乱世の原因は、明白であった。
漢代では、帝とは名ばかりの、力を持たない幼子ばかりが朝廷の長となり、帝の権力が宙を浮くことが度々あった。
その度に起こるのが、権力を我が物にせんと暗躍する、外戚と宦官による権力闘争である。
本来、幼帝を補佐するために政治を執り行う必要のあった両者であるが、彼らには『そんなこと』をしている暇などなかった。
互いが互いの粗を探り合い、隙を見ては双方の要人を暗殺し、虎視眈々と権力の簒奪を狙う彼らにとって、国政などは瑣末事。権力を得るためだけにしか頭を使うことが出来ず、民の困窮など視界に入れてすらいなかった。
結果、権力闘争が起こる度、国政が軽んじられ、徐々に国が乱れていくこととなった。
そして。
闘争が一応の決着を見、宦官が霊帝を掌握した時代になっても、中央が国政を顧みることは無かった。
外戚が排除された後も、宦官は自分達に反感を持つ諸侯との対立に終始する。政に関しても、ようやく本来の仕事をこなすようになったのかと思えば、宦官は私腹を肥やすことしか考えず、民に重税を与えるばかり。
何時までも権力闘争に留まり続け、国を見ようとしない中央は、既に修復不可能なまでに腐敗していた。
中央が腐敗すれば、地方にも当然その弊害が発生する。しかし、その害を中央は一切見ようともせず、地方に領を持つ諸侯にその責を押し付けていた。
王朝は、地方の治水や開墾といった国の地盤に関わる事業を、その領地に住む地方豪族に全てを任せていたのだ。
結果、どうなるか。
地方の民は自分達を救わない朝廷に不満を抱き、それでもなお自分達を守ってくれている諸侯に信を寄せる。そして、民の信によって、諸侯の力が増大していったのだ。……宦官たちに心中で反感を抱くような諸侯も含めて。
王朝の腐敗。民衆の困窮。諸侯の隆盛。力の均衡が崩れかけ、不安定な情勢となった大陸に、さらに追い打ちが掛かる。
自然災害である。
干ばつ、凶作、疫病といった様々な災害が、ほぼ同時期に、重税に困窮していた民衆を直撃し、その活力を根こそぎ奪っていった。
人災に続き天災にも見舞われた民衆に、最早希望など残ってはいない。ある者は飢えに耐えられず死に絶え、ある者は賊になることで食い繋ぎ、ある者は死肉を喰らうことで生き延びる。
絶望の最中を生きる道しか、民には残されていなかったのだ。
中央の腐敗から連鎖的に続いた不幸によって、所謂『乱世』は形成された。
ならば、その原因など誰にでも分かる。乱世にあえぐ人々の怒りの矛先など、一つしかない。
だが今、人々には抗う力が無い。だから彼らは動けない。溜めた怒りを吐き出せず、絶望を受け続けるより他にない。
ではもし、力を手に入れられる機会があったのなら?
力とは即ち数とも言える。世の中で最も恐ろしいのは、真に纏まりのある人間の集団である。
纏まるためには『中核』が必要だ。中核があっても、人々を一つの方向に纏め上げるのは至難の業ではあるのだが、幸か不幸かこの世は乱世。しかも仇敵は分かり易過ぎるほどに明確だ。
つまり、集団が纏まるための指針・目的は既に用意されている。
逆に言えば、分かりやすい『中核』があれば、乱世の中で人は容易に纏まることが出来る。……漢王朝の打倒という目標の下に。
今の人々に抗う力が無かった。だが、誰かが自ら『中核』となって、中央を突く矛先の地金と成れば、瞬く間に長大な矛が形成されるであろうことは、容易に想像することが出来たのだ。
故に、『彼ら』は蜂起することができた。
大賢良師の名のもとに、腐り果てた漢王朝を、根底から覆すために。
それが、今はもはや忘れ去られた、『彼ら』の始まりであった。
「……いねえ、かな」
諦観を込めて静かに呟いたのは、一人の少女。
少女は目を細め、右手をこめかみに添えていた。自らの「目」を通じて流れ込む情報に、しかと集中するために。
短めの黒い髪に、焦茶色の瞳。整ってはいるが、他人に与える印象としては薄い部類に入るであろう顔立ちのその少女は、皮革で出来た簡易的な鎧を身に纏っていた。
腰間には、二振りの短刀がぶら下がっている。
「……やっぱ、いねえか」
少女は集中を解き、細めた目を見開く。その眼差しの先には、一つの村があった。
特筆すべきものの無い、小さな村。あまり家屋が見られないのは、村の土地の殆どが田畑で占められいるからだ。季節がら未だ緑色をした麦畑は、春の強い風に揺られ、ざわめいている。
精々が五百、住んでいるかいないか程度の村。この規模の村が乱世の中で生き残ってこられたのは、『彼ら』の庇護があったから。『彼ら』が村を守護する代わりに、村が『彼ら』に食糧を供給する。その『契約』のおかげで、このひなびた農村は今まで生き残ってこられたのだった。
だがそれも、今日で終わり。
少女の後ろから、粗暴な男の声が響く。
「厳政様! 準備、整いましたぜ!」
「わーった。ちょっと待機しといて」
振り返らず、気の抜けた声で男に返答した少女――厳政は、何の感慨も無さそうにその村を眺めていた。
かつての協力者たちの住まう村。そして今は、裏切り者たちの住まう村。
村人たちに、罪は無かった。ただ、凶作であったがために作物が十分に収穫できず、自らの食い扶持を確保するのに精一杯であっただけの話。
しかし、『彼ら』にとっては畑の環境など知った話ではない。契約に背いたこと。それだけが肝要なのだった。
「……笑えねえなぁ」
「ああ、全く困ったもんでさあ。奴らにゃあもうウンザリだ」
独り言のつもりが、存外大きく響いたその声に、厳政の後ろに控えたままの男が答えた。
「これまで通り守ってくれ。でも攻めてくるな、食いもんも金も持ってくな、女子供にゃ手を出すな、って……バカにしてるんじゃねえっての、あの糞ジジイ」
吐き捨てるような男の声が、厳政の後ろから響く。彼女もその意見には同感であった。
出さねばならないものを出せなくなったにも関わらず、村の長である長老は『契約』の継続を申し出た。
その上、無いなら代わりのものを持っていく、と『彼ら』が提案したもの――女性や子供、多額の現金――を、長老は『出せない』と言って拒絶した。拒絶してしまった。
『一時ばかり凶作だっただけです。次からはこれまで以上の物をお渡しします。だからどうか、このままの関係を続けさせてください』
そう申し出た村長を、危うくその場で殺しそうになったのが、厳政の後ろに控える男であった。そして、当然の如く交渉は決裂、『彼ら』はその村の行動を裏切りとした。
村でのことを思い出したのか、厳政の後ろから大きな舌打ちが聞こえる。彼は、この周辺の村々の管理を厳政に任されていた人物であった。
「ありゃあ、殺されても文句は言えませんぜ」
「ま、そりゃそうだよなぁ。やっぱヒトとしちゃあ、守るもんは守んないとな」
二人して、村の長の失態を吐き捨てる。
暴力で委縮させ、収穫物を巻き上げる『彼ら』と、人の意などでは操れない自然の力によって止むなく契約を破らざるを得なくなった、村人達。
死に追いやられても不思議ではないほどの非道を犯しているのは、どちらなのか。
それは誰が見ても――『彼ら』自身から見ても――、明らかであった。
だが『彼ら』は、それが幾ら自明の理であっても、自らに利が無ければ受け入れない。
つまりはそれが、『彼ら』の本質とも言うべきものだった。
――都合悪いこと全部無視するような図太さが無きゃぁ、悪党はやってられない、ってね。
厳政は、無自覚な『彼ら』の主とは違い、自らが悪であること理解していた。
朝廷の政に不満を持った民が、大賢良師という中核を得て、改革のために蜂起する。言葉にすれば勢いがあり、また聞こえも良いかもしれない。
だが、彼女は知っていた。意志の弱い人間の浅ましさというものを。力を持った人間が、どのように歪んでいくのかを。
何のために剣を取ったのか、その切っ掛けはさほど意味を為さない。目的が崇高であったとしても、そんなものに意味など無い。
剣を持てば、人を斬りたくなるのが道理だ。そして、剣を見せられた人間は、死から逃れるために全てを差し出してしまう。望まずとも、剣を振う人間は略奪の機会を得るのだ。
そして、奪うことの簡単さを覚えれば、そこから抜け出すことなど出来なくなる。
力を得た人間の大半は、いずれ目的を履き違える。意志の弱い者は、特に。
故に、自分達は悪なのだと、厳政は自覚していた。『彼ら』の心の中にあった本来の大望は、既に失われているということを、彼女は知っていた。
だからこそ、厳政は心から冷酷になれる。半端な善意が働かないほど、『彼ら』は悪意に満ちていた。
「助けたい、助かりたいのに何もしない。あたしが言うのもなんだけど、心底腐ってるよなぁ?」
「ええ、全くで」
「腐ってると臭いからなぁ。……そろそろ焼いとかないと」
厳政は振り返り、後ろに控えていた男を、視界の内に入れる。
そこに見えたのは、眉がつり上がり、頬が僅かに震え、笑いとも怒りともつかない表情を浮かべる、青年の顔だった。
「は、なんてツラしてんだよ、孫仲。面子潰されてイラついてんのか?」
男――孫仲は奇妙な表情を少しも変えず、腹の底から響くような低い声で、唸るように吐き出す。
「……当り前でさあ。あの糞共、今直ぐにでも挽肉にして、乞食連中の餌にしてやりてえ」
「っははァ! 良い返事じゃん。……んじゃ一丁、やるとしますか」
そう言って厳政は、孫仲の背後に控える『群れ』を眺める。
剣、槍、矛、弓。思い思いの兇器を掲げ、酷く残忍な表情のままに、口汚く談笑しつつ何かを待つ、彼らはまさに『群れ』であった。
統率と呼べるものが最低限しか機能しない以上、軍隊などとは呼べはしない。
その目的と性根から見れば、義勇兵などと言える筈もない。
ともすれば、その常人と懸け離れた道徳観と過去の所業を鑑みるに、人とすら呼べないのかもしれない。
彼らの眼は皆、深い深い底の奥から濁り切り、一つの感情に染まっている。
期待、である。
これから始まる、惨劇への、強過ぎるまでに強い、期待。
「オラ、テメエら聞けぇ! 厳政様のお言葉だァ!」
孫仲の叫び声に、『群れ』のざわめきが一瞬で消え失せた。
代わりに、狂気と期待を込めに込めた濃密な視線が、厳政に集まる。
常人ならば、『群れ』の発するあまりの怖気に、逃げ出してしまいそうなほどの空気。
それを一手に受けている厳政はしかし、少しの不快感すら一切示さず、涼しい顔のままに声を発する。
「言葉、って言われてもなぁ……あんまし言うことないんだけど。細かい指示とか出さんし、今回。とりあえず『次』攻める気力さえ残ってりゃ何しても良いしな」
顎に手を当て、目を瞑りながら、次に紡ぐ言葉を考える厳政。
士気を上げつつ、無理をさせず、かつ『次』に繋がるような言葉を、自らの語彙から探し出す。
だが、どの言葉を言ったとて。
――今のこいつらに、通じるもんかね?
結局のところ、彼女が思いついたのは、別段捻りらしい捻りも無い、平凡な煽り文句だけだった。
「……ま、今回に限っちゃ、一言で事足りるか」
線の細い少女の、朗らかな笑顔。この表情を見て、彼女が『彼ら』を統べる将の一人であると一目で気が付くことのできる人間など、恐らく居はしない。何処にでもいるような町娘。厳政の容姿はまさにそれであった。
だからこそ、彼女は恐れられる。人の皮を被った化け物。彼女はその比喩の体現であった。
そして、彼女を覆う皮がゆるりと、剥がれる。
口の端が、これでもかと言うほどに醜く、吊り上がった。
余りにも濁りきったその表情は、紛れもない、嗤い顔。
「――――あの村、終わらせてこいよ」
『オオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォ―――――――――ッ!!』
当然のごとく放たれた殺戮命令に、『群れ』は歓喜し、雄叫びをあげた。
目を血走らせ、口汚い言葉を叫び、剣を振り上げ、狂乱する。理性などいらない。遠慮も不要。最早彼らに敵などいない。
数も力も気迫も狂気も、全てにおいて彼らはそう、彼らを指し示す呼び名の通りになっていた。
つまりは、『賊』。
「全軍、突撃だァ!!」
彼らは今、『黄巾賊』と呼ばれ、蔑まれている。
そして、彼らもまた、『賊』と呼ばれることを受け入れている。不名誉など、彼らにとってはどうでも良いのだ。
黄色い布を付けてさえいれば、彼らはもう、飢えに苦しまなくてもいい。顔見知りを喰らう罪悪を感じなくてもいい。賊に震える必要もない。蔑まれることよりも多く幸福が、彼らにはあった。
彼らの目的は、王朝の打倒だった。だがそれは、その先にあるもう一つの目的のための、言ってみれば通過点にすぎなかった。
彼らは、平穏な生活が欲しかった。
少々貧しくても構わない。飢えにも、賊にも、重税にも、何にも脅かされることもない生活が欲しかった。
そして。
彼らは今、何にも脅かされてはいない。今度は彼らが、脅かす立場に立ったのだから。
荒廃した乱世の中での『賊』の立場は、歪んだ形ではあるが間違い無く、無害な民草であった時よりも平穏だった。……計らずとも、掲げた大義を達するよりも早くに、彼らの望みは叶ったのだ。
そして、得た平穏を守るため、彼らは略奪に腐心していった。奪い続けている間は、心の平穏が保たれることを、彼らは理解したのだ。
彼らの中に、罪悪感は無かった。なぜならば、彼らには大義がある。腐敗した王朝を打倒するという、崇高な大義が。
その大義が、最早本来の意味を失い、『死んで』しまっていることにも気付かずに、彼らは今でも叫び続ける。
蒼天已に死す、黄天當に立つべし。
「人の事、言えた義理なのかねぇ?」
彼女の呟きは、男達の怒号に消えていく。
幽州の心臓は静かに、しかし確たる力を以て脈動していた。
だがしかし、数多の病巣に侵された州土<からだ>は、力強い鼓動をもってしても、十分な活力<けつえき>を循環させるには至らない。
力が、足りなかった。侵入し浸透した数えきれぬ病魔を、抑え切ることが出来なかった。
が、それでも、州の心臓は脈動し続ける。止まればその時が、幽州が死ぬ時なのだから。
耐えなければならない。それは、誰であれ何処であれ同じこと。
耐えなければならない。たとえ脳が、正常な動きを抑制されているのだとしても。
耐えなければならない。歯を食いしばって、文字通り、必死に。
そう遠くは無いいつの日にか、脳を侵す朝廷<まひ>が、取り除かれるまでは。
「この時期に、黄巾の討伐命令か……」
朝廷からの使者が去った、数刻後。
会議を終えて人影の無くなった、少し薄暗い『謁見の間』には、二人の少女がいた。
一人は、赤みがかった髪色の女性。玉座に座る幽州州牧、公孫賛伯桂。
もう一人は、少し癖のついた長い髪をくるくるといじりながら、玉座の隣で胡坐をかく、背の小さい少女。
「なーんか随分と遅かったにゃー。劉宏ちゃんは何? 自分の民ほっぽりだして玉無し竿無し共と遊んでたわけ? しかも何? これ見よがしに被害状況見せつけに来てさぁ? んな暇があったら、自分らで何とかしたらいいのに」
彼女達の目の前、謁見の間の床には二枚の地図――大陸全土と幽州のもの――が広げられていた。
地図の上には、赤く塗られた木製の駒が、至る所に置かれている。これが、黄巾が旗を立てた場所、ということになる。
つい先程まで、尊大な態度にてこの地図の傍に立ち、如何に黄巾が危険な存在であるのか、大陸がどれ程に危険な情勢であるか、朝廷の使者が――今更ながらに――説明していたのだった。
座ったままで欠伸をかきつつ、広げられた地図を横目で見ながら面倒臭そうに振る舞う少女を、公孫賛は少し呆れた様子で咎める。
「こら、ちょっと不敬だぞお前」
「不敬とか正直どーでもいい。言論の自由だよ、言論の自由ー……って、そういやここにはないんだっけ? まぁどーでもいいけどねー」
言い終わり、再びの欠伸。少しばかりずれてしまった眼鏡を人差し指で直し、少女は座ったまま大きく『伸び』をした。
「んん~……くはぁ。ったく、こっちがどんだけ忙しいか分かってんのかなぁ」
「そりゃあお前、分かってるだろうさ。今は大陸中が混乱してるんだし、何処へ行ったって状況なんてさして変わらないからな」
少しばかりの諦めと失望の入り混じった声色で言う公孫賛の顔色には、決して少なくは無い陰があった。
乱世が一番に蝕むのは、人の心と体である。それは、どの立場の人間であったとしても、変わりは無い。
「……そう、何処も一緒なんだよ。だから、こんなことくらいで弱音なんて吐いてられないんだ」
俯きながらも言葉に揺らぎの無い公孫賛の姿に、少女は同情と敬意の入り混じった表情を浮かべた。
彼女が、人前で弱みを見せようとしない人間であることを、少女は知っている。
だからこそ、代わりとして。
少女は不満げに呟くのだった。
「ま、はくちゃんの根気にはあっぱれあげたいけどさ。さすがにちょっと忙し過ぎない? 食糧危機に治安の悪化、匪賊に暴徒に黄巾党、挙句にゃ龍まで出てくるし」
「……最後のはちょっと毛色が違わないか?」
「似たようなもんだよ。結局害しかもたらしてないって意味ではね」
溜息交じりの少女の一言に、公孫賛は考えを馳せる。
突然に広まり、一月と少しで収束した、龍の噂。まるで夢幻のように消え去った伝説の魔物の、その居場所の跡に残ったのは、被害の爪痕と散った命の抜殻だけ。
自らの治める領土の、しかし仔細を知るには離れ過ぎている場で起こった、不可解な出来事。公孫賛は、その謎に首を傾げる。
龍とは、一体――
「……一体、何だったんだろうな。子龍が送りつけてきた報告書には『地元に根を張った小規模の賊』としか書かれてなかったし……」
――龍は唯の比喩であり、正体は小規模の賊であった。現地に居合わせた劉備玄徳、及び『天の御使い』の我斎五樹らの協力により、賊を壊滅させることに成功した。
趙雲の報告書を要約すると、このようなことが書かれていた。
読み進めるうちに天の御使いなどという胡散臭い存在が出てきたり、懐かしい名を見かけたことには少々驚いたものの、事態が収束を見たことを知った公孫賛は純粋に安堵したのだった。
だが、心の奥底には、少しばかりのしこりが残っていた。
本当に、龍は賊であったのか。
「さあねー? 馬鹿が流した嘘八百かもしれないし、ただの見間違いかもしれないし、村の人たちが使ってた隠語かもしれない。真実は深い深い闇の中~」
ふざけた調子でそう言う少女に、公孫賛は少しばかり疑いの眼を向けた。
玉座にもたれかかってだらけているこの少女は今、公孫賛の相談役の様な役目を担っている。
数ヶ月前、情報屋を名乗って公孫賛の前に現れ、多量かつ正確な情報を余すことなく晒し、代金代わりに自分を雇えと啖呵を切った少女。
情報源としてこれほど上等なものを、公孫賛は他に知らない。少女の持っていた情報は全て、有用かつ信憑性の高いものであった。
故に、彼女は少女を疑わざるを得なかった。頼れる存在であるからこそ。
――本当に知らないのか? こいつ妙に物知ってるしなぁ。
玉座からの訝しい視線に気付いた少女は、慌ても驚きも引きもせず、真正面から公孫賛と目を合わせる。
そして、暫く見つめ合った後、少女は口の端を歪めてにやり、と嗤った。
「……お前、実はなんか知ってるだろ」
「いんや? 残念ながら、今回はなーんにもしらない。憶測でならモノ言えるけど、そんなの私の趣味じゃないしー」
「そうなのか? ホントに? ホントのホントに?」
「ほんとほんと、ほんとのほんとヨ。ワタシうそいわないアルよ」
「…………なんだろう、今民族規模でバカにされた気がしたんだけど」
「きのせいですだよー」
風にしなる柳の様に追及を逸らし、へらへらと笑いながら気の抜けた言葉を返す少女に、公孫賛は自らの行為の無駄を悟る。
給金をもらっている以上、言うべきことは言う。でも、言いたくないことは基本的に言わない。
雇うことを決め、それを伝えた時に聞いた少女の言葉を、公孫賛はふと思い出していた。
そして直後に、少女の言葉に偽りが無かったことを、彼女は改めて理解する。
「知らないかわりに、って言うとあれだけど、最近、龍に引き続いて眉唾な噂が多いって話、知ってる?」
「噂?」
「そ。一つ目巨人の化け物を見たーとか、外套羽織った怪しい奴が妖術使ったーとか、何もないところででっかい火柱が上がったーとか。とにかく変な方向性の噂がけっこう多いんだよね」
「結構、ってそんなにあるのか? 幽州だけで?」
「んにゃ、大陸各地であちこちと。うちの土地に来てる行商に聞きまくっただけだから、又聞の又聞きみたいな話だし、信憑性はあれだけどね」
「けど、そんな突拍子もない噂が流れているのは事実、なのか」
「そういうこと。国が乱れてるのが原因なのか、そういう噂をあえて流してるモノ好きがいるのかはわかんないけどにゃー」
肩をすくめて首を傾げ、少女は呆れるように短く笑った。
「そう、か……」
荒れた世に流言飛語が駆け回るのはさして珍しいことではない。化物や妖術の噂話など、それこそ山の様に満ちている。
現に、黄巾党の頭目も、奇妙な術を扱うことのできる人外の化生として話が広まっているのだ。非現実的な話が民の間に広がることそれ自体には、別段の違和感は無い。
だが、それにしても……と、公孫賛は思う。
違和感があった。
人を模した化物が語られることは数あれど、単眼の巨人なり大規模の火柱なりといった、明らかに別のものと見間違いようのないものが、ここまで大きく語られることなど果たしてあるのだろうか。
いくら世が乱れているとはいえ、それほどまでに現実離れした噂が、何故こうも容易く広がっていくのであろうか。
龍の一件を耳に入れた時から公孫賛が感じていた、その奇妙な感覚。あり得ない筈のものを、民達が信用していく、その違和感。
まさか、本当に。
そう思わざるを得ない状況が、何故かこの国で、広がっている。その感覚に、公孫賛は不安を感じずには居られなかった。
「ま、気に留めといて損は無いんじゃないかな?」
軽い調子で少女がそう言った、その時。
「こ、公孫賛様! 至急お知らせしたいことが!」
焦燥に満ちた叫び声とともに謁見の間に飛び込んできたのは、一人の若い兵士であった。
その兵士が放った、あまりにも礼に欠ける絶叫に、公孫賛は僅かに不快の色を示す。
「騒々しいぞ。何があった?」
額に汗をかきながら必死の形相で報告に来たその兵士は、そんな公孫賛のしかめ面など目に入っていないかのように、絞り出すように、叫ぶ。
「も、申し上げます! 州内の邑が三つ、黄巾の攻撃により……か、壊滅したとのこと!」
その言葉に、二人の少女は暫し絶句した。
礼に欠けていたのは当たり前であった。このような火急時に、礼節を気にしていられるような若年の兵士など、居はしないだろう。
「ど、何処がやられた!? 一体何処が!」
少しの間が空き、公孫賛がようやく捻り出した声は、酷く震えていた。
「しょ、少々お待ちを! 今地図を持って……」
「ちょいちょい、君慌て過ぎ。目の前目の前」
この場にいる内でただ一人冷静さを保ったままの少女が、兵士の足元に目線をやった。
慌てていた兵士はここでようやく、自らの足元近くに地図が広がっていることに気が付き、『しまった』と言わんばかりに目を見開いた。
「もっ、申し訳ありま――」
「それは後でいいから。先ずは説明ね」
謝罪の言葉を遮って説明を促しながら、少女は立ち上がり、地図の方へと歩み寄る。
それを見た公孫賛も、慌てて玉座から離れて地図に近づき、少女の隣に付いた。
「は、はい! 壊滅したのは、こちらと、こちら……それと、この邑となります」
兵士が指差した場所に、少女は目印として赤い駒を並べていく。
目印が置かれた邑は、防備の比較的薄くなっていた州境に二か所と、少しばかり領土の内に寄った一か所であった。
州境の邑二つが離れた位置にあり、その中間辺りに一つの邑がある、という位置取りである。
「薄い場所を衝かれたか……! なら、州境部で兵力の厚い地域から、警備隊を幾らか回す! とにかく中央への侵攻を防ぐんだ! ……相手方の兵力は!?」
「そ、それぞれ東方から八千、六千五百、七千五百程度の模様!」
「んー……それぞれなら対処しきれない数じゃないけど、内っかわで三隊に合流されるとちょーっと、拙いかもねー。各隊をそっこー撃破、できるかなぁ?」
「やれるはずだ! 付近の戦力を結集して、州境の戦力を加えれば十分に――――」
自らの軍に対する自信と少しの希望的観測を込めて、公孫賛が言い放とうとした、その時。
隣に立つ少女が息を呑む声が、彼女の耳に入ってきた。
「ちょっと待って。……ここは、そう簡単にいかないかも」
そう言って少女が指差したのは、三か所の内の中央、六千五百の賊が侵攻していた邑。
「ほらここ、憶えてない? 少し前の報告にあった、黄巾の食料拠点だよ。ここが今回潰されたってことは……」
公孫賛が、気付く。
その邑が黄巾によって脅迫を受け、結ばされてしまっていたとある契り事を、彼女は思い出した。
そして、その邑が攻められた、という事は同時に、もう一つの重大な事実を孕んでいたということに、気付く。
「不可侵の契約が……切れた、のか?」
自らの血の気が引く音を、公孫賛は初めて耳にした。
襲い来るのは、後悔の波。
「多分ね。……ていうか、ヤバいなぁ……このあたり、今かなり警備薄いよ」
不可侵であるということ。
それは、少なくとも極近い未来までの間は、その場所が戦場にはならない、という意味にも取れる。
そして、下手に手を出せば、条約が破られるかもしれない、という意識を周囲に植え付ける。
さらに現状、兵力を含むあらゆる人手は、幾つあっても決して足りはしない、という状態にある。
これらの状況を鑑みた結果として、公孫賛以下幽州の役人達は、一つの方策を取ってしまっていた。
放置、である。
戦場にはならないと、確約とはいかないまでも短期間の保証はされているその場所に、兵力を裂く必要性は薄い。
むしろ、徒に警戒して兵力をつぎ込んでしまえば、それそのものが諍いの火種になりかねない。
ならば、この邑周辺に配置していた兵力・人員を一時的に他の地域に回し、国力の回復を急ぐ。
その方が、効率がいい。そう、判断してしまった。
そして、領内に入り込んだ諸悪を、無視してしまっていたのであった。
勿論公孫賛は、件の村を長期に渡って放置をする気などは、毛頭無かった。
そも『不可侵の契約』とは所詮、無法者の作った法である。信に値するかと尋ねられれば、誰一人首を縦に振るものは居ないだろう。
それを分かっていながらも、公孫賛は事の放置を決断した。
一体、何故? その理由は、ただ一つ。
いつか来るかもしれない脅威より、今そこにある困窮の方が、より凄惨な色を持って見えるからに、他ならない。
「……微妙に州境から距離あるし、増援間に合わないかも」
「くっ、何故、あの時に私は……!」
口惜しげに唇を噛み締め、公孫賛は目を潤ませる。
彼女が過去の愚行に対し、自らへの怒りをぶつけようとした、その時。
ばしん、という音と共に、公孫賛の体が揺れる。
何時の間にか立ち上がっていた少女のその手が、彼女の肩を強く叩いたのだった。
「悔やんでもいまさら。今、間抜けな姿は晒さないように」
少女の言葉は、短く冷たかった。
故に、公孫賛が目を覚ますのは一瞬であった。
「……すまない。落ち着くべき時だったな」
「そうそ、さっさと対処法考えないと。他二つははくちゃん案でいいけど、六千五百が来てる方面は別の手を考えないとね。まずは、相手の侵攻してくる経路の予測からしようか。ああそうだ、君は軍師連中呼んできてくれる?」
「ハッ、了解致しました!」
兵に命令を出した後、彼女達は二人して、床に広がった地図を凝視する。
中央に向かうのか、拠点としての地盤を固めるのか、周囲の村を制圧するのか。賊の動向を想像しつつ、それぞれの場合に於いて賊が攻めるであろう方角を予測するために。
そして間もなく、二人が同時に、『それ』に気が付いた。
攻め込まれ、壊滅させられた、黄巾の息の掛かっていたはずの邑。
その近くにある、一つの村に。
「おい、もしかしてここ――!?」
「……龍の噂の出た村、だね。ちっかいねー、完全に攻撃対象だわこりゃあ」
厄介事から解放されたばかりの、未だ立ち直っているとは言い難い情勢の、一つの村。
これほどに落とし易い場所など他にはないだろう。危機が迫る確率は高い。
故に、公孫賛は焦燥する。
「――あいつが、子龍がまだあそこに!」
「子龍ちゃん、黄巾が攻めて来ても、帰って来そうにないよねぇ……九割方いきり立って向かっていくだろうし」
下手に現地を刺激しないよう、趙雲一人に噂の調査を任せたのが拙かった。
せめて三百、いや五百程でも連れて行かせていれば。武と勘に長けた彼女の事だ、不利な情勢であろうとも、乗り切るに違いなかったのだろう。
だが、幾ら人並み外れた才覚を持つ勇将であっても、単独では何も為せない。
優れた武を以て斃せる兵数など、精々が数十。迫り来る六千五百をいなしつつ逃げるには、圧倒的に力が足りない。それは明白だ。
だが。だとしても。
趙子龍は、己が誇りと弱者を守るため、決して引かないだろう。負けることが決定付けられている戦いだとしても。
つまり。
趙雲の命は、危機にさらされている。これ以上が無い程、明白に。
「クソっ、どうすれば……どうすればいい!?」
悔しげに下を向き、地図を凝視して必死に策を探す公孫賛。
それを見て、少女は一つ溜息を吐く。公孫賛が冷静さを欠いているのが、少女には手に取るように分かった。
彼女は、傍らの『武器』にすら気付かずに慌てふためいていたのだから。
「今から出兵すればギリギリで間に合うんじゃないの? はくちゃんご自慢の、あの部隊ならさ」
その言葉に、公孫賛は俯けた顔を勢い良く上げた。
何故、直ぐに気がつかなかったのか。自らの持つ、最良の切り札を使うことを。
「――そうか、白馬義従なら!!」
白馬義従。その名の通り全騎が白馬によって構成された、公孫賛配下の騎馬隊。
その機動力・速度は数ある騎馬隊の内でも随一とされ、行軍の際の持久力についても全く申し分のない能力を持った、彼女が最も信を置く部隊。
迅速さを何よりも求められる現在の状況に於いて、元が遊牧民であるその優秀な騎兵達は、当にうってつけの存在であった。
公孫賛の顔に、希望の色が差し始める。
「よし、私が直接行って――」
「ちょい待ち。出るってなったら私が出るよ? はくちゃんの代わりに副官連れてってさ」
希望によって勢を得た公孫賛の言葉と行動を、癖毛の少女は諌めるように遮った。
公孫賛は、少女の方を見つめる。少女もまた、彼女の瞳を射抜くように見つめていた。
「それは認められん! ここは私が行かねば――――」
認められない。自らの失態が起こした出来事を、他人に任せるなどということは。
そんな感情が心に渦巻いていた公孫賛にとって、少女の進言は受け入れ難いものであった。
が、しかし。その意志以上に、少女の言葉は強かった。
「あのねはくちゃん、大将首がバカみたいに躍り出てこられると困るわけ。そこ理解してる?」
「――――っ、それ、は……」
「さっきも言ったっしょ? 落ち着きな、って。はくちゃんが死んじゃえば、それで幽州は何もかも終わりだよ? あんたが勝手やったらそれで全部ぶっ潰れるかもしれないの、わかる?」
反論の隙すら与えられずに正論をまくし立てられ、公孫賛は自らの言動を反省するより他無くなってしまった。
目を伏せて、彼女は少し口惜しげに、言う。
「……それもそう、だな」
「ホントにおっけー? ちゃんと理解した?」
「……ああ。無理を言って、悪かった」
公孫賛の言葉に、少女は満足そうに二度、頷いた。
しかし彼女は、先程少女の言葉に少し引っ掛かっていた。
「でも、お前が出るのは流石に危険だと思うんだが……」
幾ら肝が据わっている性格だとは言え、戦いを知らない人間を遠征させるのは心苦しいものがある。
そう考える公孫賛の表情から何を読み取ったのか、少女はにやり、と妖しい笑みを浮かべた。
「私はあれだよ、誰が何と言おうと行くよ? 元々あそこに行ってみたいと思ってたし」
少女は、広がった地図に目を向ける。その視線の先には、龍の噂のあった村を指し示す、赤い駒。
「興味あるんだよねー、『天の御使い』っていうのがさ。子龍ちゃん迎えに行くついでに、顔拝んでやりたいなー、と思って」
好奇心に目を爛々と輝かせ、愉しそうな笑顔を浮かべる少女の様子に、公孫賛は軽い溜息を吐く。
そう。活力を分け与えてくれたことに感謝しつつも、彼女はいつも通りに振る舞う事を選ぶ。
それが、目の前の少女に対する礼の意味にもなるのだと、公孫賛は分かっていた。
呆れ気味に、彼女は言う。
「……こんなときにまで、お前は……それも、『たんてい』の性、ってやつか?」
その言葉に、少女は不敵に嗤う。
そして、何が楽しいのか、にやけた顔を抑えようとはせず、少女は笑みのまま言い放った。
「のんのんのん。探偵じゃなくて、超・探偵。『超』超大事。忘れるな~?」
少女――――自称『超・探偵』、蝉丸 繰利<せみまる くるり>。
たとえその身が異世界にあったとしても、彼女の在り方は、決して変わらない。
以下あとがき
先ず一言。長いこと放置してすいません……orz
一区切りついた瞬間に次が全然浮かばなくなって腕が止まってました。申し訳ない。
てわけで、黄巾編に入った十一話です。心機一転でサブタイ付け始めました。
Q,くるりちゃんとか誰得? A,俺得。な感じの回です。
原作無視? 展開が速い? 主人公がいない? こまけえこたぁ(ry ……正直すみませんです。
文章的にこれおかしくね? と思ったら、感想の方にぜひお願いいたします。
※注意:以降の更新速度はかなり遅くなるとおもいます。ホントにすみません。
では、お目汚し失礼いたしました。