
 主人公格。“炎の鉄槌”あるいは“努力する天才”の異名を持つ日本最大戦力の一人。二十二歳。左手は義手で、静電気により自分の意志である程度操る事が可能。性格は生真面目かつ誠実、責任感が強く向上心が強い。十二歳の時に鬼の襲来により両親と妹、自身の片腕を失い、駆け付けた朱里に養子として拾われる。その後、中学三年の時に降り神の儀式に参加。その身に火之迦具槌という強大な炎の神を宿らせるが、制御することは困難のため、普段は炎の神を抑えるために降ろした蔵王権現を使用している。立志院を卒業後は高天原に入隊することなく妹を探すべく世界各地を放浪、四年の間に戦闘能力を飛躍的に向上させて帰還した。その実力は高天原に襲来した鬼の幹部、牛頭馬頭を一瞬で葬り去り、屍となってもすべてを滅ぼそうとするアテルイを炎の神を具現させて一撃で消し去れるほど。その後太刀浪市を襲撃したザッハークを倒すため、聖亜の里帰りに付き合う形で急行。ヒスイ達の窮地を救い、その実力を存分に見せつけた。今後は黒塚家に買収され、立志院の分校となった根津高校で特別クラスの担任を行う。モデルは覚悟のススメの葉隠覚悟だが、彼と決定的に違うのは、自分の行いを大義としてではなく、私欲と考えている事。すなわち弱者を守るのも敵を倒すのもすべて自分の欲望であり、正義のためではない。また、私利私欲ではなくあくまで私欲のため、鬼の襲来を乗り切った次の日の査問会においてその事を指摘されたときは真っ向から否定している。もう一つのモデルは闇のイージスの主人公、楯雁人

遠野小百合
 遠野の姫。立志院特別クラス編入試験において、聖亜の相方となった少女。年齢は恐らく十一歳ほど。今まで岩手の奥地である遠野の、さらに山奥にある一軒家にある蔵の中で育った。そのためひどく純粋で傷つきやすい。育ててくれた祖母が亡くなった後、黒塚神楽の友人により救助され、高天原編入試験に参加した。幼いころから自分を守ってくれるオシラサマという式神を持っているが、これは試験中に使用できなくなってしまった。その後、編入試験に合格、鬼の襲来も乗り切り、二学期からは根津高校において聖亜と共に総一郎の生徒となる。モデルは柳田國男著、遠野物語にほんの少しだけ出てくる座敷童。
 
黒塚葵
 月の姫。立志院高等学校生徒会総長を務める少女。黒塚神楽の娘である黒塚陽子の一人娘で、父の家に代々伝わる名刀“三日月宗近”を持つが、抜くことができない。そのため、宗近を手放すか、それとも見合いをするか神楽にそう言われていたのだが、聖亜が婚約者となったことに複雑な感情を抱いている。

木村華音
 黒塚葵の年上の幼馴染。生徒会副総長を務め、公私ともに葵を支える親友の一人。薙刀を使い、好戦的な性格も相まって戦闘能力は高いが、人を殺したことはなく、聖亜やアテルイには全くかなわない。

木村詩音
 黒塚葵の年下の幼馴染。生徒会会計を務め、公私ともに葵を支える親友の一人。おどおどとした少女であるが、聖亜の動きを目で追う事が出来るなど謎が多い。その正体は・・・・・・

鉄の古武者
 聖亜と小百合が試験の最中に出会った武者の形をした、巨大な鉄の人形。正式名称は戦術級自動歩行兵器試作型壱号で、通称戦国無双。現在機能のほとんどと武装を失っている。重傷だった星聖亜を中に取り込み治療したほか、知能があるのか自身で考え、行動する事が出来る。しかし本来は中にパイロットを乗せて行動するため、本来のパイロットである黒塚奈妓を探していたが、発見できなかったため、鬼の襲来に合わせ、急遽彼の縁者である星聖亜を第二のパイロットとして登録した。

黒塚理宇
 出雲に来て聖亜が最初に出会った少年。黒塚神楽の長男、黒塚月臣の三男で、聖亜に負けず劣らずの女顔。心優しい性格のため、家族間の争いに辟易しており、馬が合う聖亜には、どこか恋心にも似た感情を抱いている。

 北条優
 聖亜が編入試験で出会った少年。乾物屋の娘である柿崎緑の幼馴染兼従者であり、柔和な性格をしている。しかし初登場の時聖亜が警戒するほどの戦闘能力の持ち主で、実際に試験の際はグルガナイフを使用して敵を切り裂いていた。その後試験に合格、鬼の襲来を乗り切り、聖亜の同級生となる。

 柿崎緑
 乾物屋の跡取り娘。試験を受ける北条優にくっついてきたのだが、第二試験の際に怪物を見て失神。合格を辞退した。怖がりだが優しい性格で、また友達と言えるのが北条優ぐらいのため、同性の友達を望んでおり、すぐに小百合と友達になった。

 森谷
 立志院への編入試験のため他方からやってきた少年。キザで目立ちたがり屋。しかも自分を特別だと考えており、その自分が高天原に入って栄華を掴むのは当然のことだと考えている。しかし実際の実力は大したことはなく、試験の最中に何か恐ろしい物を見たらしく老人のようになり狂ってしまい、最終的にはアテルイにより真っ二つにされて死亡した。

 横尾忠義
 聖亜と同級生になる少年。陽気な三枚目

 清原源二
 聖亜と同級生になる少年。寡黙で大柄な体格の持ち主。コーラが好き。

 大場
 特別クラスの先輩。彼らのリーダー格で、体育会系。足立とは同期で親友だが、覇気のない彼に怒りを覚えることもある。

足立
 特別クラスの先輩。ぼさぼさの長髪をゴムで止めた、どこか覇気のない青年。自称三割の男。これは他の人間が十割できるところを三割しかできないという意味で、人の四倍努力してかろうじて特別クラスに在籍が許されている。しかし、鬼の襲撃の際には逃げずに皆を励ますなど面倒見のいいところもある。

菅間優一
 鬼の襲来時の特別クラスの担任。人間のクズで、実力もないのにコネで呪術師となり、無能のくせに生徒たちに対しては高圧的に接する。彼が担任になってから特別クラスの生徒たちは点数稼ぎのために常に第一線で戦わされており、自分は安全なところにいた。今回の襲来時にも安全なところにいたのだが、日村総一郎に殴り飛ばされたことで発覚。高天原を追放された。

十二単衣の銀ぎつね
 菅間に付き従う秘書のような女。その正体は十二尾のしっぽを持つ女狐で、菅間を慕う一方、総一郎との仲は険悪。
 
八雷黒曜
 黒塚神楽の側近を務める八雷姉妹の一人。姉妹の中でも上位の存在で、神楽専属の秘書であり、彼女の命令を的確に実行する。神楽に命じられて黒塚葵に聖亜が婚約者である事を伝えた。

八雷沙希
 黒塚神楽の側近を務める八雷姉妹の一人。普段は木村詩音という名で生徒会にて会計をしている。鬼の襲来時には校庭を含めた立志院の敷地全土を結界で覆ったほか、生徒たちを眠らせた。

八雷火夜
 黒塚神楽の側近を務める八雷姉妹の一人。大柄で、いかにも戦士といった体格の持ち主。初めに現れた時は、無礼な来客に向かって言って負傷したのか、右腕の動きがどこかおかしかった。
 
青色の機械人形
 青色の装甲をした自動人形。黒塚神楽の手駒として、鬼の襲来時に彼女に反抗する勢力を皆殺しにしたほか、出雲を去る鉄武者を監視・追尾し、ザッハークの戦闘、ハヌマンの登場などそのすべてを記録して主に送り届けた。並みの呪術師では相手にもならないほどの戦闘能力を持つ。




 北欧


 アルフォルズ
 ドイツに本社を置く北欧統合会社の総帥を務める青年。真面目で部下思いだが、まだ若いためか激しやすく、感情が表に出やすい。高天原、魔女達の夜と並ぶ対エイジャ組織の一つ、北欧同盟の盟主でもあり、総合研究所で行われている人体改造部門を閉鎖、人魔融合部門を第一の研究部門とし、一か月以内に結果を出せと命じた。過去に発生した嘆きの大戦で故郷を失ったため彷徨う者という名で蔑まれてきた先祖達の名誉の回復のため、現在地下に巨大な基地を建設中で、しかもその中では数十キロにも及ぶ巨大な何かを建造中。さらに、最奥にはとある一人の女性を鎖で縛って監禁中であるが、それは彼の父が行ったもので、彼はただ彼女が永遠に眠っていることを期待している。モデルはオーディン。なおアルフォルズというのはオーディンの別名。虚空から巨大な槍を呼び出せる。

ロキ
 女性と会った後、帰ろうとしたアルフォルズの前に突如として現れた謎の男。彼に女に触れられるようにすると囁いたため、アルフォルズが召喚した巨大な槍に体を粉々にされたが、分身体であったらしくすぐに復活。最後に意味深なことを呟き、消え去った。


 赤髪の女性

 その名前、素性共に不明。


エイジャ

ストール
 主人公格。青海の略奪者と呼ばれる海賊で、主に北欧同盟の輸送船を狙って活動する。牛に似た獣の骨でできた仮面をかぶっているが、これは着脱可能で、素顔は美丈夫。普段は陽気でどこか抜けたところがあるが、指揮能力、戦闘能力共に高く、また高いカリスマ性の持ち主。物語冒頭で北欧同盟の刺客として現れた少年を哀れみを持って殺した後は、レテルを日本まで送り届けた。なお、彼の船は巨大な動物の骨でできており、しかもまだ未完成らしい。

レテル
 嘆きの大戦後に出現した、魔狩りの兄妹の異名を持つ少女の姿をしたエイジャで、魔器使の天敵。すでに幾人もの魔器使が彼女の手にかかって殺されたらしく、太刀浪市に来たときは、被害が拡大することを恐れた上層部の判断で援軍は送られなかった。大鎌を武器として使用するが、彼女自身の戦闘能力はそれほど高くない。脅威なのは彼女が持つ“魔女煮えの大窯”と呼ばれる道具で、これは魔女狩りの際、魔女として連行された幾人もの女性を釜茹でにして殺した拷問具で、今なお彼女たち、そして彼女たちを救おうとして共に殺された騎士達の憎悪が溜まりに溜まっている。彼女はこの憎悪を材料に、お兄様と呼んでいる黒い人形を無数に呼び出すことで戦力にしている。また、切り札としてどんな攻撃も受け付けない白銀の騎士を影に籠らせている。その正体は本人も知らなかったが、八大竜将の一柱である蛇王ザッハークが嘆きの大戦で受けた傷をいやすため、自身の体内に取り込んでいた少女の亡骸を利用して作り上げた仮初めの人形。自分の城まで乗り込まれ、加世に致命傷を負わされたとき自分が何者なのかを始めて理解し、ザッハークに体を返した。ザッハークが倒されたときは止めを刺されそうになったところをハヌマンに助けられ、赤王の晩餐会に参加している。

 ザッハーク
 緑界に住むナーガ族の王にして餓竜将の異名を持つ八大竜将の一角。レテルの正体。その異名の通り飽くなき飢餓により常に飢えを感じており、真体の中に無数の人間の魂を閉じ込め、飢えをしのいでいた。八大竜将の中では実力は下の方らしく、はるか昔日常に出てきた際はカイ・ホスロー、アルスラーンに敗北。這う這うの体で逃げ出し緑界にある自分の領土に引きこもっていたが、嘆きの大戦に竜王の息子であるリンドヴルムの護衛役として、他三名の竜将たちと参戦、しかしリンドヴルムが戦死し、自身も傷を負ったため、体の中にあった少女の躯を利用して仮初めの人形とし、眠りについた。
 レテルが敗北した後、完全に傷が癒えた状態で復活。力任せの攻撃を得意とするほか、両肩から生えている蛇は毒の息を吐く。スヴェンの魔器であったウリドラを捕まえ黒い大剣とし、ヴィルヘルムを使って大量の妖精を呼び出してヒスイ達を絶望させようとするが、ヒスイは絶望することなく、キュウにより封印を解かれて首を落とすなど奮戦するが復活、力尽きた彼女を凌辱しようとするが、突如出現した聖亜達が乗る鉄人形に阻まれる。その後は日村総一郎に弱点である逆鱗を粉砕され真体になるが、これも体の中に入り込んだ総一郎により核を破壊され消滅、死亡した。


 ハヌマン
 ラスボス級。作中最強の女傑で、聖亜の師匠でもある。獄界が出来る前より生きているとされ、数万年の間生きてきたためか非常に飽きっぽい。しかしその実力は本物で、“竜喰い”という異名を持ち、現在の実力はザッハークの一億倍を軽く超し、本来の実力は百億倍を超すらしい。性格は好色で独占欲が強く、なのに飽きっぽいという最悪の性格をしている。幼少のころの聖亜の師匠となり、彼の童貞と処女と初めての接吻を奪った。初めて物語に登場した時は中国にいたが、そこで顔なじみのセイルと再会。うまい酒にありつけるという事で晩餐会に参加したのだが、セイルの頼みでザッハークを回収することになり太刀浪市に向かい、そこで聖亜と再会する。ザッハークを圧倒した総一郎を軽く小突いただけで蹴散らし、レテルが張った位階との境界を小枝で粉砕してのけた。その後は赤王の晩餐会にくみする者として宣戦布告後、レテルとウリドラが変化した大剣、白騎士ウィルヘルムを伴い去っていった。

 ウィルヘルム
 レテルの影に切り札として巣食う騎士。元人間で、生前はこの世の楽園と言えるとある小国の最後の王だった。生まれた時から妖精の加護を受けているため、何の代償もなしに妖精を召喚できるほか、自らの肉体を出入り口として妖精の大軍を呼び出せるという荒業を持つ。しかし、彼の切り札と言えるのは不可侵絶対領域という、何者の攻撃も受け付けないバリアであり、これは彼と相思相愛の小国を守護する海の女神により授けられた。しかし、海の女神の隙をついてレテルが小国を襲撃、彼にはどんな攻撃も通じなかったが、むろんそれだけでは民を守れず、全ての民が死に絶えた後自害して果てた。その後亡骸をレテルが回収。グールとして甦らせ、使役している。黒い人形の軍勢を圧倒したスヴェンの前に登場。彼の必殺の攻撃をバリアによって受け止めると剣でずたずたにした。その後はレテルの居城で再戦。水口千里の使用するタケミナカタの巨大な二つの手で抑え込まれ手いる間にレテルが死亡、ザッハークに変化した後はその身体を使用して強引に妖精の大軍を召喚させられた。ザッハークが倒れた後はハヌマンに連れさられ、晩餐会にレテルの護衛として参加している。なお彼を見ていると、キュウは冷静ではいられないらしい。


黒く巨大な鎧
 正式名称不明。レテルの城、その大広間に立っていた巨大な鎧で、パラケルススの思念を宿している。特徴として黒界を治める黒皇の血を引くものが使用できる漆黒の御手の劣化版を組み込まれている。それは強い再生能力及び、一度受けた攻撃を解析し、別の攻撃を受けるまでその攻撃によるダメージを無効にするもの。つまり一人で戦ったスヴェンの判断ミスであり、もし誰かと共闘して戦った場合、簡単に撃破できるはずだった。しかし一度攻撃を受けてスヴェンの攻撃を解析、無効化して追いつめると、彼が持っていたウリドラと引き換えに逃げるのを許すが、ウリドラが逃亡したため丸腰のスヴェンに興味を失ったのか虫を踏みつぶす感覚でスヴェンを踏みつぶすとしたが、助けに来たインドラにより攻撃を受け、跡形もなく消滅した。


ルシア
 ユーラシア大陸北部を中心に活動する四大エイジャ組織の一つで、テュポーンが率いる黒翼の誇りの有翼部隊第三小隊隊長。十代後半の、背に二対四枚の翼をもつ有翼族の少女。かつて首なし公レインの下で旗持ちを務めていた有翼部隊大隊長ルティアの娘で、病死した彼女に変わり、物資援助の見返りに晩餐会に派遣された。母と違い、率いる有翼族の少女たち同様未熟で、最初レテルを呆れさせるが、その戦闘能力は高く、下客として集められたエイジャのうち、戦闘能力に自信がある者を相手に五十体抜きをしてのけるほど(最後は竜族で、しかも下級ながら貴族であった)。その戦闘能力を高く評価され、部隊ともどもレテルの保護下に置かれ、彼女は中客として迎え入れられた。

アトラ
 高天原編入試験、その最終試験の終着点で聖亜が出会った少女。氷柱のように鋭い美貌を持つ。受験者達に武器を与える役目を持っているが、長年に渡り閉じ込められているせいで鬱憤がたまっており、ひどく不機嫌。そのため意識がある聖亜に腕を掴まれた際は激昂し、彼を三体の下僕を用いて痛めつけたが、そのすべてを破壊され、自身も犯されたことから聖亜を主と認め、現在は彼の中に入る。その正体は青界女王であるコキュートスの分体。彼女が持っていた古今東西全ての記憶をつかさどり、その中の情報をもとに死した人間の魂を使用して武器を作っていた(これは彼女の本意ではなく、彼女を縛り付けている女の命令)。コキュートスの事をあまり快く思っていないため、名を捨ててアンチパンドラ(最後の希望が忘却という説、彼女は記憶をつかさどるため最後の希望がない、つまりパンドラを否定)と名乗っていたが、聖亜によりアトラという名を与えられた(けっして鉄血のオルフェンズのヒロインの名前ではない)。占いも得意であり、出来るすべての占いを持って聖亜の将来を占ったが、どれも芳しい物ではなかった。アテルイが校庭を襲撃した際、彼の中に眠る炎也を呼び出すために無理をしたのか、今は眠りについている。





 鬼

 アテルイ
 かつて東北を支配していた鬼神。坂上田村麻呂に封じられたがその怨念は強く、遠い末裔である轟の身体を使ってこの世に復活を遂げた。その後、出雲を襲撃する鬼の軍勢を率いる総大将として登場。牛頭、馬頭率いる鬼達を囮に使って地面を掘り進め、あと一歩というところで部下がすべて死に絶えたため、目標である出雲大社ではなく立志院の校庭に出現した。その圧倒的な力を持って葵たちを軽く退け、突如やって来た鉄武者をも追いつめるが、聖亜が持っていた木で出来た小太刀が体鬼用に特化した物であったため敗れるも、腐敗した身体を使用して聖亜を追い詰める。しかし、彼が鉄武者にパイロットとして登録され、さらに炎也が目覚めたことにより炎の一撃を受けて燃えつきかけるも、さらにその状態で自らの腸を武器に聖亜を締め上げるが、最後は駆けつけた総一郎により滅殺された。
 なお、本来はアテルイでも何でもなく、獄界を構成する四界の一つ、赤界より流れてきた鬼族と呼ばれる一族の末裔らしい。
 
 牛頭・馬頭
 出雲を襲撃した鬼の副将。巨体により聖亜、優の両名を追い詰めるものの、駆け付けた総一郎により一蹴された。

 火魅子
 火に魅せられた少女。着物を着たまだ幼い少女であるが、轟の身体をのっとったアテルイの前に現れたり、隠れ潜む鬼に号令をかけたり、最後にアテルイが使用していた太刀を持って消えるなど、鬼との関係が深いが、それ以外の事は一切不明


 酒呑童子

 鬼神と呼ばれる、鬼を統括する者の一柱。保守的な立場にいるらしく、好戦的な集団を煩わしく思っており、彼らを一掃するため今回の襲撃を企画した。また、神楽ともつながりが深く、自分達の望む終焉に向けて行動するなど、同志と言ってもよい存在。




 その他


 終焉
 人、エイジャの間で囁かれる世界の終りの事。大多数の者は単なる言い伝えやおとぎ話と思っているようだが、実際にそれに向けて行動する者がいることも確かで、終焉を望むもの、それに向けて備える者、回避しようとする者など行動する者は多い。終焉に向けての予言はかなりの物があるが、そのほとんどは偽物らしい。今回判明したのは、終焉の果てに現れるという始まりの王が緑界の王を妾にすること、そして天からの光が太陽を破壊するとき、黒き世界の最後の王がその名を叫ぶだろう、の二つ。

 主人公格
 物語の主人公になれるほどの人物の事。その資格を持つにふさわしい実力と、イベントを多数持っている。現在は日村総一郎、ストールの二名。
 ラスボス級
 他の小説なら間違いなくラスボスになれるほどの実力を持つ者の事。現在はハヌマンのみ。



[22727] スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 序幕 黒猫の見る夢は
Name: 活字狂い◆a6bc9553 ID:e833b35e
Date: 2016/05/07 12:33



 「わ~、大きな池だねぇ!!」


 トンネルを抜けた先に広がっている、何処までも続く青い海原を初めて見た少女、遠野小百合はバスの窓から身を乗り出して驚きの声を上げた。

「池じゃなくて、海な。それから、あまり身を乗り出すな。落ちるぞ」

 身を乗り出している小百合が、吹き込んでくる強風に身体をよろめかせる。彼女の腰を少女が落ちないように支えながら、小百合の隣に座っている少年ー星聖亜も窓から見える海を見た。バスの中には、二人のほかにヒスイに加世といったザッハークと戦った面々、聖亜の膝の上で丸まって紫電の瞳を閉じている黒猫のキュウ、北条優や横尾、清原、大野、足立といった鬼の襲来のときに共闘し、二学期からは同じ教室で勉強する面々がいる。だが、この場所にスヴェンとエリーゼはいない。彼ら二人は、この旅行が高天原主宰であること、そしてスヴェンの処分を伝えるために来日する人物の出迎えのため、新市街にあるホテルで待機している。特にスヴェンの様子はひどく、びくびくとして落ち着きがなく、その大きな体を丸めてベッドの中から出てくることはなかった。


「さて君達、目的地であるうどの浜海水浴場についてからもう一度言うが、今回は一泊二日の海水浴だ。海に入る前は準備体操をしっかりとして、事故などには十分注意するように。また、立志院高等学校が半壊したため、現在根津高等学校の旧校舎を改築して特別クラス用の校舎を作っている。すなわち、君たちは二学期から同じ高校に通う仲間という事になる。存分に語らい、理解を深めてもらいたい」

「おいおい総ちゃん、今日は鬼とエイジャを倒した少年少女に対するご褒美なんだ。そんな堅いことばっかり言ってないで、目いっぱい楽しもうぜ」
「あのな鈴原、事故が起こってからでは遅いんだぞ。それに今回初めて顔を合わせる者も多いだろう。そういった時には、諍いが起こりやすいのが常だ」


 夏だというのに相変わらず黒いコートを着た総一郎が、汗ひとつ掻かずに堅い口調で話すと、運転手の脇に座っていたアロハシャツに麦わら帽子、ビーチサンダルを身に纏った鈴原がノンアルコールビールを片手にからからと笑いながら口を挟んだ。ザッハークを倒してから、すでに二週間ほどが経過している。その間、立志院高等学校が半壊したため神楽の命令で買収された根津高校(現在は立志院高知分校)に編入することが決まった小百合達が太刀浪市に到着したり、自己修復を行うため聖亜の自宅の裏にある土蔵で鉄武者が眠りに着いたり、小百合達用の寮を総一郎が手配したりといろいろなことがあった。それらが落ち着いたのは四日ほど前の事であり、その日の夜、アテルイ及びザッハーク討伐に尽力したとして、高知県にあるうどの浜海水浴場を貸し切った、一泊二日の旅行が神楽により褒美として与えられたのだ。

「ま、そりゃ大丈夫だろ」

 からからと笑いながら、鈴原は横目でちらりと後ろの座席を見た。男連中の面子は変わらないし、海に持っていくときの水着を買うため、ヒスイ達女性陣と買い物に出かけた小百合は年上の彼女達によく懐いている。本来彼女も寮に入るはずであったが、本人の強い希望もあり、聖亜の家に居候しているヒスイと同部屋で生活することになっていた。

「まあ、それならそれでいいが。ところで“彼女”は大丈夫なのか?」
「千里も付き添ってるし、大きな問題はないと思うけど、やっぱり車での移動はきついだろうな」

 ふっと顔を伏せ、サイドミラーに写る後方の車を見た。その車には、千里のほかにもう一人乗客がいる。それは、この中にいる一人の少年にとって、何よりも大切な女性であった。

「とにかく彼女の身は絶対に守れ、との婆さんの仰せだ。なにせ彼女だけが唯一、少年を縛る枷になってくれるんだからな」
「枷か・・・・・・そういうやり方は好きではないな。彼にとって、彼女は何よりも大切な存在だ。できれば二人そろって幸せになってもらいたい」
「それは俺も思うけど・・・・・・見ただろ、ハヌマンってエイジャ。堂々と宣戦布告された以上、あいつが所属している“赤王の晩餐会”とやらも遠からず活動を開始するはずだ。ったく、鬼連中だけでも厄介だっていうのに、今は一人でも戦力が欲しいんだよ」


「・・・・・・」


 雷牙の愚痴に応えることなく、総一郎は割り当てられた席に座りなおすと、眉間に皺がよるほどきつく目を閉じた。確かに新しい敵勢力が現れた今、戦力の増加は急務だ。恐らく十月に、聖亜には“降り神”の儀式を受けてもらうことになるだろう。自分にできることは、少年がそれに耐えられるように鍛えることだけだ。


 だが、できれば今は、今だけは、年相応の一人の学生として、仲間と切磋琢磨し、のびのびと成長してもらいたい。それが、日村総一郎の願いであった。


 悩む担任の心の内を知ってか知らずか、バスの後部座席に座っている学生たちはのんきなものだ。外の景色を見ることに飽きた小百合が、ヒスイや加世から菓子をもらって食べ始めている。一番後ろの席に座っている北条や横尾はトランプなどの遊戯で遊んでおり、大柄な体格のため一人で二人分の席を占領している清原は携帯端末から音楽を聴いている。菓子を喉に詰まらせた足立の背を、特別クラスのリーダー格である大野がバシバシと遠慮なく叩いている。ほかの生徒たちも、思い思いに楽しんでいるようだ。




 少年少女の騒ぐ声を子守唄に、暖かい日差しの中で、黒髪の少年の膝の上で丸まっている紫電の瞳を持つ黒猫は夢を見ていた。





 それは、彼女の記憶にしみ込んだ、たった一つの約束の記憶








「満足か?」


 姉を凌辱して殺し、自分も凌辱しようとした男を氷漬けにし、さらに住んでいた村を襲撃した帝国兵を、まだ生きている村人ごと氷漬けにして殺害した少女に対し、彼女に召喚された伝道者はそう聞いた。


「・・・・・・・・・・・・満足? 満足、ですって?」


 己がやったことが理解できず、ただ茫然と座り込んでいた少女は、伝道者の言葉にゆらりと立ち上がり、静かにこちらを見た。



「どうやって満足しろというの? 家族も、知り合いも、みんな失って、その敵を討っただけで満足かって? そんなわけないじゃない。殺してやる。殺しつくしてやる。帝国も、そこに住む全ての者達も、この私が必ず!!」










「満足か?」




 一万の帝国兵を氷漬けにして殺害した殺戮鬼に対し、彼女に召喚された“氷の女王”はそう聞いた。



「・・・・・・満足? 満足ですって?」


 青いドレスを身に纏い、後の世に三英の一人として詠われる彼女は、冷徹な表情を変えずに氷の女王を見た。
「なぜこの程度で満足しなければいけないの? 相手は百万を超す帝国軍よ? そのすべてを殺すまで、私は絶対に満足なんていしない!!」


 手を一振りし、先ほど氷漬けにした兵士たちを粉々にすると、少女は氷が散らばる青い草原を、飢えた狼のような表情でゆっくりと歩き出した。










「満足か?」

 十万の帝国兵が立てこもる都を、そこに住む民間人ごと氷漬けにした“氷河の魔女”に対し、彼女に召喚された“真理の探究者”はそう聞いた。



「・・・・・・満足? なぜよ。高々十万人が、何の苦労もしていないゴミ達と一緒に死んだだけでしょう? そうだ。皆殺せばいい。そうすれば、私を不愉快にさせるこの変なもやもやも消える!!」


 巨大な氷山を前に、何処か壊れたように笑い続ける娘を、真理の探究者は、ただじっと眺めていた。














「満足か?」




 二十万を超す帝国兵と、それとほぼ同数の異形の怪物たちを前にした“蒼の魔女”に、彼女に召喚された“青界の女王”はそう聞いた。



「・・・・・・分からない。どうして彼らは私に向かってくるの? それほどまでに私が憎いの? なら、戦争なんて始めなければよかったのに!!」


 泣き喚きながら右手を挙げた彼女の頭上に、無数の巨大な氷柱が現れる。それを向かってくる無数の軍勢に投げ飛ばし、そのすべてを串刺しにする少女を、女王はどこか憐れみを込めて眺めていた。










「・・・・・・」



 黒い大樹の動きを止め、その代償に持てる力のすべてを使い果たし、崩れ落ちたアリアを、彼女に召喚されたコキュートスはただ静かに見下ろした。


「・・・・・・いつもみたいに、満足かって、聞かないの、ね」
「聞く必要がないからな。そなたはもう力尽きている。後はそなたの死を見届けて、私は去る。それだけだ」



 大樹の周囲で響く剣戟の音は遠く、彼女達がいるこの場所は静寂に満ちていた。黒い大樹は滅ぼされることはなかったが、その身体は凍りつき、おそらく永遠に目を覚ますことはないだろう。あとはこれをだれも目の届かない場所に沈めればいいだけだ。

「ねえ、キュウ。最後に一つだけ、聞きたいことがあるのだけれど」
「なんだ、アリアよ」


 死にかけた娘の問いに、彼女から級の愛称で呼ばれていたコキュートスは、だが静かに尋ねた。


「・・・・・・あなたは、私たちの敵の王様なのよね。なのに、どうして私と契約して、同胞と戦ってくれたの?」
「それは、私がそなたに呼ばれたからだ。召喚された伝道者は、召喚した相手が満足するまでその者に仕えなければならないという決まりがある。ゆえに、私はそなたに満足か、と問い続けた。ただそれだけのことだ」
「本当にそれだけ? あなたは女王様なんでしょ? なら決まりごとなんて、やぶっちゃえばいいのに」
「民を統治する者が簡単に決まり事を破れば、民は誰も決まり事を守らなくなるぞ。そうだな、私がそなたの召喚に応じた理由があるとすれば、それはそなたが“過去を変えることは決してできない”という真理に辿り着いたためだ」
「・・・・・・過去は、決して変えられない、か。ねえ、キュウ。私はそれだけじゃないと思うな。きっとあなたは、人間が好きなのよ」
「人間が好きだと? 冷徹にして厳格たる裁定者であるこの私がか? どうやら、力を使い果たしたせいで気が狂ったようだな。そのまま苦痛を感じことなく、静かに逝くが良い」


 アリアの言葉に、むっとしてコキュートスは言い返した。だが、彼女の契約者であるアリアは、こちらを見て微笑んでいるだけだ。


「ねえ、キュウ。最後にお願いがあるの。聞いてくれる?」


「死にゆくそなたの願いを聞く必要はないのだが・・・・・・まあ良い、聞くだけ聞いてやる。何だ」

「・・・・・・お願い、あいつを守って。あいつだけじゃなく、あいつの子供も、その子供も、ずっとずっと先の、最後の子供まで、みんな守って。それだけ約束してくれたら、私は満足、だから」

「・・・・・・」

 アリアの頼みに、コキュートスは即答しなかった。彼女の願いは、ずっと人間の味方でいろという事に等しい。冷厳なる女王の、珍しく悩む様子を面白そうに眺め、アリアはふっと息を吐いた。どうやら、そろそろ限界らしい。


「ねえ・・・・・・キュウ、もし私が素直になれば、もう少し違った結果に、なったの、かな」

「・・・・・・なったであろうな。だが過去が変えられない以上、それはもはや想像するしかない未来だ」

「そう・・・・・・キュウ、ここはなんだかひどく寒いね」

 

 もはや目も見えていないのだろう、かすむ瞳で周囲をふらふらと見渡すと、アリアは自分の身体を両手で抱きしめ、ガタガタと震えながら横たわった。


「寒い・・・・・・寒いよ、キュウ。本当に、ここは、さむ、い」







 そして彼女は、契約したコキュートスに見守られ、ただ一人、静かに息を引き取った。





「・・・・・・・・・・・・死んだ、か」

 それからどのぐらい経っただろうか。破天荒な性格のアリアが、もしかしたら「冗談でした!!」と笑いながら飛び起きるかもしれないと考えていたコキュートスは、しばらくその場に立っていたが、どうやら本当に死んだようだ。

「あっけない物だな、アリアよ。だが楽しかったぞ・・・・・・そこにいるな、四獣」



「「「「御意」」」」


 コキュートスの言葉に、彼女の後方、何もなかった場所に一瞬で、それぞれ白、黒、青、赤のローブと同色の仮面を付けた四体の何者かがその姿を見せた。彼らは、あるいは彼女らは跪いて頭(こうべ)を垂れ、主君の命令を待っている。


「そなたたちはすぐさまこの黒き大樹を運べ。場所は・・・・・・そうだな、人間どもが“死海”と呼んで恐れる場所がよかろう。そこに異空間を作り、その中にこの大樹を保管し、永遠に他者の目に触れぬようにせよ・・・・・・どうした? 早くせぬか」


 命令し、だが動かぬ部下達を見て、コキュートスは少し苛立ったような声を上げた。彼女の側近である四者は困惑したようにしばし顔を見合わせていたが、やがてリーダーである、白色のローブと仮面を着けた者が、おずおずと前に進み出た。

「陛下・・・・・・あの、差し出がましいようですが、その、御目と頬が、濡れております」

「・・・・・・何?」


 その時になって、コキュートスは、初めて視界が霞んでいることに気付いた。頬に手を当ててみると、なるほど、透明な液体が後から後から流れ出し、彼女の手を濡らした。


「私が・・・・・・この私が涙を流しただと? そんなこと、ここ三万年ほど無かったことだぞ!? そうか、アリアよ、そなたの死は、私にとってそれほど悲しいことだったのか」

 涙を流しながら、コキュートスは息絶えたアリアの傍らに膝をついた。そして、何処か穏やかな表情で息絶えている娘の頬を優しく撫ぜる。すると、どうしたことだろう、彼女の遺体を、虹色の膜のようなものが覆った。

「これで誰もそなたに触れることはない、誰もそなたを汚すことはない。安らかに、そして永遠に眠るが良い、アリアよ。そして私に涙を流させた褒美だ。そなたの遺言である最後の願い、“坊や”の子供の子供、そのずっと先の子供まで、私が見守ってやる。約束だ。彼の血を継ぐ者がいる限り、私は人間の味方であることを、ここに誓おう」




 
 これが、以後数百年以上に渡り同族と争い、裏切り者と蔑まれる人類の守護者の、誕生の瞬間であった。










                             続く



 どうも、活字狂いです。スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 序幕 黒猫の見る夢はをお送りいたします。スルトの子4は、一泊二日の海水浴を舞台に、主要人物の過去を短編にして垣間見るという方式でお送りします。序幕では、黒猫が夢に見た過去を紹介させていただきました。では次回、スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 第一幕 少女の記憶 でお会いいたしましょう。



[22727] スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 幕間 晩餐会の風景②
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:e833b35e
Date: 2016/03/04 16:32









   晩餐会は続いている





 「暢気なものだな」





 華やかな燭台が宙に浮くその間を、猫の顔をした使用人たちが丸テーブルに料理をあわただしく運んでいる。下座で騒ぐ無数の上級・中級氏民たちの様子を、最上段にある巨大なテーブルを囲む、たった六席しかない豪華なクイーンチェア、その一つに座っている黒界の公爵たるレインは、着込んでいる黒い巨大な鎧をカチャリと鳴らし、少々侮蔑を込めて見下ろした。先日到着した、かつて自分の旗持ちを務めていたルティアの娘であり、黒翼の誇りから借り受けたルシアは己が後見役となることで十二の中客として迎え入れられ、現在は中座にいる。彼女は自分の従者として仕事をしようとしていたが、それは“黒ウサギ”という名の案内役にやんわりと拒否された。


「おいおい、な~に苛立ってるんだ、“首無し公”さん」
「その蔑称で私を呼ぶとは・・・・・・どうやら死にたいようだな、雌猿よ」


 椅子に座らず、近くに備え付けられた巨大なソファーに寝そべり酒瓶を呷っていたハヌマンが、どこか心穏やかではないレインをからかう。ここに来てから酒ばかり飲んでいる彼女の周囲には、すでに空になった酒瓶が数十本転がっていた。



「まあまあ落ち着けよ。それで? 何で苛立ってるんだ?」
「・・・・・・いつまでここにいなければならないのかと思ってな。この晩餐会には氏民、貴族を合わせてかなりの実力者がそろっているのだ。家畜どもを支配するために、積極的に攻勢を仕掛けるべきではないか? 盟主殿はいったい何を考えておられる」


「そんなのあたしが知るわけないだろ。その盟主様とやらにあったこともないんだからさ。ま、難しいことは考えずに楽しもうや。下にいる連中のようにね」

 かかっと笑いながら、ハヌマンは酒瓶に残っている蜂蜜色の液体を口に流し込んだ。空になった酒瓶を振って面倒くさそうに放り投げると、すぐさま猫頭の使用人が、別の酒瓶を持ってくる。中の酒は真っ赤に染まっている。どうやら随分と辛口のようだ。


「といっても、あんたは顔がないから飯も食うことも酒を飲むこともできないんだろうね。可哀そうなこったよ」
「ふん、顔か・・・・・・私の目的は本来の顔を取り戻すことだが、“スペア”はそれなりに所持している」
「はぁ? スペアだって?」

 訝しむハヌマンの前でレインが指を鳴らすと、彼女の右後方に音もなく猫頭の使用人が立った。両手で盆のようなものを持っているが、その盆からは低い小さなうめき声がハヌマンの方まで聞こえてくる。

「これはいつごろの首であったか?」
「はい閣下、帝国歴二万九千年ごろの物でございます」

 使用人が蓋を取ると、床にどろりと赤い色をした粘液が零れ落ちる。盆の上に乗っている、長い金髪を持つ、美しい女の首を取ると、レインはそれを鎧の上にぐちゃりと植えつけた。途端に、周囲にあああぁという女の断末魔が響くが、そんなもの、ここにいる者達にとってはそよ風程度にも気にならない。生首の断末魔が消えた後、レインは顔の具合を確かめるためか、数度瞬きを繰り返し、首を左右に動かしていたが、やがて納得がいったのか、ゆっくりと頷いた。

「ふむ、二万九千年というと、帝都南部にある公都で大規模な反乱が勃発したことがあったが、そういえば、その鎮圧に駆り出された時、最後まで抵抗した女騎士を打ち取ったことがあったな。そ奴の首か・・・・・・どうだハヌマン、これで私も食事ができるぞ」

「・・・・・・あっそ、そういや六者って割には、ここにいるのはあたしとあんた、そしてそこで首揺らしてる時計女王さんだけだけど、後の連中はどこに行ったんだい?」

「さてな。大公閣下とモルガンは共に行動しているようだが、大公閣下の考えは私程度にはわからないし、モルガンの考えなど知りたくもない。もう一名は先刻部屋を出ていくのを見たが、こことは別にどこか個人で使う部屋でもあるのだろうよ・・・・・・そうであろう、案内役よ」

「おや? 分かっておられましたか」

 
 レインが仮の顔を回し、誰もいない薄暗い部屋の片隅に目を向ける。と、そこから影のようにゆらりと黒いハットをかぶった、どこか手品師のような男―晩餐会の案内役であり、黒ウサギという名で呼ばれている―が現れた。
「驚かせようと気配を消していたつもりでしたが・・・・・・さすがですねえ」
「はんっ、あんたの気配の消し方は完璧さ。だけど完璧だからこそ逆に違和感がある。今度から気配だけじゃなく、己の存在を悟らせるもの、そのすべてを消してみることだね。それで? いったい何の用だい」
「いえいえ、どうやら皆様ご退屈なようでしたので、もしよろしければ現界の方に遊びに行かれてはどうかと。ハヌマン様が勝手に宣戦布告された以上、こちらも何らかの行動を起こさなければいけませんからねえ」

 意味深にこちらを見つめる黒ウサギの視線を受け、だがハヌマンはまるで気にしていないのか軽く欠伸をするだけだ。

「ふむ、確かにここでこうやっているよりは家畜どもの所へ行き誰が主であるのか、恐怖と共に教えてやるのもまた一考、か。ハヌマン、貴様はどうする?」

「ああ? あたしはパスパス。来たばっかだしここでのんびりさせてもらうよ」
「ふむ、ではあと此処にいらっしゃるのは・・・・・・」

 黒ウサギは、ちらりと首を揺らしている時計女王を見た。彼の視線に気づいたのか、クロッククイーンは首を揺らすのをやめ、じっと案内役を見返した。

「ええと、機械魔城の主で在られる、クロッククイーン様なのですが、こちらの言葉は理解していらっしゃるのでしょうか・・・・・・おや?」

 焦点が合っていない瞳に見詰められ、黒ウサギは苦笑いを浮かべていたが、ふとその瞳に知性のようなものが浮かび上がったのを見て首を傾げた。

 その時である。時計女王の姿がいきなり薄れたかと思うと、彼女がいたまさにその場所に、赤い着物と同色の扇子を持った、背の高い艶やかな美女が現れた。

「・・・・・・え、ええと、貴女様はいったぐっ!?」

 しばし呆然とした後、名を訪ねようとした黒ウサギが突然苦しそうに呻いてしゃがみこんだ。


「・・・・・・誰が妾(わらわ)に話すことを許可した、下種」

「も、申し訳、ございません」


 蹲る黒ウサギに近寄ると、女はその頭を足でぐりぐりと踏みつけ、可笑しそうに唇をゆがめた。


「まあ良い、幸いなことに妾は今とても気分が良い。なにせ、およそ千年ぶりに忌々しい牢獄より出られたのじゃからな。それにしても憎むべきは人形などに閉じ込めおった醜い小鬼どもよ。たかだが数百万を食い殺したぐらいで封じられるとは思わなんだ」

「ははっ!! 相変わらずの暴君ぶりだねぇ、スクルド」

 不意に、周囲にハヌマンの笑い声が響いた。それを聞いて忌々しげに眉をしかめると、スクルドと呼ばれた女はじろりと女猿の方を向いた。

「貴様・・・・・・ハヌマンか。赤王に連なる一族である我が名を呼ばわるとはな。いくら妾が姉上たちと違い寛容と言っても限度があるぞ」
「寛容だって? はっ!! 小腹が空いたからという理由で、自分の領地の一つであるベニアミノフに住む三十万の小鬼を貪り食った女の言う事とは思えないね!!」
「貴族にあらずんば氏民にあらず。氏民以下の者共に情けなど無用だ。大体小鬼など、幾らでも湧いて出るではないか。その上能無しと来ては、もはやその利用価値は妾に食われるぐらいしかないであろう」


 吐き捨てるように言ってから、黒ウサギの顎を蹴りあげて、スクルドは先程時計女王の姿で座っていた席に戻った。豪華な椅子に腰かけたその直後、先ほど黒ウサギを蹴りあげた靴を見て不愉快そうに眉をしかめると、指をパチンと鳴らした。


 彼女の座る椅子の、その周りの床が、まるで液体のようにゴポリと音を立てて揺れ動く。その中から現れたのは頑丈な鎖に雁字搦めに拘束され、目を潰され、耳と鼻を削がれ、舌を抜かれた数匹の小鬼達だ。彼らは手にナプキンを持ち、目が見えない暗闇の中で必死にスクルドの靴を磨いていく。やがて、彼女の靴は鏡のようにピカピカになったが、彼女はまだ不機嫌のままだ。ふと、スクルドは揺らめく床の中に手を入れ、そこから何かを引き抜いた。途端に小鬼達が騒ぐ。哀願にも悲鳴にも似たその声を聞き流し、彼女は自分の握りしめているそれ、薄い緑色の肌をした、生まれたばかりの彼らの赤子をしげしげと見つめた。

「目を潰され、耳と鼻を削がれ舌を抜かれても、こいつらの繁殖能力は衰えることはない。まあ、生まれたばかりの赤子に罪はないけれど」

 ふと、むずがる赤子の手が、スクルドの指に微かに触れようとした、その瞬間であった。



 ブチン




 と、鈍い音を立て、赤子の首はいとも簡単にねじ切られた。




 絶望の悲鳴が辺りに響き渡る。彼らにとって赤子は数十年ぶりに生まれたただ一つの希望であった。それなのに、この暴虐極まりない主君は、彼らの希望をただ一ひねりでねじ切ってしまったのだ。

 先ほどねじ切った赤子の頭を彼らに見せつけるように一飲みすると、スクルドは再び指を鳴らした。怨念の声を辺りに響かせる小鬼達が、ずぶずぶと沈んでいく。そして彼らが完全に地に沈んだ後、そこにはいつもの床だけが残っていた。


「ふん、たかが赤子一匹では腹の足しにはならんが、まあ良い。しかし・・・・・・くくっ、絶望の叫びという物は、何時聞いても心地よい物よ」

「・・・・・・恐ろしいことを平気でするのだな、貴殿は」

 
 頭部を失った身体を飲み込み、口の端から流れる赤い液体をナプキンで拭うスクルドを見て、レインは不愉快そうに眉をしかめた。


「恐ろしい? これはおかしなことを言う。先ほども言ったが、小鬼のような何の役にも立たぬくせに無限に湧き出る“物”なんぞに、情けなど無用だ」
「彼らは貴殿の領民であろう。我ら領主には、民を慰撫し、正しく導くという義務がある」
「高貴なる義務(ノブレス・オブリージュ)というものか? それならば充分にしているとも。わが愛すべき民たちにな。小鬼は我が領地に勝手に巣食っている蚤虫(のみむし)、領民と思ったことなど一度もないわ」

「貴様ッ」

 スクルドのあまりの言い草に、レインは憤然として席を立った。その右手にはいつの間にか巨大な漆黒の馬上槍が握られている。

「ほう、やる気かえ? 黒界の首無し公。千年の間封じられていたとしても、妾は赤王に連なる者ぞ。安易に勝てるとは思わぬことじゃ」

 面白そうに笑みを浮かべながら、スクルドは扇子をパチンと閉じた。と、周囲がいきなり明るくなる。その源(みなもと)は、彼女の頭上に突如現れた、巨大な六つの火球であった。


 スクルドが扇子をレインに向けると、火球が一つ、その巨大さからは想像もつかないほどの速度でレインに襲いかかる。周囲の物を灰にしながら自分に向かってくる巨大な炎を目の前に、レインは動じることなくむしろ自分から火球に向けて突き進んだ。

 火球が黒鎧を着込んだ騎士に激突する。だがその瞬間、レインは自らが持つ巨大な馬上槍を前に突き出した。すると、どうだろう。槍は火球を真ん中から二つに“分断”して見せた。

「ほう」

 自分が放った火球が分断され、消え失せたのを見て、スクルドはピクリと眉を動かした。だが、彼女が見せた反応はそれだけで、再び扇子を向ける。その動きに合わせ、彼女の頭上にあった残り五つの巨大な火球、そのすべてがレインに向けて突き進んだ。


「はっ!!」


 その時、レインは初めて気合のこもった声を発し、馬上槍を頭上で振り回した。周囲に巨大な旋風が巻き起こる。その風に巻き込まれ、火球はすべて上へ登っていき、激突して爆発四散した。

「なるほど、なかなかやるではないか。ならば」


 スクルドは感心したようにレインを見つめ、今度は扇子を開き、横に振った。と、床に小さな火がボッと灯る。それはスクルドの周りを囲むように無数に増えていき、床を埋め尽くすといきなり火柱となった。

「ならば、今度は数で攻め立てるとしよう」

 火柱はしばらく燃え上っていたが、やがてそこから羽を生やし、頭に二本の角を生やし、赤黒い肌をした、悪魔と呼ぶにふさわしい姿をした者が這い出てきた。


「さあ行くが良い。我が下僕たるインプ共。我に刃向おうとする首無し公を打倒すまで、帰参することは許さぬ」

 暴君の命令に、ギチギチと歯を鳴らして応えると、その場に出現した無数のインプ達は、その手に小さな槍や短剣を持ちレインに向かって行く。対するレインは表情を変えずに馬上槍ではなく、腰に差した長剣を持って自分に襲いかかるインプ達を切り払っていたが、どれほど斬っても雲霞のごとく湧き出てくるインプ達に苛立ったのか、チッと強く舌打ちすると、自分に群がるインプを一度大きく切り払い後退させ、その間に再び巨大な馬上槍を手に持つと、それを床に突き刺した。



「ブラッド・レ」
「双方控えよ!!」



 レインが鋭く言葉を発するその寸前、周囲に彼女の言葉を遮るほどの巨大な声が響き渡った。



「いったいこれはどういう事です」



 セイルは、所々炭化し、荒れ果てた上座と、その中央で争う二名の女、そして隅にあるソファで女たちの戦いぶりを見てケタケタと笑い声をあげるハヌマンを見て、厳しい声を発した。

「これはこれは・・・・・・そなたがこの宴の主催者か」
「セイル殿、も、申し訳ございません」

 扇子で口元を隠しながら、スクルドは突如この場に現れた蒼髪の女を興味深げに見やった。また、レインも恐縮したように姿勢を正し、慌てて謝罪する。


「謝罪は結構です、レイン殿。それから貴女は・・・・・・ああ、時計女王の中身ですか。ようこそ、晩餐会へ。しかし、登場そうそう、随分と派手にやってくれたものですね」

「ほう、説教をするつもりか? 何者かもわからぬ分際で、赤王に連なるこの妾に説教など・・・・・・と」

 不機嫌そうに眉をしかめ、セイルを睨み付けたスクルドは、じっとこちらを見つめるセイルの視線にたじろいだのか、視線をさまよわせ、まあ良いと一言つぶやき、無事な椅子にゆっくりと腰かけた。

「じゃ、じゃが悪いのは首無し公ぞ? 先に仕掛けてきたのは彼女だからの」
「それは貴殿が、貴族の義務を怠っているからだろう!!」


「はいはい、そこまでそこまで」


 スクルドの言い訳にレインが激昂し、再び一触即発の事態に陥った上座であったが、セイルに続いてやってきた、まるで少女のように見える少年が手を叩くと、まずレインがはっと顔色を変えて跪いた。続いてスクルドがしげしげと少年の顔を見つめていたが、ほほ笑む彼の顔に何か見たのか、顔色を変え、レインと同じようにその場に跪いた。

「これはこれは、お初にお目にかかります、盟主殿。妾は先先代赤王、ゴスモグ大王の姪の一人、スクルドと申します。ご挨拶が遅れまして、大変申し訳ありません」
「いえ、僕の方こそ挨拶が遅れてすいません、スクルド卿。この度晩餐会を開かせていただきましたリウと申します。さて、どうやら随分と楽しまれたようですが」

 上座の様子を見て、困ったように笑うと、リウは優しい視線のまま、スクルドとレイン、二名の女を見た。

「上座を修理するため、しばらく立ち入り禁止といたします。その間、御二方には謹慎の意味を込めまして、それぞれお部屋にて待機していただきます。そうですね、一月ほど謹慎していただきますか」

「一か月も、でございますか?」
「・・・・・・」

「ええ。多少の諍いは許せますが、今回のように周囲を破壊するような行いはさすがに許容できませんので。ほかの方々への見本という事もあり、少々罰を重くさせていただきました。ああ、一月過ぎたら、外出していただいてもよろしいですよ?」


 どうやら先ほどの騒動だけでなく、その前の黒ウサギとの会話まですべて聞いていたらしい。一礼し、猫頭の執事に先導されて去っていくレインとスクルドを見送ると、リウは少し疲れたように息を吐いた。

「おやおや、随分とお疲れのようですねぇ、リウ様」
「ん、大丈夫だよ、黒ウサギ。でもちょっと疲れたかな。“家”でもちょっといろいろあったから」

 近くの椅子にゆっくりと腰を下ろしたリウに、セイルが猫執事から受け取ったオレンジジュースを差し出す。ありがと、と小さく礼を言ってから、リウはジュースをストローで一気に啜った。甘いミカンの味をした液体が、少年の喉を通っていく。一息ついたのか、リウがストローを口から放し、ふっとまた息を吐いた時、

「おやぁ、あんたがこの晩餐会の盟主さんかい?」
「え・・・・・・きゃっ!?」
「いや、きゃって何さきゃって、あんた仮にも男・・・・・・ははぁ?」



 少年の背後からいきなり覆いかぶさるように抱きついたハヌマンは、リウの悲鳴を聞いてふと眉をしかめたが、合点がいったのかにやりと笑った。


「そういうことかい。“坊や”がいるもんだから、もう一名ぐらいそういう“例外”がいるかもと思ったのだけれど・・・・・・くくっ、なるほどねぇ」

「ハヌマン、貴様無礼であろう!!」

 にやにやと笑っているハヌマンに、怒りを抑えきれなくなったのか彼女を招いたセイルが抗議の声を上げた。

「ははっ!! しょうがないじゃないか。こちとら宮仕えなんぞ一度もしたことがないんだからね。無礼結構コケコッコーってなもんさ。さてと」

 激昂するセイルを軽く手を振っていなすと、ハヌマンはまだ封を切っていない酒瓶を両手でしっかり抱え込んだ。


「あたしもちょっくら失礼させてもらうよ。さすがに堅苦しいあんたがいたら、気持ちよく酔えなさそうだしね。ああ、それと最後に」


 にやりと笑みを浮かべると、ハヌマンはリウに顔を近づけ、ぽつりと何事かを呟いた。妖艶な美女の顔が近づいてくるのに対し、少年は最初顔を赤くしていたが、彼女がささやいた言葉に、今度は顔を真っ青にした。












 晩餐会は続いていく。たとえ神に等しい実力を持つ者同士が相争っても、彼女達より何千万倍も強い存在が、盟主をからかっても、終わりを告げる鐘が鳴るまで、ずっとずっと、晩餐会は続いていく。















































         “作り物の身体の、居心地はどうだい?”





続く



どうも、活字狂いです。予定を変更し、スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 幕間 晩餐会の風景②をお送りします。また、新年度に向けての準備が忙しいため、今度の更新は4月中旬になる予定です。ではまたお会いいたしましょう。



[22727] スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 第一幕 少女の記憶
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:81ecda22
Date: 2016/05/07 14:25
「わ~、此処が海っ!?」






 駐車場に止めたバスから一番に降りた小百合は、砂浜とその先にどこまでも広がる大海原をみて目を丸くした。

「そう、此処が海だ。だが遠野、いきなり泳ごうとするな。まずは準備体操をしっかりとしないと。皆が来るまで待っていなさい」


 少女に続いて降りた総一郎が、はしゃぐ小百合をたしなめる。その肩には黄色い大きなビーチパラソルを担いでいた。


「はぁ~い、あ、そうだ。僕、荷物を持つの手伝いますっ!!」
「そうか? けど、遠野には荷物より、あちらから来る女性の手助けをお願いしたいな」
「あ・・・・・・はい、分かりました」



 総一郎の言葉に頷くと、小百合は別の車から千里に手を引かれて降りてきた少女―柳準に向かってかけていった。

「お姉ちゃん、大丈夫!?」
「ん? ああ、大丈夫だよ、小百合。そっちこそバス酔いとかしなかったか?」
「うん、大丈夫だよっ」


 出雲にいる間、すっかり自分になついた小百合に抱きつかれ、準は優しい笑みを浮かべて少女の頭を撫ぜてやった。


「準、体調はどうだ」
「何だ、お前もか聖、まったく、そろいもそろって人を病人扱いするんだから。小百合にも言ったが大丈夫だ。長時間車に揺られていたといっても、医療設備がしっかりした車だし、同行してくれた千里さんにも心得がある。大体私自身、そんなにやわじゃないさ」

 バスから荷物を降ろし、ゆっくりとこちらに歩いてきた聖亜の言葉に、準はそう言って柔らかく微笑んだ。

「けどまあ、さすがに泳ぐのは無理だな。砂浜で座ってるから、聖も小百合も楽しんで来いよ」
「馬鹿、お前一人置いて、俺だけ楽しめるわけないだろ。泳ごうと思えばいつでも泳げるし、今日はずっとお前と一緒にいるよ、準。というわけで千里さん、後は俺がやりますので、小百合をお願いしていいですか?」

 少しさびしげな表情を見せた自分の唯一の肩を支えるように抱くと、聖亜は医療バックを持って車から降りた千里に声をかけた。

「そうですか? ではお言葉に甘えさせていただきます。まあ、今日は近くの神社でお祭りもありますし、海で泳げなくとも十分に楽しめると思います。それでは、よろしくお願いしますね」


 日焼け止めなどの化粧品が入った小さなバックを持ち、ぺこりと一礼すると、千里は早く海に生きたいのか浮き足立ち、それでもこちらをちらちらと見てくる小百合の手を優しく引きながら、荷物を出し終え、準備運動を始めている仲間の所へと歩いて行った。


「じゃあ行こうか、準。まずは砂浜を二人で散歩してみるってのはどうだ? 海からの風が気持ちいぞ」
「そうか? ならエスコートしてもらうとするかな」

 自分の手を優しく握り、病を患った自分に合わせゆっくりとした歩調で歩く“唯一”を、準は優しいまなざしで見つめた。





「・・・・・・」

 聖亜と準が砂浜を歩いていくのを、ヒスイは準備体操をしながらぼんやりと眺めていた。

「おいヒスイ、もう準備体操は終わったぞ? ヒスイっ!!」

 周りが準備体操を終えて海に行っても、それに気付かずに体操をしている相棒を見て、紫電の瞳を持つ黒猫は呆れたように溜息を吐くと、少し爪を出して、彼女の右足をガリッと引っ掻いた。



「~っ!? な、何するんだキュウっ!!」
「ぼんやりとしているおぬしが悪い。まったく、そんなに気になるなら声をかければよいではないか。それができぬから、いつまでも未熟者と言われるのだ」
「・・・・・・お前、そればっかりだな」


 黒猫の言葉に心底聞きなれたといった感じで少女が苦笑すると、キュウはふんっと偉そうにため息を吐いた。


「実際未熟者であるのだから仕方なかろう? 我と初めて会った時もそうだったではないか」

「・・・・・・まあ、そうだな」






 隣に黒猫を従えて、海に向かって歩き始めたヒスイは、ぼんやりと昔の事を思い出していた。







 自分が魔器使になったきっかけの事件と、そして、相棒の黒猫と初めて会った事件の事を











































  湖から吹く風が、頬を優しく撫ぜる。 







 そのくすぐったさに、草原に寝っ転がっていたヒスイはぼんやりと目を覚ました。少し横になるだけだったが、どうやら眠りこけてしまったらしい。日はすでに大分傾き、辺りは夕日で真っ赤に染まっている。

「あ~あ、もう夕方か」

 昼食をとってすぐ、母に頼まれて近くの農場にチーズをもらった帰りの事だった。午前中に行った父ヌアダとの鍛錬で、自分でも気づかないほどに疲れがたまっていたらしい。

「さすがにちょっと寝すぎたかな」

 起き上がり、丈の長いスカートに付いた草を払い落とすと、丸い大きなチーズで一杯の籠を持ち上げ、少女はポニーテールにした亜麻色の髪を揺らしながら、ゆっくりと家路についた。





「母さん、ただいま」
「あら、お帰りヒスイちゃん、ちょっと遅かったわね」


 二十分ほど歩き、他の家より二回りほど大きな自宅の門をくぐると、ヒスイは庭で放し飼いになっている鶏に餌をやっている母、ネヴァンに声をかけた。父であるヌアダが大柄な体格であるのに比べ、母はまるで少女のように小柄だ。だが、実は怒らせると一番怖いのも彼女だ。大学で教授を務めている父も、自由奔放な性格で、若くして家を飛び出し、現在大英帝国で働いている兄も、どちらも彼女にはかなわない。むろん、自分もだ。


「ごめん、ちょっと居眠りしちゃって。けどチーズはちゃんともらってきたよ。ほら、こんなにたくさん」
「あら、本当にたくさんね。それにとても大きいわ。これならひと月は持ちそうね。ヒスイちゃん、籠を台所に運んで頂戴」
「うん、あ、そうだ。父さんと兄さんは?」
「お父さんは相変わらず釣りよ。それと、お兄ちゃんは酒場までワインを買いに行ってるわ。なんでも赤ワインのいいのが入ったんだって」

 もうっ、と頬を膨らませて怒る母を見て肩を竦めると、ヒスイは普段は優しいが、怒ると怖い彼女の怒りが自分に向かわないうちに、さっさと台所に向かうことにした。








 カチャカチャ

「ホリン兄さん、ちょっとそこのドレッシング取って」
「ん、ほいほい」

 カチャカチャ、カチャカチャ

「あなた、食事中に釣りの雑誌を読むのはお行儀が悪いわよ」
「む、す、すまん」



 ヒスイが家に戻ってから一時間ほど後、彼女はキッチンにあるテーブルで家族と共に夕食を取っていた。テーブルは父と母の二人だけでは広いが、そこに普段寮生活をしている自分や大英帝国に住んでいる兄が座るとかなり狭く感じられた。

「兄さん、いつ帰るんだっけ」
「ん~、来週の半ば。ヒスイちゃんが合宿に行ってる間だね」
 オムレツを切り分けながら、少々どころではないほどのシスコンであるホリンはにっこりと笑って答えた。道ですれ違った女性が、恐らく十人中八、九人ほど振り返るその美しい顔に、三つ編みにした黒髪が垂れさがっている。彼は現在、大英帝国の首都ロンドンにある探偵事務所で働いている。兄いわく、そこでの彼の役割は交渉、調停、探査、その他もろもろ・・・・・・つまり全部らしい。


 兄がいう合宿というのは、ヒスイが通っているハイスクールで夏季休暇を利用して行われている、山や湖でゴミ拾いなどを行うことによって協調性などを身につけるオリエンテーリングだった。また、ヒスイはこの時知らなかったが、ごく少数の“特別な生徒”達は、この合宿を別の目的で利用しているようであった。

「もう来週よ、ヒスイちゃん。準備は終わった?」
「大体ね。後は当日着る服とかを入れるだけだよ。日曜日にスーパーに行ってくるね」
 オーブントースターから取り出した焼きたての食パンにベーコンエッグを乗せ、少量の胡椒を振って食べながら、ヒスイは母にそう答えた。
「こら、食べながら喋らないの。まったく・・・・・・それで? やっぱりネリーちゃんと行くの?」
「うん、十一時頃にバス停の所で待ち合わせしてる。お母さん、お弁当作ってくれる?」
「はいはい、分かりました・・・・・・あなたっ!! お食事中に雑誌を読むのはやめてって言ったでしょっ!!」
「う、す、すまん・・・・・・そうだ、ヒスイ」
 苦手なチーズをきれいに選り分けて食事する傍ら、テーブルの下で釣りの雑誌を静かに捲っていたヌアダは、ネヴァンに叱られうぐっと飲み込みかけていた食べ物をのどに詰まらせた。ミルクを手に取り一気に呷ると、彼は人心地着いたのかふうっとため息を吐き、ヒスイの方を向いた。
「今月の小遣いをまだやっていなかったな」
「え? ありがと・・・・・・って、父さん、ちょっとこれ多すぎるって!!」
 ネヴァンに釣りの雑誌を取り上げられてしょんぼりしたような表情をしながら、ヌアダは財布から百ドル札を二枚取り出し、ヒスイに手渡した。彼女の小遣いは月に五十ドルだ。その四倍は幾ら何でも多すぎだろう。
「あら、良いのよヒスイちゃん。毎日お手伝いしてくれてるご褒美。それに、日曜日のお買い物代と、オリエンテーリングの時に使う分も含まれてるんだから、あんまり無駄遣いしちゃだめよ」
「そう? じゃあもらっておくね」
「そうそう、遠慮するなよ、ヒスイちゃん。で、父さん、物は相談なんですが、出来れば僕もお小遣いが欲しいな・・・・・・なんて」
「・・・・・・お前は働いているだろう、ホリン」
 父にじろりと睨まれ、ホリンはたはっと笑いながら肩を竦めた。
「いやぁ、そうなんだけどね? 今月ちょっと厳しいうえに、昼間に買ったワインが予想以上に高くてさ、もうスッカラカン。で、このままだと英国に帰った時スカアハ所長から何言われるかわからないから、少しだけ資金援助をお願いしたく」
 スカアハ所長というのは、兄が所属している探偵事務所の女所長である。中肉中背で、特徴らしい特徴がないという、どこにでもいる主婦のようだが、その影の薄さを逆手に取り、影のようにするりと現れ、するりと消えることから“影の国の女王”の異名を持っている。

「けど兄さん、私スカアハさんの事、それほど怖いとは思わないんだけど」
「いやいやヒスイちゃん、それは大きな間違いというものだよ? 実は所長は金遣いには結構厳しくてさ、給料日前に金欠になって給料の前借頼んだ奴なんて、雷の二、三発はもらってたね・・・・・・うん、いい味だ。ほら、父さんも」
 かつて一度だけ家にあいさつに来たホリンの雇い主の、どことなく冷たいが、それでも笑みを浮かべて話しかけてきた女性の顔を思い出してヒスイがそう指摘すると、ホリンは手をわたわたと振って否定し、夕飯前まで冷蔵庫で冷やしておいたワインを、ヌアダの目の前にある、空になったワイングラスに注いでやった。
「ん、すまん・・・・・・ふむ、確かにいい味だ。分かった、いくらか都合しよう」
「やりっ!! さすが父さん、誰かさんと違って話が分かる」
「あらホリン、その誰かさんというのは、もしかして私の事かしら?」
「え? いや、そんなわけないじゃん、母さん」

 柔らかい笑みを浮かべているが、その背後にゆらゆらと蠢く、目には見えない何かを立ち上らせているネヴァンに恐れをなし、ホリンはわたわたと手を振った。

「・・・・・・ま、いいわ。話の続きは夕食後にしましょうか。あら、ヒスイちゃんはもうお食事は良いの?」
「うん。お腹いっぱい」
 わずかに夕食を残して立ち上がったヒスイを見て、ネヴァンは心配そうに首を傾げた。
「そう? いつも運動しているのだから、たくさん食べないとだめよ? あ、そうだ。ちょっと待ってなさい」
 部屋に戻ろうとしているヒスイを呼び止めると、ネヴァンは流し台の方に行き、やがて一つの小さな皿を持って戻ってきた。皿の上には、ヒスイの好物であるみたらし団子が二本乗っている。

「さ、部屋に戻って食べなさい。けど、寝る前にちゃんと歯を磨くのよ」
「わぁっ、ありがとう、お母さん。父さん、兄さんもおやすみなさい」
「ああ、お休み、ヒスイ」
「お休み、ヒスイちゃん」
 
父と兄に軽く挨拶してから、ヒスイは自分の部屋がある二階へ行くため、階段を上がっていった。



「~♪、~♪~~♪」

 それから四十分後、外にはもはや夜の帳が完全に降りた頃、浴室から出たヒスイは鼻歌を歌いながら、去年の誕生日に母からもらったお気に入りの櫛を使って髪を梳いていた。
 彼女の部屋は、机とベッド、タンスと本棚、化粧台がこじんまりとした空間に詰め込まれてできている。年ごろの少女が喜びそうな人形などはなく、日本通の父の影響か、壁には掛け軸と訓練の際に使用する木刀、本棚の半分は剣道などの教本、残りの半分は時代劇小説などが並べられ、ヒスイはすでに、日本語を完璧使いこなすことができた。


「さてと、こんなものかな」


 髪を梳いたヒスイは、一度大きく伸びをすると、昼間母が干してくれたためふかふかのベッドにもぐりこんだ。すでに歯磨きと顔洗いは済ませている。あとは眠るだけだった。だが、眠る前に、彼女には一つの日課があった。

「えっと、どこまで読んだっけ」

 枕の横にある小説を手に取り、ヒスイは栞を挟んでいるページを開いた。本の内容は冒険活劇だ―どこにでもいる少年が、悪者に追われている少女を助けて一緒に冒険する話。その冒険の途中で、実は少女はとある国の王女様という事が判明し、二人は恋に落ちる―
 海賊に捕らわれた少年を救うため、少女が海賊船に乗り込んだところから、海賊を倒し、少年を助けて抱き合っている場面まで読むと、ヒスイはほぅっとため息を吐いて本を閉じた。気分が高揚したためか、顔が少し赤くなっている。微笑して本を机の上に置き、電気を消すと、少女はベッドの中にもぐりこんで目を閉じた。


 どうやら、今日は良い夢が見られそうである。









「手緩い」


 目の前にあるスーツケースにぎっしりと詰め込まれた札束を見て、米国を拠点に活動するエイジャの集団、“緑原の征服者”の最高幹部であり、米国の裏社会に君臨するマフィア“レッド・ドラゴン”の首領であるドン・ティラノスは、気難しげに愛用のパイプを口にくわえた。傍に控える黒服の男の一人が、すぐさまマッチで火をつける。

「はぁ、手緩い、ですか?」

 彼の言葉に、スーツケースを持ってきたレッド・ドラゴンの幹部の一人、プテラスは困ったような笑みを浮かべた。

「ですが、薬物売買による利益は相当なものになっていますよ? 他のマフィアとの抗争も一息つきましたし、“緑原の征服者”がアメリカで活動するための資金確保は達成できたと思いますが」

「財貨を稼ぎ、活動のため蓄えるか。くだらん!! 我らはなんだ? 何の変哲もない黒界の奴等とも、物を作る事しか能のない赤界の奴等とも、なよなよとした青界の奴等とも違う!! 我らは鱗と牙をもち、四界最強と謳われる竜族だ。なのにやっている事といったら、ちまちまとした資金稼ぎ!! 我々の牙や爪は何のためにある? 敵を切り裂き、喉に噛みつき、なぎ倒すためではないか!!」

「で、ですが首領(ドン)、我々が何か行動を起こせば、すぐさま魔女達の夜がやって・・・・・・ぐえっ!?」

 ティラノスの取り巻きである黒服の一体が心配そうに呟いたが、彼はその言葉を最後までいう事が出来なかった。黒服の呟きを耳にしたティラノスが、いきなり彼の首を掴んだからである。

「魔女達の夜がどうしたというのだ!! 奴らは玩具をもらって喜んでいる腐った家畜にすぎん!! そもそも、我々が嘆きの大戦で敗れたのは、敵に与した卑劣な裏切り者がいたからだ!! 弱音を吐くような者に存在価値はない、消えろ!!」

 ティラノスの口が開くと、その中にある鋭い何本もの牙が見えた。それで黒服の首筋に噛みつくと、ティラノスはそのまま彼の頭を胴体から引き千切った。

「さあ、他に弱音を吐きたい奴がいるか!! いるならば、先程の者同様首をかみ切ってやるぞ!!」

 ティラノスの怒号に、だが他の黒服たちは少しばかり青ざめた顔を見合わせるだけだ。それを見て、軽蔑したように鼻を鳴らすと、ティラノスは机の上にある札束をそのままにゆっくりと立ち上がった。

「とにかく、早々に玩具使いどもと決着をつけたい。そのためには、人員、資金、何でも使って構わん!! 策がある者は、儂の所に来るがいい!!」

 

「・・・・・・さてさて、どうした物かな」

 ボスであるティラノスが去ったのを確認してから、幹部の中でも長老格であるプレシオは困ったように顎をかいた。

「玩具使いどもは、巧妙にその本拠地の場所を隠しておる。だれか、何ぞ策はない物かの?」
「さようですな、ならばわざと街中で騒ぎを起こし、討伐に来た者が帰るその後をつけてみたらどうです?」
「いや、それは前に試してみたではないか。奴らは用意周到なうえに神経質なほどに警戒心が強い。こちらの尾行にすぐに気づいて、結局なます切りにされたわ」
「となると捕えて吐かせますか?」
「いや、奴等は拷問に対して非常に強い耐性を持つうえ、屈すると感じたその瞬間自害した。時間の無駄だ」
 
 プレシオの周囲にいる他の幹部たちから、様々な提案が飛び出す。だが、そのどれもが決定打を欠いているように思え、結局話し合いは成果が出ないまま終わるかに思えた。その時である。

「・・・・・・あの~、ちょっとすいません」
「む? お前は確か先日新しい幹部となった・・・・・・」

 部屋の隅の方で、小柄な男がふらふらと手を挙げた。そのどことなく頼りなげな様子に、辺りから軽い失笑が漏れる。

「はい、先日幹部となりましたラプトルと申します。どうでしょう、何の打開策もないようですし、ここは私めも提案させていただきたいのですが」

「・・・・・・まあ良い、話してみろ」

「ではお言葉に甘えまして。まず、我々が家畜と呼んでいるものの正体が人間と呼ばれる脆弱な者達であることは、皆さんご承知の通りだと思います。そしてこの者達には、一つ喉から手が出るほど欲しい物がある事をご存知でしょうか? そう、つまり金です。人間はこの金という魔物に取りつかれ、支配されているのですよ」

 ラプトルの言葉に、居並ぶ幹部達は皆、机の上に置かれたままになっている札束の入ったスーツケースを見た。彼ら竜族にとって、金はそれほど欲しい物ではなかった。確かに龍族の中には財宝を集めるのも好む者もいるが、彼らが望むのはむしろ闘いの方である。

「それで? 家畜どもが金に取りつかれているのは分かった。だが、それがどうしたというのだ? まさか奴らを金で懐柔しようとでもいうつもりか?」

 幹部の中で、一際大きな体を持ったアロという幹部が呆れたように尋ねると、ラプトルは微かに笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、その通りです。玩具使い達は確かに巨大な組織です。そして、巨大な組織には必ず弱点というものがあります。それは自分達だけではすべてを賄えないという事です。食料、雑貨、清掃など、必ずどこかに外部の手が入ります。では、はたしてその外部の者たちは、玩具使い達に心から忠誠を誓っているのでしょうか」

「なるほど、その者達に金をやって本部を聞き出せ、という事だな」

「さすがはプレシオ様、よくお分かりで。もしよろしければ、私が主導いたしますが」


 こびへつらう様に巨大な爪が伸びる両手をこすり合わせるラプトルを呆れたようにみると、プレシオはふんっと大きく鼻息を吐いた。


「わかった。どうせ惜しくもない金だ。すべて貴様にやる。好きなように使って見せろ。ああ、それから失敗してもいいぞ? どうせ成功する確率は限りなく低いのだからな」

 長老格の言葉に、周囲からどっと笑い声が響いた。その笑い声の中、ラプトルは丁寧に一礼すると、彼らに分からないように顔を隠し、まるで嘲笑するように唇をゆがめた。

「・・・・・・ご安心ください、決して失敗などいたしませんとも」


 







「はぁあああっ!!」


 朝露が花壇に咲いている花を濡らしている時間、ヒスイは木刀を持って父、ヌアダと対峙していた。自分が木刀を持っているのに対し、父は何も持たず、義手である銀の腕が朝日を反射して光っているだけだった。

 だというのに、自分は一度も父に打撃を与えてはいない。何度か攻撃を繰り出しているが、それは全て彼が軽く振るった銀の腕に塞がれてしまっている。早朝からすでに一時間ほど鍛錬しているが、自分が肩で息をしているのに対し、父は汗一つ掻いていない。

「・・・・・・今日はここまで」
「え? けど、まだいつもの半分ぐらいしか鍛錬してないよ?」

 鍛錬を初めて一時間ほど経っただろうか。何度目かのヒスイの攻撃を銀の腕で受け流したヌアダは、表情一つ変えずにそう言った。

「鍛錬に費やす時間だけが重要というものではない。要はその中で何を見出すかだ。今までの鍛錬の結果、お前は武器に振り回されることもなくなってきたからな。あとは武器を自分の手足の延長と思えるようにすること、そしてそのさらに上の腕前になると」

 汗を掻いている娘にタオルを渡すと、ヌアダは彼女の持っていた木刀を借りて、地面に落ちている石にコンッと小さくあった。その途端、石の上から下にかけて一筋の線が走り、
パカッと二つに割れた。

「・・・・・・」

 絶句しているヒスイの見ている前で、ヌアダは先ほど真っ二つにした石を片手で起用に拾うと、軽く握りしめ、そして開いた。彼の手の中には、先ほど二つに割れた石が、まるでその事実が嘘であったかのように二つにくっ付いていた。
 
「どう、やったの?」
「簡単なことだ。石が割れたことに気付く前に、元に戻したにすぎん」
 
 父から石を借り、どこをどう見ても割れ目どころか一筋の罅さえ入っていない石を見て、訳が分からないという風に尋ねてくる娘に、ヌアダが苦笑した時だった。


「ヒスイ~!!」

 

 外に続く門の所で、聞きなれた少女の声がした。


「ネリー!? おはよう、けど早いね。約束の時間まで、まだ一時間ぐらいあるよ?」

 門から入ってきた親友を、ヒスイは多少の驚きをもって迎えた。ネリー・ザラフシュトラ、金髪をツインテールにした大柄で勝気なこの少女は、ヒスイにとって幼少のころからの親友で、今日一緒にスーパーに出かける予定だった。

「ごめんごめん、けど、こいつがどうしてもヒスイに会いたいっていうからさ。さ、でてきな」
「ちょ、お、お姉ちゃんっ」

 ネリーが後ろを向くと、大柄な彼女の背後に隠れていた少年が、恐る恐るといった風に顔をのぞかせた。ふわふわとした金髪を持つ、小柄でどこか小動物の様な可愛らしい少年は、ヒスイと目が合うと、カァっと顔を赤くして目を伏せた。

「ははっ、スヴェンの奴、餓鬼のくせにいっちょまえに照れてやがる」
「て、照れてなんかないよ! お姉ちゃんのばか!!」

 べそをかき始めた少年、スヴェンを見て苦笑すると、ヒスイは彼に近寄りぎゅっと抱きしめた。自分より三歳年下の少年は、少女の腕の中でう~っと小さくふくれっ面をしていたが、やがておずおずとヒスイに抱きついた。

「やれやれ、相変わらず甘えん坊だね。もうすぐ十歳になるってのに、クラスで一番背が低いんだよ? 女子にもからかわれてさ。ったく、これから先姉ちゃん心配だよ」
「けど、弟がいてうらやましいな。私は末っ子だから、弟や妹の面倒を見るというのが無くて」

 抱きついているスヴェンの背をあやすように優しくさすってやりながら、ヒスイはネリーと共に家の中に入った。オレンジジュースを出して待っていた母にネリー達を任せ、汗を落とすために軽くシャワーを浴びてから、髪の毛をバスタオルで拭きつつリビングに戻る。


「それで? 今日はどこを回る?」
「そうだねぇ、最初はやっぱり買い物だろ? でもってその後は映画でも見に行こうか」


 シャワーを浴びて一息ついたヒスイが、スヴェンが座っているソファに、彼と並ぶように座って尋ねると、ネリーは出されたサイダーを飲みつつそう答えた。

「映画かぁ、今何か面白いのあったっけ?」
「確か何とかって賞を取った映画が、スーパーマーケットの隣にある映画館で放映されてるはずだよ。お昼ご飯食べて、午後から見よっか」
「うん、それは賛成。けど、その間スヴェン君はどうしよう、ずっと私達と一緒、というのも疲れるだろうし」

 ネリーの提案に頷くと、ヒスイは隣にいるスヴェンの頭を軽く撫ぜてやった。彼はオレンジジュースを飲み干し、今は持ってきた本を読んでいる。


「あら、それじゃ家で私が面倒を見ましょうか」
「え? 母さん?」


 その時、外で洗濯物を干していた母が窓から顔をのぞかせた。彼女は手に持った洗濯物を物干しにかけると、空になった洗濯籠を持って家の中に入ってきた。

「もちろんスヴェン君が良ければだけど。どうスヴェン君、ヒスイちゃんたちが買い物から帰ってくるまで、おばさんと一緒にお留守番してくれる?」
「え? えと・・・・・・うん」

 ネヴァンの優しい問いかけに、スヴェンは彼女とヒスイの顔を交互に見つめていたが、やがて小さく頷いた。

「えと、いいんですか? 家事をしながらスヴェンの相手をするの、ちょっと大変だと思うんですけど」
「いいのよ、いざとなったら釣りしか趣味のない誰かさんに家事を押し付けて、私はスヴェン君にかかりきりになるから・・・・・・というわけで、釣りはまた今度にしてくださいね、あなた」
「む・・・・・・う、うむ」

 今まさに釣りに行こうとしていたヌアダを、顔に笑みを張りつかせたまま引き留めるネヴァンを見て、ヒスイとネリーは顔を見合わせると、くすくすと笑い声をあげた。






 その時、ヒスイはこんな楽しい日々が、ずっと続いてくれるものだと信じて疑わなかった。





































                  なのに

















































 雨が降っている。





 少女は、自分が雨に濡れていることも気づかず、ただ呆然と、目の前の“それ”を見つめていた。




 それは誰かの指であった。そしてその先にあるのは手であり、腕であり、肩であり、そしてその先には、少女の見知った誰かの姿があった。


「ネ・・・・・・リィ?」



 だが、彼女の姿を見ても、彼女の名を呼んでも、少女にはそれが、その“右肩から左腰にかけて、大きな亀裂が走った少女の姿をした氷像”が、自分の親友だとは信じられなかった。


 耳元で知っているはずの男の静かな声がする、知っているはずの青年の、自分を呼ぶ声がする、知らないはずなのに、それでもなぜか懐かしい、威厳と誇りに満ちた紫電の瞳を持つ女が見える。少女はそのすべてに反応することなく、ふらふらと氷像に手を伸ばした。



 そして、彼女の指が氷像に触れる、その寸前




 それは、ビシビシと大きな音を立て、粉々に砕け散った。








「あ・・・・・・あああ、ああ、あ、あああああああああっ!!」






 そして、慟哭の声と共に、ただの少女であったヒスイの人生は、消えた。





















 二日前






 海岸に続く山の中を、数台の電動バスが通っていた。その日は朝から土砂降りの雨というあいにくの天気であり、最後尾の窓際の席に座っているヒスイが眺める外の景色は歪んで見えていた。


「ヒスイ、どしたの?」
「そうそう、何か気分沈んじゃってない?」
「ま、しょうがないよ、こんな天気だしね」
「うん、ごめん」

 前の席に座っているネリーと、横に座っている二人の友達が気遣うように話しかけてくる。土砂降りの雨のため、急きょ予定を変更して合宿所での座学という事になったのだ。
「まあ、ゴミ拾いとかしなくていいから楽なんじゃない?」
「けど予定では合宿所にいる間ずっと雨だよ? 外に出られないんじゃ体が鈍っちゃうよ」
「そう? まあ、体を動かすのが好きなヒスイにはきついだろうね。あ、そっちのポッキー頂戴」
「いいよ、そのクッキーと交換ね」

 ネリーと菓子を交換しながら、ヒスイは辺りを見渡した。バスの中に入る三十人ほどのクラスメートは、話に夢中になっている者、端末で音楽を聴いているもの、トランプなどで遊んでいるものなど、それぞれが自由に楽しんでいる。自分の隣にいる男子生徒も、親から借りた時計を友人に見せびらかしていた。

 と、その時である。不意にバスがゆっくりと止まった。


「はいは~い、皆、ちょっと聞いてくれるかな。もうすぐ合宿場に着くため、これから三日間の行動を書いた紙を渡します。合宿場に着く前に読んでいてね」

 紙の束を持ってにこやかな声で話すのは、彼らの担任であるハワードである。二十代前半の彼は、その端正な顔立ちから女子たちのあこがれの的であり、休み時間には彼の周りを数人の女子生徒が囲むほどだ。ヒスイにとっても淡い初恋である相手だが、あちこちに痣を付けた自分では付き合うことはできないだろうと、すでに告白するのはあきらめている。


「先生、今渡すんですか?」
「うん、予定が急きょ変更になってしまったからね。朝急いで作り直したんだ。さ、前から後ろに回していってね」

 は~い、という声と共に前から後ろにプリントが回されていく。そのプリントをネリーが受け取り、彼女からプリントをもらおうと、ヒスイが身を乗り出した時だった。




ズズッ




「・・・・・・え?」





  何かが“ずれる”音、それが、ヒスイが意識を失う前に聞いた、最後の音であった。































 そこは、全てが青白い氷で作られた世界であった。大地も氷、山も氷、川を流れるのも水ではなくてさらさらとした氷、木の葉一つ一つも氷、そして空でさえどこまでも続く一枚の半円の氷で出来ていた。





 その世界の真ん中に、世界で唯一の建造物である、巨大な城が建っていた。この世界の主のために作られたその城は、一際澄んだ氷で出来た美しい城であったが、同時に何物も寄せ付けぬ威圧感に満ちていた。




 その城の最上階で、この世界の主はむっつりとした顔で、羊皮紙で作られた本を捲っていた。



 美しい女だった。外見は二十歳を一つか二つ越したほどだろう。だがその身体からにじみ出る、全ての者がひれ伏すほどの威厳は、とても二十歳前後の小娘に出せる物ではない。そして、彼女の最大の特徴である、端正な顔立ちの中でひときわ輝く紫電の瞳は、今なおその誇りを失わずに輝いていた。


 と、つまらなそうに羊皮紙を捲っていた彼女の指がふと止まった。不機嫌そうに眉を顰めた彼女が身を起こすと同時に、目の前にある、巨大な氷河で作られた一枚の扉が、音もなく左右に開いた。



「・・・・・・お招きいただき、光栄に存じます、女王陛下」
「招いた覚えはない。こうもしないと、貴様のその不愉快な気配がいつまでたっても消えぬからだ」

 軽く眉をしかめしながら、女王コキュートスは、ここ最近呼んでもいないのに頻繁に訪れる来訪者を睨みつけた。人間であれエイジャであれ、その心臓を文字通り凍りつかせるほどに冷たい女王の視線を受けても、来訪者―フードを目深に被ったその人物は何の痛痒も感じていないようであった。



「それで、どうせ今日も同じ要件なのだろう?」
「ええ、そうでございます。本日こそはぜひとも良い返事をお聞かせ願いたく、はせ参じた次第」
「・・・・・・」
「私の要件はただ一つ、我が主の頼みに応え、ぜひとも戦列に加わっていただきたいんです」
「我が返答はいつもと変わらぬ。断る。その命尽きる前に、さっさとこの場から去るが良い」

 不機嫌な顔つきのままコキュートスはそう言い放ったが、フードの使者はただ笑みを浮かべているだけだった。

「これはこれは・・・・・・我ら人類の守護者となることを誓われたお方とは思えないお言葉ですな」
「そなたらこそ、何か勘違いしているようだな。我が汝らを守っているのは、ある約束のためであり、汝らに従っているためではない。まして屈服したのでもないからな。力を貸すなど、万に一つもないと思え」
「くくっ、万に一つもないですか。そういえば、この世界には海の女神に守護された国があったそうで。なんでも愚かな王のせいで滅亡したと・・・・・・」

 その瞬間、死者の身体は天井から雨のように降り注ぐ、細長い氷の刃によってずたずたに切り裂かれた。だが、血の一滴すら流れることなく、使者“だった”物はフッと空に溶けるように掻き消えた。

「ふん、やはり写身であったか。下種め、今一度我が愛した男を侮辱してみよ。今度は本体すらこの世から消滅させてやる。如何に力のほとんどと僕たるワイルドハントの軍勢、そして記憶のほとんどを分身体に分け与えたといても、氷河の女王をを舐めすぎだ、馬鹿者めが・・・・・・だが」


 コキュートスは、使者が消えた床を煩わしそうに眺めていたが、ふと首を傾げた。





「奴のあの自信たっぷりの言い様、何か気にかかる。まあ良い、どんな話が来ようと、我が約束したのはアリアただ一人だ。まさか、クリフォトの肉体と共に眠るアリアを甦らせたわけでもあるまい・・・・・・だが、ふむ、退屈しのぎにはなるか」

 彼女がぱちりと指を鳴らすと、不意に、彼女がいる部屋が揺れた。否、揺れているのは部屋だけではない。城も、地面も、空も、その世界全てが揺れながら、彼女の掌に吸い込まれていく。やがて、今までいた世界は小さなイヤリングの形をして、コキュートスの手に収まった。

「まあ、三十年ほどは休めたか。さてと、まずは眠っているアリアの顔でも見てみるとしようか」



 イヤリングを耳に付けると、女王は自分が来ている青いドレスを翻した。そして、ドレスが彼女の身体を完全に隠した瞬間、その姿はパッと掻き消え、後には何もない、どこまでも続く黒い空間だけが静かに残っていた。













 ピチョンッ





「・・・・・・う?」




 頬に何かが当たる感触に、ヒスイはゆっくりと目を開けた。身体全体がまるで鉛のように重く、わずかに動いただけで痛みが走る。どうやら、体中に傷を負っているらしい。

「・・・・・・ここ、は?」

 体に走る痛みを耐えながら、ヒスイは何とか身を起こした。確か自分は、合宿所に向かうバスに乗っていたはずだ。なのに、なぜこんな所にいるのだろう。周囲を見渡すと、どうやら小さな部屋の中のようだった。

 ピチャリ

「・・・・・・ん?」

 その時である、ヒスイの頬に、頭上から再び水か何かが一滴落ちてきた。ヒスイが頬に手をやると、ぬるりとした感触がある。そして、掌を見た時、彼女は


「ひっ!?」


 声にならない悲鳴を上げ、ガタガタと震えだした。なぜなら、先程から自分の頬を濡らしている“それ”は、真っ赤な色をした血であったからである。

 ガタガタと震えるヒスイの頭が、本人の意思に反して上を向こうとしている。見るな、見てはいけない。心の中でそう言い続けているのに、彼女はゆっくりと顔を上げ、





 そして、それを見た。

「あ、あ・・・・・・ああ、ひぅっ!!」


 それを見た瞬間、ヒスイは声にならない悲鳴を上げ、こみあげてくる何かに耐え切れず、
暗い部屋の片隅に思い切り胃の中の物を吐いた。彼女の見た物、それは天井から吊り下げられ、服だけでなく皮まではぎ取られた、人間の形をした“何か”だったからである。
ヒスイに滴り落ちていたのは、その何かの一体の手からポタポタと流れている鮮血であった。その手首にあるのは、血に染まって赤黒く染まっていたが、間違いない。バスの中で彼女の隣に座っていた少年が、友人に見せびらかしていた腕時計であった。そして、それを見た瞬間、彼女は理解したくないのに理解してしまったのである。天井から垂れさがる何かが、バスの中で楽しげに話していたクラスメートである事に!!



「う、ううっ」

 胃の中の物を全部外に吐き出すと、ヒスイは泣きべそをかきながら、落ちてくる血に当たらないように、部屋の隅で縮こまった。彼女の脳裏に、合宿所に行くまで、バスの中での光景が浮かび上がる。あの時は、誰もこんなふうになるなど思ってはいなかった。いつもどおり、平和な一日になるとしか、考えていなかったのだ。

「・・・・・・これは、夢じゃ、無いんだよね」

 これが夢であればどれほどよかっただろう、だが、心のどこかで誰かがこれは現実だとはっきりと告げている。そのどうにもならない事実に、ヒスイがの目に涙が溜まっていた、その時である。



「むあったく、まだ仕事が終わらねえべか」
「いうないうな、今回の狩りはすんげえ大量だぁ。あと一週間は終わらねえべ」
「んだな、まあ、最近不作だったし、たまにはいいべか」

 頭上で何かがガラガラという音がする。それと同時に、なまりの強い二人の男の声が聞こえてきた。

「・・・・・・」
「はぁ~あ、早く交代して、俺らも精気にありつきてえなぁ」
「いやいや、交代するのはまだ先だべ。後七十匹以上いる家畜どもから精気吸い取って、さっさと潰さねばならん。休むのはその後その後。さ、早く戻って、また様子を見に来るべ」

 遠ざかりながら彼らが話す内容はおぞましいことこの上ない物だったが、どうやらまだ数十人の人間が生きているらしい。彼らを助ける事が出来れば、ここから出ることも可能かもしれない。

 なら、いつまでもここに居るわけにはいかないだろう。それに、隠れ続けることもできるとは思えなかった。自分達を何らかの手段を用いて攫った連中は、上に吊り下げられている死体の事が気になるのか、一度戻ってまた来るらしい。今回は見つからなかったが、次はどうなるかわからない。

「えっと、どこか掴まれそうな場所は・・・・・・」

 もし捕えられたときは、冷静に周囲を観察し、使えるものは何でも使って脱出の機会をうかがえという、父の言葉を思い出す。周囲を見渡すと、壁はどうやら岩で出来ているらしく、所々に掴まる事が出来そうなデコボコした箇所がいくつもあった。

 初めに膝の所にある大きく突き出た石に足をかける。ヒスイの体重が軽いこともあってか、体重をかけても突き出た石はびくともしなかった。次に頭上のへこんだ部分に手を入れ、腕にぐっと力を込めて体を持ち上げる。


「くっ!?」

 その時、ヒスイの身体がびくりと震えた。身体を持ち上げた時、どうやら擦り傷が痛んだようだ。喚きそうになるほどの痛みが体に走るが、血がにじむほど唇をかみ、何とか声を出すのを堪え、足を突き出た石の上に乗せた。


 それから十数分ほど経過しただろうか、死体が垂れ下がっている血抜き用の穴の横には、息も絶え絶えになっている小柄な少女がいた。


「な・・・・・・何とか、なったかな。後は外に出て、ネリー達を探すだけ、だけど、ちょっとたんま」

 ぜえぜえと荒い息を吐きながら、ヒスイは冷たい地面の上に横たわった。このまま眠ってしまえれば、どんなに楽だろう。心の底から楽になりたいと思う。だが、

「苦しい時こそ、逃げるな、か」

 鍛錬が厳しく、投げ出したくなった自分に、父が放った一言が、彼女を楽にはしてくれなかった。痛みをごまかしながら上半身を起こし、何とか大きな岩の影まで身体を移動させる。ここならば、誰かが来ても見つかることはないだろう。それにもう一つ、彼女にとって恩恵があった。


 ピチョッ


「・・・・・・これ、水の音だ」


 ヒスイの耳に、微かに水が落ちる音がする。周囲を見渡すと、隅の方に、天井から落ちた水滴が溜まっている場所があった。手を伸ばしてほんのわずか口に入れてみる。周りが完全に岩で出来ているせいか、濁っておらず、少々錆び臭いが飲めないこともない。無言のまま、少女は水をすくって飲み始めた。


「・・・・・・ふうっ」


 満足するまで水を飲み、一息ついたヒスイは、だんだん重くなってくる瞼をこすりながら立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。道は幸い先ほどの二人組が歩いて行った、線路が敷かれた道しかないため迷うことはない。後はこの道を出口まで歩けばいいだけだ。



 だが、そのどこか楽観的な考えは、彼女の頭からすぐに消えることになる。


 

「あれは・・・・・・明かり?」


 歩いて三十分ほど経過した時だろうか、薄暗い洞窟の、何度目かの角を曲がったヒスイの目に、遠くの方にぼんやりと光る何かの明かりが見えた。半ば眠っていた意識を頬を叩いて起こすと、少女は腰を低く落とし、ほとんど這う様な姿勢で明かりへと近づいて行った。



「まったく、ようやくすこすだけ休憩だぁ。なすて時間つぶすよ? カードでもすっか」
「お、やるべやるべ。掛け金は一ドルからでいいべか?」

 どうやらこの先は休憩所になっているらしく、先程の二人の声がここまで聞こえてくる。彼らは自分がここに居るとは考えもしていないのか、カードゲームに熱中しているらしく、時折パサ、パサッとカードを捲る音がする。どうやら、暗闇に紛れれば簡単に突破できそうだ。

 そう考えたヒスイが、暗がりから休憩所を覗いた次の瞬間、


「・・・・・・え?」



 目の前のありえない光景に、ヒスイは自分の目を疑った。なぜなら、



 黒服に身を包み、カードゲームにいそしむ二人組は、どう考えても人間ではなかったからである。熱いのか腕まくりをしている服の下にある、まるで蜥蜴か何かの様な緑色の鱗、吊り目で爛々と輝く黄色い二対の瞳、突き出た口からは何本もの鋭い牙が見え、ちろちろと細長い舌が、まるで生き物のように妖しく動いている。これで人間と思うのが無理な話だ。


「すかす、なんで俺らが家畜の死体なんぞ運ばにゃあならんだずな」
「仕方ねえべよ、俺ら人間に変わる事が出来ねえんだから」
「ったく、人間に化けれる奴は良いのう、ここから自由に出られるんだから」


 愕然としているヒスイに気付くことなく、二匹の蜥蜴人間は、何かをくちゃくちゃと噛みながらカードゲームを続けている。彼らの話など、半分も理解できないが、どうやら彼らの仲間の何匹かは人の姿に化け、社会に紛れているらしい。


「・・・・・・ッ」


 いつまでも彼らの話を聞いているわけにもいかない。一度大きく頭を振って気持ちを落ち着かせると、ヒスイは光が届いていない壁際に沿って、ゆっくりと移動し始めた。










 時間は少し遡る。




 ヒスイが乗るバスを含めた三台のバスが、土砂崩れに巻き込まれて谷底に転落した事を聞いたヌアダは、青白い顔を隠そうともせず、普段あまり乗る事のない車に乗り込んで事件現場に急行した。彼に付き添っているのはホリン一人である。妻のネヴァンは、ヒスイと同じく行方不明になったネリーを心配して泣きじゃくるスヴェンに付き添っているためここにはいない。

「・・・・・・」

 道の端に車を止め、無言のまま車を降りると、ヌアダは青白い顔を隠そうともせず、すでに数十人規模の人間がいる現場へと向かった。


「アラン、一体どうなっている」
「ヌアダ教授!? お待ちしておりました・・・・・・ああ、はい。よろしくお願いします」

 これから土砂を取り除くためか、ヘルメットをかぶっている作業員と話している顔見知りの助教授の所まで行くと、アランと呼ばれた助教授は作業員に一言激励の言葉をかけ、こちらに向かってきた。

「時間が惜しい、歩きながら話そう。土砂崩れが起きたそうだな」
「はい。私もつい先ほど到着したばかりで、詳しいことは分からないのですが、昨夜から降り続いた雨のせいで地盤が緩んでいたんでしょう、合宿場に向かう途中のバス、三台を巻き込む大規模な土砂崩れです。一つのバスに三十人ほどが乗っていましたね。生徒、教師合わせておよそ九十人が土砂に押し流されたようです」
「そうか・・・・・・それで、救助活動はもう行っているのか? 指示は誰が出している?」
「ああ、それは「ここの指示は僕が出しています。ヌアダ教授」ああ、グリアス教授」

 アランの声を遮るように聞こえてきた、穏やかな青年の声に、ヌアダはピクリと眉を動かした。振り向くと、本部となっている緑色の大きなテントの中から、眼鏡をかけた如何にも好青年といった感じの男が、笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。

「グリアス教授、貴殿が来ていたとはな」
「ええ、実は合宿場で挨拶をするように頼まれていましてね、私が通った時は何ともなかったのですが、ひどい物です」
「ひどいのは見ればわかります。それより救助活動はどうなってるんです?」

 大規模な事故だというのに、落ち着き払ったグリアスの様子を見て、ホリンはつい声を荒げた。

「ああ、ホリン君も居ましたか。少々誤解があるようですね、私が落ち着き払っているのは、すでに軍と警察の方々が百人規模で捜索を開始しているからですよ。それより、お二人とも長時間車の中にいてお疲れでしょう、どうぞ、中に温かい飲み物を用意しています」

「・・・・・・結構だ。行くぞ、ホリン」

 軽く一礼すると、ヌアダはグリアスに背を向け歩き出した。背後にホリンが続くのを感じながら、土砂崩れの現場に近寄ると、木の陰からこちらに手招きしている人影が見えた。彼の旧友兼同僚のヘファトである。

「おうヌアダ、こっちだこっち」
「すまん、待たせた」


 ヌアダとホリンがヘファトに近寄ると、彼の他に木々の間の小さな空き地でたき火の番をしている三人の少年の姿が見えた。ヘファトの息子であるトム、マーク、バートである。

「あ、ヌアダ先生、お疲れ様です。どうぞ、コーヒーです」
「ああ、すまんな、トム」

 大柄な体格をしたトムに渡されたコーヒーを口にしつつ、ヌアダとホリンは近くの丸太に腰を下ろした。


「それで何か分かったか? どうやら、あまり研究室を出ないグリアス教授が指揮を執っているようだが」
「それなんだが、おかしなことが二つある」

 たき火で炙った鳥のもも肉を頬張り、油でてかてかした口を拭いながら、ヘファトはぎょろりと土砂崩れの方を見た。

「こいつは、先頭から二番目のバスを運転していた野郎に聞いたんだが、どうも土砂崩れにあった三台のバスのうち、一番前にいたバスは突然止まったらしい。しかも、危険なカーブの所でだ。で、土砂崩れに巻き込まれた。おかしいと思わねえか?」
「つまり、バスを止めた人間は、土砂崩れに会うのを始めから知っていた、という事か?」
「そういうこった、そして第二に、こいつは遺体安置所でバートが見てきたんだが・・・・・・おいバート、おめえ、さっき俺たちに話したことをもう一回話してくれや」
「うん、良いよ親父!!」

 毛布に包まり、たき火に手を伸ばしていた三人の中で一番小柄な少年は、ぴょんと立ち上がるとごそごそとズボンのポケットからメモを取り出した。

「おいら、暇だったからあちこち探検してきたんだけど、ちょうどその時兵士さんたちが遺体置き場に何か運び込むのを見たんだ。もし死んじゃった人なら手を合わせなきゃいけないと思ってこっそり入り込んだんだけど、何ていうかな、臭いがしなかったんだ。その、死んだ人から漂ってくる臭いがね。で、気になったおいらは兵士さんたちが運んできた遺体袋をこっそりのぞいてみたんだけど、何とびっくり!! じつはそれは」

「・・・・・・空だった、そういう事だな」

 先に答えを言ったホリンに、何だよと文句を言いながらバートが座りなおすと、ヌアダは腕組みをして目を閉じた。


「・・・・・・捕らわれたか」
「捕らわれただと? まさか・・・・・・いや、死体が一体もないという事は、有りうるのか」

 目を閉じたまま、ヌアダがぽつりと言った言葉に、豪傑を絵にかいたような父親が青ざめたのを見て、何のことかわからない三人も、互いの顔を恐る恐る見渡した。

「その、親父・・・・・・捕らわれたって、どういう事だ?」
「エイジャ達の棲家に攫われたってことだ、九十人の人間が、一人残らずな」


 吐き捨てるようにそう答えると、ホリンはゆっくりと立ち上がった。その手には、いつの間にか巨大な槍が握られている。

「これだけ大胆なことをやってのける奴らは、ここアメリカじゃ心当たりは一つしかない、“征服者”の奴らだ。中でも好戦的なティラノスが率いるレッド・ドラゴンの連中だろう。そうと分かれば父さん、一刻も早く“領域”を見つけないと、ヒスイ達が危ない」

「ああ、そうだな。ヘファト、私とホリンは領域との境目を探す。お前はここに残って、グリアスが何をたくらんでいるのかを探ってくれ。それから、バスを運転していた運転手、生徒たちと一緒に乗っていた教師の素性も調べていてほしい。もしかしたら、運転手か教師、そのどちらかがエイジャと繋がっているかもしれない。くれぐれも気を付けてくれ」

「分かった。お目も気をつけな。もしかしたら、グリアスの青二才が邪魔するかもしれないからよ。ま、お前とホリンが居れば、万に一つも負けはないか」



 火酒をあおり、豪快に手を振るヘファトに軽く頷くと、ヌアダとホリンは、崖下に通じる道を探すため、急ぎその場を離れていった。











「何なの、これ」








 先ほどのトカゲ人間たちがいた休憩所を何とかやり過ごし、それからさらに一時間ほど歩いただろうか、ヒスイは、ぽっかりと空いた洞窟の出口から、呆然と外の景色を眺めていた。


 なぜなら、外の景色は、とても自分達がいる世界とは思えなかったからである。



 空は薄紫色に染まり、有るはずの太陽はなく、代わりにどす黒い渦が空に渦巻いている。洞窟のある高台の周辺は森になっており、さらにその先は砂浜、黒い海へと続いている。


 そして、その世界は高台の周囲四キロほどの空間しかなかった。黒い海の先は、濃い白色の霧が覆っている。


「これじゃ、ネリー達を助けても、どこに行ったらいいかわからないよ・・・・・・けど、行かなきゃ」


 涙ぐみそうになるのを必死に耐え、ヒスイはキッと頭上を見上げた。高台の上、天高くそびえる、鉄と歯車で出来た漆黒の城が見える。恐らく、あの場所にネリー達がいるのだろう。

 歩きすぎて痛む足を耐えながら、所々キノコが生えている細い道を、ヒスイはゆっくりと登って行った。






「良くやった」



 少女が見上げる巨大な城、黒鉄城の最上階にて、天井から吊り下げられた巨大な鳥かごに押し込められた人間たちを見て、ティラノスは満足そうな笑みを浮かべた。

「とんでもございません。買収した家畜が、いの一番に死んでしまい、計画が失敗に終わったこと、誠に心苦しく思います」

「何、構わん構わん。そもそも玩具使いどもに絡め手など無用、この国を破壊し尽くせば、いずれ奴らの巣も判明しよう。それより」

 にやりと笑いながら、ティラノスは天井を、正確にはそこから吊り下げられている、十数個ほどの巨大な鳥かごを見た。

「“狩り”を成功させ、一度にこれだけの家畜を攫ってくるとはな、いや、よくやった」


 彼らがやったことは簡単だった。内通していた男に命じてバスを止めさせ、土砂崩れを起こしてバスを押し流した後、その落下地点に領域への入り口を開き、バスごと飲み込んだのである。想定外な事として、バスがこちらに来るときに内通者であった教師は天井に頭をめり込ませて死んでいたため、彼らが玩具使いと呼ぶものの根城は分からなかったが、それよりも彼らにとって重要なのは、“狩り”が成功したことで、ティラノスの機嫌がよくなった方である。


「しかし、死んだ内通者も変わったことを要求していましたな。金と一緒に、生徒のうちの一人を好きにさせろというのは」
「ふん、それでその生徒とやらは居たのか?」
「いえ、前回あった時に特徴を聞いていたのですが、残念ながらそれらしい生徒はおりませんでした。バスに乗っていなかったか、あるいはバスから放り出されたか。まあ、あの森には“あれ”がうようよいますからな、まず生きてはおりますまい」

 ラプトルが不思議そうに首を傾げると、天井に吊り下げられた鳥かごが揺れ、甲高い悲鳴が当たりに響いた。


「ほう、来たか」



 その悲鳴を聞いて、ティラノスは嬉しそうに入口の方を見た。トカゲ人間が持つ首輪に繋がれた、巨大なワニが五匹、部屋の中に入ってくる。それは、ティラノスが卵の時から大切に育ててきた彼のペットであった。


「おお、可愛いのう」

 
 獰猛な獣が、鋭い牙を生やした口を開けて吼えるのを見て、ティラノスはにたにたと笑みを浮かべた。


「さあお前たち、食事の時間だ。今綱を切ってやるからな」

 すり寄ってくるワニたちの鼻を優しく撫ぜると、ティラノスはすぐ横にある綱の一本を、巨大な爪で切り裂いた。同時に、天井に吊り下げられている籠の一つがガシャン、と床に落ちる。悲鳴と呻き声、そして漂ってくる臭いに興奮したワニを離すと、獰猛な獣たちは、我先に鳥かごの中に入っていった。それからどたばたと何か騒がしい音がしたが、それはほんの数秒ほどで、すぐに何かを咀嚼する音だけが聞こえ、やがて口元を血で汚したワニ達がのそりと鳥かごから顔を出した。


「腹が膨れたか? よしよし、いい子だ」




 口元にべったりと血の付いたワニ達を、ティラノスは満面の笑みを浮かべ、まるで我が子にするように、その頭を撫ぜ続けた。





「・・・・・・ひどい」




 部屋に作られた窓のうち、最も天井に近い窓の隅で、ヒスイは吐き気を必死にこらえながらその惨劇を眺めた。

 鉄と歯車で出来た城は、入り口に何人ものトカゲ人間がおり、突破するのは無理だった。そのため、所々についている歯車や突起などを利用してここまで登ってきたのだが、ヒスイが見たのは、彼女の同級生が生きながらワニに食われている光景だった。恐らく、洞窟で吐いていなかったら、ここで吐いていただろう。


「けど、まだ生きてる人もいるっ」


 吐き気を堪え、少女はそう広くない窓の隅に隠れ、部屋から怪物たちが居なくなるのを必死に待ち続けた。




 その後は宴会が続き、結局怪物たちが居なくなったのは、それから数時間ほど経った後であった。外は相変わらず薄紫色に染まっているため正確な時間は分からないが、恐らく夜になっているだろう。入り口に見張りのトカゲ人間を二匹残し、怪物の最後の一匹が扉を閉めて出ていくと、ヒスイは窓にかかっているカーテンを掴み、そのままするすると下まで降りると、鳥かごを固定しているひもの所まで走っていった。


「皆、無事ッ!?」
「・・・・・・ヒスイ? あなたなの?」
「ネリーッ!? よかった、無事だったのね。待っていて、今降ろすからっ」

小声で鳥かごの中に入る人間に呼びかける。最初はこちらの声が届いていないのか反応はなかったが、何度か声をかけると鳥かごの一つから、彼女の親友であるネリーの声がした。

 鳥かごを固定しているひもに近づくと、ヒスイはその横にあるかごを上げ下げするための歯車についている取っ手を握り、体重をかけた。ズッ、ズズッと、僅かずつではあるが歯車が回り、それに対応している鳥かごも少しずつ下に降りていく。
 やがて一つの鳥かごが下に降りると、その中には五、六人ほどの、少しやつれている同級生たちの姿があった。

「みんな、無事?」
「う、うん・・・・・・けど、死んじゃった人たちも大勢いるの」
「そう・・・・・・とにかく、悲しむのは後よ。今は皆を助けることを考えましょ? さあ、手伝って」

 ふさぎ込んでいる同級生達を鼓舞し、彼らと協力しながら、ヒスイは他の鳥かごを降ろしていった。彼女は父との鍛錬の結果、一人で歯車を回すことができるが、彼女の同級生である他の少年少女たちは体力がないのか皆で一つの歯車を回している。しかもおっかなびっくりといった感じなので、ヒスイが鳥かごを一つ降ろしている間に、彼女の半分の距離しか降ろすことができないでいた。


 それでも、一つ一つ鳥かごを降ろしていくと、その分降ろす人数も増えて行ったためか、鳥かごを降ろし始めてから三十分ほどで、鳥かごは全て床へと降ろされた。


「ヒスイッ!!」
「ネリーッ.!! よかった、本当にっ!!」

 
 最後の鳥かごから出てきた親友に駆け寄ると、ヒスイは親友であるネリーをぎゅっと抱きしめた。抱き着いてきた少女に苦笑しながら、ネリーも親友を抱きしめ返す。


「それで? ヒスイは今までどこにいたの? 姿が見えなかったけど」
「私は気が付いたらこの城の下にある、洞窟の中にいたの。ネリー達はどうしてあんな籠の中にいたの?」
「あたし達は転落したバスの中から連れてこられたの。この城についてすぐに怪我をしている人や、弱っている人は連れて行かれて戻ってこなかった。怪我もなく、比較的元気だったあたし達は鳥かごの中に入れられて見世物にされたり、ワニ達の餌にされたりしていたわ。七十人以上いたのに、もう六十人以下まで減ってしまった」
「そう・・・・・・けど、悲しむのは後にしましょ? 今はここから逃げ出すことを考えなきゃ」
「そうね・・・・・・みんな聞いた? ここから逃げるわよ。疲れているだろうけど頑張って、それから、怪我をしていたり、疲れて歩けない人は周りのみんなが手を貸してやって。生きてここから出るわよ」



 小声で互いの状況を説明し、これからのことを相談すると、ネリーは生き残っている数十人の子供たちに声をかけた。学級委員長の彼女の言葉に、同級生や学校の仲間は皆不安そうに周りの仲間を見渡していたが、やがてここにいてもどうにもならないということが分かったのか、僅かに震えながらうなずいた。



「よし、そうと決まればまずこの部屋から脱出しなきゃならないんだけど・・・・・・扉の向こう側にいる怪物はどうしようか。というより、普通なら気づいてると思うんだけど」

 ネリーの言うとおり、鳥かごを下に降ろす時と、そこから出られた解放感から、随分と騒がしくなってしまった。それなのに、扉の向こう側にいるはずの門番たちは、様子を見に来るどころか、彼らの話し声すら聞こえない。

「あれ? 開いてる」


 ヒスイが扉に近寄って、ドアノブに手をかけると、かちゃりと音がして、さほど力を入れることなく、巨大な扉はギギッと軋みを上げて微かに開いた。一瞬体を強張らせ、僅かに開いたその隙間からそっと外の様子をうかがう。薄暗い廊下からは、時折遠くから何かの笑い声や叫び声が聞こえてくるが、すぐそばにいるはずの見張りの気配がない。どこかに行ったのか分からないが、とにかくチャンスだ。


「ネリー、今なら誰もいない。早く外に出よう」
「分かった。さあ皆、ついて来て」

 
 ヒスイの言葉にうなずくと、ネリーは周りにいる数十人の同級生に声をかけた。今は誰もいないと言っても、一度にこれだけの人数が逃げ出せば、遠からず誰かが必ず気づくだろう。ぐずぐずしては居られなかった。



 ヒスイが先頭に立ってゆっくりと歩き出す。走るよりも歩いたほうが音が立たなくていい。静かに、だが急いで彼女たちは歩き出した。





 その様子を眺める、一つの視線に気づかないまま


 




「た、大変ですっ、首領(ドン)っ!!」
「何だ、騒々しい」



 そのトカゲ人間が宴会場に飛び込んできたのは、ヒスイがネリー達を救出して逃げ出した三十分後の事であった。その無様な慌てぶりに、上座で人間から抽出した精気を加工して作り上げた肉の様な何かを貪り食っていたティラノスは、不機嫌そうに顔をしかめた。

「も、申し訳ございやせん、ですが一大事なんです。大広間の天井に吊り下げていた家畜どもが、そろいもそろって逃げ出しやがったんでさっ!!」

「何だとぉっ!?」

 その知らせに、ティラノスは顔を真っ赤にして立ち上がった。彼の怒りはもっともであった。大規模な雁が成功したからこそ、こうして大盤振る舞いしていたというのに、せっかくの“食料”がほとんど逃げ出したのだ。幹部たち、そして椅子に座ることを許されなかった構成員たちは、気まずそうに目の前の食事を眺めた。


「ええい、見張りは何をしていた!!」
「そ、それが、自分が様子を見に行った時には持ち場にはおらず、洗面所の隅で眠りこけておりました。そ、傍にはその、酒瓶が・・・・・・」
「要するに、酔っぱらって眠りこけていたというのか!? いくら家畜を見張るだけだと言っても油断のし過ぎだ、事が済み次第、奴らの鱗を全て剥いでくれるっ!!」
 
 血走った目で、ティラノスは周囲をじろりと睨みつけた。肩を竦める手下の中から、目当ての竜を見つけようとするが、いくら探し回っても見当たらない。

「おい、ラプトルはどうした」
「は? あ、ああ・・・・・・そういえば、此処では見ておりませんね」
「・・・・・・まあ良い、プレシオ、急ぎ追跡隊を編成しろ、そうだな、五十名で捜索に当たれ。儂も出る」
「ご、五十名ですか? “外”に出ているものを除いた、この城にいるほとんどの竜たちですよ?」
「ふん、どうせ外からの侵略などないわ。それと、もしラプトルを見つけたら、儂の所に連れてこい。見つかるまで戻ってくるな、何をしている、さあ行けっ!!」

 
 ティラノスの怒号に、宴会場に居た彼の部下たちは、まるで蜘蛛の子を散らすようにザッと部屋から出ていった。





 ティラノスの怒号により、竜たちが動き出した時、ヒスイとネリー、そして六十人ほどの少年少女は、城を抜け出し、高台を降り、暗い森の中を歩いていた。


「しかし、門番がいないというのはラッキーだったね」
「うん・・・・・・けどおかしいな、私が城に入ろうとしたときは、数匹の怪物が門番としていたはずなのに」

 門番だけではない。廊下にも、階段にも、そして城を出てからも、幸いなことに彼女たちは一度も“敵”と出会うことなくこの森まで来ていた。

「とにかく、この森を抜けて、先にある砂浜まで行きましょ? そこなら少しは休めると思うから」


 疲れを訴える同級生も出てきたが、さすがにじめじめとぬかるんだ森の中で休むわけにはいかない。さらに自分達を取り囲むいくつもの気配をヒスイは感じていた。だがその気配は城の中を逃げていた際、壁にかかっていた松明を外して持ってきたためか襲いかかってこない。恐らく火が怖いのだろう。だがまごまごしていたら、火はすぐにでも消えてしまう。幸いこの森はそれほど広くはないので、一気に駆け抜けてしまえばいい。


「さあ、行きましょう皆、頑張って」


 城の中とは違い、夜目が効くネリーが先頭に立ってゆっくりと進む。その後松明を持った少年達と、彼らに囲まれた少女達が進み、最後にヒスイがゆっくりと歩き出す。と、


「・・・・・・?」


 数歩進んだ時、少女はふと、空を見上げた。誰かに見られている感じがしたのだ。だが彼女が見上げるその先には、視界を遮るほどに巨大な木と、枝の隙間から僅かに見える相変わらず薄紫色の空しかなく、少しの間見上げていた少女は、前方にいる仲間に追いつくため、足早に歩いて行った。







「ふむ、中々察しが良いですねぇ、私の気配に多少なりとも気づくとは」


 少女が見上げていた巨大な木の先端で、太い枝が僅かに揺れた。


「さてさて、この“性能試験”、どうやら面白くなってきましたねえ」


 と、何かを脱ぎ捨てたようなバサリという音と共に、何もない空間に、いきなり一つの影が現れた。その影は、両方の手に、巨大な爪を持っていた。












「ちょっと遅れちゃった、皆に早く追いつかないと」

 
 暗い森の中を、ヒスイは少し小走りで駆け抜けていた。先ほど何かの気配を感じて空を見上げている間に、ネリーやほかの同級生たちは随分と先に行ってしまった様だ。無理もない、鬱蒼と茂った森の中だ。暗闇が平気な人でも、あまり長く居たいとは思わないだろう。


 手に持った松明一つを頼りに、暗い森の中を進む。小川を飛び越え、巨大な木の畝の中を通り、倒れた木を乗り越えながら進み、いつしか自分がどこを進んでいるのか、半ば分からなくなった時だった。



 カサッ




「・・・・・・何?」


 右の暗闇で、何かが僅かに動いた。それだけではない。いつの間にか、左の暗闇、後ろの暗闇、そして前の暗闇からも、カサカサカサッと、何かが近づいてくる音がする。明らかに人ではないその足音に眉を顰めながら、ヒスイは背後にある巨大な木に背中を付けた。背後を取られないようにするためである。登ろうかとも考えたが、向かってくる相手がもし木に登れた場合、逃げ場がなくなるのでやめた。


「・・・・・・このっ」

 
 前方からとびかかってきた影に向かって、思いっきり松明を突き出す。ジュッという何かが焦げたような臭いが周囲に立ち込めると同時に、犬ほどの大きさを持った蜘蛛が地面に転がる。仲間の一匹がやられたのを見て、すぐそばまで近寄ってきた蜘蛛たちがたじろいだその瞬間、ヒスイは脇目も振らずに駆け出した。

ガザザザッ


「く、しつこいっ!!」


 走る彼女の後ろから、無数の巨大な蜘蛛が迫る。跳躍し、肩に噛みつこうとした蜘蛛を松明を使って振り払い、口から吐かれた糸を近くの木の陰に回り込んで避けながら進んでいくと、はるか前方に、森の出口が見えた。


「やった、あとちょっとで・・・・・・きゃっ!!」


 出口が見えて油断したのか、死角から飛んでくる糸に気付かなかった。目の前まで迫ってきた糸に、反射的に松明を突き出す。糸は松明をからめ捕り、ヒスイの手からもぎ取った。コトッと軽い音がして、松明が地面に落ちる。だが拾っている暇はない。チッと小さく舌打ちしながら全力で走りだすと、もはや怯える物がなくなったためか、蜘蛛たちが先ほどとは比べ物にならない速さで迫ってきた。


「もうちょっと、もうちょっとでっ!!」

 息も絶え絶えになりながら、それでもヒスイは走り続けた。もう森の出口まで百メートルもない。だというのに、一秒がまるで一時間のように感じられた。

 だが、何事にも終わりというものはある。遂に出口付近までたどり着くと、ヒスイは大きく“飛んだ”。先ほどまで自分がいたところを蜘蛛の鋭い脚の先が横切る。跳躍した蜘蛛が放つ糸が、ヒスイの服を掠める。その衝撃で、ヒスイの身体はガクンッとつんのめり、ごろごろと転がるように砂浜に着いた。

「う・・・・・・ここまで、くれば」
「ここまでくればぁ、一体なんだというのだ? 家畜」
「え・・・・・・かふっ!?」


 モリから出たことに安堵した瞬間、ヒスイは誰かに思いっきり蹴られ、砂浜をごろごろと無残に転がった。






「ヒスイッ!!」
「いやあ、残念だったなあ。家畜ども」

 砂浜を転がり、砂まみれになったヒスイを見て、トカゲ人間達に抑え付けられているネリーは悲鳴のような声を上げた。それを見て、ティラノスはグヒヒッと下品な笑い声をあげた。他の生徒たちはもう抵抗する気力もないのか、トカゲ人間達におとなしく掴まっている。


「貴様ら、まさか逃げられるとでも思っていたのか? なら残念だったなぁ。ここは儂の棲家、儂でなければ外への出入り口を開くことは出来ぬわ。ふんっ」
「あうっ!?」


 顔を醜くゆがめながら、ティラノスはヒスイの腕を踏みつけた。痛みに悶えるヒスイを見て、さらにぐりぐりと足を動かす。少なくとも、骨にひびが入っているだろう。

「おぉっと、これは失礼を。まさかそんなに脆かったとは思わなかったのだ。まあ安心するが良い、殺しはせぬ。森に棲む物言わぬ獣どものせいで、何匹か死んだようだが、貴様らは大事な大事な家畜だ。精気を全て搾り取るまでは殺さぬから安心しろ。まあ、その時にはすでに廃人となり、何もわからなくなっているがな」


「わ・・・・・・し、は」
「ん? なんだ家畜、何か言いたいことがあるのか?」

 激痛に耐えながら、それでも何か呟いたヒスイに興味を持ったのか、ティラノスは少女の足を踏むのをやめ、その長い髪を持ち上げてみた。ヒスイの顔に、血なまぐさい息が吹きかかる。それでも彼女は、ティラノスを睨むのを止めなかった。

「私は、私達は、家畜じゃないっ!!」
「ふん、家畜ではないか。気丈な物言いだな。だがぁ? 貴様らは家畜なのだよ。なぜなら貴様らは弱い。弱い者は肉となり、強い者に食われるというのが道理というものだ」
「弱肉・・・・・・強食」



 ティラノスの言っていることを、ヒスイは頭のどこかで理解していた。確かに、強い彼らが弱い自分達を喰らうのは、弱肉強食という自然の定理にかなっている。それこそが、真理というものだ。




 けれど






「・・・・・・どう、り、ですって?」
「・・・・・・む?」


 ティラノスは、長い亜麻色の髪を掴み、今まさに城まで引きずっていこうとしていた家畜が、再び何かを呟いたのを聞き、顔をしかめて家畜を見た。どうやらこの家畜は随分と物わかりが悪いようだ。ならば、もっと痛めつけたほうが良いか。そう考え、彼女の髪を握る手に力を込める。だが、




「強者が、弱者を一方的に痛めつけるのが道理ですって? そんなの認めない、そんなものが真理だなんて、私は、絶対に認めないっ!!」
「貴様・・・・・・優しくしてやればつけあがりおって!! いいだろう、そんなに死にたいのならば望みどおりにしてやろう。貴様一匹おらずとも、他の家畜からその分搾り取れば問題ないわっ!!」


 気温が一定に保たれている領域の中で、なぜか凍えるほどに寒く感じたティラノスは、少女の首をはねようと、巨大な爪が生えている腕を振り上げた。












「っ!? なんだ?」




 死海の奥底、黒い大樹のその中で、眠るように穏やかに死んでいる少女の遺体が荒らされていないかを確認していたコキュートスは、自分をいきなり襲った喪失感と焦りに、胸を強く掴んだ。



「これは・・・・・・アリアを失った時と同じ、だが彼女はここで亡くなっている。どういう事だ? いや、まさか・・・・・・・・・・・・まさかっ!!」



 自分が想像する中で、最悪の考えが思い浮かんだコキュートスは、死後数百年たってもまったく身体が朽ちる事のないアリアを一瞥し、さっとドレスを翻した。








「すばらしい」



 眼下の光景を見て、ラプトルは一人、光悦した声を出した。彼の見下ろすその先では、一人の少女を中心に、巨大な嵐が周囲を蹂躙している。そして、その嵐に飲み込まれた者は、竜族であれ、人間であれ、皆氷像となっていった。


「しかし、まさか暴走するとは・・・・・・さすがに少々安定感に欠けるようですね。まあ、巻き込まれるのも馬鹿馬鹿しいですし、“性能試験”の結果を主に報告するためにも、ここいらで退散させていただきましょう」


 右手を上にあげ、円を描くように軽く回すと、そこだけ世界が切り取られたかのように、ぽっかりと黒く丸い穴が開いた。跳躍し、その穴に入る瞬間、下を向いた彼の視線に、部下を前に押し、自分だけ逃げようとしている無様なティラノスの姿が映った。



「さようなら首領閣下、あなたの息は、本当に臭かったですよ」



 数時間前まで従っていた、仮初めの主をまるで虫を見るような目で見下ろすと、ラプトルは空中に開いたその穴の中に、するりと入っていった。







「何だこれは・・・・・・なんなのだこれはっ!!」



 ティラノスは、少女から発生した巨大な嵐と、それに飲み込まれた全ての者が文字通り凍りついていくのを間近で見て、呆然と呟いた。


 少女を握っていた彼も、右肩から先が氷と化している。だが、至近距離にいてそれだけで無事なのは、咄嗟に近くの部下を掴んで身代わりにしたからだ。その部下も、そして彼女の近くにいた部下も、その部下が連れていた家畜たちも、嵐に飲まれてすべてが氷像へと変わっていった。


 

「く、狂ってる・・・・・・」


 嵐の中心にいる少女を見て、ティラノスは氷と化した右腕を抑えながらそう戦慄いた。両方の目を蒼く光らせ、飲み込むすべてに死を与える氷の暴風をまき散らす彼女は、確かに正気ではないのだろう。


「ティ、ティラノス様、ど、どうすればいいのですか、このままでは・・・・・・がぁあっ!!」
「ひ、ひぃいいいいいっ!!」

 ティラノスに指示を仰ごうと、振り向いたプレシオは、少女が向けた右手から放たれた鋭い切っ先を持つ氷柱に貫かれて絶命した。自分より位は低いが、それでも黒界にいる下流の貴族と同等の身分を持つ彼を一撃で絶命させたその攻撃を見て、もはやなりふり構っていられなくなったのか、ティラノスは少女に背を向けて逃げ出そうとした。その動きに気付いたのか、嵐を起こしながら、辺り構わず鋭い氷柱を投げ飛ばしていた少女の手が、ふと、逃げるティラノスの背中に向いた。



 そして、その手から氷柱が飛び出る、その寸前、




「ヒスイっ!!」




 かすれた声で少女の名を呼ぶ親友の声に、その動きはぴたりと止まった。




「ヒスイ、正気に戻って、ヒスイ!!」




 もはや氷像になっていない者が数えるしかない砂浜の上、その数少ない者の一人であるネリーは、暴走するヒスイに必死に呼びかけた。といっても、彼女の下半身は氷像と化し、さらにその範囲が進み、もはや腹部まで氷と化している。それでも彼女が親友に呼びかけるのは、まだ無事な同級生や、そして何より親友であるヒスイを助けたい一心であった。


「ヒスイッ!!」
「・・・・・・ィ?」



 何度か呼びかけるネリーの声に、微かに、そう、ほんの微かに反応があった。それと同時に、辺りを暴れまわる嵐が収まって行き、その中心にいる少女の瞳に、少しずつ理性の光が灯っていく。


「そう、あたしよヒスイ、大丈夫、大丈夫だから・・・・・・っ、ね?」


 もはや肺まで凍りついたのか、息をするたび耐え難い激痛に襲われるネリーは、だがそんな事はみじんも外に出さず、弱々しく親友に手を伸ばした。

「ね、大丈夫だから。ゆっくり、ゆっくりでいいから、いつものヒスイに戻って、ね?」
「・・・・・・リィ、ネ・・・・・・」
「うん、あたしはヒスイが元に戻るまで、ずっとここに居るから、ね?」


 激痛に全身を蝕まれ、それでも笑みを浮かべる親友に、徐々に正気に戻っていくヒスイはゆっくりと手を伸ばした。そして、嵐が完全に収まろうとした、その瞬間



「どけっ!!」
「あ・・・・・・」
「・・・・・・ネリィッ!!」



 逃げ出そうとしていたティラノスが、少女の身体を僅かに残った嵐の方へと突き飛ばした。

 少女が、彼女の一番の親友である少女が嵐の中に飛び込んでくる。同時に完全に我に返ったのか、ヒスイの周りから嵐が完全に消え去る。だが、それよりも一瞬早く、嵐はネリーの身体を、首までほぼ氷像と化した彼女の親友を、一瞬で凍りつかせた。





「あ・・・・・・あ、あああああああああああっ!!」
「これはっ!?」
「ヒスイッ!!」
「ヒスイちゃん!?」



 完全に氷像と化した親友を見て、再び正気を失ったヒスイが嵐を起こすのと、その嵐によって親友の形をした氷像に亀裂が走ったこと、コキュートスがこの世界に舞い降りてその嵐を封じたこと、そして領域と現実の世界の境目を破り入ってきたヌアダとホリンによって、ティラノスが細切れにされたのは、ほぼ同時であった。







「ヒスイ・・・・・・」

 ヌアダは、自身の力の暴走によって髪を白銀に染め、粉々に砕け散った氷像を見て、叫び声をあげて意識を失った娘の身体を労わるように抱きかかえた。


「父さん、これは」
「ああ、ひどい物だ」




 彼らがいるのは、バスの転落現場から百キロは東に行ったところにある谷底から入ったエイジャの領域であった。僅かな気配を頼りにここまで来るのに、まる一日かかってしまった。しかも自分達の娘意外にこの場にあるのは、氷像と化した五十体のエイジャと、そして五十体の少年少女だ。恐らく、ヒスイのほかに生きている者はいないだろう。


「・・・・・・いったいこれがどういう事か、説明してもらおうか」
「っ!? 誰だっ!!」
「落ち着けホリン・・・・・・それは、こちらが聞きたいことだ。青界の女王よ」




 心身ともに傷ついた少女の身体を抱きしめるヌアダの頭上から、怒りに震える女の声が響く。その声の主にホリンは手に持った槍を向けるが、その動きは彼の父にさえぎられた。


「久しぶりだな、およそ六百年ぶりになるか、コキュートス」
「ああ、それほどになるな、ヌアダよ。最後にあったのは、おぬしが片腕と引き換えにリンドヴルムを討ち取った、嘆きの大戦の末期であったか」

 見る者すべてを凍てつかせる紫電の瞳を、だがヌアダは真っ向から見返した。その臆することない視線を受け、コキュートスはふと、表情を和らげた。

「・・・・・・お久しぶりです、女王陛下、我らが“母”」
「そなたはホリンか、そなたとも嘆きの大戦ぶりであるが、どうやらいまだに黒界に帰らず、ヌアダとつるんでいるようだな」
「ははっ、まあこちらでの生活もそう悪いもんじゃないですよ。養子になったためか、妹もできましたしね」
「妹・・・・・・その娘の事か。なら次の質問だ。この娘はいったい何者だ? なぜアリアの気配を、この小娘から感じる?」
「・・・・・・それは」


 こちらを眺める女王の視線に、表情を変えぬままむっつりとヌアダが口を開いた、その時だった。ぐらりと音がして、世界が揺れる。恐らくこの世界の主であるティラノスが死んだことで、その形を維持できなくなったのだろう。


「とにかく、ここから出よう。コキュートスも、出来ればついてきてほしい」
「・・・・・・いいだろう、詳しい説明はしてもらうぞ?」

 崩壊する世界から、まずヒスイを担いだホリンが抜け出す。それに続いてコキュートスが出た後、最後に残ったヌアダは、世界から脱出する寸前、ふと後方を見た。まるで黒の絵の具を垂らしたかのように、世界が黒く染まっていく。そしてその中には、助ける事が出来なかった数十人の少年少女もいる。彼らに一瞬だけ哀れみの視線を投げかけると、再び前を向いたヌアダは、もはや振り返ることなく、その世界を後にした。

















「・・・・・・と、これが試験の結果になります。我が主」



 薄暗い部屋の中、巨大な爪を生やしたトカゲ人間―ラプトルは、目の前に佇むフードを被った人影に跪いていた。




「なるほど、試験の結果、成功したのはヒスイただ一人か」
「はい、五十体の上級エイジャを瞬時に倒したその実力、いまだ制御できてはおりませんが、成長すれば間違いなく彼の三英の一人たる、アリアに迫るものと思います」
「迫る? いいや君、迫るではだめなんだ。すべて、彼女と同じでなくては。それこそ姿、性格、能力、言動、何気ないしぐさに至るまで、そのすべてが」

 歌うように、褒めるように、叱るように、嘆くように、フードの人物は部屋をうろうろと歩き回りながら呟いていく。

「そのすべてがアリアでなければ意味はない。だが、今はこれで良しとすべきか。彼女が死に、手元に残ったたった一本の髪の毛、その髪の毛から遺伝子を読み取り、作り上げた百のクローンのうち、九十は人の形を取ることなく消滅し、残りの十のうち、五は目覚めることなく試験官の中で死滅し、目覚めた半分のうち、二は試験官から出した瞬間に息絶え、一は自殺し、成功した二はよりにもよって赤子タイプときた。それを今度は片方を裕福な家に、もう片方を道端に放置し、全く違う境遇の中、どちらがよりアリアに近づくか試そうとしたのに・・・・・・まさか道端に放置してから五分とたたないうちにヌアダに拾われるとは思いもしなかった。そして最後に生き残ったのがよりにもよってその赤子とは・・・・・・まあいい、奴はヒスイをエイジャとは何のかかわりもない世界で育てていたが、これからはさすがにそうはいかないだろう。今は待とう、彼女がアリアに近づいていくのを」
「待つ・・・・・・ですか」
「ああそうだよ、そして彼女が完全にアリアになったその時こそ、僕の世界が再び始まる時なんだ。ああ君、もう下がっていいよ。ご苦労だったね、そうだ、その小汚い“変装”はさっさと解きたまえ」
「ええ、そうさせていただきます」


 不意に、ラプトルは自分の肩に手をかけ、前に引いた。その手の動きに合わせ、するりという音が聞こえるほど簡単に、彼を覆っていた“ラプトル”という外套は脱げた。

 その中から現れたのは一人の男だ。老いているようにも、若くも見え、男らしい顔つきにも、中性的な顔つきにも見える。背が高いと思ったら、別の角度から見たら低くも見える、そんな正反対に見える二つの要素を全て併せ持ち、右目にモノクルをかけた男が、そこにはいた。

「いやあ、いつみても立派なものだね。君の“変装”は。それで? それが君の素顔なのかい? “四十面相”君」
「さあ? それはどうでしょうか。なにぶん、もう自分の素顔など忘れているものですから。では失礼します、“学長”」



 緩やかに一礼すると、四十面相と言われた男―最高査問官の一人、“怪盗紳士”は緩やかに一礼すると、部屋を出ていった。








  暗い部屋の中、それでもフードを取る事のない、一人の人間を残して。










「なるほど、この小娘はやはりアリアの・・・・・・やつのクローンであったか」




 崩壊する領域をでて数日後、自分のベッドで眠る、いまだ目覚めないヒスイの傍らで、コキュートスは静かに彼女を見下ろしていた。女王の横には、腕を組んでいるヌアダがいる。目を閉じてはいるが、眠っているわけではない。


「ああ。といっても、彼女との出会いは偶然だ。仕事帰りに泣き声が聞こえてな。裏路地を覗いて見たら毛布に包まれていたこの子が置かれていたというわけだ。その後素性を調べるため、占い師に聞いたら再生計画の事を言われ、学長に許可をもらって、研究所とその支援組織を根こそぎ壊滅させた。まあ、その時得たデータのおかげで、現在魔器使の補助として、共に行動するホムンクルスが出来上がったが」
「なるほど、仔細は分かった。では本題に入ろう、今すぐこの小娘を殺せ。アリアのクローンなど、我にとっては唾棄すべき存在でしかない」
「断る。たとえ血が繋がっていなくとも、我が子を殺す親などいるものか」
「・・・・・・」
「・・・・・・」

 周囲に凍てつく冷気にも似た殺気が立ち込める。コキュートスがゆっくりと右手を上げると、ヌアダはいつの間にかその手の中にある剣の握りに手をかけた。そのまましばらく二人のにらみ合いは続く。やがて、ふっと息を吐いてコキュートスが表情を和らげた。




「まあ、致し方あるまい。真に悪いのはこの娘ではないしな。ところで、これからこの娘をどうするつもりだ? 今は収まっているといっても、こやつは我がアリアに与えた力に目覚めた。もはや平穏な一生を送る事など出来ぬぞ?」
「・・・・・・分かっている。娘は、これから先魔器使としてしか生きる道はないだろう。その手続きは私がやる。そこでだコキュートス、お前に頼みがある」
「ほう? まさか小娘のお守りをしろというのではあるまいな」

 顔をしかめながら、コキュートスはヌアダを睨みつけた。図星だったのか、ヌアダはむっつりと押し黙っている。

「お断りだ。そもそも我が同胞を裏切り、汝ら人間の味方をしているのは、ひとえにアリアとの約束を守っているからにすぎん。むろん、小僧の血筋がすべて死に絶えれば、我は青界に帰還する、そういう約束だ。その我に、小娘のお守りをしろだと? 図々しいにもほどがあるぞ」
「確かに図々しい頼みだな。ならば我が一族がお前に貸した借り、今ここで返してもらおう」
「貴様・・・・・・自分の言っていることが分かっているのか? 確かに緑界からの援軍を防ぐため、貴様の一族に借りを作った。だが、それはあくまでも一族に対してであり、貴様個人にではない。なのに、貴様の一存で借りの返済を要請することができると思っているのか?」
「出来る出来ないの問題ではない。ヒスイは、五十体のエイジャを滅ぼすのと同時に、五十人の同級生を己が手で殺めた。ネヴァンの手でその記憶を封じたが、彼女の奥底に眠る罪悪感までは消すことはできない。そしてその罪悪感から逃れようと、この子はエイジャと戦う道を選ぶだろう。もし戦いを望まないにしても、彼女は力に目覚めてしまった。そして、その力を感知したエイジャが必ずやってくる。だが、未熟なままでは早々に死ぬ。そうならないためにも、お前にはこの子の傍にいて、彼女の手助けをしてもらいたい。だが勘違いするな。これは頼みではない、命令だ」
「・・・・・・まあ、確かに退屈な日々を過ごすよりはいいかもしれんな。いいだろう、我が手でこの未熟極まりない小娘を鍛えてやろう。しかし問題が二つほどある。まず一つ目、どうやって小娘の傍にいろというのだ? まさかこの身体のまま傍に居ろというのでもあるまい。そんな事をすれば、すぐに王クラスの同胞が大挙して押し寄せてくるぞ。裏切り者である我を抹殺しにな」
「・・・・・・そこは考えている」
「ふむ? まあ良い、では次の問題だ。魔器使は魔器と呼ばれる、魔を封じ込めた武器を用いて我が同胞・・・・・・ええい、言いにくい。エイジャでよいか・・・・・・エイジャと戦うと聞いておるが、小娘に一体どのような魔器を与えるつもりだ? 我が傍らにいるという事は、この娘に待つのは壮絶な戦いの道だ。並大抵の魔器では通用せんぞ?」
「無論、考えている。魔器を作成しているヘファトは旧知の仲でな。彼はヒスイの事を娘のように可愛がっていた。頼み込めば、愚痴をこぼしながらも作ってもらえるだろう。そして、その材料には“これ”を使う」
「これ? これというのはまさか、貴様が持っている“光輝の剣”クラウ・ソラスではあるまいな? かつて嘆きの大戦において緑王エンシェントの息子であるリンドヴルムを殺害し、大戦を終結させた、汝の一族であるダナン族に伝わる秘宝の一つ・・・・・・それを手放すに値する価値が、この小娘にあるというのか?」
「秘宝と言っても、所詮は人切り包丁にすぎん。こんなものと引き換えに娘の命が助かるならば、いくらでもくれてやる」
「・・・・・・やれやれ、なぜこんな小娘一人にそんなにも執着するかわからぬが、貴様が決めたことだ。好きにするが良い。我は帰らせてもらう。準備がすべて終わったら呼べ」



 付き合っていられないという風にため息を吐くと、コキュートスはドレスを翻して虚空へと消える。女王を見送ると、ヌアダはいまだに意識が戻らない愛娘の頬にそっと触れた。





「・・・・・・娘よ」

 そして彼は、絞り出すような、何かに耐えるような声を出した。



「私を・・・・・・父を恨むがいい。お前を闘いに駆り出すことでしか救う事が出来ない無力な私を、お前を死地に赴かせることでしか助ける事が出来ない無能な私を、私を恨め。憎め。だが、どんなに私を憎んでもいい、恨んでもいい。だから、だから決して」




   決して、死ぬな





 少女を撫ぜる父の手の甲に、水滴が落ちる。ポタポタ、ポタポタ、ポタポタと。





 それはまるで、耐えきれぬ父親の悲しみがにじみ出るように、いつまでも流れていた。

































 ヒスイが目覚めたのは、それからさらに一週間後の事だった。眠っている間、彼女が見ていた夢は、この世の者とは思えないものだった。緑色の鱗を持つ、トカゲの顔をした怪物たち、彼らに蹂躙される同級生たち、そしてこちらに向かって伸ばされる巨大な手。その手が自分に触れた瞬間、今度は場面が変わり、黒い大地の上に一人で立っている。彼女を取り囲むのは百体はあるであろう氷像だ。目の前に、自分の親友の形をした氷像がある。そう、それはあくまでも氷像だ。だというのに、それを見つめる自分はがたがたと震えていた。そして、その震える手を氷像に伸ばした瞬間、




 親友の形をした氷像は、粉々に砕け散った。







「ぁああああああああっ!!」
「ヒスイ、しっかりしろ、ヒスイ!!」
「ぁ・・・・・・お、父・・・・・・さん?」


 絶叫と共に飛び起きたヒスイは、自分の身体を抑える誰かの気配にひっと悲鳴を上げて腕を振り上げたが、それが自分の父であることに気付くと、ゆっくりとその手を降ろした。

「ああ、私だ。大丈夫、もう大丈夫だ、ヒスイ」

 いつもはむっつりとしている父親が、安堵の表情を浮かべて自分を抱きしめている。肩の力を抜いて父の胸の中に身を預けると、ヌアダは少女の身体をゆっくりと横たえた。


「さあ、まだ疲れているだろう、ゆっくりと眠りなさい」
「いや、お父さん、眠りたくない。変な夢を見るの・・・・・・本当に、変、な」
「大丈夫、それは夢だ。ここにはお前を傷つける者は誰もいない。だから眠れ、ゆっくりと」

 ベッドに横たわり、父親に頭を撫ぜられていると、不思議と瞼が重たくなっていく。いやいやをするように頭を左右に振っていたヒスイは、睡魔に勝てなくなったのか、ゆっくりと目を閉じた。







 今度は、夢を見ることはなかった。













「・・・・・・」




 ヒスイが自分の力だけで起き上がれるようになるまで、さらに十日を必要とした。



 十日目の朝、何とか喉を通るようになったオートミールをゆっくりと口に運びながら、ヒスイはぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。

 少女には、自分の身に何が起きたのか分からなかった。彼女がおぼえているのは、バスに乗っている時に何かが流れるような音を聞いて意識を失ったこと、同級生の吊り下げられた死体を見たこと、いるはずのない、緑色の鱗とトカゲの顔をしたトカゲ人間を見たこと、そしていくつもの歯車が付いた、巨大な黒い城を見上げたことである。その後の記憶は、彼女の中で白い靄になってまったく思い出せない。そして、自分がどうしてベッドの中で目を覚ましたのかも。



「もしかして、あれは全部夢だったんじゃないかな・・・・・・そう、そうだよ。大体、蜥蜴人間なんているわけがないんだし、夢に決まってる」

 自分はきっと、合宿に向かうバスで気分が悪くなって倒れて、あんな変な夢を見たのだ。今日にもネリーが見舞いに来てくれる。そして二人で笑いあうのだ。だが、そんなどこか甘い少女の考えを打ち砕くように、彼女の部屋に入ってきた父の表情は険しかった。



「ヒスイ、話がある」
「あ、父さ・・・・・・ん?」


 いつもはむっつりとした、だがどこまでも温かな父の言葉が、しかし今日はどこまでも冷たく、そして厳しくヒスイには感じられた。



「・・・・・・あの、ごめん、もう一度言ってくれない、かな」



 父が部屋に入ってきてから数分後、ヒスイは呆然としながら、父が言ったことを聞き返した。


「・・・・・・一度の説明ではわからなかったか? なら分かるまで何度でも言ってやる。ヒスイ、お前には夏休み明けからスクールの特別クラスへと編入してもらう。これはもう決定事項だ。拒否権はない」
「ちょ、何言ってるの父さん、そんなの急に言われても困るよ。大体、ネリーにも言ってないのに、勝手に編入なんてしたくないし・・・・・・」
「・・・・・・覚えていないのか、いや、思い出したくないのか。良いかヒスイ、ネリーは、いいや、彼女だけではない。お前のクラスメートすべて、そして多くの同級生が、あの時」
「いや、父さん、お願いだから言わないでっ!!」


 
 父の言葉から逃れようと、耳をふさごうと身じろきしたヒスイの右手に、はらりと髪の毛が落ちる。

「あ・・・・・・あ、ああっ!!」




 それは、以前少女が持っていた亜麻色の髪とは違い、銀色に光り輝いていた。その髪を見た少女の手が止まる。そして、無防備な耳に、ヌアダの言葉が飛び込んできた。






「あの時、エイジャの手にかかって、みんな死んだ」









 静かに話すヌアダの言葉を、ヒスイは唇を震わせて聞いていた。



 父曰く、この世界には異世界から人を襲う化物が来るという。古代の学者、プラトンが唱えたイデア論から言葉をもらい、エイジャと名付けられた彼らは、人を襲い、その精気を喰らうという。大昔には彼らを神とあがめる人間もいたらしいが、数百年前の大戦、嘆きの大戦によりエイジャは敗北、またこの世界と異世界を繋ぐ海は険しく、大規模な軍勢を送り込めないことから、現在は表だって活動することはないが、それでも個体で活動する者や、小規模な組織で暗躍する者、そして中規模な組織で、実際に人類に対し攻撃を行っている者もいるらしい。



「ここアメリカにある、人類に敵対するエイジャの組織、“緑原の征服者”が、今回お前達を誘拐し、ヒスイ以外の人間を皆殺しにしたのだ」
「・・・・・・じゃ、じゃあ、あれは・・・・・・あれは夢じゃなかったのっ!?」
「ああ、夢ではない。お前が奴らに捕らわれたのも、ネリーを始めとしたお前の同級生が皆殺されたのも、そしてお前が覚醒し、百体に及ぶエイジャを一瞬で氷像にしたのも、な」
「私が氷像にした? 違う・・・・・・私にそんな力はないよっ!!」
「いいや、ある。なぜならお前は私の娘だからだ。私も大学で教授をする傍ら、長年に渡りエイジャと戦ってきた。無論、私だけではない。ここアメリカには、エイジャと戦う三大組織の一つ、“魔女達の夜”がある。そこには、ヘファトも、そして私も参加している。ヒスイ、中学を卒業したらお前には魔女達の夜の本部、ヴァルプルギスに所属し、本格的にエイジャと戦ってもらう。だがその前に、自分の力を制御できるように、今の内から鍛錬を積んでいかなければならん」




「・・・・・・一人にして、お願い、一人にして、父さん」
「ヒスイ」
「ちゃんと・・・・・・明日から気持ちを切り替えて、ちゃんとするからだから、だから今日は、今日だけは、お願い、一人にして・・・・・・」
「・・・・・・分かった。ゆっくりと休み、そして平穏な日々に別れを告げなさい」

 静かにそう言って、ヌアダが出ていく間、ヒスイは何かに耐えるようにベッドカバーを両手で強く掴んだ。震える彼女の手の甲に、ポタリ、またポタリと何かが落ちる。


「ぅ、うう、うううううううっ!!」



 端から血が垂れるほどに唇を噛む少女のその口から、唸り声に似た悲鳴が漏れる。友を、仲間をすべて失った悲しみか、それとももう平穏な日常に戻れないことへの哀しみか、




 少女はその日、声に出さずに、ただただ泣き続けた。










 次の日から、ヒスイの生活は一変した。まず、長い髪では戦闘に不利という事で、首のあたりでばっさりと髪を切られた。そして化粧は禁止、動きやすくするためにスカートも禁止され、起き上がれるようになり、ある程度体力が回復して動けるようになると、以前行っていた鍛錬が単なる遊戯に思えるほど厳しい鍛錬が待っていた。朝は日が昇る前から木刀で腹を突かれて起こされ、その後数十キロに及ぶランニング、それが終わったら数時間にわたる打ち合い、無論、ただの打ち合いではない。重い鉄棒を持ち、油断するとさすがに急所は外すが、殴られて気絶し、また水をかけられて起こされ、日が暮れるまで打ち合いを行い、睡眠中も数日おきに木刀で腹を殴られて悶絶する。打ち身に擦り傷、切り傷に加え、体中は湿布だらけ、骨折をしたときはさすがに体を動かすことはなかったが、今度は文字通り机に縛られて座学によりエイジャの種類、彼らの使役するスフィルへの対処法、魔女達の夜の歴史・装備・関係する組織、他の組織である日本の高天原、欧州の北欧同盟に関する記述などを徹底的に頭に叩き込まれた。それは夏休み明け、二学期に入り彼女が特別クラスに編入されてからも続き(むしろ時間が取れなくなった分、密度が膨れ上がった)、それら鍛錬に体が慣れ始めた時、“緑界の征服者”の下部組織“レッド・ドラゴン”が起こした大量の拉致事件から、すでに数か月が過ぎていた。





「ああ、ヒスイさん、ちょっとよろしいですか」
「・・・・・・はい、何でしょう、先生」





 その日、帰り支度を進めていたヒスイは、担任である女教師に呼び止められた。髪の毛をきつく結い、眼鏡をかけた三十歳ほどのこの教師は、魔女達の夜から講師として派遣されている教官の一人であり、立場でいえばヌアダの部下になる。また、怪我で引退するまでは第一線で活躍する魔器使の一人でもあった。そのため、他の教師が恐れる包帯だらけ、湿布だらけの少女を見て怖気づくことなく接することができるため、彼女の担任になったのである。


「まだ帰らないでください。これよりヌアダ教授がお迎えに上がります。何でも用事があり、ともに来てほしいとか。お父上が来られたらお呼びいたしますので、しばらくお待ちください」
「はあ、分かりました」



 教科書やノートをバッグに入れ、帰ろうとしていたヒスイは、彼女の言葉に頷くと、自分の席に再び腰かけた。




「・・・・・・けっ、一人ばかり特別扱いかよ、さすがに四大教授の娘さんは違うねぇ」
「おい、やめろって。お前もうわさで聞いてるだろ? 数か月前に起こったエイジャによる拉致事件。それを解決したのが彼女だって噂だ」
「けどそれっておかしくない? その事件なら私も知ってるけど、獄界最強と言われる竜型のエイジャが相手だったんでしょ? 彼女に何かできるとは思えないけど」
「・・・・・・ま、噂は噂ってことか」





 彼女が所属する特別クラスにいる、他の生徒のひそひそと話す声が聞こえる。エイジャという存在を知り、将来魔女達の夜で働くことを決めた彼らにとっても、ヒスイは異質な存在であるらしい。まあ、全員が全員魔器使になるわけではないのだから、当然と言えば当然だろう。彼女が編入されてからすでに数か月がたつが、その間、まともに会話したのは片手の指で足りるほどであり、皆教師同様少女を恐れ、遠くから眺めるだけであった。


「・・・・・・」



 三十分後、ひそひそと話しながら遠巻きに眺めるクラスメートに、ヒスイがうんざりし始めた時である。





「ヒスイさん、ヌアダ教授がお見えになりました。玄関までお越しください」
「あ、先生、分かりました」


 入り口から顔を覗かせた担任の声に、ヒスイはバッグを肩にかけると、重たい空気が流れる教室を、さっさと出て行った。










「これから向かうところは、魔女達の夜が所有する工房の一つだ」
「工房ですか?」



 助手席にヒスイを乗せ、ヌアダはむっつりとした顔で行き先を告げた。確か骨折した時、痛みに顔をしかめながら聞いた座学の中に、工房という言葉があった。確か


「魔器使が使う魔器のほか、補助するためのホムンクルスを作ったり、既存の兵器に刻印を刻み、対エイジャ用の兵器として改造する場所ですね。そんなところに、何故私が?」



 魔器使としての鍛錬が始まってからしばらくして、彼女はヌアダに対し敬語で話すようになった。別に父からは何も言われていない。だが、命がけの鍛錬を始めてから、ヌアダを父と思って甘えてはだめだと、自分に言い聞かせたためである。


「それは着いてから分かる。それより、なぜ目隠しをされているか分かるか?」
「敵に掴まった時、私から情報が漏れないようにするためです」


 ヌアダが運転する車に乗ってすぐ、彼女は渡された黒い布で目隠しをされた。これは万が一彼女が敵に掴まって拷問を受け、魔女達に関する情報を聞き出そうとしたとしても、元々分からなければ情報を引き出すことはできないという考えからである。両目を布で覆ってすでに一時間ほどが経過していた。その間、ヌアダの運転する車はグネグネと曲がりながら進んでいき、やがてゆっくりと停止した。


「着いたぞ、目隠しをしたまま降りなさい」
「は、はい」


 暗闇の中、手探りで車のドアを開けて外に出ると、少女の手がヌアダに掴まれた。彼に手を引かれて十分ほど歩いただろうか。ガコガコという歯車の音と、プシューッという蒸気が噴き出す音が充満する空間を通り抜け、機械の音が完全にしなくなった時、ヌアダはゆっくりと少女の手を離した。

「ここだ、目隠しを取りなさい」
「はい」


 ヌアダに命じられ、ヒスイはゆっくりと目隠しを取った。最初に目に飛び込んできたのは、星が瞬く夜空だ。冷たい風が吹くのは、おそらくここが山の中にあるからだろう。目隠しを取ったのを見届けると、ヌアダは隅の小屋に向かっていく。大股で歩くの彼に遅れまいと、ヒスイは少し早足でついて行った。




「ヘファト、いるか?」
「おう、遅いじゃねえかヌアダ、それにヒスイの嬢ちゃんも。やっと来たか」
「ヘファト叔父様!?」

 隅にある小屋の中は、汗ばむほどの熱気に満ちていた。隅に巨大な炉が設置されているためである。その炉の前でずれた鉄の前掛けを着込み、金槌を振るっている髭面の男を見て、ヒスイは思わず叫び声を上げた。彼はヌアダの旧友で、時折家に遊びに来ては父と共に釣りをしたり酒を飲んだり、自分を抱き上げてそのチクチクするひげで頬ずりしたりする、どこにでもいる“親父”だったのである。

「おいおい、何を驚いてんだ? こいつの同僚だから、俺がここに居てもおかしくねえだろうが」
「は、はい。けど叔父様は魔器使とばかり思っていましたので」
「はっ!! まあ、確かに若ぇ頃は無茶やったりもしたがな、今はさすがに体が追い付かねえよ。さてと、嬢ちゃんも来た事だしさっさと始めるとすっか」
「へ? 始めるって、何をですか、叔父様。それにマーク達はどこです?」
「ああ、マーク達にはちょいとまきを拾いに行ってもらってるのさ。鍛冶に使う火は、気化石では火力が少々足りねえからな。さ、ヒスイ、利き腕だしな」
「は、はい」

 強面の大男に言われ、ヒスイはおずおずと右手を出した。と、右腕をバッと掴まれる。別に恐怖はない。自分が物心ついたころから傍にいた、祖父のような男だ。ただ、何をするのか気になるだけである。首を傾げるヒスイの前で、ヘファトは包帯や湿布まみれの腕をじろじろと眺めると、今度は手の甲に視線をやった。


「ったく、ちゃんと食ってんのか? ガリガリじゃねえか。まあいい、この太さなら剣は無理だな。重さに振り回される。槍も無理か。突き刺すためには力がいるからな。なら技量を必要とする武器・・・・・・」

 手の甲を握ったまま、何かぶつくさと呟き始めたヘファトを、ヒスイが心配そうに眺めると、ああ、と顔を上げたヘファトは、今度は左腕を掴み、また手の甲を見た。

「ヒスイ、おめぇ弓や銃は使いたいか?」
「え? いや、別に・・・・・・」
「んじゃだめだな。というか、飛び道具は懐に入られれば終わる。ならやはり接近戦用の魔器の方がいいか、接近戦で、技量を使う物・・・・・・刀か」
「刀、ですか?」

 その時、ふとヒスイは不思議な光景を見た。それは、太刀と小太刀を振るって、敵をなぎ倒す自分の姿だった。


「ほう、見えたか。んじゃ刀で決まりだな」
「え? あの、決まりってどういう事ですか? それに、私は一体何をしにここまで」
「はぁっ!?おいおいヌアダ、何も説明していねえのかよ。ったく、しょうがねえなあ。んじゃ、一から説明してやるか」

 ヒスイの手を放し、着ている鉄の前掛けのずれを直すと、ヘファトは腰に手をやった。


「ヴァルプルギス四大教授の一人、マイスター・ヘファトだ。仕事は主に魔器使が装備する魔器の作成。ヒスイよ、お前さんが鍛錬の時に使っている木刀も、俺が片手間に作ったやつなんだぜ。まあ、改めてよろしくな」
「魔器の作成? あ、じゃあもしかして私がここに来たのは」
「おう、おめぇさんの魔器を作るためさ。自分に合う魔器を考えると、そいつには自分が魔器を振るう未来が見える。まあ、簡単に言えばしっくりくるってことだな。それじゃ、これで終わりだ。ちとヌアダと話があるから、ヒスイは先に小屋の外で待っててくれ」
「あ・・・・・・はい」


 ヘファトに言われたヒスイは、ヌアダが微かに頷いたのを見てヘファトに一礼し、小屋を出ていった。少女を見送り、ヘファトはちっと強く舌打ちしてしゃがむと、金槌に手を伸ばした。


「すまんな」
「別に謝られることじゃねえ。しかし、何だって嬢ちゃんの身体をあれ程まで痛めつける?まだ十三の餓鬼だろうが」
「十三の餓鬼だからなんだ? それが理由でエイジャが手加減してくれると思っているのか? エイジャとの戦いで死ぬより、今つらい思いをした方がいい。そして、誰かを恨みたくなったら、私を恨めばよいのだ」
「・・・・・・そうかい。それで、話は変わるが本当にいいんだな」
「ああ、やってくれ」

 ヘファトの問いに頷くと、ヌアダは右手を前に出した。と、その手にいつの間にか鞘に入れられた長剣が握られている。

「んじゃ預かるぜ。これがクラウ・ソラス、ダナン族に伝わる秘宝か。前説明した通り、まずは神棚にマーク達が持ってきた薪と共に一か月飾ってその後打ち直す。これだけの代物だ。俺でも打ち直すのに半年はかかるし、その後に魂、つまり“魔核”を込めなきゃならん。そうしないと、魔器は成長しねえし、本来の力を発揮できねえ。ま、出来上がるまで一年は軽くかかるぞ。その間にヘルメスの工房・・・・・・研究所に行って、ホムンクルスでも作ってこいや」
「そうだな、ヒスイと共に戦ってくれるホムンクルス、その進捗状況を見てくる」
「おう、さっさと出てけや、親馬鹿」


 こちらを見ず、手を振って見送るヘファトを見て、僅かに笑みを浮かべると、ヌアダはヒスイに合流するため歩きかけ、ふと、隅にある長い包みに目をやった。


「・・・・・・これの次の担い手はまだ見つからないか」
「あ? ああそれか。駄目だな、誰が握っても、“中に入る奴”がうんともすんとも返事をしやがらねぇ。クラウ・ソラスの代わりに使ってみるか? ヌアダ」
「・・・・・・いや、私でもたぶん無理だろう」

 そう呟くと、ヌアダは包みに近寄り、包んでいる布を僅かに開いた。中にある刃が、数年の間放置されているにもかかわらず、力強い光を放っている。




「・・・・・・ヘファト、これの前の持ち主だった、エオメルを覚えているか?」
「あ? 当たり前だろうが。あの馬鹿野郎、生まれたばかりの赤ん坊残して死んじまいやがって」
「そうだな。彼は私の弟子の中でも、特に正義感が強く、そしてまっすぐな青年だった。だが・・・・・・だからこそ引き際というのを分からなかった。最期のその時まで、な」

 刃をなぞりながら、ヌアダは過去にこれを使っていた青年が、自分の制止も聞かずにエイジャの群れに一人で突っ込んでいった時の事を思い出し、軽く息を吐いた。

「恐らくこの中に入る魔・・・・・・インドラは、エオメルに操を立てているのだろう。ならば好きに眠らせておけ、その身が朽ち果てるまでな。それでは失礼する、さすがに待たせすぎるのは、身体に悪いからな」


 布を戻し、悲しげに眼を細めると、彼は今度こそ小屋の外へと出ていった。
 



















 そこは、巨大な試験管がいくつも並んだ部屋であった。試験官の中には、鳥や犬、猫、鼠などの動物が一匹ずつ収められている。と、試験管に入れられている鳥の身体がいきなり崩れた。そして、それを始めとし、試験管に収められた、全ての小動物の身体が崩れ、腐敗していく。


「ああもう、また失敗だわっ!!」


 
 不意に、暗い部屋の奥で女の声がしたかと思うと、部屋に明かりが灯り、ヴーンという音を立てて、辺りに冷たい風が流れ込んできた。



「最悪ね、成功率が二割に満たない。やはりヌアダなんかに壊滅させられた研究所の所々欠損したデータじゃ無理か。となると一から研究したデータがほしい。しかしそれには小動物での実験だけでは不十分、人間を使っての研究データが・・・・・・けど、いくら戦力増強のためといっても、“再生計画”のせいで合意のない人体実験は禁止されている。志願してくれる人でもいれば話は別だけど・・・・・・くそ、八方ふさがりね。これじゃあ今提出している魔器の量産計画についても却下される可能性が高い。ああ、嫌になるわ、ホント」

 明るくなった部屋の奥から、よれよれの白衣を着た女が一人、ふらふらとした足取りで出てきた。三十代後半ほどの女は、だが目に隈ができ、肌も乾燥しているためか、四十歳にも、五十歳にも見える。壁にかかっている鏡に映った自分の姿を見て、彼女は強く舌打ちした。

「ちょっと、“この身体”もう駄目じゃないっ!! 予備がもうそんなにないというのに・・・・・・仕方ない、また化粧でごまかすしかないか」


 苦々しい表情を浮かべ、女―ヴァルプルギスの四大教授の一人、ヘルメスが化粧台に行こうとしたその時である。



 壁に備え付けられたブザーが、彼女への来客を告げた。








「悪いわねこんな格好で。それで、いったい何のようかしら」

 数分後、ヘルメスはよれよれの白衣姿のままで、二人の来客者と向かい合っていた。一人は先ほど自分が名前を挙げた同僚であるヌアダ、もう一人は包帯と湿布をこれでもかと巻いた一人の少女である。確か、ヌアダの娘でヒスイといったか。面識のないヘルメスの視線に気づかず、その少女は、立ち並ぶ巨大な試験管の中にある腐敗した小動物を見て、顔を強張らせていた。



「確か以前話したと思うが? 娘が今度魔器使になることが決まったのでな、今のうちにホムンクルスを持たせ、心を通わせてやりたい・・・・・・まさか、出来ていないのか?」
「あのね、持たせたいって簡単に言うけど、ホムンクルスを作るのがどれだけ大変か理解してる? 嘆きの大戦後の魔女狩りで、錬金術や魔女の残した使い魔作成の類はそのほとんどの資料が葬られて、ほとんどゼロからの出発の上に、参考になるのが、あんたが壊滅させた再生計画の資料だけじゃ、いくら私でも成功確率は二割に届かないわよ。とにかく、まだ完成していないわ。出来たら連絡するから、さっさと出てって頂戴」
「分かった、なら完成したら連絡をくれ、行くぞヒスイ」
「・・・・・・あ、は、はい。あの、失礼します」



 ヌアダとヘルメスの会話中も、腐敗が進む小動物をどこか憐れみを込めた目で見つめていたヒスイは、父の声にはっと我に返り、一礼すると彼の後に続いて出ていった。







「・・・・・・くそっ、何様なのよ、あいつっ!!」


 ヌアダ達が出ていったのを確認した後、ヘルメスは近くの壁を叩きつけた。ゴキッと手首がひねる音がしたが、どうせこの身体は“作り物”だ。痛くもかゆくもない。


「忌々しい、忌々しい・・・・・・どいつもこいつも忌々しいっ!!」


 だが、彼女の精神はそうでもなかったらしい。近くにある物を手当たりしだいに投げ飛ばし、部屋の中をめちゃくちゃにすると、彼女は壁に付いているボタンを殴りつけた。ゴゴッと音がして、試験管の中にある液体が、腐敗が進む動物の身体ごと地下に吸い込まれていく。



「はっ!! 思い知ったか・・・・・・ひっ!?」


 動物の身体が粉々になり、吸い込まれていったのを見て笑みを浮かべていたヘルメスの身体が、次の瞬間凍りついた。先ほど壁を殴りつけた手が、グズグズと崩れ出したためである。


「何で・・・・・・なんで私ばかりこんな目に合うのよっ!!」



 もはや手だけでなく、腕まで腐り始めたヘルメスは、無事な方の手で腐敗した方の腕を抑えながら、研究室を走り去っていった。








「やれやれ、なかなか予定通りには進まぬようだな」






 ヌアダ達とヘルメスの様子を見て、宙に浮かんでいるコキュートスは苦笑して呟いた。無論、彼女の姿は誰にも見えていない。この研究所には、エイジャを感知する装置や、何人かの魔器使が駐在しているが、彼らを欺くことなど、彼女にしてみれば児戯に等しい。



「これならば期限を設けたほうがよかったか? まあ、見ているだけで退屈しのぎになるし、それはそれでいいのだが、それにしてもヌアダの奴、小娘に化粧もさせずスカートも履かせず、女の命である髪型すら自由にさせんとはな。奴は根っからの戦士だから、女心を理解しろというのも無理な話か・・・・・・しかしこれでは、魔器の方はともかく、私が入る肉体とやらは当分先になりそうだな。そもそも」


 空になった試験管を見て、真理の探究者の異名を持つコキュートスは不愉快そうに眉を顰めた。


「たとえ死んでいたとしても、身体を玩具のように使われた動物が、ホムンクルスになることを承知することなどあるまい。使い魔の作成とは、そもそも心を通わせねば成功などしないのだ。もし成功する者があれば、それはもともと意志が希薄だからなのだが、それでは良い使い魔は決して出来まい・・・・・・それにしても、あの老いを恐れる売女、まさか実験に使った動物の死骸を流してそのままにしているのではあるまいな。流された死体の数は、百や千ではなかろう、確実に万は超えているはずだ。その憎悪や恨みが極限にまで達した時、果たして何が起こるのだろうな」





 不意に、コキュートスは何かを憐れむような表情をしたが、それは本当に一瞬だけであり、次の瞬間、彼女は青いドレスを翻し、虚空へと姿を消した。





 その数秒後、誰も居なくなった研究室に、再び来客を告げるブザーが鳴り響いた。
















 “それ”は、暗い地下の空洞でうっすらと目を覚ました。



 周囲は粘つくような濃い闇だ。その闇の中、強烈な臭気と共に、何かが高く積まれている。だが、“それ”はその何かには興味を持たなかった。なぜなら“それ”の心を占めているのはただ一つ、自分がなぜここに居るのかという疑問だった。





 “それ”の最後の記憶は、燃え盛る炎であった。その炎に、大切な家族が皆飲み込まれていく。そして、自分の前に迫る巨大な手、そしてその手は言ったのだ。確保した、と。


 それからすぐに激痛と共に意識がなくなり、目が覚めたらこのような場所にいたのだ。




 何があったのかはわからない。ただ、“それ”は自分の胸を支配しているものの正体に気付いた。




 その正体とは、自分の家族を奪った誰かに対する、果てのない憎悪であった。


 己の感情に突き動かされるように、“それ”は、かつて美しかったであろう、現在は腐り果てた黒い毛皮を持つ雌猫は泣く。その泣き声に呼応するように、周囲に積まれた物、すなわち臭気を放つ動物の死体は、ピクリと動いた。











 ヘルメスの研究所を訪問してから、さらに数か月の月日が流れた。その間もヒスイがやることは同じだ。鍛錬、座学、そしてまた鍛錬。だが、身体から包帯や湿布が取れた頃には、もう肉体を痛めつけるような鍛錬はなくなっていった。
 変わりに、ヌアダはヒスイを実戦に連れて行くようになった。といっても、大規模な戦闘や、かつて彼女が拉致された領域には連れてはいかず、小規模な戦闘、それも物言わぬ下級のエイジャと魔器使の戦いを、遠くから見るという物であった。最初は恐怖と緊張で体を震わせていたヒスイが、徐々に恐怖を感じなくなると、今度は実際に戦いを経験させた。もちろん、最初の相手はエイジャではなく、エイジャが生み出し、群れからはぐれたスフィルの幼体が相手だった。
 どんなに小さい相手であろうと、初めて命のやり取りをするときに怯えない者などいない。実際、ヒスイは自分が戦闘中、何をしたのか覚えていなかった。彼女がおぼえているのはたったの二つ、小さな丸いスフィルがぶつかってきた時に感じた激痛と、魔器代わりにいつも鍛錬で使っていた木刀をめちゃくちゃに振り回した、ただそれだけで、自分がいつスフィルを倒したのかすら、少女には分らなかった。

 だが、その戦闘を終えた後は上手くいった。確かに最初の頃はたった一体の小さなスフィルにも手こずり、何度か攻撃を受けたが、徐々に相手の攻撃を避けたり、受け流したりして倒すことができるようになり、いつしか小型のスフィルであれば複数体相手にしても、片手間で倒せるようになっていた。
 そこまで来ると、今度は幼体ではなく、成長した獣型のスフィルが少女の相手になった。狼の姿をしたスフィルは、無論今まで相手をしてきた小型のスフィルとは違った。まともに受ければただでは済まない鋭い牙と爪を持ち、ジグザグに素早く動いてこちらの攻撃を避け、逆に食らいついてくる。だが、戦いを続けるうち、それまで叩きのめすだけだったヒスイの動きは滑らかになり、相手に攻撃すると見せかけて逆に相手の反撃を避けるなど、絡め手も使えるようになっていった。






「ほう、随分と戦えるようになったではないか」
「・・・・・・なんだ、まだ準備は整っていないぞ、コキュートス」





 その日、洞窟内に潜む多数のスフィルをヒスイ一人に倒しに行かせ、入り口に止めた車で待機していたヌアダの耳元に、ふと、笑う女の声が響いた。


「なに、少々退屈だったのでな。しかし、これだけ戦えるようになって、さらに魔器が加われば、我の力などいらぬのではないか?」
「いや、ヒスイが戦えているのは、あくまでも自分の意思をほとんど持っていない、霞のような相手だからだ。それに、絡め手も多少使えるようになってきたが、ヒスイの動きの大半は直線的だ。それでは、知恵持つエイジャが相手では一蹴されるだろう。だからこそ、お前の力を貸してほしいのだ」
「ふん、言いたいことは分かった。だが貴様があてにしている我の肉体代わりのホムンクルス作成、どうやら難航しているようだぞ? そもそも、あの売女のやり方ではろくなホムンクルスは作れんがな」
「・・・・・・」
「それに対して、貴様のクラウ・ソラスを原料にした魔器の方はそろそろ出来上がるだろう。我の力を借りること、もう一度考えてみたらどうだ? おっと」

 そう言い放ち、助手席に座っていたコキュートスはふっと掻き消えた。洞窟の中に巣食うスフィルを全滅させたヒスイが戻ってきたためである。


「ご苦労、どうやら一撃ももらっていないようだな」
「はい、数は多かったですが、小型のスフィルなど何体居ても相手になりませんし、獣型は群れから切り離して一匹ずつ戦う様にすれば、さほど苦労せずに勝てるようになりましたか「慢心するな」う・・・・・・」


 ヒスイの言葉を、ヌアダは静かな口調で遮った。



「慢心するな。お前が戦えるのは、あくまでも相手がスフィルだからだ。それに、成体のスフィルには、お前が今まで相手をした獣型以外に、二つの形状がある。まあ、今はまだ会うことはないとは思うが。それでも、慢心は油断に繋がり、油断は死につながる。己の力を過信し、油断してスフィルに殺された魔器使を、私は何人も見てきた。その中の一人になりたいのか?」
「い、いえ・・・・・・すいませんでした」
「分かればいい。悩み考え、そして動け。帰るぞ、シートベルトをしなさい」


 ヒスイが素直に謝ったため、会話を終えたヌアダはいつも通りむっつりとした顔で車のエンジンを発進させた。







 プルルルルルルッ、プルルルルルルッ


 帰宅し、軽い食事と入浴を済ませると、ヒスイは最近日課になっている電話をかけた。だが、いつも通り連絡しようとした相手からの応答はない。彼女が連絡を取ろうとしているのは死んだネリーの弟であるスヴェンだ。最後に会ったのは、もう半年近く前になる彼女の葬式の時である。その時は泣きはらした真っ赤な目とは反対に、肌を青白く染め、まるで死人の様な姿で何も言わずにこちらを睨みつける少年の視線を逃げるように避けてから、最近まで忙しい鍛錬を理由に少女はスヴェンと連絡を取ろうとはしなかった。しかし、母から最近スヴェンの様子がおかしいと言われた彼女は思い切って連絡を入れてみたのだが、何度かけてみても全く通じなかった。一度、家の方にも行ってみたが、豪邸だが人のぬくもりなど全く感じさせない、威圧感を与えるような家には、だが今は誰も住んでいなかった。


「・・・・・・どこへ行ったんだ、スヴェン」


 どんよりと曇る空を見上げ、ヒスイはさびしげに呟いた。




















「あは、あははははは、あはははっ!!」



 少女が少年を思って曇り空を眺めていたその時、暗い研究室の片隅で、ヘルメスは高笑いをあげていた。それほどまでに最近運が向いてきたのである。



「いやぁ、ホントあの餓鬼のおかげで研究がはかどるわ。人体実験に志願してくれたおかげで、いろいろとデータが取れたし、それによりホムンクルス製造の成功確率、性能共に向上、私の“予備”の肉体も数が増えたし、まさに万々歳ね」

「・・・・・・ッ・・・・・・ッ!!」

「あら? 何よ、苦しいの? けど頼み込んできたのはあんたの方じゃない。自分の身体を好きに使っていいから、姉を殺したレッド・ドラゴンを倒すための力をくださいって」

 笑いながら立ち上がると、ヘルメスは傍らにあったメスを手に取り歩き出した。途中、邪魔な空籠を蹴り飛ばし、“彼”がいる隣の部屋に向かう。

「ま、恨むなら一人だけ生き延びたヒスイを恨みなさいな。明日はいけ好かないヘファトの工房に行って、既存兵器に刻印を施さなきゃいけないから、その分今日の実験は特別よぉ? 何せあんたの脆弱な筋肉を全て抜き取り、ゴリラ千体分の力を持つ人工筋肉と取り換えるんですから。ああ、麻酔はしないわよ? そんな事をしたら筋肉の伸縮が正確に読み取れないんだもんねぇ」
「~ッ、ッツ~ッ!!」
「あはっ、あはははははははっ!!」

 ザシュ、ザシュッと何かを切り刻む音がする。それに合わせてくぐもった悲鳴と、ヘルメスの甲高い笑い声が響き渡った。




 その時である。彼女が先ほど蹴り飛ばして転がした空籠から、小さな黒い玉のようなものが転がり落ちた。それはコロコロと転がって、上に載っていた試験管が清掃のため取り外され、むき出しになっている排水溝に、吸い込まれるように落ちていった。


 
 ヘルメスが蹴とばした空箱の正面には、こう書かれていた。






『制御不能により廃棄決定、魔核“ティンダロスの猟犬”』と





















 粘つくような闇の中、周囲の万を超す腐敗した死体全てを取り込み、肥大したかつて黒猫“だった”者は、ずりずりと這いずるように地下空洞の壁を登っていた。だが、あまりに肥大しすぎた体では少し登っただけでずり落ち、少し登っただけでまたずり落ちていたが、それでもそれは登るのを止めなかった。“彼女”と、そして取り込まれた死体の中にある、強烈なまでの憎悪が突き動かしていたからだ。




 それは、登り始めてから数百回目にずり落ちた時だった。再び位置から登り始めたそれの上に、何かが落ちてきた。その何かは下にいる巨大な黒いそれの中にぐにゅりと入り込み、やがて核となっている黒猫に触れた。






 ドクンッ




 次の瞬間、“それ”はいきなり収縮を始めた。膨れ上がり、ブヨブヨとしたそれは何かに吸い込まれるように小さくなっていく。ものの数秒で、そこには元の黒猫の姿があった。いや、実際には元の黒猫ではない。腐敗した毛皮は元に戻り、肉体は中で何かが動いているかのように時折脈打ち、瞳は黒一色に染まっている。黒猫の形をしたそれは、頭上を見上げるといきなり跳躍した。先ほどの肥大した身体では到底できない動きと速度で、壁をどこまでも登っていく。と、その動きが急に止まった。壁の淵にたどり着いたのである。すぐ上は平べったい岩盤で覆われ、登る事も飛ぶこともできない。と、黒猫の背中がいきなり脈打ち、中から何本もの巨大な手が飛び出してきた。よく見ると、ネズミなどの小動物が無数に集まって出来たその手は、岩盤に張り付き、ペタペタと黒猫の身体を運んでいく。そして再び壁に付くと、巨大な手は背の中に引っ込み、黒猫は再び壁を登り始めた。







 地下空洞から、さらに狭い排水道を通り、排水溝から黒猫が顔を出した時、すでに日付は変わり、太陽が真上に来ていた。黒猫が顔を出したその部屋の中には、彼らを食うためでもないのに殺し、死体を地下に捨てた憎むべき女の臭いが充満している。その臭いに、黒猫の体の中に入る、万を超す動物たちがざわついた。




「・・・・・・ほう、これは面白い」


 そのざわめきを感じ取ったのか、虚空から誰かの声がした。黒猫が顔を上げようとすると、かつて誰かがしたように、その声の持ち主は黒猫の頭を優しく撫ぜた。




「万を超す憎悪の集合体が、魔核を取り込み進化したか。否、使われることのなかった魔核が、憎悪という身体を得て活動を始めたか・・・・・・まあ、それはどちらでもよい。お前の目的は自分達を実験に使った売女への復讐か?」


 黒猫が見上げるその先で、蒼いドレスを着た美しい女は、紫電の瞳をふっと和らげた。


「だが、例え魔核を得たとしても、今のままでは魔器使に滅ぼされて終いであろう。故に我が加護を授ける。ウィルヘルムに授けたほどに強固なものではないが、それでも並の魔器使の攻撃を無効化する効果はあろう。さあ行け、“万鬼の黒猫”よ。本懐を遂げ、この世界の主と驕り高ぶる人間どもに思い知らせてやるが良い」




 黒猫の首をくすぐり、コキュートスはふっと微笑した。




「自分達が、所詮この世界に生きる他の生物と、何ら変わりがないという事実をな」



































 ヒスイがその爆発音と、そのすぐに放たれた警報を聞いたのは、ヌアダとの鍛錬が終わり、久しぶりに訪れたヘファトの工房で、彼に作られている魔器の進捗状況を見ていた時だった。


「形はほぼ出来上がっている」


 身体中から汗を流し、巨大な金槌を休みなく振るいながら、ヘファトは擦れた声で言った。クラウ・ソラスを一ヶ月の間、炉を燃やす薪と共に神棚に飾った後、ヘファトは片時も休むことなく、愛用の金槌を振るい続けていた。そのためか太っていた彼の身体は今ではアバラが浮き出るほどガリガリに痩せており、辺りには垂れ流した糞尿の臭いが立ち込めている。




「魔器の作成とはな、ヒスイ、一度手を付けたら片時も休んじゃあならねえんだ。普段なら二、三か月ぐれえで出来上がるが、なるほど流石はクラウ・ソラスだ。金槌振るって約半年、ようやく形が整ってきたところだ」


 かすれた声で言いながら、それでもヘファトはにやりと笑った。足を負傷して現役を引退した彼にとって、魔器の作成とは敵と戦うようなものなのだろう。


「というわけでよ、見学していてもいいが、つまらなかったら魔器庫でも見ていきな。ああ、工場の方にはいかねえほうがいいぞ。さっきいけすかねえ女がやって来たからな」



「あ・・・・・・はい」



 ヘルメスの言葉に頷いて、ヒスイが立ち上がった時、






 ウーッ!! ウーッ!! ウーッ!!



「きゃっ!?」




 巨大な爆発音とともに、辺りの警報機が一斉に鳴り響いた。








「一体何事だッ!!」



 その日、工房を警備する魔器使であるオーロックは、突然鳴り響いた警報音を聞き、詰め所から飛びだした。警報が鳴っている正門に駆けつけると、そこはすでに全壊しており、周囲には魔器使ではない普通の警備員が、皆瀕死の状態で倒れていた。



「おい、一体何があった!!」
「あ・・・・・・ね、猫・・・・・・」
「何? 猫だと?」


 まだ意識が残っている警備員を抱き起すと、その警備員は微かに言葉を発して気絶した。彼の言葉にオーロックは眉を顰めたが、次の瞬間、バッと横に飛んだ。


 先ほどまで自分がいた空間を、黒い巨大な手が突き抜ける。それはオーロックの身体すれすれを向こう側の建物まで進み、その建物を包み込み、粉々に粉砕した。



「おいおい、何て威力だ」



 豪胆な性格のオーロックは、この時背中を冷や汗が流れるのを感じた。幸いなことに、あの建物は倉庫であり、中には誰もいなかったが、それでも並の攻撃で破壊されないように結界を施してあるのだ。だが、まさかそれが一撃で粉砕されるとはっ!!


「上級エイジャ並みの腕力か? だがやりようは幾らでもある」


 再び自分に向かってきた黒い手を、愛用している斧型の魔器で弾くと、オーロックはその内側にもぐりこみ、無防備な黒猫めがけて斧を振り下ろした。


「もらっ・・・・・・なにぃっ!?」


 だが、力任せに振り下ろしたその一撃は、黒猫に当たると、鈍い音を立てて弾かれた。


「ウソだろっ!? 俺の一撃は、決まれば鉄だって叩き割・・・・・・わぷっ」


 驚愕したオーロックは、だが最後まで話すことができなかった。攻撃した黒猫の身体がいきなり崩れたかと思うと、何百、何千もの黒いネズミの姿となって彼に覆いかぶさってきたからである。


「や、やめ、やめてくれっ、あああああああっ!!」


 体のあちこちに噛みつかれ、彼は絶叫を上げた。そのままであれば、数秒で彼は死んだことだろう。だが


『その辺にしておけ、こいつはお前たちの仇ではない。痛めつけるのは構わんが、殺すのは憎む相手ただ一人にせよ』

 頭上から響く声に、無数の鼠たちはオーロックを噛むのを止めた。鼠たちはオーロックの身体の上からぞろぞろと降りていき、最後の一匹が噛り付いていた鼻から口を放し、前足で軽く蹴り飛ばして飛び降りると、そこには全身を傷だらけにした魔器使が、息も絶え絶えの姿で横たわっていた。







「何なのこれ」


 爆発音と、それに続く警報により外に飛び出したヒスイは、目の前で繰り広げられる光景に唖然としていた。逃げ回る人々に向かって、地面を這う数千の黒いネズミが襲いかかっている。鼠たちが離れた後、そこには瀕死となった人間が倒れていた。


「えっと、とりあえず死んではいないんだよね」


 いつも持っている木刀を構え、倒れている人の救助に向かう少女を見つけたのか、黒いネズミの集団が襲いかかってきた。少女はぎりぎりまで動かずに群れの動きを見つめ、相手の攻撃が当たる寸前、さっと左に避けて木刀を叩きつけた。だが、


カンッ


「きゃっ?」



 先ほどのオーロックの攻撃同様、ヒスイの一撃も鼠たちには通用しなかった。固い手ごたえとともに、少女の手から木刀が離れ、くるくると草むらのほうに飛んでいく。一瞬ひるんだ鼠たちは、だが彼女の攻撃がこちらに聞かないとわかると、また群れを成して押し寄せて来た。慌てて避けようとしたヒスイは、次の瞬間、胸に走った微かな痛みに、対応が遅れた。そんな彼女に、先頭の鼠が飛び掛かる。

「ふんっ!!」


 しかし、その動きは、ヒスイの後ろからやってきたヌアダが振るった銀の籠手により、あっさりと振り払われた。到底勝てないと感じたのだろう、ネズミの群れはもはやヒスイとヌアダに襲いかかることなく、別の獲物を求めて去っていった。


「・・・・・・なるほどな」


 自分から逃れようとするネズミの一匹を生身の手で掴み、しげしげと眺めると、得心がいったのか、頷いてヌアダは鼠を放した。チィっと抗議の声を上げながら、鼠が駆けだすのを見届けると、ヌアダはヒスイに背を向け、すたすたと歩きだした。

「あ、待ってください、と・・・・・・先生」
「何だ、ヒスイ」

 相変わらず大股で歩く父に、少し早足で歩いて追いつくと、ヒスイはその横に並んだ。


「あの、彼らはエイジャなのでしょうか」
「・・・・・・なぜそう思う?」
「え? いいえ、どう見てもただの鼠ではありませんし、スフィルにしてはこちらの攻撃が全く効きませんでした。なので、スフィルより強いエイジャと思ったのですが、違うのでしょうか」
「・・・・・・違うな。ヒスイ、命令だ」
「は、はいっ」
 いきなり立ち止まった父の動きについていけず、少し前につんのめったヒスイは、彼の言葉にさっと姿勢を正した。

「ここにヘルメス教授が来ているはずだ。彼女を私の下へと連れてこい。それからマーク達を探し、ともに戦えない職員の避難誘導を行え。以上だ」
「は、はい。ヘルメス教授を探してきます。その後、マーク達と一緒に、職員の方々の避難誘導をいたします」

 自分の言葉を復唱し、一礼した娘が去っていったのを見送ってから、ヌアダはふと虚空を見上げた。その表情はいつになく厳しい。



「・・・・・・お前の仕業か? 女王」
「私の仕業? なぜそう思う?」

 

 周囲で人々が黒い鼠に襲われる中、ぽっかりと開いた空間の頭上に、蒼いドレスを身に纏ったコキュートスが、口の端を吊り上げる笑みを浮かべて現れた。むろん、その姿はヌアダ以外には見えていない。


「“彼ら”の首には、Hというアルファベットと番号が刻まれていた。間違いなく、ヘルメス教授がホムンクルスの実験に使用していた動物たちだ。彼らを一つにし、ヘルメス教授に対する復讐を囁いたのか?」
「なぜ我がそんな面倒なことをしなければならぬ? 彼の動物たちは自らの持つ売女への憎悪により一つとなり、天から偶然落ちてきた魔核によって力を得た。我が行ったのは、少々加護をくれてやった。ただそれだけよ」
「なるほど、通りで“固かった”わけだ・・・・・・彼らがほかの人間を殺さないのもお前の指図か?」
「まあ、こやつらが本気を出したら、恐らくこの国の半数は生き物の住めぬ地になるとは思うし、それも面白そうではあるが、その中には恐らく生前の彼らの飼い主も居よう? 我とて、全ての人間が動物を虐待しているとは思っておらぬ。彼らの核である黒猫も、元は心優しい人間達に飼われていたようだからな・・・・・・む、来たようだな」

「ちょっと、何なのこの騒ぎはっ!!」

 建物の奥から、よれよれの白衣を着込んだ“二十歳”ほどの女が歩いてくるのが見える。彼女に蔑視の視線を投げかけると、コキュートスはふっと虚空に消えた。それとほぼ同時に、周囲にいる黒い鼠の身体から、ざわりとした何かが滲みだしてきた。







「小娘に急用と言われてきてみれば、何なのこの騒動はっ」


 周囲で起こっている騒ぎを見て、吐き捨てるように叫ぶヘルメスに向かって、辺りに散らばっていた黒い鼠たちが一斉に襲い掛かる。自分に向かってくる鼠を見て不愉快そうに眉を顰めると、彼女は指にはめていた赤い指輪の一つを抜き取り、地に放った。



「燃えなさい、カス共」


 鼠たちが彼女に襲いかかるその瞬間、地面に転がった赤い指輪が爆発し、周囲を業火が包み込んだ。炎は十秒ほど燃えていたが、ヘルメスが指をぱちりと鳴らすと、ふっと掻き消えた。そして、炎が消えた後、そこには先程までいた無数の鼠は、もうどこにもいなかった。


「ふん、とんだ散財だわっ!! それで? これは一体何が原因?」
「・・・・・・こいつらに見覚えはないのか、ヘルメス教授」
「はあ? 見覚え何てあるわけないじゃない、虫けら風情に・・・・・・ああ、いや、ちょっと待って」

 自分の手勢がすべて焼き尽くされたのを見ていたのか、草むらの影から一匹の黒猫が、その背中から巨大な腕を生やして現れた。

「あの黒猫・・・・・・かなり強い魔力を持っていたから、飼っていた家族が火事で亡くなった後、瀕死でいたのを引き取ったんだったわ。ま、結局失敗しちゃったけどね。という事は、何? これはもしかして動物たちの復讐ってこと? 馬鹿馬鹿しい」


 小馬鹿にするヘルメスの言葉が聞こえたのか、黒一色に染まった瞳で彼女を睨みつけ、黒猫がその背に生えている巨大な手を伸ばしてきた。


「助けは必要か?」
「はぁっ? いらないわよそんなもん。さあおいでなさいな、力の差も分からない獣風情が。誰に喧嘩を売ったのか教えてあげるわ」

 


 






「さあ早く、こっちですっ!!」

 ヘルメス教授を見つけて何とかヌアダの所まで行かせた後、ヒスイはマーク達と合流して事務員や清掃員など、戦う事が出来ない人々を非常口から逃がす作業に追われていた。最後の一人が非常口から出たのを確認し、ほっと息を吐く。と、その背中がポンっと叩かれた。

「よ、お疲れっ!!」
「あ、マーク」


 振り返ると、同じく誘導を終えたマークが、手にジュースの入ったカップを二つ持って立っていた。ヒスイの顔を見て、にっと笑う。

「しかし、大変だったよなぁ、なんでも鼠の大軍が押し寄せて来たんだって?」
「う、うん」
「あ~あ、迷惑だぜ、全く。さっさと退治してくれないかねぇ」
「退治・・・・・・そう、退治、そうだよね」


 マークの言葉に微かに頷くと、ヒスイはズキズキと妙に痛む胸を抑えた。先ほど、鼠に木刀が触れた時から何かがおかしい。胸を何かが強く締め付けるのだ。それは、一言でいうならば、強い悲しみであった。


「・・・・・・マーク、あの子たち、本当に戦いたいのかな、もしかして、誰かに操られてるだけかも」
「あ? 誰かって、もしかして鼠たちの事か? まあ、小動物の群れだったからな。誰か操ってるやつがいるかもしれねぇけど、そいつはヌアダさんが倒してくれると思うぜ」

 ははっと笑いながら、マークはコップに口をつけた。そうだよね、そう呟いて、コップお僅かに持ち上げた時である。




 ドオンッという巨大な爆発音と共に、建物がびりびりと揺れた。



「うおっ、すっげぇ揺れ。こりゃヌアダ教授が本気出しちまったか?」
「う・・・・・・」

 まただ、何故かは知らないが、彼女の中に誰かの強い悲しみが流れ込んでくる。


「ま、この分じゃすぐに終わるだろうな。あ、そうだヒスイ、もしよかったら今度一緒に「ごめん」・・・・・・は?」


 話しかけてきたマークの声を遮るように、顔を伏せたまま少女は立ち上がった。立ち上がった時にこぼれたジュースになど目をやることなく、ヒスイは爆発音がした方へと走り出していった。









 憎い、苦しい、痛い、悲しい、憎い、悲しい、苦しい、悲しい




 「や・・・・・・」


 走り出したヒスイの胸に、先程と同じ感情が流れ込んでくる。それはもはや悲しみだけではなかった。彼らが感じている苦しみ、憎しみ、痛み、それらすべてが濁流のように彼女の中に押し寄せてくる。


「お願い・・・・・・と、まって」


 その感情の波に、百メートル走ったところで、ヒスイは胸を抑えてしゃがみこんだ。この感情をどうしたら消せるのだろう、なくせるのだろう。倒すのではだめだ。倒してしまっては、彼らは永遠に、この呪縛から解き放たれることはない。いつの間にか、ヒスイの目を、大粒の涙が流れていた。





「・・・・・・」


 しゃがみ込み、涙を流すヒスイを、コキュートスはただ黙って見下ろした。彼女がなぜこんな所でしゃがんでいるのか、女王には痛いほどよくわかった。恐らく、触れた相手のあまりにも強い感情が流れ込んできたのだろう。それは、かつてアリアもよくなっていた現象だ。彼女はそんな感情を気にすることなく敵を砕き、殲滅していった。だが



「・・・・・・たとえアリアのクローンといえど、未熟なお前にできないだろうな、小娘。己に流れ込んでくるその感情を無視し、敵を殲滅することなど」


 ふと、コキュートスはヒスイを優しげな眼で見つめた。


「ならば救って見せるが良い。憎悪に捕らわれた者たちのなにもかもを受け止め、そして救おうというのであれば、我はアリアの後継者としてお前を認めるとしよう・・・・・・ヒスイ」



 何もない空間に手を伸ばし、何かを探るような動きをすると、その手の上にいきなり何かが現れた。黄金に輝くそれを、コキュートスは静かに、ヒスイの横に転がした。





「・・・・・・え?」



 俯いて、涙を流していた少女は、ふと、自分の名を誰かが呼んだ気がして顔を上げた。だが、辺りを見渡しても誰もいない。その時、彼女の目に自分の傍らに転がる小さなそれを見た。金色に輝く、小さなその物体の名を、かつて父の書斎に会った図鑑を見て、ヒスイは知っていた。その音色を持って霊を鎮め、昇天させる、その物体の名は、すなわち





「・・・・・・金剛鈴」




 なぜそんなものがここにあるのか、少女には分らなかった。彼女が分かっているのはただ一つ、これがあれば、もしかしたら苦しんでいる彼らを救う事が出来るのかもしれない、という事だけだった。


 赤くなった両目をごしごしと乱暴に擦って、傍らの金剛鈴を握って立ち上がると、少女は再び走り出していった。






「やれやれ、これで終わり? ずいぶんと手こずらせてくれたわね」




 ぶすぶすと焦げる地面のその中央に横たわる黒猫を踏みつけながら、ヘルメスは己の身体から発生している火花を使って葉巻に火をつけ、一服した。



「ったく、単なる獣の分際で、私の操る“炎”に勝てると思っているのかしら?」
「・・・・・・やり過ぎだ、ヘルメス教授」
「はぁ? やり過ぎですって!?」

 彼女の出した“炎”により、辺り一面が焼け焦げた惨状を見て、ヌアダがむっつりと言うと、ヘルメスは黒猫を踏みつけながら、彼をじろりと横目でにらんだ。

「殺しに来た連中に加減してやる必要がどこにあるっていうのよ。恩には恩で、恨みには恨みで返すのが当然という物でしょう? おっと」



 不意に、踏みつけている黒猫の身体から黒い刃が左右に飛び出したのを見て、ヘルメスは慌てた様子もなく足を上げて飛びのいだ。先ほどまで出していた黒い手などより、明らかに殺傷能力が高いそれは、間違いなくこちらを殺そうという意思の表れであった。



「あらあら、“外側”の死骸が減ったから、魔核が焦りだしたという事かしら」
「甘く見るな。たとえ死体を失ったとしても、万を超える憎悪は決して消えてはいない。お前の戦い方では周囲に被害が出過ぎる。私がやろう」
「・・・・・・ああそう、まあ好きにしなさいな。私もこれ以上の散財はごめんだしね」

 葉巻を咥え、手を振りつつ下がったヘルメスの代わりに、ヌアダは体中から刃を生やした黒猫の前に立った。



「私には、お前たちの憎悪を取り払ってやることは出来ん。私にできる事は、もうお前たちの身体がだれにも利用されないように、灰も残さず消滅させることだけだ・・・・・・すまんな」


 普通の猫には到底出せないスピードで向かってくる黒猫の突き出す刃を、だがヌアダは真正面から受け止めた。黒い刃が彼の生身の手をずたずたに引き裂く。だが痛みなど感じていないのか、彼は表情を全く変えずに黒猫の腹を掴むと、義手を振り上げた。



「せめて苦しまないよう、一撃で眠らせてやる。安らかにとはいえんかもしれんが、眠れ」




 そして、彼が拳を振り下ろす、その寸前、




「待って・・・・・・待って父さんっ!!」
「っ!?」




 チリンッという小さな鐘の音色と共に、一人の少女が駆け込んできた。





「ヒスイ」
「お願い父さん、私に、この子たちと話をさせて」
「・・・・・・しかしなヒスイ、たとえ話をしても、彼らの憎悪が消えるわけではっ!?」

 娘の頼みに、困ったような表情を見せたヌアダは、ふと、彼女が右手に持っているものに気付いた。小さな金色の鐘、霊を鎮めるという金剛鈴である。それを見て、ふと、ヌアダは虚空を見上げた。


「・・・・・・いいだろう、だが、危険だと判断したらすぐに止める。分かったな」
「うん、ありがとう。父さん」



 チリンとなる鐘を持ち、少女が自分の前に立つと、ヌアダは黒猫を掴んでいた手をパッと開いた。自由になった黒猫は回りながら着地すると、敵わないヌアダを避け、下がったヘルメスを追いかけようと走り出した。

「待って」


 だが、その小さな体は、ふと抱きかかえられた。またあの男の仕業か? 焦った黒猫は、全身から再び黒い刃を出した。だが、






「ごめんなさい」






 チリン、チリンと鳴り響く鐘と共に、少女の声が、黒猫のすぐ頭上から響いた。







「ごめんなさい」





 刃で肌を切り裂かれ、血を流しながら、それでもヒスイは黒猫を抱きしめた。黒猫が振りほどこうと動くたび、刃はますます彼女に食い込む。だが、それでも少女は黒猫を放すどころか、ますます力を込めて抱きしめた。



「ごめんなさい、私には、それしか言えない。きっと、いっぱいいっぱい、痛かったんだよね、つらかったんだよね、なのに、私、何も知らないで、貴方達を、敵としか見てなくて・・・・・・ごめんなさい、ごめんなさいっ!!」


 謝る事しかできない少女に抱えられながら、いつしか刃を治めた黒猫は、じっと彼女を見つめていた。






 不意に、黒猫の中に眠る魔核は、自分の“身体”にある憎悪が薄れ、消えていくのを感じた。最初に消えていったのは、脆弱な意志しか持たず、群れとしてでしか使えない鼠たち、次に、猫や犬、鳥など、かつて人間に飼われ、彼らと家族であった動物たちの憎悪が消えていく。このままでは、恐らく憎悪によって繋ぎとめられた、全ての動物から憎悪が消え、身体を維持することが難しくなっていくだろう。ならば



 魔核は、黒猫の体内でドクンと一度大きく脈打った。



 ニャア



「・・・・・・え?」



 黒猫を抱きしめ、泣きながら謝罪を繰り返していたヒスイは、ふと聞こえた猫の鳴き声にハッと顔を上げた、身体から生えた刃を収めた、黄色い瞳と持つ黒猫が、自分の手にできた傷を舐めている。

「あ・・・・・・ああっ」


 “彼女”からは、もう憎悪は感じない。悲しみは感じない。あるのは、少女を傷つけてしまったという強い後悔の気持ちだけだった。


「ううん、私は良いの。私の方こそ、ありがとう。許してくれて」

 傷を癒そうと、必死になって舐める黒猫を撫ぜると、ヒスイはにっこりと笑った。





「・・・・・・甘いわね、あんたの娘」

 いつしか、葉巻を吸う事も忘れ、目の前で起こっている“奇跡”を眺めていたヘルメスは、手の甲にこぼれた灰にから伝わる微かな熱さに、はっと我に返った。

「そうだな、だが、その甘さこそ、私は彼女の美徳だと思っている」
「それが自分の娘を傷だらけにした人間の言う言葉? 言っておくけど、私は認めないわよ、あんな甘っちょろい魔器使なんて」
「・・・・・・“ジョージ”は認めただろうな」

「っ!!」

 呆れたように首を振って踵を返そうとしていたヘルメスの動きは、だがヌアダの口から出た一言でぴたりと止まった。

「あんた・・・・・・」
「ジョージが、お前の息子が生きていたら、今のお前を見てどう思うのだろうな。いや、彼が生きていたら、そもそもお前が今のようになってはいなかったか。少なくとも、実験に使用した動物の死体はしっかりと埋葬していたはずだ。それと、“スヴェンへ”の拷問の様な強化もしなかっただろう」
「・・・・・・あれはあの少年が望んだことよ。死んだ姉の仇を討ちたいって」
「そうだろうな、あの家では、スヴェンの味方はネリーだけだった。ザラフシュトラ副学長は、スヴェンを孫とは認めていなかったか「きゃっ」ヒスイ!?」


 地面を見つめたまま、ヘルメスと会話をしていたヌアダは、いきなり聞こえてきた少女の悲鳴に、はっと顔を上げた。


 抱きしめていた黒猫が突然苦しみだし、その口から何か黒い玉のようなものを吐き出したのを見て、ヒスイは思わず悲鳴を上げた。


 その黒い玉は、少女が見ている前でどんどん膨れ上がっていき、やがて牛ほどもある巨大な四本足の獣となった。その獣の形は、恐らく犬が一番近いだろう。だが、このような冒涜的成す阿多をしたものが犬であるはずがない。赤一色の瞳は側面に四つずつ付いており、口は耳まで裂け、鋭い何本もの牙の中に、さらに牙を生やしたもう一つの口が舌の代わりにだらりと垂れさがっていた。


「あ・・・・・・あなたはっ!?」


『・・・・・・フ、コフッ、コフッ、小娘、せっかくの“喜劇”を邪魔しおって』


 ヒスイの見つめる前で、冒涜の獣は口からだらだらと涎を垂らして笑った。


「喜劇? 喜劇ですって!?」


『さよう、喜劇。こやつらの中にある憎悪を膨らませ、屍が完全に朽ちるまで暴れさせる。その後、こやつらの憎悪を吸収して肉体を得ようと考えておったが、貴様のおかげで全て無駄となったわ』

「っ!!」

 その笑みを見た瞬間、ヒスイは理解した。目の前の相手に金剛鈴は効かないことを。だってこいつは誰かを恨んでなんかいない。他者を唆し、憎悪を植え付け、その憎悪を喰らう化け物なのだと。


『だがまあ良い、未だこの身体は不完全ではあるが、とりあえず形は成った。後は貴様を喰らい、その血肉を我が糧としてくれよう』

「ひっ!?」


 獣の口の中でだらりと垂れさがっていたもう一つの口が、まるで蛇のようにくねくねと動き回る。そのおぞましさに、ヒスイはこみあげてくる吐き気と恐怖で、小さく悲鳴を上げた。


「まずいな、あれは金剛鈴でどうにかなる相手ではない。さすがに私が出るしかないか」


 悲鳴を上げた娘を助けようと、ヌアダが駆けだす。だが、彼を横目で見た獣はにやりと笑うと、その身体をぶるぶると震わせた。


「ぬっ!?」


 獣の身体から、黒い粒が無数に這い出てくる。それは地面に落ちると鼠の身長まで膨れ上がった。形状は手足の生えたオタマジャクシのようだが、その丸い体には何本もの牙が生えた口がある。



『コフッ、コフ・・・・・・貴様はこやつらとでも遊んでおれ』


 獣がケタケタと不気味に笑うと、オタマジャクシが地面をはいずるように動きながら、ヌアダへと襲い掛かってきた。一体一体の個体は、ヌアダが義手を振るうと、その衝撃波で潰れるほどに弱いが、数が無数にいるうえ、潰れた個体からまた新たな個体が生み出されていくためきりがなく、さらに最悪なことに、それはヌアダだけに向かっていくのではなかった。



「ぬっ?」



 ヌアダに襲いかかっているのとは別の群れが、先程鼠の群れにかじられて倒れている職員に向かっていく。人を殺すなというコキュートスの命令はもう通用しないのだろう。オタマジャクシを振りほどきながら、ヌアダが駆けだそうとしたその時、



 オタマジャクシの群れは、地獄の業火によって焼き尽くされた。



「ヘルメス教授かっ!!」
「ふん、人のために作られた魔器に込めるはずの魔核が人を襲うですって? いったい何の冗談かしら」

 指の間に赤い石を挟み込み、身体から飛び出る火花で引火させ投げ飛ばすと、爆発と共に数百のオタマジャクシが燃え上がり、吹き飛ばされていく。

「私がホムンクルスを作っているのも、魔器の量産化を目指しているのも、全てエイジャから人を守るためよ。なのに人を殺そうとするなら、容赦はしないわ!!」



「どうやら、あちらは大丈夫なようだな。しかし」



 横たわる人々に殺到したオタマジャクシが、ヘルメスに焼き尽くされるのを見て、ヌアダはふっと息を吐き、銀の腕を振るった。その一撃で、さらに正面のオタマジャクシたちが粉々になっていく。だが、倒しても倒しても無数に襲いかかってくるオタマジャクシにまとわりつかれ、彼はヒスイの下へ近づけないでいた。


「くっ、ヒスイっ!!」







 ヌアダがオタマジャクシにまとわりつかれている間、ヒスイは獣の攻撃を必死に避け続けていた。

 獣は、爪と牙以外にも体中から刃を出すことができるらしく、しかもそれを自在に伸ばして逃げるヒスイを追いかけてくる。すべてを切り刻もうとする刃が体を掠めるにつれ、ヒスイの身体には切り傷が増えていった。



「あうっ!?」

 その長い逃亡も、どうやら終わりが近づいてきたらしい。足元にあった小石を踏みつけ、体勢を崩したヒスイの右足を刃が掠めた。その衝撃と痛みに、少女は地面に倒れ、ゴロゴロと無様に転がった。


『コフッ、コフ・・・・・・追いかけっこはもう終わりかぁ? なかなか楽しめたのに、もう終わりとはつまらんなぁ』


「くっ・・・・・・このっ!!」



 ニタニタと笑いながら近づいてくる獣に、ヒスイは無駄だとわかっていても金剛鈴を向けた。チリン、チリンと小さく鳴り響く鈴の音を聞いても、獣は何も思わないようであった。身体から生える刃を一本伸ばし、無造作に鈴を打ち払う。

「あ・・・・・・」


『コフッ、コフッ、それは所詮死んだものを鎮めるしか能のない鐘だぁ。だが残念だったな。儂はまだ死んでいない。それどころか、生まれてすらいないのだぁ!!』

  体から伸びる刃がヒスイに襲いかかる。だが、刃はヒスイを切り刻むことなく、その身体にまるでロープのように巻きつき、縛り上げた。


「くっ!?」



『コフッ、コフ、やはり糧とするには生きたまま丸呑みが一番。さあ来るが良い。そして、我が腹の中で永遠にもがき苦しむがよ・・・・・・ムッ?』


 冒涜の獣が、その口を開いた時である。ヒスイを持ち上げていたロープのような刃のすぐそばを、黒い小さな動物が横切った。その途端、彼女を縛っていたロープは、まるで紙切れのように切り裂かれ、地面に落ちた。



『貴様・・・・・・』

「黒猫? どうして!?」




 自分の前に、まるで守るかのように立ち、毛を逆立て、尻尾をぴんと伸ばし、体中から白く光る刃を出している黒猫を見て、ヒスイは思わず叫んだ。


「駄目よ黒猫、貴女はもう傷つかなくていいの!!」

「ニャーッ!!」
『ほう』

 ヒスイの悲痛な叫びに応えるように、一度大きく鳴くと、黒猫は目の前の獣に向かっていった。









「・・・・・・ちっ、まだ続いてやがるのか」


 外で大きな音がするたび、びりびりと震える小屋の中で、ヘファトは舌打ちをしながらそれでも金槌を振るい続けた。素早く打つのではだめだ。それでは、クラウ・ソラスの刃は歪みもしない。渾身の力で振るい続け、ようやく小太刀の長さまで出来上がったが、これではまだ使う事は出来ない。


「同田貫とまではいかねえ、せめてちゃんとした刀になるまで、たとえ死んでもやめねえからなっ!!」


 やせ細り、眼孔はくぼみ、だがそれでも休みなく金槌を振るい続けるヘファトの前で、その小太刀はカタリ、と微かに揺れた。








「ニャッ!?」

「黒猫っ!!」


 ヒスイを守るように、冒涜の獣に立ち向かっていた黒猫だったが、力の差を覆すことは出来なかったらしい。全身から刃を出して向かうたび、相手の身体から飛び出たより巨大な刃に切り裂かれ、それでも立ち上がってはまた切られ、それを何度繰り返しただろう、彼女の美しい毛皮はずたぼろになり、尻尾は力なく垂れ、それでも黒猫は向かっていくことを止めなかった。



『コフッ、コフ・・・・・・馬鹿なことだ。何度繰り返しても無駄だというのがなぜわからん。まあ良い、その傷では、これは避けれまいっ!!』

「に、ニィ」

 獣の身体から伸びていた刃が一つにまとまり、巨大な槍のような武器となって黒猫に襲いかかる。猫は全身から刃を出してそれを防ごうとしたが、槍は刃を砕き、黒猫の身体に深々と突き刺さった。



「黒猫ぉっ!!」



『コフッ、コフ・・・・・・こんなもの、腹の足しにもならんわ。そら、返してやろう』



 黒猫を持ち上げると、獣はその身体をヒスイへと投げつけた。自分へと飛んでくる黒猫の身体を抱きしめたヒスイの服が、猫のわき腹から流れる血でどす黒く染まる。



「・・・・・・・・・・・・」

『さあ、次はいよいよ貴様の番だ。そのまま動かずじっとしてやるが良い。もしやすると、わが体内でその獣と一つになれるやもしれんぞ?』
 

 その時、ぽつりと、息絶えた黒猫の身体に、一滴の水滴が零れ落ちた。それは、黒猫を抱きしめる少女の頬を伝って、後から後から黒猫の身体に零れ落ちる。


『さあ、これで終いだぁっ!!』



 再びばらけた無数の刃が、ヒスイに向かって伸びる。だがそれが目前に来ても、少女は全く動かなかった。





「・・・・・・・・・・・・い」




 その時、少女の口から、ぽつりと言葉が零れ落ちた。



『ぬ!?』



 少女に向かって伸びていた刃が、彼女から突如発せられた巨大な冷気によって弾き飛ばされる。獣は一瞬あっけに取られたが、ならばと今度は刃を纏めて、先程黒猫を貫いた槍の形にすると、再び少女に向けて伸ばした。





「・・・・・・さない、許さない」




 ふと、少女は右手を横に突き出した。その途端、先程よりも巨大な冷気が彼女の身体から迸る。



『グガッ!? き、貴様ッ!!』



「私はお前を、絶対に許さないッ!!」







「お、おいおい、こいつは!!」


 小屋の中、相変わらず金槌を振るっていたヘファトは、がっちりと固定しているはずの答申がいきなりガタガタと震えだしたのを見て、それでも金槌を振るいつつ、驚きの声を上げた。


「こいつぁ・・・・・・今までも何度かあったな。そうか、主人の、ヒスイの所へ行こうとしてやがるのか。だがなぁ、まだお前は作っている最中だ。嬢ちゃんの役に立つのはちと無理だぜ」

 ヘファトの言葉を聞いて、だが小太刀はより一層ガタガタと震えだした。


「・・・・・・くそったれ、しょうがねえ。分かった、ちょっと待ってろ」



 呆れたように息を吐くと、ヘファトは生まれて初めて“作成中”に金槌を放り出した。そして、小太刀を固定していた留め具を操作するハンドルをぐるぐると回す。自由になった小太刀は、熱も冷めぬまま、ひとりでに浮かび上がり、小屋の窓を割って外に飛び出していった。




「・・・・・・ふ、がはははははっ!! 相性の良すぎる魔器は、魔核を入れる前に、主人に応えて動き出すが、作ってる最中にそうなるとはな、さすがの俺も初めてだっ!! なるほどあの小太刀、嬢ちゃんとすこぶる相性がいいに違いねぇ」


 笑いながら大きく伸びをすると、ヘファトはおよそ半年ぶりに床に倒れ、そのまま大きないびきをかいて眠りだした。










 獣を睨みつけていたヒスイは、横に突き出した右手の中に、何かが入り込んだのを感じ、ぎゅっとそれを握りしめた。一瞬、手が溶けるような熱を感じる。だがそれは本当に一瞬の事で、彼女の中から吹き出す強烈な冷気により、すぐに熱さは収まった。右手でしっかりと握りしめたまま、それを前に持ってきて、今度は両手で握りしめる。



『コフフフッ、何かと思えば、そんな鉄の棒がいったい何の役に立つというのだ』


 少女から吹き荒れる冷気に、最初は驚いた獣も、だんだんとその冷たさに慣れてきた。彼女はただ冷気を身体から出しているだけで、制御も何もしていないらしい。この分なら、刃に頼らず、己の身体で襲いかかれば吹き飛ばされることもない。にやりと笑って刃を体に収めると、獣は鉄の棒を構えるヒスイに向かって走り出した。



「はぁ、はあ、はあっ!!」


 自分に向かってくる獣を見て、ヒスイは鉄の棒をぎゅっと握りしめた。彼女の中に渦巻くもの、それは怒りであった。獣に対する怒り、死んでしまった黒猫に対する怒り、そして何より、何もできない自分に対しての怒りだった。その怒りが、冷気となって外に飛びだしているのをヒスイは実感していた。だが、今の彼女には、とても制御できるものではない。逆にこの冷気の中を、獣は一直線にこちらへと向かってくる。けど、制御できないなら制御できないで構わない。絶対にこの“棒”で殴りつけてやる。そう決意したヒスイが、鉄の棒を振り上げた時である。




「・・・・・・自分の力を制御することもできぬとは、やはり未熟者よな」
「え?」


 耳元で、ふと、誰かが囁いた。



「ほれ、何を呆けている? 獣はすぐそこまでやってくるぞ? さあ、武器を構えなおせ」
「う・・・・・・う、うん?」


 誰もいないのに聞こえてくる声に戸惑いながら、言うとおりに鉄の棒を体の前に構えなおす。

「そうだ。次は身体から無造作に飛び出す冷気をコントロールせよ。といっても分からぬであろうな。自分の両腕を思い浮かべ、そこから冷気が飛び出すことを思い浮かべよ」
「え? 何、言って「早くせぬか、この未熟者っ!!」う・・・・・・」

 叱り飛ばされたヒスイは、声の持ち主に従って、自分の両腕から何かが飛び出す光景を思い浮かべた。すると、少しずつではあるが、無造作に放出されていた冷気が、彼女の両腕から鉄の棒に伝わっているように感じる。

「よし、良い調子だ。だが少々密度が足りんな。致し方ない、手助けしてやろう」

 その時、ふと、少女は自分の手に、冷たい誰かの手が触れたような気がした。




 その瞬間、彼女の両腕から冷気がまるで濁流のように飛び出し、鉄の棒を伝って巨大な氷の刃を作り上げた。


『な・・・・・・にィっ!!』

「く、あ・・・・・・お、もっ」
「それぐらい我慢せぬか。さあ振れ、お前の怒りごと、目の前の獣にぶつけてやるが良いっ!!」
「あ・・・・・・あああああああああああっ!!」


 その声に促されてか、それとももう持っていられなくなったのか、ヒスイは持っていた巨大な氷の刃を、獣めがけて思いっきり振り下ろした。


『ひっ・・・・・・か、身体が、う、動かんッ!!』


 逃げようとした獣の身体は、だが最初に襲ってきた冷気に縛られ動かなかった。そして、動かない獣の頭上から、氷の刃が無慈悲に振ってくる。それは切るというより、叩き潰す勢いで、獣に思いっきりぶち当たった。





 その瞬間、冒涜の獣の核である魔核は、跡形もなく砕け散った。





「ヒスイっ!!」



 体にまとわりついていた何千というオタマジャクシが消え、自由になったヌアダは、ヒスイに向け駆けだした。周りを包む白い靄を振り払うと、地面に倒れている少女の姿が目に映った。慌てて駆け寄り、脈を確認すると、弱いがしっかりと鼓動している。

「良かった、生きている」
「何が良かっただ、この戯けが」

 娘の無事を確認し、ほっと息を吐いたヌアダの頭が誰かに叩かれる。むっとしながら、それでも喜びを隠しきれない怒り笑いのような表情を浮かべて空を見上げると、蒼いドレスに身を包んだ氷河の女王が腕を組んで浮かんでいるのが見えた。

「コキュートス・・・・・・」
「この小娘、あまりに未熟すぎるぞ。怒りにまかせて冷気を放出したは良いが、制御できずにあたりに飛びちらかすだけ、我の手助けでようやく制御しても、収束能力が甘いせいで、溜めた冷気が漏れだし、見よ、軽い凍傷になっておるわ。他にも指摘するところが山ほどある・・・・・・これは、誰かがそばにいて指導してやらねば永遠に上達せんな」
「ふむ・・・・・・だがコキュートス、その言い方だと」
「ふん、我が指導するか? だがまだ“器”も用意できておらぬではないか。いや、ちょうど良い所に、ちょうど良い器があるな」

 脇腹を貫かれ、横たわる黒猫の死体を見て、コキュートスはにやりと笑った。
















「起きんか小娘、いつまで寝ておる」
「痛っ!?」

 結局ヒスイが目覚めたのは、それから三日後の昼だった。といっても、自然に目覚めたのではない、クカーッと小さくいびきをかきながら眠っていたところを、いきなり鼻を叩かれて起こされたのだ。

「も~、何なのよ一体っ!!」

 痛む鼻をさすり、ぼんやりとした意識のなか起き上がると、ヒスイはう~んっと大きく伸びをした。

「もう昼だぞ未熟者、さっさと着替えろ」
「いや着替えろって・・・・・・ん?」

 その時、ヒスイはふと、自分がどこにいるかわからなかった。確か自分はヘファトの工房で、獰猛な獣と戦っていたはずだ。なのに、なんで自分の部屋で眠っているのだろう。

「え? あれ? 何で? え、ちょっと、一体何がどうなった「うるさい未熟者」ちょ、何すんのよ、このっ!!」
「ふぎゃっ!?」
 訳も分からず辺りを見渡していたヒスイの頭がぺしぺしと叩かれる。それほど痛くないが、それでも叩かれ続けるとさすがにムカついてくる。自分を叩く相手の手を、ヒスイはばしっと両手でつかんだ。

「さあ捕まえた・・・・・・って、あら?」

 ふと、少女は目を丸くした。自分を叩いていたもの、それは黒い小さな猫の手だったからである。

「えっと、猫? 何で?」
「こら、放せ小娘」
「あ、ああ。ごめんなさい」

 手の持ち主に叱られ、ヒスイは呆然とその手を放し、ふと下を見た。彼女がいるベッドの横には、先程自分が掴んだ手を舐めている、小さな黒猫の姿がある。どことなく逆らってはいけない雰囲気を醸し出すその黒猫を見て、ヒスイは目を丸くした。

「く、黒猫!? あなたあの時の黒猫よね!? 何で人の言葉を話してるの? ていうか、なんでその前に生きてるのよ!?」
「ふにゃっ!? 持ち上げるな馬鹿者、降ろせ!!」



 体を持ち上げられ、黒猫はまたヒスイの頭をぺしぺしと叩く。だが、ヒスイは今度は降ろすことなく、自分が持ち上げた黒猫の、その紫電の瞳をしげしげと眺めた。



「ヒスイ、起きたのか? なら下へきて食事をしなさい」
「あ、はい、父さん」


 その時、二階での騒ぎに気付いたのか、階段を上ってきたヌアダが部屋をノックして声をかけた。その声に応えると、ヒスイは黒猫を抱えたまま、部屋のドアへと向かっていった。



「では改めて紹介しよう。ヒスイが眠っている間に、ヘファト教授が黒猫の身体を素材にして作り上げたホムンクルス、“キュウ”だ」
「ふん、未熟者に呼び捨てにされる筋合いはない。我の事はこれからキュウ様、あるいはキュウ先生と呼べ」

 三日ぶりの食事を終えたヒスイは、父から紹介された黒猫―キュウを、食後のミルクを飲みながらしげしげと眺めた。

「えっと、父さん、これが前から言っていたホムンクルス? ずいぶん口が悪いようだけど」
「おい小娘、誰が口が悪いだ。未熟者に対する言葉遣いなどこれで充分だ。馬鹿者め」
「む、また未熟者っていったな、この」
「ふにゃっ!? 脇腹をくすぐるでない、馬鹿者がっ!!」

 キュウの言葉にむっとしたヒスイが、こしょこしょと黒猫のわき腹をくすぐる。そのくすぐったさに、キュウはニャアニャア言いながら、反撃するように少女の顔をぺしりと叩いた。


「ちょ、また叩くしっ!! ていうか、あんたあの時脇腹刺されて死んだんじゃなかったの!?」
「馬鹿者め、あれぐらいで誰が死ぬか。まあ、確かに危なかったがな、瀕死の我をヘルメスの小娘が培養液に居れ、そのままホムンクルスとして甦らせたのだ」
「ふ~ん、じゃあちゃんとヘルメス教授にお礼言わないとね、あんたを助けてくれたんだから」
「ふん、誰が礼などいうものかよ、それより小娘、食事がすんだらさっそく修行だ。まずは我の毛を梳くが良い」
「はぁっ!? 何で私がそんなことしなきゃいけないのよ!!」
「うるさい未熟者、弟子とは最初は師匠の世話をするものだ!!」
「誰が師匠よ、だれがっ!!」



「随分騒がしくなりましたね」

 再び喧嘩を始めた一人と一匹を見て、ヌアダにコーヒーを持ってきたネヴァンがふふっと笑みを浮かべてそう言うと、




「ああ・・・・・・そうだな」



 彼女の言葉に、コーヒーを受け取ったヌアダも、ふっと微笑して応えた。
























「・・・・・・謝罪はしないわよ」


 ヒスイが相棒となるキュウと騒いでいるのとほぼ同じ時刻、ヘファトの工房の外にある小さな花畑にある慰霊碑の前で、ヘルメスは不機嫌そうに呟いた。

 今回の騒動で、彼女に与えられた罰は停職一か月という軽い物であった。確かに直接の原因は、遺体を遺棄してそのままにしていた彼女にあるのだが、動物たちを殺したのは彼女ではない。ただ死んだ動物を引き取って研究に使っていただけだ。



「確かにあんたたちの遺体をそのままにしておいたのはこっちの落ち度だわ。あん時は研究がうまくいかなくてイラついてたのよね。まあ、今は違うわよ、なんで知ってたのかは知らないけど、あのいけ好かない黒猫に正しい作成方法も教えてもらったし、きっとこれからあんたたちのような存在は減ると思う。ま、だからというわけじゃないけど、ゆっくりお休みなさいな」



 慰霊碑の前に、買ってきた猫缶とドックフードを置くと、ヘルメスは立ち上がり踵を返した。



「ああ、それと、あんた達を見てイラついてた、もう一つの理由を教えてあげましょうか・・・・・・思い出すのよ、ジョージが生きてた頃の、幸せだった記憶を」

 動物好きで、将来は獣医になると言っていた息子の、その笑顔を思い出し、ヘルメスはふっとため息を吐いて首を振る。そしてそのまま、彼女は一度も振り返ることなく歩き去っていった。






 その後、彼女の作成するホムンクルスの成功率は、八割を超えた。





























  それから、二年と数か月の時が流れた。











 それは、初夏に入ったある日のことであった。



 アメリカにおける対エイジャ組織である魔女達の夜の本部、通称“ヴァルプルギス”、その一階にある受付に座っているレイナは、入口の方から顔見知りの魔器使が、隣にホムンクルスを連れて歩いてくるのを見た。


「ヒスイ、お疲れ様」
「あ、レイナさん、お疲れ様です」


 その魔器使は、艶のある白髪と透き通るような蒼い瞳を持つ、まだ十六歳の少女だ。だが力に目覚めてすぐ、レッド・ドラゴンのエイジャ百体を倒し、その後発生した魔核の暴走事件では、今は自ら“禁技”として封印指定した絶技、“絶対零度”を使用して暴走した魔核を破壊した。そのため現在、彼女は年若いながらも“百殺の絶対零度”の異名で知られる凄腕の魔器使の一人である。今はまだ二級魔器使ではあるが、そう遠くないうちに一級魔器使になり、部隊を率いる立場になると周囲から期待を寄せられていた。


「中級エイジャの討伐お疲れさま、見た所目立った外傷はないようだし、今回は楽な相手だったかしら」
「そうでもないぞレイナ。ヒスイめ、一般人を人質に取られてな、一人で乗り込もうとする小娘を制するのが大変だったわ。まあ、幸いなことに相手が中級にしては弱かったという事もあって怪我はないがな。感情に振り回されるなど、未熟な証拠だぞ、ヒスイよ」
「まったく、すぐそうやってすぐ人を未熟者扱いするんだから」

 いつものキュウの愚痴を聞きながら、ヒスイとレイナは二人で笑いあった。





「・・・・・・邪魔だ、絶対零度」


 その時である。彼女の身体を押しのけ、一人の青年が受付に割り込んできた。白髪で背の高い、すぐ後ろに二人のメイドを侍らせているその男は、レイナと一言二言会話すると、そのまま無言で去っていった。


「あ・・・・・・スヴェン」
「ふ~、緊張した。しかしヒスイも大変よね、いくら一級魔器使で、最高査問官の一人といっても、あんな坊やが婚約者だなんて」
「別に・・・・・・いいんだ」

 魔核の暴走事件の後、変わり果てたスヴェンと再会した時を思い出す。白髪で背の高い、変わり果てたその少年は、姉を奪った自分をひどく恨んでいた。だから、せめてネリーの代わりに彼を守ろうと、自分から婚約を提案したのだが、それがどうやら、彼には屈辱だったらしい。


「そうですよ、いくら十二歳でも精神年齢が幼すぎますッ!!」

 その時、ふとヒスイが首からかけている鍋の形をしたペンダントから、小さな声が響いた。


「ちょ、小松・・・・・・ダメだって、そんな言い方」
「いいえ、言わせていただきますけどね、ヒスイ様は優しすぎるんですよ!! けど待っていてください、絶対男になって、ヒスイ様をお守りしますから」
「ふふ、仲がいいわね、自分の魔器と仲がいいというのは、魔器使にとって大切な事よ。あ、そうそうヒスイ、実は五日後に任務があるの。受けてくれる?」
「え? あ、はい、どんな任務ですか? 場所はどこです?」

「それが、アメリカで発生した物ではないの。三か月前に“羅針盤”が感知したエイジャなんだけど・・・・・・とりあえずはこの資料に目を通して頂戴」



 そう言ってレイナが差し出した資料を見て、ヒスイはふと眉を顰めた。なぜなら、そこに書いてあった任務地は、確かにアメリカではなく、太平洋を挟んだ海の向こうの島国、すなわち日本皇国だったからである。











 そして、訪れた日本で、彼女は一人の少年と、運命的な出会いをすることになる。







 続く






 どうも、活字狂いです。少し遅くなりましたが、スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 第一幕 少女の記憶をお送りします。今回は、主人公の一人であるヒスイの過去、すなわち彼女がなぜ魔器使になったか、そして相棒である黒猫とどのようにあったのかを書きました。そして、彼女の正体についても。しかし長いこと。ワードで百数十枚になってしまいました。さて、次回はスルトの子4 渚に見るは過去の追憶 第二幕 彼らの記憶をお送りします。また一、二か月後になると思いますが、よろしくお願いします。



[22727] スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 第二幕 彼らの記憶
Name: 活字狂い◆7d1de42f ID:81ecda22
Date: 2016/08/16 20:41




「おっと」
「おいおい、大丈夫か、準」







 砂浜の上でよろけた恋人を、星聖亜は慌てて抱え上げた。







「すまない、何かに躓いたようだ・・・・・・っと、これは巻き貝だね」




 少年に支えられながらゆっくりとしゃがみ、足元の砂を払うと、中から出てきた巻き貝を持ち上げ、準は優しく耳に当てた。少女の形のいい耳に、さささらと砂の流れる音が聞こえる。



「そうだ、今夜泊まる旅館に着いたら、これを使って聖にペンダントを作ってあげよう」
「ペンダント? うん、ありがとな」



 正直、男にペンダントは似合わないと思ったが、少女の嬉しそうな表情を見て薄く笑みを浮かべると、少年は少女の手を握りなおし、再び砂浜を歩きだした。








「・・・・・・仲がいいな」





 そんな二人の様子を視界の隅に入れながら、聖亜の担任である日村総一郎はゆっくりと準備体操を終えると、他の生徒の様子を見ようと周囲に目をやった。すると皆、自分のほうを向いている。女子の何人かは頬を赤らめている者もいたが、ほとんどは彼の上半身、すなわち胸から背中にかけて付いている大きな傷跡と、右肩から左腰に掛けて走っている、おそらく裂傷であろう傷の痕を見ていた。





「どうした? 準備体操は終えたのか?」
「・・・・・・あ、い、いやその、先生、その傷」
「ああ、これか。数年前にちょっとした戦いで付いた傷だ。大丈夫、今はもう完治している。さあ、準備体操を終わっていない人は引き続き準備体操を、終わった人は、海に入ってよろしい」
「は、はい」




 その言葉に、準備体操を終えた約半数の生徒が海に入っていく。残りの生徒たちは、やはり総一郎の上半身に付いた傷を見ながら、それでも準備体操を再開させた。




「なあ、やっぱりあれって鬼とかエイジャとの戦いで付いたのか?」
「だろうな、見て見ろよ胸の傷、あれ、絶対貫通してるって」
「それに右肩から左腰にかけての裂傷、あの大きさだと、完全に内臓をやってるよ。あれでよく生きてたな」
「けど、やっぱり先生って、ちょっとカッコよくない?」
「うん、背も高いし、身体も引き締まってるし、何より顔がいいしね。けど、右の手首に巻いたあれだけはどうかと思うけど」
「ああ、あの古い缶バッジ? 何でつけてるんだろうね・・・・・・よし、これで準備体操終わり。さ、泳ぎにいこ」
「うん」


 話をしながら準備体操をしていた生徒たちが、一人、また一人と体操を終えて海に入っていく。やがて最後の一人が海に入ると、総一郎も海に入っていった。













「・・・・・・ふぅ」
「よ、お疲れさま、総ちゃん」


 一時間後、砂浜にある海の家の椅子で、海から上がった総一郎は冷たい麦茶を手に持って休んでいた。隣の椅子に、親友である雷牙が、こちらはビールをもって座った。



「雷牙、お前昼間からビールはやめろ、さっきみたいなことになったらどうする」
「大丈夫だって。怖がって皆、もう沖にはいかないと思うしな」






 さっきみたいなことというのは、沖で遊んでいた生徒が、足をつっておぼれかけたことを言う。たまたま遠泳から戻って着た総一郎が沈む寸前に生徒を抱きかかえて砂浜まで運んだのだが、そのせいで沖に行くことは禁じられ、皆砂浜近くの浅い海で泳いでいた。

「それはそうだが、浅瀬であっても万一という事もあり得る。酒はあまり控えておけ」
「はいはい。ああ、それから言い忘れてたけど・・・・・・結婚おめでとさん」
「・・・・・・桜子か」


 にやにやと笑みを浮かべる雷牙に肩を叩かれ、総一郎は結婚四年目になる、愛しい妻の名をつぶやいた。

「そゆこと、総ちゃんを見送った日に、車の中で話してくれたよ。日本に帰ってきてから、彼女とはもう会ったのか?」
「ああ、出雲でな。粉々になった義手を見てあんぐりと口を開けていたけど」
「まあ、彼女の最高傑作だからな。知ってるか? 桜っち、今は鍛冶場で武器じゃなくて防具を作ってるんだぜ。呪術師の中には、彼女の作った防具に助けられた人も大勢いる」
「知ってるよ、私の・・・・・・僕の普段来ている耐熱コートも、彼女のお手製だからな」
「そうか・・・・・・ん?」




 親友の言葉に、何か引っかかる物を感じた雷牙は首をひねり、そして目に入ってきたものを見て、ふと真顔になった。



「総ちゃん、その缶バッジ、まだ持っていたのか」
「まだ、というのは正しくない表現だな。これは僕が生きている限り僕と共にある。なぜならこれは、僕をどん底から救ってくれたものであると同時に、“彼女”の唯一の忘れ形見なのだから」

 そう言って缶バッジに触れると、総一郎の脳裏に、ふと一人の少女の面影が写った。



 何より大切で、そして永遠に失ってしまった、一人の少女の面影が。































 十年前











 それは、小春日和の中でも特に暖かい、ある秋の日であった。一人の少年が、出雲市内にある公園のベンチに寝そべっている。だがその端正な顔はベンチに付いていない。彼の頭部が乗っているのは、同じベンチに腰かけて編み物をしている、とある少女の膝の上だった。







「・・・・・・ん?」

「あら、起こしてしまいましたか、雷(らい)」

 顔にわずかに編み棒がふれたのか、くすぐったそうに体をひねった少年を見て、眼鏡をかけた少女はくすりと笑みを浮かべた。


「ん~? んんっ、おはよう、千里」


 自分を見下ろしてくる少女、水口千里に、少女を見上げる少年、鈴腹雷牙はにっこりと笑って見せた。




「しかし、今年は結構暖かい日が続くねえ」
「そうですね。けどそろそろ十月も半ばを過ぎますから、これからは冷える一方ではないでしょうか」

 秋の夕晴れが周囲を赤く染める中、日課だった公園でのデートを終えた二人は、人通りの少ない商店街をゆっくりと歩いていた。


「そういえば、十月も半ばを過ぎたってことは、“そろそろ”だよな」
「ああ、そうですね。って、食べながら話さないでください。行儀が悪いですよ、雷」

 顔見知りの肉屋で買ったコロッケを食べながら話す雷牙の肩を、千里はパシリと軽く叩いた。


 彼らが話しているのは、自分たちが通う立志院中等学校を運営している高天原という組織で、神在月に行われるとある行事のことである。出雲大社で行われる、神在祭と呼ばれる祭祀の後に行われるこの行事は、一般人には秘匿のものであったが、十代にして高天原に所属する二人は、むろんこの行事のことを知っていた。この行事が、下手をすれば命にかかわることだということも。


「しかし、そこまでして黒塚家との繋がりがほしいのかね」


 コロッケを食べ終えた雷牙は、苦々しい顔でそう吐き捨てた。高天原を支配しているのは、日本を裏から支配しているといわれる“裏天皇家”の異名を持つ黒塚家である。六百年以上続くこの名家は、気化石を発明した黒塚鉄斎を初めとして、数多くの偉人を輩出し、また英国より発生した産業革命もいち早く取り入れたことで、莫大な利益を上げることに成功していた。そのため日本の政財界において、その影響力は計り知れないものがあり、また立志院、日照女学院という幼稚園から大学までのエスカレーター式の学校を二校運営しており、現在政財界で活躍している人々の中にも、この学校の出身者が数多くいる。このような理由から、黒塚家との繋がりを持ちたいがために、自分の子供を立志院や日照女学院に入学させる親が後を絶たないが、入学するには厳格な入学試験を突破しなければならず、以前から第三の学校の建設が要望されていた。
 
 しかし、実際にはいいことばかりではない。現在黒塚家の内部では、二つの派閥が相争っている。詳細は雷牙も分からないが、それは最悪の場合当主交代もありうるほどのものらしい。



「・・・・・・ま、いいさ。欲深い奴らがどうなろうと、俺の知ったこっちゃないね」
「雷、あなたはまたそのようなことを・・・・・・ああ、そういえば」

 早くに両親を亡くし、父の友人だった雷牙の父に引き取られた千里は、幼馴染であり恋人でもある少年の毒舌を聞いて、呆れたようにため息を吐いたが、ふと、何かを思い出したかのか、軽く顔を上げた。

「ん? 何だい? 千里」
「いえ、高天原本部に所用で行った時耳にしたのですが、どうやら今回の“行事”に、私たちと同じ中学生が参加するそうです」
「中学生? へぇ。確かに少し早いけど、珍しいってわけじゃないな。別に小さいころから研鑽してきた奴らなら普通だろ。千里も一年前に参加して、無事“あれ”を降ろすのに成功したし、だいたい速さで行ったら、一桁で降ろした俺が一番だ」


 だが、この時雷牙は知らなかった。“行事”に参加するその中学生が、今まで何の修行もしたことのない、ただの素人だということを。






















                 憎い




    憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い




            父を殺し、母を殺し、妹を攫い、



         僕のすべてを奪ったあいつ等が、鬼たちが憎い






  ニクイ、ニクイ、ニクイニクイニクイ、ニクイニクイニクイニクイニクイニクイ



私を殺した父がニクイ、私を生んだ母がニクイ


      私の骸から生まれたそのすべてが、すべての生物が私はニクイ





        僕(私)から何もかもを奪ったやつらが、ニクイ(憎い)





「きゃっ」
「ひっ!?」
「な、何事だこれはっ!!」



 その日、例年通り神在祭を終え、その後に行われた“神降ろしの儀”において、突如として異変が起こった。

 普通、神降ろしの儀を行った者の未来は二つしかない。降ろした神を制御し、自らの力として使いこなすか、それとも降ろした神に屈して魂を食われて死亡するか。それは神降ろしに挑む者の内側で行われるため、外側に影響を及ぼしたのは、過去にたった一度、鈴腹雷牙がその身に“建御雷”を降ろした時しかなかった。だが、彼は黒塚家第二代当主のころから側近として仕え、研鑽を怠らなかった重鎮である鈴原家の集大成であり、神降ろしの儀もどのようなことがあってもいいように万全の態勢で臨んだため、降り注ぐ稲妻にも即座に対処でき、それほど被害は出なかった。


 だが今回は違う。いくら黒塚家を長年にわたり支え続けた四者の内の一人、朱華の子供といっても所詮は養子縁組をした義理の息子であり、今までは単なる一般人だったという。さらに付け加えるならば、片腕のない十三歳の若造に過ぎない。それゆえ今回の神降ろしの儀はほとんどの人間が失敗、若しくはたとえ降ろすことに成功したとしても最低ランクの神、そう考えていた。だが、そのどこか甘い考えを、


「あああああああああああっ!!」


 体を黒い炎に飲み込まれた少年が、一瞬で打ち砕いた。




「総一郎っ!!」


 義理の息子である日村総一郎を心配し、普段あまり出席しない神降ろしの儀に出席していた朱華は、彼が炎に飲み込まれたのを見て、顔を青ざめて駆け寄った。だが、彼を包む黒い炎の勢いに、少年の傍らまで近づくことができない。

 炎を司る彼女がそうであるため、他の者はひどい状態だ。特に彼の傍にいた神降ろしの儀を執り行っていた呪術師達は、その全てが黒い炎に襲われ、灰も残さず焼き尽くされた。

「くっ・・・・・・これは炎ではないな。極限まで膨れ上がった憎悪が、黒い炎となって具現化しているのか」


 不幸中の幸いか、炎は総一郎を包むだけで、他に燃え移ろうとする気配は感じられなかった。だが、それでも早く消さなければその中にいる総一郎が長くはもたない。黒い炎を一度自分に移し、その後自らの肉体と共に消滅させるしかないか、彼女がそこまで覚悟した時である。


「すまない、遅れた」
「青琉!? いや、すまない、助かった」


 退避した呪術師から連絡を受けたのか、入り口から同輩である青琉が姿を見せた。彼女は黒い炎を一瞥すると、その端正な顔を歪ませ、小さく何かを呟きながら朱華の横まで駆け出してくると、両手を前に突き出した。すると、今まで部屋の中をふらふらとさまよっていた黒い炎が、まるで上下左右から何かに押し込まれているかのように、ぴたりとその動きを止めた。


「今だ、朱華!!」
「ああ、このまま炎の勢いを弱める!!」

 青琉の言葉に頷くと、朱里は彼女と同様、黒い炎に向かって両手を向けた。すると、少年の体を覆っていた炎がゆっくりと小さくなっていく。

「よし、これだけ小さくなれば、もうすぐ取り押さえられ―――――なっ!?」

 黒い炎が縮小していくのを見て、青琉がほっと安堵の溜息を吐いた、その時、

 
『アアアアアアアアァアアアアア!!!!』


 抑えられていた黒い炎が一瞬で膨れ上がり、その中から“二人分”の悲鳴があたりに響いた。朱華と青琉が見つめるその先で、それまで少年の体を包み込むように燃えていた炎は、彼に残されたただ一つの手に集約されていく。その形は、


「・・・・・・黒い炎の槌、だと?」


 青琉の言葉通り、少年の手に握られているもの、それは細長く、黒い槌であった。
 

『――――――――――ッ!!』
「くっ!」


 声にならない叫び声をあげながら、黒い槌を持った少年が朱里達に向かってくる。振り下ろされた一撃を飛び上がって避けると、彼女らの目に、先ほどまで自分たちがいた場所がドロドロに腐れていくのが見えた。

「・・・・・・やばいぞ朱里、こうなれば最悪の場合彼を殺さなくてはならない」
「・・・・・・」

 青琉の言葉に、朱華はギリッと唇を噛んだ。彼女たちが苦戦しているのは、あくまでも総一郎を救おうとしているからである。殺すだけならそれほど難しくはない。

「朱華っ!!」
「・・・・・・ああ、分かっている」

 黒い炎をまとった槌が、あたり一面をドロドロに溶かす。いくら強力な結界を張っているといっても、このままでは長くはもたないだろう。そして、結界が破壊されれば、その後にもたらされる被害は想像を絶するものがある。


 ギリッと噛みしめた唇から、ポタポタと赤い滴が落ちる。いつもは冷厳な彼女がそれほどまでに葛藤しているのを見て、青琉はふと憐れに思った。だが彼女がそうなるのも無理はない。日村総一郎という少年は、今まで一度も“弟子”も“子”も取らなかった彼女が、初めて養子にした少年なのだ。彼に注いだ愛情は相当のものがあるだろう。

「どうする? 私がやろうか?」
「・・・・・・いや、私がする。それが、彼を養子にとった、私の責務だ」

 唇の端から垂れている血を拭うと、朱華はそっと右手を開いた。不意に、彼女の掌に赤い炎が宿る。それは彼女の掌の中で細い刀身を持った剣となった。朱華は向かってくる息子の正面に立つと、彼が自分の握る剣の間合いに入ってくるのをじっと待った。

「退けい、朱華!!」
「玄殿!?」

 少年の持つ黒い槌が、自分に触れるその瞬間、彼女は頭上から発せられた野太い声にバッと横に飛びのいた。



 彼女の頭上から降ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ、身の丈四メートルはある巨人であった。首をすぼめたようなその姿は、どこか巨大な亀を思い浮かばせる。


『アアアアアッ!!』

 その巨人、朱華たちの上司であり、高天原最高司令官を務める黒沼玄に向け、黒い槌がうなりを上げて振り下ろされる。だが、その一撃は玄が突き出した掌に、パシリと受け止められた。
 
 「ふん、いくら“規格外”といっても、使いこなせなければ、我が掌一つ焦がすこともできんわ。ぬんっ!!」

 一言気合を入れると、玄は槌ごと少年を持ち上げ、近くの壁に勢いよく叩きつけた。カヒュッと肺の中の息が漏れる音がして、少年はずるずると崩れ落ち、彼が意識を失うのに合わせ、まがまがしい色をした炎も、フッと掻き消えた。


「・・・・・・ふむ、ようやく収まったか」


 少年の体を覆っていた黒い炎が完全に消え去ったのを確認すると、玄は安堵したように息を吐いた。と、その巨体がゆっくり縮んでいく。百八十センチほどまで縮むと、彼は手をパンパンっと叩いた。


「すいません玄殿、助かりました」
「当然のことをしたまでだ。謝罪や礼は不要。それより問題はこちらのほうだ」

 人の姿に戻った玄は、青琉の謝罪に頷くと、どろどろになった床や壁を見て軽く眉をひそめた。

「それで、これをやったのがそこにいる少年というわけか」
「ええ。それで、今後どうなさいますか?」

 ところどころ焼け焦げたような黒い痕をつけ、意識を失っている総一郎と、彼を抱きしめている朱華を見て、玄はしばらく腕組みをして黙っていたが、やがて重々しくため息を吐いた。

「難しい問題だな。今回の騒動で数人の死者が出た。それにこの部屋ももう使えないだろう。本来なら極刑であろうが、これほどの威力を持った“規格外”級の降り神だ。おそらく鈴原が降ろした建御雷と同様の力を持っているだろう。お館様に掛け合ってみるが、近年増加している“鬼導衆”による破壊活動のことを考えると、おそらく死罪は免れるだろう。後は、彼に降りた神の正体だが」
「総一郎ッ!!」


 不意に、ゴポッと何かが湧くような音が聞こえ、朱華が慌てて総一郎の口元に手を当てた。
彼女の手の隙間から、赤黒い血が幾筋も流れていく。

「まずいな・・・・・・分かった。私の権限を持って、彼を高天原の病院に搬入する。朱華、その少年を病院に運べ、青琉はここの始末を頼む。私はお館様に連絡を入れ、今後の指示を仰ごう」

「はっ!!」
「かしこまりました・・・・・・申し訳ありません、玄殿」


 自分の命令で、二名が部屋を出ていくのを見届けてから、玄は破壊尽くされた部屋を見て、重々しく息を吐いた。

「やれやれ、これだけの被害が出たことを知ったら、また経理担当からネチネチと文句を言われそうだな。後は神楽様からの小言と、お館様からの無言の圧力と・・・・・・うぐっ」


 最近痛くなってきた胃を抑えながらうめくと、玄はどろどろに溶け落ちた床を避けて部屋を出て行った。








 誰もいなくなった部屋で、黒い炎により人・物に限らず全てがドロドロに溶けた液体の中、ゴポリと何かが脈打った。











  体を切り刻む漆黒の刃


 暗闇の中、総一郎が感じたのはそれだった。彼の体を容赦なく切り刻む、その刃の名を憎悪という。自身の中にある憎悪、そして降り神の儀によって自分の体に降りた“神”がその身に宿していた憎悪、それらが一体となって少年の身体を容赦なく切り刻んでいく。彼がそれに抗うように手足を動かすと、暗黒の彼方で誰かの声がかすかに聞こえる。それは、すべてを失った自分の母になってくれた女の声に、どこか似ていた。





「・・・・・・すいません、もう一度おっしゃっていただけますか」
「今回の騒動を引き起こした、日村総一郎に対する処分は、封印刑が妥当というのが、大半の意見だ」
 神降ろしの儀の翌日、高天原が運営する病院の廊下で、黒沼玄は朱華と向き合っていた。彼女の首や腕に巻いた包帯が痛々しい。神の一撃による傷は、高い再生能力を持つ彼女であっても一日では治らなかったらしい。
「で、ですが、そもそもの責任は総一郎のことを軽視し、最低限の結界の展開で済ませたこちらにあります。それに、あれほどの破壊力を持つ神が降りたのです。戦力として考えるのがいいと思いますが」
「家族を失った者達の前で、その戯言をもう一度言ってみろ。第一、制御できない力など、あっても無駄なだけだ」
「・・・・・・」

 悲しげに俯く朱華を見て、さすがに言い過ぎと思ったのか、玄は軽くため息を吐いた。


「・・・・・・一つだけ、少年を救う方法がある」
「本当ですか!?」

 驚きと期待を込めた顔をした朱華を、落ち着けとなだめながら、子を得て随分と変わったなと玄は思った。

「彼を救うただ一つの方法、それは日村総一郎にもう一柱神を降ろし、その神によって、初めに降ろした神を制御するという方法だ。だが、成立する確率は極めてゼロに近い。まず、神降ろしの儀を始めてから数十年たつが、前例がない。当然だろうな、人の身に二柱の神を降ろすなど、どのような才能を持った者でも不可能だ。普通、耐え切れなくなって内側から物理的にはじけ飛ぶのがオチだ。次に、降ろす神の格も問題になってくる。今回神降ろしの儀によって少年に降りた神は建御雷同様規格外の神であることに間違いない。よってその神を制御しようと思えば、少なくとも上級の神を降ろす必要がある。だが、果たしてそれほどの神がそう簡単に降りてくれるかどうか。そして最後に、最も重要な問題がある」

「・・・・・・」

 だんだんと顔が青ざめていく朱華を見て、一端言葉を切ると、彼はいまだに目を覚まさない少年がいる集中治療室に目を向けた。

「神降ろしの儀によって降りる神は、対象の人物が宿す、最も強い感情に反応して降りてくる。もし総一郎の体に新たな神を降ろすことに成功したとしても、それが今回のように、彼の負の感情に呼応した神ならどうする? 負の感情に呼応した二柱の神をその体に宿した者が、そのままでいられるとでも思っているのか? 最悪の場合、少年の姿をした何かが生まれることになるぞ。それこそ、世界を滅ぼすのに十分な力を持った何かがな」

「世界を滅ぼす・・・・・・それほどまでに強力な神が、総一郎に宿ったというのですか?」


「・・・・・・彼に降りた神が何者か、それは昨夜判明した。“火之迦具土”、生まれた際に母神を焼き殺し、父神により切り殺された炎と憎悪の神だ。さらに、その体から建御雷などの強力な神を生み出した規格外中の規格外。朱華、はっきりと言っておく。総一郎の心が憎悪に縛られている現在、再び神降ろしを行っても、降りてくるのは十中八九負の感情を持つ神だ。それに、もし小数点以下の確率で成功しても、彼は自分の意志ではないにしてもあの場にいた者を十数人殺害している。少年がその重責に耐えられると思うか? わずか十三歳ほどの子供がだ」

 彼を生かすかどうか、よく考えろ


 何の感情も込めず、ただ冷やかにそれだけ言うと、仕事がたまっているのか、玄はゆっくりとその場を立ち去った。ただ一人、愕然としている朱華をその場に残して。







 玄と別れた後、朱華はしばらくの間、窓から雨に濡れている出雲市街を眺め、息子が眠っている集中治療室に入った。十台ほどのベッドのうち、窓際の隅に眠っているのが総一郎だ。頬がこけ、げっそりと痩せた体中に黒に染みのような痣が浮かび、全身に包帯を巻いたその姿は痛ましく、時折傷が痛むのか、苦しげに呻いて首を左右に振っている。


「・・・・・・総一郎」

 苦痛に呻く少年を見て、その頬を優しく撫ぜると、朱華は三か月前、初めて彼と出会った時のことを思い出していた。














 彼女が初めてその少年のことを知ったのは、最近活発になってきている鬼の襲来を退け、朱雀門と名がつくビルの自室で紅茶を飲みながら報告書を読んでいる時だった。




「・・・・・・鬼が数体市内に侵入し、一般人を襲っただと?」
 
 何枚目かの報告書に書かれていたその文章を見て、朱里はふと眉をひそめた。その報告書には、昨夜襲撃した鬼の中で、撃ち漏らした数体の鬼が市内に侵入、とあるアパートを襲撃し、そこに住むある一家を惨殺したというのだ。被害は両親死亡、四歳の娘が攫われ、中学に入ったばかりの少年が片腕を失う重傷を負ったらしい。今までも市内に鬼が侵入することはあったが、彼らはただ逃げまとうだけで、どこかの家を襲うほどの余裕はなかったはずだ。




「なぜ鬼たちはいつも通りさっさと逃げなかった? いや、変といえば昨夜の襲撃も変だった。普段鬼共は統率も規律もなく襲ってきて、敵わないと知ればすぐに逃げていた。だが昨日は、まるで誰かに従っているかのように規律の取れた行動をしていた・・・・・・となると、何か目的があったということになるが・・・・・・面白い、調べてみるか」


 その家族にどのような思い入れがあったのか・・・・・・ふと興味を覚えた朱華は、立ち上がって紅茶を片付けると、出かけるための準備をし、部屋を出て行った。







 
「何ともひどいものですよ、両親を惨殺され、妹を攫われ、本人は片腕を食いちぎられたんですから」

 彼女が向かったのは、少年が運び込まれた小さな病院だった。病院の院長は依然高天原に勤めていたが、数年前のエイジャとの戦闘で負傷し、その後医師免許を持っていたため、病院を開いていたのだ。なんでも惨殺された夫婦とはそのころからの知り合いだったようで、病気になって金を持っていないときなど、ただで診察していたらしい。


「それで? 鬼に襲われたというのはどういうことだ? 彼らは何か特別な力でも持っていたということか?」
「いや、あの家族とは数年来の付き合いですが、そのようなことはありませんでした。確かに気立てのよい夫婦で、息子の総一郎君も聡明で心優しい少年ですが、特別な能力は何も持ってはいないです」

 そう説明する院長の後に続いて病室に入った朱里の目に、片腕を亡くし、げっそりと痩せ衰えた一人の少年が映った。


「この子か?」
「ええ」
 チンッ、とすぐ傍らにあるスチーム式の空気清浄機が鳴る中、横たわる端正な顔付きの少年を、気の毒そうに見つめる院長の横で、朱華は少年を冷ややかな目で見ながら、なぜ彼らが襲われたのかを考えていた。

(確かに何の能力も持ち合わせていないな。死んだ親も二人とも平凡な人間ということであったし、となれば目的は攫われた妹のほうか? くそっ、後手に回ったか)

「・・・・・・」
「あの、朱華様? 朱華様!?」
「・・・・・・あ? ああ、すまない。少し考え事をしていた。それで? 何だ」
「いえ、総一郎君の処遇なのですが、いかがなさいますか?」
「そんなもの、どこか適当な孤児院に放り込んでおけばいいだろう、何の能力もなく、そのうえ片腕を失った子供など、高天原には必要ない。それとも、お前が引き取るか?」
「い、いえ、私はちょっと」

 かつて、家庭を顧みず仕事と酒におぼれ、結局離婚した彼は、とても他人の子供を育てることなどできないと知っていての発言に、院長は苦笑いを浮かべて後ずさった。

「なら少年が治り次第、孤児院に入れることだな。話は終わりだ。失礼させてもらう」

 そう言って、背を向けた時である。



 ジリリリリッ



 と、甲高い音を立て、廊下に備え付けられた電話が鳴った。


「あ、すいません朱華様、ちょっと電話に出ますので、ここにいてもらえませんか?」
「別に見送りなど必要ないが」
「いえ、さすがにそれはいけませんからね。ちょっと待っていてください、すぐに戻ってきますので」
「ふむ」


 ぺこぺことお辞儀をしながら、院長が電話を取りに部屋を飛び出していく。それを見送ると手持ち無沙汰になったのか、近くの椅子に座り、朱華は何気なく総一郎の顔を見た。端正な顔は相変わらず苦悶の表情を浮かべ、熱が出てきたのか、額からは玉のような汗が噴き出している。そして、少年は時折いやいやをするように顔を左右に振っていた。

「・・・・・・随分と苦しそうだな」

 朱華は穏やかな眼差しで彼を見つめた。黒塚家の当主に仕えながら、朱雀門にて出雲に住む人々の陳情を取り扱っている彼女が誰かを贔屓することは決してなく、普段は努めて冷徹であろうとしているが、だがそれは、必ずしも情がないというわけではなかった。


 バックからハンカチを取り出し、少年の額に浮かぶ玉のような汗を軽く拭っていく。苦しむ少年の額からは、どれだけ拭っても汗が途切れることなく吹き出てくる。それを拭う朱華のハンカチはすぐにグシャグシャになったが、それでも彼女は、少年の汗をぬぐうことをやめなかった。

「・・・・・・ほぅ?」

 その時、ふと、彼女は意識を失っている少年の手が、ぎゅっと握られていることに気付いた。


「全てを奪われ、意識無く、それでも拳を握るか。惜しいな、成長すれば優秀な戦士になっただろうに」

 だが、どれほど優秀な戦士といっても、片腕がないというのは障害でしかない。ならば最初から戦いに関わらせないほうがよいだろう。この少年にとってもそのほうがいい。戦いなど知らず、平凡だが平和な一生を送ってもらいたい、それが彼女の想いであった。

「しかし、院長の奴遅いな、いったいどれだけ電話に時間をかけている」

 それから十分ほど経過しただろうか、いくら待っても戻ってこない院長に苛立った朱華が、立ち上がって様子を見に行こうとした時である。

「う・・・・・・」
「なっ!?」

 意識がないはずの少年の手が動き、彼女のスーツの端をぎゅっと握った。驚き振り解こうとして振り向くと、微かに開かれた彼の瞳とかち合った。

「あ・・・・・・」

 高熱により、潤んだ少年の瞳に見つめられ、朱華の体はまるで電撃に打たれたかのようにびくりと震えた。そんな彼女の様子を見ながら、少年は、日村総一郎は、




 にっこりと、ほほ笑んだ。





 ドクンッ



「あ・・・・・・な、何だ?」





 その瞬間、朱華は今まで感じたことのない感情に襲われた。それは赤界に生まれ、“太母”たる青界の女王に見いだされ、その側近となり、現在彼女の指示で人間の味方として生きてきた中で初めて受けた、強く胸を打つ感情であった。それは、恋とも愛ともいえる感情であったが、その意味は知っていても今まで感じた事のないそれに、朱華は強い衝撃を受けたように蹲った。



「お待たせいたしました。申し訳ありません、近くに住む婆さんから少し体調が悪くなったとの連絡でしたので、ついつい話し込んでしまいまして・・・・・・あの、どうかなさいましたか? まさか、どこかおかげんでも?」

 長電話から戻ってきた院長は、朱華が蹲っているのを見て、慌てて声をかけたが、彼女は首を振りつつ立ち上がった。

「いや、なんでもない。それよりこの少年はいつごろ退院できそうだ?」
「はあ。切断された腕と、その他細かい傷の手術は終わっていますので、後は術で自然治癒力を高めまして・・・・・・そうですな、起き上がれるまで一か月といったところでしょうか」
「一ヶ月・・・・・・か。分かった、なら彼が退院したら、私の所に来るように言ってくれ」
「は? はあ、承りました。退院したら挨拶に伺わせます」
「ああ、頼む」
 
 院長に軽く頷くと、朱華は再び眠りについた少年を、今までにしたことがないほど、穏やかで優しげな眼差しで見つめた。













 それから、二週間ほどたったある日の早朝のことである。



 出雲市南部、朱雀門と呼ばれる巨大なビルの前にたたずむその少年を最初に発見したのは、古ぼけた自転車で牛乳配達をしている、立志院大学に所属する大学生であった。出雲市の奨学金制度は朱里の提言でしっかりと整備されており、給付型給付金が適用されているのだが、それでも付き合いなどで金がかかるときがあり、そういった学生のために、様々なアルバイトが紹介されている。

 牛乳配達をしているその学生も、奨学金で生活する傍ら、県外に住む家族への仕送りのため、毎朝こうしてアルバイトに励んでおり、ここ朱雀門も、彼の配達先の一つであった。

 その朱雀門の入り口の前で、一人の少年がビルを見上げていた。着ている服を見ても、どうやらあまり裕福な家の子供ではないようだ。

「ねえ君、このビルに何か用があるのかい?」
「・・・・・・?」

 その少年に、なんとなく共感する所があったのか、元々面倒見の良い性格で教師を目指している青年は、つい声をかけてしまった。相手は朱雀門を眺めることに気を取られていたのか、最初少年は自分が呼ばれたことに気付いていなかったが、やがて周囲をきょろきょろと見て、自分に声をかけた青年に気付くと、振り向いてぺこりとお辞儀をした。

「あ・・・・・・」

 返礼しようとした青年は、だが軽く息を吐いただけで終わった。彼の左腕―肘から先が消失し、覆うものがない袖が、ただ悲しげに揺れているのを見たからである。

「・・・・・・あの」
「え? あ、いや・・・・・・ごめんごめん、それで君、このビルに何か用なのかい?」

 自分の視線に気づいたのか、右手で左肩をぎゅっと抑え、恥ずかしそうに俯く少年を見て、青年は慌てて話題を変えた。

「はい。僕は先日まで入院してたんですが、退院した時、院長にここに行くように言われまして」
「入院か・・・・・・ええと、それで誰に用事なのかな?」
「ええと、受付で名前を言えば案内してくれるはずなんですけど」

 話しながら、少年と、そして各階に牛乳を配達しなければならない青年は朱雀門の中に入っていく。少年の名前は日村総一郎といって、春に中学生になったばかりとのことだった。両親と妹の四人暮らしをしていたのだが、彼らはもう亡くなったらしい。

「それは・・・・・・やっぱりその、腕を失った時に?」
「はい。けど・・・・・・」

 そこでいったん言葉を切ると、総一郎は再び俯いた。だが、それは先ほどのように自分の欠損した腕を恥じるような俯き方ではなかった。

「けど、何だい?」
「その・・・・・・僕自身、信じられないことなんですが、あの時、鬼を見たんです」
「鬼? 鬼というのは・・・・・・あの、角の生えた?」
「はい」

 蒸気式のエアコンにより、温度が一定に保たれているロビーにいる青年は、だがこの時背筋がぞくりと震えるほどの寒さに襲われ、咄嗟に周囲を見渡した。と、奥にあるエレベーターの扉が開き、そこから一人の眼鏡をかけた女性が出てくるのが見えた。


「秋山さん」
「・・・・・・ああ、松浦さんですか。今日も朝早くからお疲れ様です。それで」

 秋山と呼ばれた女は、自分が松浦と呼ぶ青年に微笑すると、その視線を青年のすぐ傍らにいる片腕の少年に向けた。

「あなたが日村総一郎さんですね。お待ちしておりました。私はここ朱雀門の主である朱華様の秘書をしている、秋山と申します。これからあなたを朱華様の所へお連れしますが、粗相のないようにしてください」
 
 笑みを消し、事務的な口調で淡々と話した後、背を向けて歩き出した秋山に狼狽した総一郎は、ぽかんとしている松浦にぺこりと一礼すると、早足で歩く彼女に追いつこうと駆け出して行った。


「・・・・・・あ、いけない、早く配達しないと」

 二人がエレベーターに乗ったのをぼんやりと見送っていた松浦は、はっと我に返ると、地面に降ろしていたクーラーボックスを担いで自分もエレベーターに向かっていった。





「・・・・・・」
「・・・・・・」

 エレベーターの中、秋山と総一郎はどちらも話さずにいた。眼鏡をかけ、どこか冷淡な印象を受ける秋山に、総一郎は話しかけられないでいたのだ。


(けど、いったい誰が僕を呼んだんだろう)


 ここに行くように言われたのは、ベッドから起き上がれるようになり、片手でとる食事にも慣れ、しばらくたってからのことだった。聡明な少年である総一郎は、父と母も、そして妹を失い、親戚もいない自分は、おそらく孤児院に引き取られることになるだろうと考えていた。しかし、退院の日が近づいたある日、院長からここに行くように言われたのである。


 少年がぼんやりと考え事をしている間も、二人を乗せたエレベーターはどんどん上へと上がっていく。やがて、チンッという音と共にエレベーターはゆっくりと止まった。


「こちらです」

 エレベーターの扉が開き、早足で秋山が出ていくと、取り残されないように総一郎も必死に歩いていく。だが、それほど歩くこともなく、彼女の歩みはある扉の前で止まった。



「失礼します、日村総一郎君をお連れしました」
「ああ、入ってくれ」


 秋山が扉を叩いて要件を告げると、中から凛とした女性の声が聞こえてきた。だが、彼女は扉を開かず、ふと、少年を向いた。

「どうぞ、ご自分の手で開けてください」
「え・・・・・・は、はい」


 秋山の声に促され、片腕のない少年は、右手で扉の取っ手をつかむと、ゆっくりと押した。




 チリッ



「ッ!?」


 と、次の瞬間、右手から何か電流のようなものが流れ込み、少年の体いっぱいに広がっていく。それは一瞬ではなく、少年が持つ右手に断続的に伝わってきた。その気持ちの悪さに、足ががくがくと震え、少年は咄嗟に手を放そうとした。


 だが、彼の中で誰かが言う。放すなと。ここで放したら、お前は一生後悔するぞと。


 段々と込み上げてくる吐き気に耐えながら、総一郎は鈍い動きで取っ手を回し、ゆっくりと扉を開けると、ほんのわずかできた隙間に、自分の体をひねりこむように入れた。


「あ・・・・・・」
「よく頑張った」


 だが、さすがに退院してすぐの身体では体力が持たなかったらしい。ふらつくように倒れこんだ少年の身体を、誰かがふわりと抱きしめた。いつの間にか涙でにじんだ視界の中、総一郎は自分を抱きしめるその人―赤いスーツを身にまとった、美しい女性の姿を見た。





「すまないな、試すような真似をして」
「いえ、大丈夫です。えっと、あなたは」

 それから十分後、柔らかなソファに座り、目の前にいる女性が自ら淹れた紅茶を飲んで一息ついた総一郎は、ふと、自分の前に座る、赤いスーツを着た女性がだれなのか知りたくなった。

「ああ、すまない。自己紹介が遅れたな。私は朱華という。この朱雀門において、主に市民からくる陳情を取りまとめている者だ」
「朱華・・・・・・さんですか? あの、すいません。どうして僕をここに?」
「ああ・・・・・・実は、君の両親と私は古い知り合いでね、襲われたと聞いて、慌てて駆け付けたのだが、どうやら遅かったようだ。お悔やみ申し上げる」
「あ、いえ・・・・・・あ、す、すいません、なんだか急に」

 彼女の優しそうな声に笑おうとした少年は、だが自分の目から意志とは関係なく流れ出る涙に気付くと、慌てて拭っていく。だが、彼の目からは大粒の涙が後から後からあふれ出ていた。

「無理をすることはない、総一郎君。君は家族をいっぺんに失ったのだ。我慢せずに泣きなさい」

「・・・・・・う、ひぐっ、うぇええっ」


 それからしばらく、部屋の中には、少年が声を殺して泣く声のみが響いていた。



「落ち着いたか?」
「あ、はい・・・・・・その、すいません、スーツを汚してしまって」

 少年が泣き止むまでその背中をさすっていた朱華が声をかけると、顔を上げた総一郎は、スーツに付いた染みを見て申し訳なさそうにうつむいた。

「気にしないでいい。洗濯すればいいだけだ。それより、君をここに呼んだ訳だが」

 そこで一端話すのをやめると、朱華は彼女にしては珍しく悩むような表情をしたが、それはほんのわずかな時間だけだった。

「実は、君の両親から生前頼まれていたんだ。自分たちに何かあった場合、君の面倒を頼むと。だから今日、ここに来てもらった」


 むろん、それは嘘だ。そもそも朱華は生前の彼の家族になど会ったことはない。両親に関する情報も、二週間前に彼と初めて会ってから調べたに過ぎない。


「・・・・・・は? あの、それって」
「ああ・・・・・・ええと、言葉が足りなかったかな、つまり、君を私の養子として迎えたいんだ。駄目だろうか、総一郎君」

「・・・・・・は? あ、いえ、その、急に言われても」
「あ、すまない、少々先走りすぎた。要するに、君の後見役になったということだ。君が成人し、独り立ちできるようになるまで、君の面倒を見たい。私には、君が必要なんだ。駄目だろうか」

「・・・・・・」


 彼女がおずおずと言うと、総一郎は軽く俯いて押し黙った。家族を失い、親戚もいない自分は、誰にも見向きをされず、そして必要とされないと思っていた。だが、目の前の女性は、そんな自分を必要と言ってくれている。


 それは、全てを失い、沈んでいた少年の心に、温かい風となって吹き込んだ。


「・・・・・・はい、えっと、じゃあその、お願いします」

「そうか、承知してくれるか。ありがとう総一郎君、じゃあ、さっそく君の部屋に案内しよう。それから、これを」

 嬉しそうに微笑むと、朱華は傍らにあった細長い包みを取り出し、覆っていた布を取り払った。その中から出てきたのは、木で出来た軽めの義手であった。


「これは・・・・・・義手、ですか?」
「ああ、君へのプレゼントだ。君の成長を阻害しないために、軽めの義手を用意させてもらった。君が成長し、大人になったら、もっと丈夫な義手を用意しよう。さ、つけてあげよう」

 少年の頭を優しく撫ぜ、彼女はまず少年の切断された左腕を秘書の秋山が持ってきた、湯で湿らせた手拭いを使ってきれいに拭いた後、切断面をソケットで覆い隠し、少年の背中の部分にハーネスをかけると、

「少し痛むぞ」

 と言ってから、留め具をガチッとはめ込んだ。


「っ!!」

「あ、すまない、それほど痛むか?」


 一瞬は知った激痛に、総一郎はびくりと体を震わせ、何かをこらえるように唇をぎゅっとかんだ。それを見て、慌てて朱華が少年の身体を抱きしめる。


「ううん、痛くないよ・・・・・・お母さん」
「・・・・・・総一郎っ!!」


 涙目で、それでもにっこりと笑う少年に感極まったのか、朱華は少年を抱きしめる腕に力を込め、彼の額にそっと口づけをした。













「それから少ししてからだったな。お前が妹の日美子ちゃんを助けたいと言って、力を求めるようになったのは」

 黒い炎に蝕まれて、苦しそうに呻く少年の頭を撫ぜてやりながら、朱華は視界がだんだんぼやけていくのを感じた。どうやら、知らぬ間に涙を流していたらしい。


「総一郎、私には人を守る資格がないのかもしれない。神降ろしの儀の時、私は周りにいる死にゆく者達より、ただ一人、お前の無事を願ってしまった。今の地位から引きずり降ろされるというならば、それでもかまわない。お前のためならば、地に頭をつける屈辱にも耐える。だから、早く良くなってくれ」


 ポツリ、ポツリと彼女の瞳から流れる涙が、眠る少年の頬に落ちる。


「・・・・・・・・・・・・ん」
「総一郎ッ!?」

 と、眠る少年がくすぐったそうに眉をしかめた。覗き込む母親の目の前で、総一郎はゆっくりと目を覚ました。


「総一郎、無事か? 総一郎!!」

「・・・・・・お、かあ、さん」
「ああ、総一郎!!」


 微かに笑みを浮かべ、見上げてくる息子を、朱華は両の手で掻き抱いた。


「お母さん、僕は・・・・・・どうなったの?」
「大丈夫だ、お前が心配することはない。すべて私に任せておけ。さあ、お眠り総一郎。お前はもう、深く傷つきすぎている。休息が必要だ」

「・・・・・・うん」

 

 優しげな母の声にほほ笑みながら、総一郎はゆっくりと眠りについた。


「・・・・・・大丈夫、か。だが、今この時もこの子の体を憎悪の神が黒い炎となって蝕んでいる。それを制御するには、やはり玄殿の言うとおり、再び神降ろしの儀を行い、もう一柱神を降ろすしかないか。だが、それはあの子にとって大きな負担になる。それ以前に、私ではあの子の中にある憎悪を消し去ることができなかった。力不足ということか」

 少年が眠りについた後、朱華はしばらく廊下でこれからどうすべきかを考えていたが、どれだけ思い悩んでも、よい考えは浮かばなかった。俯いている彼女がふと顔を上げると、秘書である秋山が、ロビーの方からこちらに向かってくるのが見えた。

「朱華様、こちらにいらっしゃったのですか」
「・・・・・・ん? ああ、秋山か。すまない、私がいない間、朱雀門をまかせっきりだったな」
「申し訳ありません。確認していただきたい書類がたまっておりますので、一端ビルの方までお戻りください。表に車を手配しています」

 いい考えが思いつかないのであれば、別のことをしていた方が得策か、そう考えた朱華が立ち上がり、秋山と共に玄関に向かった時である。


「・・・・・・ん?」
「朱華様、どうかなさいましたか?」
「いや、彼らは何者だ? こんな時間にここに来るとは」

 青ざめた顔をして、玄関から入ってきた二人の女性を見て、朱里は何気なく秋山に尋ねた。

「・・・・・・ああ、彼らは今回の儀式で亡くなった方々の家族です。亡くなった方々の“残骸”は、この病院の遺体安置所に安置されていますから引き取りに来たのでしょう。昨夜からだいぶ人が来ましたからね、おそらく彼らで最後かと」
「ふむ、そうか。だがあれは総一郎を侮り、最低限の防備も持たずに儀式を行った奴らに問題がある。非があるとすれば彼らの方だ。行くぞ、秋山」

 そう言って外に向かう朱華は、先ほど総一郎に見せた優しさなど全くなく、いつもの冷徹な彼女に戻っていた。そして彼女の中では、先ほどすれ違った二人の片方が、総一郎と同年か、少し下と思われる少女であったことなど、すでに頭の中から消え去っていた。









夢を見た。


 それは、平和だった暮らしの、その最後の日の夢。




 すなわち、自分がすべてを失った日の夢である。




 外から何かのうなり声が聞こえ、それと同時に窓ガラスを割って部屋に入ってきた三体の巨大な怪物が、父と母をばらばらにし、にたにたと気持ちの悪い笑みを浮かべて、かつて両親だった“もの”を貪り食っていた。そのあまりにおぞましい光景に、押し入れに隠れている自分の後ろで四歳の妹が小さく悲鳴を上げる。その声を聴きつけたのか、一番近くにいた怪物が、押し入れを開け、自分たちを見下ろして、にやりと笑いながら赤い手を伸ばす。その伸ばした手は、逃げ出そうとした妹を捕え、助けようと飛び出した自分は、左腕をつかまれ、無残に引きちぎられた。




「うわぁああああっ!!」




 左腕を襲った激痛に、総一郎は叫び声をあげて飛び起きた。必死に左腕を掴もうとするが、右手はむなしく空を切るだけだ。脂汗でぐっしょりになったまま周囲を見渡すと、自分の寝ているベッドのすぐそばにある机の上に、義理の母からもらった木製の義手が置かれているのが目に入った。


「そうだった、僕の左腕はあの時・・・・・・じゃあ、さっきの痛みはいったい何だったんだ?」


 幻肢痛という言葉を知らない少年は、今は収まっている痛みに首をかしげていたが、不意に尿意を覚えて立ち上がると、スリッパを履いて部屋の外へと出て行った。


「・・・・・・ん?」


 彼がその少女を見たのは、トイレから出てすぐのことだった。いや、実際に少女かどうかはわからない。ただ、小柄な誰かの影が階段を下りていくのを、視界の隅に入れただけである。


「誰だろう、こんな夜遅くに」


 近くの壁に掛けられているゼンマイ式の時計は、ちょうど午前二時を指している。気になった少年は、少女の後を追いかけるように、薄暗い廊下の先にある階段へと歩き出した。


  くすくす、くすくす、くすくすくす



「誰? 誰かそこにいるの?」



 階段を下りた先の暗い廊下には、少女の姿はなかった。だが、時折風に吹かれてくる少女の笑い声が、確かにここに誰かがいることを物語っていた。



 その声に誘われるように、総一郎は半ば無意識に歩き出していた。どこかの部屋の扉がかすかに開き、中にあるホルマリン漬けの贓物が目に入る。人がいないはずなのに、どこからか話し声が聞こえてくる。チカッ、ちカッと、最新式であるはずの電灯が瞬く。


 そのどこか不気味な雰囲気に怯え、部屋に戻ろうと、少年が踵を返した時だった。




―オニイチャン―



「日美子? 日美子なの!?」


 微かに自分を呼ぶ声に、総一郎は戻りかけた足を止めて振り返った。と、廊下の先、突き当りの部分にわずかに動く影が見える。その影はクスクスと笑いながら、右へと曲がっていった。


「日美子、待って日美子ッ!!」


 先ほどまでの恐怖も忘れ、少年は薄暗い廊下を駆け出した。突き当りまで走り、右を見ると、廊下の先にいる黒い影が、今度は左に曲がった。

 それからしばらく追いかけっこが続く。右に曲がったり、左に曲がったりしながら、自分を追いかける総一郎をあざ笑うように、あるいは誘導するように、黒い影は決して近づきも遠ざかりもせず、少年と一定の距離を取って移動していた。

 だが、その追いかけっこも終わる時が来た。黒い影に続いて少年が廊下を曲がると、そこは行き止まりになっていたのだ。

「・・・・・・日美子?」


 誰もいない廊下を見て、総一郎は突如不安に襲われた。実は、先ほどの黒い影はすべて自分の錯覚ではないのか? そう思いながら周囲を見ると、右側の部屋のドアが微かに開き、明かりが外に漏れているのが見えた。もしかしたら、あの中にいるのかもしれない。
そう思った少年が、ドアノブに手をかけた時である。



「・・・・・・これが息子だってのかい!!」


 部屋の中から、泣きわめく老婆の声が聞こえてきた。

「これが、息子だっていうのかい」


 少年が見ていることになどまるで気づかず、老婆は呆然と机の上に置かれた“それ”を見た。


「はい。昨夜の“事故”で、息子さんは爆発に巻き込まれ死亡。死体は燃え尽き、残ったのは板についたそれだけになります」


 机の上にある、僅かに“煤”がついた木の板を見て、係員は表情を変えずに答えた。


「爆発に巻き込まれたって・・・・・・そんな、死体も残らなかったなんて、上で眠っている孫になんて言えばいいんだい!!」

「さあ、そこまで私どもは関与いたしません。個人のことになりますからね。どうぞご自分でおっしゃってください。ではこれで失礼します。保険等の支払いについては、後日担当の者が参りますので」

 一礼した係員が、少年がいるドアとは違うドアから出ていくと、老婆はその場にふらふらと崩れ落ちた。

 だが、もはや少年の目に老婆は映っていなかった。彼の目に映っているのはただ一つ、木の板にわずかについた、煤だけである。

「・・・・・・あ、あれ、あれは、ひ、人、なの?」

 がくがくと震えながら、少年は後ずさった。だが、二、三歩下がったところで、その歩みは何かにあたったかのように止まった。


「・・・・・・オニイチャン」

「ひっ!?」


 自分の背後で、誰かがささやく声がする。くすくすと笑うそれは、今まで妹と思い、自分が追っていた者であった。


「き、君は・・・・・・誰?」
「くすくす、ひど~い、オニイチャンが呼んだのに」
「ぐひっ!?」


 笑いながら、少年を抱きしめる“それ”の手が身体をなぞる。“それ”の指が這うたびに襲いかかる気持ち悪さと熱さに、総一郎の身体はびくりと震えた。


「ぐ・・・・・・僕は、君なんて呼んで、ないよ」
「オニイチャンの中に眠る黒い憎悪が、私を呼んだの。そして私とオニイチャンは一つとなり、黒い獣となってすべてを焼き尽くした・・・・・・さっきオニイチャンの目に映った、あの煤がその証拠」
「・・・・・・あれを、僕が?」


 その時、総一郎の体の奥から、黒い何かが鎌首をもたげた。


「あ・・・・・・あ・・・・・・」

「あれだけじゃないよ? 己の力を過信し、オニイチャンを侮った奴らは皆消し炭になった。あの“亀”が邪魔しなかったら、今頃この町ぐらい灰に出来ていたのに」


 その時である。不意に、少年の右腕にポツリと小さな黒点が浮かび上がった。黒点は徐々に肥大していき、違和感に気付いた少年が右手を見たとき、すでに右腕の上半分は黒に染まっていた。

「な・・・・・なに、これ」

 黒点を吹き飛ばそうと、少年は右手を必死に振り回した。だが、彼がもがけばもがくほど、黒い点、いや、もはや黒い染みとなったそれは広がっていく。そして、さほど時間を経ずして、総一郎の首より下は、全て黒い染みが覆っていた。




「さあ、オニイチャン。一緒に、堕ちよう? 黒い憎悪で出来た渦の、その底に」

「・・・・・・だれ、何だ、お前、は」


 視界が黒く染まり、もはや息すらできない状態で、微かにそれだけ尋ねた少年ににっこりとほほ笑むと、少女の黒い影のような体は、少年に覆いかぶさった。



「私の名前は“火之迦具土”、母を殺し、父に殺された憎悪と炎の神。さあ、行こうオニイチャン、今度こそ、私から生まれた全てを滅ぼすために!!」

 

そして、少女の声を最後に、総一郎の意識はぷっつりと途切れた。










「・・・・・・ん?」


 朱華が顔を上げたのは、何枚目かの書類に目を通している時だった。

 すでに時刻は午前三時を回っており、秘書の秋山も仮眠室にいる。そのため、ここ朱雀門で起きているのは、当直の警備員を除けば眠る必要のない彼女だけであった。

 
「・・・・・・何だ?」


 不意に、朱華は今まで感じた事のない喪失感に襲われた。それはまるで、自分の半身が永久に失われるような感覚であった。

「・・・・・・まさか、総一郎の身に何か!?」


 彼女が椅子を蹴って立ち上がったその時、机に備え付けられている電話が、甲高くなった。







「玄殿ッ!!」



 朱華が駆け込んだとき、すでに高天原の総司令部は騒然としていた。


 当然だろう、邪悪な、しかも規格外の神をその身に宿した者が、暴走して市内を徘徊しているのだから。



「特級の結界を張れるものを十名、早急に手配しろ。それから近くにいる特上級の呪術師を全て呼び出せ。最悪の場合、いかなる犠牲を払っても標的を滅ぼす」

「玄殿、いったいどういうことですか!!」
「朱里か。少し待て」

 朱華が部下の呪術師に指示を出している玄の所に行くと、玄は彼女の動きを手で制し、出雲市内のあちこちにマルやバツを付けていった。


「これで良いか・・・・・・それで? 何の用だ」
「何の用だ、ではありません!! 標的というのは私の息子のことでしょう? 滅ぼせとはどういうことですか!」
「言葉どおりの意味だが?」

 いつもは冷徹な彼女が取り乱すさまを、むっつりとした表情のまま眺めると、玄は机に置いている紙の束を取り上げ、朱華に放り投げた。

「想定している中で最悪の事態が発生した。三十分前、標的・・・・・・日村総一郎が、入院していた病院で突如暴走、現在出雲市内をうろついている。幸い深夜ということもあり、通行人もいないため犠牲者は出ていないが、このまま放置して朝を迎えた場合に起こりうる事は容易に想像がつく」
「・・・・・・っ」
「もう少年のことはあきらめろ、朱華。彼の意識は、火之迦具土に捕らわれている。もはや戻ることはないだろう」

 わなわなと体を震わせ、俯く彼女の肩を気の毒そうに叩くと、現場に向かうため、玄は司令部を出て行った。と、廊下に出た直後、玄は何かを思いついたのか、天井を見上げしばらく思案していたが、やがてふっとため息を吐いて苦笑した。

「・・・・・・白夜が去り、三名でこの出雲、ひいては日本を守らなければならない今、朱華と対立するのは得策ではないか。甘いな、私も」

 懐に手を入れ、先日完成したばかりの最新式の携帯端末を操作すると、玄はその人物に連絡を入れた。彼が苦手とする、もう一人の規格外へと。









 プルルルルッ、プルルルルルルッ


「・・・・・・・・・・・・あぁもう、うっせえっ!!」



 薄暗い部屋の中、机の上にある携帯が鳴った。机のすぐわきにあるベッドで眠る少年は、その音を無視して寝返りをうつが、携帯がいつまでも鳴り止まないのを悟ると、がばりと起き上がり、携帯の通話ボタンを押した。



「あ~、誰ですかぁ? こんな夜遅くにっ!?」
『鈴原か、起こして悪かったな。私だ』
「私だ、じゃ誰だかわかりませんねぇ、私私サギですかぁっ!? 玄のおっさん」
『なんだ、分かっているじゃないか』
「・・・・・・それで? いったい何の用です? こんな時間に」

 電話をかけてきた玄が低く笑うのを感じ、鈴原雷牙はむっとしながらも要件を訪ねた。

『・・・・・・高天原総司令として要請する。現在市内をうろついている黒い獣、こいつを生きたまま無効化してほしい』
「・・・・・・は? 獣の無効化? そんなの動物園の人にでも任せればいいじゃないですか。話はそれだけですか? んじゃ切りますよ」
『いいのか? 楽しめるぞ』

「・・・・・・」


 眠気のためか、苛立ちながら通話を終えようとしていた少年の指が、玄の一言でふと止まった。

「・・・・・・楽しめるってどういうことです、相手は単なる獣でしょう?」

『説明が足りなかったな、黒い獣の正体は、お前と同じ規格外の神をその身に宿して暴走した者だ。どうだ? なかなか楽しめそうな相手だろう』

「・・・・・・確かに。分かりました、けどちゃんと褒美も下さいよ。そうだ、つい先月開園したばかりの遊園地のフリーパスポートなんていいですね」

『・・・・・・分かった。分かったから、さっさと来てくれ』

「はいはい、今から準備していきますよ」


 玄がため息を吐きつつ電話を切ると、雷牙は携帯をベッドの上に放り投げ、寝間着から普段着に着替えると、机の脇に立て掛けられている細長い包みを持ち、そっと廊下に出た。眠っている母親を起こさないように部屋の脇を通ると、ふと、少年は廊下の角にある扉を開けた。そこは、彼の幼馴染であり、そしてこの世で何よりも大切な少女が眠っている部屋だった。ベッドの上で千里が眠っているのを見て優しく笑みを浮かべると、そっと扉を閉めた。



「さてと、さっさと終わらせますかね」


 この時、雷牙は楽観視していた。どうせたいしたことない相手だろうと。



 だが、その予想は、すぐに覆されることになる。













 


「おい、居たぞ、追い込め!!」
「いや、むやみに近寄るな、まずは結界を張って動けないようにしろっ!!」


 ウゥゥッ



 いつもは静かな夜の市内を、今日は大勢の人間が駆け抜けていた。彼らの目的はただ一つ、被害が出る前に、目標である黒い獣を見つけ、滅ぼすことである。

 幸いなことに、黒い獣自体はすぐに見つかった。全身を黒い靄のようなものに包まれた人型の獣は、怯えたような唸りを上げて黒い結晶で出来た“左腕”を振り回す。その攻撃事態は単調なものだが、獣を取り囲む呪術師達の表情は緊張しきっていた。無理もない、降り神の儀式の際、この獣が十数人の呪術師を灰も残さず消し去ったことは、すでに高天原全体に広まっていた。



「結界班到着、すぐに多重結界を展開して獣の動きを封じます!!」
「分かった、戦闘班は盾を持って結界班のガードに当たれっ!!」


 隊長の命令で、それまで獣を牽制していた戦闘班が後方へ下がり、代わりに動きを封じるため、十数人の結界班が前に進み出た。彼らは獣を中心に円を作り、錫杖を構える。不意に、彼らの錫杖が光り、さらに線が出て結ばれると、真ん中にいる獣の動きが目に見えて鈍った。


「よし、結果違反はそのまま抑えていろ、戦闘班は獣の鎮圧に当たれ」

「了解、あいつの敵だ。これでも喰らえっ!!」

 神降ろしの儀の際、友人の呪術師を殺された呪術師が錫杖を構えて近づくと、獣に向かって渾身の力で振り下ろす。だが、その一撃が当たる前に、獣は黒い結晶の腕を振り回し、結界を強引にぶち破ると、振り下ろされた錫杖を潜り抜け、相手の脇腹を結晶で出来た手で、深々と抉った。


「ぐおっ!?」
「おい、大丈夫かっ!?」
「救護班、俺たちがあいつを引き留めるから、その間に怪我人の救助を頼む!!」
 脇腹をえぐられた男が、腹から血を流して倒れる。とどめを刺そうと獣が腕を振り上げるが、他の呪術師が錫杖で牽制している間に、救護班が怪我をした呪術師を後方へ運んでいく。


「おい、どうする? このままではらちが明かんぞ。また結界を張って動きを封じるか?」
「いや、結界を張っても強引に破られる。被害が出るのを覚悟して一斉に攻撃した方がよくはないか?」
「それこそ無謀だ、結界を破って疲労しているはずの動きであれだぞ? どれだけの被害が出るかわからん」

 獣を取り囲みながら、呪術師達はひそひそと話し合った。だが、どうにもいい考えが思い浮かばない。しかも、このまま時間が過ぎれば朝となり、市民が起きだしてくる。それまでに何としても決着をつけなければならなかった。


「おいお前たち、下がれ!!」
「隊長? 下がれとはどういうことです?」
「秘密兵器を出す、お前たちは巻き込まれないように後方に下がれ、そして盾を構えて獣を牽制しろ」


 その時である。彼らを指揮していた隊長が大声を出し、彼らに後退を命じた。その命令に従い、獣と対峙していた戦闘班の呪術師が皆下がると、彼らとすれ違う形で、一人の少年が鼻歌なんぞを歌いながら獣の前に向かっていった。


「おい、あいつもしかして」
「ああ、鈴原副司令の息子さんだ。年齢一桁で規格外を降ろすことに成功し、つい先日、ヴィーヴルの軍勢を滅ぼし、三雄の一人に選ばれた“雷神の申し子”」
「なるほど、化け物には化け物をってことか・・・・・・ひっ!?」


 最後に少年を化け物と呼んで嘲笑した呪術師は、彼にじろりと睨まれ、ひっと短く悲鳴を上げて肩をすくめた。



「ったく、どいつもこいつもたいした実力がないくせに好き勝手言いやがって」


 吐き捨てるようにつぶやくと、その少年―黒沼玄に命じられてやってきた鈴原雷牙は、右手に持った包みをブンッと振った。その勢いで包みをほどくと、中にあった木剣を黒い獣に向けた。


「あんたも化け物呼ばわりされて癪に障るだろ? ま、さっさと終わらそうや」

 ウゥゥゥゥッ


 鈴原の言葉を理解しているのか、黒い獣は黄色一色に染まった両の目ギッと少年に向け、黒い結晶で出来た左腕を構えると、ダッと駆け出した。

「おっと、初動の速度はなかなかじゃないか」

 自分に向かってくる黒い獣を見ても、だが雷牙の表情には緊張の色がなかった。獣が突き出した腕を掻い潜ると、相手の腹部に思いっきり木剣を突き立てる。だが、

「はっ、いいねぇ、まるで効いてる気がしねぇ!!」
ウゥッ

 黒い獣に突き刺さった木剣から伝わってくる、まるで霞を相手にしているような手ごたえに、雷牙はにやりと口の端を釣り上げた。そんな少年に怒りを覚えたのか、木剣を払いのけた獣は跳躍すると、少年の頭を蹴ろうと、その後ろ足を伸ばした。

「喰らわねえよ、そんな攻げ・・・・・・うおっ!?」


 どうやらその動きはフェイントだったらしい。飛びのいて蹴りを避けた少年の右足が何かに掬われ、体勢を崩した雷牙の腹に、獣の右腕が深々と突き刺さった。



「ぐはっ、が・・・・・・効いたぜ、久々になぁ!!」



 口から大量の血を流しながら、怒りと屈辱で両目を真っ赤に染めた雷牙は、獣の頭を蹴りあげて一度大きく距離を置くと、腹を殴られた時も決して手放さなかった木剣を顔の前でまっすぐに構えた。


「今度はこっちの番だ。そのくそったれな面、さっさと見納めにしたいんでね・・・・・・一夜にて、千の悪鬼を屠りしは、虚空を切り裂く我が雷なり。具現せよ、降り神“建御雷”!!」


 ヴィーヴルを滅した後、神の力を使う前の口上にしようと、恋人である千里と二人で考えた言葉を呟くと、雷牙は手に持った木剣を、己の胸に深々と突き刺した。
木剣は、少年の身体を突き破り、その切っ先を背中より覗かせる。だが、少年の剣を突き刺した胸からは、一筋の血も流れてはおらず、背中に飛び出した木剣にも、地は一滴もついていなかった。と、剣の切っ先がぎちぎちと音を立てて八つに分かれる。それは徐々に伸びていき、やあて少年の身体をすっぽりと覆い尽くした。





 その瞬間、雨雲など一つもない空から、一筋の雷が迸り、雷牙の身体を貫いた。
そして、雷光が消え去った時、





「・・・・・・雷光の化身、ここに参上。さあ、愉快に第二ラウンドと行こうじゃないか」



 そこには、銀色に輝く鋼に身を包んだ、雷の化身の姿があった。




ウルルルルルッ
「ほらほら、どうしたわんちゃん、唸っていないでかかってこいよ」


 いきなり姿を変えた少年を警戒し、彼の周りを身構えながら歩いていた獣は、雷牙の挑発につられたのか、雷牙に向かって左、右とジグザグに走りながら近寄り、
その左腕を振り上げた。


「遅ぇっ!! まずはさっきのお返しだ!!」


ウゥッ


 自分に向かってくる左腕を、だが左手を振り上げて弾き飛ばすと、雷牙は体勢を崩した相手の懐に飛び込んだ。


「どうやらその黒い体に物理的攻撃は効かないようだが、これならどうだ? 雷光拳“イナズマブロー”!!」


 右腕を獣の腹部に押し当てると、少年の声とともに、黒い獣をバチバチと稲妻が襲いかかった。


ウァアアアアアッ



その体を守っていた黒い靄のようなものが、稲妻によってすべて掻き消えると、黒い獣は掻き消え、その中から黒く染まった、雷牙と同年の少年の姿が現れた。



「おいおい、こんな子供がさっきの獣だったってわけか? 冗談きついぜ、まったく・・・・・・っ」


 体中からぶすぶすと嫌な臭いのする煙を出し、正体を現した少年を見て、雷牙は呆れたように首を振ったが、ふと脇腹を襲った激痛に顔をしかめた。今まではこの姿になった時、それまでの傷は全て癒えていたが、同じ規格外からの攻撃は完全に癒えないらしい。どうやら、あまり長く戦えないようだ。おそらく次の一撃で勝負は決まるだろう。相手も満身創痍なのか、新たに生み出した黒い靄の量は少ない。そして、それは少年の右手に集まり、黒い槌の姿を取った。


「はっ、そっちも同じ考えか。なら、最後の勝負と行こうじゃないか・・・・・・だぁ、りゃあっ!!」


 にやりと笑みを浮かべると、雷牙はその場で大きく飛び上がった。その右足がバチバチと音を立てて光る。それに応えるように、黒い少年は新たに作り出した黒い槌を左脇に構えると、先に飛んだ雷牙を追うように飛び上がった。



「喰らいやがれ、俺の最後の一撃、超電磁、キィィィ・・・・・・何てなっ!!」



ウぁっ?



 稲妻をまとった自分の右足と、相手の黒い槌が激突する瞬間、雷牙はくるりと体を丸めた。相手の突然の動きについていけなかったのか、少年の振った槌は、相手の肩をかすめて宙を切った。



「もらったっ!!」



 渾身の一撃を空振りした相手に抱き着くと、雷牙は少年と一緒に、地面に真っ逆さまに落ちて行った。




 ズドンッ






「・・・・・・あ~、やっと終わったか」

 鈍い音がして土煙が舞う中、抉られた左肩を抑え、雷牙はよろよろと立ち上がった。彼の足もとには、所々焦げ、左腕のない少年が、完全に意識を失って横たわっている。



「まったく、玄のおっさんも無理言うぜ、同格の相手を殺さずに倒せってのはよ。ま、なかなか楽しめたほうかな」
「総一郎っ!!」

 少年の傍にしゃがんだ雷牙が愚痴をこぼすと、彼らを取り囲む高天原の呪術師をかき分けながら、赤いスーツに身を包んだ美しい女性が、乱れた髪を直しもせずに二人に向かって走ってきた。

「あ? 朱華のおばさんじゃ「総一郎、無事か!? 総一郎っ!!」って、こっちは無視ですか、やれやれ」


 肩をすくめ、段々と夜のとばりが消えていく空を見つめると、少年はふっと笑みを浮かべた。
















「七日後だ」
「・・・・・・七日後、ですか」







 深夜から早朝にかけて起こった騒動の後、運び込まれた総一郎が眠っている病室で、疲れ切って、目の下に隈を作った朱華と向かい合っている玄は、むっつりとそう言った。


「今回の騒動、およびお前の嘆願を踏まえ、お館様および、神楽様と話し合った結果、七日後の深夜零時、日村総一郎に対し、再び降り神の儀を執り行うことになった」

「そうですか、その、猶予をいただきありがとうございます」
「・・・・・・礼を言うのはまだ早い。まず今回の事態に対しての罰として、お前の権限を大幅に縮小することにした。朱雀門はまだお前の管轄にするが、お館様に対する助言の禁止、議会を開く権利、および投票権の剥奪、個人資産の八割を数年の間凍結、“片翼”の封印、半年間、給与の八割をカット、呪術師に対する命令権の凍結、その他およそ数十の権限の凍結だ」
「分かっています。この子のためなら、どのような罰もお受けいたします」

 目を伏せ、やけどした部分に包帯を巻かれた少年を撫ぜる朱里を見て、玄はゆっくりと目をつむり、そしてまた開いた。


「そして、今から降り神の儀の時まで、お前にはこの少年と会うことを禁じる」
「それは・・・・・・どういうことですか」

 顔を上げ、睨みつけてくる女の視線を受け、高天原総司令としての顔をした玄は、深々と息を吐いた。

「言葉通りだ。お前の助けなく、日村総一郎には降り神の儀に挑んでもらう。この七日間で、少年がお前の力を借りずに負の感情に打ち勝つまで成長するかどうか、それを見たいというのが神楽様のお言葉だが、本心は違うだろうな」
「違う、ですか?」
「ああ。だいたいこの国の守護は、呪術師などおらずとも私がいれば十分だ。本当の姿に戻り、この国を“腹の中”に納めてしまえばいいだけだからな。暴走などという不覚的要素はすべて排除したいのだろう。そのため、神楽様は七日後の降り神の儀を失敗させるおつもりだ。もし七日後に日村総一郎の意識が戻っていなくとも、その体を儀式の間に運び、儀式を強行するだろう」


 玄の言葉に、朱華はわなわなと体を震わせ、顔を両手に埋めた。彼女は息子が助かるのならば、たとえ己の身を切り刻むことにもためらいはなかった。だが、彼女が守らなければならない黒塚家の人間が、彼女の最も大切な存在の死を望んでいるのだという。

「・・・・・・私は今から五分ほど廊下に出ている。その間に決めろ。お前の手で今、この少年を苦しまずに逝かせるか、それとも万一の可能性に賭けるか」

 そこで初めて表情を変えて、朱華を気の毒そうに見つめると、彼女の肩をポンと叩き、玄は廊下へと出て行った。










「・・・・・・総一郎」


 玄が廊下に出た後、朱華はぼんやりとベッドで眠る少年を眺めた。

「確かに、降り神の儀で失敗し、消滅すら許されない永遠の責め苦を受けるより、ここで私が手にかけ、次なる生へと旅立たせる方が良いのかもしれないな」

 手を伸ばし、少年の頬に触れる。と、その頬に一滴、水滴がこぼれた。いや、一滴だけではない。朱華の目から我知らずに流れる涙が、痕から後から少年の小さな頬に落ちていく。



「すまない、総一郎。私がお前を欲しなければ、お前がこんな目に合うことはなかった。私がお前を手に入れたいと思わなければ、お前は慎ましやかだが、平穏な暮らしが送れていた。すべて、すべて私のせいだ」


 涙を流し、眠る少年の頬を撫ぜる朱里の右手に、いつの間にか赤く光る灼熱の短剣が握られていた。


「決してお前を苦しませはしない。痛みもない。そしてお前が死んだ後、私も死んでお前の転生を見守ろう。たとえ復活することができなくとも、そんなもの、我が子をこの手で殺した苦痛に比べればなんでもない」


 赤界にごく少数しか生まれない、死んだ後、灰の中から再び生まれてくる不死鳥の一族である彼女は、眠る少年の背中に手を入れると、そっと抱きしめた。




「・・・・・・すまない、総一郎」




 かつて、死んだアリアを見た時に涙を流した主も、今の自分と同じ気持ちだったのだろうか、そう思いながら、朱華は燃える灼熱の短剣を振り上げた。










「・・・・・・・・・・・・んぅっ」












「・・・・・・出来なかったか」


 

 五分後、約束した時間ぴったりに部屋に入った玄は、眠る少年の手を握り、自分の額に押し付けている朱華を、憐れみを込めて見つめた。



「できません、でした」
「そうか。では、先ほど言ったとおり、お前にはこれから一週間、日村総一郎と会うことを禁じる。また、出雲大社の座敷牢に軟禁、その間四天王としてのすべての権限をはく奪する・・・・・・ここで苦しまずに逝かせるより、万が一の方を選んだか。親として、どちらの方が正しいのだろうな」


 もはや四天王の地位をはく奪され、罪人となった朱華の肩を強く掴むと、俯いたまま、彼女はゆっくりと立ち上がった。そして、玄に促されるように病室を出ていく。彼らがいなくなったその後には、ただ暗い病室で眠る、少年だけが残った。



















 日村総一郎が目を覚ましたのは、それから三日後のことだった。


 目を覚ましたはいいが、全身を襲う激痛により身動き一つすることができない。歯を食いしばって痛みに耐えていると、朱華に頼まれて毎日二時間おきに様子を見に来ていた秋山が病室に入ってきた。彼女にもらった痛み止めの薬を飲み、ようやく痛みが治まっていく。




「えっと、すいません。もう一度言ってもらえますか?」
「はい。総一郎さん、あなたには四日後、もう一度降り神の儀式を行ってもらいます」


 何とか体を起こせるまで痛みが治まった自分に、最近は勉強を教えてもらうなど、少しずつ親交を深めてきた目の前にいる女性は、初めて会ったとき同様、冷淡な表情で答えた。


「あの、降り神の儀式って、あの時の・・・・・・ですか」
「そうです・・・・・・あなたは、まさか降り神の儀式がどのような物かもわからずにうけたのですか?」

 その時、冷淡だった彼女の表情がゆがんだ。憎悪と軽蔑を混ぜ合わせたその表情を受け、少年は自分の身体がぞくりと震えるのを感じた。


「えと・・・・・・少しでも、強くなりたくて」
「ええ、あなたは強くなりました。覚醒した直後に、すぐに数人の呪術師を殺害、三日前には日本最大戦力と呼ばれる少年と互角に戦いました。結果、あなたと同じように家族を失った人々を大勢生み出しましたがね」
「僕と・・・・・・同じ?」


 包帯が巻かれた右手をわなわなと震わせ、俯く少年を見て立ち上がると、秋山は総一郎がいるベッドの脇に痛み止めの薬を置いて、さっと立ち上がった。


「あなたの無謀な行いのせいで、朱華様は現在すべての権限をはく奪され、座敷牢に封じられています。七日後の降り神の儀で、万一の成功もないあなたとは、もう会うことはないでしょう」



 侮蔑を込めた目で見下ろす自分の視線から逃れるように体を縮める少年には構わず、秋山はさっさと病室から出て行った。




「僕の・・・・・・僕のせいで、死んだ人が、家族を亡くした人が、いっぱい、出た」


 そんなつもりはなかった。ただ自分は、もう二度と自分と同じような人が出ないように、理不尽な暴力で家族を失うような人が出ないように、強くなりたかっただけなのに。そしていつの日か、妹を探しに行きたかっただけなのに。

 降り神の儀のことを思い出す。といっても、覚えているのはこちらを蔑みの目で見る大人たちの取り囲む、その真ん中に座らされた事と、巨大な黒い何かが自分を飲み込んだ、ただそれだけだ。

 彼の中で、何かがまた鎌首をもたげる。それは自分の中にある負の感情だ。それがささやく。嫌だ、憎め、憎んで全てを滅ぼせ。そのささやきに、少年が身を任せようとしたその時、



「お~い、起きてるか坊主」
「は?」


 病室の扉を開けて入ってきた少年が、いきなり総一郎の頭を叩いた。



「な、何だよ君」

 叩かれた頭を掻きながら、総一郎はいきなり入ってきた少年をにらみつけた。


「あ、起きてた? わりぃわりぃ、毎日見舞いに来たっていうのに眠ってたからさ、起きてたけど全然動かなかったから、もしかしたらまた寝てるのかと思ったんだよ。あ、俺の名前は鈴原雷牙っていうんだ。あんたの名前は知ってるよ、日村総一郎だろ? ここ三日間通い詰めたから、すっかり覚えちゃったよ」

「いや、だから君誰だよ、いきなり人の頭叩くなんて、非常識じゃないか」
「非常識だって? ははっ」

 総一郎の文句に、だが雷牙はむしろ嬉しそうに笑った。

「非常識でいいじゃないか。常識な奴しかいない世界なんてつまらないだろ? それに、あんただって俺と同じ非常識な存在じゃないか。いやぁ、三日前の戦闘は久しぶりに燃えたね。見てみろよ、あの時受けた傷がまだ治りきってないんだぜ」
「は? 三日前? なに言ってるんだ?」


 先ほどまで気付かなかったが、雷牙と名乗った少年は、自分と同じ病院服を着ていた。服をめくり、左肩に巻かれた包帯をまるで勲章のように見せびらかす少年を見て、総一郎はつい笑みを浮かべた。

「お、ようやく笑ったな。うん、子供は笑っていた方が絶対いい!!」
「子供って、同い年ぐらいだろ? それで年長者ぶるのはよせよ」

「おいおい、お前何歳だよ。どう考えても俺より小さいじゃないか、ちなみに、俺九月生まれの十三歳ね」
「勝った。僕は八月生まれの十三歳だ。つまり、僕の方が一ヶ月お兄ちゃんってわけだ」

 にやりと笑った総一郎を見て、むっと雷牙は頬を膨らませたが、すぐにぷっと噴き出すように笑った。それにつられ、総一郎も笑い出し、病室に、二人の笑い声が響いた。




「ふ~ん、じゃあ三日前何があったのか覚えてないのか」
「うん、下の階まで降りたのは覚えているけど、そのあと何があったのかはよく・・・・・・今日目が覚めたら、何か体中痛いし火傷してるし、いったい何があったんだ?」
「まあ、簡単に言って、総ちゃんは自分に降りた神に体を乗っ取られたのさ。で、この病院を出て市内を徘徊して・・・・・・で、他の奴らの手に負えなくなったから俺が呼ばれたってわけさ。いや、大変だったぜ。気絶させるの」
「そうなのか、何かごめん」
「いいって、さっきも言ったけど、充分楽しめたから」

 ベッドの脇にある椅子に腰かけていた雷牙は、よっと飛ぶように椅子から降りると、ふと、窓を閉め切っているカーテンを少しだけ開けた。

「俺さ、自分でいうのもなんだけど、他の人間とはちょっと違うんだ。親は高天原の重鎮だし、俺自身も武雷神なんて規格外な神を降ろしたせいで、秘密兵器やひどいときには化け物呼ばわりされるし」



「・・・・・・」




「でもって、大人たちからは腫れもの扱い、同年代の奴らなんて、普通の奴は近寄ってこないし、近寄ってくる奴は打算的な奴だったりで、正直友達何て一人もいないんだ・・・・・・ええと、だから、というわけじゃないけど、その」

 そこでいったん言葉を切ると、雷牙は頭をぼりぼりと掻きながら視線をさまよわせていたが、やがておずおずと総一郎の目を見た。


「その、俺と友達になってくれたら嬉しいかな・・・・・・って」


「・・・・・・は、はは、あはははははははっ」
「なんだよ、笑いやがって」


 深刻な顔をして、何を言い出すかと思った総一郎は、雷牙の言葉につい笑ってしまった。ふてくされて頬を膨らませる少年の前で、ひとしきり笑うと、彼は雷牙に向かって、右手を差し出した。



「ああ、そうだね、僕も君と友達になりたい。だから、友達になろう、雷牙」
「あ・・・・・・ああっ!!」


 差し出された右手を、呆然と眺めていた雷牙は、総一郎の言葉に破顔すると、その手をぎゅっと握りしめた。



 それから二人はいろいろな話をした。それは互いの好きな食べ物だったり、趣味だったり、学校の話だったり、そんな他愛もない話をするうち、雷牙はふと、総一郎の表情が時々曇ることに気付いた。

「えっと、その・・・・・・面白くないか?」
「え? いや、そんなことはないよ。雷牙と話をするのは楽しいし、一緒に遊びたいとも思う。けど」


 ふと、総一郎は悲しげな、本当に悲しげな笑みを浮かべた。




「けど、だからこそずっと友達でいられないことがつらいんだ。だって、僕は四日後に死ぬのだから」










「なんだよ、それ!!」
「・・・・・・雷?」

 授業が終わってから、恋人である雷牙の見舞いに来たものの、病室に肝心の少年がいなかったため、建物の中を探していた水口千里は、突如聞こえてきた探し人の叫び声に、近くの病室の扉をそっと開けた。



「なんだよそれ、三日後に死ぬって、どういうことなんだよっ!!」
「言葉通りだよ」

 病室に入ってきた千里に気付くことなく、悲しげに微笑する総一郎の前で、雷牙は取り乱して叫んだ。


「僕は、たとえ自分の意思じゃなくても、大勢の人々を殺し、さらに大勢の人々を悲しませてしまった。その責任を取らなきゃならない」

「それって降り神の儀の時に起こった事故のことか!? けど、あれはお前の責任じゃないだろ、自分たちの力を過信し、総ちゃんを侮ってろくな準備もせずに儀式を執り行った、あいつらに責任があるんだろうがっ!!」


 雷牙の悲鳴にも似た声を、目を閉じて聞いていた少年は、しかし彼の言葉を否定するように、微かに首を振った。

「そうだね、そういう考え方もできる。けどね雷牙、そう考えるのは、僕自身が許せないんだ」

「なんだよそれ・・・・・・許せないってんだよ!! ぐっ」
「雷っ!!」

 総一郎の言葉に、彼に掴みかかろうとした雷牙は、突如左肩を襲った激痛に、その場に蹲った。

「ち・・・・・・さと?」
「まだ怪我が完全に治りきっていないんです、お願いですから、無茶をしないでください。さあ、戻りましょう」
「あ・・・・・・ああ、ごめん、総ちゃん。大声出して」

 痛みに顔を伏せ、謝る少年に、総一郎はいいよ、と笑った。


「すいません、これで失礼させていただきます。挨拶はまた後程・・・・・・それと、私からも一つだけ言わせていただきます。あなたがやろうとしていることは、単なる逃げです」





「分かってる、死んで楽になりたいのが、単なる僕の願いだということは。けど・・・・・・けど死ぬ以外にどうやって償ったらいいのか、僕にはわからないんだ」






 夕日が落ちかけ、暗くなった部屋の中で、少年は、いつまでも俯いていた。






















 次の日は、朝からあいにくの雨であった。土砂降りの雨が地面を叩きつけるように降るのを、ぼんやりと見ていた総一郎は、ため息を吐いてカーテンを閉めた。

 昨日友達になった雷牙は、だが今日は来なかった。当然だろう、昨日あんな別れ方をしたのだ。もしかしたら、友達になりたいといったことすら後悔しているのかもしれない。


「・・・・・・まあ、そっちの方がいいけどね」

どうせ自分は三日後には死ぬのだ。それが、殺してしまった多くの命に、その家族に、そして拾ってくれた母にできるたった一つの償いだろう。そして死ぬ自分が、友達なんて持っていいはずがない。

 雨が降っているせいだろうか、なんとなく気分が沈んでいる少年は、ふと尿意を覚え、トイレに行くために立ち上がった。






 その少女に出会ったのは、トイレを出てすぐのことだった。奇しくも自分が黒い獣となった時と同じだったことから、少年は一瞬、椅子に座っているその少女を、自分の憎悪が形となって唆しに来たのではないかと思ったが、今は昼間で、総一郎の近くにいるのはその少女だけでなく、医者や看護婦、患者や見舞客などが多くいた。


「・・・・・・? あなた、だぁれ?」 
「あ、えっと」

 少年の視線に気付いたのか、自分より一歳か二歳ほど年下に見える小柄な少女は辺りをきょろきょろと見渡すと、自分を見る総一郎に築き、こてんと首を傾げた。



「・・・・・・あ、僕は、日村総一郎っていうんだ。ここに入院してるんだよ。君は・・・・・・誰かのお見舞い?」
「うん、お婆ちゃんが、体調を崩して通院してるの。戻ってくるまで、ここで待ってるんだ。あ、あたしは綾乃っていうの。お兄ちゃん」
「そう・・・・・・えっと、お父さんかお母さんは一緒じゃないの? 一人でいると危ないよ?」

 何気なくそう聞いた少年は、次の瞬間軽はずみな事をした自分を殺してやりたくなった。なぜなら、綾乃と名乗った少女の目に涙が浮かび、彼女はぐすぐすと泣き出したからである。

「あたし、お母さんもお父さんもいないの。お母さんは小さいころに死んじゃって、お父さんも何日か前に死んじゃった」
「そ・・・・・・そう、えっと、じゃあ僕と同じだね、僕もお父さんとお母さん、どっちも死んじゃったんだ」
「え? お兄ちゃんも」

 手でごしごしと涙を拭い、真っ赤な目で見つめる綾乃に少年はこくんと頷いた。本当は、自分には朱里という母親がいるのだが、どうせあと三日もすれば死に別れるのだ。言わなくてもいいだろう。


「それで、えっと・・・・・・お婆ちゃんを待ってるんだよね。じゃあ、少しの間、僕とお話ししよっか」
「お兄ちゃんと? う~ん、まあいっかな」

 にっこり笑った少女につられるように微笑むと、総一郎は彼女の脇に腰を下ろした。
 綾乃という名の少女は、元々市外にある実家で祖母と二人で暮らしていたらしい。父は単身赴任をしており、会えるのは月に一度か二度、それでも会うたびにお菓子やおもちゃを買ってくれたり、抱き上げてくれたりと、深い愛情を注がれていたようだ。その父親が数日前になくなったため、学校を休んで祖母と一緒にここ出雲市にやって来たらしい。話しているうちに父親が死んだ悲しみが押し寄せてきたのか、ぐずりだした少女の背中を、総一郎は慌てて撫ぜてやった。

「ありがとう、お兄ちゃんって優しいんだね」
「そう、かな・・・・・・そういわれる資格なんて、僕にはもうないけどね」
 
 生きていた頃の母から、女の子は優しく守ってやりなさいと言われていた総一郎は、だが人殺しの自分には、誰かに優しくしたり、誰かを守ったりすることなど出来ないと思っていた。下を向いて、自嘲気味に笑う少年を、綾乃はしばらく首を傾げて見つめていたが、やがて自分の胸に、総一郎の頭をえいっと抱え込んだ。

「うわっ、な、何をするのさ」
「悲しい事や、苦しい事があった時は、一人で抱え込んじゃダメなんだよ。大丈夫、お兄ちゃんがつらいときは、あたしがそばにいて守ってあげるから」
「綾乃ちゃん・・・・・・」

 
 自分も悲しいだろうに、抱きしめてくれる少女の胸の中で総一郎は少しの時間じっとしていたが、やがて彼女の胸から頭を放すと、少女の頭を優しく撫ぜた。

「ありがとう、綾乃ちゃん。元気をたくさんもらったから、もう大丈夫だよ。うん、そうだね。泣いたり悲しんでばかり、居られないからね」
 
目の前にいる少女は、自分が悲しいはずなのに、それでも僕を慰めようとしてくれた。彼女に恥じないように、三日後に自分が死ぬまでは、彼女の事を守れるように、もう悲しんだりつらいと思うのはやめよう。少年が、そう思った時だった。






「おや、綾乃。お友達かい?」
「あ、お婆ちゃん」


 診察が終わったのか、二人がいる廊下の突き当たりにある部屋から、一人の老婆が出てきた。六十歳前後思われるその老婆は、最初総一郎を訝しげに見ていたが、彼の欠損した左腕に目をやると、気の毒そうな顔をした。


「ああ、遊んでいてくれたのかい、ありがとうよ。綾乃、付き添てくれるのはありがたいけれど、私はどこも悪くはないんだよ。だから、お前は公園かどこかで遊んでおいで」
「ううん、いいの。あたしが好きでやっていることだから」
「そうかい、お前は優しい子だねえ。けど本当に大丈夫なんだよ、信じられないことを聞いて気が動転してしまっただけだからねぇ」
「えっと、信じられないことってなんですか?」

 いきなり話に割り込んできた少年を、老婆は訝しげに見つめたが、孫が促すように袖を引くと、はぁっとため息を吐いた。


「息子の死因だよ。姿かたちも残らず、木の板に少しついたすすが息子だなんて信じられるわけないじゃないか・・・・・・って、大丈夫かい? 顔が真っ青だよ」
「お兄ちゃん?」
「・・・・・・・・・・・・」



 老婆と綾乃は顔を真っ青にして震えだした少年を心配そうに見つめたが、彼は何も言わずに体の向きを変えると、不思議そうな顔をしている二人を残して、ふらふらと歩いて行った。



「・・・・・・僕、が」


 どこをどう帰って来たかもわからないまま、病室に戻ってきた総一郎は、ベッドに戻る気力もないのか、痛み止めの効果が切れ、徐々に痛み出す身体で、ずるずるとその場に座り込んだ。


「僕が、綾乃ちゃんの、お父さんを・・・・・・殺した?」


 頭の中で黒い何かがぐるぐると渦を巻く。不意に、彼の目に、数日前の光景が浮かび上がる。自分の中に眠る憎悪の感情に呼応して降りた神に体と意識を乗っ取られ、周りにいる全てを彼は焼き尽くした。その中に、綾乃によく似た男は居なかっただろうか。


「あ・・・・・・あ、ぼ、僕は、し、死ななきゃ、僕は、僕は」



 痛む体で這いずるように移動すると、総一郎は棚から鋏を取り出すと、ガタガタと震える手で、それを自分の首元に持ってきた。このまま首を貫けば、自分は苦しみながら死ぬことだろう。そうだ、それがいい。


「ご・・・・・・ごめん、ごめんね、綾乃ちゃん、ぼ、僕のせいで」


 ガタガタと震えて狙いが定まらないが、それでもどうにか鋏を持ち上げると、総一郎はギュッと目を瞑り、そして、






 そしてそのまま身体が激しい痛みに耐えきれなくなったのか、少年の意識は闇の中へと落ちていった。








 フフフッと、闇の中で誰かが笑う。クスクスクスと、それはもう、心の底から楽しそうに








 



 次の日、鈴原雷牙は朝食を取った後、頬を膨らませながら、二日前に友達になった日村総一郎という少年を探して病院の中を歩いていた。


『たとえあなたが悪いのではなくとも、ちゃんと仲直りした方がいいですよ? あなたと何の打算もなしに友達になってくれそうな人が、他にいると思いますか?』


 昨日、事の顛末を聞いた千里に呆れられながらそう言われ、一日中ふてくされた後、仲直りのためにお菓子を隠し持って病室まで来たのだが、残念ながらそこに彼が捜している少年は居なかった。そのため、もう三十分以上も病院の中を探していたのである。


「ったく、どこにいるんだよ、総ちゃんの奴」


 巨大な総合病院の一階から最上階まで隅々を探し、戻ってきてるかもしれないと思って部屋に戻ってみたが、結局空振りに終わって少し不機嫌になっている雷牙は、天気のいい日はシーツが干されている屋上に出ると、むっつりとした表情のまま手すりに寄り掛かった。


「けど、なんで死ぬなんて言い出すかな」

 
 死ぬよりは生きていた方がいいに決まっている。楽しいことが大好きな雷牙は、死んだら好きなことが何もできなくなるという事を知っていた。第一、自分が先に死んだら少なくとも一人、嘆き悲しむ人間がいる。もちろん恋人である千里の事だ。彼女のためにも、自分はまだ死ぬわけにはいかない。そう、決意を新たにした時である。


「・・・・・・あ、あんなところにいた」



 何気なく下を向いた雷牙の目に、病院のすぐそばにある公園のベンチに一人座っている、少年の姿が目に映った。













「・・・・・・」

 病院から抜け出して、近くの公園にあるベンチで、総一郎はげっそりとした表情でうつむいていた。

 自殺しようとした時、気を失って倒れた後、繰り返し押し寄せてくる波のような痛みに何度もたたき起こされ、また気を失うという地獄の様な一夜を彼はすごした。それがおさまったのは、今朝早く、扉に挟まれた患者衣の裾を発見した看護師により痛み止めの薬を飲まされ、ベッドに運ばれた時だった。

 それから、ぼんやりとした意識の中でベッドを抜け出したところまでは覚えているのだが、気が付いたらそとの公園のベンチにいた、というわけである。



「死ねなかった。まあ、良いけどね。どうせ明後日には死ねるんだから」

 そう呟いた総一郎が、ククッと暗い笑みを浮かべた時である。



「この馬鹿っ」

 バコッ


「痛っ!? な、何するんだよっ!!」


 いきなり頭をしたたかに殴られた。右手で痛む頭を押さえながら立ち上がり、文句を言おうと振り向くと、そこには友達になったばかりの少年がいた。

「ら、雷牙・・・・・・」
「お前まだ死ぬなんてふざけたこと言ってやがんのか、今度またそんなこと言ってみろ、一か月は目が覚めないように、こんがり焼いてやるからな」
「う・・・・・・」

 バチバチと、彼の身体に小さな稲妻が走る。それを見てたじろいだ総一郎を、雷牙は馬鹿にするようににやりと笑った。

「う、うるさい、君に何がわかるっていうんだ。僕は人殺しだ、生きていたって、どうせまた意識を乗っ取られて誰かを殺してしまうんだ。だったら今死んだ方がいいだろうっ!!」
「はっ!! 俺一人殺せない奴がよくいうよ。言って置くけど、あの時の戦闘はお前を殺さないためにすんげぇ手加減したんだからな。そんな実力で殺すぅ、とか、死ななきゃならないぃ、とかうじうじしてるなんて、笑っちまうね」
「何だと!?」
「あ? なんだよ」

 雷牙の挑発めいた言葉に、怒りで顔を赤く染めて総一郎は立ち上がった。と、彼の周りの空気がちりちりと熱くなっていく。だが、少年の意識は、なぜか乗っ取られてはいなかった。




「何をしてるんですか、雷っ!!」
「お兄ちゃん、大丈夫!?」


「千里!? や、やべっ」
「綾乃ちゃん!?」


 二人のにらみ合いが終わったのは、病院から二人の少女がやって来た時であった。



「まったく、雷も総一郎君も、いったい何をやっているんですか」
「そうだよ、心配して探したっていうのに、こんな所で喧嘩してるなんて」
「ご、ごめんね綾乃ちゃん、千里さんも」
「悪かったよ二人とも、ほ、ほら、おやつ食べないか? 千里、甘いもの好きだろ? そっちの、ええと、綾乃ちゃんも?」

 むっつりと怒っている千里と、ぷぅっと頬を膨らませている綾乃に、少年二人は小さくなるしかなかった。雷牙がお菓子を餌に機嫌を取りつつ事情を聴くと、なんでも雷牙の姿が見えなくなり、探していた千里が、総一郎を探していた綾乃を見つけ、二人で少年達を探していたらしい。


「それで、喧嘩の理由はなんですか?」
「え? ええと、その・・・・・・総ちゃん」
「・・・・・・僕が悪いんだ、千里さん。雷牙は何も悪くないよ」
「ああ、どうせまた死にたいとか言ったのでしょう。懲りない人ですね、あなたも」
「・・・・・・え? お兄ちゃん、死んじゃうの?」

 理里からもらった棒付きキャンディを舐めていた綾乃は、総一郎の言葉に口にくわえていたキャンディを地面に落とすと、彼女の目に大粒の涙が浮かんだ。

「お兄ちゃんのばか、どうして死んじゃうなんて言うの!? お兄ちゃんが死んじゃうなんて、そんなのあたしやだよ!!」

「綾乃ちゃん・・・・・・」


 気を利かせたのか、雷牙は千里の肩をポンッと叩き、二人は公園の反対側にあるブランコまで歩いて行った。彼らが離れたのを見て、総一郎は涙を必死でこらえる少女の前にしゃがみ込むと、右手と頭を地面にこすり付けた。


「お兄ちゃん?」
「ごめん、なさい。許してください。僕は・・・・・・僕は、君に取り返しのつかないことをしてしまった。僕は、君の大切なものを奪ってしまった。壊してしまった。ごめんなさい、許してください」


 ぽたぽたと、地面に打ち付けた頭の下にある砂地に、水滴がこぼれる。最初の一、二滴はすぐに乾いたが、後から後から落ちてくる水滴によって、砂地に大きなシミが出来た時、



「・・・・・・あ」


 綾乃は、そっと、少年の頭を抱きしめた。




「お兄ちゃん、泣かないで。うん、許してあげる。だって、お父さんが言ってたもん。心から謝ってる人は、ちゃんと許してあげなさいって。だから、だから死んじゃうなんて、お願いだから言わないで」


「綾乃、ちゃんっ」


 ぽたぽたと、少年の頭に大粒の涙が流れる。その、どこか温かい雫を感じつつ、綾乃の小さな体を右手で抱きしめ、総一郎も大声で泣き出した。






 泣き声が聞こえる。少年と少女、二人の泣き声が。








「えっと、ごめん、服汚しちゃった。大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。それより、ぷふ、お兄ちゃん、おでこに砂が付いてるよ」
「あ、そうだ。くくっ、変なの」


 永遠に続くかと思われた泣き声は、だがほんの一分足らずで終わり、綾乃と総一郎は身体を離してゆっくりと立ち上がった。少女に指摘されて初めて気づいたのか、少年は額と髪の毛に着いた砂地をぱらぱらと軽く払った。


「お~い、泣き虫坊主、もう泣き止んだか?」
「・・・・・・うるさいな、雷牙。って、なんで君が泣いてるのさ」
「・・・・・・ぇ?いや、これは泣いてなんかいねえよ。そうだ、俺って花粉症なんだよ、花粉症」
「下手な嘘は墓穴を掘るだけですよ、雷」
「あ、お姉ちゃん」

 鼻を赤くしている雷牙の言葉にツッコミを入れた千里に、綾乃は嬉しそうに抱きついた。そんな少女の頭を優しく撫ぜながら、彼女は総一郎にちらりと視線を向けた。

「・・・・・・どうやら、もう死にたいという気持ちはなくなったようですね」
「うん、少なくとも、抗ってみることにしたよ。楽になるのは、償いにはなりそうにないからね。けど、なら代わりにどうやって僕は、償いをしていけばいいんだろう」
「そうですね、それは・・・・・・」
「守ってやればいいんじゃねえの?」


 どこか吹っ切れたように晴れやかな笑みを浮かべる少年の問いに、千里が考え込んだ時、その隣にいる雷牙がぶっきらぼうに言った。



「雷牙?」
「だから、ずっと守ってやればいいんじゃねえの? 綾乃ちゃんだけでなく、お前が守りたいと思った連中、そいつら全員守ってやれば、償いにもなるんじゃないかなって・・・・・・そう思うんだけどよ」

 顔を先ほどとは別の意味で赤くして、そっぽを向いた恋人を見て、千里はふっと笑みを浮かべた。

「どうやら、雷も時々はいいことを言うようですね。総一郎さん、どうでしょう。雷が言ったとおり、まずは何かを守ることを償いにしてみたらどうでしょうか。例えばそうですね、自分より弱い存在、綾乃ちゃんとか」



「え~、私、泣き虫のお兄ちゃんより強いよっ!!」



 ぷくっと頬を膨らませる綾乃に、そうですねと答える千里を見て、総一郎はふと、空を仰いだ。


「・・・・・・うん、そうだね。守るか、皆を、うん」


「あ~、はいはい。んじゃ総ちゃんが新しい目標を持ったことだし、この話はもうお終いな。それじゃ、今まで皆に散々迷惑をかけた仕返しに、今から総ちゃんの所に行って遊ぼうか!!」
「は? なんだよそれ」
「あら、いいですね。ちょっと肌寒くなってきたことだし、中に入りましょうか」
「うん、あたし、お兄ちゃんの部屋に行ってみたい!!」
「ちょ、千里さん!? 綾乃ちゃんまで!?」

  一足先に病院に向かって駆け出す雷牙に続き、綾乃の手を引いて千里も走り出す。彼ら三人の背中を見ていた総一郎は、だが次の瞬間、ここ数日出すことがなかったほど大きな声で笑うと、彼らの後に続いて駆け出して行った。










 
 闇の中で、黒い煤の様な少女が笑う。

 くすくす、くすくす、くすくすと


 『なあんだ、死なないの、まあいっか、どうせオニイチャンに降りる神様なんていないもの。いたとしても、それはろくでもない神に決まってる。そしてその時こそ、オニイチャンの身体を乗っ取る時』


 くすくす、くすくす、くすくすと


 笑い声が聞こえる。闇の中、ずっとずっと、永遠に











 そして、翌日。



 その日は別段大したことはなかった。朝起きて、何日かぶりにしっかりと朝食をとり、最後の日という事で様子を見に来た秋山を驚かせると、午前中は雷牙とトランプをして遊び、午後になって病院にやって来た綾乃と千里を含めた四人で病院を使って鬼ごっこやかくれんぼなどを楽しんだ。そして夕方、綾乃が祖母に付き添われて帰った後、夕食と入浴を済ませた少年は、床に正座しつつ、静かにその時を待った。


 そして、時刻、二十三時ちょうど






「時間です」
「はい」




 迎えに来た秋山の声に、少年は、日村総一郎は、静かに応えた。



 少年と秋山を乗せた車は、病院からまっすぐ出雲大社へと向かった。だが、社殿には入らず、その奥にある巨大な岩へと向かう。その岩の前には、錫杖を持った屈強な男が四人、手に結界の文字が刻まれた、巨大な鉄の鎖を持って立っていた。


「どうぞ」

 秋山に促され、総一郎が一人、彼らの前に歩み出ると、男たちは総一郎を取り囲み、その細い体に鎖を巻きつけていく。そして、完全に鎖を巻き終えると、男の一人が、錫杖で巨大な岩を叩いた。と、不意に何かが動く音がして、先程男が錫杖で叩いた部分が横にずれた。その後にできた暗い穴の中に、四人の男と、そして鎖でがんじがらめに縛られた日村総一郎が、静かに入っていった。



 薄暗い岩の中を、どこまでも歩いていく。いくら岩が巨大と言っても、これほど歩いて端に着かないのはおかしいな、そう思った総一郎は、ふと、その事実に気付いた。自分達は、まっすぐに進んでいるのではない。“下”に降りて行っているのだ。それから時間の感覚も分からに程に降りた時、彼らはぽっかりと開いた場所にたどり着いた。



 そこはまさに、地獄の窯の上と呼ぶにふさわしい所であった。広い空間のほとんどは、シュウシュウと音を立てる硫酸の池だ。その池のほぼ中央に周囲五か所にロウソクが立てられた、岩で出来た広間がある。そこに行くには、自分達が今いる場所から伸びる、人ひとりがようやく通れる小さな岩の足場を通る以外にない。と、男の一人が、自分を縛っている鎖をグイッと引っ張って足場を渡り始めた。彼に引っ張られるように、総一郎もよたよたと進んでいく。もし足を踏み外せば、その時点で自分は硫酸に溶けて跡形もなく消えるだろう。二日前までの自分なら、それでいいと思ったかもしれない。だが今、自分はもう死にたいとは思っていなかった。守るために、抗うために生きる。その気持ちが、そして、懐にある綾乃からもらったたった一つの贈り物が、彼を勇気付けていた。


 よたよたと、不安定な足場を歩き続け、ようやく広間までたどり着くと、男は一言も喋らず、少年を五本の蝋燭が囲む、その中央に座らせた。そして、少年の身体が動かないように、後からやって来た他の三人の男たちと一緒に錫杖で抑え込む。


「・・・・・・っ」

 錫杖が当たった痛みに、総一郎はこみあげてくる悲鳴を必死にこらえた。そんな総一郎の耳に、どこからか誰かが唱える呪文のような言葉が聞こえてくる。それは真言の一種ではあったが、むろん、この時の彼には全く意味が分からなかった。





「ではこれより、罪人、日村総一郎の、第二の降り神の儀を執り行う」



 呪文のような言葉が周囲を満たす中、黒いフードで顔を隠した誰かが、不安定な足場をすたすたと渡り、総一郎の所までやって来た。


「まず、日村総一郎の罪状を読み上げる。まず第一に、何の心構えもないのに降り神の儀に参加した事、第二に、降り神の儀にて炎と憎悪の神である火之迦具土神を呼び出し、その神に体を乗っ取られて暴走、儀式に臨んだ十数名の呪術師を殺害、儀式場を全壊させたこと。第三に、その翌日に、再び身体と意識を乗っ取られて暴走した事。これらの事を考え、極刑がもっともふさわしいが、偉大なりし方々の慈愛にて、ここに最後のチャンスを与えられた。すなわち」

 そいつが、男か女かもわからない声で日村総一郎の罪状を叫ぶと、周りの呪文を唱える声が一層大きくなった。


「すなわち、これまで誰も行ったことのない、その身に第二の神を降ろすことである!! その危険性を考え、ここ処刑場が、その儀式の場に選ばれた!! 暴走した場合、速やかに息の根を止められるようにだ。さあ、罪人よ。最後に何か言い残すことはないかね?」


「・・・・・・僕は、生きるッ!!」


 腐った匂いのする指が頬に触れる。そのおぞましさに吐き気を感じるも、総一郎はまっすぐ前を向いて、一言そう言い放った。


「・・・・・・ふん、そうなればよいがな。おい、始めろ」


 恐れを知らないのか、それとも巧妙に隠しているのか分からないが、力強くそう言い放った少年に鼻白むと、黒いフードを被ったそいつは、さっと両手を上げた。すると、大きくなっていた呪文を唱える声が、もはや鼓膜を突き破るほどに聞こえてきた。そして、それとは逆に、少年の意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。


























「・・・・・・う」




 それからどれぐらい時間がたったのだろう、気が付くと、総一郎は一人、粘つくような闇の中にいた。立ち上がろうとするが、身動き一つ取ることはできない。

 その時である、彼は自分の周りに、何かがいるのに気付いた。それは闇と同じ、黒い色をした影のようなもので、大きいのもいれば、小さいのもいる。形はよく分からないが、一つだけわかっていることがある。それは、



 彼らが、自分を狙っているという事だ。


 
 黒い影たちは、少年を取り囲みゆらゆらと動いている。どこからか、ひそひそと話し声が聞こえる。くくっと不気味に笑う声がする。と、影の中でひときわ巨大な影が少年に近づいたかと思うと、その身体に覆いかぶさった。





「ぐっ!!」





 自分の中に流れ込んできたものに、少年は奥歯を噛み締めて耐えた。


 それは絶望という感情だった。死ぬ間際に感じる絶望、決して治らない病気にかかった時に味わう絶望、全てに失敗し、もうどうにもならなくなった時に感じる絶望、信じていた友人に裏切られたときに感じる絶望、この世のありとあらゆるところにあるすべての絶望が、日村総一郎の身体に入り込もうと流れ込んでくる。その途轍もない苦痛に、総一郎は必死になって耐えた。だが、それよりもなお恐ろしいのは、苦痛と共に、自分の中で憎悪の化身である少女の声が囁くことだ。つまり、





 楽になれ、と




 楽になれ、楽になれ、そうすればすべてが終わる。お前はもう、悩むことも、苦しむこともない。楽になり、そしてその身体を明け渡せと。



 それは、少年が耐えれば耐えるほど、大きく、そして強く彼に囁いた。






「・・・・・・だ、れが」



 だが、微かに、ほんのわずかに、少年の心の片隅で、誰かが囁く。抗えと、それは友人になったばかりの雷牙の声であり、千里の声であり、綾乃の声であり、死んだはずの父と母の声であり、そして、朱華の声であった。




「負ける、かぁああああああっ!!」


 右腕を何とか動かすと、少年は懐に隠し持っていた、綾乃からもらった彼女の宝物を取り出した。それは、まだ少女の母親が生きていた時、親子三人で行った遊園地のゲームに参加した時に参加賞としてもらった、彼女が好きだったアニメのヒーローが描かれた、何の変哲もない缶バッジであった。

 そのバッジの裏についている留め具の針を、少年は自分の太ももに、思いっきり突き刺した。



「いってぇえええええええええええっ!!」



 周囲に血が飛び散り、太ももに激痛が走る。だが逆に、流れ込んでくる絶望は、自分の中で囁く憎悪の声は弱まったように感じる。




「僕は、もう逃げないっ!!」




 自分に覆いかぶさっていた影を渾身の力で払いのけると、絶望の化身であるその影は、よろよろとよろめきながら闇の中へと消えていった。そして、それに続いて、周りの大小さまざまな影―負の感情が形を成したものは、少年から少しでも遠ざかろうと、我先に逃げていった。




「・・・・・・ふうっ」




 恐らく、前回は何もできずに憎悪という負の感情を受け入れてしまったのだろう。だが、今は違う。総一郎は、闇の中で、だが自分を支えてくれる大勢の人々の気配を、おぼろげながらに感じていた。





 それから、再び長い時間が過ぎた。もう何も来ないのかな、そう少年が思うほどに長い時間が過ぎた時、ふと、前方に光がともった。その光は、少年が見ている前で徐々に大きくなっていき、やがて優しげな笑みを浮かべた、かつて一度だけ旅行に行った先で見た、仏像の姿を取った。




―よくぞ、悪鬼たちの誘惑を退けた―


「え? は、はい」


 頭の中に、誰かの暖かな声が聞こえる。まるで我が子を抱きしめるようなその温
かい声に、少年はぼんやりと仏像を眺めた。





―私は釈迦如来。これよりお前を救う神となろう―



「救う・・・・・・僕を?」



―そう、この世のありとあらゆるものから、私はお前を救うと誓おう。さあ、私の手を取るが良い―


 仏像の手が、自分に向かって伸ばされる。少年が、自分の手を伸ばしかけた時、




『ふぅん、お前って誰かに救われたいのか、相変わらず甘ちゃんだなっ!!』



「・・・・・・は?」


 彼の心の中で、自分をからかう友達の声が響いた。





―どうした? 早くこの手を取るがよい―




「・・・・・・・・・・・・すいません、僕にあなたの手を取る資格はありません」


 伸ばしかけていた手を引っ込めると、少年は姿勢を正し、まっすぐに釈迦を見た。



「僕は、もう救われていい人間じゃないんです。けど、その代わり、僕は自分の全部を使って、人を救いたい。そのために生きたいんです。だから、貴方の手を取ることはできません」


 ふかぶかと一礼する少年を、相変わらず優しげな表情で見つめながら、その仏像はふっと掻き消えた。



 そして再び、長い時間が過ぎた。さっきのはちょっと惜しかったかな、雷牙、君のせいだぞ、と少年が思っていた時、再び目の前の空間が光り輝き、今度は無数の手を生やした仏像が現れた。





―私は千手観音、少年よ、私の手を取るが良い。さすれば私はこの無数の手で持って、お前をありとあらゆる災厄から守ると誓おう―


「僕を、守ってくれるんですか?」



―そうだ、この先お前を襲う、全ての災いからお前を守ろう―


 仏像の言葉に、少年は今度は手を伸ばすことなく、ゆっくりと目を閉じた。




『あなたが生きてやりたいこととは何でしたか?』



「・・・・・・うん、そうだ。そうだった。ありがとう、千里さん」








 そして、再び目を開けた時、少年はゆっくりと首を横に振っていた。





「ごめんなさい、僕はあなたの手を取ることはできません。だって、僕のやりたいことは、守られることじゃない、この手で皆を守る事だから」



 そして、一礼する少年を見て、千手観音の化身たるその仏像は、ゆっくりと消えていった。






「・・・・・・うん、そうだ。僕がやりたいこと、それを再確認できた。ありがとうございました」



 すこし、気持ちが楽になった。くすりと笑いながら、少年は自然に胡坐をかき、ゆっくりと目を閉じた。










 それからまた、長い長い、それこそ、時間を忘れるまで長い時が過ぎた後、三度、少年の目の前が光り、今度は左足の上に右足を置き、右手で頬杖をついている仏像が現れた。




―私は弥勒菩薩、私はお前を救いも守りもしない。だが、お前を蝕むその憎悪の神を消し去ってやろう―




「・・・・・・消し、去る?」




 先ほどの二体の仏像と同じく、首を振ろうとした少年は、だが仏像の言葉にふと、その動きを止めた。




―そうだ、お前に宿った憎悪の神、それを消して、お前をただの人間に戻してやろう。ただの人間として、平凡な一生を送るが良い―



「・・・・・・平凡な、一生」


 それは、それこそ、少年が恐らく心の底で願っているものだろう。なぜならそれは、かつて少年が持っており、そして理不尽に奪われたものだから。



―そうだ、憎悪の神を消し去り、全ての者からお前の記憶を消し去ってやろう。そしてその後、お前はひっそりと暮らせばよい―


「ひっそり、と・・・・・・だれにも、迷惑をかけることなく」



 ふらふらと、少年の指が宙をさまよう。その指が、仏像に触れようとした、その寸前



『お兄ちゃんっ』



 妹である日美子が、綾乃が、そして心の中の何かが、自分を呼ぶ声が聞こえた。


 その声に、日村総一郎は、ゆっくりと上を見上げ、指を降ろした。





「・・・・・・ごめんなさい、それは、それだけは出来ないんです。僕は、僕は大勢の人の命を奪ってしまった。どんなに苦しくとも、どんなに嘘だと願っても、その事実は決して変えられない。だから、僕は抗う。忘れるんじゃなく、消すんじゃなく、僕が奪った多くの命に対する償いとして、僕は、僕は抗うッ!!」



 立ち上がって、そう言い切った少年の目の前で、仏像はまた、すっと闇の中に溶けていった。






 そして次の瞬間、少年の身体は、突如上から降ってきた巨大な何かによって吹き飛ばされた。





「・・・・・・あ、れ? うぐっ!?」


 そして、吹き飛んだ彼の身体を、虚空から現れたそれが、思い切り踏みつけた。



「あがっ!?」








『邪神共の誘惑を跳ね除け、御仏の慈悲すら断り、我ら荒神を求めるか』


 少年と彼を踏みつける巨大な物体の周囲に、次から次へと、恐ろしい形相をした何かが現れる。それは激しく怒り、怒髪天を衝き、右手と右足を高く掲げた、恐ろしい表情の仁王像達であった。先ほど少年を吹き飛ばしたのは、彼らから発せられた強烈な覇気である。

 
『小童、貴様はもはや善人にはなれん。貴様は多くの罪なき者の命を奪った。それが変えようもない、ただ一つの事実だ』
『そして再び憎悪に負け、我を失い暴走した。その貴様が、いったい誰を守ろうというのだ? 誰を救うというのだ!?』
『貴様には、抗う事すらできん。口だけが達者な小童め。ここで死んだ方が、よほど世のため人のためというものよ』



「ぐっ、僕は、抗う・・・・・・ぐっ、守る、うあっ、救う、それが僕の償いだ!!」



『抗うだと? 守るだと? 救うだと? それはお前が自分で考えたことか? 違うだろう、お前は死にたがっていたはずだ。償いだと? 償ってどうする、それで死んでいった者達が蘇ると思っているのか?』



 自分を踏みつける像を押しのけようと、総一郎は顔を真っ赤にして起き上がる。だが、彼が力を入れれば力を入れるだけ、踏みつける力は強くなっていった。



『どうした? 貴様は救いたいのだろう、守りたいのだろう? 抗いたいのだろう? なのにたったこれっぽっちの重みに負けるとは、貴様の決意とは、それほどまでに脆い物なのか?』
『ふん、結局は口だけよ。己のすべての力を出そうともせず、自分が傷つく覚悟も、死ぬ覚悟もなく、ただきれいごとを並べているにすぎん。もう良い、ここで踏みつぶしてくれるわ』


 自分を踏みつける像が力を込めると、力を振り絞っているはずなのに、押し負け潰されようとしている。もうだめか、やっぱりここまでなのか、涙で滲む視界の中、ふと、ある光景が浮かびあがた。


 それは、今から二日前の公園、体中から稲妻を発する雷牙と向かい合っている光景だった。あの時、自分は怒りで我を忘れていた。そして、無意識にではあるが、自分は己に宿った憎悪の神を制御し、僅かではあるがその力を引き出していた。



 出来るのか? 自分に



 そう疑問が浮かぶ。と、自分を踏みつける足の力が、また強くなった。自分を踏みつける像は、恐らく本気で殺すつもりだろう。なら、たとえ失敗してもいいじゃないか。最悪、自分が死ぬだけだ。




「ぁぁぁあああああああああっ!!」




 叫び声をあげながら、記憶を辿る。先ほどの光景にあった小さい炎ではだめだ。その前、暴走して黒い獣となり、雷牙と戦った姿でも駄目。自分が求めるもの、それは憎悪の神をこの身に初めて宿し、全てを焼き切った時の、あの黒い炎っ!!


 ゆらりと、心の奥底で何かが鎌首を持ち上げる。だが恐れはない。くすくすと笑う少女の声がする。幻聴だ。彼に唯一残された右腕から、黒い炎が辺り一面、所構わず吹き出し暴れ回る!!



「ああああああああっ!!」
『ぬっ!?』


 体中を激痛が走る。それがどうした、ぶすぶすと皮膚が焦げていく、それがどうした。肉が焼け、骨が溶けていく。それがどうしたっ!!



 己のなにもかもを犠牲にし、少年は、自分を踏みつける、巨大な像を振り払った。




 コロンッ




「・・・・・・・え?」




 と、彼の背中から、一つの小さな、それこそ十センチの長さもない、単なる木彫りの像が転げ落ちた。同時に、溶けてなくなったはずの骨も、焼き尽くされた肉も、煤になった皮膚も、何事もなかったかのように一瞬で元に戻った。あっけに取られている少年の目の前で、憤怒の形相をした仁王像が、一体、また一体と消えていき、やがてすべての仁王像が、世界から消え去った。



「・・・・・・ダメ、だったの? 失敗、した、の?」



 駄目だった。結局駄目だった。少年の心に悲しみが広がる。目に涙が浮かぶ。あれほど皆に激励されたのに、守ると誓ったのに、抗うと決めたのに、結局自分は何も得ることは出来なかった。邪神も、御仏も、そして荒神も、皆、自分を認めてはくれなかったのだ。その思いが、少年を支配しようとした、その時である。








『何を泣いておる、小童』


「ふぇっ!?」



 彼のすぐ横で、何かの声がした。





 それは、先程まで自分の背中に乗っていた木彫りの小さな像であった。だが、その小さな像は少年があっけに取られている前で起き上がると、どんどん大きくなっていき、やがて先ほどのどの仁王像より、はるかに巨大な像となって、彼の前に現れた。



『何を泣いておる、小童めが』



 見上げるほどに背の高い像であったが、総一郎には、なぜか像の顔がはっきりと分かった。先ほどの仁王像と同じく、髪を逆立て、憤怒の形相をしている。右手に何かを持ち、左手は何かの印を結び、その左足は大地を強く踏みしめ、右足はまるで何か見えないものを踏んでいるかのよう。そして、その額には爛々と輝く瞳があり、背には巨大な炎が燃え上がっていた。しかし総一郎は、蒼い肌を持つその像を見ても、厳しい表情だなとは思っても、不思議と怖いとは思わなかった


『誰かに苦しめられているのか、お前を苦しめるもの、それはまさか自分の弱き心ではあるまいな』


「違うっ!!」

 天の遥か彼方から発せられ、だがしっかりと聞こえる野太い声に、総一郎は半ば無意識のうちにそう答えていた。


『そうか? まあ良い、これから時間はたっぷりとある。小童、否、日村総一郎よ、先程までお前を苦しめていたもの、それこそが、お前が守ると誓った弱者の重みだ』


 野太い声が、ゆっくりと日村総一郎の身体に入っていく。そして、声が染み渡ると同時に、逆に先ほどまで感じていた負の感情が癒えていくように、少年には感じられた。



『汝の覚悟、よく分かった。ならば我はこれより先、汝と共に行こう。だが心せよ、我は汝を救う神ではない。汝を守る神ではない。これより汝が辿るは修羅の道。悪鬼を滅し、弱者を救う戦いの道だ。鍛えよ、身体を、そして心を。我が名は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、我が腕は弱者のための剣と盾であり、我が足は弱者を支える支柱である』




 景色が変わった。彼は、日村総一郎は名も分からぬ山の、その頂上にいた。彼の眺めるその先で、太陽がゆっくりとその姿を見せる。太陽に照らされて、山々が青く染まる。それは生命の誕生の瞬間だった。動物も、草花も、ありとあらゆるものが息をして、命が脈打っていく。







 そして、少年も、力いっぱい、息を吸い込んだ。



















「・・・・・・ぷはっ」
「総一郎っ!!」




 ふと、少年は、自分が先ほどの岩の上に座っていることに気付いた。もう鎖で縛られておらず、そして錫杖で押さえられてもいない。ただ、自分を渾身の力で抱きしめる、神降ろしの儀を宣言した者がいるだけだ。


「総一郎、総一郎、ああ、総一郎!!」
「お母、さん」


 少年が、母の、朱華の手におずおずと右手を伸ばすと、彼女ますます力を込めて総一郎を抱きしめた。










「馬鹿な・・・・・・成功したというのか!!」



 その様子を、高天原総司令部で部下と共にモニターで見ていた玄は、信じられない気持ちと、そして長い間に忘れていた胸が高ぶる気持ちに、口をあんぐりとあけていた。




「結果出ました。今回の降り神の儀によって日村総一郎に降りた神は金剛蔵王権現、特級の荒神です!!」
「蔵王権現か、彼の荒神なら、力を引き出そうとしない限り、火之迦具土を充分に抑えられるだろう」
「こ、これはお館様」


 その時、玄の背後にある扉が開き、一人の白髪の男が中に入ってきた。


「黒塚家の開祖たる黒塚奈緒より数えて六百と有余年。そろそろ、新しい風を取りいれる時が来たようだな」

 そう呟くと、お館様―すなわち黒塚家当主たる黒塚奈妓は、抱き合う二人に駆け寄る鈴原雷牙と水口千里の姿を見て、まぶしそうに眼を細めた。


























































「ん~ふ~ふ~ふ~ふ~」





 十日ほど前、一人の少年に破壊された部屋の中で、誰かの影が動いていた。その影は、素手でぼろぼろになった木の板を持ち上げては捨て、持ち上げては捨てていたが、やがて一つの木の板を拾い、にやりと笑みを浮かべた。




「これこれ、これこそ僕の探しているものだぁっ」



 異様に長い舌で唇を舐めると、影はそれを持ってきた透明の瓶に入れ、ギチッと強く蓋をした。








 透明な瓶の中、木の板にこびりついた黒いそれは、ピクンッと小さく脈打った。


























 十年前




 南緯四十七度九分、西経百二十六度四十三分、南太平洋上にて




 海上に、一隻の小さな船が浮かんでいた。乗っているのは数人ほどで、皆何かを待っているかのように海面をのぞいている。


「・・・・・・おい、出てきたぞ!!」


 ふと、船尾で海面をのぞいていた男が声を上げた。同時にゴポリと海面に気泡が浮かび、ダイバースーツに身を包んだ一人の男が、海中から浮かび上がってきた。


「おい、どうだった?」
「あったか? なかったか?」
「・・・・・・ぷはっ、おい、大発見だ。確かに海中に何かの構造物のようなものがあったぞ。巨大な構造物を中心に、小さな構造物がいくつかならんでいる。真ん中の構造物の中に入ってみたが、あれはおそらく祭壇か何かだな、中央に巨大な箱のようなものが置かれていた」
「よぉし、大発見だ!! おい、クレーンの準備を急げ、それから数名、ダイバースーツを着て海中に入ってくれ」
「了解です船長、よぉし、これから忙しくなるぞ!!」


 途端に船の上はあわただしくなった。ダイバースーツに着替えるもの、クレーンの操作をするもの、構造物を破壊するために、携帯魚雷の準備をするものなど、皆が忙しそうに働いている。


 

 だからこそ、彼らは気づかなかった。自分たちが乗っている船から少し離れたところにある海面に、ゴポリと気泡が浮かび上がったことに。


 

 それから数分後、ダイバースーツを着込んだ男たちは、先導する男に続いて暗い海の中を下へと移動していた。

 それからどれぐらい潜っただろうか、すでに上下左右の間隔がなくなりつつあった時、“それ”は彼らの前にその姿を現した。男の言ったとおり、巨大な構造物を中心として、小型の構造物が数十、円形に立っている。小さな構造物には目もくれず、彼らは中央にある巨大な構造物へと入っていった。


 構造物の中は、不思議と温かかった。恐らく海水が濁っているのだろう。白くかすむ視界の中、ダイバーの一人が壁に目をやると、其処には人か何かの彫刻が施されていた。しかし、彼はそれを長く見つめてはいなかった。先に言った仲間が、男を呼んだからである。だから彼は気づかなかった。壁画に書かれた人と思われた彫刻が、“エラ”を生やした三本指と“鱗”を持つ、魚のようなものだということに。
そして、男に先導され、彼らはついにその構造物の中央にある部屋へとたどり着いた。



 そこは、一辺が十メートル以上ある巨大な部屋だった。何らかの儀式部屋だったのだろう、四方にある、おそらく神をまつったと思われる像は皆砕け、その他の調度品も皆破損している。だが、それでも部屋の中央にある長方形の箱だけは、確かに貝などが付着しているが、それ以外はほぼ原形を保っていた。先導した男の指示に従って、箱の四隅にそれぞれ一人ずつ、ダイバースーツを着込んだ男たちが付き、箱を持ち上げるために手を掛ける。だが、箱が持ち上がる気配はない。しかしそれは、最初から予想されていたことだ。箱から手を放し、通路まで戻ると、携帯魚雷を持っているダイバーが、部屋の天井めがけて魚雷を発射した。狙いを誤らず、魚雷は天井に向けてしゅるしゅると音を立てて突き進んでいく。数秒ほどで天井に触れると、魚雷はボンッという音を上げて爆発した。長年海底にあったためかもろくなっていた天井には、一発の魚雷を受けただけでビシビシと亀裂が入り、やがてゆっくりと崩壊していった。天井が崩壊したのを見て、男の一人が無線のスイッチを入れる。後はクレーンが降りてくるまで、彼らにできることはない。せめてほかに無事な調度品がないか、散らばり始めた時である。ふと、南側をあさっていた男の視界を何かが霞めた。それは小さな影で、男が顔を上げるともう見えなくなっていた。恐らく魚か何かを見たのだろう。そう結論付けた男は、再びあたりを物色し始めた。




 それから三十分ほどが経過しただろうか。帰りのことを考えると、そろそろ浮上しなければならなくなった時、待ち望んでいたクレーンがようやく表れた。先が四つに分かれているクレーンを、四隅のそれぞれに取り付けると、ガゴンッという音がして、箱は静かに浮き上がった。




 ルォオオオオオオオオオオオッ



 まるで、何かの悲鳴のような音が聞こえたのは、その時だった。その不気味な音に、びくりと肩を震わせると、男たちは念のために持ってきた水中銃に手を置くが、悲鳴のようなその音は、もう聞こえることはなく、おそらく箱が持ち上がった時に聞こえた音だろうと結論付け、持ち上がっていくクレーンに捕まり、男たちは上へ上へと上がっていった。




「・・・・・・そういやよ、こんな話知ってるか?」
「あ? 何だよ急に」


 船の上でクレーンが持ち上がるのを見上げていた男に、彼の同僚がふと話しかけてきた。

「いや、これは港に寄った時に酒場で聞いた話なんだけどよ、なんでもこの辺りには大昔、邪神を信仰していた半魚人たちの都市があったらしい。その都市は、数千年前に邪神同士の戦いの余波に巻き込まれ、海に沈んじまったという話だ」

「で、その沈んだ都市が下にある構造物だってか? 下らねえ、俺は海で数十年の間トレジャーハンターをしているが、半魚人なんぞ見たことはねえぞ。単なる迷信だろう・・・・・・お、来たな」


 澄んだ海面に、ごぽごぽと気泡が浮かび上がり、まずダイバーに身を包んだ男たちが上がってきた。そしてそのすぐ後に、クレーンによって巨大な箱が浮かび上がる。

「よし、成功だ。それで? この箱以外は何もなかったか・・・・・・おい、どうした、顔が真っ青だぞ?」
「・・・・・・ひっ!? あ、いや、何でもない。ちょっと上がってくる途中、人影のようなものを見たから」


 ダイバーマスクを脱いだ男たちの顔が真っ青になっているのを見た同僚が声をかけると、声を掛けられた男は顔を真っ青にしてそうつぶやいた。

「人影? ここらを走行している船は俺たちのほかにいないはずだがな。ま、でかい魚でも見たんだろう。それよりこれからすぐに街に向かうぞ。雇い主からは、何か見つけたら開けずに戻って来いという命令だったからな。おい、船を出せ!!」


 男の声に、操舵席にいた男が船のエンジンを入れる。気化石で動く船が移動し始め、船の上にいた男たちが箱を囲んで騒ぎ始めた時だった。


「・・・・・・おい、いいのかよ、本当のこと言わなくて」
「馬鹿、あんなの、信じてくれるはずがないだろう!?」
「そうだぜ、さっさと陸に上がって、酒飲んで忘れちまおう。俺たちが見たのがむぐっ」
「馬鹿、言うな!!」


 からからと笑っている男の声を、信心深い男が塞ぐ。“それ”の外見を言ったら、もしかしたらここまで追ってくるかもしれなかったからだ。



 船に戻るときに自分たちを襲った、鱗とエラの付いた三本指を持つ、あの“半魚人”達が。



 その時、海の上に、ごぽごぽと無数の気泡が浮き上がった。その気泡は、陸に向かっていく船を追いかけるように、ゆっくりとその後に続いて行った。








 その晩は、近年まれにみる嵐であり、座礁する船が後を絶たなかったが、そのうちの一つが、しばらく人々の話題に上ることになった。なぜなら、船が座礁したという連絡を受けて救助隊が向かった時、その船の船員たちは皆、恐怖で引きつった顔をして死んでいたからである。その身体に付いた裂傷が死因と思われたが、死亡推定時刻を聞いた時、警察はふと首をかしげた。なぜなら、彼らの死亡推定時刻は助けを呼ぶ連絡よりも前であり、船員たちを殺した存在が、どう見ても三本指としか思えないと書いてあったからである。



 だが、いつまでも小さな船に構っているわけにはいかない。助けを呼んだのも、死ぬ寸前のだれかだろう。そう結論付けた警官たちは、日々の業務に追われ、すっかりこの船の存在を忘れた。むろん、その船に“乗っていなかった”長方形の箱など、彼らには知る術も、知る必要もなかった。














   四年後















 校庭に咲く桜の花が散る中、二人の男が向き合っていた。


 一人はまだ十代半ばほどの黒い髪をした少年だ。端正な顔つきをしているが、見る者は皆、顔よりも黒い鉄で出来た左腕に目が行くだろう。
 少年と対峙しているのは、三十代前半の男だ。線が細く背の高い男で、短く刈り込んだ黒髪と整えられたあごひげを生やしている。いつもは温厚なその表情が、今は冷徹なものに変わっていた。彼らはどちらも、まるで体が石になったかのようにぴくりとも動かなかった。


 その時である。舞い散る桜の一枚が、不意に二人の間、それもちょうど真ん中に、ひらりと落ちた。


「っ、はぁあああああああっ!!」


 その瞬間、我慢できなくなったのか、少年―日村総一郎は対峙している男に向かって駆け出した。だが、相手は避けようとも防ごうともしない。その無防備な腹部めがけ、総一郎は渾身の力を込めて殴りつけた。



ダンッ




「ッ」


 鈍い音がして、相手の腹に狙い澄ました通り拳が突き刺さる。男は口から唾を飛ばしたが、倒れることも後退する事もなく、そして表情すら変えずに自分に突き刺さった少年の拳を握ると、それを引き寄せ、今度は逆に総一郎の胸に掌底を放った。



「踏み込みが甘いっ!!」




ドゴッ!!


「ぐっ!?」


 先ほど総一郎が放った時より、数段大きな音が周囲に響く。自分を襲う衝撃と痛みに、総一郎は身体を九の字に曲げて顔を伏せ、倒れるのを必死にこらえると、今度は数で攻めることにした。右手、右足、左足、左手、頭、その他体のすべてを使って、恐らく自分より数十倍は強い相手に懸命に立ち向かっていく。だが、少年の必死の連撃を、男は両手で軽く防いでいった。だがこれでもまだ進歩した方だ。最初は軽くいなされ、徐々に片手で防ぐようになり、今は両手を使って相手は防いでいる。このままいけば、もう何日もしないうちに一撃を入れられるようになるだろう。



「左肩が下がっているぞ、義手の重みに負けるなッ!!」


 
 不意に、彼の放つ連撃を両手で防いでいた男が、一瞬のすきをついて少年の右肩を容赦なく蹴り飛ばす。その一撃で、総一郎の身体は軽く宙に舞いあがった。



「・・・・・・くっ!!」



 気絶しそうな痛みになんとか耐えながら、空中でくるりと身体を回転させ、よろめきながらもなんとか着地すると、少年は身体の前で両手の指を奇妙な形に組み合わせた。




「オン バキリュ ソ「遅いッ」・・・・・・っ!!」




 真言を唱え、蔵王権現の力を引き出そうとしていた少年の喉を掴んで詠唱を強引に止めると、男はそのまま総一郎の身体を地面に叩きつけた。









「カヒュッ!?」



 喉を抑えられ、声を出すことのできない総一郎の口から悲鳴代わりに空気が漏れる音がする。ふらふらと男の服を掴むが、そこにもう力は籠められていなかった。



「敵の前で真言を唱えるなとは言わない、けれど唱えるならもっと早く唱えなさい。そうだね・・・・・・十分の一秒以内を目的とするように。以上、今日の鍛錬はここまで」


「ぐ・・・・・・あ、ありがとう、ござい、ました」
「うん、けれど、だいぶ成長してきているね。これでは一撃をもらうのも、そう遠い未来じゃないかな」


 総一郎がふらつきながら立ち上がって一礼すると、彼の師匠である黒塚義人(よしと)は、穏やかな顔で微笑んだ。









「総ちゃん!!」
「ああ、桜子」
「総ちゃん、今日の鍛錬、いつもよりだいぶすごかったけど、怪我ない?」
 鍛錬が終わり、濡らしたタオルで体を拭いている時だった。グラウンドの脇、鍛冶場と呼ばれる小屋がある方向から一人の少女が走ってきた。総一郎と比べると大分小柄で、少々赤みを帯び、ツインテールにした髪の上にゴーグルを着用しているその少女は、少年に駆け寄ると彼の身体をぺたぺたと容赦なく触った。


「大丈夫だ、手加減もされたし、少し打撲がある程度で、怪我とかはないよ」
「けど、さすがに喉への一撃はないやろ、うち絶対死んだ思たで」
「はは、大丈夫だ。力はほとんど入れていないからね。それにしても、柊は総一郎の事が本当に心配なんだな」
「へ・・・・・・あ、か、勘違いせんといて!! うちが心配なんは総ちゃんやなくて義手の方や。人がせっかく作ったもん、そう何度も壊されたら自信無くすさかい」


 鍛錬の時には外していた眼鏡をかけ、にこやかに言う義人の言葉に、桜子は一瞬ぽかんとして口を開けたが、次の瞬間顔を真っ赤にいて手をわたわたと振った。


「ほ、ほら総ちゃん、こっち来いな、義手の点検したるさかい」
「あ、ちょっとまってよ桜子。先生、そういうわけですので、すいませんが失礼いたします」
「ああ、いいよいいよ。今日は陽子ちゃんが一週間ぶりに返ってくるから、ホテルで葵ちゃんと三人で食事する日だしね」
「そうですか、陽子さんが」

 過去に何度かあったことのある、いかにも世話好きなおばさんといった感じの義人の妻を思い出し、総一郎がふっと微笑すると、桜子がせかすように彼の袖を引っ張った。

「ああ、ごめん・・・・・・すいません先生、では、また明日よろしくお願いします」
「はい、さようなら。帰ったらちゃんとお風呂に入って汗を流すんだよ、この前のようにシャワーだと疲れが取れないからねっ!!」

 手を振りながら叫ぶ義人に一礼すると、少年が少女に引っ張られるような感じで、二人はグラウンドの隅にある鍛冶工房へと入っていった。それを見て、義人はかつて幼馴染であった黒塚陽子と結婚し、自分が黒塚の姓を賜った時の事を思い出して、ふふっと微笑んだ。






「さあ、見せてもらおか・・・・・・あ~あ、やっぱり!! つい三日前に点検したばっかいうのに、もう傷がついてるやん!!」
「あ・・・・・・す、すまない」



 歯車やら蒸気パイプやら、その他何のために使うのか分からない物で溢れかえった工房の中にある桜子の個室で、総一郎は義手を外して製作者である彼女の点検を受けていた。

「けど、壊さなかったら進化しないとか言っていなかったか?」
「それはそれ、これはこれや。いくらそう言ったかて、やっぱり作ったもん壊されるのは良い気がせえへん。ま、安心してや。ピカピカに整備したるさかい」

 傷ついた義手を、まるで我が子のように抱きしめる桜子を見て、総一郎はまぶしそうに目を細めた。







 蔵王権現をその身に宿してから、すでに四年の歳月が経過した。二度の神降ろしを成功させ、“素質有り”と認められた総一郎が死罪を免れてから四年、その間、いいことも悪いことも沢山あった。まず良い事として、正式に立志院への入学が許可され、鈴原雷牙、水口千里のほかに、柊桜子という友人と出会えたことがある。中学二年の時、同じクラスになった彼女は片腕が義手である自分を見ても物怖じなどまったくせず、逆に人懐っこそうな笑みを浮かべて話しかけてきて、何度か話しているうちに、将来鍛冶職人になるための練習として、彼の義手の作成、整備をしてくれるようになった。なんでも彼女の家は気化石を発明した黒塚鉄斎の子孫らしく、彼女の曽祖父の代に何かあって、黒塚の姓を名乗ることは許されなくなったらしいが、それでも優秀な鍛冶職人を幾人も輩出していることから、高天原の鍛冶場に入ることを許可されたとのことだった。


 そして次に、自分を鍛えたいと考えていた己に、義母である朱華が紹介してくれた黒塚義人との出会いがある。近くのホテルで支配人を務める、その温和な性格と、高い戦闘能力を見込まれ、現黒塚家当主、黒塚奈妓の長女である黒塚陽子と結婚し、黒塚の姓を名乗る事を許されたこの男は、その細身の身体からは想像もできないほどの戦闘能力を持っていた。なにしろ今まで行った鍛錬の結果、蔵王権現をその身に降ろした状態でも、彼に有効打一つ与えることができないでいるというから、少なくとも総一郎とは数十倍以上の実力差がある。だが、それまで鍛錬などすることがなかった少年を、最初は体力錬成からしっかりと鍛え上げ、今では手加減されているとはいえ手合せできるまでに鍛え上げてくれた彼を、総一郎は朱華の次に尊敬していた。


 だが、良い事と同じように、悪いこともあった。まず、彼の友人である綾乃との別れがある。少年が蔵王権現をその身に降ろしてから数週間後、体調を崩していた彼女の祖母が突然意識を失って倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだ。家族を失い、親類もどこにいるかわからない彼女をひとまず朱雀門に住まわせ、そのまま共に暮らすことも考えたのだが、少女の父親の知人で、世界三大宗教の一つ、イサ教の神父を務める傍ら、孤児院を行っている蛭山という男性が、彼女を引き取ることを提案してきたのである。最初はどうするか悩んでいた綾乃だったが、総一郎たちに迷惑をかけたくないと考えたのだろう、彼のもとへと行くことを決めたのだ。そして、彼のもとへ行ってから、最初は一週間に一度送られてきた手紙が、次第に半月に一度になり、さらに一月に一度、半年に一度と変わり、二年が経過するときには、すでに手紙は来なくなり、電話してもつながることはなかった。
それから一年ほどは何とか連絡を取ろうとしたり、彼女が引き取られた施設に出かけようとしたのだが、結局連絡は着かず、また忙しかったこともあって施設に行くこともできなかった。朱華からは便りがないのは良い便りであるから、心配することはないと言われているが、それでも数年にわたって何の連絡もないのは少しおかしかった。


 そして、悪いことはもう一つあった。彼の義母である朱華の失脚である。自分を庇ったことで権限を大幅に縮小され、それに追い打ちをかけるように彼女が後見役を務めていた黒塚家当主である黒塚奈妓が三年前、朝食の時にいきなり胸を押さえて倒れ、執務ができなくなるという事件が起こった。その後、彼の妻である黒塚神楽が当主代理として執務を執り行うことになり、結果として奈妓の下で重鎮とされていた者たちは一掃された。朱華も当主後見役の地位をはく奪され、現在は九州にある日照女学園で理事長を務める黒塚陽子の後見役として派遣されたのだが、陽子は神楽とはそりが合わず、黒塚家の中枢である出雲から遠ざけられたというのがもっぱらの噂であった。だが、深く探ろうとした人々は、皆一人残らず行方不明になっている。


 どこか不穏な空気が出雲市に流れる中、総一郎たち学生はそんなことはお構いなしに学生生活を送っていた。彼の親友であり、雷神の申し子の異名を持つ雷牙とは彼が対鬼、対エイジャとの戦闘に駆り出されているため会う機会が少ないものの、それでも会えば夜通し話したり休日には一緒に遊んだりしている。


  つい先日、自分の身長が彼の背丈を超した時、少年が見せた口をぽかんとあけている表情を思い出し、総一郎はふっと微笑した。


「何笑っとんねん。まさかえっちぃ事でも考えてるんやないやろな・・・・・・って、総ちゃんの事だからそらないか。まあええ、それより今度作る義手はどんなもんにする? 側面に棘つけた奴にする? それとも手の代わりにドリルでもつけよか?」
「・・・・・・桜子、なんで君の作る義手はそう攻撃的なんだ。この間なんて、屋内の鍛錬で殴り掛かったら手の甲が飛んで、先生の後ろの壁に激突して粉々になったぞ」
「何言うとんの、攻撃は最大の防御でもあるんやで? それに、うちの最終目的は、神さんの力が宿った武器を人の手で超える事や。いつまでも神さんに頼るっちゅうのも情けないやろ」
「・・・・・・まあ、それは確かにそうだけど、けど頼むから人の義手で実験するのはやめてくれよ」

 困った顔をしてそう頼んだ時である。総一郎の耳に、ふと微かな音がした。それは桜子の後ろの壁から聞こえる、シュッ、シュッという、空気が漏れるような音だった。


「ん? 桜子、どこか壁壊れてないか? 空気の漏れる音が聞こえるんだけど」
「へ? あ、あ~、そうなんや、この前の実験中に、爆発で壁がちょっと破損してな? そこから少し空気が漏れてくるんよ」
「・・・・・・そうか」

 口の端を吊り上げ、泣き笑いのような表情を浮かべた桜子を見て、小さくため息を吐くと、総一郎は立ち上がった。


「分かったよ、じゃあ、今日は遅いしもう帰るな。義手の整備、ちゃんとしてくれよ」
「あ・・・・・・う、うん、まかしときっ!!」

 淡い笑みを浮かべ、さよならと小さく手を振って出ていった総一郎を見送ると、桜子は小さくさいならとつぶやいた。


「・・・・・・はぁ~あ、なんで好きな人に隠し事せなあかんねん、ひい爺ちゃんのアホ。けど、そろそろやな」

 ぶつくさとそうつぶやき、かすかに空気が漏れる音がする壁を見ると、桜子は一人、深くため息を吐いた。














 暗い部屋の中、その中央に立てた燭台に備え付けられた一本の蝋燭の前で、総一郎は一人、肩の力を抜いて静かに座していた。




 すべての弱者を守ると誓い、朝早くから夜遅くまで身体をそれこそ瀕死の状態に陥るまで鍛え続けた彼を心配して、義母である朱華が勧めたのがこの瞑想だった。身体だけでなく、心も鍛えなければすべてを守ることはできないという厳しい彼女の言葉には、だが息子を心配する母の気持ちが隠し切れないほどあふれていた。はじめはそれこそ、酷使した肉体を休めるためだけに使っていたこの瞑想の時間を、鍛錬を重ね、怪我や疲労が軽くなっていくと、少年はある目的のために使うことにしていた。それはすなわち





 自分の中にある、果てない憎悪に呼応して現れた、炎と憎悪の神である火之迦具土との対話である。



 瞑想を初めてどれほどの時間が流れただろうか、総一郎は、ふと暗い部屋の隅で何かがかすかに動くのが見えた。はじめそれは、単なる黒い塊にしか見えなかったが、徐々に何かに踏みつけられている、四歳ほどの少女の姿となって少年の目に映った。背中を踏まれ、懇願するように小さく謝罪を繰り返すその少女を見て、憐れみを覚えない者などいないだろう、実際、それが“罠”だと分かっている総一郎でさえ、その姿を見て深い憐れみを覚えた。


 だが、それが少女の姿をした炎と憎悪の神の狙いだった。少年が憐れみを覚えるのと同時に、自分を踏みつけていた足の力が弱まると、先ほどまで懇願していた少女は、顔に不気味な笑みを浮かべ、ケタケタと笑いながらこちらに這いずってきた。だが、その黒い炭のような手が少年に触れる瞬間、ドンッと力強い音が聞こえるほど、巨大な足が少女の身体を再び踏みつぶした。



 クエッと肺から息が漏れるような音を出し、火之迦具土とそれを押さえつけていた蔵王権現は少年の前からふっと霞のように消え去った。





 また駄目だった。





 全身を汗びっしょりにしながら、総一郎は深々と息を吐いた。暗闇の中、蝋燭の火を頼りに壁にかかっている時計を見ると、瞑想を始めてからまだ十分ほどしか経過していない。だが、その十分が彼には永遠のように感じられた。それほどまでに強大なのだ、彼が向き合おうとしている炎と憎悪の神というものは。





『相変わらず未熟者よな、小童』
「・・・・・・ああ、そうだな」




 その時である、不意に、少年の耳に数年前に初めて聞き、それからもたびたび聞こえる、彼と共にある荒神の重々しく、厳しい声がした。いや、実際には彼の耳には何も聞こえはしない。荒神は彼の魂に直接語り掛けているのだから。


『我は前にも貴様に言ったはずだ。憐れみで憎悪の神を御することなどできぬとな。憐れみとはすなわち相手を思いやる気持ち、それはこの神にとってもっともつけ入ることのできる、絶好の感情なのだ』

「・・・・・・なら、ならどうすればいい」

『憎悪よりも激しい感情でなければこの神を御することはできぬ。その感情が何なのかは・・・・・・・己で見つけるがいい。いつまでも他者に頼っているようでは全てを守ることなど到底できぬ』

「・・・・・・」


『頭で考えるのではない、感じるのだ、己の心と魂で。それが出来なくば、貴様はいずれ、自分が守ると誓った弱者の重みに押しつぶされることになるだろう』


 弱気になったのか、少し暗い表情を見せた少年を一括すると、彼の中にあふれるほどあった蔵王権現の気配は、蝋燭の火が弱まるのと同時に次第に弱くなり、蝋燭の火が消えるのと同時に完全に消え去った。









「・・・・・・相変わらず、厳しいな」





 蔵王権現が消えて、総一郎は苦笑しつつそうつぶやいた。蔵王権現をその身に降ろしてからすでに数年が経過するが、その間、彼はこの荒神を怖いと思たことは一度もなかった。むろん、恐怖を抱いたこともない。ただひたすらに厳しいのだ。おそらく、父親というのはこういうものなのだろう。


 んんっと一度大きく伸びをして立ち上がると、総一郎は窓にかかっていたカーテンを開け、気分直しに外の景色を見た。数年前まで古都といえる閑静な街並みを見せたここ出雲は、神楽が当主代行になってからは高層ビルが立ち並び、今もなお建設ラッシュが続いている。好景気により町は賑わいを見せているが、彼個人としては昔の街並みのほうが好きだった。自然と調和し、優しく穏やかな空気が流れる町は、時間の流れとともにどこかに消えてしまったように思える。



「・・・・・・さて、と」



 どこか物悲しい気持ちに襲われながらカーテンを閉めると、少年は部屋の電気をつけ、机に座った。現在二十三時を少し過ぎたころである。いまから四時間ほどは勉強に費やすことができるだろう。現在九州にいる義母は、無理はするなと再三念を押したが、別に無理をしているつもりはない。権現と契約してから、一日の睡眠時間は二、三時間ほどで事足りた。




 少しでも義母に恩返しするため、そしてなにより、全てを守れる大人になるために、朱雀門の最上階にある、朱華の執務室の隣にある自分の部屋で、少年は今日も勉学に励むのであった。




















 総一郎が机に向かい始めたのとちょうど同じ時刻、出雲市から遠く離れた山中にある建物の一室で、一人の男が眠っていた。



 彼が見ているのは、幼少のころから毎晩のように見ている夢であった。森の中を、赤子を抱きしめて一人の女が必死に走っている。彼女が振り返ると、さほど遠くないところにいくつもの明かりが見えた。つい先日まで親しくしていた者たちが、口々に罵りながら女を追っていた。殺せ、魔女を殺せ、邪悪な子を産み落とした魔女を殺せと。息を切らせながら、女は自分の抱きしめている赤子を見た。その顔は人のそれであるが、両手足に指はなく、細長い。つまり触手のような形をしている。そのうち赤子の重みに耐えきれなくなったのか、女は赤子をきつく睨むと、一言だけ囁いて、赤子を野に放り投げ、自分だけ逃げ去った。




 彼女が最後に言った言葉は何だったのか、三十年の間、毎日同じ夢を見続けているが、男には終ぞわからなかった。












 ビーッ、ビーッ、ビーッ





「・・・・・・んぁあ?」



 目覚まし時計の甲高い音に、男はゆっくりと目を覚ました。どうやら、二時間ほど仮眠が取れただろうか。ほつれている髪を手串で整え、いつものオールバックに直すと、仮眠用のベッドのすぐわきに置いてある水差しの水を一口飲み、男はゆっくりと仮眠室を出て行った。









「おはようございます、所長」
「・・・・・・おやぁ?」


 男が職場である研究室に入ると、研究主任を務める年若い男が声をかけてきた。残念ながら顔はわからない。彼はその顔を、鳥のような不気味なマスクで覆っているからだ。

「おやぁ? 随分と早いですねぇ。駄目ですよ君、仮眠はきちんと取りましたかぁ?」
「は、はい、大丈夫です。私は今日遅番ですので、日中しっかりと仮眠をとりました」

 語尾が少し間延びする、独特の口調で部下にそう尋ねると、彼は心配してくれたことがうれしいのか、軽く笑みを浮かべてそう答えた。


「そうですかぁ? 体調管理はしっかりしないといけませんよぉ? 我々がしているのは、人々を守るための偉大な研究なのですから」
「は、はい。それで所長、今日は“どれ”で実験を行いますか?」
「そうですねぇ・・・・・・」

 傍らにある、他のマスクより一回り大きく、額の部分に黄色い石がはめ込まれたマスクをかぶると、すぐ近くの壁に備え付けられたボタンを押した。ズッという重々しい音とともに、研究室を囲う四方の壁が上がっていく。すると、その奥に透明な金属でできた壁がもう一枚あり、さらにその奥にはいくつもの巨大な試験管が並んで立っていた。その試験管の中にあるのは









 研究室の北にある壁の中にあった試験管に収容された者、それは見るもおぞましい物体であった。頭に脳がなく、代わりに巨大な目がついている赤子、頭も四肢もなく、細長い胴体の真ん中が縦に割れ、そこに幾重もの鋭い牙を持つ者などが、赤黒い液体の中に浮かんでいる。
 西の壁の中にあった試験管には、身体の一部が獣のそれに代わったもの、結晶化しているものなど、体のどこかに何らかの異常をもった人間が浮かんでいた。


 そして南の壁の中には、





 そこには何もなかった。いや、それは正確ではない。そこには壁いっぱいの大きさを持つ、巨大な水槽があった。だが透明な液体をなみなみと注がれたその中には、ほかの試験管と違い何一つ浮かんでいない。ただ、時折ゴポリと音を立てて泡立つだけだ。しかし、その水槽をのぞき込みながら、男は鳥のくちばしのようなマスクの下で醜い笑みを浮かべた。

「ん~ふ~ふ~ふ~ふ~、よく育ってきましたねぇ。さて、では実験を開始しましょうか。今日は耐久実験ですよ。まずは生粋のエイジャ、次に寄生種に侵された人間、最後に人間とエイジャの間に生まれた幼体で試してみるとしましょうか」

 笑いながら、北側にある試験管の一つに近寄ると、男はその手を迷うことなく試験管の中に入れた。そのまま素手でグロテスクな生き物の一つをつかんで引き抜くと、その生き物はぴくぴくと動き出し、突然金切り声を上げた。試験管の中にたまっていた麻酔入りの液体から取り出され、意識が覚醒したのである。当然ながら、その生き物は自分をつかんでいる男に憎悪の意思を込めると、身体についている無数の触手を伸ばしてきた。しかし、次の瞬間その生き物の動きは、まるで感電したかのようにびくりと止まった。男に伸ばそうとしていた触手も、力なく垂れている。意識を失ったのだ。

その光景をみても、年若い研究主任は身震い一つしなかった。ただ黙って東の壁の向こう側にある、所々に赤黒いものが付着した、手術台の準備をしているだけである。



 だが、不意に彼はその手を止めた。どこか生臭い空気に混ざって、かすかに音が聞こえてきたのである。どこか年若い少女の嬌声のような音を聞き、彼の身体は我知らず震えだしていた。













































































“努力する天才”






 それが、日村総一郎の立志院高等学校での異名であった。成功することが極めて難しい神降ろしの儀において、わずか十二歳で規格外を降ろすことに成功、そして史上初めて二回目の神降ろしの儀を行い、見事に成功させた才能もすさまじいが、その才能に驕らず、黙々と鍛錬を重ね、成長し続ける彼を、同級生や教師など、周囲の人々は尊敬と嫉妬、二つの異なる感情を込め、彼をそう呼んでいた。




「失礼します」
「おお、来たか。入りなさい」

 次の火の昼休みのことである。総一郎が職員室に入ると、彼の担任である田宮はにこやかな顔で立ち上がり、奥にある面談室へと彼を促した。自分に続いて少年が中に入ると、座るように席に促す。



「さて、今日お前を呼んだのはほかでもない」


 元上級呪術師であり、守護司も務めながら、数年前に左手の指を何本か失うのと、戦うには年を取ってきたため、潔く引退し、現在は教師として後進の育成に努めている、総一郎だけでなく雷牙が尊敬する数少ない人物であるこの担任は、右手に何枚かの書類を持って、少年の向かい側に座った。



「先日の東京大学教育学部、入学程度認定試験の結果が出た。おめでとう、合格だ。日ごろの努力が認められたな。この試験の合格により、晴れてお前は高校生であり、そして大学生となった。これからは東京大学のほうにも、公休という形で通ってもらうことになるだろう。構わないか・・・・・・どうした? 心ここにあらず、といった感じだな」

「・・・・・・え? え、ええ、ちょっと実感がなくて」

 少し困った顔をしながら、総一郎は担任から受け取った書類に目を通した。一番上の書類には、彼が言った通り認定試験合格の文字がでかでかと記されている。だが、少年にはあまり実感が持てなかった。そもそも彼がこの試験を受けたのは、別に合格したかったからではない。自分に今どれほどの実力があるのか、それを知りたかったから受けただけなのだ。ちなみに東京大学を受けたのは、最高学府であるならば、自分の今の実力がはっきりわかると考えたためである。百パーセント不合格かと思っていたが、まさか合格するとは夢にも思っていなかった。

「そうか? まあ高校二年にして東京大学の教育学部に入学を許可されたんだ、当然と言えば当然か。さて、話は以上だ。教室に戻りなさい」
「は、はい。失礼します」


 一礼して面談室を出ると、職員室にいる教師達が少年に向けて振り向いた。誰もが皆、彼を誇らしげな表情で見つめている。と、その中の一人がパチパチと拍手したのを始めとし、周りにいる教師が皆立ち上がって拍手をし始めた。その勢いに飲まれたのか、総一郎は慌てながらぺこぺこと礼を繰り返し、足早に職員室を出て行った。







「・・・・・・はぁ」



 総一郎がため息を吐きながら特別クラスにたどり着いたのは、午後の授業が始まる十分ほど前のことだった。職員室を出たのが二十分ほど前で、その後廊下ですれ違う教師全員にお祝いの言葉を言われたためにここまで遅くなったのである。

 少年が教室に入った途端、周囲のざわめきはぴたりと止まり、教室にいる生徒たちが一斉に彼を見た。その目に込められた感情は様々だが、大まかに二つに分けることができる。すなわち、




 高校二年でありながら大学編入試験に合格した彼に対する尊敬の視線と、



 なぜ合格したのが彼であって自分ではないのだという嫉妬と怨みを込めた視線である。


 そして、割合でいえば、後者の感情のほうが圧倒的に上であった。




 嫉妬と怨みを込めた視線を受けつつ、総一郎は窓際の一番後ろにある自分の席まで歩くと、静かに腰を下ろし、ふと横を見た。髪を逆毛にした親友が、机に突っ伏して眠っている。昼休みだから眠るのは構わないが、あと十分で午後の授業になる。さすがに起こしたほうがいいだろう。


「おい雷牙、起きろよ、そろそろ午後の授業が始まるぞ? おい、起きろって」
「・・・・・・ん~? なんだよ、うっせえなぁ」

「うるさいじゃないだろ、昨夜も夜更かししたのか? 昼間眠らなきゃならないほど夜更かしするなって、前に言っただろ」
「はぁ? いいじゃんか夜更かしぐらい・・・・・・いてっ!?」

 いつまでたっても起き上がる気配のない雷牙に業を煮やしたのか、総一郎が親友の頭を軽く叩くと、打ち所が悪かったのか、雷牙はごんっと机に思いっきり額をぶつけ、赤くなった額をさすりながら起き上がった。

「いてて、なにすんだよ総ちゃん、痛いじゃないか」
「痛いじゃないだろ、午後一の数学の授業、確か当てられるはずだろ? ちゃんと予習はしたのか?」
「あ・・・・・・してね。どうしよ、総ちゃん」

 どんな生徒にも公平に厳しく接する数学教師の顔を思い出し、雷牙が青ざめた顔ですがるようにこちらを向くと、総一郎は苦笑しながらバックの中に手を入れ、数学のノートを出して親友に渡した。

「ほら、ノート貸してやるよ。今日勉強する範囲も予習してあるから、当てられても大丈夫なはずだ」
「さすが総ちゃん、サンキュッ!!」

 拝むように手を合わせ、雷牙がノートを取ろうとこちらに手を伸ばした時である。






「はっ!! さすがは“努力する天才”様だ、ノートがなくても大丈夫ってわけですか!!」


 隠し切れない嫉妬と妬みの感情が込められた声が、すぐ近くから聞こえてきた。菅間優一、同級生たちの推薦によりほぼ総一郎に決まっていた特別クラス委員長の座を発狂しかねないほど騒いで強引に奪い取り、委員長となった、総一郎がもっとも苦手としている性格―自分を世界で一番特別な人間であると考え、ほかの人間は皆自分にひれ伏すのが当たり前と思っている―の持ち主である。ポマードで固めた髪から漂ってくる臭いに、総一郎の隣で雷牙がゲッと呻いた。

「・・・・・・何か用かな、菅間君。そろそろ午後の授業が始まるよ、席に着いたほうがいいと思うけど」
「いやぁ、まだお祝いの言葉を言っていなかったと思ってね。東京大学教育学部編入試験合格おめでとう、さすがは月命館から勧誘を受けるだけのことはあるね」
 月命館というのは、二年前、総一郎が中学三年の時に黒塚家が出資して東京郊外にできた、小・中・高・大一環のエスカレーター式のマンモス校のことである。以前から黒塚家とのつながりを求める人々の要望に、当主代行となった黒塚神楽が応え、完成させたのがこの学校だった。学校だけでなく、その周囲にある街も黒塚家の出資で作られており、もはやそこは単なる学校ではなく、巨大な学校都市となっていた。

 総一郎がその月命館から勧誘されたのは、立志院高等学校に入学する直前だった。だが、総一郎はきっぱりと断っている。彼はすでに雷牙たちが入学する立志院に入学することに決めていたし、なにより自分を特別だと考える人々が多くいる月命館のことをあまり快く思っていなかった。

 そういえば、目の前にいる菅間は、その月命館に入学を希望して断られていたな、ぼんやりとそう思いながら、総一郎は少しだけ菅間のことを見直すことにした。どうやら、彼は人の功績を素直に称賛できる人間らしい。今まで彼の一面しか見ずに苦手としていた自分を、総一郎は恥じた。




 だが、それはどうやら間違いだったようである。



 


「さすがは“努力する天才”だね、カンニングの腕も天才的と来たか」



「・・・・・・・・・・・・え?」
「テメエッ!!」



 菅間の言葉に、周囲が凍り付く中、雷牙はいきり立ち、菅間を強く睨みつけた。




「えと、何を・・・・・・言ってるのかな?」

 総一郎は一瞬、自分が何を言われたのかわからなかった。ぽかんと口を開け、目の前の少年を呆然と見つめる。

「何を? ふん、言葉通りさ。カンニングも何もしないで、一回の高校生が最高学府の入学試験に合格することなんてありえないだろ? なあ皆」

 菅間が大きく手を広げて周囲を見渡すと、少数いる彼の取り巻きはうんうんと頷いていたが、それ以外の、彼を快く思っていない大多数の生徒は関わり合いになりたくないのか、菅間を無視して午後の授業の準備に取り掛かっていた。

「あのね、僕はカンニングなんてしてないよ、だいたい試験は筆記だけってわけじゃない。筆記は一次試験で、二次試験として論文、三次試験として集団討論をパスして、最終試験である面接をパスしてようやく合格になるんだから、カンニングして筆記だけ合格しても、入学試験に合格するわけないだろ」
「は? いやいや、カンニングしてないわけないだろ、なんでカンニングしないで、“俺”が落ちた試験をお前なんかが合格するんだよ」
 
 もはや優等生の顔を脱ぎ捨て、本来の残酷で半ば狂った表情を見せながら、菅間は困った顔をしている総一郎へと一歩近づいた。


「はっ!! そんなの決まってるだろ、テメェと違って、総ちゃんは努力したからだよ!!」
「お、おい、雷牙」

 その動きを防ぐためか、それまで事の成り行きを見守っていた雷牙が、少々殺気を込めて菅間を睨みつけた。すでに鬼やエイジャとの戦いを経験している少年の視線を受け、菅間はヒッと小さく悲鳴を上げながら二、三歩ほど後ずさりした。

「だいたい、総ちゃんの付き添いで試験会場に行ったから分かるけどよ、会場内に荷物を持ち込むこと自体できないんだぞ、全部入口のところで没収されて、その後も隠している物がないか徹底的に調べられ、筆記用具も大学側が用意したのを使う。これじゃ誰もカンニングなんてできないはずだ・・・・・・ああ、そういや試験が終わって出てきた奴等の話を耳にしたんだけど、なんでも白目向いて何も書かず、歴代最低点を取ったやつがいるらしいな、確か・・・・・・す、何とかだったか。誰だか知ってるか? なあ“す”がまさんよ」
「う・・・・・・」
 目の前の少年が言っている歴代最低点、すなわち全教科零点を出した菅間は、再び後ずさろうとして、自分の背中が教室の壁についたことを知った。総一郎が編入試験を受けると聞き、“いつも”使っているカンニングペーパーを使って試験を受けようとしたのだが、まさか入り口で荷物が没収されるとは思わなかった。結局問題は何一つわからず、パニックになった自分は試験終了時刻まで白目をむいていたのだ。
「い、いい加減にしろよ鈴原、いくら親が高天原の重鎮だって言ってもな、僕にそんな態度取り続けると」
「へえ、どんな態度取り続けると、どうなるんだ? いいか菅間、総ちゃんがお前に何もしないのは、総ちゃんが優しいからだ。けど俺は違う。人を馬鹿にした態度取り続けるようなら、躊躇なくぶっ飛ばすからな」
「ひ・・・・・・ひっ!?」
「おい雷牙、そのぐらいで」
雷牙が目を吊り上げたのと、それを見た菅間が腰を抜かしたこと、そして総一郎が親友を止めるために立ち上がったことと午後一の授業を告げるチャイムが鳴ったのは、ほぼ同時であった。





「・・・・・・はぁ」
「何やの総ちゃん、またため息?」

 その日の放課後のことである。総一郎は今日の授業の復習と明日の授業の予習をするために図書室にいた。彼と一緒にいるのは三人、親友である鈴原雷牙とその彼女である水口千里、そして柊桜子である。彼らが図書館に集まるのは、何も今に始まったことではない。高校に入って桜子と出会い、雷牙が授業についていけなくなったのを見かねて、時折四人でこうやって勉強会を開いているのだ。総一郎が自分の力量を試すため、東京大学の編入試験を受けるときは、過去に出た試験問題を調べてきてくれたり、集団討論や面接の相手もしてくれた。正直、この三人がいなければ、自分は試験に合格することなどできなかっただろう。今日の集まりは、今まで協力してくれたことに対する礼を言うためでもあった。

「桜子さんの言う通りです。少々ため息が多いようですね、せっかく試験に合格したことですし、もっと喜んだらどうですか?」
「そうだね、ごめん。ちょっと疲れてしまって」


 昼休みだけでなく、午後の授業の間もずっと菅間の怨みのこもった視線をその身に受けていたため、疲れ切って机に突っ伏した少年を、千里は気の毒そうに眺めていたが、ふと、総一郎に気づかないように桜子に目配せし、隣にいる雷牙の裾を軽く引いた。

「あ・・・・・・あ~、そういや今日の授業でようわからんとこがあったんよ、総ちゃん、教えてぇな」
「ん・・・・・・いいぞ、どこ分からないんだ」
 
 身体を摺り寄せ、甘えるような声を出す桜子に内心ドギマギしながら、少年が彼女の開いたノートをのぞき込んでいる間、千里は雷牙を連れ、机からは視覚になって見えない本棚の角に歩いて行った。



「お、おい、なんだよ千里まさかこんなところでキスしたいの・・・・・・いてっ!?」
「馬鹿なこと言わないでください。そんなことではありませんよ。総一郎さん、だいぶ参っているようですけど、何か気分転換になるようなことをしたほうがいいんじゃないですか?」

 ふざけたことを言う雷牙の頭をパシッと叩き、千里は心配そうに二人の友人がいる机のほうを見た。

「そうは言ってもなぁ、総ちゃんって真面目で優しい所がいいところなんだけど、あまりに真面目すぎるものだから、あまり遊んでいるところ見たことないんだ。だから何をしたら気分転換になるかなんてわかんねえよ。身体を動かせば気分転換になるとはいうけど、総ちゃん鍛錬のやりすぎで身体を酷使しているから、逆効果だろうなぁ。で、後やってることと言ったら柊っちと一緒に義手の整備ぐらい・・・・・・ん? 柊っち?」

 軽くうつむきながら考え込んでいた雷牙は、不意に顔を上げ、にやりと笑みを浮かべた。


「なあ千里、柊っちってどっからどうみても総ちゃんのこと好きだよな」
「え? ええ。好意を向けられている本人は気づいていないと思いますが」
「まあ、総ちゃんって色恋沙汰には鈍感だからなぁ。でさ、もし総ちゃんが柊っちと恋人になったら、勉強や鍛錬に使う時間を割いて、恋人との時間に使うと思わないか?」
「確かに、総一郎さんはまじめですから、恋人の相手もちゃんとするでしょうね。ということは、私たちで総一郎さんと桜子さんを恋人にするつもりですか?」

 冷静沈着な性格といっても、やはり年頃なのだろう、そう尋ねる千里の目は、興味津々といった感じに輝いていた。

「その通り、で、その第一段階としてだな」















「デートやてっ!?」

 総一郎に体を摺り寄せながら勉強を教えてもらっていた桜子は、戻ってきた千里に手洗い場まで誘われたその帰り道、彼女から提案された言葉に飛び上がった。

「で、デートってあれやろ? あの都市伝説的な」
「なんですか、その都市伝説というのは。まあデートといっても、今週の日曜日、総一郎さんのお祝い兼息抜きのために繁華街で遊ぶだけですから、そう気を張らなくていいですよ・・・・・・もしかして、嫌ですか?」

「い、いや、そういうんやのうて、で、デートなんてうち、恥ずかしい」

 真っ赤になった頬を両手で抑え、イヤイヤと頭を振る少女を見て、千里は軽くため息を吐いた。



「そうですか? では桜子さんではなく、ほかの人に頼みますか」
「へ? べ、別の人って、総ちゃんを好きな人、ほかにもいるの?」
 
 自分の言葉にすぐさま食いついてきた桜子を、千里は微笑して眺めた。

「ええ、いますよ。器量良しで文武両道、まじめで責任感が強い性格ですからね、片腕がないことなんて、大したハンデになりません。同級生だけでなく、上級生や下級生、先生方の中にも彼を慕う女性がいます。結構ラブレターをもらったり告白されたりしているらしいですよ、鍛錬などで忙しいのを理由に断っているようですが、東京大学の編入試験に合格した今、ますます彼を慕う女性は増えるでしょう・・・・・・どうなさいますか?」
「ど、どうする言うても・・・・・・わ、分かった、ウチやったる!!」
「そ、そうですか?」

 赤くなった頬をバシバシと叩いて気合を入れた桜子を少し引き気味に見つめながら、それでも千里は満足そうにうなずいた。


「そ、それでな、遊びに行く服装ってどんなもんがええんやろ、ウチ制服以外は作業着しか持っとらんねん」
「別に何でもいいと思いますが・・・・・・そうですね、ワンピースなんてどうでしょう。今は四月ですので、薄いピンク色か水色のワンピースなんていいかもしれませんね」
「ワンピースかぁ、それやったらお母ちゃんの借りられるか聞いてみるわ・・・・・・ありがとな、千里ちゃん」
「いえ、うまいくいったら、恋バナとかしましょうね」
「う、うん」

 もはや顔だけでなく、首まで真っ赤になってうつむいた桜子を見て、千里は柔らかく微笑んだ。








「は・・・・・・遊びにって、何で?」
「いや、だからさ、総ちゃん」

 恥ずかしがっていた桜子をうまく説得できた千里と違い、図書室で帰り支度をしながら誘っている雷牙は苦戦していた。最初出かけようと言って忙しいと断られ、次にたまには息抜きでもしたらどうだと言って必要ないと一蹴され、一緒に遊びたいといって何でと聞き返された。

「だいたい、そんな暇があるなら勉強しろよ。数学の小テスト、お前赤点すれすれだっただろ。このままじゃ、中間テスト危ないぞ? 今週の土日は、遊びには行かずに僕の部屋で勉強しないか?」
「いや総ちゃん、さすがに休みの日まで勉強はしたくないって」
「休みの日だからいいんじゃないか。時間に縛られず、苦手な科目を好きなだけ勉強できるんだぞ」
「いやあの、休みの日まで勉強したくないというか・・・・・・あ、そうだ、遊びも勉強と考えたらどうかな? ほら、大人になったらさ、友達から休みの日に何して遊んでたなんて、聞かれない?」
「さあ、どうだろうな。だいたい僕と友達になりたい奴なんて、雷牙と水口さんしかいないと思うけど」
「え、え~っと、そうだ、柊っちはどうだ?」



 罪悪感により、うつむいた親友から目をそらした雷牙は、ふと彼に惚れている少女の名を口に出した。

「桜子か? いや、あいつの目的は僕じゃなくて、義手のほうだと思うけ「総ちゃんっ!!」な、なんだよ」

 総一郎の言葉を遮るように両手でバンッと強く机を叩くと、雷牙は少し頬を膨らませて彼を睨みつけた。その大きな音に、図書室にいるほかの生徒や司書をしている教師が何事かとこちらを見ている。

「あのな総ちゃん、柊っちが単なる義手目的で総ちゃんに近づいたと本気で思ってるのか?」
「・・・・・・いや、別に、本気で思ってるわけじゃないけど」
 
 雷牙の勢いに飲まれながら、総一郎は桜子の顔を思い浮かべた。にかっと人懐っこそうな笑みを浮かべた顔、むぷっと頬を膨らませて怒っている顔、道端に転がっている猫の死体を地面に埋めているときの、泣き出しそうな顔、そして何かを作ったり整備したりしているときの、いつもと違う真剣な顔。

 それらを思い浮かべていくうち、総一郎はふと、自分が想定しているよりはるかに少女のことを覚えていることに驚くとともに、わずかに頬を赤く染めた。

「あ・・・・・・じゃ、じゃあ彼女が行きたいなら、僕も遊びに行ってもいいかな、うん」
「おいおい、ちょっと顔が赤くなってるぞ、さては総ちゃん、エッチぃ想像したな」
「は・・・・・・ばっ!!」

 頬を染めた自分を、雷牙がにやりと笑ってからかう。最初は何を言われたのかわからなかった総一郎だが、次の瞬間、羞恥と怒りで顔を赤くして大声を出した。




「おほんっ!!」
「うわっ?」
「や、やべ、行くぞ総ちゃん」



 その声が大きかったのか、受付に座っている司書がわざとらしく大きな咳払いをする。数年後、日本最高戦力と呼ばれ畏怖される二人は、首をすくめてすごすごと図書室を出て行った。

 









「あらあら、これは困ったわねぇ」




 二人の少年が、すごすごと図書室を後にしたのとほぼ同時刻、黒塚家総本山、出雲大社本殿の最奥、当主しか入ることを許されないその部屋で、五十代半ばの和服を着た品の良い女性、すなわち当主代行の立場にあり、そして再来月の重鎮会議で、回復が見込めない夫に代わり、正式に当主となることが決定した黒塚神楽は、提出された書類を眺めながら、困ったような笑みを浮かべた。


「それで? これは本当なのかしら」
「はい、我々“姉妹”の中で、最も諜報能力に優れた氷見子が入手した情報ですので、まず間違いはないかと」

 

 椅子に腰かけている神楽の前に、直立不動で立っている通称“八雷姉妹”と呼ばれる彼女の側近の中でも特に優秀で、神楽の秘書を務める“黒雷”八雷黒曜は、主人の疑問に対し口調を変えず、だが顔にわずかに自信ありげな表情を浮かべて答えた。



「そう? まあ、本当にそうなら何も言わないけれど、ねぇ黒曜ちゃん、私は貴女の姉が私を裏切ったこと、忘れてはいませんからね?」

「は・・・・・・」





 神楽が言っているのは、数年前、四天王の一柱である白夜が出奔した時、彼と親しくしていた自分の姉であり、八雷姉妹長姉“大雷”一葉が、彼女が教育していた五女、および七女を連れて出奔した事件のことである。



「一葉ちゃんは初めて作ったから、加減を知らず自我を強くしすぎたのが原因か、白夜ちゃんなんかに感化されちゃったからねぇ。いいこと黒曜ちゃん、もしまた裏切り者が出たら、貴女たち全員、一筋の雷光に戻すわよ」
「は、肝に銘じます」
「よろしい。ところで書類の中身だけれど」

 声に僅かに怯えを滲ませ、それでも迷うことなく言い放った黒曜に頷くと、神楽は書類を手に取りぱらぱらと捲った。そこには彼女の直属の部下であり、対エイジャ・対鬼用の研究・装備開発を行っている出雲総合研究所、通称“雲研”の所長である蛭山教授についての詳細な報告が記載されていた。彼は天才的な頭脳と悪魔のようなひらめきにより、今まで数多くの研究成果を残してきたが、人体実験を平気で行い、数日から数週間にかけて何の音沙汰もなしにふらりと消えることが多かった。今までは当主代行の立場を利用し、人体実験などをもみ消していたのだが、正式に当主になったことが決まった今、彼のような人物と付き合っていたことが知れれば大きなイメージダウンとなる。そのため彼の素性について改めて調査させたのだが、




「まさか、ヒルちゃんが“イサの子供たち”のメンバー、それも幹部だったとはねぇ」


 神楽が言うイサの子供たちとは、世界三大宗教の一つであるイサ教、その中でもっとも過激派と言われる集団である。イサ教は米国、欧州を中心に広まっている宗教で、清貧を心がけ、神に静かに祈ることを目的とした穏健派と、たとえ武力をもってしても相手を強制的に改宗させようとする過激派に分かれている。そして、過激派の中で最も巨大な力を持ち、正規の構成員数百万、支持者数千万という圧倒的規模を持つのが、“イサの子供たち”であった。彼らの目的はただ一つ、イサの子供である自分たちこそが、イサ教のみならず、全世界を支配しなければならないというものであり、自分たちの統治下でこそ、人々は幸福に暮らせるという独善的なものであった。そして、その目的に反対するものは、たとえ同じイサ教の信者といえども異端とみなし、容赦なく殺害していった。

「調査によると、蛭山教授は樺太の寒村で生まれた後、すぐに親に捨てられたそうです。その彼を拾ったのが、当時宣教師として樺太に滞在していたイサ教の神父だとか。その後、神父は彼を連れて帰国、幼少期を教会で過ごした後、イサ教の学校に入学、そこで特に理数系に優れた成績を残し、十代前半でアメリカのミニスカトック大学に入学、おそらくはそこで“イサの子供たち”に入団したのでしょう」
「そう、それで? そのイサの子供たちの幹部である彼が、どうして日本に来たのかしら? 彼らの目的はいったい何?」
「目的、ですか? あの、素性を調べろとのご希望でしたので、そこまでは」
「あら、調べてないの?」


 しどろもどろになりながら言い訳をする黒曜を見て、神楽は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


「やっぱり駄目ねぇ。一を命じられて一、多くても二か三しかできない。その点一葉ちゃんは違ったわ。あの子は一を命じられれば十も二十も成果をもって帰ってきた。命じられたことをただ行うのではなく、私が何を望んでいるのかを考え、実行し、結果に残すことができた。まあ、最後には裏切られたのだけれど・・・・・・黒曜ちゃん、これだけは覚えておきなさい。私は“無能”なのは許すけど、“裏切り”は許さないわ」

「はっ」



 数年前、神楽の命令で軍に入隊し、空挺部隊にて優秀な成績を収めた黒曜は、脂汗を流しながら主の言葉に頷くことしかできなかった。




















「う~ん、ええ天気やなぁ」



 日曜日の朝、桜子はひも付きの大きなボストンバックを肩から下げながら、繁華街の中央にある時計台に向けて歩いていた。服装はいつも着ている油まみれの作業着ではなく、水色のワンピース。ツインテールにしていた髪は一度解いて軽く梳き、今はポニーテールにしている。そして、普段は全くしない化粧を、少女は家を出る前に母から教わりながらほんのりとしていた。特に、その唇は母から借りた桃色のリップクリームを薄く塗ったことで、ほんのり桜色に染まっている。

「えっと、今は朝の八時二十分で、待ち合わせは九時やから・・・・・・うん、三十分前には余裕で着くな」

 腕に装着したゼンマイ式の腕時計で時間を確認していた桜子は、ふと自分の着ている水色のワンピースを見下ろした。


「けど、何で女子いうんは、こないひらひらした格好が好きなんやろ。動きにくいし、ちょっと大股で歩いたらすぐ下着見えるし・・・・・・作業着のほうがどれだけいいかわからへん」


 金曜日の夜、母がこんな日のためにと買っておいたワンピースを試しに来てみて、いつも通り大股で歩いたらいきなりすっころんで下着を丸出しにして家族に笑われた自分としては、こんな格好はすぐにでもやめたいところであった。


「まあ、ゆっくり歩けばいいだけやけど・・・・・・っと、そろそろ時計台やな」


 彼女が向かっている時計台とは、大正時代建てられた歴史ある建造物で、近年繁華街を作る際、取り壊す予定であったのだが、近隣住民の反対により、現在時計台の周りは広場として使われている。建設中のデパートの角を曲がり、時計台の頂に作られた、巨大な鳥が翼を広げているのが見えるところまで来たとき、少女はあっと小さくつぶやいた。



 広場の中心にある時計台によりかかるようにして、見知った一人の少年が立っている。いつもの制服や稽古着とは違い、上半身はインクブルーのカットソーにベージュのショールカーディガン、下半身は黒いツイルスキニーパンツのボトムズといういで立ちだ。鍛錬の際に邪魔になるためいつもきつく縛られている少し長めの黒髪は、今は首筋のところで丁寧に切りそろえられている。その美しい姿に、広場にいる女性のうち何人かは振り返ってじっと見つめている。だが同級生の菅間と違い、目立つことがあまり好きではない少年―日村総一郎は、見知らぬ女性たちが自分を見つめてくる気配に、内心怯えと焦りを感じ始めていた。先日、師である義人と昨年から朱雀門に勤務している松浦という顔見知りの青年にコーディネイトされ、今の服装になったのだが、ファッションというものに全く興味のない総一郎には、今の自分の格好が果たしていいのか悪いのか、さっぱりわからなかった。女性の意見ということで義母である朱華に聞いてみようかとも思ったが、彼女は現在、秘書の
秋山とともに自分が後見している黒塚陽子が理事長を務める、九州にある日照女学園に出向しており、多忙な日々を送っている。そんな彼女に、これ以上迷惑をかけたくはなかった。そのため、女性の意見を何も聞かずに今日ここまで来たのだが、
やはり、水口さんにでも聞いておくべきだっただろうか。八時にここについてから三十分の間、数十人もの女性の視線を受け続けた総一郎は、へとへとになりながらそう思っていた。



「総ちゃん!!」
「・・・・・・・・・・・・あ」


 不意に聞こえてきた、自分を呼ぶ聞きなれた声に、総一郎はうつむいていた顔を上げた。建設中のデパートのわきにある道から、いつもの作業着と違い、水色のワンピースを着た桜子の姿が駆け寄ってくるのが見えた。



「お待たせ総ちゃん、なんやの、すごい早いやん。それにその恰好、随分と男前やな」
「おはよう桜子、お前だって随分と早いじゃないか、それにその恰好・・・・・・」
「あ・・・・・・へ、変やろか」
「い、いや、変じゃない。似合ってるし、それにとても可愛いぞ」

 普段の恰好とは違う恰好、そして桃色のリップクリームが微かに塗られた唇に視線が行ってしまう。


「・・・・・・そ、そういえば遅いな、雷牙と水口さん。雷牙はともかく、水口さんはこの時間ならいてもいいと思うのだけれど」



 少女の唇から何とか目をそらすと、総一郎はごまかすようにそうつぶやいた。

「そ、そやね、ちぃちゃんなら今の時間に到着していてもおかしない思うけど・・・・・・せ、せや、ちょっと連絡してみよか?」
「う、うん、頼んだ」

 桜子が後ろを向いて、小型の気化石を入れて稼働する蒸気式携帯端末、通称携帯を取り出す。その間、総一郎は赤くなった顔を見られないようにと空を見上げた。すると、時計台の頂にある、出雲神話に出てくる大鳥が翼を広げてこちらを見下ろしているのが見えた。鉄でできたその顔は、何をやってるんだと少年を嘲笑しているかのようだった。


「え? そないなこと言われても、うちやっぱり恥ずかしい・・・・・・って、ちぃちゃん? もしもし、ちぃちゃん!?」
「・・・・・・ん?」


 千里に連絡している桜子の口調が、突然慌てだしたのを耳にし、総一郎は視線を大鳥から目の前の桜子に移した。やがて一方的に通話が切れたのか、小さくため息を吐いた桜子が再びこちらを振り向いた。


「どないしよ総ちゃん、ちぃちゃん、おなか壊した鈴原の世話する言うて、今日二人とも来れへんて」
「二人が来れない?」


 少女の言葉に、総一郎は雷牙の奴、何やってるんだと生身のほうの手で痛む頭を軽く抑えた。雷牙は夜寝るとき上半身裸にならないと眠れないという悪癖がある。ぁ暑苦しいからという理由で裸になっているらしいが、それでは寝冷えして腹を壊す。実際に今までも腹痛を起こしていたので、何度も注意してきたのだが、結局治らなかった。


「ん・・・・・・じゃあどうする? 今日はもう解散するか? 遊ぶのなんて、来週でもいいはずだし」
「そ、それがな、今日四人で見るはずの映画、前から楽しみにしとったんやけど、今日まで放映なんよ・・・・・・あの、総ちゃん、もし良かったら、このまま二人で見に行かへん?」
「ふ、二人でっ!?」

 桜子の提案に、総一郎は息を呑んだ。桜子を見た自分がどこかおかしいことは分かっている。今日一日ずっと二人でいたら、もしかしたらもっとおかしくなってしまうかもしれない。だが、

「まあ・・・・・・桜子がいいなら、二人でもいいけど」
「ほ、ほんま!? なら、二人で映画見にいこか」
「あ、ああ」


 断って桜子に泣かれるよりは、自分がおかしくなるのを我慢すればいいだけだ。そう結論付けると、総一郎は桜子とともに、映画館に続く道を歩き出した。



「もう、どうしてそこで手をつなごうとしないんですか!!」
「お、おい千里、ほかのお客さんが見てるって」


 二人が歩き出すのを、千里は広場の近くに立っている喫茶店から眺めていた。彼女の座っているこの席からは広場の様子がよく見える。もし総一郎がいつもの調子なら、おそらく気が付いていただろう。

「まあ、二人で映画を見に行こうとしただけでも及第としておきましょうか。あむ」

うんうんと頷きながら、千里は口にパフェを運んだ。彼女の席には、すでにチョコレートパフェ、イチゴパフェなどの器が十数個転がっている。だが甘党で大食い、そしてどれほど食べても虫歯にならず一グラムも太らない彼女にとって、こんなものはまだ前菜にもならなかった。喫茶店には千里と雷牙のほかに数人の客が入っていたが、彼らはみな十数個のパフェを瞬く間に平らげた少女を見てぎょっとした表情をしていた。

「さ、さすがにちょっと食べすぎじゃないか? いくら百円引きといっても、十数個も食べたら結構な値段になるぞ?」
「何言ってるんですか、こんなもの、食べた内には入りませんよ。今日はここの裏メニュー、高さ七十センチの“スペシャルダイナミックトリプルジャンボパフェ~あまりに高すぎて雪崩が起きます~を食べるつもりなんですから」
「げっ、それって確か一つ一万五千円もする奴じゃないか、そ、それより千里、総ちゃん達も移動したことだし、俺たちもそろそろ移動しないか?」
「そうですか? まあ、今日の本当の目的は、彼らを二人きりにしてあわよくば恋人同士にしようというものですからね。わかりました、じゃあ予約だけしておきますので、雷牙はお会計をお願いします」
「・・・・・・結局食べるのね」

 デートの時の食事代をいつも払わされている彼氏としては、できれば一万を超すような高額なパフェはやめてほしいが、おそらく千里は言っても聞かないだろう。深々と溜息を吐くと、雷牙はパフェだけで数千円の代金が書かれている伝票を手に取り、のっそりと立ちあがった。








「映画おもろかったね、総ちゃん」
「あ、ああ。そう、だな」



 総一郎と桜子が映画を見終わり、映画館から出てきたのは正午を少し回ったころだった。二人が見たのは、この春一押しと言われている米国発の映画である。ジャンルはSFアクションで、内容はとても面白かったのだが、まさか中盤に濃厚なベッドシーンがあるとは思っていなかった。総一郎は顔を背け、桜子はキャッと小さな悲鳴を上げて両手で顔を覆い、だが指の間からちらちらと興味深く眺めていた。そして彼らの顔は、どちらも熟れたリンゴのように真っ赤であった。だから総一郎は、映画館から出てきたとき、桜子が自分の生身のほうの腕に自分の腕を絡ませ、身体を押し付けてきたのは、先ほどの映画に“あてられた”のだと考えていた。そう、例えば彼女の豊満な胸が歩くたびに自分の腕にむにゅむにゅと当たっているのも、“勘違い”をしては、彼女に失礼だというものだ。


「えっと、その・・・・・・お昼だし、どこか店に入って食べるか?」
「あ、それなら公園で食べよか? うち、おべんと作ってきたんよ」
「そ、そう? ならそうしよっか」

 映画館から一キロほど東に歩いたところには、大正時代から存在する自然公園がある。さすがに当時の遊具などは撤去され、新しいものに取り換えられているが、それでも植えてある木々はほとんど大正時代から変わらず、出雲に住む人々の憩いの場の一つとなっていた。


「じゃあ行こうか、桜子」
「うん、総ちゃんっ!!」

 嬉しそうに頷くと、桜子はますます腕にすり寄ってきた。彼女のワンピースの胸元から、わずかに見える青色のブラジャーを凝視したい気持ちになるのを必死に抑え込みながら、総一郎は前方にかすかに見える公園に向け少女と二人で歩き始めた。





「う~ん、いい感じですね」
「あ、あのな、千里」


 総一郎と桜子、二人が歩き始めた道に面している蕎麦屋で、彼らの様子を見ながら昼食を取っていた千里はにっこりとほほ笑んだ。それとは対称的に、雷牙の表情はどんよりと曇っている。当然だろう、彼らの囲むテーブルには、すでに二十個を超す、そばを入れるざるが空になって置かれている。しかもその半分は、この店自慢の天ぷらそばだ。当然、値段もそれなりにする。
「おや、どうしたのですか、雷。箸が進んでいませんが」
「いや・・・・・・ちょっと食欲がなくてさ、俺の分、食ってくれ」
「そうですか? なら遠慮なくいただきます」

 雷牙の前に置かれているざる蕎麦を取り上げ、するすると口に入れる千里の目の前で、机に突っ伏した雷牙の肩に、ポンッと手が置かれた。少年がふらふらと顔を上げると、知り合いでもあるいかつい顔の店主が、むっつりとした表情で見下ろしていた。彼は、雷牙が顔を上げるのを確認すると、彼に蕎麦湯と一枚の紙きれを差し出した。

「あ、すいません、店ちょ・・・・・・ぶっ!?」

 差し出された蕎麦湯を一口飲んだところで、少年は差し出された紙きれを見て、そして先ほど飲んだ蕎麦湯を噴出した。その紙切れには、ゼロが四つと、そのすぐ左側に数字が書き込まれていた。

「・・・・・・ツケにしてやるには、さすがに金額がでかいんでな、悪いがちゃんと払ってくれ」



「・・・・・・はい」



 最後にもう一度店長が肩をポンッと叩いて厨房に戻っていくと、雷牙は今度こそ机に突っ伏した。







「空、もうすっかり赤うなったねぇ」
「そうだな・・・・・・その、悪かったよ、眠ったりして」

 公園の茂みで、桜子が作ったサンドイッチを主体としたお弁当を食べ終えた後、日ごろの疲れが出たのか、眠気を覚えた総一郎は、ぼうっとした意識の中、桜子に導かれて彼女の膝に頭をのせ、夕方になるまで眠ってしまったのだ。


「ふふ、謝らんでええよ、総ちゃんの寝顔、可愛かったし」

 少年が自分の膝に頭をのせて眠っている間、桜子は小さく子守唄を口ずさみながら編み物をしたり、持ってきた整備の本を読んだりして時間を過ごしていた。昼食を食べ終えた後、公園に設置されたトイレに行っていたので幸いにも尿意を覚えることはなかったが、それでも四時間ほども膝枕をしていると赤くなったが、それでも思い人が自分の膝枕で眠っているという事実は、彼女を幸福にさせた。

「男の寝顔に可愛いというのは、ほめ言葉になるのかな」

 昼間同様、腕に桜子の身体の柔らかさを感じながら、それでも総一郎は自分でも驚くほどの平常心をもってそれを受け止めることができていた。たわいもない話をしながら、どれほど歩いただろうか。ふと、総一郎は、朝自分たちが待ち合わせに使った時計台の近くまで戻っていることに気づいた。時計台の頂にいる大鳥が、夕日により赤く染まっている。


「ええ夕日やね、大鳥はんも綺麗に着飾っとる」
「ん、そうだなぁ」
「そういえば、そろそろ四月も終わりやね」
「そうだな・・・・・・月の終わりというのは、少しもの悲しく感じるな」
「そう? うちは次の月が来る思うてワクワクするけど。特に、五月は大型の連休があるし・・・・・・せや、連休中、どっか遊びに行かへん? その、今日みたいに、二人で」
「二人でか・・・・・・うん、いいな。それでどこに行きたい? 遊園地か、動物園か」

「ええよ、そんなお金かかるとこ、どうせ連休中はどこも人でいっぱいや。それより、どこか高原でお弁当食べへん? そや、柏餅作ってきたる。総ちゃんは粒餡とこし餡、どっちがええ?」
少年の肩に頭をこてんと頭を預けて、桜子はまぶしそうに夕日を見た。
「柏餅か・・・・・・僕はどっちも好きだけど、しいて言えば粒餡のほうが好きかな」
「粒餡な、分かった。たくさん作るから、楽しみに待っててな」

 いい雰囲気や、夕日に照らされた少年の横顔を見上げながら、心の中でつぶやくと、桜子は総一郎の腕から手を放し、名残惜しそうな顔をしている彼の前に、真剣な表情で立った。


「・・・・・・桜子?」
「あ、あのな、総ちゃん、うち、うちな、総ちゃんのこと、総ちゃんのことな・・・・・・ずっと前から、す「綾乃、ちゃん?」へ?」

 恥ずかしそうにうつむき、愛の告白をしようとしていた桜子は、頭上から聞こえてくる、半ば呆けたような少年の声に、ふと顔を上げた。先ほどまで首をかしげてこちらを見ていた総一郎は、今は少女の後ろに目をやり、凍り付いたように固まっていた。

「ど、どないしたん総ちゃん!?」
「悪い桜子、話はまたあとで、ちょっと待っててくれ」
「へ? いや、どこ行くねん総ちゃん、総ちゃん!?」

 何が起きているのか、ポカンとした表情を浮かべている桜子をその場に残し、総一郎は一人、広場から離れ、桜子がいた場所の後ろにある道を駆けていった。




「綾乃ちゃん、どこ!? 綾乃ちゃん」



 この時刻、買い物客などでにぎわっている繁華街のアーケードは、だが今は猫の子一匹見当たらない。その静まり返った道を、総一郎は一人、少女の名を呼びながら走り抜けていった。


 彼が探しているのは、彼が初めて守ると誓った少女であった。それから四年の歳月がたち、姿は大きく変わっているが、それでも視界の隅に映った彼女を、総一郎は綾乃だと確信した。それは理屈ではない。心とそして魂とが、彼女が綾乃だと言っているのだ。


 繁華街を抜け、いつしか高い塀に囲まれた旧家が続く旧市街を通り過ぎる。それからどれぐらい走っただろうか、ふと我に返ると、総一郎は自分が数年前に入院していた病院のすぐそばにある公園の真ん中に一人、ぽつんと立っていることに気づいた。夕焼けに照らされたブランコが、悲しげにキイキイと軋みを上げて微かに揺れている。だがそれ以外には、そこには誰の姿も、そして誰の気配もなかった。




「・・・・・・」



 時刻はおよそ十八時、逢魔が時と呼ばれるその時刻、不気味なほどに赤い夕陽が、ブランコと自分を照らす。少年はしばらく悲しげに揺れるブランコを見つめていたが、やがてふっと肩を落とすと、桜子が待っている広場へと帰っていった。


























 自分を見つめる、その瞳に気づかないままに
























「ん~ふ~ふ~ふ~ふう」











 女の嬌声が絶え間なく響き渡る、常任ならば狂死している部屋の中で、男は被っている鳥の嘴のような仮面の下で笑みを浮かべると、固定された小動物―子狐だろうか―の肉体を切り刻んでいた


 もはやこの研究所には彼に付き従うものは誰もいない。職員はすべて狂死するか、異形の者へと変貌し、忠実な部下であり、最後まで残っていた研究主任もついに女の嬌声に負けて狂い、現在は研究所内をふらふらとさまよっている。

 だが、そんな“些細な事”は男にとってはどうでもよかった。いや、むしろ現在の状況こそが彼の目的であった。彼がイサの子供たちに所属しているのは、利益のためでも、もしくは彼らの思想に共鳴したのでもない、そもそもイサ教に入ったのも、自身の目的に利用するためであった。



「ん~ふ~ふ~ふ~ふぅ・・・・・・おやぁ?」


 ふと、男は小動物を切り刻んでいる手を止め、耳を澄ませた。鳥の嘴に似た仮面は、ここ数日洗っていないのかひどい異臭がし、さらに所々紫色に染まっている。


「おやぁ? ようやく戻ってきましたかぁ。どうです? 私の言った通りでしょうぅ? “あなた”の姿はもはや人には見えません。もし見えたとしても、誰もあなたを“人”とは思えないでしょうぅ。いくら助けを求めても、それは無駄というものですよぉ?」


 彼の周囲にはやはり誰もいない。だが、男がそう口にした瞬間、彼がいる部屋を、何か巨大な気配が敵意をもって覆いつくした。


「おやぁ? 怒りましたかぁ? まあ無駄ですがねぇ。しkし、貴女も懲りませんねぇ、外も内も、さんざんに凌辱されておとなしくなったと思ったのですがぁ」


 重圧で部屋がきしむ中、だがその中央にいる男はけろりとした顔で白衣のポケットから何かを取り出すと、それを子狐の中に入れた。




「さあ、そろそろ神楽さんもこちらに気づく頃でしょうぅ。ですがまあ、最後の準備は終わりましたぁ。ここの場所の役目はまあ、囮でしょうかねぇ。我々が“祭壇”にたどり着くための・・・・・・さあ、行きますよ“孕み女”、準備なさいぃ?」



 ものすごい速度で子狐の腹を縫合し、その身体を抱えると、男は仮面をつけたまま部屋を出て行った。それに合わせて、誰もいない部屋の中、ズルズルと何かが這うような音とともに、巨大な気配が男の後に続くように部屋を出て行った。















「う・・・・・・あ、ああ・・・・・・う」



 明かりがついていない暗い廊下を、一人の男が頭を抱えながら、ズルズルと這うように移動していた。もう何日も洗濯をしていない白衣は薄汚れ、女職員のあこがれの的であった端正な顔はぼさぼさの髪と髭におおわれている。実際、彼は自分が一体何日この状態なのか、そして今何日なのか、いや、それよりも彼には時間の概念などなかった。彼の頭を占めるもの、それはただ一つ、絶え間なく聞こえてくる女の嬌声、ただそれだけであった。


「うう・・・・・・う」


 自分の身体が、自分の物でないかのように自由に動かない。まるで、自分の中にいる別の“何か”が自分を支配しているような感覚であったが、それでも一日に数分は自由に動けるときがあった。ならば、これだけは書き残しておかねばならない。意識がもうろうとする中、“太い一本の触手”となった手の先端を嚙み千切ると、滴る紫色の体液を使って、男は壁に文字を書き始めた。










『我々は過ちを犯した。否、過ちではなく栄光を勝ち得たのだ。十年前、太古の時代に海に沈んだ都市を海中で発見し、その神殿から持ち帰った奇怪な箱神が託されし偉大なる遺物そそそれを我々はこの場所選ばれしいけにえの祭壇として選び研究を偉大なりし神を降臨させるための儀式を行ったたたた。しししかし数年に及び研究の末それを復活神の降臨には適合する母体が必要だということが判明した。ゆえに我々は保護と称して各地から神の母体としてふさわしい女体を集めて交配とじじじじ実験を繰り返ししししし・・・・・・適合する母体がようやく見つかった。いよいよわれらの神が降臨される。そしてわれらか弱き子羊を含めた、この地にあまねく全ての者を支配されるであろう・・・・・・ああ、いやだ、いあだ・・・・・・いあ・・・・・・いあ・・・・・・ああ、今日もまたあの女の嬌声が聞こえる。これは罰なのか、世界のため、人々のためといって、年端もいかない多くの少女たちを凌辱した我々に対する・・・・・・ああ、頼む、誰かあの女の嬌声を止めてくれぇえええ』







「・・・・・・これが、この男の最後の言葉か」

 
 高天原副司令であり、第一部隊隊長を務める鈴原藤雄は、事切れている男と、彼が自分の“中指”を噛み千切り、“赤い鮮血”で書いた血文字を見下ろした。おそらく書いてから一週間以上経過しているそれは、ほとんどが掠れ、わずかに読み取れるところも意味不明な喚き声のように思えたが、それでもなんとか解読できるところをつなぎ合わせると、どうやらここでは非道な実験が日常茶飯事に行われていたらしい。その非業な人体実験は、数日前に死亡した重鎮の支援で行われていたらしく、新たな当主となった神楽の命令で調査が行われ判明した。その重鎮は国家転覆をはかった反逆者と指定され、家族はみな刑務所に入れられた。そして肝心のここ出雲研究所には、近衛師団と並ぶ精鋭である第一部隊が投入されたのである。


「それで? この男の死因は何だ?」
「は。詳しく解剖してみないと分かりませんが、十中八九中指を失ったことによる出血多量が原因と思われます。その中指は、男の口の中にありました。それともう一つ、気がかりなことが」
 長年にわたる彼の副官であり、連隊規模の人数で構成されている第一部隊の第二大隊長を務める杉内は、日ごろ豪胆な彼にしては珍しく顔を青ざめさせていた。

「何だ?」

「はい。この血文字が書かれたと思われる時期はおよそ一週間ほど前、ですがこの男は、死んでから少なくとも“二か月”が経過しています。その、隊長、これはいったいどういう」
「不可能ではないだろう。この研究所では、人と魔を融合させて人工的な結界喰らいを作ろうとしていたらしいからな。エイジャの結界の中でも自由に動ける人間を生産する、ということだったらしいが・・・・・・おそらくその実験に、知らぬ間に使われていたのだろ「隊長、た、大変です!!」 なんだ、そうぞうしい」


 鈴原が顎をなぞりながら部下の質問に答えていた時、奥を探索していた杉内が指揮する大隊の隊員が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。

「隊長の言う通りだ、何を慌てている!!」
「は、はい。それが、奥の一室で・・・・・・な、何人もの・・・・・・う、うぷっ」
「そうか、見つかったか」


 吐き気を抑えるように口を手で覆った部下を見て、鈴原は深々と溜息を吐いた。どうやら探し物の一つである、少女たちの死体が見つかったらしい。

「それで? それほどにひどいものだったのか?」
「は、はい。自分も任務で様々な死体を見てきましたが、これほどひどいのは初めてです。何せ蒸し暑い小部屋の中、折り重なるようにしてぎっしりと入れられていましたからね。しかも半分は完全に白骨しておらず、腐敗して床は腐った汁まみれでした」

「分かった。ということは、ここで火葬したほうがいいだろうな。誰か、火をもってこ」


 鈴原が部下に命じようとした時である。いきなり、杉内が背中にぶつかってきて、二人は折り重なるように床に倒れた。そして次の瞬間、巨大な轟音とともに、爆発があたりを包み込んだ。むろん、ここにもう一名いたほかの隊員は爆発に飲み込まれ、即死している。


「く、なんてことだ」
「閣下、嘆いている場合ではございません。ここは危険です、一刻も外に!!」
「ああ・・・・・・こい、スクナヒコナ!!」


 右手を上げ、何かを切るような仕草をした鈴原の前に、ヴヴヴっという羽音をさせ、飛び回る“何か”が現れる。それが目の前にあるひびの入った壁に近づいた瞬間、その壁は砂となって崩れ落ちた。壁の向こうはもう外であり、突然の爆発に驚きつつ、それでもさすがは精鋭なのだろう、多少混乱しつつも、爆発物捜索や負傷者の救助のために準備するもの、救急車の手配のために連絡を入れるものなど、皆が忙しく働いている。



「それで、被害はどれぐらいになりそうだ?」
「はい、おそらく奥を捜索していた第二小隊は全滅、その他負傷者多数と思われます」
「ふん、なるほど。それが奴の狙いか」
「は・・・・・・申し訳ありません隊長、狙いというのは」


 人と機材の間を歩きながら鈴原がつぶやいた言葉に、杉内はふと問いかけた。



「奴・・・・・・蛭山の狙いは、高天原の精鋭部隊である我々第一部隊に損害を与え、その立て直しをしている間に何かをするか、するための準備をするのだろう。その何かがどういうものかわからないが、どうやら蛭山はまだこの日本、いや出雲の地で何かをするらしい。いいだろう、貴様がその気なら受けて立ってやる。我が部下を殺傷せしめたその罪、貴様の身体で償ってもらうぞ」


「・・・・・・隊長がその気になられたか、やれやれ、これは忙しくなるぞ」



 相変わらずむっつりとした表情の中、だが決して隠し切れない炎をその目に宿らせた上司を見て、杉内は一人溜息を吐いて苦笑するのだった。















 総一郎と桜子のデートが微妙なものに終わってから、およそ数か月が経過した。最初の一か月の間、総一郎は毎日のように綾乃を引き取った蛭山の住居に連絡を取ろうとしたが、なしのつぶてどころか、まったく通じなくなっていた。土日には、綾乃が引き取られるときに聞いた住所に行ってみたが、そこには家などなく、ただ空き地がぽつんとあるだけだった。慌てて連絡を取ってみたが、やはり通じない。それでも総一郎は探すのをやめなかった。毎日つながらない連絡を入れ、寝食を忘れて心当たりのある住所へ行くことをおよそ一か月、毎日続けていた。友人である雷牙と彼に相談された師匠である義人からの、半ば説教のような説得がなければ、彼は見つかるまで、それこそ倒れても探すのをあきらめなかっただろう。



「だんだんやつれてきましたね、総一郎さん」
「ん・・・・・・」

「昨日も寝ていないようですし、だいぶ疲れがたまっているのではないでしょうか」
「・・・・・・ん」


「・・・・・・あ~、そうだ。今日の数学の小テスト、どうでしたか?」
「・・・・・・ん・・・・・・」


「あの、桜子さん、すいませんが、こちらの話、ちゃんと聞かれていますか?」
「うん、聞いとるよ。なあちぃちゃん、一つ聞いてええ?」

 何を言ってもあいまいに頷くだけの桜子に、さすがにむっとしたのか、少し強い口調で千里がそう問いかけると、うつむいて細い鉄の板をやすりで磨いていた桜子は、ふと、その手を止めた。




「あ、はい。何ですか?」
「・・・・・・綾乃ちゃんって、誰?」
「・・・・・・」

 うつむきながら、桜子が発した言葉に、千里は眉をしかめ、ずり落ちそうになった眼鏡をかけなおした。


「・・・・・・それを聞いたら桜子さん、あなたはもしかしたら、総一郎さんを嫌いになるかもしれませんこの話には、現在の真面目で責任感が強い彼ではなく、弱い一人の人間としての彼が出てきますから。それでもあなたは、この話を聞くおつもりですか?」


 厳しい表情でそう聞いた千里に対し、桜子は少しの間黙ってうつむいていたが、やがて顔を上げると、しっかりと頷いた。



「分かりました。それではお話ししましょう、総一郎さんと綾乃さん、そして私たちの出会いの話を」





















「・・・・・・これでお終いです」
「・・・・・・」


 千里が口を閉じたとき、すでにあたりには夜のとばりが落ち、部屋の隅に備え付けられている蒸気式ランプには、大きな蛾が一匹張り付いていた。

 そのランプに照らされた部屋の中、千里の話を黙って聞いていた桜子は、両手で顔を覆い、わなわなと震えていた。



「やはり、総一郎さんに怒りを覚えましたか?」

 少女の様子を見て、やはりいうべきではなかったと、千里が小さく息を吐いたとき、

「・・・・・・ちゃう、ウチが怒っとるんは、総ちゃんが苦しんどるのに気づかんで、恋や何やとはしゃいどったうち自身にや」
「桜子さん・・・・・・ではあなたはまだ総一郎さんのこと」


「好き、大好き。さっきの話聞いて、ますますそう思た」
「そうですか・・・・・・ああ、そういえば、桜子さんが総一郎さんを好きになったきっかけ、確か聞いていませんでしたね。確かお二人の出会いは、桜子さんが総一郎さんの義手に興味を持ったからだと聞いていますが」
「へ・・・・・・あ、ああ、言っとらんかった? うちが総ちゃん好きになったの、中学生の時や」
「え? そうなのですか? それにしては中学生の時に総一郎さんから桜子さんの名は出ませんでしたが」
「まあ、せやろな。ほら、ウチこんな口調やろ? まあ、生まれた時から小学校卒業まで大阪に住んどったさかいしゃあないし、別に治すつもりもないんやけど、それでもお父ちゃんから中学から立志院に通え言われてな、入学してからはからかわれて、だんだんいじめられるようになってもうた。そんであるとき、たちの悪い不良連中に囲まれた時があったんよ。で、それを助けてくれたのが総ちゃんやった」


 今でもはっきりと覚えている。壁際に追い詰められ、ツインテールをつかまれて絡まれていた時、鍛錬を終えて帰宅する途中の総一郎が彼らをたたきのめして自分を助けてくれたのだ。まあ、その時の総一郎は心身ともに痛めつけるような修行をしていたため覚えていなかったようだが。
 だが、助けた少年は覚えていなくとも、助けられた少女は彼のことを忘れなかった。その少年のことを考えていると、胸の高鳴りを覚えるようになったのが恋であることを知ったのは、中学生活も半ばを迎え、からかわれることもなくなったある日のことであった。それ以降、桜子は彼のことを慕い続け、高校に進学した直後、偶然を装って彼に近づいたのである。


「だいたい、さっきの話聞いとると、死んだほうにも問題あるやろ? 総ちゃん見下して、準備もようせんで困難な儀式に挑むから、人死になんか起きるんや。それに・・・・・・人殺しが悪言うなら、うちにかて悪人の血が流れとる」

 ふと、やすりを握っていた手を止め、顔を上げた桜子がつぶやいた言葉に、それまで微笑しながら少女を見ていた千里の表情が固まった。


「悪人・・・・・・噂には聞いたことがあります。数々の発明を行い、中でも皇国初の蒸気飛行船の設計・開発を行ったことから、皇国史上最大といわれる黒塚鉄斎の名を与えられ“二代鉄斎”の名を得るに至った鬼才、黒塚鬼鉄・・・・・・
確か最後には、その」
「“狂気の発明”により、味方含めて敵をせん滅、その罪によりうちの爺ちゃんは黒塚の姓を名乗ることを禁じられ、母方の親戚がいる大阪に落ち延びた・・・・・・出雲に戻ることができても、結局黒塚の名は戻らんかったって、去年死んだ爺ちゃんが嘆いとったわ」
「そうですか・・・・・・それで? それがどのような発明家、お聞きしてもよろしいですか?」
「まあ、身内の恥やから詳しくは言えへんのやけど、装備が整っていない時代に突如襲ってきたエイジャ百体以上を一撃で粉砕したいう代物やさかい、すさまじいものちゃうんか? それを使用した人は、文字通り“粉々”になったけどな。名を確か・・・・・・禍(まがつ)」
「・・・・・・」
「せやから、そんな話ぐらいで総ちゃんを嫌いになんかならへん。待っててな、総ちゃん。うちが絶対幸せにしたる」
 
 威勢よくそういうと、桜子は再びうつむいて、やすりで鉄を磨き始めた。作業に集中している彼女に何を言っても無駄であることを知っている千里は、苦笑しつつ軽く頭を下げ、退出するために踵を返した。


「・・・・・・ん?」


 ふと、どこからか空気の漏れる音がして、千里は一瞬立ち止まりかけたが、小さく頭を振りつつ、今度こそ桜子の工房を出て行った。




  桜子の工房で、少女二人が会話してからさらに数週間が経過した。季節はすでに冬に差し掛かり、山間部が雪で白く染まっている。夏から冬にかけて、大きな出来事は二つ、まず夫の代わりに当主代行をしていた黒塚神楽が、正式に当主になったことである。彼女の指揮の下、出雲は急速に近代化が進み、それに伴う建設ラッシュにより好景気を迎えていた。その急速な発展に疑問を覚え、待ったをかけようとする者も少しはいたが、彼らは中央から遠ざけられ、後には神楽に追従するものだけが残った。

 そしてもう一つの重大な出来事が、出雲総合研究所に対する高天原第一部隊の強硬視察と、所長である蛭山の失踪である。前当主である黒塚なぎの派閥に属する、“病死”した重鎮が出資していた研究所で、蛭山が数々の非人道的な研究を行っていたことが判明。神楽の指示で第一部隊が研究所に対して強硬査察を行ったのだが、そこにはすでに蛭山の姿はなく、仕掛けられていた爆弾により第一部隊に多数の死傷者が出た。しかしながら、この査察により蛭山が過激派組織“イサの子供たち”の幹部であり、実際に誇示、しかも年端もいかない少女たちに対する非道な実験を繰り返していたことが明らかになった。その結果、神楽が当主となった後もある程度の力を持っていた黒塚なぎの派閥の面々は急速にその力を失うことになり、黒塚家はほとんど神楽による独裁のような形となったが、先の好景気と合わせてそれを批判するものは誰もいなかった。しかし、蛭山の逃亡を許したという事実だけが、人々の心に不安として残ることになる。















 建設中のビルの中で、黒い巨大な獣を見たという噂が立ち始めたのは、クリスマスが近づいた、ある冬の日のことだった。迷い込んだ犬か何かを見て、気の小さい人間が巨大な獣だと錯覚したのだろう、そう人々は嘲笑っていたが、作業員の一人が肩を食いちぎられるという重傷を負うと、さすがに話は違ってきた。警察に連絡が行き、その上位組織である高天原から、呪術師が一人派遣されることになったのである。



「ずいぶん遅くなったなぁ、悪い、総ちゃん」
「いや・・・・・・いいよ」


 クリスマスまであといつかに迫った日、すでに夜の帳が落ちた道を、総一郎と雷牙は並んで歩いていた。いつもの帰宅時間よりだいぶ遅い。二時限目の数学の小テストで雷牙が赤点を取り、結果今の時間まで補修を受けていたのである。むろん、総一郎は赤点を取らなかった。彼はこの時間まで学校に残り、雷牙が補修を終えるのを待っていたのだ。



「・・・・・・そんなに心配することないって。今俺の親父や、高天原に所属している人たちが蛭山を探している。綾乃ちゃんはすぐに見つかるさ」
「そうか・・・・・・なあ、雷牙」
 頬がこけ、疲れたように顔を伏せている総一郎に缶コーヒーを差し出すと、彼はどうもと一言つぶやき、雪がちらつき始めた夜空を見上げた。
「ん? なんだよ、総ちゃん」
「僕は世間知らずだったのかな、父さんと母さん、それに妹と暮らしていた間も、二人が死んで妹が浚われて、義母さんに庇護されて暮らしていた間も、僕は出雲から出ることはなかった。だから、蛭山教授の表面を見て信頼して、ただ本人が望んだというだけで何の疑問も抱かずに送り出した結果、こんな事態になってしまった」
「・・・・・・総ちゃん」
「なあ雷牙、まだ一年ほど先だけど、お前、立志院を卒業したらどうする? やっぱり高天原に入隊するのか?」
「やっぱりってか、入らなきゃいけないだろ、まあ戦い自体は嫌いじゃないし、適職だと思うけどな。総ちゃんは違うのか?」

 父である藤雄や総司令である黒沼玄の依頼で、学生でありながら何度か実戦を経験している雷牙は、白い息を吐きながらそう言うと、隣にいる親友を見た。

「・・・・・・高天原に入隊しなければいけないのは知ってる。けど、けどその前に、僕は・・・・・・僕は」



 一度言葉を切ってうつむいた総一郎が、数秒考え込み、意を決して顔を上げた時だった。






 タッ







「た・・・・・・何だ?」
「うん? どうした? 総ちゃん」
「いや、微かにだけど、何かが飛ぶような音が聞こえなかったか?」
総一郎が首をかしげ、雷牙が耳を傾けたのと、二人のすぐ前の雪道に黒い大きな影が舞い降りたのは、ほぼ同時であった。


 それは、牛ほどの大きさを持つ四足の黒い獣であった。形状は犬に近い。だが顔の両面に走る青い稲妻の異様な目も、獰猛な牙が幾重にも生える口の中にある、冒涜的にゆらゆらと揺れている舌の先にある無数の牙が生えた小さな口も、そして体中から生えている無数の鋭い刃も、犬には決してないものだった。

「こいつ、まさか」
「ああ、最近噂になっている黒い獣らしいな。けど、どうしてこんなところにいるんだ?」
「そんなの俺が知るかよ・・・・・・来るぞ!!」


 雷牙の言葉に、総一郎が鉄の義手を盾にするように体の前に出すと、それまで唸り声をあげて威嚇していた黒い獣が、じりじりと後退すると、一気に飛びかかってきた。


 だが、獣の身体から生える無数の刃が少年二人を切り刻むより、虚空より飛来してきた無数の小さな白い人型の紙束が黒い獣に張り付き、その肉体を覆ったほうが早かった。


「君たち、大丈夫か!?」

 突然の出来事に少年たちがあっけにとられていると、二人のいる場所のすぐ近くにある曲がり角を曲がって人影が一つ駆け寄ってきた。年齢は四十の後半ほど、どこか神経質なところがある、やせた男だった。


「おい君たち、大丈夫か?」
「・・・・・・え? あ、は、はい」
「・・・・・・あ? あ、あれ、桑島さんですか?」

 声をかけてもいまだ呆けている二人を心配して男が声をかけてくる。男に見覚えのない総一郎はぼんやりとそう答えたが、雷牙は声をかけてきたその男の顔を知っていた。彼の名は桑島茂、第一部隊、すなわち少年の父が指揮する部下の一人で、中級の呪術師だった。

「もしかして鈴原君か? いやすまなかったね、獣の調査を命じられてビルの中で発見したのはよかったが、相手のスピードが予想以上に早いものでね、一瞬の隙を突かれて逃げられてしまったんだ。いや、それほど遠くに逃げていないで助かったよ」

「助かったって、ここにいるのが僕たちじゃなくて一般の人々ならどうするんですか。それに、“これ”は何なんです? 噂の黒い獣だとは思うんですけど」

 笑っている桑島を見て、総一郎は抗議の声とともに、完全に紙束に覆われた獣を見た。

「いや、それがわからないんだ。一見したときはエイジャが操る獣型のスフィルに見えたが、彼らの攻撃方法はただ牙と爪があるだけだ。突然変異かもと思ったけど、最近エイジャが出没したという話も聞いていないしね。まあ、完全に式神で覆ったから、もう心配はないと思うけ・・・・・・」

  ふと、桑島が口を閉ざし、獣を覆っている式神を見た。先ほどまでガタガタと激しく震えていた式神は、だが今ではぴたりと止まっている。と、式神の一枚がいきなり盛り上がり、次の瞬間ばらばらに裂けた。


「なっ!? そんな馬鹿な、俺の式には上級のエイジャですら拘束する力があるんだぞ!?」


 驚く桑島の前で、彼の式神が次々と裂かれていく。やがて、全ての式が切り裂かれ、そこには身体から飛び出た無数の刃のせいで、まるでハリネズミのようになっている獣の姿があった。その獣は、青い稲妻のような眼孔に怒りの色を浮かべると、全身の刃を前方に伸ばし、うろたえている桑島に向け、一直線に駆け出した。


「う、うわ、うわわわわっ!?」

 獣が襲い掛かってくるのを見て、慌てふためいた桑島は二,三歩後ずさりしたが、雪道に足を取られ尻餅をついた。そんな彼に向って、獣が刃を光らせながら迫る。


「桑島さんっ!? くそっ」


 桑島に獣が襲い掛かろうとしているのを見て、雷牙は懐に手をやった。少年でありながら、すでに戦闘を経験している彼は、たとえ雷神に変化することのできる神具を所持できない日常生活においても、自分の身を守るために呪術を込めた符を数枚、常に懐に忍ばせている。そのうちの一枚を取り出すと、雷牙は桑島に迫っている獣に向けて投げつけた。符は一直線に獣にまで飛んでいき、右足に張り付くと、バリバリと音を立てて爆発する。その爆発をまともに受けた獣の右足は、あたりに黒い液体をまき散らしながらはじけ飛んだ。



『ルオオオオオオオオッ!!』


 周囲に激痛にあえぐ獣の声が響く。だが、右足を失ってもまだ獣は桑島に迫るのをやめなかった。


「くそ、赤字になるが仕方ねえっ、もう一枚行くぞ!!」


 チッと強く舌打ちしてから、雷牙は懐から符をもう一枚取り出して投げつけた。それは獣の黒い尾に張り付き、爆発する直前の強い光を発した。

 だがその時、獣は少年にとって予想外の行動に出た。なんと、獣の身体から生える刃の一本が、爆発する寸前、符が張り付けられた尾を切り飛ばしたのである。


「は? うわっ!?」


 突然の出来事にあっけにとられた雷牙だったが、すぐに両腕で顔を覆った。そして次の瞬間、尾に張り付いた符が少年の近くで爆発する。




「うわあっ!?」
「雷牙っ!?」


 親友が閃光と爆風で吹き飛ばされたのを見て、総一郎はとっさに彼に駆け寄ろうとしたが、そのとき彼は、爆風に吹き飛ばされた獣が起き上がり、桑島に向け殺意の瞳を向けたのを見た。

「くっ、僕しか・・・・・・いないのか?」

 獣がうなり声をあげたのを見て、総一郎は無意識に鉄の義手をさすった。冷たい金属の義手は、だが戦う場合には頼もしい味方になるだろう。だが、果たして鍛錬だけで実戦を経験していない自分が、獣相手に戦えるだろうか。

 そう考えた時、不意に体が震えた。同時に体の奥底で誰かが逃げろと彼に声をかける。逃げろ、今獣は動けない男に向かおうとしている。今なら十分に逃げられるぞ、そう甘い言葉をささやきながら、どす黒い何かが自分の中で鎌首をもたげるのを、彼は感じていた。だが、


『逃げるのか?』


 それと同時に、彼は力強い誰かの問いかけも感じていた。それは決して何かを強要することはなく、ただ自分に問いかけるだけだ。



「・・・・・・いや、逃げないよ。僕は四年前の、何もできなかった僕じゃない。血のにじむような鍛錬を行い、尊敬できる師に出会うこともできた。もう、僕は絶対に逃げないっ!!」



『そうか、ならば唱えるが良い、我が真言を』



「ああ、行くぞ!!」




 自分の内から聞こえてくる、頼もしい荒神の声に頷くと、総一郎は獣に向かって駆けだした。口の中で、とある一つの真言を唱えながら。








ーオン  バキリュ  ソワカー






「く、来るな、来るなぁっ!!」


 自分に向かってくる獣から逃れようと、冷たい雪の上を桑島は必至に這いずった。立ち上がろうとしているのだが、もがけばもがくほど手足が滑り、思うように立ち上がれない。そうしているうちに、片足を失った獣は、気が付くと彼のすぐ近くまでやってきていた。



「あ・・・・・・ああっ」



 近衛大隊と並ぶ精鋭である第一部隊といっても、桑島は出雲防衛のためほとんど一人で戦闘を行ったことはない。そのため絶体絶命の危機というのは今まで経験したことがなかった。だが、それは今自分の目の前に、黒い獣の姿となって現れている。もはや交代もせず、あえぐだけの桑島を見て、獣は勝ち誇ったかのようにその口を開いた。そして、鋭い牙が無数に生えるその口で、桑島にかぶりつこうとした、その瞬間、




 獣は、桑島の背後に、右腕を大きく振りかぶる鬼の姿を見た。鬼は、獣めがけ、鈍く光るその巨大な腕を容赦なく振り下ろす。頭部を狙ったその一撃は頭を狙ったが、それは獣が寸前でひねったため、掠めるだけにとどまった。剛腕の向かう先には刃を生やした胴体がある。どのような攻撃も、この強靭な刃が防ぐだろう。どこか楽観視していた獣の希望は、だが鉄の拳が刃を砕き、黒い胴体に深々とめり込んだ時、粉々に砕け散った。





「そう、ちゃん?」
「大丈夫か、雷牙。あとは僕に任せてくれ」


 今後、幾度となく言うことになる、聞く人を安心させる言葉を呆然としている親友に発すると、総一郎は鉄の義手に獣の胴体をめり込ませたまま、相手を地面に叩きつけた。
「よし、いける!!」


 初めての実戦で、自分の攻撃が相手に通じたのを確認して、総一郎は温厚な彼にしては珍しくにっと獰猛な笑みを浮かべて見せた。戦闘により高揚しているためと、日々の鍛錬が無駄ではなかったことが確認できたためである。


「雷牙、こいつは僕が抑えておく、その間にその人を頼む!!」
「あ、ああ。わかった!!」


 黒い獣は、獲物と決めた男が自分から遠ざかるのを見てバタバタと暴れだした。だが、獣を抑え込んでいる腕はピクリとも動かない。鉄製の義手はそれだけで凶器なりうるが、いまはそこに蔵王権現の加護までかかっている。振りほどくのは容易なことではないだろう。それがわかったのか、もがいている獣の動きが、ふと止まった。

「よし、これでもう大丈・・・・・・うおっ!?」



 獣が動きを止めたのを見て、少年は安堵の息を吐いた。だがそれはどうやらまだ早かったらしい。彼の拳の下でパンッという甲高い音がした次の瞬間、彼の身体は前につんのめり、義手は雪道に突っ込み、地面に拳の跡を残した。それでもすぐに義手を地面から放し、反撃に備えて身構える。

「・・・・・・は?」


 だが、相手の姿を見た総一郎は、ポカンとした声を出した。なぜなら彼の見つめる先には、先ほどの黒い獣の姿はなく、はじけ飛んだ黒い液体の中に、一匹の小さな子狐がいるだけだったからだ。

「まさか、この子狐がさっきの獣の正体なのか?」


 黒い獣より、二回り以上小さなその身体には、先ほど雷牙が投げつけた符による傷も、総一郎が殴りつけた時の傷もなかった。寒さと恐怖でガタガタと震える子狐に向かって、少年が手を伸ばした時、






 ビクンッ!!


 と、いう音が聞こえるほど大きく震えた子狐の身体から、何か黒い液体のようなものがにじみ出てきた。それは子狐の小さな体を瞬く間に覆いつくしていく。

「くそっ!!」


 総一郎は敵を倒すというより、むしろキューキューと小さく鳴く子狐を助けようと手を伸ばす。だが目の前にヒュッと飛び出してきた鈍い色を放つ刃に、慌てて義手を前に出した。



 ギイイイッ




 鉄と刃がこすれる嫌な音がする。その音が鳴りやまないうちに、総一郎は再び子狐に手を伸ばしかけたが、顔に苦渋の色を浮かべてその手を引っ込めた。なぜならその時、すでに黒い液体は子狐の身体を覆いつくしていたからである、



 そこには、完全に復活した黒い獣の姿があった。




 「こ・・・・・・こいつ、不死身かっ!?」


 完全に復活した黒い獣を見て、雷牙の肩に捕まりながら、ようやく立ち上がった桑島が、愕然とした声を出した。そんな彼を、復活した獣は青い稲妻のような瞳に憎悪の感情を込めて睨みつけたが、総一郎がいる限り勝ち目はないと思ったのだろう。グルルッと低く唸ると、獣はくるりと向きを変えて、夜の闇の中に駆けていこうとした。

 逃げようとする獣を、だが総一郎は追わなかった。相手は確かに人を傷つけてはいるが、幸い相手は死んでいない。殺生を嫌う総一郎は、獣が逃げて、もう人前に出ないのであれば逃がしてやろう、そう思っていた。だが、




「くそっ、逃がすか!!」
「え? ちょ、ちょっと待ってください!!」


 だが、倒すべき相手に追い回されるという屈辱を味わった桑島のほうは違った。いや、獣が再び人を襲う可能性を考えると、彼のほうが正しいのかもしれない。懐から人型の紙束を大量に取り出し、逃げようとしている獣に向かって放り投げる。それは先ほど同様、獣に張り付こうとしたが、その動きをすでに読んでいたのだろう、身体から生やした刃を鞭のように伸ばし、張り付こうとする式紙を切り裂いていく。

「くそっ、追加だ・・・・・・喰らえっ!!」

 業を煮やした桑島が、上着の裏側に縫い付けていた紙を引きちぎる。それは本来致命傷となる傷を負ったときに持ち主の身代わりになるものであったが、一応攻撃用としても使えるものであった。そして、それを引きちぎったということは、桑島が無防備になるということであった。


 防御用の符を破りとって構えたのとほぼ同時に、獣の身体が爆発した際周囲に飛び散った黒い液体の一つから、ズズッ、と何か白く光るものが鎌首をもたげた。鋭い切っ先をもつそれは、間違いなく獣の身体から出ていた刃の一本だった。


「・・・・・・あ!? 桑島さっ」


 シュッ


「ガッ!?」





 視界の隅で何か光るものを見た雷牙が桑島に声をかけようとしたのと、符を投げようとした桑島の首に深々と伸びた刃が突き刺さったこと、それは、総一郎が刃に気づいて義手で殴り飛ばすより半瞬ほど早かった。



「くそっ!!」



 首を貫かれ、あおむけに倒れる桑島を視界の隅に入れながら、総一郎は唇を吊り上げ、まるで笑っているかのような表情をしている獣に向かって駆けだした。怒りと悲しみ、そして少しの憎悪を込めた拳を獣に振り下ろすが、復活するときに疲労などが消し飛んだのか、それとも複数の感情で内面がぐちゃぐちゃになったせいで本来の力が出なかったのか、それともその両方なのか、先ほどの一撃とはスピードもパワーもかなり劣っているその攻撃をするりと避けると、獣は近くの家の屋根に軽々と飛び移り、そのまま冬の夜の闇へと消えていった。




「雷牙、そっちの人の様子はどうだ!?」
「駄目だ、死んでる」


 首を刃で貫かれ、ほとんど即死した桑島を抱え起こし、その恐怖で見開いた瞳をそっと閉じてから、雷牙は強く唇をかんだ。



「そうか・・・・・・分かった、なら雷牙は助けを呼んでくれ」
「分かった。それで総ちゃんはどうするんだ・・・・・・おい、まさか!?」
「僕は獣を追いかける。人を殺した獣は、もう殺すしかない」


 その時、すぐそばの屋根から雪の塊が落ちて、総一郎の肩に僅かに当たった。肩についた白い雪を払い落とすと、獣の逃げた方向へ一歩足を踏み出し、






『否、その必要はない』


「は?」




 いきなり周囲が闇に飲まれたかのように暗くなり、総一郎はそのままの状態で一歩も動けなくなった。





『もう一度言う、貴様があの獣を追う必要はない』
「な・・・・・・何なんですか貴方は、なぜそんなことを」


 息ができないほどねっとりと濃い闇の中、聞こえてきた男の声に総一郎は息も絶え絶えに聞いた。


『我は影、名を言うには及ばず。そして再び言う、貴様があの獣を追う必要はない』

「だから、何でそんなことを言うんですか!? 人が死んだんですよ!!」


『・・・・・・』


 少々声を荒げた総一郎の問いに返ってきたのは沈黙だった。顔をゆがめ、背中に乗っている闇の塊ごと立ち上がろうとした時、




 グンッ



「うわっ!?」


 彼を包みこむ闇の重圧が、一気に増した。


「く・・・・・・ぐぅっ!?」


 自分を押しつぶそうとする闇の重みに、がちがちとなる奥歯をかみしめて必死に耐える。立ち上がることのできないその重さに震えながら、総一郎は口を開いた。



「ぐ・・・・・・オン  バキリュ  ソワカ!!」



 真言を唱えた瞬間、ドクンと心臓が脈打った。全身に再び力がみなぎるのを感じる。だが、それと同時に少年の身体を激痛が襲った。いくら鍛えているといっても、発育途中の彼の身体は、まだ蔵王権現の力を日に何度も使うことはできなかった。一度ならば問題はない。だが多用すると、少年の身体に激痛が走り、心臓に大きな負担がかかるのである。


「あが、くぅっ!?」



全身を苛む激痛に耐えながら、総一郎はふらふらと両手を闇の底につけると、力を込めて立ち上がった。前を睨みつけながら、一歩、また一歩と前に進む。




『・・・・・・』


 それから、どれほどの時が流れただろうか、永遠にも一瞬にも感じる時間が過ぎた後、闇の中で誰かがため息を吐く音が聞こえた。





『・・・・・あの獣は、罪深き者の手でこの地に放たれた。我の役目は、あの獣が主のもとへと逃げるのを見届け、罪深き者の居場所を突き止めることにある。さらばだ少年、いずれ、また会おう』



 先ほどとは違い、どこか親しげな声とともに、総一郎を押しつぶそうとしていた闇が消えていく。呆然としている総一郎の肩を、誰かがいきなり強く掴んだ。


「うわっ!?」
「な、何驚いてるんだよ、総ちゃん」
「あ・・・・・・雷牙、か? 僕、いったいどうなった?」



 彼を包んでいた闇は完全に晴れ、心配そうな顔をしている雷牙が正面から自分をのぞき込んでいた。彼の話によると、自分はいきなりしゃがみ込み、ぶつぶつと何かを叫んでいたらしい。


「それで? いったい何があったんだ?」
「分からない、獣を追おうとしたら、いきなり周囲が真っ暗になって、追うなっていう知らない男の声が聞こえた。それからもがきながら立ち上がったんだけど」
「闇の中に男の声、ね。まあ心当たりはあるっちゃある・・・・・・裏部隊だ」
「裏部隊? なんだよそれ」

 眉を顰める総一郎に向かって、雷牙は言葉を続けた。裏部隊、正式名称を零部隊という彼らは当主直属の護衛部隊であり、創設者は前当主である黒塚なぎ。彼に見いだされた特殊な能力を持つもので構成されており、なぎに対する忠誠心が厚い彼らは、当主というよりも、なぎの私設部隊といったほうが正しい。

「爺さんが失脚して、解散したと思ったけど、まだ活動していたんだな。確か連中の中に、闇を自在に操り相手を拘束する能力を持った奴がいたはずだ。名は確か・・・・・・蝙蝠」

「蝙蝠・・・・・・か」

「くそ、これで戦闘痛に別の呪術師が来ないわけが分かった。要するに、獣を拘束したり倒したりしたのでは駄目だったんだ。逃がして本命である主人の居場所を突き止める、それが真の目的だったんだ」

 
 雷牙の愚痴を聞いている総一郎の耳に、微かに何かが羽ばたく音がした。だが、少年が顔を上げてみたのは、静寂と闇に包まれた夜空だけだった。












 その洞窟は、出雲から東に三十キロほど離れた山奥にある廃村の、さらに山奥にあった。明治時代には隠し炭鉱として村の貴重な財源の一つになっていたこの場所は、だが炭の需要がなくなり、村から完全に人がいなくなると、誰にも知られぬままひっそりと朽ち果てる運命にあった。


 だがクリスマスまであと一日となったこの日、洞窟の前にある広場は大きな喧騒の中にあった。
「各隊、準備は完了したか?」
「はい、戦闘部隊、結界展開部隊、救護部隊、全て準備が整っています」

 広場のほぼ中央、軍の払い下げである巨大な緑色の指揮官用テントの中で、鈴原は部下の報告を聞いていた。

「そうか、もう一度確認するが、黒い獣がここに逃げ込んだというのは本当なのだな?」
「はい、それは間違いありません。獣を追跡した零部隊からの報告ですからね。彼らの情報がいつも正しいのは、体調もご存じのはずです。また、先ほど結界班に中を透視してもらったところ、最奥に異常な空間の歪みがあることが確認されました。もし蛭山がいなくとも、何かあるのは間違いありません」
「そうか・・・・・・よし、突入前にもう一度言っておく。任務は蛭山の捕縛、それが困難な場合の殺害だ。今回の任務は研究所を捜索したときに失った仲間の敵討ちも兼ねている。だがこれだけは厳命しておく、決して先走るな。砂浜の砂を一粒一粒取り除くように最大限用心しろ、決して一人では行動せず、常に四人一組で動き、何か異常を発見したらすぐさま連絡を入れろ。
よし、まず結界展開部隊、前へ!!」

 鈴原の号令で、黒いフードをすっぽりとかぶった、結界の展開、および維持を行う呪術師、およそ五十名が一斉に結界展開のための詔を紡ぎだした。彼らは一人一人が貴族クラスのエイジャ、もしくは大型の鬼を封じることができる高天原の中でも生粋の結界師たちだった。彼らが結界を展開し、不慮の事態に備えている間、精鋭の戦闘部隊百名が、鈴原の指揮のもとで洞窟内部に突入する。


「どれだけ時間がかかってもいい、とにかく生存を第一に考えろ、副司令の権限で、本来出雲守護を担当する第二、第三部隊の精鋭たちも投入するのだ、犠牲を出すわけにはいかない」
「隊長、戦闘部隊の突入準備、完了いたしました」

 鈴原が隊長クラスの部下たちに力説していると、彼の副官である杉内が入ってきた。背中に巨大な斬馬刀を背負った彼を見て、鈴原はゆっくりと頷いた。

「よし、では一時間後に作戦を開始する、各自装備の最終点検に移れ」
「「「「「はっ!!」」」」」


 軍仕込みの見事な敬礼をした部下たちが出ていくと、彼らを見送ろうと鈴原も指揮官用の天幕から外にでた。その時、ふと彼は自分の頬に冷たい何かが落ちるのを感じた。


「・・・・・・雪か、この様子だと、今夜は吹雪きそうだな」


 頭上を舞い落ちてくる白い粉雪が、徐々に増えていくのを少しの間見上げてから、最後に息を小さく吐き、鈴原は装備の確認のため、天幕へと入っていった。




 このとき彼は気づかなかった。自分たちが、すでに蛭山の罠の中にいることに。














  



 鈴原が部隊を率いて洞窟に突入した時、総一郎は部屋の窓から降り続ける雪を眺めていた。部屋の中はスチーム式のストーブがチッ、チッとなる以外、静寂に満ちている。今日は祝日ということもあり、彼は一人、朝早くから蝋燭に火をともしていつもの瞑想を行っていたのだが、どんなに呼びかけても、憎悪の神も、そして荒神も応えてはくれなかった。それはまるで、綾乃のことを考えすぎ、出口のない迷路に迷いこんでしまった自分の弱い心を嘲笑するかのようであった。それでも、一度鍛錬に出かけた後、疲れ切った身体を休めるため、夕食を終えてから三時間ほど瞑想を続けていたのだが、寒さが増したため、いったん休憩をとることにした。






“大丈夫だって”


 蛭山の居場所がわかり、彼を捕縛、あるいは倒すために大部隊とともに親友である雷牙が出発したのは、彼らが黒い獣と遭遇したあの夜から四日が経った、今日の朝のことだった。大丈夫だって、もう一度言ってから、雷牙は親友を安心させるため、彼の肩を軽く叩いた。彼の父も、彼が率いる部隊も精鋭中の精鋭で、蛭山を取り逃がすことなど万に一つもあり得ない。きっと綾乃を助けてくれるだろう、それに、自分も後詰めとして作戦に参加するつもりだ。最後にそういった雷牙は、本当は自分が行きたいであろう親友に笑いかけると、自分の父親が率いる部隊に混ざって出雲を発った。

 とにかく、彼の言う通り、現在高天原の精鋭部隊である第一部隊と、本来出雲守護を任務とする第二・第三部隊の精鋭が出雲を出発した今、出雲の守護にあたっているのは第二・第三舞台の精鋭とは呼べない、いわゆる二・三流の実力者数十人であり、総一郎は都市の防御は大丈夫なのかと不安になったが、その不安はその日のうちに、的中することになる。









「う・・・・・・ひっくっ」


 総一郎が自室の窓から雪の降り続ける外を眺めていた時、出雲市内のとある道を、一人の男が泥酔した状態でフラフラと歩いていた。高天原第三部隊に所属する、この森谷という名の呪術師は、待機命令が出されているにもかかわらず、先ほど飲みすぎで居酒屋を追い出された所だった。このことからもわかる通り、彼はもともと素行があまり良くない。しかも実力はよくて下級といったところであり、本来なら僻地に飛ばされるところを、家が裕福であったことと、親が神楽の派閥に属することで、比較的安全と言われる出雲守護の任を命じられたのだ。だが、第三部隊に所属したといっても、昼間から酒を飲み、自分は有能であることを誰もわかっていないと周囲にぐだをまく彼は、周りの取り巻き以外の人間からはまるで汚物にたかる蠅のように見られていた。今回、蛭山の討伐に行くための精鋭部隊に選ばれなかったのも彼の癪に障ったらしく、待機命令が出ているのにもかかわらず宿舎を抜け出して、先ほどまで居酒屋で酒を呷っていたのだった。


「くそ、だぁれも、俺のことなんぞわかってぬぇえんだからよぅ、ひっくっ・・・・・・んがっ!? な、なんだぁ?」


 泥酔した状態でぶつくさと文句を言いながら歩いていた森谷は、いきなり足に来た衝撃と激痛に思わずのけぞった。

「ぐ・・・・・・痛ぇ、何だこりゃ? 黒いタケノコか?」


 まだ痛む右足をさすりながら、“いきなり”地中から突き出た黒い二等辺三角形の物体を、睨みつけた森谷は、泥酔しているためか、それとももともと判断能力が低いのか、その黒い三角形の物体を無事な左足のほうでコンコンっと軽く蹴飛ばしてみた。



 そして、それが彼の最後の行動になった。




「ぐがっ!?」



 いきなり腹部に走った衝撃と激痛に、森谷は口から血と汚物と泡を吐き出した。と、その身体が急速にしぼんでいく。やがて彼の身体がカサカサの干物みたいになった時、彼を貫いた黒い三角形の物体―巨大な触手―は、雪が降り積もる中、ゆらゆらと不気味に揺れ動いていた。




『気を付けろ』
「っ!?」


 総一郎が、頭の中に突然聞こえてきた蔵王権現の声に飛び起きたのは、入浴を済ませ、彼にしては珍しくうたた寝をしている時だった。

「気を付けろって、何にだよ」

 総一郎はそう聞いたが、彼の問いかけに荒神はそれ以上答えず、代わりに聞こえてきたのは廊下でバタバタと人が走り回る音だった。そのただならぬ気配に自室を出て、さらにその先にある朱華の執務室を出て廊下に顔を出すと、朱雀門の職員たちが忙しく走り回っているのが見えた。

「・・・・・・あ、総一郎君、よかった。まだ起きていてくれたか」
「松浦さん? 何なんですか、この騒ぎは」
「分からない、つい二十分ほど前、出雲に住む全ての人々に対して避難命令が出された。おかげでてんやわんやの騒ぎだよ。混乱のせいか、黒い触手のようなものを見たっていう人が数十人も出ているんだ「松浦さん、早くこっちに来てください!!」あ、すいません、今行きます。ごめん総一郎君、今本当に忙しいんだ。君も早く避難してくれ」




「黒い・・・・・・触手?」




 松浦が走り去ったのを見て、総一郎は呆然とつぶやいた。黒い触手をどこで見たのか、そして見た人はどうなったのかその疑問が頭をよぎる。軽く頭を振ると、少年はあわただしさを増した廊下を歩きだした。
















「被害状況及び、避難状況知らせ!!」

 総一郎が呆然としながら歩きだしたのとほぼ同時刻、出雲大社のすぐ隣にある巨大なビルの最上階にある高天原総司令部で、高天原総司令を務める黒沼玄は部下に状況報告を命じていた。


「は、はい。市街北部、および市街東部の避難は七割が終了しています。あと十数分で、全住民のシェルターへの避難が完了します。ですが南部は五割弱、西部はまだ三割が避難しただけであり、全員が避難するまで、このままでは一時間以上の時間がかかります」
「遅い、後三十分以内に済ませろ、後、副司令とは連絡はまだつかないのか?」
「駄目です、ありとあらゆる通信手段を用いて呼びかけていますが、応答は全くありません」
「そうか・・・・・・くそっ!!」
「・・・・・・どうやら、蛭山という男に一杯食わされたようですな」


 激高した玄がデスクに握りこぶしをドンッと叩きつけると、彼の右後ろに直立不動の状態で立っていた男が不意につぶやいた。丸山邦彦、副司令と同格の、主席参謀の地位についている男である。鈴原とは違い、部下を率いて直接戦闘を行うのではなく、作戦立案が彼の主な業務であり、鈴原とは互いに「頭でっかち」「脳なし」とののしりあう程に仲が悪かった。
「まったく、これだから単細胞は困りますな。部下を殺された“ぐらい”で冷静さを失い、自身の配下だけでなく、本来出雲守護の任についている第二、第三部隊の精鋭までも連れて行ったことで、今回の騒動を引き起こしたのですから」
「・・・・・・随分ととげのある言い方だな」
「ただ事実を言っているだけです。それでどうなさいます? 現在出雲にいる数十人の二流の呪術師では、蛭山の攻撃を防ぎきることはできません。かなり危険な状況と判断しますが」
「危険ではあるが、最悪ではない。このような出来事、数百年の間に幾度となく繰り返されてきた。すでに皇都、および熊本とは連絡がついている。朱華と青琉は準備ができ次第急行するそうだ。万一間に合わなかった場合は私自らが出るつもりだ・・・・・・それで、貴様はいったいいつまで我らを眺めているつもりだ?」
「は?」



『おやぁ? 気づかれていましたかぁ』
「なっ!?」


突如聞こえてきた、語尾が間延びした声に丸山が驚愕の声を発すると、玄のすぐ目の前の空間に、長髪でふちの厚い眼鏡をかけた、一人の男の姿が浮かび上がった。



「・・・・・・貴様が蛭山か」
『ええ、ええ。その通りでございます。あなた様のような方に名を覚えられているとは、恐悦至極に存じますねぇ』

 気味の悪い笑みを浮かべ、こちらを嘲笑している蛭山を見て、だが玄は表情を全く変えることはなかった。


「・・・・・・貴様の話に付き合うつもりはない。都市にばらまいた“汚物”を今すぐ撤去し、速やかに縛につけ」
『おやおやぁ? そんなこと言ってよろしいのですかぁ? こちらには人質がいるのですよぉ?』
「・・・・・・」

 心臓の弱いものならば即死しかねないほどの眼力で睨まれ、蛭山はむしろうれしそうに唇の端を吊り上げ、右手を上に伸ばした。と、その先に薄いピンク色の靄が立ち込める。靄の中では、連絡の取れなかった鈴原率いる部隊が、ぬめぬめした吐き気を及ぼすほど冒涜的な世界の中で、右往左往しているのが見えた。


「それが人質というわけか」
『えぇえぇ、私の創造した異世界、すなわち狂気山脈にとらわれた二百余名の哀れな子羊たち。むろん、私としてもむやみに死者を出すつもりは毛頭ございません。その証拠に、現在負傷者はおりますが、貴方様の部下は誰一人として死んではいませんとも』
「・・・・・・それで? 彼らを人質にとって、貴様はいったい何を要求するつもりだ」
『おやぁ? いきなり本題に入りますかぁ。ま、いいでしょう。私の目的はただ一つ、貴女様がいらっしゃる都市での“儀式”が終了するまでの間、貴方様と“朱雀”、そして“青龍”に待機をお願いしたいのです。どうです? 簡単なことでしょ「断る」・・・・・・おやおや、即決か』

 言葉を遮られた蛭山は、おそらくそれが彼の本性なのだろう、低く唸るような口調でつぶやいた。


「当然だろう、私の役目は出雲を守ることでも、何より日本を守ることでもない。黒塚の血を引くものを守ること、ただそれだけであるからな。この地を守るのは“ついで”にすぎん。それ以前に、ここに居る数多の人々と、みすみす敵の手に渡った二百余名の命、どちらを優先させるかなど考えるまでもない」

『く、くくくっ、見事に言い切ったものですねぇ。けど貴方様がそう言ったとしても、あなたの周りにいる人々はどうですかぁ?』

「・・・・・・」


 余裕を取り戻したのか、相変わらず人を不愉快にさせるような笑みを浮かべ、蛭山は周囲を見渡した。総司令部には、黒沼のほかにも十数人の職員がおり、むろん彼らは皆人間だ。そして、先ほど彼が写した“人質”の中に家族でもいたのだろう、約半数の職員は青ざめていた。


『くくっ、自分より“弱い”仲間を持つというのは大変ですねぇ、自分一人の時と違って、選択が他人に左右される。さあどうします? 彼らの家族を見殺しにしますか? それとも私の言葉に従いますか? さあさあさあさあどうしますぅ!?』






「嘗めるなよ、“ヨグ=ソトース”の触覚風情が」





「・・・・・・あ?」





 両手を高々と挙げ、興奮の極みにあった蛭山の表情が、玄が静かにつぶやいた言葉に、まるで医師にひびが入るかのように、ビシッと固まった。

「・・・・・・お前、俺の正体に」
「気づいていないと思ったか? 穢れた副王の化身・・・・・・否、貴様はそれですらないな。赤子の時に“奴ら”の狂気に中てられ、自分をヨグ=ソトースの化身の一つである“ウルム・アト=タウィル”と思い込んでいる哀れな狂人、それが貴様だ」
「て、テメエ、この俺が、この部屋にいるひ弱な奴らと同じだって言うつもりか!!」


「その通りだ。貴様がもし本物のヨグ=ソトースの化身たる“ウルム・アト=タウィル”というのであれば、わざわざこのような小細工をする必要はないからな。奴がその気になれば、指を一度ぱちりと鳴らすだけで、少なくともこの日本に住む全ての生物を生贄とし、彼の副王を呼ぶだろうからな。ああ、それと一つ忠告してやろう、貴様が“ウルム・アト=タウィル”を演じるならば、少なくとも黙っておくことだ。奴とじかに戦った私だから分かることだが、奴は話すのが嫌いだったからな。だが・・・・・・まあ良い、貴様の思惑に乗ってやる。私はここから一歩も動かぬし、こちらに向かおうとしている二体にも待機を命じよう。だがいいか小童(こわっぱ)、貴様がこの年で、どんな冒涜的な儀式を行い、その結果何を生み出そうとしているかは・・・・・・まあだいたい想像がつくが、それでも貴様が人質にしている二百余名の命、そしてこの年に住む全ての生物の命、これから一つたりとも奪うことは許さぬ。もし、猫の子一匹その手にかけてみろ、我が全力をもって貴様を滅ぼしてやる!!」



『・・・・・・』


 彼の怒声に怖気づいたのか、それとも本物のヨグ=ソトースの化身を真似ようとしたのか、ただの“狂人”である蛭山は、殺意を込めすぎて真っ赤に染まった瞳を黒沼に向けながら、次の瞬間、出てきた時と同様に一瞬で掻き消えた。












「うぁあああああああああああっ!!」






 何もない、ただ闇が広がるだけの空間で、蛭山は絶叫を上げながら顔を掻き毟った。痛みとともにひっかき傷が顔全体に広がっていく。やがて、顔が彼の血で真っ赤に染まった時、蛭山は掻き毟るのをやめ、両手で自分の肩を抱きかかえると、ぶるぶると震えだした。彼が震えているのは恐怖からだろうか、怒りからだろうか、屈辱からだろうか、否、そのどれでもない。彼は心底おかしいといった風に、満面の笑みを浮かべて震えていたのだ。


「く、くくくくく、いいですよぉ? 僕は何もしませんとも、ええ、僕はね。けどざぁんねん、都市にばらまいた触手も、狂気山脈に救う獣たちも、すでに僕の手を離れて勝手に行動しているんですからねぇ。それに触手が住民を襲うのはあくまでもおまけです。本命はすでに目的地にたどり着いている。あとは母体から生まれるのを待つだけです。くく、くくくくく、くひゃはははははっ!!」






 暗闇の中、狂人はその名の通り、狂ったように笑い続けた。







「・・・・・・と、言っているだろうな、あの男は」
「まあ単純な性格ですからね。狂人というのは、狂っているからこそ逆にわかりやすい。となれば、早急に触手を撃破しなければなりませんが」
「そうだな。どちらにせよ、先ほどの会話でできた時間で、ある程度の避難は終わったはずだ。避難状況は進んでいるか・・・・・・おい、どうした?」


「・・・・・・え? は、はい。すいません」
「す、すいません、この子、第一部隊に恋人がいて」

 玄に声をかけられた女性の通信士は、顔を青ざめて震えていた。慌てて隣にいた同僚が答える。


「そうか。彼らを助けに行くためにも、まずは都市の混乱を収めなければならない。そしてそのためには、まずは皆を避難させなければいけないのだ。分かるな?」

「は、はい・・・・・・すいません、もう大丈夫です。都市北部、および東部の住民はすでに隔離シェルターへの避難が完了しています。ほか、南部は八割強、西部も六割が避難を完了しています」
「分かった。では北部および東部のシェルターを隔離空間へと移動、そのごいつも通り人々を事が済むまで眠らせておけ」
「はい、はいっ!!」
「・・・・・・避難は順調だ。次の問題は、出現した触手の撤去だが、おそらく都市に残っている呪術師たちでは千本以上ある触手を倒すことは無理だろう。さて、どうするか「司令、ちょっとよろしいでしょうか」む? すまん、なんだ?」

 涙ぐみ、顔を青ざめながら、それでも必死に業務をこなす部下を好ましく思いながら、腕を組んでこれからの事を考えていた玄の耳に、ふと部下の声が聞こえた。


「い、いえ。それが、先ほどから都市南部に出現した黒い触手の数が減ってきているんです。見てください、最初千本以上あった触手の数が、今では九百本以下に減少しています」
「・・・・・・何?」


 その報告に、彼は目の前にある都市を映し出している巨大なモニターの、右隅に映し出されている敵性存在の数値を見た。確かにはじめ千本以上あった触手の数が、現在は九百に届いていない。しかもその数は、徐々に減少しつつある。


「これは・・・・・・そうか、確か南部には彼がいたな。今は隠居しているが、かつて無双の名をほしいままにしていた男が・・・・・・通信士!!」
「は、はいっ!!」
「黒塚義人に連絡を入れろ、彼が出たら、私が直接話す」
「了解、黒塚義人に連絡を入れます」


 どうやら、何とかなりそうだ。その安堵により、珍しく緊急事態だというのに気を緩めた彼は、一つのことを失念していた。この年にもう一人、触手を倒す音のできる人間の存在を。




 モニターの隅、触手の数を知らせる数字が、また一つ、その数を減らした。











「はぁああああああっ!!」

 
 蔵王権現の加護により淡く光る鈍色の拳を、総一郎は叫び声とともに触手の黒い表皮に叩き込んだ。触手は一瞬ブルリと震えただけで、何事もなかったかのようにそこに存在していたが、固い表皮にビシビシと亀裂が走り、次の瞬間、パァンっと軽い音とともにはじけ飛んだ。だが触手の最後を見ることなく、総一郎は道をふさいでいる次の触手に、今度は力いっぱい蹴りつけた。

「さあ、今のうちに移動してください、早く!!」
「は、はいっ!!」


  黒い触手が消滅したことで道ができたことを確認すると、総一郎は後方に声をかけた。同時に車のエンジンらしいものが暗い道の向こう側から聞こえ、一台のバスが少年のわきを通り過ぎていく。そのバスに向かって、道の両端から触手がその魔の手を伸ばすが、それは総一郎によって弾き飛ばされた。




 少年が道で立ち往生している近くにある幼稚園の送迎バスを見かけたのは、朱雀門を出て、松浦に教えられたシェルターへと向かう途中の事であった。明日がクリスマス・イブということもあり、一日早いクリスマス・パーティーをしていたのだろう、幼稚園にとどまっていたのか、彼らは避難指示が出ていたのを知らず、分かった時にはすでに道は黒い触手で埋め尽くされていた。そしてバスに気づいた触手に襲われる寸前、総一郎が駆けつけたというわけだが、黒い触手は、総一郎がどんなに義手で殴りつけても皹一つ入れることはできなかった。破壊できるようになったのは、蔵王権現の加護を限界まで引き出し、渾身の力を込めて攻撃した時だけである。



「はぁ、はぁ、はぁっ!!」



  

 それから、どれぐらい時間が経過しただろうか、バスがシェルターに逃げ込む時間を稼ぐため、触手の注意を自分に向けさせていた総一郎の身体は、慣れない実戦と、そして体に負荷がかかる加護を多用したせいで限界に近付いていた。そんな彼の状態を知ってか知らずか、ひときわ巨大な触手がその巨体で押しつぶそうという風に倒れこんでくる。それを避けようと左に飛んだ彼の足が、細い触手により払われ、少年は地面に倒れこんだ。それを見て、周囲の触手が、一斉にその先端を伸ばしてくる。






「あ・・・・・・」




 自分に向かってくる十数本の触手の下、総一郎は諦めにも、戦いが終わることへの安堵にも似た息を吐き、だが目を閉じることなく、緩慢な動きで自分に突き刺さろうとする触手の先端を見続けていた。




 だが、彼の最後の時は、来ることはなかった。





 触手が彼の身体を貫く寸前、少年は一陣の風が、自分の頬をなぜて通り過ぎるのを感じた。そしてその時にはもう、彼を取り囲んでいた十数本の触手は、そのすべてがばらばらになり、風に巻き上げられ、上空へと消えて行った。

 


「ふう、久々の実戦だけど、腕は衰えていないみたいだ。さて、大丈夫か? 総一郎」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・えっと、本当に大丈夫? 総一郎」
「・・・・・・あ、はい、はい。師匠こそ、どうしてここに? それにその武器は」


 右手に持った抜身の太刀をそのままに、黒塚義人は呆然とこちらを見ている愛弟子に声をかけた。彼は、総一郎は声をかけられてもしばらく呆然としていたが、義人が肩を揺さぶると、ようやくその目に焦点があったのか、師匠にそう聞いた。

「なぜって、黒い触手を倒している途中で、お前を見かけたからな。これでも元高天原の呪術師だからね。さすがに出雲が危機に瀕しているのに、黙っているわけにはいかないさ。そして、これは僕の家に代々伝わる太刀、血鳴刀“三日月宗近”という」

 どこか三日月の光にも似た白い光を放つ太刀を総一郎にちらりと見せると、義人はそれを腰に差した鞘へと納めた。と、不意に彼の懐が小さく震えた。ちょっとごめん、そうつぶやくと、義人は懐から携帯を取り出し、後ろを向いた。


「・・・・・・助かった、のか?」


 総一郎は、義人が後ろを向いて初めて、自分の足ががくがくと震えていることに気づいた。当然だろう、毎日の鍛錬は厳しいといっても、死ぬことは決してないし、先日黒い獣と戦った時は、相手は自分以外の人間を殺そうとしており、自分の攻撃がうまくいったのは、ほとんどまぐれといっていい。だが今回はそうではない。園児たちの乗ったバスを守るためとはいえ、触手の目の前にその身をさらし、体に負担がかかる加護を多用、力を出し切って触手を攻撃したほか、先ほどはまさに死ぬ寸前にまでなったのだ。

「あ・・・・・・う、うぅ」


 突如こみあげてきた恐怖で身体ががくがくと震える。涙で世界がにじむ。一秒でも早くここから逃げ出したいのに、両足がガタガタと震えてゆうことを聞いてくれない。


「そうです。現在朱雀門の近くにいます。ここには自分のほか、日村総一郎がいるだけです。はい、反応のあった触手はすべて破壊しました。え? 総一郎にですか? いえ、分かりました。代わります」


 携帯を耳から放すと、義人はどこか困惑したような表情で振り向き、へたり込んでいる少年に携帯を差し出した。



「君に代わってくれってさ」
「え? は・・・・・・はい、わかりました。えっと・・・・・・もしもし?」


 自分に差し出された携帯を受け取り、耳に近づけると、少年は恐る恐るそう言った。








『そこで何をしている』
「・・・・・・え?」




 最初に聞こえてきたのは、低く重々しい声でそう尋ねてくる男の声だった。

「あの・・・・・・」
『聞こえなかったのか? ならばもう一度問う。貴様はそこで一体なにをしている?』
「え、えっと、僕は皆を助けようと『迷惑だ』う・・・・・・」

 しどろもどろに答える少年に向かって、携帯の向こう側にいる男はきっぱりとそう言い放った。


『貴様は四年前、何をしたかもう忘れたのか? ただ力を得たいがために神降ろしの儀を強行し、降りた神に身体を乗っ取られてその場にいた者たちを殺害し、意識を取り戻して再び暴走したではないか』
「そ、それは・・・・・・けど、僕だってこの四年の間に、ちょっとは成長して」
『成長してどうした? 自分の力を制御して、敵と戦えるようになったとでもいうつもりか? 確かに多少は制御できるようになった。だが貴様は、高々十数本の触手を倒しただけで疲れ切っているではないか。現在出雲にいる触手の数は何匹だと思う? およそ九百だ。しかも、その数はまだ増える可能性がある。はっきりと言ってやる。我々高天原は、ただ少し力を使えるだけの“役立たずの素人”の助けなど、必要としていない』
「し、素人って」
『時間が惜しい。さっさと最寄りのシェルターに逃げ込め。そうしないのなら、義人に命じて強制的にシェルターにぶち込むぞ』

「・・・・・・やれやれ、さすがにこれは助け舟を出したほうがいいかな。ごめん総一郎君、ちょっと代わってくれるかな」

 もはや青を通り越して白くなった顔をした総一郎を見て、ため息を吐いた義人はのろのろとこちらを見る少年から携帯を奪い取った。


「代わりました、義人です。ええ、確かに彼はシェルターに避難させたほうがいいでしょう。ですが、これから西部に行かなければなりませんし、その後この騒動の元凶を探し出さなければなりません。彼に同行してもらい、逃げ遅れた人々の救助をしてもらえば、私も先頭に専念できると思うのですが・・・・・・ええ、ご安心ください。半人前以下の彼に戦闘行為などさせません。あくまで戦闘を行うのは私一人、彼にしてもらうのは、人命救助のみです。何かあった時の責任はすべて私が持ちます。はい、ありがとうございます、では失礼します・・・・・・さて、と」

 軽く頭を下げて携帯を耳から放すと、義人は再び少年のほうを向いた。だが、彼はまだ携帯で言われたことにショックを受けているのか、うつろな目をして、冷たい雪の上に座り込んでいる。軽く息を吐いて総一郎に近づくと、義人は彼の襟首をつかんで強引に立たせ、




パァンッ!!




「うぁ!?」



 いきなり、その頬を張った。しかもそれは一度だけではない。二度、三度と容赦なく頬を張るたび、甲高い音が周囲に響き渡る。その衝撃と痛みに、総一郎は目を白黒させた。

「ちょ、い、痛いです師匠、痛いですって!!」
「おや? ようやく魂が戻ってきたようだね。ではこれから僕と一緒に来てもらう。まずここ南部で逃げ遅れた人を救助した後、西部に向かってまた救助活動を行う。その後元凶を探し出し、触手の増加を防ぐためこれを撃破する。以上、何か質問はあるかな・・・・・・おや? どうしたんだい?」
「・・・・・・別に、僕なんかいなくてもいいじゃないですか」
 義人の声に応えず、総一郎は座り込んだままだったが、やがて彼にしては珍しく、不貞腐れたようにそう呟いた。どうやら、先ほどの会話で散々にこき下ろされたのが尾を引いているらしい。
「どうしてそう思う? 君には力がある。さっきはその力で園児たちを助けたじゃないか」
「・・・・・・力を限界まで振り絞って、汗だくになってですけどね。それも、僕がしなくたって、あのまま待っていたら先生が間に合っが!?」

 その時である。少年の頬を、先ほどとは比べ物にならない衝撃が襲った。顎が砕けると思うほど強烈なその一撃は、目の前にいる義人が、優し気な表情を一変させ、冷徹な表情で容赦なく殴ったものだった。

「貴様・・・・・・ふざけているのか? 私が間に合ったのは結果論にすぎない。間に合わなかった可能性も十分に考えられる。そのことを考えず、少し叱られただけでいじけるとは戦士の風上にも置けん。分かった。立ち上がらなくていい、貴様はこのまま引きずっていく」

「え? ちょ、引っ張らないでください。分かりました、行きますよ!!」

 襟首をつかまれ、本当に雪の上を引きずられていく。慌てて立ち上がると、義人はこちらを一瞥し、無言のまますたすたと歩いていく。引きずられたことで付着した雪と泥を手で払うと、師に遅れないように、少年は速足で彼を追いかけ始めた。





 それからは一方的だった。義人が進むたび周囲に生えた触手は彼が持つ刀で一瞬にして切り刻まれ、粉々になっていく。一度、完全に資格になっている場所に生えた小さな触手が彼を襲おうとしたが、絶対に気づいていないはずなのに、触手は彼にその先端を伸ばした途端に切り刻まれた。


「防風陣というんだ」

 あっけにとられている総一郎に、いつもの優しく穏やかな口調で義人は言った。

「自分の周囲に、小規模の防御用決壊を展開し、敵の奇襲に備える・・・・・・十年以上前までは、これを使用できる者だけが精鋭と呼ばれていたけど、今はエイジャや鬼に対して効果的な武器が次々に開発されているし、神降ろしにより恩恵を授かることもできるから、会得している人は少ないね。総一郎、君にも会得してもらうつもりだよ」
「え? 僕もですか?」
「そう。ただ君の場合、得意とするのは火の属性だからね。風の属性の僕では教えることができない。幸い、防炎陣を張ることができる知り合いがいるから、近いうちにそちらで修行してもらう・・・・・・っと、無駄話はここまで」

 会話をやめて立ち止まった義人の前に、今までで一番巨大な触手が立ちふさがる。それは、五十メートルはあるだろう巨体のあちこちから中程度の触手を何本も生やした姿をしていた。

「お、大きい」
「ああ、確かに大きいね。どうやら南部に残った触手たちの融合体のようだ。ということは、こいつを倒せば南部の触手たちは片付くということになる。では手始めに・・・・・・ふっ!!」

 巨大な体から生えた触手が、二人めがけて襲い掛かる。総一郎を蹴り飛ばし、自分は舌をかいくぐることでその一撃を避けると、近づいた触手にさっそく一撃を放つ。だが、今までは触手を簡単に粉砕していた刃が、なぜか表面を浅く削るだけで致命的な傷を与えていない。

「なるほど、本体の大きさばかり目が行っていたが、よく考えると残った触手で“たったあれだけ”の大きさとは考えられない。となる十数本を圧縮させて一本の触手にしたか。しかし、それが出来るならなぜ今までしなかった? できなかったのか、それとももはや触手を生やしている必要がなくなったのか、そのどちらかだろうね・・・・・・お?」

 考え込む義人の前で、本体の身体が“縦”に裂けた。巨大な体のその中には、無数の触手が詰まっており、ぬめぬめといやらしく光るそれは、まるで猛獣の歯のように鋭くとがって見えた。

「外は鉄壁、中は巨大な刃で切り刻まれるか。確かにこれでは精鋭といえど厳しいだろう。けど残念、自分でいうのもなんだけど、血鳴刀の敵じゃない・・・・・・鳴け三日月、我が血を吸って」



 不意に、総一郎の目の前で、義人は手のひらを刃に這わせ、すっと引いた。当たり前だが、手のひらに傷がつき、少なくない量の血が刃を伝って鍔のほうへと流れていく。



 その時である。ドクンッ、と、心臓が鼓動するような音とともに、義人の持つ彼の愛刀が劇的な変化を遂げた。形は変わらない、大きさも変わらない。だがまるで赤い宝石のような血を吸った刀は、先ほどの十倍以上の存在感と美しさをもってそこにあった。



「あ・・・・・・ぐ・・・・・・」
「大丈夫だ、総一郎。すぐに終わる・・・・・・ふっ!!」


 刀の発する妖艶なまでの美しさに飲み込まれまいと、必死に抵抗を続ける総一郎を好ましげに見て微笑すると、義人は胴体から巨大な牙をのぞかせてこちらに襲い掛かってくる巨大な触手を見上げ、太刀を構えると、流れるような仕草で跳躍した。逃げ場のなくなった空中にいる義人に向かって、何本もの触手が襲い掛かってくる。


「甘いっ!!」

 自分に向かってくる触手を見て一言そう叫ぶと、義人は太刀を構え、左右に無造作に振るった。先ほどはじかれた時とは違い、一振り一振りで、十数本を束ねて強度を増した触手がいとも簡単に消し飛んでいく。業を煮やしたのか、体のあちこちから紫色の体液を垂れ流しながら、触手はその巨体で押しつぶそうと、ゆっくりとこちらに倒れかかってきた。

「先生っ!?」
「無駄だ」

 慌てる総一郎とは正反対に、落ち着いた様子で一言そうつぶやくと、義人は太刀を頭上高く構え、

「消え去れ、血鳴流秘技、“紅月”!!」


 向かってくる巨体に、まっすぐに振り下ろした。










「さあ、もうすぐ西部だ。気を引き締めて」
「は、はい」


 それから数分後、二人は出雲南部を北西に向け駆けだしていた。彼らがいた南部は現在、触手の集合体である巨大な触手が義人に撃破されたため安全地帯となり、遅れて到着した呪術師たちによって救助活動が行われている。そのあまりに遅い到着に優しげな顔をわずかにゆがめながら、義人は総一郎を促して西部へと出発した。


「先生、一つ聞いていいですか?」
「うん? なんだい、もうすぐ着くから、手短にね」
「はい。では一つだけ・・・・・・それは、いったい何なのですか?」

 巨大な触手を“飛ぶ”赤い三日月のような斬撃で粉砕してのけたそれを、総一郎は少し恐怖の混じった眼で眺めた。

「ああこれ? ま、一言で言えば“妖刀”だね」
「よ、妖刀ですか?」
「そ、使い手の血を浴びて切れ味を増す。天下護憲とうたわれる五本の刀の一振りさ。ま、五本とも妖刀なわけだけど・・・・・・さ、おしゃべりはここまで。着くよ」
「は、はい・・・・・・う!?」
「・・・・・・これはひどいなぁ」

 義人の言葉に頷き、都市西部が見える道に続く角を曲がった時、目の前に広がる惨状に総一郎は絶句し、義人は柔和な笑みをやめ、一言そうつぶやいた。



 都市西部では、破壊された建物という建物のすべてに触手が巻き付き、道路はところどころ不自然に盛り上がっている。逃げ遅れた住民の物だろうか、周囲には大きな穴の開いた、多数の衣服が散乱していた。その持ち主の末路は言うまでもない。



「誰か生き残っている人はいないのでしょうか」
「どうだろう、襲撃から随分と時間が経過しているし、避難することのできなかった人々は無事とは言えないな」
「そんな・・・・・・僕が、もっと早くにこっちに来ていたら」
「いや、それはないだろう。見るといい」

 うつむく総一郎の肩をポンッと叩いてやると、義人はすぐそばの建物に巻き付いた触手を指さした。その触手は、“獲物”である二人がいるにもかかわらず、ピクリとも動いていない。よく見ると、表皮の色が灰色に変わっていた。

「表皮が黒から完全に灰色に変わっている。活動を停止してから、すでにかなりの時間が経過している証拠だ。君がどんなに急いでも、この惨状を回避するのは無理だったろう」
「そんな・・・・・・じゃあ、僕たちはいったい何のためにここまで」
 
 義人の言葉に、総一郎は肩を落としてうつむいた。自分のやってきたことがすべて無駄になった、目の前の光景は、少年にそう思わせるのには十分なものだった。


「こらこら、項垂れている暇はないよ。ここにあるのは服だけで、まだ死体を確認したわけじゃない。もしかしたら、連れ去られて閉じ込められているだけかもしれない。なら、助けに行かなければ」
「け、けど、どこに捕らわれているかわかるんですか?」
「・・・・・・まあ、ね。おそらくはあそこだろう」

 珍しく口ごもると、義人ははるか遠くにある巨大な建物を指さした。周りの触手たちを見ると、なるほど、彼が指さしたほうからこちらに向かって伸びているようにも見える。


「えっと、あの建物は何ですか? ずいぶん大きいようですが」
「今は単なる雑居ビルだけど、以前は君の住んでいた朱雀門と同じように機能していたんだ。けど十年以上前に持ち主が出奔してね、それからは半ば放置されているんだけど・・・・・・実は四方に建っているビルにはもう一つの役目があるんだ。それが地価を流れる龍脈と呼ばれる霊脈の管理だよ、ちょうど、溜まり場の上に建てられているんだ」
「溜まり場、ですか?」
「そう。おそらくその溜まり場を利用して何かをしようとしているんだろう。触手はそれが終わるまでの陽動と、養分の吸収といったところかな・・・・・・触手が活動を停止したということは、すでに陽動も養分も必要なくなったということだ。さあ行くよ総一郎、おそらくもう時間はそれほど残っていない」

 義人の言葉に、総一郎はうつむいたまま自分にただ一つ残った拳を握り締めると、顔を上げ、迷いなく頷いた。













 その女は、襲い掛かる脱力と気だるさから、自分の役目が終わったことを悟っていた。孕み女と呼ばれる彼女の役目は、文字通りその身に孕むことであり、つい先ほど、出産を終えたのである。後は“我が子”がこのビルの地下にある“産湯”で成長するのを見届ければ、自分はやっと消えることができる。

 そのことを待ち望み、安堵と開放感により溜息を吐いた時だった。孕み女は、自分の褥に何者かが入り込んでくるのを感じた。反応は二つ、そのうちの一つはどこか懐かしく、狂おしいほどに会いたいと思う相手だったが、それが愛情によるものなのか、それとも憎悪によるものなのか、出産後に襲ってくる疲労の中にいる彼女には判断がつかなかった。

 とにかく、“我が子”の成長までまだ時間が必要だ。ならばその時間を確保するのが己の役目だろう。出産後の疲労した体で立ち上がると、彼女はズルズルと這いずるように歩き出した。







「う・・・・・・ぇっ」
「・・・・・・」

 

 かつて白虎巣と呼ばれていた巨大なビルに入った瞬間、目の前の光景に総一郎は口を手で押さえてうずくまり、必死に吐き気をこらえた。少年の背中をさすってやっている義人も、柔和な顔をゆがめている。


 活動を停止した触手たちの間を通り抜け、巨大なビルの中へと入った二人を待ち受けていた物、それは赤黒く染まったロビーだった。ロビーを赤黒く染めているものの正体、それは触手に体液を吸われ、肉がこびりついた骨と皮だけになって排出された、数百に及ぶ逃げ遅れた人々の死体である。男と女、老人と若者と子供、美形と不細工、そのような区別なく、すべて同じように咀嚼され、排出された彼らの死体がロビー全体を赤黒く染めているのだ。


「こん、な・・・・・・こんなことを、平気でできるなんて!!」

 
 おそらくはまだ赤子だったであろう、そばにある一際小さな骨を、服が汚れるのもかまわず掻き抱くと、総一郎は怒りと恐怖でぶるぶると震えだした。

「嘆いている暇はないよ、総一郎。どうやらここに居る触手たちはまだ生きているようだ」


 震える少年の肩に手を置いた義人がそうつぶやくのと、彼の言葉に反応したのか、中程度の太さを持つ無数の触手が天井や壁から現れたのは、ほぼ同時だった。そして、




「ゴギャァアアアアアアアアッツ!!」



 ロビーの床を突き破り、巨大な何かが二人の前に現れた。丸い頭部をもち、無数の触手を生やしたそれは蛸に近い。だが頭部にある巨大な牙を何本も生やした咢は、蛸には決してないものであった。


「なるほど、これが本体ということか・・・・・・って、先走るな総一郎!!」
「こいつが・・・・・・こいつが皆を!!」


 助けられなかったという後悔と自分と相手に対する怒りとで自制心を失ったのだろう、義人の制止を聞かず、総一郎は一直線に怪物に向かって駆けだした。

 だが、自制心はなくしても、理性を失ったわけではない。床を滑るように襲い掛かってきた触手を飛び越え、天井から降ってくる触手を転がって前に進む。巨大なロビーと言っても、怪物の頭部が巨大であるためそこに着くまでさほど時間はかからなかった。拳を握り締め、声に出さずに口の中で真言を唱えると、おそらく脳があるであろう怪物の頭部めがけて、蔵王権現の加護により強化された一撃を渾身の力で放った。




 グニャッ




「は? うわっ!?」

 怪物の頭部に拳がめり込んだ瞬間、ぐにゃりとした手ごたえとともに少年の身体がめり込む。その無防備になった隙を見逃さず、天井に生えた触手の一本が横から彼の身体に巻き付いた。


「ぐぁっつ!?」
「総一郎!? 待っていろ、すぐに行く!!」


 ビルすら破壊する強烈な締め付けが少年を襲う。本来なら一瞬で体中の骨が砕け即死するその攻撃を、権現の加護により総一郎は耐え続けた。だが、それは同時に彼の苦痛も長引いていることを意味にしている。苦痛にあえぐ少年を助けようと、彼に向かって駆けだした義人の前に、天井と壁、そして床から、無数の触手が襲い掛かってきた。


「邪魔だっ!!」


 だが、それは彼の敵ではない。身にまとう防風陣により切り刻まれ、彼の持つ妖刀で両断され、瞬く間に彼の前から消え去る。



 だが、その時妙なことが起こった。外の触手とは違い、ここに居る触手たちは、切断された面から新たに触手が生えてきたのだ。しかもただ再生するだけではない。二又や三又になるもの、先端に口があり、そこにびっしりと小さな牙が生えているものなど、多種多様な触手たちが義人に向かって襲い掛かる。


「く、これは近づくのは容易ではないか。だが、再生能力があるならなぜ外の触手は再生しなかった? この建物の中には霊脈があるが、それで再生できるとは思えないし・・・・・・ん?」


 触手の攻撃を避けながら考え込む義人の耳に、どこからかチリンっと小さく鈴の音が聞こえてきた。





「・・・・・・ぐ・・・・・・あ」



 義人が再生する職種にてこずり近づけないでいるとき、触手に体を縛られている総一郎は半死半生の状態にあった。いや、もはや品詞といってもいいだろう。並の人間ならば即死する締め付けを、鍛えた体に蔵王権現の加護をかけて耐えているが、それは逆に苦痛がいつまでも続くことを意味していた。


 ビキリ、と少年の身体の中で、何度聞いたかわからない音がする。彼の中にある骨のどこかに皹が走ったのだ。意識が朦朧とする中、少年の耳に、ふとチリンという鈴の音が聞こえてきた。締め付けられる中、何とか首だけを動かして鈴の音のするほうを向いた総一郎は、




 どこまでもグロテスクで、なのにどこか性愛を感じさせる、それを見た。




 それの下半身は、一言でいえばナメクジに近い。足などなく、鱗もなく、ぬめった肌色の肉塊で、ズルズルと這うように移動している。そのうえ、すなわち腰の部分から顔の下半分までは人間の女の姿をしている。傷一つついていない小麦色の裸体を惜しげもなくさらし、その両手には先ほど鳴らした金色に輝く鈴と、赤錆の浮いた短剣を握っている。


 だが、何よりも目を引くのは彼女(?)の顔の上半分だ。そこに人間の、いや、動物にあるはずの物は何一つない。あるのは膨れ上がった脳みそと、その表面に無数についている眼孔だけであった。
 
 心臓の弱いものが見れば狂死しかねないそれを、朦朧とした意識の中、総一郎はぼんやりと眺めていた。手足がしびれ、それしかできないということもあるが、なぜか彼女を、どこかで見たような気がしたのだ。



 自分を見つめる少年の視線を無視し、ナメクジ女は頭上高く持ち上げた鐘をチリン、チリン、と鳴らす。そのたびに義人に切断された触手が再生していき、さらにおぞましい進化を遂げて義人に襲い掛かる。このままでは彼の、そして自分の死は遠くないだろう。それも悪くない、すでに感覚が麻痺し、、痛みを感じなくなった総一郎がそう考えながら目を閉じようとした時だった。




 ふと、ナメクジ女は鐘を鳴らすのをやめ、周囲を脳みそについた眼孔で見渡した。やがて、自分のすぐそばにある扉をじっと見ると、ずるずると這いずるようにそちらへ向かった。



「う、うああああああっ!?」
「きゃっ!?」
「ひ、お、お母さんっ!!」

 その時、不意に扉が中から開き、おそらく親子だろう、二十代後半ほどの女性と、五歳ほどの少女が飛び出してきた。その後ろから一人の男が飛び出し、ナメクジ女の横を通り抜けて出口へと逃げ出す。だが、二、三歩走ったところで、一本の触手が彼の右足をつかんだ。


「は、放せクソ野郎っ!!」


 先ほど自分が逃げるために女子供を囮にした男が叫ぶ。その叫びに反応したのだろうか、ナメクジ女はゆっくりと男に近づくと、ふとその眼孔で見つめた。男の両目と眼孔の視線が重なり合う。



「あ・・・・・・あ・・・・・・あぐぐぐぐぐぐぐっ」


 脳みそについている眼孔と目が合うと、男はしばし恐怖にひきつった眼を白黒させていたが、やがて震えだした。と、その頭部が信じられないほどに肥大していく。苦悶の叫びを狂ったように放ち続ける男の頭は限界まで肥大していき、


 やがて、パァンッと音を立ててはじけ飛んだ。



「ひっ!!」


 男の顔がはじけ飛び、周囲に肉と骨、そして脳漿が飛び散るのを見て、女は自分の子供を抱き寄せた。そんな彼女に向かって、男に興味を失ったナメクジ女がゆっくりと振り向く。



「あ、あああああっ!?」
「・・・・・・め、ろ」


 男と同じく脳に無数についている眼孔に見られ、女は苦しそうに顔を振った。目をつぶっているから男ほど早く破裂はしないといっても、このままでは彼と同じ運命をたどるだろう。そして次は彼女が抱きしめている子供の番だ。朦朧とする意識の中でそのことを理解すると、総一郎は力の入らない手でふらふらと触手を叩いた。だが、そんな攻撃は自分を縛り付ける触手には全く聞いていない。こうなれば、もう奥の手である“彼女”を身にまとうしかないのか、だが、彼女を身にまとったら、暴走して母子に害を及ぼす危険がある。しかしこのまま何もしなければ、遅かれ早かれあの二人は犠牲になるだろう。


 もはや、暴走しないことにかけるしかないのか。唇をかみしめ、消えようとする意識を必死に繋ぎ止めながらそう覚悟した時、総一郎はふと、去年の今頃、義人に言われた言葉を思い出した。







「いいかい総一郎、これは絶対に使ってはいけないよ」

 
目の前にある巨大な大岩が一撃で砕けたのを見て、凍り付いた笑みを浮かべながら、義人は地面に倒れている愛弟子に優しく言った。彼の拳は砕け、体中を激痛が走っているのか声も出せずに痙攣している。


「今の君には、これはまだ早すぎる。もし使おうというならば、それは死を覚悟しなければならない」



 少し厳しめにそう言うと、倒れた総一郎を医務室に運ぶため、義人は彼の身体を掬い上げた。













「・・・・・・死を、覚悟して、か」

 上等だ、いずれにしてもこのままでは自分は死ぬ。ならば、最後に二人を助けるために使ってもいいではないか。母の腕に抱かれて震える幼女に、おぼろげにしか覚えていない妹の姿が重なった。





「・・・・・・オン バサラ クシャ アランジャ ウン ソワカ」


 蔵王権現の加護をさらに強力なものにする、金剛蔵王権現の真言を唱える。不意に、停止しかけていた彼の心臓がドクンッと強く脈打った。同時に想像を絶する激痛が走る。ひびの入った骨を、無理やり修復しているのだ。


「が・・・・・・ぁ、く、っそ!!」


 激痛により朦朧としていた意識が覚醒し、意識がはっきりとしたことでさらに強い激痛が襲ってくる。正直今死んだほうが楽なんじゃないかと思ったが、目の前で敵に襲われている母子がいる。すべてを守ると誓った自分に、彼女らを見捨てることはできなかった。



「う・・・・・・ああああああああっ!!」



 身体にぐっと力を籠め、触手の拘束から抜け出そうと身体を揺する。すると、巨大な触手にビシッと一本の亀裂が走った。


「がぁあああああああああっ!!」


 獣の咆哮のような声を上げ、強くなってくる痛みを無視してさらに身体を揺すると、触手にできた亀裂がビシビシと音を立てて大きくなっていく。その音に、ナメクジ女がこちらを向き、再生させるために鐘を持ち上げるが、そんなものはもう遅い。最初の音色が鳴りかけたその瞬間、触手を抜け出し、彼女のすぐそばまで迫った総一郎の振り上げた義手が、鐘をナメクジ女ごと吹き飛ばす。そしてそれとほぼ同時に、所々軽傷を負いながらも、再生する触手の中をすり抜けた義人が、血によって再び強化された妖刀を怪物の頭部に深々と突き刺した。





「ギャアアアアアアッ!!」


 怪物の甲高い絶叫が周囲に響き渡る。永遠に続くかと思われたその声は、だが義人の操る妖刀が頭部を細切れにすると、ぴたりと止まった。そして、本体が消滅したためか、ビル全体に食い込んでいた触手が次々に倒れて消えていく。と、よろよろと立ち上がろうとしていたナメクジ女のすぐ上にある触手が、ずるりと滑るように落下し、彼女の腹部を押しつぶして消滅した。



「・・・・・・ふぅ、大丈夫かい、総一郎」
「・・・・・・・・・・・・は、はい。何とか」



 巨大な怪物を細切れにし、額に浮いた汗を拭った義人は、すぐ近くで気を失った母親と娘を背後にかばい、警戒を続ける総一郎に声をかけた。その問いかけに、全身がばらばらになりそうな激痛に耐えながら、何とか弱弱しい口調で返答する。


「・・・・・・とても大丈夫そうには見えないよ。金剛蔵王権現の真言を使ったんだね。とにかく本体を倒したことで、もう触手の危機は去った。後の始末は呪術師連中に任せて、僕たちは二人を連れて早くここを出よう。君の傷は早く医者に診せなければ命にかかわる」
「そう、ですね」


 腹部が押しつぶされ、倒れ伏しているナメクジ女を一瞥すると、総一郎は何かを思い出そうとするように首をひねったが、女を担ぎ上げ、少女を抱きかかえた義人に促され、ビルの出口に向かって歩き出した。






「・・・・・・お、にい・・・・・・ちゃん」

「・・・・・・え?」





 その動きが止まったのは、義人が二人を連れて先に外に出て、扉に手をかけた時だった。呆然としつつ振り返ると、先ほどまで倒れていたナメクジ女が、荒い息をしてよろよろとこちらに向かって手を伸ばしているのが見えた。そしてなにより、彼女のその声に、総一郎は聞き覚えがあった。


「綾乃・・・・・・ちゃん?」
「ああ・・・・・・やっぱり、お兄ちゃんだ」


 少年が自分の名を呼んだことがうれしかったのか、ナメクジ女―かつて綾乃と言われていた少女は、その場に崩れ落ちた。


「綾乃ちゃん!!」

 
 彼女が崩れ落ちたのを見て、総一郎は身体を走る激痛など忘れてしまったかのように駆け出すと、彼女の腰と頭、すなわちナメクジの部分と脳みその部分に躊躇なく手を入れ、彼女を抱き起した。


「お、にいちゃん・・・・・・いっぱい、痛い思いさせて・・・・・・ごめん、なさい」
「どうして謝るんだ、綾乃ちゃんは何も悪くなんてないよ、悪いのは僕のほうだ。君だということに、まったく気づけなかった・・・・・・大丈夫、すぐ病院に連れて行ってあげるからね」
「待ってお兄ちゃん、いいの。私は、おそらくもう助からないから。“人”としての意識が戻ったのも、きっと助からないからだと思う。それよりお兄ちゃん、聞いてほしいことがあるの」
「駄目だ、治ったらちゃんと聞くから、今はとにかく一刻も早く病院に」
「お願いお兄ちゃん、本当に大事な話なの」
「・・・・・・っ」

 綾乃を抱き上げ、立ち上がろうとした総一郎は、裾をつかむ彼女の真剣な言葉に苦しそうな表情を浮かべると、そっとしゃがみこんだ。

「分かった。けど話を聞いたらすぐに病院に連れていく。いいね」
「ありがとう、お兄ちゃん。聞いて、私を引き取った蛭山は、親のいない私たちを引き取る慈善家のような顔をして、裏では私たちを使ってある一つの研究をしていたの、それが・・・・・・神を生む母体の開発」
「神を生む母体の開発って・・・・・・まさかっ!?」

 少女の言葉に、総一郎は顔を青ざめながら、だらりと皮膚が垂れ下がった彼女の腹部を見た。

「そう、母体に選ばれたのが私。選ばれなかった子たちは皆“処分”されちゃった。お兄ちゃん、お願い。蛭山を倒して、そして私が生んだ神“深き者共の主神”クトゥルフ、それが彼が生み出そうとしている神なの。お願いお兄ちゃん、あいつを倒して、そして実験台にされた私たちの、私たちの無念をはらし・・・・・・こふっ」
「綾乃ちゃん、それ以上喋ったらだめだ!!」

 口から紫色の体液を吐き出す少女を必死に抱き締めながら、総一郎は目の前にいる少女の顔が、流れる涙でぼやけていくのを感じた。

「泣いてるの? お兄ちゃん、こんな穢れた私なんかのために、泣いてくれるの?」
「違う、綾乃ちゃんは穢れてなんかいない。そんなこと、誰にも言わせない!!」

 もはや微かに息をするだけの少女の身体を、総一郎は両手で掻き抱いた。四年の間一度も会わなかった少年の、昔と比べて逞しい身体に頬を染めながら、綾乃はおずおずと彼の背中に手をまわした。


「じゃあ・・・・・・証明して、お兄ちゃん」
「証明? 証明って、何をすればいいんだ?」

 戸惑いの表情を浮かべる少年を見てフフッと微笑すると、少女は彼の頬に手を当て、絶えることのない涙を拭った。

「私が穢れていないというなら、お願い・・・・・・キスして」
「・・・・・・え? キス、キスって・・・・・・キス?」
「えへへ、ごめんね。冗談でしむぐっ?」

 笑って誤魔化そうとした少女の唇が、何かにふさがれた。すぐ目の前に、総一郎の真っ赤に染まった端正な顔がある。その時初めて、綾乃は自分の唇をふさいでいるのが、彼の唇であることに気づいた。それはぎこちなく、たどたどしく、ただ唇と唇を合わせるだけの物であったが、それでも少女の、もはや人のそれではない胸が、何か温かいものでいっぱいになった。

 それからどれほど唇を合わせただろう、やがて息苦しくなったのか、総一郎はぶるぶると震えると、ぷはっと唇を放した。

「ごめん、僕、誰かにキスをするの初めてだったから。雷牙とかに聞いて、唇と唇を合わせるものだというのは知っていたのだけれど・・・・・・上手くできた?」
「・・・・・・へ? う、うん、きゅ、及第点かな。そりゃ、何人もの男を手玉に取った私としては物足りなかったけど・・・・・・ねえお兄ちゃん、私が騙してるとか考えなかったの?」
「騙す? 何で?」
「・・・・・・あ~、いいや、うん。忘れて忘れて」

 こちらの言うことを何の疑いもしない少年を見て、赤くなっていく頬を誤魔化すように首を振ると、綾乃はそっと、自分を抱きしめている総一郎の手に触れた。

「うん、けどありがと、お兄ちゃん。私ももう思い起こすことはないよ。そうだ、生まれ変わったら小鳥になって、お兄ちゃんの肩に泊まって歌を歌ってあげるね・・・・・・て、あ、あれ、どうしてお兄ちゃんの顔がぼやけて見えるんだろ、やだよ、もうお別れなのに」
「綾乃ちゃん・・・・・・」

 ふと、総一郎の抱きかかえている綾乃の身体が霞み始めた。それは涙でぼやけているのではない。彼女自身、死が近づいているのだ。

「な、泣かないでお兄ちゃん、ほら、笑って見送って、わ、笑って「綾乃ちゃん」あ・・・・・・」

 泣き笑いのような表情を見せた綾乃の、脳についている眼孔から流れ出る涙を、総一郎は優しく拭ってやった。

「綾乃ちゃん、無理、しなくていいよ」
「・・・・・・やだよ、私、死にたくないよ。だって、だって私、ずっと、ずっとお兄ちゃんのことが好きだったんだもん。お兄ちゃんのお嫁さんになりたかったんだもん、やだ、私、消えたくないよ、助けてお兄ちゃん、助け」
「綾乃ちゃん!?」


 腕に感じていた少女の重さがふっと軽くなる。目を見開く少年の目の前で、霞んでいく少女は彼に必死に縋り付いていたが、やがて、ふっと霞のように消え去った。



「あ・・・・・・あ・・・・・・ああああああああああっ!!」
 
 後々になって考えると、この時自分は軽く発狂していたのかもしれない。それは綾乃を見つめ続けていたためだろうか、それとも誰よりも守ろうと誓った少女を失ったためだろうか、強い衝撃を頬に受けて我に返ると、すぐ目の前に険しい顔つきで立っている義人の姿が映った。彼は、いつの間にか赤錆の浮いた短剣を握り、自らの首に突き立てようとしている手を、強く掴んでいる。

「・・・・・・お願いです、放してください」
「駄目だ」
「お願いです、死なせてください」
「駄目だ」

 いやいやをしながら自分の首に向かって短剣を突き立てようとする総一郎の動きは、だが義人によりまったく動く気配がなかった。

「お願いです、僕は一番守りたかった人を守ることが出来な方。助けたい人を助けることができなかった。幸せにしたい人を幸せにしてやることができなかった。そんな僕なんて、生きていても仕方がないんです。だから、だからお願いです、死なせて下さ・・・・・・う」


 不意に、首に軽い衝撃が走り、総一郎は目の前にいる義人の顔がぼやけていくのを感じた。ふと、手首にあった感覚が失われ、代わりに少年の身体を誰かが持ち上げる。担がれたままどこかに運ばれるのを感じながら、総一郎はゆっくりと目を閉じた。




 閉じる瞬間、その目から一筋の涙がこぼれ落ちて行った。















「おやぁ?」



 闇の中、孕み女が消滅したことを感じた蛭山は、ふと顔を上げた。

「やれやれ、あの小娘も結局死にましたか。まあ、“孕み女”には相手を発狂させる以外の能力は添えていませんから仕方ありませんねぇ。ですが、彼女は最後にしっかりと役目を果たしてくださいましたぁ」


 ニタニタと笑いながら、蛭山は左手を前に差し出した。と、その上に丸い物体が出現する。それはいうなれば胚のような形をしており、手のひらの上でドクンッ、ドクンッと不気味に脈打っていた。


「さあ目覚めなさい、数千年前、邪神たちの抗争によって沈んだルルイエの守護神、ダゴン達の王、深きものどもの神、クトゥルフよ!!」


 蛭山が手のひらを翻し、胚を空高く飛ばすと、空中でぴたりと止まった胚は、ドッドッドッと強く脈打ちながら、すさまじい勢いで膨れ上がっていった。










 触手がすべて消滅し、“元凶”も討伐したという連絡を受け、高天原総司令部は喜びに沸き返っていた。確かに数百人の死者は出たが、それでも街を守り通すのに成功したのだ、彼らの喜びは相当であった。あとは敵の罠にかかった二百名を救助し、蛭山に逆襲する、早い者では、すでにその段取りをつけている者さえいた。



「・・・・・・」


 だが、総司令である黒沼玄は、周囲が浮かれる中、腕組をして、一言もしゃべらなかった。といっても、浮かれる周囲を叱り飛ばしたりもしない。ただ、静かに目を瞑っているだけだ。


「あの、司令、今後のことを話し合いたいのですが」

 参謀長である丸山が、おずおずと話しかけても、それでも彼は口を閉ざし、目を閉じていたが、ふと、その目を開けた。


「・・・・・・・・・・・・来たか」


 彼が言葉を発したその瞬間、司令部を、いや、出雲を巨大な地響きが襲った。







「・・・・・・期待外れでしたねぇ」



 出雲に向かってゆっくりと歩みを進める巨大な“それ”の肩に乗り、蛭山は心底残念という感じに肩をすくめた。



 それは、山をも超す体格の怪物だった。蛸に似た頭部をもち、口からは先端に刃のような歯が付いた無数の触手を生やしている。巨大なかぎ爪の生えた腕や足、背中から生えた蝙蝠のような翼、そして全身から生やした鱗、ヌチャヌチャとした足音は、聞くだけで人々を発狂させるだろう。これこそ、十年前に海中から発見された箱の中にただ一つ残っていた細胞を分析し、育て、この世界に復活させた邪神クトゥルフであった・・・・・・はずなのだが、

「やはり、産湯に浸かる時間が短かったのでしょうか」


 その頭部はぺしゃんこにつぶれており、緑色の眼孔に、理性や知性といったものは感じられなかった。


「ま、いいでしょう。これでも出雲を破壊しつくすには充分です。後は出雲を破壊し、目的のものを回収して、さっさと離脱すると致しましょうか。ああ、それまで攻撃が来ると厄介ですねえ・・・・・・来なさい、お前たち」

 がっかりしたような顔をした座り込んだ蛭山が、ぱちりと指を鳴らす。と、怪物の足下にいきなり黒い染みのようなものができ、盛り上がると、巨大な狼に似た動物になった。それはまさしく、数日前に少年が相手をした怪物に他ならなかった。


「あまり使えないので放っておきましたが、まあ、出雲に着くまでの護衛ぐらいにはなるでしょう。さて、ここから見物させてもらいましょうか、忌々しいあの女がいる、醜い都市の最後をね」































 夢を見た。



 それは、決してかなうことのない夢であった。朱雀門から共に通学する自分と綾乃、そして通学路で合流する雷牙と千里、そして桜子。彼らは中学時代からの友人で、勉強、部活、遊びと、二人はいつも一緒に行動していた。



 夢を見た。


 その日は二人にとって特別な日であった。どこかの教会の中、純白のドレスとタキシードに身を包んだ綾乃と自分は、大勢の人々に見守られながら、神父の前で永遠の愛を誓い、口づけを交わした。




 夢を見た。


 すでに二十歳をいくつか越した自分が、疲れ切った、だが誇らしげな笑みを浮かべてベッドに横たわる綾乃の隣にある小さなベッドを覗いている。やがて、自分は妻に促され、両手を震わせながらベッドの中に差し入れると、そこに眠る小さな己の分身を、まるで壊れやすい宝物を扱うがごとくそっと抱き上げた。








 数年前、親友である雷牙がつぶやいた言葉がある。もし、この世界を作った神がいるならば、その神はきっと残酷に違いないと。


ああ、確かにこの世界の神様は残酷だ。誰よりも守りたかった少女を失ったその日に、決して訪れることのない幸せな未来を見せるのだから。







 身体を走る激痛に、総一郎は半ば強制的に目を覚ました。そこはどうやら病室らしく、彼のほかに寝かされている人が何人もいる。


「・・・・・・ここは、病院?」
「日村さん、起きられたのですか?」

 気配で分かったのだろう、ベッドに入りきらず、廊下に敷いたマットの上に横たわる患者の一人に包帯を巻いていた千里が、病室の入り口からひょいと顔をのぞかせた。

「水口、さん? 僕はどうしてここに・・・・・・それに、どれぐらい眠っていたんだ?」
「眠っていたのはほんの三時間ほどです。あなたがここに来たのは、義人さんがここまであなたをおぶってきたからですよ」

 総一郎のベッドに近づくと、彼女は机の上にあった水差しを手に取り、中の水をコップに注いで少年に手渡した。

「さて、質問には答えましたし、今度は私の質問に答えてください。いったいどこでどうやったら、全身の骨にひびが入るなんて大けがを負うのです?」
「そ、それは・・・・・・」


 千里の問いに、総一郎は即答することができなかった。ああのビルの中で起きたことを話すのは、どうにもためらわれたためである。しかし、彼女も四年前、綾乃とかかわった一人だ。ならば話してもよいだろう。


「僕は、あの時、あのビルの中で・・・・・・」


 そして少年は話し始めた。誰よりも守りたかった人を守れなかった、あまりにも愚かな自分の行動を。








「・・・・・・と、いうわけなんだ」
「・・・・・・そうですか、綾乃さんが」


 話し終えると、総一郎はふとすぐ傍らにある時計を見た。彼にとっては永遠のように感じられた時間だったが、実際には数分ほどしか経過していなかったらしい。ぼんやりと時計を眺める少年のすぐ傍らで、千里は両手を組んで、そっと目を瞑った。


「私には何もできませんでしたが、せめて祈らせてください。友人の一人として、彼女の魂が安らかに天国へと行けますように」
「ありがとう。ああ、そういえば先生は今どこかな、話したいことがあるんだけど」
「義人さんでしたら貴方をここに運んだあと、高天原の総司令部に行くと居て出ていきましたが、その状態で出歩くのは無理です。伝言でしたら承りますが」
「そうじゃない、もう少ししたら、僕は蛭山を探しに行く。せめて先生には話しておこうと思って」
「蛭山をですか? それはやめておいたほうがいいと思いますよ、現在貴方の身体の中の骨は、ほとんどひびが入っている状態です」
「たとえ全身の骨が砕けたとしても、僕は行くよ。綾乃ちゃんからの、最後の頼み何だ。敵を討ってくれって」
「・・・・・・蛭山を探す必要はありませんよ、彼の居場所は、すぐに分かりますから」
「え? 水口さん、いったい何を言って・・・・・・」

 ため息を吐いた千里は、少年が話している最中に座っていた椅子から立ち上がると、いぶかしむ少年の視線を受けながらカーテンで閉め切っている窓を近づき、そっとカーテンを開けた。

「ショッキングな光景ですから閉め切っていたのですが・・・・・・どうです、見えますか? あれが」
「ん? ん・・・・・・んん?」


 あれが、と言われても、病室から見えるのは薄暗い街並みと、その先にある高原、さらにその先にある山々だけだ。だが、そこまで見たところで彼はふと妙な事に気が付いた。確かこちら側から見える山は二つだけのはずである。だが、うっすらとではあるが、彼の眼には山が三つあるように見えた。しかも、目の錯覚だろうか、その山は微かにだが動いているように彼には感じられた。


「・・・・・・えっと、千里さん、僕の気のせいかな? 山が三つあって、しかもそのうちの一つが動いているように思えるのだけれど」
「気のせいではありません。しかも、あれは山ではありません。今から一時間前、突如山と山の間に出現した“何か”です。最初は正体がわかりませんでしたが、おそらくあれが綾乃さんの言っていた、蛭山が作り上げた“クトゥルフ”なのでしょう。それで、どうします? あの怪物の近くに蛭山がいることは違いありませんが、おそらくは護衛もいるでしょう。その身体では、蛭山を倒す前に死にますよ?」
「え、えっと・・・・・・蔵王権現の加護を張り続けていれば、何とかなるんじゃないかな?」
「ずっと加護を張り続ければ、そもそもたどり着く前に限界を迎えてしまいます。ですが、そうですね。確かに何かしらの対抗手段は必要でしょう。まったく、こんな時に雷牙がいれば何かいい考えを出してくれるのですが」
「・・・・・・雷牙、まだ連絡が取れないの?」
「ええ、忌々しいことに。まあ、あまり考考え事には向かない人ではありますが、それでも時々いいアイデアを出してくれるんですよ? この前も桜子さんと貴方の・・・・・・桜子さん、ですか」

 ふと、千里は口を閉ざすと、しばらく何かを考え込んでいたが、やがてふうっとため息を吐いた。


「・・・・・・分かりました。あなたの意思が強固で、絶対に行くとなれば、一つ情報を差し上げましょう。果たしてそれがあなたにとっていい情報か、悪い情報かは分かりませんが、それでもお聞きになりますか?」
「ああ」

 おそらく、ここで躊躇などすれば、彼女は決して教えてはくれないだろう。そう思った総一郎は、迷うことなく、力強く頷いた。












「はぁ、やっと終わった」


 “それ”を慎重にはこの中に戻し、いつも通り壁の中に設置した金庫の中にしまうと、桜子は安堵の息を吐いた。


「しかし、今年に入ってから三度目やで。しかも戦闘直後に活発化するし、まあ、戦闘中にならんでよかったけど」

 “それ”が活発化した時は、少女の腕に巻いている腕時計がアラームを出すことになっている。今時アラーム搭載の腕時計は珍しくないため別に目立たないのだが、それでも非常事態が終わった直後にアラームが鳴った時は、さすがに火事場にいるほかの人々を動揺させた。


「それにしても、せっかくのクリスマスイブや言うのに、何で打ち、こないな所でツナギ着て油まみれになっとるんやろ、まあ、お祝いできなかったの、うちだけやないんやけど」

 せめて、総ちゃんにプレゼントくらいやりたっかったな、そう、少女が呟いた時、



 鍛冶場から外に続く扉が、カタッと音を立てた。

「へ・・・・・・だ、誰や!?」


 最初は風か何かにだと思ったが、恐る恐る近くに行ってみると、扉はやはりカチャカチャと音を立てている。外にいる何者かはだんだんいらだってきたのか、そのうちガンガンと扉をたたき出した。その一撃一撃で、扉が大きく揺れる。とても人間にできるものではない。戦闘は終わったが、もしかしたら生き残っている触手がいるのかもしれない。すぐ近くの床に転がっているレンチを拾い、ぎゅっと強く目を瞑る。そして、ガンッと一際大きな音が鳴って扉が破壊されたその瞬間、



「え、え、えいっ!!」




 目を瞑ったまま、手に持ったレンチを前方に向かって突き出した。カンっという、レンチが何か金属製のものにあたる音と、誰かの苦笑する声が暗闇の中に聞こえる。そして、桜子を安心させるためか、誰かが彼女の頭に手を置き、優しくなぜた。


「・・・・・・桜子」
「へ・・・・・・そ、総ちゃん!?」


 今誰よりも会いたかった少年の声に、桜子ははっと目を開いた。少女の目の前には、彼女の突き出したレンチを鉄の義手で受け止めた総一郎が微笑して立っている。

「ああ、僕だ。桜子は怪我とかしてないか?」
「う、うん。うちは大丈夫。総ちゃんのほうは」

 怪我ない? そう聞こうとして、桜子はハッと口を閉ざした。目の前にいる少年は顔が青ざめ、服の隙間から見える身体にはところどころ包帯がまかれている。

「ちょ、なんやその大怪我、寝てないと駄目やで!?」
「ああ、怪我は大丈夫だ。水口さんに治癒符を張ってもらったからね。ただ麻酔符を張っていないから、かなり痛むけど」
「そ、そう? でもやっぱり痛いなら寝てなきゃ駄目や。これからうちと一緒に病院行こ?」
「いや、すまない。やることがあるんだ。それと桜子、頼みがある」
「頼み? それやったら病院で聞くから早よ行こ?」
「駄目だ桜子、ここでお前にしか頼めないんだ・・・・・・“禍(まがつ)”を貸して欲しい」
「・・・・・・・・・・・・へ? 何で、何で総ちゃんがそれを知っとるん!?」
「知っているということは、あるんだな。たぶん桜子の部屋か」

 顔を蒼白にした少女を押しのけ、総一郎は軽く足を引きずりながら、義手の整備のために何度も足を運んだことのある友達の部屋へと歩き出した。

「あ・・・・・・だ、駄目や総ちゃん!!」


 自分の隣を少年が通り過ぎた時、我に返った桜子は駆けだして歩く少年の脇を通り過ぎると、自分の部屋の入り口の前に立ち、塞ぐように両手を開いた。

「駄目や総ちゃん、今の状態で・・・・・・ううん、どんな状態でも“禍”を使うたら、いくら総ちゃんでも死んでまう!!」
「いいんだ桜子、僕は助けたかった人を助けることができなかった。そんな僕が、生きていていいはずがない。頼むからどいてくれ」

 入り口をふさぐ桜子に、総一郎は微笑みながらそう言ったが、身体を震わせる彼女が動く気配がないのを見て、軽くため息を吐くと、彼女の肩をつかみ、脇に押しのける。自分の肩をつかむその手に、桜子は引きずられるような形で必死にしがみついた。

「何なのそれ!? 生きていい資格がない? そんなの勝手に決めんで!! うちの、うちの気持ちなんて、全然わからんくせに!!」
「・・・・・・」

 縋りつきながら叫んだ桜子の言葉に、総一郎はふと、歩みを止めた。そして考え事をするかのように天井を見上げていたが、やがてふっと息を吐くと、手に縋りついている少女を掻き抱いた。

「あ・・・・・・」
「ごめん桜子、お前の気持ち、ずっと気づいてた。気づいて、気づかないふりをしてた。僕は臆病だから、お前との関係が変わってしまうことが怖かったんだ」
「総ちゃ・・・・・・むっ」

 
 少年の名を呼ぼうとしていた桜子の唇が、何かに塞がれる。それは柔らかく、温かく、どこまでも優しいものであった。そして、それが接吻だと気付いた時には、もう総一郎の唇は離れていた。


「分かった? 僕の気持ち」
「・・・・・・うん」


 顔を真っ赤にして微かに頷くと、桜子は総一郎の手を放し、部屋の中へと入った。そして、以前、少年が何か音がするといった壁の前に立つと、わずかに色の違う壁に手を置く。すると、彼女が手を置いたすぐわきの壁が、ズズッと鈍い音を立てて上にせりあがった。壁の中にはただ一つ、中くらいの金庫が置かれているだけである。

「桜子・・・・・・」
「・・・・・・・」

 自分の名を呼ぶ総一郎に応えず、今度は金庫のダイヤルを何度か回す。十数度は回しただろうか、カチリと何かがかみ合う音がして金庫が開くと、桜子はその中にたった一つ置かれていた小箱を取り出し、少年のほうを向かず、腕だけ伸ばして彼に手渡した。


「桜子、これは?」
「そん中に、”禍”が入っとる。うちのひい爺さんはな、確かに”二代鉄斎”の名にふさわしい発明家やった。色んな物発明して、人の役に立つもの作って・・・・・・けど天才だからやろか、何で自分が鉄斎の名で尊敬されにゃあかんのや、鉄斎を、自分の前の天才にしたる。そう言って最後に作ったのがこれや。空気を利用し、圧倒的な破壊力によって敵をせん滅する。確かに絶大な破壊力やったそうや。襲撃してきた上級のエイジャ百体、まとめて消し飛ばしたらしいから。けどな、これは使う者の事なんて一切考えてない。これをただ一度使用したんはひい爺ちゃんの従弟、つまり当時の黒塚家宗家の次男坊やったらしいんやけど、これ使うて敵をせん滅した瞬間、粉々になって”喰われた”そうや」
「・・・・・・」

 手渡された小箱を見つめていた総一郎の胸に、桜子はぎゅっと抱き着いた。自分の泣き顔を悟られないよう、少年の胸に顔をこすりつける。

「お願い、生きて帰ってきて。どんなに大怪我負ってもいい。たとえ手足がもげたって、うちが完璧な義手と義足を作ったる。けど死んだ人間を生き返らせることだけはできないから、だから帰ってきて。総ちゃん、うちの所に・・・・・・約束や」
「うん、必ず帰るよ。桜子、君の所に」

 優しくそう囁き、少女の髪に軽く口づけすると、少年は、後はもう振り返らずに鍛冶場を出て行った。今振り返ったら、自分の気持ちが折れそうな、そんな気がしたためである。



「・・・・・・神様、どうか、どうか総ちゃんを助けたってください。お願いです、どうかっ!!」



 総一郎の姿が見えなくなると、少女は腰が抜けたかのようにズルズルと座り込み、生まれてから一度も祈ることがなかった、大嫌いな紙に必死に祈りをささげていた。








「これが“禍(まがつ)”か」


 鍛冶場を出てしばらく歩き、森に着いて周囲に人気がないことを確認すると、総一郎は桜子から手渡された箱を見た。大きさは拳大ほど。それほど大きくはないこの箱の中に、数多の敵を一撃で粉砕する兵器が眠っているなど、彼には想像もつかなかった。試しに振ってみても、何の音もしない。といっても、桜子に騙されたんじゃないかという考えは、彼には全く浮かばなかった。

「まあ、開けてみればわかるか」

 蓋は四方が鉛で封をされており、なかなか開かなかったが、それでも何度か力を入れていくうち、場霧と音を立てて取れた、というよりも砕け散った。


「まあ、後で桜子に謝ろう。で、中身はっと・・・・・・は? 何だこれ」


 箱の中身をのぞき込んだ総一郎は、意味が分からないという風に首をかしげた。なぜならそこにあったのは武器でもなんでもなく、一つの白い卵だったからである。大きさは鶏の卵ほど、白くつるりとした表面など、まさに鶏の卵そっくりだ。


「ええと、これが武器、なわけないか」

 まさか卵型の爆弾というわけではないだろうし、そう思いながら箱から卵を取り出そうと、微かに触れた時である。




「わっ、わわっ!?」


 総一郎の指が触れた瞬間、卵の表面にびしりとひびが入った。驚き慌てふためく少年の前で、卵に入った皹はどんどん大きくなっていき、やがてパンッと小さな音を立ててはじけ飛んだ。


「大変だ、えっと、中身は・・・・・・え?」

 中身を確認しようと箱の中をのぞいた総一郎は絶句した。なぜなら、割れた卵の中から出てきたのは、ヒヨコでも、とろりとした黄身でもなく、緑色の、どろどろとしたゲル状の物体だったからだ。しかも、それはどうやらひとりでに動いている。
しばらく震えていたそれは、次の瞬間総一郎に向かって飛びかかってきた。

「うわっ!?」

 自分に向かってくるゲル状の物体から身を守ろうと、慌てて義手を前に突き出す。その義手に、ぐにゃりと当たると、ゲル状の物体は、まるで溶けるようにその中に入り込んだ。


「な、何だ!?」

 その時である。ドクンッ、と鉄であるはずの義手が脈打った。慌てふためく総一郎の目の前で、ゲル状の物体を取り込んだ義手はめきめきと音を立てながら変化していく。まず幅が一・五倍に膨れ上がった。その重さに総一郎が顔をしかめると、今度は左右にビー玉ほどの大きさの穴が五個、横一列に並ぶ。そして最後に、義手の手のひらに大穴が開いた。


「これが・・・・・・禍?」

 元の鈍色から禍々しい漆黒に染まった義手を眺めているうち、総一郎はふと、シュッ、シュッという、依然聞いた空気の漏れる音が聞こえる。どうやらそれは、義手の左右に開いた穴から聞こえるようだった。

「これ、空気を吸い込んでいるのか・・・・・・って、うわっ!?」

 興味津々な様子で、少年が左右に開いた穴をのぞき込んだ時である。不意に、地面が揺れた。思わずしゃがむと、すぐ目の前の地面に亀裂が走り、地中から一本の触手が伸びてきた。それは間違いなく、昨夜出雲を襲った触手であった。

「こいつ、生き残りか!!」

 蔵王権現の加護を受けていない自分では太刀打ちできない。蛭山と戦う前に疲労は避けたかったが、それでも倒さなければまた街に害を及ぼすだろう。ならば倒すしかない、そう決意して身構えた時である。


「あれ・・・・・・うあっ!?」

 偶然、義手の手のひらに開いた穴が触手に向いた時、ゴォッという強い大きな音とともに、総一郎の身体は後ろに吹き飛ばされた。


「い、いったい何が」

 地面を転がり、ようやく止まると、総一郎は再び目の前の触手を見てあんぐりと口を開けた。蔵王権現の加護なしに彼には倒せなかった触手の、その一番太い部分に巨大な穴が開き、向こう側の景色が見える。少年が見つめる中、触手はどうっと倒れると、そのままふっと消えた。


「そうか・・・・・・これは空気を吸い込んで、そのあと圧縮して撃ち出しているのか」


 そしてどうやらそれは、自分が蔵王権現の加護をまとった時と同等以上の威力を持っているらしい。確かに撃ち出した時、肩が抜けそうになるほどの衝撃が走ったが、そんなものは権現の加護をずっと使い続けるよりははるかにましだ。


「これで、これで綾乃ちゃんの願いをかなえることができる。待っていろ、蛭山っ!!」


 このとき彼は気づかなかった。自分の心に、いつの間にか蛭山に対する憎悪の火がともっていることに。





















「さて、ようやくあと少しといったところですかねぇ」


 出雲の街並みを眺め、蛭山は口の端を吊り上げる笑みを浮かべた。

 彼は今、先ほど誕生したクトゥルフの右肩に乗っている。百メートルを優に超す巨大な怪物の足元には、数日前に総一郎が相手をした、彼が作成した漆黒の獣―ティンダロスの猟犬―が五十体ほど番犬のように並んで移動している。彼らだけを先に行かせてもよかったが、それでは蹴散らされてしまう恐れがあった。まあ、彼らが蹴散らされても、このできそこないの“脳無し”一体いれば、出雲を壊滅させることなどたやすいだろう。




「まあその後のことは、出雲の最深部にいる“彼女”を手に入れてから考えますか。呪術師たちに力を与える氷の女王“コキュートス”の分身、彼女さえ手に入れれば、私はどこに行っても歓迎されますからねぇ・・・・・・おや?」


 顎をなぞりながら、今後のことを考えていた蛭山の耳に、ふと猟犬の唸り声が聞こえてきた。出雲まであと十数キロ、迎撃が出るのはまだ少し早い。目を細めて見ると、豆粒のように小さな人影が一つ、彼らの進行方向に立っているのが見えた。


「人影が一つ・・・・・・ということは先走った愚か者ですか。まあ良いでしょう。どれほどの力を持っていても、五十を超える猟犬に敵うはずはありません。さあ、さっさと嚙み殺してしまいなさい」




 蛭山の声が聞こえたのか、戦闘を進む十体ほどの獣が速度を速めて前方の人影に向かう。一体だけでも並の呪術師では太刀打ちできない力を持つ猟犬が十体向かったのだ。すぐに排除されるだろう。もはや興味を失ったのか、蛭山が再び考え始めた時である。



ドォンッ!!

「・・・・・・んんっ?」

 巨大な何かが爆発するような音と同時に、人影に向かっていた獣がすべて空に舞い上がった。






「くっ、結構くるな、これ」


 向かってくる獣たちに向かって、圧縮させた空気を撃ち出した総一郎は、肩が外れそうなほど強い衝撃に顔をしかめた。だが、まだ蔵王権現の加護を長時間使い続けるより遥かにましだ。先ほど襲い掛かってきた獣はおそらく護衛なのだろう。数日前に相手をしたためかどういう攻撃をしてくるかはわかっているし、再生できるといってもどうやら時間がかかるようだ。ならばこのまま、前方に見える山のような体格の怪物の所まで強行突破できるだろう。そうすれば、きっとそこに蛭山がいるに違いない。

「待っていろ蛭山、必ずお前を殺してやる!!」


 自分が蛭山を倒す、ではなく殺すと口にしたことも気づかず、総一郎はただひたすらに怪物に向かって突き進んだ。


「ふむ、これは少し厄介ですねぇ」


 護衛である獣が数匹まとめて吹き飛ばされる光景を見て、蛭山は相変わらず間延びした口調でつぶやいた。


「けど、危険というほどでもない。お前たち、左右から同時に飛びかかりなさい」


 蛭山の指示により、今度は四匹の怪物が左右から二匹ずつまとめて人影にとびかかる。だが、人影が腕を一振りすると、左右にいる獣はやはり同時に吹き飛ばされた。


「左右からの攻撃にも対処可能ですか。なら次の手です」


 蛭山が指を鳴らすと、ほかの獣より一回り解き大きい獣が正面から向かっていく。むろん、その獣は圧縮された空気により吹き飛ばされるが、蛭山の狙いはそっちではない。獣が吹き飛ばされたその瞬間、その獣の背に張り付くようにして後ろに隠れていた、他の獣より二回り以上小さな獣が伸ばした刃が、隠れ蓑にしていた獣の身体を突き抜けて彼へと向かっていく。


「いくらあなたでも、死角からいきなり現れた刃を防ぐことは難しいでしょう。さあどうします?」



 口の端を吊り上げて嘲笑する蛭山は、だがすぐに口を“への字”に曲げることになった。人影は、完全に死角から伸ばされた刃を見事に弾き飛ばしたのである。刃が弾かれるとともに、数日前の戦闘の結果体を覆う漆黒が足りず、身体を少し覆うだけの漆黒をまとった獣は、刃とともに空中に弾き飛ばされ、どこかに消えた。

「まったく役立たずな! ですがおかしいですねぇ、先ほどは空気を撃ち出す音が聞こえませんでした。となると相手はほかの攻撃手段を持っているということになる。それをなぜ使用しなかったのでしょう・・・・・・いえ、まさか気軽に使用できないのかもしれませんねぇ。まあいい、どうせこちらに来たらわかることです。お前たち、相手をするのはもういい、下がりなさい」




 蛭山の命令に従って、それまで人影に通じない攻撃を仕掛けていた獣たちはそろって相手に背を向け、彼が乗るクトゥフの後方へと駆けだした。無傷の者はおらず、皆体のどこかが傷ついていたり、ひどい者になると四肢が捥がれている物すらいる。


「さて、これでようやく落ち着いて話ができますねぇ。そこにいらっしゃるのでしょう? 今行くからお待ちくださいなぁ」


 まるで親しい友人に話しかけるような口調でそう叫ぶと、蛭山はふわりと浮き上がり、百メートルはあるだろう地上へとゆっくりと降りて行った。








「おやおや、まさか相手がこんなに若い方だったとは」
「・・・・・・」


 獣たちの黒い油のような体液で身体を真っ黒に染めた総一郎は、上空からふわりと地上に降りた長身の男を無言で睨みつけた。


「なるほど、義手の周囲にある吸気口で空気を吸い込み、中で圧縮、手のひらに開いている穴から発射しているというわけですか。そういえば、この国には数十年前、鬼才と言われた男がいましたねぇ。たしか、空気を使った武器を発明しようとした男が」
「・・・・・・お前が蛭山か」
「おや? 私の名をご存じで? あなたの名前は・・・・・・ああ、言わなくていいですよ。その義手を見て検討が付きました。四年前、弱冠十二歳にして初めて人類史上初めてその身に二柱の神を降ろすことに成功した少年、日村総一郎君。初めまして、蛭山と申します。はてさて、わたくしなんぞに一体何の御用なのでしょうか」
「・・・・・・お前を」

 ニタニタと笑う男を目の前に、一度大きく息を吸うと、総一郎は義手を前に出し、その手のひらに開いた穴を蛭山に向け、

「お前を、殺しに来た!!」

 躊躇することなく、最大まで溜め、圧縮した空気を撃ち出した。











 おそらく目の前の痩躯の男一人、完全に粉砕される威力を持ったその一撃は、だが頭上から降ってきた家ほどの幅を持つ巨大な触手にあたり、消滅した。

「ふむ、なかなかの威力ですね。まさかクトゥルフの触手にダメージを与えるほどの威力とは・・・・・・しかし分かりませんねぇ、確か私とあなたは初対面のはずですよ? なのに、なぜ私を殺そうというのです?」


 嫌な臭いのする煙を上げている触手を感心したように見つめると、蛭山はひょいと顔を出し、肩を襲った衝撃に蹲る少年にそう問いかけた。

「・・・・・・お前は、綾乃という少女を覚えているか?」
「綾乃? いえ、そんな名前は知りませんが・・・・・・あ、ちょっと待ってください。確か“孕み女”の昔の名前がそんなものだった気がするのですが」
「孕み、女? 昔の名前? お前、お前は何を言っているんだ!?」

 半ば外れかかった肩を無視し、義手の左右に開いた穴が空気を吸収する間、総一郎は蔵王権現の加護で淡く光る生身の手を握り締めて蛭山に駆けだす。だが、その動きを邪魔するかのように、頭上から巨大な触手が少年の上にまるで雨のように降り注いできた。

「くっ、うわっ、くそっ!!」
「何って、“真実”を言っているだけですが。ああ、貴方は孕み女の家族か何かですか? 
 振り下ろされる触手を必死に避けながら、それでもこちらに向かってくる少年を眺め、蛭山は心底どうでもいいという風につぶやいた。

「なんでしたら“作って”差し上げましょうか? 姿と記憶を完ぺきにした少女を百体ほど作って、貴方に差し上げますよ?」
「それは綾乃ちゃんじゃない、単なるまがい物だ・・・・・・くっ!!」


 触手の攻撃を時には避け、時には蔵王権現の加護を受けた拳でそらしつつ、総一郎は溜めた空気を再び蛭山に向かって撃った。しかし、それはやはり別の触手でふさがれてしまう。やはり蛭山を倒すには、まず頭上高くそびえる怪物をどうにかするしかないのか、総一郎がそう歯噛みした時である。


「まったく、あんな穢れた小娘のどこがいいのやら」
「・・・・・・けが、れた?」


 蛭山がポツリとつぶやいた一言に、ふと総一郎の動きが止まった。すぐそばの地面に太い触手が突き刺さるが、少年はそれに気づいていないのか、呆然と蛭山を見つめている。

「お前・・・・・・何を言って」
「おや? “孕み女”の名を持つ女が処女なわけないでしょう。むろん、外も中も散々に凌辱されていますよ。まあ、命じたのは私ですがね。人、動物、機械、いやあ、様々なものと実験をしました。まあ、綾乃も最初は抵抗していましたが、何度か凌辱されると喜んでいましたよ。うつろな目をしながらね」
「お前・・・・・・お前ぇええええええええっ!!」


        ブチンッ







      そう、それでいいんだよ、お兄ちゃん








 死んだ綾乃を言葉でまだ貶す蛭山に、総一郎の理性は音を立てて切れた。途端に体の中にどす黒い感情が沸き起こる。その感情に名をつけるならば憎悪であろう、外に吐き出さなければ身体が吹き飛ぶような憎悪が、彼の中にあふれ、収まり切れない憎悪が、黒いもやとなって少年を包み込む。


「ほう、それがあなたが初めに降ろしたというホノカグツチですか、面白い。クトゥルフ、相手をしてやりなさい」


 ルァアアアアアアアア


 蛭山の声に応え、どこか眠そうな声を出すと、かつてルルイエと呼ばれる都市で崇拝されていた神は、その巨大な触手を振り上げ、無造作に振り下ろした。触手が地面に激突したその瞬間、ビリビリという衝撃とともに地面が揺れる。揺れる地面の上、微かにうつむきふらふらと身体を揺らしている少年に向け、怪物は触手を地面に滑らせながら叩きつけた。だが、

「・・・・・・ふむ、さすがは“神殺し”。この程度では効果はありませんかぁ」


 山をも粉砕するその一撃は、だが総一郎が無造作に突き出した義手によって止められていた。正確に言えば、太さが八メートルを超す巨大な触手を、少年が義手で“掴んで”いるのだ。


「ガァァアアアアアアアアッ!!」

 もはや人の言葉を発する言葉をやめた憎悪の神の化身が、鉄の腕で触手を焼きつぶす。痛みに絶叫を上げながらちぎれた触手を引っ込めると、クトゥルフはさらに別の触手を彼に向かって振り下ろした。だが、その速度よりも、憎悪の化身が蛭山に向かって弾丸のように飛び出すほうが早かった。

「ほ、ほう。これは一大事、ですが」

 向かってくる憎悪の化身に多少驚いた反応をしつつ、それでも余裕があるのか科学者にしては信じられない速度で後ろに跳躍すると、蛭山はパチンっと音を鳴らした。すると、先ほどまで後方に避難していた猟犬たちが前に飛び出し、自分たち同様黒い靄に包まれた相手に向かっていく。

「ああ、彼らについて一つ種明かしをしましょうか。彼らティンダロスの猟犬は、小型の動物に私が開発したあるものを入れて完成させたのです。そのあるものが何かわかりますか? 四年前、貴方が神降ろしの儀を行い、そして暴走の果てに壊滅させた部屋、其処に残された、憎悪の神、つまりホノカグツチの残りかすを採取して開発した、いわば憎悪の塊というやつです。そう、彼らを生み出したのは貴方でもあるんですよ。さあどうします? 自分と同じ力を持つ彼らに、いったいどう対処します? 彼らは今度は、死ぬまであなたの相手をしますよ・・・・・・なっ!?」

 嘲笑う蛭山の前で、憎悪の化身はおそらく右腕と思われる部分をゆっくりと前に出した。するとどうだろう、猟犬たちの体を覆っていた黒い靄が彼らの身体を離れて飛んでいく。そして、憎悪の化身に触れた瞬間、彼らのまとっていた憎悪は、そのすべてが吸い込まれ、消えた。


「これはなかなか予想外の展開ですねぇ、まさか戦いもせずに彼らを無効化してしまうとは・・・・・・こうなれば、最後の切り札を出すしかありませんかぁ」

 
 黒い靄を失い、バタバタと倒れて動かなくなる小動物たちを見て強く舌打ちすると、蛭山は懐に隠していたそれを取り出した。






 総一郎は、自分の身体に新たにどす黒い感情が流れ込んでくるのを感じた。

 それは理不尽に殺された小動物たちの憎悪だ。恐らくそういったものばかり集めたのだろう、家主に捨てられたり、元々野良だったものはまだいい、遊び半分で、あるいはうっぷん晴らしのために殺され、虐げられた彼らの憎悪が流れ込んでくる。しかも、死後無理やりに蘇生され、実験のため、そして望んでいない戦いのためにその魂までも汚されたのだ。その強い憎悪は、総一郎のまとう憎悪に勝るとも劣らない物だった。




  誰かを憎むって、そんなに悪いことなのかな、お兄ちゃん



 
 闇の中、憎悪の神である少女の囁く声がする。確かに負の感情といっても、憎悪もまた生き物の感情の一つであることに変わりはない。それに、誰かを憎むことは、それが生きる力になるときもある。




  そう、憎しみは生き物にとって当然湧き上がる感情なの。さあお兄ちゃん、だからゆだねて、自身の憎悪に。






 少女の囁きは、甘美な毒となって総一郎の精神を侵していった。




「ァアアアアアアアアッ!!」




 すべての猟犬がその憎悪を吸われ、小動物の死骸になって地面に倒れた時、憎悪の化身に新たな変化が起こった。肉体が、めきめきと音を立てて変わっていく。四足の、巨大な狼のような姿に変わると、それは蛭山に向かって再び突き進んだ。


「獣の憎悪を取り込んで、己が獣となり果てましたか、自分の感情を制御できないとは、まだまだ子供の証拠ですねぇ。いいでしょう、教育して差し上げます・・・・・・クトゥルフ!!」

 ルォオオオオオオオオオオッ


 蛭山の声に、怪物はその巨大な足を持ち上げると、自分の足下を走る、黒いネズミのような物体に降ろした。その動きは緩慢だが、巨大というだけあってその動きはかなり早い。しかし、それでも獣を踏み潰すことはできなかった。急に方向を変え、頭上から向かってくる足を避けると、獣は蛭山に向かってその爪を振り下ろす。だが、


「残念、想定済みです」

 
 だがその爪が蛭山に届くことはなかった。その爪が男に届くか届かないかまでの距離まで来たとき、ガンッと甲高い音を立てて弾かれたのである。だが、獣の思考ではそれを不思議に思うことはなかった。ただやみくもに己の牙や爪を使って通じない攻撃を繰り返すだけである。



「これぞホノカグツチの残りカスを解析して作り上げた絶対防壁。ただ攻撃を繰り返すだけの貴方では、絶対に破ることはできません。それにいいのですか? 私だけに意識を集中していると」



 防壁にしがみつき、その牙でどうにか破ろうとしている獣の頭上に黒い影が写る。その暗さに、獣が飛びのこうとした瞬間、



 その身体を、前からクトゥルフの触手が貫いた。





「ふむ、やっと終わりましたか」



 

 触手に貫かれ、意識を完全に失ったためか人の姿に戻った少年を見て、蛭山は不自然に尖っている顎をなぜた。


「しかし被害は甚大です。猟犬をすべて失いましたし、クトゥルフにも被害が出ました。まあ、猟犬はまた作ればいいのですが。幸い、いい材料も手に入りましたしね。事が済み次第、貴方にはいろいろと実験に付き合っていただきます」

「・・・・・・う」
「おや、まだ生きていますか。胸を貫かれて、随分としぶといですねぇ。ああ、蔵王権現の加護というやつですか。クトゥルフ、やってしまいなさい」


 かすれた声で呻き、指先をぴくぴくと痙攣させる少年を見た蛭山の指示で、怪物の口の部分から生えている細い触手が、まるで鞭のようにしなり、少年の右肩から左腰に掛けて、一直線に切り裂いた。



「がっ!?」


 傷口から鮮血が噴出し、深く切り裂かれた腹部から腸が見える。それでもなおこちらに向けられていた義手が、今度はいきなり爆ぜた。吸い込みすぎた空気に耐えられなくなり、破裂したのである。

「おやおや、最後の武器まで失いましたか。亜空間に隔離してもいいですが、出雲に住む人々に対しての示威行為にもなりますからねぇ。このままにしておきましょうか」

 

 再び蛭山を肩に乗せ、脳無したる巨神クトゥルフは、静かにその歩みを再開した。









「駄目だったか」



 ひび割れた巨大なモニターに映る、少年と怪物の死闘、そして彼が触手に貫かれて敗れたところまで見届けると、玄は重々しく息を吐いた。と、自分の横を誰かが入り口に向けて駆けだしていく。その人物の服を、玄はとっさに掴んだ。


「・・・・・・どこへ行く、否、聞かなくてもわかるな」
「放してください、総一郎がああなった以上、今出雲に怪物に勝てるものはほとんどいません。今度は私が行きます。動けないあなたに変わって」


 怪物が歩くたびに発生する地響きによる都市崩壊を防ぐため、地脈と一体化して立ち上がることすらできない玄に、義人は血走った眼で言った。


「貴様が言ったところで勝てるとは限らん。奴はどうやら不完全に復活したため、再生能力と知力を持っていないようだが、それでも風の属性を得意とする貴様では分が悪い」

「ッ、ではどうしろというのです!! 蛭山との盟約により、少なくとも今夜いっぱいは、朱華様と青琉様はこちらに来ることはできません。そしてこのままでは、今夜中に出雲は崩壊します!!」
「分かっている。最悪の事態になったら、“切り札”を使う。だが、それは奴が出雲に入らなければ使えない切り札だ。今は火砲や呪術で、何とか足を止めるしかない。貴様には、その指揮を執ってもらうぞ」









 ここ、は・・・・・・どこだっけ そして、ぼくは・・・・・・・・・・・・だれ?



 もはや自分がどんな存在だったかも忘れた“それ”は、暗い闇の中、ぼんやりと意識を浮上させた。自分はいったいいつからここに居るのだろうか、永遠にも、そしてつい先ほど来たばかりにも感じる。



 そういえば、わたし、は、おれは・・・・・・今まで、何をしていたんだっけ


 暗闇の中で音がする。それは二つの単語を組み合わせた言葉だ。イア、イアイア、
イアイアイアイア、イアイアイアイアイアイアイアイア、それはただ周囲に響くだけにも、“それ”に語り掛けているようにも感じられた。



 なんだろう、心地いい? 気持ち悪い? ここに居たい、ここに居たくない? ああ、もうどうでも、いいや・・・・・・いい、あ




 薄れゆく意識の中、“それ”は周囲と同じように、イアイアとつぶやき続けた。



 それからどのぐらい時間が流れただろうか、腰にあたる何かの感触に、“それ”はふたたび目を覚ました。ぼんやりとした意識の中、緩慢な動作で下を見下ろすと、其処には風もないのに揺れている、何の変哲もない小さな缶バッジがあった。


「・・・・・・・・・・・・あ、うぁ」


 その存在に気づいた時、闇の中にぼんやりと光が現れた。少女の姿をしたその光は、“それ”に対し怒っているようにも、泣いているようにも見える。

 そして“それ”は、彼女のことを知っていた。

「あ・・・・・・あ・・・・・・あ」

“それ”の頬を涙が伝う。なぜなら、目の前にいるのは、どんなに願っても、もはや会えない存在だったからだ。


「・・・・・・俺の守りたかった人、私の助けたかった人、僕の・・・・・・だれよりも幸せにしてあげたかった人」


 少女に向かって、“それ”はふらふらと、今まで存在することすら忘れてしまっていた手を伸ばした。

「さよう、なら・・・・・・穢れなく、尊い貴女は御仏の住む世界へと旅立ち、罪深い僕は転生せずに、永遠の奈落へと落ちるでしょう。弥勒の果てのその先まで、僕と貴女はお別れです」

 “それ”の意識がはっきりしていくたび、少女の姿はぼんやりと陽炎のように霞んでいく。だが、その表情には“彼”が好きだった笑みが浮かんでいた。


「はい。確かに来世なき身なれども、俺には、私には、僕にはまだやることがある。やらなければならないことがある・・・・・・だから、さようなら」


      それでこそ、私の大好きなお兄ちゃんだよ!!



  “彼”の目の前で、笑みを浮かべたまま、少女の姿は闇に溶けるように消えていった。




さようなら  さようなら  さよう、なら



 おそらく、もう二度と会うことがないであろう少女の面影に、“彼”は涙を流しながら、別れの言葉をつぶやいた。




 少女が消え去ると、再び“彼”の周りを闇が覆う。だが、それは今までの闇とは違った。底なしの、のぞき込むものに恐怖を与えるような闇から、夜寝ているときに瞼の裏に広がる、どこか暖かく、静かな闇に変わっている。できれば、どこかぬるま湯のようなこの場所にずっと浸っていたい。そんな感情が、“彼”の心の中にできた時、



“帰ってきて。総ちゃん、うちの所に・・・・・・約束や”




 髪をツインテールにした、勝気な少女の姿が、目の前に現れた。


「・・・・・・ああ、そうか、そうだな桜子。約束は、守らないといけないよな」


 どうやら自分は、目の前の勝気な少女には、どうやってもかなわないようだ。その事実を笑いながら受け止めると、“彼”は、“少年”は、自分のただ一つ残った生身の拳をぎゅっと握りしめた。


「僕はまだ、帰らないといけないんだ・・・・・・いるか、蔵王権現」





『ほう、ようやく我の存在を思い出したか、小僧』


 少年が叫ぶと、闇の中に突如巨大な青い炎が灯った。それは徐々に人の形をとっていき、やがて見上げても先がないほどに巨大な、三つ目で青い肌を持つ、荒々しい神へと姿を変えた。



『それで? 何か言い訳はあるか小僧、貴様は少女を救えなかったことで己を責め、その償いに・・・・・・いや、償いですらないな。貴様は自分の弱さから目を背け、蛭山を殺すことで安らぎを得ようとしたにすぎん。契約した時に行ったはずだ、我と契約した以上、貴様に安らぎはないと』

 
 出会った時と同じか、それ以上の凄みで権現は彼を睨みつけた。だが、少年は恐怖を感じなかった。彼はこの荒神に出会ってから今まで、恐怖を感じたことは一度もなかった。ただひたすらに厳しいと感じたことはあったけれど。



『今の貴様は瀕死という状態ですらない。肉体は九割九分が死に、我の力で何とか生きている状態だ。我が力を止めれば、すぐに死ぬだろう。さて小僧、貴様に問う。貴様はどうしたい? 生きるか? それとも我との契約を切ってここで死ぬか? 今死ねば、貴様は痛みを感じることなく死ぬことができるだろう。そうすれば、少なくとも安らぎは得られるかもしれん。なぜならば、なぜならばなぜならばなぜならば、目覚めた貴様を待っているのは、死よりも恐ろしい修羅の道なのだから』

「ありがとう権現、気遣ってくれて。でもすまない、約束したんだ、必ずまた会うって、伝えたいんだ、その人に自分の気持ちを。だから僕は生きる。たとえその先が修羅の道であったとしても」

 自分を睨みつける蔵王権現を正面から眺め、少年は自分の心を正直に荒神に伝えた。


『・・・・・・ふん、貴様は四年前同様甘い男のようだ。だがいいだろう、貴様にその覚悟があるならば、我は今一度、貴様に力を貸そう。そして今一度問う。我が力をもって貴様は何を成す、小僧・・・・・・否、日村総一郎よ』

「僕は助ける、助けを求めている人々を。僕は救う。虐げられている人々を。そして僕は守りたい、僕の大切な少女を!!」



 その瞬間、総一郎の周囲を、まばゆい光が包み込んだ。目を瞑らなければ、焼き尽くされそうになるその光の中で、だが少年は決して目を閉じることなく、いつまでも前を見続けていた。









「・・・・・・おや?」



 火砲や呪術、その他さまざまな攻撃が飛んでくる中、出雲市までおよそ三キロまで迫ったクトゥルフの肩に乗っていた蛭山は、ふと顔を上げた。出雲からの攻撃で怪物が負傷したからではない。自分の切り札である絶対障壁により、出雲からの攻撃は一切クトゥルフと自分には効いていない。それがなくとも、彼らの攻撃など、クトゥルフの歩みを遅くするだけの効果しかない。にもかかわらず出雲を守るため、逃げることなく攻撃を行う人間達を、嘲りながら、彼らは出雲に迫っていた。



 その彼が顔を上げたのは、すぐ横に触手で貫かれて垂れ下がっている、多少手古摺らせてくれた、かつて少年だったものが微かに動いたように思えたのだ。

「・・・・・・ま、死後に痙攣することもあるといいますし、おそらくそのたぐいでしょう」

 どうでもよさそうに前を向いた蛭山の横で、ぴくぴくと動いていた少年に、唯一残っていた、だらりと垂れ下がった右手が大きく開き、ぐっと力を籠めるかのように握られると、少年はそのまま、自分を押さえつけている触手にたたきつけた。


 ルォオオオオオオオオオオッ!!


「な・・・・・・なるほど、まだ死んでいなかったということですか」

 自分を貫いている触手が砕け、ちょうど怪物の肩に落ちた少年は、ゆらりと立ち上がると、まだ自分に突き刺さっている触手の先端を掴み、


「ぐ・・・・・・ぐ、ぁあああああっ!!」


 そのまま力任せに引き抜いた。



「おやおや、胸に穴が開いて、無向の景色が見えていますが、大丈夫ですかぁ?」
「・・・・・・なん、とか」
「・・・・・・ほう」

 嘲笑しながら聞いた蛭山は、だが相手が返答したのに驚いた。この少年は、確か自分に対する憎悪で暴走し、言葉すら失っていたはずである。

「一度瀕死になったことで暴走状態が収まりましたか。しかし随分と虫の息ですねぇ、もはや死に体ではないですか。私が手を下すまでもない。クトゥルフ、触手で払い落しなさい」



 ルゥウウウウウウッ!!


 蛭山の声に応え、少年を肩から払い落とそうと怪物は触手を一本、肩の上に滑らせた。だが、

「・・・・・・」
「なっ!?」

 その一撃を、総一郎はうつむいたまま、横に突き出した生身の腕でぴたりと止めていた。


「こ、これはなかなか、先ほどは義手に加護を込めることで止め、粉砕していましたが、今回は生身の手で止めるとは、しかも弾くのでも、受け流すのでもなく、あくまでも止めるだけとは。いや、素晴らしい。それが蔵王権現の力というわけですか」
「・・・・・・あなたに、一つ問いたい」

 触手を片手で抑えた影響で、権現の加護より出血を抑えているはずの胸の傷から大量の血が流れる。それでも総一郎は顔を上げることなく、力強くそう言った。

「おや? なんでしょう。私に教えられることでしたら、何でもお教えいたしますよ?」
「あなたは、いったい何の目的でこの哀れな怪物を作ったんだ、綾乃ちゃんや多くの少女を犠牲にして作る価値が、この怪物にはあったのか?」
「おや? それを聞きますか。いいでしょう、お答えいたしましょう。私がクトゥルフを作り出したのは・・・・・・人々を守るためです」
「・・・・・・は?」

 蛭山の言葉に、少年の身体は一度、大きく震えた。

「人々を、ありとあらゆる災厄から守り、助け、そして幸せ暮らせる世界を作るためです。綾乃さんたちはその世界のために必要な礎であり、クトゥルフは、いわばその世界の番犬なのですよ。幸福な世界の実現のために、才無きこの身が役立てるというのであれば、これ以上の幸せはございません」
「・・・・・・・・・・・・確かに、確かにあなたの言っていることは、正しいのかもしれない」

 肩に溜まった自分の血に足を滑らせながら、不意に、総一郎はそう言った。

「ほう!? わかってくれましたか。結構、ならばどうです? 幸福な世界の実現のため、共に努力するというの「けど!!」・・・・・・」


 自分の言葉を遮られ、ぶぜんとする蛭山の前で、総一郎は初めて顔を上げた。その両目は、まるで炎のように真っ赤に染まっている。


「けどその世界に、貴方が今まで犠牲にしてきた、綾乃ちゃんを始めとした、多くの人々の名前はない!! 迦具土ぃっ!!」


 少年の叫びに応えるように、彼の影が、ドクンと脈打った。







 火之迦具土は、自分が少年に呼ばれたことを知った。闇の中、にこりと笑みを浮かべて立ち上がる。先ほどは惜しかった。彼の中に心地よい憎悪があふれかえり、もう少しで完全に支配することができたのに、あと一歩というところで触手なんかに貫かれ、瀕死の重傷を負った宿主は意識を失い、自分はこの暗い闇の中に戻された。四年前と違い、彼女は自由に少年の身体を抜け出すことができなくなっていた。それは彼が成長したということもあるが、それ以前に自分の次に降ろした蔵王権現が、自分を踏みつけて離さないのだ。しかし、少年が自分に呼び掛けた時だけは別である。今まで彼が自分を呼んだのは、先の戦闘を除けば短時間、しかもその時、少年の心は憎悪に溢れてはおらず、こちらを憐れみ、慈しむものだった。さすがはすべてを守り、救うと宣言した甘い性格の持ち主であるだけのことはある。



 ゆらりと立ち上がると、火之迦具土はいつも通り、周囲にある憎悪の海の中に飛び込んだ。すると、彼女の周囲を憎悪の靄が張り付いていく。これこそが、先ほど総一郎が自分を呼び出した時、そして四年前の神降ろしの際、意識を失った彼に覆いかぶさった黒い靄の正体だった。



「待っててお兄ちゃん、私が今教えてあげる。この世界で最も強い感情は、憎悪だということに」

 くすくすと笑いながら、少女は憎悪の海の底、淡い光を放つこの世界の出口に向かって泳ぎ続けた。





 その身を、甘美なる憎悪に包みながら。







「さあお待たせ、お兄ちゃん・・・・・・え?」





 そして、その光を抜け少年のもとに来た時、彼女はいつも通り彼に覆いかぶさろうとして、踏み出しかけた“足”をふと止めた。下を見ると、自分の足が見える。足だけではない、自分の身体も、手も、要するに黒い靄をかぶっていない本来の彼女の姿のまま、少女はこの世界に呼びだされたのだ。


「え・・・・・・な、なにこれ、やだ、何で!?」

 いつもは黒い靄を通してみるぼやけた世界が、今は鮮明に彼女の目に映る。その恐怖に、少女は両手で肩を抱えて座り込んだ。



「何で? 何で靄が消えるの、やだよ、怖いよぉ!!」
「・・・・・・大丈夫だ」



 座り込み、涙ぐむ少女の頭に、ふと誰かの手が置かれた。炎と憎悪の神に触れたのだから、その手の持ち主は全身が骨まで溶けて焼き尽くされる。しかし例外が一人だけ、彼女をその身に宿している総一郎ただ一人だ。ただそれでも骨が解けるほどの激痛を感じないというわけではない。痛みは感じる。しかしそれは幻痛であり、実際には少年の手は燃えていない。つまり、彼女の頭に手を置いた少年の腕は溶けることなく、彼にはただ痛みだけが襲い掛かっているのだ。


「あ・・・・・・」
「大丈夫だ、怖いなら僕が守ってやる、君を絶対に傷つけさせたりはしない。だから、だから力を貸して欲しい・・・・・・火乃花」
「あ、あの・・・・・・はぃ」


 しゃがみこむ少女を正面から見つめ、前々から決めていた名で、総一郎は呼んだ。話せるようになったら、名前を付けてやりたい。火之迦具土について図書館で調べ、彼女が生まれてきた時に母親を殺し、父親に殺された神だと知った時、総一郎が思ったのはそれだった。だから瞑想の時、彼女に呼び掛けていたのだが、今ようやくその願いがかなったのだ。



 彼に頭をなぜられながら、顔を真っ赤にしてうつむいた少女は、自分の胸に手を添えた。と、其処から小さな淡い光を放つ宝玉が現れる。それこそが、火之迦具土の力の結晶だった。




 その力の結晶に、少女はふっと息を吹きかける。すると、結晶はその形を徐々に変えていく。まず、塊が横一直線に伸びた。棒のような形をした先端が、大きく左右に飛び出る。それは、まるで大きな鎚のような形をしていた。

「あ、あの、どうぞ・・・・・・です」
「ああ、ありがとう」

 優しく笑みを浮かべて少女の頭をもう一度なぜてやると、総一郎はその巨大な鎚を受け取った。途端に手のひらに激痛が走る。だが、少年は痛みを全く感じていないのか、顔をゆがめることもせず、肩を震わせている蛭山へと向き直った。


「え、え、え・・・・・・エクセレンット!!」

 
 肩を震わせてそう叫ぶと、蛭山は総一郎には目をやらず、少年の後ろで小さく縮こまる火之迦具土を凝視した。

「素晴らしい、黒い靄のようなものがカグツチだと思っていましたが、まさか本体が女性の姿だったとは!! これはいい、さっそく用事が済んだらクトゥルフとの交配実験を行いますか、もしかしたらガタノトーアなど、多くの眷属を生んでくれそうですからねぇ」

「ひっ・・・・・・」



 涎を垂らさんばかりの表情で見つめられ、火乃花は自分の前にいる総一郎の足にギュッとしがみついた。

「大丈夫、君を絶対に渡しはしない。もう僕から、何も奪わせない」
「おや、あなたまだ生きていたのですかぁ、邪魔だから早く死んでくれませんかねぇ、クトゥルフ、そいつはもう用済みだ。さっさと処分しろ」

 言葉の最後は、彼の本来の性格である冷酷さがにじみ出ていた。その言葉に従うように、怪物が再び触手を振り上げる。しかし、総一郎は逃げることなく、それを落ち着いた表情で見つめ、


「無駄だ」


 一言つぶやくと、降ってくる触手に、片手に持った鎚を振り上げた。


 ドゴンッ、と鎚が何か柔らかいものを殴りつけたような音がする。同時に、少年の足からビキリと嫌な音がして、胸に開いた穴から噴き出す血の量が増えた。だが、対するクトゥルフのほうはそれどころではなかった。鉄槌と接触した触手は炭を通り越して蒸発し、其処から伝わった熱により身体の半分ほどが炭化している。ル、ォオオオオと小さく悲鳴を上げながら、怪物の身体が崩れていく。

「は? なんだよそれ、何で、一撃で身体の半分が炭化するんだ、おかしいだろうがよ!! おい木偶、さっさとこいつをつぶせ、それ以外、脳無しのテメエにできることなんざないだろうが!!」
「無駄といったはずだ、この鎚を握った時、その使い方やらなにやら、全部頭の中に流れ込んできた。もう、その身体では満足に歩くこともできないだろう、今楽にしてやる」

 顔の半分が炭化し、もう一方の顔にあるうつろな目を見て、哀れに思った総一郎が鎚をぎゅっと握りしめた時、

「は、ははははっ!! 楽にだと? そいつは脳無しなんだよ、楽になりたいと考えることなどできるはずがないだろうが!! それよりいいことを教えてやる、綾乃は確かに成仏したようだが、他の女どもの魂はどこにあると思う? そいつに食わせたんだよ、まあ、正確には孕み女に食わせて、体内にいるこいつが吸収したんだけどな、だからその鎚でこいつを殺してみろ、未来永劫、女どもの魂は転生できなくなるぞ」
「それは大丈夫だ、言ったはずだ、こいつの使い方が分かったって」

 その時、不意にクトゥルフの身体が前後にふらふらと揺れ動くと、ゆっくりと前に倒れていった。斜めになった肩の上で、蛭山の身体がずるずると滑り落ちていく。

「くそ、この疫病神が・・・・・・がっ!?」

 強く舌打ちし、怪物を罵りつつ浮かび上がった彼の身体を、偶然だろうか、クトゥルフの背中に生えている触手の一本が打ち据えた。激痛により飛ぶこともままならず、彼の身体は倒れようとするクトゥルフの、その下に向かって落ちていく。

「さて、じゃあこっちもやるか・・・・・・ふっ!!」

 
 蛭山が落下したのを見届けると、総一郎は手に持った鎚を構えると、それを上空高く放り投げた。

「さ、捕まって」
「え? あの、は、はい」

 少年が差し出した手を、火乃花は顔を染めて握り返した。途端に彼の手を激痛が襲うが、痛覚がないのか、少年は痛みなど全く気にすることなく、少女を抱きしめ、背中にしがみつかせると、乗っている怪物の肩を強く蹴り、先ほど投げ上げた鎚同様、自分も上空へと飛びあがった。そして、落ちてくる鎚を再び手で握ったのは、目の前を、倒れていく怪物の頭がゆっくりと下に移動していった時だった。

「お前も、望まぬ復活をしたんだな。分かった、さっきも言ったけど、今度こそ楽にしてやる。眠るといい、弥勒の果てのその先まで。そして、そこでまた会おう」

 彼の言葉が伝わったのか、それとも単なる偶然か、ゆっくりと目を閉じるクトゥルフの額に、総一郎はただ一度、鎚を振り下ろした。



 その時、出雲にいる人々は確かに見た。小さな炎の塊が、怪物の脳天に激突し、怪物の身体が、炭となって崩れ落ちる、その瞬間を。





「・・・・・・」
「く、くくっ、怪物を倒したかよ、なら女どもの魂はともに滅んだか、これで転生もできねぇ、いい気味だ」

 炭化する寸前、怪物の触手が再び当たったのか、手足が変な方向に曲がり、虫の息になっている男を、地面に降り立った総一郎は無言で見つめ続けた。

「・・・・・・僕が倒したのは、あの哀れな怪物だけだ。さっきも言ったけど、この鎚を握った瞬間、この使い方が分かった。どうやら、倒す存在を指定できるらしい。敵の中に人質がいる場合、人質を巻き込むことなく、敵だけを倒せるように」
「は、ははっ!! なら女どもの魂は、無事に天国へと旅立ったというわけか、くだらねぇ。それで? 次は俺の番ってか」
「・・・・・・」

 眼鏡がどこかへ飛んでいき、彼の青い目に見つめられ、それを見つめ返し、総一郎は静かに頷いた。

「・・・・・・ま、いいや。さっさと殺してくれ。どうせ次のクローンに魂が写るだけの話だ」
「クローン?」
「あ、言ってなかったか、蛭山という男が生まれたのは百年以上前のことだ。最初の蛭山が死んで、その魂が作られたクローンに移されたのさ。で、俺は三体目のクローンってわけ。そんなに俺の中の野郎の魂が惜しいのかね、イサの子供たちって連中はよ・・・・・・さあ、さっさとやってくれ」
「・・・・・・さっきも言ったけど」

 総一郎は、蛭山を静かに見下ろすと、片手で鎚を振り上げた。

「この鎚は、攻撃する相手を選ぶことができる。つまり、あなたを殺すように指定したら、たぶん、あなたに攻撃した瞬間、他のクローンも滅ぼすことになると思う」
「・・・・・・は、ははっ!! そりゃ朗報だ、少なくともここ数十年で一番な。でもいいのか? 人殺しの汚名をかぶることになるんだぞ?」
「構わないよ、僕はすでに四年前、人を殺している。それに数が一人増えるだけさ」
「そ、か。んじゃ頼む、正直、痛くて痛くてしょうがねえんだ。自分の記憶じゃない、自分の記憶に魘されるしよ」
「ああ・・・・・・眠れ、静かに」

 ふっと息を吐いて目を閉じた蛭山に優しく笑みを浮かべると、少年は振り上げていた鎚を、躊躇なく振り下ろした。







「よっしゃ、これでどうだぁあああああっ!?」


 蛭山が作り出した、まるで迷路のような空間を彷徨うのに飽きてから、壁を壊せばいいんじゃねと思いついた雷牙が、襲い掛かる異形の怪物の相手を精鋭部隊がしている間、壁を殴り続けて数時間、武雷神の力をもってしても皹一つ入る様子のなかった壁に、疲れ切り、後一撃しか撃てないだろう雷牙は、渾身の力を込めて拳を叩きつけ、





「ぶべっ!?」

 彼の身体は、突然消えた壁を通り越し、勢いよく大地に激突した。










「・・・・・・あ、さすがにちょっとやばいかな」

少年の意識が朦朧としたのは、蛭山の身体が消滅し、火乃花が自分の中に帰り、ふと明けていく夜空を見上げた時だった。手足の先からだんだん冷たく、そして痺れるような感覚に襲われる。そして、自分がもう立っているのか、それとも倒れているのか、それ以前に生きているのか死んでいるのかもわからなくなった時、彼は自分の身体を支える、誰かの手を感じた。





「よく頑張ったな、総一郎」




 それは、数年ぶりに聞く、父親の声に似ていた。















 


「千里、総ちゃんは!!」
「雷、病院では走らないでください、それに声も大きいですよ」


 閉じ込められていた場所が突然消えたことにより、無事この世界への生還を果たし、親友が病院に担ぎ込まれたことを知り、息を切らせて駆け込んできた雷牙の前に手のひらを出して動きを止めると、千里は集中治療室の前の椅子にうつむきながら座っている桜子を指さした。少女の手には、総一郎がつけていた、彼が触手に突き刺されたときに爆発し、原型もないほど壊れた義手が乗っている。

「柊っち」
「雷、こちらへ」


 呆然と少女を眺める恋人の裾を手で掴むと、千里は集中治療室の前の通路から角を一つ曲がったところにある、自動販売機の所まで彼を連れて行った。


「千里・・・・・・」
「今夜が山・・・・・・いいえ、正直に言います。すでに危篤状態らしいです。確認されているだけでも、右腕の骨が複雑骨折、わき腹に数か所の裂傷、足の骨が粉砕、右肩から左わき腹にかけて裂かれた傷、極めつけは肺を貫いた一撃で、もって二、三日だそうです」
「二、三日って・・・・・・おい、マジかっ!!」
「ええ、マジです。といっても、普通の手術であれば、ですが」
「は? 普通の手術って、どういう」

 千里の言った言葉がわからず、雷牙が聞き返した時だった。病院の出入り口のほうが騒がしくなり、そちらから数人の足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。それから数秒もたたないうちに、人影が三人、角を曲がってこちらに近づいてきた。二人は雷牙も見知っている青琉と朱華、もう一人は知らないが、白衣を着た二十代後半の女で、口にハッカパイプをくわえている。

「あ、あんたら、今頃何しに!!」
「うるさい、いま貴様に構っている暇はない。水口、総一郎はまだ生きているか!?」
「え? は、はい。辛うじて、という状態ではありますが」
「そうか、生きているならいい。頼んだぞ“フェレス”」
「・・・・・・へいへい、ったく、いきなり居場所突き止められて、ばらされたくなきゃついて来いって言われてついてきたけど、やることが結局手術かよ」

 自分の問いかけに千里がうなずいたのを見て、朱華は見知らぬ女を引きずるように集中治療室に入っていった。そのすぐ後に、今まで手術をしていた数人の医者と看護師が治療室からたたき出される。

「なんなんですか、あれは」
「私の旧友でな、生きている者ならばたとえどんな状態からでも復活させられるという奇跡のような腕前を持つ医者だ。だが本人は隠れて暮らすのが好きでな、やれやれ、探すのに苦労した。ああ、後は我々が見ているから、君たちはもう帰りなさい」
「・・・・・・本当に、治るのか」
「それは間違いない。ただ、治っても彼の意識が戻るかどうかは保証できないが」
「・・・・・・総ちゃんを、お願いします。あと、柊は勘弁してください、彼女、たぶんほかの所に行くより、総ちゃんのそばにいたほうが落ち着くと思いますので」
「分かった、彼女の様子は私が見ていよう」
「・・・・・・ちょ、雷!? す、すいません、失礼します」

 頷いた青琉に一礼すると、雷牙は千里の手を引いて出入り口へと歩き出した。彼に手を引かれた千里も、何とか声を出して別れを告げると、同じく出入り口まで歩き出す。その歩みが止まったのは、病院から出て、近くの公園に来た時だった。

「あの、雷・・・・・・」
「・・・・・・」

 声をかけようかどうか迷っている千里あったが、次の瞬間、小さく悲鳴を上げた。自分の腰に、雷牙がしがみついてきたからである。声をころして泣く恋人の、その震えている肩を、ふぅっと息を吐いて微笑すると、千里は優しく抱きかかえた。

「大丈夫、総一郎さんは死にません。きっと、私たちの、特に柊さんの所に返ってきます」


 背中をなぜながら、優しく語り掛ける少女の言葉に、親友を失いかけている少年は、泣きじゃくりながら、何度も頷いた。















「手術は成功だ」



 二日後の朝、休憩室のソファに寝ころびながら、フェレスは旧友である青琉に簡単に答えた。

「いや、まさかこの私が三十六時間も一つの手術をするとは思わなかった。裂傷も骨の粉砕も大した問題じゃない、胸に開いている穴もそうだ。だが彼の火傷、特に右手の火傷がひどい。ありゃこの世界の炎で焼かれたものじゃないな。骨の髄まで焼かれ、でもまったく傷ついていない。正直その治療だけで十時間以上費やした。いったいどういった火傷だ?」

「・・・・・・日村総一郎は、その身に火之迦具土を降ろしている」
「あちゃぁ、よりによって迦具土かよ、ならあの火傷も説明がつくな。しかし、人の身でありながら、“王族”すらも消滅させる、問答無用の神を降ろすか」
「ああ、そしてその神を制御するために、今度は蔵王権現を降ろした。二柱をその身に降ろした彼は、もはや純粋な人間とは言えないだろうな」
「・・・・・・ま、それでもテメェで決めた道だ。他人がとやかく言える権利はないよ。さて、手術は終わった。目覚めるかどうかは、後は本人の問題だ。私はもう帰らせてもらうぞ」
「ああ、それは構わんが、フェレスよ、せめてどこに隠れるかぐらい、言っておいてもいいんじゃないか?」
「ふん、そうしたらまた今回みたいなことになるだろう? 今回は特別だ、特別。朱華の泣きそうな顔も見れたことだしな」


 不意に、休憩室の中に強烈な突風が吹き荒れた。はあっと息を吐いた青琉が目を瞑り、また開いた時、そこにもう彼女の姿はなく、どこかで小さく、鴉の羽音がした。


「あとは本人の問題か。だが、このまま眠らせておいたほうがいいということもあるぞ? すくなくとも眠ったままなら、彼はもう戦うことはないのだからな」






 青琉の言葉どおり、総一郎は目を覚ますことはなかった。彼が眠り続けている間も時間は過ぎていき、出雲を襲った“大地震”から、人々は徐々に平穏な暮らしに戻ろうとしていた。正月が過ぎ、節分が過ぎ、バレンタインデーが近づいても、それでも総一郎は目を覚まさなかった。その間、クラスメートや教師、朱雀門で働いている松浦を始めとした職員達、大地震の際に彼に助けられたという幼稚園児たちや母娘など、多くの見舞客が訪れたが、彼らは眠っているだけの総一郎を見て、一度、もしくは二度来ただけであとは来なくなり、見舞いに来るのは雷牙と千里、義人と朱華、そして見舞いではなく、毎日泊りがけでずっと彼が起きるのを待っている桜子だけになった。


「一度帰ったほうがいいですよ? 家の方も心配されてるでしょうし」
「ええよ、ちゃんと、好きな人の世話しとるっていうたし」

 一週間丸ごと病院に泊まり込んだ桜子を心配して、千里が見舞客が泊まる際に使用する、小さな部屋をのぞいた時、学生だというのに何日も同じ服で、髪はぼさぼさ、頬がやつれた彼女を見てそう言うと、少女はからからと笑って首を振った。

「ですが、さすがにその恰好では、総一郎さんが目を覚ました時、気まずくなりますよ。せめてシャワーで済ませるだけでなく、ちゃんとお風呂に入ってください。そうだ、今から近くの銭湯に行きませんか? この時間ならばまだ空いているでしょう」
「え、けど・・・・・・先頭に行っている間に総ちゃんが目ェ覚ましたら」
「その時は携帯に連絡をもらいますし、大丈夫ですよ。さ、行きましょう」
「え? ちょ、引っ張らんといて、千里ちゃん!?」

 千里に半ば引きずられるように、桜子はこの一か月の間、彼女の部屋となっている個室を後にした。



「いいお湯でしたね」
「うん、けどやっぱり恥ずかしな。ちゃんとシャワー使こうていても、こすったら垢がぼろぼろ落ちたし」
「しょうがないですよ。ずっと病院に泊まり込みだったし」
「うん・・・・・・それに、ありがとうね、晩御飯おごってもろうて」
「かまいません、これからも総一郎さんの看病を続けるのでしょう? なら、しっかりと栄養のある食事をとらなければだめです」
「うん・・・・・・なあ、ちぃちゃん」

 不意に立ち止まると、桜子は冬の夜空を見上げた。

「はい、なんでしょう」
「・・・・・・総ちゃんが無理したんは、やっぱりうちのせいかな」
「いえ、そんなことはないと思いますが」
「けど、うちが禍なんて渡さなければ、総ちゃん、無理せんで危なくなったら撤退したはずやろ? それに、必ず帰ってきてって約束したの、重みになっとっちゃうんかな」
「それは私も同じです。そもそも、私が禍のことを教えなければ、彼は貴方の所に行くことはなかった・・・・・・後悔してますか? 彼を好きになったこと」
「するわけないやろ!! うちにとって、総ちゃんは誰よりも一番好きや。正直、総ちゃんが死んだとき、後追うつもりやったし」
「それは・・・・・・」

 桜子が何気なく言った言葉に、千里は少し顔をゆがめた。

「けど、総ちゃんは帰ってきてくれた。それに、ちゃんと生きとる。けど、けどな、ずっと見てへんのや、総ちゃんの笑顔」
「・・・・・・まったく、これは総一郎さんには是が非でも目覚めてもらわなければなりませんね。そして、乙女を泣かせた罰として、一発叩いてやりましょう」
「・・・・・・うん、うん、そやね、うん」

 千里の肩に顔をうずめ、桜子は静かに泣き出した。
















「愛されてるね、お兄ちゃんは」


 少女二人の様子を見て、綾乃は自分の膝に頭をのせて眠っている総一郎の頬をゆっくりと撫ぜた。彼らがいる場所は穏やかな草原で、遠くには小さな家が見える。


「さてと、お兄ちゃんを独り占めする時間もおしまい、もう行かなくちゃ」


『もう、よいのか』


 う~んっと背伸びをした綾乃の頭上から、荒々しい声が響く。この草原には似つかわしくない、青い肌をもつ三つ目の荒神が、少女を見下ろしていた。

「うん、本当はお兄ちゃんを独り占めしたかったけど、それは待っている人たちに悪いし、それに、“本物”の綾乃ちゃんはもう天国に行ったしね。私は彼女の残りカス、お兄ちゃんの中に残った彼女への未練が、形になったものに過ぎない」

 少年の頭をそっと草原の上に降ろして立ち上がると、少女は荒神にぺこりと頭を下げた。

「ありがとう、蔵王権現。今まで私をここに居させてくれて」

『構わん。そなたがいるほうが、総一郎の回復につながると考えた、ただそれだけのことだ。さあ、天まで昇り、綾乃と一つになるが良い。我が導いてやる。目を瞑れ』

「うん。さよなら、お兄ちゃん」


 少女がゆっくりと目を瞑ると、その身体を誰かが抱きしめ、持ち上げる。母親に抱きかかえられているような安らぎの中、少女の姿は掠れて消えた。永遠に。




『さて、其処にいるのだろう、出てくるがよい、火之迦具土』

「あ・・・・・・あぅ」

『大丈夫だ、もう踏みつけたりはしない』


 いつも自分を踏みつける荒神に優しく言われ、少年のすぐ横の、丈の長い草の中に隠れていた、おかっぱ頭で着物を着た四歳ほどの少女は、おずおずと進み出た。


『なぜ最後の戦いで、憎悪をまとえなかったかわかるか? それは総一郎が、憎悪よりもなお強い感情をその身に帯びていたからだ。その感情を怒りという。そなたの言う通り、憎しみは確かに力となる。しかしそれはいうなれば負の力だ。しかし怒りは違う。弱者を虐げる者への怒り、理不尽な暴力をふるう者への怒り、あの時総一郎は、そのような純粋たる怒りで我を忘れていた。そのため、そなたは憎悪を纏うこともできず、なにより、そなたの頭に手を置くことができたのだ。怒りに我を忘れ、痛みを感じることがなかったからな』

「あ、あの・・・・・・えと」

『これからそなたには、我の下で鍛錬を積んでもらう。人と同様、神もまた成長しなければならん。そうしなければ、そうだな、もう総一郎はそなたの頭をなぜることはないぞ』

「あ・・・・・・やっ!!」

 頭をなぜられた時の優しい手の感触を思い出し、火之花という名前をもらった少女はふるふると懸命に頭を振った。


『そうか、ならば鍛錬に励め、やがてそれが、総一郎の力となるだろう』


 その時、ふと蔵王権現の身体が淡く輝いた。と、光り輝くその肉体が三つに分裂する。その三つは、先ほどの荒々しい荒神の姿ではなく、慈愛に満ち溢れた御仏の姿をしていた。

「我は弥勒菩薩、この者を慈しむもの」
「我は千手観音、この者を守るもの」
「我は釈迦如来、この者を救うもの」

「え・・・・・・と、あの?」


 突如現れた三体の仏に囲まれ、火之花はきょろきょろと彼らを見渡した。


「案ずることはない、かつて総一郎は、我らの救済を拒み、戦う力を求めた。だが、我らにも矜持というものがある。それゆれ、彼に断られた我ら三柱が合体し、蔵王権現の姿となって彼に降りたのだ。さあ、参ろうか火之花、まずそなたは、誰かを慈しむ心を知らねばならぬ」

「あ、あの、ちょっと、待って」

 
 自分に向かって伸ばされた弥勒菩薩の手を握らず、とてとてとかわいらしく走ると、少女は眠っている総一郎の傍らにしゃがみ込み、その頭に小さな手をのせた。

「おにぃちゃん、そろそろ起きないと、めぇですよ」


 それだけ言うと、火之花は自分に差し出された弥勒菩薩の手を握り、他の二柱の仏とともに、光の中へと消えていった。



「・・・・・・ん、んぅ?」


 

 誰かに頭を叩かれた感触に、少年がしかめっ面をしつつ薄目を開けたのは、その直後だった。






「・・・・・・あれ? ここ、どこだ?」

 ぼんやりとした意識の中、総一郎は掠れた目であたりを見渡した。周囲は白一色で、どうやら病室にあるベッドに寝かされているらしい。目をこすってよく見ようとしたが、彼に唯一残っている右手は、だが何かで固定されているのか、持ち主の意に反して動くことはなかった。


「さて、時間も遅いし、最後に花の水変えて、今日は終わりにしよか」

 千里とともに銭湯に行っていた桜子が戻ってきたのは、ちょうどその時だった。

「寒いっちゅうのに、今日もシクラメンは枯れずに頑張ってくれとる、うん、ええ子や。いま水変えるさかい、待っといて」
「・・・・・・さくら、こ?」
「ん~? 何ぃ、総ちゃん。ちょっと待っててな、今水変えてくるさか・・・・・・い」

 花瓶を持ち上げた少女は、隣からかすれた声で自分を呼ぶ少年の声に明るく答え、一歩踏み出した瞬間、その動きを止めた。

 ガシャンと音を立てて花瓶が床に落ちる。だが、彼女の頭には、もう花瓶のことは頭になかった。

「・・・・・・そう、ちゃん?」
「・・・・・・うん」
「ほんまに、ほんまに、総ちゃん?」
「ああ・・・・・・約束、したろ? 必ず帰ってくるって。ごめん、ちょっと、遅くなった、かな」
「っ!! 総ちゃんっ!!」


 弱弱しく微笑む総一郎の首に抱き着き、少女は大声で泣き叫んだ。




 その日、二人に何があったかは誰にもわからない。ただ、次の日見舞いに来た雷牙に抱き着かれ、号泣された時、彼と、そして共にに見舞いに来た千里に、総一郎と桜子は、恋人になったことを告げた。





 












 それから、数か月の日々が流れた。春が来て、夏が過ぎ、秋になって、そしてまた冬が始まろうとしていた。その間、総一郎は家族が眠っている墓にお参りに行った際、住職に頼んで墓の隣に小さな石を置いてもらった。死体を残さず消滅した綾乃たちに対する、せめてもの供養のつもりだった。また退院した後、少年が高校に通うことは少なくなった。合格した東京大学の教育学部で、教員免許を取るために教育実習が始まったのである。むろん、その前に取らなければならない必修科目は、他の人が三年かかるところを、彼はわずか半年で終わらせていた。








「・・・・・・」
「総ちゃん、何悩んどるの?」





 久々のデートで考え事をしている総一郎を見て、一糸まとわぬ姿で彼と一緒のベッドに入っている桜子は、ふと尋ねた。このところ、少年は物思いにふけることが多くなった。それは逢瀬の時だけではなく、たまに高校に来た時も、そして大学でも、鍛錬の時さえそうらしい。

「あ、いや、何でもないよ。それより悪いな、せっかくのデートなのに、どこにも行けなくて」
「ううん、家デートっていうのも乙なもんやし・・・・・・そや、なあ総ちゃん、一つ頼みがあるんやけど」
「うん? 何だ?」


 おそらく一生残るだろう、右肩から左腰にかけての傷跡と、胸の大きな傷跡を付けた、引き締まった少年の胸板に、桜子は甘えるように頬を摺り寄せた。

「あんな、冬休みに入ったら、うちと一緒に大阪に行かへん?」
「大阪に、か」

 彼女を抱きしめ、総一郎は天井で輝いているランプを見上げた。すでに何度も褥を共にしている間柄である。彼女の言おうとしていることは、彼にはすぐに分かった。

「けど、正直言って僕でいいのか? そりゃ、僕も近いうちにご両親にあいさつしなきゃいけないとは思っていたけど・・・・・・神降ろしをした人間は、極端に生殖能力が落ちる。二柱を降ろした僕が、子供を授かる確率はほとんど零に近い。それでも、いいのか?」
「ええよ。ずっと二人きりというのもええし、子供が欲しかったら養子をもらえばええ。子供ができんぐらいで、結婚しない理由にはならへん」
「桜子・・・・・・」


 桜子の言葉に、彼女の髪に軽く接吻すると、少年は向きを変え、少女に覆いかぶさった。


「あ・・・・・・明かり、消して」




 その数秒後、部屋の明かりは、完全に消えた。








「雷牙、ちょっといいか?」
「あれ、総ちゃん。何だよ、学校来てたのか?」


 教室に入った雷牙が、先に登校していた総一郎に声をかけられたのは、冬休みがあと数日に迫った、ある朝の事だった。

「ああ、教育実習がひと段落着いたからな。それより、ちょっと話があるんだ」
「ん? いいよ。屋上行こうぜ」


 立志院はエスカレーター式で、自動的に大学に行けるため、この時期試験勉強をしている生徒の数は少ない。しているのは、立志院大学ではなく、別の大学に入学したいと考えている、一部の生徒だけだった。むろん、彼らのいる特別クラスは、立志院大学への入学が義務付けられているため、冬のこの時期、学校に来る同級生はまばらであった。だが、いないというわけではない、そそれと総一郎の少し思いつめた様子から、雷牙は彼を屋上へと誘った。


「で? 何だよ話って」
「・・・・・・」

 総一郎に驕ってもらった缶コーヒーを飲みながら、雷牙は屋上のフェンスによりかかった。彼の質問に、総一郎は即答せず、すっかり近代的になった出雲の街並みを眺めていた。

「総ちゃん?」
「いや・・・・・・なあ、雷牙、高校卒業したら、お前どうする? やっぱり大学に進むのか?」
「まあな、すぐ高天原に入って、敵と戦うのも面白そうだけど、千里が大学に行くって言ってるし、キャンパスライフを楽しんでみるよ。総ちゃんはどうするんだ? 高天原に入隊するのか? なんか立志院や高天原では、総ちゃんのこと、“炎の鉄槌”とか呼んでいるらしいぜ」
「僕か? 僕は・・・・・・」

 どこか沈んだような笑みを浮かべ、総一郎はズボンのポケットに手を入れると、其処から表面が消えかかっている古い缶バッジを取り出し、眺めた。



「僕は、その「旅に出たいんだろ」・・・・・・雷牙、お前」



 呆然とした顔で振り向いた総一郎に、雷牙はにかっと笑って見せた。

「何年総ちゃんの親友やってると思うんだよ。それに、去年も同じようなこと聞かれたしな・・・・・・やっぱり、綾乃ちゃんのことか?」
「半分はそうだな、綾乃ちゃんが犠牲になったのは、僕が世間知らずだったからだ。少し調べれば、すぐに蛭山のことが分かったのに、それをせずに信じて送り出してしまった。だから世界を見て、見聞を広めたい。もう一つの理由は、妹を探すためだ」
「妹さん!? まさか、生きてるって情報があるのか?」
「いや、けど死んでるという情報もない。それに、義母さんが何年探してくれたにもかかわらず、遺体も見つからなかったんだ。きっと、どこかで生きてる」
「そうか・・・・・・いいぜ、応援するし、俺にできることなら何でも協力する。けど、柊っちはいいのか? あ、もしかして一緒に連れていくのか?」
「いや、もしかしたら危険な目に合うかもしれないからな、連れてはいけない。けどまあ、置いてけぼりにするつもりもないよ」
「は?」

 少し顔を赤くした総一郎の言葉を雷牙が理解するのは、これより少し後のことになる。








それは、冬休みが終わり、季節は春となり、いよいよ総一郎たちが立志院を卒業する日が明日に迫った日のことだった。義人や雷牙たちの協力により、こっそりと旅立ちの準備をしていた総一郎は、最後の荷物の確認をした後、ふと、机に向かった。机はきれいに片づけられており、隅には先日終えた教育課程の修了証書が飾ってあった。


 思えば、十二歳のころに両親と妹を失ってから、いろいろなことがここ出雲ではあった。朱華と出会い、彼女の養子になったこと、力をつけるために神降ろしの儀に参加し、憎悪の神に身体を乗っ取られたこと、入院している病院で、綾乃や雷牙、千里と出会ったこと、彼らに癒され、蔵王権現を降ろすことに成功したこと、生涯の師とも、第二の父ともいえる義人や、かけがいのない人となった桜子と出会ったこと、東京大学の編入試験に合格したこと、そして、綾乃を失い、クトゥルフと戦って、これを撃破したこと、その他日常生活や学校生活の、様々なことが少年の脳裏を横切った。


「・・・・・・やっぱり、黙って出ていくわけにはいかないな、迷惑もかけるし」


彼が旅立つことを決めたのは、義人や雷牙、桜子や千里など、限られた人たちしか知らない。明日、息子の卒業式に出席するため、昨日九州から急遽戻ってきた朱華にさえ、彼は言っていなかった。どうやら高天原では、すでに各隊で彼の取り合いが始まっているらしい。そのような状況で無責任にも旅立つことに罪悪感はあるが、旅立つ気持ちに嘘はなかった。



 だからせめて、義母に手紙を残していこう。そう決意すると、少年は引き出しから紙と鉛筆を取り出し、机に向かった。















 その日は、雲一つない晴天だった。卒業式は午前中のうちに終わり、仲のいい友人ではしゃぐもの、先輩や教師から声援をもらう者などで、立志院高等学校の校門は混雑していた。

「それで? 総一郎はどうする? 私とともにまっすぐ朱雀門に帰るか?」
「いえ、桜子たちと約束がありますから、帰りは夕方になると思います」
「そうか、まあ柊ならば、お前のことを任せられる。捨てられないように努力することだ」
「はい、義母さん」


 自分よりすでに頭一つ分は背が高くなった総一郎の肩をポンッと軽く叩くと、朱華は秘書の運転する車に乗り込んだ。彼女を乗せた車は、まっすぐ朱雀門へと走っていく。その後ろ姿を見送ると、総一郎は静かに頭を下げた。

「総一郎、もういいのか?」

 頭を下げる少年の肩に、再び誰かの手が置かれる。顔を上げた総一郎が振り返ると、そこにはスーツに身を包んだ義人の姿があった。

「義人さん・・・・・・はい、置手紙は残していますし、大丈夫です」
「そうか、では来なさい。僕の車に、すでに君の荷物は積んである」
「は、すいません。お手数おかけいたします」
「いや、いいよ。しかし、少し感傷的になるのは、やはり卒業式だからかな」

 静かに頭を下げる総一郎の頭をなぜながら笑うと、義人は少年とともに、自分の車が置いてある駐車場へと歩き出した。






「・・・・・・総一郎?」


 朱雀門の執務室で書類と向き合っていた朱華は、妙な胸騒ぎを覚えて顔を上げた。自分の大切な何かが遠くへ行ってしまうような、寂寥が心を埋め尽くす。


「・・・・・・」


 しばらく上を向いていた朱華は、書類を置いて立ち上がると、普段あまり入ることのない少年の部屋に向けて歩き出した。自分の子供といえど、男であるのだし、プライベートな空間に母親が入ってはまずいだろう。そう考え、今まであまり入らなかったが、今はいらなければ、一生後悔する。その考えが、朱華を部屋に向かわせた。

 少年の部屋に続く扉のドアノブを握り、ひねると、鍵のかかっていない扉はすんなりと開いた。少し扉を開けて中をのぞくと、普段からそうしているのだろう、部屋はきれいに整理されていた。いや、あまりに整理されすぎていた。ほとんど物はなく、まるでもう部屋の持ち主が返ってこない、そんな気持ちにさせられる。


「・・・・・・これは」


 扉を開け、一歩中に入った朱華は、ふと勉強机の上に、一枚の封筒が置かれているのに気付いた。封筒の表紙には、母さんへ、と書かれている。自分用に置かれた封筒を切り、中にある手紙を開くと、朱華は重々しい溜息を吐いた。



『母さんへ、数年にわたり育てていただいておきながら、このような置手紙一つ残して旅立つ親不孝者を、どうぞお許しください。昨年発生した事件において、綾乃ちゃんを失ったのは、確かに蛭山が悪いのですが、それでも、何も知らなかった世間知らずの自分にも責はあります。思えば、私は生まれてから今まで、ほとんど出雲を出ることはありませんでした。そのため、立志院を卒業したら、見聞を広めるため、また、まだ生きているかもしれない妹を探すため、世界を見て回りたいと思います。自分勝手な理由で旅立つことになりましたか、いつの日か帰宅した時、叱っていただければ幸いです。では、行ってきます。母さん。追伸、雷牙から、自分が“炎の鉄槌”と呼ばれていることを知りました。けど、炎の名は、母さんにこそふさわしいと思います。もちろん鉄槌などという物騒なものではなく、温かい、包み込んでくれるような炎ですけど』




「・・・・・・まったく、確かに、親不孝な息子だ」

 
 それほど長くない手紙を読み終えた朱華は、何かをこらえるように上を向くと、はぁっと息を吐いた。

「それで準備はどれぐらい進んでいる? 金は持ったのか? まさか、世界中を旅しながら、日雇いのようなことをするつもりではないだろうな」


 苦笑すると、朱華は胸ポケットから一枚の黒いカードを取り出した。どこでも使える、彼女名義のブラックカードである。使わなかったからか、今では確か数兆ほど溜まっているはずだ。むろん、ドルと円で。


 朱華が手を翻すと、ブラックカードはふっと煙のように消え去った。今頃は、少年の持つボストンバッグの片隅にでも入っているだろう。

「ああ、行ってこい総一郎、世界を見て回れ。そして、いつの日か大きくなって必ず帰ってこい。私の・・・・・・私の、たった一人の愛息子」



 旅立つ彼の姿を思い描き、朱華はにっこりと、誇らしげにほほ笑んだ。














「三十分後にここを通過する小型の飛空船を持っている友人に頼んでおいた。これを持っていれば、彼は目がいいから、きっとすぐに見つけてくれるだろう。その後は、海を渡って清国に行くことになっている。比較的安全な地域だが、治安は相当悪い。大丈夫か?」
「はい、何とかやってみます。いろいろと、ありがとうございました。」

 出雲を少し離れた高原で、大きな赤い旗を義人に渡され、小さなボストンバックを肩にかけた総一郎は、静かに頭を下げた。

「そうか。なら行って来い、総一郎。そして世界を見て、自分に足りないものを見つけなさい。ああ、これは選別だ」

 彼の肩をポンッと叩くと、義人は分厚い封筒を彼に差し出した。受け取って中をのぞくと、中には百ドル札が五十枚ほど入っている」

「せんせい、これは」
「何をするにしても、お金は必要だからね。まあ、僕のへそくりさ。じゃあ、僕たちはもう行くよ、ここに居ても、別れがつらくなるだけだから」
「はい、いろいろとありがとうございました」

 最後にもう一度、少年の肩を叩くと、義人は彼と、そして見送るために来た雷牙と桜子を乗せた車へと歩いて行った。




「おい、いいのかよ、柊っち」
「うん、ええんよ」


 その車の中では、外にいる総一郎をぼんやりと眺める桜子に、雷牙がおずおずと声をかけていた。

「ええんよって、お前、恋人がもう帰ってこないかもしれないんだぞ? 一緒に行かないにしても、せめて見送るとか」
「ありがと雷ちゃん、でもほんとにええねん。あ、それに一つ訂正、うちはもう、総ちゃんの恋人やないで」
「は? それってどういう・・・・・・って、おいその指にはめているの」
「ああ、やっと気付いた?」


 雷牙の視線が、自分の薬指に注がれたのを見て、桜子はにっと笑みを浮かべた。

「んじゃ改めて、柊桜子改め、日村桜子です。夫がいつもお世話なっとります」
「日村って・・・・・・え? いつ結婚したんだよ!!」
「冬にうちの実家に二人で行った時、総ちゃんから旅のこと聞かされてな、家族と話し合って、うちら二人とも十八歳やし、旅に出る前に結婚することにしたんや。といっても、役所に書類提出しただけやけど・・・・・・ま、うちの“初めて”全部やったし、代わりに総ちゃんの人生全部もろても、ばち当たらん」
「いやまあそうだけどよ、せめて俺たちに報告するとかしてもよかったんじゃ」
「それやと、すぐ周りの人にばれてまうやろ、そうしたら、総ちゃん旅に出かけられへん。それやから、役所に提出するだけにしたんや。さ、先生が来るで」


 納得がいかないのか、いまだにぶぜんとしている少年の横で、桜子は遠くに立っている総一郎を眺めた。








「神様、うち、神様が嫌いでした。だって、どんなにうちら鍛冶職人が努力しても、神様が気まぐれにくれる武器にはかなわんから。けど、けどもうええんです。うち、武器作るの、もうやめます。そのかわり、うちの一生のお願い、聞いてください。どうか、どうかうちの旦那に、総ちゃんに、ありったけの幸せを!!」


 涙を流しているのにも気づかず、少女は一人、旅に出ようとする夫の姿を、いつまでも眺め続けていた。







 








 風が、吹いた。
 

「・・・・・・ん?」

 そのかぜにのって、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。座り込み、少しうつむいていた総一郎が顔を上げると、その右肩に、白い小さな小鳥が一羽、止まった。


「綾乃ちゃん・・・・・・見送ってくれるの? うん、僕は大丈夫だよ、ありがとう」




 微笑して、妻に新しく作ってもらった義手で、そっと小鳥に触れる。その義手は、体内を流れている微量な電流を感知して自由に動かせるらしく、チタン製の指は、彼の意志に反さず、小鳥の羽を優しくなぜた。だが、人にある温かさまでは真似することはできなかったらしい。指の冷たさに驚いた小鳥は、羽を一枚少年の肩に落とし、青い空へと飛び去った。自分の肩に落ちたその小さな白い羽を指でつまむと、少年は、小鳥が去った空を、ゆっくりと見上げた。


「・・・・・・いい天気だなぁ」








 見上げる空は、どこまでも青かった。
































「・・・・・・それから、義人先生の友人が所有している飛空船に乗って、清まで送ってもらい、世界で一番翁大陸を東から西へと旅した。その間、清の紛争に巻き込まれたり、チベットでは武術を極めた老人と禅問答をしたり、ヨーロッパでは騎士を名乗る男と決闘したり、アメリカにわたってからはマフィアの抗争に巻き込まれたり、格闘家と戦ってみたり、まあ、いろいろあったよ」

 一気に話して疲れたのか、総一郎は海の家で買った麦茶を飲んだ。すでにぬるくなった麦茶が、乾いた喉を潤していく。

「そっかぁ、それで? そのあいだ奥さんとは一度も会ってないのか?」
「いや、義手の整備もしてもらわなければならないし・・・・・・まあ、週に二日は日本に帰ってたかな」
「は? いや総ちゃん、それでよく金が持ったな」
「まあ、義母さんがいつの間にか忍ばせてくれていたブラックカードがあったからな。結構使ったと思うけど、まだ一パーセントも使われていないらしい」
「日本に来た時、顔出してくれてもよかったと思うけど「せんせぇ~、何話してるんですかぁ!? そろそろお昼ですよぉ」分かったよ、今行く!!」



 二人がいる海の家からさほど遠くないところにシートを広げ、昼食の準備をしている生徒たちに手を振ると、雷牙はう~んっと背伸びをして立ち上がった。




「さ、行こうぜ総ちゃん。ああ、そういえば今日、近くの神社で夏祭りがあるそうだ。皆を連れて行ってみないか?」
「いや、僕は旅館で瞑想をしようと思うんだが」
「いや、だからさ。俺たちが皆いなくなれば、あいつら二人きりになれるだろ?」


 雷牙の言葉に、総一郎はすでにシートの上に座っている聖亜と準、二人の姿を眺めた。

「・・・・・・ああ、そうだな、お前が羽目を外しすぎないとも限らないし、僕もついていこう」
「おいおい、何だよそれ、ま、行こうぜ」

 歩き出した雷牙に続いて、総一郎も立ち上がる。ふと、手首に巻いたひもについている缶バッジが、微かに揺れた。

「ああ、大丈夫だ。あの二人は、きっと僕たちのようにはならない。僕が必ず守って見せる。だから、見守っていてほしい、綾乃ちゃん」


 右手を持ち上げ、缶バッジに優しく口づけすると、皆が待っている場所に向け、青年は熱くなってきた砂浜の上を、ゆっくりと歩きだした。

















































「やれやれ、やっと騒動が終わったようね」


 蛭山とともに、彼が生み出したクトゥルフが消滅したという報告を聞いた黒塚神楽は、面倒くさそうに提出された書類に目を通した。



「それで? 何か戦利品はないの・・・・・・怪物はほとんど炭化? 猟犬たちも、一匹を残して皆消滅したですって? わかったわ、じゃあ残った猟犬については、出雲“第二”総合研究所に送りなさい。中の核を取り出すことができれば、もしかしたら使えるかもしれないから。ま、使えなくとも嫌がらせに魔女達の夜の連中にでも送り付けてやりなさいな。ああ、それと“狐”は確保しておいてね、何かの役に立つかもしれないし」



 書類に目を通しながら、最近開発された、気化石に続くエネルギーである電気を利用した、電話と呼ばれる通話装置を切ると、神楽はう~んっと大きく伸びをした。


「さて、これからどうしようかしら。“駒”が一つ使えなくなったし・・・・・・ねぇ、どうすればいいと思う? 黒曜ちゃん」
「は、はぁ、私に聞かれても、分かりかねます」

目の前にいる黒曜が、自分の質問に慌てふためく様子を面白そうに眺め、神楽はふっと息を吐いた。

「まあ良いわ、期待なんて元々していないし。あ、そうそう。今日はこれから来客があるから、応対をお願いね。いくら鈍い貴女でも、それぐらいはできるでしょう」

「・・・・・・はっ!!」


 あまりにひどい神楽の言葉に、唇をかみしめて黒曜が敬礼した時である。


「おや? 言いましたっけ、今日我々が訪ねることを」
「なっ!? 貴様、何者だ!!」


 いきなり背後から聞こえた声に、一瞬硬直した黒曜は、懐に手を入れつつ振り向いた。彼女の視線の先には、眼鏡をかけて穏やかな表情の青年と、赤い着物を着たおかっぱ頭の、八歳ほどの少女が立っていた。


「あら、いつ来たの? もう少しかかると思っていたのだけれど」
「いえ、実は昨日から出雲にはおりました。いやぁ、なかなか面白かったですよ、あのB級映画は」

「神楽様、この者たちはいったい」
「ああ、この人たちが本日の来客者よ。あ、黒曜ちゃんは下がっていいわよ、話しの邪魔だから」
「は・・・・・・で、ですが」
「黒曜ちゃん、私に同じことを言わせる気?」
「い、いえ・・・・・・失礼いたします」


 ぶるりと身体を震わせ、一礼すると、黒曜の姿はそこからふっと掻き消えた。



「さてさて、ごめんなさいね、無能な秘書で」
「いえ、構いませんよ。私の所にも、同じような脳無しはたくさんいますからね」

 神楽が謝ると、青年は穏やかに首を振って答えた。


「あらそう? ならよかったわ。さて、それでは今後のことについて話をしましょうか。蛭山を切った今、私には“終焉”に向けた新たな戦力が必要、あなた方が、それに協力してくださると?」
「ええもちろんです。あなたが我々に協力してくださるのならば。ああ、自己紹介が遅れましたね。私の名は酒呑童子、まあ、お好きに及びください。そしてこちらは」


 青年、酒呑童子に促され、彼の背後に控えていた少女が、ゆっくりと前に進み出た。


「“連絡役”を仰せつかっています、火魅子と申します。どうぞ、お見知りおきください。鬼姫様」



 どこかで見たような顔つきをしたその少女は、神楽に向かって物怖じせずにそう言うと、ぺこりと一礼した。













続く




 お久しぶり・・・・・です。スルトの子4 渚に見るは過去の追憶 第二幕  彼らの記憶をお届けし・・・・・・ます。いや、まさかこれほど長くなるとは、自分でもわかりませんでした。wordにして三百枚強、さすが主人公格、ケタが違います。


 さて、気を取り直して。今回は日村総一郎を中心とした、彼と親友である鈴原雷牙、水口千里達の過去をお届けしました。今回の話は、前編と後編に分けることができます。すなわち、家族をすべて失った、普通の少年だった総一郎が、朱華と出会い、彼女の養子となり、憎悪の神を降ろし、その力に飲まれ、それを防ぐために、二度目の神降ろしに挑戦する前編、そして大切な人との別れや強敵との戦いを経て、出雲を旅立つことになった後編。それを見て、日村総一郎という、一人の少年の成長を感じていただければ幸いです。


 さて、次回はスルトの子4 渚に見るは過去の追憶 第三幕 少年の記憶をお届けします。もちろん、少年というのは最後に残った彼の事です。彼の壮絶な過去、そして絶望の中で見つけた小さな光。それらを書いてみたいと思います。恐らく十一月、遅くても今年中には出来上がると思います。では、また。


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