<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[22415] 皇国の聖女(転生オリ主・TS)
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:bb962b2b
Date: 2011/02/20 00:22
 ロマリア連合皇国。

 その名の通り、ハルケギニア南部のアウソーニャ半島にある数々の小国家が“ロマリア都市王国”を首都として規定し作り上げた国家連合体である。
 そして、ハルケギニア各国家の開祖たちの父である、始祖ブリミルはこの地で没したとされている。
 その弟子であったフォルサテは“墓守”としてこの地に自らの王国を築き上げ、都市国家同士による長い戦乱の果てに皇国連合が結成された。
 かの大王ジュリオ・チェザーレの時代にはガリアの半分を支配したことさえあったが、今ではそんな勢いなど微塵も感じることは出来ない。
 

 そんな歴史ある都市の一角―――町を埋め尽くす難民たちではなく、旧来からの住民が多い“トラステヴェレ”にマンチーニ男爵の一家は居住していた。
 庭付きの中規模の屋敷。石造りの建物はシンプルながら、洗練された美しさをかもし出している。
 と、そこへ一人の少女が現れた。年の頃はまだ十歳に満たぬほどであろうか。
 容姿は端麗である。短く切り揃えられた真っ白い髪は一つの淀みもないし、顔の作りも幼いながらに一定のバランスを保っている。
 年齢故に体型はまだまだ平坦なものだが、将来的には期待が持てるだろう。
 ただ。
 なぜか彼女は全身が傷だらけだった。白磁のような肌には泥がべったりと付着し、切り傷が無数についてしまっている。
 涙こそ流していないが、その姿は本当に痛々しいものだった。

 すると。屋敷の庭でスケッチをしていた少年がぼろぼろの少女を見咎め、慌てて駆け寄った。

「オルタンス! また近所の悪ガキとケンカをしたのかい!」
「……ポール兄さま」

 傷だらけの少女はオルタンスというらしかった。彼女はその均整のとれた長いまつげが見えるように顔を下げ、小さく呟く。

「またジュリオのやつが仕掛けてきたんだ。ぼくは……」
「ああもう! そんなことはいいから、さっさと来るんだ!」

 ポールという少年はオルタンスの兄であった。彼は見るも無残な妹の手を取り、強引に連れて行こうとする。
 だが、次の瞬間。その手はそこへ新たに現れた少女によって叩かれてしまう。
 少女の姿を認めたポールが「オリンピア!」と名を呼んだ。
 彼女はオルタンスよりもずっと体が大きい。長い金色の髪はまるで絹のように滑らかだ。顔の作りは妹の将来を予感させる、とても整ったものである。

「いったいなにをするんだ」
「あら、お兄さま。お兄さまは男性ではありませんか。いくらオルタンスが男勝りだとは言っても。お兄さまはレディを裸にひん剥くおつもりですの?」
「うっ……」

 刺すような妹の視線。耐え切れなくなった少年は思わず視線を逸らした。
 そんな殺伐としたやり取りを不安げに見つめていた小さな妹の視線に気がついたのか。オリンピアはすぐに優しい姉の顔になった。

「さ、オルタンス。行きましょう。まずは汚れを落とさないと」
「はい。オリンピア姉さま」

 にこりと微笑む姉に、安心した様子で返答するオルタンス。
 すると……、急にオリンピアの頬に赤みが差した。目を潤ませてなんだか危なげな視線を小さな妹へ向けている。

「オリンピア。シスコンもほどほぐびょぁ」

 咎めるような声を発した兄の口の中に、杖を手にしたオリンピアは魔法で土の塊を突っ込むのであった。


 体を洗い、着替えを済ませたオルタンスは屋敷の一室を訪れた。その部屋には自宅療養中の父がいるのだ。
 まだ背の低いオルタンスは足先で立ち、扉へ向かってこんこんこんとノックをする。
 ほんの少しの間を置いて「入っておいで」という優しげな男性の声が聞こえる。少女はドアノブを回して部屋の中に足を踏み入れた。

 オルタンスの父であるミケーレ・ディ・マンチーニ男爵は持病を患っている。
 その病名はオルタンスにはわからないのだけれど、なにか重い病気であることは間違いなかった。
 息子であるポールや娘のオリンピアと同じ金色の髪。生まれは男爵家ながら、気品を感じさせる端整な風貌。
 オルタンスにとっては前世を含めて二人目の父親であったが、彼女はこの父のことをとても大切な存在として感じていた。

 ベッドに身を横たえたミケーレは、娘の体中についた傷に気がついたらしい。悲しげに眉を下げて尋ねてくる。

「オルタンス。どうしたんだい、そんなに怪我をしてしまって」
「そう、そうですよ。お父さま。聞いてください、またあのジュリオが……」

 先ほど自分が受けた仕打ちを思い出したのか。オルタンスはやや興奮気味にまくし立てた。

 ぼくが下町を歩いていたら、またジュリオの手下たちが盗みを働いていたんだ。いくら貧民だからって、盗みはいけないでしょう?
 だからぼくは逃げる彼らを追いかけたんです。なんとか追いついて、一人を転ばせてやりました。そうしたら、奥からジュリオが出てきて……。
 善戦はしたんだよ? けっこうあいつにも傷を負わせてやった。
 だけど、やっぱりジュリオは強いんだ。最後に思い切り目潰しの泥を投げられて、爪で散々に引っかかれたよ。
 今日だけじゃない。いつもいつもあいつはぼくにちょっかいをかけてきて……。まったく、なんなんだろう。

 ミケーレは口調がややおかしいオルタンスの話に相槌を打ちながら、静かに話しを聞いてやっている。ときおり驚いたそぶりを見せたり、うんうんと頷いたり……。
 そんな風にきちんと自分の話を聞いてくれるのが嬉しくて、オルタンスの口はよく動いた。

 しばらく話し、オルタンスが寝込んでしまった頃。部屋のドアが開いて、ミケーレの妻でありオルタンスの母―――ジェローラマが現れた。
 父のベッドに乗っかって眠りこける娘の姿に、母はただ苦笑する。

「ジェローラマ。今日もオルタンスがたくさん話を聞かせてくれてね。なんだかすこぶる体調がいい。どうかな、久しぶりにみんなで夕食というのは」
「本当ですか? ポールたちも喜びますわ」

 普段はなかなか病床から起き上がることもできない夫の言葉に、ジェローラマは本当に嬉しそうに美しい顔を輝かせた。



 *



 それから数年、オルタンスの平穏な日々は続いた。

 父はいつもベッドにいるが、体調のいいときはオルタンスの話に付き合ってくれる。たまに彼の方から昔話をしてくれるときもある。
 母は優しい。料理を趣味にしていて、たまに驚愕の創作料理の実験台にするのはやめてほしいが。
 兄は過保護だ。オルタンスが怪我をして帰ると、最近は『治癒』の魔法をかけてくれるようになった。
 姉は輪をかけて過保護だ。いつもいつも一緒に風呂へ入ろうとするし、同じベッドで寝たがる。いい加減妹離れしてほしいというものである。

 最近は母や姉の要望でオルタンスは髪を伸ばし始めている。手入れが大変なのでお断りしたいのだが、そうもいかないのが実情であった。
 肩を少し越えた部分まで伸びたからだろうか。すっかり少女然とした容姿になって来た彼女であったが、まだまだ男勝りなところは変わっていなかった。
 髪の手入れが面倒だからと姉に丸投げしていてはいけないと思いつつ、やっぱりその辺はだらしがない。

 もし、彼女が生活を送る上で問題があるとすれば。
 昨年には杖の契約をしたのに、未だにコモン・マジックも扱えないことだろう。


 そんなある日。
 いつもように彼女が近所にあるジュゼッペ爺さんの店で買ったパンを近所の公園で食べていると、そこへ見慣れた顔の人物がやってきた。

「やぁ」
「っげ……」

 その人物というのはオルタンスの宿敵である少年・ジュリオだ。彼とはもう何年にも渡り喧嘩を繰り広げた過去があり、お互いが意識するライバル関係に“あった”。
 だが、今ではもう敵意をむき出しにして争うこともない。ジュリオの立場が変わったからだ。

 オルタンスは自分の隣に腰かけたジュリオを横目で睨む。
 見るからに彼は美少年だった。金髪にとても端整な顔立ち、神秘的な“月目”。これほどの容姿を持った人間を捜すのはなかなかに難しいだろう。
 ただ、オルタンスは異性としてのジュリオにはそれほど興味がない。

「きみもすっかり女性らしくなった。昔は小さくても凛々しい闘士だったんだけどね。あ、これ貰っイタッ」
「……まだ手癖は悪いようだね」

 ぴしゃり。オルタンスの鋭い手刀が彼女の買ったパンを掠め取ろうとしたジュリオの右手を捉えた。
 赤くなった手の甲を擦りつつ。ジュリオが自分の顔を伏せつつ言った。

「まあ、いいんだけどね。いいんだ……」

 その様子を見ていて、仕方ないといった風にオルタンスはパンをジュリオへ放った。それを見た彼は嬉しそうにパンを受け取る。

「いつまで物乞い気分なんだか。神官だろうに」
「麗しのレディからいただいたパンは格別なものなのさ。ちなみにね。ぼくは一時的に還俗してるから帯刀してもいいし、女性と付き合っても問題ないんだ」
「一時的、って……」

 なにを言っているのだろう。この少年が恐らくはヴィットーリオ……後の聖エイジス三十二世の使い魔に、神官になってからそれなりに時間が経過している。
 還俗したのはもうずいぶんと前の話ではないか。一時的とはまったくいい方便だ。
 呆れ顔でオルタンスはジュリオを睨みつける。

「おやおや。そんな風に見つめられると恥ずかしいな。きみのような美しい女性に見初められれば本望だけどね」
「口だけは一人前だな」

 まったく、調子が狂う。
 かつてのジュリオは完全にただの悪ガキだった。言葉遣いは酷く汚いし、服や体はいつも薄汚れていた。
 なのにある日。彼は唐突に変わった。
 綺麗な言葉遣いを覚えて、清潔な服に身を包んで。体を綺麗にして。どこからどう見ても、数年前までリトル・ギャングの頭をやっていたようには見えない。
 それが本当の彼でないことはオルタンスとて理解していた。だが、やっぱり調子は狂う。

「ははっ……。口だけは、か。でもね。こっちも案外いけるかもしれないぜ?」

 そう言って、ジュリオは指を一本持ち上げた。かなり下品なポーズである。聖職者にあるまじき失態。というより、女性相手にやるのはどうだろうか。
 はぁ、とため息を吐きつつ。オルタンスは鋭い視線を浴びせる。

「黙れ童貞」
「っう……」

 辛らつな口調だった。ジュリオは大げさに体をのけぞらせ、いかに自分が傷ついたのかをアピールする。
 とは言いつつも、オルタンスはジュリオを馬鹿に出来るような経験などない。恐らくは一生貞操を守ったまま死ぬだろうとすら考えている。

「ははっ、手厳しいもんだ。……だけどさ。まったく、きみくらいだよ。こうやって気兼ねなく話せるのは……」
「ふーん」

 ぱりぱり。もふもふ。ジュリオの言うことを右から左へと聞き流しつつ、オルタンスは最後のパンを口の中へ突っ込んだ。
 さっさと彼女がベンチから立ち上がると。まだパンを持ったままのジュリオが口を開いた。

「今度、ヴィットーリオ枢機卿主催の大晩餐会があるんだ。身分に関係なく参加出来るんだけど、どうかな?」
「考えておくよ」

 それだけを告げて。オルタンスはその場を後にした。
 結論だけ言えば、彼女が大晩餐会に出席することはなかったのである。


 屋敷に戻ったとき。なにやら騒がしい気配がした。オルタンスは嫌な予感を覚え、父のミケーレが療養している二階の部屋へと急ぐ。
 父の部屋の前では、兄のポールや姉のオリンピアが不安げな様子で立ち尽くしていた。
 オリンピアはオルタンスを見つけると辛抱ならないという風に駆け寄り、まだまだ小さな体の妹を抱きしめる。

「お父さまが……、お父さまが……!」
「お父さまが? お父さまがどうしたの?」
「オリンピア。落ち着くんだ。オルタンス。落ち着いて聞け。さっき、父さんの容態が急に悪化したんだ。今はお医者様にお越しいただいて診てもらっているところだよ」
「じゃ、じゃあ……」
「ああ。大丈夫だ」

 普段は頼りない兄がしっかりと発した一言に、オルタンスは思わず胸を撫で下ろす。
 しばらくした頃になって、小太りの医者が部屋を出てきた。彼はジェローラマにあれこれ指示をしたあと、頭を下げてその場を後にする。
 三人の兄妹たちも母と同じように頭を下げた。


 深夜。
 容体の安定したミケーレがランプの灯りで本を読んでいると、そこへ白いネグリジェを着た白髪の少女が現れた。オルタンスだ。
 髪も肌も白く、服も白い。まるで雪の妖精のようだ。

「お父さま。お体の調子がよろしければ、少しお話をしたいのですが……」
「ああ、いいよ。おいで」

 手招きをする父の元へ、オルタンスはゆっくりと歩み寄る。白いシーツの敷かれたベッドの上に腰を下ろす。
 このとき、見るからに父は衰弱していた。かつては筋肉質だった体は見る影もなく衰え、精悍なものだった顔立ちもどこか弱々しい。
 あまり先は長くない。意図せず、そう思ってしまう。
 そんなことを一瞬でも考えてしまった自分がどうしようも許せなくなり、オルタンスは自分の拳を握り締めた。爪が食い込んで血が流れる。それほどに強い力だった。
 だが。
 そんな彼女の手に、ミケーレがそっと手を添える。
 はっとして、オルタンスは父の顔を見た。

「駄目だよ。お母さんがくれた体なんだ。大事にしなさい」

 静かにそう告げる父の言葉に、力んでいた拳が開かれる。血の滲んだ様子を見て、ミケーレはベッド脇の物入れから取り出したガーゼを当て、包帯を娘の手に巻いてやる。
 その間、お互いに無言だった。
 華奢な白い手に巻かれた真っ白な包帯。手のひらの雪原に少しだけ、赤い血が滲んでいく。
 物入れに包帯の残りをしまったミケーレは、ただ静かにオルタンスの言葉を待っている。

 だけども。
 次の瞬間に少女の口から漏れでたものは、決してまとまった言葉ではない。嗚咽だった。
 白い髪を揺らしながら、オルタンスは自らの父の元へ駆け寄る。すっかり衰えた体にしがみついた。

「だめ。遠くへ行っちゃ、だめ……」

 まだ父が健康だった頃から、オルタンスは機会さえあればいつもいつも父のそばにいた。
 彼女がこのハルケギニアへ生まれ変わる前―――地球にいた頃、家族、とりわけ父と辛い別れ方をしたことが大きな要因かもしれない。
 “前世の記憶”などという爆弾を抱え、精神的にとても不安定な時期を父が大きく支えてくれたからかもしれない。

「オルタンス。きみはいつかぼくに話してくれただろう? 自分は生まれ変わる前の記憶がある、異質な存在だって」

 降り積もった雪のような頭を撫でながら発されたその言葉に、少女は思わず顔を上げた。

「あのときお父さまは、『そんなことは関係ない。きみになんの記憶があろうと、きみがぼくの娘であることに違いはない。安心しなさい』って仰ってくださいました」
「そうだ。オルタンス、きみがぼくとジェローラマの娘であるという事実は決して揺るがない。それは何があってもだ」

 でも……。と言いかけたオルタンスに、ミケーレはなおも続けた。

「きみはきみだ。“前世”もきみであることには間違いないし、今の、ぼくの娘であるオルタンスもきみに違いない。
 拒絶するんじゃない。受け入れるんだ。物事を柔軟に許容できるようになれば、きっと世界が変わる。
 だから、もしぼくがいなくなったとしても。それは事実として受け止めなくてはならない。決して現実から目を背けてはならないんだ。……いいね?」

 無言のオルタンス。しばし悩むように細い眉を歪めた後……、静かに頷いた。
 それを見たミケーレは満足そうに頷く。先ほどから娘の頭を撫でてやっていた手を外し、退出を促す。

「そうだ。いい子だよ、オルタンスは。……さ、もう行きなさい。明日もきちんと起きるんだよ」
「わかりました。お父さま」

 ベッドから身を下ろし、少女はゆっくりとドアの方向へと歩み出す。最後に振り返り、父を見た。

「おやすみ、オルタンス」

 そんな言葉を投げかけてくる。オルタンスもそれに応じ、精一杯の笑みを顔に浮かべて就寝の挨拶を行う。

「はい。おやすみなさい、お父さま」

 音を立てないように、静かにオルタンスは父の部屋を後にする。かちゃ、とドアがしまった。



 ―――そして。



 それが、親子で交わした最後の言葉となった。




 *




 父の葬儀はおごそかに執り行われた。
 家族の誰もが感情をなくしてしまったような顔をしている中で、オルタンスだけは毅然とした振る舞いを続けている。


 そしてミケーレの死から間もなく。三人兄妹の母親であるジェローラマは、ロマリアから去る決断を下していた。
 兄であり、トリステインの宰相を務めているジュール・マザリーニ枢機卿を頼ろうとしたのである。
 もともと病床にいたミケーレの治療費はかなり高額に及んでいた。それを返済するためには、屋敷を引き払うしかなかったのだ。

「……そういうことなの。ごめんなさいね。家族の、あの人の思い出がつまった屋敷だけれど……」

 そう辛そうに告げてくる母を見ては、もう誰も文句などつけられるはずがなかった。


 そして、伯父がいるトリステインへの出立、その前日。

 もうジュゼッペ爺さんの店でパンを買うのも最後だ。それを告げたところ、ジュゼッペはそれこそ一人では食べきれない量のパンをおまけで付けてくれた。
 幼少の頃より自分の店のパンを買いに来るオルタンスのことを、パン屋の老夫婦は孫のように可愛がっていたのだ。

 すっかり冷え込むようになったこの頃。
 白い息を吐き出しつついつものベンチに腰かけると……やはりというか、ジュリオが現れた。

「やぁ……。と、お父上がお亡くなりになられた事は聞いているよ。ご冥福をお祈りさせてほしい」

 いきなりそんなことを言って口上を述べ出すジュリオ。暗記しているらしく、寸分の狂いすらなく死者への言葉をつむいでいく。
 やがてそれが終わると、彼はすっとオルタンスの隣へと腰かけた。

「ロマリアを出る、ってことも聞いたよ。残念だけど仕方ないね。……実のところ、ぼくとしては、きみだけでも残ってくれないかと思ったりするんだが」
「それは出来ないわ。お母さまはわたし以上にまいってしまっているんですもの」

 元気のない言葉だ。というより、今まで一度もジュリオの前では女言葉を使わなかったオルタンスの言葉に大いに驚く。
 昔から、なぜかジュリオ相手には強烈な男言葉で罵倒を浴びせてきたものであるし、今までだって勝気な態度だった。
 こんな状況下だとはいえ……、酷く弱々しい様子の少女を見て、ジュリオはなんだか妙な気持ちになる。今ならもしかしたら……。
 が、である。
 不謹慎極まりないし、ここは自重する。そのくらいの理性は当然あった。

「ま、なんだ。トリステインに行っても元気でやっておくれよ」
「あら。あなたがそんな殊勝なことを言うとは思わなかったわ」
「……あのなぁ」

 ジュリオはため息を吐いた。この少女とはもう七年ほどの付き合いになる。確か、この少女がいま十二才であったはずだから……。
 そんな風に考えていると、オルタンスはいきなり立ち上がった。
 ジュリオの顔を見て、小さく呟く。

「わたしがトリステインに行くことになった以上……。またいずれ、あなたとは会うことになるかもね……」
「ん? なにか言ったかい?」
「いいえ。なんでもないわ。それじゃ、元気で」
「あ、ああ……」

 少々困惑気味なジュリオとの会話を打ち切り、オルタンスは歩き出した。
 その小さな背中を見つめつつ、オッドアイの少年は何を思うのか。

 彼がオルタンスへ留意を促そうとしたのは―――個人的な感情だけではなく、少女の身に宿る大いなる力のことを知っていたからなのかもしれない。



 オルタンスが向かう先はトリステイン。『ゼロの使い魔』の主要舞台であり、伯父のジュール・マザリーニが宰相を務めている国だ。

 オルタンスは一度死に、生まれ変わる前の記憶を持ったまま生まれ変わった少女である。

 彼女はこの世界の行く末を知っている。なにが起きるのかを知っている。

 果たして、彼女はこの世界でなにを成すのだろう。

 果たして、彼女はこの世界でなにを見出すことが出来るのだろう。

 それは、彼女だけが知る。






[22415] 第1話 水の王国
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6476ccc0
Date: 2010/10/10 16:45
 ハルケギニア大陸の中部。西のガリア王国と東のゲルマニア帝国という大国に挟まれた位置にトリステイン王国は存在した。
 その面積は地球の国家オランダとベルギーを合わせたほどの広さ。
 地理的にはかつてブルゴーニュ公家やハプスブルク家が治めた“ネーデルラント”に相当する地域だ。
 面積は西のガリア王国の十分の一ほどしかなく、それ故かトリステインの貴族たちは自嘲気味に自国を小国と称することもあった。

 そんな小さな王国の首都トリスタニアを、ロマリアからやって来た四人の親子を乗せた馬車が走り抜けて行く。
 彼らの親族であるマザリーニ枢機卿の遣した馬車は、がらがらと音を立てながら、白亜の王城を目指して狭い道が無数に走る市街地を進む。

 それほど大きくもない、なんだか古びた馬車の中で。
 長旅に疲れを見せる他の家族とは違い、白髪の少女だけが興味津々といった様子で座席から身を乗り出し、開け広げた窓からトリスタニアの街を眺めている。
 ロマリアはかなり大きな都市だ。トリスタニアも規模はそれなりにあるが、ロマリアからすれば取り立てて大きいわけでもない。
 白髪の少女以外の三人は、周囲の景色にあまり興味を持っていないようだった。

 そんな車内。少女の隣に腰かけた金髪の青年が、ふりふりと揺れるお尻を眺めながら注意を促す。

「オルタンス。そんな風に窓から身を乗り出していたら危ないよ。ちゃんと座席に座っていなさい」
「あ、はい。わかりました。ポール兄さま」

 青年の口調は随分と優しげなものである。それを耳にしたオルタンスという少女は残念そうに眉を下げ、座席へ座りなおす。
 昔に比べてずいぶんと聞き分けのよくなった妹の真っ白な頭を、ポールというらしい兄がゆっくりと撫でてやる。

「こちらへおいでなさい。お兄さまのごつごつした手では痛いでしょう? わたしが撫でてあげるわ」
「大丈夫です、オリンピア姉さま。あまり気持ちよくはないけど、痛くもないです」
「オルタンス……」

 ぴしゃりと容赦のない妹の言葉を聞き、悲しげに呟くポール。
 そんなどこか哀愁漂う兄の姿に目もくれず。オルタンスは窓の外の過ぎ去っていく景色ばかり見つめていた。


 やがて、馬車はトリスタニアの王城の近くにある屋敷の敷地内へと到着。
 緑に包まれた、あまり大きくない質素な石造りの屋敷。どうやらこの建物がマザリーニ枢機卿の住まいであるようだ。

 停車した馬車からマンチーニ男爵家――このとき、家督は長子であるポールが継承していた――がぞろぞろと乗ってきた馬車から降りると。
 そこでは一人の男が待ち構えている。それは現マンチーニ男爵の母であるジェローラマの兄、ジュール・マザリーニ枢機卿だ。
 彼はロマリアから派遣され、今現在までトリステインの宰相を務めている。それほど私欲がなく、その高い能力故に国王夫妻からの信認も厚い。
 年は三十代の半ばだろうか。働き盛りといった風貌で、まだまだ鳥の骨などと呼ばれる段階にはないように見える。
 母や兄と違い、幼少の頃に一度会ったきりのオルタンスからすれば、それなりに縁遠い存在だといえた。

 事実上の家長となったポール、ジェローラマとオリンピアがマザリーニへ挨拶をしている。
 ぱっと見た感じの枢機卿は物腰の低い、穏やかな男性という印象である。まだまだ若さを感じさせる容貌はちょっとばかり違和感があると思ってしまう。
 やがてオルタンスも挨拶をするために前へ進み出た。

「ジュール伯父さま。この子はオルタンスですわ。伯父さまも一度だけお目にかけたことがあるかと……」
「おお、きみがあのときの……。ずいぶんと女性らしく、美しくなった。まだまだやんちゃ坊主だと思っていたのだがね」
「お恥ずかしい限りです」

 おぼろげな記憶。幼少の頃に会ったとき、オルタンスはマザリーニに結構な粗相を働いていたような気がする。それを覚えていたようだ。
 枢機卿は自分よりもずっと背の低い姪の頭を撫でた。彼の手に、さらさらとした白い髪の感触が伝わってくる。

「ジェローラマ。荷物は運び込んでおいたよ。私は普段あまりこの屋敷を使わないから、自由に部屋や使用人を使っていい」
「……なにからなにまで本当にありがとう。兄さんがいなかったら、わたしは今頃この子たちを連れて路頭に迷っているところだったわ」
「はは、なに。お前やこの子たちはわたしの大切な親族だからね。それを見捨てるなんて非情なことはしない」

 そんな会話の後、マザリーニは政務に戻るために王城へと戻っていく。去り際にオルタンスたち兄妹は彼に頭を下げるのであった。


 部屋に荷物を運びいれ、自分の手で荷解きを行う。
 マザリーニの屋敷の使用人は数が少ない。なので、オルタンスは自分の分は自分でやると申し出たのだ。

 荷物を整理しつつ。母や姉が見繕ってきた、フリルがたくさんあしらわれた可愛らしい洋服を手に取る。
 オルタンスも、昔はこういう服装に拒絶反応を示していたものだ。普段から男物の服ばかり着て、わざわざ新しい服を用意した母を落胆させたりもした。
 それが今となっては当たり前に着こなせてしまうのだから、人間とは環境で随分と変わるものだ。
 とはいえ、彼女自身としてはたまに男物の服で過ごしたくなるときもある。

 やがて、片付けもほとんど終わりかけた頃。
 たまたま荷物の中からスラックスを見つけたオルタンスは、久々にそれを穿いてみることにした。

「……うん。サイズは問題ないかな」

 大きな姿見を覗き込みながら、体をよじったりしてみる。
 シャツはたくさんの種類の中から、なるべくシンプルな男性の着るものに見えると思ったものを選んだ。
 そして、鏡を見ながらすっかり伸びた髪の毛を頭の後ろで結い上げる。
 そうすると、まだまだ体が女性になりきれていないオルタンスは女顔の美少年のような姿へと変貌するのである。

 男装をするのは久しぶりのこと。なんだか、この恰好のままトリスタニアの市街地へ出てみたくなる。幸いにも荷物の整理はほぼ終わっている。
 マザリーニが帰って来て晩餐会を開くのは日が暮れて遅くなってからだと聞いている。
 ただ、初日からそれをやるのは早計である。何日か後にすべきだろう。ここは我慢すべきだ。

 そう思い、彼女は着ていた服を脱ぎ出すのであった。


 それからしばらく。マザリーニを交えた晩餐会を終え、オルタンスはすぐに眠りについた。

 もうしばらくは枢機卿としての仕事が忙しいらしく、何日かは屋敷で待機してほしいとのこと。
 これはオルタンスにはチャンスであった。彼女はずっとトリスタニアという町に興味を持っていたのだ。
 白亜の王城はもちろん、アングラ臭漂うブルドンネ街や魅惑の妖精亭。デルフリンガーを売っているだろう怪しげな武器屋にピエモンの秘薬屋。
 彼女が昼間にトリスタニアの街中を熱心に見つめていたのは、いろいろと町を見て回りたいからだった。

 翌朝起床した彼女はさっそく男装をし、母の元へトリスタニアへ出るという報告へ向かった。

「おはようございます。母さま」
「あら、オルタンス。……どうしたの? 久しぶりじゃない、男の子の恰好なんて」
「荷物を整理していたら偶然見つけました。大きさが合ってたから着てみたのだけれど……。どうでしょう?」

 自分ではそれなりかなぁと思っているのではあるけれど。人から見たらどうなのだろう。オルタンスは不安げな様子で問いかける。
 なんだか懐かしい気持ちになりながら、ジェローラマは微笑みかける。

「似合うわよ、とっても。ポールよりもずっと格好いいわ」
「……そうなのかな?」

 そう言いながらシャツの袖を引っ張る少女の姿は可愛らしい。
 男装のオルタンス。見ようによっては少年だが、そんな仕草をしていると少女にしか見えない。

「ええ。すっかり女の子らしくなったと思っていたけれど、まだまだどちらでもないのね。あなたは。……と。長くなっちゃったわね。行ってらっしゃい。気をつけるのよ?」
「はい。行ってきます」

 せっかく憧れの王都へとやって来たのだ。辛いこともあったのだし、少しくらいは自由にさせてあげよう。
 そう考え、母は娘を送り出してやるのだった。
 


 *



 王都を無数に走る道は曲がりくねっていてとても狭い。それは無秩序に都市を拡大してきたからでもあるし、また外敵からの防衛のためでもあった。

 そんな道の一つ。とたとたと軽い足音が建物で跳ね返って響き渡る。
 その音の根源はフードを目深に被った小さな人間だった。灰色の布から覗く手足は細く華奢なものだ。
 ちらりと垣間見える大きな青い瞳は、このじめじめとした暗い路地にあってなおさんさんと輝いている。まるで大きなサファイアのようだった。
 もうかなり走り続けているのか。白い肌には汗の玉が浮かび、小さな形のいい唇からは苦しそうな息が漏れ出している。
 小さなフードの人物の後方からは、男たちの怒声が聞こえてくる。複数人いるようだ。

「どうしてこんなことに……」

 呟かれるその人物の声は高い音だ。どうやら少女のようである。彼女はハイヒールを履いたまま疾走し続ける。

 少女が両親や侍従に内緒の“お忍び”で城下町へ出て来たのは、ほんのついさきほどのことである。
 彼女は昔からかなりのお転婆娘だと言われて育ってきた。
 幼友達であるルイズ・フランソワーズとはしょっちゅう取っ組み合いの喧嘩を繰り広げていたし、城を抜け出したのもこれが初めてではない。
 簡単にぼろを出すような真似はしないのだ。
 今の今まで、彼女がトリスタニアの市街で厄介ごとに巻き込まれたことなどなかった。

 だから、油断があったのかもしれない。露天のアクセサリーにうつつを抜かして余所見をしていたのが不味かったのかもしれない。
 普段なら絶対に近づかないような、昼間から酒を飲んで酔っ払った男たちの集団に、彼女は知らず知らずのうちに近寄ってしまっていたのだ。
 そして偶然にも男の一人にぶつかってしまい、驚いたらしい男は手にしていた酒瓶を地面に落としてしまう。
 少女は必死に謝ろうとしたのだけれど、男は激昂するばかりだった。

 ところが。
 彼女が見目麗しい可憐な少女だと知るや否や、男は一転して態度を変え、彼女にただ酒の弁償を迫ってきたのだ。
 しかし、少女はエキュー金貨もスゥ金貨もドニエ銅貨も持ち合わせていない。困り果てた様子を見せた彼女に、男の中の一人が言う。
 「金がないのなら、お前の体で払ったらどうだ」と。
 それを聞いた他の男たちも「そうだそうだ」「やっちまえ」と煽り立てる。
 最初はそういう気持ちではなかったようだが、そのうちに気がそちらへ向いたらしい酒の持ち主は、少女へずいと脂ぎった醜い顔を近づける。

 もう駄目だった。お転婆娘とはいえ、筋金入りの箱入りとして育てられた彼女は男たちへの恐怖心で一杯になってしまったのである。
 だから、少女は逃げた。
 それを見た男たちが怒声を上げるのを肌で感じた彼女は、もう泣き出しそうになってしまったのだ。

 暗い路地。もう何度目かわからない行き止まり。湿った地面に腰を下ろして、ついに少女は泣き出してしまった。

「もう、嫌ですわ……。お父さま……お母さま……」

 ちゃんと侍従のラ・ポルトの言い付けを守ればよかった。くだらない好奇心に突き動かされて、勝手に城を出て。最後はこのザマだ。
 そこへ容赦なく追い討ちをかける男たちの声。
 どんどんとその声は近づいて来る。もう動くことすら出来ない中で、少女は体を震わせながら縮ませる。
 迫る足音。どたどたと落ち着きのないその音に、心臓が破裂しそうなほど心拍数を上げていく。

「来ないでください……。お願いですから、来ないでください……」

 少女は震える手を合わせながら。必死に、自分の遠い先祖である始祖へと祈りを捧げる。
 だが、始祖への祈りは届かなかったようだ。
 やけに静けさを取り戻した路地裏に違和感を覚え、閉じていた目を開けば―――もうそう遠くない距離で、男たちがにやにやと品のない笑みを浮かべている。

「お嬢ちゃん。人の酒を台無しにしておいて逃げちゃあいけねえよ。ちゃんと謝らねえとさ」
「そうだぜ。まあ、俺たちは慈悲深いからよ。お嬢ちゃんが泣いて許しを請うってんなら、許してやらねえこともない」
「泣かせるのは俺たちだけどなぁ!」

 ぎゃははと不快な笑い声が路地裏に響く。
 少女は助けを求めて路地に接した家の窓を見上げるのだけれど、その瞬間に開いていた窓が住民によってぴしゃりと閉められる。
 この場所で自分を助けてくれる者などいないのだろうか。そう感じずにはいられない。

 無慈悲にもじりじりと男たちが距離を詰めて来る。少女は後ずさろうにも背後の壁に背がついてしまい、もう下がれないことを思い出した。
 杖。とっさに体をまさぐってみたのはいいものの、肝心のこんなときに限ってそれを忘れてしまったことに気がついてしまう。
 少女が絶望するのに、もうそれほどの時間は必要がなかった。

 だが。今になって始祖に願いは通じたのか―――あるいは偶然なのか。

 少女と男たちの距離が三メイルも無くなったとき。

 唐突に地面が“破裂した”。

 ぱらぱらと舞い上がる土煙。強烈な力によって抉り取られた地面。少女も男たちも呆然となり、路地の出口に立つ人影を凝視する。

「卑怯だとは思わないのか? 情けなくないのか? いい年の男が三人がかりで女の子を虐めて」
「ま、魔法! 貴族か!」

 現れたのは白い髪の少年だった。いや、日の光を受けてきらきらと輝くその髪は、あるいは白銀の輝きを放っているようにすら思える。
 大地に芽吹いたばかりの新芽のような新緑色の瞳は真っ直ぐに男たちを捉え、威嚇するかのように手にした杖が威圧感を放っている。
 男たちは顔を見合わせる。相手が貴族である以上、迂闊に反抗することは死すら招きかねない。慎重に行くべきだ。

「坊ちゃん。貴族の坊ちゃん。俺たちは決してこの娘っ子を理由もなく追い掛け回しているわけではないんですぜ」
「そ、そうだそうだ。元はといえば、この嬢ちゃんが俺の酒瓶を……」
「……いくらだ?」
「え?」
「その酒とやらはいくらなんだ?」

 弁明を始めようとする男たちを遮り、ほんの少し考えるようなそぶりを見せていた少年は鋭く言葉を発する。
 自分よりもずっと大きな体の相手にまったく臆することなく対峙する見たことのない人物。少女は唖然としたままその姿を見つめ続ける。

「坊ちゃんが代わりに弁償してくださるってんで? ……三エキューでさぁ。俺としては大枚叩いて買ったんで、壊されちまって……」
「嘘だな」

 そう言うや否や、少年は杖を振り下ろす。それと同時に男たちのすぐ横の地面に置かれていた樽が、接していた建物の壁ごとはじけ飛ぶ。
 あまりに不可解な光景。男たちは目を見開いたまま唖然と立ち尽くすしかなかった。

「こ、こいつ、物覚えが悪くて! ほ、本当は三十スゥでしたぁ!!」
「そうか。“物覚えが悪いなら仕方ないな”」

 勢いよく土下座をかました男の一人に向かってそう言いながら、少年はスゥ銀貨を三十枚数えて袋に詰める。それを地面に放った。

「そいつを持ってさっさと失せるんだね。さもなければ……」

 冷徹な視線を持って、白髪の少年が言い放つ。手にした杖の先はばらばらになった樽を指し示し、それが無言の圧力となる。
 情けない声を上げながら袋を手にした男たちは一目散に逃げ出した。

 その後ろ姿を内心ひやひやの心境で見送った後。少年は地面でへたり込んだままの少女へ近寄る。

「大丈夫?」
「……」

 返事がない。いったいどうしたのだろう。心配になった少年は目の前の人物の華奢な肩を叩きながら呼びかける。

「きみ?」
「あ、は、はいぃ!?」

 へたり込んだ少女が突然素っ頓狂な声を上げる。物凄い勢いで立ち上がり、その拍子に深く被ったフードが捲れ上がった。
 灰色の布の下から現れたのは、栗毛を肩まで伸ばした碧眼の少女だった。
 どこか見覚えのある顔だ。ただ、それが誰なのかまで正確に思い出すことが出来ない。
 そんなことを考えながらじっと少女の顔を見つめていると、大きく目を見開いていたその顔が急に真っ赤に染まる。
 ぼっという音が聞こえそうなほどの狼狽ぶりだった。

「あ……。あの。そんな風に見つめられると、恥ずかしいですわ……」
「ん? そうか。ごめん」

 恥ずかしがっているのに気がついたのか。少年の体が離れていく。
 見たところ目の前の人物は貴族のようだ。だが、こんなに綺麗な少年は見たことがない。今日はたまたま領地から出てきたのだろうか?
 女性のような整った顔つき。背筋を伸ばしたすらりとした細い体つき。上品さがわかる、良い躾けを受けてきた証である身のこなし。
 白馬に乗った王子さまではなく、髪の白い王子さま。そんなことを考える。

「あ、そ、その。危ないところを救っていただいて、本当にありがとうございます!」
「いや。ぼくが勝手にやったことだから……。それより、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。少し汚れてしまいましたけれど、この程度なら」
「そっか」

 安心したような声音で少年は言う。浮かべた微笑みは本当に本当に綺麗で、でもどこか儚くて。少女は思わず見とれてしまう。

「……? どうしたの?」
「あ、いえ! なんでもないんです!」

 訝しげに眉を下げる少年。それを見た少女は慌てながら手を振り回す。

「大丈夫ならいいんだ。もし不安なら、家まで送って行くけど……」

 魅力的な提案といえばそうかもしれない。だが、少女は周囲に黙って勝手に町へ出て来たのだ。この貴族の少年に真実を話して連れ帰ってもらおうにも……。
 両親や侍従からの叱責を恐れる彼女は首を振った。その提案を断ってしまう。
 拒否の返答を受けた少年は少し残念そうな顔をしながら、しかしやはり魅力的な笑顔を見せる。

「きみは地元の子みたいだから、お話を聞きたかったんだけど……。それならしょうがないね。気をつけて帰るんだよ? ああいう危ないのがいるから」
「は、はい……!」

 少年は道に迷っていたので、本当は彼女に道を尋ねたいところではあったのだが。
 最後に少女の頭を撫で―――白い髪の少年はその場から去っていく。後姿を見ていても様になっているのが、なんともいえない感情を喚起させる。

 いつまでもいつまでも、栗毛の少女は“白い髪の王子さま”に魅入っていた。
 名を尋ねることを忘れてしまうほどに、夢中だった。



 ―――夕刻。

 オルタンスがマザリーニの屋敷へと戻ると。自分に割り当てられた部屋に置かれたベッドで、姉のオリンピアが腰を下ろして本を読んでいた。
 本の表紙は夕日の影に隠れてしまっていて、タイトルがなんなのかはわからない。
 
「あら、お帰りなさい。どうだったかしら? トリスタニアは」
「ね……、姉さま……」

 ぞくり。男装少女の背筋を冷たい感触が走る。姉の瞳が凍りつくように怖いのだ。
 オリンピアはにこやかに微笑みながら、オルタンスへと近づいて来る。
 妹のものと同じ端整な顔が近づく。耳に熱い吐息が近づいて―――瞬間、耳が何かに包み込まれるような生暖かい感触。

「……!? ね、姉さま、なにをっ!?」

 ばっと飛び退き、頬を真っ赤に染めたオルタンスは大きな声を上げた。
 そんなあからさまに動揺する妹をからかうような、妖艶な表情でオリンピアは見つめる。

「ふふ。冗談よ。ちょっとしたお茶目ってところね。今のあなたとっても可愛かったから、わたしに黙って出かけたことは不問にしてあげるわ」
「……も、もう! からかわないでよっ!」

 耳まで熱を持つことを感じながら。オルタンスは部屋から出て行く姉を怒鳴りつけた。
 ぱたんとドアが閉まったとき。わずかに垣間見えた姉の横顔は、どこか寂しそうなものだった。自分と同じエメラルドグリーンの瞳が少しばかり暗く見えた。
 姉に黙って出かけてしまったのは悪かったかもしれない。

 明日は彼女が望む限りは一緒にいてあげよう。今さらながらにそう思うオルタンスだった。





[22415] 第2話 王都を行く
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:d2e221a2
Date: 2010/10/14 20:13
 マザリーニ邸はトリスタニアの北側、白亜の王城から程近くに建てられている。
 それゆえ、川を隔てた対岸にある市街地を賑わす民の喧騒もほとんど届いては来ない。
 常緑樹の森に囲まれた屋敷の敷地内は、なんだか妖精でも現れそうな、人気のない物静かな雰囲気が漂っている。

 金髪の青年、マンチーニ男爵ポールはそんな敷地内の一角でキャンバスを広げて何かを描いている。
 そんな彼に近寄る影があった。肩甲骨の辺りまで伸びた白い髪をそよ風に揺らしながら、その人物はゆっくりと青年へ歩み寄る。
 何者かが近づいてきている―――ポールがそう感づいたとき、彼の肩に小さな頭が乗せられた。

「兄さま。これはなにを描いているのですか?」
「うん? ああ、ここは見晴らしがいいからね。街の景色でも描いてみようかと思って」

 誰かと思えば。それは二番目の妹オルタンスであった。
 彼女は体ごとポールに寄りかかりながら、大きなエメラルドグリーンの瞳を見開いている。
 首を肩にもたれかけさせたまま、白髪の少女はなにやら唸りながらキャンバスを覗き込む。
 そのうち顔を黒炭で描かれた線画へ近づけ出したので、彼女のまだまだ薄い胸の感触がセーター越しにポールへ伝わってきた。
 なんだかとてもとても幸せな気持ちになりつつ。青年は黒炭で線を引いていく。
 そのうち、オルタンスの視線はポールが座る椅子の隣におかれたパンに向いた。不思議そうな顔で、兄の耳元で問う。

「兄さま。このパンは……」
「これはキャンバスの黒炭を消したいときに使うんだよ。別に食べるわけじゃないんだ」
「なるほど。それは知りませんでした」

 ちょっと自慢げな様子でポールは妹に白いパンの使い道を教えてやる。
 もっとも彼が木炭画を始めたのはつい最近の話しだし、話した知識を得たのもつい数日前のことではあった。
 この可愛らしい妹を前にしては僅かにでもいいところを見せたい。そんな考えからつい出た一言だ。

 しばらくは黒炭で線を引く作業を食い入るように見つめていたオルタンスだったのだけれども、そのうち飽きて眠くなってしまったらしい。
 まぶたが下がり、長いまつげがくるりとカールしている様子を見て、ポールは彼女を寝床に運んでやることにした。
 ふにゃふにゃと口を動かすオルタンスの背中や膝の裏を持って彼女を抱きかかえる。
 妹の体は思っていたよりも少し重く、体温は高めのようだった。石鹸の香りもかすかに鼻へ入り込む。

 すやすやと眠るオルタンスの顔を見つめつつ。ポールは屋敷の母屋へと妹を運んで行った。



 *



 トリスタニアへやって来てから一週間。

 この日オルタンスと姉のオリンピアは伯父であるマザリーニに連れられ、トリスタニアの王城の内部を進んでいた。
 なんでも、姉妹とアンリエッタ王女と顔合わせをさせるつもりであるらしい。
 その真意は掴みかねるものの、オルタンスとしては未だ目にしたことのないこの国の王女と会うことができ嬉しいという想いの方が強いのである。
 廊下を随分と歩いた頃。
 目の前の突き当たりには大きな扉があって、それを守るかのように衛兵が番をしている。
 マザリーニがそのうちの一人に声をかけてしばらく話し込むと……やがて頷いた衛兵が大きな扉を開けた。思ったよりも軽い音が廊下へ響く。
 手招きをされ、姉妹は伯父の後に続いて扉の向こうにある白亜の床へと足を踏み入れた。
 そこは渡り廊下になっているらしい。何本もの柱の外側は中庭になっていて、空から陽光が差し込んでくる。

「わかっているとは思うが、相手はこの国の王女だ。粗相はないように」
「肝に銘じておきますわ」
「わかりました」

 最後にマザリーニは二人の方を振り返って注意を促す。そして、ゆっくりと目の前にある扉を押し開けた。
 その向こうにはやはり白い壁と床が広がっており、いくつかの部屋へ通じているだろうドアが見られる。どれがどこに繋がっているのかはわからない。
 次に二人が通されたのは、どうやら応接間かなにかのようだった。
 部屋の中央に大きなテーブルが置かれ、座り心地のよさそうなソファーがずっしりとした存在感を放っている。

 そしてすぐ。
 オルタンスが入って来たドアとは反対にある入り口から、真っ白なドレスに身を包む一人の少女が現れた。
 肩の辺りまで伸びた、少し濃い栗色の髪。青い目は海のような深い色。おしろいでも塗ったかのように白い肌。見るからに柔らかそうで、先日見た兄の白いパンを彷彿とさせる。
 彼女の視線はゆっくりとマザリーニやオリンピアを捉え―――最後にオルタンスのところまで来たところで、王女は大きく目を見開いた。
 それはオルタンスとて同じ。なぜなら、その姿はトリスタニアへやって来てすぐに出会った少女とまったく同じものであったのだから。
 お互いに硬直したまま見つめあう。
 不意に、王女の頬が赤く染まる。
 それを不審に思ったらしい枢機卿が何か言い掛けたとき。唐突に動きを取り戻した栗毛の王女が慌てて口を開いた。

「よ、ようこそお越しくださいました。既にご存知かとは思いますが、わたしはアンリエッタ・ド・トリステイン。この国の王女です」

 なんだか妙な雰囲気ではあったものの、それを問いただすものはいない。
 オルタンスとオリンピアもそれぞれの自己紹介をし、さっそくアンリエッタと向かい合って応接間のソファーへと腰かける。
 ちなみに、マザリーニは侍従のラ・ポルトとなにか話し合うと言って退出してしまった。

 向かい合って腰かけるアンリエッタは完全にどこか上の空で、ぼうっとした表情のままオルタンスの顔を見つめている。
 そんな様子を訝しげに見つめるオリンピア。なにを思ったのか、彼女は王女へと声をかける。

「殿下。どうされたのですか? あまりお体の調子が優れないのでしょうか?」
「……え、ええと。そういうわけではないのです。ただ、少し気になることがありまして」
「それはどういったことでしょうか? わたしでよろしければ、わかる範囲でお答えできますが……」

 オリンピアの言葉を聞いて少し悩むらしいアンリエッタ。だが、すぐに顔を上げる。

「はい。あの、あなた方に年の近い男性のご兄弟はおられますか? 白い髪で、緑色の瞳の……」
「いえ……。兄はおりますが、わたしと同じ髪の色です。髪が白いのは、このオルタンスだけですわ」
「そうですか。ありがとうございます」

 そういい、何かを思い起こしているらしいアンリエッタ。やがて目を開き、申し訳なさそうな口調で告げてくる。

「オリンピアさん。申し訳ないのですけれど、少しオルタンスさんと二人にさせていただけないでしょうか?」
「……? は、はぁ……。わかりましたわ」

 思いがけない王女からの要望に、少しばかりの疑問と残念さを滲ませながら。オリンピアは応接間を出て行く。
 そして王女は“確信にまで至った表情を浮かべ”、固まったままのオルタンスへと声をかけた。

「お久しぶり―――でよろしいのでしょうか? まさか、あの路地で出会った殿方の正体があなたのように可憐なお方だとは思いませんでした」
「そ、それは。なんと言いますか……。えっと、そのごめんなさい。まさか王女殿下だとは知らずに無礼な口を……」
「ふふ。いえ、いいのですよ。あのときはありがとうございました。あなたが来てくれなかったら、わたしはどうなっていたかわかりませぬ」

 あたふたと慌てるオルタンスを見て微笑みながらアンリエッタがそう話す。
 アンリエッタがなぜたった一人で王都にいたのか。どうしてオルタンスが男装などしているのか。お互いに詮索するようなことはしなかった。
 オルタンスがどうしたものかと曖昧な笑みを浮かべていると、突然アンリエッタがソファーから立ち上がってそばへ近寄ってくる。
 妙に熱い視線を浴びているのを感じて、白髪の少女は困惑したように眉を下げる。

「……まさか、一目惚れをしてしまったお相手が同性の方だったと思うと……。でも、それでも良いような気がしてきましたわ」
「で、殿下?」

 なんだろう。
 アンリエッタの目がヤバ気である。小さく呟いた言葉の前半部分はよく聞き取れなかったのだけれど、不穏な気配が伝わってきた。
 お互いの吐息がまだ熱を持つほどに密着した距離で、青い瞳が緑の瞳を食い入るように見つめている。
 いったいどうしたのだろう。何か粗相を働いてしまったのか。
 嫌な予感が頭を過ぎったオルタンスがごくりと生唾を飲んだとき。不意に王女の顔が離れていく。
 なにがなんだかわからない少女を尻目に、アンリエッタは先ほどまで腰かけていたソファーへ座りなおした。

「……いえ。これからよろしくお願いしますわ、オルタンスさん」
「は、はい。よろしくお願いします」

 テーブルの向こうでにこりと微笑むアンリエッタはもう普通の様子。つい今までの怪しげな雰囲気はどこかへ消えてしまっていた。
 そして、戻って来たオリンピアと共に。三人はお茶を飲みながら談笑することになるのであった。



 *



 王女との顔合わせから数日後。
 なぜかオルタンスは男装をして、アンリエッタに手を引かれながらトリスタニアの市街地を歩いていた。

 今日も今日とてトリスタニアの市街地はさまざまな場所からやって来た人々で溢れかえっている。
 時おり見える貴族のマント。巡回をしている衛兵。狭いブルドンネ街の道を余計に狭くしている露天商たち……。
 活気に満ちた街の化身のような少女はずいずいと道を進む。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう?
 まとめた白い髪をぶらぶらと揺らしながら、男装の少女はこうなった経緯を脳裏に思い浮かべた。


 ―――王女から急に呼び出されたのは朝のこと。

 兄に起こされ、寝ぼけ眼でオルタンスが王城へ向かうと。そこではなにやら微笑むアンリエッタ王女の姿があった。
 彼女はどこから持ってきたのか、男物の服装を取り出した。そしてそれを着ろという。
 まだ頭が覚醒していないオルタンスはふにゃふにゃとおぼつかない様子でもぞもぞと服を脱ぎ出したので、王女の命を受けた侍女が強引に着替えさせる。
 それからじたばたと暴れる少女と侍女たちの争いが起き。
 あっという間に侍女たちに下着まで蹂躙されてしまったオルタンスは、大きな目に涙を浮かべながら男性用の服に身を通すこととなったのだ。

「うう……。酷い……」

 床にペタンに座り込んでしまうオルタンス。少々強引な手法を使った侍女を睨みながら、彼女はアンリエッタに要件を尋ねる。

「これはいったいどういうことなのですか?」

 抗議するかのように問いを発する。
 男装姿をうっとりとした様子で見つめていたアンリエッタは、静かに口を開いた。

「……今日もお忍びで街へ出ようかと思いまして。あなたにはその護衛をしていただきたいのです」

 なんてことを言うのだろう。彼女は先日も襲われたばかりではないのか。
 もしこの前の男たちに見つかってしまったら、自分だけではなくアンリエッタまで報復を受けてしまうかもしれない。それは避けたい。
 あのときは相手が少人数でわりとあっさりとビビッてくれたから良いものの、次も上手くいくとは限らない。
 むしろ、良い方へ向かうとは考えにくい。
 だからオルタンスはなんとかアンリエッタを諭そうとしてみるのだが。
 
「ご、護衛ですか? しかし、先日も暴漢に襲われたばかりではありませんか。おやめになられた方が……」
「だから貴女に来ていただいたのですわ。ぜひともわたくしを守ってくださいまし」

 可憐に、しかし豪快にアンリエッタは言い放つ。
 有無を言わせない口調。六千年続いた王族の威厳がそこにはある。とても男爵家の次女如きが抵抗できるオーラではない。
 ……そんな大層なものをこんな状況で使ってほしくないと思わないこともないのだけども。
 結局逆らうことが出来ず、オルタンスはアンリエッタがいつも使っているという抜け道を使ってトリスタニアの王城を出ることとなったのだ。

 ちなみに、町ではアンリエッタのことを単に『アン』と呼んでほしいらしい。


「わぁ。すごく綺麗ですわ」

 オルタンスが物思いに耽っていると、不意に前方からアンリエッタの声が聞こえてくる。
 彼女が覗き込んでいるのは街角の小物屋だ。ショーウィンドウに並べられた色とりどりのガラス細工が日の光を受けてきらきらと輝いていた。
 それを見つめるアンリエッタの瞳もきらきらと輝いている。
 「こんなガラス細工よりもきみの瞳の方が綺麗だ」
 なんとなく、どうしようもなく臭い台詞が脳裏に浮かぶのだけど、オルタンスはすぐにそんな思考を振り切った。首をぶんぶんと回す。
 まったく恥ずかしい。そんな茹ったような台詞を吐けるのは、相当頭のゆるい人間くらいなものだろう。
 自分の頬が意思に反して熱を持ってしまうのを誤魔化すべく。オルタンスも窓の中を覗き込むのだった。

 ブルドンネ通りはトリスタニア最大の道。しかしながら、その横幅はせいぜい五メイルしかない。
 おまけに露天商やらせり出した店舗の天幕やらたむろする連中やらで、余計まともに歩ける場所が狭まっている。
 日本では人もまばらな四メートル道路ですら狭く感じるのだから、いかにこの通りが人で埋め尽くされているのかがわかる。

 そんな人ごみの中を、相変わらずアンリエッタに手を引かれたままのオルタンスは歩いて行く。
 前回来たときは道に迷ってどうにか帰ることばかり考えていた。だから、あまり周囲を見て回ることは出来なかったのだ。
 今回はアンリエッタと一緒なのでその心配はない。安心して――もっとも、警戒を怠ることはできないが――いろいろと見て回ることが出来る。
 ぱたぱたと走るアンリエッタの後姿を眺めつつ。オルタンスは微笑んだ。

「わぁ。美味しいですわ」

 貴族向けの高級菓子店で買ったチョコレート菓子をつまみつつ。アンリエッタは感嘆の声を上げる。
 チョコレート。ハルケギニアには『東方』から移入されたという触れ込みで広がっており、わずかながらトリスタニアなどの大都市で流通している。
 当然お値段もそれなりにする。平民が買えるようになるのはいつの時代だろうか。
 そんなことをほんの少しだけ考えつつ。オルタンスも異世界で味わう懐かしい味に舌鼓を打つのであった。

 ちょっとした間食の後。中央広場へとたどり着いた二人はこれからどうするか話し合っている。

「わたくしはオルタンスさんにお任せしますわ」
「いえ。そういうわけにはいきません」

 お互いに決定権を投げているので、なかなか話しがまとまらない。そのうちにサン・レミ聖堂の鐘がなってしまう。もう正午だ。
 さっきから背伸びしたカップルの痴話騒ぎにしか見えない光景を眺めていた平民たちも、いい加減に飽きてしまったらしい。次々と場を去っていく。
 そんなときだ。オルタンスの視界に、とある建物が飛び込んでくる。タニアリージュ・ロワイヤル座だ。
 確か、この建物の中ではいろいろな寸劇が行われているはず。
 とりあえずここに入ってみよう。

「じゃ、じゃあ。とりあえずあの劇場に入ってみようか」

 そう言って、今日始めてオルタンスは自分からアンリエッタを先導する。手を引かれて行く王女はどこか幸せそうに見えた。

 チケットは平民でも購入出来る程度の金額だった。それでもそう何度と足を運べるものではないが。
 座席へ腰かけ、これから始まるであろう劇への期待を込めつつ壇上を眺めていると。

 不意に場内が暗くなり……幕が上がる。壇上には青年役の男性俳優が膝立ちで手を上げ、大仰な仕草で声を張り上げた。
 次に舞台裏から長い褐色髪の少女が現れる。ふわふわの髪を肩の腰の辺りまで伸ばした彼女は悲しげに顔を歪めながら、青年へと自分の想いを打ち明けるのだ。
 しかし少女は貴族であり、対する青年は平民である。身分が大きく異なり、おまけに歳も離れている。
 お互いに結ばれぬ運命だと知りながらも、二人は愛を誓い合う……という内容のようだ。
 アンリエッタはその様子を食い入るように見つめていて、はらはらと舞台の登場人物たちの行く末を固唾を飲んで見守っている。
 オルタンスもこういった話が嫌いなわけではない。隣に腰かけた栗毛の少女ほどではないが、この先の展開を見逃すまいとしている。

 そしてこのとき。彼女たちの背後でとある大物貴族が座席に腰を下ろしていたのだが、それは少女たちの知ることではなかった。

 物語はラストを迎える。
 お互いの強い想いを改めて確認しあった青年と少女が、当てのない逃避行のために少女の実家を脱出しようとする場面だ。
 二人の計画は事前に少女の父の伯爵に知れていたという事実が発覚する。そして、杖を構えた伯爵の魔法によって青年は命を奪われてしまうのだ。
 失意の底に落ちた少女も最後には自らの命を絶ち……そこで、物語は終幕を迎えた。

 幕が下りるのを見守っていたアンリエッタの表情が大きく曇る。少女が迎えた非業の死を、彼女の境遇を自分と重ね合わせているのかもしれない。
 アンリエッタは正真正銘この国の王女である。政略結婚の駒となることは決まっているも同然。己が好いた人物と結ばれることはほぼないだろう。
 こうして好き勝手に街へ出て仮初めの自由を謳歌していても、いずれそれは終わる。
 どこか見知らぬ大貴族へ嫁がされたアンリエッタは一生を籠の鳥として過ごすのだろう。
 もしかしたらそれはゲルマニアの皇帝かもしれないし、あるいは……。

 それはマザリーニ枢機卿の姪であるオルタンスも同様かもしれない。彼女も政略の駒とされてしまう危険性は十分にあるのだ。
 もし自分がどこかの家の嫁がされたら。まず初夜が待っている。とても痛そうだ。次に出産が待っている。我慢出来ないくらい痛そうだ。男児を産めない。姑に突かれるだろう。
 物凄く嫌だった。
 嫁に出される前に修道院へでも逃げ込もうか。しかし、それはそれで場所によっては大いに乱れているという噂もある。
 ……と、自分が変なことを考えているのに気がついたオルタンスが首をぶんぶんと振り回す。

 そんなオルタンスの横では相変わらずアンリエッタが落ち込み、なんだか気の毒なことになってしまっている。
 可憐な少女が顔に影を落として落ち込む姿はあまりに痛々しい。オルタンスはそんな王女になにか声をかけてあげたくなった。

「そんなに落ち込まないで。もし殿下が自分の意思に反して変な貴族と結婚させられそうになったら。わたしがあなたを守って差し上げますから」
「……本当ですか?」
「はい。絶対にです」
「水の精霊に誓っても?」

 と。ずいとにじり寄ってきたアンリエッタがそんなことを言うのである。
 その夜のラグドリアンの水面を思わせる青い瞳に浮かぶ焦燥の色に、思わずオルタンスは首を縦に振ってしまった。
 それを見たアンリエッタは満足そうに頷きながら、小さく呟く。

「必ず守ってくださいね。わたくしの新しい大切なお友だち。そして騎士さま……」

 本当に微かな声量でしかなく。それが少し自分の行動が浅はかだったかと悩む白髪の少女へ届くことはないのも、また道理であった。

 やがて二人は歩き始める。二時間ほどの劇を全編通して見終えたためか、もう太陽は若干ながら傾き始めていた。
 街娘のような服装に身を包んだアンリエッタは、男装の少女の腕に手を回した。首を傾げ、自分と同じように細い肩に頬を乗せる。
 少しばかり恥ずかしがるオルタンスの反応を楽しみつつ、アンリエッタは白百合のような笑みを浮かべた。

 しばらく歩いた頃。唐突にアンリエッタが尿意をもよおしたらしい。お手洗いに行くからオルタンスも来てと言われたのだけども、それは丁寧にお断りする。
 近くのお店でトイレ――トリスタニアでは上下水道がある程度整備されている――を借りるために走り去っていく。
 そんな彼女の後姿を見送りながら。
 オルタンスはそばにある建物の壁に背をついた。なんとなく空を見上げてみると、ゆっくりと雲が流れていくのがわかる。
 この空がロマリアの空と繋がっている。その事実がなんだか不思議で、また世界は同じ空の下にあるのだという安心感もある。
 地球とはまるで違うこの世界で初めて自我を得たときは途方にくれたものだ。

 “光の国”の廃墟で混乱していた彼女に最初に声をかけて来たのは、確かジュリオだったように思う。
 いきなり男扱いしてきて無礼な事をしたので、思いきり引っ叩いてやったものだ。思えば、それがあの月目の少年との因縁の始まりかもしれない。
 あの日もこんな風に青く雲の少ない空の色をしていた。

 空を見上げつつ少女がぼうっとしていると。
 いつの間にか、彼女の目の前が大柄な男たちによって囲まれていることに気がついた。

「よお。また会ったな。貴族の坊ちゃん。捜したぜ」

 そうオルタンスに声をかけてきたのは。先日出来損ないの魔法で追い払ったチンピラ集団だった。
 ただ、今日は三人ではない。屈強ながたいのいい男を五人ばかり連れている。メイジではないようだが、その鍛え上げられた図体は酷く威圧感がある。
 先日の三人組みの一人が顎でオルタンスを促す。どうやら、これから自分はリンチされてしまうらしい。
 どうする。隙を見て逃げるか。いや、駄目だ。アンリエッタがいる。
 自分の役割はあくまでも王女を危険から守ること。ならばここは少しでもこのチンピラ共を引き離さなくてはならない。
 出来損ないの魔法もこの場では使えない。誰の目があるかわからないし、一人を倒している間にやられるのがオチだ。
 ならば、もっと自分にとって戦いやすい場を選ぼう。
 そう考え、オルタンスが男たちについて行くと首を振ろうとしたとき。

「―――っ」
「ひゅぅ。柔らかいもんだ。まるで女だな」

 男のごつごつとした拳が勢いよく突き出され、オルタンスの腹部を捉えていた。






[22415] 第3話 流浪の剣士
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:79853b1c
Date: 2010/10/25 17:50
 オルタンスとアンリエッタがトリスタニアの王城への帰路についていたとき。

 ほぼ同じ頃、混雑した市街地を進む一人の女性がいた。
 短く切り込んだ金色の髪。意思の強そうな瞳は鋭い眼光を放っている。身に着けている衣服はあまり綺麗な物とはいえないが、見るからに小汚いわけではない。
 使い込まれた諸刃の剣の収まった鞘が歩くたびにがちゃがちゃと金属音が鳴る。
 彼女は周囲を見回しながら、これからどうやってやって来たばかりのこの町で生計を立てていくべきか考える。

 自分は剣士だ。孤児院を飛び出し、各地を渡り歩く中で生きるために身に着けた剣の心得があるのだ。
 ならば、それを活用出来る職業―――あえて言うならば、首都警備隊の衛兵にでも応募するのがいいだろう。
 女性である以上はそれなりのハンデもあるが……。腕には自信がある。きっとなんとかなるだろう。
 なんとしても、自分は成り上がらねばならない。復讐しなくてはならないのだ。
 “自分の全て”を、故郷であるダングルテールを破壊する命令を下したであろう貴族に。

 やがて。
 彼女がブルドンネ街のとある商店で購入した干し肉をかじっていると……。
 トリスタニアの中央広場に面した小さな路地に、やたらと大柄な男ばかりが何人も集まっているのが飛び込んできた。
 いったい何をしているのだろう。このときの彼女は他の見て見ぬふりをする連中と同じで、特に興味もなく、なんとなくベンチに腰かけて干し肉を咀嚼するだけだった。
 けれども……。
 女性の優れた動体視力が、ほんの一瞬だけその光景を捉えた。
 男たちに囲まれているのは子供なのだ。それもとても華奢な体で、あんな筋骨隆々の男にかかればひとたまりもないと感じざるを得ない。
 なにをしたのか知らないが、随分と子供相手に威圧的な連中だ。女性は大いに嫌悪感を顔に浮かべる。

 すると。女性の視界に、困った顔で男たちの集団を見つめる綺麗な少女がいることに気がついた。
 彼女は今にも泣きそうな、おろおろとした様子で辺りをうろうろとしている。誰かを捜しているようだが……、どうも見つからないらしい。
 やがて少女は何か決め込んだのか。懐から杖を取り出し、男たちの方へ向かった。無謀にも助けるつもりらしい。
 どうやら、彼女は囲まれている子供の連れのようだ。
 やれやれ。女性は最後の干し肉を口の中に放り込むと、腰かけていたベンチから立ち上がった。
 ずかずかと歩き、少女の腕を掴む。行き急ぐ栗毛の少女の細い感触が手のひらに伝わってくる。

「どうしたんだ? あそこで絡まれている子のお友達か?」

 驚いてこちらを見上げてくる少女の頭を撫でてやりながら女性が問いかけると……。不意に、少女の顔がふにゃっと崩れた。

「うっ、くすん……。あそこで、あそこでわたくしの大切なお友達が大変な目に遭っているのです。わたしが無理に連れ出したから……、わたしのせいで……」

 顔を両手で覆い、ぐすぐすと泣き出してしまう少女。
 なんだかそんな彼女を見ていると昔の自分を思い出して……。庇護欲をそそられ、女性は無意識に口を開いてしまっていた。

「大丈夫だ。わたしがきみのお友達を助けてあげよう」
「……本当に?」
「ああ。わたしに任せてくれ」

 そう言いつつ、もう一度栗毛の少女の頭を撫でる。さらさらとした手触りのよい艶のある髪。この少女が平民でないのはすぐにわかった。
 それでも。身分など関係ない。自分にとってこの少女はなんの仇でもないのだから。
 女性は少女に待つように言いつけて頭から手を離すと、大男たち目がけて歩き出す。ゆっくりと、しかし悠然と。


 一方、大男に囲まれたオルタンス。

 彼女はチンピラの男に腹部を強打された痛みでその場に倒れこんでしまっている。石畳に手を突き、ぜぇぜぇと息を荒げていた。
 こんなものはジュリオに比べれば……。そう思ってはいても、やはり年月の経過や絶対的な体格差はどうしようもない。
 そんな様子をにやにやと眺める男たち。杖はそのうちの一人が手にしている。

 やがて男の一人がオルタンスの髪を掴み、強引に立たせた。
 すると髪を結っていた紐が外れてさらさらの髪が流れ落ちる。ぱらっと白亜の髪が顔にかかる。
 そんなオルタンスの様子を見た男は……。
 驚いた表情を見せながら。しかし次の瞬間には口の端を歪めて、その醜い顔に底なしの卑しい笑みを大きく浮かべるのだ。

「……おいおい。こいつは驚いたぜ。お前、女だったのか。ま、こんなぺったんこじゃわかるはずもねえがな!」

 耳障りな笑い声を上げながら。男の手がオルタンスの胸目がけて伸びてくる。
 少女はそれを自分の手でばしっと払った。
 一瞬で、間髪すら入れずに長い足を振り上げて男の腹を蹴りつける。そして、嫌悪感を、敵意を隠しもせずに彼女は眼前の男を睨みつけるのだ。
 蹴りを受けてうずくまった男は途端に醜い顔を余計醜く歪めた。いきり、額に青筋を浮かべながら怒鳴りつけてくる。

「てめえ! メスガキの分際で……。許さねえ……」

 激怒したチンピラの男はオルタンスのシャツに手をかけた。そして一気にびりびりとそれを引き裂く。
 その下から現れたのは……白い包帯、さらしだった。薄いながらも歳相応に育ち始めた胸部を隠すために巻いていたのだ。

「……っく! よくも」
「先に俺らへ突っかかって来たのはおめえだろうか! 自業自得なんだよ!」

 そう叫びつつ、男は手にしていた木の棒を振り上げた。
 いよいよ本格的にこれは駄目かもしれない。
 オルタンスは天の国にいるであろう父を思った。マザリーニ邸にいるだろう母や兄、姉のことも思い浮かべる。

 これから起きるだろう事態のことはあまり考えたくない。無心で嵐が過ぎ去ることを待つしかないのだ。
 自分はまともな魔法も使えず、素手で抵抗出来る様な武術の心得もまったくない。どうせなら戦う術を覚えておくべきだった。
 この世界に生まれて、なにが起きるのかをある程度は知っていて。
 それでも、自分はその“物語”に関わるつもりなど毛頭なかった。それを盾にただ安寧だけを求めて暮らして来たのだ。
 だが。もう関わってしまった。それがわかっていたのに、何の対策も採ってこなかったのは自分のミスだ。

「お父さま……」

 小さく呟き。オルタンスは目を瞑って……そのときを待った。
 だけども。次の瞬間に彼女の耳に飛び込んで来たのは、大柄な男が投げ飛ばされる音と、彼の上げた情けない叫び声だった。
 閉じた目を開いて音のする方向を見てみれば―――短い金髪の女性が、明らかに体格差のある大男を投げ飛ばしたところだったのだ。

「な、なんだお前は!」
「暴漢に名乗る名はないっ!」

 再び大男の悲鳴。とっさに手にしたナイフを剣で弾き飛ばされた男は手を押さえて、ぶるぶると震えながらうずくまる。

「こ、このアマがっ! ……ぐぁっ!」

 ほんの一瞬の出来事であった。
 金髪の女性は目にも止まらぬ速さでオルタンスを掴んでいた男へ近寄り、あっという間に懐へ飛び込んで剣の柄で顎へ一撃を加える。
 だがしかし、男たちが体勢を立て直すのも速い。
 瞬く間に健在の四人が金髪の女性を取り囲む。じりじりと間合いを測りつつ、睨み合う。

 闖入者の女性の手で束縛から逃れたオルタンスは地面を転がり、地面に放り出されていた杖を見つけると駆け出した。
 それをただ見逃すわけにはいかない。
 チンピラの男がオルタンスに杖を渡すまいと駆け出した。拳を繰り出し、なんとしてでも足止めをしようとする。
 だが。それはチンピラの肥えきった締まりのない肉体では無理があるというもの。
 オルタンスは単に足の速さだけならば、そこら辺の貴族の子女ではまるで敵わないほどに速い。細い脚に力を込め、靴音を響かせながら地面を蹴る。
 そして。男よりも早く、彼女は地面に転がった己の杖を手に取った。
 間髪いれずに追ってきた男の目の前目がけて魔法を叩き込む。

「う、うわぁぁぁぁっ!!」

 刹那。オルタンスの唱えた『錬金』であるはずの魔法はそのルーン通りの効果は発揮せず、ただ何の捻りも無しに石畳を抉り取った。
 間近でその光景を目撃した男は顔中から汗を噴出し、もうこれ以上は無理だと判断したのか逃げ出すのだ。
 情けない悲鳴を上げつつ逃走する男などもう眼中にも入れず。オルタンスは闖入者の女性の援護に向かおうとする。
 しかし。
 彼女は目の前で広がる光景に思わず目を見開く。

 なぜならば、もう金髪の女性はたった一人で四人もの大男たちを打ち倒していたからであった。

 うめき声を上げる男たちを避けながら、オルタンスは謎の女性に近寄って行く。
 刃こぼれを起こして使い物にならなくなってしまった剣を見て、残念そうに鞘へ収めていく女性に声をかける。

「あ、あの。危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました」
「……ん? いや、わたしがおせっかいで勝手にやっただけだよ。礼はいらない」

 ふっと妙に恰好のいい笑みを見せながら女性は謙遜の姿勢を示す。
 そのことにオルタンスが何か言おうとしたとき、たたたと軽い音を立てて駆け寄って来た少女が、思い切りオルタンスに飛びついた。アンリエッタだ。
 王女は栗毛を振り回し、端整な顔を涙やら何やらでぐちゃぐちゃにしながら包帯の巻かれた胸に顔を押し付ける。

「ごめんなさい! わたくしが無理にあなたを連れ出したばっかりに……! ああ、もう駄目ですわ! そんな、大事な友人を危険に晒してしまうなんて!」
「で、殿下! あ、ひゃ、そ、そこは……!」
「いけませんわ! アンと呼んでくださいまし」

 ぺたぺたと白髪の少女のの体をまさぐり始めるアンリエッタ。かすぐったそうに高い声を上げるオルタンス。
 密着して絡み合う美少女の姿。なんだか妖しい雰囲気を感じた金髪の女性はごほんと咳払いをして、二人の注目を自分に集めた。
 それと同時に集まり始めていた野次馬を鋭い眼光を持ってして追い払う。

「……と、とにかく! 無事でなによりだ。わたしは仕事を探さねばならないからこれで失礼するが、きみたちは早く家に帰りなさい」
「は、はい」

 きょとんとした表情で返答するアンリエッタ。その間も手の動きは止まらない。
 そして、居た堪れなくなった女性がその場を去ろうとしたとき。オルタンスは思わず女性に名を尋ねていたのである。
 聞いておかねばならない、そうしなければ必ず後悔するという予感めいた思考が脳裏を過ぎったからだった。

「あ、あの! あなたのお名前は……」

 しがみついてくるアンリエッタをなんとか引き剥がすオルタンス。
 去り行く女剣士はそこで足を止め、ゆっくりと少女たちの方を振り向いた。そして自分の名を告げてくる。

「わたしか? わたしはアニエス。しがない流浪の剣士だよ」
「……え?」

 いつか聞いたような気のする名前。短めの頭髪。先ほど見せた高い戦闘能力。そして、口調。
 オルタンスの記憶の奥底に眠る女性と、目の前の女剣士アニエスの容姿が重なった瞬間だった。



 *



「護衛? それは確かに、いてくれると心強いけど……」
「ぼくはオルタンスの意見に賛成するよ。伯父は敵が多いし、ぼくたちも自分で自分の身を守るには限度があるからね」

 マザリーニ邸、その応接間。隣り合って話し合っているのは、白髪の少女オルタンスの母と兄ポールの二人。
 その向かい側では緊張した様子のアニエス、そして優雅に紅茶を嗜むオルタンスの姿があった。

 市街地での騒動の後、オルタンスはまずアンリエッタを王城へと帰していた。
 アンリエッタはこの後も一緒に過ごしたいらしい様子ではあったが……オルタンスに諭されると、わりと簡単に引き下がってくれたのである。
 その代わり、数日中には会いに行くことを約束させられてしまったが。また朝から連れ出されるのだろうか。

 そして、アニエスが職を探しているという発言を耳にしていたオルタンスが説得し、アニエスをマザリーニ邸まで連れてきたのである。

「でも、身元は大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ、お母さま。それについてはわたしが保証しますから」
「……ん、そうねえ。あなたがそう言うのなら……」

 そんな母子のやり取りを眺めるアニエスはどうも腑に落ちていなかった。
 自分は確かに怪しいところなど微塵もないつもりではいるが、どうしてこのオルタンスという少女は、今日あったばかりの自分を信頼してここまで連れてきたのだろう?
 戦闘能力を見せたからだろうか? まだまだ未熟ながら、腕にはそれなりに自信がある。
 ……いや、それは違うかもしれない。
 ならばどういうことか。どこの馬の骨ともしれない平民を信頼する、確固たる理由があるはずだ。
 けれども、それを知っているのは白髪の少女だけ。他人にわかるはずもない。
 アニエス自身としては、それなりの好待遇で雇ってくれると言っている目の前の青年―――マンチーニ男爵に感謝をするだけだ。
 男爵はまだ年若く、母親の影響を受けてはいる。しかし決めることは自分で決めるようだ。

「うん。それじゃあ、この契約者にサインを」
「はい。……これで」
「あら。文字が書けるのね」
「自分の名前と簡単な文章くらいなら書けます。傭兵家業をしていると、どうしても必要になりますので」

 あからさまに驚いたことを隠しもしないオルタンスの母ジェローラマの言葉に、若干の苦笑を交えながらアニエスは答えた。
 さらさらと羽ペンでポールの差し出した紙にサインをしていく。それが終わると、何枚かの束になった書類を差し出すのだ。
 紙を持ったまま目を通していくポール。
 やがてそれが終わると、彼はソファーから立ち上がってアニエスに握手を求めた。

「ようこそ、マザリーニ邸へ。これからよろしく頼むよ。ああ、しばらくはオルタンスと一緒に行動してやってくれ」
「は、はぁ。わかりました」

 なぜオルタンスと?
 そんな疑問を抱きつつ、アニエスは差し出された手を握り返すのであった。


 ―――翌日。

 アニエスは、自らに割り当てられた屋敷の使用人棟の一角にある部屋で目を覚ました。
 長い間物置として使われていたらしく、どうにも埃っぽいのでさっそく窓を開ける。本当なら一晩中開けておきたいが……、冷える時期なので無理はしない。
 あまり日当たりの良い部屋ではないものの、暖かな太陽の光はアニエスの体をしっかりと照らし出している。
 白く細い、しかしながら引き締まった体つき。カモシカのような脚はすらりと長く、背筋はしっかりと伸びている。

 彼女がさっそく仕事を始めるために用意された制服に着替えて使用人棟の外へ出ると、そこへふわふわの金髪を伸ばした少女が通りかかった。
 一応は自分の雇い主の家族である。改めて背筋を伸ばし、アニエスは朝の挨拶をする。

「おはようございます。オリンピアお嬢さま」
「あら、わたしの名前をもう覚えてくれたの」

 意外だ、といった口調と表情でオリンピアは告げてくる。
 しかしアニエスからしてみればそんなことは当たり前のことだ。雇い主やその関係者の名前くらい覚えていて当然なのだから。
 少しの間アニエスを観察してから……、オリンピアは彼女に告げる。

「あなた、お風呂は?」
「いえ、わたしは平民ですから。とりあえずタオルで念入りに体を拭きましたので……」
「あら、それじゃ駄目よ。仮にも女性なんだから、もっと清潔にしないと。そんな状態でオルタンスのそばにいられたくないし。さ、来なさい」
「え? えっ?」

 有無を言わさずに混乱するアニエスを引きずるオリンピア。どうやら、アニエスをお風呂に入れるつもりであるようだが……。


 所変わって、ここはマザリーニ邸内部に設けられた浴室。この空間は端から端まで歩いて何分もかかるほどの広さがある。
 壁から床からほとんどの部位が大理石で作られた重々しい雰囲気の広い風呂場だ。

 浴槽の脇にある洗い場では、白髪の少女が体を洗っている。オルタンスだ。
 彼女は自分の下腹部を見つめている。兄に治療してもらったからか、男に殴られた腹部にはあざもなにも残っていない。
 内臓も大丈夫だとは思うのだが……。もし潰れていたらそれはそれで好都合かもしれない、などと不謹慎なことをわずかに考える。
 石鹸で髪をゆっくりと洗う。まだ短い頃はあまり手入れに気を使ってこなかったのだけども、すっかり伸びた今となっては手入れは欠かせないのである。

 しばらく髪を洗い、流したところで。ばたんと風呂場の扉が開いた。
 何事かと思ってその方向を見てみれば……なぜか、オリンピアが嫌がるアニエスを引きずってこの場へ入ってくるところであった。

「姉……さま?」
「オルタンス。今からこの子を綺麗にするから、あなたも手伝ってちょうだい」

 普通、ハルケギニアの貴族が平民に浴槽付きの風呂を使わせることはない。
 稀に例外はある。都市部の高級娼館だとか、物好きな好色貴族の場合は平民の女性に風呂場を使わせることがある。だが、それはほんのごく一部の話。
 平民生まれで孤児として育ち、今まで各地を放浪してきたアニエスは、これほど大きくまともな風呂に入ったことなどないのである。

「覚悟しなさい平民。綺麗にしてあげるわ」

 わしゃわしゃと泡の付いた手をうごめかせるオリンピア。
 実際の戦場では優秀な兵士であるアニエスも、この得体の知れない存在の前では哀れな子羊に過ぎないようだった。
 目を瞑り、子供のように背を丸めて頭を洗われている光景はなんだか不思議なものだ。目に泡が入ることを恐れているのだろうか?
 タルブの戦いで勇敢に戦ってアンリエッタの目に留まる女性の思わぬ姿。なんだか得した気分でないともいえない。

 オルタンスが一足早く湯船に浸かってそんなことを考えていると。

「ひゃ、ひゃあぁぁっ! お、オリンピアお嬢さま! おやめください!」

 石鹸の泡まみれになりながらオリンピアがアニエスの体を無理やり洗う光景が目に飛び込んできたではないか。
 なんだか、アニエスに同情を禁じえないオルタンスであった。


 風呂を出た後、オルタンスはアニエスを連れてマザリーニ邸の中庭にまで来ていた。

 まだ風呂から上がったばかりなので、二人とも火照った顔から湯気を立ち上らせてしまっている。なんだかシュールな光景といえないこともない。
 少しの間、中庭のベンチに腰かけて風に当たっていると……。脇で立ったままのアニエスが、オルタンスに問いかけてきたではないか。

「そろそろ、目的を聞かせてもらえないだろうか?」

 アニエスはなし崩し的にこの場所へ連れて来られた。それは仕事を探していたし、ちょうど待遇も破格だったので異論はないが……。
 マンチーニ家が自分を雇う直接の理由を作った、このオルタンスという少女の考えていることがわからないのだ。
 だから、出来るならば真意を今のうちに問うておきたい。アニエスはそう思った。
 しばらくの沈黙の後。ゆっくりとオルタンスは口を開き出した。

「あなたが、腕の立つ剣士であると見込んでお願いがあります」

 風が流れる。冷たい風がアニエスの頬を撫でていく。白髪の少女はなおも続ける。どこまでも真剣な表情で告げた。

「わたしに、剣と銃での戦い方を教えてください」
「剣と銃? きみは貴族だろう?」

 驚きと共に、アニエスはオルタンスの言葉に応えた。なぜそんなことを言い出すのか。まったくわからないようだった。

「わたしはメイジとしては出来損ないなんです。だから、少しでも戦えるようになりたい。剣と銃は野蛮だって貴族の多くはいいますが……。
 わたしは、たとえそうだったとしても手段として放棄するつもりはありません。自分の命すら守れないようでは、人の命なんて助けられませんから……」
「し、しかし……」

 まだ懸念を、渋るような顔をするアニエス。自分は教えるほどの域に達していないと思っているというのに。
 だが、眼前の少女が送ってくる視線はまさに必死そのものだった。なんとしてでも自分に剣と銃を使った戦い方を教わりたい、そういう目だ。
 アニエスとて昔はなんの戦う力もない少女だった。多くの人に教えを乞い、度々発生した紛争や亜人の討伐依頼などをこなして成長してきたのである。
 前提は違う。
 生まれ故郷の、家族の復讐だけを糧として生きてきた自分。
 貴族の元で生まれ、強くなりたいと言う少女。
 けれども本質的にはそれほど変わらない。そこにあるのは、強くなりたいという欲求だけだ。

 アニエスは静かにオルタンスを見つめる。大きな緑色の瞳には、強い意思が映っているようにすら見える。
 しばしの沈黙。

 そして、女性は顔を上げる。まっすぐに白髪の少女を見据え、おもむろに口を開くのであった。






[22415] 第4話 出会い
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:67a31265
Date: 2010/12/17 20:27
 トリスタニアはマザリーニ枢機卿邸。

 最近まで豊かな緑に包まれていた中規模の屋敷は、今ではすっかり落ち葉の侵食を受けてしまっている。

 その中庭で、軽装の少女が汗を流しながら一生懸命に走っていた。彼女は白い髪を風に揺らし、冬だというのに玉のような汗を飛ばしている。
 それは、彼女がもう長い間走り続けていることを示していた。
 少女の名はオルタンス・ディ・マンチーニ。トリステイン王国の宰相マザリーニ枢機卿の姪に当たる人物だ。

 そんな白髪の少女のそばでは、諸刃の剣の柄に手を乗せた短い金髪の女性が眉を吊り上げ、何やら激を飛ばしているではないか。
 彼女はアニエス。放浪の果てにトリスタニアを訪れ、成り行きでマンチーニ家の護衛として雇われた人物である。

「どうした! まだ走り始めたばかりじゃないか! 強くなりたいのなら、まずは基礎体力を付けなければ話にならないんだぞ!」
「は、はい!」

 大声で怒鳴りつけられても、少女は嫌な顔一つせずに指示に従っている。
 それはそうだ。なにせ、アニエスに鍛練をつけてくれるようにお願いしたのは、他ならぬオルタンス自身なのだから。
 本来ならば一介の平民に過ぎないアニエスが、貴族にであるオルタンスにこのような口を利いているのはオルタンスの希望である。
 これから戦いの術を教えてもらう―――いわば、師匠とも呼べる存在が弟子に敬語など使っていたら、それはもうまったくお話にならないのである。

 そんな様子を、オルタンスの姉であるオリンピアはどうにも不満げな様子にで見つめている。
 貴族の子女が平民に教えを乞い、実際にハードな鍛練が行われている現状は大いに不満なのだ。
 アニエス個人は第一印象からしてそれなりに気に入っているのだけれども、やはりハルケギニアの平均的な貴族として育った彼女は納得出来ない部分があるのである。
 隣では母のジェローラマが優雅に紅茶の注がれたカップに口を付け、ただ黙って事の成り行きを見つめている。
 彼女はこの件に口出しするつもりはないらしい。
 一方で兄のポールは鍛練に難色を示していたが、伯父であるマザリーニの計らいで王軍の士官として入隊してしまったので、もう当分の間は帰って来れないのだった。南無。

 ―――マザリーニ邸の敷地を一時間ほど走り込んだ頃だろうか。ついに、アニエスが地面に差し込んでいた剣を抜き放った。
 そして息を荒げるオルタンスに向かって、彼女は言い放つ。

「今日はここまでだ。あとはゆっくり休むといい」
「は……はい……」

 アニエスの言葉をきっかけに、オルタンスは思いきり地面に倒れ込んだ。
 そこへオリンピアが近寄って水を飲ませてやる。最初の分を一気に飲み干してしまったので、妹思いの姉は大急ぎで追加の水を汲んできてあげるのだ。
 へたり込んだオルタンスを見つめていたアニエスの元へ、ジェローラマが近づく。そして問いかけた。

「あまり本気でやっているようには見えないけど、どうしてかしら?」
「最初はこんなものでいいのです。だんだんと運動量を増やしていかないと、かえって体に悪影響が出てしまいますから」

 その言葉に、ジェローラマは静かに頷いた。彼女もそれはわかってたのだ。
 二人の女性の眼前では、また水を一気に飲み込んだオルタンスが姉の手を借りてなんとか立ち上がっていた。

 それから毎日、アニエスによるオルタンスへの指導は続くのである。







 数ヵ月後。始祖の降臨際を間近に控えた、とある日のこと。

 その日、オルタンスは例によってアンリエッタに呼び出されていた。
 この町に来てから、もう何回目になるのだろうか。ずいぶんと気に入られたようだ。光栄なことであるとは思うのだが……。
 今日はアンリエッタの幼友達であるルイズ・フランソワーズが父と共にこの城を訪れるという。
 言うまでもなく彼女は『物語』の主人公だ。喪われた系統である『虚無』を己の系統魔法とし、いずれこの世界を巻き込んだ冒険譚の主役となるべき人物。
 あと数年のうちに、ルイズは虚無の使い魔『ガンダールヴ』を召喚することになる。
 果たして、そのときに自分の居場所はあるのだろうか。ただ外野として物語を傍観するのか。それとも積極的に関わるのか。あるいは……。
 オルタンスがアンリエッタの話に耳を傾けながらそんなことを考えていた。


 目の前に現れた少女の風貌に、オルタンスは思わず息を飲んでしまっていた。
 背筋を伸ばし、凛とした表情で立つ端整な顔立ちの少女はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
 伸ばし始めたふわふわのストロベリー・ブロンドをはまるで絹のようなしなやかさ。大きな鳶色の瞳はくりくりと動き、彼女の視線の先にいるオルタンスをしげしげと観察している。
 服装はゆったりとした、彼女の肌と同じく白いワンピースだ。
 シンプルなデザインながらどこか上品さを醸し出している。いや、それは身に付けている人物のものなのかもしれない。
 いずれにせよ、ルイズという人物は王女であるアンリエッタにも劣らぬ美少女なのであった。

 そんなルイズは目の前にいる白髪の少女の様子を最初こそ怪訝な様子で見つめていたが、すぐに笑顔になった。

「初めましてお目にかかります。わたしはルイズ。ルイズ・フランソワーズですわ」
「オルタンスです。こちらこそよろしくお願いします」

 ひょこりとお互いに挨拶を交わし、オルタンスはアンリエッタの向かい側の席に腰かける。
 ソファーに挟まれたテーブルには、色とりどりのお茶菓子が並んでいる。どれも王宮お抱えの職人が端正込めて作り上げたものだった。
 皆でそのお菓子うちの一つ、スコーンをつまみながら談笑に興じる。
 やはりというか、ルイズはトリステインの大貴族ラ・ヴァリエール公爵家の三女だった。
 第一印象はそれほど悪くない。
 初対面の相手に緊張こそしているのがわかるのだけれども、オルタンスもなるべく丁寧に話をしている為か。彼女の体の固さも徐々に和らいでいるようだ。
 そして、そんな軽い自己紹介だとか近況の報告などをしているうちに、話題はオルタンスへと移っていった。

「そういえば、オルタンスはロマリアの出身でしたよね。わたくしもかつて訪問したことがありますが、あの見事な建築物の数々には本当に心奪われましたわ」
「確かにわたしはロマリア生まれです。とは言いましても、恐らく殿下がお目にかけていない下町の方ですけど……」
「下町?」

 どうにも歯切れの悪いオルタンスの言葉に、ルイズが疑問を浮かべながら問いかける。
 それに対し。オルタンスは少し考えてから口を開いた。

「はい。ルイズさん。ロマリアが城壁に囲まれた都市国家であることはお二方もご存じでしょう? その南西……川を越えた先の一角が“トラステヴェレ”です。わたしはずっとその地区で育ったのですよ」
「まあ。わたくしは川を越えませんでしたわ」
「それはそうでしょうね。あの地区は大した宗教施設もありませんし……、治安だけはそれなりにいいのですけれど」

 少しだけ懐かしそうに、静かな口調でオルタンスは言う。
 なんだかんだあって彼女がロマリアを出てもう二ヶ月近くになるのだ。生まれ育った町の様子を思い出しているのかもしれない。
 そして思い起こされるのは、光の国という単語。
 ハルケギニアの各国家が、ブリミル教の総本山であり、ハルケギニアの宗教的権威を集約させている彼の国を例える時に用いる言葉だ。
 もっとも、それは実際にロマリアで生まれ育ったオルタンスからしてみれば、滑稽なものとしか受け止めることはできないが……。
 アンリエッタが『光の国』の真実を知るようになるのは、もう少しだけ先の事なのだろう。

「そうなの。ずっとラ・ヴァリエールの領地にばかりいたから、そういうお話を聞けてためになるわ」
「ええ、わたしたちはトリステイン国外の事となるとほとんどわかりませんからね」
「わたしもこの国のことはほとんど知りませんでした。殿下にいろいろとお教えいただいて感謝しています」

 メイドの入れてくれたお茶に舌包みを打ちながら。三人はしばらく話し込むのであった。


 お昼を取った後、三人は王城の庭園に足を運んだ。
 今現在は冬真っ只中ではあるが、王族や客人が快適に過ごすことが出きるよう魔法がかけられているので快適だ。
 真っ白な床に置かれた真っ白なテーブルセット。やはり白い椅子に腰かける白亜の髪の少女。

 アンリエッタはテーブルに置かれた白百合の造花を眺めていたが、今度は目の前で腰かける少女をに視線を移す。
 ルイズと談笑に興じているオルタンスの髪は本当に真っ白な色をしている。
 ただ、それは年老いた人間のそれとは明確に違うのだ。確かな艶やかさを持っていて、触るとさらさらとした触り心地の良さが指に伝わって来るのである。
 彼女は自分がなんだかいけない趣向を持ち始めていることに気がつき始めている。
 だからといって、それをすぎに改めることなど出来はしないのだけれど。
 ……そんな視線を受けているとは露知らず。オルタンスはルイズと姉談義に興じていた。

「わたしのオリンピア姉さま、いつも優しいのだけど、時々怖くなるの」
「時々怖くなる?」
「ええ。決して高圧的だとか、暴力を振るうだとか、いやな言葉を向けてくるとか、そういうのじゃないの。ただ、時々本当にわたしを見る目が怖くって……」
「そ、そう。大変ね」

 ふぅ、とため息をつくオルタンス。一方のルイズはきょとんとしながら言葉を返すだけだ。
 姉がいないのでそういう話に入ることが出来ないアンリエッタは、さっきからオルタンスを黙って見つめるばかり。
 やがてルイズが用を足すためにその場を離れると。
 不意にアンリエッタが席を離れて近寄ってくる。それと同時にオルタンスの肩へ栗毛が被さってきた。
 小さな、しかし端整な作りの顔が間近に迫ってきて、オルタンスは思わずドキッとしてしまう。

「酷いですわ。さっきからルイズにばかり構って……」
「で、殿下?」
「もう。わたくしのことは名前で呼んでくださいまし。お友だちでしょう?」
「う、うん。わかったわ。あ、アンリエッタ」

 第三者がいなくなった途端、なんだか怪しげな光景が繰り広げられ出した。
 誰も見ていない――アンリエッタが人払いをしたのだ――のを良いことに、王女はきゃっきゃと隣に腰かける少女へしなだれかかる。
 お菓子を食べさせたり食べさせてもらったりとやりたい放題だ。
 もちろん人払いをしたからといって完全に人がいなくなる訳もなく、侍女がこっそりとそんな様子を眺めていたりするのだ。
 そして。
 このとき少女たちの姿を見つめる一人の男性がいることに、アンリエッタもオルタンスも気がつくことはなかった。


 ―――夜である。この日は、ラ・ヴァリエール家を初めとする貴族たちを交えた舞踏会が催されることとなっていた。

 着付け室でオルタンスが侍女に半ば無理矢理着替えさせられ、それが終わったとき。
 唐突に扉が開いて、そこから二人の少女が現れた。
トリステイン王家の紋章である白い百合を思わせる、白く清楚さを感じさせるドレス。王族らしく頭には小さなティアラを乗せている。なにを隠そう、この国の王女アンリエッタだ。
 そしてもう一人。
 髪の色に近い薄桃色のドレスを着飾っているのはルイズだ。ドレスはきらびやかなものながら、隣に立つアンリエッタに勝るとも劣らない端整な容姿をより引き立たせるようにあくまでも添え物に徹している。
 そんな二人の美姫を見て、オルタンスはただ唖然とするばかりだ。
 やはり彼女たちの美しさは群を抜いている。
 自分が路傍の石ころだとするならば、あの二人はまさに光輝く宝石そのもの。あまりにも格が違いすぎる、とオルタンスは思うわけである。
 それは、あくまでも主観的な評価ではあったが。

 ちなみに。今日オルタンスにあてがわれた服装は、女性らしいドレスである。
 アンリエッタとデザインの近い真っ白な装いである。髪も肌も真っ白なオルタンスがそれを身に付けていると、それはまるで雪原を舞う妖精を思わせる風貌となる。
 彼女は自分で思っているよりもずっと美しい顔立ちをしている。男装が似合うのは単に年齢的なものがあるのだろう。

「よくお似合いですわ、オルタンス」
「……そうですか?」
「わたしもよく似合ってると思う。思わず一瞬見とれちゃったわ」
「そう言ってもらえると嬉しいな。ありがとう」

 はにかみながら、オルタンスは二人の少女に礼を告げる。
 実際問題、彼女の容姿はルイズやアンリエッタにまったくひけを取らないほどに可憐で美しいものだ。
 そして。
 美女を巡っての男たちの争いは、いつの時代だろうと関係なく発生するのである。


 舞踏会は王城のダンスホールで行われる。既に会場は、マントの下に様々な思惑をもって集まった貴族たちでごった返していた。
 そんな紳士たちをして騒然とさせる存在が現れたのは、トリステイン王の訓辞が述べられた直後のことであった。
 入り口の大きな扉が開けられ、三人の少女が姿を見せる。
 一人は言うまでもない。この国の王女であるアンリエッタだ。そして、その少し後ろについているのはルイズ。トリステイン有数の大貴族の子女である。
 だけども、このとき紳士たちの注目を浴びたのはその二人ではなかった。
 二美姫の影に隠れるようにして歩いてくる、まったく見たことのない少女を見て囁きあっているのだ。

「あの白い髪の少女は?」
「マンチーニ家……最近ロマリアから移住してきた男爵家のご令嬢だそうだ」
「男爵? 男爵の娘がなぜ王女殿下や公爵家令嬢と共に?」
「なんでも、マザリーニ枢機卿の姪らしい。その縁で一緒にいるのではないか?」
「ほう。宰相の親族とな。……どうだヴィリエ。あの娘は?」

 ひそひそと話す身なりのいい――この場にいるのはいずれも名門の貴族ばかりだが――紳士が隣で気難しい顔をしながら立ち尽くす少年に声をかける。
 だがしかし、肝心のヴィリエという少年はただ三人の少女たちを見つめながら石のように硬直するだけだった。

「オルタンス? どうしましたの?」

 周囲から浴びせられる不躾な視線を背に受けていると、唐突にアンリエッタが後ろを振り向いてきた。
 彼女は自分に向けられる視線をまったくプレッシャーには感じていないらしい。堂々とした振る舞いで時おり手を振りかえすなどしている。
 さすがは王族といったところだろうか。
 生まれ持った素質の違いだろうし、なにより今まで育ってきた環境が違うのだ。
 片や、生まれたときから常に他人の視線を受けて淑やかさを身に付けて育った少女。
 片や、一時期はロマリアの悪童たちをして『白い悪魔』と恐れられたお転婆少女。
 社交などはもっぱら姉であるオリンピアが引き受けていたので、オルタンスはこういう行事がまったく得意ではない。
 とはいえ、自分の為にアンリエッタに無用な心配をかけるのもあまり好ましくない。

「な、なんでもありません。参りましょう」
「ええ。そうね」

 周囲の貴族からのねめまわすような視線を受けつつ。オルタンスは歩いていく。

 少し歩いた後、三人は会場を訪れているだろうそれぞれの家族を捜すために別行動を取ることにした。
 もっとも、アンリエッタには侍従がついているし、ルイズの母親は彼女と同じ桃色の頭髪をしているので見分けがつきやすいのである。
 一方で、ありふれた金髪ばかりのマンチーニ一家を探すのは一苦労だ。オルタンスはとりあえず適当に歩いてみる。
 すると……。
 前方のテーブルに小さな少女がたった一人で腰かけているではないか。
 長い金髪を二つくくりにしたその少女は、なにやらつまらなさそうに項垂れるという有り様だ。
 幼いながらも品の良い端整な顔立ちをしていのが一目でわかるというのに、そのふて腐れた表情がすべてを台無しにしてしまっている。
 よく見れば……、その少女のそばでは一人の紳士が、どこぞのご夫人と談笑しているではないか。
 その紳士が身に付けているマントに記された刺繍。それはトリステインの属国の一つであるクルデンホルフ大公国の紋章だった。

「あれがクルデンホルフのベアトリスかぁ……。初めてみた」

 ロマリア生まれのオルタンスは、クルデンホルフにはほとんど関わったこともない。
 『物語』の中では、たしか虚無の担い手でハーフエルフのティファニアが、魔法学院の生徒たちと馴染むようになるというイベントのかませ役でしかなかった気がする。
 酷い言いようかもしれないが、世の中そんなものだ。
 そんな訳でちょっと観察していると……。
 ぎろりとベアトリスの大きな瞳がオルタンスを捉えた。そして形の良い唇の端を歪めた。席を立ち、白髪の少女へ歩み寄っていく。

「なんですか、あなた? 先ほどからじろじろと。高貴な身分であるわたしの威光に圧倒されでもしましたの?」
「い、いえ。そういうわけではないです」

 もっと高貴な身分のアンリエッタに比べたらどうということはない。
 さて。予想していない訳ではなかったが、このベアトリスという少女はかなり高圧的な性格の少女のようだ。
 いったいどうしたものか。なにやら憂さ晴らしの標的にされてしまったようだ。相手が相手なので迂闊な行動は取れないし……。
 そうやってオルタンスが困った様子で立ち尽くしていると。
 彼女の耳に聞きなれた声が届く。

「オルタンス! やっと見つけたよ。で、どうしたのさ。こんなところで」
「ポール兄さま」

 現れたのは兄のポールだった。現在、彼は王軍の将校として働いている。顔を見るのも久しぶりだ。
 すっかりベアトリスのことなど頭から吹き飛んだオルタンスはポールへと駆け寄る。

「そのドレスはどうしたんだい?」
「アン……王女殿下が用意して下さったの。どうかな?」
「うん、よく似合ってるよ。まるで絵本の中からそのまま妖精が飛び出してきたみたいだ」

 そう誉めてやりつつ、ポールはオルタンスの頭を撫でてやる。
 ごつごつとした手の感触がするのだけれど、実のところオルタンスはこれが嫌いなわけではない。頭を撫でられるのは、どちらかと言えば好きだった。
 ただ、なんとなくそれを認めるのは恥ずかしいのである。

 すると。そんな様子をじっと見つめていたベアトリスの額に、いきなり青筋が走った。
 彼女は今にも噴火でも起こしそうな気配を放ち出したではないか。
 ……と思いきや。急にしょんぼりとし出し、脇目も振らずにその場から去っていってしまったのだ。
 もう訳がわからない兄妹はただ唖然とその背中を見送る。

「あの子は昔、兄に懐いていてね。きみたちの仲むつましい様子を見て思うところがあったんだろう。……と。余計なお世話だったな。娘が失礼したね。それでは」

 いつの間にか背後に先ほどの紳士――恐らくはクルデンホルフ大公だろう――が立っていて、そんなことだけ告げて去っていってしまった。
 本物の大貴族に声をかけられたわけではあるのだが、オルタンスはいまいちその実感が湧かない。
 兄と共に、ただその背中を見送るだけであった。

 ポールと共にオリンピアやジェローラマと合流し、オルタンスたちはとりあえず食事にありつくことにした。
 白いクロスの敷かれたテーブルの上に置かれた、軽食の数々は本当に美味しそうで思わず喉が鳴りそうになるほど。

「わあ。美味しそう!」

 子供のように、とは言っても実際に子供なのだが。オルタンスは目を輝かせながら料理を口にしていく。
 食事を取りつつ、舞踏会の様子を眺める。
 すると、どこぞのご夫人とポールが踊っているのが見えた。それはそうだろう。舞踏会なのだから。
 オリンピアも度々誘いを受けていたが、それを笑顔でやんわりと交わす術はまさに見事であるとしか言いようがない。

 実質的に初参加となる舞踏会。オルタンスは、深夜まで大いにそれを楽しむこととなるのであった。





[22415] 第5話 予感
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:663aa0db
Date: 2010/12/17 20:28
 新年も三分の一が過ぎ去った、ぽかぽかとした陽気の季節。
 ここはトリステイン王国の某所。人里離れた大きな森と、広大な草原が広がる地域。

 この近辺は、人がほとんど住んでいない。

 だけども最初から無人地帯であったわけではない。一時期は多くの開拓民たちが入植し、鬱蒼とした深い森を切り開こうとした事さえあった。
 しかし、この森に巣食うとある“怪物”の存在が、それを許さなかった。
 怪力を誇る醜く屈強な怪物たちに対して、魔法はもちろん有効な銃器すら保持していなかった平民たちが敵うはずもない。
 さらに、この地方を治める領主は“怪物”に困り果てた領民たちの陳情を聞き入れなかった。
 これではたまらないと、開拓民たちは我先にとこの付近から逃走。
 かくして人が逃げ出してしまったこの森には、すっかり朽ち果ててしまった廃村と、獰猛な“怪物”ばかりが残されているという。


 そして、そんな森と近くの丘の境界線を進む影が二つ。
 一人は銃を構えた金髪の女性。皮の鎧を身に付け、華奢な体躯からは想像も出来ぬほどに大きな荷物を背負っている。彼女は常に周囲を警戒するように目を光らせていた。
 もう一人は銃を担いだ少女。前を行く女性に比べてずっと軽装であるのだが、その顔には疲労の色が浮かんでいる。
 彼女は肩までの白い髪を揺らしながら、細い脚になんとか力を込めて前に進もうとする。
 しかし、それは牛歩と行ってもいいくらいかもしれない。

「どうしたオルタンス! この程度でへばっているようでは、いざというとき姫殿下の盾にもなれないぞ!」
「は、はい、アニエスさん」

 ついに前方のアニエスという女性から叱咤が飛んだ。その声に、オルタンスと呼ばれた少女は曲げていた背筋をぴんと伸ばす。
 だけども。それも長続きはしない。ものの数分で、また苦しそうによたよたと歩き出す有り様だった。
 へとへとになってしまった様子を見て、さすがのアニエスもこれ以上の強行軍は不可能だと判断したのだろう。
 そこで彼女は手を振り、休憩を取ることを指示した。
 歩きすぎたせいか。オルタンスはその場でへたれこみ、草原の真っ青な芝に腰を下ろしてしまった。

「まったく。情けないぞ。王都からたった四日歩いただけじゃないか」
「うう……。すみません」

 アニエスは呆れたように口を開くのではあるが。彼女たちは、これより北方にあるトリスタニアの町からずっと歩いて来たのである。
 暗くなってからは休息を取るとはいえ。歩き通しで野宿という、慣れない環境で貴族の子女であるオルタンスはすっかり疲弊していたのである。
 対してアニエスはまったく気にした風もない。水で濡らしたタオルで顔を拭きながら告げてくる。

「ここまで来たらいつオーク鬼が現れるかわからないんだ。気を抜くな」
「……わかりました」

 オルタンスも自分のバッグからタオルを取りだし、それを水筒の水で湿らせる。
 タオルで顔を拭けば、水分を帯びた布の感触が顔を撫でていくのがわかる。すっかり汚れてしまった体も拭きたいところだが……さすがに、野外で服を脱ぐことには抵抗がある。
 もうずっと体を洗っていないのは、比較的清潔な環境で育ってきた少女には結構堪えるものだ。
 アニエスは気にしたら負けだと言うのだが……。今も昔も風呂を好んだオルタンスには堪えがたい。
 着替えは最小限でというから、持ってきた服も少ない。そろそろ臭っているか不安になる。
 シャツの袖を掴んで、臭いがしないか鼻をくんくんしていると。干し肉を持ったアニエスが近づいてきた。

「ほら。今日の分だ」

 そう言って彼女は干からびた肉とかちかちのパンを差し出してくる。ここのところ、食事はこればかりだ。
 これではどうしても果物が恋しくなるし、せめてなにかしらの野菜が食べたくなる。
 とはいっても、農村すらないのではどうしようもない。木の実をなんとか探してみることしか出来ないだろう。
 しかし。

「はむ……」

 生憎ながら、今のオルタンスはもう歩く気力すらない。ただ地面に座り込んでパンを口に運ぶだけが精一杯。
 今日は晴天なのでこのまま野宿を決め込むらしい。アニエスがどこからか拾ってきた枯れ枝で焚き火を起こしている。
 火打ち石を使うようだ。メイジならば――オルタンスは例外と言えるが――簡単に火など起こせるというのに。世はどこまでも不平等なものである。

 そのうち、ぱちぱちという木が燃え始める音がし始める。どうやら火起こしに成功したらしい。
 アニエスは枯れ枝を火にくべる。徐々に火が大きくなり……赤く燃える炎が膝ほどの高さまで成長した。
 ゆらゆらと揺れる炎を見つめながら。オルタンスは出発前の事を思い出す。

 そう、あれは五日前のことだったか。
 いつものようにアニエスにしごかれてぐったりしていたとき、さもさりげなく告げられたのだ。
 「明日から外で修行だ。ちょっと出掛けるぞ」と。
 それがまさか、こんなことになるとは思うわけもないのである。王都から四日も歩いたらちょっとどころではないではないか。

 これも修行の一環だと思えば、決して耐えられないことはない。だが、事前になにか一言あってもいいではないか。
 膝を抱え、抗議の視線を向ける。それは本人としては凄んでいるつもりなのだが。端から見ていると、ただただ可愛らしい少女が拗ねているだけにしか見えないのだ。
 アニエスは苦笑しつつ、眼前で膝を抱えてむくれる少女に話しかける。

「まあ、よくここまで黙ってついてきたよ。正直とっくに根を上げると思っていたからな。さすがはわたしが“弟子”として訓練してきた甲斐があるというものだ」
「それはそうですよ。これが駄目ならとっくに鍛練なんてやめてます」
「ふ、そうかもな。……おお、そうだ。そういえば、お前にどうしてここまで来たのか話していなかった」

 今思い出した、と言わんばかりの口調でアニエスは言う。まったく白々しい態度だった。

「それで、理由とはなんですか?」
「ああ。右の方を見てくれ」

 言われた通りに首を回す。そちらの方向には、少し歩いたところにうっそうと茂る深い森が横たわっていた。

「……森がありますね」
「ああ。そうだ、森がある。あそこはなんでもオーク鬼が何体も出るらしくてな。危ないから近づいてはならないと傭兵仲間の間でも有名だった」

 アニエスの言葉に、思わずオルタンスは自分の頬が引きつってしまうのを感じた。

 オーク鬼といえば、ハルケギニアではもっともポピュラーな亜人だと言っていい。
 豚のような頭に相撲体型の厄介な化け物で、困ったことに大好物は人間の子供というたちの悪さである。
 戦闘力は一体で鍛え上げられた人間の戦士五人分に相当する。とてもではないが、今のオルタンスでは手に負えない相手だ。
 それは目の前の女性剣士とて同じ。かなり上手く立ち回らないとまず敗北するだろう。
 少女の複雑な心境に気がついたのだろうか。こほんと咳をし、アニエスは続けた。

「ん、まあ、あれだ。今回はあくまでも遠出をしての体力作りなんだがな。そのついでにお前に“世界”がどういうものであるか見ておいてもらいたくてな」
「世界?」
「ああ。わたしは各地を放浪するうちに、様々なものをこの目で見てきた。それは美しいものより、目を背けたくなるような醜悪な光景ばかりだ。お前には、そういったものに早く慣れてもらいたい」
「……慣れる、ですか」
「ああ。いざというとき……血を見るような光景に出くわしたとき。冷静でいられる自信はあるか?」

 そう言われてみて、オルタンスは思案する。
 とても、冷静さを保てるとは思えない。きっとパニックに陥ってしまって、もうどうしようもなくなるだろう。
 それは多くの貴族の子女がそうかもしれない。ハルケギニアでは戦など日常茶飯事だ。今だって、どこかの国のどこかの地方で紛争が起きていることだろう。
 だけども。実際に戦場を体験するような子供はどれだけいるのだろう?
 目の前で人が傷ついて、血を流して倒れて。思わず目を背けたくなるような光景に遭遇することが……。
 もちろん、ロマリアの中心地で生まれ育ったオルタンスにはそういった経験はない。
 もし目の前で凄惨な光景が起きたら……それに耐えきることは出来ないだろう。

「……ないようだな。ま、わたしも最初はそうだったさ。少しずつ慣れていけばいい」
「……はい。努力しますj」
「うむ。では、もう寝ていいぞ。交代時間までゆっくり休め」
「わかりました。おやすみなさい、アニエスさん」

 寝袋を取りだし、オルタンスは横たわる。空に浮かぶ明るい星の群れを眺めつつ……彼女は眠りにつくのであった。
 しかし、その安眠の時間は十分に受けられないのだ。





「起きろ。まずいことになった」

 ―――深夜。

 少しばかり冷える空気の中で、オルタンスは自分の体を揺さぶられていることに気がついた。
 まだ寝てからそれほど経っていないのだろう。ぼんやりとした意識の中で見上げた空は、まだまだ漆黒の色に染まっている。
 アニエスがまずいことと言うのだから、それは本当だろう。
 まだ休息が足りないと体が悲鳴を上げるものの、その場のただならぬ気配に悪寒を覚え、少女は体を起こした。

 焚き火が消えているせいか。周囲は暗く、煌々と大地を照らす双月の明かりばかりが視界の頼りだ。
 アニエスは片膝立ちで火縄銃を構え、せっせと薬莢を詰め込んでいる。
 それが終わると、寝袋から抜け出したばかりのオルタンスに手渡した。見れば、同じように発射の準備を終えている火縄銃があと二挺ほど地面に置かれているではないか。

「あ、アニエスさん。いったい何が起きたんですか?」
「耳を澄ませてみろ。オーク鬼の鳴き声が聞こえるはずだ」

 荷物を手早くまとめながら、珍しく焦りを隠しもしないような口調でアニエスは告げる。
 その言葉を受けたオルタンスはさっそく耳をこらし……。森の方角で、耳障りな鳴き声を上げる生物の存在に気がついた。

「これが、オーク鬼の……」
「そうだ。それもかなり近い。普段は森の深いところから出て来ないはずなんだが……。完全に読み違えた。大失態だな」

 言いながら、アニエスは自分の荷物をまとめ終えたようだった。慌ててオルタンスも寝袋を畳んで自分のバッグに詰め込む。
 それほど荷物の量はないので、作業はわりとあっさり終わった。
 とにかく、早くこの場から離れることを優先するらしい。
 森からはそれなりに離れているものの。やはり危険が迫っている以上は、悠長な真似などしていられない。
 アニエスとオルタンスはそっとその場から移動を始めた。

「森で何が起きているのだろう……」

 ゆっくりと、なるべく音を立てないように歩きながら、白髪の少女が呟くと。
 前を行く女性が、困惑の表情を浮かべつつもそれに答える。

「わからない。だが、鳴き声を上げているのは一匹だけだったようにも思う。もしかしたら仲間割れでも起こしたのかもしれない」
「仲間割れ、ですか?」
「ああ。奴らに知能など、無いに等しいが……。この時期に食い詰めて森の外周部に移動する、なんてことは、ほとんどあり得ないからな」
「なるほど……」

 そうやって小さな声で会話を行っている間にも、怪物の鳴き声は上がり続ける。本能的に嫌悪感を覚える音だ。
 なんとか逃げ切りたい。そう祈りつつ、二人はじりじりと後ずさるのであった。


 ―――なんとか漆黒の森から離れ、そこでようやくオルタンスは息を吐いた。

 大きくゆっくりと、肺の中に残された緊張感をも吐き出す。
 アニエスも額に汗を流している。彼女もそれなりに緊張していたらしい。火縄銃を放り出し、地面に座り込んだ。

「オーク鬼は鼻が利く。あれだけ離れていても発見される恐れはあったが……なんとか見つからないうちに逃げ切れたな」
「緊張しましたぁ……。本当によかったです」

 オーク鬼と正面からやりあっても勝てる見込みなどまったくない以上は、いかに早く逃げられるかが生死を分ける。
 魔法を使えばなんとかならないこともない。だが、今のオルタンスでは不確定要素が大きい為に、なかなかうまくいかないのが実情である。
 なにせ、彼女が使う魔法はまともなものではない。
 もし誰かに目撃されて、そのことが原因で妙な因縁でも付けられたら大変なのだ。
 アニエスもそれを了承しているので、これといってなにか言うということはない。

「とにかく、一度王都に戻ろうか。こうなってはここに留まっているわけにもいかないからな……」

 アニエスはそう呟いてオルタンスを促した。結局、そのまま二人は北へ向かって歩き始める。

 そんなわけで、二人のちょっとした冒険はそこでお開きとなるのであった。

 強敵に怯え、戦わずしてただ怪物から逃げるしかない。
 それは、オルタンスの心の奥底にほんの少しの影を落とすことになるのだけども。まだ、このときはほんの小さなしこりに過ぎなかった。



 *



 突然の出発から一週間。

 二人がトリスタニアのマザリーニ邸へ戻ると、さっそくオリンピアが飛び出してきた。
 彼女はへとへとの様子で歩くオルタンスへ飛びかかり、まるで大切なお人形を見つけた幼い少女のように頬擦りを始める。

「やっと、やっと戻ったのねオルタンス!」
「ね、姉さま! 離れて!」
「……あら。どうして?」
「え……と。その、最後に水浴びしたのが、三日前だから……。臭いかも……」
「え? ……いいえ、これならむしろご褒……なんともないわ。大丈夫よ」

 オルタンスに鼻を近づけてくんくんと鳴らしたあと、オリンピアはそんなことを言った。
 だが。
 そう言われても、気になるものは気になるのである。オルタンスはさっそく風呂に入ろうと、背後にいるだろうアニエスを振り返るのだが……。
 そこにあるべきはずの姿がない。ついさっきまで共に歩き、一緒に屋敷の門をくぐったはずであるというのに。
 これはどうやら逃げたらしい。アニエスはどういうわけかオリンピアが苦手なようなのだ。
 疑問を浮かべたままの妹を、笑顔を浮かべた姉が引きずっていくのであった。


 オリンピアは妹と共に風呂へ入ることが一日の楽しみなのである。それは昔からのことだった。
 もはや、習慣というか日課となっているので、オルタンスもその事で一考するような事もない。

 風呂椅子に腰かけたオルタンスの白い髪を、よく泡立たせた石鹸でオリンピアが洗う。
 丁寧に、いたわるように髪の汚れを落としていく。姉の手つきはいつも優しく絶妙なものだ。なかなかに気持ちが良い。
 ひとしきり、肩甲骨の先まで伸ばした髪をお湯で濯ぐ。
 そうすれば、埃やら泥やらで薄汚れていた髪が本来の輝きを取り戻すのである。

「やっぱり姉さまに洗ってもらうといいわ。わたしが洗うと下手だから……」
「ふふ。髪のことは心配しなくても大丈夫よ、ずっとお姉ちゃんが洗ってあげるもの」

 ぞくり。耳元で言葉を囁かれ、背筋を指でつぅっと撫でられる。なんともいえない感覚が脳髄を駆け抜ける。
 頬を真っ赤に染めたオルタンスは慌てて振り向き、悠々と口笛など吹いている姉を睨みつけた。見れば、実に白々しい顔をしている。まったく大したものである。

「もうっ! なんでからかうの!」
「そういう反応が可愛いから。ああ、本当にいけない子だわ……」

 うっとりと呟きつつ、オリンピアは妹の体に抱きつく。豊かな胸が背中で押し潰され、形を変える。
 姉はかなりのナイスバディと言っていい。出るべきところはきちんと出ているし、引っ込むところはちゃんと引っ込んでいるのだ。脚のラインも滑らかで見事なもの。
 一方で自分はどうか。オルタンスは自問する。
 だんだんと、それなりに成長はしてきたものの。やっぱりまだまだお子さま体型なのがなんとも寂しい。
 いつか自分も姉のようになれるのだろうか。別に男の目を楽しませたい訳ではないのだが、どうせならあった方が嬉しいのだ。
 ぺたぺたと自分の胸を触る。虚しさが手のひらに伝わってくる。なんだか切ない。

「どうしたの?」
「うん……、わたしも姉さまみたいになれるのかなぁって」
「なれるわよ。わたしだって、あなたくらいの年頃のときはそんなに変わらなかったし」
「うむむ……。でも、姉さまとわたしってほとんど年が変わらないのに……」

 そうは言われても。カリーヌからカトレアのような突然変異は滅多に起きないのだが、その逆はなんだかありそうである。
 母はやはりグラマラスな体型であるものの。不安は消えない。

「じゃあ、してみる?」
「なにを?」
「おっ―――」

 手をわきわきとさせてなにか言い出しそうだった姉に向かって、オルタンスは桶に汲んだお湯をぶっかける。
 まったく、この姉はいつもいつも自分をこうやってからかってくるから付き合いきれない。先ほどのように、いちいちまともに反応していたら体がもたない。
 風呂椅子から立ち上がり、オリンピアを放置したまま浴槽へと向かう。

 そして浴槽の淵に腰を下ろし、足を湯につけた。しばらくぶりの温かさが足から伝わってくる。湯は適度な温度に調節されているので、なかなかに気持ちがいい。
 次に浴槽に体を沈めると、何食わぬ顔をしたオリンピアも入ってくる。長い髪を頭の上でまとめていたようだ。きらきらと灯りが反射して、髪が輝いている。
 マンチーニ家は、姉を初めとして、母も兄も見事な金色の髪だ。一人だけ真っ白な、老人と言われかねない髪をしているのはオルタンスだけ。
 しかし、昔は「おばあちゃんみたい」と自分の髪を疎んでいたものではあったが。今では慣れてしまってどうということはない。
 なにせハルケギニアには本当に赤い髪や緑色の髪、果ては青い髪の人間までいるのである。もうそんなことで悩んでも仕方ないのだという考えに至ったのだ。

 それからしばらく、姉妹は風呂で体を温めるのであった。



 *



 明くる日。例によってオルタンスは「話がある」というアンリエッタに呼び出されていた。

 このトリスタニアに来て、もう半年ほどになる。その間にアンリエッタは暇さえあれば何度でもオルタンスを自分の城に呼びつけるのである。
 町へ繰り出したことも一度ではない。幸い、もうトラブルに遭うようなことはなくなったが……。内心ひやひやとするものだ。
 マザリーニは知っているのか知らぬのか。屋敷で彼と会っても何も言われはしないのだけども、なんだかすべてを見透かされている気がしないでもない。


「お待たせしましたわ」
「いえ。わたしも到着したばかりです」

 少しの間ぼうっと考え事をしていると……。ドアが開き、そこから侍女を伴った王女が現れる。
 今日も彼女は白いドレスに身を包んでいる。ただ、実はデザインは毎日違うものを着ていたりするのである。ほんの少しの遊び心が大切なのだろう。
 アンリエッタはいつものごとく、オルタンスが腰かけているソファーへと座った。向かい側が空いているにも関わらず、である。
 彼女はなんだか嬉しそうな顔で話しかけてくる。

「オルタンスさん。今日あなたをお呼びしたのは、今度行われる園遊会のことをお話したかったからですの」
「園遊会ですか?」
「はい。母上のお誕生日を記念して……。ラグドリアン湖で催されるのですわ。国内の貴族だけではなく、他国の王侯や有力貴族の方々も招待されます」

 園遊会。そういえば、その会場でアンリエッタはアルビオンのウェールズ王太子と出会って恋に落ちるはず。
 そのことから感じられるのは、もう『物語』が始まっているということ。いよいよ『虚無』たちが覚醒を向かえ、時代が大きく動きだすということだ。

 ふと考える。そのとき、自分はどうなっているのだろう?

 貧弱な力しか持っていない未熟な少女に過ぎない自分が、これからの激動の時代を生き残ることが出来るのか……。
 少なくとも集団ではなく、一人でオーク鬼に勝てるくらいにはならなくてはならないだろう。
 でも……。出来るのだろうか。恐らくは永久に覚醒することが出来ないであろう自分の系統。
 ごく普通の貴族として生まれた自分が、どうしてそんなものを与えられてしまったのか。
 自問したところで、その疑問に対する答えなど出るはずもない。

「どうしたのですか?」
「あ、ええと……。いえ、なんでもないです」

 ぼうっとしていると。横からぬっとアンリエッタが顔を覗き込んでくる。オルタンスが慌てて手を振ると、王女は少し眉を下げつつも続けた。

「そうですか? ……それでですね。ぜひ、あなたにも一緒に園遊会に出ていただきたいと思いまして」
「ありがとうございます。しかしお言葉を返すようですが……。わたしごときが出るべき場ではないと思うのです」

 園遊会に招待されるような貴族に比べれば、マンチーニ男爵家は所詮木っ端貴族に過ぎない。
 トリステインに来てからも特に功績もない新参の貴族なので、そんな大層な場に呼ばれる理由がないのだ。
 他の貴族からいらぬ嫉妬を買うだけである。

「あなたのご一家は我が国の宰相のご親族ではありませんか! 十分に資格はあります!」
「い、いえ。しかし……」

 なおもオルタンスが渋ると。アンリエッタは露骨に不満げな顔になり……。ついに、頬を膨らませたままとんでもないことを言い出した。

「わかりました。あなたが出ないと言うのならば、わたくしも参加は見合わせます」
「そ、それはいけません。太后殿下は殿下のお母上ではありませんか」
「嫌なものは嫌なのですわ」

 そう言って、アンリエッタはついと顔を逸らしてしまった。これにはオルタンスもただ困り果てるしかないのである。
 額に汗を浮かべ、なんとかご機嫌を直そうとするのだけれども。王女はただそっぽを向いたままで呼びかけには答えてくれない。
 さて。どうしたものだろう。
 自分が出席すれば機嫌を直してくれるのだろうか。しかし、そんなことが出来るとも思えないが……。

「……わかりました。出られるか伯父さま……いえ。枢機卿に相談してみます」

 ほとほと困った、という顔でオルタンスは言った。自分が出なければアンリエッタが出ないというのだから、もうやむを得ない。

 まさか、自分が本当に園遊会へ出席することになるとは……。

 このときの彼女は、まったく想像もしていなかった。





[22415] 第6話 ラグドリアンの園遊会 前
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:d629567b
Date: 2010/12/18 20:16
 トリステイン王国とガリア王国の国境沿いに存在するラグドリアン湖。
 現在この地では、トリステイン皇太后マリアンヌの誕生日を祝う園遊会が行われていた。

 実のところ、その巨大な湖は人間たちのものではない。
 始祖ブリミルの降臨より遥か以前から存在する、『水の精霊』たちが湖底に独自の文明を作り上げているのである。
 彼らはトリステイン王家と『盟約』を結び、盟約の更新以外に人間たちの前へ姿を現すことはなかった。
 『水の精霊』はとても美しい姿をしているという。
 その姿を見た者は、どんな悪人だろうとも心を入れ替える、という眉唾ものの話すら存在するほどだった。

 園遊会はガリア王国、アルビオン王国、帝政ゲルマニアなど各国から要人が招かれ、湖畔の会場で社交と贅の限りを尽くしている。
 その期間は、約二週間。
 徐々に疲弊していく、このトリステインという国家の現状などまるで無関係であるかのごとく。
 各国から訪れた貴族たちの、華やかな、浪費ともいえる宴が続いていたのだ。


 それが一週間ほど続いたころには。この園遊会に参加していた三人の少女たちは、すっかり疲弊してしまっていた。
 主催者のトリステイン王の娘であるアンリエッタは、それはもう毎日毎日多忙を極めている。
 片時でも気の休まるときなどほとんどない。唯一、就寝前の時間だけが自由を謳歌できるひと時だった。

 それは、宰相マザリーニ枢機卿の姪であるオルタンス・ディ・マンチーニも同様である。
 王女ほどではないが、彼女もまた、多くの貴族と引き合わされていた。

 高嶺の花の王女とは異なり、園遊会へ招かれるほどの貴族たちならば、容易に手の届く存在のオルタンスである。
 トリステインの宰相の姪であり、また容姿に秀でたオルタンスを見る貴族たちの眼差しといえば、誰も彼もが己の欲望にまみれたものだった。
 そういった輩に嫌悪感を抱くのにも疲れ、彼女は、このところもっぱら愛想笑いを浮かべることに終始している。

 またも数名の貴族と引き合わされたあと、オルタンスははぁとため息を吐く。
 そんな姪の様子を見かねたのか。隣に立つマザリーニが、少しばかり心配を含ませた声音で問いかけてくる。

「大丈夫かい、オルタンス」
「……うう。あまり大丈夫とはいえないけど……頑張ります」

 そう返し、白髪の少女はふらふらと自分の部屋へと歩みだした。
 マザリーニはそんな頼りない少女の後ろ姿を眺めつつ、思案に耽る。

 ……当初の予定では、マンチーニ家は誰も園遊会に参加する予定ではなかった。マザリーニ自身、あまりそれを望んでいなかったからだ。
 彼は平民の出だなどと陰口を叩かれることとてある。そんなマザリーニの親族ともなれば、格好の標的となりかねない。
 だから、妹のジェローラマを初めとして、マンチーニ家はなるべく表に出してこなかった。

 しかし、なぜかオルタンスは既にアンリエッタ王女とかなりの親交を持ってしまっているというから驚きだ。
 そしてマザリーニが見る限り、二人の関係はあまり良い状態だとはいえない。
 ここ最近の王女は、なんだかオルタンスへの依存度を高めているからだ。

 ただ、今はまだ。ほほえましい関係として、遠くで見守るというのも選択肢としてはあるだろう。

 途中で転びそうになるオルタンスの体を支えてやり、マザリーニは彼女を寝室まで運んで行くのであった。



 * 



 ―――数日後。

 その日も、オルタンスとルイズはこっそりと、アンリエッタ王女に割り当てられた寝室へ足を運んでいた。
 やがて、部屋に入ってみると。あからさまに疲労した様子で、アンリエッタがベッドに突っ伏してしまっているのが目に飛び込んできた。

 そんな王女の様子を見て、ルイズとオルタンスは互いに顔を見合わせる。

「お疲れになられたのね。無理もないわ、ずっとあんな調子じゃ……」
「社交って、本当に大変だね……」

 オルタンス自身、園遊会というものを甘く見ていた感は否めない。
 生まれのロマリアでも、ブリミル教絡みの大規模な行事は年にいくつもあった。だけど、それはあくまでも神官たちが主役のもの。
 そこそこの爵位の貴族とはいえ、オルタンスが矢面に立たされることなど、まるでないといっても過言ではなかった。

 それが、この国ではまるで違うと思い知らされた。

 宰相の姪である彼女は、王に取り入ろうとする貴族の格好の標的になりつつあったのだ。
 実際のところ、マザリーニは敵が多い。それでも、国王夫妻からの信任が非常に厚い男であることは間違いなかった。
 特にマリアンヌ太后とは、非常に深い仲であると噂されている。本人たちはそれを完全に否定していたのだけども……。

 オルタンスは、何度か二人が一緒にいる姿を見たことがある。
 その様子を見る限り、特に怪しいことはなく、あくまでも王族と臣下の関係にしか見えなかったが。そう思いはした。

 そのうちに、体を起こしたアンリエッタは物憂げに窓の外を眺めだした。そして、呟く。

「なにか、気分転換がしたいわ。そうね、ラグドリアンの周りをお散歩したいわ」
「いけませんよ、外へ出るなんて。ここは王都とはわけが……って、王都でもだめなんですけど」
「……オルタンス。あなた、姫さまと王都へ出ているの?」
「え、ええと……。そうじゃなくて……」

 口からついぽろっと出てしまった一言にルイズが食いついた。彼女、どうにも疑り深い目で見つめてくる。
 そんな様子を楽しげに見つめながらも……、アンリエッタは、何かを思いついた風に、急に顔を輝かせた。

「そうだわ! ルイズ、あなたわたしの身代わりになってくださいな。侍女の見回りのときに誰もいないと大変ですから」
「え、で、でも……」
「……だめ、ですの?」

 渋るルイズの手を取り、アンリエッタは上目遣いで懇願するような仕草を見せた。これは必殺攻撃に等しい。
 オルタンスもこうやって嘆願されると断りきれないのである。故か、今となってはすっかりアンリエッタの言いなりもいいところであった。
 しばらく、ルイズは悩んでいたのだけれども……。
 王女の言うことに付き従うべきだと考えたのだろう。こくりと、小さく頷いた。

「わかりましたわ、姫さま。どうぞ、ごゆっくりしてきてくださいな」
「ありがとう、ルイズ。助かるわ」

 花のような笑みを浮かべ、アンリエッタはルイズに礼を告げる。そして、彼女は深夜の大脱走に向けた準備を行うのであった。
 


 ―――数刻後の、湖の岸辺。

 月明かりの下。アンリエッタは、静かに、ゆっくりとしたさざなみの音を聞いていた。
 彼女の栗毛が、吹いてきたそよ風でゆらゆらと揺れる。湖が近くにあるせいか、初夏ながらどこかひんやりとした空気が漂う。
 そんな王女のすぐ後ろでは、オルタンスが杖と若干の荷物を持って佇んでいた。彼女はアンリエッタに連れられて、この場所へやって来ていたのだ。

 しばらくすると、再び風が吹いて水面に波紋が浮かぶ。そんな様子を眺めながら……、栗毛の少女は呟く。

「よい風ですわ。あの窮屈な会場の空気が嘘のよう」
「あの場所は、いろいろな思惑が渦巻いていますからね……」

 少しばかり離れた位置にある園遊会の会場を一瞥し、二人の少女はお互いに顔を見合わせる。
 この地を訪れている貴族たちにとって、マリアンヌ太后の誕生日を祝う、というのは本来の目的ではないのだろう。
 貴族というものは非常に面倒な生き物だ。平民に生まれたほうが、そういう意味ではずっと楽なのかもしれない。
 まして王族ともなれば……。
 そういう日頃のストレスがあるから、オルタンスを呼んで気晴らしをしたがるのだ思う。

「水が冷たくて、気持ちがいいわ」

 そのうち、アンリエッタは岸辺でしゃがみ込み、ラグドリアン湖の水に手を差し入れた。
 そして……なにを思ったのか、おもむろに衣服を脱ぎ始める。彼女の白い肩が露となり、月明かりを受けてうっすらと赤く色づく。

「あ、アンリエッタ? こんなところで……」
「大丈夫よ。誰もいないわ。いたとしても、水の精霊くらいのものです」
「いえ、わたしが……」
「なら、あなたも脱ぎなさいな。一緒に水浴びをしましょう?」

 困惑気味の表情を浮かべるオルタンスに、もう一糸まとわぬ姿となったアンリエッタは手を差し出した。
 まるで水の精霊が踊りの誘いをするかのような……、ひどく幻想的な光景。

「え? えぇ……。それは……」
「嫌ですの?」
「うぅっ……」

 アンリエッタはあくまでも同性として自分を見ている、というのはわかる。
 なまじ前世の記憶なんて厄介な物があるがために、こういうことは本当は得意ではなかった。唯一、姉や母は例外だったけれども。
 仕方ない。誰が来るのかわからないけども、それで気が済むのなら。
 そう考えて、オルタンスも衣服を脱ぎ始める。するすると布の擦れる音がして、衣服がぱさりと岸辺に落下した。

「早くなさい」
「わかりましたけど……。その、あまり見ないでください……」

 アンリエッタは先に湖に足を踏み入れていた。半身が湖面から浮き出るその姿は、本当に水の精霊と見紛うものであるかもしれない。
 催促されたので、オルタンスもゆっくりと水面に指先を落とす。冷たい水の感覚が襲ってくるが、周囲の気温と相殺されるのか、すぐに馴染んだ。
 じっと見つめられるのが恥ずかしくなり、少しずつ下がる体温とは対照的に、オルタンスの頬が朱に染まっていく。

「綺麗だわ」

 ふと、アンリエッタがそんなことを呟く。その視線は目の前の白髪の少女を向いているのだが……。
 見られている本人はそう思わないらしい。双月のことだと考えたようで、天を見上げながら、雲の切れ間に視線を向ける。

「こう静かだと、まるでこの世界にいるのはわたしたち二人だけのように感じます」
「本当にそうですわ」

 栗毛の少女は透明な水を片手で手ですくい、それを自らの腕にかけた。さらさらと水が腕を伝って滴り落ち、再び湖の一部へと還る。
 それを見たオルタンスも、水を自分の体に伝わせる。冷たい水の感覚に、思わずぴくりと体が震えた。

 やがて、水に慣れた頃になると。
 二人は肩まで湖に浸かって泳ぎ始める。オルタンスはあまり水泳が得意でないようなので、アンリエッタの指導を受けていた。

「……ふぅ。今まで窮屈な時間ばかりだったけど。こうして憩いの時間があると、明日も頑張れるって思えるわ」
「そうですか。よかったです」

 ひとしきり泳いだあと、浅い湖面に足をつけたアンリエッタが言う。オルタンスは、少し恥ずかしげに首を傾げた。
 ぽたぽたと、髪の先から水が滴り落ちる。胸先を腕で覆うと、その間に水が溜まって水溜りのようになる。

 そろそろ上がろうか。そう考えたときだった。

 ぱしゃっと、オルタンスの顔に水がかけられたのである。水の飛んできた方向を見やれば……悪戯っぽい顔のアンリエッタがいる。
 どうも、彼女はまだこの深夜の水浴びを続けるつもりらしい。
 やられっぱなしというのも面白くない。オルタンスも水もすくい、アンリエッタ目掛けて放った。
 水は思い切り顔に当たり、派手な音を立てた。
 これはやってしまっただろうか。そう思う間もなく、今度は水が飛んでくる。

「今度はわたしの番よ!」
「さ、先にかけてきたのはあなたでしょう、お互いさまです!」
「あら、反撃した時点でもうこれは戦いなのよ。ふふふ……」
「ひゃあ!?」

 オルタンスの抗議も空しく、アンリエッタは情け容赦なく水をかけてくる。楽しげな表情で、今だけは社交のことなど忘れてしまっているようだ。
 誰もいないと思っているからなのか、実際にこの時点では誰も見ていないからなのか。
 結局はオルタンスも応戦し、二人は水かけを始めてしまった。ばしゃばしゃと水の音がしていく。

 それが何分も続いた頃。不意に、オルタンスは背後から何者かの気配を感じる。
 なおも水を飛ばしてくるアンリエッタに「隠れていてください」と告げて走り出し、陸地に置き去りになっていた杖を掴んだ。
 そして、近くの木陰にいるであろう“何者か”に向かって声を張り上げた。

「そこにいるのは誰だ? 名を名乗れ! 返答次第ではただではおかないぞ!」

 そんなオルタンスの剣幕に驚いたのか。慌てたような声が飛んでくる。若い男性のものだった。

「ま、待ってくれ。怪しい者じゃない」

 すぐに声の主がその姿を現す。金髪の、二十になるかならないかといった風貌の青年だ。焦っているらしく、額には冷や汗を浮かべている。

「どこからどう見ても怪しい……」
「散歩をしていただけだよ。まったく、水の精霊たちが戯れているのかと思ったら……、えらく凛々しい妖精さんだったね。とりあえず、服を着たらどうだい?」
「っ!」

 青年に指摘され、そこでようやく自分が全裸のままだったことに気が付いたオルタンスは、慌てて衣服を身に着ける。
 その間、青年はずっと後ろを向いていたようだ。落ち着かない気持ちで、少女は手短に作業を終えた。

「……こちらを見ていないだろうな」
「それはもちろん」

 男装時のような―――普段よりも硬い口調で、オルタンスは青年に問いかける。こればかりは彼の申告を信じるしかないのが辛い。
 見たところ、青年が危害を加えてくる様子はない。それどころか、なにやらオルタンスを興味深げに見つめてくる。
 よくよく見れば、相手はかなり整った顔立ちをしている。かなりの美青年といっていいだろう。

 ラグドリアンの園遊会。深夜の湖畔。水浴び。
 どうにも何かのキーワードが繋がりそうになる。そうだ、寝室に向かう前に、伯父のマザリーニが言っていたではないか。
 「先ほど、アルビオンの王族が到着したようだ」と。それが意味するところは……。

「まさか、あなたは……、アルビオンのウェールズ・テューダー?」
「おや。ぼくを知っているのかい?」
「ええ。お名前は伺っております。……申し訳ありません。先ほどは無礼な発言をしてしまいました。お詫びします」

 しゅんとうな垂れた様子で、オルタンスは謝罪の言葉を述べる。それはどこか捨て犬を思わせる光景だった。

「いやいや、気にしないでほしい。あの状況なら仕方ない。それより、きみの名前は?」
「ありがとうございます……。わたしはオルタンス・マンチーニと申します」

 そうだ。
 この日、この園遊会で。アンリエッタはこのウェールズと出会い、恋に落ちるはずだったのだ。
 しかし、それが……、どういうわけか。なぜか自分が彼と鉢合わせてしまった。ここはどうするべきなのだろう。
 オルタンスは思案する。

 一方で。

 オルタンスに名を呼ばれたウェールズは、内心で驚きながらも、目の前の真っ白な髪の少女に見入った。
 珍しい髪の色だ。老人でもなく、その手の障害でもないだろうに真っ白な髪をしている。
 瞳は翡翠のような、新芽のようにも見える緑色をしていた。顔立ちはとてもバランスが良く、なるほど、美少女であるといってまったく差し支えない。
 それでいて、先ほど見せたような凛々しい表情もできる。ただの臆病な人間とは一線を画しているようだ。

 なにより、このオルタンスという少女。
 先ほど、もう一人の少女と戯れている最中に見せた表情―――堅物な父をして堅物だと言わせるウェールズをして、思わず見惚れてしまうようなあの笑顔。
 この少女はどれだけの表情を持っているのだろう。
 彼女から感じる、どこか不思議な感覚とはなんなのだろう。

 一目、彼女の姿を目の当たりにしたウェールズはもう心を奪われてしまったようである。
 美しい。まるで、愛の女神フレイヤの再来を思わせる美貌だ。そう思わずにはいられない。

 ……と。そんなことを考えていると。目の前の少女が、訝しげな表情で問いかけてくる。

「あの、どうされたのですか?」
「……ん? いや、少し考え事をしていただけだ。それより、先ほどからずっと湖で水に浸かっている彼女はいいのかな?」
「え?」

 ウェールズにそう言われ、後ろを振り返ってみると……。
 湖の湖面から顔だけ出したアンリエッタが、じっと見つめてきているのが気が付いた。
 これは大変だった。ウェールズとの遭遇にばかり気を取られていて、自分がアンリエッタに隠れろと言ったのを失念していたのである。
 オルタンスは慌てながら、持ってきていたバッグからタオルを取り出す。
 再びウェールズに後ろを向いているように告げると、王女へ湖から上がるように促した。

「……ひどいですわ。あんまりですわ。すっかり体が冷えてしまいました。大変ですわ、風邪を引いてしまいます」
「ご、ごめんなさい」

 ずっと水に浸かっていたせいなのか。アンリエッタの体は冷えてしまっていて、触れるとそれが実感として伝わってきた。
 自分が出てくるなと言ったのが原因なので、オルタンスは半分涙目になってずぶぬれの王女の体を拭いていく。
 ……アンリエッタはオルタンスに自分の体を温めるように言いつけたかったのだが、見知らぬ男性の目があるので諦めた。

 少しして、アンリエッタは衣服を着終えた。それでもまだ寒いようで、オルタンスの体に背後から張り付いてしまっている。

「……もういいかい?」
「は、はい。殿下」

 もう結構な時間が過ぎているらしい。ウェールズが尋ねてくるので、オルタンスは短く返した。

「オルタンス。この方は?」
「えっと、アルビオンの……」

 アンリエッタが何者かと尋ねる。見たところ高貴な人間であるというのはすぐにわかるのだけれども、一体どこの誰かまではわからない。
 それに答えるために、何か言いかけたオルタンスの言葉を、眼前の青年は笑みを浮かべながら引き継いだ。
 殿下。白髪の少女が栗毛の少女を呼ぶ言葉からして、きっと高貴な人物なのだろう。恐らくは……。そう考える。

「ぼくはウェールズ・テューダーだ」
「……ウェールズ? もしや、あのウェールズさまですか?」
「そうだよ。きみは見たところ……トリステインのアンリエッタ、かな? 母君の面影があるように思ったのだけど……」
「は、はい。そうですわ」

 なんということだろう。
 よりにもよって、あのプリンス・オブ・ウェールズに水浴びを目撃されていただなんて。
 王族の自分が、こんな野外で服も身につけずに水浴びをして、それを男性に目撃されてしまっただなんて。
 恥ずかしい。穴があったら入りたくなる。

 あからさまにアンリエッタの顔が真っ赤に染まる。ぎゅっと、オルタンスの服の肩口を掴む力が増した。

「散歩をしたら水の音が耳に入ってね。気になって見にきたんだ。そうしたら、きみたちが水浴びをしていたんだ。悪いけど、じっと見入ってしまった。……この湖には、水の精霊がいるというじゃないか。
 だから、ぼくはてっきり彼らが出てきたのだと思ったんだよ。精霊の美しさは二つの月すら恥じ入るほどだという話があるだろう。だから、どうしてもこの目で確かめたくなってね」

 凛々しい顔立ちで、爽やかな声で言うから、あまり違和感がないように思うのだが。
 実際のところ、この青年がオルタンスとアンリエッタが水浴びをしている光景を覗いていたのは間違いない。

 それに……。
 なんだか。ウェールズから熱っぽい視線を感じて、オルタンスは居心地が悪くなる一方だった。
 その視線にはアンリエッタも気がついたらしい。先ほどまで、まさに恥らう乙女といった様子で頬を赤らめていた雰囲気が一変する。

「わたくしたちで、残念でしたわね」
「いや、そんなことはない」

 どこまでも真剣な眼差しをオルタンスへ向け、ウェールズは少女の手を取った。

「水の精霊は見たことがないが……。きみたちは美しかった。水の精霊より、遥かに」

 「きみたちは」というのだけど、ウェールズの視線は完全にオルタンスだけを捉えていた。
 オルタンスとしては、いかに二枚目だろうと、男性に言い寄られることにはかなりの抵抗がある。
 それに。この場でウェールズと恋仲になるのはアンリエッタのはずだ。それがどうして、ただ居合わせただけの自分になってしまうのか。
 もうわけがわからない。

「きみはマンチーニというそうだね。家名からすると、きっとロマリアの生まれなのだろう? どうしてアンリエッタと一緒に?」
「……その、いろいろあって、今はトリステインにいる伯父のマザリーニの世話になっていて……」
「なるほど。きみの身元引き受け人は、つまりマザリーニ枢機卿だと」
「そう、なるのでしょうが……」

 完全に置いてけぼりを食らって唖然とするアンリエッタと、何事かを考え意気込むウェールズ。
 二人に挟まれ、その狭間でただおろおろとするしかないオルタンス。どうしてこうなったのか。まったくわからなかった。


 こうして混迷の状況のまま。園遊会のとある一日が、終わりを告げようとしていた。





[22415] 第7話 ラグドリアンの園遊会 後
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:633db8a6
Date: 2011/02/15 18:00
 時刻は早朝。ラグドリアン湖の水面を漂う浮き島の一つに設けられた、とある居室。

 この場所は、あくまでも一時的な滞在の場であるからなのか。
 それほど広さがない、質素な作りの部屋の隅に設置された、簡素な作りのベッドの上で一人の白髪の少女が目を覚ました。
 あまり寝付きがよくなかったのだろう。大きなエメラルドグリーンの瞳の下部には、まるで木炭で線を引いたような“くま”が横切っていた。
 平時ならばさらさらとしているセミロングの頭髪は、どうも手入れが行き届いていないらしい。睡眠中に手酷く荒らされてしまったようだ。

 ふと、なんとなく己の髪に手を触れた少女は、思わぬそのごわごわとした感触に少々の驚きを覚えた。
 普段、姉といるときならば。必要以上というか、とても気合を入れて丁寧に手入れをしてくれていたのである。それが、ここ二週間はなかった。
 自分ではそれなりにきちんと髪の手入れをしているつもりではあったのだが……。
 もっとも、本人が気づいていないだけで、そのやり方には大きく問題があったらしい。
 幼い頃から姉に髪の手入れを丸投げしていたが故に、彼女本人は、そういった技量には欠けているのであった。

 カーテンがしっかりと閉じきられた部屋の内部は薄暗い。朝日は既に地平線の彼方から顔を出しているというのに、ここばかりはその様子がまるで窺えない。
 そして、そのとき。何を思ったのか、寝起き眼で意識がおぼつかない少女は、ろくに身の回りの確認すらせずにベッドを這い出ようとしたのである。
 結論から言えば、その迂闊な行動とても大きな失敗だったと言わざるを得ないだろう。
 なぜならば、彼女が這い出ようと移動したその先には……。

「あっ」

 ……どうしたことだろう? 今、自分の手の甲の下辺りから、妙な声が響いてきたような気がする。
 手のひらに伝わってくる感触といえば、いつかのスポンジを思い起こさせた。しかし、微妙に熱を帯びたそれの中身は、決して石油製品などではないわけで……。
 本来ならば一人でこの部屋を使うべき少女は、嫌な予感を滲ませながら、恐る恐る“本来いるべきでない人物”へと問いを投げかける。

「……アンリエッタ?」

 そう口に出してみて、少女は自らの口内に違和感があることに気が付いた。それが一体なんなのかはまるでわからないけども、どうしてかそう感じたのである。
 しかし。
 その事案は彼女にとって特に重要なウェイトを占めることもなく、実にあっさりと脳裏から消え去って行った。
 なぜならば、声をかけた次の瞬間には。先ほどまで少女が使用していた薄手の毛布から、一人の栗毛の少女が顔を覗かせたからであった。
 アンリエッタと呼ばれた栗毛の少女の容姿は、毛布からはみ出している僅かな部分からでも、端麗に過ぎるものであると理解できた。
 だが、恥ずかしげに視線を自分から逸らす。アンリエッタを見た白髪の少女の反応はといえば。どうにも萎えているというか、呆れたような態度を取るばかりだ。
 小さくため息をつきながら。彼女は、相変わらず毛布から出ようともしない“友人”へと声をかける。

「昨晩仰っていたでないですか。今日は園遊会の最終日だから、朝から大事な用事があるって。こんなところで油を売っていていいのですか?」
「でもオルタンス。あなた、ここのところずっと元気がないじゃない。理由を聞いても曖昧な返事ばかりするし……。せめて元気付けてあげたいのよ」
「……ご好意はとてもありがたいのですけれど、毎日毎日わたしのベッドに潜り込むのは、やめていただきたいのですが……。かえって気が滅入ります」
「そんな!」

 「信じられない」とでも言いたげなアンリエッタの言動に、オルタンスは今度ばかりはとても深いため息をついた。
 確かにここ数日、オルタンスは自分でもあからさまに気落ちしていると感じてはいた。人前では気丈というか、普段と同じように振舞っていたのだけども。
 さすがにマザリーニの目は誤魔化せなかったらしく、「しっかりと休養を取りなさい。何か悩みがあるのなら、誰かに相談するのだよ」と釘を刺される始末だった。
 
 自分が落ち込んでいる理由。それについては、とうに見当がついている。というか、もう一つくらいしか思い当たる節がない。
 ただ、それを認めてしまうことは出来ずにいた。いくらなんでも、自分の裸を異性に見られたから落ち込んでいた、とは表立って言い出せるはずもない。
 “それ”に落ち込んでいる自分の心境すら、彼女自身にとっては完全に理解できるものではなかったのである。

 自意識過剰といえば、そうなのかもしれない。自分がいつまでも気にしているのがおかしいのかもしれない。
 あるいは、“こんなもの”がおもいきり視界に入ってしまったウェールズこそ迷惑であったかもしれない。
 あの視線も、はしたない所業を働いていた自分を咎めるものだったのかもしれない。項垂れつつ、自らの年齢相応な体躯を視界に入れながら、思案する。
 やはりというのか。大したことではない、と考えれば考えるほど、頭の中がこんがらがっていくような感覚を覚えるばかりだった。

「どうしたの? 本当に具合が悪いなら、診てあげましょうか? 応急処置くらいなら……」
「……いいえ、違うんです。本当、ただわたしがナイーブなだけで……」
「? ……とりあえず、無理はしないでくださいまし」
「はい。心得ました」

 ふと考え込んでしまったからだろう。座り込んだまま、アンリエッタはオルタンスを心配そうに見やっていた。
 同年代の、少しだけ年下の少女の小さな手を取る。それはひんやりとしていて、またどこまでも儚げだった。
 いつかのトリスタニアで、暴漢へ勇敢に立ち向かって行った“彼”と同一人物であるとは、到底信られじようがない。そう感じずにはいられなかった。
 だけども、それが人間というものだ。
 強い人間とて弱点はある。むしろ無い方が不自然だし、弱点のない人間など、御伽噺の中ですらめったに存在しないのである。
 普段はそれなりに態度を取り繕っているオルタンスが、そういう面を自分だけに見せてくれる。それはアンリエッタにとって非常に喜ばしいことだった。
 出来ることなら、一方通行ではなく。自分も頼って欲しいと考えていたのだ。

「……言葉遣いだって、普通にしてくれて良いのに」
「え?」
「いいえ。なんでもありませんわ。それより、そろそろ時間です。今日で園遊会も終わりですから、あともう少し頑張ってくださいね」

 小さな呟きを耳にした少女が、小さくこくりと首を傾げる仕草。アンリエッタはそれがどうにも無性に愛おしくなってしまう。
 思わず眼前の少女を抱きしめようと、体が無意識に動きそうになりつつも。直前に自分が告げた言葉が、それに待ったをかけた。
 いつまでもこうしていたのは山々だけども、やはりそれは許されない。王族としての務めを果たさねばならないからだ。
 少しばかり名残惜しく感じつつも。アンリエッタは、そそくさとベッドから足を下ろした。

「それでは、また後で」
「殿下もお気をつけて」

 「あら、また殿下と呼ばれちゃったのね」。
 口には出さず、そんな言葉を脳裏で抱きつつ。のそのそと着替えを始めた少女を置いて、アンリエッタは歩き出すのであった。



 *



 園遊会も最終日。

 この日も、オルタンスはマザリーニに連れられ、いつものように貴族と引き合わされていた。
 背筋を伸ばし、顎を引く。会話中に笑みは絶やさず、どんなものだろうと相手の話をしっかりと聞いて相槌を返す。
 これまでの幾百もの会話の中で彼女が積極的にやって来たことと言えば、その程度だった。
 王族でもなんでもない彼女に、王女のようなパフォーマンスを期待する者はいない。最低限、マザリーニの足を引っ張らぬようにすることだけ考えればいい。
 実際、控えめな箱入りの少女然として振舞ってさえいれば、決してボロを出すことはなかったのである。
 もっとも、そうして付け焼刃で慣れぬ振舞いを続けることは、少なからず彼女の心身に負担を与えてはいたが……。


 あっという間に時間は過ぎ去り、段々と日が落ち始める。いよいよ、園遊会もクライマックスへと近づいていく頃合である。
 このとき、オルタンスは一人で行動していた。アンリエッタやルイズ、マザリーニの姿はない。
 もう貴族と引き合わされる予定はなかった。かといって、王族であるアンリエッタはまだ忙しいし、マザリーニもそれは同様だった。ルイズの姿も見えない。
 顔なじみの人間とことごとく引き離されてしまったが故に、彼女はただ一人でさ迷うしかなかったのだ。

 ゆっくりと、大勢の貴族たちで溢れかえる湖上の舞踏会場を、オルタンスは一人で進んでいく。
 特に目的もなく、視線をたゆたわせていると。ときおり、見覚えのある顔の人物の姿が散見された。だが、いずれも己に向けられた視線には気がつかない。
 人一人がやっと通ることが出来るだけの狭い空間を、白髪の少女は静かに通り抜けて行った。
 これだけ多くの人間がいるというのに。どうにも、自分は孤独であるように感じてしまう。どこか疎外感のようなものを覚えるのだ。
 あらゆる意味で、彼女は“異質な”存在であるからなのか。ここに集う人間たちと、根本部分で何かが異なっているのか……。
 あるいは、それは周囲へ溶け込む努力をしない自分の甘えなのだろうか。
 いずれにせよ、この空間は今のオルタンスにとっては、あまり馴染みやすい空間であるとは言えなかった。

 そのまま、誰とも顔を合わせることはなく。彼女は人ごみを抜け、人気のない方向へと歩みを進めて行った。

 少し歩くと、会場施設の突端部分へとたどり着いた。この付近にまともな照明はなく、ただただ周囲は闇に支配されるばかりである。
 転落防止用の木製柵に身を預け、オルタンスは小さくため息を吐いた。
 そのたった一回の吐息に、今日までの二週間に体験した出来事に関する、様々な思いが詰め込まれていた。
 慣れない場所での、慣れない貴族たちとの面会。自分を品定めする、ずっと年上の貴族たちの不躾な視線。そして、家族と離れての生活。
 それらが一気に吹き出ていくのである。

 ……だが、あまりそういうことを考えるのはよくないだろう。もう園遊会は終わるのだ。そうすれば、またいつもの日常へと戻ることが出来る。
 ポジティブに行こう。くだらないことで気を病んでも仕方ない。過ぎてしまったことは流して、先々のことへ視点を移そう。

「……そろそろ、戻ろうかな」

 時間にして十分ほどだろうか。柵に寄りかかったままぼうっと過ごすのをやめて、彼女は一人呟く。そして、歩き出した。
 この場所が薄暗い理由の一つに、ちょうど船室が会場の明かりを遮ってしまっているのが挙げられる。つまり、双方の視界も遮られているのである。
 ちょうど、曲がり角にまで到達したときであっただろうか。船室の向こう側から、何か大きな物体が飛び出してきたのだ。
 ぽふっと軽い音立て、オルタンスは見事にその人物へと突っ込んでしまった。

「あっ、す、すみません」
「いや、余も余所見をしていたな。謝ろう」
「……余?」

 恐る恐る、オルタンスは顔を上げる。そして、目を大きく見開いた。
 彼女がぶつかってしまった相手は、どうも背の高い三十男のようであった。特徴的な青い髪に、がっしりとした筋肉質な肉体。そして美髯を湛えた面。

 そう。突如としてオルタンスの眼前に現れたのは、“あの”ガリア王ジョゼフであった。

 将来的にルイズたちが立ち向かうことになる、最大の敵と言ってもいい、あの無能とはいえない“無能王”だ。
 確かに、この園遊会にも参加していたとは聞いていたが。
 まさか、こんなところで遭遇することになろうなどとは。オルタンスは微塵も考えていなかったのである。

 ただただ驚きをもって、少女はまじまじとジョゼフを見つめる。そこには驚きこそあれど、この園遊会の参加者のほぼ全員が向けてきた、ある感情が存在していない。
 優秀な弟を追いやっての即位。魔法の才を持たない王。それに対する、侮蔑。軽視。
 それら全てがなかった。あのアンリエッタ王女ですら、ジョゼフとの面会時には、若干の不信感を持って当たったのである。
 それが、ジョゼフが見下ろしている少女からは感じられなかった。興味を抱きこそすれど、悪感情というものは伝わって来なかったのだ。

 ……それは、ほんの少しの時間であったのか。あるいは何分もの間であったのか。
 いずれにせよ、その澄んだ瞳でジョゼフを見つめ続ていた少女は、何かに気が付いたらしい。恥ずかしげに、急に視線を逸らしてしまった。

「す、すみません。じろじろ見てしまって。失礼します」
「待て」
「!?」

 その場から走り去ろうとするオルタンスの肩を掴み、ジョゼフは彼女をその場へと押し止める。振りほどこうにも、少女の力では大柄な男性に抗う術はなかった。
 ほんの一瞬だけ、逃げようと頑張ってみるのであるが……。早々にそれを無理だと判断し、オルタンスは逃走を諦めた。
 やむなくジョゼフへと向き直り、自分よりもずっと背の高い男性を呷り見る。
 オルタンスは、表向きは平静を装ってはいるものの。内心では、心臓が破裂しそうになるほど鼓動を速めていた。一体何を言われるのか、それが恐ろしくてたまらなかったのである。
 それでも、なんとか彼女は堪えた。あくまでも毅然として、開き直った態度を取ったのである。

 しばらく、翡翠色の瞳を食い入るように見つめたあと。どうにも腑に落ちない様子で、オルタンスの肩を掴んでいた手を離し、ジョゼフは唐突に口を開いた。

「……いや、余の思い違いであったようだな。行っていいぞ」
「え?」

 あまりにもあっけない一言だった。それきりジョゼフはオルタンスから興味を失ったらしく、一方的につかつかと歩み去って行ってしまった。
 何が起きたのか理解できず、ただただ、白髪の少女は唖然と立ち尽くすしかなかった。



 ―――しばらくの後。オルタンスの視界から外れたころ。人気のない場所でジョゼフは立ち止まり、己の顎に手を添えながら独りごちる。

「ふむ、おかしいな。一瞬だけ、あの娘から『同類』のような気配を感じ取ったのだが……。いや、しかし……」

 “無能王”は、珍しく真剣な表情で考え込む。、蔑称からは想像も出来ないほどの、理知的な光を瞳に灯しながら。天に輝く双月を呷り見つつ、呟いた。

「嫌になるほど澄んだ瞳だ……。まるで、あいつの……。シャルルのように……」

 彼は何を思うのか。舞踏会の会場へ戻る道中の少女は、ガリア王の心情など知る由もなかった。


 夏の夜は更けていく。まだ誰も、この先に待ち受ける重大な出来事など知りもせず。ただただ宴に興じるばかりであった。



 *



 それから、数時間後。

 園遊会は無事に終了し、今夜がラグドリアン湖で過ごす最後の夜となった。

 自らに割り当てられた部屋で王女が休んでいると、そんな彼女の元へ、いつものようにオルタンスが現れた。
 アンリエッタはといえば、ベッドでうつ伏せになって、ぐったりとしてしまっている。それはそうだろう。最終日ということもあって、今日は多忙を極めたのだから。
 ちなみに、オルタンスは暖められたミルクの注がれたカップを手にしていた。侍女の女性が気を利かせたのである。

「あぅ……。オルタンス……。お疲れさまですわ」
「で……。アンリエッタこそ、お疲れさまでした」

 ネグリジェ姿の王女は酷くだらしない様子で、自分の元へとやって来た友人の名を呼んだ。しかし、どうにも威厳がない。
 横になり、ふにゃふにゃとしたあやふやな口調で言うのだから当然である。舞踏会では気張っていたためか、どうにもギャップが大きい。思わず、笑みがこぼれる。

「どうして笑うんですの?」
「いえ……。もう“見慣れている”けど、人前で取る態度とあまりにも違っているなって」

 くすりと目を細めるオルタンスの姿を目にして、アンリエッタは憤慨した様子で口を開いた。

「それはそうですわ。わたくしだって人間だもの。四六時中気張っていたら、いつか倒れてしまいます」
「ん、それはそうだよね。ミルクがあるから、まずは起きてくださいな」
「体が言うことを聞きませんわ。どうか口移しで飲ませてくださいまし」
「無理言わないでください」

 王女の無理な要求な軽く切り捨て、オルタンスは呆れ顔でベッドへと腰掛ける。すると、観念したのかアンリエッタは身を起こし、隣へと並ぶ。
 礼を言ってカップを受け取りると、やけに熱いミルクが注がれていたことに顔をしかめる。湖上で陸地より気温が低いとはいえ、冬場とは違いそれなりの気温があった。
 ふと横の少女を見ると、熱いカップを両手の先で掴み、一生懸命になってミルクに息を吹きかけている。
 その仕草と来たら、わざとやっているのではないかと勘ぐりたくなるほどに“くる”ものがあった。思わず抱きしめてしまいたくなる。

 だが、それを実行に移すことは出来なかった。
 カップが並々と満たされた状態でそんなことをすれば、次に待っているのは大惨事だ。
 ……ミルクまみれ、というシチュエーションもあるにはあるが。このときの王女殿下はそれを知らず、また思いつきもしなかった。
 やがて、ようやくミルクを飲み干した頃になって、もう一人の訪問者であるルイズ・フランソワーズがやって来たことで、ハグ計画は完全に破綻したのである。

 アンリエッタの脳内はかなり妙なことになっていたが、それに負けず劣らず変なことを言い出したのはルイズだった。

「姫さま。お疲れでしょう。マッサージして差し上げますわ」

 などと宣言するなり、ルイズはアンリエッタを無理やりベッドへ横にさせた。そして、自分は腰の辺りに飛び乗ったではないか。
 ……と思いきや、いきなりアンリエッタが着ていたネグリジェを剥ぎにかかったのである。無論、これにはアンリエッタも抵抗した。

「る、ルイズ? なにをしているのですか?」
「姫さま。お疲れでしょう? この間、父が寝室で母にしてあげていたのですわ。きっと、布越しじゃなくて直にした方がいいのでしょう。母もとても気持ち良さそうでした」

 ……それは、本当にマッサージなのだろうか? オルタンスは“その”光景を想像してしまい、思わず赤面する。
 そんなことを考えている間、孤軍奮闘を強いられていたしアンリエッタはとうとう折れ、服を捲くるだけならと承諾した。
 こうして、一方的な宣言の下、ルイズは親指でアンリエッタの背中を押し始めた。ときおり肩甲骨の周囲を押したり、首筋まで押すこともする。

「ん……」

 最初はあまり乗り気でなかったアンリエッタも、自分の体が思っていたよりもこっていることに気が付いたらしい。今は目を閉じて、ただされるがままになっている。
 本来こういうのは侍女の仕事なのだろう。だが、アンリエッタは、ほとんど毎日いろいろな貴族と顔合わせをしている。
 そして就寝前の時間は、人払いをしてオルタンスとルイズを部屋に招き入れているので、そういう時間がなかったのであろう。

 手持ち無沙汰になってしまったオルタンスも、ルイズに倣って作業を始めることにする。むき出しになっていた素足を手に取ると、適当に指で押し始めたのだ。
 もちろんどこがツボだとか、そういう知識はなかった。あまりに適当にやるので、そのうちアンリエッタがくすぐったそうな声を上げてしまう。

「お、オルタンス。くすぐったいわ。……その、あまり足をくすぐらないでほしいの」
「だめかなぁ……」

 オルタンスはお役目御免となってしまった。しかたなく、部屋の中に置かれたチェアーへと腰掛けた。そして、身を埋める。
 ルイズはルイズで一生懸命にやっているものの、素人なので動きはかなりでたらめである。
 しかし、なぜかそんなルイズのマッサージは意外と効き目があるらしい。アンリエッタは思いのほか気持ち良さそうだった。
 もしや、ルイズにはマッサージ師の才能でもあるのだろうか。恐らくは、まったくの偶然なのだろうけども……。

 しばらく、ルイズはアンリエッタの腰の上に乗り続けた。額に汗を浮かべながらも腕を動かしている。

 それから、三十分ほどした頃……。

 ふと、アンリエッタの顔を見ると、彼女はすやすやと寝息を立てていた。どうやら、途中で眠ってしまったらしい。
 ルイズもルイズでうつらうつらとし始め、ものの数分後にはアンリエッタに覆いかぶさるようにして寝入ってしまった。
 やれやれと呆れ顔になりつつ。オルタンスはベッドへと近寄って、両腕でルイズをごろんと転がして位置を調整した。そして、二人に毛布をかける。

 このときになって、初めて気が付いたのだが。どうもルイズから酒の臭いが漂ってきた。いきなりマッサージなどと言い出したあの一連の行動は、酔いが原因であったらしい。
 まったく、この年の少女に酒を飲ませるような真似をしたのは一体誰なのだか……、と思う訳である。

 やがて、一仕事終えたオルタンスも、そろそろ自分の部屋へと戻ることにした。
 そして、部屋の明かりを――魔法のランプは、普通のメイジならば杖の一振りで消せるが、彼女は手動でやらねばならない――消し、王女の部屋を後にする。
 帰るとはいっても。実は、三人に割り当てられたそれぞれの部屋は、数メイルほどの距離しか離れていない。
 オルタンスの部屋は、廊下を少し行った曲がり角の向こうにある。

「じゃあね、おやすみ」

 最後に小さく、眠り姫たちに告げて。オルタンスは、アンリエッタの部屋を後にするのであった。



 *



 ―――翌日。

 オルタンスたちが起床し始めたころのトリステイン王国上空を、数隻の船が航行していた。
 それは、アルビオン王国から王族や大貴族を連れてやって来た船団であり、彼らは空に浮かぶアルビオン大陸への帰路を行っていたのである。

 そんな船団の旗艦。船室の内部で、若きアルビオン王家の王太子と、その父であるアルビオン王は、紅茶へ口をつけながら空の景色を眺めていた。

「……どうしたのだ、ウェールズ。ラグドリアンで良いことでもあったのか?」

 既に老体と言ってよい年齢に達していた王は、億劫そうな様子でそんな問いを発した。ここ最近のウェールズと来たら、会うたびにそわそわとしていて、やけに上機嫌なのである。
 ラグドリアンからの出立前には、なぜか若干落ち込んでいたものの、今は落ち着きを取り戻しているようだった。
 父から、そういった問いかけをされたのを意外に感じたのか。少々の沈黙の後、ウェールズはカップをソーサーに下ろして、答える。

「良いこと、といえばそうでしょうね。ぼくにとっての、どんな宝の山にも変えられない人を見つけたのです」
「ウェールズ。……まさか、トリステインの」
「はは、まさか。彼女は従妹ですよ? 兄弟のようなものではありませんか。確かに彼女は可憐な少女でした。ですが、ありえません」
「……そうか」

 「トリステインのアンリエッタ王女ではなかろうな」と疑念を告げようとしたジェームズだったが、それはウェールズによって即座に否定された。
 そうなれば、後はもう特に言う事もない。よほどの問題を孕んだ相手でさえなければ、いくらでもやりようはある。
 それに、この息子は、己の身を、立場を弁えない愚かな人間ではない。年齢的にも、わざわざ自分が注意するような必要はないだろう。そう考える。

 一方で、何かを思い出すかのように。ウェールズは窓の外を眺めつつ、地上にいるであろう少女へ想いを馳せた。そして、自分にしか聞こえないような声で呟くのである。

「オルタンス・マンチーニ……か。いつかまた、彼女に会うことができるのだろうか」





[22415] 第8話 再会
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:c624dc16
Date: 2011/02/21 22:08
 季節は冬へと向かい始める頃。ウィンの月は下旬。トリスタニアはマザリーニ枢機卿の邸宅。

 その日は虚無の曜日だった。
 多忙を極めるマザリーニや、トリステイン軍に仕官したポール・マンチーニらが屋敷へと戻り、珍しく縁者が一同に介した日となった。
 国家の宰相であるマザリーニはともかく、ポールはここから始祖の降臨祭が終わる来月上旬までは休暇であるらしい。
 本人曰く「これまで溜め込んだ休暇を、全部年末年始に割り当てたんだ。しばらくはゆっくり出来るよ」とのこと。
 ちなみに、彼の軍での階級をオルタンスが尋ねると「ええと、いや、ね。一応士官なんだ。戦争で手柄を立てて出世するよ!」と、お茶を濁すのである。
 軍務のことは、あまり触れて欲しくないらしい。そんな気配をもうもうと発している。

 心なしか、少しばかり賑やかな朝食の席。手にしたパンにナイフでバターを塗りたくり、オルタンスはそれを口にする。
 そうしていると、なんだかロマリアの頃によく食べていた、ジュゼッペの店のパンを思い出すのである。味はあちらの方が上だったとも。
 生活のためとはいえ、祖国であるロマリアから出てきて早一年。十年以上を過ごしたあの街を“懐かしい”感じるには、十分な時間が過ぎ去った。

 食事を終えると、一家団欒の時間となる。そうなると、例によって、オルタンスの姉のオリンピアが妹の下へ這い寄ってくる。
 そうして、ソファーに腰掛けるオルタンスの膝の上に頭を乗せ、ごろごろと喉を鳴らし始めるのだ。どこの猫だと言いたくなる光景だ。
 来年からトリステイン魔法学院へと通うことが決まっていた彼女は、今のうちに妹とスキンシップを多く取ろうと考えていたらしい。
 ここのところ、毎日がこんな状態であった。

「ねえオルタンス」
「なんです、姉さま」
「不安で不安で仕方ないの。ほら、わたしってロマリア人だし……。いじめられたりしないかしら。トリステイン人は陰湿だっていうから」

 と、字面とは裏腹に、あまり不安だとは思っていない口調で問いかけてくる。ちなみに、この問いがオルタンスへと向けられたのはこれで五度目だった。

「大丈夫さ。トリステイン人はきみが思っているよりフレンドリーだよ?」
「お兄さまにはお聞きしていませんわ。ああ、なんていうことかしら。この軍務ですっかり男臭くなった兄と、しばらく一緒に過ごさないといけないだなんて! 不潔だわ!」
「酷い言われようだ……」
「ドンマイです。ポール兄さま」

 昔からのことだったのだが、オリンピアはポールにやたらと厳しく接することが多い。というより、いつもそんな態度である。
 そのくせ、本当に嫌っているわけではないらしいのだから、なんとも複雑な心の持ち主である。
 実際のところ、彼女のいう通り、軍務でポールはかなり男らしくなっているように見える。
 かつて友人たちから、“スパゲッティ男”と評されていた彼は、すっかり体格が良くなり、心なしか顔つきも変わったのである。
 もっとも、オリンピアが論うほど男臭いわけではない。過剰表現と言ってもよかった。

「まったく、あの子はポールが帰って来ると途端に元気になるのだから」
「うむ、兄妹仲良く。良い事じゃないか。隣の国では兄弟の不和で国が割れそうになっているしな……」

 三人の兄弟を眺めつつ。母のジェローラマと、その兄であるマザリーニが、紅茶の注がれたカップに口をつけながら、そんなことを話している。
 隣の国。それは言うまでもなく、ガリアのことだった。
 行方不明の王弟シャルルを支持する一派と、現王ジョゼフを支持する一派の仲たがいは、実質的に超大国を南北で割るほどの様相を呈していたのである。

「……大丈夫かしら。あまり、大事にならないと良いのだけれど」
「今のところは問題ないだろう。“無能王”などとあだ名されているが、あの男はそんな玉ではない。恐らく、今の混乱状態はそう長続きしないだろう」
「あら、随分と買っていらしてるのですね。ガリアの王を」
「ああ。実物を見れば、嫌でもそう思わざるを得ないよ」

 マザリーニは、アンリエッタ王女らと共に、ラグドリアン湖でジョゼフと対面していた。そこで彼は、今上のガリア王を噂通りの男と見なすのは危険だと感じるようになったのである。
 彼はもう一度カップを手に取り、そして中身を一気に飲み干す。そして、憂鬱な口調で呟いた。

「……むしろ心配すべきは、我が国のことだ。陛下の体調があまりよろしくない。もう長いこと予兆はあったのだがね」
「陛下が? では、やはりあの噂は本当だったのですね」
「そうだ。現状、世継ぎは居らず、次代の王となりうるアンリエッタ殿下は未だ幼少の身。恐らくマリアンヌ殿下は戴冠を拒むだろう。そうなれば……」
「……兄さん。あまり無理はしないで。今だって、陛下の代わりを務めているのに……」

 疲れた表情で黙り込んでしまったマザリーニを、ジェローラマはなんとか励まそうとする。
 もっとも、これからこの国に降りかかる試練を思えば、そんなものは気休めにもならないのだが……。彼女に出来るのは、それが精一杯だった。





「とりあえず、お手柔らかに頼むよ」
「了解した。全力でやらせてもらう」
「え? ちょ、ちょっと! う、うわぁぁぁ!」

 ―――昼過ぎのマザリーニ邸、その中庭。

 休暇中も自主訓練をしたいとポールが言うので、オルタンスはアニエスを呼び、兄の相手をしてもらうことした。
 ポールは貴族だが、ある魔法衛士隊員の影響で剣にも興味を持っているらしい。もっとも、その人物が使っているのはレイピア状の杖なのだが……。
 一応は正規軍の仕官だ。さすがに傭兵上がりのアニエスに遅れを取ることはない……、と思っていたのだけれど、実際にはまるで歯が立たなかったらしい。

「兄君。あなたは素早く動ける反面、動きが単調過ぎます。型にはまっただけの動きと言ってもいい。これが実戦なら、あなたは三回ほど死んでいるでしょう」
「な、なんてこった。こんなあっさりやられるなんて。模擬戦じゃ勝率八割なのに……」

 地面に突っ伏したまま、ポールはアニエスに背中を思い切り踏みつけられていた。みっともなくじたばたと暴れはするものの、情けないことに、アニエスはびくともしない。
 ぶつぶつと呟くポールに鋭い視線を浴びせながら、アニエスは再度言葉を叩きつけた。

「それは模擬戦だからだ。あなたのような人間が傭兵になれば、きっと半日も命が持たないでしょう。というより、模擬戦ですら敗北率二割ならまず生き残れません」
「うう」
「さ、泣き言を言っている暇があったら、訓練あるのみです。大丈夫。休暇が終わる頃には、あなたは剣士の端くれくらいにはなっているでしょう」
「どうせなら一人前がいいなぁ」
「それは無理ですな。実戦経験が足りない。さ、始めましょう」

 そうして、再度アニエスとポールの鍔迫り合いが始まった。
 もっとも。言うまでもなく、ポールはすぐに再び地面へ突っ伏すことになるのだが……。

「楽しそうねえ。あの人たち。アニエスと来たら、お兄さまを踏みつけるときにやたら恍惚とした表情を浮かべているじゃない! あれで本人は気づいていないのかしら?」
「……あの人、そっちの気があるのかな。やっぱり」

 色々と苦心して手に入れた地球の拳銃であるコルトM1991A1を色々と弄りつつ、オルタンスは半眼になって訓練の光景を眺めていた。ちなみに、弾は入っていない。
 妹がやたらと大きく、また物騒な黒い塊を手にしていることに気が付いたのか。オリンピアは、渋い顔をしつつ問いかける。

「その拳銃はなに? 一体どうしたの」
「チクドンネ街に行ったとき、たまたま見つけたの。ちょっと大きくて重いけど、この国で製造されている物よりも信頼性は高いから、大……」
「だめよ、こんなもの。危ないから没収するわね」
「え、ええっ! そんなぁっ! 返してよ!」

 珍しく感情を露にして涙目で声を上げるオルタンスから、オリンピアは容赦なく拳銃を取り上げた。まるで、子供の玩具を容赦なく取り上げる母親のようだ。
 姉としては、あまり妹にこういう物を持って欲しくないという考えがあった。それに自分たちはメイジなのだから、魔法を使うべきという考えも根底にある。
 オルタンスがまともな魔法をまったく使えない、という事実はとうに知っていたが、それでも銃のような物を与えるつもりは毛頭ない。
 剣は大目に見ているものの、果たして彼女が、妹がアニエスから銃の撃ち方を習ったと知れば一体どんな行動を起こすか。あまり考えたくないものである。

「だめったらだめ。どうしてもって言うなら、メイド服を着て一日わたしの専属メイドになること。それが嫌なら諦めなさい。これは伯父さまに預かってもらうわ」
「う、うう……。そんなの……」

 なんだかポールのような唸り声を上げ、オルタンスは俯いてしまう。落ち込むのも無理はない。なにせ、あの拳銃を購入するために、彼女はかなり貯金を切り崩したのだから。
 ……もしかしたら、いきなり取り上げるというのは、少しやり過ぎただろうか。妹の様子を見て、姉は少し後悔する。
 実際のところ、オリンピアが妹に対してこういう行動に出ることは今までほぼまったく無く、彼女自身あまり要領を得ていなかったのだろう。

 若干焦りつつ、妹へ声をかけようとした、そのとき。

「……姉さまのばか! 姉さまなんか、大っ嫌い!」

 オルタンスは大きな声を上げ、踵を返すと屋敷の入り口へ向け走り出してしまった。その声はポールやアニエスにも届いていたらしく、彼らは何事かと駆け寄ってくる。

「オリンピア! 一体どうしたんだい」
「なにやら尋常でない様子だったが……」

 だが、オリンピアはその二人の言葉にはまったく反応を示さない。ただ天を呷り見て、ただただぶつぶつと呟くのであった。

「どうしましょう……。あの子に嫌われてしまったわ。どうしましょう……」



 *



 オリンピアとの喧嘩別れから数刻―――オルタンスは、トリスタニアの市街地を宛てもなく放浪していた。

 さ迷ううちに、先ほどの沸き立つような怒りは吹き飛び、むしろ後悔の念ばかりが押し寄せてくる。拳銃を取り上げられたくらいで怒った自分が、とても愚かしく思えたのだ。
 挙句「ばか」「大嫌い」などと子供丸出しの捨て台詞と共に、屋敷を飛び出してしまった。きっと姉は自分を心配していることだろう。
 ただ、それがわかっているから余計に帰り辛い。一体どんな顔をして会えばいいのか。
 あれは、自分のことを案じての行動だったはず。それはそうだ。そこら辺の少女がごつい拳銃など手にしていたら、一体何事なのかと驚くことだろう。
 そして、その手から物騒な武器を取り上げようとするだろう。
 オルタンスとしては、あくまでも自衛のために持とうとしていたのだけど、やはり彼女のような年齢の人間が持つべき代物ではなかったのだ。


「……あれ、ここは」

 ぼうっと歩いていたせいなのか。
 いつの間にかトリスタニアのメインストリートであるブルドンネ街を外れ、裏手のチクドンネ街へとたどり着いてしまったらしい。
 ただでさえ道の狭い王都にあって、さらにごみごみとした通りである。いかがわしい店の看板がひしめき、道端でたむろした男たちがじろじろと通行人を眺めている。
 どちらかといえば、チクドンネ街でもより治安の悪い方へと来てしまったらしい。
 すぐ近くの狭い裏路地から怪しげな視線を感じ、身の危険を覚えたオルタンスは、早足でその場を離れることにした。

 しばらく歩くと、チクドンネ街でも比較的治安の良好な通りへとたどり着くことが出来た。
 ここの辺りまで来ると貴族が平気で道を歩いているし、そこかしこに年端も行かぬ少女の姿を見ることが出来た。もっとも、ここはあくまでも“比較的”治安がいいに過ぎないが……。
 両脇に軒を並べる商店に見入りつつ、やがて一軒の酒場へとたどり着く。看板に書かれた文字を目にし、オルタンスは目を丸くした。

「『魅惑の妖精』亭……」

 どこか見覚えのある店名。そう、ここは“あの”酒場である。いずれはルイズやその使い魔が住み込みで働くことになるであろう、ちょっといかがわしい酒場だ。
 ただ、今は閉店中であるらしい。ひっそりと静まり返っていて、誰かがいる気配はない。
 と、そう思ったときだった。
 突然酒場の扉が開き、中から一人の少年が顔を覗かせたのである。年の頃はオルタンスとほとんど同じほどであろうか。金髪で整った顔立ちをしている。
 どこか貴族然とした身のこなしをしているようにも見えるが、彼は見事なまでに平民の格好をしていた。
 やがてそれに続くように、奥からもう一人誰かが出てきた。真っ黒な髪を長く伸ばした、ややオルタンスたちよりも年上であろう少女だ。
 店の前でぼうっと立ち尽くしているように見えるオルタンスへ、少年は気さくに声をかけてくる。

「今は閉店中だよ。店を開くのはもうちょっと後かなぁ」
「あ……その。客じゃないんです。すみません」

 何を思ったのか。少年の発言を困惑気味に、しかし即座に否定にかかるものの。彼は特に気にした風もなく言葉を続けた。

「ん、そうかい? うちに興味があるように見えたけど。もしかして、働きたいとか? それなら大歓迎だよ」
「あ、ええと……」
「なに馬鹿なこと言ってるの。ごめんね。……パパに買出しを頼まれてるんだから、さっさと行くわよ。大荷物はわたしじゃ運べないし」

 オルタンスがどうしたものかと困っていると、黒髪の少女が助け舟を出してくれた。ぐいぐいと少年の腕を引っ張り出す。

「……と、いうことらしい。もしうちに興味があるなら後で来てみてよ。きっとスカロンさんも……」
「だーかーら! さっさと来なさいって」
「うわわわわわ」

 とうとう耳を引っ張られた少年は、情けない声を上げて引き摺られていった。
 なんだかあの少年は兄のポールに似ていてどうにも憎めない感じだ。
 しかし大荷物というわりには、台車も何も持っていないが大丈夫なのだろうか。それに、あんな人がこの店にいたのだろうか。と、オルタンスは思うのであった。


 ―――それから、しばらく。

 チクドンネ街を抜けて表通りのブルドンネ街へと戻り、いよいよ高台の屋敷へと帰るために歩く。
 やがて、トリスタニア市街地を二分する川にかかる橋まで到着したとき。ふと、彼女の視界に飛び込んできたものがあった。
 それは美しい顔立ちをした少年であった。若干薄い色の金髪と、空に浮かぶ双月のような赤と青のオッドアイが、日の光を受けてキラキラと輝いていた。
 道行くご婦人は、誰もがその姿に心奪われている。それはオルタンスも同様であった。もっとも、他のご婦人たちとはまったく違った意味で、のようだが。
 まっすぐこちらを目指していた彼は、やがてオルタンスを見つけたらしい。ハンサムな笑みを浮かべながら、優雅に歩み寄ってくる。

「やぁ。久しぶりだね。この再会も始祖ブリミルの思し召しなのかな。だったら、ぼくはこれまでよりもっと信心深く神への感謝を捧げなくちゃならないな!」

 などと大げさな口ぶりで言うのである。半眼になりつつ、呆れた様子でオルタンスは少年へ向かって問う。

「……心にもないことを。というか、なぜジュリオがここにいるの」

 そう、現れたのは“あの”ジュリオ・チェザーレであった。まったくのん気な様子で、真っ白な歯を見せながら気障な笑顔を振りまくのだ。

「うん、いい質問だと思う。それはね、ぼくが教皇聖下にトリスタニア大司教区座への御遣いを頼まれたからさ」
「そう。仕事の途中に遊んでいていいのかしら」
「その辺は抜かりないよ。もう終わって、これからきみの家へ伺おうと思ってたところなんだ。あ、聖下にはきちんと許可を頂いたからね」
「……そうなの」

 なんというか、である。ほぼ一年ぶりにも関わらず、まるで昨日会って別れたばかりのような顔をして話をするのだから、調子が狂う。
 確かに、いつかはまた会うこともあるだろうと思ってはいたが……。こんなところで、こんな会い方をするなどと、一体誰が考えたであろうか。
 というか、なぜ今住んでいる場所を知っているのか。どう調べたのか、あまりにも謎だった。

「で、どうかな? きみのお姉さんに見つかる前に、お茶でもしに行かないか? 東方産のあれはなかなか渋い味だそうだね」
「……それは」

 姉。その言葉を聞くと、どうにも重い気持ちになってしまう。どう謝るべきか。彼女がそれを受け入れてくれるのか。そればかり考えてしまう。
 ただ素直に謝ればいいのだけれど、そのために一歩がなかなか踏み出せない。なにせ、ばかだの大嫌いだの言ってしまったわけであるからして……。
 そんなオルタンスの様子を見たジュリオは、小さく眉を歪め、ため息をついた。しかし次の瞬間には笑顔になり、告げてくる。

「ふむ、きみは何か悩んでいるようだね。どうかな、ブリミル僧の端くれであるぼくに相談してみるというのは」
「遠慮するわ」
「そう言わずにさ」
「しつこい」
「……」

 なんてこった。まるで取り付く島もない。久しぶりに再会出来るかもしれないということで、内心喜び勇んでいたジュリオは、かなり意気消沈してしまう。
 もっとも、こういう反応は折込済みといえばそうだった。
 昔から殴る蹴るの間柄で、それが無くなって大人しくなってからでも、オルタンスはジュリオにだけはつんけんしていたのだから。
 かつて住んでいた孤児院の中では、ジュリオの性格やら美しい容姿やらにやられ、恋愛感情を抱いてしまう少女も少なくない数がいたりしたものである。
 ただ、この少女だけはそういう傾向が一切ない。
 つまりは、まったく異性としては見られていない。それはわかっていたのだが……。

「……ううむ。なら、ちょっと風竜に乗って空の散歩でもしてみないかい? 相談はしなくていいからさ」
「こんなところを無許可で飛んだら、魔法衛士隊か竜騎士に撃墜されると思うけど」
「……ううむ。じゃあ、教皇聖下の名を使ってみるとか」
「聖職者でしょう。そんなことをしたら教会の権威に泥を塗るだけよ」
「ううむ」

 まったく困った。頑強な要塞に守られたオルタンスの心を開城させるのは、まったく容易なことではないらしい。破城槌でも持ってこなくてはならないのだろうか。

 と、悩み始めたそのときである。

 二人が立ち話をしている橋の向こう側から、明らかにジュリオへ向かって巨大な氷の塊が飛来してきたのだ。
 それは命中“させなかった”が、橋の近くに置かれていた樽をばらばらに破壊してしまった。幸いにも、近くの人通りはなくなっていたので、怪我人は出なかったものの……。
 魔法と同時に、ものすごい殺気が漂ってくる。オルタンスは、信じられないほど強力な魔力が流れ出しているのを感じた。

「な、なに? これ……」
「くそっ、もう見つかってしまったのか」
「え?」
「ぼくは、一つきみに嘘をついていたんだ。どうか許してくれるかい?」
「なんのことやら」
「……さっき、『これからきみの家へ伺おうと思ってたところなんだ』と言っただろう? でも、それは違うんだよ。実際にはもう、きみの住む屋敷へはたどり着いていた」

 額に汗を浮かべ、真剣な眼差しでジュリオはオルタンスを見つめた。
 一方で、オルタンスはといえば。まったく焦りも緊張もせず、ただただ半眼で目の前の少年を見やるだけだった。

「そういえばジュリオって、オリンピア姉さまにとても嫌われていたよね。いつか半殺しにされてたっけ」

 そう、オルタンスが呟くのと。
 いつものおっとりした様子からは想像も出来ないほどの速さで、“飛んで”きたオリンピアがジュリオに飛び蹴りをお見舞いしたのは、ほぼ同時の出来事だった。



 *



 一方、その頃のトリスタニアの城。王の寝室で、この国の君主たる人物は病床に伏していた。

 大きなベッドの傍ら。自らの夫の手を握りながら、マリアンヌ・ド・トリステインはただじっと黙していた。
 ラグドリアン湖で行われた園遊会を最後に、トリステイン王が公の場に現れることはほぼなくなっていた。
 それは主に体調の悪化が原因で、今となっては立って歩くことすら困難を極めるまでに病状が悪化していたのである。
 故に、ここ数ヶ月は常に王の健康不安説が囁かれていた。
 そして、それはまさに的を射た噂であった。事実、王はそう長く保たないと言われている。
 実際の政務は大臣たち、ことさら枢機卿であるマザリーニがほぼ代行する形となっていた。

「ああ、なんと嘆かわしいことでしょう。民は、あなたがもうお隠れになっただなどと噂しております。そんなことはないというのに……」
「……無理もないことだ。どのみち、私はもう長くない。マザリーニにすべてを背負わせてしまう前に、後継体制を……」
「そんな、いけませんわ! あなたはすぐによくなります。いえ、なるはずなのです。ですから、その必要はまったくありませんわ。ヘンリー」
「だがな、マリアンヌ。万が一に備えての準備は必要なのだ。きみが女王として即位することだって、考えねばならん」
「嫌ですわ。わたくしは、あくまでもあなたの妃なのです。王の座に興味はありませぬ。あなたがトリステイン王なのです」
「そうか……」

 マリアンヌは疲れているのだ。不甲斐ない自分が病などに倒れてしまうから、彼女を困惑させてしまっている。今は冷静な判断が出来ずにいるのだろう。
 ここは、マザリーニを早急に呼び出すべきだろう。数少ない休暇のときに悪いが、彼なくして現在のトリステインは在り得ないのだから、やむを得ない。

 ……そうだ。自分がいなくなった後、この国はどうなってしまうのだろう。
 ただでさえ国政改革は遅れている。先代の王の時代に誇った栄華は既になく、新興のゲルマニアの脅威が増す中、果たして王なくしてこの国を守れるのだろうか。
 諸侯や、国民は結束できるのであろうか。残された人々で国を守ることが出来るのであろうか。
 どこまでも不安だった。残念ながら、マリアンヌは君主としては適当な人物ではない。そう、良き妻ではあっても。それは本人も自覚しているのだろう。
 だからこそ、今から彼女を支える体制を準備しておかなくてはならない。だというのに……。

 窓から覗く冬の青空を見つめながら、病床の王はこの国の行く末を案じるのであった。





[22415] 第9話 二人の過去
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:f88f68c3
Date: 2011/06/05 21:30
 それは数年ほど前の出来事―――オルタンスの父が存命で、まだロマリアの下町で生活していた頃のお話。

 オルタンスは、いつも男物の服装でロマリアの下町を駆けずり回るのが日課のようなものだった。
 若い人間ではあまり見かけない、まるで塩のように真っ白な髪を振り回して、市街地をネズミのように通り抜けるのである。
 この時点での彼女は、自身を女性であると認識はしておらず、またそのつもりもまったくなかった。
 姉のオリンピアや母親が、一生懸命に自分へ女物の服を着させようとすることに強く反発し、兄のお下がりの服を勝手に持ち出しては街へ繰り出していたのである。
 下級貴族の子供たちを集め、まるでガキ大将のような振る舞いを見せていたのも、そうした行動の一環であった。

 このロマリアの市街地には、オルタンスやその手下である下級貴族の子供たちと、常々対立している組織が存在している。
 それは孤児院にいる平民の子供たちが中心となった、いわばリトル・ギャングとさえ呼べる集団であり、その集まりの指導者たる少年とオルタンスは、まさに宿敵といえる間柄でもあった。
 彼らは毎日のように、口うるさい聖堂騎士たちの目の届かない所で、お互いにちょっとした抗争を繰り広げていたのである。
 もっともそれは、傍から見ていればただの子供の喧嘩でしかなかった。当人たちは至って本気だったが、大人から見ればそう大した事態だとは受け取られなかったのだ。

 ―――普段ならば多人数同士で遭遇することが多い彼らだが、その日は少しいつもとは様相が異なっていた。

 “トラステヴェレ”の外れにある公園。人気はほぼなく、その場で向かい合う人影は二つほど。いつもの賑やかな光景とはやや異なる光景の中。
 豊かな金髪の少年が、それぞれ色の異なる瞳を挑発的に歪めながら、手にした紙袋を天高く持ち上げる。
 よくよく見れば、彼の頬の片側は、ある一種のネズミのように丸々と膨らんでいるではないか。どうも、彼は口に含んだ何かを咀嚼しているようだった。

「ジュリオ! 今日という今日は許さないぞ。よくもぼくのパンを盗んでくれたな!」
「ふん。大事な食べ物をベンチなんかに置いて寝ているのが悪いんだろ? 腑抜けめ。さっさと帰ってママのおっぱいでも飲んでろ」
「この……っ!」

 行き着けのパン屋で購入したパンを奪われ、その挙句に挑発を受けたオルタンスは瞬く間に感極まり、ジュリオという少年目がけて思い切り殴りかかった。
 だが、それはジュリオの方も予測した行動であったらしい。彼はパンを飲み込むと、すっと身を引かせる。
 そしてあっさりと身をかわされた上に、オルタンスが殴りかかって体勢が崩れたところを足払い。結果、白髪の少女の身体は正面から地面に倒れこんでしまった。
 実にあっけのない勝負の付き方だ。ジュリオは内心で嘲りながら、崩れ落ちる“少年”を足蹴にしつつ、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「ふん。口ほどにもないな。手下がいなけりゃ、お前はこの程度なのさ。どうだ? そろそろ諦めて、負けを認め―――うわっ!」

 そうジュリオが口にした瞬間だった。オルタンスは地面に指を食い込ませて土を手に掬い、自分を踏みつけている少年の顔目がけてそれを投げつけたのである。
 この行動によって生まれた僅かな隙。それでも、反撃するのにはあまりにも十分な時間だった。
 オルタンスはジュリオの脚を掴み、それに噛み付く。悲鳴を上げながら金髪の少年が体勢を崩すと、今度は自身の体重を使って彼を一気に押し倒した。
 そのままマウントポジションを取ると、オルタンスはとにかく力任せにジュリオを殴りつけ始める。

「いてっ! くそっ、やめろ! あたたたたっ! わかった、俺が悪かった! 悪かったから、やめてくれぇぇぇっ!!」
「断る!」

 せっかくの美少年も台無しなほどに、ジュリオはボコボコに殴られていた。
 そんな苦痛を受けながら、彼はふと思い出していた。
 かつて初めてオルタンスと出会ったときも、自分が“彼”の持ち物を奪い、それが原因でかなり痛めつけられたことを。
 華奢でひ弱そうな貴族の子供に追いかけられ、とび蹴りをお見舞いされるなどとはまるで考えていなかった。その後顔中が腫れるほどの制裁を受けるなどとも……。
 やがて、一方的な攻撃が数分ほど続いた頃だろうか。
 遠く―――公園の入り口の方から、オルタンスを呼ぶ少女の声が聞こえてきたのである。

「オルタンス! ドレスを着ろなんて今日はもう言わないから、そろそろ帰って来てよぉ!」
「……ふん。今日はここまでにしとおいてやる。もうぼくの物を盗むなよ」

 どうやら、やって来たのはオルタンスの姉であるようだった。若干クセのある金髪を伸ばした彼女は、妹の姿を見つけるなり駆け出したのだ。

「ああ、また悪ガキなんかと喧嘩をして……。そんな汚物と関わってはいけないとあれほど注意したでしょう?」
「でも、姉さま。こいつはぼくのパンを奪ったんです。盗みを行った人間に制裁を加えるには当然でしょう」
「もう。あなたは乱暴なんだから。それと、パンならまた買ってあげるわ」
「本当?」
「ええ。だから、“こんなの”と関わるのはよしなさい。どんな病気を持っているかわからないわ」

 地面に伏すジュリオを思い切り見下しながら、オルタンスの姉―――オリンピアは憎々しげに吐き捨てる。
 彼女は常日頃から、目に入れても痛くないほどに溺愛している妹に、いちいちちょっかいを出すこの平民の少年を酷く嫌っていたのである。
 身分がどうとかではなく、これはもはや生理的な嫌悪であった。彼女は妹に絡もうとするほぼ全ての男性を忌み嫌っていたのだ。特にジュリオなどは、その筆頭であった。
 すぐにオリンピアは妹の手を引いて、公園から去ろうとジュリオに背を向けた。

 相手は貴族だった。とはいえ、ジュリオとしてはこのまま馬鹿にされっぱなしでは気分が良くない。最後に一矢報いてやろう。そんなふうに考える。
 そう思ったが早く、彼は仰向けに倒れこんでいた体を一気に起こす。そして眼前の“姉弟”が振り向く間もないまま、オルタンスのズボンに掴みかかった。
 否、本当はズボンに手をかけるつもりなどはなかった。だが、何分手ひどく痛めつけられていたので、意図せずして体が姿勢を崩してしまったのだ。
 崩れ落ちながらも、少年の手はズボンから離れなかった。それはつまり、彼の体が地面に向かうと共にズボンまでもが引きずり下ろされることを意味するのであり……。

「……え?」

 次の瞬間。崩れ落ちたジュリオの視界に、決して見てはならないはずのものが飛び込んできた。
 不躾にもそれをまじまじと見つめた後。空気が凍りつき、膠着状態となったその場で彼が発したのは、なんとも間抜けな一言だった。

「お前、女だったのか……」

 そんなジュリオの台詞と共に、オリンピアが風のように行動。瞬く間にオルタンスのズボンを元あった位置に引き戻し、そのままジュリオに蹴りを叩き込み始めた。
 無言で、しかし鬼のような形相で、金髪の少女は年下の少年に容赦のない蹴りを打ち込み続ける。
 だがしかし、さすがに殺してしまうのはまずいと感じたのだろう。
 ジュリオが地面を両手で叩き始めたところで蹴りを止めたものの、オリンピアの頬は紅潮し、息は大きく乱れていた。
 次に、すっかり腫れ上がってしまった瞳で、ジュリオはオルタンスを見上げた。
 一体自分はどんな制裁を受けるのだろうか。この人間のことだから、もしかしたらもっと痛い目に遭うかもしれない。そうは考えたが、体が動かないのでもうどうしようもなかった。

「……」

 だがオルタンスは一切なにも口にせず、ただ顔を手で覆って俯くばかりだった。
 見れば、彼女の耳は真っ赤に染まってしまっているではないか。やがて、彼女はなにも言わずに公園から走り去って行った。
 オリンピアはそのすぐ後を追ってしまったので、後にはズタボロに痛めつけられたジュリオだけが残されたのである。
 まさか長年(?)の宿敵が女だったなどとは露知らず。その真相を知った今でも、彼は訳もわからぬまま、ただ呆然と呟いた。

「見られたのが、そんなにショックだったのか……?」

 そんな言葉を残した後、ジュリオの意識は掻き消えてしまうのだった。


 ―――件の事件から、一月ほどが過ぎた頃。


 太陽が地平線の彼方に沈み込みそうになるころ、例の公園にて、ジュリオは再びオルタンスと対面することとなった。
 彼女はいつものごとくパンの紙袋を手にしていた。そして、金髪のオッドアイの少年を見るなり、そのひ翡翠のように輝く瞳を細めたのである。

 今まで、喧嘩でお互いに殴り合いを繰り広げて来た相手が女性だったと知り、ジュリオはどうにも気後れしそうになってしまう。
 彼は本当に女性から好意を得るのが得意な少年で、それなりに場数は踏んできた。
 なのに、ことオルタンス相手となるとその経験を生かどうにも生かせなくなってしまうのである。
 まして、先日“あんなこと”があった後である。自分が、異性相手に暴力を働いていたという事実に対する気後れもあり、彼が黙して俯いていると。

 突然、彼の顔面に革靴がめり込んだのだ。

 とてつもない威力だった。鼻から血を噴出しながら、ジュリオは思い切り後ろに向かって吹っ飛ばされた。そして、したたかに背中を地面に打ち付ける。

「げほっ、げほっ……。ぐっ、この……、いきなりなにをしやがるんだ!」
「この前のお返しだ。生憎、自分に男のズボンをずり下げる趣味はないんでね」

 抗議をしつつ、よく見れば、オルタンスは短パンの上にスカートを穿いている。
 これまでは男物の服装しか着ていなかったのに、今はかなり女性的なファッションをしているのだ。

「ふん。女だってバレた途端にそれか? 手加減してもらえるとでも思ってんのかよ」
「それはないな。ただ……、きみのおかげで、『自分が女だということ』は嫌というほど痛感させられたよ。礼を言う」

 礼を言うという台詞と共に、地面に崩れ落ちたジュリオに向かって勢いよく踵が落とされる。しかし、それは寸でのところで回避された。
 夕暮れ時の光のせいなのだろうか。彼女の頬に、若干の赤みが差しているようにジュリオからは見えた。

「礼が踵落としかよ。これはまた粗暴な女だぜ」
「ふん。その粗暴な女ごときに敗北を喫してきたのは自分だろうに」
「言うなぁ。ちょうどいい、お前がいなくて腕が鈍っていたんだ。今日は本気でやらせてもらう。“白い悪魔”さんよ」
「なんだ、それは」
「知らないのか? 孤児院の連中の間でお前に付けられたあだ名さ。その老人のような髪の色、悪鬼のような振る舞い。まさにうってつけだろ?」
「……っ」

 オルタンスが常日頃から自分の髪の色を気にしていることはジュリオも知っていた。しかし、あえてそれを口にすることで彼女を挑発したのである。

「……ふん。そんな減らず口を叩いたこと―――後悔させてやる」
「それはかませの台詞だぜ。ぶっ飛ばしてやるよ、三下が」

 そして、二人は何事もなかったかのように争いを始めた。

 喧嘩はその後もしばらく続き……。それが終焉を迎えることとなったのは、ジュリオが若き枢機卿ヴィットーリオ・セレヴァレ付きの神官となる日の前日のことだった。



 *



 ―――どれほどの時間が過ぎ去ったのだろうか。ジュリオが目を覚ましたのは、見慣れない部屋にあるベッドの上だった。

 ふと周囲を見回してみると、すぐにベッド脇に置かれた椅子に腰かけた少女の存在が目に飛び込んでくる。何を隠そう、それはオルタンスだった。
 彼女は本を読んでいる途中で眠ってしまっているようであり、ジュリオにその無防備な寝顔を見せつけている。
 まったく、普段はしかめっ面ばかりしているくせに、寝顔は可愛いものだ。
 男が同じ室内にいるというのにこんなにすやすやと寝入っているとは、あまりにも警戒心が薄いのではないか。そんなことを考える。
 
「ここにぼくという男がいるのにね。男は皆オオカミ……とは誰の台詞だったか」

 小さく呟きつつ、ジュリオはベッドから抜け出した。そして椅子で眠りこける少女の元へと忍び足で近寄り、その寝顔をまじまじと観察する。
 さらさらとした白い髪。長いまつ毛。小さな造詣の鼻。ほんの少しばかり開いた、淡い色の唇。そのどれもが高い精度で生み出された造形物のようだった。
 それらがあまりにも無防備なまま放置されているのだから、思春期の少年にしてみれば手を出すなと言う方が無理だった。
 無意識に、ジュリオは腕を上げた。そしてその手をオルタンスの顎に向かって伸ばしたとき―――不意に、背後から気配を感じたのである。

「……気配を消していたのか?」
「いや? わたしはずっとここに座っていただけですよ。神官殿」

 ジュリオが慌てて振り向いたとき。背後では、金髪を短く切りそろえた女……アニエスが、なんとも言い難いニヤニヤとした笑みを浮かべて座していたのである。
 ……馬鹿な。自分が他人の気配に気が付かぬはずがない。もしや、オルタンスに夢中になっていたせいで見逃したのだろうか。
 オッドアイの少年は、努めて冷静な、心臓がバクバクと鼓動している自身の状態を決して悟らせぬよう、慎重に振舞う。

「わたしはなにも見てはおりませんぞ。神官殿がオルタンスの顎に手を添えて、くいっと顔を自分の方に向かせようなどとしようとしていたとは知りませぬ」
「……全部見ていたんじゃないか? まったく、食えない人だ」
「はっはっは……。ま、わたしは見ているだけです。若い男女の色恋は傍から眺めているだけで十分です」
「貴女だって、十分に若い……というか、まだ十代じゃないんですか?」

 ……妙に老けた女だ。そんな感想を抱きつつ、ジュリオはベッドに腰を下ろした。
 そういえば、自分はあのオリンピアに飛び蹴りを食らったはずだがと思い、顔にぺたぺたと手を触れてみる。しかし、目立った外傷はないようだった。

「神官殿の傷は、オルタンスの母君が癒してくれましたぞ。いやはや、やはり魔法というものは便利ですな」
「そうか。後でお礼を言わないといけませんね」

 聞いてもいないのに、この女性はよく答えてくるものだ。さっきからずっとニヤニヤしっぱなし、というのがどうにも気に食わないところではあるが。

「ん……」
「おや、眠り姫のお目覚めのようですな。それでは、若い男女で御緩りとすることです。はっはっは……」

 椅子の上のオルタンスがゆっくりと瞼を開くと共に、アニエスはそんな台詞を残して部屋を出て行ってしまった。

「げ……。もう起きていたの。あれだけ吹っ飛んだのに」
「はは。昔きみに散々食らった蹴りに比べれば、あの程度どうということはないさ」
「……ふぅん。じゃあ、もう何回か蹴るように姉さまに頼んでみようかしら」
「それは勘弁してくれ」
「嫌なら嫌だって、最初からはっきり言えばいいのに。無闇に格好つけて……」

 一旦立ち上がり、本を椅子の傍にある棚に置きながらオルタンスは言う。そして彼女は再び椅子に腰掛け、脚を組んだ。

「……で、体が治ったのなら、さっさと帰ることをお勧めするわ。姉さまを押さえるの大変だったんだから。さすがに神官殺しなんてしちゃったら即異端審問だろうし、それは避けたいのよ」
「きみはお姉さん想いだね、昔から」
「それは、ね。自分の姉だから」
「その愛情の一片でもぼくに向けて欲しいものだが……、駄目かな?」
「調子に乗るな」

 きらりと真っ白な歯を見せながらのジュリオの言葉を、オルタンスは実にばっさりと切り捨ててしまった。
 それを見たジュリオは一旦落胆の色を見せ―――しかしすぐに、表情を引き締めた。先ほどまでのおちゃらけた雰囲気はなりを潜め、一気に空気が張り詰める。
 この様子を見た白髪の少女は“何か”重大な話があるのだろうと感じ、半眼になっていた目を元に戻した。
 そして眼前の少年が口を開く前に、彼女の方から静かに問いかけるのだ。

「……なにか、話があるようだけれど」
「うん。実を言うとね、今回トリスタニアへやって来たのは、大司教への御遣いの他に、もう一つの目的があるからなんだ」

 オルタンスの内心の予想通り、ジュリオは彼女に用があったらしい。それはそうだ。ただの御遣いなら、わざわざジュリオを出してくる理由はないのだ。
 となると。ここで考えられるもっとも大きな可能性とくれば……、それは、もう一つしかないのは明白だった。
 オルタンスが黙してジュリオを見つめていると。オッドアイの少年は若干気後れした様子ながら、しかし明確な口調でその言葉を発するのである。

「その目的というのは……、きみに求婚することだ!」
「帰れ」

 一閃。ジュリオは瞬く間に蹴り飛ばされ、そのまま廊下へと放り出された。部屋のドアは堅く閉じられ、もう人力で開けることは不可能でさえあるようだった。
 先ほどまで自分がいた部屋はどうも客間であるらしい。一瞬だけオルタンスの部屋でないかと期待したが、それは考えが甘かったようだ。
 立ち上がり、ぱたぱたと服についた埃を払い落としながら、オッドアイの少年は小さく呟く。

「やはり今はまだ早いのかもしれないよ。アンリエッタ王女とも懇意にしているようだし……。そうだな。聖下だって、きっとわかってくれるさ」

 その言葉と共に、彼は屋敷の廊下を進んでいく。

 やがて彼の姿は廊下の曲がり角の向こう側に消え、そのまま、彼の姿はどこにも見えなくなるのだった。



 *



 翌朝のマザリーニ邸。

 母親の『スリープ・クラウド』で強引に眠らされていたオリンピアが飛び起き、オルタンスの私室へと突入してから数分後。
 未だネグリジェ姿でウトウトとしたままの妹を抱きしめながら、彼女は延々と妹の体に異常がないかどうかを調べ上げていた。
 ……それは十分近くも続き、とうとうその魔の手が下着へ伸びたところで、ようやく意識を覚醒させたオルタンスが姉の手をばしっと振り払ったのである。

「朝っぱらからなにをしているのですか、オリンピア姉さま」
「ああ! だってわたし、心配で心配で……。わたしが眠らされてしまった後、あのろくでなしにあなたが悪戯されていないか心配なのっ!」
「ご心配なく。なにもされていませんよ。ふざけていたので部屋から追い出したら、そのまま帰ったようです」

 睡眠中に乱れたらしい髪へ手を触れながら、オルタンスはうんざりとした様子で言った。
 するとオリンピアは、妹へすがるように、じっとりと額に汗を浮かべつつ問いかけるのだ。

「ほ、本当?」
「……わたしを信じてくれないのですか、姉さま」
「あ……! う、ううん! そんなことないっ! お姉ちゃんはあなたを信じているから! たとえ世界中があなたの敵になっても、わたしだけは最後まであなたの味方だから!」

 ……どこまでも暑苦しい姉だ。
 実際問題、ジュリオよりこいつの方がよほどオルタンスにとっては脅威なのである。先ほどだって、この姉は妹の下着に手を突っ込もうとしたではないか。
 姉として妹のことを心配してくれるのは大変ありがたい話ではあるが、この人物の場合は少しそれが行き過ぎだと思うのだった。
 そんな感情を込めながら、じっとオリンピアを見つめていると。急に、彼女はなにかを思い出したかのように顔を上げた。

「……あ、あのね、オルタンス。お姉ちゃん、あなたの拳銃を取り上げたでしょう? 今思うと、やっぱりああいうことはよくないと思ったの。だから返すわ」

 そう口にしつつ、彼女はずっしりとした重い拳銃をオルタンスに手渡す。それは昨日彼女が妹から取り上げたコルトM1991A1であった。

「いいの? 姉さまはわたしにこういう物を持たせたくないようだけれど」
「いきなり取り上げるのはやりすぎたわ。でも、出来ればわたしはあなたに武器なんて持ってほしくないのよ」
「……魔法が使えない以上、自衛の手段は必要なんです」

 オルタンスは『爆発』を使うことはできる。ただ、それは正式な魔法とは呼べないし、できれば使わずに過ごしたいという思惑もあった。
 だからこそ、アニエスに剣と銃の使い方を習ったのだ。もっとも、さすがに近代的な拳銃はさすがのアニエスでも使い方がわからなかったようだが。

「だったら、わたしが守ってあげるわ。ずっとお姉ちゃんと一緒にいましょう?」
「それは嫌です。今は涼しいからいいですけど、夏だったらとっくに突き飛ばしてますよ」
「そ、そんな……」

 いい加減、いつまでもくっ付いていてほしくはないものだ。ぴしゃりとオリンピアを制したオルタンスはベッドから立ち上がり、いそいそと服を着替え始めた。
 背後から熱い―――暑苦しい視線を感じてはいたが、もういちいち突っ込むのも面倒なので、とりあえず放置することにした。

「はぁ……」

 なんだか背後からそんなため息が聞こえてくるが、一体何を見てそんな感嘆のため息などついているのかなど、オルタンスは考えたくもなかった。

 ……やがて着替えが終わると、オルタンスはとりあえず朝食をとるために食堂へ向かうことにした。
 オリンピアも同行するつもりのようで、さっさと服を着替えてしまっているようだ。一体いつ着替えたのだろうというほどの早業である。

「今日の朝食はなにかしら。昨日のお夕飯は食べ損ねてしまったから、お腹がぺっこぺこなの」

 そんなことをオリンピアが口にしながら妹の肩に体を寄せ、それを無視するオルタンスが部屋のドアへ向かおうとした、そのときのことだった。
 誰かが廊下を慌てて走る音と共に、急に何者かが二人がいる部屋へと飛び込んできたのである。そしてそれは、長兄してマンチーニ男爵のポールだった。

「た、大変だ、オルタンス! ……ああ、やっぱりオリンピアもここにいたのか!」
「……どうしたのですか、ポールお兄さま。そんなに慌てて」
「こ、これが慌てずにいられるか! いいか、落ち着いて聞けよ!」

 まず兄さまが落ち着いたらどうなのだろう。オルタンスはそう思ったが、なにやらただならぬ様子であるため、決してその言葉は口にしなかった。
 そして、二人の妹たちが見守る中。ポールは、努めて冷静な声音でその言葉を口にした。

「今日の未明、陛下が―――国王陛下が、王城で息をお引き取りになられたそうだ」





[22415] 第10話 始祖に誓って
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:09955455
Date: 2011/08/09 13:11
 ―――トリステインの国王が崩御した。

 その報せを王の娘、王女であるアンリエッタが初めて受け取ったとき、彼女は父の死を嘆き、そして悲しんだ。

 彼女の父は、このところずっと病床に臥していた。
 初期の頃はともかく、始祖の降臨祭を迎える頃となっては、もはや大臣でさえその姿を目にする機会は無くなっていた。
 国で五指に入るほどに優秀だった水メイジの医師たち。その誰もがとうの昔に匙を投げ、もはや“その時”を待つだけという、なんとも救い難い状況に陥っていたのだ。

 そして、王が病に臥してからというもの。
 宮廷の法衣貴族や官吏の間では、「次の王は誰になるのか」「いや、ここは王配候補の選定を急ぐべきではないか」という意見が噴出するようになっていた。
 そこに病床の王やその家族を気遣うといった気配はほとんど感じられず、いかに自分が次の『王座』の下で利権を貪るかにばかり、皆が焦点を合わせていた。
 御前会議への代理出席を拒絶した母に代わり、政治の真っ只中へ投げ出されてしまった無垢な少女にとって、どす黒い欲望が渦巻く権謀の世界というものは、まったく受け入れ難い光景であった。

 マザリーニの言う通り、御前会議への出席などは辞退すべきだった、と彼女は後に悔やむ。

 しかし、当時のアンリエッタは出来る限りの背伸びをすることを望んでいた。自分は王女であり、父が病に倒れた今、その代役くらいはこなしてみせよう……、そう考えていたのだ。
 だが、それは大きな思い違いだったのだろう。宮廷の闇の部分を知らずに育った白百合にとって、実際の宮廷政治はあまりにも醜悪に過ぎた。
 かつて家臣たちが己へと向けてきた笑顔。それが自分に取り入るための“仮面”であったことを知ってしまった少女は、もはや彼らを信用できなくなりつつあった。

 けれども、アンリエッタは表向きは無垢な少女のまま、御しやすい人物として振る舞い続けた。
 だが、少女の内心では不信感が増幅し始めている。宮廷の人々にとって、自分は籠の中の鳥でしかないのだと、それまで以上に強烈に自覚させられたからだ。
 果たして、自分の存在とは一体なんなのか。
 王族として、利用される立場であることは薄々感づいていたが―――宮廷の貴族から見れば、自分は人としてすら見られていないのではないか。そう感じるようになった。

 こうして、不安定な精神状態のまま、アンリエッタは新年を迎えることとなった。
 心の支えとなる友人たちと会う機会も訪れぬまま、彼女は全てを自分一人で背負わねばならなくなってしまったのだ。

 トリステイン王の崩御は『始祖の降臨祭』明けに国内は元よりハルケギニア全土に向けて発表され、その数日後に、トリステイン全体を挙げた大規模な国葬が催される運びとなったのである。


 ―――そして、国葬の当日となった。

「国王陛下は、まことに名君と呼ぶに相応しい君主であらせられました。陛下は、遠く天の彼方に浮かぶ、白き大地アルビオンよりこのトリステインへ……」

 演説を行うマザリーニ枢機卿の眼下。王城前の広場は詰め掛けた群集で埋め尽くされている。皆、神妙な面持ちで頭上のバルコニーへと見入っている。
 しかし彼らのお目当ては、今演説を行っている痩せぎすの枢機卿ではなく、彼の奥で黒いドレスに身を包み、じっと下を向いて俯く若き王女であった。
 己の不人気などは重々承知しているのだろう。マザリーニは予定されていた言葉を一言一句残さず口にすると、すぐに、背後で控えていたアンリエッタを呼び出す。

 ここは本来であれば、王の后であるマリアンヌが民衆の前面へと立つべきであった。
 しかし、彼女はその務めを果たすには、少しばかり心が弱かったらしい。夫が亡くなってからは常に体調を崩していたので、この国葬の参加は見送っていた。
 故に、王の唯一の正統な後継者であるアンリエッタが、この国葬の喪主を務めることが義務付けられていたのだ。

 このときのアンリエッタは、見るからに顔色が悪かった。しかしそれを民衆に感じさせないよう、気を配りながら、ゆっくりとバルコニーの端にまで歩みを進める。
 壮年の男性ではなく、ようやく王女の姿を目にすることができた民衆がざわざわとざわめき始める。そんな人々に向かって、王女は制するかのように右手をかざした。
 すると、それまで互いに口を動かしていた民衆はようやく静まった。次の王女の一挙一足を、固唾を呑んでじっと見守り始める。

 しばし沈黙を続けた後。
 栗毛の王女はその青い瞳に憂いの色を浮かべながら、眼下の人々に向けて静かに語り始める。精一杯の虚勢を張りながら、小さな口を開くのだ。

「今日この場で、わたくしから皆さまに申し上げることはただ一つしかございません。それは、どうか父の冥福をお祈りしていただきたい、ということです。父の魂が無事に始祖の在らせられる天へとたどりつけるよう、どうか皆さまのお力添えをいただきたく存じ上げます」

 そんな短い台詞と共に、アンリエッタは両手を重ねて祈るような仕草をした。それに合わせるように、背後の重臣や周囲の貴族たちも祈りを捧げ始める。
 見目麗しい栗毛の王女がそうしているのだ。
 普段はブリミル教の教えなどろくに守らない平民たちも、このときばかりは、皆真剣な様子で祈りを捧げていた。
 そして、その中には―――厳密には、群集から隔離された貴族たちが集められた席の一角で、白い髪の少女……オルタンスも同じように祈りを捧げていたのである。
 やがて祈りを終えると共に、王女はバルコニーの奥へと退場していく。

 この後、王の棺は王城の近くにある陵墓へと葬られることとなる。ただ、そこは王族や一部の大貴族、政府関係者、そしてロマリアの教皇たちのみが参列を許される場だった。
 オルタンスはアンリエッタと親しい間柄である。しかし、とうとう彼女が参列を許されることは無いのだった。


 ―――それからしばらく。オルタンスは、マザリーニ邸へ戻るという家族と別れ、王城前の広場で一人佇んでいた。

 アンリエッタとは、国王崩御の報せ以降は一度も顔を合わせていない。今日とて一方的に顔を見ることはできたが、あくまでその程度だった。
 オルタンスは家族を失うことの悲しみはよく知っている。愛する父との死別は、たとえ前世の記憶を持っていたとしても、相当に堪えるものであった。

「大丈夫かな。姫さま……」

 ふと、誰ともなしにそう呟く。
 バルコニーから見えた王女の姿は、虚勢を張ろうとして逆に失敗しているようで……、酷く痛々しいものだった。
 恐らくこの場に居合わせた人間の多くは気が付いていないであろう、本当に微細な“サイン”だったが、確実にアンリエッタの精神は疲弊しているのが見て取れたのだ。
 それは果たして、父王の崩御による心労だけが原因なのだろうか? どうも、他にも原因があるように思えて仕方がなかった。
 そしてこのとき、その王女の心情を察したのは、なにもオルタンスだけではなかったらしい。少しばかり気障ったらしい声が背後から響いてきたのだ。

「そうは言い難いかもね。王女殿下、ああ見えて意外と繊細そうだし……。実際、バルコニーの彼女は萎れた白百合のようだった」
「また、あなたなの……」
「うん。ぼくとしても、これはまったく予想外だったよ。こんなに早くきみとまた会えるなんてね」

 声の主はジュリオだった。どうやら、聖エイジス三十二世がトリステイン王の葬儀に参加するということで、再びこのトリステインへとやって来ることとなったらしい。
 相変わらずの白い服装に、気取った仕草。白い歯を見せつけながらにこやかに歩くさまなどは虫唾が走ると言っていいだろう。

「暇なのね。ロマリアの神官サマ」
「残念ながら、ね。国王陛下の葬儀に参列できたのは聖堂騎士まで。しがない下っぱ神官は追い出されてふらついてたのさ」
「ふぅん」

 あまり興味はない、といった様子でオルタンスは返答する。実際、ジュリオがどこの誰に追い出されることになろうと、彼女にはどうでもいいことであった。
 そんな、自分にそっぽを向く少女を見つめながら。ジュリオは顎に手を添え、やはりどこか気障ったらしい口調で述べるのである。

「ふむ。きみはアンリエッタ王女が心配で仕方ない。そうだろ?」
「そうよ。あの様子は尋常ではないわ。きっと……、なにか悩み事があるはず。一度、話を聞いてみないと」
「……それは、きみに解決できる類の悩み事なのかい? もし、きみにどうすることもできない悩み事だとしたら?」

 このジュリオの発言に、オルタンスは少々ムッときた。お前はアンリエッタの悩み事を解決できない、深入りするな……と言われているような気がしたのだ。

「お友だちなのよ。悩みを聞いてあげることくらい、いいじゃない」
「ま、それはそうだね。特に彼女のような立場の人間なら……、腹を割って話せる相手も少ないだろう。ただ誰かに話すだけで気が楽になることだってある。今の彼女に必要なのは、本音で話し合える相手なんだろう」

 そう言い終えると。少年は色違いの二つの瞳で、じっと目の前の少女を見つめた。
 オッドアイ―――『月目』はトリステインでは不吉の象徴として忌み嫌われる。ただし、ジュリオほどの美少年となると、かえって神秘的なアクセントとなってしまうのだが。

「……そうね。で、あなたはなにがしたいの?」
「いや? ぼくはただ、自分が言いたいことを勝手に言っているだけだよ?」

 本当になにがしたいのだろうか、この金髪男は。無闇におどけられ、オルタンスは不快感を禁じえなかったが、こんな状況でことを荒立てることもないと考える。

「おっと……。そろそろ時間だ。ぼくはもう行くことにするよ。では、また会おう」

 言いたいことだけを言い、ジュリオは王城前広場から去って行く。……結局、彼がなにをしたかったのかは、最後までオルタンスにはわからずじまいなのであった。



 *



 既に、トリステイン王の国葬から一週間ほどが過ぎていた。しかし、未だにオルタンスはアンリエッタに会うことが出来ていなかった。
 
 少なくとも、その原因の一つは王女の多忙であった。
 アンリエッタは、国王崩御とマリアンヌ太后の女王戴冠の拒否を受けて、非常に難しい位置に立たされているのである。
 この頃の宮廷では、アンリエッタが直接女王として即位するか、あるいは国内外の大貴族を王として擁立するかという、二つの動きが出ていた。
 しかし現状では宮廷内の各派閥の闘争が激しさを増しており、これらが早期に実現する見込みなどはまったくなかった。机上の空論状態だったのだ。
 
 通常、王国の王位が空白となることはあってはならない。
 神聖ローマ帝国の“大空位時代”や、第一次世界大戦後の王位なき“ハンガリー王国”のような事例が地球にはあったが、それは本当に異例中の異例なのである。
 もはやマリアンヌの即位の可能性はゼロであると見なされていたため、その娘であるアンリエッタに対する圧力は、日増しに強まっていた。
 マザリーニ枢機卿はそんな貴族たちの動きを牽制していたが、かえって「外様の宰相が王権を簒奪しようとしている」などと誹謗中傷され始める始末であった。

 だがそれも、トリスタニアの城を一歩出た外の世界とは、まったく無縁の話題であった。

 この日、オルタンスはアニエスと共にマザリーニ邸の中庭で火縄銃の射撃訓練を行っていた。
 中庭には少々みすいぼらしい的が立てられている。これに弾を撃ち込み、その着弾位置によって得点が変わるのである。
 アニエスは銃を扱いなれていたせいか、そこそこに腕も良い。何発かに一回は的の真ん中を抜いている。
 一方、オルタンスは的には当てるものの、ほぼ中央には当てることができなかった。

「どうして、わたしはうまく中央に当てられないのでしょう」
「基本的な部分はしっかりしているぞ? なにせわたしが教えたんだしな。……まぁ、後は練習あるのみだな。数をこなせば精度も上がっていくさ」
「頑張ってみます……」
「うむ。焦らず、じっくりと狙え。本当のところ実戦ではそんな暇はないが、銃の狙いを定める訓練をして損はない」

 火縄銃は一発ごとに弾を込める必要がある。手入れも頻繁に行う必要があるし、そのせいでオルタンスの手はいつも真っ黒になってしまっていた。
 これがオリンピアは大層気に入らないらしく、彼女がいるといつも訓練は強制的に中止となってしまう。……つまり、今の段階ではオリンピアはこの場にいなかった。
 どうも王都へと出ているようだったが、一体なにをしに行ったのかはオルタンスの知るところではない。

 ……と、そんなことを考えていると。
 なぜか慌しい様子で、オリンピアがマザリーニ邸の中庭へと飛び込んできたのだ。オルタンスは真っ黒になった両手を背中に隠すが、彼女の姉はそのことには目もくれずに口を開いた。

「ついさっき、王宮の衛兵たちが話しているのを耳にしたのだけど……、王女殿下が、突然行方不明になられたんだって」
「そ、そうなの?」
「うん。どうもトリスタニアから出た可能性もあるということで、魔法衛士隊も動員して捜索しているらしいのよ。さすがに王女殿下がいなくなったことは伏せられているけど、あまりに物々しい状況になっているから、平民の人たちも少しずつ異変に気が付いているみたい」

 アンリエッタが王城からこっそりいなくなるのはよくあることだった。ただ、ほとんどの場合は密かに護衛がついている。今回大規模な捜索が行われているのは、その護衛すら巻いたからなのだろう。
 “王都を出た可能性もある”ということは、誰かがアンリエッタらしき人物が王都へ出て行く場面を見たからなのだろう。
 しかし……。なんとなく、オルタンスはアンリエッタがトリスタニアを出たとは考え難かった。確証はまったくないが、なぜかそう感じたのである。

「……わたし、ちょっと姫さまを捜してきます」
「え? あ、ちょ、ちょっと、オルタンス!」

 オリンピアが制止しようとしたときには既に、オルタンスはマザリーニ邸の正門を抜け出している。アニエスはやれやれと腕を肩の高さまで上げ、すぐに少女の後を追うのだった。


 ―――トリスタニア、チクドンネ街の裏路地。舗装もない不衛生な路面を踏みしめたとき、もうオルタンスは目的の人物を見つけていた。

 “彼女”は、そんな薄暗くジメジメとした路地の隅にいた。恐らくはこの辺りに居住している人間でさえ近づかないような場所で、彼女は身を小さく丸めている。
 木箱の陰に隠れ、いつかのように灰色のフードを被り、そして身を縮こませるその姿は。
 紛れもなく、アンリエッタ・ド・トリステイン本人である。
 足音を立てないよう、ゆっくりとした足取りでオルタンスは歩む。やがて手が届くほどの距離にまで近づいたとき、アンリエッタは自らの手でそのフードを退けた。

「……ふふ。見つけてくれましたか。実際、ちょっと不安だったんです。あなたが見つけに来てくれるか……」

 薄暗いからではないだろう。アンリエッタの目の下部には濃い隈が出来ていた。彼女はオルタンスを見上げながら微笑むが、その顔は少し引きつっているように思えた。
 とにかく、この不衛生な路面に、彼女をこれ以上座らせるわけにはいかないだろう。そう考え、オルタンスは手近な木箱の蓋を取って、彼女をそこに座らせる。
 そして自分もその隣りに腰を下ろすと。眉をひそめつつ、じっと隣りの少女を見つめながら声をかける。

「まさか、またこんな場所に……」
「ここは、あなたとわたくしが初めて出会った場所ですから。気が付くと、なんとなくここに足を運んでいましたの」

 そう呟くようにして答え、アンリエッタはオルタンスの肩に自らの体を預けた。真冬の只中で、少女たちは身を寄せ合う。

「ねえ、オルタンス。わたし、このままどこかへ逃げてしまいたいわ。そうね……たとえば、あなたの故郷のロマリアとか。あの国は冬でもこの国より暖かいのでしょう?」

 オルタンスはただ黙してアンリエッタの言葉を聞く。着の身着のままで飛び出して来たので、今はアンリエッタの体温が有難かった。

「もう、嫌だわ。誰も彼も、口を開けば王位の話ばかり。父が亡くなったことを顧みもしない……。自分がどれだけ利権に食い込めるか、そればかり。わたしを見る目だって……」

 語っているうちに、段々と熱がこもってきたのだろう。語気は強まり、自らの記憶を引き出すと共に感情が高揚していく。

「そんなに王座が大事だと言うのなら、誰でも好きな人が王さまになればいいのよ。どうしてわたしが即位を強要されないといけないの……? なぜ好きでもない殿方との婚姻を迫られるの……? どうして、父の死を悼む時間さえ与えられないの……? 王族に生まれたからって、あんまりだわ。こんな仕打ち……」
「アンリエッタ……」

 気が付いたときには、もうアンリエッタは涙を流していた。ぽろぽろとしずくが頬を伝わり、あるいは直接布地の上に落ちて、小さな染みとなっていく。

「自籠の中の鳥はもう嫌。自由に飛び回りたい……。あの王城は監獄だわ。わたしだけじゃない、王族すべてを閉じ込める牢獄なのよ。一生をあの城で過ごさなければいけない……。これじゃ……、これじゃ、まるで囚人じゃない。わたしが……、ずっとあの城で飼われていたわたしが、一体どんな罪を犯したというの!?」

 オルタンスはアンリエッタの言葉に対する適切であろう答えを持っていない。自分にすがって慟哭する少女を前にして、どうすることもできなかった。
 だから、彼女はむせび泣く少女を抱きしめることしか出来なかった。嗚咽を漏らしながら、アンリエッタが思いの丈をぶつけてくるのを、ただ黙って受け止めることしかできなかった。
 普段の様子からは考えられない口調で、王女は自らが日頃から抱いている不満の数々を吐き出していく。
 それらは、王女と比べれば遥か下層にいるオルタンスには理解しがたいものも含まれていたが、それらを態度に示すことは決してせず、じっと話に耳を傾けていた。

 やがて、一通りの愚痴を吐き終えた後。

 アンリエッタは先ほどまでとは打って変わって大人しくなり、ずっと俯いたまま顔を上げようとしなかった。
 ……恐らくは涙や鼻水で顔が酷いことになっているのだろう。そう察したオルタンスがハンカチを差し出すと、栗毛の少女は礼を言ってそれを受け取り、顔を拭っていく。
 少ししてから顔を上げたアンリエッタは、顔中が真っ赤になってしまっていた。彼女は恥ずかしそうにフードを被り、また俯く。

「ごめんなさい……。取り乱してしまいましたね。あんなこと、あなただって言われても困るでしょうに……」
「いえ、いいんですよ。たまには、自分の思っていることを全部ぶちまけたって。むしろ、そうしてほしいです。わたしたちは友達なんだから、もっと頼ってくれてもいいんです。それしか、自分にはできないから……」
「オルタンス……」

 オルタンスに出来ることといえば、せいぜいアンリエッタの愚痴を聞いてやるくらいだ。宰相の姪という立場であるだけで、彼女自身は政界への影響力など有してはいないのだから。
 アンリエッタは目の前の白髪の少女の手を握り、じっとその翡翠のような瞳を食い入るように見つめる。
 そんな状況が気恥ずかしくなったのか、見つめられる側の少女はぞっと視線を逸らし、あさっての方向へ顔を背けながら告げる。

「辛いことがあったら、遠慮せずにわたしに話してください。もし危ない目にあったら、わたしを頼ってください。守ってみせます。今は力不足かもしれないけれど、絶対にあなたを守れるようになってみせますから」
「……それは、ずっと?」
「ええ。ずっとです。ずっと……」
「では、始祖に誓ってくださいまし」
「し、始祖に?」
「ええ。始祖」 

 始祖に誓う―――それはこのハルケギニアでブリミル教を信仰する者にとって、絶対の価値観である。始祖に誓った事柄を破ることは神への背信行為も同様なのだ。
 当初は日本的な宗教文化との乖離に戸惑っていたオルタンスも、この世界で生きるうちにブリミル教のなんたるかは学んでいた。故に、アンリエッタの要求には冷や汗をかかされる。
 ……とはいえ、それを破るつもりも今のオルタンスにはなかった。
 アンリエッタは思いのほか繊細な少女だ。王族として生きる過程で体裁を取り繕うことを覚えてはいるものの、やはり根本的な部分では、どこにでもいる年頃の少女と変わらないのだ。
 彼女は、まるで恋をする乙女のごとく、真剣な眼差しでオルタンスを見つめた。ラピスラズリのような瞳で、餌を待つ子犬のようにじっと見つめてくるのである。これには抵抗のしようがなかった。

「“始祖ブリミルに誓い、わたしはアンリエッタを一生守り通します”。……これでいいのかな?」
「ええ。ありがとうございます」

 即興かつ形式を無視した形での宣誓だったが、アンリエッタは特に気にすることもなく上機嫌な様子でオルタンスに抱きついた。

「……とっても嬉しい。オルタンス……わたくしたち、ずっとお友達でいましょうね」
「う、うん……」

 よく考えたら、この状況でこの後どうすればいいのだろうか―――そんな考えが脳裏を過ぎったが、とりあえずそれは頭の片隅に置いておくことにする。
 冬の寒空の下。オルタンスとアンリエッタは、その後もしばらく抱き合って暖を取ることになった。

「……うむむ、わたしが入り込む隙間もないな。あれは。とりあえずどうするべきなのだろうか?」

 裏路地で仲良く抱き合っている少女たちを発見したアニエスが、どうにも困ったような声を出した。だが、それは当の本人たちにはまるで聞こえもしないのであった。



[22415] 第11話 草原の魔法学院 前
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:5f5b67b1
Date: 2012/08/16 00:54
 場所はトリステイン王国の東部。

 ゲルマニアの帝都からトリスタニアへ向かって伸びる街道を、十数台の馬車がぞろぞろと西へ向かって進んでいた。
 そして、この一列の周囲では、幻獣―――鳥の頭部と羽根、それと四足動物を掛け合わせたかのような、なんとも奇っ怪な動物にまたがった騎士たちが、辺りを警戒しながら飛び回っている。
 それは見るからに仰々しい一団だった。恐らくは誰が見ても、それが単なる行商や地方領主のものではないということがわかるだろう。

 そして、行列のほぼ中央。
 白亜の装飾が施され、白馬に引かれている、という点以外ではそう前後のものと差異のない馬車の中で、一人の少女が大きくため息をついた。

「まったく。やっと煩わしいゲルマニア詣でが終わったと思ったのに」

 窓の外の、延々と変化のないただただ続く草原の光景に目をやりながら、白いドレスを身にまとった王女アンリエッタは言った。
 もう何度目なのだろうか。幾度となく繰り返されたその愚痴に、眼前の席へと腰かけた騎士風の姿をした少女が口を開く。

「魔法学院にはルイズさんもいらっしゃるではないですか。ただ学院に行くというわけではなく、彼女と会うのだと考えればよいのです」
「でも、そうは言っても……。どうせ、時間の大半は行事や学院長との会食に費やされるわ。ああ、億劫」

 そう口にしながら、アンリエッタは姿勢を崩して背もたれに身を埋める。せっかく整えた髪は乱れ、なんだかくしゃくしゃとしてしまう。
 もし万が一“この様子”が周囲の目に触れたら、それは大変なことになるだろう。酷くだらしない態度だった。
 しかし、何時なんどき他人の目が及ぶかわからないのだ。こんな状態で放置しておくわけにもいかない。進み出て、ぐんにゃりとしたアンリエッタの姿勢を正す。

「あら、あなたはまるで家庭教師のようね。オルタンス」
「はぁ。わかってやらせているくせに……こんなだから侍女部隊だなんて笑われるのです」

 オルタンスと呼ばれたこの騎士風の出で立ちをした少女は、アンリエッタが宰相へ無理を言って創設した王女付き近衛部隊の隊長である。
 しかし、近衛とは名ばかりで、僅か十名にも満たない部隊である。故に、単なる侍女の集まりであると揶揄されることも多かった。
 実際、今回のゲルマニア訪問時も、近衛部隊は戦力扱いはされていなかった。

「言いたい人間には好きに言わせればよいのですわ。むしろ、そうやってあなた方を侮ってくれた方がやり易いですし」
「それは、そうですが」
「さ。髪をすいてくださいまし。なるべくゆっくりと、丁寧に」
「……わかりました」

 命じられるがまま、オルタンスは王女の栗毛へ手にした櫛を通していく。相変わらず繊細で、相変わらず艶のある髪だった。
 それから、アンリエッタはしばし目を閉じて鼻歌など歌っていたが、やがてまぶたを開いた。そして、自身が“騎士”とした相手を見上げる。

「あなたの言う通り、魔法学院へはルイズに会うのだと思えばいいわ。久しぶりに顔を見ることになるけれど、元気かしらね。あの子は」
「このところはあまり噂を拝聞しませんでしたが、近頃はあのフーケを捕縛したとも聞きました。きっと活躍しているのでしょう」
「フーケを、ね。一体どうやったのかしら」

 『土くれ』のフーケといえば、近頃トリステインを賑わせていたメイジの盗賊だ。それを、魔法も満足におぼつかないルイズが、果たして捕獲することが出来るというのだろうか。
 と、そんな疑問を抱きつつ、アンリエッタが呟くと。

「それは、おいおい本人から伺いましょう。きっと、驚くようなお話が聞けるでしょうし」
「……そうね。ええ。楽しみにしていましょう」

 そう言葉を交わしながら、二人は間近に迫ったトリステイン魔法学院へと思いを馳せるのであった。


 トリステイン魔法学院は、国土のほぼ中央に建設された貴族の子女のための学舎である。

 しかし、かつての日本の武士階級がそうであったように、貴族と言っても千差万別、ピンきりである。
 爵位と伝統のある貴族は一握りで、貴族の大半は自分の領地すら持たない下級貴族で占められていた。

 魔法学院にはおおよそ三百名程度の生徒が在籍しているが、そのほとんど全員が領地持ちの“貴族らしい”貴族の生まれだ。
 つまりは全体から見ればそこはエリート向けの学校であり、その存在意義は学習よりも将来の人脈の構築の方に重きがある―――とまで言われるほどであった。

 そんな学院に、アンリエッタ王女を乗せた馬車がやって来たのは、春も終わりを告げようかというラドの月は半ばの時期のことだ。

 王女の馬車の中で、オルタンスは窓から学院の正門広場の様子を眺めていた。
 広場には、恐らくは学院で学ぶ生徒の全員が集まっていることだろう。皆、羨望の眼差しで王女がその姿を見せる瞬間を心待ちにしているようである。

「はぁ。まったく、誰も彼も重いわね。たかが小娘一人迎えるのに、まるでそこら辺の百しょ……」
「毒を吐かないでください。万が一誰かに聞かれたらことです。……わかっているくせに。そうやって困らせないで」
「あら。別に困らせるつもりはなかったのよ?」
「そんなニヤニヤしながら言われても説得力ないですから。ほら、着きました。さっさと降りましょう」

 いつの間にやら、馬車は学院の敷地で停止していた。周囲からは、王女の登場を待ちわびる生徒たちの喧騒が聞こえてくる。
 すると、つい今の今までだらしのない(とは言っても、背筋はしっかり伸びたままなのだが)様子を見せていた王女の表情が引き締まる。

「そうですわね。では、参りましょうか」
「御意に召します」
「ウィンドボナのときのように、思いっきりすっ転んだりしてはいけませんよ?」
「……善処します」

 そう互いに言葉を交わすと、やがて馬車の扉か開かれた。
 まず、オルタンスが馬車から歩み出る。緊張しているのだろうか。口を真一文字にしっかりと結び、場合によっては機嫌を悪くしているとも取れる表情で進み出る。
 当然のことながら、彼女の存在は一般的な貴族の知るところではない。瞬く間にざわめきが起きた。

「誰だ、あれ? 女だけど」
「あんまりぼくらと歳が変わらないな」
「でも『シュヴァリエ』のようだぜ」

 オルタンスが身に付けているマントの背の部分には、彼女が紛れもなく“騎士”であることを示す紋様が印されていた。
 それは、アンリエッタが近衛部隊を組織するとき「隊長になるのだから、せめて騎士号くらいは」といって与えられたものだった。
 王女から与えられたこの騎士の名に恥じない、毅然とした態度を取ろう。オルタンスはそう考え、改めて毅然とした表情を作る。

 やがて、すぐに馬車の中からアンリエッタ王女が姿を見せる。彼女は扉の脇で控えていたオルタンスの手を取り、ゆっくりと馬車を降りた。
 その様子はまるで芝居の中の―――まるで、この場が劇場と化してしまったであるかのようである。
 そして、多くの生徒や教員たちが見守る中、馬車のすぐ近くで待ち構えていたオスマン学院長が前へ進み出た。

「お待ちしておりましたぞ、アンリエッタ殿下。ようこそ、トリステイン魔法学院へ」
「お出迎えありがとう。お久しぶりですわ、オスマン学院長。これだけ盛大な歓迎を頂けて、本当に感謝いたしますわ」
「ありがとうございます。ゲルマニア訪問でお疲れでしょうに、わざわざご足労頂いたのです。こちらこそ感謝を申し上げたい」
「いえ、そんな。これも王族の務めですから」

 さすがに相手が王女ならばオスマン学院長と言えど真面目な応対をするのか。
 普段からの学院長の奇行を知る一部の人々は、そんな感想を抱いた。抱いたのだが……。

「ふむ。それにしても、殿下。本当にお美しくなられましたな。その……たわわに実った果実など、ぜひ味あわせていただきたく―――」

 こっそりと、オスマンは周囲の群衆には聞こえない程度の声量でそんなことを言い出した。
 アンリエッタは慣れているのか、特に動揺を見せることもなかったが、すぐに彼女の背後に控えていた人物が反応する。

「……学院長。今回の殿下に対するあなたの発言は、詳細に記録して報告するよう枢機卿から仰せつかっております」
「おおっと! いや、これは! ちょっとしたユーモアではありませんか!」

 その場で身動ぎもせずに放たれたオルタンスの一言によって、オスマン学院長は慌てて取り繕ったような動きを見せる。
 群衆からは眼前の三人の間で何が起きているのかなどわからない。ただ、不自然な間が発生していると感じる程度であった。

「まぁまぁ、オルタンス。構いませんよ。オスマン殿のこれにはいい加減慣れておりますから」
「……了解しました」
「ほっ」

 一旦はオルタンスを下がらせ、学院長をかばうような仕草を見せたアンリエッタ。しかし、次の瞬間にはその笑顔の上に暗雲が立ち込める。

「ですが、学院長。あまり度が過ぎると―――」
「こ、心得ておりますぞ!」

 何かよからぬ気配を感じ取ったのだろう。オスマン学院長は、若干ばかり曲がっていた背筋を伸ばすのだった。


 ―――その日の夜。

 アンリエッタの来訪を歓迎するためなのだろう。『アルヴィーズの食堂』では、生徒の大部分が出席した晩餐会が開かれていた。
 立食の形式がとられているらしく、生徒たちは食堂のテーブルに並べられた料理を食していく。

 もっとも、多くの生徒は食事そっちのけでアンリエッタの元へと集まっていた。まるで人がゴミのようだ。
 ただ、このように人が群がってしまうのもある意味仕方ないのかもしれない。いくらエリートが通う学院であるとはいえ、普段彼らが王族と接する機会などまずないのだ。
 つまるところ、王族というのはそれだけの身分にある者なのである。

「賑やかだな。さすがに、殿下がいらっしゃるからだろうか」
「いえ、だいたいこんなものではないですか? 食事時は」

 『アルヴィーズの食堂』の外では、二人ほどの近衛隊員が見張りを行いつつ、世間話などをしていた。

「そうなのか? ミシェル」
「ええ。貴族といっても、まだ子供ですからね。普段は……そこまで作法にうるさくもないですし」
「なるほど。……しかし、我々はこうして食堂の外に出ていられるが、隊長は大変だ」
「確か、晩餐会に参加しろと命じられたのでしたか」
「そうだ。なまじ貴族だとな。近衛に所属しているとはいえ、平民ならば楽なものだよ」

 『王女の武装侍女部隊』などと揶揄されるこの部隊に対する宮中の風当たりは、決して弱くない。
 隊長は王女のお気に入りという理由だけで『シュヴァリエ』を叙爵された上、外国のそれも男爵の次女に過ぎないことが、それに拍車をかけていた。
 平民が隊長になるのに比べれば、それはもう遥かに状況は良いのであろうが、やはり周辺からのやっかみは絶えないのだ。

「たまに、アニエス副隊長が叙爵されて隊長になっていたら、なんて考えますけど……」
「おいおい、それはなんの悪い冗談だ。私には貴族など務まらないよ」
「あぁ、それもそうですねぇ。あなた脳筋ですし」
「その言い様は心外だぞ! 私とて読み書きと簡単な計算くらいは出来る!」
「えっ」
「どうした」
「出来たんですか、読み書き」
「……お前は私をなんだと思っていたんだ。これでも副隊長としての事務はこなしているんだぞ」

 酷く呆れたような感情と、そんなに自分は頭が悪いように見えるのかという少々の悲哀を混ぜ合わせたような、なんとも複雑そうな表情でアニエスは呟くのだった。

 一方、扉一枚を隔てられた先―――食堂の内部。

 わらわらと人が群がるアンリエッタから少しばかり離れた場所で、腕を組み、壁に背をもたれながら仏頂面を見せている少女がいた。
 しかし、人を寄せ付けないためのその仕草をもってしても、彼女の容姿に魅力を感じる男子生徒はいる。

「やぁ」

 現れたのは、なんだか胸元がはだけている妙な柄のシャツに身を包んだ優男である。
 容姿を評価するならば、おおよそジュリオの下位互換とでも言うべきだろうか。二枚目といえば二枚目だが、上位互換に相当する人物を知っている現状、特に見るべきところはない。
 何より、今はアンリエッタの監視……もとい護衛の目を光らせることに忙しい。

「申し訳ありません、ミスタ。わたしは単なる殿下の護衛を行っている最中です。残念ながら、貴方のお話のお相手を務めることは……」

 こんな暇人には構っていられないと、オルタンスは表情を強張らせながらそう告げる。しかし。

「まぁ、そう固くなるなよ。ぼくはギーシュ・ド・グラモン。きみは?」

 胸のポケットに差し込まれた薔薇の造花を引き抜きながら、ギーシュと名乗った少年は気障っぽく問いかけてくる。

 ……それにしても、グラモンか。よりによってアンリエッタではなく自分に狙いを定めるとは。

 なるほど、見れば王女の周りには入り込む隙のないほど大勢の生徒たちが陣取っている。
 これでは勝算がないとばかりに判断し、こちらにやって来たのだろうか。あるいは、外堀から攻めに来たのか……どうでもいいことだが。
 しかし、相手は四男坊とはいえグラモン伯爵の子である。これからのことを考えると無視も出来ないだろう。
 そんなことを思案しながら、半ばやむなく目の前の金髪気障少年に頭を下げる。

「わたしはオルタンス・シュヴァリエ・マンチーニです。ミスタ・グラモン」
「ほほう。いや、やはりというか。きみが巷で噂の『白き両刀使い』か」
「……はい?」

 『白き両刀使い』? なんだそれは。
 聞き慣れない単語にオルタンスがいぶかしんだとき、ギーシュは己の失言に慌てて手を振った。

「あ、いや……。うむ! やはり、騎士のような威風堂々とした出で立ちの中にも隠しきれないその美貌! まるで天使がそのままこの混沌とした下界の地に顕現したかのような、まるで聖女ジャンヌ・ダ―――」
「ちょっと、ギーシュ」
「げぇっ! モンモランシー!」
「『げぇっ』てなによ『げぇっ』って。バカやってないでさっさと来なさい」

 モンモランシーというらしいこの金髪縦ロールの少女は、突然現れるなりギーシュの耳を掴んでずいと引っ張った。
 そしてオルタンスを睨み付けるなり、辛辣な口調で言い放つ。

「王女殿下の手前……あまり口にはしませんが。なるほど、あなたはそうやって性別問わず惑わしていると。噂通りのお方ですわね」
「噂……? なんのことですか」
「さぁ? それは貴女ご自身が一番よくご存じでしょう」

 そう言われても、オルタンスには何がなんだかわからない。ただただ顔に疑問を浮かべ、困ったように首を傾げるしかない。
 すると自然と表情の固さはなくなっていた。付け焼き刃の仏頂面は長持ちしなかったようだ。
 そして、そんな彼女を見たギーシュは目を輝かせながら呟く。

「かわいい……」
「……っ!」

 それがモンモランシーにはたいそう気に入らなかったらしく、とうとう顔中真っ赤にしながら恋人の耳を引っ張って姿を消してしまった。
 後には唖然とした様子の騎士風少女だけが残され、やがて彼女はため息をつく。

「なんなんだろう? 一体……」

 ギーシュとモンモランシー。特に前者は『史実』でよく目にした名前だ。
 今はまだまだ接する機会はないが、いずれそうではなくなるだろう相手……そんな彼が口にした、なんだか悪寒のする単語。
 それが一体なんなのか。自分たちがゲルマニアを訪問していた数ヵ月の間に、なにかあったのだろうか。疑問は尽きない。

 そんなことを考え、しかし今は任務中であるので思考を振りきろうとすると。
 突然、くいとオルタンスのマントが何者かによって引かれたのである。

 まったく、今度は一体なんなのだ。自分はアンリエッタを見守らねばならないというのに―――そう思いつつも、彼女は自分にちょっかいをかけてくる人物を振り返った。

「あなた……」

 振り返った先には、何やら青い髪の背の低い少女がいた。思わず、声が漏れてしまう。
 彼女は右手で骨付き肉を持ち、左手でマントを掴んでいる。口の周りには食べかすがこびりついていて、まるで貴族の子女の所業であるとは思えない有り様だった。
 だがしかし、青い髪の少女はそんなことは気にした風もなく、ただどこまでも抑揚のない声で淡々と言い放った。

「あなたが、オルタンス?」
「そうです。あなたは?」

 若干―――否、かなりの警戒感を抱きつつ、オルタンスは問いかけに答え、相手に問いかける。

「わたしはタバサ」

 案の定というのか、あるいは予想通りというのか。新たに現れた人物は、ガリアの王族ながら名を偽ってこの学院に登校している人物だった。
 そして、名乗るなり、タバサはじっとオルタンスを見上げ始める。その青い瞳には何の感情も窺えず、どこか不気味なようにすら感じた。
 もっとも、全体的に見ればどこか愛玩動物のような愛らしさがあるのだが……。
 この少女の正体や、元締めの人物が誰なのかを知っているオルタンスからすれば、はっきり言って気の置ける相手ではない。
 いかに発育不良手前の小さな女の子に見えたとしても、彼女は立派なガリア北花壇騎士の一人だ。せいぜいがなんちゃって騎士のオルタンスとはまるで違う。
 今のところは動くことはないではあろうが、決して油断してはならない。そう考え、改めて表情を引き締める。

「……ふむ」

 しかし、タバサはオルタンスに対してそれ以上のアクションを起こさなかった。
 しばらくじっと観察するかのような視線を向けた後、唐突にマントから手を離し、食堂内を埋め尽くす人ごみの奥へと姿を消したのだ。

「一体なんだったんだ? あの子は……」

 ジョゼフ王の差し金……と考えられないこともなかったが、しかし自分ごときがあの人物に目を付けられるはずもない。
 では、なぜタバサが接触を図ったというのか。

 やはり、王の? では、なぜ?

 そんな疑問がぐるぐると脳裏を駆け巡るのだが、それをしばらく続けても結論に至ることはないのだった。


 ―――晩餐会の後。オルタンスは、アンリエッタが宿泊する貴賓室へやって来ていた。

 そこはさすがに尊い人が宿泊するための部屋であるだけあって、内装もかなり豪華な作りになっていた。
 部屋の広さ自体、王女の私室と同じかそれ以上はある。しかしあまり広すぎても困る、とはアンリエッタ本人のかつての発言である。

 そしてこの部屋を宛がわれた当人は、ドレスを身につけたままキングサイズ以上の巨大なベッドに腰を寝転がっていた。
 真っ白なハイヒールの靴を脱ぎ捨て、ティアラを適当に放った様は、先ほどまで王女が見せていた優雅な態度とは対極のそれである。
 果たして、夢見がちな思春期である貴族の少年たちの一体誰が、自分たちが頂く王女のこのような―――尊厳的な意味でのあられもない姿を想像するのであろうか。

 だが、長らく王女と行動を共にしてきたオルタンスからすれば、この程度の光景は見慣れたものである。
 もはや特に嘆きも驚きもせず、脱ぎ散らかした靴を揃え、ティアラをベッド脇のテーブルに移動させた。

「あぁ、疲れたわ。誰も彼も一生懸命わたしの顔を覗き込んでくるのだもの。今頃、一体どれだけの男子生徒の妄想の中で、わたしは辱しめられているのかしら」
「その台詞、彼らに聞かせてみたいですね」
「むしろ喜ばせるだけじゃないかしら? それにね、あなたも他人事じゃないのよ」
「わたしが?」
「そうよ! どんなにすました顔をしたって、あなたは一目見てわかるくらいかわいいの! 無謀にも声をかけたのは一人しかいなかったけれど、今頃は遠巻きにあなたを見ていた殿方たちの“贄”にされていることかしら! きっと、あられもない姿のあなたを触手ではず……」
「ストップ。止まってください、殿下。声が大きすぎます」
「……あら。それもそうね」

 さすがにたまりかねて指摘すると、アンリエッタは悪びれた様子もなしに言う。
 まったく、この人は突然なにを言い出すのだろうか。大して珍しい事象ではなかったが、オルタンスは辟易とした様子でため息をつく。なんだか晩餐会の時と合わせて余計に疲れたのだ。
 もういい加減、自分の寝泊まりする部屋に戻りたい。

 そう、なんとなく考えたときのことだった。

「さて。あなたをからかってオルタンス分を補充したことだし、そろそろルイズの元へ参りましょうか」

 なんだそれは。アンリエッタの口から飛び出した奇怪な言葉に思わず声が出そうになるが、次に聞こえた「ルイズの元へ」という言葉に、オルタンスは思わず身を強張らせる。

「……彼女の部屋へ?」
「ええ。ルイズったら、わたしが来ているのに顔も見せないのだもの。こちらから会いに行くわ」
「ですが、夜間に、それも無断に外出するのは……」
「あなたが護衛としてついてくればいいじゃない」

 オルタンスの疲れた様子を知ってか知らずか、アンリエッタは平然と言い放ち、続ける。

「なんなら他の隊員の方も連れていくといいわ」
「いえ、やめましょう。わたしが同行します……」

 王女の付き添いに同行させられる信頼できる人材といえばアニエスだが、彼女も自分の仕事がある。あまり迷惑はかけられない。
 そんな考えから、オルタンスは疲労困憊ながら自身の同行を申し出たのだが……。

「そうこなくちゃ!」

 まったく、他人の気など知らないとばかりの晴れやかな笑顔だった。この王女殿下には、もう少し周りのことも考えてもらいたいものだ。そういう育ちではないにせよ。

「くれぐれもお静かに。ルイズさんの部屋以外へは立ち入りませんので、ご了承を」
「ええ、わかっているわ。ありがとう」

 ため息をつきながら、最後の念押しを行うオルタンス。にこやかな笑みを浮かべながら眼前の少女の手を取るアンリエッタ。

 結局、二人は手をつないだまま、貴賓室からずいぶんと離れたルイズの部屋へと向かうのであった。




感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.074110984802246