「では、僕のごく個人的な見解を述べようか」
ほとんど口癖となっているこれを口にして、僕はこの世ならざるモノと対峙していた。
亡霊というものはどうやら、過去からやってくるものであるらしい。
Yoga, Cocktail, Jazz, Ghost.
僕にはお気に入りのバーがある。
『いつもの』のひとことでラムのオレンジ割りが出てくるくらいにはそこに通いつめていて、その日も僕はいつものカウンター席、そのいちばん左端に座ることができた。
ビリー・ホリデイの悲壮感と優しさでできた歌声に聞き入りながら、僕が2杯目のキューバン・スクリューを空にしたとき、その女はひとりでこの店に入ってきた。
いかにも甘い匂いがしそうな、けれど、ぞっとするような、なんというか、幽霊みたいな美人だった。
不健康なまでに色白で、濡れたように艶やかな黒髪は腰に届くほど長い。
その静かなる存在感を滲ませた佇まいは、どこか怪談めいた『いわくつき』の人形のようにも見える。
あぁ、あれは夜な夜な髪が伸びるに違いないぞ、なんて冗談を思いついたけれど、それを話す相手はいない。
いらっしゃいませ、というマスターの言葉に軽く笑いかけて、彼女もカウンター席に座った。
おや? と思ったのはそのときだ。
客は少なかったのに、その女性は店に入ってくるなり僕の隣に座ったのだ。
言うまでもなく、普通そういうことはしない。
こうして見ず知らずの男の隣に座るのはいったい、どんな理由があってのことなのだろうか。
女は既に酔っ払っているようにも見えて、なんとなく僕は彼女に対して警戒心を抱いた。
僕はただでさえ、気の強そうな美人が苦手なのだ。酔っているなら尚更始末が悪い。
「ブラック・ルシアンをお願い」
彼女が始めに発した言葉は、コーヒーリキュールをウォッカで割ったあの胸焼けがしそうなほど甘くて強いカクテルの名だった。
間違いなく大酒飲みだ。そして、大の甘党であるらしい。
とろりとした黒い茶色の液体、まるで蜜のようなそれを喉に流して、彼女は息を吐き出した。
濡れた唇を舐めるさまが妙に扇情的で、見ないようにしようと思ってもつい、目が行ってしまう。
落ち着かない。これはどう考えても落ち着かない。
とはいえまだ僕は2杯目で、ここで席を立ったら何か負けたような気がして気分が悪くなるに決まっている。
僕は次を注文した。
「ブラッディ・マリーを」
さっぱりしたものが飲みたい。雰囲気のせいか、彼女のせいか、口の中が粘ついている。
名前のわりに身体に優しい『血塗れマリー』が到着するなり僕は半分ほど飲み上げて、どうにか一息つくことができた。
あまり酒に強くなくてよかったかもしれない。短時間で余計な考えをどこかにやることができるのだ。
さりとて、この妙にざわつく気分を全て振り払えたわけでもなく、もう少しマシにしようと思い僕は煙草を取り出した。
僕が火をつけたとき、彼女も同じように煙草をくわえ、火をつけていた。
同じタイミングで煙を吐き出し、同じタイミングでグラスに口をつけ、同時に置く。
喫煙者なら比較的よくあるシンクロだが、今は気に食わない。
目が合った。
彼女がふっと笑う。まるで子供を見るような目だ。やはり気に食わない。
僕は何か言おうと思ったが、何も思いつかなくて、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「あくびもそうだけど、他にも釣られてとってしまう行動ってあるものね。今、そうでしょう?」
耳元で囁かれたならきっと脳が蜂蜜漬けになるだろう、ひどく甘ったるい声だ。
峰不二子か、それに準ずるものを濃縮したら、こんな声になるかもしれない。
「僕が釣られたんじゃない」
「あら。じゃあ、私が?」
失言だっただろうか。
話し相手を釣っていたのなら、見え見えの餌に食いついた間抜けは僕だということになる。
誰が乗ってやるものか。
できるだけ退屈な話をしようと思い、僕は以前どこかで聞いた話を頭の隅から引っ張り出した。
「さぁ、どうかな。拍手を打ったとき、右の手が鳴ったのか、左の手が鳴ったのか……今のはきっとそんな話だろう」
ぱん、と音がした。彼女が合掌していた。
合わせた手を見つめたまま、彼女は問う。
「それで?」
「それで、って、何がだい」
「その後よ。答えは、どっちなの? 右手? それとも、左手?」
こちらに身を乗り出してきた。胸元が、かなり危うい。
僕は強烈に引っ張られる目線をなんとか横に逸らして答えた。
「わからないよ。わからないという話なんだ。あるいは……」
「あるいは?」
「片手で拍手は鳴らない。だから鳴ったのは、僕たちの『出会い』だ。この『出会い』が音を鳴らしたのさ。つまり──」
そう言って、彼女のブラック・ルシアンにブラッディ・マリーを当てる。
かつん、と硬い音がした。
「──こんなふうに」
鼻で笑うような声が聞こえた。
見れば、彼女がにやにやと笑っている。
「なんだよ」
「あなた、ものすごいキザね。初めて見たわ、こんな人」
珍獣でも見るような目と、口ぶりだった。
こんなのはただの禅問答だ。僕がキザなら、寺の坊主はみんなハイレベルのキザなんじゃないのか。
そのあたりのことを改めて説明しても仕方がないだろう。相手は禅問答なんてものを面白がるつわものだったのだ。
「君も大概だよ。君みたいなのは初めてだ」
「じゃあ、あなたの素敵な出会いに乾杯しましょうか」
「僕が口説いてるみたいな言い方を……」
「はい、乾杯。ちゃんと言わなきゃ乾杯じゃないわ」
彼女がグラスを持ち上げて、こちらに向けてきた。
「……乾杯」
やはり、苦手だ。魔性の女だとか、堕落とか退廃なんて言葉じゃ足りない、破滅的な怪しさを漂わせている。
とくに彼女の瞳が恐ろしい。あの目は、飲み込まれそうな気持ちになる。
次に声、そして唇、指先。それぞれに、人知の及ばない魔力めいたものが宿っているように思われてならない。
具体的にどう、というわけじゃない。けれど、なぜか背中がぞくぞくする。
いったいどういうふうに生きてきたら、人はこんな雰囲気を身にまとえるのか。
「んっ。もう空になっちゃったわ。おかわりを頼もうかしら」
彼女はすぐに、再びブラック・ルシアンを頼んだ。
美味しそうに飲んでいるけれど、見ているだけで喉が渇きそうだ。
「好きなのよ、甘いのが」
「……まだ何も言ってない」
「言いたそうな顔をしてたわ」
僕はよく無表情だと言われるけれど、それでも彼女にはお見通しのようだ。
「そうかい。どうやら君とポーカーはしないほうが良さそうだ」
「あら、拗ねちゃった? 私はそういうひと好きよ。可愛いくて」
「手玉に取られるのは好きじゃない」
「手玉に取るのが好きなの?」
「煙に巻くのが好きだ」
ぎゅっ、と煙草をもみ消した。
そのままポケットに手をやって、もう1本煙草をくわえて火をつける。
「ヘビースモーカー?」
「たぶん」
「あ、わかったわよ。あなた寂しがり屋でしょう」
なるほど、僕はフロイト占いで言うところの口唇期的性格にあたるらしい。
たしか皮肉屋で、煙草・飴・ガムなんかが好きで寂しがり屋だったか。
「フロイトはあまり信用できない」
「でも、あなたはキスが好き」
「……嫌いな人なんているのかい」
「いるわよ」
「君は?」
「大好き」
まるで頭の中を覗き込まれているようだ。何を言っても丸め込まれてしまうような気がする。
「なら、寂しがり屋は君だろう」
「そうかもしれないわね。でも」
彼女はそこで言葉を切り、ふわりと柔らかく笑って、続けた。
「あなたの隣は、居心地がよさそうだったから」
口当たりの良い言葉だ。良薬は口に苦いそうだから、彼女のそれは毒薬か。
長話をしていたら、いつのまにか取り返しのつかないことになっているかもしれない。
ここで僕が耳なし芳一の話を思い出してしまったのは、まだ頭がまともだということか、それとも、もうまともじゃないということか。考えてもわからなかった。
「こりゃ、大変なものに取り憑かれてしまったな」
そう僕がため息混じりに呟くと、
「人をお化けみたいに言わないでちょうだい」
彼女は形だけ怒ってみせて、わざとらしく頬杖をついた。
フォローを入れろということらしい。もちろん、フォローなんて入れない。
「怒らせたら呪われるかな」
「呪うわ」
即答だった。愉しそうに口の端を持ち上げて、底なしの眼で僕をじっと見ている。
ぞくり、と感じる寒気が快感に変わりつつあるのは、既に毒が回り始めているからか。
「……やっぱり、怪談の類じゃないか」
「あら、ふふっ。そんな顔で言われると照れちゃうわね」
いったい僕がどんな顔をしていたというのか。
彼女の表情は少しも照れてなんかいないように見える。余裕の横顔でグラスを傾けていた。
からん、と氷が音を立てた。
「そうそう。怪談と言えばね」
彼女が思い出したように言う。
「なんだい?」
「この話を聞いた人は数日以内に恐い目に遭う、って話があるじゃない?」
特定のお化けについて語った怪談を聞くと、近日中にそのお化けが会いに来るというやつか。
3日以内に他の誰かに話せば来ないとか、救済措置のあるものもあれば、聞いた時点で手遅れという場合もある。
『恐いね』で済ませてはいけない雰囲気になる、わりと気分の悪いパターンの怪談だ。
「あぁ、いくつか知ってる。それが?」
彼女は真剣そうな顔を作って、こちらをじっと見た。
「こういう話を聞くと、いつも思うのよ。話を聞いたかどうか、どうやって判別してるの? って。幽霊にだけ見える目印でもつくのかしら」
そう言って、額を指差した。その辺に何か印がつくというイメージなのだろう。
「目印がついていたとして、それらを全てチェックする手間は膨大なものだろう。もしも目印で見分けているのだとしたら、そうだな……目印の他に、全ての人間を監視するシステムが必要になる。そして、目印がついた人物を発見したら、期日以内に恐い目に遭わせに行かなければならない。どこだろうと確実に……かなり大変な仕事だ」
「現実的じゃないわよね」
変な言い方だ。怪談に現実も何もないだろうに。
しかし、現実感のない怪談は怪談としてレベルが低いと言えるかもしれない。
すると、そんなにおかしな表現ではないのか。
「そう。現実的じゃない。個人の幽霊にできることのレベルを超えている」
きっと酒のせいだろう、こんなくだらないやりとりが楽しいと思えてきた。
いや、違うな。これからするオカルト話で、彼女が青ざめるのを見るのが楽しみだというのが正しい。
「ふふっ、それで? あなたはどう思う?」
「そうだな……僕の個人的な見解だがね。この世界を監視している巨大な霊的組織の存在を考える前に、僕たちは視点を変えなければならない。このパターンの怪談は、厳密に言うと怪談じゃない。それは『呪い』の一種だと僕は思う」
僕がそう言うと、彼女は実に楽しそうな笑みを浮かべた。
こういう話が好きな手合いであるらしい。あるいは人を怖がらせるのが好きだということか。
ならば僕との相性は最悪と言っていいだろう。僕も同じタイプだからだ。
ますますやっつけてやりたくなった。
「まず、呪いというのは基本的に、相手に呪いをかけている事実を伝えないと効果がない」
「どういうこと?」
「要するにプラシーボ効果だ。ただの栄養剤を薬と偽って飲ませると、重い病気が治ってしまうことがある。思い込みは意外と侮れないんだ。毒だと言って飲ませれば、急に具合が悪くなることもある」
「つまり、『頭が痛くなる呪いをかけていますよ』って相手に伝えると、それだけで頭が痛くなるってこと?」
「そういうことになる。もちろんただ言うだけでは効果は薄いだろう。相手が心から騙されずにはいられない『演出』が必要になる。釘を打った人形だとか、変な字の書いてあるお札だとか、謎の呪文だとか、『それっぽい』ものがあればあるほどいい」
テレビドラマか何かで、ストーカーが想い人の写真を部屋中に貼り付けているのを見た覚えがある。
写真に写っている本人がそれを見たならかなりの衝撃を受けるに違いない。
もしもその写真がひとつ残らず目を潰されていたとして、それを見た人が『呪いは存在し得る』と思っていたならば、あるいはその日を境に目を患うようになるかもしれない。
そうでなくとも、それを見せた後に『目に入ると失明する』という設定の水を霧吹きか何かで顔にかけたなら、目を患う確率はぐっと上がるだろう。
『ただの水であるわけがない』という思い込みが生まれてしまうからだ。
「でも、そういうのを信じていないなら、意味がないんじゃないかしら」
「別に幽霊や超常の力を演出しなくてもいい。新種の病原菌でもいいし、知られざる科学でもいい。その場で検証しづらいものならなんでもいいのさ。もっと言えば、そういうのは害を与えるものでなくてもいい。ノロイもマジナイも同じ字を書くから……結局は同じことなんだ。呪いの本質は相手が信じていること、信じるかもしれないことを利用することにある」
「ふぅん……なら、そうね。こういうのはどう?」
やった。どうやら気に食わないらしい。挑戦的な眼差しを向けてきた。
「あなたに呪いをかけるにはどうすればいい?」
僕に呪いをかけるつもりらしい。
「そんなことを相手に聞く呪術師がいるか」
「だって、まるで何も信じていないみたいな口ぶりだから」
「そんなことは」
どうだろうか。僕は今まで何かを信じたことがあったか?
「ない?」
「……いや、わからない」
つけいる隙はあるに違いない。
完璧なものは存在しないのだから、誰にだって、もちろん僕にだってプラシーボ効果はあるだろう。
ならばさてどんな設定を……いや、止そう。自分に呪いをかける方法を真剣に考えても仕方がない。
「それより、ええと。何の話だったか。そう、怪談だ。つまり『この話を聞くと数日後に……』という類の怪談は、ある種の呪いなんだよ。話し方をうまくやれば恐怖のどん底どころか、『霊障』とか言われる実際の害を与えることだって不可能じゃないだろう」
「見える、ってこと?」
「かもしれない。が、見えるかどうかは問題じゃない。むしろ見えないほうが恐い。恐怖によるストレスで免疫が弱って高熱が出るとか、ありそうな話だろう?」
僕はそう締めくくった。しかし彼女は、話を聞く気があるのだろうか?
話を真面目に聞いているようで、実のところ『話をしている僕』をじっと見ているような気がしてならない。
これから『プラシーボ効果』をお題にした恐ろしい話を展開するつもりだったのに、この手ごたえの無さはなんだ。
落ち着かない。喉が渇いてきた。
「うん、面白い解釈だわ。その考え方でいけば、世の中って思ったよりずっと呪われているかもしれないわね」
笑顔で言う言葉じゃない。こりゃ、恐い話はやめだな。
「呪いなんてそこらじゅうにあるって話をして恐がらせようと思っていたのにな」
「あらあら、ごめんなさいね」
もし親しい間柄だったならこの女は間違いなく僕の頭を撫でただろう、そんな言い方だ。
この歳になって子供扱いとは。
「……マスター、強めのジントニックを。ライムはいらない」
そうして、僕たちは会話のような言い合いをしながら酒を飲んでいた。
いくら言葉に棘を含ませても、彼女はそれを軽々と折り取って飲み込んでしまう。
返ってくる言葉は常に糖分過多で、アルコール度数の高いものだった。
チェロを思わせるビング・クロスビーの歌声に混じって、彼女の囁きが耳に滑り込んでくる。
「……なぁ。君に呪いをかけるにはどうすればいい?」
自分でもかなり飲みすぎていると思う。
こんなことを聞いても仕方がないのに。
「そんなことを聞く呪術師はいないんじゃなかったかしら?」
ほら、やっぱりこう来た。
「いいだろ、何事にも絶対はないんだ」
「ふふっ、それもそうね。ええと、私に呪いを?」
「あぁ。どうしたらかかる?」
「そうね……」
彼女は少し考えて、大真面目にこう答えた。
「抱きしめてキスをして、『愛してる』って囁かれたら、きっと心臓が苦しくなって死んでしまうわね」
なんだそれは。
「『まんじゅうこわい』じゃないか」
「恐いわねぇ。なんて恐ろしいのかしら」
彼女はけらけらと笑い、もう何杯目かわからないカクテルを飲み干した。
「あぁ、僕が間違ってた。君に聞いたのが間違いだった」
「ふふ。でもね」
煙草の灰を落とし、ひとくち吸って少し止め、ふっと煙を吐き出す。
そのさりげない動きのひとつひとつが計算されているかのように僕の目を奪う。
「もう、かかっているかも」
今度は視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
どこか寂しげで、悲しげな横顔から目が離せなくなる。
「どういう意味だ?」
聞くと、彼女は顔の横で人差し指を立てた。
「答え合わせはまた今度、ね?」
嫌な言い方だ。
「『また今度』なんてあるものか」
「あるかもしれないわ。絶対なんてありえないもの」
「は、そうかい」
しばらくして、ふたりで店を出た。
財布から2人前の飲み代が飛んでいったのは僕の見栄のせいだからいいとしても、タクシー乗り場に向かうまでの道のりで、彼女がすぐ隣を歩いているのはいただけない。
近道である、細く暗い路地には僕たちの靴音だけが響いていた。
「こんな道があったのね……でもなんだか、お化けが出そうなところだわ」
「あぁ、ここはひどいのが出るぞ。それに、ちょうど丑三つ時だ」
言いながら、少し歩調を速める。
「やめてよ」
置いてきぼりになりかけた彼女が、後ろから僕の手を引っ張った。
「なんだ、意外と恐がりなんだな」
ここまで簡単だと逆に拍子抜けしてしまう。
振り返ると、彼女は僕の『数歩後ろ』を歩いていた。手の届く距離では、なかった。
「……あれ、君は、いま……」
「なに?」
手を見ても、何もない。誰も掴んでいない。しかし、冷たい手の感触が、僅かに残っている。
寒気がした。
「あ、いや、悪かった。すまない」
「どうしたの? 急にしゅんとしちゃって」
きょとんとした顔で僕を見ている。
どういうことだ?
「……その、あれだ、酒を飲んでいるし、君の靴は踵が高いだろう。転ぶ可能性を考えていなかった。だから、それで」
「あら、手を引いてくれるの? ありがとう、優しいのね」
彼女が手を差し出してきた。指先はずいぶんと冷えていた。
「…………どういたしまして」
優しさとはかけ離れた気持ちだ。今のが何だったにせよ、これでようやく僕の頭も回るようになってきた。
この一瞬の恐怖は、意識を切り替えるに充分なインパクトを持っていた。
状況が見えてきた。これは、ただごとじゃない。
彼女は、常に先を読んで話している。言葉だけでなく、振る舞いの全てが戦術的に『強い』選択なのだ。
後手に回ってゆっくりと受け答えしているように見えて、実は全て先手を打ってきている。
相手は常に動きを封じられ、ふと気付けば追い詰められている……洗練された、厄介なやりかただ。
この状況。この戦況。この戦法を僕はよく知っている。
これは、僕の友人が操るダルシムだ。
今、僕が仕掛けられているのは『2択』。あるいは『3択』だ。
ひとつ。
僕の手を掴んだのが彼女である場合。
稚拙な手段だが、確かに僕は恐怖を感じた。恐怖は感情を沸き立たせる触媒になる。
恐怖というスパイスを効かせれば、あらゆる感情が鮮烈なものに感じられる。
何かさらに仕掛けてくるはずだ。
ふたつ。
僕の手は誰にも掴まれていないという場合。
信じがたいことだが、しかし僕はいつもより多くのアルコールを摂っている。
絶対にあり得ないことか、といえば、そうではないだろう。勘違いはあり得る。
この場合は、彼女は現在何もしようとしていないので、『待ち』の一手を打ってこちらを観察していると見るべきだろう。
……みっつ。
僕の手を掴んだのが、『見えざる第三者』であった場合。
こんなことを考慮に入れるのは間違っている。どう考えてもだめだ。
可能性ありと判断するなら、彼女が実は人間でない可能性まで考慮しないといけなくなる。
それでも、いまいち切り捨てられないでいるのは、何故だろうか。
仮に、この『見えざる第三者』が、僕が過去に戦ったダルシムの記憶なのだとすれば、話は変わってくる。
言うなれば、ダルシムの亡霊。ふたつめの選択肢の正体と言ってもいいかもしれない。
『遠距離から徐々に絡め取られる』という事態の隠喩として、僕の脳はあり得ない距離から手の感触を再現した。
かなり無理のある考察だが、気の持ちようによっては縄でさえ蛇に見えることがあるのだ。
UFOの目撃証言だって、『土曜の夜、パブの帰りに見たんだ』というのが大半だそうだ。
少なくとも今なら、そんなことが起きても不思議ではないような気分ではある。
ふたつめの選択肢の裏づけとして扱ってもいいか。
しかし、まだ疑問は残る。最も大きな問題はここだ。
ダルシムの亡霊を見せるほどの戦術を用いて、なぜ僕を誘惑するのか?
これはもう誘っているとしか思えない。何もかもが完璧で、不自然すぎる。
僕がもし、月も恥じらうような絶世の美形だったなら彼女の態度もわかる。しかし、そうではない。
僕自身、外見も中身もいまいち冴えないのだということぐらいはよくわかっている。
遊びのつもりだとしても、僕みたいなのは遊び相手に向かない。
常に棘を含ませた物言いをする男と居て楽しいはずがないのだ。
それに、どうやら人を見る目がありそうだ。全力を注ぐ相手を間違えるような失態は犯さないだろう。
ならば何故、こうまで意地になるのか?
何故、普通の会話において『勝利する』ような話術を用いるのか。
これは、たぶん考えても仕方無いことだと思う。とにかくそうさせる何かがある。あったということだろう。
考えを纏めきる前に、彼女は口を開いた。
「小さいときからそうなんだけどね、お友達と遊んでいて、暗くなってきたら、『またね』って言って帰るじゃない?」
慎重に言葉を選んでいる、と思った。視線の動き、声色、僅かな表情までよく練られている。
この完璧さは、異常だ。不健康な色気とでも言うべき、背徳的な美しさがある。
要するに嘘くさいのだ。この非現実的な美しさに、ある種の男たちは虜になるのだろう。
僕もまた、その種の男に含まれていそうだった。
「……あぁ。それで?」
「そういうときはいつも胸が苦しくなるわ。夕暮れ時はお別れの時間。そういうものだと思ってたの」
話が見えない。何を言うつもりだろうか?
彼女は続けた。
「大人になると、あらゆる時間がそういう時間になってしまうわね。いつどこに居てもいいから、いつでも夕暮れ時が作れてしまうのよ」
「時間帯に限らず、あくまでお別れは『夕暮れ』なんだな」
「私にとってはね。今だって、この空が白く濁った青紫に見えるぐらいよ」
「そりゃ病院に行ったほうがいい」
僕も頭を医者に見せるべきかもしれないが。
「直感的なイメージの話よ。現実なんて見る人によっていくらでも形が変わるものじゃない。……ねぇ、こう言ってるのよ。あなたとお別れするのが寂しい、って」
手を握る力が強くなった。
彼女はまっすぐに僕を見て、そしてふっと視線を足元に落とした。
「……」
彼女の横顔の向こうに、ダルシムが跳んでいるのが見えた。
────決着をつけようとしている。
ダルシムの飛び込みは脅威だ。二種類の軌道で打ち分ける、螺旋状の攻撃が来る。
鈍角で滑るように突っ込んでくる頭突きか、あるいは鋭角で急襲する蹴りか。
そして着地後には、下段の伸びる拳か、あるいは投げか。
多くの選択肢があり、外せばダメージとなる。友人が得意とする、最も強い攻めの姿勢だ。
しかし、裏を返せばそれは。
「……なるほど。ふむ」
僕は人差し指を立てた。
「では、僕のごく個人的な見解を述べようか」
ほとんど口癖となっているこれを口にして、ダルシムの亡霊に宣戦を布告した。
「……? なぁに?」
「君はさっき、直感的なイメージによって、主観的な現実は形を変えると言ったな。概ね賛成だよ。経験の積み重ねは、主観的な現実に大きく作用する。君がこの夜空を夕暮れだと思ったように、僕もまた、僕だけの現実を見ているのだろう」
話題を変えられたと思ったのか、彼女は不服そうな顔をした。
けれど、話をここで途切れさせるわけにはいかない。構わず続ける。
「『僕に何が見えているのか?』 それは今はあまり関係ない話だ。しかし、理由がなければそれは見えないはずのものだ。直感を刺激するだけの何かが君にはある。だからひとつ、聞きたいんだ。……君が、何をそんなに思いつめているのか」
「……っ」
目に見えて表情が変わった。
ダルシムのドリルキックを僕は余裕を持って防いだ。……読みが当たったみたいだ。
さて、どう来るか……たぶん、下段の強パンチだ。
僕がガードすると読んで、伸びるパンチで距離を取るつもりだろう。
『読まれている』と確信したなら、仕切り直さずにはいられない。
いいだろう、乗ってやる。
「……なんのことかしら? わからないわ」
視線が泳いでいる。やはり、はぐらかそうとしている。
では、仕切り直しと行こうか。
常套手段としては、飛び道具で牽制ってところだろうか。
「思うんだよ。君は僕に対して、少しも好意を抱いていない」
堅実にガードか、同じ飛び道具で相殺か、あるいは、跳び込んでくるか。
たぶん、彼女は跳ぶ。
ダメージを受けまいとして、チャンスを逃すまいとして、一気に畳み掛けてくる。
追い詰められているときほど、ダルシムは跳ぶのだから。
「そんなことはないわ。だって私……」
来た。当然、ここで打ち落とす。言わせるものか。
「いや、責めているんじゃない。君の素顔が見られた気がして、少し嬉しいと思ったくらいだ」
「……」
彼女は黙った。
ダルシムはダウンしている。距離を詰め、起き上がりを攻めるとしよう。
「恐らく、君がしようとしているのは『逃避』だ。僕にはそう見える。嫌なことを忘れようとして、無理をしているように見える」
「……どうして、そう思うの」
ダルシムが立ち上がった。その場を、動かない。
ガードか、それとも、迷ったか。そういう場合は、もう掴むに限る。
握る手に、力がこもった。
「君は完璧すぎた。演技力はたいしたものだが、完璧な人間なんているはずがないんだよ。だから、僕の目の前に居るのは、架空の存在だ。そう思ったのさ。……以上」
そう言うと、彼女は僕の手を離し、今度は腕を組んできた。
どういうつもりだ?
「……もうそんなことはしなくても」
「……あなたの言っていることは、滅茶苦茶だわ」
さっきより、声に張りがあった。嘘くささは消えていた。
嘘を見抜くのが特別に得意というわけではないから、僕の見間違いかもしれないが、とにかく素の表情に見えた。
ダルシムは、もう見えない。どうやら、これで終わったのだろう。
きっと、僕が亡霊を倒したのではない。彼は倒されることで、僕を助けに来たのだ。
倒させてもらったというのが正確なところだろう。
酒の見せた幻と断じるのは簡単だが、今だけはそう思うことにしよう。
こういうロマンチシズムも悪くない。
「ま、酔った勢いで与太を飛ばしているのはお互い様だ。君のやっていることも大概だろう」
もうすぐタクシー乗り場だ。今夜はいい気分で家に帰れそうだった。
「この、これは、そうじゃなくて」
まだ何か言いたいことがあるらしい。
何だろうと、今なら惑わされずに聞く自信がある。
「なんだい」
「……ちょっと、好きになれると思ったのよ。なんだか……ちゃんと見てくれてた、と思うの」
「え?」
つい立ち止まってしまった。
なんてことだ。信じられない。頬を染めている。血流は演技できないはずだ。なら、本気か。
僕は何か間違ったのか? 何を間違った? 僕は今さっき、この恐い女に勝ったはずだ。
個人的には素晴らしい逆転勝利だったように思う。なのに、なんだこれは。
絶句する僕をよそに、彼女はさらに言葉を続けた。
「謝っておくわね。誠実じゃなかったわ。ごめんなさい。でも、今は違うのよ。本当に」
困ったような顔で、早口に、短く言葉を切りながら、彼女は僕の正面に立ち、体重を預けてきた。
「……何を、言っているのか、わからない」
こんなのは卑怯だ。不意打ちにもほどがある。こいつは誰だ? 本当に同一人物か?
なんだか喉が渇いてきた。
「きっと、気分を悪くしたわね。本当にごめんなさい。図々しいことかもしれないけど、私のこと、まだ嫌いにならないで欲しいの。あなたがこんなにいい人だなんて思わなくて……」
「待て。落ち着け。いいか、僕はいい人なんかじゃない。そういうことを言うな」
「だって、優しいじゃない」
「嘘をつくな」
「本当よ」
言い合いは平行線だった。
「いったい、僕にどうしろというんだ」
どういう態度でいればいいのかわからない。
謝りながら好意を表明されたとき、正しい受け答えはどんなものか。見当もつかなかった。
こういうパターンは経験がない。ダルシムは助けに来ない。
「……わからない。私も、どうすればいいのか……」
弱ったな。このまま振り切って帰ったら、絶対に気分が悪いぞ。
今にも泣き出しそうな顔だ。堪えている感じだから余計に性質が悪い。
ここであざとく泣いてくれたら、帰る決意も固まるというのに。
その時、僕の携帯が鳴った。
誰だ、こんな時間に。……いい、放っておこう。
「……鳴ってるわよ」
「君に比べたら、たいした用事じゃない」
気分よく帰るためには、目の前の問題を片付けなければ。
電話に構っている暇はない。
「そう、ありがとう。…………その曲、お店でもかかってたわね」
気が散るらしい。
「すまない、今電源を切……」
ずっ、と、鼻をすする音が聞こえた。何か、変な感じだ。
「ん?」
視線を彼女のほうに戻すと、彼女は泣いていた。
相変わらず堪えようとしているようだが、限界を僅かに超えてしまっている。
「ごめんなさい。音は止めておいてくれると助かるわ」
わざとらしい感じはしない。何だろうか。原因は、この曲?
歌っているのは、フランク・シナトラ。
思い出した。店では、ビング・クロスビーがこれを歌っていた。
曲は、『 I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You 』。
あぁ、わかった。ゴースト・オブ・ア・チャンス。はかない望み。
”あなたと一緒になる望みは、これっぽっちもなさそうだわ” か。
彼女が「もう (呪いに) かかっているかも」と言ったとき、指をさしていたのは、この音楽だったのかもしれない。
合コンで携帯番号を交換した際、明らかに脈がないと思われる女の子から万が一連絡があった場合、これが鳴るようになっている。ぬか喜びは気分が悪いからだ。
僕はポケットに手を入れ、携帯を切った。
彼女が、僕の胴に腕を回して、きつく抱きついている。
こういう酒癖なのか、本気でやっているのか、わからない。
「……なんとなく、事情が飲み込めた気がするよ」
「……合ってると思うわ」
かなり手痛い失恋をしたのだろう。
彼女は忘れようとし、無理に次を探した。そして動機の半分は、たぶん、八つ当たりだ。
「それならそうと、言えば良かったんだ」
「言えるわけないじゃない、こんなみっともないこと……」
「言えないのに、それをしたら、待っているのは自己嫌悪だけだろうに」
「わかってるわよ……でも、苦しくて……」
頭ではわかっていても……か。そうだろうさ。僕だってそうだ。
今、弱みに付け込んで口説いたらどうなるか。
待っているのは自己嫌悪だ。なのに、僕はそれをしようとしている。
気付けば、無意識のうちに僕も抱き返してしまっている。このままではだめだ。
なんとか、止めなくてはならない。罪悪感は心を貧しくする。
「僕は、いい人じゃない。優しくもない。そして、嘘つきだ。君の人選は間違っていなかった。 ……いいかい、僕は君の八つ当たりに、もう少し付き合ってもいいと思ってる。なぜなら、僕にとっては損がないからだ」
はっきりさせておかなくてはならない。
勘違いは正しておかないと、後々良くないことが起きる。
僕にとっても、彼女にとっても、こんなことは望ましくないはずだ。
「そういうところが、優しいっていうの……」
「君にとって良くないことだとわかっていて、それができてしまうのは、優しいとは言わない」
「じゃあ……きっと、私がバカなのよ。それでも、嬉しいんだから」
なぜ、彼女はそれでも離れないのか。女心はわからない。
本当にそれでいいのか? 自問自答の答えが、これだというのか。
「君は後悔する」
見る限り、プライドは高いように思える。
そんな安売りをするものじゃないと、自分でもわかっているに違いないのに。
「いいの。私の選んだことだわ」
覚悟を込めた言葉だった。
やはり、恐ろしい。僕なんかとは比べ物にならないほど、彼女の底は深い。
僕は言葉に詰まってしまった。
重い沈黙が辺りを包み、風は痛いほどに冷たい。
彼女のぬくもりも、僕にとっては痛みを感じる類のものだ。
彼女はそれ以上何も言わない。
僕の答えを待っているのだ。
「……あぁ、そうかい。なら、お言葉に甘えさせてもらおう」
空気が軽くなった気がした。
彼女はするりと僕の腕の中から抜け出し、再び腕を組んだ。
どちらからともなく歩き出し、そのままタクシー乗り場を通過し、僕たちは気の向くまま、お喋りを続けながら大通りを歩いた。
目指したのは、朝まで営業している店だ。これが、なかなか見つからなかった。
目立つ場所にある居酒屋なんてどこも閉まっているし、この辺りで遅くまで営業している店を僕は知らない。
あるかもしれない、という曖昧な理由で適当に歩きまわるうちに、少々気後れするような路地に入り込んでしまった。
ラブホテルが立ち並んでいる。
「あー。こっちは無いか」
「ねぇ」
そっと囁くような声で、彼女は言った。
これはもう、絶対に目を見てはいけないと思う。
「…………………………なんだ」
「ちょっと、キスしに行かない?」
背筋に、何か得体の知れないものが這い上がるのを感じた。
この言い方は反則だ。
「……キスだな」
「そうよ」
そんなわけはない。額面どおりに受け取る馬鹿はいない。
ちらりと横目に顔を見ると、彼女の向こうで再び亡霊が顕現しようとしていた。
「……お手柔らかに頼むよ」
「大丈夫、恐くないわ」
明らかに反応を楽しんでいる言い方だった。
今度こそ彼女は冷静だ。大変なプレッシャーを感じる。
「そういう言い方はやめてくれ」
「あら、どうして?」
「…………聞くな」
とはいえ、いつまでも押されてばかりでは格好がつかない。
ひそかに気合を入れ直し、僕は彼女を連れてホテルに入った。
結果から言うと、僕が勝てたのは初戦だけだった。
敗因は、彼女がウォッカを好んでいたことを忘れていたからだろうか?
彼女が本気になったかと思うと、あっという間に方向キーを1回転されてしまった。
そんなもの、勝てるわけがない。
……それはともかくとして。
数日後、僕は友人からの合コンの誘いを初めて断わった。
「おいおい、なんだよ? どうしたんだお前」
電話口の向こうで、友人が心外そうな声を上げていた。
「悪いな。亡霊と戦うので忙しいんだ。わかりやすく言うと、つまり悪霊退治だ」
「……いやいや、全然わからない。お前あれか、心の病気?」
「はは、確かに、心の病気と言ってもいいかもしれないな。言い換えるなら、これはある種の呪いだよ」
どうやら僕は、かかってしまったらしい。
世界がヨガとカクテルとジャズとゴーストで出来ていると思い込んでしまう、困った呪いだ。