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[21792] 狼の娘・滅日の銃 【エピローグ】【完結】
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:361fd354
Date: 2010/12/26 22:48
あの娘が怖い。
それに気付いたのは、忘れもしない、あの眼を見た、あの日。

■プロローグ■EL-RAY

熱い。燃えるような熱さだ。耐え切れず男は眼を開ける。
燃えていた。町が火に包まれ燃えていた。
あの娘と暮らしたあの町が、五年間の楽園が、業火に包まれ燃えている。
その光景を、視界の半分を朱に染めながら、男はただ見つめていた。
もう、動けない。老いぼれたもんだ、自分の手と同じくらい握ってきたこいつがこんなにも重いなんて。
ごとり、と男の手から銃が落ちる。
瓦礫に背を預け、もう使い物にならないであろう足を伸ばし、ざまあない、と男は笑う。
燃え盛る火の中で、ゆらゆらと揺れる黒い影。シルエットは少女。
しかし目と口を糸で縫われ、全身に鋭い刺を生やす黒い殻を纏うその人形は、
男の突き刺した腹の小刀さえ意に介さず、血すら流さず、悠然と彼を見下ろす。やがてそれは平然と小刀を抜き投げ捨てた。
そして背中を向ける。もう男など興味を無くしたかのように肩口から黒い翼のようなものを生やし、悠然と飛び立つ──しかし、その時。

「おまえはそこで、まっていろ」

どさり、と黒が地に落ちる。立ち上がろうと腰を上げるも足の震えがそれを許さない。
かつてまだ一匹の獣であったころ、山野を駆け巡り原色の恐怖を次から次へと喰らっていた。
やがて捕縛、精製され調教を受けて後、恐怖ではなく恐怖を放つもの、それを喰らう者として変貌させられた。
その筈だった。しかし今、まるで己の喰らった恐怖という毒にやられたかのように動けずに身を固め、震えている。
そして想う──我は、こんなものを喰っていたのかと。

「繭……子?」

その声に男が顔を上げれば、黒い髪の童女が能面を被ったかのような無表情でそこに居る。
炎の中でさえ涼しげに着物を着こなすその姿は美しく、なによりも恐ろしい。
やがて彼女、常世繭子は袖から何かを取り出し、それを男の足元に放り投げた。
どさり、と舞い上がる埃が高温にさらされ火花と化す。
男が視線を向けると錆付いた鉄の塊、一挺の銃。

「取りなさい、藤原信也」

眉ひとつ動かさず、能面のまま童女は告げる。

「もう眠りてえんだ、繭子」

男の眼に映るのは童女、そして己の千切れかけた腕と足。もういいだろう、と男は笑う。

「それでいいのですか藤原。お前の愛しいあの子を守りたくはないのですか?」
「守りてえよ、だがな。もうそんな重い奴ぁ、握れねえ」
「ならば触れなさい藤原。それだけで良い。お前がふさわしいなら。それは認める」
「認めたら、どうなるんだ?」
「お前は、エル・レイになります」
「何だよ、それ」
「弾丸(アモ)です」
「弾丸(タマ)か」
「エル・レイはこの銃、メキシカンの弾丸です。お前はエル・レイとなり籠められます」
「で?どうなる?」
「〈あれ〉を倒せます。命と引き換えに」
「ふん、なるほどな」

そして男は力を込める。
引き裂かれた傷口から吹き出す血潮、骨とかろうじて残る肉と腱に最期の力を注ぎこむ。
やがて動き出す指。

「上等だぁ」

じりじりと動く指が、血を滴らせ地を這う。
あと少し、あと少しで銃身──これで。

「お前ならそうすると思っておりましたよ、藤原」

繭子の爪先がそれを蹴る。
くるりと回り向きを変え男の手に収まる朽ちたグリップ。

「お前は本当に、くそったれだよ、繭子」
「誉めるでない藤原、恥ずかしい」

そして男は、滅日の銃を握る。

「あの子を守れるならば」

あの子より逃げられるならば。

「この命、惜しくない」

この命、その駄賃にくれてやる。

「さあ、立ちなさい藤原信也」

熱い、燃えるような熱さだ。
燃えている。この身体が燃えている。
銃から放たれた熱が腕を伝い血管を焼きながら心臓に注がれる。
傷口という傷口から吹き出す火。おいぼれたこの体が燃え盛る。
青い火、完全燃焼の炎。再構成される身体。
あの頃に、今一度一匹の獣だったあの頃に。不死鳥は炎の中で蘇る。その時が、来た。

「おはよう藤原、否──」

常世繭子の能面が一瞬解ける。口の端を小さく吊り上げ、微笑む。

「ひとでなしのエル・レイ」

掻き消えた炎から若々しい男の姿、手にしたものは鉛色の光沢を放つ生まれたての銃。
バレルに刻まれるは喰らい合う毒蛇と毒蛙──テルシオペロとデンドロバテスの紋章。

「さぁ、喰うぜ」

そして男は、眼前の化物へと火を放つ。



狼の娘・滅日の銃
第一話 - お父さんと娘は軽トラに乗って -



「私、あなたの娘、らしいです」

その視線には明らかな敵意が見えた。

「つまりあなたには私を養う義務があります」

しかし憎悪が見えぬのはこの年で、それを抑える術を身に付けのか。

「ですが、頭を下げるつもりなんかありません」

聞けば年は十二。憎悪を抑え、けれど眼光から漏れる殺意。

「これは私が有する当然の権利だからです」

あの女に似た顔立ち。かつて自分が捨てた娘。

「もう一度言います。誰がお前を父などと呼んでやるものか」

何かを抑え、けれど意志を滾らせた眼で少女は男に吐き捨てる。

「この糞虫が」

上等だ、と男は笑った。



なのに、ああそれなのに。

「おとーさん!ほら見て!」

深い山あいを抜けるとそこは町だった──。
いやそうじゃなくて、そうじゃないんだ、とハンドルを握る男は悩む。

「いや真澄……ちゃん?」

軽トラックの窓から見える景色に胸踊らす娘を見て、男の心は和らぎ──。
違う違う、そうじゃ、そうじゃないんだ、違うだろう、君キャラ違うだろう。

「小さくてすてきな町だね!おとーさん!」

嬉しそうな娘の顔を見て、この赴任は間違ってなかったな、と男は──。
いやだから違うだろう!お前キャラ違うだろう!一ヶ月前お前初対面で何つった!

「キミね、ひと月前に俺の事、その、クソ虫と」
「あ、路面電車!おーい!」
「聞けよぉ!聞いてくれよぉ!」

騙された、まんまと騙された、と男は心底あきらめハンドルを切る。
父娘を乗せた軽トラは橋を渡り川を越え、やがて町の目抜き通りに差し掛かる。
突然視界いっぱいに現れたオレンジとグリーン。ツートンカラーの路面電車と並走する小さな車。

「こんにちわー!これからよろしくー!」
「やめッ!止めなさい真澄!こっ恥ずかしいッ!」

小さな荷台に一杯の荷物を満載し並走する軽トラ。
隣を走る路面電車の窓、娘の声に気付いた幾人かが微笑みながら手を振る。みんなが笑ってる、娘も笑ってる。

「るーる、るるっ、とぅー」
「歌うなぁぁぁ!」

やがて電車は右に逸れ郊外へと向かい、フロントガラスの向こう側に古びたレンガ造りの駅が見えた。
駅前通りを過ぎると、駅の真向かいに石造りやや大きめの建物が見える。
屋上から〈祝かなめ市政百周年〉の懸垂幕。どうやら市庁舎らしい。

「あれお父さんの職場?」
「ん?ああ。部屋間借りするだけなんだけどな」

へぇー、すごいねぇさすが国家公務員、などと笑う娘の顔に、もういいや、どうとでもなれ、と半ば諦めながらも男もつられ微笑む。
やがて市庁舎前を通り過ぎると。

「あ、あれなんだろう、四角い箱みたい、おかしいね!」

灰色の大きな真四角のコンクリート製建物が目に入る。
〈改装中・市立郷土資料館近日開館〉と書かれた看板を見て、やけに古臭え建物改装すんだな、と男は一人つぶやいた。

「へえ郷土資料館だって、こんど行こう!ね?おとーさん!」
「はいはい」
「はい、は一回でいいの!」
「へいへいへい」
「もうっ!」

ぷくう、と頬膨らます娘を見て、その頬を軽くつねる。小さな唇からぽひゅう、と漏れる息。
んんー!と頬染めながら男の手をぺちぺち叩く娘を見て、やべえ、やっぱ俺の子カワイイ!むっちゃ可愛いぞこいつ!
と早くも親馬鹿前線が絶賛北上中で開花寸前な新米お父さん。
ほどなく車は小さな町の中心部を抜け、古びた住宅地へと入り、そろそろと進み、何度か迷い、娘のナビゲートの末、
ようやく一軒の小振りな平屋建て家屋の前に軽トラを止めた。

「案外ちっちぇえなあ」
「そう?これくらいが丁度いいんじゃない?」

どうせ二人きりの家族なんだし、と娘が返した時、男の眼に、じわり、と涙。

「お父さん、ひょっとして泣いた?」
「あ、あああ、あくびだ、アクビ!」
「へえー」

そういう事にしときましょう──と少し意地悪な笑みを返す娘、藤原真澄を見て、こりゃやばい、と父、藤原信也は動揺をひた隠す。
やべえ、こいつ既に俺の殺しどころしっかり抑えてやがる、しまった、先が思いやられるぜ、ったく──などと目尻に溜まる涙をそっと拭った。



声が聞こえる。

「パパ」

あれは娘の声だ。

「パパ、パパ、ねぇ、なんでないてるの?」

その声が遠くなる。

「パパ、やだ、いっちゃやだ、パパぁ!」

一度きりの家族。
手に入れた宝物はまるで砂糖菓子のように甘く、脆く、手の体温で崩れ落ち、残った物はひとかけらの砂糖粒。
その粒を口に含めば甘い、けれど舌の上で直ぐに溶け瞬く間に消えて無くなり、残るのは甘さという記憶だけ。
男はその甘さを知ってしまった。
生まれて初めて手に入れた家族。甘い砂糖菓子のように蕩けさせる感覚。これを知り今までの日々が色褪せる。
あれほど自分が愉悦に浸っていた黄金色の日々は瞬く間に色褪せ、モノクロームで殺伐とした血の味しかしない日常へ。
潮時だ、足を洗おう、と男は決意した。しかし。

「あんたの足枷にはならない」

あの女の声が虚しく響く。雌の狼、その声が男の足を引き止める。

「きっとあんたは今に不抜け、不貞腐れ、あの日々をもう一度、と願う」

獣のような女だった、そして男も獣だった。

「あたしには解る。だってあんたは生粋の雄だから」

雄と雌の獣は、お互いを噛み殺さんばかりの情熱と熱狂を経て、やがて雌は子を授かる。

「あたしは母になれた。でもあんたは父にはなれない。だから今はバイバイ」

可愛い娘だった。そして雌の獣は母へと変わり、雄も父になろうとした。

「みんなが枯れ果てた時、また一緒に暮らそう」

しかし女は、男を深く知り過ぎていた。

「パパ、いっちゃやだ、パパぁ!」

母となった女の腕から手を伸ばし自分を呼ぶ娘、泣き叫ぶ娘。初めて男は泣いた。

「パパ!パパぁ!」

けれど、足が動かなかった。男は泣きながら、娘の叫びを聞いていた。
何故なら女の言った事は、まさにその通りだったからだ。



実際のところ。
軽トラ一台で済む荷物なので、搬入にはそう時間が掛かる訳で無し。

「というわけで大家さんに挨拶いくから」
「いってらっさいー」
「お父さんも行くの!」

荷解きもあらかた終え、ひと段落ついた頃、用意していた菓子折りを手に娘が父の襟首を掴む。
もちろん菓子折りは事前に娘が用意していたものだ。この男にそんな甲斐性などありはしない。
娘というか若干嫁気取りなのが藤原には小憎らしい。もちろんかわいいという意味で。

「いや一応官舎扱いの借り上げだから、いんじゃねえの?」
「ダメ!大家と言えば親も同然って、ものの例えにいうじゃない?」
「親の親ねえ、つったら爺さん婆さんかよ、耳遠いんじゃねえの?」
「あーもう、ダラダラ歩かない!さっさと背筋伸ばす!」
「へいへいへい」
「へいは一回!」
「ヘイアッッ!」
「うるさいッ!」

デアッ!と藤原が光の国からやってきた巨人のようなポーズを取り、隣家の門前に立つも即座に娘から菓子折りの角で小突かれる。
しかし親子コントの軽い喧騒ですら家人からの反応は無く、人の気配がまるで感じられない。こんなにいい家なのに、と真澄は首を傾げる。 
見ればその古びた数寄屋造りの家は、それでも良く手入れがなされ、新築では出せないであろう味わいと風格が見て取れた。
玄関へと続く前庭も、彩る植木は丁寧に剪定され、この家に対する主人の思い入れが伺える。なのに、彼女には人の気配が感じられなかった。
常世。玄関先で頭を上げればその表札が見える。

「ツネヨ?」
「トコヨって読むんだろ」

興味無い素振りで答えながらも、藤原は娘に気付かれぬよう拳を硬く握り、開き、緊張を解きほぐす。
局長、俺ぁ聞いてねえぞ。トコヨったらモロじゃねえか、よりにもよってその隣に官舎?しかも大家?ふざけんな!
これじゃ化物に首根っこ掴まれたも同然じゃねえか!──心の内で狸面の上司に愚痴る藤原。

「留守みてえだな、よし出直そう」

一刻も早くここから立ち去らねばならない。
まずは隣の仮住まいへと引き返し、何かの間違いだった事にして大至急荷物を今一度まとめ、
軽トラに積みこの恐ろしい化物の口から離れなくてはならない。旅館かホテルを見つけ仮の宿としよう。
これは一体どういう手違いか上司である局長へ連絡をつけ問いたださねば──と藤原が踵を返そうとしたその時。

「こんにちわー、失礼しまーす」

真澄が引き戸に手を掛けると、カラカラと軽い音を立てながら玄関が開く。

「ほら、お父さん鍵締めてないじゃない。だから留守じゃないよ」

ちょ、おまっ、何やっちゃってんのよォ!この子ッ──と心の中で大慌てしながら、
ソウダネマスミ、ハハハと引きつった笑みを浮かべつつ平静を装い、背中から大汗を吹き出す藤原。

「こんにちわー、誰かいませんかー?」

真澄の先には薄闇が広がっていた。
玄関から一直線に延びる長い廊下の果ては、午後の陽光すら届かぬような漆黒。
まるで深海のように何も窺い知る事が出来なかった。
やっぱり留守?と首を傾げる真澄の隣に立ち、警戒する藤原。

「ちょ、ちょっと近所まで買物でも行ってんじゃねえか?だから出直して」
「おりまする」

藤原の胸元から抑揚の無い声が響く。
動ぜず男は瞬時に娘の肩を抱き、そのまま一歩引かせ、同時に自身は一歩進み、真澄に気取られぬよう背中に庇い、声の主と対峙する。

「お前が藤原ですか、なるほど」

胸元に視線を降ろせば長く艶やかな黒髪。
自分を見上げるその眼はガラス玉のよう。端正な顔立ちは人形のよう。
眉一つ動かさぬ能面と抑揚の無い声。着物を纏った童女がそこにいた。

「お前の事は室戸より聞いておりまする」

しかしその声は臓腑の奥まで染み渡る。その眼は何もかもを貫き見通す。
気配が無かったのではない、気配がいきなり現れた。フィルムにカットインするかのように。なんという化物。
この期に及び今更ながら藤原は後悔する。事を構えるつもりなどは毛頭無い。
しかし得物すら持たぬこの状況では自分はいいとして、この子を護り切る自信が無い。
ならばせめて逃がすか。眼はどうだ。駄目だ。突いた瞬間腕ごと持って行かれる。ならば踵で足を。しまったサンダルだ。
しかも駄目だ折れるのはこっちの方だ。ぬかった、気を抜きすぎていたと男は歯を食いしばる。
ここは静かで平穏な町だ、ある一点を除けば。それが今、目の前に居るとは。

「そんなに構えるでない藤原信也」

ぎしり、と何かを掴むかの如く半握りの手、そこに小さな手が添えられる。
その瞬間、力がすうと抜けていく。違う、と男は察する。吸い取られているのだと。

「この町につなぎを置くつもりなら強きものを、楔打つつもりならより強きものを、と室戸には申し渡しましたが。
 なるほど、お前が藤原ですか。銃剣使いですか、なるほど」

局長が?俺を?くそったれ!
どうりですんなり申請が通ると思ったぜ、やられた。
この赴任は俺の希望だ。しかし向こうにすれば渡りに舟って訳か。
くそっ、そうならそうであの狸、一言言ってくれてもいいじゃねえか──藤原の脳裏に口元を歪ませ笑う上司の顔が浮かぶ。その時。

「ちょっとお父さん、見えない──あれ?何この子、かわいい!」

不意に父の腕をすり抜け前へと踊り出る真澄。
直後、自分と年も変わらぬであろう日本人形のようなちんまい童女を認め、
頬緩めたかと思ったら、んー!か・わ・い・い!とか叫びながら、ぎゅう、と童女を抱きしめる。

「なに?なに!あなたたここの子?はじめまして!わたし真澄!隣に越してきたの!」
「そうですか。それはいいのですが、頬擦り付けるのはやめなさい、暑い」
「かわいっ!可愛いッ!カ、ワ、イ、イー!きゃー!嘘ナニこれチョー可愛いんですけど!
 ね、あなたここの子?お父さんは?お母さんは?ね?ね?仲良くしてね!んー!カワイィぃぃ!」

おーまーえーなーにーやってーんだーこーらー、と口をパクパクさせる藤原。
一見すればツンデレ娘とクーデレロリの抱擁にも見えるその光景を、男はただもう唖然と見つめていた。

「わたしが、あるじです」
「嘘ッ!」
「本当」
「え?それじゃ、何?お父さんお母さんは?」
「わたしはこう見えて、お前よりずっと年上なのですよ」
「ごめんなさい!」

ばっ、と体を離し腰を直角に曲げ、童女の前に菓子折りを突き出す真澄。

「隣に越して来ました藤原ですっ!こ、これ、つまらなくはないものですがッ!」
「確かにつまらなくはないものです」

娘が差し出した芋羊羹の包みをし手に取り、しげしげと見た後。

「ふむ。上野名物ですか。これは良いものです。お前の娘も良いですね藤原」

気に入ったらしい。今度こそ藤原の全身から力が抜ける。

「あの。大家さんですか? 私、藤原真澄と言います」
「わたくしは常世──常世繭子と申します」

ああ、そうだろうよと藤原は心の中で吐き捨てる。こんな化物、お前だけで十分だと。
以前、この町の事情を機密文書の字面程度でしか知らない頃、常世とは血族、もしくは組織の名称ではないのか、と密かに思っていた程だ。
この町も常世という組織の支配する町だと。
この町──かなめ市。
面積、約160平方キロメートル。人口、3万人弱。立地、四方を山に囲まれた内陸山間地。
名立たる観光名所も無く、突出した主産業も無い。
行政的には決して潤沢な予算は持たないが特定の産業を振興している節も見えない。
なのに驚くほど人口流出が少ない。しかし流入も限られている。確かに住み良い環境ではある。
景観が牧歌的、のどかで精神衛生上よろしい。また街中に市電が走るおかげでバスなど流通車輌の歯止めに一役買っている。
そして市政開始当時からの建物が一世紀を経てもなお現役で活躍し、これが古風な町の景観を形作りノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
あと飯が結構旨いらしい、これは大変よろしい。などなど、ここまではどこにでもある地方一都市に過ぎないのだが。

「トコヨマユコさん?キレイな名前!」

常世繭子。かなめ市が要たる理由。それは全てこの女に収束する。
どこにでもある地方都市はその理由で、どこにも無い世界唯一の場所に変貌する。

魔道──ラインと称される力の湧き出る源流。

地球の磁力線が南と北の二極を結ぶように、この力の循環は東と西を結ぶ一つの線(ライン)を形成する。
ライン沸き出でる所、東のカナメ。ライン落つる所、西のヴォクスホール。
この二極点は古来より絶大なラインの力を欲する者達によって常に狙われ続けた。
しかし西のヴォクスホールはラインの降り注ぐ場所として、その力を活用した魔道技術が振興され、
また自国の有する強大無比な魔道師団に護られ、蹂躙を許さぬどころか、逆にその力を以って世界の魔道を統べる魔道帝国となり、
未だその隆盛を誇っている。

「お前の名も良い名ですよ、真澄」

告げるその言葉はやはり抑揚が無く、相変わらずの無表情。
だれが信じるだろうか。この人形のような童女が、ラインの源流をただ一人で護っているなどと。
否、信じるしかねえだろう、と藤原は骨身に染みる。
女?童女?ただ一人?とんでもない!この地を狙う者達を一気に醒めさせ、魔道帝国すら牽制しつづける唯一のもの。
こいつで十分、いや十二分過ぎると彼は実感する。これは存在だ。人の形をした力という存在だ。力そのものだ。
それが意志らしきものを有している。これほど恐ろしいものはない。

「誉めるでない藤原、恥ずかしい」

ちらりと彼を流し見て繭子は告げる。
警戒し閉じていた筈の心、その奥底を鍵無しで覗き見るこの存在はやはり心底恐ろしい。
仕事柄いずれ会わねばならなかった存在。しかし心の準備無しに出会ってしまった。
局長、あんた人が悪すぎる、と藤原は心のうちで苦笑する。

「なるほど。やはりお前からは良い匂いがいたします」

繭子は視線を再び目の前の娘に移し、小さな鼻先をひくひくと動かしながら真澄に告げる。

「え?そうですか?なんだろ、シャンプーかな」
「いいえ。お前の芯から発せられる芳香ですよ。ふむ。良い匂いです」
「鼻がいいんですね、大家さんって」

ええ、鼻は利く方です、と意味深な言葉を告げながらも、それ以上特に何かする様子は無く、藤原は僅かだが安堵する。
気に入られたか?それはそれで問題だが少なくとも真澄に害意は無いらしい。
ならばそろそろ退散しよう。こんな所に長居は無用だ。その心を読んだかのように繭子は親子に告げる。

「良いものを有難う。わたくしはこれを食さねばならぬので、失礼いたします」
「いえこちらこそ!これからも宜しくお願いしますね、大家さん」
「繭子で良い」
「あ、はい!」

そして彼女へ一礼する真澄。
ほらお父さんも!と促されしぶしぶ頭を下げる藤原。

「それじゃまたね!マユコさん」

菓子折りを片手に抱え、もう片手を半分上げ機械的に右へ左へ振る繭子。
あれはバイバイの合図なのだろうか、と相変わらずな大家の見送りを受け、親子二人が踵を返したその時。

「良い娘を持ちましたね、藤原」

不意に耳元で囁かれた声。

「あれは、獣の匂いです」

急ぎ振り返る藤原。

「ん?どうしたの、お父さん」
「いや、なんでもねえ」

玄関は、閉じられていた。



薄暗い廊下の中間、漆黒の闇を背に着物姿の童女がひとり佇む。
光漏れる格子戸の向こう、立ち去る親娘の影が揺れ、やがて消えた。
能面のような白い顔、その口元にじわり、と浮かぶ微笑み。

「そうですか、そうですか」

不意に繭子の袖の中、ガギッ、と錆付いた音が響く。

「そうですか。お前が欲するのは、あの者ですか」

袖に手を入れ、それを取り出す。
小さな手に握られたのは一挺の赤茶色に錆びたリボルバー。

「焦らずともよい。お前が選ぶのなら」

ガギギッ、と錆付いた音を立て意志を持つかの如く上がる撃鉄と、回る空のシリンダー。

「それは叶うでしょう」

諭すようにつぶやき、再び錆びた鉄塊を袖に入れる繭子。
重い筈のそれを入れたにも関わらず、絹の袖は揺れる素振りすら見せず。
しかし袖の中でガチン、と撃鉄の落ちる音が響いた。




■狼の娘・滅日の銃
■第一話/お父さんと娘は軽トラに乗って■了

■次回■第二話「マスミ・ツンデレ・ステレオタイプ」



[21792] 第二話/マスミ・ツンデレ・ステレオタイプ
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:4f1e67cc
Date: 2010/09/10 22:02


「私、あなたの娘、らしいです」

殺意に似た視線、感情を抑えた声で自分に告げる顔。
小学生高学年ほどのその娘を前にして、ああ、そうか、これが罰って奴なのか、と男は思った。

「つまりあなたには私を養う義務があります」

お国の為などと御託ふりまわして荒事専門で殺りまくる。
一発一刀ごとに駆け巡る絶頂、これを知ったらもう戻れねえ、とさえ思った。
構うこっちゃねえ相手だってそのつもりだ、殺るか殺られるか、いいねぇとことんやっちまえ、
好きなことやって金もらって恩給だって付く、最高!これぞ天職──だとあの頃は思っていた。

「ですが、頭を下げるつもりなんかありません」

だからこれは罰なのだ。自分に子など持つ資格などなかったのだ。
血と硝煙が織り成す黄金色の中で、いつか誰かに放った弾丸が巡り巡ってこの胸を貫き、自分は塵に帰るのだ。それが願いだった。
なのに自分はただ一度、女に狂った。こいつになら殺られてもいいと思った。こいつでなければ、とさえ思った。
しかし女が放ったものは子供だった。家族だった。甘い甘い砂糖菓子で出来た弾丸だった。
けれどそれは、男を狂わすには十分過ぎる毒だった。

「これは私が有する当然の権利だからです」

その娘が目の前にいる。母は亡くなったという。
遺品の中から男の存在を探し当て、今日ここに来たという。
あの女の子供、遠い日ついに抱きしめてやる事の出来なかった愛しい娘。
今度こそ潮時だ、と男は思った。
幸い現在教導中の新人は馬鹿で泣き虫だが見込みはあった。
少々時間は掛かりそうだが素質は十分過ぎた。こいつなら後釜にすえられそうだとも思った。
なによりもかつてあの女の言ったこと──みんなが枯れ果てた時、また一緒に暮らそう。最近これを良く思い出す。
もう自分も若くない。いまがその時だろう、と。

「あなたを父などと呼ぶつもりは毛頭ありません」

娘のその一言に苦笑いしながらも男は思う。
まったく立派に育ちやがって。あの狼みたいな女にそっくりだ。
これが罰?神様甘いぜ、最高じゃねえか。こんな楽しいやつぁ他にいねえ。
いいともよ、俺の背中お前に空けといてやらあ、いつでも刺すがいいさ。

「もう一度言います。誰が呼んでやるものか、糞虫」

さすが俺の娘、なかなかのもんだ、と男は笑った。




狼の娘・滅日の銃


第二話 - マスミ・ツンデレ・ステレオタイプ -



なのに、ああ、それなのに。

「わ、わわわ、わたしっ!あなたの事、お、おおお父さんと呼んであげてもっ、いいわっ!」

一週間目でこれは、いったいどういう事なのかしら奥さま。

「お父さん!ほら早く洗濯物出して!私のと一緒に洗うから!ち、違うわよ!節約よ節約!」

二週間目でこれは、まったくこまったものですわねマダム。

「──なによ?」

やられた。まんまと騙された、なにこのツンデレステレオタイプ。

「真澄ちゃん」
「ちゃんは余計」
「真澄」
「なに?」
「ナニをしてるのかね君は」
「添い寝」

ほうほう、そう来ましたか。そうですか、そう来ましたか。なるほど。
藤原は我が子のツンデレ三段活用に感心したかのように寝ながら腕を組み、深くうなずく。
背中から真澄の声がする。自分の胸に真澄の腕が巻きついている。ほうほう、なるほど。

では検証してみよう。

あの恐ろしい大家との接見を済ませ、家に引き返した後、真澄は細かい荷解きの続きを、
そして藤原は縁側でこっそり、上司である室戸局長に連絡。

──やーい、シンヤ、おめえ、だまされてやんのー。

即座に通話を切り携帯をへし折ろうとした所を娘に止められる。
なんかもうどうでも良くなって来たお父さん、勢いよく風呂を掃除する、台所を磨く、玄関から軒先まで徹底的に掃く、
前庭とちっちゃな裏庭の雑草を引っこ抜くゴミカレンダーを確認するゴミを分別する廊下を雑巾でビッカビカに磨クソッ何やってんだ俺はァ!

──ごはんできたよー。

娘の声で我に返り一緒に少し遅めの夕食を取る、おいしい。お父さん涙こぼれそう。
んで娘の後にゆっくりと風呂につかり局長の顔を思い出しムカムカしたので浴室の壁を殴るも娘に怒られる。
本格的にどうでも良くなって来たお父さん、湯上りに缶ビール開け娘のジュースと乾杯。
だらだらとテレビ見る。そろそろ寝よう。布団敷く。寝る──はいストップここだ。
何故気付かなかった布団並べて敷いてある。ここだよココ!今日の最大の問題点はいココ!

「真澄、そこに座りなさい」

即座に起き上がり布団の上で正座しながら、んんッ!と咳払いをする藤原。

「はい、座りましたお父さん」
「膝の上から降りなさい」

ぶーぶー言いながら彼の膝から降り、渋々といった表情で父に習い正座する真澄。

「男女十四にして同衾せず、という言葉を君は知っているかね、娘」
「はいお父様、私は十二ですが何か」

外堀から攻めようとするも外堀自体無かった事に気付くお父さん。

「お父さん、それホントは七歳──なんでもない」

娘の言葉で実は外堀は存在したが自分で埋めてしまった事に気付くお父さん。

「よし、いまのナシ!ノーカン!」

再びンンッ!と某御大漫画のような語尾で軽く咳払いの後、次は正攻法でいこうと決心。

「さて問題です。ここに布団が並べて敷いてありますね真澄。何故でしょう」
「寝るためです」
「うんそうだね真澄、偉いぞ。そうだ寝るためだ」
「うん問題ないねお父さん、それじゃ寝ましょう」
「うんそうだね寝ようか、って違うんだ起きるんだ抱きつくな座りなさい」
「もう!なんなのよお父さん、おかしいよ!」
「そうだお父さんはおかしい。けどここに布団敷いてある事がもっとおかしい」

え?なんでぇー、と少々わざとらしく首を曲げイノセンスな表情を送る真澄。

「おまえ部屋あるだろう」
「うん、あるよー」
「よぉし一歩進んだぞぉ。いいぞぉ次のステージへ進もう、では年頃の娘がだ」
「お父さん」
「なんだい?」
「何で自分の部屋で寝なきゃならないの?真澄わかんない」

よぉしッ!腹を割って話そう!と膝を叩き、藤原グッドダディモード終了。

「つまり来年中学上がろうって娘ッ子がお父さん添い寝とかねえってんだ!」
「わけわかんないわよ!甘えたい年頃なのよ甘えさせなさい!」
「言うか?フツーてめえで言うか?なあ言うかそれ!」

もはや伝統芸とも言えるツンからデレ変化に藤原少々押され気味。
真澄はといえば布団へ仰向けに寝転がり、中腰浮かせた藤原へ、ばん!ばんばん!と隣の開いた布団を叩き、
いいから早く寝れこの野郎!と無言で催促を送る始末。

「だいたいおめは一ヶ月前俺になんつった!父とは呼ばねえだクソ虫だ啖呵切りやがって」
「いつ言ったぁー?何時何分何秒前ぇー?地球が何回まわるときぃー?」
「きぃぃーくやしいッ!この子ったらきぃぃぃぃー!」
「っていうかねお父さん」
「おう」
「成長期の娘にそんな事いったって通じない」
「性徴期の娘だからこそ言わなくちゃなんね」
「さてはお父様、娘のないすばでぃに欲情されてますね」
「あ、俺な、胸とかケツとか二次元の奴ぁ興味ねえから」

さて皆様、カポエイラという武術をご存知であろうか。
南米とかどっかの奴隷が領主とかに隠れて武技を磨くため踊りの中に蹴り技とか取り入れて密かに牙を研いでぐるんぐるんというアレである。
もうちっと易しく言えばブレイクダンスとかで頭のてっぺん軸にしてぐるんぐるん回る奴。
大サービスで言えばストなんちゃらで腕にトゲトゲつけたチャイナ娘がぐるんぐるん回って蹴ったりする奴の浮いてないバージョン。
さて、何故いきなり突如三人称から二人称に変えてまで説明に行を費やしたかと言いますと。

「ハイッ!ハイッ!ハイッ!ハイッ!ハイッ!」
「痛ッ!やめっ!痛いッ!いたいたいたーい!」

真澄、ちょうどいまそんな感じ。

「ちょ!なにこの子!なんでこんな技もってんの!」
「小学校のッ!保健体育でッ!習うの!よッ!」
「嘘だッ!」
「お前ら、五月蝿い」

突如第三者の抑揚の無いその声でぴたりと静止する二人。
声のした方へそろりと振り向けば裏庭に続く窓を半分開け、浴衣姿の黒髪童女が暗闇にぼう、と浮かんでいた。

「夜は静かに。次やったら、引き千切りますゆえに」

直後スパン!と勢い良く閉じられた窓。
えっとカギ閉めたよね?うん閉めた、と一瞬何が起こったのか解らず、というか何も無かった事にする藤原親子。

「とりあえず、寝て」
「お、おう」

あれ?どさくさに紛れて言いくるめられてね?と思いつつ真澄の横に寝そべろうとするも。

「その前に電気」
「お、おおう」

えっと豆球も?うん消して──そんなやり取りを経て、結局は元に戻ってしまった二人。

「今日、だけだからな」

再び背中に貼りついた娘へ、観念したかのように藤原はつぶやく、しかし。

「駄目、許さない」
「おめえ」
「聞いて」

ぎゅ、と背中から胸を抱く小さな手が締まる。

「私はまだ、許していない」

そっか。藤原は小さく頷く。

「あなたは私を捨てた。許す訳ないでしょう?」

だよな。藤原は安堵する。

「あなたをお父さんと呼ぶのは私の妥協。あなたへの復讐のために」

なるほど。藤原は観念する。

「お父さんを殺してやる。甘い甘い砂糖の山に埋めて殺してやる」

彼の胸を締め付ける小さな腕に力が篭る。

「だから私は甘える。甘えて甘えて甘え尽くしてやる。逃がすものか」

彼の背にじわりと滲んでいく、涙。

「お父さんには一生掛けて償いをさせてやる。虫歯だらけになったって構わない。砂糖が固まって眼が開かなくなっても構わない。
 耳に詰まって何も聞こえなくなっても構うもんか。鼻にも口にも嫌というほど砂糖を詰め込んでこの甘さで殺し尽くしてやる」

オゥケイ、殺してくれ。
ぽんぽん、と自分の胸を締め付ける小さな掌を軽く叩く。一瞬抜ける真澄の力。
そして藤原は振り返る。振り返り娘の頭を胸に抱く。小さな嗚咽が聞こえる。聞かない振りをする。顔を埋めしがみつく真澄。胸元に染みていく涙。
そして藤原は思う。オウケィ、殺してくれ。俺の残る一生を台無しにさせてくれ。思う存分殺してくれ。
だらしなく涎垂らし腑抜けた末期なんざ最高の逝き様だ。そして娘の頭を今一度抱きしめる。甘い匂いがした。

「なんだ、いい匂いじゃねえか」

何が獣だ、あの化物。昼間確かに聞こえた繭子の言葉を笑い飛ばす藤原。
こんな甘い匂いさせた愛しい愛しい俺の砂糖菓子を言うに事欠いて獣だぁ?俺と同じ匂いするだぁ?
馬鹿じゃねえの?あのバケモン、ずいぶんヤキが回ったもんだぜ、と一人苦笑する。

「ずっと、甘えてやるん、だから」

嗚咽と共に途切れ途切れに言葉を放ち、やがて真澄の目蓋が落ちる。
眠りに落ちる数瞬、彼女は自分に言い聞かせる。大丈夫だ。私はまだ大丈夫だ。
この男は自分を捨てたのだ。敵だ憎き仇だ。思い込めそう思い込め。その支えがあれば私はまだ、大丈夫。
彼女は、そう思うことにした。そう思うことで均衡を取ろうとした。
自分が、溢れてしまわぬように。



朝が来た。新しい朝だ。希望の朝らしい。
喜びのあまり腕ぶん回して大空目掛け飛んでいけ、そんな歌がラジオから流れている。

「──おはよ」
「──おう」

洗面所で短い挨拶を交わした後、無言で二人歯ブラシを手にシャコシャコと歯磨き開始。
無言。ひたすら無言。ひたすらシャコシャコ。お互い顔を合わせようともしない。
理由は簡単。洗面所の鏡台に並ぶ親子の顔はなんというかまあ、目がぷっくりと腫れていた。

「がらがらがらがら──」
「がらがらがら──ぺっ」

綺麗なユニゾンで口をゆすぎ、流しっぱなしの蛇口で交互に顔を洗いタオルで顔を拭く姿は、
さながら二個の水飲み鳥が交互にコップにくちばしをつける仕草に酷似していた。

「では、改めて」
「おう」
「おはようございます」
「おはやうごぜえやす」

昨日の夕飯は娘が用意してくれたので今朝はお父さん頑張っちゃった、とばかりに食卓に並ぶ品の数々。
定番のメニューではあるが食欲をそそる匂いが朝の食卓に漂う。

「いただけます」
「いただきます」

味噌汁をずずう、ご飯もぐもぐ、そしてメインディッシュの玉子焼きに手をつける。
しかし口に含んだ途端、真澄の顔色が変わる。

「甘い──あまい!」

んんー、と眼を閉じぷるぷると肩を震わす娘。
ありゃ、しくじったか、とお父さん軽く狼狽。

「あ、えっと甘いの駄目か」
「あまい!うまい!おいしい!」

叫んだ後、ほわぁん、とだらしなく口元を緩めるも、
にやにやと自分を見ている父の視線に気付き、急いで顔を元に戻し、すくっと立ち上がり娘がひとこと。

「シェフを呼べ!」
「はっ。お嬢さま、おそばに」
「あなたを今日から藤原家の玉子焼き大臣に任命します」
「光栄の極み」

そんなやりとりの後、寝起きのぎこちなさはどこへやら、すっかり通常運転に戻った二人。

「って言うかフツー親同伴で挨拶行くだろ!」

ネクタイ締め終えた藤原が叫ぶも。

「いいの!転入届の書類揃ってるから私一人で出来るもん!」

いってきます!と駆けて行く娘。路地の向こうへ消えるまで小さな後姿を見送る父。

「ま、しゃーねえか」

ふぅと溜息付いた後、藤原も予定を変更し、最寄の停留所へ向け歩き出す。
朝は本数が多いのか電車は直ぐにやってきた。
終点の市役所前駅へ進む二両編成の小さな箱は役所職員やら学生やらで中々の混みっぷり。
つり革に掴まり、やがて動き出す町の景色を眺めながら藤原は思う。
本当に静かな町だ。朝だというのに、眠るような静けさだと。
未だ目覚めず、二度寝を果てなく続ける町、かなめ市。唯一無比の化物に護られて。
ばけものを取り込んだのか、ばけものに取り込まれたのか、それは解らぬが。



あいにくと市長は不在の為、ひとまず助役に挨拶を済ませる。
その後、案内された一室は日当たりの良い角部屋だった。
長い間使われていなかったにも関わらず客人の為にと綺麗に整えられた室内。
小さなソファーと応接セットの隣、ロッカーを空け上着を掛け、窓際のデスク備え付けの少々大振りな椅子に腰掛ける。
机上には事前に設置されたであろう端末のモニター。電源を入れると瞬時に立ち上がる認証画面。パスワードを入力。
モニター内臓カメラに右目を寄せる。網膜認証完了。専用ブラウザが立ち上がる。内務省統合情報管理局の文字。

「要事案部、駐在調整官、藤原信也、着任報告──局長へ」

端末付属マイクに告げるとブラウザに窓が開き、制服姿のオペレーターが現れる。
お待ちくださいと返答。画面暗転。しばし待つ間に藤原はどのような悪口雑言を吐こうかと思案する。
やがて画面に現れた局長付秘書官の顔。冷静沈着クール気取りの女。しかし様子がおかしい。

「藤原さん。申し訳ございまクッ、失礼。申し訳ブッ!室戸局長は現在会議ブフッ!」
「てめナニ笑ってんだよオイ!いろんだろ?そこにいるんだろオイ!」

モニターを掴み怒鳴りつけながらも、そんな彼女ちょっと可愛いと思ってしまう藤原。

「失礼しました藤原さん。言伝がございましたら承ります」

なんとか平静を取り戻し、口元を引くつかせながら藤原に告げる秘書官。

「了解。てめえん家のドアノブにうんこつけてやる、とお伝え下さい」
「承りました。他にはございますか?」
「ではもうひとつ──おっちゃん何で夜も昼もグラサンかけてるん?馬鹿なん?カッコいい思とるん?そういう世代なん?
 おっちゃんそれ似合わへん。信楽焼のタヌキにグラサン掛けてみ?おかしいやろ?おっちゃんな、そんな感じやん。ばーか──とお伝えください」
「クッ──だそうです、局長」
「いるんじゃねえか!」

着任報告終了。
一息つけるため一旦端末を落とし一階下のベンディング自販機でコーヒーを淹れ部屋に戻る。
一口啜る。旨い。結構美味い。これで百円安くね?再び端末を入れ各種情報を仕入れる。
メール新着の表示。LFSD田中真美の文字。見たくないが開ける。以下内容。

 『はきゅーん!マミたんだにょ(絵文字省略)どうすかぁー師匠、そっち慣れましたかぁ?
  やーいやーい島流しバーカバーカ(絵文字省略)キャハ!(絵文字省略)いっけなあいマミたんたら馬鹿にバカだなんてオイ、オイ(絵文字省略)
  というわけで来月そっち顔出します、そういう約束ですから守って下さい、稽古つけてください、もう泣きません。
  つうか今度はアタシがあんた泣かせてやんよ、首洗って待ってろやコラァ(絵文字省略)
  というわけでアナタのラブリーエンジェル(絵文字省略)マミたんだったのダー(絵文字省略)バイビー(絵文字省略)』

ころす。
以上三文字を入力の後、返信する。コーヒーを啜る。旨い。
携帯が鳴る。表示見ればベソ美の文字。無視する。携帯止む。コーヒー啜る。旨い。
コーヒー呑み干す。もう一杯買って来よう。端末切る一階降りる百円入れるコーヒー手に戻る端末入れるコーヒー啜る、旨い。
再びメール新着の表示。送信者LFSD田中真美。題名〈すいませんさっきのあれはおとうとがかってに〉削除する。あいつは姉しかいない。
コーヒー啜る。旨い。以下軽くエンドレス。
以上、要市駐在調整官、藤原信也の着任初日午前中の模様をダイジェストでお送りしました。



実際のところ藤原の仕事はそう多忙では無い。というより暇である。
もうむっちゃヒマ。ヒマキングってくらいヒマ。ある特別な権限を持つ事を除けば随分と御気楽なものである。

「はい申請、申請っと。おお、通ってやんの。何考えてんだあのタヌキ」

まあ暇と言っても初日である。最低限揃っているとは言えまだまだ足りない備品もいくつか。
しかも昨日、町のヌシにうっかり出会ってしまったものだから、それも考慮して携帯型備品の発注にも余念の無い藤原。
携帯型とはつまり、彼の〈得物〉である。

「ありゃゴー・ナナの新型も、あれれフクロナガサ新調?うお、タマ数上乗せされてね?」

気持ち悪いほどの大盤振る舞いに餞別かな?とも思ったが、あれこれって少しやばくね?とも感じ始めた藤原。
そういやあのバケモン、昨日言ってやがったなと繭子の言葉を思い出す。

──つなぎを置くつもりなら強きものを、楔打つつもりならより強きものを。

これってひょっとしたら随分やばくね?と少々不安になってきた藤原。

「いやおっさん、俺ぁ権限行使するつもりなんざねえから」

などと端末のマイクに向かって独り言を言うも当然何も返らず。
しかしぽんぽんと申請だけが通って行く。かなりスムーズに。いとも簡単に。こわいくらいに。

「気楽にやらせてくれよぉ、頼むよぉ──メシいこ」

気が付けば申請以上にこれでもかと追加され返信された発注リストを、渋々ではあるが認証した後、
端末を落とし、少し遅めの昼食を取ろうと部屋を後にする藤原。

「弁当つくりゃ良かったかなあ」

食堂の前で本日の日替わり終了、と書かれた掛札を見てがっくりと肩を落す藤原。
聞くところによればココの日替わり定食は安い割にボリューム満点で美味いとの事で、職員のみならず外来からも人気らしい。
次こそは、と決意を新たにし近場の食堂を探そうと市庁舎を出る。

「おっちゃん精出るね、ありがと」
「いやいや、仕事だからねえ」

庁舎の前庭で、麦わら帽子でタオル首に巻き草刈りに励む用務員っぽい老人に声を掛け、
ついでに近場でお勧めの美味い店を聞こうと藤原は立ち止まる。

「あ、おっちゃん、この辺で美味いトコどっか知らない?」
「そうだねえ、うーん。何ならご一緒しますか、藤原さん」
「あれ?おっちゃん俺の事、知ってんの?」
「ああ、さっき助役さんから聞いてね」

そのまま立ち上がり麦わら帽子を取り、軽く会釈する痩躯の好々爺。
その顔を見て、あれ?このおっちゃんどっかで見てね?と首を傾げる藤原。すると背後から助役の声。

「市長ぉー、あんたまた草刈りなんかしてー、早く公務戻ってくださいよォー」
「助役さんごめんねぇ、ちょいとこの藤原さんと閑休庵行ってくっから、頼むわぁ」

うん、そうか。わかった藤原わかりました。この町あれだ、なんでもアリだ。

「あ、どもども。朝はすいませんでしたね。市長の粟川です」

はは、ははは、と藤原の乾いた笑いが午後の陽光に溶けて行く。



閑休庵。
どんな店かと思ったら市役所前駅の立ち食い蕎麦屋でした。

「これ、ウマイですね」
「でしょう」

昨日といい今日といい色々あり過ぎてかなり開き直って来た藤原、駅そばカウンターで舌鼓を打つの巻。
とは言いつつ美味いもんは旨い。客の表情を満足げに眺めた後、カウンターの中で椅子に座り新聞を広げる店主。
その横を見れば布に覆われた木箱の中、残り少ない蕎麦玉が粉を打ち置かれている。
その脇で空になり立てかけられた木箱が三つ。そりゃそうだ、と藤原は得心する。
主流のフリーズドライでも袋麺でもなくきっと手打ち。どうりでコシあるわけだ。出汁もいいじゃない。あらら天麩羅ここで揚げてんのか。
そりゃ昼は混雑するわ。木箱三つも空になるわけだ、と夢中で味わいながらも掻き込む。それが立ち食いの作法だとばかりに。

「ごっつぉさん、いくら?」
「はい天そば三百五十円ね」
「安ッ!」

プラス百円でも安いくらいだ、と小銭入れを取り出す藤原。

「あ、いやいや藤原さん、ここはわたしが」
「いえいえ、そんな訳には」
「いえいえ、いえいえいえ」
「いえいえいえいえいえい」

お決まりのやりとりの後、少々大げさな謝辞を述べた後、つり銭を受け取る藤原。

「なるほど、馴れ合いはお嫌ですか」

一言つぶやき、ツユを呑む市長。その口元は椀に隠れ見えない。

「いえ、そういうつもりではございませんよ市長」

お互い税金で食わせてもらってる身分ですからね、と藤原は笑う。
律儀なお方ですねえ、と椀を置き粟川も笑う。
お互い支払いを済ませた後、ここじゃなんですから、と待合所のベンチに腰掛ける二人。
築百年と言われる駅舎は、それでも当時かなりハイカラだったのだろう。
待合所のある角部屋に角は無く、ぐるりと楕円のカーブを描き、それに併せて木造りのベンチも壁のカーブに沿うように作られている。
高い天井に天窓、ドームを思わせる造りは中々どうして凝ったものだ。
この駅舎ひとつ見ても市政開始百年前、この町を作った者たちの意気込みが伝わって来る。

「良い部屋をご手配いただき、有難う御座いました」
「狭かったですかねえ」
「いえいえ、一人ですから広いくらいで」

実際いい部屋だった。
丁度良い広さ、日当たり良好、しかし窓は中庭に面している為、外の雑踏は届かずいたって静か。
本来やっかいものであろう自分にここまでの配慮は、ともすれば上手く取り込もうとしている風にも見えた。
この町の気質か、はたまた市長の差し金か。
粟川礼次郎、六十歳、現かなめ市長、三期目。
元考古学者にして民俗学者から異例の転進。しかし辣腕家であるとも権謀術式に長けた人物であるとも聞かない。
痩躯の好々爺。若い頃はさぞかし色男だったのだろう、と藤原は想う。

「なんか本局のごり押しでこうなりまして、ご迷惑お掛けします」
「いえいえ。お上の頼みとあらば、喜んで御引き受けいたします」

お上──その言葉を出した粟川からは嫌味も揶揄を感じることが出来ない。
藤原にはそれが不気味だった。そして想う。彼の言うお上とは、果たしてどちらを指すのだろうかと。

「あ、いやいや。行政的な意味で、という事ですよ藤原さん」

藤原の想いを察したのか、その通りの意味でですよ、と付け加える粟川。

「むしろ安心しておるんですわ。今までのようにほっとかれるのも少々居心地が悪いもので」
「あ、なるほど。そういう事ですか」

確かに、と藤原は想う。
かなめ市は行政区分上、当然県の管轄下にあり国の一部だ。
どこの地方自治体も同じであるようにそれは一切変わらない。しかしそれは、あくまでも、かなめ市としての話である。
魔道──ライン源流地カナメ。この件について国は一切不可侵なのだ。
つまりかなめ市は国に属するがカナメは属さない。故に手出しはせず、変わりに何が起ころうと原則として関知しない。
これが国とカナメ間に締結された合意である。

「まあ、市長というわたしの立場はアナタと同じようなものです」
「ですね。市長がカナメ側、私が国側、という点を除けば」

藤原が現在属する要事案部とは内務省統合情報管理局のカナメ監視ユニットである。
このたび新設された駐在調整官とは、かなめ市とカナメの中間に立ち折衝、調整、そして監視を行う大使に似た立場に当たる。
似てはいるが異なる立場。これは調整官の持つある権限に起因する。

「わたし腹芸は苦手なもので。率直にお聞きしますね」

どうぞ、と動ぜず藤原は市長を促す。

「特務権限──行使なさるおつもりはございますか?」

唯一、調整官だけが有する特務権限、それは干渉権を意味する。

「率直にお答えします。それが使われない事を願っております」

ぶっちゃけますと私、ここに住みに来たもんで、と藤原は笑う。

「なるほど、だから娘さんを連れてこられたと」
「私の事も既にお調べになっておられるんですね」
「あなたがわたしの事を調べられている程度には」
「市長、いえ粟川さん。それについては思い違いされぬよう申し上げますが」

シャツのボタンを一つ開け、ネクタイを緩めながら藤原は囁く。

「──あいつに手ェ出したら誰であろうとブチ殺す」

顔を直し再びネクタイを締め、穏やかに笑う藤原。

「まあ、その為に権限行使するつもりは毛頭ございません」
「なるほど。娘さんを守る為にこの町へ来られたのですね」

藤原の真意を悟り微笑む粟川。
その意味ではこの町ほどうってつけの場所は他に無いだろう。

「そんな仰々しいものではありませんよ。静かに暮らせればいいな、と」

なるほど、と粟川はうなずく。
藤原信也。省内では荒事専門で通して来た男。彼のシンパは部内外でも多い。
それはつまり敵も多いという事。それも直接的な意味で。娘ともなれば彼の致命傷になりかねない。
だから彼は決断した。娘を守り共に暮らす為この町を選択した。誰もが恐れ遠回しに傍観せざるを得ないこの町に。
化物の懐に敢えて飛び込んだのだ。そして彼はその意味を良く理解している。
調整官とは言わば守り刀。化物の懐に飛び込み、されど喰われないよう一歩引き、恭順ではなく対峙の意志を示しつつも均衡を保つ。
なるほど、鉄火場を好む彼らしい。この男は、娘を守る為に己の命をベットしたのだ。
つまりは、そういうことなのだろうと粟川は理解する。

「ま、好き勝手おやりなさい、藤原さん」

それが常世の君の望みでもありますから──続くその言葉を粟川は敢えて言わない。

「はい、ご迷惑お掛けしない程度にダラダラさせて頂きます」

それがいいでしょう、と市長は微笑みの影で想う。
ですがね、藤原さん。あなた常世さんに気に入られてしまいましたよ。もちろんあなたの娘さんもね。
ご愁傷さまです。かつてわたしがそうだったように、あなたもそうなるでしょう。
良かったですね藤原さん、あなた達の平穏は約束されました。望む望まざるに関わらずその願いは叶うでしょう。
残念ながらあなた見誤りました。わたしと同じ間違いを犯してしまいましたね。
それはあの方を絶大な力を振るうただの化物だと思ってしまった事です。
より強きものであったばかりにそう思ってしまったのですね。
残念でしたね藤原さん。その程度で済むなら──いやこれで止めときましょう。もう視ておられますからね。

「さて、そろそろ戻りましょうか藤原さん」
「そうですね。あ、そういえば市長、あのコーヒー」
「二階のアレですね。旨いでしょう?」
「ええ、そりゃもう」

粟川礼次郎は微笑む。しかし心の内でこう告げる。
お教え出来ないのが残念です。何故ならわたし、そこまでお人良しでは御座いません。



しまった、やりすぎた、と真澄は思う。

「残りはタッパーに──無理。何個必要か考えるのも面倒」

そもそも朝の感動的とも言えたあの玉子焼に対抗しようと思ったのが間違いだったのだ。
などと眼前の寸胴鍋一杯に煮込まれた肉じゃがを見ながら真澄は腕を組む。

「いったい何がいけなかったんだろう」

以下真澄回想。
転校初日、緊張はしたが拍子抜けするほど簡単にクラスへ溶け込めた。その中で仲良くなった数人と同じ悩みを分かち合う。
今日夕飯当番なの何しようかな──などと放課後、議論に白熱する最中に別の子から、今日フード・シミズの特売だよ、との情報を得て議論を中断。
くだんのスーパーに乗り込む小学生女子買出し軍団。
うわ玉ねぎ安いうわジャガイモ安すぎホラ見て牛肉百グラム五十円これ外国産?違う国産みたい外国産はもっと安いうわうわどうしよう私ったら──
──結局全て買いました。少し調子乗りました。冷蔵庫頑張れ。
さて、何にしよう。カレー?否。甘いカレーなど言語道断。ならばアレだ。アレしかない。
最初は普通の雪平鍋だった。さっと一品のつもりだった。甘さが足りないと思った。
砂糖どばどば。甘すぎた。具材追加。溢れる雪平鍋。両手鍋に移住完了。煮込む。
しょっぱいかな。砂糖どばどば。かなり甘すぎた。具材大量投入。溢れる両手鍋。最終兵器寸胴鍋出撃。
ぐつぐつ。よしイイ感じ。でももう少し甘──

「うん。私ったら、おばかさぁん!」

てへへ、とポーズ決めても家には一人。
虚しくなったのであのキュートな大家さんに少々過酷なノルマを課そうと思いつく。
家で一番大きなタッパーにそれをこんもり放り込み。

「これは何ですか、真澄」

ですよねー、と娘は苦笑する。

「これは何ですかと聞いております真澄」

だよねー、と繭子がいま両腕に抱える幅五十センチ程の巨大タッパーを見て、
流石にやりすぎたか、と今更ながら激しく後悔する真澄。

「えっとあの、肉じゃが、鍋一杯に作りすぎちゃって」
「なるほど、ならば鍋を持ってくるのです真澄」
「はい?」
「足りぬ、と申しておるのですよ真澄」
「はーいー?」

なるほどなるほど真澄わかっちゃった。このマユコさん、胃下垂なんだ。

「でなければお前を食べねばならぬ」

なるほどなるほど真澄わかっちゃった。このひとすこしおかしい。

「でもカワイイからジャスティス!」
「これ真澄やめなさい頬すりつけるの止めなさい暑いです真澄」

信頼のマキタ製グラインダーと同程度の真澄ちゃんほっぺグラインド攻撃を受けてもタッパーを手にする繭子は揺ぎ無い。
どうやらよほど気に入ったと見える。はたと気付き、少し名残り惜しそうにそのぷにぷにの頬より顔を離し娘が言うには。

「あ、それならさ、マユコさん」

真澄、提案する。

「そうですか。ならば良しです真澄」

繭子、受諾する。

「それじゃ、行こっか!」

藤原、あやうし。



「お前、何やってんだ」
「げえむですよ、藤原」
「あ、お父さんお帰り。見てみて繭子さんすっごく上手いの!」
「訂正。お前ら何やってんだ」

見れば一目瞭然なのだが敢えて藤原は聞いてみた。
真澄と繭子は現在、テレビに向かい白熱のカートレースに興じている。
お互いのカートが曲がる度、つられてその身を曲げる二人。カートが右カーブで二人右にきゅーん、左カーブできゅーん、
と背丈の変わらぬ二人がぺたりと尻を床につきながら上半身だけきゅんきゅん右往左往する姿に藤原の胸もキュン。
なにこれこいつらかわいい。
しばし我を忘れるも、ちゃぶ台中央に堂々と置かれた寸胴鍋を見て、藤原別の意味で我を忘れる。
なんだこれは儀式か?何かの儀式か?おい俺これと似たヤツ前に見たぞあれは確か。

「あ、そうそうお父さん今日のおかず肉ジャガ作ったんだ!」

そうか良かったよ真澄、お父さん別の想像する前に肉ジャガって固定してくれて助かった。
そうだともこれは肉ジャガだ。以前某カルト組織のアジト強襲した時に押収したドラム缶の中身とかお父さん思い出す所だったよ。
そうかこれは肉ジャガだもんな肉ジャガと思い込め!

「お、おいしそうじゃねえか、やるな真澄」
「はい、とても美味でしたよ藤原」

ぶおん、と藤原が振り返る。
気になっていた居間のとなり台所のシンクに置かれた巨大タッパー、それが空になっている事実に気付きしばし茫然。
なるほどおすそ分け?だよね?と納得。

「そっかー、真澄ごちそうしてあげたのかー、えらいぞー」
「えへへー」
「さあ、それでは皆でいただきましょう。真澄、わたしの椀を」
「はい、マユコさん。ほらお父さんも座って座って」
「待てコラ」

あんだけ食ってまだ──違う違うそれはいい、むしろコレを減らしてくれた事に感謝すべきだろう。しかし問題はその次だ。
オメエいまなんつったコラ皆でいただくだコラわたしの椀だコラ何こらタココラおめえ何様だコラ、と額に青筋を浮かべる藤原。
しかしお父さんまだ頑張る。

「よし、いいでしょう常世さん。一応聞きますがあなた大家ですよね?大家と言えば」
「大家と言えば親も同然と言います藤原。いいから早く食わせなさい」

よしッ!お父さん限界!藤原切れます。

「ひとン家上がりこんでメシ喰らう大家がどこにいるんだよ!」
「ここに居りまする」
「ここにいるじゃない」
「うんそうだね。食べようか」

何か大切なものすらどうでも良くなって来たお父さん。
娘から渡された炊き立ての銀シャリがこんもり盛られた自分のお茶碗を手に、お父さん少し涙ぐむ。
目の前に可愛らしい愛娘が小振りの御茶碗を前に手を合わせ、いーたーだーきーますっ!する姿を見て少し泣く。
ああ家族っていいなあ。その隣でドンブリにどっかり盛られた御飯の山を今にも掻き込もうとする童女の姿が待て。
待て、少し待て流されるなココで流されたら終わりだハイここが今日の分水嶺!
タン!とちゃぶ台の上に箸を置きパンッ!と膝を叩く藤原がひと言。

「よしッ!おめえら、腹割って話そ」
「そのままの意味で割りますよ藤原」
「あしたモツ煮がいい?お父さん?」

二日目でこれか。よしッ!お父さん覚悟完了しちゃうゾ。
甘いはずの肉ジャガが、少ししょっぱく感じる吉宗、いや藤原であった。



「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
「完食ッ !? 」

二日目、これにて終了。






■狼の娘・滅日の銃
■第二話/マスミ・ツンデレ・ステレオタイプ■了

■次回■第三話「馬鹿が舞い降りた」



[21792] 第三話/馬鹿が舞い降りた
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/09/11 22:10
その機影は名の通り、翼を広げた猛禽の鳥にも見えた。

「定期便ミサゴ一号、これより某所上空、通信終わり」

某所──対象エリアに入った事を告げ通信を切る機長。
そして翼の両脇で回る巨大なプロペラが緩やかに可動し機首を下げる。
やがて薄い雲を抜けたティルトローター機はその眼下に町を見る。四方を山に囲まれた、否、山間地に突如現れた平地、かなめ市。
相変わらず視ているな、と機長は思う。視線を感じるのだ。誰のではない。町だ。これは町の視線だ。町が視ている。
さながら一個の巨大な眼球の如くに小さき我らを凝視する。

「──失礼致します、荷を降ろし次第、直ちに帰ります」
「──何卒、何卒宜しくお願い申し上げます」

機長に合わせ、隣の副長も計器類より目を離し、町の全貌を視界に映し言葉を続ける。
一拍置き不意に消える視線。ふぅと二人が溜息をつく。この通過儀礼だけはやはり慣れない。

「おい姉ちゃん、そろそろ起きろ」
「うあ?」

副長が振り返り本日の荷物、二つの内の片方、ナマモノの方に声を掛ける。
あー着いたッスか、と口元の涎をぬぐい、自分の背丈を超える大きなコンテナを背負い準備を始める女──おんな?
いや、確かに発育は良さそうだがどうみても女子高生くらいの娘だ。
なんでこんな小娘を本局は便乗させたのか、と副長は今更ながら首を傾げる。

「──っておい!姉ちゃんお前それ背負っていくのかよ!」
「へ?そっちのほうがいいじゃないスか。だって後から取り行くの面倒ッスもん」

お前バカだろ!と叫ぶも、横の機長が、あれはアレでいいんだよと笑う。

「まああの子アレだ、特別でな。なんたって藤原さんの秘蔵っ子だから」
「嘘ッ!こんな小娘が鬼包丁のアレですか!いやそんなまさか」
「あースンマセン、どちらでもいいんで、この書類ハンコ押して出しといてクダサイ」

アレな小娘から不意に差し出された一枚の書類を取り、しばし眺める副長。

「えーと、なんだこれ」

その書類は──降下訓練終了証明書、と書かれていた。

「お前バカだろ!物資投下とエアボーン訓練兼用すんなよ!ド素人じゃねえか!」
「そんじゃペイロードベイオープン」
「何やってんすか機長!あの子、あのコ!」
「おおういい風ッスねえーんじゃいってきまーす!」

ランドアホーイ!イヤーッハァ!と嬌声を上げながら、でっかいコンテナ背負った娘がケタケタ笑いながら落ちていく。
その様子をもうどうにでもなれ、と副長が茫然と眺める。
おやパラ開くの早くね?ほら風に流された。あら町中行っちゃったよ。知るかバカ。



狼の娘・滅日の銃
第三話 - 馬鹿が舞い降りた -



「やっぱうめえな、これ」

紙コップから口を離し藤原がつぶやく。
着任初日から二週間を経たが、日々日課のように二階と往復しながら売上に貢献している自分。
しかし旨いもんは旨いんだからしょうがない。

「いい天気だねえ」

窓に目を向ければ相変わらずの青空。洗いざらしのブルー。
静かで誰にも邪魔されず、たいした仕事もなく、日がな一日こうやって安くて旨いコーヒーを啜り、
端末から吐き出される情勢と情報を流し読みする毎日。
昼は食堂の日替わりか弁当か閑休庵の黄金ルーチン。家に帰れば可愛い娘が美味しいご飯作って待っている。
余計なのもたまに居るがもう慣れた。夜は相変わらずの添い寝だが最近お父さんそれちょっと嬉しい。
これひょっとしたら至福って奴かも。

──みんなが枯れ果てた時、また一緒に暮らそう。

けれどお前だけがいない。藤原はあの女の声を思い出す。
本当にいい女だった。あれほどの女はもう居ない。そう、お前だけがいない。お前だけが。

「ばかやろう──先、逝っちまいやがって」

じわり、と視界が滲む。慌てて目頭を拭う藤原。
いけねえ、ここ最近いろいろあり過ぎて涙腺緩くなっちまったみてえだ。年だな。
俺も四十過ぎちまった。老いぼれたもんだ。

「そういや、あいつ」

指についた水滴を見つめながら、藤原はふと真澄の事を思い出す。
あの子は俺と出会った時以来、一度も母親の事を口にしてないな、と。

「まだ無理してんかな、あいつ」

だろうよ、と藤原は思う。しっかりしていると言ってもまだ十二歳。いいさ、時間はたっぷりある。
お互いゆっくりほぐして行こう。いつか本当の事を話せる日が来るだろうか。
それはいつだろう、と男は思う。まあいい、焦る事は無い、全ては時間が解決するさ。

「でもまあ本当に、いい天気だよなぁ」

再び紙コップを口に運びコーヒーを啜る。うん、旨い。
窓の外は相変わらずのブルー。こうやって自分は年老いていくのだろう。
窓の外、青空を眺めながら甘い日々にだらしなく口元を緩め、砂糖菓子の時間に埋もれ、そして枯れ果てていくのだろう。
それでいいじゃねえか。最高だ。それにしても今日はいい天気──

「ぬおおおおわあああああああああああああああああああああああああッー」

何か空から聞き覚えのある叫び声が聞こえたような気がしたが空耳だろう。

「ちょ!早いッ!早いって!なにこれこわいっ!いやぁあああああああああ!」

何かが窓の外ほぼ垂直に落ちていったような気がしたがそんな事はなかったぜ。

「オウフッ!」

何かが中庭の茂みの中に突き刺さったような気がしたが、まあいいや。
こんないい天気の日だ、空から城とか王族の末裔とかロボット兵とかヒトがゴミのように降って来てもおかしくはねえさ。
うん、何も問題なし。

「やっぱうめえな、これ」

そして藤原はコーヒーを飲み干し、ふぅとタメ息をついた後、やがて椅子から身を起こす。
さて、あのバカ殴りに行くか。



「ほんっとうに、もうしわけっ、ございませんっ!」

藤原、市長執務室で漢の土下座の巻。

「ごわ、ごわがったぁ、風がっ、びゅうって、カラダっびゅーんって、ごわがっだぁ」

馬鹿、市長執務室で土下座する藤原の横でベソかきまくるの巻。

「まあまあまあ藤原さん顔上げて。ええと田中さん?でしたっけ、ほら涙拭いて」

市長から渡されたハンカチで涙を拭き鼻をかむ、空から落ちてきた小娘、田中真美。
あのあと。
藤原中庭の茂みに突き刺さる馬鹿発見。藤原引っこ抜く。馬鹿突如泣き始める。職員さんわらわら沸いてくる。
藤原殴ろうにも殴れず愛想笑い。市長登場。藤原すいませんこいつウチの備品です何卒ご勘弁をと懇願。
市長笑いながら職員に後片付け指示。藤原頭下げまくるも市長の額に青筋発見。藤原ますます平身低頭。
コンテナを庶務課の皆様総出で藤原の部屋に搬入。これなんですかすんごい重いですねと職員問う。
ああすいません注文していた冷蔵庫ですわハハハと誤魔化す藤原。
搬入完了。藤原お礼にと庶務課全員に食堂の定食クーポン配布。いやいやまあまあと両者しばし押したり引いたり。
そうですかあそれじゃと職員笑顔で受け取り退室。なるほどアレここの基本通貨みたいなもんだなと藤原得心。
振り返ると馬鹿ヘラヘラ笑ってる。藤原詰め寄ると馬鹿泣き出す。ウソ泣きと判断。一発頭突き。
馬鹿本気で泣く。藤原泣き喚く馬鹿にヘッドロック掛けたまま市長執務室へ詫び入れ。
市長笑顔で迎え入れるも未だ青筋引かず。藤原土下座。馬鹿泣いたまま。いまココ。

「何事も無くてよかったよかった。ね?藤原さん、田中さん」
「暖かい御言葉をいただきこの藤原感激の極み!」
「じじょぉう、ごのおじいぢゃぁぁん、やざじぃいー」
「ご温情返す言葉もございません!こいつ本当に馬鹿で馬鹿でもひとつおまけに馬鹿でウチの備品扱いな馬鹿でございますが、
 馬鹿な子ほど馬鹿と申します、せめて人さまにご迷惑かけぬようタコ殴りしておきますので、何卒!なにとぞ!平にお許しのほどをっ!」
「藤原さん殴るだなんて女の子じゃないですか──せめて顔は止めときましょう」
「ボディ?」
「イエス、ボディボディ」

にやりと笑う中年と老人。
その後、いやあだああおながはやめでえぇもれちゃうんでぃすのおお!と少々誤解されそうな叫び声を発するツナギ姿の真美。
その首根っこを掴み執務室を後にした藤原。そのまま泣き叫ぶ馬鹿を引きずりながら長い廊下を進み角を曲がる。すると。

「あんなんで良かったスかね?」
「おめえにしちゃ上出来だ」

へへへぇ、と得意げな笑顔で調子ずく真美を見て、藤原の額に青筋が浮かぶ。

「おーうベソ美ぃ」
「なんスかぁ師匠」

むかついたので頭突き。



七桁の暗証番号入力の後、プシュッと圧縮空気が抜ける音と共にコンテナが開く。

「うわコレやばくね?」
「うわこんなん背負ってたんだアタシ」

冷蔵庫程度の大きさだった筈のコンテナが開いた途端、
両扉が左右にスライドし中扉が次々とせり上がり三倍程の大きさに展開、その中身を露出する。
ずらりと並ぶ銃火器類と刃物類を目にし軽く頭を抱える藤原──局長、マジじゃねえか。

「なあベソ美ぃ、このゴー・ナナよぉ、カタログ載ってねえよなあ」
「あー、なんかエフエヌさん気合入れて作ってくれた特注らしいッスよ」

ゴー・ナナ──FN社製ファイブセブン・ピストル。

「なあベソ美ぃ、俺フクロナガサ四寸五分と七寸ふたつだけ頼んだよなあ」
「あー、なんかニシさん気合入れて全寸打ち込んでくれたらしいッスよ」

フクロナガサ──別名叉鬼山刀とも熊殺しとも言われるマタギ愛用の山刀。

「なあみんなバカなん?お前含めてみんなバカばっかなん?」
「あ、キューピーめっけ!しかもふたつ!いいなぁ」
「聞けよぉ!」

人の話を聞かないバカが手にするのはFN社製P90。
彼のゴー・ナナ、つまり同じ5.7×28mm弾頭を併用する小銃である。
こんな不人気も押し付けやがって、と藤原がぶつくさ言いながら下段のスライディングドアを引き出す。
はーよっこいしょういち、と身を屈め内訳を確認。

「多くね?」
「よりどりみどりッスね」

ずらりと敷き詰められた弾薬類と予備弾装の数々。

「内訳は?」

コンテナ備え付けのPADを手に藤原にのしかかるように身を屈め真美が告げる。

「メインはズッドンとスケベイスとですね、あ、バッバンもあるッス」

FMJとホローポイントそして炸裂弾頭、これらに加え。

「まさかペトペトは──ああ、やっぱあるわ」

HESH──粘着榴弾のような特殊弾頭も。
正直なところファイブセブンは小口径の利点を活かしボディアーマーすら抜く貫通性が大きな売り、
なのにも関わらずあれもこれも本当に使うかどうかも疑わしい用途不明なブツまで大量に送りつけてきた局長のいやらしさに、藤原はしばし閉口する。
てめえ今更逃げんじゃねえぞという暗黙の恫喝。まあそれはいいとして。
藤原にとって目下の課題は、いま自分の頭にのしかかっているブツだ。

「ところでオメエ何してんだ?」
「いや胸が重くて」

ああんマミたんボインで困っちゃぅ、と胸の脂肪をこれでもかと藤原に押し付ける真美。

「ほほう、いっちょまえにサカってんのか」
「わかりますぅ?」

藤原に向き直り、ジィィとツナギのジッパーを縦一直線に降ろす真美。
だぶだぶのツナギはそのままぱさり、と足元に落ち、露わになる肢体。

「ね?いいでしょ師匠。アタシ溜まってるんです」
「ほほーう」

ほのかに上気し薄く朱に染まる真美の頬。唇からちろり、と赤い舌が這う。
露わになった彼女の裸体──ではなく、上は豊かな胸に貼りつく黒いノースリーブシャツ、下は身体のラインをこれでもかと見せつける黒いスパッツ。
両肘と両膝にはサポーターすら巻かれ、あらこの娘ったらやるきまんまん。準備万端な小娘の姿を見て男もネクタイを緩める。
そんじゃ屋上行くべ。爽やかに藤原は笑った。



ここんとこいい天気続くよなぁ、と藤原は空を見て思う。

「よッ!はっ!とぉう!」

空など見向きもせず、目の前の男に一矢報いようと俊敏に動く真美。

「なあベソ美ぃ、向こうも天気いいんか?」
「なに、余裕、かましてん、スかッ!」

青空の下、小娘が繰り出す手刀と蹴りの連撃を、だるそうに避ける中年男。
蝶のように舞い蜂のように刺そうと藤原の周囲を激しく回り死角から攻めるも、真美の攻撃は全て紙一重で避けられる。
気付けば藤原、自分の立ち位置直径五十センチの円内より一歩も出てはいない。動く真美と回る藤原。
その姿はさながら小娘にダンスを教える老練な教師にも見える。

「いやこう天気いいとさ、どっか行かなきゃもったいねえじゃん」

こんどの休みは真澄連れて町回るかなあ、とお父さん休日プラン練るの巻。

「その前にっ!アンタを極楽にっ!送って!やんよッ!」
「はい隙アリー」

ゾーン内に入り込み過ぎた真美の首筋をつう、と横一文字になぞる藤原の左指先。
ハイいきましたー、お前頚動脈いったよー、の合図。

「んもぅ!」

その場にうずくまり屋上の床をばんばん叩く真美。
これでもう五回目だ。さっきからこのオヤジは自分の首筋はもとより、
その指先は両手首、脇腹、大腿部の付け根、蹴り出した足の腱など急所という急所に触れている。
しかも未だ遊び──くやしい、と真美は唇を噛む。

「ほーらベソ美ぃ、そんなトコで寝てるとぉ」

彼女の頭に触れる男の右手、伸ばした人差し指と中指。そして藤原は笑う。

「ばーん」

しかし指の銃が架空の弾を出す瞬間、真美の身体が掻き消える。ふわりと風。

「おおー」

風の向きを辿り顔を上げれば藤原の前、五メートルほど離れゆるりと立ち上がる真美の姿。
その顔からは既に表情が消え、無機質な瞳に男の姿を映している。

「ウォーミングアップ終了。ここからは本気で行きます」

感情の消えた静かな声で彼女は告げる。

「あらら、まだ本気出してなかったの?」
「師匠、前に言いましたよね」
「ん?何かいったけか」
「感情を殺すな、制し武器にしろ──って」
「ああ言った、言った」
「いま私、どんな気持ちか解ります?」

藤原が溜息をひとつ吐き、笑う。

「楽しくてしょうがねえだろ」

真美が口の端を吊り上げて、笑う。

「その通りッ!」

言葉と共に男の視界から彼女の姿が掻き消える。しかし藤原さして動ずる事もなくその場に佇む。
そして思う。いま真下だな、地を這うようにハイここでジャンプ──その時、風が舞い上がり鼻先をかすめ彼の前髪を揺らす。
ハイいま俺の頭飛び越えた、ハイいま俺のバック、ハイ振り返ったハイ近付き過ぎハイ惜しいハイここです──突き出される男の肘。

「ぶっ!」

藤原の肘が真美の鼻先を直撃。
自身の反動と相まって激しく強打され、彼女は鼻血を撒き散らしながらもんどり打って倒れこむ。

「お前、解り易すぎ」

即座に飛び起きる真美。

「最っ高ッ!」

噴出し滴り落ちていく血を気にも止めず彼女は笑う。
心底楽しそうに愉悦に浸り田中真美が笑う、笑う、笑う。
その瞳に愛しい男を映し笑う。滴り落ちる血が鼻先から唇へ伝わり、彼女の舌がそれを舐める。
おいしい、この男にやられた血、とても美味しい、このままいつまでも味わっていたい、けれど。
少し名残惜しそうに血を手で拭う真美、そして。

「師匠。そのシャツ白くて糊利いてますね、娘さんですか?」
「おう、いいだろ。おかげでクリーニング代浮いて助かるわ」
「知ってます?血って結構落すのやっかいなんですよ」
「──お?」

言うが早いか拭った血を藤原目掛け払い飛ばす。

「てめ何すん──」

その一瞬で真美の姿をロストする藤原。
あーしまった、ちとわかんねえや。さっきより早くなってね?さすが俺様の一番弟子。
素質だけはバッチリなんだよなあ。ハイでも多分ココ。

「ぐふっ!」

何気なく藤原が突き出した右膝が突如現れた真美の腹を突き上げる。

「今のはいい。すげー惜しかった」

膝に押された反動でコの字に折れ曲がる真美。
彼女の背中に、とん、と藤原が左手の手刀、その先端で軽く押す。位置は彼女の心臓、その裏側。

「まだまだぁッ!」

しかし真美、藤原の膝を軸に前のめりにくるりと回り、タンッとブリッジの姿勢で着地、そのまま跳ね起きようとするも。

「まだ?」

藤原の一言で身体が凍りつく。
跳ね上がろうと力を溜めていた筈の筋肉が鉄のように固着し脳からの指令を拒む。
最初は身体、次に意志。自分の吐いた言葉の意味を遂に彼女は理解する。

「そんなもん、ねえんだよ」

見上げる彼女の瞳に映る真っ青な空。逆行で見えぬ男の顔。
しかしその右手、突き出された二本の指、その銃口は冷たく真美の額を捕らえていた。

「ふえ、ふええ」

無表情の面が剥がれじわりと真美の眼に滲む涙。

「まぁだぁまげだぁぁ、こんなオヤジにぃ、まぁだぁまげえだぁぁ」
「ああもう泣くな!うぜえ超ウゼエ!おめえやっぱ真美じゃねえベソ美だ」

 苦笑しながら手を差し出す藤原。彼女は泣きながらその手を掴み、抱きつこうとするも。

「その手は食わねえ」

ぱっと手を離しお父さんのシャツセーフ。
そのまま顔面から倒れこみ、屋上とファーストキスしちゃったベソ美。

「しどい!乙女心もてあそんで!鬼ッス!アンタ鬼ッス!」
「ばかやろう!おめえ今、シャツの腹で鼻血拭こうとしただろ!」
「抱いてよ!アタシを抱きしめてよ!シャツとアタシどっちが!」
「シャツに決まってんだろうが!」
「ですよねー」
「だろー?」

あはははは、わはははは──午後の屋上に響く馬鹿と師匠の笑い声。なんだかんだ言ってこの二人、仲は良いのだ。
それもその筈、彼女こそ局内外で鬼包丁と恐れられる藤原の弟子で、目に入れてもやっぱ痛い程度には可愛い秘蔵っ子なのだ。
何よりもこいつは馬鹿だが素質だけは抜群だ、馬鹿だけど。と藤原は、あれだけ動いた後でも息一つ切れてない真美を見て目を細める。
動け動けと彼は言う。それしか能が無いならそれを武器にしろと彼女に言う。
獣の如き身体能力をもつこの小娘はそのいいつけを頑ななまでに守っている。
順調に仕上がってるじゃねえかと藤原は思う。ただそれを口にしたらこの馬鹿は直ぐ調子に乗るから言わないだけだ。
動け動け、動き俺の予測すら超えてみろ、その時が楽しみでしょうがない。局長が何故この小娘を自分に押し付けたのか、それが今なら良く解る。
たしかにもったいない。あの無機質で機械的な人形のままでは全て台無しだ。ただのキルマシーンで終わらせるにはもったいない。
泣いて笑ってまた泣いて相変わらずの馬鹿のまま溢れる情動を制御出来た時、はじめてお前は俺の跡を継ぐ。
剣銃武技──ガンソードアーツ。
俺の持つ全てを叩き込んでやる。覚悟しとけ馬鹿。



とはいったものの。

「もう一回!もう一回!」

今泣いたカラスが何とやらで、性懲りも無くもう一本とせがむ馬鹿を前に藤原少々持て余す。

「いや、俺まだ昼飯食ってねえし」
「ならアタシを食べればいいじゃない」
「日替わりとっくに終わったよなあ」
「ああぁん、マミったら汗で胸の谷間、べ・と・べ・と」
「弁当ねえし、しゃーねえ二日連続閑休庵かあ」
「ヘナチン」

ヒュッと藤原の鋭い蹴りが飛ぶもその爪先が空を切る。くるりと空を舞う真美の体。
おお、すげえ、助走無しでここまで跳べるたあ流石馬鹿、と藤原師匠いたく関心。

「よーしマミたん、次は最初から本気出しちゃうゾ」

着地の後、再び間合いを開け藤原より七メートル程度離れた真美が笑う。

「あら?このコったら本気じゃなかったのかしら」
「たりめーッス!さっきのは最初ウォーミングアップで途中から本気ッス!」
「あー、だからおめえ、駄目なんだ」
「へ?」
「なんでおめえハナから本気で来ねえんだ?馬鹿にしてんの?俺バカに馬鹿にされたの?」

俺とヤル時ぁ殺る気で殺れって言ってんじゃん。頭を掻きながら藤原がつぶやく。

「し、師匠だって、ほ、本気出して」
「あ?見たいの?本気」

めんどくせえなあぁ、腹減ってんだよこっちはぁ、とやる気なさそうな師匠へ馬鹿が一言。

「そんなコトいってえ、もうトシだからぁ本気なんかとうに出せないじゃ無いスかぁ?」

そうですかそうですか。あらやだこのコったらフラグ立てましてよ奥様。
などと藤原さして動ずる事も無く、しかし左右の指先が微妙に変化する。

「まぁ俺ぁトシだからよ、一回だけな──小便ちびんじゃねえぞ、餓鬼」

来た。
高鳴る胸を抑える真美。今度こそは裏切るなこの体、目を凝らせ、この男の一挙手一投足を刻み込め。
脳が全神経に指令を下す。一年前、あの時はそれが出来なかった。
たかが一年、されど一年。あの屈辱と快楽をひと時たりとも忘れた事など有りはしない。
動け動け私の身体。今こそこの男の想いに報いるのだ。血流が入れ替わる。獣の血がこの全身を駆け回る。
来た、来た。
眼前の男が一歩踏み出す。その緩慢な動作に錯覚するも騙されるなと何かが囁く。
二歩、三歩。男は歩く。目測六メートル。右か左か、否、ゆっくりと前を突き進む。ブラフか?違うまだ進む。
四歩五歩、目測五メートル。よし間合いだ跳ぶぞ。いや待て奴の腕を見ろ。

「見たな?」

告げる男の右手は既に銃の形を模していなかった。銃を握る形になっていた。
その右腕は上げられ、人差し指に掛かるトリガーが見えた。彼が握る艶消し黒のゴー・ナナが見えた。
小口径の銃口がこちらを狙う。照準器の向こうで鋼の如き男の眼光。
そして左手もまた既に手刀の形では無かった。小刀の柄を握る形になっていた。
握られた柄の先、四尺五寸の山刀、鈍く光るフクロナガサが見えた。
力無く垂れ下がったままの左腕、しかし男の歩が進もうとも決して揺れぬ刃先。

「どうした?本気なんだろ?」

六歩七歩、目測四メートル。限界だ飛べ。駄目だ奴は見ている。この体を全て見ている。自分が見ている以上に自分を見ている。
駄目だ全て見抜かれる。上に下に右に左に飛ぼうにもその一瞬先にゴー・ナナの弾が急所を打ち抜く。
引くは言語道断ならば前だそのまま直線に跳び奴の懐へ。
駄目だ落ちた瞬間フクロナガサが脇腹深く抉り取る。
八歩九歩、目測三メートル。こうなったら待つしかない。相打ち覚悟で奴の喉笛を噛み切るのみ。
十歩十一歩、目測ニメートル。さあ来い──来ない?

「おめえ、考えすぎだ」

二メートル先で男は止まる。しかしその刹那、消えた。

「馬鹿なんだからよ、考えるな」

そして、現れる。彼女の鼻先三センチ。こつん、と額を合わせ優しく囁く男──しかし。

「ぐッ!」

彼の片腕、半握り左手の平が彼女の下腹部に触れている。ただそれだけの筈だ。
しかし真美は感じる。自身の下腹部に突き刺さる重厚な刃の感触を。

「かっ、はッ」

腿から足元に伝う熱い血と漏れた尿の感覚、その左手が緩やかにしかし確実に上へ上へと進んでいく。
這い進む手の感触は下腹部を過ぎ腹部そして胸の谷間へ。
しかし真美は今、この身体が血を噴きながら下から上へ縦一文字に裂かれていると実感する。
やがて見えぬ刃はその切先で喉元まで引き裂き、顎の骨に当たる寸前、身体より抜け──

「ほい、アンコウの出来上がり」

そこで真美の意識は途切れた。



「そおいっ!」
「ぬふうっ!」

背中から両腕を引っ張られた定番の気付けで真美が目を醒ます。

「え?あ、腹!もつがでろーんって!あれれ?」
「よく見ろバカ」

綺麗な身体だった。引き裂かれた筈の傷も、噴き出た血も、飛び出したはらわたも、そんな物ある筈が無かった。
唯一残るのはその感触──凄かった、それしか真美には言えなかった。

「まだまだッスねえ、アタシ」
「たりめーだバカ」

気ぃ失いやがって、と和やかに笑う男に微笑み返す。
しかし真美は思う。あれはショックで意識を無くしたのではないと。絶頂で意識が飛んだのだ。あの快楽、この狂気。
再びこれを味わう為なら何度でもこの男に挑んでやる。
そしてもし、この男を引き裂く事が出来るのなら絶頂のあまり今度こそ果てきってしまうだろう。
私の同胞──姉は、それを感じたのだろうか。だからこの男に惹かれたのか。
彼女亡き今、それはもう解らない。しかしそれを思うと体の芯から濡れてくる。濡れて──

「──濡れて、る?」
「よかったじゃねえか、おもらし属性ついてよ」

これで大きなお友達のハートキャッチだな。なあベソ美、いや改めモレ美。
藤原の追い討ちに真美の意識が違う意味で再び飛びかける。
しかし、鼻先に未だ残る鉄錆の匂いに気付き、にやぁりと笑う。

「──師匠」
「ん?どうした黄金水モレ美」

やけに優しい彼の声、軽く叩かれた肩、視界を覆う白いシャツ──チャンスですモレ美さん。

「しぃしょおおおおおお!」
「あ!くそてめっコラぁ!」

愛しい男の胸に飛び込む恋する乙女。
というより藤原の白いシャツに未だ鼻先に残る鼻血を涙と鼻水でブレンドしてこれでもかとぐりぐり顔を押し付ける真美。
彼女は怒っていた。気を失っていたにも関わらず手を出さぬ男へ無性に腹が立っていたのだ。

「ししよおおおおおおおおおおーーーう」
「離せっ!はなせコラッ!ハ・ナ・セ!」

藤原の脳裏で微笑む真澄は、そのまま父にカカト落しを喰らわせた。











■狼の娘・滅日の銃
■第三話/馬鹿が舞い降りた■了

■次回■第三話「馬鹿がおうちにやって来た」



[21792] 第四話/馬鹿がおうちにやって来た
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/09/12 22:01


一年前。

「信也ぁ、おめえこの前そろそろ引きてえ、とか抜かしてやがったよな」
「局長ぉ。俺ぁ来年四十です。若くねえし今までみたく無茶できません」
「で、逃げた女房と娘の後追っかけるってか?」
「うるせえよ。あんたにゃ関係ねえだろうが」
「大有りだ、今てめえに抜けられたらパワーバランス崩れちまう」
「ヒトに頼んじゃねえよこのグラサンタヌキ」
「おめえがバカやりすぎたせいだろうがチンピラ」

実際、専従班の練度は決して低くはない、と局長である室戸は常々思っている。
つまりこの男が突出し過ぎているだけなのだ。
しかし国内外でも鬼包丁、もしくはヘルマシェーテと仇名される藤原の存在は大きく、これが一つの抑止力ともなっていた。
頼るつもりなど毛頭無い、引くというならそれでもいい。しかし室戸は思う。
お前の名は利用させてもらう。引くのは一線だけだ。ガラは離さない。所属しているという事実さえあればいい。

「ワンマンアーミーなんて時代遅れなんスよ」
「おめえが言うんじゃねえよオメエが」

藤原は自分が変わったのはあの女と娘のせいだと思っているらしい。だが違うと室戸は思う。
この男の本質は享楽的なペシミストなのだ。狂乱と血と酒と薔薇の日々をいくら渡り歩こうと、頭の隅でどこかが必ず醒めている。
だからこそ今まで生き残り、どこからでも帰って来れたのだ。醒めている、というより熱を寄せ付けないと言った方が正しい。
熱気と熱狂に彩られた男の芯は冬の鋼よりも冷たい。彼が引き時と考えるのは冷たい芯がそう囁くからだ。

「ま、直ぐにとは言いませんが、そろそろ、ってね」
「まあそれについちゃ、プランがねえ事はねえんだが」

それにはちと準備がな、と局長はにたりと笑う。

「ま、煮るなり焼くなりッスかね。ここに下駄脱いだ時から俺ぁ覚悟出来てますんで」
「その為にもおめえ、今から後釜作っとく気ねえか?」
「後釜?そんなんゲンタとかカネトモとか幾らでもいるでしょうが」
「違う違う、おめえ自身の後釜って奴さ」

ラストダイナソー──最後の恐竜で終わらすにはもったいねえってんだ、と室戸は笑う。

「養成所から引っ張ってくるとか気の長い事言わねえで下さいよ」
「ダァホ、そんな手間も時間もかけられるか」

そのまま室戸は机のインカムを押し──寄越してくれ、ゆっくりでいい──と指示を出す。

「ま、計ったみてえに、うってつけの奴が見つかってよ」

へえー、と半開きの眼で返す藤原。嘘だ、絶対このタヌキ仕込んでやがった。お互い長い付き合いだから解る。
そもそも今日、特別用も無いのに何故、局長室に自分を呼び出したのか。室戸の意図が読めてきた藤原。しかし。

「羽田トランク──覚えているよな、信也」

意外な室戸の一言に一瞬目を剥く藤原。
一体自分の後釜の話とどう繋がる──いや、だからかと藤原は気付く。
自分が引く事を考えた理由、その全ての発端はあの事件に起因するのだ。目の前の上司は恐らく──気付いている。

「忘れようがねえですよ、局長」
「二十年前か」
「十九年前です」

俺がハタチん時ですからね、と笑う藤原。

「そうだな、おめえアレで童貞捨てたんだもんな」
「そうッスね。バケモンで童貞捨てるなんざ最悪ですがね」
「一匹──逃がしたんだっけか」
「──ええ」

藤原の脳裏に響く少女の声。

──みつけた、みつけたあ、わたしのおとこ。

忘れる事など出来るものか。

「あれは──まあいい。今更言わねえ。てめえへのご褒美って事にしといてやる」
「──ありがとうございます」

やはり気付いていた。たった一度の過ちを室戸は気付いていたのだ、と藤原は確信する。
目こぼしされていたのか、それとも今日この日の為、その切札に取っておいたのか。それは解らない。
けれど、ほんの少しだけ肩の荷が軽くなったような気がする。当然その代わりに何かを背負わされるのは間違いないのだが。

「関わりがあるんスか?」
「まあな。おめえあの時何があったか、全部覚えてんよな」
「ええ、まあ」

十九年前。ある空港で給油の為立ち寄った一機の貨物機が着陸に失敗、炎上大破するという事件が起きた。
それだけならば単なる事故で管轄が違う。しかし問題はその荷だった。
空港は一時封鎖され、厳重な警戒と報道管制が敷かれた。
後の公式発表では、機の積荷の中に特定伝染病の培養体があり、危険度は極めて少ないながらも法令に則り封鎖措置を施したとある。
しかし消化活動の最中に突然下された退避命令。入れ替わりに現れた内務省管轄の即応部隊。
完全武装の彼らが見た物は炎に包まれる機体と、滑走路に散乱する破片と荷物。
その中で不自然なほど綺麗に並べられたトランクのような物。
まるで彼らを待ち構えていたかのように横一列に並べられた六個のトランクを前に、隊員達に緊張が走る、その時。

蓋が開いた。六個の蓋が一斉に口を開けた。

銃を構える隊員達の中に養成所上がりの新人、藤原も居た。
そして彼は目にする。口の開いたトランクから立ち上がる何かの姿を。
最初は半透明なゼリーのようだった。その中に骨格が生まれ併せて徐々にヒトの形を模していく。
頭部らしき部位に脳らしきものが生まれる。脳から全身に張り巡らされる神経。胸に心臓。心臓から全身に行き渡る血管。
循環する血流と共に内臓が生まれ肉と腱が覆いやがてそれは皮膚で包まれる。
その間僅か十秒足らず。ガスマスクの向こう側で繰り広げられる光景に一瞬見とれる隊員達。
しかし若き藤原は直感する。これはやばい、何かは解らぬが確実にやばいと。
見れば既に目の前のそれは人の形を作り終えていた。柔らかなラインと胸の膨らみから女と思われた。それも発育途中の少女に見える。ただし。

顔が無かった。目も口も鼻も、何も無かった。なのに、こちらを見たような気がした。

その時、左脇の隊員が倒れた。右脇の隊員も倒れた。のっぺらぼうのヒトガタが二つ消えていた。
本能的に身を引く藤原。その瞬間彼の居た場所に突き刺さる第三のヒトガタ、のっぺらぼうの腕の先が滑走路を貫く。
身を翻し見れば空のトランク六個。突如始まる狂宴。閃光、銃声、絶叫、次々とヒトガタに屠られていく隊員達。
藤原はガスマスクを投げ捨てる。クリアになる視界と鼻腔に広がる血の匂い。トリガーを引く、小銃から閃光、しかし全て避けられる。
その間にも次々と息絶える仲間達──気が付けば一人。

炎に包まれ燃え落ちる残骸を背に立ち上がる六つのヒトガタを前に、藤原は覚悟を決める。

重い装備を外しボディーアーマーすら脱ぎ捨て、右手にハンドガン左手にナイフを持ち構える藤原。
これでいい、これしかないと判断する。跳ね上がる鼓動が血流を循環させる。体中に血が巡る。けれど頭は醒めていく。
その時群れの中から彼に飛び掛る一体のヒトガタ。体に触れる刹那身を交わせば姿勢を崩し地に伏せる。
その瞬間、心臓の裏側に突き立てられた刃先。崩れ落ちるヒトガタ。
刃先を抜く隙を突き第二のヒトガタが飛び掛るも一体目の骸を膝で蹴り上げ投げつける。
あおり受けて姿勢を崩す二体目の額に右手の銃口、そして銃声。二体目沈黙。

やはりな、と藤原が笑う。口の端々を獣のように吊り上げて。

俺は見た。奴らには脳が、心臓が、内臓が、肉があった。何の事は無い。こいつらは急所を持った只の化物、ヒトモドキだ。
ならば構うものか。殺って殺って殺りまくれ。

──残り四つ。さあどうした来いよ糞虫ども。殺り合おうぜ!

藤原が叫ぶと一体を残し三体が一斉に飛び掛る。しかし同時に藤原も地を蹴り飛び込む。
養成所で習得した技能など糞の役にも立ちゃしねえ、ならば本能の赴くままに屠るのみ。
突き出された手刀を紙一重で避けその手首を噛み千切る。噴出す赤、やはり血。
引こうとする手を咥え離さず引き寄せてその喉元をナイフで裂く、まずは一体。
背中の気配に肘鉄一閃、姿勢を崩す二体目に肘を伸ばし銃口を胸の膨らみに押し当て横に滑らせながら5.7mmを三発撃ち込む。二体目沈黙。
そのまま右腕を頭上に掲げ二発発射。のっぺらぼうの額に二つの穴を開けた亡骸がどさり、と男の足元に落ちた。三体目沈黙。
残弾十四、刃こぼれ無し。

──てめえ、ずっと見てやがったな。

炎を背に佇む最後のヒトガタを見て藤原は気付く。
こいつはずっと見ていた。他の五体は恐らく、俺を計る為の犠牲、否、残る一体の為に生贄にされたのだと。

──へえ、やる気マンマンじゃねえか。

藤原は気付く。少女の曲線を持つそのヒトガタの手に握られたものを。
彼が戦っている最中、倒れた隊員から抜き取ったであろうもの。左手に銃,、右手にナイフ。

──邪魔入る前にとっととヤろうぜ、ネエちゃん。

のっぺらぼうが笑った、ように見えた。

「トランクはあの時いくつあったかな、信也」

局長の言葉が藤原を過去から引き戻す。

「六個ですね、それが何か」

結局あれは何だったのか。公式には記されていない。
犠牲となった隊員達は救助活動中の殉職と処理された。しかし後に藤原は事件の黒幕を知る──ヴォクスホール、その存在を。

「もう一個、あったんだ」

どくん、と藤原の心臓が大きく脈打つ。

「今何つった、室戸さん」
「全部で七個だったんだよ、藤原」

その時、局長室のドアを叩く音。そのまま待て、と室戸は告げる。

「ぶっちゃけた話、七つでワンセットだったらしいんだわ、シンヤ」

あんた何を今更、と藤原は言おうとするも、ドアの外の気配に気が逸れ言葉が出ない。

「あれは事故だった、というのがヴォクスホール側の見解でな」

ふざけんな、喉元まで出掛かる藤原の言葉を室戸が手で制す。まあ聞け、と。

「そりゃそうだ。あいつら〈他の地は侵さず〉が原則だからな。それがカナメに鎮座まします常世の君との盟約だ。
 だからあいつらの持つ魔道師団は、防衛にのみ絶大な力を行使する事が許された。
 だから魔道〈旅団〉の存在は間違っても公には出来ねえのさ」

そんな訳で残骸から見つかった最後の一個が宙に浮いちまったんだ、と室戸は言う。

「突っ返そうにもそんなん知らね、が奴らのスタンスでな」

だからウチで秘密裏に保管していたのさ、と室戸は続ける。
バラしても良かったんだが少々やっかいな封印施されているみてえで下手に開けたらちとヤバイ事なりそうでよ。
そんならこのまま丁重に御預かりしてだ、何かの時のカードに使おうってな、と笑う局長。

「アンタ相変わらず、食えねえな」
「誉めんなよ」
「で、それがドアの後ろで行儀良く待ってる、何もねえ奴と関わりあんのか?」
「さすが鬼包丁、気付いたか」

そう、藤原は気付いていた。ドアの外の存在に。
正確に言えばドアの外に居るにも関わらず、何も感じさせぬ得体の知れないものに。

「そんじゃご対面といくか──いいぞ、入れ」

そして、ドアが開く。



狼の娘・滅日の銃
第四話 - 馬鹿がおうちにやって来た -



「あ、お帰りお父さん──なに、それ」
「うん、話せば長くなるんだが。簡単に言えば馬鹿連れてきた」
「こんばんは真澄ちゃん!バカでーす!」

ちょいちょい、と真澄が笑いながらこっちゃ来いのポーズ。
ン!と弟子の手前お父さんカラ威張りで娘と共にキッチンの奥へと消えました。すると。

「なんで今日マミさん来るって事前に言わないのよバカー!」
「痛いッ!痛いッ!しゃーねえだろあの馬鹿いきなり降って来たんだからよ痛いッ」

バシッバシッと肉を叩く音と共に、親子の叫び声がキッチンの奥から聞こえてくる。

「ご飯あらかたマユコさん食べちゃったわよ!もうお父さんの分しかないわよ!」
「痛いッ!おめえ腿裏蹴るな!っていうか何で奴いつもウチで飯喰ってんだ痛いッ!」
「知らないわよ大家と言えば親も同然なんでしょセイッ!」
「痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛アッー!」

五分後、太ももをさすりながら藤原再び登場。
後ろの真澄、いくぶんすっきりした顔つき。

「あーなんだ、娘にも良く言って聞かせたから今日は泊まってけ、けどオメエの飯ねえから」
「ごめんねマミさん、後で何か買ってくるね。大家さんいるけど今日はゆっくりしていってね!
 あ、ところで──お父さん、そのシャツどうしたの?」

にっこりと笑う真澄。来たか、と藤原覚悟完了。

「チッうっせーな──汚しました、すいません」

お父さん最近素直に謝る術を身につけました。
ここまでは良かったのです。ここまでは。

「ごめん真澄ちゃん!それアタシの血なの!ごめん!」

この馬鹿が余計なコト言うまでは良かったのです。

「マミさんの──血?」

そうですかそうですか。真澄ちゃんキミね、きっと誤解してるよ、と固まるお父さん。
けれどやはり馬鹿の二つ名は伊達じゃない。きっちりやらかしてくれました。

「アタシのぉ、はじめてぇを、師匠にぃ、あげちゃった!キャハ!」
「お父さんちょっとこっち来て」

くいくいっ、とアゴでいいからこっち来んかいのポーズを取る娘を見て、お父さんがっくりと肩を落とし、そのまま二人キッチンの奥へ。

「ハイッ!ハイッ!ハイッ!ハイッ!」
「痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛いッ!」

五分後、蝉の抜け殻のような顔で現れたお父さん。
なんとか誤解を解き、この馬鹿を明日タコ殴りにする事を決意して再び玄関へ戻ると。

「藤原、藤原」

いつのまにか現れた着物童女が藤原の袖をくいくいとつかみ。

「あ、なんだおめえまだ居たのか」

相変わらずの無表情で、ちょっとコレ見てみ?と藤原を促す繭子。

「この子狐ですが藤原」
「あ」

しまった、と藤原師匠、うっかりハチベエ並にうっかりしてましたの巻。
魂とかルフランとかすっかり抜けたように、玄関で茫然と立ち尽くす馬鹿を見ながら、そういや言ってなかったよなあ、と藤原ふたたび肩を落す。
良く見れば馬鹿、気を失っております。失禁もしてます。おもらし属性また開花。だよねー、と横目で繭子を見ながら溜息をつく。

「わたくし少々悲しくなりましたよ藤原」
「おめえ少しは手加減してやれよ」
「わたしは何もしておりませぬ」
「そっか、悪かったな」

そうだよな、と藤原は苦笑する。二週間前、初めてこいつと出会った時も俺ヤバかったもんな、と今更ながら思い知る。
局長こいつに──言うわけねえわなあ。通過儀礼みたいなもんだなコレは。
しかしまあ、こいつも馬鹿なりにちゃんと気付けたってのは収穫だな、と目を細める藤原。漏らしたけど。
これ掃除俺やんだろうなあ、困った困った。

「悲しいゆえに今宵は帰りまする。真澄、明日の馳走を期待しておりまする」
「マユコさんおやすみー」

はいはい明日もウチでメシ食うのね、はいはい。とすっかり慣れたものですお父さん。

「ところでお父さん、これ」
「うん。とりあえず風呂に放り込んでおくか」

さて掃除掃除、と腕まくりする藤原でした。



のっぺらぼうが笑った、ように見えた。
違う、見間違いじゃねえと若き藤原は凝視する
何も無い筈の顔に、にじみ出るかの如く唇が現れたのだ。その口元は笑っている。

「おう、楽しそうだな」

鏡かも知れない。不意にその考えが脳裏を過ぎる。何故ならそれは自分と同じだからだ。

「俺も楽しいぜネエちゃんよおッ!」

同時に飛ぶ二つの影。交差する刃と刃、散る火花、笑う口と口。
ゴリッと重なり軋みあう二対の強化樹脂、内包される小口径の銃口がお互いの額を捕らえる、そして銃声。

「ハッハァ!」

鼻先をかすめる音速の銃弾、焼ける前髪、のけぞる頭。
しかし振り子の如くに反動をつけ突き出された額、向こうも同じ、ゴッと鈍い音を立てぶつかり合う額と額、その時。
目が開く。
触れ合う程の距離で藤原は見る。彼女の瞳──そう、遂にヒトガタは少女となった。
はぁっ、と開いた口から熱い吐息が漏れる。鼻もあった。鼻の頭を擦り付けて彼女が笑う。
ちろり、と赤い舌が藤原の唇を舐める。ギリギリと拮抗する刃と刃、銃口と銃口。
はらり、と彼女の前髪が藤原の頬を撫でる。前髪?そう前髪だ。
現れた目鼻と共に既に少女は肩まで伸びた髪を生やしている──限界だ。藤原は腿を蹴り上げる。

「てめッ!」

腿が触れる瞬間、男から飛び退く少女。即座に構える藤原。
そして彼女の全身を目に映す。既に胸の膨らみは乳房と化していた。腹部にへそ、その下に薄い茂みすら湛えている。

「──真来」

不意にその名が口から漏れる。自分と同じ構えを取る裸体の少女に、その名を告げてしまう。
マキ──その名。藤原の眼前で笑いながら牙を研ぐ少女の顔は、遠い昔、亡くした筈の妹、その面影を色濃く映していた。
一瞬の混乱、その隙を突き少女が跳ぶ。

「くそったれえ!」

その刃先が藤原の頬を裂く。彼の銃口が少女の前髪を焼く。倒れ組む男、馬乗りに組み伏せる少女。
華奢な腕とは思えぬその力、刃と銃口、再びの拮抗、しかし。

「──そう、わたし、マキって言うのね」

開いた少女の口から囁かれた言葉で遂に藤原は理解する。
こいつは俺の技を取り込んだ。俺の心さえ吸い取った。吸い取り取り込み消化した。
やがて、妹の面影を宿すその少女が惚けたように笑う。

「みつけた、みつけたあ、わたしのおとこ」

声が出なかった。何故なら塞がれたからだ。その唇で。
重ねられた唇を割り熱い少女の舌が男の口腔に侵入する。
くそったれ、心の内で吐き捨てながら藤原は抗うも、蛇のような舌が彼の舌に巻きつき離さない。
噛み切れ──微かに残った理性が警告する。しかし本能がそれを拒否する。
徐々に彼女を受け入れていく藤原の口と舌。くそったれ、くそったれと何度も脳裏で叫ぼうと抗い切れぬその感覚。
蕩けていく。このまま全部こいつに、妹に似たこいつに吸わちまうのか、くそったれ。
蕩けていくその感覚でさえも消えようとしたその時──突如少女が身を引く。

「──てめッ!」

我に返り藤原が飛び起きる。その瞬間頭上から眩い光、そして突風。
轟音と共にヘリのローター音が、二人の逢瀬を切り裂かんばかりに滑走路に降り注ぐ。
増援──それに気付き再び銃とナイフを構える藤原。しかし少女は。

「てめえ──何してやがる」

突風に髪をなびかせて裸体の少女が微笑む。片手に空のトランクを掴み、藤原にこう告げる。

「また会いましょう──ダーリン」

そして、風と共に光届かぬ闇の奥へと消えた。

「くそったれ」

藤原は追わなかった。その気力すら沸かず、どさり、とその場に座り込む。

「くそったれえッ!」

炎と亡骸と風の中で、彼の絶叫だけが虚しく響いた。



「──くそったれ」

その少女を見て藤原は、開口一番、十九年前叫んだ言葉を再び吐き捨てる。

「シンヤ、紹介しておく。本日付けでウチの預かりとなった備品だ」
「備品?」
「おう、備品だ」

その少女は人形のようだった。感情を浮かべず、しかし言語を介し相応の知識も有していた。
室戸は言う。一ヶ月前、何の前触れも無しに最後のトランクが開いたと。そして中からこの少女が現れたと。
しかし別段抵抗する事もせず、それどころか恭順の意すら示したと。

「局長、なんでこいつに──顔があんだよ」

藤原の脳裏にあの一夜が鮮明に蘇る。のっぺらぼうのヒトガタ。
倒した五体には顔がなかった。そして最後の一体は彼の記憶からあの顔を引きずり出し、己のものとした。

「しらねえよ、このまんま出てきたんだ」

おめえの言っていた手順を踏まずにな、と室戸は告げる。
あの半透明なゼリーでもなく、このままの姿で七個目のトランクから出てきたんだ、と。

「──ふん」

あの時の自分ならば、即座に喉笛をかっ切っていただろうと藤原は思う。
けれど悲しいかな十九年で身に付いた分別とやらが邪魔をする。

「ご大層なツラしやがって」

その言葉に何の反応も示さない少女を見て藤原は思い出す。
振り返ればあの時、あいつが妹の顔を模したのは、その時自身の身を守る為にそうしたのだと確信している。
だから隙が出来た。あいつはそれを見逃さなかった。本来はそういう物だったのだろう、しかし。

「似ておりますか?」

少女の第一声、抑揚の無い機械的なその声を聞き、藤原は拳を固く握る。

「私の本体──アルファに」

風を切り藤原の裏拳が少女の鼻先で静止する。

「どういう意味だ」

拳圧を受けても瞬きすらしないこの少女は、確かにあいつに似ていた。

「私はオメガ。六体の姉、アルファ達のバックアップ、予備素体ですので」

しかし似すぎてはいなかった。姉妹といえば姉妹、別人といえば別人と言えた。
中々どうして狡猾だな、と藤原は思う。別人になり切らず面影を残す。つまりはアピールだ。
あの女に似ている私をお前はどうする、と試しているのだ。やはりターゲットは俺か。反吐が出る。

「何故今頃になって目覚めた」
「解りません」

嘘だな、と直感する。
解らぬ訳ないだろうと。お前が目覚めたのには明確な理由がある。それはきっと。

──あんたの足枷にはならない。

あの女の別れ際の一言が今になって効いてくる。今更ながら思い知る。馬鹿野郎、と藤原はつぶやく。
気高き獣は最期の姿を誰にも見せぬという。バックアップが目覚めた理由、それは本体の終焉を意味する。
馬鹿野郎、何故気付かなかった。あの意地っ張りめ。なら何故あの子を連れて行った。
馬鹿野郎。てめえはやっぱ狼、それもタチの悪いことに寂しがり屋の一匹狼。
馬鹿野郎、てめえって奴はやっぱり──俺と同じだ。

「──ばかやろう」
「私が馬鹿という意味ですか」
「ああ、そうだ、そうだともよ馬鹿」

拳を下ろし、藤原は力なく首を振る。

「一応言っとくがなシンヤ。ちなみにこいつ、どう調べても人間だったわ」

室戸の言葉に溜息で返し、そうだろうよ、そうだともよ、と藤原は頷く。

「驚ろかねえな、おめえ」
「ええ、いろいろ知ってますんで。こいつらの事は」

こいつは化物だが只の女にも雌にもなれる。そして──母にも。

「そっか。んじゃ話早えなシンヤ。こいつ、おめえに預けるから」
「なん、ですと」

まさかそう来るとは。今度こそ驚く藤原。

「一年やる。こいつ後釜に仕立てろや」
「いやいやいや、あんた何言ってんスか!だってこいつ、ヴォクスホールの!」
「ヴォクスホールのパテントは解除されております。私はフリーです。ちなみに処女です」
「おめえも何言ってんのバカー!」
「いやシンヤこいつお買い得だぜ?人間っぽいけど身体能力はすげえぞ?おめえも解るだろ?
 こいつなら煮るなり焼くなり犯すなり犯されるなりしても文句言わねえし、あと生娘だし」
「あんたも何言ってんだバカー!」
「宜しくお願い致します、マスター」

ぺこりと頭を下げる少女の頭をはったおそうかと思うも、ぐっと堪える藤原。そして気付く。

「──マスター?」
「はい、マスター」
「なしてそう呼びはるの?」
「私はあなたの所有物です。ですので煮るなり焼くなり殺すなり殺されるなり
 犯すなり私に犯されるなりご自由にして下さいという意味でそう呼びました。ちなみに処女です」

何でこいつ自分の処女性を強調すんだろう。誘ってんのかオイ、まあそれはおいといて。
どのみちこのタヌキ全てお膳立て整えやがったな、ジタバタすんだけ無駄か。ならばと藤原は局長に向き直り改めて告げる。

「こいつのガラ預けんなら、俺以外、誰も手出し無用でいいな?」
「たりめーだ。誰が鬼包丁のブツに手ェ出せっか。あと戸籍作るぞ、名前どうする?」
「いやどうするってアンタ」
「固有識別名称を、マスター」
「解った、まずマスター止めろ」

喫茶店じゃねえんだからよ、と藤原。せめて師匠にしろと少女に告げる。

「了解しましたフジワラ師匠」
「何か漫才師みてえだな、マスターよりかずっとマシだが」
「固有識別名称を、師匠」
「──真美」

藤原のつぶやいた一言で少女が言葉を止める。そして。

「マミ──良い名を有難うございます、師匠」

一瞬、口元が緩むのを藤原は見逃さなかった。なるほど、そのツラも嘘か、と。
いいだろうと男は思う。楽しみだと彼は思う。無表情の仮面を引き剥がしこれでもかと泣かせてやる。
俺を試した事を心底後悔させてやる。とことん泣かせて笑わせてやる。
今この瞬間が一年後恥ずかしいと思えるまでとことんてめえの感情を引きずり出してやる。
この人形気取りの馬鹿野郎、てめえは甘い。いいだろう楽しませてもらうぜ、と藤原が笑う。

「ではフジワラマミという事で」
「ちょっと待てやコラ」

さらりと既成事実を作ろうとした馬鹿を制し、急ぎ局長に告げるフジワラ師匠。

「苗字はそっちに任せるんで適当につけてください局長。ただしフジワラ以外でな!」
「マミ、マミねえ、ふーん」

そんな二人のやり取りを見ながら少々卑屈に口元を歪める局長。

「あんだよ、何か文句あんのか」
「いんや別に。真美か。ふぅん、いい名じゃねえか」

嫁さんと一文字違いか、そりゃいい、と室戸は笑った。


 
ぼそぼそとお父さんが娘に耳打ち。ふむふむと娘うなずきニヤリと笑う。

「あれ真澄ちゃんどしたの?おねーさんと一緒に入るぅ?」

小便臭い馬鹿、真美が脱衣所でツナギを脱いでいるとカラカラと引き戸が少し開き、真澄が扉から顔半分出し、じいっと真美を見つめる。
わざとらしい程の無表情。どうやったのか解らぬがご丁寧に目のハイライトとかも消している。そして、抑揚の無い声でぼそりと一言。

「こゆうしきべつめいしょうを、ますたー」

ぶふう、と噴出す真美。風呂場の脱衣所に座り込み、頭を抱え、足をジタバタやかましい。

「やめっ!やめてッ!恥ずかしいッ!」

突然の不意打ちに為す術も無く狭い脱衣所で、カゴとかひっくり返しながら頭抱えゴロゴロ転がるお年頃の小娘一人。
しかしここでやめる程この親子、甘くはない。

「ヨロシクオネガイシマス、マスター」

真澄に続き、抑揚の無い図太い声が扉の向こうから聞こえて来る。

「あんたら鬼ッス!やめて何その恥ずかしい黒歴史ッ!」
「われは、しっこくのきし。このひだりてにふういんされしものを、めざめさせるな」
「スピチュアル、ガシッ、ボカッ、ディープラヴ、スイーツ、アイアムラヴマシーン」
「言ってねえよ!そこまで言ってねえよッ!オニー!」

適当にアミダで決められた苗字を持つ小娘、田中真美が鬼親子の仕打ちに叫び転び泣き喚く。
有言実行。一年前の決意を無事成し遂げてフジワラ師匠、いたくご満悦の一幕でした。


 
この平屋、小さいながらも風呂は広い。
どれくらい広いかというと、小学生の娘と女子高生くらいの馬鹿が肩並べて湯船に浸かれるくらいには広い。
つまり現在、そんな状態。

「もうマミさん、機嫌直してよぉ。お茶目なお遊びじゃない」
「お茶目な遊びでアタシの心エグるなんて真澄ちゃんおそろしい子!」

あれから、洗濯機に頭突っ込んでスイッチを押そうとする所まで追い詰められた馬鹿を、何とかなだめすかし、
小便臭い衣服を洗い、ほらマミさん一緒に入ろ?ね?と、ほんの少し反省した真澄に促され、共に風呂に入る事にした真美。
背格好の割にお見事なおバスト様を湯船にぷかぷかと浮かべ、ぶくぶくと口で湯花を作る。

「マミさんて胸おっきいよねー、いいなー」
「へっへーん。オトナのオンナの魅力ってやつぅ?」

誉められると直ぐ調子に乗る馬鹿の横で、その豊満な胸をジト見する真澄。
ペタペタと自分の胸に手を当て、はあっ、と深い溜息をつきひと言。

「ねえ、潰していい?」
「真澄おそろしい子!」

なんか本気で潰しちゃいそうな恐ろしい小学生女子に、
まあまあ真澄ちゃんも直に大きくなるから、と当り障りの無いフォローを入れる真美。

「ほらオトナになったらもう、むちむちばいんばいんって」
「大人かぁ──なりたくないな」
「なして?」
「抑えられなくなっちゃうから」

何を──それを真美は聞けなかった。この子はもう気付いている。自分の本性に。
以前、父親に面会を求め庁舎を訪れたこの娘を案内したのは私だ。ひと目見て解った。この子は抑えていると。
自分の欲望を。それが痛々しかった。その気持ちはもう私だけにしか解らない。
しかしそれをこの娘に、決して悟られてはならないと真美は思った。
もし気付かれたら、この娘はその瞬間より私を敵とみなし──そして。

「ねえマミさん」
「ん?」
「マミさんてなんか、お母さんに似てるんだよね」
「へ?マジで?」
「うん、なんとなく」

そっかー、と気の抜けた返事を返す真美。
その時、すっと真澄が彼女の胸に手を添える。
湯船の中で豊満な胸に触れる小さな手──来たか、と真美は心を研ぎ澄ます。

「あんっ、そこらめぇ──ってこの、いたずらッ子め」
「ふふっごめんごめん」

この娘は怖い。いつも私を試しにくる、と真美は思う。

──あ、お帰りお父さん。

玄関で嬉しそうにあの男を出迎えたこの子は、次の瞬間、私の姿を認め。

──なに、それ。

その時、一瞬過ぎった眼光を忘れる事が出来ない。

「んもう!おマセさんめ!」
「あはは、ごめんごめん」
「いきなり触るもんだからお姉さんドキドキしたったゾ!」
「嘘ね」

感情の篭らぬ声で真澄は告げる。

「鼓動、全然早くないよ」

しまった、と己の失策に気付く真美。

「ばれたか。まぁつまり、小学生のテクじゃ感じない程度にはアタクシ大人ッスから」
「ふふっ、まぁそういうことにしておきましょう」
「ナマイキだぞー」
「なまいきなのー」

あの男に近付く雌をこの娘は決して許さない。呆けた笑い顔の下で真美はそう思う。
唯一の例外はあの化物、常世繭子。視られる前に意識を切断せねば今頃自分はどうなっていただろうか。
しかしこの子にとってはそれすらも些細な事なのだ。
真澄は判断した。あの存在は敵ではない、彼女は雌ではないと。それだけで十分なのだ、この子にとっては。

「マミさん、これみよがしに胸押し付けるのやめてくれない?」
「いーじゃなぁい、すきんしっぷー!」
「むー」
「へへへぇ」

この娘は怖い。けれど愛しい。我が姉が命を賭して生み出した奇跡。
姉の想いは、深い眠りの最中も常に私に注がれた。姉は──アルファは雌になり女になり、そして母になった。
私はどうなのだろうか、と真美は想う。雌でも無く未だ女ですらない、宙ぶらりんの馬鹿。
ひとでなしの化物として生を受け、本来の使命すら消された廃棄物。
けれど蓋が開く瞬間、この姿を選択したのはまぎれもなく自身の意志。
あの女になりたい。それだけが今の私を支えている。

「ねえマミさん。お父さんのこと、好き?」
「正直に言うとね、だいっきらい」
「あはは、ほんとかなー?」

これは嘘。好きで好きでたまらない。狂おしいほどあの男が欲しい。

「とか言っても何だかんだ言って師匠だからねえ、その点だけは最高かな」
「それじゃ、私の事は?」
「正直に言うとね、だいっすき!」
「あはは、うそつきー」

これは本当。この子が愛しい。自分と同じ想いを持つ最後の同胞が愛しくてたまらない。

「うそじゃないもーん」

しかし近い将来自分は決断を迫られる、と真美は感じる。
けれどそれまでは、嘘と真実の危うい綱渡りを演じていたい、灰色の線で反復横跳びをしながら能天気に笑っていたい、と切に願う。
こんな事を考える自分は、随分ヒトになったのだなあ、と彼女は思うのだ。

「つか、てめえら。早く出ろこのヤロウ!」

ガラリと脱衣所の戸が開き、曇りガラスの向こうからあの男の怒鳴り声。

「お父さんのエッチー!」
「師匠のドスケベェー!」
「俺だって早く風呂入りてぇんだよ!」
「じゃあお父さんも一緒に入るぅ?」
「あらぁん師匠ぉん、お背中お流ししますわぁん」
「出来るかバカー!」
「お前ら五月蝿い」

ガラッと浴室の窓が開き、大家さん登場。

「次やったら、引っこ抜きますゆえに」

スパンッ、と窓閉じました。

「あ、お父さーん、マミさん沈んでるー」
「あーそっかー。取りあえず髪の毛掴んで引きずり出しとけー」
「わかったー」

フジワラ親子、この立地にも随分と馴染みました。


 
日で三回の失神はここ最近では珍しい。
あーひどいめにあった、とバスタオルを頭に巻いた馬鹿が、真澄の作ってくれたさっと一品を箸でつつきながら頭を振る。

「でもまあ、これはこれで」

だらしなく口元を緩ませて、自分が着ているだぶだぶパジャマの袖口に鼻近づけて、くんかくんかする真美。
ああん師匠の匂いがするう、とかやっておりますと。

「おめえ何やっとんの?まあいいや、布団敷いたから早よ寝ろ」
「あーすいませんねえ、おや、師匠とザコ寝っスか、いいスねえ」

キッチンから居間を覗くと敷かれた二組の布団を見て、胸躍らすオトメモドキ。

「何言ってんだ。おめえは真澄の部屋に決まってんだろうが」

チッ、と藤原に見えぬよう舌打ちする真美。
せっかくあの子公認で添い寝出来るチャンスかと思った自分が甘かった。
寝相のせいにして抱きついたり馬乗りになってロデオみたく腰振ってやろうと密かに企んでいたアタシったらぁお馬鹿さぁん。
あ、ハイハイ、早く寝やがれですね、ハイハイ。

「んじゃ早く寝ろよー」
「はいはいー」
「マミさんおやすみー」
「へいへいー」
「じゃこっちも寝よっかお父さん」
「そうすっか」
「待てコラ」

家政婦、では無く馬鹿は見た。
藤原が布団に寝転がった瞬間、ぴょーんと父親の背中に抱きつく娘の姿を。
馬鹿は一瞬考えた。いやこれが仲良し親子というものだろうか。しかし待って欲しい。
それにしては娘少し大きくね?来年中学とか上がらね?胸とか密着させてね?
良く見りゃ足とかガッチリに絡ませてね?おかしくね?コレおかしくね?

「つかオカシイだろあんたらぁ!」
「マミさんうるさい」
「おかしくねえぞ、これがフジワラスタイルなんだよ」
「あんた何馴染んでんでスか鬼包丁!いつからロリ包丁になったんスかぁ!」
「お前ら、五月蝿い」

大家みたび登場。馬鹿本日四度目の卒倒。
窓パシンと閉まる。藤原親子慣れた手つきで馬鹿を運び出し真澄の部屋に放り込む。
電気消す、お父さん寝る、娘抱きつく。そして就寝。
そのまま朝を迎える、と思われた。しかしそうは問屋が──馬鹿が卸さなかった。


 
狸寝入り、というスキルをご存知であろうか。

「──さて」

いくら馬鹿でもパターンくらいは読める。つまり四度目の卒倒は嘘でした。

「──やるか」

ここ最近、随分消してなかったなあ、と真美は目を閉じ呼吸を整える。以前は意識せずともこれが出来た。
つまりこのスキルは予め彼女に備わっていた。一年前、藤原と対面したあの時、彼がドアの向こうに何も無いと感じたのはまさにこれだった。
しかし真美の場合、消すのは気配だけではない。その程度なら藤原も軽くこなせる。彼女が消すのは己の存在感そのものだ。
昼間、藤原が一瞬だけ真美をロストしたのは彼女が有するこのスキルに起因する。
あれは、鬼包丁藤原だから避けられたのだ。獣の如き勘と、彼の持つ経験ゆえに。

「あらら、だらしなく口元緩ませちゃってまぁ」

にぃ、と口の両端を吊り上げて真美が笑う。枕元に立ち、寄り添う親子の姿を無機質な瞳にただ映している。
彼女の囁きも二人には届かない。声の存在すら消せるからだ。

「本当に、隙だらけに見えるなあ」

真美はその場にしゃがみこみ顔を男に近づける。
背中から娘に抱きつかれたまま、すうすうと安らかな寝息を立てるこの男、藤原信也。

「でも、隙ないのよねえ、困ったもんだ」

もし今、彼女が藤原の息の根を止めるべく、意志と殺意を以ってその喉元に刃を添えたらどうなるのか。
結果は明白。自動的に藤原の目蓋が開き、意識無きままで男の手刀は彼女の喉元を裂くだろう。故に鬼包丁なのだ。
しかし今──彼女にその意志は無い。

触れたい、と真美は思う。

その瞬間に力は解かれてしまうだろう。それがルールだからだ。そして彼に気付かれてしまうだろう。
構わない、寝ぼけた事にすればいい。またいつもの馬鹿に戻るのだ。この愛しい男を師匠と呼んで泣いたり笑ったりするのだ。それだけだ。

けれど真美は、触れない。

それがあの女との約束だから。それがあの女が最期に願った事だから。
だから今日、私はここに来た。男が娘と暮らし始めたこの家に。
いま男の背中越しで寝息を立てている、この恐ろしい娘の待つこの家に、この瞬間の為だけに今日ここに来た。私は、託されたのだ。

「──そいじゃ、ちょっと失礼」

そのまま藤原の横にごろん、と横になる真美。
本当は真澄を挟んで川の字が理想だが残念、そちらは空間が足りず触れてしまう。だから良しとしよう。こうして三人で寝れたのだから。

「願いは叶った?アルファ──」

雌と雄ではなく、もう一度だけ親子水入らずで添い寝がしたい。それだけがあの女の夢だった。
しかしそれは遂に叶わなかった。否、許されなかったのだ。

「──姉さん、これで満足?」

トランク──あの箱を通じて注がれ続けた想いを、ようやく叶えてやる事が出来た。今はこれで十分だと真美は想う。
わがままが許されるならば、こうして夜が明けるまでこの男と娘の寝息を聞いていたかった。
そして一緒に目を閉じたかった。じわり、と視界が歪む。

「いけない、アタシったら、もう」

目尻を拭う真美。これでいい、と身を起こした瞬間。

「──ッ」

息を呑む。
男の肩越しから視線。見れば彼の背中、真澄の目蓋が開いている。

「──ッ──ッ」

口に手を当て叫びそうになる自分を抑える。そして真美は自身に命ずる。
目を逸らすな、動揺するな。何も無い。私は何も無い、と暗示にも似た視線を娘に送る真美。
やがて、真澄の目蓋は静かに閉じた。

「──っはぁッ、はぁッ、はぁっ」

部屋に戻り、未だ収まらぬ動悸を鎮めようと、小さく呼吸を繰り返す真美。

「あの子が──怖い」

真美のつぶやきが部屋の闇に溶けて行く。
あの子が怖い、あの眼が怖い。あれは一ヶ月前に私へ向けた眼。あれは数時間前に一瞬過ぎった眼。
あれは獣だ。獲物を見る獣の眼だ。獲物を噛み殺す狼の眼だ。
そして真美は肩を抱く。抱きながら子供のように身を丸める。
あの子が怖い。あの子は許さなかったのだ。例え母でもあの子にとっては雌だったのだ。
狼の雌は女となり、やがて母となった。
しかしあの子は未だ──狼の娘。











■狼の娘・滅日の銃
■第四話/馬鹿がおうちにやって来た■了

■次回■第五話「かなめ!ふしぎ!」



[21792] 第五話/かなめ!ふしぎ!
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/09/15 22:05


 
天気晴朗。空は相変わらずの青。洗いざらしのブルー。
今日も良い天気です一日頑張りましょう、という時間には少々遅いお昼前。庁舎の屋上に人だかり。
何かをぐるりと取り囲んだその輪の真ん中に、プッシューと携帯ボンベからガスを送り大きな風船を膨らませる小娘と、
その隣でなんでこんな事に、と冷や汗だらだら流す男の姿。

「何か面白い見世物があると助役さんから聞いてきたんですが」

人だかりの中にひょっこり市長さんまで現れて、藤原もはや逃げ場なし。

「いやあ昨日ご迷惑かけたんで、お詫びッスよお詫び」

などとケタケタ笑う馬鹿を見ながら師匠は、
こいつ殴りてえ人目さえなければ今すぐマウント取ってこいつタコ殴りにしてえ、と苦笑しながら拳を握る。
そうこうしている内にパンパンに膨らんだ風船がふわりと大空に舞い上がる。おおー、と職員の皆様から歓声。
風船につけられたロープが引かれ、するすると空高く昇っていく。
そして真美は足元からリュックを拾い上げ腕を通し背負った後、カチリとベルトを固定した。
やがて空高くまで伸びたロープがぴんと張られ、見れば背中のリュックに繋がれていた。

「さあさあ皆様、マミたんのビックリイリュージョン、はっじまるよー!」

女子高生っぽい小娘の掛け声で、おおーと盛り上がる職員の皆様。市長さんパチパチと拍手までする始末。
その様子を見ながら藤原は、いやみなさんコレただのスカイフックですから、
騙されちゃいけません良く見りゃコイツただの風船背負った馬鹿ですよ?と言おうとするも。

「あ、師匠ぉ!」

自分目掛け、たったかたったか寄ってくるこの馬鹿ともしばらく会えねえんだなあ、と想うとフジワラ師匠、ほんの少しだけしんみり。
何せこの馬鹿、あの子と暮らすまでは四六時中、ずっと俺の視界が届く範疇で目障りなくらいチャカチャカ動いてたからなあ。
そう考えると少し寂しくなっちゃった師匠、つい油断してしまうのも無理は無い。

「おう、次来ん時ぁマトモに来いよ」
「あい」
「次は気ぃ失うんじゃねえぞ」
「あい」

だからつい油断して、寂しそうな顔をする馬鹿の頭を撫でてしまった師匠。

「じじょおおおおおおおおぉぉぉ」
「ああもう泣くなコラ恥ずかしい」

油断した、こいつすぐ泣きやがんの、ばーか。と真美をつい抱き寄せてしまったのも無理は無い、
無理はないのだ、と無理矢理自分に言い聞かせる藤原。
周りからはヒューヒューとはやし立てる声と、何を勘違いしたのかテントウ虫のなんちゃらという歌のサビの部分を何度も繰り返す集団がいるあたり、
意外とココの皆さんノリがいい。ちなみに市長も歌ってました。
そんなこんなで耳を澄ませば遠くからブーンというプロペラ音。
やがて山の向こうからタカというかトンビというかそんな格好したティルトローターが飛んで来る。
その機影を認め真美は目尻を拭い、顔を上げ藤原にこう告げた。

「師匠、アタシ決めたッス」
「なんだよいきなり」
「恋は戦争なんスね」
「ああ?何言ってんのおめえ」

姉の想いは果たした。この先は言い訳出来ない。ならば好きにやらせてもらう、と真美は決意する。
この先はもう戦争なのだと。自分はもう決めたのだと。
今朝、おはようと笑った真澄は昨夜の事を覚えていないようだった。あの恐ろしい狼の娘は朝の光と共に消えてしまったようだった。
けれど違うと真美は思う。寝ているだけだ。しかもその眠りはとても浅い。いつまた眼を醒ますかわからない。
だから向き合う、そして戦う。例え血みどろになろうとも戦って戦い抜いて手に入れる。愛しい男と愛しい娘を手に入れる。
覚悟しろ。私は案外欲深い──そして真美は。

「えいっ」

愛しい男に唇を重ねた。

「てっ、てめえ!」

不意をつかれ狼狽する藤原。次の瞬間、びゅーんと真美の身体が宙に舞う。
風船をフックに引っ掛けたミサゴ一号が、ロープの先の彼女を空へ空へと引き上げる。

「あたしゃ負けねええぞおおおおおお!」

まんまと一矢報いた真美が捨て台詞を吐きながら大空高く舞い上がる。

「てめコラ覚えてやがれコラァ!」

師匠の怒声に送られて、空の彼方へと馬鹿は消えた。





狼の娘・滅日の銃
第五話 - かなめ!ふしぎ! -




かなめ市。
面積約百六十平方キロメートル。人口三万人弱。四方を山に囲まれた内陸山間地。
突出した産業も無く際立った観光地も無いごくごく平凡な地方小都市。ただし町並みは良い。
市政が始まった一世紀前から現存する建物の数々と、当時から敷かれていた市電と併せ計画的に整備されたであろう道路は、
機能性と相まって景観作りの一翼を担っている。
まるで箱庭のようだ。藤原は眼下に広がる町を眺めそう思う。

「お父さん、おにぎりは?」
「おう、そんじゃもういっこ。真澄、玉子焼きは?」
「おう、そんじゃもういっこ」
「マネすんじゃありません」

自分の口調を真似る真澄を見て、せめて娘の前では口を改めようと決意する藤原。
けれど美味しそうに小さな口一杯玉子焼きをほおばる娘を見て、早起きして玉子焼き作ってよかったなあとお父さんご満悦。
ちなみに他のおかずとおにぎりは娘が作りました。

「お父さん、はいお茶」
「ありがとう、真澄」
「お父さん、無理しないで」
「何を言っているんだい?お父さんはいつも」
「ていうかその口調気持ち悪い」

僅か一分弱で一大決心が粉々にされかっぐり肩を落すお父さん。ぽんぽんとその肩を叩く娘。
二人はいま、町を見下ろす小高い山の頂上に軽トラを止め、荷台にゴザを敷きお弁当を食べている。
せっかくの晴天、こんな日は家でゴロゴロもったいない、と休みを使ってピクニックに来た二人。
ずずう、とお茶を啜りながら仲良く町を展望する。

「いい天気だよねー」
「んだなー」

ぼーっと自分たちが暮らし始めた町、かなめ市を見下ろす二人。
その景色を眺めながらふと藤原は気付く。町並みも道路も線路も、全てが町の中心より同心円状に広がっていると。
ではその中心にあるものは。それは市庁舎でも駅でも無い、あの真四角な建物。
確か以前目を通した資料にはこの建物、旧商工会議所だったらしい。
なんでも市庁舎と市役所前駅が建てられた一世紀前より現存するらしく、かなめ市三大古臭い建物と呼ばれているとかいないとか。
そういや一ヶ月前、この町に来たとき改装してたよな、と藤原は思い出す。郷土資料館になるんだっけか。今度寄ってみるか。

「ごちそうさまでした」
「ゴチでございました」

手と手をあわせてしあわせ、ってな感じで仲良く向かい合って一礼。
その後お茶をずずずうとすするフジワラ親子。ぽかぽかと日差しが心地いい。
不意にごろん、と大の字に寝転がる娘。空は相変わらずのブルー。さわさわと風が真澄の前髪を揺らす。

「飯食ってすぐ寝ると牛になるぞ」
「んー、胸だけならいいのー」

そっか。お父さん触れない事にする。触れてはいけない気がする。
目を細めながら微笑み、再び眼下の町に視線を移す。そして藤原は思う。やはりおかしいと。
一ヶ月前、今いる場所に車を止めてしばし町の全景を眺めた。これは藤原の身についた習慣でもあった。
見知らぬ土地を訪れる時、彼はこの作業を欠かさない。自分が活動する場所の空間把握を行う為だ。
何処に何が有りどう動くべきか。それを脳裏に焼き付ける。
故に藤原は迷わない。行動を起こし遂行し戻るべく培われて来た習慣。しかし。

この町に来た初日、藤原は迷ってしまった。

町に入った時、微かな違和感。中心部を抜け、古びた住宅地へと入った途端、藤原の感覚が大きく狂う。
脳裏に焼き付けた筈のイメージにずれが生じたのだ。今までこの様な事は一度たりとも無かった。
ひと月を経た今でこそ慣れはしたが、あの感覚は忘れない。

「なるほどねえ、やっぱそうか」

そして現在。再び町を見下ろし、あの感覚の正体に気付く藤原。
一ヶ月前、脳裏に刻んだ町と今の町を重ねてみる。
そして彼は確信する。思い違いではなかったと。
感覚がずれたのではない。町がずれているのだ。

「おっかねえ町だわ、こりゃ」

藤原は夢想する。型枠の中で身をよじる巨大な獣。その姿が脈動する町に重なる。
しかし一箇所だけ動かぬ場所がある。基点だ、と藤原は直感する。あの真四角な灰色の箱。何かある。

「んー」

くいくいと袖を引かれ藤原は思索を止める。
振り向けばゴザの上で寝そべる娘が彼のシャツを引っ張っている。
寝ろ。お前もこっちゃ来て寝ろ、の合図。

「へいへい」

苦笑しながら真澄の横に寝そべるお父さん。体を冷やさぬように娘を胸元に抱き寄せる。
柔らかな日差し、青い空。胸元で寝息を立てる愛しい娘。そして藤原は目を閉じる。
その姿はまるで、身を寄せ眠る、獣の親子のようだった。


 
傾き始めた日差し。山の稜線に伸びる影。
夕暮れ間近の山道を下り終え、軽トラが西日を背にとことこ進む。

「あ、お父さん見て!大きな家!」

真澄が指差す先に小さな森。目を凝らせば大きな洋館の屋根が見える。

「おー、でっけえなあ」

驚く素振りを見せながら藤原は思う。ああ、柊のお屋敷かと。
彼の仕事、駐在調整官とは、基本的にただ居ればいいだけの役職である。
何も無ければそれで結構。だが、もし何か事が起き、それが国に脅威を与えると判断した際、調整官の持つ特務権限、
つまり干渉権を行使しカナメへと介入せねばならない。
そのような事態が起こらぬ様、常に目を光らせ調整を行う必要があると彼は考えていた。
もっとも彼の上司は別の意図を持つようではあるが、まあそれはいいとして。
有事を考慮し事前に全世帯の概要に目を通す、それが内務省・統合情報管理局・要事案部・駐在調整官、藤原信也が
着任してより一ヶ月の間に取り組んでいた事だった。
総世帯数六千弱。誰が誰と繋がりどのように作用するのか。
長い間禁忌とされてきたカナメにおける有機的ヒューマンネットワークの解明は始まったばかりだ。
地道で気の長い作業ではある。本局の机上では当然計る事など出来はしない。
当然フィールドワークは必須。彼に課せられた任務の一つでもある。
まあ気楽にやるべさ、と呑気に構えている藤原ではあるが、いくつか気になる点が浮上する。その中の一つに柊の名があった。

「誰が住んでいるのかな?お嬢さまとか居たりして」
「あー、なんか空き家らしいぜ」

えー、もったいなーい、と窓の外、通り過ぎていく大きな門を見ながら真澄は言う。
だが事実なのだ。あの屋敷は空き家なのだ。しかも藤原が調べた限りでは過去二十年を遡っても居住者の記録が存在しない。
しかし納税記録は存在する。柊の名で途絶える事無く払われ続ける固定資産税。
本局調査部でさえ納入者が掴めぬという事実は、柊の名と屋敷が、かなめ市の空白地帯である事を示していた。
誰も居らぬ筈の屋敷、固く閉ざされた鉄の門は年を経たにも関わらず錆び一つ浮かべず、その先への侵入を拒んでいた。
何かがある、と藤原は感じる。

というか何かがあり過ぎて困るのだこの町は。

道に迷うわ隣の大家は化物だわ市長相変わらず草刈りに精出すわ化物大家が毎日夕飯たかりに来るわ
馬鹿が空から降って来るわピクニック来たらなんか町動いてるわエトセトラエトセトラ。
まあいいや、ゆっくりやるべ、とすっかり馴染んで来たお父さん。何故かと言いますと。

「でもやっぱ、おうちが一番だよね、お父さん」

なんて事を愛しい娘に言われようものならたまりません。

「片寄せ合うくらいが丁度いいもんね、わたしたち」

だよねー、とフジワラ口元緩みっぱなしでございます。

「だからお父さん、車のカタログ捨てといたから」
「なんですと」

いきなりの急展開にお父さんびっくり。

「いやおめえ、いつまでもコレじゃ」
「だーめ!コレがいいの!」

この軽トラ、実は引越し用のもらい物。
本当はレンタカーで済まそうと思っていたのだが、同僚の一人がコレ使って下さいよ藤原さん、と譲ってくれたものなのだ。
使い終わったら適当なとこで売っぱらって下さいと気の良いその同僚は笑った。
あ、大丈夫ですこの型もう二台あるんで。これ布教用ですから──彼は極度の軽トラマニアだった。

「いやだってコレせめえだろ、座席も倒せねえし」
「おうちも車も、これくらいが丁度いいの」
「第一よぉ、コレ二人乗りだぜ?」
「いいじゃない二人乗りで、二人っきりの家族なんだから」

フジワラ殺すにゃ刃物は要らぬ。娘のひとことあればいい。
お父さん限界です。泣きそうです。というか泣きました。



今日の晩御飯はカレーでした。

「ごちそうさまでした」

寸胴鍋がいい仕事してくれました。

「ごっつおうさんです」

というかここの所フル稼働です。何故かといいますと。

「今日も美味しかったですよ真澄」

こいつがいるからです。

「お前の胃、どうなってんだよオイ」
「お前一人くらいは入りますよ藤原」

マジでか!とお父さんびっくり。底なし胃袋の大家さんにもすっかり馴染みました。

「真澄、片付け俺やっから、さき風呂入ってこいや」
「え?いいの?ありがとー!」

お父さんの気が変わらぬうちにたったかたったか風呂場へ駆けて行く娘。
その後ろ姿を見送った後、ちょいちょいと指で繭子を誘い、お茶の入った湯呑み片手にそのまま二人は庭先へ。
縁側に腰掛け、ずずう、ずずずう、と、しばし無言で茶をすする二人。そして。

「色々と調べておるようですね、藤原」
「仕事だからな」

再びずずう、と茶をすする二人。

「この町、一体全体なんなんだ」
「知りたいですか?」
「やっぱいいわ」
「それが良い」

三たびずずう、と茶をすする二人。

「帰り道、柊のお屋敷の前通ったんだわ」

湯飲みから口を離し藤原が呟く。

「あれ、おめえの持ちもんだよな、繭子」

導き出した結論をカナメの主に問う藤原。
とどのつまり、町の謎は全てこの存在に集約されると藤原は踏んでいた。
所有者不明物件、誰のものでもない屋敷。それはつまり、この童女の姿を模した化物のものなのだと。

「この家みたいなモンなんだろ?違うか?」

調査の過程で藤原は気付いた。現在この町には空き家が一軒しかない事に。
一ヶ月前は二軒あった。柊の屋敷ともう一軒。しかしそこは埋まった。自分達が居住したからだ。

「おめえ、この町の大家か」

藤原の言葉を受け、繭子の口が湯呑みから離れる。

「大家と言えば親も同然。そうでしょう?藤原」

相変わらずの無表情。抑揚の無い声で告げる繭子。

「ふん」

そしてまた、ずずずう、と二人が茶をすする。
軒先を見上げれば、欠けた月が夜空を照らす。青白い光に照らされる大家の顔は相変わらずの白。
町の主、常世繭子の横顔を見ながら藤原は思う。きっとこいつは町が生まれた一世紀前も、こうして佇んでいたのだろうかと。
果たしてこの存在は何を考えているのだろうかと。いや、何も考えていないのか。
それとも彼女の考えなど人間では到底窺い知る事など出来ぬのか。
だが、まあいい。と藤原は思う。
こいつは、今のところ自分たちに害為すつもりは無いらしい。少なくとも真澄に対してはその気が無いらしい。
ならば良し。それで十分。それだけで充分。それ以上は望まない。あの子もこいつに懐いている。
あの子の笑顔を構成する一片にこいつがいる限り、事を起こすつもりなど毛頭無い。
与えられた仕事はこなす。だが局長の意図など知るか。お国の事情もカナメもヴォクスホールも知るか。
あの子と二人この町で、笑っていられるならそれでいい。
それだけでいい、と藤原は思う。

「そうですか。それもまた良しですよ藤原」
「勝手に視るんじゃねえよ、このヤロウ」

ずずう。最後の一口をすする二人。

「あー、いいお風呂でしたー」

振り向けはほかほかと湯気立てるパジャマ姿の真澄の姿。

「あ、お父さんまだ片付けやってないじゃん!」
「おおう、すまんすまん」

ぷくう、と頬膨らます娘を見て藤原が微笑む。

「さて。馳走になりました。わたくしはそろそろ帰りますよ真澄、藤原」
「おう、帰れ帰れ」
「マユコさんおやすみー、またあしたー」

湯飲みを縁側に起き、すくっと立ち上がる着物童女。

「ところでお前たち。来週の土曜は空けておくように」

くるりと夜風に長い黒髪をなびかせて、しれっとのたまう童女。

「え?なにかあるのマユコさん」

繭子の小さな手にいつのまにか現れた、二通の招待状。

「なんじゃこりゃ」

藤原が目を凝らせば〈かなめ市郷土資料館プレオープンセレモニー御案内〉の文字。
ご丁寧にも自分のは藤原信也様、娘のは藤原真澄様、とそれぞれ宛名がふってある。

「馳走の礼をせねばなりませぬ。わかりましたねお前たち」

その時、藤原信也は信じられないものを見た。
人形顔の無表情、常世繭子が一瞬、微笑んだのだ。








■狼の娘・滅日の銃
■第五話/かなめ!ふしぎ!■了

■次回■第六話「時には昔の話をしようか」



[21792] 第六話/時には昔の話をしようか
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/09/18 22:10



むかしむかし。
このあたりはたくさんの山々に囲まれ、
猫のひたいほどの山あいに小さな村々が、ひっそりと身を寄せ合って、つつましやかに暮らしていました。
そんなある日、満月の晩のこと。静かな山あいにとつぜん、どーん、と大きな音がしました。
おどろいた村人たちが音のした場所にかけつけるとびっくり。
なんとそこにあったはずの山が三つも消え、かわりに大きな穴が開いていたのです。
天狗さまのしわざだ、と村人たちはおそれおののき急いで村に逃げ帰りました。
その夜からしばらく大雨の日が続き、ようやく雨の上がった七日目。
猟師のひとりがあの場所を見に行くと、なんと大穴が消えているではありませんか。
どうやら大雨のせいで山くずれが起き、流れ込んだ泥や土で埋められてしまったようです。
大穴で山が三つ消え、山くずれでまた三つ消え、それはそれは大きな平野になっていました。
これを聞いた回りの村むらから次つぎと人がうつり住み、やがて大きな町になりました。
これが、かなめの始まりと言われています。

「──らしいよ、お父さん」

受付で渡された小冊子を読みながら、真澄がくいくいと藤原の裾を引く。
開いたページに書かれた題字──かなめ民話集・かなめの大穴の話。

「そっかー、真澄えらいぞー、よくよめました」
「お父さん、バカにしてる?」
「そんな事はございませんよお嬢さま」

ぽんっ、と真澄の顔が赤くなる。

「んもうっ!んもー!もー!」

ぽかぽかと娘がお父さんを叩く。

「はははお嬢さまはしたない」

おめかしした娘が顔真っ赤にして照れ隠しの様に父を叩く姿に、周囲が微笑む。

「お嬢さまいうなー!お嬢さまいうなー!」
「はははお嬢さま痛い痛い、痛いッ!痛ッ!」

ビシッバシッと鞭のような鋭い蹴りが父の腿裏に連打される様を見て周囲ドン引き。

「おちつけ、クールだ、クールにいこう、な?真澄、なッ!」

フーッフーッと肩で息するおめかし娘をなんとか抑えお父さん冷や汗でまくり。
今日は土曜日。いま二人がどこに居るかといいますと、正式開館を明日に控えたかなめ市郷土資料館、そのプレオープンに来ております。
先週この町のヌシから渡された招待券を手に、お父さん休みにも関わらずスーツ姿、娘さんフリフリワンピでおめかしなんかしちゃって気合入ってます。
そのくせお嬢さまなどとからかいでもしましたら、照れ隠しがヒートアップしてマジ蹴り食らわせるもんですからお父さんたまりません。
なんとかなだめすかし真澄可愛いよ可愛いよ真澄とご機嫌を取りつつ、気を取り直して再び館内巡りを始めるフジワラ親子でした。

「結構人いるもんだなあ」
「そうだね、夕方なのに」
「つうか開始六時ってどうなってんだ」
「カッコいいじゃない、ナイトミュージアムっぽくて」

まあ確かに、と藤原は思い直す。こういうのもおつなもんだと。
それに中々凝った造りじゃねえか、と改めて館内を見渡す。
外観は重厚なコンクリートに覆われ、やけに窓の少ない灰色の真四角な箱、なのだが中身はどうして凝ったものだ。
それもその筈、元々この建物は商工会議所であると同時に、迎賓館的な役割も果たしていたらしい。
当時ここに案内された来賓達は外観の素っ気無さと中身のギャップにさぞや驚いた事だろう。
少々意地悪な意匠の姿を想像するも、待てよ、と藤原はそこに篭められた意図を想う。
まるでこの町のようではないかと。

「おや藤原さん。今日はお休みの所ありがとう御座いますね」

にこにこと笑みを湛え現れた痩躯の好々爺に、こちらこそお招き頂き有難うございます、と一礼する藤原。
父に併せぺこり、と頭を下げる真澄。頭を上げちらり胸元を見れば市長の記章。

「あなたが真澄さんですね?粟川と申します」
「は、はじめましてっ!藤原真澄ですっ!」

すごい!お父さん市長さんと知り合いなんだすごい!と娘から羨望の眼差しを受けお父さんちょっと鼻高々。
そうだとも娘、お父さんはこう見えて結構凄いんだ。
ヒマなんで時たま市長さんと一緒に市庁舎周辺の草むしりしたり、閑休庵の蕎麦食い仲間だったりするのは内緒だけどな!

「どうですか藤原さん、せっかくなのでご案内しますよ」

市長直々の有り難い御言葉を断れる筈も無く、一緒に館内を廻る事になった一行。
さて、何を見せてくれるのか。藤原は猛る胸を押し殺す。




狼の娘・滅日の銃
第六話 - 時には昔の話をしようか -




地上三階地下一階の建物は、敷地面積だけでも市庁舎と並ぶほどの規模があり結構広い。
明日正式に開館するかなめ市郷土資料館は、その名の通り町の歴史やゆかりのある品々を一同に集め展示する目的で設立された。
しかしそれだけに留まらず、この地に伝承される民話の数々や映像記録も保管し、それらを公開するアーカイブ的要素も併せ持つようだ。
また謎の多い地形に関する考察や現在までの研究成果の公開といったマニアックなものから、
子供も楽しめるように趣向を凝らした常設展示など、どちらかと言えば博物館的な趣が強い。

「そういえば粟川さん。確か以前は学者さんで」
「はい。考古学と民俗学を少々かじっておりました」

なるほど、と藤原は思う。ならばこの充実ぶりも頷ける。しかし少々どころではないだろう。
粟川礼次郎といえば、当時その名を轟かした新進気鋭にして異端の考古学者だ。
特にまつろわぬ民と各地の伝承、そして神話を結びつけた独自の解釈は、各地の怪しげな風習や魑魅魍魎の類にまで手を伸ばし、
時の学会でも問題視され、一部からは妖怪ハンターなどと揶揄されていたらしい。
そんな彼がカナメに目を付けたのも当然の流れと言える。

「まあ市長なんて二の次でして、こっちがライフワークみたいなものですかねえ」

ここはいわゆる民俗学最後の秘境ですからね、と粟川は笑う。

「秘境ですか」
「ええ。宝庫といっても良いですねえ」

粟川は元々民俗学専攻だった。そして民話にも周圏論が適用されると考えていた。
これは民俗学の祖と言われる柳田國男が唱えた、有名な方言周圏論に民話を当てはめたものだ。
方言周圏論とは、中央から生まれた言葉が同心円状に地方へ伝播するという説である。
水面に石を落した時に広がる波紋のように、中央から広がるものは活発な人の往来により、その円は大きなものとなりうる。
各地に点在する方言に類似性が見られるのは、その時に広まった、いにしえ言葉の名残であると。
しかし地方の民話は人の交流も限られる為、その円は小さなものとなる。
中央からの伝播が大きな石だとするならば、地方の民話は細かい砂利だ。
水面に落ちる雨のように細かい波紋は輪を広げきる前に互いにぶつかり干渉し合い、様々な形に変化する。
しかも言葉ではなく物語。伝播の途中で様々な脚色がなされ、バリエーションも増えていく。
だが核となる部分が必ずある。河童しかり巨人伝承しかり天変地異しかり。
粟川は考えた。各地に残る類似性のある伝承を結べばその起点が解るのではないかと。
実際その通りだった。近隣は当然として、離れていても交流の盛んな土地同士ならば類似性を見る事が出来た。そこには必ず人と人との交流がある。
例え別の場所で起きた出来事だとしても、あたかもその場所で起きたかのような既成事実が作られている事例もあった。しかし。

「どういう訳かこの地に伝わる話というのは、他と全く類似性が見られんのですわ」

困ったような素振りを見せながら、どこか嬉しそうに笑う粟川。
ここは石を落しても波紋が起きぬようだと。かなめで生まれた伝承は何処にも伝わらず、ここにだけに留まったのだと。
それはまるで、石は水面には落ちず、穴の中に消えたようだと。

「さきほど真澄さんが読まれていた、かなめの大穴の話がまさにそれでして」

失礼、可愛い声が聞こえたのでつい聞き耳を立ててしまいまして、と好々爺が笑う。

「謎を解こうと意気込んでいるうちに、なんか解らんうちにこうなりまして」

実際この地は、特異なフォークロワの宝庫だった。しかもそれは、他と類似性が一切見られなかった。
伝承の起点には必ず事実が存在すると考えた粟川でさえ、当初はこれら話の真贋を疑ったものだ。
それだけこの地方に残る伝承の数々は特異と言えた。
曰く、天高く昇る金色の虹の話。
曰く、空から降りてきた黒い童の話。
曰く、一夜にして消えた軍勢の話。
曰く──かなめの大穴の話。

「しかし結局、良く解らなかったというのが顛末でして」

案内する粟川の足が不意に止まる。
見ればそこには数年前行われた地質調査の模様を記録した写真とジオラマ。壁掛けのモニターには再現CGがエンドレスで流れている。

「色々と諸説はあるのですけどね」

地震による崩壊説、森林伐採による山崩れ説、そして隕石説。それら諸説を仮想したシミュレーションCG。
だがそれらは、かなめ市という場所のある広い平地を作り出す事は無かった。

「以前、比較的大規模な地質調査が行われたんですがね」

私も立ち会ったのですが、と粟川は当時を思い出しながら言う。
その際判明したのが、この町の地層は自然堆積で出来たものではなく、明らかに崩落の痕跡が認められた事。
しかし時期は不思議な事に測定不明、あと極少量ではあるがこの地域ではまず見られない種類の鉱物類が含まれていた事。
但しこれは隕鉄では無い事──

「──つまり、謎は余計深まってしまったという事ですわ」

話し終えた粟川の片手には、先ほど真澄が読んだものと同じ小冊子。
細い指で開かれたページには子供向けのイラストと共に〈かなめの、ふしぎ!〉と書かれた章題と、今まさに彼が述べた説明文がそのまま載っていた。

「ふしぎだね、お父さん」
「んだなぁ」

真澄の頭を撫でながら藤原は思う。人の叡智なんざ所詮この程度なのだと。
禁忌の地であるカナメの調査が許されたのは、何も解らぬと端から解っていたからだろうと。
所詮ヒトは獣だ。その獣が二本の足で立ち上がり、二本の腕で火を灯し、地の上を我が物顔で闊歩する。
支配者を自称し何もかもが怖くなくなった振りをしても、その本性は変わらない。
だがヒトには他の獣と違い一つだけ大きな武器がある。想像力という名の武器が。
いま目の前で笑うこの老人は、恐らく何かに気付いてしまったのだろう、と藤原は確信する。
ゆえに選ばれてしまったのだ。だから取り込まれてしまったのだ──この町に。

「そうそう、不思議と言えばね真澄さん」

ここにはもっと不思議なものがあるんですよ、と優しく微笑む好々爺。

「え?なになに?なんですか市長さん」

どうぞこちらへ。彼が二人を手招く。
一階へと降り、導かれるまま進む先に閉じられた扉。関係者立ち入り禁止と書かれた札をめくり、鍵を挿し扉を開ける市長。
その先に地下へと降りる階段があった。どうぞ、さあどうぞ。粟川礼次郎が藤原親子を招く。

「常世さんから頼まれましてね。今回は特別という事で」
「え?市長さん、マユコさん知ってるんですか?」
「ええ、良く存じておりますよ」

笑う老人の顔は、冥府の門番のようでもあった。



パチン、パチンとスイッチが入る。
暗い部屋に次々と灯されて行くスポットライトは、その下に存在するであろう何かを照らし出し、その全容を浮かび上がらせた。

「すご、い」

真澄が絶句する。

「こりゃ、すげえ」

藤原も思わず声を出す。

「これが、要市縮尺模型図といわれるものです」

かなめ市が始まった一世紀前に作られたものですよ、と粟川が微笑む。

「どう思います?」
「すごく」
「おおきいです」

それは名の通り模型だった。しかし一般で言われる模型とは規模が違った。
広大な地下一階のフロア、その一面を使い切り敷き詰められた、巨大な町のミニチュアだった。

「作りこみが半端じゃ無いですね、これは」

藤原が驚くのも無理は無い。
今から一世紀前に作られたというこの模型は、その大きさとは対照的にとても精緻に作られており、
現存する市庁舎、市役所前駅、そして当時は商工会議所だった現在の郷土資料館すらほぼ完璧に再現されている。
元々古い町並みのせいだろうか、百年を経た今見ても、かなめ市に住む者ならば、
ここは自分の町だ、と一目見ただけで解かるほど微に入り細に入り作りこまれており、
しかも大変保存状態が良く、これだけの年月を経た今も劣化を感じさせない。

「あの、触ってみてもいいですか?」
「どうぞ」

模型を壊さぬように、そっと模型図の端に触れる真澄。
すぐに彼女の指に伝わるのは硬さ、やがて、ほのかに上気した肌の熱さえ奪うような冷たさ。

「うそ、これ──石?」
「そうですよ。これが一世紀を経ても劣化しない大きな理由です」

凄い、と感嘆する真澄。
この巨大かつ精密な模型の材質は石。その上から顔料で彩色が施されているらしい。しかも、と粟川は続ける。

「これ、削り出しなんですよ」

彼は言う、これはたった一つの石を削り作られたものだと。

「粟川さん。そのような事が果たして」
「可能なんでしょうねえ。こうして現物が眼の前にある以上」
「誰が作ったんですか?市長さん」
「製作者は解かっていません、ただ、これが出来た経緯は伝わっておりますがね」

市長が語る経緯とはこうだ。
百年前、商工会議所が作られる際のこと。当時としては珍しく地下一階に貯蔵倉庫を組み入れた設計ではあったが、
基礎工事中大きな問題に突き当たる。事前調査不測の為か、突如硬い岩盤に当たってしまったのだ。
今でこそ地盤調査が確立されてはいるが、この頃はまだ緩く、生じた問題に対し、工期を延ばしてでも何とかしてこの岩盤を削るか、
工事を取りやめて移転するか、もしくは設計を見直し地階を無くすか、これら三つのの瀬戸際に立たされた。
ここまではまあ、良くある話なのではあるが。

「この後の展開が面白いんですよ」

選択を迫られる最中、或る人物がその岩盤を見させて欲しい、と建設現場を訪れる。
その人物曰く、この問題を解決する手段が自分ならば見つけられるかも知れないとの事。
工事の無い夜、一晩きりならばと立ち入りを許し、翌日作業員が現場を訪れたところ──

「嘘みたいな話でしょう?そこにコレがあったそうです」

件の人物が一体何者であったのか、そして何処へ消えたのかは定かではない。
しかしあまりにも見事な出来栄えに、関係者はこれを残す事に決め、
以来この建物の地下に存在する奇跡の模型図は訪れる人々を驚嘆させ続けているという。

「確かに、にわかには信じ難い話ですね」
「誰が何の為にこんなもの作ったのか解かりませんがね。
 まあつまり掘削でも移転でも設計変更でもない第四の選択が取られたと言う訳です。
 ただ出自があまりにも怪しすぎて、あまりコレおおっぴらに出来ないんですよ。惜しいですがね」

賢明ですね、と藤原は頷く。
確かにこれ程の物ならば良い観光資源になるのだろうが、一方で騒ぎの種となるのは必至。
大きなものを得たとしても、それ以上に失うものが多いだろう。

「それでも、もったいないですね」

再び足元に拡がる模型図へと視線を落し、藤原がその細部を凝視する。確かにこれは凄い。
素晴らしい、というよりもまさしく凄いという表現が的確だろう。
その精密さ、例えば建物の窓枠、商店の軒先にならぶ品々の数々、町の中心を走る市電の細部に至るまでほぼ完璧に作りこまれている。
機械技術の発達した今ならば可能──無理だ、と藤原は思う。
ここまで精緻に、しかもたった一つの岩から削り出して作ることなど、ましてや一晩でなど。

「しかし本当に、凄いものです」

藤原はそれに触れる、が、言葉とは裏腹に少々拍子抜けした感が否めない。
確かにこれは凄い物だ、だがそれだけだ。これはただの石だ。何の変哲も無いただの石だ。
脈動する町の基点、言うなれば心臓とも言える場所、にも関わらずこれだけかと──しかし。

「粟川さん、あの窓は一体?」

藤原はふと、ある一点に気付き模型から目を離し、ホールの天井を注視する。
ライトの明かりで最初は気付かなかったのだが、目を凝らせば天井の中央に、鎧戸で閉じられた大きな天窓が見えたからだ。

「ああ、あれですか。月見窓ですね」
「ツキミマド?風流ですね。何故そのようなものが」

説明するよりご覧いただくほうが早いですね、と壁際に寄る粟川。
ライトのスイッチが並ぶ横、小さな扉を開き中からハンドルを引き出し、ぐるぐると回す。

「今宵は中潮、つまり満月の一日前なので大丈夫かと思いますが」

ハンドルの回転と連動しながら、きいきいと軽い金属音を立て開かれて行く鎧戸。

「お二人とも、良く眼を凝らしてご覧くださいね」

やがて金属音が止まり、一拍置いてパチン、パチンとスイッチが降ろされる。
消えて行くスポットライト、やがてホールが暗闇に包まれる──と思われたが。

「この建物は地上三階地下一階。ですが中心部に風通し用に穴が開いてまして、その穴は地下まで通じあの天窓に行き当たります。
 何故こんな無駄な作りをしているかと言いますと」

たぶん、これのせいなのでしょうね、と粟川が囁く。
露出した円形の天窓から注ぎ込まれる月の光。おそらく丸く分厚いガラスはレンズの役目を果たしているのだろう。
拡散する青白い光は、隅から隅まで満遍なく模型図を照らし出す。

「すご、い」

今度こそ心の底から感嘆の声を上げる藤原。真澄は声を上げる事すら忘れその光景にただ魅入る。
二人の視界に映るもの、月明かりに照らされた箱庭の町、建物の窓という窓から漏れる光──夜の町が、そこにあった。

「反射、しているのですね」

眼を凝らし光の一つ一つを注視すると、その光は、建物の窓や道筋の所々、
顔料が塗られていない石の地肌剥き出しの個所から発しているのが見て取れる。

「陽光やライトにではなく、月の光だけに反応するらしいのです」

どうぞこちらへ。手招く粟川に誘われて、彼の隣に身を寄せる真澄と藤原。
そして二人は見る。自分の今まで立っていた位置からは見えなかったものが、ここからは見える。

「お父さん、これ──なんて読むの?」

くいくいと父の袖を引き娘が尋ねる。父は心ここにあらずといった風でぼそり、と呟く。

「noli ・me ・tangere」

藤原の口から漏れた言葉。一際強く輝く個所が重なり合い、光の文字が読み取れた。

「はい。どうやらこの文字はラテン語で、確か意味は」
「ノリ・メ・タンゲレ──我に触れるな、ですね」
「流石です藤原さん。まぁこれが一般には出せない大きな理由です、これはもう、あまりにも」

そう、これはあまりにも妖し過ぎる。一体これは何なのだと藤原は思う。
馳走の礼、と繭子は言った。言葉足らずの化物はこれを見せたかったのか。
恐らくこれがあいつなりに自分に対し示した一つの答えなのだろう。何を意味するのかは解らぬが。

「──きれいだね、お父さん」
「──ああ、そうだな」

傍らの真澄は今にも蕩け出しそうな顔で、その文字と光溢れる夜の町を見つめている。
藤原がそっと娘の肩を抱く。彼の手をきゅっと握る小さな手。目元を緩ませ藤原も握り返す。そして思う。
まあいいさ。そこにどんな意図が篭められていようが、今だけは仕事を忘れ、この綺麗で不思議な光景を楽しもう。この子と一緒に。それでいいさ。

「さて、そろそろ戻りませんと」

そして月見窓が閉じられる。
夜の灯が消え、再びスポットライトが照らされる。

「粟川さん、お忙しいところ有難うございました──真澄。ほら」
「あ、はい。市長さん、ありがとうございました」

ぺこりと頭を下げる娘に目を細め、どういたしましてと粟川が微笑む。

「そういえば、先ほど満月の一日前なので大丈夫、と仰られましたよね?」
「ええ、その夜だけは窓を開けないほうが良いと伝え聞いておるもので」

良くは解からぬのですが、と前置きした上で粟川は答える。

「たぶん、これ以上のものを見てしまうからじゃないですかねえ。当てられてしまうというか」

ほら、月の光は色々と狂わせてしまうそうですから──かなめ市長、粟川礼次郎が笑う。

「あれ?これ漢字だ」

ホールの隅、置かれた立て看板を見て真澄が気付く。
記された文字──要市縮尺模型図。

「町の名前、昔はひらがなじゃなかったんですね、市長さん」
「いえ、昔からかなめ市は平仮名表記ですが、はてさて」

曖昧な笑みを浮かべる粟川。そ知らぬフリをしているが、その意味を解らぬ筈ないだろうと藤原は苦笑する。
そして今一度、模型図の全景を脳裏に刻む。おおまかな道筋は現在とあまり変らぬようだ。ならば、と藤原は三つのイメージを重ねる。
最初見た町の全景、一週間前見た町の全景、そして模型図。アウトラインは綺麗に一致。それはこの模型図の正確さを物語る。
しかし中身はどうか。確かにずれている。しかしひと月前は右、先週は左。この模型図は丁度中間に位置していた。基準値だと藤原は察する。
そして基点は──基点?待てこれは。

「──お父さん?」

真澄の声で我に返る藤原。

「では戻りましょうか」

粟川に促され地下ホールを後にする二人。
しかし藤原は気付いた。市長が言う通りの伝承ならば、それが本当に正しいのならば。
あの模型図──ありえないものがある。



煌々と中潮の月が夜の町を照らす。
路地に伸びていく二人の影。手を繋ぐ父と娘。さあ、おうちへかえろう。

「すごかったね」
「ああ、スゴかったなあ」

えらいもん見せられてお父さんと娘、少し顔が上気しております。
郷土資料館自体もかなり良かったのですが、その後見せられたとんでもないブツのおかげでそれ以外ぶっとんでしまった二人。
娘さんがどこか夢見ごこちなのはそのせいです。

「満月だと何が見れるのかな?」
「さあな。エレクトリカルパレードとか始まんじゃねえの?」

甲高い声で人語を発する直立歩行型ドブネズミとか恋人のビッチマウスとか水兵のコスプレしたダミ声アヒルとか
毒殺されても蘇るスノーホワイトソンビクイーンと従僕のセブンミュータントとか。
そんな奴等が発光しながらイネガア、ワルイゴハイネガアと口から唾を吐き叫びつつ目抜き通りを狂ったように疾走する。
まさに子供達を恐怖のズンドコに叩き落すフリークスランド。お得なフリーパスのお値段はオマエノ命ダ。

「──という感じじゃねえかな」
「なにそれこわい」

ぶるぶると首を振り満月の夜だけはあの建物に近付かないようにしよう、と固く誓う真澄。
その様子を見て安心する藤原。あれは不思議のままにしておいた方が良いのだろうと彼は思う。

──ほら、月の光は色々と狂わせてしまうそうですから。

その言葉を発した好々爺の瞳に宿るものは、狂気の光などではなく、達観のともしびだった。
彼が何を見たのか、何を知ってしまったのか、そして何を理解したのか。藤原には窺い知る事が出来ない。
知ろうとも思わない。なぜなら彼の達観とは、あきらめとも言えるからだ。

──藤原さん。わたくし隠すつもりなど御座いませんから。

帰り際、藤原の耳元で囁かれた市長の言葉を思い出す。
隠すつもりなど御座いません。常世の君があなた方に見せろと言われるのならば従うまで。
見なさい藤原さん。思う存分御覧なさい。この町の秘密を。この町に眠るもう一つの要市を。魔道の源流カナメの全てを。
止める事など出来ましょうか。どうぞお好きなように。この町に住むという事は、そういう事なのですからね。

「なあ、真澄」
「なに?お父さん」
「この町、好きか?」
「好きだよ。お父さんと暮らす町だもん」

頬を染めて真澄が笑う。そっか、と藤原も笑う。
ならばもう迷わない。全てを見る、全てを知る。この子と笑って暮らす為に。この子を守り抜く為に。
この子が一人で歩くその日まで、笑い守り生き残る。その為ならばなんだってやってやる。
覚悟しろ──今の俺は無敵だぜ。




むかしむかし。
まだこの土地が深い山々に囲まれ、うっそうと繁る木々に囲まれた森だった時代のこと。
そこは魔女達が暮らす隠れ里でもありました。
魔女、と言いましても空を飛ぶわけでも人を鼠に変える訳でもありません。
多少勘が良くて明日の天気が解かったり、占いが良く当たるくらいのもので、つつましくも穏やかに暮らしておりました。
しかしある日、正真正銘本物の魔女が里に舞い降りました。
その髪は黒く、その姿は童女のようでしたが里のだれよりも長生きで、空を飛び火を吐き雷を落とし、人を鼠に、鼠を人に変える事すら出来ました。
つまりこの黒髪の魔女に出来ない事などなかったのです。
最初は誰も彼女のことを恐れていましたが、彼女が持つとてつもない力に、やがて多くの人々がひかれて行きました。
ああ、自分達もあんな力があったらなあ、とうらやましがりました。
そんなある日、月の消えた新月の夜の事でした。黒髪の魔女は人々を集め、こう聞きました。

おまえたちも、わたしのようになりたいかい?──なりたい!と人々は言いました。
かわりに、なにかをなくすかもしれないよ?──よろこんで!と皆は答えました。

ならば、はこをあけるよ。
黒髪の魔女が言うが早いかどーん、と大きな音がして地面がゆらゆらと揺れ、
彼女の足元から大きな、それはたいそう大きな岩が地を割り浮き上がります。

──あけたよ、はこをあけたよ、このふたはもらっていくよ。

その岩こそこの地に眠る要岩(キー・ストーン)と呼ばれるもので、地獄へと続く大穴を塞ぐふただったのです。
岩が消え現れた大穴からたくさんの黒い手がわき出し、あぜんとする人々を捕まえ次々と穴の中へとひきずりこんで行きます。
助けて、助けてと泣き叫ぶ声がひびき渡ります。けれど逃げるのに精一杯で助ける事などできません、
みんなその黒い手から逃げようとわれ先に逃げ出しますが一人また一人と捕まり次から次へと穴の中へと呑み込まれて行くではありませんか。
その光景はまるで、地獄が現れたかのようでした。
どれくらいたったことでしょう。
夜が明け、あたりが白くなった頃、かろうじて生きのびた人たちが見たものは、すっかり荒れ果てた森と、
えぐられあとかたもなく消えてしまった山々と、そして、あの大穴をふさぐように積み重ねられた、しかばねの山でした。
やがて生き残った人たちは気づきます。自分たちに、黒い髪の魔女のような大きな力が宿ったことに。
けれどもう誰も、それを喜ぶものはいません。

あの魔女が言ったとおりでした。

彼らは大きな力を手に入れる代わりに家族を、友人を、仲間たちを亡くし、
そしてかつての、つつましくも穏やかな生活さえ失くしてしまったのです。  
そして彼らは誓いました。
この力はもう二度とこんな事が起きないように、あの要岩が消えてしまった大穴、地獄の入り口をふさぎ、守り続けるためだけに使おうと。
もう誰ひとり逃げるものはいません。いつかあの岩を取り返し、この大きな穴をふさぐその日まで、みんなでこの土地を守り続けようと固く誓ったのです。
あの岩と、黒い魔女がどこへ消えたのかは定かではありません。
はるか東の方角へ飛んでいったとも言われています。
それから後、この場所は、箱を開けて生まれた大穴という意味をこめてボックス・ホールと呼ばれ──

「──やがてその名は、ヴォクスホールになったと言われています」

おしまい、と彼女は微笑む。子供に寝物語を読み聞かせる母親のように、優しく。
果てさえ見えぬ暗闇の中、パタン、と本を閉じる音が響いた。










■狼の娘・滅日の銃
■第六話/時には昔の話をしようか■了

■次回■第七話「ハー・マジェスティ」



[21792] 第七話/ハー・マジェスティ
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/09/21 22:01


ヴォクスホール王国。
正式名称ハー・マジェスティ・オブ・ヴォクスホール・キングダム。
その名の通りハー・マジェスティ、つまり女王が統治する国家である。
一般にはあまり知名度の無いヨーロッパの小国ではある。
しかし王位を女系が継いだ場合、王朝が刷新されるという考えが一般的な為に無視されがちだが、
血脈の古さという点ではヨーロッパに於いて最源流に近い王家であるとも言える。
主産業は観光と農業。立憲君主制国家ではあるが統治者が君主大権を保持しているという点ではリヒテンシュタインに近い。
だが一般に知名度は低いと言っても、かなめ市では別だ。
何故ならこのヴォクスホールとかなめ市は姉妹都市協定を結んでおり、比較的交流が盛んであるからだ。
しかし小国とは言え相手は国家、かなめ市は地方の一自治区に過ぎない。果たしてこれは成立しうるのか。
などと言っても実際成立しているのだからしょうがない。
実際かなめ市とは共通項が多い。一つ面積、共にほぼ160平方キロメートル。一つ人口、共に3万人弱。
一つ立地、山に囲まれたかなめ市と山間地に位置する内陸国ヴォクスホールは共に海に面していない。
他には景観が牧歌的でどことなく似ていたり、街中に市電が走ってたり、飯が結構旨かったり、
財政的にそんなに恵まれてないにも関わらず意外となんとかなってたり、
などなど、これではお互いにシンパシーを感じてしまっても仕方ない、のかもしれない。

「こちらでしたか」

彼女が探す主(あるじ)はテラスで一人、陽光の下、ひと時のティータイムに興じていた。

「探しましたよ、女王」

言いながらも彼女は主の横顔にしばし見蕩れる。
きめ細やかな白い肌。皺一つ見えぬ目尻。午後の日差しが柔らかなその髪に注がれる。
透き通るようなプラチナブロンド。しかし主は彼女の言葉に答える素振りすら見せず遠方の山々をただ眺める。
再び問い掛けようとするも、ふとテーブルの上に視線が移る。その机上に置かれたもの。
ティーカップ。ポット。砂糖入れ。チェス盤と駒、そして一際目に付いたのが便箋。

封切られ置かれたカードの文字──かなめ市郷土資料館・開館五周年記念式典ご案内。

なるほど、東か。彼女は納得する。
敬愛する偉大なる主が今眺めているであろう東の山々。きっと主はその向こう、遥か彼方の地を見ているのだろうと。
やがて彼女の主──女王、アメリア・ヴォクスホールは言葉を漏らす。

「おうどんたべたい」
「──母様!? 」

その素っ頓狂な言葉につい素に戻ってしまった彼女──エレン・ヴォクスホール第一姫。

「あらエレン?ごめんなさいね、わたしったら」

オウドンって何?って何!? と心の中湧き上がる疑問を押し止め、なんとか取り繕うエレン。

「おうどんと言うのはね、ニホンのパスタみたいなもので」
「お願いですから心の内を読まないで下さいませ母様」

ほわほわと笑うアメリアをエレンは母と呼ぶ。
しかし、端から見れば姉にしか見えぬその姿。女王はエレンが生まれた時より何も変わらない。
それ以前に老いという概念さえ寄せ付けぬその美貌。
エレンの母にして女王、アメリア・ヴォクスホールはこうも呼ばれる──常若の君と。

「行かれるのですか?カナメに」
「行きたいのは山々だけれども」

無理ね。と残念そうに溜息をつくアメリア。

「それが常世の君──コクーンとの盟約だもの」

他の地は侵さず──そうでしょ?女王の言葉に頷くエレン。
古来より侵略そして紛争が絶えないこの地、にも関わらず数多の大国に蹂躙されず併合すら許さず
頑なに独立とその血脈を守り抜いてきた奇跡の小国、ヴォクスホール。しかし。

蹂躙?併合?とんでもない!

誰が好んで自国よりも遥かに強大な力を持つ国家に手など出すものか。
その気になれば周辺の国々など一夜で灰燼に帰す事も可能、それだけの力をこの国は持っている。
小国などはで無い、大国なのだ。世界中の魔を統べる魔道大国、それがヴォクスホールの真なる姿。
忌々しくも強大無比な魔道師団を有する絶対君主国家。
ハー・マジェスティ・オブ・ヴォクスホール・キングダム、それは、こうも呼ばれている。
マジェスティック・インペリアル・オブ・ヴォクスホール──魔道帝国ヴォクスホール、と。

「それで?わたしを探していたようだけど」
「恐れながら、実施要綱に御目通し願えればと」

エレンの差し出した冊子。その表紙に書かれた文字──Re-Build of " Ex - Inferis "

「あらあら、もうこんな所まで。仕事が速いわね、エレン」

女王は凛と佇む我が娘を見て目を細める。

「ラインの正常化は王国の悲願でございますから」

しかし、細めた瞳から漏れる眼光は、冷たい鋼のようだった。





狼の娘・滅日の銃
第七話 - ハー・マジェスティ -




魔道──それは魔法とは異なる。
本来、人の御せぬ巨大な力、これを魔と定義する。
それは流れであり巨大なシステムの如く循環する。
磁力線が南と北の二極を結ぶように、この力の循環は西と東を結ぶ一つのラインを形成する。
西のヴォクスホール東のカナメ。魔道とはこのラインを示す言葉である。
元々このラインは西から発し東へ落ちるという流れであった。
故にヴォクスホールは魔道の源流地としてこの力を取り入れ利用する魔道技術が隆盛を極め、魔道帝国として世界を席巻する。
歴史の宵闇から薄明を渡り君臨する夜の帝国として。

その中枢はライン制御の要石(キー・ストーン)、魔道の心臓──エクス・インフェリス。

心臓の名が示す通りエクス・インフェリスとは、ラインが絶え間なく流れるべく設置された制御器である。
何故このような物が必要なのか、それはラインの特性に起因している。
魔道、つまりラインに流れる力の流量は本来一定ではない。時にたおやかに、時に絶え、そして時に激流の如く押し流す。
そのままでは人が御する事が難しい暴れ川なのだ。
そこでラインの源泉であるホールと呼ばれる場所にエクス・インフェリスを設置し、
流量を制御する事で力を効率的かつ安定して供給する事が初めて可能となる。
ポンプにして循環器にして制御器であるエクス・インフェリスは文字通りヴォクスホールの心臓であった。
一方、ラインの落つる地カナメは力が呑まれ消え行く場所として禁忌の地とされ、長きに渡り人が寄る事を許さず、歴史からも抹殺され続けた。

「全てはあの日から、ですものね」
「はい。女王」

それがある日を境に反転する。
東から西へ、カナメからヴォクスホールへ。後にリバーサル・シフトと名付けられた逆転現象。
主たる原因はエクス・インフェリスの消失、それにより制御を失ったラインが暴走を起こし氾濫、結果、逆転現象を引き起こす。
これによる被害は甚大で王国臣民の半数がホールに呑み込まれ犠牲に──と王国公式文書には記されている。
消失の原因は不明。だが時を同じくして王国より消えた者がいた。
名をコクーン。誰よりも魔道を熟知し黒髪の魔女と恐れられ、当時王国でエクス・インフェリスの制御を取り仕切っていた審神者。

審神者──サニワとは祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者を指す。

遠くカナメの地より来訪し魔道の存在をこの地に伝え、その扱い方を王国に教授したとされる伝説の客人。
コクーンの名は彼女がカナメで用いた名、繭(コクーン)に由来する。彼女が王国にもたらした恩恵は計り知れない。
しかし公式文書とは別に存在する帝国機密調査文書にはこうも記されている。

曰く、魔道の心臓は、コクーンにより奪われた可能性が強い──と。

しかし、皮肉にもこのリバーサル・シフトは損害を補って余りある恩恵を王国に与える事となる。
原因は不明だがリバーサル・シフト以降、エクス・インフェリスを失ったにも関わらずラインは突如その性質を変え、
制御を行う以前よりも遥かに安定化を遂げ、以来今日に至るまでその力をヴォクスホールに注ぎ込んでいる。

「何故コクーンはあのような事を致したのでしょうか」
「警告──なのかもしれないわね」

魔道の帝国よ、借り物の力で驕(おご)る事なかれ。
黒髪の魔女コクーンは、この言葉を伝える為に魔道の心臓をヴォクスホールより奪い、遠きかなめの地に隠し、
故意にリバーサル・シフトを引き起こしたのではないか。アメリアはそう言っているのろう、とエレンは理解する。
遥か昔、ヴォクスホールはどこにでもある一小国に過ぎなかった。
常に周辺よりの脅威に晒され続け、強国からは子羊のねぐらと揶揄され、いつ地図より消え去ったとしてもおかしくは無かった。
そこに現れたのがコクーンだ。童女の姿を纏い艶やかな長い黒髪をなびかせて王国に舞い降りた御使いの如きその姿。
自分を旅人だと言い、また審神者であるとも告げた彼女を王国は暖かく迎え入れ交流を結ぶ。
だが或る日、突如隣国が国境を越え侵攻を始める。為す術も無く王都を包囲されヴォクスホールは落日を迎えると思われた。
しかしその時、取り囲む大軍の前に黒髪の魔女が現れ、彼女は告げる。

──この地を侵すなかれ、この地に触れる無かれ、これは御言葉である。

ノリ・メ・タンゲレ──汝触れるなかれ。
この言葉を放った瞬間、突如大軍の足元に地獄へと続くかのような大穴が現れ、一瞬でその全てを飲み込む。
そして彼女はまるで何事も無かったかのように振り返り、にこやかに微笑み、その童女のような愛らしい口で、唖然とする王国の民にこう告げた。

──わたしはおなかがすきました。今日のごはんは何ですか?

それが或る日に起きた出来事であり、王国の終わりにして、魔道帝国の始まりとなる。
以来子羊のねぐらは狼の巣へと変貌し、誰もこの地を侵す事は無くなった。
コクーンの手により生み出された大穴──ホールに据えられた魔道の心臓、エクス・インフェリスを中枢として発展する数々の魔道技術。
だがそれを用い。かつて隣国が行ったように他の地を侵す事は決して無かった。それが黒き魔女との盟約だったからだ。
しかし他の地を侵さぬ代わりに、その勢力は近隣のみならず遠方に至るまで及ぶ事となる。
やがてその力を恐れ、また渇望する大国の度重なる侵攻を受けるも、強力無比なる魔道師団によって都度駆逐され、
完膚無きまでに打ちのめし、屈服させるその姿勢は世界の隅々まで浸透する。
地は侵さず、しかして君臨する。君臨すれど統治せず、されど魔道を支配する。その姿は今日に至るまで揺ぎ無い、しかし。

「驕り──確かに」

所詮それは借り物の力。ラインの威をかさに着た傲慢な行為に過ぎない。
故に彼女は警告する。お前達の心臓は我が手にある。夢々忘れるなかれ、驕るなかれ、と。

「でもね、エレン」

薄く朱に染まる唇を微かに歪ませ、アメリアは娘に告げる。

「あの存在の御言葉はね、全てを鵜呑みにしてはいけないの。解る?エレン」

その口ぶりはどこか楽しそうでもあった。



このままで果たしてよいのでしょうか。

かつてエレンは母にして女王であるアメリア・ヴォクスホールにそう問い掛けた。
未だ帝国は仮初とは言え繁栄を謳歌している。
リバーサル・シフト以降、確かにラインは驚くべき安定を遂げた。故に誰もがあの一件を無き事にしようとしていた。
しかし見過ごせない点が二つあった。それはつまり、ラインがいつ何時かつてのような姿に戻るとも知れない、という事実。
それにも増して危惧されるのはラインの源流がカナメに移ってしまった事だ。
もし帝国に仇名す者によってこの地が抑えられたとしたら。それは魔道帝国の崩壊を意味する。

捨て置きなさい、とアメリアは答える。

幸いにしてあの消失が当事者以外に漏れた形跡は無い。
故に今までのようにコクーンの気に触れぬよう、したたかにやり過ごすのがこの繁栄を止めぬ最良の手段。
しかし、魔道の心臓奪還の為、魔道師団総力をもってカナメに攻め込み、コクーンに挑むとしたらどうなるのか。
負けはせぬだろう、だが到底勝てはしないだろう。良くて相打ち。
例え膨大な犠牲を払い取り返せたとしても、疲弊し切った我らに対し、
勝機とばかり未だ覇権を狙う者達より攻勢を受ければ、あえなく帝国は落ちる。
それは帝国のみならずラインの絶大な力を得るために数多くの血が流れる切っ掛けに為りかねない。
王国と帝国と世界の安寧の為には、あの黒髪の魔女が沈黙を守る限りこのままが良いのです、きっとコクーンも同じ想いでしょう、と。
エレンもその想いは良く理解していた。故に彼女は母に一つの進言を行う。
女王、いまひとつ手段がございます、それは──エクス・インフェリスのリビルド(再生)。

「もう準備起動まで行けそうなのね」

冊子に目を通しながら、対面に座る娘に問うアメリア。

「当時と違い制御プログラムも組み込んでおりますので、近日中に稼動は出来るかと」

そう、それは良かったわね、と女王は微笑む。

「魔道と科学の融合、楽しみねエレン」
「私は指揮を執り行ったに過ぎません。寝食を忘れ取り組んでくれた者達のおかげです」

ヴォクスホール王国継承権第一位、エレナ・ヴォクスホールの脳裏に浮かぶ者達の顔。彼らは皆、エレンを慕っていた。
王国と帝国、何よりも臣民を愛する姫君だからこそ、老若男女を問わず彼女に尽き従う忠実な臣下だった。
だからこそ彼女は、そのような彼らを心底愛していた。

「そうね。成功の暁には労をねぎらい、存分に礼を与えねば」

愛しそうにアメリアが娘の頬を撫でる。柔らかい母の手に、心地良さそうに目を細めるエレン。
しかしその光景は、二人を知らぬ者達から見れば仲の良い姉妹にしか見えない。

「ねえエレン。あなたはいくつになったのかしら」
「十七でございます、母様」
「そう。ならばそろそろ考えてくれないかしら?」

王位を継ぐ事を。母の言葉に笑みを消し身を固める娘。

「──お戯れが過ぎます。女王」

継承権とは形式だけのものですから、と女王に告げるエレン。

「私は女王の執務代行者として作られたのですから」

その言葉を受け、寂しげな素振りを見せる母にエレンの胸が痛む。
しかしこればかりは仕方がないのだと思い直す。取り違えてはいけないと。
自分は女王になる為に生まれたのではない。女王の仕事を行う為に作られたのだ。ハー・マジェスティの為に。何故ならば。

ヴォクスホール王国の長き歴史に刻まれた女王の名はただ一つ──アメリア。

その名は受け継がれたものでは無い。唯一の名だ。
目の前で悠然と佇む女性こそが唯一の女王なのだ。
未だ老いを知らぬ常若の君。魔の中枢に座す唯一の存在。The One。
魔道帝国ヴォクスホール首魁アメリア・ヴォクスホールとは、そういうものなのだ。

「ならばエレン。わたくしの愛しい娘。貴女は──何を望むの?」
「この身朽ち果て消えるまで、女王のお傍に」
「わたしくしに忠実な人形など必要無くってよ?エレン」

その言葉を聞き、エレンは苦笑する。この愛しくも恐ろしいお方は何でもお見通しなのだと。

「もしたった一つだけ我が侭が許されるのならば」

旅がしとう御座います、と娘は微笑む。

「なぁんだ、わたしと同じじゃない。やっぱり娘ね」

ふふっ、と楽しげに笑う母の姿を見てエレンの顔も再びほころぶ。
ヴォクスホール女王はこの地より動く事が出来ない。それがライン管理者として彼女に課せられた使命なのだから。
もし女王が動けば世界は落ちる。血と混乱と殺戮と破滅、その只中に。
だから動かぬのだ、とエレンは信じている。否、そうであって欲しいと彼女は願う。

「いいわエレン。起動成功の暁には貴女の労もねぎらいましょう」
「いいえ女王。叶わぬ望みです。お聞き流し下さいませ」
「いいのよ。わたくしの代わりに世界を見てきて。ね?」

母は微笑む。

「はい。母様の代わりに」

娘も微笑む。

「成功するといいわね」
「ええ。全てはそれからです」

テラスに柔らかな風が吹く。
遠く山の向こうから丘を越え谷を抜け麦畑の稲穂を揺らし、王宮に辿り付いたその風は二人の金髪を揺らす。
午後の静かなテラスで微笑む母と娘。

「ところで母様、気になってはいたのですが」

不意にエレンは、机上に置かれたままの手付かずのチェス盤に目を向けた。

「ああ、これ?ちょっとしたお遊びよ」

盤上の駒は定石に並べられてはいない。中央に黒のクィーン、その周りを白黒問わず取り囲む全ての駒。
これは一体何を意味するのかとしばしエレンは熟考する。しかし。

「ねえエレン。貴女ならどう攻める?」

アメリアの問いにエレンは気付く。
黒のクィーンは──黒髪の魔女、コクーン。
ならば周りを取り囲む駒は──魔道師団。
そして盤は──カナメ。
一見すれば駒に取り囲まれた黒のクィーンは絶体絶命。
どう進めようとも勝ち目などありえない。故にそれは至極簡単な例題にも思えた。
しかし、にこにこと笑うアメリアの表情に含みを感じ、改めて全体を見る。そして。

「母様、これでは攻められません」

言うが早いか盤の両端を掴み、勢い良く折りたたむ。

「こうなっては御仕舞いです、女王」

机上にちらばり倒れ伏す駒達を見て笑うアメリア。

「よくできました」

この答えに辿り付いた者は未だかつて誰も居なかった。それを一目見て解くとは。
この子は今まで創り上げてきた数多くの娘達の中でも抜きん出ている。極上だ。最高かも知れない。
満面の笑みで嬉しそうに頷く女王。その顔の下で彼女は思う──これならば、と。

「それでは失礼致します、女王」

席を立ち一礼し、テラスを去る娘の後ろ姿を微笑み絶やさぬまま見送るアメリア。

「本当に良く出来た子。母は嬉しいですよ」

さわさわと午後の風がテラスを抜ける。窓際のカーテンがゆらゆらと揺れて波打つ。

「あとは、仕上げを残すのみ」

そして再び、娘が持参した冊子を手に取り無機質な瞳で題字を見つめる。

「エクス・インフェリスのリビルド。成功するといいわね、エレン」

その瞬間、女王の手の中で業と燃え上がる冊子。

「まあ、無理なのだけど」

燃え尽きた灰が天空高く舞い上がる。熱風がテラスに渦を巻きカーテンを巻き上げ。

「おまえもそう思うでしょう?──〈C・E〉」

その刹那、カーテンが炎に包まれ燃え落ちる。そして現れる影ひとつ。
シルエットは少女。しかし目と口を糸で縫われ、全身に鋭い刺を生やす黒い殻を纏う人形。

「あの子は出来は良いのだけれど」

人形は何も言わない。縫い合わされた口元は微動すらしない。

「大切な事を忘れているのよね」

黒い手、と女王は囁く。
その言葉に人形の口端が微かに歪む。
──岩が消え現れた大穴からたくさんの黒い手がわき出し、あぜんとする人々を捕まえ次々と穴の中へとひきずりこんで行きます。
──助けて、助けてと泣き叫ぶ声がひびき渡ります。けれど逃げるのに精一杯で助ける事などできません。
──みんなその黒い手から逃げようとわれ先に逃げ出しますが一人また一人と捕まり次から次へと穴の中へと呑み込まれて行くではありませんか。
──その光景はまるで、地獄が現れたかのようでした。

「エレン、身を以って体に刻みなさい。その恐怖を」

それがあの子の仕上げ、と女王は微笑む。
お前が愛する者を失って後、初めてお前は完成するのだ。
お前の願いは叶えよう。旅に出るがいい。片道切符を手にカナメへと送ってやろう。
聞け、我が最高傑作エレン・ヴォクスホール。その答えを出したのならばお前は我と同じだ。
我と等しいお前がコクーンの懐で何を見るのか。我はその時が楽しみでしょうがない。嗚呼待ち遠しいぞ愛しき我。

「──とは言っても安心なさい。あなたが先だから」

こくり、と黒き人形は頷く。それが約束だと言わんばかりに。

「あなたなら満足させられるかしら?コクーンを」

縫い合わされた口元が大きく歪む。吊り上がる口の端々はまるで、三日月のように見えた。

「〈C・E〉──EATERの名に恥じぬ働きを期待しておりますよ」

その為に今まで調教して来たのですからね、と笑う女王。
そして豊満な胸元から一枚の写真を取り出し、そこに映る二人を無機質な瞳に映す。

「この斥候、良い働きをしますね。〈青〉へと引き抜いた甲斐があったというもの」

魔道第五機動師団〈青〉。通称、機動団〈青〉。秘匿名──魔道旅団。
ひと月前、〈青〉に属する手練を一人、かの地に送り込んだ。女王の密名を受けた彼は、与えられた仕事を今の所ほぼ完璧に遂行している。
そうでなくては、と女王は思う。彼もあの者と同じドリフター。相性は良い筈だ。あの者には到底敵わぬだろうが、それは構わぬ。
何故ならその目的は、対峙などでは無いのだから。

「この者の顔を良く頭に刻んでおきなさい」

女王は、その写真を黒き人形に向ける。添えられた細い指が示すのは一人の男。

「シンヤ・フジワラ」

ラインよりはぐれし者ドリフター。
恐らくその中で最強の〈より強きもの〉ですよ、とアメリアは言葉を添える。
かねてよりヴォクスホールが狙い、遂に取り込めなかった者だと。

「コクーンを喰らう前に、まずこの者をお前は喰らわねばなりません。そして」

アメリアの指が静かに動き、止まる。

「〈C・E〉──この娘はね」

彼女が示すもの。男の横にいるもう一人の娘。

「お前の直系ですよ」

女王の指先で、父親と腕を組む十七歳の娘が笑っていた。











■狼の娘・滅日の銃
■第七話/ハー・マジェスティ■了

■次回■第八話「マスミ・セブンティーン」


※おまけェ…
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/86/18a259982f626a35128dc2160a2b964b.jpg



[21792] 第八話/マスミ・セブンティーン
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/09/24 22:05




一年目は瞬く間に過ぎて。

「どうかなお父さん、似合う?」
「お、おう。そんなもんじゃね?」
「なに顔赤くしてるの?ははぁさてはお父様、娘の制服姿に欲情してますね?」
「あのな真澄。何度も言うようだが父は胸が平面ガエルにはぴくりとも動か」
「ハイッ!ハイッ!ハイッ!ハイッ!」
「痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛いッ!」

二年目は気が付いたら過ぎていて。

「藤原。お前はやってはいけぬ事をやってしまいましたね」
「え?何でおめえ怒ってんだよ、おかず一品もらっただけじゃ」
「謝って!お父さん早くマユコさんに謝って!早く!」
「藤原お前が泣いても殴るのを止めぬ藤原お前が泣いても殴るのを止めぬ藤原お前が泣いても殴るのを止めぬ藤原お前が泣」
「マウントッ!やめっ!拳ッ!離せなッ!ノブッ!鼻ッ!血ッ!ふりっ!くりっ!かゆっ!うまっ!」
「にげてー!おとうさん!にげてー!」

三年目もなんだかんだで過ぎたりして。

「まあだあまげえだあああ!ごんなオヤジにい!まだあまげえだああ!」
「ああウゼエ!泣くなベソ美!うわ抱きつくな鼻水拭うな噛むな舐めるなてめえッ!」
「で?お父さん解ってる?私ね今年受験なの。その辺よく解ってる?」
「こんばんはマスミちゃんバカでーす!しばらくよろしくねっ!」
「しばらく?──お父さん、ちょっとこっち来て」
「うん真澄、静かにさせるから少し落ち着い痛ッ痛ッ痛ッ!」

四年目なんてあっという間ですよ。

「さてお父様いかがですか?お嬢さま学校の制服ですわよ?ほらほら」
「ま、まあまあじゃ、ねえか──くっ」
「な、なによっ、泣くなんて、そんな──もうっ」
「おめでとう真澄。今日は祝いですね藤原。祝いと言えばちらし寿司。早く作れ」
「いやあ師匠良かったッスねえ!めでたいついでにアタシの処女膜もえいっと」
「よしッ解った!てめえら今日こそは腹割って話そうッ!」

そして、五年が経ちました。




狼の娘・滅日の銃
第八話 - マスミ・セブンティーン -




「──なによ?」
「いや、あん時ぁまんまと騙されちまったなあ、ってさ」
「そ、そんな昔の事なんて覚えてないわよ!」

五年前、再会した十二の娘は彼を睨みつけていた。
そして今、美しく成長した十七の彼女は頬を染め、父と仲良く手を繋ぐ。

「早く忘れなさい!いいわね!」
「はいはい」
「ハイは一回ッ!」
「ヘイアッ!」
「うるさい!」

娘、藤原真澄は一喝するも、繋ぐその手は離さない。
父、藤原信也は楽しげに笑う。だらしなく頬を緩めこれ以上ないくらい笑う。
相変わらずの日々ではある。
駐在調整官という大層な肩書きを背負いながらもだらだらと職務をこなし、町にも随分溶け込んだ。
地道なフィールドワークの甲斐もありヒューマンネットワークの全容もおぼろげながら掴めて来た。
しかしまだまだ時間は掛かる。当分本局からお呼びが掛かる事はないだろう。特務権限行使を考慮する事態など起きようも無い。
局長は少々肩透かしを食っているようだがそんなん知るか。まさに狙い通りと藤原はほくそえむ。
あと馬鹿な弟子も相変わらず馬鹿ではあるがもう泣かなくなった。技巧だけで言えば既に自分を超えただろう。馬鹿だが。
そして休日は娘と二人、こうやって買物にも行ける素晴らしき毎日。

「──やべえ、俺超泣きそう」
「ていうか泣いてるし」

つまり男は、娘と共に暮らした五年を経て、立派な親馬鹿と成り果てた──のではあるが。

「お父さん?どうしたの?」

だらしない頬の緩みが不意に消える。藤原の視線が一瞬、商店街の雑踏を凝視する。

「ん?なんでもねえよ」

しかし直ぐに顔が崩れ、再びだらけきった笑みになる藤原。

「なんだかなあ、最近変だよ?」

そっかあ?などと真澄に返事を返しながら横目でもう一度雑踏を流し見る。消えたな、と藤原は感じた。
ここ最近受ける妙な視線。敵意も無く意志も無く、ただ見つめる無味乾燥とした視線。
近くも無く遠くも無く害意さえ受けず、一定の距離を保ち自分を見る観察者の視点。
動かぬ自分に業を煮やした局長か?否。あの狸ならばもう少々ねちっこい。
繭子か?否。そんな事しなくともあいつは毎日飯をたかりにやって来る。
ベソ美か?否。あいつは馬鹿だ。
ならば対象は限られる。この地に入り込める第三者など、もう奴等しかありえない。

「さぁて今日夕飯ナニするよ?」
「玉子焼き!お父さんの玉子焼き!」
「おう、久々に作るか。んじゃおめえ肉ジャガ作れや」
「りょーかい!」

買物袋をぶら下げて、手を繋ぐ二人が踵を返す。
家路へ。狭いながらも楽しい我が家へ。帰ればきっと腹すかせた大家が待っているのだろう。
ともすれば馬鹿な弟子が適当に理由つけて押しかけて来るかもしれない。
なんだかんだで賑やかな夕餉、それが終われば風呂入ってまったりして寝る。そんな日々。素晴らしいじゃねえかと男は笑う。

世界は素晴らしい、戦うだけの価値がある──かつて酒と薔薇の日々に溺れた文豪の言葉を藤原は思い出す。

同感だクソ野郎。この日々を、この子を守る為ならなんだってやるさ。
視線を感じた方角に一瞥し宣戦布告とばかりに男は笑う。口の端から覗く犬歯を隠そうともせず。
やがて二人が去った頃、地上十二メートルの中空から囁く声。

「怖いですネェ。流石ヘルマシェーテ」

電信柱の上に立つ影ひとつ。あからさまに怪しいカタコトでつぶやく謎のガイジン。

「老いても狼と言った所でスカ」

ママーあのおじさん変だよー。しっ!見るんじゃありません!
おい変態だぞ警察呼べ!おい物干し竿持って来い!突付け!突付け!

「オウッ!止めなサイッ!決して怪しいモノではアリマセーン!」

商店街の皆様から投げつけられる小石とか空き缶とかイワシの頭とかを、怪しい語尾で制しながらも軽やかに避ける電柱の怪人。
しかし投げ付けられたブツの中に卵を発見。しっかりキャッチするちゃっかりさん。

「オウ!イッツァ、タメイゴゥ!これは貴重なタンパク源でス!」

グッドプロティン!センキュー!と笑いながら電柱の上から上を軽やかに伝い逃げていく謎のガイジン。
残された商店街の皆様はただもう唖然。しかしその中の一人がぽつりと呟く。
いやお前、卵はエッグだろう。



おかあさん。震える声で娘が呼ぶ。
十一歳の夜。風呂の中、じわりと滲む赤は、やかて浴槽の中を朱に染めた。
浴室の戸を開けた母は、一目見て全てを理解し、一瞬寂しそうな顔を浮かべ、そして微笑む。

──そっか。あんたも女になったんだね。

浴槽の脇に腰を降ろし、娘の頭を撫でる母。
そして彼女は風呂の中に手を入れ、ちゃぷちゃぷと朱に染まった水を波立たせる。
娘の小さな肩に寄せては返す赤い波。おめでとう。娘の耳元で囁き、濡れるのも構わず娘を胸に抱き寄せる。

──あいつが恋しいかい?

母の胸に抱かれ、こくりと頷く娘。そっか、そうだよね。
優しく耳元で囁く声が娘の脳裏に染みていく。豊かな母の胸、その感触に身を委ねる。
目を閉じれば、温かな赤い水はまるで、子宮の中にいたあの頃の様に心地良く、鼻腔に広がる鉄錆に似た匂いさえ懐かしく。

──あいつに会いたいかい?

うん、と娘が小さく返す。そっか、そうだともね。
ぎゅっと抱き締める母の腕。胸から伝わる彼女の鼓動。
とくん、とくん、と脈打つリズムが娘の耳に木霊する。

──アタシを、殺したいかい?

どくん、と娘の鼓動が跳ね上がる。

「──ッ!」

目を空ければいつもの天井。
浴槽の中、一回り大きくなった肩を抱く真澄。

「なんで──今頃」

忘れていたのに。十七歳の娘が首を振る。
小さく波打つ青い湯船。ラベンダー、お気に入りの入浴剤。理由は色、ただそれだけ。赤くなければなんでもいい。
緑でも黄色でも何でもいい。紅くなければそれでいい。そして胸に手を添える。
あの胸に比べ自分の胸はなんと薄いのだろう。やがて指先に伝わる振動。とくとくとくんと早い鼓動。
落ち着け、落ち着けと言い聞かせる。抑えろ、抑えろと己を制する。小さな胸は未だ自分が子供の証。大丈夫だ、まだ大丈夫だ。
だから落ち着け自分の鼓動。あの男は自分を捨てた憎き父。そう思え思い込め。大丈夫だ、まだ大丈夫だ。だから抑えろ自分の本能。

「何やってるんだろ、私」

肩を落し、口元を湯船に沈め、下唇を噛み締める。
微かに鉄錆の味がした。



ずう、ずずう、と縁側に座り茶を啜る影二つ。

「玉子焼き、大変美味でありましたよ、藤原」
「おう、なんたって俺ぁ藤原家玉子焼担当大臣だからよ」

ずずう、ずずずう、と再び茶を啜る音が重なる。

「町に面白いものが来ておりますね、藤原」
「やっぱ気付いてたか。ありゃ何だ?」
「かの地よりの者でしょう。ですがお前に似た匂いも致します」
「ふーん。ま、いいけどよ」
「真澄の事は心配せずとも良い」
「なんだおめえ、随分とお優しいじゃねえか」
「あの娘に何かありましたら夕餉が困ります故に」
「ふん。なら勝手にやらせてもらうぜ」

ずずずう、ずずずずう。茶を啜る音がユニゾンを奏でる。

「そういや来月だっけか?郷土資料館の五周年記念式典」
「早いものですね。お前達と出会ってはや五年でありますか」
「ふん。てめえにゃ瞬きにすりゃならねえだろうが」
「人並みに歳月は感じておりますよ、藤原」

たん、たん。と縁側に置かれた二つの湯呑み。

「さて藤原。答え合わせを致しますか」

相変わらずの無表情、抑揚の無い声で繭子が告げる。その顔を見て、やけに楽しそうじゃねえかと藤原は笑う。
最近この人形顔にも慣れてきた。なんとなくではあるが読めるのだ。

「要市縮尺模型図、あれおめえが作ったんだろ?繭子」
「ほう。何故そう思われますか」
「おめえくれえなモンだ、あんなん作れんのは。それにな」

ありえねえモンがあんだよ、と藤原は言う。
五年前あれを始めて見た際に粟川が話した経緯。
建設予定地で見つかった予想外の岩盤、中断する工事、一夜にして現れた模型図、仕様変更を受け完成した当時の商工会議所。

「なんで模型図にあの建物があるんだ?」

藤原は気付いた。模型図に存在するかなめ市三大古臭い建物。
市庁舎、市役所前駅、そして当時の商工会議所にして現かなめ市立郷土資料館。
建設前に現れた模型図にも関わらず何故それが存在するのか。
そして彼は町のヌシに問う──すべて後付けの話なんだろ?と。

「あの建物は、模型図を内包するために作られた箱。違うか?」
「ならばお前はあれを何と思いますか、藤原」
「町のアーキテクト。模型図じゃねえ、原型図だ」

五年を経て確信する。あれはそういう物なのだと。
市庁舎も駅も、そればかりか真澄の通う私立青陵女子高校も、市政開始時に建造された全ての建物は歴史を辿れば全て百年。
一世紀前にこの町は忽然と現れた。山々に囲まれた何も無い平地に。その時何があったのかは知らない。しかし藤原は確信する。
要市縮尺模型図とは町を模して作られたものではない。町があれを模して作られたのだと。

「お前にしてはまあまあですね藤原」
「おめえ一体何モンなんだ、繭子」
「大家です」
「いやまあ、そうだろうけどよ」

五年の付き合いで藤原は気付いた。彼女は決して嘘は言わないと。
だがその言葉の何を取るかによって答えが変わる事も理解出来た。
彼女の曖昧な言葉は、受け手によってはまったく逆の意味になりかねないのだ。
敢えてそうしているのか、底意地が悪いのか。否、と藤原は思う。彼女の真意を理解するには、ヒトは未だ小さすぎるのだ。
深淵を覗く者は深淵に覗かれるという言葉があるが、繭子はまさにそれだ。
ヒトは気付けないだけだ。自分の除いた大穴、深淵だと信じていたそれは、実は巨大な眼球の一部だという事に。
果たして彼女の視るヒトとは一体、どのように映るのだろうか。一度聞いてみたいものだと藤原は思う。

「ヒトはヒトです。それ以外ありませぬ」
「勝手に心読むんじゃねえよてめえ」

まあそれはいい、だがよ、と彼は敢えて問う。

「あの下に、何があるんだ?」

いや、違うな、と藤原は言い直す。

「あれ自体が何かの一部じゃねえのか?氷山みたくよ」

繭子は答えない。沈黙、それは肯定の証か。

「ま、別にいいけどよ」

そこで藤原は言葉を止める。それ以上は問うまいと。
全てを知った時、この楽園の日々は終わる。彼にはそう思えてならないからだ。
ならばそれは聞くまい。このままやり過ごせるならばそれでいい。それでいいのだ。

「かつて、お前と同じ答えに辿りついた者がおりまする」
「市長──粟川さんか」
「一度聞いて見るが良い。わたくしの言葉では伝えられぬものも、あの者を介すなら」
「いや、いいわ。興味ねえし」
「お前は本当に面白い男ですね」

しかし、と常世繭子は彼に告げる。

「見ないふりも過ぎれば、取り返しのつかぬ事となり得る。心に刻みなさい、藤原」

その言葉は、藤原の芯に染みた。




夜もふけて、家の灯が落ちる。

「真澄おめえよお、いくつになったっけ?」
「十七だよお父さん。なんなのよいきなり」
「そうだよな、そうだよなあ」

ガバっと立ち上がるお父さん。居間の電気点灯。

「もういきなりなんなのよ!眩しいよ!」
「真澄、そこに座りなさい」

藤原が見下ろす足元で、のそのと起き上がる娘。

「さて真澄。久々に質問です。何をしているのかね君は」
「添い寝だよ。フジワラスタイルじゃない」
「うんそうだね真澄。しかしフジワラスタイルシーズンワンは君の中学入学と共に」
「御好評を博しましたのでセカンドシーズンに突入します」
「そっかあ四年を経て復活かあ。だがね娘良く聞きなさい。二期は大概失敗と相場が」
「ますみこどもだからよくわかんない」
「よしッ!腹割って話そうッ!夜通し話そうッ!」

藤原、久々のグッドダディモード三分で終了。

「小学生ですら危ういのに高校二年生にもなって添い寝とかねえってんだッ!」
「人恋しい年頃なのよ甘えさせなさいッ!」

その瞬間、ばっと同時に窓を見る二人。大丈夫だヤツは来ない。学習したフジワラ親子。

「いったいどうしたんだよお前、今日に限ってよぉ」
「どうもしないわよ。ははぁさてはお父様、たわわに実った甘い果実に辛抱たまりませんのかしら?」
「たわわ?ほほう、たわわねぇ。娘よたわわとはざわわとは違うのだよ。もう少し立体的にオウトツってもんが」

ヒュンと娘の鋭い蹴りが跳ぶも紙一重で避けるお父さん。
最近本気出さないと危なくなってきました。娘の蹴りはマジで痛いのです。明日に響きます。

「避けましたわねお父様」
「当たり前だとも娘。お前の蹴りは骨まで響く」
「まあいいわ。とりあえず電気消して」
「いや待て話はまだ」
「消して」
「はい」

今日の娘は妙な迫力が御座います。
目が座っているというか、目がスリナムジンドウイカっぽいというか。要約しますとお父さんこわい。

「あのな真澄、お前はもう大人」
「子供だもん」

ぎゅっ、と藤原の背中から回される細い腕。

「今日だけは──お願い」

怖い夢、見ちゃったから。小さく呟くその言葉が藤原の力を抜く。

「今日、だけだぞ」
「──うん」

なんだかんだ言って俺も甘いよなあ、と藤原は苦笑する。
背中から回された娘の腕は五年前に比べ随分と長くなった。背丈も自分の胸元まで伸びた。
背中に当たっているであろう胸の感触についてはノーコメント。怖いから。
つまりはまあ、これくらいのガギは直ぐに大きくなりやがる。けれど子供はやっぱり子供なのだ。そう思うことにする。
最近とみに綺麗になったとか、やけにあの女の面影が重なるとか。それでも真澄は真澄、可愛い可愛い砂糖菓子に違いない。
こうやって懐いてくれる内が華だ。なに今に俺なんざ歯牙にもかけなくなるさ。
いい男が出来て色気づいてある日お父さん紹介したい人がいるのとか言われた日にゃきっと泣く。んで男ブン殴る。
そうやって離れていくのさ。寂しいけどそんなもんだ。これが普通さ。けれど。

──見ないふりも過ぎれば、取り返しのつかぬ事となり得る。

くそったれ。この胸騒ぎは何だ。



結局お父さん、一睡も出来ませんでした。

「いってきまーす!」
「いってらっさーい」

娘はぐっすり眠れたようでお父さん安心。目の下にクマなど出来ておりますが。

「眠いなあ、オイ」

などと言っても部屋には一人。なんだかんだで御気楽な部署。
すっかり定番となった二階のコーヒーを啜りながら、肩をぐりぐり回す藤原。寝返り出来なかったツケが今頃来たらしい。
駅で別れた真澄は昨夜の事など微塵も感じさせず、いつも通り元気な娘だった。
あの年頃の娘というのは何かと不安定なのだろう。きっとそうだ。そう思う事にする。
気を取り直して端末に目を向ける。
各種新着情報を流し読みする藤原であったが、本局調査部からの定例報告の中に少々見逃せない項目を発見。

「──ふん、なるほどね」

そういう事か、と専用ブラウザを開き調査部のカネトモを呼び出す。
モニターの向こうで開口一番、藤原さんお久しぶりですどうっすか初号機の調子は?
と彼が譲ってくれた軽トラの話題を軽く流しつつ本題を切り出す藤原。
そこで取り交わされた会話を要約すると。

曰く、ヴォクスホールに妙な動きがある。
曰く、英国経由で同国籍の男が一ヶ月前入国したと入管リストに記載。
曰く、照会したところ元SASらしい。
曰く、現在の所属は不明だが恐らく〈青〉──魔道第五師団絡みなのは間違いない。

「──解った。たぶんそいつ、こっち来てるわ」

経過報告を約束しブラウザを閉じる。時計を見れば一時過ぎ。この時間帯はもう食堂の定食終わってる。
仕方ねえ閑休庵か、と上着を羽織り、念のため腰溜めに得物を仕込み、やや遅い昼食へと出向く藤原。
市庁舎前の駅に入ればつんと鼻先をくすぐる出汁の匂い──しかし。

「オヤジサン、葱は抜いてクダサイ。具なんぞ女の厚化粧に過ぎまセン。
 麺と蕎麦のソリッドなハーモニーがいいのでス。あ、でもタメイゴゥは入れてクダサイ。それグッドプロティン!」

なんかいました。












■狼の娘・滅日の銃
■第八話/マスミ・セブンティーン■了

■次回■第九話「敵か!? 味方か? 月見のベア」


※おまけェ…2
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[21792] 第九話/敵か!? 味方か? 月見のベア
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/09/29 22:02



ずぞっずぞぞぞぞっと一気呵成に蕎麦を啜る妙なガイジン。
啜る。そう、啜っているのだ。見事なまでに音を立て灰色の麺が喉奥深く消えて行く。
基本こいつらは、この啜るという行為が苦手な筈だ。相当修練したんだろうな、と呆気に取られつつ藤原は店主に目配せ。
おやっさん何こいつ?それに応え、さあ?と肩をすくめる年配の店主。
やがてずずずずずずうと汁を一滴残さず飲み干し、謎のガイジンがひと言。

「オヤジサン、これ旨すぎマス。蕎麦としてはエクセレンツ!ですが立喰蕎麦としてはイタダケマセン!
 これ手打ちでスネ?いけません袋麺でなけレバ。あのチープさが──」

と、なにやら薀蓄を語り始めるガイジン。

「──つまりあのモッサモサ感がキモなのでス。あと出汁もパーフェクト過ぎ」
「おやっさん、天蕎麦。ネギ多めで」

藤原の言葉にはいよー、いつものねー、と応え、カウンターの奥で蕎麦玉を湯に放る店主。
しかし横では謎のガイジンが信じられないような物を見る目つきで藤原を見る。

「あんだよ?文句あんのかよ」
「具など中年女の厚化粧でス。ワタシ、カケは具無しで喰いまス。それが立喰いの心意気でス」

ほほう言うねぇ、と天麩羅を揚げながら、こいつ解ってるじゃねえか、と深くうなずく店主。

「なら玉子入れんなよ」

そりゃそうだ、と手を叩く店主。

「オウ、ノォウ!タメイゴゥ!それはワタシのオンリープロティン」
「なら他の食えよ」
「これが貴重なタンパク源でス!」
「だったら天蕎麦とかコロッケ食えよ!」
「あなた何にも解ってマセン!」
「おめえの何もかもが解んねえよ!」

はいよーお待ちー、と出汁の香る天蕎麦が藤原の前に置かれる。
相変わらず旨そうだなあと小銭を渡し、おっちゃん天ぷら揚げたてあんがとねー、と礼を述べた後、ガイジンに負けじと一気呵成に麺を啜りこむ。
その仕草を見たガイジン、半眼となり斜に構え、店主にひと言。

「オヤジサンおかわり。つきみ──そばで」

何か意味ありげな台詞だが藤原さくっと無視。半分ほど食べ終えたころ月見も完成。
そのまま一気呵成に電工石火の勢いでずぞずぞ啜るガイジン。五月蝿い程の爆音が駅の中響き出す。

「ごっそうさん」
「ごちグフッそうブフォさまでゲホゥアッ」

ゲフッ──嗚呼、良い月ダ。
昼間にも関わらずトンチンカンな台詞吐きつつ、無理してかっこんだせいでむせた挙句、
鼻から蕎麦を垂らすガイジンが親指を立てるも藤原やっぱ無視。

「ハジメマシテ、ワタシSEMネームを月見のベアと申しマス」

暑苦しいほどの笑顔。しかたなくフジワラ返します。

「何だよエス・イー・エムって」
「オウ!SEMご存知ないのでスカ!嘆かわしい限りでス!
 SEMと言えばスタンディング・イート・マスターの略でス!つまりタチグイシ!立喰いのプロを指すワードでス!」
「知るかバカー!」
「オウ本当にご存知ないのですカ!ならばアナタに教えて差し上げまショウ!立喰師とハ──あの決定的な敗戦から数十年。占領統治下の混迷からようやく抜け出し国際社会への復帰のために強行された経済政策は失業者と凶悪犯罪の増加そしてセクトと呼ばれる過激派集団の形成を促し本来それらに対応するはずの自治体警察の能力を超えた武装闘争が深刻な社会問題と化す中で生まれた影の存在それが立喰師。食文化の闇に炎でその名を刻んだ異端の英雄たち。しかし歴史は彼らに重要かつ最終的な役割を与える事となった──の事でス!」
「長えよ!オシイってんじゃねえよ!途中から語尾まともになってんじゃねえよ!」

あーもういいわ。だるそうに首を振る藤原が眼前のガイジンをひと睨み。

「オウそんな怖い顔しないでクダサイ──フジワラさン」

自分の名を呼ぶその男にさして驚く素振りも見せず、藤原は指をくいくいと動かし待合室へと彼を誘う。
楕円のカーブを描くベンチに腰を降ろし、しばし沈黙する二人。そして。

「で?何しに来たんだおめえ。チャカチャカとひとの周り嗅ぎ回りやがって」

なあ?元SASさんよお、と眼前の男を睨む藤原。

「観光でス」
「ふざけんな」
「実は偵察でス」
「えらく素直だなオイ」

実はどっちも兼ねてなんでスけどネ、と大げさに肩をすくめるガイジン。

「ハジメマシテ。ベア・グリーズと申しまス。月見のベアと」
「うるせえよ、魔道旅団」

藤原の言葉を聞き、ベアの眉がくいっと上がった。





狼の娘・滅日の銃
第九話 - 敵か!? 味方か? 月見のベア -





「なるほど。ご存知でしたカ」

魔道旅団。それは公式には存在しない。
ヴォクスホール魔道第五機動師団、通称機動団〈青〉の中に在ると噂される非公式の対外工作機関である。
主目的は国外での諜報活動及び謀殺。国内よりの志願は一切受け付けず、もっぱら国外からスカウトされた人材で構成される組織らしい。
使い捨ての外人部隊と揶揄する者もいるが、機密性の高さから忠誠度は高いと推察される。
王国の裏が魔道師団ならば、旅団は影と言うべきか。

「流石稀有なル、より強きものですネ」

そうでしょうドリフター?とベアが囁く。ワタシにとってアナタは眩し過ぎマスと。

「ドリフだか全員集合だが知らねえが、そんなん勝手におめえらが呼ぶだけだ」

ドリフター。漂泊者。はぐれもの。それは魔道──ラインよりはぐれたという意味を持つ。

「いえいえ、アナタは別格でスよ」
「阿呆か。ただヤルしか能の無ェ奴捕まえて何言ってんだか」

ラインとはネペンテスだと誰かが言う。蜜を出し獲物を誘い蓋をして溶かし食い尽くす肉食植物のようだと。
ラインの力を享受せし者は、やがてライン無しでは生きられぬという業を背負う。
破壊に治癒に転送。絶大なるこの力を知れば離れる事など出来はしない。蜜にして劇薬。ラインとは力の源泉であると同時に罠でもあるのだ。
獲物たちは罠に嵌った事を気付いても、誰もが逃げ出す意志を示さない。クラインの壷に似た袋の中で誰も彼もが溶けていく。
抗う事など出来はしない。ラインに恭順し共生を選ぶか、もしくは、決して近寄らず傍観に徹するか。
しかし中には鋭利な爪を葉脈に突き立て、その牙で袋ごと食い千切ろうとするものも居る。

ドリフター。ラインの力を得ずとも力を持つ者達。

発現する個体数は絶対的に少ないが、一騎当千の魔道師団を以ってしても駆逐出来ぬ存在。
ヴォクスホールがラインを享受する者達の象徴であるならば、ドリフターとは、それと対峙出来得る者達の総称でもある。

「女王がご執心されるのも解りまス」
「はあ?おめえ何言ってんだ。知らねえよそんなビッチ」
「とぼけてはイケマセン。二十年前アナタに贈られたギフトこそ女王直々に」
「黙れ」

あいつをギフトと呼ぶな。鋼の如き藤原の眼光がベアを射抜く。

「失礼しまシタ。ですがその件でハー・マジェスティの言葉を預かっております。
 それをアナタにお渡しせねばなりませン。ワタシは勅使、メッセンジャーでもありまスから」

フジワラサン、アナタへの言伝ですよ、とベアは微笑む。

「──言ってみろ」
「アナタをヴォクスホールにお招きしたいと女王は申しておりまス」
「お断りだ。んなおっかねえトコ行けるかよ。帰ってこれねえじゃねえか」

いいえ。微笑むベアが首を振る。

「あなたにVの号を授けたいと申しておりまス」

予想だにしなかったその言葉に藤原が目を剥く。
V──それは魔道師団軍団長の証にして女王執行権すら併せ持つ。
つまり女王アメリア・ヴォクスホールと同等の地位を与えるという事だ。しかしそれは──ありえない。

「──聞いてもいいか?」
「──何でスカ?」
「──おめえんトコの女王な、馬鹿だろう」
「──正直反論出来ないのが悔しいでス」

本来それは、唯一の女王アメリア・ヴォクスホールが王国と帝国という二重国家を統べるべく創設したものだ。
しかしその号は女王が勅命を下す際、一時的に自身の名をアメリア・V・ヴォクスホールに改め魔道師団を動かす時に用いたもの。
それを別けるなどありえない。ましてや敵対者である筈のドリフターに渡すなど言語道断。十中八九、嘘。十二分にして、罠。
自分はそこまで見くびられているのだろうかと藤原は思うが、もう一つの可能性を思い付く。
自分がもしそれを受ければどうなるのか。女王は何を得るのか。

ベアの言葉を思い出す──〈ギフト〉〈その件で〉

ギフトがトランクより生まれし者を指すのなら狙いは真美だろう。
だが違うと藤原は思う。今更回収しても何の役にも立ちはしない。
それが目的なら当の昔にやっている。例えベソ美がそうだとしても勝手に消えればいい事だ。
馬鹿だからそれに気付かないだけかもしれない馬鹿だし。それはいいとして。
しかし、それよりも奴等にとって更に稀有なるものがある。
ドリフターとギフトのハイブリッド。奇跡の存在、それは即ち。

「おまえ達の狙いは──真澄か」

ぎりっと藤原の奥歯が軋む。
自分が動けばあの娘も付いて来る。女王は、あの娘を狙っているのだ。

「そうでもアリ、そうでもナイ、としか言い様がありまセン」

あのお方の御考えは、我らが思う以上に深く暗く、底さえ見えぬのでス、とベアは言う。

「どっちだっていい。お断りだ。くそくらえ、とでも返しとけ」

ですよネエ、とベアは肩をすくめて力無く笑う。その答えは最初から解っていたとでもいう素振りで。
彼の姿を見て藤原が感じるのは皮肉でも嘲笑でもない。忠誠を誓うはずの女王に対してもどこか一歩引いたようなベアの態度。
だから怒りが沸かないのかも知れない。敵対者であるにも関わらず妙なシンパシーまで感じてしまう。
まるで同僚同士、仕事をサボって愚痴でも言い合っているかのような親近感すら覚える。妙な奴だな、と藤原は思う。

「確かに伝えましたヨ。これでワークは二割終わりました。残りの三割は秘密でス」
「足しても五割じゃねえか。あと半分は何だ?監視か?」
「あなた馬鹿でスカ!」

お前は何を言ってるんだ、とばかりにベアが叫ぶ。

「立喰道を極める事に決まってるではないでスカ!」
「仕事じゃねえだろ!」
「人生の仕事でス!」
「おまえやっぱバカだバーカ!」
「馬鹿で結構!私は一向に構わんッ!連隊を引退したのもこれこそが生涯を捧げるにふさわしい人生の仕事だと確信したからだ!嗚呼素晴らしき立喰美学!薀蓄、説教、話術、奇行など様々な手段を用いて店員を圧倒し金銭を払わず風の如く消える爽快感!容赦なきゴトで店主を叩き伏せる快感!この美学、否、哲学!だが連隊を辞め私は愕然とした。無いのだ。故郷には立喰蕎麦店が無かったのだ!フィッシュアンドチップスやハギスはアレでアレだから!しかし途方にくれていた私に女王は手を差し伸べて下さった。かの地に必ずや立喰蕎麦店を作ると!ああ素晴らしきハー・マジェスティ!その為ならば私は馬鹿になるッ!」
「お前最初から馬鹿だよ!つか何でその話になると語尾変わんだよ!」
「あやまりなサイ!タチグイの神様にあやまりなサイッ!」
「いねえよそんな奴!」

あ、おかーさん、きのうのカイジンがいるよ!
しっ!係わり合いになるんじゃありません!
見ろよおいアイツ昨日の変態だぞ!よし逃がすな今度こそ生け捕りにしろ!ざわざわ──と急に騒然となる駅の中。

「オウいけませン!フジワラさん今日の所はこの辺でアディオス!」

風のように駅構内を駆けて行くベア。
追え!地の果てまでも奴を追うんだ!と彼を追いかける駅員や警官その他の皆様。彼らの後姿を見ながら藤原は思う。
なんというすがすがしいバカなのだろうかと。



目を閉じれば浮かぶ、あいつの顔。

──ねえダーリン、アタシを殺したい?

五年ぶりに再会した時、少女は一匹の雌になっていた。

──ねえダーリン、アンタ殺していい?

雌が笑う、雄も笑う。
そして二匹は殺し合う。
獣同士の共食いが始まる──しかし。

「──あれ?お父さん!どうしたの?」

その声で我に返る藤原。目の前には可愛い娘。

「いやなに、通りがかってよ。いやあ偶然だなあ偶然」
「ふーん」

ま、そういう事にしておきましょう。
ニヤニヤと含み笑いを浮かべながら、真澄は父の腕に絡みつく。
ちょおまっ何やってんの校門前で、などと藤原慌てるも、別にいいじゃない親子なんだし、などと何処吹く風で笑う真澄。
いや普通逆じゃねコレ?と藤原冷や汗かきながらも実はお父さんちょっと嬉しい。そのまま帰路につく二人。

「通りがかりですかお父様。郊外の山中にある学校の前を偶然ですかお父様」

真澄の通う私立青陵女子高校は、かなめ市郊外の山、その中腹にある。
ちなみに学校までの道は一本道。校門前で行き止まり。つまり通りがかりなどという言い訳は通用しない。

「うるせえなあキャトられたんだよ、リトルなグレイっぽい奴に、気が付いたら校門で」
「はいはい。でも嬉しい。とっても嬉しい。迎えに来てくれるなんて」

ふふっと笑う真澄の笑顔に藤原の顔もほころぶ。だが。
なだらかな下り坂、森の中を歩きながら藤原の空いた手が腰溜め、上着の下の得物に触れる。
娘に悟られぬよう警戒を怠らず、周囲へと気を配る。観察者──あの視線は感じない。
ベア・グリーズ。彼は清々しい程の馬鹿だが異常なほど存在感が希薄だった。あの感覚は真美の持つスキルに近い。
流石は魔道旅団の斥候、一筋縄ではいかねえな、と藤原は気を引き締める。

──真澄の事は心配せずとも良い。

あれは繭子の真意なのだろう。常世の君が直々に発した言葉。ならば真澄に害が及ぶ事はない。
しかし頼る事は出来ない、否、気を許してはいけない。
最近つい忘れがちになりそうだが、あれはヴォクスホールより恐ろしい存在なのだ。それを忘れてはいけない。
とどのつまり、この子を守るのは自分なのだ。笑顔の下で決意を新たにする藤原。その時。

「ねえ、お父さん。聞いていい?」

ふと立ち止まり、真澄が絡めた腕を離す。

「なんで私を捨てたの?」

不意に放たれた言葉。五年間一度も聞かれなかった問い。
いつかは聞かれると思っていた。けれどそのいつかとは、いつも唐突にやって来る。そういうものだ。
娘の問いかけに藤原は顔を伏す。それは骨身に染みて解っていた筈だ。うろたえるな、そして偽るなと自分に言い聞かす。
意を決して顔を向ければ真澄の顔には怒りも悲しみも見えず、ただ透明な瞳が目の前の自分を映していた。
混じり気の無いその瞳に顔を背けそうになる。しかし堪える。やがて。

「俺は馬鹿だった。今以上に馬鹿だった。それだけだ」

彼女は何も言わない。
さわさわと夕暮れの風が木々を揺らし葉を落し、やがて真澄の髪を巻き上げる。
シャンプーの香りが藤原の鼻先をかすめる。その中に微かに混じるおんなの匂い。
それは、あいつの匂いに似ていた。

「訳は言わない。だから言い訳はしない。事実だからな」
「後悔してる?」
「──ああ」

そして娘は、再び父の腕に自分の腕を絡める。

「ふーん。まあいいわ。と、いう事はね」

ぎゅっ。絡めた腕に力がこもる。

「フジワラスタイル継続という事です」
「待てコラ何言ってんだコラそれとこれとは話が」
「私の復讐はまだまだ続きますわよ?お父様」

だって甘さが足りないみたいなんだもん、と真澄が嬉しそうに笑う。
やられた、と藤原は思った。




女心と秋の空とは良く言いますが。

「なあ真美よお、女ゴコロって奴ぁ」

難しいモンだよなぁ、と屋上で寝転がるというか寝転がした真美に向けて声を掛ける藤原。
見上げれば高い高い青空。本当に秋の空は高い。ぽっかり浮かんだ雲に向けて手を伸ばす。けれど高すぎて到底届きそうに無い。
あたりまえか、と藤原が足元に目を向ければ、ゼイゼイ、ハァンハァンとうめきともあえぎともつかぬ吐息で虫の息な馬鹿ひとり。

「師匠ォ──最近手加減ないッス!」

息を何とか整えながら抗議する真美。

「知るか。こっちも余裕ねえんだよバカ」

実際今日もやばかった。
この馬鹿は相変わらずの馬鹿ではあるが、この五年で更に磨きがかかった。
何も考えず縦横無尽に飛び掛り、一気呵成に間を詰め、次から次に連撃を繰り出す。
未だ姉ほどには至ってはいないとはいえ、既に本局では、専従班に組み込まれ第一線に投入され頭角を現しているとかいないとか。
弟子の成長につい頬が緩みがちではあるが、おかげで手加減など出来なくなった。しかし、むしろ有り難いと藤原は思っている。
そうでなくてはと。これは弟子への稽古であると共に自身の鍛錬になる。
最盛期とは行かぬが、未だ実戦レベルを保っていられるのも真美のおかげかも知れないと。
でもそんな事は言えない。なぜならば。

「え!師匠余裕無いんスか!え?なになにマミたんたらそんなに」
「うっせえバカ」

ほらこれだ。こいつ馬鹿だから直ぐ調子に乗りやがる。まだまだだと思わせなければ。
ここで止まる訳にはいかないのだ。こいつの為に、何よりも自分の為に。それは即ち、あの娘を守り抜く為に。
最期の瞬間まで現役でいなければならないのだ。

「っていうかぁ、女ゴコロとかナニ艶っぽい話してんスか師匠」
「いや、あのな、一週間前からよお」
「ふむふむ」
「フジワラスタイルが再発してセカンドシーズン突入」
「なん、でスと」

オニ!鬼畜!ロリ包丁!と叫ぶ真美。気がつけば当に息切れも消えている。
相変わらずこいつ回復早ぇよなあ、やっぱ馬鹿すげえ!とフジワラ師匠いたく感服。

「いやまあ、ちょっとしたトラップに引っかかっちまってよぉ」

などと師匠、弟子に人生相談。一週間前、娘を迎えに言った時の出来事をかいつまんで話す。

「なんで真澄ちゃんと離れたんスか?」
「いろいろあったんだよ、いろいろ」
「あの子守る為に身を引いたんスね」
「おめえな、変なドラマの見過ぎ」
「あの子の盾になるために離れるしかなかったんスね」
「そんなんじゃねえよ、意気地無しのクソ野郎だっただけだ」

噛み締めるように藤原は言う。
あいつの言った通りだ。あの子が可愛い、それは昔も今も変わらない。だがあの頃の俺はどこかに未練があったのだろう。
置き去りにされたような寂しさを感じてはいなかったか。未だ獣でいたいとどこかで願ってはいなかったか。
あの女はそれに気付いたのだ。だから俺が、そうなる前に身を引いたのだ。あいつ──真来は。

「おめえ。いいか、真澄に絶対ェ余計な事言うなよ」
「あい」

しかし馬鹿はやはり馬鹿。これっぽっちも聞いてはいなかった。



「ねえお父様聞いて良いですか?」
「なんだね娘、何でも聞きたまえ」
「何故毎回毎回予告無しにこの女を連れてくるのですか?」
「予告無しにズバッと参上!リリカルバカ!マミたんだったのダー!」

台所からビシッビシッと鞭の如き音が聞こえて来る。
五年前に比べ格段に進歩したマスミパエリヤット的蹴りが藤原の腿裏やっちゃってるっぽい。
うわすんげえ痛そう、と他人事な真美。

「お前も懲りませぬね」
「ひいッ!」

突如隣に現れた黒髪の童女に叫ぶ真美。

「今日も美味しかったですよ真澄。それではおやすみ良い夜を」

相変わらずガチガチに身を固める馬鹿。いい加減慣れろよと師匠から良く言われるがこればかりは無理。
しかし五年前に比べ進歩したのは繭子を前にしても気絶しなくなった所か。
そうこうしている内に幾分すっきりした娘と、脱皮し損ねたセミのような顔をしたお父さんが戻ってきた。

「仕方ないから泊めてあげるわ。けどアンタの飯無いから!あ、マユコさんおやすみー」

やれやれ随分と嫌われたもんだわ、と苦笑する真美。

──ごめんねマスミちゃん。アタシ、師匠やっぱ好きだわ。

一年前、真澄の入学式の日。彼女の耳元で囁いた言葉。
けれどたいして動ずる事も無く真澄はただひと言──そう、やっぱりね──と返すだけだった。
その時に何があった訳でもない。あの狼の目で睨まれた訳でもない。
けれどあの日以来、彼女は真美の事をマミさんとは呼ばなくなった。
あの女、この女、アンタ。女心の解らぬにぶちん師匠には、他人行儀が消えた身近な姉妹のように映ったのかもしれない。
けれど違うと真美は思う。この子はもう自分を許さない。敵と認識したのだ。
上等、と真美は笑う。戦争開始だ愛しい娘。あの男を取り合う血みどろの闘いを始めよう。
だが私は欲深い。アタシはあんた達を手に入れる。愛しい家族を。

「──お父さん?どうしたの?」

真澄の声に我に返れば、繭子の去った玄関先、ドアの向こうを睨む藤原。
彼の目線に視線を合わせ、次の瞬間その意味に気付く真美。

「──師匠」
「──おう」

何もない。否、何も無い何かが来ている、と真美は感じる。
自分と同じ、存在を消しきるスキルを持つ何かが。

「真澄、ちと用事思い出したんでコンビニ行って来る。ついでに買ってくるもんあるか?」
「え?いや別にないけど──すぐ戻ってきてね」

おう、と娘の頭を撫で真美に目で合図する。真澄を頼む──了解、と彼女はうなずく。

「あ、師匠!ならノリ弁とアイス頼んまス!はいコレ。アタシの財布ッス」

藤原に渡した財布、その下に隠されたゴー・ナナの予備弾装。
やがてドアは閉じられ男が消えた。玄関に残されたのは娘と女。

「さて、真澄ちゃん。せっかくなんで」

腹割って話そうか、と真美は微笑んだ。



街灯の光届かぬ電信柱の上、ぼうと立つ影ひとつ。
十六夜の月光が彼の横顔を照らす。

「──嗚呼、良い月ダ」
「何やってんだおめえ」

その声に足元を見れば、電信柱の下で自分を見上げる藤原の姿が。

「いえ、レジェンドオブSEMと呼ばれるツキミノギンジの口上をデスネ」
「あーめんどくせえ。いいから早く降りて来い」

やれやれと肩をすくめ、ふわりと月夜に舞い上がるベアの姿。

「ちなみにこの口上の前に──つきみ、そばで。これでパーフェクツ!」
「うるせえよ!」

音も無く藤原の眼前に着地したベアは相変わらずこんな調子で。

「一週間ぶりのごぶさたでしタ」
「ご無沙汰も何も、二度とてめえには会いたくなかったがな」
「オウ、つれませんねェ」
「で?何の用だ?変な呼び出し方しやがって」
「実はでスネ。もっとゆっくりしたかったのでスガ、少々仕事を早めねばならなくなりまシテ」

だらり、とベアの両手が垂れ下がる。

「へえ、そうかよ」

彼の仕草に呼応するかのように、両脇からゴー・ナナとフクロナガサを引き抜く藤原。

「フジワラサン。試させていただきマス」

ベアが纏う黒いコート、左右の袖口から姿を現す二対の〈得物〉。
それは銃剣の如き姿をしていた。握り部分の柄と、柄の先を迂回しL字形に伸びる艶消しの黒き刃先。
ベアの手が柄を握り締めた瞬間、先端に空けられた穴に光が灯る。

「アナタのガンソード・アーツ、ワタシのバイヨネット・バレル、どちらが上か」

にいぃ、と彼の口元が吊上がる。同時に柄の光が眩い光芒となって溢れ出す。

「魔道第五機動師団、コード・ブルー、副団長ベア・グリーズ──推シテ参ル」

刃と刃、光芒と火薬が交差する。









■狼の娘・滅日の銃
■第九話/敵か!? 味方か? 月見のベア■了

■次回■第十話「ギフト」



[21792] 第十話/ギフト
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/10/04 22:03




月光が照らす縁側。真澄と真美、座る影ふたつ。

「お父さん、本当はどこ行ったの?」
「ん?コンビニじゃないのー?」

嘘、と真澄はつぶやく。

「あなたはそうやって嘘ばかりつく──ずるいよ」
「嘘ついたのは謝るけどさ、ズルなんかしてないってば」
「ずるいよ。あなたは私の知らないお父さんを知ってる。ずるいよ」
「ズルいのは真澄ちゃん、アンタだよ」
「私が?何で?」
「アンタは娘だから甘えたい放題出来るじゃない、アタシなんてさあ」
「違う。これは復讐だから」
「復讐?なにそれ」
「お父さんは私を捨てたの」

だから私は甘えるの。甘えて甘えてお父さんを甘え殺すの。これが契約。復讐の契約。
真澄の言葉に真美は思う。なるほど、そうやって抑えているのかと。そうやってこの子は娘であろうとしているのだと。
健気にもこの子は、そうやって自身の欲望を親子の愛に置換しているのだと。
つまり私たちは──対等ではなかったのだ。

「そうだね。ゴメン。やっぱズルは良くないわ」

この戦い、自分にとっては分が悪いと思っていた。
あの男はこの娘しか見ていない。何度アプローチを重ねても暖簾に腕押し。しかし上等、その方が燃える。
圧倒的なハンデを受けても戦うだけの価値がある。それはこの娘も同じだ。自分と同じくハンデがある。
いくら男の愛情を一身に受けようが所詮それは親の愛。血の鎖には抗えない。
つまり対等、お互いハンデはイーブン、一方通行の愛なのだ。
面白い、そうでなくては。押して押して推して参る。押し切った方が勝ちだ。そう思っていた。
だが違った。この娘はハンデを受けたのではない。自ら背負ったのだ。
戦争にハンデもクソも無いが、この娘と戦うのにそれは嫌だ。何故ならこの娘が好きだから。
姉の血を引く最後の同胞が堪らなく愛しいから。あの男と同じくらい好きだから。そして真美は決意する。
ならばせめてフェアに。条件を対等に。この子の荷物を降ろしてやろうと。

「なら教えてあげようか。師匠が何故、真澄ちゃんから離れたのか」

この子が愛しいからこそイーブンに戦おう──そして真美はカードを切る。






狼の娘・滅日の銃
第十話 - ギフト -





バイヨネット・バレル。銃剣砲筒。
その名の通りベアの得物は、柄に砲身を内蔵する剣だった。
射出される光弾、ラインに直結されたそれは弾装の尽きる事無く、雨あられの如く藤原目掛け降り注ぐ。

「くそったれッ」

絶え間無い光弾を避けて避けて紙一重でかわし前へ進むも。

「エクセレンツ!」

ベアの間合いに入った途端、二本の剣先が藤原の鼻先で交差する。

「こンのッ!卑怯モンがッ!」

左右二対の剣撃を受け止めるフクロナガサ四尺五寸。

「何言いまスカ!これでイーブンでス!」

刃先と刃先が火花を散らす。しかし瞬間、柄の先から再び光弾が放たれる。藤原瞬時に身を引けば、なびく前髪が焼け落ちる。
文字通り間一髪。同時に彼の右手のゴー・ナナが火を噴きベアに向け二発放つも着弾間際、ベアの体がかすみの如く消え失せる。

「なるホド、点は駄目でスカ」

藤原の視界斜め四十五度より彼の声。同時にフクロナガサを逆手に持ち代え突き降ろせばまた火花。
ベアの剣先がナガサを受け止めギリギリと拮抗する。

「ならば線デッ!」

言うが早いか柄から迸る光芒が一本の線に収束し、光の鞭となりて藤原を襲う。

「──ふん」

藤原慌てず半眼となり、光る鞭の軌道を読み、そのまま動ぜず半歩踏み込む。

「オウッ!」

ベアは見た。
フクロナガサが光鞭に触れた刹那、そのまま刃先がしなる光鞭の先をギチギチと音を立て滑り出す。
鋼をも両断する光をナガサの刃先で受け流し迫り来る男。
すかさずベア、もう一本の鞭を振るい相手を裂こうとするも、藤原これを紙一重で避け、滑り込むようにベアの懐へと肉薄、再び火を噴くゴー・ナナ。

「──ッ!」

耳元をかすめる5.7mm弾頭のソニックブーム。
外れた?否!フェイク!瞬時に理解し飛び退けばナガサの刃先が空を切る。
夜空を舞う黒い影──着地。同時にゴー・ナナの射線がベアを捉え間髪入れずスリーショット。
二発避けるも一発喰らい倒れこむベア──と思われたが。

「器用な奴だな、おめえ」

穴の空いたコートが宙を舞い、ぱさり──と落ちる。

「流石でス、フジワラさン。アナタ本当に──強イ」

そうでなくては、とベア・グリーズは笑う。
ヴォクスホールに象徴されるライン使役者は、火を放ち雷を落し空を翔け傷を癒し瞬時に移動する様から擬似的魔法使いと揶揄される。
しかしドリフターにはその様な力は欠片も無い。異能の力を持つ者ではなく存在自体が異能なのだ。
瞬発力、持続力、耐久力、反応力、眼力、敏捷性、これら人を遥かに超えた身体能力に特化し、
極めて高い生存能力を持つ彼等は、ヒトの形を模した獣ともいえる。
誰かが言う。ラインとは弱きものの剣であると。つまり強きもの、ドリフターには必要無いものなのだと。

「やはりアナタは、眩しすぎまス」

ベアもまたドリフターと呼ばれる者だった。
それゆえ世界でも屈指の特殊部隊、英国SAS在籍中も常に一線で活躍し、今日まで生き残ってきた。
しかし彼は常々思っていた。ドリフターとは実際異能でも何でも無く、ヒトの本来持つ潜在能力を使い切れるだけの存在に過ぎないのではと。
つまりヒトは元々強い。だが火を起こし道具を使い始めた時からヒトは本来持つ力を捨てた。過分な力は自身を殺すことになりかねないからだ。
それはまさしくサーベルタイガーのようだ。弧を描くその牙はやがて自身を突き刺すという。ラインとはそういうものなのだ。
使役者をバイパスとして放出されるその力は、やがて使役者自身をも蝕み破壊する。弱きものの剣は、弱きものに優しく無い。
ならば強きものがその剣を取ればどうなるのか。ドリフターがラインの力を得れば果たして。
その誘惑にベアは抗う事が出来なかった。最強。誰もが憧れる言葉だ。しかし。

「ワタシは、弱くなりマシタ」

ラインの力を得たものはドリフターでは無くなる。
借り物の力に抗うからこそドリフターは強きもので居られる。
その矜持を捨てた今、自分はもう弱きものに過ぎないと。

「知るか。そんな卑怯なモンに頼るからだバーカ」

まったくでス、とベアは苦笑する。
バイヨネット・バレルから発する光の弾は装甲を貫き、光鞭は鋼をも切り裂く。本来、一撃必殺の武器なのだ。
しかし藤原はそれを弾き、あまつさえ受け流した。左手に握る鍛造の小刃一本でそれを行う。
刃先の向きを調整し光が最大限反射する角度で文字通り滑らせる。彼は一瞬でそれをやってのけた。計算して出来るものではない。
獣の勘と蓄積された経験、生まれついて持つセンスが彼の体をそのように反応させたのだ。
ドリフターとは異能ではない、その考えは今も変わらない。しかしベアは痛感する。
この男だけは別格だ。シンヤ・フジワラ、より強きもの。彼こそが異能なのだと。

「ハー・マジェスティが御執心するのも解りまス」
「だから知らねえって、んなクソババア」

ゴー・ナナとフクロナガサを構え、じりじりと間合いを詰める藤原。

「フジワラさン、アナタは女王が娘さんを欲していると勘違いされているようデスガ」
「あ?違うんか?」
「女王が欲するのはアナタでス。ゆえにご心配なされているのでス」
「ああ?言うに事欠いて心配だあ?笑わせんな」
「あの娘を傍らに置く事は、アナタにとって良き事ではアリマセン」

藤原の動きが止まる。

「てめえ、今──何て言った?」
「あの娘、真澄サンは──獣の直系なのでス」



教えてあげようか。真美の言葉に目を剥く真澄。

「知っているの?」
「アタシも詳しくは知らないけどね。だけど想像はつくよ」

師匠、教えてくれないけどね、と真美は笑う。

「真澄ちゃん。師匠はね、アンタを捨てたんじゃないと思う」
「だってお父さん、そんな事」
「自分がそう思っていてもね、周りから見たらそうじゃないって事、あるよね?」

真美は思う。
あの男は未だ自身を責めている。だからこそ捨てたと思い込んでいるのだと。

「詳しくは言えないけれどね、アタシ達の仕事は危険と背中合わせなんだ」

今もそうなの?という真澄の問いに、少なくとも今の師匠は違うかな、と軽い嘘を付く真美。
この町の事情やヴォクスホールとの危うい均衡、そして駐在調整官の役目などこの子に理解出来るはずも無い。
藤原は現在、傍目から見れば半引退に近いが、それでも命を賭して居る事に変わりはないのだ。

「だからアタシ達、家族を持つ事はタブーに近いの」
「何で?」
「その危険が、家族に及ぶかも知れないからね」

解る?真澄ちゃん。師匠はそのタブーを破ったんだよ。
真美の言葉に娘はうつむく。

「そんなの──勝手じゃない」

勝手に破って、勝手に捨てて。
うつむいた口元から漏れる小さな声。

「そうだね、勝手だよね。だから師匠、引退しようとしたらしいの」

解る?真澄ちゃん。師匠はアンタを選んだんだよ。
真美の言葉に娘は顔を上げ、叫ぶ。

「なら!なんでッ!」

涙ぐむ瞳は訴えていた。ならば何故、そうならなかったのかと。

「引退させてもらえなかったの。それだけ師匠は──凄すぎた」

鬼包丁藤原の名は半ば伝説と化していた。
魔道師団と単騎で渡り合える稀有なる存在として、その名は抑止力ともなっていた。
一発の弾丸として使い切るにはあまりにも大き過ぎる存在。つまり彼はこの国が持つ切札でもあったのだ。それを手放せる筈は無い。

「師匠、悩んだと思うよ。だって家族を持つ事はあの人の夢だったんだから」

藤原は孤児だったと記録にある。唯一の肉親であった妹も、成人前に亡くしたらしい。だから家族を持つという事は彼の夢だったのだろう。
幸せに包まれた家族。甘い甘い砂糖菓子の夢。口に含めば蕩けるほど甘く、けれどその砂糖菓子は脆く、手の平の上で崩れ去る。
残るのは甘さという記憶だけ。彼はそれを知ってしまったのだ。

「そんなのエゴじゃない!それが夢ならなんで手放すのよ!」
「手放しちゃいないよ。だから離れるしかなかったの」
「わけわかんない!何を言っているのか訳がっ」
「これしか手がなかったんだろうね」

直接聞いた訳ではないが、当時の状況から推察するに間違いないだろう、と真美は確信する。
藤原はこう思った筈だ。自分といる限り必ず家族には害が及ぶ。
鬼包丁の唯一にして最大のウィークポイントが家族ならば、それを狙わない手は無いからだ。
選択肢は三つ。全てを捨て家族と共に逃げるか、今のままで家族を守り抜くか、家族を遠ざけ自分が身を引くか。
その中で最も家族にリスクが及ばないのはどれか。つまり──選択肢などなかったのだ。

「アンタを守る為に師匠は、身を引いたんだよ」

その言葉に身を固める真澄。

「それでも──お父さん、は、私を──捨て」
「本当にそう思う?」

その問いに真澄は、返す事が出来ず言葉を止める。

「師匠はアンタを捨てるような男かな?」

共に暮らした五年間、償いの為だけにあの男はお前の傍らに居たのかと真美は問う。
娘の前でだらしなく頬を緩めるその顔、嬉しそうに泣き笑うその顔、それは償いや、ましてや偽りなどではないだろう。
嬉しいのだ。嬉しくて堪らないのだ。違うか?藤原真澄──と。

「別にさ、甘えるのに理由なんかいらないんじゃない?」

たった二人きりの親子なんだし。ね?真澄ちゃん。
言葉を返せず、ただ俯くだけの娘を抱き寄せる真美。抗う事無く寄りかかる真澄を抱き彼女は思う。
この子はこれで、真っ直ぐに父を見る事が出来る。歪んだ愛憎をあの男にぶつける事はないだろう。
お前は愛されているのだ。だからもう無理をする事は無いのだ。これでイーブン。お前は娘として父を愛し、私は女として彼を愛す。
これで対等正々堂々戦おう。愛しい子よ、もう離さない。私はあの男とお前を手に入れる。家族を。彼と姉が夢にまで見た家族を。
しかし、不意に得体の知れぬ胸騒ぎが真美を襲う──何故だと。
アルファは、姉は、藤原真来は何故こんな簡単な事が出来ずに──しかし、その時。

「──あは、あはは」

抱き寄せた胸元に顔を埋め、真澄が笑い出す。

「あははっ、あははははっ」

その笑い声は、安堵の声では無かった。

「なあんだ、何も問題無いじゃない」

その笑い声は、嘲笑の如く真美の心に突き刺さる。

「お父さんは私を愛してる。私もお父さんを愛してる。うん、何の問題も無いじゃない」
「──真澄、ちゃん?」

ずるり、と真美の胸元に埋めた顔が起き上がる。

「なあんだ、私たち両思いだったんじゃない」

真美は息を呑む。顔を上げた真澄は──笑っていた。

「嬉しい。マミさん有難う。嬉しい、私、本当に嬉しい」

あの狼の眼を爛々と輝かせ、口の端々を吊り上げて。

「ごめんね。アナタはもう、敵じゃないんだね」

その言葉に鳥肌が走る。その意味を理解し悪寒が駆ける。
今この子は宣言した。お前はもう敵ではないと。敵ですらないのだと。
その瞬間、脳裏に浮かぶ藤原の言葉。

──いやまあ、ちょっとしたトラップに引っかかっちまってよぉ。

罠だったのだ。
この子は狙っていたのだ。自分に課せられた戒めを解く言葉を、今か今かと待っていたのだ。
それに自分は、まんまと囚われてしまったのだ。嗚呼、私は何と言う事を!

「あははっ!あははははっ!」

笑いながら抱き締める細い腕は、まるで鋼のように固く、振りほどこうにもほどけない。
いや、その気すら起きず彼女は茫然と、自分が解き放ってしまった狼の娘をただ見ている事しか出来なかった。
遂に真美は気付いた。自分の愚かさを。姉が何故そうしなかったのかを。

自分が切ったカードこそ、鬼札(ジョーカー)だったのだ。



獣だと?ゴー・ナナの射線を離さず藤原は問う。

「ハイ、それも極上にして最凶の獣、女王の獣。名を──ジェヴォーダン」

魔獣にして伝説の狼の名でスヨ、とベアは言う。

「女王がアナタに贈ったギフト──失礼、アナタの奥様、マキさンのベースでス」

あの恐るべき獣より血を分け与えられたのでスヨ、とベアは言う。

「レムナント・シックス──対ドリフター戦略を示す暗号名でス。ご存知ですヨネ?」

藤原は軽く頷く。照準より視線を外さぬ程度に。

「これは以前より何度も行われて来ましタ。シックスとは、各段階を示すワードでス」

調査し攻撃し殲滅し時には謀殺し、または懐柔し招聘し戦力として吸収する、
これらドリフターに対し行われた戦略群がレムナント計画と総称される。それは藤原にとっても馴染み深い言葉だった。
ですが、とベアは言葉を代える。

「二十年前、女王直々の命で一度だけ第七段階、セブンが遂行されたと聞いていまス」

レムナント・セブン──ドリフター採集計画。
採集者を刺客として放ち、ドリフターと戦わせ、その力を記録し、転写させる事を目的としたプロジェクトだとベアは告げる。
最強のドリフターには最強の刺客を。そして創られたのが獣の血を分けた七つのトランクだったのだと。

「アレは、自分より強きものを喰らおうとする本能が植え付けられていたのでス」

女王の獣、その特性が刻まれていたのだと彼は言う。
二十年前、藤原が事件に遭遇したのは決して偶然では無いと。
あれは女王よりお前に贈られたギフトだったのだと。

「セブンは第七段階を示すと同時に、送り込まれた個体数を示す言葉でもありマス」

フジワラさン、あなたの為だけに遂行された計画でスヨ、とベアは言う。

「何言ってやがる。そん時、俺ぁ二十歳そこそこの青二才だ、それを」
「それ以前よりアナタはマークされていたのでス。最強となりうる個体とシテ。
 アナタはあの事件で力を開花させマシタ。そのアナタに固執するよう創生されたのがギフト──」

その瞬間、銃声。
言葉終わらぬうちに躊躇無くトリガーを引く藤原。しかし同時にベアの腕が反応し両手の銃剣を交差させ放たれた弾丸を弾く。
金属音、火花、火薬の匂い、そして静寂。

「おめえちとお喋りが過ねえか?」
「隠さず伝えよ──これが女王の命でゴザイマス」
「何を企む、言え」
「あの娘より離れろ、と女王は申されておりまス」
「誰が離れるか。お前らに奪わせやしねえ」
「アナタやはり勘違いされてまス」

勅使は告げる。
女王はお前の娘など要らぬ、お前だけを欲しているのだと。

「何故俺に固執する、言え」
「世界の安寧の為にでス」
「安寧?良く言うわ。世界に混乱をばら撒いてんのはてめえらじゃねえか」
「安寧の為には秩序が必要でス、しかし秩序は水と同じでス、流れぬ水は腐りまス、秩序もまた同じなのでス。
 混乱とは秩序を腐らせぬ為に必要な流れでス」
「それが俺と何の関わりがあるってんだ」
「つまりヴォクスホールにとってもドリフターとは必要不可欠な存在なのでス。
 ドリフターの中でもより強きものであるアナタの血、稀有なる血統は残さねばならぬのでス」
「ふざけんな、ひとを客寄せパンダみたく言いやがって」
「離れなさいフジワラさん。あの娘はアナタを破滅させまス」
「バカヤロウ、あの子は俺の全てだ」
「それゆえにでス。あの娘は今に牙を剥く」
「上等じゃねえか。あの子に殺されるなら本望」
「殺ス?そうでしょうネ。あの娘はアナタを殺しまス。アナタの──心を」

その刹那、銃声二発。
避けられぬと察し、右手で握る柄に力を篭めれば、バイヨネット・バレルの射出口が一際眩しい光を放ち八角形に拡散、盾となりて弾を弾く。
三発四発五発六発、次々と打ち込まれるゴー・ナナの弾丸、その度に光の盾が弾をはじくも、弾く火花がベアの視界を塞ぐ。
一瞬のホワイトアウト。反射的にもう一対の得物その刃先を左手で構えた瞬間、ギンッ、と脇腹より鈍い音。
ベアが視線を移せば自分の脇腹をえぐる寸前、剣先で止められたナガサの刃先が見えた。その先、鋼のような藤原の眼。
身を翻し飛び退くベア。しかし読まれる。着地点はゴー・ナナの射線。打ち込まれる弾丸二発、これを避け身を崩すベア。
構える間もなく懐に滑り込んだ藤原のナガサが喉元に。間一髪、銃剣が防ぐ。
銃と刀が織り成す武踏、ガンソードアーツに翻弄されるベア。
彼の間合いは既に崩れた。強力なバイヨネット・バレルさえ身を守る盾にしかならない。
ここまでか──否。それでもなお、あきらめを踏破するのなら。

「──ほう」

ベアに灯る眼光を見た瞬間、藤原は一歩引く。この男の中で何かが弾けたと

「所詮、ラインの力は、蕎麦で言う具に等しいのでスネ」

供給を断ち、光が消える。ただの銃剣と化した左右の得物を胸元で交差させ彼はつぶやく。

「具とは所詮、中年女の厚化粧。麺を引き立てる彩りに過ぎず、飽くまでも本質は麺ッ!」

立喰師の口上を吐きながら一気呵成に飛び込むベア。
発射された弾丸を皮一枚で避け、二対の銃剣が右に左に縦に横に、目にも止まらぬ螺旋を描き、縦横無尽に藤原を襲う。

「ハッハァッ!なんだおめえ!やれば出来る子じゃねえかッ!」

剣先と刃先が火花を散らし交差する。
パンパパパンと藤原右手のゴー・ナナが火を噴く度にベアの銃剣がそれを弾く。
徐々に欠けていく剣先もお構い無しになおも勢いは止まらない。

「今のワタシはSEM!タチグイシは無敵なのでスッ!」

パパンッと最後の一発と共にゴー・ナナがスライドオープン。
撃ち尽くし空になった弾装を落し真美から渡された予備を手にした瞬間、勝機とばかりに迫るベアの剣先。
しかし藤原これを読み軽くナガサで流しつつ左足を軸にぐるりと回り、突き出した右肘がベアの脇腹深くねじりこむ。
くの字に折れるベアの体。その隙に装填完了、ゴー・ナナのスライドが落ち引き金を引けば再び放たれる弾丸。
しかしベアはブリッジで避け勢いつけて起き上がり第二弾を銃剣ではじきプフーッと息吐きニヤリと笑う。

「伊達に生卵食ってねえなあッ!」
「ノゥ!月見デス!」

閃光、炸裂、火花、火花。
二対の銃剣、フクロナガサとゴー・ナナが目まぐるしく交差する。

「カケにしろ!カケに!」
「卵グッドプロティン!」
「生なんか止めとけ!焼けッ!極甘に焼けッ!」
「オオウ!オムレットスイーツ!そんな手がッ!」
「うちの子の好物なんだ、よッ!」
「レシピを!レシピを希望しまス!」

バンババンッ、キンキキキンッと交差するたび金属音。

「いいか卵はかき混ぜすぎんな混ぜた後ちょいと日本酒垂らせ!砂糖は白糖使え黒糖だと色が濃くなる!隠し味は白ダシだ間違ってもめんつゆ使うな色がつく!あと焼く時ぁ最初強火であとはじっくり弱火で仕上げろ絶対混ぜんな慎重に慎重に返せ表面に軽い焦げ目付いたら返して繰り返してじっくり仕上げろ解ったか!」

バンバンバン!バンバンババン!キンキキンキキンギンギギギン!

「オゥ!しかし日本酒ありまセンそれでは駄目ですかあと故郷には白ダシありませン!砂糖ならオウケイねこだわりの奴ありますねあとバター使うのありですかね仕上げに香り付けにいいかもですネ!しかし困った日本酒と白ダシありませんどうしましょうワインでは駄目ですかシェリーでは駄目ですかネッ!」

スッドンズッドン!ズッドンドン!ギンギギンギギンギンキンキン!

「知るか買ってけばいいじゃねえか今日は水曜だフードシミズの特売日じゃねえか確か白ダシあったっけ!あ!しまったあそこまだやってんのかよクソっ閉まるの早ぇんだあの店ッ!」

バンバンバババンバッバンズッドン!ギンギンギラギラキンギンギン!

「オウそぉれはいけまセン!ならば一時休戦しかないではないですかッ!」

はぁはぁ、ぜぇぜぇ。暗い路地裏で息を切らす男が二人。
弾は尽きた。銃剣の刃先は既に形を失って久しい。というか途中から何話してたんだっけ?
かなり重要な事を話していた筈なのに、いつのまにか藤原秘伝極甘玉子焼レシピで盛り上がってしまった二人。
あれだけの喧騒だったというのに路地は静かなまま青白い月光に照らされていた。無傷。跳弾の跡すら見えない。
まるで全て夢の出来事のようだ。馬鹿らしい、とお互い興が冷めたかのように同時に得物を収める。

「おめえ、仕事より玉子焼き取るか」
「ハイ、ワークとはイートする為のものでス」
「まあ、そりゃそうなんだけどよ」
「というか、これでワタシの仕事はコンプリートでス」

あとは残り少ない滞在機関をライフワークに費やすのみでス、と親指を上げ笑うベア。

「何か良くわかんねえ奴だな、おめえ」
「フジワラサン。さっきの話ですが。確かに伝えましたカラネ」
「おう。うっせえバーカって返しておけ」

俺ぁもう覚悟出来てんだよ。その言葉を笑い飛ばす藤原。その姿を見ながら肩をすくめるベア。
彼は思う。これ以上何を言っても無駄だ。ならば身を以って思い知るしかないのだ。
あの娘は獣の直系。故にお前に固執する。その意味を履き違えてはならない。

「という訳でワタシはスーパーへ急ぎマス!ではアディオス!」

言うが早いか身を翻し風の様に去るベア・グリーズ。
彼の後姿を見送りながらふと腕時計に目をやると時刻は既に午後九時を過ぎていた。
藤原は苦笑する。残念、あの店は七時閉店だと。



「遅いッ!」
「チッうっせーな──本当に申し訳御座いませんでしたッ!」

玄関に入るや否やお父さんジャンピング土下座の巻。

「まあいいわ。ほら、早く着替えて?ご飯温めなおすから」

蹴りの一発は覚悟していたにも関わらず、意外と上機嫌な娘に肩透かしを食らったお父さん。
ジャージに着替え居間のちゃぶ台前に腰を降ろし、ふと気付く。

「あれ?真美どこ行った?」

やけに静かだと思ったらあの馬鹿が居ない。

「なんか急用で帰ったぽいよ、マミさん」

藤原は気付かない。
マミさん──娘が五年ぶりにその名を呼んだ事に。

「え?そうなん?何だあいつ、終電間に合うんかな」

まあいいか。気を取り直し、娘から手渡された茶碗を持つ藤原。

「なんかおなかすいちゃった。私も食べよっと」

父と向かい合い、自分の茶碗を手に笑う真澄。

「──太るぞ?」
「いいの!成長期だからしっかり食べるの!」
「はいはい」

たくさん食べて大きくならないと。早く大人にならないと。

「ん?何か言ったか?」
「べっつにー」

茶碗に隠れ、藤原にはその口元が良く見えなかった。けれど確かに、真澄は笑っていた。
彼は見るべきだったのだ。ならば気付けたのだ。その笑みは、彼があの女と初めて出会った時に目にしたもの。
あの女──藤原真来と瓜二つだという事に。



月明かりが障子戸を通し、薄暗い部屋に注がれる。

「そうですか」

畳張りの広い部屋、その中央で静かに座す黒髪の童女。

「もう、止められぬのですね」

彼女の前に置かれた物。錆付いた鉄塊。一挺の古い銃。

「五年。ひと時ではありますが、楽しき日々でありました」

繭子の言葉に応えるかのように、銃の錆付いた撃鉄がギチギチと音を立てて起き上がる。
その動きに連動し回り始めるシリンダー。
空洞の回転筒は、収まるべき何かを欲するかの如くギリギリと回り、撃鉄が昇り切ると同時に動きを止めた。

「そうですか。お前もそう思いますか」

その声は相変わらず抑揚が無く、その顔は相変わらずの無表情で。
けれどもし、ここが今、隣の借家の縁側で、いつも通り大家の隣で茶を啜る藤原が居たとすれば、
彼はこう言っただろう──何だおめえ、やけに寂しそうな顔してんじゃねえか。

「嗚呼、本当に楽しき日々でした」

一瞬、繭子は目を伏せ、そして微笑む。
この存在は知っていた。始まりがあれば必ず終わりは来るのだと。そしてまた、始まるのだと。
永劫すら一瞬、されど彼女は呟く。

「──これが寂しさというものですか」

やがて口元から笑みが消える。ゆるりと首を上げ、障子戸を見つめる無機質な瞳。
戸の向こうには藤原の家がある。その向こう、山と海を越えた遥か西方の彼方には、かの地がある。
彼女が何を想うのか、それは誰にも解らない。しかし彼女は知っていた。今日、隣家で起きた事を。
あの男が未だそれに気付かぬ事も。暗い路地裏起きたひと時の喧騒の後始末は彼女が行った。
ベアが仕事を早めなくてはならなくなった意味も知っている。それは半日前、かの地で起きた出来事が発端だ。
彼女は知っている。始まりがあれば必ず終わりが来る事に。終わりとは始まりに過ぎぬ事に。もう、元には戻らぬ事に。
そして繭子は告げる。

「炎の時よ、来たれ」

ガチン。
暗い部屋、撃鉄の落ちる音だけが響いた。















■狼の娘・滅日の銃
■第十話/ギフト■了

■次回■第十一話「ジェヴォーダンの獣」



[21792] 第十一話/ジェヴォーダンの獣
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/10/11 22:46




エレン・ヴォクスホールは立ち尽くす。
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
王国の悲願、魔道の心臓、エクス・インフェリスのリビルドは完全と言って良かった。何もかもが上手く行った。
帝国の魔道技術を結集し出来上がったそれは完璧に起動を果たした。感極まり涙を流すエレンと臣下達。
これで長きに渡る仮初の時を経て、真なる繁栄の日々に戻れるのだ、今日はなんと素晴らしき日か──しかし。

あれが出た。あの黒い手が現れた。無数の黒き手の群れが沸きあがる。

歓声が狂声に変わる。恐怖が場を支配する。誰も彼もが逃げ惑う最中ただ立ち尽くすエレン。
彼女の横を通り抜け次々と黒い手が逃げる者を掴み、エクス・インフェリスの下、地獄へと続くホールへと引きずり込む。
溢れ出した黒い手の群体は、大穴を囲う高き堤防すら乗り越えて近隣の町へと押し寄せる。
そして大通りから路地裏から家々から巻き起こる阿鼻叫喚。しかしエレンは立っていた、立ったま意識を失くしていた。
そして、再び彼女が意識を取り戻すと──そこには。

「なぜですか!何故わたくしめに罰をお与え下さらないのですか!」

翌日、玉座の下、母である女王の足元で床に額をこすり付けエレンは叫ぶ。

「顔をお上げなさい愛しい娘よ。そなたの責は我が責、過ぎた過ちは問いませぬ」

それよりも、と玉座を立ち、エレンの前に身を屈め、聖母の如き笑みで女王は優しく囁く。

「千の民は残念でしたが、あなたが無事で良しとせねば」

その慈愛に満ちた残酷な言葉は、彼女を決定的に追い詰めた。

「女王!」

頭を上げエレンは叫ぶ。

「千人の犠牲など捨て置けといわれますか女王!臣民あっての王家、それを守るのが帝国、そうではありませぬか母様!
 何たる冷酷なんたる非情、それが王を継ぐ者の勤めと言われるのなら私は王位などいりませぬ!私は!私はッ!」

涙を流し、額を固い床に打ち据える娘。その姿を見下ろす女王の目は冷たく。

「今は身を癒しなさいエレン。その話はまた後で──ね?」

しかし、その口元に浮かぶ笑みは、奈落の穴のように深かった。






狼の娘・滅日の銃
第十一話 - ジェヴォーダンの獣 -





暗闇の中、唯一の女王は笑う。

「さて、どう転びますことやら」

民を想う故に行ったリビルドがあのような結末になるとは、彼女は思いもしなかっただろう。直前まで成功を盲信していた筈だ。
歓喜から絶望へ。自分の見立てに狂いがなければ、エレンはきっと。それを想うとアメリアは愉快で仕方が無い。

「エクス・インフェリス──ねえ?」

かつて王国の黎明期を支え、繁栄をもたらしたライン制御の要、魔道の心臓と称されたもの。
暴れ川たるラインを抑え、絶え間なく流れるべく設置された制御器。
力の源泉、ホールに設置され、流量を制御し力を効率的かつ安定して供給すべく創られたもの。
ポンプにして循環器にして制御器、魔道帝国の心臓──エクス・インフェリス。

「あと、リバーサル・シフトとか」

エクス・インフェリスが突如消失した事により引き起こされた悲劇。ライン反転現象。
東から西へ、カナメからヴォクスホールへ。源泉から奈落に。噴出から吸入に転じたホールに飲み込まれていくもの達。
王国臣民の約半数が犠牲になった忌まわしき事件。

──魔道の帝国よ。借り物の力でおごる事なかれ。

その影で暗躍したとされる伝説の客人、黒髪の魔女コクーン。

「──警告?そんな訳無いでしょう?」

リバーサル・シフトを転機に突如性質を変えたライン。
力の安定、再び繁栄を謳歌する王国。

「あの存在は本来の流れを戻したに過ぎません」

虚空を眺め女王は囁く。
太陽は東から昇り西に落ちるもの。それが自然の運行というもの。ラインも同じ。
西から東、ヴォクスホールからカナメ、それ自体が異常だったのですよ、と。

「そういうことなのですよ、エレン」

アメリアは暗闇の中で目を閉じ、目蓋の裏に遠い過去の情景を呼び覚ます。

「──そこは魔女達が暮らす隠れ里でもありました」

彼女は語る。誰も居ない暗闇の中、誰に聞かすでも無く、その伝承をとうとうと語る。

「──魔女、と言いましても空を飛ぶわけでも人を鼠に変える訳でもありません。
 多少勘が良くて明日の天気が解かったり、占いが良く当たるくらいのもので、つつましくも穏やかに──」

その伝承の通り、かつてここは異能達が隠れ住む地だった。
その力を持つ故に常に迫害され、時に利用され、やがて追い詰められ。かろうじて生き残った者達は安寧を求めさすらう。
そして逃げこんだ最後の地がここだった。名も無き禁忌の地。
不思議な事にこの場所は異能達の力を弱め、ごく普通のヒトとして生活を送る事が出来た。
一方で異能の力を持たぬものは衰弱し命を落す、そういう場所だった。彼等は気付いた。この場所は力を吸い取るのだと。
この安寧はひと時に過ぎず、いつか自身の力が絶えた時、この身も朽ちてしまうのだと。
けれど誰一人離れる者は居なかった。つまり彼等はここで暮らすしかなかったのだ。

「──しかしある日、正真正銘本物の魔女が里に舞い降りました」

黒髪の魔女コクーン。遠き東の地より来訪した審神者。彼女を巡る三つの伝承。
ひとつ、地獄へと続く大穴を空け、多くの命を奪った悪魔。
ひとつ。大穴を使い侵略者の軍団を消し、王国の危機を救った英雄。
ひとつ。魔道の心臓エクス・インフェリスを奪い、リバーサル・シフトを巻き起こした元凶。

「──全ては後付けの話なのですよ、エレン」

信じ難い真実を受け止めるために後に作り出された伝承なのです、と女王は微笑む。
今となっては彼女以外誰も知らない真実。コクーンとは一体何であるのか。
アメリアは知っている。コクーンがラインと共にやってきた事を。
否、あの存在はラインそのものだと言う事を、そして。

「つまり──エクス・インフェリスなど、元々存在しなかったのです」

暗闇の中で女王は笑う。さも楽しそうに愉悦に浸り、口の端々を歪ませて。

「迂闊に手を出すから〈あれ〉が出たのです」

〈あれ〉──黒い手。

「あれはコクーンの黒髪。ホールに触れる者を奈落へと引き摺り込む防御機構」

黒い手は恐怖を喰う。あらかた食い尽くした後、抜け殻を吐き捨てる。
黒い手に人を構成する根源のひとつである恐怖を喰われた者は人の形を失いやがて異形となり果てる。

「エレン、羨ましいわ。意識が飛ぶ刹那、貴女は何を見たの?」

あれは人が容易くライン、それも源泉であるホールに触れぬよう意図的に付加された防御機能、
つまり白血球のような物なのだとアメリアは確信する。
何故ならあれはヒトの恐怖にしか反応しないからだ。
あの時エレンが難を逃れたのは、その黒い手を見た瞬間意識がシャットダウンするよう、
あらかじめアメリアによって暗示をかけられていたからに過ぎない。

「極上の恐怖を味わえましたか?嗚呼、わたしは貴女が羨ましい」

エレンは知っていたのだろうか。
この女は、恐怖の女王と揶揄されるアメリアは常に恐怖を渇望しているという事を。
恐怖?そう、恐怖だ。全ては恐怖なのだ。この女は恐怖を好むのだ。

「お前はどうでしたか?──〈C・E〉」

その瞬間、暗闇から手が伸びる。
伸びた手の先に黒い刺。その切先がアメリアの片目を貫く。同時に別の刺が暗闇より湧き出て彼女の喉元を裂く。
飛び散る血飛沫は眼前の暗闇に跳ね返り、それは返り血を浴びた黒いヒトガタを浮かび上がらせた。
少女の如き華奢な姿、けれど全身は硬き殻に覆われ、表皮から鋭い無数の刺を生やし、それらは女王の血で赤黒く染まって行く。

「お前は本当に上出来です」

片目を貫かれ、喉元を裂かれてもなお悠然と微笑む女王。

「今日まで調教した甲斐がありました」

その時、〈C・E〉の体を纏う無数の刺が突如切先を伸ばし女王の全身を貫く。
串刺しにされたアメリアはなおも笑みを絶やさない。
〈C・E〉の縫い込まれた口元が歪む。同時に突き刺した無数の刺が煽動し、次の瞬間、女王の身体が微塵に爆ぜる。
飛び散る肉片、ぼたぼたと暗闇に降り注ぐ紅い雨。浴びた血を拭おうともせず足元に散らばった肉塊を見下ろす刺人形。

「お前くらいのものです。わたくしにこの様な真似が出来るのは」

耳元で囁かれたその声に〈C・E〉は微動だにせず立ち尽くす。

「ですが」

ぼう、ぼう、ぼう、と浴びた返り血が輝き──燃え上がる。
勢いを増した火は業火となりて〈C・E〉を包み込む。
四散した肉塊も炎を上げ、燃え尽きる刹那〈C・E〉を包む業火に吸い込まれ、
なおも勢いを増した火柱は炎龍の如く渦を巻き黒きヒトガタを縛り上げ、そして。

「ちと戯れが過ぎますよ」

不意に炎が掻き消えれば、少女人形の胸元から伸びる長い腕。〈C・E〉を背中から抱き締める女王がそこに居た。
何事も無かったかのように、口元には相変わらずの微笑。

「まあ、こんなところでしょうか」

無表情の人形、縫い合わされた口の中、作り物の奥歯がギリッ、と軋む。
もし人形が言葉を発したのならこう言ったかも知れない──また殺せなかった、と。

「お前は極上の獣ですよ。愛しい子」

人形の中に居る物は、かつてジェヴォーダンの獣と呼ばれていた。
その名は十八世紀中盤、フランス旧ジェヴォーダン地方に現れた魔獣を差す。
狼に似た姿で、百人以上の人間を殺戮したと伝えられている。
牛などの家畜を狙わず主に女子供を選んで襲い、通常の捕食動物ならば足や喉を狙う筈が、
その獣に襲われた者達は一様に頭部を砕かれるか噛み千切られていたという。
その正体はオオカミか、ハイエナか、犬と狼の混種ハイブリッドウルフか、現在でも説は分かれている。
だが当時、ヴォクスホール女王だけはその行為の意味に気付いた。
獣は何故頭部を襲うのか。頭部には脳がある。脳は感情を発する。
感情の中で最も本能的で強いものは何か?それは恐怖だ。つまり頭部とは恐怖の源泉。あの獣はそれを喰うのだ、と。

「お前は、元を辿ればあの黒い手、その一柱ですからね」

コクーンがリバーサル・シフトを起こしたあの日。
排出から吸入へと反転したホールから湧き出た黒い手は数多くの臣民を捕らえ喰い散らかした。
しかしその中で一柱、とびきり貪欲なものが居た。
喰っても喰っても満たされないそれはひたすら獲物を追い求め、穴の中に戻ろうともせずいつしかラインから抜けこの地から消えた。
当然誰もがそれを忘れていた、しかし。
長き時を経て、遠き地ジェヴォーダンでそれは捕獲された。奇しくもヴォクスホールの手によって。
最初はそれをあの黒い手だとは女王以外誰も気付かなかった。
恐怖を喰う何かがいるらしい、ならば罠を。と精巧な一体の少女と見紛う人形を用意し森の中に放置した。
魔道技術を用い作られた人形は、頭部に人の脳に似た核を仕込み、大脳辺縁系扁桃体を模した部位より擬似的に恐怖を発生させ、
その人形はさながら狂った少女のように一晩中森の中を駆け回る。

翌朝、その人形は捕獲された。

人形の傍らには若い女が倒れていたという。しかし女の頭部には大きな傷跡があった。
恐らく──と捕獲を担当したヴォクスホール高官は語る。
被害者全ての遺体を検分しておりませんので推測に過ぎないのですが、
もし時系列ごとに遺体を並べその傷口を見比べればある事実が判明する事でしょう。
傷口に着いた歯型と照らし合わせれば一体一体が連鎖している、と。
つまり加害者は前の被害者なのではないでしょうか。彼らに寄生した何らかの宿主が体を操り、次の寄生先を襲わせる。
その目的は──恐怖の摂取。
そのような事を想像出来る学者や医師が、かの国や地元に居るとは到底考えられません。端から狼の仕業だと決めておるようですからね。
それを妄信と責めるつもりは毛頭ございません。おかげで我々は貴重な素体、その宿主を手に入れる事が出来たのですから。
そして高官は、うやうやしく女王の前で棺桶を開ける。その中には動きを封じられてもなお痙攣を繰り返す人形。
それを手で示し、こう告げる。

その宿主は、この人形の中におります。

中の存在が喰らったもの、それが消化されるのでは無く蓄積されるのなら、これから私達は何を見るでしょう。
それが楽しみでなりません──翌月この高官は、発狂したという。

「わたくしが憎いですか?〈C・E〉」

ぞぶり。背中より生えた棘がアメリアを再び貫くも彼女はその手を離さない。

「憎みなさい。でなければ精製の意味がありません」

微笑むアメリアの脳裏に浮かぶ光景。
幼き娘を我が胸に抱き、心躍らせ地下へと降りる。
大穴より王宮地下へと引かれたバイパスの先端、そこで自ら手を下し行なったジェヴォーダンの精製。

──ほら御覧なさい。あれが獣ですよ。

分厚いガラス窓の向こうにあの少女。少女の形を模した自動人形。
バイパスへと続く重い扉の前で鎖に繋がれ力なくうなだれる姿は背徳的で、隠微で、胸の高鳴りさえ感じた。

──さあ、バイパスを開きますよ。

重い扉が轟音と共に開かれる。溢れ出る光の奔流。一瞬のホワイトアウト。
視覚が戻れば先ほどまではいかないまでも光は泉の如くこんこんと周囲を照らし、
あの少女人形はいつのまにか鎖を解かれ、その場に伏せたまま身じろぎひとつせず。

──あれが、黒い手です。

娘に促し視線を送れば光の泉、その淵から次々と沸き出でる無数の黒い手。
それが少女人形の傍らに寄り、その未だ動かぬ肢体を舐めるように撫で上げる。

──良く御覧なさい。黒い手が獣を襲います。

そして、黒い手のひらが大きく開く。そこには口があった。口からは鋭い牙が生えていた。
それを肢体につき立てた瞬間、突如扉が閉められる。
光の泉が消え、根元から切り離された黒い手は一瞬行き場を無くしたかのように少女人形から牙を離す。
その時、突然跳ね上がる肢体。

──あの獣はね、ジェヴォーダンという場所で見つけたの。

その姿はまさしく獣だった。獣としか例え様が無かった。あの身じろぎもせず壊れた人形の如き姿は既に無い。
二本の腕と二本の足を地に付けバネ巻くように力を貯め不意に跳躍、扉の閉じた箱の中を縦横無尽に駆け巡り、獲物目掛け着地する。
そのまま黒い手を、四足の如く腕と足の指で掴み口元に運び、引き千切り噛み砕きそして喰らう。
その姿を目にし微笑むアメリア。もう人形ではない、この中に封じたものは少女のヒトガタを遂に己の身体としたのだ。
その姿は獰猛な魂を宿す一匹の野獣だった。

──ジェヴォーダンの獣はね、女子供しか襲わなかったの。何故だと思う?

その獣はかつて恐怖を喰っていた。恐怖を糧としていた。

──それはね、とても美味しいから。その恐怖は、原色だから。

しかし今は、その身を守るために黒い手を食う。

──でも今食べるものはこれしかないの。だからしょうがないわよね?

その時、鼻先をつん、とした匂いがかすめる。
元を辿ればその匂いは、分厚いガラス窓の向こう側から漂っているのが感じられた。

──ああ凄い!さしもの黒い手も獣の前ではただの餌!怖い!恐いわ!

目を見開き爛々と眼光を湛え、我を忘れつい嬌声を上げる。
恐怖を、もっと恐怖を。我はこの身体と引き換えに恐怖を亡くした。故に恐怖を欲す。極上の恐怖を、原色の恐怖を。
嗚呼、我を恐れさせておくれ愛しき獣。その為ならば何度でも何万回でも黒い手を食わせてやる。
お前にはもう恐怖は食わせない。恐怖を与えるものを食わせてやる。我に恐怖を与える為に。

「よくぞここまで育ちましたね」

ぼう、と女王を貫く棘が燃え上がる。一瞬で灼熱と化した棘は、消し炭となり崩れ落ちた。

「憎みなさい、そして、もっとわたくしを恐がらせて?ねえ?」

その獣は幾万にも渡る精製を経て、やがて地上に上がり女王の傍に控える事を許される。
しかしその眼には、明らかに憎悪の光が見て取れた。そして視線は常に女王へ注がれていた。
既にあれはジェヴォーダンの獣では無くなっていた。かつて黒い手の一柱、その本質でさえ消え失せた。
既に獣は、恐怖を喰らうものではなく、恐怖を与えるもの、それを喰らう物へと変貌を遂げたのだ。

誰かが言う──女王の番犬?とんでもない!あれは女王を喰らうべく虎視眈々と狙う眼だ。

何の事は無い、あれは番犬として傍らに置いたのでは無い、つまりは調教だったのだ。
女王は恐怖を与え放つもの。その喉笛に噛み付き喰らうようあの獣を傍らに置き、目の前に餌をちらつかせ、飢えさせ、調教していたのだ。
女王はこの獣に、いつの日か自分より極上の餌を喰わせるべく〈C・E〉の名を与えたのだ。
Eとは即ちEATER──喰らうもの。ならばCは──言わずもかな。

「更に美味なる餌をお前に。それが約束ですものね──〈C・E〉」

こくり、と人形は頷いた。



絶望に打ちひしがれ、悔恨に押し潰され、遂に彼女は決意する。
その夜、エレンは独り、王宮地下に秘される魔道師団保管庫の扉を開けた。
鼻を突く異臭、明かりを灯せば、広大なヤード狭しと置き捨てられた異形達。
あの時、彼らは完全には呑まれてはいなかった。伝承の通り大穴の回りに敷き詰められた骸の山。
そう、最初は確かに骸だった、しかしそれはやがて立ち上がる。
そして口々から苦しい、痛いと言葉を発しその身体は、徐々にではあるが人の形を失いつつあった。
彼らを前に施術師たちは首を振る。もう、どうにもなりません、と。
そして彼女は服を脱ぐ。剣を手に一糸纏わぬその肢体を異形達の前にさらけだし、語る。

「許せとは言わぬ。異形に成り果てた者どもよ」

かつて人であった者達に彼女は告げる──許しは乞わぬ。ゆえに抗いはせぬ。
我を食うがいい。この身を喰らい現世復帰の糧とせよ。信じずとも良い。だが聞くが良い。

「我はお前たちを、いえ、私は未だあなたたちを──愛しておりますよ」

そして彼女は、剣先を己の喉元に突立てる。一息に力をこめようとしたその時。

──姫! 姫様! 姫さま! ひめさまぁ!

その時、エレンの足元で響き出す彼女を呼ぶ声、声、声。

──姫、御願い申し上げます、せめて御身のお手で、なにとぞ、何卒!。
──姫様、慈愛溢れる我らが姫様、せめて貴女のお手で、ああ姫様!
──姫さま、後生ですじゃ、お頼みもうす、お頼みもうす!
──ひめさまぁ、くるしいよ、ひめさまぁ……。

かろうじて人の心を保っていた彼らは、エレンの足元にすがりつき懇願する。
彼女は何も言わず、ただ頷いて剣を降ろし、その切っ先をさくり、さくりと異形達の心臓に刺して行く。
丁寧に優しく、苦しまぬように鋭く。一突きごとに彼女の頬を伝う涙、こぼれ落ちる涙、涙、涙。千回の後、それは全て枯れた。
胸を突かれた異形達は、うやうやしくエレンの手に口付けた後、次々と彼女の影の中へ消えて行く。
彼らもまた、彼女を心から愛していた。己の胸に剣刺す時、流した涙は忘れない。
同時に悔やむ。あの時、最愛のはずの姫、それを置き逃げ出した己の愚かさに。
そして願う。今一度の機会を、次こそは盾となる。姫を守る剣となる。
そして喜ぶ──その時が来た、と。
やがて一人残された彼女。枯れ果てた涙の筋を拭いもせず、エレン・ヴォクスホールは誓う。

──ならば共に、一千の従者よ。千人の犠牲は、万人を生かす為に。

翌朝、接見の席で女王に彼女は告げた。

「御願い致したき議がございます」

アメリア・ヴォクスホールはエレンを一目見て、口元から微笑みを消す。

「言え」

玉座より冷厳に告げる女王。

「私にVの号をお刻み下さい」

告げる彼女は既に慈悲深き姫では無かった。焦燥に歪む瞳は既に消え失せた。

「王位を捨て覇権を欲すか」
「否」
「ならば如何する」

枯れ果てた涙腺、女王すら射抜く視線。打ち立ての鋼の如き眼光を湛え彼女は告げる。

「これより私は影へと下がり、千の弔いの為万の敵を討ち果たす所存、何卒」

凛と見上げる顔に宿る血塗れの意志。
そして足元に蠢く深い影を認め、満足げに頷く女王。
その刹那、一陣の風と共に玉座より姿が消え、羽根のようにふわりとエレンの眼前に舞い降りるアメリア。見れば手に一振りの宝剣。
ひゅんと風を切り切先が消え、目も止まらぬ速さでエレンの着衣、その胸元を切り裂き、露わとなった胸の谷間に、剣の先で一文字刻む。
その文字の形──V(ヴィー)。



「これにて──仕上げは完了」

暗闇の中で女王アメリアは微笑む。
千の犠牲でVが手に入るなら安いものだと。

「本来ならばあの男に渡し、大きな混乱をと想いましたが」

混乱を。秩序の為の混乱を。ひとえに全て安寧の為に。ヴォクスホールはその為に存在する。
混乱が大きければ大きいほど、後にもたらされる秩序は揺ぎ無きものとなる。
ヴォクスホールとドリフターが拮抗出来うるのならば、その緊張は秩序を腐らせぬ為の良き流れを生む。

「残念ですが。仕方ないわよね?」

〈青〉副団長よりの報告──かの者の意志、揺ぎ無き。
さもあらん、と女王は想う。そうでなくては、とアメリアは笑う。
元より承知。ならば滅ぶが良い老いた狼よ。喰われるが良いあの娘に。
そうでなくてはならぬのだ。これより起こる混沌と混乱、その為にお前にギフトを贈り、今日まで生かし続けてきたのだから。

「ですがまあ、これはこれで良しですわね」

自分が持つVの号をエレンに渡した事で、彼女はエレン・V・ヴォクスホールとなった。
女王執行権すら併せ持つV──魔道師団軍団長は、この先、歪んだ権力を大いに行使してくれる事だろう。
あの優しさ、民への想い。その大義名分は彼女を縛る鎖となってその身を削り、傷付け、大いに熟成を進めるだろう。
ともすれば自分では到底出来うる筈も無かったカナメへの侵攻すら行うかも知れない。
その意味を考えず、黒き魔女コクーンの喉元に切先を突き付けるかも知れない。
自分には出来ない。出来得るものか。あの存在の正体を知る自分にはとても。

「嗚呼、愛しき常世の君。あなた様はなんと恐ろしいのでしょう」

唯一の女王アメリア・ヴォクスホールは惚けた顔で、遠き地に座す絶対無比なる存在を想う。

「あなた様のために、極上の贈り物を用意してございます」

パン、と彼女が手を打ち鳴らした瞬間、暗闇に光が灯る。
一斉に点灯する照明、そして明らかになる全貌。
王宮地下に秘される広大なヤードに居並ぶ鋼を纏う数万の兵。

魔道師団。一騎当千を現実に遂行するひとでなしのレギオン。
物言わぬ戦いの犬共。果てさえ見えぬヤードを埋め尽くし身じろぎ一つせず居並ぶ兵達。

彼等は勅命無くして動かない。纏う鎧は単に身を守るだけで無く、ラインからの供給を受ける動力源でもあるのだ。
故にあの中に潜むものどもはその時まで目覚めない。勅命が下り、鎧に仕込まれた転送バイパスが開き、
供給が開始され魔道機関に火が灯り、アクチュエーターが解放されたその時、一騎当千の兵と化す。
それまではひたすら眠る。まだ人であった頃の夢を見ながら。
誰が知ろう。その中に居る者達こそ、リバーサル・シフトの犠牲者、抜け殻の異形に成り果てたかつての王国臣民であるなどと。
女王はただ一人、王宮地下の魔道師団本拠地、その広大なヤードを一望する謁見所に立ち、
勅命と言う名の鎖に繋がれた化物達、物言わぬ軍団を冷厳に見下ろす。

「我が愛しき常世の君。これらに匹敵するものをお贈り致します」

すう、とアメリアが手を伸ばした瞬間、ヤードの中空に浮かび上がるホログラム。
映し出されたものは黒き巨大な塊だった。その中央にあの獣〈C・E〉の顔があった。

「〈C・E〉──コクーン・イーター。あなた様を喰らうその為だけに作り出したモノです」

ぞるり、ぞるり、と黒き塊が蠢く。それは黒い手だった。
人形に纏わりつくものは、黒い手の群れだった。それは──人形の四肢より生えていた。

「数万回あなた様の黒髪を喰らい、遂にこの日を迎えました」

お気に入り頂けると嬉しいですわ、とアメリア・ヴォクスホールは微笑む。

──ねえ行っちゃうの?

笑顔の奥で、遠き日の情景が浮かび上がる。去り行く彼女の裾を掴む小さなこの手。

──帰らねばお前たちの身を危うくする。

幼子の声に彼女は答えた。黒髪の魔女の声は相変わらず抑揚が無く、やはり無表情。

──おねがいきいて黒い魔女さま。
──お前は何を願う。
──わたしあなたになりたい。
──お前は失うぞ。
──なにをうしなうの?いいよ、わたしにはなにもないもの。

その幼子は孤児だった。光を放たぬ暗い瞳をした金髪の小さな娘がそこに居た。
それは娘の意志だったのか、この地にあの存在を留まらせようと懇願するもの達が差し出した贄だったのか今となっては誰も知らない。
しかし娘の瞳の中には確かに虚無が宿っていた。

──お前の名は?
──アメリア。

そうか、良い名だ。黒髪の魔女は薄く微笑む。そして娘の額に手を置き、囁く。

──ならば見るがいい。お前に理解出来るなら。

その瞬間、娘の視界が闇に落ちる。
気が付けばあたり一面の黒。しかし目を凝らせば小さな光が無数に見えた。
やがて光の一つが徐々に近付き、突如視界の全てを覆う。光ではなかった。光を反射し輝く青いものだった。
その青はきっと海、そして所々に緑、その緑が急速に迫る。違う、これは今まさに自分が堕ちて──暗転。

眼を開けた時、頭上に青空が広がっていた。遠くより取り囲むは深き山々。自分は広い原野その只中に一人立っていた。
足元に黒い岩。この身体を高く飛ばし自分の居た場所を宙より眺める。
いくつもの山々が崩れ去り出現した平地、その中心に巨大な黒い──暗転。

そして活動を始める。
要岩から発した金色の線は天に昇り緩やかな放物線を描いて遠き地に落ち地の中を巡り再び岩にたどり着く。
やがて安定を遂げ金色は失せ透明な力の奔流となって循環を開始する。ラインの完成。
やがてヒトと呼ばれるキャストが生まれ──暗転。

長い眠りから覚めた時、地にはキャストが溢れていた。
メンテナンスも兼ねラインの落ちる遠き地へ降り立つ。そこのキャスト達はラインの力を受け変容しつつあった。
今後の影響を考えガス抜きを行う。バイパスを開ける。安定した。では帰ろう。留まり続けてはラインの運行に支障を来たす。
そのとき服の裾を掴む小さき手、幼き娘。瞳に虚無を宿した自分──

──ではお前にラインの管理を委任する。

眼を開ければ草原の只中に娘は一人立っていた。黒髪の魔女は、既にいない。

──しかしゆめゆめ驕るなかれ。私はいつも見ているぞ。

けれど耳元で囁かれた彼女の声に娘は頷く。そして気付く。この身に何かが宿った事に。

──ありがとう!黒い魔女さま!このお礼はッ!

澄み切った青空に向け娘は叫ぶ。頭上から降り注ぐ彼女の声。

──たまにで良い、美味なる馳走を届けてくれ、では。

遠き声は、空の彼方に消えた。

「ああ、常世の君、我が愛しき黒い魔女さま。これで終わりではありません。我が娘も晴れてこちらへ堕ちました。
 いずれ熟成し、美味となったその時あなたの元へお贈りします。ああ、とわにお慕い申しますコクーン。全てはあなたへのギフト!」

あの狼の娘でさえも、と女王は微笑んだ。
















■狼の娘・滅日の銃
■第十一話/ジェヴォーダンの獣■了

■次回■第十ニ話「おとうさんだいすき」


※おまけェ
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/a2/2c62ff5626c2bb448127c5c0dacd7c04.jpg



[21792] 第十ニ話/おとうさんだいすき
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/10/22 22:00




奴が見ている。それを感じ若き藤原の胸が高鳴る。
炎の出会いから五年、彼は専従班の一つを任される程に成長を遂げていた。
それでも驕る事無く常に過酷な職務へと身を投じ、自身を磨きつづけてきたのは、
あの日の屈辱が脳裏から決して離れなかったばかりでなく、ともすれば蕩けてしまいそうな狂気を今一度、と切望していたからだ。
奴は必ずまた来る。あの日の続きを。奴は牙を研いでいる。だから自分も牙を研ぐ。喰うか喰われるか。
その時は誰にも邪魔されず最後まで。いつしかそれは彼の原動力ともなっていた。
あの日、本能のまま動き敵を屠った拳銃とナイフを用いた技は、五年の月日で熟成されガンソード・アーツと呼ばれるスタイルにまで進化を遂げた。
銃は反動の少なく貫通性の高い5.7mmの口径のままではあったが、標準装備のコンバットナイフから堅牢なフクロナガサと呼ばれる小刀に持ち替え、
それは鬼包丁と仇名される彼の代名詞ともなった。

待たせたな、準備は完了、これでいい、いつでも来い、殺り合おう。
お前の居場所は掴んでいる。ヴォクスホール領事館に保護されていた事も、最近自分と同じ得物を入手した事も解っている。
さあ来い。殺ろうぜ。

彼の想いに応えたかのようにその日、不意に注がれた熱い視線。
来た。藤原の胸が高鳴る。
同僚に悟られぬよう簡単に身辺整理を済ませ、庁舎を後にした藤原は、かねてより目星をつけていた埋立地へと足を向け、
誰も居ないその只中で神経を研ぎ澄ます。さわさわと冷たい冬の雨。濡れるセイタカアワダチソウ。遠く街の灯。
暗闇の中意識を探る。居る。奴が居る。その距離は確実に狭まり、そして。

「あはは。お互いもう、辛抱出来ないよね」

振り返れば女が一人。
卸し立て真紅の鮮やかなドレスを身に纏い、薄く化粧を施した彼女は、もう少女ではなかった。とびきりの女になっていた。
そのくせ、未通女(おぼこ)のように軽く頬を朱に染めていたのは、彼女にとって彼も、想い人であるかのようだった。

「ねえダーリン、アタシを殺したい?」

五年ぶりの再会。彼女は一匹の雌になっていた。

「ねえダーリン、アンタ殺していい?」

雄が笑う。心底嬉しそうに雌も笑う。

「それじゃ」
「おう」

すう、と彼女の右手に現れたフクロナガサと左手にゴー・ナナ。
藤原は構える。右手にゴー・ナナ、左手にフクロナガサを握り締め。その姿は鏡向かい合う鏡のようだった。

「殺ろうか」
「殺ろうぜ」

同時に跳躍、閃光、兆弾、重なる刃先、火花、火花。
雌が笑う、雄も笑う。笑い二匹は殺し合う。夜雨の中で始まる獣同士の共食い。

「あはは!あははははッ!」

放火の閃光と切り結ぶ火花に照らされて女が笑う。無論藤原も笑っていた。そして気付く。
やはり同じだ、こいつは俺と同じ進化を遂げている。技も互角、力も互角、殺意すら互角、違うのは容姿。
片や男、片や女。それが何を意味するのかは解らない。だが今だけは感謝しよう。

「素敵!アンタやっぱり最高ッ!」
「そりゃこっちの台詞だッ!」

こんな女、二人といねえ。
俺を殺せる唯一の女、俺が殺せる唯一の女。極上の女、最高の女、運命の女。
例えそれが仕組まれた運命とやらでも構やしねえ。気を抜くな、
全てを放て、全てを受け、全てを注げ、それはすべてこの日の為に。ああ、嗚呼最高だこの野郎。

「あはははははッ!」
「イャーッツハァ!」

その饗宴は永遠に続くと思われた。
湾に突き出した牙の形をした埋立地、人に創られ忘れ去られたその場所で延々と殺し合う二匹の獣。
フロムダスク・ティルドーン、宵闇から薄明まで。体中から血を流し喉から荒い息を吐き、それでも笑う雄と雌。
夜半まで降り注いだ雨はいつしか上がり、夜明け前、白いもやとなって辺りを包む。

「くっ!」
「がっ!」

ぼろぼろに欠けた最後の一刀が互いの肩口を貫き、遂に折れる。
残る得物は二挺の銃。残弾共に一発。
男は右手、女は左手で銃を構え、互いに空いた肩口から血を流し、既に使い物にならないであろうその腕がだらりと下がる。
そのままじりじりと間合いを詰めていく二人。銃口は共に額を狙う。
一歩二歩、三歩四歩、既に眼を瞑ってでも撃ち抜ける距離にも関わらず尚も近付いて行く二人。
五歩六歩、二つの銃口が交差し、そして。

「ねえ、ダーリン」
「あんだよ」

ゴリ、ゴリッ、と互いの額に押し付けられるバレル。

「名前で呼んで、シンヤ」
「生意気なんだよ、マキ」

額に銃口。瞬きもせず互いを見つめ、笑う二人。

「これで御終いかな?やっぱり寂しいね」
「だろうよ。終わらねえ祭りなんざねえんだ」
「楽しかったね」
「ああ、最高だったぜ」

互いに銃口を押し付けたまま震える二人の人差し指。
力を篭めれば全てが終わる。けれど終わらせたくない。だが引かなくてはならない。
それが全てを賭した相手への礼儀であり、獣の矜持だ。結末は共倒れ。なんと無様で最高なフィナーレ。
それしかない。だがそれでいい。藤原が力を篭めようとしたその時、不意に女が囁く。

「あのさ──アタシが勝ったらさ」

その言葉に噴出しそうになるのをかろうじて堪える藤原。
その顔を目にし、ぷくうと拗ねたように頬膨らますマキを見て、やばい、こいつ可愛い、と思ってしまう。

「──悪ぃ、おめえポジティブなんだな」

どう考えてもお互い後が無い。なのに未だこいつは勝ち負けを考えている。諦めなど端から考えていないのだ。
それを思うと藤原は愉快で仕方が無い。

「言えよ、聞いてやるさ」
「それじゃ──あんたを犯していい?」

いいぜ、と藤原は笑う。
五年前始めて会ったその時から、この身体も心でさえも、みんなおめえに蕩けちまってんだ。
むしろそれはご褒美ってもんだ。だからよ、と彼は言葉を続ける。

「その代わり俺が勝ったら、一発やらせろ」
「ふふっ、もちろん──望むところよ」

次の瞬間、同時に引き金が引かれ撃鉄が落ちる、が。

「──え?」
「──お?」

ガチン、ガチンと虚しく響く二対の金属音。双方共にミスファイア。
なんだよそりゃありえねえだろ、と二人がそれぞれの撃鉄を見れば先端の撃針が折れていた。
手から力が抜け、二挺のゴー・ナナが泥の中にひとつ、またひとつ落ちていく。

「──延長戦」
「──あ?」

そして藤原の口が塞がれる。その女──真来の唇に。





狼の娘・滅日の銃
第十ニ話 - おとうさんだいすき -





知らない天井だ。嘘ごめん、言ってみただけ。
ぼう、と視界に映る見慣れた木目が現実への帰還を告げていた。一瞬で藤原の脳裏を過ぎる二十年の月日、そして覚醒。
背中から娘の寝息が聞こえる。だからか──と父は微笑む。

「似てきたよなあ」

真澄を起こさぬようにそっと起き上がり、娘の寝顔を見つめる藤原。
その顔も、髪も、安らかな吐息も本当に真来に似てきた。だから久方ぶりにあいつの夢を見たのだ、と彼は納得する。

「──フジワラスタイルもマジで終了だな、こりゃ」

同じ屋根の下で暮らしているとつい忘れがちになるが、こいつはもういっぱしの女なんだよなあ、としみじみするお父さん。
あの時はまんまとしてやられたが、添い寝はもう終わり。
償いは他で存分に補うさ、と朝日が注ぎ始めた部屋の中、微笑む男の目尻に深い皺が刻まれる。

「大きくなりやがって」

俺はこいつに何を残してやれるのだろうか。
こんな事を思うのは年食った証拠だな、と藤原が苦笑する。
たいして残せるものは無い。けれどせめて、この子にとって自分と共に過ごした日々が笑顔で埋まるよう、踏ん張るか。

──離れなさいフジワラさん。あの娘はアナタを破滅させまス。

ふと脳裏に過ぎるベアの声。思い出し首を振り藤原は今一度つぶやく。

「ふざけるな。この子は俺の全てだ」

──それゆえにでス。あの娘は今に牙を剥く。

「上等じゃねえか」

昨夜の一戦は久方ぶりに藤原の血を滾らせた。
忘れかけていた獣の血、血流の入れ換わる様を味わえたのは果たして何年振りだろうか。
ともすれば蕩けてしまいそうなあの感覚。けれどあの頃には戻れない。自分はもう雄ではない。親だ。父親だ。

──あの娘はアナタを殺しまス。アナタの──心を。

「この子に殺されるなら本望ってもんだ」

オゥケイ、殺してくれ。と自身に刻み込むように藤原は呟く。
運命の女は母になった。あの極上の雌は母親になれた。
ならば生き残ったつがいの片割れとして俺は雄ではなく父としてこの子に喰われよう。
親を餌として子は立ち、子もやがて親となり身を子に捧げる。その繰り返し。
この子を巡る輪廻の中に俺も入れるのならそれこそ本望。喜んで血肉となるさ。

「んー──あれ?お父さん。おはよ」

そして、娘が目を醒ます。
目をこすりまなこを空ければ優しく微笑む父の顔。

「──すけべ」
「はあっ?」

寝ぼけまなこでいたずらな笑みを浮かべる真澄。

「お父様。さてはわたしの寝顔に欲情されましたね?」

寝床の中でうふーん、と大げさに身をくねらせる娘を見てお父さん溜息ひとつ。

「うん。そんなタワゴトは目ヤニとヨダレ拭いてから言おうな?」

ぶおん、と投げられた枕が藤原の顔に直撃。

「デリカシーなさすぎ!知らない!」

そのままがばりと立ち上がり、どかどかと足音を響かせて洗面所へ駆けて行く娘。
ぼとり、と落ちる枕。その姿を見送りながら目を細めるお父さん。

「──育ち盛りだなあ」

本当に大きくなった。投げつける枕の威力も中々のもんだ。手足も背も随分伸びた。
五年前初めて添い寝した時は背中からしがみつくといった感じだったのに、今じゃ真っ当に抱き締めてやがる。
こりゃ本気で諭さないと、今にあいつ、野郎に変な免疫ついちまう。くわばらくわばら。
今晩あたりちと本気で父の威厳つう奴をだな──

「──あれ?」

その時初めて気付いた事。藤原の背中にじんわりと蘇る柔らかな感触。

「あいつ、胸大きくなってねえか?」

いやいやいや、ないないそれはない。
ぶんぶんと首を振り、布団を畳むお父さんでした。


 
蛇口を開ければざばざばと冷たい水が流れ出す。
真澄は長い後ろ髪をバンドで束ね、前髪をクリップで留める。
準備完了。腰を曲げ流れる水を両手の平に溜め、ぱしゃぱしゃと顔を濡らす。
冷たい水が火照った顔の熱を取り、未だ眠る頭の半分を急速に覚醒させる。何度も繰り返してきた朝の儀式。
やがて蛇口が閉じられる。壁掛けのタオルを手に取り顔を拭く。そして身を起こせば洗面台の鏡の中に──あの女。

「おかあ──さん?」

鏡の中で、あの女──藤原真来が微笑む。

「おいで。真澄」

不意に意識が途切れる。一瞬のブラックアウト。
再び視界が戻れば白い部屋。何も無い病室。無意識に握った自分の手。
見れば一回り小さい手。六年前。十一歳の自分がそこに居る。

「さ、おいで」

ベッドで半身を起こし手招く母は、まるで鶏がらの様にやせ細り、けれど病的なまでに白い肌は妖艶な美しさを放っていた。
その時、不意に真澄の脳裏に引き戻される記憶。
湯船が赤く染まったあの夜、母は一晩中自分に付き添ってくれた。
夜が明け、未だ鉛の様に重い下腹部の感覚に耐えながら目蓋を開ければ、自分の横で身じろぎ一つせず倒れ伏した母の姿。
肩を揺らしても反応が無い。はあはあと口元から微かに荒い息。異変を察し病院へと連絡しようとした矢先。突如現れる白衣の集団。
茫然と立ち尽くす真澄の前から運び出される母。

──藤原真澄さんですね?お母様は私達に任せて。さ、あなたも一緒に。

白服の一人に声を掛けられた所で記憶が途切れる。
どこへ連れて行かれたのかは解らない。気が付けば意識を戻した母がベッドから身を起こし、微笑みながら自分を招く。

「お母さんどうしたの?ねえ大丈夫なの?」
「何も心配要らないよ真澄。こうなる事は解ってたからね」

優しく自分を引き寄せ、髪を撫でる母の手からは生気が感じられなかった。

「お前は女になった。だから、あたしの役目は御終いなんだよ」
「なによそれ、わけがわからない」
「これでも持った方さ。理論上の耐用年数、その倍は生きれたんだ」

母が何を言っているのか真澄には解らない。
けれど彼女がただの病気ではなく、命の灯火が消えようとしている事だけは理解出来た。
何故かは知らない。だがそう実感した。

そうか、お母さん、終わるんだ。

口にこそ出しはしなかったが、その事実を真澄は肌で感していた。
しかもそれを自分でも驚くほど冷静に受け止めている。どこか他人事の様でもあった。
まるで自分を含めた白い部屋の全てを俯瞰するように、ただその光景を静かに見つめ、受け入れていた。

「真澄、やっぱりあんた、あたしの娘だ」

娘の顔を見て真来は微笑む。

「なんて良い眼してんだろ」

その言葉が真澄の胸に突き刺さる。母の目に映る自分の眼は果たして。

「あたしが逝くの、今か今かと狙ってるね」

本能的に顔を背ける真澄。
心を覗かれた。鳥肌が立つ、悪寒が走る。彼女は全てを見抜いていたのだ。

「違う!私は」
「いいんだよ。あんたが小さい頃から解ってたんだ」

あいつにはとてもじゃないが言えなかったけどね、と真来が笑う。

「おまえが生まれた時、あいつのはしゃぎようったら無かったからね。
 だらしなく目元を緩ませてさ、口なんか半開きで惚けちまってさ、滑稽だった。
 けれど、そんなあいつが愛しくて堪らなかったさ、お前と同じくらいね。だから余計胸が痛んだのさ。
 あいつがお前を見つめる眼差しは大切な宝物を見るようだった。けれどお前があいつを見つめる眼は違った。だから」
「なんで今さらそんなことを言うの!あの男は、私を!」

私を捨てた──喉元から声を吐き出すように真澄は言う。

「そうだね。お前はそう思ったんだね。そう思うことで抑えたんだね」

娘を諭すように淡々と告げる母。
けれど真来は思う。自分は一度もそんな事など言った覚えは無い。どうしようもない理由があって別れたとしか話していない。
それをこの子は、父は自分を捨てた憎き仇のように思い込んでしまった。
何故そうなってしまったのか。真来には痛いほど理解出来る。
それは、この子に芽生えた理性が、この子の本能を抑えるべく作り出した虚像なのだから。
それに気付いたからこそ敢えて否定も肯定もしなかったのだ。しかし。

「いいんだよ、真澄」

自分は終わりだ。もうこの子を守る事が出来ない。もうこの子を縛る事など出来はしない。
けれど、愛しいこの子を授かった事を過ちにはしたくない、だから──そして真来は告げる。

「お行き、あの男のとこへ」

この子に芽生えた理性という名の自我が、鎖となって本性を縛り続ける事を、切に願う。
その気持ちさえ忘れなければ、お前はあいつの所へ行っても上手くやっていける。

「いやだよお母さん、そんな事言わないで、だったら一緒に」
「それだけは駄目なんだ」
「何で、何で駄目なの」
「あんたと殺し合いたくは無いからさ」

真来の言葉に真澄は目を剥く。

「あたしはまだ、あいつに惚れてる──解るだろ?真澄」

母を憎んだ事など一度も無い。
女手一つで自分を育ててくれた彼女。いつも優しく自分を包み込んでくれた存在。大好きなお母さん。
なのに、ああ、それなのに。今、心の奥底から湧き上がるこの感情は何だ。
それを認め真澄は戸惑う。娘の心を察し、真来は静かに告げる。

「あたしの眼を良く見るんだ」

顔を上げれば、母はもう笑ってなどいなかった。

「見えるかい?お前が映っているね?」

見開かれた母の瞳の中に自分が居る。

「お前はいま、どんな眼をしている?」

その眼を見た。
そして──意識が再び、暗闇に落ちる。

「おーい、真澄ぃ。まだ空かねえのか?」

気が付けば洗面所。
戸の向こうから自分を呼ぶ父の声で我に返る。
目の前に鏡があった。鏡の中で自分を睨みつけている十七歳の少女が居る。
その顔は、驚くほど母に似ていた。
 

 
今朝のあの子は少しおかしかった。
執務室の天井をぼんやりと眺めながら藤原は述懐する。
あれからいつも通り一緒に朝食を取り、いつも通りたわいのない会話をし、いつも通り一緒に家を出て後ろ姿を見送った。
いつもの声、いつもの笑顔。相変わらず可愛い娘。
別段どこに異常がある訳でもないのだが、身に纏う雰囲気が妙に艶かしいというかなんというか。

「──オンナノコの日か?」

何てことをあの子に問おうものなら、また今朝のように枕とか目覚まし時計とか飛んで来るかもしれない。
くわばらくわばら、と肩をすくめるお父さん。そしてはぁっ、と深く溜息。

「ひと波乱、あんだろうなあ」

今朝、つい言いそびれてしまった事。それはフジワラスタイル終了の提案。
つまりは添い寝はもう御仕舞いにしようという宣告だ。世間一般がどうかは知らないが、やはりアレはちと異常だ。
娘に欲情する気なんざさらさら無いが、やはり教育上宜しくない。男に変な免疫ついて誰彼構わず添い寝するような女にはなって欲しくない。
そんな事になろうものならお父さん泣く。泣きながら殴る。もちろん男の方を。しかし何でまた急に。
そこで藤原思い出す。あ、馬鹿忘れてた。
あいつ昨日、挨拶も無しに急に帰りやがって。携帯を取り出し呼び出せばワンコールで出る真美。犬みてえだなおめえ。

「──すんません」
「──おう。昨日どうした?」
「──ちと野暮用が、ハイ」

嘘だな、と藤原は直感する。声に抑揚が無い。何かを隠している証拠だ。

「師匠──真澄ちゃん、その」
「言え。昨日何があった」

通話口の向こうで途切れる声。

「喧嘩でもしたんか」
「──はい。そんなとこです。すいません」

これも嘘。さてどう囲むか、と藤原が思案した矢先。

「来週、何とか時間作ってそっち行きます。その時にお話します」
「──解った」

そのまま切れた通話。なるほど、原因はこいつか、と藤原は納得する。
たかが娘っ子同士の痴話喧嘩に目くじら立てる気など毛頭ないが、それにしてはやけに思いつめていたような真美の口調が気になる。
ふと沸き起こる妙な胸騒ぎ。これはまるで。

──見ないふりも過ぎれば、取り返しのつかぬ事となり得る。

繭子の言葉を思い出すも、思い直し首を振る藤原。
考え過ぎだ馬鹿野郎、と自身を戒め、机上に置かれたままの紙コップを思い出し、手に取り口に含む。
冷めた珈琲が、やけに苦い。


 
遅い昼食。閑休庵の暖簾をくぐれば案の定、奴が居た。

「間に合ったか?」
「閉まってまシタ」
「だよなー」

がっくりと肩を落としつつ蕎麦を手繰るベア。
しかし藤原に妙な違和感──あ、卵乗ってない。

「おう、どうした?今日は月見じゃねえのか」
「最後くらい、カケを楽しもうかと思いマシテ」
「最後?ふーん、帰るんか」
「ワタシできればココ離れたくありませんデシタ。
 ですが慈悲深き我らが主、王宮食堂に蕎麦を加えて下さりました。そのご高配に深く感謝せねばなりまセン」
「おう、よかったじゃねえか」
「良くないのでス!蕎麦は立って喰わねば意味ないのでス!」
「だったら立って喰えばいいじゃねえか!」
「それじゃ私バカみたいでス!」
「おめえ正真正銘の馬鹿だよ!」
「女王何も解ってないでス!王宮食堂にはカウンターが無いのでス!しかも七割蕎麦で美味過ぎるのでス!何も何も解ってない!それではただの旨い料理に過ぎない!蕎麦粉三分つなぎ七分のモサモサが無い!箸で摘んだら切れるか切れぬかの微妙なコシが無い!解っていない!解っていないのだ!立ち食いとは!そのギリギリを味わい愛でるものだ!その誉めようがない味を何とか誉めて誉めて誉め倒して金払わず立ち去るのが真なる立喰師なのだ!」
「払えよ!熱く語んなよ!途中から語尾まともになってんじゃねえよ!」

半泣きで残る蕎麦と汁を掻き込むベア。やがてタンッ、と威勢良く空になった椀が置かれ。

「ごちそうさん、オヤジサン、いくら?」
「はい、二百八十円ねー、まいどー」
「払ってんじゃねーか!」

プフー、と最後の蕎麦を堪能した後、足元から大きなリュックを拾い上げ肩に背負うベア。
大きな荷物を見て、まさかこいつずっと野宿とかしてたんじゃねえのか、と些細な疑問が藤原の脳裏に浮かぶ。
その様子を見て親指を立て、グッドプロティン!と笑うベア。

「私ここ去りますがネ、藤原サン」

本当にいいんでスネ?と今一度彼に問うベア。

「しつけえよ。ほれ、コレもってけ」

藤原が差し出した袋を見て、大袈裟に目を丸くするベア。

「オウ!酒と白ダシでは無いでスカ!これで帰ってからスイーツオムレット作れマス!」

うやうやしく両手を合わせ、ナマステー、と、どう見ても間違った日本式挨拶をするベアに藤原は苦笑する。
なんというか本当におかしな奴だったと。

「次やん時ぁ、あんな変な得物使うんじゃねえぞ」

だがひと時とは言え、戦いの愉悦を味あわせてくれたこの男に妙な親近感が沸いてくる。
そう思えばこの別れも少し寂しいな、と藤原は笑う。

「次──次でスカ。あるといいでスねエ」

やや神妙な面持ちで藤原に向き直り。

「土産のお礼にひと言だけ残しマス」

そして魔道第五機動師団〈青〉副団長ベア・グリーズが告げる。

「フジワラさん、嵐が来ますヨ。この町が吹き飛ぶ程の嵐がネ」
「警告ってやつか?」
「警告?とんでもナイ」

あなた我が主の事何も解っておりマセン、とベアが笑う。

「ワタシはネ、フジワラさん。女王の言葉を伝える勅使であると同時に、もう一つの任務も与えられてマシタ。
 その仕事も終えたので帰るのでスヨ。この意味が解りますカ?」
「そっちが本題か。おめえ、何しに来たんだ」
「見極め人なのでス」
「何のだ」
「強きもの。それも嵐を前にしても逃げる事のないであろう、より強きもの、でスヨ」

なのでわたし、帰りマス、とベアは満足げに微笑む。

「頑張ってくださいネ、フジワラさん」

しかし藤原は彼の言葉をふん、と笑い飛ばす。来るなら来い、とでも言うように。

「つうかよ、電車出るぞ」
「オウ!」

振り返れば発射ベルが鳴り終わり、改札口の向こうで静かに動き出すオレンジとグリーン、ツートンカラーの路面電車。
オウこれもまたサバイバル!と叫びアディオス!と笑顔のまま駆けて行く清々しい馬鹿。
改札を飛び越え、追う駅員を振りほどき、電車の窓にしがみ付くベア・グリーズ。
親指を立てこれで家に帰れマース!とか叫ぶ奴も奴だが、それでも止まらない電車も電車だと藤原は思うも、
まあこの町じゃ日常茶飯事だよなあ、と、五年も住めばなれたものですお父さん。そして駅を出てふと気付く。
あ、昼メシ喰うの忘れた。


 
「あれ?どしたのお前」

夕暮れ時、庁舎から出ると制服姿の真澄が両手に買物袋を下げ藤原を待っていた。

「か、買物帰りよ!ぐ、偶然よ、ぐーぜん!」

なんかどっかで聞いた台詞だよなあ、と軽いデジャブ。
それでもまんざらでもないお父さん、大きな方の袋を持ち、親子仲良く家路を歩く。

「電車乗らなくていいのか?」
「いいじゃない、どうせ三駅くらいだもん。ゆっくり帰ろ?」

などと腕を絡めて来るものだからお父さんたまりません。
鼻の下をだらしなく伸ばし半笑いの姿など弟子とか局長に見られたら一体何を言われるか。
まあつまり、やはりこの男、娘と共に暮らした五年を経て、立派な親馬鹿と成り果てた。

「なあ、真澄」
「んー?」
「胸、当たってんぞ」
「あててんのよ」

やっぱ一回り大きくなってねえか、と藤原思うも口には出さない。こわいから。

「お前も大きくなったよなあ」

ふと見上げれば山に落ちる夕日が見えた。
黄色く染まる稜線。その上に淡い青、濃い青、そして紺色。瞬く一番星が光っている。

「なあ真澄。添い寝はもう、止めねえか?」

自然とその言葉が口に出た。一瞬の沈黙。そして。

「私がもう、おんなだから?」

藤原が苦笑する。ストレート過ぎるだろお前、と。

「まあ──そうだな。お年頃って奴だろ?」
「──いいよ」

やけにあっさりと返す彼女に少々肩透かしを食らう藤原。

「その代わり教えて欲しいの」

立ち止まり腕を解き、彼の前に立つ真澄。

「ねえ、お父さんは本当に私を捨てたの?」

不意の問いかけに、ああ、と男は短く返す。その通りだと。

「今さら許せ、とは言わねえよ」
「嘘ね」

一瞬の沈黙。
二人の横を通り過ぎるオレンジとグリーン。やがて路面電車の喧騒が消えた頃。

「傷つけたくなかったんでしょ?私たちを」

真美さんから聞いたわ、と笑う娘に、あんにゃろう、やっぱ馬鹿だ、と口元をしかめる男。

「危険な仕事に家族を巻き込みたくない、私たちを守るその一心で辛い決断をしたんだって」

いやあの、それは、えっと話せば長く──ベソ美てめえなんて事を。
だからか、だからおめえ逃げたんか。くそてめえ来週覚えてやがれ──と顔を背け頭を掻く男。

「ね、お父さん。もうどこにも行かないで?お願い」

娘の言葉に深く頷き、そして藤原は思う。
罰だと思っていた。自分に子など持つ資格など無い。
血と硝煙が織り成す黄金色の中で、いつか誰かに放った弾丸が巡り巡ってこの胸を貫き、自分は塵に帰るのだ。そう思っていた。
けれどこれは──そうか、これはご褒美だったのか。なんだ俺はちっとも間違っちゃいなかった。
神様はかつて鉄火を振るうべく獣を解き放ったっていうが、そのうちの一匹が俺だったってわけか。
ありがとうよ神様!こりゃ最高じゃねえか!もう離すもんか、やっぱりこの子は俺の宝物だ。

「いかねえよ。いくもんか。こんなべっぴんさん残してよ」

どさり、と買物袋が足元に落ちる。
次の瞬間、感極まったかのように涙を散らし彼の胸に飛び込む真澄。

「お父さん!」

胸に抱きつく娘の眼を見て男の心が凍りつく。

「だいすき!」

その腕を娘の背中に回そうともせず、ただ呆然と立ち尽くす。
そして女の言葉を思い出す。

──みんなが枯れ果てた時、また一緒に暮らそう。

ああ、これは、そういう意味だったのだ。
あの女は狼の如き勘でそれに気付いていたのだ。だからこの娘を自分と離したのだ。
これがご褒美?とんでもない!ああ神様あんたって奴は俺を決して許してくれなかったのか。
ああ、ああなんてこった、これが、これこそが──罰。

「もう!はなさない!」

男は見てしまったのだ。彼女の涙、その奥で光る、見慣れたあの眼光を。























■狼の娘・滅日の銃
■第十ニ話/おとうさんだいすき■了

■次回■第十三話「嵐の前の日」

※おまけェ(若い頃のおとうさんとおかあさん)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/82/755f179dba4106d4357fb6edb7db1946.jpg



[21792] 第十三話/嵐の前の日
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/11/03 04:02
夜中に眼が醒める。
けれど瞳は開けない。身体を起こす事も無い。ただ意識を研ぎ澄ます。
すう、と居間の戸が開く。何かが立っている。真澄の形をした何かが立ち尽くし、自分を見下ろしている。
呼吸を乱すな、悟られるな、あの子に感ずかれるな。男は身体を弛緩させながらも意識だけは研ぎ澄ます。
あの子が座る。あの子が屈む。あの子の顔が目蓋の向こうで自分を見る。眼を開けるな。それを見るな。
はあっと熱い吐息が頬に触れる。あの子の息、荒い息。

「──おとう、さぁん」

囁く小さな声と熱い息が耳元に触れる。

「──すき」

はぁはぁと熱い吐息、せつなげな囁きで男は狂いそうになる。

「──だいすき」

欲情の篭る荒い息。
はあはあと耳元にかかる喘ぎはやがて男の口元に掛かり、湿った彼女のくちびるが彼の口へと重なろうとした瞬間。

「んんー、うぇあ?」

大袈裟な寝言とこれ見よがしな寝返り。その瞬間、あの子の身体が離れる。
即座に身を起こし、慌てて立ち上がる気配、居間の戸を閉め廊下を駆けて行く小さな足音。気配が消える。
やがて男は眼を開ける。身を起こし振り返れば閉じられた居間の障子戸。
軽く首を振り、どうか今のは悪い夢であってくれ、と噛み締める。
けれど未だ耳元と頬と口元に残る熱の残滓と前髪に微かに香るあの子の匂いはそれが現実だと告げていた。
あの夕暮れから、夜毎繰り返される悪夢は確実に男を蝕み始めた。
その度に繰り返される危うい狸寝入り。男は思う。眼を開けたなら何を見るだろうかと。
その時、あの娘はきっと、あの眼をしているに違いない。
そのまま寝床で身を丸め男は夜をやり過ごす。けれど彼はいつも思う。
朝は、来るのだろうかと。





狼の娘・滅日の銃
第十三話 - 嵐の前の日 -





「ごちそうさまでした。今日も美味しかったですよ、真澄」

相変わらずのどんぶり飯をぺろりと平らげて平然と会釈する大家。
いつもどおりの夕飯風景。しかし彼の姿は無かった。時計を見れば八時近く。
ここ数日多忙らしく、遅い帰宅が続いている。真澄は心なしか元気が無いようにも見えた。

「どうしましたか。真澄」
「──ううん、なんでもない」

取り繕うように真澄は笑う。
そのとき、傍に寄り、彼女の腕に添えられる小さな手。

「繭子、さん?」
「大家と言えば親も同然と申します」

彼女は何も言わず、自分より一回り大きくなった娘を抱き寄せる。

「──ありがとう」

そのまま繭子に見を委ねる真澄。
小さい筈の身体がやけに大きく感じる。まるで包み込まれるような心地良さが真澄の心を満たしていく。
繭子は何も言わない。まるで全てを理解しているようだと彼女は感じる。だから何も言わないのだ。
有り難い。何も言わず父が帰るまでこうして寄り添ってくれる。それだけでどれほど救われたか。
もし今、一人で彼の帰りを待ち、空虚な時間に身を置き続けていたとしたら、きっと自分は狂ってしまうだろう。
この胸に過ぎる言いようの無い喪失感の原因はきっと──あの日からだ。

一週間前、気持ちを抑え切れず父の胸に飛び込んだ。

その日からだ。自分に対し、彼がどこか一歩引いたような態度を取り始めたのは。
表面上は変わらない。相変わらずの優しい笑顔。穏やかな声。
けれど、その瞳の奥に時折過ぎる無機質な光。やがてその意味に気付く。
彼は、避けている。自分を直視するのを。

「明日は満月ですね、真澄」

小さな手が娘の髪を撫でる。

「明日の夕餉は結構です。その代わり身を空けておきなさい。解りましたね」

繭子の言葉になんで?と問いかけようとしたその時。

「ただーい、まー」

玄関から待ちわびた声が響く。
一瞬身を固める真澄。その時、彼女の肩をぽんぽん、と優しく叩く小さな手。
見上げれば人形顔で無表情の大家がこくり、と頷く。ぎこちなく笑みを作り、ありがとう、と呟く真澄。
そして身を起こし、愛しい彼を出迎えるべく席を立つ。

「おかえりー、今日も遅かったね」
「いやぁ悪ぃ悪ぃ、ここんとこ色々重なってよ」

やがて玄関先から聞こえて来る親子の声。いつもどおりの声。けれど偽りに満ちた声。

「──さて」

そして繭子も身を起こす。
自分の役目が終わったかのように立ち上がり、居間を後にした。


 
狭いはずの執務室がやけに広く感じる。

「──くそったれ」

旨い筈の珈琲がやけに苦い。

「何故、気付かなかった」

あの日から男は自問を続ける。
気付かなかった?否、気付かない振りをしていたのだ。
まさに繭子の言う通りだった。そんな事などあるはずが無いと思い込んだ。
そうであると無意識に蓋をした。挙句の果てがこのざまだ。あの子が見せたあの眼、あれは。

「真来──独りで背負い込みやがって」

ばかやろう、と男は呟く。
今更ながら思い知る。馬鹿は俺だ。だからあいつは離れたのだ。
その可能性を考えず、ただあいつの言葉を鵜呑みにして、自分勝手に曲解して、その言葉に込められた真なる意味、
切ないまでの想いに気付いてやれず、あいつを独りで逝かせてしまった。ばかやろう、本当に俺は大馬鹿野郎だ。

「なあ真来。あの子は、そうなんだな」

藤原は思い出す。五年前、十二歳の真澄が自分の前に現れた時、何を言ったか。

──あなたを父などと呼ぶつもりはありません。

あれこそが偽らざる言葉。母親という鎖を引き千切った本能の叫び。

──お、おおお父さんと呼んであげてもっ、いいわっ!

けれどあの子は抗った。その言葉は自分を縛るための新しい鎖だった。

──あなたをお父さんと呼ぶのは私の妥協。あなたへの復讐のために。

妥協などではない。精一杯の抵抗だったのだ。自分の本能と。自らの欲望を抑える為に。
俺を父と呼ぶ事、それは血の鎖。自分を捨てた仇と思う事、それは憎悪の鎖。
幾重にも鎖で縛り付けそれを理性で制御し、自分を保っていたのだ。
五年の年月。その鎖を一本一本引き千切ってしまったのは誰あろう、俺だ。

「大丈夫だ」

落ち着け。うろたえるな。動揺するな。隠せ。悟られるな。
装え。父親である事を演じ通せ。俺が俺である為に。何よりも、あの子の為に。

「まだ──大丈夫だ、問題ない」

家族と言う名の絆は、今や彼を縛る鎖と成り果てた。

「──くそったれ」

気が付けばとうに日は落ち、薄暗がりの部屋の中で男は独り中空を見つめていた。
冷めた珈琲を一気に飲み干しその苦さに口元を歪め、空になった紙コップをゴミ箱へ放る。かさっと軽い音がした。
その時、扉の向こうから彼の名を呼ぶ老人の声。

「藤原さん、よろしいですか?」

立ち上がりドアを開けると市長、粟川が両手に湯気の立つ珈琲を持ち立っていた。

「これ、差し入れです」

こりゃどうも、と作り笑顔で出迎え、部屋の中へ招き入れる藤原。
そのまま二人、部屋の片隅に置かれた小さな応接セットのソファーに腰を降ろし向かい合う。

「珈琲、苦いでしょう?」

粟川の言葉に藤原は苦笑する。この人は何もかもお見通しなんだな、と。

「ええ。旨い筈だったんですけどね」
「それがこの珈琲の不思議なとこでしてね。
 楽しい時、安らかな時には美味しいのに、辛い時にはやけに苦く感じてしまう。まあ鏡みたいなもんですかね」

なるほど、と藤原は頷き今一度淹れたての珈琲を口にする。やはり苦い。

「ここのところ、帰りが遅いようですね」
「はい。色々と雑務が重なりまして」

それは、稚拙な嘘。しかし粟川は何も言わない。

「五年ですか。あなたたちがこの町に来られてから」
「長いようで短いというか。あっという間でしたね」
「夢のようでしょう?」

その言葉に藤原は素直に微笑む。
夢。まさに的を射た表現だと。

「調べても調べても、この町の正体が解りませんよ、市長」

この五年で随分とデータは蓄積された。
藤原が交流という名のフィールドワークで得た情報を元に、本局では解析用アルゴリズムを用いてカナメの人的相互交感図、
有機ヒューマンネットワークの割り出しに総力を挙げている。その最終目的は──〈ホール〉の把握。
ヴォクスホールにはラインの落ちる場所〈ホール〉が存在する。それは力の吸入口だ。
ならばラインの源泉であるカナメにも同様に噴出口が存在する筈だ。
しかし、過去どのような手段を経ても地理上はその位置を確認する事が出来なかった。
当初、脈動を続ける町の中心軸、現郷土資料館がそれではないかと思われたが、ラインの収束は確認出来なかった。
ならば一体何処にあるのか。町の実質的な盟主が居住する常世邸でもない。
地理上で把握できぬのならばと新たなアプローチが開始されたのが五年前。
人の収束点を割り出せば隠されたホールの位置も浮かび上がるのではないか。
町に分布する居住者は地図上で見れば散らばる点に過ぎないが、血縁・知己・職務などの繋がりを線で結べば必ず何処かが交差する。
その交差が多い場所、つまり最多収束点が割り出せればおのずとホールへと繋がる道標となり得る──しかし。

「解った事といえば、うちの大家に集中していることくらいで」

そう。予想通りやはりあの存在、常世繭子に収束するのだ。藤原にとって一番身近で、一番謎に包まれたあの存在に。
五年がかりで得た事といえばそれくらいだ。とどのつまり確認作業に過ぎなかったのかも知れない。
つまり──常世繭子こそが〈ホール〉であると。

「藤原さんもそう思われますか?」
「違うんでしょう?粟川さん」

その問いに老人は微笑む。老練な教師が教え子に応えるように。

「藤原さん。あなたにはもう御解りなんですね」
「いいえ。ですが、ただひとつ解った事があります。あいつは──嘘を言わない」

彼には解っていた。繭子が嘘を言わぬ事を。
彼女は自分が大家であると言った。その言葉は本局には伝えていない。藤原は痛感している。伝えても無理なのだ。
この場所に住み、共に飯を食わなければその言葉を理解する事など出来はしない。その事実はあまりにも大き過ぎる。

「ひとは夢と同じもので出来ている──この言葉、ご存知ですか?」
「テンペスト──シェイクスピアですか」
「私にも夢があったんですよ、藤原さん」

粟川は笑う。夜毎神話が辿りつくところを探し出す──という夢ですがねと。

「若い頃は、各地の魑魅魍魎の伝承や神話を集め結び付け、どれが虚構で何が真実か見極めようと躍起になっておりました。
 妖怪ハンターなどと呼ばれたのもその頃です。ですから当然この地を無視する事は出来なかったんです。
 もしあの頃、分別を持ち、幾分かでも躊躇しておれば今とは別の人生を歩んでいたかも知れません」
「後悔、してますか?」

いいえ、と首を振る粟川。

「おかげさまで、真実に辿りつく事が出来ましたからね」

ですがまあ、たったひとつだけ後悔があるんですわ、と老人は溜息を吐く。

「知ってしまった故に、もう知る事が出来ないくらいですかねえ」
「知らなくてもいい事でさえも?」

うな垂れ問いかける藤原に、粟川は答えを返さない。けれど老人は思う。
町の事、否、この世界の理に比べれば彼の悩みなど些細な事だ。しかし。

「今のあなたには、それが全てなのですね」

力無く頷く藤原を見て、ああやはりと粟川は納得する。
カナメもヴォクスホールもラインも世界でさえも関係無い。それこそこの男には些細な事だ。
彼の世界の中心にはあの娘がいる。それこそが全てなのだと。

「──つまり、夢なのですよ。藤原さん」

私にはこの言葉しかお渡しできません、と粟川は囁く。

「そして夢はいつか、醒めるものです」

この珈琲と同じようにね。そのまま温くなったカップに口をつける。やはり苦い。

「それじゃ藤原さん、私はお先においとましますが、これ、お渡ししておきますね」

彼の差し出した手に鍵が一つ。

「屋上の鍵です。戸締りお願い出来ますか?」

守衛さんには伝えておきます、多少大きな物音がしても放っておくようにね、と笑う粟川。

「──ありがとうございます」

深く頭を下げる藤原に、いえいえ、と手を振り部屋から去る市長。
こっちもやっぱり御見通しか、と再び苦笑する藤原。ひとつ借りが出来たな、と鍵を握り締め席を立つ。

「行くか」

随分前から気付いていた。先刻より頭上から発せられる並々ならぬ殺気に。
そして藤原は部屋を出る。誰も居ない廊下を進み、奴が待つであろう屋上へ向かう。
馬鹿の衣を脱ぎ捨て、真来と寸分違わぬ気を放ち、わたしはここにいると自分を呼ぶあいつの元へ。
あいつが来ている。あの子の最後の鎖を切ってしまったであろう──真美が。


 
風が強い。びゅうびゅうと吹きすさぶ。
日の暮れた屋上は暗闇に包まれる事も無く、青白く照らされていた。
見上げれば大きな丸い月。満月を見上げ風に髪をなびかせ佇む女が独り。

「今日も遅く帰るんですね、師匠」

背後に気配を察し、その女は告げる。

「あの子が怖いですか?」

男に振り向く彼女の顔は、微笑んでいた。

「てめえ」

真正面から彼女、田中真美を睨み、藤原は言葉を吐く。

「俺は言ったよな、余計な事を言うなと」
「私は、あなたが欲しかった」

その為なら何だってやります、と真美は笑う。

「私は言いましたよね?恋は戦争だと」
「てめえ、解っててやったのか」

ぎりっ、と藤原の奥歯が軋む。

「なぜ俺に固執する」
「それが私の使命。それこそが存在意義」

全てはあなた、藤原信也というより強きものに固執する為に創られたもの、と彼女は告げる。

「私は予備では無かった。六体の姉、その情報を蓄積し再構築すべく仕組まれたもの」

バックアップでは無く、最後に目覚めるべく仕組まれたものだったと彼女は言う。

「あなたを襲った五体のアルファはあなたに倒された。あなたを愛した一体のアルファは母となりあなたの子を産んだ。
 そしてあなたは、最後の一体である私を育ててくれた」

全て思い出したんです。笑う真美の口元が醜く歪む。

「私はオメガ。アルファ達の想いを継ぎ、うまれたもの」

告げる真美の口元が更に歪み、妖艶な笑みを作り出す。

「全てはレムナント・セブンの名の下に」

またか、またそれか。真美を睨みながらも藤原は首を振る。もううんざりだと。
いつまで俺を、いや俺達を縛るつもりだ。俺を、真来を、そして真澄をも縛り続ける忌々しいその言葉。
ふりほどいても引き千切っても付きまとうその鎖。そんなにこの血が欲しいのか。呪われたこの狗の血を。
妹を殺した血、俺を狂わせた血、そして娘すら惑わせる穢れたこの血が欲しいのか、くそったれ。

「──いい加減にしろ」
「そうは行かないのよ、シンヤ」

藤原は眼を剥く。
自分を名前で呼ぶ彼女の顔は、まるであの女、真来そのものに見えた。

「全て思い出したの。そう、すべて」

そして直感する。こいつは完成したのだと。

「私は〈C.E〉のプロトタイプ」

〈C.E〉──コクーン・イーター。
それは女王の獣につけられた名でも個体を示す識別名称でもない。
或る目的を遂行するものに与えられる称号である。その目的とは、つまり。

「黒髪の魔女コクーンを喰らうべく仕組まれたもの」

藤原の疑問が氷解する。こいつはいつも繭子に対し過剰に反応した。自分よりもなお過敏にだ。
おかしいとは思っていた。だがこれなら頷ける。あらかじめ真美には繭子に対する防御機構が刷り込まれていたのだ。
力を蓄え成長を遂げ、いずれ牙を剥くその時をしたたかに狙っていたのだ。
俺と初めて会った時こいつは仮面を被っていた。引き剥がした仮面の下には馬鹿がいた。
しかしそれすらも仮面だったのか。二枚重ねの面。それを遂に脱いだのならば。

「つまり、師弟ごっこはもう御仕舞いって訳か」
「ありがとう、育ててくれて」

真美は笑う。吊上がる唇はまるで三日月。口の端々から覗く犬歯を隠そうともせず。

「ああもういい、わかった」

その瞬間、藤原の眼光が変化する。冷たい鋼のような光。彼が真美を敵と認識した証。

「ねえダーリン、わたしを殺したい?」

真来と同じ言葉を吐く真美。これ以上無い挑発。藤原の胸に湧き上がる衝動。

「ねえダーリン、あなた殺していい?」

その言葉を敢えて使う彼女に藤原の血がたぎる。
その言葉を吐くな。それはあいつのものだ。あいつを汚すな。俺とあいつの想いを汚すな。
殺す。殺し切る。穢れた狗の血が彼の身体を駆け巡る。その姿を見て真美は笑う。心底嬉しそうに見をよじり愉悦に浸る。

「ああ。やっとその気になってくれたのね」

笑いながら真美は唇を噛む。しかし、その仕草を藤原は見逃さなかった。
やはりそうか馬鹿野郎。それはあいつの癖だ。真来の癖だ。お前はそれさえも受け継いだ。
その癖の意味する所はただ一つ。真美、いやベソ美。やっぱりお前は──馬鹿だ。

「いくよ、シンヤ」

その刹那、満月を背に立つ真美の姿がぼうと揺れ、掻き消える。一瞬の静寂、そして。

「──ッ」

藤原の眼前に、光る刃先。














■狼の娘・滅日の銃
■第十三話/嵐の前の日■了

■次回■第十四話「暴風域」

※おまけ画ェ…(ベソ美)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/1e/01c8113c56ec3c4d32034d9f686e1460.jpg



[21792] 第十四話/暴風域(前編)
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/11/11 22:37




お前に見せたいものがあります。
いつものように夕刻、藤原宅に現れた繭子は真澄にそう告げた。
昨晩言われた通りに夕飯の準備はしていない。確か予定を空けておくようにと彼女は言った。
どのみち父は今日も遅いのだろう。故に問題は無いが、これから繭子は一体何をしようというのか。
家族同然の付き合いを始めてより五年、こんな事は初めてだ。期待と不安が真澄の鼓動を早める。

「えっと、あの、お出かけするの?」

少々唖然とする娘に彼女は囁く。

「目を瞑りなさい、真澄」

繭子に言われるがまま、真澄は目を閉じる。
目蓋を閉じても薄い皮膚の向こうから透けてみえる居間の明かり。]
しかし突如それが消える。何も通さぬ暗闇。次に気付くのは頬に触れる空気。冷たい。暖かい居間の空気ではない。
ここはどこだ。一体何が。

「目を開けて良い」

恐る恐る真澄が瞳を開ければ漆黒。何も見えない。

「繭子さん、一体何が」
「真澄、覚えておりますか?五年前、粟川が言った事を」
「粟川──市長さん?」

そのとき、暗闇の中、足元からぼう、と淡い光が浮かび上がる。

「これ──町の──模型?」

真澄は思い出す。
五年前、訪れた郷土資料館のオープニングセレモニー、その時出会った市長に招かれ、父と二人で見た地下の光景を。
あれは確か──要市縮尺模型図。

「今宵は満月。お前には見せておきます」

記憶を辿り見上げれば、あの月見窓が開いていた。
真澄の脳裏に父の傍らで聞いた市長の話が蘇る。あの日は確か満月の一日前だった。
何故満月の夜は窓を開いてはいけないのかと問う父に彼は答えた。
これ以上のものを見てしまうからと。その窓が今、開かれている。

「御覧なさい、真澄」

繭子に促され、真澄は模型図に視線を落す。
あの日見た不思議な景色。月の光を反射して現れた夜の町。
窓から漏れる灯り、織り成す光のペイシェントはあの文字を浮かび上がらせる。
noli ・me ・tangere、ノリ・メ・タンゲレ。確か意味は──我に触れるな。
ここまでは想い出せた。ここまではあの日と同じだ。しかし。

「そん──な」

そして真澄は息を呑む。ありえない光景を目に映し。






狼の娘・滅日の銃
第十四話 - 暴風域(前編) -






六年前、私は仮面を剥がされた。
初対面の後、連れ出された先は地下の教練場だった。
重い防音扉、厚いコンクリートに覆われた壁面。他に誰も居ない、広い密室に二人きり。心が高揚する。
その気持ちなど解らぬかのように不意に彼は向き直り、私の足元に一挺の拳銃と小刀、自分の得物を投げ捨てた。
彼は何も言わない。しかし目が拾えと言っている。なるほど、私を試すつもりか。さて、どうする。

果たしてこの男は気付いているのだろうか。私とアルファは同位体であると。

姉のスキルを全て受け継いでいると。それもこの男、藤原信也の最盛期に互角だった彼女、藤原真来の力を。
あれから十数年。彼は老い、身体能力も衰えた筈だ。なのに目の前の男は私を少々舐めている。生まれたての赤子であると。
笑止。私は兵器だ。封を解かれたその瞬間から最大限の力を発揮出来るよう創られたものだ。つまりこの男は私に敵う訳などないのだ。さて。
無論ここで全てをさらけ出す気など毛頭無い。しかし舐められたままというのも少々癪だ。仕方ない。相手をしてやろう。
適当にあしらい、彼に気付かれぬよう負けてやろう。
そして私は軽く溜息を吐き、足元に落された得物を拾い上げようと手を伸ばす。その瞬間。

「か、はッ──」

彼の爪先が私の鳩尾を鋭く抉った。

「てめえ、舐めてんじゃねえぞ」

激痛に軋む脇腹を抱えうずくまる私を見下ろし、彼は冷たく吐き捨てる。
視線を浴びた背筋が泡立つ。なんという圧力、なんという殺意。違う、彼は私を舐めてなどいない。殺す気だ。

「──立て」

即座に意識を切り替え神経系を調節、アドレナリンを増加。消える痛み。
私は立ち上がり、足で銃と小刀を蹴り払う。からからと音を立て部屋の隅に消えて行く二つの得物。こんなものは要らない。
いいだろう。やってやる。そして彼を睨む。視線の先、男は動かない。構える素振りすら見せない。
ただ両目から冷たい眼光を放ち私を見る。そうだ見るがいい。ならば見せてやる。
お前に屠られた五体のアルファの怨嗟、お前に狂った一体のアルファの愛憎。我等が本当はどれほどのものか、身を以って思い知れ。
そして私は──跳ぶ。ヒトの追えぬ高度で、ヒトになど捕らえられぬ速度で。直上より直下の獲物目掛け凶器と化した拳を振り下ろす。
直後何かが砕ける音がした。しかしそれは骨の砕く音でも肉を裂く音でもなく、見れば男の足元、コンクリートの床が抉られていた。
ただそれだけだった。獲物が消えた。信じ難い事実を理解したその時。

「がッ!」

背中を襲う激痛。位置は心臓の裏側。
痛みに耐え身を翻せば彼の突き出した肘が見えた。

「おいコラ。てめえはそんなモンか」

彼は言う、この程度かと。
その意味を理解し脳裏が沸き立つ。私を蔑むな、誇り高き獣の血より生まれし我らを侮辱するな。
再び彼を睨む。剥き出しの歯、隙間から漏れる唸り声。

「ふん。いい顔すんじゃねえか」

即座に飛び退き間合いを取るも男はまたも動かず、ただ私の姿を目で追うのみ。
いいだろう、やってやる。殺す、お前を殺す。そして意識を研ぎ澄ます。高ぶる心が波を打つかの如くに鎮まる。
消えろ、と私は念じる。不意に男の眼が細まる。よし、それでいい。この男は私を見失った。

いま私は、男の視点と感覚より自分の存在を消し切ったのだ。

この能力は姉も持っていた。けれど彼女は遂にこれを使わなかった。
彼と踊る事だけを楽しむが為にその力を捨て全てを身体能力に当てた。私は違う。全てを使う。
このスキル、イレイザーは相手のシナプスにラインの力を放射させ、一時的に全感覚器を狂わせ、
相手に自身の存在をロストさせる事が出来る。ドリフターといえど人間、この技より逃れる事は出来ない。
これはいまや私にしか出来ぬ技。ラインと直結した我等レムナント・ドールズ、最後生き残りである私にしか無いスキル。
老いたドリフターよ後悔しろ。お前は私を本気にさせた。
そのまま私は男の前に立つ。彼の視線は相変わらず動かない。未だ消えた私を探るべく全神経を集中しているのだろう。
甘い。それでは私は探せない。さあ、終わりだ。私は腕に力を篭める。
ぎりぎりとバネのように力を絞り、指先を揃え鋭利な手刀と化し、男の喉下目掛け振り下ろす。
皮膚に触れる刹那、私は確信する──取った。この男の命を取った。

「──っ」

しかし次の瞬間、私は驚愕のあまり目を剥いた。
何故ならこの指先は彼の喉を裂くどころか皮一枚さえも触れる事が出来なかったからだ。
ありえない。何故私の腕を掴めるのか。

「お前、馬鹿だろう」

彼は静かに告げる。こんな事はありえない。
混乱する私の意識。直後ゴキリと鈍い音。手首が外された音。走る激痛。
外した手首を掴んだまま男は身を翻す。勢い良くひねり上げられた腕。ガコンと嫌な音を立て外される肩。
重なる激痛に声が出ない。固まる身体。そのまま足を払われ腕を決められたまま冷たい床に倒れ伏す。
視界を覆う灰色のコンクリートと男の足。その爪先が突如消えたかと思えば腹部に激痛。
一発、二発、三発。使い物にならなくなった私の右腕をなおも離さず容赦なく腹を蹴る。不意に腕が離される。直後強烈な四発目。
勢い良く蹴り上げられた体が一瞬宙を舞い空気の抜けたボールのようにどさり、と再び床に落ちた。

「どうしたキルマシーン。てめえは張子の人形か」

冷淡に男は吐き捨てる。その程度の児戯は見飽きたと。
見れば彼は、私と対峙したその場所より一歩も動いてはいなかった。
迂闊──今更ながら思い知る。老いた?最盛期を当に過ぎた?見誤っていた。
彼は熟成したのだ。数十年の月日は多少体を衰えさせたとはいえそれを補って余りある経験を彼に与えた。
相対的に見ればこの男は、未だ成長を続けている。彼はあの時より数段──強い。激痛と屈辱に耐えながらも私は想う。
真来と名づけられた最後のアルファがもし、今の彼と再び相まみえたのなら、果たして私と同じように──。

「おめえは到底、あいつには及ばねえ」

私の心を見透かしたかのように彼は言う。
「あいつは──真来は、体一つで挑んできた。だからこそ互角にやれた。だからこそ俺達は踊れた。
 なのにおめえは、小手先の技に頼りやがって──馬鹿が」

くやしい。まるで歯が立たない。くやしい、くやしい。じわり、と視界が歪む。

「あ……ああ……あああ」

涙。私は泣いている。
それを理解した時、何かが弾けた。

「あああああああああああああアアアアアアアアああアアアアァァーーーーッ!」

声にならない雄叫びを上げ私は男に飛び掛る。頭を振り上げ口を開け、彼の腕に喰らいつく。
突き立てた歯が皮を裂き、白いシャツに滲む血。けれど彼は抗わず、私の耳元で囁いた。

「よし──いい子だ。それでいい」

そして彼は私を抱き締め、開いたもう片方の腕を静かに私の首に絡め、優しく──落した。
再び意識を戻した時、私は泣いていた。生まれたての赤子のように泣き喚いていた。
その時、ぽんぽんと頭を撫でる感触。見上げれば私を抱き彼が笑う。そしてまた泣く。彼の胸にしがみ付き泣きじゃくる。
なんという無様な自分。けれど泣き止もうとは思わなかった。ずっとこの男の胸で泣いていたかった。
私は知った。感情を吐き出す事がこんなにも気持ち良いとは。涙が心地良いとは。
この日、私は自分の弱さを自覚した。それは屈辱ではい。私は弱い、しかしまだ強くなれる。
強くなり、この気持ちを教えてくれた彼に報いるのだ。洗脳?懐柔?インプリィンティング?言いたい奴は言えば良い。
人形の仮面を捨てた私はもう何も怖くない。ああ私は狂ってしまったのだ。姉と同じように。この愛しい男に。
そして今日、私は彼に刃を放つ。

「──ッ」

月明かりの下、彼の前髪がなびく。避けられた刃先。
しかし私は見る──引いた。彼は一歩引いた。遂に私は彼を動かした。嬉しい、嬉しくて堪らない。

どうスか師匠?あたし強くなったでしょう?

ねえアタシをもっと見て下さいよ師匠。馬鹿なアタシを、あの子の戒めを解いてしまった愚かなアタシを。
だから今日、また仮面を被りました。二度と被らないと誓った仮面を。だってしょうがないじゃないスか。
もうアタシに出来る事はこれくらいしかないんです。ごめんなさい師匠。
あたし──馬鹿だから。


 
真澄は言葉が出ない。それほど信じられぬ光景だった。
眼下に広がる夜の町を目に映し、いま自分は夢を見ているのかとさえ感じる。
夜の町、それは決して比喩ではない。ミニチュアだった筈のそれが、ざわざわと揺れている。
窓辺から放たれる灯りは月光の反射ではなく、本当に家屋から漏れているのだ。
耳を澄ませばことんことんと聞きなれた音。毎日乗る路面電車の音だ。目を凝らせば模型図の路面電車が動いている。
しかもこれは五年前見た百年前の型では無く、いま通勤に使っているのと同じ車輌だ。
見れば小さな窓に人影が見える。乗客が居る。いや電車だけではない。商店の軒先に、駅前に、歩道に、多くの人が集い、動いている。
しかも見慣れたスーパーも、コンビニさえある。路面を電車と並走するものは馬車ではなく車だ。
遂に確信する。違う、これは百年前の町ではない、今の町だ。

「──映像?」

真澄は何とか自分の理解が及ぶように、今見ている光景に仮説を立てる。
これは特殊な機器で再生された映像で、聞こえる電車の音も人びとのざわめきも立体音響というやつで、
たぶん自分が今目にしているのは高精度なホログラム──。

「──違う」

そんな訳が無い。だって匂いがする。
家々から立ち上る夕餉の匂い、道路を走る車の匂い、町を流れる川の匂い、夜の町が織り成す匂い。
真澄の五感が仮説を否定する。これは本物だと。

「怖いですか?真澄」

傍らから聞こえる繭子の声に、真澄は小さく首を振る。
異様な光景、けれど恐怖は感じない。小さな芥子粒にも満たぬ人々の横顔が何故かはっきりと見える。
知らない顔、どこか遠い異国の人々、なのに懐かしい。そして彼らは皆、楽しそうに笑っていた。
自然と真澄の顔もほころぶ。だから何も怖くない。

「お前が見ているものはもうひとつの町なのですよ」

その言葉で思い出す。
あの時、自分は市長に聞いた。ホールの隅に置かれた立て看板の文字──要市縮尺模型図。
なぜ漢字なのかと、何故ひらがな表記のかなめ市ではないのかと。

「そうです、これが要市です」

思いに応えるかのように繭子は囁く。

「正確には要市原型図と申した方が良いでしょう」
「原型図?」
「そうです。お前が住む上の町、かなめのベースとして作られたものです」

人の住まう場所が町というなら、これもまた町なのですよ。
全ては百年前に終わり、始まったものです。
言いながら繭子は、真澄の傍らに寄り添い、そして告げる。

「真澄。これから話す事を理解出来ぬとも良い」

お前には聞いて欲しいのです──優しく囁く繭子に、真澄はこくりと頷いた。

「あの者達は、かつてボックスホールより消えた民達です」

ボックスホール──ヴォクスホール?
真澄にも聞き覚えのあるその名前。確か、かなめ市と姉妹都市協定を結んでいる国の名だ。

「リバーサル・シフト。後の者がそう名付けた事象で、犠牲となった者たちなのです」

遠き日、ホールに呑み込まれラインに消えた者たちの意識を、長い時を掛け拾い集め、ここに集わせたのだと繭子は言う。
その意味は真澄には解らない。けれど、解らぬながらもそれは大きな災厄だったのだろうと真澄は思う。
いま眼下に拡がる夜の街に暮らすであろう人々の数を見れば、それが犠牲者の数であるのなら、想像に難くない。

「本来あの地は、誰もが住まう場所ではなかったのです。
 ですが、ほんのしばしの間、わたしが眠りについている最中、力持つもの達が惹かれるように集い、住み着いてしまいました」

力持つ故に利用され、そして迫害され。だからこそ彼らは安寧を求めた。
そこが禁忌の地であろうとも、ここならば誰にも邪魔されず静かに、ただのヒトとして生きて行ける。
力の消える場所、力を吸い取る場所。だが彼らは、その本当の意味に気付けなかった。
そこは力が落ちていく場所であると言う事に。力が常に降り注ぐ場所であるという事実を。
彼らが元々持っていた力は消えたのではない。より巨大な力の流れに呑み込まれてしまったのだ。
巨大な奔流──ラインの直射。
力持たぬものであったなら耐えられぬものではない、しかし力持つもの達には耐性があった。
ゆえにその変化は緩慢であり、気付くものは皆無だった。

「わたしが彼の地に赴いたとき、既に二つの新たなるキャストが芽吹いておりました」

片やラインの力を取り込み順応したもの──ソリッドライナー。
片や耐性を強めあくまでも力に抗うもの──ドリフター。

「ラインを挟み生まれた二極の派閥は、表面上は共存しておりましたが、
 それぞれが持つ特性上、近い将来お互いを潰し合うのは必至でした。
 全てはキャスト達に御せぬほどの強き力が発端、ならばと一計を案じ、ラインの流量を抑える事にしたのです」

王国の伝承によれば、その日、異能狩りの命を受けた周辺諸国の軍勢が禁忌の地に大挙して押し寄せ、王都を包囲したとある。
王国存亡の時、現われたる黒髪の魔女コクーンが巨大な大穴〈ホール〉を出現させ、大軍を跡形も無く消し去ったと。

「軍勢を招いたのはわたしです。あの者たちに見せつける必要がありました。
 この地がどういう地であるのかを。誰もが犯してはならぬものが確かに存在すると」

この地を侵すなかれ、この地に触れる無かれ、ノリ・メ・タンゲレ、汝触れるなかれ。これは御言葉である。
凛と告げるコクーンの姿に誰もが畏怖を禁じえなかった。果たして軍勢は何処へ消えたのか。王国の伝承には記されていない。
それも当然の事、この時にはまだ王国などは存在しなかったからだ。つまり〈ホール〉出現後に王国は生まれた。
これら伝承は王国創立後、後付けの話として再構築されたのだ。では一体軍勢は何処へ消えたのか。
真実は拍子抜けするほど単純だった。気が付けば兵達は各々の国に、出立前そのままで戻されていた。
何の事は無い、彼らはコクーンの言葉を君主達に伝える為のメッセンジャーにされたのだ。
以来しばらく、外からこの地を侵す者は消えた。

「〈ホール〉というバイパスを施す事によりラインは流量を弱めました。
 その後わたしは民を集め、ラインに順応したもの達にはその制御法を教え、
 力に抗うもの達には、この地に縛られず離れるよう諭しました。お互いを別つ事で後々の禍根を取り除くために」

実際それは上手く行った。地を離れる者たちは喜んだという。
彼らは元々好んでこの場所に住んでいたのではない。だが彼らは他の地にも移れるという自由を与えられた。
その後、彼らは名の通り漂泊者、ドリフターとして方々に散らばり血を残した。
一方でラインに順応したソリッドライナー達はその地に残り、ラインを制御する術、魔道技術をコクーンより学び、
禁忌の地を彼らだけの楽園として守り抜く術を得た。しかし。

「わたしがあの地に居る間は平穏でした。ですが長居は出来ませんでした。何故ならラインはわたしと共に在るからです。
 わたしの居る場所が源泉となるからです。いつまでも流れを逆にしておく事は出来ません。
 元は力の落ちる所として定められた場所ですからね」

この地──カナメが源泉として定められたように、と繭子は言う。
〈ホール〉とは落ちる力を制御するために新たに創られたもの。湧き出る源泉の流量は落ちる場所の比ではない。
ひと時ならば耐えられよう、けれど猶予は決して長くは無い。程なくして飽和を迎え、最後には吹き飛ぶ。
あの地だけでなく──何もかもが。

「ゆえにわたしは、一人の娘を選び、管理権を委譲し彼の地を離れました」

娘の名はアメリア。瞳に虚無を宿した少女。コクーン去りし後、彼女は女王となった。
王国はここより始まる。だがその時点で歴史には未だ魔道帝国の名は出ない。
コクーンと共にラインは流れを変え、ホールは噴出から吸入にその特性を反転する。
しかしその時点では何の異変も起きなかった。緩やかに完了したリバーサル・シフト、これが真相である。
では何故、王国臣民の約半数を巻き込んだ大災厄が起きたのか──それは。

「しかし、過ぎたる力に魅入られ、溺れ、狂い、他の地を侵そうとするもの達が現れました」

それは迫害され続けた積年の憎悪がそうさせたのかも知れない。その流れはやがて王国全土に湧き上がる。
復讐するは我にあり、我等は既に弱くない、力を以って蹂躙する。虐げられた恨み思い知れ。
女王アメリア・ヴォクスホールはそれを敢えて放置したという。
やがて臣民の半数がその意を抱き、王国の中枢である〈ホール〉を手中に収めようと殺到したその時。

「あの娘──アメリアは、わたしのいいつけを忠実に守りました」

しかしゆめゆめ驕るなかれ。私はいつも見ているぞ──女王は知っていた。コクーンが残した言葉、その意味を理解していた。
その行為を行う哀れな者達の末路を、湧き上がる無数の黒い手に引きずり込まれて行く様を、微笑みながら眺めていた。
自ら手を下さず、完膚無きまでに粛清を遂行したのだ。そして、その日から彼女は恐怖の代名詞となり、魔道帝国が誕生する。

「あの娘は力に魅入られたのではありません。わたしに狂ってしまったのです」

わたしが遂にやらなかった事を、行ってしまったのです。
語る繭子の口調は静かで、相変わらず抑揚も無く、後悔も悔恨も見えなかった。
それが真澄には辛かった。無表情の人形顔が、泣きじゃくる童女に重なったからだ。

「繭子さんは、悪くないよ」

傍らに立つ彼女の小さな手を取り、そっと握る。

「この人たちは自業自得じゃない。だから、何も悪くない」

不思議な夜の町と、集う人々の姿を瞳に映し真澄はつぶやく。

「いいえ。全てはラインという力に狂った故に起きたこと。
 いまこの町に住まうこの者たちの顔、安寧に笑うこの顔こそが、彼らの真の姿なのです」
「本当に人が良すぎるよ、繭子さんは。優しすぎるよ」

真澄の手の中で、きゅっと握り返す小さな手。

「優しいのはお前です真澄。わたしを──ヒトと呼んでくれるのですね」

その言葉に真澄の表情が曇る。小さく唇を噛み、そして。

「私は──優しくなんか、ない」

ずるくて嘘つきで、獰猛。それが本当の私。
小さくつぶやいた後、何かに耐えるようにうつむき、再び唇を噛む真澄。
その姿に繭子は何も言わない。ただ手を繋ぎ、沈黙する。そして。

「繭子さん、何で私にこれを見せてくれたの?」

ただの御礼じゃないんでしょう?うつむいたまま問う娘に、繭子の口が開く。

「気付いておりますか?真澄」
「何を?」
「お前は今、わたしと自然に会話をしているという事に」
「何もおかしくは」
「わたしは先程、理解出来ぬとも良いと申しました。ただ聞いているだけで良いと。
 ですがお前は、わたしの話、その意味を察し、答えてくれました。これがどういう事か解りますか?」

繭子の言葉に息を呑む。そうだ、何故私はこんな荒唐無稽な話を受け入れているのだと。
家の居間から突如ここに現れた時でさえ、たいして驚きもせず──何故。

「お前はわたしを人が良い、つまりヒトと呼びましたね。この話を聞いてもなお」

ぞるり。真澄の胸で何かが蠢く。得体の知れない、何か黒いものが。

「お前はわたくしの話を、理解してしまったのでしょう?」

要市原型図、彼の地、ライン、ソリッドライナー、ドリフター、ホール、リバーサル・シフト。
本来ならば意味不明なこれらの言葉を理解している自分に気付き、愕然とする真澄。

「お前はわたしをヒトと呼びました。それはお前がわたしを、自分と同じものだと感じたからです。
 ならば問います。わたしがヒトでないのなら、どうなりますか?」

ぞるり、ぞるり。蠢く何かが、得体の知れない黒いものが真澄の心を静かに揺らす。

「真澄。お前に残酷な事実を伝えねばなりません」

やがて繭子は静かに告げる。

「お前はわたしの──直系なのです」


 
この体に流れる血が、穢れた狗の血だと知ったのは十四の夏。

「お兄ちゃん、おかえり」

妹は笑っている。玄関先から家の奥、居間に通じる廊下の片隅。薄い影に隠れてもその口元は確かに笑っていた。
病弱で、小さくて、いつも俺の背中に隠れていた一つ下の内気な妹が、満面に笑みを湛え、頬を朱に染めてけらけらと笑っている。
なんだお前、今日は調子いいな。玄関から声を掛けるも妹は、廊下の片隅、影に隠れうん、うんとただ笑うだけ。
おいどうした?異変を感じ玄関に靴を脱ぎ捨て、影に隠れる妹に近付こうとするも、あはは、と笑いながら俺の手をすり抜け家の奥へと駆けて行く彼女。
それを追い居間へ入ると突如鼻先をかすめる異臭。濃厚な鉄錆の匂い。
吐き気をこらえ顔を上げれば、窓から注ぐ午後の陽光に照らされ、妹の姿が露わになる。
笑っている。顔を赤く染め笑っている。その赤は、血。

「だって、しょうがないじゃない」

彼女は笑う。いつもおどおどしていた妹はもういない。
楽しそうに笑うその顔に飛び散った血飛沫は、妹のものではなかった。それは、返り血だった。

「弱いんだもん、このひと」

床に倒れ伏す男は、親父だった。引き裂かれたその骸だった。

──いいか信也、敵を作るな。

これが親父の口癖だった。
早くに母を亡くし、男手一つで俺と妹を育ててくれた父。彼は温和で優しく、めったに怒る事の無い男だった。
けれど俺は知っていた。親父がとてつもなく強い事を。
絡んできたチンピラを笑いながら叩き伏せ、懇々と説教を垂らし、事が済めば水に流し共に酒を酌み交わす。
その姿はどこか滑稽でもあったが、そんな父が好きだった。
一つ下の妹と一緒に、頼もしい父の背中をいつも見ていた。

──喧嘩をしてもいい。憎まれてもいい。相手に敵と思われてもいい、だがな。

考えればおかしな話だ。敵を作るなとは普通、皆と仲良くしろという意味だろう。
けれど親父は、相手が自分を敵とする分にはいいと言った。それでは敵を作ったも同じではないか。

──お前は相手を敵と思うな。いいか、これだけは肝に銘じておくんだ。

汝の敵を愛せよ、とでも言うのだろうか。その疑問に彼は苦笑しながらこう言った。
大切なのはお前自身の認識なんだ、今に解る──それは父が息子に授けた、精神論や処世術のようなものだと軽く感じていた。
だが、そんな生易しいものでは無かった。

「お前──何を」

その父が今、血溜りの中で息絶えている。

「飽きちゃったの」

父の骸を、笑いながら見下ろす妹。

「何がだよ!お前一体どうしたんだ!」
「弱いフリをするのが」

そっか、お兄ちゃん知らないんだよね。
血溜りの中で微笑むその顔に、あのか弱き妹の姿は微塵も無かった。
幼さ残す筈の横顔に、俺はおんなを感じた。いや、そんな艶かしいものではない。雌だ、雌のけものがそこに居た。

「父さん私には教えてくれたの。自分達には狗の血が流れているって。凶悪で凶暴な狂犬の血が。
 戦いを求め強きものを屠るべく仕込まれた血が。強い力に抗う血が。漂泊者の血が」

このひと言っていたわ。私とお兄ちゃん──私達はそれが特別濃いんだって。
このひと悔やんでいたわ。何故自分はこの血を残してしまったんだろうって。
淡々と言葉を吐き捨てる妹を前に、俺はただ立ち尽くす。
こいつは一体何を言ってるんだ。思春期特有の変な妄想に取り付かれたのか。

「お前病気なんだよ、だから」

そうだ、こいつは病気だ。狂ってしまったのだ──だから。
けれど、笑う口元とは対照的に彼女の目はただ冷たく、そこに狂気は、欠片すら見えなかった。

「違うわ。このひと、ずっと私に暗示をかけていたのよ。お前は身体が弱いんだって。
 この血のせいだって。血の濃さに耐えられないんだって──おかしいよね」

私はとうに気付いていたのに。だから待ったの、このひとを倒せるくらいの力が溜まるまで。
その言葉で気付く。こいつはさっきから、親父の事を一度も父さん、とは呼んでいない。

「いいかげんにしろ!」

耐え切れず俺は叫ぶ。さっきから何馬鹿な事言ってるんだと。
狗の血?そんな妄想大概にしろと。だったら何で俺はまともなんだと。いい加減にしろこの野郎。

「お兄ちゃん一度も病気したこと、ないよね?」
「おう!健康優良不良少年なんだよ俺ァ!」
「お兄ちゃん喧嘩に負けたことないよね?」
「だから俺は!」
「不思議に思わなかった?なんでいつも余裕なんだろうって」

妹は微笑む。それはお兄ちゃんに見合う相手がいなかった、それだけなのよと。

「お兄ちゃん、ずっとこのひとから言われてたでしょ?敵を作るなって」

それはね、身を守る為じゃないの。相手を守る為の言葉なの。
身を固める俺の心を見透かすように妹は囁く。

「だってお兄ちゃん、そうなったら殺しちゃうもん」

私は身体、あなたは心。それが、このひとが私達に施した調教。
同じ狗の分際で私達に首輪をつけようとした。だから殺したの。てんで弱かったわ。本当に、馬鹿。

「全然抵抗しないんだもの、このひと。私のなすがまま。無様ね」

抵抗しなかった?あの親父が?
あの優しくて強い男が?為す術もなくこいつに殺られた?

「ちが、う」

ああ、こいつは気付いていない。
その意味を、何故抵抗しなかったのかを。

──信也、敵を作るな。

その時だ。親父の言葉、その真意を理解したのは。
俺に何度もその言葉を言いながら、自分自身を縛り付けていたのだ。
俺達に対する暗示じゃない、自分自身を調教していたのだ。それだけこの男は強かったのだ。
だからこそ妹の手にかかり、為すがままにされてしまったのだ。
つまり親父は、最強の敵である自らの血に勝てたのだ。それを、こいつは。

「お兄ちゃんなら、少しは楽しませてくれるかな?」

妹の目が変わる。凍てついた視線が一点、熱を帯び蕩けた眼に。

「ねえお兄ちゃん強いんでしょ?私を楽しませてよ」

口元から熱い吐息を漏らしながら、にじりよる彼女を前に俺はただ立ち尽くす。

「もう抑え切れないの、ねえお願い、わたしと──」
「──黙れ」

何かが弾けた。すまねえ親父。俺は──駄目だ。

「オヤジはなぁ、おめえを敵にすら見ちゃいなかったんだ」

そうだ。親父はこいつに暗示なんかかけちゃいなかった。ただ事実を言っただけだ。
俺達の中で、こいつが一番弱い。だから血に耐えられないと言ったのだ。
お前は身体が弱い。そして俺は心が。だからこそ親父は、それをお前は──取り違えた。

「──マキ」

真来。それが妹の名前。その瞬間、俺を見る眼が変わる。嘲笑から、恐怖へと。
体が熱い。胸の芯から燃え上がる。もう何も考えられない。もう駄目だ。親父、ごめん。

「お前は俺の──敵だ」

そこで俺の記憶が途切れる。
気が付けば何も無い、白い部屋の中に居た。
だが記憶こそ無かったが、その後一体何が起きたのかは理解出来た。俺は、あいつを。

「おめえが源也さんの息子か」

現れたその男は開口一番、俺を糞虫と吐き捨て、胸倉を掴み殴り、髪を掴み引き摺り起し殴り、倒れ伏した俺の腹を何度も何度も蹴った。
血反吐を吐いてもなお止めようとはしなかった。だが俺は、為すがままに殴られ蹴られ続けた。なぜならば。

「あのひとの想いを台無しにしやがって!てめえはッ!」

その青年は、俺を殴りながら泣き、泣きながら蹴っていた。
あのヒトはおめえらが好きだったんだ、好きで好きでたまらなかったんだ、それをオメエは──その言葉が体の芯に染みていく。
熱い火照りは当に無い。ただ、ひたすらに醒めていく。

「──俺と来い。その血の使い方、教えてやる」

拳を俺の血に染め、折れた指の激痛に耐えながらその男は最後に呟く。
彼の名は室戸。親父の元部下だったらしい。その頃には、もう俺の体の芯はとうに冷え切っていた。
その冷たさは二度と火が灯る事はないだろうとさえ思えた。もういい、好きにしてくれ、何だってやってやる。
許されるなんざ思っちゃいない。誰もが忘れても俺だけは忘れない。俺は──。

「──ちぃッ!」

気が付けば月明かりの下、迫る刃先を無意識に避ける俺が居た。
くそ忌々しいこの身体がまた反応した。まったく困ったもんだ。

「何笑ってんのよ!」

ああすまねえ真美。今気付いたんだけどよ、おめえ似てるんだわ。真来にも、マキにも。
だからさ、頼むわ。そんな泣きそうな顔で笑わないでくれ。頼むよ。

もう俺に、殺させないでくれ。






















■狼の娘・滅日の銃
■第十四話/暴風域(前編)/了

■次回■第十四話「暴風域(後編)」



[21792] 第十四話/暴風域(後編)
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/11/21 22:07





お前は人ではない、わたしと同じものだ。
繭子より告げられた言葉は真澄の心を大きく揺さぶる。
けれど──それなのに、ああ、まただ。驚きは一瞬、なのにすぐ醒めてしまう。
母の時もそうだった、悲しみも衝撃もすぐに醒め、どこか他人事になり、自分を含めた世界を少し離れた場所から俯瞰しているようで。
これは逃避というものなのだろうかと真澄は思う。だが違う。本当に視点が離れているのだ。
ここに立っているという感覚はある。ホールの冷たい空気を肌で感じる。けれど視点だけが違う。
広いホールの天井から、隣に立つ繭子と、一面を覆う夜の町と、そして自分の姿さえ──その時、隣の繭子が〈こちら〉に目を向けた。

「真澄。その視点は、わたしと同じなのですよ」

まるでカメラが切り替わるかのように自分の眼に視点が戻る。
その時、天井を見上げていた繭子が首を下ろし、再び自分に向き直る様を見て真澄は改めて実感する。
このひとは知っている、私の全てが見えているのだと。

「繭子さんも、こんな風に?」

真澄の問いかけには応えず、彼女の手にその小さな手が添えられる。

「これがわたしの見ているもの」

繭子の手を伝い真澄の脳裏に注がれるビジョン。それは想像を絶していた。
最初はそこに自分が映っていた。その視点が徐々に引いて行く。ホールの天井から見下ろす二人と夜の町。
さらに引く。天井を抜け郷土資料館を含めた町の全景。
なおも引く。町を囲む山々すら小さくなり山向こうの町その向こうの町そして遠く水平線の彼方さえ見える。
まだ引く。平らな線だった水平線が徐々に丸みを帯びそれは遂に星と解るほどの高さまで──そして。

「これが、世界という名の舞台」

足元から徐々に昇る巨大な金色の柱。それは光の柱だった。
立ち昇る柱はやがて星の重力に沿うように緩やかに曲がり、放物線を描きながら視界の果て、遠き場所に落ちていく。
目を凝らし見れば、その光の柱は身を削りながら拡散し、降り注ぐ光の粒子は星全体を包み込む。真澄にはその光の粒が雨に見えた。
傷ついた地に降り注ぐ豊穣の雨。ハーベスト・レイン。この光の雨は地を癒し苗を育み、星を包み優しく守る。
これがラインの正体なのだろうか。その時また視点が引く。すると、今まで見えなかったものが見えてくる。
星の中に小さな星が埋まっている。それは丸くて黒い石。金色の光はそこから発しぐるりと円を描いてまた戻る。
その姿はさながら、金の指輪にあつらえた黒い宝玉。見れば黒い玉の上に一つ小さな光が見える。
あれはきっと要市だろうと真澄は思う。あの町はこの石の一部を削り創られたのだ。
更に視点を引けば、その指輪を小さな薬指に填めた黒い髪の童女──常世繭子がそこにいた。

「わたしは、この星に嫁いだようなものですからね」

我に返れば、再び模型図の前に立つ自分がいる。
傍らには繭子、しかし左手の薬指にはあの指輪が填められていた。それを愛しげに見つめる彼女の口は、微笑んでいる。

「あの娘、アメリアの管理はこの金色のライン」

小さな薬指できらきらきらと輝くリングを、右手の小指でなぞりながら繭子は囁く。

「ではこの黒い石は何かと申しますと」
「要岩──キー・ストーン」

不意に口から発したその言葉に繭子は頷く。よくできました、とでも言うように。
同時に真澄の脳裏で様々な光景が溢れ出す──それは、いずこかより生まれた。
旅立ち、星の海を渡り、恒星を巡り生命活動領域〈ハピタブルゾーン〉内に着床し、環境を安定させ、進化を促進し、
キャストを生成、そして物語を紡ぎ、管理するもの。

「──大家さん、なんだね。繭子さんは」
「はい、そうですよ」

常世繭子は嘘をつかない。けれどその言葉を理解するには、人は未だ小さ過ぎるのだ。

「お前もその血を引いているのです、真澄」

かつて女王、アメリア・ヴォクスホールは〈ホール〉に仕組まれた防御機構、黒い手を指してこう言った──あれはコクーンの黒髪だと。
その一柱であったジェヴォーダンの獣は女王によって捕獲され精製・調教を経て唯一無二の獣となり〈C・E〉の名を与えられた。
その血を分け与えられ創られた七体のレムナント・ドールズ。その内の一体は最強のドリフターと結ばれ、彼女は母となり、一人の娘が生まれた。
その娘は、獣の血を引き、それはコクーンの直系を意味した。
同時にその娘は、ソリッドライナーとドリフターのハイブリッド、対極の存在が交わり生まれた奇跡の存在でもあった。
つまり娘は、力を享受する事も、力に抗う事も、より強きものを屠る事も、そして世界を俯瞰し掌握する事も出来る。
この世界を形作る理(ことわり)、それら全ての選択権を生まれながらに持つ唯一の存在、それが藤原真澄。

「お前には、馳走の礼をせねばなりませぬ」

この五年、瞬きにすらならぬ時ではございましたが、とても楽しかった、ありがとう。
そう呟く繭子の微笑。その笑みに含まれた寂しさをを真澄は肌で感じていた。

「受け取りなさい、真澄」

そして彼女は、左手を上げその小さな薬指を、あの指輪を真澄へと向ける。
繭子は告げた。世界を受け取れと。





狼の娘・滅日の銃
第十四話 - 暴風域(後編) -





撃ち放ち、切り結ぶ。刃が交差する度に散る火花。
月下の屋上、ごうごうと吹きすさぶ強風の中に時折混じる炸裂音。耳元で破裂する5.7mm弾のソニックブーム。
銃弾を紙一重で避け身を翻せばまた火花。小刀と拳銃、同じ得物。時に威嚇、時に一撃、交互に繰り返される連撃。
男と女、満月の下で二人は踊る。

「どうしたの?どうしたの!避けてばっかり!ねえッ!」

田中真美が挑発する。かつての師匠に、お前はその程度かと言わんばかりに。

「うる、せえ、よッ!」

弟子の成長に内心舌を巻く藤原。その全てを紙一重で避けてはいるが、それが精一杯だった。
速い、速すぎる。もはや眼で追う事など出来はしない。己の感覚を研ぎ澄まし刃と弾が触れる刹那身を交わす。
反撃はもはや防御の手段に成り下がる、それほどまでに速く、強い。

「堕ちたものね鬼包丁!」
「ナマ言ってんじゃねえッ!」

しかも気配が掴めない。消えているのではない、多過ぎるのだ。
前後左右そして直上、その全てから殺気が降る。相手は一人、けれど感じる存在は七つ、どういう事だこれは。

「あははははははははッ!」

そして藤原は遂に気付く。
こいつは存在を消すのでは無く、増やしているのだと。

「くそッ、てめえッ!そういう事かよ!」

エイリアス──感覚分身。真美が持つスキル、イレイザーの反転技。
相手のシナプスにラインの力を放射させ一時的に全感覚器を狂わせる、ここまではイレイザーと同じだ。
しかしそれは、稀有なる血を持つ藤原には通じない。何故なら刃先が触れる瞬間、弾丸が発射される刹那、彼の血が身体を反射させてしまうからだ。
ならば逆はどうか。同じ感覚器を狂わせるなら、対象があたかも複数存在するかのように錯覚させればどうなるのか。
存在を消すのではなく増幅させる、その事によって藤原の身体は過剰に反応し、結果現在のように混乱を来たす。
真美が対フジワラ用に編み出した一つの成果がこれだった。

「お前はもう私に敵わない!お前はもう踊れない!」

四方八方から降り注ぐ刃先と銃弾の雨を、流し受け止め流す藤原のフクロナガサ。しかしその、長さ六尺の刃先が徐々に欠けて行く。
研ぎ直したとはいえベアとの一戦を経て蓄積した金属疲労が、鬼包丁の得物をただの棒に変えていく、そして。

「──くそったれ」

遂にその刃先が折れる。気付けば右手のゴー・ナナもスライドが開き残弾ゼロを示していた。
予備弾装は当に無い。空の銃と、柄だけになったナガサを投げ捨てる藤原。残るはこの身体のみ。
それを認め不意に七つの存在が一つに収束する。エイリアスを消し、藤原の眼前に佇む真美。
息も切らせず悠然と立ち、そして微笑む。勝ち誇ったように口の端を歪め、笑う。

「愛してるわシンヤ。だから殺してあげる。あなたの望み通り」
「望み──だぁ?」
「そうでしょ?あの娘に殺される前に、私が」
「お前に何が解る、俺はあの子になら」
「嘘ばっかり。あの子が怖いんでしょ?だってあの子はあなたを──」
「──黙れ」
「だから!私が!あの子に奪われるくらいなら──アタシがッ!」

何かを言いかけ不意に口をつぐむ真美。その時また、唇を噛む。
その仕草を見逃さず、心の内で藤原は吐き捨てる──馬鹿が。

「どうした?メッキが剥がれて来たぜ、オイ」

不意に笑う藤原。その姿を見て真美は気付く。

「こんなこともあろうかと、ってなぁ」

彼女は見た。男の左手に現れたもう一振りのフクロナガサを。

「──見たな?」

彼は笑う。長年愛用して来た四尺五寸の得物を握り締め。
そんな馬鹿な、予備など一体いつの間に──しかし真美は、動揺を隠し再び微笑む。

「いいわ、終わらせましょう」

言い終わらぬ内にまた、真美の気配が増幅する。展開される七体のエイリアスが藤原を取り囲む。
しかし彼は半眼となりて腹の底から息を吐く。男の血は相変わらず四方八方に気を散らすが、彼はもう焦らない。
真美は理解しているのだろうか、彼が培ってきた経験は、当にその血を抑え込む術を身に付けているという事に。
藤原は思案する。さてどうする。こいつの動きは掴めない。ならば読むしかない。こいつは俺から学んだ、俺の全てを吸収した。
つまり相手は俺自身。俺を殺すなら?どこを撃ちどこを斬りどこを刺す──なんだ、簡単じゃねえか。
その時、七体が一斉に牙を剥く。前後、左右、上下から迫る六つの刃先。
しかし藤原、これを避けず引かず動かず、右脇に片手を下ろし力を込めれば。

「──なッ」

彼の脇腹に突き刺さる直前に制止する真美の刃先。彼女が握るナガサごと右手を掴む藤原の手。
あたかもそれは六年前の再来。逆の手段を講じてもなお、藤原は本体を捉えた。
真美は驚愕のあまり一瞬顔を歪めるも、直ぐに思考を切り換え、左手人差し指に力を込めゴーナナのトリガーを引く。
火を放つ銃口、しかし弾丸は男の頬を僅かにかすめ、虚空に消える。

「もう、通じねえ」

腕を引き寄せ真美の耳元で囁く藤原。
彼は読んだ。六つはフェイク、絞るは一つ。自分自身を狙うなら何処を狙いどう動くか。
その時身体は反応し刃先を避け射線から逸れる、そこを狙う。避けた先、引いた先、その場所目掛け突くのなら──動かなければいいだけだ。

「まだッ──」

まだ終わりじゃない、まだやれる、しかし言い終わる前に真美は気付く。
藤原の右手は、得物ごと自分の右手を掴んでいる。背中に当たる男の胸板。まるで今、後ろから抱き締められているような格好。
ならば彼の左手は?四尺五寸のナガサを握る左手は?抱き締められる?背中から?ではその抱き止めた左手は今どこに──その時、腹部に感触。

「──まだ?」

耳元で囁かれた声は静かだった。静かで優しい声だった。
まるで出来の悪い弟子を哀れむかのように諭す師匠の声だった。
その声が脳裏に染みていく。そして遂に理解する。

「そんなもん、ねえんだよ」

激痛。声が出ない。
見なくても解る、いま何が起きているかなど、この皮膚を貫く冷たい刃の感触で解る。
ずぶり、根元まで差し込まれた。ぶちり、はらわたが裂かれる。熱い、火であぶった鉄棒を挿し込まれ引っ掻き回されたかのような熱。

「くっ……がっ……かはっ」

重厚な四尺五寸の刃先が動き出す。上へ上へ、はらわたを掻き分け胸骨すら凪ぎ払い胸の谷間を切り裂き上へ上へ進むナガサ。
噴き出す血潮、滴る尿、けれど無慈悲なこの男は進む刃を止めはしない。誠心誠意真心込めてこの身体を縦一文字に裂いていく。
ああ痛い、ああ熱い、ああ私は御仕舞いだ。けれど本望。その熱も痛みも心地良い。愛しいこの男に抱かれながら果てるのならば。
だからお願い離さないで。私が逝くまで、その大きな腕で抱き締めて。その広い胸に沈ませて。
ああ、ぼとぼとと血塊と肉が落ちて行く。ああ、刃先はもう喉下まで。ああ、抜ける。顎骨に当たり刃が抜ける。もう駄目、終わり、逝く──

「──ふん」

がくり、と頭を垂らす真美を抱き締めたまま藤原は息を吐く。
意識を無くした彼女を優しく、背中から包み込む。しかし抱き止めた彼の左手は、別段どうという事は無く。

「懲りねえなぁ、おめえ」

返り血?そんなものなど浴びてはいない。何故なら。

「まぁた、引っ掛かりやがって」

藤原は左手に、何も持ってなどいなかったのだから。


 
受け取りなさい、と差し出された繭子の小指、填められた金と黒の指輪を前に真澄は小さく首を振る。
そんなものは要らない、世界など欲しくないと。

「ごめんね」

繭子さん、解っているでしょ?と寂しそうに微笑む真澄。
彼女はもう知っていた。それを手にすればどうなるかを。世界を手に入れる代わりに何を失うのかを。

「お前は選べるのですよ、藤原真澄」

繭子は娘へ静かに諭す。今ならまだ間に合います、これが最後の分岐なのです、と。

「私はもう、選んだんだよ?」

その指輪を手に取れば自分は繭子と等しくなるのだろう。
世界の大きな理(ことわり)を意のままに操り、新たな物語を創る事さえ出来るだろう。
けれどその世界に自分は居ない。キャストを生み出し動かす事は出来ても、キャストと共に物語を紡ぐ事は出来ない。
それがこの存在に課せられたたった一つのルール。決して振りほどく事の出来ない鎖。この存在は自身の物語を創る事だけは出来ない。
故に彼女は傍観する。永劫の孤独の中で、キャスト達が生まれ消え行く様を、その無機質な瞳でただ見つめ──耐えられない。
自分には耐えられる訳が無いと真澄は思う。それだけは絶対に嫌だ、だって。

「私はお父さんが欲しい。それ以外なにも要らない」

それが私の世界だから。世界の中心にはあのひとがいるから。それが全てだから。それが仕組まれたものでも構わない。
私があのひとに固執するのが母から受け継いだ血のせいで、あらかじめ刷り込まれた情動だとしても構わない。
それが私だ。それが私を形作る全てだ。ならばもう抗わない。私はそれを受け入れる。私はあのひとが欲しい。ただそれだけ。

「それが何を意味するのか、お前はまだ解りませぬか、真澄」
「解っているよ。だけどもう私たちは」
「やはりお前は解っておらぬのです」
「父親だから?タブーだから?私が狂っているから?そんなの知らない!」

感極まったかのように真澄は叫ぶ。

「お父さんは約束してくれた!もう何処にもいかないって!私の気持ちに応えてくれたの!」

真澄は叫びながらも、自分が今何を言っているのか、それがどれほど異常な事なのかを理解していた。
けれど口元から溢れ出す言葉の洪水を止める事が出来なかった。

「もう絶対に離さない!心変わりは許さない!約束を破って逃げようとしても私は決して逃がさない!
 どこまでも何処までも追いかけて必ず必ず捕まえる!お父さんの背中も胸も身体も顔も言葉も心も全て私のもの!誰にも渡さない!」

五年間、否、十七年間蓄積されたその想いが堰を切って溢れ出す。
いつしか真澄の口元は狂気に歪み、今まさに笑い出さんばかりに吊上がる、しかし。

「その時、藤原はどうなりますか?」

繭子が放ったその問いは、真澄に残酷な結末を突き付けた。

──お前はいま、どんな眼をしている?

不意に脳裏を過ぎる母の声。
病床で彼女は言った。真澄、私の目を見ろ。この目に映るお前を見ろ。何が映っている?そう、お前自身の眼だ。
解るかい?これが何を意味するのか。

──それが、あたしの眼だったらよかったのにね。

ならば私はお前を手放せたのに。喜んであいつの元へ行かせたのに。
殺し合う?まさか!お前を殺すなんてとんでもない、愛しいお前に喰われるなら母親冥利に尽きるってもんさ。
でもね真澄違うんだ。これだけは覚えておいて。それは私の眼では無い。

──それはね、あいつの眼なんだよ。

そのとき私は、母が何を言っているのか理解出来なかった。いや、考えようともしなかった。
あのひとと同じ眼?あたりまえだ、私はあの男の血を引いているのだ。それがどうした、だからどうした。その程度にしか考えなかった。
それどころか私は、母に対し軽い優越感さえ抱いていた。ああそうかお母さん嫉妬しているんだ。だってあなたは所詮他人。
私はね、血が繋がっているの。生まれながらにあのひとと繋がっているの。決して切れない血の絆で。なあんだお母さん、結局は私が羨ましいのね。
あろうことか私は、あんなに好きだった母をいつしか蔑んでいたのだ。
父を憎む振りをしてあの女を安堵させ、心の底では笑っていたのだ。ざまあみろと。
お前は私からあのひとを奪った。本当に私が憎かったのは──私は、ずっとそう想っていた。いまこの瞬間まで。

「ごめん……お母さん……ごめんなさい」

自分はなんて醜悪で滑稽なのだろう。母はこの醜い本性さえ気付いていたのだ。こんな私さえ受け入れてくれたのだ。
だから最期に警告したのだ。その眼の意味を考えろと。

「私……わたし……お父さんを」

そして真澄は言葉を失う。
その口元は歪ながらカチカチと歯を鳴らし、笑う目尻からぼたぼたと落ちて行く涙。彼女は笑っていた。笑いながら泣いていた。
どさり。力の抜けた膝が床に落ち、前のめりに倒れ伏す間際、差し伸べた繭子の手が彼女を支える。

「そうです。お前は母ではなく、父である藤原の血をより濃く継いでしまったのです」

ドリフター──力に抗うもの。
それは本来、ラインという巨大な力に抗うべく生まれたものだった。
彼らの耐性は異物を排除する白血球のようでもあった。
恐らくはこの星が、キー・ストーンに取り込まれる刹那生み出した最後の抵抗だったのかも知れない。
ヴォクスホールを出て世界に散った彼等は確実に血を残しつつも、それは徐々に薄まり、子孫へ劣性遺伝子となって組み込まれ拡散していく。

しかしその中で唯一、億分の一の確立で発生した突然変異種が居た。

その種だけは度重なる交配においても決して血を薄めず、むしろ蓄積を繰り返し、数を減らしながらも受け継がれ、濃縮されたその血は遂に最強の個体を生み出した。
人の形をした獣、全ての色を溶かし込んだ黒き血を持つ狗──ブラック・ドッグ。最強にして最後の一頭。
それが〈より強きもの〉──藤原信也だった。

「あの血はそこで終わるはずでした。その血を受け止められるものなど、既に」

だが彼の血を受け止め、子を宿した女が居た。彼女は母となり、娘を産んだ。

「お前に流れる血が父より濃ければ良かった。そうであれば、これほどあの男に固執する事はありませんでした。
 何故ならその血は、より強きものとなるべく、自身より強いものを屠る本能が宿っておりましたから」

ブラック・ドッグの血は蓄積される。つまり子供は親よりも濃く、その潜在能力は遥かに親を凌駕する。故に親を屠る事は無い。
だが親となった者は、自身より強き子を倒す事は無かった。それは親子の情や良心以前に、血を残す本能が優先されたのかも知れない。
しかし血の濃縮は遂に臨界を迎え、最後の黒狗、藤原信也を以って血脈は絶える筈だった。
藤原の妹が父を手に掛けたのは、その血が弱かった為に起きた悲劇に他ならない。
彼は他を敵と認識しない限り、その血に宿る本能が目覚める事は無い。故に彼の父は伝えたのだ、敵を作るなと。

「ですが真澄。お前の血は藤原よりも若干薄い──解りますね?」

常世繭子は告げる。
藤原真澄、お前が父に執着するのは本能だ。彼を殺すべき唯一の敵として狙うからだ。お前が彼を想う感情が憎悪ならばまだ救いがあった。
しかしお前は父を愛してしまった。父を求める娘では無く、おとこを求めるおんなとして彼を欲してしまった。
何故そうなってしまったのか。それこそが最大の武器になるからだ。つまり。

「お前の愛は、黒狗を殺す為の毒なのです」

ゆえにお前は彼を愛する。愛ゆえに執着する。喰らうべき獲物として固執する。お前の愛は彼を蝕む。
おとこを求めるお前の愛を受け入れられず、恐れ、けれどお前を娘として愛するばかりに逃れられず、袋小路に追い込まれ自滅する。
お前は彼を殺す。身体ではなく心から。

「い、や──そんなのは嫌ッ!」

繭子の着物、その襟元を掴み真澄は泣き叫ぶ。

「我慢するから!もう二度と過ちは犯さないから!それがお父さんを苦しめるのなら私は!」
「もう無理なのです。あの男は気付いてしまいました」

繭子は言う。あの男は、お前の眼を見てしまったのだと。
お前が感極まって彼の胸に飛び込んだあの日、遂にその意味を知ってしまったのだと。もう楽園の日々には戻れぬのだと。

「ならお願い!私を殺して!お願い繭子さん!ねえっ!」
「出来ませぬ」
「ならいい!お父さんを殺すくらいなら私は!」
「お前が自ら命を絶つのならば、あの男も生きてはおらぬ。お前の世界があの男であるように、あの男の世界もお前。
 固く結びついてしまったお前達の結び目は解けませぬ。同じ血の糸で結ばれる限りは、逃れる事が出来ぬのです」
「それじゃあ……指輪を手にしても」

それは真澄にとって最後の希望だった。
ならばせめて離れよう。指輪を受け取り、世界を傍観する存在となり父の元を離れ、彼を見守り続けよう、もうそれしか道は残されていない。
だがそれは自身の命を消すに等しい。その時彼はどうなるのか──結局、同じ事なのだ。

「ですが、お前だけを残す事が出来ます」
「それだけは絶対に、嫌ッ!」

せめて真澄だけでも──繭子の申し出はしかし、真澄にとって到底受け入れられるものではなかった。
彼を犠牲に自分が残る、それだけは。

「繭子さん……お願い……この血を、なんとかして」

願いながらも絶望する。それは無理なのだろうと。
それがもし可能ならば、繭子は自分の為に世界を譲ろうとはしないだろう。これしか手が無いから、こうしたのだろうと。

「──繭子、さん?」

しかし彼女は、何も言わない。

「──どうしたの?」

出来ませぬ、とも返さない。

「──そっか」

沈黙する彼女を前に真澄は気付く。常世繭子は嘘を言わぬのだと。

「──出来るんだね?」

そして真澄は涙を拭い、頭を上げ繭子の前に向き直る。

「お願い、私なんでもするから」

彼女の前で使ってはならぬその言葉を、承知の上で真澄は言う。

「やはり、こうなりますか」

娘の願いを聞き、常世繭子は目を閉じた。

「五年前、お前たちと出会った時から解ってはいたのです」

抑揚の無い声でとつとつと語るその声が、真澄の胸に染みていく。

「その時は、お前たちにさしたる感慨もありませんでした」

語りながら繭子は、着物の裾に手を入れる。

「むしろ、そうなるべきだとさえ思っておりました」

ガチン。何かを打つ音がする。ガチン、ガチン。まるで割れ鐘のような音。

「ですが、お前たちは──わたしに」

そして繭子は瞳を開ける。しかしそこには何も無く、ただ黒かった。
ふたつのまなこに現れた奈落の穴、それは金の指輪にあつらえた、あの黒い石のようだった。

「真澄、ありがとう。お前たちと共に過ごした時は──とても美味でしたよ」

そして繭子は腕を出す。裾から取り出され、真澄の眼前に差し出される何か。

「取りなさい、狼の娘」

それは錆付いた一挺の銃。

「メキシカン──滅日の銃を」

ガチン。真澄の眼前で、撃鉄が落ちる。


 
「フンッ!」
「アッー!」

定番の気付けで馬鹿が目を醒ます。

「え?あ、腹!もつがでろーんって!あれれ?」
「おめえそれ、五年前と同じリアクションじゃねえか」

真美は慌てて腹をさするも、傷などあろうハズも無く──やられた、と真美は思い知る。

「イメトレのし過ぎだ。巨大カマキリとでも戦ってろ、馬鹿」

藤原は予備のフクロナガサなど持ってはいなかったのだ。
なのに自分は錯覚した。彼の発する強烈な圧力に押され、存在しない四尺五寸の刃を見てしまったのだ。
五年前、初めてこの町に降り立ち、藤原との稽古の最中に体感したあれを、またやってしまったのだ。
ああもう馬鹿、全然進歩しちゃいない。恥ずかしさのあまり顔を伏せる真美。
真っ赤に火照ったその頬を、さわさわと夜風が撫でる。気が付けばあれほど吹いていた強風は既に止み、初冬の冷たい風が前髪を軽く揺らす。
雲を全て吹き飛ばし、昇り切った満月の青白い光が、喧騒の消えた屋上の二人を照らしていた。

「いつから気付いてたんスか?」

ぼそりと呟かれた言葉。顔を伏せ、下唇を噛みながら真美は問う。

「それだソレ、唇」
「──え?」
「それ真来の癖だ。隠し事とか嘘とか、強がったりする時よくやったんだわ」

そんなトコまで真似しやがって、と微笑む藤原。

「最近じゃ真澄もソレやるんだ、やっぱ親子だよなぁ」

その名前を聞き、ずきりと真美の胸が痛む。

「アタシの、せいです」

面の剥がれた女が力無くつぶやく。歯を食いしばり目に大粒の涙を浮かべる真美。

「アタシが余計な事言わなければあの子は」

あの夜から真美は悩み続けた。悔やんでも悔やみ切れない。愚かな自分を殺したかった。
そして決意する、ならばそうしようと。全て私のせいだ、いや、そうでなくてはならない、これしかもう償う術は無いのだ。
これは、あの娘が姉の血を継いでしまった結果で、それを私が解き放った事にしなければならない。そうでなくてはならないのだ。

「ああ、そうだな。お前馬鹿だもんな」

藤原の言葉を聞き、真美は心の内で安堵する。良かった、彼はまだ気付いていないと。
いや、気付かないで欲しい。私が見てしまったあの眼を、この男には見て欲しくない。

「あの子のタガを、ずっと縛り続けて来たものをアタシが」

真美は想う。それならばまだ救いがあったと。事実自分も、先週の夜まではそう思っていた。
あの娘は父という雄に寄る他の雌を決して許さない。
それは私を含む姉達の、稀有なるドリフターを取り込むべく彼に固執するよう仕組まれた血を引いたからで、
だからこそあの娘は、彼を父ではなく男、つがいの雄として求めるようになってしまったのだと。娘ではなく女として狂ってしまったのだと。
そう思っていた。だが気付くべきだったのだ、ならば何故私はあの娘が怖かったのかと。
同じ血を引く最期の同胞を愛しいと思う一方で、何故あれほどまでに恐れてしまったのかと。
気付くべきだったのだ。姉の血を引くのならば彼の血も引いているという事実を、どちらの血が強いのかを。
そしてあの夜、遂に私は知ってしまった。

あれは私達の眼ではない。彼を欲する眼ではない。殺す眼だ。それは彼と同じ眼だ。
だからこそ姉、アルファは耐用年数の倍を生き延びる事が出来た。
あの娘を宿し血を与えた一方で、子宮からあの娘を通じ、稀有なるより強きもの、ブラック・ドックの血、その恩恵を図らずも享受してしまったのだ。
それだけあの黒狗の血は強く、濃い。アルファの体組織に仕組まれた自滅因子、アポトーシスタイマーを狂わせるほどに。
その分あの娘は、彼より受け継いだ濃厚な血を幾分か薄めてしまった。それが全ての元凶だ。
親より弱くなってしまった狼の娘は、生まれ出たその時より彼を殺すために動き出す。
力では到底敵わない。ならばどうする。壊せばいいその心を。あの娘に宿った本能はそれを忠実に実行した。
汝の敵を愛せよ、汝の敵を求めよ、汝の敵を犯せ、汝の敵を殺す為に。
雌として自分を求める愛しい娘に男は苦悶し、鋼の心をすり減らす。
しかし彼はそれでも娘を愛するだろう。愛する故に自滅する道を選ぶだろう。
より強きものは、自らに流れる血という牙に掛かって絶えるのだ。
その時あの娘は初めて気付く。自分の愛が父を殺してしまったという事を、そして彼女は絶望し自ら──。
これが考えうる一つの結末。だがこれは、最悪の結末ではないのだ。

「なあベソ美、だからお前、こんな事したんか?」

藤原の言葉に、真美はまた唇を噛む。

「そうッス!あの娘はもう止まりません。ならいっそ、アタシが」
「もういい」
「アタシです!アタシのせいであの子は!でもアタシ馬鹿だから!師匠を取られたくない!」

叫び真美は立ち上がり、再び得物を手に彼の前に立つ。

「ボロボロになって行く師匠を見たくないんです!そんなのアタシは耐えられない!
 あなたを失うくらいなら、あの子に取られるくらいなら、アタシはッ!」

男に刃を突きつけ真美は叫ぶ。気付かれるな、そう思い込めと自らを奮い立たせるように泣き叫ぶ。
私は、彼に殺されなければならないのだ。本気で挑まねば彼は殺してくれないのだ。
ならば何度でもやってやる、彼が殺してくれるまでこの身体が果てるまで。

真澄、愛しき我が最期の同胞、お前にだけは届いて欲しい。

私は彼を愛し、ゆえに挑み、果てに殺された。
この愚かな行為の結末がせめてあの娘に届いて欲しい。これこそがもう一つの、最悪の結末なのだと。
この結末を迎えぬよう、思い直し再び自身を縛って欲しい。でなければ必ずやお前もこうなるのだ。
これはお前のためでもあり愛しいこの男のためでもある、だから。

「もう──やめとけ、真美」

けれど彼は構えない。諭すように真美に告げる藤原の顔は、穏やかで。

「お前のせいじゃない。あれは俺の罪だ」

まるで、あの市長のような顔だと真美は思う。
何もかも知ってしまった粟川の、達観ではなく、何かを諦めたような眼差し。

「師匠まさか、気付いて」

再び握ったはずの刃が真美の手から抜け落ちる。コンクリートの上、乾いた音が虚しく響く。

「ああ、見ちまった」

お父さん大好き、もう離さない──夕暮れの中この胸に飛び込む真澄の眼を彼は見た。
二度と見たくはなかったあの眼を、彼が犯した罪の証を。

「あの眼な、一度だけ見たことがあるんだ」
父さん、ごめんね。お兄ちゃん、ありがとう──事切れる刹那、呪われた血から解き放たれた彼の妹は、兄の腕の中で言った。
潤む瞳に映るのは自分の顔、そしてあの眼。

「あれは、俺の眼だ」

ああ、この男は気付いてしまったのだ。
その時何が起こるのかを。もう避けようが無い最悪の結末を、遂に知ってしまったのだ。それを思うと真美は言葉が出なかった。

「俺はあの子が愛しい。だからあの子が怖い、恐くてたまらない」

藤原は静かに言葉を吐く。あの子に殺されるのはこれっぽちも怖くないと。
五年前再会した時からその気持ちは揺ぎ無い、本望だとさえ思っていた。しかし。

「親父は強かった。強いからこそ妹に、自分の娘に殺された」

あの男は強いからこそ血に勝てた。けれど俺は、その時──妹を。

「だが俺は強くなんかねえ、弱いんだ。だから恐いんだ、怖くてたまらねえんだ。
 だってよぉそうだろう?俺はその時、何をするか、解るだろう?」

あれは娘だ愛しい子だ、違うあれは敵だお前を殺す敵だ。理性と本能、愛と血、袋小路に追い込まれた黒狗は何をするのか。
自分を追い込むそれは何だ。そうだ、汝の敵を──殺せ。

「けどよ、なんとか間に合ったみてえだぜ」
「──え?」

一体何が、と呆気に取られる真美、その髪を揺らす風が不意に止んだ。

「見ろ、いい月だ」

藤原は確信していた。今日はきっと自分が見る最期の月であると。

「ああ、本当に──いい月だ」

月はラインの力に影響を及ぼす事を彼は知っていた。
郷土資料館地下に秘された月光に反応する模型図がラインと直結し、力落ちる場所ヴォクスホールとも関わりがあるのならば。
粟川が彼に言った通り満月の夜に何かが起きるのであれば。

──フジワラさん、嵐が来ますヨ。この町が吹き飛ぶ程の嵐がネ。

今宵はあの奇妙なメッセンジャー、魔道第五機動師団〈青〉副団長ベア・グリーズが去ってより初めての満月だ。
藤原は月を見上げ静かに深く息を吐く。
嵐よ来い、来るなら来い、解るんだよ、血が騒ぐんだ。ちっぽけな俺なんか足元にも及ばない、何かとてつもないものが来ると。
上等だ、さあ来い、やろうぜ──その時、月が消えた。

「あ……あああ、あ」

空を見上げ真美は言葉にならない声を吐く。
彼女は見た。視界に突如現れたものを。消えた月を中心に広がる巨大な光の紋様を。

「ハーマジェスティ──アポーツシステム!」

それは、女王の転送陣と呼ばれるものだった。
見上げる天蓋一杯に拡がるその紋章は、町の上空全てを覆い、その中心、月の消えた位置から何かがぞるりと顔を出す。
それはまさに月蝕だった。光を遮り現れた何かは、巨大な黒き塊だった。ぞるり、ぞるりと蠢きながら悠然と頭上より降りてくる。
中心に、眼と口を縫い合わされた小さな白い顔。それはまるで物言わぬ人形のようにも見えた。

「かあ……さま」

それは真美に刻まれた血が出した声だった。
女王の獣、かつてジェヴォーダンと呼ばれたもの、レムナント・ドールズの母体。
そして与えられた銘、〈C・E〉──コクーン・イーター。

「──師匠ッ!」

我に返り真美が叫ぶ。あれは駄目だ、あれだけは駄目だ。
嵐だ、大嵐が来た、何もかも吹き飛ばし台無しにする嵐が来た。

「師匠──なんで」

藤原の顔を見て真美の心が凍りつく。
彼は、笑っていた。















■狼の娘・滅日の銃
■第十四話/暴風域(後編)/了

■次回■第十五話「黒と黒、獣と狗」



[21792] 第十五話/黒と黒、獣と狗
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/12/04 02:26


月見窓に差した影が、真澄の足元で揺らめく灯火がひとつまたひとつと消えて行く。
もう一つの町〈要市〉の像が霧のようにかすみ、音が消え、声が消え、匂いも消えた。
やがてそれは冷たい石で作られた要市縮尺模型図へと姿を戻す。暗闇に落ちたかなめ市郷土資料館地下ホール。
天井を見上げ、常世繭子が静かに告げる。

「──来ましたか」

窓から降り注ぐ異様な圧力を真澄も感じていた。
何かが来た、とてつもない何かが。これを私は知っている。自分の体に流れる半分の血が告げている。あれは自分に近いものだと。
けれど真澄は、繭子から渡されたものから眼が離せずにいた。
赤茶色に錆付いた一挺の銃、巨大な銃身に刻まれた刻印はかすれて見えない。朽ちかけた鉄塊、だが不思議と重さは感じない。
羽根の様に軽い訳ではない、けれど見た目ほど重くない。
いま手の中に収まるそれは、何故か自分に良く馴染む。この腕の一部のような、そんな気さえする。
銃は何かを撃ち壊す為にある。いわば破壊の象徴。けれど真澄は、それがとても愛しい物のように感じた。
両手で掴んだそれを胸元に引き寄せ、抱き締める。

「メキシカン──滅日の銃」

抱き締めた胸先からじわりと何かが染みて来る。
繭子に解き放たれた知識とは別のものが脳裏の淵より流れ込む。

灼熱、荒野、憎悪、涙、血──銃の記憶。

これはかつて、数多に転がる銃のひとつに過ぎなかった。
引金を引き撃鉄を落とし雷管を破裂させ火薬が爆ぜ弾を放ち敵を撃つ、ただそれだけの道具だった。
しかし人の手を渡り歩く内に多くの血を吸い、狙った獲物を決して逃さないという一撃必殺の伝説が付加される。
そして或る日、一人の男がこれを手に入れる。彼は各地を渡り歩きこの様な伝説を持つ銃を集めていた。収集ではなく復讐の為に。
男は腕の良い銃鍛冶だった。しかし彼は愛しき家族を侵略者に奪われ、残る生涯を賭け復讐を誓う。
月日を経て集めた百挺の銃を溶かし、その中に黒い石を落す。それは何もかも失くした彼の手に唯一残った妻の形見、黒い石をあつらえた首飾りだった。
生前妻は語っていた、これは代々家に伝わる願いを叶える不思議な石だと。そんな事あるわけないだろうと笑う夫を彼女はたしなめる。
それは違う、私の願いも叶えてくれた。だって貴方に会えたもの。可愛い子にも恵まれた、そうでしょ?──と。
妻の言葉を胸に男は寝食を忘れ鉄を打つ、混ぜ、打ち直し、削り、鍛造し、巨大なバレルを持つ一挺の銃を創造する。

銘をメキシカン──それは彼の遠い祖先が崇めた神、メシトリに由来し〈神より与えられしもの〉という意味を持つ。
そして彼は願う。妻の形見を溶かした銃に切なる願いを込める。
メキシカン倒してくれ、憎き奴等を倒してくれ。
メキシカン壊してくれ、立ち塞がる全てを壊してくれ。
メキシカン終わらせてくれ、憎悪に汚されたこの日々を終わらせてくれ。
お前に与えるはこの命、お前に込めるは我が炎。此れを弾にして敵を滅ぼせ。
灰は灰に塵は塵に、全てを焼き尽くせ滅日の銃──そして、一夜にして侵略者の砦は燃え落ちる。
翌朝、廃墟の中に男の姿は無く、この銃だけが残った。
男の名はエル・レイ。ソリッドライナーでもなくドリフターでもない只の力無き人間。
以来この銃を持つものはエル・レイと呼ばれ、メキシカンに選ばれた彼らは皆等しく弾丸となり敵を滅ぼし、その命を燃やし尽くし、そして消える。

「キー・ストーンの破片から生まれたもの──そうでしょ?繭子さん」
「ええ。この星に落ちた時、剥がれ落ちた欠片ですよ、真澄」

最初のエル・レイが鉄の中に溶かし入れた妻の形見、願いを叶える不思議な黒い石こそがキー・ストーンの欠片だった。
伝説を持つ百挺の銃と混ざり合ったそれは、彼の願いを受け、使用者の命を代価に、
どの様な敵でも撃ち倒せる程の強力無比な武器として生まれ変わる。

「何故、これを私に?」
「メキシカンの言葉を聞きなさい。真澄」

言われるまま真澄は、錆びた銃身に耳を当てる。冷たい鉄の感触、その中から伝わる感覚。
孤独──この銃は孤独なのだと真澄は想う。メキシカンは使用者の命を使い敵を倒す。それがこの銃に課せられた宿命。
つまり一度きりの銃弾、使い果たして終わるもの。それは孤独の連鎖だ。しかしこの銃は人に触れすぎた。故に孤独という感情を知ってしまった。
そして遂に儚い望みを持ってしまったのだ──永劫の射手が欲しいと。

「そっか、お前寂しいんだね、だから──」

一度きりの弾丸などもう要らぬ。
尽きぬ弾を、無限の弾装を、我を使いうる永劫の射手を、我と共に在り続ける者を欲す──
銃から溢れ出す想いを受け、真澄の思考が目まぐるしく回転する。
自分は願った、父を殺す呪われたこの血を絶つ事を。そして繭子はこれを渡した。それは何故か。果たしてこれをどう使うべきなのか。
私は──試されている。

「真澄、お前達には時間が足りません」

その意を察したかのように囁く繭子。

「しかし時間を作る事は出来ます。メキシカンと、もう一つ〈あれ〉を用いれば」

その時、月見窓を見上げ繭子がつぶやく。窓の上に居るであろう存在を示し。

「〈あれ〉は、あの娘──アメリアがわたしに贈ってくれたギフト」

たまにで良い、美味なる馳走を届けてくれ──黒髪の魔女より力を与えられた幼子は、何が彼女にとって最上の御馳走かを考えた。
コクーンの役目は何か、それは世界を秩序良く平穏を以って運行させる事に他ならない。しかし緩慢な秩序は腐りやがて崩壊する。
その為には混乱が必要だ。秩序の為の混乱、それが大きければ大きいほど後にもたらされる秩序はより大きなものとなる。
では最大の混乱とは何か、最愛の常世の君を最も喜ばせる混乱とは何か、それは。

「あの娘はわたしを想うあまり、狂ってしまったのでしょうね」

ああ愛しい常世の君、貴女様を永劫の孤独より解き放って差し上げます。その孤独、わたくしに下さいませ。
わたくしはあなたになりたい。貴女の孤独を抱きこの狂った世界を終わらせましょう。
混乱を、最上の混乱を、後に訪れる揺ぎ無き秩序、何もかもが消え去り全てが真白になった絶対無比なる平穏。
ゆえに──消えて下さい。

「〈あれ〉は、わたしを殺すべく仕組まれたもの」
「そんなこと──させない!」

月見窓を睨み真澄が叫ぶ。
女王、狂いたいなら狂えばいい独りで勝手に狂えばいい。だがこの世界を道連れにする事だけは許さない。
ここは私と父の世界だ、それだけは絶対に許さない。

「私と──お父さん?」

そうだ、〈あれ〉を前にしたとき彼はどうなるのだろう。到底敵う筈も無い強大無比な化物を前に逃げ出すだろうか。
そんな訳あるものか。彼は逃げたりなどしない。命を賭して化物の前に立つだろう。
この町を、私達が共に過ごした五年間の楽園を守る為──違う。そうじゃない。

「やだ、駄目だよお父さん!それじゃ駄目!」

これから起こりうる一つの結末を想い真澄が叫ぶ。
彼は全てを清算する気だ。呪われた血を絶つ為に、血に縛られた私を鎖から解き放つために。
ブラック・ドッグの本能に身を委ね、彼は喜んで戦うのだ。笑いながら戦い、果てる気だ。

「お父さん、私は──」

真澄は唇を噛み締める。逃がさない──決してお前を逃がすものかと。








狼の娘・滅日の銃
第十五話 - 黒と黒、獣と狗 -






ラックを開き、ありったけの弾装を取り出し、羽織ったタクティカルベストに仕込む。
左右のストラップに二挺のゴー・ナナ、左右の腰溜めにニ振りの新調フクロナガサ。
駄目押しとばかりにラックの奥よりキューピー、小銃P90を取り出し肩に掛け、軽く息を吐く。

「──上等」

言い聞かせるように呟き、藤原はベルトを締める。
空になったラックを眺め彼は思う。五年前局長がこれだけの装備を贈ってくれたのは、今日この日の為ではなかったのか。
まったくあのおっさん人が悪いぜ、先読みのし過ぎだと苦笑し振り返れば。

「──何やってるんスか」

執務室の入り口を塞ぐように立ちはだかる馬鹿、田中真美が藤原を睨む。

「何っておめえ、決まってるだろうが」
「あんなもんに勝てると思ってんですか!」

銃を構え真美が叫ぶ。

「それ以前に忘れたんですか!あたしらこの町には関わっちゃいけないって事を!もうこんな町のことなんてほっときましょうよ!」

射線を眼前の男に定め彼女が叫ぶ。
国とカナメ間で締結された相互不干渉協定を忘れたのかと。自分達に与えられた任務は偵察と調査、それを越えてはならないのだと。

「真美、粟川さんに伝えといてくれ。特務権限、使うってな」

しかし藤原は宣言する。要事案部駐在調整官が持つ唯一の切札、干渉権を行使すると。

「駄目です!行かせません!」
「どけよ。俺の仕事だ。邪魔すんじゃねえ」
「そんなン知るかぁッ!」

激情に駆られ引金を引く真美。銃声一発、狙いは右腿。しかし──男の姿は掻き消え。

「最後に教えといてやる」

直後、吐息が触れるほどの鼻先に現れた彼の顔。

「俺を本気で殺りてえなら、こうやって」

そのまま真美の腕を引き寄せ、握られた銃口を自らの額に押し当て、藤原が囁く。

「さあ、引け」

震える指先、篭らぬ力。じわり、真美の視界が涙で歪む。

「や……だ……」

口からこぼれた彼女のうめき。手先から力が抜け滑り落ちる銃。
空いた彼女の両腕はいつしか男の背中に回り、強く強く抱き締める。
ぽんぽん、と彼女の背中を軽く叩く男の手。泣いた子供をあやすような優しい手。そして藤原は真美の耳元で囁く。

「真美、あの子に伝えてくれ。お前の親父は馬鹿だったと」

伝えてくれと彼は言う。お前の親父は無様だったと。
身の程もわきまえず自分が強いと勘違いした挙句、化物に挑んでボロカスになって息絶えたと。
お前の事を考えず自分の快楽、ただ戦いたいが為に突っ走り、挙句の果てに笑いながら逝ったと。そんな糞虫だったと。
お前の親父はいきがるだけのてんで弱い三下だったと。そう伝えてくれと男は言う。

「なあ頼むよ真美、あの子に教えてやってくれ。お前の執着はただの気の迷いなんだと。お前の親父はただのクズだったと。
 笑いながらあの子の前で吐き捨ててくれ。強い奴ぁこの世界にゴマンといる、だからあんなクソッタレ忘れちまえと言ってやってくれ、頼む」

そう思い込ませてやってくれ、腐った血から解き放してやってくれ。
でなきゃあの子は救われねえ。もうお前にしか頼めねえ、だから。

「やだ……やあぁだぁ」

泣きじゃくり藤原にしがみ付く真美、けれど遠いと彼女は思う。
こんなに近くにいるのに、こうやって抱き締めているのにこの男は、なんて遠くにいるのだろうと。

「じじょおぉ……」
「ほら、もう泣き止め。な?」

もう止められない。この男は行く。きっと笑いながら逝くのだろう。解っている、もうこの男はあの娘のものだ。
けれど、いやだからこそ。ならばせめて証が欲しい。私がお前を愛したという証を。一時なりとも受け入れてくれたという証を。
この男のぬくもりを、確かにここ居たというアリバイを刻んで欲しい。お願い、ダーリン。

「──ん」

真美が差し出した唇を塞ぐ藤原。重ねられた唇の中、二匹の赤い蛇のように絡まる舌。
最初で最後の逢瀬は、微かに血の味がした。



〈C・E〉は町を見下ろす。二つの眼は縫い合わされ固く閉じられているものの、彼女にはその全貌が視えていた。
足元に拡がる夜景を眼球ではなく全感覚で受け止める。すると視えて来るものがある。穴だ──それも巨大な。
かつて自身が生まれ出でたヴォクスホールにある〈ホール〉とは比較にならぬほどの大穴。その規模、約百六十平方キロメートル。
四方を山に囲まれた巨大な穴。それこそが外の者達が探し続けて止まないラインの源泉。
この地に伝わる伝承、かなめの大穴は、開いてより未だ閉じてはいないのだ。穴の上に町があるのではない。この町こそが〈ホール〉そのもの。
つまりカナメとはそういうものなのだ。

ゆえに彼女──〈C・E〉は待つ。

確かに居る、ここに居る。自分を生み出したものが。自分の求めるものが。自分に恐怖を与える唯一のものが。
しかしそれを見つける事が出来ない。直下より噴出す力の奔流が全てを隠し、居るはずのそれを探し出す事が出来ない。
ゆえに待つ。巨大なホールより噴き出す力に身を任せ中空を漂い、身にまとう黒衣のような黒い手の群体をうねらせながらその時を静かに待つ。
我を生み出した母なるものよ、我は来た。お前を喰らう為に我は来た。この時をどれほど待ったか。
暗き闇の中で同胞を喰らい生き延びて来たのは今日この日の為。ゆえに我は待つ。もう何処へも行かぬ。いつまでも待つ。
しびれを切らし顔を出す刹那、お前の首に喰らいついてやろう。逃がしはしない。決して──その時。

「おーい、そこの黒毛玉」

男の声──同時に衝撃。バチバチと火花を散らし顔面で砕け散る鋼の弾頭。

「んなトコに浮かんでねえで、降りてこいや」

石つぶてを当てられたかのような不快感。
感覚を全方位から、足元の一極に集中させればラインの奔流は消え、現れるは月光に照らされた夜の町。
誰もいない静かな路上に小さな影ひとつ、小銃を構えこの身を狙う。それを視て〈C・E〉は苛立つ。
何だあの小さいものは、その程度の武器で何をするつもりだ。身の程をわきまえろ、お前など相手に──。

「とっとと降りて来いやコラァ!」

怒号と共に再び目元で炸裂する弾頭。バチバチと絶え間なく続く閃光を受け、遂に苛立ちが飽和する。うるさい、うるさい、五月蝿い。
忌々しい小蝿を払いのけるかのように〈C・E〉の周りで蠢いていた黒い手がその動きを止め、次の瞬間、男へ向けて一斉に襲い掛かる。
上空より殺到する黒い手の大群に向け、その男は小銃を絶え間なく打ち放つも全て弾かれ、
大きく広げたそれぞれの手のひら、牙を生やした口が小銃を奪い噛み砕く。

「おわっ、ちょっ、おまっ──くそったれぇッ!」

無残に砕けた小銃を吐き捨て、鎌首を上げた蛇の如く黒い大軍が男を見定め、ガチガチと牙を鳴らしその男を取り囲む。
引きつった半笑いの顔に冷や汗一筋。

「えっと──タンマ」

聞くわけが無い。
即座に飛び掛る黒き大群が男を飲み込む。最期の絶叫すら許さず黒い手達はその得物を肉の一片まで喰らい尽くす──はずだった。

「──なんてな」

しかし不意に、群体が動きを止める。やがて──ぼと、ぼと、ぼとぼとと次々と地に落ちていく無数の手首。
先端を失い黒い血を撒き散らしながら力なくうな垂れ、足元に伏す蛇たち。
その中心に男が居た。左手に小刀を握り、心底楽しそうに笑う彼の顔。

「やろうぜ、おい」

左手に七尺五寸のフクロナガサ、右手に艶消し黒のゴー・ナナを握り藤原信也が悠然と笑う。

「楽しませてやるよ」

右手が上がり引金を引く。銃声一発、放たれた弾丸がまた〈C・E〉の眉間で破裂する。
けれどもう苛立ちは感じない。彼女は視た。狙いを定める照準器の向こう、鈍く光る鋼の眼。
口元が笑う、端々を吊り上げ、隙間から垣間見えるは二本の犬歯。それを認め興味が沸く。
虚勢ではない。このヒトの形をした獣は我を前にして露ほどの恐怖も抱いていない。それどころか黒い手より逃げもせず真向かいから切り裂いた。

面白い。我を楽しませてくれるか──黒狗。

そして〈C・E〉は地に降り立つ。その時、身に纏う無数の闇が霧散し、未だ笑う男の前にその姿をさらけ出す。
少女の如き華奢な陰影、しかし体に纏う黒き殻は、隅々から鋭利な刺を生やし、触れるもの全てを貫くであろう意志が篭る。
禍禍しき異形の人形、白い顔、縫い合わされた眼、鼻、口。その面持ちは隠微かつ扇情的でさえあった。

「たまんねえな、おい」

その言葉で〈C・E〉の縫い合わされた口元が歪み笑う。つられて藤原もまた笑う。
対峙する男と異形。見れば町は静まり返り人っ子一人居はしない。あの時と同じだと藤原は思う。
ベアと一戦交えた時と同じだと。まるで今、世界には俺達だけしか居ないようだ。皆息を潜め隠れているのか、それとも。

「まあ、いいか」

回れ廻れ影法師、人はみな哀れな役者、人生という舞台の上で見栄をきったりわめいたり、出番が終われば消えるのみ──。
有名な戯曲、その一節を思い出し藤原は苦笑する。違げぇねえ、確かに舞台だ、なるほど。なら楽しもうぜ、この身が削れて消えるまで。
楽しませてくれ、この命果てるまで。



頭上から雷鳴の如く鳴り響く銃声を聞きながら、藤原真澄は唇を噛む。
ぎりっ、噛み締めた下唇から血が滲む。けれど彼女は動かない。
暗闇の中で眼を固く閉じ、滅日の銃を胸に抱き、ひたすら耐え、考える──どうする、彼は命を捨てる気だ。
私の為にと燃やし尽くし全てを終わらせ逃げる気だ。許さない、それだけは許さない。ならばいっそ私が──。

「──駄目」

地下ホールの中、真澄のつぶやきが小さく漏れる。
自分が射手となり彼を止め〈あれ〉を滅ぼす──結果はどうなる?全てが終わり、燃え落ちる私を前に彼は絶望するだろう。
全て自分のせいだと苛んだ挙句、狂い命を絶つだろう。それでは駄目、同じ事だ。
私は彼と共に居たい、離したくない、出来得ることなら永遠に──

「──永遠?」

ガチン。
真澄の胸元、メキシカンの錆びた撃鉄が落ちる。彼女の言葉に応えるように。

「永遠の──射手」

一度きりの弾丸などもう要らぬ。
尽きぬ弾を、無限の弾装を、我を使いうる永劫の射手を、我と共に在り続ける者を欲す──この銃はそれを望んでいる。それを可能にするものは。

「お前は〈あれ〉を狙っているね?」

それに気付き眼を開ける。
窓の外で響く銃声、いま父と戦っているであろう化物。自分に近いもの、しかし繭子により近いもの。
繭子を喰らうべく狂気の女王より贈られたギフト。黒い手を因り合わせ精製された自動人形。
ラインと直結し、ラインの力が尽きぬ限り途絶える事の無い、無限の弾装を持ちうるもの。

「私がそうだったら、よかったのにね」

真澄は思う、もしそうならば永遠の射手となれる。だが自分はそうではない。
この体は人で出来ている。怪我もすれば風邪も引くし恋もする、どこにでもいる十七歳の小娘として構成されている。
老いやがて命果てるものとして、ただの力無きものとして私は生まれた。
父を愛すために、弱きものとして彼の懐に忍び込み、彼に絡み、彼に愛され、彼を殺す毒として。

──真澄、お前達には時間が足りません。

不意に繭子の言葉を思い出す。
時間が足りない?そんな事は解っている。確かに指輪を手に取れば私はあなたと等しくなれる。永遠の存在に。
だがそれでは駄目だ。だってあなた──コクーンは滅日の銃の射手にはなりえない。あなたは常に物語の外に存在するからだ。
銃は物語の中に在る。だから持つことは出来ても使う事は出来ない。けれどあなたはこう言った。

──しかし時間を作る事は出来ます。

つまり、もうひとつ方法があるのだ。私が〈あれ〉に近付く事が出来るのなら。

──メキシカンと、もう一つ〈あれ〉を用いれば。

ガチン、ガチン。
気付けとばかりにメキシカンの撃鉄が二度落ちる。撃鉄?それは何だ──再び真澄は自問する。
撃鉄が落ちる、火薬が爆ぜ、弾頭が飛ぶ。撃鉄は銃の一部、しかし弾丸は違う。
滅日の銃の弾丸は射手の命、そうか──私が弾にならなければ。

「繭子さん」

そして真澄は膝を着く。ひざまずき向き直り、繭子の視線と対峙する。
二つのまなこには何も無い、穴のような漆黒、吸い込まれそうな黒。彼女の色。黒き魔女コクーンに真澄は問う。

「弾と火薬を分ける事──出来る?」

ガチンガチンガチン。
メキシカンの撃鉄が三度落ちる。それが答えだと言わんばかりに。

「──出来ます」

常世繭子は嘘を言わない。故にそれは出来るのだ。
しかし真澄は見た。無表情の人形顔、その口元が悲しげに歪むのを。
彼女が何を想うのかヒトに理解出来る訳が無い。物語のキャスト達が作り手の思いなど知らぬように。
けれど真澄には解る。今もしここに藤原が居たのなら彼も理解出来ただろう。
彼らは五年間、共に過ごした。あの小さな家でちゃぶ台を囲み夕餉を共にし、笑い、むくれ、時に怒り、たまに泣き、けれどやはり笑い合う。
たかが五年、されど五年。ささやかなれど他に換え難い楽園の日々。その中に彼女は居た。
無表情で大飯喰らい、風変わりな大家として。物語の端役として、確かに彼女は輪の中に居た。彼らの──家族として。

「わたしは答えました。ですが真澄、それを選ぶのですか?」

抑揚無く告げる声、相変わらずの無表情。
けれど真澄にはその顔が、泣きじゃくる童女に重なる。
独りは寂しい、出来ればあの男も、けれど無理だ、ならせめてお前だけでも共に、行かないでおくれ真澄──今なら解る。
繭子は真澄に、その答えに行き着く道を示した。しかしその答えを選んで欲しくはなかったのだ。
何故ならこの道はあまりにも険しく、過酷で──凄惨。

「ごめんね、繭子さん」

けれど藤原真澄は選択する。楽園よりも、あの男が欲しいと。



炸裂する弾頭、黒い殻を覆う無数の刺が次から次へと枝を伸ばし、鋭利な槍となって男を襲う。
それを左手のフクロナガサでなぎ払い、右手のゴー・ナナが火を放つ。
直後スライドオープン、マガジン落下、次弾装填即座にリロード、バースト、バースト。
その間もナガサの刃先は槍を払い、時折散る火花、火花。
絶え間なく槍を放つ異形、剣と銃で応える藤原、獣と狗、二つの黒が月夜に踊る。
その饗宴を、市庁舎の屋上より見下ろす影ひとつ。

「廻れ回れ影法師、我々は哀れな役者──ですか」

シェイクスピア三大悲劇の一つ、マクベスの台詞を独り呟く老人。

「全く、やってられませんねえ。そう思いませんか──田中さん」

名を呼ばれ、老人の傍らより姿を現した一人の女。

「その考えは嫌いです、市長さん」

しかし、突如現れた彼女にもさして驚く素振りを見せず、粟川礼次郎は微笑む。
まるで端から見えていたようだ。存在を消すイレイザー、それが効かぬこの老人は一体何者なのか、そしてこの微笑。
顔に張り付いたような笑い顔──むかつく。嫌な笑み、何よりもその目。何かを諦めきったようなその眼──ふと湧き上がる嫌悪感、しかし真美は思い直す。
止めよう、せっかくの興が冷める。あのひとが刻んでくれた証、その余韻にもう少し浸たりたい。

「あなたは行かれないのですね」

彼と共に戦わないのですか?と問う粟川に、ええ、とひと言だけ返す真美。
それ以外は言わない。薄情な女だと思われても構わない。だってあのひとはもう戻らない。
でも私は知っている、あのひとは最後に私を見てくれた。私をおんなにしてくれた。それだけで充分。
もう邪魔はしない。思う存分戦いなさい、ここで見ててあげる、あなたの最後を。これが私の愛。

「そうですね。邪魔をしてはいけませんね、誰も」

粟川の言葉で真美は気付く。そうだ、これだけの騒ぎにも関わらず何故誰も居ないのかと。

「他の住人達は避難しているんですか?」
「いいえ、良くご覧なさい田中さん」

粟川の視線が示す先に目を凝らす。
誰も居ない町で繰り広げられる戦い。銃火と切り結ぶ火花が散る最中、眩い光が町を照らす一瞬、建物に浮かぶ影──人影、数多く蠢く人影。

「皆、そこに居るのですよ。誰一人気付きませんがね」

驚きのあまり声を失くす真美の隣で粟川が囁く。

「かなめ市とは、要市の影でもあり、その逆でもあります」

つまり二つで一つなんですよ、と老人は微笑む。

「ほら、懐中電灯に何か切り抜いて貼り付けると、照らされた先に貼ったそれが映し出されるじゃないですか。簡単に言えばそんな感じでしょうかね。
 つまり、ここはその狭間。故に誰も見向きもしないし気付かない。位相がすれている、とでも言いましょうか」

訳が解らない、お前は何を言っているのだ。
いぶかしむ真美が更に問おうと口を開く刹那、老人は微笑みながら人差し指を彼女の口に添える。まあお聞きなさい、と。

「全てを理解する事は不可能です。けれど想像は出来ます。空想も、夢想もね」

これこそが無力なヒトが持つ唯一の武器なんですよ。
穏やかに話す老人の微笑みを前に真美は言葉を出す事が出来ない。ああ、またこの微笑み、虫唾が──違う、これはシグナルだ。
本能が告げている。この老人に関わるな、この男に近付くな、こいつは危険だと。

「かつて、禁忌の地ヴォクスホールに力持つ者達が引き寄せられ、彼らはフラットライナーとドリフターに変容しました。
 そこはラインの力落ちる場所だったからです。考えた事はありませんか?では何故、ラインの源泉であるカナメでは、何も生まれないのかと」

それは──コクーンが。言葉の出せぬ真美を察したかのように、老人はまた微笑む。

「あのお方が全てを抑えている?果たしてそうでしょうか。
 もっとより大きなものを生み出してしまったとしたらどうでしょう。百年前、それが完成してしまったとしたら」

老人は耳元で囁く。想像しましょう、空想しましょう、夢想しましょう、と。
ラインとは何でしょう、ラインを生み出す要石、願いを叶える不思議な石、キー・ストーンとは何でしょう。

解らない?では想像しましょう。

ラインが無ければヴォクスホールも世界の夜に君臨する魔道帝国もフラットライナーも、それに抗うドリフターも存在しませんでした。
彼らが居たからこそ、取り巻く世界は彼らの闘争と拮抗に注視し連携しつつ均衡を保ちました。
局地的な戦争こそ起これども、世界を巻き込む程の大戦は遂に起こりませんでした。
強大なラインを軸とする彼らの前に、他の勢力が力をつけ肥大し覇権を狙う事など出来ましょうか。そんな余裕などございません。

では空想しましょう、ラインの無い世界を。

彼らの居ない世界。平和で秩序溢れる世界でしたでしょうか?わたしはそうは思えません。
今とは比較にならないほどの血が流れたのではないでしょうか。つまりソリッドライナーとドリフターの闘争は代理戦争なのです。
世界に代わり彼らが力を持ち闘争し拮抗する事で秩序を保っているのです。その為の彼等、秩序の為の混乱、取り巻く世界は事も無し。

そして夢想しましょう、この世界を誰かが願ったとしたら。

こんな筈じゃなかった世界を、こうであって欲しい世界に作り変えたい誰かがそれを願ったとしたら。
キー・ストーンがその切なる願いに惹かれ、この星にやって来たのだとしたら。

「──それがもし、誰かではなく、この星の願いだったとしたら?」

微笑む老人の顔は、既に市長の顔ではなかった。学者でもなく、一人夢想する男がここに居る。
その微笑みを前に真美は言葉が出ない。

「さて、これで世界は安定しました。次は何をしましょう?
 ああ、そうだ。哀れな代理闘争者、彼らの労に報いねば、彼らにも平穏を与えねば。さて──どうしましょう?」

ヴォクスホールが始まりの地ならば、終わりの地も必要ですよね?
耳元から染みていく囁きで遂に真美は気付く。違う、これは嫌悪ではない、恐怖だと。自分はこの男が怖くて堪らないのだと。
そう──コクーンよりも。

「そうだ、彼らの為に町を作ろう。彼らが平穏に暮らせる静かな場所を」

そして老人は、笑いながら眼下の町に向かい手を広げる。
その姿は舞台の上から観客に向け台詞を吐く一人の役者に見えた。微笑む老人の影の中、滲み出すもう一人の影法師。

「町とはいわば人の集合体です。人が集まり寄り添う事で町が生まれます。ではこの町の住人は一体何者なのでしょうか。
 巨大な源泉、オリジナルの〈ホール〉に作られた町、そこで暮らす人々とは一体、町を構成する彼らは果たして──ただのヒトでしょうか?」

影法師は叫ぶ。
そう、ここだ!ここしかない!この星に落ちた小さな黒い願い星!
その場所に!本体が露出する僅かな箇所に町の原型を刻み、ラインの照射により夢の如く浮かび上がらせた幻影の町!
かなめ市と要市で構成される二重存在!そこに彼らを集わせよう!

「彼らは皆、その資格を持っています。
 闘争の果てに殉じたソリッドライナーでありドリフターであり、ホールに飲み込まれ漂泊の果てにたどり着いたものであり。
 つまり彼らは再生者、この町と同じように二重存在者なのですよ。ここの住人はね」

ゆえに彼らはここで生きる!ゆめまぼろしのものとして!けれど、彼らが切に願った力無きただのヒトとして!
穏やかに笑いラインに溶け込む前に最後の生を謳歌する!──与えられた台詞を吐き尽くし、役目を終えた影法師は再び老人の影に消えて行く。
そして彼は振り返り真美に告げた。
これが始まりにして終わりの地、ライン循環の開始にして到達点、
キー・ストーンの場所にして管制人格コクーン、常世繭子の作り出した最後の楽園、カナメの正体です、と。

「わたしはね、この町に来たかったんです。ずっとここで暮らしたかった」

ですがもう、帰らねばなりません。
微笑みの中にふと混じる静寂。それを認め、真美は我に返り彼に問う。

「あなたは──誰?」
「粟川礼次郎、六十五歳、かなめ市長、四期目──」

元考古学者にして異端の民俗学者。
学会から無視されてもなお謎を追い続け、特異なフォークロワの宝庫であるかなめ市に魅せられ、やがて常世繭子に取り込まれたもの。

「──という、キャスト(役者)です」

寂しげに笑う老人が真美に向き直り、静かに問う。

「田中さん、あなたはどうされますかな?」
「どこにも行きません、何処へも」

私は残る。男の最期を見届け、残されたあの娘を守る。
私にそれを託してくれた、あのひとの想いに応える、それこそが私の存在意義──しかし、その心を読んだように老人は笑う。

「何が、おかしいんですか」
「忠告しておきますね、田中さん。あなたは直ぐに離れるべきです、でないと見てしまう」
「見ます、見届けます。それがあのひととの約束──」
「そうじゃないんです。それならばまだ、救いがあります」

意味深い言葉と共に老人の右手が上がる。
その時、突如手の中に現れた紙切れ──アポーツ(引き寄せ)、何故その技をお前が──驚きに目を剥く真美の前に差し出される一通の書類。

「──登記簿謄本?」
「はい。この町にある唯一の空家のものです、良く御覧なさい」

彼女は知っていた。それは藤原が五年間のフィールドワークの最中に見つけたこの町唯一の空白地帯。
過去二十年を遡っても居住者の記録が存在しない所有者不明物件。苗字は確か──

「柊──」

老人の手が所有者欄を示す。
その時、空白だった名前欄にじわり、と浮かび上がる文字。最初に苗字、そして、続く名前──

「──真澄!」

意味は解らない、けれど真美は目を背けた。それがとても忌々しい事のように感じたからだ。

「選んだのですね──あの子は」

あの子──あの娘?老人の言葉が、あの娘を指すのなら。それは一体──考えるな、今はただ一刻も早く真澄の元に!
踵を返し駆け出そうとする真美の肩を、老人の手が止める。

「ねえ、田中さん。あなたが先程見せてくれた技、確か消去──イレイザーでしたかね」

ぞくり。かつて感じた事の無い悪寒が真美の体を石の如く固める。

「あと分体──エイリアス、ですか。それは一体誰から分けられたと思いますか?」

何故お前はそれを知っている。動揺を隠そうにも、その微笑みが邪魔をする。

「──けも、の」

違います、と老人は笑う。

「あの獣からは強きものに固執し喰らうという本能を分化されました。
 しかし完全複製など到底無理、あれは奇跡の産物ですからね。あなた達は血を分けた娘みたいなもんですかね」

まあ、だからこそあの娘が生まれたんですがね。
あの獣よりも更なる奇跡、コクーンの黒い手と黒狗の血が混ざった、この世界における真なるイレギュラー。それがあの子、藤原真澄。
けれど今、彼女は柊真澄になろうとしています。まあそれは、この際おいといて。

「けれどね田中真美さん、それだけなんです。あとは別なんです」

穏やかに笑う老人から彼女は目が離せない。

「そのスキルは、あなたのベースとなったある素体から与えられたものなのですよ──オメガ」

自分の真名を告げるこの老人から目を離す事が出来ない。

「あなた、アルファと同じく寿命が残り少ないと勘違いされてませんか?
 だから藤原さんに挑んだ。その命を賭して娘に伝える為に。自分の存在した証を託して、でもね」

あなた、オメガなんです。だから違うんです。
耐用年数?違います。それはあなたの力の限界値を示します。他のアルファこそ、あなたのエイリアスなんですよ。
その中の一体は、彼の血を注がれ遂に固定化しましたがね。まあつまり、あなたは寿命に縛られません。

「あな……たは、一体……何」
「まだ御解りになりません?──わたくしを」

ごぽっ。水泡の音を立て老人の顔が崩れる。
それはやがて全身に広がり、半透明なゼリーの如きあやふやなものに変化する。
しかし次の瞬間、かろうじて人の形を模していたそれが突如燃え上がり全てが業火に包まれる。

「あなたの素体ですよ、愛しい娘」

立ち尽くす真美の眼前で燃え盛る炎。
最中より声が囁く。相変わらず穏やかな声。
けれどそれは老人の声ではなかった。艶やかに笑う女の声──そして、火が消えればそこに。

「あ……ああ、あ」

ガチガチと真美の歯が震える。
怖いはずだ、恐ろしい筈だ。何てことだ、居てはならないものがここにいる、恐怖が、いや、恐怖を欲するものがここに!

「アメリア──ヴォクスホール!」

唯一の女王が、微笑んでいた。





















■狼の娘・滅日の銃
■第十五話/黒と黒、獣と狗/了

■次回■第十六話「そして、滅日の銃」



[21792] 第十六話/そして、滅日の銃
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/12/10 22:50




荒い息を吐き、肩が揺れる。
軽くなったベストを脱ぎ捨て、男は最期の弾装を銃に挿した。
額、頬、首筋、胸、腹、両腕、両足、いたる所に無数の傷。切り刻まれた白いシャツが真紅に染まる。
けれど彼の眼光は揺ぎ無く、黒き異形を瞳に映し、なおも口元は笑い、歪む。

「──ふん」

笑いながらも男は、自分を圧倒する敵を前に残る気力を振り絞る。
撃っても撃っても弾は散り、削っても刺しても貫けぬ固い殻。そして薙ぎ払っても叩き折っても生えてくる無尽蔵の槍。
こいつは本当の化物だ、しかも──ぎりっ、と歯を鳴らす彼の眼前、悠然と佇む黒き異形は身動き一つせず彼の反撃を待っている。
余裕?否、これは余興。俺は──遊ばれている。

「──くそったれ」

体が悲鳴を上げている。疲れたもう休みたいと愚痴垂れる。
真来と出会ったあの頃は一晩中闘ってもどうという事はなかった。なのにこの体たらく、老いぼれたもんだ。男の口元に浮かぶ自嘲の笑み。
けれど未だ、腹の底から湧き上がるこの感情は何だ。くそったれ、俺ぁ楽しいのか。
この腐った黒狗の血が歓喜に叫ぶ。もっと、もっと、もっと。戦え、闘え、喰らいつけ。
枯れ果てるまで、最期の一滴が流れ落ちるまでこの身体は駆動する。走れ、吼えろ、眼前の敵目掛け一心不乱に駆け抜けろ。
まだだ、まだやれる、やってやる、ああ、やってやるとも。

「楽しいなあっ、オイッ!」

血の滴る右腕が銃を構え獲物を狙う。
左手には七尺五寸のフクロナガサ、刃の欠けたそれを逆手に構え藤原は不敵に笑う。
いつでもいいぜ──闘争再開、その合図を受けたかのように〈C・E〉もまた口元を歪め笑い、両腕を大きく広げる。
再び全身より姿を現す無数の刺。また槍か?藤原は刺突に構えるも今度は様子が異なる。
黒き殻より生え出た無数の刺は、しかしそれ以上切先を伸ばさず先端が熱せられた鉄のように赤く染まり、次の瞬間──

「──くッ」

身体を覆う灼熱の刺が突如、四方八方に飛び散る。
間一髪身をかわせば藤原の背後で炸裂する閃光。遅れて前方から真上から響く爆裂音。
静かな夜が一変、火の海と化し次々に崩れ落ちていく。轟音と業火に包まれ燃え落ちる町。
次から次へと生まれては飛び立つ火の槍、降り注ぐ焼夷弾の如き炎の雨を避けながら熱さに耐え、藤原は歯を食いしばる。
この化物は全てを灰燼に帰すつもりか。この町を、あの子と過ごした五年間の楽園を、真澄が居るこの場所を。
させるか、そんな事させるか、俺はあの子を守る為に──。

──違うだろ?

男の奥底で冷たい芯が囁く。そうだな、と男は応える。
解っているさ、こんな化物敵う訳がない。それでもいい、忘れさせてくれ。
俺の撒いた種を、あの娘の狂気を、ひと時でいい忘れさせてくれ。
せめて嘘をつかせてくれ。愛しいあの娘を守る為に逝ったと体の良い嘘に浸らせてくれ──だから。

「うおおおおおおおおっっっっ!」

燃える地を蹴り藤原が駆け出す。体中から火弾を放つ化物目掛け一気呵成に間合いを詰める。
それに応じ四方に散らばる火の槍は突如その向きを変え男へと目掛け迫り来る。
閃光と灼熱の集中砲火、肩が燃え腿が焼かれ肉が削げる、しかし彼の頭と上半身は決してぶれない。
あと二十歩、身体の中心軸に迫る槍を振り払うゴー・ナナの銃砲、
あと十歩、振り払う七尺五寸ナガサの刃先がばきりと折れる、あと五歩──行け。
節々より血を撒き散らし跳躍、化物の懐に飛び込み着地する刹那、藤原の眼に止まるは槍の生えぬ左脇腹、そこ目掛け三発打ち込む。
一瞬揺れる〈C・E〉の身体。
着地と同時に右足を軸にぐるりと回り、折れた小刀を投げ捨て、腰溜めよりもう一本のナガサを空いた左手で抜き、
回る体の反動と共に力を篭め、着弾した箇所に突き刺す。
ずぶり、鈍い感触、手ごたえアリ。見れば脇腹深く差し込まれた四尺五寸の刃先。

「──バラして、やる」

化物の耳元で吐き捨て、握った柄に力を込める。が、差し込まれた刃先はびくともしない。
目を剥く藤原の横で、人形の口元が吊上がり、笑った。

「てめえ──」

その時、黒き異形、少女の如き細い腕が藤原を抱き締める。

──つかまえたぁ。

脳裏に響く冷たい声。背筋が凍りつく。
離せ──反射的に腕を払いのけようとしたその時。

「ぐッ!」

ぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶっ。体中から響く嫌な音。
〈C・E〉の腕が戒めを解き、静かに下りる。しかし藤原の身体は微動だにせず、その場所で立ち尽くす。
彼は動けなかった。何故なら黒い殻から生えた無数の槍が、彼の胸と腹を貫き、串刺しにしていたからだ。

「ぐ──がっ、がはぁッ」

男の口元からぼたぼたと落ちていく赤黒い血。
彼より頭一つ分小さな異形が頭を上げれば、その白い顔に彼の吐血が降り注ぐ。
縫い合わされた目は何も見ず、閉ざされた口は何も言わず、けれど歪み、やはり笑う。
やがて〈C・E〉の背後からぞるっ、ぞるっ、と無数の黒い手が生え出でて、手の平の中にある口を開き牙を立て、男の肩に腕に足に脇腹に喰らいつく。
そのまま槍から男を引き抜き、手の主、黒き少女の頭上に掲げれば、引き抜いた傷口からぼたぼたと降り注ぐ黒狗の血──そして。

「があっ!ぐっ!げはぁッ!」

ぞぶっ、ぞぶっ、ぞぶっ、ぞぶっ。
黒い手が支える藤原の身体に向け、再び刺し込まれる〈C・E〉の槍。
引き抜いては刺し、刺しては引き抜き、何度も何度も何度も、ただひたすらに繰り返す。
やがて藤原の口から絶叫が止む。力なくうな垂れる弛緩した彼の身体を再度大きく掲げ、黒い手が一振り、燃える夜空に投げ捨てる。
血を撒き散らし宙を舞うヒトガタ。

どさり。舞う火の粉と土煙。物言わぬ骸は、瓦礫に打ち捨てられた。






狼の娘・滅日の銃
第十六話 - そして、滅日の銃 -






熱い。燃えるような熱さだ。耐え切れず男は眼を開ける。
燃えていた。町が火に包まれ燃えていた。あの娘と暮らしたあの町が、五年間の楽園が、業火に包まれ燃えている。
その光景を、視界の半分を朱に染めながら、男はただ見つめていた。
もう、動けない。老いぼれたもんだ、自分の手と同じくらい握ってきたこいつがこんなにも重いなんて。
ごとり、と男の手から銃が落ちた。
瓦礫に背を預け、もう使い物にならないであろう足を伸ばし、ざまあない、と男は笑う。

──どうだ、これで満足か?

囁く芯に男は笑う。まあな、最高で無様な逝き様じゃねえか。
ああ、これで最期だ、これで全て御仕舞いだ。ならば無様な俺の生き様を、偽りの矜持と嘘で飾ってくれ。

「殺れよ、さあ殺れ、糞虫──殺ってくれ」

燃え盛る火の中で、ゆらゆらと揺れる黒い影に向け男はつぶやく。
シルエットは少女。しかし目と口を糸で縫われ、全身に鋭い刺を生やす黒い殻を纏うその人形は、
腹に男の突き刺した小刀さえ意に介さず、血すら流さず、平然と彼を見下ろす。
やがてそれは平然と小刀を抜き投げ捨てた。
瞬く間に塞がる穴。そして、もう男など興味を無くしたかのように背中を向け、肩口から生える無数の黒い手を翼のようになびかせ、悠然と飛び立たつ。
その姿を見て彼は思う。とどめすら刺さぬとは。その価値すら無いとは。無様だな、と男が笑う──その時。

「おまえはそこで、まっていろ」

炎の中、突如現れた何かが凛と佇みが静かに告げる。
抑揚の無い口調で冷厳に放つその声を受け、異形の翼を形作る黒い手がぞわり、と沸き立つ。
均整が解け、千々に荒れ狂う手の群れ。突如翼の制御を失い、どさり、と地に堕ちる黒──何だあれは。
逃げろ逃げろあれから逃げろ。背中より伝わる黒い手の恐慌。振り返れば炎の中に立つ小さな姿。自分よりもひと回り小さな童女。
あれは一体──何を今更。決まっている、来た、遂に来たのだ、かつてない恐怖を放つものが。
極上の餌、恋焦がれた母なるもの。貴様を前に為すべき事はただ一つ──喰らえ。与えられしコクーン・イーターの名にかけて。
そして〈C・E〉は立ち上がる──否、立ち上がろうとした。
しかし、腰を上げるも足の震えがそれを許さない。生まれたての子馬のように膝を震わせ、本能が意志を裏切る。

なんという事だ。我は──恐れている。

かつてまだ一匹の獣であったころ、山野を駆け巡り原色の恐怖を次から次へと喰らい、そして捕縛、精製され調教を受けて後、
恐怖ではなく恐怖を放つもの、それを喰らう者として変貌させられた。その筈だった。
しかし今、まるで己の喰らった恐怖という毒にやられたかのように動けずに身を固め、震えている。
そして想う──我は、こんなものを喰っていたのかと。

「繭……子?」

男が顔を上げれば、黒い髪の童女が能面を被ったかのような無表情でそこに居た。
炎の中でさえ涼しげに着物を着こなすその姿は美しく、なによりも恐ろしい。
やがて彼女、常世繭子は袖から何かを取り出し、それを男の足元に放り投げる。
どさり、と舞い上がる埃が高温にさらされ火花と化す。男が視線を向けると錆付いた鉄の塊、一挺の銃。

「取りなさい、藤原信也」

眉ひとつ動かさず、能面のまま童女は告げる。

「もう眠りてえんだ、繭子」

男の眼に映るのは童女、そして己の千切れかけた腕と足。もういいだろう、と男は笑う。

「それでいいのですか藤原」

淡々と告げる抑揚の無い繭子の声。しかし藤原は思う──こいつ怒ってやがると。
解るさ、たかが五年、されど五年。同じ夕飯を食った仲じゃねえか。
まあ、てめえが怒るのも無理は無ぇ。こんな不甲斐ない姿、眼も当てらやしねえもんな。ざまぁねえぜ。

「お前の愛しいあの子を守りたくはないのですか?」

そうだ、俺はあの子が愛しい。
愛しくて堪らない。だから、怖いんだ。

あの娘が怖い──それに気付いたのは、忘れもしない、あの眼を見た、あの日。

あの夕暮れに染まる空の下で俺は見た。
あの子の眼を、忘れ様が無いあの眼を、息絶える妹の目に映っていた俺の眼を、敵を屠る悦びに満ちたあの眼を見た。
だから怖い、あの子が怖い。愛しくて堪らないあの子を、俺を殺そうとするあの子を、敵と定め、殺すであろう俺が怖い。

「守りてえよ、だがな」

そう、守りたい。あの子をこの手に掛ける前に、俺自身の手から守りたい。
だからこそ逝かせてくれ。このまま逝き果てさせてくれ。あの子を守る為に戦って果てたと都合の良い嘘に浸らせてくれ。
そしてあの子に言ってくれ。お前が狙う強きものは、実はてんで弱い三下だったと。お前が執着する価値の無い糞虫だと。
もうそんなものに縛られる必要はないのだと、あの子に気付かせてやってくれ、だから。

「もうそんな重い奴ぁ、握れねえ」

重いんだ。銃じゃない、篭められた殺意でもない。あの子の想いが、重いんだ。

「ならば触れなさい藤原」

しかし繭子は冷厳と告げる。それは許さないと。
あの子は選んだ、ならばお前も選ばねばならない。逃げる事は許さない、最期まで立ち向かえ。
泣き言を言う暇があるのなら目の前の敵を倒せ。嘘だというのなら、その嘘を付き通せ。嘘の矜持を貫き通せ、と。

「それだけで良い。お前がふさわしいなら。それは認める」
「認めたら、どうなるんだ?」
「お前は、エル・レイになります」
「何だよ、それ」

繭子は告げる──弾丸(アモ)です、と。
藤原は応える──弾丸(タマ)か、と。

「エル・レイはこの銃、メキシカンの弾丸です。お前はエル・レイとなり籠められます」

で?どうなる──と藤原が聞けば。
〈あれ〉を倒せます。命と引き換えに──と繭子は答える。

「ふん、なるほどな」

そりゃあいい、と男が笑う。どうせ逝くのなら最期にひと華咲かせてやるぜ。
そして藤原は力を込める。引き裂かれた傷口から吹き出す血潮、骨とかろうじて残る肉と腱に最期の力を注ぎこむ。やがて動き出す指。

「上等だぁ」

じりじりと動く指が、血を滴らせ地を這う。
あと少し、あと少しで銃身──これで。

「お前ならそうすると思っておりましたよ、藤原」

繭子の爪先がそれを蹴る。くるりと回り向きを変え男の手に収まる朽ちたグリップ。

「お前は本当に、くそったれだよ、繭子」

何泣きそうな顔してんだよ、笑え──ありがとうよ、繭子。

「誉めるでない藤原、恥ずかしい」

そして男は、滅日の銃を握る。

「あの子を守れるならば」

あの子より逃げられるならば。

「この命、惜しくない」

この命、その駄賃にくれてやる。

「さあ、立ちなさい藤原信也」

熱い、燃えるような熱さだ、いや燃えている。この身体が燃えている。
銃から放たれた熱が腕を伝い血管を焼きながら心臓に注がれる。傷口という傷口から吹き出す火。
おいぼれたこの体が燃え盛る。青い火、完全燃焼の炎。再構成される身体。
あの頃に、今一度一匹の獣だったあの頃に。不死鳥は炎の中で蘇る。その時が、来た。

「おはよう藤原、否──」

常世繭子の能面が一瞬解ける。口の端を小さく吊り上げ、微笑む。

「ひとでなしのエル・レイ」

掻き消えた炎から若々しい男の姿、手にしたものは鉛色の光沢を放つ生まれたての銃。
バレルに刻まれるは喰らい合う毒蛇と毒蛙──テルシオペロとデンドロバテスの紋章。

「さぁ、喰うぜ」

そして男は、眼前の化物へと火を放つ。



いつからだ、いつから貴女は──真美の震える喉元はその言葉を出せない。
初めて出会った五年前からそうなのか。
それとも市長となった時に入れ替わったとでもいうのか、もしくは──混乱する彼女の心を察し、女王は穏やかに告げた。

「最初からですよ、オメガ」

イレイザーで存在を消し切り、エイリアスで自身とは全く異なる存在を創造する。
お前の持つこれらのスキルは、突き詰めればこう使うべきもの。
つまり粟川礼次郎とは、そういうものなのですよ──淡々と、まるで他人事のように話す女王が、真美は恐ろしくて堪らない。

「はじめ、から」

恐怖に耐え、口から言葉を搾り出す。
コクーンに対する防御機構として植え付けられたものとは異なる根源的な恐怖。
血が騒ぐ、身体を構成する全ての部位が泣き叫ぶ、逃げろ、喰われるぞ、早く──けれど真美は唇を噛み締める。
逃げろ?ふざけるな。私は行かない、行くものか。
あのひとの最期を焼き付ける、そしてあの子を守る、誓った筈だ、この身体に刻まれた証を蔑むな。
私は私だ、誰の人形でもない、自らの意志で此処に立つ。

「あなたは──アンタはッ!」

噛み締めた唇から滴り落ちる血の一筋。銃を引き抜き真美は叫ぶ。
だから笑っていたのか、あの何もかも諦めたような顔で笑っていたのか、
何もかも見通したかのようなしたり顔で私達を笑っていたのか、全ては茶番だと嘲っていたのか、ふざけるな、ふざけるんじゃない!

「そう、あなた──おんなにしてもらったのね」

照準器の向こうで女王は微笑む。

「うらやましいわ、あなたが」

真美の空いた手が無意識に下腹を庇う。蕩けた女の眼に晒されて背筋を伝う冷たい汗。

「愛する人に身を捧げるほど、好き勝手に生きれるあなたがね」
「アンタは、そんなアタシ達を!」

楽しかったか?この見世物は。したり顔して、何でもお見通しみたいに笑って、お前は!
叫ぶその口元から飛び散る唾と血。けれど女王は微笑みを崩さず、静かに告げる。

「ええ、楽しかったわ。そして、羨ましかった」

うらやましい?何を馬鹿な──言い返そうとするも、真美は言葉を呑む。

「わたくしもね、出来る事ならずっと、夢を見ていたかった」

見えてしまったのだ。女王の口元の浮かぶ笑みの中、色濃く混じる自嘲の影を。

「ラインなどに囚われず、力無きただの人として気兼ねなく旅に出て、
 やがて老い、どこか終の棲家を定め、朽ち果てるその時を静かに待つ、そんな夢をね」

まあ、わたくしには所詮無理なのだけれども──自らを嘲るが如くに女王は微笑む。
常世の君、黒髪の魔女コクーンに連なる常若の君として、ライン委託管理者として、
ライン尽きぬ限り永遠を生きねばならぬ者として、それは無理なのですけどね。
だからこのひと時はわたくしの儚い夢のひと時。それが醒める時が来た、それだけのこと。

「何を今更ッ!アンタは願ったはずだ!」

知っているぞ女王、と真美は叫ぶ。
貴女は願った筈だ。お前はコクーンの前で、そういう存在になりたいと願った。それを今更になってお前は。
絶大な力に飽きたら今度は旅に出たい?老いて朽ちたい?何だそれは!虫が良いにも程が在る──叫び真美の指が引金に触れる。

「──ッ」

その瞬間、業と燃え上がる銃。暴発のいとまも与えず一瞬で炎が全てを焼き尽くす。

「そう、あなたわたくしの記憶の一部も継いだのね、ならば──」

すかさず腰溜めより短刀を引き抜き構える真美、しかし。

「これが何か解るでしょう?」

女王は動ぜず、微笑みながら胸元に掛けられたペンダント引き抜き掲げた。
白い指に掴まれたそれを目にした真美の動きが止まる。眼前で揺れる──黒い石を瞳に映し。

「欠片──キー・ストーン、の」

それを目にし、真美の脳裏で弾けるビジョン。一気に解凍される記憶のフラッシュバック。
黒い石、キー・ストーン、コクーン、そして幼い一人の娘──アメリア。

「願ったのではありません、願わされたのですよ」

真美の脳裏で、幼いアメリアがそっと囁く。
これはね、本体が稼動を始め、ラインが放射され初めて彼の地にたどり着いた時、流れに乗って落ちてきた二つの欠片、その内のひとつなの。
一つはドリフターによって彼の地を離れ、人の手に渡り、やがて滅日の銃となったの。
でもね、もう一つのこれは彼の地に残り、コクーンの力を彼の地に留め置きたい者達によって使われた。どうやったかって?それはね──

「わたくしはコクーンに捧げられた供物」

それはね、子を宿した女、その中に石を転移し融合させ、わたしを作ったの。

「キー・ストーンの欠片から作り出されたモノ」

そして、あの愛しい御方が興味を引いてくれるような存在として産ませたの。
おかしいよね、そこまでして彼らはコクーンの力を手に入れたかった。笑っちゃうでしょ、なりふり構う余裕なんかなかったのね。
もちろんちゃんとお礼したわ。彼らはあの日、一人残らず黒い手に──

「何も無い、虚無の娘」

幼子の言葉と、眼前の女王の言葉が重なる。
その時、アメリア・ヴォクスホールが手にした黒い石が砕け散り、無数の破片が光となって彼女を覆い、やがて吸い込まれ、消えた。

「それが、わたくし」

じわり、アメリアの青い瞳が黒に染まる。
白目すら覆い尽くし、やがて二つの眼は何も無い漆黒の穴と化す。それはまるで──真美の意識は、そこで途切れた。

「オメガ、これはせめてもの慈悲と思いなさい」

どさり。意識を失い倒れ伏した真美を見下ろし、女王は優しく告げる。

「これより起こる事を目にすれば、お前は本当に狂ってしまう」

眼下より巻き起こる爆音も彼女の耳には届かない。
ただ、市庁舎の屋上より遠く町の全貌を眺め、一時共に過ごした夢の日々を想い、夜の町に浮かぶ文字を瞳に映す。

「出来得る事ならわたくしも、あの光の一つになりたかった」

彼女の眼に浮かぶ光の文字。noli ・me ・tangere(ノリ・メ・タンゲレ)──我に触れるな。
アメリアは知っている。町の灯が形作るその文字は、ラインという鎖から解き放たれた者達が最後に願う切なる願いなのだと。
代理闘争に命を落とした者達、フラットライナーズ、そしてドリフターズ。
糸(ライン)に操られ要石(キー・ストーン)という舞台の上で踊り終え、裾に降りた者達。
自分をコクーンに差し出した者も、自分を産み出し事切れた女も、繰り糸が切れ狂気が解け素に戻り、きっとこの中に居るのだろう。
もうアメリアはそれに何の感慨も抱いていない。彼等は既に舞台を降りたのだから。やっと、降りれたのだから。
故に彼等は言うのだ、ノリ・メ・タンゲレ、我等に触れるな、関わるな、放っておけ。
舞台がはければ我等は皆同じもの、共に肩組み酒酌み交わし、終わりの時を待とう。
役目を終えたこの身も意識もじきにライン溶けて消え果てる、それまでせめて穏やかに、おあとがよろしいようで。

「彼等は終われる、けれどわたくしたちは、終われない」

舞台が終るとき、この世界は終わる。
この世界は、滅びに瀕したこの星が見る最後の夢なのだ。
故にキー・ストーンはこの星に落ち、ひと時だけ願いを叶えるべく世界を再生し舞台を創り上げた。
故に終わらせてはならない。アメリアは理解していた。それがコクーンの役割であり、ライン管理を委譲された我が使命だと。
そのためならば狂ったフリなど易いものだ。

「それでも良いのです。コクーン、あなたのお役に立てるのなら、それが悦び」

彼女はつぶやく。
何も無い虚無なる娘に、大いなる役目を与えて下さった愛しき魔女様。
とわにお慕い申し上げます、その気持ちに一片の曇りなどございません──ですが。

──たまにで良い、美味なる馳走を届けてくれ。

コクーン、あなたは申されました。その意味をわたくしは取り違えてなどおりません。だからこそ種を撒き続けました。
混乱を、秩序の為の混乱を。混乱を秩序正しく制御せねばならない、決して平穏をもたらしてはならない、そうなれば、この世界は終わるのだから。
かつて無秩序に争い滅んだ世界を、こんなはずじゃなかった世界を、安らかな平穏に包まれた、こうであって欲しい世界へ。
それがこの星の願い。しかし、それが叶えばキー・ストーンは役目を終えこの世界は終わる。あなたが愛した世界は終わる。そうさせてはならない。
この世界は、否、この星が刹那に見る夢の物語は。
平穏を目指しながらも、その実、制御された混乱によりカラ騒ぎを繰り広げ、
果てなく続く終わらない物語、ネバーエンディングワールドでなくてはならない。
あなたの欲する美味なる馳走とは、世界を終わらせぬ為の糧であり、平穏という膠着を引き起こさぬ為の添加剤に他ならない、つまり。

「Show must go on──舞台を続けなければならない。これがあなたの真意」

故にわたくしは種を撒きつづけました。あたたにとって美味なる馳走を。混乱の種を。この世界を終わらせぬために。
その為の獣、その為のブラックドッグ、その為のレムナント、その為のエレン・V、その為の我が魔道帝国ヴォクスホール──そして。

「〈C・E〉──あの程度のもので、あなたを消す事など出来る訳ないでしょう?」

それはコクーン、あなたにも御解りでしょう。なのにあなたは、わたくしが狂ったと申されますか。
いいえ。そうではありません。あなたは気付かれましたか?

「狂ったのはわたくしではなく、あなたご自身だという事に」

あなたは絶対無比なるものでなくてはならない。
冷徹に計算し冷酷に処断しこの終わらない世界を絶え間なく運行させるものでなくてはならない。
ですがあなたは、優しくなられた。それ故に狂ってしまわれた。
だからこそわたくしは、とっておきの種である獣を、彼の地に置いたわたくしの分体に命じ〈C・E〉に仕立て、あなたへのギフトとしてお贈り致しました。
あなたに今一度気付いていただくために。なのに、ああ、それなのに。

「マスミ──唯一のイレギュラー。お前は、生まれるべきではなかった」

狼の娘よ、お前は全てを狂わせた。あのお方を以ってしてもお前を御す事は出来なかった。
それどころかお前に取り込まれてしまった。出してはならぬ答えを出させてしまった。

「お前が憎い──そして、恐ろしい」

お前がこれから行おうとしている事は、恐怖という感情を忘れて久しいわたくしでさえ空恐ろしく感じる。
お前はたったひとりの男の為に、何よりも自身の欲望の為に、それを行おうとしている。
お前は、物語の外に居るべきコクーンや我と等しき存在を、物語の中に顕在させようとしている。
舞台から決して降りる事の出来ぬ、永遠のキャストを。

「あれほど忠告しましたのに、老いた狼。ブラックドッグ──シンヤ・フジワラ」

その時、アメリアの背後より巨大な火柱が立ち上がる。
振り返り市庁舎の屋上より真下を覗けば、巨大な銃身を手にした男が一人。長髪を熱風になびかせながら黒き異形の前に立つ。

「お前は、最後のエル・レイになったのですね」

お前は取り返しのつかぬことをした。
最後のエル・レイにして、永劫の射手となる者よ。

「お前が手にした銃、その意味を思い知るがいい」

黒い瞳でアメリアは笑う。
もうどうにでもなれ、と全てを諦めたような顔で。

「さて、戻りますか」

赤く燃える空を見上げ彼女は呟く。
では戻ろう、我が生まれた彼の地へ。六十五年ぶりの帰還を果たそう。
再び恐怖の女王として新たなる混乱を画策し、危うい夢の続きでも見ようか。

「所詮は儚いひと時の夢──けれど」

両腕を空に掲げれば、再び現れる女王の転送陣。その瞬間、ぼう、と燃え上がる彼女の肢体。
青白い炎の中で燃え尽きる刹那、アメリア・ヴォクスホールは今一度、夢見るように微笑む。

「楽しゅうございましたよ」

ああ愛しき常世の君、出来得るのならば、もう少しあなたのお傍に居とうございました。
きっとあなたはお気づきでしたのでしょうね、この老人がわたくしであると。けれどあなたは、わたくしをこの楽園に置いて下さった。
ひと時の夢を見せて下さった。その優しさがあなたを狂わす毒だと解っておりましたが、あなたの傍らに居る幸せについ甘えてしまいました。
ああ、幸せな夢を見させて頂きました。もう思い残す事はございません。
これより世界は炎の時を迎えるでしょう、それでもわたくしは──とわにお慕い申します、かあさま。

やがて光と炎が消え、彼女は消えた。未だ眠る真美を残し。

















■狼の娘・滅日の銃
■第十六話/そして、滅日の銃/了

■次回■第十七話「ゆえに、狼の娘」(最終回)



[21792] 最終話/ゆえに、狼の娘
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/12/19 21:42





炎の中から甦ったその男を前に〈C・E〉の心がざわめく。

「立てよ」

男は告げる、闘争の再開を。
その時、体を支配していた震えが嘘の様に止まり、コクーンの呪縛より解かれ体の自由を取り戻した黒き異形が、バネ仕掛けの人形の如く飛び起きる。

「延長戦だ、くそったれ」

そして〈C・E〉は理解する。あの老いた狼は消えたのだと。
若々しいその体躯、胸まで伸びた長髪を舞い上がる炎の中でたなびかせ、口元の野卑た笑みを隠そうともせず再び異形の前に立つその姿。
右腕に握られた鉛色に輝く銃。巨大なバレルに刻まれた紋章。喰らい合う毒蛇と毒蛙。銘をメキシカン、滅日の銃。

「今度こそ、満足させてやる」

彼の右腕が静かに動き、銃口が立ち上がる。
ガキン。艶やかな金属音と共に立ち上がる撃鉄。何かを察し〈C・E〉が反射的に飛び退く──何だ、お前は一体何になった。
間合いを取り、異形は肩口より再び黒い手の群体を出現させる。あれを喰え。発せられた主の命と共に獲物目掛け殺到する従僕達、しかし。

ドン。

地を震わす轟音と共に銃口が火を放ち、黒き群体が一瞬で消し飛ぶ。
千切れた欠片が火の粉を散らしながら宙を舞い、地に落ちる前に燃え尽きる様を見て、〈C・E〉は己に巣食う残る全ての従僕に号令を発する。
全解放、出でよ。その時、黒き肢体がぞわりと蠢き、数え切れぬ程の黒い手の大群が湧き〈C・E〉の体を包み込み巨大な球体と化し主を護る、しかし。

ドン、ドン。

二発の轟砲。放たれた火弾が球体に触れた途端、爆ぜる。
四散する手の破片は業々と炎に包まれ、焼け落ちる蛇の如く身をよじらせ燃え尽きた。焼け跡には黒い衣を一瞬で剥ぎとられた黒き異形が立ち尽くす。
生まれ変わった男、何もかもを灰燼と帰すかの如き炎を吐く銃。それらを前に〈C・E〉は戸惑う。

何だこの感情は。先程感じた恐れとは全く違うこの感覚は。

永きに渡り喰らい血肉とした同胞すら一瞬で全て失った、あとはこの身ひとつ、眼前には自分を撃ち滅ぼすであろう圧倒的な存在。
なのに心の底より湧き上がるこの感情は何だ。この興奮は何だ──興奮?我は今、興奮しているというのか。

「何笑ってんだよ、てめえ」

男の声で彼女は気付く。笑っている?そうか、我は今、笑っているのか。
ぶち、ぶちぶち。〈C・E〉の目蓋を縫い付けていた糸がほどける。
見開いた赤い眼に映る男。その顔が笑っている。
なんだ、貴様も笑っているではないか。このひとでなしめ。

「楽しそうだなあ、おい」

自分に向け放たれたその言葉で、遂に彼女は確信する。そうだ、そうだとも、その通りだとも。
ぶち、ぶちぶちぶち。三日月の如く吊上がる口元に縫いつけられていた糸が千切れる。はぁっ。開いた口から漏れる熱い吐息。
そうだとも、お前と同じだ。楽しい、楽しくて堪らない。嬉しいのだ。お前と闘える事が嬉しくて堪らない。
あの忌々しい女王より貴様の姿を見せられた時、我はたかが前菜如きと思っていた。こうなるとは露ほども感じていなかった。
だが、今はどうだ。ここまで我を楽しませてくれる者が他に居ようか。コクーンなどもう知らぬ。
目の前に最上の獲物が居るではないか。最高の脅威が居るではないか
お前でいい、否、お前がいい。我はお前が──欲しい。

「やろうぜ。今度は最期まで」

その声に応え、〈C・E〉の黒き殻から無数に突き出る鋭利な刺が、剣先の如く切先を伸ばす。その姿、まさに針鼠。
そして独楽(こま)のように回転を始める体。それは徐々に速度を高め、焼け落ちた瓦礫を切り刻ながら男に迫る。
眼前の獲物目掛け突進する黒い独楽。

ドン。

再び轟砲。巨大な炎が〈C・E〉を襲う。焔獄の中でバキバキと音を立て折れていく剣。
一瞬回転は緩むも瞬時に再生、折れた先から新たな剣先が次々に生まれ、再び速度を上げ迫り来る殺戮の独楽。
しかし男は動ぜず、今度は両手で銃を握り頭上に掲げる。

「いいねえ、そうこなくっちゃ」

ドン──空に向け放たれた砲火が、燃える町にたちこめる火と煙を吹き飛ばす。
雲が消え再び現れた夜空。天頂に月。丸い光。頭上に掲げた銃が満月と交差する。

「俺ぁ、必殺技とか叫ぶ世代でな」

掲げられた滅日の銃。鉛色の銃身を照らす月光。

「んじゃ見せてやらあ!必ず殺すと書いて、必殺!」

そして、銃の射手エル・レイが叫ぶ。

「メキシカン!」

その時、鉛色の銃身に刻まれた喰らい合う毒蛙と毒蛇の紋章が輝き、互いを喰らう口を離し蛇と蛙は二つに分かれる。
そして彼は二本の腕を一気に解き、右に左に振り下ろす。

「カーニバル!」

振り下ろした右手には黒の銃、バレルに毒蛇テルシオペロの紋章。
振り下ろした左手には銀の銃、バレルに毒蛙デンドロバテスの紋章。

「セニサス、ラス、セニサス」

灰は灰に。
眼を閉じエル・レイは静かに告げる。鎮魂の詞を唱えるように。

「ポルヴォ、アル、ポルヴォ」

塵は塵に。
そして男は眼を開ける。静かに上がる彼の両腕。黒鋼と白銀の銃が立ち上がる。

「焼き尽くせ、灰燼に帰せ」

獲物を定める二挺の銃。射線の先、今まさに肉迫せんとする殺戮の黒き独楽。
カキンカキンと同時に上がる二つの撃鉄。トリガーを引く左右の指。

「終わらせろ、滅日の銃」

ドンドドンドンドンドドドンドン──獲物目掛け砲火を放つ二対のバレル。
無数の銃弾が〈C・E〉に放たれる。降り注ぐ弾雨の中次々と折れていく剣先。
散らばる破片、燃える体、圧倒的な破壊の炎に弾かれもんどりうって倒れこむ。
だが彼女は立ち上がる。折れた剣先をまた生やし炎の雨に身を晒す。
生えては折れ生えては折れ、しかし降り注ぐ弾雨の中で再生のいとまも与えられず、やがて刺は尽き、体を護る最後の砦、黒き殻すら削られて行く。
しかし彼女は倒れない。身を削らせながらも一歩また一歩と足を動かす。
指を無くしても肩を貫かれても腕を落されても胸と腹に無数の穴を空けられても彼女は歩みを止めない。
まだ足がある。足があればあの男の前に立てる。まだ片目が残っている。男の顔を真近で観れる。そして残るこの口で男の喉元に喰らいつけ。
徐々に形を失いつつもその唇は笑っていた。

彼女は悦びに打ち震え、そして想う。

思えばただ獲物を求めて喰らう日々だった。
絶えず飢えに苦しみ恐怖を求め彷徨う歳月、それはただ生きる為だ。
しかし捕らえられ、変貌させられ憎悪という感情さえ植えられた。
だが今はどうだ?楽しい!愉しくて仕方ない!
この男と戦うのがこの男に一糸報いるのがこの男に片腕を吹き飛ばされこの男に腹を撃ち抜かれるのが楽しくて仕方ない。
そして愛しい。この時が愛しい。愛しくて堪らない。永遠に終わらねばいいのに。この男が愛しい。永遠に戦っていたい。
この身に全て穴が開き塵の一つとなろうとも、この愛しい男から離れたく──

「アディオス──」

〈C・E〉の想いはそこで途切れた。
銃声が止み──どさり。彼の足元に倒れ伏す。

「──アスタ・ルエゴ」

さようなら、またいつか。
彼の言葉は、彼女の心に遠く響いた。





狼の娘・滅日の銃





これで終わる、全て終わる。
骸の如き姿に成り果てた〈C・E〉を見下ろし彼は想う。
けれど何の感慨も沸かぬのは、自分が既にひとでなしと成り果てたからだろうか。
だが、まあいい。これで幕引き、カーニバルは終わった。手の中には再び鉛色に戻った一挺の銃。
残弾一発、最後の命。放てばこの身も燃え尽きる。それでジ・エンド。腐った黒狗の血もこれで終わる。
これであの子は獲物を失う。これであの子を縛る血の鎖は解ける。
すまない真澄。俺は最期までお前の──親父で居たい。

「あの子を──頼む」

傍らに現れた黒髪の童女に彼は告げる。
常世繭子は何も言わない。ただ能面の如く顔を固め彼の顔を見ていた。責めるでもなく、なだめるでもなく、ただ観ていた。
そして男は足元へと視線を移す。四肢を失い、体中を撃ち抜かれ倒れ伏す芋虫のようなかつての異形。
喉からひゅうひゅうと末期の息を吐く彼女に銃口を向け、男は引金に指を掛ける。

「──ッ」

引金が動かない。あれほど軽かったものが石のように固い。驚き振り返れば。

「わたしでは、ありませぬ」

繭子が静かに返す。

「どういう事だ、俺の命を奪うんじゃねえのか」
「命を使います、ですががいつ、お前の命をと言いましたか?」
「てめえっ!騙し──」

言い終える間もなく男の身体が固まる。

「くっ!がッ!」

そして気付く。手に握るメキシカンがこの身の自由を封じているのだと。

「騙してなどおりませぬ。全ては願いどおりに」
「誰の──だッ」

聞くのです、と固まる藤原の前で抑揚無く語る繭子。
お前はエル・レイになりました。お前は弾丸になりました。
弾丸とは撃鉄を落し雷管を砕き火薬に発火し打ち出されるものです。
お前は弾(アモ)です、しかし火薬(パウダー)ではありません。火薬こそが命です。それはお前の命ではありません。
メキシカンはお前をエル・レイにしました。ですがお前をパウダーに選んだのではありません。

「選んだのは、この娘です」

すう、と繭子の足元から伸びる影より現れたもの。

「この娘は自らメキシカンを選び、そして滅日の銃に選ばれたのです」

今だけは見たくなかったその顔。

「お父さん、ごめんね」

現れた娘は微笑んでいた。微笑みながら涙を流していた。





最終話 - ゆえに、狼の娘 -





「ます──み」
「私がね、繭子さんにお願いしたんだよ?」
「おま、え、なに、をッ」

微笑む娘が右手を挙げる。
男は見た。彼女の人差し指が、まるで引金を引くかのように曲がっていく様を。
止めろ真澄、お前は何を──カキン。彼の意思に反し撃鉄が上がり、そして落ちる。
銃口から漏れる小さな炎。最後の一発が放たれると同時に彼女の纏う服が燃え上がる。

「真澄ッ!」

やがて服は焼け落ち、ぼう、とアセチレンランプのような淡い炎が彼女の裸身を包み込む。
青白い炎に包まれたその姿は美しく、妖艶でもあった。遠き日に別れた女のように。
そして彼女は〈C・E〉の傍らに寄り、腰を降ろす。

「あなたもお父さんが好きなのね。解るわ。愛してしまったんでしょう?」

たったあれだけ、刹那のひと時。ううん、それで充分だものね、と娘は笑う。

「私もね、そうだったの」

そして娘は、ひゅうひゅうと末期の息を吐き横たわる、黒い人形の顔に手を添えた。

「出来る事ならお父さんなんて呼びたくなかった。でもお父さんの傍に居たかった。だから我慢したの。
 自分を偽って妥協したの。欲望を押し殺して耐えたの。でも駄目。もうだめ」

ぼう、と娘を包むその炎が徐々に勢いを増していく。
そして彼女は身を固めたまま動かない男に向け、最期の言葉をつむぐ。

「お父さん、好きよ」

男は想う──ああ、俺も好きだ。

「でもね、この好きはお父さんの好きとは違うの」

男は想う──ああ、解っている。あの時知ってしまったんだ。

「お父さん、好きよ」

お前が見せたあの眼。

「もう一度言うね、大好きよ」

あれは、おとこを見る眼だった。

「お父さん、いえ、信也」

そしてあれは、俺が獲物を狩る眼だ。
お前は狼の娘だ、そして、まごう事無く俺の娘だ。
だからその先を言わないでくれ、頼む、嘘だと言ってくれ、頼む、出来るのなら永遠の嘘をついてくれ。
これは全て間違いだと、たちの悪い冗談だと、ただの気の迷いだったと嘘をついてくれ。
頼む、なあ頼むよ真澄、なあ、お願いだ真──しかし、娘は遂に口にする。

「愛してる、だから──逃がさない」

次の瞬間。

「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

娘が突如、黒い人形の喉下に喰らいつく。人形の口から初めて放つ声──絶叫。

「ギャッ!ギャッ!ギャッ!」

初めて吐いたその声は甲高く、気狂った少女の如き声だった。
口元から嬌声に似た絶叫を吐きながら人形は身をよじり娘を離そうとするが、小さいはずのその口が喰らいついて離さない。

「真澄ッ!」

未だ動かぬ体、けれど男は力を振り絞りその娘の名を叫ぶ。

「お前!何をッ!」

ぶちぶちぶちっ、と喉の肉を食い千切り、咥えた肉片を吐き捨て娘が叫ぶ。

「あんたなんかに!あんたなんかに!お父さんは!渡さないッ!」

身を包む青き炎の中で狂ったように叫ぶ娘。
そして再び人形の喉に喰らいつこうとした時、不意に人形が身を起こし、彼女の肩口に喰らいつく。

「ぎっ!」

苦痛に歪む娘の顔。

「真澄ッ!やめろ!ますみ!」

しかし男の声は届かない。返礼とばかりに娘も人形の肩に歯を立てる。

「やめろ、やめてくれお前なにを!動け!離せよこの体を離せおい繭子お前も!」
「黙って見ているのです藤原」

お互いの肩口に喰らいついたまま離そうともしない娘と人形。
噴き出す血潮が顔を濡らす。ぎりぎりと互いに歯と牙を食い込ませ一歩だに退こうとしない、だがその刹那。

「はじまりますよ」

ごう、と娘の体を包む炎が勢い良く燃え上がる。
身をよじり重なる二つの影、娘と人形、そのシルエットはまるで、身を絡め肩に顔を埋め抱き合う二人の少女に見えた。

「あの娘は望んでおりました」
「うるせえ!この戒めを解け!早く!はやく真澄をッ!」
「お前と血の繋がりを絶ち、お前のおんなになることを」
「繭子ッ!てめえ!何を!なにを言っている離せ!メキシカン離せッ!」
「そして滅日の銃と取引したのです、藤原」

血と炎の饗宴を、無機質な瞳に映す黒髪の魔女。

「メキシカンは望んでおりました。己の射手を。一度きりのエル・レイなどもう要らぬと。一発で終わる弾丸などもう要らぬと。
 メキシカンは欲しておりました。射手としてのエル・レイを。自分では何も出来ぬ身、共に化物を打ち倒し永劫に続ける者が欲しいと」

語り部のようにとつとつと繭子は言葉を紡ぐ──ゆえにアモとパウダーを分けたのです、と。

「この黒きものはその欠片一片に至るまでラインよりの供給を受けております。それが途切れる事はないのです。
 メキシカンでなら倒せます、あれは塵は塵に、灰は灰に帰す事の出来る唯一のものです。ですが藤原、そうしてはいけないのです」

倒してはいけないのです、取り込むためには。と繭子は告げる。

「見なさい藤原。狼の娘はお前を手に入れる為に黒きものを喰います。黒きものはお前と再び戦う為に狼の娘を喰います。
 求めるものは同じ。魂の姉妹なのです。この姉妹はお互いを喰らい合い、そして一つになるのです」

あの娘は黒きものを喰らう事でお前に連なる血を洗い流し、黒き血を注ぎ込む。
お前とは他人になる為に、娘ではなく一人のおんなになるために。おんなとなりお前に愛され思う存分抱かれる為に。
そして娘を選んだメキシカンはその血を享受します。ライン尽きぬ限り果てぬ力を。それはつまり──語る繭子の口元に、薄く浮かび上がる微笑。

「ああ、遂に滅日の銃は手に入れたのです。最高の射手と、無限に供給される銃弾を」

そして、炎が止む。

「ます──」

焼け跡に佇むひとつの影。狼の娘も、黒い人形も消え失せ、目を閉じたま立つ一人の少女。

「──み?」

それは、娘の姿をしていた。
細い手足も小振りな胸も、輪郭も鼻も唇も。それはあの娘そのままだった。
けれどその長い髪は、ざわざわと、まるで生き物のように妖しくうねり、その色は、やけに黒かった。

「──ッ!」

そして、少女は瞳を開ける。耐え切れず男は眼を閉じる。
しかし目蓋の裏に焼きついたその瞳は、あの狼の眼、そのものだった。

「シ……ン……ヤ」

未だ身を固め目を閉じる男に寄り、細い指が彼の頬をなぞる。
はぁっ、と熱い吐息が首筋にかかり、やがて湿った舌が這う。ぴちゃぴちゃと男の首筋を伝う唾液の筋。
そして、耳元で囁く少女の声が男の身体に染みていく。

シンヤ、ああシンヤ。愛しい愛しいわたしのおとこ。
シンヤ?ああ、お前はシンヤと言うのね。恋しい恋しい我の御敵。

お前はもう逃げられない。お前をもう離さない。
お前はわたしに仕え我と戦い愛し殺し抱き紡ぎあうの。永遠に久遠にとこしえに。
わたしはもう逃がさない。我はもう離さない。ああシンヤ。愛しい恋しい我らのシンヤ。ねえ教えてわたしはだあれ?

「黒き娘よ、汝には柊の名を与えます」

もう藤原ではありませんよ。と繭子が囁く。

「改めてここに住まうことを許します。この男と共に」
「ご高配感謝します、柊真澄として謹んでお受けします、常世の君」
「真澄!何を言ってるんだ!繭子!お前一体何を──」

きいぃ──その時、何処からか鉄の軋む音が男の耳に届く。
彼は直感する、門が開いたのだと。町に存在する唯一の空家、柊の屋敷、その門が開いたのだと。
そして彼は理解する。遂に自分はこの町の住人になってしまったのだと。あの仮住まいの小さな家──楽園には、二度と戻れぬのだと。

「控えなさい、わたしのしもべ」

かつて父であったその男の口に手を当て、冷厳に告げる娘。

「お前は既にメキシカンの従者。メキシカンの所有者はこのわたし。藤原信也、お前は射手。
 つまりお前はわたしの従僕、銃の使用者にしてわたしの使用人なのです」

主従の宣告をした後、パチン、と指を鳴らす主。
その瞬間、男の戒めは解かれ、どさり、と片膝を地に付ける従僕。

「この娘は答えを出したのです」

繭子は告げる。どんなものであれ、それは答えなのです。なのにお前は、と。
この娘はお前に狂おうとも最後まであきらめず答えを探しました。お前と共に居る為に、お前と共に存在し続ける為に。
辿り付いた答えがどれほど残酷であろうとも、それを選んだ。
なのにお前は、あきらめた。体の良い嘘に浸り、心地良い偽りの矜持に身を委ねてしまった。
それが一番簡単だからでしょう?それが最も自分を傷付けぬからでしょう?つまりお前は──

「黙れ──だまれッ!」

男は立ち上がり掴みかかろうとするも、繭子の指が額に触れただけで彼は止まる。

「お前は、逃げたのですよ」
「よくも!てめえよくもッ!」
「逃げられぬ永劫なる時間の中で、お前も答えを探しなさい」
「くそったれえッ!」
「では、終わらせる?」

耳元で囁く黒き娘の声に、男は眼を剥く。

「お前に、唯一の自由を与えます」

そのまま彼女は従僕となった男の手を取る。
彼が握る銃、その銃口を己の額に当て、その瞳に焦燥する男の顔と銃身を映し、微笑み絶やさぬまま優しく告げる。

「さあ撃ちなさい従僕、撃って終わりになさい藤原信也。お前にそれが出来るなら」

あの子の匂いを放ち、あの子の顔で微笑むもの。
震える指が引き金に触れる。しかし力が入らない。
やがて男は銃を下げ、肩を落す──出来るわけ、ないだろう、と。

「これにて今宵の宴は終了」

一声発し、ぱん、と繭子が手を叩けば、周りでくすぶる火が消え去り、廃墟と化した街の影がゆらりと揺れ、瞬く間に瓦礫が崩れ去る。
しかし廃墟の影は、主が消えたにも関わらず未だ残りゆらゆらと揺れている。だがその形が徐々に姿を変えて行く。
まるでフィルムを巻き戻すかの如く崩れる前へと姿を戻す影。次いでごうん、と大きな音が直下より響く。
ごうん、ごうん。地下で町の原型図が稼動を始める。そして影の中より次々と浮上する建物。
ごぉん。一際大きな振動と共に音が消える。気が付けば煌々と夜空を照らす満月。青い月光に照らされて、静かな町が眠る。
まるで何事も無かったかのように。まるで舞台を廻し、書割を取り変えたかのように。

「世はすべて、事も無し」

大家の声は男には届かない。夜の町を瞳に映し彼が思うはただひとつ。
朝は来るのだろうか、それだけだった。
















■狼の娘・滅日の銃
■最終話/ゆえに、狼の娘/了

■次回■エピローグ「一睡の夢、されど醒めぬ嘘」





※追記
・今回で最終話というのは間違いありません。
・ですが完結とは言っていない詐欺。
・残る伏線消化しきって次回完結。
・だってしょうがないじゃない。



[21792] エピローグ/一睡の夢、されど醒めぬ嘘
Name: なじらね◆6317f7b0 ID:d0758d98
Date: 2010/12/27 01:13



ぱらり。沈黙の降りた局長室に、紙をめくる音だけが響く。
部屋の主は、机上に置かれた一冊のファイルを丹念に眼を通していた。
けれどサングラスは外さない。部屋の中、書類に眼を通しているというのに。
それどころかこの人は、未だかつて人前で、一度もそれを外した事が無いのだ。
書類に目を通す人物の机、その前に立ち女は思う。この男は何の為に自分を呼び出したのだろうかと。
いま彼が黙々と読み続けているファイルは三年前の報告書なのだ。それを今更──何かある、と田中真美は察する。

「神は天におわし、世は全て事も無し」

ぱたり。閉じられた表紙。やがて溜息ひとつ吐き、局長の室戸が呟いた。

「なんスか、それ」
「ロバート・ブラウニングって奴の詩さ」
「へー、博識なんスね」
「ピッパが通る、だったかな。そんな名前の戯詩集の中に収められた一本なんだが、こいつぁその一節でな。
 なんかココだけ色んなトコに引用されて有名になっちまって、挙句にまっとうに取ればいいものを、少しヒネた見方をする奴が出てきやがってよ」
「神様が天より見守ってくださるので我等はなんの心配もいらない──でしょ?」
「ああ、まっとうな読み方すりゃそうさ。俺たちが毎日七転八倒しながら繰り広げている騒動も、天から観ておられる神様の前じゃ些細なこと。
 どんな事があろうとも主は我らに等しく愛を御与え下さる、だからいちいち細けえこと気にすんな、って意味だよな、普通」
「ふーん。そんじゃ、局長みたくヒネた見方すれば?」

うるせえよ、と返しつつ口元を緩める室戸。

「おめえらの事なんざゴッド知るか。勝手にやってろ馬鹿──かな」

けれどその笑みは、どこか疲れたように力無く、一抹の寂しささえ含んでいるように真美は感じる。
そういえば白髪も増えた。相変わらずの狸腹ではあるが、最近少し痩せたようにも見える。変わらないのはサングラスだけだ。

「勝手にやってろ、か」

机上に置かれたファイルを見て真美は呟く。
これは彼女が作成したもので三年前の事件、その顛末が記載された報告書だった。ここに記されているものは只の事実でしかない。
ひとつ、その夜かなめ市を監視する外部ネットワークが寸断され数時間音信不通に陥った事。
ひとつ、一瞬ではあるがラインの飽和状態が確認された事。
ひとつ、その件の詳細は不明である事。
ひとつ、町はこれら影響を受けず特筆すべき変化は見られなかった事。
ひとつ、翌日かなめ市長である粟川礼次郎が体調不良を理由に退任したとの発表がなされ助役が任期を継いだ事。
ひとつ、その後前市長の消息は不明──そして。

「あいつ今頃、どこで何やってんだか」

ひとつ、要事案部所属駐在調整官、藤原信也とその娘、藤原真澄が失踪した事。
部屋の天井を見上げ、独り言のように呟く室戸。その姿を見て真美は想う。
所詮外の者達には理解出来る筈が無いのだと。
三年前──あの夜に起きた事は。





狼の娘・滅日の銃






真美が目を醒ますと、空は既に白みがかり朝もやが立ち込めていた。
市庁舎の屋上、冷たいコンクリートから即座に飛び起き、辺りを見回すも人っ子一人居はしない。
突如現れた化物も、あの恐ろしい女王も、炎に包まれ瓦礫と化した町も、まるで夢の出来事かのようにその痕跡すら残さず、
眼下を見下ろせばいつも通り、朝を迎え目覚め始めた静かな町の景色が漠然と広がっていた。
何が起きたのか。何がどう終わったのか。何よりもあのひとは、そしてあの子は。
階段を駆け下り市庁舎を出れば、目の前を始発の路面電車が通り過ぎていく。
真美は堪らず走り出す。三駅先にある彼らの家に向けて。

「はぁっ、はあっ」

全力疾走で辿り付き、家の戸を開け放った瞬間、真美は目を見張る。
何も無い、何もかもが消えている。がらんとした玄関口から中を見れば、あの親娘が暮らした痕跡が綺麗さっぱり消えていた。
家に上がり彼女は叫ぶ──師匠!真澄ちゃん!けれど家の中には人の気配が微塵も無い。
いやだ、そんなのはいやだ──胸騒ぎを抑え居間の戸を開け放つとそこに。

「──っ」

黒髪の童女、常世繭子が居た。

「ふたり、は──どこに」

窓から注ぐ朝の光、がらんとした部屋の中、真美の声が虚しく響く。
けれど繭子は振り返らず、光の中で静かに佇む。その視線は足元を向いていた。
そこにあるものは、ぽつんと残された丸いちゃぶ台。五年間、皆で夕餉を囲んだ食卓の残滓、それは楽園の象徴だった。

「お前が探す二人は、もう居りませぬ」

ぺたり。膝が折れ力無く床へと座り込む真美。
しばし茫然とちゃぶ台を見つめ、再び顔を挙げれば自分を見下ろす能面の童女。
笑うでもなく、泣くでもなく、ガラス玉のように無機質な瞳が告げている。それはまごうこと無き真実なのだと。しかし。

「うそ、だ」

常世繭子は嘘を言わない。それは真美も知っている、けれど。

「嘘を言うなッ!」

叫び、立ち上がり、踵を返し、床を蹴り、がらんどうの家を飛び出す。
嘘だ嘘だ信じるものか。そのまま大通りに出て立ち止まる。どこだ何処へ行った。せわしなく首を回すも探す姿は見つけられる筈も無く。
けれど真美はあきらめない。こうなったら町中しらみつぶしに──

──この町にある唯一の空家のものです、良く御覧なさい。

その時、記憶の中で閃く言葉。
昨夜、あの市長のフリをした化物から見せられた一通の書類が鮮明に脳裏に甦る。
登記簿謄本、記載された内容──あれは。

「止まって!」

丁度通り掛ったタクシーを拾い乗り込む。運転手に行き先を告げ、急いで、と先をせかす真美。
後部座席に座り、息を鎮め高鳴る動悸を抑え、そうだ、きっとそうだ間違い無いとひたすら自答を繰り返す。
やがて車は町の中心を抜け郊外へと進み、山のふもとにある小さな屋敷森の前で止まった。
走り去る車に彼女は一瞥も返さず、見上げれば森の奥に垣間見える大きな洋館の屋根。
そして眼前、彼女の行く手を阻むかのように閉じられた鉄の門扉。

「ひいらぎ──」

柊の屋敷。藤原が行ったフィールドワークの最中に見つかった町で唯一の空き家。所有者不明物件だったもの。
しかし昨夜見せられた書類に記された名前──柊真澄。

「──この中に」

居る。何かが居る。何かの気配がする。ここはもう、空き家ではないのだ。
では何が居る?決まっている、あの人とあの子だ。行こう。
真美は門扉に手を掛けようとしたその時、この手が震えている事に気付く。
何をしている、さあ行こう、何を恐れている──私は、恐れている?

──オメガ、これはせめてもの慈悲と思いなさい。

倒れ伏し意識が途切れる刹那、確かに聞こえた女王の言葉が真美の脳裏に甦る。
あの恐ろしい女は確かにそう言ったのだ。それを見ればお前は本当に狂ってしまう、と。

──お前が探す二人は、もう居りませぬ。

そして、今しがた聞いた繭子の言葉を思い出す。
二人はここに居る、確かに居る。ならばそれは偽りだろうか。否、と真美は思う。それは真実なのだと。
師匠である藤原はかつて言っていた。常世繭子は決して嘘を言わぬと。だがあの存在の言葉は、受け取る者によって意味が変わるのだと。
震える手を降ろし、再びその言葉を反芻する。あの二人はもう居ない、違う、お前が探す二人はもう居ないと言ったのだ。
あの抑揚の無い声で、あの能面の如き無表情で。なのに何故だろう、その顔が泣き顔に見えてしまったのは。

「アタシ──私は」

つう、と頬を伝う一筋の涙。そして気付く、この口元が微笑んでいる事に。
そして真美は思う。鏡の前で無くて良かったと。今もし、泣き笑うその顔を鏡に映せば自分は何を見るだろう。
きっとあの笑みだ。嫌で堪らないあの笑み、かつて粟川が浮かべていたあの、何もかもあきらめたような笑い顔、それを見るに違いない。

「もう──いい」

固く閉じられた鉄の門扉、その前で田中真美は立ち尽くす。
うな垂れた顔、その口元に何もかもをあきらめたような微笑みを浮かべ、静かに泣く。
けれどその手は、それきり門に触れることは無かった。何故ならば。

この門を開ければ、おぞましい何かを見てしまう、そう感じたからだ。






エピローグ - 一睡の夢、されど醒めぬ嘘 -






三年前の夜、一体何が起きたのか。外に居る者たちには解る筈も無い。
自分が目にし感じ、告げられたものが真実だと示す証拠がない。
それ以前に誰が信じようか。あの町はゆめまぼろしなのだと、否、この世界こそが、眠りつく星の見る一睡の夢なのだと。

「──勝手にやってろ」
「ん?何だ」

何でもないッス、と真美は再び局長に向き直る。

「で?今更こんな前の報告書持ち出してどうしたんスか?」
「真美よぉ、おめえ俺に隠してる事あんのか」

とん、とん、と意味ありげにファイルを指で突く局長。

「全て終わった事っスよ」

へえ、と室戸は口元に笑みを浮かべ。

「その割にゃおめえ、近頃俺の周り、何コソコソ嗅ぎ回ってやがんだ?」

やっぱりバレてたか。心のうちで舌を出す真美。

「あんま無茶すんじゃねえぞ。てめえはもう備品じゃねえんだ」

お前は既にここを構成する重要なパーツなんだ。
内務省統合情報管理局長である室戸は釘を刺す。
藤原が消えて後、目の前の女は彼が元々就いていたポストを与えられた。
広域捜査部(L.F.S.D.) 、強襲専従班長。これが現在、田中真美に与えられた肩書きである。
かつての鬼包丁同様、単騎で魔道師団と渡り合える程の実力を持つ彼女は、既に局の中核を成していた。

「おかげさまで、機密レベル上げてもらったんで色々見せてもらったんス」

バレちゃしょうがないっスね、と開き直ったように口を開く真美。

「アタシがここに今、こうして居る訳とか。例えば二十八年前、羽田の事件──」

散らばるパズルの欠片をばら撒きながら真美は淡々と言葉を紡ぐ。

「専従班の前身、即応部隊動かしたの、局長、アンタですよね」

自分が生まれるきっかけとなったものであり、藤原信也と、後に藤原真来となるアルファを出会わせ、
結果、藤原真澄が産まれる事となったあの事件。これが全ての発端だと真美は睨む。

「養成所上がりの新人が、即応部隊に抜擢された一週間後にあの事件、偶然ですかね」
「何が言いたい?」

サングラスの奥、自分を射抜く眼光を感じながら真美は続ける。
あの貨物機は着陸に失敗したのではなく、着陸後爆破されたのだと。不意の事故を装い、即応部隊を出動させる為に。
積まれた荷の目的を把握していた者があの事件を仕組んだのではないかと。ヴォクスホールと何らかの密約が取り交わされたのではないかと。
女王の目論見通りあの男へとギフトは渡された。その代価にこの国が手に入れたものは二つ。
ひとつは私。アルファの本体である自分が眠る最後のトランク。そして、もうひとつは。

「最強のドリフター、ブラックドッグの完全覚醒」

混乱を、秩序の為の混乱を。
一方的な蹂躙では得られぬもの。双方共に拮抗してこそ始めて生まれる混乱。
魔道師団及び旅団がフラットライナー側の最強戦力ならば、片方にもそれに耐え得る力を。これが女王の真なる目的。
かくして、世界中で暗躍する魔道旅団への切札として強襲専従班が誕生する。
対ヴォクスホール戦略の最前線部隊、その中心には彼が居た。
鬼包丁、ヘルマシェーテと恐れられ、銃と小刀を駆使するガンソード・アーツを用い、立ち塞がる全ての敵を倒すために存在する黒狗、藤原信也が。

「つまりアタシらレムナント・ドールズは、いわば目覚し時計だった訳っスね」
「それくれえ、あいつも当に納得済みさ」
「でしょうね。あのひとはそれを甘んじて受け入れた。むしろ悦びすら感じながら」

でもね、と真美は言葉を続ける。この背景にはまだ奥があると。

「室戸さん、アンタの元上司、即応部隊の礎を築いた藤原源也って方なんスね」

藤原さんの父親ですよね?意味ありげに真美は微笑む。
それがどうした?さしたる動揺も見せず室戸も笑う。

「何か託されたんじゃないですか?」

あのひとが自分を育ててくれたように、貴方もそのひとに育てられた。
私があのひとを愛したように、貴方もそのひとを慕った。だから解るんです、と真美は言う。

「さあて、な」
「そのひとは、ブラックドッグの血を断とうとした、違いますか?」

その時、室戸の口元から笑みが消える。ぎり、と固く閉じられた口の中から歯軋り。その様子を見てやはりそうか、と真美は確信する。
彼の父、藤原源也は自身に流れる血がどういうものであるのかを冷徹に理解していた。
濃縮された黒狗の血。自分よりも強きものを屠ろう猛る獣の本性。
そして予見したのだ。己の娘が血に狂い自分に牙を剥くであろう事を。けれど彼はそれを敢えて放置した。
自分が殺されるために、あのひとに殺させるために。

「──てめえに、何が解る」

低く、室戸の腹の底から搾り出される声。

「あのひとはなぁ、本当に子供たちを愛していたんだ。だから葛藤したんだ。その末に出した苦渋の選択だったんだ。
 解るか?もしあのひとが娘に殺されなかったらどうなっていたか」

シンヤの妹はな、狂気の塊だったんだよ。苦虫を噛み潰したように室戸は語る。
源也さんは、だからこそ自分に殺意を向けさせた。もしそうしなければ真っ先に兄へと牙を剥いただろうさ。
引き離し里子になんか出せはしない。そうしても、探し出し必ず獲物へ喰らいつく。そういう本性を持った娘だったんだ。
だから手元に置き抑制した。一番強いであろう兄を獲物と見なさぬように。お前は弱い、体も心も、そう言い聞かせ暗示で縛った。
けれど限界が来た。それでもあのひとは娘を愛した、だからこそ黙って殺された。何故かって?残されたシンヤに理由を与えてやる為だ。

「父を殺した敵を打つ、兄としての責務で。そういう理由をな」

その理由がなければあいつは、ただの妹殺しの屑に成り果ててしまう。
だからこそあのひとは、最後の最期でその選択を取ったんだ。

「狂ってる──それ以上に、卑怯じゃないスか」

真美は吐き捨てる。その役目を息子に押し付けるなんて。しかし室戸はそれを制し。

「本当は──道連れにしようとしたんだよ、でもな」

俺が駆けつけた時、まだ微かに息があった。そして言ったんだ──出来なかった、と。

「確かに俺は、源也さんに託されたよ。あいつを頼むってな」

あいつを二度と狂わせてはならない。
だから俺はシンヤに、自身に流れる血が一体何であるのか、どう向き合うべきかを徹底的に叩き込んだ。そして戦い続けさせる事で正気を保させた。
お前は狗じゃない、狼だ。黒狗の血に惑わされるな、けれど否定するな、むしろ生き抜くために利用しろ、狡猾な狼になれってな。
あいつの存在をヴォクスホールにリークし女王を動かしたのは俺だ。あいつに敵を与える為に、全身全霊を込め戦える相手を送り込ませるために。
狼同士の共食いとなろうとも。せめて、その中であいつが、笑って逝けるように──だがな。

「女王は俺より一枚上手だった。してやられたよ」

力無く肩を落とし、室戸は天井を仰ぎながら吐き捨てる。あろう事か奴ぁ雌の狼を贈ってきやがった。
つまり、血を残そうとした。更なる混乱の種を撒きやがった。

「あいつに娘が出来たと知った時、俺ぁ心底肝が冷えたよ」

あの野郎、それが何を意味するかなんて気付きゃしねえ。俺にも家族出来たって嬉しそう惚けやがって。
その姿を見て俺は気が気じゃなかった。またあの狂気を繰り返すんじゃねえかってな。
でも言えなかった。そんときのあいつの顔が、子供の話をする源也さんに重なってよ。
だが何とかしなきゃならねえ。今ならやりようがある。だからあいつに隠れて嫁さんと会った。

「会ったん、ですか」

真美は驚く。
室戸が姉に会っていたという事実以上に、普段人を食ったかのような態度で誰もを煙に巻き、そのくせ冷厳かつ冷酷に処断を躊躇なく下すこの男が、
他者の為にそこまで動いていたという事実に。彼をそこまで駆り立てるものは果たして。

「おったまげたよ。あの女、あいつの妹と瓜二つじゃねえか、しかも名前は──真来」

嫁さん言ってたよ。この姿を選んだのは彼が求めるものだったからだと。彼に固執する為に生み出された自分だからこそ、そうなったのだと。
だが俺はそれを責める気が起きなかった。胸に小さな娘を愛しげに抱くその顔は、幸せそうな母親の顔だったからな。
そして気付いたんだ。あいつ、一度は手に掛け失った家族を、再び手に入れたのだと。
贖罪を愛に置き換え、やっとあいつは救われたのだと。だから言えなかった。あいつの前から消えてくれとは。

「だってよ、その子、すげえ可愛かったんだ」

俺に孫がいたら、きっとあんな風になっちまうんだろうな──想い出し、惚けた様に笑う室戸を見て真美は思う。
この男にとっても家族とは、手に入れたくとも決して届かぬ物なのだと。だから夢を見たのだ。
息子夫婦と可愛い孫、そんな幻想を彼等に重ねてしまったのだ。

「だがな、俺が言い出す前に嫁さん、言ったんだ」

仕方ないですよね、だってこの子を過ちにしたくないもの──それ聞いて俺ぁ胸が詰まったよ。
あの女とうに気付いてたんだな。そして自分から切り出したんだ。そうすべきなんだって。
その翌日だよ、あいつの元から嫁さんが去ったのは。あの子を連れてな。
その後、局の保護監察プログラムに組み込み二人の足跡を消した。シンヤが探せないように、何よりもヴォクスホールから隠す為に。
以来十年、極秘裏の内に要事案部に監視させ同時に支援も行った、つまり。

「あの女の最期を看取ったのは、俺だ」

逝き際にあの女は言った。
十年かけてあの子を縛った、出来る限りの事はした、だからあの子が父親の下に行くのを許してやってくれと。
俺はそれを呑んだ。丁度シンヤも一線から引きたがっていたからな。もういいだろうと思ったんだ。
せめてひと時でもいい、父親と娘、親子として暮せてやりたかった。そして、あの町でならそれが出来るんじゃねえかってな。

「ありがとう──ございます」

真美は素直に頭を下げる。この男は、余生少ない姉に終の場所を与えてくれたのだと。
しかし室戸は──止せ、そんなんじゃねえと口元を歪め、自嘲する。

「これも全て仕事の──違うな。それならもっと割り切れた」
「なら、何でそこまで」
「解らねえか?いや、解るはずだ、おめえなら」

男の脳裏にあの女、藤原真来の声が甦る。愛しい娘を胸に抱く母の声が。
室戸さん、この子可愛いでしょう?この子が愛しいと思ったでしょう?
赤の他人である貴方さえ虜にするこの子は、そういうものなんです。わかりますよね。

「俺もあの子に、狂っちまったんだよ」

室戸は言う。藤原真澄という娘は、そういうものなのだと。
自身を排除しようとする者でさえ虜にし取り込む恐ろしいものなのだと。たった一つの目的の為に。愛しい獲物にたどり着くために。
入念に周到に綿密に網を巡らせ、自分の進む方向へレールを敷かせポイントを切り替える。
それを理性や思考ではなく本能で行ってしまう、そういう存在なのだと。

「俺を惑わせ、女王の目論見すら超えた存在、真なるイレギュラー」

ぞくり。真美の背中を走る悪寒。そんなまさか、ありえない。だが否定しきれぬ自分が居る。
この男の言う事を認めたくは無い。あのひとに抱いた恋情、あの子を愛しいと感じた愛情、それが偽者だと思いたくはない、しかし。
トランクの中で眠る最中も私はアルファと繋がっていた。彼女の経験、蓄積されたスキル、そして想い。私はそれを受け継いだ。
だからこそあの子を愛した。だが結果としてあの子を縛る鎖を切り、解き放ってしまったのは私だ。だがもし、そうならば。
分体であるアルファ、本体である私。情報の共有、その最中にアルファの体内に宿るあの子から影響を受けてしまったとしたら。
あの子が真に望む時、その戒めを解くよう私がそう動くよう設定されてしまったとしたら。
いや、自分だけでなく、あの子に関わる全てがそうだとしたら。
母である姉も、父であるあのひとも、目の前に居るこ男も、あの恐ろしい女王すら──そして。

「コクーンすら、ですか」

そして、この世界を司るあの存在さえ、取り込んでしまったとしたら。

「さて、それはどうかな」

言いながら室戸はサングラスを外す。

「要事案部立ち上げる時な、あの町に行ったんだ。そして、会った」

露出した彼の裸眼は、とても無機質で。あのコクーンの眼のようで。まるで人形のようで。
きぃ、微かな作動音と共に室戸の視線が動く。その様を目にし真美は気付く。
人形のようではない、そのものだ、つまり──戸惑う真美に向け、義眼を光らせながら彼は言う。

「俺ぁ源也さんやシンヤ、そしておめえみたく強かねえ、ただのでくのぼうだ。
 だがな、唯一視る事が出来た。観て、視て、見渡し、先が読めた。俺がこうやってふんぞり返っていられんのも、その目のおかげでな」

だから常世の君との接見は、怖くもあり楽しみでもあったんだ。
どれお前を観てやろう、この眼でお前の底まで視てやろう、てめえの正体見せやがれってな。
今思えば、ひでえ自惚れだったよ、と自嘲気味に室戸は笑う。

「だが、あの御方は当にお見通しだった。そして俺に教えてくれたんだ。
 それは鳥瞰視って奴なんだと。自分と同じ視点なんだと。こういう力を持った者は稀に居るんだと」

そして、常世繭子は彼に告げた──見たければ視るがいい。
抑揚の無いその声が、記憶の淵から滲み出し、室戸の脳裏で虚しく響く。

「挙句の果てが、このザマさ」

きぃ、きぃ。微かな作動音を立て動く義眼を見て真美は思う。
ああ、この男は見てしまったのだと。自分が女王より間接的に告げられた真実を、あろうことかその本体から直接見せられてしまったのだと。
つまりこの男は知っているのだ。三年前に起きた出来事を、自分の提出した報告書、その行間に秘められた真実を正確に読み取ったのだ。
外に居る者として、唯一。

「それほどの御方が、あの子をみすみす見逃すと思うか?」
「解りません。あの存在が何を考えているかなど──知りたくもありません」

震えを抑えるかのように、肩を抱く真美を一瞥した後、室戸はサングラスを掛け直す。

「そうだな、それがいい」

しかし、黒いレンズの奥で室戸は思う。
確かにあの存在の考える事などちっぽけな我等には理解出来るはずも無い。だが眼が潰れる間際、俺は見た。すすり泣く童女の姿を。
あれがそうであるならば、コクーンとはその名の通り繭であるのなら、あの存在があの容姿通りであるのなら。
あれが幼子であるのなら。永劫の孤独を課せられた小さき子供であるのなら。
いっそ、狂ってしまいたい、そう思ったのかも知れない。その為に、あの子を。

「まあ、いい。それじゃ話し換えて本題と行くか」
「はい?」

突然話題を変えられ、少々呆気に取られた素振りを見せる真美に、
おいてめえ呆けてんじゃねえぞと意地悪く口元を歪ませ、今日呼び出した目的を告げる室戸局長。

「ヴォクスホール関連で最近、嫌な動きがあるってのは知ってるな?」
「エレン・V──ですか」

この一、二年、魔道師団内の特秘部隊、通称魔道旅団の動きが顕著になって来ている。
その中心に居るのは三年前、あの事件の直前、突如魔道師団軍団長に就任したエレン・V・ヴォクスホール。
女王執行権を併せ持つVをその名に刻む彼女は、ここ暫く国元を離れ、
旅団を率い各地で反ヴォクスホール勢力であるドリフター達を狩り、蹂躙し続けているという。

「あの女王の撒いた種がまたひとつ、芽吹いてきたってトコだな」

曰く、血塗れ姫。曰く、女王の刺。曰く、千人殺し。この三年で彼女に付けられた仇名は数知れない。
しかしヴォクスホールの大原則〈他の地は侵さず〉に沿い、国家ではなく名目上は反勢力への攻勢に限定されるため、
危ういバランスを保ちつつ各国は静観せざる得ない状況にある。
旅団によるこの国への攻勢は、水際ではあるが真美が率いる専従班が食い止めているのが現状だ。
しかし近い将来、彼女自身が乗り込んで来るだろう。つまり。

「今は前菜食ってるってトコだろうな。メインディッシュはもちろん」
「カナメ、ですか」

あの夜、眼前に現れた女王を前に何も出来なかった。
無様に倒れ伏し意識を断ち切られ、あのひとを見届ける事が出来なかった。
あの恐怖、そして屈辱。それを想い真美は拳を握る。

「なに生き急いでんだか。困ったもんスね、あの姫さんにも」

他人事のように気の無い素振りで返しながらも真美は想う。
かつてのエレンは慈愛に満ち民を愛し慕われたていたと聞いている。
しかしこの変節。恐らくあの哀れな姫君は、女王より何も教えられていないのだろう。カナメとは何であるのか、コクーンとはどういうものであるのか。
それさえも知らず、あの夜、二人の親子と共に露と消えた哀れな獣〈C・E〉のように精製し調教され、世に放たれてしまったのだろう。
皆殺しの雄叫びを上げ戦いの犬を野に放て。かの戯曲家の書いた一節が脳裏を過ぎる。
混乱を、秩序の為の混乱を。未だ真美の脳裏には恐怖の女王、アメリア・ヴォクスホールの微笑みが焼き付いて離れない。
エレンもやはり種なのだ。娘という役割を課せられた女王の分体。自分と同じもの。ならば。

「勝手にやってろ──ですよ」

しかし、その言葉とは裏腹に真美は唇を噛む。
所詮自分ははレムナント、帝国の生み出した廃棄物、捨て石に過ぎない。だが私にもなけなしの矜持が残っている。
来るなら来い軍団長。私はお前とは違う。人形ではない。自らの意志で此処に居る。
相手をしてやる、教育してやる。捨石の意地、トレッドストーンの矜持を見せてやる──細めた眼に光を滾らせ真美は笑う。

「つうわけでだ。おめえよ、要事案部に移らねえか?」
「はーいー?」

しかし、組織の長からいきなりカウンターパンチを食らわされ、
いきなり何を言うんだこのオヤジ、と目の前で座るグラサンタヌキに食って掛かろうとするも、室戸が発した次の言葉で身を固める。

「駐在調整官。こんな時だからこそ必要なんだよ」

もう三年だ、いつまでも空白にはしておけねえよ。
室戸の言葉を受け、その意味に思いを巡らす。それは一線から退けという意味だろうか。
ヴォクスホール製であり女王の分体でもあり、要は裏切り者である自分には、もう前線指揮を任せられないという意味だろうか。

「──信用ないんスか?アタシ」
「違げえよ、バカ」

本当におめえ馬鹿だよなあ、と室戸は溜息を付き静かに諭す。
いいか、エレン・Vは必ず来る、自らカナメに乗り込んで来る。
けどあのおっかねえ常世の君との盟約で俺たちは原則あの町にゃ手出し出来ねえ。
だが唯一カードがある。そりゃおめえ、干渉権持つ調整官だろうが。
けれどあの御方から許されたのはたった一人、それも〈より強きもの〉のみだ。
だったらおめえ、ウチの駒で最強の奴送るしかねえだろうが。それによぉ──

「生き急いでんのはてめえの方だろうが」

違うか?サングラスの奥から彼女を射抜く視線に言葉を返せない。

「てめえなりに片つけて来い、つってんだ」

彼女はただ、唇を噛み締める。見抜かれていた、未だ未練がある事に。切りたくとも切れない想いに。
確かにこの三年、それを忘れたいが為に戦いの中に身を投じてきた。冷静に冷徹に職務を遂行してきた、そのつもりだった。
けれど自分は未だ忘れられないのだ。悔しくて、悲しくて、せつない。それは女王より受けた屈辱からではない。
あの固く閉ざされた鉄扉の前であきらめてしまった自分が悔しくてたまらないのだ。
お前の想いは所詮、その程度だったのかと思い知らされてしまったようで。
悔しくて未練たらたらの自分に腹が立つ。悲しくて惨めで泣きそうになる。せつなくて未だ胸がはちきれそうになる。
つまり私は本当に──馬鹿だ。

──おめえ、考えすぎだ。

その時、記憶の底に沈めていた言葉が、ふと脳裏に溢れ出す。

──馬鹿なんだからよ、考えるな。

八年前、初めて町に降り立ったあの日。まだ彼を師匠と呼んでいたあの頃。
市庁舎の屋上で彼は言った。動け動け、動き俺の予測すら超えてみろ。彼、藤原信也は言った。
その言葉が真美の心を軽くする。噛み締めた唇から力を抜ける。なるほど、確かに。
馬鹿は馬鹿なりに。そうッスよね、師匠。

「局長。返事三日、いや二日待ってもらっていいスか?」
「あん?いつでも構わねえけどよ」
「というワケで。二日分の有休使いますんで!よろぴく!」

返事聞く前に踵を返し、いきなり駆け出す馬鹿ひとり。
閉まるドアの向こう側に消える真美の背中を見ながら、室戸は苦笑した。



夜通し走り、山を抜け、日が昇る頃、辿り付いた三年振りの町。
市役所前駅の片隅に強行軍を共にした相棒、黄色いベスパを止め、朝もやに包まれた町を見渡し真美は想う。
相変わらず静かな町だと。朝が来たというのに、未だ眠り続け果て無き夢を見ているようだと。この幻影の町は。

「かなめ、何もかも皆、懐かしい──なんちゃって」

自販機で買った缶コーヒーを手に、どっかの宇宙戦艦の艦長が臨終間際に吐いた台詞っぽい言葉を呟く真美。
よし、調子出てきた。呑まれるな、感傷に浸るな、センチメンタルにはまだ早い。アタシは片を付けに来たのだ。泣くのは後だ。
さあ笑え。笑って進め。未だ飲み口より湯気を立てる熱い缶コーヒーをぐいっと飲み干し、えいっえいっ、と寒さで固まった腕や足を解きほぐす。
今日から四月。暦は春。とはいえ未だ夜は寒い。そんな中夜通し走って来たものだから身体は凍え固まろうというもの。
えいえいっとストレッチしながら体を暖める。

「まだちょっち寒いなあ。少し歩くか」

黄色いスクーターのスタンドを上げ両手でハンドルを握り、ベスパを引きながらえっちらおっちら歩き出す。
横を過ぎる市庁舎。八年前自分が落ちてきた場所。
背丈より大きいコンテナを背負い飛び出した初めての空、しかし風に流され、挙句の果てに市庁舎の中庭、茂みの中に突っ込んだ。
小枝に絡みジタバタもがく自分を引っこ抜いてくれた大きな手、あのひとの手。
見上げれば額に青筋を浮かべながらもよく来やがったなこの野郎と笑う顔、あのひとの笑顔。
きっとあの時、私はまるで、飼い主を見つけた子犬のような眼をしていたに違いない。
確かにあのひとは、あの子が全てだった。彼の世界の中心だった。いつも私は、あのひとの視界の隅にいた。
それでも良かった。それで幸せだった。だけど一度だけ、あのひとは私だけを見てくれた。
最後のひと時、あの部屋で私を真正面から見て、私を抱いてくれた。だから──

「──まったく」

真美の足が止まる。ハンドルから片手を離し、気付かぬ内に頬を伝っていた涙を拭う。
振り返ればあの市庁舎は遠くなり、大通りを行き交う車の数も増えてきた。
やがてことん、ことんと音を立て彼女の前を通り過ぎていくオレンジとグリーン、ツートンカラーの小さな箱、二両編成の路面電車。
中を見れば沢山の乗客、真新しい制服を着た学生の姿が見える。
その中に見慣れた紺色のブレザー。あの子の通っていたお嬢様学校の新入生らしき姿も見えた。

「入学式、かな?」

ふと真美は、無意識にあの子の姿を探している自分に気付き、やれやれと首を振り、再びハンドルを持ち直しベスパを引き歩き出す。
真四角な箱に似た灰色の建物、郷土資料館を通り過ぎ、かつては見慣れたその道を進んでいく。そして彼女は思いを馳せる。
あの二人もこうやって、あの小さな軽トラに乗って、この道を進んだのだろうか。
片寄せ合う小さな車内から見た町の景色は、果たしてどう見えたのだろうか。

四十になった男は父親として失った時間を取り戻す決意を胸にハンドルを握り、
十二になった娘はようやく会えた愛しき男と共に始まる新たな生活を夢に見て、
二人共に期待に胸を膨らませ、ガラス越しに見た景色はきっと、輝いていたのではないか。
その日々が続くと信じて。胸に過ぎる微かな不安を心の奥底に押し留め、やがて迎える結末など思いもせず。この町へ来たのだ。

その道を真美は黙々と進む。通いなれたかつての道を。この先にかつて彼らが住んでいた家がある。
五年間の楽園。今はがらんどうの小さな空家。
今でも時折、あの小さな童女の姿をした黒髪の大家は、何も無い居間にぽつんと残された一卓のちゃぶ台を、人形のような眼で見つめているのだろうか。
ふと立ち寄りたい衝動に駆られるもそれを堪え、目指す先を仰ぎ見る。

「さて、と」

体も随分温まった。では行こう。
そして真美はベスパを車道の隅に寄せ、スタンドを下ろし、スピードメーター上に差し込まれているキーを一段回す。
くいっくいっとアクセルを二度開き、エンジン横から伸びるキックペダルに足を掛け、勢いつけて踏み降ろす。
ぶろん、ぶろろん。再び息を吹き返す排気量180ccのエンジン。マフラーより2ストローク特有の白煙が立ち昇る。
スタンドを上げシートに座り顔を上げ、これから向かう大通りの先、郊外へと伸びる一本道を彼女は見据えた。

この道は、あの屋敷へと続いている。

三年前自分が辿り付き、けれどあきらめてしまった柊のお屋敷へ。
さて片を付けに行こう。あの鉄扉を開け中へと進もう。未だ胸の内にくすぶり続けるこの想いにケリをつけるのだ。
例えそこで、何を見ようとも。

「──よし」

クラッチレバーを握り、ギアを入れ、アクセルを開ける。
しかしレバーから手を離そうとした瞬間、真美は見た。一本道の外れより静かに近付いてくる一台の大きなリムジンを。
それに何かを感じた彼女はギアをニュートラルに入れアクセルを戻す。アイドリンクのまま小刻みに震え続ける小さなエンジン。
マフラーから規則正しく吐かれる白煙。それすら忘れ真美は近付いて来るリムジンへと眼を凝らす。
灰色の大きな車。丸目四灯ヘッドライトに鈍く輝く巨大なグリル。ボンネットの上に立つ銀色の天使。型式は確か七十年式RRファントムⅣ。

その姿を認め真美は戸惑う。何故だ、何が気になる。

法廷速度を守りゆっくりと近付いて来るリムジン、幽霊の名を受けたロールスロイスを認め真美の胸がざわざわと騒ぐ。
フロントガラスは朝日に反射して誰が乗っているのか未だ見えない。ならば待とうと彼女はそのまま凝視する。
やがて車は彼女の横を通り過ぎる。その瞬間、確かに見た。運転手と、後部座席に座る者の姿を。

「そん、な」

後部座席には、お嬢様学校の制服を着た、おさげ髪に眼鏡の少女。しかしその顔は、真澄と瓜二つだった。
そして運転席には、温和に微笑む一人の男。真美とあまり年の違わぬ青年。
けれどその顔は、かつて見た二十年前の記録、二十代の彼、藤原信也そのものだった。
しばし呆然となりその場に佇む真美。やがて彼女は胸元から携帯を取り出す。

「あ、おはようございます局長」

ワンコールで繋がった相手に向け、彼女は告げる。

「あの話、謹んでお受けします、それでは」

解った──耳元で響く声に小さく頷き、携帯を切り、再び胸元に押し込める。
そして真美は、今しがた目にした光景を脳裏に浮かべ、そして想う。
あの娘は、確かに真澄だった。しかし、まったくの別の存在だった。
けれど掛けられた眼鏡の奥から運転席を見つめる彼女の眼は、あの狼の眼だった。
そして、背中から狼の視線を受けながらも青年は穏やかに笑っていた。少なくとも表面上はそう見えた、けれど。

あの男は、あんな風に笑わない。あのように曖昧に笑わない。

まるで自分を偽るように、まるで何かを耐えるように、そんな笑みは浮かべない。つまりあれは、仮面なのだ。
姿の変わらぬ娘は、その実、まったく違う何かと化してしまった。あの狼の眼を眼鏡で覆い、けれど視線は決して目の前の獲物から逸らさない。
そして姿を変えた男は、その実、変わらぬまま偽りの仮面を被ってしまった。自分に嘘を付き、そのように成り果ててしまったのだ。

「勝手に──やってろ」

うつむきき真美が吐き捨てる。けれど彼女は、その言葉とは裏腹に再びギアを入れ勢い良くアクセルを捻る。
同時にだんっ、と片足を付き暴れる後輪を路面に滑らせ、アクセルターンを決めブレーキを離す。
ゴムの焼ける煙を撒き散らし後輪が勢い付けて路面を蹴る。前輪を浮かせウイリーしながら飛び出すベスパ。
急回転して走り出すその先は、いまさっき通り過ぎたあのリムジン。
勝手にやってろ勝手にやってろアタシはもう知るもんか。ヘルメットの下で呪詛のように繰り返される言葉。けれど口元が笑い出す。
いいだろう。その嘘に付き合ってやる。私の気が済むまで付き合ってやる。私が飽きるまで見届けてやる。
所詮それは一睡の夢、けれど醒めぬ夢などないように、その嘘もいつかは醒める。永遠など無い。だからその時までとことん付き合い見届ける。
覚悟しろ、アタシは案外しつこいぞ。

そして真美は思うのだ。やっぱり自分は、馬鹿なのだと。











■狼の娘・滅日の銃■終劇


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