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[22331] 文学少女日記
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/04 01:52
はじめまして。


すごく短いものから、ちょっぴり長いものまでSSを書きます。
みなさん、どうかお手柔らかに。



anでした。



[22331] ア、彼女
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2011/02/01 00:32
 歩道の隅に一輪の花が咲いていた。電柱の陰で細々と咲いていた。その花を見て彼女は言った。
「とっても綺麗ね」
 近づいていく彼女の陰で、その花に降り注ぐ太陽の光は遮られる。
「みて、とっても綺麗」
 笑いながらそれを踏み潰す彼女は、歩道の隅に細々と咲くその花より弱いものに見えた。

「みて」「うん、みてるよ」



[22331] イ、自殺の理由
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/04 02:02
 殺人やら自殺やら。あまりの事の重大さに気づいた時、人はこういった行動をとったりする。それは生死に関わる感じで表れる。決しておかしいなどと批判できない。それらは元々の形がそこにあったのならば、それらはいずれ消えてなくなってしまうものなのだから。

 自分で言うのもなんだが、僕は大した考えを持っていると思う。正論かは分からないが、僕の中ではちゃんと成立している。のにも関わらず、僕は死ねない。自殺未遂なんて名前の死にきれない渦の中にいる。
 なぜだと思う。知らないよ、そんなのこっちが聞きたいさ。僕は十分事の重大さに気づいている。親友を殺したのだ。重大じゃないわけがない。死ぬべきなのだ。死ななければいけない。僕にはそれを行動に移せるだけの理由があるのだから。よし、自殺をしよう。

 毎日磨いているピカピカのナイフを手にとって、それを手首の血管に押し付ける。食い込んだナイフの周りから血が滲み出す。もっとだ、もっと出ろ。ナイフを持つ手に力を加える。いけ、いけ、いけ。血が床に落ちる音が聞こえた時、僕の右手はナイフを捨てて準備してあったハンカチで止血を行う。
 やめて、そんなことするな。また僕の中にある自己防衛本能が働いたのだ。みるみるうちに出血は止まった。

 人の体というものは、必ずしも意思と平行してくれるとは限らないわけである。頭できちんと成立しているものたちのせいで、僕は今日も有限実行には至らないわけだ。

「ごめんよ」
 もうこの世にいない親友に向けたその一言は、幽霊を立証できない僕にとって成立することのないものだった。
それなのに目尻から流れる涙に乗せて、
「こんな僕でごめん」ともう一度謝った。乾燥した血でナイフがくすんで見えた。



[22331] ウ、子供と大人
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/04 23:54
 わたしが子供のとき、世界はどんなふうに見えていたんだっけ?

 ふとそんなことを思ったのは、遊びに来た甥っ子の一言だった。
「お空の雲を掴めないのは、神様がひとりじめしているせいなの?」
 せっかくよく晴れた日だったので、散歩と称して外に連れ出した帰り道の出来事だった。空を見上げながら、考え込んだような顔して甥っ子は訊ねてきた。
「なぜ、神様はそんなことをする必要があるの?」
 この子の望んでいる答えが、小指の先ほども分からなかったので、クエスチョンにクエスチョンで返してしまった。
「ひつよう?」
 その結果、先ほどよりももっと考え込む顔にしてしまった。あぁ、なんか難しい言葉使っちゃったかな。小1だもんな。もっと優しく答えなきゃだめだったのかも。例えば、神様は綿あめが好きなのかもねーあはは。なんて。でもなんかバカなやつみたいじゃない。
「そうじゃないんだよ。僕が気にしているのは、雲には自由に遊べる時間はあるのかってことなの」
 甥っ子は淡々とわたしのクエスチョンをクエスチョンで返してきた。やるな、と少々感心しているとそのまま言葉を続けた。

「太陽と月は僕と遊んでくれるけど、雲は違うんだ。いつもあそこでプカプカ浮いてるだけ。お空には神様が住んでるから、もしかしてって思っただけなんだ」
 雲を指さしながら健気に説明する甥っ子。ごめん。わたしにはあんたの言っていることがさっぱり分からない。一体この子には、世界はどんなふうに見えているのだろう。わたしと違うことは確かだな。
「ねぇ、いつも学校でみんなとそういうお話したりするの?」
 繋いだ手をくいっと引っ張って、こっちを向かせてから笑顔で聞いた。
「ううん。みんなとはしないよ。みんな1人1人考えてることは違うからね」
 さっきまでとはまた違う、妙に大人びて聞こえたその言い分は、大人を気取っていたわたしを足元からひっくり返した気がした。人と同じでなきゃいけないっていう、まさに大人の常識をこの子はくつがえしたのではないか。

「ねぇねぇ、どう思う?」
 無邪気に笑う甥っ子が、お気に入りの白い花の髪飾りをつけた小さい頃のわたしに見えて、一瞬アホ面を晒してしまった。でも甥っ子はそんなことを気にする素振りも見せず、繋いだ方の手を前後に揺らしてわたしに答えをせがんだ。その手は、とてもとても小さかった。



[22331] エ、救世主
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2011/02/07 15:41
「おい、怪獣だ。逃げろ」
 ってここで叫び狂って伝えたところで、街行く人にはあれは建ち並ぶ高層ビルの一つにすぎない。
「あなたずっと監視されてますよ」
 って耳元で囁いて教えても、誰も月の正体を見破れない。

 どうしたものか。人々は常識という名の感染病に犯されているではないか。私がちょっと仕事で地球を留守にしている間に、こんな厄介なウィルスが増殖し、はびこってしまっていたなんて。あぁ、感染していない人間はもう私だけなのだろうか。そう考えると寒気がして、同時に自分はとても貴重な存在であることを自覚した。そして、決して感染してはいけない。私はそう、強く心に決めた。

 食欲は宇宙から侵略を謀っている者たちに、勝手に植えつけられた欲で、本当は人間には必要のないものなのだ。これを使って、どう地球をのっとろうと考えているかは私にはわからない。でも、それを知っているからこそ、奴らの罠にまんまと引っかかってはやらない。不気味で気色の悪い食べ物を吐いた。

 家に帰ると、家族は見事に1人残らず感染していた。1週間分の荷物をまとめて家を出る。ごめん、みんな。必ず助けに戻るから。
 それから何日歩き続けたことだろう。いつウィルスに体をむしばまれるか心配で、夜もまともに眠れない。もしかしたらもう、感染しているかもしれない。そんな不安に常にかられている私は、身も心ももう限界に近かった。ふらふらになりながら、膝からアスファルトに崩れたその時だった。遠くのほうで白い陰と共に、大きなサイレンの音がした。それをきちんと確かめる前に、霞んでいた視界が完全に閉ざされてしまった。

 私は今、隔離されている。この常識という名のウィルスがはびこった地球上で、唯一感染していない貴重な人間として。地下の閉鎖病棟で、まだ完全には感染していないわずかな希望を持つ人たちと暮らしている。あの時、誰かが私を見つけてくれて救助を願い出たらしい。

「この人、まだウィルスに感染してません」
 そう叫んでくれた誰かも、もう常識で体を支配されてしまったのかもしれない。

 ここでは、毎日何通りもの検査をされる。なぜ、私は感染しなかったのか。そこから見出されるワクチン、治療法の開発。そもそもの原因など。苦痛を感じる時もある。でもそれは、地球上のすべての人間を助けることに繋がるのだ。もちろん、約束し別れを告げた家族にも。そのためであれば、私はどんな辛いことにも耐えられる。たとえ世間から、拒食、妄想癖などとさげすまれても決してくじけはしないのだ。

 この話を理解できずにいる、そこのあなた。待っててね。私が今、絶対助けてあげるから。



[22331] オ、探し物
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/05 23:35
 頭のつむじの辺りがこれでもかというくらい太陽の熱を受け、額や耳の裏にじっとりと汗が滲む。屈めばパンツが見えそうな短いスカートで、高いヒールの靴を履き、両手両足の爪を真っ赤に塗った今日の私は、どこから見てもオーラ全開の大人なお姉さんに見えるはずだった。
 靴擦れさえしなければ。靴のバックバンドが踵に当たって赤みがかっている。ヒールをコンクリートでコツコツいわせてはいるが、正直もう歩くのも限界だ。それに加えてこの暑さ。厚塗りしたファンデーションのお陰で毛穴からの汗は尋常じゃない。
 あぁ、私の計画は無惨にも儚く散ったのね。ため息と共に感嘆の声が漏れる。半歩後ろで圭介がのんきに呟く。
「夏だねー暑は夏いなー」
 高校生みたいな顔した二十三歳、立派な成人男性のはずのこの馬鹿は、馬鹿でもあり私の唯一の恋人でもある。あぁ、私はこんな馬鹿のためにこれほどの痛みを我慢してまで必死にヒールを鳴らしているのか。そう考えると一気に阿呆らしくなってきて、意味もなく圭介を睨んだ。そんな私の意味のない行動にも全く動じる気配すら見せず、眩しそうに空を見上げてしわくちゃにした顔で、相手を持たない独り言を言い続けた。今すぐにでも右足を振り上げて、この鋭く尖ったヒールでお前を串刺しにしてやろうか。と心の中で凄んでも、それについていける元気な足を私は持ち合わせていなかった。

 キンと冷えた電車に乗りこみ、靴擦れと暑さとそれらによった苛立ちで疲労困憊の体をしばし休ませる。衣類と肌の隙間にこもった熱気が蒸発していく。隣で鞄をガサゴソ漁っていた圭介が、私の耳に耳栓型のイヤフォンを押し入れながら言う。
「新曲できたから聴いて」
 なんとも楽しそうにipodをいじくりまわす圭介を見ながら、反対側の耳に自分でイヤフォンを入れる。このイヤフォン嫌いなんだよなぁ、と頭の奥で呟いてだらしなく背もたれにもたれ掛かっていた背中を伸ばす。
 かき鳴らされるアコースティックギターの音色が、弊害なく体に入ってくる。圭介の柔らかい歌声が後に続く。期待に目を輝かせてこちらを見つめてくるこの男は、本当に私より五つも上なのか未だに疑問でしょうがない。うっとおしい視線で曲に集中できないので、静かに目を閉じる。

「きみを今日も探すぼく。見つかりっこないか」

 あぁ、またこれか。
 女みたいに透き通った彼の高音が、わたしの胸を電車とは反対方向に揺さぶった。目の前でコクリコクリ頭を上下させ、眠気をしょいこんだおばあちゃんを見て、「居眠り」なんかぴったりのタイトルだと思った。プツッ。前ぶれのない切断音の後に、すぐ先ほどの曲よりも少し小さい音で次の曲が始まる。右耳にはまっていたイヤフォンを抜いて、圭介の方を向く。
「いい曲だね」
 照れて鼻をこする彼を見たら、日々増幅する気持ちを後ろに流れてゆく景色に置いてくることは、またできないと思い知らされる。左耳では持続的に流れる歌声を聴き、右耳で彼の嬉しげな喋り声を拾って、暮れかけた夕陽の中を心地よく揺れながら家路に向かった。

 私の家の前まで手を繋いで歩く。きっちりいつも家の前まで。そういうところはしっかりしてるのだ。大人の風格でも見せたいのだろうか。それとも彼にとってはごく自然な常識で、それをこんな風に捻くれた目線で見る私がただ単に子供なのだろうか。いや、そんなことを考えるのはよそう。ちらっと圭介に目をやると、元々たれた目をさらにたらして幸せそうに微笑んだ。胸が痛かった。

 圭介と私は付き合っているが、恋仲ではない。正直言うと、私が一方的に圭介のことが好きなのだ。特に強引ではなかったと思うけれど、言い寄った私に言い寄られた彼は断れるだけの理由がなかったので、形式上の付き合いを認めた。直接彼からそう言われたわけではないけれど、きっとそう。彼にはれっきとした恋人がいるのだ。もう5年も前に天に昇った恋人が。

 名前は知らない。顔も性格も、どこの出身の人なのかも圭介とどうやって出会い、2人は恋におちたのかも。知っているのは、圭介よりも2つ上で、白血病だったってことだけだ。あとは本当に何も知らない。知ろうとも思わない。だって、それは2人のことで何よりも過去の話だから。過ぎ去ってしまった、もう取り戻せない記憶の話だから。そしてそう言い聞かせるのは私で、そんな期間はとっくに過ぎて見えないものにすがりつく圭介。地球上で最高にひとりぼっちの2人が、今ここで手を繋いでいる。おかしいでしょう。おかしいなら笑えって、昔お父さんがよく言ったっけ。

 太陽が完全に沈み、街灯がちらほら灯り始めた頃、私達も目的地に到着した。
「家、寄ってく?」
 離した唇に冷たい風が通る。
「明日も朝早いから、今日は帰る」
 圭介はとびきり優しい顔をして、私の頭を撫でた。「今日は」帰らなかったことなんて一度もないくせに。少しふくれる私の頭を、子供みたいにくしゃくしゃに撫で回す。もっとふくれた私を見て、あははって楽しそうに圭介は笑った。
「寒いから早く家に入りなよ」そう言って、唯一温かかい手のひらにまで冷たい空気が入り込んできそうだったのを、ギュッと握りしめて阻止した。驚いたように振り返る圭介の右手を、もっと強く握りしめながら私は言った。懇願した、のほうが近いかもしれないけれど。
「もう一回キスして」
 さっきの優しい笑顔のまま、いつものように割れ物にでも触れるみたいにゆっくりと唇を重ねた。一瞬、戸惑った彼を私は見逃さなかった。それはきっと潤んでしまった私の瞳と、冷たくなった圭介の唇に関係している。彼は探しているのだ。私に触れている間も、私に触れていない時も、いつでもどこでもずっと。突然いなくなってしまった恋人を。自分の愛しい恋人。その証拠に私は彼から温度をもらったことはない。今の触れるだけのキスからも、優しい笑顔も繋いだ手のひらからも。熱は全部、私が作り出しているものだから。孤独な関係。暖めあうことすら許されない。彼は見えない恋人を探し続け、私は感じることのない愛を探し続ける。目的地なんかない、ずっとずっと続く一本道。目なんかこらさなくたってすぐそこに見えている答えがあるのに、勝手に見えないものだと決めつけてしまった。
 自らひとりぼっちになる私達は、地球上で最高におかしいでしょう。笑えないのは靴擦れのせいなの。痛くて痛くてもう限界なの。本当よ、お父さん。



[22331] カ、地球
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/06 23:20
 空を見上げると、真っ暗な箱の中だった。その瞬間、地球を四角く感じた。

 自分が勝手に持っている箱に対するイメージのせいか、はたまたまだ見たことのない地球が丸いという事実を認めきれていないせいなのか。とにかく私は、真四角の箱の中にいた。 星も郵便局も電柱も全部、きれいに箱に納まっていた。思い浮かんだのは、昔沢山持っていた飛び出す絵本。開くと広がるお話の世界。それととてもよく似ている気がした。

 この箱にもどこかに、開くふたでもあるのだろうか。
 あまりに呑気に考えていたものだから、何もないコンクリートにつまずいた。やだやだ、恥ずかしい。足元を気にしつつも、ふたはどこかと探してみたがさっぱり見当もつかなかった。
 ゆっくりゆっくり箱の中を歩く私。このまま歩いていれば、いつかの絵本みたいに最後のページにたどり着けるのだろうか。少し遠回りして、そんな淡い期待をしてみたものの着くのは家で、寝ればいつものように朝が来るのだったと思い出しただけだった。

 そうか。やっぱり地球は丸かったのだ。



[22331] キ、幸せ
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/08 00:48
 女の子がいました。
 女の子は黒い色が大好きでした。なんでも黒ければ、大体好きでした。
 黒いワンピースを着て、黒い食べ物を食べて、黒いベッドの中で眠ります。
 黒い猫を飼い、黒いお家に住み、黒い花を育てます。
 女の子の周りは、いつも黒いものたちで溢れていました。
 それは、女の子にとってとてもとても幸せなことでした。

 けれど、それには限界がありました。
 いくら自分の周りを黒で埋め尽くしても、一歩外へ出ればそういうわけにはいかなかったからです。
 なので、女の子はみんなにこう言いました。
「今日から、使うものや食べるもの、育てるものや着るもの。全部、黒で統一しましょう」
「そんなことは無理だ」みんなは口々にそう呟きました。
 女の子は一生懸命訴え続けましたが、みんな誰1人として耳を貸す者はいませんでした。

 黒いお家に帰ってきた女の子は、泣き出してしまいました。
 一生懸命喋った分、一生懸命泣きました。

 次の日、女の子は悩みます。沢山考えます。毎日、頭を抱えました。
 そして何十回、何百回と考えて、悩んで、やっと良いアイデアを1つ思いつきました。

 女の子はすぐに家を飛び出して、みんなの元へ向かいました。
 黒い黒い夜の中、できるだけ急いで向かいました。

「ねぇ、みんな。聞いてほしいの」
 女の子は最大限の大きな声を張り上げました。
 みんなは何事かと思い、ぞろぞろ外へ出てきます。
 あくびをしながら、目をこすりながら、ぞろぞろ外へ出てきます。
 みんなの中に、まだ寝ていなかった人が1人いました。
 その人はぱっちり開いた目で、唯一女の子を女の子だと見ました。
「また、お前か」
 まるで汚いものを見るような目で見ます。
 でも、女の子はくじけません。今は、みんなの眠気を覚ますのです。

「わたし、決めました」
「黒なんか暗い色が好きなのは、お前だけなんだよ」
 奥から出てきた意地悪そうなおじいさんが、意地悪を言いました。
 それでも、女の子はくじけません。今は、このことを伝えるのです。

「そうね。だからこれからはみんな、好きな色を使ってください。使うものも食べるものも、育てるものも着るものも。全部、好きな色を使ってください」
「そんなのもうしているじゃないか」
「はい。そのままでいいの」
 みんなは、可笑しなななぞなぞを解いている気分でした。
 それでも、今度は否定する理由がなかったので、ただ「うん、うん」と頷きながら、それぞれの好きな色のベッドに戻っていきました。

 黒いお家に帰ってきた女の子は、とても満足していました。
 なので一晩中、とても満足そうに笑っていました。

 黒い夜が終わり、朝が来ます。
 みんなは何も変わらず過ごします。
 女の子はそれを黙って、幸せそうに見ています。

 女の子には分かったのです。
 たとえ、みんながみんな好きな色を使っても、使えが使うほどそれらは古ぼけて汚くなっていきます。
 だって好きなものは、最後の最後まで手放したくないでしょう。
 そして使い続けた最後、それらは色を失い黒になるのです。
 みんなが毎日、今のまま過ごすだけでいいのです。
 それが自分の幸せになるのです。

 今日も女の子は笑います。
 自分の幸せの秘訣を、もう知っているんですから。



[22331] ク、雪
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/08 23:22
 ある日、彼が言った。
「俺、雪嫌いなんだよね」
 一週間後、彼は大嫌いな雪の中で死んだ。その日から、私もなんとなく雪を嫌いになった。

 ある朝いつものように登校すると、親友と呼んでいた子がみんなから「無視」という名のいじめにあっていた。
 初めの二日ほど私は勇敢に戦ったが、三日目には集団の端に用意された椅子に座った。親友は水の溜まった目で、溢れだしそうな疑問をぶつけてきたが、気づくと上手く避けていた。
 私は、彼女との全てを一瞬で過去に変えた気がした。

 ある夜、親が離婚届に判を押した。
 大好きなお母さんは、まだ幼いという理由で弟を引き取ると決めた。前の日に何度も練習した言葉は、お父さんの目の下にできた黒いクマが奥へ閉じ込めた。一生出てくることはない、奥の奥のほうへと。
「ごめんね。ごめんね」
 そればかり繰り返すお母さんの横で笑うことしかできなかったのは、その日雪が降っていたからかなと、荷物がなくなり他人のもののようになった空っぽの部屋で考える。変わらずにいようと頑張る姿が、もう以前とは違っていることに気づいていないお父さんも、自分と何も変わらない人間なんだなぁ、と改めて感じた夜だった。
 それから、大人はもう大人として目に映らなくなった。

 雪は降り続けた。雨に流され、風に吹かれ、それでも降り止むことを知らないかのようだった。

 雪は私に似ている。いや、私は雪に似ている。今の自分は、名称だけを持った形のない何かのようだ。雪もそうだ。手に取れば、途端に消えてしまう。私は、手に取られたことがないからなんとも言えないけれど。そんな雪を最後まで、なんとなく好きにはなれなかった。

 冬が過ぎ、春が来て、鮮やかに桜が咲いた。色のあるものが宙を舞っているのを、久々に眺める。
「急がないと遅刻するよー」
 新しくできた友達が、遠くから私を手招く。
「今、行く」
 小走りで新しい学校の門をくぐる。桜の花びらが漫画みたいに壮大に舞った。その中で、ふと思い出す。いつもいつも、降り止むことを知らない、いつの間にどこかにいってしまった。なぜだかとっても、懐かしく感じる雪を。
「早く」
「わかった」
 私は春になっても、消えずにここにいたね。



[22331] ケ、進化
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/19 09:23
チク、タク。チク、タク。
閉めきったカーテンが透けて光るのが朝。色が判別できなくなるのが夜。
チク、タク。チク、タク。
お腹が空いて目が覚めると朝。満腹で眠りにおちると夜。
ただそれの繰り返し。何度も何度も繰り返して、それが人生になる。
僕は家から出ない。僕は誰とも会わない。僕は。
僕はひきこもりだ。

家から出なくなったんじゃない。
家から出られなくなったんだ。
人と会わなくなったんじゃない。
誰とも会えなくなったんだ。
人類の進化についていけなくなったんだ。

気づいたら僕は家にいた。
変わらず時を生きるこの家だけが、僕と似ていた。
みんな動かずじっとして時計の秒針の音に耳を傾ける。
僕もそうした。
タンスがそうするように、テレビがそうするように。
僕もそうした。
世界は不思議なもので、進化する者も留まる者も同じ時の中を過ごした。

春、夏、秋、冬と過ぎ、また春、夏、秋、冬と過ぎた。
薄っぺらなガラス戸一枚挟んで、進化は確実に進んでいった。
僕は廃れていくこともなく、進んでいくこともなく。
僕は未だに、ひきこもりだ。



[22331] コ、実感
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/19 22:57
仲の良かった友達が死んだ時、その子のことだけを思って泣いた。
いや違う。実際はその子を失い、悲しみを背負うことになった自分を思って泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続ければみんな「大丈夫?」と寄ってきた。
「可哀想にね」みたいな目で私を見る近所の人たち。
学校の先生は、次々にもらい泣きを始めている。
涙は止まることを知らなくて、いくらでも流せた。


私は主役だった。
死んだ友達の遺影が例えカラーだったとしても、私の方が断然目立っていた。
鳥肌が立つくらい興奮していた。
私が主役のお葬式。
あの子のためのお葬式。
初めてこんなに注目された。
みんなが私を見て、私のことを考える。
私を哀れみ、私に同情の手を差しのべた。
誰でもない私だけに。


生まれて初めて、生きてるんだって実感した。
もっと注目されたくて、もっと生きたくて、次の日試しに死んでみた。



[22331] サ、人生
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/10/20 20:43
 生クリームの入れすぎか。それとも粉チーズだったのか。もしかして、隠し味で入れたコンソメスープが悪かったのか。
 終電に向かって早足で歩を進める私の胃は、完全にもたれていた。


 調子に乗って、今日のまかないは私が作ります。なんて言ったからには作るしかなかったのだ。立ちはだかるフライパンと、だらしなく半分だけゆだったパスタに、白旗を降るわけにはいかなかったのだ。だからと言って、作ったことのないカルボナーラに挑戦することもなかったのだが。


 よし、作ろう。私だってやればできるんだ。見てろ、店長。気合いを入れ、出発する方向がそもそも間違っていた気がする。あれやこれやとジュージュー炒めては足してと試行錯誤した上、出来た私の作品は意外にそれなりな色と匂いを放っていた。一般的なカルボナーラとは似て非なるものだったが、味もそれなりなものを舌に残した。
 だが、それがこの様だ。胃の中心から左の脇腹にかけて、何十キロの鉛がぶらさがっていることだろう。何を間違えて私はあんな凶暴なカルボナーラを、この世に生み出してしまったのだろう。そんな自問自答いや自問カルボナーラ答を繰り返す内に、いつの間にやら駅が見えてくる。


 まぁいいや。帰って早く寝よう。そしたら明日の朝には元通り。ん?
 車内アナウンスが流れ電車は、静かに電気が灯るホームへと入っていく。まさか。
 正面で爆睡するサラリーマンが、頷くように首を上下させた。
 最悪。終電を乗り間違えた。息を吐き出し開く扉が、私をホームへ引きずり降ろす。知らん顔で次の駅へ走り出す終電車。
 バカヤロー。私の叫びはどうせ心の中でしか響かない。イヤフォンから悲しくロックが漏れた。
 人のいなくなったホームは滑らないスケート場並みに冷たくて、もしこのコンクリートが氷に変わって滑れるスケート場に変わっても、スケート初心者の私は今より倍、虚しくなるだけだと思い、これ以上想像を膨らませるのをやめた。
 今日何回目の間違いだ。カルボナーラで終わりだろうと気を弛めたのが悪かった。こんな落とし穴があったなんて。元を辿れば、今日バイトになんか出たのが間違いだった。だってそうしなきゃ終電を乗り間違えることもなかったし、まず終電に乗ることもなかった。そうなると夕飯はきっと、昨日の残りのカレーだったろうし、私が料理する状況には陥らなくなり、調子に乗ることも、胃がもたれることもなかったのだ。バイトを休んで家に居れば良かったのか。いや、でもそれが正解だったのかな。
 多分家に居たら居たで、だらしなく過ごす自分に嫌気がさして、バイトを休んだ自分を、それは間違いだったと悔やんでいたかもしれない。
 人生が失敗や間違いの連続なら、それは一体どこまで続くのだろうか。一日というこんな短い時間で、これだけ失敗や間違いを繰り返すとなると、私にはこれから一生を終えるまでどのくらいの失敗や間違いが待っているのだろう。
 あぁ。そんなことばかり考えていたら、また失敗を繰り返す。大きく1回息を吸って改札に向かうと、左の脇腹がまたちくりと痛みだした。

 改札を出てそのまま、見たことのない景色の中を歩く。星一つ出てない真っ暗な空の下で、見えないカエルがゲコゲコ私を笑った。負けじとヒールをカツカツ鳴らしたのは、言うまでもない。あぁ、正解なんて果たしてこの世にあるのでしょうか。



[22331] シ、時の流れというもの
Name: an◆b8733745 ID:63bf86a8
Date: 2010/11/17 03:21
わたしが好きだったのは、あなたか、それともわたしの頭の中に住んでいたあなたなのか。
そんなことは今となってはもうよくわからないけれど、わたしはあなたが好きだった。
声も仕草も、飽きっぽくて面倒くさがり屋な性格も、ヘタレで年上のくせに甘えてくる所とかも。
すごく、すごく好きだった。
だから言えなかった。
あなたにそれは伝えられなかった。
理由は、絶対に良い方向性を見いだせないと決めつけていたからなのか、ただ自信と勇気が足りなかったからか。
今では何だったのか、よく思い出せない。
思い出せないことが増える。
あんなに好きだったのに。
笑い方や口癖も、思い出も時間も、遠く深く過去に消えていってしまうのだろうか。
とても、とても好きだったのなんか関係なく。
今となっては、それさえもゆらゆらぼやけ始めている。



[22331] ス、自由
Name: an◆ebdaa164 ID:0f265b02
Date: 2010/11/19 16:37
 僕の部屋には、生活するにあたり必要最低限の物しか置かれていない。
それはそれは、何もない部屋だ。とよく、ここを訪れた人は言う。何もない、それは言い過ぎだろうと僕はいつも思うだけで、特に何かを変えるつもりはなかった。 そんなある日、ここを訪れ、そして立ち去ってゆく人の一人になるであろう君が言った。
「味気ない部屋」
 僕の初めての納得だった。確かに、僕の部屋は味気ない。確かに、僕の部屋は味気なかった。


 そのことに気がついた僕は、鳥を一匹飼うことにした。
暖かい色のグラデーションをまとったその鳥は、味気ない部屋に意外とよくマッチした。一緒に買ってきた白い鳥かごにそっと放して、錠前をおろし、鳥の名前はその瞬間から「じゆう」とした。


 じゆうはよく鳴いた。よく食べ、よく動き、よく飛ぼうとした。
 だから僕はまず、じゆうの口ばしを輪ゴムで止めてみることにした。じゆうは羽をバタバタ動かし、こもった声で「取って」と叫んだ。それを僕は、ソファの上からじっと見つめた。


 三日経つと、じゆうはもう鳴かなくなった。出来ることと出来ないことの区別を
教えることに、僕は成功したのだった。
 その代わり、前よりもっと動くようになった。足の先がボロボロになるまで、かごを蹴ったりした。
 今度のは少しいい気はしなかったが、足を切り落としてみることにした。転がる二本の足を見て、横たわるじゆうは弱々しく右の羽を持ち上げた。傷だらけの自分の足に、じゆうはやっと気づいたのだった。


 それからというもの、部屋は静かだった。
僕は普段からテレビも見なければ、音楽も聞かなかったので、部屋の中には僕とじゆうの生きてる音しかしなかった。


 じゆうが飛ぼうとしたのは、正直驚いた。
羽を動かす度に、自分の汚物やらなにやらで、汚れていく体もお構いなしに。抜けていった綺麗なグラデーションの羽は、底に散らばって絨毯みたいだった。
 疲れ果てて、横になり、やっと静かになったじゆうを僕はゆっくり慎重にかごから出した。そのまま、キッチンに向かう。まな板を消毒液から取り出し、その上にじゆうを置いた。下の引き出しからそれを手に取ると、暮れ始めた夕日が反射して、いっそう鋭く光った。僕はそれを思いきり振り下ろしてみる。
「ピュー」かん高い音とともに、口ばしの輪ゴムが弾け飛んだ。じゆうの最後の鳴き声だった。


 じゆうはもう何もしなくなった。ただ、息を吐いてその分吸った。
羽を失ったじゆうは、完全に自由を失ったのだ。それは自分の名前の意味を、心から理解することに繋がった。そうして、じゆうは僕の部屋からいなくなった。


 僕の部屋には真っ白な鳥かごだけが残り、多少の味気をかもし出していた。
その曖昧さといったら、洋服をまとったままぬるま湯に浸かるようなもので、いつも使っているソファさえ気持ちが悪く感じた。
 じゆうが死んでから、この奇妙な居心地の悪さがなくなることはなかった。
思い立った僕は、鳥かごだけを残し、他のありとあらゆるものをゴミ捨て場へと移動させてみることにした。ありとあらゆるといったって、たいした量ではなかったが。すると、部屋には生きてる僕と、じゆうの生きてた形跡だけが残った。そんな当然のことに、全てをやり終えた僕の目は少し涙ぐんだ。


 それから何日か経って、君が二度目の訪問にやってきた。きつめの香水の匂いが
、部屋の空気に色を塗ったのがわかった。
僕の部屋にはもう何もないから、そのまま地べたに座った君は言った。
「なんにもなくなっちゃったんだね。屋根までなくなっちゃったら、本当に自由
になれそう」
 そういうことだったんだ。この何十年かでやっと覚えた、愛想笑いで君を見る。
果たして効果はあっただろうか。


 僕はじゆうに自由を知って欲しかった。僕は知らなかったから。どこへ行ったっ
て、ガチガチ軋む偽物しか得られなかったから。
僕は不自由しか与えてやれなかったんだ。その中でしか、自由は生み出せない気がしてさ。ごめんよ、じゆう。
 自由はこんな近くにあったのにね。鳥かごを窓から放り投げたら、じゆうの生き
てた証が宙を舞った。それはそれは綺麗なグラデーションで、味気ない世界を暖
かい色に染めた。




[22331] セ、甘くない現実
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/01/05 16:34
「この世界をもう愛してはいけない」
「どうして?」
もう何本目かわからないスティックシュガーの封を開けた君が突然切りだした。

「もう無理なのよ」
甘ったるそうな紅茶に口をつけながら続けた。
「動き続けるものが好きだったのに、止まってしまったら意味がない」
大きなため息を吐いて、憂鬱そうに窓の外を見つめた。
僕はどうすることもできなくて、何一つ言葉が出てこなくて、君を振り向かせることができなかった。
次の日、家から彼女の荷物はきれいさっぱり消えていた。
小さな丸っこい字で机の上に書き残された置手紙には、「今まで、ありがとう」とだけ書いてあった。

会社を辞めた僕に壊れて動かなくなった時計が寄り添って、渡すはずだった結婚指輪は輝きを止めていた。
そうさ、僕はもう動かない。
動けないんだよ。
見捨てないでくれよ、ねぇ。
止まってしまった僕から静かに涙が流れる。
心臓の鼓動にゆれた。



[22331] ソ、ツクリモノ
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/01/05 16:55
俺のこと好き?
うん
愛してる?

なぜ?


あなたとの会話は、もう随分噛み合っていない。
ちぐはぐに交差して終わる。
きっともうすぐ会話とも呼べなくなってしまう日が来る。
そうなったらなったで私はそれを素直に受け入れるだけ。

昔私は、彼のことが好きで好きで死ぬほど好きで、一回本気で死のうと思ったことがあった。
「愛してる?」の問いかけにふたをしてばかりの右手を彼が握ってくる。
「俺のこと愛してるだろ?」
「どうして?」
同じような逃げ道で逃げる左手は、昔あなたを死ぬほど求めてた。

昔風邪だからって仕方なくやめにしたデートの約束があった。
せっかくのおめかしが勿体ないなと、寄り道した先にいた彼は知らない女と歩いてた。
次の日どれだけ問い詰めても「知らない」の一点張りだった。
別れると泣きながら叫んだって、何も言ってはくれなかった。
私のおめかしを返せ。
その日から度々、その時の女が夢に出た。
私よりも日に日におめかし上手になっていった。
本当のことはもう憶えていない。だって遠い昔のこと。

「俺のこと好きなのに、どうして愛してくれないんだよ」
「知らない」
「待ってよ」
もう十分待ったのよ。
あの時もっとも必要とされていた言葉は行くあてをなくして宙を泳ぐ。

「私のこと愛してる?」
執拗に迫っていた私は何を思ってそんなことを繰り返していたのだっけな。
全部、昔に置いてきた今となってはあなたの気持ちは到底理解できそうにない。
永久に交わらない。
私とあなた。あなたと私。
そうしたのは私。そう願ったのはあなた。



[22331] タ、親指ほどの彼女
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/01/05 17:16
電車は確かに揺れるけど、こういうものなんだよ。
って初めて彼女が電車に乗ったとき言った。

そしたら案の定、僕の太ももを思いきりつねって反撃してきた。
そもそも、僕のほうは攻撃したつもりはなかったのだが。
「こんな荒々しい運転で、お金をとってるなんて考えられない」
「これが最大限の安全運転なんだから、しょうがないだろう」
それが、確かな情報かはもちろん不明である。

「信じられない」目を真ん丸く見開いて僕を見上げた。
周りには電車に揺られる人がいて、下を向けば不機嫌な彼女がいて、目のやり場に困った僕はしょうがなく上を向くことにした。

届くはずもない床に足を伸ばして、懸命に降りようとする彼女。
それが太ももにかかる重圧でわかる。
「ごめんよ」
僕は仕方なく続ける。
「もうこれからは電車を使うのはやめにするから、お願いだから今日だけは我慢してくれ」
もちろんそれも確かな約束かは不明だが、今はいたしかたない。
小さく、彼女の場合多少大きくても小さいと判断されることが多いが、多分小さくため息をついて、僕の右の太ももに帰ってきた。
ムスッとした顔で腕を組んで、電車の揺れと共に2人して揺られた。

駅に着いた僕らは、人の波がおさまるのを待ってから改札を出た。
「電車、揺れても不快にならない方法を見つけたら、また一緒に乗ってもいいわよ」
僕の大きめの胸ポケットから、ちょこっと顔を出して小さい声で彼女が言うものだから、僕はもうニヤニヤが止まらない。
彼女が起こす行動は、多少大きくても小さいと判断されることが多い。
でも僕だけは知っていた。
君がこの世で、最上級のツンデレだっていうことは。
僕にとっては大きいも小さいも関係ないのだ。
胸ポケットに入れるか、入れないかの違いだけ。
僕にとってはただそれだけのこと。

「何笑ってるのよ」
「なんでもない」
真っ赤になってポケットの裏側に隠れるこの小動物を、誰が愛おしくないと感じるだろうか。
でもそんなこと言ったら、誰かさんはまたしばらく口をきいてくれそうにもないので、そっと胸の奥で消化することにした。



[22331] チ、あなたの天使
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/01/08 23:29
学校には、天使がいた。
クラスのまるで天使みたいに可愛い子、とかそんなのじゃなく。
それは本物の天使だった。
手のひらサイズのその天使が私にしか見えないと気づいたのは、見つけたその時からそんなに時間はかからなかった。


天使は毎日のように学校にいた。
そのほとんどはどこかに腰をかけ、私をただ見ているだけだった。
背中に上品についた小さな白い羽は、想像とは違い滅多に使うことはなかった。
天使は言った。
「もうすぐ、私はいなくなる」
まん丸の目の真ん中には、綺麗な流れ星が流れていた。
私は「行かないで」と3回唱えた。


それから天使をあまり見なくなった。
探しても、探しても見つけられない日は天使のことを想って眠った。
次の日、天使はいつものように学校にいた。
両方の目から、銀色の涙をぼろぼろ流していた。


天使が隣にいた日、私は天使に触った。
透き通るような消えそうな体はちゃんとそこにあった。
ふわりと抜けた白い羽を私にくれた。


とても蒼い、とても深い空の日天使は飛んだ。
やわらかに揺れる空気よりも静かに、さらさらと流れる小川より穏やかに。
手招く、天使は笑った。私に羽が生えた。
天使より一回り小さめだがしっかりと風を掴んだ。
舞い上がったカーテンにシルエットを残して、私と天使は手を繋いだ。
吸い込まれる雲の間から、落ちていく。


私は、天使になった。
ただそこであなたを見ている、天使。



[22331] ツ、侵食
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/01/09 00:02
片足ずつゆっくり入る。
つま先からじわーっと痛いような、心地よいような、しびれる何かが這い上がってくる。
体温が私にしがみつく為に浮き出した鳥肌を、ゆっくりゆっくりと数度高い液体へと沈めていく。
肩まで浸かると、あっという間に境界線が消える。
それに、ホッと息をひとつ吐く。
揺れる湯気は脳みその固まった部分を徐々に溶かし、鼻の頭がどこにあったかわからなくさせる。
気づくと侵食を広げようとゆらゆらアゴに触れる。
目を閉じて抵抗はしないと示せば、一度フワッと持ち上がった体は深く深くへ沈んでいく。
指が何本あったか。声はどうやって出したか。
言葉はどういう形か。私は、生きていたのか。
底の無くなった浴槽に手が触れるとき、いつも少し怖くなる。
大きな音をたて、重たくなった水の壁を突き破る。
乱れた呼吸が運ぶ冷たい空気が、表面の温度をさらう。
偽者だったと、体温は鳥肌ひとつ立てない。
まつげの先から、最後の偽りが輪っかを作りながら落ちていく。


電球に照らされた白のタイルは、カビの侵食に必死に耐えている。
使い古されたリンスのボトルは、詰め替えられたシャンプーにいつの間にか吸収され、金色の文字が同情を引く。
友達は付き合っている彼の影響で、夢だった学校への進学を諦めた。
隣に住む九十を越えたおばあちゃんは、朝起きる度思うのだそうだ。
まだ、生きていると。
どこかの国で太陽が隠れたとニュースが流れた。
みんな、何かに侵食されつつある。
冷えた鼻の頭を、右手の指で温める。
鏡に映るのは、どこも欠けていない自分の顔。
張りついた長い髪をかきあげると、天井にぶら下がる小さな球体が小さく音を鳴らしながら光を失った。
同時にあたり前のように何も見えなくなった。

ドアを開き、手探りでスイッチを押す。
一度。二度。三度。チャポンと音だけが響く。
途端に、さっきまでのあたり前があたり前ではなくなる。
その瞬間、取り囲む暗闇は敵に変わる。
そして不思議なことに、軽いただの液体になったそれが唯一信用できる存在に変わった。
みんな、何かに侵食されつつある。
けれどそれは偽者でまやかしに過ぎない。
暗闇に順応した瞳は異常を通常に少しずつ変えていく。
もう始まっていることにみんなは気づいているのだろうか。
これは、偽者なのか。これは、まやかしなのか。
暗く染まった背景で、暗い何かが動き出す。
溶け出した体の一部を、それに残して浴槽を出る。
リンスのボトルからシャンプーを吐き出させる。
足の指の数がわからなくなりそうだ。それでも、ボトルのポンプを押す。
ヌルッとしたシャンプーが、私を通り抜けて床に流れる。
消えるように溶けていつかは同じになる。
出遅れた体温が、逃げようと必死に鳥肌になった。









*あとがき

説明をするっていうのは、自分の中のルールで反則な気がしてしかたがないのですがこれだけは。と思ったので、初めてあとがきというものを書きます。
「意味がわからない」
はい、その通りだと思います。
随分昔に書いたSSなんですけど、今読んでも、確か書いている時でもなんの話なのか作者本人がわからなくなるくらいです。
で、一言で言いますと。
侵食というものを極端に恐れている人の入浴タイムに何かしらの原因で停電が起こり、電気が消えてしまったというだけの話です。
はい、それだけなのです実は。
ここからの解釈は、読んでくださった方に任せますw
長ったらしい説明申し訳ありませんでした。
一体何が言いたいの?と苛立ってるそこのあなたの苛立ちを、少しでも解消できたらと祈ります。



[22331] テ、インチキ
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/01/25 23:52
ねぇ、死ぬ瞬間って想像したことある?

いいや。でも、あんまり想像したくないものだね。

どうして?わたしはよくするわよ。
きっとこう。それはゆっくりゆっくり時間が流れて、まるで海の中にいるみたいなの。
だんだんと重くなっていく体をね、上着みたいに脱ぎ捨ててまっしろい光に向かって。
あとは風に乗って、あったかい空気の中を泳ぐの。
そして、気づいたら溶けてなくなっちゃうのよ全部。

それがきみの死ぬ瞬間かい?

そうよ、だから死にたいの。

ぼくはきみが考えているほど綺麗なものではないと思うけれど。

じゃあ、どんなもの?

もっと暗くて、寂しくて、冷たい地下牢で眠るようなものだよ。

そんなのってないわ。いくら冗談でも言いすぎよ。

冗談じゃないさ。何もかもがなくなる瞬間っていうのは、孤独で悲しいものさ。

いいえ。何もかもがなくなる瞬間っていうのは、背負っていた汚くて苦しいものから解放されるっていうことよ。
つまりそれは、心地よくて爽快で美しい瞬間なの。

まぁ、きみの考えも一理あるね。だからって死んじゃうのかい?

そうよ。じゃあ聞くけど、あなたはどうして死なないの?

ぼくは死ぬのが怖いから。

怖いことなんてないわ。死ぬ瞬間はあんなに優しくて綺麗なものなのよ。

それは一瞬だけの話だろう。それが終わったら無になる。

無ほど美しいものはないじゃない。醜いこの世の中で生きていくほうがよっぽど恐ろしい。

無っていうのは孤独なんだぞ。一人きりでは優しさはどこからも生まれてこないじゃないか。どうしてそんなに死にたがるのさ。

世界が欲にまみれて汚れたものだからよ。わたしは一人きりでも美しい綺麗な世界を望む。どうしてあなたはそんなに生きたがるのよ。

孤独は寂しくて耐えられないものだからだよ。ぼくはきみがいなくなった冷たい世界は望まない。

そんなのって傲慢よ。

きみこそただの我が儘じゃないか。

あなたとは気が合いそうにないわ。

そうだね、でもひとつ言いたいことがある。

なに?

きみが死のうが生きようが、ぼくらは恋人同士だっていうこと。

この卑怯者。



[22331] ト、なくしたもの
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/02/01 16:33
飛行機が飛ぶのは真っ暗な夜だった。にわとりが鳴く朝だった。それからタンポポが揺れる昼だった。
遥か遠くに浮かぶ水平線にはもう少しで手が届きそうなのに。
数えきれないほどの星はもうポケットにしまえたのに。
ついさっきまで隣にいたきみのことは匂いさえ思い出せずにいる。
僕は一体いつまで飛び続けなければならないのだろう。

僕が毎晩見る夢に興味を示すのは、大谷ちか子ただ一人だった。
「で、飛行機は無事着陸したの?それともエンジン切れで墜落?」
「いや、昨日はその前に目が覚めた」
「そう」
眉間にしわを寄せて空を見上げた彼女は、難しそうにうーんと唸った。
「あまり進展はないわね。ただ気にかかるのはその、タンポポが生えてる川原を飛んだってことかしら」
「どうして?」
いきなり立ち上がるものだから、一時的に吹いた強い風でパンツが見えそうになった。
少し顔を赤らめて制服のスカートを整えながら、僕に向かってちか子は言う。
「なんだかありそうな風景じゃない、それ。今までは遠くの水平線とか、満天の星空とか見つけようとしなくてもすぐに見えてしまう景色ばかり登場してたけど、今回みたいに土手沿いの川原に咲くタンポポなんてどこにでもある景色ではないわ」
元々大きい目をさらに大きくして僕に近づく。ちか子は興奮すると目を大きくする癖がある。
「でも、僕はそんな景色見たこともないんだよ。まず、家の近くに川もないし」
残念そうにうつむいて立ったまま彼女はフェンスに寄りかかる。そしてため息。
いつもこの繰り返しだ。僕が夢を話して、なんとか解決への切れ端を掴んだちか子が僕のせいでため息をつく。
申し訳ないと思う。
でも、本当に何もわからないんだ。
僕が夢の中で必死に思い出そうとしているきみは誰なのか。僕はどれほど大事なことを忘れてしまっているのか。
屋上の冷たい風が、僕とちか子の間を裂くかのように吹き抜ける。
風に舞ったちか子の長い髪を見ると、妙に心臓がざわついた。
「教室、戻ろうか」
「うん」
「手伝ってくれてありがとう」
「いいの」
いつも先を歩く彼女はたまに凍えたように肩を震わす。



[22331] ナ、キャラメルポップコーン
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/01/31 23:10
キャラメルポップコーンは甘すぎる。
苦味がにじみ出た今のあたしには喉につかえるほど甘かった。
けれど、食べなきゃこの状況から抜け出すことはできなかったので、むせて涙目になっても平然を装って食べ続けた。
神様はとことん意地悪だと思う。わざわざ今日にしなくても良かったでしょう。浮気相手を招くのになぜ今日を選んだのよ。

そうでしょう、神様。


カズキが浮気していることなんて重々承知だった。あたしが知っているということは、勿論カズキは全く気づいていなかったけれど。
でもそれでカズキのあたしへの愛情が薄まることはなかったし、あたしにはばれたけど周りにはうまく隠しているみたいだったし、目に見える害はなかったので気づかないふりをすることに決めた。
あたし達は順調だった。浮気という2文字が現れる前と後では、びっくりするくらい違いは見られなかった。
だから今日も何も変わらず、カズキと彼の家でまったりとDVD鑑賞の予定だった。
彼の大好物であるキャラメルポップコーンを抱えたあたしを、いつも通り部屋にあげる。2人してすごく観たかった映画のDVDを最近買ったばかりの新品のプレーヤーにセットし、部屋を暗くして軽く準備すると、すぐに再生ボタンを押した。
長い予告が終わり、キャラメルポップコーンを美味しそうに頬張りながら「もうすぐだね」ってワクワクしているカズキ。つられて頬の筋肉が緩む。
その時、部屋の明かりが突然ついた。
何事かと後ろを振り向くと、スーパーの買い物袋を提げたカズキの浮気相手が青ざめた顔であたしを見ていた。

そして、今に至る。
あたしの横には動揺を隠しきれていないカズキが座り、目の前にはうつむいて今にも泣き出しそうな浮気相手。そんな不自然な2人を繋ぐちょうど九十度の直角の位置であたしはキャラメルポップコーンをつまんでは食べていた。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
しぼり出したカズキの声は、かろうじて耳に届いた。
「そんなってどんなつもりよ」
ヒステリックな女まがいのセリフだと勘づいたので、ギリギリのところで言い留まった。代わりに、口とキャラメルポップコーンをもう何十回も往復している手を止めた。
「ごめんなさい。私、彼女がいるの知ってたのに。でも・・・ずっと前から好きで」
震える小動物みたいな声で、浮気相手が手も上げずに勝手な発言をした。
「前から好きだったからいいってもんじゃないでしょう。っていうか泣かないでよ」
この場でのこのセリフは性格の悪い女風だと100人中80人は思うと思ったので、多数決で負けたほうが喉の中間地点でせき止めた。
言い終わるか終わらないかですすり泣き始めた浮気相手に、おろおろするカズキを見ていたら、ここから逃げ出したくてたまらない気持ちになった。この2人の前から消えてしまいたかった。自分なんて初めからいなかったなら。唯一過ちを犯していない自分が、なんだか1番悪い気さえした。
それを押し殺して冷静な表情を保つために今のあたしには、キャラメルポップコーンが必要不可欠だった。1つずつを2つに変えて口に運んだ。

カズキが説明して、勝手に口を挟んだ浮気相手が泣き出す。その繰り返し。あたしは絶えず食べ続ける。
説明される内容は特に頭に入ってこなかった。
ただ崖っぷちに立たされている2人の表情と驚いたまま止まっている映画の主人公の顔がミスマッチすぎて、どうにか同じ視界に入れないようにと四苦八苦していた。
「謝ってほしいなら謝るし、別れて欲しいなら別れる。だから、お願いだから何か言ってくれよ」
挙句の果てにはあたしに助けを求めてきたカズキ。それでいてしっかり浮気相手へのフォローも忘れない。この人は元々、そういうところが強い人だった。
みんなに優しい。それが長所でもあり、欠点だった。
こんな状況でみんなに優しいなんて嫌気がした。
キャラメルポップコーンもすっかり空になったことだし、あたしは最後にこの甘ったるい口を言葉に貸してやることにした。
「全部、知ってたから」
そう告げて、2人がポカンと顔をそらした隙に早足でその場から逃げ出した。

勢いよく飛び出してきたら、外はもうすっかり暗く街灯が灯っていた。街灯が灯って、街灯が歪んだ。
あれ、なんであたし泣いているんだろう。なんで泣くのよ。悲しくない。ちっとも悲しいことなんてない。
カズキが浮気していることなんて承知の上だった。
自分への愛が変わらないのだったら、彼がどこで誰を愛そうがかまわない。そう思って、今の今までやってきたんじゃないの。なによそれ。それじゃあまるで、あたしが今まで我慢してきたみたいじゃない。彼を手放さないために頑張ってきたみたいじゃない。そんなのちがう。そんなことない。そんな格好悪い女、あたしじゃない。あたしじゃない。
いいえ、あたしだ。全部、全部、今までのこと全部あたし。
彼を失いたくなくて、カズキを自分のものにしたくて、全部わかったふりをしてあなたの恋人という唯一の居場所をこれからも塞いでいくつもりだった。
それなのに逃げ出した。あの部屋から、浮気相手から、カズキから。だからこれでもう終わり。壊滅終焉閉幕仕舞いフィニッシュ。
もうすぐカズキとあたしの短いエピローグがあって、それで何もかもが本当に終わる。
涙が冗談じゃなくて滝みたいに頬を流れる。これでいい。
自然に沿っていれば、これが普通の流れだったのだから。
こんなことなら、発見したときに「信じられない」なんて泣き叫んでひどい言葉で罵ってふってやればよかった。そうすれば、今より幾分かはましだったのだろうか。そんなこと想像もつかない。
あの時からあたしにわかっていたことは、もう元には戻れない。表面上にいくら変わりがないからといって、彼の愛してるや好きの囁きはもう今までのものとは違うふうに聞こえる。
彼よりも誰よりも、傷つき考え気にしていたのは格好悪くて惨めなこのあたしなのだから。
そのうちきっと、大好物だよってあの子もあたしみたいにキャラメルポップコーンを買ってカズキの家に行ったりするのだろうか。
でも今は2人が出会った頃の思い出や、幸せで息苦しくなった日々のことを考えて、彼の大好物で満たされたこの体を揺らして家に帰ろう。
あたしには甘すぎるこのキャラメルポップコーンが消化されて吸収される頃には、ちゃんと言えるといいんだけど。
ありがとう、そしてさようなら。
でもそんな都合のいいこと神様は起こしてくれないだろう。
苦い苦い人間は食べても美味しくないときっと知っているから。



[22331] ニ、偽ツインズ
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/02/07 23:59
なにもすることがない。

そう言って垂れた長い黒髪のあいだからこっちを睨んだ。
反論しようとした口はいつの間にかあっちに塞がれ、仕方なく口をつぐんだ。
なにか言い返したところでそれはきっとたいした意見じゃないことが目に見えているので、つぐんどいて正解だったとは思う。
すると今度はあっちが頭を叩いて私に攻撃をしてきたので、仕方なく私は頬をつねってやる。
彼女の頭には引き下がるという選択がないのを知っている。
思ったとおり、私がすればするほどやり返してきた。
でもそのうち、暴力でのケンカは意味のないことだと気づく。
あっちがやればこっちが痛い。こっちがやればあっちも痛い。
結局、どっちも同じだけ傷ついて終わるだけなのだから。

小学校、中学校、高校と順調な学生生活を2人して歩んできて、高校を卒業して1年目の今年私はニートになった。
社会人を3ヶ月で辞めた私に、彼女はとても腹を立てていた。
それだけならまだしも、それから職を探そうともせず実家で親のすねにかじりついて、半ひきこもりのような生活を送る私に毎日罵声を浴びせた。でも、彼女はきっと好きでやっているわけではないと思えた。
それくらいしかやることがないのだろう。
実際私も、彼女の罵詈雑言を受け流すことぐらいしかやれることがなかった。

今日はそんな罵声も浴びせつくし底をついてしまったようで、ただうなだれてこっちを睨み続けた。
視線というものは意外にも言葉より受け流すのが大変だということを、ちょうど5分程前に5時間彼女に睨み続けられてようやく気づいた。張りつめられた空気のせいなのか、カラカラに渇いた喉を潤そうと机の上のお茶に手を伸ばす。
「私、のど渇いてない」
「私は渇いてる」
少しぬるくなったお茶を勢いよく体内に流し込み、空になったペットボトルにふたをした。
「そうやって人生にもふたをしちゃえばいいのに」
私は無言のまま口を拭う。
「くやしくないの?私はもう死ねって言ってんのよ。あんたなんか生きてる価値もないって」
こっちに乗り出してきても、どうせなにもできないと知っているから私はうつむいたまま動かずにいた。
「なにか言いなさいよ、そのままずっと黙ってずっとずっとここにいるつもり?」
つむじに痛いほど感じる視線にも気づかないふりをして、ただ動かずにじっと。
「そう、そうやって動かずにいればいいじゃない。そうやって人と関わらなければ、なにも起こらないし他人のことで無駄に悩むこともなくなるもんね。もうあんたには付き合いきれないわ」
あっちが切れたのかこっちが切れたのか、その瞬間脳みその中の小さな糸がぷつんと限界を超えた音が聞こえた。
「じゃあ、さっさといなくなればいいじゃない。こんな所にいないでどこかに行ったら?あなただって私と同じなくせに、全部私が悪いみたいな言い方はもうやめてよ」
それは予想より遥かに小さな声だった。そして、久々に聞いた自分の声だった。
「私だってわかってるわよ、今の自分が馬鹿で駄目な人間だってことくらい。でもどうしようもない。外が怖いの。人が怖いの。こうやってただ生きてるだけで精一杯なの」
言葉と一緒に信じられないくらい涙がこぼれた。
声を震わせながら言葉に詰まる自分があまりにも情けなく思えて、そんな姿を彼女に見せないために右手で涙を覆った。
指の隙間から見えた彼女も同じように左手で顔を覆い、静かにか細い声で泣いていた。
左手をそっとあっちに差し出す。右手がゆっくりこっちに差し出される。
繋がれた2つの手は触れたところから、不思議なほどに温度を持った。

彼女の絶えない罵詈雑言は私に向けてのものであり、彼女自身に対する本音だった。
私のとめどない涙はふがいない自分からのものであり、彼女への同情によるものだった。
私が駄目なら彼女も駄目になる。私が生きるなら彼女も生き続ける。
この地獄がまだ終わらないのなら、それは2人で耐え忍ばなければならない。
たとえ一生罵り合うことになったとしても。
この地獄がいつか終わりを向かえるならば、2人で踏み出していかなければならない。
たとえ冷たい手のひらを合わせることしかできないとしても。
私と彼女はこれからも、なにがあっても一緒だからだ。
この薄っぺらい鏡を挟んで、私たちはいつも同じところにいる。
なにもすることがないときだって、精一杯ただ生きるしかないときだって。

笑おう。

彼女が涙を拭いたら、私も涙を拭く。
声も言葉もいらない分、2人は底の底の部分で繋がっている再確認の合図。

笑おう。

どっちが本物かなんて今さらそんなことになんの意味がある。
彼女の吐いた息が、鏡に映る私を曇らせた。



[22331] ヌ、愛男
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/03/28 16:40
今日も始まった。僕らの終わらない抗争は部屋の中心に灯された、彼女のお気に入りのアロマキャンドルを挟んで静かに始まる。
「わたしのこと死ぬほど愛してるんでしょ」
小さなその声はしっかりと意思を持って、キャンドルの灯を揺らした。
「うん、そうだよ」
僕のは少し弱々しい。最初はいつもそうだ、だからキャンドルの灯も動じない。
「じゃあ殺して」
笑うとえくぼができる。彼女の好きなところの一つだ。
「嫌だよ、そしたら僕は何を想って死ねばいい」
今のはいい言い返しだった。本日は順調な出だしだ。
「わたしを想って死ねばいいわ。ロミオはジュリエットの死を悲しみ毒を飲んだでしょう」
さすがは文学少女。ひるぎもしなければ攻めに徹するときたか。だが、そのくらいじゃ僕は負かせない。
「ジュリエットは自殺したんだ。それに正確に言えば、ジュリエットがロミオの死を追ったんだよ。やはり僕が先に死ななきゃならない」
わかりきったことを言われ癇に障ったようで、視線を下へ一瞬外した。さぁどうくる、珍しく僕が優位に立っている。
「世の中にはレディーファーストという言葉があるわ。あなたが紳士ならわたしを先に逝かしてくれるはず」
そうくるか。
「確かに僕は紳士だけれど、ならば人殺しは論外だ。命を懸けてきみを守るならいざ知らず」
今のは少し苦しかったか、でも筋は通っているだろう。
「そう、あなたは正真正銘の紳士なのね。では紳士さん、レディーの頼みは断れないんじゃなくって」
勝ち誇ったように僕に近づく。
「そうだね、愛する人の頼みならなおさら」
僕は変なところで抜けている。
「お願いよ、わたしを殺して」
唖然とする僕に挑発的な視線を送り続ける彼女。灯はまっすぐに燃え続ける。返す言葉がなかった。
「わたしの勝ちね」
また負けた。
「惜しいとこまでいったと思ったんだけどなぁ、だめか」
「まだまだね」
軽快な足取りで部屋の電気をつけに行く彼女が、なんとも嬉しそうに言う。
「あと二回ね、ちゃんと何使うか考えといてよね。なるべく痛くない方法で」
鼻歌を歌いながらキッチンに向かう彼女に、僕は情けない声で「あぁ」と答える。
あと二回負けたら、僕は彼女を殺さなければならない。
それが僕と彼女の宿命だ。そして僕は一生死ねないことになるのだろう。
愛されすぎて殺されたい彼女の願望と、愛しすぎて死にたい僕の思いはパズルピースの破片みたいに隙間なくぴったりくっつくことができたけれど、そのために見えすぎている終わりを回避することはできないと知った。
僕たちがもっと大人になってから出会っていれば、もっと別の方法があったのだろうかとも考えるが、それでもきっと、彼女に出会ってしまったら僕のこの欲求は抑えられなくなるし、彼女のほうだって今みたいに喜んで僕に命を差し出してしまうのだろうという結果に陥る。
結局僕たちは、出会うべくして出会い、出会ってはいけない存在同士だったってことだ。
それでもこうして出会ってしまったのだから、どちらかが折れるまでこうして抗争を続けることになる。

愛してる?、愛してる。
この終わりの見えない愛の囁きが終焉を迎える唯一の方法が僕らにも訪れたら、それはそれで運命に抗うことになる。
でもそれは決してないような気がするから、僕はこの終わらない抗争が本当に終わらなければいいのにと抗う。
自分の欲求と矛盾した考え、この二つが脳をぐるぐる回る度に僕の心はむなしさでいっぱいになる。
これではいつまでたっても彼女には勝てないのだ。
それでも、愛は矛盾したものだと僕が彼女を殺す前に伝えられたらいいと思う。
ほら、僕は彼女を前にすると少し弱々しい。
まるで今にも消えてしまいそうなこのキャンドルみたいだ。



[22331] ネ、ゆらゆら、ふわふわ
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/03/31 16:18
呼吸が無意識でできてしまうのが、そもそもすべての原因なのだ。
意識しないと吸い込めないし、気づかないと吐くことも忘れてしまうようになれば、一日中、酸素と二酸化炭素のことを考えなければいけなくなって、これ以上、むづかしいことを考えずにすむのだ。
そうすれば、呼吸の度に二酸化炭素を吐き出す人間と違って、呼吸の度に酸素を作る植物を、しこたま大事にするであろうし、たいした価値もないくせに、ただ偉そうに建ち並ぶ高層ビルをぶっ潰したそこには、目に優しくて、しこたま酸素を吐き出してくれる植物が、伸びやかに育ち、やがてそれらは増殖し、巨大化し、緑でおおいしげる森林に姿を変え、居場所を失い、さまよい生きていた動物が帰ってくる可能性だってある。
人間は有り余るほどの酸素を手に入れ、地球は元の姿を取り戻し、動物と人間は、平等の立場を獲得する。
呼吸が無意識でできなくなるということは、こんなに良いことばかりに繋がるのだ。
なのに、なぜ誰もこの理論に気がつかない。
呼吸が無意識で行われていることさえ、気づいていない馬鹿者もいるぐらいだろうし、この夢のような理論が認められる瞬間を、生きて目にするのはさぞむづかしいことなのであろう。





え? 今誰といんの? 仲間? えー、おんなでしょ。嘘だー、あははは。で実際誰といんの? へぇ、本当は? おんなじゃないでしょ、うふふちがうよー信じてるもん。そうだよ、ハルカ信じてるからーうんうん、ってかさむーい、外さむいからねーまじさむすぎ、死ぬかもーうん、あははは。

信じてると寒い。どちらもたいした意味のないように、無表情のまま喋るあんたが、私は信じられないよ。電話を切ったハルカに、白い煙を浴びせた。
「やめてよー」しかめっ面で両手をバタバタさせながら、それを振り払う。
「タバコやめなー。嫌われるよー苦いチューは」
反抗するように、二本目を取り出す。増税のポスターが偶然目にとまる。
ニコチンは足りていたので、少し考えて、やっぱりと箱に押し戻した。
その行動に気付いたハルカは、携帯を瞬時に折りたたんで、あたしの手から残り少なくなったホープメンソールを奪いとった。
「これを機にタバコをやめましょー。ほら、レナ宣言して、私は増税を機にもう吸いません。肺にも申し訳ないと思ってます。みなさんも、今がチャンスですよー」
と、両手を大きく広げて、満面の笑みのつもりで私に言う。
無言で盗られた所有物を奪い返すと、その顔はおかしな方向に歪んだ。
先ほど折りたたんだばかりのハルカの携帯が、また音をたてて主人を呼び出した。
「もしもしー、あぁーりょうくーん」
まったく、このこには何人の王子様がいるのか。
自販機のほうへ歩きながら、きゃっきゃっと騒ぐ。
多分、いや絶対さっきとは違う男だろう。ひがみ? いいや違う。
ひがんでもないし、非難してもいないし、いやらしいとも思わないし、最低なんてもってのほか。このこは病気なのだ。直接、医者にかかってるわけでもないし、薬で治療しているわけでもないけれど、立派に病気にかかっているのだ。
何が原因かはわからない。
私は別に、このこの家族でもなければ親友でもないし、過去に何かあったのか、最近あった出来事なのか、そんなことはまったく知らないし、知るよしもない。そんな私でも知っていることといえば、彼女が病気で、何人もの男と付き合っていて、普通なら自然ににじみ出てくるはずの表情が、少し欠落しているということだけだ。
ハルカが昔、こんなことを言っていた。
「たとえるならば、浮いてるの。どこにいても、何をしてもゆらゆらふわふわ、浮遊しながら、地球を斜め下から見ているの。変でしょ。浮いているのに、みんなより下にいるの。寂しいとか悲しいとか、そういう気持ちはなくて、あぁハルカどこまでいくのかな、どこに着地するのかな、一体この溢れかえった人の中で、ハルカの足首を掴むのはどの人なのかなって。ゆらゆらふわふわ、ゆらゆらふわふわ」
そんな、突然の意味不明な告白に対して、私は何も返せなかった。
たとえそこで、考え抜いた最良の答えを見出したとしても、それを言葉にした瞬間、このこはそれさえも自分の浮遊の渦に巻き込んで、ゆらゆらふわふわどこかへ飛んでいってしまうのではないか。
そんなふうに考えたりしていた。それはそれで、それでもいいのかとも思ったけど、やっぱり後々、不本意な責任をかぶるのは気持ちのいいことではないな、なんて考え、結局、彼女の着信音が鳴るまで無音の中を過ごした。

どんな男が彼女の足首にヒットする基準なのか、それは彼女にしかわからないと思うけれど、今、電話をしている男も、さっきまで喋っていた男も、彼女の理想の王子様ではない気がした。きっと昨日初めて会ったとかいう男も、おとといまで寝泊りしていた家の男も違う。
その前まで彼女の家に転がり込んでいた男も、毎日かかさず朝から晩までメールのやり取りをしていた男も、全くノーヒットだろう。
「ばかー、一人だよ。今、電車待ってんのーえ? あははは、ハルカも愛してるーほんとほんとー、てかさむいよー」
一本の棒線状につながった言葉たちが、冷たい線路の上をただただ連なって歩いている。
タバコも吸っていないのに、息を吐くたび白い息が上へ上へ浮かんでいく、ゆらゆらふわふわ、ゆらゆらふわふわ、と。


ハルカの結婚が決まったことに一番驚いたのは、家族でもなく、親友でもないこの私だったと思う。
気づけば、月日はあれから三年も流れており、春夏秋冬を三回繰り返す間に、彼女の足首を手にした理想の王子様は見つかったらしい。
彼女とはあれ以来会っていなく、何度か電話やメールのやりとりはあったが、それも内容のないものばかりで、結婚式の招待状がほぼ何年かぶりの、彼女からの便りとなった。行くかどうか悩んだ末、わずかな好奇心には勝てず、結局すんなり行くことに決めた。

式で、純白のウェディングドレスを身にまとい、父親への手紙で涙ぐむ彼女は、まるで普通の人間のようだと思った。
その後も、新郎の友人数名のくだらない茶番劇を見て笑い、お色直しを済ませ、再度、披露宴会場に入場してきた姿は、恥らっているようにまで見えた。
それでも、半信半疑なまなざしで彼女を観察し続けた。あれは本当の笑顔なのか、あれは本当の涙なのか。
そのうやむやな疑念が確信に変わるのも、そう時間を要さなかった。
披露宴を終え、二次会にはどうも行く気が起きなかった私は、とにかく人の流れがなくなるのを待っていた。
広い会場の隅っこで、ハルカへのプレゼントと沢山の疑問と謎を抱えながら、目の前にある黒いソファに腰を下ろした。
すると、向こうから小走りで、頭にど派手な花をつけたハルカがやってくるのが見えた。
「久しぶりー、レナ」
そこからのことは思った通り、ハルカが普通で、健全な女だということの証明しか待っていなかった。
まず、彼女は笑った。めいいっぱい笑った。
久々に言葉を交わす友人との再会を、目尻にしわを作って喜んだ。
そして後ろから彼女の新郎、つまり彼女の足首を射止めた足首王子が現れ、私に挨拶をした。
彼女は私のことを紹介し、次に足首王子を私に紹介した。
優しい口調で、頬をほんのり赤らめたりなんかして。
「まさか、私が結婚なんてねー」
彼のほうを見ながら彼女の発した言葉には、とても深い感謝の意がこめられているようだった。
去り際に、この後用があるから二次会は参加できないと告げると、ハルカは残念そうに微笑みながら手を振った。
残念そうに微笑むなんて高度なまね、足首王子が教えたのだろうか。
「じゃあまた、今度会おうねー」
手を振り返した時、ハルカがもう自分のことを、ハルカと言わなくなっていたことに気づく。
相変わらず語尾はのばしっぱなしだけれど、この数年で彼女は、ずっとずっと成長していた。
何が彼女を病魔の手から解放させたのか、やはり私には知るよしもなかった。





息を吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く。煙を吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く吸う吐く。

結婚式から帰ってきて、ずっとこの調子だ。
意味のないことというのは、元々あまり好きではなかったけれど、ハルカに会ってからは、ますます嫌いになった。私には意味のないこと、必要のないこと、関係のないこと、そのすべてを、生活から取り除いてやりたくなる衝動に駆られた。
いつかこんな日がくるのではないかと、脳みそのどこかは言っていたが、まさかこんなにも急に訪れるとは。
とにかく考えに考えた末、私は今ここでこうして息を吸って吐いている。
意識的に酸素と窒素を取り入れ、意識的に二酸化炭素と窒素を吐き出している。
でもそんなことを続けられるように、人間の体は組まれていないらしかった。
数時間続けると、自然と気が狂いだしてしまうのだ。ほら、まただ。
腰から、例えようのないむずがゆさが這い上がってくると、動かないでいるのが困難になる。
体内で暴れだしたそれは、全身の神経に向かうのだろう。
椅子から転がり落ち、手足をバタバタと乱暴に動かし始める。
やがて、奇声が上がる。髪の毛を無造作にかき乱し、あちこちに体をぶつける。
痛さで、数ミリの正気が舞い戻ってきた時、その瞬間のチャンスを見逃さなかった場合、タバコに火をつけニコチンを吸う。そして吐く。
タバコを吸っている間は、何も考えなくていい。
タバコを吸うという行為だけは、無意識を許しているからだ。
それは気が狂いかけた私には、意味のあることで、必要のあることだ。
そして唯一、呼吸に似ていると思うからだ。
煙が灰に溜まって、私を犯していたむずがゆさの正体が、ずるずる脳天から吸い取られていけば、私はだんだん、正気を取り戻していく。
あぁ、どうやら足首をひねったようだ。
神経が自分に塗り替えられたところから、ところどころ感覚を呼び覚まし、同時に新たにできた、皮膚の変色部分の痛みを素直に伝えてくる。
それは自分に戻った証でもあり、別人になっていた時の証でもある。
だいぶ落ち着き始めたら、意識的な呼吸を再開する。
そんなことになんの意味があるのか、自分を見失ってまで続ける、価値のある行為なのか。
最初に言ったと思うけれど、私は無意識の呼吸をやめ、意識的な呼吸をすることによって、世界を善くしようとしているのだ。
そりゃあ、私一人の行動だけでは、きっと何も変わらないでしょう。
でも、私がこの意識的呼吸を実現することによって、絶対に賛同してくれる人間はいるはずだ。
そうでしょう。それだけで世界が善くなるのなら、きっとみんな協力するはずだ。
ハルカみたいに、年中浮遊している人間なんて特に。
意味があるのか、その質問に問おう。
その質問には果たして、どれだけの意味があるのか、必要があるのか。私は意味のないことは嫌いだ。

ハルカは、意味のあることをしていた。
病気を治すために、自分なりの方法で治療をしていた。
そこいらの平凡な、ハッピーエンドな結婚とはわけが違う。
彼女は足首王子と結婚して、普通の人間になったのだ。
表情を身につけ、感情を手にし、病気に打ち勝ったのだ。
それなのに私は、私ときたら、呼吸さえもまともにできていない。
肉体であるただの魂の器に邪魔され、第一段階も達成できずにいる。
情けない、あぁ、なんて惨め。新しいタバコの封を開ける。
でも、こういった考え方もある。
私はなんて勇敢で、挑戦を恐れない人生の勝ち組なのだろうと。
世の中には現実から逃げ、意味のないことばかりにうつつを抜かしている連中が腐るほどいる。
無意識に身を任せ、辛い時も悲しい時もただ笑おうだなんて、そんなのは無責任すぎて無意味すぎる。
笑ったから何が変わる。胸の中の湿った部分は、確かに多少、晴れやかにはなるだろうが、何も変わらない。
嘆かれていた内容は、少しも改善しないではないか。
そう、確かに人生はむづかしい。
一人じゃ抱えきれないことも、一人では乗り越えられない壁も、それこそ腐るほどある。
ハルカのように、順調に軽快に、呆気なく幸せを掴んでしまう者は多くはないだろう。
それどころかほとんどの人が、己の欠けた部分を補うべく、手を伸ばしあい、沢山のものを掴もうとする。
もしくは、手さえ伸ばせずに、暗い闇の中をさまよう者もいるだろう。
そんな人たちから見れば、私は天使のような存在なのだ。
この意識的呼吸理論を発見し、しかもそれを、まさに自分を実験台として、みなさんにお見せしようというのだから。
息を吸い吐き、それだけに意識を集中させ、息を吸い吐く。
そんな姿を見て、一人でも生きる希望を手にすることを祈る。
人生はむづかしい。故に、損傷も激しいだろう。けれど、生は何もむづかしいことではない。
私はまさに思うよ。呼吸を意識的に行うことで、生のあまりの簡単さを。

吸う吐く。吸う吐く。吸って吐くことによって、私たちは今ここにいる。
吸って吐くことによって、世界がある。それ以上に意味のあることなんて、きっとそうそう見つからないと思う。
ひねった足首が、誰かに掴まれているように痛い。
彼女の順調に軽快に、呆気なくというのは取り消そう。
彼女にも彼女なりの、苦悩や痛みがあったのだろうから。
右手に挟んだタバコに火をつけて、息をゆっくりゆっくり吐く。
煙は、上へ上へ昇っていく。
携帯を耳に押し付け、無表情で笑うハルカを思い出した。
その残像かただの幻覚か、椅子の上で、あははは、と私を見てハルカが笑った。無表情だった。
私はゆっくり煙を吐きながら、彼女の結婚の贈り物をセットではなく、シングルのマグカップにしてしまったことを悔やんだ。
吸って、吐いて、体が浮いていかないように、また吸った。



[22331] ノ、トラウライダー
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/03/31 16:23
ママー、ママー、どこ行くの?
ママー、ママー、パパが手をふってるよ。
ママー、ママー、パパがお空をとんだよ。




俺、別れるなら、ここから飛び降りて死ぬ」
二十歳の若造は、言うことだけは大胆だ。どうせ、そんな勇気もないくせに。
「ねぇ、聞いてる? 俺本気だよ、本気で死ぬから」
なにが本気だよ、本気と書いてマジってか。
くるっと後ろを向いて、重たいスーツケースを転がそうとすると、直樹が叫んだ。
「飛び降りるから」
光並みの速さで脳によぎった光景が、私の足を止めた。
振り向いて、ぼろいアパートの二階を見上げると、直樹は天使みたいに微笑んで部屋に戻った。
私には、若造の悪魔にしか見えなかった。
とりあえず、ため息をアスファルトに落としながら、もと来た道を引き返すことにした。



直樹は一回りも年の違う、私の恋人だ。付き合って、もう二年になる。
ということは、彼が十八歳のときに手を出したことになるが、勘違いしないでほしいのは、あくまで言い寄ってきたのは直樹だった。
そして、そんな健気な若造と付き合ってあげたのが私だった。
こんな悪魔とよく二年も一緒にいれたのか、正直、疑問でならない。
何度、喧嘩をして、何度、別れを切り出したことか。
今日だって、別れる寸前までいったのに、結局いつもと同じで戻ってきてしまった。
原因は私にもある。もちろん彼にもあるが、最近自分の中でやっと出した結論は、やっぱり直樹を私の恋人にするのには若すぎたってこと。
それはどっちが悪いって問題でもないし、話し合いで解決する問題でもない。
今回、別れを切り出した要因はほとんどがそれである。
一言で言ってしまえば、しょうがない問題。
それなのにあの若造は、努力する、の一点張りときた。
話すら、まともに聞けない直樹に腹が立って、勢いで家を出てきたら、さっきみたいなことになった。
「飛び降りるから」まだその言葉が、胸の中でこだまする。

玄関のドアを開けると、ご主人様を待つ犬みたいに直樹が立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
しっぽを振りながら、こたつにもぐる彼を見て、またしても深いため息がこぼれた。



パパが死んだのは、ママが離婚届に判を押した三十秒後だった。
当時四歳だった私は、ベランダから飛び降りたパパを見て、手を振って笑った。
そのときのパパはまるで、天使の羽が生えたみたいにふわふわ浮かんでいるかのように見えた。
私の笑い声と、ママの悲鳴と、パパの潰れる音が交差して、それからの記憶はない。
憶えていないのか、意図的に抹消しているのかはわからない。
これが私の頭の中で、嫌な記憶として、楽しい記憶として、どういうものとして処理されているのかもわからない。
ただ時々ふいに出てきて、そのときの私の判断を鈍らす。
パパは私を良い方向に導くつもりなのか、悪い方向に向かわすつもりなのか、それとも何も考えずに飛び降りたのか、見当もつかない。
でも私はなんらかのきっかけで、またこの記憶を呼び覚まし、四年間しか一緒に過ごさなかったパパに人生を左右されてしまうのであろう。


「ねぇ、さっきのあれ本気で言ってたの?」
「あたり前じゃん、三十秒前までは本気で死ぬつもりだった」
「今度そんなこと本気で言ったら、私が死んでやるから」
そんなことを、言いたくもなる。



[22331] ハ、夢の中の花魁
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/04/14 11:44
目尻に向かって跳ね上がる黒のライン。
ぷっくりとした唇には真っ赤な紅をひく。
色鮮やかで上品なお花があしらわれた着物をまとい、陽が完全に沈んだ夜の街へ、一歩踏み入れれば途端に男達はざわめき出す。
「おいおい、絶品の女を見つけたぞ」
「どれどれ。へえ、ありゃ格別だな」
「格別だし、格も違うのさ」
「どうゆう意味だい?あの女さ、抱きたいねー」
「お前には、無理無理。ありゃ、頂点さ」
「頂点?」
「そう。あれは吉原の花魁の頂点に立つ女さ」
流し目一つで大抵の男の胸を鷲づかみにし、抱かれる客は自分で選ぶ。
毎晩声が枯れるほど鳴いては、お前が恋しいと男を泣かせた。
そう。私がこの夜の都、吉原遊郭の頂点に立つ花魁でありんす。

という、夢を見た。
昨晩観た江戸時代を背景にした映画にでも、影響されたのだろうか。
いやはや、私の前世は花魁なのだろうか。
びっくりするくらい鮮明だった映像は、夢から覚めても中々頭から離れなかった。

ある日、引き出しを整理していると昔、母から受け継いだ口紅を見つけた。
埃っぽいキャップを開けると、昭和臭さの奥から真っ赤な紅が顔を出した。
興味本位で塗ってみると、幸の薄そうな私の唇にそれは意外とよく映えた。

次の日いつもより少し濃く化粧をし、仕上げに昨日と同じように真っ赤な口紅をひいたら、心なしか夢で見た花魁に似ている気がした。
調子に乗ってそのまま彼の家に行くと、予想外にお褒めの言葉をもらった。
顔まで真っ赤にして照れたその時、頬紅まで濃くしてこなくてよかったなと小さく胸を撫で下ろした。

その次の日、また同じように鏡の前で唇に色をつけるとおかしな気分になった。
自分には花魁の素質があるのではないか、なんて唐突に思ったりしたのだ。
カーテンをめくるともう陽が沈みかけていた。
完全に暗くなり、星よりネオンの目立つ街に一歩踏み出してみる。
そして、その夜私は知らない男に抱かれた。
帰り道、口紅の薄くなった唇を風がスースー通り抜けた。
笑いをこらえるのに必死だった。太陽は気づかないように後ろ向きで上がってきてくれた。

またその次の日、意気込んで鏡の前に座ったものの気分が乗らず1日中家の中で過ごした。
きっと花魁もこんなもんなのだろうな、なんて想像しつつ花魁の休日を過ごしてみた。

そんな日々が長く続くはずもなく、3人目の知らない男に抱かれた後、すぐ彼にこの花魁ごっこがばれた。
「私は花魁になってただけ」
「ちゃんと相手は自分で選んだもの」
彼は私を問いただす度、本当のことを言ってくれと繰り返したけれど、私もそれと同じだけ本当のことしか言っていないと繰り返した。
2人ともやり直そうと努力はしたものの、結局彼の「やっぱり無理」の一言で私は捨てられた。
これで晴れて花魁ごっこを再開できる立場になったが、その後何度、鏡とにらめっこをしても花魁になる気も口紅をひく気も起こらなかった。
そんなこんなで時は経ち、真っ赤な母の口紅はどこかの引き出しでまた埃を被り、私も花魁になる前の普通の暮らしに戻っていた。
どうしてあんな衝動に駆られたのだろう。
花魁もあんな、おかしな衝動に駆られる時はあるのだろうか。
夢に出てきたあの花魁に問いかけてみたいところだが、そんなことで振り向いてくれる相手ではないことを思い出し、花魁と私の格の違いを実感するのが精一杯だった。



[22331] ヒ、リアリティー
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/05/04 04:13
落ちる、落ちる、ただ落ちていく。
落とす、落とす、なるべく速く落としていく。
トン、トン、トン、トトン。トン、トトン、トン、トトン。
落ちる。下に上に前に後ろに、ただただ落ちる。

 GAME OVER。

「あぁ、また駄目だぁ。あの記録は超えられないよぉ」
外の静けさと内の静けさがちょうど一体化し始めてきた頃、彼女だけは隣で発光する電子機器に向かって、なにやら興奮状態にあった。
「もうちょっと声、抑えなよ」
「あ、ごめん。つい熱くなっちゃって」
そう言って照れた仕草で僕に謝ると、両耳にはまっていたイヤフォンを外して、右手にかれこれ一時間は握りしめていただろう、彼女の必需品の電子機器をやっと手放した。
「悟くん、寝ないの?」
大きめの手鏡を覗き、髪の毛を整えながら彼女が訊ねる。
「寝ようと思ったら、さっきのでかい声で目が覚めたの」
「あ、ごめん」
また照れたように笑うと、唇にのったグロスがてらてら光った。
正直、僕はこのグロスという液体があまり好きじゃない。
なぜならこうやって、ふいにキスをしたくなる衝動に歯止めをかけてくるからだ。
欲求に素直になっていいタイミングで、それを躊躇させられるのは男としてあまり気持ちのいいことではない。
そんな理由で、突然やってきた衝動をなんとか抑えて、シートに深く腰を沈めた。
「ねぇねぇ悟くん、まだまだ着かないの?」
席と席の間にあるひじ掛けに両手を乗せて、覗き込むような体勢の彼女に、上半身だけ向けて答える。
「そうだな、あと二時間くらいはかかるかな」
「えー、そんなにー」と、まるで心の声でも聞こえてきそうな顔で僕を見るから、分裂していた先ほどの衝動が早足で配列を組みなおした。
「寝てればすぐだよ。明日、早起きするんだろう」
「うん」
座席にきちんと座りなおすと、恐る恐る僕の右手に触れてきたので、窓のほうに顔を向けたまま握り返す。
トンネルに入り、真っ暗な窓ガラスに彼女の幸せそうな様子を見て、もう一度キスをしたくなる衝動に駆られたが、唇に残るねっとりしたグロスの感触が、それをまた躊躇させたので断念することにした。
トンネルを抜け、街灯もほぼない星明りだけの闇の中を、一心不乱に走り続ける新幹線から感じる微かな振動に身を任せる。
後ろに流れていく星ひとつひとつをぼんやり眺めていると、昨日まで降り続いていた、あの足掻きようもなく落ちてくるだけの雨粒にすごく似ているような気がしてきて、なんでか目を離せずにいた。



人生は選択肢の連続だ。
なんて、よく耳にする言葉はあながち間違ってはいないと、そんなことは誰もが知っていることで、そんな大衆の事実に自分が当てはまっていないわけがなかった。美保を選んで、由香里と別れたのも、れっきとした僕の人生の選択の一部だった。
現実的に、常識的に人生を進めるのならば、選択肢は誰がどう考えても、由香里一本だった。
今年、三十五になった僕がまだ三十四で、一つ年上の由香里が今の僕と同じ三十五だったその夏に、僕は彼女に婚約のプロポーズをする予定だった。
そして、どの歯車も正常に稼動していて、なにもかもが予定通りにいっていたならば、彼女は僕の申し出に「はい」と答え、二人が三年間呼ばれ続けた恋人という名称が、あっさり夫婦へと変わっていくはずだった。
そう順調に事が進んでいれば、僕にはきっとたいした選択は待っていなく、どちらかと言えば、由香里のほうにその境遇が当てはまっていたことだろう。
後々、子供が産まれ、その子が大きくなった時に語って聞かせることになったかもしれない、プロポーズという彼女にとっての人生の一大イベントを、仕掛ける側のはずの自分が呆気なく駄目にしてしまった。
そしてそれに代わるかのように、僕には今までの人生で出会ったことのないほどの、大きくて過酷な選択が待ち構えてしまうことになった。


「悟、好きなんでしょう。あのこのこと」
その日は、本当ならば由香里にプロポーズをすると決めていた当日で、予約した彼女の好きなシェフがいるという、三ツ星レストランに向かう車内での出来事だった。
「え?」
そのときの彼女には、僕の胸のうちを何一つ話していなかったので、それは思いもよらない一言だった。
「美保ちゃんって、何歳なの?」
「十八歳」
「あちゃー、それはさすがに手出しにくいか」
由香里は軽く口を押さえて、からかうように笑った。
その隣で運転を続ける僕は、まったくこの状況を把握することができなかった。
放心状態の運転手を見て、由香里はまた少し笑った。
「なに? 気づいてないとでも思ってたの? あんたの顔見てればね、嫌でも気づくわよ。で、このままレストランにあたしのこと連れて行って、それからどうする気なの? 他に好きな子ができたからって、別れ話でも始める? それとも、あのこのことは忘れて、用意してきた指輪渡して、通常通りプロポーズしてくれるの?」
由香里が次から次へと紡ぎだす的確な言葉は心臓に刺さって、それにどう返答すればいいのか考えても出てくる気配すらない脳みそを抱えて、これ以上平常に運転を続けるのは無謀だと判断した僕は、人通りの少ない道に入り、車を停めた。
そのことに、由香里は何も言わなかった。寧ろ、停めさせるために発した言葉たちだったのかもしれないと、今になって思う。
「あの、ごめん。でも本当に、浮気とかそういうことはしてなくて」
「知ってるよ、なんかやましいことしてたら、あのこ、あんな顔であたしに会えないと思うし」
「美保と会ったの?」
「会ったっていうか、そんなたいしたことじゃないんだけれど。この前、仕事帰りに悟の家に行ったら、あのこが玄関に出てきて、その時ちょっと顔を合わしたっていうか」
「あ、あれは、美保が家の鍵忘れたらしくて、親が帰ってくるまで部屋にあげてただけだから」
「わかってるよ、そんなにむきにならなくても」
そう言って、彼女は優しく微笑んで左腕にそっと触れた。
「別に攻めてるわけじゃないんだから。でも、そのときになんか分かっちゃったんだよね。あ、きっとこのこだって」
「いつから気づいてたの?」
「んー、いつからだろう。今年の五月ぐらいからかな」
「別れようとか思わなかった?」
「思わなかったよ。だって、確信はなかったし、相手なんて検討もつかないし。そういう曖昧な情報に振り回されて、なにかを決断するなんてあたしらしくないでしょう」
「そうか。でも、女の勘はあなどれないなぁ」
「女の勘、そうね。でもね、これはあたしがどうこう言う問題じゃないなって思うの。それは、勘っていうよりはあのこに会って思ったことなんだけれどね。これは、あたしでもあのこでもない、悟の問題なんだなぁって。だからね、悟に選ばせてあげようと思って。あたしか、それとも美保ちゃんか」
なぞなぞでも出すみたいな雰囲気で、並べられた言葉もなんだか妙に謎がかって聞こえた。
彼女があまりにも穏やかな口調を崩さないので、風船の破裂音より響きかねない鼓動の音を隠しつつ、できるだけいつも通りを心がけていた姿勢はもう崩壊寸前だった。
今の自分の脳には気の利いたセリフも、この場をもう一度順序立てて整理する余裕も、そんなとってつけたような遠まわしの言葉を考える隙間はないに等しく、彼女の一見なぞなぞのような本音に対する答えを考えるので手一杯だった。
それに答えを返すほかに、彼女に向けて言えることがなかった。けれどそれを、由香里は見事に遮った。
「ストップ。あのさ、選ばせてあげるとは言ったけど、悟の本音じゃなければ認めないからね。あたしへの同情とか、世間一般の常識とか、そんなことを交えて考えているなら、この選択は意味のないものになってしまうから。それはね、もちろん悟のためにならないし、あたしにも美保ちゃんのためにもならない。あのね悟、あんたも悪いことしたかもしれないけれど、あたしもあんたに謝らなきゃいけないことあるのよね。悟が、あたし達がこんなふうになっちゃったのは、元はといえばあたしのせいなの。ほら、あたしってこんな性格でしょう。だから、なんでも一人で決めちゃうところがあるし、しかもお節介だから、他人のことまで決めたりなんかしたりして。大事な人だと特にね、辛い思いをしてほしくないから、良い方向に導いているつもりで後から考えれば、それはただのあたしの自己満足だったりするんだよね。だからこの三年間、悟自身の問題にもだいぶ首つっこんでて、気づいたら悟は無意識だと思うのだけれど、簡単にあたしに決定権を委ねるようになった。それが最初は嬉しくて、あたしってこの人に必要とされてるんだ、愛されてるんだってそう思ってあんたの人生に関われているのが幸せでしょうがなかった。でもね、あるとき気づいたの。このままずっとあたしが悟といたいと願えば、悟はきっといつまでも一緒にいるって誓うでしょう。なら、あたしが落ちていくときは悟をも一緒に落としてしまうのではないかって。そうなったとき、あたしは果たして悟を解放してあげることができるのかって。だってそうでしょう。自分がどんなにどん底に沈んでしまったとしても、大事な人だけは、あんただけはどうか幸せになってほしいと普通は願うものなのに、今までだってあたしはそう願ってきたつもりよ。でもね、急に不安になったの。あたしはきっと、思ってたより大人じゃないんだって。幸せも喜びも分かち合えるのなら、悲しみや辛さも共有したい。あたしが落ちるなら、悟にも落ちてほしい。地球上のどんな人をさしおいてでも、あたしの元に来てほしい。そんなことを言ったら、悟はなんて言うのだろう。それでね、簡単に想像がついちゃったの。きっとそんなときだって、決定権は無意識のうちにあたしが握ってるにちがいない。今まで散々、あたしが左右してきたんですもの。ううん、きっとそれだけじゃなくても、悟は一緒にいてくれるって言うんだ。それが自分の意思とは正反対でも、それが悟だから。あたしが好きな悟で、あたしを好きな悟だったから。でも、二人の関係をそんなふうにしたのはあたし。悟をそういう立場に立たせているのはあたしなんだよ。今さら気づいてごめんね。こんな日がくるんじゃないかなって薄々分かってたんだ。悟はあたしのおもちゃじゃないもんね。感情も気持ちも意思もある。あたしを嫌いになれば、離れていくこともできる。あたしと落ちていくにはもったいない人なんだって。だから、今回は悟が決めるの。誰の意見も関係なく、心から思ったことを口にするの。あたしのものでもない、世間のものでもない、畑中悟っていう一人の人間として、今一つの人生の選択を迫られているんだよ」
話を終えた彼女は、一息つくように背もたれにもたれた。
そして今いる暗い路地から正面の建物と建物の間から覗く、明るく賑わった大通りを何を見るわけでもなく眺めた。
明らかに、僕の返事を待っている。それが、痛々しいほど伝わってきた。そして、僕はようやく口を開いた。
「美保のこと、本気なんだ」
彼女が、顔の向きをそのままにして頷く。
「由香里のことが好きだったくらい、美保のことを好きになりつつある」
もう一度頷いた彼女の頭は上がらなかった。それでも、続ける。
「十八歳の女の子を好きになるなんて、自分でもおかしいんじゃないかって思う。今日、本当は君にプロポーズしようと思ってた。まぁ、もう知ってると思うけれど。それは今日、家を出るときに決めたことだ。美保のこと悩んだけれど、僕には由香里がいるし、結婚は前々から決めていたことだから。でも正直、由香里が美保のことを知ってるって聞いてだいぶ動揺した。君が知らないってことが唯一の救いだったんだよ。美保のことをなかったことにできるっていう。でも、その救いが途絶えたとき、君が一回目の質問をして、どちらかを選べって、もう脳みそが炎上するんじゃないかってくらい必死で考えたけれど、やっぱりそこでも僕は君を選ぶって言うつもりだった。でも君はそれを遮って、もう一度同じ質問をした。そして、僕はもう一度それに答えるよ。由香里、僕と別れてほしい」
震えた掠れた声だけれど、僕は僕の答えを出した。すると、隣で震えながら掠れた声で由香里がそれに答えた。
「はい」
こうして、僕の人生における大きくて過酷な選択は幕を閉じた。



ふと腕時計を見ると、到着時刻が迫っていた。あの日のことを考えていると、未だに時間の感覚がなくなる。
結局あの後、レストランの予約はキャンセルし、彼女を家まで送り届けて僕も自宅に帰還した。
一度、寝間着やら小物やらを取りに僕の家に来た由香里は、事務手続きみたいに別れを告げて、それからは会っていない。
電話もメールすら寄こさなかった。
それらの行動があの夜の聖母のような彼女は、完璧な作り物だったのだと僕にひしひし訴えかけてきていた。
それは今も変わらず、罪悪感を増幅させている要因だ。
恋人から他人、僕はたぶん彼女にとって他人よりも遥かに関係のない存在になってしまったのかもしれない。

右手を握っていた美保の手がピクリと動く。
幸せそうにすやすや眠るこの人を、正式な恋人にするために今自分は新幹線に乗っていることを思い出して、無意識にため息がこぼれる。
久々に連日休暇がとれたので、美保に行きたい場所を聞いたら僕の故郷なんて言い出したものだから、最初は少し戸惑ったが、我儘を聞いてやることにした。
別に家族に会いたいとかじゃなくてね、ただ悟くんが育ったところを知りたいだけ、美保はそう言った。
なんで急にそんなことを言い出したのかは、大体分かっている。あれは確か、一週間とちょっと前だったか。
僕の部屋から偶然にも由香里の私物が出てきた。
あのしっかりしすぎていると言っても過言ではないほどの彼女が、忘れ物をしていくなんて夢にも思っていなかったので結構驚いた。
その驚き加減が美保の不安を煽ってしまったのか、何度説明してもなかなか理解してもらえなかった。
なので、聞きたいことがあるならなんでも答える、と自分らしからぬ男らしい発言をしたら、美保は今まで溜めていたらしい質問を全部投げつけてきたのだ。
そのほとんどは由香里との交際期間中への質問で、その一つが「結婚はするつもりだったのか」と、いうものだった。
嘘はつかないという誓いをその前に立ててしまった僕に、選択の余地はなかった。
そこで話した内容が、たぶんこの僕の故郷行きに繋がっているのだと思う。
由香里を初めて実家に連れて行ったとき、彼女はこんなことを言っていた。
「あたしって都会育ちでしょう。だから絶対、住み心地のよさそうな田舎を持っている人と結婚しようって決めてたんだよね。うん、ここなら満点」
その一言で、田舎への感謝とともにプロポーズに踏み切ったのだ。
話を食い入るように聞いていたその数時間後に、美保は行き先を決めたのだからきっと間違いない。
そしてまたもや、自分の帰郷が人生の選択のきっかけになってしまった。
好きとか愛してるといった単語と、付き合ってとかプロポーズといった申し出の違いは中学のときの僕には理解不能だったが、今の僕には理解できる。
美保に対して、前者は何度か伝えたことがあるのだが、後者のほうはまだだった。
一年前に由香里から促された選択は、実際のところ完全に幕は降りきってなかったということだ。
由香里と別れて、美保との距離は縮まっていくはずなのに、僕はそのことをずるずると引きずっていた。
いつも高い崖の上で、誰かに迫られている気分だった。それは美保といればいるほど、強く濃くなっていく一方だった。
落ちる。あの感覚は今にも落ちそうな、指でこつんと背中を小突かれたら勢いよく真っ逆さまに落ちていく、そんな感覚だ。
こうやって美保と手を繋いでいると、その感覚は彼女にも伝わってしまうのだろうか。
二人で落ちたら、それは二倍の速さで進むのか。それとも二人の重さで、落ちてしまうのか。
背筋に悪寒を感じて、力の抜けた彼女の左手から自分の右手を抜こうとする。それに気づいたのか、彼女は目を覚ましてしまった。
「もう、着いた?」
「ううん、でももうすぐ着くよ」
そう穏やかな顔で彼女に言うと、彼女も眩しそうな目で幸せそうに笑った。離しかけた左手を、もう一度右手で握った。



ようやく駅に着き、新幹線を出た瞬間、夏特有の蒸し暑い空気に包まれる。
駅前に予約してあるホテルに今日はとりあえず泊まる。
実家はこの駅からまた電車に乗らなければいけないので、一晩だけそこで過ごすことにした。
ホテルへと歩く道すがら、僕は懐かしい空気を吸いながらまた考えていた。
考えていてもしょうがないことを、考えて考えてまた考えてしまう。
由香里が言っていたことは事実だとは思う。けれど、僕は単純に由香里の決断力に惚れていたのだ。
彼女のそういう、他人のことまで手が回ってしまう余裕や、お節介で僕みたいなやつを放っておけないところを尊敬していたのだ。
だから僕はそれを一度も迷惑だと思ったことはなかった。
逆に感謝しなければいけない立場だと思っている。
あのときの言葉がすべて真実で、由香里の心からの謝罪だったのならば、僕が美保を好きにさえならなければ、僕らは最高の夫婦になっていたのではないだろうか。
自分の欠点を相手が長所と捉える関係なんて、そうあるものじゃない。
情けないな。美保を前にして、こんなことばかり考えている自分が情けない。
どんな分かれ道があろうと、僕は美保を選んだんだ。今度は美保が選ぶ番なのだ。
僕はあのときの由香里になり、美保は僕になる。そして、その結果しだいで誰が落ちるのかが決まる。
美保が落ちていく、僕が落ちていく、二人で落ちていく。
僕は落ちる。どうせ、由香里を選んでも美保を選んでも、どちらからも選ばれなかったとしても、きっと落ちてしまうのだろう。
美保は。美保は落ちる必要があるのか。彼女は何もしていない。
僕みたいに人を裏切ったり傷つけたり、それどころか僕を救ってくれている存在だ。
そんな彼女を僕は一緒に落としてしまうことになるのだろうか。
まだ十八歳の無垢で純粋で無知な、自分の右手を一生懸命握り返してくれる彼女を一緒に落としてしまって、それは正解なのだろうか。
「ねぇ、ホテルまだ?」
「もうすぐだから」
「はぁい」
「携帯見ながら歩くと転ぶよ」
「大丈夫だもん、それにこれiPhoneだもん」
「あっそ、メール?」
「ううん、ゲーム。今これにすっごいはまってるの」
「どんなゲーム?」
「Falldownっていって、ボールを画面から消えないように、どんどん下に落としていくゲーム。障害物があってね、それに負けないようにできるだけ速く落としていくんだよ」
「――そうなんだ」
「悟くんにもホテル着いたらやらせてあげるよ。美保下手くそでさ、全然落ちていかないんだよね」
「うん。わかったから、もう危ないからしまいなさい」
 彼は余程ゲームが嫌いなのか、その言葉は拒否されたように冷たかった。今言ったことは、なかったことにしよう。
「はぁい。ねぇ悟くん」
「ん?」
「美保のこと好き?」
「うん――好きだよ」
「ふふ、明日楽しみだね」
受付の係の人はやたらと眠そうで、部屋に着いた美保もそれにつられたみたいに、すぐにベッドに入った。
美保の必需品のiPhoneとやらのゲームをやりながら、僕はまた由香里のことを考えていた。
君はあのときどこまでわかっていたのだろう。
僕が由香里になって、美保が僕になって、由香里が他人になって初めて君の出したなぞなぞの答えに近づく。
聖母のような笑顔は誰のためのものだったのか。

落ちる、落ちる、ただ落ちていく。
落とす、落とす、なるべく速く落としていく。
トン、トン、トン、トトン。トン、トトン、トン、トトン。
落ちる。下に上に前に後ろに、ただただ落ちる。

明日、彼女に言わなければいけないことがある。
眠っている美保に軽く唇を重ねると、柔らかい熱がじかに伝わってくる。形や感触、息、匂い、恐いほど生々しい彼女が確かにそこにいた。安堵の息が漏れた。



[22331] フ、ファンタジー
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/05/04 02:07
 1

 おとぎ話を毛嫌いするようになったのは母のせいでもある。
 中一の夏、母は書置きだけを残して家からいなくなった。もぬけのからというのは、ああいうことを言うのだろう。学校から帰ってきてその書置きに気づいた私が一番に向かった母の部屋は、その言葉通りもぬけのからだった。
「みーちゃんとママの、一番好きだったおとぎ話のお姫様に、ママはなります。王子様のところに行くことを許してね。体には気をつけて。ママより」
 母はおとぎ話が大好きだった。特にお姫様ものの物語が好きで、その中でもシンデレラを愛読していた。
 その影響で幼い頃から何度読み聞かせられてきたか分からなくなるほど聞かされた、シンデレラのお話は私のお気に入りでもあった。けれども、その微笑ましい母と子の絆はその日を境に真っ二つにちぎれることとなった。
 父と私を捨てたことにも腹を立てていたが、それをメルヘンちっくに着飾った文章で自分に知らせた彼女のおどけた行動が、余計はらわたを煮えくり返す引き金になったことは言うまでもない。
 部屋の中で火を使ってはいけない、と母が決めたこの家のルールを初めて破った。母はもうこの家の住人ではないのだから、別にいいだろうというやけくそな気持ちだったのかもしれないが、そうせずにはいられなかった。
 母の決めた掟を破り、部屋でマッチを灯し、母の書置きとシンデレラの絵本に火をつけた。みるみるうちに燃えかすになっていく様が、異様に胸を躍らせた。その快感がちょっとしたくせになり、母との思い出の品を一つ、また一つと灰にしていった。
 一週間経つと、燃やす対象を探すのが困難になるほど、家の中から母の存在が消えかけていることに気づいて、それがどうもおかしくて私は気が狂ったように笑って、母がいなくなってから初めて泣いた。
 父との二人きりの暮らしには、意外とすぐ慣れた。父はやらなかっただけで、家事全般を一通りこなせた。父の家は母子家庭だったらしく、働いていたお母さんの代わりに色々と任されていたらしい。
 それは二人で暮らすようになってから、聞いた話の一つだった。それまでは親子間であまり会話がないというよりは、父は口数の少ない人だと勝手に思いそう接してきたのだが、それはただの思い込みであることを知る。
「お母さんがよく喋る人だったろう。だからお前と話す暇も、お父さんが話す隙もなかったんだよ。そして気づいたら、無口な親父になってたってわけだ。まぁ、今さらだがな」
 父との会話は面白かった。話せば話すほど無口で頑固だと思っていた、それまでの父親像をことごとくぶち壊していった。今回の件で、人の思い込みの凄さを身をもって感じることになった。
 私と父は性格が似ているのか、いつの間にか父は私にとって誰よりも話しやすい存在になっていた。学校のことや人間関係のこと、ちょっとした悩みなど、言うつもりもないのについ話したくなるような存在だった。私が父に対しそう思っていたように、父も私に対してだいぶ心を開いていたみたいで、母がいなくなって半年が経ったある日、夕飯の席で初めて母のことを話してくれた。
「お母さんはな、お前ももう知ってると思うが、お父さんより好きな人ができて今その人と暮らしている。お前が連絡をくれないから、寂しいと言っていたぞ。まぁ、それはいいんだが。そのお母さんの好きな人はな、お父さんを好きになるよりずっとずっと前から好きだった人らしい。確か、歳は一回りくらい違うと言っていたから、たぶん五十近い方だろうな。幸せだと言っていた。もし、お前がお母さんと暮らしたいのなら、いつでも大歓迎だそうだ。部屋も用意できるそうでな、お父さんは一人でも大丈夫だから、お母さんと暮らしたかったらそうしてもいいぞ」
「やだよ、美保、お父さんと暮らしたいもん」
 私が笑ってそう言うと、そうか、と父も笑った。
 本心だった。父のことが好きだったし、母とその浮気相手の家で暮らすより、父とこの家で暮らすほうが断然居心地がいいだろうと思った。しかし、それよりもなによりも気持ちが悪かったのだった。
 母の言っていた王子様がもう五十近いおじさんだってことも、そんな人を王子様と呼んで私達を捨てた自称シンデレラも、父のことなんて微塵も考えていないで、幸せだと微笑む母のことをどうしようもないくらい否定してやりたかった。今までの母のこと、これからの母のこと、あんな人が私の母親だってこともすべて否定したいし、誰かに否定してほしかった。
 だけれど、目の前に座るこの心優しい父という人間にそんなことを頼めるはずもなく、吐き出す口が見つからない私は、仕方なく本棚に並べられたあの人の好きなものたちを、心底嫌いになってやることにした。私がおとぎ話を毛嫌いする起源は、ほぼここからきているというわけだ。
 母は私の存在意識の中に、おとぎ話に姿を変えた自分を置き去りにしていった。そして、私は母が大嫌いだった。


 近からずも遠くない、色あせるにはまだ早い、そんな高三になったばかりの春に私は不覚にも母のことを思い出すはめになった。数えてみればもう、あれから五年の年月が流れていた。
 高校生活も残すところあと三分の一となり、そろそろ将来に向けて真面目に取り組む時期がきた。友達は考えるところから始めるこが多かったが、私は将来なりたいもののために大学進学を自分の中でずいぶん前から決定していたので、あとは受験勉強が考える暇もなく行く道に立ちはだかっていた。父にも了承済みで、金銭面ではまったく問題がないから安心して受験しなさい、と温かく後押ししてくれた。
 当時、私は塾に通っていた。そこは高校受験からお世話になっていた塾で、年老いた担当の先生は、普段滅多に会うことのない本物のおじいちゃんよりおじいちゃんみたいに可愛がってくれていた。孫になった気分の私は、おじいちゃん先生という愛称でその先生のことを呼んでいた。時が経つのは早いもので、私とおじいちゃん先生は出会ってから七年の仲だった。
 なので、もちろん大学受験も二年前と同じく、そこの机にかじりつく予定だった。けれど、悲劇は突然やってくる。
 おじいちゃん先生が亡くなったのだ。
 それは本当に急なことだったらしい。親族の方たちも驚きのあまり葬儀の手続きが遅れたとかなんとかで、おじいちゃん先生が亡くなった当日は涙を流す時間もなかったと噂で聞いた。
 医師の診断ミスが影響したらしいが、それも確固たる証拠はなく、訴えたり、裁判などにはならなかった。
 そのことがあったのは高一の夏休み中で、私は友達と一泊二日の旅行をしている真っ只中だった。それゆえに、葬式にも通夜にも出れず、駆けつけたときにはおじいちゃん先生はすでに粉々に燃やされた後だった。
 そしておじいちゃん先生の名前が書かれた、ぴかぴかの墓石の前で私は人目も気にせず大泣きしたのだった。きっと、本物のおじいちゃんが死ぬときよりも悲しかったにちがいない。おじいちゃん先生と本物のおじいちゃんの墓石を並べて試したわけではないから断言はできないけれど、なんとなくそうであってほしかった。そのことで少しでも、突然終わってしまったおじいちゃん先生の人生が鮮やかになればいいなと一生懸命手を合わせて悲しんだ。
 それ以来、私は塾に顔を出さなくなり、授業料がもったいないという理由で父が踏ん切りをつけてくれた。私もそれに納得した。おじいちゃん先生と私の仲を父はよく知っていたので、塾の話題はそれ以上持ち出してこなかった。
それからは、特に新しい塾にも入らず、勉強面では気の抜けたような生活を送っていた。塾に通い続けていた理由は、おじいちゃん先生との授業が楽しかっただけで、ただそれだけだったってことがおじいちゃん先生が死んでよくわかった。
 でも、それとこれとは話が別だ。
 そういう子供じみた言い訳で勉強を放棄するのは、去年までが限界だった。今年、三年生になり、今の自分の成績では目標の大学に遠く及ばない現実が今日、実力テストの結果の用紙として目の前に叩きつけられたこの状況で、誰かの手を借りるほか進学への道はなかった。
 その日、残業がなかった父は定時に帰ってきていて、珍しく夕飯を作っていた。最近は、仕事が忙しくなってきた父の代わりに私が家事を任されていたので、久々に雑誌やテレビを見ながらだらだらと夕方を過ごしていた。
「ねぇ、成績がね、あんまりよくなかったんだよね」
 フライパンでなにかをジュージュー炒める後ろ姿に向かって、半笑いで話しかける。
「この前の実力テストか。どうしたもんだかね」
 調味料を取りに行ったり来たりして、どうやら見つからないものがあるらしい。
「天かすなら、そこだよ」
 私の指さす先をたどって、食器棚の下の引き出しを視界に入れると、あ、そこねと言ってフライパンを持ったまま移動する。
「でさ、やっぱどっかに入るべきかな」
「塾とか? お皿取ってくれ、白い丸いやつ」
 雑誌をめくっていた手を止めて、食器棚のほうに向かう。
「うん、でも塾はなんか今さらね――」
 白くてだ円型のお皿を二枚取って、流しの隣りに並べる。そこへ父お手製の焼きそばが盛り付けられて、私はそれをテーブルに運ぶ。父の焼きそばにはいつも天かすがかかせないらしい。お母さんから伝授された秘伝の技のひとつだと、前に教えてくれた。
 それを学校で友達に話すと、六人中二人は知ってると答え、あとの四人は知ってるかもとか、そうなんだとかあやふやな答え方をした。案外、秘伝でもなんでもないのかななんて思いつつ、天かす入りの焼きそばを作る人はまだ父しか見たことがないので、お袋の味ならぬ親父の味のような気がして、そういう料理があるのは単純に嬉しかった。
 コップに麦茶を注ぎ、エプロンの紐をほどき終わった父は、どうぞお食べ、といったふうに右手でジェスチャーをした。いただきます、二人で一緒に手を合わせる。
「うん、どうしたもんだかね」
 慌ただしい動作をやめて、やっと私の顔を見て父はそう言った。

 話し合いの結果、家庭教師を雇うことになった。ちょうど父の部下の人の知り合いに、頼めば勉強を教えに来てくれるちゃんとした家庭教師ではないがそういうことをしている人がいるらしく、私に勉強を教える暇があるかを聞いてくれた。
 すると、あっさり了解されたみたいで、来週から来てくれることになった。それが、悟くんだった。


 2

 彼はうつらうつら頭を上下させて、必死で眠気に耐えていた。
 その横で私はひたすらゲームに熱中していて、両耳にはめていたイヤフォンのせいもあり、うっかり新幹線の中にもかかわらず大きな声を出してしまった。
「もうちょっと声、抑えなよ」
 彼がまるで小さな子供に怒るような口調で言うので、なんだか恥ずかしくなってやり途中だったゲームをしまった。赤くなってしまったかもしれない顔を確認するため、髪の毛を整えるふりをして鏡を手に取り、とっさに思い浮かんだ言葉を口にする。
「悟くん、寝ないの?」
 彼は私の照れ隠しにはまだ気づいていない様子で、
「寝ようと思ったら、さっきのでかい声で目が覚めたの」
 と、今度はからかうような口調で言った。眠たそうにたれた目をしてすねている彼が無性に愛らしく感じて、また私は顔を赤くしながら謝った。
 腕時計を見ると、もう二時間は経っているだろうという予想を裏切り、まだ四十分しか経過していなかった。
「ねぇねぇ悟くん、まだまだ着かないの?」
「そうだな、あと二時間くらいはかかるかな」
 時間自体はわりと想定の範囲内だったけれど、新幹線に揺られて待つ体感時間がこんなに長いとは思わなかった。父と二人暮らしを始めてから、車以外の遠出はなかったし、それ以外でも新幹線にこんなに長い時間乗るのは初めてだったので、私にはそのことを知るよしもなかった。
 ふくれたようにでも見えたのか、黙った私に彼は唇を重ねてきた。機嫌を取るつもりなのか、彼はいきなりキスをしてくるときがある。いつもとは言わないが、彼のそういう行動で私の機嫌が直ることは多い。その後の、子供っぽいような大人っぽい彼の妙なしぐさは、私の胸の急所をついており、ど真ん中にこられた日には不機嫌も機嫌もどこかへ飛んでいってしまった。
「寝てればすぐだよ。明日、早起きするんだろう」
「うん」
 そう言って、窓側に座る彼は視線を外へ向ける。遠い遠い空でも眺めるみたいに、彼の視界にはこの場所ではない別のどこかが映っている。時々、そう感じることがあった。
 そういうとき私は、体の中心がキューっと小さくなったように痺れた。その現象を防ぐには、彼の温度が必要だった。
 だから、時折私はこうやって手に触れる。それを大きな手が包んでくれたとき、私の麻痺した体は水の中で揺れる海草のようにゆっくりと、冬の日の熱いココアみたいにじんわりと、ほどけていくように感覚を取り戻した。
 私にはないやわらかな体温を感じ、重くなるまぶたを重力のままに閉じる。


 悟くんは教え方がうまかった。
 副業だといっても、フリーで家庭教師を頼まれる理由がよくわかるほど、学校の先生なんかより抜群に上手だった。けれど、私が問題視していることは別にあった。
 いくら歳が一回り以上離れていたとしても、誰もいない家の中で大の男と二時間を共に過ごすのに初めは抵抗があった。しかしそれは回を重ねるごとに自然と消えてなくなり、なくなったその空間には別の問題が生じてしまった。
 悟くんを好きになってしまったのだ。一週間に二度、二時間家に訪れる家庭教師に恋におちてしまったのだった。
 それは受験勉強の妨げになるとてもよくないことだったが、そんなことを考える隙もないくらいにその感情は加速していった。彼は、父のときのように私の思い込み、そうであるだろうという概念を見事にぶち壊した一人だった。それどころか、私の知っている男の人とはまったく別のなにかのようにさえ、その頃は思っていた。
 ただ単に、大人。では片付けられないそれが彼の魅力だった。大人のくせに幼さがあり、危うさをちらつかせるような人だった。幼さや危うさを全開にしている同世代の男子に、普段めいいっぱい触れ合っている私はそこの部分をとても敏感に感じとっていた。
 どこか放っておけなくなる、その魅力に惹かれた女性は今までどのくらいいたのだろうか。そして、今現在、その魅力の虜になっている女性は自分以外にいるのだろうか。
 その問いかけの答えは、イエスだった。
「どんな人? 悟くんの彼女さん」
 悟くんに恋人がいると聞かされたとき、私は同時に呆気なく失恋をした。けれども、その失恋が悟くんに対する私の中での新たなる問題となるのだった。
「――そうだな。なんでも一人でこなせちゃうような人かな。勢いあまって僕のことまで面倒みようとして、でもなんかそこが可愛いっていうか、お母さんよりはお姉さんみたいなね」
 問題集の答え合わせをしながら、そう答える悟くんはその瞬間だけ、少年という二文字が似合っていた。そして、それが私の恋心をぎゅっと摘んだ。この人が持っている魅力は、この人の彼女によって魅力という段階にまで育てられ、自分はそこに心底惚れこんでしまった事実に気づいたときには、後に戻りようにもすでに道がなかった。
 告白をして、ごめんなさいと断られたわけではないけれど、実質失恋をした私の恋心は、その後思わぬ方向に進んでいった。
 恋は障害があるほど燃えるものだと、中学のとき教育実習の先生に惚れていた友達のことを私はひとしきり馬鹿にしていたが、実際にそういった状況下に置かれた今になって、私は心からあの子に謝れる気がしている。
 悟くんへの想いが無残にも散って、フェードアウトしていくと思っていたそれは、あろうことか水を与えた植物のように日増しに元気になっていくようだった。それは、悟くんより一つ年上の彼女と自分が途方もないほど似通った点がなかったせいか、逆にそれが希望の光みたいに暗く湿った涙腺に信じられない速度で渇きを与えていた。
 センター試験を間近に控え、勉強を受験のためというよりは悟くんに褒められるために励んでいたある日、私は思わぬ場所で思わぬ人に会ってしまった。
 学校が午前中で終わったその日、玄関で家の鍵を忘れていたことに気づいた。父に電話をしてみたが出るわけもなく、しょうがないので父が帰ってくるまで暇を潰すしかなかった。
 駅へUターンしながら、私はあることを考えついた。
 ――悟くんの家に行ってみよう。
 悟くんの家は私の家の最寄り駅から、二つ行ったところにある。何度か、父が車で悟くんを送るのについていったことがあった。確か、彼の家は駅から車で三分ほどだったから、歩いて十分もかからないだろう。白くて青い柱の少し古びたアパートだ。
 理由はなんとでも言えばいい。試験が近いので、言い訳はいくらでも出てきた。
 多少迷ったが、案外あっさりたどり着いた。さすがに部屋の場所までは覚えていなく、とりあえず大家さんの部屋を訪ねた。教わった部屋のインターフォンを押すと、悟くんは予想通りの驚いた様子で私を出迎え、部屋にあげてくれて熱いココアでもてなしてくれた。仕事が休みなのは知っていたけれど、家にいたことに安心したのと初めて入る悟くんの部屋に、緩和と緊張が見事にねじれてやけに手に汗をかいた。
 夜から出掛けるらしく、慌ただしくてごめんねと言って彼はすまなそうにシャワーを浴びに行った。やっと心も体も落ち着いてきた私は、立ち上がって部屋を観察していた。机の上には彼女とのツーショット写真が置いてあって、初めて見る悟くんの恋人は想像より少しだけ髪の毛が長かった。
 興味津々でその写真を眺めていると、突然インターフォンが鳴ったので肩が反射でビクッと跳ねた。おそるおそる扉の覗き穴まで行くと、さっきまで自分が舐めるように見続けていた顔がそこにあった。悟くんを呼んでこようかとも思ったけれど、二人が一緒にいる姿を想像して私は平然を装える確信がなかった。
「あの――」
「悟、いる?」
 扉を開けて口ごもっていると、悟くんの恋人は優しく私にそう訊ねてきた。立場が逆転したようで、なんとも変だった。
「あ、今シャワー浴びてます。あ、でもそんなんじゃなくて、私が家の鍵忘れちゃって、夜から出掛けるみたいなのにいさせててもらってて。あ、私、悟くんの生徒なんです」
「そう」
 慌てて、支離滅裂で今の状況を説明する私がおかしかったのだろうか、悟くんの恋人は口を押さえて笑った。
「――あの、悟くんの彼女さんですよね?」
「そうよ。よく知ってるね」
「あ、いえ、さっき写真見て。悟くん、呼びましょうか?」
「いい、いい。ちょっと寄っただけだから。あなた名前は?」
「美保です。鈴音美保です」
「かわいい名前ね。受験生?」
「あ、はい。今年、大学を受験する予定で――」
「そうなの、がんばってね。あ、あたしが今日ここに来たこと悟には内緒ね」
「え、なんでですか?」
「いいから。ね、おねがい」
 そう言って、私に両手を合わせた。見た目はとってもかっこいいのに、そのお茶目なギャップがなんだか可愛らしかった。
「わかりました」
「美保ちゃんに会えてよかった。大学受かるといいね」
 笑顔のまま足早に立ち去る後ろ姿を見て、なんで会えてよかったのか頭を悩ませた。それはただ悟くんの教え子だからなのだろうか、それとも別の意味なのだろうか。別の意味なんかあるわけないのに、なぜかそっちのほうが有力な気がしてたまらなかった。
 その五分後、さっぱりした顔で悟くんは部屋に戻ってきた。私はあの人との約束を守り、恋人が来たことを言わなかった。それはとてもおかしな状況だった。敵視していた人が秘密を共有しあう隣り合わせな関係になり、目の前の取り合っていたものまでも共有しているような、そんな不思議な感覚だった。
 そういえば、あの人の名前を聞かなかったな。悟くんに聞いた英語の問題の説明を上の空で聞きつつ、ふと思った。知りたかったけれど、悟くんにそれとなく聞くこともできたのだけれど、なんとなくあの人のままにしておきたいと思った。

 悟くんと彼女が別れたことを聞かされたのは、私が志望校の合格を伝えに行った夜のことだった。
 もちろん、嬉しくて舞い上がっていた。父は帰ってきてすぐに、万歳三唱をしてくれた。すぐに悟くんにも伝えなさいと、父は電話をかけようとしたけれど私はそれを遮って、会って伝えてくると言って家を出た。
 突然行って驚かせよう、二重にサプライズを仕掛けてやるのだ。悟くんの喜ぶ姿を想像して、足はさらに軽くなった。
 アパートに着いてインターフォンを鳴らすと、あの日と同じようにいつもの悟くんが出てきた。でも、その顔は病人みたいに色白くて疲れきっているように見えた。
「――なんとですね。第一志望校、受かりました!」
「おめでとう」
 悟くんは両の手のひらをめいいっぱい鳴らして、嬉しそうに私を賞賛してくれた。目元にできた笑いじわが、余計生気の薄い顔を浮き立たせていた。どうぞ、と言って私を部屋にあげる。
「ほんと、がんばったね。これで飯も喉を通るよ」
「なにそれ、べつにご飯食べてたでしょ普通に」
 部屋は冷えきっていて、暖房器具が稼動していなかった。悟くんはそのことに関心がない様子でその前を素通りした。外とたいして変わりのない温度のその部屋で私は、マフラーもコートも着たまま床に座った。
「いやいや、美保ちゃんより緊張してたよ僕は。受験の日なんか特にね」
 見た目以外、悟くんは普通だった。けれど、なにか違和感があった。悟くんにも、この部屋にも。
 あったかいものでも持ってくるね、そうキッチンへ向かった悟くんを追った目線の先に違和感の正体はあった。机の上のツーショット写真がなくなっていたのだ。それどころか、よく見渡してみると部屋のものが以前より少なくなっていた。本や洋服、小洒落た置き物など、女っけというものが削ぎ取られたように消えていた。
「はい、ココアでいいかな?」
 疑問符をつけつつも、すでに差し出されたものに選択肢はなかった。今日の彼は、やっぱりどこかおかしかった。
「――あの、写真」
 言ってはいけなかったことかもしれない、触れてはいけなかった部分かもしれない、それらを考える余裕がそのときの私にはなくて、なんでか自分が切羽詰っていて、指をさされたほうを見た彼は答えた。
「あぁ、別れたんだ。彼女と」
 また笑いじわを作って、ココアをすすった。遠くを見つめていた。
「――そうなんだ。悲しい?」
 ココアで両手を温めながら、ついそんな質問をしてしまった。
「うん、悲しい。でも、向こうはもっと悲しいだろうから」
 下を向くと、隈が濃くなった。きっと寝ていないのだろう。彼の些細な行動から、溢れんばかりの情報と憶測が体内に流れ込んできて、私はもういてもたってもいられなかった。
 それは本能的な行動だった。
 ゆっくり静かに、彼の隣りまで歩いた。
「だいじょうぶだよ。仕方がないことだったんでしょう」
 なにがどう、そうなのか、確実なことなんてなにも知らないくせに、私はそう悟くんに声をかけた。喜び合っていたちょっと前までの部屋の空気は激変していた。
「――美保、好きだ」
 そして、空気はまたもや激変する。
 悟くんはたまにふざけて私のことを呼び捨てにしたりしたこともあったが、今のは聞いたことのない呼び捨てだった。そして、その後に続いた言葉は鼓膜から脳へスローモーションで進んでいった。
「え――」
「美保を好きになったから、由香里と別れた」
 真っ直ぐな目線は逸らすことも許されないほど、純度が高かった。時間がゆっくり流れた。心臓と呼吸の音がイヤフォンで繋いでいるみたいに、鼓膜をばんばん揺さぶった。肺に部屋の空気が詰まって、胸がひどく痛んだ。あの人の名前が目の前を泳いでいった。
 固まった私に、彼は触れるだけのキスをした。その瞬間、脳内に埋まっていた記憶が突然再生し始める。
 ――こうして、シンデレラと王子様は末永く幸せに暮らしました。めでたし、めでたし。
 母の懐かしい声が、昔、何度も何度も読み聞かせられたシンデレラのお話を楽しげに読み上げる。私には、意地悪な継母も身勝手なお父さんも、中年の魔法使いもいない。ここはお城でもなければ、あの人は傲慢な姉でもなく、相手はどこかの国の王子様でもない。そして私は、みすぼらしさの裏に美しさを隠し持つ素敵なシンデレラでもない。
 だけれど、浮かんだ絵には自分がいた。書置きを残して消えた大嫌いな母がいるべき場所には、今の自分がシンデレラとしてそこにいた。二人して黙ったまま、ココアの湯気だけが自由に立ち昇った。その間中ずっと、母は私におとぎ話を読み聞かせた。燃やしたはずのすべてが、頭の中でどんどん再構築されて、そこにあのときの苛立ちや負の感情はなかった。


 3

 左手がくすぐったくって目を開けた。おぼろげな視界の中、悟くんと目が合う。つい先ほどまで一緒にいた夢の中の悟くんより、数倍健康な顔色で隈はなかった。
「もう着いた?」
「ううん、でももうすぐ着くよ」
 優しい顔をしている。彼は私の王子様、お姫様は心から幸せに笑う。長時間握っていたせいで、二人の手の間にはどちらのものともとれる汗がうっすら滲んでいた。

 外の気温は思っていたほど、新幹線に乗る前と変わらなかった。普通に夏で、普通に蒸し暑かった。けれど、がらんと広くて人のいないホームが少しだけ私を涼しくさせた。駅の外に出ても、相変わらず人はあまり歩いていなかった。
 悟くんの故郷に行きたかったのは、確かに悟くんも勘付いている通り、あの人のことが原因だ。彼の恋人だった、由香里さんを今の私と同じようにここに連れてきた話を彼から聞いたせいだ。
 それでも、やっぱり悟くんは勘違いをしている。私がここに来たかったのは、それが羨ましかったからでは決してない。あの人が悟くんというフィルターを通して見た景色を、自分も見てみたかったからだ。それは私にはどう見えるのか、あの人に会う前も会った後も感じているあの途方もないくらいの差を、もしかしてそこでも感じてしまうのであろうか。そのとき、自分は何を思うのだろうか。なあなあになっている私たちの関係に、またあのときのように希望を見出すことができるのだろうか。
 半歩前を歩く彼は、また新幹線の中でしていた目でどこかにいた。何かを探し歩いているようで、絶望に追い回されているような彼独特の妙な目だ。これは私がさせているの、それともあの人が――。
「ねぇ、ホテルまだ?」
「もうすぐだから」
「はぁい」
「携帯見ながら歩くと転ぶよ」
「大丈夫だもん、それにこれiPhoneだもん」
「あっそ、メール?」
「ううん、ゲーム。今これにすっごいはまってるの」
「どんなゲーム?」
「Falldownっていって、ボールを画面から消えないように、どんどん下に落としていくゲーム。障害物があってね、それに負けないようにできるだけ速く落としていくんだよ」
「――そうなんだ」
「悟くんにもホテル着いたらやらせてあげるよ。美保下手くそでさ、全然落ちていかないんだよね」
「うん。わかったから、もう危ないからしまいなさい」
 彼は余程ゲームが嫌いなのか、その言葉は拒否されたように冷たかった。今言ったことは、なかったことにしよう。
「はぁい。ねぇ悟くん」
「ん?」
「美保のこと好き?」
「うん――好きだよ」
「ふふ、明日楽しみだね」

 ホテルに着いて、だるくて重い足を最後の力を振り絞ってエレベーターに乗せた。受付の人につられて、悟くんはいつもとは少し違う言葉を喋っていた。
 部屋に入って荷物を置くと、疲れがどっと押し寄せてきた。新幹線の座席に座って、いつより多少重たいかばんを持って、ほんのちょっと歩いただけなのに、体が疲労をひしひし訴えかけてくる。化粧を落とすため、クレンジングオイルを持って洗面台に向かった。
 大きな鏡に映った自分の顔は、やたらと眠そうだった。唇に少量残っているグロスがとても不釣合いな顔をしている。これをしょっちゅうつけているのは、お姫様になるには口紅をつけること、と母から聞かされた意味不明なお姫様の手順を軽くなぞっているのだ。
 でもたぶんそんなのは後付けで、悟くんに綺麗に見られたい、良く見られたいといった願望からきていることだろう。それでも、思い出だろうが影響だろうが一通りの化粧が済んだ後グロスを唇にのせる瞬間は、お姫様なるものに自分を塗っていく一種の陶酔状態に陥る。それが気持ちいい。それだけの理由かもしれない。
 ずるりとファンデーションでできたお面を取り去って、部屋に戻ると、悟くんは私のiPhoneをいじっていた。
 なんだ。やっぱりゲームしたかったんじゃない。
 ホッと気にかかっていたことが胸を外れ、ゲームをする彼を横目で見ながら、私はベッドに横になる。あっという間に眠気が襲ってきて、夢の入り口と現実が交差する。シーツの冷たさが肌になじんで、うっとりしていると母と由香里さんが一緒にいる場面が脳内に浮かんだ。
 夢でもない現実でもない、そんな場所で二人は私の話をしている。私もそこに混ざりたいのに、あの人をなんと呼んだらいいか、母になんて声をかければいいかわからなくて、ここで寝転がったままその様子をぼーっと眺めていた。
 途中からなにを話しているのか聞こえづらくなってきたが、母の口がシンデレラと動いているのがはっきり見えて、その言葉は今までのなんの感情もまとっていなく、子供の頃聞いたあの響きのまま無防備な私の体へ落ちるように入っていった。唇にほのかな温度を感じた。



[22331] ヘ、長いひとこと
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/05/08 14:51
誰も知らないあたしを知っているあなたをあたしは知っている。

あたしの前で笑ったりふざけたりするあなたをあたしは当然知っていて、

それは果たしてあたしの前だけのことなのだろうかそうじゃないのかあたしは知らない。

あなたの前で笑ったりふざけたりするあたしは当然あなたしか知らないあたしで、

それをあなたは知らない。

知らないあなたは沢山いてあたしはそれを知ろうとするが知れないことのほうが多い。

知らないあたしをもっと知ってほしいとあなたに知らせるようにしているのをあなたはまったく知らなくて、

今まで知らせてきたことをちゃんと知ったの部類に入れているのかも本当に知りたかったのかもあたしは知らない。

知りたいのに、知りたいことは山ほどあってその一つ一つをあなたは知らない。

あなたがどう思っているのかもあたしは知らない。

あたしを知らないあなたはあたしをもっと知りたいと考えれば。

そう願うあたしもあなたは知らない。

知った一つ一つのことをあたしが大事に大事にしていることも、

おそるおそる知っていると口にすることもあなたは知らないし知る由もない。

同じように知っているあたしをあなたはどういうふうに扱っているのかあたしは知らない。

のは、当然だということをあたしは十分に知っている。

のに、知りたい知りたいの一点張りのあたしは愚かだとあたしは知っていて、

知っているのにもかかわらずノート一ページ分の知りたいをあなたにぶつける。

それをあなたは知らない。知ることもない。こんなことは知らせない。

あたしのすべてを知らせてもあなたで埋まるあたしは知らせるはずもないので、

あなたは何も知らないままあたしの思いをぶつけられる。

知りたい。全部全部知りたい、と。



[22331] ホ、わたしの脳と臓器と心と
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/05/22 19:41
 ぱっと目が覚めて、携帯の画面をぼやけ眼で覗くと15時57分だった。
脳が瞬時にぎゅぎゅっとしわを寄せて、どこかのアイスのようにフレッシュにというわけにはいかなかったが16時近い現実に跳ね起きた。
その反動で平衡感覚を失った脳はがんがん鳴る。
その時間に用事があるわけでも、約束があるわけでもなかったが、16時は私にとって立派な夕方の時間帯に入る。
視界がまだ下半分の状態でどうして寝てしまったかを考える。
カーテンから透ける明るさに安心して、この向こうがもし光を失った夜になっていたのならば私は死にたくなっていたにちがいないと確信して、予想に反してまだ明るいのにも拘らず胸全体がうっすら憂鬱の雲に覆われる。
無意味な思い込みに憂鬱になった自分が滑稽でさらに鬱になり、重ねて16時に起きてしまった現実が嫌になってますます私の胸の雲行きは怪しくなっていく。
いや、事態を元に戻そう。
私はなぜ16時まで寝てしまっていたのだろう。
がくんと首を斜め下に捻ると、半分ほど残った麺と脂がぷかぷか浮いた昼飯の残骸が目に入った。
そして、すべてを思い出す。これを食べたことによって眠くなった私は、子供のような睡眠欲のままに布団に潜り込んだのだった。
それは確か14時頃だったから、2時間ほど昼寝をしてしまったことになる。
それくらいならなんてことないと思うが、私は今日11時40分に起床しているわけだから、今のところ今日という一日をほぼ寝て過ごしてしまっているわけだ。
あぁ、私はなんて怠惰な一日を過ごしてしまったのだろうか。これじゃただの廃人ではないのか。
昼に起きてご飯を食べて、また眠ってしまうなんてそこらへんにいる家畜と変わらないじゃないか。
こんな生活を続けていたら、私はそこらへんの家畜のように肥えて肥えて肥えまくって、終いにはそこらへんの家畜と同じく誰かに食べられたりしてしまうのだろうか。
しかし私がどれだけ家畜と似通った何かになったところで、人間であることに変わりはないのだから、家畜を食べる他の人間に食べられてしまうということはありえない。
今の日本では人肉を食べるのは禁忌とされているからだ。と、いうことは私の命は無事なのだ。
でも女として無事のままでいいのだろうか。
こんな肥えた私は人間としても、誰かに食べてもらうことはできなくなっているにちがいない。
こんな肥えた女に男は果たして魅力を感じられるのであろうか。いや、感じない。
私からはもうそういう女のフェロモンだったり、女性らしいたしなみだったり恥じらいだったり、そういうものが抜けきっているのだ。
だって、肥えて肥えて肥えまくった私には似合うサイズの服なんてなく、もう裸同然の生活スタイルになっているからだ。
そんな家畜女に日本女性のエロティックな部分を求められても、何も与えてやることなんかできない。
日本男児が大いに好む見えそうで見えない、チラリズムの素晴らしさを味合わせてあげることのできない私なんて人間としても女としても、誰も食べたいとは思ってくれないのだ。
家畜としても、人間としても食されない私は、需要のないただ肥えた存在に至ってしまったわけだ。
今の怠惰な生活の末には、そんな女の堕落した姿しか待っていない。
それを分かっているのも拘らず、私は16時近くまでのうのうと眠りこけて、その前には満腹になるまでカップラーメンを食べていたのだ。
はっ。思い出したぞ。私はこの脂の塊といっても過言ではないカップラーメンの前に、ミニ牛丼を食べたのだ。しかも卵をかけて。
なんということだ。私の果てはもう見えてきている。このカーテンの向こうに繋がっているのは光の失われた夜なんかではない。
このカーテンの向こう側には、私を笑う人の群れが立ちはだかっているのだ。
ミニとは言え、肉と炭水化物で構成されたこれまた脂の塊を食し、その後に液体と麺で作り上げられた究極の脂をすすっては飲んで、その上昼ののどかな一時を私は涎を垂らしてぐうたらと眠りこけていた。
それを笑って馬鹿にするために私が深い眠りに落ちている間、着々と準備が行われていたのだ。
私の近い未来の姿をプラカードに模写し、私を罵倒する言葉を次々に考えて、私が外の明るさに安心しカーテンを開くのを今か今かと待ち構えている人がすぐそこに群がっているのだ。
胃が気持ち悪い。胃が気持ち悪い。これは陰謀だ。
これは私を家畜としても人間としても食されない、いらない食材に仕立て上げるために仕組まれた陰謀なのだ。
胃が気持ち悪い。立てない。目眩がする。今すぐ窓やドアを開けて助けを呼ばなければ死んでしまうかもしれない。
けれどそうしたところで、私が助かる確率は0に等しい。
この部屋の外には私を陰謀にはめようと企む、邪悪な悪の化身のような人間しか存在しないのだ。
もう無理だ。この苦しみから解放されるのは、私が私自身を救うしか道はないのだ。
立つんだ。でもここで勢いよく立ち上がってしまったら、私が今から行う行為が外の人達にばれてしまう。
カーテンに浮かんだシルエットでその全貌を教えているようなものなのだ。
仕方が無い。這っていくしかない。胃が気持ち悪い。死にそうなほどに胃が気持ち悪い。
寝起きと共に平衡感覚を崩した私の三半規管は崩れに崩れ、砕けに砕け、私の胃の気持ち悪さに拍車をかけてきている。
腹ばいになっているせいで、余計に胃が圧迫されている。
胃が気持ち悪い。胃が気持ち悪い。死にそうなほどに胃が気持ち悪い。
死にそうなほど、死んだこともないくせによくもそんな表現を軽々しく用いることができたものだ。
死にかけた経験も、死ぬほどに無茶をした事実もないくせに私は少しでも体が不調になると、すぐに死ぬという言葉を軽々しく連射してしまうのだ。
吐きそうなほどに胃が気持ち悪い。死ぬことよりも吐く方が重いのか。死ぬほどよりも、吐くほどの方が自分にとって悲惨なのか。
言葉が前後したことに違和感がない。
初めは死ぬほどに胃が気持ち悪くて、這っているうちに吐くほどに胃が気持ち悪くなったのだ。
自分にとって死ぬよりも吐くが過大評価されている理由がわからない。
私は私の決め事や常識がわからない。
何が偉大で、何がちんけで、どこまでが痩せていて、どこからが肥えているのかがわからない。
何人までが数人で、何人からが大勢なのかがわからない。
わからない。わからない。わからない。ただ今わかっていることは、死にそうなほどに胃が気持ち悪くて吐きそうだということだけだ。
私の体の中にはわからない不明なものがごちゃごちゃ居座っている。
それらは私の脳で、存在理由を理解させてはくれないくせに私を追い詰める。
追い詰めて、追い詰めて、私を最低で最悪な状況に落としいれて、私に軽々しく死ぬという言葉を大量発射させているのだ。
すべてはその意味不明な私の体にまではびこっている悪の化身たちの仕業なのだ。
私を肥えさせようと企んでいる窓の外の人の群れも、私のたるんだ生活リズムも、その悪の化身が体中で暴れふためいているせいなのだ。
これを吐き出さなくては。今すぐに悪の化身を吐き出して、悪の大王を屈服させなくてはならない。
やっとトイレまでたどり着き、冷たい便器の淵に顔を突き出す。
もうお前らには負けない。誰にも負けてたまるものか。
私は気持ちの悪い胃に一瞬だけ猶予を与えて、一気に指を突っ込んだ。
上半身がさらに前のめりになって、手に力がこもると、白い便器内に汚れた悪の化身が飛び散った。
息を乱しながらも、もう一度指を突っ込む。
すると、同じように体が大きく震えて、先ほどよりも少ないほぼ液体化した悪の化身の残りかすが最初の主要化身たちを押しのけた。
胃の気持ち悪さは消え、ここに這ってくるまでのさまざまな妄想も消えた。
嘔吐物を流して、飛び散ったところを綺麗に拭いて、洗面所で三度うがいをしてから歩いて部屋に戻る。
カーテンを開けると外はまだ明るく、立て直しかけている三半規管が一度左右に揺れて、初めの頭痛だけが私の体に残った。



 こんな調子で、私は二年ほどまともな食事をとっていない。
正しくいえば、食事はとっているが胃への吸収を妨げ続けているのだ。
昔からそういう癖が少なからず私の体に存在しているのはわかっていたが、それがここ最近ひどく過激になって質量を増しているのだ。
その癖というのは妄想癖というやつで、考え出すと歯止めがきかなくなってしまうのだった。
そのせいで、特に食事という行為にあたっては元々胃が弱いせいか食べ終わった後に胃に不調を感じることが多々あって、それをなんらかの陰謀や企てといったあるはずもない壮大な悪巧みに繋げてしまい、今や生活に異常をきたすレベルまで体が不健康に至っている。
おかしな話だ。自分が創り上げた架空の出来事で、それが架空とわかっていながらも私はそれをやめられない。
吐くことで正気に戻ったり、どこか怪我をしてからといったきっかけがないと私は私を止められないのだ。
自分の体、自分の脳、自分の思考を自分で操れているという感覚がまったくない。
母親から生まれ、ある程度の臓器や肉体や心は母親の意思と努力で出来上がったものだとしても、子宮から飛び出して二十三年、もう自分のものと認識し、使いこなせても良い年月は十分経っているはずだ。
なのに未だに私は暴走し、欠けている部分は誰かが補ってくれるだろうという甘えに縋り、骨にしか見えない足で毎日を歩いている。
臓器も肉体も栄養に飢え、心だけは好き勝手に広がり続け、それ以外は鬱状態に浸かっている。
当然外出も少なく、人と会うのは週に一度入っているバイト先の従業員と客だけだ。
あとは時々かかってくる電話で友達と話したり、気分が乗らないときはかかってきても出ず、妄想状態に陥っている間は自分の周りで起きるすべてのことが何か巨大で恐ろしい陰謀だと思い込んでいるので、遊びの誘いなんてものに易々と乗るわけもない。
一年の三分の二はひとりだ。もしかしたらもっとかもしれない。
操作することのできない体と自分とこの部屋で、誰にも会わずにひっそり暮らしている。
このまま惨めに孤独死してしまうかもしれない。
その可能性だってなくはないと、ふと考えることがある。
でもその答えは今日わかった。
私は死ぬことより、吐くことの方が惨めで哀れなことだと思っている。
誰にも知られずに消えていくことよりも、誰かに怯え翻弄されている方がよっぽど悲劇的なことだと考えている。
私は本当はわかっているのだ。全部わかっていてこんな間抜けなことを繰り返している。
この苦しみは自分を自分にできないことからきているわけではない。
自分を自分と認識したくないのだ。この体や脳や思考を自分のものにしてしまいたくない。
母親のもの、見えない何かのもの、悪の化身のもの、そういうものたちの手に委ねることで、私は生を軽くしてしまっているのだ。
自分を他人任せにすることで死ぬことを軽くしている。でも結局はそれも元を辿れば、私なのだ。
自分を手中におさめ、操作されていると思っている主たちも所詮は私の妄想から生まれてきたものに過ぎないのだ。
暴走させたり、甘えたり、鬱になったり、それらの行動を私の体に起こさせている主の生みの母はみんな私なのだ。
私は初めから、きちんと操作できていた。必死に追い出そうとしていた悪の大王は私だったのだ。
私の体は、私の脳と臓器と肉体で構成されいる。
私の毎日は、私の思考と妄想と行動で一日としてカウントされている。
私は私のこの部屋で、私だらけの色んなものが巡廻して成り立っている。
嘔吐物も窓の外の幻想も、私の体の一部なのだ。愛しい。なんて愛しいのだろう。
そう考えるとあれもこれも、敵だと排除してきた今までのものがとても愛しいものに思えて堪らない。
私の一部。私が生きていくためには必要不可欠な私を構成するものたち。
みんな片っ端から愛撫してあげたいけれど、気持ちだけで許してね。
特に痛めつけてしまった胃には、特別に何か差し上げないと。そうだ。私の大好物。牛丼とラーメンをご馳走しよう。



[22331] マ、失恋の克服―分離―
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/06/18 03:56
華麗なハサミさばきで、狭まっていた視界が開けていく。
ジャキジャキと歯切れのいい音が、鼓膜を心地よく揺さぶり、トリートメントやシャンプーの柔らかい匂いがふわりと香って、私が床へ落ちていく。

「こんなに長くて痛んでいない髪、切っちゃうの、なんか勿体ない気がしますね」

出会い頭に、そう言っていた美容師さんは、その時の面影をすっかりなくして、淡々と私の髪の毛を切っていく。
その情緒のない、仕事に切り替えられた美容師さんの動きを、鏡越しでぼんやり見つめながら、だんだんと現実の世界から遠のく。
小奇麗でエアコンのかかった涼しい店内、今流行の音楽、他の客と店員が楽しげに笑いあう声、自分を取り巻く生々しい現実たちが、体内から徐々に遮断され、私はある男との過去に舞い戻っていた。
男の匂いがした。
彼の脇の下に両腕をまわして、何かあるたびにぎゅっと抱きついた時に、ワイシャツからする彼の匂い。
ボタンが頬に当たる感覚を、私は未だに鮮明に覚えている。
男の声がした。
外で喋る時のあの淡白な素っ気ない声と、ベッドで囁く無意識な甘い声。
数々の口癖や癖が、手のひらの上で行き場をなくして、前後左右に転がる。
男との思い出があった。
会った日から、別れるまでの数え切れない思い出が、頭からつま先まで、ぐっしょり染み込んでいた。
ぽたぽたと、足跡を残す水滴を振り返っては、一つ一つが脳内できちんと再生された。
彼はいつの間にか、私の一部になっていた。
それどころか、私は彼と、とことん混ざり合ってしまっていたのだ。
私の体は、沢山の男の要素を吸収して、共存をあたり前にしてしまっていた。
そして、男の本体を失った今、そのあたり前が崩れ、男の要素を吸い込んだ私の本体は、それとうまくいかなくなって反発を起こし、必死に悲鳴をあげている。
願うならば、彼と同化した私の本体を一旦どろどろに溶かして、彼と私を分離させてしまいたいのだけれど、そんなことは到底叶わないことを言われなくても分かっているので、私はせめて、彼との時間を切り離す。


ジャキジャキと絶え間なく続くハサミの音が、再び、弊害を無くして素直に鼓膜へ落ちる。
もう元に戻ることはない、かつて私だった無数の髪の毛が、二人のものだった過去を連れて、はらはらはらり。
彼が撫でる手の感触と共に、はらはらはらり。
彼が私から、落ちていく。
切り離されていく私の断片は、積もり積もって地面を覆った。
彼と過ごした長い長い時間を、ゼロに戻して、心なしか重たかった頭が軽くなる。
と同時に、立ち上がった時のあまりの軽さに、物足りなさを感じた。

「あの、髪が早く伸びる薬とかって、置いてますか?」
「育毛を促進するシャンプーなら」
「それ、頂けますか?」
「はい――あの、髪型お気に召さなかったでしょうか」
「いえ、そういう意味じゃないんです」
「はぁ」
重くて愛おしかった時間を置いて店を出ると、吹いた風に短い襟足が踊った。



[22331] ミ、でかいそら。ちいさなあお
Name: an◆ebdaa164 ID:674a33a2
Date: 2011/06/18 04:01
「空って、でかいよなぁ」
大貴は手を伸ばしながら、そう言った。
「しかも、青いよなぁ」
吐き出した息と共に、さらに続けた。
「でも、俺、きらいなんだよなぁ」
でもの意味がよく分からなかったけれど、俺は素直に頷いた。
でかくて青いと、みんなが好きになるのか。
そんなことはないだろうと反論する前に、大貴はまた口を開く。
「ほら、威張ってんだろ。なんか。よくないよ、そういうの。よくない――」
何がよくないんだか。
仰向けの体をごろりと大貴の方に転がすと、大貴は背中を向けてうずくまっていた。
話の途中で寝るバカがいるか。叩き起こしてやろうと、地面についていない方の肩に手を置こうとした瞬間、大貴の肩が小刻みに揺れていることに気がついた。
俺は咄嗟に手を引っ込めて、また空へ向き直る。どうしたらいいか分からず、目の前の空を仰ぐ。
「俺さぁ」
左耳の鼓膜を揺らす声は、いつものものより小さくて、熱されたガラスのように赤く、触れられない熱を帯びていた。
「今のクラスで、いじめられてんだ。情けないよなぁ、ほんと」
大貴は笑っているくせに泣いていた。
下唇をぎゅっと噛んで、悔しそうに鼻をすすった。
視界には空しか広がっていなかったけれど、俺には幼馴染の今の表情が手に取るよう鮮明に、細部まで安易に想像がついた。
でも、俺はそれを確かめることができない。
俺の視界を埋め尽くすのは、未だに、どうしようもないくらいでかくて、悲しくて、綺麗で、俺達には掴むことすらできない空で、きっと大貴もそうだと思った。
「俺もきらいだよ」
「――だよな」
雲が風に流れて、空を覆っていく。切れ間から見える青は少しずつ形をもつ。



[22331] ム、ねぇ、さよちゃん
Name: an◆ebdaa164 ID:5dc622ce
Date: 2011/09/20 02:22
どうやら誰かが箱ごと窓から放り投げてしまったようで、私は仕方なしに目の前の1ミリメンソールに火をつけた。
煙は窓を跳ね返り、それなのにスーッと空へ昇った。
誰がどんな理由でここから投げ捨ててしまったのか、本当は少し気にかかったけれども、それ以上考えるのはよすことにした。
そんなことよりも、軽すぎて吸った気にならない、この煙草のほうが私には問題だった。
揉み消した感触は覚えているのに、灰皿も吸いがらもどこにも見当たらない。
煙は雲と見分けがつかないところまで立ち昇り、遠い遠い午後の空のようなところで、暇を持て余していた。


最近、夢占いにこっている小夜ちゃんは、甘ったるそうなベリーベリーパフェを頬ばりながら、私の未来や心情をずばり決めつけてくる。
細長い銀色のスプーンを振り回し、先端に残る生クリームがこちらに飛んできやしないかという不安を一心に煽り続けながら、得意になって話は続く。
「それは、ずばりストレスだね。意味的には、リラックスしたいとか少し疲れ気味っていうのもあるんだけど、あんたの場合はストレス。行き場のない悩みや、どうしても自分では解決できない問題が積もりに積もっているって証拠。あんた普段、煙草なんか吸わないでしょう。普段吸わない人がみる煙草の夢は、それらのストレスの象徴なのよ。で、一体何についてそんなに悩んでるの?」
柔らかなふんわりとした容姿からは、想像もつかないほどピリッとした話し方で、言い終えた途端、小夜ちゃんは私に迫った。
「なんにも」
「なんにも?」
誤魔化せないわよ、と詰め寄る厳しい視線。
「―いや、本当になんにもないよ」
あっけらかんとそう言い放つ私によっぽど驚いたのか、握りしめすぎてもう彼女の体の一部みたいになっていた、細長い銀色のスプーンが、音をたててテーブルへ落下した。
不安でしょうがなかった生クリームは飛び散る間もなく、木目の隙間に押しつぶされて、それがなんだか哀れに見えて、でもそう思っただけで目線を小夜ちゃんに切り替えた。
「あたしの夢占いは外れないよ? 悩みは絶対あるんだから。きっと忘れてるだけでしょう?」
眉を顔の中心にぎゅっと寄せ、彼女が私に合図を送る。
私はすかさず、それに応えた。
「そう、かもね」
「でしょう」
自分の思い通りに会話が進んだ小夜ちゃんは、なんとも満足そうに微笑んで、先ほどまで一体化していたスプーンを持ち直し、淡い桃色と赤色と白色でできた乙女の象徴のようなベリーベリーパフェを、すくっては咀嚼した。
彼女は物事の進みを自分が描いた展開通りになぞらせなければ、その時間は無駄だったと判断する癖がある。
それが単なる癖なのかは定かではないが、癖という言葉に無理やり押しいれることで、なんとか彼女は正常を保っている。
正常を保つことは特に正解でも間違いでもないけれど、生きやすくするもっとも良い方法なことに変わりはない。
それは自分にとっても、相手にとっても、物事を円滑に進めるために必要な要素だからだ。
なので正直、あればあるほど良いわけで、私はそんな正常を気取る小夜ちゃんが大好きだ。
小夜ちゃんといると、面倒なことを一切背負わなくてよかった。
彼女はわがままだけれど、その分人一倍責任感が強く、自分の失敗を他人になすりつけたりするような卑怯者が大嫌いだった。
小夜ちゃんは、そのふんわりとした容姿を除けば、ピリッとした男の人のような性格だった。
地球上で一番と言っていいほど、面倒くさがりやの私と、ほとんど修正する必要もなく、ぴったし見事にはまるパートナーだった。


いつから溜めていたかわからない、大きなため息をつきながら部屋に入ると、昨晩の食器が使用済みのままシンクに積まれている姿が飛び込んできて、うんざりさせられたので、なんとなく軽蔑の眼差しで彼らを睨んでやった。
鞄を床に放り投げて、ソファにどかっと腰を下ろす。
右手でテレビのリモコンをいじくりながら、左手は目の前の煙草へと伸びた。
私は小夜ちゃんに嘘をついた。
もちろん夢でも煙草を吸うけれど、私は現実でもこうやってあたり前に煙草を吸っている。
もう一年も前からだ。小夜ちゃんは、そんな私の変化にはまったく気づいていない。
ついさっきまで飲んでいた、ホットコーヒーの香りが混じった煙を吐き出し、内容なんか欠片も入ってこないテレビ番組を眺めながら、今日、小夜ちゃんが話した会話のひとつひとつを思い出してみる。
夢占い、最近気になっている男の話、好きなミュージシャン、新しくしたネイル。
週に一、二度開催されるこのお茶会は、特にこれといった内容もなく、デザートが好物な小夜ちゃんが、お気に入りのスウィーツを見つけるために開催されているといっても過言じゃない。
会話はいつも、彼女の描いたルートを辿っているせいか、大体が小夜ちゃんに関する話題ばかりだった。
けれど私は彼女が大好きだし、彼女の日常を一番よく知れるのは嬉しいので、さほど不快でもなんでもなかった。
でもたまに、私は私じゃなくても良いんではないかと考えたりした。
私は小夜ちゃんを心から親友だと思っているけれど、彼女は私のことをそんな風には思っていない気がしていた。
話ができればそれでいいのだ。
自分の都合よく、気持ちよくいれる人なら誰でもいいのだ。
彼女は私のことを、ここ最近、名前で呼んでくれていない。



今日来た店は、テレビで紹介されたとかで異様に客の数が多く、午後2時だというのに席に着くまで30分もかかった。
小夜ちゃんは予想通り、店員の愚痴をたらたらとこぼし、それでもおすすめメニューのデラックスパフェとやらがテーブルに運ばれてくると、目を輝かせて写真を何枚も撮った。
私はいつも通り、ホットコーヒーと小夜ちゃんが一口食べたいと言うので、ミニワッフルを頼んだ。
「それでね、もう夢占いでも最高の結果だったから、今回はうまくいくような気がするんだよね。向こうも私のこと気に入ってくれてるみたいだし。あんたは良い人いないの? よかったら、紹介してあげよっか?」
「私は、いないし、そういうのはいいよ」
「そっか」
スプーンが奥まで刺さらないほど、大きな器に入った、生クリームが山ほど乗っている今回のパフェを四苦八苦しながら食べ進め、終わったと思った男の話を再開させた。
「で、やっぱりどう思う?」
唇のクリームを舌ですくいながら、私の顔を見つめる。
「たぶん」
「たぶん?」
眉が寄っていくのがわかる。
「もうちょっと時間をかけてアタックしないと、うまくいかないと思うよ。なんかその人、ガード堅そうだし」
「え、でもさ、誘ったの向こうだし、あんたはそういう男の人の誘いとか受けたことないから、わかんないんだよー」
彼女の顔が少し歪む。
「名前」
「え?」
「名前呼んでよ、私の」
「は?」
小夜ちゃんのパフェの山ほどかけられた生クリームを指ですくい、それを苦いホットコーヒーの中に落とした。
スプーンでくるくるかき混ぜると、それはあっという間に溶けてなくなった。
「―りかこ?」
指の先端に残るクリームを舌で舐めとり、私はにやっと歯を見せて笑った。
片手をあげて店員を呼び、灰皿を、と頼んだ。





[22331] メ、ほくろの話
Name: an◆ebdaa164 ID:5dc622ce
Date: 2011/09/23 18:20
大きくも小さくも、濃くも薄くもない中途半端な彼が、私の二の腕の裏には住んでいた。
普段そんなに目立つことはなかったので、レーザー治療などで取り払ってしまおうなどとは、特に考えもしなかった。
それほどに気やお金をかけるほど、彼は私の人生に関わっていなかったし、これからもその兆しはないようだった。
だから今も変わらず、そのままのところにある。
憎むほど嫌ってはいないけれど、決して好きにはなれそうにないほくろの話。


「これ、あなたに似てると思わない?」
パンツを履こうと背中を向けていた彼は私のほうに振り返り、どうしようか数秒迷った挙句、結局履いてからベッドに潜り込むという中途半端な行動をとった。
「どれ?」
これ、二の腕の裏を指差すと、視力の悪い彼は気持ちの悪い近さで私のほくろを観察した。
似てないだろうと笑いながら、でも目は笑っていない可笑しな顔をして彼は仰向けに横になる。
つられて私も仰向けになった。
「似てるよ、とっても」
間接照明のせいか、ホテルの天井は妙に寂しく色っぽい。
愛着を持たれたことがないからか、綺麗すぎて別の世界のものみたいだ。
「どこらへんが?」
「愛がないのに繋がってるところとか」
「あるよ、愛」
そう言って私に覆いかぶさってきたごつごつした体を、即座に両手で押し退ける。
ふてくされたように背中を向ける彼をちらりと横目で見ると、パンツが前後間違っていることに気づいた。
「ねぇ、やっぱり似てるよ」
急に心寂しくなった私は彼の背中に体をくっつけて、肌と肌の間にできるわずかな体温に埋もれてみる。
このままひとつになってしまいたいとは思わないけれど、無理やり剥がしてしまうのもなんだかしっくりきそうにない。
私たちがこうやっている間に誰かが悲しむことがないのなら、まぁ、当分このままでもいいかなんて考えていると、聞き覚えのある寝息が聞こえてきた。
先ほどの愛も特に拒む理由はなかった、と二の腕のほくろがなにやら喋りだしたので、私ももう夢の中にいるみたいだった。
一生分愛してあげるのは難しいけれど、一生をかけて愛していくのはできる気がする彼とほくろの話。



[22331] モ、眠れない夜の過ごし方
Name: an◆ebdaa164 ID:5dc622ce
Date: 2011/10/02 17:13
眠れない。

どうしても眠ることができない。
だから私は、それを彼に悟られないようにひっそりと電話をかけてみた。
随分と長い発信音の後に、眠そうな彼の声がひょっこり現れる。
「もしもし」
あぁ、羨ましい。
私はこんなにも目が冴えているというのに、彼ったら今にも夢の中へ落ちていくような声をして。
その不平等さに少しばかりむっとしたので、私は彼にくだらない嘘をついてみることにした。
「あ、そう」
なによ、その態度。
いくら眠たいからといって、そんな返事はひどすぎる。
そんな冷たい態度をとられたら、私の目はさらに冴えていくだけなのに。
私はくだらない嘘を、取り消した。
「暇なの?」
彼は短く、そうだけ言った。
あぁ、暇よ。
だってみんなが寝静まっているこの時間に、私だけが眠れないでいるのよ。
だからこやって仕方なく、あなたに電話なんかかけているんじゃないの。
私はこれ以上むっとしてしまったら、もう今夜は眠れない気がしたので、反論はのみこんでおくことにした。
すると、彼のほうから体が起きる音がした。
「眠れないなら、そう言ってくれよ」
ちがうわ、私は即座に彼の発言を否定して、今日道ですれ違ったおかしな人の話をした。
それから、明日しなければいけない嫌なことや、弟の反抗期で家の中がぎくしゃくしている話もついでにしてみた。
そしておまけに、あなたが好きだと付け足した。
「え、今なんて?」
彼が驚いた時によくする手の動きが思い浮かんで、私は今までの自分が嘘みたいに、突然飛んできた眠気の風に包まれかけていた。
彼の声が受話器越しに、なんだかとても沢山聞こえるような気がするけれど、それをひとつひとつ文字に変換することがもうできそうになかった。
夢の手招きに乗っかってしまうほんの少し前に、私は今日どうして眠れないかを思い出した。

私には今日、言わなければならない大事な言葉があったのだった。

力の抜けた手から離れて枕の脇に転がる受話器から、彼から奪った念願の睡魔が私に流れてくるようで、それを流出させている当の本人はどうやら眠れない夜にとりつかれてしまったみたいだった。


眠れない。

どうしても眠ることができない。
そんな夜がこの先彼にも訪れたならば、そしてひっそりと私に電話をよこしたのならば、たまになら私に積もった深い夢たちをあなたに分けてあげてもいいわよ。
私たち、きっと素敵な恋人になれると思うの。

「そう、私さっきまで眠れなかったの」

眠れない夜を共に過ごせる、とっておきの相手にどうか私の手をとって。



[22331] ヤ、バス夢空間
Name: an◆ebdaa164 ID:5dc622ce
Date: 2011/10/16 05:56
新しく決まった仕事先まで、私はバスに乗る。
専用駐車場はないし、歩くには遠すぎる、そんな距離への交通手段はバスしかなかった。
都会と違って田舎は余程のことがない限り、混雑する心配がないので料金は後払いだ。
降りる時にお札を崩し、運転手に会釈をする余裕まである。
出発地点の駅からのバスは来る前から並んでいなくたって、座席は大抵空いている。
その空席に、私は焦ることなくゆったり座る。
運転手のゆるいアナウンスが入り、一度身震してからバスはゆっくり発車した。
上に、下に、前に、後ろに、右に、左に、揺れる、揺れる。
両耳を塞ぐ丸いプラスチックからは、平坦に、ただ平坦に音楽が過ぎる。
その揺れや音に身を任せぼんやりしていると、頭の中までぼんやり霞み始める。
なんのために私は、このバスに乗り込んだのだっけ?
これは、どこに向かうのだっけ?
私は、なんになるのだっけ?
この雨は、いつから降っていたのだっけ?
窓ガラスに伝う雨粒を焦点の定まらない目で眺めながら、私は私がわからなくなる。
いくつもの疑問を脳内で揺らし、呆気なく手放してしまうそれらは過ぎていく景色になじんでは溶ける。

揺れる、過ぎる、揺れる、過ぎる、揺れる。
揺れ過ぎはしないところが、やっぱりバス。
思い切りが足りない、私に似ているようでどこか違う。
右腕を伸ばし、いつの間にか降車ボタンに触れる人差し指。
私は明日も明後日も、このバスに乗る。
降車ボタンのランプが赤く光って、バス停が近づくにつれ、何人かの乗客がそわそわしだす。
お札はぎりぎり崩さずに済んで、運転手は無愛想で、出口の真下の水溜りを踏んだ。
夢から降りた私は一歩、現実を踏みしめる。
バスが遠のいていくのを少しだけ見送ってから、しゃんと背筋を伸ばし、私はまた歩き出す。



[22331] ユ、3センチ浮かんでわかること
Name: an◆ebdaa164 ID:5dc622ce
Date: 2011/10/16 23:26
人間は一人一人違うものだということをちゃんと認識できるようになった頃から、自分が周りから少し浮いていることに気付いた。
いつ何時も、私は自分以外のものから、常に3センチほど浮いていた。
そしてそれは周りが私の名前を口にすればするほど、徐々に広がり続け、私を宙に追いやっていった。
その結果、僅かに浮いていた程度の私は、周りを見下ろすことしかできないこんな高くまで来てしまっていた。

生まれつき喘息持ちだったせいで微量の埃やハウスダストに敏感な体質だった。
ゆったり過ぎる春が俊足で夏に切り替わり、もう夏かぁ、なんて呟いて暑さに耐えられなくなる少し前に、眠っていたエアコンを何の気なしに稼動させた一日目なんかにはめっぽう弱かった。
気管は苦しくなるは、くしゃみは止まらないはで、快適な室温を肌に感じながら体内ではさまざまな抗争が巻き起こって、久々に身体が不調を訴えてくるこの感覚を面倒くさいと吐き捨てながらも、小さい頃に戻ったようで少しばかり面白かった。
昔よくお世話になった病院の吸入器の水蒸気を思い出して、刺すように差し込んでくる日光が花柄のカーテンを通り、柔らかくなってベッドの右半分を照らす様をぼんやり見つめながら、眠気が波のごとく揺れていた。
気管が小さな悲鳴を上げながら、必死に酸素を肺に送って、それとは反対に脳は至って穏やかに気持ちのよい眠気を受け入れつつあった。
周りの人に、浮いている話をしたことはない。
そんなことを話したらきっとさらに高く浮いてしまうだろうし、みんなはもっと私を宙に追いやろうとするに違いないと思っていたからだ。
けれど今思えば、そんな話をしようがしまいがそれはみんなにとってはどうでもいいことで、下手をすればこの子は頭の使いすぎで知恵熱でも出したのだわ、と簡潔に常識的に母の手によって片付けられてしまうだけだったのかもしれない。
だから、きっとこれが正解だったのだ。
休日の心地よいまどろみの中へ溶け込む一歩手前で、携帯電話がなんとも攻撃的な態度でそこから私を連れ出した。
鳴り響く着信音に顔をしかめつつも、表示された名前を見て上半身を起こす。
「もしもし」
久しぶりに声を発した途端、治まっていた喘息がまた私を苦しめ始めた。
「もしもし」
その声は嫌になるほど、穏やかで冷たかった。
「久しぶりね、どうかしたの?」
「あぁ、今夜会えない?」
会話を少しでも味気のあるものにしようと、私が挟んだクッションを彼は見事に跳ね返す。
「いいわよ」
「じゃ、今夜9時にいつものところで」
ぶち。回線が千切れるような音で、彼からの久しぶりの通話はたったの2分で終わった。
止めていた息が狭くなった気管を勢いよく通り、苦しくて思わず涙が出た。

外の空気を吸って少しずつ回復しつつある体は、彼がいつものところと呼ぶある建物の前にあった。
私はそこへ躊躇なく入り、いつもの手順で受付を済ませ、3階にあるバーへと向かった。
カウンターに腰をかけ、ハイボールとチーズの盛り合わせを頼み、数少ない客を一瞥した瞬間、体がまた少し宙へ浮いたのがわかった。
指先の綺麗な若いバーテンがしなやかな動作で、コースターへグラスを滑らせる。
軽く会釈をしてから口をつけると、炭酸とともに彼の味が体に染み渡った。
もう一口飲んでから、今度は入り口のほうに目をやって彼の姿がないことを確認してから、下げてくださいとハイボールをコースターから外した。
若いバーテンは首を傾げつつも、素直に二杯目の私の注文を聞いた。
彼とのお決まりの空間で彼の味をたしなめてみても、なぜか私は着地することができなかった。

「待った?」
聞き覚えのある声が右隣りから現れる。
「いいえ、さっき来たところよ」
グラスについた水滴をさっと手ですくって、それを気づかれないようにハンカチで拭った。
ハイボールを、と彼が頼むとかしこまりましたと言ってバーテンは私たちの前から離れた。
「仕事、一段落ついたの?」
「あぁ、やっとね。君のほうはどう?」
相変らずぱりっとしたスーツに似合わない、無邪気なたれた目をしてふにゃりと笑う。
奥にある冷たい瞳は、今日も私を通り越している。
「相変らずよ」
「そう」
心の声が表に出てしまったのかと思って、ほんの少し自分に焦らされた。
「2ヶ月ぶりね」
「そんなに経つかい?」
ハイボールを片手に驚く素振りを見せる彼は、もう片方の手でチーズをつまんだ。
「そんなに経つのよ」
「毎日忙しいと、時間が倍の速さで流れるようだね」
私の毒づいた発言にも惑わされることなく、彼はははっと笑って、おかわりをとグラスを揺すって氷を鳴らした。
彼はハイボールを二杯飲んで、私は部屋の番号を彼に教えて、私たちはあたり前のように体を重ねた。
翌朝、普通の恋人同士のようにベッドでじゃれあってから、のんびり支度をして二人で同じタクシーに乗った。
彼からは、また連絡するの一言をもらって、私は先にタクシーを降りた。

昨日の昼間とは違って、今日はエアコンをつけずとも過ごしやすい気温だった。
どさっと乱れたままのベッドに顔を埋める。
髪の毛から昨日のホテルのシャンプーの匂いがして、肌からは心なしか彼の体臭が香った。
次に彼に会うのは、彼も言っていたとおり向こうから連絡がきた時だ。
別に、私から連絡してはいけないなんて決まりはないのだが、私は自分からは携帯を鳴らそうとは思わない。
私たちは、どちらともに対等な恋人同士だけれど、付き合い始めからこんなふうな関係だった。
会うのは二週間に一度か月に一度、それが伸びて二ヶ月に一度、そしてそのうち半年に一度とかになってしまうのだろう。
けれどそれでも、彼が別れを切り出さないかぎり、私たちのこのような関係は永遠に続くにちがいない。
その理由は単純明解で、私には彼しか考えられないからなのだ。
仰向けにごろんと横になり、天井を見上げると私はまだ3センチほどしか浮いていない事実を確認できる。
私は彼に今までさまざまな愛情を与えてきたが、彼はそれをことごとく無視し、視線はいつも私を通り越したところにあった。
彼は私に好きだと言うし、私の体を抱きしめて愛撫してくれるし、私に会いに来る。
でも彼からしてみれば、私は透明人間そのものなのだ。
私だけじゃない。みんなにそうなのだ。だから彼に強く惹かれた。
彼といる時、私は重力には逆らえなかった。
自分はあなたの横にいて、誰よりもあなたのことを愛していると強く主張した。
彼が私の存在を透明に透かしてしまうほど、私はなんとかそれを食い止めてみせた。
そして気づいたのだ。彼の横では浮いていない。3センチどころか1ミリも宙へ浮いていないと。
だから私は、いつくるかもわからない彼からの連絡をこうやって待ち続けるしかないのだ。
彼が必要としてくれるたびに、私は舞い上がっては地面に叩きつけられる。
一番必要としてほしい人が、私の存在を空に浮かぶ雲程度にしか認識してくれていないという事実に、私は自分自身で存在を立証していくことを覚えた。
名前なんていう外部から与えられたものに頼って、私は私を見失っていたのだ。
私たちが普段自分の体を見下ろすことができるのは、みんな自分の体から3センチほど浮いているからにちがいない。
私は今、彼のおかげでこうやって無事低い部屋の天井を見上げているけれど、また明日から少しずつ宙に追いやられていくことだろう。
みんなが何度も何度も名前を呼ぶから私は自分をなくしかけるのに、あなたが一度名前を呼ばないだけで、私はその透明な自分をはっきりと見つけるのだ。
あまりに不思議な現象に、頭ばかりが重くなってつま先が天井へ浮かぶ。
彼に綺麗だと言われた指先を見つめて、僅かに質量の増した体から愛の重さを感じた。
人間が一人で生まれてきたばっかりに、生じてしまう不思議を私はやっと認識できた気がした。



[22331] ヨ、世界の仕組み
Name: an◆ebdaa164 ID:5dc622ce
Date: 2011/10/17 03:29
極限におかしくなってやろうと決めたのは、親友が私に相談してきた内容を最後まで聞いた直後だった。
彼女は今日、いつもよりワントーン低めな声で電話をかけてきて、私に相談があると言った。
これが長年の勘ってやつなのか、直感で何かある気がしたのでとりあえず聞き役に徹することにした。
そして、その結果がこれだ。
「あたし、おかしくなりたくない。だからね、もっと外に出て人と遊んで、普通の生活をするべきだと思うんだ。完璧におかしくなる前に」

私と彼女は、自分たちのことを社会不適合者と呼んでいた。
それは私が人を苦手としていることもあり、彼女が少しだけ妄想壁を持っていたということもあり、それらゆえにぴったりの呼び名だと思ったからだ。
けれども私達はそのことをちっとも悪いこととは思わなかったし、むしろそんな個性を持った自分達をいつも誇らしいと言いあっていた。
事実、普通の人よりも感性が豊かだった。
そんなこともあり、私達は二人でさまざまなことに挑戦した。
対人恐怖症に近かった私達は普通のアルバイトを苦手としていて、その代わりにお金を稼ぐため、書いたこともない小説を試行錯誤の上執筆し、賞金の出る賞に応募したこともあった。
地球や人間とは一体なんなのか、朝まで話して結局答えは出なかったけれど、今地球上でこんなことを考えているのは自分たちだけだとおかしくて笑ったりもした。
そしていつか大人になったら絶対に二人でとてつもなく大きなことを成し遂げてやろうね、そんな約束もした。
それがすべてだった。彼女との話の中に登場する二人が、私の人生のすべてだった。
今まで彼女と話してきた内容を、彼女とだったらいつか実現させられるような気がしていて、興奮したときにいつも彼女が口にする、今も宇宙は広がり続けているんだよという言葉を聞くたびに私達みたいだなといつも少し思った。
だが、私達の宇宙は呆気なく消えた。
広がっているのか、狭まっているのか、真っ暗な世界ではそれすらもわからないのだ。
一人になった途端、宇宙に点々と灯っていたはずの星は綺麗さっぱり消え失せてしまった。
「あたしね、まだそんなにおかしくなってないと思うんだ。ほら、まだ未成年だし、夢とかまだまだこれからでしょ。宇宙がどこまでも広がっていくようにさ―」
私の相槌を挟みながら、彼女の話し方が熱弁に変わり、早口でお得意の宇宙の話をし始める。
喋っている彼女の顔が手に取るようにわかるのが、思っていたより胸に痛みを与えた。
それは彼女が、小説の話を持ちかけてきたときの表情に似ていた。

うん、うん、うん、うん。
電話越しに実際はお互い離れた場所にいるはずなのに、いつもすぐ隣にいるような感覚だった彼女が、やっぱり電車で二十分揺られた距離分遠くにいるということを、今日はっきりと初めて実感した。
いつも一緒だったという事実が、通話時間分だけ削ぎとられたように嘘に塗りかわっていく。
誰から強要されたわけじゃない、誰かが決めたわけでもない。
でも私達はいつの間にか一緒にいて、決まっていたもののように同じことを考え、まるで正義と悪の価値観までもが同じように発する言葉すべてに対して共感を持ち、喜びを感じていた。
それは相性とか運命とか、そんな陳腐な表現では決しておさまりきらない新しい未発見の繋がりだった。
でもそんなのは所詮、小娘二人の妄想の域にすぎなかった。
二人とも感性が豊かな上に、難しいことを考える性分だったのだ。

「だからね、もう終わりにしよう。今までの私達からは卒業だよ。これからは、社会にも適合して、普通に生きていく努力をしてみようと思うんだけどね」
社会にも適合。社会不適合者のほうが語呂もいいし、何より自分に似合っている。
中学から高校に進学してこれまでとは違ったあだ名が浸透していくときの、あの何ともいえない不安定な気持ちを思い出した。
きっと、今の彼女にはない感情だ。
社会に適合する自分を思い描き終えた彼女は私と違って、もう社会不適合者でもなんでもない。
取り残された私は人のいなくなった教室で、中学のときのあだ名をつぶやいてみる。懐かしさに涙が滲んだ。
どうしても二人でいなきゃいけなかったわけじゃない。どうしても彼女が必要だったわけじゃない。
それでも互いにいてほしいと思いあって、ここにいたいと願いそこにいた。
それだけで成り立っていた関係だったのだと改めてわかり、私達の関係の脆さが眼鏡のレンズ越しに見える視界よりも鮮明に見えてくる。
「――話、聞いてくれてありがとう。これであたし達、もっとビックになれるかもね。なんて。じゃあ、また明日学校でね」


嬉しそうな彼女の笑い声で通話は終わった。
世界の終わりには、絶望を超越した人間たちの無から生み出す笑いに包まれ、これまでのすべてのことが無意味だったように破滅を迎えるのだろう。
なんとなく思いついたいつか読んだ本の一文が、胸のうちをまさぐったところに妙なかたちで立っていた。
とするならば、今まさに私は世界の終わりにいるのだろうか。
彼女の笑い声が連鎖したように発された私の笑い声と、今までのさまざまな思い出が崩れていく喪失感は、文章を実写化するときの立体を帯びていくあのさまにそっくりだ。
これが絶望、これが破滅、これが終焉。
呆気のなさに涙もでない。世界をもろいと感じる以前に、それらを作った人間はさらにもろい作りでできている。
ものの数十分で、人は破綻していくことができるのだ。それゆえに友達を作り、恋人を作り、家族を作る。
けれどその中のひとつでも失ったのならば、自分を囲っていたあたたかい湾曲した壁は熱されたろうのようにどろどろに溶けて、あっという間に素っ裸にされしまうのだ。
惨めだ。恐ろしく惨めだ。その局面に立たされている私にはその惨めさがよくわかる。
わかりたくもないのによくわかる。伝わってくる振動と同じで、これはどうしようもなく体の中で反響してしまうものだということも。

極限におかしくなる、といったって何をどうやってそういった状況に陥ればいいのか実際は見当もつかなかった。
今までの私と彼女は、彼女に言わせてみれば人間としておかしかったらしい。
そしてこれを続けていくならば、きっと本物のおかしい人になってしまう。
そこに彼女の危機察知システムが稼動して軌道修正に入ったわけだ。
ならば、答えは簡単だ。
この状況を保っていればいいのだ。一年後も二年後も、この先ずっと変わらずにいればいい。
そうすれば、彼女の言ったことが本当に正しかったのかも知れる。
このまま人生を歩むだけで、狂気をも成長させてしまうのか。
私は彼女の嫌がるおかしい人になっているのか。
一度世界の終わりに直面したこの寄り道が、彼女の憶測にどう影響されていくのか見届けてやろうじゃないか。
そして真実がわかったとき、私は笑うのか。彼女は笑うのか。私はもう一度、世界に終わりを見るのではないか―。

私たちは似ていたんじゃない、似せていたのだ。自分たちの生を繋ぐために意図的に同じ世界を作っていたのではないか。
ふとそんなことを思いつくと、今まで考えもしなかったような事柄が次から次へとシャボン玉みたく割れては吹かれた。
世界というのは一つではないのかもしれない。あたり前に考えてみれば、みんなが同じ世界で生きているわけはない。
むしろ同じ世界で生きている人など存在しないのではないか。
そして、一固体に与えられた世界もまた一つではないのではないか。
だから目に見えるこの広大な世界は終わったことなどただの一度もないというのに、みんな軽々しく世界の終わりを手に取るように想像できてしまうのではないか。
それは自分が生きる世界が壊れては作られ、終わっては始まり、それが連なることで人は生きている。
そう、ちょうどこのシャボン玉と同じに、一つだった液体からいくつもの球体が生まれるように人間の内部はほぼ水でできている。
だから人間は終わりを感じても、終われないのだ。終わりは次の世界への幕開けにすぎない。
私たちは止まらない歯車の上を歩き続けることしかできない。
そこに絡み合う別の歯車があり、たくさんのねじが組みこまれているにすぎないのだ。
たった今私の、彼女との世界が終わったのだ。数分前の、その感触は確かなものだった。
そして、すでに次の世界が始まっている。
まだ未知のこれから生きていく世界、その世界で生き始めた私は、置き去りにしていく過去の世界を覚えていられるのか。
それとも、また世界が終わりを迎えたときにこうやってふと思い出すのだろうか。

おかしくなる。
それでも私が完璧におかしくなってしまったときには、こうはなりたくなかったのでしょうと彼女の新しい世界に不気味な傷跡を残して、世界はそう簡単には終わらないということを思い知らせてあげよう。
めまぐるしく進む人生は、こうやって突然消えては生まれ、迷っては滞り、着地しては浮かぶのだ。
親友という名の、世界をありがとう。
世界の仕組みに混乱しつつも、私はなんとか新しい世界でやっていくしかない。
絶望のどん底でこうやってもがいている間も、宇宙はのうのうと広がり続けているなんて、不公平にもほどがあるってものだ。
次の世界では、平等を掲げて生きていこう。
そんなふうに考えていたら、馬鹿らしくなって笑いがこぼれた。



[22331] ラ、夕焼け小焼け
Name: an◆ebdaa164 ID:5dc622ce
Date: 2011/11/02 03:18
私はべつに真面目な五十嵐さんが、夜になると別人みたいに光るお皿を回すから好きになったわけではありません。
あなたが周りの人に振りまく、笑顔や優しさに触れて心をときめかせたわけでもありません。
ただ好きになったのです。天使のように微笑む赤ん坊を好きなのや、夕焼けに心をときめかせるのと同じでそれはあたり前のことだったのです。
だから私は、あなたにわざわざ打ち明けることをしませんでした。
私にとって五十嵐さんが好きという事実は、酸素を吸うことのように宣言してから行うと間に合わせることができなかったからです。
今思えば、それはとても愚かですが、その時の私は大きすぎる感情を前にしてそんなにうまく立ち回ることはできなかったのです。
それほどに、五十嵐さんが好きだったのです。
好きで、好きで、たまらなかったのです。
あなたのどんなところが素敵で、こういった仕草が愛しくて、こんな表情に惹かれたなんていう理由を私はひとつも説明して聞かせることはできないけれど、もし私の心の中身を見せることができたのならば、そこには彼への愛情でいっぱいになってしまっていることでしょう。
五十嵐さんと会うたびに増えるさまざまな感情が混ざり合って、できあがった色はちょうど今日の夕焼けのようでした。
私はあなたが愛おしくてたまらないのです。
愛おしくて、愛おしくて、胸がしめつけられるほど愛おしい、それが私の日常なのです。

彼女は、言いました。
「私は、五十嵐さんのDJ姿が好き。五十嵐さんの優しい笑顔に惹かれたの。だから私は、あなたが愛おしくて愛おしくてたまらないのよ」
彼女は五十嵐さんと結婚して、五十嵐さんの妻になりました。
私が何度も何度も思い浮かべた顔とは違う顔が、五十嵐さんの隣で笑っていました。
私がどんなにか愛おしかったあなたの顔が、とても憎らしく見えました。
でも、分かりません。
どうして私はあなたを憎らしく思ってしまうのか、なぜこんなにもあなたを愛おしく思っていたのか。
私には、分かりません。私には、彼女のように説明することができません。
けれど一つ言えるのは、私が失恋したということです。
そして私の心の空は、まだ夕焼けであるということです。
胸が壊れそうなほどに愛おしくて、愛おしくて仕方がないのにもうどうすることもできない、それが私の日常になりました。

私はあなたに伝えたいことがなかったわけではなかったのです。
私はあなたに伝えたいことがありすぎただけだったのです。
好きです。そんな一言では、伝えきれないと勘違いしてしまいました。
けれども、私は本気でそう思っていたのです。
そう思い込んでしまうほど、あなたが好きでたまらなかったのです。
五十嵐さんと出会ってできた夕焼け色の心に溶けてしまう前に、私はようやくそれに気づくことができました。
長いあいだ空を真っ赤に染めていた夕日は、ゆっくりと海の中へ沈んでいきました。



[22331] リ、スケジュール帳
Name: an◆ebdaa164 ID:5dc622ce
Date: 2011/11/09 02:00
新しいスケジュール帳を買った。
今年の10月始まりの、真っ赤で外側が単行本のように硬い大きめのスケジュール帳だ。
ついでにすぐ横の棚にボールペンがあったので、それも迷わずレジへと持っていった。
新品のスケジュール帳に使ったことのない新しいボールペンを滑らせて、残り少ない今年の予定を書き込んだ。
ごちゃごちゃに書きなぐられた古いスケジュール帳と照らし合わせながら、真新しいほうへ丁寧にペン先を動かす。
以前入れた予定たちも、まるで新鮮味を取り戻したように活き活きと紙の上で輝いた。
昨日までと何も変わらないはずなのに、明日からきっと充実しているという確信まで舞い降りて、私の胸は微かに躍った。
余計な過去の書き込みは一切省いて、私の明日からの前途洋々な素晴らしい日々の予定がここに出来上がった。


「ねぇ、今なにしてる?」
彼がそう訊ねてくるたびに、私はその日の予定を白紙だった時に戻した。
「なんにもしてないよ」
そうすると、彼は喜ぶからだ。
「じゃあさ」
そう言って、楽しそうに笑うからだ。

私のスケジュール帳は、彼だった。
馬鹿みたいな話だけれど、私の毎日の予定は彼が書き込んでいたようなものだからそう例えても不思議じゃない。
携帯が鳴れば、ページを開いた。
「ねぇ、今なにしてる?」
私がなんにもと答えれば、彼は安心したように息を吐いて予定を書いた。
「ご飯行かない?」
もともとあった予定を塗りつぶして、上書きされた今日の予定通りに私は動く。
「いいよ」
嬉しげな彼の顔がありありと浮かんで、私の鼓動もスキップをした。
「お前って、いつも暇だよな」
そう言われてしまえば仕方がない。
スケジュール帳の彼が言うのだもの、素直にそうと答えるしかない。

「だから、嫌なんだよ」
彼はスケジュール帳をばたんとしまって、突然そう吐き捨てた。
混乱する頭の中では、日にちを失った予定たちがさまざまに彷徨い泳ぎ始めていた。
「俺に合わせるなよ。お前にも予定あるんだろ、ほんとは」
いつもとは違う声質で、怒鳴ったように怒る彼の声は男だった。
しまわれたら分からないよ、そう涙目で訴えかけても彼は私の次の予定が書いてあるそのページを開いてはくれない。
「見せてみろよ、ほら。今日もなんか入ってたんだろう」
スケジュール帳は私にそんな無謀な脅しをかける。
分かるはずがない。その答えはスケジュール帳の中なのだから。
「今日の予定はキャンセルで。今後、誘うのは控えるから」
電話を切られてから、私は少しのあいだ放心状態のまま立ち尽くした。
彼は、私のスケジュール帳をやめた。
それどころか、彼は私のスケジュール帳ではないと言い張った。
では、これからどうすればいい。
予定を書き込む人がいなくなってしまって、私の予定はいつまでも埋まらないじゃないか。
彼がいないと誰が私のスケジュール帳を管理してくれるのだ。
閉じきったまま投げ出されたスケジュール帳を恐る恐る開いてみると、その中身は大量の文字で黒ずんで汚いにもほどがあった。
塗りつぶされた文字、上書きされた文字、もともと書かれていた文字、すべてがごちゃまぜで混乱していた。
その中で、小さく豆粒くらいの大きさの文字が私の目にとまった。
<りえちゃんとご飯>
その筆跡はどう見ても自分のものだった。
今日は、りえちゃんとのご飯の約束があったんだった。
私はその厚さも手触りも、色も形もよく覚えているスケジュール帳をかばんに押し込み、急いで約束の場所へと向かった。

約束していたらしい時間に30分ほど遅れた私を、りえちゃんはふくれっつらで待ち構えていた。
「あんたが誘ったんでしょ」
「そうだっけ?」
息を切らして、額に汗をかきながらかばんの上からスケジュール帳をなぞった。
「そうだった、私が誘ったんだったね」
高いヒールをかつかつ鳴らして一歩前を歩くりえちゃんを、必死に追いかけて私は何度も謝った。
目的のお店に着く直前で、りえちゃんはようやく機嫌を直し始めたようで私は彼女に言った。
「ねぇ、明日なにしてる?」
「明日は、夕方まで仕事」
「じゃあさ、夕方から買い物に付き合ってくれない?」
「いいよ、なに買うの?」
「スケジュール帳」
りえちゃんとスケジュール帳を買いに行く、それが明日の私の予定だ。
明後日は仕事だから、明々後日の夜、彼をご飯に誘おう。
新しいスケジュール帳には、書くことが沢山ありそうだから少し大きめのを買うことにしよう。
そう決めて、私は予約していたパスタ専門店の無駄に凝ったドアノブを押し開けた。
がやがやと混雑する店内は、なんだか見覚えがあった。



[22331] ル、私の夢
Name: an◆ebdaa164 ID:5dc622ce
Date: 2011/11/25 00:51
ごみ箱の中で絡まり増え続ける私の抜けた髪の毛に、私自身が絡まってもがいてどうしようもなく苦しむといった夢を見た。
よれたTシャツは背中に貼りついて、汗でぐしょぐしょに濡れていた。
そんなことは初めてで、その夢だけは何年も経った今でも気味が悪いほど鮮明に覚えていた。

「私の夢」という甥っ子の作文を無邪気な脅迫で仕方なしに読まされている最中に、私はふとそんなことを思い出した。
あれは私がまだ高校生かそれくらいの頃のことで、当時、私は日本人形のように髪が長かった。
そのせいか櫛でとかすたびに、これでもかというくらいの量の髪の毛が抜けた。
それをまるで汚いものみたいに掴んではごみ箱に押し込み、溜まっていった髪の毛の怨念のような夢だった。
怖がりの私は、頭から離れないその夢のせいで一週間後に髪の毛を20センチほど切ることになった。
それから今の今まで、なぜだか髪を伸ばしていない。
その夢のことなんかすっかり忘れていたというのに、いまだに無意識の中で私へ恐怖を与え続けているのか。
考えただけで、なんだかあの時に感じた恐怖のような感情が背中を這いずり回った。
肩を揺らして一度小さく身震いすると、終わった? と甥っ子が無垢な瞳を向けてきて、その純度の高い黒目に私は声が出なかった。


その話を彼にするべきだと思ったのだけれど、なんだかうまく伝わらず、どうやら理解してもらえたのはたったの一部分だったらしい。
「へぇ、昔は髪が長かったんだ」
鳩みたいに阿呆な顔をする彼を見て、私が説明に傾けていた情熱はあっという間に空気中の塵に溶けた。
私が口下手なせいなのか、彼の理解力がないのかは言い争いを避けるためにあえてはっきりさせないが、今よりもう少し彼を知らなかったら多分言ってしまっていたことだろうと思う。
吐いた息は妙に白かった。今日は、今年1番の寒さらしい。
「見たいな、日本人形の君」
久しぶりに他人からそう呼ばれ、私は少し胸が熱くなり、それが悪口であったことを思い出した。
日に焼けてもみんなのように皮膚の色が濃くなったりしない私は、まるで家から一歩も出ていない不健康な人間のように白くて、垂らしたままの髪は真っ黒で、可愛げのないつり目をふたつ常備していた。
それなりに笑ったり、怒ったりしたが、私はいつもひとりだった。
だからその表情の変化を、認識してくれる相手がいなかった。
周りから見た私は、ガラスケースの向こう側でじっと動かないでいる無表情な日本人形だった。
けれどそれも全ては私の憶測で、本当のところどんな理由だったのかは知らない。
それを教えてくれる第三者の立場の人間すら、私には見つけることができなかった。
「そうだ。卒業アルバムとかに載ってるんじゃないか?」
昔の写真は全部親が持っていると言うと彼は私の編んだ茶色の手袋に通した手を、口元で擦りながら楽しそうにやかんから吹き出る湯気みたいに息を吐き出した。
卒業アルバムはどこにあるか分からないと嘘をついた。
返事を返す私の息は、ほぼ透明に近かった。
私はその類をきっとどの学生だった人間よりも、大事に大事にしている。
特にアルバムと一緒にもらったみんなの文集。あれは特に大事なものだ。
みんなの夢が詰まっている。もちろん、私の夢もだ。
そういえば、あの文集のテーマも「私の夢」だった。
私も夢を書いた。その頃、切に憧れていたある夢のことを健気に書いた。
みるみるうちに思い出す昔の出来事は、思い出すというよりも一体化しすぎていたものを固体化させて、並べたものたちを順々に確認し直している感覚に似ていた。
私の背中を這いずり回る正体を、私は知っていてただ知らないふりをしているようにも思えた。
「大丈夫、僕の妹が持ってるよ。今度、見せてもらおうかな」
彼の阿呆みたいに呑気な笑顔の向こうから、眩しい光がやってくる。
線路の上をごろごろと転がりながら大きな、私が昔、感じ続けていたどうしようもない恐怖に似た物体が走ってくる。
強大すぎる人工物。イヤフォンで鼓膜を覆う第三者たち。鳩みたいなこの男。かつて日本人形と呼ばれていた私。
「まずは、第三者から」
見て見ぬふりの呪縛を解いた隣の女の子は、血まみれになった私を見て固まる。
さて、どうする。あなたはどちら側の人間?
私はその場に座り込んで、ひたすら泣き喚いた。
ホームの淵に落ちている茶色の手袋を垂れた髪の間から覗いて、私は可愛げのないふたつのつり目でその先を確認する。
ガラスケースの向こう側で起きている出来事を目で追い、そのままじっと動かずにいながら。





「私の夢」
この三年間、みんなは私を見ていてくれました。
なので私は、みんなを見守り続ける日本人形みたいな大人になりたいです。
そしていつまでもみんなのことを忘れずに、いつか恩を返しにいけたらいいなと思っています。



[22331] レ、憧れたあの線
Name: an◆ebdaa164 ID:172579a6
Date: 2011/12/11 01:07
大人が僕に言う。
「まだお前にはわからない。ここからは大人の世界だ」と。
引かれた線の僕が踏み込めないあっち側が、とてもきらきらしたものに見えた。
あっちに行ってみたい。大人の世界は、艶やかで甘そうな匂いがする。
けれど僕がまたぐには、まだ少し大きすぎる線だった。


大人が僕に言う。
「お前もそろそろ大人になりなさい」
線を引くための道具は、持ってみると案外軽くて僕にでも作れそうだった。
あっち側から新しい線を描いたり、こちら側からはみ出した部分を削ったり、僕は昔見た憧れの世界への扉を作りたい思いで必死になった。
こうじゃない。こうでもない。体を汚しながら、僕は懸命に創造し続けた。


大人が僕に言う。
「お前ももう大人なんだから、しっかりしなさい」
僕の足元から見覚えのあるいつもの地面が消えた。
気づけば、ここはごつごつと硬くて、冷たく冷えきった冬の日のコンクリートに似ていた。
あんなに巨大だったあの境界線は、今や地面にへばりついてなんの弊害にもならなかった。
ここが僕の憧れた世界。ここは僕の憧れた世界?
あちら側で走り回る子供が、僕を見てとろんと笑った。
こちらにはまだ来ないほうがいい。君にはまだ笑っていてほしい。

「まだお前にはわからない。ここからは大人の世界だ」と。



[22331] ロ、星田くん
Name: an◆ebdaa164 ID:36c1ddda
Date: 2012/03/13 02:44
「みんな帰りましたね」
星田くんの言ったとおり、誰もいなくなった教室には私たちだけが残っていた。
がらんと広い室内で隅の席に並んで座る私たちは、なんだか妙にいびつだった。
そのいびつさのせいか、私には今の星田くんの言葉がとても不自然なものに聞こえた。
思わず身構えてしまうほど、未知な領域から発されたその言葉は私の身体をやんわりと包んだ。
その控えめ加減が、なんだかまるで星田くんそのものでわずかに緊張がほぐれる。
「あれ、何か変なこと言いました?」
いつの間にかにやけてしまっていた口元を右手でさっと隠して、いいえと私は窓のほうへ顔を背けた。
先ほどまで降り続いていた雨が止んで、晴れ始めた水色の空に窓の水滴が重なった景色はこれまたいびつだった。
星田くんの隣にいると、視界まで彼のものになってしまったかのように、普段の私では見ることのない視点からものが見えてくるようになる。
星田くんは人を動かす中心になる部分に触れるのがうまいから、多分そこらへんからの影響なんだと思う。
気味が悪いと思う人もいるかもしれないけれど、星田くんの場合は特別なのだ。
彼に不気味だなんてフレーズは似合わないにも程があるし、それに彼は黄身というより白身に近い弾力で笑う。
彼が笑っていると私は大抵泣いていて、その姿を見て笑っているのではないと分かってはいるのだけれど、そういう時これでもかってくらいに彼を嫌いになる時がある。
今日もなんだかそんな予感で、振り返ると星田くんは何やら鞄の中をまさぐっていた。
あれ、あれ、なんて呟きながら真剣な眼差しで何かを探しているから、私がどうしたの? って聞くと。
「今日は、君に渡すものがあったのだけどなぁ」
そんなことを言われたのは初めてで、乙女のようにときめいてしまった心をゴムボールのように跳ね返した。
それと同時に、胸が少しだけ痛んだ。
ふいに廊下からクラスメイトに似ている何人かの話し声が聞こえてきて、私はお願いだからこの教室に入ってきませんように、と扉の向こう側をキッと睨んだ。
星田くんは変わらず鞄の中をまさぐりながら、私に言った。
「大丈夫だよ。誰も入ってこないから」
こうやって私の心の中味を読むのが、彼の癖でもあり、特技でもある。
と、私が勝手に思っているだけで、本当のところ彼にとってなんなのかは未だに不明である。
「僕にも分からないよ」
一瞬、手を止めた彼は私のほうを見て、私は随分前から彼を見ていて、やっと目が合ったと思ったら口元が緩んで肩があがった。
十分、分かっていると私は思う。
今度は、星田くんだけが笑った。
そして彼の予想通り、クラスメイトらしき人たちは誰もここへは入ってこなかった。
無視すればいい。誰も彼もが私たちを無視したら、ここは本当に星田くんのものになる気がするから。
涙が出るのは、ここに私の嫌いな世界が入り混じっているからだ。
けれどそんなわがままな理由で泣いてばかりの私を、私は嫌いで仕方がなかった。
涙がこぼれるたび私は私に鞭打って、だから鼻の奥はこんなにもつんとするのだ。
探し物が見つかった星田くんは、私を見て笑っている。
私は腹が立って頬を何度も拭うけれど、涙は散々なほどに流れ続けた。
星田くんがいるのだからそれはあたり前なのだけれど、私はそれを認めたくないのかもしれない。
彼のことをこんなに愛おしく思うのは、きっと彼が私の弱いところをひとまとめにしたような人だからだ。
そして事実、そうだからだ。
彼の見る景色は、いびつだ。彼を見ると、胸が痛む。彼が触れると、涙が溢れる。
もしもこの世界が星田くんと私だけのものならば、私はたぶんこんなに悲しくはならない。
けれどそんなことになってしまったら、星田くんは星田くんではなくなってしまうに違いないから結局、私は泣くのだろう。
「これ、あげます」
冷たい手のひらから手渡されたそれは、私にはよく分からないものだった。
温かくもなく、冷たくもなく、色もついていなければ、形すらなかった。
でも、星田くんが私のために探していてくれたものなのだから、きっと何かとても素敵なものに違いないと思った。
ありがとう、と笑ったつもりがどんな表情になっていたか自分ではよく分からないまま、それでも私は精一杯笑った。
「好き」
口の端からこぼれたその言葉を、星田くんはすっとすくいあげて「あたり前」と声に出さない言葉をくれた。
思わず涙腺が緩み、今日二度目の泣き顔を見せないために外を眺めるふりをした。
「ばれてるよ」って星田くんの声に私はふふっと笑って、同時にその声に違和感を感じた。
袖で目尻を拭って、そっと振り返ると、思ったとおり星田くんはもういなかった。
彼は意地悪だけれど、とても寂しがりやだからいなくなる時少し泣くのだ。
もう当分、星田くんは私の前に姿を現さない。
もしかしたら、もう彼に会うことはないのかもしれない。
それでも私は、泣いたりはしない。
彼は私になって、私は彼のものになったからだ。
そういえば私は彼の心を読めるようになっていた。




[22331] ワ、錯乱熱
Name: an◆ebdaa164 ID:36c1ddda
Date: 2012/03/27 22:50
 眠れないのは今日起きたのがお昼近かったせいか、それともひっかかってぶら下がったままの心のわだかまりが左右にずんずん揺れて体内で暴れているからか、とにかく市販の睡眠導入剤は効かなかった。ネットで調べたら、慢性の不眠の方にはきかないらしい。どうやらたった六粒に払った千円札と少しの小銭は意味を成さなかったみたいだ。それどころか今度は胃腸薬を買ってくることになりそうだ。さっきから胃の中心に刺すような痛みを感じている。想像している通り本当にそこは胃の中心なのかということは置いておいて、とにかく痛むのは事実だった。睡眠導入剤の前に、風邪薬を飲んだのがいけなかったのか。でも少し時間をあけたつもりだったのだけれど、もしかして水の代わりにアルコールで飲んだのがいけなかったのか。世間ではそれをオーバードーズとか言うらしいが、そんな一般常識は今必要ない。今求められているのは、どうしていきなり胃が痛みだしたかということだ。それが、それだけが、今私の頭の中では最重要視されているのだ。そういえば今日は一日朝から何も食べていない気がする。それは意図的にだったか、そんな暇がなくてしょうがなくだったか、それは考えてもどうしようもないことだ。たとえ理由があったにせよ、食べていないのであれば何も食べていないってことになるだけで他はたいした意味を持たない。きっとそれが原因に違いない。違いないという表現を使うのは表面上断言しているように見えるが、実は憶測に過ぎないといった隠れた曖昧さが私の今の心境を伝えるにあたってぴったりの言い回しだと思ったからに違いない。自分で言ったくせに脳で考え出した自分の言葉をはっきりこれと判断できそうにもなかったので、不覚にもまた憶測を使ってしまった。でも人間なんてそんなものだ。みんな結局は訳も分からず喋っている。喋っているというよりはきっとそれは声を出すのほうがしっくりくるのかもしれない。声を出し、小さい頃からこつこつと教えられた単語を並べ、貼りついた表情を伸ばしたり縮めたりして使っているのだ。みんなそんなものだ。そんな世界が嫌になった。めんどくさくてまどろっこしくてねちっこくて冷めた世界から自分を切り取ってみたかった。同系色になってしまった私と世界との境界線を見つけ出し、そこをはさみでチョキチョキと切断するために、そのために私は薬箱に入っていた薬を片っ端から飲み込んだのだった。そうだった。なぜそんな大事なことをたった今思いついたのだろう。それはたった今までそのことを忘れていたからだ。忘れていたなら仕方がないか。忘れることは人間の特技だ。人間が長生きするための最大の技だ。ひどいいじめにあって自殺するとか、親からの虐待、恋人の後を追って自殺など白黒のインク臭い紙の上でよく見かける出来事はそんなのは一部の者たちの起こしたことに過ぎないのだ。そういった理由で躊躇もなくコンクリートに体を打ちつけただの肉の塊にしていくのは、それらを忘れるまでの期間を耐え切れなかった者たちなのだ。人は忘れる。嬉しかったことも悲しかったことも徐々に気づかないほど忘れる。残っているのは何度も何度も思い返し自分の脳で脚色された記憶か、すべてを打ち消すほどの強烈な記憶かそのどちらかだ。けれど、それらもいずれは忘れ去られていくのだ。日々、沢山の情報を受け止めたり流したりしている者は塗り替えられ、あるいは重なっていき、受け口を閉ざし新しい情報をせき止めている者は溜まっている記憶が自由勝手に飛び回り膨らんだり洗浄されたりしていくのだ。どこがどう詰まっていても、人はその中でひたすら働き続けている。動き続けている。その結果が忘れるという行為に繋がるのだ。私の場合もそれだ。薬を飲んでからあまりに沢山のことを考えすぎた。考えすぎるのは私の悪い癖だ。具体的に今は何を考えていたのかというと、あぁもうそんなのはどうでもいいのだよ。とにかく、今日家にあった胃薬が粉状のものしかなくて、今奥歯を舌で触ったらそこにごっそり詰まってて苦くて苦くて堪らない。仕方なく、目の前にあるお酒で流そう。仕方なくだよ。本当に仕方なく、水は台所に行って冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターとかをコップに注いで飲まなきゃいけないし、田舎なら蛇口からじょーなんだけど都会はそういうわけにはいかないらしい。都会は面倒くさいね。あぁ、面倒くさい。その面倒くささに飽き飽きしたのだよ私は。何をするにも制限がかかって、髪の毛は黒くしなきゃ駄目、上司には敬語を使わなきゃ駄目、彼氏には甘えすぎては駄目、友達といっても心に土足で入り込むのは駄目、女は色々たしなまなきゃ駄目、かといってセックスを沢山するのはだらしのない女だから駄目、駄目、駄目、絶対、駄目。そんな神様でもない仏様でもない、世間の誰かが決めた常識とやらにがんじがらめに縛られて私は毎日生きていくことが苦しくなった。息を吸うのだって面倒で、愛想笑いなんかした次の日には一日中吐き続けなければいけない地獄だけが待っていた。私と世間はワンテンポどころかもうリズムにならないほどずれている。だからそれを正すため、厄介な病気を治すため、私は片っ端から薬を飲んだのだ。世間の人が作った世間の人のためのものを飲めば私だって世間の人になれると思ったからだ。私は世間の人になりたかった。みんなのように平気で嘘をついたり、損得を考えて恋愛をしてみたり、そういうことをうまく活用して世間をうまく渡り歩きたかったに違いない。でもそれを無理だと決めつけたのは自分で、実は一番常識に惑わされていたのは自分だった。水みたいに入ってきていたアルコールが少しずつ体を火照らせる。熱が私を躍らすならば、私は一生考え続けることになる。人間は熱を持ち、冷めるも熱するも思い通りにいくことは少ない。私を妨げているものは私で、私を躍らすものは私。そんなややこしい関係の中で上手に息をするほうが無理な話なのだ。私の熱は今のところ冷める気配はない。けれども、熱にうなされている自分に酔っている私がいる。愚かで滑稽で、それでも憎めないからみんなそれぞれの熱を少し愛しく思うに違いないのだ。



[22331] ヲ、美しさの向こう
Name: an◆ebdaa164 ID:36c1ddda
Date: 2012/05/14 02:41
小刻みに揺れながら走る高速バスの窓には、どこまでも暗い、夜の海にひっそりと浮かぶ私が映っている。
反対側から次々にやってくる車のヘッドライトは尾を引き、街灯も同じように伸びて、私はそれらの目の錯覚を少しだけ愉しむ。
窓ガラスに映る顔は、底へ沈んでいく絶望感だけを抱えた今の気持ちとはかけ離れた表情だった。
そのせいで私は、この状況がなおさら愉快に思えた。
美しいという言葉とは正反対の言葉の入り口にいる。
それがなんと呼ばれるのかは分からないけれど、私はそこへ向かってこの海の中、進む。
小刻みに揺れる高速バスから振り落とされないかぎり、この暗い夜の海は至って順調に私をゆらゆらと導き招く。


彼の嫌いな所は、という質問に私が答えるのを恐れているのはその数の多さでもなく、それが的確でどうしようもない欠点ばかりだということでもなく、彼を嫌いになってしまうのではないかという一抹の不安のせいだった。
私はどうしても彼を嫌いにはなりたくなかったのだ。
彼の嫌な所を見つけるたびに削られていく、この無償の愛を完全には失ってしまいたくないのだ。
私は彼を好きでいたいだけなのに、彼の欠点はそんな私の努力も虚しく、一日一日と増えていくばかりだった。
「ごめんね」と書かれたメールを見直して、削除したい気持ちを必死でこらえ携帯を閉じた。
私が今まさに直面している問題だ。
「ごめんね」その言葉を見たり聞いたりするたびに、私は心の中で重いため息を吐いた。
彼は私が何か少しでも困った時、自分が微塵も悪くないのにも拘らずすぐに謝ってくる癖みたいなものがある。
その癖は今の私にとって、うざったくそして、罪悪感以外の何者でもない。
謝らなきゃいけないのは私のほうなのだ。
少し前まで、私は彼のことを死ぬほど愛していた。
死ぬほどというのは、私自身がもう死んでもいいとか、愛おしすぎて彼の生や死さえも自分のものにしたいなんていうなんだか狂気じみた気持ちの表れだったのかもしれないけれど、それらが狂気だなんて気づきもしないほど彼を愛していたということだ。
けれども人間というのは残酷なもので、そのカルピスの原液のように濃かった私の愛は徐々に薄まりつつある。
他に好きな人ができた、そんな分かりやすく優しい理由だったらどんなにか良かったことだろう。

「もしもし」
「もしもし、今、何してた?」
「何も」
「そうか、今日、何してた?」
「何も」
「そうか、俺に言いたいことある?」
「何も」
「俺たち、もう駄目だね」
「うん」

という、彼からの電話の妄想をここ最近、一時間に一回はしていた。
はっきり言って私たちはもう駄目なのだ。
はっきり言わなくとも、私たちがもう駄目なことは分かりきっているのだ。
それでも、私からは彼に言い出せない。
だから彼の職場の上司と浮気することを考えついたのだった。


佐藤さんはあまり優しくない部類の男性だ。
私の発言に笑わない時もあれば、歩幅は大きいし、セックスは常に乱暴だ。
我ながら単純すぎて笑えてくるが、彼とはまるで正反対の男だった。
出会ったのは合コンで、勿論、彼の会社の上司が来ると知って参加した。
私はその中で一番、面倒ではなさそうな人を選んだ。
それが佐藤さんだった。偶然にも彼の直属の上司だった。それには私も驚いた。
私たちはその夜酔いに任せてすぐに体を交わし、メールアドレスを交換して、また会おうと言って別れた。
佐藤さんは無駄に質問をしないし、行動は早いし、ぱきっとしたスーツがよく似合っていた。
私が本気で恋愛対象にする日はだいぶ遠いだろうけれど、浮気相手としては完璧だった。
「今日はもう帰る? 家、寄ってく?」
ネクタイを締め直しながら、佐藤さんは身支度をする私に尋ねる。
「うぅん、まだちょっと早いし、お邪魔しようかな」
「ん。あ、お会計お願いします」
佐藤さんがいつものようにてきぱきとお会計を済ませ、私たちは居酒屋を出て佐藤さんのマンションに向かった。
外はもうすぐ春だというのに、息が白くなるほど寒かった。
「寒くない?」
「ちょっと寒いけど、平気よ」
「そう」
佐藤さんにしては珍しい私への配慮だ。
これは何かあるのかもしれないと、半歩後ろを歩く私は半歩前を歩く男を勘ぐってみる。
そんな私にも今日は重大なわだかまりがあった。
佐藤さんと初めて会った時に受けた印象をそのままそっくり具現化したような、飾りっ気のないスマートな灰色のマンションに着いて、五階の部屋の前まで行くと佐藤さんは鍵を開ける前に私に言った。
「これから、ちゃんと説明するから」
その意味が分からない私は、いつもと変わらない笑顔でわかったと頷く。
佐藤さんは玄関の扉をゆっくりと開けた。

積まれた茶色い物たちを見て、私は思わず今日の靴の脱ぎ方を忘れた。
「とりあえず入って。ちょっと狭いけど」
佐藤さんの革靴の隣にちょこんと自分のパンプスを並べて、思い出した靴は脱ぎ方もなにもなかった。
私は佐藤さんに誘導されるがままに生活感の残るわずかなスペースに腰を下ろす。
スーツの上着をハンガーにかける佐藤さんを見つめながら、私はこんな突飛すぎる状況の中、頭は全く違う所にあった。
それにはどうしようもない訳がある。
「いきなりなんだけど、俺、大阪行くことになってさ」
私が大阪? と聞き返すと。
「どうしようもなくて、断ったんだけど自分しかいないって言われて」
出張? と分かりきったことをとぼけた顔でまた聞き返す。
「いや、転勤。ごめんな」
その瞬間、私の心臓は茹でたトマトのように音もなく柔らかに潰れた。
「何が? 遠くに行ったって恋人は恋人でしょう?」
私は、謝らないでという言葉を飲み込んだ。
そっかと安堵の息を漏らす佐藤さんは、私が思っていたよりも優しかったことに今気づく。
私のトマトはびろんと剥がれた皮の中をじゅくじゅくと誰かに踏まれ続けている。
「コーヒーでも飲む?」
「うん」
佐藤さんはダンボールの障害をスマートに乗り越えて、キッチンへと向かった。
ひとりきりになったこの部屋は以前来たことのある佐藤さんの寝室とはかけ離れた、まるで異空間だった。
あまりにも残酷な私を神様がひとりきりの世界へ飛ばしたみたいだ。
そこへ救世主の佐.藤さんは、あまりにもベストなタイミングで現れる。
今日は、彼の誕生日だ。
「今日、泊まってく?」
「うん、そうする」
元々、そのつもりだった。
「いつ出発なの?」
「明後日」
「じゃあ、もう会えないね」
「お金出すから、こっちに会いに来いよ」
「いいよ、自分で出す」
「じゃあ、半分出すよ。俺、たぶん滅多に帰れないと思うから」
「わかった」
「してもいい?」
「いいよ」
佐藤さんのキスは、苦い苦いブラックコーヒーの味がした。
彼とはもうしばらく会っていない。連絡もまちまちだった。
昨日も数回メールのやりとりはあったけれど、彼は今日のことについて何も言わなかった。
去年の誕生日、確か私は不慣れな手料理を振舞った覚えがある。
佐藤さんの唯一好きな所は、キスをした後に数秒見せる真剣な瞳だった。
これがこの人の真実なのか、それとも嘘なのかそれは分からない。
言い訳するわけではないけれど、私だって初めからこうすることを決めていたわけじゃなかった。
彼が誕生日を一緒に過ごしてほしいと言えば、また慣れない手料理でも作ったし、プレゼントを選びに買い物だって行った。
けれど、何も言わなかったのだからしょうがない。どうして何も言えないのだろう。
私はとことん残酷だ。
彼だけじゃなく、自分の誕生日を祝ってと言える人なんてそうそういないだろう。
結局、私は彼の誕生日の日に彼の家で過ごす気はさらさら無かったというわけだ。
佐藤さんの生活がすべてダンボールに詰め込まれたこの無機質な部屋に、私たちの荒い息づかいが充満して、佐藤さんの熱が私の罪悪感の導火線に火を灯していた。
相変わらず、佐藤さんのセックスは乱暴だ。
でもそれが、今日だけは心地よかった。


陶酔状態。
その状態ほど気持ちの悪いものはない。
私は二人の男のことを考えて、その陶酔状態とやらにひたひた全身を包まれていくようだった。
ここ最近、私は必ず同時に二つのことを考えていた。
佐藤さんとのセックス中に彼への不満を募らせ、彼が私を嫌いになるための算段を練っている時は佐藤さんへの罪の意識で押し潰れた。
私の思考回路はめちゃくちゃで、それでも上手にあなたとしか向き合っていない私を演じ続けていられていた。
人間は器用だ。
それだけ性能の良い人間が不器用になる、それが恋愛だ。
私の計画は正直言って、あまりうまくいっていなかった。
それは彼のせいでもなく、佐藤さんでもなく、私の問題のせいだ。
私が彼を嫌いになりたくないという理由で始めた行動のすべてが、どれもひどく残酷だったからだ。
当初の予定では私だけが傷つくはずだった。
彼に浮気がばれ、佐藤さんに軽い女だということがばれ、私は二人から同時に捨てられるはずだったのに、なぜかそうはいかなかったのだ。
彼に浮気がばれたのは彼の会社の近くのカフェで、佐藤さんとお茶をしていたのを見られてしまったからだった。
大阪に転勤することになった佐藤さんは宣言通り中々帰ってこれず、一回目の帰郷はあれから半年が経った夏だった。
窓ガラス越しに彼と完璧に目が合い、最低だけれどそれも私の策略通りだった。
その後、久々に彼から誘いを受け、私たちは昔よく行った地中海料理のお店へ行った。
そこで彼は一言、佐藤さんと知り合いだったんだ、そう言って頼りなく笑った。
彼は私を咎めるようなことは一切せず、その後も久しぶりだねとへらへら笑った。
私は堪えきれなくて、トイレで少し泣いた。
私は彼のことがまだ好きだというのを完璧に忘れていた。
彼もあれから家に帰って、あのワンルームで泣いたのだろうか。
一方佐藤さんのほうは、そのたった一回の帰郷の際に私たちは当然ぴたりと一緒にいたわけで、その夜は佐藤さんが泊まる予定のホテルに私も泊まることになった。
佐藤さんがシャワーを浴び終えると、わざと彼とのデートの約束のメールを開きっぱなしにしたままシャワーを浴びに行った。
バスルームを出ると、もうベッドで横になっている佐藤さんを見て、私は恐る恐る近づいた。
「どうしたの? 今日は疲れた?」
佐藤さんは目を開けたまま、無言だった。
「もう寝てもいいよ。明日ちゃんと起こしてあげるから」
すると佐藤さんはいきなり上半身を起こして、真面目な顔をして言った。
「仕方ないよな、俺こんなだしな」
え? と馬鹿みたいに笑った私の濡れた頭を撫でて、明日はどこか出かけよう、そう呟いて佐藤さんは先に寝息をたてた。
呆気にとられた私はしばらく放心したまま鏡の前に座らされていた。
なんて馬鹿でなんて最低でなんて汚いのだろう。なんで佐藤さんなんだろう。
なんであの時、私は佐藤さんを選んでしまったのだろう。
傷つかない人間なんか、優しくない人間なんかいないのだ。
涙を流す権利は私にはなかった。
私は結局、傷つかないどころか二人に守られてしまったのだった。


バスはサービスエリアに到着して、車内の明るさを取り戻すと同時に寝ていた乗客たちがのそのそと起き始めた。
二人の顔が浮かぶ。二人の傷ついた顔が浮かぶ。
そんなつもりじゃなかった。こんなことになるとは思わなかった。
私は少しだけ目を瞑る。
もう考えたくない。何も考えたくない。私が考えたところでどうせ良いことなんて一つもない。
卑怯だぞ、小学生の頃鬼ごっこの最中、みんなはよくそんな言葉を使った。
卑怯でけっこう。どうせ私は自分のことしか考えていない自己中女だ。
そう開き直ったって、状況が変わるわけじゃない。
誰かが幸せになるわけじゃない。
どうしたらいい。私は女だ。無駄に物事を考えるし、誰も傷つけたくないと言いながらみんなを傷つける。
すぐに泣くし、そんな自分に酔ったりする。最悪と追いつめるほど、自分をどうにか守りたくなる。
人を第一印象で勝手に決めつけるし、呆気なく飽きるし、なんにでも同情する。
君ら男性諸君には元々、飼いならせやしない凶暴で乱暴な生き物なのだ。
それでも君らに頼るしかない、弱く儚い生き物なのだ。
けれどそんなことばかり言ってはいられない。
女の主張などこの場においては無意味でしかない。
私は死ぬほど愛した男と、静かに愛してくれた男の前からこうやって無責任に姿をくらますことしかできなかった。

バスは身震いをするとまた何事もないように走り出した。
まっすぐにひた走っているはずなのに、私は上下左右に揺れている。
このままどこへ向かうのか。
分かっているくせに、遠くの景色でごまかす自分を軽蔑しながら私は少しの間だけ思い出に浸った。
美しい思い出たち。
私と彼と佐藤さんの美しく脆い思い出たち。
私はそれらを脳内に浮かべ、流れる夜を見つめ、冷たい窓ガラスにおでこをつける。
まるで輝く星のような遠くに浮かぶ街灯の光。
バスが私をかくまってくれるこの少しの間だけ、私はそれらの錯覚をもう一度少しだけ愉しんだ。
この夜の海が終わるまで。



[22331] ン、星の子供
Name: an◆ebdaa164 ID:36c1ddda
Date: 2012/11/18 18:11
秋の四時半の空は綺麗だ。
彼の発言には根拠がない。
四階建てのマンションの、四階の部屋のベランダから見える空は確かに綺麗だった。
ただいまの時刻は、午後四時三十七分。
けれど、彼がそれを午前なのか午後のつもりで言ったかは皆目見当もつかない。
やはり彼の発言には根拠がない。
日々生き急ぐ人々の中でこの上ないほどに悠々と生きていた彼そのものが、根を持たない植物のようだったのだからそれは当然とも言えるのだが。
私は果たして、なぜそこまで根拠とやらを求めていたのだろうか。
自分自身のことながら、いや、自分自身のことだからこそ、全くどうしようもなく皆目見当もつかなかった。


午後四時五十五分になると、辺りはひっそりと薄暗くなり始めた。
青と桃色と橙色のグラデーションがかった空は、もう明日か昨日に見えなくなった。
急に寒い。
薄手のパーカーをぐいっと首元まで伸ばす。
氷に息を吹きかけたような冷たい秋の風が、私の前髪をさらう。
遠くで鐘の音、もう五時だ。


ずっとこうしているわけにもいかないので、渋々部屋に戻ると風の音がいっそう強くなったので、仕方なく窓を閉めた。
部屋は暗い。
電気をつける気分にはならない。
パソコンの明かりと、時計の秒針の音。
漬物をかじる音によく似ている。彼は漬物が好きだった。
けれども、こんな単調に規則正しくは噛まなかったと思う。
カーテンのレースが徐々に白さを失っていく。
もうすぐ夜が来る。


夜が来る、暗闇は一瞬で、気づけば外は濁った青だ。
爽やかな気分、清々しい空気、始まりの朝。
彼は朝も昼も夜も、どれかをひとつとって罵ったりはしなかったけれど、どれも具体的には語らなかった。
彼にとっては、朝も昼も夜もどうでも良い区切りだったのだろう。
それはその三つを無視するということではなくて、朝だろうが昼だろうが夜だろうが焦ったりしなかったということだ。
一日という区切りが彼には見えていなかったのだ。
なんて根拠は特にない。


私の発言にも最近、根拠が少ない。
彼と別々に暮らすようになってから、彼の話をするようになってからそれはめっきり減っていた。
彼は小学生の頃、先生に怒られてばかりいたんだそうだ。
どうして決められた休み時間の中でトイレに行かないのかとか、下校時間が過ぎてもいつまでも図書館の本にかじりついていたとかで。
理由を思い出すときりがないよ、といつも楽しそうに笑ったものだ。
それが悪いことをしているという自覚はない、けれど正しいとも思えない。
やっぱり中々なほどに、根拠がない。
けれども今になって思うのだ。
そんな素敵な小学生は、地球上を探したってなんて稀なのだろうと。
その子は自分を生きている。
たった数年でそれを見つけていたのだ。
多くの人は勿論私も含め、根拠のないものに焦り、急がされて毎日を生きている。
子供だって、大人だって、高いヒールを履いていたって常に小走りなのだ。
朝や昼や夜、時間や人生と、勝手に名前をつけてそれを根拠づけているだけだ。
この世に根拠のあるものなんてそうそうない。
ただ言えるのは、ここにひとりの自分が生きているということだけ。
それ以外は根を生やしたのではなく、根を植えつけたにすぎない。
そんなものたちに何を焦らされなきゃいけない理由がある、息切れをする必要がある。
ここに根をはっているのは私たちなのだ。
どっしりと構えて、流れゆく時を感じ、その中を自由に泳げばいい。
言葉に根拠はなくても、そこにいるあなたにもう根拠がある。
外はすっかり真っ暗だ。
彼は星が好きだった。


「そこにいて自分を燃やし続けることで輝く様を見て、僕たちはここにいることを実感させられる」

「僕たちって、一体誰のことよ」

「誰のことでもないんだよ」

「でたらめなことばっかり」

「君が笑ってくれれば、僕はそれでいいんだ」


星が笑う。
今日は朝まで起きていよう。
午前四時の空を待つのも悪くない。
根拠のない彼の、薄っぺらいけれど広い背中が恋しい。
あぁ、なんて根拠のない気持ちなのかしら。


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