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[20997] 【習作】【短編連作】私の頭の中のダルシム
Name: TEX◆57eef252 ID:9ec604d4
Date: 2011/01/21 15:20
初投稿です。
ローカルでちまちま書いているシリアス系ファンタジーがスランプなんで、
八つ当たり気味に書いてみた。反省はしている。
盛大に罵ってくれると嬉しいです。


追記;完全にノリと勢いで書いていたこの短編ですが、予想以上に温かい感想を頂いてさらに深く反省しました。
読んでくださる方がいるということを肝に銘じ、『誰もが心の中に秘めているそれぞれのダルシム』をテーマに、様々な角度からヨーガの奇跡と向き合っていきたいと思います。
それに伴い、タイトルに【短編連作】の文字を冠しました。
正直、ダルシムでどこまで書けるのか不安ですが、これを一種の縛りプレイと考え、腕を磨くべく頑張っていきたいと思います。
それではお暇なかた、楽しんでいただけたら幸いです。




================================================================




男には、避けることのできない闘いがあるという。
使い古された言葉だが、それはつまり太古の昔から男たちが『避けられない戦い』を経験してきたということだろう。
その日の俺も、そうだった。

年下の彼女が家に来たときのことだ。
彼女が悪戯っぽい笑みを浮かべ、自らスカートを下ろした。
その瞬間から、俺の全身は彼女のためだけのものになったといえる。
彼女の望むように、彼女が喜ぶように。
たとえ呼吸という、生物として基本的なことが困難な状況に追い込まれたとしても、
俺の顔面にまたがった彼女を押し退けることなどできない。できるはずがない。

「お兄ちゃん、ヘルシングの8巻って……ごめん」

ばたん。

む。あれは妹の声ではなかったか。ばたん、というのは、もしやドアを閉める音では?

「うわ、どうしよう……今思いっきり見られちゃったよ」

不意に視界が開け、再び呼吸が可能になった。
これは、まさか。

「今……妹きた?」

「……目が合っちゃった」

彼女も完全に理性を取り戻してしまった。なんということだ。

「ヤバイ、マジヤバイ。この気まずさは過去最大級に気まずいぞ」

「落ち着いて。ええと。ヨガ!ヨガをやっていたとか言えばさ」

「え、火を噴いてたの?さっき」

「噴いてないよ!え、ヨガって火を噴くの?」

「あと、手足が伸びたりとか」

「ワンピースだっけ?」

「いや、ヨガの人は海も平気だと思う。空も飛べるし」

「なにその無敵キャラ。何系なの?」

あれは何系なんだろう。

「……東欧系かな」

しばしの沈黙のあと、彼女が口を開いた。

「……えっと、じゃあ、その、どうすればいいんだっけ」

「その、ヨガ?」

「そう、それ」

「俺よく知らないんだけど、ヨガで通るの?」

何か女性には特別な意味のある言葉なんだろうか。

「プロレスとかいうよりはマシなんじゃないかな。わかんない。でも、もうそれぐらいしか……」

彼女もやはり混乱しているようだった。
これ以上心配させてはいけない。安心させてあげなくては。
覚悟を決めろ、俺。

「……わかった。行ってくる」

「うん……」

俺は服を着て立ち上がり、ドアを開けて妹の部屋に向かった。
どんな顔をしていいかわからない。しかし、きっと妹も同じはずなのだ。
お兄ちゃんのフォロースキルが試されている。

「ヨガ……か」

俺の記憶が確かなら、今晩はカレーだったはずだ。ただの偶然か、それとも運命か。
直感が告げる。自分が大きな流れの中にいるのだと告げている。
これは運命だったのかもしれない。乗り越えろという、試練なのかもしれない。

──男には、避けることのできない闘いがある。

俺は逃げない。俺は、家族の絆を信じる。

拳を握り締め、重力に引かれる右腕をやっとの思いで持ち上げ、ドアを叩く。
乾いたノックの音がひとつ、ふたつ、みっつ。

ごくり。

鉛を入れられたように身体が重い。いや、心が重いのだ。
暴れまわる心臓。ひとすじの汗が頬を伝う。

「……なに?」

妹の声と共に、扉が開いた。

「驚かせてごめん。あれは…」

「いや、いい。わかってる。これからちゃんとノックするから」

俺の言葉をさえぎって妹が早口に言う。
言葉とは裏腹に、妹の表情は固い。

しかし『わかってる』とは。
ヨガとはそんなにもメジャーだったのか?ヨガって何だ?あとで動画を検索しよう。
もしや『ヨガ』という名目で同じことをクラスメイトなどとやっているのでは…いや、今は触れないでいたほうがいいか。

「っと、これ」

「あぁ、うん」

ヘルシング8巻を渡し、俺は妹の部屋を後にした。
そのとき、妹に呼び止められた。

「あ、お兄ちゃん」

「ん?」

「9巻も、できれば。続き、気になるし」

「あぁ、そっか。確かに続きは気になるよな」

「……ばかっ」

「え?」

「……早く。あと彼女さんにごめんって言っといて」

「……?あぁ、うん」

一旦部屋に戻り、9巻とついでに10巻を持って再び妹の部屋に。

「ありがと。えっと。が、がんばって」

ぎこちない笑みだ。
なんだかこっちが笑えてくる。

「ははっ。お兄ちゃんがんばるよ」

「ほどほどにね」

「あぁ」


そして俺は、彼女の待つ部屋に戻った。
不思議なほど足取りは軽く、胸には爽やかな風が吹き抜けていた。

「ただいま」

「うん、おかえり。……どうだった?」

彼女が不安そうにしている。それもそうか。

「大丈夫だったよ。ごめんって言ってた」

「そ、そっか。よかった……」

タオルケットにくるまった彼女を抱きしめる。
その下はさっきと同じ、生まれたままの姿だ。

「続き、しようか。ヨガの」

「あはは、ヨガね。うん、いいよ」


それから、三年が過ぎた。
結局、ヨガという単語に隠された意味はわからなかった。
でも、最近になって思うようになったことがある。
こんなふうに締め切った部屋で、俺たちは無我の境地を垣間見ていたんじゃないかと。

「ヨガ、だったのかもしれないな」

夏が来るたびに思い出す。
今はもうどこかの誰かと幸せになっているのだろう彼女。
クーラーの風、甘酸っぱい情熱。
カレーの匂いと、根源に至っていた日々。



[20997] 雨の日、さとりをもとめて。
Name: TEX◆57eef252 ID:9ec604d4
Date: 2010/08/16 00:02
最近、ちょっと変なことがあった。
外を歩いていたら夕立に降られて、傘を買うべくコンビニに走ったときのことだ。
あるものはカバンを頭の上に乗せ、あるものは腰をかがめ、誰も彼もが大急ぎで走っていた。

──まるで雨に濡れたら死ぬみたいに。

そんな歌があったような気がする。誰の歌だったか。
自分も死にそうな顔で走っていたかもしれないと思うと、なんだかバカバカしくなって走るのをやめたのだった。

家は近い。すぐに風呂に入れば風邪をひくこともないだろう。
開き直ってみれば、雨が降ったからといって別にどうということもないのだ。
ずっと雨が嫌いだったけれど、その時は少しだけ気分がよかった。

ふと周りを見渡すと、土砂降りの雨を気にしたふうもなく歩いている女がいた。
自分を棚に上げてジロジロ見たせいかもしれない。その女もこちらに気づいたようだった。
俺は目が悪いので顔はよく見えない。けれど、なんとなく笑っているようだった。
そして、こちらに手を振っている。

「ん?」

ちらりと後ろを振り返ってみても、誰も居ない。ならば彼女が手を振ったのは俺か。
知り合いだったか?あまり話したことはないけど同級生だった、とかそういう感じの?
まぁ手を振っているぐらいだからこちらも挨拶ぐらいするべきだろうと思い、俺は彼女に歩み寄った。
顔がよく見える距離まで近づき、声をかける。

「やぁ、ひさしぶ……り……?」

いや、知らないぞ。知り合いじゃない。
俺が覚えていないだけか?これは話を合わせるのが大変かもしれない。

「あっ、ごめんなさい。知り合いかと思って……」

彼女は即座に謝った。どうやらお互いに勘違いをしていたようだった。
変な空気になってしまい、しばらく見詰め合っていた。
この状況をどうしたものか。互いが互いにこの拮抗状態の打開策を練っていた。

──決闘かこれは。

そう思った途端に笑いがこみ上げてきた。

「ははっ、そっか」

「あはは、なんかおかしい……あははっ」

彼女もツボに入ってしまったようだった。

「そんなに?」

「だって、みんな雨に濡れたら死んじゃうみたいだなって思って……ちょっと優越感に浸ってたんですけど。
でも……あはは。私、バカだったんだーって思うとおかしくて……」

こんなことがあるのか。すごい偶然だ。

「それ、俺と同じだよ。誰の歌だったか、思い出せないんだけど」

「誰でしたっけ?私も思い出せないんですよ。洋楽だったと思うんですけど……」

「結構有名だったよね」

「ですよねぇ」

そのまま帰っても良かったんだと思う。
でも、俺たちはコンビニでタオルを買って、雨宿りをしながら少しお喋りをすることにしたんだ。

数分前まで完全なる他人だったふたりだ。たいして話が盛り上がるわけでもない。
今だってお互いの距離感は他人とそう変わらない。会話を楽しんでいるふりをして、内心ではひどく気まずかった。
それでも、俺には彼女にさようならと言うのが躊躇われた。

あまりに似ていたのだ。きっともう会うこともない、昔の恋人に。
話し方も違えば、顔つきも違う、恐らくは歳だって俺よりいくつか年上なのに。
ただ、身にまとう雰囲気が、間違って名前を呼んでしまいそうになるほどにそっくりだった。

「私ってば本当にそそっかしくて……」

いや、違う。きっと忘れられないだけなのだ。
いつまでも昔の恋人をひきずっているから、執着しているから、そんなふうに重ねてしまうだけなのだ。

「子供っぽいってよく言われるんです。ソフトクリームとか、どうしても口の周りにつけちゃうんで人前で食べられなかったりして」

「それは、こう、かぶりつくからじゃないの」

「あはは、自分ではちゃんとしてるつもりなんですけどね。最初はいいんですよ。でも、慎重に舐めてると垂れてきません?」

「コーンのヘリを注意深く見張りつつ、なるべく急いで食べるとか。こう、回して」

「難しいですよ」

「難しくはないと思うんだけどなぁ……」

「えー」

失礼なことを考えてしまっている。そう思うと胸が痛んだ。
けれど、まだ、もう少しだけでも、ありえない夢を見ていたかった。

「はっ…くしょっ!!」

「あ、いけない。風邪ひいちゃいますよね。ごめんなさい、引き止めてしまって……
帰ってお風呂に入らないと」

「え、あ、うん。そうだね。そうしようか……」

たった一回のくしゃみで、夢は唐突に覚めてしまった。
雨も止み、先ほどまで明るかった空はもう夜色が滲み始めていた。
その日から、俺は彼女の不思議な魅力にとり憑かれてしまったんだ。





風呂上がり、部屋で寝転んでいると妹が来た。

「お兄ちゃん、ゲームしよ?暇なんだ」

「あぁ、いいけど。何やる?」

「んーとね……」

妹が適当に選んだ格闘ゲームをしながら、適当に雑談をする。

「今日さ、雨降ったろ」

「降ったねぇ。傘もって行かなかったでしょ。大丈夫だった?…テレポ!とぇーい!」

「あっ!くそっ、お前いつの間に上手く……おらっ!勉強どうしたんだ、勉強は」

「夏休みだし」

「あぁ、そっか。夏休みか。じゃあいい。でさ、思いっきり濡れたんだけど、ちょっといいこともあってさ。そぉい!」

「甘い!なになに?」

「ごく簡単に言うとだな。女の人と、出会いがあったんだよ」

「おお!久々の!それでそれで?」

「いや、まぁ、そんだけなんだけど。以上おしまい」

「なにそれ。メルアドとか聞いてないの?」

「いいや」

「バカじゃないの」

「バカとはなんだよ」

「どうせまだ引きずってるんでしょ。あの人。もう忘れちゃいなよ~」

「うっせぇな。男はそういうの忘れないの」

「女々しい」

「男らしいんだよ、ある意味で」

「ゴチャゴチャと…この!」

「うお!なんだそのコンボ」

妹に勝てないのは腕が鈍ったからか、それとも余計なことを考えているからか。
健闘も虚しく、妹の操るインド人がことごこく俺の持ちキャラを焼き払っていった。

「ヨガ!ヨガ!ヨガ!よっしゃー!」

「………」




その日は眠れなかった。
アドレスぐらい、聞いておくべきだったか。
何故?似ているから?バカか俺は。最低じゃないか、そんなの。

「くそっ」


翌日も、その次も、苛立ちは治まらなかった。
原因が自分にあるからだろう。自己嫌悪ほど気分の悪いものはそうそうない。
夕暮れ時、空が曇り始めるたびに胸がもやもやした。


ある休みの日、夕立が降るころ、俺は外に飛び出していた。
自分でも何故そうしたのかわからない。
今思えば、ただじっとしているのが耐えられなかったのだと思う。
濡れたままコンビニの前で立ち尽くし、周りからの奇異の視線を受けてようやく正気に返った。

「……いるわけがない。いるわけがないんだ」

そんな都合のいいイベントなんて起きるわけがない。
夏になると変なヤツが出るという。俺がそれだったんだろう。
きっと疲れているんだと自分に言い聞かせ、俺はとぼとぼと歩きだした。



雨が、止んだ。

「お……?」

いや、降っている。

見上げると、俺の頭の上に傘があった。

「え……?」

「やっぱり、雨の日は傘を差したほうがいいですよ。風邪ひいちゃいますから」

「……!!」

『雨の日は傘を差したほうがいい』なんてごく当たり前のことだっていうのに、この世の真理みたいに聞こえる。
あぁまったく、なんで傘も差さずに出てきたんだ俺は。

「そう、だね……ははっ、まったくだよね。ひさしぶり」

「おひさしぶりです。あれから大丈夫でした?私、見事に風邪ひいちゃって。あはは」

「俺は大丈夫だったよ。もう具合はいいの?」

「はい、ばっちりです。仕事帰りですか?」

「いや、今日は休み。君も?」

「お休みです。あ、私タオル持ってますよ。どうぞ」

「あ、ありがとう……なんか悪いね」

「いえいえ」

同じ傘の中、どこを目指すわけでもなく歩く。
この夕立が降っている間は、一緒にいられるのだ。
話す言葉も思い浮かばないし、正直この沈黙が重いのだが、まだ雨には降っていてほしかった。
ちくり、と胸が痛んだ。

「へぇ、最近越してきたんだ」

「そうなんです。いいところですよねえ」

「そうかな?なんにもないとこだよ」

「そんなことないですよ。近所の人も優しいですし」

肩がぶつからない、ギリギリの距離を保って歩く。
目算にして数ミリから、最長6センチの距離。なんだか、それがやけに遠く感じる。

──届かない人を重ねているからだ。

胸の内で燻る火が、身を焼いている。

──この火種を吐き出してしまいたい。

やめろ。そんなことをしたって、楽になんてなれやしないんだ。


「雨、止んじゃいましたね」

ぽつり、と彼女が言う。

「ん、そうだね……」

傘が閉じられ、かりそめの小部屋は取り払われてしまった。
あとは、帰るだけだ。

帰るだけ、か。

……いや、もうそういうの、やめよう。


「……今度さ」

「はい?」

「今度、会ったときに、タオル返すよ。それまで、貸しといて」

我ながら、もうちょっとマシな言い方しろよと思う。
でも、そのときはこれが限界だった。

「あはは、はい。それじゃあ、また今度」

「うん、また今度」




家に帰ってからも、やはり頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
相変わらず未練があるのか、三年かかってやっと吹っ切れたのか、よくわからない。

もしも彼女が泣いていたなら、俺はその肩を抱き寄せることができるだろうか。
手を繋ぐことはできるだろうか。
あの最長6センチにも及ぶ長距離は、俺の手の長さで足りるのだろうか。
星空に手を延ばすように、何もかもがすりぬけてしまわないだろうか。
わからない。わからないけれど、そのときは手を延ばしてみようと思う。

──苦痛も執着も、きっと愛したからこそなのだ。そのままでいい、在るがままに在ればいい。

素直に、今はそう思えた。

「ねぇお兄ちゃん、なんか身長伸びた?」

「そんなもん、いきなり伸びるわけないだろ」

「そうだけどさ」

「……手は、伸びるかもな」

「は?」

妹には変な顔をされたけど、本当に、そんな気がしたんだ。





[20997] 伸びたい手足
Name: TEX◆57eef252 ID:9ec604d4
Date: 2012/08/02 15:02
今日も格ゲーでお兄ちゃんに勝った。個人的に、このインド人は最強だと思う。
勝ったときに表示される台詞がなんともいえない。

『心にゆとりもてば、体もおのずから伸びる』

理解などさせてやるものかと言わんばかりだ。何を考えてるんだろう。
そういえばあいつも、何を考えてるのかわからないんだよね……





妹編: 『伸びたい手足』






高校3年生になってから、私は同じクラスのとある男子と仲良くなった。
彼はあまり目立たない、なんていうかオタクっぽい感じなんだけど、私と彼は話が合った。
多分、私がお兄ちゃんの持ってるマンガや小説を読み漁っていたおかげだろう。
クラスの女子には『うわぁ、二人の世界だよ~』とか『ラブラブ~』なんて茶化されたりしてちょっと嫌な感じなんだけど、それも次第に馴れていった。
そりゃあ、アイドルグループのナントカ君がかっこいいとか、いきなり結婚してショックだとか話しているのも悪くない。
だけどそれよりも、『認められなかった友人のために自分の残された命を使い切ったイタリア男』だとか、『“殺したり殺されたりする理由なんて二束三文のはした金で充分”というあまりにドライな信条を持ちながらも、惚れた女を守るために命を捧げた傭兵』について思ったことを語り合っているほうが、私にとってはずっと楽しかったのだ。


8月のある日、夏休みの宿題を分担しようということで、私はの彼の家に行くことになった。
男の子の家に行くのは初めてだ。そして、彼が自宅に異性を招くというのも、初めてのことだったらしい。
彼の家の玄関で『おじゃまします』と口に出した途端、家族総出で出迎えられてしまい、なんだかちょっと恥ずかしかった。

「彼女?兄貴の?」

「同級生?」

「身長いくつなの?」

「最近の子は背が高いなぁ」

「え、あ、えっと」

次々に話しかけられて、いきなり頭の容量が足りなくなった。
そういえば以前、お兄ちゃんが女の子を連れてきたときに私も同じことをしていたような気がする。
心の中でお兄ちゃんに謝ってから、ゆっくりと順番に受け答えをしていく。

「仲良しですけど彼女じゃないです。同じクラスで、身長は163センチです。えっと、背、高いですか?多分、『ゆとり教育』ってやつで、伸び伸びと暮らしているからじゃないかと……」

自分でも何を言ってるのかよくわからなくなってきた。そんな私を見かねてか、彼が助け舟を出してくれた。

「伸びないよ、そんなことでは!ああもう、あっちいけよ。みんなしていちいち出て来なくてもいいだろっ」

どうやら彼も恥ずかしいらしい。はいはい、と面倒くさそうに手を振って家族を追い払い、急ぎ足で自室へ向かって行った。
私は妙に温かい家族の視線を感じながら、その後を追いかけたのだった。


彼の部屋は、悔しいけれど私の部屋よりきれいに片付いていた。おまけに、

「ごめん、ちょっと散らかってるんだけど」

などと言ながら数冊の本を本棚にしまっている。別に粗探しをするつもりもないのだけど、ホコリひとつ見当たらなかったので驚いた。

「全然きれいじゃん」

「『全然』の使い方が違う」

謙遜するかと思いきや、彼から帰ってきたのはそんな言葉だった。そういえば日本語の乱れがどうとかってテレビで言ってた気がする。

「……もしかして神経質?」

「こないだ、テレビで言ってたんだよ。『全然』を使うのは『~ではない』っていう否定の言葉にくっつけるのが正しくて、だからそれ以外は『完全に』とか『全く』とか『とても』で置き換えるのが正しいんだってさ。でも、やっぱり実際に使ってみると感覚的にしっくりこないんだよね。むしろ『全然』のほうが合ってると思うぐらいにさ」

「あぁ、それ私も見たよ。確かに『とてもきれいじゃん』ってなんか嘘くさいよね」

「だよね。……ん? さっきのって、文脈的に『きれい』が否定のニュアンスで使われてたから、合ってるのかな」

「どっちでもいいよ。たまに変なとこにこだわるよね」

「全然そんなことはないと思うんだけど。あ、これ正しい使い方ね」

「言ってることは間違ってるけどね」

「全然そんなことは」

「もういいってば。ほら、宿題やろう」


それから、たぶん10分も経っていないと思う。
宿題を教科ごとに分担して処理していると、ちょいちょい彼の家族がお茶やお菓子を持って現れるようになった。
それはお母さんだったり、お父さんだったり、弟さんだったり、妹さんだったりする。


「またかよ!今度はなんだよ?」

今回はお母さんだった。

「お茶のおかわりいるかなって。どう?」

「あ、どうも……いただきます」

「お部屋、やけにきれいでしょ」

「そうですね、びっくりしました」

「昨日まで汚かったんだけどね。この子、夜通し掃除してたのよ。それで、もう絶対何かあるなーと思ってたの私。そしたらほら。やっぱりお母さんの勘は当たったわね~」

「い、言わなくてもいいだろ」

「あはは、そうなんだ」

彼にしては珍しく、顔を真っ赤にして焦ってる。なるほどねぇ、この見栄っ張りめ。


それから宿題の進行は順調に停滞していき、彼の家族との親交は時と共に深まっていった。
先ほどの掃除の件に加えて、いかがわしい本やDVDの隠し場所や、なんと彼が自転車に乗れないということなどが明かされていき、私としてはとても面白かった。彼にとっては、まぁ、ご愁傷様と言うしかないかもしれないけれど。

「ゆっくりしていってね」

「だからゆっくりできないというのに……」

「まぁまぁ」


しばらくすると満足したのか、彼の家族は顔を出さなくなった。
けれど人間とは贅沢なもので、宿題に集中できるようになったというのに、なんとなくやる気が出ない。
それでもなんとか進めていこうと頑張ったのだけれど、プリントを半分くらい埋めたところで私の集中力は途切れてしまった。
一方、彼はいつもの涼しげな顔──無表情ともいう──で黙々と宿題を処理している。

「疲れた?」

急に彼が顔を上げ、そう尋ねてきた。

「え?」

「いや、なんとなく。そうかなって」

この男、意外とよく見ていたらしい。先生にしたくないタイプだ。

「んん……そうだね、ちょっと休憩したいかな」

「OK。やっぱ休憩しながらじゃないとダレるよね」

「だよね。じゃ、DVD見ようよ」

「え、さすがにああいうのを一緒に見るのは……」

「いや、隠してないほうのやつだよ?」

「あぁ、なんだ……びっくりした」

「スケベ」

「う、うるさいな。普通だよ。で、どれか見たいのある?」

「んっとね、これ。前から見たかったんだ」

「はいよ。じゃあ、これね」

かくして始まった映画鑑賞会。
雰囲気を出すために明かりは消し、テレビに充分近づいてそれぞれ見やすい態勢をとった。
私はクッションを抱えてあぐらをかき、彼はごろんと横になっている。

「ヘッドフォンをつければ完璧なんだけどなぁ、それだと一人しか見れないし」

「わかるわかる。ホームシアターとか憧れるよね」

「欲しいよね、ああいうの。……ちょっと音量上げようか。若干それっぽくなるかも」

「あんまりうるさくしたら、家族のひと怒らない?」

「これぐらいはいいよ」

映画が始まり、私たちはひたすら無言で物語に没頭していた。
……していたのだが、途中、映画の内容で疑問に思うことがあったので彼に尋ねようとしたら、なんと彼は寝てしまっていた。
そういえば昨日寝てないんだっけ。
犬みたいに、こちらに手足を向けて寝息を立てている。

「意外と、可愛い……?」

ちょっとした発見だった。確かに彼は色も白くて肌もきれいで、指がほっそりしてて、睫が長くて、
顔のつくりがそんなに整っていないことを除けば、色々と羨ましい外見をしている。
唯一の弱点ともいえる顔も、こう無防備に寝ていると可愛く見えてくるから不思議だ。


私は映画を見るのも忘れて、彼の寝顔を見ていた。

──ほっぺが柔らかそうだ。

つい、触れてみたくなる。けど、顔や手に触れられたら多分目を覚ましてしまうだろう。
それに、そんなことをしたらまるで私が彼のことを好きみたいじゃないか。
……まぁ、その、ちょっと、好き、なんだけども。

──私も寝ちゃおうかな。

実は私も昨夜、あまり眠れなかったのだ。
このまま映画を見ていてもいいのだけど、それも少し寂しいような気がして、彼に向き合う形で私も横になった。
劇中でかかっている優しげなBGMに誘われて、私も眠りについたのだった。


かなり長い時間眠ってしまったような気がする。少なくとも、2時間から3時間くらいは眠ってしまったのではないだろうか。
覚醒しかけの、ぼやけた意識を完全に現実に引き戻したのは、私の髪を撫でる手の存在だった。

さらり、と彼の手が私の頭を撫でている。

「……!!」

びっくりして飛び起きてしまったのは失敗だったかもしれない。
何をもって『成功』というのかはわからないけれど、とにかくちょっと遠慮したい類の空気が私たちを包んだのだった。

「ちょっ、え?」

「いや、あの、これは」

「な、なに?」

顔が熱い。多分彼も同じだろう。真っ赤だ。だから、私の顔も真っ赤になっているはずだ。

「ち、違うんだ。いや違わないんだけども、この行為に至るには前提となる事柄があって、そのことについてこれから説明を試みようと思うんだけど、それにはいくらかの困難があってだね……」

こんなに慌てている彼は初めて見る。遠まわしすぎて全然わからない説明を聞きながら、自分が今置かれている状況を分析してみる。
なかなか働かない頭だが、なんとか把握できたと思う。

──これは、あれだ。

「だから……つまり、僕は」

「待って」

「え?」

その先は聞けない。聞いてはいけないと思った。
もう聞かなくてもわかる。わかるけれど、それを口にしてしまったら、私たちは本当に変わってしまう気がして。

「言わないで。お願い。私、このままがいい……今は、まだ……」

私だって思うことはある。
もしもあの指先に触れたら、どんな気持ちだろう。
あの肩に体重を預けるのは、どんな気持ちだろう。
その次は。その先は。その日々は。
幸せなんだと思う。気持ちよくて、痛くて、不安で、嬉しくて。
だから根拠もなくその幸せが無尽蔵であると信じて、真に底なしの欲望でもって幸福と名づけた何かを貪るのだろう。

そうしたらきっと、何もかもが変わってしまう。彼も、私も、知らない何かになってしまう気がする。
もちろん、変わらないものなんてどこにもない。私が望もうと、望むまいと、何もかもが変わっていってしまうのは仕方がないことだ。
学校ではことあるごとにバカにされる『男と女の友情はある』なんて確信も、きっと私のひとり(ヨガ)りなんだろう。
だけど、それでも、この安らかな日常が変わってしまうのが怖かったのだ。

彼の眉間に、微かなしわが寄った。悲しげに目を伏せて、かすれた声で彼が呟く。

「僕……ちょっと、なんか……ごめん。自分のことしか、考えてなかった」

彼はそう言うと、申し訳なさそうに俯いてしまった。
私の心の中はどうだろうか。彼のことで……いや、きっと私も、自分のことでいっぱいなのだろう。

「ううん、私も……だから」

ペンを手に取るのと同じくらいの手間で彼に触れられるのに、それができない。
まるで自分が小さく縮んでしまったみたいに、彼が遠くて、部屋が広い。
短い間のことだったのか、それとも思ったより長い間そうしていたのか、わからない。
時間が止まったみたいに、私たちは動かなかった。

「うん、わかったよ」

長い沈黙の後、そう言って彼は微笑んだ。
これは嫌われたかもしれない。がっかりさせてしまった気がする。
それとも、本当に私のために、優しく笑っていてくれているのだろうか。
どんなに見つめてみても、心の中は見えてこないままだった。

本当は触れ合いたい。
この嘘みたいに不自由な手足を伸ばして、彼をぎゅっと捕まえてしまいたいと思う。
けれど今はまだ、もう少しこのままでいたくて。

「ごめんね……」

「いや、謝るのは僕だよ。本当は僕だって怖くて、同じ気持ちなのに、なんていうか……焦ったんだ。本当にごめん」

「うん……」

静か過ぎて、時計の音が耳に痛い。そういえば今、何時なんだろう。
ふと時刻を見てみると、もうすぐ19時になろうとしていた。

「……今日は、帰るね」

彼は何も言わず、小さく頷いた。ひどく怯えているようにも見える。
あぁ、そうか。私と同じ気持ちでいてくれているんだ。

「あのさ、私、また来てもいい……かな」

「も、もちろん。そりゃもちろん」

ほっとしたように、彼は笑った。

「うん、よかった……」

端から見たら、バカなことをしているように見えるのかもしれない。
私は卑怯者だろうか。それとも臆病者だろうか。言い訳ばかり考えてしまうあたり、両方当てはまるのかもしれない。
帰り際、玄関で彼のお母さんが言った『また来てね』という言葉が、妙に耳に残っていた。



それからの数日、私たちはやっぱりぎくしゃくしていた。
何もかもが今までどおりなのに、何もかもが少しずつ違ってしまっていた。
そのことに私たち自身が気づいていたけど、まだ気づかないふりをするのが精一杯だった。
今も、相変わらずだ。
自分のことで頭がいっぱいで、きっと離れ離れになりたくない一心でそうしている。
一緒にいたいのに、触れ合えない。こういうのをジレンマというんだろう。

──心にゆとりもてば、体もおのずから伸びる。

ひょっとしたら、そういうことなのかもしれない。
この小さな心に、彼と自分自身を受け入れるゆとりがあれば、私たちはお互いを捕まえることができるのだ。

だから、今はこれでいいと思う。
私たちは大人になったようでいて、やっぱり背伸びをしているだけの子供だったのだから。

「とりあえずは、気を長くってことかな」

待っていようと思う。いつか素直に抱き締められるときを、この伸びたい手足で。



[20997] 無我の境界/滞空祈願
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/08/18 23:33


そのとき、俺はつい問いかけてしまったんだ。
それを聞いたところで、何が変わるわけでもないってのに。

「あんたは、どっちなんだい」

俺と同じなのか、それとも。





無我の境界/滞空祈願






あの純情野郎。昔の女が忘れられないとかウジウジ言ってるから、毎度よかれと思って合コンに誘っているのにまた断わりやがった。
まぁ、今回は多少大目に見てもいいかもしれない、とは思ったよ。なにせ、いい女見つけたみたいだからな。
で、俺なんだが、今日はガキのころからの友人と飲みに来てるんだ。野郎ふたりで飲むのも、たまにはいいものだ。

「でさぁ、『タオルは返したのか?』って聞いたら、まだだって言うんだよ。まさかと思って聞いてみたら、あいつ、その女に連絡先も聞いてないらしくてさ。アホかっつの。なんか遊びに誘っても来ないし、あいつ大丈夫なのか?俺は心配だよ」

「はは、そう言ってやるな。彼は昔から、なんというか、ロマンチストだったろう。また会えると信じてるのさ。その女性、近所に住んでるんだろう?なら都合よくばったり出会える確率も少ないなりにゼロじゃない。きっと悪くない気分のはずだ。それに比べて僕なんか、合コンに参加しているのに戦績は微妙もいいところじゃないか。見ろ、メールがちっとも返ってこないぞ」

テーブルの向こうの二枚目半が携帯を出して見せた。
なるほど、受信メールはスパムだけときたか。

「お前はアレだろ、『君の明るいところは本当に素敵だと思う。僕のような頭と顔がいいだけの人間と比べて、なんて爽やかなんだろう』とか言うから……」

「あれは受け売りだよ。ウケると思ったんだ。……何故ウケなかったんだろう」

「お前は冗談を言うときもいちいち本気っぽいんだよ。俺もまぁ、こないだは散々だったけど」

「世の中は世知辛いな」

「世の中のせいかよ」

「身に覚えはないか?自分の失敗は認めたくないが、相手を責めるのも気が咎める。そんなとき、世の中のせいにすると気が楽だったろう」

「あぁ、甘酸っぱいな」

「甘苦い思い出ばかりさ。このカンパリ・ソーダのように」

グラスを傾け、遠くを見つめる二枚目半。決まっているようで、決まっていないのが笑いを誘う。
本人もわかってやっているのだから性質が悪いというか何というか……

「はははっ、久々にかっこいいなそれ」

「だろう?君も使っていいぞ。はぁ、僕の時代が来るのはいつのことやらだ」

「一日も早く『彼氏をネタとして楽しむ文化』が根付くといいな」

「まったくだ。それで……君は最近どうなんだ?」

「どう、って?」

「君の夢の話さ。ほら、随分と頑張っていたじゃないか。最近話題にしないから、友人として少し気になったんだよ。で、どうなんだ?」

「あぁ……なんつーの、正直うまくいってない。地に足がついてないっていうか、空回りっていうかさ。どうも浮いてんだよ、俺」

「そうか……でも、諦めたわけじゃないんだろう?」

「まぁ……な。そうだ、『浮いている』って言って思い出したんだけど、前はこう、夢中になってやってたんだよ。今だってそのつもりなんだけど……こう、空だって飛べそうな気分ってやつになれなくてさ」

「空を、飛ぶ? それはまた君にしては珍しい言い方だな」

「笑うなよ?笑っていいのは俺だけだ。まぁその……中学生の頃の話だよ。頑張ってるやつってのはさ、浮くんだよ。こう、周りからな。冷めた目で見られたり笑われたりして、結構ムカつくんだけど……そうやって見てるそいつらの好物、たとえばバンドマンだとか、アイドル歌手、お笑いタレントだとか、そういうテレビに出るようなやつ。そういうやつってさ、なんだかんだ、やっぱりすげぇ頑張ってるんだよ。テレビに出てないやつだってそうさ。浮いてるどころじゃない、思い切りブッ飛んでるレベルだったりする。で、俺は畜生あいつらめ!とか思いながらこっそり頑張るわけ」

「君らしいな。そういえば小さい頃、暗くなってからひとりで逆上がりの練習をしていたろう。あれは意外だったな」

そうだった。こいつに見られたんだった。結局その日も逆上がりはできなくて、すげぇ悔しくて、恥ずかしかったんだよな。

「……思い出させんなよ。ああクソっ、お前に見られてなかったら……」

「おいおい、ここは友達が増えてよかったというところだぞ」

「うるせーよ。……話を戻すぞ。で、よく『寝食を忘れて……』とかいうけど、本当にそんな感じでさ。ひたすら没頭してると、なんかこう、ぶわーっとさ、どこまでも飛んでいけるような、そんな気がしたんだよ。手ごたえっつーか、達成感があって、すげぇいい気分だったんだ。最近は……うまくいかないんだけどな」

「ふむ……なるほどな……ちょっと待ってくれ」

「ん?」

そう言うと、奴は腕を組んで何か考え始めた。あぁ、またこいつは妙な話を始めるぞ。そういう雰囲気だ。

「うん、だいたいまとまった。さて、僕のごく個人的な見解を述べようか」

そしてやっぱり、今回も変な話が始まるらしい。

「まぁ、話したのは俺だしな。いいよ、どんなだ?」

「恐らく、それは一種の宗教体験だよ。君がやっていたのは『儀式』だ」

いつもながら、こいつの話は変な方向に行く傾向がある。その中でも、今回のはかなり異色だ。

「宗教?俺はそういうのは……」

「まぁ聞け。儀式というのはな、宗教、信条、思想などによって、一定の形式、ルールに基づいて行う、日常生活での行為とは異なる特別な行為のことだ。サッカー選手がユニフォームを交換するのもそういう意味では儀式だ。友好の儀式だな」

「いや、でもさ、そういうのとはまた違うんじゃないか? 俺は『そんな気がする』ってだけだし、宗教的な考えがあるわけでもないぞ」

「考えがなくてもやっている儀式は多い。入学式、卒業式、成人式、就任式、結婚式、葬式。毎日どこかで闇雲に『式』が行われている」

「いやいや、それは結構意味があるだろ」

「うん、まぁ、感じ方はそれぞれだがな。例えば若者が事故か何かで死んだとしようか。彼は特に信仰をもってない。大晦日には寺で鐘を衝き、神社で御神籤を引き、クリスマスもハロウィンも楽しいから好きという、ごく一般的な日本人男性だ。彼が結婚式を挙げるとしたら教会に行って、唯一絶対の神の前で永遠の愛を誓うつもりだったかもしれない。そういえば給料の三か月分相当の金額で指輪を買うという慣習もある意味では儀式か、その一環といえるかもしれないな。おっと、話を戻そうか。そんな無念を抱えたまま死んでしまった彼の葬式の様子はこうだ。寺の坊さんがお経をあげて、参列者は家に帰ったら塩を撒く。最初の問題はここだ。清めの塩を撒くのは『穢れを祓う』という意味合いで行われる神道の儀式だ。仏教では死を『穢れ』だとか言わない。むしろ輪廻の一環である尊いものだとしている。なのに撒く。で、『喪に服する』のも神道なんだが、そう言って毎日仏壇を拝みつつ、年賀状を欠礼する。まるで神道・仏教、両儀式のクロスオーバー・二次創作じゃないか。僕に言わせればそんなもの、宗教的な考えなんてありはしないよ。『大切な人が死んで悲しい』。それだけさ。儀式の意味なんてこれっぽっちも大切じゃないんだ。『人が死ぬ』という一大事においてさえ、この日本では神も仏も舞台装置程度の価値しか持たないのさ。あくまで、僕の個人的な見解だが」

「ちょっ、何を怒ってるんだよ?俺か?俺がいけないのか?」

「いや、怒ってるわけじゃない。別にそれを否定もしない。とにかく感情が先にあって、死者と自分自身のために何かしておかなくては、という気持ちの表れなんだろうと思っている。まぁ、日本語で『忍者寿司 芸者侍』と刺青を彫ってしまった外国人を見てるみたいな気持ちにならないこともないが、心は本物だ。形式はともあれ、精神のほうは貶していいものじゃない」

「はは、それは微笑ましいな」

「だろう? そんなに悪くはないんだ。僕が言いたいのは、日本で儀式と言うときはいくつかの例外を除いて、だいたいそんな感じということだ。その点を踏まえると……君の場合はその例外にあたるといえるだろうな」

ちょっと理解するのに時間がかかった。こいつが言いたいのはつまり……

「……えぇぇ!?」

「どうした?」

「どうしたってお前、それ話の流れおかしいだろ!」

俺は特別、宗教的なものとは関わりがないというのに。

「気に入らないなら、そうだな……神秘体験と言い換えたほうが馴染みがいいか?」

「どっちも怪しげ過ぎる。なんとかならないのか、それ」

「なら、個人・不思議発見とでも?」

「いや、それもなぁ」

「まぁ、この話を聞けば少しはまた見方が変わるかもしれないぞ。君はスティーヴ・ヴァイというミュージシャンを知っているか?」

どうやら俺の意見は認められないらしい。
しかし急に音楽の話か。どんな関係があるのか知らないが、話題がポンポン飛ぶのはいつものことだ。
とりあえず付き合ってみよう。

「名前だけは。確か、ギタリストだっけ?」

「ギターを弾く人間のことをギタリストと呼ぶのは間違いだ。正しくはギタープレイヤーという」

「細かいな。ここは日本で、俺もお前も日本人じゃないか。いいだろ別に」

「いいや、今回だけは譲れないな。僕たちのような、LとRの違いもきちんと発音できない日本人だからこそ、ギタープレイヤーという名称にこだわることには意味があると思う。……話を続けても?」

「わかったよ、ギタープレイヤーな。で?」

「スティーヴ・ヴァイ……彼はある雑誌のインタビューでこう発言している。『何時間もずっとギターをプレイし続けていると、突然に何か超越したような気持ちになって、今まで出てこなかったアイディアやプレイが次々に出てくることがある』と。君はこのことをどう思う?」

「そりゃ、才能ってやつだろ」

悔しいが、わからない話じゃない。できるやつはできる、って話か。
俺は14歳のあのときが限界だったのかと思うと、ちょっとやりきれないな。

「僕もそう思う。が、それだけではないかもしれない。彼はその『超越したような気分』に『ウルトラ・ゾーン』と名づけ、その状態で作曲し録音したCDを出している。アルバムのタイトルはずばり、『ウルトラ・ゾーン』だ」

「まぁ、凄いんじゃないの。でも、ふーんとしか……」

「話は最後まで聞くものだよ。さて他方では、カルロス・サンタナというミュージシャンがいる。彼も素晴らしいギタープレイヤーだ」

「ギタリ……ギタープレイヤーに詳しいな」

「ファンだからな。それで、サンタナはギターを練習するとき、少々変わった手法を採るんだ。まず部屋を真っ暗にして、ロウソクに火を灯すことから始まる。で、お気に入りのミュージシャンのCDをかけ、そのCDに合わせて即興でメロディを奏でるんだ。ジャム・セッションの要領で、何時間も」

奴は『何時間も』、という言葉を強調して、人差し指を立てた。話のポイントに指を立てるのはこいつの癖だ。
共通点を探せということか。

「……その、サンタナも『ウルトラ・ゾーン』を?」

「その通り。何時間も続けているうちに、サンタナは『音楽という宇宙の中で迷子になったような』気持ちになるそうだ。そんなときはCDを止めて、静かにプレイしてみる。するとやがて『道を見つけ出す』ことができるようになるらしい。作品のタイトルにはなっていないが、本人の言うところの『サンタナの宇宙』はそうして創られていくんだそうだ。僕は知らないが、他にも似たようなことをやっている人は結構いるだろうな」

「ランナーズハイ、みたいなものか?長時間走ってると高揚してきて体が軽くなるっていう」

「恐らくは。あるいは徹夜明けのナチュラルハイみたいなものかもしれない。少年漫画風に言うなら、『脳内麻薬をコントロールすることによる潜在能力の任意開放』ってところか」

「うわ、それ言ってて恥ずかしくないか?」

「実際にやってる人がいるんだから仕方がない。それに、そういうハイな状態、それ自体は誰にでもあることだ。重要なのは『特殊な方法で、目的のために、狙ってその状態に持っていっている』ということだ。それこそ儀式だよ。知らないか?昔から宗教的儀式として、その状態を必要とする場合があっただろう」

「あ……トランス状態か!カバディとか、そうなんだよな」

あの変てこなスポーツは、元は身体的苦痛に絶えながら我を忘れて踊り、長時間トランス状態を引き起こす儀式だったとか聞いたことがある。

「そう。他にもヒンドゥー教徒の『タイプーサム』だとか、日本の巫女の『神懸り』だとか、チベット密教、トルコ、アフリカ、世界中あちこちに色々ある。彼らは踊りや音楽、時には薬物なども使用して気分を高揚させ、ついには自我を放棄する……トランス状態に入るわけだ。何故そうするのか? 『神』を感じるためさ。それは神との合一であったり、神のお告げを聞いたり、神に祈りを捧げるためであったり……目的は様々だが、彼らは共通して『人間を超える何か』に近づこうとしている」

「俺が感じたのもそうだ、ってことか?でも俺はそういう宗教なんてハマってないぞ」

「君は相変わらず勘が悪いな。まぁいい、続きを話そう。それで、人はそのトランス状態において、様々な力を発揮する。さっき言ったように、ランナーならより走れるし、アーティストならより創れる。宗教家ならその信仰において神に近づくことも可能だろう。僕は無神論者だが、彼らの信じる『神』というものを『生命の根源を意味する、哲学的な概念』と解釈するなら彼らの気持ちも理解できなくはない。理性や自我を取り払った先に辿り着く境地が似たり寄ったりであるのなら、それを帰納法的に解釈して『これぞ生命の根源である』と言うこともできるかもしれないからだ」

さすがに喉が渇いたのだろう、奴は残ったカンパリを飲み干した。

「ふう……さっき、僕はギタープレイヤーという言い方をしたが」

「あぁ、それが?」

「僕が日本人だからそう思うのかもしれないが、ヴァイやサンタナがやっていたのは、ギターによる祈りプレイヤーだったのではないかと思うんだよ」

「あぁ、なるほど。祈りか。でも、誰に? 神様?」

「さぁ……どうかな。多分、対象は自分自身だろうと思う。自分の内に眠る何かに祈ったんだ。ほら、人間の脳はそのほとんどの領域を眠らせたままだという話を聞いたことがないか?」

「あぁ、数パーセントしか使ってないとかって」

「そう。だが未使用領域にも意味があって、様々な環境に適応するための余剰として残されているとか色んなことが言われている。仮に、そのスペックを全開で使ったなら人間は発狂するのだとかいう話もあるな」

「『あそび』を大きくとった設計だから、人間が栄えた、みたいな話か?」

「それもあるかもしれない。だが人間は環境に適応するのではなく、環境のほうを自分たちに適応させるということをしてきた。都市だとか、社会だとかという、理性の権化みたいなものがその最たるものだな」

「まぁ、確かにそうだな。じゃあ、その余剰もあんまり意味がないってことか」

「そこまでは言ってないが……まぁ社会構築という名の人類補完計画のおかげで生物として栄えたわけだから、とりあえずそれ以上は望んでも仕方がないということだ。だから、いくらかの欠陥を抱えながらもどうにかうまくいっているらしいこの社会では、人間以上のものはいらない。人間のやることしかしなくていいし、してはいけないということになっている。ひとことに『人間』とは言っても、定義するのは難しいがな」

「おっ、『人間とは何か』が始まるぞ」

「茶化すなよ。あぁ、それはまたの機会にしよう。で、この社会だが、何事も起こらないように作られている。あるいは、起こっても大丈夫なように作られている。なぜなら、平穏無事じゃないと安心できないからだ」

「そりゃそうだろ」

「当然だな。社会の中で暮らす人々もまた、何事も起こらないように暮らしている。トラブルを避けるのもやはり、当然の態度だからだ。加えて、このコンセプトに賛同していない場合は、社会からハジかれることになる。するとだいたい生きていけなくなる。国や土地ごとの違いはあれど、社会という環境には絶対に適応しないといけない。だからあまり変なことを言ったりやったりしてはいけない」

「じゃないとお母さんに怒られるよな」

「ははっ、『お母さん』か。確かに。で、それでも言うことを聞かないと、今度は『お父さん』がゲンコツを握り締めてやってくるというわけだ。そういう意味じゃ社会とは正気を規定し、変なことをするやつを狂気として排斥するものといえるかもしれない」

「村八分ってやつだ」

「それだって本来は『あいつのことは嫌いだけど、葬式と火事の際の消火活動の“二分”は手伝ってやる』という意味だ。現代ではそろそろ『村全部』というべきか……で、だ」

再び奴が指を立てた。

「僕たち、いわゆる社会人というのは、正気と常識の世界に生きている。少々退屈ではあるものの、平和で、色々なことが丸く収まる。とても……平凡な生き方だ。そのまま受け入れていいのは些細なことだけ、大きなことは時間をかけて対応を決める、と。そうすればだいたい、何も起こらない幸せな毎日が待っている」

「うん……そうだな」

多分、こういうのが幸せとかいうものなんだろう。納得いかないのは、俺がどうかしてるのか……
俺の内心を見透かしたように、奴はぐっと身を乗り出して顔を覗き込んできた。

「裏を返せばそれは、正気のままで出来ることなど、たかが知れているということだ」

「……っ」

そのとき俺は初めて、このガキの頃からの友人を恐ろしいと思った。
いつも小難しいことばかりを考えている気のいい変人が、異世界の人間になってしまったような気がして。

「疲れたか?とりとめのない話に付き合わせて悪かったな。そろそろ話をまとめよう。明らかに、君の感じたそれは、感情が高まった状態で一定の動作を繰り返したことによる軽度のトランスだ。ただ恍惚としているだけなら『ちょっと浮いてる人』というだけだが、君はどうだ?何かを、求めていたんじゃないか?本当に『儀式を執り行っていなかった』と言えるか?」

「……俺は……そんな……」

言葉が出なかった。俺はいったい、どうしたかったのか。それさえも、わからなくなっていた。
目が合わせられなくて、柄にもなく俺は黙ってしまった。

「……ちょっと飲みすぎたようだ。あぁ、悪い癖だった。やはり酒が入ると余計にいけないな。今日はこの辺にしないか?」

「あ、あぁ、そうだな……そうしよう」

「なんだ、どこか具合でも悪いのか?」

「いや……うん、俺も飲みすぎたみたいだ。帰ろうぜ」



会計を済ませて店の外に出る頃には、奴はいつもの調子に戻っていた。

「あぁ、そうだ。僕を『理屈っぽい』と言わない女の子がいたら紹介してくれ」

「そんな女は存在しねーよ」

「言い切れないぞ。何事にも絶対と言うことはないはずだ」

「なんだよ、今度は悪魔の証明でもするつもりか?」

ちょっと嫌味が過ぎたかもしれない。怒るかと思ったら、奴はそんなことちっとも気にならないという顔で指を立て、

「証明してみせるさ、いずれな。だから……あれだ。その、君も頑張れ」

そう言って笑った。こいつが俺を励ますなんてどれくらいぶりだろうか。
たしか……あぁ、そうだ。逆上がりができなかった、あのときぶりだ。

「……」

「おいおい、どうした?せっかく僕が今いいことを言ったのに……」

畜生、俺は何にビビッてたんだ。普通にいい奴じゃないか。

「いや。なんでもない。サンキュ。じゃあ、また」

「またな」



たぶんあいつのせいだろう、ちょっと懐かしい気持ちになって、俺はガキの頃の遊び場に足を向けていた。
懐かしのゲーセンだ。ここはかなり遅くまで営業していて、調子に乗って遊び呆けていたら親父に怒られた覚えがある。

奥には、格ゲーの筐体。新しいものから旧いものまで、結構な数が置いてある。
中学生か、高校生か、わからないが不良っぽいやつらが陣取っていて、なんだか異世界のようになっている。

──そうそう、ちょっと近寄りがたいんだよな。

そういえばあいつ、『あれはもはや結界だよ。時間でさえ昭和のまま進んでいないんだ』と毒づいていた気がする。
じゃあこいつらは魔術師か何かか。そう思うと一気に迫力がなくなるから不思議だ。

──おや、まだあんなものが残ってたのか。

随分と旧い格ゲーだ。新しいシリーズも出ていたと思うんだが、ここではまだメインを張る人気らしい。
グループの一人が熱心にレバーをガチャガチャやっている。

──キャラは……おお、俺と一緒だ。

やがて決着がつき、赤い帽子の男がガッツポーズをとった。
表示されるKOの文字の隣、地上から離れること70センチほどの位置で、伸縮性のインド人が空中であぐらをかいている。

『ヨーガヨガヨガヨガ……』

そう、何度も繰り返し噛み締めるように呟いて。
そこに込められているのは喜びか、哀しみか。或いは怒りか。
言葉の意味はわからない。けれど、きっと祈っているのだろう。
ただそいつは目を閉じ、ふわふわと……

「なぁ……」

つい、口に出していた。

「あんたは、どっちなんだい」

浮いているのか、それとも飛んでいるのか。

「あ?なんすか?」

おっと、俺が話しかけたと思ったらしい。

まったく、何やってんだ俺。
バカげてると思う。なにせ相手は画面の中だ。答えなんて、返ってくるはずもないのに。
とりあえずその場を取り繕おうとして、俺はそのまま彼に話しかけた。

「なぁ、こいつはさ、浮いてるのか、飛んでるのか、どっちだと思う?」

「はぁ?」

不良まじゅつしたちが集まってきた。

「なんだ?」

「酔っ払いだろ。ほっとけよ」

「お前なんかやったの?」

「いや、なんか、浮いてるのか飛んでるのかって」

「何が?」

「これが」

あぁ、あぁ。会議が始まっちゃったよ。俺、完全に変な人じゃないか。
ともあれ、どうやら適当に答えて俺を追い払うことにしたらしい。

「あれじゃないっすか、やっぱり、浮いてんじゃないですか」

浮いてるらしい。彼にはそういうふうに見えるらしい。

「……そうか。浮いてるのか」

今、やっとわかった。そうか、俺は……

「え、違うの?」

「飛んでるんすか?これ」

「そいつの話を盛り上げるなって。ほっとけよ」

不良たちが苛立ってきたようだ。あんまり刺激すると殴られるかもしれない。

──まぁ、それもいいかもな。

俺はそいつらに向かって指を指し、きっぱりと言った。

「俺の個人的な見解ってやつを述べてやろう。こいつが浮いてるのは、たまたまだ」

「はぁ?」

「どういう意味だよ?」

多分、不良たちに俺の言いたいことは伝わらないだろうが、不思議と気分が良かった。
受験生だとかダイエットをしたいやつだとかが目標を宣言するような、そんな気分だったのかもしれない。


「なに、単純な話だ。……今日は、飛べなかったのさ」





[20997] その幻想は壊れない
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/09/14 10:24
『ダルシムは口から炎を吹くことができるが、これは古代インドの火の神「アグニ」への信仰から力を借りた幻の炎であるらしい』
────Wikipedia。

たとえ幻とはいえ、炎に身を焼かれる感覚がなくなるわけではない。ダメージは確かにある。
ならば幻とは、それを信じるものにとっては紛れもない真実なのではないか。
俺はそう思う。
少なくとも俺は、誰が否定しようともそれを信じないわけにはいかないのだ。







その幻想は壊れない







「お兄ちゃん、何かいいことでもあったの?」

居間でカレーを食べていると、唐突に妹が訊ねてきた。

「いや、別に」

「異議あり!」

びしっ、と指をさされた。
……こいつまた俺のゲームを勝手に持ってったな。

「なんでだよ。何を逆転するつもりだよ」

「だって機嫌良さそうだもん。そんなカレーを食べてるのにおかしいよ。もっとこう、この世の終わりみたいな顔してないとおかしい」

???こいつ何言ってるんだ?
最近妙にテンションが上がってきているし、むしろ機嫌が良さそうなのはお前じゃないのか。
まぁ、それはいいか。きっとそういう年頃なんだろう。

「そんなカレーって、普通のカレーだろ」

「赤色のカレーは普通じゃないよ。新発売の『火神アグニカレー』でしょ?激辛すぎてクレームが殺到してるって、今朝テレビで言ってたよ」

「……これが?」

「うん。お兄ちゃん、別に辛党じゃなかったよね?普通に食べられないと思うんだけど……」

それはおかしいな。確かに辛いことは辛いが、それほど問題のあるレベルじゃないと思う。
むしろその辺のカレーより旨いと思うんだが。

「────食うか?」

「食うか────! いや、やっぱりおかしいよ。私の友達なんてそれ食べて号泣してたのに」

「料理漫画みたいな奴だな……パン食ったら大陸が浮くんじゃないか?」

「あれは超能力バトル漫画であって、料理漫画じゃないよ。ジャンルでいえば禁書と同じだよ」

「アホか。パンが右手で消えるかよ。イマジンブレイカーはザ・ハンドじゃないんだぞ」

「えー、あのパンなら消えるよ。たぶんアンパンマンだって打ち消せます、はい」

消すな。

「だから消えないっての。あれでも元は小麦粉なんだぞ。もし消えるのが当然のことなら、『とあるジャぱんの超常現象(リアクション)』とか、そんなssを誰かが書いてるはずだろ」

「ラストは人類滅亡レベルの津波を回避するために全ての大陸を浮遊させようとする偽インド人と、そんなやり方は間違ってる! っていうそげぶさんの闘いだね。結構ありそうじゃん」

「あれか、『ずっとずっと主人公になりたかったんだろ! 絵本みてえに映画みてえに、命を賭けてもぐもぐ……!』ってやるの?ギャグだろそれ。ほら、やっぱりジャンルが違うんだって」

なのに最終的にはストリートファイトで決着がつきそうだから困る。

「お兄ちゃんが書けばいいじゃん。アルビオンが浮いてる理由を、地面に無数の偽インド人が埋まってるせいにすればゼロ魔もいけるしさ。ほら、ゼロ魔とのクロスはみんな大好きだから大丈夫だよ」

「書けねぇし何も大丈夫じゃねぇよ。偽インド人が資源として採掘されて売られているとか恐ろしすぎるわ。だいたいそんな設定でストーリーはどうすんだよ」

「うーんとね……ある日突然地面から偽インド人が次々に蘇ってきて、周囲の人を襲い始めるの。偽インド人に噛まれた人はみんな偽インド人になっちゃう。そんな、『とあるジャぱんのトリステイン魔法学院黙示録』。……はわわ、これ完璧だよお兄ちゃんっ!」

勝てばハーレム、負ければダルシムか。なるほど、全然理解できない。

「うんうん、お兄ちゃんもお前は完璧なバカだと思うぞ。……でも誰か書いてくんねぇかなそれ。すげぇ読みたい」

「ねー」

そんなことをぐだぐだと喋っていたら、最初の疑問はどこかへ飛んで行ったらしい。
妹は部屋に帰って行った。




少し冷めかけたカレーをかきこむ。

「……そんなにひどいかな、これ」

みじん切り、千切り、ぶつ切りと三種の異なる大きさに切ることで火の通り具合を変え、触感と味のバリエーションを増やした玉葱。
人参、ジャガイモなどの基本となる具は決して少なくはないもののやや小さめになっており、スプーンの上でもご飯を決して邪魔しない。
しかしこれらも適度な固さを保っており、『俺たちはただ入っているだけの具じゃあないんだッ!』と言う熱意がある。
そして大きめの豚肉の歯ごたえと旨みも特筆すべきだろう。
良い肉を選び、丁寧な下拵えをしたからこそ、埋もれない。主張が通る。ここは主役の意地か。
全体的に個性が強く、ともすれば煩くなってしまいそうではあるが、それらを辛味の強いルーでまとめ上げるバランス感覚は本当に素晴らしい。
色は真っ赤だがカレーとしての軸は少しもぶれていないのだ。
華やかでありながら強すぎない香りと深い味わいは、現代カレーの模範解答と言っても過言ではないだろう。
レトルトカレーがこんなに美味しく食べられる時代になったのか、と俺は驚くばかりだ。
加えて、パッケージの裏には『悟りを開きますと、よりいっそう美味しく召し上がれます』という挑戦的な一文が添えられている。
『マズイと思ったらそれは雑念が多いからだ』とも受け取れる、このふてぶてしさがいい。
自信作であることの表れだろう。個人的にはとても好感が持てる。

「うまい、と思うんだけどな……」

ともかく、俺の機嫌がここ数年では最高にいいということをごまかせたのはラッキーだろう。
『明日デートなんだ』とか妹に言ったら大はしゃぎで根掘り葉掘り聞いてくるに違いないからな。

そう、俺は明日デートなのだ。
連絡先も聞いていないし、タオルもまだ返せていないのだが、そんなことは些事だ。
昨日仕事の帰りにまたばったり会って、頑張って約束を取り付けたのだ。
正直、テンパり過ぎて自分でも何を喋っていたのかほとんど覚えていないのだが、それでも明日はデートなのだ。何の問題があろう。



そんなわけで翌日。

時刻は午前10時40分。
待ち合わせ時間の10分前には到着するのが俺のポリシーなのだが、今日の俺はさらに10分早く来た。
まだ来るはずもないので、そわそわしながら突っ立っていると、

「わっ!」

という記憶に新しい声と共に、後ろから背中をぽんと叩かれた。

「おぅあ!? ……お、おはよう……」

どうやら既に彼女は来ていたらしい。

「あはは、びっくりしました?おはようございます」

悪戯が成功したときの子供の笑顔だ。本当にもうこの人可愛いな。
顔も可愛いのだが、ひとつひとつの仕草が可愛い。
大口を開けて笑うし、物腰は丁寧なのにそんなにおしとやかではない。
だが、それが彼女には本当に似合っているように思えた。
聞けば、俺が到着する10分前に着いたという。
なんだか待ちきれなくて……と、はにかんだ彼女の表情を、俺は生涯忘れることは無いだろう。

「じゃあ……そうだな。どっか行きたいところある?」

「ええとですね……特にはないんで、お喋りしながらぶらぶらしましょう?」

商店街は広く、適当に見て回るだけでも一日などあっという間に過ぎてしまう。
無計画だが、今日のように突発的なデートにはそれが適しているように思えた。

「うん、そうしよか」



雑貨屋をメインに回りながら、あれこれと雑談をする。
最近あったこと、テレビの話、食べ物の話、好きな映画や音楽の話。
内容は何でもいい。とにかく、彼女と話をするのが楽しかった。

しかし、

「こういうのって、どうですか?可愛くないですか?」

「ど、どうって、俺に聞かれてもなぁ……」

「えー」

どうして女性というのは、そうたいして深い仲でもない男をランジェリーショップに連れて行くのだろう。
カップルも見かけるのだが、こっちは『まだ』カップルではないし、どうも落ち着かない。
ストレートに好みを言ってもいいものなのだろうか?

「こっちと、こっちと、どっちが好きですか?」

右手に持っているのがひらひらした白っぽいピンクの下着、左手に持っているのが黒い紐のような下着だ。

「……俺はそっちの、ひらひらしたのが好き、かな」

恥ずかしいな、こういうの。
中学生に戻ったような気分だ。

「なるほどー」

彼女は紐のようなのを脇に置いて、白いほうを吟味している。

「うんうん、やっぱこういうの可愛いですよねー。でもなぁ……」

どっちも捨てがたいのだろう。
あるいは紐のほうが良かったのだろうか。

「俺はすごく……君に似合うと思うけど」

「そ、そうですか……? や、やだもう、えっち!」

彼女は顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。

「えー?」

どうすればよかったんだろう。
若干セクハラ発言だっただろうか。あーしまったな。
なんだか他のお客さんがこっちを見ているような気がする。
気にしすぎかもしれないが、さっき目が合ったし。こっちが見てるから目が合うのか?
いやいや、とりあえずここは謝っておこう。そうだそれがいい。

「ごめ……あれ?」

視線を戻すと、彼女はレジでお金を払っていた。



「えへへ、買っちゃいました」

「そ、そっか」

まだ少し顔が赤いが、もうご機嫌だ。今の一瞬で何があったのか。
女心と秋の空とはよく言ったものだと思う。

「どこか、行きたいところないですか?なんか私のお買い物にばっかり付き合わせちゃって……」

「あぁ、いいよいいよ。こうやってお喋りしてるのが楽しいからさ、場所はどこでもいいんだ」

「……!」

「……え?」

な、なんだ?なんでびっくりするんだ?
彼女はどういうわけか、プレーリードッグみたい固まっている。
何かまずいことを言ってしまっただろうか?
あれか?こう、自分の意見をちゃんと言わない人は嫌いですみたいな?

「あ、あーそういえば、腹減ったかもしれない。何か食べようか」

「そっ、そうですね! そうしましょう」

たぶん、そういうことなんだろう。
これからはちゃんと空気読んで喋らないとな。



飲食店は色々あるのだが、選択肢が多すぎても迷ってしまうものだ。
さて、どうしたものか。

「食べられないもの、ある?」

「だいたい何でも食べますけど……あ、辛いのはちょっと苦手かもです。中華料理は好きなんですけどね」

目の前にある中華料理屋は、店名の横に『四川風』と書いてある。

「あー、ここは辛いっぽいね」

「おいしそうですけど、『四川風』ですもんねぇ……あっ、辛さ調節できるみたいですよ! ほら、ここに書いてあります」

「調節! そういうのもあるのか」

店の中をちらりと覗いてみると、女性客もちらほらと見受けられる。

「ここにしちゃいます?」

「ここにしちゃおうか」

「はいっ」



店内に入ると、さっそく旨そうな匂いがした。

「四川風マーボー飯が人気なんですって。セットでデザートも……これ何でしょうね?とうにゅうはな?」

「豆乳花(トールーファ)でしょ。豆乳のプリンみたいなやつ」

「へぇー、いいですねそれ。私これにします」

俺はどうしようか……マーボー飯うまそうだな。人気メニューならそう失敗もないだろうし。

「俺も同じのがいいな」

「えっ?」

あっ、しまった。自分の意見!

「い、いや違うんだ。別に俺も同じものが食べたいと思っただけで、一緒でいいやとか思ったわけじゃなくてさ。本当に……」

「も、もうっ……そういうこと言われると、困っちゃいますよう」

「ご、ごめんっ」

「あ、いえ、別に怒ってるわけじゃないんですけどねっ、その……あはは」

「そっか……」

「ええ……」

わ、わからない! どうすればいいのか!
あーもー困ったな……どうしようこの空気。


と、そこに

「ご注文はお決まりですか?」

店員さんが注文を取りに来た。
た、助かった! 超ありがとう!

「マーボー飯セットをふたつ、ひとつは、辛くないのを」

「マーボー飯セットを二人前、片方が辛さ控えめですね。かしこまりました。少々お待ちください」



そして彼女と再び見合う。

「辛いものっていえばさ、火神アグニカレーって知ってる?」

強引かもしれないがもう話題は変えるべきだ。

火神アグニカレー……ああ! 知ってます! なんかスゴイらしいですね。食べました?」

うん、転換は成功のようだ。

「昨日初めて食べたんだけどね。辛かったけど、わりと普通に美味しく食べられたんだよ。俺そんなに辛いの得意ってわけじゃないのにさ」

「えー? テレビで見ただけですけど、あれ真っ赤ですよね? 私あんなの食べたらきっと火を吹いちゃいますよ。ごふーって」

頬を膨らませてごふごふ言っている。
やばい、可愛い。

「はははっ、変な顔」

「むむ、顔は笑うところじゃないですよ。訂正を要求しますっ」

怒った顔も可愛らしい。もちろん笑顔のほうがいいのだが、ころころと変わる表情は見ていて飽きないし、なんだか安らぐ。
こないだまであんなに苦しかったのに、人間って変わるものだなぁ。

「ごめんごめん、可愛いよ」

「……うぐっ」

「うぐ?」

なんだそれ?

「い、いえ……その、後半はいいですからっ」

しまった、まただ。さすがに『可愛いよ』は露骨だったか。本音なんだけども。
言葉のさじ加減って難しいな……

「じゃ、じゃあ後半はなかったことに……」

「し、しなくてもいいですけど!ええと、ありがとうございます……」

「い、いえいえ……」

あぁもう、何言ってんだ俺。しっかりしろ俺。中学生じゃないんだぞ。



そうこう言っているうちにマーボー飯が来た。
ご飯にマーボーをかけただけ、という男くさい料理だが、女性に人気の秘密がひとつわかった。

「わぁ、おいしそうですね。器がお洒落です」

「どことなく洋風だよね」

料理と言うのは盛り付けで印象が随分変わる。
なるほど、人気が出るわけだ。

「和洋折衷、って言いませんよね。この場合」

「中洋? ってのもなんだかなぁ」

「言葉にすると、なんかしっくりきませんね」

「どう言えばいいんだろうね」

「……いただきます」

「それだ」



赤い飴色をご飯と共にれんげで掬って、ひとくち。

「……!」

ひき肉のミチッとした歯ごたえが最初に来て、根底を支える鶏がらスープの旨みが口腔内に展開する。
確固たるマーボーの力場を甜麺醤の甘みが流れ、ほのかに紹興酒が香る。
また、日本人好みにするためか、塩分として醤油が使われているようだ。
これはまぁいいだろう。四川風を完全再現したら、口に合わない日本人が続出するだろうから。
やや強めにつけられた、マーボーのとろみが絶妙だ。これがご飯に対して実によく絡む。
少し遅れて、豆板醤の辛味が顔を出し始める。
……この店自体、女性客をターゲットにしているのだろうか?もう少し辛くてもいいと思う。
しかし、それを差し引いても……

「……うまい。俺、舌が変わったのかな。全然辛くない。ガンガンいけそうだ」

これは本当にうまい。
同意を求めようとしたら、彼女は静かに俯いていた。

「……?」

顔が、赤い……?
よくよく見ると、目には徐々に涙が浮かんできている。
何かに耐えるような、切なげな表情だ。

「まさか」

マーボー飯の色を見比べてみた。

彼女の前にあるもののほうが、圧倒的なまでに赤い。

「逆……だった……?」

こくこく、と彼女は頷く。
みるみる悲しげな顔になっていく。

あぁ、しまった。本当にしまった。食器に気を取られて気付かなかった。
ひと目見れば絶対にわかる違いだというのに。

「だ、大丈夫……?」


「よ……」


「よ?」

彼女は今にも泣き出しそうな声で、

「よがぁ~……っ」





と。そう涙目で吹いた幻の炎は、途方もない熱量で俺の胸を焦がした。





「くっ……もえた……はははっ……」

「わ、笑い事じゃないです!本気ですっ」

「ほん……き……!くくっ…」

「もうっ!もう~~っ」

あまりからかうとまた反省するハメになるので、速やかにマーボー交換。




美味しいものは偉大だと思う。
すぐに彼女の機嫌は直った。

「美味しい!これ美味しいですね!」

「うまいよね。絶対また来よう」

「ですね」

で、今度は俺が真っ赤なほうを食べることに。
まぁ大丈夫だろうと思って口に運んだら、

「……っ!!!?」

眩暈がした。獰猛に舌を蹂躙していく、狂気じみた辛さ。
俺、辛いの平気になったんじゃないのか!?
それとも、このマーボーが規格外なのか?

「……!!……!!」

喉が焼けるようだ。

「もえたろー?」

彼女がイジメっ子の顔で笑う。

「……すいませんでした」

完敗だった。





なんとかマーボーを攻略し、デザートを食べながら昨日のカレーのことを考える。

「なんであのカレー大丈夫だったんだろう……」

辛さで痺れた口内に、冷たい豆乳花が安息を運んでくる。
食事全体のバランスとしては、これでいいような気がしてきた。
あの辛さも、ある段階からアドレナリンやドーパミンなどの脳内麻薬が分泌されるのか、それなりに美味しく食べられたからだ。
あるいは、駅弁を車内で食べたときと同じ原理かもしれない。
彼女と食べる食事なら、きっと何であろうと闇雲に美味しく感じるのだろうから。

「不思議ですねー」

「……ヨガが関係あるのかも」

「まだ言いますか」

「いや、なんかそんなようなことが書いてあってさ。悟りを開いて食べると美味しいとか」

「あははっ、そんなわけないですよ~」

「だよねぇ」




それから、服やCDを見ながら再びぶらぶら。
途中、火神アグニカレーパンの試食をやってて、満腹だというのに売り子のおばちゃんに乗せられて無理やり食べた。
やっぱり巷で騒がれているほど辛くはなくて、彼女も比較的大丈夫なようだった。

「わりと美味しかったですけど、ますます不思議ですね。みんな辛いのよっぽどダメなんでしょうか?」

「そうとしか思えないね。クレーマーが多いのかな?」

「困ったものですね」

「ホントだよね」



使い古された言葉だが、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
そうこうしているうちに太陽は傾き始め、やがて空のオレンジに暗い蒼色がせり出してきた。



「あ……もう暗くなってきましたね」

「6時過ぎか。早いもんだねぇ」

商店街の店じまいは早い。既に人通りも少なくなって、もうこの辺りにいるのは俺達ふたりだけになっていた。
こんなとき、『今日は帰りたくないの』なんて言ってほしいものだが……そうそう何もかもがうまくいくわけがないな。

「そろそろ、ですかね……」

「うん、今日は、そんな感じかな」

しばし沈黙。
うまく言葉が出てこない。
こういうとき、上手いこと言えるのがモテる男なんだろうな。
やっぱり俺はそうじゃないらしい。

「あのさ」

「あのっ」

また沈黙。
タイミング悪いなぁ、俺。

「先、どうぞ」

「あ、うん」

咄嗟に返事をしたはいいが、もう何を言おうとしていたのか忘れてしまった。
どうしようか。
……ええい、しっかりしろ。

「そ、そうだ。タオル。持ってきたんだ。こないだはありがとう」

……くそっ。そんなことが言いたいんじゃないのに。

「いえ……ど、どうも……じゃあ、私の番ですね」

「うん、どうぞ」

少しだけ、空気が張り詰めたものに変わったように思えた。
沈みかけの夕日が逆光になって、彼女の表情はよく見えない。
けれど、真剣な雰囲気だけは伝わってくる。

「私、浮かれてるのかもしれません」

ぽつり、と彼女は話しはじめた。

「それは……どういう?」

「あの雨の日に……ああいう形で出会って……なんていうのか……『運命』なんていう、なんだか恥ずかしそうなものを、恥ずかしげもなく信じてしまいたくなるような、そんな出会いだったんです。私にとっては」

少し声が震えていた。
何か、ひどく嫌な予感がする。
しかし、どうすればいいのか。

「…………それは、うん。俺もそう思うよ」

「……だから、自分の気持ちがよくわからなくて。雰囲気に酔って、浮かれているだけなのかなって……」

彼女はそれきり黙ってしまった。
俺は今どんな顔をしているんだろう。
きっと情けない顔をしているに違いない。

……くそっ。なんとか言えよ俺!

「……俺は……」

「……はい」

深呼吸をひとつ。意を決して言葉を紡ぐ。

「俺はそれでも構わない。幻でも勘違いでも構うもんか。それでも俺はまた君に会いたいよ。こうして、君と話がしたいと思う」

息を飲む音が聞こえる。
俺の選択は正しいのか。わからないけど、これは俺の本音だ。
この先どうなろうと、この気持ちを偽るわけにはいかない。

「先のことなんてわからない。真実はどうとか、俺には少しもわからないけど、この気持ちは絶対に嘘じゃない」

この幻想は誰にも壊せない。
幻だとしても、この胸を焦がす熱は、炎は、確かな真実なんだ。

「で、でもっ、わからないじゃないですかっ。夢から覚めるみたいに、いつか想いが消えてしまうかもしれないのに!」

「消えるもんか! いつまでだって、俺は君のことを好きでいるさ! 『会いたい』のひとことでいい、それだけでどこまでだって会いに行く !あぁ空の果てまでだって飛んで行ってやるよ! 別に偶然だっていいじゃないか……それを運命だと思いこんで何が悪い? 俺達の出会いが偶然か必然かなんて誰にもわからないんだっ。なら! 世界のどこかの神様が、運命に魔法をかけたと思ったっていいじゃないか。そうだろ?」

「……っ」


しまった。柄にもなく声を荒げてしまった。
まずいな、ちょっと落ち着かないと。


「……大声を出してごめん……陳腐な言い方かもしれないけどさ。君のためなら、もう命を投げ出したっていいと思ってるんだ。本当に……」

一緒にいた時間なんて関係ない。
心の底から、俺はこの人が好きになったんだ。

「ダメですっ」

短く、鋭い声だった。
……うわ、きついな。やっぱ。

「……だめ、か」


そうか。
そうだよな、これは俺のわがままに過ぎないのだから。
あぁ、また俺は……


「死んじゃうのは、だめです。それじゃ、もう会えなくなっちゃうじゃないですか」

……え?

「……それは……どういう」

「私もずっと、あなたと一緒にいたいです。またこうやって会いたいので、死んじゃうのはダメです」

この気持ちを、どう表現したらいいだろう。
結局のところ、『嬉しい』のひとことに尽きてしまうけれど、そんなものじゃ足りない。

「君がそうしろっていうなら、墓からだって蘇ってやるさ」

自分でも何を言っているのかわからないが、これぐらい言わないと気がすまない。

「こ、怖いですよそれ。食べられちゃいそうです」

少し雰囲気が柔らかくなったように思う。
シリアスムードが長続きしないのは、きっと彼女のいいところなんだろう。
それとも俺が残念なだけだろうか。
かなり後者のような気がしてきた。

「どこまでも追いかけちゃうけど、頑張って逃げて」

「えー?逃げませんよー」

「食べられちゃうのに?」

「そりゃあ、その後に私も蘇りますから」

えっへん、と彼女は胸を張って笑った。

「はは、そっか」

「あはは、そうですよ」



そして今度こそ、お開きの時間のようだ。
携帯の番号を交換し、またねと言い合う。
生ぬるいはずの風は、今の俺には冷たく心地の良いものだった。




家に着くと、少ししてからメールが入った。

『今日は本当に楽しかったです。毎日でも一緒にいたいって思いました。あと、本当は直接言いたかったんですけど、恥ずかしくて言えませんでした。だから今度会ったときはちゃんと、大好きって言いますね』

「……おおう……」

これは破壊力が高い。
俺の人生が夢オチだったんじゃないかと疑ってしまいそうなレベルだ。
メールを何度も読み返してニヤニヤしていると、妹に見つかった。

「お兄ちゃん、やっぱり何かいいことあったでしょ?彼女できたとか?」

「べ、別に。ちょっと考え事してただけだ」

「どんな?」

「ヨガファイアはそげぶでも消せないって思ったんだよ」

「いやいや、それは絶対消せるって!」

「いいや、消させない!」

「だ、誰が?」

「俺が!」

「はぁ?」



妹には呆れられたが、それで構わない。
少なくとも俺は、誰が否定しようともそれを信じないわけにはいかないのだ。
たとえこの恋が幻想の上に成り立っているものだとしても、俺たちが信じている限り、幻想は永遠の真実なのだから。



[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム1
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/09/20 16:28

深夜。
私は自分の部屋でひとり、呆然とごろごろしていた。
知らなかった。世界にはそんなルールがあったなんて、私はほんのひとかけらも知らなかったのだ。
枕もとに置いたノートPCを見ていると、つくづく自分の矮小さを思い知らされる。

「……ネットは広大だわ、こりゃ」

溜息しか出ない。参ったなぁ。

私がこんなになったのは、お兄ちゃんに話したあのことを某インターネット掲示板に書き込んだことが原因だった。
こんなssが読みたいなと、軽い気持ちで書き込んでみたのだけれど……あぁ。それがいけなかった。
『言いだしっぺが書かなければならない』という、因果応報を象徴するかのような運命的ルールを、私は知ることになったのだ。

まず最初に思ったのは、『どうしよう』だった。
このまま逃げてしまえば、楽なのかもしれない。
今までだってそうした人は多くいるに違いない。

次に思ったのは『でも』だった。
誰かに甘えて頼ってばかりいた私を、彼は認めてくれるだろうか?
自分の望みを押し付けるばかりだった私は、彼の目にどう映っていたのだろう?
……きっといつまでも見ていたい類のものではなかっただろう。

最後に思ったのは『ならば』だった。
ちょっと無理のあるssを読んでみたかったという願い。
それ事態は小さなことかもしれないけど、私のダメな部分はそういうところに現れていたのだ。
もう、甘えん坊は卒業しなきゃいけない。
こんな私じゃいけないのだ。

そうして私はむむむと唸りながら20分あまりごろごろした後、眠気によって薄れゆく意識の中で決意した。
Avaronという名のss投稿掲示板に拙作を投稿する決意を、私はしたのだ。






そして数日後。
ssを完成させた私は緊張で胸がいっぱいになっていた。

短いようでいて、長い戦いだったと思う。
原作を再確認するために毎日漫画やラノベを読んでアニメを見た。
やっぱり面白くて、自分で書こうと言う気持ちはがりがりと削られていった。
脳に糖分を補給するため連日食べ続けていたプリンのおかげで、お腹はぷにぷにになってしまった。
お尻も大きくなってしまった気がする。なんだか妙に食い込むのだ。なのに胸はそのままだ。

ケーキもたくさん食べた。面白いssを書くために、仕方なくお兄ちゃんのぶんまで食べた。
大好きな男友達に『最近ちょっと丸くなったよね』とあごの下を触られたときは本当に参った。
思わず飛びのこうとして失敗し、ごろんと仰向けに寝転んでしまった。まるきり犬が服従の意を示すポーズだったと思う。
姿勢の意味を見た目どおりに受け取った彼に、そのままお腹を撫でられ続けてしまったのが特に悔やまれる。
「うふ、うふ」などと気持ちの悪い声をあげてしまった恥辱は、絶対にいつか晴らさなければならない。

そう、ssを書くという挑戦により、私の乙女心は致命的ともいえる大損害を被ってしまった。
奮戦虚しく、多くの時間と貴重なお小遣いが失われ、まさに精も魂も尽き果てんばかりであった。本当だ。

ふと、部屋を見渡してみる。
この温暖化の進む大地に在っても尚、逞しく花咲かせしひまわりのごとく、 高く積み上げられた漫画。
隅に立てかけられた鏡を見てみる。
この危局に際して尚、その眼には激しく燃え立つ気焔。

私を突き動かすものは何か。
満身創痍の私が、何故再び立つのか────
それは、全身全霊を捧げ絶望に立ち向かう事こそが、生ある者に課せられた責務であり、
多重クロスssに殉じた先達への礼儀であると心得ているからに他ならない。

押入れに眠る漫画たちの声を聞き、お肉に成り果てた糖分の声を聞き、空に散った電波の声を聞いた。
……彼らの悲願に報いる刻が来た。

そして今、私は投稿する。
鬼籍に入ったアイディアと、わずかな願いを一身に背負い、孤立無援の戦場に赴こうとしているのだ。

歴史が私に脚光を浴びせる事が無くとも、私は刻みつけよう。
名を明かす事すら許されぬ私の高潔を、彼らの魂に刻み付けるのだ。
クリックする者よ、私にssの書き方を教えられなかったお兄ちゃんを許すな。
諸君を批判に駆り立てるお兄ちゃんの非情を許すな 。
願わくば、私の挺身が、ss初心者に長編を書かせる事無き世の礎とならん事を……! きゃりーおーん、まいうぇ」

「おい」

声と同時に、ドアが開けられた。
お兄ちゃんだ。ジト目で私をにらんでいる。

「お、お兄ちゃんっ!? い、家に居たんだ……」

「祝日が休みになるときもあるんだよ。で、見事な演説だけどな……お兄ちゃんの言いたいこと、わかるか?」

「ご、ごめんっ。静かにする……」

「ったく……」

呆れ顔で溜息をつくと、お兄ちゃんは部屋に戻っていった。
なんだよう……ちょっとぐらいテンションあがったっていいじゃないか。
ああもう恥ずかしいなぁもう。死にたい。

「…………」

いけない。気を取り直さないと。

もう以前のような甘えん坊の私じゃないんだ。言うなれば超私。しっかりしなきゃ。

できたてのssを3回読み返し、大丈夫だと自分に言い聞かせ、意を決して投稿する。

「これで、いい……のかな?」

投稿してすぐに、検索をかけてみる。
『チラシの裏SS投稿掲示板』と大きく書かれたページの一番上に私の作品はあった。

「よかった、ちゃんと投稿されてる」

一応は確認したものの、誤字脱字がまだあるかもしれない。
まだ文章に変なところが見つかるかもしれない。
厳しい感想がつく前に覚悟を決める意味でも、私はもう一度読み返してみることにしたのだった。











[20998] とあるジャぱんのトリステイン魔法学院黙示録

Name: 妹◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 20xx/xx/xx xx:xx



序章

『ヨガーのアトリエ ~タージマハルの格闘僧侶~』






「どういうことなのだ……」

インド某所にて、ダルシムは首を捻っていた。

「電話は鳴り止まぬ。TVの取材班は毎日私を追ってくる……これでは落ち着いて瞑想もできぬ」

所謂マスコミと呼ばれる彼らは、しつこくコメントを求めてくる。
ヨーガの奇跡についての質問ならばいくらでも答える用意があるダルシムだが、どうも妙な話になっている。

「人違いだというのに……」



その始まりは、一本の電話からだった。

ヨーガの奇跡を世界に広めつつ、苦しむ人々を救うため、『ヨガ・ファイア うつろわざるもの』というタイトルのエッセイを執筆していたときのことである。

Rrrrrr……

無機質な電子音が着信を知らせ、ダルシムは受話器を取った。

「はい、ダルシムです」

「あーどうもどうもどうもどうも」

「……」

電話をかけてきたのはやはり、雑誌の担当者であった。

「もしもしダルシム先生?夜分にすみませんね僕ですシャルマです。いやどうしても今お聞きしたいことがありまして」

申し訳なさそうではあるが、それほど反省はしていないといった口調でシャルマがいつもの口上を述べる。
彼は出版社の中では唯一ダルシムを恐れず話しかけることの出来る猛者であり、少々抜けたところがあるのだが根は真面目。
ダルシム曰く『落ち着きはないが見どころのある若者』であった。
故に多少の無礼は黙認されている。

「あぁ、君かね。原稿なら間もなく書き上がるところだ。今夜じゅうにFAXするのでしばし……」

「あっ、それはどうもありがとうございますお疲れ様です。でもお電話したのはそれではなくてですね」

「……?君が他の用事で私に電話をかけることがあるのかね」

「いやだなぁ先生、僕だって雑談くらいしますよ」

「雑談なら明日でも」

「いえいえ、雑談でもなくてですね。『いい話』と『もっといい話』のふたつあるんですけど、どっちからがいいですか?」

シャルマはいつにも増して機嫌がいいようだった。
この男のお喋りは軌道に乗るといつまでも止まらない。
ダルシムは少し考えて、『いい話』からにしてくれ、と落ち着いたトーンで答えた。

「はい。ではですね。先生、今度創刊になる文芸誌で新連載の話があるんですけど、どうされます?」

「新連載かね。まぁ、書けないこともないが……いったいどんなものを?自由に書いていいのならお受けするが」

「ええとですね。これは先生と奥様との、恋の物語になりますね」

無茶振りであった。
いったいこれのどこがいい話だというのか、さすがのダルシムにもわかりかねた。

「君は私に恋愛小説を書けというのかね。それも主人公が私の」

「まぁ平たく言うとそんな感じなんですけどね、でも、いい機会じゃないですか! 今書いていただいてる『ヨガ・ファイア』は世界を旅しつつ、ストリートファイトを主軸に人生の教訓を交え、様々な人との出会いと別れを綴ったものじゃないですか。若者をターゲットにして大当たりしたわけですけど、これはだいたい男性の読者ばかりです。ここはひとつ闘いを脇に置いて、ヨーガの愛と慈しみの心を書いてみようじゃないですか先生」

「……つまり、読者層をただ広げるのではなく、女性向けの話を別に書くというわけかね」

「その通りです!」

「そういった話なら、何も私でなくともよかろう。何事も適材適所と言うものがあるのだから」

「いいえ先生。恋愛にも様々な角度がありますけれども、先生には先生の角度。先生の視点があります。他の人で代用なんてできるもんですか。ダルシム先生がそれを書くからこそ、いいんです。かなりいい線いくと思いません?こう……『階級(カースト)制度という障害に阻まれながらも惹かれあう二人!切ない別離の日々! 再開の喜び! そして……!』って感じですよ。いいじゃないですかそういうの」

ダルシムは小さな溜息をつく。
知り合ってからもう長い付き合いになるので、ダルシムはこの男が本気で言っているのだとわかる。わかってしまう。
僧侶であり格闘家である自分に、この男は本気で恋愛小説を書かせようと思っているのだ。
シャルマは尚も続ける。

「ビジネス的なことを言えば、ようするに『売れる』と思ったんです。世界中の恵まれない人々の力になるには、やっぱり『お金になる』というのは外せない要素だと思うんですよね僕的には。……まぁどうしても書く気になれないのでしたらお話は取り下げますけども」

こう言われてはダルシムも渋るわけにはいかない。
ダルシムが戦い続けてきたのは、貧困に苦しむ人々のためなのだ。
作品がヒットした場合、その印税を寄付すれば現状よりもさらに多くの人々を救えることになる。

「待たれい。サリーを……私の妻を書くことになるのだから、了解を取らなければならん。妻が嫌がれば書けぬ。……おわかりか?」

「はい、そりゃもう!ご武運をお祈りしております!」

この男、サリーとの交渉は手伝わないつもりであるらしい。

「はぁ……君はまた口車に磨きがかかったとみえる」

「いやいや、尊敬しておりますので」


この話に対し、ダルシムのおよそ20歳年下である若妻は熱い抱擁と口付けで答え、後に出版される『印度戀物語ヨガ』のエピローグに華を添えることになるのだが、それはまた別の話である。


「それで、もうひとつの話とは?」

「それなんですけどね、こないだモルジブに行ったそうじゃないですか」

「モルジブに?いや、ここ最近はずっとインドにいるが」

「またまたぁ。『地球上の全大陸を浮上させることで、温暖化による海面の上昇に伴う大規模な沈没から世界を救った勇者だ』って大騒ぎになってますよ先生。すでにモルジブ諸島では伝説になってます。先生の名の通り、『伝説の勇者』ですよ!いやホント、しびれるなぁ」

興奮気味でまくし立てるシャルマ。
大陸が浮上したという前代未聞の事件そのものは知っているのだが、しかしダルシム自身に心当たりは無い。
浮上した大陸は緩やかに着水し、今ではいかだのように海に浮かんだ状態になっている。
波に流されることこそないものの、今後どのような影響が出るのか未だにわかっていない。
憶測が憶測を呼び、本人のあずかり知らぬところで大騒ぎになっていたのだった。

「いや、私はそのようなことをしてはいない」

「うんうん。かっこいいなぁ、そういうところ! そういうわけで、今度お祝いの席を設けようかななんて思うんですけど」

「人違いではないのかね?」

「まさか! 人違いだなんて、そんなこと絶対にありえないですよ~」

「どういう意味かね」



とにかく下手人はダルシムなのだそうである。
修行やストリートファイト、そして執筆活動のためにプライベートな時間が少なく、テレビや新聞に触れる機会の少ないダルシムはどうしても世界情勢に疎くなってしまう。
しかし事態を把握しようにも、のんびりしている暇はないのである。
結局どうすることもせず、ダルシムはそれらの誤解を放置することにしたのだが……

シャルマから電話があった次の日から問い合わせの電話が殺到し、TV局の人間が自宅を訪れるようになった。
勿論、その勢いは増すばかりである。

身に覚えのない偉業を褒め称えられても居心地の悪さしか感じられず、心の静寂は徐々に遠ざかっていく。
ダルシム自身、このままではいけないと思うのだが、しかしどう考えても理解できない事態であった。

「私の偽物がいるのか? 話を聞く限り、大陸の浮上がヨーガの奇跡によるものであることは疑いない。しかし、おかしいのはそこだ。それほどの祈りを行える人間が、何故私の名を騙る?」

純粋な祈りによって発現する奇跡に、『偽り』は許されない。
仮に他人の名を騙って手足を伸ばそうとしても、手足は伸びないのだ。

「解せぬ」

日本のとあるパン職人が世界の法則を捻じ曲げた、というのがことの真相なのだが、ダルシムにそんなことがわかるはずもない。想像することさえも不可能である。
雑念まじりの瞑想は、まだ続くことになりそうだった。








第一章

『テイルズ・オブ・パンタジア その1』



パンタジア。それはベーカリー界のカリスマと讃えられる、パン屋としては日本最大級のチェーン店である。
日進月歩の技術と発想で、常に新しく美味しいパンを作り続ける、それはまさにパンの理想郷。

しかし、全国に展開する128店舗の全てが大きな店舗というわけではない。
中には、本当にパンタジアであるのか疑わしいほどに小規模な店舗も存在する。

そんな『パンタジア南東京支店』の片隅で、東和馬は今日もパン作りに精を出していた。
伸び放題の黒髪をカチューシャでまとめた、幼さの残る16歳。
見るからに『天才』を感じさせる、無邪気で純粋なまなざしが耀いていた。

「っしょ……と。……ん、もうちょっとじゃ」

生地をこねるその手は『太陽の手』と呼ばれる、常人よりも温かい手。
イースト菌を活性化させることで生地の発酵を促進、よりふっくらとした焼き上がりを約束する奇跡の手のひらである。
また、『女神の手』と呼ばれる『柔軟性の高い指関節+器用さ』が成す『生地のこね方』は、生地内のグルテン(たんぱく質の一種。弾力と粘りを持つ)の結びつきを美しく整え、パンの美味しさをさらに別次元へと引き上げる。

「……ふう。こんなもんじゃろ」

いま東が作っているのは、生地に豆乳を練りこんだ食パンである。
もちろん、ただ豆乳を加えただけの豆乳パンではない。
フランス料理では、複数の食材に同じ隠し味を使うことで味に統一感を持たせる手法がある。
その手法を用いて、味噌汁や納豆、醤油などの大豆を使った食品に合うよう作られた、和食のためのパンなのだ。
その名もジャぱん1号。
米農家の息子・東和馬がパン職人になることを祖父に認めさせた、東にとって思い出深い『はじまりのパン』である。

既に61号までシリーズ化されたジャぱんだが、新しければ新しいほど美味いというものではない。
『日本のパン』であるという条件を踏まえつつ、それぞれに異なる試みがなされており、やはりそれぞれの良さがあるのだ。

実際、彼のパンはどれも安定した売れ行きを誇っている。
その人気の秘密は、味だけでなく『ジャぱん』というコンセプトにあった。

日本人のためのパン。
パン食が次第に増えてきたとはいえ、米を主食とする日本人にとってパンはどこまでいっても『外国の文化』である。
故に東はパンそのもの『だけ』では勝負をしなかった。
『味噌汁や納豆に合うパン』『日本的なカレーに合うパン』など、食卓における主食としての『役割』を追求したのだ。

そうして作られた数々のパンは、既にただのパンではなくなっている。
彼のパンを買い求めに来る者は、実のところパンそのものを買いに来ているのではない。
『パンを食べるというライフスタイル』を買いに来ているのだ。

『食事』とは単なる栄養の補給ではなく、しかし味わいだけを求めるものでもなく、それは『食べる楽しさ』を味わうものなのだという想いが、東のパンには込められていた。


ただ、このパン、今日は南東京支店では売られない。
というのも、元同僚にして現パンタジア社長である梓川月乃の発案で、東が『出張 !! パンゲリラ』という企画に参加することになったからだ。
これは読んで字のごとく、パンタジアの店舗がない街に簡易店舗(改造トレーラー)で出張し、ゲリラ的にパンを販売するという企画である。
ゲリラとはいうものの、きちんと許可を取っているのだが、そこはそれ。

以前放送していた『焼きたて!! 25』という対戦形式でご当地パンを作る企画により、パンタジアの名は爆発的に広まっている。
番組の放送自体は終了したが、そのお祭り的な雰囲気が消えないうちに味を知ってもらい、新店舗設営の足がかりとする計画であった。




「よっしゃあ、準備できた! みんなはどうじゃ?」

「僕も完了です」

答えたのは冠茂。
同じ南東京支店の仲間であり、パン作りに化学的視点で挑む酵母の研究家である。
ピンク色に染めた髪はTVでのキャラクター性に貢献し、その非常に整った容姿と相まって『焼きたて!! 25』の女性視聴者から絶大な人気を博した男である。
繰り返しになってしまうが顔だけの男ではない。
その潤沢な化学知識は、強豪を相手に戦い続けたチーム・パンタジアの勝利に大きく貢献した実績がある。

「河内は?」

「おう、ワイもできたで」

そして3人目、河内恭介。
パンの腕前は中の上、料理の腕前もそこそこ。
追い詰められたときの爆発力は目を見張るものがあるが、それ以外は基本的にその場を盛り上げる役目である。
しかし、パンを食べたときのリアクションで彼の右に並ぶものは世界でもごく僅かしかいない。
何を隠そう、パンタジア内では東と最も付き合いが長いこの男こそ、地球上の全大陸を浮上させた張本人なのである。
天才パン職人・東和馬が『地球温暖化を食い止めるパン』を作り、これを河内恭介が食べ、その美味さに驚いた『リアクション』としてダルシムに『変身』し、ヨーガの奇跡を用いて大陸を浮上させたのだ。

「それにしても河内、いつまでダルシムなんじゃ?」

「そんなもん、ワイが聞きたいわ。戻る気配がちっともあらへん」

そう、この河内恭介、未だにダルシムと化したままなのである。
純白の瞳、褐色の肌、頭蓋骨を連ねた首飾り、手首・足首に巻かれた布、シンプルな鉄の腕輪、柿色のハーフパンツ。
そして頭皮に引かれた、三本の赤い戦化粧。まさしくダルシムである。
少しだけ残った金髪の前髪と関西弁が、彼が河内恭介である(あった)ことを物語っていた。

「ま、そのうち戻るんとちゃうの? 『とろろ』よりは全然マシやろ」

しかし、やはりそこは河内である。体が『とろろ』で出来ているという謎の不定形生物になった経験もあり、ダルシムぐらいではまったく気にならないようであった。

「ははは、そうじゃな」

「どういう神経してるんですか貴方たち……まぁ、今に始まったことじゃないですけどね」

「で、どこ行くんやったっけ?」

「今回はですね、ここです」

冠はどこからか地図を出してきて、広げて見せた。
東と河内がそれを覗き込む。

「わりと近所なんじゃな。知らんかった」

「僕もです。学生が多くて……というか住民はだいたい学生なんです、この街」

「学園都市か……なんや、けったいな町やなぁ」

河内が眉をひそめる。パンに関すること以外では、学問とは縁遠い男であった。

「別に河内さんが勉強しにいくわけじゃないですから。それより、学生が多いということは、それだけパンも売れるということですよ。パンタジアとしては見逃せない街です」

「そういうもんか?」

「そういうものです。それに、もう決定してるんですからここで今更文句言ってもだめですよ。さぁ、行きましょう!」

「おう! 焼きたてジャぱん、出発じゃあ!」

パンタジアの仲間たちは、拳を天に突き上げた。



ちなみにキノコ頭、こと木下陰人は留守番である。
今回も彼はたったひとりでパンタジア南東京店を切り盛りすることになったのだった。



[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム2
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/09/25 16:37




『テイルズ・オブ・パンタジア その2』






東たちを乗せたトレーラーがゲートを抜けると、そこは近未来だった。

「うっわ、ごっつい未来都市やん……SFやで、こりゃあ」

「す、すごいですね……科学技術が20年ぶん進んでいると聞きましたが、これほどとは……」

「ほぁー、ここが学園都市かぁ」

眼前に広がるのは何百もの大学や小中学校がひしめく、『学校の街』。
その大きさは東京都の三分の一を占め、総人口は約230万人。
また、人口のおよそ8割が学生である。

そんなに学校を一箇所に集めて何をしているのか?
勿論、これには理由がある。

実のところ学園都市とは、『記憶術』や『暗記術』という名目でとある『能力』を研究している実験場のような街なのである。
平たく言えば『脳の開発』を行っている街。
その目的は、『人間を超えた身体を手にすることで神様の答えにたどりつく』こと。
これは『人の身では神様の考えることなどわからない。ならば人を超えてしまえばわかるはず』という理屈である。
そのために生徒の脳に手を加え、人為的に『ある種の才能』を付加している。
ここでいう『ある種の才能』とは『透視能力』や『念力』などを使える、ということである。
つまりは、いわゆる『超能力者』を、ここで造り出しているということだ。

それだけのことをやってのける学園都市であるので、それを支える科学技術は世界最高峰。
『独立記念日』があるなど、もはや日本とは別の国家か、あるいはほとんど異世界と化しているのだった。
しかしながら、外側の人間である東たちはそういった詳しい情報を知らず、ただただ街の景観に驚くばかりであった。

「あ、あれはなんじゃ? ゴミ箱が動いとる!」

「ゴミ箱ちゃう! ロボットや! かーっ、ロマンやなぁ」

「警備ロボットだそうですよ。すごいなぁ。かなり頭の良さそうな動きですよ。ほら、障害物の避け方を見てください。タイムラグが全然ないですよ。『一瞬でよく考えて動いてる』って感じです」

街を巡回する警備ロボットが彼らの琴線に触れたようで、先ほどまで真面目に話されていたパンの話題はどこへやらである。
男の子の性分であった。
男子にとって、『動いて光って音が出て、単三電池が6本入るもの』ならだいたい何でもロマンなのである。
当然ながら警備ロボットはその条件を遥かに超えるスペックであり、彼らが夢中になるのは無理もないことだった。

「あれって遠隔操作でしょうか?」

「いやいや、『えーあい』っちゅうヤツやろ。むしろそれしか認められへん。非常時のみ遠隔操作やな。はじめからリモコンやなんてアカンで。学園都市のお偉いさんはそんなロマンのわかってへん連中とちゃう。ワイにはわかるんや」

そうやないと困る、と運転席の河内は噛みしめるように言葉を結んだ。
何が困るのかは、誰にもわからない。
このまま放っておけば、自爆装置搭載の是非について滔々と語り始めそうなダルシム顔だった。

「河内、『えーあい』ってなんじゃ?」

「知らへんのか?…… しゃあないな、冠に聞き」

「自分で言っておいてそれですか河内さん」

「ええやろ別に。それに、ワイそういうキャラちゃうやん? びっくり要員やし、今運転手やし」

「まったく……では、簡単に説明しますとですね……」



こうして、東たちは雑談をしながら観光客のように街をドライブしてしまったのだった。
おかげで予定の時間より到着が遅れ、みんなで叱られてしまったことは月乃には内緒である。




さて、肝心のゲリラ活動だが、結果から言えば『成功』と言っていい成果をあげることができた。
学園都市の食品業界において、科学技術はもっぱら食材の鮮度を保つことに注がれていたらしい。
味に対する工夫という側面においては、昔ながらの職人に軍配があがったのだ。

食パンやフランスパンなどのパンとは別に、菓子パンや調理パンを多めに用意したのも功を奏していた。
多くの種類がずらりと並ぶさまは見ているだけでも楽しいもので、かつて木下が成功を収めた『パンの実演販売』は多くのギャラリーを引き寄せた。
さらに、そんな物珍しさに加えて、『焼きたて!! 25』を見ていた者が多くいたことも勝因のひとつである。
彼らは特撮やCGを駆使した(と思われる)強烈なリアクションを毎週楽しみにしていたらしい。
中には面白がってその場でリアクションをとるものや、泣き出すなどして本気のリアクションをとってしまうものもいて、それはパーティー会場のような盛り上がりでさえあった。
『パンを食べてダルシム化した』と言い張る河内も『すごいサービス精神だ』ということで大人気であった。
話を聞きつけた暇な学生はあっという間に集まり、パンは文字通り飛ぶように売れたのだ。
予定より遅れて始まったゲリラ販売だが、予定より早く完売することになったのだった。





そして時刻は午後2時30分。
そろそろ店じまいをして帰ろうか、という時になって、最後の客は現れた。

「パンがほしいんだよ」

「ん? なんじゃ?」

東が振り返ると、白い修道服が目に入った。
よく見ると、継ぎ目は糸ではなく安全ピンで留められている。布地の高級感とは裏腹に、かなり適当な造りである。
それを着ているのは銀髪碧眼の、外国人の少女であった。
少女は流暢な日本語で言う。

「ねぇ、もうパンは残ってないのかな? 私はおなかがへったので、もしも残っているのならそのパンを食べたいと思ってるかも」

とてもわかりやすく、簡潔な主張である。
これを聞いた東はすぐさま、なるほどこの女の子はおなかがへったので、もしも残っているのならそのパンを食べたいと思ってるんじゃなと理解する。

「悪いんじゃが、パンはもう……」

「ないの?」

「そ、そうなんじゃ。もう少し早ければあったんじゃが……」

ぐぎゅるるるるるる。

「……」

「……」

少女はよほど空腹であるらしく、捨てられた子犬のような目で東を見つめている。
服の下に隠れていた猫がみーみーと細い声で鳴く。
少女の右手に握られていると思われる小銭が、小さな音を立てた。

「こ、困ったのう……」

東が頭に手を当てていると、片づけをしていた河内と冠も少女の存在に気付き、何事かと集まってきた。

「どうかしましたか?」

「迷子か? 嬢ちゃん」

困っている人を決して放っておかないのがパンタジアの面々である。
それが女の子であれば尚更冷たくするわけにはいかない。
彼らの全身から滲み出るお人よし感に、少女は望みをかけた。
激しい空腹のため、ダルシム状の男についてはこの際スルーすることにしたようだ。

「パンが食べたいんだよ」

しかし、パンはないのだ。

「あぁ、そりゃ残念やったなぁ。パンはもう……」

「そうなんですよ。小麦粉だとかバターだとか、材料が少し残っているだけで……」

ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。

「……」

「……」

以下同文である。

「うぅぅぅ……」




パンが既に売り切れていること、今から作るより他で買った方が早いということを優しく丁寧に説明すると、少女はとりあえず納得したようだった。

「その……ごめんな?」

「ううん、あなたたちは悪くないんだよ。全部、とうまがいけないんだよ」

「トーマ?」

「って、誰じゃ?」

「ご家族ですか?」

「そう、とうまが悪いんだよ」

最後の力を振り絞るようにして、少女は不満をぶちまけた。

「とうまはね、自分だけ外で美味しいもの食べて、私には空っぽの冷蔵庫と一緒に留守番させるんだよっ」

「なんやて? 家族の風上にも置けんヤツや! ワイにも弟と妹がおるが、ひもじい思いだけはさせへんようにやな……」

「あっ、親族じゃないんだよ? 一緒に住んでるけど」

「そうなんですか? じゃあ、恋人とか?」

「こっ、こいびと……!」

『恋人』という単語で少女は顔を赤くするも、腰に手を当てて踏ん反り返り、

「ま、まぁ、とうまがそう思ってる可能性は無きにしもあらずだねっ」

と、ほんのり否定してみせる。
微妙な乙女心である。
河内や冠はともかく、東には少女が何を言っているのかよくわからない。
女心と小難しい言葉にはめっぽう弱いのだ。

「『無き塩も漁る』、って何じゃ?」

「そんなことわざは無いんだよ。なきにしもあらず、だよ」

「『悪しき者アラム』?」

「誰やねんそれは」

「そんな人はいないかも。だから、なきしにも……な、なきみしの……っ」

「ははは、ツッコミが噛んだらアカンやろ」

「ま、真面目に聞いてほしいんだよ!」

「まぁまぁ、落ち着いて……」

拳を握り、足を踏み鳴らして怒る少女。
猫も援護射撃とばかりに前足をばたつかせてにゃあにゃあ鳴く。
このコミカルな動きによって、真面目な雰囲気を自ら損なっている部分が無きにしもあらずだった。






気を取り直して、東たちはさらに話を聞くことに。
少女が虐待を受けているようならば、『とうま』なる者に灸を据えてやらなければならないのだ。

「……つまり、とうまってヤツは悪いヤツなのか?」

東が躊躇いがちに訊ねる。
目の前の少女が虐げられているということは、できれば自分の考えすぎであってほしいと思っていた。
首を横に振ってほしいという願いはしかし、裏切られることになった。

「そうだよっ、『そんなひどいことしないで』って何回お願いしても『アーソウカイ、ソリャ悪カッタナ』でいつもいつもそうなんだよ。他の女の子を次々に引っ掛けてくるし、危ないことばっかりするんだよ。とうまは残酷で冷血で非情なんだよ。この服をこんなにしたのも、とうまなんだよっ」

「なんやて!?」

「許せませんね……」

「なんちゅうヤツじゃ……」

東たちの胸に、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。

「よっし、ワイらが助けたる!」

「もう大丈夫ですからね!」

「とうまってのは、どこじゃあ?」

東たちの中では、もう完全に魔王トーマ像が出来あがっていた。
もちろん討伐する気満々である。
かつて実際に魔王を討伐した、ある意味本物の勇者パーティであるので、正義の心は誰にも負けないのだ。

さてどんなパンを食らわせてやろうかと思案していると、少女は意外なひとことを付け加えた。

「でもね、でもね。とうまはね、絶対私のところに帰ってきてくれるんだよっ」

いいでしょう、と言わんばかりの笑みである。

「……嬢ちゃんは、そのとうまっちゅうヤツが好きなんか?」

「うん、好きだよ?」

嘘偽りの無い純粋なまなざしに、3人は胸が締め付けられるのを感じる。

「そうか……なるほどな」

河内が眉間にしわを寄せ、

「重傷ですよこれは……」

冠が目を伏せて小さく呟く。
そして、人の苦労話を聞いただけで感じ入って涙を流すほど感受性の豊かな東はやはり、

「ええ子じゃ……健気じゃあ……ぐすっ」

泣かないわけがなかった。


チーム・パンタジアは考える。
この世間知らずっぽいシスター少女はきっと騙されているのだ。
毎日ひどい扱いをし、ごくたまに優しくするという有名な手法で彼女は既に篭絡されてしまっているのだ……と3人は戦慄する。
見る限り外傷なども見受けられず、心の擦り切れた目などもしていない。
演技が人並みはずれて上手いのでなければ、おそらく彼女はそれでも幸せなのだ。
しかし、本当に彼女はそれで幸せなのだろうか?
他人である自分たちが軽々しく介入していい問題なのだろうか?
そもそも、幸せとは何か?
少女の内心をよそに、チーム・パンタジアに小さな哲学ブームが訪れていた。

「……?どうして難しい顔してるのかな? わかんないかも」

実はこの少女、空腹と暇に任せて言いたい事を言いたいように言いたいだけ言っただけなのである。
そんな性格の少女と彼らがこのタイミングで出会ってしまったのは、偶然か必然か。
普通ならば偶然で済ませるところだが、この場においてだけは後者である可能性が高かった。

なぜならば、先ほどから話題になっている『とうま』なる人物が、彼らのいるこの場所に近づいてきているからである。
『あらゆる異能を無効化する右手』を引っさげて、その男は姿を現した。



「おい、インデックス!」

黒髪の、学生服を着た男が少女の名を呼ぶ。

「あっ、とうま~!」

インデックス、と明らかに人間につけるものではない名前を呼ばれた少女は彼の名を呼び返す。
自然にこみ上げる笑みを無理やり押し殺し、自分は怒っているのだと主張するべく眉を吊り上げた。

「トーマ、やて!?」

「彼がそうなんですね!」

「あいつなんじゃな!」

「そうだよ、諸悪の根源なんだよっ」

インデックスはさらに焚きつける。

「しょ、諸悪の根源っ?だ、誰が?」

「お前じゃ!」

「オマエや!」

「あなたです!」

「とうまだよっ!」

ものすごい勢いで正義の勇者パーティーによる糾弾が始まった。
曰く、食は命に等しく大切なことなのだからきちんと飯は食わせてやれ、この子が好きならいつも大切にしてやれ等と、全力の説教が男の全身に突き刺さる。

「オイ、聞いてんのかコラ」

「大事な話なんだよ?」

暫定魔王・トーマの脳は疑問符で埋め尽くされていた。
インデックスはともかく、何故自分は見知らぬパン職人に怒られているのか?
何故ダルシムがこんなところでパンを作って売っているのか?
何故周囲の人間はそれを当たり前のように受け入れているのか?
自分以外の者にはコレが普通の人間に見えているのか?
ならば本物のダルシムが幻術を使ってこの学園都市に潜入しているということではないか。
なんだか物凄い大事件なんじゃないだろうか。
立場は魔術側なのか?炎使いだけに、やはりステイルと仲が良かったりするのだろうか?

いったいどのような事情で『こうなった』のか彼には全く理解できないが、『幸運』のような曖昧なものまで律儀に打ち消す自身の右手には心当たりがあった。
なにしろこの世界は、彼にとっていつも都合が悪くなるように動いているのだ。

「……はぁ」

世界規模のいじわるをひしひしと感じ取った上条当麻16歳。
このたび、人生で何万回目かの口癖を吐き出したのだった。

「不幸だ……!」



[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム3
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Date: 2010/09/30 15:16

『テイルズ・オブ・パンタジア その3』


よく晴れた休日の大通り。
パンタジア出張店舗(トレーラー)脇では人目もはばからず舌戦が繰り広げられていた。
ごはんを食べさせてもらえないのと主張する白き修道女。
異形の関西風インド人を含む若きパン職人が3人、彼らはシスターの味方である。
そして、幻想殺しの不幸男子がひとり。

「だーかーら! 俺は食い物を買いに出かけて、ちょっと色々あって帰りが遅れただけだって!」

上条が弁解を始めて20分が経とうとしていた。
東、冠、河内の3人は上条のその主張により概ね納得したようであったが、インデックスはまだ続けている。

「だって、おなかが減ったんだよ?」

「ちょっとは待ってろよ」

「待ってたもん!ず~っと、とうまを待ってたんだよ?」

頬を膨らませ、インデックスは上条にくっついて袖を引っ張る。
怒っているわけではない。単に上条に構ってもらいたいだけだ。それなりに微笑ましい光景である。
しかしあまり器用とはいえない甘え方であり、上条にとっては単に聞き分けのない子供を相手しているのと同じなのであった。

「だからもうちょっと……」

待てなかったのか。
上条がそう言葉を続けようとしたそのとき、その場にいた全員の耳に悲鳴が飛び込んできた。





「きゃあああああああっ!!」

「うわあああああああ!!!」

あちこちから上がる複数の男女の悲鳴。
尋常ではないモノを目にした、というときに上げるに相応しい絶叫であった。

「な、なに?」

「……あ、あれは……」

辺りを見渡すと、5人は凍りついたように固まった。
その視線の先には────

「なんだよ……あれ……」

見たことの無いモノだった。
正確に表現するなら、映画などで見たことがあるかもしれないモノ。
形としてはヒトである。
服装は、見慣れた学生服がほとんど。
しかし目を背けたくなるような、不気味なほど青白い肌。焦点の定まらない目。
正気を保っているようにはとても思えない表情と、緩慢でぎこちない動き。
細い隙間を湿った風が抜けるような、不安を掻きたてる呻き声。
ホラー映画でしばしば登場する、生ける屍の姿だった。

「ゾ、ゾンビ!? そんなモノが存在するわけ……」

「なんやて!? ゾンビ!?」

「『ぞんび』ってなんじゃあ!? あれはなんじゃ!?」

「お、落ち着け! 本物と決まったわけじゃねぇだろ!」

「でもあれは!」

人が襲われていた。
距離を詰められて掴まれ、噛まれたものは断末魔の絶叫を上げて倒れ伏していた。
逃げ惑うものもいれば、東たちにとっては謎の科学技術──超能力──によって応戦するものもいる。
しかし攻撃を加えられた屍は、見た目通りの不死性を発揮して何度でも起き上がり前進を続ける。

いったい、いつからそんなことになっていたのか?
何故こんなことになっているのか?
疑問はどこまでも際限なく増え続け、たったのひとつも答えが出ない。
恐怖だけが募っていく。

周囲の人間たちと同じように混乱する一堂の中で、ただひとり冷静さを保っている者がいた。

「対象をアガシオンと推測。ヴードゥー教の教義に於けるゾンビに酷似。出現方法から基本構成を召喚術式と仮定して検索を実行」

インデックスである。
何の前触れも無く現れた存在が『魔術に関係するもの』である可能性を感じ取り、自動書記(ヨハネのペン)が起動していた。
脳内に完全な状態で記憶された103000冊の魔道書を超高速で参考、目の前で起きている怪異について分析を行う。

「術式の特定に失敗。魔力反応……なし。既存の魔術及びその応用発展形であるという前提が誤りである疑いが……」

「嬢ちゃん、ブツブツ言っとる場合やないで! はよ逃げんと! ほら、トーマも何とか言ったれや!」

河内がインデックスの肩を掴んで声をかけるが、インデックスは耳を貸さない。

「外見上の行動様式は周囲の人間を追尾、捕食。頭部破壊が有効な攻撃手段であると推測……」

「インデックス、今はいいから逃げるぞ!」

「……」

「インデックス!」

「……うん、逃げないとやばいかも」

上条の声で自動書記は終了し、インデックスは上条の右手を強く握った。
危険なことはしないでほしい、というささやかな意思表示を受け、上条は少し考えてから首を縦に振る。

「……くそっ」

人が死んでいるのだ。これからもっと死にそうなのだ。助けないでどうする、と尚も上条は自問する。
自分に出来ることは、右手であの怪物に触れることだろうか。
しかし、あれが異能の力に関わるものではなかったなら?
例えば未知のウイルスによる感染爆発であるとか……もしもそうだったとしたなら、自分はそのまま喰われておしまいなのだ。
インデックスを放って、自分が死ぬかもしれないことを試すわけにもいかない。
仮にウイルスに類するものでなかったとしても、相手の数が多すぎた。
それでもインデックスがこの場にいなかったら、奴らの横っ面へ拳を叩き込みに走ったかもしれない。
守るつもりでいるくせに、実のところ自分は守られてしまっているのだと感じていた。
しばしば頭をもたげる無力感。
上条当麻は、そういった自責の念を飲み込んだままにするのが大の苦手であった。

「とうま」

「……なんだ」

「とうまは悪くないよ」

「……そうかよ」

「そうだよ」

インデックスの言葉に、まなざしに、握る手の優しさに、上条の心は軽くなりつつ痛む。
気を紛らわせようと軽口の候補をいくつか頭に浮かべたとき、東たちの叫びが辺りに響いた。



「車に乗ってください! 早く! そちらの皆さんも荷台に!」

「怪我人と女子供が優先やで!」

「お前も、お前も立つんじゃ! 気をしっかり持つんじゃ!」

パンタジアの面々が、大声で皆をトレーラーへ誘導している。
そこに恐慌状態の学生たちと、それを追う不死者たちが殺到する。
逃げるなら自分たちだけで逃げてもよかったはずだ。
なのに、まったくの他人を助けるために、命がけで。
彼らとなら、インデックスを守って他の誰かも助ける……その両方が叶えられそうだった。

「……インデックス、先乗ってろ」

「でもとうま……」

「あいつらの手伝いするだけだ。すぐ行くから」

「うん……待ってるね」




東、冠、河内、上条の4人で避難誘導を行う。
幸いトレーラーは大型で、無理やり詰め込むことでとりあえずこの場にいるものだけは助けることが出来た。
全員乗ったことを確認し、河内はアクセルを踏み込んだ。

既に前方は不死者たちが道を埋めている。後ろも横もほぼ同じである。
それでも、踏み込んだアクセルを離しはしない。
そのまま突っ込み、多くの屍を跳ね飛ばしながら、トレーラーは猛スピードで通りを抜けていく。

車体に伝わる音と衝撃、フロントガラスを濡らす鮮血。赤い肉。白い肉。
地面に転がる被害者の亡骸さえも押しつぶしながらトレーラーは進む。

「……胸糞悪いな、これ……」

河内が顔をしかめる。

「仕方無いですよ……他にどうしようもないですから」

冠がフォローを入れるも、あまり効果はない。

「まぁ……そうなんやけどな」

人の形をして歩いているモノを車で跳ね飛ばすというのは、予想よりはるかに心を重くする行為だった。
既に事切れてしまった者の中には、パンタジアのパンを美味しそうに食べていた者がいた。
東のジャぱんシリーズを、冠の酵母にこだわった逸品を、河内の素朴だが遊び心のある力作を、彼らは心から素晴らしいと言ってくれたのだ。
全員の顔をよく覚えているわけではない。しかし、年代や背格好だけでも充分、数時間前の笑顔を重ねることができてしまう。
仕方がないとはいえ、そんな彼らを車で跳ねていく罪悪感が全身を締め付けた。
東はさきほどまで堪えていたものの、唇を噛み、拳を握りしめて涙を流している。

「なんで……なんでこんなことになったんじゃ……ううっ……うぐ……」

「東」

河内が声をかける。

「なんじゃ」

東が顔を上げる。河内はやや顔を背けるようにして、生ける屍を弾き飛ばしながら言葉を続ける。

「気持ちはわかるけどな、東。みんな一緒や。歳はお前や冠と変わらへんけど、あの子らは学生や。お前は社会人で、ようするに大人なんやで。……気持ちはわかるけど、わかるけども、こういう時はしっかりせんと」

諭すような、自分に言い聞かせるような口調。
実際、自分に言い聞かせてもいるのだ。
荷台の中にいる者を含めても、河内は唯一の20代であり、過剰なほど増加した『大人の責任』に押し潰されかけていた。

「そういう……河内だって、泣いとるじゃろが……っ」

「……泣いてへん」

声が震えていた。冠と違い、あまり自分に嘘をつくのが得意なタイプではなかった。

「……じゃあ、俺も泣いてねぇ!」

「じゃあって何やねん。あ、ワイは最初ッから泣いてへんからな」

「それより、何で冠は泣いとらんのじゃ!」

この東のひとことで、車内の雰囲気はがらりと変わった。
空気を読んだ河内が口を揃える。

「そうや!このひとでなしっ」

「えええええ?? ぼ、僕だってムチャクチャ泣きたいですよっ! 我慢してたのに! ああもう、何なんですかもう!」

悲しいのは自分だけでなく、皆が同じ気持ちでいるのだという連帯感である。
かつて様々な苦境を、そういえば何度もこうして乗り切ってきたと思い出す。
このとき3人は、自分たちがパンタジアの仲間であったことを幸運に思った。
独りきりでこの状況に立たされていたなら、二度と立ち直れなかった気がしたのだ。




トレーラーを走らせること十数分。


「……あっ」

東が何か、『酷く嫌なことを思い浮かべてしまった』というような表情で声を上げた。

「なんや?」

「ぞんび、って……『病気』なんか?」

「いや、そんなん聞かれても……作品によるんやないか?」

「河内さん、フィクションの話をしてるんじゃないですよ。現実には……あっ」

冠も東と同じことに思い当たったらしく、声を失った。

「ちょ、またワイは仲間はずれか?」

「ラジオをつけて下さい!」

なにやらブツブツ言いながら、言われるままにラジオをつける河内。
スピーカーから流れてきたのは、嫌な予感が当たったことを告げる音声だった。

曰く。何の前触れもなく、突如としてあの不死者が出現した。
曰く。地球規模で、同時にそれが起こった。
曰く。噛まれたものも、やがてそれになってしまう。
曰く。病院はほぼ機能停止状態である。

「河内、車を止めるんじゃ!安全なところまで行って、早く!!」

「わ、わかった……!」

安全なところなど、どこにあるというのか。
誰もが思っているそんな疑問を頭から押し退け、河内はパンタジア仮設店舗を走らせた。
車が止まったのは、それからさらに十数分後のことである。






「せーの、で開けますよ?」

緊張に満ちた表情で冠が言う。
荷台を開け、もしも手遅れならばすぐさま車内に逃げ込まなければならない。
捕まってしまったらアウトなのだ。

「ちょっと待つんじゃ。『せーの、で』ってのは、『で』の部分で開けるのか、『で』の一拍後で開けるのかどっちじゃ?」

「『で』です」

「『で』やな」

ローカルルールの確認を終え、呼吸を整える。

荷台の扉に手をかけ────

「せーの……」


「でっ!!!」




ぎぎ、と軋む音と共に目に入ってきたのは、全員無事な状態でひしめき合う学生たちの姿だった。。
怪我をしていたはずのものも、まるで何事もなかったかのような状態である。

「は……?」

「え?」

「なん……やて……?」

惨状を予想し、せめて誰かが無事であってほしいと願って開けた結果がこれである。
呆気にとられた3人に向かって、幻想殺しが親指を立てていた。



[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム4
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/10/03 21:19
『テイルズ・オブ・パンタジア その4』



「いったい何が起こったんですか……」

「お、お前ら、怪我はどうしたんじゃ?」

全員無傷。予想を100%下回る被害状況である。
なにせ怪我人が何人もいたはずなのだ。
衣服の破れも元通り、付着した汚れさえも綺麗に消え去っていて、これはどう考えてもおかしなことだった。

「おいトーマ、これどういうことやねん?」

訊ねられた上条はいくらか戸惑いながら、荷台の中であった出来事をかいつまんで話し始める。

「あのゾンビみたいなのにやられた連中が、突然襲ってきたんだよ。それで……」

「それで?」

「あぁ、うん、その、な。……どう説明すりゃいいんだろうな……」

上条は自身の右手のことを話すべきかどうかしばし考える。
基本的には隠しておきたい能力だ。
ただでさえ不幸を招き寄せる右手である。広まればどんな面倒が降りかかってくるか想像もできない。
しかしこの状況。できるかどうかわからない保身のために隠しても、メリットはあまりなさそうだった。
この際話してしまった方がいいと結論する。

「真面目に聞いてくれよ? 俺の右手はさ……」

上条はまず、幻想殺しの能力について説明を試みた。
しかし東たちは学園都市の人間ではない。上条の説明は受け入れがたいものがあった。
東たち自身、様々なリアクションを何度も見てきたことで怪現象については少なからず理解があったのだが、それを超能力だと言い張る相手は初めてだったのだ。
そもそも、実際に見るまでは超能力などと言っても簡単には信じられないものである。
上条は超能力の存在を他の学生たちによって証明しようとするも、見事なまでにレベル0=無能力ばかりであった。
彼らは戦闘という選択肢を初めから除外し、必死になって逃げた者だった。

トレーラーの荷台は人が座るように作られていない。
そうするしかなかったとはいえ、支えも無く外が見えない状態で、右に左に強いGをかけられながら移動したことで体力もかなり消耗している。
他にも多くのものが極度のストレスと『さらに中で起きた出来事』によって意識を失っていた。

なかなか話が進められず、いつまたあのゾンビのようなものたちが襲ってくるかという焦りが皆をを苛立たせていた。

「なぁ、あんたらだって似たようなことやってんだろ? 何を隠してるか知らねぇけど、とぼけたって普通の人間じゃないことぐらいバレてんだよ。こういう状況だし、隠し事とかやめにしねぇか?」

上条はやや斜めに構え、緊急の事態──戦闘──に対処すべく膝をやや落とす。
軽い声色、気安い口調ながらもその内心は緊張が高まっている。
パンタジアが隠している何かが、現在起こっている何かとは関係が無ければよし。
関係があれば、今ここで決着をつける必要があるかもしれない。
『秘密の開示』は相手にとってそういう意味合いを持っているかもしれないのだ……上条はそう考えていた。

「出来ませんよ、そんなこと」

しかし、冠はさらりと否定する。

「疲れてるんじゃな? 辛いとは思うんじゃが……絶対俺たちがちゃんと安全なところまで連れて行ってやるから、もう少し頑張るんじゃよ。な?」

「そうやで、トーマ。漫画やないんやから、テレポートなんて出来るわけあらへん。頭冷やし」

東もそれに続き、河内が締める。
パン屋さんは常識ある大人として、気が動転してしまった思春期の若者を導いてあげようとしていた。
すれ違いは続く。

「いや、あんたが言うなよそれを。絶対出来るだろテレポート」

勿論、上条も退かない。
この印度風関西人の正体がダルシムであるならば、それぐらいできなくてはならなかった。

「そんなん、やったこともないし……いや、できるんかな? その辺ちょっと微妙やわ」

「なんで自身薄なんだよ? 絶対できるって」

「そんな励まされてもなぁ」

「励ましてねぇよ。っていうかやや認めたよな今? 『そう』なんだよな?」

「ハゲは増してるんやけどな」

「くだらねぇよ! オッサンかよ」

「なんやて!? もういっぺん言ってみぃ、コラァ!」

「だぁぁぁっもうめんどくせえな! ……あんた、河内っていったか? ちょっと手貸せ」

河内という男が使っている術を解くつもりだった。
幻想殺しで幻術を消してしまえば、全員が彼をダルシムだと認識するに違いないのだ。
軽率だったかと一瞬迷うも、彼らを信じたい、という気持ちががやや上回っていた。



上条が河内の右手を掴む。

「何やねん? 男に手ぇニギニギされて喜ぶ趣味は……」

「俺もねぇよ」

接触から4秒。河内をダルシムたらしめていたモノが打ち消される。

「お……お?……おおぉ!?」

カビの繁殖を捉えた映像のように、掴まれた部分を中心にしてダルシムの外殻にひびが広がっていく。
原子レベルで分解されていくインド細胞。
変身に使っていたエネルギーが還元され、上書きされていた関西人の輪郭が形作られる。
光の粒子が渦巻き、本来あるべき姿が再構成されていく。
ほんのひと呼吸ほどの時間で、河内恭介は再びこの世界に顕現した。
服装も半裸からジーンズとTシャツになっている。

「え……?」

予想を裏切る変化に上条は戸惑う。

「おお! 超能力! これが超能力か! うわぁ疑ってスマンかった! 『異能を打ち消す』ってこういうことなんやなぁ。リアクションも戻せるんか。いやスゴイで、ほんま」

握った手はそのまま握手に変化し、上条にとって初対面の金髪関西人は心から喜びの声をあげる。
口では平気のようなことを言ってはいても、やっぱりいつまでもダルシムは嫌だったのだ。

「か、河内さんが河内さんに戻った!!」

「うわぁ、ひさしぶりじゃなぁ! おかえり河内!」

「おうおう、ただいまお前ら! やっぱ自分の身体はええなぁ! ふるさとって感じやわぁ」

「いやいやいや、おかしいだろ! ど、どうなってんだよ?」

幻想殺しによって、上条の頭の中に描いていた様々な背景も打ち消されてしまった。
自分が何か勘違いをしていたのだということぐらいはすぐに理解するのだが、何をどう勘違いしていたのかわからない。
もしも上条が『焼きたて!! 25』を見ていたなら、『リアクションは異能』だと理解できたかもしれなかったが、見ていなかった。
他の生徒たちは見ていたようで、それなりに驚きながらも比較的素直に河内の変身を受け入れていた。
上条がその辺り説明を求めるのだが、

「ええと、東のパンをやな……お?」

元に戻ったはずの河内は、上条が手を離すとすぐにダルシムに戻ってしまった。

「は……? なんで……」

再び会話が中断される。
わからないことだらけだった。

「トーマ……これって触れとる間しか戻せへんのか?」

見るからにがっかりした河内は上条の右手に触れ、また離したり触れたりして関西人と印度人を何度も切り替える。
どう見ても身体に悪そうである。

「待て待て、あんま無茶するなよ。俺の心臓に悪いし……あー、たぶん、常に変身を続けてるんじゃないのか?」

「じゃあ、それやな。厄介やなぁ。結局戻るまで待たなあかんちゅうことか……で、トーマ。車の中で何があったんや?」

「あぁ、さっきと同じだよ。噛まれた奴だと思うんだけど、そいつらが『あいつら』と同じように襲ってきて、で、この右手で」

上条が右拳を握って見せる。
触れた、というより殴ったという表現が正しそうだった。

「元通り、っちゅうわけか」

「そう。つまり……あのおかしな連中は、ウイルスみたいなものじゃない、『異能の力』でああなったってことだ」

「彼らは、触れていなくてもまたゾンビみたいにならないんですか?」

「もしそうなるんなら、とっくにそうなってると思うぜ。変化を維持されてないってことだな。河内みたいなのはどっちかっつーと例外なんだよ」

「なるほど……そうですか……」

冠の表情が曇る。

「……?どうした?」

「説明しているヒマはなさそうですよ」

視線の先を追っていくと、安全だと思われた人気の無い駐車場がもう安全ではなくなったのだとわかる。

「……! あいつらっ!」

その数はざっと10人。多くはないが、決定打を与えられるのが上条だけである以上、やはり相手のほうが多勢であるといえた。
後続がどれくらいいるかわからないが、あまりもたついていて更に増えたら目も当てられない。

「逃げるで!みんな、しんどいやろうけど車に乗るんや!」

河内の声で、外に出ていた生徒たちは荷台へ転がり込んだ。
涙をこぼしへたり込む女生徒に他の男子生徒が声をかけ、手を引いて荷台に乗せる。
『安全なところへ』というシンプルな目的が彼らを支えていた。

「先に乗っててくれ。見たろ? 俺なら、あいつらを元に戻せる」

上条が拳を握り締める。

「アカン。怪我せんとも限らんやろ?」

「それでも、今助けられるかもしれねえんだぞ!放っておいていいのかよ!」

悲痛なほどの叫び。

「トーマ……」

「まだ10人ぐらいなら乗るだろ? ほっとくのかよ? せめて助けられる人だけでも助けなくてどうすんだよ? ただ気が向いたから俺たちを助けたわけじゃねえんだろっ! あんたたちなりの正義があったからだろ! なら今助けなくてどうすんだ! 延ばしてやれる手がまだあるじゃねえか! そこにいるあいつらならまだ間に合うんだ! 助けてやろうぜ、なぁ!パン職人!」

上条の他人に対する感情移入の深さは、東のそれを凌ぐものがある。
この場における能力の使い道がはっきりしたことで、上条の使命感が強く後押しされていた。
河内にもそれが伝わる。そうしたいという思いは初めから同じなのだ。
上条の意思は固く、河内にはそれに対して否と言うことができなかった。

「……冠、東。先乗っとき」

「河内さん!? 何を……!」

「ワイとトーマであいつらシバく。 目ぇ覚まさせてやらんと」

「でもあなたは……」

「やっぱりワイも、出来る限りのことはしたいねん。他の所であの子らをまた轢き殺すことになるかもわからん。けど、そうせんでもええうちは、そうしたくないんや」

その言葉を皮切りに、河内と上条は地を蹴った。






「覚悟しいやっ!」

河内がゾンビの集団に向けて跳び上がる。
約2メートル。驚くべき跳躍力。空気の流れを操っているかのような、羽毛のごとき滞空力。
高度が頂点に達した時点で河内は脚を揃え、右回りに回転を始める。
鋭く変化する放物線。大気を切り裂いて掘り進む、ドリルを模した蹴りが集団へ迫る。
先頭を歩いていた者の下腹部をえぐるように足先を当て、重力に任せてその後方に着地。
立ち上がりと同時に前蹴りを放ち、距離をとりつつ集団の態勢を崩すべくさらなる一手。
その場にしゃがみ、両腕を伸ばして足を取る。
そのまま引き戻し、先頭を歩いていた二人のゾンビが転倒した。

「どや……お前ら 『障害物』は、避けれるんか?」

転倒した二人のゾンビ。後続がつまづくことを予想したのだがそれは外れる。
しかし、密集陣形を崩すことには成功していた。

「トーマ、各個撃破や! 気ぃつけてシバき!」

「あぁ!」

河内が手足を伸ばして転ばせ、上条が触れる。機械的なまでに単純な繰り返しだった。
時間にして1分にも満たない短時間で、上条が全員に触れるという勝利条件は達成された。
更なる後続を警戒して周囲を見渡したところ、とりあえずまだしばらくは大丈夫そうであった。
そうして混乱の最中、一同はしばしの休息をとることができた。

生徒たちは絶えず携帯で電話をかけ、情報交換を行う。
無事な者も少なくないようで、学校や自宅に立てこもったという友人たちの声を聞き、皆の希望に光がともる。
食料こそないものの、自動販売機がそばにあったことで水分だけは確保することができた。
安心し緊張が解れたことで、今ほとんどの生徒が荷台の中で眠っている。

起きているのは東、冠、河内、そして上条の4人。
そして女生徒の枕になった男子生徒が数名、がちがちに固まっているのみだった。



「しっかし……またおかしなことになったなぁ。なんやねんこれ」

河内が首を捻る。ダルシム特有の柔軟性を無意識に発揮し、110度ほど捻っている。

「だからそういうの、心臓に悪いっつの。まぁ確かに、こうなるとは思わなかったけどな」

上条に触れられたゾンビたちは皆、もとの人間には戻らなかった。
10人のゾンビたちは上条の幻想殺しに触れられた後、少量の白い粉に変化していた。

「なんだろうな、この粉……」

「冠なら何かわかるかもしれん。聞いてみよか。おい、冠!ちょっとコレ見てくれへん?」

「あ、はい、今行きます」

どこかに電話をかけていた冠を呼びよせ、謎の粉を見せる。
粉を見るなり、冠は即座に顔色を変えた。

「これは……」

「あぁ、これは、間違いなく小麦粉じゃ……!」

東の顔も、冠と同じように青ざめている。
小麦粉だということを見抜けなかった河内が若干落ち込んでいるが、誰も気にしない。

「な、なんで小麦粉なんかに……」

上条のもっともな疑問に対し冠はしばし考え、

「……さっき『組』に電話しました。安全の確保はできているそうです。こちらの人数を伝えたところ、全員保護してくれるそうです。続きはそちらで話したほうがいいと思うんですけど、どうでしょうか?」

と、なるべく平静を装いながら提案する。

「組?」

「冠の実家、ヤクザやねん」

日本最大の暴力団、橋口会の若き組長の……弟である。

「そ、そうなのか……わ、わかった」

「では、向かいましょう」







学生たちを乗せて、トレーラーは学園都市の外へ。
徘徊するゾンビもどきたちを避け、あるいは跳ね飛ばしながら冠の実家へと急ぐ。
車内では、河内が不満を述べていた。

「ワイにも教えてくれたってええんとちゃうの? 何かわかったんやろ?」

よく仲間はずれにされる河内だが、平気なわけではないのだ。

「あの場で言うわけにもいきませんからね。……おそらく、『魔王』ですよ」

「なっ、なんやて!? アレはもう……」

「倒しました。ええ、確実にあの魔王は倒しましたよ」

「だったら……」

「思い出してください。魔王となった霧崎は、どんな存在……いえ、どんな生物でしたか?」

3人の脳裏に、悪夢のようなその姿が蘇る。
人間とパンのハイブリッド。
全身がパンで構成された、邪悪な意思を持つヒトガタ。
パンに対する妄執が生んだ、哀しい怪物。

「ヒューパン、じゃ……」

東が小さく呟く。
人類最初のヒューパン・魔王霧崎は、東がパン職人を志すきっかけになった人物なのだ。
霧崎の見た夢の成れの果てを思い出すたび、東は言葉に出来ない寒気を覚えていた。


その始まりは、世界最高のパン職人・霧崎雄一が『毎日食べたくなるようなパン』を目指したことだった。
フランスパンやイギリスパンに並ぶ日本のナショナル・ブレッドを求めて試行錯誤を重ね、ついに禁断の解を見つけ出す。
そのパンの名は『魔王』。
いつしか歪み始めていた願いの結晶は、やがて食べた者の人格を支配するほどの意思を持つに至る。
魔王の意思は食べた者の精神を乗っ取り、肉体を凌駕し、ヒューパンへと変化させるという恐るべき効能を持っていた。
製作者である霧崎雄一は幾度もの試食を重ねるうちに、身も心も魔王に成り果てたのだった。

ヒューパンを食べた者もまたヒューパンとなり、魔王の支配下に置かれる。
この性質に目をつけた魔王霧崎は、全人類をヒューパンに作り変えることによる世界征服を目論んだ。
最終的には、東たちによって倒されたのだが……

冠が危惧しているのはその後である。
河内は冠の表情から、ようやくその意を汲み取った。

「そうかっ! 黒やんや! 黒やんは、ワイらを守るために魔王に従うヒューパンを全部食いよった!」

「……そうです。元々、あの人はとんでもないリアクション能力の持ち主でした。そんな黒柳先輩が大量のヒューパンを食べたんですから……いいですか皆さん。最初のヒューパンは『魔王』だったんです。魔王そのものは既にこの世にありませんが、ヒューパンの中には魔王の因子が眠っている可能性があります。そして、もしも魔王の因子が残っていたのなら、それに対して黒柳先輩が……あの超味覚審査員・黒柳亮がリアクションをとらないわけがない……っ!」

声の震えを隠すように、冠は語調を強める。
高いリアクション能力の持ち主は、そのリアクション能力によって肉体や精神までも変質させてしまうことがある。
そして、変身に馴れた体はやがてさらなる領域に飛躍し、世界そのものに影響を及ぼすようになる。
事実、黒柳やピエロは時間を遡って過去を改変したし(記憶も改変されるので東たちは気付いていない)、河内は大陸を海底から切り離して浮上させた。
彼らは世界を根本から作り変えたのだ。
もしも魔王が世界の改変を行ったなら? そんな恐怖が、細い指先を震わせていた。

「つまり、黒柳のおっさんが……魔王になっちまったのか!?」

「それならば、この一連の現象についてはいくらか説明ができます。リアクションが行われるとき、多くは食べたものの味やコンセプトからの『連想』を元にした現象が起きますよね。以前『お好み焼きサンド』を食べた黒柳先輩が、その語感から『小野小町さん』になって歌を詠んだように、『連想』はリアクションの中でも重要な意味があります。そして、今起こっているゾンビの襲来。これは、恐らく……ヒューパンを食べたんじゃないでしょうか」

「なんやて!?」

「ヒューパンを食べた者は、ヒューパンになるんですよ。ゾンビに噛まれたらゾンビになる……ネズミ算式に増えていく。その類似から、ゾンビがあちこちで出現したと考えれば説明できます。吸血鬼などでもよかったのかもしれませんが、ヒューパンには弱点らしい弱点が見当たりませんからね。小麦粉になったゾンビたちは、『連想』によって作られたリアクションそのものだと考えれば、突然現れたという点にも納得がいきます」

「で、でも、前はヒューパンを食っても黒やんはヒューパンになった『だけ』やったやないか!」

「『生物濃縮』ですよ。有毒物質で汚染されたプランクトンをイワシが食べ、そのイワシをイカが食べ、そのイカをアシカが食べる……というように食べられていった時、アシカに集まる有毒物質は大変な量になり、アシカが大量死するなどの現象がおきます。それと似たようなプロセスで魔王の因子が蓄積されたんですよ。『魔王』というパンは生半可なパンでは及びもしないほど美味い。黒柳先輩のことだ……自らヒューパンを増やして食べていたんでしょう。どの時点で完全な魔王になったのかわかりませんが」

車内は重い空気に包まれた。
魔王を倒し切るにはヒューパンを根絶するしかない。
しかし、黒柳と言う男の凄まじさを3人はよく知っている。
黒柳はヒューパンであることを自分の意思で受け入れていたし、元々パンのためなら本気で何でもする男である。
美味いパンの為なら死んでもいいという男なのである。
霧崎のように内部での葛藤が起こっていたなら、あるいは分離することも出来たかもしれないが。

「どうすりゃええんや……黒やんは喜んでヒューパンになった男やで。あの黒やんをどうにかできそうな手なんて……」

「…………ありますよ。きっと、ひとつだけ」

暗い瞳で、冠が呟く。唇がからからに乾いていた。

「ど、どうすりゃいいんじゃ?」

冠はしばらく黙っていたが、絞り出すような声でぽつりとひとこと呟いた。

「……44号です」

「なっ、それはっ……!」

史上最強のジャぱん・44号。
以前、これを食べた黒柳がその美味さのあまり心臓が止まり、魂が天界まで昇ったという、いわく付きのパンである。
後に蘇生したのだが……

「もう二度と目覚めないような『究極の44号』で、完全に息の根を止めるんです……」

これが冠の出した答えであった。
重かった空気が、更に重くなる。

「黒柳のおっさんを……殺すってことか……?」

「なんちゅう……そんな人を殺すようなパンなんて……」

「僕だって嫌ですよ!他に方法があるなら、教えてくださいよ……」

「く……っ」

リアクションの存在は、リアクションでしか倒せない。
それは河内が一番よく知っていた。
物理攻撃の完全無効化などという性能を誇る魔王を撃滅したのは、リアクション能力で強化した『魂の拳』だったのだ。
黒柳とヒューパンを分離することが出来ないならば、44号を使うしかない。

「霧崎のおっさんが目指したジャぱんは、俺が受け継いだんじゃ……決着は、俺がつけないといかんのじゃな……」

「僕も、一緒に戦います……ですから……」

「……きっついな……でも、しょうがないんやろうな、たぶん」

悲壮な決意が固められていく。
もう、誰も言葉を発しなかった。
長い付き合いである。何も言わずとも、何もかもわかっているのだ。
ここからは口に出すことができない、とわかっている。
冠の実家に到着するまで、3人の脳内では何度も繰り返しある言葉が駆け回っていた。


それは禁断の言葉、『殺す覚悟』。



[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム5
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/10/09 16:24
第二章
『だるしまざるもの』


冠の実家にて保護された生徒たちは、強面の男たちに囲まれてびくびくしながらも、とりあえずの安息を取り戻した。
そんな中で、パンタジアの3人はやはり、暗く沈んだ表情を隠しきれないでいた。

「僕らは一度店に戻ります」

その主張が認められるまでにひと悶着あったのだが、どうにか反対を振り切ってパンタジアの3人は車に乗り込んだ。
普通のパンを作るために必要な材料は間に合っているのだが、『ジャぱん44号』を作るために欠かせない道具が店に置いてあるのだ。
知る人ぞ知る、鉄の10倍以上の遠赤外線を放出するという『ペターライトの板』である。
それをオーブンに敷いてパンを焼くだけで、石窯で焼いたような仕上がりを得ることができる魔法の板である。
もちろん、ただそれを使ってパンを焼くだけでは黒柳の魂を彼岸に届けることは出来ない。
車での移動中、東たちは具体的にどのようなパンを作るかという会議をしていたのだがしかし、当然のように話は弾まなかった。
人を、それも旧知の人物を殺害するためのパンを作るというのは、並大抵のことではないのだ。



一方、残された上条とインデックスと学生たちは客間で『焼きたて!! 25』のDVDを見せられていた。初回限定版である。
隣には『解説』という名の『身内の自慢話』を続ける暴力団組員のみなさん。
はぁ、と気の無い相槌を打つ上条とノリノリのインデックスの間に、どうしようもない温度差を孕みながら鑑賞会は続く。

「なるほど! 感動を核に展開する変化の術式だから、右手では根本までは消せなかったんだね! 体験や感情には物理的に触れられないし、それ自体は異能ではないからかも! でも、あのパンを霊装化する技術はいったい……」

「普通の人間じゃ、あんなふうにはならねえし個人差もあるんだ。一部の才能ある者が成した異能なんだから、どっちかっつーと科学側なんじゃねえの?」

魔術側として考察するインデックスに対して、上条も科学側としてそれなりに考察する。
魔術VS科学。妙に熱っぽく交わされる非現実的な会話にあてられた強面のおじさんも、意味がわからないまま首を突っ込んだ。

「オレの見立てだと、ありゃ料理側だろうな。うん」

「何なんすかそれは……」

「それか、職人側とかな。どうだ、かっこいいだろ」

「そういう問題っすか?」

「ベーカリー側っつってもいいんだけどよ、オレの地元に五番町飯店っつう中華料理屋があるんだよ。そこにも似たようなのが……」

「い、いるのか!? 似たようなのが?」

どうやら学園都市の外側は人外魔境であるらしい。
『おめーも社会に出れば色々なことがわかるようになる』と言われるのだが、上条には信じがたい事実であった。

「名前は何つったかな……秋……秋山……なんか珍しい漢字が一文字なんだよ。何だったか……『厨』? じゃねぇし」

「珍しい漢字……『澪』とか、ちょっと珍しいかも?」

インデックスが名前の候補を挙げる。

「おお。お嬢ちゃん、日本語よく知ってるなぁ」

「むしろ日本語を話していた記憶しかないんだよ」

「ははは、そうかそうか」

インデックスは余程気に入られたらしく、お菓子やお小遣いなどを貰ってご機嫌だ。

「……で、合ってるのか?」

空気を読んだ上条。一応名前が合っているのかどうか訊ねてみるのだが、

「知らねぇよ。合ってるんじゃねぇの?」

「わりとどうでもいいかも」

おじさんは日本茶をすすり、インデックスは本当にどうでもよさそうに畳をざりざりと撫でている。

「…………そーですか」

ここでも置いてけぼりの上条さんなのであった。



不幸だ、と呟きながら上条は屋敷の外に想いを馳せる。
カカカカカー!と笑いながらカラッと揚げて甘酢と辣醤を絡めたゾンビを料理評論家のOさんに食わせたり、泣きながら苦し紛れに投げたピックでゾンビの眉間を射抜いて倒してしまったファイヤーガンズな秋山さんの雄姿を上条は知るよしも無い。
しかし、きっと誰もが必死に生きようとしているのだと感じていた。
ビリビリは今もどこかで元気にビリビリしているだろうし、土御門や青髪がやられる姿だって思い浮かばない。
あの不死性を理解していて、丸腰で戦ったり囲まれたりしなければ、とりあえずその場はなんとかなる相手なのだ。
希望を捨てたものはまだいないはずだ。

とはいえ持久戦ともなれば話は変わってくる。
いつまでもこのままでいれば、いずれは守りも食い破られてしまう。
時間がこちらの味方ではない以上、攻めの姿勢が必要だと思われた。

そこで、徐々に集まる情報を元に、上条はこの危機的状況を打破するための方策を練ることに。
この事件は何が原因となって引き起こされたものであるのか?
インデックスの言葉によれば、『魔術によく似た、魔術として解析できない異能』が関わっているらしい。
河内の変身と、DVDに収録されている黒柳という男のリアクションは非常によく似たものであるという。
黒柳については『CGや特撮ではない』と、現場に立ち会った複数のおじさんも証言している。
そして、ゾンビたちの在り方もまた、彼らの持つ異能と同じ種類のものである疑いが強い。
さらに、超能力という観点から見ても、河内の持つ異能はあまりに異質すぎた。

科学側でも魔術側でもない、新たなる勢力の存在。
存在するというだけなら別にどうということはない。
しかし、こんなことになった以上無視することはできない。
河内たちに聞きたいことが山ほど浮かび上がってくるのだが、残念ながら今はいない。
パンタジアの3人が危険を冒してまで店に戻ったのは何故か。
彼らは冷静だった。この状況で営業などできるはずもなく、それがわからない連中ではない。ならば何故?
『パン職人が店を守るのは当然』と言って出て行ったものの、どう考えてもそれだけだとは思えない。
ゾンビが小麦粉化したことに関係があるのでは、とは思うものの、具体的にどう関係するのかはわからない。
犯人に心当たりがある、ということだろうか?
全貌は見えそうで見えてこない。
何か、妙な引っ掛かりを感じるのだが……

「……うーん。考える角度を変えるか」

別の視点から考えてみる。
この事態を引き起こした犯人は、何を求めているのか?
テロだとしても、誰も何も主張していない。誰も何も求められていない。
全世界を巻き込むこれが、ただの愉快犯だとは考えにくい。
まるでこの世界を滅ぼそうとしているかのようではないか。

「バカな。RPGかよ」

外に出ればモンスターがいて、世界のどこかにラスボスが?
そんなバカなことがあるか。そんなバカなやつがいるものか、と上条は苦笑いを浮かべた。

どうやらまだ情報が足りないようだと結論し、さらに詳しい話を聞くことにする。

「この黒柳って人みたいなリアクションのすごい人って、他にもいるんですか? 秋山? でしたっけ」

「あぁ、いや、秋山ナントカは食わせるほうだからな。オレの知ってるのはこの黒柳と、あとお前らが一緒だった河内って奴だ。あぁ、そうそう。モナコにもひとりすげぇのがいるぞ。ピエロの格好してる」

「日本にいるのは二人、か……」

「他にも何人かいるらしいんだけどな、オレが知ってるのはそんだけだな」

「……そうっすか。どうも」

恐らくあのパンタジアの3人に何か聞いても話さないだろう。彼らは何かを隠している。現に、何度かはぐらかされている。
ならば、この黒柳という男に話を聞くのが解決の糸口になるかもしれない……そう思った上条だが、ひとりで動こうとすれば誰かがついて来てしまいそうだった。
自分は右手があるので対ゾンビは大丈夫だが、守りながらとなると少々厳しい。
本社勤務であるという黒柳に電話をかけても、この状況で通じるとは思えない。

結局、今は彼らの帰りを待つしかないのか。そう思って溜息をついたとき、状況は再び一変した。




ふわり、と紅茶の香りが鼻をくすぐる。
乾いた大気の肌触り。シャンデリアが演出する、静かながらもきらびやかで優美な雰囲気。

「ん……紅茶? シャンデリア?」

一瞬の眩暈と、逡巡。
堂々としすぎて逆に簡単には気付けないほど、在り得ない違和感がそこにあった。

「……あれ? ここ、たしか畳だったよな……あれも障子だったよな……?」

確かに和室だったはずである。
しかし、今目の前にあるのは明らかに和室ではなかった。
畳に座布団を敷いて座っていた面々は今、テーブルを囲んで椅子に座っている。

「は……? な、なんで俺も椅子に座ってんだ……?」

おまけに靴まで履いている。
TVもDVDも姿を消している。代わりに、そこには緻密な装飾で彩られた鏡が置いてある。
幻覚の類かと思い自分の頭や椅子などに触ってみても、何も変わらない。

「……マジかよ」

右手が『これは現実だ』と証明している。
何かがおかしい、とすれば自分の頭がおかしい?まさか。
今までずっとそうだったかのように、誰もそれを気にしていない様子で雑談をしている。
まるで喫茶店でお茶でもしているかのように……いや、本当に喫茶店なのだ。
ウェイトレスらしき女性が飲食物を運び、座っている面々は思い思いに注文をしている。
いらっしゃいませという言葉がぽんぽん出るあたり、これはもう完全にお店であった。

「お、おいインデックス!」

「なに?」

「お、おかしいだろこれは! ど、どういうことだ? 何かわからねぇか?」

「え? 別に何もおかしくなんかないんだよ?」

言葉どうりの表情で、インデックスはケーキを頬張る。

「い、いや、だって今まで和室だったじゃねぇか! お前が今食ってるそれも、羊羹だったろ?」

「わしつ? ようかん? ……ってなに? ごめんね、ちょっとわからないかも」

「だから、ここは日本古来の内装だったし、お前の食ってるのも日本古来のお菓子だったろ?」

「にほん? ってどこ? ハルケギニアにそんな国はないんだよ?」

「はる……? な、なんだって?」

インデックスが日本を知らないわけがない。
だというのに、全く知らない様子である。嘘をついている様子でもない。
そして今、インデックスは何と言ったのか。
急速に失われていく現実感に、上条は戦慄する。
おかしいのは自分なのかどうか。
突然に姿を変えた世界で自分だけが取り残されていると確信してしまう、そんな不快感には覚えがあった。

『御使堕とし(エンゼルフォール)』。

人の外見と中身が入れ替わってしまうあの不可解な現象が上条の頭をよぎる。
誰も気付いていないらしい、という点もよく似ている。
そして、このたび入れ替わったのは、世界そのものだと思われた。
しかし、本当にそうか?
そうだとしても、いったい、自分の知っている『世界』は『何』と入れ替わってしまったのか?
上条の混迷は深まるばかりである。

「ハ ル ケ ギ ニ ア だよ。 とうま、どうしちゃったの? そんなことを忘れるなんてどうかしてるんだよ」

「待て、待て。その『はるけぎにあ』っつーのは、何だよ?」

「ハルケギニアはハルケギニアだよ。この大陸の名前だよ」

「大陸……? いや日本列島だろ? 極東の小さな島国だぞ? 魔術側じゃ、そういう呼び名なのか?」

「にほんれっとー? なにそれ? あ、ロバ・アル・カリイエのこと?」

「ロバ……?」

話が噛み合わず、これはいよいよ異常事態だと思い上条は嫌な汗をかいた。
インデックスの口から出てくる横文字らしき単語はどれもこれも意味がわからず、また上条の主張はどう説明しても伝わらない。

「もう! とうまって全然ものを知らないんだね! しょうがないなぁ。将来どこかで恥をかく前に、私が教えてあげるんだよっ」

インデックスは腰に手を当ててふんぞり返り、『いまさら人には聞けないハルケギニアの常識』と銘打って講義を始めた。






ハルケギニア大陸とは、上条にとって『ヨーロッパ』に似ていて、しかし根本的に異なるものであるらしかった。
6000年前にブリミルという魔法使いがどこかから現れ、人々に伝えた『系統魔法』。
それにより生まれた魔法使いの血統、『メイジ』の存在。
全てメイジで構成される貴族と、非メイジである平民の関係。
大陸全域で信仰され、ほぼ全ての思想的根拠となる『ブリミル教』。
夜は赤と青に耀くという、ふたつの月。
浮遊大陸アルビオン。
東の砂漠に住まうという、エルフ。
ハルケギニアの常識が、上条の世界を次々に打ち破っていく。

「な、なんつーか……ファンタジーだなぁ」

オークだのドラゴンだのまでいるそうである。
これはもしやラスボスとかいるんじゃないか、などとわりと本気で考えてしまいそうになる。

「ファンタジーなのはとうまの頭なんだよ。とうまの頭に何が入ってるのか、もう私にはわからないんだよ」

まるで可哀相な生き物を見るような目でインデックスは上条を見つめ、『とうまは私が守ってあげるんだよ』などと囁きながらぎゅっと頭を抱いて撫でた。結構な屈辱であった。

「……よしなさい」

「大丈夫なんだよ。教会は迷える子羊を見放したりはしないんだよ」

「大丈夫だから人目を気にしろこの噛みつきシスター。……って、教会? ……な、なぁインデックス、お前自身は、どこに所属してるんだ?」

インデックスは、十字教徒であるはずだ。
修派は旧教(カトリック)。
イギリス清教内、第零聖堂区、『必要悪の教会(ネセサリウス)』に所属する魔道書図書館であるはずだ。
反カトリック的であるとされる103000冊の魔道書を完全記憶能力によって記憶している修道女。それが彼女。
正式名称、Index-Librorum-Prohibitorum。 略称、『禁書目録(インデックス)』。

上条は記憶を失って以後もそれを聞き、確かに覚えている。
しかし『この世界』にどうやら適応しているらしいインデックスは、いったい何者としてここにいるのか?
ハルケギニアにイギリスは存在しないのだ。
ブリミル教とやらとの折り合いはどうなっているのか?

どこかに綻びがあるはずで、その綻びは事態収拾の糸口になると思われた。

「ブリミル教、旧教のひとつで、聖ジョージ大聖堂を核とするアルビオン清教だよ。そこの『必要悪の教会』っていうところに所属してるんだけど、それがどうかしたの?」

「……あー。うん、いや、ちょっと気になっただけだ」

矛盾点を探し、その元を辿っていけばいい……はずだったのだが、どう考えればいいのかわからない。
イギリスがアルビオンになっているらしい、ということぐらいはわかるのだが……

「あ! 超能力! 超能力者はどうなってるんだ?」

「あぁ、最近問題になってる錬金術の研究成果だね。ゲルマニアで熱心に研究してるって噂だけど、私はちょっと詳しいことはわからないかも。っていうか、そっち方面ならとうまのほうが詳しいと思うんだよ」

「錬金術って……嫌な予感しかしないな」

たぶん科学側、ということにしておく。
上条の知る錬金術師、アウレオルス=イザ-ドは元ローマ正教の所属である。
どちらかというと魔術側であり、科学の旧き名とされる錬金術とは少々趣が違うと思われた。

魔術と科学は相容れない。
魔術とは『才能のないもの』によって編み出されたものであり、超能力は才能のあるものを人工的に作り出す試みの末に生まれたものである。
超能力者が魔術を使おうとすれば命に関わるし、魔術師が能力開発のカリキュラムを受ければ魔術が失われるのだ。
しかし『魔法』は『魔術』と違って『才能のあるもの』にしか使えない異能だという。
そういった意味で超能力を研究しているのなら、そこに矛盾はないかもしれない。
故に、こちらも手がかりとしては弱い。

ならば、と、魔術と魔法の違いについて突っ込んだ質問をしてみても、『修派や個人によって杖の形態は違う。小さな装飾品や武器、魔術文字を描いた紙片などを杖として使用する術者も珍しくはないし、魔術のように見える魔法や魔法に見える魔術もある。魔力、つまり精神の力を用いるという点で魔法と魔術は基本的に同じものだといっていいかもしれない。系統魔法については血統が重要になるのだがしかし、魔術によって再現できるものばかりである。プロセスに違いこそあれ、やはり魔力を用いて現象を起こすという点では同じものであり、逆に言えばある現象を起こすため、どのプロセスにどれだけ固執するかが信仰の差であるという考えかたが主流。平民が魔術を使えないのは、貴族がその技術を秘匿しているからで……』などと上条には理解しにくい解説が延々続いてついていけないのだった。

「はぁ……」

そうかといってこのままにしておくわけにもいかない。
誰もこの怪現象に疑問を抱いていない以上、なんとかできるかもしれないのは上条だけであると思われた。
世界の命運のような何かを突然背負ってしまった感のある上条、次々に立ちはだかる難問を前に未だ回答できず。
『上条ちゃんバカだから追試でーす』と、幻聴のようなものさえ聞こえる始末であった。

「どうしろっつーんだよ、神様よう……」

どうすんだよこれ、と頭を抱えたとき、上条はあることに気付く。

さきほどから店に、客が出入りしているのだ。

「……あ……!」

あのゾンビもどきは、いったいどうなった?
考えるまでもない。
いないに決まっている。
もしもまだいるのなら、こんなところでお茶を飲んでいる場合ではないからだ。






何故か金貨や銀貨に変っていた財布の中身で会計を済ませ、ふたりは店の外に。
やはりゾンビたちはどこにもいなかった。
そのことに内心驚きつつ、西洋風の美しい建物が立ち並ぶ狭苦しい道を歩き始めるも、ここがどこで、自分たちがどこに行こうとしていた『設定』なのかわからない。

「なぁ、ここってどこなんだ? どこ行くんだったっけ?」

「とうま、本当に物覚えが悪いんだね。アカデメイアで何を勉強しても覚えてないんじゃ意味ないんだよ?」

「アカデメイア?」

「学園都市アカデメイアだよ。とうまが通ってるのは錬金術系の魔法学院だったよね。 ……ねぇとうま、気付いてないのかもしれないけど、やっぱりどこかで頭を打っちゃったんだよ。かわいそうなとうま……あとでお医者さんに看てもらおう? ね?」

アホの子扱いでとても心配してくれるインデックス。上条はちょっと傷つく。

「あーはいはい。上条さんはダメな子なんで、インデックスさんがいないとどうにもなりませんです。なので現在地と目的地を教えてください」

「うんうん。ここはね……」

ここはトリステインの王都、トリスタニアという街であり、この街に来たのはインデックスとデートするためだという。
そして、このたびのデートは上条の熱烈なアプローチによって実現されたらしい。
思い切り突っ込みをいれたくなる上条なのだが、そういう『設定』なのだと諦め、とにかくこの異変の原因をどうにかするまでは我慢して付き合うことにしたのだった。

「(まぁ、とりあえずゾンビもいなくなったことだし、じっくり行こうか)」

そろそろ感覚が麻痺してきた上条。
この未曾有の異常事態ですら嵐の前の静けさに過ぎないということを、彼はまだ知らない。



[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム6
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/10/13 21:04

『だるしまざるもの その2』



突然ハルキゲニアへと姿を変えた世界の片隅で、チーム・パンタジアは頭を抱えていた。
『馬車』で『パンタジア・南トリスタニア支店』に戻ったはいいのだが、河内の身に異変が起きたのだ。
店に着いた辺りから急に苦しみ始め、苦悶の叫びをあげたかと思うと、まばゆい光と共に河内は姿を消してしまった。
消える間際、『重ねられた』と意味深な言葉を残していったのだが、その意味は結局わからなかった。

「河内~!! どこ行ったんじゃあ!? 返事をするんじゃあ!」

「河内さん! 冗談もいい加減にしてくださいよっ! こんなときなのに……」

消えてしまった、という目の前の事実が信じられず、東と冠はしばらく河内の名を呼び、探し回った。
やがて彼がどこにもいないのだということを理解したとき、残されたふたりはがっくりと肩を落とした。

どちらからともなく、『魔王』という単語が口に出される。

「そ、そうですよ。 きっと魔王が何か……」

「じゃが……」

決め付けていいものだろうか。
まだこれに関しては『魔王以外の犯人が思い浮かばない』というだけの理由しかないのだ。
心の中には『魔王を倒さなければならない』という使命感だけがあり、何故そうしなければならないのかがわからない。
黒柳がヒューパンになったのは自ら望んでのことであり、他には何もしていないというのに。
動機がないのに、何故。誰も困ってなどいないはずなのに。
それは、リアクション能力に対する耐性がもたらした『気付き』であるのだがしかし、その正体にを見抜くことは未だ出来ずにいる。

「おかしい……何かがおかしいんですよ……こんな……でも何が……」

「何か、すげぇ気持ち悪い感じじゃ……」

何故、魔王が黒柳亮であることを自分たちが『知っている』のか。
予想でも推測でもなく、事実として知っている。
黒柳はトリスタニア本店にて、魔王ヒューパンとして君臨している。
何故、そんなことを自分たちが知っているのか?

じわじわと心を侵食されるおぞましさ。
何か途轍もない災禍を予感させる、硬質な冷や汗が背中を濡らす。

「早くなんとかしないと……絶対まずいんじゃ。なんでかわからんけど、とにかく……」

44号を。それもただの44号ではない、究極を。

そのために必要な材料は概ね揃った。
技術も磨き抜かれている。もはや失敗などするはずかない。
しかし、それでも不安が拭いきれないでいた。
『本当にそれでいいのか』。
あの黒柳を、魔王という名のパンを常食しているであろうあの男を天に召すことができるのだろうか。
魔王パンの持つ美味に馴れた黒柳を、本当に44号で滅することができるのだろうか。

「どうすればいいんじゃ……『こんな人に食べてほしい』とか、『こういう気持ちを伝えたい』とか、そういった願いをパンにこめることはできるんじゃ……44号だってそうじゃった。じゃが……」

「殺意をこめるなんて……どうすれば」

職人としての魂の問題である。ただ作るだけなら問題ない。
しかしこの目的の達成となると、どうやら天賦の才能をもってしても乗り越えがたいハードルであった。
決意だけでは足りない。覚悟だけでは足りない。
もっと、何か。

ブレイクスルーを求めながらパン作りの実験を繰り返す東と冠。
店にいるのに、まったく仕事をしようとしない二人を、もう一人の店員にして未来の店長……木下が恨めしそうに見ていた。








その頃、魔王城と成り果てたパンタジア・トリステイン本店では。

ヒューパンとなった社員たちが並び、魔王の元にひざまずいていた。
魔王となった黒柳亮の姿は一見、人間だったときの姿と変わらない。
しかし、その体の組成は人間とパンのハイブリッドであり、恐るべき再生力と感染力、そして旨みを秘めている。
生物としても、食品としても、圧倒的な存在感を放ちながら魔王は臣下を睥睨する。

そんな魔王の眼前で、若き社長である梓川月乃が磔にされ、止むことのない責め苦に悶えていた。

「あ……くっ……うぐ……っ、も、もう無理ですっ、そんなっ……うっ……! 入りませんわ……っ」

うっすらと涙を浮かべ、呼吸は荒く、腹部は『入れられたもの』によって随分と膨らんでいる。
もうやめて、と懇願する月乃に対し、魔王黒柳は表情を変えずに言い放つ。

「私はそれでもいいのだがな。ならば、このまま私のしもべとなって這い蹲るか? 私はそれでも構わんぞ」

「それはっ……」

そんなことはできない。絶対に屈することなどできない。
たった一人で耐え続ける月乃の心は、未だ折れてはいなかった。

「そうだろう? ならば耐えろ。キサマはこうしていなければまともではいられんのだからな。それ、追加だ。これで数時間は持つだろう」

「む……ぐっ……っ! んんんんっ!」

月乃はひたすら、パンを口にねじ込まれていた。
パンの名は『頭においしい』。 またの名を『頭脳パン』。
ゲルマニアの錬金術師、『発明』の二つ名を持つドクトル・フォン・ナカマツが創り出した、記憶力を高めるマジック・ブレッドである。
受験シーズンになると飛ぶように売れる、ナカマツ卿の発明品のひとつであった。
魔王はそれを月乃の口に運びながら、ゆっくりと語りかける。

「わかっているだろう? 無数の異世界が統合され、因果の改変が今もなお進行しているのだ……これを食い続けていなければ、キサマのちっぽけな記憶などたちまち異世界のそれに上書きされてしまうぞ。その証拠に、見ろ。あの南東京支店の連中を。あの学園都市の連中を。どうだ、魔法学院の連中は」

マジック・アイテム、遠見の鏡によって映し出された映像には、東たちが映っていた。
あざ笑うように、自らの力を誇るように、魔王は目を細める。

「もう記憶や認識が染まりきっている。あの死者どものことなどすっかり忘れている。東たちは学園都市などというものが以前から存在したなどと思い込んでいるし、学園都市の生徒たちも、ハルケギニアの住人も、パンタジアという『存在しなかったパン屋』を以前からよく知っていたことになっている」

「なんのために……こんなことを……っ」

頭脳パンの効果────皮膜のように展開される、DHA拡散力場────で脳細胞を守りながら、月乃は問いかける。
対し、魔王は小さな溜息をついた。

「……言ったところで、理解などできんだろう。あの連中との『思い出』とやらを何より大事に守っている程度の人間にはな」

「……っ」

月乃は『私たちの思い出を馬鹿にするな』、と言葉にすることもできなかった。
魔王の瞳が、声色が、それを本当になんとも思っていないと告げていた。
人間とは別の価値観で生きている、異なる哲学で生きているのだと痛感する。
もはや黒柳は本当の意味で別種の生物となり、別種の精神を獲得してしまったのだ。

「キサマはそこで見ていればいい。なにしろキサマは餌なのだ。東たちをおびき寄せる餌にすぎない。ふはははっ、もうすぐ奴らはここに来るぞ。必ず来る。私のもとに」

嬉しそうに身を震わせる魔王。
月乃には、魔王の言っていることが理解できない。

「奴らは来る。キサマを助けるために、私を倒すために」

「助け……に……?」

「そうだ。44号を用いてな……だが、私はそんなものでは死なん。いや、人間部分が死んだとて、私は黒柳亮のままなのだ。むしろ、より純粋なパン生命体へと進化すらするだろう。私は霧崎のような半端モノではない。ヒューパンとしての頂点に君臨するこの私を、パンで滅ぼすことなど出来はしない」

「そんな……っ!?」

「誰にも抗うことなどできん。世界の理に逆らえるものなど存在しない。私が魔王である限り、奴らはここに来るしかないのだ。キサマという『囚われの姫君』を用意し……そして奴らに『勇者』を割り振った。ふふふ……はははっ、もう絶対に私を倒しに来るぞ。それ以外の選択肢を選ぶことはできない。全力を賭した美味いパンを持ってくるしかないのだ」

猛獣のような目の耀きで、魔王は鏡の向こう……東を見つめる。

「そんなことのために……!?」

「まさか。この程度の余興で驚いてもらっては困る。これはな、来るべき時を待つ間の箸休めだ。あの河内が手に入った今、私の目指す理想の前では、東などはもはや暇潰しに過ぎん」

「暇……潰し……ですって……! それに、河内さんをどうしたんですか!?」

硬質のパンで縒り上げられた鎖がぎしぎしと音を立てる。
このままでは、大切な彼らが餌食になってしまう。
かけがえのないお友達が。
胸に秘めた恋心が、ありもしない嘘の記憶で書き直されてしまう。
目の端に、絶望が滲む。

「そら、間もなく始まるぞ。見ろ、私のリアクション能力、その次なる領域を……ッ!!」

魔王の咆哮と共に、遠見の鏡の向こうで世界が壊れた。









最初に起こったのは、地震。
大地が割れ、あるいは隆起し、木々が倒れ、建物が次々に崩れる。
轟音に混じる悲鳴。人間、亜人、獣、幻獣、全ての命が震え、血を吐きそうなほどの絶叫をあげた。

次に起こったのは、嵐。
有象無象を巻き込んで、逆巻く砂塵がハルキゲニア大陸を吹き荒れる。

そして、夥しい破壊のその果てに、魔王の軍勢は地の底から這い上がった。

灰のように白く、夜闇のように蒼き肌。
痩せ細り、しかし不気味なほどの力強さを思わせる体躯。
着衣は焼けた黄土の腰履き。上半身は裸。
髑髏の首飾り。鉄の腕輪。
象牙のように白い瞳。
剃りあげた頭部には、藍色の戦化粧。

魔性の風を身に纏い、大地を埋め尽くす魔人。
その数たるや、千や万では済まされぬ、津波のような大軍団。

それは─────





「蒼い……ダル……シム……?」

顔面蒼白の月乃が、掠れた声で呟く。

「くくく……ふははっ、はははははははははっ!!! そうだ! ダルシムだ! 素晴らしいぞ河内恭介! これほどとは!」

狂ったように魔王が嗤う。

「いったい何をしたんですか!! これはいったい、どういうことですか!!」

「はははははっ、いいだろう、キサマには特別に説明してやろうか。 私がまだ人間だった頃の話だ……」

黒柳は味覚審査員として、ものを食べた際、その味を正確に表現する必要があった。
それは普通、言葉や表情、声色などで表現されるものである。
しかし、世の中には天才がいる。
幾人もの天才に触れるうち、美味さを伝えるための能力は言葉や身振り手振りでは足りないと考えるようになる。

稀代の天才・東のパンによって、ついに黒柳は超次元のリアクション能力に目覚める。
自身の心象世界を他人に見せることができるようになり、いつからか実際に世界を心象世界で塗りつぶすまでになった。
そしてヒューパンとなったことでそれは更なる段階へと飛躍することになる。

黒柳はある日を境に、別の世界を見るようになる。
天界。地獄。平行世界、異世界。無数の世界があることを知る。
ヒューパンの能力は、黒柳の夢に強く訴えた。

通常決して味わうことの出来ない、別の世界の食品。
それを食べたいと。

黒柳は取り憑かれるようにヒューパンを増やし、食べた。
ヒューパンの中に眠る魔王の因子、その生物濃縮によって魔王化は加速し、ついに『異世界、あるいは異世界の事象を呼び寄せる』ことが可能になる。

「まだ、その完全な制御には至っていなかったのだがな……しかし、河内を連想に重ねたことでそれも解消された。やはりハルケギニアはいい。……いや、それも河内の功績か。河内がダルシムでなくては、こうはいかなかったのだから」

「なんですって……!」

ハルケギニアの大地には『風石』という、風の魔力を秘めた鉱石が埋まっている。
風石は長い年月をかけて魔力を蓄え、育つ。
資源として採掘され、空を飛ぶ『フネ』の動力として生活を支えている。大切な資源である。
しかしそれは、時に災害をも引き起こす。
浮かび上がる力が溜まり、やがて浮力が大陸の重さを超えたとき、大陸は空に飛ばされてしまうのだ。

「わかるか? 『大陸を浮かせる』という共通点から、河内ダルシムを風石と同化させたのだ。そして、大量のダルシムにゾンビの性質を練りこんだ……そして、見ろ! 生あるものの全てが、ダルシムになっていくさまを! さぁ、キサマらは辿り着けるか? 見ものだ、実に見ものだッ!! くくくっ、ははははははははっ!」

月乃の脳裏に『ゾンビの性質』が浮かび上がる。

ゾンビに噛まれたものは、ゾンビに。

ならば。

灰 は 灰 に Ash to ashes 塵 は 塵 に Dust to dust……」

魔王が静かに告げる。

それは、これから起こる狂気のアナロジー。



────ダルシムはDhalsim toダルシムにDhalsim



「い……や……嫌あああああああああああああああああ!!!!!」












ハルキゲニアは、魔界と化していた。

大地の全てを埋め尽くさんとするほどのダルシム。
視界に入るのはダルシム、ダルシム、ダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシムダルシム────!

無数のダルシムの襲撃に、全てが飲み込まれていく。

逃げ惑うものは愚かだ。
その無限のようなリーチに逃亡は無意味。

戦うものは愚かだ。
限りある力で、無限の数を相手取るなど出来るわけがないのに。

立ち尽くすものは愚かだ。
全てを諦め、ただ蹂躙されるを良しとする人生に何の意味があるというのか。

もう誰も正気ではいられなかった。


悲鳴、断末魔、嗚咽、怒号、絶叫。
洪水のような死と不死が織成す、極彩色の地獄絵図。
あるものは許しを請い、あるものは友人を盾に、あるものは瓦礫の影に潜む。
必死の足掻きも虚しく、誰も彼もが蒼きダルシムへの道を逝く。

『逃がさない』とでもいうように、空を網目状に伸び交う手足。
風の魔力で荒れ狂う、雪崩のような暴風。
風は相乗され、嵐は雷を孕み、雷撃は竜の咆哮のごとく周囲を焼き払っていく。

誰かが呟く。

「ヨガデイン……」と。








「やめてぇぇぇぇぇっ!!! もうやめてっ! こんな、こんなのっ……!!」

月乃は狂ったように暴れ、拘束する硬質パンが手首に食い込んで血をにじませる。

「やめる? 何故? まだ始まったばかりだろう」

玩具を買ってもらったばかりの子供のような表情で、魔王が月乃の頬を撫でる。

「どうしてこんなことを!! あなたが望んだ世界ではないの!? どうして!!」

「望んだ世界? いいや。それはまだだこれからだぞ。私のリアクション能力には先がある……決して、破壊に酔いしれるための能力ではないのだからな」

「何を言ってるんですか! これだけのことをしておいて……むぐっ!?」

パンで口を塞がれた月乃。
不意の呼吸困難にむせる。

「ごほっ……うぐ……」

「まぁ、聞け。キサマのような下等生物にもわかるよう説明をしてやる。私の『今の』能力について……そして、これから起こることについてな」

「ぐ……っ、う……」

魔王黒柳の体が、次第にパン化していく。
表面に焼き色がつき、強い弾性を感じさせるパンの肉付きが盛り上がる。

「私の能力の名は、『Dhalsim』」

外で起きている狂乱とは対照的に、静寂に満ちた城にその声は響く。

「『異界の夢追い人は超幻想の材料を愛す』。
 D ream
 H eads of
 A lien
 L oves
 S uper
 I maginary
 M aterial…………その頭文字をとって『Dhalsim』だ。つまり、言い換えるならば───」

魔王が月乃の肩を掴む。
強い力。痛みを感じた月乃の眉間にしわが寄る。

「───『私はパンが好きだ』、ということだ」

想像を絶するこじつけであった。

「そ、そんなことを言うために……!」

「黙れ」

「……っ」

初めて、魔王の声に殺意がこもった。
月乃にとって、どんな悲劇の中でも、未だ向けられたことのなかった意思。
逆鱗に触れてしまった、との思いが月乃を竦ませる。

「……いいか、小娘。私にはパンこそが全てなのだ! その象徴たるDhalsimの全能力を使い、全ての異世界を統合し、征服し! 一切の無駄を排し! そして! 」

魔王のパン化が更に進む。
西洋鎧のように纏う、バゲットの表皮。
その中にはしなやかな、無発酵生地の体躯。
宗教画を思わせる、美しく屈強な戦士の姿。

魔性の魂に王の風格を練りこんで、神のごとく高らかに宣言する。

「世界の洗練・淘汰を繰り返したその果てにッ! 私の理想郷パンタジアは誕生するのだッッ!!!」

ヒューパンたちがそれに反応し、拳を突き上げ口々に歓声を上げる。

「世界一うまいパンをここに!」

「パンの王国をここに!」

「パンの楽園をここに!」

「パンの理想郷をここに!」

「パンタジア! パンタジア!」






常軌を逸した熱狂の中で、月乃は祈る。

誰か、私の大切なひとを助けて。
私の大切なセカイを助けて。
大切な想いを、誰か。




[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム7
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/10/13 21:37


『だるしまざるもの その3』



蒼の悪夢は広がる。
全てを蒼く染めあげて、不死の行者は歩を進める。
そんな惨劇の中でさえも、未だ希望の炎は耀いていた。
いつ消えるとも知れぬ、まさしく風前の灯ではある。しかし今、確かに炎は燃えているのだ。

揺れる希望の二つ名は、『誇り』。







学園都市アカデメイア。トリステイン6000年の歴史が誇る、魔法の聖地である。
大規模な開発に伴って風石はほぼ採掘され尽くしており、此度のDhalsim出現に際して奇跡的に都市の損害は軽微であった。
もちろん、青の魔人がそれを見逃すはずもなく、圧倒的物量をもって侵攻を進めている。
そんなアカデメイアに立ち並ぶ学院のひとつが、トリステイン魔法学院である。
学園都市で最も旧き歴史を持つ、魔法学院の老舗。
伝統と誇りを重んじる気風が最も顕著なその学院で、貴族の誇りが示されていた。




「───まったく、亜人とはいえ嘆かわしいよ。貴族に対する礼儀を知らないというのはね」

剣が閃き、蒼きダルシムの首がまたもや落ちる。
間を開けず、使い魔のジャイアント・モール『ヴェルダンデ』が地中を掘り進み、敵の足場が次々に崩れる。
そうして足並みの乱れたものから順に、青銅の戦乙女が裁きの刃を奔らせる。
金属の身体は、それ自身が避雷針。
雷撃は地面へと逃がされ、風では金属の塊を吹き飛ばすに至らない。
正しく、一騎当千。万夫不当の戦巧者。
不死者の屍を踏み越えて、7体の青銅製ゴーレム『ワルキューレ』が進軍する。
若き将の指揮する小さな軍隊が、変幻自在の陣形でもって魔人の軍勢を押し分けていく。

「それは誰も教えていなかったということで、それは僕たち貴族の怠慢なんじゃないのかな。始祖の威光を着て威張るばかりでは意味がないというのに……ま、僕も最近までそうだったんだけど」

悠然とその中心を歩くのは、武門の誉れ高きグラモン家の子息。
ギーシュ・ド・グラモン。
メイジの基礎能力を表す『クラス』こそ最下級の『ドット』ではあるが、その運用において凡百の上位メイジを凌ぐ実力者である。
属性は『土』。二つ名は『青銅』。
整った顔立ちに余裕の笑みを浮かべ、薔薇の貴公子は金髪をかきあげる。

「ただの暴力では、だめなんだ。信念が美しくなければね……そうは思わないかい? 僕の可愛いモンモランシー」

同意を求められたのは、彼に寄りそう恋人。
モンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシ。
『香水』の二つ名を持つ、水のメイジである。
細い肩を抱き、頬を寄せるギーシュの色男ぶりに頬を染めながら、乙女は照れ隠しを含めて問いを返す。

「ぎ、ギーシュっ、あなたどうして平気な顔してるのよっ? このままじゃ私たち……っ」

倒せない相手ではないとはいえ、決して弱い相手ではなく、更に圧倒な物量をもって攻めて来ているのだ。
モンモランシーはそれを恐れていた。
しかしギーシュの余裕はそれでも揺るがない。

「安心したまえ。愛しい女性のためなら、男はどこまでも勇敢になれるものさ。ましてモンモランシー……君のためなら、僕に不可能なんてありはしないよ。杖にかけて誓おう。『僕は君を必ず守ってみせる』とね」

いつものように、愛を囁く。

「も、もうっ、ギーシュったら……」

口だけはいつも調子のいいギーシュであるが、このときばかりは男の貌を見せていた。
それを目の当たりにし、モンモランシーの胸は高鳴る。
吊り橋効果を多分に含みながら、甘く切ない情熱が二人を包んだ。
『土』のメイジと『水』のメイジ。
天に賜った『命を育む属性』は、それが運命であるかのように惹かれあう。
二人は目を閉じ、その唇を……



「おいバカップル! こんなときまでお前ら何やってんだ! 死ぬ気か!?」

怒号を飛ばしたのは、ハルケギニア史上初という噂の『人間』の使い魔。
『貴族には絶対に勝てない』とされる平民でありながら貴族と決闘して勝利を収めるほどの戦闘力を誇る、東方の剣士である。

「さ、サイト!? 君はっ……ああっ、本当に君は無礼なやつだな! 今すごくいいところだったのに!」

「そうよ! 平民のくせに生意気なのよ! 私たち、せっかく仲直りできたのに!」

「うるっせぇ後でやれぇぇぇ!」

魔法を吸収する魔剣・デルフリンガーを振り回し、サイト・ヒラガはダルシムの群れを薙ぎ払っていく。
自分に向かってくるありとあらゆるものを斬り飛ばし、神速の剣が舞い踊る。
左手の甲に刻まれた『使い魔の証』が耀き、宙に光の軌跡が描かれていく。
それは感情の高まりに比例して身体能力を強化し、あらゆる武器を使いこなすことができる、戦うためのルーン。
彼こそが伝説の使い魔の一角、神の左手『ガンダールヴ』であった。

「はっはぁ! 相棒、すっげぇ気合い入ってんなぁ! いいぞいいぞ!」

デルフリンガーが嬉しそうに囃し立てる。
知性を持つマジックウェポン、インテリジェンスソードである彼は、喋るのだ。

「うっせ!」

「ひでぇな相棒……」

しかしサイトは取り合わない。
今、人生で最悪と言っていいほどに彼の機嫌は悪い。

彼の愛するご主人様は見た目の愛らしさに反して大変に気難しく、ちょっと機嫌を損ねると爆発魔法や乗馬用鞭が飛んでくる。
慎重に積み重ねた不断の努力によって態度を軟化させ、徐々に親密になり、そして先ほど、ようやく同じベッドで彼女のささやかな胸に触れることができるか否かというところだったのだが、タイミング悪く此度のダルシム襲撃が起きてしまったのだ。
火を吹くはずのダルシムが大量発生し突風を起こし雷撃を放っているという衝撃に加えて、そんなやり場のない怒りと哀しみがサイトに鬼神のごとき力を与えていた。

同じ理由で、サイトの主人であるルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールもまた怒りに燃えていた。
本人は『べべべ別にっ、残念だなんて少しも思ってないんだからね!』と誰も聞いていないのにブツブツ言っているのだがしかし、
感情が高まるほど威力の上がる魔法が内心を物語っている。

「なんなのよっ! なんだっていうのよこいつらはっ!!」

タクト状の杖から放たれるのは『失敗魔法』。
それは彼女にとって忌々しいだけの現象。魔法の制御を失敗したことによる『爆発』。
それが今、強力無比な攻撃魔法として機能していた。
この『どこに放っても必ず当たる』という状況下で、ルイズの魔法は他の何よりも頼もしい。
爆風は魔の嵐を圧倒し、密集陣形ファランクスの密度を加速度的に下げていく。

「ウル・カーノ! デル・ウィンデ! ええと、ええとっ、イル・アース・デル!」

精神力を杖に叩き込み、思いつく限りにルーンを唱え、感情の赴くままに振り下ろす。
魔法の種類は関係ない。
唱えればそれが何を意味する呪文であれ必殺の一撃に変換され、押し寄せるダルシムを爆煙の彼方に吹き飛ばしていく。

どんな魔法も爆発させてしまうという、それはある意味で非凡な才能。
系統魔法の成功率を指して『ゼロ』のルイズと呼ばれ無能の烙印を押されていた彼女だが、もう誰も馬鹿にはしなかった。
はぐれメイジ純情派、ルイズ・フランソワーズ16才はこのたび、新進気鋭の制圧支援ブラスト・ガードへと華麗なる転身を遂げたのである。
風にはためく桃色の髪を旗印に、貴族たちは陣形を組み上げていく。


誰もが、必死に戦っていた。


敗北はダルシム化を意味するという事実。
絶望的ともいえる侵攻の最中、自分の力が通用するという事実。
恐怖と功名心が戦意に加え魔法の威力までも底上げし、軍事教練を受けたわけでもない貴族の子女たちを優秀な戦闘集団に変えていた。

勝てる。

倒せる。

守れる。

生きられる。

それは本当に僅かな希望であり、手を伸ばさずにはいられないひと束の藁だった。
『敵』に成り果てた親友を手にかけたものがいる。
恋人を奪われたものもいる。
彼らはしかし、それでも自分はましだと無理やり思いこむ。
誰にも省みられることなく果てたものがいた。誇りのため、自らにとどめを刺したものがいたじゃないか、と。
現実という馮河が哀しみも憎しみも押し流し、生き残ったものの心を戦鬼へ変えていく。



そんな戦場の中、この戦況に希望を見出せない者も当然存在する。


「退路が無い……離脱する方法を考えるべき」

エア・ハンマーが蒼きダルシムの脇腹に撃ち込まれ、吹き飛ばされたダルシムが他のダルシムを巻き込んで倒れる。
間髪をいれずウィンディ・アイシクルの散弾が追い討ちをかけ、僅か数秒で小隊規模の魔人が殲滅される。

「敵の知能は低い。正面以外はほぼ無防備。確実に頭を破壊して。でも深追いはだめ。こちらの精神力は有限」

『雪風』のタバサである。
『シュヴァリエ』の称号を持つ、戦闘のプロフェッショナル。
多数を相手にした際の経験に照らし合わせ、敵戦力を分析・戦術の構築を行う。
推奨される戦術は『撤退』。
これほど圧倒的な物量を相手にした消耗戦など、どう考えても得策ではなかった。

「正面以外が無防備って、正気とは思えないわね」

端的な感想を返すのは、『微熱』のキュルケ。
『火』属性のメイジであり、火力にものを言わせた正面からの力押しが本領となる彼女にとっても、非常に不利な状況である。
タバサにしろキュルケにしろ、クラスこそ上から二番目の『トライアングル』ではあるものの、彼我の戦力差を正確に分析する余裕があるぶん戦意はやや低い。
全力を尽くせば太刀打ちできるというだけで、それはいつまで続ければいいのか?
間もなく、いや、今すぐこの優位が崩されてしまったとしても、少しもおかしくないのだ。

教師陣についても同様で、先陣を切って戦ってはいるが、戦果のわりに退路が開かないことに焦燥が募っていた。

「正気じゃない。彼らは何も恐れていない。恐らく痛みすら感じていない」

その在り方は、ゴーレムやガーゴイルのそれと酷似していた。
そういったものが数多く押し寄せた場合、まともに戦ってはいけない。
撤退しながら数を減らすか、術者を見つけ出して倒すのが定石である。
しかし術者らしき人物は見つからないし、撤退しようにも場所がない。

「ばけもの、ってわけ?」

「そう」

「困ったわねぇ。じゃ、こうして戦うしかないじゃないの」

「……そう」

タバサは思う。
こんなところで死ぬわけにはいかない。

キュルケは思う。
こんなやつらに負けるわけにはいかない。

そのために、どうすれば?

あちこちで精神力切れが始まる頃には、ほぼ全ての貴族たちが同じような疑問を抱えて杖を振るっていた。

長いようで短い戦闘は続く。
ひとり、またひとりとダルシムに変化させられていく。
徐々に徐々に陣地を侵食され、追い詰められて特攻するものまで出てくる。

もうだめだ、助からないと誰かが口にする。
次第にそれを叱責するものもいなくなり、精神力の尽きたものから順に魔王の軍門に下っていく。

畜生ブリミル! なんだっていうんだよ! 糞っ、糞ッ!!!」

貴族の子女にあるまじき、汚い言葉が口々に漏れる。
誰もがその生存を諦めかけたその時、奇跡は起こった。

「う……そ……?」

全てのダルシムが静止したのだ。




[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム8
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/10/14 14:14

『だるしまざるもの その4』



時は少し遡る。

トリスタニアが悪夢に飲まれ、ダルシムの河と化し全てを押し流そうとしていたときのこと。
東たちは襲い来るダルシムから逃げながら、魔王城・トリステイン本店へ向かっていた。

武器らしい武器も持たず、戦う術もなく、東と冠はひたすらに走る。
彼らが生きているのは、やはりここでも介在するらしい『何者かの意思』によるものだった。
それは河内の意地か、魔王の手心か、ダルシムたちはふたりへの攻撃を躊躇った。
避けられなくもない攻撃。
振り切れなくもない追走。
現在進行形で起きている悲劇が滑稽に見えるほどの手ぬるさで、東たちは追い立てられていく。

パンの構想は未だ最後まで練りきれていない。
河内が消えた理由も、今襲ってきているダルシムが具体的に何者であるかもわからないまま、ふたりは走る。
パンを作るために最低限必要な材料を袋につめ、それを背負い、導かれるように。

しかしそれでも、人の体力は無限ではない。
あと10分ほどで目的地につけるかという段になって、ふたりに疲労の色が濃くなっていく。
ぎりぎりで回避していた魔の手を、ついに避けきれなくなる。

普段なら注意して曲がる、曲がり角。
その向こうから現れたひとりのダルシム。
突如正面に現れたそれに、東は咄嗟の対応が遅れた。

「しまっ……」

一瞬のできごとだった。
テーブルの上のカップを持ち上げるような、なにげない動きで東は掴まれ、牙を立てられた。

「ぅぐ……が……っ」

息が止まるほどの激痛に、東の身体が硬直する。
熱いのか冷たいのかもわからない、液状の恐怖が全身を浸す。

「東くんっ!!」

ほんのひと噛み。
ただのそれだけで充分とばかりにダルシムは東を放り投げ、冠へと標的を変える。
東はうめき声をひとつ上げた後、動かなくなった。
絶望の未来が今、約束されたのだ。

「そんな……うそだ……こんなのっ……」

魔王を倒しうる人物の脱落。
冠の心を折るには、それで充分だった。

もはや逃げる気力は霧散しし、立つ力も失われ、思考は停止、心には諦めだけが残る。
その場にへたり込み、冠は呆然と目の前のダルシムを眺めていることしかできなかった。

「はは……は……もう……おしまいです……ね……はは……」

乾いた笑い。
全てが水泡に帰してしまったとの確信を抱くのは二度目である。
大切な研究室が爆破されてしまった一度目は、しかしそれでも彼らがいた。
今度ばかりは完全にだめだった。
もう誰もいないのだ。
残された数秒さえももどかしく、ひと思いに殺して欲しいとさえ願った。






「なに諦めてんだよ」






「……?」

その声の主は誰だったか。聞き覚えのある声だったように思われた。

「背負ってるそれは何だよ。 もういい加減俺にだってわかるぜ。そいつは小麦粉だ。他にも、色々入ってんだろ」

知っている声のような気がする。
見れば、知っている顔のような気がする。
どこで会ったのだったか。
今まで来店した客のひとりだろうか。
白い修道服の少女を伴って、その男は前方から歩いてくる。

「『誰がやったかわかった』んだろ? そんな荷物を背負って『逃げる』わけがねぇ。 『どこかに向かってた』んだろ? そんな地べたが目的地のはずはねぇよな。なぁ、なんとかしに行くんだろ? テメェは何やってんだよ」

その男の強き意志を感じ取ったのか、ダルシムは冠を無視してその男に向き直る。
そして鞭のように、ダルシムの腕が男を捉えるべく伸びる。

「に、逃げ……」

逃げてください、と口にする間もなく、男は右手を振るう。
ばちん、と拍手を打つような音と共に、ダルシムの手は払い落とされた。
次の瞬間、ダルシムはひび割れ、小さな石ころになってしまう。
それは風石、だったものである。

「え……?」

この男はいったい何をした?
リアクション能力だと思われるダルシムを、素手で?
そんなことが出来る人物に、心当たりはなかった。
では、何故彼を『知っている』と思えるのか。
冠の混乱は未だ覚めない。

「立てよ。 テメェがいないと、出来るものも出来なくなっちまうんだぜ。いいのかよ? よくはねぇよな」

彼は何故か、事情を理解しているらしかった。
自分にやれと言っている。
しかし、不可能なのだ。

「でも、東くんはもう……!」

「『間に合ってる』さ。 頭の優秀なやつって、意外と視野が狭いよな」

男の視線が横にスライドする。
視線の先を追うと、そこには。

「いたた……あれすっげぇ痛ぇな。首に噛みつかれたのなんて初めてじゃ……」

東である。男の右手は、真っ先に彼に触れていたのだ。

「あ、東くん……!?」

痛みは残っているようだが怪我は無く、落ち着いているようすだった。

「よ、よかった……あ」

安心しかけて、冠は再び今の状況を思い出す。
危険が去ったわけではない。

「早く、早く逃げないと!」

「その必要はもうねぇよ。言ったろ? 間に合ったんだ」

「何を言ってるんですか! 早くしないと奴らが……」

止まっていた。
彫刻のように、その場で固まっている。

「え……?」

「襲ってこねぇだろ? いや、まさかほんとにここまでうまくいくとは思わなかったけどな。おかげで財布がすっからかんだ。学生はみんな貴族って『設定』じゃなかったら足りなかった。さすが剣と魔法の世界って感じだよ」

「ど、どういう……」

「とうま、説明が下手なんだよ。成績が心配なんだよ」

「う、うるせぇな。今説明したって絶対わからねぇだろ」

「私にもわからないんだよ」

「ほらな。そういうことなんだって」

「わかったよ、頭が可哀相なんだね」

「だーかーら! おかしいのは俺じゃねぇっての! ああもう不幸だっ! 要するに、『本物』がいたんだよ。 偽物の前に本物が現れたら、『世界を思い通りにするやつ』が平気でいられるわけがねぇ。そしてやっぱり、平気じゃいられなかったんだ。見ろよ」

ダルシムたちは、皆同じ方向を見ていた。

「……?」

視線の向きは、50メイルほど先の、上空。
そこにいたのは。






「本物って……なんですかあれ……」

冠はそれきり言葉を失った。
今まで培ってきたハルケギニアの常識が、どこまでも壊れていく。

「このファンタジーな世界が右手じゃ消せない現実だっていうなら、もうなんでもありだ。現実のダルシムがいたって何もおかしくねぇ。そう思って調べたら、サハラの南にはやっぱり、きちんとインドに対応する国があった。『バーラト』っつーらしい」

インデックスも、冠も、その言葉の意味はわからない。
東はただ、黙って聞いている。

上条は続ける。
天動説が常識となるこの世界でも、美術品として『地球儀』が売られていた。
日本に対応する島国が存在するらしい。
ハルケギニアに何故か日本名の人物がいて、彼らは日本の存在を否定している。
なのに日本名の人物に限って日本語を読み書き話すことができる。
西洋名の人物はハルケギニア語を読み書きし、日本語を話している。
ハルケギニア語で統一されているという『設定』なら、誰も上条当麻と意思の疎通が出来てはならなかったはずなのに。
矛盾する事実を並べていくうちに、『この世界は不完全な混ぜ物』だという新たな仮設が浮かび上がってくる。
科学が発展していなければ絶対に実現できない人工衛星が存在するのに、そういった技術は発展していないことになっていた。
『携帯電話』のような長距離通信技術がありながら、それを実現する基礎理論を誰も理解せず、否定さえしていた、と。

「たぶん、世界のすり合わせに失敗したんだよ、これをやったやつは。 ま、気付いてたんなら修正中なのかもしれねぇけどな。とにかく俺のやったことは、『名前と顔がわかってる人物に言葉を伝える』って怪しげな道具を買って、使ったってことさ」

その場にいる者がそれをどれだけ理解しているかはさておき、これからするべきことは誰もが理解していた。

「決着を、つけるんじゃな」

魔王を打倒する。
その意思を新たに、4人は魔王城へと急いだ。

「あのひと……大丈夫なんでしょうか」

「多勢に無勢なんだよ」

「大丈夫だ。戦うなって言ってある」

「なるほど。じゃあ大丈夫ですね」

「……本当に大丈夫なんじゃろか」

東の疑問はもっともである、
上条はダルシムの精神性をよく理解していなかったのだ。








トリスタニア上空で、紅の聖者は小さく唸る。

「偽者がいると聞いてテレポートしてみれば……」

目下では、見るも無残な地獄が繰り広げられていた。
老若男女の区別無く、誰も彼もが自分の偽物に食い荒らされている。
屍を練り上げた汚泥のごとき河であった。

「『見ているだけでいい』などと……本当に、最近の若者は口が上手くなったものだ」

放っておくことなど、できるわけがない。
今、彼を突き動かすのは勇者の心得。
躊躇うことなく、その男は死都に降り立った。


蒼き魔人が彼を見つめる。
その視界は現在、主人───魔王・黒柳───と共有されている。
間もなく『食え』との指令が下るに違いなかった。
そんな危局をものともせず、赤き聖人は告げる。

「さて。今更になってしまうが、勘違いをされても困るのでな。始めに言っておこう」

言葉を向けたのは、蒼き魔人へではない。
その向こう側、魔王城にて鎮座する不届き者に対してである。

「私がダルシムだ」

それは改めての自己紹介であり、宣戦布告であった。
その一言で、大陸中の空気が変わる。
偽物だと言われたことによる、純粋な敵意である。
『ダルシムを否定される』などということは、蒼き魔人とその主にとって、決してあってはならないのだ。

蒼の濁流が溶け合い、混ざり合い、個体としての戦力を融合によって高めていく。
ヨガ・フュージョンとでも言うべき、奇跡の対極。
死の冒涜と言うべき、禁忌の秘術である。
この世全てのダルシムが集結し、その戦力を集中しようとしていた。
それは生きとし生けるもの全てをだるしませんとする、極大の呪い。
精鋭軍となった青の魔人軍、その総数は実に4万。

対するは、たった一人のダルシム。

しかし彼は、ハルケギニアに蔓延する凡百のダルシムではない。
全てのダルシムの原典。
原初のダルシム。
その存在の三分の二が祈りであるという、唯一無二のダルシム。
奇跡の具現、オリジナルダルシムなのである。
現存する全てのダルシムは、彼の前では等しく贋作に過ぎないのだ。


運命に導かれるように、悟りを賭けた戦いが始まった。


最初に仕掛けたのは蒼のダルシム。
大気を集め、圧縮、回転、そして際限なく加速。
雷が発生し、破壊の竜巻が形成される。
ハルケギニアに絶望を振りまいた、全身全霊のヨガデインである。

「ほう……風神ヴァーユに祈ったか」

ゆらり、と紅のダルシムが構える。

「それで授かったものが魔の波動とは……即物的な」

溜息にも似た呟き。
それを掻き消さんと、災禍の螺旋が殺到する。

─────直撃。

景色が揺らぐほどの気圧。大地が震える雷鳴。
衝撃と閃光、オゾンの臭気。

屈強な竜でさえ欠片も残らぬ破壊力の中心で、紅の聖者は静かに佇んでいた。

「……信仰を勘違いしてはいないかね? 『祈る』とは、こういうことをいうのだ……」

すううう、と、吸気。
荒れ狂う大気の渦が、聖者の元に集い従う。

風の流れに乗って、奇跡の触媒となる架空元素・ヨガ粒子が収束する。
夢幻の彼方から、無限の熱量を呼び寄せていく。
魂に訴える幻が、胸の内で燦然と燃え上がる。

白磁の瞳が耀く。

捕捉人数、4万。

敵として彼の前に立ち、その祈りを目にしたなら、すでに攻撃は決定された未来。
誰だろうと、幾人だろうと等しく効果範囲内。
敵対する精神の数だけ、炎は顕現する。

夢幻、故に無限。

印度僧流戦闘術、祈祷の章、攻七十二奥義、第二十四────

「ヨガフレア」

それは悪しきものだけを焼き払う『浄化の炎』。
血に濡れた水の都は、炎によって洗い清められていった。



東たち4人が魔王城に到着したのは、それから間もなくのことである。



[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム9
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Date: 2010/10/21 13:35


第三章

『いつも心にダルシムを』



「オリジナルを呼び寄せるとはな……上条当麻、染まっていなかったのか」

魔王が忌々しげに吐き捨てる。
リアクション能力を打ち消すという稀有な右手の持ち主ではあるが、それ以外はただの人間だと侮ったのが失敗だった。
魔王の求める理想郷が完成するまでは、世界は常に欠陥を抱えることになる。今回はその穴を突かれた。
上条当麻とは、思いのほか頭の切れる男だったのだ。

「まぁ、おかげであのもやし共をこの魔王城へ招くことができるのだ。とりあえずは善しとするか」

風石と河内ダルシムを重ね、ゾンビとヒューパンを重ね、それらを更に重ね合わせた連続多重連想は魔王の全力と言っていいものだったが、能力を解除されたわけではない。
蒼ダルシムは予備をひとり残してあり、時間さえあればヒューパンと同じくネズミ算式に増やすことが可能なのだ。

「あとはオリジナル対策だが……いや、今は必要ないか」

既にトリステインの正規軍が動き始めている。
オリジナルダルシムが他の誰よりもダルシムであるのなら、貴族たちは問答無用で攻撃を加えるに違いなかった。
事実、目覚めた人間たちはその姿を見るなり悲鳴をあげて逃げ出している。
誤解を解くことが可能だとしても、当然それなりの時間がかかるのだ。絶対に一日やそこらでは済まない。
その間に世界の融合を進め、どこぞの国家錬金術師に反ダルシム物質を練成させてオリジナルにぶつけ、反応消滅を起こさせるという手も無くはない。
あるいは遠隔操作型の近代兵器を用いるだけでも充分かもしれない。
時間はどこまでも魔王の味方だった。

「さて、そろそろだ。月乃、キサマの勇者が来るぞ」

魔王が声をかけると、磔にされた月乃はひどく疲れきった様子で見上げる。

「……どうして、そんなにも楽しそうなんですか」

「楽しくないわけがなかろう。私のために天才パン職人がパンを作りに来るのだ。私の誇りに泥を塗った男が打ち倒されに来るのだ。楽しいとも。こんなに楽しいことはそうそうないぞ」

「……そうですか」

もう何も言うまい、と月乃は静かにうなだれる。
もう彼らの勝利を信じることができなかった。
東では魔王の人間部分しか倒せないし、上条という男の能力は見る限り魔王を打ち消すことが出来ない。
リアクション能力者本体に対しては、触れている間しか打ち消せないのだ。
上条の右手で触れ、その間に44号を食べさせることが出来れば、あるいは倒すことも出来るのかもしれないが……
魔王がそれに気付いていないとは、月乃にはどうしても思えなかった。
そもそも、魔王を倒したからといって、この壊れた世界が元に戻るのかどうかも定かではないのだ。
この世界自体、彼の右手では打ち消せない現実だったのだから。
視線の先には、花瓶。萎れてしまった花。
月乃の内心を現すように茎は折れ、最後の花びらが床に落ちていった。







扉が、開いた。

「来たか」

魔王の表情が喜悦に歪む。
立ち上がり、『宴』の開幕を祝して両腕を広げる。

「ようこそ、我が城へ! 待っていたぞ人間ども!」

響き渡る、歌い上げるような声。
どこか演劇のような、大仰な身振り。
黒焼きの甲冑に身を包んだ異形。
それはあるものには畏怖を抱かせ、あるものには嫌悪を抱かせる、厳然だる『魔王』の威厳であった。

「黒柳ッッ!!」

東もまた叫ぶ。

「お前はダルシムを何だと思っとるんじゃ!」

東を突き動かすのは、純然たる怒りである。
月乃を奪われ、河内を奪われ、大切なものを数え切れないほど傷つけられた怒りである。
河内がダルシムになったのは、パンに込められた願いを受けたからこそなのだ。
パンに対する愛情がもたらした奇跡を、こんな形で穢されるのは我慢がならなかった。
いつも支えてくれていた月乃を、こんな形で傷つけられるのは許せなかった。

「ダルシムとは何か? 決まっている。リアクションの到達点だ。 我が理想のための、尊い道具だ」

「違うッ! ダルシムは友達じゃ! 大切な仲間じゃ! お前だってわかってるはずじゃろ!」

「友? 仲間? くだらない、本当に人間はくだらないな。キサマとて、河内を道具にしていたではないか。 それどころか、温暖化を食い止めるなどと言い、結局のところ『海面が上昇しても大丈夫』という状況を作ったに過ぎない。 河内恭介はキサマの欺瞞の犠牲になったと言えよう……だが、今は私がそれを有効に使ってやっている。世界を救っているのだ。むしろ感謝してほしいものだな」

「違う、違うっ! 俺は河内を道具になんか……!」

「していない、と? 笑えない冗談だな、東。 キサマは結局、美味いパンを作れればそれでいいのだろう? 誰をどんなモノに変化させようと、どんなことが起きようと、キサマは更なるパンを作り続けるのだろう? ……なに、迷うことはない。存分に作ればいい。私の理想郷は、キサマのような狂人をも受け入れる用意があるのだから」

それは、悪魔の囁きであった。
小さな罪を暴き、精神を揺さぶり、それを許し、認める。
配下のヒューパンを増やした手法である。
魔王の威容も相まって、その言葉の魔力はまさに人外の一言に尽きた。
凡人ならば容易く懐柔されてしまう魔術めいた話術だが、東はそれでも折れなかった。

「俺は人を不幸にするパンなんて認めないんじゃ! お前はパンとして最低なんじゃよ!」

「キサマ……」

魔王の矜持と、職人の誇りがぶつかり合う。
そして互いに理解する。
目の前の存在は、不倶戴天の敵であると。

「もはや言葉は要らんようだな。いいだろう、厨房を貸してやる。全力でかかってこい」

「望むところじゃ」

決戦の火蓋は、今切って落とされた。










厨房に行ったのは、3人。
『便所に行ってくる』と、やや不自然な言い訳を強引に通して引き返したものがいた。

「驚いたよ。本当にラスボスなんだな」

「フン……そうだと言ったら、キサマはどうするつもりなんだ? 上条当麻」

言葉の裏に滲むのは、灼熱の憎悪。
絶対に許さないとの決意が空間を圧迫する。

「気に入らねえんだよ、テメェのようなやつはよ」

「なるほど、同感だ。この身は既に死を超越した身なれど、いや、だからこそ、思いどうりにならんキサマのようなやつは実に目障りだ」

視線が交錯する。
少しでも隙を見つけたなら一瞬でかたがついてしまうだろう、一触即発の緊張感であった。

上条当麻は考える。
東たちは、恐らくこの魔王を殺せるパンを作っている。
『人を不幸にするパン』を認めないと言った東が、果たしてそんなものを作れるのだろうか?
答えは、否。
彼らにはそんなことは出来ないし、してはいけない。
ならば、ここで自分がケリをつけなくてはならない。
幻想殺しがどこまで通用するかわからないが、まったく通用しないということはない。
幻想殺しならば、ダメージを通せるはず。
根性を競う喧嘩なら、相手が魔王だろうと負けはしない。
それが上条の出した答えだった。

魔王もまた考える。
パンであるが故に、物理攻撃は無効。
リアクション能力者本体であるが故に、右手では能力の完全解除が不可能。
右手という厄介な盾があるものの、それ以外はただの人間。
直接対決において敗北はありえない。
それが魔王の見立てである。

「いいぜ、テメェが何でも思いどうりにできるってなら……」

空気が揺れる。
両者、同時に動いた。

「まずはそのふざけた幻想をブチ殺す!」

初撃。
渾身の右ストレート。

「餓鬼が! 出来るものならやってみろ!」

右手による攻撃しか来ないと読み切り、魔王は首をやや左に曲げてその拳を避ける。

魔王の右膝が跳ね上がり、上条の鳩尾にねじ込まれる。

「ぅぐ……っ」

苦悶の表情を浮かべる上条。
しかし、ここまではほぼ上条の予想どうりであった。
宙を泳いだ右手が、魔王の肩を掴んだ。
にやり、と上条の口角が持ち上がる。

「キサマ……!」

狙いは顔面。
左拳によるアッパーが、がら空きの顎を捉えた。

「ぐぁっ……!?」

放物線を描き、魔王は地面に叩きつけられた。

周囲のヒューパンたちがざわめく。

「消えたくなければ退がっていろ……! 彼奴は私が倒す!」

すぐさま立ち上がり、魔王は上条を睨む。
上条もまた睨み返し、次なる激突に備えて身を低く構える。

「いいんじゃねぇか? せっかく『お友達』がいるんだ、手伝ってもらえよ」

「黙れ……!」

魔王の身体が光を放つ。更なる形態変化である。

「キサマの右手……未だ侮っていたようだ。ならばこれでどうだ」

魔王の右腕を装甲が覆う。
明らかにハルケギニアのものではない、しかし上条の知るものでもない、破壊を象徴するかのようなフォルム。
赤い金属質の光沢が、どこかから呼び寄せられたものであることを示唆していた。

「なんだよ……そりゃ……」

「ヒントをやろう。これは『異能』に分類されるものだ。気をつけて足掻け」

跳躍。
先ほどの上条よりもずっと大きく振りかぶり、全身のばねを拳に注ぎ込んだ予備動作。

「衝撃のファースト・ブレッド……!」

前方、上からの強襲。
上条の選択した行動は『回避』。
辛くも軌道から外れたものの、しかし魔王の猛攻は止まらない。
割れた床をさらに踏み砕かんばかりの踏み込みで次なる一撃が迫る。

「撃滅の!セカンド・ブレッド!」

「ち……!」

咄嗟に右手で防御するも、

「ふん、防御したな?」

赤い装甲が砕け、中から現れた右腕が上条の顔面を捉えた。

「がっ!!」

装甲と、内部の拳。
そのサイズの違いを利用し、魔王の拳は右手のガードを抜いたのだ。
そして、叩き込まれたのはヒューパンの膂力である。
ダメージは深刻であった。
上条の右手を持ってしても、正面からの打倒は不可能だったのだ。

「ふむ。少々本気になってはみたが……意外にあっけなかったな。まぁ、人間などこんなものか」

倒れた上条のもとに、ゆっくりと魔王が歩み寄る。

「だが、立て。キサマはこんなものでは終わらせんぞ。簡単には殺してやるものか」

「誰が……簡単に殺されてやるもんかよ」

ふらつきながら、上条は立ち上がる。
ぼやけた視界の先には、月乃。

「……絶対、助けてやるからな」

そう呟くと、上条は魔王に背を向けて走り出す。

「む……?」

逃げたのではない。向かった先に扉はない。
上条の狙いは、壁際にいるヒューパンたちだった。

「おらぁッ!」

障害物を押し退けるように、立ち並ぶヒューパンたちを右手で打ち消していく。
人間に戻ったり、小麦粉になったりしながら、上条の障害が次々に消え去る。

「何をしている?」

上条は答えず、小麦粉の山を魔王に向かって蹴り上げる。
煙のように小麦粉が広がる。

「目くらましか。くだらん猿知恵だ。それとも、火でもつけるのか?」

もうもうと立ちこめる小麦粉の煙幕。
遮られた視界の向こうから、魔王に向けて何かが投擲される。

「……ふん。興ざめだな」

それを避けようともせず、魔王は正面からそれを受ける。
投擲されたのは、靴。

そしてもう一足。

「醜い。醜いぞ上条当麻」

魔王の声を頼りに、上条は手当たり次第に物を投げつける。

割れた床の破片、有り金をはたいて買った通信アイテム、萎れた花を挿した花瓶。

「もうやめろ。今なら一瞬で殺してやってもいい」

次々に投げつけられる物体を避けもせず、魔王は声をかける。
その声色は幻滅と失望を含み、向けられる意思は既に殺意でも復讐でもなく、飛び回る羽虫を叩く程度の動機でしかない。





ぴたり、と上条が止まる。

「観念したか。そのまま動くなよ」

「あぁ、もう動く必要がねぇからな」

「…………何?」

小麦の煙幕が晴れ始め、通るようになった互いの視線。
上条は不敵な笑みを浮かべ、そして魔王は驚愕の表情を浮かべていた。
両者共に、動かない。
一方は『必要がないから』。
もう一方は、『不可能だから』。

「何故だ……何故体が動かん……!?」

指一本でさえも、満足に動かすことができなかった。
上条は呼吸を整えながら、静かに魔王を見つめ、質問を投げかけた。

「アンパンマンって知ってるか?」

問いかけの形をとってはいるが、実のところこれは質問ではない。

「アンパン……マン……だと」

「テメェの大先輩だぜ。まさか知らないのか?」

「何が言いたい……キサマ何をした!」

「まだわかんねぇのか。簡単なことだ……『顔が濡れると力が出ない』んだよ、アンパンマンは。そして、それはテメェも同じみてぇだな。なにしろ、パン人間だもんなぁ」

勝利宣言であった。
魔王は花瓶を避けず、中の水を被ったのだ。

「まさか……そんなバカな……この私が、こんなことでっ……!」

魔王の表情が悪鬼のごとく歪む。
その気迫に反して魔王の体は脱力し、ついには膝をつく。

時を同じくして、焼きたての香りが広間に広がった。

厨房が開いたのだ。

「なん……だと……」

「魔王ッ、これがっ! お前の最後じゃあっ!!」

パンを手に東は地を蹴る。

「キサマ……東ァァァァァァ!!」

残された力を振り絞り、魔王は再び立つ。

「ああああああああああっ!!」


激突。


魔王の渾身は東の額を捉えたがしかし、東の全力……焼きたてのファイナル・ブレッドもまた魔王の口腔へと撃ち込まれていた。




[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム10
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/10/25 01:02

『いつも心にダルシムを その2』




誰も声を発することが出来なかった。
誰も動くことが出来なかった。
その衝突が、あまりにも眩しすぎて。


黒柳と東。

魔王と勇者。

食品と職人。

野望と希望。

男と男。


全てを賭けた、凄絶なる相打ち。




上条の心にあるのは、『しまった』の一言。
何故、この瞬間に東を止められなかったのか。
東たちがどんな覚悟をしているのか、僅かながらも気付いていたはずなのに。
今更になって深く効いてきたのか、脚から力が抜けていく。
自責の念に駆られながら、上条は柄にも無く奇跡を願う。

誰もが皆、見ていることしかできなかった。

東のカチューシャがふたつに割れ、床でぱきんと乾いた音を立てる。
額から一筋の血が流れ、瞳から光が消える。
それを隠すように前髪が落ち、次に膝が折れた。

時間が止まったようなその広間で、動くものは倒れていく東、ただひとり。

薄れゆく意識の中で、東はその瞬間に長い夢を見た。
走馬灯のようなものであったかもしれない。

それは蒼き軍勢に追われながらの移動中、自らもダルシムになりかけたこと。
もしも噛まれていなければ、此度のパンを作ることはきっと不可能だっただろう。
東はダルシムと同化し、ダルシムの本質を理解したのだった。

それは黒柳の意思だったのか、河内の意識だったのか、それとも風の精霊か、あるいは東の深層意識に眠る内なるダルシムであったのか、それはわからない。

しかし、魂の奥底で確かに『彼』は東の前に立った。

そして、『彼』は語りかけた。

食べることは即ち生きるということである、と。

何をどのように食べるのか? それは『何故そのように生きるのか?』という疑問に等しい。
答えを掘り下げてみると、それはどうやら『次世代に命を繋ぐため』であるらしい。

しかし、果たして本当にそれだけでいいのだろうか?
人間とは、それだけで生きている生き物だろうか?

東は改めて考える。
人を人たらしめているものが、他にあるはずだと。

東は、それをある種の精神状態であると仮定した。

人と人との関わり合い、他者への思いやりが尊い思い出を作る。
思い出は未来への夢を生み、夢は生きる糧になる。

やはり、人はパンのみに生きるのではないのだ。

自分自身と、そして他者を受け入れることは決して簡単なことではない。
時として軋轢を生み、傷つけあうこともある。
けれど、それもまた生きるということ。

心の在り方を単純に善悪で計ることはできない。
全ての人の幸福を願うことは、砂漠の砂粒を数えるがごとき苦行なのかもしれない。
不可能な願いは苦しみでしかない。そんな願いは愚かだと、きっと誰もが嗤うことだろう。
それでもなお、誰かの痛みに触れ、少しでも自分に出来ることをしたいと願う『心』は、きっと何よりも尊いのだ。

────そう信じ、行動する勇気。

それこそが東の回答。
ダルシムになりかけたことでそれをより理解し、たどり着いた境地。


『だるしみの心』である。

「……きっと……伝わったはず……じゃ……」

東はそう言い残し、地に伏した。
同時、魔王・黒柳は目を見開く。

「これ……は……ッ……!」

パンに込めた祈りが魔王の、いや『黒柳亮』の精神に激震を起こす。
研ぎ澄まされた超感覚が、そのパンの作られたプロセスを鮮明に脳内再生する。

最初に見えたものは、林檎と蜂蜜。
冠はかつてから独自の配合で様々な果物と蜂蜜を用い、生地を膨らませるための酵母を作っていた。
余計な手を加えず、大地の恵みと自然の力を最大限に生かした酵母。
南トリステイン店にてそれらを更にブレンドした液種が、このたびパンに吹き込まれた『生命の息吹』であった。

次は小麦粉と水。
小麦粉を捏ね、それを一度水で洗ったものを別に作った生地と混ぜる。
そうすることで大量のグルテンを含ませた生地が出来上がる。
小麦に含まれるたんぱく質の重ねがけ、『ダブル・グルテン』である。
そこに、『太陽の手』による最適な発酵と『女神の手』による捏ね上げを加えた、言わば『太陽神の生地』。

中の具材は、アルビオンの田舎に伝わる家庭料理であった。
魔を祓う力があると信じられる、『香辛料の妖精』が伝えたとされるスープである。
ハルケギニアにおいて『病』とは『悪しき魔物の仕業』であるとされ、香辛料の持つ殺菌作用は『退魔』の効果を裏づける証拠として機能している。
このスープを作ったのはインデックスと、なんと蒼きダルシムである。
厨房の奥で待ち構えていた蒼きダルシム、その最後の一人を強制詠唱スペル・インターセプトで無力化・傀儡としたのだ。
その後インデックスは東の要望を聞き、ダルシムと協力し『それ』に最も近いアルビオンのスープを作ったのである。
東は出来上がったスープを生地に合わせ調味、とろみを調整、パン生地に包む。
そして、ペターライトを敷いた鍋に油を満たし、高温でざっくりと揚げる。
完成から3秒で焦げるという難しい火加減は、このときも一瞬たりと間違うことはなかった。

そうして出来たパンの名は、アルビオンに古くから伝わる伝承、『香辛料の妖精』の名にちなんだものである。

ジャぱん44号・解、『シエル・ブレッド』。

またの名を────

「カレェェェェェェェェェェェパァァァァァァァンンンンッッ!!!!」

カレーパンである。

CURRYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYカリィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!!!!」

その絶叫を皮切りに、リアクションが始まる。
真の意味で『全世界』を巻き込んだ、神をも超えるリアクション能力。
超味覚審査員・黒柳亮の全力が今、爆発した。




空間にノイズが走る。
そこかしこに無数のワームホールが形成され、ありとあらゆる『モノ』が『コト』に変化しながら吸い込まれていく。
ブラックホール表面の異名、『事象の地平線』が飛び回り、縦横無尽に空間を切り分けていく。
分子は原子に、原子は原子核と電子に、そしてクオークに。さらには超ひもとなって彼方へ。
光は波長がどこまでも伸びていき、紫外線は紫の可視光へ、紫は藍、青、緑、黄、橙を経由して赤、そして赤外線に。
赤外線は電磁波に、電磁波は音に、音は熱に。

確定した現在は観測される前の状態へ、確率の霧となって不確定の未来へと姿を変える。
その範囲は膨張し、加速し、全てを分解しながら闇色を深めていく。
魔王の存在そのものがリアクションに消費され、魔王の支配下にあった全てのパンが消し飛んでいく。

「東くんっ!」

声をあげたのは、月乃。
パンの鎖が消えてすぐ、倒れた東のもとに駆け寄る。

「起きてくださいっ、東くん!」

東は答えない。
息をしているかどうか、確認する余裕は月乃にはない。
細い腕に満身の力を込め、東を抱き上げる。

「生きてますよねっ、ねぇっ! 絶対っ……絶対、いやですからね……!」

足元がおぼつかないままに、月乃は東を抱えてその場から離れる。
同じように、インデックスもまた上条を引っ張る。

歪んで開かなくなった扉を冠が蹴り開け、月乃とインデックスを扉の向こうへ押し込む。
そして戻ってこれないように、開けた扉を無理やり閉める。

「よし……っと」

ここからが、冠の闘いだった。



「さて。黒柳先輩、最後の仕上げですよ」

冠が取り出したのは瓶。
ヨーグルトを牛乳で割り、糖蜜とレモン汁を加えた液体。

「ソレハ……『ラッシー』ダナ」

全宇宙と同化し始めた黒柳。
物体としての体裁を半ば失いながらも、その『食』に対する執念が人格を保持していた。

「名前はお任せします。それより、『食』において大切なのは『調和』だと思うんですよ、僕」

冷や汗をかきながら、冠は黒柳のもとへと歩いていく。

「そのパンの基本構成は『辛味』、『塩味』、そして『旨み』です。食感は表面のザクザクした硬さ、内側のもっちりとした弾力、そして中のとろみ。『とろみ』については、パンが水分を吸っているのでわかりづらいかもしれませんが」

時空の歪みを避け、しかし決して迷うことなく前に。

「そこにこれで『甘味』『酸味』を加えます。……おわかりでしょう? おかずの要らない『調理パン』であれ、食事として完成させるには『相性のいい飲み物』が必要なんですよ」

冠の心にあるのは、感謝。
東がいなければ、自分の技術はちいさなコツのままだった。
上条がいなければ、自分はここに来ることさえできなかった。
インデックスの知識が無ければ、自分の経験は生かしきれなかった。
上条が魔王の力を弱体化させていなければ、人間としての黒柳にパンの祈りは届かなかった。
東が身体を張ってパンを叩き込んでいなければ、この状況に持ってこれなかった。
月乃の心が折れず、東、上条、インデックスを率いて逃げてくれなければ、安心してここに居られなかった。
河内の生き様を知らなければ、今、戦うことなどできなかっただろう。

みんなが支えてくれている。

────ありがとう。自意識過剰かもしれませんけどね、この気持ちは本物ですよ。

「さぁ、どうぞ召し上がれ! おかわりもありますよ」

冠が瓶を突き出す。
まるで重力の方向が曲がったように、瓶は黒柳のほうへ落ちていく。

蓋が弾け飛び、良質のラッシーが黒柳の喉を潤す。

「もう一本?」

取り出すと同時に、2本目の瓶も飛んでいく。
実のところこそれ自体は、特に工夫を重ねたわけではない。普通の飲み物である。
しかしこのパンと共に食したとき、リアクションは『その先』に行くはずなのだ。

────絶対、『あの言葉』を聞かせてもらいますよ。きっと、それが『鍵』……

2本目の瓶が開封され、冠が最後の1本を取り出したとき、声は響いた。





「なんや、大事なモン忘れとるやん。そりゃアカンで、冠」

「えっ……?」

冠の背後から腕が伸び、握っていた瓶をひょいと取り上げる。

「ちょ、ちょっと」

「ええやん、1本ぐらい。なぁ、黒やん。そう思わへん?」

親しい友に話しかけるような、軽い口調。
馴染みのあるイントネーション。
人懐っこそうな顔つき、そばかす、金髪。

「河内……さん……! どうして……」

河内恭介。久しぶりに見る真の姿であった。

「『支配率』や。もう魔王はどこにもおらへんやろ? そういうことやねん。あの偽ダルシムは、ワイの再構成に使わせてもろた。カレー作っとったのも実際ワイなんやで。まぁ今はそんなこと、どうでもええんやけど」

河内はパンをかじりながら瓶を手に、黒柳の眼前まで歩み寄る。

「あ、あぶないですって……」

「ワイは大丈夫やって。な?」

瓶を開け、かつんと軽く黒柳の瓶に打ち付ける。

「乾杯。いや、ホンマお疲れさん」

「……カン……パイ……?」

「まぁまぁ、ぐいっと」

「……」

河内と黒柳。
向かい合い、ラッシーを同時にあおる。
現在進行形で起こっている天変地異の規模に反して、非常に地味な『お茶の間感』が漂う。

「なぁ、黒やん。最近、ひとりでしかメシ食うてへんのとちゃうか」

ぽつり、と河内が問いかける。

「……」

沈黙を肯定と受け取り、河内は言葉を続ける。

「アカンで。ナンボ美味いモン食うても、ひとりじゃ味気ないんやで……って、このパン食うたならわかってんのやろな」

ふたりが今まさにしているのは、東の伝えたかったこと。
気心の知れた仲間と食べる食事。
カレーは家族の味であり、仲間の味なのだ。
煎じ詰めればそれは、思い出の味なのである

『史上最強のパン』である44号の究極。
強さとは殺すことではなく、生かすこと。
その本質は死に至らしめるほどの美味さではなく、死者が蘇生するほどの美味さだったのだ。
人として既に死んでしまっていた黒柳の魂は、今確かに呼び戻されていた。

「チカラ、暴走させてる場合ちゃうやろ……食事が済んだんやで。何か言うことあるんとちゃう?」

それこそが、冠が引き出そうとした言葉。

2人のリアクション能力者が出した、同じ答え。

この悪夢が終了するに足る、9文字の言葉。



声が重なる。



『ごちそうさまでした』と。



[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム11
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/10/31 16:31

トリステイン魔法学院の朝は早い。
早いとは言っても、『そこで働くものたちにとっては』という但し書きがつくのだが。

平賀才人もまた、使い魔としての職務を果たすべく早朝から汗を流していた。
洗濯を済ませ、愛しいご主人様が顔を洗うための水を汲みに行き、すれ違うメイドさんたちと挨拶を交わし、部屋に戻る。
時間を確認し、今日着る服を用意し、カーテンを開ける。

「ルイズ、朝だぞ」

いつものように声をかけ、肩に手を触れる。
やはりいつものように、彼のご主人様はそう簡単には目を覚まさない。

「おーい」

「ん……ふにゅ……にゃむ」

軽く肩を揺すり、声をかけるもルイズは何やらごにょごにょと唸るばかり。
食べ物の夢でも見ているのか、口をもごもご動かしている。

「幻を食うのはまだちょっと早いんじゃねぇか」

ばーさんになってからにしろよ、と才人は苦笑いを浮かべる。

「わた……の……かって……しょ……」

寝ていてもそれなりに反論はするらしい。
才人にだけわかる程度の、かすかな膨れ面である。

「はは、こいつめ。……おっと、起こさないとな」

強く揺すれば起きるだろうが、それでは機嫌を損ねて爆発されてしまう。
大きな声も同様に、ルイズを怒らせるかもしれない。
寝起きのルイズの不機嫌たるや、危険物乙種第5類(ニトログリセリンなど)相当の気難しさなのである。
さて今回はどうしたものかとしばし考え、ふと思いついた素晴らしい起こしかたを実行に移す。
誰かが自分にそうしてくれたなら、きっと鼻の下が無限に伸び続けるであろう最高の起こしかたを。

「……ごほん。る、るいずさま。今日もよく晴れた気持ちのいい朝デスヨ。卑しい使い魔めは、愛しいご主人様にお目覚めのくちづけを色々なところに……」

決して、ふざけているわけではない。
平賀才人16才。使い魔である前にひとりの男であり、勇者である前にひとりの現代紳士にほんじんなのだ。
これは常日頃『目上の者を敬う気持ちが足りない』と言われている才人の、自分なりに考えて真心を込めた何か。
やましい気持ちは一切ない……こともないのだが、とにかくコレが才人なりの忠誠心というものであった。

その声を聞いたルイズ、親にも友達にも見せられない表情で才人の手に頬ずり。

「でへへ……サイトぉ……」

いつもは気難しいルイズだが、本当はその程度の『ちゅうせいしん』で充分ハイになれてしまう、そんな子だった。
寝ぼけた頭で才人を抱き寄せ、「ん~」と唇を突き出したそのとき、ルイズはようやく目が覚めた。

目が合う。

「……」

「……」

みるみるうちに、ルイズの顔は真っ赤に染まっていく。
その表情から圧倒的な暴力の兆しを読み取り、才人の顔は血の気が引いて真っ青に。

「い、いや、その……ほらっ、いま朝だからさ。朝なんだよ。ね。なので、オハヨウ的なものをさ……」

「なっ、ななななななな……っ」

わなわなと肩を震わせるルイズ。
がたがたと全身を震わせる才人。
ガンダールヴの原動力、『心の震え』はどうやら彼を守ってはくれないようである。

「なにを、してるのかしら……?」

「ちょ、待っ……い、今おまえも乗り気だったじゃ……」

「のっ、乗り気ですって……!? ごっ、ご主人様の寝込みを襲っておいてっ、い、いいいい度胸じゃない……!」

ルイズの右腕が振るわれる。
小柄な身体ながら、放たれる威力は凄まじく────

「あべしっ!」

────脳を揺らすのである。

ビンタという名の掌底を顎に撃ちこまれ、ごろんごろんと転がる才人。
ルイズの眼に炎が灯る。
こんなものでは許さないと、未だしっかりと才人を捕捉している。
視線はそのままに、枕の下から杖を引き抜く。
『怪我はしないが滅茶苦茶に痛い』という程度の威力になるよう計算しつつ、ルイズはルーンを紡いだ。
素早く正確な、流れるような動き。

「お? 貴族の娘っ子、なんか今日スゴくねぇ?」

魔剣デルフリンガーの呟きは、ふたりの耳には届かない。

「ご、ごめんなさい! ごめんなさいって!」

「このッ、バカ犬────ッッ!!!!」

お馴染みの罵声と共に、杖は振り下ろされた。
相思相愛、すぐに仲直りできるとはいえ、才人にとってはシャレにならないお仕置きが発動する。

爆発。

「そげぶ────っ!!」


魔法学院に爆音が轟き、澄み渡る朝の空気に一筋の狼煙が上がる。
これを合図に生徒たちは一斉に目覚め、新しい一日の到来を確かめる。
そんな、いつもの朝だった。








終章

『だるしむ、ということ』





その頃、遠く離れたチキュウ、日本では。
学園都市、学生寮にて上条がまたしても考え込んでいた。

「いったい……これは……」

ハルケギニアとやらはどうなったのか。
東たちは。あのリアクションの行き着いた先は。

おぼろげな記憶を頼りに、ひとつひとつ事態を整理していく。
今目の前で眠っているインデックスは、あの時なんと言ったのだったか。

────もうすぐだよ。みんなが笑える、最高のハッピーエンドが『起こる』んだよ。

「……これが、それだっていうのかよ」

『何もなかったことになった』のだと、理解するまでには時間を要した。
全身が理解を拒否していた。

「嘘だろおい……なぁ、おい……っ」

今も身体で覚えている多くの実感が、頭の回転に比例して裏切られていく。

「思い出も事実も全部消しちまうなんて、そんなのアリかよ」

自分が例外であることは直感で理解していた。
幻想殺しがその記憶を保っているのだ、と。
そしてそれは、他の誰も覚えていないということに他ならない。

「ハッピーエンドって、そうじゃねぇだろ……!」

誰に言うわけでもなく、上条はつい声を荒げる。
自身の無力を味わったのは一度や二度ではない。何度でもあった。
しかし、いつまでもそれは馴れない。馴れるわけにはいかない。
もっと何かできることがあったのではないかと、自責の念がこみ上げてくる。

「ん……とうま……?」

目を覚ましたインデックスが手を延ばし、そっと上条の手を握った。
やり場のない想いを包むような、柔らかな体温が伝わる。

「あ、あぁ、悪い……起こしたか」

「今ね、とってもいい夢を見てたんだよ」

「……悪かったって」

「謝らなくていいんだよ。ねぇとうま、聞いてくれる? 私ね、料理をしてたんだよ」

目を擦りながらインデックスは起き上がり、満足そうな表情で上条を見つめる。
余程いい夢だったらしい。

「料理? お前が?」

「そう。料理なんだよ。大きな厨房で、古い釜で、それでね……」

語り始めたその内容は、上条にとって身に覚えのあるものだった。
荒唐無稽で、バカバカしくて、けれど大切な想いの詰まった物語。

「とうま、台所貸してくれる?」

「お、お前マジで料理するのか?」

「私だってできるもん。 たぶんきっと」

「たぶんってオイ……」

「ねぇ、いいでしょ?」

現実主義の上条。普段なら『夢と現実をごっちゃにするんじゃない』と切り捨てるところである。
しかし今回だけは、少しぐらい気が変わってみてもいいかなという気持ちのほうが強かった。

「わかった。ただし、俺も一緒だ」

色々心配だからな、という一言は護身のために飲み込んでおく。

「うんっ! 一緒に作って、一緒に食べようね!」

「あーはいはい。で、何作るんだ?」

「カレーだよ」

「…………ホント、スゲェな」

「え? 何が?」

「いや、こっちの話」

『こっち』にとっては、『あっち』の話は夢物語なのかもしれない。
あっちにしてみれば、こっちが夢の物語になるのだろうか。

けれど、確かに彼らはいたのだ。
自分たちがここにいるように、彼らもまた、今だってちゃんと存在しているはずだ。

なにしろ、インデックスがカレーを作るというのだから。







『世界』をまたいで、とあるインドでも同じことが起きていた。
同じように、何も起こらなかったのである。

ダルシムは机に向かい、電話を耳に当てながら原稿を書いていた。

「(うむ……『概念の夜が明け、世界は目を覚ました』、でいいだろうか。続きは……『太陽の光は闇を払い、現実が照らし出されていく。生活という大きな流れの中で、夢は容易く押し流されてしまう。けれど、まぶたの裏に焼きついた夢の続きは、探せばきっと見つけることができるだろう。夢と現実の違いとは、それが現実であると信じているか否かの違いでしかないのだから』……と、こんなものか) あぁ、今何と言ったかな? すまない、聞いていなかった」

「ですから、そろそろ原稿をいただけると大変嬉しいかなぁなんて思ってみたりしたんですけどいかがでしょうか。と、シャルマはシャルマは編集者として原稿の催促をしてみたり」

受話器の向こうから、シャルマが早口に言う。
それを聞きながらダルシムは原稿用紙の最終行、最後の一文を二度三度書き直している。
シャルマの言葉はあまり耳に入っていない。

「誰の物真似をしているのか知らないが待ちたまえ。もう間もなく書きあがる。……出来た。今FAXしよう」

「ああ! そうですかそうですかいやぁよかった!お疲れ様ですありがとうございます」

何か良い事でもあったのか、シャルマは普段の3割増しで上機嫌であった。
少々難産だった短編を書き上げたことでダルシムもまた悪くない気分であり、この熱が冷めないうちに次回作の話題を振ってみようと思い立つ。

「ところで、昨夜こんな夢を見たのだが」

「夢、ですか? へぇ、それはどういった?」

「古きヨーロッパのような……所謂ファンタジーの世界で、魔物の軍と戦ったのだよ。説教もしていた。私は英雄だった」

「夢の中でも戦ってたんですか。さすが……って、もしかして、それ書こうと思ってます?」

「あぁ、異世界冒険譚というのも悪くはないと思うのだが。爽快感のある話になると思わんかね」

「いやいやいやいや、ちょっとどうなんですかそれ」

シャルマはあまり乗り気ではないようだった。
しかしダルシムもそう簡単には退かない。理由を聞かなければ納得ができない。

「何故かね」

「異世界来訪して魔物の軍団と戦って説教する英雄譚って、下手したら最低ものじゃないですか。叩かれますよ~それ」

「……それもそうだ。危ないところだった」

「まぁ、読んでみたい気もしますけどね」

「なら少し書いてみても」

「だめですって。僕しか読みませんよ」

「君は読むのか」

「まぁ、その。実は僕も似たような夢を見まして」

「ほう?」

いい大人が交わす『夢の世界の話』はどこか滑稽で、しかし胸の高鳴る情熱に溢れていた。
それは斜に構えた少年が自分の好きなものを懸命に語るような、心温まる光景で。

「まったく、やっぱり親子ねぇ……」

彼の妻サリーが、そんなダルシムと息子のダッタを見比べて微笑んでいた。

「ねぇねぇ母さん、聞いてよっ。日本のカレーはね、小麦粉でとろみをつけてるんだって。すごく美味しいんだって、クリスが言ってたんだよ」

「あぁ、ガイルさんとこの娘さんね。日本のカレーが食べたいの?」

「えっとね、『ジャパニーズスタイルも美味しいから、今度食べてみなよ』って言われて。別に僕がどうしても食べたいってわけじゃないんだけどね、ほら、クリスが言うからさっ」

「あらあら、はいはい。じゃあ今夜は日本のやりかたで作ってみましょうか」

「うん!」




それぞれの世界で、日々が回っていく。
もうひとつの世界、もうひとつの日本、パンタジアのある日本でも、それは同じように。




ただひとり、黒柳はパンタジア本社の前に佇んでいた。
再び人間に戻り、以前と同じように見上げる。
太陽に反射して耀く、誉れ高き店名は彼の誇りであった。
しかし、存在の全てを賭けて追い求めたその名は今や『誇り』から『憧れ』へと姿を変え、悔しさばかりがこみ上げてくる。

「パンタジア……」

身近なものだと思っていた耀きはあまりにも眩しく、後悔とともに目の奥を灼いた。
涙で滲んでいく景色は、全て遠き理想郷。

「そう、か。 あぁ……そうか。私は……」

自嘲的な笑みを浮かべ、黒柳は目を閉じた。
続きを口にするのを躊躇っているのか、溜め息と共に言葉を切る。
しばしの沈黙の後、再び開いた目に哀しみと諦めを滲ませて、噛み締めるように。

「だるしまざるもの、だったのだな」

独白は続く。
それは痛ましいほどの懺悔であり、自罰であった。

「ひたすらに、私は求めた……だるしみを求めること、それ自体がだるしまざるものの証明だと、気付きもせずに」

求めたのは、持たざるが故に。
だるしまざるものの身で、だるしんでいるつもりになって息巻いていたその身を恥じた。
ひとりよがりのだるしみで、全てをだるしませられる気でいたと。

「愚かだな……なんと醜いことか」

とどのつまり、自分は子供じみた理想に溺れたのだとの確信に至る。

黒柳は歩き出した。
胸は辞表を携え、向かう先は月乃のいる社長室。
もはやここに立つ資格は無く、追い求めた幻想は壊れ、あるべき姿に戻ったのだ。
持つべきものの手に、それは渡ったのだ。
胸を刺す痛みを抱え、せめて罪を償う道を探し生きることが、黒柳が自らに課した新たな使命であった。

「……さらば、私の理想郷」

一度だけ立ち止まり、呟く。
別れを告げたのは、これからまたぐ敷居は『彼らの』理想郷であるから。
祖国に向けるような別れの言葉が、風に溶けた。




同僚たちとすれ違いながら、見慣れた廊下を歩く。
階段を上り、社長室の扉を叩く。

どうぞ、という声が耳に届くと、黒柳はひとつ呼吸を整えてから扉を開いた。

「失礼する」

「あぁ、やっぱり黒柳さんでしたか」

月乃の第一声は意外なものだった。

「……やっぱり?」

予想していた、とでも言うのだろうか。

「ええ、辞表なら受け付けませんよ」

「……! な……」

「納得いきませんか? では説明をしましょう」

月乃はひとつひとつ丁寧に説明を始めた。

黒柳のしたことは決して許されないことであるが、その事実はリアクションによって消えてしまった。
ならば許すも許さないも、気持ちの問題でしかない。
加えて、味覚審査員・黒柳の存在はパンタジアの味とその維持・向上にとって大切なものであり、社長は勿論、社員の私情でそれを解雇することはできない……と。

「そして、東くんはこう言いました。『人は誰もが、心の中にそれぞれのダルシムを抱いて生きている』と」

ずきり、と胸に痛みが走る。
だるしまざるものにとって、その言葉はあまりに尖っていた。

「違う。私は違うのだ。私にはダルシムなど」

「いいえ。貴方が『だるしまざるもの』であるならば、東くんの気持ちは伝わらなかったでしょう。いいですか黒柳さん、だるしむ気持ちに善悪は無いんです。ときどき、間違えてしまうかもしれません。でも、それもダルシムなんですよ」

諭すような、優しい声色が部屋に満ちる。

「黒柳さん。まだ、『ダルシムは道具』だと考えていますか?」

「……いいや」

「なら、この話はおしまいです」

にっこり、と月乃は微笑む。
慈愛を湛えた眼差しに、黒柳は無意識のうちに膝をついていた。

再び景色が滲んでいく。

「……私は……ここにいて……いい、のか……?」

震える声。
あれだけのことをしたのに。多くのものを悲しませ、傷つけたのに。
その感触を全て黒柳は覚えている。
故に、罪の意識が今も彼を苛んでいる。
その許しを、どうしても信じきれないでいた。
その引っかかりはしかし、すぐに氷解することになる。

「もう、何を言ってるんですか。だって、貴方の理想郷はここでしょう?」

きっかけは、それで充分だった。

「……っ!」

堪えきれず、ついに涙が溢れ出す。
混ざり合い、濁った感情が洗い流されていく。
次第に浮かび上がる言葉は、たったひとつ。

「……すまな……かった……っ……」

何度も何度も、黒柳は詫びた。
月乃に、だけではない。
全ての世界に向けて、彼は頭を下げた。

「顔を上げてください、黒柳さん……ひとつだけ、聞かせてもらってもいいですか?」

「……なんだ」





そして、日常は巡る。
それは退屈で、色あせた、ありふれた物語かもしれない。
それは大切で、鮮やかで、かけがえのない物語かもしれない。
どうあれ人はパンをかじり、それぞれの物語を生きるのだ。
何を、どのように食べるのか? それぞれの小さなこだわりを、そっと胸に秘めて。






────貴方の心の中のダルシムは今、何を祈っていますか?────


────決まっている。それは────









FIN



[20997] 私の頭の中のダルシムの中の妹の頭の中のダルシム12
Name: TEX◆57eef252 ID:9b8c5e9f
Date: 2010/11/06 19:23
誤字・脱字のチェックを兼ねてssを読み終えた私は、ひとつ静かに息を吐き出した。
大変だったな、と改めて思う。

ほんとうにたいへんなものを書いてしまった。

「……まぁ内容はともかく」

投稿したのは夕方、天気は曇り空。
利用者がサイトを開くのは、お仕事が終わって一息ついたこれからだと思う。

かんぺきだ。

労働に疲れた心と体で判断力が鈍って、このssを面白いと思う人もいるに違いない。
感想はたぶん『ハイル妹』。もしくは『妹! 妹殿! 作者! ss指揮官殿!』。
きっとそんな感じだ。そうだといいな。
感想がつくのは何時間後だろうか。楽しみな反面、やっぱり少し恐い。感想がないという可能性も大いにあるのだ。

それにしても、なんか変な気持ちだ。
書ききったという充実感は確かにある。完結させることができてほっとした。
でも、同時に寂しくもある。むなしい、というのも近い。
達成するということはつまり、夢中になっていたものをひとつ、失うということなのだろうか。

「こういうの、なんて言うんだっけ」

何か短い言葉があったはずだ。
少なくとも自分にとっては大きな意味のある何かをやり遂げたときの充実感と、目的を達成してしまったという寂しさに似た気持ちのこと。
最初意味がわからなくて、彼に聞いたんだっけ。

「あっ、そうそう。『賢者モード』だ」

うまい言い方だと思う。
この情熱から解放されたむなしさと、落ち着いて安らかな気持ちを表すには最適だ。
普段考えないくらい真面目なことを考えるのに最適な精神状態は確かに、賢者モードと呼ぶにふさわしい。
彼の説明はなんだか要領を得ない遠回しな言い方だったけれど、それでも『なるほど賢者か』と感心したのをよく覚えている。

そっか、これが賢者モード。

「……ちょっと喉渇いたな」





飲み物を取りに行くと、台所にお兄ちゃんがいた。
腕をまくり、かしゃかしゃとお米を研いでいる。

「あれ? お兄ちゃん、なんでお米研いでるの?」

そう訊ねると、お兄ちゃんは少し遠い目をしてひとこと。

「……食べるため、かな」

まるで生きざまを語るみたいな言い方だった。
どうも最近、なにかうまいことを言おうと無理な努力をしているように見える。
どうしちゃったんだろう。へんなの。

「『かな』じゃないよ、わかってるよそんなことは。なんでお兄ちゃんがって聞いてるの」

「あぁ、そっちか。ほら、今日オヤジも母さんもいないだろ?」

「ん、そういえばそうだっけ」

それで、お兄ちゃんが晩ごはんを作ることになったらしい。ちなみに、ハンバーグだそうだ。
お兄ちゃんはたまに、こうして料理をすることがある。私は料理ができない。ちょっと悔しい。
でもまぁ、お兄ちゃんに張り合うのもなんかアレだし、出来ない妹ポジションに甘んじている。

いや、甘んじてきた。これからは違う。

「じゃあ、何か手伝うよ」

「お? 珍しいな」

「ふふん。今日の私はひとあじ違うのだよお兄ちゃん」

できるだけ偉そうに言ってみる。
なんだこいつ、みたいな顔をされても気にしない。

「……? そういや最近お前、機嫌いいよな。何かあったの?」

ふふふ、そりゃあ機嫌も良かろうさ。

「ま、賢者モードってやつだね」

「…………はぁぁ!?」

え、いや、そんなに驚かれてもなぁ。
賢者モードになることがありえないくらいにダメな子だと思われてたってこと?
なんか、むかむかしてきた。

「いけない? 私が賢者モードになると何か困るの?」

「い、いや、そういうわけじゃ……」

「じゃあ、いいじゃん」

「いいっつーか……お前、要するに、さっき、その……『修行』をして、『解脱』してきたと?」

『修行』と『解脱』を妙に強調してお兄ちゃんが言う。
へー、そういう言い回しをするものなんだ。なるほど。

「そうだよ。なんかこう、世界が変わったって感じ」

こういうノリでいいのかな?

「そ、そっか……そりゃ、よかったな、はは……」

いいみたいだ。

「うんうん、ほんとによかったよ。なんでもやってみるものだね。手探りだったけど楽しかったし、夢中になれたっていうか。がんばったよ私」

「あ、あー、うん。そうか……お疲れ様だったなそれは。あ、手は、ちゃんと洗うんだぞ」

「当たり前じゃん。それぐらいわかってるよもう」


よく手を洗って、玉ねぎなどを切る。
普段料理なんてしないので、自分から見ても手つきが危うい。
気をつけないと怪我をしてしまいそうだ。

「……そんな手つきで大丈夫か?」

大丈夫だ、問題ない。

「……」

「いや、お前なんとか言えよ」

「心の中で言ったもん」

「心の中っておい……」

「本当に言ったら失敗しそうじゃん」

「フラグの話をしてんじゃねぇよ。手を切りそうだからなんとかしろっての」

気をつけてるのになぁ。

「こう?」

「だから、指を伸ばすなって。ちょっと貸してみろ。こう持って……こう。で、こう。な?」

とんとんと心地いい音を立てて、玉ねぎがみじん切りにされていく。
『今のところをスローモーションでもう一回』と言いたくなるのをぐっとこらえ、包丁さばきを観察する。

うん、だいたいわかった。

「やってみる」

……わかっていたことなのだけれど、見るのとやるのとでは大きな違いがあるもので、やっぱりうまく切れなかった。
彼にごはんを作ってあげられる日はどうやら、まだまだ遠いみたいだ。



「よし、お前は肉だ」

私は肉になった。
ひき肉をこねるポストに就任したという意味だ。
今後はボウルに入れたひき肉や卵、パン粉などを混ぜ合わせていくのが私の主な仕事になる。
これなら私にも出来る。お兄ちゃんもさっきみたいな緊張感を漂わせてはいない。
ひき肉は冷たくて、ずっと触っていると手が冷えて痛くなってくるけど、そこは気合いと根性でがんばるしかない。
それもだんだんと慣れてきて、楽しくなってきた。

「ねぇ、これ楽しいね。なんかこう、くせになりそう。この、むにゅーって感じが」

指の間からにゅるにゅるはみ出すひき肉がおもしろい。

「すごい。肉かわいいよ肉」

「おもちゃにすんな」

「大事にしてるもん」

「わかった、お前は皿だ」

私はお皿になった。



それから私たちはいろいろなものになった。
お兄ちゃんは包丁やフライパンなどになり、私はおたまやしゃもじになった。
はやくお茶を注いだコップになりたいと思ったけど、あと少しでフォークとナイフになれるので我慢した。

そして。

「いただきまーす」

兄妹で力を合わせて作ったハンバーグを食べるときがきた。
お兄ちゃんが『コレは俺の特製だ』と何度も主張していたソースは果たして美味しいのだろうか。
私にどんなリアクションが求められているのかわからないけれど、とりあえず美味しいという他ないだろう。
そんなことを考えながら、ハンバーグをひとくち。

うん、ハンバーグだ。とてもハンバーグ。
ソースは、照り焼きソースに似てる。なにか色々な工夫がされているらしいけれど、その詳細はよくわからなかった。
私に言えることは、ハンバーグが好きだということと、お世辞ではなく美味しいということぐらいだ。
そう言おうとして口の中のものを飲み込んだとき、先にお兄ちゃんが口を開いた。

「まぁ、こんなもんだな」

だ、そうだ。

「お兄ちゃん、こういうときは嘘でも美味しいっていうんだよ」

「自分が作ったみたいな言い方だなおい。そしてお前失礼だなわりと」

「私もひき肉をこねたもん。それに、美味しいじゃん」

「あーはいはい。おいしーね」

なんやかんやとお喋りをしながら、おいしい晩ごはんをもぐもぐ。
頭の中がカレーまみれだったので、なんだかすごく斬新な食べ物を食べているような気がする。

「なぁ……お前さ、最近、学校は楽しいか?」

さりげなく、お兄ちゃんが尋ねてきた。
『さりげなく』と私が感じている時点でちっともさりげなくはないのだけど。
どうしたんだろ?

「まぁ、楽しいよ。たまにいやなこともあるけど。なんで?」

「いや、別になんとなくさ」

あ、何かすごく考えてる顔だ。
そういえばさっきから何かおかしい。

「……? 賢者モードのこと?」

「ま、まぁ、そうだな……。いやでも、そういうことは個人の自由だしさ、別に気にしてないぞ俺は。ちょっと驚いただけで」

たどたどしい。絶対馬鹿にしてたよねこれ。それに何? 個人の自由って。
まるで私が変なことしたみたいにさ。
オタク趣味だって、私もお兄ちゃんも一緒なのに。

「やっぱりバカにしてるんじゃん。もう」

「悪かったって。あーそうだ。そういやお前、ssがどうとか言ってたけど、書いたのか?」

「ss? 書いたよ」

っていうか今その話をしてたじゃん。あ、適当に話を合わせてたな。
もう絶対お兄ちゃんには見せてあげない。

「タイトルは? こないだ言ってたやつ?」

「内緒」

「なんでだよ」

「やだもん」

しばらく押し問答を続けたあと、なんとかお兄ちゃんを諦めさせることが出来た。がんばった。
ぶーぶー言いながら一緒に洗い物をして、私は部屋に戻った。





部屋に戻って最初にしたことは、感想掲示板を見ること。
ちょっと気が早いような気もするけど、やっぱり気になるし。

クリックしてみる。

「あっ」

あった。感想がついていた。

「ど、どうしよう……いっぱいある……!」

すごい。内容は、見る前に目を逸らしたのでわからない。
荒れているのか。もしかして人気なのか。恐い。批判の嵐だったらどうしよう。覚悟はしている。でもやっぱり。

「落ち着いて。落ち着くのよ私」

深呼吸をひとつ。ふたつ。みっつ。

「こわくない。こわくない……こわくない」

うすーく開けたまぶたの向こうに、ちらりと文字が見える。

『なんぞこ……』。

「ひぃっ」

あぁ、ぜったいあれは『なんぞこれ』だ。
どう続くんだろう。気になるけどこわい。どうしよう。
一旦ブラウザバックして、もう一度呼吸を整える。

「……ぷふぅー。がんばれ……がんばれ私。反応を受け止めるまでが投稿掲示板だよ」

気持ちを奮い立たせ、今度こそ私は感想掲示板と向き合った。






1件目。てるさん。

『あなたがダルシムか』

なるほど。よしわかった。じゃあ返信はこれだ。

『申し訳ありませんが、私はダルシムではなく、そんじょそこらのしがない妹に過ぎません。そうである以上ここからは蛇足であるやもしれませんが、ここで私からひとつお願いを付け加えさせていただきたく存じます。私は少々怠け者なだけで基本的にいい子ですので、今後てるさんが何か超常的な力を持ったノートをお持ちになった場合は決して私の名を書き込まぬよう切にお願い申し上げます』……と。



2件目。セーバーさん。

『あなたが、私のダルシムだったのですね』

むむむ? ええと……

『てるさんにも申し上げたのですが、私はダルシムではありません。僭越ながら私見を述べさせていただきますと、セーバーさんがお探しのダルシムはきっと身近なところで見つけられるものと思います。たとえばそう、あなたの大切なひとの中に、見出すことが出来るのではないでしょうか。ご一考ください』……うん、こんな感じでいいかな。



3件目。木林さん。

『一度オリ主の特徴を思い出してほしい。最強であり、異世界でチートじみた性能を用いて猛威をふるいトリップ先を蹂躙し、説教をしてマンセーされる。そしてそれらの多くは作者の分身だ。つまり作者はダルシムだったんだ!』

な、なんだってー!

この返信は、『な、なんだってー!』でいいね、うん。



4件目。コト=ノハさん。

『だるーしーみのー、むこうーへとー』

これはまた難しい。どうしたものか……よしっ。

『さて、その結論に至った理由はさておき、私の中の人がダルシムだとお考えである、と勝手に解釈させていただきます。どうか、私を信じてほしいのです。そして決して念入りに確かめることのないようお願いしたいのです。私の中には誰もいませんよ? いやホントにホントに』、っと。





「手ごわい! 手ごわいよこのひとたち!」

いくつもつけられた感想の多くが、私をダルシムであると認定している。
アレだろうか、こう、文章の端々から滲み出るだるしみを感じ取っているのか。
なんという読解力。なんという推理力。まさにダルシミープロファイル。
ヴァルハラの『ハラ』という部分が『屈強な戦士は優先的にあの世に連れて行っちゃうよ』的ないやがらせハラスメントを意味するものだとするならば、さしずめこれはダルハラというものだろうか。
他者に対するダルシム呼ばわりはきっと────いじめ。

「おっと。続き、続き……」

お便りをくれたのは、きょうすけさん。
ん? これは……

『俺の妹がダルシムなわけがない』。

「あははっ、ぜったい言うと思った! もうこれ名前で気付いたもんね私」

でもせっかくなので気合を入れて返信。ちょっと楽しくなってきた。

『お言葉は嬉しいのですが、半ば私をダルシムであると信じ始めているふしが見受けられ、両手を上げて喜ぶには些か抵抗を禁じえません。ですが、ご自身の妹さんのことを仰っているのでしたら、私はそっと胸を撫で下ろすと共にひとつの助言をすることができます。きょうすけさんの妹さんがもしもダルシムであったとしても、今までと変わらず接してあげてください。彼女はダルシムである前に、大切な家族なのですから』。




そうして、全国にいるたくさんのお兄ちゃんからもらった温かいメッセージに、ニヤニヤしながらレスを返していく。
お姉ちゃんもいた。お母さんやお父さん、おじいちゃんや近所のひともいた。
ハンドルネームを『妹』にしてよかった。みんなやさしい人ばかりだ。

……あれ? 感想?

「あっ、あったあった! あったよ」



『なんぞこれ。と思ったら意外にも楽しかった。でもやっぱりなんぞこれ』

『釣りだけど、釣りじゃなかった!』

『誰得wwww と思ったらいつのまにか俺得だった』

ああっ、えっと、えっと、これは褒めてくれてる……んだよね? そうだよね?

たったひとり、ひとこと面白かったと言ってくれるだけでも嬉しいのに、それが5件6件と続くと飛び上がってしまいそうになる。
嬉しい。すごく嬉しい。書いてよかった。がんばってよかった。




奇跡的に、私は誰からもお叱りを受けることがなかった。
タイトルの出オチぶりが地雷の匂いを漂わせ、ある種の護身になっていたのではないかと今となっては思う。
僥倖……っ! 圧倒的……僥倖……っ! と喜びをかみ締めた後、私は大きく、大きく息を吐き出した。

「ふうぅぅぅ……」

レス返しを終え、心地よい疲れと満足感が胸を満たしている。
再びの、賢者モード。
ヨガの原典、ヨーガ・スートラの基本的な教えは『感情を抑制すること』だとかって、さっき感想で教えてもらった。
この落ち着きが悟りなんだろうか。ダルシムってすごい。

「ふふっ、これでちょっとは、成長したのかな、私」

当たり前のことかもしれないけど、『自分で考えて自分でする』って大事なことなんだなぁと思う。
全力で何かにぶつかる、なんて今までしたことがなかったし、その恐さも知らなかった。
結果としてはよかったけど、もし厳しい指摘を受けていたら私はどんな気持ちだっただろう?
この嬉しさと同じくらい、痛かったんだろうな。
今なら、それがどのくらいか想像できる。それもきっと、乗り越えないといけないんだ。
だからまだ、私は少しだけ甘えん坊のままなのかもしれない。
もちろん、一気に何もかもが変わるなんて思ってるわけじゃないんだけど、ね。

「……そうだ、お兄ちゃん」

お兄ちゃんなら、兄妹だし、まったく気を使わない厳しい意見も言ってくれるだろう。
むしろ兄妹だから、ことさらに粗を見つけてつつくというようなことだってしてくれるだろう。
そのぶん私もムッとしちゃうかもしれないけど、だからこそ、私はそれを受け止められるようにならないと。

「やっぱり見てもらおう」

そう思い立って、私はお兄ちゃんの部屋を訪れた。




「ねぇ、お兄ちゃん。あのね」

緊張するなぁ……

「どうした?」

なんだかお兄ちゃんも緊張しているように見える。
他人は自分の鏡、っていうもんね。私がこんなだから、そう見えちゃうんだ。
がんばれ私。

「さっきのことなんだけど。ほら、賢者モードの話」

「あ、ああ、それが、どうかしたのか?」

「真面目な話なの。笑っちゃやだよ?」

「お、おう。笑わない。っていうかあまり笑い事じゃないしな」

「……っ」

「ん?」

そっか。なんだかんだで、お兄ちゃんも真面目に考えてくれてたんだ。

「う、うん……あのね。その、お兄ちゃんに、見てもらおうと思って。さっきはごめんね」

「み、見るって何を……?」

「だって、直接意見を聞ける人っていないし。自分ではわからないことも多いし」

彼に聞いてもいいかもしれないけど、彼は優しいから。
あまりきついことをひとにいえるタイプじゃない。
こういうのは、お兄ちゃんが最適だと思う。

「い、意見ってなんだよ?」

「ここがいいとか、ここがおかしいとか、もっと単純に好きとか嫌いとか。っていうかお兄ちゃんにいじってもらおうかなって思ってたりもするんだけど……」

国語はお兄ちゃんのほうが得意だし、正しい日本語とか、日本語として正しくなくても伝えたいニュアンスとして相応しい書き方だってあるはずだし、その辺りの意見も聞きたい。

「い、いじる!? 俺が?」

怒ってるのかな。嫌そうだ。

「お願いっ」

「いや、だってお前、兄妹でそんな」

「兄妹だからだよっ。お兄ちゃんじゃないと、だめなの」

「……マ、マジで……?」

めんどくさいのかな。すごく引きつってる。

「そ、それはさ、今からじゃないとダメなのか」

「うん、できれば」

私がそういうとお兄ちゃんは少し黙って、それから私の肩を両手でがしっと掴んだ。
諭すように、お兄ちゃんが言う。

「あー、その、なんだ。……わかった。わかったけども。ええと、お前が色々と悩んでることも、全部じゃないがいくらかわかったつもりだ。だから、俺もお前のことを思って真剣に考える。ちょっと時間をくれ。お前も、今更かもしれないけどもう一晩よく考えてみてくれ。な?」

真剣な表情だった。正しい日本語とか、文章作法について勉強とかするつもりなんだろうか。読むために。
すごい。たかがssと思っていた自分が恥ずかしい。
お兄ちゃん、私よりずっと真剣で、一生懸命なんじゃないだろうか。

「……ありがと。そうする。あ、お兄ちゃん、よかったらそのときは資料とか見せてくれると嬉しい」

「し、『資料』だな。あぁわかった。ああでも、お前には悪いがベーシックなのを用意しておく。ノーマルなのを」

「うん、基本は大事だもんね。でも、上級っぽいのでも私がんばるからっ」

「そ、そうか、うん。で、でもそういうのは徐々に、な」

あぁ。こういう堅実さが私には足りてなかったのかもしれない。
だから、足元がぐらぐらで不安になるのか。

「うん、わかったよ。えっと、明日……でもいい?」

「あ、明日……? わ、わかった。明日だな」

「よかった。じゃあ、また明日ね。おやすみっ」

「お、おう、おやすみ……」





それから部屋に戻った私は、やり場のない熱意をもてあましていた。
色々と覚悟をしたのに、これだ。
結果的にはいいことだし、仕方がないことなんだけど。

「……やっぱり、あれだね」

彼に電話しよう。もう恥ずかしがっててもしょうがない。
ちょっと開き直るぐらいでちょうどいいんだ。うん。

発信……っと。

鳴らしてから、すぐに彼は電話に出た。

「はい?」

「あっ、ごめんね夜に。今、いい?」

「大丈夫だよ。で、どうしたの」

「たいした用事じゃないんだけど、ちょっとお喋りしたくて。さっきね……」

ここ数日ssを書いていたこと、ついに完成し、投稿したこと、感想で褒めてもらえたことなどを話す。
彼は少し驚きながらも、自分のことのように喜んでくれた。照れくさいけど、嬉しい。

「それでね、私、いま賢者モードなんだ」

「けん……っ!? ……あぁ、ssを書き終えて、ちょっとむなしい気持ちってことだね」

「そうそう。ちゃんと覚えてるよ私。それで、ssとかって読むほう?」

「まぁ、好きな作品の二次ならわりと読むほうだけど。君は何書いたの?」

「とあるジャぱんのトリステイン魔法学院黙示録っていうんだけど」

「ぶっ」

あ、飲み物吹いたな。
どうせ私はネーミングセンスないですよ。

「……タイトルはこんなだけど、がんばったんだよ私」

「ご、ごめんごめん……まさか君がそんな多重クロスを書くとは……読んでみるよ。感想はメールする」

「うん、ありがとう。ビシビシ言ってくれていいからね?」

「ん、いやぁ、そう言われてもなぁ」

やっぱりか。
確かに、彼と私はそれほど遠慮のない関係とは言いがたい。
まだ、言いがたい。こればかりは仕方ない。

「じゃあ、できる範囲でお願いします」

「はは、うん。そうするよ。じゃあ、また後で」

「うん、またね」

「あーっ、そうそう。君さ、『賢者モード』って言葉、他のところでも使ってる?」

「ssには書いてないよ」

「……誰かに言った?」

「うん。お兄ちゃんに」

「そ、そっか……何も、言われなかったの?」

なんだろう、妙に落ちつきがないというか……何か隠してる?

「別に何も……何か、まずいの?」

「いや、インターネットスラングだから、あんまり日常で使うものじゃないよってことで」

「あ、そっか。そうだよね、気をつける」

通じる相手だけにしよう。彼と、お兄ちゃんぐらいか。

「じゃ、急に電話しちゃってごめんね。おやすみ」

「いつでもどうぞ。じゃ、おやすみ」




かくして、ついに私は暇になってしまった。
寝るにはまだ少し早いし、どうやって過ごそうか。

なんとなく、ssのタイトルをGoogleで検索してみる。

「と あ る……」

カタカタと、数日前より高速になった指先でタイトルを打つ。
タイピングが速いと気持ちがいい。思わぬ収穫だ。

「おぉー。あった」

……結構恥ずかしいことをしてるのかもしれない。
なにやってんだろう私、などと呟きながら、適当にキーワードを打ち込んでネットサーフィンを続ける。

あらかた見終えたところで、なんとなく、ほんとうになんとなく、『賢者モード』と打ち込んでみた。

「検索……っと」



そこに現れた、『賢者モード』という言葉の真実。その詳細は。



「っ……!?」

う、うわああ! これは! これは! これは!

「ど、どうしよう!」

一気に体温が上がっていくのがわかる。同時に、さっきまでのやりとりが頭の中を駆け巡る。

私はお兄ちゃんに何と言った?

お兄ちゃんは私に何と言った?

思い出せば思い出すほど、どうしようもない。

そして、彼の顔が浮かぶ。
ああ、なんてやさしいひとなんだろう。 結構ちゃんとした意味で彼は紳士だったのだ。
ほぼ同じ意味で通るように、しかし、そういう表現を避けて……私には彼を責められない。

「なんてこと……」

まぶたの裏に、『明日の我が家』が見えた気がする。
だめだ、そんな未来を認めるわけにはいかない!



私は部屋を飛び出し、走り、お兄ちゃんの部屋に飛び込んだ。

「おおおおにいちゃんっ!」

「うおわ!? 何だお前!? 」

「わたし、わたしっ……!」

「お、おちつけ! ものすごく落ち着け今すぐに!」

お兄ちゃんが逃げていく。
だめだ、完全に誤解されてる!

「だいじょうぶだから!だいじょうぶだから!」

「だっ、大丈夫って何が!? 俺にだって対策……じゃない心の準備ってものが」

「いらないの! そんな準備いらないの!」

「聞けよ! お前突然にもほどがあるだろっ」

「違うのっ!賢者だけど、賢者じゃなかったの!魔法使い見習いなの、魔法僧侶リリカルダルシムなの!」

「何言ってんだお前!?」

どっ、どうしよう、うまく説明できない!

「だから、私はお兄ちゃんが思ってるような妹じゃないんだよっ!」

「だ、だからっ、それについてよく考えるから今日は……」

「考えないで! 考えなくていいから! ちょっ、もう! なんで逃げるの! じっとしてよ!」

「できるか! お前が動くな!」

「どうしてわかってくれないの!」

「だからちょっと待てっつってんだろこの!」




誤解が解けるまで、随分と長い時間がかかった。
こんなひどい兄妹喧嘩は初めてだった。
あぁ。なんてことだ。



「こら。聞いてんのか、なのしむ」

その呼び名はあんまりだよ、と言い返す気力はもうない。

高町なのしむ(9歳)。

きっとそう呼ばれたのは世界でもただひとり、私だけだろう。
もしも似たようなやりとりが世界のどこかで行われていたならば、彼らとこのような『勘違いとすれ違いの果てに生まれるやり場のない無念』を分かち合うとき、それを指してなのしみという言葉を使ってもいいかもしれない。

おはなしは続く。

お兄ちゃんも、なのしんでいるみたいだった。
私のことをかなり真剣に心配したらしく、明日どういう顔をしてどんな言葉をかければいいのか、複数のパターンを想定して対策を練ったそうだ。
言葉足らずを責めるお兄ちゃんに対し、そもそも私が真顔でそんな恥ずかしい『おねだり』をするはずがないじゃないかと反論したのだがお互い退くに退けず、賢者モードという概念における記号表現シフィニアン意味内容シフィニエの関係を修正するのは想像以上に難しかった。
そして、兄と妹の関係を修正するのもまた同じように困難を極めた。

つまり、気がすまなかったということで。

「だからな、そういう行為をしないと賢者モードにはなれないんだって」

「そんなことはないと思う。きっかけはどうあれ、結果としては一緒みたいなものじゃん。二次創作だって、そういう行為だといってもいいと思うし……」

「お前は……いいか、広義の賢者モードなんてものを想定するから話がややこしくなるんだよ」

後になって振り返れば頭が痛くなるような、どうしようもない論争を繰り広げていたのだった。






それから、ぐったりしながら部屋に戻り、彼からメールが届いていることに気付いた。
疲れた心に染みこんでくるような、優しく力の入った感想だった。

「そ、そんな真面目に考察しなくても……もう、恥ずかしいじゃん……」

でも、嬉しかった。初めてラブレターをもらったみたいな、そんな気持ちだ。

「……ありがとう」

なんだか必要以上に大変なことになってしまったけど、そのぶん私はひとつ大人になったと思う。
ほんの少しだけ子供ではなくなった、といったほうが正確かもしれない。
とにかく。どちらであるにせよ、この小さな勇気は私にとって大きな一歩だ。
だから、今度彼に会うときは、私の伸びたい手足を少しだけ、伸ばしてみようと思う。

お兄ちゃんの認めなかった言葉、『広義の賢者モード』……いわゆる目標を達成した故の悟りというものを、もういちど目指してみようと思うのだ。



[20997] Yoga, Cocktail, Jazz, Ghost.
Name: TEX◆57eef252 ID:658db1c8
Date: 2012/08/02 15:05
「では、僕のごく個人的な見解を述べようか」

ほとんど口癖となっているこれを口にして、僕はこの世ならざるモノと対峙していた。
亡霊というものはどうやら、過去からやってくるものであるらしい。





Yoga, Cocktail, Jazz, Ghost.





僕にはお気に入りのバーがある。
『いつもの』のひとことでラムのオレンジ割りが出てくるくらいにはそこに通いつめていて、その日も僕はいつものカウンター席、そのいちばん左端に座ることができた。
ビリー・ホリデイの悲壮感と優しさでできた歌声に聞き入りながら、僕が2杯目のキューバン・スクリューを空にしたとき、その女はひとりでこの店に入ってきた。
いかにも甘い匂いがしそうな、けれど、ぞっとするような、なんというか、幽霊みたいな美人だった。
不健康なまでに色白で、濡れたように艶やかな黒髪は腰に届くほど長い。
その静かなる存在感を滲ませた佇まいは、どこか怪談めいた『いわくつき』の人形のようにも見える。
あぁ、あれは夜な夜な髪が伸びるに違いないぞ、なんて冗談を思いついたけれど、それを話す相手はいない。

いらっしゃいませ、というマスターの言葉に軽く笑いかけて、彼女もカウンター席に座った。
おや? と思ったのはそのときだ。
客は少なかったのに、その女性は店に入ってくるなり僕の隣に座ったのだ。
言うまでもなく、普通そういうことはしない。
こうして見ず知らずの男の隣に座るのはいったい、どんな理由があってのことなのだろうか。
女は既に酔っ払っているようにも見えて、なんとなく僕は彼女に対して警戒心を抱いた。
僕はただでさえ、気の強そうな美人が苦手なのだ。酔っているなら尚更始末が悪い。




「ブラック・ルシアンをお願い」

彼女が始めに発した言葉は、コーヒーリキュールをウォッカで割ったあの胸焼けがしそうなほど甘くて強いカクテルの名だった。
間違いなく大酒飲みだ。そして、大の甘党であるらしい。

とろりとした黒い茶色の液体、まるで蜜のようなそれを喉に流して、彼女は息を吐き出した。
濡れた唇を舐めるさまが妙に扇情的で、見ないようにしようと思ってもつい、目が行ってしまう。
落ち着かない。これはどう考えても落ち着かない。
とはいえまだ僕は2杯目で、ここで席を立ったら何か負けたような気がして気分が悪くなるに決まっている。
僕は次を注文した。

「ブラッディ・マリーを」

さっぱりしたものが飲みたい。雰囲気のせいか、彼女のせいか、口の中が粘ついている。
名前のわりに身体に優しい『血塗れマリー』が到着するなり僕は半分ほど飲み上げて、どうにか一息つくことができた。
あまり酒に強くなくてよかったかもしれない。短時間で余計な考えをどこかにやることができるのだ。



さりとて、この妙にざわつく気分を全て振り払えたわけでもなく、もう少しマシにしようと思い僕は煙草を取り出した。
僕が火をつけたとき、彼女も同じように煙草をくわえ、火をつけていた。
同じタイミングで煙を吐き出し、同じタイミングでグラスに口をつけ、同時に置く。
喫煙者なら比較的よくあるシンクロだが、今は気に食わない。

目が合った。

彼女がふっと笑う。まるで子供を見るような目だ。やはり気に食わない。
僕は何か言おうと思ったが、何も思いつかなくて、先に口を開いたのは彼女のほうだった。

「あくびもそうだけど、他にも釣られてとってしまう行動ってあるものね。今、そうでしょう?」

耳元で囁かれたならきっと脳が蜂蜜漬けになるだろう、ひどく甘ったるい声だ。
峰不二子か、それに準ずるものを濃縮したら、こんな声になるかもしれない。

「僕が釣られたんじゃない」

「あら。じゃあ、私が?」

失言だっただろうか。
話し相手を釣っていたのなら、見え見えの餌に食いついた間抜けは僕だということになる。
誰が乗ってやるものか。
できるだけ退屈な話をしようと思い、僕は以前どこかで聞いた話を頭の隅から引っ張り出した。

「さぁ、どうかな。拍手を打ったとき、右の手が鳴ったのか、左の手が鳴ったのか……今のはきっとそんな話だろう」

ぱん、と音がした。彼女が合掌していた。
合わせた手を見つめたまま、彼女は問う。

「それで?」

「それで、って、何がだい」

「その後よ。答えは、どっちなの? 右手(わたし)? それとも、左手(あなた)?」

こちらに身を乗り出してきた。胸元が、かなり危うい。
僕は強烈に引っ張られる目線をなんとか横に逸らして答えた。

「わからないよ。わからないという話なんだ。あるいは……」

「あるいは?」

「片手で拍手は鳴らない。だから鳴ったのは、僕たちの『出会い』だ。この『出会い』が音を鳴らしたのさ。つまり──」

そう言って、彼女のブラック・ルシアンにブラッディ・マリーを当てる。

かつん、と硬い音がした。

「──こんなふうに」

鼻で笑うような声が聞こえた。
見れば、彼女がにやにやと笑っている。

「なんだよ」

「あなた、ものすごいキザね。初めて見たわ、こんな人」

珍獣でも見るような目と、口ぶりだった。
こんなのはただの禅問答だ。僕がキザなら、寺の坊主はみんなハイレベルのキザなんじゃないのか。
そのあたりのことを改めて説明しても仕方がないだろう。相手は禅問答なんてものを面白がるつわものだったのだ。

「君も大概だよ。君みたいなのは初めてだ」

「じゃあ、あなたの素敵な出会いに乾杯しましょうか」

「僕が口説いてるみたいな言い方を……」

「はい、乾杯。ちゃんと言わなきゃ乾杯じゃないわ」

彼女がグラスを持ち上げて、こちらに向けてきた。

「……乾杯」

やはり、苦手だ。魔性の女だとか、堕落とか退廃なんて言葉じゃ足りない、破滅的な怪しさを漂わせている。
とくに彼女の瞳が恐ろしい。あの目は、飲み込まれそうな気持ちになる。
次に声、そして唇、指先。それぞれに、人知の及ばない魔力めいたものが宿っているように思われてならない。
具体的にどう、というわけじゃない。けれど、なぜか背中がぞくぞくする。
いったいどういうふうに生きてきたら、人はこんな雰囲気を身にまとえるのか。


「んっ。もう空になっちゃったわ。おかわりを頼もうかしら」

彼女はすぐに、再びブラック・ルシアンを頼んだ。
美味しそうに飲んでいるけれど、見ているだけで喉が渇きそうだ。

「好きなのよ、甘いのが」

「……まだ何も言ってない」

「言いたそうな顔をしてたわ」

僕はよく無表情だと言われるけれど、それでも彼女にはお見通しのようだ。

「そうかい。どうやら君とポーカーはしないほうが良さそうだ」

「あら、拗ねちゃった? 私はそういうひと好きよ。可愛いくて」

「手玉に取られるのは好きじゃない」

「手玉に取るのが好きなの?」

「煙に巻くのが好きだ」

ぎゅっ、と煙草をもみ消した。
そのままポケットに手をやって、もう1本煙草をくわえて火をつける。

「ヘビースモーカー?」

「たぶん」

「あ、わかったわよ。あなた寂しがり屋でしょう」

なるほど、僕はフロイト占い(・・・・・・)で言うところの口唇期的性格にあたるらしい。
たしか皮肉屋で、煙草・飴・ガムなんかが好きで寂しがり屋だったか。

「フロイトはあまり信用できない」

「でも、あなたはキスが好き」

「……嫌いな人なんているのかい」

「いるわよ」

「君は?」

「大好き」

まるで頭の中を覗き込まれているようだ。何を言っても丸め込まれてしまうような気がする。

「なら、寂しがり屋は君だろう」

「そうかもしれないわね。でも」

彼女はそこで言葉を切り、ふわりと柔らかく笑って、続けた。

「あなたの隣は、居心地がよさそうだったから」

口当たりの良い言葉だ。良薬は口に苦いそうだから、彼女のそれは毒薬か。
長話をしていたら、いつのまにか取り返しのつかないことになっているかもしれない。
ここで僕が耳なし芳一の話を思い出してしまったのは、まだ頭がまともだということか、それとも、もうまともじゃないということか。考えてもわからなかった。

「こりゃ、大変なものに取り憑かれてしまったな」

そう僕がため息混じりに呟くと、

「人をお化けみたいに言わないでちょうだい」

彼女は形だけ怒ってみせて、わざとらしく頬杖をついた。
フォローを入れろということらしい。もちろん、フォローなんて入れない。

「怒らせたら呪われるかな」

「呪うわ」

即答だった。愉しそうに口の端を持ち上げて、底なしの眼で僕をじっと見ている。
ぞくり、と感じる寒気が快感に変わりつつあるのは、既に毒が回り始めているからか。

「……やっぱり、怪談の類じゃないか」

「あら、ふふっ。そんな顔で言われると照れちゃうわね」

いったい僕がどんな顔をしていたというのか。
彼女の表情は少しも照れてなんかいないように見える。余裕の横顔でグラスを傾けていた。
からん、と氷が音を立てた。




「そうそう。怪談と言えばね」

彼女が思い出したように言う。

「なんだい?」

「この話を聞いた人は数日以内に恐い目に遭う、って話があるじゃない?」

特定のお化けについて語った怪談を聞くと、近日中にそのお化けが会いに来るというやつか。
3日以内に他の誰かに話せば来ないとか、救済措置のあるものもあれば、聞いた時点で手遅れという場合もある。
『恐いね』で済ませてはいけない雰囲気になる、わりと気分の悪いパターンの怪談だ。

「あぁ、いくつか知ってる。それが?」

彼女は真剣そうな顔を作って、こちらをじっと見た。

「こういう話を聞くと、いつも思うのよ。話を聞いたかどうか、どうやって判別してるの? って。幽霊にだけ見える目印でもつくのかしら」

そう言って、額を指差した。その辺に何か印がつくというイメージなのだろう。

「目印がついていたとして、それらを全てチェックする手間は膨大なものだろう。もしも目印で見分けているのだとしたら、そうだな……目印の他に、全ての人間を監視するシステムが必要になる。そして、目印がついた人物を発見したら、期日以内に恐い目に遭わせに行かなければならない。どこだろうと確実に……かなり大変な仕事だ」

「現実的じゃないわよね」

変な言い方だ。怪談に現実も何もないだろうに。
しかし、現実感のない怪談は怪談としてレベルが低いと言えるかもしれない。
すると、そんなにおかしな表現ではないのか。

「そう。現実的・・・じゃない。個人の幽霊にできることのレベルを超えている」

きっと酒のせいだろう、こんなくだらないやりとりが楽しいと思えてきた。
いや、違うな。これからするオカルト話で、彼女が青ざめるのを見るのが楽しみだというのが正しい。

「ふふっ、それで? あなたはどう思う?」

「そうだな……僕の個人的な見解だがね。この世界を監視している巨大な霊的組織の存在を考える前に、僕たちは視点を変えなければならない。このパターンの怪談は、厳密に言うと怪談じゃない。それは『呪い』の一種だと僕は思う」

僕がそう言うと、彼女は実に楽しそうな笑みを浮かべた。
こういう話が好きな手合いであるらしい。あるいは人を怖がらせるのが好きだということか。
ならば僕との相性は最悪と言っていいだろう。僕も同じタイプだからだ。
ますますやっつけてやりたくなった。

「まず、呪いというのは基本的に、相手に呪いをかけている事実を伝えないと効果がない」

「どういうこと?」

「要するにプラシーボ効果だ。ただの栄養剤を薬と偽って飲ませると、重い病気が治ってしまうことがある。思い込みは意外と侮れないんだ。毒だと言って飲ませれば、急に具合が悪くなることもある」

「つまり、『頭が痛くなる呪いをかけていますよ』って相手に伝えると、それだけで頭が痛くなるってこと?」

「そういうことになる。もちろんただ言うだけでは効果は薄いだろう。相手が心から騙されずにはいられない『演出』が必要になる。釘を打った人形だとか、変な字の書いてあるお札だとか、謎の呪文だとか、『それっぽい』ものがあればあるほどいい」

テレビドラマか何かで、ストーカーが想い人の写真を部屋中に貼り付けているのを見た覚えがある。
写真に写っている本人がそれを見たならかなりの衝撃を受けるに違いない。
もしもその写真がひとつ残らず目を潰されていたとして、それを見た人が『呪いは存在し得る』と思っていたならば、あるいはその日を境に目を患うようになるかもしれない。
そうでなくとも、それを見せた後に『目に入ると失明する』という設定の水を霧吹きか何かで顔にかけたなら、目を患う確率はぐっと上がるだろう。
『ただの水であるわけがない』という思い込みが生まれてしまうからだ。

「でも、そういうのを信じていないなら、意味がないんじゃないかしら」

「別に幽霊や超常の力を演出しなくてもいい。新種の病原菌でもいいし、知られざる科学でもいい。その場で検証しづらいものならなんでもいいのさ。もっと言えば、そういうのは害を与えるものでなくてもいい。ノロイもマジナイも同じ字を書くから……結局は同じことなんだ。呪いの本質は相手が信じていること、信じるかもしれないことを利用することにある」

「ふぅん……なら、そうね。こういうのはどう?」

やった。どうやら気に食わないらしい。挑戦的な眼差しを向けてきた。

「あなたに呪いをかけるにはどうすればいい?」

僕に呪いをかけるつもりらしい。

「そんなことを相手に聞く呪術師がいるか」

「だって、まるで何も信じていないみたいな口ぶりだから」

「そんなことは」

どうだろうか。僕は今まで何かを信じたことがあったか?

「ない?」

「……いや、わからない」

つけいる隙はあるに違いない。
完璧なものは存在しないのだから、誰にだって、もちろん僕にだってプラシーボ効果はあるだろう。
ならばさてどんな設定を……いや、止そう。自分に呪いをかける方法を真剣に考えても仕方がない。

「それより、ええと。何の話だったか。そう、怪談だ。つまり『この話を聞くと数日後に……』という類の怪談は、ある種の呪いなんだよ。話し方をうまくやれば恐怖のどん底どころか、『霊障』とか言われる実際の害を与えることだって不可能じゃないだろう」

「見える、ってこと?」

「かもしれない。が、見えるかどうかは問題じゃない。むしろ見えないほうが恐い。恐怖によるストレスで免疫が弱って高熱が出るとか、ありそうな話だろう?」

僕はそう締めくくった。しかし彼女は、話を聞く気があるのだろうか?
話を真面目に聞いているようで、実のところ『話をしている僕』をじっと見ているような気がしてならない。
これから『プラシーボ効果』をお題にした恐ろしい話を展開するつもりだったのに、この手ごたえの無さはなんだ。
落ち着かない。喉が渇いてきた。

「うん、面白い解釈だわ。その考え方でいけば、世の中って思ったよりずっと呪われているかもしれないわね」

笑顔で言う言葉じゃない。こりゃ、恐い話はやめだな。

「呪いなんてそこらじゅうにあるって話をして恐がらせようと思っていたのにな」

「あらあら、ごめんなさいね」

もし親しい間柄だったならこの女は間違いなく僕の頭を撫でただろう、そんな言い方だ。
この歳になって子供扱いとは。

「……マスター、強めのジントニックを。ライムはいらない」



そうして、僕たちは会話のような言い合いをしながら酒を飲んでいた。
いくら言葉に棘を含ませても、彼女はそれを軽々と折り取って飲み込んでしまう。
返ってくる言葉は常に糖分過多で、アルコール度数の高いものだった。
チェロを思わせるビング・クロスビーの歌声に混じって、彼女の囁きが耳に滑り込んでくる。

「……なぁ。君に呪いをかけるにはどうすればいい?」

自分でもかなり飲みすぎていると思う。
こんなことを聞いても仕方がないのに。

「そんなことを聞く呪術師はいないんじゃなかったかしら?」

ほら、やっぱりこう来た。

「いいだろ、何事にも絶対はないんだ」

「ふふっ、それもそうね。ええと、私に呪いを?」

「あぁ。どうしたらかかる?」

「そうね……」

彼女は少し考えて、大真面目にこう答えた。

「抱きしめてキスをして、『愛してる』って囁かれたら、きっと心臓が苦しくなって死んでしまうわね」

なんだそれは。

「『まんじゅうこわい』じゃないか」

「恐いわねぇ。なんて恐ろしいのかしら」

彼女はけらけらと笑い、もう何杯目かわからないカクテルを飲み干した。

「あぁ、僕が間違ってた。君に聞いたのが間違いだった」

「ふふ。でもね」

煙草の灰を落とし、ひとくち吸って少し止め、ふっと煙を吐き出す。
そのさりげない動きのひとつひとつが計算されているかのように僕の目を奪う。

「もう、かかっているかも」

今度は視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
どこか寂しげで、悲しげな横顔から目が離せなくなる。

「どういう意味だ?」

聞くと、彼女は顔の横で人差し指を立てた。

「答え合わせはまた今度、ね?」

嫌な言い方だ。

「『また今度』なんてあるものか」

「あるかもしれないわ。絶対なんてありえないもの」

「は、そうかい」





しばらくして、ふたりで店を出た。
財布から2人前の飲み代が飛んでいったのは僕の見栄のせいだからいいとしても、タクシー乗り場に向かうまでの道のりで、彼女がすぐ隣を歩いているのはいただけない。
近道である、細く暗い路地には僕たちの靴音だけが響いていた。

「こんな道があったのね……でもなんだか、お化けが出そうなところだわ」

「あぁ、ここはひどいのが出るぞ。それに、ちょうど丑三つ時だ」

言いながら、少し歩調を速める。

「やめてよ」

置いてきぼりになりかけた彼女が、後ろから僕の手を引っ張った。

「なんだ、意外と恐がりなんだな」

ここまで簡単だと逆に拍子抜けしてしまう。
振り返ると、彼女は僕の『数歩後ろ』を歩いていた。手の届く距離では、なかった。

「……あれ、君は、いま……」

「なに?」

手を見ても、何もない。誰も掴んでいない。しかし、冷たい手の感触が、僅かに残っている。
寒気がした。

「あ、いや、悪かった。すまない」

「どうしたの? 急にしゅんとしちゃって」

きょとんとした顔で僕を見ている。
どういうことだ?

「……その、あれだ、酒を飲んでいるし、君の靴は踵が高いだろう。転ぶ可能性を考えていなかった。だから、それで」

「あら、手を引いてくれるの? ありがとう、優しいのね」

彼女が手を差し出してきた。指先はずいぶんと冷えていた。

「…………どういたしまして」

優しさとはかけ離れた気持ちだ。今のが何だったにせよ、これでようやく僕の頭も回るようになってきた。
この一瞬の恐怖は、意識を切り替えるに充分なインパクトを持っていた。

状況が見えてきた。これは、ただごとじゃない。
彼女は、常に先を読んで話している。言葉だけでなく、振る舞いの全てが戦術的に『強い』選択なのだ。
後手に回ってゆっくりと受け答えしているように見えて、実は全て先手を打ってきている。
相手は常に動きを封じられ、ふと気付けば追い詰められている……洗練された、厄介なやりかただ。

この状況。この戦況。この戦法を僕はよく知っている。
これは、僕の友人が操るダルシムだ。

今、僕が仕掛けられているのは『2択』。あるいは『3択』だ。

ひとつ。
僕の手を掴んだのが彼女である場合。
稚拙な手段だが、確かに僕は恐怖を感じた。恐怖は感情を沸き立たせる触媒になる。
恐怖というスパイスを効かせれば、あらゆる感情が鮮烈なものに感じられる。
何かさらに仕掛けてくるはずだ。

ふたつ。
僕の手は誰にも掴まれていないという場合。
信じがたいことだが、しかし僕はいつもより多くのアルコールを摂っている。
絶対にあり得ないことか、といえば、そうではないだろう。勘違いはあり得る。
この場合は、彼女は現在何もしようとしていないので、『待ち』の一手を打ってこちらを観察していると見るべきだろう。

……みっつ。
僕の手を掴んだのが、『見えざる第三者』であった場合。
こんなことを考慮に入れるのは間違っている。どう考えてもだめだ。
可能性ありと判断するなら、彼女が実は人間でない可能性まで考慮しないといけなくなる。
それでも、いまいち切り捨てられないでいるのは、何故だろうか。

仮に、この『見えざる第三者』が、僕が過去に戦ったダルシムの記憶なのだとすれば、話は変わってくる。
言うなれば、ダルシムの亡霊。ふたつめの選択肢の正体と言ってもいいかもしれない。
『遠距離から徐々に絡め取られる』という事態の隠喩として、僕の脳はあり得ない距離から手の感触を再現した。
かなり無理のある考察だが、気の持ちようによっては縄でさえ蛇に見えることがあるのだ。
UFOの目撃証言だって、『土曜の夜、パブの帰りに見たんだ』というのが大半だそうだ。
少なくとも今なら、そんなことが起きても不思議ではないような気分ではある。
ふたつめの選択肢の裏づけとして扱ってもいいか。


しかし、まだ疑問は残る。最も大きな問題はここだ。
ダルシムの亡霊を見せるほどの戦術を用いて、なぜ僕を誘惑するのか?
これはもう誘っているとしか思えない。何もかもが完璧で、不自然すぎる。
僕がもし、月も恥じらうような絶世の美形だったなら彼女の態度もわかる。しかし、そうではない。
僕自身、外見も中身もいまいち冴えないのだということぐらいはよくわかっている。

遊びのつもりだとしても、僕みたいなのは遊び相手に向かない。
常に棘を含ませた物言いをする男と居て楽しいはずがないのだ。
それに、どうやら人を見る目がありそうだ。全力を注ぐ相手を間違えるような失態は犯さないだろう。

ならば何故、こうまで意地になるのか?
何故、普通の会話において『勝利する』ような話術を用いるのか。
これは、たぶん考えても仕方無いことだと思う。とにかくそうさせる何かがある。あったということだろう。

考えを纏めきる前に、彼女は口を開いた。

「小さいときからそうなんだけどね、お友達と遊んでいて、暗くなってきたら、『またね』って言って帰るじゃない?」

慎重に言葉を選んでいる、と思った。視線の動き、声色、僅かな表情までよく練られている。
この完璧さは、異常だ。不健康な色気とでも言うべき、背徳的な美しさがある。
要するに嘘くさいのだ。この非現実的な美しさに、ある種の男たちは虜になるのだろう。
僕もまた、その種の男に含まれていそうだった。

「……あぁ。それで?」

「そういうときはいつも胸が苦しくなるわ。夕暮れ時はお別れの時間。そういうものだと思ってたの」

話が見えない。何を言うつもりだろうか?
彼女は続けた。

「大人になると、あらゆる時間がそういう時間になってしまうわね。いつどこに居てもいいから、いつでも夕暮れ時が作れてしまうのよ」

「時間帯に限らず、あくまでお別れは『夕暮れ』なんだな」

「私にとってはね。今だって、この空が白く濁った青紫に見えるぐらいよ」

「そりゃ病院に行ったほうがいい」

僕も頭を医者に見せるべきかもしれないが。

「直感的なイメージの話よ。現実なんて見る人によっていくらでも形が変わるものじゃない。……ねぇ、こう言ってるのよ。あなたとお別れするのが寂しい、って」

手を握る力が強くなった。
彼女はまっすぐに僕を見て、そしてふっと視線を足元に落とした。

「……」

彼女の横顔の向こうに、ダルシムが跳んでいるのが見えた。

────決着をつけようとしている。

ダルシムの飛び込みは脅威だ。二種類の軌道で打ち分ける、螺旋状の攻撃が来る。
鈍角で滑るように突っ込んでくる頭突きか、あるいは鋭角で急襲する蹴りか。
そして着地後には、下段の伸びる拳か、あるいは投げか。

多くの選択肢があり、外せばダメージとなる。友人が得意とする、最も強い攻めの姿勢だ。
しかし、裏を返せばそれは。

「……なるほど。ふむ」

僕は人差し指を立てた。

「では、僕のごく個人的な見解を述べようか」

ほとんど口癖となっているこれを口にして、ダルシムの亡霊に宣戦を布告した。

「……? なぁに?」

「君はさっき、直感的なイメージによって、主観的な現実は形を変えると言ったな。概ね賛成だよ。経験の積み重ねは、主観的な現実に大きく作用する。君がこの夜空を夕暮れだと思ったように、僕もまた、僕だけの現実を見ているのだろう」

話題を変えられたと思ったのか、彼女は不服そうな顔をした。
けれど、話をここで途切れさせるわけにはいかない。構わず続ける。

「『僕に何が見えているのか?』 それは今はあまり関係ない話だ。しかし、理由がなければそれは見えないはずのものだ。直感を刺激するだけの何かが君にはある。だからひとつ、聞きたいんだ。……君が、何をそんなに思いつめているのか」

「……っ」

目に見えて表情が変わった。
ダルシムのドリルキックを僕は余裕を持って防いだ。……読みが当たったみたいだ。
さて、どう来るか……たぶん、下段の強パンチだ。
僕がガードすると読んで、伸びるパンチで距離を取るつもりだろう。
『読まれている』と確信したなら、仕切り直さずにはいられない。
いいだろう、乗ってやる。

「……なんのことかしら? わからないわ」

視線が泳いでいる。やはり、はぐらかそうとしている。
では、仕切り直しと行こうか。
常套手段としては、飛び道具で牽制ってところだろうか。

「思うんだよ。君は僕に対して、少しも好意を抱いていない」

堅実にガードか、同じ飛び道具で相殺か、あるいは、跳び込んでくるか。
たぶん、彼女ダルシムは跳ぶ。
ダメージを受けまいとして、チャンスを逃すまいとして、一気に畳み掛けてくる。

追い詰められているときほど、ダルシムは跳ぶのだから。

「そんなことはないわ。だって私……」

来た。当然、ここで打ち落とす。言わせるものか。

「いや、責めているんじゃない。君の素顔が見られた気がして、少し嬉しいと思ったくらいだ」

「……」

彼女は黙った。
ダルシムはダウンしている。距離を詰め、起き上がりを攻めるとしよう。

「恐らく、君がしようとしているのは『逃避』だ。僕にはそう見える。嫌なことを忘れようとして、無理をしているように見える」

「……どうして、そう思うの」

ダルシムが立ち上がった。その場を、動かない。
ガードか、それとも、迷ったか。そういう場合は、もう掴むに限る。
握る手に、力がこもった。

「君は完璧すぎた。演技力はたいしたものだが、完璧な人間なんているはずがないんだよ。だから、僕の目の前に居るのは、架空の存在だ。そう思ったのさ。……以上」

そう言うと、彼女は僕の手を離し、今度は腕を組んできた。
どういうつもりだ?

「……もうそんなことはしなくても」

「……あなたの言っていることは、滅茶苦茶だわ」

さっきより、声に張りがあった。嘘くささは消えていた。
嘘を見抜くのが特別に得意というわけではないから、僕の見間違いかもしれないが、とにかく素の表情に見えた。

ダルシムは、もう見えない。どうやら、これで終わったのだろう。

きっと、僕が亡霊を倒したのではない。彼は倒されることで、僕を助けに来たのだ。
倒させてもらったというのが正確なところだろう。
酒の見せた幻と断じるのは簡単だが、今だけはそう思うことにしよう。
こういうロマンチシズムも悪くない。

「ま、酔った勢いで与太を飛ばしているのはお互い様だ。君のやっていることも大概だろう」

もうすぐタクシー乗り場だ。今夜はいい気分で家に帰れそうだった。

「この、これは、そうじゃなくて」

まだ何か言いたいことがあるらしい。
何だろうと、今なら惑わされずに聞く自信がある。

「なんだい」

「……ちょっと、好きになれると思ったのよ。なんだか……ちゃんと見てくれてた、と思うの」







「え?」





つい立ち止まってしまった。

なんてことだ。信じられない。頬を染めている。血流は演技できないはずだ。なら、本気か。
僕は何か間違ったのか? 何を間違った? 僕は今さっき、この恐い女に勝ったはずだ。
個人的には素晴らしい逆転勝利だったように思う。なのに、なんだこれは。

絶句する僕をよそに、彼女はさらに言葉を続けた。

「謝っておくわね。誠実じゃなかったわ。ごめんなさい。でも、今は違うのよ。本当に」

困ったような顔で、早口に、短く言葉を切りながら、彼女は僕の正面に立ち、体重を預けてきた。

「……何を、言っているのか、わからない」

こんなのは卑怯だ。不意打ちにもほどがある。こいつは誰だ? 本当に同一人物か?
なんだか喉が渇いてきた。

「きっと、気分を悪くしたわね。本当にごめんなさい。図々しいことかもしれないけど、私のこと、まだ嫌いにならないで欲しいの。あなたがこんなにいい人だなんて思わなくて……」

「待て。落ち着け。いいか、僕はいい人なんかじゃない。そういうことを言うな」

「だって、優しいじゃない」

「嘘をつくな」

「本当よ」


言い合いは平行線だった。


「いったい、僕にどうしろというんだ」

どういう態度でいればいいのかわからない。
謝りながら好意を表明されたとき、正しい受け答えはどんなものか。見当もつかなかった。
こういうパターンは経験がない。ダルシムは助けに来ない。

「……わからない。私も、どうすればいいのか……」

弱ったな。このまま振り切って帰ったら、絶対に気分が悪いぞ。
今にも泣き出しそうな顔だ。堪えている感じだから余計に性質が悪い。
ここであざとく泣いてくれたら、帰る決意も固まるというのに。

その時、僕の携帯が鳴った。
誰だ、こんな時間に。……いい、放っておこう。

「……鳴ってるわよ」

「君に比べたら、たいした用事じゃない」

気分よく帰るためには、目の前の問題を片付けなければ。
電話に構っている暇はない。

「そう、ありがとう。…………その曲、お店でもかかってたわね」

気が散るらしい。

「すまない、今電源を切……」

ずっ、と、鼻をすする音が聞こえた。何か、変な感じだ。

「ん?」

視線を彼女のほうに戻すと、彼女は泣いていた。
相変わらず堪えようとしているようだが、限界を僅かに超えてしまっている。

「ごめんなさい。音は止めておいてくれると助かるわ」

わざとらしい感じはしない。何だろうか。原因は、この曲?


歌っているのは、フランク・シナトラ。
思い出した。店では、ビング・クロスビーがこれを歌っていた。

曲は、『 I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You 』。

あぁ、わかった。ゴースト・オブ・ア・チャンス。はかない望み。

”あなたと一緒になる望みは、これっぽっちもなさそうだわ” か。

彼女が「もう (呪いに) かかっているかも」と言ったとき、指をさしていたのは、この音楽だったのかもしれない。

合コンで携帯番号を交換した際、明らかに脈がないと思われる女の子から万が一連絡があった場合、これが鳴るようになっている。ぬか喜びは気分が悪いからだ。


僕はポケットに手を入れ、携帯を切った。
彼女が、僕の胴に腕を回して、きつく抱きついている。
こういう酒癖なのか、本気でやっているのか、わからない。

「……なんとなく、事情が飲み込めた気がするよ」

「……合ってると思うわ」

かなり手痛い失恋をしたのだろう。
彼女は忘れようとし、無理に次を探した。そして動機の半分は、たぶん、八つ当たりだ。

「それならそうと、言えば良かったんだ」

「言えるわけないじゃない、こんなみっともないこと……」

「言えないのに、それをしたら、待っているのは自己嫌悪だけだろうに」

「わかってるわよ……でも、苦しくて……」

頭ではわかっていても……か。そうだろうさ。僕だってそうだ。

今、弱みに付け込んで口説いたらどうなるか。
待っているのは自己嫌悪だ。なのに、僕はそれをしようとしている。
気付けば、無意識のうちに僕も抱き返してしまっている。このままではだめだ。

なんとか、止めなくてはならない。罪悪感は心を貧しくする。

「僕は、いい人じゃない。優しくもない。そして、嘘つきだ。君の人選は間違っていなかった。 ……いいかい、僕は君の八つ当たりに、もう少し付き合ってもいいと思ってる。なぜなら、僕にとっては損がないからだ」

はっきりさせておかなくてはならない。
勘違いは正しておかないと、後々良くないことが起きる。
僕にとっても、彼女にとっても、こんなことは望ましくないはずだ。

「そういうところが、優しいっていうの……」

「君にとって良くないことだとわかっていて、それができてしまうのは、優しいとは言わない」

「じゃあ……きっと、私がバカなのよ。それでも、嬉しいんだから」

なぜ、彼女はそれでも離れないのか。女心はわからない。
本当にそれでいいのか? 自問自答の答えが、これだというのか。

「君は後悔する」

見る限り、プライドは高いように思える。
そんな安売りをするものじゃないと、自分でもわかっているに違いないのに。

「いいの。私の選んだことだわ」

覚悟を込めた言葉だった。
やはり、恐ろしい。僕なんかとは比べ物にならないほど、彼女の底は深い。
僕は言葉に詰まってしまった。

重い沈黙が辺りを包み、風は痛いほどに冷たい。
彼女のぬくもりも、僕にとっては痛みを感じる類のものだ。

彼女はそれ以上何も言わない。

僕の答えを待っているのだ。

「……あぁ、そうかい。なら、お言葉に甘えさせてもらおう」

空気が軽くなった気がした。

彼女はするりと僕の腕の中から抜け出し、再び腕を組んだ。

どちらからともなく歩き出し、そのままタクシー乗り場を通過し、僕たちは気の向くまま、お喋りを続けながら大通りを歩いた。


目指したのは、朝まで営業している店だ。これが、なかなか見つからなかった。
目立つ場所にある居酒屋なんてどこも閉まっているし、この辺りで遅くまで営業している店を僕は知らない。
あるかもしれない、という曖昧な理由で適当に歩きまわるうちに、少々気後れするような路地に入り込んでしまった。

ラブホテルが立ち並んでいる。

「あー。こっちは無いか」

「ねぇ」

そっと囁くような声で、彼女は言った。
これはもう、絶対に目を見てはいけないと思う。

「…………………………なんだ」

「ちょっと、キスしに行かない?」

背筋に、何か得体の知れないものが這い上がるのを感じた。
この言い方は反則だ。

「……キスだな」

「そうよ」

そんなわけはない。額面どおりに受け取る馬鹿はいない。
ちらりと横目に顔を見ると、彼女の向こうで再び亡霊が顕現しようとしていた。

「……お手柔らかに頼むよ」

「大丈夫、恐くないわ」

明らかに反応を楽しんでいる言い方だった。
今度こそ彼女は冷静だ。大変なプレッシャーを感じる。

「そういう言い方はやめてくれ」

「あら、どうして?」

「…………聞くな」

とはいえ、いつまでも押されてばかりでは格好がつかない。
ひそかに気合を入れ直し、僕は彼女を連れてホテルに入った。












結果から言うと、僕が勝てたのは初戦だけだった。
敗因は、彼女がウォッカを好んでいたことを忘れていたからだろうか?
彼女が本気になったかと思うと、あっという間に方向キーを1回転されてしまった。
そんなもの、勝てるわけがない。

……それはともかくとして。

数日後、僕は友人からの合コンの誘いを初めて断わった。

「おいおい、なんだよ? どうしたんだお前」

電話口の向こうで、友人が心外そうな声を上げていた。

「悪いな。亡霊と戦うので忙しいんだ。わかりやすく言うと、つまり悪霊退治だ」

「……いやいや、全然わからない。お前あれか、心の病気?」

「はは、確かに、心の病気と言ってもいいかもしれないな。言い換えるなら、これはある種の呪いだよ」

どうやら僕は、かかってしまったらしい。
世界がヨガとカクテルとジャズとゴーストで出来ていると思い込んでしまう、困った呪いだ。


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