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[20924] 優しい光【禁書目録再構成】上条当麻×御坂美琴【完結】
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:37f67125
Date: 2014/08/09 22:35
初めまして、スネークと申します。
本文をお読み頂く前に、以下の点をご確認下さい。


・このSSは『とある魔術の禁書目録』の二次創作です。時系列としては本編第三巻終了(絶対能力進化実験阻止)後となります。
・SS内のカップリングは上条当麻×御坂美琴となります。
・作者独自の設定や改変が数多く登場します。
・作者はSS初心者です。


以上の内容にも動じない凄い方は本文にお進み下さい。
このSSが読んで下さった皆様にとって、ちょっとした時間潰しとなれば幸いです。


初期投稿:2010年7月8日
最終投稿:2014年8月9日



[20924] 第1話 妹達編・その後①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:37f67125
Date: 2010/09/04 05:45

水曜日の夕方。お気に入りの雑誌が売り出されている今日。
いつもだったら行きつけのコンビニで立ち読みしているはずの私は今、買い物カゴを片手にスーパーの中をウロウロしていた。
一つ一つ手にとって吟味して、慎重に食材を選んで、会計を済ませて、買った物を大きめのビニール袋に詰め込んで。
買い物を終えてスーパーを出ると、私はその足を病院へと向ける。アイツが入院している病院に向かって歩き出す。
ゆっくり歩いたつもりなのに、気がつけばもう着いてしまっていた。あっと言う間だった。でもまあ、そんなの当たり前だ。
何しろ、もうすっかり慣れてしまった道だったから。
アイツのお見舞いに来るのに、何度も何度も使っている道だったから。


玄関が近づいてくる。
何だか、胸がドキドキしてくる。
玄関はどんどん、どんどん近づいてくる。
それに比例するように、ドキドキもどんどん激しくなっていく。


気がつくと、立ち止まっていた。
病院はもうすぐそこだ。入口まで、あと十メートルくらい。
うー、と思わず唸ってしまう。
会う前からこんな調子で、本当に大丈夫なんだろうか?
家事を手伝いたい、なんて。ちゃんと伝えることが出来るんだろうか?
今日、退院するって言ってたアイツに。
日常生活にも不自由する程の大ケガをしているアイツに。


落ち着け。落ち着くのよ、私。
別に特別なことをするワケじゃない。
これからやろうとしているのは、人として当然のこと。
そう、忘れちゃいけない。アイツの手助けを私が申し出るのは当然のことなのだ。
だって、アイツがケガをした原因は他でもない、私なんだから。
少しでもアイツの役に立ちたいって思うのは、至って自然な流れなんだから。


だから大丈夫。アイツが変に遠慮なんかしたって、そんなの全く問題無し。
その時には、このビニール袋を見せつけてやる。
もう夕飯の買い出しもしちゃったんだって言って、困らせてやる。
ああ、でも露骨にイヤな顔をされたりしたら応えるだろうな。
迷惑だ、なんて言われたら、ものすごくショックだろうな。
そんなことを考えたせいか、目頭がちょっとだけ熱くなった。


ああ、もう、ヤだなあ。


アイツのことになると、どうしても上手く気持ちが整理できない。
でも、一つだけ。たった一つだけど、でも、はっきりと分かっていることがある。
それは私、御坂美琴が上条当麻に惚れてしまったってこと。
どうしようもないくらい、大好きになってしまったってこと。
とは言え、それを口に出したことは一度だってないんだけど。


うーん……私は、どうしたいんだろう?


自問してみる。でも、答えなんて決まっている。
アイツに認めてもらいたい。好きだって、言ってもらいたい。アイツとずっと、ずっと一緒にいたい。
ほら、考えるまでもない。
毎日毎日アイツの顔ばっかり浮かぶ私に、他の答えが出てくるワケがない。
だから、いつまでもこんな所でグジグジしていられない。


……よしっ!


覚悟を決めて足を動かそうとした、その時だった。
背後で何か音がした。ドサリ、と。地面に何かが投げ出されたような、そんな音。


首だけで振り返ってみる。

「……え?」

人が倒れている。真っ白な衣装に身を包んだ誰かが、コンクリートの地面に伏している。

「ちょっ、ちょっと!」

そばに駆けつけ、しゃがみ込み、その身体を仰向けに抱え起こす。
顔を見て、すぐに分かった。女の子だった。綺麗な銀色の髪をした、女の子だった。

「どうしたの?」

女の子の顔は真っ青だった。唇は震えている。

「しっかりして!」

叫んだ。

「ねえ!」

でも、返事は無い。

「ねえってば!」

女の子はぐったりしたまま。
私は辺りを見回した。誰もいない。声も聞こえない。
でも、救いの手は絶対にある。病院の中なら、きっとある。
この子、軽そうだし、私一人でも充分運べそうだ。
女の子に目を戻すと、その瞼が少し震えた。

「大丈夫!?」

女の子の頬をそっと叩く。

「しっかりして!」

少しだけ瞼が開いた。

「……か……た……」

私を見ながら精一杯、唇を動かす女の子。

「え?何?」

女の子の口元に耳を寄せる。

「お……いた……」

途切れ途切れになりながらも、女の子は必死に言葉を紡ぐ。

「お……か……いた……」

もう少し。もう少しで、この子が何を伝えたいのか分かりそうだ。
全神経を耳に集中させて、私は聞いた。

「おなか……すいた……」

はい?聞き間違い、かな?
そう思ってもう一度、耳を傾けてみる。

「お腹……空いた……」

残念ながら、聞き間違いじゃなかった。


えーっと、つまり……この子が倒れた原因はケガでも病気でもなくて、ただ単に空腹で立っていられなくなったってだけ?
とりあえず、近くにあったベンチに女の子を寝かせる。

「ちょっと待ってて」

全く反応が無い女の子の前で、ビニール袋をゴソゴソと漁る。

「はいコレ」

リンゴを一つ、差し出す。

「すぐ食べられるの、コレしかないけど良かったら……」

その次の瞬間に起きた出来事を、私は生涯、忘れることはないだろう。
私の手の中から、リンゴがいきなり消えたのだ。
驚きで声を上げかけたものの、何とか踏ん張る。
しかし、リンゴの行方を追って前方に視線をずらしたところで。

「ええっ!?」

今度こそ、驚きの声を上げてしまった。
目の前では、女の子が物凄い勢いでリンゴにかぶりついていた
ついさっきまでピクリとも動かなかった女の子がベンチにきちんと座り直して、両手でしっかりとリンゴを固定して、ひたすらモリモリ食べている。
そして、程無くしてリンゴは跡形もなくなってしまった。果肉はおろか、種も、芯も残らなかった。
みんな等しく、分け隔てなく、女の子の胃袋に収められてしまった。
ここまで時間にして約十秒。恐るべき早業、そして荒業である。


リンゴを食べ終えると、女の子はニッコリと微笑みかけてきた。
一点の曇りも無い笑顔には、たった一つの思いが込められていた。


もっと欲しい。もっと食べたい。


思いっきりキラキラした目は、明らかにそう告げている。

「あ、ははは」

思わず笑みを返してしまった。笑う以外、他にどうしろというのだ。
ビニール袋にはもう、すぐに食べられる物はない。調理を必要とする物しか入っていない。今の私では、彼女の望みを叶えてあげられない。
でも、その事実をなかなか言い出せない。期待に満ち満ちた目で見つめられて、言い出せない。


女の子は私に笑いかける。私は女の子に笑いかける。
お互い、笑顔でひたすら見つめ続ける。
何と言うか、異様で微妙な光景だった。












ちょっと緊張していた。
緊張していないフリをしようとすればするほど、逆に緊張が高まっていく。
室内はしんと静まり返っていた。
私は一人、台所で鍋の様子を見ている。火にかけた鍋の中身が、ぐつぐつと音を立てて煮えている。


確認しよう。
私は一人、台所で料理をしている。
銀髪の女の子と、彼女が飼っているらしい三毛猫は、居間と寝室を兼ねた部屋でくつろいでいる。
上条当麻の部屋にいるのは、それで全員だった。

『お腹いっぱい、ご飯を食べさせてくれると嬉しいな』

腹ペコ少女に連れられて、辿り着いた先。そこは、とある学生寮のとある部屋。ネームプレートには上条の文字。
まさかと思って、女の子に訊ねてみた。だって上条なんて、どこにでもいるような苗字じゃないでしょ?そうしたら案の定

『ここ?とうまの家だよ』

彼女の答えに、胸がチクリと痛んだ。
とうまの家だよ、だって。当麻、だって。
呼び捨てだった。ちょっぴり……ううん、かなり羨ましかった。


あの子はアイツの、何なんだろう?
妹って感じじゃない。だって、アイツとはこれっぽっちも似てないし。家族とか、親戚とかじゃ絶対にない。
でも、じゃあ、何なんだろう?あの子は一体、何者なんだろう?どうしてアイツと一緒に住んでいるんだろう?
そんなことをグダグダと考えていると、居間から声が聞こえてきた。

「にっくじゃがー。にっくじゃがー。にっくじゃがー」

妙な節を付けて、女の子が楽しそうに歌っていた。
私が作っている肉じゃがを、よっぽど楽しみにしているらしい。
その声はまるで小さな子供のようで、私は少し笑ってしまった。
さっきまでのモヤモヤした気持ちは、どこかに吹き飛んでしまった。


しょうがないなあ。
あんなに期待してくれているのだ。期待通りの、いや、それ以上の物を作ってあげようじゃないか。












「うわぁ……」

思わず声が洩れた。目の前の光景は、それだけ凄まじいものだった。
五合は炊いたご飯も、四人分は作った肉じゃがも、大根を丸々一本使用して作った大量の味噌汁も。女の子はみんなみんな、きれいさっぱり平らげてしまったのだ。

「よっぽど飢えてたのねー」
「そう!そうなんだよ!」

お腹が膨れて、すっかり元気になった女の子がズズイっと身を寄せる。

「それもこれも、とうまの退院が一日延びちゃったからなんだよ!」

拳を握って、女の子は熱弁する。今朝、彼女にかかってきた電話のことを。
アイツは昨日、病院で頭を強打してしまったそうだ。何でも、散歩中に廊下で足を滑らせ、転んでしまったらしい。
で、足を滑らせてしまった理由ってのがまた、とんでもなくて。

「バナナの皮?」
「うん。廊下に落ちてたんだって」

何だかなあ。
バナナの皮で滑って転んじゃうなんて、今時漫画でも滅多にお目にかかれないような光景だ。
だけど不思議と、アイツだったら有り得るなって思えてしまう。
アイツのことだ。ふ、不幸だ、なんて頭を打った直後にボソッと呟いたに違いない。
検査の結果、とりあえず異常は何も見られなかったらしいけど。

「念のためってことで、もう一日入院する羽目になったのかも」

この子が餓死しかけていた理由も、これでようやく分かった。
つまりアイツが今日の分の食事を用意してなかったのが原因だったワケだ。
かと言って、アイツを責めるワケにもいかない。
アイツには何の落ち度もないんだから。悪いのはアイツじゃなくて、アイツの運なんだから。
ホント、しょうがない。明日また仕切り直そう。
もうじき門限だ。寮監の厳しい目もあることだし、今日はもう帰った方が良さそうだ。
そんなことをぼんやりと考えている時だった。
女の子は静かに立ち上がった。

「ちょっと歩こうよ。みこと」

まだ教えてもいない私の名前を口にして、女の子は玄関に向かって歩き出した。











[20924] 第2話 妹達編・その後②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/04 05:45

名前も知らない女の子と、少し暗くなった学園都市を歩く。
夏の日はもう建物の向こうに消えて、空はうっすらとした闇に染まっている。
西の方はまだ白っぽく光っているけれど、東はもう夜そのものだ。


そんな空に、星が点々と光っていた。私達が歩くその先で、星達は輝いていた。
私も、女の子も、女の子に抱かれた猫も、ただ黙り込んだまま。
特に行き先も無いまま、私達は歩き続けた。


訊きたいことはたくさんあった。
だけど、そのどれ一つとして言葉にはならなかった。
訊きたいけど、訊きたくなかった。
私の知らない上条当麻を、この子の口から聞きたくなかった。


やがて公園に着いた。
夜の公園には誰もいなくて、静かだった。
昼間の賑わいがまるで嘘みたい。そんなことを思っていたら、女の子が不意に足を止めた。
視線の先には一台の自動販売機。瞬きの一つもせずに、赤い直方体の箱をじーっと見つめている。

「飲みたい?」

訊ねると、身体をこちらに向けてコクコクと力強く肯いた。
ホント分かりやすい子だ。

「オッケ。じゃ、ちょっと離れてて」

女の子は不思議そうに私を見上げる。
まあ、当然の反応だと思う。
小銭を投入して、ボタンを押す。たったこれだけ。
自販機から離れなきゃいけない理由なんてどこにも見当たらない。
そう、正攻法だったら離れる必要なんて無い。

「裏ワザがあるのよ」

笑いかけると女の子は困惑した表情のまま、それでも脇に退いてくれた。


さあて、と。当たりを出しなさいよ、アンタ。


赤い機体と対峙する。狙うは機体の左側面。

「ちぇいさーっ!」

裂帛の気合いと共に、渾身の上段回し蹴りを叩き込む。
グラグラと揺れる自販機。そして、約三秒の間を置いて

「お」

取り出し口にアイスココアが二本、落下した。

「ラッキー」

いつもは一度の蹴りで一本しか出てこないのに。
今日は結構、ついている。それとも、この子のおかげかな?
差し出したココアを受け取る女の子の屈託の無い笑顔を見て、柄にも無く幸運の女神なんてものを連想してしまった。











「あの自販機にさ、カレーサイダーってあったでしょ」
「うん、あったあった」
「どう思う?あれ」
「どうって?」
「カレーは飲み物ってことでオッケー?」
「え?うーん……どうなんだろ?」

カレー談議に花を咲かせながら、二人でベンチに向かって歩いていく。

「ちょっと休もうか」

二人並んでベンチに座る。
それからも、女の子と色んな話をした。
今、ハマっているテレビ番組のこととか。新発売のジュースで一番美味しいのは何だとか。
どうでもいい話ばかりだったけど、でも、楽しくて。すごく、すごく楽しくて。
適当に時間を潰して、すぐに帰るつもりだったのに。

「あ」

何気なく公園の時計を見上げて、びっくりした。
門限なんてとっくの昔に過ぎてしまっていたのだ。
辺りもすっかり、真っ暗になってしまっている。

「ご、ごめん」

慌てて立ち上がる。

「もう帰らないと。じゃあね!」

踵を返して走り出そうとした、その時

「待って」

女の子に呼び止められた。

「忘れ物だよ」

振り返ると、女の子が何かを投げてきた。
大きな弧を描いて飛んできたそれを、私はほとんど反射的にキャッチした。
それは鍵だった。アイツの部屋の鍵だった。

「とうまのこと、よろしくね」

小さく笑って、女の子はそう言った。

「な、なんで?」

ワケが分からない。

「見ず知らずの私に、そんな……」
「よく知ってるよ」

戸惑う私の言葉を、女の子は笑顔で遮った。

「私がお見舞いに行くとね」

そして、話し始めた。

「とうまは決まって、みことの話をするんだよ」

私の知らない上条当麻のことを。

「みことのことになると、すっごいおしゃべりになるんだよ」

私が知りたかった上条当麻のことを。

「みことがお見舞いに来た日のとうまって、すごく機嫌が良いんだよ」

上条当麻の、意外過ぎる一面を。

「とうまはね、みことのことが好きなんだよ」

絶対にね、と悪戯っぽい笑みを浮かべて付け加える女の子。

「とうまには、みことが必要なんだよ。だから」

よろしくね、と言って女の子はベンチから立ち上がった。
私に背を向けて、歩き出した。

「ま、待って!」

つい、呼び止めていた。

「また会える?」

ぴたりと止まった女の子の背中に問いかける。
女の子はゆっくりと振り返って、にっこりと笑って

「もちろん!」

私が一番欲しかった答えを返してくれた。
そして、女の子は一歩を踏み出した。

「じゃあ、またね」

ひらひらと手を振って、去っていく女の子の顔は

「また、美味しいご飯を食べさせてね!」

最後の最後まで、とびっきりの笑みで埋まっていた。












ちょっと変な感じがする。
久し振りに着る制服は、どうも身体に馴染まない。
余儀なくされた入院生活の長さを、改めて実感させられる。


でも、何でだろう。長かったという感じはしない。
入院生活はつまらなかったけど、だけど、退屈はしなかった。
それはきっと、アイツがいてくれたから。
ほとんど毎日のように、アイツがお見舞いに来てくれたから。


……まあ、昨日は来てくれなかったワケなんだが。


はぁ、と洩れる溜め息。
それから、たった今した自分の行動を疑問に思う。
どうして、ここで溜め息なんて出てくるんだろう?
分からない。自分のことなのに、分からない。
たった一日会えなかっただけで、何でこんなに気が滅入るんだろう?
アイツに会えないってだけで、何でこんなに調子が狂うんだろう?
こんな気持ちに陥る自分に、驚きだった。
ああ、でも今朝早くにやって来たインデックスの発言だって、負けず劣らず驚きだったな。


何せ開口一番


『これからは、こもえに面倒見てもらうんだよ』


なんて笑顔で言われたら、そりゃビックリもする。


でもまあ、良いんだけどさ。
ようやく気楽な一人暮らしに戻れるんだから
本当はまだ入院してなくちゃいけないんだけど。
ちょっとした不幸のせいで、予定より一日延びてしまったりもしたけど。
病院はつまらないって理由で、今日俺は退院する。


病院の出入り口に向かう。目の前で開いた自動ドアを通り抜けて、外に出る。
すると、そこには見知った顔が俺を待ち受けていた。

「昨日は見舞いに来てくれなかったな」

不機嫌に言いながらも、俺は嬉しくてたまらなかった。
会いたくてしょうがなかった女の子が。御坂美琴が、待っていてくれたのだから。

「薄情な奴め」

でも、そんな気持ちをコイツに知られたくなくて。
わざとしかめっ面を作って、心にも無いことを口にする。

「水曜は忙しいのよ」

だから大目に見なさい、と。あっちも不機嫌そうな表情で言い返す。

「へいへい」

弾む心を必死に抑えて、あくまで不満そうに肯く。

「じゃ、行こっか」
「歩きでか?」
「当然」
「病み上がりの身体にはキツイんですけど」
「リハビリよ、リハビリ」

こっちがまだ渋っているのにも関わらず、御坂は歩き出す。
仕方なく、俺も並んで歩き出す。
あとはまあ、いつも通りだ。
とりとめのないことを話しながら、気の向くまま、足の向くまま散歩を楽しむ。
二人きりの時間を楽しむ。


ちらりと、御坂の横顔を眺める。
肩の辺りまで伸びた御坂の髪が、風に揺れていた。
まるで、今の俺の気持ちみたいに軽やかだった。

「家事」

ポツリ、と御坂が呟いた。

「大変でしょ?」

その視線は、包帯で覆われた俺の両腕に注がれている。

「ん?まあな」

俺は何でもないことのように答えた。

「ま、どうとでもなるさ」

会話はそこで止まった。
いや、会話だけじゃない。
御坂は突然、立ち止まってしまった。

「どうした?」

俺も立ち止まって、訊ねてみた。

「御坂?」

どうも様子が変だ。
顔を真っ赤にして俯いている。
怒っているのだろうか?
でも、何に?
今の会話の中に、御坂を怒らせる要素があったとは思えないんだが。


やがて、何かを決意したように、御坂が身体をこちらに向けた。

「その……」

その顔を見て、ようやく分かった。

「て、手伝ってあげる……わよ……」

御坂は照れてるんだ。

「言っとくけど、拒否は許さないわよ?」

照れ隠しのつもりだろう。

「妹の件でアンタにはすごく世話になったし、それに」

顔を赤くしたまま、御坂は早口でまくし立てる。

「アンタを傷ものにしちゃった責任、しっかり取らせてもらうんだから」

ものすごく嬉しくなってきた。
御坂が家事を手伝ってくれる。
俺と、もっと一緒に、いてくれる。
心が弾む。

「ちょっと」

そして、思わず、

「何ニヤニヤしてんのよ?」

俺は笑っていたらしい。

「アンタ、人の話ちゃんと聞いてた?」

ずいっと寄せてくる顔は、やっぱりまだ赤いままで――どきりとした。

「ん?どうしたの?」
「い、いや……」

言葉に詰まる。
良い言葉が出てこない。いくら考えても出てこない。
ある一つの言葉を除いて、全く出てこない。
だけど、これだけは言えない。言えるはずがない。
可愛かった、なんて口が裂けても言えるワケがない。
散々悩んだ末、俺の口から出てきた言葉は

「じゃあ、お願いするよ」

なんて言葉だった。

「よろしく頼む……って」

口をへの字にして、御坂は俺をじっと見ている。
一瞬の表情の変化すら逃すまいとするかのように、じっと。

「何だよ?」
「一応、訊くんだけどさ」

それから五秒ほどの沈黙を挟んで、御坂は訊ねた。

「嫌じゃ、ないよね?」

コイツにしては随分と弱気な発言だった。
ついさっきの勢いが、まるで嘘みたいだ。

「当然だろ」

え、と驚く声。
御坂の顔を見ないようにそっぽを向いて、俺は更に付け加えた。

「ヤなワケあるかよ」

なんか、恥ずかしいな。
顔を見られないようにしたのは正解だった。
きっと今、俺の顔はかなり赤くなっている。


ちら、と御坂の様子を覗き見る。
どうも精神的なダメージはあっちの方が上だったらしい。
御坂は空飛ぶ円盤でも見たかのように呆然としている。


だが、やがて

「そっか」

なんて、ぼそっと呟いた。


そして

「そっか」

笑った。まるで、パッと花が咲いたみたいに。
本当に嬉しそうに、笑ったんだ。
どんな男だってイチコロに違いない、笑顔。
俺はそれを、しっかりと胸に刻んでおいた。
他の誰にも見せたくない、見せてほしくない。御坂美琴の、最高の笑顔を。











[20924] 第3話 御使堕し編①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/04 05:47

「ふう」

湯船に肩まで浸かると、そんな息が自然と洩れた。
十人くらいが入れる湯船に、十人くらいが座れる洗い場。
小さな銭湯って感じのお風呂場には私以外、誰もいない。
まあ、当然か。今年は太平洋沿岸で巨大クラゲが大量発生したって言うし。
猛暑なのに海の客足がゼロに等しいって話も肯ける。


そう、海だ。
ここは常盤台の学生寮じゃない。
学園都市の中ですらない。
神奈川県の某海岸。海の家『わだつみ』の一階奥にある、お風呂場なのだ。


ホントに“外”まで来ちゃったんだなあ、私。


学園都市最強の超能力者である『一方通行(アクセラレータ)』を倒したアイツと一緒に。
濡れた前髪を指でいじりながら、ちょっと物思いに耽ってみたりする。


だってさ、仕方ないじゃない。
アイツ、いきなり一時避難を言い渡されたのよ?
あれはもう、ほとんど強制退去だった。
しばらく学園の外で大人しくしていろ、だなんて。


だからさ、仕方ないじゃない。
アイツに借りがある身としては、避難先までついていくのが筋ってもんでしょ。
インデックスにだって、アイツのことを頼まれてるし。
べ、別にアイツの傍にいたかったワケじゃないんだからね!


ああ、ダメだ。少しのぼせたみたい。
貸し切り状態だからと言って、ちょっとばかり入り過ぎたか。
そろそろ出ようかな。


私、長風呂派だから部屋で待ってて。


そうは言っておいたけど、アイツのことだ。
きっと入口の辺りで私のことを待ってくれているんだろう。
上条当麻とは、そういう奴だ。
頭に超が付くほどのお人好しで。
困っている人がいたら、何としてでも力になろうとして。
諦めるって言葉を知らなくて。


あの夜、私達姉妹を救うために、アイツは必死で戦った。
絶対無理なのに。明らかに不可能なのに。それでも、アイツは諦めなかった。
ボロボロになりながら、それでも、アイツは戦い続けた。
あの姿が、ずっとどこかに残ってる。あの姿に、後押しされてる。


ああ、だからかな。
だからこんなに、気になるのかな。


……好きに、なっちゃったのかな。












脱衣所を出ると、やっぱりと言うか、アイツがいた。

「よう」

わざとらしく言ってきた。

「やあ」

私もわざとらしく言ってやった。
それから二人して笑った。笑い合った。
何かいいな、こういうの。すごく楽しい。

「じゃ、行くか」
「うん」

肩を並べて、私達は歩き出した。
居間に向かって歩き出した。

「あー、お腹減った」

今日は食べるぞー、なんて気合いを入れていると、隣からは何故か溜め息。

「先に言っとくが、御坂」
「何?」
「晩飯、あんまり期待するなよ」
「え?何で?」
「海の家のレパートリーはラーメン、焼きそば、カレーの三つだけと相場が決まっている」

ええ、と非難するような声を上げる。

「これだけ海が近いんだし、お刺身の一つくらい……」
「それすら出ないのが、海の家の性ってヤツでしてね」

う、嘘だ。
海が目と鼻の先にありながら、海の幸にありつけないなんて。
すっかり意気消沈した時、気づいた。
食堂も兼ねた居間が、妙にざわついていることに。


あれ?おかしいな。
ここの宿泊者って、今日は私達だけのはずなのに。
コイツの両親も、明日の朝まで合流出来ないって連絡あったし。


思い出して、急に頬が熱くなった。
そうだ、コイツの……上条当麻の両親に会うんだ。
とは言っても、外出する際の保証人として同行してもらうだけ。
特別な意味なんてない。全然ない。
ない、んだけど……。
なのに、ひどく緊張してしまうのは何でだろう?


緊張の正体が分からないまま、居間に辿り着く。
しかし、私達は立ち止まった。
居間は人で溢れ返っていた。
乱立している丸テーブル、いや、ちゃぶ台かな?
とにかく、それらはどれも満席状態だった。


え?何?この人達。
一体どこから、こんなに湧いてきたの?

「お、丁度良いところに」

唐突に聞こえてきた声に、唖然としたまま振り返る。
“大漁”と達筆な字で書かれたTシャツを颯爽と着こなすオヤジさんが立っている。『わだつみ』の店主さんだ。

「あの、この人達は一体……?」
「悪いねえ。この兄ちゃん達、テメエの車で本州一回り、なんて無茶してる連中らしいんだけど」

それはまた酔狂な。
そんな時間とお金があるってことは、この人達、大学のサークル仲間とかかな?

「どうも揃ってガス欠になっちまったらしくてな。この辺にはガソリンスタンドもねえし、夏とは言えもう日も暮れる」

というワケで、と両手を合わせるオヤジさん。
何だろう。イヤな予感しかしないんですけど。

「アンタらに、ちーっとばかし頼みがあるんだが」












日のすっかり落ちた夜。
六畳一間の和室を照らすのは、古めかしい電灯カバーの付いた蛍光灯の明かり。
ボロボロの畳が張られた床。
プラスチックのボディが黄色く変色した、エアコン代わりの扇風機。


まあ、別にこの程度の環境は何の問題にもならない。
事前に話も聞いていたし、こんなものは余裕で許容範囲だ。
でも、そんな心の広い私にも苦手な環境というものはある。
例えば、気になっている異性と同じ部屋に泊まると言うような、精神に対する圧迫だ。
頼んでもいないのに、二枚の布団はピッタリとくっついている。


ちょっ、何のジョークよ、これは。まるで新婚初夜じゃない。


全く、あのオヤジさんは何を誤解してくれてるんだろう。
部屋が足りなくなったから、今日は二人一緒の部屋で寝てくれだなんて。
あの人絶対、私達が恋人同士だと勘違いしている。


むう、と唸る。
困った事態になった。
その、カ、カップル扱いされたことは別に不満じゃないけど。
で、でもこの状況はさすがにマズイというか……。


今現在、私は究極の二択を迫られていた。
現状を受け入れて素直に布団に入ってしまうか。
拒否して布団を思いっきり離してしまうか。


どうする自分。どうする美琴。
こんなチャンスは二度とないような気がする。
でも、どう考えても早い。早過ぎる。
どうしたらいいんだろう。


迷いに迷っていたその時、コンコンとノックの音。

「おーい、まだかー?」

あっと、いけない。
着替えるから、廊下に出てもらってたんだっけ。

「どうぞー」

ドアを開けて、アイツが入ってきた。へえ、と唸った。

「お前、そういうの着るんだ」

しきりに感心している。


今、私が着ているパジャマ。
それはいつも寮で着ているパジャマじゃない。
以前、初春さんと佐天さんの二人と一緒に行った洋服店『セブンスミスト』
そこで見かけた花柄の、可愛らしいパジャマを着ているのだ。


子供っぽいって二人が口を揃えて言うもんだから、その時は買わなかった。
だけど、どうしても欲しくて、着てみたくて。我慢出来ず、とうとう買ってしまったのだ。


ちなみに、このパジャマ姿をお披露目するのは今日が初めて。
黒子には見せてない。
このパジャマの存在すら知らない。
バカにされると分かってて、誰が見せてやるもんか。


ああ、でもでも。


思い切って着てみちゃったけど、コイツはどう思うかな。
そんな少女趣味の持ち主だったのかって、コイツも笑うのかな。
可愛いなって、言ってくれたりしないかな。
この朴念仁に、そんな甲斐性はないかな。
どうなのかな。
ああ、やっぱりよく分かんないや。

「何よ」

私をじっと見つめていたアイツの肩が、ビクリと震えた。
急に、その視線を外した。

「あぁーっと、そのー」


何?この曖昧な喋り方は?


どういうワケか、その視線が泳ぎまくっている。
一瞬だけ目が合ったけど、すぐに逸らされた。

「まあ、何と言うかだなー」
「はあ?」
「これはあくまで、俺個人の感想なんだがー」
「何?何が言いたいの?」

戸惑っていると、アイツは頭をバリバリと右手で掻き回した。

「お前、こんなに可愛かったっけ?」

そして、小声で言った。
言葉の意味を理解するのに、たっぷり五秒は必要だった。
次に、顔がボッと熱くなった。


か、可愛い?可愛いって、言ってくれた?


どうしよう。すごく、すごく嬉しい。
聞き間違いじゃないよね?
確かに、そう言ってくれたよね?

「あの」

確認のため、声をかけようとした。
刹那、アイツは逃げるように布団に潜り込んでしまった。
恥ずかしいのはお互い様、ということらしい。


私はクスリと笑みを洩らすと、部屋の明かりを消した。
布団を被って横になった。アイツの隣で。お互いの布団をピッタリとくっつけたままで。

「……ねえ……」

ふと、声をかけてしまった。
自分らしくもない、勢いに欠ける声。

「ん?」
「いや、その……」

何となく良い雰囲気だったから声をかけたんだけど、話題が無い。
いくら考えても、良い言葉が全く出てこない。
散々悩んだ末、口から出てきたのは、

「美琴って呼んで」

なんて言葉だった。


何でそんなことを言ったんだろう?
何かを誤魔化すためだったのか。思わず本音が洩れてしまったのか。
今でもよく分からない。でも、確かにそう言った。

「どうしたんだよ、急に?」
「だって……いつまで経っても名前で呼んでくれないし」

一度言ってしまうと、もう止まらなかった。

「なんか他人行儀って感じがするし」

そういうの、なんか寂しいし。

「お前が先に言うんなら考えなくもないな」

あ、何よそれー。

「強情」
「お互い様だろ」
「意地っ張りー」
「うっせ」

ふーん、意地でも自分からは呼ばないってワケね。
分かったわ。上等よ。
お望み通り、私から呼んでやろうじゃない。
名前ぐらい楽勝よ。

「と……」

なんて思ったのに。

「……とう……」

言い切るより先に顔中が熱くなった。


うわあ、ダメじゃん私。
人のこと言えないじゃない。

「お前だって人のこと言えないだろ」

得意げな声。
その一言に、カチンときた。

「当麻当麻当麻当麻当麻っ!」

狂ったように連呼してやる。
顔が熱くってしょうがないけど、知ったことか。

「当麻当麻当麻――」
「美琴」

それは突然だった。不意打ちだった。

「……ずるい」
「悪いかよ」
「悪い」

いきなりなんてずるい。

「もう一回」

そんなの、呼んだことにしてやらない。

「ちゃんともう一回呼んで」

しばらくの沈黙。
それから、当麻の唇が動いた。
美琴、と動いた。
胸がキュンと鳴った。

「名前で呼ばれると新鮮だね」
「そっか?」
「そうだよ」

そのあと、ちょっと信じられないことが起きた。
布団の外に出していた私の左手に、当麻が自分の右手を重ねてきたのだ。
そして、ぎゅっと握ってきた。
何故か自然に手が動き、私はそんな当麻の手をしっかりと握り返した。

「だったらいつでも呼んでやるよ」

ああもう、どうしよう。
幸せ過ぎる。
今夜はずっとずっと起きていたい。
思わずそう願ってしまった。
そうすれば、当麻の温もりをいつまでも感じていられる。

「お休み、美琴」
「うん。お休み」

温もりを感じたまま。
当麻と手を繋いだまま。
私は緩やかに眠りに落ちていった。











[20924] 第4話 御使堕し編②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/27 04:59
夜が明けて、

「お兄ちゃーん」

という女の子の声で目が覚めた。


……何、今の?


うっすらと目を開ける。
そして、当麻と顔が合った。
眼前いっぱいに広がる当麻の寝顔に、思わず何秒も見入ってしまう。
ちなみに私達の手は昨夜のまま。


一晩中、繋ぎっぱなしだったんだ……


我を忘れて和みかけた、その時、

「お兄ちゃーん」

という声、再び。
女の子の声は、ドアの向こうから聞こえたみたいだった。


はて、どうしてだろう?
この声、物凄く聞き馴染みがあるんだけど。
いやでも、あの子がここに来てるはずがない。
どこに行くかなんて一切、ヒントすら教えなかったんだから。
他人の空似ってヤツよね、きっと。
そう結論づけた瞬間、ズバーンという大音響と共にドアが開け放たれた。

「お兄ちゃん!」


な、何々?何なの、何が起きたの……殺気!?


「起きろー!」

頭より先に身体が反応した。
繋いでいた手を振り解いて緊急回避。
おかげで私は難を逃れることが出来たけど、

「げぼあ!?」

まだ夢の中にいた当麻にボディプレスが直撃。ごめん当麻。
女の子の全体重をお腹に受け、布団の中で咳き込む当麻。が、十秒もしないうちに、

「……誰だテメエは?誰だテメエはおんどりゃあ!」

叫んで、バネ仕掛けの人形のように勢いよく起き上がった。
当麻の上に乗っかっていた女の子が、

「きゃあ!?」

という悲鳴を上げて部屋の隅まで転がった。

「ちくしょう誰だ?人の安眠タイムを邪魔しやがったのは」

怒り心頭の当麻と共に、プロレス技の使い手に目を向ける。

「え?」

思わずそんな声を上げていた。
畳の上に転がっていたのは、寮のルームメイトである白井黒子だった。

「ちょっとー、それがせっかく起こしに来てやった妹に対する態度なワケ?」

赤いキャミソールを着た黒子は、尻もちをついたまま頬を膨らませてみせる。


おかしい。
黒子が普通に喋ってる。
いつものお嬢様口調じゃない。
それに妹?今、妹って言ったよね?
それって“妹”?それとも“義妹”?
それが問題だ。
たった一文字だけど、そこには天と地ほどの差が存在する。
どっち?ねえ、どっちなの黒子!?

「黒子……?」
「はあ?私は裏方じゃないよ?」
「そっちじゃない!自分の名前でボケるな!」

怒涛の勢いでツッコミを入れる。
全く、こっちは大真面目だっていうのに。なのに、それなのに。


うん?


という顔を、黒子はした。

「ねえ、何を勘違いしてるの?」
「勘違い?」
「私、黒子って名前じゃないよ」

今度はこちらが驚く番だった。

「私には乙姫って名前がちゃんとあるの。て言うかさ」

目を細めて、

「貴女、誰?」

一言。


あまりの驚きに、思わず声を上げてしまった。


黒子が私を知らない。
そんなこと、あの子は口が裂けたって言わない。
となると、目の前にいるこの女の子は本当に別人?
でも、それにしては似ている。似過ぎている。
双子ってことにしても充分通じそうだ。

「御坂美琴、だけど」

訳が分からないけど、とりあえず自己紹介してみる。

「御坂……美琴?」

途端、女の子の表情が一変。

「ひょっとして、あの『超電磁砲(レールガン)』?」
「う、うん。まあ」

目をキラキラと輝かせて、私の手を両手でガッチリと握ってきた。

「あのっ……私、竜神乙姫です!当麻お兄ちゃんの従妹やってます!」
「そ、そう。よろしくね」

ブンブンと手を振られながら考える。
正直、何が起きてるんだか見当もつかない。
でも、一つだけ分かったことがある。
この子はやっぱり黒子じゃない。それぐらいは分かる。
二年に上がってから今日まで、あの子とは毎日のように顔を合わせているんだから。


でも本当にソックリね。見た目も、声も。
他人の空似ってレベルじゃないわよ、これ。

「御坂さん、一緒に朝ご飯食べましょう。で、おじさん達にも会って下さい」
「おじさん達?」

はい、と満面の笑み。

「刀夜おじさんと詩菜おばさん。お兄ちゃんのお父さんとお母さんです」

ドクン、と心臓が跳ねた。

「私、下で待ってますから。早く着替えて来て下さいね」

嬉しそうに、楽しそうに。
竜神乙姫と名乗った女の子は、ぱたぱたと足音を立てて部屋から出ていった。

「……どういうこと?」
「知るかよ」

俺が訊きたいぐらいだ、と当麻は頭を抱えた。












「着替え、終わったか?」
「うん」

ガチャリと開いたドアの先。
ベージュの落ち着いた色合いをしたスラックスと黒地のTシャツというラフな格好をした美琴が、そこにいた。
じっくりと、様々な気持ちに揺さぶられながら、俺は美琴を眺めた。
美琴が私服なんて、ちょっと変な感じだ。

「何よ」

途端、美琴が不機嫌になる。
俺は気押されながら、もごもごと言った。

「あ、いや、普通の服だなーって……」

俺の言葉を、どうやら美琴は勘違いしたみたいだった。
急に気弱そうな顔になって、訊ねてきた。

「変かな?」

そして自分の服を心配そうに眺めた。
そういう仕草の一つ一つが、いかにも女の子って感じだった。


やっぱり美琴だって、服とか気にするんだな。
それに、こう見えても美琴は能力開発の名門である常盤台中学のお嬢様だ。
今の流行なんてよく分からないのかもしれない。

「変じゃない。似合ってるよ」
「ホント?」
「ああ、すっげえ似合ってる」

本当はそのあとに言いたい言葉もあった。
可愛いよ、とかさ。
でも、昨夜の二の舞になってしまいそうだったから口に出さなかった。
心の中でこっそり言っておく。


ホント可愛いぞ、美琴。マジで似合ってるから心配すんな。


良かった、と安心したように呟く美琴。
それから、そっと息を吐いた。

「どうしたんだよ」
「ん」
「何溜め息なんか吐いてんだよ」
「ん」

どうにもはっきりしない。
よく分からないまま、俺は美琴と共に一階へ向かった。


狭い木の階段を下りる。
やけに静かだ。
どうやら昨日の連中は俺達が眠っている間にここを出ていったらしい。


じゃあ、残ってる客は俺達だけか。
俺と美琴。それにいつの間にかやって来た、従妹と名乗るテレポート女と、俺の両親。


上条刀夜と、上条詩菜。


心の中だけで溜め息を吐く。
どんな顔をして、二人に会えばいいんだろう。
俺には二人と過ごした記憶が無い。
二人の顔すら思い出せない。
でも、それを悟られるワケにはいかない。


久し振りに再会した息子が、自分達のことを忘れている。
それが一体、どれだけの悲しみになるのか。
想像するだけで嫌になる。
だから、悟られるワケにはいかない。


自分のせいで誰かを泣かせてしまう。
そんなこと、絶対にしたくない。
覚悟を決めて居間へ足を踏み入れる……が。

「当麻!元気そうだな。変わりないか?」

中に入った瞬間、そういった考えは一気に吹っ飛んだ。


記憶に無い人物から声をかけられたからじゃない。

「あ、やっと来た。お兄ちゃーん」

妹キャラを継続中のテレポート女にうんざりしたからでもない。


父親と思しき男の隣。
当たり前のようにちゃぶ台に就いている人物に目を向ける。

「インデックス?」

え、何?何でコイツがここにいるの?
コイツは今、小萌先生の世話になってるはずだよな?
て言うか、この格好は何だ?
足首まである薄手の長い半袖ワンピースにカーディガン。
おまけに頭には鍔広の大きな白い帽子。


はっきり言おう。
コイツには圧倒的に似合わない。
お前はどこの避暑地のお嬢様なんだと、小一時間ほど問い詰めたくなる。

「お前、何してんの?」

当然の如く浮かんだ疑問。
しかし父親らしき人物は、何故か怒気交じりに言った。

「こら当麻。母さんを“お前”呼ばわりとはどういうつもりだ」


はい?母さん?今、この人“母さん”って言いました?


唖然としたまま振り返る。

「アレ、何に見える?」

美琴だけに聞こえるよう、小声で訊ねる。

「どっからどう見てもインデックス」

頼もしい返答をありがとう。
だよな。やっぱりそうだよな。
アレはどう見ても十四歳以下の銀髪不思議外国人だよな。

「父さん」
「何だ」
「アンタ本当にソイツが母さんに見えてるのか?」
「当麻。それ以外の何に見える?」

可哀想なものを見るような目で俺を見つめる父さん。


待て、ちょっと待て。
ボケるにしてもこれはない。
ここまでボケられちゃうと、どこからツッコんでいいのか全然分からない。


ああ、そうか。
これってアレだ。ドッキリってヤツだ。
となると、どこだ?
作戦成功のパネルはどこにありやがるんだ?

「ねえねえ、お兄ちゃん」

キョロキョロと辺りを見回していると、突然、

「ここのテレビって勝手にスイッチ入れてもいいのかな?」

普通の喋り方が逆に気持ち悪いテレポート女が、そんなことを訊いてきた。

「何だよ、いきなり」
「むー。リモコン見当たらないしさー。こういう所のテレビって勝手にいじったら怒られそうなイメージがあるから触れないんだようお兄ちゃん」

やっぱり妹キャラのままなのかよ。


頭を抱える俺の隣で、美琴は腕を組んで何やら考え事をしていた。そこに、

「おう。ようやくお目覚めかい」

と、唐突に聞こえてきた声は男性のもの。
何となく聞き覚えのある背後からの声に、首だけで振り返る。


赤髪長髪の魔術師ステイル=マグヌスが、そこにいた。


「なっ……!?」

何でこんな所にいるんだよ、この英国人は。
お前、戦闘とか虐殺のプロなんだろ?
“大漁”なんてデッカイ字が躍るTシャツ着て何やってんだよ!


ん?大漁?


ぼんやりと思い出す。
そう言えば昨日、オヤジさんがこんな格好してなかったか?

「腹減ってるだろ。ちょっと待ってな」

呆気に取られていると、ビーチサンダルに首からタオルの魔術師がいきなり、

「おい麻黄!客の注文取って適当に食いモン出しとけ!」

と叫んだ。程なくして、パタパタという足音が近づいてくる。


誰だよ?今度は一体、誰が来るっていうんだ!?


「おい父さん!適当に、とか言うなよ!客の前だぞ!」

またもや聞き覚えのある声。でも、ちょっと待て。
俺の知っている限り、この声は間違いなくアイツだ。
だけど、いや、だからこそおかしい。
アイツがこんなに声を張り上げるワケがない。
だってアイツは、殺される直前でも無表情無感情を貫くような奴なんだぞ?


半信半疑で振り返る。


美琴のクローンである御坂妹が、そこにいた。


美琴と瓜二つの容姿。日に焼けた肌。
エプロンの下は大胆にも紺色の海パンのみ……ってオイ!
これってほとんど裸エプロンじゃねえか!
横から見たら、横から見たら胸の辺りが大変なことになったりしませんか!?

「何てカッコしてんのよ!」

真っ先に声を上げたのは美琴だった。

「アンタ、私と同じDNAマップ持ってるのよ!?私が見られてるのと一緒なのよ!?分かってる!?」

顔どころか身体中を真っ赤にして怒鳴り散らす姉。

「あの、お客さん。何言ってるのかサッパリ分かんないんだけど」

対して、妹は引きつった笑みで応じている。

「何でもいいから服を着なさい!今すぐに!」
「はあ?別にいいだろ、このままで。減るもんでもないし」
「精神的に減るの!いいからこっち来なさい!ほら!」

妹の首根っこを掴み、そのまま引っ張る美琴。

「な、何すんだよ!」
「うるさい!きびきび歩く!」
「痛い痛い痛い!」

ぎゃあぎゃあ喚きながら、二人は二階へと消えていった。
その様子が何ともおかしくて、おかげでちょっとだけ冷静になれた。
とは言え、それで事態が好転するワケでもなくて。

「何だったんだ、ありゃ?」
「読めたぞ。彼女は麻黄君と二人きりになるために一芝居打ったんだ」
「うわー。御坂さんってば朝から大胆」
「あらあら。美琴さん的にはああいう純朴な子が直球なのかしら」

好き勝手言うギャラリー共。


おかしい。ドッキリにしては規模が大き過ぎる。
ドッキリではないような気がする。
でも、じゃあ、何だ?


テレポート女が妹を主張し。
インデックスが母親を名乗り。
ステイルが海の家のオヤジになって。
まるで、みんなの中身と外見がそっくり入れ替わっているような。


……で、どういう理屈で?











[20924] 第5話 御使堕し編③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/04 05:49

十六インチの画面に大映しにされる寮監の顔。
ピンク色のエプロンを身につけ、妙に艶めかしい腰つきで、泡立て器を高速回転させている。
甲高い声がテレビのスピーカーから溢れ出る。

『ここがポイントよん♪』

よん、って何ですか、よんって。


次――


グレーの背広を着た佐天さん。深刻な表情。

『――刑務所から死刑囚、火野神作が脱獄しました。周辺の中学校などでは部活動を緊急で中止にするなどの迅速な対応が――』


次――


向かい合って将棋盤を睨む二人。
一人はスーツをビシッと決めた初春さん。
そしてもう一人。着物姿の男には何となく見覚えが……って。
アイツ、黒子にコテンパンにされた発火能力者じゃない。

『今のは悪手でしたね』
『そうですね。あの状況で角と飛車を交換するべきではなかったでしょう』

ガングロ女子高生が解説しちゃうんですか、そうですか。


次――


マイクを持った総理大臣がにこやかに笑っている。
おお、ようやくまともな映像が。

『さて、今日は千葉県の銚子にやって来ました。全国屈指の水揚げ高を誇る漁港があります』

あ、怪しい雲行き。後ろでは某国の大統領がわざとらしく網の手入れなんかしてるし。

『あ、こちらに漁師さんがいました!少し話を伺ってみましょう!』

うわあ、ダメだ。全滅だ。
どこもかしこも、おかしくなってる。
私はテレビを消すと、畳にごろんと寝転んだ。
静かだ。ほんの二十分前までの騒がしさが嘘みたい。


朝ご飯を食べ終えるや否や、当麻の両親及び従妹を名乗るヘンテコメンバーは海へと繰り出していった。
絶賛混乱中の当麻をズルズルと引きずって。
きっと今頃は何だかよく分からないままに砂浜に突き立てたパラソルの下、レジャーシートの上で一人、体育座りでもしているに違いない。
実は私も誘われてるんだけど、なかなか重い腰が上がらない。
ごめん、当麻。正直な話、あの三人のノリについていける自信がないの。


それにしても大丈夫かなあ、こんなのんびりしてて。
どうも世間は大変なことになってるみたい。
かと言って、どうすればいいのかなんて全然分かんない。


横になったまま、ケータイを取り出す。
待ち受け画面に映っているのは私と黒子。
それに、佐天さんに初春さん。
私の知ってるままの姿で、全員が映っている。


画面を切り替える。
今朝、乙姫ちゃんと一緒に撮った写真。
その中の乙姫ちゃんは、黒子とは似ても似つかない。
ショートカットで活発な感じの女の子が、そこに写っていた。
なのに乙姫ちゃんは言ったのだ。
綺麗に撮れましたねー、と。
映し出された異常に対し、何の指摘もなかった。


間違いない。
乙姫ちゃんは、ううん、多分みんな気づいてない。
中身と外見が入れ替わってしまっていることに。


でも、どうして?
どうしてそんなことが起こってしまったんだろう。
超常現象?何らかの能力?
分かんない。さっぱり分かんない。


ああ、分かんないと言えばもう一つ。
何で私と当麻は無事なんだろう?
日本中、ううん、ひょっとしたら世界中で異常は起きているはずなのに。
何か特別なことでもしたっけ?
うーん。これといった心当たりもないんだけどなあ。

「へえ、こいつは驚きぜよ」

そんな声と共に、誰かが入ってきた。
私はのっそり、身体を起こした。


ツンツンに尖った短い金髪。
地肌に直接着たアロハシャツとハーフパンツ。
薄い青のサングラスをかけ、首には金の鎖のオマケ付き。
当麻の学生寮の隣人、土御門さんだった。


この人、一見するとガラの悪い不良にしか見えない。
だけどそれは、本当に見た目だけ。
実のところは義理の妹である舞夏を何よりも大事にする優しいお兄さんなのだ……って、ちょっと待って。
何でこの人がここにいるの?どうやって学園都市の外に?
よっぽどの理由がなきゃ、学生が一人でホイホイ外に出られるワケないのに。


あ、そうか。みんなが入れ替わってるってことは、この人も土御門さんじゃなくて別人……


「まさかヒメっちも難を逃れてたなんてにゃー」

前言撤回。この人やっぱり、土御門さんだ。

「なあヒメっち。一個確認したいんだが」
「何ですか?」
「ヒメっちにはオレが『土御門元春』に見えてるぜよ?」

はあ?いきなり何を言い出すんだろう、この人は。

「当たり前じゃないですか。あと、『ヒメっち』は止めて下さい」

知り合って間もない頃から、ずっとこんな調子なのだ。
全く、お嬢様って肩書きだけでもウンザリだっていうのに。
一体どこをどう見れば、私がお姫様になるんだろうか。全くもって意味不明だ。

「となると、いや、まさかにゃー……」

信じられないって目で、私を見つめてくる土御門さん。が、突然、

「ま、いいか。とりあえずヒメっち。オレ達をカミやんのトコまで案内してくれ」

なんて言って、さっさと居間を出て行ってしまった。


もう。何なのよ、いきなり。
俺達を当麻の所へ連れて行け、なんて。
もう何が何だか……って、俺達?他にも誰かいるってこと?
と、廊下から奇怪な猫ボイスが飛んできた。

「うにゃー、ヒメっちー?まだかにゃー、ヒメっちー?」
「行きます!今行きますから!」

だからお願い。ヒメっちって連呼しないで!












状況が理解出来ない。
砂浜に突き立てたパラソルの下。
何で俺はレジャーシートの上で一人、体育座りをしてるんだろう?


巨大クラゲが大発生したおかげで砂浜には他に海水浴客らしき人影は無い。
完全に貸し切り状態だ。
波打ち際ではインデックスとテレポート女、それと父さんが一緒にビーチボールで遊んでいる。
ヘンテコだ。激しくヘンテコな三人組だ。
メンバーもヘンテコだが、格好はもっとヘンテコだ。


まずはテレポート女。
お前、何でスクール水着なんだよ。
ここは塩素臭い学校のプールじゃないんだぞ。


そしてインデックス。
何だよ、その黒いビキニは。
紐の部分、全然見えねえぞ?
ひょっとしてビニールで出来てんのか?
隠すべき部分に布を直接両面テープで貼り付けてるようにしか見えねえよ。
はっきり言う。幼児体型のアイツにはまるで似合わない。
ちぐはぐだ。何もかもちぐはぐだ。


ああ、早く来てくれ美琴。
俺一人じゃツッコミきれねえよ。
と、背後からサクサクと砂を踏む足音が近づいてくる。
良かった。やっと来てくれたか。

「おいおい、遅いじゃ」

ないか、と最後まで口に出せなかった。


体育座りのまま首だけ振り返った先に、美琴はいなかった。
後ろに立っていたのは異質な少女だった。
何が異質なのかって?そりゃもう、全部だよ、全部。


羽織った外套の下はワンピース型の下着みたいなインナースーツだけ。
しかもあちこちに黒いベルトやら金具やらが付いている。
太い首輪には伸びた手綱。腰のベルトには金属ペンチに金槌。
果てはL字型の釘抜きや鋸までもが刺さっている。


だがしかし、恐れることは何もない。
上条当麻は知っている。記憶が無くても、経験則で知っている。
こういうふざけたコスプレで現れる奴は、大抵俺の知り合いであるということを。
よって、この状況において俺が取るべき態度は一つ。

「よ、久しぶ」

またもや言い切る直前だった。


俺の首筋には鋸の刃があてがわれていた。
ほんの一瞬。瞬きするほどの間に、間合いを一気に詰められていたのだ。

「問一」

機械のような平坦な声で、彼女は言った。

「術者は貴方か」

術者?何だよ、術者って。何ワケ分かんないこと言ってんだよ?

「問一をもう一度。術者は貴方か」

二度言われたって分かんねえモンは分かんねえよ!ていうか、答えてほしかったら鋸を引けよ!この状態じゃ喋りたくても喋れねえだろうが!


鋸のせいで身動きが取れず、心の中でツッコミ続けている最中、

「ちょっと待ったあああっ!」

横から割り込むように声がかかった。
待ちに待った声だった。
美琴だ。美琴がやっと来てくれたのだ。
俺は視線だけを声のした方へ向けた。


うん?何だ、ありゃ?


美琴だけじゃない。他にも二人いる。
一人は長い黒髪の、女性にしては背の高い女。


そして、もう一人。


それが誰なのかを理解して、俺は呆けた声を出していた。

「はあ?」

つ、土御門?

「ふう。間に合って良かったにゃー」
「はあ?」

鋸を首筋にあてがわれたまま、俺は完全に固まってしまった。











[20924] 第6話 御使堕し編④
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/04 05:53

「魔術?」

私はそう繰り返した。

「魔術、ですか?」
「はい」

神裂さんの目は真剣そのもの。
冗談を言っているようには見えない。


それにしても、魔術と来たか。


目下、とある魔術が世界規模で進行中。
それは理屈も仕組みも、前例すらも定かではない魔術。
謎だらけのソレは起きた現象の特徴から『御使堕し(エンゼルフォール)』と名づけられた。
この魔術の影響で、みんなの“中身”と“外見”が入れ替わった。
つまり、この騒ぎは誰かが起こした人為的な事件というワケだ。
これだけでも充分、迷惑だっていうのに。なのに、どうもこの魔術、入れ替わりは副作用に過ぎないらしい。
じゃあ、本来はどういう効果があるんですかって訊いてみたら、

「天の位にいる天使を強制的に人の位に落とすのです」

と、真顔で答えられてしまった。

「えーっと……天使?」
「はい。厳密には天の使いではなく主の使いですが」

何か問題でも、とやっぱり真剣な表情で訊き返す神裂さん。
いやいや、大問題ですってば。
まあ、とりあえず魔術や魔術師の存在は信じるとしよう。
こんなふざけた現象、さすがに能力でも起こせそうにないし。
神裂さんの格好、確かに普通じゃないし。


整った顔立ち。サラサラの長い黒髪。
スタイルも抜群に良いし、肌も透き通るように白い。
完璧過ぎるくらいに完璧だ。
なのに彼女の服装が、その全てを台無しにしていた。


上は脇腹辺りで余分な布を縛った白い半袖Tシャツ。
下は片脚だけが太股の付け根まで見えるほど大胆に斬られたジーンズ。
足には西部劇に出てくるようなブーツ。
そして極めつけは腰に差した日本刀。
ざっと見ただけでも二メートルはありそうね、あれ。
長い黒髪のポニーテールと合わせて見ると、まるで和洋をゴッチャにしたサムライみたい。
そんなヘンテコな格好も、魔術師という単語一つで許容範囲になってしまうから不思議だ。


だけど、それでも天使はキツイ。
そこまで信じちゃったらもう、何でもありになっちゃうじゃない。
どうにも気持ちの整理がつかない、そんな時、

「て言うかさ、理屈なんてどうでもいいんじゃねえか?」

ばっさりと。

「とにかく不思議なことが起こってて、何とかしなきゃいけないってことだけ分かってりゃ充分だろ」

あまりにも簡単に人の悩みを切り捨ててくれる輩が約一名。

「アンタはそれでいいの?」
「だってしょうがないだろ」

相手は魔術なんだから、と当麻が言った。

「俺達の常識なんて通じねえよ」

まあ、確かにそうなんだろうけどさ。
モヤモヤした気持ちのまま、私は手元にあるクーラーボックスからコーラを取り出した。

「もらうわね」
「おう。飲め飲め」

よく冷えたコーラをぐびぐびと飲んだ。
自分で思っていたより、ずっと喉が渇いていたらしい。
あっと言う間に、小さなペットボトルの半分くらい飲んでしまった。


私と当麻、それに土御門さんと神裂さんは揃ってレジャーシートに座っていた。
静かだ。おじさん達のはしゃぐ声も、今は聞こえない。
沖の方に行ったのかな?

「落ち着いたか?」
「ん。大分」
「そっか。そりゃ何より」

言って、当麻もクーラーボックスに手を伸ばす。
取り出した缶コーヒーの蓋を開け、傾ける。
その一連の動作を、私はじっと見つめていた。

「何だよ」
「いや、やけに落ち着いてるなーって」

世界規模で不思議なことが起きてるっていうのに、当麻は相変わらず。
慌てたりとか、焦ったりとか全然してない。
そりゃあ、朝はコイツもめちゃくちゃ驚いてたよ。一体どうなってるんだーって。
でも魔術が原因だと分かった途端、妙に落ち着いちゃって。

「アンタよく今の話をすんなり受け入れられるわね」

私なんて、魔術なんて単語が出てきて余計に混乱してるっていうのに。

「そうかにゃー。自分のクローンが一万人も殺されたって話よりよっぽど現実味があると思うんだけどにゃー」

しばらく、土御門さんが何を言ったのか分からなかった。
理解した途端、叫びそうになった。


待って待って!ちょっと待って!


「土御門さん」

その恐ろしい事実に打ちのめされながら、私は言った。

「どこまで知ってるんです?」

土御門さんは笑った。

「ぶっちゃけ全部」

ニヤリ、と。悪戯を成功させた子供みたいな笑み。

「学園都市最強の超能力者、『一方通行(アクセラレータ)』を被験者とした絶対能力進化実験。これぐらい筒抜けぜよ」

君の力があれば筋ジストロフィーで苦しむ人達を救えるかもしれない、なんて言葉を信じて提供したDNAマップは、しかし全く別の目的に使われた。


『妹達(シスターズ)』。


私の軍用量産モデルとして作られた体細胞クローン。
前人未到の絶対能力を生み出す。それだけのために『一方通行』に殺され続けた、私の妹達。


今でも時々、考える。
あの日、あの時、あの場所で。
もしも当麻に会えなかったら、私はどうなっていたんだろう?
少なくとも、明るい未来はこれっぽっちも想像出来ない。

「どうして?」

あの実験を知っているのは、学園都市の人間でもごく一部だ。
あんなふざけたもの、公表なんて出来るワケがない。
闇だ。アレは学園都市が抱える闇そのもの。
それをどうして、一学生に過ぎない土御門さんが知っているんだろう。

「そんなの、オレが魔術師だからに決まってるぜよ」

あっさりと。あまりにもあっさりと、土御門さんは言った。
缶コーヒーを傾けていた当麻の手が、ピタリと止まった。
信じられないって目で、土御門さんを見つめている。

「何だそりゃ?お前が魔術師?」
「おうよ」

素直に肯く土御門さん。

「学園都市に魔術師はいないって思ってたか?むしろ逆だろ。科学ってのは魔術の敵だぜい。だったら敵地に潜り込んでる工作員の一人や二人、いたっておかしくないだろうに。オレの他にも何人か混ざってそうだし」

でも、と当麻は口籠る。
本人の口からそう言われても、実感が湧かないみたい。

「そ、そうだ。お前は学園都市でカリキュラムを受けてんじゃねーか。確か能力者に魔術は使えないんだろ?」
「そうだぜい。敵地に潜るためとはいえ、おかげで陰陽博士として最上位の土御門さんも今じゃ魔術は打ち止めさ。おまけにハンパに身につけた能力は使えないしにゃー」

もうさんざん、とさして残念でもなさそうに笑い飛ばしてみせる土御門さん。
お前、と力なく呟く当麻。
そんなやり取りを見ながら、頭のどこかで二人の言葉を考える。


工作員。簡単に言えばスパイってこと。
あまりにも現実離れした言葉。まるで映画の話でもしているみたい。
けれど学園都市ならそういうのもあり得るかなって思える。
あの都市の闇を一端でも目にしてしまった今なら、そう思えてしまう。


でも何よ。能力者は魔術を使えないって。
何でアンタがそんなこと知ってるのよ!?ねえ、何で!?

「ま、こっちのことは置いとくとして。今は入れ替わりの方をどうにかしようぜい」
「どうにか?出来るんですか?」
「おうよ。まだ『御使堕し』が完成してない今ならにゃー」

まだ完成してない?
そんなこと、何で断言出来るんだろう?
仕組みも分からないって、さっき言ってたはずなのに。


私の疑問に気づいたのか、土御門さんはニッと笑って。

「まだ全てが入れ替わったワケじゃないだろ」
「全て?」
「そ。例えば」

そう言って、土御門さんはハーフパンツのポケットに手を突っ込む。
再び手が出てきた時、そこには一台のケータイが。

「これ。写真の中でも入れ替わりは起きてたかにゃー?」

そこまで言われて、ようやく気づく。
確かに写真の中は正常だった。入れ替わりは起きてなかった。
でも、それじゃ何?『御使堕し』が完成したら、写真の中も入れ替わっちゃうの?
私達の思い出すら、この魔術は歪めてしまうの?


記憶も、記録も。
過去も、現在も、未来も。
何もかも、めちゃくちゃになってしまうの?

「……させない」

思わず口にしていた。
そうだ。そんなこと、絶対にさせるもんか。

「『御使堕し』を止める方法は二つ」

神裂さんが話を引き継ぐ。

「一つは術者を倒すこと。もう一つは儀式場を崩すこと」
「儀式場?」

また聞き馴染みのない単語が出てきた。

「ええ。『御使堕し』は世界規模の魔術。魔術師単体で行使するには荷が重過ぎます。よって、結界なり魔法陣なりを使った儀式場を築いている可能性が高いのです」

正直、理解出来ないことは多い。でも、やるべきことは分かった。
要は犯人を見つけ出せばいいのだ。このふざけた魔術を止めるために。入れ替わったみんなを元に戻すために。

「で、これからどうするんです?犯人を特定する手がかりとか、ないんですか?」
「あー、それにゃー」

のんびりとした口調で、土御門さんは続ける。

「異変を調べた結果、どうにも歪みの中心にいるのって」

そこまで言うと、土御門さんは人差し指をビシッと当麻に突きつけた。

「え?俺?」
「推察一。貴方は『御使堕し』を引き起こした張本人である」

今の今まで沈黙を貫いていた人物が、唐突に話に割って入った。
レジャーシートから一歩離れた位置。残暑も厳しい八月下旬の炎天下の中、平然と立っている金髪の女の子。
神裂さんの話によると、この子の名前はミーシャ=クロイツェフ。
はるばるロシアからやって来た魔術師らしい。らしいんだけど、でも、とりあえず訊いてみたい。


その格好は趣味なの?


ワンピース型の下着みたいなインナー。
その上に羽織っているのは外套一枚、ただそれだけ。
百人が見たら百人全員が変質者だって思うわよ、それ。

「おいおい、何でそうなるんだよ?」
「解答一。貴方に入れ替わりは発生していない」
「はい!?ちょっと待てよ。んなこと言ったら土御門だって同じじゃねーか!」

確かにそうだ。
土御門さんだって外見に変化はない。
当麻と何ら変わらない。そう思った。

「ところがどっこい。オレの場合、完璧に『御使堕し(エンゼルフォール)』から逃れられたワケではないんだにゃー」

でも、ちょっと違った。

「入れ替わった人達から見れば、オレはヒトツイハジメに見えるらしいぜい」

ヒトツイハジメ?
ああ、最近テレビによく出てるアイドルか。
確か、漢字の“一”を三つ並べて『一一一(ひとついはじめ)』。
本名だったらすごいわね。弄られること間違いなしだ。

「全く、『御使堕し』も優しくないぜよ。こっちはテメエで結界まで張ったってのに」

……あれ?今の台詞、おかしくない?

「……ん?」

当麻も気づいたみたいだ。

「お前、魔術使えないんじゃなかったっけ?」

能力者に魔術は使えない。
ついさっき、当麻はそう言った。
土御門さんだって、その事実を認めた。
なのに、土御門さんは魔術を使った?魔術を、使えた?

「ああ、だから見えない所はボロボロだぜい。もっかい魔術使ったら確実に死ぬわな」

土御門さんのアロハシャツの前が、風になぶられた。
ぶわりと広がったシャツの中。左の脇腹全体を覆い尽くすように、青黒い痣が広がっていた。
それはまるで、得体の知れないモノに身体を侵食されているように見えた。

「ちなみに、結界張るのに使ったのがコレ」

そう言って、土御門さんが手を差し出してきた。
土御門さんが手を引っ込めると、当麻の掌にフィルムケースが一つ現れた。中には小さな折り鶴が入っている。

「ただの折り鶴、じゃねえのか?」
「モチのロンだにゃー。よーく見てみな。中身取り出してもらっても構わんぜい」

じゃあ遠慮なく、と蓋を開ける当麻。
ケースを傾け、折り鶴を右手で受け止めようとした。
でも、掌の中で、それは音もなく崩れ去った。

「どうだ」

唇の端を小さく上げる土御門さん。

「これで満足だろ?」

土御門さんの言葉に、ミーシャは小さく肯いた。

「正答。イギリス清教の見解と今の実験結果には符合するものがある。この解を容疑撤回の証明手段として認める」

そうか。あの折り鶴は当麻の能力をミーシャに見せるための道具だったんだ。
当麻の右手に宿る能力。あらゆる異常を触れるだけで打ち消してしまう、ある意味最強の能力を。

「少年、誤った解のために刃を向けたことをここに謝罪する」

いや、謝るんなら当麻の目を見なさいよ。
実はちっとも反省なんかしてないでしょ、アンタ。
でも、ま、いいか。当麻の身の潔白は証明されたんだし。
これで心置きなく犯人探しが出来るってワケだ。
よし、ここらで少し状況を整理してみよう。


『御使堕し』という世界規模の魔術が、当麻を中心に展開されている。
この魔術の影響下では一部の例外を除き、あらゆる人間の中身と外見が入れ替わる。ただし、術者本人に効果が及ぶことはない。


つまり、だ。当麻の近くにいて、尚且つ入れ替わってない人物が怪しいと……って、あれ?
当てはまる人物に、めちゃくちゃ心当たりがあるんですけど。

「問二。では」

ジロリと眼球だけを動かして、ミーシャが私を見た。

「貴女が術者か」

やっぱ矛先、こっちに来たああああっ!

「違う違う!私、魔術のマの字も知らないし!」

首をブンブン振って否定する。
ここで黙っていたらマズイ。冤罪を押しつけられてしまう。

「問三。それを証明する手段はあるか」

始めから予期していたかのように重ねられる質問。
その場凌ぎの嘘で難を逃れようとしている。そういう風に思っているんだろう。
にしても、困った。証明する手段?そんなの、あるワケないじゃない。
私自身、何で助かったのか分かってないのに。
電磁場で魔術を打ち消すなんて、さすがに出来ないだろうし。

「昨夜のことを正確に思い出してみて下さい」

思わぬ所から助け舟が出た。
神裂さんが私のことをじっと見ていた。
ひどく真っ直ぐな眼差しだった。

「『御使堕し』が発動したのは昨日深夜。その時、貴女は何をしていましたか?」

昨日の夜。そう言われて、不意に思い出してしまった。
当麻と同じ部屋で過ごした、あの夜を。
ヤバイ、顔が熱くなってきた。


当麻の大きな手。温かい手。
握った時の感触。逞しさ。
いつでも呼んでやるよ、という声。


「美琴、顔が赤いぞ。暑いのか?」
「あ、いや、別に暑くは……い、いや、そうかな……暑いかな」
「もう一本飲むか?」
「そ、そうしよっかな……は、ははは……」

慌てて立ち上がり、そして、

「あ」

唐突に気づいた。

「私、ずっと当麻と手を繋いでた」

単純な話だった。
私はまたもや当麻に助けられていたのだ。
当麻の右手にずっと触れていたから、『御使堕し』の影響を受けなかったんだ。

「ほほう」

不吉な声が聞こえた。

「なるほどなるほど」

土御門さんだった。
笑っている。ニヤニヤと、楽しそうに笑っている。

「なあなあヒメっちー」
「な、何ですか」

ニヤニヤ笑いを微塵も隠そうとせず、土御門さんは一言。

「夕べは二人、お盛んだったワケですかにゃー?」
「んなワケあるかああああっ!」

静かな砂浜に、私の声はよく響いた。











[20924] 第7話 御使堕し編⑤
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/12 02:13
時間って残酷だ。待ってほしい時に限って、ひどく早く流れていく。
こうして立ち止まっている間にも、『御使堕し(エンゼルフォール)』は完成に近づいているかもしれない。
ひょっとしたら、もう後戻り出来ない所まで来ているかもしれない。
なのに何も分からない。真犯人はおろか、手がかりの一つすら掴めていない。


ポケットからケータイを取り出し、時間を確認する。
午後八時。ちょっと遅めの夕食を求めて、海の家『わだつみ』の宿泊客が全員、居間に集まっていた。
客、と言っても私を除けば上条一家しかいないんだけど。メンツのほとんどは中身と外見の入れ替わった、ヘンテコメンバーだけど。
このヘンテコなメンツに、神裂さんは当麻の友達としてごく自然にテーブルに就いていた。
騒ぎの中心にいる以上、術者が当麻に接触を図る可能性は捨てきれない。だったら身辺警護も兼ねて、私達の側にいた方が良いと判断したらしい。


はあ、と溜め息。
まただ。また守られてる。
どんなに格好をつけても、今の私は役立たずの子供に過ぎない。
超能力者は何でも出来るなんて、とんでもない間違いだ。

「はあ……」

溜め息ばかりが洩れる。
自分がこんなに無力だなんて、考えもしなかった。
そりゃあ、強いだなんて思ったことはないよ。一度もない。
私、元々は単なる低能力者だったんだから。
超能力と呼ばれる力を掴んだあとだって、色んな人に助けられてきたんだから。
私はちっとも強くない。そんなこと、分かりたくないくらい、分かってる。
でも何も出来ない自分を突きつけられるっていうのは……楽しくない。ああ、ちっとも楽しくない。

「はあ……」

それにしても、空気が重い。
とっとと晩ご飯を食べたいんだけど、何故か店員さんの姿が見当たらない。
テレビを点けても、火野神作とかいう死刑囚が脱獄したまま発見されないという陰鬱なニュースが流されるだけなので、話題作りにもならない。
こんな時、土御門さんがいてくれたら良くも悪くも場を盛り上げてくれるのに。
でも、この場に土御門さんはいない。世間的には、とある人気アイドルに見えてしまうからだ。
同じような理由からだろうか、ミーシャの姿もここにはない。


ふと、思った。入れ替わった人達には、神裂さんやミーシャの姿はどう映っているんだろう?


と、当麻のお母さんと入れ替わっているインデックスが神裂さんに訊ねた。

「あらあら、それにしても見事なまでに真っ青ね」
「え?」
「大丈夫?髪の毛傷まない?」
「あ、いや、はい。お気遣いなく」

曖昧なことを言って、ぺこぺこと頭を下げる神裂さん。どうにも妙な雰囲気だった。


神裂さん、どうしたんだろう?
どうしてインデックスと視線を合わせないんだろう?
あと、何で訂正しないんだろう?
真っ青な髪、なんて。どこをどう間違えれば、あの綺麗な黒髪が青く見えるんだろう?

「あらあら、物腰も丁寧で。大柄でがっしりした人だから、おばさん最初はもっと違うイメージを抱いていたのだけど」

大柄で、がっしり?
神裂さんってモデルみたいに背が高いけど、でも“がっしり”って?
疑問に思っていると、今度は当麻の従妹役をしている黒子が、

「けど、その言葉遣いはちょっとね。それじゃ女言葉っぽいよ。そんな良いガタイしてるなら、少しずつでも男言葉に直していかないと。仕草もちょっとだけ女っぽいよ?」

あ、そうか。入れ替わった人達には、神裂さんは男に見えるんだ。
それも、大柄でがっしりした、青髪の大男に。
なるほどねー、なんて一人で納得している場合じゃない。
チラリと隣を見る。神裂さんの肩が震えている。

「ちょっとだけって」

とか呟きながら、身体のあちこちを震わせている。
ヤバイ、話を逸らさなきゃ。でも、それより先に当麻のお父さんが、

「こらこら、やめないか二人とも。言葉なんてものはニュアンスさえ伝わればそれでいいんだ。おそらく彼は身内に女性しかいない環境で育ったからこうなっただけだろう。見た目がどうだろうがそんなものは関係ない」

険しい顔になる神裂さん。このままじゃマズイ。

「神裂さん!」

立ち上がって、私は言った。

「行きましょう!」
「は?行くってどこへ?」
「いいから、ほら!」

私は神裂さんの手を取って歩き出した。

「し、しかし食事がまだ」
「いいから!」

強引な私に、神裂さんは少し戸惑っているみたいだった。
さっきまでの迫力は微塵もない。慌てふためくその姿を、可愛いなんて思ってしまったくらい。


それにしてもホント、どこに行こう?
連れ出すことしか頭になかったから、行き先なんて決めてないんだよね。
せっかくだし、神裂さんとゆっくり話でもしてみたいところだけど。さてさて、どうしたものか。












手を掴まれ、引っ張られる。
御坂美琴がどんどん歩いていくので、コケそうになる。

「ちょっ、痛いですって!何するんです!?」
「いいから!」
「分かりました!分かりましたからせめて手を!手を離して下さい!」
「いいから!」

ぎゃあぎゃあ喚いている間に、店の奥に着いていた。
そこには曇りガラスの引き戸があった。入浴室だった。
そう言えば、トラブル続きでロクに湯浴みもしていませんでしたね。

「付き合って下さい」

言って、彼女はTシャツを脱いだ。

「ほら、神裂さんも」
「何で私も風呂に入らなければいけないのですか」
「ノリですよ、ノリ」

あはは、と笑って、彼女はさっさと脱衣所から風呂場へと入っていった。


ううむ、一体何を考えているんでしょう。
理解に苦しみます。土御門以上に意味不明です。
さっさと居間に戻ろうかとも思ったが、どういうワケかそんな気にもなれなかった。
まあ、いいでしょう。風呂に罪はありません。
それに、なんだかすっきりしない気分ですし。こんな時は風呂もいいかもしれません。


私は服を脱ぎ、風呂場に入った。
ムッと湯気が押し寄せてくる。
御坂美琴はすでに湯船に肩まで浸かっていた。
お湯で身体を流し、私もまた湯船に身を沈める。

「熱いですね、この風呂」
「そうですね」
「私はもうちょい温い方が好きなんですけど」
「私は熱い方が好みなので、丁度いいですね」

何て下らないことを話しているんだろう、私達は。
そう思ったのが顔に出てしまったのだろうか、彼女が黙ってしまった。私ももちろん黙っていた。
湯気がもうもうと湯船から上がっている。斜め前に顔だけ浮かべた御坂美琴がいた。沈黙は一分ほど続いた。

「この間、インデックスにご飯を作ってあげたんですけど」

話しかけてきたのは、彼女の方だった。

「あの子に?」
「ええ、壮絶でしたよ。あの子の胃袋、底無しで」
「ないですよ、底なんて。それに物凄く丈夫です。前なんて消費期限が軽く一ヶ月は過ぎてしまったショートケーキを一ホール、平然と食べていたことがありまして」
「平気だったんですか、インデックス」
「本人曰く、ちょっと酸っぱかったそうです」
「鉄の胃袋ですね」
「ええ、正に鉄です」

私達は声を揃えて笑った。
あの子のことなら、いくらでも話すことが出来た。
おっちょこちょいなところとか、意外と優しいこととか、だけど怒らせると怖いこととか。
この世にもっと、あの子みたいな人間がいればいいのにと思った。
だったら私だって、いくらでもこうして笑いながら話せるかもしれない。

「ところで、どうして目を合わせなかったんですか」
「え?」
「インデックスと」
「いえ、大したことではないんです」

彼女から視線を逸らし、顔を上げる。
視線の先には何もいない。ただ湯気が舞っているだけ。
だけど、私は確かに見ていた。あの子の笑顔を。穢れを何一つとして知らない、無邪気な微笑みを。

「本当に、大したことではないんです」

御坂美琴に答えるというより、むしろ自分自身に言い聞かせる声。


彼女は顔を洗い、言った。

「そうですか」
「ええ」

再び沈黙。
少しのぼせてきた。
ふう、という息が洩れた。

「ただ、償ってみたいんです」
「償う?」
「ええ」

私と関わったせいで、その人生を狂わされてしまった全ての人に。

「人はその人生において何度も過ちを犯し、大切なものを失う」

例えば、慕ってくれた仲間の命。
例えば、その小さな身体に重過ぎる宿命を背負った少女の記憶。

「そのいくつかは取り戻せますが、やはり取り返せないものも多くある」

私が未熟なために。そう、全ては私のせいで。

「私はそうした過ちをただ精一杯、償ってみたいんです」

いつもの私なら、こんなことを人に打ち明けたりなんてしないだろう。
だけど今は、風呂の湯気のせいか、他の何かのせいか。
あるいは、出会って間もない彼女にさえもすがりたいくらいヘコんでいるのか。
よく分からないけど、すらすらと言葉が出てきた。

「……ごめんなさい」

しばらくして、彼女は言った。

「貴女が謝ることではありません」
「そうですけど、でも、ごめんなさい」

辛そうに、本当に辛そうに言った。

「思い出させてしまってごめんなさい」


ああ、彼女はいい子だ。


今の私相手では、慰めの言葉さえ嘘になってしまう。
人の同情は嫌いだ。でも、人の同情をつっぱねる自分はもっと嫌いだ。
彼女は私に、そんなイヤな気分をさせたくないのだ。


私達はそれからあまり喋らず、さっさと髪と身体を洗って、風呂を出た。
廊下に出た時には、二人ともほかほかと湯気を立てていた。

「神裂さん」
「何ですか」
「失ったら、ホントに取り返せないんでしょうか?」
「え?」
「どんな過ちも、きっと何かの形で取り返せる。私はそう信じています。だって」

彼女がこちらを向く。私を正面から見据える。そして、

「そうじゃなきゃ、悲し過ぎますから」

笑った。とびっきりの笑顔だった。

「……そうですね」

気がつくと、私も笑っていた。

「そうかもしれません」

呼吸するみたいに、あまりにも自然に、笑っていた。











[20924] 第8話 御使堕し編⑥
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/12 02:16
「ふあああああ~」

長い長い欠伸が洩れる。
私は今、海の家の二階にあるベランダに立っていた。
火照った身体に、風が心地良い。
うだるような昼間の暑さも、今はない。ひっそりと静まり返った夜。
見上げると、そこには半分の月があった。ひどく明るく輝いている。
星も輝いている。深く重い闇を湛えた空に、たくさんの星が誇らしげに輝いている。
綺麗だ。学園都市の夜空とは全然違う。
出来れば当麻と一緒に、二人っきりで見たかったなあ。
でも残念ながら、ここにいるのは私だけ。

『たまには男同士の友情も深めないとにゃー』

なんて自称スパイの一方的な意見の元に、当麻はどこかに連れ去られてしまったのだ。


むう、と唸る。
あの人、ホントに何なんだろう。
私達の仲を応援してくれてるのか、それとも面白がってるのか。
両方、かな。きっとそうだ。
神裂さんの姿も見当たらない。
ミーシャと一緒に、真犯人の捜索でもしているのかもしれない。


それにしても、だ。
これからどう動いたらいいんだろう。
神裂さんが言うには、天使の力は一瞬で世界を焼き尽くすほどの代物らしい。
でも、それはやっぱり魔術であって。魔術師でない人間には、使い道が分からないワケであって。
うーん、いくら当麻を中心にして歪みが起きてるって言われてもなあ。
今いるメンツの中で容疑者として浮かび上がりそうな人って、誰もいないんじゃないかな。
みんながみんな、入れ替わってるワケだし。


――後になって悔やむ。この時、この瞬間にソレを疑っていれば、あんなことにはならなかったかもしれないのに――


何か、私に出来ることってないのかな。
当麻には、全ての異常を打ち消す右手がある。
土御門さんに神裂さん、それとミーシャには魔術の心得がある。
でも、じゃあ、私は?
『御使堕し(エンゼルフォール)』を止めるために、私に出来ることって何だろう?


ああ、そう言えばアイツに確かめるの忘れてたな。
能力者に魔術は使えないなんて、どうして知ってるのかって。
勢いで学園都市の外までついてきちゃうくせに、たったそれだけのことが訊けないとか。どうなのよ、これ。
そんなことを考えながら、ぼんやりと夜空を眺めていると、


ブツン、と。


いきなり全ての電気が消えた。












まあ、こんなものか。
月明かりのせいで真っ暗闇というほどにはならなかった。
だが、これでいい。充分だ。
愛用のナイフを舐め、ニヤリと笑う。
この闇がある限り、私が負けることはない。
この視界では、あの少女は何も見えないだろう。
でも私は違う。暗闇での戦いは得意分野だ。
大丈夫、闇は……そしてエンゼル様は私の味方だ。


左手に持った木の板に目をやる。ニヘラ、と笑う。
ノートぐらいの大きさをした板には、文字がびっしりと刻まれている。
これこそが私の救世主。何でも知ってるエンゼル様からのメッセージ。
刻まれる文字に、私はいつでも従って生きてきた。
エンゼル様はいつでも正しい。エンゼル様の言うことを聞いていれば何も間違えない。
たまにやりたくないことを命令してくる時もあるけれど。
そのせいで二十八人も殺してしまったし。


土足のまま、建物の中に入る。
思った以上に単純な作りだった。
廊下の突き当たりにあった階段から、あっさりと。
そう、拍子抜けするほどあっさりと、少女がいるベランダの入口まで到達する。
別の部屋から女性の驚き喚く声が聞こえるが、関係ない。
奴らが平静を取り戻す前に、全て終わるのだから。


悪く思うなよ、と名も知らぬ少女の背中に心の中で呟く。
人を殺すなんて嫌なんだ。本当だ。でも、仕方ないんだ。エンゼル様がそう言うんだから。
生贄を捧げれば、今回も私を助けてくれるって。警察の目を逃れて、無事に仲間の元へ辿り着かせてくれるって。
私のせいではないんだ。ああでも、やっぱり可哀想だな。


だから、だからさ。


少女の背後に音もなく忍び寄る。停電騒ぎのおかげで楽勝だった。
少女はぼーっと夜空を見上げていた。下で見た時と全く同じ体勢のまま。
後ろから突き刺すには、実に都合の良い姿勢。


せめて何も見えないまま、何も分からないまま死んでくれ。


ナイフを頭上にまで振り上げ、落とす。
深々と、突き刺さる。すぐさま、ナイフを引き抜く。
勝敗は決しているというのに、それでも私は体勢を立て直そうとする。


なぜなら、

「往生際が悪いわね」

ナイフは少女をかすりもせず、板張りの床に突き刺さったのだから。

「な、何で……!?」

呪うように叫ぶ。
何で、何で分かったんだ?
どうしてナイフをかわせたんだ?
少女は瞬間移動をしたワケではない。
取り立てて派手な動きをしたのでもない。
身体を少し捻っただけ。たったそれだけの動作で、私の渾身の一撃を避けた。
それも、ずっと私に背を向けていたにも関わらず。


少女の右足が走る。
そう、勝敗は既に決していたのだ。

「ちぇいさあっ!」

自らの身体を回転させて勢いをつけた少女の蹴りが、無防備である私の腹部を直撃した。
情け容赦のない一撃に、私の意識は瞬く間に遠のいていった。












ふう、危ない危ない。
ただの停電じゃなさそうだったから、多少の用心はしていた。
けどまさか、襲われるなんて思ってもみなかった。
でも残念。私に奇襲は通用しない。
私の身体からは常に電磁波が出ている。
妙な動きがあったら反射波で察知できるから、死角とか関係ないのよね。


ナイフを握ったまま倒れ伏す黒い影を見下ろす。
あれだけモロに決まったのだ。一応手加減はしておいたけど、しばらくは動けないはず。


そう思った矢先、

「ぎビっ、ガあ!!」

獣のような声を上げて、黒い影がいきなり起き上がった。


その影は痩せぎすの中年男の姿をしていた。
一目で内臓がボロボロだと分かるような、不健康な肌。
汗と泥によって汚れたベージュの作業服。
そして、血走ったような、泥の腐ったような、狂ったような眼球。
とてもじゃないけど、人間の目とは思えない。


何だろう、気持ち悪い。
不思議な居心地の悪さを感じる。
中年男は鉄の爪のような三日月ナイフを構え、でも襲いかかってこない。
ふらり、ふらりと。上半身を揺らしながら、何かをブツブツと呟いている。

「エンゼルさま、えんぜるサマ……」

作業服の胸の辺りで、何かがキラキラと光っている。
月明かりを受けて輝くそれは、名札だった。

「エンゼル様、エンゼル様、エンゼル様!」

糸で縫い止められたプラスチックの名札。
そこには無機質な文字で、こう書いてあった。


囚人番号七―〇六八七


「エンゼル様、どうなってんですか。エンゼル様、貴方に従ってりゃあ間違いはないはずなのに!どうなってんだよエンゼル様、アンタを信じて二十八人も捧げたのに!」

壊れてたように、狂ったように、終わったように、絶叫を続ける囚人服の男。


あれ、コイツ……


今朝から飽きもせずに流れ続けていたニュースの内容を思い出す。
刑務所を脱獄した死刑囚、火野神作。二十八もの命を無差別に刈り取った殺人鬼。
そのあまりに衝撃的な殺人を犯したが故に、捕まったあとも凶悪な事件が起きるたびに名前や顔写真が公開されるほど。


そう、私は火野神作の顔を知っている。
そして目の前で絶叫する男は間違いなく、私の知っている火野神作だ。
だからこそ、おかしい。どうして火野は入れ替わってないの?
『御使堕し』のせいで、誰もが入れ替わってなきゃおかしいのに。
火野がさっきから口にしているエンゼル様って何?
『御使堕し』って、何を手に入れるための術式だったっけ。


コイツ、まさか……


とある解答が頭の中で弾き出されそうになる寸前、

「答えろよエンゼル様!どうすればいい、このあとどうすればいい!?エンゼル様、責任取って今度こそきちんと答えやがれええええええっ!」

思わず目を背けそうになった。
火野が自分の胸にナイフを突き立てたのだ。
ガリガリと。ナイフの切っ先が乱暴に動かされる。
めちゃくちゃに振るわれたナイフは作業服を引き裂き、汗にまみれたシャツを切り裂き。
火野の身体は、あっと言う間に血に染まっていく。


その奇行に、感じ始める。
ああ、まただ。あの不思議な居心地の悪さをまた、感じる。
これは?この感情は、何?


火野の身体は血まみれの傷だらけ。なのに、火野は笑っている。
ニヤニヤと。自身で作った無数の傷を見て、壮絶な笑みを浮かべている。
ここに来て、私はようやく今まで抱いていた居心地の悪さの正体が分かった。


これは、恐怖。


もちろん、これまでだって恐怖を感じてなかったワケじゃない。
ただ、それがあまりにも異質だったから。
『一方通行(アクセラレータ)』を前にした時に感じたソレとは形が違っていたから、上手く把握できなかっただけ。


火野は一歩下がると、革布を取り出して血に塗れた刃を拭き始めた。

「え?」

予想だにしていなかった行動に、私は息を呑んだ。
その隙をついて、火野はナイフをこちらに向かって投げつけた。
恐怖を理解した私は、反応が遅れてしまった。
それでも眼前に迫り来るナイフを、とっさに首を振って回避する。
ナイフは私の頬を浅く切り裂いた。ただ、それだけ。なのに。


あ、あれ?


おかしい。頭がクラクラする。
物凄い疲労感が身体の奥底の方から湧き上がってきた。


しまった。これ……毒、だ。


火野は革布で血を拭ってたんじゃない。
ナイフの刃に毒を塗ってたんだ。


膝が崩れるのを感じた。
視界がぼやける。
火野が笑う。
その声がだんだん遠くなっていく。
私に分かったのはそこまでだった。


ぷっつりと、意識が切れた。











[20924] 第9話 御使堕し編⑦
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2013/10/20 21:03
身体がだるい。頭が熱い。
そりゃもう、ひどいもんだった。
起きているのか眠っているのかも分からない。
いや、眠ってるんだろうな。だって、目の前でママが笑ってるんだもん。
缶ビールを片手に、ゲラゲラと。全くもう、すっかり出来上がっちゃってるし。まあ、いつものことか。


妹達も出てきた。振り回されっぱなしだった。
黒子も出てきた。お小言を頂戴した。
それからも、色んな人達が現れては消えた。


全く、熱ってヤツはたまらない。
人の心の中に眠っている色んな思いやら記憶やらを勝手に引っ張り出してくるんだから。
そのうち何もかもが闇に包まれ、意識が遠ざかり、歪み、消え、生まれ……やがて、別の夢へと移り変わっていった。












当麻が、いた。
昨日、私達が一緒に泊まった部屋に。
布団で横になっている私のすぐ傍で、胡坐をかいている。


そう、そんな夢だ。


私は当麻の顔をじっと見つめた。
どうせ夢なんだから、見ておかなきゃ損だと思った。
何しろ当麻は人に顔をジロジロ見られるのが嫌いで、五秒も見つめていると必ず目を逸らしてしまう。
もっとゆっくり見せてくれてもいいのに。減るもんじゃあるまいし。ホント当麻はケチだ。
夢の中の当麻は、さすが夢だけあって、目を逸らしたりしなかった。同じように、じっと私を見つめていた。
辛い時、コイツの言葉で何度も癒された。コイツの優しさに助けてもらった。


当麻……


私は想った。
目の前にいる、大切な人のことを。
当麻の強さを。当麻の優しさを。
どうしてだろう。当麻のことが物凄く近くに感じられた。誰よりも、ずっと。


ねえ、当麻、と私は言った。

「ごめんね、一緒に海に行けなくて。せっかく水着も持ってきたのに……そうだ、この事件が解決したら、もっと遠くの海へ行かない?沖縄とかさ。すっごく透明な波が、ざぱーんざぱーんって打ち寄せてくるんだ。テレビでしか見たことないんだけど、ホントに綺麗なんだよ。当麻は行ったことある?」
「ねえよ」

当麻が答えた。
ああ、本当にリアルな夢だ。
こんなにちゃんと答えてくれるなんて。


調子に乗って、私は続けた。

「じゃあ、一緒に行こうよ。そうだ、沖縄じゃなくて、イギリスもいいかも。私のパパ、ロンドンに単身赴任してるんだ。結構広い部屋に住んでるって言ってたから、頼めば泊めてくれるかもしれないよ。だったらいいよねえ。宿泊代は浮かせられるし、久し振りに父さんに会えるし。時間が合えば、パパにあちこち案内してもらうことだって――」

急に息が苦しくなった。
胸の奥から空気が噴き出してきて、私は咳き込んだ。止まらない。
息が出来なくなり、私は身体をくの字に曲げた。と、当麻が背中を擦ってくれた。

「大丈夫か?」
「う、うん」

当麻がこんなに優しくしてくれるんなら、いつだって私は大丈夫だよ。
それにしても、何ていい夢なんだろう。
目覚めるのが怖くなってきた。


ようやく咳が治まると、当麻は私のおでこに手を置いた。

「熱いな」

そのまま、頭を撫でてくれた。
目覚めるのが怖くて、私は喋るのをやめ、当麻の顔をただ見つめていた。
当麻はひどく優しい顔をしていた。その目は少し潤み、唇の端に笑みが浮かんでいる。
そんな当麻の顔を見ているだけで、何故か泣きたくなってきた。

「なあ、美琴」

当麻の方から話しかけてきた。

「何か欲しいものあるか?」

ううん、と首を横に振る。

「何も要らない。傍にいて」

正直な気持ちを、何の臆面もなく伝えた。
恥ずかしがる必要なんてない。
だってこれは、夢なんだから。

「分かった」

当麻は肯いた。

「お前の気が済むまで、ずっといてやる」

ああ、なんていい夢なんだろう。
最高だ。こんな夢なら、いつだって見ていたいな。


だんだんと、意識が薄れていった。
いくら夢の中とはいえ、喋り過ぎて疲れたのかもしれない。
世界がうすぼけていく。当麻の顔がうすぼけていく。


ねえ、当麻……


もう声にならない声で話しかける。


アンタ、何で泣きそうな顔してるの?


「ゆっくり休め」

泣きそうな顔をした当麻が、やけに優しい声で言った。

「ごめん、美琴」

どうして?どうして謝るの?
当麻はなんにも悪くないのに。
私はこんなに、幸せなのに。


そう思いながら、私は目を閉じた。












『二人だけにしてくれないか』

その一言で部屋を追い出されてから、もうすぐ一時間。上条当麻はまだ出てこない。


私は手元にある木の板に目をやった。
御坂美琴が倒れていた部屋に落ちていたものだ。
ノートぐらいの大きさの薄い板の表面は、釘のようなものでボロボロに傷つけられている。傷のない部分がないぐらいだ。
どうもアルファベットが刻んであるようだが、何度も上書きされているせいで内容は読み取れない。


これは神託か自動書記の類でしょうか。となれば、御坂美琴を襲った人物は我々と同種ということになるのですが。


ふう、と息を吐く。
今回における一連の騒動は魔術師が起こしたもの。
よって、責任は同じ魔術師である我々が取らねばならない。
なのに、何故?どうして魔術師でもない彼女が傷つかねばならない?
あの優しい少女が狙われる理由がどこにあった?


木の板を睨みつけ、私は誓った。
『御使堕し(エンゼルフォール)』に関わっているかどうかなんて関係ない。
彼女を傷つけた責任、しっかりと取ってもらいますよ。


やがて、ドアが開いた。

「上条当麻」

出てきた人影に、私は駆け寄った。
ん、と上条当麻は言う。

「何だ、まだいたのか」
「え、ええ」

追い出されてから二時間、私はずっと待っていた。

「あの子は?」
「ああ、もう大丈夫だ」
「そうですか」

ほっとした。膝から力が抜けた。

「良かった」
「ほら、行こうぜ」
「あ、はい」

どんどん進む上条当麻のあとをついていく。
どういうワケか、彼は早足だった。

「なあ、神裂」
「何ですか」

一秒だけ、目が合った。

「あのさ」
「はい?」
「……何でもない」

おかしい。この少年がここまで素っ気ない態度を取るなんて。

「上条当麻」

思わず声が出ていた。

「何だよ」

一秒だけ、目が合った。

「えっと、その」
「うん?」
「……何でもないです」

言葉がこんなに使いづらいものだったなんて、初めて知った。
胸の中に渦巻く気持ちを、欠片だって表現できない。
それから私達はもう口を開くことなく、ただ廊下を歩いた。
言いたいことや訊ねたいことはたくさんあるはずなのに、結局どれも言葉にならなかった。


玄関の前で、上条当麻は立ち止まった。

「ちょっと風に当たってくる」

靴を履き、海の家から出ていってしまった。


やっぱりおかしい。
どうして彼は、あんなにも冷めているのだろう?
現場にいち早く駆けつけたのは、確かに彼だ。
あの子の容体に気づき、適切な処置を施したのだって彼だ。
しかし先刻からの、あの態度はどういうつもりなのだ。


あの子をあんな目に遭わせた人物に対して、貴方は何の感情も抱かないのですか?
あの子は……御坂美琴は貴方にとって、その程度の存在でしかないのですか?


「どうして……」
「そんなに落ち着いているのですかって?」

突然の声。振り向くと、そこに土御門が立っていた。
ハーフパンツのポケットに両手を突っ込み、壁にもたれかかっている。


ムッとして、私は言った。

「何か用ですか」
「いんや、別に」

ただ、と土御門は付け加える。
土御門は笑っていた。普段の彼らしからぬ、悲しそうな顔で。

「マジでそう見えるんなら、ねーちんの目は節穴だぜい」

そして土御門は歩き出すと、私の脇を抜けていった。












夜が更け、星が空を東から西へと動いていき、風が吹き始め……俺はずっと砂浜に座りこんで海を眺めていた。

「ちくしょう……」

守れなかった。
こんな近くにいたのに。
自らの愚かさに、頭の芯が熱くなった。


初めて出会ったのは、とある自販機の前だった。
二千円札を飲み込まれて途方に暮れていたところに、

『ちょろっと。ボケっと突っ立ってんじゃないわよ。買わないなら退く退く』

あの時は失敗したな。
で、何だコイツ、なんて返しちまって。
でも、しょうがないんだよな。
記憶を失った俺にとって、あの出会いこそが美琴との始まりだったんだから。


二つ年下で、お嬢様学校に通ってて、超能力者で、何故か俺をライバル視する女の子。
アイツはたった一人で全てを背負い込んでいた。
助けて、と叫びたいはずなのにずっと我慢していた。


どうしてかは分からない。ただ、助けよう、と思った。


今考えればバカな話だ。
学園都市最強の超能力者に無能力者が挑むなんて。
全てのベクトルを触れただけで操る『一方通行(アクセラレータ)』の前に、俺は成す術もなかった。
それでも俺は諦めなかった。どうしても諦めたくなかった。
泣きたくても泣けなかったアイツを救いたかった。


で、結局どうなったと思う?
なんと倒しちまったんだ。この俺が、あの『一方通行』を。
もちろん、その代償は大きかった。身体が全く動かせないほどの大怪我を負って、俺は入院生活を余儀なくされた。


そんな俺の前に、美琴は突然やって来て、

『ありがとう』

初めて、そう、初めて素直な感じで笑ってくれた。何よりそれが嬉しかった。


そして多分、この時からだったんだ。
この、自分の弱さを曝け出すことが出来ない女の子を、守りたいと。なのに、それなのに。
ちくしょう、どうして俺を襲わなかったんだ。不幸体質なのは美琴じゃなくて、この俺だろうが!


目が熱くなった。涙が溢れていた。
倒れている美琴を見つけた時、目の前が真っ白になった。
この世の全てが、終わってしまったような気がした。そして思い知らされた。
俺の一番は、アイツだってことを。俺はアイツが……御坂美琴が、好きなんだってことを。


たくさんの涙が、頬を流れ落ちていった。
拭うことさえも出来なかった。

「強くなりてえ」

誰にも聞こえないよう、思いっきり小さな声で俺は呟いた。


俺は強くなりたかった。誰よりも、何よりも。
美琴をどんな危機からでも守り抜けるくらい、強くなりたかった。











[20924] 第10話 御使堕し編⑧
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2013/10/20 21:04
ぱっ、と唐突に目が覚めた。
たっぷりと寝たせいか、眠りの余韻はほとんど残っていない。
むくり、と身体を起こしてみる。
すっかり慣れてしまった六畳一間の和室。
着ている服は昨夜のまま。右の頬には絆創膏。
どういう経緯か分からないけど、とりあえず助かったみたいだ。


壁に掛けられた時計の針は、五時頃を示している。
こんな時間でも、もう外は明るくなっている。
さすがは夏。太陽にも気合いが入っている。
でも起きるには、まだちょっと早いなあ。
どうしよう。もう一回寝ちゃおうかな。
そこで、ふと気づいた。

「……当麻?」

当麻がいない。
当麻の分の布団もない。
何だか、急に不安になった。
このまま布団に潜っている場合じゃない。


布団を勢いよく引き剥がし、部屋を出る。
一階に下りて、スニーカーを履き、海の家を後にする。海に向かって歩いていく。
夏とはいえ、早朝はさすがに涼しい。思わずくしゃみを一つ。
それから、ちょっとだけ悩む。さて、どこから探したものか。
しかし、その悩みは僅か数秒で解決することになる。
波打ち際。寄せては引く波の前で、探し人は砂浜に胡坐をかいていた。


夢の光景が、浮かんできた。

『お前の気が済むまで、ずっといてやる』

頭を撫でる、その手の温もり。

『ゆっくり休め』

急に顔が熱くなってきた。いくら夢とはいえ……というか、願望ってのが近いけど……とんでもない夢だった。


顔が更に熱くなる。
や、やめよう。引き返そう。
今当麻に会ったら、もっと熱が上がってしまう。
もうちょっと気持ちの整理がつくまで我慢。そう、我慢だ。
引き返そうとして身体の向きを変えた、その時だった。

「何してんだよ」

いきなり、そんな声が聞こえてきた。


ああ、後ろを振り向きたくない……


もちろん背中を向けたままでいられるワケもなく、私は慌てて振り向いていた。
むりやり笑みを浮かべて、言う。

「お、おはよう、当麻」

当麻がいた。もちろん。
立ち上がって、私を見ていた。

「そんな所でいつまで突っ立ってるんだよ」
「え?気づいてたの?」
「何かブツブツ言ってるのが聞こえたからな」

全く、と当麻が言った。

「めちゃくちゃ怪しかったぞ」


あれ?どうしたんだろう?


物凄い違和感があった。
いつもの当麻はこう、何ていうか、飄々とした感じなんだ。
なのに今、目の前にいる当麻は、妙に優しい顔つきをしていた。

「ご、ごめん」

戸惑ったまま、とりあえず謝る。
当麻は海の方を見た。

「ほら、こっち来いよ」
「う、うん」
「今朝は涼しいな」

とか言いながら、当麻は砂浜に腰を下ろした。
私はどうしていいか分からなくなってしまい、その場に立ち尽くした。


きょろきょろと、辺りを見回す。
誰もいない。正真正銘、二人っきり。

「どうした?」
「う、ううん、別に」

私は慌てて、当麻の隣に腰を下ろした。

「当麻って、こんなに早起きだったっけ」
「ああ、今日はちょっとな」
「ちょっと?」
「気分転換だよ、気分転換」

やけに素っ気なく言う。
それから、じっと見つめてきた。
私は思わず息を呑んでいた。

「美琴」
「な、何?」
「熱、下がったか?」

額を触られる。
ん、と声が洩れる。

「まだ少し熱いな」
「う、うん」
「気分は?」
「悪くないよ」
「そっか」

それからしばらくの間、二人とも無言だった。
ただ黙って、寄せては返す波を見ていた。


チラチラと横を見る。
私の視線に気づくと、当麻は笑いかけてくれた。
その笑顔を見た瞬間、頭の中でモヤモヤしてたものがすうっと消えていった。


いつまでも、当麻の隣にいたい。
守られるだけじゃなくて、私も当麻を守りたい。そう思った。
もちろん、私に出来ることなんて、たかが知れているかもしれない。
大きな失敗だって、してしまうかもしれない。
それでも、私は当麻の傍にいたかった。
当麻のために何かしてあげたかった。


ねえ、当麻。
私の一番は、当麻なんだよ。
世界よりも、自分よりも、大事なんだよ。


もちろん、そんな言葉を口に出したりなんかしない。
心の中で、呪文のように唱えるだけ。
そう、言わない方がいいのだ。
こういうことは、そっと胸の奥にしまっておけばいい。
大体、恥ずかしくて言えるワケがないし。

「大丈夫。心配するな」

当麻がいきなりそう言ったので、私はびっくりした。
もしかして、私、思ってることをそのままベラベラ喋ってた?
焦っていると、当麻が続けて言った。

「この辺にはもう、お前を襲った奴はいないってさ」
「あ、うん……」

ほっとした。
良かった、そっちの話か。
いや、待って。それはそれで良くないような。

「とりあえず今日はゆっくりしとけ。『御使堕し(エンゼルフォール)』は俺達で何とかするから。それに」

当麻が私の顔を見て、すごく恥ずかしそうに目を逸らした。

「一応傷口から毒は吸い出しておいたけど、それでもまだ万全ってワケじゃないだろ?」

傷口から毒を吸い出す。
その言葉を受けて、だんだんと顔が熱くなってきた。
だって、傷は頬につけられたワケで。
吸い出したってことは、つまり、私の頬に当麻の唇が触れ、触れ……!?


何も喋れなくなる。
何も考えられなくなる。
そんな私に、当麻は更に続ける。

「ったく、ホント焦ったんだぞ。毒を吸い出したあとも、しばらく熱でうなされてたし。お前に何かあったらイギリスにいる親父さんになんて言えばいいんだよ」

え?え?
何でパパのこと、知ってるの?
パパがイギリスにいるって、私、当麻に話したっけ?
熱を出している時?ってことは……
顔どころか、身体中が熱くなった。
あの夢は……夢だと思っていたものは、夢じゃなかったの?


額に置かれた、当麻の手の温もりが蘇ってくる。
あまりにもそれは優しくて、心地良くて。
あれは夢じゃなかったの?
いやいや、そんなバカな。
あれは夢だ。幻想だったんだ。


それにしても、熱い。
まあ、まだ少し熱が残ってるし、当然だ。
他の理由なんてない。絶対、ない。












「むう……」

目を細めて、神裂さんが唸っている。


火野神作は他の誰とも入れ替わっていない。
その事実を伝えてから、ずっとこんな調子だった。
ちなみに現在の時刻は午後十二時。お昼ジャスト。
上条家の一族は当麻を除き、例によって砂浜に飛び出していたりする。
海の家の二階。私と当麻が一緒に使っている客室。
世界の異変に気づいている五人が丸テーブルを囲むように、そこにいた。


本当は目を覚ましてすぐ、火野のことを神裂さん達に教えたかった。
だけど魔術師三人組は朝から『御使堕し』の術者の捜索をしていたらしくて。
結局、お昼まで時間が延び延びになってしまったのだった。


私は神裂さんの言葉を待った。
当麻も、土御門さんも、ミーシャも待った。
しかし神裂さんは腕を組んで唸るばかり。

「どうしたんですか?」
「いえ、ちょっと状況把握を……」
「犯人は火野で決まりじゃないんですか?」

ちょっと意外だった。
入れ替わりが起きていない。
それだけじゃ、決定的な証拠にならないんだろうか。

「まあ、入れ替わっていない時点で火野は限りなくクロに近いのですが」
「ですが?」
「彼が犯人なら、どうして窮地において天使の力を使わなかったのでしょう?」

言われて、昨夜の襲撃を思い出す。
火野の行動の一つ一つは、別に人間に不可能なことではなかった。
能力も魔術も一切関係なし。
やろうと思えば誰にだって出来る内容ばかりだった。

「昨日は気配すらなかったしにゃー」

わざとらしく肩をすくめてみせる土御門さん。

「もっとも天使クラスの魔力なんざ、そのまま放置しておきゃ、それだけで土地が歪んじまう。何らかの方法を使って隠蔽してることは間違いないんだろうけど」
「隠蔽って……そんな簡単に出来るんですか?」

訊いてみると、土御門さんはサングラスのフレームをいじくり回しながら、

「出来るさ。じゃなきゃ人類の歴史なんてとっくに終わってるぜい」

む、と思わず黙り込んでしまう。

科学が著しく発達した学園都市の中でも、聖書を読む機会くらいある。
確か旧約だったかな?天使に関して、こんな記述があった。
自分の正体を隠して人の町へ赴き、民家に上がって人と共に食事をしたって。
河で溺れた子供を助けた大天使の話もあった。


そして同時に記されていたものを、私は今でもよく覚えている。
学園都市のあらゆる最先端技術を用いても成し得ない奇跡の数々。
好きな時、好きな場所で、想い望んだだけで、この世界を壊せるほどの力。

「いいかヒメっち、力のある奴には責任がある。自分の力を完璧に制御するっていう責任が」

無言のまま、肯く。
確かにそうだと思う。
あっと、勘違いしないでね。
別に天使の存在を認めたワケじゃない。
天国とか地獄とか、やっぱり実感湧かないし。
でも、今の話は天使に限ったことじゃない。


聖書が後世に語り継ごうとしたもの。
それは魔術に関わる人達に限った話じゃ、決してない。
私達、能力者だって同じ。
力があれば偉いの?何をしても許されるの?
違う。そんなこと、あっていいはずがない。

「ところでヒメっち」
「何です?」

顔を上げて、びっくりする。
すぐ目の前に土御門さんの顔がある。

「ヒメっちは当然、大丈夫だよにゃー?」

至近距離で土御門さんが訊ねてくる。
ちょっ、近い。むちゃくちゃ近いですって。

「な、何がです?」
「能力。ちゃんと制御出来てるかにゃん?」

見下すような視線を投げかける土御門さん。
まあ、実際に見下してるんだけどね。
土御門さんの方が私よりずっと背が高いから。

「ちょびっとキレたくらいで能力使ったりしてないかにゃー?」
「え……」

マズイ。身に覚えがある。あり過ぎる。

「お子様呼ばわりされて電撃ぶっ放したりー」
「それは……」
「シカト続ける誰かさんの前で、電流帯びた拳をATMに叩きつけたりー」
「えっと……」
「雷落として街中の電気機器をお釈迦になんてしてませんかにゃー?」

何で?何でそこまで知ってるの?

「どうなのかにゃー?」

ジリジリと迫る土御門さん。
まるでキスする寸前みたいな感じだ。
そんな土御門さんの肩を、がっしり掴む人がいた。

「それぐらいにしとけよ」

ひどく低い声で、当麻は言った。

「へいへい。そろそろ本題に戻るとしますか」

言うなり、えらくあっさりと引き下がる土御門さん。


でも、私は見てしまった。
土御門さん、当麻の手を退かした時、ふふんって笑ってた。
確かにふふんって笑った。絶対笑った。

「とにもかくにも、まずは情報収集かなーっと。うりゃ」

と、土御門さんは客室の隅っこに置いてある古臭いテレビのスイッチを入れる。
意外なものでも映ったのか、


うん?


という顔を、土御門さんはした。

「どうかしましたか?」

神裂さんの問いには答えず、土御門さんは無言のままテレビのボリュームを上げた。

『――の続報が入りました。火野は神奈川県内の民家に逃げ込み、その周りを駆けつけた機動隊が包囲しているとのことですーっ!現場の……あ、繋がってる?現場の釘宮さーん』

瞬間、この場にいる全員がテレビに釘付けになった。


どこにでもあるような平凡な住宅街。
二階建ての建売住宅が並ぶ閑静な街は今、混乱の極みにあった。
野次馬。それを押し止める警察官。今から戦争でも始めようとしているかのような装備に身を包む機動隊。
画面を覆い尽くさんばかりの人、人、人。
警官や機動隊がおじいちゃんや幼稚園児に入れ替わっているのも含めて、節々に不安が募ってくる。
マイクを握っているのは、赤いランドセルを背負ったツインテールの女の子。
日の光を受けて、金色の髪が輝いている。

『えー、御覧のように我々報道を含めた民間人は火野神作が立てこもっているとされる民家の六百メートル手前で封鎖されています。周りにいる人々は避難勧告を受けた住民達のようです。関係者筋の情報によりますと、火野神作は民家の中に逃げ込み、カーテンや雨戸を閉めて中の様子を分からなくした上で立てこもっているとのことです』

チッ、と舌打ちの音。
土御門さんだった。目に見えてイラついている。
この人がこういった感情を表に出すところなんて、初めて見た。

『民家の中の様子は分かりません。人質の有無や火野神作の持つ凶器の種類なども判断できないことから、機動隊は強行突入を避けているようです……っと、あれは何でしょう?一台の乗用車が立ち入り禁止区域の中へと入っていきます。警察の交渉人か何かでしょうか――』

画面が切り替わる。
ヘリコプターを使った上空からの映像が映し出される。
赤い屋根の家にピントが合わせられる。
どうやらあそこが問題になっている立てこもり現場らしい。


しっかし、報道陣も何考えてんだか。
火野だってテレビを見てるかもしれないのに。
上空からの映像なんて流したら、機動隊員の配置を教えることになっちゃうじゃない。
今はズームにしてるから、まだいいけどさ。

「さてはて、困ったことになったぜい」

全く緊張感のない口調で、土御門さんは言った。
完全にいつもの調子に戻っている。ついさっき見せた、怒りの表情がまるで嘘みたい。

「『御使堕し』の実行犯かもしれない火野が警察の手に渡ると、我々としては困ったちゃんになっちゃうぜよ。出来れば警察に介入される前に火野を回収しちまいたい所だけど、どうしたもんかにゃー」

土御門、という声が部屋中に響いたのは、その時だった。


声の主は神裂さんだった。
目が吊り上がっていた。口は右端が歪んでいた。物凄い形相だった。

「今の台詞、仮に人質がいた場合どういう結果を招くか分かって言っているのですか!?」

土御門さんを睨みつける神裂さん。恐ろしい目だ。

「うにゃーん。それじゃ火野を回収するにしても人質を救出するにしても、とにもかくにも現場に行ってみないと」

それでも、土御門さんは何事もなかったかのように受け流した。
この人、ひょっとしたらとんでもない大物なのかも。

「それで、現場ってどこなんだか。神奈川県内、だけじゃあ結構広いぜよ」

と、この状況下で、もう一人の大物が片手を挙げてみせる。

「あのー」
「何ですか」

神裂さんの声は静かに怒り狂っていた。

「我々に同行したいという要望なら却下します」
「そうじゃなくて。さっきの映像で気になる点が一個あったんだけど」
「何か?」
「いや、でも。けど、あの。うん、見間違いかもしれねーし」
「即刻言いなさい」
「うーん。ウチの母さんの趣味がパラグライダーらしくてさ」

はい?パラグライダー?

「あーパラグライダーにも色々あって原動機付きだっけか?良く分かんねーけど、パラシュートのついたブランコみたいなのに腰かけて、でっかいプロペラ背負って空飛ぶヤツだよ、確か」

ふーん、そうなんだ。で、それって今必要な知識なの?

「で、俺が入院してた時にどこがいいのか全然分かんねー近所の上空写真を山盛りで送ってきたことがあるんだけどな」
「上空写真?それが」

どうしたのですか、と言いかけた神裂さんの口が止まった。
私もやっと、当麻の言いたいことが分かった。


ああ、と当麻は一度だけ肯いて、

「なーんかあの赤い屋根って見覚えある気がするんだよなー。ウチの上空写真で」











[20924] 第11話 御使堕し編⑨
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/26 22:00
「お待たせー」

後ろから声がした。
振り向く。当麻がそこに立っていた。

「随分長いトイレだったわね」

作戦会議が終わってすぐ、当麻はトイレに直行していた。
よっぽど我慢していたんだろう。ちょっとトイレ、とやけに早口で言って、慌てて部屋を出ていったのだ。
当麻の実家がどこにあるのか。それを知ってるのは、この中では当麻だけ。
よって残された私達は真っ昼間の太陽の下、待機を余儀なくされていたワケである。

「それで、貴方の実家というのはどこにあるのですか」
「ん、車での二十分くらいのとこ。タクシーでも呼んで向かった方が無難じゃねえかな」

ええ、と上がる不満の声。
発生源は私でも、神裂さんでも、もちろんミーシャでもなく、

「じゃ、タクシーやって来るまでどっか隠れてますかにゃー」

言うや否や、鮮やかな身のこなしで海の家から離れていく土御門さん。
まるで忍者だ。スパイっていう話も、あの動きなら肯ける。

「ったく。魔術師相手でもあんななのか、アイツ」
「ええ。アレはああいう生き物です。相手が誰だろうと関係ありません」
「ふーん」

つまらなそうに唸ると、当麻はズボンのポケットから板ガムを取り出した。そして、

「食う?」

と言って、それを差し出してきた。

「え、いいの?」
「ああ。俺は目覚まし用に一枚あれば充分だからな」

というワケで、私達はガムに手を伸ばした。
じゃあ遠慮なく、と私が一枚。
ありがとうございます、と神裂さんが一枚。
で、ミーシャはと言うと、板ガムの端っこを指で摘まんで取っている。
当麻の指に触らないよう、細心の注意を払っている。


何てことはない光景。
そう、そのはずなのに、何だろう。
妙に引っかかるものを感じる。


すっきりしない気分のまま、銀紙を外し、板ガムを口の中に放り込む。
一口噛んだだけで、酸味の効いたフルーティな香りが口いっぱいに広がる。
これはちょっと濃過ぎるかも。でもまあ、当麻が気を利かせて渡してくれたのだ。ありがたく頂くことにしよう。

「待ってな」

当麻がそう言ったのは多分、一分か二分……もしかすると三分くらい経った頃だったと思う。

「鍵、取ってくるからさ」
「え?鍵?」
「ウチの鍵。父さんから拝借してくる」

暑さに手で顔を扇ぎつつ、砂浜へと歩いていく後ろ姿をぼんやりと見送る。


無断で借りる気ね、あれは。
確証はないが、確信はあった。
まあ、しょうがないか。下手に事情を話しても、おじさん達を混乱させるだけだもんね。
ホント、しょうがない。タクシーは私が呼んであげよう。


ポケットに手を突っ込み、ケータイを取り出そうとする……と、誰かにTシャツの裾を引っ張られた。

「問一」

ミーシャが板ガムを突き出してくる。

「これは食物なのか」

どうやら板ガムという物を知らない模様。
ひょっとして、ロシアでは板ガムって売られてない?
いやいや、いくらなんでもそりゃないか。
ミーシャの周りにはなかったってだけよね、きっと。

「食べ物だけど飲み込んじゃいけない物よ」
「……?」

小首を傾げるミーシャ。うーん、説明しづらいなあ。

「とりあえず食べてみなよ」

ここはやっぱり、実際に体験してもらうのが一番だ。
私の勧めを受けて、ミーシャはモソモソと銀紙を剥がす。
出てきたガムに鼻を近づけてフンフンと匂いを嗅いだり、表面を舐めたりする。
思いっきり警戒している。が、やがてミーシャは板ガムを口に放り込んだ。
小さな口が咀嚼を繰り返す。

「私見一。うん、甘味はいいな。糖の類は長寿の元とも言うし、神の恵みを思い出す」

ミーシャの口元が、ほんの少し綻んだ。
良かった。気に入ってくれたみたいだ。
モグモグとガムを噛み続けるミーシャを前に、ホッと安堵の息を吐いた、その時、


ごっくん、と。


ミーシャの喉が動いた。

「あ」

ほとんど反射的に声が出た。

「問二。何だその反応は」
「いや、何で飲み込んだのかなーって」
「解答一。食べてみろ、と言ったのは貴女だ」
「飲み込んじゃダメとも言ったでしょ!」

ミーシャは小首を傾げ、分からないって顔をする。
何でだろう。言葉は通じてるのに、話がまるで噛み合わない。


私の心中なんてお構いなしに、ミーシャは歩き出す。
さも当然のように神裂さんの正面に立ち、小さな手を伸ばす。
その視線は神裂さんの持つ板ガムに真っ直ぐ注がれている。

「ひょっとして、コレも欲しいんですか?」

こくん、とミーシャの首が縦に振られる。

「まあ、別にいいですけど」

差し出されたガムを、今度は何の躊躇もなく受け取るミーシャ。
いそいそと銀紙を剥がし、口の中に放り込む。

「飲み込んじゃダメよ」

平然とした様子で、ミーシャがこちらを振り向いた。
突然声をかけられても、驚いた様子はない。
もぐもぐとガムを噛んでいる。

「すごく気に入ったみたいね、それ」

咀嚼を繰り返しながら、ミーシャが肯く。

「でも飲んじゃダメ。いい?ガムって、要は味の付いたゴムみたいな物なの。だから」

そこで、ごくんとミーシャが飲み込む。

「ねえ聞いてる!?人の話聞いてる!?」

きょとんとした顔で、ミーシャが首を傾げる。

「アンタって、どういう人生送ってきたのよ」
「解答二。神に仕えてきた」
「他には?」
「解答三。神に仕えてきた」
「……」
「解答三をもう一度。神に仕えて」
「聞こえてるから!他の言葉を待ってんのよ!」

しかしミーシャは無表情のまま、くるりと背を向け、歩き出した。

「ちょっと、どこ行くのよ」
「解答四。あの男の下へ。二枚では足りない」

振り向きも、立ち止まりもせずにミーシャは答える。

「私も行こうか?」
「解答五。必要ない。一人で行く」
「どうして?」
「私見二。貴女は面倒くさい」
「アンタに言われたくない!」

そんなやり取りの間にも、ミーシャはどんどん歩いていく。
海に向かうミーシャの背中が、あっと言う間に見えなくなる。
残ったのは私と神裂さんの二人だけ。
重苦しい空気が流れる。

「御坂美琴」
「はい」

肯き、先を促す。

「何度も言いますが、貴女がついてくる必要はどこにもないんですよ」
「何度も言いますが、私、やられっ放しって嫌いなんです」

間髪入れずに、私は返した。
そうですか、と神裂さんが肯く。

「決意は揺るがないのですね」

そう言って、神裂さんは私の隣に並んだ。
何か話そうかと思ったけど、これといった話題が出てくることもなく。
殺意が見え隠れする強烈な日差しの中、私達は黙り込んでしまった。
お互い視線を合わせようとせず、真っ青な空をただただ見上げる。

「申し訳ありません」

視線を空に向けたまま、神裂さんがそう言った。
謝られる理由がさっぱり分からなかった。

「何のことです?」
「私と関わったせいで、あんな目に遭わせてしまって」

しばらく言葉が出てこなかった。
探して探して、ようやく見つかった。

「神裂さんのせいじゃありません」

ニッと笑う。

「運が悪かっただけです」
「……運?」

ようやくまともに視線が合う。

「運、ですって?」
「ええ。アイツじゃないですけど、ちょっと不幸な目に遭ったってだけで」

神裂さんが私の顔をじっと見つめてきた。
驚いたことに、ひどく動揺している。
顔全体が強張っていた。視線も定まっていなかった。
不幸。やがてその口から言葉が洩れる。
不幸。掠れた声。
次の瞬間に起きたことを、私はずっと忘れられなかった。
いつまでもいつまでも。


神裂さんが頭を抱えて、その場にしゃがみ込んでしまったのだ。


最初は何をしているか分からなかった。
あまりにも突然の行動に、私はただ戸惑っていた。
だから多分、十秒くらいかかったと思う。
神裂さんの肩がブルブル震えていることに気づくまで。
神裂さんが恐ろしく小さく見えた。まるで子供みたいだった。


日差しが神裂さんの震える背中で揺れていた。
真っ黒な鞘の表面がその光に輝いていた。
風が吹き、神裂さんの長い髪を掻き乱した。












心が震えた。
身体が震えた。
ああ、私は何をしているんだろう。

「私と関わってはいけないんです。でないと貴女は……貴女は……」


どうして声が滲むんでしょう?
どうして目が熱いんでしょう?
どうして身体が震えるんでしょう?


情けない。私は心の中で繰り返した。
情けない。ただ不幸が不幸がと、小さな子供みたいに呟くことしか出来ない。


説明しなければ。
そうだ、彼女だって分かってくれる。
ほら、早く言いなさい。
私は自分の周り全てを不幸にしてしまうほどの悪運の持ち主だって。
貴女の不幸の原因は、この私なんだって。
言葉はけれど、出てこなかった。


私は随分長い間、そこにしゃがみ込んでいた。
何故、御坂美琴が何も言ってこなかったのかは分からない。
呆れていたのかもしれないし、戸惑っていたのかもしれない。
彼女の顔を見てみたかったけれど、顔を上げることなんて出来なかった。
顔を上げたら、色々なものが零れ落ちてしまう。もう押し止められない……

「神裂さん」

何を言われても耐え切れるよう、私は身を固めた。

「いつもフルネームで呼ぶのって、大変ですよね」

けれど、頭上から降ってきたのは、そんな言葉だった。

「え?」

意外過ぎて、意味が飲み込めなかった。

「美琴で構いませんよ」

可笑しそうに笑う声。


こっそり顔を上げたところ、美琴は何だか嬉しそうに笑っていた。
笑っている彼女は天使のように綺麗だった。

「大丈夫」

まるで犬を撫でるように、美琴が私の頭を撫でてきた。

「私、不幸なんかに負けませんから」

嫌な気持ちはしなかった。
それどころか髪を滑っていく美琴の手の感触やその笑顔がやたらと嬉しくて。
そんな自分の気持ちを悟られないようにするのが精一杯で。


だから、この時には全く気づかなかった。
私の頭を撫でている間に、美琴がタクシーを呼んでいたのも。
タクシー会社に電話をする前に、美琴が誰かと連絡を取っていたのも。











[20924] 第12話 御使堕し編⑩
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2012/04/30 21:01
それにしても世の中は理不尽だ。おかしい。間違っている。
例えば、何が間違っているかと言えば……そう、例えば、こういうことだ。


愛想笑いを浮かべていたタクシーの運転手が、私を見た途端にその笑みを引き攣らせた。


そりゃあ、私だって分かってますよ?
二メートル近くもある刀を狭い車内に持ち込むのが、非常識だってことぐらい。
後部座席から助手席の前まで、黒い鞘が占領したら邪魔になるってことぐらい。
でも、仕方ないじゃないですか。非常事態なんですから。
そんな、露骨に嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないですか。

「本当にすみません」

私は精一杯笑って、しかも明るい声で言った。
ええ、今も後部座席から笑みを送っていますとも。他にどうしろと?
とにかく、世の中にはそんな理不尽なことが多い。
大きなことで言えば、私に付き纏う悪運だって理不尽の固まりだ。


日本には天草式という隠れキリシタンの組織がある。
私は生まれた時から、その頂点たる『女教皇(プリエステス)』の地位を約束されていた。
けど、そのせいで『女教皇』になりたかった人達の夢を潰してしまった。
努力をしなくても成功するほどの才能があった。
けど、そのせいで死に物狂いの努力を積み重ねてきた人達を絶望させた。
何もしなくても人の中心に立てるほどの人望があった。
けど、そのせいで他の誰かが人の輪の外へ弾かれた。


誰かに命を狙われても何故か生き残った。
けど、私を庇うために目の前で大切な人達が倒れた。
飛んできた弾の盾となり、爆風を防ぐ鎧となり。
私を信じて慕ってくれた多くの仲間が傷つき、倒れていった。
私の幸運の犠牲となって、周りのみんなが不幸になった。
なのに、みんながみんな、最期になって私に言うのだ。
貴女と出会えて幸運でした、と。どうしようもないほどの笑顔で、そう告げるのだ。


理不尽だ。
あまりにも理不尽だ。
そういうことはたくさんあった。
ありふれていた、と言ってもいい。


しかし、だ。
これほどまでの理不尽を、これほどまでの間違いを、私は知らなかった。
何がおかしくて理不尽で間違っているかと言えば……そう。
あえて具体的に表現するなら、こういうことになる。


土御門が単独行動に走った!


車内に刀を収めるのに四苦八苦している最中、あの男はふらりとやって来て、

『野暮用が出来たんで、しばしのお別れだにゃー』

さも当然のように美琴達を巻き込んでおきながら、当の本人は姿をくらましたのだ。


ええ、分かっています。分かっていますとも。
あの男がそういう生き物だってことくらい。
風みたいに、まるで掴みどころのない人間だってことくらい。
ですが……むう……何か無性に腹が立ちます。

「美琴」

思いっきり不機嫌な声で、訊ねてみる。

「土御門がどこに消えたか、本当に心当たりはないんですね?」
「え、ええ。もちろん」
「その割に、随分と動揺しているようですが」

目を細めて、隣に座る美琴を睨みつける。

「土御門が何を企んでいるかも知らないんですね?」
「あ、あはは」
「知らないんですね?」

渇いた笑みを浮かべたまま、コクコクと肯く美琴。


これは絶対、何か隠していますね。
でもまあ、いいでしょう。ここは大人しく騙されてあげましょう。
美琴のことです。黙っているのも、きっと何かしらの考えがあってのことでしょうし。
いや、もちろんこれは客観的な意見ですよ?
決して美琴だから信用するとか、もし相手が土御門だったらどんな手を使ってでも白状させてやろうとかってことじゃないんですよ、うん。












すごい迫力だった。
土御門さんを怒鳴りつけた時より、更にすごい。
半分しか開いていない目が据わっていた。
危うく全部喋ってしまいそうになったけど、どうにか堪えた。


神裂さんの頭を撫でていた、あの時。
気がつくと、私はケータイを手に取っていた。
感情のままに、メールを打つため指を動かしていた。

『ちょっと気になることが』

メールのタイトルは、こんな感じにした。
打ち終えると、それを土御門さんに送った。
つまり、そういうことなのだ。
土御門さんが一緒に来なかったのは、私のメールを読んだから。
そして、私の頼みを引き受けてくれたから。


出来ることなら、説明したい。
私が危惧していることを、全部話してしまいたい。
でも、今はダメだ。何せ当事者がすぐ側にいるのだ。
これじゃあ話したくても話せない。
だから、今は待つしかない。
私の不安は、杞憂に過ぎなかった。
そんな連絡が土御門さんから来るのを、ただ待つしかない。












しばらく走っていると、目に見えて人の数が増えてきた。
下手に目立つと動きにくくなるので、野次馬から少し離れた場所で降ろしてもらう。

「しかし大袈裟ですね。たった一人を相手に半径六百メートルの包囲網とは」
「そうですね」

周囲に気を配りながら、美琴が応える。

「多分、発砲許可が下りたんでしょう」
「なるほど。民間人に流れ弾が当たらないよう気を配ったワケですか」
「でしょうね。表向きは」
「表向き?」
「はい」

肯き、美琴は空を見上げた。
あとを追うように、私も視線を上に向ける。
いつの間にか、テレビ局のヘリはいなくなっていた。

「この包囲網は、言ってしまえば結界です」
「結界?これが?」

びっくりして、そんな声が洩れていた。

「外部と内部を隔離するもの。それが結界の定義ですよね」

驚いた。元々は仏教用語であり、いつからか魔術師が身を守る術の総称となった単語。
それを魔術とは無縁の世界で生きてきた彼女が、ここまで完璧に理解しているとは。

「知ってました?結界って魔術の専売特許じゃないんですよ」

美琴が得意げに微笑む。

「魔術の専門家に説明するのもアレですけど、結界そのものに害はありません」

そう、結界自体に危険はない。

問題は外界と遮断した世界で何を行なうか、ということである。

「まさか……」
「はい?」
「日本の警察機構が秘密裏に火野から天使の力を奪おうと?そんなバカな。上半期の報告では、霊能専門の捜査零課の存在は流言と断じられたはずなのに」

私の言葉を聞いた美琴が妙な顔をした。何だか困っているみたいだ。

「えーっと。そういう次元じゃなくてですね」
「は?」
「単に機動隊の二十三口径が火野の脳ミソ吹っ飛ばす瞬間をライブ中継されんのが困るんだろうよ」

今の今まで沈黙を守っていた上条当麻が、初めて口を開いた。

「色々あるんだよ。政治家ってのはアイドルよりもイメージを大切にする職業だからな」
「色々、とは?」
「さあ?その辺の詳しいことはよく分からん」

ふむ、そういうものですか。
このまま聞き続けても、あまり気持ちの良い話は出てきそうもありませんね。


私は三人の顔を順番に眺めて、

「さて、これからどうしましょう?この程度の包囲網、私とクロイツェフだけなら容易く突破してみせるのですが」
「せっかくここまで来たんです。どうせならみんなで当麻の家まで行きませんか?」

あっさりと。あまりにもあっさりと美琴が言うので、私は面食らってしまった。

「どうやって?」
「そんなの、決まってます」

美琴の顔には、悪戯っ子のような笑みが浮かんでいた。

「そこを通って行くんですよ」












美琴の先導の下、上条当麻の家に向かう私達。
柵を飛び越し、塀を乗り越え、民家の庭から庭へと走っていく。
全ての道路を封鎖している警官隊のすぐ近くを、さも当然のように走り抜ける。
何かの拍子。例えば無線通信に意識を集中したり、物陰から飛び出してきた野良猫の方を見たり、何気なく空を見上げたり。そういった、ほんの僅かな空白を突いて。
しかも、美琴は警官に隙が生まれるまでじっと待ち続けているワケではない。
まるで計ったように、美琴が走り抜ける瞬間と警官に隙が生まれる瞬間が重なるのだ。

「むう……」

一般人がジョギングする程度の速さで走っているにも関わらず、私達三人を引き連れて包囲網を難なく突破していく美琴。
その事実に驚いたが、更に驚いたことに、上条当麻が何故か得意げに笑っていた。

「美琴は能力者の中でも別格の電撃使いなんだ」
「美琴が?」
「電磁波を使った空間把握も得意でさ。半径六百メートルぐらいなら髪の毛一本だって見逃さないんだぜ」

まるで自分のことのように自慢している。

「それにさ。電磁波だけじゃなくて、アイツ、磁力や高圧電流まで操れるんだ。応用力も半端じゃなくてさ。電気の扱いに関しちゃ、アイツの右に出る奴は絶対いないね」

へえ、と唸る。

「すごいですね」

心底から感心して呟く。
上条当麻は嬉しそうに笑ったままだ。

「だけどアイツ、そういうの全然鼻にかけたりしないんだよ」
「美琴らしいですね」
「どんなに強くて、頭が良くて、学園中の注目を集めても、アイツはアイツらしさを絶対に崩したりしない」

上条当麻の言葉に、黙ったまま肯く。
おそらく、それこそが美琴の強さの根源。
能力者としての実力なんて関係ない。
他者とかけ離れた力を手にしながら、それでも己を見失わない心の強さ。

『大丈夫』

声が、蘇ってくる。

『私、不幸なんかに負けませんから』

嬉しかった。本当に嬉しかった。


生まれた時から高い地位を約束されて、周りの全てに慕われて。
それでも、私は全てを捨てた。天草式から身を引いた。
自分を信じてくれる人達が不幸になるのを止めたかったから。
いつまでも一緒にいたかった気持ちを殺して孤独を選んだ。
そんな私に、美琴は人としての温もりを思い出させてくれた。
共に歩いてくれると言ってくれた。
だからもう、逃げたりしない。
今度こそ、自らの意思で大切なものを守ってみせる。


警官隊の包囲網を越えると、しばらく人の姿は見えなかった。
だが、走り続けると今度は装甲服と透明な盾に身を包んだ物々しい面々が現れた。機動隊の人間だ。
『御使堕し(エンゼルフォール)』の影響で、赤ん坊や御老人の姿をした者も混じっているため所々が珍妙に見えてしまう。


美琴が立ち止まり、路上駐車の車の陰に隠れる。私達三人もそれに従う。

「うーん。ここから先はちょっときついかなあ」
「お前でもか?」
「機動隊が当麻の家の周りにびっしり張りついてるのよ。でもまあ、打開策がないワケでもないんだけど」
「まさか強行突破とか言わないよな」
「あれ、分かっちゃった?」
「勘弁してくれよ。んなことしたら俺達全員、洩れなくお尋ね者だぞ」
「だよねえ」

美琴が苦笑いを浮かべた。
やっぱりそうだよねえ、なんて言って、ずっと苦笑いしている。ちょっと変な感じだった。
困り果ててしまうなら分かる。だけど、どうして苦笑いなんだろう。
窮地に立って、それでも何故、いつも通りでいられるんだろう。


普段とさして変わらないやり取りを上条当麻と繰り広げる美琴。
そんな姿を間近で見ていると、今までの自分がバカらしく思えてくる。

「打開策は他にもあります」

決定づけられた運命を、ただ呪うだけだった自分が。

「認識を他に移す、という手法を取るのはどうでしょう」

諦めて、全てをあるがままに受け入れてしまった自分自身が。

「認識を?」
「他に?」

揃って疑問符を浮かべる二人。
全く、こんな所でも息が合っているんですね。

「つまり機動隊に、上条宅とは全く違う家を上条宅だと誤認させれば良いのです。そうすれば、本物の上条宅で何が起ころうとも機動隊には異常を察知されません」

流れには逆らわない。
それが私なりの生きる術。
数々の悲劇を経て、辿り着いた一つの結論。
でも、美琴に会って、彼女と触れ合って。
生まれて初めて、運命に抗ってみようと思った。

「出来るんですか?そんなこと」
「もちろん」

先程のお返しとばかりに、ニッと笑ってみせる。

「私を誰だと思っているんです?」











[20924] 第13話 御使堕し編⑪
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/10/16 16:08
神裂さんが無人の住宅街を走り回る。
電柱を支点にして、手にした糸を張り巡らせていく。
糸、と言っても裁縫に使うような代物じゃない。
髪の毛よりも細く、太陽光の乱反射でもなきゃ絶対に見えないくらいのワイヤーだ。
神裂さんは触れた途端に指ごとスッパリ切れそうな鋼の糸と電柱を使って、機動隊から少し離れた場所に半径百メートルほどの三次元的な魔法陣を作っている。
この結界を使って、人の認識を他に逸らす特殊な波長の魔力を機動隊にぶつけるつもりなのだ。


それにしても神裂さんは速い。まるで旋風だ。
あっと言う間に、パラボナアンテナみたいな形の結界が形成されていく。
電磁波で神裂さんの位置や動きを把握するのが精一杯だ。


残された私達三人の間で、会話は止まっていた。
住宅街には物音らしい音は何もない。
所々で置き去りにされた飼い犬が真夜中みたいな遠吠えをしているだけだった。
ずっと遠くの方から電車の走る音も聞こえてくる。


神裂さんは走り続ける。
更に速く、更に力強く、更に集中して。
それでも結界の完成には、もう少しだけかかりそうだ。
黙ってじっとしてるのは、どうにも落ち着かない。


そこで、ふと思いついた。
電磁波の流れを当麻の家に集中させてみる。
ちょっとした隙間でもあれば、家の中に電磁波を侵入させることが出来る。
あわよくば、火野の位置を特定できるかもしれない。
そんなちょっとした思いつきで、電磁波を飛ばしてみる。

「うん?」

家の表面に実際に電磁波が触れる前に、ぼうっと微かな抵抗を感じた。
電磁波をいったん引っ込めると、ぱちぱち空気が爆ぜた。
痛いほどじゃない。ごく小さな衝撃だ。
それでも電磁波を伝わって身体中に、目に見えないものが駆け抜けたような感触がした。

「どうかしたか?」

誰もいない住宅街を見回していた当麻が声をかけてくれた。

「ううん。何でも」

気を取り直して、当麻の家に再び電磁波を集中させる。抵抗を無視して電磁波を押し込んでみる。

「あうっ!?」

たちまち目が見開き、髪が逆立ち、血の気が引いた。頭から突き抜けた痛みに心臓が一つドンと打った。
咄嗟に電磁波を引いたので、衝撃はすぐに終わった。でも代わりに、歯の浮くような奇妙な感触が残った。
目に見えない波のようなものが私の身体中を通り抜け、全身の表面から空気中へ、どんどん逃げていくような感触だった。

「美琴!」
「どうしたんです!?」

二つの声に、はっと我に返る。
当麻と、いつの間にか戻ってきていた神裂さんが私の顔を覗き込んでいた。
ひどく心配そうな顔をしている。

「大丈夫。ちょっとクラッとしただけ」

痺れの残る頭を擦りながら、私は応えた。

「ならいいんですが」

言葉とは裏腹に、不安そうな眼差しを向けてくる神裂さん。

「結界が起動しました。上条宅を取り囲んでいる機動隊は三百メートル離れた無人の家を上条宅と勘違いして、包囲を崩しているはずです」

電磁波フィールドを展開して確認を取る。
神裂さんの言った通り、機動隊が移動を始めている。当麻の家から、どんどん離れていく。

「では、参りましょう」

そう言って、さっさと進んでいく神裂さん。
ミーシャと当麻もそれに倣う。
一人置いてきぼりになった私に、当麻が振り返った。

「やっぱり俺達が火野を捕まえるまで待っとくか?」
「ううん。私も行く」

私は慌てて走った。
待ってくれていた当麻と並んで、神裂さんの背中を追う。


走りながら、考えた。当麻の家を調べようとして感じた、妙な感覚の正体を。












“上条”と書かれた表札がコンクリートの端、玄関ポーチにポストや呼び鈴と一緒にくっついている。


当麻の家の向かいにある家。
そこの植え込みの陰に隠れて、私達は様子を窺う。
どこを取っても平凡に見える、木造二階建ての建売住宅。
でも、この真夏の炎天下、真っ昼間から全ての窓を雨具と分厚いカーテンで覆い隠している光景は、それだけで異様だった。
目の前の建物は家庭内暴力や少女監禁事件など、何か陰惨な事件の臭いを感じさせる程の邪気を放っているように見えた。
実際、その得体の知れない直感は間違っていないんだろうけど。


太陽の光を拒むように閉ざされた家。
その中には悪魔崇拝じみた理由で二十八人もの人間を惨殺した殺人犯が立て篭もっているのだから。

「ふむ。ここからでは火野がどこにいるのか掴めませんね」
「どうします?」

そうですね、と思案顔になる神裂さん。

「あれだけ厳重に閉ざしているなら、火野もこちらの接近には気づいていないと思います」
「奇襲するってワケですね」
「ええ。手早く行ないましょう」

上条当麻、と神裂さんが短く呼ぶ。
分かってるよ、とポケットから銀色の鍵を取り出す当麻。

「では美琴と上条当麻は陽動として玄関から、出来るだけ大きな音を立てて突入してください。私とクロイツェフはその音を合図に、別ルートから隠密で侵入します。クロイツェフ、よろしいですか?」
「解答一。肯定」

呟くように告げるミーシャ。
腰のベルトから鋸を引き抜くと、ミーシャが跳んだ。
助走なんて一切なしの、垂直跳び。たったそれだけで、一階の屋根に飛び乗ってしまった。
能力を使った気配はなかった。とすると、ミーシャは純粋に自身の筋力だけで跳んでみせたことになる。
驚きで声が洩れるよりも早く、今度は神裂さんが跳んだ。またもや助走のない、ただの垂直跳び。
それで一階屋根に乗っているミーシャを飛び越し、二階の屋根に音もなく着地する。
そして、そのまま屋根の向こうに。庭に面したベランダの方に進んでいってしまった。


能力を一切使用しないで、あれだけの跳躍。
人間の身体能力って、私が思っていたよりずっと高かったらしい。
ウチの寮監が特別なんだとばかり思ってたけど、どうやら認識を改めなきゃいけないみたいだ。

「さて、俺達も行くか」

二人が見せた驚異の身体能力をさして気にするでもなく、当麻が植え込みの陰から出る。私も慌ててあとを追う。その時だった。


ぞわり、と。全身に先刻の違和感が襲いかかった。
私の身体から常に発せられている微量の電磁波が、この家にある何かと反発している。

「美琴」

振り返った当麻が、あまりにも冷たい一言を放った。

「やっぱ、お前は来るな」
「え……」

何を言われたのか、最初は理解できなかった。

「お前は来るな」

当麻は繰り返した。


またなの?また守られるだけなの?


自分はちっぽけだ。
手をぎゅっと握りしめた。
情けない。不甲斐ない。
どこまで守られればいいんだろう。
自分の弱さを、愚かさを、どこまで思い知らされなければいけないんだろう。


立ち尽くす私を置き去りにして、当麻は歩き出す。
その背が、だんだん遠ざかっていく。


ふいに、お腹の底がチリチリした。
このままじゃ、何か大切なものを失ってしまう気がした。
もちろん、そんなものはただの思い込みだ。突っ走った強迫観念に過ぎない。


下らない。つまらない。


分かってる。そんなこと。


「待って!」

でも私は叫んでいた。

「私も行く」

再び、当麻が振り返る。
呆れたような視線を私に向ける。

「ダメだ。来るな」
「どうして!?」
「それはお前自身が一番よく分かってるだろ?」

私は俯いた。何も返せなかった。
くやしいけど、ホントくやしいけど、当麻の言う通りだった。

「じゃあな」

突き放すような声。
遠ざかっていく気配。
私は一人、植え込みの陰に取り残される。


いいの?このまま当麻を行かせて。
いいの?一人だけ、安全な場所に残って。
いいの?いつまでも、ただ守られるだけで。


……いいワケ、ない。


でも無意識に身体から流れ出る電磁波が。
能力の源であるAIM拡散力場が、どうしても足を前に出させてくれない。当麻の傍に行かせてくれない。

『いいかヒメっち』

ふと土御門さんの言葉が頭を過る。

『力のある奴には責任がある。自分の力を完璧に制御するっていう責任が』

思い出す。ただそこに在るだけで世界を崩壊させるほどの力。
それを完全に抑え、隠し、人間社会に紛れ込んだ天使達の話を。

「完璧な制御、か……」

意識がふっと現実に引き戻された時、当麻は玄関の横のドアに張りついていた。
その手にある銀色の鍵を、静かに鍵穴へと挿していく。


私は深呼吸をして、自身のAIM拡散力場を見据えた。
力場は電磁波の形を成して、今も私の身体から洩れ出ている。


いらっしゃい。


私は思った。


おいで。いいよ。


すると、力場は私の身体に染み込むようにして見えなくなった。
それと同時に、不快感も綺麗さっぱりなくなった。


やった!制御できた!


嬉々として当麻のあとを追って、玄関ポーチへと走る。
玄関横にある背の低い木の枝についた巣箱に頭をぶつけそうになりながら、当麻のすぐ傍に駆け寄る。

「待って、当麻」

返ってきたのは重々しい溜め息。
結局来るのかよ、なんて頭を掻きながら零している。


でも私は見逃さなかった。
当麻の口元に、うっすらと。ホントにうっすらとだけど、笑みが浮かんだのを。

「じゃあ行くか。美琴、後ろは頼む」
「オッケ。任せて」

私の返事に短く肯き、挿した鍵をガチャリと回す当麻。
深呼吸を一つ。それから、勢いよくドアを開け放った。


バン!


家どころか住宅街に響き渡るような轟音。
続いて、生温かい空気が流れ出してきた。それも、何かおかしな臭い付きで。鼻や目に突き刺さる刺激臭だ。
闇の奥からは、シュウ、と。タイヤから空気が抜けるような、妙な音が聞こえてくる。


無言のまま、当麻は中へ入っていく。
当麻の背中を追うように、私も暗闇の中に一歩足を踏み出す。
玄関のドアが、スプリングによって背後で自動的に閉まる。こもった熱気が全身を包み込む。


カーテンや雨戸によって光を遮られた室内は、完璧な闇に包まれてはいなかった。
遮光性の分厚いカーテンと、窓枠の間にある僅かな隙間から光が洩れている。
ガムテープとかでカーテンと窓枠を繋いでしまえば、真っ暗闇にだって出来そうなのに。
どうして火野は、そうしなかったんだろう?そんな疑問は、でも、奥に足を踏み入れるごとに晴れていく。そして、思い知らされていく。


何でもない傘立てが蹲る人影に見える。
能力を抑えているせいで電磁波を使った空間把握が出来ない今。
壁の陰からぬっと人影でも出てきたら、誰彼構わず殴ってしまいそう。


そう、火野は真っ暗闇に出来なかったんじゃない。
物の輪郭が分かる程度の薄暗闇を、敢えて創り出したんだ。


靴箱の上に乗ったタヌキや赤い郵便ポストの置き物が、不気味なくらいの陰影を作っている。
傘立てに差さったままの木刀なんて、まるで切断された人間の腕みたい。
壁に掛けられた大きな仮面や床に散らばる大小様々なモアイ像はこっちを見てるみたいだし……って。


この家、何でこんなにお土産だらけなのよ。しかも、宗教色の強いものばっかり。
当麻のお父さんが買い集めてるのかな?多分そうだ。
お近づきの印にとか言って、いきなり干からびたフンコロガシの入った瓶を取り出すような人だし。
まあ、エジプト土産としては結構有名なんだけどさ。輪廻の象徴として。
向こうじゃ確か、スカラベって言うんだったかな?よく覚えてないや。


玄関に入って右側に硝子ドアが一つ。
正面には二階へ続く階段。階段の横にはドアが二つ。
一つは鍵がついている。トイレのドア、なのかな?


当麻はトイレの方に向かい、音もなくドアを開けて中を確かめた。
どうやら火野はいなかったらしい。開けた時と同じように、静かにドアを閉める。


次に、トイレの近くにあるドアを開ける。
シュウ、という風船から空気が抜けるような音が強くなった。
肌に突き刺さるような鋭い臭いも増している。


ドアの向こうは、脱衣所だった。
洗濯機や乾燥機、洗面台などのシルエットが見える。
横には磨り硝子の引き戸があって、その先がお風呂場になっているのは間違いなさそうだった。


当麻は磨り硝子のドアをゆっくりと開けて、中を覗き込んだ。
私も当麻の肩越しに中を確かめてみる。お風呂場は湿気を帯びた暗い空間になっていた。
湯船に浮かべる物なんだろう。ウレタンでできた亀の玩具が転がっている。
当麻は更に浴槽の蓋を開け、中を確かめている。


私は脱衣所に視線を戻してみた。
洗面台の鏡の向こうに、どろりとした暗闇が広がっている。夜の海みたいだ。
洗面台の上にはヘアスプレーやT字型の剃刀と並んで、チェスの駒や硝子の切り出し細工の小瓶が置いてある。
これも当麻のお父さんが趣味で選んだお土産なのかな?


私の身体を横に押しのけ、当麻が脱衣所の先に向かう。どうやら台所のようだ。


……ん?台所?


突如、嫌な予感が身体中を駆け抜けた。
異臭、空気が洩れるような音、台所。これらの単語から連想されるものと言ったら。

「当麻」

出来る限りの小声にしたつもりだったのに、暗闇の中で音は一際大きく響いた気がした。


振り返る当麻。一言も発しない。
どうした、と視線だけで訊ねている。

「この臭い、ガスよ。プロパンガス。アイツ、ガスの元栓を開けてる」

私の言葉に、当麻がビクンと肩を震わせた。
ひょっとしたら、火野は私達の侵入に気づいたのかもしれない。
一足先に家を抜け出し火を放って、まとめて爆破するつもりなのかもしれない。


かもしれない、ばっかりだ。
ホントのところは何も分からない。
とりあえず、はっきりしたことは一つだけ。
この家にこのまま留まっているのは、あまりにも危険だ。


台所から遠ざかるように、後ろ向きのまま一歩二歩と下がる。
当麻も私のあとを追うように一歩足を踏み出した。瞬間、私の意識は凍りついた。


ゆらり、と


当麻の背後――台所の中から、音もなく痩せぎすのシルエットが現れた。











[20924] 第14話 御使堕し編⑫
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/10/16 16:18

「と――」

叫ぼうとした時、既に人影は不気味な曲線を描く三日月ナイフを当麻の頭上に振り上げていた。


バカげてる。正気の沙汰じゃない。
プロパンガスは、とっくに家中を満たしている。なのに、どうしてコイツがここにいるのよ。
以前、と言ってもまだ十日しか経ってないけど。絶対能力進化実験を止めるために単身乗り込んだ実験施設でも、同じような場面に遭遇した。
あの時は単なるハッタリだった。でも今回は違う。この家は、今や一つの巨大な爆弾と化している。


狂っている。イカレている。予測なんて、出来るワケない。
ちょっとした火花でも散らせば建物ごと爆発するかもしれない状況。
そんな中、ガスの元栓を開けた張本人が、一番危険な台所に隠れてたなんて。


当麻はまだ、背後に迫る火野に気づいていない。
何も考えられなくなった。身体が勝手に動いた。
私は当麻の身体を横へ突き飛ばした。
直後、刃が空を裂く音と共に、焼けつくような痛みが腕に走った。


切られた。でも浅い。
痛みに構わず、私は前方を睨みつける。
マズイ。この状況は非常にマズイ。
能力は使えないし、手近に武器になりそうな物もない。
ナイフの先端を私に向け、火野が真っ直ぐ突っ込んでくる。
脱衣所は狭い。身をかわせるだけの広さは、ない。
体重の乗った一撃を前に成す術もなく立ち尽くす。と、火野の身体が横ざまに吹き飛んだ。

「ふざけやがって」

荒い息をして、当麻が憎々しげに呟く。
横合いにいた当麻が、火野に体当たりを仕掛けたのだ。
壁を背にして、よろよろと立ち上がる火野。ナイフは床に落としたまま。
チャンスだ。今度は私がタックルしてやる。上体を低く構えた、その時だった。

「ぎィ!ギビィ!」

火野が鳴いた。獣のように。
大きく開いた口から、粘液じみた唾液が溢れさせて。
瞬間、私は文字通り止まってしまった。
火野が床に落ちていたナイフを拾う。私の横を猛然と走り抜ける。

「待ちやがれ!」

当麻が叫んで火野のあとを追う。
そこまで来て、私はようやく恐怖から解き放たれた。


どうしよう?当麻のあとを追うか、それとも……


迷ったのは多分、三秒くらいだった。
私は台所に飛び込んだ。ひどい臭いだ。呼吸するのも辛い。
これだけガスが充満していれば、衣服の静電気ですら起爆スイッチになりかねない。
猶予なんてない。一刻も早く、ガスの元栓を閉めないと!


薄暗闇の中、アルミの油除けで囲まれたガス台を見つける。
裏を覗き込む。ガスのホースが外された元栓があった。元栓から、ガスが盛大に洩れていた。
ここで慌てちゃいけない。焦って火花でも飛ばしたら、一巻の終わりだ。
ゆっくり、ゆっくりと、私は元栓をひねった。家に入ってからずっと聞こえていた不気味な音は、ようやく止んだ。


ふう、と安堵の吐息。
続いて勝手口のドアを大きく開け放つ。
薄暗闇に慣れた目に、太陽の光はちょっと眩し過ぎた。でも嫌な気はしなかった。
うだるような暑さも、この時ばかりは心地良く感じられた。
絶叫と、激しい足音が聞こえたのは、そんな時だった。


振り向き、耳を澄ませる。
薄闇の向こうから争うような物音が聞こえる。きっと、当麻と火野だ。
二階からもバタバタと足音が聞こえてきた。こっちは神裂さんとミーシャだろう。もう隠れている必要はないって判断したワケだ。


こうしちゃいられない。私も急がなきゃ。


私は走った。二人の争う部屋に、リビングに飛び込んだ。
広い部屋だった。部屋の角に大きなテレビ。硝子製のテーブルが、端で逆さまに転がっている。
床に敷かれているのは毛の短い絨毯。テレビと反対側の壁には戸棚があって、そこにも奇怪なお土産が多数鎮座している。
当麻と火野は部屋の真ん中で対峙していた。やたらめったらナイフを振り回す火野。対して、当麻はナイフがぎりぎり届かない距離を保って反撃の機会を窺っている。


今すぐにでも、当麻の加勢をしたい。一緒になって戦いたい。
だけど、どうやって?どうすれば当麻の役に立てる?
辺りにはまだプロパンガスが漂っている。
下手に武器を持って打ち合えば、ガスに引火してしまう。
ナイフを持った相手に素手で渡り合えるほど、運動能力があるワケでもない。
ダメだ。また届かない。こんな近くにいるのに。大事な時に限って、どうしていつもこうなんだろう。

「ぎヒイイイイィ!」

人のものとは思えない絶叫に、ハッとして顔を上げる。


火野がナイフを突き刺していた。
他でもない自分自身の腕に、何度も何度も。
刺した箇所から例外なく血が噴き出してくる。
なのに火野は笑っている。その口元が、例えようもなく歪んでいる。
私は思わず顔を背け、両目を固く瞑ってしまう。ぴちゃぴちゃ、と頬に生温かい液体が飛び散った。


やっぱりアイツ、狂ってる。


足元が震える。手先が震える。心は、もっと。
頭では分かってる。これは作戦だ。
おぞましい光景を見せつけて、相手の動きを封じる。恐怖によって、相手の行動を雁字搦めに縛りつける。
そんなこと、分かってる。分かってるのに、それでも目を背けてしまう。身体が言うことを聞かなくなってしまう。


ヒュウンッ


三日月ナイフが空を裂く音が、やけに大きく響いた。

「当麻!」

背けた顔も戻せぬまま、私は叫んだ。
銀色の刃が当麻を突き刺す。凶刃の前に倒れ伏す。そう思った。だけど。
恐る恐る目を開けた私が最初に捉えた映像。それは火野の突き出したナイフを手の平で食い止めている想い人の姿だった。
伸ばした左腕の手の平に、深々とナイフが突き刺さっている。


当麻は静かな顔をしていた。
そう、当麻は怯んでなんかいなかった。
顔を背けず、身体も凍らせず、相手の攻撃を真正面から受け止めたのだ。

「許さねえ」

言って、もう片方の腕を火野に伸ばす。火野の顔を鷲掴みにする。

「グギェッ!?」

顔を締めつけられ、火野が甲高い悲鳴を上げる。その手がナイフの柄から離れる。

「テメエは絶対に許さねえ」

火野の顔を掴んだ手の平で圧搾して当麻は言う。
間違いない。当麻は怒っている。でも何に?ナイフで刺されたこと?自分の家で好き勝手されたこと?それとも……

「何せ」

当麻が右手を離す。わずかに後退する火野。

「俺の女に手を出したんだからな」

そのまま当麻は火野の顎を殴りつけた。
腰を回して全体重を乗せた一撃を受けた火野の身体は、たまらず吹っ飛んだ。
床をごろごろと転がり戸棚にぶつかり、ようやく止まった。












あ……ありのまま、今起こったことを話すぜ。


美琴を傷つけた殺人鬼を怒りに任せて思いっ切りブン殴ったら、いつの間にか美琴のことを“俺の女”呼ばわりしていた。


何を言ってるか分からねえと思う。そりゃそうだ。
俺自身、何をやらかしたのか今になってようやく気づいたんだから。
頭がどうにかなりそうだった。催眠術だとか記憶操作だとか、そんなチャチなもんじゃ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。


と言うかまあ、あれだ。よく考えてみるんだ。
さっきまで、死と隣り合わせなんて状況だったんだ。
そんな極限状態だったら、脳が正常に機能なんてするはずがない。
つまり、どんな言葉を口走ってしまったとしても、それはしょうがないことなんだ。
うん、そうだ。全くもってしょうがないことなんだ。だから美琴のことを“俺の女”なんて言っちまってもしょうがない……ワケがねええええっ!


ああ、美琴は俺の発言をどう思ってるんだろう?
さっきから俯いたままで、顔もはっきり見えないんですけど。


俺は言った。

「大丈夫か?」

返事はない。

「怪我はないか?」

やはり返事はない。
美琴はピクリとも動かなかった。
何も言わなかった。顔を上げもしなかった。
時間だけが、ゆっくりと流れていく。


美琴は俯いたまま。一言も口をきいてくれない。
だから、俺は黙り込むしかなかった。沈黙に耐えるしかなかった。
しょうがないので、俺は俯く美琴を見つめた。
ほっそりとした身体だった。肩から腰へのラインは見事という他なかった。
実に美しい曲線を描いてる。見事という他なかった。
見ているだけで、胸がドキドキしてくるような曲線だ。
それにしても、人間というのは不思議なものだ。
どうしてあの曲線が、これほど魅力的に感じられるんだろう?
花瓶の曲線だって充分に美しいけど、でもそれじゃ全然ドキドキしないだろ?


ふと、思い出した。
手の平にナイフが刺さったままだ。
考え事をしていたせいで、痛みをすっかり忘れていた。
力任せにナイフを引き抜くと、傷口から血が零れ出した。
マズイ、思ってたより出血がひどいな。
傷口を見ながらそんなことを考えていたら、ものすごい勢いで左腕を掴まれた。

「バカ!」

俺の顔を見るなり、美琴は怒鳴った。
そして、俺の左腕をぎゅっと抱きしめた。
手の平から流れる血が、美琴の黒いTシャツに見る見るうちに染み込んでいく。

「お、おい」

恐る恐る、俺は訊ねた。

「何やってんだよ」
「止血」
「必要ねえって。これぐらい平気――」

ギロリと睨まれた。

「こんだけドクドク血を流して、どこが平気なの?」
「いや、血が出てるったって手の平だし。問題ないだろ」
「バカ」
「いや、だから」
「バカ」
「なあ、美琴」
「バカ」

何を言っても“バカ”しか返ってこないので、俺は黙り込んだ。

「バカ」

美琴は繰り返した。

「ホント、バカ」

俺の腕を、ぎゅっと胸に押しつけた。
刺された痛みはほとんど感じられなかった。
Tシャツ越しに伝わる柔らかな感触と温もりが、そんなものを吹き飛ばしていた。

「ショック死とか、失血死だってあるの」
「そりゃそうだけどさ」
「不用意な行動一つで、人間なんて簡単に死ぬの」
「……」
「どうしてそういうこと考えられないのよ」

美琴が睨んでくる。
ああ、その、と口籠りながらも、何故か俺は浮かれた気持ちになっていた。
何だろう、この感じは。少し戸惑った末、気づく。美琴が心配してくれてるのが嬉しいんだ。


美琴は確かに怒ってる。そりゃもう、怒り狂ってる。
俺の爆弾発言すら、きっと頭に残らなかったくらいに。でもそれは俺のためなんだ。
俺のことを思って、怒るくらい心配してくれてるってことだった。

「ねえ、何ニヤニヤしてんの?」
「え?」

しまった。顔に出てたらしい。

「もうっ、このバカ!ムカつく!」
「ぎゃああああっ!絞るな!人の腕を雑巾みたいに絞るな!」
「うるさい!罰よ、罰!」
「分かったから!悪かった!ごめん!ごめんって言ってるだろ!」

全く、たまんないよな。
そりゃ美味いメシを食うのは最高だし、激ムズのゲームをクリアするのも快感だし、誰かに褒められるのだって悪くない。
けどさ、美琴と一緒にいるのは、美琴が笑ってくれるのは、そんなものとは比べものにならないんだ。
まあ、かなり難しいんだけどさ。怒らせてばっかりなんだけどさ、実際は。全く、たまんないよな。


そんなことを思いながら、腕絞りの刑を甘んじて受けていると、

「あー、ごほっ」

実にわざとらしい、そんな咳払いが聞こえた。
顔を上げると、そこに神裂とミーシャが立っていた。
何故か分からないが、神裂の眉間には皺が出来ている。

「お取り込み中、その、大変申し訳ないのですが」

そっぽを向いて、いかにも気まずそうに話を切り出す神裂。

「ですが、その……現状報告、お願い出来ませんか?出来ればそう、早急に」











[20924] 第15話 御使堕し編⑬
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/10/24 21:50
人生というのは、上手くいかないものである。
私は今、その言葉をしみじみと感じていた。
隣にいる当麻も、きっと同じ気持ちだと思う。


全く、人生ってのは上手くいかないもんね……


「貴方達の仲が良いことは重々承知しています。ええ、承知していますとも」

刃の部分だけでも二メートル近くありそうな刀。その鞘の先でコツコツと床を叩きながら、神裂さんはそう言った。

「ですが、少しは自重というものを覚えてもらわないと困ります」

神裂さんは相当怒っているらしく、声がやたらと低い。
ちなみに、私と当麻は薄暗いリビングで正座をしている。
背筋をピンと伸ばして、両膝をきっちり揃え、両手は膝の上って感じだ。


私達の報告を聞き終えた神裂さんが、

「二人とも、ここに座りなさい。異議は認めません。さあ早く」

と、足元を指差しながら言って、私達に正座をさせたのである。


ミーシャはと言えば、部屋の隅で気を失っている火野神作を見張っている。
火野が目を覚ましたら教えてほしいと、神裂さんに頼まれているのだ。


正座を強要されてから、そろそろ一時間。
火野はまだ目を覚まさない。さすがに足が痺れてきた。

「は、ははは」

この状況を打破するべく、私は愛想笑いを浮かべてみた。

「やだなあ、神裂さん。あれはただの止血。仲の良さとか関係ありませんって」

ダメだ。どうも自分でも上手く笑えてない気がする。


神裂さんが半眼になった。

「関係ない?」
「そ、そうです。関係ないんです」

力説。

「へえ。そうなんですか」
「は、はい」

神裂さんの目が、更にほっそーくなった。

「それにしては随分と過激な止血でしたね。怪我人の腕を自分の胸に押しつけるなんて」
「うっ」

当麻が後先考えずに手の平に刺さったナイフを抜いた時、感情に任せて当麻の腕を思いっきり抱きしめた。
神裂さんがそれを知っているということは、つまり、


見られてる。思い出すだけで赤面するようなトコ、ほぼ全部。


ガタガタと膝が震えた。
慌てて、両手で膝を押さえる。
思いっきりビビリながら顔を上げると、神裂さんは不気味に笑っていた。
ふふ、と神裂さんの頬が吊り上がる。

「お話、続けましょうか?」

何故か唇の端を上げて笑う神裂さん。
ちょっ、神裂さん。怖い。めちゃくちゃ怖いですって。


これはもう、覚悟を決めるしかない。
火野が目を覚ます以外に、この地獄は終わりそうもない。
だと言うのに、火野は一向に目覚めない。
視線だけを横に向けると、当麻もこっちを見ていた。

(ちょっと!アンタどんだけ強く殴ったのよ!)
(だってしょうがないだろ!)

私達は口だけを動かして怒鳴り合った。

(少しは加減しなさいよ!)
(あるワケないだろ!そんな余裕!)
(嘘!“俺の女”とか言ったし!)
(おま、今それを掘り返すか!)

「二人とも!」

神裂さんの怒鳴り声が降ってきた。

「言ってるそばから、何をしてるんです?」

睨まれる。
物凄い迫力だった。
私達は苦笑いを浮かべたまま、固まった。
正しく蛇に睨まれた蛙というヤツである。

「どうも反省の色が見えませんね。仕方ありません。もう一時間ほど正座を――」

唐突に、声が途切れた。

「クロイツェフ?」

ミーシャが神裂さんのシャツを引っ張っていた。

「どうしました?」
「解答一。あの男が目を覚ました」

その言葉に、全員が部屋の隅に注目した。


火野が目を開けている。でも起き上がろうとはしない。
倒れたまま、手足をびくびくと動かしているだけ。
顎に受けた一撃が、相当効いているみたいだ。

「さて、早速ですが尋問を開始しますか」
「解答二。了承」

二人のやり取りを横目で見つつ、

「美琴」
「うん」

私と当麻は神裂さんに気づかれないようにそーっと立ち上がる。今の内に逃げ出さねば。












屋内に残っているプロパンガスを一掃するため、俺と美琴は二手に分かれて家中の窓を開けることにした。


俺は一階、美琴は二階。
階段の前で美琴と別れた俺がまず向かったのは、洗面所だった。
負傷した左手を洗っておきたかったのだ。
さすがに血まみれの手であちこち触って、自分の家を汚したくないしな。


それにしても大丈夫か?
この一時間、痛みを全く感じないんだが。
ひょっとして、神経までやられちまったんじゃねえだろうな。
不安を胸に抱きつつ、手の平に水をかける。
痛みを予想して、俺は歯を食い縛った。

「……あ?」

思わず間抜けな声を上げてしまった。


痛くない。全然、全く。


やっぱり神経、イカレちまったのか?
だが、そうではなかった。
血をすっかり洗い流して出てきたのは、傷一つない左手だった。
出血はない。傷跡すら残っていない。


これは一体、どういう冗談だ?
火野のナイフを受け止めたのは、今から一時間ほど前。
怪我をしてから、わずか一時間。
なのに傷口が完璧に塞がってるっていうのは、どういうワケなんだ?












別段、何かを見つけるために来たんじゃない。
私はただ、二階の窓を開けようと思ってこの部屋に入っただけ。
だけど、それどころではなくなってしまったのかもしれない。

「……当麻」

呟いて、私は窓際の机の上に置かれた写真立てを手に取った。


写真には一組の家族が写っていた。
真ん中にいるのは当麻だ。どんなにちっちゃくても、分かる。だって当麻のことなんだもん。
背丈からして、多分、当麻が幼稚園児だった頃に撮ったものなんだろう。いいなあ。可愛いなあ。


当麻の右側にいるのは、私よりも少しだけ長い髪をした女性。
これが当麻のお母さんである詩菜さんの、本当の姿ってワケね。で、左にいるのが……って、え?


背筋に悪寒が走る。
当麻の左側。そこに写る人物は、当麻のお父さんである刀夜さんのはずで。
『御使堕し(エンゼルフォール)』に歪められる前の、本当の姿であるはずで。


でも、実際に写っているのは……


ポケットの中のケータイが震えたのは、その時だった。
取り出し、通話ボタンを押して耳に当てる。その間も、ずっと写真を凝視し続けていた。

「おーっす、ヒメっち」
「……土御門さん?」
「結果報告だにゃん」
「え?結果?」

そうだった。調べてほしいことがあるって、土御門さんに頼んでたんだ。

「結論から言うと、ヒメっちの勘繰ってた通りだったぜい」
「やっぱりそうだったんですか」

参った。この期に及んで、良くない話ばかりが入ってくる。

「言われてみりゃ確かにおかしいわな、『ミーシャ』なんて」
「ええ。ロシアでは男性に付ける名前ですからね」

そう、女の子が『ミーシャ』と名乗るなんておかしいのだ。
例えばほら、『太郎』なんて名前をした日本人の女の子がいたら、どう思う?
物凄く違和感を感じるでしょ。それと同じ。有り得ないのだ。

「しっかし難儀だにゃー。最悪の場合はアレを敵に回す、か。こりゃ人類の歴史はここで終わるかもにゃー」
「縁起でもないこと言わないで下さい」

ただでさえ、実感が湧かないっていうのに。
アレの存在にしても。世界全人類が根こそぎ滅びる力っていうのも。

「ところで、そっちはどうなってんのかにゃん?」
「え?」
「火野はちゃんと確保できたのかにゃー?」
「え、ええ。捕まえました。けど……」

私は話した。この家に存在する異常を。
この家の何かが私の能力に干渉してくることを。
そして、写るはずのない姿が写っている写真のことを。


説明している間、土御門さんは一言も喋らなかった。相槌の一つすらなかった。

「ヒメっち」

静かな声で、土御門さんは言った。

「その家、土産とか置いてあったりするか?」
「土産?」
「お守りとか、民芸品とか、オカルトグッズとか。そういう類のものだ」
「ああ、それならたくさんありますけど」
「どこに何がある?出来るだけ詳しく頼む」

ワケが分からない。
土御門さん、どうしたんだろう?
いつもの余裕を持った喋り方じゃない。
言葉遣いまで変わっちゃってるし。


不思議に思いながらも、私はお土産の位置を一つ一つ思い出しては伝えていく。
玄関に赤いポストの置き物があった。お風呂場には亀の、台所には虎の玩具があった。
洗面所には確か、チェスの駒や硝子の切り出し細工の小瓶があったなあ。
あ、玄関前にあった巣箱もお土産に入るのかな?

「なるほど」

全てを伝え終えた後、土御門さんが発したのはそんな言葉だった。

「ヒメっち、その家から全員出せ。今すぐに」
「はい?」
「あと土産には一切手を触れるな」
「ちょっ、ちょっと土御門さん?」
「いいか、絶対だぞ」

用件を全て伝えた電話は切れた。
私の制止なんてまるで無視。
慌ててかけ直したものの、繋がらなかった。
事情を問いただすことも、断ることも出来ない。
しかし、このまま放っておくワケにもいかない。

「何なのよ、一体」

呟きつつ、窓を開ける。


真っ赤に染まる空が、広がっていた。











[20924] 第16話 御使堕し編⑭
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/11/14 17:46
「分からねえよ」

ぐったりと戸棚に寄りかかったまま、火野はそう答えた。

「何だよ、それ、何ですか。エンゼルフォールって、知らないよ。エンゼル様、コイツら何言ってんですか、分かんないよ、答えて下さい」

小さな声でぶつぶつと呟き続ける火野。
それは独り言のようにも聞こえるし、未だに姿を見せない天使に助けを求めているようにも聞こえた。
と、視界の隅でクロイツェフが動くのが見えた。止める間もなかった。
腰のベルトから引き抜いたL字型の釘抜きを、クロイツェフは床に無造作に投げ出された火野の左手首に向かって何の躊躇いもなく振り下ろした。
凄まじく鈍い音と共に、火野の手首がおかしな方向に捻じ曲がる。

「ぎ、びぃ!ぎがぁ!」

獣じみた咆哮を上げる火野。

「問一をもう一度」

しかしクロイツェフは動じない。

「『御使堕し(エンゼルフォール)』を引き起こしたのは貴方か」

感情を押し殺した声で、質問を繰り返す。
余計な言葉は聞かない。同情なんて一切しない。
こんなものは魔術師の戦い方では決してない。


魔術師は戦いに私情を挟む。
敵の言葉に耳を傾けもするし、一対一で正面から正々堂々と戦おうともする。
魔術師の戦いは、とにかく無駄が多いのだ。
なのにクロイツェフにはそれが全くない。自らの目的のために手段を選ばない。
まるで機械だ。心が欠落しているように見えてならない。

「おかしいよ」

人間兵器の如き少女を前にして、それでも火野の態度は変わらない。

「おかしいんだ、何でこんなことになってるんだ」

力を失い、投げ出したままの手足も動かさず、ぶつぶつと呟き続ける。
マズイ。このままでは有益な情報を聞き出す前に、火野が力尽きてしまう。

「クロイツェフ、待ちな――」
「ああ、ダメダメ」

救いの声が届いたのは、その瞬間だった。
慌てて、振り向く。そこにいたのは、一人の少女だった。

「美琴……」

突然のことに、頭が真っ白になる。
そうして突っ立っていると、美琴はニコリと微笑んだ。

「大丈夫」

そう言って私の脇をすり抜けると、美琴はクロイツェフの横に進み出た。

「この手の輩に暴力で訴えても、なんにも出てこないわよ」

美琴はクロイツェフの顔を見た。クロイツェフも美琴の顔を見た。
互いに互いの顔を観察するように、二人は視線を合わせた。

「問二。では、どのような方法が的確なのか」
「私に任せてくれる?」
「問三。それに対する私のメリットはあるか」
「逆に訊くけど、アンタのやり方でホントにコイツの口を割れると思う?」

その問いに、クロイツェフは黙り込んだ。
沈黙は多分、七秒ほど続いたと思う。

「……賢答。その問いかけに感謝する」

応じる声に、やはり感情は無かった。












「この辺でいいか?」
「うん。ありがと」

私達は当麻の家から外へ出た。
火野は自力では立つことも出来なかったので、当麻が担ぎ出してくれた。

「美琴」

神裂さんの声。

「お願いします」

振り向き、私は力いっぱい肯く。


さて、ここからが本番だ。
まずは火野が『御使堕し』の実行犯じゃないことを証明する。
どうして火野が誰とも入れ替わっていないのか。その謎を解き明かす。


爪の先から火花を散らせる。
抑えていた能力は、家を出てすぐに解放している。
電気を生み出し、自在に操る能力。


私はコンクリート塀に寄りかかる火野の肩を掴んだ。
火野に強烈な電撃を浴びせるためじゃない。
右手に帯びる電気はあくまで微弱なもの。
痺れはおろか、痛みすらも感じないくらい。
電気は火野を傷つけるために流してるんじゃない。
私と火野の間に、電気を介した回線を繋げる。
そう、口を割らないなら、火野の脳に直接訊き出せばいいだけ。


こんな芸当、木山春生と戦う前の私だったら思いつきもしなかった。
あの時は単なる偶然だった。でも、出来たことに変わりはない。
一度やってみせたことが、もう一度やれないはずがない。


電気信号に変換した脳波の波形パターンを、火野のそれと合わせる。
流し始めた時は乱れていた電気信号が徐々に落ち着いていき、やがて二つの脳波は一定のリズムを取り戻す。

「ねえ」

火野の顔を覗き込んで、私は訊ねた。

「エンゼル様って何なの?」
「ああ、エンゼル様、エンゼル様……」

唾液の溢れる口から零れる、不気味な呪文。
同時に、とある記憶が私の頭の中に直接流れ込んでくる。


怯える女性。泣き叫ぶ子供。命乞いをする老夫婦。
みんながみんな、血に濡れていく。見るも無残に切り裂かれていく。

『エンゼル様は、いつも正しい』

記憶の中で、火野は語った。

『だから殺した、エンゼル様の望むままに』

自分がどれだけエンゼル様に尽くしているのか。

『エンゼル様、いつも私の心の中にいる、私が望めば何でも答えてくれる』

どれだけエンゼル様に感謝しているのか。

『エンゼル様、ずっとずっと従っていればきっと私は幸せになれる』

そして、どれだけエンゼル様を崇拝しているのかを。

「手を止めなさい、火野神作」

神裂さんの鋭い声に、はっと我に返る。


火野が右手を動かしている。ビクビクと、イモムシみたいに。
折ってしまいそうな力で人差し指を押しつけ、床に文字を書こうとしている。
とは言え、コンクリートには何一つとして写らないんだけど。

「これは警告ではなく威嚇です。従わねば刀を抜きます」

刀の柄に手を添える神裂さん。
それでも火野の手は止まらない。

「ひっ、ぃひっ。止ま、止まらないんだ。エンゼル様は止められないんだ」

おかしい。火野は全くの本心でそれを言っている。
回線を繋いでいる今なら、火野の心情が手に取るように分かる。
神裂さんの脅迫に怯えきっている。なのに文字を書こうとする手は止まらない。まるで右手だけが別の生き物みたい。


……ちょっと待った。


火野の脳波の流れを辿ってみる。
右手の部分だけ、電気信号が流れていない。
空いている手で火野の右手を掴む。微弱な電気を流す。波長を合わせる。すると、

『殺せ。殺すのだ』

頭に直接、届いた。

『我に捧げよ。望む全てを』

火野神作であって、火野神作ではない声が。

『さすれば示そう。汝の道を』

火野神作のものとは異なる、電気信号が。


そうか、そういうことだったんだ。

「二重人格」
「え?」

ポツリと呟いた単語を、しかし神裂さんは聞き逃さなかった。

「神裂さん」

視線を火野に向けたままで、私は訊いた。

「『御使堕し』の副作用は、外見と中身が入れ替わることでしたよね」
「え、ええ」
「じゃあ、二重人格の場合はどうなるんです?一つの外見の中に二つの中身があるってカウントされるんですか?」

え、と驚きの声。
だからですね、と私は振り返る。

「火野神作の身体の中で、二つの人格が入れ替わっている可能性ってあります?」

返事はない。その場にいる全員が、言葉を失っていた。

「火野神作という身体の中にある二つの人格が入れ替わる。これだと見た目は火野神作のまんまですよね」

立ち上がり、私は一つの真実を告げる。

「火野神作も『御使堕し』の被害者。入れ替わってないように見えるのは、単に併せ持つ二つの人格が入れ替わっただけ」












美琴の言葉に、全員が固まっていた。
ちなみに火野神作は気絶している。
激痛のためか。それともエンゼル様がもう一人の自分だったという事実が余程応えたのか。
いや、そんなことはどうでもいい。瑣末なことだ。
問題は『御使堕し』の犯人を追う手がかりが完全に失われてしまったことだ。


無駄に使ってしまった時間の、何と多いことか。
手詰まりとなった今、一体何から手をつければいいんだろう?
私達に残された時間は、あとどれくらいあるんだろう?
分からない。もう、何もかも分からない。

「神裂さん」

正面から声。
顔を上げると、すぐ側で美琴が立っていた。
右手をポケットに突っ込む。
ポケットから出てきた時、その手は何か持っていた。どうやら写真のようだ。

「これ、見て下さい」

ヒソヒソ声で、美琴は言った。
持っていた写真を私に手渡した。そのはずだった。

「え?」

美琴の動きが止まった。
美琴は手を伸ばしていたし、私も手を伸ばしていた。
あと少しで写真に私の指が触れようかという瞬間、それは忽然と姿を消した。

「解答一、自己解答」

写真を手にしたクロイツェフが、いつもの平坦な声で零した。

「標的を特定完了、残るは解の証明のみ」

ふう、と溜め息。そして写真を握り潰し、

「私見一。とてもつまらない解だった」

言うや否や、どこかへと走り去っていく。

「クロイツェフ!待ちなさい!」

慌てて叫ぶが、彼女は気にも留めない。
あっと言う間に、その小さな背が見えなくなる。


標的。彼女は確かに、そう言った。
美琴から奪い取り、握り潰した写真。
そこに一体、何が写っているというのだろう?
クシャクシャになった写真を拾い、皺を伸ばして広げてみる。そこには、

「なっ……!?」

二つの異常が、あった。


一つは、ぼんやりと霞む女性の姿。
目を凝らすと、それは銀色に輝く髪を持つ親友のようにも見える。
『御使堕し』がついに、記録への干渉を始めたのだ。このままでは近いうちに術式が完成してしまう。


そして、もう一つ。

「入れ替わって、ない……?」

若かりし日の上条刀夜が、写っている。
記録と記憶が一致した状態で。『御使堕し』の影響を全く受けることなく。


その写真に写るのは、三人の親子。
上条詩菜の記録が、あの子と入れ替わりそうになっているのは分かる。
上条当麻の記録が、『幻想殺し(イマジンブレイカー)』によって守られているのも分かる。


しかし上条刀夜は?どうして彼は、誰とも入れ替わっていない?

「そう、だったんですか」

認めたくない事実だった。
それでも、もう可能性はそれしか残っていなかった。


世界中の人間を巻き込んだ『御使堕し』。
その大魔術を引き起こした犯人は、上条刀夜だったのだ。











[20924] 第17話 御使堕し編⑮
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/06 00:54
「そんな……」

自分で思っていたよりも弱々しい声が出てしまった。

「本当なんですか、それは……」

美琴は黙り込んでいる。

「そんな、バカな……」

冷め切った表情で、私のことをじっと見つめている。

「本当に、アレが……?」

自分の声なのに、そんなふうに聞こえない。
一体、誰が喋っているんだろう?これは本当に私の声なのか?

「アレはロシア成教のシスター、サーシャ=クロイツェフと入れ替わっていました」

ロシア成教。サーシャ。
私は美琴が吐いた言葉を何度も何度も頭の中で繰り返した。
その意味を掴もうと足掻いた。理解しようとした。
けれど見たこともない術式を目の前にした時と同じように、答えどころか、その解き方さえも分からなかった。

「『ミーシャ』って、ロシアでは男性に付けられる名前なんです」

それは知っている。
しかし、別段気にも留めていなかった。
他宗派の者が名乗る名など、どうせ当てにならないのだから。

「神裂さん、知ってます?アレには性別なんてないんです」
「あ……」
「アレにとって、名前っていうのは自分が神に作られた目的そのもの。他人と交換できるワケがないんです」

一つの真実が導き出されようとしている。
真実。それは望んでいたものだった。
真実。何よりもそれを欲していた。
しかしいざ目の前に現れようとしているそれは、棘だらけだった。


私はただぼんやりと美琴の顔を見つめ続けた。
美琴の方も私から目を逸らさなかった。
私の瞳を、その奥底を、じっと覗き込んできた。
美琴の瞳には希望も絶望も宿っていなかった。


しばらくして、私はようやくその真実を口にすることが出来た。

「アレが『神の力』。常に神の左手に侍る双翼の大天使」

やっぱり自分の声には聞こえない。
私は辺りを見回した。ここがどこだか急に分からなくなったのだ。
ここは……閑静な住宅街だ。そう、そして上条宅の前だ。
振り返り、家のドアを見る。何の変哲もない。蹴飛ばすだけで簡単に破れそうな、ちゃちなドア。
私には何も出来ない。この中に儀式場があるはずなのに、正確な位置を特定することさえ出来ない。


そうしてぼんやりしていると、

「神裂さん」

すぐ横で声がした。美琴だった。
その手にはケータイ。誰かと連絡でも取り合っていたんだろうか。

「今タクシーを呼びました。十五分もあれば来るそうです」
「え……」
「追いかけましょう」

美琴は真っ直ぐに私を見据えた。
その瞳には希望も絶望も宿っていなかった。
ただ、意志の光が輝いていた。

「大丈夫」

一切の迷いもなく、言った。

「まだ間に合います」

美琴の心は折れていない。まだ、諦めていない。
風が吹き、私の髪が揺れた。私の心も揺れた。


今、この瞬間、クロイツェフは上条刀夜のもとへ向かっている。
そうだ、私達はまだ何も失っていない。間に合う、そう思った。今ならば、まだ。

「美琴」
「何です?」
「急がないといけませんね」
「ええ。思いっきり飛ばしてもらわないと」
「いえ」

クロイツェフの走り去った方向を見つめながら、言葉を続ける。

「それでは遅過ぎます」

そう、車では遅過ぎる。
アレが天使であるのなら、常人の速さを想定してはいけない。
人の常識は、アレには当てはまらない。


では、どうする?
簡単なことだ。ならばこちらも、人の規格から外れるまで。
神に選ばれし者、『聖人』の力を解放するまで。
己の身と心に刻みつけた、もう一つの名と共に。
己の人生を投げ打ってでも叶えたい、たった一つの願いと共に。

「――『救われぬ者に救いの手を(Salvere000)』」

運命など変えられないと思っていた。
実際には、そんなことは出来ないと考えていた。
でも、今は違う。出来る。いや、変えるべきなんだ。

「神裂さん」

私の変化を感じ取ったのだろう。戸惑いつつ、美琴は言った。

「何を?」

私はニッコリと笑った。

「先に行きます」

そして、疾走を開始した。












警察と機動隊が敷く包囲網の外に出て、タクシーを待つ。
二人並んで、コンクリートの壁にもたれかかる。
二人分の長い影が、私達から見て右手の方向にスッと伸びていた。


タクシーの到着を、私達はただ待った。
辺りはしんと静まり返っている。
当麻は何も話さない。私も何も話さない。


……どのくらい経っただろう。
重い沈黙の中、二人きり。タクシーはまだ来ない。
ケータイで時間を確認する。神裂さんがいなくなってから、まだ五分と経っていなかった。


私と当麻の距離は十センチもないだろう。
だけど当麻は話さない。私も話さない。
二人の人間がこんなに傍にいて会話がないのは落ち着かない。
そんな気まずい沈黙は、いつもだったら、ちっとも苦しくない時間だった。
でも、今だけは違った。沈黙が痛かった。
訊きたいことがあるのに、口に出せない。そんな自分を責めているみたいで、痛かった。


上条一家の写真を見てから浮かんでしまった、一つの疑問。


訊きたい、でも、訊きたくない。
だって、もし思っている通りだったら、当麻は――

「――当麻!」
「はい!?」

無意識の叫びに、当麻は驚いて壁から離れた。

「どうした、何かあったか?」

こちらを覗き見る瞳に私が映っている。
瞳の中にいる私は震えている。


当麻、どうして震えてるの?それとも……震えてるのは、私?

「……ねえ、覚えてる?」

俯いて、当麻の顔を見ないようにする。

「私達の、最初の出会い」

声が震えていた。

「どうしたんだよ、急に」

当麻の声も震えているように聞こえた。

「そんなの、覚えてるに決まってるだろ」
「だよねえ。当麻にとっちゃ、それこそ不幸な出会いだったもんね」
「まあな」

そこで当麻の言葉が切れた。
待ってみたけど、でも、当麻は黙り込んだままだった。
ちらりと、当麻の顔を盗み見る。
思いつめたような顔をしていた。そう、私と同じように。

「当麻の不幸って、ホント筋金入りだよね」

私は言った。

「真っ昼間から不良に絡まれるとか。全く、私が助けに入ってなかったらアンタ、今頃どうなってたのかしらねえ」

嘘だ。こんなの、全くのデタラメだ。
本当は不良に絡まれていたのが私で、助けに入ってくれたのが当麻だった。


今思い出しても、最悪の出会いだった。
見ず知らずの人間を助けようとする、その姿勢には素直に感心した。
だけど、やり方がちょっとばかり気に食わなかった。
だって当麻のヤツ、私を子供扱いして不良を諌めようとするんだもん。
当然の仕打ちとして、不良もろとも電撃を浴びせてやった。浴びせてやったつもりだった。
だけど当麻は無事だった。何事もなかったかのように、その場に立ち尽くしていた。


それが始まり。上条当麻という人間を、私が執拗に追いかけるようになったきっかけ。

「感謝してよね。アンタの身体と財布、守ってあげたんだから」

お願い、早く否定して。
あの日から、まだ二ヶ月しか経ってないじゃない。
覚えてるに決まってるって、言ってくれたじゃない。
だからお願い、否定して。私の嘘を指摘して。
そうじゃなきゃ、だって、そうじゃなきゃ……。

「ああ、分かってるって」

なのに現実ってヤツは、いつだって残酷で。

「ありがとな。あの時は助かったよ」

へらへら笑いながら、当麻は話を合わせる。合わせようとする。


逃げたかった。逃げ出したくてたまらなかった。
耳を塞ぎ、声を張り上げ、言葉という言葉を消し去りたかった。
でも、出来なかった。だって、もう知ってしまったから。
耳を塞いでも、声を張り上げても、何も変わりはしないから。だから、出来なかった。

「やめて」

私は呟いていた。

「分かったから」

震える声で呟いていた。

「当麻が記憶喪失だって、分かったから」

返事はなかった。
傍にいるはずの当麻は、何も言葉を返してくれなかった。
そうだった。やっぱり、そうだった。当麻は記憶を失っている。
だから刀夜さんが誰とも入れ替わっていないことに気づかなかった。ううん、気づけなかったんだ。

「何で」

私は呟いた。

「何で黙ってたの?」
「え……」
「何で教えてくれなかったの?魔術師のこととか、記憶喪失のこととか」
「……」
「ねえ、何で?何で頼ってくれないの?」

私、何を言ってるんだろう。当麻はなんにも悪くないのに。


当麻はただ、守ろうとしていただけ。
私達姉妹だけじゃない。インデックスとも、きっとそういう繋がりなんだろう。
救いを求める人全てに、手を差し伸べてきただけ。
厄介事を見つけては、我先にと首を突っ込んで。
自分の身にどれだけ危険が伴っても、そんなの、知ったこっちゃなくて。


自らの愚かさに、頭の芯が熱くなった。
現実を知らず、知ろうともせず、ただ守られていた自分をブチ殺してやりたかった。

「もっと私を、頼りにしてよ」

無知は罪悪だ。
知らないからといって、許されるものじゃない。

「遠慮なんて、しないでよ」

私はずっと俯いていた。
震えそうになる手に、ぎゅっと力を込めながら。
守られるだけなんて、もうイヤだ。
私だって、当麻を守りたい。当麻と同じ場所に立っていたい。当麻とずっと、ずっと一緒にいたい。

「じゃあ、一ついいかな」

当麻の声が聞こえた。

「え?」

私は顔を上げた。
唇に、何かが押し当てられた。
それは柔らかくて、温かくて。そして、どうしようもなく優しかった。


唇が離れたあと、そのままぎゅっと抱きしめられた。
当麻の腕の中、私の心臓は跳ね回っていた。

「美琴」
「ん」
「あんなこと言われたら、俺、ホントに遠慮しないぞ」

言い終わってしばらく経ってから、当麻は腕の力を緩めた。


私は顔を上げ、当麻を見つめた。

「いいよ」

私はくすくす笑った。

「当麻だったら許してあげる」
「そっか」

当麻もくすくす笑った。
そのまま、おでこをくっつけて、私達はくすくす笑い続けた。











[20924] 第18話 御使堕し編⑯
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/06 00:53
最短距離を走って『わだつみ』に到着。
水平線に先端のみ触れた太陽が、赤々と輝いている。
世界を茜色に染め上げている。


身体が少しだるかった。
参りましたね。私はそう思った。
走っていた時間はおそらく、十分にも満たない。
にも関わらず、この有り様とは。
身体がだるいのは、明らかに悪い兆候だった。
だが、私は止まらなかった。止まっている暇など、あるはずがなかった。


海側の入口から中に入る。

「……?」

おかしなことに気づく。
静か過ぎる。人の気配が全くない。


クロイツェフ……は、まだ辿り着いていないようですが。


踵を返し、私は歩き出す。
浜辺に向かって、歩き出す。












上条刀夜は夕暮れに染まる浜辺を歩いていた。
その顔には疲労が色濃く見える。流れる汗で全身が濡れてしまっている。
今にも止まってしまいそうな足取りで。それでも上条刀夜は足を引きずるようにして浜辺を歩いていた。
その姿は魔術師には見えなかった。戦闘のプロにも見えなかった。

「神裂君!」

疲弊し切っているはずなのに、それでも声を張り上げる。

「当麻を……当麻を、見かけなかったかい!?」

必死の形相で、こちらに近づいてくる。

「夏バテだから海の家で休んでいると言っていたんだ。でも、いないんだ」

その姿は、一般人のそれと同じだった。

「どこにも、いないんだ」

迷子になった子供を探す、父親の姿だった。


一人で先に来たのは、やはり正解でしたね。
恐らく上条当麻は耐えられまい。上条刀夜が尋問される姿に。
『御使堕し(エンゼルフォール)』を引き起こした犯人はお前だろうと、問いただされる姿に。
だからこそ、私がやらなければならない。たった一人で『御使堕し』を止めなければならない。
私だったら大丈夫。たとえ上条刀夜と敵対することになっても。彼の願いを妨げてしまい、恨まれることになっても。


上条当麻は自らの命をかけて、私の友を救ってくれた。
美琴は大いなる優しさをもって、私の心を救ってくれた。


だから、そう。だから今度は私の番。
私の全てをかけて、上条刀夜を救ってみせる。
上条刀夜を日常の世界に連れ戻す。


私は本物の魔術師だ。
その力も、覚悟も、そして恐さも知っている。
ただの子供想いな父親である彼が、私達の世界にこれ以上関わってはいけない。

「何故です?」

私は言った。上条刀夜の幻想を終わらせるために。

「何故あんなものに頼ってしまったんです?アレは貴方の手に負えるような代物では決してないというのに」

刀夜氏の顔から、表情が消えた。

「何を、言ってるんだ、神裂君。それより」
「とぼけてないで教えて下さい。どうして魔術に手を出してしまったんです?」

上条刀夜が目を逸らした。咳払いをした。沈黙が続いた。
まるで私が不吉な呪符であるかのようだった。

「答える前に」

低い声で、刀夜氏は言った。

「一つだけ訊かせてほしい」
「何です?」

顔を上げて、呟く。

「当麻は無事なのか?」

空と海、二重の夕暮れの中、燃えるような茜色の世界で問う。

「どこか痛めたりしてないか?」

この場において、あまりに不釣り合いな言葉だった。
自らの身に危険が迫っている。にも関わらず、彼はまだ上条当麻の、息子の身を案じていたのだ。

「ええ、問題ありません」
「そうか。ならいいんだ」

わずかに安堵の息を吐く刀夜氏。

「さて、と。何から話そうか」

私は黙っていた。
訊きたいことは山ほどあったはずなのに、肝心の言葉が出てこなかった。
それでも、刀夜氏から視線を外すことだけはしなかった。
いかなる時も父親であろうとする男の顔を、私はじっと見つめた。

「あんな方法で願いを叶えようとは。バカなことだとは、私自身も思っていたのだがな」

やがて、刀夜氏は語り出した。

「なあ、神裂君。当麻はね、私達と共にこちらで過ごしていた頃、周りの人達からこう呼ばれていたんだ」

そこで一度、刀夜氏は言葉を切った。


たっぷり五秒は数えられるほどの間を置いて、彼は再び口を開いた。

「疫病神、とね」

吐き出すように、言った。

「当麻は生まれつき不幸な人間だった。だからそんな呼び方をされたんだろう。だがね、それは何も子供達の悪意の無いイタズラだけではなかったんだ」

表情を殺して、彼は続ける。

「大の大人までもが、そんな名で当麻を呼んだんだ。理由などない。原因などない。ただ不幸だからというだけで、そんな名前で呼ばれていたんだ」

刀夜氏の声には抑揚が全くなかった。

「当麻が側にやってくると周りまで不幸になる。そんな俗話を信じて、子供達は当麻の顔を見るだけで石を投げた」

いや、それだけじゃない。
刀夜氏には、本当に何もなかった。

「大人達もそれを止めなかった。当麻の身体に出来た傷を見ても、悲しむどころか逆に嘲笑った。何でもっとひどい傷を負わせないのかと、急き立てるように」

無表情という仮面を被り、それでも尚、押し殺すことの出来ない怒り。
彼にはただ、それしかなかった。そして、

「当麻が側から離れると、不幸もあっちに行く。そんな俗話を信じて、子供達は当麻を遠ざけた」

その矛先は上条当麻に危害を加えた子供達にではなく、

「その話は大人までもが信じた。知っているかい、神裂君。当麻は一度、テレビに出たことがあるんだ。生まれつき不幸に付き纏われているというだけで、カメラに好き勝手撮られた挙句、霊能番組とかこつけて化け物のように取り扱われただけなんだがね」

上条当麻の不幸を面白半分にからかった大人達にでもなく、

「恐かったはずだ。痛かったはずだ。辛かったはずだ。それでも私には何も出来なかった。自分の息子が苦しんでいるのに、何も出来なかったんだ」

息子を不幸から守り切れなかった、彼自身に対してのみ向けられていた。

「当麻を学園都市に送ったのもそれが理由だ。私はね、恐かったんだ。幸運だの不幸だのが、じゃない。そんなものを信じる人間が。さも当然のように当麻に暴力を振るう現実が」

刀夜氏は語り続ける。

「恐かったんだ。あの迷信が、いつか本当に当麻を殺してしまいそうで。だからこそ、そんな迷信の無い世界に息子を送りたかった」

顔色一つ変えずに。

「しかし、あの科学の最先端でさえ、当麻はやはり不幸な人間として扱われてきた。当麻から届いた手紙を読むだけで分かったよ。以前のような陰湿な暴力はなかったようだが」

自らの内に蠢く激情を必死に抑え込んで。

「だがね、それで私は満足できなかった。当麻に付き纏う不幸そのものを、私は打ち殺したかった」

そうか、それが貴方の理由なんですね。

「常識など通じず、科学の最先端手法も効果はなし。となれば、残された道は一つしかない。私はオカルトに手を染めることにした」

それで『御使堕し』なんですね。


もっと下らないものだと思っていた。
人の位に堕ちた天使を捕らえて使い魔に仕立てるとか。
天の位に出来た階位を横取りするとか。
自分勝手な野望を聞かされるものだとばかり思っていた。
けれど、耳に届いたのは、下らないものなんかじゃ決してなかった。
別の、全く予想もしない言葉だった。


天使など、どうでも良かったのだ。
刀夜氏が求めたもの。それは本来であれば副作用に過ぎない入れ替わりの方だったのだ。
上条当麻と他の誰かが入れ替わる。そうすれば『不幸な人間』という肩書きも、同時にその誰かと入れ替わる。
確かに、そうすれば上条当麻の背負っているものはなくなるだろう。


でも違う。刀夜氏は誤解している。
そんなものに頼るまでもなく、既に上条当麻は……。


話を終えた刀夜氏は、そのまま黙り込んでしまっている。
その目は空間のどこかを、いや……ここではない場所を、見つめていた。

「確かに上条当麻は不幸です」
「ああ」

視線を動かすことなく、刀夜氏は肯いた。

「不幸でなければ、当麻はもっと平穏に暮らせた。幸せになれたはずなんだ」

ちっ、と私は舌を鳴らした。

「本当にそうでしょうか?貴方の思うように、彼も考えているんでしょうか?」
「……どういう意味かね?」

刀夜氏の殺気立った問いには答えず、私は海に目を向けた。
とうとう水平線から半分しか顔を出せなくなった太陽が、一日の終わりを惜しむかのように輝いている。


ゆっくりと視線を戻すと、刀夜氏は弱々しい目でこちらを見ていた。

「出会ったばかりの頃の上条当麻は、いつも周りに対して気を遣っていました。笑っていても、それは本心などではなく、自分以外の誰かを安堵させる手段に過ぎなかったんです。おかしいですよね、あの年頃の少年が笑えないなんて」

でも、と一呼吸置いて続ける。

「彼、美琴と一緒だと笑うんです。それはもう、本当に良い顔で。今じゃしょっちゅう笑っています」
「……」
「もちろん、それで彼の不幸が取り除かれたワケではありません。厄介事に巻き込まれるのも日常茶飯事です。でも、そのおかげで彼は出会えたんです。どんな不幸でも一緒になって笑い飛ばしてくれる、そんな女の子と」
「だから当麻は幸せだと。そう言いたいのかね?」

訊ねる声。けれど弱々しい声。
もちろん一片の迷いもなく、私は言い放った。

「世界で一番幸せですよ、あの二人は」
「あっさりと言ってくれるものだ」
「だって、そうにしか見えませんから。思い出してみて下さい。再会した彼は、びっくりするくらい良い顔をしていませんでしたか?」
「……」
「どうです?」
「……」
「していませんでした?」

刀夜氏は答えなかった。
ただ肩を落として黙り込んでいる。
そんな姿をしばらく眺めたあと、私は目を閉じた。
そうして訪れたのは闇ではなかった。


光、だった。


太陽のような力強い光じゃない。
闇夜を淡く照らし出す月のような、優しい光だった。
私には見える。そんな光の中を、肩を寄せ合って歩く少年と少女の姿が。
二人とも、幸せそうに笑っている。


どこまでも行きなさい。私は呟いた。
行ける所まで。大丈夫。貴方達ならきっと、どこまでだって行けます。


目を開け、再び刀夜氏を見る。彼は笑っていた。

「何だ」

気の抜けたような声。

「当麻のヤツ、幸せになれたのか」

ぎこちなく笑っていた。


ええ、と躊躇うことなく肯く。

「バカだな、私は。それじゃ全く逆効果だ。私はみすみす、自分の子供から幸せを奪おうとしていたのか」

刀夜氏は笑っていた。
無表情の仮面を剥がし、笑っていた。


もう、大丈夫。


心の中で、小さく安堵の吐息を洩らす。
刀夜氏が『御使堕し』を引き起こす必要性は、これで完全に無くなった。
あとは早急に儀式場の正確な位置を訊き出し、破壊するだけ――


その時、刀夜氏が何気なく言った。

「といっても、何が出来たワケでもないがな」
「え?」
「全く、私もバカだ。あんなお土産を収集した程度で何かが変わるはずもない。オカルトなんぞに何の力もない。そんなこと、分かっていたはずなのに」

一瞬、自分の耳を疑った。


今、彼は何と言いました?
話を根底から覆すようなことを口走りませんでしたか?
いやいや、焦ってはいけません。ここはひとまず様子を見て、それから訊ねてみましょう。
うん、それが最善です。さっきの言葉も、ただの聞き違いかもしれませんし。


胸の内に妙なざわめきを覚えながら、私は刀夜氏に歩み寄った。と、刀夜氏が振り向き、言った。

「もう出張先から変な土産を買って帰るのはやめにするよ。大体、土産屋に置いてある家内安全やら学業成就やらといった民芸品を買い漁った程度で不幸が治るはずもない。菓子の方がまだ母さんも喜ぶ」

聞き違いでも何でもなかった。


ちょっと待って!待って下さい!


叫びそうになるのを、必死で堪えた。

「あの、一つ確認させて下さい」

その恐ろしい可能性に無理やり目を背けながら、私は訊いた。

「貴方には、私が女に見えますか?」
「ん?どういうことかね?」
「お願いです。正直に答えて下さい」

首を傾げつつも、刀夜氏は告げた。

「昨日の件、まだ引きずっているのかい?気に病むことはない。言葉遣いがどうであろうと、君は立派な男だよ」

その恐ろしい可能性は、一瞬にして真実へと様変わりした。


上条刀夜の顔は、嘘を吐いているようには見えない。
刀夜氏は、私が男だと本気で信じている。だが、それだとおかしい。
『御使堕し』を引き起こした犯人自身が、その影響を受けるはずがないのだから。


ということは、上条刀夜は……いや、でも、そんな……。


考えがまとまらない。
何から考えればいいのか分からない。


頭を抱えたい衝動に駆られた、そんな時、


サクッ


砂を踏む音が唐突に聞こえた。

「……クロイツェフ」

一体いつからそこにいたのか。
隠れる場所なんて全くない砂浜に。
赤いシスターの姿を借りた主の使いが、悠然と立っていた。











[20924] 第19話 御使堕し編⑰
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/06 00:59
「追いつかれてしまいましたか」

夕暮れの砂浜で、私は血の色を連想させる赤い外套を羽織ったソレを見つめる。


白く、折れてしまいそうなほど華奢な身体。
腰の辺りまで伸びた、緩やかにウェーブする金色の髪。
だらりと下げられた右手にはL字の釘抜き。
けれど、ソレはロシア成教に所属する少女ではない。
目の前のソレはクロイツェフではなく、ただ、天界より堕ちてきた神の繰り人形に過ぎなかった。


無言のまま、ソレは刀夜氏を見つめている。
互いの距離は、そう。ちょうど十メートルほど。

「知ってますよ、貴女の――」

私は呟き、ソレは砂を蹴った。
ソレは刀夜氏の頭上へと跳躍して、その頭部に釘抜きを振り下ろす。
きぃん、と金属と金属が衝突した。刀夜氏の脳天を狙った釘抜きと、防ぎに入った私の刀が衝突する。


ほんの一瞬、交錯する視線。
敵意に満ちた私の瞳と、感情の消滅したソレの瞳。


表情一つ変えず、ソレは大きく跳ねた。
私から逃れるように後方に跳んで、海面に降り立つ。
一度の跳躍で二十メートルも離れたソレは、水の上に当然のように降り立ってみせたのだ。
明らかに、人間という存在から逸脱している。

「やはり」

と、私は言った。

「それが貴女の正体ですか」

冷たい私の声に答える代わりに、ソレは釘抜きを天にかざす。瞬間。
茜色に染まる空が、星の散らばる夜の空へと切り替わった。
頭上には禍々しいほどに巨大な蒼い満月。


全く、やりたい放題ですね。
今の月齢では半月が妥当だというのに。
まあ、これも何かの縁です。せっかくですし貴女の正体、暴き切ってみせましょうか。


おそらく、この夜は自身の属性強化のため。
そして月を主軸として置くところを見ると……ああ、なるほど。心得ました。
水の象徴にして青を司り、月の守護者にして後方を加護する者。
旧約においては堕落都市ゴモラを火の矢の雨で焼き払い、新約においては聖母に神の子の受胎を告知した者。


そんな彼女が上条刀夜の命を狙う理由は、まあ、考えるまでもありませんね。
『御使堕し(エンゼルフォール)』は天使を地上へ落とす術式。
ならば、落とされた天使が元の場所へ帰ろうと思うのは当然のこと。
今まで我々と行動を共にしていたのは、標的を見極めるためといったところでしょうか。
『御使堕し』の術者を、確実に殺さねばならない相手を見極めるため。

「殺す、ね」

目を細め、激しい嫌悪と共に呟く。


つまらない。本当につまらない。
そんなつまらない手法では、私の目指す到達点には遠く及びません。

「残念ですが、貴女は上条刀夜を殺せません」

刀を鞘に戻し、青を司る大天使に告げる。

「私がいますから」

答えは返ってこない。
大天使は黙ってこちらを眺めている。
彼女は動かない。そう、彼女自身は指一本動かしていない。


動き出したのは、彼女の周囲だった。
天使の背後にあった海水が突如として噴き上がり、彼女の背に殺到した。
膨大な量の海水は、瞬く間に巨大な氷の翼を形成していく。
五十メートルを優に超えているであろう翼が何十と集まり、彼女の背後でバサリと広がる。
それは何人にも越えられぬ壁にも見えた。あまりにも巨大な水晶の扇のようにも見えた。


ふむ、天使の魔力が隅々まで行き渡った氷の翼ですか。
あんなもの、一本でも振り下ろされたら一巻の終わりです。
おそらくは砂浜ごと、あっけなく潰されてしまうでしょうね。


なんて考えている内に、翼が一本、天高く振り上げられる。
一瞬の間を置いて、私の頭上へと真っ直ぐに振り下ろされる。
その背に庇う刀夜氏共々、何の躊躇もなく押し潰される。

「心外ですね」

押し潰される、はずだった。


鞘より引き抜いた刀で、私は氷の翼を横一線に切断した。そして、完全に殺しきった。
込められた魔力ごと断ち切られた翼はただの氷の粒と化し、夜の闇へと消えていった。

「この程度で止められるなどと、本気で思われていたなんて」

天使が翼を振るう。右から、左から、正面から。

「忘れましたか、私の名を」

次々と襲いかかって来る翼を、私は悉く切り払う。

「我が名は神裂」

天使はただ黙って私を見据える。
斬り飛ばした翼が、新たに海水を取り込んで元の形と大きさを取り戻していく。


応えるように、私は腰に提げた刀の柄に手を触れる。

「神を裂く者なり」

その言葉を皮切りに、命の削り合いが始まった。












戦局は固定されていた。
天使の操る氷の翼の前に、刀夜氏を背中に庇いながら戦う私は防戦一方だった。
迫りくる数十もの氷の翼を、数千もの氷の破片を打ち払い続ける。
しかし斬っても斬っても、翼はあっと言う間に再生してしまう。


攻撃が止むことはなく、むしろ更に激しくなっていく。
百分の一秒単位の速さで次々と襲いかかってくる凍える翼。
瞬き一つですら自殺行為になりかねない状況。
後ろに庇う刀夜氏の無事を確認したいが、それが叶うはずもない。


天使は攻撃の手を緩めない。
数十本もの翼を別々の生き物のように動かして、より一層凄まじい乱撃を繰り出す。
だが、逆に言えばそれだけだった。天使には氷の翼しかなかった。
彼女ほどの魔力の持ち主なら、もっと別の攻め方が出来るはずなのに。
もっと簡単に私を葬り去る術があるはずなのに。


どうして氷の翼にこだわる?
どうして他の手を使ってこない?


ひょっとしたら、とがむしゃらに刀を振るいつつ考える。
使わないのではなく、使えないのかもしれない。
人の身体では、そのあまりに強力過ぎる魔力を扱いきれないのかもしれない。
だとすれば。そうだとすれば勝機が見えてくる。


私は氷の翼を斬り落とし続けた。
海の家に辿り着いた頃より、ずっと身体がだるい。
身体が腐っていくような、壊れていくような感覚。
世界中を探しても二十人もいない、神に選ばれた『聖人』のみが所持を許される聖痕。
その強大過ぎる力を酷使した代償が、私の全身を蝕み始めている。


それでも止まるワケにはいかない。
このまま持久戦を続け、天使の魔力を奪っていく。
私の身体と、天使の魔力。先に音を上げるのは、果たしてどちらか。と、不意に重圧が軽くなった。
絶え間なく続いていた攻撃の手が、遂に緩んだのだ。


勝ったと思った。思ってしまった。
だが、次の瞬間。私の目に映ったのは希望とは全く正反対の代物だった。


頭上の月が、一際大きく蒼く輝いた。
眩い月の周りに生まれる、光の輪。
輪は満月を中心にして一瞬の内に増殖し拡散、夜空を圧倒的なまでの光で埋め尽くした。
更に輪の内部に光の筋が走り回り、複雑な紋章が描かれていく。


魔法陣。それも単に巨大なだけではない。


目を凝らし、絶句する。
ラインを描く光の粒一つ一つが、それだけで別の魔法陣を形成している。
水平線の向こうまで広がる何億もの魔法陣。
規則正しく描かれた陣が、更に巨大な魔法陣を築き上げている。


……何て、こと。


夜空に瞬く光の群れの下で、私は絶望に打ちひしがれた。
あの術式は、かつて堕落した文明を一つ丸ごと焼き尽くした火矢の豪雨そのものじゃないか。


彼女は正気なのだろうか。
ただ一人を狙うためだけに、こんなものを持ち出すなんて。


……いや、違う。


こんなものを持ち出す原因を作ったのは、私だ。
天使は神の命なしに人を殺せない。それでも天の位に戻るためには致し方ない。


彼女は必要最低限の犠牲で、天上へ戻るつもりだった。
自らを下界へ落とした張本人だけを始末して、それで終わらせるつもりだった。
だが、そこに私という邪魔者が介入してしまった。


半端な力では私を攻略することは出来ない。
そう判断した結果が、あの魔法陣。旧約に記されし神話上の術式。この世界を一掃する、滅びの光。


まただ。また私のせいで、みんなが不幸になってしまう。
神様に選ばれなかった人々を苦しめてしまう。
私のせいで。全部、私のせいで。
選ばれなかった人々から、私が幸運を奪い取ってしまったせいで。


天使が氷の翼を振り上げる。
数は三本。勢いをつけ、一斉に振り下ろすつもりなんだろう。


私は刀を構えない。
ただ突っ立っているだけ。


もう限界だった。
息が苦しい。目が霞む。身体が焼けるように熱い。
何より、これ以上自分が足掻くことに意味を見出せない。


このまま上条刀夜と共に殺されてしまえば、少なくとも一掃は止められる。
犠牲者はたった二人で済む。そんな考えが頭を過った、その時だった。


オレンジ色の閃光が、三本の翼を貫いた。
数秒遅れて、氷の翼は思い出したかのように倒壊を始める。
閃光の直撃を免れた他の翼を何本か巻き込んで、粉々に砕け散ってしまう。

「間に合ったみたいだな」

その声は、私の友を救ってくれた人のもの。

「ギリギリだけどね」

その声は、私の心を救ってくれた人のもの。

「……全く」

私は振り返った。

「遅かったじゃないですか」

少し離れたところに、一組の男女が立っていた。


寄り添うように、守り合うように。
上条当麻と御坂美琴が、そこにいた。











[20924] 第20話 御使堕し編⑱
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/05 22:47
全く、何てタイミングで駆けつけてくれるんですか。


目の端に滲んだ雫を慌てて拭う。
横目で大天使の様子を窺いつつ、走り寄る二人を迎える。

「状況は?」

手短に訊ねる美琴。

「最悪です」

私も一言で答える。
再会を喜び合っている時間はない。

「天使が正体を暴露した上、最悪のカードを切ってきました」

こうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。

「このままでは世界の半分以上が焦土と化してしまいます」

時間がない。無駄口を叩いている暇はない。

「でも、変わりませんよね」

そんな美琴の声。

「私達のやるべきことは、何も変わりませんよね」

私は黙り込んだ。
彼女と知り合ってからというもの、しょっちゅう、こんな調子だ。
美琴は思ったことを、思ったままに口にしているだけ。
だからこそ、それはいつだって真実に近くて。いつだって、私に勇気を与えてくれて。

「刀夜氏に術式を解除してもらう。それで全て解決します」

ですが、と私は付け加える。

「どうも刀夜氏には自身が『御使堕し(エンゼルフォール)』の術者であるという自覚がないようなのです」

え、と驚く声。

「ホントですか、それ」
「ええ」

私は肯いた。

「しかも『御使堕し』の影響を少なからず受けています」
「と言うと?」
「刀夜氏は私のことを男として認識しています」

美琴は難しい顔をした。


無理もない。専門家である私ですら混乱しているのだ。
魔術に関して素人同然である彼女が、この難問に対する答えを導き出せるはずがない。

「んー」

美琴は困ったような顔で唸った。が、わずか二、三秒の後。

「ま、いっか」

なんて、あっけらかんに言ってみせた。

「はい?」

思わず、間抜けな声を上げてしまう。

「悩んだところで答えなんか出てきませんし」
「いや、まあ、確かに」
「だったら、とりあえず動きましょう」

ね、と言って、無邪気な感じで見上げてくる。

「……」

あっさりと言葉に詰まった。
ぐるぐる色んなことを考えて、ようやく私は口を開くのに。
美琴は実に簡単に自分の言いたいことを伝えてくる。それも、きっちりと。


全く、敵いませんね。太刀打ちすら出来ません。
ぐうの音も出ないとは、こういうことなんでしょうね。

「で、具体的にはどうするんだ?」

上条当麻が美琴に話しかける。

「二手に分かれるってことで、どう?」
「二手?」
「うん。当麻は刀夜さんを連れてここから離れて」

ああ、と上条当麻は肯いた。

「神裂さんも」
「え?」
「『御使堕し』の解除に専念して下さい」

そう言って、美琴は海に目を向ける。

「で、私は」

視線の先には海面で不気味な沈黙を守る、大天使の姿。
その瞬間、何もかも理解した。

「駄目ですっ!」

気がつけば叫んでいた。

「絶対に駄目です!そんなことは許しません!」
「誰かがやらなきゃいけないんです」
「な、なら私も」
「それこそ駄目です」

短い言葉で、割り込まれる。

「そんなボロボロの身体で何が出来るって言うんです?」

心臓が突然、跳ねた。確かに、ドクンと。

「ど、どうして……」
「分かりますよ、それぐらい。態度でバレバレです」

少し間があった。


美琴はきっと待っている。私の言葉を待っている。
それが分かっても、でも、私は黙っていた。
かけるべき言葉が見つからなかった。

「お願いします。一刻も早く『御使堕し』の解除を」

何故か笑いながら、美琴は言った。

「こっちは私が何とかします」
「で、ですが……」
「大丈夫」

美琴が私の顔をじっと見つめてきた。
その瞳には強い意志の光が宿っている。

「私、結構強いんですよ」

美琴は笑っていた。
全てを覚悟し、笑っていた。
彼女の笑みを見ていたら、もう何も言えなくなってしまった。

「分かりました……」

声が少し掠れた。


うん、と満足そうに肯く美琴。
それから上条当麻の方へと振り向いて、彼の胸を拳で叩く。

「じゃ、そっちは任せたわよ」
「おう、任された」

上条当麻も握り拳を作り、美琴の拳に軽くぶつける。
小さく笑い合う二人。そして、同時に背を向けた。

「負けるなよ、美琴」
「当麻も、気をつけて」

もう言葉は要らなかった。
成さねばならないことは二人とも、はっきりと分かっていたから。


上条当麻は父親の手を取り、駈け出した。
愛する者を守るために。愛する者と共に生きる、この世界を守るために。


それにしても、と私は思う。


今、完全に二人だけの世界になってましたね……。












圧倒的なまでの威圧感だった。
向かい合っているだけなのに、緊張で身体が凍りつきそうになる。


……これほどとはね。


知らず知らずの内に流れていた汗を拭い、渇いていた唇を舐める。


ただ佇んでいるだけだっていうのに、どこまでも巨大な存在感。
天使とは人の規格から外れた存在。そんなものに対して戦おうと考える時点で既に間違い、というのは神裂さんの言葉だ。


なるほど、と思う。
あまりにも……この敵は、強過ぎる。
そして同時に、思う。それがどうした、と。


人の規格から外れてる?強過ぎる?
だから何?そんなものはね、とっくの昔に通過してんのよ。


学園都市最強の超能力者を相手に、かつて私は成す術もなく敗れ去った。
相手との戦力差はあの時と同じか、ひょっとしたらそれ以上。
それでも負けるワケにはいかない。ここを突破させるワケにはいかない。


当麻が信じてくれたから。
自分が負けないことを信じてくれたから。
それに応えずして、アイツの彼女が務まるもんか。


とは言っても、今のままじゃ間違いなく瞬殺されるわね。
電磁波を介し、神裂さんと天使の戦いを観察していたから分かる。二人の動きは音速に迫る勢いだった。


百分の一秒単位での攻防。
電磁波フィールドを展開しても、感知するのが精一杯。
攻めに回るなんて夢のまた夢。反応すら間に合わず、一方的にやられてしまうだろう。
生体電気で筋肉を限りなく強化しても、さすがにそこまでの速さは出せない。
常人並の筋力をいくら強化したところで、音速には届かない。


じゃあ、どうする?
その答えはあまりにも簡単だった。


私は無意識に身体から流れ出る電磁波に意識を向ける。
湯水のように溢れていた電磁波をピタリと止め、全身を覆わせる。

「土御門さんには感謝しなくちゃね」

言うと同時、私は自らを覆う電磁波の出力を上げる。


能力の完璧な制御。
そんな発想が可能にした、新しい力。


電磁波は波長によって呼び名が変わる。
その内の一つに、光がある。そう、光は電磁波の一種なのだ。
電波や赤外線、そして医療器具や兵器として使われるレーザーですら、元を正せば等しく電磁波なのだ。


出力を上げた電磁波は黄金に光り、私の身体を包み込む。と、氷の翼が一本、ひとりでに砕け散った。
硝子の破片のようになった数千もの氷の刃が、私目がけて襲いかかる。


でも私は動かない。目を向けもしない。
刃の雨が無防備の私に降り注ぎ……そして、一つ残らず蒸発した。


ふう、と息を吐く。
良かった、通じるみたいだ。
高出力の電磁波は、全てを焼き尽くす障壁と化す。
速さなんて関係ない。あの程度の攻撃、何度やられたって防ぎ切れる。


これで防御面は一安心。
何の気兼ねもなく攻めに回ることが出来る。
私は一瞬ニヤリとし、すぐにまた、拭ったように笑みを消す。
ゆっくりと、瞼を閉じる。最善となる攻撃法を模索する。


超電磁砲は駄目だ。
連射が出来ない上、弾数にも制限がある。
ポケットに忍ばせているメダルは三枚。
主戦力として使うには、あまりにも心許ない。


得意の電撃も、天使が海の上にいるせいで使えない。海水が電気を通してしまうからだ。
いくら加減しても、これではサーシャの身体を傷つけてしまう。それにもちろん、天使だって。


そう、私は天使を倒すつもりなんてない。
助けたいだけだ。在るべき場所に帰ってもらいたいだけだ。
だって、彼女も『御使堕し』に巻き込まれた被害者の一人に過ぎなくて。
誰かが犠牲になる必要なんて、これっぽっちもないはずで。


だから私は、全力で彼女を止める。
『御使堕し』が解除される、その時を待つ。


当麻を信じて。
神裂さんを信じて。
土御門さんを信じて。
そして、自分を信じて。


ゆっくり、ゆっくりと目を開ける。


攻撃法は決まった。
あとは実践するのみ。


大丈夫。


心の中で、呟く。


絶対に、大丈夫。











[20924] 第21話 御使堕し編⑲
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/19 20:24
ずっと立ち尽くしていた。
目の前に広がる光景が信じられなかった。


海の家に辿り着いた途端、耳に届いた轟音。
間断なく響き渡るそれに耐え切れず、私は踵を返していた。
上条当麻の制止の声を無視して、走り出していた。


やはり無理があったのだ。
たった一人で天使の足止めをするなんて。
相見えた彼女の力は、圧倒的なものだった。
人はやはり主の使いには敵わないのだ。
聖人としての力があったからこそ、私は持ち堪えることが出来た。
では、それを持たない美琴は?聖人どころか、魔術師ですらない彼女は?


……駄目です。最悪の結末しか頭に浮かびません。


飛ぶような勢いで、砂浜に続く一本道を駆け抜ける。

「……え?」

そして目撃する。奇跡のような光景を。
青を司る大天使の背を彩る氷の翼が、次々と破壊されていく様を。












美琴は片腕を上げて相手と対峙していた。
右腕を肩と水平になるまで持ち上げている。
その掌は力なく広げられていて、遠くの誰かを呼び止めるような、そんな仕草に似ていた。


彼女の身体は金色の光に包まれていた。
それはまるで、光の衣を纏っているかのようだった。


天使が翼を一本、美琴へ打ち込もうと振り上げる。
なのに、美琴は前に突き出した腕を微かに動かすだけ。
立ち止まったまま、開いていた掌をぐっと握る。それは、何かを握り潰すような動作。
同時に振り上げられた翼が天使の背から離れ、海に落ちた。美琴が攻撃を仕掛けたのだ。
目に見えぬ攻撃。それも、あんな僅かな仕草だけで。


しかし天使は怯まない。
唐突に、五本もの翼を美琴に打ち込んだのだ。
果たして翼は……ただの一本も通らない。
美琴の全身を覆う光に触れた瞬間、蒸発してしまったのだ。


私はただ立ち尽くしていた。
人は主の使いには敵わないなんて、もう言えなくなってしまった。
敵わないどころの話ではない。押している。聖人どころか、魔術師でもない美琴が。


間髪入れず、美琴は突き出した掌を広げ、もう一度強く握り潰す。
また一本、氷の翼が海へ落ちる。天使の背後に舞うのは白い煙……いや、違う。


美琴の攻撃がどういったものなのか、おぼろげながらも悟った。
美琴は空間の一部を焼き潰している。根元に近い部分だけを焼失させ、塔の如き巨大な翼を崩している。
天使の底知れぬ魔力によって強化されているはずである、氷の翼を。
氷から、一瞬にして水蒸気へ。液体を経る過程など、コンマの間さえ与えずに。


美琴が掌を強く握るたび、翼はその数を減らしていく。
天使は再生を試みるが、間に合わない。
凍える翼の攻略は、もはや時間の問題だった。

「すごい……」

私は見くびっていた。
美琴の力を過小評価していた。
一連の光景はあまりに衝撃的で、だから私は棒立ちのまま動けなかった。


美琴の言葉も、意志も、能力も。全てが想像の遙か上を行っていた。
後ろ向きな考えに没していた私など、問答無用で置き去りにして。


――強い。


圧倒的でさえある。


黄金の光を纏い、大天使を前に余裕の笑みすら浮かべる美琴。
その姿に、私はある動物を連想せずにはいられなかった。
草原の世界において百獣の王と恐れ敬われる、獅子という名の猛獣を。


氷の翼が天使の背から剥ぎ取られていく。
一本、また一本と海へ落ちていく。


その時。


膨大な魔力の流れを感じた。
次いで空が唸り、大地が揺れる。


ま、まさか……。


私は魔法陣の放つ光で埋め尽くされた夜空に目を向ける。
それを見た瞬間、私の意識は凍りついて、糸が切れた人形のように指先一つ動かなくなった。


天使の頭上、空の遙か彼方にて新たな魔法陣が一つ出現していた。
空中に描き出されたそれに、魔力が込められていく。無尽蔵に高まっていく。
周囲の魔法陣を圧倒するほどの光を湛えたそれは地上に、いや、真っ直ぐ美琴に向けられていた。


間違いない。あれは砲門だ。
広範囲に放つつもりだった滅びの光を収束し、撃ち出すための砲門。


なんて、こと。


天使は美琴を敵として認識してしまった。
自らの驚異となり得る相手であると、判断してしまったのだ。


魔力の高まりは止まらない。
もう誰にも止められない。

「美琴っ!」

身体を縛りつける恐怖を必死で振り払って、走り寄る。


それを――美琴は片手で制した。


近寄るな、という意思表示。
目を細め、自身を狙う魔法陣を見据える美琴。


焦りも、迷いも、恐れすらも彼女にはなかった。
彼女は絶望などに侵されていなかった。
この期に及んで尚、彼女は諦めていなかった。












異常なまでに光り輝く魔法陣が、真っ直ぐこっちを向いている。


あれは、マズイ。
魔術のことなんてまるで知らない私でも分かる。
今まで見たどんな能力よりも、もっと、ずっと、あれは危険だ。
そう確信すると同時、私は演算を開始する。
弾き出すべき解は一つ。もうすぐそこまで迫っている死に抗う、最善の対処法。


空間を焼き潰す、という手は使えない。
あれは自身で展開した電磁波フィールド内においてのみ可能な技だ。
フィールド内を縦横無尽に動き回る電磁波の出力を、局地的に跳ね上げる。
そうして高熱を帯びた光を収束、空間もろとも標的を圧縮する。
実際に握り潰す動作を行なっているのは、より鮮明に圧縮される電磁波をイメージするためだ。


光の速さで行なう、不可視の攻撃。
それでもこの局面では何の役にも立たない。
距離が遠過ぎる。力を振り絞ったとしても、成層圏の先まではさすがにフィールドを展開できない。


同様の理由で超電磁砲も使えない。
射程距離が五十メートル程度では話にならない。


電撃は、まあ、届きはするだろう。
でもそれだけ。尋常じゃない輝きを放つ光に飲み込まれ、それで終了。
威力が足りない。絶望的なまでに足りない。


でも私は動じない。
そんな暇があるなら、一秒でも長く思考する。
必死に頭を回転させて、打開策を導き出す。


探せ、探し出すんだ。
頭上で燦然と輝く高エネルギーの塊に対抗し得る術を。
射程はもちろん、威力ですら超電磁砲を凌ぐ力の在り処を。


探して、探して、探して。やがて、一つの希望が浮かび上がる。


――荷電粒子砲。


イオン化した微細な粒子を電気的・磁気的に加速、束ねて高速で撃ち出し衝撃と熱によって攻撃する兵器……とまあ小難しい言葉を並べてみたけど、簡単に言えば『超すごい水鉄砲』に過ぎない。


でも、だからと言って甘く見てもらっては困る。
ただ水を標的に向けて噴射するだけの水鉄砲でも、充分に収束させて充分な速度を持たせれば立派な武器になる。
水圧が充分であれば鉄板など易々と貫通し、ダイヤモンドだって削って切断してしまうほどの威力を誇る。


圧力が威力を決める水鉄砲。
対し、荷電粒子砲は電力量によって純粋な威力が大きく左右される。
そう、荷電粒子砲の起動には莫大過ぎる電力を必要とするのだ。
現代の地球上では、たった一発分すら確保できないほど超絶な量の電力を。
理論上は現在ある技術で実現可能にも関わらず、『架空のSF兵器』の烙印を押されている所以はここにある。


しかし逆に考えれば、電力さえ賄えれば実現するのだ。
その瞬間から、荷電粒子砲は本当の意味で完成するのだ。
私という電力供給があれば、『架空のSF兵器』は架空の存在ではなくなるのだ。


……決まり、ね。


口の端を笑みの形に歪める。
左右の手から黄金の光を生み出す。掌を開き、集め出す。
右には正の電荷を帯びた粒子を。左には負の電荷を帯びた粒子を。


それぞれの掌の中、円形の軌道を描いて加速させていく。
粒子同士がくっついて電荷が中性にならないよう二種類の粒子を別々に、しかし同じ速度で加速させていく。


ふと見上げれば、件の魔法陣は直視できないほど力強い輝きを放っている。
どうやら天使の方はもうじき発射まで漕ぎつけてしまうらしい。


ま、それはこっちも同じなんだけどね。


左右の光をぶつけるように両手を胸の前で組み合わせ、そして収束。
膨大な、しかも両手より発せられる光をむりやり掌に押し込める。
同時に身体の隅々に生体電気を流し、筋力を可能な限り強化する。
荷電粒子砲の発射によって生まれる、凄まじい反動に備える。


輝く。強く、強く輝く。
圧縮された光が手から溢れ、周囲を金色に照らす。


準備は、整った。


私は天使を睨みつけた。
天使も私を睨みつけた。


数秒の膠着の後。まるで申し合わせでもしていたかのように、私達は全く同時に仕掛けた。


組み合わせた掌から、黄金の破壊砲を放つ。
巨大な魔法陣から、蒼白い破壊光が撃ち出される。
金と蒼。異なる二色の光が正面から激突し、視界を真っ白に覆い尽くす。


斜め上から降り注ぐ重圧が、身体を大地に縫いつける。
大地が揺れ、風が吹き荒れ、土砂が巻き上がる。

「ぐ、うっ……」

想像を遙かに超える反動、そして力の消費。
万力で締め上げられるような負荷に、全身が悲鳴を上げる。
突き伸ばした両腕を保つことすら苦痛になる。


蒼い光の勢いは衰えない。
金色の光を押し返して徐々に、徐々に近づいてくる。

「……くっ……」

歯を噛み締めて、凄まじい圧力に辛うじて耐える。
ここで気を抜けば荷電粒子砲ごと一気に吹き飛ばされてしまう。


こんなものなの?
私の力じゃ、これが精一杯なの?


ううん、違う。
こんなんじゃ、全然守り切れてない。
こんなんじゃ、アイツに……当麻に会わせる顔もない。

『負けるなよ、美琴』

そうだ。負けてなんかいられない。
私には帰るべき場所がある。いつまでも一緒にいたい人がいる。

「負けない……」

だから帰らなきゃ。アイツの元へ。

「負けたくない……」

早く、帰らなくっちゃ。
誰よりも、何よりも。自分自身よりも大切な、アイツの元へ。
そのためにも、こんな所で負けられない。負けられるワケがない。

「負ける……もんかああああっ!」

私は吠えた。声も枯れよと。
そして残っていた力の全てを解放した。


息を吹き返した黄金の光が一瞬にして蒼い光を飲み込み……その先にある魔法陣に突き進む。
破壊の極光は蒼い光を生み出した魔法陣を貫き、尚も勢いを止めることなく進み続ける。


上空へ、上空へ。極光は、ただひたすら上り続ける。
程無くして成層圏の先まで行き着いたそれは爆ぜ、空が震えた。
耳をつんざく爆発音が響き、空一面を黄金が照らした。











[20924] 第22話 御使堕し編⑳
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/19 20:26
あれから、どのくらいの時間が流れたのだろう。
美琴が魔法陣の群れを吹き飛ばしてから、私は何も出来ずに立ち尽くしていた。


仰向けになって、美琴は砂浜に倒れていた。ピクリとも動かない。
全身を覆っていた金色の光は、跡形もなく消え失せている。
恐らく持てる力の全てを使い果たしてしまったのだろう。


当たり前だ。世界を一掃できるだけの力と、正面から立ち向かったのだから。
滅びの光を一方的に押し返すだけでは飽き足らず、夜空を埋め尽くしていた魔法陣まで破壊してみせたのだから。


だが、魔法陣は修復されようとしていた。
満月を中心にして、光の輪が再び広がり始める。
夜空が光に包まれていく様を、私はぼんやりと眺めていた。
やがて光の輪は夜空の端、水平線の向こうまで消えてしまった。
更に輪の内部で光の筋が走り回り、複雑な紋章を描いていく。
蘇った魔法陣が放つ強烈な光で、私はようやくモノを考えられるようになった。


美琴の元へ走り出そうとし、

「……っ!」

がくん、と足が崩れ、倒れ込んだ。


両足に力が入らない。
水を被ったみたいに、身体中が汗に溶けていく。


そんな……そんなことって……。


私は自分の足に手を触れる。
動かなくなった足は、他人の足のように感覚がなかった。


時間切れ、だった。


戦わなければいけないのに。
美琴を守らなければいけないのに。
まだ心は折れていないのに、肉体はとっくに限界を迎えていたのだ。

「……み、こと」

うわごとのように呟いて、美琴の元へ向かう。
足が使い物にならないので、四つん這いで進んでいく。
一体何をしているんだろう、私は。ボロボロの身体を引きずって。


……そんなの、美琴を諦めたくないからに決まっている。


美琴が好きだから。
美琴には幸せになってほしいから。
これ以上、傷ついてほしくないだけ。
彼女が死ぬなんて、そんなこと、許せるワケがない。
何て物凄いわがままだろう。魔術師の世界に彼女を巻き込んだのは他の誰でもない、この私なのに。


倒れ込んだ美琴は、生きているように見えなかった。
這って美琴の元まで行った。彼女は安らかな顔をしていた。
顔の色は蒼白で、およそ熱というものが感じられない。それでも、呼吸は止まっていない。


私は安堵し、しかし、すぐに後悔が胸を埋めた。
これから私達は殺される。天使の撃ち出す滅びの光によって。


そう、それが事実。
覆すことの出来ない、決定事項。

「ごめんなさい」

私は美琴に謝った。
私が天使を倒していれば、世界が滅びることもなかったのに。

「もう終わりですね」

もっと私が強ければ、貴女が苦しむこともなかったのに。
愛する人と、幸せな未来を築いていけたはずなのに。


でも、これで美琴はもう――


その時、白い指が頬に触れた。


細い指が頬を撫でる。
かするように頬を撫でるそれは、彼女のものだった。

「泣かないで、神裂さん」

弱り切った瞳で、美琴はそう言った。


流れる汗が、彼女には涙に見えたのかもしれない。
ぼうっとした意識のまま、美琴は私の顔を撫でている。


その時だった。不思議な力が全身を駆け巡ったのは。


それは奔流であり濁流であり激流だった。
何もかもを押し流すほどの強さだった。


私は右手で拳を作ってみた。
不思議なことに、身体中に力が満ちていた。
全然だるくはなかった。
とめどなく流れていた汗も、ぴたりと止まってしまった。

「これは……」

ふふ、と美琴が笑う。

「まだ終わりじゃありません」

何を言っているんです、美琴。
そんなこと、あるワケないじゃないですか。
貴女の努力も虚しく、魔法陣が元通りになってしまったんですよ。
滅びの光が私達を狙っているんですよ。
もう詰んでしまったも同然じゃないですか。


けれど美琴は笑っていた。
優しく私を、見つめていた。












頭がクラクラする。
きっと、これは能力を使い過ぎたせい。
ぼうっとした意識で、私はとりとめのないことばかり考えている。
夜空に浮かぶ魔法陣の数とか、明日の自分がどうしているかなんて、意味のないことを。


大体、私はどうして力を求めたんだろう?


低能力者から超能力者へ。
決して平坦な道じゃなかった。
限界という壁にぶち当たることなんて、そんなの、日常茶飯事だった。
それでも頑張って、頑張って、頑張り続けた原動力は、一体何だったっけ?
色々あって、一番初めの理由を忘れてしまった。


私は――たしか。たしか、誰かの助けになりたくて、自分の能力を伸ばそうとしたんだっけ。

『君の能力は筋ジストロフィーの治療に役立つかもしれない』

苦しんでいる人がいた。
どうすればいいか分からなかった。
ただ、何とかしてあげたいと思った。
どんな些細なことでもいいから、力になりたいと思った。


……そっか。私、強くなるために力を求めたんじゃないんだ。


思い出し、泣きそうになった。


私はただ、救いたくて。
助けを求める人達の力に、手を差し伸べたいと思って。
強くなるより、優しくなりたいと思って。
私は自分の能力を伸ばすことに躍起になってたんだ。


なのに、私はそれを見失ってしまった。
強さばかりを追い求めて、最初の目的を忘れてしまっていた。
そうして天使相手にも真っ向から力で挑んで、こんな風に倒れている。


やっぱり私は、弱かった。
ひどく愚かで、無様だった。


――違う。


私には何も出来ない。
文字通りの、電池切れ。


――違う。


もう電撃を飛ばす体力も残っていない。
空っぽの私には何にも、何一つ、出来ない。


――違う!


冗談じゃない。
私はまだ生きている。だから、早く立たないと。
いつまでもこんな所で寝転がっている場合じゃない。

「大丈夫」

よろめきながら立ち上がる。


自分の輪郭が分かるような気がする。
世界と自分が切り離されたような、そんな感じ。

「能力なんかなくったって」

全身を震わせ、叫ぶ。

「私には、出来ることがある!」












私は目を見張った。
美琴の身体から、不思議な光が零れ始めたのだ。
弱く、そして強く、微かに瞬きながら。
光は次第に明るさを増し、やがて小さな太陽のように煌々と輝き渡った。
しかしどういうワケか、その光は眩しさを全く感じさせなかった。
柔らかくて、温かくて。何とも言えない穏やかな気持ちになれる、優しい光。


と、その時。破滅の時を告げる光が魔法陣から解き放たれた。
蒼白い光は夜空を鋭く切り裂き美琴を直撃し……そして、それ以上進むことはなかった。

「なっ!?」

私は自分の目を疑った。


世界の半分を容易く焼き尽くす滅びの光。
それが一瞬にして取り込まれてしまったのだ。美琴の身体を包む、優しい光に。


唖然としている私の横で、美琴は自らの右手を高々と上げる。


彼女の唇が、動く。
鎮まれ、と動く。












「よくやってくれたぜい、ヒメっち」

オレは一人、呟いた。眼下には戦場と化した砂浜が広がっている。

「おかげで下ごしらえも間に合った」

一人、また呟く。


オレは今、海の家の二階から世界の命運を賭けた戦いを観戦していた。
床には、うつ伏せになって倒れている奴らが数名。
カミやんの母親に従妹、それに海の家の店員だ。
クロロホルムで、ちょっとばかし深い眠りについてもらっている。


全く、面倒なことになったもんだ。
まさかこんな事態になるとは、想像もしていなかった。

「まあ、どうでもいいけどな」

そう、どうでもいいのだ。


過ぎたことをいくら悔やもうが、何の役にも立ちやしないのだから。
現実は常にそこにあり、逃げることなど不可能なのだから。


だから、戦うしかない。
戦うからには勝たねばならない。
何が何でも勝たなければならない。


――それでは魅惑の裏切りタイムスタートだぜよ。


ククッと笑う。


悪いねえ、カミやん。どうもこの問題を収拾するには、最低でも誰か一人を生贄にしなくっちゃなんないみたいだぜい。











[20924] 第23話 御使堕し編21
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/27 05:01
一瞬、だった。


夜闇が夕闇へと切り替わった。
本来あるべき世界が、具現化された空想から解き放たれた。
残っていた氷の翼も、その全てが砕け散った。
砕けた翼の欠片がキラキラと、光を反射しながら降り注ぐ。
天使の生み出した天使の領域は、たった一人の人間によって崩壊したのだ。


正体を取り戻した世界の中、美琴は右手をかざしている。


その手の内には、光。


あの光が何なのか、皆目見当もつかない。
しかし魔術師としての経験が告げていた。あれは魔術ではない、と。
天使の力を打ち消す魔術なんて、そんなもの、聞いたことすらない。


でも、だとすれば?
能力者としての力を使い果たしたはずの彼女を包む、あの光は?
魔術という過程を介さずに発現しているあの力は一体、何だと言う?


手がかりとなるのは、たった一つ。
光が広がる直前、美琴が発した言葉。鎮まれ、という言葉。


鎮まれ?鎮まれとは、一体……?


四つん這いのまま、私は混乱していた。
この短時間で起きた現象の全てが、魔術世界の常識すら超越していた。
もう、何もかもが分からなくなっていた。

「神裂さん」

すっかり聞き馴染んだ声。


顔を上げる。しかし美琴は目を合わせようとしない。
真っ直ぐに天使を見て、考え事をしているようだった。

「マズイです」

天使に視線を向けたまま、美琴はそう言った。

「あの子、メチャクチャ怒ってる」

言われて振り向くと、海の上から天使がこちらの様子を窺っていた。
その目には今までと違い、とある感情が浮き彫りになっている。
どうしようもないほどの殺意が、二十メートルという距離をものともせずに伝わってくる。


水の上を、天使は歩き出す。
こちらに向かって、近づいてくる。


肉弾戦に持ち込むつもりだ。
今の美琴に、魔術の類は通用しないと判断したのだろう。

「困りましたね」

相変わらず天使を見たまま、美琴は突然意外なことを言った。
けど、見たことろ普段の美琴と全く変わらない。
困っているどころか、横顔からは強い意思と自信すら感じ取れた。

「実は私、立っているのもやっとな状態でして」

それから、ゆっくりと顔を私に向ける美琴。
悪戯っぽい笑みを浮かべて、一言。

「守ってもらえます?」

ああ、まただ。
やはり美琴には敵わない。
いつだって、彼女は私が最も欲していた言葉をくれる。
明るい道に、私を引き戻してくれる。

「愚問ですよ、それ」

ニッと笑う。美琴を背に庇うようにして立ち上がる。

「守るに決まっているでしょう」

美琴の力が一体どういうものなのか。
そんなこと、分からなくても何ら問題はない。


私が今、するべきことは唯一つ。
美琴を守り、上条父子を守り、道に迷った天使を助けること。

「さて、今一度お付き合い願いましょうか」

刀の柄へ、軽く指を触れる。
体内で魔力を練り、己が身を『神を殺す者』へと作り変える。


もう躊躇わない。迷わない。
今はただ、私にしか出来ないことを果たすだけ。












さて、困った。息子の言っていることが全く理解できない。


夕陽に赤く染まる海の家の前で、当麻は必死に何かを訴えている。
他ならぬ一人息子の願いだ。私に出来る範囲であるなら、何だって叶えてやりたい。


しかし、しかしだ。
肝心の望まれていることが何なのか。
それが掴めなければ、どうしようもないじゃないか。

「なあ当麻。一から順を追って話してくれないか?私には何が何だかさっぱり分からないんだが」

そう、さっきからワケの分からないことが次から次へと起きている。
いきなり襲われたり、夜になったり、光が降ったり。かと思えば、前触れもなく突然夕方に戻ったり。


まるで魔法だ。頭も身体も、とてもじゃないがついていけない。

「だから、そんな時間はないんだって!いいから儀式場の場所を教えてくれ!そうすりゃ、あとはこっちで何とかするから!」
「当麻、落ち着け。落ち着くんだ。焦ったところで何も解決しないぞ」
「分かってるよ、そんなこと!」

ちっとも分かっていない。


当麻は焦りに焦っている。
こんな息子の姿を見るのは初めてだった。


何やら大変なことが起こっている。
それは分かった。そして、どうもそれには私が関わっているらしい。


しかし、それでも分からない。
エンゼルフォールとは一体、何なのだろう?
流行語?歌手の名前?それとも、何かの例えだろうか?

「やめとけよ、カミやん」

突然、玄関口から声がした。


当麻が振り返る。
当麻の視線を追うように、私も振り返る。


そして、絶句。

「『御使堕し(エンゼルフォール)』のことなんて、ソイツは何も知らないはずだ」

そこには一人の青年が立っていた。

「何せ無意識の内に、中途半端に発動させちまったんだからな」

テレビで見る、いわゆるアイドルと呼ばれる輩がニヤニヤ笑いながらこちらを見ていた。












カミやんは黙りこくっていた。
俯き、両の拳を握り、その身を固くしている。
まるで過酷な運命に備えるかのように。


――いや、実際に備えているんだろうな。


上条刀夜が犯人であるという証明は、とっくに済ませた。
カミやんの家全体が、無数の土産品によって偶然にも儀式場として成立してしまったことも話した。


ヒメっちには感謝しないとな。
魔術と能力は互いに反発し合うっていう実例を見せてくれたんだから。
ヒメっちの不調の原因を説明した途端、カミやんの奴、急に大人しくなっちまった。
ったく、風水に関してはまるで聞く耳持たなかったくせに。


風水。それは部屋の間取りや家具の配置によって魔法陣を作り上げる術式。
大地の気をエネルギー源とするため、その効力が術者の魔力量に左右されることのない魔術。


そう、上条刀夜は計画的に『御使堕し』を発動させたワケじゃない。
『御使堕し』の魔法陣は無数に配置された土産品によって、たまたま組み上げられたに過ぎなかったのだ。

「あの家は、無数の切り替えレバーがあるレールみたいなものでね。土産品一つを壊すと、すぐさま他の魔法陣に切り替わっちまう」

カミやんの握った拳が、プルプルと小刻みに震えている。

「ヒメっちから電話で配置を聞いた時には、言葉も出なかったよ。『御使堕し』なんざまだマシな方だ。あそこには『極大地震(アースシェイカー)』に『異界反転(ファントムハウンド)』、『永久凍土(コキュートスレプリカ)』――発動すれば国の一つ二つが地図から消えるような戦術魔法陣まで組み上げられていやがった。あれは駄目だ。決して発動しちゃいけない類のものなんだ」

たんたんと言葉を並べていく。


スパイになってから何度も何度もこの行為を、あるいは儀式を繰り返してきた。
慣れた、と言えば嘘になる。自分に近しい存在と対すると、心のどこかが石のように固くなってしまう。


同じ慣れるなら、死の方がよっぽど簡単だ。
どんなにキツくても、死は一瞬で終わる。時が経てば次第に痛みも和らいでいく。
生きている人間の感情こそが、一番怖い。痛みも、悲しみも、あまりにも強く、長過ぎる。

「だからこそ『御使堕し』を破壊するには土産品を一つずつ、なんて言ってないで魔法陣全体を一撃で破壊する必要があった」

だから、たんたんと喋る。感情を受け流す。

「それで、一旦カミやんを魔法陣から遠ざけて、そこのオッサンの身柄を保護。クロイツェフと和解した後、神裂に協力を仰いでカミやんの実家に向かい魔法陣を一掃」

カミやんの、カミやんの親父さんの、そして自分の感情を全て流し切ってしまう。

「……ってのがベストな未来予想図だったんだが、ちょいとスケジュールを詰め込み過ぎてこの有り様だ」

くそ、と毒づく声。

「何で……何でだよ。何でこんなことになっちまったんだよ」
「理由なんかないだろ」

カミやんの肩がピクリと揺れた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
じっと、オレを見つめてくる。何を待っているのかは、よく分かった。その答えは既に準備してある。

「結局、単に運が悪かったってだけの話だろうが」

カミやんの顔から表情が消えた。だが、それは一瞬だけ。

「……何だよ、それ」

真っ向から苛立ちをぶつけてくる。
冷め切った目からは、剥き出しの敵意を感じる。

「……ふざ、けるなよ。テメエ」

鋭い目つきでオレを貫いてくる。
ここまで、完璧に予測していた通りに事が進んでいる。


いいねえ、カミやん。
呆れるほどに真っ直ぐで。
お前の考え、手に取るように分かっちまう。

「やめとけよ。もう遅い」

どうせ、『御使堕し』だけでも止めようって考えてるんだろ?
そうすれば、少なくても天使の暴走は止められるかもしれないって算段だろ?


だがな、カミやん。それじゃ、根っこの部分の解決にはならんだろう?

「実家まで、ここからタクシーで二十分はかかるんだろ?今からじゃダッシュしたって間に合わんよ」

言葉に詰まるカミやん。しかし、すぐさま反撃に移ってくる。

「じゃあどうしろってんだよ!出来るかどうかじゃなくて、やるしかねえだろ!それとも何か、他に方法があるって言うのか!?」


――待ってたぜ、その台詞。


「それは、あるだろ」

口の端を持ち上げて、わざとらしく笑ってやる。

「この場にいる誰かさんが犠牲になってくれればな」

ニヤニヤ、ニヤニヤと笑ってやる。


カミやんが息を呑む。
その隙をついて、オレは一歩踏み込んだ。

「分かるだろう、カミやん。こうなってしまったらもう犠牲なしには収拾できない」

ニヤニヤ笑いを続けたまま、更に一歩踏み込む。

「なに、犠牲と言っても一人きりだ。コイツはオレが保証する」

カミやんは、愕然とオレを――土御門元春という魔術師を見つめていた。

「だからカミやんは心配しなくていい。カミやんは」
「お前……」

カミやんが一歩前へ出る。
オレは足を止め、カミやんの背後を指差した。
そこにいるのは、度重なる偶然の末に『御使堕し』を発動させてしまった不幸な男。

「いいか、一人だ。たった一人の犠牲で世界が救われる。何もかもが上手くいく。何故それで満足できない?世界が滅びてもいいってのか?」
「……いいワケ……ねえだろ!」

オレに言葉をぶつけるように、カミやんが叫んだ。

「認めない。誰かが犠牲にならなきゃいけないなんて残酷な法則があるなら、まずはそんなふざけた幻想をぶち殺す!」

やれやれ、と心の中で呟く。

「お前の言ってることは理想を飛び越して狂気に近いな」

お前ってホント、どこまでも真っ直ぐなんだな。
闇に手を染めてきたオレには、ちょっとばかり眩し過ぎる。

「悪いがそんな夢物語に付き合ってる暇はない」

だがなカミやん。その程度じゃ、まだまだ足りないぜ。

「一人でも多く、確実に助けられる手段があるってんなら、オレは迷わずそっちを選ばせてもらう」

お前が犠牲の上に存在していいだけの器かどうか、もう少しだけ試してやるよ。











[20924] 第24話 御使堕し編22
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/31 19:53
――まともにやっても勝ち目はない。


自分でも意外なことに、怒り狂いながらも、頭の一部分だけが妙に冷静だった。


ここにいるのは俺の知ってる土御門じゃない。
もっと得体の知れない、正体の掴めない、一人の、魔術師だ。


――奇襲しかない。


頭のどこか、その冴えた部分で、俺は思った。


互いの距離は、既に三メートル程しかない。
なのに土御門はズボンのポケットに両手を突っ込んでいる。
俺を舐めきっているんだ。今しかなかった。
土御門が手をポケットから抜こうとした瞬間、俺は飛びかかった。

「おおおおおおっ!」

渾身の右ストレート。
自分でもびっくりするくらい、上手くいった。
全体重を乗せた一撃が、土御門の顔面に入った。
完璧なタイミングだ。防御も回避も間に合っていない。
けれど拳をめり込ませたまま、俺は立ち尽くしてしまった。


サングラス越しに、二つの瞳がじっと俺を見つめている。
拳は間違いなく土御門の頬を捕らえた。それでも土御門は倒れない。一歩たりとも引かない。
だからどうした、と言わんばかりに不敵な笑みを見せつける。
そして俺はどうしようもないミスを犯してしまった。
伸ばしきった右腕を掴まれるまで、立ち尽くしたままだったのだ。


ドン、と衝撃が来た。
いきなり顔を殴られたのだ。
痛さは感じず、ただ頭がクラクラした。
また衝撃が来た。今度は頬がむちゃくちゃ痛くなった。
更に衝撃が来た。腹を殴られたのだった。
これはもう、本当に苦しかった。息が出来なくなって、ヒイヒイという声だけが喉から洩れた。


それから殴って殴って殴られまくった。
頭を、頬を、腹を、次々殴られた。
立っていられなくなって倒れると、土御門は足で蹴ってきた。何度も、何度も。


ちくしょう、と俺は呟いた。
何で立てないんだ。何で身体に力が入らないんだ。
ほら、立てよ。立たなきゃ、いつまでも蹴られっぱなしなんだぞ!


土御門は容赦なく蹴ってくる。だけど俺は立てなかった。
身体を赤ん坊のように丸め、地面に横たわって――


「やめろっ!」

力強い声。衝撃が唐突に止んだ。

「事情は呑み込めないが、私に用があるなら好きにすればいい」

痛みを堪え、必死に耳を澄ませる。

「だが、これ以上当麻には手を出すな」

一字一句たりとも、聞き逃すことがないように。

「当麻は関係ない。いや、あったとしても、当麻には手を出させない。絶対にだ」

へえ、と感心する声。


土御門の顔は見えない。だが、その表情は間違いなく笑顔だろう。
見る者の神経を逆撫でするような笑みを浮かべているんだろう。

「重ねて言うが、これ以上当麻には手を出すな。それは私が認めない。この私が断じて認めない。それをやれば、私は一生お前を許さない。いいか、一生だ」

素人が、と土御門が吐き捨てた。

「笑わせる。まさか、本気で怒った程度でオレに勝てるとでも?」
「思わないさ」

自嘲気味に笑う声。

「私はただの中年だ。煙草と酒で肺と肝臓はやられ、運動不足がたたってあちこちガタが出始めて困っているぐらいだからな。だが」

父さんが一歩、こちらに踏み込んだのが気配で分かった。

「それでも私はお前を許さない。たとえ敵わずとも、何度敗北しようとも、絶対に許さない。なぜなら」

血の味がする唾液を飲み込み、無理やり顔を上げる。

「それが……父親というものだからだ!」

そして、見た。これ以上ないほど強く、頼りになる、父親の姿を。


拳を握って、父さんが走り出す。土御門に向かって、真っ直ぐに。
それでも俺の身体は動いてくれない。歯を食い縛ることしか出来ない。


失いたくない。
俺は思った。心の底から思った。
たとえ思い出が何一つとして残っていなくても。それでも、この人を失いたくない。
息子の幸せを何よりも、自分よりも大事にしてしまうバカげた父親を、絶対に失いたくない。


失いたくない、はずなのに。
ちくしょう、何でだ。何で動けないんだよ。


土御門の長い腕が、突っ込んでくる父さんの腕を取る。軽く引き寄せる。
体重がなくなったかのように、父さんはくるんと縦に回って、地面に頭から倒れ込んだ。
一連の行為はとても速いのに、そのあまりの自然さで逆にスローモーションのように見えた。


あっと言う間だった。
必要最小限の動きだけで、土御門は父さんの意識を落としてしまった。

「なあ、カミやん」

土御門がこちらに振り向く。

「何でそんな楽観的なんだ。何もかも上手くいくワケないだろうが。世界はお前のためにあるワケじゃない。病気が気合いで治せるか?根性で癒せるのか?希望なんざ……ゴミみたいなもんだ。そんなものにすがりつきやがって。ありもしない幻想ばっかり追いやがって」

言葉がいきなり切れる。直後、また腹を蹴られた。

「寝てろ、素人」

土御門が遠ざかっていく。
襟首を掴んで、父さんをズルズルと引きずっていく。
海の家の中へと、消えていく。

「……ま」

て、と搾り出す声は、自分のものと思えないほど弱々しかった。


このままでは父さんが殺されてしまう。
なのに抵抗する気持ちが湧いてこなかった。


俺は叩きのめされていた。身体だけじゃなく、心も。
殴られようと、蹴られようと、バカにされようと。
俺にはもう、何も出来ない。俺は負けてしまったんだ。


急に痛みがひどくなった。
息が詰まる。意識が白くなる。その直前――


『じゃ、そっちは任せたわよ』


美琴の声がした。


一番大切な人の言葉が、脳裏を駆け抜けた。


そうだ。約束したじゃないか。
『御使堕し(エンゼルフォール)』を止めてみせるって。


俺は丸めていた身体を伸ばし、ごろりと転がった。夕焼けの赤が、そこにあった。
夜空はない。満月もない。空いっぱいに広がっていた光の魔法陣もない。


美琴は約束を果たした。
天使の足止めに成功したんだ。
だったら俺だって、約束を守らなきゃいけない。
自分のために。父さんのために。『御使堕し』に巻き込まれた人達のために。
そして何より、自分のことを信じてくれた美琴のために。


そうだ、俺は負けたんじゃない。諦めようとしていただけだ。
ったく、しっかりしろよ上条当麻。お前の取り柄は何だ。全ての異能を打ち消す右手か?


――違う。そんなんじゃない。


「おおおおあああああっ!」

叫んで、立ち上がる。


俺の取り柄。そんなの、決まってる。
諦めの悪さ。これしかねえだろうが!


俺は――自分でも不思議に思うほどの力強さで、土御門のあとを追った。












最後の丸テーブルを外に出し、ふう、と息を吐く。
全てのテーブルを片付けると、居間は妙にだだっ広い空間となった。


――こんなもんかな。あとは……。


気絶している上条刀夜の襟首を掴む。

「おい」

その声がしたのは、上条刀夜を居間の真ん中に無造作に転がした時だった。

「何してんだ、お前」

見れば、ぞっとするほど冷たい目でカミやんがこちらを睨みつけていた。

「生贄を供える祭壇作りってとこさ。演出は派手な方がいいだろ」

平然と言う。これから犠牲を出そうとしているのに、何も感じていないかのように。

「念のために訊いとくが、この方法を認める気はあるか?」

あくまで挑発的な態度を崩さず、オレはそう問いかけた。


カミやんは答える。斜に構えた強い意思の込められた瞳だけで。断じて否、と。

「そっか」

笑いながら、両腕をゆらりと揺らす。居間の空気が張り詰めていく。
二人の距離は、つい先程と同じく、三メートル程。その中で、オレは目の前の敵を眺めた。


さあて、見せてもらおうか。
いい目になったお前の全力とやらを。


カミやんの身体が弾ける。
一息の内に、互いの距離を零にされる。
握られた拳がオレの顔面を狙う。
だが甘い。それを許すほど、オレは常人じゃない。


オレは、魔術師だ。


突き立てられた拳を肩で受け止める。
拳が痺れたらしく、カミやんが怯んだ。
その一瞬を逃さず、真上から頭突きを振り下ろす。
ふらついたところで、更に追い打ちをかける。


頭に、顔に、腹に。面白いように打撃が決まる。
だがカミやんは倒れない。それどころか、姿勢を低くしてオレに飛びかかってきた。
突然の反撃にふらついてしまったが、倒れはしなかった。
押し倒すだけの力が、もうカミやんには残っていなかった。


――カミやん、もういい。


膝を突き上げる。無防備だったカミやんの腹に食い込む。


――お前は本当によくやったよ。


腹を押さえ、呻くカミやん。
そこに、もう一度勢いよく膝を突き上げる。
真下から真上へ。渾身の膝蹴りに、カミやんの身体が宙を舞った。
浮いた身体はバランスが保てず、そのまま床へと激突した。

「ここまでだ」

仰向けに倒れ込んだカミやんに、そう宣言する。


カミやんは動かない。
ピクリと震えることさえない。
でも、それでも瞳は死んでいなかった。
真っ直ぐにオレを貫く視線は、手負いの獣じみていた。
この期に及んで、カミやんはまだ負けていなかった。まだ、諦めていなかった。


いいぜ、認めてやる。
お前はぬるま湯に浸かった高校生なんかじゃない。
この土御門元春が全身全霊をかけるに相応しい男だ。

「それでは皆さん」

懐からフィルムケースを取り出す。

「タネも仕掛けもあるマジックをご堪能あれ」

蓋を開けて中身をばら撒く。一センチ四方の紙片が大量に、部屋中に舞い上がる。

「本日のステージはこちら。まずはめんどくせえ下ごしらえから」

魔力を練り上げる。俺自身の心象風景を、この部屋に再現する。
イメージは、水。深い森の奥にその身を隠す、澄みきった泉。

「それでは我がマジック一座の仲間を御紹介」

更に四つのフィルムケースを取り出す。
北に亀、西に虎、南に鳥、東に龍。小さな動物の折り紙が入ったフィルムケースを、部屋の四方へ放り投げる。

「働けバカ共。玄武、白虎、朱雀、青龍」

オレの言葉に呼応して、四方の壁が淡く輝き始める。
黒、白、赤、青。折り紙の色に合わせて四つのフィルムケースを中心に光り輝く。と、身体の中で何かが蠢くのを感じた。


――邪魔をするな!


心の中で、オレは吠えた。
術式が完成したら、いくらでも暴れさせてやる。
だから待て。大事なものを守り切るまで、今少しだけ待ってくれ。

「ピストルは完成した。ここでスペシャルゲストの御登場だ」

パチンと指を鳴らす。
気絶している上条刀夜が、淡い光に包まれていく。
やがて、彼の身体から光の柱が立ち昇る。

「目標を捕捉」

『御使堕し』の展開において、上条刀夜が担う役割は決して小さくない。
大地の気を発電機。そして土産品を電子回路と見立てるなら、上条刀夜は変圧器と言ったところか。
そう、上条刀夜は少なからず『御使堕し』と繋がっているのだ。
それはつまり、上条刀夜の気の流れを辿れば『御使堕し』の儀式場――カミやんの家へ行き着くということに他ならない。

「続いて弾丸を装填する」

口の中が鉄錆くさかった。
ぶっと吐くと、それは唾液じゃなく血だった。

「弾丸にはとびっきり凶暴な、ふざけたぐらいの物を」

何かが喉の辺りまでせり上がってくる。

「ピストルには結界を」

どうにか堪えたその時、視線に気づいた。

「弾丸には式神を」

カミやんの顔をはっきりと目にした瞬間、ふっと気が抜けた。

「トリガーにはテメエの手を」

ったく、何て顔してるんだよ。


カミやんはまるで泣きそうな顔をしていた。ひどく痛そうな顔をしていた。


おい、とオレは思った。
何で今、そんな顔をしてるんだよ。
そういう顔は、殴られてる時にするべきだったんじゃないのかよ。


とうとう堪え切れなくなり、口から赤いものが零れる。


能力者に魔術は使えない。使ってはいけない。
その禁忌を破った代償が、オレの身体を蝕んでいく。

「……や、めろ」

掠れた声。懇願する声。
どうやら気づかれてしまったらしい。
オレが一体、何を犠牲にしようとしているのかを。

「なあに、心配するな」

だからこそ、オレは笑った。

「もう一度魔術を使ったら死ぬって、あれ、嘘だから」

歯を見せて、子供のように笑ってみせた。

「オレの能力は肉体再生ってヤツでね。本当は魔術を四、五回やっても問題ないのさ」

カミやんの心にかかる負担を、少しでも軽くするために。

「……それも、嘘なんだろ」

息も絶え絶えに、それでもカミやんは言った。


ったく、こういう時に限って、どうして鋭いんだよ。


ああ、そうさ。
肉体再生って言っても、オレの能力は貧弱そのもの。
破れた血管に薄い膜を張るのが精一杯の、無能力。
追跡魔術ならまだしも、家一つを丸ごと破壊するほどの術式を組んだりしたら、この命は再生を待たずに力尽きてしまうかもしれない。


だがな、カミやん。それでも、この術式は完成させなきゃいけないんだ。
命と引き換えにしてでも、この魔術は万に一つの失敗もなく、絶対に成功させなきゃいけないんだ。
だって、そうだろ。それだけの価値が、お前達にはあるんだから。

「同じ犠牲を払うなら、オレの方がいい」

当然のように言い放つ。

「なんたって、オレは『魔術師(プロ)』なんだからにゃー」

そうして、親友の目の前で。
いつものように、おどけてみせて。
いつもの声で、オレは最後の呪を紡いだ。











[20924] 第25話 御使堕し編23
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/31 21:00
目が覚めると、そこは知っている場所だった。
古めかしい電灯カバーのついた蛍光灯が、俺を見下ろしている。
六畳一間の和室は、夕日で真っ赤だ。

「起きた?」

視界を遮るように、逆さまになった美琴の顔が飛び込んできた。
白い肌が夕日のせいで、ほんのりと色づいている。
すっきりしない意識のまま、俺はぼんやりと美琴を見ていた。


何があったんだろう。
どうして美琴は逆さまなんだろう。
柔らかい枕はどこの商品だろう。
買い替えたいから教えてもらおう。

「あのさ」

けど、そろそろ現実を直視した方が良さそうだ。

「何?」
「もしかして、膝枕?」
「そうですが、何か?」

素っ気ない返事。ふざけている。人を弄んでいる。

「あのな……」

でも、これ以上の言葉を口にしなかった。いや、出来なかった。


目を奪われた。
心まで釘付けにされてしまった。
俺の目の前で、美琴は嬉しそうに微笑んでいた。
おぼろげだった意識が、一瞬にして収束した。


そして思い出す。薄れゆく意識の中、焼き付けられた記憶を。
身体のあちこちから血を流し、それでも俺に笑いかけた土御門の顔を。

「気分はどう?」

美琴の質問に、首を横に振る。
身体は大丈夫そうだ。どこも痛くない。
でも、心の中は最悪だった。

「ちくしょう……」

自分のバカさ加減が嫌になる。


土御門だって人間だ。
魔術師である前に、俺達と同じ人間なんだ。
平気な顔して人を殺せるワケがなかったんだ。


そんなことにさえも思い至らなくて、気が回らなくて。
自分のことで精一杯で、根拠もないくせに突っ走って。
他人の意見を聞きもしないで、真っ向から否定して。


でも所詮、根拠がないワケで。
守りたかったものを、結局、守り切ることが出来なくて。


おかしいなあ……おかしいよ……そうだろ……。


子供の頃は、大きくなったら色んなものに手が届くようになるって思ってた。だから少しでも早く大人になりたいって。


でもさ、全然届かねえよ。
十六になっても触れられないものばっかじゃねえか。
守れないもの、ばっかじゃねえか。

「カミやん、や~っとお目覚めぜよ?」

何てこった。土御門の声が聞こえるような気がする。
こんな時にも陽気で、悩みなんて一つもありませんよって感じの声が。

「ええ。でもまだ意識がはっきりしてないみたいで」

おいおい、どんだけ良く出来た幻なんだよ。
美琴にも見えるのか?声まで聞こえてるってのか?

「そんで膝枕は続行か。ちっ、羨ましいヤツめ。さっさと起きないと全力でデコピンかましちまいますぜい?」

そんな声と一緒に、額に痛みが走った。

「ぬわっ!?」

急激に我に返る。

「おはよーさん」

幻じゃない。幽霊でもない。
ニヤニヤと笑いながら俺を見下ろしているのは、紛れもなく本物の土御門だった。


一瞬、信じられなかった。
だって、土御門が生きている?

「いやー、お互いよく生き残れたよなー」

しかもコイツ、傷がすっかり治ってやがる。
身体中から血を流していたのが、まるで嘘みたいに。


――いや、待て。俺だってそうじゃないか。


あんなに傷ついたはずなのに。
あんなにボロボロになったはずなのに。
きれいさっぱり、治ってやがる。


部屋は夕日で真っ赤だ。
三十分か、それとも一時間か。詳しくは分からない。
けど、これだけは確実に言える。気絶していた時間は、それほど長くなかった。


なのにどうして、こんなに元気なんだ?
気絶している間に一体、何があったんだ?

「分からないって顔してるな」

心底楽しそうに笑いながら、土御門が言う。

「ま、詳しい話はヒメっちに聞くんだな」
「は?」

ここでどうして、美琴が出てくるんだ?

「全部聞いたら……ククッ。カミやん、きっとびっくりして腰抜かしちまうぜい」

ニヤニヤと笑ったまま、土御門は踵を返す。

「おい、行っちまうのか?」
「おうとも。事の顛末を上に報告せにゃらならんし、それに」

土御門は振り返って、一言。

「馬に蹴られたくないしにゃー」
「なっ!?」
「えっ!?」

俺と美琴の声が重なる。

「そんじゃごゆっくりー」

その反応に満足したのか、口笛を吹きながら土御門は部屋を出ていった。

「……」
「……」

膝枕をされたまま、俺は視線を上げる。
美琴と、ばっちり目が合った。
たはは、と困ったように笑う美琴。
その頬に差した赤みは、夕日のせいだけじゃなさそうだ。


それで、と俺は言った。

「一体、何があったんだ?」

あのね、と美琴が話し出す。

「ちょっと長い話になるんだけど」












日が沈もうとしていた。
世界が、夜の帳に包まれようとしていた。
日暮れの近い砂浜で、私は一人、立ち尽くす。
水平線に隠れつつある太陽を見つめながら、天使と戦っていた時のことを思い出す。


あの時は必死だった。
正しく命懸けの戦いだった。
今、こうして生きているのが不思議なくらいだ。
それだけ激しい戦いの最中であれば、奇跡だって起こる。


頬に触れた、美琴の手の温もりが蘇ってきた。
あまりにもそれは優しくて、心地良くて。


ボロボロになった私や上条当麻の身体を、美琴は瞬く間に回復させてしまった。
瀕死の状態にあった土御門ですら、いとも簡単に完治させてしまった。


あの力は一体、何だったんだろう?
魔術では有り得ない。かと言って、能力によるものだとも思えない。
土御門は言っていた。能力者が有する力は一人につき、たった一つだと。
美琴は電撃使いだ。傷や疲労を癒したり、天使によって具現化された空想を打ち破ったり。そんな真似が出来るはずがない。


しかし、では、何だと言う?
あの力は魔術でも、能力でもない?


そんなバカな。それでは、あの少年の……上条当麻の右手と同じではないか。
彼の右手に宿る力、『幻想殺し(イマジンブレイカー)』と同じではないか。


――あの力は、一体……?


「お待っとさん」

そんな声がしたのは、思考に行き詰まってしまった頃だった。


振り向くと、背後に土御門が立っていた。
沈みゆく太陽に視線を戻して、私は言った。

「結局、貴方の思惑通りになりましたね」
「うん?思惑?」
「ただ一人。貴方自身を犠牲にして、今回の件を解決させたことですよ」
「犠牲?何のことかにゃん?」

ああ、白々しい。


振り向き、土御門を睨みつける。

「とぼけないで下さい。美琴から真相を聞いた時点で、貴方は自らの身の危険を顧みず魔術を使う覚悟を決めていたんでしょう?」
「何だ、バレてんのか」
「分かりますよ、それぐらい。短い付き合いじゃないんですから」
「なかなか面白かっただろ」

土御門は悪びれることもなく、うははと大声で笑った。

「ただ解決するだけじゃ、つまらないからにゃー」
「……面白くないです」
「オレは面白かったぜい」
「ああ、そうですか」

全く、何て性格の悪い男なんだろう。
私の過去を知っているくせに。覚悟だって知っているくせに。
なのに、私に守らせようとしてくれない。逆に、私を守ろうとしてくる。


今回だって、そう。
彼が命を賭けて組んだ赤ノ式のおかげで、この世界は救われた。
そして、私も救われたのだ。『背中刺す刃(Fallere825)』という魔法名を己の身と心に刻み込んだ男に。
嘘を吐いてでも、何かを裏切ってでも目的を果たしてみせると誓った、この男に

「で、何考え込んでたんだ?」

隣に並び、土御門が問いかける。

「美琴の力についてです」
「あー、カミやんの右手並に意味不明なアレね」
「貴方はどう思います?」
「不思議不思議」
「バカにしてるんですか」
「いんや」
「じゃあ、どういう意味です?」
「さあ?」
「……」

全く、この男はどうして真面目な話を続けられないんだろう。
私をからかうのも、大概にしてほしいものです。

「ま、冗談はさておき」
「やっぱりバカにしてたんですね」
「今回の一件。一体誰がその責任を取ればいいのやらってことだぜい」

口にしかけた文句を咄嗟に呑み込む。

「イギリス清教の魔術師っていう立場上、オレ達には教会から問われたら真実を話さないといけない義務があるんだが」

『御使堕し(エンゼルフォール)』を引き起こしたのは上条刀夜だ。
そのせいで世界中が混乱の渦に巻き込まれ、滅亡の危機にまで陥った。


責任の一端は、やはり刀夜氏にあるのかもしれない。
しかし彼は魔術世界と一切関わりのない一般人。加えて、親友を救ってくれた恩人の肉親だ。
何とかしてあげたい。しかし無罪放免にするワケにも――

「けどメンドイし土御門さんは基本的に嘘吐きなので適当にでっち上げるにゃー」
「な……ええっ!?」

ちょっ、土御門!?貴方、何さらっととんでもない発言してるんですか!
教会に虚偽の報告をして、それがバレてしまったらどうするつもりです!?待っているのは、絶え間ない拷問の日々ですよ!

「大丈夫大丈夫。イギリス清教じゃ嘘吐きは拷問の始まりなワケだけれども、そんなこと言ってたらスパイは勤まらないんだぜい」
「いや、そうかもしれませんが!」
「それに、ねーちんは知ってんだろ。オレの正体」

視線だけで、肯く。


土御門は学園都市に潜り込んだスパイと明言している。
だが、実のところは逆なのだ。味方のフリをしてイギリス清教の秘密を調べる逆スパイ。
そんな彼なら、確かに虚偽の報告だって何の躊躇いもなくしてしまいそうだけど。

「しかしそれも嘘」
「は?」
「ホントはイギリス清教とか学園都市の他にも色んな機関や組織から依頼を受けてるから、逆スパイどころか多角スパイですたい」
「どれだけ危険な橋渡ってるんですか貴方は!と言うか、それってただの口が軽い人じゃないですか!」

声を大にして叫んでも、土御門はどこ吹く風。
あっはっは、と軽く笑い飛ばしてしまう。

「そんなワケだから、ここはオレに任しとけって」
「賛同しかねます」
「けどにゃー。この場合、不本意でも信じてもらうしかないんですぞ?」
「……違います。貴方を信用できないという意味ではありません」

反論する私を、土御門は無言で見据える。

「またですか?」

一呼吸置いて、続ける。

「また一人で背負い込むつもりですか?」

あらゆる情報を一人で掌握し、そしてそれを他人と共有しないで。
手に入れた情報を、結局は他人を欺く材料にしかしないで。
そうしてまた、一人で戦うつもりですか。
誰もが嫌がる汚れ役を、自ら買って出るつもりですか。

「貴方だけに重荷を負わせるワケにはいきません」

そう、そんなことは許さない。
私自身の信念を曲げるような真似をするつもりなんて、ない。


じーっと、不審そうに私の顔を見る土御門。が、やがて疲れたように溜め息を吐き、

「じゃ、とりあえず口裏合わせてもらうかな?」

笑った。子供のように、笑っていた。


……どうしてだろう。


その笑顔から目が離せなかった。
この男が笑っているところなんて、飽きるくらい見ているはずなのに。


よく分からない。自分のことなのに。

「で、どうする?ここは和風っぽく立川流の残党でも生き残ってたことにしとくかにゃーん?」
「誤魔化す気なら、もう少し信憑性のある話にしなさい!」

それに、この男の思考回路も、やっぱりよく分からない。











[20924] 第26話 御使堕し編・その後①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/02/05 00:59
薄い雲が太陽を隠すと、少しだけ部屋の中は暗くなった。


とある高校の男子寮。
七階にある自分の部屋で、俺は美琴と見つめ合っていた。
わずかにつり上がった目。艶のあるしなやかな髪。透き通るように綺麗な肌。
すれ違えば誰もが思わず振り向いてしまうであろう美少女と、見つめ合っていた。

「当麻」

薄い唇に名を呼ばれ、目線で疑問を返す。

「私、したことないから」

美琴の淡々とした声音が部屋の沈黙を満たしていく。
言葉が途切れると、お互いの息遣いが聞こえてくる。

「あ、ああ」

額から滴る汗を、Tシャツの袖で拭う。
天気予報によると、今日はこの年一番の猛暑日になるそうだ。
昼の時間を過ぎてからも、太陽は一向に衰えを見せずにいる。
美琴の肌も、ほんのりと上気して薄紅色に染まっている。

「いきなり最後までは無理だろうから、やれるとこまでだな」
「ダメよ」
「お前な」
「途中だと困るでしょ?」
「けど……」
「私は大丈夫。だから最後まで……ね?」

じっと俺を見つめてくる美琴。
その瞳に迷いはない。そのつもりで今日はここにいるのだと、言葉以上に語っている。

「分かったよ」

美琴には言い出したことを絶対に曲げない強さがある。
とことん頑固な性格なのだ。だから俺が折れるしかない。

「じゃあ、見せて」

一度、唾を飲み込む。わずかな迷いが生じる。

「……見るのか?」
「じゃないと出来ないでしょ」
「でも、いきなりってのは」
「今更、何言ってんのよ」
「いや、でもな……」
「ああもう、じれったいわね」
「さすがに恥ずかしいというか」
「恥ずかしがってる場合か!いいから宿題全部出しなさい!明後日までに終わらせなきゃいけないんでしょ!」












あ~あ、と私は思う。


当麻の部屋で、ガラステーブルを挟んで向かい合わせに座って。
二人っきりになれたのに、雰囲気だってバッチリなのに。なのにどうして、こんなことになっちゃったんだろう。
夏休みは、あと二日しか残っていないのに。限られた時間を、当麻と一緒にのんびりと過ごしたかったのに。


全部、当麻が悪い。夏休みの宿題なんてものを、今日の今日まで終わらせずにいたのが悪い。
原因は火を見るより明らかだ。でも、それが分かっただけじゃ、事態は一つも好転しない。
このまま放っておいたら、当麻は補習を受けざるを得なくなってしまう。一緒にいられる時間が減ってしまう。
そうでなくても新学期が始まったら、放課後までは会えないっていうのに。
それだけはイヤだ。絶対にイヤだ。だから当麻には、何としてでも宿題を全部片付けてもらわなきゃ。

「というワケだから、宿題見せて」
「怒らないか?」
「怒らずにはいられないほど酷いの?」
「美琴次第だな」
「内容次第でしょ!」
「そうとも言うな」
「そうとしか言わないから!いいから見せなさい!」

おずおずといった様子で差し出されたプリントの束を受け取る。


ふーん、これが夏休みの宿題ってヤツなんだ。
枚数はざっと二十……いや、三十といったところか。
うん。量は結構あるけど、二日もあれば何とかなるんじゃないかな。
数学は単純な計算問題と因数分解だけだし。英語も基本的な文法事項の復習と単語練習しかないし。
古典は……ちょっと簡単過ぎでしょ、これ。こんなの活用表さえ覚えていれば楽勝じゃない。


――何だかなあ。


溜め息を一つ。


常盤台中学が夏休みの宿題を出さないのも、肯ける。
別にこんなものをやらなくても、気は緩まないし学力も低下しないんじゃない?
まあ、どうでもいいか。私が教えられる範囲で良かったと、ここは素直に喜ぶべきよね。


そんなことより、今は目の前のプリントだ。
一枚ずつ確認していくに従って重くのしかかってくる、現実だ。
計算問題は白紙。単語練習も白紙。……以下、同文。
どのプリントも見事なまでに真っ白だ。


一体何がどうなって、この惨状が出来上がったんだろう?
宿題に手をつける時間がなかったんだろうか。それとも内容が難しくて手が出なかったんだろうか。

「あのさ」

ここは是非とも前者のみであってほしい。そんな願いを込めて訊ねる。

「伊能忠敬って、知ってる?」
「日本で初めて国産鉄砲の製造に成功した人だろ」
「それ、八板金兵衛でしょ!語呂も全然近くないし!」

これはもう、色々とヤバイかもしれない。

「当麻」

腹を決めて、口を開く。
当麻一人じゃ、どう考えても間に合わない。
一旦寮に戻って着替えるとか、そんな悠長なことは言ってられない。

「頑張ろう」

こうなったら仕方ない。
今から付きっきりで勉強を見てあげるしかない。
それしか方法がないんだし、それに……一緒にいられるって点は問題ないしね。












何だか、どうにも不可解だ。
世の中にはまあ、不可解なものが色々あるけどさ。
例えば姿に格好、話し方全てにおいて小学生にしか見えない幼女先生とか。
甘ったるい香水の匂いを漂わせ、右目の下にはバーコードの刺青を施している愛煙家の神父とか。
でもニコニコ笑ってる美琴ってのはもう何と言うか……とてつもなく不可解だ……。


俺は隣でニコニコ笑う美琴の顔を、ちらちらと見つめていた。
美琴曰く、隣に来ないと文字が読めないから、ということらしいのだが。

「何よ」

美琴が訊ねてくる。

「い、いや、何でもない」

俺は慌てて言った。

「ふーん」

まだニコニコ笑っている。


おかしい……絶対におかしい……。


美琴が怒っていたとしても不思議じゃないんだ。
どうして宿題を終わらせてないんだって、叱りつけて当然なんだ。
そのせいで、美琴はまだ自分の寮に帰っていない。
海の家『わだつみ』から学園都市に戻ったその足で、一緒に家まで来てもらっている。
中学生に勉強を教わる高校生という、何ともシュールな図が出来上がっている。


なのに、だ。さっきから、美琴はずっと笑っている。
それどころか、俺の顔をじーっと見つめてたりするんだ。
上は半袖のブラウスにサマーセーター。下は灰色のプリーツスカートという、常盤台中学の制服姿で。

「……お前、何笑ってんの?」
「べっつにー」
「……何かいいことでもあったか?」
「べっつにー」

その声も弾んでいる。
全くワケが分からない。気味が悪い。
と、いうワケで。上機嫌な美琴とは対照的に、俺はビクビクしながら英文和訳に取り組んでいた。

「えーっと」

単語ごとに日本語に直してみたが、文として全く成立していない。
どうなってんだよ、おい。どこをいじったら、ちゃんとした文章になるんだよ。

「どうしたの?」

美琴が手元を覗き込んできた。

「解けない問題があるの?」
「それっぽい日本語に直せないんだよ。単語の意味は分かるんだけど」
「ふーん、見せて」

美琴のほっそりとした肩が、俺の肩に少し触れる。
彼女の息遣いを感じる。温もりを感じる。


俺は緊張して、思わず固まった。
すぐ目の前に、美琴の首筋があった。
綺麗なラインを描いて、それは顎へ、耳へ、伸びていた。
瞬きが出来ない。そんなもったいないこと、出来るワケがない。
俺は息することさえもやめて、ただじっと、目の前にある至福を見つめていた。

「じゃあ、注意しなきゃいけない単語を確認してみようか」
「あ、ああ」
「この単語の意味は何?」
「“九十”だろ」
「じゃあ、こっちは?」
「“生活した”……いや、違うな。“生きた”……かな、多分」
「正解。よく気づいたね」

美琴の吐息を感じた。温かい。柔らかい。
もし今、美琴を抱きしめたら怒るかな。それとも、もしかすると――

「じゃあ最後。これは?」

美琴が手を伸ばして、とある単語を指差した。

「“すること”か“するため”……じゃないのか?」
「ここではね」
「他にもあるのか?」
「うん。不定詞の中でも、ここで使ってる用法はかなり特殊なんだ」
「どうすりゃいいんだ?」
「不定詞に意味があるって考えないこと」
「うん?その心は?」
「不定詞っていうのはね、欠けている内容を補ってるだけなんだよ。この文だと不定詞が出てくる前に“彼が生きた”ことまでは分かるけど、何歳まで生きたかは分からないでしょ」
「確かに」
「ここで不定詞の後ろに注目。いくつって書いてある?」

なるほど。それで“九十”なのか。

「すげえな、美琴」
「へへえ」

美琴は得意そうだ。そんな美琴の笑顔はむちゃくちゃ可愛かった。

「次の問題もやり方は一緒だよ」
「ってことは、こう……か?」
「そうそう。出来てる出来てる」

隣で美琴が満面の笑みを浮かべる。

「偉い偉い」

そして俺の頭を撫でてくる。
俺は敢えて不機嫌な調子で言った。

「犬じゃねえぞ」
「褒めてあげてるんだよ。ほら、偉い偉い」
「だから、犬じゃねえって」

不機嫌に言いながらも、俺は嬉しくてたまらなかった。
何か、こういう美琴もいいな、うん。
ちょっとしたことで感心してくれたり、笑ってくれたり、得意げになったり。
うん。こういう美琴の笑顔は全然悪くないぞ。











[20924] 第27話 御使堕し編・その後②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/02/19 02:06
夕方になった。
ちょっとでも宿題を進めておこうと、俺は一人で数学の教科書を読んでいた。


今、美琴は部屋にいない。買い物に出かけているのだ。
何故かと言うと、冷蔵庫の中身が空っぽになっているからである。
当然ながら、なければ買いに行かなければならないワケで。


あちこち拾い読みするうちに、必要な公式を見つけ出すことが出来た。
美琴に言われたとおり、順番に気をつけて計算してみる。
最初に括弧内の計算を済ませる。掛け算と割り算を優先して、足し算と引き算はその後に。うん、どうにか解いていけそうだ。
シャープペンシルをプリントに走らせる。一枚目を数字と記号で埋め尽くし、二枚目も埋め尽くし、三枚目にかかったところで、ふと思い立って顔を上げた。いつの間にか室内は薄暗くなっていた。


ああ、全く気づかなかった。
明かり、つけなきゃな。それに腹減ったな。
同じ体勢でずっと書いていたので、肩の辺りが痛かった。
明かりをつけようと立ち上がる。と、ズボンのポケットの中でケータイが鳴った。

「やっほー、当麻」

美琴だった。

「どう?順調?」
「あ、ああ。おかげさまでな」

びっくりした。

「そっか、御苦労様。疲れた?」
「疲れたよ。肩もすげえ痛いし」

明かりをつけ、フローリングに腰を下ろす。

「計算問題って、メンドくさいのばっかりなのな」
「宿題だからねえ」

いや、それを言われちゃ元も子もないんだけどさ。

「ね、当麻」

美琴が言う。

「一つお願い、聞いてあげよっか」
「お願い?」
「今日の夕飯は何がいいか言ってみなさい」

俺は色々なメニューを思い浮かべた。
美琴は料理の腕だって抜群なのだ。実に器用で何でも作れる。


麻婆豆腐?
悪くないけど、何か違うな。


生姜焼き?
いや、洋食がいいかな。


ロールキャベツ?
あ、それがいいな。うん、ロールキャベツがいいや。

「そうだな、ロールキャベツが食いたいな」
「よし。その願い、叶えてあげよう」












「終了ーっ!」

シャープペンシルをテーブルに置き、大きく伸びをする。
気がつけばもう七時を過ぎていて、外は真っ暗だった。

「出来た?」

エプロン姿の美琴が歩み寄る。

「ああ、計算問題は全部」

プリントの束を差し出す。

「どれどれ」

受け取ったプリントを美琴はぱらぱらと見て、次に俺を見た。ニコリと微笑む。

「うん。全部合ってる」
「そっか。良かった」
「この調子なら因数分解も今日中に出来そうだね」
「だな。でもその前に飯、食える?」

うん、とプリントを俺に返して美琴が肯いた。

「出来てるよ」

その後は、あっと言う間だった。


ご飯が盛られた茶碗。
赤いトマトとレタスのサラダ。
麦茶が入っているポットに、氷を入れたグラス。
ほかほかと美味しそうな湯気を上げるのは味噌汁と、深皿に盛られたロールキャベツ。
二人分の料理が次々と目の前にあるガラステーブルに並べられていく。

「すげえな……」

何度見ても、その手際の良さにはマジで感心する。


へへえ、と美琴は得意げに笑った。

「ほら、冷めないうちに」
「そうだな。じゃ、いただきます」

俺はロールキャベツにかぶりついた。
むちゃくちゃ美味かった。キャベツはとろとろだし、その中の肉は何かのスパイスが微妙に効いていて、それがホワイトクリームとばっちり合っている。

「この肉、何が入ってるんだ?めちゃくちゃ美味い」
「ホント?美味しい?」
「ああ、めちゃくちゃ美味い」

向かい側に座った美琴は嬉しそうに笑った。

「手間かかってるんだよ、それ。まず玉ねぎを三十分炒めるの。飴色になるまで。それから挽き肉と合わせて、塩胡椒をして、そこにシナモンでしょー、ナツメグでしょー。あとカルダモンのパウダーも入れてるんだ」
「へえ、すげえな」
「当麻、頑張ってるしね。それくらいはやってあげるわよ」
「自業自得なんだけどな、この窮地」

笑いながら、ご飯をかき込む。
続いて、サラダを口へ放り込む。
ドレッシングの風味が素晴らしい。きっと手作りなんだろう。
ご飯も本当に美味い。料理好きの美琴は、ご飯の炊き方まで色々こだわっているのだ。
流水で洗ってね、それから一時間水に浸して――なんてことを前に話してたっけ。確かに手間をかけたと分かるご飯だ。


――ホントありがとな、美琴。


ガツガツ食べながら、俺はそんなことを思った。

「どうしたの?」

視線に気づき、美琴が首を傾げた。


俺は慌てて言った。

「すっげー美味い」

えへへ、と美琴は笑った。
嬉しそうに、幸せそうに笑っていた。












「ふいー、ごっそさん」

夕御飯を食べ終えると、当麻はベッドにごろんと横になった。
仰向けになり天井を見上げる形で、両手を頭の後ろに組みながら目を閉じる。

「ちょっとー、お行儀悪いわよ」
「へいへい」

むう、右から左に流してるし。なんて思いながら、私は誘蛾灯に誘われる虫のようにふらふらと、無防備な顔を晒す当麻の傍に寄っていく。
普段は飄々とした印象があるけれど、この時の当麻はどこかあどけない。可愛い、と感じる数少ない状況。


私はするりと当麻の目の前へ移動する。
こっちの接近を察したのか、上体を起こす当麻。でも、目は瞑ったまま。
大丈夫。いける。さん、にい、いち。

「うわ、ぎゅうぎゅうだ」
「……おい」

大成功。ベッドに腰かける当麻に、私の身体はすっぽり収まる。

「お前の方が行儀悪くないか」
「何よー、別にいいじゃない」

背中に当麻の体温が触れる。
当麻の息遣いを感じる。

「どうせヤじゃないんでしょ?」
「……うっせ」

くつろぐ私の顔のすぐ右脇に、当麻が顔を寄せた。
わずかに右を振り向くだけで表情が覗けるくらい、近くに。

「なあ、どうして訊かないんだ?」

当麻の声が、耳元で聞こえた。

「何を?」

意味が分からず、私は訊ねた。
次の瞬間、当麻の口から出てきたのはこんな言葉だった。

「俺のことだよ」
「当麻の?」
「俺の記憶のこと」

心臓が突然、跳ねた。
確かに、ドクンと。

「知りたいんだろ、俺がどこまで覚えてるか」

少し間があった。


当麻はきっと待っている。
私の言葉を待っている。
それが分かったから、言った。

「うん、知りたかった。当麻に何があったのか、すごく知りたかった」

何だかんだ言って、当麻は鋭い。
私の微妙な言い回しに気づいた。

「かった?」

出来るだけ、あっさりと言うことにした。

「でも、もういいや」

笑いながら、私は言った。


当麻の過去が気にならない、なんてことは絶対ない。
どんな些細なことだって気になるし、知りたい。だって好きなんだもん。



だけど私には自信があった。
確かに記憶は大事かもしれない。
積み重なっていけば、光り輝くかもしれない。
それでも記憶は一番じゃない。

「当麻がいれば、それでいいや」

湧き上がってくる気持ちのまま、そう言った。


ちゃんと分かってるんだ。一番は当麻だって。
何があっても、そのことだけは決して変わらない。
だから、当麻の過去を知らなくても、私は構わなかった。
そんなことよりも、当麻といられることが大切だった。
この世で一番のことを手に入れようと思ったら、何かを失くしたり落としたりしなきゃいけない場合だってある。
それは払うべき代償だ。そうだ、言い切ってやる。子供の戯言だって切り捨てるヤツがいたら、私はそいつを思いっきりぶっ飛ばしてやる。


この想いを、気持ちを、どうしたら当麻に伝えられるんだろう。
学園都市で三番目に優れた頭脳の持ち主なくせに、私の頭の中には気持ちを上手く表現できる言葉がなかった。
だから私は手を伸ばして、ベッドに投げ出された当麻の大きな手をぎゅっと握りしめた。
これが、この手の中にあるものが、私の一番だ。何よりも大切なものだ。この世界よりも、自分自身よりも、大切なものだ。


気持ちが伝わればいい。
温もりで、それ以外の何かで、伝わればいい。


当麻はそっと握り返してきた。

「ロールキャベツ、すげえ美味かった」
「うん」
「また作ってくれよ」
「うん」

そんなことを言いながら、私達は互いの温もりを感じ合った。











[20924] 第28話 御使堕し編・その後③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/04 23:43
気がつけば十一時を回っていた。
この時間では最終バスも過ぎてしまっている。
とんでもないことになった。本当に本当に、とんでもないことになってしまった。
美琴に外泊許可が下りていたのは昨日まで。だから今日は門限までに帰さなきゃいけなかったのに。


どうにかなるはずだった。
飯を食って、食後にちょっと休憩したって間に合うはずだった。
意識を落としさえしなければ。そう、美琴の温かさに負けて、ぐっすりと眠ったりしなければ。

「起きた?」

美琴を後ろから抱きしめたまま、俺はそんな声を聞いていた。

「もうすぐ明日になっちゃうね」

その通りだった。
あと一時間もしないうちに明日に、八月三十一日になる。
一ヶ月以上あった夏休みも、あと二十四時間を残すばかりになる。

「ごめん、美琴」

俺は慌てて言った。
ほったらかしだったことで、美琴は怒ってるかもしれない。

「大丈夫」

だけど美琴は全然怒ってなかった。
それどころか、何だか優しい顔をしていた。
あまりにも意外だったので、俺はちょっとぼーっとしてしまった。

「でも、どうしようか」
「うん?」
「今から走って寮まで行っても、日付け変わっちゃうし」
「……」

くそ、俺のバカ。クズ野郎。
また自分のことでいっぱいいっぱいになりやがって。
落ち込んだそばから、またこれだ。救いがない。
それにしても、どうして美琴は優しく笑ってるんだ。どうして俺の顔をじっと見てるんだ。


情けなさでいっぱいになりながら、美琴の目の前で交差させていた腕を解いた時、

「あのね、当麻」

俺に身体を預けたままで、美琴が声をかけてきた。

「お願いがあるんだけど」

右の肩に顎を乗せて、美琴の顔を覗き込む。

「お願い?」

悪い予感がした。

「うん」

美琴は優しい顔をしたまま、肯いた。












悪い予感ってヤツは、どうして当たるんだろう。全く理不尽だ。
例えばサイコロを振ると、出てくる数字は半分が奇数で、半分が偶数だ。
世の中には大体同じくらいの幸運と不運があるんだろうし、いい予感も悪い予感も等しい確率で当たるはずなんだ。
ところが、だ。当たるのはいつも悪い予感ばっかりだった。


全く、この世界ってのは理不尽だ。だから俺は参ってしまう。
いやいや、もちろん参ってる一番の原因は、この時間じゃどこにチャンネルを合わせても面白くない番組ばっかりだってことだ。
『呼吸でレベルアップ講座』とか、とにかくつまらない。あんな番組があるなんて、どうかしてる。
あの程度で能力を上げられるなら、この街はとっくに超能力者で溢れ返ってるだろうに。
それにコツコツと努力を積み重ねて力を手に入れた美琴のような人間をバカにしているように思えて、どうしても好きになれない。


そう、面白くないテレビ番組のせいで参ってるだけだ。それだけだ。

『今日、泊めて』

美琴の声が時々心に響くのは、全然関係ない。


俺は軽く溜め息を吐いた。
それからテレビを消し、耳を澄ませる。
ドア一つ隔てて、水の流れる音が聞こえる。
また落ち着かない気分が込み上げてきた。
美琴が風呂に入っているのだ。


優しい笑顔で、美琴がそう言ったのだ。ここに泊めて、と。
お前なあ、と俺は呆れた声を返していた。


あのテレポート女を呼び出せば喜んで迎えに来るだろ。黒子にここの場所ばらしてもいいって本気で思ってんの?あー、そりゃマズイな。
でも散々門限破った上に無断外泊なんてして、寮の方は大丈夫なんかよ?だってほら、黒子に連絡すると今後色々面倒だし。それに、その……邪魔、されたくないし……。
お前……よくそんな恥ずかしいこと口に出して言えるなあ。何よ、いいじゃない。少しくらい本音言ったって。ははは。笑うなあっ!
もう、からかわないでよ。ちょっと汗掻いちゃったじゃない。悪い悪い。ね、当麻。お風呂借りていい?ダメっつったってどうせ入るだろ、お前は。
沸かし方分かるか?うん、台所と一緒よね。あ、そうそう。ん?覗いたら殺すわよ。いいから入って来い、中学生――と。


俺達は普通に悩み、普通に怒り、普通に笑い、普通に喋った結果、普通じゃない状況に陥ってしまったりした。


しかし何考えてんだよ、美琴のヤツ。
何の躊躇もなく男の家で風呂に入るなんて。
俺達って今、正真正銘、二人っきりなんだぞ。
こんな状況で、何とも思わないワケないじゃないか。


これはまさか、アレですか?誘われてるってことですか?


い、いや、考え過ぎだよな。
単にアイツが無防備だってだけで。
そうだ、深く考えたら負けだ。
平常心。ここは平常心で乗り切るんだ。
そんなことを考えていると、カチャリと音を立てて件のドアが開いた。


俺は反射的にそちらを振り向き、

「お待たせー」

そして凍りついた。

「ん?どしたの?」

美琴が着ているのは白いYシャツ一枚、ただそれだけ。

「ちょ、おまっ!ちゃんと服着ろよ!」
「着てるじゃん、当麻に借りたシャツ」
「それだけじゃダメだろ!」

正直、目のやり場に困る。
胸元の膨らみとか、その先端部分とか、色々と浮かび上がってしまっている。

「何か着けろよ、下着的なものを!」

視線を下に逃がす。だが、残念ながらそこにも罠が仕掛けられていた。

「なっ!?」

雪のように白い肌と、細くて長い足が出迎えてくれた。

「下も履け、下も!」

シャツの裾はギリギリ股下まで。
美琴が身体を動かすたびに裾がひらひらと揺れ、隠れた素肌がちらちら見える。

「見えそうで見えないところがいいでしょ」

美琴は笑った。
ただし、意地悪そうに。
それは小悪魔の笑みというヤツだった。


ほんの少し濡れた髪に、上気した頬。
胸がドキドキする。思わず息を呑む。
このまま振り返って美琴を抱きしめたかった。
その綺麗な髪に、柔らかい首筋に、顔を埋めたい。
だけど理性を総動員してどうにか堪える。
遠慮なんかするな、なんて美琴は言ってくれている。
だけど、それでもまだ早いと思うんだ。
何が早いかと言うと……それはまあ、あれだが、とにかく早いんだよ!

「とりあえず髪を拭け、髪を!」

美琴の首にかかっていたバスタオルを取り上げる。それを美琴の頭に被せ、わしわしと髪を拭く。

「と、当麻、やめて……やめてってば!」

不満そうな声。でも聞き入れるつもりなんて毛頭ない。
男心を弄ばれた苦痛、一端でもいいから味わわせてやる。

「安心しろ」
「何が?」
「すぐに乾く」
「そういう問題じゃない!」

悲鳴のような抗議をする美琴を無視して、俺は髪を拭き続けた。
そうさ、気持ちの整理がつくまで拭き続けたんだ。












私の髪を拭き終えてすぐ、当麻はユニットバスに直行してしまった。


逃げられちゃったな。
私って、そんなに魅力ないのかな。
胸だって、同年代の子よりも小さめだし……。


リビングに取り残されて、だんだん醒めてきた。
何をしてるんだろう、私は。あんなことをして、当麻が喜ぶワケがないのに。
さっきまでの自分を思い返す。熱が顔に集まってくる。


――もしかして私、とんでもないことしちゃった……?



だんだん不安になってきた。
私、何であんなことしたんだろう?ひょっとして、焦ってた?
でも、何に?そもそも、焦るようなことなんて……。


――ある、かもしれない。


当麻は誰にだって優しい。
困っている人がいたら、ついさっきまで自分の命を狙っていた相手だろうがお構いなしに手を差し伸べるようなヤツなのだ。
私は知ってる。そんなアイツを慕う女の子が、実は大勢いるんだってことを。しかも魅力的な娘ばっかりだってことを。


ああ、勘違いしないでね。
別に当麻のことを疑ってるワケじゃない。
問題は私なのだ。まだまだ守られてばかりいる、私の方なのだ。


私はインデックスみたいに当麻を気遣ってあげられてない。
舞夏みたいに家事を完璧にこなせるワケでもない。
姫神さんみたいに御淑やかでもなければ、神裂さんみたいに強くもない。
胸だって、その、満足させてあげられるほどないし……。


何だか無性に悔しくて、心の奥が締めつけられる。
私の一番は当麻だ。誰が何と言おうが、それは絶対に変わらない。
でも、私は?私って、本当に当麻の一番になれてるの?












「要は能力者が繰り広げる大運動会ってワケか」
「うん、だから外部からの注目度も高いんだよ。期間中は都市への出入りも自由だし」
「にしても大覇星祭、か。随分と仰々しい名前だな」
「そうだね。何か由来でもあるのかな」

お風呂上がりの当麻とベッドに腰かけ、二人で色んなことを話した。と言っても、話しているのはほとんど私だった。
当麻は聞き手に回っていた。肯いたり、突然神妙な顔をしたり、苦笑したり。とにかく飽きずに聞いてくれた。
お風呂に入る直前のことなんて、まるでなかったみたいに自然な態度だった。

「もうこんな時間か」

気がつけば、時間はもう二時近くになっていた。
明日のことを考えると、さすがに寝ないとマズイ。

「そろそろ寝るか」
「だね。ところで当麻」
「何?」
「毛布だけは頂戴」
「ん、何で?」

真っ直ぐな瞳に他意はない。
どうやら本気で分かってないらしい。

「私、下で寝るから。ベッドは当麻が使って」

当麻が顔をしかめた。

「何言ってんだよ。ベッドはお前が使え」
「ダメ。ここは当麻の家なんだから」

折れるつもりなんて、これっぽっちもなかった。
私は今日、冷たい床で寝なきゃいけなかった。それを望んでいる自分がいた。

「ベッドは当麻が使って」


――ああ、そうか。


毛布を掴み、腰を浮かせて、ふと気づいた。


――私は自分に罰を与えたいんだ。


「断る」

当麻の目が険しくなる。
立ち上がりかけた私の腕を取る。

「ちょっ、やめて!」

強く抵抗する。なのに当麻は離してくれない。
私の腕を掴む、その力を緩めてくれない。

「離して!離してってば!」

私は必死だった。


私は罰を受けなきゃいけない。
じゃなきゃ、自分自身を許せそうにない。

「離して!」

それでも当麻は離してくれない。諦めてくれない。
それどころか、振り返った私の腕を強く引いてきた。
私達は揃ってバランスを崩し、二人してベッドに倒れ込んでしまった。
私が上で、当麻が下で。まるで私が押し倒したような、そんな体勢になった。


当麻は硬くて、重い感じがする。
薄いYシャツ越しに、当麻を感じる。
触れている部分の体温が、どんどん上がっていく。
熱くて、汗が出てきて、それが心地良い。
もっと触れたくなる。他のところに手を伸ばしたくなる。
邪な願望が私の中で膨らんでいく。けど当麻と目が合うと、欲望はあっと言う間に消え失せてしまった。

「どうしたんだよ」

真剣な眼差しに、かける言葉が見つからない。

「ほら、泣くなよ」

なんて言って、そっと目元を拭いてくれる当麻。
この時、私は初めて自分が泣いていることに気づいた。

「そういうとこ、会った頃から全然変わってないな」

何で?何で怒ってないの?どうしてそんなに優しいの?
勝手に怒って、泣き出して。そんな私に、どうして……?

「当麻……」

身体を浮かせて、当麻の顔を覗き込む。
何故か、慌てて視線を逸らされる。

「何?」
「お前、もうちょい自覚持てよ」
「は?」
「ディフェンス甘過ぎ」

自分の胸元を確認する。
開いた襟元から、ちらちらと胸の先端が見えている。


――ひょっとして、ううん、ひょっとしなくても、見られた?


瞬く間に顔が熱を帯びていく。

「スケベ」
「うっせえ!」

自棄になって叫ぶ声。次の瞬間、抱きしめられた。
ギュッと。壊れそうなくらい。力いっぱい、抱きしめられていた。

「ったく、何焦ってんだよ」

慰めるように、当麻が私の頭を撫でてくれる。

「焦らなくても、怖がらなくても、俺は美琴のものだよ」
「で、でも……!」

突然のことだった。一瞬だけ身体が強張っちゃったけど、すぐに受け入れられた。


当麻からの、キス。
目を閉じて、必死に当麻を求めた。
もっともっと、当麻を感じていたい。
お願いだから、傍にいさせて。私を不安にさせないで。
私だけを見てなんて、そんなワガママ、もう言わないから。


私達は随分と長いこと、お互いの唇を味わった。
お互いの全てを感じ合えるくらい、口づけを交わした。

「……激しかったね」
「それだけ好きってことだよ」

うん、ホントにそう。
抱きしめてくれて、当麻との距離がゼロになって。


いつも、いつもそうなんだ。
いつだって当麻は、私が一番欲しがっているものをくれる。
私を幸せな気持ちで満たしてくれる。


でも、そろそろ寝ないと明日が大変になっちゃう。
このまま終わりっていうのは残念だけど、こればっかりはしょうがないよね。

「もう寝よっか」
「ごめん、無理」


――え?


予想だにしていなかった言葉。

「……この状況で、さすがに何とも思わないワケないだろ」

更に、更に。

「って言うか、そろそろ限界なんですけど」

それは恥ずかしいけど、嬉しかったり。

「バカ」

微笑んで、呟く。


私達の夜は、まだまだ終わりそうにない。











[20924] 第29話 八月三十一日①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/08/18 00:02
「ふう――」

小さく吐いた息が、やけに大きく聞こえた。
旅行用の大きなバッグを肩にかけ直し、私は空を見上げた。
夏の夜明けは早くて、まだ六時だと言うのに、太陽は元気よく輝いている。
恐怖が一気に、胸の中で膨れ上がった。


――マ、マズイ。早く帰らないと寮監に怒られる……。


その恐怖感に急かされ、私は駆け出した。
近代的な街並みの中を走っていると、三階建ての古めかしい建物が見えてきた。
石造りの洋館を思わせるそれは、常盤台中学の学生寮だ。


周囲の気配に耳を澄ましながら、正面玄関に向かう。
目の前で開いた自動ドアを、おっかなびっくり通り抜ける。
電磁波を飛ばして、辺りの様子を窺う。


――よし、誰もいない。


私は慎重だった。以前、寮監に待ち伏せされたことがあるのだ。あの時の寮監はむちゃくちゃ怒っていた。
一緒にいた黒子の首を捻って瞬く間に意識を落とした上に、だだっ広い学校のプールの掃除を命じたのだった。
そりゃあ私だってさ、規則を破っていいなんて思ってないよ。でもさ、れっきとした理由がある時ぐらいは融通を利かせてくれてもいいんじゃない?


ロックを解除し、ホールへ続くドアをそっと、そーっと開ける。


――いけるかな?


ドアを開けたまま、身を固める。
気配を探る。音に注意する。そっと顔を出す。
人の姿はない。ホールは静かなものだった。
ホッと息を吐く。第一関門、突破だ。


中に入り、静かにドアを閉める。
足音を殺すために靴を手に持ち、小走りで階段を上る。
身を隠すものは何もない。寮監が通りかかったら終わりだ。
出来るだけ足音を立てないようにしながら、駆けていく。
心臓がドキドキした。慌て過ぎたせいで足がもつれ、危うく転びそうになる。
でも、どうにか体勢を立て直し、そのまま速度を上げた。


二階に辿り着くと、一気に廊下へ出る。
突破成功だ。ここまで来れば大丈夫。
私と黒子の二人で使っている部屋はもう、目と鼻の先だ。
胸に達成感が湧き上がってきた。


しかし!


ドアに手をかけた、その時だった。

「お帰り」

背後から、誰かの声。

「ところで今日、何日かな?」

慌てて振り返ると、そこには思った通り、寮監の姿があった。
背中の辺りまで伸びた黒髪。びしっと決まったスーツ。
腕組みをして、眼鏡越しにこちらを凝視している。


私は両手をブンブンと振った。

「りょ、寮監、違うんです!これにはワケが――」

私の必死の弁解は、途中で切れた。
正面から喉を鷲掴みにされたからだ。
頸動脈を絞められ、私の意識は呆気なく落ちてしまった。












海に出かける際、私は八月二十九日までしか外泊許可を取っていなかった。
つまり、昨日は無断外泊だったワケだ。そのたった一日の無断外泊は、意外と大きな波紋を生み出してしまった。
まず私が予定通りに帰って来ないことに黒子が泣き叫び、続いて当麻と一緒に学園都市の外に出ていたことが発覚して……。
どこをどうしたらそうなるか分からないんだけど、駆け落ちという説が学生寮中を駆け回ったらしい。


――うーん、駆け落ちかあ……わりと思いつきやすいシナリオなのかなあ……。


と、そんなことをしみじみ思いながら、私はひたすら足の痛みに耐えていた。


学生寮の前で正座させられてから、既に三時間が経つ。
何故こんなことになっているのかと言うと、まあ要するに無断外泊の罰である。


目を細くした寮監が、

「規則破りには罰が必要だ。そうは思わんか?」

と言って、私に正午までの正座を命じたのだった。


反省を促す姿勢として、それは間違っていないと言えば言えるだろう。
だけどここは路上。コンクリートの上。座っているだけでも固くて痛い。
こんな場所で正座をするのはやっぱり、かなり間違っていると思う。
それに午前十時を過ぎた今では太陽にも気合が入り、私の上に容赦なく降り注ぐ。
設定気温を下げてほしいとお願いしたいところだけど、何しろ相手は一億五千万キロ彼方。声は届きそうにない。


――それにしても、駆け落ちかあ……。


その言葉は本当にドラマチックな響きがした。
当麻と手を繋いで、どこまでもどこまでも行くんだ。
ここじゃないどこか遠くの、そうね、あまり大きくない町に辿り着いたら、どこか古ぼけた感じのするアパートでも借りて。
共働きで生活費を稼いで、でも帰りは絶対に私が先で。当麻が仕事から帰って来るのを、ご飯を用意して待ってたりして。

「ただいま」

なんて、当麻は笑顔で言ってくれてさ。


もちろん私は笑う。

「おかえり。ご飯にする?お風呂?それとも……」


――ストップストップ!何を想像してんのよ、私!


とは言え下らない妄想に励んでいると、この惨めな状況と足の痛みを忘れることが出来るのも事実なワケで。
だから私は妄想の続きを、ありったけの想像力を駆使して思い浮かべた。まあ、ああいうことやこういうことだ。
そして、思わずニヘラと笑っていると、

「何だ、御坂さんじゃないですか」

すぐ側で、声がした。


まだ妄想に半分くらい浸ったまま、顔を上げる。
私より一つ年上の、背の高い男が立っていた。

「何をなさってるんですか?」

海原光貴。近頃しょっちゅう付きまとってくる男だった。

「えっと、ちょっとばかり正座を……」
「どうしてこんな所で?もしかして、趣味の一環ですか?」
「い、いや、そうじゃなくて……」

どこの世界に正座が趣味の女の子がいるっていうのよ。

「あと、どうして顔が赤いんです?」
「え、ええと、それは……」

よからぬ妄想をしていたからです、とはもちろん言えなかった。

「あ、足が痛くて……」
「え、大丈夫なんですか?」
「う、うん。平気平気……」

しかし、ふと素に戻ってみると、足の痛みは限界に達していた。
膝がギシギシ痛み、お尻の下の足首は今にも折れそうだ。
私は自分の顔が青くなっていくのを感じた。


――ヤ、ヤバイ。


危機を感じ、慌てて立ち上がろうとしたが、それがいけなかった。
痺れ切った足がまともに動くはずはなく、立ち上がろうとした次の瞬間、顔から床に突っ込んだ。

「御坂さん、大丈夫ですか!?」
「へ、平気平気」

駆け寄ろうとした海原光貴を、私は声を上げて制した。

「でも鼻の頭、赤いですよ」
「身体を張ったギャグよ、ギャグ」

床にへたり込み、すっかり痺れてしまった両足をさすりながら言った。

「やっぱり辛いんじゃないですか?」
「平気だって。あと少しの辛抱だし」

たはは、と笑って再び正座体勢に戻る。


そうだ、正午になれば自由の身になれるんだ。
そうしたら真っ先に当麻の寮に行こう。
今頃は残りの宿題相手に奮闘してるはずだから。
何か美味しい物を作って、少しでも応援してあげよう。
何がいいかな。こんなに暑いんだから、冷たい物がいいよね。となると、やっぱり素麺かな。

「お助けしますよ」

救いの手を差し伸べようとする海原光貴。
この男だったら、確かに現状をどうにか出来るのだ。
だってコイツ、常盤台中学理事長の孫だったりするんだから。
コイツの頼みだったら、たとえ寮監でも聞き入れるしかないだろう。


でも私はブンブンと首を振った。
この男に借りなんて作りたくなかった。
見返りに何か面倒なことでも頼んでくるかもしれないし。

「だから平気だってば」

断言。


海原光貴はニコリと笑った。

「一刻も早くあの方に会いたいとは思わないんですか?」
「あの方って?」
「上条当麻さん、でしたっけ」

その返答に、めちゃくちゃ驚いた。


――何でコイツ、当麻のことを……?


口を半開きのまま、海原光貴の顔を見ていると、

「知ってますよ」

海原光貴がそう言った。

「御坂さんのことですから」

何が楽しいのか、ニコニコと笑い続けている。


おかしい、と思った。
近頃しょっちゅう、こんな調子なのだ。
この男とは挨拶を交わす程度の仲だった。
なのに一週間くらい前からだろうか。
適当に理由を作っては、しつこく付きまとってくるようになったのだ。

「お助けしますよ」

ただし、と海原光貴は付け加えた。

「条件があります」
「条件?」
「近所に魚料理が美味しいお店があるのですが、お付き合い願えませんか」

しばらく、何を言われたのかピンと来なかった。


――魚料理?お付き合い?


その二つの言葉が繋がるのに、ちょっと時間がかかった。

「お付き合いって、食事の誘い?」
「ええ。この条件を呑んで下さるのでしたら、今すぐ貴女を解放して差し上げますよ」
「条件って、それだけ?」
「はい」

気づくべきだったのだ。この時。
こんなに甘い取り引きがあるワケないのだと。

「まあ、それぐらいならいいけど」

でも、何にも知らなかった私は、あっさりと肯いてしまった。


八月三十一日。夏休み最後の日は、まだまだ始まったばかりだった。











[20924] 第30話 八月三十一日②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/11/22 23:18
第七学区の公園は大した遊具もなく、子供が集まらない閑散とした場所だった。
人が二人ほど座ればいっぱいなベンチ。故障気味の自動販売機。それだけしかない。
そんな公園に足を運ぶのは、自律走行するドラム缶型の清掃ロボと、静かな場所を求める人ぐらいだ。


あたし、佐天涙子は静かな場所を求めていた。


八月三十一日、正午。
夏休みの宿題を終えて手持ち無沙汰になったあたしは、暇潰しも兼ねて軽い散歩をすることにした。
最初からあの公園に寄るつもりだったので、昼食用にコンビニでコロッケパンとコーヒー牛乳を買って。


家の中より綺麗な空気を味わって、すぐ帰るつもりだった。
ベンチに座って、お昼御飯を食べて、一人きりの時間を満喫できればそれで良かった。
なのに、それなのに。どうして先客がいたりするのかなあ。


先客はツインテールの女の子だった。
ベンチに座り、ノートパソコンのディスプレイと向き合っている。
鮮やかに輝く金色の髪を風に靡かせ、キーボードを叩いている。
赤いランドセルを傍らに置き、あくまで真面目に、真剣に取り組んでいる。


何となく、興味を抱いた。

「こんにちは」

ただそれだけの理由で、あたしは彼女に話しかけてみることにした。

「何してるの?」

返事はない。反応すらしない。


むう、愛想のない子だなあ。
それとも日本語が通じてないだけ?
この子、日本人じゃない?
髪も染めてるんじゃなくて本物っぽいし。

「は、ハロー?」

とりあえず、英語で話しかけてみる。

「何か用?ロングヘアのお姉さん」

思いっきり日本語で返された。


何だ、日本語喋れるんだ。
だったら最初から返事してよね。

「隣、いい?」
「ダメ」

ノートパソコンの画面に目線を向けたまま、女の子は答えた。

「どうして?」
「気が散るから」
「そこを何とか」
「ダメなものはダメ」
「どうしても?」
「そもそも、何で私に構うの?」
「こういう出会いは大切にしなきゃ」
「……」

女の子は無言でキーボードを叩く。

「このタイミングで黙らないでよ!」

声を張り上げても、女の子はお構いなし。

「何してんのよ、一体」

ノートパソコンの画面から、女の子がようやく視線を上げた。

「お姉さんには関係ないよ」

いや、そう言われるとすごく気になるんだけど。

「ねえ、何してんの?」

玉砕覚悟で、同じ質問をぶつけてみる。

「お姉さんには関係ない」

やっぱり同じ返事が返ってくる。

「教えてくれたっていいじゃん、ケチ」

その発言を無視して、女の子はあたしから視線を外した。
再びノートパソコンの画面に顔を向けた。随分長い間、彼女は画面を見つめていた。
一体、何を見ているんだろう。好奇心に負けて、ベンチの後ろに回って画面を覗き込んでみた。


映像が浮かんでいた。
学生が二人、活気の溢れる通りを並んで歩いている。
一人は日本人離れした白い肌をしている、背の高い男。そして、もう一人は、

「御坂さん?」

そう言った瞬間、女の子の動きがいきなり加速した。
少し慌てたような感じで、こちらに顔を向けたのだ。

「今、何て言ったの?」
「え?」
「今だよ、今」
「いや、だから御坂さんって……」
「知ってるの?」

勢い込んで訊ねてくる。彼女の目は真剣だった。
その視線に怯みながら、あたしはどうにか説明した。

「そりゃまあ、友達だし」
「ホントに?」
「う、うん」

彼女は再び、画面に目を向けた。
また沈黙が訪れる。けれど、その沈黙に気まずさは含まれていなかった。
彼女はあたしを無視するためにではなく、何か別の目的で、画面を見つめていた。


あたしは女の子の背中に声をかけた。

「好きなの?御坂さんのこと」
「え?」

彼女がこちらに顔を向けた。
何を言われたのか分からないって顔をしている。

「だってそれ」

ノートパソコンの画面を指差し、

「さっきから、すごく熱心に見てるし」

或いは憧れなのかもしれない。


学園都市二百三十万人の頂点。
七人しかいない超能力者の第三位。
『超電磁砲(レールガン)』の異名を持つ、常盤台中学のエースに。


だけど――


「違うよ」

意外なことに、彼女は否定した。

「好きじゃない」
「え?」
「でも、嫌いでもないかな」

ワケが分からない。


呆けたような顔のあたしを見て、彼女は微笑んだ。

「時間ある?黒髪のお姉さん」
「ないこともないけど」
「じゃあ、こっちに来てよ」

そう言って、彼女は自分の横をぽんぽんと叩いた。

「聞きたいな。超能力者のお姉さんのこと」












海原光貴は女子にモテる。
それはもちろん、彼が二枚目だからだ。
髪は流行の感じにカットしてあって、少し長いその毛先が見事なまでの爽やかさを撒き散らしている。
顔の彫りは深く、目は綺麗な二重で、長い睫毛が色の薄い瞳にかかっている。
唇を吊り上げる笑い方は気障っぽい感じがするけど、それが全然嫌味じゃなくて、妙に様になってたりする。


まあ、どうだっていいんだけどね。私には当麻がいるんだし。
とにかく、そんな二枚目と一緒に、私は第七学区の表通りを歩いていた。
ちょうどお昼の時間ということもあって、飲食店はどこもかしこも満席御礼。
参った。なかなか食事にありつけない。こっちは目覚めてから今の今まで、水の一滴すら飲んでないっていうのに。


それだけでも苦痛なのに、更に、

「だからね、御坂さんは人に対してもっと自分の意見をはっきり伝えるべきだと思うんですよ」

妙に艶っぽい感じで、海原光貴は言う。

「正直、自分は貴女の本音というものを聞いたことがあるという自信はありません。一度もですよ」
「えーっと、それは何と言うか……すいません」
「全く。そこのところをはっきりしないから、自分みたいな人間がいつまでもいつまでもずるずると追いかける羽目になるんですよ」

空きっ腹で、どうして説教なんて受けなきゃいけないんだろう。


海原光貴がチラリと、一瞬だけ私の顔を見た。

「自分は本気でアタックしているのですから、貴女にも本気で答えてほしいものです」

本気なんですから。
海原光貴は繰り返した。
そしてまた、一瞬だけ私の顔を見た。
海原光貴が視線を外すと同時に、私は俯いた。
本気で答えてほしい、この男はそう言った。
答えなら最初から出ていた。


ごめん、私には恋人がいるの。
だから貴方の想いには応えられない。
ごめんなさい、本当にごめんなさい……。


声が枯れるまで、そう叫びたかった。
もちろん、出来なかった。怖かった。ただただ、怖かった。
人を傷つけてしまうことが。自分自身の幸せのために、他の誰かを不幸にしてしまうことが。


――どうしよう?


言わなきゃいけない。でも、言えない。言いたくない。

「御坂さん」

迷っていると、海原光貴が口を開いた。

「どうしたんですか?気分でも優れませんか?」
「ううん、大丈夫」
「もしかして、上条当麻さんのことを考えていたんですか?」
「ああ、いや……」

まあ、違うとも言い切れないけど。

「羨ましい限りです」

溜め息混じりの声。

「彼のような右手が、自分にもあればいいのに」


――あ、そうだったんだ。


寂しそうに笑う彼を見て、やっと自分のやるべきことが分かった。
そうだ。私はどうしても、この男に伝えなきゃいけない。

「ねえ、場所を変えない?」

突然の申し出。


彼は一瞬だけキョトンとして、だけど笑顔で肯いた。












「ねえ、お姉さん」
「うん?何?」
「ありがとう」
「な、何なの急に」

礼を言われて、ちょっと焦った。
ありがとう、なんて言葉がこの子の口から出てくるとは思ってもみなかった。

「おかげでよく分かったよ」
「え?」
「常盤台のお姉さんのこと」

やけに素直な感じで、女の子は笑った。

「超能力者って、やっぱり遠い存在だね」

その瞬間、闇に落ちていく自分を感じた。


御坂さんがどれだけ凄い能力者なのか。
それを説明したのは間違いだったと、あたしはようやく気づいた。
超能力という言葉の意味を、あたしは深く考えていなかった。
曖昧にそれを受け止め、その響きに宿っている、どこか肯定的で前向きな部分しか見ていなかった。
学園都市でも指折りの実力者である御坂さんに対する憧れだろう、と。けど、違ったんだ。この子は諦めるために超能力を知ろうとしたんだ。
悪い冗談としか思えないような、デタラメな力。そこに行くには突破の足がかりさえ掴めない、高く厚い壁があるということを。

「まあ、分かってはいたんだけどね」

カチリという音が聞こえたと思った。
それは多分、歯車が違う方向に噛み合わさってしまった音だった。

「違う!」

女の子の手を、ギュッと握りしめる。

「御坂さんは美人だし、すごい能力者だし、頭だっていいけど……でも、そうじゃなくて」

手放そうとしている。この子は何かを諦めようとしている。

「御坂さんの強さは、そんなんじゃなくて」

それが何なのかは、はっきりとは分からない。
でも、これだけは分かる。それは絶対、手放しちゃいけないものなんだ。

「ただ、知ってただけなんだよ」

意を決して、あたしは言った。

「一番大切なものは何かって」

そう、これだけは伝えておかなきゃいけなかった。
能力の強さを簡単に引き上げると噂された『幻想御手(レベルアッパー)』を巡る事件を経て、あたしが辿り着いた一つの結論。


あの時のあたしはホント、バカだった。
つまんないことに拘って、内緒でズルして、親友である初春を危険な目に遭わせて。
能力なんかより、ずっとずっと大切なものをもう少しで失くしてしまうところだった。
そんなあたしを御坂さんは、文字通り叩き起こしてくれた。本当に大切なものを、思い出させてくれたんだ。
だから今度は、あたしが伝えなきゃいけない。何としても、どんなに時間をかけても、伝えなきゃいけない。


けど、女の子は、


はあ?


という顔をした。

「分かってるよ、そんなこと」
「そ、そう?」

何、この反応は。

「ひょっとして、落ち込んでるとでも思った?」
「え、違うの?」
「全然。まだまだ遠いなあって、ちょっとウンザリしたけど」
「……あ、そう」

気恥ずかしさのあまり、目を逸らしながら言う。
それが可笑しかったのか、くすくすと控えめな笑みを女の子は洩らした。

「あ、笑うことないでしょ」
「うん。そうなんだけど、何だか可笑しくて」

笑っている彼女は、さっきまでよりもずっとずっと可愛かった。
こんなに可愛いんだったら、いつも笑っていればいいのに。











[20924] 第31話 八月三十一日③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/10 01:13
「そろそろ行かなきゃ」

すぐ横で、小さな呟きが聞こえた。
それはどことなく寂しそうな響きだった。


ノートパソコンをたたんで、女の子がベンチから立ち上がる。

「じゃあね、お姉さん」

別れの挨拶もそこそこに、女の子は歩いていく。公園の出口に真っ直ぐ向かう。

「あ、そうそう」

かと思ったら、突然立ち止まった。

「お姉さんって、強能力者?」

振り返り、そんなことを訊いてきた。

「違う違う。ただの無能力者だよ」

あたしは御坂さんや白井さんとは違う。
学園都市に住んでいるけど、ホント、それだけ。
あたし自身は、いたって普通の中学生に過ぎない。
あたしが強能力者?有り得ないって。
それだけの力があったら、常盤台中学にだって入れちゃうじゃない。


なのに女の子は、

「え?」

信じられないって顔を、こちらに向けてきた。

「ホント?」
「ホントだって」
「流れは悪くないのに」

え?何それ、どういう意味?

「まあ、いっか」

じゃあね、ともう一度別れの挨拶を告げて、今度こそ女の子は去っていった。


遠くなっていく背中をしばらく見送ってから、ぼんやりと思う。


――名前、聞きそびれちゃったな。


また会えたら、ちゃんと訊いてみるか。












大通りから脇道に逸れる。
入り組んだ裏路地を歩いていく。
路地の角を曲がる際、私は一瞬だけ背後に視線を向けた。
後をついてくる、海原光貴の顔を見た。
その表情は、いつもと変わらない。今朝からずっと見てきた、海原光貴の顔だ。

「ねえ、ちょっと話がしたいんだけど、いい?」

視線を前に戻し、歩みは止めずに声をかける。

「もちろん。貴女とのお話でしたら、いつだって大歓迎ですよ」

思っていたより裏路地は短く、うっかり大通りに出てしまった。
私は心の中で舌打ちすると、向かいにある裏路地に足を踏み入れた。
背後から、あの男の足音がひたひたとついてくる。

「当麻の話なんだけどさ」
「当麻?ああ、上条当麻さんのことですね」

うん、と肯く。

「どうやって調べたの?」
「はい?」
「当麻のこと」
「どうって」

苦笑して、彼は言う。

「そんなの、『書庫(バンク)』を使ったに決まってるじゃないですか」
「当麻の力についても?」
「ええ。それ以外にないでしょう?」

確かに『書庫』の優秀さについては疑う余地もない。
能力者リストも兼ねるデータベースには、学園都市に関する様々な情報が収められている。

「ホント、とんでもない代物ですよね。異能の力であれば右手で触れるだけで例外なく打ち消してしまうなんて」

学園都市第一位の能力ですら記されている、学園都市の万能辞書。
そんな情報の宝庫に、一学生に過ぎない当麻の情報が載っていないはずがない。
でも違う。大事なのは、そこじゃない。


路地裏から更に路地裏へと奥まったその場所で、私は足を止めた。そこは建設中のビルの中だった。
中、と言ってもコンクリートで塗り固める前の段階であるそれには壁も天井もない。
鉄骨を組んで作られた、巨大なジャングルジムにしか見えなかった。


周囲に人がいないのを電磁波で確認して、私はようやく振り返る。
いつもの笑みを浮かべて、彼は少し離れた場所で佇んでいる。
私達の距離は、そう、ちょうど五メートルくらい。

「確認するけどさ」

俯いて、私は訊ねる。

「情報源は『書庫』なんだよね」

ええ、と彼は答える。

「そうですよ。それで充分、事足りるでしょう?」
「それ、本気で言ってる?」

顔を伏せたまま、私は言う。

「だとしたら、貴方は嘘を吐いている」

彼は押し黙った。

「情報源が『書庫』だけなんて、有り得ない」

沈黙が続く。しばらくして、小さい声が聞こえてきた。
よく聞くと、それは押し殺すような笑い声だった。

「では御坂さん、自分はどうやって上条当麻さんの情報を知り得たというんです?」

この男は、まだそんなことを明るい声で話している。


うん、と私は顔を上げる。

「そこが問題なんだよね」

そして、彼を見据える。
見据えられた彼は、だけど、何の動揺も見せない。

「だからさ、貴方に訊こうと思って」

これを言ったら、もう引き下がれない。

「ねえ、教えてくれる?」

でも、引き下がる気なんて最初からない。

「魔術師さん」

返事はない。また、彼は黙り込んでしまう。
前髪に隠れて、その表情は見えない。

『彼のような右手が、自分にもあればいいのに』

この男が口にした、何気ない言葉。そこで気づいてしまった。

「当麻はね、学園都市じゃ無能力者で通ってるの」

学園都市のあらゆる情報が手に入る『書庫』。そこに登録された当麻の能力値は、無能力。
当麻の右手には『幻想殺し(イマジンブレイカー)』という謎の力が確かに宿っている。
でも学園都市の能力測定機械じゃ計測できなくて、無能力者の烙印を押されている。
なのに、それなのに。この男は、どうして当麻の力を知っている?

「だから当麻の力を知ってるのは、当麻とよっぽど仲のいい友達か」

彼は何も話し出さない。多分、何も話す気がない。

「それとも、魔術に関わっている人間のどちらかだけ」

だから私から話すしかない。

「私は海原光貴って人間をよく知らないけど」
「だから自分が魔術師であっても、おかしくないと?」

私は首を振る。この男からは見えてないだろうけど。

「正直、まだ分からないことだらけ」

でも、と私は付け加える。

「これだけは間違いなく言える」

胸を張って、断言する。

「海原光貴は他人を騙しても平気な顔でいられるような人じゃない」

ようやく彼の表情が見える。
目を見開き、こちらを凝視している。

「だから」

ついに、この言葉を口にする。

「貴方、誰?」

疑問をぶつけた、次の瞬間、

「……ふふ」

彼の顔から、海原光貴が消えた。


顔が変わったワケじゃない。
なのに、浮かべた笑顔の中に海原光貴はいない。
海原光貴の皮を張りつけただけの、偽物。魔術師の本性が剥き出しになる。

「全く、上手くいかないものですね。人を騙すって」
「迂闊、失言だったね」
「迂闊?」

魔術師は心底おかしそうに、クスクスと笑う。

「迂闊なことなんて何一つありませんよ。変装も完璧でしたし。あんな言葉一つで自分に気づいてしまう貴女が異常なんですよ」
「そんなことないでしょ」
「では貴女は、らしくない行動を取っている人間を見ただけで、この人は別人だなんて考えるんですか?」

確かにそれはない。どんなに不審な行動をしていても、その人が別人だと考える発想は突飛過ぎる。

「それでも貴女は自分に辿り着いた。これを異常と言わずに何と言うんです?」

やけに嬉しそうに、魔術師は喋っている。
そんなこと、別にどうだっていいのに。

「で、本物の海原光貴は?」
「殺しましたよ」

あっさりと。魔術師はそんなことを言った。

「今は大事な潜伏期間ですからね。正体がバレないよう最善を尽くすのは、当然のことでしょう?」

微笑みを崩さず、彼は言う。

「さて、御坂さん。お知り合いが亡くなったと聞いて、それで貴女はどうするんです?」

本当に楽しそうに、問いかける。

「自分を殺してみますか?」

そして、懐から黒い石で出来た刃物のような物を取り出した。

「これなるはトラウィスカルパンテクウトリの槍」

まるで商人が自慢の売り物を見せびらかすように、魔術師は刃物を動かしてみせる。

「その力の本領は、破壊に非ず」

そう言うと、彼は徐に黒い刃物を振るった。瞬間、何かが顔の横を通り過ぎた。

「ただ全てを分解するのみ」

数呼吸の後、異変が訪れた。
金属を打つような轟音が、突如として鳴り響いた。
そして、ネジやボルトが通り雨のように次々と降ってきた。


まさか――


思わず頭上を見上げる。
支えを失った太い鉄骨が、今まさに降り注ごうとしていた。

「さあ、どうします?」

魔術師は変わらずに微笑んでいた。











[20924] 第32話 八月三十一日④
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/21 00:42
「出来た……!」

感無量だった。
国語、数学、英語。合わせて三十枚もあったプリントの束。
数多くの学生を苦しめる夏休みの宿題が、たったの二日で終了した。


全部、美琴のおかげだ。
美琴が俺のことを全力でサポートしてくれたおかげだ。
美琴には感謝しなくちゃいけない。気持ちだけじゃなく、ちゃんと形にして伝えたい。
しかし最悪なことに、そういった経験が皆無な俺には何を渡すべきなのかさっぱり分からない。
無論、美琴が好きな物ならいくつも考えつくのだが、いざプレゼントに、となるとちょっと違う気がするワケで。


でも、じゃあ、美琴が喜んでくれるプレゼントって何なんだ?












おかしい。おかし過ぎる。
数百キロの重量はあるだろうと思われる鉄骨が、地面のあちこちに突き刺さっている。
間もなく建設中のビルそのものが、雪崩のように崩れ出す。
なのに御坂さんは動かない。逃げようとも、立ち向かってこようともしない。


――何故です?何故、そんな悠長に構えていられるのです!?


心の中で毒づきながら、彼女を睨みつける。

「貴方って」

突っ立ったままで、彼女はそう言った。

「ホント、嘘吐きだね」

すぐさま肯いた。

「これが自分に課せられた使命ですから」

ふふ、と御坂さんが笑う。

「キツイね、使命」
「そうですね」
「でも良かった」

え?良かったですって?

「貴方を傷つけずに済んで、本当に良かった」

微笑む彼女の顔を見ながら、自分は泣きそうになった。
彼女が優しい言葉を口にしたことに打ちのめされた。


この期に及んで尚、御坂さんは自分の心配をしてくれている。


自分はただ、怒鳴ってほしかったのに。
どうして騙していたんだと、叱ってほしかったのに。
取り返しなんてつかないほど、恨んでほしかったのに。
そうすれば、何もかも諦められると思ったのに。
けれど彼女は笑っていた。優しく自分を見つめていた。

「貴方が嘘吐きで良かった」

真っ直ぐに自分を見つめる彼女が、いつもよりずっと大きく見えた。

「……嘘じゃない」

何を考えていたのか、自分でもよく分からない。

「貴女への気持ちは、嘘なんかじゃない!」

気がつくと、叫んでいた。

「海原だってね、本当は傷つけたくなかったんです。だって、それが一番幸せじゃないですか。誰も傷つかない方がいいに決まってるじゃないですか!」

自分のすぐ横で鉄骨が突き刺さったが、全く気にならない。

「自分は、この街が好きだったんです。一月前、ここに来た時からずっと!」

ギシギシと不気味に軋むビルを無視して、叫んでいた。

「たとえここの住人になれなくたって、御坂さんの住んでいるこの世界が大好きでした!」


――七月三十一日、自分は御坂さんと出会った。


今でも、彼女を見ると我を失ってしまいそうになる。
ただ見ているだけなのに、身体中に痺れが走って、息をすることも忘れてしまう。
自分の心はどんどん侵食されていった。学園都市に住む、奇跡のような女子中学生に。


多分、自分は彼女に恋をしている。
話したこともなければ、声も聞いたことのなかった頃から、ずっと。
その想いは日に日に比重を増して、恐いぐらいだった。

「でもね」

でも、そんな日々も今日で終わる。自らの手で終わらせる。

「やるしかなかったんですよ。結果が出てしまったから。魔術とも能力とも言えない力を持つ貴女と上条当麻は危険だと、上層部が判断してしまったから」

間もなく始まるであろう崩壊すら気に留めず、続ける。

「どうして魔術に触れてしまったんです!?力なんて手に入れてしまったんです!?貴女がもっと穏便でいてくれたら、問題なしって報告させてくれたら、それで静かに引き下がれたのに!自分は海原を襲うことも、貴女を騙すこともしなくて済んだのに!」

情けない、みっともない。
こんなの、ただの八つ当たりに過ぎない。
スパイのくせに、利用しようとしたくせに。


始める前から終わってしまっていた恋だとしても。
彼女に恋人がいると、とっくの昔に気づいていたとしても。
それでも、どんなに醜くても、これが自分の本音だった。
自身の弱さ故に、大切なものに手をかけるしかなくなったスパイの本音だった。


頭上で派手な音がした。恐らく最上部が崩れ始めたのだろう。

「一つだけ、いい?」

御坂さんが訊ねる。

「何です?」
「名前を教えて」

発言の意図が分からず、顔をしかめる。

「貴方の名前」

彼女はそんなことを訊ねる。

「……エツァリ」

囁き声のような返事に、彼女は微笑む。

「エツァリ」

自分の名前を口にして、微笑む。

「いい名前だね」

その優しい声を、自分はじっと聞いていた。

「……ありがとうございます」

そうして微笑んだ。
そう、演技なんかじゃなく、ごく自然に笑えたんだ。
この勢いで、御坂さんに気持ちを伝えたかった。好きだと言ってしまいたかった。
チャンスは今しかない。死は、すぐそこまで迫っている。
でも、言えなかった。言ったら、今度こそ彼女を失ってしまう気がした。


ビルの最上部が無数の鉄骨に姿を変え、バラバラと降り注いでくる。

「もう終わりですね」

次々と雨のように降り注ぐ鉄骨を前に、しかし自分は頭上を見上げたりしない。
そんなことをして、何かが変わるワケでもない。間もなく自分は、この場所で御坂さんと共に息絶える。


本当は、自分だけが死ぬはずだった。
自分だけが死ねば、少なくてもこの場は丸く収まるはずだった。
御坂さんを殺すなんて、自分には絶対に出来ない。かと言って、組織を裏切るだけの力も勇気もない。


だから……そう、だから御坂さんの心を揺さぶろうとしたのに。
海原光貴を殺したなんて嘘を吐いて、自分を憎ませようとしたのに
何の遠慮もなく、躊躇いもなく、敵である自分を殺せるように。
なのに出来損ないのスパイには、それすらも許されなかった。
どれほど足掻こうが、喚こうが、もう未来は変えられない。

「そんなことない」
「え?」
「そんなことないよ」

輪郭がはっきりした声。
その時、彼女と目が合った。
彼女は笑っていた。凛々しく、頼もしく、笑っていた。


直後、大量の鉄骨が降り注ぎ、地面が振動した。












「……はは」

大量の砂煙が舞い上がる中、自分は力なく笑った。
ぺたんと尻餅をついた自分の両足の間に、鉄骨が突き刺さっている。
それだけじゃない。辺り一面に鉄骨が突き刺さり、覆い被さり、隙間だらけの屋根がついた出来の悪い小屋のようになっていた。
絶妙なバランスで辛うじて形を保っているそれは、ちょっと風が吹いただけで崩れてしまいそうで。
これだけの大惨事にも関わらず、自分は生き埋めにされずに済んだ。
腰が抜けて立てなくなっているが、それだけ。傷の一つすら、身体にはついていない。


――そうだ、失念していました。


運が良いとか悪いとか、そんな次元じゃない。


――彼女は電気を主軸としたものであれば、どんな事象も再現できるんでした。


おそらく電気の力を応用し、磁力で鉄骨の軌道を曲げたんだろう。

「エツァリ」

名前を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げる。
今にも崩れそうな鉄骨の屋根の下、彼女は両手を腰に当てて立っていた。


それは自分が恋をしていた、女の子。

「生きてたんだ」

ええ、と肯く。

「おかげ様でね」

それから、彼女をじっと見つめた。
彼女は全く嫌がらなかった。優しく微笑み、自分の言葉を待っていた。


もし出来るなら、こんなことは言いたくない。
だって自分は御坂さんが好きだったから。この気持ちに嘘なんてなかったから。
なのにどうして、自分には彼女を傷つける言葉しか許されないんだろう?

「きっとね」

観念して、口を開く。

「攻撃は今回限りで終わりません。自分みたいな下っ端が一回失敗した程度で、彼らが退くとも思えない」

あんまりだと思う。最後の最後まで、彼女を傷つけるような真似をさせるなんて。

「むしろ余計に危険視する可能性すらあります」

それでも自分は、もう選んでしまっている。

「貴女や上条当麻さんの元には自分以外の者が向かうと思いますし」

海原光貴を襲った時点で、選んでしまっている。

「最悪、自分にもう一度命令が下るかもしれません」

御坂さんは悲しげに顔を伏せた。
優し過ぎる彼女が、傷つかないはずがなかった。

「だったら」

なのに彼女は、すぐに表情を変えた。

「また止めてあげる」

彼女は言ってくれた。

「誰も死なせない、殺させない」

笑顔で。本当に心からの笑顔で。

「何度だって、止めてあげる」

こんな笑顔を、自分は見たことがなかった。

「全く」

苦笑し、呟く。

「最低な返事だ」

そんな笑顔を見せられたら、諦めきれないじゃないですか。












地面に突き刺さった鉄骨の陰に身を隠しながら、私は二人の会話を聞いていた。


と言っても、一部始終を聞けたワケじゃない。
『超電磁砲(レールガン)』のお姉さんは監視カメラの死角に入っちゃうし。
慌てて追いかけてみたら、建設中のビルが突然崩れ出しちゃうし。
それに近づき過ぎたらお姉さんの電磁波に捕捉されちゃうから、二人の会話は断片的にしか聞き取れてない。
それでも、自分が一番知りたいと思っていたことは分かった。


――困ったな。


鉄骨に背中を預け、空を仰ぐ。


この二日間、どんな小さな悪事でも見逃すまいと目を光らせていたのに。
みんなが憧れる超能力者に相応しくなかったら、『風紀委員(ジャッジメント)』の権限を駆使して拘束してやろうと思っていたのに。


――あのお姉さん、すっごくいい人だ。











[20924] 第33話 八月三十一日⑤
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/25 23:33
美琴へのプレゼントは何がいいか。
悩み始めて、俺の思考は底無し沼に沈むが如くずぶずぶと。
あれがいいか、いやこれじゃダメか、などと呻いているうちに十分が過ぎ、二十分が過ぎ、三十分が過ぎ。
気がつけば午後二時を過ぎていたが、それでも妙案は浮かばない。


アクセサリー、はダメだよなあ。
常盤台って、オシャレに関してかなり厳しいらしいからなあ。
勿体ないよな、それって。美琴だったら、きっと何でも似合うのに。
あるアイディアが浮かんだのは、その瞬間だった。
これは最高だ。マジでさ、最高のアイディアだと思うんだ。


興奮したまま、俺は早足で玄関に向かった。
雲の上を歩くなんて表現があるけど、正しくそんな感じだった。
何も考えず、とにかく浮かれまくりながら、俺は目的の場所に突き進んでいた。












「ところで」

私は出来る限り低い声でそう言った。

「何で二人がいるんですか」

私の右横には滝壺さんが立っている。
上は白いTシャツ、下はピンクのジャージという彼女の基本スタイルで。
素材は超申し分ないんですから、もう少し服装に気を遣ってもいいと思うんですけど。


まあ、どうだっていいんですけどね。
問題なのは、私の左横にフレンダが立っているってことで。
でもって、フレンダの左横には麦野が立っているってことで。

「私は滝壺さんしか誘ってなかったはずなんですけど」

私と、滝壺さんと、フレンダと、麦野と。何故か私達は四人で道を進んでいた。

「結局、援軍ってワケよ」

妙に押しつけがましい態度で、フレンダがそう言った。

「滝壺一人じゃ面白くないでしょ」
「面白くない?何が面白くないんです?」

殺気と共に訊ねる。

「二人より三人、三人より四人の方が楽しいってことよ」

答えたのはフレンダじゃなく麦野だった。

「……楽しくないです」
「楽しいって」
「……楽しくないです」
「楽しいって」

押し問答になりそうだったので、私は黙った。

「大丈夫だよ、きぬはた」

険悪な雰囲気に似合わない、ゆったりとした口調で滝壺さんがそう言った。

「私はそんなきぬはたを応援してる」

調子のいいフレンダが、即座に同調する。

「そうそう、要は友情ってワケよ!」
「はあ?友情?」
「そんな怒った顔しないでよー。いや、本心だよ、本心!」

嘘だ!絶対興味本位のくせに!
映画鑑賞に初めて誘った時、疲れ切った顔を超見せてくれたのは今でも忘れちゃいないんですからね!
そう、フレンダはこういうイベントが超好きなだけなんです。
観察して冷やかしてあとでバカにできるネタを拾ってやろうと思ってるに違いないんです。
一人じゃ心細いから、麦野を巻き込んだんでしょう。
報酬はシャケ弁でしょうか?相も変わらず、超安上がりです。


今更何を言っても無駄だと諦め、私は滝壺さんに訊ねた。

「滝壺さん、お腹空いてません?」
「……」
「どうしました?」
「……西南西から信号がきてる……」

ダ、ダメです。会話が成立しません。

「でさ。何て名前だっけ?今日見る映画」

呑気な声で、フレンダが訊ねてくる。

「『父さんと犬』です」

私はぶっきらぼうに答えた。

「タイトルからして、これっぽっちも惹かれないわねー」
「大きなお世話です」

またもや、ぶっきらぼうに答えた。

「結局、今回もつまんなそうなワケよ。滝壺も開始直後に寝ちゃいそう――痛っ!」
「あ、すいません。足、超踏んじゃいました」

フレンダの悲鳴と、私の低い声。

「絹旗って、見た目より重いなあ。むちゃくちゃ痛かった――痛っ!」

さっきよりも強めに踏んでおいた。

「あ、すいません」

一応、謝っておく。

「ちょっと絹旗、今のは絶対わざとでしょ!」
「そんなことないですよ」
「いーや、私の目は誤魔化せないわよ!」
「そんなことないですよ」
「同じ返しをすんな!何、気に入ったの?」
「そんなことないですよ」
「気に入ってんじゃん!」

そんなつまらない会話をしながら、私達は歩き続けた。


まあ、こうしてみんなでだらだら歩くのも、そう悪いもんじゃないですね。
楽しいってほどじゃないですけど、うん、悪くはないです。












「……お腹減った」

無意識に呟く。
空きっ腹ももう限界だ。
おまけに降り注ぐ太陽光が肌を焼き、残り少ない体力をじわじわと奪っていく。


――エツァリは大丈夫かな?


答えは謎のままだ。
連絡したら即座に駆けつけてくれた土御門さんによって、どこかに連れ去られてしまったからだ。


それにしても、土御門さんってホントすごい。
スパイって立場も、その辛さも、全然大したことないみたいに振る舞えるなんて。
私達が当たり前のように受け入れている明日が、どれだけ貴重な代物なのか。
それを一番理解してるんじゃないかな、きっと。


でも、そんな土御門さんに、

「ありがとうございます」

と、お礼を言ったら、

「ぷぷっ」

土御門さんはいきなり噴き出した。

「な、何で笑うんですか?」
「へえー、ヒメっち、オレがボランティアで来てくれたとか思っちゃってるんだー?」
「違うんですか!?」
「残念なことに、オレの対価は安くないんだぜい」
「対価!?何要求する気ですか!?」

何度訊ねても、土御門さんは答えてくれなかった。ただ、

「あれがいいかにゃー」

とか、

「いや、あっちも捨て難いしにゃー」

とか、

「ここはやっぱり、基本かにゃー」

とか、ニヤニヤ笑いながら繰り返すばかりだった。


土御門さん、何を要求してくるつもりなんだろう?
無理難題を突きつけてきそうな気がしてならないんですけど。
ああ、それにしても足元がふらつく。そろそろ限界だ。
当麻の宿題の進み具合も気になるけど、まずは自分が元気にならなくちゃ。


というワケで、表通りに戻ってきた私は御飯を食べられる場所を探していた。
もうお昼の時間は過ぎたっていうのに、どの飲食店にも人が並んでいる。
頼みの綱であるファストフード店も、大勢の人で溢れ返っている。


――お腹減ったなあ……。


ぐうっとお腹が鳴った。
食べられないって分かると、余計にお腹が減るものであって。

「ん?」

ふらふらとした足取りで通りの角を曲がったところで、私は足を止めた。


目の前を四人の女性がまとまって歩いている。
それ自体は問題ないんだけど、一団の中に見覚えのある姿がちらほらとあった。
例えばそう、ピンクのジャージとか、金髪の女子高生とか。
そして一番気になるのは、一団の中で一際背の高い茶髪の女性。
あれは学園都市第四位の麦野沈利だ。病理解析研究所での戦いのあと、『書庫(バンク)』で調べたんだから間違いない。


あの時は、絶対能力進化実験に関わる研究施設を片っ端から潰している最中だった。
彼女、いや、彼女達はきっと、私から施設を防衛するために雇われたんだろう。
私にとって、つまりこの一団は敵にせざるを得なかった人達だった。


でも今は違う。
あの実験は当麻と妹達のおかげで凍結された。
完全な中止じゃなくて、あくまで一時的な凍結だけど。
やらなきゃいけないことは、まだまだたくさんあるけれど。
それでも彼女達を敵に回す必要なんて、もうこれっぽっちもなくて。
そんな軽い気持ちで、私は一団に向かって声を発していた。

「ねえ」

一団が立ち止まった。
振り返ってこちらを見ている。


うん、間違いない。
あのスタイル抜群な女性は麦野沈利だ。
いいなあ。でも私だって努力すればもう少し大きく……って、そうじゃなくて!


金髪の人には本当に手を焼かされたなあ。
爆弾で吹っ飛ばされるわ、蹴られるわ、足場ごと落っことされそうになるわ。
おまけに演技も上手くてさ。まんまと騙されて、能力を封じられた時はさすがに焦ったなあ。


ジャージの人は、以前とどこか雰囲気が違うなあ。
もっとこう、ピリピリした空気を纏っていたはずなんだけど。
それにしても、あの人も胸、大きいんだなあ。何をどうすれば、あんなに大きく……って、だから違うって!


パーカーを着た大人しそうな女の子には、全く覚えがない。
誰なんだろう、あの子。黒子より年下に見えるけど。

「ちょっといい?」

警戒されないように話しかけたつもりだった。
だけど相手は、充分に警戒してしまったらしい。
金髪の女子高生が何か言った途端、一団がくるりと背を向け、走り出した。

「え?あれ?」

逃亡である。

「なっ……ちょっと!何で逃げるの!?ねえってば!」

叫びつつ、私もまた走り出した。












何が何だか分からなかった。
フレンダが逃げろと言い、その選択が間違っていると思いながらも、みんなが走り出してしまったせいで、結局その間違った選択に従うことになっていた。
走って走って走って、気がつくと、私は滝壺の手を取り、引っ張っていた。


どうしてこんなことに?ああ、そうだ。
フレンダが通りを曲がったところでコケて、逃げてーっと悲壮感たっぷりに叫び。
ああ第三位くらい返り討ちにしてやるのにでも私の能力って加減が出来ないから一般人を巻き込みかねないしやっぱり逃げるしかないと思って、逃げ足の遅い滝壺の手を取ったんだった。


胸の奥が焼けるようで、息が出来なくなりそうで、私は立ち止まった。
振り返ると、そこにいるのは大通りを行き交う人、人、人。
第三位が追いかけてきそうな気配はない。どうやら振り切ったらしい。


フレンダとははぐれてしまった。絹旗の姿もない。
まあ、あの二人のことだから逃げ切れていると思うけど。

「……」

参った。滝壺と二人きりになってしまった。

「……」

滝壺は相変わらずぼーっとしている。
まるで私がここにいないかのように、他人のAIM拡散力場に身を委ねている。
ああ、何でこんなに惨めなんだろう。この子は今、何を考えているんだろう。

「シャケ弁ってさ」

長く続く沈黙に耐え切れなくなって、私は独り言のように呟いていた。

「何であんなに美味しいんだろうね」

正直、自分でもワケが分からなかった。
どうしてここで自分の好物について語り出すのよ。


けれど滝壺は実に落ち着いた感じで肯いた。

「一緒に考えてみる?」
「え?」
「美味しさの秘密」

私は唖然として、滝壺は笑った。


どうしてこの子はこんなに動じないんだろう?











[20924] 第34話 八月三十一日⑥
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/25 23:37
見失った。
しまった。どうしよう。
というワケで、私は通りをうろうろ歩き回っていた。


まさかあれほど速く逃げてしまうなんて。
お腹が減って力が出ないこともあって、見事逃げ去られてしまった。
でもそれほど遠くへは行ってないはず。
せっかく会えたんだ。少しぐらい話がしたい。
そんな思いを糧に、空腹を押して歩き続ける。












絹旗は大通りの脇にあるベンチに座っていた。
怖い顔をして、映画のパンフレットを読んでいる。
小学生だと言われても納得できてしまうくらい幼い外見のくせに、結構な迫力だ。


ごほん、とわざとらしく咳払いをして、私は絹旗の前に立った。

「映画、そろそろ始まっちゃうよ」

ちら、と絹旗がこちらを見てきた。でもすぐに視線を逸らした。


ああ、無視ですか、そうですか。

「ずっと前から見たかったんでしょ」
「……」
「じゃあ、こうしよう。私と一緒に見よう。今日は茶化したりしないで、最後までちゃんと見るし。ね、そうしよう」
「……」
「じゃあ、行こうか」
「いいですよ、別に」

歩き出した瞬間、背中に言葉を投げつけられた。


足を止め、再び絹旗に顔を向ける。

「いいってどういうこと?」
「……」
「上映、今日までだって言ってたよね」
「……」
「結局、見ないと後悔するワケよ」
「……」
「だからさ」
「うるさいです。超黙って下さい」


――うるさい?


ひく、とこめかみが引きつった。

「そう言わずにさ」

精一杯の忍耐。猫撫で声。と、絹旗があっさりと一言。

「だから、超黙って下さい」

あ、ダメだ。もうダメ。
あまりの怒りに顔がニヤけてきた。
にしし、面白いな。これってもう、しょうがないよね。
怒鳴ってもいいよね。しょうがないよね。


結局、私にも否があるんだけどさ。
逃げろ、なんて私が言ったせいで麦野達とはぐれちゃうし。
連絡を取ろうにも、二人ともケータイに出てくれないし。


悪いことしたなって思ってるんだよ。
絹旗の予定をめちゃくちゃにしちゃって。
だから、私の出来る範囲で埋め合わせをしようと頑張ってるワケなのに。


怒鳴り声を上げようとした、その時だった。

「こんちはー」

いきなりほにゃほにゃした声が突撃してきた。

「は?」

第三位だった。


そのいきなりの闖入に絹旗もさすがに驚いたらしく、目を丸くして第三位を見つめている。
第三位は全く動じることなく、絹旗に歩み寄ると、その手からパンフレットを取り上げた。ぱらぱらとめくり、うんうんと肯く。

「へえ、『父さんと犬』か。なかなか渋いチョイスね」
「ちょっと返して――」

珍しく、絹旗が慌てた様子を見せた。
その絹旗に第三位がいきなり顔を寄せる。
絹旗はびっくりして、身を引いた。

「ねえ知ってる?この話って、公開前からシリーズ化が決定してたって」
「え?」
「あのね、この映画っていくつかの短編と長いエピソードで構成されてるんだけど、時間の都合で泣く泣く使わなかったエピソードがたくさんあったの。試写会での評判がすごく良かったっていうのもあったみたいだけど」
「あ、そうなんですか……」

そこからいきなり『父さんと犬』講座が始まった。私は完全に置き去りだ。


あのね、撮影は春から夏にかけて行なわれたんだけど、犬が言うことを聞かなくて困った、なんてことはほとんどなかったんだって。
それってさ、脚本の段階から犬に不自然な動きをさせないよう気を配ってたからなんだよね。どんなに内容が面白くても、犬が演技できないエピソードは容赦なくボツにしたの。
ところでさ、こういう映画の撮影で一番苦労することって何だと思う?
実はね、暑さなんだ。犬は暑さに滅法弱いからね。スタッフが無理させるつもりがなくても、犬はテンションが上がると走り回っちゃうから、いざ本番で息切れなんてこともあったんだって。
そんな時はね、待つしかないんだ。犬の呼吸が整うまで。どこまでも犬優先なんだよ、この映画って。

「ホントですか?」

絹旗は目を丸くして、第三位を見つめていた。


私は驚いた。この子がこんな顔をするのは初めて見た。

「ホントよ。こういう裏話をまとめた本を何冊か持ってるから、貸してあげようか。スタッフの意図を考えながら見ると、色々と分かってくることがあって面白いよ」
「あ、お願いします」
「今度持ってくるね。えーと……」
「絹旗。絹旗最愛です」
「そっか。私は御坂美琴。よろしくね、絹旗さん」
「はい」

二人はにっこりと笑い合った。


うわ、何てことだ。
第三位のヤツ、絹旗を手懐けたワケ?
すごい、感心した。マジですごいよ、第三位。


あ、あの、と絹旗が言った。

「このあと時間、空いてますか?」
「うん?大した用はないけど」
「じゃ、じゃあこれ、一緒に見ませんか?」
「あー、誘ってくれるのは嬉しいんだけど」
「けど?」
「ちょっと腹ごなししないといけなくてさ。朝から何も食べてなくて」

絹旗が私の顔を見てきた。
う……何なの、この迫力は。

「食べ物」
「え?」
「何でもいいから、そこのコンビニで買ってきて下さい」
「あ、ああ、そういうワケね。ちょっと待ってて。ダッシュで行ってくるから」

私は慌てまくりながら、コンビニに向かって駆け出した。


いや、すごいよ第三位。
結局、アンタって天才なワケ?
そんなことを考えていたせいでちょっとした段差に足を引っかけ、思いっきり転んでしまった。


そんな私を見て、絹旗と第三位はゲラゲラ笑った。
まあ、私も笑っておいた。何か、そんな気分だった。












お姉ちゃん達は静かに眠っていた。安らかな寝息がそこにあった。
ただし、みんなの身体はたくさんの機器に囲まれていた。
無数のコードがそれらの機器とみんなを繋いでいて、まるで機械の化け物に栄養分を吸い取られているかのように見える。


唯一、私に理解できるのは心電図だけだった。
規則的な鼓動。それが、みんなの生を語っていた。

「……」

無言のまま、ベッドに歩み寄る。
手を伸ばせば、お姉ちゃんの頬に触れることが出来るあたりまで。
そうしたいと切に思ったのに、でも、出来なかった。

「毎日来てくれるんだね?」

医師が話しかけてきた。
カエルのような顔をしている、凄腕の医師。
どんな病気や負傷であっても治療してしまうその腕前から、『冥土帰し(ヘヴンキャンセラー)』という異名を持つおじいさん。


私は力なく肯いた。

「この子もきっと喜んでいると思うよ?」
「……分かるんですか?」
「意識が無くても、耳などの感覚器は生きていたりするからね。昏睡状態になった男性の手を、その人の奥さんが握ったら、突然目を覚ましたという事例も実際にあるんだよ?だから、ほら」
「え?」
「握ってあげてくれるかい?」
「……」
「遠慮しなくていいんだよ?」

促され、手を伸ばす。
そっと、お姉ちゃんの手を握った。


お姉ちゃんの手は温かくて。本当に温かくて。
その感触は、以前と何も変わらなかった。
今にも握り返してきそうな気がする。そんなこと、あるワケがないのに。
『置き去り(チャイルドエラー)』は欠陥品。この程度で目を覚ますなんて、絶対に有り得ないのに。

「お姉ちゃん……」

呟き、お姉ちゃんの手を握り締める。
本来なら、もう中学生になっているはずであるお姉ちゃんの手を。


絆理お姉ちゃん――


心の中で、呼びかける。


私、諦めてないから。
みんなと一緒に、超能力者になるって。
あの学校の『風紀委員(ジャッジメント)』として、学園都市の平和を守って。


待ってるから。みんなが目を覚ますのを、ずっとずっと待ってるから。











[20924] 第35話 八月三十一日⑦
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/04/09 06:52
隣に座る絹旗は、第三位とすっかり意気投合していた。

「ビバリー=シースルー監督の作品は要チェックね」

うんうんと肯きながら、テーブルの向かいで第三位が言う。

「いつだって新しい撮影技術を模索してるから」
「昔からある技術の使いどころも超心得てますよね」
「うん、確かに。あの人ぐらいよね。今の時世で特殊メイク使ってるのって」
「前に彼女の作品を見たんですけど、あれは超良かったですし」

気になる映画のことを二人で話している。
今、私と絹旗、それに第三位はファストフード店の中にいた。
無事に映画を鑑賞した、その後。小腹でも満たそうということで意見が一致した私達は、四人用のテーブル席を陣取ったワケなんだけど。

「私の一押しは『鉄橋は恋の合図』かな」
「そんなにいいんですか?」

絹旗の問いに、

「もちろん」

第三位が即答した。

「ユーロ系恋愛映画が苦手な人でも、あれは一見の価値有りだよ」

まるで私がここにいないかのように、二人で話してばかりいる。


いいな、すごく楽しそうだな。
どうして絹旗は第三位に笑いかけているんだろう。
こんな笑顔、私に向けてくれたことなんてあったかな……。

「ところで」

含み笑いをしながら、第三位が言った。

「貴女達って、暗部の人間よね」

心臓が口から飛び出るかと思った。
思わず第三位を凝視してしまう。けれど絹旗は実に落ち着いた感じで肯いた。

「ええ、そうです」
「今日はオフ?」
「そうです」

第三位が笑って、絹旗も笑った。


どうして二人とも、そんなにいい顔が出来るんだろう。
私ばっかり慌ててる。私だけが笑えないでいる。












時刻は午後五時過ぎ。
太陽の光が満足に届かない路地裏を歩いていく。
蜘蛛の巣のように狭く入り組んだビルの隙間をすり抜けていく。
目的は一つ。街中に設置された監視カメラの映像から見つけ出した常盤台のお姉さんの下へ、一刻も早く辿り着くため。
仕事柄、この街の地図は隅々まで頭に入っている。最短距離で移動するために裏道を使うなんて、そんなの日常茶飯事だ。


……だから、こういった厄介事を引き寄せてしまうんだろう。

「やめといた方がいいよ」

立ち止まって言ってみるけど、返事はない。


路地と路地が交わる十字路。
そこに、私を囲むように四人のお兄さんが立っていた。
どの道の出口にも彼らはいて、目つきが妙にいやらしい。

「口で言っても無駄みたいだね」

お兄さん達は示し合わせたように向かってくる。
彼らが纏う力の流れを見て、私は一度だけ溜め息を吐いた。

「いいよ。まとめて相手してあげる」

お兄さん達がわらわらと近寄ってくる。
この人達の目的は、意味のない暴力だけ。
私はそれを拒まない。いや、むしろ喜んでさえいた。
このあと大勝負が控えているのだ。少しでも身体を動かしておかなきゃ。


……でも、この程度じゃ準備運動にもなりそうにないなあ。












ちょっと失礼しますと言って絹旗がケータイを手に席を外してしまうと、第三位と二人きりになってしまった。


途端、会話が途切れた。
ただ無言のまま、シェイクを啜るしかない。
向かいの席で第三位はハンバーガーを美味しそうに頬張っている。
不思議な気持ちだった。つい先日、殺すつもりで戦った相手と一緒に食事を取るなんて。

「結局、クローンの件はどうなったワケ?」

そういう言葉が口から洩れていた。


すぐに後悔した。
どうして相手が嫌がるって分かることを訊いてるんだろう。
第三位が潰そうとしていた計画。その全容は麦野から聞いていたのに。

「吹っ切れた?」

少し嗜虐的な快感さえ味わいながら、そう言っていた。


第三位がこちらを向いた。
食べかけのハンバーガーをテーブルに置き、じっと見つめてくる。
肝が据わったのか、開き直ったのか、その視線を私は真っ直ぐに受けられた。
それにしても、何て綺麗な瞳なんだろう。そのせいで全然感情が分からない。
怒っているようにも悲しんでいるようにも、或いは笑っているようにも見える。


うん、と第三位が肯いた。

「多分ですけど」

ちょっと、いや、かなりショックだった。
半分くらい嫌味で、残りの半分は……何か分からないけど。
とにかく本気で訊ねたワケじゃなかったのに、まさか真面目に答えてくるとは。
しかし一度勢いのついてしまった気持ちはすぐには止まらなくて。

「何で?」

またもやそんなことを訊ねていた。
嗜虐的な感じが残っていた。けれど第三位は全く揺るがない。

「支えてくれる人がいるから」

自分の存在意義について話しているのに、その言葉はあまりにも明るくて。

「その人のこと、好きなんだ?」

そこで意外なことが起きた。

「あの、えっと」

第三位が急にしどろもどろになったのだ。

「その、ですね」

しかも顔が赤くなっている。
まさか、こんな第三位を見れるとは。

「好きなんだ?」
「……はい」

第三位の顔は真っ赤だった。

「好きです」

誰を、とは訊けなかった。

「そっか」

何でだろう。もうしつこく問い質す気持ちにはなれなかった。


――それにしても、クローンか……。


ピンと来なかった。
クローンなんて全く実感できない。
私にも妹がいるけど、年が離れているから見分けは簡単につくし。
クローンなんて身近に感じられるワケがなかった。


――自分と同じ顔をした人間が、一万人も殺されちゃったんだ……。


同情の気持ちは湧いてこなかった。
それはクローンが何なのか理解できないせいかもしれないし、第三位と会ったばかりだからかもしれない
或いは……絹旗を取られたのが悔しかったのかもしれなかった。
ああ、単純に冷酷なだけかも。死とかクローンってヤツが認識できないくらい子供なのかも。

「……ですよね」
「え?」

考え事をしていたので、何を訊かれたのか分からなかった。

「何?」
「絹旗さんと長い付き合いなんですよね?」
「あ、うん」
「絹旗さん、普段はどんな感じなのか教えてくれます?」

教えてくれます、だって。
この子が。常盤台中学が誇る、最強無敵の電撃姫が。

「……何か私の顔についてます?」
「ううん、何も」
「じゃあどうしてそんなにこっちを見るんです?」
「不思議な子だなあって思って」
「それ、遠回しに私が変な人だって言ってるように聞こえるんですけど」
「気のせいだって、気のせい」

『アイテム』のメンバーとは弾まない会話も、この子となら弾む。
こんな他愛ないことでも、結構長い間話は続いたりする。


私が喋るのは『アイテム』としての活動中に起こったどうでもいいようなこと。
私としては聞いてて面白いのかと思うんだけど、少なくても彼女にとっては興味深い話らしい。
肯いたり、突然神妙な顔をしたり、苦笑したり。とにかく飽きずに聞いていた。
身体から何かが抜けていった。心からも。


そろそろ絹旗が戻って来る。
早く戻って来てほしいと思う。
一方で、戻って来てほしくないという気持ちもあった。
どういうことなのか自分でも分からない。
第三位……ううん、御坂は相変わらず私の話を真剣に聞いていた。












電話がかかってきたのは、夕方の五時過ぎだった。

「あのさ」

麦野だった。


今頃になって、どうして電話をかけてきたのかさっぱり分からなかった。
けれど、何だか変なことを頼まれそうな気がした。何となくだけど、そう感じた。

「何ですか?」

用心して訊ねた。
麦野が用件を言った。


予感は、当たった。











[20924] 第36話 八月三十一日⑧
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/04/10 00:28
待ち合わせ場所はセブンスミスト。第七学区にある洋服店だ。
御坂と別れた私達は、一ヶ月前の爆弾騒ぎで一躍有名になった店の前で待っていた麦野と滝壺さんの二人と合流した。

「で、何をするんですか?」

さっきの電話で、麦野は全く用件を教えてくれなかった。
もったいぶった感じで、とにかく面白いことなんだって繰り返すばかり。

「それがさ、変な光景に出くわしてさ」

麦野はやっぱり楽しそうだった。

「私も全然ワケ分かんなくて」
「変な光景?」
「そ。とにかく、現場に行かないと」
「現場って?」
「飲食店街」

飲食店街?今、飲食店街って言いましたよね?
ちょっと待って下さい。ワケが超分からないんですけど。

「何をするつもりなんですか?」
「それがさ――」

そのあと私が聞いたのは、とても信じられない言葉だった。












八月三十一日、午後六時。
俺はすこぶる機嫌が良かった。
目的の品を無事に手に入れることが出来たからだ。


これで準備は終わりだった。あとは行動あるのみだ。
しかしどんな顔をすればいいのか考えると、ただそれだけで恐ろしく緊張した。
クールにいくべきだろうか。それとも思いっきり情熱的にいくべきだろうか。
クールに振る舞う方がカッコいい気もするけど、情熱的な方が美琴は喜ぶかもしれない。
いやいや、アイツのことだから、素直に喜ぶなんてないかもな。貰っておく、なんて一言で終わってしまうかも。
いや、だけどさ、さすがにこのアイディアには美琴も驚くだろう。すげえ喜ぶんじゃないかな。頬を赤らめたりしてさ。
想像するのは勝手なので、俺は自分に都合のいい妄想を思い浮かべられる限り思い浮かべた。まあ、あんなことやこんなことだ。
つい顔が赤くなってしまう。いやいや、やましいことなんて考えてないぞ。そうさ、ほんのちょっとだけだ。


俺は左手に持ったブツを、じっと見た。
何軒も店を回った甲斐があったよな。
美琴のヤツ、喜んでくれるかな。気に入ってくれるといいな。


見ていると、顔がニヘラと歪んでくる。
ふと気づくと、小学生くらいの女の子が不審そうに俺を見ながら歩いていた。一人で立ち尽くし、ニヤニヤ笑っている俺を。
誤魔化すために輝くような笑みを浮かべてみたところ、女の子は更に不審そうな顔になって、急ぎ足で去っていった。


ヤバイ……何か危ないヤツだと思われたぞ……。


俺はケータイを取り出した。
そうさ、さっさと実行に移しちゃえばいいんだ。
色々と妄想に励んでいるから、こんなことになってしまうんだ。
それに、こういうのは勢いだからさ。今渡さないと、渡せなくなっちまう――


手の中でケータイが鳴った。
ディスプレイに表示されているのは、美琴の名前。

「美琴?」

一回目のコールが鳴り終わらない内に電話に出る。

「うん。速いね」

ほんのちょっとだけど、驚きの声。

「俺も今かけようと思ってたからさ」
「そっか。何かいいね」
「ん?何が?」
「気持ち、繋がってるみたいで」
「……お前な」

そんな恥ずかしい台詞を、どうしてそう平然と口に出来るかな。

「いいじゃない、別に。減るもんじゃないんだし――」

唐突に、声が途切れた。

「美琴?」

しばらくして、ごめん、と呟く声が聞こえた。

「ちょっと野暮用」
「は?どういうことだ?」
「ホントごめん。終わったらすぐ電話するから」

こちらの返事も待たず、美琴は一方的に通話を切ってしまった。












「絹旗はさ、どう思う?」

夕食時にも関わらず、シャッターの閉まっている店が目立つ飲食店街を歩いているとフレンダが訊ねてきた。

「ホントにいるのかな?」

うーん、と唸ってしまう。即答できない。


白い悪魔。


ここ最近、ネットを騒がせているその存在には色々な伝説がある。
食べ放題の店で、米の一粒すら残さず食材を食らい尽くしたとか。
大食いチャレンジメニューを掲げる店に、片っ端から白旗を上げさせたとか。
まあ、つまり食に関するものばっかりなんだけど、とにかく凄まじい食べっぷりらしい。
口に入れた途端に消化が始まっているとか、胃袋が宇宙に繋がっているんじゃないかなんて話が飛び交うほど。
正に生ける伝説だ。そんな伝説が今日、この第七学区で猛威を振るったというのだ。


麦野としては、このチャンスを逃したくないそうで。
巷で噂される白い悪魔の素顔を、是非とも拝んでおきたいらしい。

「結局、私としてはどうでもいいワケなんだけど」

黙っていたら、フレンダがそう言ってきたので驚いた。

「珍しいですね。こういうネタに乗り気じゃないなんて」

いつもだったら、自ら進んで首を突っ込んでいくのに。

「いきなりだったから」
「どういうことです?」
「あ、えっと、ごめん。いきなり呼び出されたからって言いたかったんだ。もう少し御坂と話していたかったんだよね」
「……そうですか」

何か変な気持ち。フレンダと意見が合うことなんて、今まで一度だってなかったのに。

「絹旗は?」
「……よく分かりません。けど」

フレンダは答えを急かすことなく、ただじっと待ってくれている。

「……学園都市の人間だったら、誰だって御坂とお話してみたいんじゃないですかね」

言った途端、胸が苦しくなった。


今、自分は逃げた。
学園都市の人間だったら。そんな一般論に置き換えた。
ホントは分かってるのに。私だって、フレンダと同じくらい……いえ、それ以上に、あの場に残っていたいと思っていたのに。

「そっか。じゃあ、そろそろ行こうか」

気がつくと、立ち止まっていた。
フレンダも付き合って立ち止まっている。
前を行く麦野達の背中が、どんどん小さくなっていく。

「行こう、絹旗」
「……はい」

決めたワケじゃない。選んだワケじゃない。
他にどうしていいか分からないから、足を動かしただけだ。
フレンダと並んで、てくてくと飲食店街を歩いていく。
麦野達を追って、歩き続けていく。と、視界の隅に一軒のファミレスが映った。


私は立ち止まった。

「白」

一言だけ、口から洩れる。
当然意味が分かるワケもなく、フレンダが訊ねてきた。

「え?何?」
「ほら、そこのファミレス」

夕食時ということもあって、ファミリーレストランは人でごった返していた。
その窓際の席に、珍妙な格好をした二人組が向かい合って座っている。

「シスターと巫女さん、ですね」

あ、ホントだ、なんて感心したような声を上げるフレンダ。

「でもさ、アレは違うでしょ」
「ですよね」

巫女さんの方は身体の線が病的なまでに細いし、白い修道服に身を包んだシスターに至っては私よりも身体が小さい始末。
とてもじゃないけど大食いチャレンジメニューに連続で挑戦し、何軒もの店の食材を今日一日で食べ尽くすほどの大食いには見えない。

「置いてかれちゃいますね」

麦野達の姿が人混みに紛れかけている。

「行きましょう」

だから、二人で、早足で歩き出した。












「あいさ」

いきなり声をかけられ、私は振り向いた。

「どうしたの?」

見ると向かいに座る女の子がメニューを閉じ、こちらに目を向けていた。


インデックス。ちょっと変わった名前の女の子だ。
その隣にはスフィンクスと名付けられた猫が行儀よく座っている。

「ううん」

外から視線を感じたんだけど、気のせいだったみたい。

「何でもない」

この身に宿る呪われた力から解放されたその日、私はインデックスと出会った。
彼女は見たことがないくらい見事な銀色の髪をしていた。へえ、と思わず心の中で呟いてしまうくらい。本当に綺麗な、銀色だ。

「ほらほら、あいさ。好きなの選んでよ」

身を乗り出し、こちらにメニューを開いて見せてくれるインデックス。

「ここは私の奢りなんだから」

そうなのだ。
今日は何と、このファミリーレストランで彼女に奢ってもらうのだ。
彼女が大食いチャレンジに成功して手に入れた賞金で、ささやかなお別れ会を行なうのだ。
彼女の食べっぷりと言ったらもう、本当に呆れるしかなくて。
こんな小柄な身体の一体どこに、お昼に食べたジャンボ地獄チャーハンやらバケツプリンやらが吸い込まれてしまったんだろう?

「あいさ、寮住まいってことは一人暮らしなんだよね」
「うん。いつでも遊びに来て。歓迎する」

明日、私は長らくお世話になっていた小萌先生の家を出ていく。
小萌先生が教師として勤めている高校で、全く新しい日々を始める。

「寂しくなるね」

俯いて、インデックスはそんなことを言う。


そんなの、私だっておんなじだ。
せっかく出来た友達と距離を置いてしまうのは、やっぱり辛い。
だけど、いつまでも止まっているワケにはいかないから。
他人の好意にいつまでも甘えているワケにはいかないから。

「そうね」

悲しそうに微笑むインデックスの顔を見ていられなくて、窓の外に視線を逸らす。
一人の男の姿が、目に入ってくる。黒いスーツを着た長身の男が、窓に張りつくようにして私達のことを覗き込んでいる。
男の右腕には籠手がはめられていた。黒塗りの弓が取り付けられた、和風の籠手が。


――この人。誰?インデックスの知り合い?


ぼんやりと眺めていると、男はガラス越しに何かを呟いた。そして、弓をこちらに突きつけた。

「……!?」

叫ぶ暇すらなかった。
私と男を隔てる巨大なウィンドウが見えない何かに切り裂かれた。
それは風の刃だった。窓を破壊するだけでは飽き足らず、暴れ狂う風は近くにあったテーブルを、そして床を次々に切り裂いていく。


ダメだ。どこにも逃げ場がない。
伏せることも叶わず、私は観念して目を閉じた。


その時だった。

「――っ!」

凛とした声が聞こえたのは。


インデックスの声に呼応するかのように、荒れ狂う風がピタリと止んだ。


おそるおそる目を開ける。
すぐ目の前で、インデックスが立っていた。
私と男との間に入り、私を守るように両手を広げていた。
男は険しい表情をしていた。永遠に解けない難問に挑む賢者のように、曇っていた。

「なるほど。『強制詠唱(スペルインターセプト)』か」

重い声には、どこか苦悩の響きがあった。

「この結果は少々予想外だった。まさか私の梓弓にまで干渉できるとは」
「残念だったね。発動途中だったら、大抵の魔術には割り込めるんだよ」


魔術?今。インデックスは魔術って言った?


では、この男は。目を閉じたまま佇む、この男の正体は。

「貴方は――」
「闇咲逢魔。禁書目録を貰い受ける者だ」

眉一つ動かさず、魔術師は断言した。











[20924] 第37話 八月三十一日⑨
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/04/16 03:00
――君はイギリスに戻るべきだ。


とうまの家の鍵をみことに託した夜、あの人にそう言われた。


――科学と魔術が相容れることなど有り得ない。


私は無言のまま首を振った。

「なら、どうして上条当麻と距離を置いたんだい?」

彼の声は静かに怒り狂っていた。

「自分の命ぐらい、自分で守れるとでも?」
「……」
「返事は!?」
「う、うん」
「勝手に殺されたりしたら、僕は君を一生許さないよ」
「うん」

私は何度も何度も肯いた。
ホントは恨んでほしかった。その方がマシだった。
今の私は、彼の知る私とは全くの別人なのだから。


失った記憶が、私を殺してしまった。
かつての私と今の私の繋がりを完全に断ってしまった。
私は間違いなくインデックスで、インデックス以外の何者でもないのに。


唇を噛む。
私は、私が分からない。
自分が本当にインデックスなのかさえあやふやだ。
身体の中身は空っぽで、洞窟みたいだ。空気でさえ風みたいに通り過ぎる。
理由は分からないけれど、本当に、大きな穴が開いてしまっているみたいだ。
それがとても不安で。とても、とても淋しくて。


欠けたパズルのピース。
例えばそれは、燃えるような赤い髪の神父。
私のことを本気で心配してくれた彼とは、きっと浅からぬ縁があったんだと思う。
なのに、何も思い出せない。今の私にとって、彼は全く知らない人。
私と同じ『必要悪の教会(ネセサリウス)』に属する、一人の魔術師に過ぎなかった。


その空虚に、軽い私は耐えられない。
空っぽ過ぎて、今更イギリスに戻る理由なんて見当たらない。


――それが、どうしたっていうんだよ。


言葉にしてみれば、どうということはなかった。


不安はある。痛みもある。
でもそれは、あくまで赤髪の神父を知っている私が抱くものだ。
今の私にとって、この学園都市こそが居場所なのだ。


――だから、負けられないんだよ。


私が記憶している十万三千冊の魔道書を求めて。
世界の全てを歪め、意のままに操ることすら可能とする力を欲して。
この街が生み出した能力と対極の位置にある異能――魔術の使い手なんかに。


三、四歩分の距離を隔てて、私は黒いスーツに身を包んだ魔術師と対峙する。
大丈夫、大丈夫だと何度も自分自身に言い聞かせる。
魔術師の扱っている武器は、私の持つ知識の範疇にあるんだから。


黒スーツの男が右手に装着している、小型の弓。あれは梓弓だ。
引いた弓が響かせる音の衝撃によって魔を撃ち抜くと言われる、日本神道の呪具。
どんな強力な術式だろうと、正体さえ分かってしまえば問題ない。


術式の解析を終えた今、私に梓弓は通用しない。
術式に割り込んで、誤作動を起こしてやることが出来る。
それが『強制詠唱(スペルインターセプト)』。魔力を持たない私でも使える、数少ない魔術。

「手短に済ます」

呟くと、魔術師は黒塗りの和弓をこちらに向けた。
弓の弦が、カラクリによって自動的に引き絞られる。

「衝打の弦」

細い弦が空気を裂く鋭い音と共に、風の塊が撃ち出される。でも、無駄だ。


私は小さく息を呑み、告げる。
ノタリコン。ラテン語で速記を意味する言葉。
アルファベットの頭文字のみを発音することで、詠唱の暗号化と高速化の二つを同時にこなす発音方法で。たった一言。霧散せよ、と。


瞬間、風の塊が針を刺された風船のように破裂した。


――いけるかも。


ニコリと笑いかけた、その時だった。

「こちらだ」

件の魔術師が、私の真横に立っていたのは。


見ていたのに。ずっと見ていたのに、魔術師の接近を認識できなかった。
魔術師が左手を伸ばす。動けない私の首根っこを掴み、軽々と持ち上げてしまう。

「あ……」

このままじゃダメだ。
そんなこと、分かりきってる。
なのに身体が動かない。言うことを聞いてくれない。












私は何も出来ずに立ち尽くしていた。
黒いスーツに身を固めた魔術師が現れた時から、ずっと。

「あ……」

インデックスの呻くような声で、ようやくモノを考えられるようになった。


魔術師の姿が、その手に掴んだインデックスごと消えていく。
けれど私は逃がしたくなかった。大事な友達を奪おうとする、この男を。

「……させない」

私は走った。


絶対に逃がさない。
その一心で、消え行く魔術師に向かって手を伸ばす。すると、

「うひゃあ!?」

何もないはずの空間から、何か小さくて柔らかい物を掴み取った。

「あ、あいさ~……」

責めるような声。

「え?」

この声。インデックス?
ひょっとして。まだここにいるの?
いなくなったんじゃなくて。見えなくなっただけなの?


何もないはずの空間を押してみる。
確かな感触、というか弾力が伝わってくる。
間違いない。インデックスと魔術師は、瞬間移動の類でいなくなったんじゃない。
姿が見えなくなっただけで、まだこの場にいるんだ。


――あれ?


じゃあ。この小さくて柔らかいモノって……。

「……あ」

答えに辿り着いた、その瞬間。
目の前に、弓を装着した魔術師の右手が出現した。












ドオン、と。至近距離で大砲でもぶっ放されたような騒音が響き渡った。

「な、何だ!?」

ほぼ反射的に音のした方へ全速力で走り、そして、見た。
窓という窓が、全て粉々に砕け散ったファミリーレストランを。

「な……!?」

そんな声を洩らした直後、いきなり正面から衝撃が来た。
何かに突き飛ばされたような、そんな感覚だった。


ワケが分からないまま、背中から地面に倒れ込む。
慌てて顔を上げるが、周りには誰もいないし、何もない。
ただ、遠ざかっていく足音だけが聞こえる。


何が起きたんだ?俺は一体、何に突き飛ばされたんだ?


状況が飲み込めないまま、とりあえず立ち上がろうとする。
その時だった。さっきとは違った足音が近づいてきた。

「逃がさない」

誰かの声が聞こえた。かと思ったら、今度は背後から衝撃が来た。

「絶対。逃がさない」

前のめりに倒れる俺のことなんて気にも留めず、巫女服を着た女の子が走っていく。


あれって、姫神?こんなトコで何やってんだ?

「姫神!」

大声で呼んでも、姫神は完全に無視。
こちらを振り向くことなく走り去ってしまった。

「何だってんだよ、一体」

ぼやきつつ、今度こそ立ち上がる。と、後ろから肩を掴まれた。

「失礼ですが」

営業スマイルを浮かべたウェイトレスだった。

「先程のお客様とは、お知り合いですか?」

だが、何だろう。この人、目が全く笑ってないんですけど。

「え、ええ。まあ」

すぐさま、正直に言ったことを後悔した。
窓の無いファミレスから、一人の男が姿を現す。


そびえ立つその巨体は山の如し。
全身から強者の威圧を漲らせる筋肉の巨人。
筋肉の塊と称しても決して過言になんかならない店長さんが、満面の笑みを浮かべてやって来る。











[20924] 第38話 八月三十一日⑩
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/04/29 22:13
最初はただのヘンテコなガキとしか見ていなかった。何せ出会いが突拍子もない。
あの忌々しい実験で繋がった毛布少女と、それ以上の関わりを持つなんて考えは頭の隅にもなかった。
あのガキの心配をする羽目になるなんて、とても想像できなかった。
全く、未来ってヤツは本当に予測不可能だ。


――俺の家で勝手に寝泊まりして、腹を空かせたアイツを連れてファミレスに行って。


まともな会話を始めたのは、それから。
最強の能力者だって、やっぱり集団の中で生きていかなきゃならないこと。
能力に目覚めてから今まで、学生でありながらクラスメイトなんて単語と無縁の生活を送ってきたこと。
今になって思えば、始まりこそ変だったが後は実に下らない。
アイツの口車に乗せられて、何の気なしに身の上話なんてらしくないことをしちまって。
でも、不思議とつまらなくなかった。居心地は悪くなかった。


あのガキと別れたファミリーレストランを目指して走りながら、考える。


あれから三時間が過ぎたが、どうしてそんな風に思えたのかはまだ分からない。
きっと一生かけても分からないかもしれない。別にそれでも構わない。何が何でも分かりたいってワケじゃない。


邪気なんてこれっぽっちもない声。
二人一緒に食事を取る時、嬉しそうに笑っていた。
これ以上は死んでやることは出来ないという、俺に対する恨みの宣告。
自分自身ですら気づいてなかった、第三位のクローン共にぶつけ続けた罵詈雑言の真意。


能力を駆使し、並のバイクを軽く追い抜くほどの速度で走りながら考える。


あのクソガキは色んなものを押しつけてきた。
同じところ、違うところ。分かち合える気持ち、隠したい思い。
抱えているのは自分だけじゃないということも。
見失っていたような、忘れてしまっていたようなことも。


――くっだらねェ。


だからどうしたって言うんだ。
今更になって何をしようが、遅過ぎる。
そう、分かってる。たとえ変われたとしても、もう手遅れなんだって。


果たして、目的の場所に辿り着いた。
やっと辿り着いた。もう辿り着いてしまった。
二つの感情が入り交じる中、俺はレストランの中に入り、

「あァ?」

思わず声を上げてしまった。
昼間来た時とは別世界だった。


粉々に砕かれた、道路に面したウィンドウ。
綺麗な切断面を見せて転がっているテーブルが一つ。
あちこちが切り裂かれた床の上には、硝子の破片が散らばっている。
客達は壊れたテーブルを遠巻きに眺め、ヒソヒソと何かを話している。
たった今、ここで何らかの事件が起きたのは火を見るより明らかだった。


――チッ、アイツは無事なンだろうな。


ぐるりと周囲を見回す。
決して広くない店内に、アイツの姿はない。


オイオイ、まさか追い出されたのか。
冗談じゃねェぞ。あのガキ、一人で出歩けるような状態じゃなかっただろうが。


もう一度、今度は注意深く辺りを窺う。


――ン?


妙なことに気づく。


――何で従業員がいねェンだ?


ボロボロになった店内には、ウェイトレスが一人いるだけ。

「い、いらっしゃいませ」

視線に気づいたのか、あちらから近づき、声をかけてきた。
怖い目にでも遭ったのか、その顔はどこか青ざめている。

「あの、お一人様でよろしいですか。それと、当店は全席禁煙で」
「あー、違う違う。客じゃねェよ。人捜しだ」
「え?」
「十歳ぐれェで空色の汚ねェ毛布を被った裸のガキだ。三時頃に俺と一緒にこの店に来たはずなンだが」

説明なンざ、この程度で充分だろう。
あんなイカれた格好したヤツ、そう簡単に忘れやしねェだろうし。

「そ、そうでしたか」

ところが、だ。

「すいません。その時間、私は非番だったもので」
「じゃあ、他のヤツは?っつうか、何で一人だけなンだよ」
「それが、そのう……只今、少々立て込んでおりまして」

困ったような顔をして、店の奥をちらちらと見遣るウェイトレス。
どうやら残りの従業員は皆、そこに集まっているらしい。

「あ、お客様!?」

ウェイトレスの制止を無視して、奥に進む。

「邪魔するぜ」

争うような言葉の応酬が聞こえる、厨房に足を踏み入れる。
案の定、中には大勢の従業員がいた。そして、

「はァ?」

どういうワケか、あのバカもいた。
最強の超能力者である俺を殴り飛ばした、無能力者のバカが。
しかし、そのバカだが……どういうワケか、従業員に取り囲まれていた。

「よ、よう」

件のバカの、実に間の抜けた声で現実に戻った。

「何やってンだ、テメエ」












電話を切ってから、『超電磁砲(レールガン)』のお姉さんはずっと歩き続けている。
この様子だと多分……ううん、間違いなく私の存在に気づいている。


ついに超能力者と戦う時が来たのだ。
研究者を生業とする、木原一族。その中で無能と称されてきた、この私が。
そう、私は落ち零れだ。絆里お姉ちゃん達と同じ、欠陥品。
だから必死だった。大小問わず、様々な実験や研究に明け暮れた。
自分自身のために。そして何より、絆里お姉ちゃん達のために。生まれて初めて出来た、友達のために。


ごめんね、お姉さん。
お姉さんに恨みはないんだ。ホントだよ。
でもね、私は証明しなくちゃいけないんだ。
私達の強さを。存在意義を。みんなが笑って起きてこられるように。


お姉さんの背中を追って、だんだんと日が暮れていく街を歩き続ける。
無関係に通り過ぎていく人波と、無神経に点滅するいくつもの信号の間を歩き続ける。
私より年下の人達も、私より年上の人達も、みんな幸せそうだった。


ずきり、と心が痛んだ。
ふと、思い立って右手を抓ってみた。……何も感じない。
もっと強く捻る。……やっぱり、何も。


諦めて手を離すと、指の先が赤かった。
爪が肉に食い込むまで抓ってしまったらしい。
それでも、何も感じない。生きてる、なんて感じない。

「はは……」

可笑しくて笑ってしまう。
私は痛みを感じないのに、どうして心は痛いと感じるんだろう。


――私達も頑張れば大能力者や超能力者になれるかもしれないんだって!
――そうすれば、みんなで木山先生や学園都市に恩返しできるね!
――やっぱり、まずは『風紀委員(ジャッジメント)』かなあ。学園都市の悪い人達をやっつけるの!
――じゃあ、みんなで超能力者になって、ええと、『風紀委員』になって、学園都市を守ろう!


……また思い出してしまった。


無邪気にはしゃぐ、みんなの姿を。
何よりも大切な存在を。このまま失ってしまうかもしれない存在を。
あの時、私はみんなと確かに繋がっていた。とても近くにみんなを感じていた。
みんなと笑い合えた瞬間、本当に本当に幸せだったんだ。これまで生きてきた、どんな時よりも。


みんな――


心の中に生まれた小さな想いを、私は、そっと抱きしめた。












妙な感覚に襲われた。
自分の中に入り込んだ何かに身体の隅々まで舐め回されたような、そんな感じ。


当麻との通話を早々に切り上げ、私は行き先を変更した。
街の喧騒から逃げるように、段々と寂しい通りへと進んでいく。
十メートルほどの距離を置いて、ツインテールの女の子がついてくる。
シルエットだけで見るなら、黒子とほとんど変わらない立ち姿。
異なる箇所は一つだけ。無言でついてくる女の子の髪は、茶ではなく金色だった。


そろそろ七時。
夏の空が夜の帳に包まれつつある。
私は人気のない、第七学区のはずれにある河原まで足を運んだ。
辺りに人影はない。街灯も少なく、少しぐらい暴れたって誰に咎められることもない。


――この辺でいいか。


河原に降り立って、ようやく私は女の子に振り向いた。

「で、何の用?」

女の子は『風紀委員』の腕章を付けていた。まあ、これはいい。よくあることだ。
そして赤いランドセルを背負っていた。まあ、これもいい。よくあることだ。
黒子や初春さんも、小学生の頃から研修を受けていたらしいし。
その髪は月明かりを浴びて、鮮やかな金色に輝いている。まあ、これもよくあることかもしれない。
問題なのは、女の子の両肩が小さく震えていることだった。

「やっと視えたよ、お姉さん」

俯いているせいで、彼女の表情は分からない。
でも、その声色は明らかに歓喜に満ちたものだった。

「お姉さんの力場は金色の螺旋なんだね」

予想もしていなかった返答に、私は息を呑む。


金色の螺旋。それは私が能力を発動するための土台。
現実の常識とはズレた世界を実現させる、私だけが持つAIM拡散力場の形。

「貴女、何?」

女の子は答えた。

「木原那由他」

金の髪が風になびいた。

「先進教育局、特殊学校法人RFOの『風紀委員』だよ」

ゆっくりと顔を上げた彼女の口元は、小さく笑っていた。











[20924] 第39話 八月三十一日⑪
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/05/03 22:48
身体にバスタオルを巻いただけという格好で、私はぼんやりと鏡を見つめていた。
自室に隣接したバスルームから出てきたばかりで、まだ髪も乾かしていない。


――お姉様、最近どうされたんでしょう?


思い起こすのは、ここ数日のお姉様の様子。
別に、これという目立つ態度を示されたワケじゃない。
駆け落ちの件にしたって、当事者であるお姉様自身が否定してくれたワケだし。


でも、何かあった。絶対にあった。
直感がそう告げている。理屈を超えたところで、私はお姉様の微妙な変化を感じ取っていた。
でも、何があったのかは分からない。不思議と胸がざわめいた。
お姉様の変化の裏に、あの類人猿が関わっているような気がして。

「――あ」

テーブルに置いていたケータイが着信音を響かせていた。


つい先日に発売されたばかりの新機種だ。
お姉様にも強く勧めてみたものの、丁重に断られてしまった。
今使っているケータイに愛着があるから、と言っていたけれど。


それにしても、と私は思う。
お姉様のセンス、そろそろ改善させてあげないといけませんわよね。
あの少女趣味をどうにかしなければ、真の淑女への道は遠のくばかり。
特に下着。そろそろ子供っぽいものを卒業して、大人の魅力に目覚めていただかないと。
お姉様なら、セクシーで大胆な下着だって着こなせるに違いありませんのに。
でもそういったものをお姉様は絶対に身につけて下さらないし。
布ちっさ、なんて言って一蹴するに決まってますし。
あ、そうですわ。お姉様がシャワーを浴びている間に、こっそり下着を入れ替えてしまえばいいのでは。
そうですわ、そうですわ。どんなに大胆でも、それしかなければ身につける他に選択肢はないのですから。


――お姉様の、セクシーな下着姿……。


ひとしきり妄想に浸ってから、私は鏡台を離れてテーブルに向かった。


左手で胸元を押さえつつ、ケータイを手に取り画面を確認してみる。
そこに表示されていたのは固法美偉先輩の名前。第一七七支部に所属する『風紀委員(ジャッジメント)』で、私や初春の上司的立場に当たる女子高生だ。

「あのさ、今日って割と穏便に過ごしてたよね」

通話ボタンを押した途端、そんな声が聞こえた。

「はい?」
「うん、そうよね。独断専行も珍しくなかったし」
「ちょ、ちょっと!何を言ってるんですの?」

実はね、と声を低くして固法先輩は話し出す。

「一時間くらい前なんだけど、女の子が第七学区の路地裏で男四人に囲まれてるって通報があってさ」

いささか残酷な事実を、しかしきっぱりと伝える。

「……それで被害は?女の子は無事なんですの?」

知らず、私はそんなことを問いただしていた。


ええ、と先輩は答えてくれる。

「女の子の方はね」
「え?」
「暴行を受けたのは男達の方よ。その女の子にやられたんだって」
「それ、ホントですの?」

まあね、と先輩はつまらなげに言った。

「路地裏で気絶してた彼らを叩き起こして、直接訊き出したから」

私はびっくりした。

「女の子、いなかったんですか?」
「私達が駆けつけた時にはね」

どういうことなんだろう。
傷を負わせたと言っても、その状況なら間違いなく正当防衛なワケで。
女の子が逃げ出す理由なんて、これっぽっちもないワケで。

「でさ。彼らの話だと、その子ってツインテールだったらしいの」
「はい?」

その発言の意図が、すぐには分からなかった。

「貴女じゃないよね?」
「当然ですわ」

そうか、私が姿を消した女の子だって思われていたのか。ちょっと心外だ。

「そんな奴らを、私が野放しにしておくと思いますか?」

だよね、と安堵したような声。

「疑ってごめんね。訊き出せた情報ってロクなものがなくてさ。彼ら、目を覚ましたまでは良かったんだけど、揃いも揃って錯乱しちゃってて」

ホントはどうでも良かったんだけど、私は敢えて訊いておいた。

「その殿方達、どんなことを言ってるんですの?」

そう、わざとらしく訊いておきましたの。


先輩も大袈裟に語ってくれた。

「女の子の能力に関する四人の証言が一致しないのよ」
「と、言いますと?」
「件の女の子に自分の能力を乗っ取られただとか、目にも止まらぬ速さで追い詰められただとか。ほら、人間の脳が許容できる能力って一つだけでしょ。だからさ、少なくてもどっちかはハズレなのよね」
「或いは、どちらの証言も的を射ていないかもしれませんわね」
「やっぱりそう思う?」
「そもそも、女の子一人に四人がかりで迫るような殿方の言葉なんて信用できませんわ」
「うーん。まあ、一理あるかな」
「殿方なんて危険な輩ばかりですの。お姉様にも早くその事実に気づいていただかないと。そして私との熱いベーゼを御所望にグヘヘヘヘ」
「……貴女の方がよっぽど危険な気がするけど」

そんな風にして、しばらく私達は話し続けたのだった。












笑みを浮かべる女の子を、私は愕然と見つめていた。見つめることしか、出来なかった。
彼女が口にした学校らしき名前を、私は知っていた。と言っても、それを目にしたワケじゃない。耳にしたことも一度だってない。
ただ、脳裏に焼き付いているだけ。かつて、ある女科学者から偶然読み取ってしまった記憶として。


その科学者、木山春生には教鞭を取っていた時期があった。
『置き去り(チャイルドエラー)』と呼ばれる、何らかの事情で学園都市に捨てられた身寄りのない子供達が通う施設の教師をしていた。
その施設を管理していたのが、先進教育局。目の前にいる女の子が所属していると断言した、今はもう存在しないはずである学校。


――そういうこと、か。


やがて、悲劇が生まれる。


暴走能力の法則解析用誘爆実験。
それは能力者のAIM拡散力場を刺激して、暴走の条件を探るための実験だった。


この実験で、木山春生の教え子達は使い捨てのモルモットとして利用されたのだ。
私の妹達と同じように。科学をより一層、発展させるために。偶然ではなく、必然的に超能力者を大量生産するために。
そして誰一人として未だ到達していない、絶対能力者を生み出すために。
ただそれだけのために、木山春生の心を踏みにじり、彼女の教え子達を意識不明に陥らせたのだ。

「超能力って、そんなに魅力的?」

冷たい私の声に、女の子はさあ、と首を横に振った。

「どうかな。人それぞれだと思うけど」

笑いを噛み殺して答える女の子。
口調とは裏腹に、この上なく楽しそうだった。


……悲劇は、まだ終わっていなかった。


「相手、してくれるよね。『超電磁砲(レールガン)』のお姉さん」

おそらく、この女の子も実験体となった子供達と同じ。
あの実験に、学園都市の深い闇に囚われてしまった危うい存在。


――ああ、そう言えば。


唐突に、思い出す。
ほんのちょっと前まで、私もこんな感じだったっけ。
妹達を助けたくて、でも、何も出来なくて。相手があまりにも大きくて、どうしようもなくて。
そんな私を救ってくれたのが当麻だった。
今の私があるのは、当麻のおかげだ。命を賭けてまで、私を止めてくれたおかげだ。

「いいよ」

息を止めてから、何かに誘われるようにその言葉を口にした。


彼女は自ら進んで実験に加担しているんだろうか。
それとも引くに引けない理由があるんだろうか。
どちらだろうと少しだけ考えて、すぐに飽きた。
そんなもの、どちらだって構わない。
これから私のやろうとしていることには、全く関係ない。

「やろう」

この女の子を止める。
闇に向かって突き進む彼女を、ここで止めてみせる。












――まさか、こんな簡単に実現するなんて。


美琴お姉さん。
みんなが憧れる超能力者の一人。
誰よりも特別に見えた、最強の電撃使い。


くっ、と笑みが洩れた。
そんな人に、私は戦いを挑む。
自分の能力がどこまで通じるのか、試す時が来たんだ。


遠く離れた『超電磁砲』のお姉さんを視界に収める。
距離にして軽く十メートルは離れているお姉さんを視る。
お姉さんの身体の隅々を駆け巡る、金色の螺旋。AIM拡散力場という名を持つ能力の源泉が確かに視える。


――いい顔見せてね、お姉さん。


こちらを睨みつけている相手へと瞳を絞る。
ぐらり、と金色の螺旋が揺れる。お姉さんのAIM拡散力場が揺らぐ。


……ほんの、一瞬だけ。


「嘘……」

能力の暴発を引き起こせなかった。


能力者の身体からは、現実に干渉する微弱な力が絶えず放出されている。
それがAIM拡散力場。能力者なら誰もが持ち合わせている、能力を発動するための母体。
今まで誰一人、何一つ例外なく、あらゆるAIM拡散力場に干渉することが出来た。
なのに。美琴お姉さんのAIM拡散力場は視えているのに、暴発を起こせない。


私は繰り返し念じた。
暴れろ、暴れろ、暴れろ、暴れろ。
繰り返す凝視に、でも、金色の螺旋は揺るがない。最早、ほんの一瞬たりとも。


そんな、と私は言い淀む。
全くワケが分からない、といった私は、同時に。
一瞬にして目前に現れたお姉さんによって、地面に叩きつけられていた。

「――え?」
「ついてないね」

視認、できなかった。
私の上に馬乗りになるまでのお姉さんの行為が、見えなかった。
獲物を狩る肉食動物の動作は、速過ぎて人間の視覚では捉えられない。
度重なる人体実験の果てにソレと同格以上の身体能力を手に入れた私が、それでもお姉さんの動きを捉えられなかった。

「貴女、本当についてない」

お姉さんの言う意味が分からない。
理解できるのは、自分はお姉さんに遠く及ばないんだという事実だけ。


届いてない。全く届いてない。
相手はまだ得意の電撃を出してもいないのに。
おそらく生体電気を操作して身体能力を上昇させているだけなのに、まるで勝負にすらなってない。


正に理不尽。正に最強。
これが学園都市に七人しかいない超能力者の力なのか。
手加減されている状態で、こんなにも絶望的な差があるのか。

「どう?」

馬乗りになっているお姉さんと、見上げる私の視線が交錯する。

「まだやる?」

私は答えない。


一切の感情を切り捨てて、お姉さんのAIM拡散力場にある微弱な部分を探し出すことに全力を傾ける。
全身に巡ってしまった絶望感も、地面に叩きつけられた痛みも全て無視して唯一の突破口を開こうとする。











[20924] 第40話 八月三十一日⑫
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/05/03 22:51
「ついてないね」

心の底から思う。

「貴女、本当についてない」

それとも、間が悪いって言った方がいいのかな。
能力の完璧な制御を覚える前だったら、きっと彼女の能力に囚われていた。
神裂さんの身体能力を目にする前だったら、生身で音速に迫ろうなんて考えもしなかった。
つまりは、そういうこと。魔術に触れる前の私が相手だったら、こんな一方的な展開にはならなかった。

「どう?」

そう訊ねた時、ふいに足元が揺らめいた。
どこかから落ちる夢を見て、夜中に慌てて目覚めることがあるけれど、あんな感じだった。

「まだやる?」

女の子は答えない。
ただ強く、ひたすら強く私を睨みつけている。
その時だった。私の視界は急速に歪んでいった。


――これって、まさか……。


木山春生の時と同じだった。
今回は電気じゃなくて、AIM拡散力場を介して。
木原那由他という少女と私の間で回線が繋がっている。
彼女の記憶が、まるで走馬灯のように頭の中に直接流れ込んでくる。


幼い頃から研究室の中で個別に教育を受け、周囲とは違うエリートとしてのレールを敷かれてきた少女。
幼くして幾つかの高度な実験を成功させるも、彼女は一族の中では寧ろ無能の証明として扱われた。
実験体の安全まで考慮された完璧な実験にこだわる彼女を、欠陥品と蔑む輩までいた。


欠陥品と呼ばれる悔しさ。
そして得体の知れない物足りなさを抱える日々が続いた。
そんなある日、先進教育局という施設の中で『置き去り(チャイルドエラー)』と呼ばれる子供達と出会う。
彼らの温かさに触れ、足りなかったものを補っていく少女。だが、突如として訪れた悲劇は彼女達をいとも簡単に引き離した。


自分の一族も関わっている意図的な暴走実験の真相に気づいた少女は、自ら実験体に志願するようになった。
『置き去り』の子供達と共に学園都市を守れるだけの、『風紀委員(ジャッジメント)』としての純粋な力を求めて。
そして自分が実験体になれば、その分だけ犠牲になる子供達を減らすことが出来ると信じて。


木原那由他は自身の身体を学園都市に差し出し続けた。
学園都市とは異質の力――恐らく魔術だろう――を送り込まれた結果、身体の半分以上を吹き飛ばされても。
失われた肉体部分の治療と称して、親戚の研究者に自身の身体を弄ばれても。
自身の力として、それら全てを那由他は受け入れたのだった。
いつ起きるかも知れない、生まれて初めて出来た友達のために。
一人でも多くの『置き去り』を、自分の一族が推し進める人体実験から遠ざけるために。


私に決闘を挑んだ少女は何も言わず、馬乗りになっている私を見つめている。

「見られちゃったね」

何故か笑いながら、女の子――那由他は言った。

「ま、別にどうってことないんだけど」

その瞬間、何もかもがやたらとくっきり見えた。
細かいところまで目の奥底に飛び込んできた。


地面に投げ出された彼女の手はあまりにも小さかった。
運命や幸運を掴み取る能力に欠けているかのように小さかった。


爪は短く切られている。
彼女くらいの年頃の女の子なら、爪を伸ばしてみたいだろう。
けれど実験体にはそれが許されない。何かあった時、例えば苦しくなって暴れたりした時に研究者を傷つける恐れがあるからだ。


同様の無残さは、彼女の全身に偏在していた。
金色に輝く髪も、網膜の中に幾何学的な光が走っている右目も、ずっと人体実験に身を置いてきた結果だった。
彼女は色んなものを奪われていた。そして今も奪われ続けている。


何も言わず、私は立ち上がる。


一歩、二歩、三歩。


彼女を見つめたまま、後ろに下がっていく。


八歩、九歩、十歩。


彼女から大きく間合いを取ったところで立ち止まる。

「こうしよう」

よろよろと立ち上がる那由他を前にして、告げる。

「貴女の能力に耐え切れたら私の勝ち」

貴女が全てを賭けて戦うっていうなら、見せてあげる。

「耐え切れずに能力を暴発させちゃったら貴女の勝ち」

そう言うと、私は自身の内面へと意識を向けた。
呼びかけるのは金色の螺旋。身体中を駆け巡る、電磁波の形を成した私のAIM拡散力場。


私は強く、強く念じる。
己を包み込む、黄金の光を。
やがて、それは現実のものとなる。
力強い輝きを持った金色の光が、私の身体を包み込む。

「そういうことで、よろしく」

これが私の、全力全開だ。












「大体さ、知り合いだから立て替え要求していいなんて理屈はねえよな。こっちはその日暮らしの苦学生だって言うのに」

盛大に愚痴り続ける三下などもちろん無視して、大通りを歩いていく。
向かう先は、とある研究所の跡地。第三位の能力を忠実に再現した、完全なるクローン作製を目的に作られた施設。


恐らく、いや、間違いなくアイツはその近辺にいる。
意識を失ったガキをレストランから連れ出した、あの男が。
天井亜雄。第三位のクローン共の実態を、それこそ隅から隅まで熟知している男が。


ニヤリ、と笑う。
ファミレスの店長には感謝しなきゃならない。
クソガキを連れ出した、白衣を着た男。
ソイツの名前を確認し、尚且つ覚えていてくれたのだから。


天井亜雄は、まだ学園都市の中にいる。
毛布一枚しか羽織っていないガキを連れて。
知り合いと呼べる人物もいない、最悪の状況で。


――余裕を失った人間が向かう場所なンざ、たかが知れてるからなァ。


確証は無いが、確信があった。
人間ってヤツは、ホント変なものだ。
追い詰められるほど、行動が単純になっていく。

「なあ、そろそろ相手してあげないと俺が泣くぞ」

そして、どこにでもいやがるんだ。
何もかもぶち壊すような、そんな人間が。

「ああ、うぜェ。お前、うぜェぞ、三下ァ」

思いっ切り低い声で言ってやったのに、このバカには逆効果だったらしい。

「お、ようやく反応あり」

のんびりした口調で、そう返してきた。

「テメエの頭ン中は春か?春なのか?」
「迷子探しだろ?手伝うぜ」
「質問に答えろよ、クソが」
「で、行き先の見当はついてんのか?」

俺は頭を抱えたくなった。
さっきから、ずっとこんな調子なのだ。
手助けなんていらねえって何度も言ってんのに、聞く耳を持ちやしねえ。
助けたのは、成り行きに過ぎないっていうのに。
コイツの問題を片付けないと話を聞けそうになかったから、店の修理費を肩代わりしたってだけなのに。

「候補だったら、二つほどな」
「じゃあ二手に分かれようぜ。で、どこなんだ?」
「二つ目の十字路を左に曲がれ。そうすりゃ、お役御免になった研究所が見えてくる」
「分かった、左だな」
「ああ、左だ。間違えンなよ」

というワケで、嘘を教えておいた。本当は右なのだった。












正に圧倒的だった。
美琴お姉さんはただ、自身の能力を全開にしただけ。
たったそれだけのことで大気が震え、地面が抉れ、そして私は吹き飛ばされた。


抉られ、クレーターと化した地面の上に立つお姉さんと、その十数メートル先で倒れている自分。
その力の差は、正に一目瞭然。倒れ伏す私に向かって歩みを進め、お姉さんは数メートル手前で立ち止まる。

「じゃあ、白黒はっきりつけようか」

目の前の光景に唖然とする。


――これが、超能力者。


黄金の光を身に纏うお姉さんの、圧倒的な威圧感。
少なくても正面から受け続けていたいものじゃない。
あと五、六歩は後ろに下がってしまいたくなる。
しかもお姉さんは、まだ戦闘態勢にすら入っていないのだ。


遠い。あまりにも遠い。
実験の末に手に入れた能力は通用せず、一族謹製の義体もまるで歯が立たなかった。
でも、だからと言ってこのまま諦めてしまうワケにはいかない。


理想の形に近づくこと、超能力者に打ち勝つこと。
どちらも決して簡単じゃない。何せ相手は第三位のお姉さんなんだから。
でも、それでも理想を追い求めなきゃいけない。
それこそが、今ここに自分がいる理由なんだから。


私は強く、今まで行なったこともないほど強くお姉さんを睨む。
暴走に匹敵するだけの、強大な力が流れ込む。


演算が間に合わない。
脳が焼けるように熱い。
意識が白く、白く染まっていく。
それでも私は睨み続けた。


諦めない。
諦めたくない。
諦める、もんか……!











[20924] 第41話 八月三十一日⑬
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/05/08 18:10
空には半分の月があった。ひどく明るく輝いていた。
その美しい景色を眺めながら、私は河原に寝そべっていた。


頭が痛い。身体が熱い。
もう指の一本も満足に動かせない。
文句のつけようがない、完全敗北だった。

「那由他、生きてる?」

よく通るソプラノの声が聞こえ、そちらに視線を向ける。
黄金の光を解除した美琴お姉さんが、笑顔を浮かべて立っていた。
まるで死んだかのように静まり返っている、夜の河原。
そこにいるのは私とお姉さんだけだった。

「……ごめんなさい」

消え入りそうな声で、私は呟いた。

「何が?」
「迷惑かけちゃって……ごめんなさい」

掠れた声で話す私に、お姉さんは苦笑する。

「別にいいよ」

私は答えない。
いいワケなんて、絶対にない。
勝手に色々抱え込んで、結局ダメだったのに。
せっかくお姉さんが戦ってくれたのに、何も出来なかったのに。


やれやれ、と苦笑して私の隣に腰かけるお姉さん。

「やるじゃん」

そう言って、私の頭をくしゃくしゃと撫でる。

「私の本気を見て、それでも向かってくるなんてさ」

お姉さんの言葉に、私は声を失った。

「那由他は頑張ってるよ」

黙ったまま、私はお姉さんを見つめていた。
月明かりに照らされたお姉さんは、本当に本当に綺麗だった。

「私が保証する」


――何で……何で、そんなこと言うんだろう。


物心がついた時から、強い自分を演じてきた。
誰にも頼らず、意地を張るしかなかった。
一度でも甘えを許すと、何度でも甘えてしまいそうだったから。
自分の中にいる弱虫が、目を覚ましてしまいそうだったから。


――そんなことを言われたら、だって、私……。


だけど、本当は。
心の奥底で、本当に願っていたことは。


――そんなこと、ずっと……ずっと誰かに言ってほしかった……!


揺らめいた。
よろめいた。
涙がぽろぽろ出た。


何か言いたかったけど、言葉にならなかった。
嗚咽を洩らしながら、何度も何度も鼻を啜り上げた。
ぼろぼろの泣き顔を見られないように顔を背けた、その時だった。
お姉さんに、いきなり抱き寄せられた。抱き締められた。


もう、何も考えなかった。身体が自然に動いていた。
私はお姉さんの身体を抱き締め返した。強く、強く。


半分の月が輝いていた。
その光は私達を照らしていた。


私は随分長い間、泣き続けた。












全力で治療を施してきた。医師としてのベストを尽くしてきた。
ありとあらゆる手段を選択肢に挙げ、わずかでも効果が認められれば藁をも掴む思いで実行に移した。
しかし、それでも子供達の目を覚ますことは出来なかった。


僕は一人、薄暗い空間の中にいた。
透写板にレントゲン写真やらエコー映像やらがぶら下がっている。
その全てが、一枚残すことなく、好転の兆しすら見せない現状を告げていた。


僕は医者だ。腕はいい。
周りはそう思っているし、僕にも自負がある。
それなのに、救うべき患者を目前にして、僕は全くの無力だった。
こうして立ち尽くしていることしか出来ない。


外の空気を吸いたくなって、僕は検査室をあとにした。ふらふらと歩く。
既に消灯時間が近く、病院は静まり返っていた。
病院の中に響くのは、僕の足音だけだった。
照明がやけに薄暗く感じられた。


正面玄関から外へ出る。深い闇が広がっている。
じっと目を凝らしたけれど、闇は闇でしかなかった。
僕はそこに、何も捉えることが出来なかった。


――また、救えないんだろうか。


あの少年の記憶は、とうとう取り戻すことが出来なかった。
あれは記憶喪失というより、記憶破壊だった。思い出を忘れたのではなく、物理的に脳細胞ごと破壊されていた。
少年が事故以前の出来事を思い出すことはないだろう。少年の心はあの時、確かに死んでしまったのだから。


僕に出来るのは治療だけだ。
死者を蘇らせることは、さすがに出来ない。
ああ、いや、分かってるよ。そんなことが、言い訳にもならないってことぐらい。
寿命すら克服しても、患者を救えなければ意味がない。
今、目の前で助けを求める者に何も出来なければ意味がない。
そう、だから今度こそ救ってみせる。己の無力に打ちひしがれるのは、あの時だけで充分だ。


子供達は死んだワケじゃない。
昏睡状態に陥っているが、ただそれだけ。
とある実験の結果、脳内の電気信号を狂わされているだけ。
ならば脳内の信号を正常なものに治せばいい。たったそれだけで、彼らを目覚めさせることが出来る。
だが、しかし、打開策を見出せない。脳内の電気信号を完璧に制御する、その手段が見つからない。


脳内を流れる生体電流は繊細だ。
電子顕微鏡にも映らないような、小さな誤差ですら許されない。
たったそれだけで、子供達の命は一瞬の内に刈り取られてしまう。
それが現状。どんなに抗っても覆せない、非情なる現実。


僕は俯いた。
待ってるから、木原那由他君の目はそう言っていた。
その事実は、僕の胸を否応なしに締めつけた。
誰よりも現実を理解している彼女の瞳が、言っていたんだ。待ってるから、と。


最強の電撃使いと呼ばれる、少女の姿を思い浮かべる。
彼女だけが子供達を救える。彼女の能力だけが子供達を目覚めさせることが出来る。


しかし彼女に頼れない自分がいた。
絶対能力進化実験という名の地獄から、彼女は解放されたばかりなのだ。
心身共に深い傷を負った彼女に、更なる重荷を背負わせたくなかった。
学園都市の深い闇に、これ以上関わらせたくなかった。


ふう、と深く息を吐く。
顔を上げると、そこには半分の月があった。
淡い輝きを放つそれに背を向けて、僕は歩き出す。ロビーに続く、病院の正面玄関へ。
けれどその前に、予想だにしていなかった物を視界に収めて立ち止まる。いや、立ち止まってしまった。

「すみません」

信じられないものを見て、僕は言葉を失ってしまった。
声をかけてきた人物は、今しがた思い浮かべていた人物そのものだったから。

「この子の友達に会わせてもらえませんか」

気を失った木原那由他君をおぶって、学園都市第三位の少女がそこにいる。












「ふああああ~」

極秘集団の一員だって、もちろん人間であって。
人間であるからには退屈な時に生じる生理的現象に抗えるはずもない。
というワケで、私はさっきから欠伸を連発しながら歩いていた。


ったく、もう。早く帰りたい。
そんでもって、御坂にメールを送るワケよ。
今日は楽しかったよ、ありがとうって感じでさ。
にしし。二人で喋ってる時にケータイの番号とメールアドレス、交換したんだ。


大体、夏休み最後の日に夜遅くまで出歩くなんて間違ってる。
自分の部屋でサバ缶をつつきながら、のんびりと過ごすべきだ。
ああ、でも、ドアを焼き切るツール買い足さなきゃ。
結局、缶切りって難しいんだよね。練習しても、なかなか上手く使いこなせなくて。

「ふああああ~」

三十回目くらいの欠伸をしていると、向かいからツンツン頭の男が走ってきた。
きょろきょろと辺りを見回しているけど、どうしたのかな。

「あ、あの」

向こうから話しかけてきた。
肩で大きく息をしている。


欠伸を噛み殺しながら、私は訊ねた。

「何」
「こ、この辺、研究所の跡地って、あります?」

途切れ途切れの声。
ずっと走っていたんだろうか。

「研究所?」
「は、はい」

彼が走ってきた方を、私は指差した。

「あっちだよ」
「え、あっち!?」
「そうだけど」
「こ、こっちには!?」
「ないよ」

ツンツン頭は悔しそうな顔をした。或いは泣きそうな顔を。
そのあと恐ろしい形相になって、何か呟いたあと、元来た道を再び走り出した。


まだ何か呟いている。
あの野郎、と聞こえた気がした。覚えてろ、とか。


――はて?


どこか具合が悪いんだろうか。
だとしたら、手助けしてあげた方がいいのかな。
でもツンツン頭の背中から漂ってくるどろどろした空気からすると、どうもそういう状況でもないらしい。


まあ、放っておいても大丈夫だろう。多分。











[20924] 第42話 八月三十一日⑭
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/05/22 00:03
一時間経っても、インデックスは見つからなかった。
二時間経っても同じだった。その頃には空はすっかり暗くなり、半分の月が見えるようになっていた。

「インデックス!」

私は叫んだ。

「どこなの。インデックス!」

声がただ空間を震わせる。
街灯の光を頼りに、第七学区を走り回った。
路地と言う路地を覗き込み、彼女の名を叫んだ。


夜の街は死んだように静まり返っていた。
まあ、無理もない。今日は八月三十一日。
この街の人口の、実に八割を占める学生達の多くは夏休みの課題に追われて家に篭っている。
奥底から湧き上がってくる何かに急かされ、私は駆けた。インデックス、インデックスと叫び続けた。


どうして、こんなことになってしまったんだろう。
あの夜のことを。吸血鬼と化した家族を皆殺しにしてしまった夜のことを、思い出した。
もう嫌なのに。誰かのことを心配して、失うかもしれないって思って。
そういうのは、ほんの少しだって嫌なのに。もう耐えられないのに。


インデックスの声を聞きたかった。
インデックスの笑顔を見たかった。


喉がゼイゼイ鳴る。
胸の奥が引きつって痛い。
それでも私は足を動かし続けた。
闇の中を走り、立ち止まっては辺りを見回し、そして再び走り出す。


第七学区を、私はぐるりと見て回った。
柵川中学の裏では雑草だけが揺れていた。
窓も入口も無い不可思議な建物の周囲には闇が重く積もっているだけだった。
第五学区との境目にある公園にはドラム缶型の清掃ロボが取り残されたように佇んでいた。


どこにも、誰も、いなかった。
公園の真ん中で、私は立ち尽くした。
どこにいるの、インデックス。ねえ、一体どこに行ってしまったの。
口を半開きで、自分でもよく分からない声を出しながら、ふらふらと歩く。
街灯の下まで辿り着いた時、魔術師と出会った。

「久し振りだね、姫神秋沙」

半分の月を背にして、赤い髪の神父が立っていた。

「ステイルさん……」
「仕事帰りなんだけどね。寄ってみて正解だったみたいだ」
「……助けて。くれるの?」

荒い呼吸のまま、ステイルさんを凝視する。
勘違いしてもらっちゃ困る、とステイルさんはつまらなげに笑った。

「僕が助けるのは君じゃない。あの子さ」












――だよなァ。やっぱ、ここだよなァ。


予想していた通りだった。
閉鎖された研究所の前に、黄色いスポーツカーが停まっていた。
間違いない。昼間に天井の野郎が乗っていたヤツだ。
ニヤニヤ笑いながら、真正面からスポーツカーに近づいていく。


天井も俺に気づいたらしい。
その顔はひどくやつれている。
頬はこけ、眼球は血走っていた。
ここ数日の間、一睡もしていないのは明白だった。


あの調子じゃあ、思考力も大分鈍っちまってるンだろうな。
その証拠と言っちゃなンだが、あの野郎、俺を殺す気でいやがる。アクセルなンか全開にしちまってよ。
で、そのあとは?その安っぽいスポーツカーで特攻でもしようってか?
舐められたもンだ。そんなものがこの俺に通用するって、本気で思ってやがンのか。


砲弾の様な勢いで突っ込んでくるスポーツカー。
ああ、こりゃ死ぬな。あんなモン食らったら、痛みを感じる間もなく即死確定だ。


……普通、だったらな。


金属を押し潰したような轟音が響く。
突っ込んできたスポーツカーの方が潰れたのだ。
対して、俺は無傷。何のことはない。衝突の瞬間、ベクトル操作の能力を展開しただけ。
スポーツカーとの激突によって生じる衝撃を、全て真下に向けてやっただけ。
その結果、スポーツカーはアスファルトの路面に数センチ程めり込み、車として使い物にならなくなった。
車体そのものが歪んだのか、前後左右全ての硝子が粉々に砕け散るオマケ付きだ。

「く、くそっ!」

今にも泣き出しそうな顔で運転席のドアを開けようとする天井。
でも開かない。車体が歪んだせいで、開閉が出来なくなってしまったらしい。

「開け、開けよおっ!」

あーあ、みっともねえなァ。

「落ち着け、中年」

壊れたドアの取っ手を掴む。

「今出してやるからよ」

そして力任せに引っ張る。
ベクトルを上乗せされた万力によって、ドアは呆気なく車から外れる。
そのままそれを空へ放り投げる。反対側の取っ手にしがみついていた天井亜雄と一緒に。

「うわああああっ!」

天井は五メートルほどの高さまで吹っ飛び、そして落ちた。仰向けに。
何故かドアをがっちり掴んでいたヤツは、全く受け身を取れなかった。

「ああ、ワリィ。加減できなかった」

ピクリとも動かなくなった天井に、とりあえず謝っておく。
まあ、死んではいないだろう。打ち所は悪くないようだったし。

「クソガキが」

呟き、能力を使って助手席のドアをこじ開ける。

「手間かけさせやがって」

果たして、ガキはそこにいた。ぐったりとしている。
背もたれを倒した助手席に、その身を預けている。

「おい」

頬をぺちぺちと叩く。
ガキはゆっくりと目を開いた。

「あ……」

何故か、ガキは微笑んだ。

「戻ってきて……くれたんだ……」

やけにゆったりとした口調だった。

「おう。目覚めはどうだ、クソガキ」

ガキの身体は異常なほど熱かった。
全身汗だくで、呼吸も浅い。
注意していなければ聞き取れないほどだ。
レストランで別れた時よりも、明らかに症状が悪化している。

「あ、なた……」

ガキはまた、微笑んだ。

「やっぱり……優しい、ね……」

熱にうなされながら、そんなことを口にした。
大人達の勝手な都合で、肉体も精神も意図的に未熟なまま管理されてきたガキが。
世界を混乱と破滅に導く使い捨ての道具として、いいように利用されているクソガキが。

「もういい。喋ンな」

熱に耐えながら、ガキは微笑んでいた。

「大丈……夫……」

寂しそうに目を細め、

「これで……いいの……」
「あァ?何がいいって言うンだよ?」
「だって……ホント、楽しかったから……」
「何勝手に終わらせようとしてンだよ!ふざけンじゃねェぞ!」

テメエの抱える問題なンざ、注入されたウイルスを取り除きゃ解決するンだ。
身体の不調にしたって、調整を再度かければどうとでもなるだろうが。
だからダメだ。テメェは……テメェらは、もう死ぬ必要はねェンだ。


路地裏で。研究所で。列車の操車場で。
コイツの姉貴共は死んでしまった。この俺が、殺してしまった。
一万を超える命を、大した意味も無く散らしてしまった。
だから、これ以上は死んじゃならねえ。ただの一人だって殺さねえ、死なせやしねえ。

「ありがとう……でも、いいよ……」
「減らず口叩くンじゃねェ!黙ってろ!」
「だって――」

その時、ガキの顔が凍りついた。

「や、やだ!」

ガキは激しく、首を振った。

「やだ……やだ……ああ……そんな……!」

ひどく苦しそうだ。
突然の激烈な反応に、俺は目を見開いた。


と――


クソガキの身体がビクンと震えた。二度、三度。
異常だ。まるでガキの身体を食い破って何かが出てきそうな感じ。
その時になって初めて、俺はガキの顔に貼り付けられた電極に気づいた。
そこから伸びるコードは、クソガキの太腿辺りに置かれたノートパソコンに繋がっている。
画面の中を一言で表すなら、荒れ狂っていた。無数の警告文が矢継ぎ早に表示され、画面を埋め尽くしていく。

「あ、ああ……」

気づいたら、呻いていた。


どォなってやがる。
これも何かの症状の一つなのかよ。
おいクソガキ、どうしたってンだよ。
これって応急処置とか出来ねェのかよ。
何なンだよ。一体、何が起こってるっていうンだよ。


痛いくらいに見開いた目を閉じられない。
口からは呻き声のようなものが洩れている。
手も足も、身体の全てが震えている。


――どォすりゃいいンだよっ!?


頭の奥底で叫ぶ声。
だが、その時、ガキが目を開いた。

「……て……」
「あァ?」
「こ……して……」

そこから声が出てこない。
ただ、唇だけが動いた。殺して、と動いた。


まさか――


最悪の事態に思い当たる。
ウイルスが起動準備に入ったっていうのか。
そんなバカな。まだ午後八時を過ぎたばかりなんだぞ。
ウイルスが起動するのは、九月一日の午前零時じゃなかったのか。


――定刻と共にウイルス起動準備に入り、以後十分で起動完了。


絶望と共に思い出す。
絶対能力進化実験に参加した科学者の一人、芳川桔梗の言葉を。
ミサカネットワーク。第三位の劣化クローン共が持つ電気操作能力を利用して作られた脳波リンクを介し、現存するクローン全てにウイルスが感染してしまうことを。
思い出す。芳川が予測した、ウイルスの内容を。
人間に対する無差別な攻撃。世界各地に散らばる一万弱もの能力者が、一斉に。

「殺……して……」

ガキの意識は最早、消えようとしていた。いや、喰われようとしていた。
ウイルスに。身勝手な大人が仕込んだ、抗うことの許されない猛毒に。

「何でだよ」

俺は呟いていた。

「何でテメエが死ななきゃいけねェんだよ」

震える声で呟いていた。
傍にいるガキは、しかし、何も言葉を返してくれない。
こちらに向かって、弱々しく微笑むだけ。


――そういうことかよ。


殺してくれと、ガキは言った。
助けなんて求めず、ただ己の死を願った。
自分の身に何が起きているのか、このガキはちゃんと知っているんだ。

「クソったれが」

最悪だ。
何で、こんなことになったんだ。
コイツが何をしたっていうんだ。
どうして、このガキが苦しまなきゃいけないんだ。


――このままじゃ、コイツが……コイツが……。


苦しむガキを目の前にして、しかし、俺は無力だった。
コイツのためにしてやれることが、何もなかった。

「クソったれがああああっ!」

叫ぶことしか、出来なかった。











[20924] 第43話 八月三十一日⑮
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/05/28 23:42
瞼を開けると、半分の月が視界に飛び込んできた。
白々と輝いている。輪郭がくっきりしていて、模様もちゃんと見えた。
ああ、それにしても身体のあちこちが痛いな。全身をロープで雁字搦めに縛られたまま、コンクリートの上に投げ出されてるんだから当たり前か。

「目覚めたようだな」

魔術師の顔が、その月を遮った。


やみさか――おうま。


横になった姿勢のまま、私はその相手を確認する。
私を見下ろす魔術師の両目は、さっきと変わらず閉じられたままだった。
身体の自由を奪われている私は、この男を睨むことしか出来なかった。

「いい目つきだ。さすがは十万三千冊もの魔道書の守護者といったところか」

辺りを見回す。そこはビルの屋上だった。
どういうワケか、給水塔を頂点にして無数の縄が張られている。
何らかの結界を作り上げようとしているのだろうか。

「何、君に危害を加えるつもりはない」

そうして魔術師は歩き出す。
私の横を通り過ぎ、手すりにもたれかかる。

「言ったはずだ。禁書目録を貰い受けると」

魔術師が何かを口にした。
なのに私は彼に関心を持てず、相手もそれを承知で独り言らしきものを続けていく。

「私はただ、君の中にある魔道書を手に入れたいだけだ。そのためにも、君には後少しばかり大人しくしてもらいたいのでね」

私は答えない。
本当に。無視しているワケでもなんでもなくて、私は全く別の誰かのことを考えていたから。

ああ、身体中が痛いよ。すっごく痛い。
そして私はあの瞬間を、記憶消去という悪夢から解放された自分を思い出した。
友達のいる世界。そこで普通に生きている私。


嬉しくて、楽しくて。
そして見上げた空には、半分の月が輝いていた。
私は生温かい風の吹くビルの屋上で、その月を見つめ続けた。
風が吹き、私の髪が揺れた。私の心も揺れた。
今、この瞬間、私は生きている。


――だから、早く行かないと。


いつまでもこんな所でこんなことをしているワケにはいかない。ここは私の居たい場所じゃないんだ。


――早く、帰らなくちゃ。


私の帰るべき、あの場所へ。
でも不思議なことに。そう思う私が思い描いたのは学園都市で出会った友達じゃなくて、ルーン魔術を極めた同僚の魔術師だったんだ。












僕、ステイル=マグヌスは善良で敬虔な子羊である。
なので当然、地獄に落ちるようなことがあってはならない。
地獄。それはニコチンとタールのない世界のことを言う。
これらの事実から弾き出される結論とはつまり、僕が煙草を吸うのは至極当たり前だということだ。
というワケで、僕は今、公園で煙草を吹かしていた。
銘柄はマルボロ。味がいい。美味い。そして身体には良くない。


僕は一人、呟いた。

「のんびりするねえ……」

眼前には高層ビルが立ち並んでいる。


まあ、都会だ。
科学技術の最先端が詰め込まれた実験都市。
外よりも三十年は進んだ技術を守るため、警備は非常に厳重だ。
周囲が高さ五メートル、厚さ三メートルの壁に覆われている上、街全体を監視衛星が見張っている。
とは言え、魔術的防御は皆無に等しい。
僕や神裂はともかく、流れの魔術師に容易く突破される時点でたかが知れている。

「まあ、どうでもいいけどね」

一人、また呟く。
そう、別にどうでもいいのだ。
都会だろうが、最先端技術だろうが、流れの魔術師だろうが、知ったことか。
あの子が何の憂いも無く、笑顔で毎日を過ごせるのであれば構いやしない。


一本、吸い終わる。続いて二本目。
口に咥えつつ、ライターを探す。
黒衣の右ポケット。ない。左ポケット。ない。
落とした可能性が頭に浮かび少し焦ったものの、さっき使ったばかりであることを思い出した。どこかにあるはずだ。


――あった。


右のズボンのポケットだった。


渋い色のオイルライター。
火を点ける。煙を吸い込む。深々と。
ありとあらゆる毒が自分の肺と器官を攻撃していることを思う。
煙草の害というのはなかなかのものだ。とは言え、やめるつもりはない。
もしかすると、自分は死にたがっているのかもしれない。


じっと、ライターを見つめる。

「煙草やめろって言ってたくせに、何でライターなんかくれたのさ」

彼女を失ったあの日から、すっかり独り言が癖になっている。


二本目も短くなった頃、公園の脇にあるベンチに目を遣った。
そこに座っているのは巫女服に身を包んだ少女だった。
日本人らしい、黒い色の髪を腰の辺りまで伸ばしている。
整った顔立ちのせいで、どこか冷たい印象を受ける。


少女の名は姫神秋沙。
あの子が学園都市で暮らすようになって、初めて作った友人だ。
彼女は静かに、まるで人形のように座っている。
きっと、突きつけられた現実と向き合えていないのだろう。


その気持ちは理解できた。
記憶を失った彼女を目の前にした時の自分だってそうだった。
だが、彼女もやがて知るはずだ。
現実というのは唐突で、理不尽で、しかも絶対的なものだということを。


二本目を吸い終えると、僕はベンチに座った姫神秋沙に近づいていく。

「ねえ」

それが彼女の声だとすぐには気づかなかった。
彼女に意識を集中していなければ、聞き逃していたに違いない。

「やっぱり好きなの?」

突然の質問に、思いっきりむせた。肺がめちゃくちゃ痛い。

「ぼ、僕が?」

小さく肯かれてしまった。

「勘違いも甚だしいね」
「そう?」
「僕が心配しているのはあくまで彼女の持つ知識であって、彼女自身じゃない。断じてない」

きっぱりと否定する。なのに、姫神秋沙は何故か笑みを洩らした。

「私。言ってない」
「は?」
「インデックスが。なんて一言も言ってない」

姫神秋沙は笑った。

「変なの」

クスクス笑って、言った。

「好きなら。好きって言えばいいのに」

何でもないことのように、そう言った。
でも、そんなことが僕に出来るはずがなかった。
今の彼女は、僕の知っている彼女じゃないんだから。












卑怯だぞ、クソガキ。
そうだろ。いきなり俺の前に現れやがって。
それでニコニコ笑って、変な夢を見せやがって。
俺のような人間でも普通に生きていけるんじゃないかって思わせといて、勝手に消えようとしやがって。


なあ、いつから知ってたンだ。
テメエの頭にバグが仕込まれてるって。
もう誰にも、どうしようも出来ねェって。


震える手を抑えたくて、ポケットに突っ込む。


――あ?


何か硬い物に触れた。
取り出してみると、それは電子ブックだった。
手の平にすっぽり収まる大きさのそれは、芳川から譲り受けた物だ。
中にはウイルスを注入される前である、ヤツの人格データが収められている。
元々はアイツの行き先を予測するために作られた電子ブックを、しばし眺める。


――何だ、あるじゃねェか。


こんなにも近くに。
目の前にある絶望を、どうにか出来る方法が。


俺の能力はベクトル操作だ。
皮膚上の体表面に触れる、あらゆるもののベクトルを自在に操る。
触れてさえしまえば、他人の生体電気に干渉することだって出来る。
そう、俺なら出来るのだ。脳内の電気信号を、この手一つで制御することが。


もちろん、それだけで全てが解決できるワケじゃない。
クソガキの脳内構造を暴けたとしても、それだけじゃ足りない。
コイツがウイルスに感染する前の、正常な状態が分からなければ意味がない。


――芳川には感謝しねェとな。


俺の手には、コイツの人格データが収められた電子ブックがある。
修正するべき対象を見つけ出す方法だって、この手の中にちゃんとある。


あと必要なのは、覚悟だけ。
あの出会いも。あの会話も。あの笑顔も。
その全てを失う痛みを受け入れるだけの、覚悟を。


俺が持っている人格データは、このガキがウイルスに感染する前のものだ。
この情報に従って修正を行なえば、感染後に得た記憶は全て消えることになる。

「だから、何だってンだ」

静寂の中、俺は口の端を歪めて笑った。
忘れちまった方が、このガキのためじゃねえか。
俺の傍にいれば、ただそれだけで危険と隣り合わせになっちまう。
コイツは帰らなくちゃならない。化け物のいる血みどろの世界じゃなく、もっと優しい光のある世界へ。
そう、だから忘れられた方がいい。俺なんて、最初からいなかった方がいい。


俺は右手で拳を作ってみた。
不思議なことに、身体中に力が満ちていた。
手の震えも、嘘のように止まっていた。

「よし」

呟くと、俺は電子ブックのスイッチを入れた。
画面に表示される膨大な量のテキストを、滝が流れるような速度でスクロールさせながら読破していく。
全てを読むのに五十二秒。目を閉じて反芻するのに四十八秒。目を開いて自分の記憶と画面を照らし合わせるのに六十五秒。


準備は整った。全てを終わらせる準備は、整った。
俺は手を握り締めた。ぐしゃり、という音を立てて電子ブックは粉々に砕け散った。


――さあ、楽しい楽しいショータイムの始まりだ。


助手席に沈むガキに手を伸ばす。
ガキが首を横に振る。
ダメ、と唇が動く。


――ったく、このクソガキが。


構わず、ガキの額へ触れる。
高熱を帯びた皮膚から生体電流を掴み、そのベクトルを掌握していく。


――人がここまでやってンだ。今更助かりませンでしたじゃ済まさねェぞ。


「面白いじゃねェか」

目を見据え、

「愉快に素敵にビビらせてやるよ」

能力を注ぐ。
ベクトルを変える。
コイツの運命を変える。
殺すためじゃなく、救うための戦いを始める。


ウイルス起動時間は午後八時十三分。
タイムリミットまで、あと五十二秒。











[20924] 第44話 八月三十一日⑯
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/06/05 01:07
この街にはインデックスがいる。
腰までの髪は、あの頃と全く同じ。
エメラルドを連想させる緑色の瞳も全く同じ。
空気を震わせる凛とした声ですら、全く同じ。
でも、それでも彼女は僕の知っているインデックスじゃなかった。


彼女はロンドンで過ごした日々を知らない。
彼女を救うためにローマ正教から離反し、全世界を敵に回した男を知らない。
愛煙家の相棒に、憎まれ口を叩きながら贈ったオイルライターを知らない。
そのことを思うと、僕は少しだけ悲しくなった。
僕はどこに向かおうとしているんだろう。この街にいるのは一体、誰なんだろう。


インデックス――


彼女の顔を思い描くたび、心の中で何かが鳴る。
鈴のようにチリチリと、風に揺れる木の葉のようにサワサワと鳴る。


インデックス――


心が右に、続いて左に揺れる。
そして決して定まらない。ありもしない定位置を探して、ただ彷徨う。


インデックス――


目を閉じてみる。
そうすれば、自分の奥底にあるものを少しは理解できる気がしたからだ。
けれど、やはりそこにあるのはただの闇であって、僕は僕の気持ちを理解することなんて出来なかった。
人間って妙なものだ。他人のことが分からないのは当たり前だけど、自分自身のことさえもよく分からないなんて。


ふと気づくと、姫神秋沙が心配そうに僕を見ていた。

「大丈夫?」
「何が」
「すごく辛そうだった」

彼女は目を伏せた。

「何かに耐えてるみたいだった」
「要らぬ心配だね」

僕もまた、顔を伏せる。

「何の問題も無い」
「でも……」
「君、言ったよね。あの子を助けたいって。だったら今は、余計な考えは捨てることだ」

それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。


流れの魔術師は間違いなくこの街に留まっている。
たった一人で侵入する時ですら、一悶着を起こすような奴なのだ。
あの子という重荷を背負っている今では、まともに動くことも出来ないはずだ。


無理に動けば、たちまち騒動が起きる。
自らの位置を僕達に教えてくれることになる。
そうさ、余計なことなんて考えている場合じゃない。
今はただ、時が来るのを待たねばならない。僕達に出来るのは、それしかない。

「ステイルさん」

いきなり、そんな声。
顔を上げると、姫神秋沙が僕をまじまじと見つめていた。

「私。貴方のことが羨ましい」

彼女は微笑んだ。不思議なことに、その微笑みは少し寂しい感じがした。

「貴方の大切なもの。手を伸ばせば届くところにあるもの」

姫神秋沙は微笑んだまま。

「私と違って。ね」

その笑みは、やっぱり少しだけ寂しい感じがした。












頭の奥が焼けるように熱い。
じっとりと、身体に汗が滲む。
演算を一点に集中させたせいで、反射が機能していないのだ。


人間の脳がどれだけ繊細なのかを思い知る。
ほんのちょっとでも集中を乱したら終わりだ。
精密な電気信号のやり取りが狂っちまう。
下手をすれば、このガキの脳を焼き切っちまうかもしれない。
それでも俺は確信していた。いける、と。
三十万を超えて存在した異常な電気信号の、実に九割を修正してみせたのだから。
ウイルス起動準備に先を越されていた分は完全に追いついた。
この調子なら間に合う。ウイルスコードを時間内に完全修正することが出来る。


ああ、ちくしょう。
俺は今、何をしてるンだよ。
ウイルスと一緒に、何を排除しちまってンだよ。


手の中で電気信号が躍る。
ノートパソコンの画面を埋めていた警告文が一つ、また一つと消えていく。


その時だった。
いきなり、音がした。
何かがスポーツカーに当たって弾ける。

「邪魔をするな」

天井の声。

「その手を離せ」

暗闇の中から、その姿が現れる。
天井は手に銃を持っていた。俺は息を呑んだ。
また、同じ音。今度は顔のすぐ横を、銃弾が通り過ぎていった。

「手を離せ」

従うワケにはいかなかった。
まだウイルスを完全に取り除いていない。
断片的に残った異常な信号が誤作動を起こせば、ガキの頭が破壊されるかもしれない。

「離せと言っているだろうが!」

天井が俺に銃を向けた。


――クソが……。


天井の野郎、正気を失ってやがる。
俺には銃弾はおろか核兵器だって効きやしないのに。
ただ、この瞬間においてだけは、その選択は正しいと言わざるを得ない。
クソガキの電気信号を操ることに全力を注いでいるせいで反射に能力を割けなくなっている、この瞬間だけは。


ぼんやりと、俺は銃口を見つめる。
作業はまだ終わらない。嫌な汗が身体にまとわりつく。


頼む。あと十秒、いや、五秒でいい。
コイツからウイルスを完全に除去するだけの時間をくれ。
心の中で必死に願う。でも、もちろん分かっている。
こんな些細な願いですら、現実は受け入れてくれないことを。
絶体絶命の危機に颯爽と駆けつけてくれるヒーローなんて、存在しないことを。


――これまで、なのかよ。


実感がない。まるで夢のよう。


だが――


「待てっ!」

いきなり、そんな声。


振り向くと、そこに無能力者のバカがいた。半分の月を背にして立っている。
偶然という感じではなかった。肩で大きく息をして、こちらを睨みつけている。
もしかしたら、ずっと走り回っていたのかもしれない。

「な……」

驚きの声は天井が発したもの。
俺に銃口を向けたまま、呆然と三下を見つめている。
その間、実に十秒。それだけあれば充分だった。


ポン、と。軽い電子音の響きが天井を正気に立ち直らせた。
ガキの傍らに置かれたノートパソコンに目を向け、

「は、はは」

引きつったような笑みを浮かべ、そして、

「う、うわああああっ!」

絶叫と共に引き金を引いた。
クソガキの髪を撫でる俺に向かって、何度も、何度も。

「おせェよ」

全く、本当に救いようのねェ野郎だ。
そんなモン、今となっちゃ驚異でも何でもねェってのに。


身体に触れる一歩手前。
そこで全ての弾丸が真下に方向転換され、コンクリートの地面に突き刺さる。
ウイルスの解除を終えて反射を再度展開した俺にとっては、造作もないことだった。

「何のつもりだ、貴様」

だらしない笑みを浮かべて、天井が叫ぶ。
どうやら自暴自棄になっちまっているらしい。
どうしようもない大人ってのは、きっとこういうヤツのことを言うんだろうな。

「今更ヒーロー気取りか、この人殺しが!」

うるせェな。
テメェに言われなくても分かってンだよ。
こんな人間のクズが、今になって誰かを助けようなンて思うのはバカバカしいってことぐらいよォ。
全く甘過ぎだよな、自分でも虫唾が走って仕方がねェ。


けどよォ、何でだろうな。
何となくだけど、分かっちまったンだよ。
あのバカがどうして、最強の能力者である俺に立ち向かってきたのかを。
こんな俺でも他人を救えるって、知っちまったせいでよォ。


拳を固めて、俺は駆け出した。

「く、来るな!来る――」

天井の言葉は、それ以上続かなかった。
真正面から俺の拳を受けた天井は地面に叩きつけられ、気を失った。

「悪くねェぜ」

天井のヤツが聞いていないのを自覚した上で、俺は言った。
そうさ、まだ肩で息をしているアイツにも聞こえるように、大声で言い放ってやったんだ。











[20924] 第45話 八月三十一日⑰
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/06/10 00:53
ビルの屋上に張られた無数の縄。
遠目に見れば、それは運動会の万国旗のように見えるかもしれない。
一定の間隔で、印の描かれた護符がいくつも貼り付けられているからだ。


――これって、神楽舞台?


神楽。その名の通り、神に奉納する舞のことだ。
でも、こんなものを用意して何を始めるつもりなんだろう。
頭の中にある知識と、これまでに得た情報を照らし合わせて考えてみる。


即席で築かれた神楽舞台。
魔道書の知識を提供する気がない私。
そして、元々は神事の際に魔除けとして扱われる梓弓。


まさか――


そこから導き出される結論は、一つしかなかった。
即座に魔術師の意図に感づいたせいで、頭が真っ白になりそうだった。

「まさか貴方、梓弓の魔力を高めて私の頭の中を見るつもりじゃ……」

信じられない、という私の口振りに魔術師は答えない。
語るまでもない、という眼差しに思わず、

「ダメ!」

と、叫んでいた。

「絶対にダメ!魔道書の原典は一目見るだけで人の脳を破壊する猛毒なの!どんなに力のある魔術師だって三十冊も耐えられない!」

私の発言なんか無視して、両目を閉じた男は梓弓の弦を引き絞る。
屋上の空気が張り詰めていく。縦横に張り巡らせた縄を中心に、空間が淡く輝き始める。

「貴方も魔術師なんだから知ってるでしょう!?」

悲鳴にも似た私の叫びに、魔術師はようやく答える。

「無論、百も承知」

その顔には、静かな笑みが浮かんでいた。












「クソガキ」

反応がない。

「聞こえてンのか、おい」

少しだけ瞼が開いた。
ガキは笑った。俺を見ながら精一杯笑った。
けれどその笑みはすぐに消え去り、再び閉じられた瞼が開くことはなかった。
今から一時間ほど前の話である。


ウイルスの恐怖が去った後、俺は三下の家にガキを連れ込んでいた。
それは妥協案だった。消去法だった。仕方のないことだった。
芳川のケータイは繋がらないし、俺の家は荒らされて足の踏み場もなくなっている。
クソガキの出生を訊かれたりすると厄介な事態に陥りかねないから、病院の世話にもなれない。


だからそう、このバカに頼るしかなかったんだ。
決してコイツのことを信用した上での行動じゃない。
絶対に、そうじゃない。そこんとこ、勘違いされてもらっちゃ困る。


ガキの調子は一向に良くならない。
熱は変わらず三十八度以上あるし、身体も小刻みに震えている。

「医者に連れてくしかねえな」

それまで沈黙を守り続けていた三下は、あっさりと言った。

「救急車を呼ぼう」

それはもう、あっさりと。

「おい」

ケータイを取り出した三下に、視線だけで訴える。病院はマズイだろう、と。

「しょうがねえだろ」

吐き捨てるように、三下は応じた。

「俺達だけじゃ、どうにも出来ないんだから」

悔しいが、その通りだった。

「じゃ、かけるぞ」

俺は答えなかった。答えられなかった。


ベッドの上で眠るガキをじっと見つめる。
ちくしょう、そう心の中で叫びながら。












「じゃあ、私、行きますね」

ロビーに降り立ったところで、御坂美琴君がそう言った。


僕は小さく肯く。

「うん、ありがとう」

けれど、彼女はなかなか歩き出さない。
その意味を僕は悟っていた。

「大丈夫だよ?」

ロビーの長椅子で安らかな寝息を立てている木原那由他君に、ちらりと目を遣る。


思えば、ひどく不安定なところで彼女はずっと立ちすくんでいた。
親族から欠陥品と蔑まされ、友達を奪われ、自らの身体を弄ばれて。
一歩間違えれば、どこか深いところへ落ちてしまっていたかもしれない。
御坂君は、そんな彼女のことを気にかけているのだった。


優しいんだね、と思う。
きっと彼女自身は気づいていないだろう。
木原君に向ける目が、慈愛の光に満ちていることを。
まるで我が子を見守る母の様な、優しげな目をしていることを。

「明日には彼らも目を覚ますから」
「本当に、もう平気なんですよね」
「もちろん」
「そうですか」

彼女は微笑んだ。
嬉しそうに。まるで自分のことのように。

「じゃあ、失礼します」
「うん、おやすみ」

彼女の、女の子らしい小さな背中が遠ざかり、そして自動ドアの向こうに消えた。


受付で電話が鳴り出したのは、その直後だった。
壁にかかった大きなアナログ時計が示す時間は、九時二十四分。
こんな時間に病院に電話をかける理由なんて、そんなの、一つしかないワケで。


明かりの半分消された受付に足早で入り、受話器を取る。

「すいません」

聞こえてきたのは、御坂君をこの街の闇から救い出した、あの少年の声。

「急患なんですが、診てもらえませんか」
「もちろんさ。すぐに車を回そう。場所はどこだい?」












夜の空気はぬるりと温かかった。


病院を出てすぐ、私はケータイを手に取っていた。
だって、当麻の声が聞きたかった。当麻と話をしたかった。
三時間前に交わした一言二言の会話なんかじゃ、全然足りなかった。


何だかなあ、と思う。
私、どんどん欲張りになっている。
両想いになる前は、言葉を交わさなくて当然だったのに。
それとも、恋ってそういうものなのかな。分かんないや。


身体の疼きのままに、私はケータイを操作する。
表示される当麻の名前。私は何回この名前を見たんだろう。


発信ボタンを押す。


一回、二回。


ケータイを耳に当て、当麻が電話に出るのを待った。


四回、五回。


呼び出し音が鳴り続ける。


七回、八回。


繰り返される呼び出し音。
だけど当麻は電話に出ない。出てくれない。

「……」

鳴り響く呼び出し音を、私はただ呆然と聞いていた。


暗闇の中、一人で佇む。
当麻、一体どうしたんだろう。
この時間だったら、いつもすぐに出てくれるのに。
家事でもやってて、手が離せないのかな。
それとも、また何らかの事件に巻き込まれちゃったのかな。
有り得る。当麻だったら充分に有り得る。


――だとしたら、助けてあげたいな。


当麻には、助けてもらってばかりだから。
困難に立ち向かう勇気を、もらってばかりだから。


ぼんやりと、そんなことを思う。


と――


「……ん?」

遠くから、微かにサイレンの音。だんだん近づいてくる。
これって、救急車の音だ。ということは、ここに急患が来るのか。
だったら邪魔にならないよう、移動しといた方がいいかな。


そんなことを考えている間に、救急車は到着してしまった。
移動している暇なんて一切なし。呆然と立ち尽くす私の前で、救急車の後部が開く。
殺気立った声と共に、そこから何人かが降りてくる。


白衣を着た医師。
担架に乗せられた女の子。
そこまではいい。病院なんだから、そういうのは当たり前だ。


だけど――


「え?」

最後に出てきた人物を見て、思わず自分の目を疑ってしまった。

「いいから帰れっつってンだろォが!」
「ふざけんな、こんな半端なトコで引き下がれるか!」

文句を言い合いながら現れたのは、どう見ても当麻と『一方通行(アクセラレータ)』だった。











[20924] 第46話 八月三十一日⑱
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/10/28 23:27
俺は『一方通行(アクセラレータ)』と共に手術室の前にいた。
無機質な廊下に置かれた古くさい長椅子に座っていた。一メートルくらい距離を取って、座っていた。
天気のことや最近の出来事について話してみたけど、何の反応もなかった。
言葉は今、あまりにも無意味だった。そうして二人とも黙り込んでしまうと、空間は完全な沈黙に包まれた。


コイツが俺のことをあまりよく思ってないのは知っていた。

「ろくに考えなかったンだ」

だから思いもしなかった。
しばらくして、コイツの方から話しかけてくるなんて。

「何かを失うなンてよ。傷つくのは怖かった。傷つけるのも怖かった。でも、所詮まだ何も持ってなかったンだ。失うってのがどういうことなのか、ろくに分かっちゃいなかったンだ。何せ、失ったことなンてなかったンだからな」

何を言いたいんだ、コイツは?
震える声で、何を言ってるんだ?

「全く、たまンねェよな。何なンだろうな、くそっ。一体何なンだろうな。何でこンなことになっちまうンだろうな。おい、三下」
「何だよ」
「お前、あっち行け」
「は?」
「こっから失せろ」
「失せろって、お前」
「うるせェ」

震える声。

「失せろ」

どう考えても理不尽だった。
ワケが分からない。けれど俺は立ち上がっていた。
手術室から離れていく俺の後ろで、誰かが泣いている。
学園都市最強と呼ばれている、誰かが。

「三下」

呼び止められた。


振り向くかどうか迷った末、俺はただ立ち止まり、身体の向きを変えることなく訊ねた。

「何だよ」
「第三位を大切にしてやれ。出来るだけ大切にしてやれ」
「お前に言われなくても分かってるよ」

そうかよ、と呟く声。

「失せろ、三下」
「分かったよ、泣き虫野郎」

反論はなかった。
きっとアイツ自身もそう思ってたんだろう。


俺はズボンのポケットに両手を突っ込み、背中を丸めて再び歩き出した。
アイツから見えない位置、廊下の曲がり角まで移動した時、向こうから声が聞こえてきた。


呻くような、叫ぶような声。
その場で、俺はそっと目を閉じた。


……アイツが泣くなんて、思いもしなかった。












僕はずっとずっと、一人の女の子のことを思っている。
その女の子が手の届かない場所へ離れてしまっても、諦めることさえ出来ず、彼女のことばかり考えている。
だって、忘れられない。あの声。あの優しさ。あの温もり。
正直な気持ちを言えば、僕は他の誰も欲しくない。彼女じゃなきゃ駄目なのだ。
もし彼女が傍にいてくれるのなら、この世界が滅びたって構わないとさえ思っている。
そんな彼女――インデックスという存在は、僕や神裂といった『必要悪の教会(ネセサリウス)』に所属する仲間の記憶の中にだけ残っている。
それは彼女が残していった影のようなものだった。僕達は自分の記憶を覗き込み、その輪郭を見ることは出来るし、なぞることも出来る。


今はまだ、それはとても克明だ。
風に揺れる彼女の髪を、一本一本まで思い出すことが出来る。
けれど長い時が流れる内に、今はくっきりとしている輪郭もだんだん曖昧になっていくんだろう。
僕達は生きていて、生きているということは色んなことを積み重ねていくということで。
そうした積み重ねの中に、或いは日常の中に、どんな大切なものも埋もれてしまうんだ。
仕方のないことだけど、僕はそれが悲しい。そうなると分かっているからこそ、余計に悲しい。


インデックスはもうどこにもいない。彼女には決して触れられない。
長く長く伸びていたはずの、インデックスの未来という道は途絶えてしまった。
いや、道はまだ残されているかもしれないけれど、彼女がそこを歩くことはない。
その道を、新たな存在が歩き出そうとしている。新しいインデックスが。
僕はまだ、それを受け入れられないでいる。


闇の中。不気味な光を放つビルに向かって走りながら、僕は壊れそうな自分に耐えていた。
まさか姫神秋沙の言葉がこんなに心を震わせるなんて思ってもみなかった。


あれから一年が経ち、僕は自分が随分強くなったと思っていた。
未来なんて信じてないけど、それでも前に踏み出すことは出来るようになったと思っていた。
なのに、僕の心の中には、まだどうしようもなく脆い部分があったんだ。
その存在にひとたび気づいてしまうと、自分がどんどん弱くなってしまう気がした。
築き上げてきた足場が端の方からさらさらと崩れ、どこまでも。それこそ奈落まで転げ落ちてしまうのかもしれない。


インデックス、と呟いた。
それは救いを求める声だったかもしれないし、絶望の声だったのかもしれない。


ビルの真下まで来たところで、屋上が一際明るく輝いた。巨大な光の柱が天へ昇っていく。
儀式場を築き上げ、大規模な魔術を発動させようとしている。そう思いながら、足は既にビルの裏口へ向かっていた。


ずっと走り続けていたせいで足が重い。
こけそうになる。それでも足を前に進める。


ドアノブに手をやる。回す。が、回らない。
ガチンと何かに引っかかる。強引にドアノブをガチャガチャやったが、しかし、やはり回らない。


――邪魔だっ!


掌に生じさせた炎をぶつけて扉を吹き飛ばし、非常階段を上っていく。


姫神秋沙が後ろにいない。構わず走り続ける。
痺れる足も、痛む喉も無視して最上階の更に上へと駆け上がる。
まだか、と僕は思った。まだ終わらないのか、この階段は。


ようやく階段を上りきる。
鉄製の扉が目に入る。

「インデックス!」

そう叫んで、屋上に通ずる扉を開ける。光と風が僕を一瞬にして包んだ。
眩い光に照らされ、風に髪をなぶられ、彼女は拘束されていた。
ロープで縛られ、地面に転がされていた。


僕は何かを言う。
声にならない。聞こえない。


手近にあったロープに触れる。掌に魔力を込め、炎を放つ。
儀式場の一部であるそれは、あっと言う間に全体へと燃え広がる。
ものの数秒でロープは灰と化し、同時に光の柱も消えていく。


僕は叫ぶ。魔力の炎で作り上げた剣を両手で構えて。
やはり声にならない。聞こえない。

「待って!」

インデックスの声が、夜の空気を震わせた。

「ダメ!」


――何だって?


頭が熱くて、喉が痛くて、胸が壊れそうで。
何を言われたのか、しばらく分からなかった。
集中力を欠いたせいで、炎の剣は消えてしまった。

「ダメなんだよ!」

身体をロープで縛られたまま、ピョンピョン飛び跳ねてインデックスが傍まで寄って来る。

「ど、どうしてだい?」

彼女を縛るロープを焼き切りつつ、訊ねる。
インデックスは視線を落とした。その先には、一人の男がうつ伏せに倒れている。
じわり、と。倒れた身体と床の間から染み出すように、赤い液体が溢れている。
それは血だった。見知らぬ魔術師の身体から流れ出す、人の体液だった。


おそらくは覗いてしまったのだろう。
彼女の心の中を。そこに仕舞い込まれた、十万三千冊の魔道書を。


黒いスーツに身を包んだ男は虫の息だった。
命に別状は無さそうだが、これだけ血を流せば最早抵抗する力も残っていまい。
インデックスを攫った加害者は、十万三千冊の魔道書が持つ猛毒の被害者となったのだった。


自業自得だな、と思った。
そうとしか言いようがなかった。
自らの手に余る力を欲してしまった。
そしてインデックスを危険な目に遭わせた、当然の報い。
同情の余地なんて、これっぽっちもない。
なのに、誘拐された当の本人は泣きそうな顔をしていた。

「見えちゃったんだ、この人の心の中」

彼女の瞳。その奥底で、淡い光が輝いた。

「この人はただ、助けたかっただけなんだよ」

誰を、とは訊けなかった。訊くまでもなかった。
命を賭けてまで救いたい相手。となれば、答えなんて決まりきっている。

「バカだよね。魔道書の力なんかじゃ、誰も幸せに出来ないのに」

彼女は泣いていた。
自身を攫った相手のために、涙を流していた。

「貴方って、呪いに関して詳しい方?」
「ちょっと待った。まさか助けるつもりなのかい?」
「うん」

潤んだ目で見上げてくるインデックス。

「ダメ、かな」

僕はその場にしゃがみ込んでしまった。

「全く、君は」
「え?」
「君ってヤツは」

反則だろ、それ。そんな顔でお願いなんてされたら、断れるワケないじゃないか。

「どうしたの、急に」

インデックスは本当に不思議そうな顔をしていた。

「で、どうかな」

訊ねつつ、インデックスもしゃがみ込む。


彼女の顔は、僕と同じ高さにあった。
エメラルドの如き緑色の瞳に、僕が映っている。
何だか照れくさくなってきて、僕はそっぽを向いた。

「要は呪いを解けばいいんだろ」
「うん」
「だったら何も問題無いんじゃないかな」

あ、と声を上げて固まるインデックス。


さすがだ。これだけの助言で正解にまで辿り着けるなんて。

「こういう時こそ、あの男の出番だと思わないかい?」

そう、僕達は知っている。
魔術だろうが能力だろうがお構いなし。
異能の力であるならば、触れるだけで全てを打ち消してしまう右手の持ち主を。

「決まりだね」

立ち上がると、僕は言った。

「行こう。時間が惜しい」
「うん。でも、その前に一つだけ」
「ん?」
「さっき、インデックスって呼んでくれた?」


――しまった。


この一年、彼女を名前で呼んだことは一度もなかったのに。
本当の気持ちを封じ込めるために、呼ばないよう意識してきたのに。

「あ、いや、それは」
「何か嬉しいかも」

インデックスは笑っていた。
無邪気に、本当に嬉しそうに、笑っていた。

「私も貴方のこと、ステイルって呼んでいい?」

その瞬間、心の中で何かが騒いだ。


――同じだ。


初めて出会った時と変わらない笑顔が、そこにあった。


インデックスは生きていた。
目の前にいる彼女の中で、しっかり生きていたのだ。

「好きに呼べばいいさ」

もう何もかも、終わってしまったんだと思っていた。
でも、違ったんだ。まだ、いくらでも間に合うんだ。やり直せるんだ。
だって、インデックスは。僕の一番好きな人は、ここにいるんだから。

「全く」

呆れたような声。
見ると、屋上の出入り口で姫神秋沙が苦笑を浮かべていた。
どこで拾って来たのか、胸に小さな三毛猫を抱えて。

「最初から。そうしていれば良かったのに」

全くだ、と言い返しそうになり、僕も苦笑を洩らさずにはいられなかった。











[20924] 第47話 八月三十一日⑲
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/06/19 00:14
俺は廊下の曲がり角に立ち、ずっと目を閉じていた。
目を開ければ、そこには世界がある。
誰かが泣こうが悲しもうが、何一つ変わることなく存在している。
まあ、多分それでいいんだろう。

「当麻、何してるの?」

そんな声で、俺は目を開けた。
美琴がいた。不思議そうに、俺を見上げている。
その瞬間、恐ろしく強い衝動が俺の心を埋め尽くした。


気がついたら、美琴を抱きしめていた。
小さな身体を腕の中にすっぽり収め、自分のものにしていた。
もし明日世界が滅びるとしたら、俺は神に祈るだろう。
美琴だけは助けてくれって。たとえ世界を火で焼き尽くそうとも、美琴だけは見逃してくれって。


この、目の前にいる、ただの少女。
頑固で、負けず嫌いで、困っている人を放っておけない女の子。
その女の子が、世界の誰よりも、自分よりも、大切だった。

「な、何?」

美琴がまた訊ねてきた。

「どうしたの?」

声がちょっと裏返っている。


慌てて身体を離し、俺は言った。

「何でもねえよ。それより、美琴こそどうしたんだよ」
「ん、ちょっとね」

美琴が険しい顔になった。

「アイツに用があって」

ああ、そうか。妹達の件で、美琴にも割り切れない部分があるってワケだ。


ふと俺は気づいた。
この先には確かにアイツがいる。だけど。

「なあ、腹減ってないか」
「何よ、藪から棒に」
「いいから。で、どうなんだ」
「んー、ちょっと減ってるかな」
「そうか、じゃあ飯食いに行こう!今すぐ行こう!」

美琴の手を引っ張って、手術室とは反対の方向へ歩き出す。

「ちょっ、ちょっと当麻!手、痛い!」
「いいから!」
「よくないから!もう、バカ!」

おい、『一方通行(アクセラレータ)』。これで一つ貸しだからな。












面倒なことに、上条当麻は寮に戻っておらず、虱潰しに探す羽目になった。

「君は月詠小萌の家に戻るんだ」

そう言うと、何故かインデックスにギロリと睨まれた。

「君?」

声がやけに恐ろしい。

「インデックスだよ」

彼女は本気で怒っていた。
僕は思わず苦笑いしてしまった。

「ごめん、インデックス」

とりあえず、謝っておく。

「次は気をつけるから、許してくれないか」

あはは、と笑ってみせる。


インデックスはそれでもまだ不満そうに僕を睨んでいたが、しばらくして、

「しょうがないなあ」

と言いつつ、ようやく笑顔を見せてくれた。

「おい」

しかし何もかもぶち壊す人間というのが、どこにでもいるものである。
そんな声がしたので振り向くと、背後に姫神秋沙と黒いスーツを着込んだ魔術師が立っていた。

「時間が惜しいのではなかったのか」

声をかけてきたのは魔術師の方だった。


闇咲逢魔、とか言ったっけ。
魔道書の原典に目を通したくせに、割と元気そうじゃないか。

「分かってるよ」

僕は唇を尖らせた。


――ああ、ちくしょう……もう少し彼女と話したかったのに……。


心の中で、ぶちぶちと文句を言う。
すると突然、姫神秋沙が、

「怒ってるの?」

無表情で、そんなことを言ってきた。

「あ、いや、別に」
「インデックスとの時間を邪魔されたから?」
「だから違うって。そうじゃないから」

いやまあ、分かってはいるんだけどね。
何を言ったところで結局、彼女に言い負かされることくらい。


……何だか、姫神秋沙にどんどん頭が上がらなくなっている気がする。












「そっか。あの子も私のDNAマップから作られたんだ」

『一方通行』の話が終わる頃、俺と美琴は自分達の住んでいる学区を通り過ぎていた。
歩きながら話している内に、何となくお互いの寮を通り越してしまったのだ。
俺達は暗黙の了解で、壊れた自販機のある公園を目指す形になっていた。

「ねえ当麻、どうしよう」
「何が」
「また一人、妹が増えちゃった」

そう言う美琴の声は、何故か弾んでいた。


ああ、何だろうな。
美琴と一緒にいると、すげえ安心するよ。
疲れてるけど、むしろそれが心地いいくらいだ。

「あのさ」

意を決して、俺は言った。

「アイツのこと、許してやってくれないか」

そう、俺はこれを言いたかったのだった。


美琴の気持ちを考えたら、そんなことを言っちゃいけないのかもしれない。
だって、美琴はずっと苦しんできた。変えられない現実に。妹達が殺されると分かっているのに、何も出来ない自分自身に。

「憎まないでやってくれないか」

でも、いや、だからこそ許してやってほしかった。
奪ってきた命の重さに気づき、苦しんでいるアイツを。


だが、美琴は、


はあ?


という顔をした。

「憎むって、私が?『一方通行』を?」
「そ、そうだよ」

何だ、この反応は。

「ってことは、あの子、当麻には話してないんだ」
「え、どういうことだ?」

美琴は答えない。
そっかそっか、と一人で勝手に納得している。

「大丈夫」

随分時間が経ってから、美琴はポツリと呟いた。

「私達、憎んでなんかないよ」

それ以上、美琴は言葉にしなかった。
答えは、それだけで充分だった。


俺達はしばらく無言のまま、夏の暑い空気の中を歩いていた。
空は東から西まですっかり闇に沈んでいる。
そんな空に半分の月が光っていた。
俺達が歩く丁度その先で、月は輝いていた。

「月、綺麗だな」

俺の言葉に、美琴が弾んだ声を出した。

「ホント、綺麗だね」

俺と美琴はしばらく黙ったまま、その月を眺めていた。
生温かい風が、肩の辺りまで伸びた美琴の髪を揺らす。
美琴は片手で髪を押さえ、顔を上げ、じっと月を見つめていた。
彼女が身につけている銀色のヘアピンが、きらりと輝いた。
街灯の光が反射しているのだろうか、それとも……月の光だろうか。
俺はその輝きに触れたかった。いや、美琴という存在を抱きしめたかった。


美琴、と俺は彼女の名を呼んだ。

「何」

月を見つめていたその目で、今度は俺を見る。
俺はそっと身体を寄せ、彼女の背中に手を置いた。
嫌がることなく、美琴も身体を寄せてきた。
俺の肩に、形のいいおでこを乗せる。
彼女の髪が頬に触れて、じんと痺れたような感じになった。


抱きしめているワケじゃない。ただ寄り添っているだけだ。
それなのに、どうしてこんなにも幸せな気持ちになれるんだろうか。
手の平に感じる彼女の背中はほっそりしていて、それが更に俺の気持ちを締めつけた。
この小さな存在を、温もりを、俺は手に入れたのだ。


美琴の身体をぎゅっと抱きしめる。
美琴も俺のことを抱きしめてくる。
言葉はないまま、互いに抱きしめ合う。

「気にしなくていいよ」
「え、何がだよ」
「私達と、『一方通行』のこと」

すっと身を引き、美琴はコンクリートの上を歩いていく。

「そんなに簡単じゃないかもしれないけど、いつかきっと分かってくれるから」

美琴はゆっくり歩き続けている。
その背中を見ながら、俺はちょっとびっくりしていた。

「大丈夫。何とかなるよ」

何なんだろうな、美琴は。
どうしてこんなにはっきりした言葉を使えるんだろ。


俺には無理だ。
余計なことを考えに考えて。
やがてその余計なことに囚われて。
足掻くほど深みに嵌って。
結局、曖昧な言葉に逃げてしまう。
だけど美琴は違う。本当の言葉を、そっくり伝えてくる。


俺はそっと、ズボンのポケットに右手を入れた。
指に触れたそれを、慎重に取り出す。


さて、大事なのはこれからだ。
いいか、軽くだぞ、軽く。何でもないって感じだぞ。

「あのさ、美琴」

出来る限りのさりげなさを装いつつ、俺はそれを差し出した。


手の平に収まるくらいの、小さな紙袋。
それを受け取った美琴は、ワケが分からないって顔をした。

「お礼だよ、お礼」

うはは、と俺は笑った。

「ありがとな、美琴。宿題手伝ってくれて。俺一人じゃ、絶対に間に合わなかった。マジで助かった。感謝してる。ありがとな」

まだ美琴は戸惑っている。
だから、更に言ってやった。

「取っておいてくれよ。ホントありがたかったから、いい加減にしたくねえんだ」

その言葉は、するりと出てきた。
本当の言葉だったからかもしれない。

「そっか」

美琴はゆっくりと、何かを呑み込んだ。

「開けていい?」
「もちろん」

恐る恐るといった感じで美琴は袋を開け、中を覗き込む。


え、と驚きの声。

「これって」

袋の中から一つ、取り出す。
それはヘアピンだった。小粒の水晶で花を象った、可愛らしいヘアピン。


それだけじゃない。
星やら、りんごやら、鳥の羽根やら。
様々な柄のヘアピンが、あの紙袋の中に入っている。

「ほら、常盤台って制服の着用が義務付けられてるだろ。だからせめて、髪飾りぐらいは自由にしていいんじゃないかって思ってさ」

俺は笑顔たっぷりで喋り続けた。


ああ、顔が引きつってないといいな。
何か気恥かしくて、早口になっちまったし。

「これ全部、当麻が選んでくれたの?」

ヘアピンを袋に戻し、美琴が訊ねる。その声は少しだけ掠れている。

「あ、ああ」
「そっか。そうなんだ」

呟き、茶色い紙袋を大事そうに胸に抱える美琴。

「ありがとう」

そして、笑った。

「大切にするね」

そうさ、ものすごく嬉しそうに笑ったんだ。











[20924] 第48話 八月三十一日⑳
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/06/25 01:54
随分、夜が更けた。
ようやく辿り着いた公園は夜の沈黙で満たされていた。

「なあ、美琴」
「ん」
「御坂妹のことなんだけど」

いきなり天国から地獄へって気分だった。
出来ることなら、今は思い出したくなかったのに。

「……まだ決めてない」

その決心をしてから、ちょうど一週間が過ぎていた。
ホントなら二学期が始まる前に、素敵なものを贈ってあげるつもりだった。
だけど学園都市からの強制退去やら、そのあとのドタバタ騒ぎやらで、落ち着いて考えられる余裕なんてこれっぽっちもなかったのだ。
しかし時間は待ってくれない。少しずつ、じりじりと、しかし確実に進んでいく。

「やっぱ、難しいか」
「うん。幾つか候補はあるんだけど」

はあ、と溜め息が洩れた。
そして私はあの瞬間を。全てが終わり、そして始まった夜を思い出していた。


動けない当麻。
形成されるプラズマ。
ボロボロの身体で、それでも私の願いを聞き入れてくれたあの子。
わずかな希望に全てを託して、そして見上げた空には、


満月が優しく、輝いていた――


私は生温かい風が吹く公園で、半分に欠けた月を見つめ続けた。
夏の明るい一等星に囲まれながら、それは美しく輝いていた。

「あ」

気がつけば、そんな声を洩らしていた。

「ん?どうした?」
「ううん。何でも」

私は嘘を吐いた。
一番に伝えたい相手は、あの子だったから。
そして私の顔には、自然と笑みが浮かんできた。
どんなに抑えようとしても、笑ってしまうのだった。
当麻は不思議そうに見つめてきたけれど、それでも笑うのをやめることが出来なかった。












インデックスが居候をしている月詠小萌の住まいは、古くさいアパートの二階だ。


本当にボロいアパートだ。
階段の手すりは錆ついているし、壁はひびだらけだし。
まるでこの一画だけ、時の流れに逆らっているような感じだ。
科学技術の最先端を誇る街の中、この建物は異様な存在感を放っている。
しかしインデックスは、そんなボロアパートをすごく気に入っているみたいだった。
まあ、あれだ。東洋人が僕達西洋のアンティークを面白がるのと、似たような感覚なんだろう。


不思議なものだ。インデックスがこうして、学園都市の住人になっているなんて。


運命に打ち勝ち、インデックスは生き残った。
そして彼女が戻ったのは、この街だった。
学園都市だった。魔術が存在しない世界だった。

「悪くはないね」

アパートを見つめ、僕は呟いた。

「でしょ」

弾んだ声が返ってくる。

「ステイル。呪いのこと、よろしくね」

ああ、と僕は肯いた。
そして踵を返して歩き出す。

「待って」

それを止めたのは姫神秋沙だった。
振り返ってみると、彼女は折り畳まれた紙切れを差し出していた。

「これ」

釈然としないまま、紙切れを受け取る。
広げてみると、そこにはケータイの番号とメールアドレスが書かれていた。

「どうして僕に?」
「今後も連絡を取ってほしい」
「は?」

思わず驚きの声を上げてしまった。

「君と連絡を取る義務も必要性も、僕にはないと思うんだけど」
「私も。そう思う」

分からない。姫神秋沙は何をしたいのだろうか。

「それ。インデックスの番号とメールアドレス」

淡々と、いつもの無表情で彼女は告げる。

「この子のこと。大切にして」

だが、その声には有無を言わさぬ迫力があった。

「分かってるよ」

僕は肯いた。が、疑問が一つ浮かんだ。


――あれ、そう言えば……。


「インデックス」

声をかけると、彼女は肩をびくりと震わせた。

「君、ケータイ使えたっけ」
「も、もちろんなんだよ」
「だったら何で目を逸らすのさ」

どうやら彼女の機械音痴は相変わらずらしい。


あの笑顔だけじゃなかった。
仕草や言葉の端々に、インデックスがいた。

「頑張るから」

インデックスが、こちらへ歩み寄ってくる。

「すぐ使いこなせるようになってみせるから」

僕の目の前で立ち止まり、見上げてくる。
やけに真剣な目をしている。


僕は笑いながら、

「頑張れ」

と言った。

「うん」

肯き、インデックスも笑った。

「姫神秋沙に習うのかい?」
「違うよ。あいさ、明日から学校だから」

暗闇の中、インデックスは少し寂しそうな表情を浮かべた。

「行ってみたいなあ、学校」
「え?学校へ?」

どうもよく分からない。
学校に通ったって、彼女の役に立つとは思えないのだけど。

「どうしてだい?」
「私、行ったことないから」
「……」
「通ってたのかもしれないけど、もう覚えてないし」
「……」
「行ってみたいなあ。制服とかも着てみたいし」
「……」
「ステイルはどっちが好き?セーラー服?それともブレザー?」
「ブレザー、かな」
「ホント?私もそっちが好きなんだ」
「……」
「いいよねえ、ブレザー」
「……」
「どうしたの、ステイル」
「……」
「何考えてるの?」

なるほど。それは悪くないアイディアだった。
インデックスは驚くかな。それから喜ぶかな。
今日みたいに笑ってくれるかな。


姫神秋沙。
君、言ったよね。
彼女のこと、大切にしてって。
確かに、そう言ったよね。












とは言え、実に無謀だった。
どう考えてもマズイ。
あまりにも危険過ぎる。

「……」

というワケで、僕は無言のまま夜の学園都市を歩いていた。
誠に不本意ではあるが、闇咲逢魔という魔術師と二人並んで大通りを進んでいく。

「……」

気がつくと、僕はケータイを手に取っていた。


今、あの女に電話をかけることは出来る。
簡単なことだ。でも一体、何を話せばいいんだろう?


あの女狐が相手となれば、もちろん注意が必要だった。
ほんの少しでも対応を間違えれば一大事だ。
こちらの弱みを握られ、とことん利用されてしまう。


――どう切り出せばいいかな。


そんなことを思いつつ、ケータイを見つめる。と、いきなり背中を叩かれた。

「よう、ステイル」

声の主は、何と上条当麻だった。
あらゆる異能の力を無効化する、ふざけた右手の持ち主である。

「お前、何してんの?」
「君を探してたんだよ」

ぶっきらぼうに、僕は言った。

「君の出番だ。付き合ってもらうよ」
「何だよ、いきなり。せめて理由を言えよ」

顔をしかめて抗議してくるが、知ったことか。

「ついてくれば分かる」
「答えになってねえよ」
「これだけ言えば充分だろ」

頬をピクピクさせながら、笑う上条当麻。

「お前ね、すごいね、笑えるね」

僕も思いっきり笑ってやった。

「君こそ」
「楽しいヤツだなあ」
「君には負けるけどね」

そうして言い合っていると、

「はーい、そこまで」

一人の少女が、割り込んできた。


肩の辺りまで届く栗色の髪。
灰色のスカートから伸びる細い足。
ちょっと気の強い目をしているが、間違いなく美人だ。

「男の子って、真夜中でも元気ねえ」

やれやれといった感じで溜め息を吐く少女を、僕は知っていた。


学園都市第三位、御坂美琴。
発電系能力者の頂点に立つ、最強の電撃使い。

「こんばんは」

僕と目が合った御坂美琴は、にっこりと笑った。

「ステイルさん、ですよね」

ちょっと驚いて、僕は訊ねた。

「どうして僕の名前を?」
「神裂さんから、ちょっとだけ」

神裂。いつから君は、そんなにお喋りになったんだい?

「で、当麻に何をお願いするんです?」

僕は黙り込んだ。
ほんのちょっとだけ、思考を整理する時間が必要だった。


目の前にいる少女は、あの神裂が認める実力者。
科学に属する者でありながら、我々魔術師に対する偏見もない。
うん、彼女になら話してしまっても問題ないだろう。

「呪いの解除を頼みたいんだ」
「人助けってことですね」
「ま、そういうことになるかな」

なんて話をしていたら、上条当麻が、

「おい、俺も混ぜてくれよ」

むくれたように言う。

「あれ?」

わざとらしく、御坂美琴は首を傾げた。

「混ざってなかった?」
「思いっきり無視してただろうが!」
「はいはい。もう、ホント当麻は怒りっぽいなあ」
「何で俺が悪いみたいな方向に持ってくんだよ!」

二人のやり取りに、思わず吹き出してしまう。


それにしても、この二人は距離が近い。
見ていると、すぐに抱き合ってキスでもしそうな距離だ。
すごくイチャついてるってワケじゃないけど、立っている時の距離だけじゃなくて、色んなものがとにかく近いって感じだった。
心と心が寄り添っているというか。そういうのは、何となく分かる。


いいな、と素直に思えた。
僕もインデックスと、あんな関係になれるのかな。


まだ騒いでいる二人を見ながら、僕は溜め息を吐いた。
あの女狐と交渉するのは、やっぱり僕の役目なのだろう。
ああ、でも、どうやって交渉すればいいんだよ。
まあ、多分僕があの女の気紛れに付き合う方向に持っていけばいいんだろうな。
でもその前に、インデックスとの約束を果たさないと。

「なあ、二人とも」

全く、損な役回りだと思わないかい?
でもさ、しょうがないよね。これが僕の選んだ道なんだから。











[20924] 第49話 八月三十一日・その後①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/07/16 01:08
「あーつーいー」

さっきから、美琴が情けない声を上げている。

「連呼すんな。余計暑くなる」
「そんなこと言ったってー」

まあ、気持ちは分からなくもないけどさ。
天気予報によると、本日の最高気温は四十度を越えるとのこと。
朝から照りつける日差しは自己主張が激しく、俺達の肌をじりじりと焼いていく。
おまけに昨日から一睡もしていないとなれば、弱音だって吐きたくもなる。


そう、俺達は二人揃って寝不足だった。
ついさっきまで学園都市の外に出ていたからだ。
ステイルが連れてきた、闇咲逢魔という魔術師と共に。
呪いに冒された彼の想い人を救い出すために。


予想に反して、命がけだった。
周囲が高さ五メートル、厚さ三メートルの壁で囲まれている学園都市。
そんな街から人目を忍んで脱出するだけでも一苦労だったのに、まさか呪いをかけた魔術師と一戦交える羽目になるなんて。


ステイルのヤツ、ホントに何考えてやがるんだよ。
美琴がいなかったら、冗談抜きで死んでたぞ。

「帰りたい」

だらだら汗を流しながら、そんなことを呟く。

「学校さえなきゃなあ」

ったく、酷い話だ。
さんざん連れ回され、疲れ切った状態で学校に向かえだなんて。
本音を言えば、今すぐ学生寮に帰りたかった。
鞄を取りに戻るだけじゃなく、ベッドに飛び込んで眠ってしまいたかった。


だけど、残念ながらその欲求に従うワケにはいかない。
なぜなら今日は九月一日。夏休みに記憶を失った俺にとっては、転校初日みたいなものなのだから。
記憶を失くしているという事実を、出来ることなら美琴以外に知られたくない。
だから授業のない今日一日を有効に使って、かつての自分が築き上げた人間関係を把握しておかなければ。
でも、今の俺に出来るんだろうか。誰にも悟られることなく、以前の俺と同じような学校生活を本当に送れるんだろうか。


重たい石を呑み込んだような気持ちでいたら、

「まあまあ」

美琴が肩をぽんぽんと叩いてきた。

「元気出しなよ、当麻」
「ああ」
「私はちゃんと分かってますから」

何故かやけに丁寧な言葉だった。
ちらりと見ると、美琴はにこやかに笑っていた。
そしてそれは、確かにちゃんと分かっている顔だった。
慰めているワケでもなく、誤魔化しているワケでもない。
何の迷いもなく、自分のことを信じてくれている。

「ああ」

じん、と痺れた。


美琴に出会うまでは知らなかった。
誰かから本気で信じてもらうのが、こんなにもすごいことだったなんて。

「ふう」

傍らを歩く美琴は制服の襟元と首の間を開け、手で仰いで風を送り込んでいる。

「何とまあ、はしたない」

ちょっとだけ、からかってやることにした。

「親御さんがみたら泣くぞ」
「え?」

俺の言葉に、美琴はきょとんと怪訝そうな顔をするだけ。かと思ったら、

「ははーん」

ニヤリと、すぐに小悪魔のような笑みを浮かべた。

「心配してくれるんだ。この私の柔肌を、誰かに見られるんじゃないかって」

両手を後ろで組んで、こちらを見上げてくる。

「ね、それって独占欲ってやつ?」
「い、いや、そんなんじゃ」
「違うの?もう、ちょっとは心配してよ。乙女の危機なのに」
「無理やり見せて、危機も何もあるか」
「人をヘンタイみたいに言うなっ!」

怒鳴られた。だけど全然怖くない。
怒ってる感じじゃないんだ。怒ってるフリをしてるだけっていうか。

「ちょっと」

睨むように、俺を見てくる美琴。

「何で、そこで笑うの?」
「ちょっとな」
「何よ、ちょっとなって」
「いや、俺も成長したんだなって」

誰かさんの胸と違って、と憎まれ口も付け足しておく。

「ちょ、ちょっと!誰かって誰よ!」
「あー、暑い暑い」

適当に返す。


ふーん、と美琴は唸った。

「決めつけるんだ。ちゃんと確かめてもいないくせに」
「そんなの、毎日見てれば分かるって」

ふーん、とまた美琴は唸った。

「当麻は毎日、私の胸ばっかり見てるんだ」

ついギクリとしてしまった。
ああ、失敗した。今のは言葉に詰まる場所じゃなくて、むしろ見事なトークで乗り切るべきところだったのに。

「ヘンタイ」
「違う!」

即座に否定する。


ふーん、とまたしても唸る美琴。

「じゃあ」

わざと指先で胸元を開けるようにして、

「見たくないの?」

上目遣いで俺を見上げてくる。


白い肌にうっすらと浮かぶ汗。
綺麗なカーブを描く鎖骨。そして――
ちょ、ちょっと待て、それ以上は……って、見惚れてどうする!


黙ったままでいると、美琴がじっと見つめてきた。
そして、ちょっと頬を赤くして一言。

「ヘンタイ」
「違う!」

怒りつつも、俺は笑っていた。美琴だって笑っていた。
さっきまでのヘコんだ気持ちはすっかり消え去り、今はただひたすら楽しい。
妙なもんだな。こんな風に笑うだけで、どうして何もかも変わってしまうんだろう。


やがて校門が見えてきた。
その校門に入る手前で立ち止まると、美琴が身につけているヘアピンがきらりと輝いた。


二本で一組になっている、白い花のヘアピン。
昨日渡したプレゼントの中の一つを、早速使ってくれたのだ。
ヘアピンを変えるだけで、イメージがかなり変わる。
落ち着いていて、爽やかな感じ。あと、ちょっと幼くなるかな。

「似合ってるぞ、それ」
「ホントに?」
「ああ、ホントに」

何気なく言っただけなのに、美琴はひどく嬉しそうな顔をした。ニコニコと笑っている。
笑みを返そうとした直後、いきなり俺は前につんのめっていた。


何だ、地震か。地球が壊れたのか。
半ばパニックに陥りながら辺りを見回すと、背後にクラスメイトの青髪ピアスが立っていた。
コイツはいつも女の子のことばっかり考えてるようなヤツで、米どころ出身のくせに軽快な似非関西弁を操る悪友だ。

「はよーっす、カミやん……うわっ!」

ヤツの呑気な顔は、一秒ともたなかった。

「痛っ!ちょっと何すんねん!」

それはもちろん俺が見事な中段蹴りをヤツの太腿に叩き込んだからだった。
青髪ピアスは太腿を押さえながら、痛い痛いと呻いた。
俺はせせら笑いながら言った。

「朝っぱらから膝カックンなんかするんじゃねえ」
「カミやん、本気で蹴ったやろ。うわ、マジで痛いんやけど」
「上段食らわなかっただけありがたく思え」
「痣になったらどうすんねん!」

俺達は子犬みたいに身体をぶつけながら喚き合った。バカ野郎と互いに罵り合った。
しかし青髪ピアスは突然にこやかに笑ったかと思うと、美琴に顔を向けた。

「おはようさん、美琴ちゃん」
「おはようございます、先輩」

青髪ピアスのことを、美琴は先輩と呼んでいる。
別に大した理由はない。このバカ野郎が本名を明かさないから、仕方なく呼んでいるだけ。
しかしコイツ、何で頑なに本名を隠してやがるんだ?
土御門もコイツの名前を呼んだことがないし、以前の俺も知らなかったみたいだし。

「いやー、今日も変わらず可愛いなー」
「ありがとうございます」
「カミやんの彼女やなかったら、絶対アタックかけとったのに」

俺はそこで口を挟んだ。

「お前の守備範囲は小さい子じゃなかったのか?」

コイツ以前、小萌先生のことが大好きだって明言していた気がするんだが。


青髪ピアスは人差し指を立てて、左右にチッチッと振ってみせる。

「ボクは小さい子が好きとちゃうで。小さい子も好きなんよ!」

つまり女性なら誰でもいいのかよ、テメエは。


溜め息を吐きつつ顔を上げると、どこにでもあるような無機質な校舎が目に入ってきた。奥の棟は四階建てで、手前の棟が三階建てだ。
その三階建ての方の壁には大きな時計があって、黒くて長い針は今、八時十二分を示している。
校門の辺りで立ち止まっている俺達を、たくさんの学生服やらセーラー服やらが追い抜いていった。

「そろそろ行かへん?」

そう言って、青髪ピアスが校舎の方を指差した。


おう、と俺は肯いた。

「じゃあな、美琴」
「うん、あとで」

青髪ピアスと並んで、校舎に向かって歩き出す。
俺はちょっと迷ってから、振り返って美琴に言った。

「あのさ」
「何?」
「絶対、乗り切ってみせるからさ。お前に心配かけないようにするからさ。あの、だから――」

ぽんぽん、と肩を叩かれた。

「分かってますよ」

またやけに丁寧な言葉だ。
そして、にこやかに笑っている。

「……ああ」

すげえな。何か分からないけど、すげえよ。











[20924] 第50話 八月三十一日・その後②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/08/11 23:45
朝の教室は、それなりにざわついている。
この夏休みにナンパした女の子の数を競い合っている男子。
勇気を振り絞って告白し、晴れて両想いになれたと嬉しそうに語り合う女子。
宿題を忘れた連中は、開き直ってバカ騒ぎをしている。
苦手科目を担当する先生の悪口を大声で言い合っている。
久々に見る馴染みの顔に、みんなテンションが上がっている。


そんな中、一人だけ様子のおかしい男がいた。
騒がしい教室の中で、ソイツだけが浮いていた。
その男は窓際の一番後ろにある自分の席に突っ伏していた。


おかしい。妙に大人しい。
どうにもアイツらしくない。


――そう言えば。


ふと、思い出す。
あの噂は本当なのだろうか。
アイツが御坂美琴と、その、付き合っているって。
有り得ない、というのが率直な感想だった。だってヘタレ過ぎるんだもん、アイツ。
あれだけの美少女が、こんなバカでヘタレで、いつだって自身の不幸を声に出して嘆いているヤツになびくワケがない。
もしそんなことが起きるとしたら、何か奇跡が必要だ。とびっきりの奇跡か、或いは覚悟が。


なのに二人の噂は絶えない。
それどころか、どんどん広がっている。
一緒に旅行に出かけたとか、同じ部屋に泊まったとか。


火のない所に煙は立たない、と人は言う。
となると、やはり、そうなのだろうか。
起きてしまったのだろうか。とびっきりの奇跡ってヤツが。


気になる。
すごく気になる。
だから訊ねてみることにした。

「上条当麻」

突っ伏しているヤツの前に立ち、声をかける。
上条当麻は顔を上げ、私に向かって軽く手を上げた。

「よう」

って感じで。

「貴様に一つ、訊きたいことがある」

のろのろと上半身を起こす上条当麻。

「何だよ」

口にはしてないが、その動作が告げている。かったるい、と。


こういう輩が、私は大嫌いだった。
やる気がないというか、変に悟っているというか。

「御坂さんのことなんだけど」

だけど、ここは我慢。ひたすら我慢だ。
いちいち怒っていたら、肝心の話が進まなくなってしまう。

「美琴のことか?」
「ええ」

どうする。遠回しに訊いてみようか。
でもコイツ、頭に超が付くほど鈍いからなあ。
質問の意図に気づかれなくて、イライラするのも嫌だし。

「貴様、御坂さんと一夜を明かしたの?」

というワケで、単刀直入に訊いてみたところ、

「あー、うー」

とか言いながら、上条当麻は頭を抱えてしまった。
しかも頭を抱えているばっかりで、質問に答えてくれる気配がない。

「何、どうしたの」
「いや、ちょっと反省を」
「その前に質問に答えなさい!」


――ん?あれ?


違和感に気づいたのは、その直後だった。

「反省って、何?」

上条当麻はそっぽを向いた。だけど、私は見逃さなかった。
この男、目が泳いでいた。あ、しまった……って顔をした。絶対にした。

「あれ、ホントなの」
「何だよ、あれって」

むう、しらばっくれる気か。

「泊めたの?」
「誰を」
「御坂さんを」

ようやく上条当麻がこちらを見てきた。すぐ目を逸らしたけれど。

「さあ、どうだかな」

ああもう、イライラする。
やっぱり私、コイツのことを好きになれない。
何なのよ、その煮え切らない態度は。
もうちょっと男らしく、はっきりと答えようとか思わないの?

「あのね」

頭を抱えつつ、口を開いた時だった。
いきなり教室に侵入してきたヤツが、実に呑気な声で、

「おやおやー?」

なんて口にしつつ、私に近づいてきた。

「新学期早々、カミやん苛めですかにゃー?」

私は露骨に嫌な顔をした。
ある意味では上条当麻よりも厄介な、天敵の登場だ。

「人聞きの悪いこと言わないでよ、土御門」

ふふん、と土御門は笑った。

「でもにゃー、吹寄。傍から見たら苛めにしか見えなかったぜい」
「うるさいわね。貴様には関係ないでしょ」
「あれ、いけない?関係なかったら口出ししちゃいけないのかにゃん?」

ああ、切れそうだ。
にゃん、って何なのよ、にゃんって。
人をバカにしてるの?ねえ、バカにしてるの?

「邪魔しないで。私は上条当麻に話があるの」
「そんなこと、オレに言われてもにゃー」

貴様が訊いてきたんでしょうが。

「もういいでしょ。あっち行って」
「冷たいにゃー。オレ達の関係って、そんなに薄っぺらいもんだったかにゃー」
「敢えて言うなら無関係よ。貴様との関係は」

駄目だ。この男と話してたら、本気で切れそうだ。


全くもう、どうして邪魔するのよ。
私はただ、上条当麻から本当のことを聞きたいだけなのに。


そこで、ピンと来た。
土御門、と呼びかける。

「この男と御坂さんって、付き合ってるの?」

そうだった。
土御門元春と上条当麻は仲のいい友達同士。
しかも同じ学生寮に住んでいるから、互いの情報は筒抜けのはず。
どうも上条当麻は質問に答えるつもりはないらしい。
だったら、この男に訊いてしまおう。きっと答えてくれるはずだ。上条と違って、口も軽いしね。


クラス中がしんと静まり返った。
私は土御門を見つめていた。上条当麻も見つめていた。
クラスにいる誰もが、土御門を見つめていた。

「いんや」

たっぷりと間を置いて、土御門が口を開いた。

「こいつら、付き合ってねえぜよ」

断言。あっさりと。


そうよね。付き合うなんて、有り得ないよね。
この男と御坂さんじゃ、釣り合うワケないもんね。

「だって」

そう、私は油断していた。
土御門の返答に続きがあるなんて、思ってもみなかった。

「こいつらもう、結婚してるんだからにゃー」

そうだろ、という感じで上条当麻を見つめる土御門。


教室中が一気にざわめいた。
結婚、結婚、とあちこちから声が上がる。
ひそひそ声もあれば、悲鳴のような声もある。
泣きそうな顔をしている連中がいる一方で、女子は揃って嬉しそうな顔で、

「聞いた?結婚だって!」

と叫んでいる。


その騒ぎの中、突然、上条当麻が立ち上がった。

「結婚なんかしてるワケねえだろうがっ!」

上条当麻の拳が、土御門の顎を垂直に打ち上げた。
まるでお手本でも示したかのように、アッパーが綺麗に決まった。
ゴフウッという息を吐いて、土御門は倒れ込んだ。
完璧に決まったらしく、床に倒れ込んだままぴくりともしない。


かくして発信源は潰された。
しかし、それで全てが丸く収まるはずもなくて。

「上条君と御坂さん、結婚してるんだって!」

そんな声が廊下の向こうから聞こえてくる。
そのあとに、おお、というどよめき。
そのどよめきは、廊下を伝わってどこまでもどこまでも広がっていった。
一分ほどすると、階上と階下からもどよめきが聞こえてきた。
学校中が沸き立っているという感じだ。


立ち尽くす上条当麻の手を、誰彼が次々と握っていった。

「おめでとう!」
「羨ましいな、おい!御坂さんを幸せにしろよ!」
「ちくしょう、いつの間に常磐台のお嬢様と知り合ってたんだよ!」
「御坂さん、ホントは上条美琴なんだね!」
「上条美琴で姓名占いしてみるね!」
「ううっ……美琴ちゃんが……ううっ……カミやんと大人の階段を……いや、ボクは認めへん。絶対に認めへんで……!」
「バカ、認めるしかないでしょ!」
「上条、おめでとう!」
「おめでとう!」
「式はもう挙げたの?」
「挙げてないなら、私達にやらせて!」


――何なの、これ?


握手攻めを受ける上条当麻を横目に、心の中でそう呟いた。












記憶なんて、何の役にも立たない。
流れゆく時に押し流され、いつかは消えてしまうものだ。
雨に打たれ、風に晒され、だんだんとその色を失っていくだけ。
そしていつか、そこにそんなものがあったことさえも忘れてしまうに違いない。
だから歴史は繰り返される。二十年も前に結論が出たはずの命題に、今更になって取り組もうとする輩が現れる。


人はまた、同じ過ちを繰り返そうとしている。
魔術と科学は、相容れるものでは決してないというのに。
だから止めねばなるまい。手遅れになる前に。
起こさねばなるまい。戦争を。魔術と科学、二つの世界の大戦を。


――ねえ、エリス。


はるか遠くに見える学園都市を眺めながら、心の中で呟いた。


私はこうして生きているし、生きていくよ。
下らないよね、マジでさ。貴女を失った世界なのよ、ここは。
あの頃、貴女が死んだら世界は滅ぶと思ってた。本気でそう感じていたんだ。
でもさ、世界はなくならなかったよ。何かさ、そういうもんなんだよね。
現実って、バカに出来ないんだよね。だって私自身がバカだしさ。
ああ、それにしても遠いよ。何もかもが遠いよ。
貴女と一緒にいた頃まで遠くなっちまったよ。


エリスに術式を教えたあの日。
能力者である彼女の身体は破裂し、血まみれになった。
そして今、彼女が生まれ育った街を、私は一人きりで見つめていた。
エリスのいない世界を、私は当たり前のように生きている。


そうさ、私は大人になったんだ。
今じゃ一流と呼ばれる魔術師なんだよ。
何も出来ないガキだったあの頃とは違うんだ。











[20924] 第51話 八月三十一日・その後③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/07/23 00:35
学校を出ると、ひどく暑かった。夏真っ盛りだ。
光が強過ぎて、空が白い。私は目を眇めた。
薄暗い所から出た途端、こんなに明るいなんて。


――まだまだ夏は続きそうだなあ。


暑さと眩しさを誤魔化すため、どうでもいいことを考えつつ、私は歩き出した。
強い日差しに照らされたアスファルトは空と同じようにやたらと白く、そこに私の濃い影が落ちていた。
まるで剃刀で切ったみたいに輪郭がはっきりしている。五分と歩かないうちに汗が滲んできた。と、そこで、

「お姉ちゃん」

小さな声に呼び止められる。


それは有り得るはずのない声だった。でも間違いなかった。
振り向くと、那由他がうんざりという顔をしていた。

「今日さ、やけに暑いんだけど」

私の顔を見るなり、そう言う。


訴えているワケではなく、ぼやいているワケでもなく、まるで文句を言うような感じだ。
思わず苦笑してしまった。こんなに暑いのは、誰のせいでもないのに。

「夏だからねえ」

那由他は道路の脇にある街路樹に、だらしなく寄りかかっていた。
赤いランドセルを背負っていない。ツインテールにしていた髪も、今日は下ろしている。

「私、暑いの駄目なんだよ」

分かる気がする。
昨日はすごく凛々しかったのに、今日の那由他はひたすら情けない。


ふむ、と私は思った。

「那由他ってさ、人見知りする方でしょ」
「何なの、いきなり」
「いや、ふと思いついて」

寄りかかったまま、那由他は顔をしかめた。

「言われてみれば、そうかもしれないね」
「でしょ。昨日とは態度が全然違うし」

言って、ちょっと嬉しくなった。
那由他は今、ありのままの自分を見せている。
それってさ、私に対して気を許してくれているってことだよね。

「なるほど」

那由他は木から離れ、私に歩み寄ってきた。

「お姉ちゃん、冴えてるね」

私は肯いた。

「そうだと思ったんだ」

わざとらしく笑っておく。


那由他、と私は言った。
そろそろ我慢が限界に近づいていた。
どういうつもりなのか、確かめておきたかった。

「お姉ちゃんって?」
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ」

間髪入れず、答えが返ってきた。

「決めたんだ」

那由他は笑っていた。

「お姉ちゃんって、呼んでいいよね」

無邪気に、得意げに、笑っていた。












――おかしい。


違和感を覚え、私は足を止めた。
歩いても歩いても、ちっとも進んでいない気がする。
目測では、三十分もあれば学園都市に辿り着くはずだった。
なのに現実はどうだ。一時間も歩き続けているのに、少しも近づいていない。


そう言えば、と唐突に気づく。
この一時間、私は誰にも出会っていない。
日中だというのに、辺りは死んだように静まり返っている。
閑静な住宅街とは言え、人っ子一人いないなんて有り得るのだろうか。


と、背後から足音が聞こえてきた。
アスファルトの地面を敢えて誇張するような、甲高い靴の音。
それは一度も立ち止まることなく、一直線に私へ向かってきた。

「やあ、久し振り」

男性にしては高い声を背中に受ける。
私は何も答えず、無言で振り返る。


燃えるような赤い髪に、彫りの深い顔立ち。
年齢にして二十代前半と言った感じのイギリス人。
黒いコートに身を包んだ同僚の魔術師が、そこにいた。

「ご機嫌はいかがかな」

私から五メートルほどの距離を置いて、黒いコートの魔術師は立ち止まる。

「ステイル=マグヌス」

気障な笑みを浮かべる同僚に、私は冷たい視線を送ってやる。

「十四の若さで現存するルーン二十四文字の完全解析を成した天才魔術師が、こんな僻地に何の用?」
「決まっているだろう。全ては君に会うためさ、シェリー=クロムウェル」

ニヤリ、と。この上なく邪悪な笑みを浮かべて、炎の魔術師は言った。

「念のために訊いておくけど、このまま大人しくイギリスに戻る意思はあるかい?」
「笑えねえ冗談言ってんじゃねえぞ。私は戦争を起こさなくちゃいけねえんだよ」

やれやれ、と呆れたような声。

「戦うしかないってワケか」

先程までの穏やかさとは一変した、冷たい視線でステイルは私を見た。

「どうして分からない」

かつん、と足音を立てて前に進む。
立ちはだかる魔術師に近寄るように。

「魔術と科学は互いに距離を置かなきゃならない。そんなこと、二十年も前に結論が下されただろうが」
「ああ、らしいね」

吠える私に、あっさりとステイルは同意した。

「あの時の被害者、エリスって言ったっけ。彼女、君の友達だったんだよね」

同僚の告白に、息を呑む。
何だよそれ、と耳を疑ってしまう。

「そこまで知ってて、邪魔するのかよ」

ステイルはあくまで冷静だった。
睨む私をまるっきり無視して、ポケットから煙草を取り出している。

「戦争を起こさなくっちゃならねえんだ」

堪らなくなって、私は叫んだ。

「甘いんだよ。あの禁書目録を学園都市に預けちまうだなんて」

魔術に関する知識の宝庫である禁書目録。
彼女が科学の中心たる学園都市にいるというだけで、既に大問題なのだ。
魔術と科学が、お互いに歩み寄ろうとしている。二十年前と同じように。


――エリス。


その名が胸に響く。
震える。手が。心が。
歩み寄れると思ったんだ。ホントそう思ったんだ。
エリスと一緒なら、何だって出来るって。

「不用意に互いの領域に踏み込めば、何が起きるかなんて考えるまでもないのに」

ああ、そうだ。
エリスといるうちに、何かがズレてしまっていた。
どこかで自分は万能だと思い込み、世界中の幸福がここにあると勘違いしていた。
だって。それくらい幸せだったんだ。


ステイルは答えない。
ただ冷淡な眼差しを私に向けている。
ステイルの目は機械のようだ。
何の感情も無いくせに、はっきりと敵意を込めてこちらを見つめている。

「あの女の命令?」

力なく、問いただす。

「貴方も教会の犬に過ぎないのね」
「そうでもないさ。僕だってプライベートの時間は確保したいからね。僕が君を止めに来たのは別の理由さ。あの女との約束は次いでに過ぎない」

指に挟んだ煙草を、ステイルは口へと運ぶ。

「じゃあ何をしに来たのかしら、ステイル。私を倒して英雄にでもなるつもり?」
「それこそまさかだ。そんなものに興味はない。僕はね、シェリー。本当に君にだけ用があるんだ」

でしょうね、と私は肯いた。でも解らない。
ステイルは『最大主教(アークビショップ)』の従属的な部下ではないらしい。そして戦争を止める意志もない、と。
ならば一体どんな理由で、この男は自分にこんなにも冷たい視線を向けるのだろうか。

「私、貴方に何かしたかしら」
「別に何も」
「だったら、何故」
「簡単さ。君のやり方が気に入らない」

かん、と彼はアスファルトの地面に踵を打ちつけた。

「――出ろ」

拒否を許さない、威厳に満ちた命令。
瞬間、かすかに大気が震動し――地面が燃え上がった。
揺らめき立ち昇る蜃気楼のように、炎の海が私を取り囲む。

「一年前からの決まりでね。あの子の幸せを奪おうとするヤツは、問答無用で潰すことにしている」

なるほど、と私は肯いた。
実に単純だ。どうして、それに気づかなかったのか。


十万三千冊もの魔道書を管理するシスター。
この男にとって、彼女の存在がどれだけ大きいものなのかを。












さて、と那由他が言った。
あっさり会話を止めた。

「そろそろ行こっか」
「え、どこに」
「この世の中はね、大体において等価なんだよ」
「等価って、どういうこと?」
「簡単に言うと、ギブ・アンド・テイク。人は与えられた分しか、与えられない。何かを得ようと思ったら、何かを差し出さなきゃいけないんだよ」

何を言ってるんだろう、この子は。

「あの、よく分からないんだけど」
「つまりね。助けてもらったんだから、お礼ぐらい言わせてほしいってことなんだよ」

腕を組み、しばらく考える振りをしてから、私は口を開いた。

「要するに、那由他は自分の友達を紹介したいだけなんじゃない?」
「あれ、何で分かるの?」

私は溜め息とともに言った。

「那由他ってさ、頭いいのか、そうじゃないのか、さっぱり分からないよね。知識は豊富でしょ。色んな研究に携わってるし、論文もたくさん発表してるし。なのに自分のことに関しては、ホント不器用だし」
「そ、そんなこと」
「ない?」
「……と、思うんだけど」

那由他は本気で悩んでいる。
うーん、って顔をしかめながら。


子供みたいだったので、笑ってしまった。
那由他はもちろん子供なんだけど、その中身はアンバランスだ。
小学生らしい部分もあれば、ひどく大人びた部分もある。
研究に没頭する大人とばかり関わってきたせいか、那由他の知識や考え方には偏りがあった。


例えば、那由他は猫のことを全然知らない。
猫との付き合い方をまるで分かってないのだ。
あんなに愛らしい子達と上手く付き合えないなんて、実に勿体ない。

「まあ、いいや。とにかく行こう」

え、と驚く声。

「いいの?」
「もちろん」

元より病院には行くつもりだったのだ。
当麻とも病院で合流しようと約束していたし、断る理由はない。

「行こう」

もう一度言うと、那由他は大きく肯いた。

「うん!」

那由他は嬉しそうに笑っていた。翳りのない笑みだった。
こうして素直に慕われると、やっぱり嬉しい。心が緩む。


今度、教えてあげよう。
猫がどういう生き物なのか。
那由他に、最初から教えてあげよう。











[20924] 第52話 八月三十一日・その後④
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/08/04 01:38
今日はバカみたいに忙しかった。
目覚まし時計の電池が切れたせいで遅刻はするし。
患者の一人が駄々をこねて、なかなか注射を打たせてくれないし。
全く、いい年したオッサンのくせに情けない。


そんな事情が重なって、お昼前までは自分のことで精一杯だった。

「ねえ、特別治療室の患者さんの話、聞いた?」

その話を聞いたのは、ようやく仕事が一段落し、屋上で休憩している時だった。

「聞いたって、何を?」
「え、知らないの?」

うん、と煙草を吹かしながら肯く。

「あの子達、目を覚ましたんだって」

同僚のそんな報告で、ようやく知ることになった。

「あの子達が?」

煙草を持つ手が中途半端な空間でぴたりと止まる。

「そっか。回復したんだ」

良かった。本当に良かった。
特に、あの子にとっては嬉しい報告となるだろう。確か那由他ちゃんって言ったっけ。
だって、あの子だけだもんね。この病院にあの子達が搬送されてから、ずっとお見舞いに来てたのは。

「でもさ、ちょっと変なのよね」
「何が?」
「あの子達なんだけどさ、昏睡から回復するなり口を揃えて言うのよ。天使様が起こしてくれたんだって」
「ふうん」

煙草を吹かす。
風に紫煙が流されていく。

「アンタはどう思う?そんなことって、あると思う?」
「ないんじゃない?」
「そうだよね」

でもさ、と私は言った。

「那由他ちゃんを見てると、そういうのもあるんじゃないかって思えるよ。あの子、ホント一生懸命だったじゃない?だから奇跡だって味方してくれるんじゃないかってさ」
「へえ」
「何よ、ニヤニヤして」
「意外とロマンチストなんだなあって」
「張り倒すわよ、アンタ」












日はとっくの前に昇った。
手術はまだ終わらなかった。
廊下に座り込んだまま、俺は空間を見つめていた。
深い沈黙が、辺りを覆い尽くしていた。


それにしても長い手術だった。
始まってから、すでに半日は経つだろう。
長くかかるだろうと、カエル顔の医者は言った。
大変な治療になるだろうから、と。
しかしこんなにも長いんだろうか。
予期せぬ事故でもあったんだろうか。
不安が胸を埋め尽くした。丁度その時だった。

「アンタ、まだいたの」

第三位がやって来た。

「ひょっとして、ずっと?」

俺を見下ろし、そう言う。

「ワリィかよ」

自分でも分かるくらい、言葉に覇気がなかった。
大袈裟に罵ってやろうと思ったが、口にする気にはなれなかった。そんな余裕はなかった。


第三位は俺の隣にぺたりと座り込んだ。

「どうしたのよ」

顔を覗き込んでくる。

「らしくねェことをな、言っちまったよ」

その言葉は何故か、すんなりと出てきた。

「三下のヤツ、クソみてェな顔してやがンだ。ったく、あのバカ。弱っちいくせに、他人のことばっか気にしやがって。傷つけるのが怖いワケねェだろうが。俺には傷つけることしか出来ねェってのに」

ふーん、と唸る声。

「それ、ホント?」
「あ?何て言った?」
「傷つけるのが怖くないって、ホント?」

俺は答えなかった。
いや、答えられなかった。












『一方通行(アクセラレータ)』は答えない。


ただどこかを見つめている。
視線を追ってみたけど、そこには何もなかった。
何か話しかけたい気もするけれど、何を口にすればいいのか分からなかった。

「おい」

やがて『一方通行』の方から話しかけてきた。

「昔話をしてやろうか」
「昔話?」
「ああ。とんでもなく考えの甘いガキのな、下らなくてつまらねェ話さ」

他人事のように話し始めた。けど、違った。


それは独白だった。
最強であるが故に、世界に見離されてしまった少年の。
誰も傷つけたくないのに、傷つけねば生き残ることすら許されなかった少年の。


孤独になった少年は、やがて感情を捨て去った。
あらゆる人間への興味を抱かなくなった。そうでもしなければ、幼い彼の心は耐え切れなかった。
でも、それでも、人は人であることをやめられない。本当の意味で、人は孤独になんてなれない。


だから更なる力を手に入れなければならなかった。
手を出すことすら無意味と思わせるような、絶対的な力。
それさえあれば、もう誰も傷つける必要はない。孤独に嘆く必要もない。そう、心の底から信じて。
その考えが、後に一万人以上もの人間を傷つけてしまうことにも気づかずに。


話を終えてから、『一方通行』はずっと黙り込んでいる。
その目は空間のどこかを、いや、ここではない場所を見つめていた。

「辛いね」
「ああ」

視線を動かすことなく、『一方通行』は肯いた。

「最悪の結末だ」

『一方通行』は笑っていた。

「マジで最悪だよ、第三位」

私を見つめ、笑っていた。
ひどく悲しそうに、笑っていた。


彼は私を哀れんでいた。
ううん、違うな。私だけじゃない。
私達を。私達姉妹を、哀れんでいるんだ。


言わなきゃいけない、と思った。
ちゃんと言葉にして、伝えなきゃいけない。
あの時。自らの命を犠牲にして妹達を救おうとした私に、当麻がそうしてくれたように。

「かもね。でも、そうじゃないかもね」
「どういう意味だよ」

『一方通行』の殺気立った問いには答えず、私は立ち上がった。
両手を上げて、んーっと伸びをしながら『一方通行』の方を見ると、彼は弱々しい目でこちらを見ていた。


ああ、何だかな。
この意地悪男が泣きそうな顔しちゃって。

「アンタがあの実験に参加しなければ、あの子達が死ぬことはなかった」

でもさ、と、ちょっと間を開ける。

「アンタのおかげで、あの子達は生まれるチャンスを与えられた。この世界に存在することが出来るようになった。その点は胸を張ってもいいんじゃない?」

その言葉は、当麻の受け売りだった。
だけど今のコイツにはピッタリだ。
当麻だって、許してくれるよね。

「殺しちまった事実はどうすンだよ」

抗議の声。だけど弱々しい声。

「耐えるしかないね」

もちろん全く容赦することなく、言い放った。

「くそ、あっさり言いやがって」
「だって、それしかないでしょ。それとも何?他に手がある?」
「……」
「あるの?」
「……」
「ないでしょ?」

『一方通行』は答えなかった。
ただ頭を抱え、身体を丸めるばかり。
その肩が、背中が、小さく震えている。


彼を抱きしめてやりたくなったけど、それはすべきじゃないと分かっていた。
やっちゃいけないんだ。自分は『一方通行』の人生を背負ってあげることなんて出来ない。ずっと傍にはいられない。
つまり、きっと、おそらく、そういうことなのだ。『一方通行』は自分で立たなきゃいけない。


無言のまま、私は歩き出した。
身体を丸めたままの『一方通行』を置き去りにして。
でも、角を曲がる寸前で立ち止まる。
ああ、そうそう、とわざとらしく口にして。

「泣きたくなったら、教えてね」

弾かれたように、『一方通行』が顔を上げた。
振り向かなくても、それぐらいは気配で分かる。

「当麻も、私も、あの子達も。みんな、アンタの味方なんだからさ」

それだけ言って、今度こそ私は立ち去った。
最後まで振り向くことはしなかった。


だって、しょうがないじゃない。
泣き顔は見られたくないもんでしょ。
特に男の子だったらさ。












もちろん分かっていた。
クローンに過ぎない私の声は、『一方通行』に届かない。
だから待った。ロビーの長椅子に座り、じっと時計を見つめていた。


壁にかかっている大きなアナログ時計が、時を刻んでいる。
十二時五分。赤くて長い秒針がゆっくりと一回転する。
十二時六分。周囲には外来患者が溢れ返っている。


そうして十二時七分。
階段の方から足音が聞こえてきた。
かつんかつんと、革靴が床を叩く音。
顔を上げた私と、美琴お姉様の目が合った。


私はすぐに立ち上がり、頭を下げた。
ひらひらと、お姉様は手を振ってくれた。

「うるさいね、ここ」

お姉様は辺りを落ち着かない様子で見回した。

「そうですね」

言いつつも、意識は全く別の方向に向かっていた。


一体、どうしてしまったんだろう。
何だかちょっと、心の奥底がかさかさする。
どうして、あんなことをしてしまったんだろう。


特別治療室で、お姉様は笑っていた。
長い眠りから覚めた子供達に囲まれて、笑っていた。
お姉ちゃんと呼ばれて困ったように、でも、嬉しそうに笑っていた。


何故かは分からない。でも。でも、そう。

「お姉様」

気がついたら、低い声を出していた。

「少しお時間、頂けますか」

お姉様はびっくりしたみたいだった。だけどすぐに、

「しょうがないなあ」

なんて言って、笑顔を向けてくれたのだ。


申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
勝手に気分を悪くして、お姉様の都合を無視して頼み事なんかして。


――ごめんなさい、お姉様。


心の中で呟いた瞬間、胸がカッと熱くなった。


ごめんなさい。
恐ろしく偽善的な言葉。
自分自身を許すためだけの謝罪。
この期に及んでも、私は自分自身のことしか考えていない。


謝りたかった。
あらゆる謝罪の言葉を並べたかった。
だけど、出来なかった。
そんなこと、しちゃいけなかった。

「あの方からの伝言です」

だから出てきたのは、謝罪とは全く異なるものだった。

「あの方って、当麻?」
「はい。屋上で待っている、と」

あっさり言って、私は踵を返した。すたすたと歩き出す。
しかしお姉様は私の前に回り込み、思いっきり顔を近づけてきた。

「一緒に行こうよ、美月」

ニッコリと、お姉様は笑う。

「元気な姿を見せてあげて」

まるで花が咲いたように、その笑顔は輝いている。

「貴女のこと、当麻も心配してるんだからさ」

その笑顔に見惚れながら、頭のどこかでお姉様の言葉を反芻していた。


――ミツキ?


お姉様は確かに、そう言った。
私に向かって、呼びかけるように。

「あの、お姉様」
「ん?」
「ミツキ、とは」

うん、とお姉様は肯いた。

「貴女の名前」
「私の?」

うんうん、とお姉様はやけに嬉しそうだ。

「美しい月って書いて、美月」

何で嬉しそうなんだろう?
不思議だったので、訊ねてみた。

「何で嬉しそうなんですか」
「そりゃあ嬉しいわよ。貴女のこと、やっと名前で呼べるんだから」

その言葉を聞いた瞬間、心のどこかが緩んだ。
緩んだ場所から、温かい液体が溢れてきた。
その液体が、私の心を、全てを、ゆっくりゆっくり浸していく。

「お姉様」

気がつくと、私は目を細めていた。

「もう一度、呼んでもらえますか」

うん、とお姉様は肯いてくれた。


騒がしいロビーの片隅で、私は何度も何度もお願いした。
お姉様は嫌な顔一つせず、笑顔で何度も呼んでくれた。


美月、と呼んでくれた。











[20924] 第53話 八月三十一日・その後⑤
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/08/05 22:46
「ふああああ~」

長い長い欠伸が洩れる。


俺は今、屋上の手すりにもたれかかり、目の前に広がる街の風景をぼんやりと眺めていた。
同じような形をした高いビルが、あちこちに突っ立っている。
その風景は、まるでテレビのセットみたいだった。
やたらと薄っぺらくて、まるで現実感がない。


――結婚、ねえ。


ぼんやりと思い浮かべてみるが、まるで現実感がない。

「ったく、土御門のヤツ」

つい、罵っていた。

「学校のヤツらも、何考えてやがんだよ」

確かに、俺は美琴のことが好きだ。
美琴だって、俺のことを慕ってくれている。
だけどさ、そんなに簡単なもんじゃないだろ。


そんなことをぼんやりと考えながら学園都市の風景を眺めていると、

「お待たせ」

後ろから声がした。振り向く。
そこに立っていたのは美琴と、もう一人。

「あれ、どうして御坂妹もいるんだ?」

驚いて訊ねるが、しかし、

「違います」

求めていたものとは随分と違った答えが返ってきた。

「美月です」

その顔は妙に誇らしげだ。

「美月?」
「私の名前です」

なるほど。ようやく構図が見えてきた気がする。
ふむ、そういうことなのか。

「分かった。次から気をつけるよ」
「今です」
「は?」
「呼んで下さい」

じーっと見つめてくる。
どうやら引くつもりはなさそうだ。
苦笑しつつ、俺は呼んだ。美月、と呼んだ。

「やっぱり」

御坂妹……いや、美月は静かに目を閉じた。

「何が、やっぱりなんだよ」
「それは言えません」

相変わらずの、素っ気ない返事。
でもまあ、それでもいいんじゃないかな。
ぎこちない気もするけど、ちゃんと笑えるようになったんだから。












「有り得ない」

手すりにもたれ、上条さんはそう言った。

「有り得ないよな」

屋上から見える景色を眺めながら、ぶつぶつと呟く。

「結婚とか、何で出てくるんだろうな」

そんな彼の呟きに、お姉様は、うーんと唸った。

「誰がそんなこと言ったの?」
「決まってるだろ、土御門だよ」
「土御門さんか」
「お前も何か言われたんじゃないのか?」
「言われてないよ。でも、近いうちに訊かれるだろうね」

肩を寄せ合い、同じ景色を眺めながら、二人は話を続ける。

「女の子って、そういう話題が大好きだから」
「で、お前、何て答えるんだ?」

そこでお姉様は上条さんを見た。からかうような顔をしている。

「何て答えてほしい?」

一瞬、上条さんは言葉に詰まった。たじろいだ。

「さあな」

なんて嘯いたものの、背中は思いっきり期待している。

「お姉様」

分かっていると思うけど、敢えて言うことにした。

「上条さん、お姉様のこと、本当に好きですよ」

お姉様はくすくす笑った。
全く癖のない髪が、軽やかに揺れた。

「知ってるよ、それ」
「やっぱりそうですか」
「もちろん」

上条さんが慌てて口を挟んできた。

「ちょっと待て。二人して、何を納得し合ってるんだよ」
「だってほら、姉妹だし」

けれどお姉様はあっさりあしらう。

「当麻だって分かってるくせに」
「いや、分かってないから」
「嘘吐きだなあ、当麻は」
「そんなことないって」

不貞腐れる上条さんは、意外なことに可愛らしかった。
へえ、と思った。私達を救ってくれた英雄は、こんな顔も見せるんだ。

「ほら、また嘘吐いてる」
「お前ってホント意地悪だよな。俺を苛めて、遊んでるだろう」
「まあね」

そして、二人は笑い合った。
いきなり恋人同士の世界へ突入だ。
けれど、私はちっとも嫌な気分ではなかった。
むしろ楽しかった。この時、私は何故か幸せだった。
本当に幸せなのは、お姉様と上条さんなのに。
私は話し相手を失い、一人きりになってしまったのに、胸には温もりが溜まっていた。


何か話す二人を、いくらか離れた所から眺める。
ベストポジションだな、と思ったりもした。
幸せたっぷりの二人から、お裾分けを貰っているのかもしれない。


やがて、お姉様が私に顔を向けた。
美月、と優しく呼んでくれた。


本当は二人の姿をもう少しだけ眺めていたかった。
だけど、お姉様の気遣いを無駄にしたくなくて、私は駆け寄った。

「どうかしましたか」

さっきまでの余韻に浸ったままで、私は訊ねた。

「ちょっとね」

口元に笑みを浮かべ、お姉様は答えてくれた。

「困ってる」

それは意外な言葉だった。
だって、全然そんな風に見えない。
こんなにも温かい笑顔を向けてくれているのに。

「困ってる?」

思わず、オウム返しに訊ねていた。












黒曜石の玉座に、私は腰かけていた。
宮殿の最奥に位置する、この部屋に明かりはない。
昼間だと言うのに、部屋の中は濃い闇で満たされている。

「して、ステイルは?」

独り言のように呟くと、

「無傷です」

闇の中から何者かが答えた。

「確保したシェリー=クロムウェルにも目立った外傷はありません。酸欠により気を失っているだけのようです」

微かに、私は目を細めた。
シェリー=クロムウェルは決して弱い魔術師ではない。
高い防御力と再生力を誇る土人形、ゴーレムを操る彼女の戦闘力は『必要悪の教会(ネセサリウス)』の中でも群を抜いている。


だが、それでも呆気なく敗れ去った。
たった一人の少女のため、自らを投げ出す決意を固めた少年に。

「面白い」

ふふ、と笑う。


あの男、それほどまでにご執心というワケか。
呪われた運命を今もなお背負い続けている、あの魔道図書館に。
なれば、存分に足掻くがいい。好きなようにさせてあげましょう。


――この私の、手の平の上でね。












「もう一つの絶対能力進化実験」

事態は思った以上に深刻だった。

「そのために、あの子達が再び狙われると?」

能力体結晶という、意図的に拒絶反応を起こし能力を暴走させる薬がある。
そんな危険極まりない薬を何も知らない子供達に投与して、絶対能力者を生み出そう企んでいる輩がいる。


テレスティーナ=木原=ライフライン。
確か、MARと言ったっけ。災害時における救助を目的として作られた、先進状況救助隊。
能力者による襲撃対策も万全であると噂される組織の隊長が、彼女だ。
しかし、それはあくまで表向き。その素顔は科学者という皮を被った、学園都市に蠢く闇そのもの。


平行して進められた、前人未到の絶対能力者誕生を目指す二つの実験。
その一つが続行不能となった今、もう片方を力づくでも推し進めようとするのは、ある意味では当然とも言える。

「人攫いくらい、平気でするんじゃないかな」

手すりにもたれかかり、そのまま顔を上に向けるお姉様。
右足をぶらぶらと揺らして、流れゆく雲をじっと見つめている。

「広域社会見学はどうするのですか」

振り向き、お姉様は肩を竦める。

「大丈夫だと思うよ。急な体調不良ってことにしておけば」
「でも、お姉様、楽しみにしていたではありませんか」
「乗りかかった船だもん。最後まで付き合いたいの」
「ですが――」

私は思いつく限りの否定的意見を口にしてみたけど、お姉様の意思が揺らぐことは決してなかった。

「美月の頼みでも、これは譲れない」

そう断言されて、私は言葉に詰まった。
再び空に目を向けてしまったお姉様の傍に立ち尽くし、足元を見つめる。
お姉様と全く同じ足。だけど、全然軽やかではない足。
その違いは何なんだろう。同じ遺伝子を持っているのに、どうしてこんなに違うんだろう。


恐る恐る顔を上げると、お姉様は私をじっと見ていた。
お姉様の瞳は強くて、そんな風に見つめられると耐えられない。
たまらなくなって、私はまた顔を伏せた。前髪が垂れてくる。

「美月が何と言おうと、私、あの子達を守るよ」
「はい」
「もちろん、那由他も」
「はい」
「だから広域社会見学には行かない」
「はい」

さっきまで文句を言っていたのに、今は無条件降伏だ。


まあ、分かっていたのだ。
お姉様を止められるワケがないのだと。











[20924] 第54話 八月三十一日・その後⑥
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/08/27 21:08
「ところでさ」

ふと顔を上げると、お姉様の隣に上条さんが立っていた。

「テレポート女はどうするんだ?」

そんなことを訊ねている。

「お前が休んだりしたら、それこそ発狂しそうな気がするんだが」

テレポート女というのは、白井黒子さんのことだろう。
確かに彼女は厄介だ。常磐台のエースであるお姉様に心酔しきっている。
お姉様が広域社会見学に参加しないと知ったら、自分も残ると言い出しかねない。

「確かに」
「だろ」
「どうしたらいいかな」
「そうだなあ」

うーん、と二人で唸っている。腕を組んで、向かい合って。
全く同じポーズなので、ちょっと笑ってしまった。

「あの」

どうにか笑顔を収めて、二人に声をかける。

「一つ、解決策があるのですが」

ええ、と驚きの声。

「ホントに?」
「もちろんです」

胸を張って言う。


そう、この方法なら問題ない。ばっちりだ。

「要するに」
「うん」
「お姉様の秘密を守るために」
「意味深な言い方しなくていいから」
「白井黒子さんを」
「うん」
「屠ればいいのです」
「いいワケあるか!」

何故か、大声で怒鳴られてしまった。


あれ、何でだろう。
どこかおかしいところがあったかな。
それに上条さん、どうしてお腹を抱えて笑っているのですか。

「目的を達するためです」
「駄目だから!絶対に駄目だからね!」
「多少の犠牲は致し方ありません」
「多少どころじゃない!」

むむう、いい考えだと思ったのですが。
真っ向から否定されては、他の手を考えるしかありませんね。
しかし白井さんの目を盗んで広域社会見学を欠席する手段なんて、本当にあるのでしょうか。

「あのさ」

声がした。

「美月が広域社会見学に行くっていうのはどうだ?」

上条さんだった。

「私の代わりに?」
「白井だって気づかないだろ。これだけ似てるんだし」

お姉様と私を交互に見比べ、うんうんと肯く上条さん。
しかし肝心のお姉様は、あまり乗り気ではないみたいで。

「無理だと思うよ」
「何で」
「性格が違い過ぎるもん」

そう、私達の性格はあまりにも違っていた。


明るく活発で、誰とでも親しくなれるお姉様。
静かな場所が好きで、言いたいことを上手く言葉に出来ない私。
ちょっと話でもしてみれば、私とお姉様の違いはあっさり見抜かれてしまう。
だけど逆に考えれば、それだけだった。

「一日、待ってもらえませんか」

思ったよりも強い声が出ていた。

「性格を変えればいいのですよね」

性格さえ何とかすれば、お姉様の代役を果たすことが出来る。
御坂美琴として、広域社会見学に堂々と参加することが出来る。
そして、お姉様の役に立つことが出来る。

「どうする」

不安そうな顔をしているお姉様に、上条さんが訊ねる。

「美月のヤツ、やる気満々だぞ」

まじまじと、お姉様が見つめてきた。


お姉様の瞳は本当に強い。
即座に目を逸らしてしまいたくなる。
だけど、今は何故か平気だった。
力強い眼差しを、私は正面から受け止めた。

「分かった」

やがて、お姉様はそう言った。

「美月が私の代わりをしてくれるのがプランA。無理そうだったら、急な体調不良を訴えるプランBで行こう」

その瞳には、何かの輝きが宿っていた。

「屠るのはプランCですね」
「却下に決まってるでしょ!」












その電話を取った時、既に時計は夜の一時を指していた。
誰からか、なんて考える必要もない。どうせ、いつもの依頼だ。
こんな時間に電話をかけてくるなんて、本当に人使いの荒い奴だ。


ああ、面倒だなあ。
ここのところ、ずっと働きっぱなしじゃねえか。
特別手当として、一ヶ月くらい休暇でも申請してやろうかな。

「ん?」

しかし画面を見ると、そこには電話番号がしっかりと表示されていた。
すなわち、いつもの依頼主ではない。アイツだったら、絶対に非通知でかけてくる。


その番号には、全く覚えがなかった。
そもそも、見覚えのある番号なんて自分のヤツだけだ。
他の奴の番号なんて知らない。知る必要がない。
似た番号の誰かにかけようとして、間違えたのだろうか。
だとしたら、いい迷惑だ。こんな真夜中に叩き起こしやがって。


少し迷った末、電話に出ることにした。
安眠の邪魔をされたのだ。文句の一つぐらい、言ってやりたかった。

「仕事よ」

通話ボタンを押した途端、そんな声が聞こえた。

「女の子を一人、殺してもらいたいの」

間違い電話なんかじゃない。
電話の主は、俺が誰だか分かっている。
学園都市第二位に、電話で直接、交渉を持ちかけている。

「何のつもりだ」

思いっきり低い声で訊ねる。
こうすれば、大抵の奴は恐怖に竦んでしまう。
俺のことを知っているなら、尚更だ。

「貴方にとって、有益な仕事になるわ」

だが、声の主は全く動じなかった。

「欲しいのでしょう。第一位の座が」

落ち着いた、静かな声だった。

「テメエ」

上手くやって来たはずだ。
『一方通行(アクセラレータ)』を倒し、学園都市第一位の座を奪う。
そして学園都市の最大権力者である、アレイスターとの直接交渉権を手に入れる。
まだまだ実行に移す段階に至っていない現在、この野望が周囲に勘付かれないよう細心の注意を払ってきた。

「何者だ」

なのに、コイツは知っていた。
さっきから平坦な声で喋りやがる、この女は。

「研究者よ」

強い口調。

「学園都市の目的達成を目指す、ただの研究者」

機械のように喋っていた女が、この時、初めて感情を声に乗せた。












ふと、目が覚めた。
そんな表現がぴったりだった。
目覚めた理由が思いつかなかった。


目を開ければ、学生寮の真っ暗な天井。
こんな真夜中に、どうして目覚めてしまったんだろう。
昨日は丸一日、眠っていないのに。実際、今も眠いのに。
なのにどうして、唐突に目が覚めてしまったんだろう。


むくりと身を起こし、身体にかけていた毛布を引き剥がす。
隣のベッドでは、黒子が気持ちよさそうに眠っている。
何かいい夢でも見ているのかもしれない。


一度目覚めてしまうと、なかなか眠気は戻ってこない。
仕方がないので、ぼんやりと窓の外の景色を見つめていた。
外には明かりもなく、ただ深い闇が広がるばかり。

「そうやって、いつも見張ってたんだ」

窓の外に目を向けたまま、呟く。
暗い学園都市の夜の中、電子顕微鏡を使わなきゃ確認も出来ないほど小さなモノが無数に飛び交っている。
十や二十ではきかない。電磁波に意識を集中して、ようやく感知できる小さなシリコン塊が何千、何万もの数で空気中を漂っている。


やっぱり私はバカだ。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
学園都市には無数の監視カメラが設置され、更に人工衛星が目を光らせている。
でも、それでも死角は生まれてしまう。監視カメラや人工衛星にだって、穴はある。当然だ。


でも、それでも絶対能力進化実験は滞りなく行なわれていた。
関係者以外には一切気づかれることなく、一万三十一人もの妹達が命を失った。


それは何故か。
答えは目の前にあった。


能力の完璧な制御法を覚えたからだろう。今なら分かる。
直径七十ナノメートルに過ぎない球体が、学園都市の総合データベースとは比べ物にならないほどの情報を所持していることが。

「今度は、こっちの番」

窓の外に目を向けたまま、そんな言葉を洩らす。


空気中を漂う情報網のおかげで、本来なら知ることなんて出来なかった情報を幾つも掴めた。
例えば、妹達や『一方通行』を介さない、もう一つの絶対能力進化実験の全貌とか。
何者かによって破壊されてしまった、『樹形図の設計者(ツリーダイアグラム)』と呼ばれる完全な未来予測を可能とするコンピューターの再構築を狙う組織の存在とか。


最初は手こずったけど、もう大丈夫。
量子信号のパターンは、もうほとんど解析できている。
見てなさい。アンタ達が隠している事実、一つ残らず暴いてやる。











[20924] 第55話 姉と妹①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/08/27 21:09
午後四時のファストフード店は、ひどく混んでいた。
『学舎(まなびや)の園』と呼ばれる、五つのお嬢様学校によって形成される供用地帯。
その近くにある大きな店舗は、一階が注文を取るカウンターで、二階と三階には食事を取るスペースが設けられている。
二階は満席だったので、私は三階の窓際の席に座っていた。


窓の外をたくさんの人が歩いていく。
急いでいる人もいれば、ぶらぶら歩いている人もいる。
笑っているカップルもいれば、生真面目な顔をした『風紀委員(ジャッジメント)』もいる。


みんな、当たり前の日常を生きているんだろう。誰も、何も、知らない。
ほんの二週間ほど前まで、当たり前のように殺人が行なわれていたことを。
責任を感じた一人の女の子が、ぎりぎりの瀬戸際まで追いつめられていたことを。


道路に駆けていって、彼らに教えてやりたい気もした。
ある一人の男の子が、私達姉妹を救ってくれたんだって。


誰も信じないんだろうな。
おかしな子だって思われるだけだ。

「ごめん!」

そんな声がしたのは、Sサイズのポテトを食べ切った時だった。
顔を上げると、姉さんの姿がそこにあった。

「待たせたよね」

ううん、と首を振る。

「ちょっとだけだよ」

実際、十分も待っていない。

「走って来たの?」
「うん。ちょっと話が長引いちゃって」

向かいの席に腰掛けると、姉さんは大きく息を吐いた。
本当に急いで来てくれたらしく、肩で息をしている。
綺麗なおでこに少し汗が浮いていた。

「でもさ」

ちょっとだけ、悪戯心が湧き上がった。

「連絡の一つくらいは欲しかったなあ」

いささか呆れた調子で、そう言ってみる。

「ホントごめん」

姉さんは更に言葉を続けようとした。
けれど、何かに気づいたのか、口を噤んでしまった。
不思議そうに、私を見つめてくる。

「ハンバーガー、奢るからさ」

ようやく姉さんが言葉を発した。

「食べ物で誤魔化すつもり?」
「コーラも付けるよ」
「サイズは?」
「Sでいい?」
「もう一声」

オッケー、と言って、立ち上がる姉さん。
軽い足取りで一階へ降りていくその姿を、目で追った。
何だろう、少し違和感がある。変な感じ。

「あ――」

分かった。おかしいと思ったら、姉さんの右手と右足が同時に出ていた。


平静を装っていたけど、やっぱり混乱しているらしい。
そのぎくしゃくとした歩き方に、思わず噴き出してしまった。

「どうしたの、美月」

よく聞いてみれば、声も少しだけ震えている。
ああ、可笑しい。両手両足を揃えて歩く人なんて、本当にいるんだ。

「ううん、何でもない」

全く、私は意地悪だ。姉さんの変な歩き方を見ていたくて、嘘まで吐いちゃうなんて。


やがて姉さんはハンバーガーにポテト、そしてMサイズのコーラが二つ載ったトレーを持って戻ってきた。
向かいにある席を引っ張り出して、だらしなく腰掛ける。ふう、と疲れた息を吐いている。

「話って、明日のこと?」

ううん、と姉さんは首を振る。

「別件」

ちょっと意外だった。広域社会見学を明日に控えた今、もっと重要な用件があるなんて。

「実はさ、転入生が来るんだ。しかも二人」

やっぱり、姉さんは緊張している。
何気ない感じを装っているけど、声が少し上擦っている。

「すごいね。常磐台に転入なんて」

世界有数のお嬢様学校である常磐台中学。
在学条件の一つに強能力以上の能力を有することが挙げられている、学園都市の中でも五本の指に入る名門校だ。
たったの七人しか存在しない超能力者が二名も在籍しているという事実からも、常磐台の恐ろしさを垣間見ることが出来る。

「だよね。むちゃくちゃ頭いいよね」

姉さんの動揺に気づかない振りをしつつ、肯く。

「転入試験って、やっぱり難しいんでしょ」
「受かったの、二人が初めてらしいよ」

普通に入学するだけでも大変な常磐台。
転入試験となれば、その難易度は更に上がる。
普通に受験するよりも、ランクが二つくらい上がってしまう。
そんな転入試験に、しかし、件の二人は揃って合格したのだ。歴史的快挙である。

「姉さんだったらどう?いけそう?」

うーん、と唸る声。

「どうかな」
「私に訊かないでよ」

あはは、と笑っておく。
あはは、と姉さんも笑っている。

「にしてもさ、それが今回の遅刻とどう関係するの?」

注意深く、私は訊ねた。

「ああ、やっぱり想像つかないよね」

注意深く、姉さんは肯いた。

「私とね、相部屋になるんだって」
「え、誰が」
「さっき話した転入生」

それは希望ではなく、決定事項らしい。
広域社会見学終了後、転入生の一人は姉さんと、もう一人は白井さんと同じ部屋を共有することになるのだとか。
白井さんとしては、当然ながら黙っていられない。愛しのお姉様と離れ離れにされてたまるものかと寮監に抗議しに行くも、あえなく玉砕。

「で、姉さんに泣きついていた、と」

大袈裟なんだよね、と溜め息混じりに呟く声。

「同じ寮に住むってことに変わりはないのに」

嘆息しつつ、コーラに口をつける姉さん。
でもまあ、確かに白井さんにとっては大問題なんだろうな。
どうにも出来ない現実ってヤツを目の当たりにして、白井さんが正気を保っていてくれるかどうか心配でならない。


それにしても、だ。個人的な要望をあっさり通してしまうなんて、その転入生って何者なんだろうか。

「その二人も広域社会見学に参加するの?」
「しないよ。顔合わせすらしてないもん」
「まだ会ってないんだ」
「うん。見学が終わるまでお預けみたい」

それから、だらだらと色んなことを話した。
三十分もの時間が、あっと言う間に過ぎていった。

「ねえ、訊いていい?」

やがて姉さんが訊ねてきた。
明るい声だけど、顔は真剣だ。


いいよ、と私は肯いた。
何だか、心は妙に落ち着いていた。

「どんな手を使ったの」

とても穏やかな声で、姉さんは訊ねた。

「丸っきり同じじゃない」

そうなのだ。
姉さんのようになりたいと思った。
ほんの少しでも、役に立ちたいと願った。
そして、その通りになった。


今だったら、上条さんでも私と姉さんの区別がつかないんじゃないかな。

「ちょっと裏技をね」
「裏技?」
「『学習装置(テスタメント)』って、知ってる?」

うん、と姉さんは肯いた。

「知識や技術を脳に刷り込む装置だっけ。特定の電気信号を送って、五感全てに直接入力するんだよね」

さすが姉さん。ちゃんと分かってくれている。

「裏技って、ひょっとして」

うん、と満面の笑みで肯く。

「今、私の中には姉さんの性格が入力されているってこと」
「そんな機械、身近にあったっけ」
「『冥土帰し(ヘヴンキャンセラー)』が用意してくれたんだ」
「誰よ、それ」
「私がお世話になっている病院の先生」
「ああ、あのカエル顔の」

姉さんが意外そうな顔をした。

「あの先生がねえ」

姉さんの呟きが聞こえた。
紙コップを両手で持ち、窓の外を眺めている。


沈黙は一分ほど続いた。

「あの先生、すごいよね」

迷った末、私から話しかけることにした。

「複雑骨折でも一週間程度で完治させちゃうし」
「患者に必要なものは何だって手に入れちゃうし」
「部分麻酔で心臓手術を執行したって噂もあるし」
「名札にアマガエルのシール貼ってるし」
「リアルゲコ太だし」

あはは、と私は笑った。
あはは、と姉さんも笑った。

「美月」
「ん?」
「戻れるんだよね」

笑顔のまま、姉さんは訊ねた。

「美月は、美月でいられるんだよね」

うん、と私は肯いた。

「もちろん」

どれだけ姉さんと似ていようが、私は私だ。御坂美月だ。
たとえ世界がひっくり返ったとしても、それだけは絶対に変わらない。


そっか、と姉さんは嬉しそうに言った。
ちょっとだけ、子供っぽい顔になっていた。











[20924] 第56話 姉と妹②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/08/27 21:15
呼び鈴の音を聞いて、私は目を覚ました。
重い瞼を擦りながら身体を起こす。日は随分と高くなっていた。
B級映画の紹介雑誌を読んでいるうちに、眠ってしまったらしい。
壁にかかった時計を確認すると、十二時をいくらか回っていた。


呼び鈴は鳴り続ける。
私がいるって確信している。
だけど、鍵を開ける気にはなれなかった。
昨日は夜遅くまで仕事で走り回っていたのだ。
特に見たい映画もないし、今日は惰眠を貪っていたい気分だった。
枕を抱いて目を瞑る。と、呼び鈴は唐突に止んだ。


――ようやく諦めてくれましたか。


ほっと一息吐いて、毛布を掛け直す。
けれど、相手はとんでもない実力行使をしてきた。
がちゃり、と鍵が開く音がする。
驚いてベッドから身を起こすが、間に合わない。

「お邪魔しまーす」

なんて、呑気に口にしながら入ってきたのはフレンダだった。

「何だ、やっぱり起きてるじゃない」

コンビニのビニール袋を左手にぶら下げて、仕事仲間は部屋の主である私の許可も取らずに勝手に上がってきた。


私の部屋はマンションの一室だ。
玄関から一メートルもない廊下を抜ければ、すぐに寝室と居間を兼用する部屋に辿り着く。

「おはよう、絹旗」

その落ち着き払った態度と右手に持った針金のような工具のせいで、私はフレンダを睨みつけていた。

「お昼買って来たんだけど、食べる?」

左手を上げ、ビニール袋をこちらに見せるフレンダ。

「食べません」

あまりに的外れな台詞に、ますます頭にきた。

「ピッキングなんて、いつの間に覚えたんですか」
「仕事の合間に少しずつ。引き出しを増やそうと思ってさ」

言いながら、フレンダは袋の中身を部屋の真ん中に置かれたテーブルに並べていく。

「やっぱり鯖よ、鯖」

という言葉通り、形も大きさも微妙に違う鯖の缶詰が次々と姿を現す。
定番の水煮や味噌煮はもちろんのこと、中には照り焼きソース味やカレー味なんてものまで混じっている。


幸せそうなフレンダの顔を横目に、私はベッドから身を起こしてキッチンへ向かった。
欠伸をしつつ、冷蔵庫を開ける。牛乳パックを取り出し、更にグラスを持って居間に戻る。

「アンタも大変よねえ」

牛乳を注いでいたところ、フレンダがそう言ってきた。妙にしみじみとした言い方だった。

「どうしたんです、急に」

グラスに口をつける。冷えた牛乳が喉を流れていく。少し目が覚めた。

「絹旗の実力なら、常磐台にだって入れるのに」

缶切りを片手に持って、私に背を向けたままでフレンダは話しかける。

「御坂と一緒に、広域社会見学に行けたかもしれないのに」
「仕方ありませんよ」

牛乳を一口。

「自分で選んだ道ですから」

それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。


御坂と過ごした時間はとても楽しかった。
出来ることなら、御坂にもう一度会いたい。
御坂と話をしたい。笑顔を見たい。一緒になって笑いたい。
でも分かっている。そんなこと、望んじゃいけないんだって。


私は御坂の住んでいる世界には行かない。いや、行けない。
闇に手を染めてしまった私の居場所は、ここしかないのだから。
ああ、何だろうな。心がかさつく。


――ねえ、フレンダ。


私は心の中だけで言ってみた。


ホントはね、羨ましいんです。
羨ましくて、たまらないんです。
私だって、御坂みたいに学校生活を楽しんでみたい。
そんな日々を夢見ていた時もあったんですよ、本当に。


でも、もう駄目なんです。
闇の奥深くにまで足を踏み入れてしまったから。
御坂のいる世界に、私なんかが行ってはいけないんです。
下手をすれば、御坂まで闇に巻き込んでしまいますし。
だから私はここを離れられないんです。そう決めたんです。


胸の中は言葉で溢れているのに、口からは全く出てこない。


随分と長い間、私は黙り込んでいた。
フレンダも話しかけてこない。缶切りに集中している。目が真剣だ。
ぎこちない手つきながら、着実に缶を切っていく。
今日こそは、ツールを使わずに開けてしまうかもしれない。


五分ほどで缶の蓋を開けたフレンダは、ふうっと息を吐いた。
それからプラスチック製のフォークを取り出し、中身を確認する。

「アメリカだって」
「え?」
「学芸都市で一週間」

しばらく、何を言われたのか分からなかった。
どうやら御坂の見学先らしいと、牛乳を飲み終えてから気づいた。

「そうですか」

どうにか声だけは平静を装う。
しかし実のところ、私は本当に本当にびっくりしていた。

「島そのものが世界最大のテーマパークなんだよね」
「元々はハリウッド映画を撮るためだけに作られた人工島だったんですけどね」

ふうん、と素っ気ない返事。

「でも残ったんだ」
「撮影後に色々と突っ込まれたんですよ。島一つを潰すのは勿体ないとか、環境に良くないとか」
「だからリサイクルしたってワケだ」
「まあ、平たく言えばそうですね」
「それにしても、詳しいね」
「何がです?」
「学芸都市のこと、随分と知ってるじゃない」

にしし、と笑う声。

「やっぱり行きたい?」

訳知り顔で訊ねられ、私は言葉に詰まった。


まあ、誰だってそうだろう。
困ったら黙り込んでしまうもの。
本心を見透かされているとなれば、尚更だ。


学芸都市、行きたいに決まっているじゃないですか。
新旧問わず、あらゆる撮影技術の宝庫なんですよ。
しかも御坂も一緒となれば、楽しくないワケがありません。


いいなあ、学芸都市。
行ってみたい。是非とも行ってみたい。
今すぐにでも行ってみたい。

「行きたいよねえ」

フレンダの呟きが聞こえてきた。
缶詰を片手に持ったまま、その背中を丸めている。
表情は見えなかったけれど、見えない方がいいのかもしれなかった。

「変われますかね、私」
「厳しいんじゃない?」

私の問いに、フレンダはあっさり答えた。

「そんな簡単じゃないし」
「じゃあ、考えるだけ無駄じゃないですか」
「そんなことないよ」
「それ、どういう――」

意味ですか、と声に出すよりも早く、フレンダは言葉を継いでいた。

「変わろうとするだけで意味はある」

肩越しに、フレンダが振り向く。
いつの間にか、彼女は笑顔を引っ込めていた。
缶切りの時に見せた真剣な瞳を、今度は私に向けていた。

「たとえ変われなくてもさ」

分かるでしょ、とフレンダは言った。

「結局、諦めさえしなきゃいいワケ」












スクール水着を着てきたのは、明らかに間違いだった。
学校行事の一環なので、私はちゃんと常磐台中学指定の水着を持ってきた。
しかし現地に到着してみれば、右を見ても左を見てもお洒落で可愛い水着ばかり。
アメリカ西海岸に浮かぶリゾート地で、可愛らしさの欠片もない水着を着ているのは私だけだった。


向かいからやって来たおじさんが、戸惑った顔で私を見てきた。おや、って感じで。
そう、砂浜のど真ん中にスクール水着で立ち尽くしている私を。


気まずい。思いっきり気まずい。
今すぐ着替えに戻りたい。スクール水着なんて脱いでしまいたい。
だけど、そんな些細な願いすらも私には許されない。だって一着しか用意してないんだもん、水着。
おまけに、この島じゃ水着で過ごすのが当たり前になっているそうで、それ以外の格好をしている人はどこにもいない。
この状況下で、制服に着替えたりしてしまったら一大事だ。空気の読めない女として、後世まで姉さんの名が語り継がれてしまう。


――機会を見つけて、速攻で水着を買いに行こう。


そう心に誓っていた時、背後から声がした。

「御坂さーん」

振り向くと、こちらに向かって佐天さんが走って来ていた。
身につけているのは青いビキニ。スタイルの良い彼女に、よく似合っている。

「お待たせしました」

佐天さんに少し遅れて、初春さんも春上さんと並んでやって来た。
初春さんの水着はワンピースで、オレンジ色の生地に花柄をあしらっている。
一方、春上さんの水着は黒地にドット柄のセパレートタイプ。胸元の大きなリボンが可愛らしい。


あ、と言って、初春さんが私の水着を見た。

「常磐台の水着ですよね、それ」
「うん」
「いいなあ、かっこいいなあ」

何故か目を輝かせている初春さん。
競泳水着みたいなの、と春上さんも興味津々な模様。


そんなに珍しいかな、この水着。
実用性は確かに高いけど。でも、高性能過ぎるのも考えものなんだよね。
この水着、実は限界まで軽量化されているせいで着ているって実感がないのだ。
おかげでもう、さっきから居心地が悪くて悪くてしょうがない。が、しかし。

「お姉様」

そんな気分を吹き飛ばすほどに衝撃的な水着で、白井さんが姿を現した。

「如何ですか、この水着」

白井さんの着ているビキニは、水着としての役割を完全にかなぐり捨てていた。
大事な部分だけを辛うじて隠しているあれは、最早ビキニなんかじゃない。ただの紐だ。

「少々地味な気も致しますけど」

裸同然の格好をしておいて地味とか仰いますか、そうですか。

「これぐらいの方が、お姉様の好みだと思いまして」

見当違いも甚だしいことを口にしながら、恐怖が近づいてくる。じりじりと、その身を寄せてくる。


身の危険を感じた私は足を引っかけ、白井さんを倒した。
そのまま背後に回って右腕で白井さんの首を絞める。


おおお、と声を上げる白井さん。
苦しいはずなのに、何故か嬉しそうな顔をしている。


それを見て、私は更に絞め上げた。
ここで仕留めないとマズイ。本能が告げるまま、ぐいぐい絞め上げる。

「アンタ、少しは周りの目を――」

そこで、私は固まった。
ただ呆然と空を見上げる。


雷のような轟音を引き連れて現れたそれを、私は知識として知っていた。
F-35ライトニングⅡ。稲妻の名を持つステルス戦闘機が、真っ青な空を舞っていた。











[20924] 第57話 姉と妹③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/11/22 23:20
雷のような音が地上を叩きつける。
観光客で溢れ返るビーチを、六つの機体が駆け抜ける。
鋭い風が一瞬で吹き抜ける。

「うわあ!」

と、初春が声を上げた。
もちろんあたしも上げていた。


水平線の向こうから現れた謎の機体。
迎え撃つのは五機で編成されたアメリカ軍の飛行隊。
真っ黒に染められた戦闘機が、正体不明の敵を追い詰めていく。
その展開は、まるで絵に描いたようだった。
強いて言うなら出来過ぎている。あまりにも都合のいい展開。
まあ、それも当然だ。だってこれ、アトラクションだし。


学芸都市では映画のワンシーンを模した見世物が度々行なわれる。それも、何の前触れも無しに。
最初は戸惑うばかりだったけど、今なら大丈夫。本物じゃないんだって分かっていれば、純粋に楽しむことが出来た。


普段はあまり感情を表に出さない春上さんも、

「すごいの。本当にすごいの」

と、はしゃいだ声を上げている。


ホント、なかなか本格的じゃないですか。
特に敵機として登場した、全長五メートルほどのUFO。
見た目はトビウオみたいだけど、どうやって飛んでいるんだろう。
御坂さんだったら、知っているかもしれないな。ちょっと訊いてみようかな。


はしゃいだ気持ちのまま、あたしは隣にいる御坂さんに顔を向けた。
でも御坂さんは、はしゃいでいなかった。そう、全然はしゃいでなんかなかったんだ。
すごく真剣な顔をして、じっと空を見つめている。目の前で繰り広げられている空中戦の行く末を見守っている。

「御坂さん?」

声をかけてみる。
けれど、その声はもっと大きな声によってかき消されてしまう。
この場に最も似合った歓声がビーチを満たしていた。


みんな、夢中になっていた。手に汗握る死闘を前に興奮していた。
なのに御坂さんは冷め切っていた。真剣な顔を空に向け、無言のまま立ち尽くしていた。
あたしも空に目を移した。UFOが被弾したらしく、真っ直ぐ飛べなくなっている。クライマックスが近づいている。


これはアトラクションだ。
本物なんかじゃない。客を楽しませるための作り物。
そうですよね、御坂さん。ねえ、そうですよね。


やがてUFOが海に落ちた。
正義の味方が操る戦闘機が、見事に勝利を収めたのだ。
沖から軽く五十メートルは離れた位置で、トビウオ型のUFOが波に揺れる。


ビーチにいる皆が皆、浮かれていた。
優雅に空を舞う戦闘機に、釘付けになっていた。
だから気づいていなかった。海に浮かぶUFOの表面が、不気味な光を放ち始めたのを。


何だろう、あれ。
どうして点滅しているんだろう。
疑問に思った直後、御坂さんがいきなり叫んだ。

「逃げて!」

まるで悲鳴のような声。

「早く!」

全ては一瞬だった。
突如、轟音が鳴り響いた。UFOが爆発したのだ。
バラバラになった機体が舞い上がり、雨のように砂浜に降り注ぐ。


何も考えられなかった。
ただ呆然と立ち尽くしていた。
我に返ったのは、誰かの悲鳴を聞いたからだった。

「いやああああっ!」

振り向く。十メートルほど先で、女の子が倒れていた。
足を滑らせたらしく、顔を歪めながら、右膝を抱えていた。
その頭上には、一際大きなUFOの破片が迫っている。


――助けなきゃ!


考えている暇はなかった。
駆け寄ろうと一歩踏み出した、その時。
すぐ横で、空気が震えた。御坂さんだった。
十メートルの距離を一気に駆け抜け、女の子の前に立ったのだ。

「お姉様!」

白井さんが叫んだ。
破片はすぐそこまで迫っていた。
駄目だ。このままじゃ、二人とも潰されてしまう。


御坂さんが女の子を見た。そして、次の瞬間。
女の子をその背に庇うようにして、迫りくる破片と向き合った。
天高く拳を振り上げ、足元の砂に叩きつける。
同時に、真っ黒な壁が地中から勢いよく突き出した。
御坂さんを守るように現れたそれは、飛んできた破片を正面から受け止める。
果たして、壊れたのは破片の方だった。衝突した瞬間に粉々となって砕け散り、悠然とそびえる黒い壁だけが残った。


危機が去り、訪れる沈黙。
誰も動き出そうとしない。まるで時が止まってしまったみたいだ。
寄せては引く波の音だけが、やけに大きく聞こえる。


やがて、誰かが震える声で、

「ブラボー!」

と、叫んだ。


それを皮切りに、あちこちで口笛が吹かれ、拍手が起こり、歓声が上がった。
ここはアメリカで、当然の如く英語で喋っているので、何を言っているのか全く理解できない。
でも、一つだけ分かったことがある。ここにいる誰もが、御坂さんを褒め称えている。
臨場感に溢れた演出を見せた、素晴らしい役者として。


全く、御坂さんは意地悪だ。
一緒にいるあたし達すら騙してしまうなんて。
今の出来事も、アトラクションの一部だったんだ。


そうなんですよね、御坂さん。
本物なんかじゃ、ありませんよね。












「パスタ鍋ってどこだっけ」
「左側の戸棚です」
「フライパンは?」
「流し台の下」

それはもう、唐突だった。


鯖缶だけの食事を終えた後も我が物顔で居座っていたフレンダに、いきなりキッチンに呼び出された。

「何なんですか、急に」

低い声で訊ねる。
フレンダが目を細める。

「あのさ、絹旗」
「何です」

フレンダは、なかなか口を開かない。
ただ、私をじっと見つめている。
鼓動が少しばかり早くなった。

「お腹、減ってない?」

全く予想していないことを、やがて訊ねられた。

「あ、減ってます」

なのに、口は勝手に動いている。
考えてみれば、起きてから何も食べていない。

「じゃあ、作ってあげる」
「出来るんですか、料理」
「一通りはね」

ええ、と思わず声を上げてしまった。


だって、仕方ないじゃないですか。
料理が出来るって言い切ったんですよ。
あのフレンダが。三度の食事を缶詰だけで済ませてしまうような人が。

「何よ、その反応」

心外だと言わんばかりに、フレンダが訊ねる。

「あまりにも意外だったので」

隠すようなことでもないので、素直に感想を述べる。

「うわあ、ショック」

目を閉じ、右手で額を押さえ、天を仰いでみせるフレンダ。

「結局、ひどく傷ついたワケよ」
「鯖缶ばっかり食べているからです」

くすくす笑いながら、大袈裟に驚いている彼女に応じる。

「もっと自炊しているところを見せればいいのに」
「とは言ってもねえ。一人だと作り甲斐がないワケよ」
「以前は、いたような口振りですね」
「何が?」
「作る相手」

フレンダが苦笑いを浮かべた。
どうだろうね、なんて言って、曖昧に笑っている。
ちょっと変な反応だった。恥ずかしがったりするなら分かるけど、どうして苦笑いなんだろうか。

「フレンダ」

名前を呼んでみる。

「あの」
「何でもない」

声が少し掠れていた。

「何でもないよ」
「そう、ですか」
「ほら、ご飯作らないと」
「ですね」

何だか心のどこかに妙なものがつっかえたような感じだった。
でも、かと言ってそれを問いただす気にもなれなかった。


底抜けに明るいフレンダにだって、あるはずなのだ。
自らの命を危険に晒すことになっても、それでも成し遂げたい何かが。
闇に手を染めた人間というのは、そういう人ばかりだから。
それが一体どういうものなのか、私には見当もつかないけれど。

「それにしても、突然ですよね」

場の雰囲気を変えたくて、そんなことを口にしていた。

「どうして手料理なんて振る舞ってくれる気になったんです?」

その言葉を聞いた瞬間、フレンダの浮かべていた笑みが、きらきらと輝くような笑みに変化した。

「電話でもさ、共通の話題があると盛り上がるじゃない」
「共通?誰と?」
「誰だと思う?」

勿体ぶった調子で、訊き返してくるフレンダ。

「私の知ってる人ですか」
「もちろん」


――ひょっとして、御坂なんですか。


真っ先に浮かんだのは、彼女の笑顔だった。


まあ、有り得ないとは思うんですけどね。
御坂と知り合ったのって、つい最近のことですし。
映画談議で盛り上がっていた時、フレンダは全く会話に入って来なかったですし。
いや、もちろんこれは客観的な意見ですよ。
決して羨ましいとか、私にも番号を教えてほしいとかってことじゃないですよ、うん。

「分かりませんね」

考える振りをしばらく続けてから、答える。

「ホントに?」
「さっぱりです」

フレンダは私の顔をじっと見つめていたが、やがて、

「これ、なーんだ?」

などと言って、シルバーの携帯電話を私の眼前に突きつけた。その途端、私は息を呑んだ。
画面に表示されているのは間違いなく御坂の名前と電話番号、そしてメールアドレスだった。

「御坂とさ、メールするようになったんだ」

なんて嬉しそうに語るフレンダの声が、やけに遠く聞こえた。
考えているのは、目の前にある電話番号とメールアドレスのことだった。
御坂の声を、御坂との時間を与えてくれる、これ以上ない代物だった。











[20924] 第58話 姉と妹④
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/09/19 20:15
夜の空気はぬるりと温かかった。
仕事も無く、暇を持て余していた私は、ぶらぶらと色んな店を回っていた。
綺麗なだけでさして役に立たない雑貨や、別に欲しくもない服。甘ったるいばかりのアイスクリーム。

「ねえ」

四十くらいの男に声をかけられたのは、午後十時を少し回った頃だった。


その、にやけた目を見ただけで男の目的が分かった。
ちゃんとした用事がある奴は、もう少しまともな目をしている。

「はあ?」

思いっきり低い声を出して、睨んでやる。
すると、そいつは適当な愛想笑いを浮かべた。

「ああいや、何でもないんだ」

とか言いながら去っていった。
今度は別の、もっと引っ掛けやすい女を探すのだろう。
最低。最悪。あんな男に声をかけられる私も。


誰かと話したくなった。
電話越しじゃなくて、ちゃんと顔と顔を合わせて。
誰でもいい。嫌な気分を紛らわせてくれるなら。


私は早足で歩き出した。
人通りの多い駅前ではなく、閑静な居住区へ。
絹旗が住んでいるマンションが、この近くにあったはずだ。












夜の学芸都市は、しんと静まり返っていた。
耳を澄ませば、自身の心臓の鼓動さえ聞こえそうな気がする。
点呼を済ませてすぐ、私は割り当てられた一人部屋に戻っていた。
まるで自分以外の世界が全て死に絶えたかのような静けさの中、ホテルのベッドに水着姿で横たわっていた。


それにしても、本当に疲れた。
日が暮れるまで、みんなと一緒に海で遊んだし。
白井さんは際どい下着ばかり紹介している雑誌を読み耽っていたし。
ラウンジで食べたパフェは美味しかったなあ。さすがは高級ホテル。いい仕事をしている。
ああ、でも水着を買えなかったのは残念だったな。だってさ、どれもこれも派手過ぎるんだもん。


何て言うんだっけ、あの水着。
ああそうだ、ジュエリービキニだ。
佐天さんが強く薦めてくれたけど、試着する勇気なんてなかった。
サンバの踊り子さんだって、あそこまで露出の多いものは着ないでしょうに。


電気は一切、点けていない。
明かりと言えば、窓から差し込んでくる月光だけ。
満月を僅かに越えたその輝きは思いのほか強く、テーブルの影がくっきりと床に映っていた。


本当に疲れたけど、でも、楽しかった。
出来ることなら、このまま眠ってしまいたい。
いい気分のまま、今日を終わらせたい。だけど駄目だ。
まだ眠れそうにない。気になることが残っている。


テーブルの影を見ながら、昼間の出来事を思い返す。
小隊編成を組んだ戦闘機と得体の知れない機体による空中戦。


あれは見世物なんかじゃない。本物だ。
互いに互いの命を奪おうとする、本当の意味での戦いだった。
にも関わらず、あの場にいた誰もが、その事実に気づかなかった。
予め仕込まれていた催し物の一部だと、信じて疑わなかった。背筋に寒気を覚えた。
何て恐ろしい場所だろう。どんなに凶悪な事件が起きても、見世物だと認識されてしまうなんて。


何か隠しているな、と思った。
直径にして十キロメートルほどしかないこの島には、人目を気にしなくてはならない大きな秘密が隠されている。
とは言っても、それがどういうものなのか見当もつかない。
ここは一つ姉さんに相談したいところだけど、それは出来ない。


固定電話では誰かに盗み聞きされる可能性がある。
下手をすれば、その内容から私が御坂美琴ではないと気づかれる恐れすらある。
同じような理由から、携帯電話も持って来ていない。
姉さんの所持品をほぼ全て預かったのだけど、携帯電話は例外だった。
不測の事態に備えて、そのまま姉さんが持っている方がいいと判断したからだ。


――駄目だ。連絡を取る方法がない。


溜め息を吐き、起き上がる。そのまま窓際に歩み寄る。
窓を開けると、生温かい空気が流れ込んできた。
夏の匂いと夜の匂いに、その空気は満ちていた。
窓からは砂浜が見える。もちろん人影はない。
やたらと白っぽい照明の光が、非現実的な輝きを放っている。


と、その時。どこからか、窓を開ける音がした。


――あれ、誰か起きてるのかな。


窓から顔を出し、左右を見る。
二つ隣の部屋から、自分と同じように顔を突き出している人がいた。


金髪の、若い女性だった。
癖のない長い髪が、風に靡いている。
何かを確かめるように、辺りを見回している。
それで、つい、慌てて顔を引っ込めてしまった。
別に隠れなきゃいけない理由なんてないのに。


そっと女性の方を覗いてみる。
まるで自らの身を月明かりで清めるかのように、彼女はじっとしている。
ひどく真剣な顔だった。まるで思いつめたような感じだ。


やがて彼女は視線を落とした。
真剣な顔で、地面を見つめている。
ここは十四階だ。地面までは大体、五十メートルかそこらだろう。


マズイ、と感じた。
背中がぞくりとした。
ほとんど何も考えていなかった。
反射的に身を翻し、部屋を飛び出していた。
廊下を駆け抜け、突き当たりにあると思われる彼女の部屋へ向かう。
一瞬だけ躊躇したけど、でも、電子ロックを能力で解除して部屋に飛び込んだ。
彼女は窓枠に手と足をかけ、身を乗り出していた。今にも飛び降りそうな感じで。

「ストップ!」
「え?」

女性がこちらを向いた。
驚きに、顔を引きつらせている。

「な、何?」
「駄目です!」

一気に女性に近寄り、その胴に腕を回す。

「な、何なの貴女!危ない!危ないって!」
「やめて下さい!」
「それ、こっちの台詞だから!ちょっと!やめて!」
「駄目です!」
「だから、そうじゃなくて!」

全体重をかけて、彼女の身体を部屋の中へ引き入れる。
重みを支え切れず、そのまま床に倒れ込む。
腰を強く打ち、鈍い痛みが走った。

「何するのよ!」

倒れたまま、女性が英語で叫ぶ。


私もまた、英語で叫んだ。

「何って、貴女が――」

そこで口を噤んだ。
その先は、言葉に出来なかった。
でも彼女は悟ったらしく、表情が変わった。真剣な顔。

「貴女、見てたの?」

はい、と肯く。

「窓を開けたら、貴女の姿が見えて」

女性は俯いてしまった。

「もしかしてさ」
「はい」
「私が自殺しようとしてるって思った?」

私は答えなかった。
黙っていた。それが答えだった。


女性は俯いたまま、動かない。
しばらく様子を窺っていると、肩が小刻みに震え出した。
不安になって、彼女の顔を覗き込もうとした途端、

「あははははっ!」

顔を上げて、彼女は笑った。しかも大爆笑だった。


――え、何?どういうこと?


状況が把握できない。
これまでの会話で、笑える要素がどこかにあっただろうか。

「違う違う。自殺なんかしないって」
「ホントですか」
「当たり前でしょ」

ゲラゲラ笑いながら、彼女は言った。

「ちょっとね、掴んでみたかっただけ」
「掴む?何を?」
「死ぬって、どういうものなのかなって」

当然ながら流暢な英語で返ってきた答えを聞いて、私はますます混乱してしまった。

「あの、どうして」

彼女の笑いが収まるのを待って、私は訊ねた。

「ん?」
「どうして、そんなことを」
「作品のため」
「作品?」
「そう」

彼女はニヤリと笑った。

「これでも一応、映画監督やってるの」












マンションの外階段を上る。エレベーターは使わない。
十二階まで上るのは大変だけど、一日に一度くらいは身体を動かしておいた方がいい。
そう、これは過酷を極める暗部での仕事を第一に考えた上での英断なのだ。
決して足が太いのを気にしているとか、そういう個人的な理由ではない。絶対にない。


十二階まで難なく辿り着くと、迷わず廊下を進む。
突き当たりの部屋の前について、私はインターフォンを押した。

「はあい」

甲高い声が聞こえる。

「ちょっと待ってー」

やがて開いたドアから、フレンダが顔を出した。

「あれ?何でアンタが?」

ここは間違いなく絹旗の家であるはず。
なのに、どうしてフレンダが出てくるんだろう。
プライベートでも夜遅くまで一緒にいるほど、二人の仲って良かったっけ?

「ん、ちょっと」

そんな曖昧なことを言って、フレンダは背を向けた。
私は靴を脱いで、奥にある部屋に向かうフレンダに続いた。
居間と寝室を兼ねた部屋。その真ん中に置かれたテーブルの前で、絹旗が腕組みをして座っている。
微動だにせず、テーブルの上にあるチェス盤を睨みつけている。

「まだ降参しないの?」

ニヤニヤ笑いながら、絹旗の向かい側に腰掛けるフレンダ。

「結局、もう打つ手はないワケよ」

絹旗からの反応はない。
チェス盤から目を離そうともしない。

「見えました!」

じっと考え込んでいた絹旗が、とうとう駒を動かした。

「ここです!」
「にしし、もらった!」

と、ビショップの駒を動かし、黒のナイトを弾くフレンダ。

「い、今の待った!超待ったです!」
「待ってもいいけど、もう勝負はついてるんだって」

むむう、と悔しそうに唸り声を上げる絹旗。


どうにも妙な雰囲気だった。
ただの遊びにしては、やけに絹旗が必死なのだ。

「賭けでもしてるの?」

探りを入れるために、私は訊ねてみた。

「まあ、そんなとこ」

答えたのはフレンダだった。

「絹旗が勝ったら、御坂の電話番号とメールアドレスを教えてあげることになってるんだ」
「アンタが勝ったら?」
「鯖缶ゲット。ちなみに現在、三連勝中」

なるほど、そういうことか。
上手く自分の得意分野に持ち込んだわね、フレンダ。
罠の扱いだけじゃなく、心理戦もお手の物といったところか。

「そっか」

でも、詰めが甘いのは相変わらずみたいね。
絹旗は気づいてないみたいだけど、どうしようかな。

「ちなみにね、絹旗」

仕方ない、教えてあげるか。
そうすれば、この勝負も終わるだろうし。
ここに私が来た目的も、すんなり達成できそうだし。

「ポーンでクイーンを取れば、アンタのチェックメイトよ」

え、と絹旗が驚いた声を上げた。
チェス盤と私を、その顔が何度も何度も往復した。

「ホントだ」

そう言うと、絹旗は嬉しそうに微笑んだ。
普段から見ている彼女とは、別人みたいだった。
何か温かなものが、心の奥底にゆっくりと湧き上がってくる。

「麦野」

その感覚に戸惑っていると、絹旗が声をかけてきた。

「ありがとうございます」

満面の笑みを、私に向けた。

「本当にありがとうございます」

それは嘘偽りのない、本当に幸せそうな顔だった。











[20924] 第59話 姉と妹⑤
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/11/22 23:23
欠伸をしながら、私は白い砂の上を歩いていた。
お昼前だというのに、周囲には誰もいない。


――まあ、当然なんだけどね。


観光コースから外れた場所、ましてや立ち入り禁止区域に人が近寄るワケがない。

それにしても、眠い。
昨日は結局、一睡も出来なかったし。
全部、ビバリーさんのせいだ。
自らを映画監督と称した彼女と、夜通しお喋りする羽目になったからだ。


はあ、と溜め息を洩らす。
Tシャツの胸元に浮かび上がった、冗談みたいに綺麗な谷間のラインを思い出す。
水着の上から身に付けたTシャツを持ち上げる、二つの大きな丸い丘。
引力に逆らって、二つのボールがくっついているみたいだった。
あまりにも立派なバストを前に、しばらくの間、思考がまともに働かなかった。
ビバリーさんの質問に答えるので精一杯だった。


学園都市が生んだ能力者に、ビバリーさんは興味津々だった。
私にとっては当たり前の事実も、彼女は熱心に聞き入っていた。
昨日の昼、女の子を守るために作り出した黒い壁の正体を伝えた時は、目をキラキラ輝かせていた。

「超能力って、すごいんだねえ」

なんて、何度も呟いていたっけ。


でもね、ビバリーさん。
あの程度の力じゃ、超能力って言わないんですよ。
姉さんだったら、もっと自在に砂鉄を操れるんですよ。
飛んできた破片も、一つ残らず弾き返せたに違いないんですよ。
外見がどれだけ似ていても、私は姉さんと同じにはなれないんですよ。


そんなことを考えている内に、目的の場所へ辿り着いていた。


――ホントに、あった。


ビバリーさんが話してくれた通りだった。
この点だけは、彼女に感謝しなくてはならない。
真夜中の間、ずっと外の様子を彼女が眺めていてくれたおかげなのだから。


何の変哲もない、白い砂浜。
そこにあったのはトビウオのような形をした、件のUFOだった。


昨日の空中戦で自爆したものとは、別の機体。
全長五メートル前後のそれは、驚いたことに木で出来ていた。
二つのカヌーを上下逆さまにして、くっつけたような尖った機体も。
前後左右に取り付けられた大小で二対となる、四枚の羽も。
布や黒曜石も使われているけど、金属は一切使われていない。
分からない。こんな物が、一体どういう原理で空を飛んでいたのだろう。


もっとよく見ようと一歩進んだ、その時、

「止まりなさい」

すぐ後ろで、声がした。

「ここは立ち入り禁止区域ですよ」

振り向くと、そこには競泳水着の上からオレンジ色の救命胴衣を身に付けた女性が佇んでいた。
その出で立ちから、彼女が学芸都市の係員であることが一目で分かった。
首から下げているIDカードには、オリーブ=ホリデイという名前が記されている。

「すいません」

片言の英語で謝る。
ここで騒ぎを起こすのはマズイ。
言葉が通じていない振りをして、大人しく立ち去った方が無難だろう。

「英語は苦手なもので」

へえ、と蔑むような声。

「学園都市第三位ともあろう人が、随分と下手な嘘を吐くのですね」

顔から血の気が引くのが、自分でも分かった。
私が学園都市の人間だと気づいている。となれば、間違いない。
この人は知っている。この場所に私が訪れた理由が、目の前にあるということを。

「大人しくしていなさい、超能力者」

柔らかな笑みを浮かべて、彼女は言った。

「命が惜しかったら、ね」

でも、その目は全然笑っていなかった。












今日も朝からいい天気だった。
見上げれば、空はどこまでも青い。
雲一つない空は優しく、太陽の日差しもうるさくない。


観光客で賑わう砂浜まで続く遊歩道を、あたしは一人で歩いていた。
御坂さんも、白井さんも、春上さんも、初春もいない。正真正銘、一人きり。
みんなの行ってみたい場所が見事なまでにバラバラだったので、各自で昼まで自由に行動することになったのだ。


たくさんの人が周りにいるのに、どういうワケか寂しさを覚えた。
知っている顔がいないせいだろうか。それとも、学芸都市が創り出す非日常に慣れてしまったせいなのか。
現実離れした世界はひどく寂しく、それがあたしを不安にさせた。
まるで世界がその動きを止めてしまったように思えた。


あたしは自分の能力について考えた。
柔らかな日差しを浴びながら、私自身の中に宿っている能力の片鱗に触れようとした。
そうすれば、再び能力を使えるようになると思えたからだった。
初めて能力を使った時の感覚を思い出せれば、全てが上手く行くような気がした。
もちろん、それは下らない思い込みでしかないのだけど。
勝手に突っ走った強迫観念に過ぎないのだけど。


あたし達はあまりにも考え過ぎる。
そんなことを、誰かが言ってたっけ。うん、その通りだ。
でも、分かっていても、やっぱり能力を追い求めてしまう。
これって、いけないことなのかな。
学園都市の人間なら、誰だって思うことじゃないのかな。


ああ、駄目だ。
考えが全然まとまらないや。
よくあるんだ、それって。
ううん、そういうことばっかりなのかもしれない。


通りを埋め尽くす人達は誰もが楽しそうだった。
だけどあたしは孤独だった。たくさん人がいるのに、一人きりだった。


ふと気づくと、本当に一人になっていた。

「あれ?」

脇道に逸れてしまったらしい。
そういや、さっきから同じことばかりぐるぐる考えていて、どこを歩いているかなんて気にも留めていなかった。


慌てて引き返そうとしたら、


――ん?


近くにある茂みが揺れた。がさり、と。


何だろう。猫かな。
好奇心を抑えられず、茂みを掻き分けてみる。すると、

「ぬなっ!?」

現れたのは猫ではなく、人の腕だった。
小麦色に焼けた手に掴まれたあたしは、一瞬にして中に引きずり込まれてしまう。
あたしは背中から地面に倒れ込んだ。後頭部を地面にぶつけ、一瞬視界が真っ暗になった。


気がつけば、誰かに両肩を押さえつけられていた。

「東洋人か」

驚いたことに、日本語で話しかけられた。

「日本語で通じるようだな」

あたしの上に乗っているのは、褐色の肌をした女の人だった。


年はあたしよりも上。高校生くらいかな。
彫りの深い顔立ちに、肩まで伸びた黒い髪。
突き刺すように黒い瞳で、あたしを見下ろしている。

「運が悪かったな、お前」

意地悪く、女の人は微笑む。

「少しの間、付き合ってもらうぞ」

その途端、ぐう、と何かが鳴った。

「……」
「……」

女の人が視線を泳がせる。
あたしは気づいていない振りをする。

「何、悪いようにはしないさ」

また、何かが鳴った。

「喉の調子がおかしいようだ」
「風邪でも引いたんじゃない?」
「かもしれん」

直後、再び腹の虫が鳴いた。

「ちょっと」

流すのも、さすがに限界だった。

「ち、ちが」

ぐう、と。否定するよりも早く、もう一回。

「あー、もう!何なんだ!」
「こっちの台詞よ!気を遣ってあげたのに、何度も何度も!」
「好きで鳴らしてるんじゃない!」
「色々と台無しじゃん!」
「どうせだったら、最後までスル―しとけ!」
「逆ギレすんな!」
「知るか!」

女の人が、そっぽを向いてしまう。
耳まで真っ赤にして、何やらぶつぶつ言っている。
これだから東洋人は、とか。少しは空気を読め、とか。
自業自得のはずなのに、その全部があたしに対する悪口で。
恥ずかしさを必死に隠そうとする彼女が、あまりにも可笑しくて、可愛くて。

「おい」

赤い顔のまま、睨みつけてくる彼女。

「何を笑っている」

どうやら、顔に出してしまったらしい。

「ご飯、買ってきてあげようか」

両肩を掴まれたまま、あたしは言った。

「どういう風の吹き回しだ」
「それが目的なんでしょ」

この人、悪い人じゃなさそうだし。
ご飯ぐらいなら、奢ってあげてもいいよね。

「逃げる気だろう」
「大丈夫だって」

彼女が黙り込む。
あたしの目を、じっと見つめてくる。
彼女の黒い瞳を、あたしも真っ直ぐに見つめ返す。
三十秒か、四十秒か。ひょっとしたら、一分近く過ぎたかもしれない。

「分かった」

それだけの時間の果てに、彼女は立ち上がった。

「信じよう」

そして、手を差し伸べてくれた。


迷うことなく、その手を私は掴んだ。

「私、佐天涙子っていうんだけど」

自分から名乗ってみると、彼女は素っ気なく返した。

「ショチトルだ」

そう、ちゃんと答えてくれたんだ。











[20924] 第60話 姉と妹⑥
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/11/22 23:41
私は待っていた。
茂みの中で、息を殺して、身体を丸めて。
涙子が戻って来るのを、ただひたすら待っていた。
空腹のせいで、何だか頭がぼんやりする。夢の中を漂っているみたいだ。


――本当に戻って来るだろうか。


ぐうぐう鳴る腹を抱えながら、そんなことを考える。
もちろん、答えなんて返ってこない。時間だけが、律義に、ゆっくりと流れてゆく。


――期待するだけ無駄か。


おそらく彼女は戻って来ないだろう。
そう、それこそが紛れもない真実なのだ。
だって、私の面倒を見る義理も責任も、あの子にはないのだから。


拷問危惧でも取り付けて、雁字搦めにするべきだったんだ。
逆らえば痛い目を見るって、その身に教えてやれば良かったんだ。
でも、出来なかった。あんなにも真っ直ぐな目を見せられて、信じられないとは言えなかった。
だから私は黙り込むしかない。沈黙に耐えるしかない。そして、あの子が何を考えていたのか想像してみたりするのだ。


私が怖くなかったのか?
どうして、笑っていたんだ?
自らの命が危険に晒されていたんだぞ?


そんなことを考えながら、私は待ち続けた。
しかし、既に空腹は限界を超えていた。
腹の虫が盛大に泣き叫ぶ。
意識が徐々に薄れてゆく。

「ごめん、待った?」

頭上で声がしたのは、そんな時だった。

「え?」

意外過ぎて、すぐには意味を呑み込めなかった。

「食べて」

茶色い紙袋を抱えて、涙子が立っていた。
綺麗に包装されたハンバーガーを右手に持って、こちらに差し出している。


驚き、私は訊ねた。

「戻って来たのか」
「約束だからね」

当然のように言い放つ涙子。


私は本当に本当に驚いた。
まさか、初対面の人間と交わした約束を守ってくれるなんて。


唖然としたままでいると、

「食べないの?」

涙子がそう訊ねてきた。

「食べないなら、あたしが食べるけど」
「あ、いや、食べるぞ!食べる!」

ハンバーガーを受け取るなり、すぐさま包みを破り捨てる。
パンの間にハンバーグを挟んだだけという簡単な料理だけど、お腹が空いているせいか、めちゃくちゃ美味しかった。
ガツガツと胃に押し込んでいく。いや、もしかすると、別の理由で美味しく感じられたのかもしれないけど。


そんな私の姿を見て、涙子が可笑しそうに笑った。

「犬みたいだねえ」

場合によっては悪口になる言い方だった。
だけど、不思議と、そんな気はしなかった。

「仕方ないだろ。昨日から丸一日、何も食べてないんだから」

はいはい、と適当な返事。

「まだまだあるから、好きなだけ食べなさい」

紙袋から次々と中身を取り出していく涙子。
ハンバーガーだけでなく、ジュースやフライドポテトまで揃っている。

「足りなかったら、また買いに行くから」
「あ、ありがと」

その言葉は、自然と口から出ていた。
心の奥底から溢れ出た、彼女への感謝の気持ちだった。












寄せては返す波の音だけが聞こえる、白い砂浜。
オリーブ=ホリデイは不敵な笑みを浮かべ、私はただ立ち尽くす。
気づかれないよう、一度だけ小さく息を吸って吐く。
本当は深呼吸でもしたいところだけど、動揺していることを相手に悟られるのは宜しくない。


低く見られてはいけない。
動揺していること。混乱していること。それらを悟らせてはいけない。
気づかれてしまえば、その瞬間、自分は完全な格下に成り果ててしまう。
この場を切り抜ける自信があるように見せなくてはならない。
ハッタリでも構わない。何か打つ手があるように思わせなくては。
知られてはならない。ここで戦えば、勝ち目も、打つ手もないことを。


大丈夫、大丈夫だ。
自分自身に何度も言い聞かせる。
私のことを、相手は御坂美琴だと認識している。
一国の抱える軍隊と互角に渡り合える実力者であると勘違いしている。

「大した自信ね」

だから強気の姿勢で行くんだ。
怪しい素振りなんて見せちゃいけない。

「超能力者を敵に回そうだなんて」
「驚かせてしまったかしら」
「ええ、とっても」

唇の端を上げて笑ってみせる。

「何て命知らずなんだろうって」

私の言葉に、オリーブ=ホリデイは唇の端を歪める。
作り物の笑顔なんかじゃない。本当に可笑しそうに笑っている。

「貴女も所詮、子供なのですね」
「どういう意味よ」
「旅行って楽しいでしょう」

そう言ってから、彼女はニヤリと笑った。

「友達と一緒だったら、尚更」

その瞬間、心の奥底が揺れた。大きく、ざわっと。

「大人しくしていれば、あの子達のことは忘れてあげます」

それだけ告げると、彼女は私に背を向けた。

「そんな話を信じろって言うの?」
「信じるしかないでしょう」

そして勝手に歩き始めると、彼女は振り返りもせずに言った。

「それしか道はないのですから」

その通りだった。
選択する権利など、私には与えられていなかった。
悔しい。遠ざかっていく背中に、何も言い返せないなんて。
私には何も出来ないんだって、認めてしまったようなものだった。


突然、胸が苦しくなった。
私はその場にしゃがみ込んだ。


――息が、出来ない……。


ちゃんと吸っているし、吐いてもいる。
呼吸はしている。なのに、何でこんなに苦しいの?












「正気か」

受け取った茶色い紙袋の中身を確かめ、そう訊ねる。


確かに水着を買ってきてほしいと頼んだ。
水着以外の服装でいると、この島では極めて目立ってしまうから。
しかし、しかしだ。こんな露出の激しい水着、一体どこで手に入れたんだ。
大事な部分ですら隠し切れてないだろう、これ。


黙ったままの涙子に、再び訊ねた。

「これを着ろ、と」

だが、やはり涙子は答えず、黙ったままこちらに歩いてくる。

「お、おい」

涙子は私から紙袋を取り上げた。
そして、中に入っていた物を取り出した。
煌びやかに光り輝く、二枚の布が現れる。

「何をする気だ」

ああ、悪い予感がする。

「手伝ってあげようと思って」

ニヤリと笑って、そんなことを言う。

「本当に着ないと駄目か」

おずおずと訊ねる。

「さっきまでの威勢はどうしたのよ」
「いや、だって、これは」
「観念しなさい!」
「い、いやああああっ!」

あっと言う間に、全裸に剥かれた。

「何で全部脱がした!?」

団子のように丸くなりつつ、大声で叫ぶ。
胸やら局部やら、大事な部分を隠すのも忘れない。

「勢いで、つい」
「少しは考えて行動しろ!」

どうしてだろう。涙が止まらない。

「大丈夫だって」
「何が」
「きっと似合うから」
「誰がそんな心配をした!?」

脱がせた時と同じ手際で、私に水着を着せる涙子。
サイズに問題は無く、ぴったりの着心地だった。

「何故だ」
「ん?」
「どうして私のスリーサイズを知っている」
「そこはほら、あたしの特殊能力で」

ジロジロと私のことを上から下まで無遠慮に観察して、一言。

「上から八十四、五十八、八十一」
「な……」

その通りだった。
一切触れることなく、私のスリーサイズを涙子は見破ってみせたのだ。
魔術を使った形跡は見当たらない。となると、超能力の類なのだろうか。
彼女は日本人だ。学園都市と関わりを持っている可能性は充分にある。
それにしても何故だろう。魔術では説明できない驚くべき力なのに、ちっとも羨ましくない。

「そろそろ行こうか」

そう言って、表通りへと続く道を指差す涙子。

「行くって、どこへ」
「さあ」

涙子は妙に上機嫌だった。
ニコニコ笑ってやがる。

「行き先はアンタに任せる」

驚き、私は訊ねた。

「私に付き纏うつもりか」
「面白そうだしね」

全く、ワケの分からない女だ。
見ず知らずの人間に食事を与えてくれたり。
かと思えば、この上なく際どい水着をむりやり着せたり。

「ほら、早く」

でも、涙子はこっちのことなどお構いなしという様子で、私に背を向けると歩き出した。

「何してるの」

五、六歩ほど進んだところで、振り返る。

「置いてっちゃうよ」
「分かったよ」

私はあっさり諦めた。
何を言っても、涙子には通じそうにない。
せめて屁理屈の一つでも言ってくれれば、舌戦を繰り広げてやろうという気にもなるのに。
だけど涙子は問答無用だ。となれば、放り出すか、或いは従うしかない。
そして、何と言ってもこれが一番不思議なのだが、何故か私はこの女を放り出すことが出来ないのだった。











[20924] 第61話 姉と妹⑦
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/11/22 23:42
「ターゲットが超能力者の一人と接触、行動を共にしています」

そう告げたのは、競泳水着の上に救命胴衣を身に付けた若い女だった。

「そうですか」

直属の部下でもある彼女の前に立ち、私はニヤリと笑った。

「予想していた通りでしたね」

妙だと思ったのだ。
突然の空襲に対し、これ以上ない対処をしてみせた超能力者。
まるで始めから見世物ではないと分かっていたような、迅速な対応。
そして昨夜、この学芸都市に不法侵入したターゲットとの接触。


間違いない。彼らと学園都市は繋がっている。
だとすれば、やはり、上層部の見解は正しかったのだ。
彼らの操る得体の知れない力は、学園都市が生み出した超能力と同等の代物だったのだ。

「あれの解析は?」
「依然、難航しているようです」
「急がせなさい。私達の求めていた物が出てくるはずだから」

物理法則を捻じ曲げて超常現象を引き起こす力、超能力。
学園都市が占有する魔法のような力の根源を知る機会が遂に訪れたのだ。


幾度となく繰り返された彼らとの戦いで手に入れた、不可思議な球体。
思い返せば、あれを学芸都市に持ち帰ってからだった。彼らによる空襲が、一段と激しさを増したのは。
そう、あの中にあるのだ。彼らが絶対に知られたくないと考えている、重大な秘密が。
私達が追い求めてきた、学園都市に対抗できるほどの何かが。

「ターゲットはどうしますか」

ふむ、と肯き、私は顔を伏せた。

「そうね」

ターゲットの行動は、監視カメラで筒抜けになっている。
このまま泳がせていても、問題が生じることはないだろう。
しかし、用心するに越したことはない。

「確保しておきなさい」

合流した超能力者の実力が未知数であることも考えれば、答えは一つしかない。












「面白かったね」

涙子は相変わらず上機嫌だった。

「面白くない」

私はブチブチと言った。

「ワケも分からず連れ回された、こっちの身にもなってみろ」

とは言え、それは言葉だけで、実は結構面白かった。


とにかく色々と歩き回った。
任せる、なんて言っておきながら結局は涙子が先導して。
買い物はほとんどせず、様々な店に入っては商品やら展示物やらを見て回り、飽きると次の店へ移動した。
道中、涙子はよく喋った。笑いながら、彼女は自身のことについて話してくれた。


噂話や都市伝説が大好きなこと。
超能力の開発を行なっている、学園都市に住んでいること。
今はまだ無能力者だけど、高位能力者になれるよう勉強に励んでいること。
そうしたことを一つ一つ、身振り手振りを交えて一生懸命、話してくれた。


私のことについては、何故だか訊いてこなかった。
気にしているのは分かっていた。態度でバレバレだったから。でも、彼女は訊いてこなかった。
私が何者なのか。どんな目的があるのか。そういったものに関して一切、問い質そうとしなかった。


二時間ばかりで十を超える観光場所を制覇し、さすがに疲れたのだろう。
涙子は食事がしたいと言い出し、右往左往し、結局ファストフードに落ち着いた。


注文した品を受け取り、辺りを見回す。
お昼時で店内は混み合っていたが、一番奥に二人分の席が空いていた。
滑り込むように席に着き、大きく息を吐く。
サンバの踊り子のような格好をしている私に注目が集まるが、気にしないことにする。

「人気者だねえ」

ニヤニヤ笑いながら、涙子。

「誰のせいだ、誰の」

低い声で答えても、涙子は全く動じない。
ぱくぱくと美味しそうにハンバーガーを頬張っている。

「なあ」

意を決して、さっきからの疑問を口にする。

「どうして何も訊かないんだ」
「訊いてほしいの?」

逆に訊ねられてしまった。

「出来れば訊いてほしくない」

少し間を置いて、私は答えた。


本音を言えば、教えてやりたい。
彼女が知りたがっている何もかも、話してしまいたい。
でも駄目だ。そんなこと、絶対にしてはいけない。
私の身の上を話せば、涙子は間違いなく奴らに狙われる。
恩人である彼女を危険な目に遭わせたくない。遭わせるワケにはいかない。

「じゃあ、訊かない」

間髪入れずに、そんな返事が返ってきた。

「いいのか」
「だってさ、仕方ないじゃん」

澄ました顔でチキンナゲットに手を伸ばす涙子。
たっぷりとケチャップをつけて、口の中に放り込む。

「誰にだって、秘密にしておきたいことの一つや二つはあるよ」

淡々と涙子は言う。

「すまない」

その黒い、深過ぎる瞳に見据えられて、そんな言葉しか出てこなかった。












ファストフード店を後にしたあたしは暑さの厳しい昼の街を、ショチトルと一緒に歩いていた。
午後二時を過ぎても太陽は衰えを全く見せず、見上げてみれば雲一つない青空がどこまでも広がっている。

「で、何でロケットなの?」
「別に。少し興味が湧いただけだ」

不機嫌そうな顔のまま、彼女はこっちを見ないで返答する。
何だか意図的に避けられているような気がして、あたしは言葉を続けられなかった。
街の中央にあるロケット発射場を見に行こう。そう言い出したのはショチトルだった。
特別な理由なんてない、と彼女は繰り返すばかりだけど。はっきり言って、何か魂胆があるとしか思えない。


ショチトルの背は、見た感じでは御坂さんと同じくらい。
健康的な小麦色の肌と、深みのある黒い瞳。少し癖のある黒髪は、肩の辺りまで伸びている。
口調は男性のものだけど、彼女を男と間違える人なんているはずがない。
薄着をしていなくたって分かるだろう、二つの大きな膨らみが問答無用で彼女の女としての部分を際立たせている。
全くもって、反則だ。一体どんな物を食べていれば、あそこまで成長するのだろう。


ショチトルは凛と背を伸ばしたまま、人で混み合った大通りを観察するように歩いていた。
その姿は毅然としている、と言うより張り詰めた肉食動物を連想させる。


一体どうしたんだろう、ショチトル。
そんな態度を取っていたら、ますます目立っちゃうじゃない。
何もしなくても、着ている水着のせいで注目の的になっているのに。

「どうかした?」
「別に」
「何か心配事?」
「別に」
「みんな見てるね」
「別に」

心ここにあらず、というショチトルの返答。
仕方なく、あたし達は肩を並べて無言で歩き続ける。
その間も、人の流れは尽きることなく溢れ返っている。
すれ違う人が皆、あたし達に視線を向ける。あれ、って感じで。


途中、店に陳列されたテレビがニュースを流していた。
特に気にすることも無く、その場を通り過ぎるつもりだった。
ショチトルが足を止めて、それに見入ってしまわなければ。

「そういうことか」

ちっ、と舌打ちしてショチトルは言う。


見れば、画面には指名手配という単語が大きく書かれたテロップと共に二枚の顔写真が映し出されていた。

「え」

思わず、自分の目を疑ってしまった。
両手で目をゴシゴシ擦り、もう一度画面を見る。
でも、そんなことで映っているものが変わるワケもなくて。

「嘘……」

本心からの感想だった。
けれど、ショチトルはバカにするような目つきでこっちを一瞥して、

「呆けている場合か」

そして、あたしの手を取って走り出した。












何が何だか分からないうちに、待ち合わせ場所であるファストフード店に着いてしまっていた。
壁に掛けられたデジタル時計を確認してみると、まだ二時だった。

「何してるんだろ、私」

溜め息と共に、呟く。

「まだ一時間もあるのに」

白井さんに告げられた約束の時間は三時だ。
店に向かおうと決めた時、確かに少しばかり早いかなとは思っていた。
でも、早く着いたらどこかで時間を潰せばいいんだとも思っていた。
お土産を見るとか本屋に寄るとか、いくらでもその辺りの融通は利くはずだった。
ところが、だ。お土産も見ず、本屋にも寄らず、何にも考えずに、一直線に待ち合わせ場所の店に入ってしまっていた。
よっぽど気が急いていたんだろう。

「困ったな」

ぼやきつつ、二階の窓際の席に陣取る。
今から一時間、一人でこうして待っていなければならない。何だかひどく惨めな気分だった。
窓から差し込む太陽の光を浴びながら、姉さんと一緒にいた時の気持ちを思い出そうとした。
何もかも上手くいくって思えたんだ。どこまでもどこまでも歩いていけるって。姉さんと一緒なら、何だって出来ると感じたんだ。


でも、今は無理だった。
両手で顔を覆って、私は呻いた。


どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
何か大変なことが起きようとしている。
能力者という肩書きのせいで、危険な目に遭うかもしれない。
白井さんも、初春さんも、佐天さんも、春上さんも。
それが分かっているのに、でも、何も出来ない。
ただ自分が、どれだけ無力であるのかを思い知らされるだけ。


苦しい。
苦しいよ、姉さん。
私、どうしちゃったんだろう。
どうして、こんなに胸が痛むんだろう。


誰か、助けて。
お願いだから、助けてよ。
こんな痛み、今まで知らなかった。
まるで心臓を握り潰されているみたい。


痛みを誤魔化そうと店内を見渡すと、禁煙席と喫煙席を隔てる硝子製の仕切りに、自分の顔が映り込んでいた。
痛みを必死に堪えるような、その顔には見覚えがあった。


ひょっとして、と思い返す。
あの時、姉さんも同じ痛みを抱いていたのかもしれない。
自らの命を投げ出す実験に身を任せた私達を救おうとして。
でも、どんなに足掻いても止められなくて。
一人、また一人と無残に殺されていく私達を目の当たりにして。
だけど、それでも姉さんに出来ることは何一つとして存在しなくて。


ああ、何てことだろう。
こんなに苦しめていたなんて。
ここまで姉さんを追い詰めていたなんて。
人を想う気持ちが、ここまで痛いものだったなんて。
この一件が片付いたら、真っ先に姉さんの元へ向かおう。
そして謝ろう。ごめんなさいって。もう二度と、自分の命を蔑ろにしないって。
ああ、それにしても長いな。一人きりで一時間も待つのは長過ぎる。
ゆらり、と私は立ち上がった。特に行き先があるワケじゃない。けど、じっと待っていられそうにもない。


店を出ると、街は妙にざわついていた。
生と死の境を垣間見た私の肌が、危険なものを感じさせる。
用心して辺りを見回すと、道行く人にチラシを配るピエロの姿があった。

「一攫千金のチャンスだよー」

なんて声高に叫ぶピエロから、チラシを受け取る。

「……みんなで学芸都市を守ろう。お尋ね者を捕まえたら賞金として一万ドル贈呈……」

そこには学芸都市に不法で入り込んだ者がいるという話題と、お尋ね者二人の顔写真が載っていた。

「……佐天さん……」

口にしてみて、怒りが込み上げてきた。


何のつもりよ、これ。
佐天さんが、貴方達に何をしたって言うのよ。

「ちょっと、これはどういうこと?」
「うん?参加型のアトラクションだけど」

冷静を装って訊ねると、ピエロはあっさりと答えた。

「そんな怖い顔しないで。夢の世界を存分に楽しんでね」

なるほど。見世物と称して、この二人を捕まえようってワケね。


学芸都市の秘密を佐天さんが知ってしまったのか。
あるいは、一緒にいる子を庇ったせいで狙われてしまったのか。
しばらく考え込んでから、私はチラシを投げ捨てた。


――ま、どっちでもいいか。


どんな理由があろうと関係ない。
私のやるべきことは決まっている。


誰よりも先に二人を見つけ出す。
学芸都市の連中から、二人を救い出す。


――急がなきゃ。


心の中で呟き、私は走り出した。











[20924] 第62話 姉と妹⑧
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/12/18 22:27
夏の太陽は、今日も朝から絶好調。
飽きもせずジリジリと焦がすような光を降らせている。
強い日差しのせいだろう。いつもの大通りが何となく、蜃気楼のようにぼやけて見える。
金色の髪を左右に分けてまとめ、私は一人、コンビニに向かって歩いていた。
赤いランドセルは背負っていない。ノートパソコンを持ち出す時以外に、あれは使わないことにしているから。


お昼過ぎ、牛乳でも飲もうと思って冷蔵庫を開けてみたところ、

「あれ?」

冷蔵庫の中は、ほとんど空っぽだった。


考えてみれば当たり前だ。
ノートパソコンで学園都市内の監視カメラを操ったり、次々と降って来る鉄骨に巻き込まれそうになったり。
お見舞いに行って、闇討ちに遭って、決闘を申し込んで、呆気なく敗れて。
でも、そんな私を受け止めてくれる人に出会えて。


とにかく大忙しだったのだ。
牛乳を買っている余裕なんて、あるはずもなくて。
少々迷った末、近くのコンビニに買いに行くことにしたのだ。
別に、何としてでも牛乳を飲みたかったワケじゃない。ちょっとした気晴らしのつもりだった。
昨日から部屋に篭って論文をずっと読んでいたので、外の空気を吸っておきたかったのだ。


一睡もしていないせいで身体は疲れ切っていたけど、でも、全然眠くなかった。。
おじさんから譲り受けた論文は、眠気なんて跡形もなく吹き飛ばすくらい魅力的なものだった。
一見すると机上論に過ぎないそれらは、読み解くことで新たな可能性の扉を一つずつ開けていって。


今は、零次元の極点と題された論文に着手している。
次元を切断していき、三次元中に展開しているあらゆる物質を零次元という一つの点に集約するという特殊な空間理論。
実証できれば重量と距離に一切の制約が無く、同時に使用制限も存在しない、全く新しい空間移動能力者が誕生する。
この理論を実践するのに相応しい能力を持つのは第四位のお姉さんだと、おじさんは考えていたみたいだけど。
でも、私は確信している。美琴お姉ちゃんなら、この理論を実証し、使いこなしてくれると。次元の切断に電子を用いるというなら、尚更だ。


第四位のお姉さんに出来ることは、お姉ちゃんにも充分に可能だ。
電磁波を自由自在に操る能力は、根元の部分では第四位の能力と変わらない。


いや、違うな。同じなんかじゃない。
自身の手足のように電子を動かせるお姉ちゃんの方が遙かに優れている。
その気になれば、『原子崩し(メルトダウナー)』だって再現できちゃうんじゃないかな。


ああ、早くお姉ちゃんに教えてあげたいな。
電話越しなんかじゃなくて、直接会って話がしたい。
お姉ちゃんは喜んでくれるかな。笑顔を見せてくれるかな。だったらいいな。


それにしても、と私は思う。
数多おじさんは、どうして自身が書き上げた論文の全てを私に託したんだろう。
腕を組み、それでも歩みを止めることなく考える。どういう心境の変化なんだろう。
ちょっと前まで、身内にすら研究成果を明かそうとしなかったのに。頼んだぞ、だって。
まあ、それはいいか。おじさんの頭の中なんて、いくら考えたって分かんないし。掴みどころのない人だからね。


色々と考えている内に、コンビニに到着。
牛乳が置かれている棚まで、迷うことなく歩みを進めてみたものの、

「あれ?」

本日、二度目の呟き。
なんと、目的の品は売り切れていたのだ。


――どうしようかな。


牛乳の代わりに、別の飲み物を買うという手もある。
が、困ったことに、これといって飲みたいと思える物が何一つとして無い。
しょうがない。ちょっと遠出になるけど、別の店で牛乳を買おう。
そう決めて店を出ると、溶け込んでしまいそうな強い日差しが出迎えてくれる。

「まだまだ暑い日が続きそうだなあ」
「みたいだな」

いきなり、誰かの声。


心臓を掴まれたような気分で、声のした方に顔を向ける。
と、そこに背の高い茶髪の男が立っていた。

「お前は今日で終わりだけど」

資料で見たことがある。
この人、お姉ちゃんと同じ超能力者だ。
名前は確か、垣根帝督。
学園都市の闇にその身を預ける、学園都市第二位。

「じゃ、始めるか」

そう言って、ニヤリと笑う。

「始めるって、何を」

戸惑いつつも、訊ねる。

「悪いが」

私の問いには答えず、彼は続けた。

「仕事なんでね」

ニヤニヤ笑ったまま、そんなことを言い放った。












走った。とにかく走った。全速力だった。


ちなみに私はサイボーグである。
全身の七割以上が、一族謹製の技術で作られた高性能義体に置き換えられている。
そのおかげで同年代の小学生どころか、人間の常識を遙かに凌駕する速さを手に入れた。
今の私なら、後ろからチーターを追い抜くことだって出来る。


楽勝だ。そう、楽勝のはずなんだ。
たった一人、それも生身の人間から逃げ切るなんて。
なのに、いくら走っても不安に駆られるのは何故だろう。
もう、三十分以上も走り続けていた。
どこをどう走ったかはまるで記憶が無いけど、どうやら河原の方へ来てしまったらしい。


私は足を止めた。
息が切れる。喉の奥が熱い。
無理もない。必死になって走り続けたのだから。


――アイツは?


肩で息をしつつ、辺りを見回す。あの男の姿を探す。


気配は無い。
お姉ちゃんと戦った時と同じ。
河原には誰一人としていなかった。
水の流れる音が微かに聞こえるばかり。
まあ、平日の昼間ともなれば当然か。


――振り切れたのかな。


こうして逃げ続けてきた今でも、ワケが分からなかった。


何故、垣根帝督は襲いかかってきたのか。
私を殺したところで、何かが変わるとも思えないのに。
分かっているのは、たった一つ。垣根帝督が本気だという、その一点だけ。
笑顔を振り撒いていたけど、その目は全く笑っていなかった。
恐ろしく冷たく、しかも奥底に不思議なくらい強い光を宿していた。

「随分のんびりしているな」

いきなり、声がした。

「それとも、もう終わりか」

振り向くと、数メートル先に垣根帝督の姿があった。
ほんの一瞬前まで、気配すら無かったというのに。

「そうだね」

荒れた呼吸で、私は答える。

「逃げるのは、これで終わり」

いくら逃げても、どうやら無駄らしい。
だったら悪戯に体力を消費せず、元気なうちに戦った方がいい。


幸い、辺りには私達以外に誰もいない。
多少暴れたって大丈夫。関係ない誰かを巻き込むこともない。
と言っても、勝てる見込みなんて全くと言っていいほど無いのだけど。


『未元物質(ダークマター)』


この世に存在しない素粒子を生み出し操る彼の能力は、あまりにも謎が多過ぎる。


今日まで数々の研究者が彼の能力解析に挑み、そして匙を投げた。
原理はおろか、理屈自体が存在するかも怪しいと囁く者まで現れる始末。
でも、垣根帝督が能力を行使しているのは間違いない。


私の眼には確かに視えているのだ。
彼の全身を覆う、空よりも青く染まったAIM拡散力場が。












標的の鋭い視線を受けて、俺は大きく息を吐いた。


気が滅入る。当たり前だが。
面倒な依頼を引き受けてしまったものだ。
女の子を一人、殺すだなんて。
それも、徹底的にいたぶってから仕留めるなんて条件付きで。


人として、それは最低の依頼だった。
殺人に慣れてしまった今でも、二つ返事で了承できる内容ではなかった。
それでも引き受けたのは、彼女が提示した報酬に魅力を感じたからだ。
学園都市の機密を余すことなく蓄えた情報網の存在と、その情報を閲覧する方法。
上手く使えば、アレイスターと対等の位置に立つことも決して不可能じゃない。


それは、あまりにも芝居じみた展開だった。
欲しがっていたものが、向こうから飛び込んでくるなんて。


だが、現実など、そんなものなのかもしれない。
俺達の人生は常に何者かに侵食され、使い捨てられている。
けれど、どれほど使い捨てられていようと、そうして自分は生きている。


得体の知れない自身の能力も。
決して埋められない第一位との差も。
最初から決まっている能力者の素養も。
陳腐であろうが、それはやはり現実なのだ。


同様に、依頼人である研究者も、芝居じみた提案も現実だった。


――現実、か。


俺を睨みつけてくる少女に目を向ける。


大したものだ。
おそらくコイツは、俺が何者なのか知っている。
にも関わらず、この態度。退く気なんて、これっぽっちも持ち合わせていない。


だが、コイツもすぐに思い知るだろう。
現実ってヤツは唐突で、理不尽で、しかも絶対的なものだってことを。











[20924] 第63話 姉と妹⑨
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/12/29 21:27
先手必勝。それしか頭に無かった。
どれだけ優れた能力の持ち主であろうと、その身体は生身の人間と変わらない。
能力を使う暇なんて与えない。一足で、垣根帝督を殴りつけられるまでに間合いを詰める。

「無駄だ」

第二位の声が聞こえた。
ボソリと、まるで独り言のように呟かれた言葉は間違いなく真実だった。
私の突き出した拳は、彼に届く寸前で止まってしまう。鈍い音が辺りに響く。

「な――」

拳の先には何もない。
何かを殴りつけた感触は、確かにあるのに。

「危ねえな」

ニヤニヤ笑いながら、第二位。
私は逃げ出したい衝動を抑えて、目前へと意識を集中させる。
そうして、やっと視えた。目の前に巨大な、半透明の青白い膜がぶら下がっているのが。

「お前、見えているのか」

感心するような声。

「でもな、それだけじゃ俺には勝てねえよ」

告げられる絶望。それより早く、私はAIM拡散力場で構成された壁の中で最も脆い部分を凝視していた。

「視えたよ、第二位のお兄さん」

今度こそ、当てる。
再度、垣根帝督に肉薄する。
強く握られた拳は青白い膜を破り、そのまま彼の腹部を殴り上げた。
分厚いコンクリートの壁さえ砕く一撃に、垣根帝督の身体が呆気なく吹っ飛ぶ。


決まった、と思った。
学園都市第二位とて、一人の人間。
もちろん手加減はしたけど、大木でも貫ける一撃に耐えられるはずがない。
垣根帝督の身体を拳で突き上げたその時、私は自身の勝利を信じて疑わなかった。


宙を舞った彼が、空中でいきなり止まってしまうまでは。


そう、第二位は浮遊していた。
何もない中空に、当然のように在った。

「やってくれるじゃねえか」

視線を下界へ下げる第二位。
地上から十メートル離れた高所に在る彼と、見上げる私の視線が交錯する。
悪寒を堪え、私は嫌らしい笑みを浮かべる垣根帝督を本気で観察した。


青い、AIM拡散力場を直視する。
彼の身体から溢れ出る青白い光が、ゆっくりと背中に集まっていく。
糸のように細い光が絡み合い、一つの形を成す。そして青い光は一層強く瞬いた。

「ご褒美だ」

彼が太陽を背にしているせいで、大まかなシルエットしか判らない。
それでも否応なしに思い知らされてしまう。この人は強い。私なんかより、ずっと。

「見せてやるよ」

一点の染みも無い、六枚の白い翼。
一枚で十メートルを優に超えるそれらを羽ばたかせ、彼は言った。

「学園都市第二位の実力ってやつを」












地上から二十メートル離れた高所で浮遊しつつ、俺は銀色に輝く刃を無数に生み出した。


俺を中心として中空を漂うそれらは、この世界に存在する物質ではない。
まだ見つかっていないとか、理論上は存在するはずといった物理学で定義される暗黒物質とはワケが違う。
AIM拡散力場を介して俺自身が創り出した、本来であれば存在することの決してない物質だ。


この世界の物質ではない以上、この世の物理法則にそれらは従わない。
独自の法則で動き、相互作用した物質すら巻き込んでしまう。
創造主の俺でも、その変化の全ては把握していない。が、大した問題じゃない。
俺の能力は無敵だ。たとえ第一位であろうと、俺には勝てない。勝てる要素など微塵も無い。


河原を見下ろす。
標的である少女を、その目に捉える。
サイボーグと言っても、相手はただの子供。


小細工など要らなかった。
本当なら、あっと言う間に殺すことが出来た。
今までだって、何度も機会はあった。
これまでの刃も加減して飛ばしていたのだ。
ちゃんと狙えば、標的の頭を撃ち抜くことなど簡単なのだ。
もちろん、依頼人の要求に従っての行動だった。
散々なぶり、怖がらせること。だが、もういいだろう。
楽しんでやっているワケではない。もっと早く終わらせたかったくらいだ。


楽団の指揮者のように、右手を振り下ろす。
周囲の刃が一斉に落下を始め、雨となって河川敷に降り注ぐ。
しかし標的である少女には当たらない。
僅かな隙間に身体を滑らせ、これまでと同じように回避を続ける。
この少女は刃の雨をかわす。それが眼前に突きつけられた事実だった。


そう言えば、と思い出す。
AIM拡散力場で形成した壁を、この少女は視認していた。
間違いない。アイツには見えているんだ。
精密機器でもなければ観測することが出来ないはずである、AIM拡散力場の流れが。


AIM拡散力場を通して落とす刃の速度は音速にまで達する。
見てから回避することは、まず不可能だろう。
しかし、予め落ちてくる地点が分かっているとするなら話は別だ。
義体によって強化された身体能力と合わせれば、現状にも納得がいく。


――あの女、適当な情報を流しやがって。


刃の形成を続けつつ、心の中で依頼人に悪態を吐く。


ヤツは断言したのだ。
標的の能力は他人のAIM拡散力場を操ること。
しかし彼女程度の実力では、俺の能力に干渉など出来ないと。


だが、一連の動きで俺は確信した。
他人の能力への干渉は、相手を警戒させるための囮に過ぎない。
この少女の本命。それは機械の身体とAIM拡散力場の流れを見る能力を活かした体術。

「面白いじゃねえか」

嘲るように、呟く。


鮮やかに輝く金髪を靡かせ、少女は次々と落下してくる刃をかわし続ける。
落下地点が分かると言っても、刃が音速で迫って来ること自体に変わりはない。
一つでも判断を誤れば即座に命を失ってしまう、絶体絶命の状況。
にも関わらず、少女は刃を避けることに意識を集中させていない。
降り注ぐ刃をかわしながら、一時たりとも俺から目を離していない。
そして観察している。真っ直ぐな瞳で。俺の挙動を、仕草を、余す所なく。
窮地に立たされている中で、それでも俺の隙を探り続けている。


冷静だ。実に。
右腕に付けた『風紀委員(ジャッジメント)』の腕章は、ただの飾りではないらしい。
仕事柄、乱暴な連中を何度も相手にしてきたのだろう。
だからこそ、惜しい。もう少し注意深く周囲を観察していれば、完成しつつある罠の存在にも気づいただろうに。












青い光の線が無数に降り注ぐ。
その光の軌跡を辿って、刃が落下してくる。
青い光も、一歩遅れて飛んでくる刃も尽きる気配はない。
空中で制止した第二位の周りで、次々と生み出されていく。


私は踏み込まない。ううん、踏み込めない。
絶え間なく攻撃が続く今、迂闊に動けば死に直結する。だから攻めたくても攻められない。
第二位の動きと青白く光る彼のAIM拡散力場に注意を払いつつ、反撃の機会を待つしかない。

「そろそろ頃合いか」

突如として、刃の雨が止む。
放たれ続けた刃は、地面に深く突き刺さっている。

「痛みを伴った死と、伴わない死。好きな方を選べ」

歌うように、彼は語りかける。

「面白くない冗談だね」

口元に笑みを浮かべて、私は言った。
どんなに追い詰められても、気持ちで負けるワケにはいかない。

「どっちもお断りだよ、天使のお兄さん」

そうか、と苛立ちを含んだ声。

「前者が好みらしいな、クソガキ」

どうやら今の言葉は第二位の逆鱗に触れてしまったらしい。


垣根帝督が六枚の翼をはばたかせる。
百を優に超える数の刃が、一瞬にして顕現される。

「お望み通り、徹底的に痛めつけてやるよ」

刃から、青い光の線が伸びる。
これまでのように、光は地面を照らさない。
青い線は私に殺到していた。しかも、ただ殺到しているんじゃない。
前後左右、そして上下。全ての方位から複雑な軌跡を描いて私に向かっている。
はっきり言って、マズイ。今すぐ、この場から離れなきゃいけない。

「さあ、どうする」

第二位が手を動かす。
すると宙を漂っていた刃が一斉に、私目がけて殺到した。
光の軌跡を正確に辿って、迫りくる刃の群れ。
青い線から逃れるように、私は横に跳ぶ。その瞬間、


――ッ!?


右肩から血が流れた。

「な……」

何で、と疑問を口にする暇もない。
飛び交う刃が身体を切り裂いていく。
決して深い傷じゃない。けど、浅いワケでもない。
生身ではない箇所であっても、お構いなしに切り裂いていく。
刃を避けたと思ったら、今度は何もないはずの場所で血を流してしまう。
まるで見えない刃でも、予め仕掛けられていたかのように。


――見えない、刃……?


そして気づいた。


まさか――


目の前に意識を集中させて、私は視た。
青白く輝く無数の刃が宙に浮かび、檻のように私を取り囲んでいる光景を。


やられた。この失敗は致命的だ。
相手の攻撃を警戒して動かなかったのが、完全に仇となった。
刃の雨は、単なる目眩まし。刃の檻に私を閉じ込める布石に過ぎなかったのだ。

「終わりだ」

飛び交う刃が、じわじわと体力を奪っていく。
宙に浮かぶ刃が邪魔で、避けることも弾くことも出来ない。


――マズイ。


頭を必死で回転させる。
何とかして、この場を切り抜ける手段はないものか。
でも、いくら考えても見出せない。
自分の切れる手札では、もはや手の施しようがない。


絶望に駆られた、正にその時。
縦横無尽に飛び回る刃の一つが、私の首を狙ってきた。
避けるのは、厳しい。刃の檻に捕らえられている今、迂闊には動けない。
しかし、このままでは確実に殺される。そう一瞬で判断した私は、一か八か横に跳ぼうとした。
自身の七割を構成する義体の強度が、不可視の刃を越えていると信じて。でも、その必要はなかった。


視界を覆い尽くす青。
そこに、突如として金色の光が割り込んだのだ。


私は視た。


金色の光が周囲の空間もろとも、空中に在る刃全てを圧縮する様を。


そして、見た。


距離にして、およそ八メートル。
まるで初めからそこにいたように、片手を上げて佇む人物を。


そこにいたのは、ここにいるはずのない人だった。
鍔の付いた、野球帽のような黒い帽子を深々と被っている。
胸元に三つのスペードをあしらった黒いTシャツに、ベージュの短パン。


普段の制服姿からは、想像することも出来ない恰好。だけど分かる。
私を、ううん、私達を救ってくれた人のAIM拡散力場を見間違えるはずがない。
まるで隠すことをしようとしない、愚直なまでの力強い流れ。
燦然と光り輝く、黄金の螺旋。

「お姉ちゃん!」

気づいたら、大きな声で呼んでいた。
そんな私に、美琴お姉ちゃんは手を振って応えてくれた。
見る者を安堵させる優しい笑みを浮かべて、応えてくれたんだ。











[20924] 第64話 姉と妹⑩
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/12/29 21:41
六枚の翼を背に生やした俺は空の上。
突如として現れ、俺の刃をかき消した女は空の下。
文字通り天と地とに分かれて、俺は招かれざる客と対峙する。

「お前、第三位だろ」
「そうだけど」

低い声が返ってくる。
だから何、と言わんばかりに帽子の鍔を上げて睨みつけてくる。

「何故ここにいる。広域社会見学はどうしたんだ」

問い質しつつ、俺は分析していた。


目の前で起きた現象。
この世界に存在しない金属を呆気なく消滅させた第三位。
それは目の当たりにした今でも尚、信じ難い光景だった。


学園都市第三位は電撃使い。
応用に優れた能力者ではあるが、単純な破壊力に関しては第四位にすら劣る。
問題など生じるはずがなかった。仮に第三位が学園都市に残っていたとしても、何も変わらないはずだった。
周囲から隔離された領域を自身の能力で創り出しても、彼女が電磁波で位置を特定してくる可能性も考慮に入れていた。


しかしそれだけでは済まされなかった。
第三位は俺の能力に対抗できるだけの力を有している。
この事実を有り得ないとまで言うつもりはない。が、限りなくそれに近い。
しかし、実際に目の前でそれは起きている。ならば何か理由があるはずだ。

「さあ、どうしたんだろうね」

答えながら、第三位はサイボーグの少女の元へ歩み寄る。
そして庇うように彼女の前に立ち、俺と向かい合う。


俺は冷静に分析を続ける。
学園都市で二番目に優れた頭脳を駆使し、目の前で起きた現象の正体を探る。


最強の電撃使いとして名高い第三位。
肉眼で見ることの出来ない電磁波を正確に捉え、自身の手足のように操る超能力者。
一瞬にして刃の群れを一掃した、不可視の攻撃。それを成したのは、まず間違いなく電磁波。
局地的に出力を跳ね上げられた電磁波を収束し、空間もろとも標的を焼き潰す。


――つまり、不可視の攻撃は第三位が電磁波を掌握した領域でのみ発動する。


「随分と余裕じゃねえか」

仕組みさえ分かれば、後は簡単だった。
六枚の翼を羽ばたかせ、羽根を零していく。

「そしてムカついた。その顔、絶望で歪ませてやる」

宣言し、突風を巻き起こす。
瞬間、無数の白い羽根は空一面に広がり、周囲に存在する電磁波の物理法則を書き換える。


俺の能力は存在することのない物質を生み出すだけに留まらない。
相互作用した物質ですら、この世界にない独自の物理法則に従って動き出す。
そう、この世界に常識として存在する物理法則全体に干渉し、塗り替えてしまうのだ。
敢えて難点を挙げるなら、変化した性質を俺自身も把握し切れていないところか。
とは言え、現状を打破する上では問題ない。
電磁波フィールドの掌握を第三位に許さなければいいだけの話なのだから。

「俺に同じ手は通じねえ」

右手を翳す。そして現れる、金でも銀でもない金属で作られた短剣。
その数、百。それら全てが刃先を第三位に向け、空中で静止している。

「電撃使いなら大人しく、電撃だけ出してりゃ良かったんだよ」

避ける、という選択肢は第三位に残されていない。
背中に庇うサイボーグの少女を見捨てるなど、この女に出来るはずがない。


でもまあ、安心しろ。
急所だけは避けてやるよ。
お前の能力、思っていた以上に使えそうだしな。












最悪だ、と私は思った。
垣根帝督を覆っていた金色の光が蹂躙される。
白い羽根に触れた箇所から、第二位の能力の根源である青い光へと塗り替えられていく。


更に追い打ちをかけるように出現した、百に及ぶ短剣。
さっきの戦いで消耗した今の私には、その全てを避けるだけの余力は残っていない。
美琴お姉ちゃんでも、音速に迫る速度で襲いかかる全ての刃を叩き落とすなんて無理だ。

「逃げて!」

懇願するように、私は叫んだ。


あれは、ただの短剣なんかじゃない。
ライフルですら物ともしない、私の義体を容易く切り裂いてみせたのだから。


お姉ちゃん、逃げて。
私なんかに構わず、この場を離れて。
第二位の狙いは、私なんだよ。
お姉ちゃんが傷つく必要なんて、これっぽっちもないんだよ。


第二位が人差し指をこちらに向ける。
それを合図に百の短剣が一斉に発射され、私達に殺到する。

「お姉ちゃん!」

だから逃げて。
お願いだから、そこを退いて。
見たくない。私のせいで、お姉ちゃんが傷つくところなんて。
見たくないんだよ、本当に。
そんなの、嫌だ。絶対に――

「大丈夫」

お姉ちゃんの声。優しい声。

「絶対に、大丈夫」

お姉ちゃんは右手を天に翳す。
指の一本一本から、放電による火花が散る。
それと同時に、指先から次々とプラズマ球が嵐のように発射された。


溜める時間は一切ない。
五発のプラズマ球が絶え間なく生み出され、上空に放たれる。
百近くあった短剣はプラズマ球と衝突し、瞬く間にその数を減らしていく。
この光景を見て、しかし第二位も黙っていない。
プラズマ球に対抗できるだけの短剣を次々と生み出して、放ってくる。


第二位は休みなく撃つ、刃の嵐を。
お姉ちゃんも休みなく撃つ、プラズマ球の嵐を。


刃とプラズマ球が数秒の間に何発、何十発も激突し、爆音を響かせ、そして、

「埒が明かないわね」

ここでお姉ちゃんが更なる追撃をかける。


お姉ちゃんの左手、五本の指に五つのプラズマ球が宿る。
右手と左手。合わせて十本の指から次々とプラズマ球が発射される。
倍の数に膨れ上がったプラズマ球は全ての短剣を呆気なく飲み込む。
それだけに留まらず、撃ち合いに敗れた垣根帝督を滅ぼさんと殺到する。
プラズマ球の群れは真っ直ぐに第二位へと向かい、直撃。
瞬間、耳の芯に響くような爆音が鳴り響く。


物質の三態、すなわち固体、液体、気体のいずれとも異なる性質を持つ、物質の第四態と呼ばれるプラズマ。
お姉ちゃんが球状にして放ったのは、その中を構成する粒子全ての温度が高い熱プラズマというものだ。
高温の熱プラズマは数万ケルビンにも及び、地球上のあらゆる物質を溶かしてしまう。
それが直撃したのだから、無傷ではいられるはずがない。


そう、普通ならば。
だけど、この相手は普通じゃなかった。
激突によって生じた放電が収まった時、そこには無傷のまま悠然と浮かぶ第二位の姿があった。

「そんな……」

この世界に耐え切れる物質など存在しないはずの高温。
今のお姉ちゃんの攻撃にはそれだけの熱が込められていた。
それが全く通じないなんて、最早、悪夢でしかない。


呆然と立ち尽くす私をよそに、垣根帝督は悠々と地に降り立つ。

「さすが第二位。簡単には勝たせてくれないか」
「へえ、俺を知ってるのか」

吐き捨てるように口にしたお姉ちゃんの言葉に、垣根帝督が興味深そうに反応する。

「この世界に存在しない物質を生み出す、学園都市第二位の超能力者。単純に戦闘力だけを見れば、あの『一方通行(アクセラレータ)』に匹敵する実力の持ち主。合ってる?」

え、と思わず声を洩らしてしまう。


世界中のあらゆるベクトルを観測し、触れただけで意のままに操ることが出来る第一位。
それだけの実力者と、互角だって言うの?この垣根帝督という男は、それほどなの?

「詳しいな。表の世界しか知らねえくせに」

けど、と第二位は大袈裟に肩を竦める。

「だったら何で立ち塞がる?分かるだろ。第一位に手も足も出なかったお前が、俺に勝てるワケがねえ」

垣根帝督の言葉に、お姉ちゃんは笑みを浮かべる。
どこかしら愁いを帯びた、静かな、秋風のような笑みを。

「そうね。正直言えば逃げたいかな」

一瞬、聞き間違えたのかと思った。
逃げたい、なんて。あのお姉ちゃんが公言してしまうなんて。


でもさ、とお姉ちゃんは続ける。
唇の端を上げて、鋭くした瞳に意志の光を輝かせて。
秋風のような笑みは消え去り、お姉ちゃんは不敵に笑う。

「意地ってやつがあってね。どうしても退けない理由があるの」


――ああ、やっぱり。


心の中で、そっと胸を撫で下ろす。


そうだ、お姉ちゃんが簡単に諦めるはずがない。
才能とか、能力とか。そんなものは関係ない。


お姉ちゃんは強い。
誰よりも、もちろん、目の前にいる第二位よりも。
お姉ちゃんの心を折るなんて、そんなの、誰にだって出来るはずがない。

「いい度胸をしているな」

口の端を笑みの形に歪める垣根帝督。
その表情からは、彼の思考は読み取れない。

「ここで潰すには余りにも惜しい」

第二位は差し伸べる。手を。

「俺の物になれ、第三位」











[20924] 第65話 姉と妹⑪
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/08/24 00:15
「認めてやるよ」

と、垣根帝督は言った。

「空間爆砕やプラズマ生成を可能にするほど自在に電磁波を操る、お前の腕を」

白い翼を背にして、第二位は称賛の声を上げる。
私は何も答えず、ただ自身を天使に似せた相手を見つめる。

「AIM拡散力場の制御という点に限れば、お前は間違いなく俺の先を行く。電撃なんて珍しくもない能力を、よくそこまで昇華させたもんだ」

第二位は大袈裟に両手を広げると、口の端を上げて笑った。


私は冷ややかな眼差しを崩さない。
それを前にしても、彼はニヤニヤと笑っていた。

「俺と共に来い、第三位。俺達が組めば無敵だ。何だって出来る」

情報ってやつほど頼れる武器は無いからな、と付け加えて彼は笑った。


――そういうこと、か。


そんな彼を片目で睨み、私はようやく口を開いた。

「知っているのね。『滞空回線(アンダーライン)』を」

視線に力を込めて、私は垣根帝督を見つめた。
それでも彼は表情を崩さない。ニヤニヤと笑みを浮かべるばかり。

「いいぜ。察しが早い」

この上なく楽しそうに笑いながら、第二位は応える。


私は楽しくも何ともないっていうのに。
どんな情報を相手が掴んでいたって関係ない。
第二位の絶対的な防御を貫く手段を見つけ出すのが、私の唯一つの目的なのだから。

「目的は何?」

瞳を細めて、問いただす。

「つまらないことを訊くなよ」

第二位は笑う。愉悦に瞳を滲ませて、面白そうに。

「この街は狂っている。お前だって分かっているはずだ」

私は反論しようと口を開きかけ、しかしすぐに閉じる。


脳裏に蘇る、絶対能力進化実験という名の悪夢。
自身を実験の道具として認識し、何の躊躇いも無く命を落としていった妹達。

「早く自由になりたいだろ。妹達を解放してやりたいだろ」

くく、と第二位は意地の悪い笑みを零す。

「分かってる。分かってるんだ。分かってるとも。だって同じ超能力者である俺が一番、お前のことを分かってやれるんだからな」

私は何も答えない。一言も口にしない。
第二位の言葉に抗い難い真実が含まれていて、それを否定したかったとしても。


――この街は、狂っている。


その言葉に、私は誰にも気づかれないよう、そっと眉を曇らせた。

「ほら、お前は無理をしてる」

けれど、天使の如き羽根をその背に生やす第二位は些細な変化も見逃さない。

「そんなこと、初めから分かっていただろう」

ニヤリ、と。彼は口元を歪に吊り上げる。

「この街には夢も希望も存在しない。素質が全てなんだからな」

その言葉に、私は喉を詰まらせるしかなかった。


そう、この男の言う通り。
自身の能力を頂点まで極めたい。
超能力者と呼ばれる人間になりたい。
そんな夢も、希望も。実現のために費やしてきた努力も。
その全てが否定される残酷な現実を、学園都市はひた隠しにしている。

「まさか『素養格付(パラメータリスト)』のことも……?」

力なく訊ねる私に、垣根帝督は無言で肯いた。


つい最近のことだけど、私も知ってしまったんだ。
学園都市を飛び交う七十ナノメートルに過ぎないシリコン塊から引き出した情報によって。
能力開発を行なう以前から、能力者として私達の行き着く先は決定付けられていたんだって。
低能力者に過ぎなかった幼い頃の私にDNAマップの提供を求めたのも、いずれ私が超能力者に至ると分かっていたからなんだって。

「とは言え、この街の利用価値が高いのも事実」

だからさ、と第二位。

「俺達で有効に使ってやろう。この街を住み易い場所に変えるんだ」

再び差し伸べられる、手。

「強がったって無駄だぜ。何せ俺には、お前の全てが分かってるんだからな」

風が舞った。髪が揺れた。川面に波が立った。

「ふざけたことを言わないで」

第二位の言葉に戸惑った私に代わって、声を荒げた人物がいた。

「お姉ちゃんは貴方と同じなんかじゃない」

那由他だった。
私の横に並び、吼えるように叫ぶ。

「貴方みたいに、平気で人を傷つけたりなんか絶対にしない!」

思わず涙が出そうになり、慌てて指で拭う。


ああ、そうだった。
確かに学園都市は狂っているのかもしれない。
だけど、この街がなかったら那由他には会えなかった。
黒子にも、佐天さんにも、初春さんにも、春上さんにも会えなかった。
そして勿論、当麻にも。自分の命よりも大切だと思えるような人と巡り合うことも、絶対になかった。


私は那由他の頭に手を置いた。
くしゃくしゃと撫でる。

「ありがとう」

私は笑った。

「もう大丈夫」

那由他の顔もまた、綻んだ。
無邪気で、可愛らしくて、屈託のない笑顔。
それを私は守りたい。たとえ自分より遙かに格上の超能力者を相手にしてでも。

「アンタさ」

私は不遜な調子で言った。

「私のことは全て分かっている。そう言ったよね」

訊ねつつ、落ち着きを取り戻した頭で考える。
私達の行使している能力は、果たして科学だけで説明の付く代物なのだろうか。


例えば、目の前にいる男が操る『未元物質(ダークマター)』。
この世界に存在しない物質を生み出す第二位の能力は、科学で説明できる範疇を超えている。
そう、彼の能力には通じないのだ。科学に基づいた常識が、一切。
まるで魔術だ。能力者として長年培ってきた知識が、全く役に立たない。

「お生憎様。全然分かってないわよ」

でも、と私は思う。


能力の根源であるAIM拡散力場自体、そもそも科学的に解明が成されたものだっただろうか。


答えは否。明らかに否だ。
構成物質は何なのか、とか。
どういった過程を経て精製されているのか、とか。
真っ当な科学と呼ぶには、未解決な問題があまりにも多過ぎる。

「私、この街のこと」

そう。つまりは、そういうこと。
能力も魔術も、その在り方に大差はない。


基本的な部分は同じ。
異能によって、本来であれば実現し得ない現象を引き起こす。
物理法則なんて、ただの飾り。
尤もらしい理由を後付けしているに過ぎない。


だとすれば、話は簡単だった。

「結構気に入っているんだから」

私はイメージする。
より輝く光を。より強い電磁波を。
理屈なんて要らない。
今なら出来る。既存の法則を捨て去り、不可能を可能に変えることが。

「残念だ」

困ったように笑って、第二位は言う。

「素直に首を縦に振ったら、そのガキだって見逃してやったのに」

はあ、と大きく呼吸して彼は続ける。
害虫でも見るような目つきで、私を眺める。

「二人仲良く、消えてもらうぜ」

垣根帝督が白い翼を羽ばたかせる。
そこから感じる威圧感は先程の比ではない。
出し惜しみなど一切せず、全力で私を仕留めるつもりだ。


だけど私は動じない。
ふうん、と肯いてみせるだけ。

「そう言えばさ」

と、笑みを含んで続ける。

「私が退けない理由、まだ言ってなかったね」

人差し指と中指を立て、第二位へ向ける。
そして二本の指に電磁波を集め、即座に放った。
収束された電磁波は光の形を成し、一直線に突き進む。
反応すら許さない速度をもって、垣根帝督の頬を閃光が掠める。

「な、に……!?」

そして第二位は驚愕する。
自らの頬から流れ落ちる、赤い液体に。
この世界の常識が通用しない『未元物質』が貫かれた、その証に。

「那由他を傷つけた責任、取ってもらうから」











[20924] 第66話 姉と妹⑫
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/02/05 17:27
収束した閃光を空に向かって放つ。一発、二発、三発、四発。
矢継ぎ早に発射される閃光を、しかし第二位は空を華麗に舞って避けている。
見てから反応できる代物では決してない、光の速さで迫る攻撃。でも垣根帝督は回避を続ける。
私の指先、そして視線から発射先の見当を付けた上で。


私だって、この程度の弱点があることは百も承知だった。
だからこそ、しきりにフェイントを織り交ぜて撃ち続けているのに。
だけど、それでも垣根帝督には当たらない。
フェイントの全てを見破り、紙一重で避け続ける。

「芸が無いな」

そして、第二位は避けるだけでは終わらない。
いつの間にか、その手には一振りの剣が握られていた。
刀身から柄まで。その全てが金色に輝く、まるで芸術品の様な剣が。

「死ね」

ほんの一瞬。
それだけで私との間合いを詰め、剣を振るう。
剣には剣で対抗を。
砂鉄を集めて剣を作るために磁力を操る。が、しかし。


――集まらない!?


普段であれば一瞬すら待たずに集められる砂鉄。
それが、ただの一粒も集まらない。
まるで砂鉄なんて物が初めから存在していなかったかのように。


――マズイ……!


後ろに跳び、すんでのところで黄金の軌跡から逃れる。そのはずだった。

「な……!?」

思わず、目を疑った。
黄金の刀身が突然伸びて、私に迫って来たのだ。
金色の刃は私の身体を突き刺し、貫通する。

「剣だなんて一言も言ってないぜ」

バカにしたような呟き。
驚愕の表情を浮かべる私。


でも、次の瞬間。

「何っ!?」

今度は第二位の表情が驚愕に歪む。


何もない空間。貫かれた私の身体の真横から、突如として閃光が飛び出してきたのだから。
反撃が来るなど予想もしていなかった第二位は僅かに回避が遅れ、結果、彼の肩を掠め流血させる。


ちっ、と悔しそうに舌を打つ垣根帝督。

「周囲の光を捻じ曲げやがったな」

参ったな。たった一度の攻防で見抜かれてしまうなんて。


そう、垣根帝督の指摘した通り。
飛び退る直前、万が一に備えて保険を掛けておいたのだ。
光を曲げて本体である私の横に焦点を結ばせ、第二位の方向感覚を狂わせたのだ。


電撃使いの強み。
それは単純な電気の操作ではない。
電気を主軸としたあらゆる事象を再現する、手数の多さこそが真骨頂。

「小賢しい真似を」
「それが私の取り得だからね」

忌々しげに吐き捨てる第二位に、ニヤリと笑みを返してやる。
だけど、内心では焦っていた。予想していた以上に不利な局面に立たされていると理解したからだ。


地中にあるはずの砂鉄に再度、磁力で呼びかける。やはり反応は無い。
おそらく地面に突き刺さっている大量の刃を介して行なわれたのだろう。
砂鉄の物理法則を書き換えられてしまったせいで、磁力に全く反応を示してくれない。
近接戦闘の要としている、砂鉄を用いた技の全てが封じられてしまっている。


続いて電磁波の流れに意識を傾ける。
自身のAIM拡散力場が、どの程度まで周囲を掌握できているか確認するために。


――半径六メートルが限界か。


これ以上は広げられそうにない。
電磁波の制御を乱されることなく、安心して使える範囲はこれが精一杯。
薄々感づいてはいたけれど、やはり私と垣根帝督の能力における相性は最悪だ。
『未元物質(ダークマター)』によって守られた彼には、単純な物理攻撃は通用しない。
光の収束を行なえば貫けるものの、それでも戦局を引っくり返せる程の効果は見込めない。


だけど、勝機が全く無いというワケでもない。
唯一つだけ、第二位の強固な防御を突破して決定打を与え得る技を私は持っている。
天使の力と真正面から張り合ってみせた、最大にして最強の切り札が。


出来ることなら、使いたくはないのだけど。
つい先日覚えたばかりのそれは、加減が一切効かない。
問答無用で相手を消し去ってしまう、文字通りの必殺技なのだ。
使ってしまえば、この場で垣根帝督を殺すことを意味してしまう。


それだけは、何としてでも避けたかった。
たとえ敵であろうと、誰かが命を落とす瞬間なんて見たくない。
それでも、いざという時には覚悟を決めなきゃいけない。
もし垣根帝督が那由他を殺しにかかったら、躊躇いなんてしない。
遠慮なく使わせてもらう。私が持つ最強の一手、荷電粒子砲を。


切り札を除けば余りにも頼りない、残された手数。
それらを駆使して勝利を手元に手繰り寄せなければならない。
あまりにも高いハードルを前に溜め息を吐き、しかし無い物ねだりをしている場合でもないと思考を切り替える。


垣根帝督が睨みつけている。
私の真横を。光を曲げて作り出した、私の虚像を。
初見で見破られたものの、攻略の糸口までは掴まれていないらしい。


だったら話は簡単だ。
相手が虚像、或いは見当違いの方向に攻撃した瞬間を狙って閃光を放つ。
致命傷にならない程度の傷を負わせ、この場から退いてもらう。


大丈夫、大丈夫だ。
半径六メートルの範囲なら、どんな奇襲にだって対応できる。
那由他を人質に取られたりしないよう、彼女との距離も開けておいた。
閃光を放ちつつ、垣根帝督を誘導していたのだ。
私と第二位が戦っている場所は、那由他から百メートルは離れている。


でも、それでも油断は出来ない。
落ち着いて、だけど可能な限り短時間で勝負を決めなければならない。
本物の私がいる位置を、第二位が見つけ出してしまう前に。
彼の意識が那由他ではなく、私に向いている間に。


しかし指先を垣根帝督に向かって構えようとして、

「いいっ!?」

思わず間抜けな声を上げてしまった。


背中に生えた六枚の翼を、第二位が鞭のように振るい始めたのだ。
不意を突かれて反応が僅かに遅れ、被っていた帽子を弾き飛ばされてしまう。
狙いなんて微塵も定まっていない。それぞれが独立した生き物のように、長さが十メートル以上に及ぶ翼が暴れ狂い、地面を深く抉る。


少なくても、本体が虚像の近くにいるのは間違いない。
だったら広範囲をまとめて攻撃してしまえば、いずれ私自身に辿り着くと。
荒削りだけど、この場において最も適切な対処法だ。
周囲を手当たり次第に薙ぎ払う翼の速度は、音速を優に超えている。


回避に専念しなければ、確実にやられてしまう。
そう判断した私は光の歪曲を解除し、生体電気を全身に流す。
身体能力を限りなく強化し、六枚の翼を最小限の動きで避ける。
白い翼が地面を叩きつけるたびに地面が揺れ、足元をすくわれそうになる。


しかし立ち止まるワケにはいかない。
ほんの一瞬でも隙を見せれば、その時点で詰んでしまう。
だけど防戦一方では、いずれ消耗しきって捕らえられてしまう。
無理矢理にでも距離を開けて、体勢を立て直さなければ。


――ここだっ!


猛攻の合間を見つけて、足元に高圧電流を生成。
そして空気中で炸裂。その勢いを利用して翼の攻撃範囲から抜け出す。


しかし第二位は更に追い打ちをかける。
百以上の短剣を空中に作り出し、一斉に撃ち出す。
先程と同じナイフの弾幕。でも回避直後で体勢を崩した今ではプラズマ球による迎撃は間に合わない。

「くっ……!」

間一髪。生体電気に全神経を注ぎ、羽のように軽くなった身体で刃の群れを避ける。


だが安心している暇は無い。
間髪入れずに短剣が飛んでくる。
次々と繰り出される刃の群れに、冷や汗が流れる。
こちらが体勢を立て直す前に、垣根帝督は一気に勝負を決めるつもりらしい。

「ちいっ!」

限界まで引き上げられた身体能力を駆使して、必死に短剣を避け続ける。
それでも服に、身体に、次々と刃が掠り始める。
このままでは命中するのも時間の問題だ。
何とか攻勢に出たいが、相手の攻撃が早過ぎて反撃の糸口すら掴めない。
回避を続けつつ打開策を求めて頭を捻らせ、そして、


――なっ!?


顔から血の気が引くのを感じた。


狙いの外れた刃の群れ。
その先に誰かがいる。


絹旗さん、だった。
ゆっくりと歩いている。
足を投げ出すように歩いている。
目前に迫った刃の群れに気づくことなく、歩いている。


考えるよりも先に身体が動いていた。


――間に合って!


風よりも速く。音すらも抜き去って。
全てをかなぐり捨て、両足にのみ生体電気を送って疾走する。
願いが届いたのか、刃の群れより一瞬早く絹旗さんの元に辿り着くことが出来た。
だけど、今からでは迎撃も回避も間に合わない。


出来ることは、唯一つ。


私は絹旗さんを抱きしめた。
自分の背中を盾にした。
刃が、直撃した。











[20924] 第67話 姉と妹⑬
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/02/18 23:56
私は暫し、呆然とした。


何故こんな所に来てしまったんだろう。
どうして御坂に抱きしめられているんだろう。
数えきれない程の短剣が、どうして御坂の背中に刺さっているんだろう。

「大丈夫?」

血がとめどなく溢れているのに。
なのに、どうして笑顔を向けてくれるんだろう。


望んでいたワケではない。
願っていたワケではない。
求めていたワケではない。


番号も分かったことだし、御坂に電話をかけてみたいな。
旅行中なんだから、帰って来るまでは控えた方がいいかな。
でもメールだったら、多分、迷惑をかけたりしないよね。
いきなりメールなんかして、御坂はどう思うかな。
驚くかな、やっぱり。返信してくれたり、しないかな。


そんなことばかり考え、ただ道なりに歩いていたら、ここに達してしまったのだ。

「お姉ちゃん!」

金髪の女の子が駆け寄って来る。

「大丈夫!?」

彼女もまた、決して浅くない傷を負っていた。
身体中の至る所に切り傷が刻まれている。

「大丈夫……とは言えないわね、さすがに」

よろよろと、力なく立ち上がる御坂。

「あ、ああ……」

私は震えていた。
ワケも分からないまま、震えていた。
このままではいけない。
でも、何がいけないのか分からない。
自分がどう動けばいいのか、それが分からない。

「でも平気」

小刻みに震える私の頭に、御坂が手を置く。

「この程度で倒れたりなんか、絶対にしないから」

くしゃくしゃと撫でる。


私は泣きたかった。
どうして動けないんだろう。
するべきことが、思い浮かばないんだろう。

「もう止めておけ」

突然の声に、私は顔を上げた。
真っ白な羽根を背に生やした、茶髪の男が立っている。

「その傷で何が出来るって言うんだよ」

諭すような声。聞き分けのない子を窘めるような口調。

「俺と共に来い、第三位」

穏やかな顔で、男は言った。

「俺達の力で、学園都市を手中に収めるんだ」

御坂は可笑しそうに笑って、首を横に振った。
男の表情が凍る。ぱちん、と空気に罅が入ったみたいだった。

「何故だ」

絞り出すような声。

「俺の物になれば全て丸く収まるんだぞ。なのに」

茶髪の男を指差し、御坂は答えた。

「私の居たい場所は、そこじゃない」

乱れた呼吸で、しかし、はっきりと答えた。

「そうか」

男は笑って御坂を見る。
恐怖とも、苛立ちとも取れない笑みで。

「交渉決裂だな」

憎しみを込めた声で言い放ち、男は一歩だけ踏み込む。
そんな男と、御坂は正面から向かい合う。


その足取りは重く、頼りない。
歩みを進めるたびに、背中から赤い物が滴り落ちる。
御坂の敗北は火を見るよりも明らかだ。
間違いなく殺されてしまう。


嫌だ、と私は叫んだ。


けれど、それは声にならず、私は立ち尽くしているだけだった。












ふう、と大きく息を吐く。
それだけの動作で背中に激痛が走る。
滴るほどの汗が次から次へと滲み出る。
視界の隅が、ぼんやりと白く染まっている。
貧血を起こすほどの血が、流れ出てしまったらしい。
まともに動ける時間は、ほとんど残されていないだろう。


さあ、どうしよう。
この窮地、どうやって切り抜けよう。


呼吸が荒い。
出血が酷い。
時間が無い。


空白に洗浄されつつある頭脳が、驚くべき速さで一つの解に辿り着く。


零距離での収束した光の発射。
遠くから狙い撃てば、発射先を読まれてしまう。
だったら、読まれても避けられない距離から撃ち込むまで。
答えを得た途端、大きく脈を打ち出した心臓を必死に押さえつけた。


きっと殺される。そう思った。
それでも、この相手に一矢報いなければならない。
この場に留まっていられないほどの傷を、彼に与えなければならない。
新しく出来た友達のために。妹のように慕ってくれる子のために。

「垣根帝督」

私だって死にたくないよ、もちろん。
だけどさ、それでも、やらなきゃいけないこともあるんだよ。

「貴方を倒す」

第二位までの距離は七メートルほど。
最後の力を振り絞って、この距離を全速力で走り抜ける。
地面を蹴る足に全神経を傾けて、能力の全てを注ぎ込んで、垣根帝督に肉薄する。


そのはずだった。
でも、それは叶わなかった。
覚悟を決めて一歩踏み出した瞬間、轟音が鳴り響いた。
同時に、背中が火を噴いた。少なくとも私自身はそう感じた。
爆発の衝撃に押され、うつ伏せに倒れてしまう。

「痺れるだろ」

愉悦に満ちた歪な笑みを浮かべ、第二位が私を見下ろす。

「俺の意志一つで爆弾に変わるんだぜ、それ」

それが何を意味しているのかなんて、考えるまでもなかった。


背中に刺さっている短剣。
その内の何本かが爆ぜたのだ。
そう、全てではない。まだ大量の短剣が残っている。
背中にかかる重みは、依然として変わらない。

「そこで暫く眠っていろ」

垣根帝督が踵を返す。足音が私から遠ざかっていく。

「チェックメイトだ」

第二位が呟くと同時に、白い光が視界を覆った。
背中に刺さった残り全ての短剣が爆発したんだ、と他人事のように把握した。


そして、私は意識を手放した。












目の前の光景に、私は唖然としていた。


無数の刃が突き刺さった河原に、勝ち誇った笑みを浮かべて佇む垣根帝督。
そして、うつ伏せになって倒れている美琴お姉ちゃん。


服の後ろ半分が破れ、背中が露わになっている。
剥き出しになった背にあるのは、凄惨の一言。
焼け焦げた皮膚からは、今も煙が上がっている。


正直な話、戦いの全容を把握できたワケじゃない。
超能力者同士の攻防。それは自分の住む世界と、あまりにも次元が違っていた。
だけど、これだけは理解してしまった。お姉ちゃんが負けてしまったという、目を背けたくなるような事実だけは。

「許さない」

すぐ側で、誰かの声が上がる。
直後、私と大して背丈の変わらないお姉さんが垣根帝督へ一直線に駆ける。


マズイ、と思った。
垣根帝督の強さは底が知れない。
ショートヘアのお姉さんが相当の手練だとしても、太刀打ちできる相手じゃない。

「お姉さん!」

大声で叫ぶ。

「駄目!」

でも、届かない。


そして、危惧していた通りの結果になった。
渾身の力を込めて放たれたであろう拳は、硬質化した翼一枚で軽く防がれる。
その上、至近距離から翼による一撃を叩きつけられて容易く吹き飛ばされてしまった。


地面に倒れ、弱々しく呻くお姉さん。
そんな彼女へ更なる追撃とばかりに、第二位は空中に数十本もの刃を生み出す。
お姉さんを生かしておくつもりなんて、彼には全くない。
それを察知した私は、素早くお姉さんの元に移動。彼女を抱え、刃が放たれる寸前に跳び退る。
お姉さんが倒れていた場所に、ほんの一瞬遅れて刃が次々と突き刺さる。

「まだ動けるのかよ」

感心半分、呆れ半分といった調子の声を洩らす垣根帝督。

「だが、もう終わりだ」

第二位は冷徹に告げる。その顔に暗い笑みを湛えて、静かに。

「お前は今日、ここで死ぬ」











[20924] 第68話 姉と妹⑭
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/02/19 00:00
もう駄目だ。どうしようもない。
私の心を占めるのは、絶望の二文字だった。
この男を相手に、私では勝負にすらならない。
一方的に嬲り殺され、それで終わり。
悔しいけれど。本当に悔しいけれど、諦めるしかない。


ああ、短い生涯だったな。
辛いことばかりだったけど、でも、悪くない人生だったな。
大切な友達を助けてもらえたし。私自身の存在を認めてもらえたし。
それに、お姉ちゃんって呼ばせてもらえたし。
もらえた、なんて卑屈に考える癖はまだまだ抜けないけれど。


本当に多くのものをもらった。
この腕に持ち切れないくらいの、それはきっと幸せ。
幸せ過ぎて、今すぐ死んでしまっても文句なんて――

「――あるに、決まってるよ」

自然と口をついて出ていた。
自分でも情けなくなるくらい、湿り気を帯びた声で。


そうだ、私は死にたくない。
お姉ちゃんと、もっと一緒にいたい。
もっともっと、私は生きていたい。
だから。そう、だから。
最後の最後まで、諦めるワケにはいかない。


一本、また一本と短剣が空中に作り出されていく。
それを見ながら、しかし私は冷静に考えていた。
生き残るために、今の自分が出来ることは何なのか。


機械の身体を活かした体術は効果が無い。
どう転んでも第二位の防御を突破できない。
AIM拡散力場の流れが視えても、それだけでは全く足りない。
この相手から勝利を掴むには、あまりにも脆弱な能力だ。
意図的に能力を暴走させようとしても、おそらく上手くいかないだろう。
第二位と同じ超能力者である美琴お姉ちゃんに、全く通じなかったのだから。


――ん?あれ?


ふと、疑問が浮かんだ。
私自身のAIM拡散力場は、どんな風に視えるんだろう。
能力が開花してからは他人の流ればかり視ていて、今まで気にも留めていなかった。


第二位に注意を払いつつ、自らの身体を直視する。
私の中を流れるAIM拡散力場は、一切の色彩を帯びていなかった。
無色透明の力場が、身体の隅から隅まで循環している。


なるほど、と思った。
自身のAIM拡散力場を調整して、相手の流れに合わせていたのか。
だから意図的に能力の暴走を引き起こせていたんだ。
何の特徴も持っていないから、他人の流れを真似できたんだ。


――力場の調整、か。


不意に、とある考えが閃く。
ひょっとしたら出来るかもしれない。
淡い期待を胸に、AIM拡散力場の調整に入る。
第二位に見えないよう、右手を背に回し後ろに隠して。


思い浮かべるのは黄金の螺旋。
お姉ちゃんだけが持つ能力の波長。
寸分の狂いも生まれないよう、慎重に形成していく。
そして、その努力は報われる。右手の指先にパチパチと電気が走ったのだ。


――これだ……!


上手く行けば第二位に対抗できるかもしれない。
第二位の能力に干渉するなんて、私には出来ない。
お姉ちゃんのように強大な力を扱えるワケでもない。
だけど、これだったら出来る。やってみせる!


私は目の前の現象を観察する。
意識の大半が真っ白になるくらい、強く。
続いて落ち着いた、しかし限界近い速さで力場の調整を行なう。
ただ視るだけじゃない。視えた波長を寸分の狂いも無く正確に捉え、再現しようとする。ううん、してみせる。

「バカな」

私と相対して、第二位が初めて動揺の声を上げる。
自身の能力を真似されるなんて、思ってもみなかったんだろう。
さすがに自分の領分を越えた能力の模倣は厳しく、身体が悲鳴を上げている。
全身を針で刺されたような痛みが走る。凄まじいまでの徒労感に襲われる。


だけど代償に見合うだけの成果はあった。
私の周囲には、金でも銀でもない金属で出来た短剣の群れが浮かんでいた。
垣根帝督が空中に作り出した物と全く同じ数、同じ形の短剣が。
それだけじゃない。私の背中には白い翼が生えていた。
その数、六枚。長さこそ本家の半分にも及ばないものの、間違いなく第二位の能力。

「出来るはずが……!」
「常識が通じないのは、お兄さんだけじゃないってことだよ」

垣根帝督が右手を頭上に掲げる。
私もまた、右手を上げる。全く同じ動作で、全く同じタイミングで。
まるで事前に打ち合わせでも済ませていたかのように。
そして同時に掌を相手へ向け、顕現していた短剣の群れを解き放った。


互いに撃ち出した短剣が中央で激突する。
金属同士がぶつかり合う甲高い音が鳴り響く。
同じ速度で正面衝突を起こした短剣が、明後日の方向へ次々と弾き飛ばされる。

「硬度まで一緒かよ」

吐き捨て、しかし第二位は不敵に笑う。
短剣の弾幕が互いに薄れてきたところで、告げる。

「だったらリズムを上げるぜ」

おびただしい数の短剣が、第二位の周囲に現れる。

「二発目……!?」
「ついてこれるか?」

後発の弾幕は先に撃たれた短剣と混ざり合い、私が放った短剣を全て弾いてしまう。
それだけに留まらず、弾幕を失った私へと一斉に襲いかかる。


どうするか、と悩んでいる暇なんて無い。
相手が数に物を言わせてくるのならば、こちらも同じ手で対抗するまで。
すぐさま二発目の弾幕を作り出し、相手の短剣との衝突を再開させる。


もちろん分かっている。
私の能力者としての力量を考えれば、それがどれだけ無謀な行為なのかってことぐらい。
脂汗が滲む。目眩がする。力が抜ける。膝が震える。さっきから呼吸は荒いし、頭も割れるように痛い。
過度な能力の使用によって生じた反動が、容赦なく身体を蝕んでいく。


だけど止めるワケにはいかない。
まだ死にたくなんてないから。もっと生きていたいから。
だから残り少ない力を振り絞る。限界だって超えてみせる。

「マジかよ」

呆れたように、第二位が呟く。

「まだ足掻くのか」

形勢が逆転したワケじゃない。むしろ悪化している。
第二位が短剣を生成する速度に、追いつけなくなってきている。
中央で衝突を繰り返していた短剣は、徐々に私に近づいてきている。


――ここまで、かな。


「お姉さん」

振り向きもせず、後ろにいるショートカットのお姉さんに言う。

「今の内に逃げて」

そんな、と叫ぶお姉さん。

「貴女を置いて行けません!」
「駄目だよ。このままじゃ二人とも死んじゃう」

左胸が締め付けられるように痛む。
さすがに限界みたいだ。それでも私は食い止める。
ほんの一秒でも、短剣の到達を遅らせる。
お姉さんが逃げるまでは、持ち堪えなきゃいけないんだから。

「ね、お願いだから」

三秒ほどの沈黙。それから、

「ごめんなさい!」

お姉さんが飛び退き、短剣の軌道から逃れる。
それと同時。私の背から翼が消え、短剣の群れが押し寄せる。


ああ、悔しいな。
こんなところで終わっちゃうのか。
最後の最後まで頑張ったけど、全然足りなかったよ。


迫り来るナイフを見ながら、何故か笑みが浮かんだ。


――さようなら、お姉ちゃん。


そして正に短剣が突き刺さる、その寸前だった。
一条の光が前を横切り、私に向かっていた短剣を全て消し去った。
そう、それは光だった。まるで雪のように白く、優しい光だった。


光の差し込んできた方向に顔を向ける。

「大丈夫」

目頭が、熱くなる。

「絶対に、大丈夫」

両手で口元を押さえ、私は見た。
血が止めどなく溢れ、皮膚の焼けた背中。
目を背けたくなるような傷を負いながらも両足を踏ん張って立つ、お姉ちゃんの雄姿を。


お姉ちゃんの身体は光に包まれていた。
舞い落ちる雪よりも白く、美しく、幻想的な光に。
輝きは徐々に、徐々に激しくなっていく。
太陽のように力強く、なのに、どこまでも優しく。


驚くべきことが、直後に起きる。
地面に突き刺さる刃。それが全て消えてしまったのだ。
あまりにも唐突に。あまりにも呆気なく。


それだけじゃない。
いつの間にか、身体が楽になっている。
義体だろうが生身だろうが、おかまいなしに切り裂かれた傷も。
能力を酷使したせいで、息をするのも辛くなるほど痛んでいた胸も。
どれもこれも、みんな、すっかり治ってしまっている。


ああ、と声が洩れる。
真っ白な光に包まれたお姉ちゃんは、本当に綺麗で。


――女神様みたい。


命を賭けて戦っている最中なのに、そう思わずにはいられなかった。












私は感じ取っていた。
身体中を流れる真っ白な光を。
瞼を瞑り、胸いっぱいに空気を吸い込んで。


そうだ、この光を私は知っている。
天使との戦いで能力を使い果たした、あの時。
力を求めた理由を思い出した私から溢れ出した、優しい光。
ああ、何て温かいんだろう。まるで、生まれる前から知っていたみたいに懐かしい。
光は手足の隅々まで駆け巡り、痛みも恐れも、どこかに行ってしまった。
うっとりとして、私は深い呼吸を繰り返した。
そのまま光に溶け、光に吸い込まれて、光の一部になってしまいそうだ。と、不意に短剣の嵐が襲いかかってきた。


三百は下らない刃を目前にして、私の心は妙に落ち着いていた。
どんな結果が待っているのかなんて、そんなの、分かりきっていたから。
殺到した短剣の群れは、果たして唯の一つも私には届かなかった。
私の身体を覆う白い光に触れた途端、跡形も無く消滅してしまったのだ。

「な……」

第二位が驚愕を露わにする。
あまりにも大きな隙を作ってくれる。
この絶好の機会を逃すワケにはいかない。


さあ、行こう。優しい光に語りかける。
光は応える。より一層強く、強く輝いて。


光に導かれるままに、右手を空に掲げる。
途方も無い力が奥底から湧き出るのを感じる。
身体中を駆け巡った光が、右の掌に集約される。
そこから再び、幾万の眩い矢となって四方八方に飛び出した。











[20924] 第69話 姉と妹⑮
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/03/18 21:24
辺りは、いつしか眩く輝く靄で満たされていた。
温かくて、涼しくて。その上、仄かにだが甘い香りまで漂ってくる。


有り得ないことが今、目の前で起きている。
一人の人間が複数の能力を同時に所持することは出来ない。
それは能力者の最高峰である超能力者であっても例外ではない。
だが、だとすれば。背中の傷を完全に癒してみせた第三位の能力は一体、どう説明すればいいんだ。


電磁波をどれだけ自在に操ろうが、傷は治せない。
大気中にばら撒いた俺の『未元物質(ダークマター)』を完全に打ち消すなんて芸当が、出来るはずがない。
能力なんて括りで説明できる範疇を通り越している。
もっと別の、得体の知れない何かだ。


そんなものを操ってみせるなんて、何て――

「――面白い」

ああ、駄目だ。
頬の緩みを抑えきれない。
この女には、本当に感謝しなくちゃならない。
使い手である俺自身ですら全貌を掴めていない『未元物質』。
その本質に迫る手掛かりを与えてくれたのだから。


俺は第三位に背中を向けた。
一言もかけず、河原を後にする。
何事も無かったかのように、街に向かって歩き出す。
爆破の威力を抑えて、第三位を殺さずにしておいた甲斐はあった。
それはもう、充分過ぎるほどに。


まだまだ俺は強くなれる。
それが分かった今、依頼に対する興味は完全に失せてしまった。
あの女が持つ情報なんて、知ったことか。
サイボーグの少女を始末したければ、自身で勝手にやればいい。
悪く思うなよ、テレスティーナ。人殺しを引き受けていられるほど、暇じゃなくなっちまったんでね。


第三位――いや、御坂美琴。
超能力の枠を超えた境地を垣間見せた女。
調教なり洗脳なりして、力づくでも従わせてやろうと考えてもいたが。


今回は特別に見逃してやる。
だがな、お前を諦めたワケじゃねえ。
いつの日か、必ず俺の手中に収めてやる。












――マジかよ。


色という色を全て落としたような、真っ白な光に包まれた第三位。
そんな彼女を見て、どこか満足した表情を浮かべて第二位は去っていく。
テレスティーナから受けた依頼を果たさずに。那由他を生かしたまま、その場を離れていく。


くっ、と笑みが洩れる。
学園都市第三位が、格上である第二位から勝利をもぎ取る。
生まれついての天才を、かつては低能力者に過ぎなかった輩が退ける。
絶対不変であると科学者の誰もが信じて疑わなかった、超能力者の序列。
それが覆される事態を見せつけられて、堪え切れなくなる。


――すげえよ、第三位。マジですげえ。


パソコンの画面を通して流れる映像に、俺は心の中で称賛を送る。


いやもう、駄目だ。
笑いが止められねえよ。
長年探し求めていた実験材料が、こんな身近に転がっていたなんて。


気になるねえ。実に気になる。
どういう法則が働いてやがるんだよ、あの白い光には。
傷を癒したり、第二位の能力を打ち消したり。
電磁波如きで成し遂げられる芸当ではない。絶対にない。
あの光には科学的根拠に基づいた説明が何一つとして通じない。


俺は確信した。
第三位さえ確保できれば、他の超能力者は要らない。
学園都市第一位である『一方通行(アクセラレータ)』ですら、あの女の前では霞んでしまう。
今まで書き上げてきた論文にだって未練は無い。
そんな物は全て、自らの意志で実験体に成り下がった姪にくれてやる。
那由他の奴、科学者としての筋は悪くないからな。
もちろん、この俺には遠く及ばないが。


俺が求めているのは科学によって生み出されるオカルトだ。
人の手で作られたにも関わらず、人智を超え、神の領域にまで足を踏み入れた力だ。
第三位の在り方は、そんな俺の求める理想そのものだった。
努力の末に超能力者の称号を得た人物は、実のところ第三位しかいない。
他の六名は皆、能力に目覚めたその時から超能力者と名乗るに相応しいだけの力を備えていた。
世界を破滅に導きかねないほどの強大な力を生まれながらにして持つ、選ばれた人間だった。


そう、あの女だけなのだ。
純粋に人の手だけで能力を身に付けたのは。
『素養格付(パラメータリスト)』から読み取れるのは、潜在的な能力の有無のみ。
可能性が高いというだけで、超能力者になれると約束されたワケではない。
それでも、あの女は超能力に辿り着いた。
その上、科学では説明の付かない不思議な力まで手にしやがった。


アレイスターの誘いに乗ったのは、やはり正解だった。
学園都市の頂点に君臨する理事長様のお墨付きで、第三位が手に入れた力の正体に迫る。
これ以上ないほどに魅力的なシチュエーションだ。
しかも奴のDNAマップは絶対能力者誕生を目指した、先の実験で入手済み。
必要な材料は全て揃った環境で、誰の目も気にすることなく実験に着手できる。


これ以上のステージが、一体誰に用意できる?
そう、誰にも出来ない。この街の統括理事長であるアレイスターを除いては、誰にも。


キーボードを叩き、別の画面を呼び出す。
学園都市の総合データベースに侵入し、第三位のDNAマップを拝むために。

「はあ?」

表示された文字を見て、俺は固まってしまった。


データは消去されました、と。
真っ黒な画面に白字で、たった一言。
誰が消したのかなんて、考えるまでもない。第三位だ。
いかなる不法侵入も許さぬデータベースに容易く踏み入り、何の痕跡も残さず自身のDNAマップに関する情報のみを消去していたのだ。

「いいぜ、第三位」

その事実に、背筋が震えた。

「お前は最高だ」

第三位――御坂美琴は、おそらくこの先二度と出会えないサンプルだろう。


久方振りに血が騒ぐ。
古来より研究者を生業とする、木原の血が。
明かりを遮断した部屋の中で、俺は狂ったように笑った。
求め続けてきた理論を超えた力に、ようやく一歩近付けた喜びに。












「――面白い」

静かに、一言だけ呟くと無防備にも男は背中を見せた。
そして何事も無かったかのように歩き出す。この場を離れていく。


私も、御坂も、金髪の女の子も。
何もせず、男が去っていくのを黙って見ていた。
どうしても倒さなければいけないワケではないのだ。
相手が勝手に退場してくれるのなら、それに越したことはない。
やがて男の姿が完全に見えなくなると、女の子が膝をついた。


すとん、という感じで。
まるで糸が切れた人形みたいに。

「那由他!」

声を上げ、御坂が走り出した。
と、同時に彼女を包んでいた光が消える。
輝く靄も消え失せ、辺りは本来の景色を取り戻した。
その光景には驚いたけど、すぐに気を取り直して御坂に続いた。


あの光は一体、何だったのか。
御坂の新しい能力なのか。それとも全く別の代物なのか。
その正体が非常に気になるところだけど、とりあえず今は保留にしておこう。


女の子の前で御坂はしゃがみ込み、

「大丈夫?どこか痛む?」

やけにうろたえた様子で、そんなことを訊く。


だけど女の子は顔を少し赤らめて、

「腰が抜けちゃった」

恥ずかしそうに笑いながら、そう言った。


まあ、無理もない。
ついさっきまで、一歩間違えれば即座に殺されてしまうような状況だったのだ。
安堵のあまり、身体中の力が抜けてしまっても不思議では無い。


そんな女の子の頭に手を置いて、御坂は撫でた。
わしゃわしゃって音が聞こえそうなくらい、手荒に。

「ちょっ、お姉ちゃん、やめてよ」
「駄目。びっくりさせた罰」

女の子は抗議の声を上げるけど、それだけ。
構わずに頭を撫で続ける御坂をジト目で睨んでいるけど、怒っているって感じじゃない。
怒っている振りをしているだけっていうか。


何かいいな、こういうの。
まるで本当の姉妹みたい。すごく羨ましい。
だけど分かっている。こんなもの、私は望んじゃいけないんだって。
いつ命を狙われてもおかしくない環境に身を置いている私が。
闇に足を踏み入れたその時から自身の死は覚悟している、もちろん。
でも私のせいで親しい誰かが死んでしまうのは嫌だ。
そんなもの、絶対に見たくない。


だからもう、御坂に会うのは止めにしよう。
携帯の番号も、メールアドレスも消してしまおう。
そうだ、それが一番いい。御坂にとっても、そして私にとっても。


決意を固め、二人に背を向ける。

「絹旗さん」

しかし一歩を踏み出そうとした時、声をかけられた。


正直、振り向きたくなかった。
顔を見てしまったら、揺らいでしまいそうだったから。
だけど呼び止められたのに無視するワケにもいかないので、仕方なく振り返る。


しゃがんだままの姿勢で、御坂がこちらを見上げている。

「ごめんね。巻き込んじゃって」
「別に平気です。荒事には慣れてますから」

そっか、と肯いて御坂は笑みを浮かべる。

「絹旗さん。一つお願いしてもいいかな」
「内容に依りますね」
「携帯の番号とメールアドレス、教えてくれる?」
「……はい?」

御坂のお願いは私の思考を数秒ほど止めてしまうくらい、意外なものだった。

「あの、何で」
「この間は訊きそびれちゃったから」
「いや、そうではなくて」

まともに返事の出来ない私に、御坂は首を傾げる。
だったら何、とその目が問いかけてくる。

「どうして私の番号なんて知りたいんです?」

途端、どういうワケか御坂は私から目を逸らした。
心なしか、耳が赤くなっている気がする。

「ねえ、どうして」

再度訊ねる。
それでも御坂は答えてくれない。
こっちを見ようともしてくれない。

「どうしてなんです」

しつこく訊ねる。すると御坂はそっぽを向いたまま、ぼそりと呟いた。

「と……」
「と?」
「友達だからじゃないでしょうか」

耳を澄ませていなければ聞き逃してしまいそうなほど、か細い声。
だけど、ちゃんと私には聞こえた。御坂の私に対する想いが、ちゃんと伝わった。


温かいものが身体の隅々まで流れていく。
固めたはずの決意を、あっさりと溶かしていく。


全く、御坂は酷いです。
せっかく諦めようと決心したのに。
そんなこと言われたら、期待しちゃうじゃないですか。
こんな私でも、ありふれた生活に戻れるかもしれないって。
御坂の隣で、何の憂いもなく笑える日が来るかもしれないなんて。

「駄目、かな」

ああもう、そんな不安げな瞳で見つめないで下さい。


心配なんて無用です。
教えてあげるに決まってるじゃないですか。
だって御坂は、私の大切な友達なんですから。











[20924] 第70話 姉と妹⑯
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/03/18 21:30
太陽の光がまともに届かず、薄暗い路地裏。
そこにいるのは美琴お姉ちゃんと私の二人だけ。


本当だったら、お姉ちゃんは広域社会見学でアメリカにいるはずで。
学園都市に残っているなんてことが、知られてしまうワケにはいかなくて。
だからビルの隙間から隙間へと移動して、人の目になるべくつかないようにしつつ、お姉ちゃんがお世話になっている人の住むマンションへ向かっているのだけど。

「重い」

その足取りは徐々に、そして確実に鈍くなっていた。

「重い」

もう何度目になるか数えきれなくなった、お姉ちゃんの呟き。
腰が抜けて動けなくなった私を、お姉ちゃんがここまでおんぶして連れて来てくれたのだ。

「重い」

呼吸するみたいに、お姉ちゃんは繰り返す。


そりゃあ、私だって自覚はあるよ。
同年代の子達よりも、自分が遙かに重いってことぐらい。
何せ、身体の七割近くが機械で構成されているのだ。
おまけに性能向上を目指して色々と改造しているから、更に重くなっちゃって。
軽量化にも励んではいるものの、それでも五十キログラムは超えてしまって。

「重い」
「酷い」

怪我を治したと言っても、お姉ちゃんは死闘を演じたばかり。
なのに私を背負って一時間近くも歩き続けてきたのだ。
腕にも足にも、どうしようもないくらいに疲労が溜まっているに違いない。
それを思うと、お姉ちゃんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。


だけど、うん、だけどね。

「重い」
「重くない」

私だって一応、女の子なワケで。
重いと連呼されて、気持ちがいいワケもなくて。

「これぐらい、お姉ちゃんの能力なら楽勝でしょ」

そう、お姉ちゃんなら楽勝のはずなのだ。
生体電気を操作し、筋力を上げればいいだけなんだから。

「そうだね」

お姉ちゃんが苦笑いを浮かべた。
そうなんだよね、なんて言って、ずっと苦笑いしている。


ちょっと変な反応だった。


無茶言わないでよ、とか。
怪我人をこき使わないの、とか。
私を諌めるような言葉が返ってくるなら分かる。
だけど、どうして苦笑いなんだろうか。


その後、お姉ちゃんは無口になってしまった。
歩き出して暫くは饒舌で、色んなことを話してくれたのに、急に元気がなくなってしまったのだ。


――どうしたんだろう、お姉ちゃん。


仕方なく、おぶってもらったまま道案内を再開する。
お姉ちゃんが黙り込んでしまったので、他にやることがない。
ぎゅっとしがみ付いて、私は考えた。ううん、考えようとした。
けれど思考は一向にまとまらなかった。


突如として襲いかかってきた学園都市第二位とか。
置き土産だけを残して、消息を断った数多おじさんとか。
発電能力から顕現できるとは、とてもじゃないけど考えられない力を操ってみせたお姉ちゃんとか。
様々なことが頭に浮かぶものの、どれ一つとして焦点を結ばないまま、どこかへ流れ去っていった。


とにかく、分かったのは、たった一つだけだ。


垣根帝督を撤退させた、優しい光。
あれは学園都市が生み出した能力とは違った、異質の力だ。
能力に馴染んだ身体を徹底的に拒んで破壊し尽くす、あの力だ。
数多おじさんがオカルトと称して追い求めている、科学による解明が成されていない力なんだ。












私は走っていた。
必死になって走っていた。


息が切れる。
喉の奥が熱くなる。
それでも立ち止まるつもりなんてない。
ほんの一秒でも止まっている時間が、今は惜しい。


視界に入った路地裏へ飛び込み、辺りを見回し、


――駄目だ、ここにもいない。


そうして再び、身を隠していられそうな場所を求めて走り出す。


まだまだ夏の盛りである光の中を駆けていく。
佐天さんの無事を信じて、走り出す。
諦めない。絶対に諦めるもんか。












第七学区に入った。
ここまで来れば、もう大丈夫。
お姉ちゃんも道を知っているので、案内の必要もない。
そういうワケで、とうとう私も黙り込んでしまう。


目的地のワンルームマンションまで、あと十五分ってところか。
それにしても、お姉ちゃん、さっきから一言も喋らないなあ。
きっと何を訊いても、まともな答えなんて返してくれないだろうな。
いいや、それでも。だからお姉ちゃん、もう少しだけ無口なままでいてね。

「お姉ちゃん」

私は言った。

「私、強くなる」

お姉ちゃんは応えない。

「お姉ちゃんが抱えているものを、一緒になって背負えるくらい」

もちろん、お姉ちゃんは応えない。

「信じてる」

何の反応も示さないお姉ちゃんに、私は言った。

「何も言ってくれなくても、でも、信じてるから」

そうだ。どんなに世界が理不尽でも構わない。
だって、心の底から信じられる人が目の前にいるんだから。
そういう現実にだって、お姉ちゃんと一緒なら立ち向かっていける。


だからね、私は信じるよ。
最後の最後まで、お姉ちゃんのことを。












走った。もちろん走った。
身体のことなんて考えていなかった。
裏路地とか、植え込みとか、工事中のトンネルとか。
身を隠せそうな場所に、片っ端から飛び込んだ。だけど、いない。
佐天さんも、一緒にいるはずである褐色の肌をした女性も。
いくら走り回っても、手がかりの一つも掴めない。


焦りばかりが募っていく。
はあはあと荒い息を吐きながら、新たに見つけた裏路地を走る。
しかし奥は袋小路になっているだけで、やはり二人はいない。


がっくりと肩を落とす。溜め息を吐く。
自分で思っていたより、ずっと大きな溜め息だった。

「溜め息とは頂けないな」

不意に、日本語で声をかけられた。

「幸せが尻尾を巻いて逃げ出しちまう」

振り向くと、すぐ横に見知らぬ男の人が立っていた。


日に焼けた、精悍な顔立ち。
スーツの上からでも分かる、引き締まった筋肉。
年は三十代前半、いや、後半ぐらいだろうか。
短く切られた髪は色素が抜け、薄茶色に変色している。


誰だろう、この人。
姉さんの知り合いかな。
まさか身内ってことはないよね。
黒塗りのベンツが似合いそうな強面な人が、姉さんの親族にいるなんて考えられない。

「貴方は?」

ワケの分からぬまま、訊ねる。

「君の取り得は何だい?」

男の人は答えてくれず、逆に問いかけてきた。なかなか渋い声だった。

「取り得?」

思わずオウム返しに訊いてしまう。


何なんだろう、この人。
私に一体、何を伝えたいのだろうか。


私の疑念に気づいたのだろう、男の人が笑った。

「おいおい、気づけって」

困惑する私に構わず、男の人は続ける。

「君は電撃使いなんだろう?」
「は?」

どうして私の能力を知っているんだろう。
能力者であることを気づかれていただけでも驚きなのに。
学芸都市で暗躍する人間でさえ、その全員が私の能力を把握しているワケではなさそうなのに。


呆然としていると、男の人が側にやってきた。
ポンポンと肩を叩かれる。

「力が入り過ぎだぞ」

笑いながら、男の人は言った。
顔は怖いけど、なかなか優しそうな感じだ。
この人の目は、小さな子供みたいな目だった。
その表面に好奇心の輝きがいつも宿っているような目だった。

「落ち着いて、それから考えるんだ」

私の肩に手を置いたままで、男の人は言う。

「自分に出来ることを」

だから考えてみた。
きっかり三回、深呼吸をしてから。
能力者として、何より電撃使いとして私が出来ることを。

「……あ」

そして、ピンと来た。

「気づいたようだな」

男の人はニヤリと笑った。

「じゃ、そろそろお役御免ってことで」

そう言うなり、踵を返す男の人。

「待って下さい」

気づいたら、呼び止めていた。

「貴方は、一体」

その問いかけに男の人は、たった一言。

「総合コンサルタントさ」

口元に笑みを浮かべて、そう答えてくれたんだ。











[20924] 第71話 姉と妹⑰
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/04/15 22:56
何となく、はっきりしない気持ちのままで俺は表通りを歩いていた。
水着が普段着と同等に扱われるこの島で、スーツ姿の俺は異様なまでに注目を集めている。
だが、それがどうした。周囲に溶け込むより機能性を重きに置いて、何が悪い。
奇異の視線など、今まさに抱えている問題に比べれば些細なこと。


全く、人の心ってやつは厄介極まりない。
あの子と他人行儀に言葉を交わすのが、これほど応えるものだとは。
あの子は美琴ではないのに。外見が瓜二つだというだけで、全くの別人だというのに。
元春君から予め事情を聴いておいて、本当に良かった。
そうでなければ、とうとう娘にも反抗期が来てしまったのかと心底落ち込むところだった。


それにしても、だ。
アレイスターは一体、どういうつもりで娘のクローンを生み出したのだろう。
絶対能力進化実験を遂行するため、という情報なんて眉唾物だ。
それが本当なら、どうして実験再開の目処が一向に立たないのだろう。


人の手によって神の領域に達する。
これは学園都市の目標であり、悲願であったはずだ。
被験体である学園都市第一位が無能力者の少年に一度敗れた程度で、易々と凍結に追い込めるものではない。


生き残った一万近くのクローンが世界中に送り込まれたのも気がかりだ。
学園都市はこれまで、能力開発に関するあらゆる情報を外部に対し非公開としてきた。
なのに何故、実験の凍結が決定した途端に世界各地の研究所に預けられることになったのだ。
最も傷の深かった一万三十二番目のクローンであり、つい先程まで俺と話をしていたあの子を除いて。
格好の研究材料となり得る彼女達を、どうして都市の外に出そうと決意したのだ。
今や世界中が学園都市の能力開発技術に目をつけているというのに。
アメリカに至っては、能力の詳細を得ようと暗躍する影が徐々に表へと姿を見せ始めているというのに。


治療なんて名目が信じられるはずがない。
そんなもの、学園都市内の設備で充分に事足りる。
間違いはない。調べだってついている。


では、何故だ。
アレイスターの奴、何を考えている。
心の中で色々と模索してみたが、もちろん答えなんて返ってこない。
娘のクローンなんて生み出した元凶に問い詰めでもしない限りは、決して。


ああ、訊きたい。
今すぐにでも電話をかけ、あの男に訊ねたい。
だが、今は駄目だ。この学芸都市で起きている事件の真相を突き止めるのが先だ。
無理やりに気持ちを切り替え、俺は人目のつかぬ裏通りへと身を滑らせた。












結局、互いに黙り込んだままで目的地であるマンションに辿り着いた。
あの優しい光について訊いてみたくても、お姉ちゃんに話す気が無いのでは、どうしようもない。
自分の家に送ってもらうという選択肢もあるにはあったんだけど、今日は一人きりになりたくなくて。
図々しくも御厚意に甘えて、お姉ちゃんが密かに身を寄せている人の家にお邪魔させてもらうことにしたのだ。


腰が抜けて立てない私を背負って、お姉ちゃんはマンションの階段を上っていく。


建物は、あちこちで塗装が落ちている。
エレベーターは調子が悪いらしく、使用禁止と赤いマジックで大きく書かれた張り紙が貼られている。
まともなメンテナンスをするつもりがないのかな、ここの大家さん。
私だったら、すぐにでも修理しようとするけどなあ。
そうしないと、住んでくれている人達に申し訳が立たないし。


階段を上りきると、狭い廊下に出る。
重そうなダンベルが無造作に、幾つも置いてあった。


この場所で身体を鍛えている人がいるんだ。
どんな気持ちでトレーニングに励んでいるんだろう。
自分自身のためかな。それとも、何としてでも守りたい誰かがいるのかな。


ノックをする前に、ドアが開いた。

「お帰り」

笑いながら、ツンツン頭のお兄さんが迎えてくれた。

「無事で良かったよ」

その顔には見覚えがあった。と言っても、直接会ったワケじゃない。
あれは、そう。お姉ちゃんがどういう人物なのか、まだ全然分かっていなかった頃。
お姉ちゃんに関する資料を片っ端から漁っていた際に偶然、彼の情報を得たのだ。


絶対能力進化実験を止め、お姉ちゃんを救った少年。
学園都市第一位に決闘を申し込み、勝利を収めてみせた無能力者。

「服はボロボロになっちゃったけどね」

靴を脱ぐ。家に上がる。リビングに私を下ろす。
ほぼ同時に全てをこなしつつ、お姉ちゃんは少しだけ上がった息で言った。

「お気に入りだったのにな、それ」
「また買いに行かなきゃ」
「だな。俺も付き合うよ」
「ホントに?」
「ああ、ホントに」

えへへ、とお姉ちゃんが笑った。可愛らしい笑顔。
ほんの数時間前まで壮絶な死闘を繰り広げていたなんて、とても思えないくらいに。


どうにも妙な雰囲気だった。
言葉を交わしているだけなのに、やけに近いのだ。
二人の距離が。物理的にもそうなんだけど、それ以上に、心が。

「腹減ってるだろ。飯ならすぐに食えるぞ」
「あ、うん。お昼食べ損なっちゃったし、お願いしていい?」
「風呂も沸いてるけど、どっち先にする?」
「お風呂でお願いします」

ぺこりと頭を下げるお姉ちゃん。

「あと、洗濯物は取り込んで畳んでおいたから」
「それは放っておいてくれても良かったのに」

言って、お姉ちゃんは少しだけ顔を赤らめる。

「いや、ブラウスとか靴下だけだし」

気にするな、とツンツン頭のお兄さん。
ありがとう、とうっすらと染まった頬でお姉ちゃん。


おかしい。よくは分からないが、絶対におかしい。

「二人って、付き合ってるの?」

ちょっとした揺さぶりのつもりで言ってみたところ、二人がビクリとその身を震わせた。
その過剰なまでの反応に、こっちが驚いてしまった。

「え、ホントに?」

二人は答えない。
真っ赤になって、俯くばかり。
お互いに意識し合ってるんだけど、目が合った途端に逸らしちゃうし。


いやもう、本当にビックリだ。
いつの間に、そんなことになっていたんだろう。
私が躍起になって調べていた頃は、そこまで深い仲ではなかったはずなのに。
へえ、なるほど。そんな構図になったんだ。
ふむ、そういうことなのか。


あんまり突っ込むのも無粋なので、とりあえずニヤニヤ笑っておく。
二人揃って何か言いたそうにしているけど、お構いなし。
ニヤニヤと、ひたすら笑みを浮かべる。


やがて無言の圧力に耐えられなくなったのか、お姉ちゃんが、

「お風呂!」

と、大声で叫んだ。

「お風呂入ってくる!」

お姉ちゃんの声が部屋中に響き渡る。
お隣さんにも、はっきりと聞こえたに違いない。
逃げるように浴室へ姿を消したお姉ちゃんを見送ると、リビングには私とお兄さんの二人が残された。

「で、どうなの」

隣に腰かけてきたお兄さんの様子を窺いつつ、私は言った。

「お姉ちゃんと付き合ってるの?」
「え」
「どうなの、お兄さん」

さっきよりも顔を赤くして、お兄さんは黙り込んでしまう。

「大丈夫?顔、赤いよ?」
「いや、別に」
「で、付き合ってるの?」
「いや、あの」
「ちゃんと好きって言った?」
「言ってないけど」
「言ってないの?それってマズイと思うんだけど」
「そ、そうか?」

真剣な顔で、お兄さんが訊いてくる。
単純だ。簡単な手に、こうもあっさり引っかかるなんて。
しかも、引っかかったことに全く気づいてないみたいだし。

「言った方がいいよ、絶対」
「やっぱりそうか」

シャワーの音が聞こえてくる。
良かった。背中の怪我は完全に治っているみたいだ。
そうでなきゃ、傷に染みてシャワーどころじゃないもんね。

「言葉にしなきゃ、分からないよ」
「ああ、確かに」
「いきなりキスしちゃうって手もあるけど」

返事が無い。

「でもまあ、無理だよね」

返事が無い。


どうしたのかと思って横を見る。
お兄さんの顔が、何故か真っ赤になっていた。
さっきも赤かったけど、もっともっと赤くなっている。耳朶まで赤い。


どうしたの、と言いかけて、気づいた。

「したんだ、キス」
「してない」
「嘘。したよね」
「してない」
「したよね、絶対」
「してない」

頑として認めようとしないお兄さん。
だけど顔はどんどん赤くなっていくばかり。


いや、びっくりした。本当に。
まさか、そこまで進んでいるなんて。


お姉ちゃんの顔を、私は思い浮かべた。
よく分からないけど、何か微妙な気持ちだった。
お姉ちゃんにも、そういうことがあるんだな。当たり前か。
でも相手が目の前にいるお兄さんだというのが、また微妙だ。
いや、そうでもないのかな。考えてみたら、結構おめでたいのかも。
お兄さんと話している時、お姉ちゃん、すごく幸せそうだったし。


よく分からないけど、とりあえずニヤニヤ笑っておいた。そこで気づいた。

「お兄さん。最近、学園都市の外に出た?」
「ん?ああ、出てるけど」

話が変わったのでホッとしたらしく、お兄さんは大きく息を吐く。


――いやいや、変わってないんだよ、お兄さん。


「それって、いつ?」
「八月二十七日から三日間。三十日には戻って来たよ」
「お姉ちゃんも一緒だったよね、その時」
「……」

あ、黙った。そうか。やっぱりそうなんだ。

「全く同じ時期に、お姉ちゃんも学園都市にいなかったんだよね」
「そう、だったかな」
「お兄さんと一緒だったんだ」
「まあ、な」
「へえ、なるほど」

事態は私の予想を二段階ぐらい越えて進行しているみたいだった。
お兄さんと一つ屋根の下で過ごすのって、これが初めてじゃないんだ。
お姉ちゃん、ツンツン頭のお兄さんのことが本当に好きなんだ。


両手を胸の前に添えて、私は目を閉じた。
この中で渦巻いているのは一体、何だろう。
嫉妬なのか、焦りなのか、それとも他のものなのか。
どうして、こんなに動揺しているんだろう。
不思議なことなんかじゃないはずなのに。
お姉ちゃんだって女の子なんだから。
好きな人がいたって、全然おかしくないじゃないか。


目を開けると、私はバスルームの方へ目を向けた。
耳を傾けてみると、シャワーの音の他に軽快なリズムが聞こえてきた。
お姉ちゃんが鼻歌を歌っていた。ソプラノのよく通る声が、だんだん大きくなってくる。


お姉ちゃん、とっても機嫌がいいみたい。
ひょっとしたら、お姉ちゃん自身は気づいてないんじゃないかな。
ほとんど無意識で、歌っちゃっているんだろうな。
お兄さんと一緒にいられて、大事にしてもらえて、本当に嬉しいんだろうな。


お姉ちゃんの鼻歌を聞いているうちに、胸のざわめきが収まっていった。


お姉ちゃんには好きな人がいて。
その人も、お姉ちゃんのことが好きで。
お姉ちゃんが幸せだったら、私も嬉しくなって。


ゆっくりと息を吸い込み、吐いた。


ねえ、とお姉ちゃんの彼氏さんに声をかけてみる。
今度は何だ、と言わんばかりの顔を向けられる。


そんなに身構えなくてもいいのに。
もう充分、分かっちゃったんだから。

「私、木原那由他って言います」

そして、今度はニッコリと笑った。

「よろしくね、お兄ちゃん」











[20924] 第72話 姉と妹⑱
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/04/15 23:00
うわあ、と思わず洩れる声。
能力者としての実力においては姉さんの足元にも及ばない私では、多少は苦戦するだろうと踏んでいた。
だけど蓋を開けてみれば、拍子抜けしてしまうほど簡単に侵入できてしまって。
電気の流れは単純だし、セキュリティも甘いという一言で片付く程度。
宿泊先のホテルに設置されたパソコンを介して、あっと言う間に学芸都市のデータベースにまで行き着いてしまった。


学園都市の科学技術は世界の水準より三十年は先を行っている
常々聞かされてきた事実を、まさかこんな形で実感することになろうとは。
とは言え、いつまでも驚いているワケにもいかない。
不正侵入に気づかれてしまう前に、必要な情報を集めないと。


まずは学芸都市中に仕掛けられた監視カメラの画像を確認。
賞金目当ての一般客はもちろん、競泳水着の上に救命胴衣を着た学芸都市直属の管理員達も島中を走り回っている。


良かった。
まだ二人は捕まっていないみたい。
ほっと安堵の息を吐いて、画面を切り替える。


知っておきたいこと。
それは二人が狙われている理由だ。
おそらくは学芸都市の秘密に迫ってしまったのだろうけど。
その内容は一体、どんなものなのかな。
今のところ、手がかりはトビウオのような形をした飛行物体のみ。
だから洗い出してみることにした。金属の一切使われていない謎の機体と、学芸都市との交戦記録を。


情報はすぐに見つかった。
何と一年も前から両者の戦いは始まっていた。
しかし戦闘が激化し始めたのは、ほんの一ヶ月前から。
それも学芸都市側が迎え撃つ形がほとんどを占めている。


何かが起きたんだ。一ヶ月前に。
だから無理にでも敵陣に攻め込まざるを得なくなってしまったんだ。


一体、何があったんだろう。
大切な人が殺されてしまったのかな。
それで、仇打ちのために戦っているとか。
いや、それなら他にいくらでも手は打てるか。
わざわざ正面から戦って、自分達への被害を更に増やす必要もない。
となると、他に考えられるのは何だろう。


例えば、そう。
何か大事な物を取り返しにきた、とか。
これなら一応の説明はつくよね。
一ヶ月前の戦いで奪われた宝か何かを奪い返すのに躍起になっている。
だけどそれは、学芸都市から見ても貴重な物で。
自分達の物にしてしまいたいから、武力を行使して何度も追い返している。


うん、筋は通っている気がする。
ひょっとしたら、佐天さんと一緒にいる女性は件のUFOの持ち主なのかもしれない。
砂浜に乗り捨てられていた、あのトビウオ型の機体で学芸都市に入り込んだのかもしれない。
都市内部に単身で潜入し、大切な何かを見つけ、取り戻そうとしているのかもしれない。


――ああ、もう!


ガシガシと頭を掻く。
かもしれない、ばっかりだ。
大体の情報は引き出せたけど、それだけ。
謎は解けるどころか、ますます深まってしまった。


――仕方ない。


と言っても、何の手がかりも掴めなかったワケではない。
一連の事件に関する答えを得る代わりに、面白い情報が手に入った。
それは強能力の電撃使い程度では侵入できないほど厳重に守られた、一台のコンピュータの存在。


――ここから先は、物理的に探りを入れますか。












夜。太陽はとっくに沈んだ後。
涙子を先頭にして、私達は用心して路地裏を移動していた。


それにしても涙子は恐ろしく鼻が利く。
お尋ね者扱いにされてしまってから今まで、一度も人の目についていない。
監視カメラの位置を見抜き、人の流れを読み、特に苦労も無く目的地まで辿り着いてしまった。


これもまた、彼女の能力なのだろうか。
しかし、だとすれば矛盾が生じることになる。
能力者に扱える力は一つだけだと、エツァリお兄ちゃんから報告があったはずなのだが。


ショッピングモールを抜け、遊歩道をわずかに外れた先に巨大な建造物があった。
中心部に原寸と同等の大きさを持つ大型ロケットの模型が鎮座する建物の名は、ラージランチャー。
SF映画撮影を目的として建てられたロケット発射場。しかし、それはあくまで表向き。
その実態は学園都市が占有する超能力に拮抗できる力の研究施設だ。


およそ一ヶ月前、奴らに奪われてしまった宝玉も、この場所で解析を受けている。
学芸都市はその事実を上手く隠しているつもりらしいが、私には筒抜けだ。
だって、私には聞こえるのだ。はっきりと。研究と称して人体実験を施され、その命を奪われた同胞達の無念が。


それが私の持つ力の一つ。
死者の声に耳を傾け、彼らの未練を胸に刻み込む。
そして出来ることなら、彼らに代わって叶えてやるのだ。
志半ばにして倒れてしまった彼らの、最後の願いを。
彼らのためにも、何としてでも宝玉を取り戻さねばならない。
我らが組織の最終兵器、『太陽の蛇(シウコアトル)』の核を奪い返さねばならない。


閉館時間を過ぎたロケット発射場の周囲は、しんと静まり返っている。
周囲を警戒しながら、私達は建物に近づく。正面玄関は通り過ぎ、建物の右側へ進む。
裏に回り込むと、そこには深い闇に隠れるように茶色い扉があった。
従業員専用の出入り口だ。夜間に出入り出来る場所は、ここしかない。


ゆっくりと、音を立てずに扉へと近づく。

「ん?」

妙な点に気づく。
電子ロックにありがちな、暗証番号を入れるためのボタンがない。
人差し指が丁度入りそうなくらいの窪みがあるだけで、他には何も見当たらない。


ちょっと待て。
どうやって開けるんだ、これ。
ドアノブすら見当たらないじゃないか。
こじ開けるしかないのか。でも、どうやって?
トラウィスカルパンテクウトリの槍は、乗って来た『雲海の蛇(ミシュコアトル)』に置いてきてしまったし。

「指紋照合型だね」

考えのまとまらない私の隣で、ぽつりと涙子が呟く。

「指紋照合?」

オウム返しに訊ねる私。


うん、と涙子は小さく首を縦に振る。

「そこの窪みに人差し指で触れて、指紋を読み取ってもらうの」
「開くのか。それだけで」
「この読み取り機に登録されている指紋だったらね」

そんな話をしている内に、ドアの向こう側から人の気配がした。


私も涙子も、大慌てで近くの茂みに入って身を隠す。
程無くして扉が開き、中から少し痩せ気味の女性が出てくる。
競泳水着の上に、オレンジ色の救命胴衣という出で立ち。
ろくに眠っていないのか、その足取りはふらふらと頼りない。


丁度いい、と思った。
これで堂々と侵入できる。
この派手な水着ともお別れすることが出来る。


涙子、と隣で身を固くしている友人に呼びかける。

「今度は私の特殊能力を見せてやる」












自宅に戻ってからの二時間は、いてもたってもいられなかった。
立っては座り、座っては立って。何度も何度も携帯電話を確認しつつ、部屋の中を意味も無くうろうろと歩き回る。
お世話になっている人の家に行くから心配しないで、と御坂は優しい笑顔で言ってくれたけど。


――まさかとは思いますけど、捕まっていたりしないですよね。


だって偶然にも私が通りかかるよりもずっと前から、御坂は戦っていたのだ。
おそらく超能力者と思われる男と、河原の地形を変えてしまうほど激しい戦いを繰り広げていたのだ。
危険を感じて通報してしまった人がいないなんて、果たして言い切れるだろうか。


ああ、気になる。物凄く気になる。
だけど、こちらから電話して逃げている途中だったりしたら目も当てられない。
だから待つしかない。御坂からの連絡を。
どんなにもどかしくても、私には待つことしか出来ない。
ああ、でも、それにしたって遅い。いくらなんでも遅過ぎる。


待って、待って、ひたすら待って、ようやくその時が訪れた。


手の中の携帯電話が光った瞬間、

「御坂!」

自己記録を大幅に更新する速度で電話に出た。

「無事ですか!?大丈夫ですか!?今まで何やってたんですか!?」

まくし立てる私に、御坂はさらりと一言。

「カツ丼食べてた」

ええ、と大声を上げてしまう私。

「逮捕ですか!?逮捕されちゃったんですか!?」

どうしよう。
恐れていたことが現実になってしまうなんて。
ああもう、やっぱり一緒にいるべきだったんだ。
そうでなくても、あの女の子を私が預かれば良かったんだ。
あの女の子を背負っていなければ、御坂だったら逃げ切れたかもしれないのに。


しかし携帯電話の向こう側から、違う違う、と宥めるような声が聞こえてくる。

「晩ご飯だよ。今はお世話になっている人の家」

思わず、その場にぺたんと座り込んでしまう。

「驚かさないで下さいよ」

聞けば何とか第七学区にあるマンションに到着し、お風呂やら晩ご飯やらを済ませて落ち着いたところらしい。
せめて食べる前に連絡をくれればと思ったけど、何にせよ無事で良かった。


ほっと胸を撫で下ろした、その時、

「ありがとう」

なんて、唐突に礼を言われてしまった。


ワケが分からず、何がです、と訊ねてみた。

「心配してくれて」

間髪入れず、そう言う声が聞こえた。
いかにも御坂らしい、実に真っ直ぐな言葉だった。

「当たり前じゃないですか」

込み上げてくるものをじっくりと噛みしめながら、私は言った。
友達なんですから、と心の中でこっそり付け加えて。











[20924] 第73話 姉と妹⑲
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/04/30 21:33
研究所というのは酷く退屈な場所だ。
何しろ研究者である以上、一日の大半をパソコンの前で収集したデータと睨めっこして過ごす。
学芸都市に配属された当初は、ホント暇で暇で仕方なかった。
ところがオリーブさんにキラキラ光る不思議な玉の解析を頼まれてから、そんな退屈や暇は吹き飛んでしまった。


ソフトボールほどの大きさを持つそれは、とにかくとんでもない代物だった。
これまで私が常識として捉えていた科学の一切が通用しないのだ。
用途はおろか、その成分すら未だに正確には分析できていない。
この研究所に持ち込まれて、もう一ヶ月も経つというのに。


そんなワケで、今日も寮には戻れそうになかった。
寮を行き来する時間も惜しいくらい、今は充実していた。


――まあ、キャロルは帰っちゃったけど。


廊下を歩きつつ、体調不良を訴えて早々に退散したルームメイトに心の中で愚痴を零す。


全くもって軟弱な奴なんだ、アイツ。
たった一日徹夜したぐらいで音を上げてしまうなんて。
今度、機会を作ってガツンと言ってやろう。
それでも研究者の端くれなのかって。
うん、それがいい。

「ん?」

だが、反対側からこちらに向かってくる人影に気づいて思考を中断した。

「キャロル?」

どういうワケか、黒髪の女の子を引き連れている同僚に訊ねる。

「アンタ、帰ったんじゃなかったの?」
「いや、この子を見つけたから」

気弱そうな感じで、キャロルは言った。

「こっちに連れて来た方がいいかなって」

私は唖然とした。
よく見れば、キャロルの後ろにいる子は件の能力者だった。
学芸都市が全力を上げて探し回っている侵入者と、行動を共にしていた子。


嘘でしょ、と思った。信じられない、と。
オリーブさん達のような精鋭ですら手を焼いていた相手を、何かと要領の悪いコイツが先に捕まえてしまうなんて。
驚きのあまり、声が出ない。

「どうしたの」

キャロルが訊ねてきた。

「あ、いや。何でもない」

私はどうにかニカッと笑ってみせた。

「すごいじゃん、キャロル」

えへへ、とキャロルは笑う。
でも、何故か直後に顔を曇らせる。

「あのさ」

上目遣いで訊いてくる。

「一緒に来てくれる?」

私は呆れた。思いっきり呆れた。
せっかくの手柄なんだから、一人で堂々と報告に行けばいいのに。
でもまあ、しょうがないか。こういう性格だもんね、コイツって。
自分に自信が持てないというか、自分を信じ切れないというか。

「仕方ないわね」

大袈裟に溜め息を吐いて、廊下の先に目をやる。

「ほら、行くよ」












たまたま居合わせた研究員に連れられて、奥へ奥へと進んでいく。


どうやら相手は微塵も疑っていないらしい。
あたしと肩を並べて歩いている女性が、仲間だって信じ切っている。
もう一人のお尋ね者が化けているなんて、夢にも思っていないに違いない。
でも、分からなくて当然だよね。指紋まで寸分違わず再現してしまうくらい、完璧な変装なんだから。


今思い出しても、実に見事な手際だったと思う。
ロケット発射場から出てきた研究員の背後に、音も無く忍び寄って。
昏倒させた研究員を茂みまで引きずってきたと思ったら。

「少しの間、目を瞑っていてくれ」

なんて、恐ろしく真剣な顔でお願いされて。


二分、いや、三分ぐらい経ってからかな。

「もういいぞ」

目を開けてみて、唖然とした。
だって研究員の女性が一人、増えていたのだから。
全く同じ顔、そして同じ姿をした人物が並んでいたのだから。


違う箇所は、彼女達が着ているものだけ。
あたしに声をかけてきた方は競泳水着の上にオレンジ色の救命胴衣という格好。
一方、気絶している方はと言えば、あたしがショチトルのために買ってきた水着を身に纏っていて。

「ショチトル?」

半信半疑で、救命胴衣を身に着けた女性に訊ねる。

「ショチトル、だよね」
「もちろん」

応じる彼女は、何故か誇らしげに笑っていたっけ。


こんな体験をして、つくづく思う。
摩訶不思議な力は、学園都市に限ったものじゃないんだなあって。
学芸都市の連中から身を隠している間、ショチトルから色々と話を聞いていたのだ。
彼女が属する組織の実情とか、学芸都市と戦う羽目になった経緯とか。
その際、ショチトルが何度も口にした単語が魔術というものだった。
学園都市が生み出した能力とは方向性の違った異能。


好奇心で身体が疼く。
もっと知りたい、もっと訊いてみたい。
だけど今は、我慢。ひたすら我慢だ。


今はショチトルの手伝いをするのが最優先。
学芸都市に奪われた、彼女達の大切な物を取り戻す。
そうすれば、少なくともショチトル達が戦う理由をなくすことが出来るから。


これ以上は関わるな、という彼女の警告は当然の如く却下した。
友達が困っているのに、放っておけるワケがない。
まあ、あたしに出来ることなんてたかが知れているかもしれないけど。
それでも、見て見ぬ振りなんて絶対にしたくない。


それにしても、ショチトルって英語上手いなあ。
母国語じゃないって言っていたけど、そんな風には全然見えない。
あたしなんて、単語を聞き取るだけでも精一杯なのに。


すごいなあ、ショチトル。
日本語だってペラペラだし、本当にすごい。
すごく努力したんだろうな、きっと。
負けてられないな、うん。あたしも頑張ろう。


突き当たりのエレベーターに乗る。
研究員は地下五階のボタンを押した。


――地下、か。


いかにも秘密基地って感じじゃないですか。


僅かな間を置いて、エレベーターのドアが開く。
さっさと歩き出す研究員を、あたし達は早足で追った。
二十メートル程の廊下を渡り切るのに、チェックゲートを二回も通った。
その度に、研究員は違うカードをスロットに差し込んでいた。

「到着っと」

突き当たりで、研究員が立ち止まる。


そこにはドアがあった。
普通のドアよりも大きく、金属製で、両開き式になっている。
そのドアの脇にあるスロットに、彼女は三枚目のカードを滑り込ませた。
しかも、黒いパネルに左手を押しつけている。


――掌紋照合ってヤツね。


何かの映画で、こういうのを見た覚えがある。
実物を見るのは、これが初めてだけど。


やがて、ドアが開いた。

「ほら、キャロル」
「ええ」

促されるまま、中へ。
そこには、かなり広い空間が広がっていた。
ちょっとしたホールみたいだ。
やたらと天井が高く、ドーム型になっている。
どうやら、地下五階と地下四階が吹き抜けになっているらしい。


そして、部屋の真ん中には台座があった。
キラキラと黄金色に輝く玉が、その上に載っている。
学芸都市の人間の象徴とも言える、競泳水着の上に救命胴衣を着た人達が大勢いた。
台座を囲んで、当たり前だけど流暢な英語で、何やら熱心に話し合っている。


間違いない、と思った。
あれがショチトルの目的なんだ。
学芸都市に奪われた、ショチトル達の大事な物なんだ。












ようやく見つけた。
多くの犠牲を払って、ようやくここまで辿り着いた。


――特に傷つけられてはいないようだな。


かつてと変わらぬ輝きを放つ宝玉を前に、そっと安堵の息を吐く。


しかし、ここから先が問題だ。
宝玉の前には人だかりが出来ている。
おまけに何台もの監視カメラが様々な角度から台座を見張っている。
これら全ての目を盗んで宝玉を取り戻せるなどとは到底思えない。


――さて、どうしたものか。


「お手柄でしたね、キャロル」

台座を取り囲む輩の一人が話しかけてきた。
背の高い、首の細い、抜けるように肌の白い女だ。
首にぶら下げたIDカードには、オリーブ=ホリデイという名が記されている。
その話しぶりから、大層な権限を所持しているのだろうと推測できる。

「奥の手を使っても見つけられなかった標的を、よく捕らえてくれました」

その言葉とは裏腹に、オリーブ=ホリデイはちっとも嬉しそうな顔を見せない。
無表情のまま私の正面に立ち、じっとりと濡れたような上目遣いで睨め上げてくる。

「あの、何ですか」
「気のせいかしら。いつもと雰囲気が違うような気がするのだけど」

心臓が跳ね上がった。


まさか、気づかれたとでも言うのか。
そんなバカな。有り得ない。
魔術による変装を、一般人が見破れるはずがない。

「少し、質問させてくれる?」

そう言って、私の首からIDカードを取り上げるオリーブ=ホリデイ。

「心配しないで。貴女が本物だったら簡単に答えられるものばかりだから」

はあ、と気のない返事をする私。

「いいですよ。それで信じてくれるのでしたら」

言いながら、心の中で安堵の吐息を洩らす。


良かった、この程度で。
IDカードの内容だったら頭に叩き込んでいる。
何を訊かれようが、即座に答えられるという自信がある。


オリーブ=ホリデイが質問を始める。
名前、所属している部署、それに緊急時の連絡先。
思っていた通り、IDカードに記された内容ばかり。
これなら大丈夫。淀みなく、スラスラと答えていく。

「それでは最後に」

いささか調子を強くして、オリーブ=ホリデイが訊ねる。

「貴女の認証番号は?」

これも問題なし。間髪入れず、何の躊躇いもなく暗記した十四桁の番号を口にする。が、

「なるほど」

ふふん、と嫌らしく笑ってみせるオリーブ=ホリデイ。

「やはり偽物でしたか」

私に詰め寄り、またも上目遣いで、そう断言した。

「な……」

私は凍りついた。
頭の中が真っ白になる。
どういうことだ。番号は間違えていないはずなのに。
事態を把握できていない私に、オリーブ=ホリデイが追い打ちをかける。

「貴女は滅多に使うことのない十桁を越える数字を、いちいち覚えているのですか」


――なるほど。嵌められたってワケか。


この女は本物のキャロルですら戸惑うような質問をしたのだ。
なのに私は答えてしまった。あっさりと。
まるで、予め準備していたかのように。


ちっ、と小さく舌を打つ。
まさか、ここまで容易く正体を見破られるなんて思ってもみなかった。

「貴女達を拘束します」

その言葉が合図だったかのように、数人の男達が部屋に入って来て私と涙子を取り囲んだ。











[20924] 第74話 姉と妹⑳
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/05/27 22:11
私と涙子は暗い密室にいた。
半日もいれば病気になってしまいそうな、狭い密室。
まるで監獄のような部屋に、私達は閉じ込められていた。

「くそっ!」

私は苛立っていた。
こんな所で足止めを食らってなんていられないのに。
一刻も早く、宝玉を取り戻して同胞と合流しなければならないのに。

「まあまあ」

だと言うのに、涙子は呆れるぐらいに今まで通りで。

「せっかくだから、今のうちに休んでおこうよ」

横になったまま、事も無げに笑顔まで振り撒く始末で。

「何故だ」

苛立ちを隠しもせずに、訊ねる。
ちなみに変身魔術は既に解いている。
正体を見破られた今、仮の姿を保つ必要性など微塵もない。

「何故、そんなに落ち着いているんだ」

僅かな沈黙の後、返事があった。

「一人じゃないから」

そして、涙子は続ける。

「大丈夫」

強い口調で。

「何とかなるって」

その言葉が現実のものとなるまでに、さほど時間はかからなかった。












「キャロルを周辺の茂みで発見、保護しました」

落ち着いた口調で、私は言った。

「これで不穏分子は片付きましたね」

向かいに立つホリデイ指揮官が肯く。

「そうね。後は学園都市第三位の動きにさえ気をつければ」
「そちらも大丈夫でしょう。ホテルに戻ってからは大人しくしているようですし」
「大人しく、ねえ」

半信半疑、という感情が見え隠れする返答。


全く、指揮官は本当に心配症だ。
命じられた通り、ホテルの出入り口に設置された監視カメラだって確認したというのに。
その結果、第三位と呼ばれる超能力者が再びホテルを出て行った形跡は見受けられないと、報告したばかりなのに。


しばしの沈黙。やがて、指揮官は溜め息を一つ吐いて、

「少し休みましょう」

微笑むような感じで、そう言った。

「今日はもういいわ」

何故か、その声は酷く優しく聞こえた。












部屋の扉が突然、ズンと重く揺れた。
誰かが体当たりでも試みたのだろうか。
でも、それにしてはあまりにも凄まじい衝撃だ。
鉄製の扉が、たった一撃で僅かながら形を崩している。
同程度の衝撃がもう一度加われば、吹っ飛んでしまうんじゃないだろうか。

「扉から離れて!」

扉の向こうから、高く澄んだ声。

「早く!」

何が起きるのかを察した私は、慌てて扉から遠ざかる。
ごろりと横たわっていた涙子もたちまち起き上がり、部屋の隅に避難する。
直後、再びの衝撃。予想していた以上に扉は吹っ飛び、部屋の反対側にめり込んでしまった。

「やっと見つけた」

つい先程まで扉のあった場所。
そこには水着の上にパーカーを羽織った少女が立っていた。
胸の前で固く握った右の拳から、バチバチと青白い光が走っている。
目の前で起きた出来事なのに、信じられなかった。
鉄で出来た分厚い扉を、道具を一切使わずに破壊してみせるなんて。


目をぱちぱちさせてみる。
しかし、それで何かが変わるワケではもちろんない。
少女は相変わらず素手のままだったし、扉も壁にめり込んだまま。

「御坂さん!」

呆気に取られている私を他所に、涙子が歓声を上げた。
件の少女に走り寄って、勢いよく抱きつく。

「信じてました!」

実に嬉しそうだ。

「良かった。怪我も無さそうで」

柔らかな笑みを浮かべ、御坂と呼ばれた少女が呟く。


事態は明らかに好転していた。
固く閉ざされたはずの道が開き、頼もしい助っ人まで現れて。
なのに何故だろう。ちくしょう、なんて思っている自分がいるのだが。

「自己紹介は、とりあえず後回しで」

こちらに視線を向け、御坂は静かに言った。

「誰か、来る」

その言葉で、私はようやく落ち着きを取り戻した。
耳を澄ましてみると、なるほど、確かに複数の足音が近づいてくる。

「行って」

涙子を身体から離し、御坂はそう言った。

「ここは私が引き受ける」
「しかし、まだ宝玉が」
「大丈夫」

口元に笑みを浮かべ、パーカーのポケットに手を突っ込む御坂。

「ここにある」

ポケットから出てきた時、その手は金色に輝く宝玉を握っていた。

「持って行って」

正直、ワケが分からなかった。
この少女はどうして宝玉の存在を知っているのだろう。
幾重にも張り巡らされたセキュリティを、どうやって突破したのだろう。
そもそも、涙子はともかく、どうして私まで身を挺して助けようとしているのだろう。


一瞬のうちに、疑問が幾つも浮かんでくる。
だけど、いちいち訊ねている暇はない。
こうしている間にも、足音はどんどん近づいてくる。
二人や三人どころじゃない。大勢の足音が確実に迫ってきている。

「逃げて!早く!」

少女の真剣な瞳に、私は歯を食いしばって宝玉を受け取った。
途端、涙子が私の手を取り、エレベーターに向かって全速力で駆け出した。
開かれたままのチェックゲートを次々と通り抜けていく。
途中、背後の暗闇から何度も銃声が聞こえた。
ぎゃあ、と誰かの叫び声も響いてきた。


だけど涙子は気を散らさなかった。振り向かなかった。
ただ、がむしゃらに、走って走って走った。
やがて、エレベーターが見えた。
私達は雪崩れ込むようにして乗り込み、涙子が一階のボタンを押した。


ふう、と深く息を吐く。
一刻も早く外に出なければ。
この敵だらけの研究所から、涙子を早く連れ出さなければ。
懐かしい表に出て、星の輝く空の下に出て、新鮮な空気をたっぷり吸って。
今後どうするべきかを考えるのは、それからにしよう。
あの少女を待つか、それとも助けに戻るか。
涙子の身の安全が保証された後で、どちらかを選択すればいい。
思考を巡らしているうちに、エレベーターが止まった。一階に着いたのだ。
両側に開いていく扉を抜けて、私達は外に出た。


辺りはしんと静まり返っている。
どうやら敵は全て地下に固まっていたらしい。
とは言え、一応、用心しなくてはならない。
エレベーターから出口までは完全な一本道。
ここで敵と遭遇してしまえば逃げ場はない。戦うしか道はない。

「行くぞ!」

私が先頭、涙子がしんがりを務めて一気に走り出す。


ほんの三十メートル。
それだけの距離が、随分と長く感じられた。
何だろう、背中がヒヤヒヤする。
きっと、そのヒヤヒヤは予感だったのだろう。

「そこまでよ」

開け放された扉をくぐり、外に出た途端だった。

「逃がしはしない」

オリーブ=ホリデイだった。
腕組みをして、私達を待ち構えていたのだ。












――やってくれたわね。


学園都市第三位。
あの女一人のせいで、予定が大幅に狂ってしまった。
念のためにホテルの従業員に確認を命じたところ、何と第三位の部屋は蛻の殻だったと言うのだ。
それだけではない。学芸都市のデータベースに対して、第三位の部屋に据え置かれたパソコンから不正な侵入があったことまで判明したのだ。


いかに強大な能力を持ち合わせていようとも、所詮は子供。
脅しの一つでもかけておけば問題ないだろうと警戒を怠ったのは、明らかに失敗だった。
防犯カメラも、電子錠も、我が国の最先端技術を駆使したセキュリティでさえも。
学園都市最強と謳われる電撃使いの前では、何の効力も発揮しないというのか。

「ちっ……!」

苛立ちを隠しもせずに舌打ちする。
褐色の少女が右手に持つのは、解析の未だに進まぬ超能力開発の手がかり。
第三位の姿は見えない。おそらく二人を逃がすために、見張りの目を引き付けているのだろう。


――認識を改めないといけないわね。


超能力者と言っても、所詮は子供。
それほど慎重になる必要はないと思っていた。
取るに足らない相手であると、心のどこかで侮っていた。


だけど今は違う。
第三位は雑魚などではない。
骨のある敵であると理解した。
ならばもう、このまま放っておけない。
帰路に着かせた部下達には、既に再召集の連絡をしている。
あと数分もすれば、こちらに戻って来れるはず。


出し惜しみも、手加減も一切不要。
我々の全力をもって、葬り去ってやろう。
二人の少女を睨みつけたまま、そう決意を固める。
感情を決して表には出さず、あくまで心の内でのみ。


と、その時。
二人の少女が拳を固めて駆け出してきた。
左右から、私を挟み込むようにして距離を詰めてくる。


ふむ、悪くない判断だ。
視線から察するに、狙いは顎か。
まともに当たれば一撃で気絶に追い込まれるだろう。
だが、残念ながら私に届くことは決してない。
なぜなら私は軍人。戦闘のプロフェッショナルなのだから。


まずは褐色の少女。
彼女の手を掴むと引き寄せ、流れるように拳を腹に当てる。
そして自ら背を向ける形となってしまった東洋人の少女に対しては振り向きもせず、腹に思い切り肘を叩き込んでやる。


時間にして、ほんの数秒。
かくして少女達は低い呻き声を上げ、地に倒れた。

「隊長!」

背後からの声。

「これは一体、どういうことですか」
「こいつら、どうやって外へ」
「お怪我はありませんか」

ようやく駆けつけた部下達が、戸惑いを隠さずに訊ねてくる。

「そこの二人」

彼らの言葉を遮って、私は言った。

「連れて行きなさい」

地に伏す少女達を指差し、命じる。

「あとは全員、私と一緒に来なさい」

中で暴れているはずである第三位を、一刻も早く取り押さえる。
これ以上、研究の邪魔をされてたまるものか。


だが、その時。

「待ちなさい!」

この時、それより忌々しい声があっただろうか。
ロケット発射場の体を成す研究所にゆっくりと身体を向け、私は見た。
青白い火花を身体中に走らせながら、こちらを睨みつける学園都市第三位の姿を。


第三位である少女は静かな顔をしていた。
静かな、だが、怒りのあまりに蒼白になった顔を。











[20924] 第75話 姉と妹21
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/05/27 22:20
すごい、としか言いようがなかった。


目に見えない速さで動いているワケじゃない。
手当たり次第に電撃を放っているワケでもない。
なのに救命胴衣を着込んだ学芸都市の連中が手も足も出ない。
数に物を言わせて襲いかかっているのに、御坂さんに触れることすら出来ない。


あたしは無意識の内に半回転して身を起こしていた。
御坂さんの雄姿を、この目に焼き付けていた。
群がってくる無数の手を御坂さんは躱す、躱す、躱す。
軽やかな体捌きで敵の攻撃を悉く回避し、反撃で一人ずつ仕留めていく。


御坂さんと交錯する度、敵は数を減らしていく。
一人、また一人と地面に叩き伏せられていく。
その姿は戦っていると言うにはあまりにも優雅で、綺麗で。
まるでステージ上で踊りを披露しているような、そんな錯覚すら覚える。
と、手首を誰かに掴まれて無理やり起こされた。唇から思わず、か細い悲鳴が洩れる。

「なかなか見事な戦いぶりですね」

あたしは髪を掴まれ、顔を引き上げられた。

「ですが」

喉に、何か冷たい物が当たる。
その正体を確かめるべく、精一杯に横目を使う。
女性にしては大きくて長い指が、拳銃を握りしめているのが見えた。


あたしは身体を強張らせ、顎を上げた。
ひやりとする感触が、ぴたりと喉に吸いついている。

「こうすると、どうでしょう」

と、ソイツは御坂さんに問いかける。

「お友達の運命は、今や私の裁量一つ」

あたかも商人が自慢の売り物を見せびらかすように、拳銃を動かして見せる。

「さあ、どうします?」


――駄目です!こんな奴の言うことなんか聞かないで!


あたしは叫ぼうとした。
だけど喉には銃口を突きつけられている。
死の恐怖に怯え、あたしは一言も発することが出来なかった。


辺りはしんと静まり返っていた。
自分の身体の中を流れていく血の音が聞こえるような気がした。
あたしは瞳をいっぱいに開いて、必死に御坂さんを探した。
鼻から血を流しながら横たわっている男の身体の側に、真っ直ぐに立った御坂さんが見えた。


そんなあたしを、じっと御坂さんは見守っていた。
そして微笑んだ。この上もなく優しく。この上もなく悲しく。


そして御坂さんは座り込む。
堂々と胸を張って、あぐらをかいて、唇を真一文字に結んで。
まだ御坂さんに倒されていなかった奴らが二人。
そいつらが嬉々として襲いかかる。殴られ、蹴られ、傷つけられて、御坂さんの顔が歪む。


――ああ、まただ。


危ない事件に首を突っ込んで。
挙句の果てに周りまで巻き込んで。
そして今、大切な人が苦しんでいる。
あたしのせいで。あたしの身勝手な行動のせいで。


息が苦しい。上手く呼吸が出来ない。
目が熱い。身体中が痺れる。
心が痛い、痛い、痛い。


――力が。


意識が飛びそうになるほどの痛みの中、あたしは願った。


――力が、欲しい。


この状況を打開するだけの力が。
御坂さんを、そしてショチトルを助けられるだけの力が。


今、この瞬間だけでいい。
何らかの可能性があたしの中にもあるのなら、どうか応えて。
あたしだったら、どうなってしまっても構わない。
だから、お願い。あたしに力を……!












異変は突如として訪れた。


――な、何っ!?


身体が重い。
まるで全身が鉛に変わってしまったかのように。
第三位を沈め、今度こそ邪魔者は消えたはずだった。
全てが終わり、ようやく勝利を確信した矢先の出来事。


人質として捕らえている黒髪の少女に目を向ける。
見れば、髪と同じく真っ黒な瞳で私を睨みつけているではないか。


――まさか。


この少女が能力を解放したとでも言うのか。
そんなバカな。これほどの力を有しているなら、どうして今の今まで使わなかったのだ。
絶体絶命の窮地に陥るまで、自らの能力を隠している必要があったとでも言うのだろうか。


全身にかかる重圧は留まることを知らない。
あまりの重みに膝がガクガクと震える。
いつもなら片手で軽々と扱えるはずの拳銃が、今は酷く重い。
愛用する拳銃の重みにすら耐え難い今、少女一人の体重を支え切れるはずもなく。
しっかりと掴んでいた黒髪の少女の腕が、手からするりと滑り落ちる。
それでも銃口だけは辛うじて彼女に向けているが、もう限界だった。
増え続ける重みに耐えかね、とうとう私は拳銃まで地面に落としてしまう。


その途端、光が瞬いた。
何かが続け様に倒れる音。
そして重力と戦う私の顎に突然、衝撃が走る。
誰かに、おそらく褐色の少女に思い切り殴られたのだろう。
しかし、それを確かめるよりも前に、私の意識は闇に落ちていった。












静まり返った闇の中に、荒い息の音だけが響く。
私と涙子、そして御坂の三人は既に三十分以上は走り続けていた。
オリーブ=ホリデイを殴り倒して安堵したのも束の間、すぐさま増援が駆けつけてきたせいで必死の逃亡を余儀なくされたのだ。

「きゃあっ!」

突如として上がる悲鳴。
振り向くと、涙子が地面に倒れ込んでいた。

「涙子!」

慌てて、駆け寄る。

「ほら、掴まれ」

よろよろとしながらも、立ち上がる涙子。

「振り切れたかな」
「そう願いたいな」

辺りを注意深く見回す御坂に、私は素っ気なく答えた。


どうにも複雑な心境だった。
電撃を自在に操る、御坂という名の少女。
おそらく、いや、まず間違いなく彼女は御坂美琴なのだろう。
エツァリお兄ちゃんが暗殺の標的としていた、超能力者に違いない。


上層部からお兄ちゃんに暗殺の命が下されたのは八月の末。
なのに標的である彼女が未だに健在であるということは、つまり、そういうことなのだろう。
お兄ちゃんは暗殺に失敗したのだ。涙子の友達である彼女の命を狙って、しかし返り討ちにあってしまったのだ。


ああ、何て皮肉なんだろう。
大切な人を殺したのかもしれない相手に助けられるなんて。
兄の仇かもしれない相手が、かけがえのない友人と親しい仲にあるなんて。

「大丈夫か」

わざとらしく御坂から目を逸らし、涙子に声をかける。


彼女の顔は真っ青だった。
無理もない。ほぼ全力で、しかも休みなく走り続けてきたのだから。
一般人に過ぎない涙子には、いささか酷だったのかもしれない。


私は近くにあるベンチを指差した。

「ちょっとそこに座ろう」
「う、うん」
「足、すりむかなかったか」

ベンチに腰かけ、涙子の足を見る。
傷は無かった。膝をすりむいているとばかり思っていたのだが。
そう言えば、悲鳴以外には大して音が聞こえなかったのも不思議だな。
あれだけ盛大に転んだのだから、もう少し派手な音がしてもおかしくないはずなのに。

「怪我は無いようだな」
「……」
「意外と丈夫じゃないか」
「……」
「どうしたんだ、涙子」

まるで反応を示さない涙子に、堪りかねて訊ねてみる。すると、

「使えた」

意外な言葉が返ってきた。

「あたし、使えた」

涙子の声は震えていた。
そして、ひどく嬉しそうだった。

「ズルしなくても、使えた」

いや、おそらく本当に嬉しかったのだろう。何せ、

「能力が使えた!」

満面の笑みでこちらを振り向いたと思ったら、いきなり抱きついてきたのだから。












いきなり、視界が真っ白になった。
眩しい。何が何だか分からない。

「起きなさい」


――え?


ぼんやりと辺りを見回す。
白っぽい壁。広い空間。オリーブさんの顔。

「オリーブさん?」

床に寝かされていた。
研究所の地下五階。黄金に輝く玉が安置されている場所の。
そして、オリーブさんが私の顔を覗き込んでいる。


起き上がると、頭の芯に重い痛みが走った。

「――っ!」

その瞬間、記憶がいきなり蘇ってきた。


――学園都市第三位がここに来て、いきなり電撃を浴びせられて……。


愕然とする。


悪い夢であってほしいと願いつつ、台座に目を向ける。


――ああ、やっぱり。


夢なんかじゃなかった。
台座の上には何も置かれていなかった。
黄金の玉が無くなっている。
超能力を生み出す唯一の手がかりが、無くなっている。

「第三位を始末します」











[20924] 第76話 姉と妹22
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/06/10 22:05
夜中の砂浜には誰もいなかった。
私が乗り捨てた『雲海の蛇(ミシュコアトル)』が、月明かりを浴びて淡く輝いている。
ここまで来れば、もう大丈夫。日の出と共に、仲間が迎えに来てくれる手筈となっているから。
学芸都市の連中も、どうやら上手く振り切れたらしい。


ほっと息を吐き、そのまま私は砂の上に寝転がった。
ひんやりとした砂の冷たさが、火照った身体に気持ち良かった。


涙子も隣に寝転がり、

「気持ちいいー」

なんて、はしゃいだ声を上げている。


今、ここにいるのは私と涙子の二人だけ。
ちなみに御坂美琴はいない。
念のため、もう一度だけ周囲を見回っておきたいのだそうだ。

「ったく」

わざとらしく息を吐いて、私は言った。

「命を狙われているというのに、緊張感の無い奴だな」
「あれ、そんな風に見える?」
「そうとしか見えん」
「ごめんごめん」

言葉とは裏腹に、全く悪いと思っていない調子で謝る涙子。
そんな彼女を半眼になって睨んでみせる私。

「ホントに悪いと思っているのか」
「あー、月が綺麗だねえ」
「そうだよな。お前って、そういう奴だよな」

深々と息を吐き、空に視線を移す。
まあ、確かに彼女の言う通りではあった。
満月を僅かに過ぎた月は青白く、幻想的な光を放っていた。

「もうすぐお別れなんだよね」

急にしみじみとした感じで、涙子が訊ねてきた。


その変化に戸惑いながら、

「今生の別れというワケじゃない」

と言うと、涙子は首を横に振った。

「ほんのちょっとの間だったけど、よく分かったよ。あたし達、住んでる世界が全然違うんだって」

誇張でも何でもなかった。それは真実だった。
魔術師と能力者が相容れることは決してないだろう。
能力者が魔術を行使すれば、肉体を破壊されてしまうように。
能力を手にしてしまえば、二度と魔術を使えなくなってしまうように。

「楽しかったよ。すごく楽しかった」

空間のどこかを見つめながら、涙子は喋り続ける。

「出来ることなら、もっと、ずっと一緒にいたかった」

涙子がこちらを向いた。にこりと微笑む。

「もちろん、無理だって分かってるけど。わがまま言ってショチトルを困らせたくないし」

どうしようもないよね、と涙子はおどけてみせる。
その言葉は、まるで彼女自身に言い聞かせているようで。

「ま、そういうのは覚悟してるから、いいんだけど」

涙子は笑っていた。全てを理解し、笑っていた。


彼女の笑みを見ていたら、

「そんなことはない」

なんて言葉は言えなかった。


涙子はもう、私達の運命を知っているのだ。
もう二度と会えないって、気づいてしまっているのだ。


私は涙子から顔を背けた。

「すまない」

声が少し掠れた。


本当なら、もう少し色々な言葉を使って涙子に気持ちを伝えたかった。
私だって、涙子と一緒にいれて楽しかったって。
たとえ離れ離れになってしまっても、涙子のことは絶対に忘れないって。
でも情けないことに、そういった言葉が唯の一つも出てこなかった。


顔を戻すと、涙子が私を見つめていた。
彼女の顔から笑みは消えてしまっていた。
その時、涙子の顔に浮かんでいた表情は何だったのだろう。
よく分からないまま、私は再び顔を背けていた。












夜が白み始めた。
別れの時は、もうすぐそこまで迫ってきている。
砂浜にいるのは、変わらず私と涙子の二人だけ。
気を使ってくれているのか、御坂美琴は一向に戻って来ない。


今、私達は砂浜に並んで座って、海を見ている。
あまり話をすることはなかった。
話さなければならないことは、もう全て話してしまっていた。


空と海の色が、黒から藍へと変わっていく。
濃い藍色から、空の色と海の色が分かれていく。
ゆっくりと、でも、確実に。まるで私達の行く末を案じるかのように、分かれていく。
何もかもが過ぎ去ってしまう。時間というものは本当に残酷だ。
涙子と過ごした日々も、いつの日か思い出に変わり果ててしまうのだろう。


でも、それでも、私達は確かに同じ時を共有したのだ。
ほんの少しの間だったけれど、互いに心を通わせることが出来たのだ。


そんなことを考えていたところ、

「何してるの」

という声が頭上から降ってきた。


視界を上に向けると、そこには御坂美琴が立っていた。

「海を見ているんです」

涙子はニコリと笑ってみせた。
一睡もしていないのに、それでも元気よく答えてみせた。


ふーん、と御坂美琴は唸った。

「いっぱい話せた?」
「はい」
「そっちの彼女も?」

いきなり矛先をこちらに向けられた。

「いっぱい話せた?」

何が楽しいのか、ニヤニヤと笑っている。
そして、すとんと私の脇に腰を下ろした。


こうして隣で見ると、彼女も涙子と同じだった。
何の変哲もない、外国旅行を楽しみに来た東洋人の少女。
エツァリお兄ちゃんのことがなければ、もう少し心を許せたのかもしれない。
うん、きっとそうだ。そうに違いない。

「おかげさまで」
「そっか」

御坂美琴が嬉しそうに笑った。

「良かった」

心から、本当に嬉しそうに笑った。


――ああ、やっぱり。


何も知らないままだったら、彼女とも友達になれたのかもしれない。


そんなことを考えていた時だった。
目の前で砂浜が下から持ち上げられるように爆発した。
そして中から飛び出してきたのは『雲海の蛇』だった。
私が乗って来たものより、一回りほど大きな機体。
学芸都市での任務を果たした私を、同胞が回収しに来たのだ。


カヌーを上下二つに合わせたような機体の前方が、後部へゆっくりとスライドして開く。
その中から顔を見せたのは幼少からの腐れ縁が続くトチトリと、そして、

「え……」

思わず声が洩れる。
トチトリの後ろに、この場に相応しくない人物が乗っていたから。

「テクパトル?」

私達の組織で指揮官を務める、事実上の最高責任者が『雲海の蛇』を降り、こちらに向かってくる。

「どうして」

貴様が、と問いかける間さえもテクパトルは与えてくれなかった。
私の前までやって来るなり、彼は私の手から宝玉を奪い取る。
しげしげと黄金に輝く宝玉を眺め、ふうむ、と唸る。

「本物のようだな」

宝玉を見つめたまま、呟く。
英語でも日本語でもない、私達の国の言葉で。

「遂に我々の手元に戻ったか」

相も変わらず、いけ好かない男だ。
敵地に送り込んだ部下の安否より、宝玉の確認が先か。


気がつくと、私はテクパトルを睨んでいた。
その視線を受けながら、テクパトルは不敵に笑うだけ。

「次の作戦に移る」

言うなり、足早に『雲海の蛇』に乗り込もうとするテクパトル。

「ちょっと」

そんな彼の背中に、待ったをかける者がいた。

「一言も無いの?」

涙子だった。
目を細くして、テクパトルを睨みつけている。

「頑張ったショチトルに、一言も無いの?」

涙子は怒っていた。
まるで自分のことのように、怒っていた。
私達の会話を正確に聞き取れたはずがないのに、怒っていた。


しかしテクパトルは止まらない。
さっさと機体に身を滑らす直前、彼は視線で訴えた。
お前も早く乗れ。さもなくば置いていくぞ、と。

「待ちなさいよ!」

更に喰ってかかろうとする涙子を、私は手で制する。

「いいんだ」

そう言って、彼女を宥める。

「良くない!こんなの!」
「いや、いいんだ」

強がりなんかじゃなく、私は心からそう感じていた。


私の言いたかったことは、涙子が言ってくれた。
私の言いたかったことを、涙子は分かってくれた。


それで、それだけで、充分だった。

「世話になった」

笑顔が自然と浮かんでいた。

「ありがとう」

その言葉は、自然と口をついて出ていた。
目の前にいる涙子と、一歩離れた位置に立つ御坂美琴に。
挙動不審の塊であった私に、優しく手を差し伸べてくれた恩人達に。











[20924] 第77話 姉と妹23
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/07/08 00:22
やがて『雲海の蛇(ミシュコアトル)』が浮かび上がる。
操縦者であるトチトリの魔力に呼応して動き出す。
先頭にトチトリ、続いてテクパトル、そして私の順で席についている。


これで全てが終わったはずだった。
宝玉を取り戻した今、戦いを続ける必要などなくなったはずだった。
だが、その期待は呆気なく裏切られた。

「え……」

テクパトルから今後の動きを聞いた私は、そんな声を上げていた。


当然、学芸都市から身を引くものだと思っていた。
宝玉を故郷に持ち帰り、それで終わりにするのだろうと。
しかし、テクパトルは告げたのだ。学芸都市を滅ぼすと。
『太陽の蛇(シウコアトル)』を使って、跡形も無く消し飛ばすと。

「歯切れの悪い返事だな」

抑揚のない声。

「異論があるのか」

やはり前を向いたままで、テクパトルは訊ねてくる。

「異論があるのか」

テクパトルは繰り返す。


異論があるか、だって?
そんなの、あるに決まっているじゃないか。


確かに学芸都市は敵だ。
だが、学芸都市にいる人間が全て敵というワケではない。
私達に理解を示してくれる人だって、確かに存在するのだ。


学芸都市には涙子がいる。御坂美琴もいる。
私達の戦いとは無関係の人間だって、大勢いる。
彼らを皆、殺してしまうつもりなのか。
報復という名の下に、全てを消し去るつもりなのか。
そんなこと、黙って見過ごせるワケがないじゃないか。

「どういうつもりだ」

テクパトルの背中を睨みつける。

「説明する必要など無い」

テクパトルは一向に振り向かない。

「異論は認めん」

彼はただ、そう言った。さっきと全く同じ口調で。

「お前に選択権は無い」

ああ、そうだろうな。
組織の中でも、私は末端に属する人間なのだから。
当たり前だと言われてしまえば、それまで。
上層部にとって、私など取るに足らない駒の一つに過ぎない。


けど、だけどな。
私だって一人の人間なんだ。
懸命に、ひたすらに、一心に、生きているんだ。
お前達の意のままに操られている人形なんかじゃない。


テクパトルの背中を睨みつける。
狙いは奴の左手だ。握っている宝玉を奪い、交渉を持ちかける。
学芸都市への報復攻撃を白紙にさせる。
ただし向こうも少なからず警戒しているだろう。
となれば、ここは奇襲をかける以外に方法は――


その考えは、途中で切れた。
テクパトルが突然、振り向いたからだ。
柄から刃まで、全てが黒曜石で作られた短剣を右手に握りしめている。
トラウィスカルパンテクウトリの槍。金星の光を力に変え、あらゆる物体を分解し尽くす兵器が私を狙っている。

「何の真似だ」

私は唸った。

「反乱因子の駆除さ」

当然のようにテクパトルは答えた。

「しかし兄弟弟子共々、寝返るとはな」
「何だと?」

いきなり何を言い出すんだ、コイツは。
寝返っただって?エツァリお兄ちゃんが?
御坂美琴に返り討ちにされたのではなくて?

「エツァリは能力者にかぶれたのだ。標的である学園都市第三位の始末に失敗したばかりか、差し向けた新たな追手から標的を庇う始末」

テクパトルは顔をしかめた。
だが、やがて再び口を開いた。

「もう奴を生かしてはおけない。能力者に肩入れする裏切り者には死あるのみ」
「それで私も殺すのか。エツァリと同じ理由で」

瞬きもせず、御託を並べる上司の怒りに歪んだ顔を見据える。

「大事な兵器を裏切り者の血で染めるのは忍びないのでね」

口の端を上げて、テクパトルは嫌らしく笑う。

「お前には鮫の餌にでもなってもらおう」

そう言うなり、短剣を床に突き立てるテクパトル。
すると黒曜石の刃から眩い光が放たれた。
思わず腕を上げて顔を覆った姿勢のまま、私は落ちた。床が消失していたのだ。


大空に投げ出され、背を下に落ちながら、私は見た。
見る見る内に閉じていく『雲海の蛇』の下部を。
そして奥歯を食い縛って聞いた。
そこから零れてくるテクパトルの高笑いを。


その後は、あっと言う間だった。


顔のすぐ側を流れ過ぎていく雲を見て。
落ちていく先に、見渡す限りの青を見て。
盛大な水飛沫を上げ、私は真っ青な海に落ちた。












「まだなの!?」

私は叫んだ。

「まだ見つからないの!?」

部下達が絶望的な声を上げる。

「駄目です!どこにもいません!」
「監視カメラ、依然としてターゲットを捕捉できません!」
「一般人からの目撃情報、今のところありません!」


――くそっ、どこに消えた……!?


私は両手を強く握り締めた。
第三位を一刻も早く見つけ出さねばならない。
見つけ次第、始末しなければならない。
生かしておくワケにはいかない。
彼女は知り過ぎてしまったのだから。

「引き続き、捜索を続けなさい」

そう言い残し、私はモニタールームを後にした。












今日も朝から快晴だった。
気持ちを落ち着かせるため、私は研究所の外に出ていた。
まだ太陽が顔を出したばかりなので、観光客の姿は全く無い。


学園都市第三位は、この島が抱える重大な秘密に辿り着いている。
能力を開花させる可能性がある人間を片っ端から捕らえ、実験台にしているという事実に。
昨夜、研究所内のコンピュータに不正なアクセスがあったのだから間違いない。


ターゲットと共にいた能力者が相手ならば、まだ良かったのだ。
どれだけ追求されようと、証拠さえ予め潰しておけば何ら問題は無い。
世迷い事を吐いているに過ぎないと、世間は勝手に勘違いしてくれるだろう。
しかし学園都市第三位を相手取るとなれば、話は全く違ってくる。


第三位のロシアでの活躍は皆の記憶に新しい。
持ち前の頭脳と能力を駆使して学園都市とロシアの双方を救った少女。
そんな彼女の発言ならば、有り得るのだ。嘘のような真実ですら受け入れられてしまう可能性が。


第三位の行方は依然として掴めない。
学芸都市の総力を上げて捜索しているにも関わらず。
ホテルに残った仲間と合流する可能性もあるが、今のところ彼女達に怪しい動きは無いそうだし。

「……どこだ……」

呟く。一体、どこに姿を眩ませたのだ。

「失礼」

突然、呼び止められる。
足を止めて振り返ると、そこには見たことのない男が立っていた。
夏の盛りだというのに上下をスーツで決めた、整った顔立ちをした人物。
とんでもなく流暢な英語で話しかけてきたが、おそらく日本人だろう。

「何か御用ですか」
「はは、そんな恐い目で睨まないでほしいな」

にこり、と作り物のような微笑みを浮かべて、男は言った。

「まだ第三位は見つからないのかい?」

一瞬、心臓が止まったかと思った。

「どういう意味でしょう?」

動揺を必死で抑え、笑みを返す。


そうだ、まだ決まったワケではない。
この男が我々の目的に気づいていると結論付けるのは早計だ。
ひょっとしたら、カマをかけているだけなのかもしれないではないか。
だから落ち着け、落ち着くんだ。
こちらから情報を与えることのないよう、細心の注意を払って接するのだ。

「私は散歩をしているだけです。探し物などしていませんよ」
「それは違うな。君は必死になって追い求めている。祖国への忠義ってやつなのかな。あまり感心できないな、そういったものに身を委ねてしまうのは。責任を転嫁するのが楽だから」

あはは、と笑う男。

「さすがにやり過ぎだろう、人攫いと人体実験は」


――え?


知らず、足が一歩退いていた。
どうして、と思わず心の中で呟いていた。


どうして、そこまで知っているのだ。
第三位と同じく、この男も電気を自在に操る能力者なのか。
いや待て、不正なアクセスは一度しか認められていなかった。
第三位以外で、我々の機密データを覗いた形跡は見当たらなかった。


と言うことは、彼は第三位の協力者なのか。
我々の監視を掻い潜り、第三位に情報を与えていたのか。
いや、それもおかしい。だとすれば、どうして今になって私の前に姿を晒すのだろう。


分からない。まるで分からない。
この男は一体、何を企んでいるというのだ。

「何者ですか、貴方」

自らの緊張を誤魔化すため、私は声を上げた。

「第三位を始末するより先に、やるべきことがあるんじゃないかな」

しかし男は答えてくれない。
私の声など無視して、勝手に話を進めてしまう。

「彼らは大切な物を取り戻した。となれば、もう遠慮する必要なんて無い」

男は作り物の様な、いや、明らかに作り物の微笑みを浮かべる。

「この島一つぐらい、彼らなら容易く地図から消せるだろうな」

男の言葉に、私は固まってしまう。


確かにそうだ。
あの光り輝く玉を巡って、我々は彼らと敵対し続けてきた。
彼らが扱う不思議な力の正体を探るべく、人体実験と称して数多くの命を奪ってきた。


ああ、間違いない。彼らによる報復が近い内に訪れる。
彼らの立場になって考えれば、そんなこと、火を見るより明らかではないか。
私達のやってきたことを、許せるはずがないではないか。

「君達の健闘を祈るよ」

それだけ言い残して、日本人と思われる男は去っていった。
遠くなっていく背中を、私は黙って見届けていた。
そうすることしか、出来なかった。











[20924] 第78話 姉と妹24
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/07/08 00:30
瞼を開けると、ギラギラと輝く太陽が視界に飛び込んできた。
雲一つない青空に浮かんでいるせいか、その輝きは酷く綺麗だった。


ああ、それにしても痛いな。
身体のあちこちが痛い。

「ショチトル!ねえ、ショチトルってば!」

涙子の顔が、その太陽を遮った。
びっくりして、私は起き上がった。

「うわ、いきなり起き上がらないでよ!顔ぶつかるところだったじゃない!」
「……涙子?」
「うん。大丈夫?」

辺りを見回す。
そこは砂浜だった。
迎えを待っていた場所とは違う。
乗り捨てた『雲海の蛇(ミシュコアトル)』の見当たらない砂浜で、私は倒れていたのだ。

「私は、一体」
「海に落っこちたんだよ」

答えてくれたのは、目の前にいる涙子ではなかった。

「突然だったから、びっくりしちゃった」

声のした方に振り向く。
そこには案の定、御坂美琴が立っていた。
肩の辺りまで伸びた髪からは、水滴が滴り落ちている。
よく見れば、涙子の髪も濡れていた。
いや、髪だけではない。全身ずぶ濡れだった。


――ああ、そうか。


それで、それだけで全てを悟った。
テクパトルに海へと落とされた、あの後。
意識を失った私を、二人が浜辺まで運んでくれたのだ。
危険を顧みずに海へと飛び込み、私を助けてくれたのだ。


身体中を走る痛みに耐えながら、私は立ち上がった。


砂浜には何も無かった。
迎えに来てくれたトチトリ。
学芸都市を滅ぼすと告げたテクパトル。
突きつけられた黒曜石の短剣。
私の人生を捧げてきたと言っても過言ではなかった組織。
その全てが消え去っていた。

「ショチトル、どうしたの?」

心配そうな顔で涙子が覗き込んできた。

「身体、痛む?」
「いや、それほどでもない」
「じゃあ、なんで泣いてるの?」
「え?」

目元を拭ってみると、確かに濡れていた。
海水なんかじゃない。私の目から、ボロボロと涙が零れ落ちている。


ああ、何だって言うんだ。
泣きたくなんてないのに、ちっとも止まらない。
くそっ、頭を強く打ったせいで涙線が壊れたのか。
そして私はあの瞬間を、大空に投げ出された自分を思い出した。


テクパトルの高笑い。
組織から切り捨てられた私。
心の拠り所が消え失せた世界。
悔しくて、悲しくて。そして落ちた先には。
他でもない、私自身を見てくれる友がいた――


真っ白に輝く太陽の光が降り注ぐ砂浜で、私は涙子の顔を見つめ続けた。
海水に濡れた彼女の癖のない黒髪が朝日を浴びて、それは美しく輝いていた。


風が吹き、涙子の髪が揺れた。
私の髪も揺れた。心は、もっと。


そうだ、全てを失ったワケじゃない。
今、この瞬間、私は生きている。
涙子も、御坂美琴も、エツァリお兄ちゃんも。
皆が皆、生きているんだ。
まだ間に合う、そう思った。今ならば、まだ。

「涙子」
「何?」
「手伝ってくれないか」
「手伝う?何を?」

涙子の顔を真っ直ぐに見つめたまま、私は言葉を続けた。

「かなり難しいけど、どうにかなると思う。いや、しなくちゃいけない。この島にいる人達を救うためにも、必ず」

私は涙子と御坂美琴の二人に話した。
これから間違いなく起こるであろう悲劇を。
それを退けるために、私達がやり遂げねばならないことを。
組織の最終兵器である『太陽の蛇(シウコアトル)』の存在や仕組みについても、包み隠さず伝えた。
それは組織の最大機密だったけど、説明するのに何の躊躇いもなかった。
だって、そうだろう。これから生死を賭けて共に戦う友に、隠し事をするなんてバカげている。

「一歩でも間違えたら、みんな死んじゃうってワケか」

全てを聞いた涙子は、笑みを引き攣らせながら言った。

「どんだけスケール大きいのよ、アンタの組織は」

私はにっこりと笑った。

「怖気づいたのか」
「まさか」

涙子も笑った。にっこりと、私と同じように。

「絶対に止めてやるわ」

この島ごと吹き飛ばされてしまうかもしれない。
そんな状況を突きつけられても、涙子の心はブレなかった。定まっていた。

「でも、いいの?」

そう訊ねてきたのは御坂美琴だった。


いや、美琴でいいか。
心の中で、私は彼女の呼び方を変えた。
エツァリお兄ちゃんが生きているなら、彼女と敵対する理由なんて無い。

「本格的に組織を裏切ることになるよ?」

構わない、と笑みを崩さず返す。


組織に未練は無い、と言えば嘘になる。
だけど、組織よりも大事なものが今はある。
それを守るためならば、躊躇いなんてしない。
どんなことをしてでも、絶対に守り通してみせる。

「急ごう。今は一刻を争う」
「本気なんだね」

ああ、と短く答える。
私の心もまた、ブレなかった。定まっていた。

「よし」

やがて、美琴は言った。
彼女の顔にも、やはり笑みが浮かんでいた。

「行こう!」












その声が届いた時、私、春上衿衣は先生の指示に従ってホテルの自室に篭っていた。
旅行中に二人も出てしまった行方不明者を見つけるまで、生徒は皆、自室に待機せよとのお達しをもらっていた。
受信のみを可能とする念話使いである私に語りかけてきたのは、なんと行方不明になっている御坂さんだった。


脳波を私に合わせてくれているのだろう。
その声は普段、受け取る気もないのに勝手に届いてしまうそれより一層はっきりと聞こえる。
それでも低能力者に過ぎない私の力では、御坂さんの声は小さく、しかも途切れ途切れになってしまって。


全神経を己の能力に向けて、私は繰り返して届けられる御坂さんの声を聞く。

「え?」

何だかムチャクチャなことを頼まれているような気がする。
事情を問い質したくても、私の能力では自身の声を御坂さんに送れない。
今、私の心に届いた声の内容は、果たして真実なのだろうか。
能力が不完全なせいで、御坂さんの言葉を聞き間違えているだけだったりして。


しかし、このまま放っておくワケにはいかない。
だって御坂さんは必死に訴え続けている。
何度も何度も繰り返して、その声を送っている。
それに御坂さんは友達であり、同時に親友の絆里達を救ってくれた恩人でもある。
そんな彼女が必死になって伝えようとしている想いに、応えないなんて選択肢があるはずもなくて。


扉を開け、周囲に誰もいないことを確認して、外へ出る。
行き先は初春さんの部屋と、白井さんの部屋。
それと御坂さんに頼まれた、もう一箇所。


特にホテルの従業員に注意しつつ、私は廊下を忍び足で歩き出した。












「ところで」

説明を一通り聞き終えたところで、白井さんが訊ねた。

「この御方、どちらですの?」

胡散臭そうに、金髪碧眼の女性を指差す。
満面の笑みをもって、件の美女は返す。

「こんにちはー」

彼女を白井さんの部屋に招き入れたのは春上さんだった。
手伝ってもらうため、ということらしいけど。
御坂さんと面識があるらしく、ろくに事情を説明しなかったのに、見ず知らずの私達についてきてくれたのだ。


ちなみに、私は全神経の半分以上を目の前のノートパソコンに集中させていた。
春上さんの能力を介して御坂さんに頼まれたことを早急に済ますべく、作業に没頭していた。

「映画監督のビバリー=シースルーさんです」

画面に釘付けになったままで説明を加える。
全てのセキュリティを突破して、既に仕上げの段階に入っていた。

「この学芸都市で御坂さんと知り合ったそうで」

ついさっき聞いたばかりの話を白井さんに伝える。
その間も、ずっとパソコンの画面を凝視し続けていた。
暫くして、ふうん、と素っ気ない声が返ってくる。
出会ったばかりの彼女を、白井さんは信用し切れないみたい。

「これで準備完了です」

構わず、私は宣言した。


それにしても呆気なかったな。
時間にして、わずか二十分足らず。
それだけで学芸都市の電気系統を全て掌握できてしまった。
それなりの防衛システムは組まれていたけど、学園都市のそれに比べれば時間稼ぎにもならないほど脆弱な代物だったし。

「さあ、始めましょう」











[20924] 第79話 姉と妹25
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/08/05 01:40
――何よ、あれ……。


私は目を見開き、スクリーンに映し出されている物を凝視していた。
それは高度三百キロメートルの低軌道を周回する偵察衛星から送られてきたものだった。


異常が近づいてきていた。
全長にして百メートルを優に超えると思われる巨体。
ラグビーボールの端と端を掴み、無理やり引き伸ばしたような機体。
側面や後方に取り付けられた、大きさも形も微妙に異なる羽。


そして、それは単体ではなかった。横一列に並んで、四機。
高度五十メートル程の空中を泳ぐようにして飛ぶ様は、まるで、

「大空を泳ぐ魚、と言ったところかしら」

絞り出した声は、僅かながら震えていた。


学芸都市での任務に就いてから今日まで、数々の異常に対処してきた。
超能力の手がかりとなる黄金の玉を奪い取ってからは、摩訶不思議な体験の連続だった。
しかし、それでも。大画面に映し出されるUFOの映像に、私は畏怖を覚えずにはいられなかった。
あれだけ巨大な物体が、どうして何の制約も受けずに飛んでいるのだろう。
重力なんてものをまるで無視して、飛行に適しているとは到底思えない形状で。


敵の力量が計れない。
相手の実力を見極められない。
何も知らない、分からない。
焦りが不安に、そして恐怖に変わり、膨らんでいく。


――何を恐れる、オリーブ=ホリデイ。


自らの弱気を叱咤する。


そう、恐れている場合ではない。
任務を受けたその時、覚悟を決めたではないか。
学園都市が占有する、能力開発技術に対抗し得る術を見つけ出す。
祖国アメリカが名実共に世界の頂点として相応しい存在として返り咲く、そのために。
たとえ自らの命を失うことになろうとも、何としてでも成し遂げたい願いのために。


目の前にある光景。
これは絶望などではない。千載一遇の好機なのだ。
奴らの超能力を、今度こそ我らの手中に収める。
そうして、彼女との約束を果たすのだ。
学芸都市の運営における最大出資者であり、志を同じくする彼女との約束を。


もう、五年も前のことになるのか。
いつものように訓練を終えて帰路についた、あの日。
突如として、私の前に彼女は現れたのだ。
彼女はオーレイ=ブルーシェイクと名乗った。

「アメリカはもっと強くあるべきだと思わない?」

最初は取り合わなかった。
だが、銀行口座にいきなり百万ドルが振り込まれていた。
驚いていると、次の日、ブルーシェイクが家を訪ねてきた。

「この前の金は準備金で、あの十倍を用意してあるわ」
「どういうつもりです?」

彼女の真意が読めず、戸惑い気味に私は訊ねた。
その言葉を待ちかねていたかのように、彼女は語り出した。
この世界には科学で解明できない力がある、と。
その力、超能力を学園都市と呼ばれる地域が占有している、と。

「アメリカは超能力を手に入れなければならない」

語気を強くして、彼女は言った。

「我らが祖国は世界の頂点で在り続けなければならない」

その言葉は、何の躊躇いもなく私の中に入ってきた。
私も全く同じ想いだったから。世界を守る役割は、アメリカこそが相応しいと思っていたから。

「だから手を貸して」

気づけば、彼女は手を伸ばしていた。

「一緒にアメリカを支えていきましょう」

ほとんど無意識だった。
私は素直に、驚くほど素直にその手を取っていた。


こうして私は学芸都市を任されることになった。
超能力開発の手がかりを求めて、暗躍するようになった。
全てはアメリカの、愛する祖国の繁栄のために。

「全機、標的の射程範囲に入りました!」

部下の声で、我に返る。

「攻撃を開始しなさい」

半ば反射的に、私は口にしていた。

「海上で決着をつけるのです」












待ちに待った瞬間が訪れていた。
パソコンの画面に映るそれを見て、私は緩む頬を抑えきれずにいた。
最新の装備を積んだ戦闘機が次々と落とされていく。
得体の知れない、巨大な飛行物体によって。
重油の様な真っ黒い何かをぶつけられて、成す術もなく落ちていく。


もちろん学芸都市側も黙ってやられているワケではない。
五機ごとに小隊編成を組んで、一斉にミサイルを発射する。
しかしUFOが撒き散らす重油の様なものに邪魔されて、本体にまで届かない。


――ああ、何て素敵なんだろう。


圧倒的な強さだ。
あれらの機体には、きっと超能力が絡んでいるに違いない。
と、いうワケで。携帯電話が鳴った時、私はパソコンの画面に釘付けになっていた。
画面から目を逸らさず、腕を振り回して音の発信源を探した。
どうにか見つけると、通話ボタンを押して耳に当てる。
その間も、ずっと画面を凝視し続けていた。
次々と数を減らしていく戦闘機。対し、UFOは四機共に健在。


この結果は分かり切っていた。
これまでの常識を覆すほどの力が潜んでいる。
それを見つけて手中に収めるため、巨大な権力の集中と資本の投下を行なってきたのだ。
とは言え、実際にその瞬間を目の当たりにし、冷静であろうとする方が無理だ。


――ああ、何て素晴らしい光景だろう。


電話から聞こえてきたのは、そんな素晴らしい気分をぶち壊すに充分な声だった。

「オーレイ=ブルーシェイクの携帯は、こちらで合っているかな」

全く聞き覚えのない男性の声がしてくる。
流暢な英語だが、少しばかり訛りを感じる。
どうやら相手は母国語を英語としていない国の人間らしい。

「何者です?」

冷たい声で訊ねる。


私の携帯電話の番号を知っている人間は、片手で数えられる程しかいない。
情報産業を祖父より引き継ぎ、財界や政界に大きな影響力を持っている私の命を付け狙う輩は少なくない。
だから私は自身の居場所を特定される術を可能な限り排除している。
ごく一部の人間を除けば、私の居場所どころか連絡先にすら決して辿り着けないようにしてある。
アメリカのメディア王という称号に恥じぬ莫大な財産を使って、自らの安全地帯を築き上げてきた。

「どういった用件で、私に連絡してきたのです?」

だと言うのに、この男は私の領域に踏み込んできた。
それだけでも充分過ぎるほどに分かる。電話の向こうにいる相手は只者ではないと。

「一つ、お願いをしようと思ってね」

彼の声は嫌味なくらい穏やかだった。

「学芸都市から手を引いてもらえるかな。君は少々、踏み込み過ぎた」
「……え?」

あまりに突拍子もない言葉に、私はそんな反応しか示せなかった。

「科学では解明できない力を求め、表向きはアメリカ政府が主導するという形で進められている実験を遂行する研究機関。それが学芸都市の正体」

相手は私の動揺を敢えて無視し、一気に真実を告げてくる。

「実際に何をしていたかは判らない。しかし能力開発の手がかりとなりそうな人材を問答無用に捕らえ、実験と称して生身の身体を切り開く程だ。人として最低限は守らねばならない領域から、随分と外れてしまっているんじゃないかな」

私は何も返さない。
下手に答えてはいけないと直感したからだ。
おそらく相手は私の弱みを握ろうとしている。
私が学芸都市に深く関与しているという、決定的な証拠を掴もうとしている。

「貴方の言っていることは、真実味が酷く欠けています」

だが甘い。
そんなに上手く物事を運ばせてやるつもりはない。
どこの馬の骨とも知らぬ者に屈するなど、ブルーシェイクの名が許さない。

「もう切っても宜しいかしら。夢物語に付き合っている暇は無いもので」

憮然とした私の台詞は、しかし相手には通用しなかったようだ。


あはは、なんて彼は笑って答えてくる。

「そう焦らないでくれ。ここからが重要なんだ」

全く、何が楽しいのか電話越しに聞こえる声は妙に明るい。

「率直に言うとね、君は今、とても危険な状況にあるんだ。学芸都市への出資者は君を除いて皆、報復として彼らに殺されてしまったから」

そうして、電話の相手は一つ一つ報告してきた。
共同出資者の名前やその額、果ては奴らに殺された順番や日付までを事細かに。

「証明できる物が無いのは、悔しいけどね」

と、弱々しくぼやく相手。
しかし彼が嘘を吐いていないことだけは分かる。
なにしろ、ピッタリと重なるのだ。
出資者との連絡がつかなくなった時期と、彼の話した死亡推定時刻が。


それでも、俄かには信じ難い事実ではあるのだけれど。
私ほどではないにしても、出資者達も身辺警護を一切怠らない慎重な人達ばかりだったから。
滅多に表の世界に顔を出さず、その存在すら疑われているような連中ばかりだったから。

「次は、君の番」

共同出資者の末路を全て話し終えて、ぽつりと。
ご丁寧にも私の居場所まで付け加えて、彼は言った。
身の危険を感じ、つい先日に変えたばかりである潜伏先を。


あまりの事実に混乱していた私は、それでも、

「大丈夫」

と、気丈に応じてみせた。

「私は彼らとは違います」

そう、私と他の出資者では格が違うのだ。
合衆国の国庫よりも大きな資産を持ち、先進国アメリカを思い通りに動かせる。
たとえ超能力の使い手であろうとも、それだけの大物を見つけ出し、仕留められるはずがない。


そうか、と携帯電話の向こうで呟く声がした。
少し躊躇ってから、じゃあ、と断って彼は話を始める。

「君は構わないんだね。自らのお腹を痛めて産んだ一人娘がどうなっても」

私は、声も無く息を呑み込んでいた。
どうして、ここでリンディの話が出てくるのだ。

「彼らは決して報復を諦めない。君自身に届かないならば、別の手を考える。君が最も苦しむ罰を与える」

解るだろう、と諭すように彼は言う。
しかし私は肯くことが出来ない。いや、肯きたくない。

「君を見つけるより、ずっと楽だろうね。君の預かり知らぬ所でリンディは彼らに捕まり、連れ去られ、絶え間ない苦しみを与えられた上で命を奪われるんだ」

突きつけるように、彼は言い放つ。
わざわざ口にされずとも、容易に想像できる悲惨な未来を。

「そう、ですか」

真っ白になった思考のまま、私は一人、納得していた。


アメリカ政府から保護を受けている娘の居場所を、私は知らない。
私の力では、リンディの身の安全を保障してあげることは出来ない。


全ては自業自得だった。
何としてでもリンディに事業を引き継いでもらいたい。
私の築き上げてきた全てを、他の誰でもない、あの子に託したい。
その一心で施してきた英才教育は、しかし大事な一人娘を苦しめる原因になった。
思ったように結果が表れず、何度も何度も娘に手を上げた。
それを家庭内暴力と呼ばれても、仕方のないぐらいに。


夫は何も言わなかった。
元より私の財力に目が眩んで結婚したような男だ。
娘の扱いに対して、特に口出しするようなことはなかった。
そんな家族が離婚という結末に至るまで、さして時間を要しなかった。
娘に拳を振るったのは夫であるという情報をばら撒き、どうにか世間体は保ったものの、それでも政府の目は誤魔化せなかった。
かくして私は親権を持つ者として不適格であると判断され、リンディはアメリカ政府に保護されることになったのだった。


それでも私は諦め切れなかった。
学園都市の超能力に対抗する術を模索する傍ら、人知れず娘の行方を追った。
分単位で刻まれる予定の合間を縫って、リンディ捜索の手がかりを探し続けた。


失ってみて、ようやく分かった。
私に必要なのは正当な後継者などではなかった。
血の繋がった、たった一人の娘が傍に居てくれれば、それで良かったのだ。


ひょっとしたら手遅れかもしれない。
まともな親子関係なんて、もう築けないかもしれない。
だったら、それは致し方のないこと。潔く受け入れるしかない。
その方がリンディの幸せに繋がるのなら、尚更だ。


だが、それでも会いたい。
一目だけでもいい。あの子に会いたい。


しかし、このままでは娘は殺されてしまう。
奴らの手によって。母親の罪を代わりに背負う形になって。
それだけは、何としても避けなければならない。

「私は、どうすればいい?」

力無く、電話の相手に呟く。

「最初に言ったと思うけど」

感情の起伏を見せずに、彼は告げた。

「学芸都市から身を引いてもらえるかな。それで全てが解決する」

その声には抗うことの許されない魔力が篭っていた。少なくとも私にはそう感じた。
何故なら何の抵抗もなく、この男の言葉を受け入れてしまったのだから。
心の底から思い知る。私には、彼の要求に肯く以外の選択肢は残されていないのだと。


だけど、その前に。
私は一つだけ訊ねた。
貴方は何者ですか、と。


僅かな沈黙の後に、彼は答えた。

「総合コンサルタントさ」

その言葉は、私の耳の奥まで響き渡った。











[20924] 第80話 姉と妹26
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/08/06 22:05
「交信、全て途絶えました」

呆然とした表情で、部下は事実を告げた。

「全滅です」

誰もが言葉を失った。もちろん、私も。


目を背けたくなるような現実が、スクリーンに映し出されていた。
敵機との戦いに臨んだのは、近い将来、アメリカ空軍の主力になるべく開発された最新鋭の戦闘機。
なのに、奴らには全く通用しなかった。二十分にも満たぬ時間の中で、全て撃墜されてしまった。
かすり傷の一つすら、付けさせてもらえなかった。


私は身を震わせていた。
思い知ってしまったからだ。
現代兵器による抵抗など全く無意味。
ああ、無知とは何て残酷で、恐ろしいものなのだろう。
或いは、一生知らないままであった方が幸せだったのかもしれない。
そうすれば、こんなにも絶望に打ちひしがれることもなかっただろうに。

「敵機、移動を再開」

部下の声で、現実へと引き戻される。

「適当に情報を流して、一般人を屋内に避難させなさい」

呆けている暇など無い。
奴らの存在。私達の研究。
そのどちらも、公に知られてしまうワケにはいかない。
どんな手を使おうとも、一般人の目にだけは触れさせてはならない。
そのはずだったのだが。

「え……」

思わず、声が洩れる。


スクリーンには異常が映し出されていた。
島内に設置された幾つもの監視カメラから送られた映像。
その中に人間がいない。どのカメラにも、人間が映し出されていない。
普段あるはずの賑わいが、どこを探しても見つからない。
まるで死んでしまったかのように、学芸都市は静まり返っている。
異様な光景を前に、モニタールームにいる誰もが首を傾げた。
やがて部下の一人が気づき、呟いた。

「ビバリー=シースルー」

ユーロ系恋愛映画の超新星と称される少女の名であった。
島内を監視するカメラの一つが、繁華街のビルに設置された巨大なスクリーンを映し出す。
そして、その大画面にて件の映画監督が映し出され、訴えていたのだ。


これまでにない強大な敵が攻めてくる。
危険から身を守るため、今すぐ地下にあるシェルターに避難してほしいと。


英語に日本語、それに中国語にロシア語。
何ヶ国もの言語を使用し、避難場所を伝えている。
目に涙を浮かべて、必死に訴え続けている。
あれが演技ならば、彼女は一流の役者にだってなれるだろう。


しかし、どうにも解せない。
どうして彼女がシェルターの存在を知っているのだ。
どうやって危機を察知し、私達よりも遙かに早く避難を促していたのだ。
そして、これが一番の謎なのだが、如何なる方法で島内に放送をしているのだ。
学芸都市全体を管理している私達の目を、どうやって欺いたというのだ。

「地下はどうなっているの」

努めて、そう、努めて静かに問いかける。
確認のためにキーボードを叩き出した部下の顔が、凍りつく。

「駄目です!」
「何ですって」
「シェルターのカメラに繋げられません!」

悲痛な叫び声が部屋中に響き渡る。
それに呼応するかのように、スクリーンに映し出されていた映像が消えていく。
モニタールームと監視カメラとの接続が、次々と断ち切られていく。
抵抗しようと数人の部下が一斉にキーボードを叩くも、まるで歯が立たない。
スクリーンに映し出される映像が、見る見る内に黒く染められていく。
このままでは学芸都市を監視する目が全て奪い取られてしまう。


しかし、これは始まりに過ぎなかった。

「侵入者です!」

誰かが叫んだ。

「もうすぐそこまで迫っています!」

一瞬、頭の中が真っ白になった。
考えることを放棄しそうになってしまった。


だって、仕方がないでしょう。
次から次へと、問題ばかりが舞い込んでくるのだから。
そもそも何故、侵入を許してしまったのだろうか。
監視カメラの制御を奪われたとしても、まだ赤外線センサーがあるのに。
万が一に備え、分厚いシャッターを各階層で閉じ、通路を塞いでいたはずなのに。

「数は?」

頭を抱え、それでも現状把握を図ろうとする。
指揮官としての務めを果たそうと必死で足掻く。だが。

「う……」

呻き声を上げ、侵入者の存在を告げに来た部下が床に倒れる。

「道案内、ご苦労様」

倒れた部下の後方。そこには一人の少女が佇んでいた。


ツインテールを施した茶色の髪。幼さの残る顔立ち。大きな瞳。
しかし私の目を一際引いたのは、彼女の服装だった。
灰色のミニスカートに、半袖のブラウス。
その上に羽織った袖の無いサマーセーターには、とある紋章が胸に刻まれている。
盾をモチーフとしたその紋章には見覚えがあった。
常盤台中学。世界有数のお嬢様学校であり、在学条件の一つに強能力以上の能力者であることが含まれているとんでもない学校の校章だ。


間違いない。
この少女は学園都市第三位の仲間。
しかも第三位に勝るとも劣らない実力の持ち主。

「何だ、貴様」

モニタールームに詰めていた十数名の部下が、じりじりと油断なく少女との距離を縮めていく。

「ここまで、どうやって」

部下の一人が発した言葉は、それ以上、続かなかった。
いきなり少女の姿が消えたのだ。そして同時に、部下の一人が吹っ飛んでいた。
突如として空中に現れた少女のドロップキックを顔面に受け、あっさりと吹き飛ばされてしまったのだ。

「バカな」

信じられない思いで、私は呟いた。
この少女は学芸都市に来て以来、第三位に四六時中付き纏っていた。
だらしない笑みを浮かべて、第三位の超能力者を追いかけ回していた。


放っておいたところで危険は無いはずだった。
私達に害を及ぼすような存在には成り得ないはずだった。
なのに少女は立ち塞がってきた。
その顔は今、怒りに赤く染まっていた。

「畜生!」

誰かが叫ぶ。

「どうなってやがる!?」

その間にも、部下は次々と倒されていく。
一撃を加えては消えてしまうので、捕らえるどころか触れることも出来ない。


そう、消えてしまうのだ。一瞬の内に。
気づけば私達全員の死角に平然と立っている。
これはもう、ただ足が速いと言うワケでは絶対にない。
瞬間移動。瞬きの間に空間を移動する術を、この少女は身に付けているに違いない。

「何よ、それ」

思わず、そんな文句を口にしていた。


だって、そうでしょう?
こんなの、災厄以外の何物でもない。
アメリカの威信を守るために進めてきた、超能力の開発。
それを観光で訪れた少女如きに、あっさりと潰されてしまうなんて。


――知らなかった。


そう、知らなかった。超能力の前では、私達はこんなにも脆くて簡単に屈してしまうなんて。


それにしても分からない。
これから一体、どうなってしまうのだろうか。
超能力者に敗れ、あの化け物に学芸都市を焼かれて。
分からない。さっぱり分からない。
この先に待っている私達の処遇も、アメリカ合衆国の行く末も、これからどうすればいいのかという単純なことさえも。


でも、本当は理解できている。
能力開発と称して、人の道に外れる行為を繰り返してきた。
能力者としての適性を感じた者は、有無を言わさず捕らえてきた。
研究施設の地下に閉じ込め、実験のための材料として扱ってきた。
人体実験の結果として、罪の無い人の命を幾つも奪ってきた。
そんな私が、許されるはずがないことぐらい。


――駄目。私はまだ終われない。


ああ、そうだ。
それもまた、間違いない。
だって、まだ祖国のために何も出来ていない。
それどころか、多大な迷惑をかけてしまう。
非人道的な実験を進めてきたと、世界中から非難の眼差しを向けられてしまう。
祖国アメリカが。世界の頂点に立つに最も相応しい、私達のアメリカが。


だから、これまでの実験を隠蔽しなくてはならない。
学芸都市の裏側で行なわれてきた全てを、無かったことにしなくてはならない。
幸い事情を深く知る者のほとんどは、この研究所に集まっている。
捕らえた被験者達も全員、この施設に監禁している。


どれもこれも、全て破壊してしまえばいいのだ。
たったそれだけのことで、祖国の平穏は守られるのだ。
この研究所と共に、全てが粉微塵に吹き飛んでさえしまえば。


救命胴衣のポケットに手を入れ、銀色に輝く物体を取り出す。
上等なライターと見間違えてしまいそうな形状を持つそれは、遠隔式の起爆装置だ。
上部に備え付けられたスイッチを押せば、研究所の至る所に設置された爆弾が一斉に起動し、爆発する。


ちらりと横目でツインテールの少女を見遣る。
彼女は残り三人ほどにまで減った部下を仕留めにかかっている。
こちらの様子を窺ってはいるが、それだけ。
私がこれから何をしようとしているかなんて、気づくはずもない。


――貴女の思うようにはさせない。


右手に起爆装置を握り締め、ニヤリと笑う。
少女が勘付いたらしく、目を見開かせるが、もう遅い。


――全て壊してあげる。


だがスイッチを押そうと親指を上げた直後、全身に重圧がかかった。
突然の重みに抗うことも出来ず、その場に崩れ落ちてしまう。


――これ、は。


第三位を追い詰めた時と同じだった。
見れば部屋の入口で、黒髪の少女が人差し指をこちらに向けている。

「おのれ……!」

一度ならず二度までも、あの黒髪の少女にやられてしまうとは。

「ナイスアシストですわ、佐天!」

全ての部下を沈めたツインテールの少女が拳を固めて駆けてくる。
しかし動きを封じられた私には、どうすることも出来ない。


――ここまで、か。


ツインテールの少女が放つ拳が、私の左顎を捉える。
そこは奇しくも、褐色の少女に殴られた時と全く同じ箇所だった。












最後の一機になっても抵抗を続けていた戦闘機も、遂に海へと落ちる。
我らが最終兵器、『太陽の蛇(シウコアトル)』の撒き散らす、まるで重油のような粘り気を帯びた黒炎に焼かれて。
戦場から遠く離れた海に浮かべた『雲海の蛇(ミシュコアトル)』の上で、私はその光景を目に焼き付けていた。
学芸都市の最期を見届けてくること。それが忌々しい上司、テクパトルからの命令だった。


このままだと、アイツの思惑通りに学芸都市は消し飛ばされる。
宇宙に浮かぶ本体からの大規模爆撃によって、跡形もなく。


――ごめん、ショチトル。


心の中で、私は謝った。


私には、どうすることも出来ない。
組織を敵に回すだけの実力も、勇気すらも持っていない私には。
同僚であり、幼少からの腐れ縁である少女に、私は何一つしてあげられない。
自分の無力さを噛み締めていた、その時だった。


空気を貫く音がする。
どんどん音は大きくなっていく。
とんでもない速さで何かが近づいてきている。


導かれるように空を仰ぎ見る。
まず始めに襲ってきたのは激しい風。
そして頭上を新たに現れた戦闘機が駆け抜ける。
四機の『太陽の蛇(シウコアトル)』に向かって、真っ直ぐに突き進んでいく。


無茶だ、と思った。
たった一機で戦うなど、自殺行為に等しかった。


『太陽の蛇』が近づいてくる敵を感知する。
無人で動くそれらは、一度魔力を吹き込めば目的を達するまで止まらない。
邪魔が入れば即座に迎撃体勢へと移り、徹底的に排除する。
攻防一体と化す黒炎を全身から放ち、あの戦闘機を海に落とす。
そんな私の想像は、しかし、大きく外れることになった。


一斉に撒き散らされた黒炎を巧みにかわし、件の戦闘機は急上昇。
あっと言う間に『太陽の蛇』達の頭上を陣取ると、ミサイルを連続して発射。
狙い撃たれた一機はミサイルの全てを頭部に浴び、煙を上げながら海へ落ちた。


驚きのあまり声が出ない。
時間にして、ほんの数秒。それだけで『太陽の蛇』の一機が潰されてしまった。
科学では決して解明の出来ない魔術で作り上げられた兵器が、落とされてしまった。


一体、あの戦闘機は何なのだ。
つい今しがた全滅した物より、あれは優れた機体なのか。それとも操縦者が優秀なのか。
両方が当てはまる、という可能性もある。しかし仮にそうだとしても、とある疑問が残る。


あの戦闘機は始めから頭部を狙っていた。
動力源である魔力が込められており、唯一、黒炎の発生しない箇所である頭部を。
まるで、そこが『太陽の蛇』の弱点であると知っていたかのようだった。


黒炎を避ける様も見事としか言いようがなかった。
まるで吐き出される瞬間が、予め分かっていたかのようだった。


――そうか。


その結論に行き着くのは、至極当然のことだった。


――お前が導いているのだな、ショチトル。











[20924] 第81話 姉と妹27
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/08/18 01:12
「やった!」

美琴の声は、いささか興奮気味だった。

「まず一機!」

私も同様の興奮を感じつつ、しかし気を引き締め直して美琴を怒鳴りつける。

「まだ一機だ!浮かれるな!」

まあ、気持ちは分からなくもないのだが。
『太陽の蛇(シウコアトル)』の動きを私が後部座席から予測し、最適な対応を導き出す。
私の出す指示に素早く且つ正確に従って、美琴が戦闘機を操る。
急ごしらえながら、私達二人の連携は悪くないものだったのだから。
魔術と科学。相容れないとばかり思っていた二つの力が、今、確かに手を取り合っているのだから。

「学芸都市が保有する戦闘機を奪い取ろう」

そう言い出したのは美琴だった。
組織の最終兵器を止めるには、確かに相応の火力が要る。
高速で移動する奴らを無理なく追えるだけの乗り物が要る。
私の乗って来た『雲海の蛇(ミシュコアトル)』が壊れて使い物にならない以上、それは止むを得ない選択だった。


この非常時に最新機器の類が好みではないなんて、言ってなどいられない。
不承不承ながら肯いた後の展開は、まるで絵に描いたようだった。
学芸都市のあちこちに点在する基地の一つに堂々と正面から乗り込み、兵士からの攻撃が一切ないまま奥へ奥へと進んでいって。
滑走路まで行き着けば離陸の準備が整った戦闘機が一台、そして中にはヘルメットが二つ。


はっきり言って、ワケが分からなかった。
美琴はともかく、お尋ね者として昨日から追われ続けていた私まで諸手を挙げて歓迎されるなんて有り得ない。
有り得ない話は仕組まれている。誰が仕組んだのかなんて、そんなの、考えるまでもない。

「友達に凄腕のハッカーがいてね」

離陸の準備を進めつつ、美琴は種を明かしてくれた。

「管理者同士の連絡手段を軒並み遮断してもらった上で、これまた凄腕の映画監督さんに話をつけてもらったんだ」

私は小さく笑った。笑わずにはいられなかった。


だって、仕方ないだろう?
自らの属した組織と敵対することを決意してから、僅か数十分。
そんな短期間の内に、ついさっきまで敵だった相手を取り込んでしまうなんて芸当を見せつけられてしまったら。

「操縦経験はあるのか?」

訊ねた私に、美琴は軽く肩を竦めた。

「マニュアルは読んだことあるよ」

その返答に、自分の顔が引き攣るのをはっきりと自覚した。

「乗れるのか?」

重ねて訊ねる。その声は少しだけ震えていた。


私の不安を感じ取ったのだろう。
美琴は笑みを濃くして、私の目をじっと見つめて、

「乗れる」

たった一言。


下手な言い訳も、慰めも無い。
今はただ、自分に出来ることを精一杯やり遂げるだけ。
意思の光に輝いた彼女の瞳が、そう告げていた。
それで私の覚悟も決まった。
仕組みの一つも分からない戦闘機だろうが、知ったことか。


操縦は美琴に任せよう。
この頼もしい友人に、自らの命を預けよう。
だから彼女にも信じてもらおう。
私の読みを。『太陽の蛇』が選択するであろう次の一手を。


予測には絶対に近い自信があった。
『太陽の蛇』に関する文献は幼少の頃より、何度も何度も読んできたから。
少しでも組織に貢献しようと、解読と解析に何年も費やしてきたから。
アステカ魔術が生み出した破壊における英知の結晶を、誰よりも深く理解するために。
そうして得た知識が、しかし、こんな形で役に立つことになろうとは。
全く。人生ってヤツは、本当にどう転がってしまうか分からない。


残った三機の『太陽の蛇』が海上を飛び回る。
まるで巨大な魚のように、大空を派手に、優雅に泳ぎ回る。
操縦者が存在しないからこそ出来る芸当だ。


そう、あの機体の中には誰もいない。
予め目的と必要な魔力を吹き込めば、後は完全なる自動操縦。
状況を『太陽の蛇』自身が的確に判断し、実行に移しているのだ。


頭上を取った私達を振り払おうとして、奴らは必死に足掻く。
しかし美琴も負けていない。絶えず動き回る奴らの内、一機に狙いをつけて背後から追跡。
相手がどんなにムチャクチャな動きを取ろうが、全く動じる気配を見せない。
私の指示に対しても、これ以上は無いくらいの完璧な操縦で応えて。
ぴったりと張り付いて、奴が安定した飛行に入ったところでミサイルを発射。
動力源である魔力の込められた頭部を破壊されたそれは、真っ赤な炎に包まれて海へと落ちていった。


これで残るは二機。しかし安心は出来ない。
たったの一機ですら、撃ち洩らしてはいけないのだから。
空中を泳ぎ回る奴らは、確かに上からの攻撃に弱い。
生半可な攻撃であれば通さない黒炎も、上部だけは守らない。
理由は単純明快。上から攻撃を受けることこそが、奴らの役割だから。
奴らは宇宙空間に漂う本体が放つ光線を誘導するための的に過ぎない。
本体の射撃を正確なものとするために、自らを標的諸共撃ち抜かせる使い捨ての道具なのだ。


本体による攻撃。
文献でしか読んだことはないが、その威力は絶大であると書かれていた。
正直、どれぐらいの規模の爆撃となるのかは分からない。
しかし元々はいずれ壊れてしまうであろう太陽の代わりとして宇宙へ飛ばされた代物なのだから、危険極まりないことに間違い無いだろう。
だから急がなければならない。奴らが学芸都市に辿り着く前に、残り全てを落とさなければ。












残る二機の『太陽の蛇』が私達に向けて黒い炎を放つ。
しかし予め指示を受けていた私は素早く旋回して難なく回避する。


ショチトルの読みは完璧だった。
奴らの一手、更には二手先まで正確に予測して伝えてくれた。
私はF-35を指示通りに操縦するだけだった。
ショチトルを信じて、稲妻の名を持つ戦闘機を信じて。
オリーブ=ホリデイによって実験材料として捕らえられている人達の救出は佐天さんと白井さんに任せて。


姉さんだったら、きっと違うんだろうな。
誰一人として危ない目に遭わせず、全部一人で解決しちゃうんだろうな。


改めて思い知る。
姉さんが如何に近くて、だけど遠い存在であるのかを。
どう足掻いても、私に姉さんの代わりは務まらない。
だから私に、御坂美月に出来ることをするんだ。


私には一万回を超える経験がある。
触れられるだけで命を失う相手との戦闘経験が。
戦いに必要な、ありとあらゆる銃火器や乗り物の扱いも熟知している。
御坂美月の持つ全てを駆使して、私は守りたい。
みんなを。この島にいる人達を。そして私を、正確には姉さんを信じ、慕ってくれる人達を。
かけがえのない友達。姉さんにとっても、そして勿論、私にとっても。


たった数日だけでも、よく分かった。
白井さんに、初春さんに、佐天さんに、春上さん。
みんなと一緒にいると、心が弾んだ。
楽しいって、きっと、こういう感情を言うんだと思う。
もっともっと、この感情を味わいたい。みんなと一緒にいたい。
出来ることなら、自分の本当の名を明かして。私は御坂美月なんだって、みんなに伝えて。
ショチトルも、そして姉さんも加わって、時間を忘れてお喋りなんかしちゃって。


何かいいな、そういうの。すごく、すごく楽しそうで。
今すぐには無理かもしれないけど、でも、いつか実現できるといいな。

「今だ!」

後部座席からショチトルが叫ぶ。

「決めろ!」

勿論、応える。


発射したミサイルは『太陽の蛇』の頭部に直撃。
爆炎に包まれて、三機目も海に沈んだ。
残るは一機。いよいよ大詰めだ。












ロケット発射場を模した研究施設を白井さんと共に制圧して、すぐさま実験材料として捕らえられている人達の救出に向かった。
携帯電話越しに初春からの指示を受け、電子ロックを解除してもらい、分厚い鉄製の扉を開ける。
あたし達の姿を見た直後、幽閉されていた人達は驚き、怯え、互いを守るように身を寄せていた。
だけど白井さんが状況の説明を、みんなを助けに来たのだと順を追って話して聞かせていく内に、その顔は徐々に生気を取り戻していって。


いやあ、応援に駆けつけてくれたのが白井さんで本当に良かった。
能力を駆使して次々と敵を倒したり、英語が堪能だったり。
でも、憧れているだけじゃ駄目だよね。あたしだって頑張らなきゃ。
助けられてばかりじゃなくて。今度は逆に、御坂さんや白井さんを助けられるように。

「もうじき帰れるのね!」
「外に!故郷に!」
「ああ、そうだ。帰れるぞ!」

誰からともなくざわめきが走る。
みんな、目を輝かせ、痩せた手と手を固く握り合っている。
白井さんがスカートのポケットから携帯電話を取り出したのは、ちょうどそんな時だった。

「何ですって!?」

何だろう。やけに焦っている。

「お姉様が!?」

え、御坂さんが?












「マズイな」

そう呟いたのはショチトルだった。
危険を顧みずに懐に飛び込んだのが原因だった。
しかし、そうする他に選択肢が無かった。


残り一機となった敵は防御を最優先にして飛び回った。
なかなか上を取らせてくれず、ミサイルも全て迎撃されて。
ふと気づけば、残ったミサイルは一発だけ。これを外せば私達の負けだった。
バルカン砲では火力が足りず、他に備え付けられた武器は無い。


だから私達は賭けに出た。
ギリギリまで機体を近づけてミサイルを放つ。
迎撃の不可能である至近距離から攻撃を加える。


上手くやれると思った。
何しろショチトルの指示は完璧だったから。
だから油断していた。操縦に集中するあまり、『太陽の蛇』への注意を怠った。
しかし相手は学習していた。ショチトルの予想を上回っていた。


指示が来るよりも一瞬早く、『太陽の蛇』は火を噴いたのだ。
急旋回して直撃こそ免れたものの、機体の半分近くを黒い炎で焼かれてしまった。
粘り気を帯びた炎は消えることを知らず、翼から徐々に燃え広がっていく。
操縦席まで到達するまで、そう時間はかからないだろう。

「落ちるぞ、これ」

ショチトルが震える声で言った。
揺れる機体のせいなのか、それとも恐怖からなのか。
どちらなのかは分からなかった。
答えを求める余裕なんて、持ち合わせていなかった。
この時、私が考えていたことは、一つだけだった。

「ショチトル」
「何だ」
「歯、食い縛っておいて」
「あ、ああ。どうするつもりなんだ?」
「すごく高い所から落とせばさ、まあ、いけると思うんだよね」
「落とす?一体、何を」

ショチトルの言葉が切れた。
私の意図に、途中で気づいたらしい。


おい、と呼ばれる。
何、と応じる。

「正気か」
「他に手がある?」

沈黙。それが彼女の答えだった。











[20924] 第82話 姉と妹28
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/09/01 00:53
「お姉様」

白井さんの呟き。


きっと無意識なんだろう。
両手を胸に当て、祈るようにして画面に見入っている。
いや、実際に祈っているんだろうな。
白井さんにとって愛しのお姉様である、御坂さんの無事を。


あたしと白井さん、そして捕まっていた人達はモニタールームに集まっていた。
初春の遠隔操作によって復旧したモニターが、一機の戦闘機と巨大なUFOを映し出している。
この場にいる誰もが、息を呑んでモニターを見つめていた。
あたし達の未来。生き残れるかどうかは、戦闘機に乗る御坂さんとショチトルにかかっていた。


しかし戦闘機は最早、飛ぶだけでも危うい様子だった。
機体から黒い炎を上げていて、今にも墜落してしまいそうだ。
それでも御坂さんの操る戦闘機は必死に空を駆けていた。


見ていてそれは滑稽に思える光景だった。
やっと飛んでいるような状態では、どう考えても戦えない。
戦闘機の軽く十倍はありそうなUFOを撃ち落とせるワケがない。
勝ち目のない戦いに、泥まみれで挑んでいる姿そのものだった。
だけど、それでも、あたしは信じたかった。御坂さんを。ショチトルを。
あの二人なら、きっと何とかしてくれるって。

「何だ?」

誰かの声。

「上がっていくぞ」

確かに、そうだった。
黒い炎を上げたまま、戦闘機が急上昇する。
空に向かって、ひたすら昇っていく。
ほんの数秒足らずで、あたし達の視界から姿を消してしまう。


一体、何をするつもりなんだろうか。
画面に目を向けたままで、考えてみる。
操縦席に火の手が回っている今、時間は残されていない。
かと言って、慌てて攻撃しても何にもならない。
ミサイル程度では先程と同様、黒い炎に邪魔されてしまう。


だったら、どうする?
時間も無くて、充分な武器も無くて。
それでも止めなくちゃいけない相手がいるのだとしたら。


――ひょっとして。


嫌な予感が頭を過る。


いや、まさか。
いくらなんでも、そんな真似をするはずは。
だけど人生っていうやつは、いつもそう。
起きてほしくないことばっかりが、いつだって当たるんだ。


今回も、正しくそうだった。
暫くして、戦闘機が再び姿を現した。
豆粒程度にしか見えない機体が、どんどん大きくなっていく。
泳ぐようにして優雅に空を飛ぶUFOに向かって、真っ直ぐに突っ込んでいく。


それを見て、あたしは確信した。
いや、この場にいる誰もが理解した。
二人はUFOに戦闘機をぶつけるつもりなんだ。
戦闘機そのものを一つの弾丸にして、UFOを破壊するつもりなんだ。
御坂さん達の狙いに気づいたらしく、機体を反転させて炎を撒き散らし出すUFO。
黒く、重油のように粘っこい感じのする炎がUFOを守るように取り囲む。


だけどそれは無駄な足掻きだった。
戦闘機は黒い炎をあっさりと突き抜け、UFOの胴体と激突。
そして炸裂。UFOを巻き込んで、大爆発を引き起こす。

「そんな」

声がした。

「お姉様」

白井さんだった。

「お姉様!」

狂ったように、何度も何度も。

「お姉様っ!」

爆煙で何も見えなくなった画面に釘づけになって、白井さんは叫んだ。
だけど誰も、勿論あたしも、声をかけてあげられなかった。












「ここは……」

呆然とした声に、私は視界いっぱいに広がる青空から目を離す。
声の主は、私と同様に仰向けになって海に浮いているショチトルだ。

「海の上だよ」

まだ意識がはっきりしていないショチトルに、私は答えた。

「覚えてない?」

ゆらゆら揺れる波に身を任せ、空を仰ぎ見るショチトル。
そして思い出したのか、彼女は大きく息を吐いた。

「ムチャクチャだな、お前」

あはは、と乾いた笑みで返す。


自身の乗っている戦闘機を逃げ惑うUFOに直撃させる。
降下角度を固定させた直後、乗っているF-35から緊急離脱する。
出来るなんて確信は全く無かったけど、私はそれを実行に移した。
しかも同乗しているショチトルに、何の了承も無く。
勇気なんてものを軽く通り越して、無謀としか呼べないような所業をしでかそうとしていたのに。


たった一機の逃げ回る相手めがけて、高度十キロメートル付近から急降下するなんて。
そんなの、三十階建ての高層ビルから一本の針を落として、ちょこまか動く鼠に当てるのと何が違うだろう?
あれしか方法が無かったのだから、まあ、大目に見てほしいところなのだけど。

「お前と一緒にいると、命が幾つあっても足りそうにない」
「それって、褒め言葉?」
「そう聞こえたなら、一度耳鼻科に行った方がいいな」

そう言って、ショチトルは笑った。
自嘲気味でも、皮肉の込められたものでもない。
無邪気な子供のような、満面の笑み。


だから私も素直に笑えた。
学芸都市を、そこにいる皆を守れたんだと実感できた。
白井さん達も、きっと上手くやってくれたことだろう。
今頃は能力開発の実験台として捕まっていた人達を助け出しているはずだ。

「ようやく終わったな。これで」

ショチトルが、そこで固まった。
続けようとした言葉は口から出ず、ただ呆然と空を見上げている。


一体、どうしたんだろう。
唇を震わせて、何を見ているんだろう。

「ショチトル、何を見て」

気になった私はショチトルの視線の先を確かめ、そして言葉を失った。

「どうして」

目を見開き、震える声で、誰にともなく問いかける。


ショチトルの属する組織が持つ最終兵器、『太陽の蛇(シウコアトル)』。
宇宙空間を漂う本体による砲撃を誘導するためだけに生まれた存在が一機、大空を優雅に泳いでいる。
私達が必死になって落とした四機より一回りも二回りも大きい機体が、学芸都市に向かって私達の上を通り過ぎていく。


どうして、と思わざるを得なかった。
おかしいじゃないか。やっと倒したのに。
手を尽くした後に、こんな結末が待っているなんて。
私にも、ショチトルにも、もう戦う力なんて残っていないのに。












一目見て、理解した。
あれはテクパトルの奴がかけた保険であると。
全く、本当に、いけ好かない男だ。
勝ったと思った矢先に、こんな物を寄越してくるなんて。


空を見上げた先にあるのは、絶望の権化だった。
これまで相対してきた機体より、遙かに巨大な体躯。
当然、込められた魔力も先程沈めた四機の比較にならない。
この一機があれば、おそらく充分。
直径十キロ程度の人工島など、跡形もなく消し飛ばしてしまうだろう。

「ちくしょう」

しかし私には何も出来ない。
もう、あの機体を止める術は残されていない。
奴が学芸都市に向かって飛んで行くのを、ただ黙って見送るだけ。
美琴もまた、諦めたように虚空を仰いでいる。
戦力を失い、私と同じく、彼女も無力な少女に成り下がっていた。


終わった、と頭の隅で思った。
結局、私には何も出来なかった。
大事な友達一人、守り抜けなかった。


――すまない、涙子。


心の中で、学芸都市に残る親友に謝罪する。その時だった。
盛大な水飛沫を上げて、『雲海の蛇(ミシュコアトル)』が姿を現したのは。
羽を僅かに振動させ、ゆっくりと近づいてくる『雲海の蛇』を見て、私は顔をしかめる。


正面から、こちらに近づいてくる『雲海の蛇』。
嫌になる程に見覚えのある、通常より一回り大きな機体。
『雲海の蛇』はどんどん迫ってくる。しかし美琴は引き下がらない。
水面に浮き、『雲海の蛇』を見つめるだけ。
そんな彼女を見てしまったら、私だって動けない。
やがて『雲海の蛇』が動きを止める。本当に、私達の目前で。

「何のつもりだ」

目を細めて、スライドした機体の前方から顔を出したトチトリに問う。
隣にいる美琴にも聞かせるため、敢えて日本語を使って。

「ただの度胸試しさ」

運転席から立ち上がったトチトリが、私達を見下ろす。

「見せてもらったよ」

わざわざ異国の言語で話しかけた、こちらの意図を察してくれたらしい。


彼女は語り出す。日本語で。
この場所に、彼女が一人でやって来た理由を。
学芸都市の最期を見届けるという組織に押しつけられた役目を。

「見事な手際だった」

その言葉を聞き、私は皮肉混じりに言った。

「無様だと、笑いに来たのか」

組織に見放された私を。
結局、何一つ守れなかった、かつての同僚を。


苦笑しながら、トチトリは首を横に振る。

「もう充分だろう」

そんなことを、トチトリは口にする。

「お前達はよくやった。自身の保身に走っても、誰も」
「黙れ」

淡々と言葉を紡ぐトチトリを睨みつけ、私は言った。
そこから先を、言わせるワケにはいかなかった。

「逃げ道ぐらいは確保してやる」

だけどトチトリは止まらない。
最早どうにも出来ない現実を、容赦なく突きつけてくる。

「お前達が望むなら、どこへでも連れて行ってやる」

そんな提案、受け入れられるワケがない。絶対に。
学芸都市を、涙子を見捨てて、自分達だけが生き残るなんて。
だが、だとすれば、どうする?どうすればいい?
私には分からない。分からないまま、ただ悪戯に時間だけが過ぎていく。

「どこでも?」

二十秒、いや、三十秒ぐらい経っただろうか。
突如として、美琴が沈黙を破った。

「本当に、どこでも連れて行ってくれる?」

勿論、とトチトリは返す。

「嘘ではない」

じゃあ、と言って美琴が指差した、その先は。

「おい」

少し間を置いて、トチトリは美琴に訊ねる。
信じられないという目で、美琴を見つめている。

「正気か」
「勿論」

口元に笑みを浮かべ、美琴は答えた。
彼女はまだ、諦めていなかった。











[20924] 第83話 姉と妹29
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/09/16 02:12
モニタールームは、しんと静まり返っていた。
この場にいる誰もが、大画面に映し出された怪物を見上げていた。


そう、怪物だ。
空を泳ぐようにして飛ぶ様は、まるで自らの意思を持っているかのよう。
お姉様が自らの命を賭けて倒してくれた四体よりも、更に巨大なUFOがこちらに向かってくる。
学芸都市の領域となる砂浜に、間もなく達してしまう。
危険がすぐそこまで迫ってきているのに、誰一人として動かない。否、動けない。
私も、佐天も、捕まっていた人達も。画面から顔を背けるのが精一杯。


皆が皆、想像してしまっていた。
これから訪れるであろう惨劇を。


ことごとく破壊された建物。瓦礫の山。
壊滅した学芸都市の上を優雅に飛び回る、巨大な怪物。
私達では、奴を止められない。傷一つ、つけられやしない。
蹂躙されるだけだ。どこまでも、どこまでも絶望が続くのだ。


壊される。殺される。
この島に在るもの全てが消滅する。
身体が震える。怖い、怖い、怖い。

「白井さん」

躊躇うような声。

「あれ」

佐天だった。
私の隣に立ち、大画面を指差している。
出来れば、もう見たくなどないのだけど。
仕方なく、本当に仕方なく正面に顔を向ける。

「あ……」

その光景に、私は言葉を失った。
怪物の後ろから、一機のUFOが飛んできている。
お姉様が倒した巨大な機体とは違う。
二日前に学芸都市の戦闘機と一戦交えたものと同じUFO。
それが怪物を追い抜き、砂浜まで辿り着いたところで海へと向き直る。
まるで怪物と正面から渡り合うつもりであるかのように。


――何の真似ですの?


そんな私の気持ちに答えるかのように、ゆっくりとUFOの前方が開いていく。
この場にいる全員が、緊張した面持ちで事の成り行きを見守っている。
最初に口を開いたのは、佐天だった。

「御坂さん?」

そう、確かにお姉様だった。
常盤台中学指定のスクール水着の上に、これまた学校指定のパーカーを着込んだお姉様が砂浜に降り立つ。
ほぼ同時に、別の少女もUFOから姿を現す。学芸都市の監視員と同じ格好をした、褐色の肌を持つ少女が。
二人は顔を見合わせ、肯き合うと、身体の向きを変えた。学芸都市へと迫り来る怪物に向かって。
それが合図だったかのように、二人の乗って来たUFOが飛び立つ。
二人を残して、一目散に砂浜から離れていく。

「お姉様!」

思わず叫んでいた。

「駄目です!」

無駄と知りつつ、それでも叫んでいた。
お姉様の実力を以てすれば、勿論、楽勝だろう。何の心配も要らない。
だけど、今のお姉様は本調子には程遠いのだ。


二日前の騒ぎを思い返す。
あの時、お姉様は一人の女の子を守ってみせた。
砂鉄を集めて、障壁を作り出すことによって。
わざわざ女の子の前まで移動してから。
その場で砂鉄を操れば、もっと楽に助けられたはずなのに。
それだけの能力を、磁力を、お姉様は持ち合わせているはずなのに。
つい先程の戦闘だって妙なのだ。どうして戦闘機なんか使ったのだろう。
自身の能力で生み出す電撃や超電磁砲の方が、火力も高く、よっぽど頼りになるはずなのに。


導き出される答えは、たった一つ。
使いたくても使えないのだ。何らかの理由で。
その理由までは、さすがに分からないけれど。
それでもお姉様は、あの怪物を止めようとしている。自らの身の危険を顧みずに。
戦闘機から、せっかく無事に脱出できたというのに。あの方は再び、自身の命を危険に晒している。


ああ、と思わず声が洩れる。
どうして私はこんな所にいるんだろう。
お姉様のためなら自分の命だって投げ出せるのに。
どんなことをしてでも、お姉様を守りたいのに。
気がつけば、いつだって守られているのは自分の方で。
そんな私が、今、出来ることと言えば。


――お姉様。


信じて、待つこと。ただそれだけ。
お姉様の無事を。お姉様の勝利を。
この戦いを生き延び、もう一度、笑顔を向けてくれることを。












「貴女まで残る必要は無かったのに」

どうにも分からない。
勝率は限りなく零に近いと伝えたのに。
この場に残れば、まず間違いなく死んでしまうのに。
どうしてショチトルは、私と共にUFOを降りてしまったんだろう。


はあ、とわざとらしく溜め息を吐いてショチトルは返す。

「バカなことを言うな」

いかにも不機嫌そうに、しかめっ面で返してくる。

「今更、独りになんて出来るか」

なのに、どうしてだろう。
胸の奥から温かいものが込み上げてくるのは。
怒られているのに、嬉しいなんて思えてしまうのは。

「ありがとう」

その言葉は、自然と口から出ていた。

「心強いよ」

私は殺されるために造り出された存在だった。
ただそれのみが存在意義であり、この世に生を受けた理由だった。
死ぬことなんて怖くなかった。むしろ本望だった。
絶対能力者を生み出す実験の礎となる。
そのためならば、この身など、どうなってしまおうが構わなかった。


だけど今は違う。
死にたくない。もっと生きていたい。
みんなを死なせたくない。一緒に学園都市に帰りたい。
そして姉さんに褒めてもらうんだ。ぎゅっと抱きしめてもらうんだ。
お疲れ様、なんて労いの言葉をかけてもらうんだ。
御坂美月として。姉さんの代わりじゃなくて、御坂美琴の妹として。
そう、だから絶対に帰るんだ。実の妹として私を受け入れてくれた、大切な人の元へ。


気楽な調子を装い、私はショチトルに話しかけた。

「ちょっと、離れていてくれる?」
「何だと?」
「巻き込んじゃうかもしれないから」

睨みつけてくるショチトルに、私は微笑みかける。

「奥の手があるの」
「奥の手」

ショチトルは私の言葉を繰り返した。
まるで日本語の発声練習でもしているみたいだ。

「威力がちょっと高過ぎてさ、加減が利かないんだよね」

言葉が切れた。


少し時間を置いてから、ショチトルは言った。

「大丈夫なんだな」
「うん」
「任せてしまっていいんだな」
「うん」
「死ぬんじゃないぞ」
「分かった」

肯き、私は顔を上げた。
『太陽の蛇(シウコアトル)』は、もうすぐそこまで迫ってきていた。
学芸都市の上空に達するまで、あと一分もかからないだろう。


息を吐いて吸い込む。
緊張していたのだろうか。
思ったよりたくさんの息が出て、思ったよりたくさんの息を吸い込んだ。


――行くわよ。


パーカーのポケットからコインを取り出す。
姉さんが普段から持ち歩いている、メダルゲームのコインだ。
学園都市を発つ前日、ファストフード店で姉さんから譲り受けたのだ。

「これ、持って行って」

姉さんの白くて綺麗な手に三枚。
お守り代わり、ということだろうか。

「ありがとう」

そう言って、私は手を伸ばした。
姉さんの手と、私の手が重なって、離れた時には三枚のコインが私の手に残った。
何だか勲章をもらったような気持ちになった。ぴかぴか光る勲章だ。
その勲章を、コインを、空を泳ぐ『太陽の蛇』へと向ける。
学園都市第三位の座に就く姉さんの代名詞とも言える『超電磁砲(レールガン)』。
電磁力を使って音速の三倍以上の速度でコインを撃ち出す、この技に賭ける以外に方法は残されていない。


私の能力者としての実力は、姉さんの百分の一にすら満たない。
どんなに足掻いても、今の私では強能力者程度の電撃を生み出すのが精一杯。
百メートルを超える巨体を落とすには、あまりにも火力が足りない。それ故の『超電磁砲』なのだ。
音速の三倍でも、実は大きく手加減して放たれている必殺技。
必要なのは電磁力で空気をレールに置き換えるだけの制御と集中力。


だったら私にも出来るかもしれない。
姉さん程の威力を出す必要なんて無い。何発も連続で撃ち出す必要も無い。
あのUFOを撃ち落とせるだけのレールを一度でも作り出せれば、それでいいのだから。


右手に電気を生み出し、更に空気中に流し込もうとする。
だが次の瞬間に手の中にあったコインが消えてしまい、咄嗟に電気を止める。


――熱っ……!


強引に捩じ込んだ電気抵抗の熱で、コインが蒸発してしまったのだ。


やっぱり難しい。思ったように空気中へ電気が通ってくれない。
電気抵抗が大き過ぎるせいだ。かと言って、無理に電気を流せばコインは手の中で溶けてしまう。
磁場を形成する際に下手をしてしまえば、私自身に向かってコインが飛んできてしまう可能性すらある。


実際に使ってみて、初めて分かった。
少しでも加減を誤れば暴発してしまう危険性が、この技にはある。
こんな物騒な代物を、姉さんは平然と使いこなしていたのか。

「美琴!」

少し離れた所で、ショチトルが叫んだ。
あることに気づいたのは、その時だった。


――あ、そうか。


もしUFOを落とせなかったら、私は御坂美琴として一生を終えることになるんだ。
私が御坂美月だって、御坂美琴の妹だって、誰にも伝えられないままで。

「美琴!」

ショチトルに悪気なんて無い。
当然だ。彼女は私の正体を知らないのだから。
しかしショチトルの言葉を真正面から受け止めてしまっている自分がいた。
どうしようもなく傷ついている自分がいた。
姉さんの名で呼ばれる度に、胸が痛む。ちくちくと、針で刺されているみたいに。
余計なことを考えていたせいだろうか。二枚目のコインも発射を待たずして、あっと言う間に蒸発してしまった。


残るコインは一枚。
失敗したら全てが終わる。
学芸都市が、ここにいる人達が皆、死んでしまう。
私が御坂美琴であると誤解したままで。
御坂美月という存在を自分自身で伝える機会を永遠に失って。
そんな情景を思い浮かべてしまい、私はきつく目を閉じて首を振った。

「美琴!」

また、姉さんの名で呼ばれる。


私はゆっくりと目を開く。
眩しそうに瞬きをして、ショチトルを見る。

「違う」

弱々しく笑って、

「私は美月。御坂美琴の妹」

消え入りそうな声で、

「御坂美月なんだよ」

言うだけ言って、そっと唇を噛む。
自分の正体を隠し通せなかったから。


ごめんね、姉さん。
私のことを信じて送り出してくれたのに、姉さんの期待に応えられなくて。
せめて、この危機だけは乗り越えてみせるから。
命に代えても、姉さんの友達を守ってみせるから。


ポケットからコインを取り出す。
最後の一枚。私達の未来を決める、大事な一枚。


今一度、『太陽の蛇』に視線を向ける。
もう充分に接近したのだろうか。
空中で静止し、まるでパラボラアンテナのように自らの身体を広げている。
本体からの射撃を待ち構えている。学芸都市を滅ぼそうとしている。
だが、そんなことをさせるワケにはいかない。

「気負うな!」

コインを握る右手に意識を集中させ始めた私の耳に、そんな言葉が聞こえた。

「お前なら出来る!」

そう言い切るショチトルの顔を、私はじっと見つめた。


小さく息を吐き出すショチトル。
悪戯っぽい笑顔を返してくる。

「決めろ、美月!」

その言葉に、私は小さく笑った。
嬉しかった。どうしようもないくらいに。

「了解!」

身体から力が漲ってくる。
調子が良い。こんな気分は初めてだった。
今だったら、どんな無茶でも出来てしまう気がする。


右手に意識を集中させる。
UFOに向けて一直線に伸びるレールを思い描く。
これまでの苦労が嘘だったかのように、それは簡単に作り出せた。

「はは……」

思わず笑みが零れる。
危険な戦場にいるというのに。
一歩間違えれば死んでしまうというのに。
何故か、全く怖くなかった。負ける気がしなかった。


UFOは変わらず、空中で動きを止めている。
黒い炎を撒き散らしつつ、本体からの射撃を待っている。
だけど、そんなものは無駄な足掻きだ。
たとえ不完全でも、その程度で姉さんの技は絶対に防げない。

「吹き飛べっ!」

渾身の気合を込め、私はコインを撃ち出した。
オレンジ色に輝く熱線が、UFOを正面から撃ち抜いた。











[20924] 第84話 姉と妹30
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/11/18 22:38
「どうしてお姉様は、そんなに無鉄砲なんですの?」

白井さんからは散々お説教をもらって。

「で、でもでも!やっぱり御坂さんは凄いです!あのUFOを一人で壊しちゃうなんて!」
「ホント。格好良かったの」

初春さんと春上さんからは恥ずかしくなるくらいの称賛を受けて。


私は今、学園都市に向かう船の展望デッキにいた。
アメリカ側が用意してくれたフェリーに、広域社会見学に参加したメンバーが乗っていた。
UFOは無事に撃破できたけど、さすがに人体実験を進めていた島で旅行を続けるワケにもいかなくて。


学園都市の人間は全員、予定を大幅に縮めて帰路へと着いていた。
実験材料として捕まっていた人達はアメリカの保護を受けることになった。
然るべき対処をして、それから故郷へ全員を送ってくれるそうだ。
その言葉を、私達は全面的に信じることにした。
この期に及んで彼らが実験を続けるとは思えなかったし。
何より、ここから先は私達のような子供では手に負えるものじゃないしね。


私は水平線の辺りに目を遣った。
最初は淡い黄色だった光が段々とその力を増し、やがて眩い金色になった。
一瞬、キラリと光る。太陽が昇ったのだ。


――全部、本当のことだったんだよね。


昨日からの出来事。
海上に落とした巨大なUFOも。
経営陣が突如として撤退を表明した学芸都市も。
そして姿を消してしまったショチトルも。


あの後――


気がつくと、私は砂浜に投げ出されていた。
身体中が痛かったけど、動かないところは無かった。
波打ち際では『太陽の蛇(シウコアトル)』の残骸がドス黒い煙を立ち昇らせていた。
しかしショチトルの姿は見えなかった。どこを探しても見つからなかった。
私が『超電磁砲(レールガン)』を放ったその時も、確かにいてくれたのに。
あの後、私が気を失った後、何が起きたのだろうか。
ショチトルの身に、何があったのだろうか。


分からなかった。
いくら考えても答えは見つからなかった。
私に分かったのは、ほんの少しだけだった。


私達が助かったこと。
学芸都市に捕らわれていた人達を救い出せたこと。
そして、私の名前を呼んでくれた友達が姿を消してしまったこと。












私はただ、ぼんやりと何もない大地を見つめていた。
『雲海の蛇(ミシュコアトル)』で空を駆け、私は故郷に戻ってきたはずだった。
しかし出迎えてくれたのは荒れ果てた大地のみ。他には何も無かった。
仲間も。家族も。組織も。どこにも見当たらなかった。
みんな、消えてしまっていた。


――これは、一体。


気配を感じたのは、その瞬間だった。
慌てて振り向くと、そこにいたのは一人の青年だった。
一言で言えば、その青年は赤かった。
こちらを見つめる目も、肩口で切り揃えられた髪も、着ているスーツさえも。

「ついてないな、お前」

見た目にして二十代前半といった感じの西洋人が、笑いながらそう言った。

「もう少し遅れて来れば、俺様に会うこともなかったのに」

突然のことに、頭が真っ白になる。
そうして突っ立っていると、青年は懐から何かを取り出した。

「お前の組織は頭が悪い」

愉しげに笑って、青年は片手に持ったそれを掲げる。

「こんな玩具のために、魔術を公の場で披露するなんて暴挙に出るとは」

我らが組織の最終兵器、『太陽の蛇』の核を持って笑っている。

「見ての通り、お前の組織は全滅した。因果応報ってやつさ。魔術を世間の目に晒してはならない。魔術を扱う者なら誰もが知っている暗黙のルールを破ったんだから」

赤い、血の様な真紅を着て、にじり寄る青年。

「それなりの報いは受けて当然。そうだろう?」

言って、青年は手にした黄金の珠に力を込めた。
万力でもかけるように、片手で押し潰した。
林檎か何かのように、私達の部族に代々伝えられてきた英知の結晶が砕けて、地面に落ちていく。

「これにて、粛清終了」

荒れ果てた大地に青年の笑い声が響く。
それを聞いて、私はようやく現状を把握した。
目の前にいる赤いスーツの男に、組織が壊滅させられた。
跡形もなく、全てを消し飛ばされてしまった。


私は笑い続ける青年を睨みつけたまま、腰に提げた短剣を抜く。
黒曜石を削って作られた短剣、トラウィスカルパンテクウトリの槍を。

「貴様」

青年に声をかける。
高笑いを止め、私に向き直った青年に短剣を向ける。
刃から放たれた魔力を帯びた光が青年を捉える。


これで私の勝利は確定した。
数秒も待たずして、赤いスーツの青年の身体は分解される。
肉屋で解体された牛のように。原型なんて、ほんの少しも留めずに。

「何だよ」

そのはず、なのに。

「何かしたのか」

たっぷり十秒が経過しても、一向に青年は分解されない。
ニヤニヤと、嫌らしい笑みを浮かべて立っている。


――どうして……?


トラウィスカルパンテクウトリの槍が効かない。
どんな相手だろうが一撃で倒せるはずの魔術が、この男には通用しない。

「バカが」

声と共に魔力の流れを感じる。
直後、私は見た。青年の背後から、真っ赤な長い鈎爪を持った鱗だらけの手が現れるのを。
魔の手が動く。竜を連想させる巨大な手が、私の身体を捕らえる。

「見くびられたものだ」

宙に浮かぶ手は私を掴んだまま、青年の下へ。

「その程度の魔力で、神の右席を倒せるとでも思ったのか」

私は答えない。身体を締め付ける力が強過ぎて、答える余裕すら無い。

「つまらねえな」

赤い青年の語りは続く。

「わざわざイタリアから出て来てやったのに、拍子抜けにも程がある」

神の右席。イタリア。
これら二つの単語から、私は唐突に思い出していた。
赤一色の容姿。イタリアの、より正確に言うならばローマ正教の中心に据えられている魔術師の一人。

「右方の、フィアンマ」

呟いた途端、寒気が走った。
ここに至って、私はようやく青年が正真正銘の怪物であると理解した。


へえ、と赤い魔術師が声を洩らす。

「驚いたな。俺様を知っているなんて」

巨大な手に圧搾されて叫び声を上げる私を見上げ、満足気な笑みを浮かべる。

「いいだろう。その博識に免じて」

魔力によって生み出された手が力を込める。
ばきばきと音を立てて、内臓と、それを守っていた骨が砕かれる。
痛みのあまり、私は叫んだ。獣じみた声を上げた。

「楽には殺さん。存分に泣き、叫び、苦しんだ上で死ね」

薄れゆく意識の中、私は思った。
どうしてこんな目に遭っているんだろう。
この光景は何だ?何もない荒野?
魔術を世間に晒してしまった報い?どうして私が苦しまなければならないんだ?
テクパトルのせいだ。ああ、そうだ。報復に拘ったテクパトルが悪いんだ。
心の中で繰り返しつつ、しかし頭に浮かんだのは陰険なテクパトルではなく、癖のある髪を伸ばしたショチトルだった。


水面から鋭く睨みつけてきた、子供の頃からの腐れ縁と呼べる友の姿だった。












明かりの無い闇の中、案内人に促されて建物の奥へと進む。

「話が違うぞ、アレイスター」

部屋の中心に設置された巨大なビーカーに向かって、オレは語り出す。
大人一人分ぐらい、余裕で収まり切る程の大きさを持つビーカー。その中には、実際に一人の人間が入っていた。
淡い緑色に輝く液体に満たされたビーカーの中、緑の手術衣を着て、ソイツは上下逆さまになって浮いていた。
アレイスター=クロウリー。学園都市の最大権力者であり、世界最高の科学者としての側面も持つ男。

「お前の目的は上条当麻の右手だろう」

明かりは無く、部屋は暗い。
ビーカーに満たされた液体が発する光だけが頼りだった。
いや、明かりだけではない。この建物には何も無い。窓も、扉も、廊下も、階段も。
空間移動を可能とする案内人の手引きが無くては、この建物に入ることも出ることも出来ない。
床には細長いチューブが散らばっていて、足の踏み場も無い。
そんな場所に、当然ながらオレ達以外には誰もいない。案内人もどこかへ行ってしまった。

「どうして御坂美琴に手を出している」

訊ねつつ、オレはビーカーへと近づく。
その下からは一本のチューブが伸びていて、それは床を伝わってから幾つも枝分かれして壁に伸び、天井を突き抜いている。

「それを知って、どうするつもりだい?」

逆さまの男は無表情で語り出す。
唇を動かしてもいないのに、液体の中にいるのに、その声は何故か鮮明にオレの耳へと届く。

「御坂美琴と君とは、何の関係も無いだろう」

オレは言葉を発することが出来ない。正しく、この男の言う通りだから。
学園都市で出来た友人の彼女。オレと御坂美琴との関係は、それ以上でも以下でもない。だから、

「確かに元春君には無いな」

こんな口の利き方を現状で出来るのは勿論、オレじゃない。

「しかしね、私には大いにあるんだよ」

だけどアレイスターは、その声が聞こえる先を探し、オレを見る。
結論から言ってしまえば、その判断は正しい。
オレの胸元から、その声は響いているのだから。

「君にも分かるだろう。一時とは言え親というものを経験したのだから」

アロハシャツの胸ポケットから取り出した携帯電話から、低い、落ち着きのある声が聞こえてくる。
声の主は御坂旅掛。自らを総合コンサルタントと称し、過去数度に渡り魔術絡みの抗争から世界を救ってきた英雄だ。
魔術と能力の双方に関する深く広い知識を持ち合わせており、それ故に彼の命を狙う輩も少なからず存在するほど。
学園都市の外で起きている事件についてオレが詳しいのも、実は旅掛さんのおかげだ。
スパイ稼業で名を売っていたオレに、旅掛さんの方から連絡を入れてきたのが二年前。
以来、互いに得た情報を交換する形で付き合いを続けている。


今回アレイスターの下を訪ねたのは、旅掛さんの依頼に応えるためだった。
学園都市統括理事長と話をする場を作ってほしいと頼まれ、ここまでやって来たのである。

「上条当麻君への興味は失ってしまったのかい?身勝手な話だ。彼が学園都市に送られるよう、彼の不幸を過度に演出してきたくせに」

旅掛さんが言った、何気ない言葉。それを聞いて、オレは愕然となった。


――上条当麻の不幸が、仕組まれたもの?


「学園都市に入ってからも上条君は確かに不幸続きだった。しかし命を狙われる規模のものは一切無くなった。今年に入ってから、立て続けに魔術師や能力者の争いに巻き込まれてはいたけどね」

アレイスターは何も語らない。
オレの突き出す携帯電話を、興味深そうに眺めるだけ。

「しかし八月三十日以降、魔術或いは能力に関する重大事件に上条君は本格的には巻き込まれなくなった。それどころか、日常となっていた些細な不幸も最近は御無沙汰になっている。そして入れ替わるようにして、美琴の身辺は危険極まりないものに変わった」

一拍置かれる間。そして一段と低くなった声が続く。

「まるで上条君の不幸が美琴に移ってしまったように見える」

その言葉にアレイスターは苦笑する。

「そんな報告に何の意味がある?仮に君の想像通りだとしても、だからと言って何が出来るというワケでもないだろうに」

微笑むアレイスターに、旅掛さんは嘲笑って返す。

「あるさ。例えば君が、世界で最も魔術を侮辱したアレイスター=クロウリーが学園都市で生き延びていると世界中の魔術師に公表するとか」

かつて魔術の頂点に到達したにも関わらず、その全てを否定して科学に走った魔術師がいた。
名前はアレイスター=クロウリー。その行為によって世界中の魔術師を敵に回した彼は、イギリスの片田舎で死亡したと公式には記録されている。
しかし数千年を超えて変わることのなかった魔術様式を僅か一代で塗り替えてしまうだけの実力を持つ魔術師は死んでなどいなかった。
世界中に散らばる魔術師達の目を欺き、自らの城とも言える学園都市を作り出して今も研究を進めている。
そんな彼を魔術に関わる人間は見つけ出すことが出来ずにいる。自らの生命維持のほぼ全てを機械に依存することで、自身の気配を隠しているのだ。


アレイスターがここにいると報せれば、魔術師達は即座に動き出すだろう。
裏切り者を今度こそ亡き者にするべく、全力を注いでくるだろう。

「つまらない選択だ」

けれどオレには分かる。そして、おそらくアレイスターも。
旅掛さんはその手段を取らない。いや、取れない。何故なら。

「そんなことをしたら、君の大切なものを守っている場所も諸共に潰れてしまうというのに」

魔術と能力。似て非なる二つの異能について詳しい旅掛さんを欲しがる組織は数知れない。
どんな手を使ってでも旅掛さんの知識と我が物にしようとする輩も決して少なくない。
その数は、彼が魔術絡みの騒動を解決へと導く度に増えていった。
だから旅掛さんは自分の家族を積極的に学園都市へ関わらせた。
学園都市に通うことを、妻と一人娘に強く勧めた。
魔術に属する人間が簡単には手出しの出来ない、学園都市に。


大切なものを守るため、それは最良の選択であるはずだった。
彼の娘である御坂美琴が、能力者の最高峰に行き着きさえしなかったら。
能力でも魔術でもない、未知の力に目覚めることさえなかったら。

「そんなこと、分かっている」

しかし旅掛さんは怯まない。
迷いのない、落ち着いた声で返す。

「だろうな」

驚くワケでもなく、呆れるワケでもなく、ただ悲しそうにアレイスターは目を伏せる。

「私を追い詰めるためには手段を選んでいられないか。その惨めな生き様、心底同情するよ」

電話越しに歯軋りの音が聞こえた気がした。悔しくて仕方がないのだろう。
それはそうだ。敵対したい相手にあしらわれるどころか、憐れまれているのだから。

「君の好きにはさせない」

罵るように、旅掛さんは呟く。

「たとえ神であろうと、娘に手を出す輩に容赦はしない」

啖呵を切られたアレイスターは、何故か微笑んでいた。

「構わない。好きにするがいいさ」

そして嬉しそうに、本当に嬉しそうに言い放った。

「やれるものならね」











[20924] 第85話 姉と妹・その後①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/12/03 03:27
学園都市の天気は本日も快晴。
九月に入って数日が過ぎたというのに、一向に弱まる気配を見せない日差し。
暦の上では秋に入ったことを微塵も感じさせない熱気が、部屋の中に充満している。
エアコンが動かない今、俺の部屋は蒸し風呂と変わらない状況だった。
少しでも涼しくしようと窓を全開にしてみても、入ってくるのは熱風ばかり。まるで意味が無い。

「あっちい……」

硝子テーブルに突っ伏し、最早無意識に呟く。
対面では那由他が汗だくになりながらも、熱心にパソコンを操作している。
何を調べているのか気にはなるものの、自ら進んで覗きに行こうとは思わない。
ほんの少し動くことすら億劫に感じてしまうくらい、どうしようもなく今日は暑い。


新学期が始まって以来、初めて訪れた休日は静かなものだった。
脳天を焼くような強烈な日差しを避けているのだろう。
もうすぐ正午だというのに、外に活気は無い。
みんな、冷房の効いた屋内に避難しているようだ。
俺も出来れば図書館辺りに行ってエアコンの恩恵に肖りたいところなのだが、それでは表を歩けない美琴を置いてきぼりにせざるを得なくなってしまうので却下。
頼みの綱であった隣人の土御門は外出中らしく、何度ドアを叩いても出てきやしない。

「ああ……」

暑い。辛い。しんどい。
どう呟くか決めかねている間に、誰かに肩を揺すられた。

「大丈夫?」

顔を上げると、美琴の顔がすぐ近くにあった。
もう少しだけ身体を傾ければ、キスが出来そうなくらいの距離に。

「あのさ、当麻」

真横でしゃがんだ美琴は、俺の目をじっと見てきた。

「お風呂、入る?」
「風呂?」
「うん、水風呂」
「少しは涼しくなりそうだな」
「でしょ」

しゃがみ込んでいるせいでTシャツの襟が緩み、その奥に形の良い谷間が見えた。
ブラジャーは綺麗な空色で、可愛らしいフリルが縁に付いている。
揃った膝小僧はとても可愛くて、短いスカートの奥は見えないものの、故に様々な想像やら妄想やらを呼び覚ました。

「先に入れよ」

気がつくと俺は美琴から目を逸らし、そんなことを口にしていた。

「お前が用意したんだからさ」

気恥ずかしさを誤魔化そうと、殊更明るい調子で言う。

「せっかくだし、二人で入ってくれば?」

そう言って、俺は那由他に目を遣った。
その意図するところに気づいたらしく、美琴の口元に笑みが浮かんだ。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

行こう、と美琴は那由他を誘った。

「このままじゃスルメになっちゃうよ」

風も止み、部屋の中は一段と暑さを増している。
首にかけたタオルで拭き取ったばかりなのに、那由他の額には汗が滲んでいた。
そのせいか美琴に誘われるままに立ち上がり、風呂場に向かっていった。


並んで歩く美琴と那由他の姿が、何故だか不思議に思えた。
二人とも女だけど、全然違う存在だ。
十四歳と、十一歳。ほんの三年だけど、物凄く大きな差がある。
経験と言ってしまえば簡単だ。流した涙の量なんて表現は詩的過ぎる。
俺はそれを言葉になんかしたくなかった。
ただそのまま受け止める方が正しいような気がした。
俺にも、美琴や那由他のような頃があったんだ。
今年の夏より前の記憶が抜け落ちた俺には思い出せないけれど、でも、確かにあったんだ。


あれから一体、何がどう変わったんだろう。
下らない思考をこれ以上彷徨わせたくなくて、俺は腕立て伏せを始めた。
腕立て伏せに腹筋、背筋。そして締めにスクワット。
全部、夏休みの終わる直前から取り組み始めたことだった。


きっかけは勿論、美琴だった。
強くなりたい。美琴を、大切な人を守れるくらい、強く。
その一心で、俺は土御門に頭を下げたんだ。
鍛えてほしい、と。今より少しでも強くなりたい、と。


土御門が薦めたのはボクシングだった。
硬い身体を少しでも柔らかくしようとストレッチに励んだり、鏡の前でパンチの練習をしたり。
土御門の部屋を訪ねてサンドバッグを打ったり、くたくたになるまで縄跳びをしたり。


身体を動かすのは悪くなかった。単純に楽しかった。
身体を限界まで動かす感覚は、目的を手に入れた俺にとって純粋な喜びだった。
筋肉が伸びる、そして収縮する。限界が近づくと、不思議と苦しみが消え去って、むしろ激しいトレーニングに陶酔さえ覚えるようになる。
そんな瞬間は、決して嫌いじゃない。しかし、それでも時々、思い悩むことがある。
美琴の戦っている世界は、人の限界を遙かに超えた先にある。
多少鍛えた程度で追いつける程、甘い場所ではない。


あらゆる異能を消し去る右手を、俺は持っている。
だけど、それ以外は普通の高校生と何ら変わらない。
寧ろ、能力も魔術も絶対に身に付けられないというハンデを背負っている。
どうしようもない実力差。それでも俺には身体を鍛えるしかなかった。
異能に頼れない自分にも出来る数少ないことを、続けるしかなかった。
無駄な足掻きだなんて、百も承知な上で。












「これ、お願い」

二人と入れ替わる形で入った水風呂から上がると、キッチンから美琴の声が聞こえた。

「うん」

肯き、両手で受け取った硝子の器をダイニングへ運ぶ那由他。
テーブルの真ん中に置かれた器の中は、たっぷりの水と、いっぱいに盛られた素麺。

「後はこれと、これ」
「分かった」

キッチンとダイニングを行ったり来たりして、美琴に手渡された物を那由他がテーブルに置いていく。
素麺用のツユ皿だったり。薬味として丁寧に刻まれた海苔に胡瓜、そして茗荷の入った大皿だったり。


不思議なことに、那由他は少し笑っていた。

「楽しそうだな」

思ったまま、口にする。
すると那由他は少し、はにかんで、

「うん」

と、嬉しそうに肯いた。

「こういうの、あまりしたことないから」

ああ、と声が洩れた。


昨日の夜、話してくれたっけ。
物心がついた頃から、研究や実験に明け暮れる生活をしていたんだって。

「お姉ちゃん」
「ん?」
「あんな感じでいい?」
「うん、ばっちり。ありがとう」
「えへへ」

美琴にお礼を言われて笑う那由他の顔は、本当に嬉しそうで。
子供らしいなと思いながら、俺もまた笑みを浮かべる。
すると、ぐぅーっと、場の雰囲気に似合わない間抜けな音が聞こえた。
途端、二人分の視線が真っ直ぐ俺に突き刺さる。

「え、俺?」
「私じゃないわよ」

と、美琴。

「私でもないよ」

すぐさま那由他も否定する。

「じゃあ、俺か」
「お兄ちゃん、自覚なかったんだ」

那由他に呆れた目で見られる。

「ほら、暑いから空腹も気にならなかったというか」

俺が弁解を始めた直後、美琴が割って入るように声を上げた。

「食べようか」

柔らかな笑みを浮かべて、そう言った。

「そうだな」

俺も笑った。

「食べよう」

那由他も笑った。


テーブルの前で腰を下ろし、よく冷えた素麺を市販のツユで食べた。

「お、美味い」

一口啜った途端、声が洩れていた。
腰があるのに、するすると喉に流れていく。
何の変哲もない素麺なのに。茹でて、流水で冷やしただけだっていうのに。
美琴が作ると、どうしてこんなにも美味くなるんだろう。

「美味いな、これ」
「当たり前だよ。お姉ちゃんが作ったんだもん」

なんて言いつつ、那由他も素麺を啜った。その顔が途端に綻ぶ。

「うん、やっぱり美味しい」

ありがとう、と美琴は言った。
でも、私は茹でただけなんだけどね、と笑った。

「誰かと食べるのって、美味しいよね」
「ああ、美味いな」
「家で食べるのがさ、これがまた、美味しいんだよね」
「そうだな」

家、と美琴は言った。この部屋を。
何だか嬉しくて、目の端っこが熱くなった。

「どうしたの、当麻」
「別に」

美琴に気づかれないよう、目元をそっと拭う。

「何でもねえよ」

そう言って、再び硝子の器に箸を伸ばした。
山と盛られた素麺は、程無くして全て俺達三人の胃袋に収まった。












ベッドの上で眠っている那由他にタオルケットをかける。
部屋の中は昼間までのように暑くはない。冷房がしっかりと効いている証拠だ。
結論だけ先に言うと、エアコンは壊れてなどいなかったのだ。
リモコンの電池が切れていただけで、買い置きしていた予備の電池を入れたら何の問題も無く動き出したのだ。


全く、こんな簡単なことにどうして誰一人として気づかなかったのだろうか。
暑さで頭の回転が鈍っていたなんて言い訳は、少しばかり苦しい気がする。
だけど、やっぱりそれくらいしか理由が思いつかないワケで。
何だかもう、色々と情けない。


那由他の寝顔はとても穏やかだった。
耳を澄ますと、微かに寝息が聞こえてくる。


理詰めで、気が強くて、使命感が強い那由他。
超能力者を相手にしても、決して諦めない心の強さを持つ那由他。
なのに、ひとたび眠ると、こんな幼い顔になるんだ。


私は彼女の寝顔を暫く眺め続けた。
何故だか、ひどく優しい気持ちになった。
やがて玄関に行くと、私は自分の靴を取ってベランダに向かった。

「やっと来たか」

そこには当麻が立っていた。
手すりに肩肘をかけて、今、正に沈もうとしている夕陽に顔を向けていた。
私は持って来た靴を履いてベランダに出て、それから寄り添うように当麻の隣に立った。

「那由他、寝てたのか」

訊ねてくる当麻は夕陽に顔を向けたままで、私の方を見なかった。

「うん。昼間の暑さに大分やられちゃったみたい」

私もまた、夕陽を見ながら応えた。
何だか、こうして二人で夕陽を見ていることが、とても大切な瞬間のように思えてきた。
ただの気のせいかもしれないけど。

「さっき、美月から連絡があった」

何故だか言葉が勝手に出てきた。

「今日中には帰って来るって」

いきなり喋り出した私に驚いたのか、当麻がこちらを向いた。

「この生活も、今日でお仕舞い」

私は言葉を続けた。

「だからさ。最後に一つ、私の我が侭聞いてくれる?」

そこまで言って、私はそっと目を瞑った。
顔が火照ったように熱くなる。心臓がドキドキする。


目を閉じたまま、私は待った。
だけど、いくら待っても何も起きない。何もされない。
不安になって目を開けると、ばつの悪そうな顔をした当麻が視界に写った。
だけど私と目が合うと何かを覚悟したように微笑んで。

「しょうがねえな」

なんて言いながら私の頭に片手を乗せ、ゆっくりと撫でる。

「目、閉じておけ」

そして再び目を瞑った私に、当麻はキスをしてくれた。
彼の唇はとても温かくて、思っていたよりもずっと柔らかかった。

「これでいいのか」
「うん」
「そっか。良かった」
「あのさ」
「何だよ」
「私のこと、好き?」

何だよ今更と言いつつ、それでも当麻は答えてくれた。

「好きに決まっているだろ」

えへへ、とだらしない笑みが洩れてしまう。
不思議だ。たった一言で、どうしてこんなに幸せな気持ちになれるんだろう。

「私も好き」

我慢し切れなくなって、私は当麻に抱きついた。
ほんの少しの間を置いて、当麻も私を抱き締めてくれた。
緩い、優しい夕焼け空の下で、私達は互いの温もりを感じ合った。











[20924] 第86話 姉と妹・その後②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/07/20 22:08
学園都市に戻って来た翌朝、私は病院を訪れていた。
ちなみに今日から暫くの間、学校はお休み。
本来であれば広域社会見学が続いていた日数分だけ、参加した生徒には休日が与えられたのだ。
元の性格に戻してもらい、学芸都市で負った傷の治療を済ませた私は上位個体のいる病室に足を運んだ。


室内の半分を占めるサイズのベッド。棚。花瓶。
物の少ない、殺風景な場所。そこで彼女は眠り続けていた。手術が終了してから、ずっと。
笑うこともなく。言葉を発することもなく。目を開くことさえもなく。ただ深い眠りの中を、静かに漂い続けていた。


無言のまま、妹とも呼べる少女に歩み寄る。
ベッドの脇にある心電図に目を遣ると、そこには規則正しい波形が映し出されていた。
波形の左上に数字がある。おそらく一分間の心拍数なのだろう。
目覚めなくても、上位個体の身体は律義に生を刻み続けている。


彼女は生きている。今も。
そして酷い目に遭い続けている。

「お久し振りです」

敢えて声に出して、私は上位個体に話しかけた。

「貴女は一週間前と何ら変わっていませんね」

意識が無いと分かっていても、話さずにはいられなかった。

「私の方は、色々あったんですよ」

私の事情を知っている人に、どうしても聞いてもらいたかった。
楽しかったことも。辛かったことも。悲しかったことも。
そして、ちょっとだけ吃驚したようなことも。

「私、能力が上がっていたんです」

念の為にと言われて受けた検査の結果、能力が向上していた。
今の私には大能力相当の実力があると、太鼓判を押されてしまった。
大能力。美琴お姉様の超能力に次ぐ力を有していると断言されたのだ。
検査に携わった人達は全員目を丸くしていたけれど、当事者である私自身はそうでもなかった。
何となく、能力が上がっている予感はしていたから。その結論に至る出来事が幾つかあったから。


例えばネットワーク。
一万近くもの同個体のクローンと、連絡が取れなくなってしまった。
より正確に言うと、他のみんなと能力を使っての意思疎通が出来なくなったのだ。
どうやら脳波の波形がみんなと違うものになってしまったらしく、今では位置の把握すらままならない。
そして『超電磁砲(レールガン)』。たった一度とは言え、それでも姉さんの代名詞を再現するには強能力程度では不可能だったのではないかと今更ながらに思う。

「ひょっとしたら、なんですけど」

一度話し始めてしまったら、そのまま話し切るか、或いは途中で口を噤むかのどちらかだ。
曖昧な気持ちで話し始めたから、こんな半端なところで止まってしまった。
いっそ曖昧なまま、話し切ってしまえば良かったとも思う。
しかし話を一旦切ってしまった以上、どちらかを選ばなければならない。

「私、まだまだ強くなれるのかもしれません」

迷いに迷った末、話し切ることにした。

「美琴お姉様の役に、もっと立てられるくらいに」

病室には私と上位個体を除けば、誰もいない。

「佐天さん達に真実を伝えても大丈夫なくらいに」

だから、ちょっとした夢を語っても構わないだろうと決めつけた。

「ありのままの私を、臆さず見せられるくらいに」

言葉にしてみると、その夢が急に現実感を持った。


手をぎゅっと握り締める。
興奮のせいか、手の平に汗が噴き出してきた。
視野が狭くなり、視界には上位個体の顔しか入らなくなった。
自分では意識しないうちに、随分長い間考え込んでいたのだろう。

「御坂さん」

いきなり声をかけられた。
慌てて振り向くと、開け放たれた扉の先に佐天さんが立っていた。
ここで上手く振る舞っていれば、どうにか誤魔化せたのかもしれない。
けれど私の頭の中は混乱を極めていた。
適当な理由をつけて病室から出ようと思っても、肝心の理由が思いつかない。
ぐるぐると色んなことが頭に浮かぶのに、どれ一つとして形にはならず消えていく。

「どうして」

そう呟くのが精一杯だった。
そして佐天さんは私の疑問に答えてはくれなかった。
ベッドの上に横たわる人物に、ちらりと佐天さんは目を向けた。その瞳が驚きに見開かれる。
私の脇をすり抜けて、佐天さんはベッドで眠っている少女の顔を覗き込んだ。
その間、私は凍りついていた。眼前で起きている出来事が理解できなかったのだ。
いや、理解したくなかったのかもしれない。


やがて佐天さんが顔を上げた。

「御坂さん」

静かに言った。

「この子、妹さんですか」
「……」
「御坂さんにそっくりですね」
「……」
「瓜二つですよね」
「……」
「御坂さんが縮んだら、こんな感じになるんでしょうね」

私は凍りついていた。
手はぶるぶる震え、頭の中が真っ白になっていた。
佐天さんの繰り出す質問に、とてもじゃないけど答えられない。
何か言わなきゃいけないのに、言葉が唯の一つも出て来ない。
焦れば焦るほど、どうすればいいのか分からなくなる。
と、唇に温かいものが触れた。

「ちょっと頭を冷やしましょう」

私の唇に人差し指を当てて、どういうワケか佐天さんは笑っていた。












私達は病室の前にある長椅子に腰を落ち着けていた。
佐天さんを椅子に座るように促し、その隣に自分も座ってから随分と時間が経った。
上位個体の眠る特別病棟は人通りが全くと言っていい程無く、二人して黙り込んだまま一時間が過ぎた今も誰一人として私達の前を通り過ぎてはいない。


私は横目でちらりと隣を見遣った。
佐天さんの腕には包帯が巻かれていた。
おそらく自分と同じように、学芸都市での戦いで負った怪我を診てもらいに来たのだろう。
その帰り道、偶然にも私がこの部屋に入るのを見られてしまったというワケだ。


運が悪かった。最悪だった。
もし他人が同じような場面に出くわしていたら、私はきっと慌てて目を逸らしていただろう。
だけど今は逸らせなかった。何しろ私自身のことなのだ。
逃げるワケにはいかなかった。逃げることなど出来なかった。
それに、良い機会なのかもしれなかった。運が悪くて良かった。最悪で良かった。
佐天さんと腹を割って話せるなら、悪い話ではなかった。
しかし何度も何度も頭の中で話の順番を確認したはずなのに、いざ口を開くと私の話は要領を得ないものになってしまった。
何を言っているのか、私自身ですらよく分からなくなってしまったくらいだ。
それでも私は言葉を吐き続けた。何かが溢れるように言葉が出てきた。


私は自身が美琴お姉様のDNAマップから創り出された存在であることを話した。
そんな私をお姉様は一人の妹として認め、美月という名前まで与えてくれたことを話した。
お姉様に成り代わって、広域社会見学に参加していたことを話した。


学芸都市から帰って来た後も、私は自分の生きる意味を見出せずにいた。
何をすればいいのか分からなかった。
それでも私は生きている。生きていたいと思っている。
お姉様や佐天さん達と、もっと一緒にいたいと思っている。


そんな想いの中で、私は自分がただの子供だということを分かっていった。
この世の中のことを全然分かっていないのだと分かっていった。
だけど、それでも分かりたいと思うようになった。
あの時、どうしてお姉様は学園都市第一位から身を挺して私を守ってくれたのか、私に出来ることは本当にあるのか、ちゃんと理解したかった。


そういうことを、私は佐天さんに話した。
或いは、私が口にしていることは、どうでもいい言葉なのかもしれなかった。
ただの自己満足みたいなものかもしれない。
或いは上条さんなら、もっとちゃんとしたことが言えるのかもしれない。
お姉様の言葉になら、説得力があるのかもしれない。


私よりも長い時間を二人は生き、たくさんの経験を積んでいる。
嫌な目にだって、いっぱい遭ってきたはずだ。
二人の言葉にあるような重みなんて、私の言葉にはなかった。
けれど、この時ばかりは、私は私を頼りにするしかなかった。


そう、誰かに頼るワケにはいかないのだ。
どんなに辛くても、格好悪くても、みっともなくても、自分でやるしかない。
だから、私は今も喋り続けている。

「私のことを良く思えないのは仕方ないと思います。私は貴女達を騙していたのですから。そのことは本当に申し訳なく思っています。すみませんでした。謝って許してもらえることではないかもしれませんが、謝ります。本当にすみませんでした」

私は深く頭を下げた。

「私は生まれて間もないですし、おそらく一般常識も欠けています。だから、これから先も佐天さん達に迷惑をかけてしまうかもしれません。そのことを考えると、貴女達から離れた方がいいかもしれないと思うこともあります。だけど」

迷ったけれど、私は言おうと心に決めていた言葉を口にすることにした。

「もし許してくれるなら、私は貴女達の傍にいたい。御坂美月として、これからも一緒にいたいんです」

怒鳴られる覚悟をしていた。
本当は謝るだけで済ませるべきだったのかもしれない。
だけど私は望んでしまった。望まずにはいられなかった。
お姉様の代わりではなく、御坂美月として彼女達と関わっていくことを。


暫く沈黙が続いた。
佐天さんは怒鳴らなかった。
言葉の一つも返してくれなかった。

「今回の件で実感しました。お姉様と皆さんの関係は、本当に素晴らしいと。だから、もし、もし許されるならですけど、私もその輪の中に加えてほしいんです」

もっと深く頭を下げる。おでこを膝につける。


本当に話すべきことを話したのか、さっぱり分からなかった。
だけどもう、私の中に言葉は残っていなかった。
もし、これで佐天さんが怒るのなら仕方ない。
その時は潔く諦めよう。


随分と時間が経った。
佐天さんは怒りもせず、立ち上がりもせず、ただ横に座っていた。
呆れているのかもしれない。
いや、言葉に出ないくらい怒り狂っているのかも。
拒否される覚悟をして、私は頭を上げた。


佐天さんは私を見ていた。
瞬きもせず、じっと見つめていた。

「許せません」

やがて、口元に笑みを浮かべて彼女は言った。
少し考えれば、それは当然の返事だった。


ですよね、と私は肯いた。

「そんな簡単に許せることじゃないですよね」

しかし佐天さんは、どういうつもりなのか首を横に振った。

「違います」

私を見つめたまま、佐天さんはそう言った。

「だって、何を許せばいいのか分かりませんから」

彼女の真意が掴めず、私は顔をしかめた。

「いや、ですから私は貴女を」
「騙した?」

私は肯いた。

「その通りです」
「何を言っているんです?」

言い聞かせるように、佐天さんは続けた。

「貴女は御坂さんに代わって、あたし達を救ってくれただけ」

彼女は怒っていなかった。呆れていなかった。

「許してもらう必要なんて、最初から無いんですよ」

とても穏やかな目をしていた。

「ですが」
「あたし、知っています」

喋ろうとしたら、遮られた。

「あたし達を守るために、美月さんが頑張ってくれたこと」

佐天さんと目が合った。
吸い込まれるような瞳を前に、目を離せなかった。
佐天さんも、目を逸らさなかった。


互いに見つめ合ったまま、どれくらいの時間が経っただろう。

「違いますね」

やがて、佐天さんが言った。
意味が分からず、私は彼女を見た。

「貴女と御坂さんですよ」

佐天さんは少しだけ笑った。

「性格とか、全然違うんですね。見た目は全く変わらないのに」
「当然ですよ。DNAマップが同じでも、別々の人間なんですから」

気づけば、私も笑っていた。
くすくすと、楽しそうに笑っていた。
お姉様と違う。そう言われて、喜んでいる自分がいた。











[20924] 第87話 姉と妹・その後③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/11/18 22:45
常盤台の夏服に袖を通し、お昼過ぎに当麻の寮を後にする。
身を隠す必要は無くなったので、堂々と電車に乗って第四学区へ向かう。
世界中の料理が楽しめると評判の学区に近づくにつれて、革靴の中がムズムズしてきた。
痒いのではない。緊張しているのだ。
美月に会うだけのことなのに、明らかに緊張している自分がいる。


内ポケットの携帯電話が震動した。
受信したメールは那由他からのもので、無事に家へ辿り着いたという内容だった。ほっと息を吐く。
私より一足早く寮を出ていたから少し心配していたのだけど、身体の方は特に問題無かったようだ。


駅から溢れる人の波に乗って、繁華街を進む。
スクランブル交差点には熱気をたっぷりと含んだ風が吹いていて、まだまだ夏は健在であることを痛感させてくれる。
待ち合わせ場所であるペットショップに、美月は先に来ていた。
近づいていく私の姿に気づく様子もなく、三毛猫が入れられたケージの前で屈んでいる。
猫を見つめる横顔には、出会った当初には決して見られなかった笑みが浮かんでいた。


私は敢えて声をかけず、少し離れた場所からその横顔を暫く眺めた。
性格を元に戻したことを差し引いても、何となく雰囲気が変わったような気がする。
纏っている空気が柔らかくなったというか、まあ、そんな感じ。
上手く言葉には出来ないけど。

「あ」

私を見つけた美月が、立ち上がって手を振ってきた。

「お姉様」

言った途端、口元を押さえる美月。
どうやら本人が思っていたより、ずっと大きな声が出てしまったらしい。
きょろきょろと辺りを見回して、周囲の反応を気にしている。
この辺りの危なっかしさは、出会った頃のままだ。


逃げるように店を出て、私達は騒々しい繁華街を奥へと進む。

「で、何でステーキ?」

隣を歩く美月に、私は訊ねた。
今朝の電話で美月が指定してきたのが、食べ応えのあるステーキを扱うレストランだった。

「だって、どこでも構わないと言ってくれたじゃないですか。だからステーキです。肉を所望します」

自分の欲求に極めて素直なところは、出会った頃と少しも変わっていない。
確かにどこでもいいと言ったが、お昼にステーキは胃袋に優しくないのではないだろうか。
昼食だったらパスタやグラタン辺りが無難なのではないかと私は思うのだけど、美月の意見は違うらしい。

「学芸都市ではステーキを食べ損ねてしまいました。アメリカと言えば肉なのに。だから今日はリベンジも兼ねて、人目も憚らず食すつもりです」

そう言って美月は拳を胸の前で強く握ってみせた。
今回も妹のペースになりそうだ。












「お疲れ様」

グラスを合わせ、なかなか見事な飲みっぷりで美月はグレープジュースを喉に流し込んだ。


ふう、と小さく息を吐く美月。
その口元には僅かながら笑みが浮かんでいる。
私の物真似なんかじゃない、本来の美月の表情だ。
彼女が学園都市第三位の影武者から本来の御坂美月に戻っているのが、私には手に取るように分かった。
何故なら、背中が丸まっているからだ。
心を許した相手だけに見せる、くつろいでいる時の姿勢だった。

「ありがとう」

今度は感謝の言葉をかけた。
自身の性格を機械の力で強引に変えてまで、御坂美琴を演じてくれた妹に。

「本当に、お疲れ」

慣れない環境の中で、苦労が無かったはずがない。
それに加え、魔術絡みの事件にまで巻き込まれてしまって。
やり遂げてくれた美月には感謝してもし切れないし、ちょっと尊敬もしてしまう。

「確かに疲れましたが、それ以上に今はお腹が空きました」

グラスを置き、美月は手をお腹に当てた。

「そんなに?」
「ステーキを食べるので朝を抜きましたから。そのせいか午前中はお腹が何度も鳴ってしまいまして」

尊敬した自分がバカみたいだ。
私は笑いを押し殺し、焼き立てのバターロールにかぶりついた。
前菜代わりのサラダが運ばれて来たので、私は腰を浮かせてそれぞれの皿に取り分ける。
すると目の前で何故か、くすくすと笑う声が聞こえた。

「何か、おかしい?」

訊ねてみると、

「いえ」

と美月は手を振り、それから控えめな笑みを浮かべて言った。

「大人だなあ、と思いまして」
「私が?」

大きく肯く美月。

「何気ない様子で、音も無く。当たり前のように気を配れる」
「いや、大したことはしてないから」
「普段の言動からは想像すら出来ません」

一言多い妹に、

「何おう」

と、わざとらしく膨れっ面をしてみせる。

「私は思ったままのことを口にしただけですよ。姉さん」

唐突に姉さんと呼ばれて動揺し、サラダをつつくフォークが皿に当たってカチンと鳴った。
私の様子を観察し、してやったりという顔で美月は笑った。
全く、人をからかうことばっかり上手くなっちゃって。

「いいですか」

美月が出し抜けにそう言った。
何のことを言っているのか見当もつかない私に、美月は続けた。

「これからも姉さんと呼んで、いいですか」

訊ねる美月の目は真剣そのもの。
さっきまで浮かべていた笑みは引っ込んでいた。
瞬きもせず、真っ直ぐに私を見つめている。
まるで今後の人生を左右する返事でも待っているかのよう。


いや、美月にとっては、その通りなのかもしれない。
私に対する呼び方を変えることに、大きな意味があるのかもしれない。
だとしても、こんな質問は無意味でしかないのだけど。

「いいよ」

少し間を置いて、私は答えた。

「当たり前でしょ」

ニコリと笑ってみせる。


返答に迷ったのか、美月がそっぽを向いた。
壁に掛けられたブーメランを凝視して、こちらに視線を戻してくれない。
静かになったテーブルに、ステーキが運ばれてきた。

「おお」

感嘆の声を上げる美月。


彼女の目は皿の上の肉塊に釘付けになっていて、その輝きはまるで小さな子供のようだった。
どうやら美月の注意は完全にステーキに奪われてしまったらしい。
ほっとしたような、ちょっとだけ悔しいような。


程良く噛み応えのある肉は満足できる味だったけど、いかんせん量が多い。
この店での最小サイズを頼んだのに、どうして二百五十グラムの肉塊が出てくるのだろうか。
しかも付け合わせのマッシュポテトや温野菜も実に大陸的な量で、先に頼んだサラダやついついおかわりしてしまったバターロールと徒党を組んで胃袋を内側から押し広げてくる。


顔を上げてみると、同じサイズを頼んだ美月は黙々とステーキを頬張っていた。
涼しい顔で食べ続けているが、よく見ると食べ始めた時より大分ペースが落ちている。
こちらの方も、どうやら胃袋の限界が近づいているようだ。
美月だったら余裕で食べ切れるのではと思ったが、考えてみたら底無しの胃袋を持っていたのは美月じゃなくて、あの子だった。
たった一日。ほんの数時間だけ一緒に過ごし、そして私の目の前で命を落とした。
私が一万人を超える妹達の存在を知るきっかけとなった、あの子だった。

「どうしました?」

肉を切る手が止まっているのを見て、美月が訊ねてきた。

「ううん、何でもない」

そうだった。
あの子と美月は違うのだ。
背恰好が変わらなくても、二人は別々の人間なのだ。
全く同じ遺伝子を持っているからといって、性格まで同じようになるワケではない。


どこまで愚かなのだろう、私は。
そんな当たり前の事実に、今の今まで気づかなかったなんて。

「姉さん」
「ん?」
「姉さんが今、何を考えているか当ててみせましょうか」

美月が、こちらの心の奥底まで見通すような眼差しで私を見ている。

「こんなに食べたら夕御飯は要らないかなあ、なんてところでしょう」

全然違う。


自信たっぷりに見当違いのことを言う美月が可笑しくて、私は声を立てて笑った。

「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」

こちらを睨んでくる美月。


もしも今、あの子に会えるとしたら私はどうするだろう。
ちゃんと受け入れられるかな。うん、今なら出来そうな気がする。
あの子の突飛な行動に冷や冷やしながらも、

「しょうがないなあ」

なんて言いながら、こんな風に食事も取れるかもしれない。
そんなことを思いながら、私はやっとの思いでステーキを平らげた。
肉体の何割かが牛になった気分。今後暫く、肉は見たくもない。

「美味しかったですね」

少し遅れて、美月もナイフとフォークを置いた。
皿の上にはおよそ二口分、綺麗に切り分けられた肉が残っている。
やっぱり、あの子と違って美月は小食だったのだ。


こちらの視線に気づいた美月が、

「食べますか」

と、皿を差し出してきた。
欲しがっていると勘違いされたようだ。


正直、お腹は苦しい。
だけど断ってしまうのは何となく勿体ない気がするし、妹の好意を無下にしたくもない。
待ってましたという顔を繕って、私はフォークを手に取った。












皿が片付けられる前に、私達は飲み物を注文した。
お腹が膨れているので店を変えようという気は起きない。
かと言って、このまま入れ替わって真っ直ぐ常盤台の寮に戻るのも惜しい。
もう少しだけ、美月と話していたかった。

「それで白身魚のフライと英語で書いてあった物を注文したんです。取り分けて、みんなで食べようと思って」

料理の量の話から、話題は美月が広域社会見学で訪れた学芸都市での出来事に移っていた。

「そうしたら、出てきたのは五人掛けのテーブルからはみ出してしまうくらいの巨大魚の姿揚げだったんです。頭と尻尾をはみ出させて、皿の上で魚が啖呵を切っていました。食い切れるものなら食ってみろ、と」
「アメリカだなあ」
「はい。しかも五人がかりで何とか半身まで食べた頃、真っ赤なロブスターが人数分運ばれてきまして。私達の顔を見て、ウェイターはニヤリと笑って去り際にウインクまでしていきました」
「アメリカだなあ」

取り留めのない、言ってしまえばどうでもいい話。でも、聞いていて楽しかった。
美月はよく喋った。思いがけない事件のせいで早々に切り上げられてしまったものの、学芸都市での出来事や黒子達について心から愉快そうに語った。


会っていなかったのは、たったの四日。
それだけで、美月はすっかり表情豊かになっていた。
出会ったばかりの頃は、仏頂面しか見せなかったのに。


それが私には嬉しかった。
彼女はやっぱり、一人の人間なのだ。
造り物なんかじゃない。私の模造品なんかじゃない。
かけがえのない、私の妹なのだ。


随分と長い間、美月は喋り続けた。
店を出るその時まで、私は聞き役に徹していた。
でも、楽しかった。この子の笑顔を見ているのが楽しかった。












あまりに楽しかったせいで、すっかり店に長居してしまった。
美月と別れた私は、寮までの道のりをふらふらと揺れながら歩いた。
道すがら、美月の声を、笑顔を、気持ちを、何度も何度も思い返した。
その度に、何度も何度も微笑んでいた。


駅から十五分ほど歩いて辿り着いたのは、三階建ての洋館じみた建物。
石造りの佇まいは、さながらヨーロッパの貴族の邸宅だ。
このお洒落な女子寮の一室に、私は先日まで黒子と一緒に住んでいた。
しかし今日からは違う。二学期より常盤台中学への転入が決まった新人と同居することになるのだ。
別の部屋を宛がわれてしまった黒子と違い、私は二〇八号室を以前までと同じように使えるらしいのだけど。


新しい同居人に関して、美月は何も知らなかった。
引っ越しの業者が忙しく動き回っていたけど、肝心の同居人には会えないまま部屋を後にしたからだそうで。
さて、一体どんな人物なのだろうか。期待が半分、そして不安も半分といったところだ。
難関と名高い常盤台中学の編入試験を通ったのだから、実力者であることは間違いなさそう。
同じ時間を何度も過ごすことになるのだから、気の合う相手だと嬉しいな。


正面玄関から入ってホールを通り、階段を上る。
二〇八号室の前に立ってドアを開けたところ、常盤台中学の制服を着た女の子の姿が目に入った。
黒子が使っていたベッドの上で、うつ伏せになって本を読んでいる銀髪の女の子。
この子が新しい同居人か、と思った。と同時に、女の子が私の方を向いた。

「お帰り、美琴」
「え?」

吃驚した。

「インデックス?」

ベッドから起き上がったのは、何とインデックスだったのだ。











[20924] 第88話 姉と妹・その後④
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/03/03 01:01
何だか、インデックスが凄い。
少し前まで当麻の担任である月詠先生の家に篭ってばかりだったのに。
常盤台中学の転入生として再び私の前に現れた彼女は、まるで別人のように活動的になっていた。


まず私が持っている本を物凄い勢いで読み始めた。
小説に漫画、果ては授業や研究で使っている著名な学者の論文まで。
私自身、背伸びをしないと最上段まで届かない高さを持つ本棚にぎっしりと詰め込まれた書物を一冊一冊読破していった。
那由他から借りている零次元の極点に関する論文を読み終えた時は、寮のキッチンで夕食を作っていた私の所までわざわざやって来て、

「美琴、これ、凄いね。本当に凄い」

と、興奮した様子で語っていた。


量子学を前に唸り声を上げ、銀河鉄道の夜に目を潤ませ、料理のレシピ本は三回くらい読み返していた。
まあ、とにかく、様々なジャンルの本に熱中するインデックスは、端から見ているとなかなか面白かった。
本を読み慣れている人間なら軽く読み飛ばしてしまうような部分に、インデックスはいちいち感動したり、感銘を受けたりしていた。
その表情は、まるで小さな子供のようだった。
広域社会見学の早期切り上げによって与えられた特別休暇の間、彼女は暇を見つけては私の本棚にある本を夢中になって読んでいた。


本を貸してくれたお返しにと、インデックスも私に本を貸してくれた。
彼女のために宛がわれた本棚も大きいのに、もうぎっしり本が詰まっている。
どれもやけに古臭い本で、中にはタイトルも読めないくらい色褪せてしまっている物もあった。

「これ、みんな魔術関連?」
「そうだよ。ステイルがイギリスから送ってくれたんだ」
「凄い数だね」
「一番大きい本棚を用意してもらったのに、もう埋まっちゃったよ」

応えるインデックスの声は、以前のように舌っ足らずではない。
発音もアクセントも完璧。必死に日本語を勉強したのだろう。
僅か二週間ほどで、よくここまで流暢に喋れるようになったものだ。
並々ならぬ努力の賜物であることは、容易に想像できた。


広辞苑に匹敵する厚さに怯んだものの、インデックスが強く薦めるものだから試しに読み始めたところ、止まらなくなった。
寮に戻って夕食を食べ終えた後、私達はそれぞれのベッドにごろごろ寝転がり、インデックスは私の本を、私はインデックスから借りた本を読み耽った。
気になる箇所があれば声を上げ、相手に納得の行くまで質問を続けた。
私達はそうして交互に熱く激しく語り合ったり、肯き合ったりした。


休日が明け、学校が始まってからは更に活動的になった。
私と同じクラス、しかも隣の席になったインデックスは私に派閥を一緒に見て回ってほしいと頼んできたのだ。
確かに常盤台中学を知る上で、各派閥の見学は最良の手段だと思う。
同じ目的を持つ者同士が集まり、学校から施設や資金を提供してもらって研究を進める姿は部活と似ていると言えなくもないし。
それでも私は驚かずにはいられなかった。
月詠先生の家で居候をしていた頃は、能力に関わろうとなんて全くしていなかったのに。


一体どうしたのだろう。
何故こんなに活動的になったのかな。
内心では首を傾げながらも、私はインデックスのお願いに首を縦に振った。












その日の夜。


自室に戻り、ノートパソコンで新しいプログラムを組んでいると背中に声をかけられた。

「ねえ、美琴」

インデックスの、真剣な声。

「学園都市の人達って、卒業した後はどうするのかな」

働きに出るでしょ、と私は言った。

「そうしないと食べていけないし」
「いや、そうなんだけどさ」

そのまま口篭ってしまうインデックス。
どうすれば言いたいことをきちんと伝えられるのか、考えているようだった。

「気になるんだ」

ノートパソコンに向かっている私は、作業を続けながら訊ねた。

「卒業生がその後、どうしているのか」

うん、と肯く声が返って来る。

「異能を身に付けて、どうしたいのかなって」

パソコンから視線をずらし、インデックスを見る。
ベッドに腰掛けたインデックスは、やっぱり真剣な表情をしていた。
真面目な顔で、次の言葉を待っている。
だから私も真剣に受け答えすることにした。


キーボードを打つ手を止めて、インデックスと向き合う。

「ここ数年では、出て行った人はいないみたい」
「そういう決まりなの?外に出ちゃいけないって」

ううん、と首を横に振る。

「在学中は厳しいけど、卒業すれば晴れて自由の身だよ。もちろん学園都市の外にだって出られる」
「なのに、誰も出て行かないんだ」

もっともなインデックスの疑問に、うん、と私は肯いた。

「能力を高めたかったら学園都市に留まるしかないからね。能力者として最高の環境が揃っているのに、わざわざ何も無い所に移ろうなんて思わないでしょ。それに、この街で暮らしている人のほとんどは少なからず特別な力に憧れている。だから自ら進んで街を出ようとはしない。能力者が能力者として生きていける場所は、この街以外には無いから」

そんな考えが一般的になってから、まだ十年も経ってないんだけどねと私は付け加えた。

「学園都市が作られて五十年。だけど今みたいに強力な能力者が何人も生み出されるようになったのは、つい最近のことなんだよ」

言うだけ言って、私は大きく息を吐いた。
インデックスは暫く黙っていたけど、やがて意を決したように口を開いた。

「同じだね」
「何が」
「魔術と能力が」

どこか遠くを見つめて、彼女は語った。
隠すこと、閉ざすことが魔術の大前提なのだということを。
神秘を知る者を極限まで減らし、結果として魔術の質を古来より保ち続けてきたことを。
魔術師が魔術師として生きていく為に必要なものは大方、寺院や教会といった大勢力が占有していることを。
一般人を魔術的な現象に巻き込んだ魔術師は、魔術師という存在そのものを脅かす一因として排除されることを。


加えて、インデックスは自身のことも話してくれた。
視界に捉えたあらゆるものを記憶してしまう能力の持ち主であること。
その能力を見込まれて、十万三千冊に及ぶ魔道書を脳内に保管していること。
彼女の所属するイギリス清教の思惑によって、今からおよそ一年より前の記憶を全て消されてしまっていること。


淡々と語るインデックスの眼差しは、今までのどんな時よりも鋭かった。
エメラルドのように輝く瞳が、話を終えた今も火が点いたように揺らめいている。


以前の私だったら、こんな話を決して信じなかっただろう。
適当に、話半分で聞き流していたに違いない。
だけど今は違う。目を逸らしていられない。
私はもう、魔術の存在を知ってしまったのだから。

「ねえ、インデックス」

重たくなった空気を少しでも変えたくて、私は訊ねた。

「どうして急に活動的になったの?」
「ステイルにね、言われたんだ」

意外な名前が出てきたので、驚いた。

「ステイルさんに?」

うん、と嬉しそうに肯くインデックス。

「何かやってみるといいって。そうすれば、たとえ状況は変わらなくても、見る目の方が変わるかもしれないって」

にっこり笑う彼女の顔が、ほんのりと朱に染まる。
膨大な知識の守護者が、一人の女の子へと姿を変える。
それに気づいた私は小さく笑い、からかうような調子で言った。

「ステイルさんのこと、好きなんだ」

途端、インデックスの顔から表情が消えた。
真顔で私を見返し、何度も瞬きを繰り返している。
もしかして言葉の意味を理解していないのかな、なんて思い始めた頃になって、ようやくインデックスは慌て出した。

「ち、違うよ!」

大袈裟に手を振るインデックス。

「違うから!そうじゃないから!」

やけに必死になって、否定する。


私はちょっと混乱した。
別に隠すようなことでもないと思うのだけど。

「美琴、違うからね!ホントに!」
「メールのやり取り、毎日しているのに?」
「そうだよ!それにステイルに悪いよ!」
「ステイルさんって、他に好きな人がいるの?」
「い、いないって言ってたけど!」
「じゃあ、構わないじゃない」
「で、でも!ステイルが困るでしょ!」

その後もインデックスは必死になって色々と否定してきたけど、やがて顔を赤くしたまま黙り込んでしまった。


それにしても一体、二人の間に何があったんだろう。
こういったことには、きっかけが必要なはずだ。

「ところでさ」

探りを入れようと口を開いた正にその時、ポケットの中で携帯電話が鳴り出した。
残念。もう少し楽しめると思ったのに。
携帯の画面に目を遣ると、公衆電話と言う文字が映し出されていた。
誰だろうと訝りながら、電話を耳に当てる。

「第三位」

女性の声だった。

「私が誰か、分かる?」

残念ながら、見当もつかない。

「いえ、全く」
「私だよ、私。先日は絹旗とフレンダが世話になったわね」

その言葉で、ようやく分かった。

「麦野さん?」

麦野沈利。学園都市第四位の超能力者。

「ええ。ところでアンタ、今から出て来られる?」
「今から、ですか」

顔を上げて、机に置かれたデジタル式の目覚まし時計を見る。
二十二時。門限なんて、とうの昔に過ぎてしまっている。

「そう。大事な話があってさ」












一泡吹かせてやりたい、そう思うことしか出来なかった。


もし絹旗に会ったら、言葉を交わさなきゃいけない。
下らない冗談の一つでも言って、笑わなきゃいけない。
でも自分にそんな器用な真似が出来るだろうか。
あの子の心が第三位に向いていると思い知ってしまった今、呑気に笑えるだろうか。


――無理だ。


情けないことに、それが分かるくらいには自分を理解していた。
自分の思い通りに事が進まなければ気が済まないくせに、周囲の、特に仲間の視線を急に思い出したかのように意識して。
だから私は学園都市第三位である、あの女よりも自分の方が優れていると絹旗に分からせる必要があった。
あの女がどれだけ間の抜けた奴で、共に過ごすに値しない人間であるかを思い知らせなければならなかった。


その目的を果たす為には、どうすればいいのだろうか。
あの女に戦いを挑もうか。病理解析所では結局、振り切られてしまったワケだし。
だけど勢い余って第三位を殺したりすれば、絹旗は二度と私の方を向いてくれないだろう。
それは駄目だ。嫌だ。無理だ。


頭にふと、絹旗とフレンダがチェスをしているあの瞬間が思い浮かんだ。
眉間に皺を寄せてチェス盤を睨む絹旗。それを見て楽しそうに笑うフレンダ。
向かい合って、同じ盤面を覗き込んで。そして勝つ為の一手を教えてあげた時に絹旗が見せた、屈託のない笑顔。
ドキリとした。抱きしめたいなんて、一瞬でも思ってしまった。
だけど、その笑顔を作り出したのは私ではなくて。


頭が痛い。第三位に鉄の塊を仕込んだ人形をぶつけられた辺りが。
膝も痛い。着地に失敗したせいで痛めた膝が。
でも何より、心が一番痛い。


悪戯を思いついたのは、そんな夜のことだった。
第三位を適当な場所に呼び出し、そのまま放置する。
お人好しである奴のことだ。大事な用だとでも言えば、無理をしてでも出てくるはず。
門限を過ぎた寮を抜け出し、目的地に到着し、待ち始めて一時間くらい経ってようやく気づくのだ。
呼び出した張本人はやって来ないと。自分は騙されたのだと。


第三位の電話番号については問題なかった。
絹旗が自身の携帯電話に嬉々として登録しているところを、後ろから見て覚えていたから。


だから実行に移してやった。
思った通り、第三位は私の呼び出しに応じた。
場所は第二十三学区の出入り口であるターミナル駅の裏手に決めた。
あの辺りには全くと言っていいほど人通りが無い。
独りでいる虚しさを痛感させるのに、あそこほど適した場所は無いだろう。


電話を切り、私は思い切り声に出して叫んだ。

「おっしゃああああっ!」

頭の中で思い描いた通りの展開に、電話ボックスの中でガッツポーズまで決めてしまった。
久し振りに上機嫌で、私は絹旗の住むマンションに足を運んだ。
そして開口一番、いとも容易く第三位を騙せたと告げた。
これで絹旗も目が覚める。第三位に幻滅する。下らない感情も吹っ飛ぶ。そんな計算。


しかしながら、いささか計算違いだった。
早足で玄関にいる私の前まで来た絹旗に、いきなり殴られたのだ。
それはもう、見事なアッパーカットだった。
私は派手に玄関から吹っ飛ばされた。

「何すんだよ!」
「麦野のバカ!」


――あ、しまった。


玄関前で立ち尽くしたまま、絹旗が恐ろしい目で私を睨んでいる。
まさかこんなことで、他愛も無い悪戯で、それも自身が嵌められたワケでもないのに絹旗が怒るなんて思わなかった。


全ての計画が頭から吹っ飛び、私は本気で慌てた。

「ご、ごめん、絹旗」
「麦野のバカ!」
「だってさ、第三位が」
「バカ!」

絹旗が玄関のドアを閉めた。
ガチャリ、という音が聞こえた。
嘘だろと思いつつ、私は起き上がってドアノブに手をかけた。
回した。が、回らなかった。
ドアノブを強引にガチャガチャと鳴らしてみたものの、効果無し。
やっぱりと言うか、鍵をかけられてしまったらしい。

「分かった!謝るから!」

ドアに向かって叫ぶ。

「私が悪かった!ごめん!」

返事は無い。

「だから許してよ!絹旗!」

何故か泣きそうな声になっていた。

「許しません」

ドアの向こうから聞こえてきたのは、やけに低い声だった。

「御坂との約束を果たすまでは、絶対に許しません」

明らかに怒気を含んだ声で、そう言った。











[20924] 第89話 姉と妹・その後⑤
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2012/12/17 00:05
第十二学区でタクシーを降り、そこからは歩いていくことにした。
第三位との待ち合わせ場所まで四、五キロ程あるものの、まあ一時間かそこらで着くだろう。


仏教やら、キリスト教やら、イスラム教やら。
様々な宗教に関する施設が雑多に立ち並ぶ奇妙な通りを、私は独りきりで歩いた。
空には月も無く、どんよりと重い雲が頭上を覆っている。
吹き抜けていく風は、私の身体ではなく、私の心を揺らしていった。


絹旗は本気で怒っていた。
私に敵意を剥き出しにしていた。
自らの為ではなく、第三位の為に。
でも、だからと言って、どうして私は絹旗の言いなりになっているのだろうか。
その気になれば、絹旗を力づくで黙らせることだって出来るのに。
それに待ち合わせに指定した場所へ向かったところで、第三位がいるはずがない。
何せ約束した時間から、既に一時間が過ぎているのだから。
私が来ないと悟って寮に戻り、今頃は自室でくつろいでいるに違いない。


私は一体、何をしているのだろう。
待ち人がいないと知りながら、無駄足だと分かっていながら、それでも約束した場所まで徒歩で向かうなんて。
バカげているなと笑うと、唇の端にぴりりとした痛みが走った。どうやら少し切れているらしい。
よほど酷い顔をしてしまったのか、すれ違う人が私をじろじろ見ていった。

「絹旗。アンタさ、あの女を買い被り過ぎているよ」

空に向かって指摘しておく。
勿論、聞こえないだろうけど。

「こんな時間まで待っているワケないじゃない。そんな義理も、責任も無いんだから」












結局、第二十三学区に辿り着くまでに二時間近くかかった。
途中で足が痛くなって、のろのろ歩いたり、コンビニに寄ったりしたせいだ。


驚いたことに、本当に驚いたことに、第三位はまだ待っていた。
彼女はターミナル駅の裏手にあるガードレールに腰掛け、自らの能力で作り上げたのであろう光球を宙に浮かべ、その明かりを頼りに本を読んでいた。
背表紙がすっかり日に焼けて、タイトルも碌に読み取れなくなった本を。
私を見つけると、第三位は本を閉じて、サッカーボールほどの大きさを持つ光の玉を伴って歩み寄ってきた。

「三時間と七分の遅刻です」

小さく笑みを浮かべて、そんなことを口にする。

「どうして」

彼女を咎めるように、私は言った。
待ち合わせは、駅の裏手に二十三時だった。
今は午前二時を少しばかり回ったところ。
三時間以上も待たされて、それでも帰らなかったというのか。
強引に取り付けられた約束だったのに、待ち続けていたというのか。

「約束ですから」

さも当然のように、第三位は答えた。
私は何だか、申し訳ないような気持ちになった。


顔を伏せ、足元を見つめる。
この辺りの歩道はアスファルトを固めただけのものだ。
光の玉に照らされて、そんな歩道に私と第三位の影が落ちている。

「それに、私からも言っておきたいことがありまして」
「言っておきたいこと?」

はい、と第三位は肯いた。

「本当なら、もっと早くに言うべきだったんですけど」

第三位は笑顔を引っ込めると背筋を正し、深々と私に頭を下げた。
ごめんなさい、と真夜中にも関わらず彼女は良く通る声を張り上げた。

「何のことよ」
「おばさん呼ばわりして、ごめんなさい」

アンタね、と早口で言って、私は言葉に詰まった。
再び顔を伏せ、言葉を探してみたが、気の利いた台詞の一つすら思い浮かばない。

「お子様の喧嘩もバカに出来ないでしょ、おばさん」

小憎らしい笑みを浮かべ、彼女は以前、確かにそう言い放った。
しかし当時の私達は敵同士であり、相手への礼儀なんて払っている心の余裕なんて無かったことは重々承知している。
まあ、だからと言って、あの時の出来事全てに目を瞑ってあげられるほど心が広いワケでもないのだけど。
とにかく互いの命を賭けた戦いの中で、いちいち相手の気持ちまで考えに入れる輩なんていない。
少なくとも、私は全く考えていない。だけど目の前で頭を下げている彼女は違った。
今の今まで、彼女は気に病んでいたのだ。
そんなちっぽけなことに対して、深く頭を下げているのだ。


そんな第三位が何故か、眩しくてたまらなかった。
ただひたすら彼女を眩しく感じ、そしてほんの少しの気後れを覚えた。

「ねえ、麦野さん」
「何」
「私達、仲直りできますか?」

私は絶句した。


近頃、第三位が絹旗やフレンダと仲良くやっているのは知っていた。
でもまさか、この私にまで踏み込んでくるなんて思ってもみなかった。

「これからは、上手くやっていけますか?」

私は顔を上げ、第三位の様子を窺ってみた。
こちらを真剣に見つめる第三位の顔は、病理解析研究所で戦った時よりも幼く感じられた。

「分からないね」

私は正直に言った。

「そんなに単純じゃないし」

第三位は光に、そして私は闇に属する人間。
真逆の位置にいる二人が同じ道を歩けるはずがない。
なのに、きっぱりと否定は出来なかった。
不覚にも、ほんの一瞬だけ夢を見てしまったから。
この少女と一緒であれば、私も光の当たる場所まで戻れるかもしれないなんて、ふざけた夢を。

「じゃあ、私、帰るわ」

第三位に止められる前に背を向けて歩き出したのだけど、角を曲がりかけたところで立ち止まった。

「正直言ってさ。アンタのこと、嫌いなんだよね」
「本人の前で言っちゃいますか、それ」
「他人を殺すどころか傷つけることさえ躊躇うくせに、自ら進んで面倒事に首を突っ込んで。お子様はお子様らしく、日の当たる場所でのほほんと過ごしていれば良かったのよ」

そこで私は暫く黙り込んだ。
私が何かを考えているのが分かったのか、第三位も黙っておいてくれた。


やがて私は再び口を開いた。

「だけど考えてみたら、アンタだってかなりの修羅場を潜ってきたのよね。この理不尽な世界から目を逸らさないで。だから、少しぐらいは認めてあげる」

最後は茶化すように笑って、今度こそ私は第三位から離れていった。












第三位と別れてから、私は幼い頃の自分を思い出していた。
私にも、あの少女のような頃が確かにあったのだ。
あれから一体、何がどのように変わったのだろう。
どう足掻いても、私には今の道しかなかったのだろうか。
それとも、どこかで道を踏み外した結果、今に至るのだろうか。
下らない思考を彷徨わせていたところ、ポケットに入れておいた携帯電話が震えた。

「もしもし」

慌てて電話を取り出し、受信ボタンを押す。

「こんばんは」

聞こえてきたのは、質からして二十代後半らしき女性の声だった。

「誰?」
「学園都市第三位との決着、つけたいと思わない?」

電話の主、テレスティーナ=木原=ライフラインは平坦な声で訊ねてきた。
すぐに相手の正体に気づけたのは、きっと私が第三位のことを考えていたからだ。
正確に表現するなら、彼女が現状で抱えている問題の一つ一つを思い起こしていたからだ。

「どういう意味さ」
「あの夜の続きが出来る場所を用意してあげる」
「アンタが?」
「一思いに殺してもらいたいの。勿論、後始末はこちらで済ますわ」

色々なことが、頭の中を駆け巡る。

「どうして私に?」
「実は第二位も彼女と交戦したのだけど、彼、尻尾を巻いて逃げ出したの」
「そうか。それで私にね」

こういう時、どうして言葉は勝手に出てくるのだろうか。

「アイツを倒せば、私は第二位よりも上ってことになるのかね」

電話の向こうで、テレスティーナはうんうんと肯いたようだ。

「そういうことになるでしょうね」

完全な偏見だが。私は、この女が眼鏡をかけている人間だと決めつけた。

「それで、受けてもらえるのかしら。悪い話ではないと思うのだけど」

それは、確かにその通りだ。
つい先程までの私だったら、一も二も無く依頼を受けていただろう。


第三位のことは嫌いだ。
殺してやりたいとさえ思っている。
なのに今、私は首を縦に振れないでいる。

「一日だけ、待ってくれる?」

この場で答えを出せなかったのは、何故だろうか。


ええ、とテレスティーナは肯いた。

「いい返事を期待しているわ」

それだけ言って、彼女は電話を切った。
私は通話の途切れた携帯電話をじっと見つめた。
第三位のことで笑ったり、怒ったりする絹旗の顔が脳裏に浮かんでくると、色んなものが萎えてしまった。
殺意とか、憎しみとか。胸の奥に渦巻いていたはずのそれらは、すっかり勢いを失くしてしまっていた。
結局、私がやったことは、キーを操作し、とあるナンバーを表示させただけだった。


とは言っても、心を決めたワケではなかった。
何となく、試しに。そう、試しに動いてみているだけだ。
液晶にはフレンダ=セイヴェルンという文字が並んでいる。
押すか、押さないか。散々悩んだ末、私は指を動かした。発信ボタンを押した。

「悪いわね。こんな時間に」

暫くして電話が繋がると、私は返事も待たずに早口になって告げた。

「ちょっと手伝ってほしいことがあってさ」












今日は朝から電話が鳴りっぱなしだった。
相手は第三位で、一時間に必ず一度、かかってくるのだ。
どうやら授業の合間を縫って、かけているらしい。
電話は午後になっても止むことは無く、いつものメンバー四人でファストフード店に集まった今も鳴り続けている。
私は食事中で電話に出られず、テーブルの上に置いたそれは、小うるさいメロディを店内に撒き散らし続けた。


私は辟易していた。
絹旗とフレンダはニヤニヤと笑っていた。
滝壺はと言えば、フライドポテトをつまみながら今日の朝刊を読んでいた。
新聞の日付は九月十二日。学園都市に在る学校全てが参加する体育祭、大覇星祭が始まるまで、後一週間に迫ったことになる。

「先進状況救助隊、通称MARが謎の襲撃を受け壊滅。跡地から次々と暴き出される非人道的実験の数々」

フィレオフィッシュを頬張っている私は、テーブルを挟んで滝壺と向き合っている。
だから新聞を広げている彼女が、どんな顔をしているのかが分からない。
わざわざ口に出して、そんな記事を読んでいる理由も分からない。と言うか、分かりたくない。


まあ、おそらく全てが筒抜けなのだろうけど。
何せ滝壺の横には襲撃を手伝ってくれたフレンダが座っているのだから。
何度目かの電話の後、隣にいる絹旗が手を伸ばして、私の携帯電話を手に取った。
緊張しつつ眺めていたところ、彼女はキーを操作して、何か表示させた。
こっそり覗き込むと、それは着信拒否の画面だった。
絹旗は意地の悪い笑みを浮かべている。

「どうします?」

そして声は弾んでいる。

「どうするって」
「設定しますか」

考えた振りをしてから、私は言った。

「好きにしていいわ。私は食事中だから、どうせ電話に出られないし」
「出ればいいじゃないですか」
「だから今は食事中で」
「ここに入る前にも鳴ったのに、取ろうとしませんでしたよね」
「気がつかなかったのよ」

ふうん、と絹旗が唸る。

「じゃあ、今から私が御坂に言ってあげます。麦野は電話に出る気なんて無いって」
「あ、いや、それは」
「この機種って、どうやって着信履歴を呼び出すんでしたっけ。ああ、あったあった。これですね。かけますよ」

ちょっと待った、と私は叫んだ。

「心の準備が必要なの」

発信ボタンに指を置いたまま、絹旗はわざとらしく溜め息を吐いてみせる。

「嫌じゃないなら、すぐに出て下さい。多分ですけど、このまま無視を決め込んでいたら、もっと麦野にとって面倒なことになりますよ」
「具体的には?」
「電磁波を駆使して麦野の位置を特定して、直接会いに来るとか」

話を面白くするために誇張しているワケではない。私にはよく分かった。
第三位、いや、御坂美琴だったら、やる。それくらいは平気でやる。

「全く。いつの間に私の番号を教えたんだか。油断も隙も無いわね」
「教えてほしいと今朝、頼まれたので」
「どうしてバカ正直に教えるかな」
「その方が麦野のためになると思いまして。本当は御坂と話したいんでしょう」

フィレオフィッシュを口に運びつつ、私は絹旗の様子を窺った。


相変わらず、親指は発信ボタンにかかっている。
しかし顔からはニヤニヤとした笑みが消え、真剣な瞳で私を見つめている。

「話したいかも」

本音がするりと洩れてしまった。

「かも?」
「話したいです」

どうして丁寧語になってしまうのだろうか。

「今度かかってきたら、ちゃんと出てくれますか」
「出ます。絶対に逃げません」
「本当に?」
「本当です」

実はですね、と絹旗が顔を覗き込んできた。

「発信ボタン、随分前に押しちゃってるんです」
「は?」
「もう繋がっています」

つまり、今までの会話の幾らかは御坂に筒抜けだったというワケで。

「ちなみに、いつから?」
「ちょっと待った、と麦野が叫んだ辺りからですが」

頭がクラクラした。
とんでもない地雷を踏んだ気がした。

「ほぼ全部聞かれたってことじゃない!」

そんなことを叫びつつ、絹旗からひったくるようにして携帯電話を取り返す。

「ようやく出てくれましたか」

小さな溜め息が、携帯電話から聞こえてきた。

「一言伝えたいだけだったのに、随分と待たせてくれましたね」

怒っているような口振りだけど、御坂は決して気分を害してはいない。
声の調子で、それぐらいは分かる。

「仕事が忙しくてさ」

嘘だ。今日は一切の仕事が入っていない。


はいはい、そうですか、と御坂は投げやりに言った。

「とにかく、伝えておきたいことがありまして」

妙に畏まった声になった。

「何よ」
「ありがとうございます」

心からの礼だった。
そう言うのは、分かるものだ。じんと心が痺れた。

「勘違いしないでよね」

なのに私は素直になれなくて、余計なことを口にしてしまう。

「アンタのためにやったワケじゃないんだから」

ふふ、と御坂は笑った。

「分かっています。でも、どうしても言いたかったから」

ありがとうございます、と御坂は繰り返した。

「こちらこそ」

ありがとう、とは照れ臭くて言えなかった。
心の中でだけ、そっと呟いた。











[20924] 第90話 大覇星祭編①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/01/02 00:33
「つまり、こういうことですね」

大覇星祭を一週間後に控えた夜、私はステイルさんと電話で話をしていた。
それは向こうから掛かってきたもので、どうしてインデックスが転入生として常磐台中学にやって来たのかを教えてくれるものだった。

「インデックスの望むことは出来るだけしてやりたい、と」

返答は無い。
そうです、と宣言しているようなものだ。
そう、全ては仕組まれていたのだ。
インデックスの常磐台中学への転入も。黒子を押し退けてまで、あの子が私と同室になったのも。
全ては魔道図書館と揶揄されるインデックスの身の安全を保障した上で学園都市での生活を送ってもらおうという、ステイルさんの配慮だったのだ。

「すまないと思っている。厄介事を押しつける形になってしまって」

当麻と一緒にいた時とは打って変わって、殊勝な応対。
そんな風に素直に謝られてしまうと、私としても強い態度には出られなくて。

「気にしないで下さい。事情もちゃんと聞かせてもらえたし。それより、大覇星祭には必ず来て下さいね。あの子、きっと喜びますから」

そうさせてもらうよと、やっぱり殊勝に肯く声。

「ありがとう」

ステイルさんは丁寧に礼を言った。
呟くような響きが心に落ち、ゆっくり、ゆっくり、波紋が広がっていった。

「で、インデックスは何か言っていたかい?」

少し声の調子を落として、彼は訊ねた。

「僕達のことや、自分自身のことで」

妙に真剣な口調だ。

「はい」

その意味するところを感じ取り、私も声を潜めて答えた。

「色々と話してくれました。あの子の能力とか、役割とか。それに記憶のことも」

一年より前の記憶が一切無いことを。
魔道図書館としての役目を請け負う前の自身について、何も知らないことを。


そうか、とステイルさんは呟いた。

「やはり君に任せて正解だった」
「そう言ってもらえると光栄です」

ふ、と笑いを零す音が電話越しに届く。

「とにかく、インデックスのことを宜しく」
「はい。任されました」
「僕はあの子にメールを送ってから寝るよ。明日も早いものでね。それじゃ、お休み」
「お休みなさい」

通話を切り、私は軽く溜め息を吐いた。
ちらっと視線を上げ、バスルームへと繋がる扉を見つめる。
丁度今、インデックスがお風呂に入っているのだ。


出会った当初から、彼女は常に笑顔だった。
世界中の魔術師から、その存在を狙われているにも関わらず。
いや、違う。だからこそ、インデックスは笑顔で在り続けようとしたのだ。
誰一人として、巻き込みたくなかったから。
誰にも頼らず、救いを求めず。たった独りで、記憶も曖昧なまま、彼女は戦い続けてきたのだ。


儚く、脆い笑顔を浮かべ続けてきたインデックス。
彼女は一体、その目で何を見つめているのだろうか。
魔術の全てを知り、故にその全てが敵と化してしまった世界。
インデックスはその中で何を思い、考えているのだろうか。
思考をあちらこちらに巡らせながら、私は携帯を操作していた。
ほとんど意識せずとも、その番号は自然と呼び出せた。


一回、二回。コールを無意識に数えている。
七回目のコールで、留守番電話に切り替わった。


もう眠ってしまったのかな。
そうだよね。もうじき日付も変わってしまうし。
明日も大覇星祭の準備でお互い、忙しくなるだろうしね。


何でもないメッセージを残したところで、ふと気づく。
大した用事なんて無いのだ。ただ、当麻の声が聴きたいだけ。
ほんの二時間前に、電話で話をしていたのに。
ほんの数十分だけど、準備の合間を縫って会ってもいるのに。


恋愛って奴は、本当にままならない。
この気持ちは一体、どこまで膨らんでいくのだろう。
このまま一生、止まることなく膨らみ続けていくのかな。だったらいいな。


バスルームに続く扉が開いたのは、そんなことを考えている時だった。

「お風呂、空いたよ」

赤いチェック柄のパジャマを着たインデックスが、にっこりと笑いかける。
お風呂上りらしく、その頬がほんのりと薄紅色に染まっている。

「湯冷めしないようにね」

ベッドに腰掛けたインデックスにそう言い残し、着替えを持ってバスルームに入る。
服を脱ぎながら、そう言えば、とつい先程までの自分自身を思い返す。
携帯電話に残したメッセージを、当麻はおそらく明日の朝に聴くことになるだろう。だとすれば、

「お休み」

なんて、的外れもいいところではないか。


また笑われちゃうな、なんて心の中で零しつつ、私はシャワーの栓を捻った。












よく晴れた翌日。放課後になってすぐ、私は学校を飛び出した。
第七学区で落ち着いた時間を過ごせる数少ない場所である公園に、那由他は先に来ていた。
かつて私の一万円を無情にも飲み込んでくれた、故障気味の自動販売機の横に設置されたベンチに腰掛けてノートパソコンを開いていた。


駆けてきた私は、早口で言った。

「遅れちゃったね。ごめん」

そして、那由他の隣に座る。


学校が始まって少ししてから、放課後に那由他と特訓をするのが日課になっていた。
現在進行形で私が取り組んでいるのは、未だ絵空事から抜け出せないままでいる零次元の極点の実現。
那由他が目指しているのは、自身のAIM拡散力場を他者のそれと完璧に同調させることで初めて可能になる能力のコピー。
手持ちの能力に更なる磨きをかけるべく、二人して目下奮闘中なのだ。
本当なら当麻も特訓に付き合ってくれるはずだったのだけど、大覇星祭の準備に駆り出されてしまった為に断念する羽目に。


当然ながら、学生である私達にとって最優先するべきは学校行事。
残念だけど、非常に残念だけど、諦めるしかない。
こうなったら一日も早く零次元の極点を自分の物にして、当麻を吃驚させてやる。

「何を見てるの?」

そう言いながら、那由他のノートパソコンを覗き込む。
画面に映し出されていた効果的なリハビリの紹介記事を目にして、思わず笑みが零れた。

「枝先さん達、筋肉も大分戻ってきたよね」
「うん。この調子なら来月には退院できそうだって」

まるで自分のことのように、那由他は笑った。

「大覇星祭に間に合わないのは、ちょっと残念だけど」

言いつつ、那由他はノートパソコンを閉じる。


自らの身を犠牲にしてでも、友達を救おうと頑張ってきた那由他。
そんな彼女を、私が大切に思う人達を、この手で守っていきたい。
そのためにも、もっともっと頑張らなくちゃ。
勉強に、特訓に。やるべきことは幾らだってあるのだから。

「何か飲む?」

ノートパソコンを赤いランドセルにしまっている那由他より先に立ち上がり、自動販売機と正面から向かい合う。

「奢るよ」

言いつつ、その場で一回転。
上段回し蹴りが綺麗に決まった。
ガシャンという音を立て、一本の缶ジュースを吐き出す自販機。
取り出してラベルを確かめると、そこにはハバネロパイナップルジュースという文字が、燃え上がる炎のイラストと共に印刷してあった。
ハバネロとパイナップルを混ぜ合わせた飲み物。それは果たして甘いのだろうか、それとも辛いのだろうか。

「ねえ、那由他って」

辛いのは大丈夫、と訊こうとしたが、途中で言葉に詰まった。
半眼になった那由他が、じっと、私を見つめていたからだ。

「お姉ちゃん」

低い声。

「そこに座って」

指差された先は、那由他の目の前。
コンクリートの地面だった。


体育座りをすると、那由他の目が更に細くなった。

「正座」
「マジですか」
「大マジだよ」

ゆっくりと那由他が立ち上がる。
両腕を組み、足を少し開いて私を見下ろす。

「早く」

睨まれる。物凄い迫力だった。


私は苦笑いを浮かべたまま、那由他の言葉に従った。

「お姉ちゃん」
「はい」
「今、何をしたか分かってる?器物破損と窃盗だよ?犯罪だよ?」

那由他の声がどんどん険しくなっていく。


私はちょっと焦って言った。

「あの、実はさ。一年前に私、この自販機に一万円札を呑まれちゃって。だからそう、元を取り戻そうと思って」
「言い訳しない!」

那由他はいきなり怒り出した。

「お姉ちゃんは、みんなの憧れなんだよ!なのに犯罪なんかに手を染めて!駄目だよ、そんなの!子供じゃないんだから!」


――うわあ、めちゃくちゃ怒ってる……。


「いや、まだ十四だから子供なんだけど」

私の情けない抗弁は、那由他の視線によって、あっさりと封じられた。

「ごめん」

頭を掻きつつ、謝る。


そんな私に、那由他は再び声を低くして言った。

「そう言えばさ」
「な、何」
「夏休みの間に度々あった停電事故って、お姉ちゃんが原因だよね」

心臓が跳ね上がる。


当麻と彼氏彼女の関係になるよりも前。
私の電撃を無効化する彼を倒そうと、がむしゃらに能力を解放したことが何度かある。
その度に周囲に停電という事態を巻き起こしたのは、完全に私の失態だ。
どれだけの悪影響が停電によって出るかなんて、そんなの、それこそ子供でも分かるものなのに。

「お姉ちゃん」
「はい」
「約束して。もう二度と、犯罪紛いの行為はしないって」

俯きつつ、それでも私は肯いた。

「那由他」

ごめんね、と顔を上げて口にしようとしたその時、私は目を疑った。
風も吹いていないのに、目の前で那由他のスカートが勢いよく捲り上がったのだ。

「きゃあっ!」

咄嗟に両手で裾を押さえる那由他。前かがみの内股になっている。
しかし地面に座り込んでいる私には、ばっちりと白い物が見えてしまったワケで。

「いきなり何てことするんですか!」

振り返るなり、那由他は真っ赤な顔で怒鳴った。


彼女の後ろには、佐天さんが立っていた。
佐天さんは那由他の鋭い視線を物ともせず、

「白か。いいね。清楚な感じが際立って」

と、呑気に言った。

「感想なんて要らないから!質問に答えて下さい!」
「そこにスカートがあったら、とりあえず捲るでしょ」
「答えになってない!」
「そんなに興奮しないでよ。別に悪いことしたワケじゃないんだし」
「自覚して!倫理的に良くないって!」

突如として始まった二人のやり取りを前にして、

「ええと、あの」

と、私は戸惑った声を出した。


那由他と佐天さんの顔を交互に見る。

「二人って、知り合いだったの?」

言い争う声が、ぴたりと止まる。

「一度だけ、話をしたことがあるの」

重々しく息を吐いてから、那由他が説明してくれた。

「その時は、お互いに名乗りはしなかったんだけど」

そうそう、と肯く佐天さん。

「また会えるなんて思ってなかったから、吃驚しちゃったよ」
「私も驚きました。まさか挨拶代わりにスカートを捲られるなんて夢にも思わなかったから」

那由他に睨まれた佐天さんは、私を見て、視線で助けを求めてきた。
仕方ないなと心の中で嘆息しつつ、私は那由他を宥め、改めて佐天さんを紹介するのだった。











[20924] 第91話 大覇星祭編②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/01/27 01:30
何故だか選手宣誓を任されることになった。
能力の使用が許可どころか推奨されている為に全世界が注目する体育祭、大覇星祭の選手宣誓である。
九月十九日から七日もの間、異能者達の激闘が繰り広げられる大覇星祭。
昨年は名門中の名門である長点上機学園が総合優勝を果たした大覇星祭。
その開会式で、生徒代表として私に選手宣誓をしてもらいたいそうで。


戸惑いながら、私は言った。

「あの、どういうことですか」

目の前には、どことなく見覚えのあるセーラー服を着た長身の女子高生が座っている。
いきなり来たものだから、部屋はちゃんと片付けられておらず、色々な物がだらしなく散らばったままだ。
せめて前もって連絡を入れてくれればいいのにと思いつつ、机に置いたヤシの実サイダーの缶につい手を伸ばしてしまう。
プルトップを引いたところで、呑気にジュースを飲んでいる場合ではないと気づき、いくらか迷ってから、缶を机に戻した。

「大変なのよ」

吹寄制理と名乗った女子高生は、ひたすら真剣だった。

「一大事なのよ」

いきなり訪ねてきた吹寄さんは、ずっと正座で、思いつめた顔をし、やけに緊張した声をしている。
私はと言えば、那由他との修練を終えて寮に戻り、風呂上がりの一杯を楽しもうとしていた矢先。
あまりにテンションが違い過ぎて、真面目な顔で深刻な話をされても、ついていけるワケがない。


彼女が語るところによると、大覇星祭の運営委員に上層部から正気の沙汰とは思えない命令が下り、大騒動になっているのだそうだ。
全世界に配信される開会式にて、誰に選手宣誓を任せるべきか。
学園都市の頂点に君臨する七人の超能力者の内で、一体誰が引き受けてくれるのか。
運営委員の中で、揉めに揉めているとのこと。
事情を聞くだけで、実に厄介だと分かる。


能力の面でも、精神の面でも異常とみなされている超能力者。
隠しても隠し切れない人格破綻者の集まりと、接触しなければならないのだから。
と言っても、その人格破綻者には私も含まれているのだけど。
それに、この話は既に決着がついたと聞いているのだけど。

「あの、どういうことなんですか」

時計を見ると、もう夜の七時だった。
そろそろインデックスが、お腹を空かせて帰って来る。

「選手宣誓は第五位と第七位の二人で決まったはずでは」
「あの二人じゃ無理」
「無理って、そんな」
「直接会ってみて、分かった。あの二人じゃ上手くやれないって」

だから断った、と相変わらず真剣な顔で吹寄さんは言った。

「大丈夫だったんですか。その、断ってしまって」

予想はしていたが、やはり吹寄さんは首を横に振った。

「委員長からは大目玉を食らったわ」

目を閉じて深く、深く息を吐く吹寄さん。


気まずい間をどうにかしたくて、やむなくサイダーの缶を傾けた。
炭酸が喉を滑り降りていき、風呂上がりの火照った身体を引き締める。

「それで、今日中に代役を立てろと命じられてしまって」

ここに至って、ようやく話の流れが掴めた。
しかし、どう考えてみても、私では力不足だった。
だって私、大勢の前に出るのは得意な方ではないのだ。
この学生寮が一般公開された際にヴァイオリン演奏を頼まれた時も、弾き始める直前までずっと、緊張のせいで手の震えが止まらなかったのに。
もしも当麻が発破をかけに来てくれなかったら、まともな演奏なんて出来やしなかっただろう。


ああ、そうじゃないか。
あの時の当麻は既に、記憶のほとんどを失っていたんだっけ。
当麻からすれば、初めて出会った女の子に理由も分からず怒鳴られたというワケだ。


本当に嫌な女だなあ、私。
これからは、もっと優しくなろう。
当麻にも、それに勿論、他のみんなにも。


とは言うものの、それとこれとは話が別である。
見知った顔が多くても緊張し通しだったのに、世界中の人達が注目している中で選手宣誓をするなんて絶対に無理だ。
断る口実を探そうとするものの、慌てているせいか、修練の為に能力を酷使したせいか、頭がちっとも働かない。

「御坂さん。選手宣誓、引き受けて」


――ああ、やっぱり。


吹寄さんがその後取った行動は、しかし予想外だった。
彼女は床に両手をつくと、深く深く頭を下げたのだ。
そして床に額を擦りつけた。実に見事な土下座だ。
生まれて初めて接する光景に、吃驚してしまった。


私は慌てて言った。

「やめて下さい。頭を上げて」

困る。戸惑う。


頭を上げた吹寄さんは、やっぱり真剣な目をしている。

「引き受けてくれる?」

彼女が真剣であればあるほど、断りたくなった。
吹寄さんの期待に応えられるだけの自信が、私にはなかった。

「他の誰かに頼んでもらえませんか」

私は言った。


こんな時に逃げてしまう自分が腹立たしい。
でも、それでも首を縦に振る勇気は出てこなくて。

「そんな大役、私には務まりません」

真剣な目で、私の姿をじっくりと眺める吹寄さん。
それから、どういうワケか苦笑いを浮かべた。

「上条当麻が言った通りね」

言葉の調子で、どういう意味なのか、ちゃんと分かった。


吹寄さんと当麻は知り合いなのだ。
彼女の着ているセーラー服に見覚えがあるのも当然だ。
だって、当麻が通っている学校の制服なのだから。

「アイツ、人前に出るのは好きじゃないから絶対に断るぞって」

ここまでの流れは想定内だったということか。


当麻から他にどんなことを聞いたのか知りたかったけど、吹寄さんは教えてくれなかった。

「御坂さん、お願い」
「だから無理ですって」
「本当にお願い」

そして、またもや土下座された。


頭がふらふらするのは、目の前で繰り広げられている現実離れした光景のせいだろうか。
それとも、このまま押しに負けて引き受けてしまった場合に待っているものを、頭の中でぼんやりと思い浮かべてしまったせいだろうか。

「とにかくお願いね」

それだけ言うと、吹寄さんは立ち上がり部屋を出て行ってしまった。
いきなりだったので反応が遅れ、扉が完全に閉まったところで、慌てて後を追った。
困りますよ、待って下さい、私には荷が重過ぎますと言っても、吹寄さんは立ち止まるどころか振り返ってすらくれない。
どうにか追いついた私を、吹寄さんはじっと見つめてきた。

「大丈夫。貴女なら出来るわ」

気休めで言っている感じではなかった。
恐ろしく真剣だ。視線に揺らぎが全く無い。
呆れたのか、吃驚したのか、自分でもよく分からないけれど、何も言えないでいる間に吹寄さんは去ってしまった。
言いようのない不安と緊張を、私に残して。












翌日の放課後、昨日のやり取りが切っ掛けとなり、私は難しい選択を迫られることになった。
事件は掃除当番を終え、大覇星祭に向けての特訓に備えて体操服に着替え終えた直後に起こった。
突然、教室のドアが廊下の方から勢いよく音を立てて開け放たれたのだ。
クラス中の視線は、当然のようにドア口に立つ来訪者に注がれた。

「げっ」

真っ先に声を出したのは私だった。

「御坂さん」

吹寄さんが大股でズンズンと近づいてくる。

「行くわよ」

私の腕を取って、たった一言。
他校、それも中学校に一人で来ているのに、恐ろしいくらいに堂々としている。

「待って。待って下さい」

しかし感心している場合ではない。
このまま、されるがままに連れ去られてしまうのはマズイ。絶対にマズイ。

「まずは説明して下さい。どこに連れて行く気ですか」
「大覇星祭。選手宣誓。苦手克服」

どうして片言なのだろうか。
いや、今はどうでもいいか、そんなこと。
それよりも吹寄さん、最後に何とおっしゃいましたか?

「苦手克服?」

その言葉から連想されるのは嫌な未来。
出揃った情報から推察するに、答えは一つしかなかった。

「まさか選手宣誓の練習?」
「そうよ」
「マジですか」
「マジよ」
「お断りします」
「お断りよ」
「私が断るのを?」
「そうよ」

真っ黒な瞳で、吹寄さんが無言の圧力を加えてくる。
交渉の余地などない。吹寄さんの心は、とっくに決まってしまっている。
ならば無駄な抵抗を止めて、早く用事を済ませてしまった方が得策か。

「いいから来て」
「いい加減にして」

クラスメイトの誰もが口を挟めずにいた空間。
しかし、その中に果敢にも割って入ってきた人物がいた。

「美琴が困っているの、分からない?」

私と同じく体操服に着替え終えたインデックスだ。
大変ご立腹の眼差しで吹寄さんを見ている。いや、睨んでいる。

「それに美琴はこれから、私達と大覇星祭に向けて練習をするの。昨日から約束しているの」

吹寄さんのおでこに深い皺が一本生まれた。
私の手を離し、インデックスに近づいていく。

「こっちは選手宣誓なの。全世界が注目するのよ」
「約束に大きいも小さいもない」

吹寄さんとインデックスが間近で睨み合う。
背丈の違いから、インデックスが吹寄さんを見上げる形になっている。
しかし、だからと言って退き下がりなんてしないのだ、この子は。
瞬きもせず、怯みもせず、自分より年上の相手に真っ向から立ち向かっている。

「……」
「……」

対峙した吹寄さんとインデックスの間には、見えない火花が散っていた。
そうかと思えば、示し合わせたようなタイミングで二人同時に私へと向き直ってきた。

「御坂さん、どうするの?」
「美琴、どっち?」

何なのだ、この展開は。

「待って。二人とも少し冷静に」

そして話を整理する時間を下さい。

「私は落ち着いているわ」
「ですよね」
「慌てているのは美琴でしょ」
「ですよね」

残念ながら、ささやかな願いは一蹴されてしまった。


緊迫した空気が続く中、不意に、

「お姉様ー」

と、間の抜けた声が廊下から聞こえた。黒子だ。
満面の笑みを浮かべて修羅場と化しつつある教室に入ってくる。
いつもだったら面倒な子が一人増えたなあ、とうんざりするところだけど、今は助け舟のように感じた。
やはり、本当に追い詰められた時に頼りになるのは苦楽を共にしてきた後輩らしい。

「どうしたの、黒子」
「あの、少々言いにくいことなのですが」
「何を今更。気にしないで言ってよ」

では、と前置きすると黒子は、

「お姉様、今からデートして下さい!」

弾けんばかりの笑顔で、とんでもない発言をしてくれた。

「話をややこしくするな!」

とりあえず、飛びつこうとしてきた黒子の脳天にチョップを叩き込んで黙らせる。

「ああ、久々に感じる愛の痛み」

蹲って頭を押さえつつ、何故かニヤニヤとだらしない笑みを零す黒子。

「御坂さん」
「美琴」

黒子の存在を完全に無視し、吹寄さんとインデックスが決断しろと迫ってくる。

「いや、選べと言われても」

順番では駄目なのだろうか。
そんなことを考えていると、今度は携帯電話が鳴った。

「お姉ちゃん。零次元の極点習得に向けて、新しいプログラムを組んだよ」

那由他からのメールだった。

「御坂さん」

吹寄さんが迫ってきて、

「美琴」

インデックスも迫ってきて、

「お姉様」

いつの間にか復活した黒子まで迫ってきて、

「すぐに来て」

那由他からはメールで呼び出されて。


――私、まさかの大人気!?


心の中で、そう叫ばずにはいられなかった。











[20924] 第92話 大覇星祭編③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/03/03 00:58
大覇星祭を二日後に控えた夜、私は重い足取りで寮への帰路に就いていた。
選手宣誓に抜擢されたおかげで、ここ最近の一日のスケジュールはかなり過密だったりする。


朝、五時半に起床。二人分の朝食とお弁当を作り、インデックスと食事を済ませたら学校へ。
昼間は大人しく授業を受けつつ、隙を見つけてはインデックスから借りている魔術関連の書物を読んだりする。
放課後は先輩後輩の区別無く、学校全体で大覇星祭に向けての練習に励む。
休憩の間は屋上に行き、空に向かって選手宣誓の言葉を何度も叫ぶ。
六時に練習を切り上げたら、その足で第七学区の公園に直行。
那由他と合流した後は、とにかく時間が許す限り能力向上を図って特訓するのだ。


そんな生活を続けているのだけど、全く苦にはなっていない。
これまでにないくらい、毎日が充実している。
強いて不満を挙げるなら、当麻に会えないことかな。
メールや電話で毎日やり取りはしているのだけど、やっぱり直接、会いたいと思ってしまう。
改めて思い知らされる。私って、とてつもなく欲張りだったんだ。


ところで、能力向上の特訓には那由他と私の他に、昨日から二人ほど参加者が加わった。
一人は大能力者にまで成長を遂げた美月。
そしてもう一人は、学芸都市で能力に目覚めた涙子。


そう、涙子だ。佐天さん、ではなく。
改めて彼女に那由他を紹介したその時に、そう決めた。
だって不公平じゃない。美月とは名前で呼び合っているのに。
最初は驚いていたけど、でも、涙子は笑って了承してくれた。
それに、約束してくれたのだ。私のことも、これからは名前で呼んでくれるって。


涙子の能力は重力操作だった。
自らの視界に収めた対象の重力を、一時的に跳ね上げる能力。
一度に一箇所しか効果を発揮できず、しかも対象から能力者本人が十メートルも離れてしまえば強制的に解除されてしまう。
使い所のなかなか難しい能力ではあるけれど、それでも、私は嬉しくて仕方が無かった。
異能を求めて必死に頑張ってきた友達の努力が、遂に実ったのだ。嬉しくないはずがない。


一度目覚めてしまえば、後はそれほど苦にはならない。
修練を繰り返し、能力の底上げを図っていけばいいのだから。
目覚めた能力を引き上げていく過程にあるならば、私だって力になれる。
何と言っても、私は低能力者から努力で超能力者にまで至った実例なのだから。


特訓を始めて三日足らずで、涙子は瞬時にして対象の重力を上げられるようになった。
呼吸をするのと同じように、ごく自然な感じで能力を扱えるようになった。
この調子で行けば、いずれは彼女自身の目に捉えたあらゆる物に効果を及ぼすことだって可能になるかもしれない。

「私も頑張らなきゃ」

そう呟いた時、携帯電話が鳴った。

「よう、美琴」

当麻だった。

「特訓、終わったか」
「うん。今は寮に向かっているところ」

珍しいな。こんな時間に電話をくれるなんて。
いつもだったら、寮に戻ってお風呂も浴び終えた頃にかけてくるのに。

「御苦労さん。疲れただろう」
「疲れたよ。すっごい忙しかったし」

正直、身体はすごく重い。
だけど心はとても軽くなっていた。
休日も平日も関係なく、ここ数日は動き回っているというのに。

「美琴。腹、減ってないか」
「減ってるよ」
「じゃあ、すぐに帰って来いよ。美味い物を作ってあるからさ」

吃驚した。

「常盤台の寮にいるの?当麻が?」
「おう。インデックスに入れてもらった」

時計を確認すると、もうすぐ夜の十時になるところだった。
大覇星祭直前の特別措置として、二時間ほど伸びた寮の門限。
そのギリギリまで外出していた私が帰るのを、待っていてくれたのだ。こんな遅くまで。
そして帰路に就いている頃を見計らって、電話をかけてくれた。


きっと、寮のキッチンにあるテーブルには、色んな料理がぎっしり並んでいるのだろう。
当麻が最も自信を持ち、これだけは私よりも美味しく作れると豪語している唐揚げだってあるに違いない。
私の為に、待っていてくれたのだ。準備してくれていたのだ。

「じゃあ、急ごうかな」

帰ったら、思い切り抱きついてやろう。
息が苦しくなるくらい、抱きしめてやろう。

「ああ、待ってるからな」

当麻の声。静かで、優しい声。


電話を切ると、私は勢いよく駆け出した。
私の一番に。何よりも大切な人に。
この世界よりも、自分よりも大切な人に、一刻も早く会う為に。












部屋に押しかけてきた土御門は、隣人である俺を朝五時に叩き起こしてフレンチな朝食を作らせ、トーストを齧りながら今朝の朝刊を流し読みしていた。
今日は九月十八日。明日からの一週間が、いよいよ大覇星祭の本番となる。

「カミやんって本当に働き者だにゃー。こんな朝っぱらから食事の用意をしてくれるなんて」

魔術師と能力者。二つの顔を使い分ける大嘘吐きは、まるで他人事のように笑っている。

「好きで用意したんじゃねえよ」

ついでに朝食を食べている俺は、硝子テーブルを挟んで土御門と向き合っている。


俺の安眠を妨げた元凶は、新聞で自分の顔を隠したままで、

「へいへい」

なんて、明らかにその場凌ぎの返事をしている。

「スパイって、もっと忙しい仕事だと思っていたんだが」
「忙しいぜい。この一週間、あちこち飛び回ってばかりだし」
「それにしては学校、休まずに出ているよな」

訊ねると、新聞紙の向こうで、

「当然だろ」

という応答があった。

「だってそれ、オレじゃないし」
「は?」
「影武者って、ホント便利だよにゃー」

言いつつ、土御門は新聞を下ろして視線を横に向ける。
そこには褐色の肌をした男が一人。
土御門の隣に座って、食後のコーヒーを啜っている。
背恰好からして、おそらくは俺達と同年代だろう。


彼の名はエツァリ。
土御門と同じ、魔術側に属する人間。
所属していた組織を抜け出し、現在は土御門の部屋で居候をしている。

「分かるだろ、カミやん。オレの言ってる意味が」

うはは、と笑う土御門。

「この一週間、お前の代わりにコイツが学校に来てたってことか」

まあね、とつまらなげに答えたのはエツァリだった。

「そんなことも分からないようでは、アンタに御坂さんを守るなんて無理だな」

びくりと肩が震えてしまうくらい、それは衝撃的な一言だった。
すぐにでも反論してやりたかったが、まだまだ実力不足の俺には無言でコイツを睨みつけるのが精一杯だった。


それを勝機と見たのか、エツァリは尚も続ける。

「否定しないってことは、そうなんだな。御坂さんを守れないって、認めるんだな」
「テメエ!」

しまった。たまらず口を挟んでしまった。
こういう質問は無視するに限るのに、事が事だけについ気が動転してしまった。
勢い立ち上がってしまったものの、大した台詞も浮かばずに無言で座り直す。
なんだか敗残兵のような気分だった。

「悔しいと思う気持ちがあるなら、自分よりも強くなってみせろ」

ふん、と鼻を鳴らして言うと、エツァリは立ち上がって部屋を出ていった。


それにしても、どうしてアイツは俺に対して事あるごとに突っかかってくるのかね。
何か俺、アイツに悪いことでもしたかな。心当たりなんて、これっぽっちも無いのだが。

「ところで」

新聞を読み終えた土御門が、少し声を低くして言った。

「昨日の事件、知っているか」

いや、と俺は首を横に振る。


土御門は折り畳んだ新聞紙を指差して、つい先程まで読んでいた記事の内容を復唱した。

「第八学区にある研究所の跡地で、そこの研究員だった二名の遺体が発見されたんだと。二人の手には拳銃が握られていて、互いに互いの心臓を撃ち抜いたんじゃないかって話だ」

へえ、と感心して俺はテレビの電源を入れた。
この時間帯であれば番組は全て報道関係なので、適当に回すだけで件の事件を取り上げているニュースに行き着いた。


内容は土御門が口にした通り。
ただ、付け加えることが一つあるとすれば。


――あれ、コイツ……。



パンにバターを塗りたくっていた俺は、画面に映し出されている顔写真に見覚えがあることに気づき、ぽかんとしてしまった。


ぼんやり画面を眺めていたら、トーストを食べ終えた土御門が、

「気づいたか」

と、訊ねてきた。


俺はバターナイフを持った右手で、画面を指差した。
そこには事件で死んだ男女二人の写真が並んで映し出されている。

「コイツ、『一方通行(アクセラレータ)』に吹っ飛ばされた奴だ」

見るからに陰険そうな男の顔は、一度見たらそう簡単には忘れられない。
間違いない。八月三十一日の夜、美琴の妹を守る『一方通行』に銃を向けた結果、返り討ちに遭った男だ。


画面から目を離せないでいると、ふう、と息を吐く音が聞こえた。

「男の名は天井亜雄。女の方は芳川桔梗」

感情が込められていない、淡々とした口調。

「二人共、絶対能力進化実験の中枢を担う人物だった」

告げられた真実に驚き、ほぼ反射的に振り向いた。

「実験の凍結後、身の置き場を失い自殺に至った研究者は珍しくない。事件そのものは驚くに値しない」

土御門は笑っていなかった。

「むしろ、気になるのは」

そうさ、全く笑ってなかったんだ。

「どうして今になって、この二人が同時に死を選んだのかってことだ」

その言葉の意味は、鈍い俺でも理解できた。

「口封じ、か」

だろうな、と土御門は表情の無いままで答えた。


天井亜雄という男に関しては、夏休みの最終日に『一方通行』から愚痴という形で色々と聞いている。
レストランの窓硝子の件でお世話になっている身として、黙ってその愚痴を聞いてやっていたのだ。


『一方通行』の話から判断すれば、天井亜雄は科学者としては一流であるものの、人間としては最低だったらしい。
利益と自身を何よりも優先し、他者への配慮など二の次、三の次であったとか。
そんな人間が、果たして自殺なんて手段を取るだろうか。
他人を蹴落としてでも、自分だけは生きようとするのではないだろうか。
それにしても分からない。わざわざ殺してでも公にしたくない情報とは一体、どんなものなのだろうか。

「まだ確証を得ていない話だが」

土御門が低い声で言った。

「たった一度、それも一体だけだが、天井亜雄は学園都市第三位の能力を完璧に再現したクローン作製に成功したことがあるそうだ」

一瞬、頭の中が真っ白になった。
それぐらい、今の話は認めたくないものだった。
偶発的に生まれる超能力者を意図的に、そして確実に発生させることを目的とした実験。
絶対能力進化実験の前身とも言える、学園都市第三位のクローン製造計画。


違う。成功例があったなんて、嘘だ。
それが本当なら、完全なクローンが作れる可能性があるなら、どうして美琴のクローン作製に学園都市があっさりと手を引いたのだ。
無能力者が相手とは言え、学園都市第一位である一方通行(アクセラレータ)がたった一度負けた程度で、どうして一万回以上も続けてきた実験を即座に中止にしたのだ。


美琴は自身のDNAマップを学園都市から取り戻した。
被験者である『一方通行』に、実験を続ける意思は無い。


もう悲劇は起こらない。繰り返されない。
そう、美琴と二人して確信を持てたはずじゃないか。
それが、どうして今になって、こんなにも不安にさせるような話が飛び出してくるのだろうか。

「土御門。その完璧なクローンについて、もう少し詳しく教えてくれないか」

頭の中の不安を打ち消すように、そんなことを問いただしていた。
噂程度の話でもいいならと前置きして、土御門は答えてくれた。

「そのクローンは天井の奴が最初に作った、いわゆる試作型のようなものだったらしい。だから絶対能力進化実験の為に生み出された他のクローンとは性能も違うし、ネットワークからも独立した存在になっていたそうだ。後はまあ、そうだな」

努めて。努めて冷静に、俺はその先を促した。

「能力の忠実な再現に重点を置いていたからかどうかは知らんが、どうも背恰好に関する情報が曖昧なんだ」

はあ、と顔をしかめる。

「つまり美月や他の妹達みたいに、美琴と瓜二つではないと」

おう、と応える声。

「少なくとも、ヒメっちとは違うらしい。まあ、幾つに設定されていようが胸が小さいことに変わりは無いと思うけどにゃー」

この場に本人がいたら黒焦げにされそうな台詞をしれっと吐き、

「さて、そろそろお暇させてもらうぜい」

なんて言って、立ち上がったかと思えば、

「おっと、一つ訊き忘れてた」

いつもの軽快な調子に、すっかりと戻ってしまった土御門。そして、

「ヒメっちとは、もう行く所まで行ったのかにゃー?」

にやけた顔で訊かれ、俺は溜め息を吐いた。
土御門の悪態に俺は多分、顔をしかめたと思う。

「誤解するなよ。俺と美琴は恋人同士だけど、健全な付き合いしかしてないから」

魔術の世界では陰陽博士として名高い悪友が、ニヤリと意地悪げに顔を歪めた。

「おやー、使っちゃいますか。ついこの間まで彼女を自分の部屋に泊めていた人が、健全なんて言葉を堂々と使っちゃうんですかにゃー?」

土御門の言葉には遠慮が無い。


正直に告白しておくが、美琴と男女の一線を超えてはいない。
手を繋いだり、キスしたり、抱きしめ合ったりなんかはしたけどさ。
だけど、美琴が嫌がるような真似はしていないし、これからだって絶対にしない。
こういうのを、健全って言うんだよな。俺、間違ってないよな。

「勿体無いにゃー。ヒメっちみたいに一途な子って、こっちから頼めば色々と楽しませてくれること請け合いだぜい」

似たようなことを青髪ピアスにも言われた気がする。
もっと俺の方から積極的に行くべきだという意見だったけど、これもまた同じ意味なのだろう。


何だか、妙に頭に来た。

「美琴は流されたりしねえよ」

つい尖った声で口にしてしまった。

「アイツはちゃんと、自分の意思で決められる」

しまったと思ったが、もう遅い。
案の定、土御門はニヤニヤと笑っている。
お熱いねえ、としみじみとした感じで呟いて土御門は玄関に向かった。

「ヒメっちと、金髪の妹さんに宜しく言っといてくれ」

ちょっと待て、と俺は叫んだ。

「どうしてお前が那由他のことを知っている」
「そりゃあ愚問だぜい、カミやん。義理の妹こそ至高と崇める身として、あれだけの上物を見逃すワケが無いんだにゃー」

ちっちっ、と立てた人差し指を左右に振って、ようやく土御門も部屋を出ていった。


――全く、最後まで言いたい放題だったな。


それでも、陰鬱になった心持ちが和らいだのは事実だった。











[20924] 第93話 大覇星祭編④
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/04/01 00:58
呼吸が浅い。
深く吸っても、息苦しさが消えない。
もちろん両手でパタパタと顔を扇いでみても、それは同じだった。


開会式の会場であるサッカースタジアム。
その控え室で体操服姿の私はベンチに座り、必死に呼吸を整えようとしていた。
でも、どれだけ深呼吸を繰り返しても全く効果が無い。
それもそうだ。別に息切れをしているワケではない。
酸素だったら充分に足りている。


大覇星祭本番の今日。
少し早めに朝食を取って寮を出てから、ずっとこんな調子だ。
なんだか普段よりも視界が狭い気がする。
身体がふわふわしている。自分の身体とは思えないくらいに。

「参ったな」

誰にともなく呟き、部屋の隅にある鏡に向かって笑ってみせた。
鏡の中の私は、ぎこちない笑みを返してくれた。


携帯電話を取り出し、時計を見る。
十時二十五分。開会式は予定通りに進んでいる。
出番はもうすぐだ。今から五分後に、私は選手宣誓を行なう。
競技に参加する百八十万もの学生の代表として。
学園都市内の三百ヶ所以上で同時に行なわれる、開会式の選手宣誓を。


緊張はすると思っていた。しないはずがない。
絶対に、物凄く、緊張すると予想していた。
だがしかし、現実はこちらの予想の遙か上を行っていた。
押しつぶされるような重圧は、寮で披露したヴァイオリン演奏の比ではない。
無理やり覚悟を決めて立ち上がると、手の中で携帯電話が震えた。


液晶がメールの着信を告げている。
ボタンを操作しようとするが、指先が上手く動かない。
大丈夫だと自身に言い聞かせながら、私はメールを開いた。
送り主はインデックスだった。

「プレッシャーになるかもって思ったけど、でも、言いたいから言うね」

そこで文章は途切れている。
が、まだメールは続いているようだ。
一行ずつ、ボタンを押して下へ下へと進んでいく。
十回押したところで、インデックスからのメッセージが顔を出した。

「頑張れ!」

気がつけば、下唇を噛み締めていた。
たったの一言。それで、それだけで充分だった。
いつでも頑張っている彼女が言ってくれるからこそ、頑張ろうと思える。
独りじゃない。一緒に頑張っていこうと。


身体の怯えが、心なしか和らいだ気がする。
震えの収まった指で、私は返信を綴った。

「ありがとう」

力強く、文字を打つ。そして何度も改行した後で、

「任せといて!」

と、付け加えて送信した。


送信が無事に完了したのを確認してから、私は歩き出した。
しっかりとした足取りで扉を開け、薄暗い廊下を進む。
程無くして、スタジアムの入口に辿り着いた。
打ち合わせていた通りに、そこで吹寄さんは待っていた。

「来たわね」

入口から差し込む眩いばかりの光を背にして、立っていた。

「準備は出来た?」

私は小さく息を吐いて、意識を集中させた。
気持ちを研ぎ澄ませていく。これから始まるのだ。


大丈夫。たくさん練習した。練習では上手く出来た。
みんなに手伝ってもらった。勇気だってもらえた。
だから大丈夫。やってみせる。

「はい」

短く返事をして、私はスタジアムへ足を踏み入れた。












お姉様の選手宣誓により、遂に始まった大覇星祭。
常盤台中学の制服に『風紀委員(ジャッジメント)』の腕章という体育祭には似合わない服装をして、私は人通りの特に多い交差点で立ち往生していた。
複数の学校が合同で行なっている吹奏楽部のパレードが、街に彩りを添えながら目の前を流れていく。
信号機の向こう側にあるビルのスクリーンには、四校合同借り物競走で見事に優勝を果たしたお姉様が常盤台中学のチームメイト達と談笑をしている姿が映っている。
その隣のビルに設置された電光掲示板には、

「常盤台中学の御坂美琴選手、二位以下に七分以上の差をつけ余裕のゴール」

というオレンジ色の文字が躍っている。


お姉様は変わった。
以前にも増して魅力的になった。
妙な意地を張らず素直になったし、何より女の子らしくなった。
今のお姉様には、輪の中心には立てても混ざることは出来ない人間だった面影は欠片も残っていない。
お姉様を以前から知る人間からすれば、この劇的な変化に驚かずにはいられないはずだ。


どんどん高まっていく、お姉様の周囲による評価。
そのことを嬉しく思う反面、寂しいと感じる自分がいた。
お姉様が手の届かない遠く離れた場所に行ってしまったような、そんな気がして。


一体いつの頃からだっただろうか。
お姉様を欲しいと思うようになったのは。
女性同士でそんなことを思うのは異常だと分かっている。けれど、私はそれを過ちだとは思わない。
何か悔いることがあるとすれば、それはお姉様を大切な人だと認識できた、始まりのきっかけが思い出せないということだけで。

「どうして思い出せないのでしょう?」

つい、口にしても仕方の無いことを口にしてしまう。

「白井さん」

その時、背後から声をかけられた。












次の種目が行なわれる会場へ向かう途中で黒子を見かけた。
交差点の手前で、心ここにあらずといった感じで立ち尽くしている。
黒子は私よりも幾分小柄で、長い髪をツインテールにしてまとめている。
その容姿や言葉遣いから、お嬢様という表現がぴったり当てはまる女の子。
ただし、勝ち気な、という単語がその前に付けられるのだろうけれど。


私は無言で黒子の傍らへと歩いていく。

「早いですわね、お姉様」

いきなり、黒子は妙なことを口走った。

「早いって、何が?」
「だって、あそこに」

話は全く要領を得ない。
黒子はやはり不思議そうな顔つきで私と、ビルに設置された巨大なスクリーンとを見比べる。


なるほど、と私は理解した。

「黒子。今、何時か分かる?」
「もうじき正午になる頃ですが」

黒子は愕然と言葉を切った。
時刻は既に十二時半を過ぎている。

「大分、お疲れみたいね」

途端、顔を赤らめる黒子。
時間を誤っていたことが、よっぽど恥ずかしかったらしい。
黒子はいつだって冷静なくせに、度々こうやって感情を素直に表してしまう。
それはとても意外で、周りからして見れば可愛らしいことに違いない。

「二人三脚、どうする?大事を取って棄権する?」
「いえ、御心配には及びませんわ」

拗ねるように言って、黒子はつかつか歩き出す。

「会場で落ち合いましょう。私は着替えなければなりませんので」

『風紀委員』の仕事で休みなく働き、疲労を隠し切れてなくなってきている背中を見ながら思った。
その女の子らしい素直さに実は感心していると告げたら、黒子はどんな反応をするだろう。

「黒子」

雑踏に消えつつある背中に声をかけた。

「何ですの」
「頼りにしてるよ」

振り返った黒子に笑いかける。

「一緒に頑張ろう」

黒子も僅かな間を置いて笑みを返してくれた。

「勿論ですわ」

いつもの明るさを少しだけ取り戻すと、あっと言う間に黒子は人混みの中に紛れていった。

「アンタでしょ」

暫くスクランブル交差点を行き交う人の群れをぼんやりと見つめていた私は、独り言のように呟いた。

「黒子の記憶、奪ったの」

すると、背後から明らかに私に向かって近づいてくる足音が聞こえてきた。
振り向いた私の目に入ってきたのは、同い年とは思えない程の豊かな胸を持つ同級生だった。


背中まで伸ばされた金色の髪に、すらりとした長身。
髪と同色の瞳は不自然な程に輝いており、まるで星でも入っているかのよう。
美形の多い常盤台の中でも一際目立つその美人を、私は知っている。
と言うか、常盤台中学における最大派閥を率いる同級生を知らないワケがない。
その仕草も立ち振る舞いも、どこかのお城の女王様にしか見えない彼女の名は食蜂操祈。
他人の記憶を意のままに覗き、操ることの出来る学園都市第五位の超能力者。


食蜂操祈は私に近づいてくると、二メートル程の距離をおいて立ち止まった。
私の顔を見て、にこりと微笑む。

「だってぇ、私を差し置いて選手宣誓なんて大役を果たした御坂さんが、お友達にどんなことを言ってたのか知りたくてぇ」

語尾を伸ばすな、語尾を。
可愛い声を出せば許されると思っているのか。

「だったら能力なんて使わず、自分の口で訊きなさいよ」

穏やかにと思いつつ、どうしても声が尖ってしまう。

「そんなこと言われてもぉ」

私から目を逸らし、甘えるような声で言い訳を並べ出す食蜂操祈。


その態度から、反省の色は全く見えない。
話を続けたところで、まともな返事は期待できそうにない。

「アンタの能力は確かに万能だけどさ、それに頼り切るのはどうかと思うよ」

それだけ言って、食蜂操祈に背を向ける。

「ああ、後一つだけ訊いていい?」

するだけなら御自由に、という声が返ってくる。

「アンタ、本当に中学生?」

どうでもいいアンケートみたいに、気軽に訊いてみる。
すると数秒ほど経ってから、プッと噴き出す音が聞こえた。

「あははは」

食蜂操祈は笑い出した。
周囲の目もあるというのに、珍しく声を上げて笑っている。

「どうかしらねぇ」

勿体ぶった様子で彼女は語り出す。

「一応そういうことになってるけどぉ、私の改竄力でどうとでもなっちゃうものねぇ」

そう、と返して、私は食蜂操祈の前から早足で立ち去ることにした。と、その時、

「わひっ!?」

という間抜けな悲鳴が背後から上がった。


何事かと振り返ってみると、食蜂操祈が頭を抱えて蹲っていた。
そして足元には何故か、彼女が自らの能力を使う際に必ずと言っていいほど取り出しているリモコンが。


――全く、何やってんだか。


はあ、と深く息を吐いて、私は食蜂操祈のすぐ側まで向かう。
そして仕方なく、本当に仕方なく食蜂操祈の手を取って立たせてやる。
よっぽど痛かったのか、彼女の目には涙が浮かんでいる。

「どうしたのよ、急に」

途端、強引に私の手を振り解く食蜂操祈。
地面に落ちていたリモコンを拾うと、じろりと私を睨んできた。

「何よ」

その迫力に押されつつ、訊ねる。
すると彼女は人差し指を私に突きつけて、

「これで勝ったと思うなよぉ!」

いかにも悪役が残しそうな捨て台詞を吐き、走り去ってしまった。


――何だったの、一体。


雑踏の中に姿を消した同級生の奇行に、私は首を傾げずにはいられなかった。











[20924] 第94話 大覇星祭編⑤
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/04/01 00:58
街の中で足を止める。
幸いなことに、御坂さんは追って来ない。


――もう、頭に来るなぁ。


全力で走ったせいで、荒れに荒れてしまった息を整えつつ思い出す。


――ホント、頭に来るなぁ。


先程までの御坂さんとのやり取りを、一つ一つ思い出していく。
電磁波を自由自在に操る御坂さんに、私の能力は通じない。
その気になれば、あの女は私と同等以上の精神操作が出来るだろう。
まあ、彼女の性格を考えれば、実際にそんなことはしないだろうけど。


それにしたって、腹立たしい。
今までは効かないにしても、能力を弾かれる際に生まれる衝撃は御坂さんに向かっていたのに。
私自身に痛みが来ることなんて、今まで一度たりとも無かったのに。
間違いない。あの女は超能力者まで上り詰めたその後も、まだ成長を続けているのだ。
超能力者として周囲には同等に見られているが、本来は私なんかが太刀打ちできる相手ではないのだ。
加えて運動神経は抜群で、人望が厚いときている。
はっきり言って、私も含めた他の超能力者とは全く別の生き物だ。


私は他の誰よりも、あの女に負けるのが嫌。
何を考えているのか、さっぱり分からない相手に負けるなんて。
そう、私が派閥を立ち上げたのは、元はと言えばアイツが原因なのだ。
能力で勝てないのなら、せめて他の面でアイツより上を目指そうとした結果なのだ。
常盤台における最大派閥の長となった今でもアイツの人気に敵わないのが、残念ながら現実だったりするのだが。


御坂さんなんて、嫌いだ。大嫌いだ。
だと言うのに、私は少し複雑な心持ちだ。何故なら、それは。

「アンタの能力は確かに万能だけどさ、それに頼り切るのはどうかと思うよ」

また、思い出してしまう。


あの言葉は、能力に依存している私を心配した上で出てきたものだった。
心が読めなくても、それぐらいは声や表情で分かる。
複雑な理由はこれで、要するに御坂さんは私を嫌っていないのだ。
私は御坂さんのことが嫌いなのに、これじゃあ、どこかちぐはぐで、やりにくい。


――私だって、心が読めないことさえ除けば、御坂さんの人となりは好きな部類に入るんだけどなぁ。


思わず、溜め息を洩らす。


――今、考える話じゃないか。


私には、やらなければいけないことがある。
それを果たす為ならば、何だってしてやる。
自分が使えるものだったら、何であろうと使ってやる。
誰にも気づかれないように小さく深呼吸をして、私は再び歩き出した。












「ここだよな」

そんな独り言を呟きながら、僕はグラウンドに足を踏み入れた。
学園都市の入口で配布されていたパンフレットを頼りに、ようやくここまで辿り着いた。


昼下がりのグラウンド。
雲一つない青空の下、目的の人物が参加しているはずである玉入れが行なわれている。
中学の学年対抗で争われるその競技に使われている玉入れの籠は十本。
高さ三メートルに及ぶポールの先にあるそれら目がけて、参加者は地面に予め置かれていた無数の玉を投げ入れていく。
学園都市内にある全中学校の生徒が参加しているらしく、その光景は凄まじいの一言に尽きる。
パンフレットによると学年ごとに試合を分けているのだが、それでも一度に四千人もの選手が同じグラウンドに収まるのだ。
サッカーの試合を同時に二試合は進められそうな広さを持つグラウンドであろうと、これでは手狭に感じてしまうだろう。
とは言え、競技のルール自体は至って単純なのだが。
しかし、そこは学園都市。火炎やら電撃やら、念動力で創り出された槍やらが、グラウンドのあちこちで飛び交っている。


はあ、と息を吐いてから僕はグラウンドを見回した。
今、行なわれている試合に彼女は出場しているのだろうか。
それとも二年生の部は既に終わってしまったのだろうか。
どちらにせよ、この混雑だ。見つけるのは至難の技だろう。


そんなことを考えながら目を凝らしたのだが、程無くして苦笑を洩らしてしまった。
グラウンドは最早、事情を知らない者が見れば乱闘かと誤解しかねない状況だ。
観客も選手も、誰も彼もが騒ぎ立てているので誰が誰やら分からない。
だけど、彼女はすぐに見つかった。
込み入った中でも、彼女の銀髪はよく映えた。


――いや、違うな。


たとえ髪が何色であろうとも、何を着ていても彼女を見分けることが出来る。
何千何万という群衆の中からたった一人、彼女を見つけ出す自信がある。


ポールから軽く十メートルは離れた所に探し人はいた。
普段よりも真剣な表情で競技に臨むインデックスの姿があった。
その顔はどこか大人びていて、不覚にも胸が高鳴った。


もっと近くで彼女を見たい。
そんな思いから、僕は人混みを掻き分け、もう少しだけ近づいてみた。
どうやら彼女も僕の存在に気づいたらしい。
少しだけ恥ずかしそうに笑って、こちらに手を振ってくれる。
その時だった。インデックスに向かい、彼女の顔ほどもある大きさの火の玉が群れをなして飛んできたのは。


危ない、と声を上げる間も無かった。
高速で迫った火の玉が彼女の手前で急旋回し、一つ残らず術者本人に襲いかかったのだ。
当然ながら、自身の能力をそっくりそのまま跳ね返された方は一溜まりもない。
何が起きたのかも理解できないまま、自身の放った火の玉から必死になって逃げている。


――こいつは驚きだ。


相手の能力を奪い取った技術は、紛れも無く『強制詠唱(スペルインターセプト)』。
本来ならば魔術に対してのみ有効であるそれを、能力にも通じさせるとは。


よくよく見てみれば、インデックスの所属するチームは統制がしっかり取れていた。
籠に球を入れる者と、相手からの攻撃を防ぐ者。決められた役割を各自が守り、手堅く得点を増やしていく。
中でもインデックスは守りの要として、相手のいかなる攻撃も跳ね返したり弾いたりしている。


そして肝心の得点奪取に貢献しているのは、やはり御坂美琴だった。
常人離れした速度で落ちている球を次々と拾っては、三メートル上空にある籠へと正確に投げ入れていく。
一瞬たりとも立ち止まらずに走り続け、着実に得点を増やしていく。


そんな彼女を止められる者は、残念ながら誰一人としていない。
なんとかして妨害を試みるも、速過ぎて目で追うこともままならないといった様子だ。
聞けば、彼女は大会初日で既に障害物競走と二人三脚という二つの競技で優勝を果たしているそうで。
さすがは神裂から信頼を勝ち得た少女と言ったところか。
それこそ聖人でもなければ、目にも止まらぬ速さで駆け回る彼女を止めることなど不可能であろう。


ふと見ると、審判らしき生徒がチラチラと自身の腕時計に目を遣っていた。
もうじき時間切れになるのだろう。
とりあえず、この勝負の結果はわざわざ確かめるまでもなさそうだ。












「ステイル!」

競技を終えたインデックスが、とびっきりの笑顔で僕のところまで駆けてきた。

「来てくれたんだ!」
「まあね」

そのまま腕に抱きついてくるインデックスに、にやけそうになる顔を引き締めて声を返した、
まあ、きっと無駄な努力なのだろうけど。

「競技、全部終わったのかい?」
「うん。今日の分は」
「御坂美琴は?」
「寄る所があるから来れないって」


――寄る所、ね。


どうやら余計な気を遣わせてしまったらしい。
おそらく御坂美琴は、自分達を二人きりにさせようと思ったのだろう。
まあ、寄る所があるというのも、強ち嘘ではなさそうだけど。

「じゃあ、行こうか」
「ちょっと待って。荷物、取ってくるから」

言うが早いか、インデックスは勢いよく駆け出した。
そして数分の後に大きなバスケットを持って戻って来た時には、案の定、彼女は肩で息をしていた。

「急ぐ必要なんて無かったのに」

苦笑する僕を、彼女はじっと見つめてきた。

「駄目だよ」

競技中にも見せた、真剣な表情。

「急がないと、ステイルと一緒にいられる時間が減っちゃうもん」

あまりにも予想外の返答だった。


――おいおい、その文句は破壊力が高過ぎるだろ。


「そんなことより、ほら」

二の句が継げなくなった僕の手を、ごく自然に彼女は取った。

「まずは、お昼を食べに行こうよ」
「あ、ああ」

今日はインデックスの主導だ。
なんでも、僕と一緒に行きたい場所があるらしい。
まあ、今となっては彼女の方がこの街について詳しいワケだし、大人しくついていくしかないのだけど。


インデックスに手を引かれるまま、僕はお祭り騒ぎに浮かれる学園都市を歩き始めた。












体操服姿のインデックスに連れられ、やって来たのは第七学区にある公園だった。
この学区では今日、午後の競技が組まれていないせいだろう。
公園には僕とインデックス以外は誰もいなかった。
しかし、どうして公園なんかに来たのだろう。
お昼と言うからには、どこかの店にでも入るのだろうと思っていたのだが。

「なあ、インデックス」

インデックスと二人、並んでベンチに腰掛けたところで訊いてみた。

「この辺りに店は無いみたいだけど、昼食はどうするんだい?」

その台詞を待っていました、と言わんばかりの笑みが返ってきた。

「それはね」

インデックスは小さく胸を張ると、手に持っていたバスケットを僕の方に差し出してきた。

「開けてみて」

言われるがまま、バスケットを開ける。
その中には、綺麗に盛られたサンドイッチと何種類かのおかずが入っていた。

「食べてもいいのかな」

どうぞ、と勧める声。

「じゃあ、いただきます」

サンドイッチを一つ取り出し、かぶりつく。


――う、美味い……。


「これ、ひょっとして君が?」

えへへ、とインデックスは笑った。

「ちょっとは美琴に手伝ってもらっちゃったけど」
「それでも凄いよ、これは」

本当に感心する。イギリスにいた頃は料理なんて、一度だってしたことはなかったのに。

「凄い?本当?」
「ああ、凄く美味い」

僕の食べる様をじっと見ていたインデックスが、嬉しそうに笑った。

「ステイルって、お箸使える?」
「大丈夫。問題ないよ」

インデックスから箸を受け取った僕は、おかずにも手を伸ばす。

「ぐ、ごほっ」

一度に詰め込み過ぎてしまったらしく、不覚にも喉に詰まらせてしまう。
胸の辺りを何度も強く叩いてみても、ちっとも楽にならない。

「もう、そんなに慌てなくてもいいのに」

しょうがないなあ、といった表情でインデックスが水筒を差し出してくれる。
それを僕は慌てて受け取り、中に入っていた緑茶で喉に詰まった唐揚げを流し込んだ。

「すまない。想像以上に美味しくて」

後はまあ、インデックスが僕の為に作ってきてくれたのが嬉しかったというのもあるのだが。

「あ、そうだ」

そんな僕の様子を見て、何かを思いついたようにインデックスが手を打ち合わせる。

「どうしたんだい?」

訊ねてみても、インデックスは答えてくれない。
代わりに、バスケットの中から卵焼きを箸で取ると、

「はい」

なんて言って、僕の口元まで持ってきた。

「どういうつもりだい?」

驚いて、それでも冷静に訊ねる。

「食べさせてあげる」

間髪入れずに答えたインデックスを、僕は思わず凝視してしまう。

「こうすれば、慌てて喉に詰まらせることなんてないでしょ」

確かに、一理あるかもしれない。
でもそれ、めちゃくちゃ恥ずかしいのだが。
誰もいないと分かっているのに、思わず周囲を見回してしまった。
鏡を見るまでもない。僕の顔、きっと真っ赤になっている。

「ほら、口開けて」

御坂美琴に何か吹き込まれでもしたのか、いつになく積極的なインデックス。
じっ、と僕を見つめる瞳には濁りというものが無い。

「分かったよ」

躊躇いながらも言われた通りにする。

「はい、あーん」

にっこりと微笑んだインデックスが、そっと卵焼きを口に運んでくれる。
砂糖でも入っているのか、やたらと甘い気がする。

「どうかな」
「うん、美味い」
「良かった。じゃあ、次は――」

インデックスは満面の笑みで料理を取り、次々と僕の口まで運んでくれた。
僕は恥ずかしくて堪らなかったのだが、それでも、つい顔が綻んでしまう始末だった。











[20924] 第95話 大覇星祭編⑥
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/04/01 01:00
「いやあ、美味かった。御馳走様」
「御粗末様でした」

口元に笑みを浮かべたまま、手早く後片付けを始めるインデックス。
その様子をぼんやりと眺めていたら、大きな欠伸が出てしまった。

「眠い?」

片付けを進める手を休めることなく、インデックスが訊ねる。

「まあ、少し」

腹が膨れれば当然、眠気が襲ってくるワケで。

「それじゃあ」

バスケットをベンチの脇に置いたインデックスは、じいっと僕を見つめてきた。

「貸してあげよっか」

ぺちぺちと自身の両膝を叩き、そんなことを言う。
僕は、頭の中が真っ白になってしまった。
こんな時、一体どんな顔をしろって言うんだ、馬鹿。

「嫌?」

上目遣いで、ぽつりと呟くインデックス。
赤らむ頬を隠すため、僕は視線を逸らした。

「別に、嫌じゃないけど」

ぼそぼそと答えると、インデックスは嬉しそうに笑った。


全く、幸せそうな顔を惜しげも無く見せたりして。
なんだか僕まで、そんな気分になってくるじゃないか。

「しかし膝枕なんて、どこでするんだい?」
「それはまあ、ここで」

ベンチを人差し指でコンコンと叩くインデックス。
確かに今、僕達が座っているベンチには人一人が寝転べるだけの余裕はあるけどさ。
本当に、この強引さは御坂美琴に何か吹き込まれたに違いない。
後で訊き出してやろう、と思いついて、僕はくすりと笑ってしまった。

「どうしたの、ステイル」
「ああ、君は勝手な奴だなって」

インデックスはきょとんとしてから、にこりと笑みを浮かべた。

「そうだね。勝手にお弁当を作ったり、膝枕をしようとしたり。でもね」

仕方ないんだよ、と彼女は一呼吸置いて続ける。

「好きだから」

え、と思わず声が洩れた。
好きなの、とインデックスは繰り返した。

「ステイルのことが、好き」

顔を真っ赤にしながら、それでも自身の想いをそのまま口にするインデックス。
うん、と肯くのが精一杯の僕に、彼女は満足そうに笑って姿勢を正す。

「と言うワケで、どうぞ」

促されるまま、綺麗に揃えられたインデックスの白い太腿に頭を載せる。

「おお」

後頭部にある柔らかい感触に、思わず感嘆の声を上げる。

「どうしたの」
「い、いや」

あまりにも気持ち良くて、なんて勿論、言えるはずもなく。

「何でもない」
「そう?」

ならいいけど、とインデックスは笑って言う。


目を閉じると、インデックスは僕の頭に手を置いた。
そしてそのまま、あやすように撫で始める。

「可愛いな」

甘い声で、そんなことを言ってくる。
反論しようと思ったのだが、膝枕の心地良さに昼過ぎの日差しまで加わって。
僕の意識は睡魔によって、瞬く間に奪われてしまった。












「ステイル」

どこか遠く、インデックスの声が耳に届く。
意識はまだぼんやりとしていて、瞼が重い。

「そろそろ起きてくれると嬉しいんだけど」
「んん……」

返事をしたつもりが、間の抜けた眠そうな声しか出ない。
ちょっと困ったような溜め息が降って来る。

「まだ眠ってるなあ」

薄く開けた視界の中に、僕の顔を覗き込むインデックスの姿が映った。

「ちょっと見てほしいものがあるんだけど」

薄目を開けるのが精一杯の僕に優しく微笑みかけた彼女は、胸の前で一度拳を握り、開いてみせる。

「インデックス」

その直後に起きた現象に、僕の意識は急浮上した。

「それって」

茜色に染まった景色の中で、インデックスは笑った。

「魔術だよ」

開いた手の平に青白く輝く光の玉を生じさせながら、笑ったんだ。












少し暗くなった公園は静かだった。
秋の日はもう建物の向こうに消え、空はうっすらとした闇に染まっている。
西の方はまだ白っぽく光ってはいるけれど、東はもう夜そのものだ。


私はベンチに腰掛け、ステイルに膝枕を続けていた。
私の話を最後まで聞いてくれたステイルは今、黙り込んでいる。
何も言わず、訊こうともせず、ただ私を見つめるだけ。


決め手となったのは闇咲逢魔だった。
呪いに冒されて死を待つ大切な人を救う為に、私の頭の中にある魔道書を狙った魔術師。
しかし彼の目論見は失敗に終わる。魔道書の原典が放つ毒に、彼の身体が耐え切れなかったのだ。
魔道書の原典は、目を通しただけで脳が焼き切れる程の負荷がかかる猛毒なのだ。
魔力を持たない常人であれば、一目見ただけで脳の機能を全て破壊されて廃人と化す。
鍛え抜かれた魔術師であっても、たった一冊を読み切ることすら不可能と言われる始末。


そんな魔道書の原典を、私は十万三千冊も自身の中に所持している。
十万三千種類もの猛毒を、魔力量に関しては常人と変わらない己の脳に晒し続けている。
だけど私の身体に異常は無い。勿論、脳にだって。


そこから導き出される答えは一つしかない。私には魔力があるのだ。
それも、十万三千冊もの魔道書をまとめて見ても正常でいられる程の魔力が。
今の今まで、その事実を忘れてしまっていただけだったのだ。
きっと私の力を恐れた誰かに、記憶ごと消されてしまっていたのだろう。
推測でしかないのだけど、多分、間違ってはいないと思う。


そこまで分かれば、後は簡単だった。
自身の知識とステイルから取り寄せてもらった文献から得た情報を駆使して、私は封印されていた魔力を取り戻した。
美琴の協力を得て、学園都市の生徒達が操る能力について詳しく知ることも出来た。


どうやら私が訊くよりも前から、美琴も勘付いていたらしい。
魔術と能力。この二つは成り立ちこそ違っても、根本的な在り方は全く変わらない代物なんだって。
古来からの言い伝えか、それとも科学的な根拠か。基本とする考え方が違うだけで、後は同じ。
想いの強さがそのまま力に変換される点は、どちらも全く変わらない。
『強制詠唱(スペルインターセプト)』が能力を相手にしても通じたのが、何よりの証拠だ。


ステイルは相変わらず、じっと私を見つめている。
何か話しかけたい気もするけど、何を口にすればいいのか分からなかった。

「なあ、インデックス」

やがて、ステイルの方から話しかけてきた。

「どうして力を求めようとするんだい?」

その声は、私を責めているように聞こえた。

「どうして自分から危険に飛び込んでいこうとするんだい?」

本気で分からない様子のステイルに、少しだけ頭に来た。

「私だって、戦いたいの」

実力者が揃う常盤台中学に身を潜めていれば、並大抵の魔術師では手を出せないだろう。
天使を相手にしても互角以上に渡り合える美琴の傍にいれば、確かに私の身の安全は保障されるだろう。
だけど違う。私が望んでいるのは、そんなものじゃない。

「守られてばかりいるのは、嫌だよ」

見ず知らずの私を、当麻は文字通り命を賭けて助けてくれた。
そのせいで、彼は全ての記憶を失う羽目になってしまった。


本人は上手く隠しているつもりなのかもしれないけど、バレバレだ。
何せ私は、一度見たものは細部まで完璧に覚えることが出来るのだから。
態度や仕草を見ていれば、以前との違いなんて一発で分かってしまう。
カエルみたいな顔をしたお医者さんにも確認したのだから、間違いない。
最初は誤魔化そうとしてきたけど、しつこく食い下がると諦めたように白状してくれた。
当麻の記憶は破壊されてしまったのだと。元に戻ることは決してないのだと。


上条当麻という人間は死んでしまった。
私と関わってしまったせいで。私に、自身を守るだけの力も無かったせいで。
上条当麻であった一人の人間を、私は殺してしまったのだ。
そして今も、私のせいで苦しんでいる人がいる。


私に施された術式を解析した結果、魔力は取り戻せた。
だけど、一年より前の記憶は未だに戻って来ない。


ステイルが大切な人だったのは疑いようの無い事実なのだけど、それでも私は思い出せない。
イギリスにいた頃、彼と、神裂火織という女性と三人で過ごしたという日々を思い出せない。
それなのに、私の周りにいる人達は皆、優しくて。当麻も、ステイルも、それに美琴も。
私の境遇を知っても、私のせいで酷い目に遭っても、それでも笑顔を向けてくれて。
それがあまりにも嬉しくて、だけど、苦しくて。


今のままでは駄目だ。
でも、どうすればいいんだろう。
私に出来ることって一体、何なんだろう。
そう思っていた矢先だったんだ。
ステイル、貴方が常盤台中学の制服を手土産にして、私を訪ねてきてくれたのは。

「あのさ、インデックス。僕はもう考えるのは止めようと思うんだ」

あの時の言葉は、声の調子も含めて完璧に思い出せる。
それこそ、つい昨日の出来事だったみたいに。

「考えるのを止めるって、どういうこと?」
「世の中には動かないと見えてこないものがあるんだよ。僕はそういうのをずっと避けてきたんだけどね。でも、これからは動こうと思っている。たとえ状況自体は変わらなくても、見る目が、いや、僕達自身が変われるはずだから」

ステイル、分かってる?
あの時の言葉が、どれだけ私を救ってくれたのか。
自信を持って話す貴方の姿が、どれだけ格好良かったのか。
ねえ、本当に分かってる?
今、私が頑張れているのは、貴方がいてくれるからなんだよ。


暫くの間、沈黙が続いた。
随分と長いこと、ステイルも私も無言のままだった。
そんな時、電話が鳴った。私の携帯電話だった。

「ほう、早いな」

聞こえてきたのは、女性の声。

「不意な応答に対しても速やかに応じるとは感心だ」

上流階級の貴族が使うような、やけに形式ばった英語。

「どうしたんです?」

戸惑いながら、こちらも英語で訊ねる。


彼女と会話するのは、これで二度目だ。
最初の電話はいつだったかな。確かそう、十日前だ。
日本とイギリスの時差を考慮に入れてくれなかった結果として、真夜中に叩き起こされたんだっけ。

「報告しておきたくてな」

聞こえてくる彼女の声はやけに遠く、そして弾んでいた。

「何もかも其方の見立てた通りだった。時間も、位置も」
「ひょっとして今、現場にいるんですか」
「勿論。こんなバカげた悪戯を企てた連中の顔を拝まずになどいられるものか」
「やっぱり、彼らも来ているんですね」
「ああ」

勝ち誇った笑みで学園都市を見下ろしているよ、と彼女は言った。

「さて、どうしてくれようか」
「いえ」

そのまま帰ってもいいのではと言いかけて、その言葉を呑み込んだ。
私の忠告なんて、この人は聞く耳を持たないだろう。


一回目の電話だけで、それは充分過ぎる程に分かっていた。
程々のところで切り上げて下さいね、と言って私は電話を切った。

「あのさ」

やがて、ステイルが声を低くして訊いてきた。

「今の相手って、まさか」

うん、と私は肯いた。

「最大主教だよ。イギリス清教の」
「なっ……!」

直後、ステイルは弾かれたように私の膝から頭を起こした。
そのせいで、私とステイルは互いのおでこをぶつける羽目になってしまった。
二人揃って、おでこを両手で押さえ悶えること約八秒。
先に復活を果たしたのは、やっぱりと言うかステイルだった。

「あの女狐が、どうして君に連絡なんて寄越したんだい?」

曲者揃いであるイギリス清教の魔術師達を束ねる長に対し、酷い言いようである。
と言うかステイル、仮にも上司である相手を女狐呼ばわりなんかして大丈夫なのだろうか。

「実はね」

口止めされているワケでもないので、包み隠さず伝えることにした。
先日、最大主教からローマ正教の保有する霊装の一つに関する情報提供を求められたこと。
その霊装を使用された土地は、強制的にローマ正教の支配下に置かれてしまうこと。
発動できる時間と場所が限られているので、そう易々とは扱えないこと。
そして、その霊装を使って学園都市をローマ正教の物にしてしまおうと企む輩がいることを。


話し終えてすぐ、隣に座っていたステイルは私の肩を掴んだ。

「大変じゃないか」

やけにうろたえた様子で、そんなことを言ってくる。

「大丈夫だよ」

だけど私は断言した。

「放っておいても失敗するから」

分からない、とでも言いたげな顔をされる。
でも、本当なんだよ。彼らの霊装、『使徒十字(クローチェディピエトロ)』は絶対に発動しない。
だって今日は、ナイトパレードが開かれるのだから。











[20924] 第96話 大覇星祭編⑦
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/04/14 00:20
「バカな」

休みなく夜空を彩る大小様々な花火を前に、私は愕然となった。

「こんなはずでは」

抜かりの無い計画であるはずだった。
学園都市にもイギリス清教にも勘付かれぬよう、細心の注意を払ってきた。
誰にも邪魔されることなく霊装を日本に持ち込み、来たるべき瞬間に備えた。
なのに、効果が現れる時間になっても大理石で作られた十字架は何の変化も見せない。
休みなく撃ち出される大量の花火に星の明かりを遮られ、ローマ正教の誇る高位霊装の一つは単なる巨大な十字架に成り下がってしまった。

「とんだ笑い話ね」

声が響いた。ヴェントが不快極まりない笑みを浮かべ、こちらを悠々と眺めていた。

「だから言ったじゃない。下手な小細工するより、攻め落とした方がずっと楽だって」

内海を挟んだ対岸にある学園都市を呆然と見つめる私を、顔中にピアスを施した彼女は鼻で笑った。

「随分と焦らしてくれたけど、ここからは私の好きにやらせてもらうわ」

身に付けている服も、被っているフードも。
その全てを見事なまでに黄色一色にまとめた彼女が、そう宣言した。


仕方ありませんね、と溜め息混じりに応える。
始めから、そういう約束だったのだ。
私が失敗したその瞬間から、学園都市の攻略に彼女が参戦すると。
たとえ私の策が上手くいかなくても、その日の内に学園都市は壊滅させると。


そう、彼女であれば可能なのだ。
たった一人で能力者の総本山のである学園都市を滅ぼすことが。
神の如き力をその身に宿し、人の限界を超えた魔術を行使できる彼女であれば。

「後は貴女にお任せします」
「よし来た。見てなよリドヴィア。あんな街、一時間もかけずに潰してあげる」
「それは無理であろう」

突然の声に私も、そしてヴェントも振り返る。
いつの間にか私達の背後に、十字教徒の間では禁断とされるベージュの修道服に身を包んだ少女が立っていた。

「貴女、は」
「あの街は力押しでは落とせぬ。お主ら如きでは尚更な」

美しい少女だった。
幼い顔に似合わず、時代がかった英語を使う少女だった。
腰はおろか足元にまで届かんばかりの金髪を持つ少女だった。

「一体」

何者ですかと英語で言いかけ、止めた。
そんなことは訊くまでもない。

「驚いた」

ヴェントが素っ頓狂な声を上げる。

「アンタ、ローラ=スチュアートじゃない」

金髪の少女は俯くだけで答えない。
顔は綺麗に切り揃えられた前髪に隠れて見えない。

「イギリス清教の最大主教が、こんな僻地で何やってんのよ」
「何、ただの物見遊山さ」

顔を伏せたままで少女は言う。

「その次いでに、良からぬことを企んでいる小娘共にお灸を据えてやろうと思っているがな」

その答えが余程気に入ったらしい。
ヴェントは甲高い声で笑った。

「とんだバカよ、アンタ。神の力を振るう私に勝てると思ってるなんて。イギリス人は冗談が上手いって言われるけど、本当なのね」

ヴェントは再び笑った。背中を掻きむしられるような、気に障る声で。


これが彼女の戦い方だった。必勝と言ってしまっても過言ではない。
神の右席に属するヴェントには力がある。悪意や敵意を抱いた相手の意識を問答無用に刈り取る力が。
だからこそ、彼女は常に相手の神経を逆撫でするように振る舞う。
悪意や敵意を誘発させるように立ち回っているのだ。

「少しばかり口が過ぎるようだな」

金髪の少女は、まんまと挑発に乗った。

「良かろう、すぐ黙らせてやる」

俯いたまま、少女は歩き出す。
ゆっくりとヴェントに近づいていく。


これで終わりだ。
程無くしてヴェントの魔術が起動する。
彼女の意識は闇へと沈み、ヴェントの勝利が確定する。
そうなるはずだった、が。

「……!?」

驚きは私とヴェントの二人のものだ。
ヴェントは通用しなかった自身の魔術に。
私は何もせずにヴェントの横を通り過ぎた少女の奇怪な行動に。

「アンタ、一体」

ヴェントの口から零れ出たのは戸惑う声と、大量の血。

「何を」

その問いに答えるかのように、少女が振り向く。
少女の手には丸々とした肉塊が握られていた。


一目見て、私はその正体に気づいた。
彼女が持っているのはヴェントの心臓だった。
結論はすぐに出た。すれ違いざまに金髪の少女はヴェントの身体を貫き、心臓を抉り取ったのだ。

「返し、な、さい」

血を吐き出しながらヴェントは言う。
片手で押さえている胸部が、今更のように赤く染まっていく。
取り出した心臓を見つめながら、うっすらと少女は微笑んだ。

「もう休め。あちらで弟も待っているぞ」

ヴェントの表情が驚愕に歪んだ、その直後だった。
ぢゃぶ、と水の詰まったビニール袋を地面に叩きつけるような無残さで、少女がヴェントの心臓を握り潰したのは。
かくして、辛うじて残っていた彼女の意識は途絶えた。ヴェントは地面に倒れ、それきり動かなくなった。


ヴェントの出血によって濡れた地面を少女は俯いて見つめる。
その口元に浮かぶのは笑み。美しく無垢な、聖なる微笑。
私は思った。美しい、と。あまりにも美し過ぎる、と。
その手を真っ赤な血で濡らしているにも関わらず。


さて、と少女は顔を上げた。
私を見つめる瞳は尋常ではない。
目が合っただけで、身体の自由を奪われてしまった。
少女が歩き出す。私に向かって、ゆっくりと。
だけど私は動けない。逃げなければ殺されるのに、身体に力が入らない。


どうして、と心の中で呟いた。
死を目の前にして不思議とクリアになった思考で、私は考えた。
この美しい化け物に、どうして殺される羽目になってしまったのだろうか。
曲者揃いであるイギリスの魔術師達を束ねる彼女は一体、何者なのだろうか。
自身も魔術師であるのに、どうして少女は学園都市に肩入れをするのだろうか。
学園都市に恩義でもあるのか、それとも、あの街に縁のある人物でもいるのか。
そう言えば最近、魔術師達の間で妙な噂が立っていた。
あの街の最高権力者は、もしかしたら我々と同類なのかもしれないと。


そこまで考えて、一つの推測が浮かんだ。

「貴女は」

いや、まさか、そんな。
否定の言葉が脳内にずらりと並ぶ。
そうだ、有り得ない。学園都市の統括理事長が、あの男と同一人物であるなんて。
アレイスター=クロウリー。これ以上ない程に魔術を愚弄した、あの男が生きているなんて。
しかし、そうであるなら多少なりとも納得が行くのもまた事実だった。


目の前にまで迫ってきた少女に、私は訊ねた。

「もしや、アレイスターの」

最後まで言い切れなかった。
ヴェントと同じように、身体を貫かれてしまったから。

「私はローラだ。それ以上でも以下でもない」

それがローマ正教の信者である私、リドヴィア=ロレンツェッティが聞いた最後の言葉だった。












――その可能性は、確かに捨てきれないな。


日本から遠く離れたイタリアの礼拝堂で、俺は全てを見届けた。
手にした水晶玉を通して、同胞を亡き者にされるまでの一部始終を。
魔力の供給を断つと、水晶玉の映像は消えた。


俺は水晶玉を懐に仕舞うと、薄暗い礼拝堂の中で独り、呟いた。

「アレイスターの娘、か」

それが、今は黄泉の国に旅立ったリドヴィア=ロレンツェッティが最期に残そうとした言葉だった。

「フィアンマ」

開け放していた礼拝堂の入り口から、一人の巨漢が声をかけてきた。
俺やヴェントと同じく神に選ばれた人間、アックアだった。

「ヴェントの魔力が途絶えた」
「知っている」

距離にして十メートルほど離れた場所に佇む人物は、彫刻を観察するような目つきでこちらを見た。
その顔に表情は無く、敵意も好意も感じ取れない。

「イギリス清教の最大主教が直々に手を下してくれたよ」

宥めるように言う俺を無視して、アックアは礼拝堂を観察する。
俺以外、中に誰もいないことを確認してから祭壇の前に立つ俺を見つめる。

「潰すのか」
「当然」

だが、と俺は少し間を置いてから続ける。

「その前に確かめておきたいことがある」

そうか、とアックアは表情の無いまま応じた。

「必要となったら呼べ」

それだけ言うと、アックアは音も無く去った。


俺は独り、礼拝堂の中に残った。
学園都市を潰した時は、と俺は考えた。


新しい世界の始まる時だ。
驕り高ぶり、地にはびころうと企む能力者ども。
今こそ能力者などという新参者を排除し、魔術の存在を世間に知らしめる時なのだ。
学園都市を、そして学園都市に与する裏切り者を滅ぼした時。
その時こそ、地上に安定が訪れるのだ。
神と同等の力を持つ、この俺の支配下で。











[20924] 第97話 大覇星祭編⑧
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/04/27 22:20
『風紀委員(ジャッジメント)』の仕事が終わったのは午後九時二十七分だった。
仕事仲間である先輩達の誘いをやんわりと断り、家路を急ぐ。


学園都市の中で最も治安が良いと評される第十学区。
中心部はマンションが乱立する地域で、周囲には同じような造りの巨大マンションがいっぱい。
そのほとんどが豆腐みたいに四角い中、唯一つ、法則に逆らって丸みを帯びたマンションに私は足を踏み入れた。
我が城への帰還、なんて冗談半分で思ってみるものの、どうにも実感は無い。
クリーム色に統一されたそのマンションは十七階建て。
周囲の建物と比べると、少なく見積もっても五階分は高い。
最上階には私の部屋と、研究専用に作った部屋の二つがある。


ちなみに、私は部屋を借りているワケではない。
買ったのだ。部屋だけではなく、マンション一つを、丸ごと。
そう、何を隠そう、このマンションの所有者は私なのだ。
人を人とも思わない実験の日々から抜け出したくて、一年前に建てたのだ。


完成と同時に、私は一族の元から離れてマンションに移り住んだ。
成果のみを追い求める研究者として生きる道から、一刻も早く外れたくて。
あの頃は自らの身の振り方について、自問自答を繰り返す毎日だった。
だけど今は違う。あの時の選択は正しかったのだと、胸を張って言える。


友達が出来て、姉として心から尊敬できる人に出会えて。
マンションを建てて、好き勝手にやれる自分だけの研究室も持って。
家賃収入があるから生活に困ることもない。
うん、正しく最高だと心から思う。


エレベーターを使って辿り着いた十七階には、ドアが二つあるだけ。
ちょっと洒落た造りになっていて、一方のドアには一戸建てのような門がある。
門を開け、私はドアフォンを押した。

「どなたですか」

平坦な声が聞こえる。

「私だよ」
「ちょっと待って下さい」

やがて開いたドアから、美月お姉さんが顔を出した。

「ただいま」
「お帰りなさい」

今では当然となったやり取りを交わしつつ、私は玄関をくぐり、靴を脱ぐ。
脱いだ靴を揃えてから、リビングに向かうお姉さんのあとに続いた。

「では、食事にしましょうか」
「うん」
「今日のメインは鮪の佃煮です」
「鮪の?」
「姉さんからのお裾分けです。鮪のアラを安く、大量に購入できたそうで」

茶碗を用意する手を止めて、いそいそと動くお姉さんの後ろ姿を見つめる。
退院後、住む場所が無くて困っていたお姉さんに声をかけたのが始まりだった。
ぎこちなかったのは最初の内だけで、今はもう大丈夫。
しっかり家を守ってくれるお姉さんには本当に感謝している。

「こんなところですね」

やがて食事の準備が整った。
テーブルの上にはご飯の盛られた茶碗に味噌汁、麦茶の入ったコップ、それに小皿があった。
小皿には漬け物が数種類と、鮪の佃煮が並んでいる。

「いただきます」

向かい合って席に着き、声を重ねる。
まずは鮪の佃煮を箸で摘まみ、口の中へ運ぶ。

「あ、美味しい」

やや歯ごたえのある鮪には、味がしっかり染み込んでいた。
程良く効いたニンニクと胡椒が食欲をそそる。

「本当に美味しいですね」

同じく佃煮を口に入れたお姉さんが、その顔を綻ばせる。
茶碗にたっぷりと盛られていた御飯は、あっと言う間に空っぽになった。

「お姉ちゃんに感謝だね」
「そうですね」
「あと、お姉さんにも」

箸を置いて、ぺこりと頭を下げる。

「ありがとう」

僅かな間を置いて顔を上げる。
すると何故か、お姉さんは私から顔を背けていた。
お姉さん、と呼んでみても、

「何でもありません」

と、そっぽを向いたまま繰り返すばかり。
でも、真っ赤な耳でいくら言い張られても説得力は皆無なワケで。

「御飯」
「え?」
「もう一杯、食べますか」

こちらを見ず、手だけを差し出すお姉さん。
照れ隠しのつもりなのだろうが、ちっとも隠せていない。

「うん」

笑顔で肯き、私は空っぽになった茶碗を手渡す。

「お願い」

食事が済んだ後も、お姉さんの耳は暫く真っ赤なままだった。












「今日は本当にありがとう」

隣を歩くインデックスが、そんなことを呟いた。

「どうかしたのかい?」

急に改まって、何を言い出すつもりなんだろう。

「やっぱり、ちゃんと言っておこうと思って」

立ち止まり、こちらを見つめてくるインデックス。
やっぱりと言うか、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。

「今日一日、とっても楽しかったよ」

どうにも、こそばゆい気持ちになる。
別に彼女を楽しませようと躍起になっていたワケじゃないのに。
僕はただ、彼女との時間を心から楽しんでいただけで。

「そんなの、僕だって同じだよ」

彼女がイギリスにいた頃も、神裂も加えて三人で色々な場所を歩いて回った。
だけど、よくよく考えてみれば、仕事がらみで行動を共にしていただけだった気がする。

「楽しかったよ、本当に」

本心のままに告げると、インデックスは笑みを更に濃くして言った。
良かった、と。ステイルも楽しいって思ってくれたんだ、と。


ナイトパレードが終わった後、僕達は第六学区の繁華街を歩いていた。
もう十時を過ぎているのに、学園都市はまだまだ賑やかだ。街全体が浮かれている。
歩き出そうとしたら、インデックスが手を繋いできた。
俯き加減の頬が赤く染まっているように見えるのは、気のせいではなさそうだ。

「門限、大丈夫なのかい」

嬉しかったけれど、照れ隠しで僕はそんなことを言った。

「大丈夫」

美琴が上手く誤魔化してくれるから、と彼女は付け加えた。
それから互いに手を握り合って、温もりを確かめ合って、今度こそ歩き出した。


暫くの間は、最近聞いた音楽の話をした。
インデックスは邦楽ばかりで、僕は洋楽が多くて。
内容はあまり重ならなかったけど、だからこそ言葉を重ねた。
受け入れてもらえるのは幸せだけれど、受け入れるのもまた幸せだ。


手を繋いでいる。
肩を並べて歩いている。
もっと近づきたいと思っている。


お邪魔虫が現れたのは、それから五分後だった。
いやまあ、インデックスが世話になっている人の身内に使うべき言葉じゃないのは分かっている。
分かってはいるのだが、それでも、そう表現せずにはいられなかった。

「よう、インちゃん!」

やけに元気な声を張り上げながら、御坂美琴によく似た女性が片手にビニール袋を提げて近づいてきた。
外見から判断するに、二十代に入ったばかりと言ったところか。
それにしても、似ている。御坂美琴の五、六年後を再現した結果が目の前に現れたかのようだ。
ああ、でも一部分だけは別格だな。
二つ外れたブラウスの隙間から、これでもかと言わんばかりにその存在を主張してくる胸の谷間。
たとえ成人しようとも、御坂美琴の胸はあそこまで大きくなるまい。

「その子が噂の彼氏?なかなかどうして、男前じゃない」
「あ、いえ、まだ彼氏ってワケじゃ」

へえ、とからかう声。

「まだ、ねえ」

女性が近くに来ると、あからさまな臭気が鼻を突いた。

「美鈴さん、相当飲んでますね」
「飲んでるぞ。飲んでるとも」

ぬはは、と女性が笑った。
明らかに酔っ払いの声だった。

「もうちょっと声を落として下さい。ほら、みんな見てますし」
「悪い悪い。ぬはは」
「だから、声を落として下さいって。美琴に言いつけちゃいますよ」
「甘い。甘いわね、インちゃん。娘の名前を出したくらいで、この私が怯むと思ったら大間違いよ」

インデックスが必死の説得を試みるも、全く効果無し。
酔っ払いってやつは、どうしてこんなにも面倒臭いのだろう。


そこまで考えたところで、とある事実に気づく。
この女性、今、娘と言わなかっただろうか。
御坂美琴のことを妹ではなく、娘だと。
ということは、だ。この女性は、もしや。

「もしかして」

愕然としつつ、僕は訊いた。

「御坂美琴の母君?」
「ピンポーン!」

たわわに実った胸を突き出し、女性は得意げに叫んだ。
服の下で二つの丘がプリンのように揺れたが、気にしないことにする。

「鋭い彼氏さんと可愛いインちゃんには、こちらを進呈」

完全に出来上がっている御坂美鈴が、ビニール袋からジュースらしき缶を二本取り出して僕達に一本ずつ手渡す。
二つに切り分けられたオレンジの絵が描かれたその中身は、おそらくオレンジジュースなのだろう。

「ささ、飲んで飲んで」

丁度喉が渇いていたことも手伝って、僕達は促されるままに缶を傾けた。
インデックスが糸の切れた人形のように地面に倒れたのは、その直後だった。

「インデックス!」

しゃがみ込み、インデックスの身体を抱え起こす。
小さいくせに、むちゃくちゃ重く感じられた。身体に全く力が入っていないのだ。
無理もない。僕は一口で止めたけど、彼女は缶の中身をほぼ全て飲んでしまったみたいだし。
彼女の顔は真っ赤だった。身体は熱を帯びていた。

「まあ大変!」

インデックスを卒倒させた張本人が、わざとらしく声を上げる。

「一体、誰がインちゃんにスクリュードライバーを!?」
「アンタだよ!」

ちなみに、スクリュードライバーとはオレンジジュースとウォッカのカクテル。列記としたお酒である。

「私、思うんだけど、ノーパソとノーパンって似てるよね」
「いきなり何の話だ!」
「よし、こうなったら今日はとことん飲もう」

話の流れを完全に無視して、御坂美鈴はビニール袋から缶ビールを取り出す。
プルトップを開ける前に、僕は彼女から缶を取り上げた。

「ちょっと、何するのよぉ」

頬を膨らませて抗議してくる御坂美鈴。
その見た目も、言動も、僕と同い年の女の子を娘に持つ母親とは到底思えない。
だが、だからと言って、

「ノートパソコンの話はどうした!?」

このまま見惚れるつもりも、流されてやる義理も、僕には毛頭ないワケで。

「そんなの面白くないじゃん」
「アンタが言い出したんだよ!」
「しかし、飲み明かそう」
「接続詞の使い方がおかしい!」
「ノリが悪いなあ。そんなに短気だと大成しないぞ、捨て犬君」
「誰が捨て犬だ、誰が!」

ああもう、これだから酔っ払いは。


いくら抗議しても無駄だと悟った僕は、意識の無いインデックスを抱き上げる。

「お暇させてもらいます。この子を介抱しなくちゃいけませんから」

むくれた顔で睨みつけられるが、ひたすら無視。
酔っ払いの喚き声を背中に受けつつ、眠れるお姫様を抱えて僕は歩き出した。


――しかし、どこに向かったものかな。


心の中で、思わずそう呟いてしまう。


このまま彼女を常盤台の寮まで送るのはマズイ。どう考えてもマズイ。
名門校の生徒が泥酔した挙句、男に抱えられて帰るなんて。
かと言って、寮の他にインデックスを任せられる場所があるはずもなく。


――さて、どうしたものだか。


とりあえず、良い案が浮かぶまでは夜の散歩と洒落込むことにしよう。











[20924] 第98話 大覇星祭編⑨
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/05/12 21:55
ちょっと買い物、と美月お姉さんに言い残して部屋を出る。


午後十一時。
白ばんだ電灯だけがマンションの通路を照らしている。
私はエレベーターに乗り込むと、屋上へ通じるボタンを押した。
静かな機械音がわずかに響いた後、音も無く扉が開く。その先は一変して明かりの無い空間だった。
屋上に通じる扉だけがある小部屋に出ると、私を残してエレベーターは一階へと降りていった。


電灯は無く、周囲は息苦しいほどに暗い。
足音を響かせ、小部屋を横断して屋上へ通じる扉を開ける。
すると視界いっぱいに街の夜景が飛び込んできた。


私の所有するマンションの屋上は、特徴の無い作りだった。
剥き出しのコンクリートが真っ平らに続く床と、周囲に張り巡らされた網目状のフェンス。
今まで私がいた小部屋の上には給水タンクがあるだけで、他に目につくものは何も無い。


作り自体は何の変哲もない屋上。
だけど、その風景は普通ではなかった。
周囲の建物より五階分は高い屋上からの夜景は、綺麗と言うより心細い。
まるで細い梯子の上に登って、下界を見下ろしているみたい。
そこかしこに光を灯す夜の街は、確かに美しいのだけど。


街は死んだように眠っている。
静けさが心臓を締め付けてくる。痛いくらいだ。
そんな眼下の街並みと対を成すかのように、夜空の冴えも際立っていた。
こちらはただ純粋な闇。宝石をばら撒いたかのように、その中で星々が煌めいている。


二つの異なる闇の狭間で、私は手の中に電気を生み出す。
バチバチと音を立てる青い電光は、美琴お姉ちゃんと同じ発電能力を模倣して再現したものだ。


他者の扱う能力の模倣。
それが新たに目覚めた私の能力。
事実上、複数の能力の同時使用を可能にした夢のような力。だけど、


――駄目だ、この程度じゃ。


お姉ちゃんの電撃と比べれば、掌で踊るそれはあまりにも脆弱で。


私は焦っていた。
修練を始めて二週間。この時点で、お姉ちゃんは大きく成長していた。
電磁波の扱いに更なる磨きをかけ、私ほどではないにしてもAIM拡散力場の流れを掴めるようになっていた。
生体電気を流すことによる身体能力の強化にも磨きをかけ、今では体術のみで戦っても私では相手にすらならない。


その一方で、私は大した成長を果たせていなかった。
修練の結果、強能力者程度の能力であれば一目見て真似できるようになった。でも、それだけだった。
どんなに修練を重ねても、自身を虐め抜いても、超能力はおろか大能力の再現すら満足に出来なかった。


はあ、と溜め息。
掌の電気を握り潰し、現状における自身の強さを分析する。
今の自分は、果たしてどれほどの実力を持っているのか。


少なくても強能力者が相手ならば互角以上の戦いができる。
これは間違いない。相手の能力を一目で看破できるので、弱点を突くのは簡単だ。
場合によっては、能力を真似て動揺を誘うのもいいだろう。
でも、大能力者や超能力者が相手だったらどうだろうか。


『超電磁砲(レールガン)』を使えるようになった美月お姉さんに、私は勝てるだろうか。
底無しに強くなっていくお姉ちゃんの足手纏いにならないと、言い切れるだろうか。
あらゆる常識が通用しない垣根帝督を一人で相手にして、生き残れるだろうか。


否。明らかに否だ。
負けないことは可能かもしれないけど、それだって長くは保たないだろう。
情けない。強くなるって、約束したのに。
己の情けなさに、思わず歯噛みしてしまう。この程度では、全く足りない。
お姉ちゃんの隣に立つなんて、今のままでは夢のまた夢。

「しょうがないな」

誰にともなく呟き、私は目を閉じた。
瞼の裏に、とある光景を思い描く。強く、強く。
再び目を開けた時、それは現実となっていた。
地上六十メートルを超えるマンションの屋上から更に十メートル程の高所で、私は浮いていた。


背に生えるのは天使の翼。だけど三対の翼ではない。
学園都市第二位の能力を、そっくりそのまま真似たのではない。
私だけの能力として認識し、顕現させたのだ。
それを見て私は唇の端を上げ、僅かな笑みを浮かべる。


『未元物質(ダークマター)』。


多くの大能力以上の能力が再現しても劣化してしまう中で唯一、思った通りの顕現を果たせた異能。
初めて再現した能力だったからなのか、それとも私との相性が良かったのか。
その理由は定かではないけれど、深く気にする必要はないだろう。
『未元物質』を単なる物真似としてではなく、私自身の能力として構築できる。
その事実さえ確認できれば、充分なのだから。
しかし正面から同じ性質の能力のみを激突させれば、私に勝ち目は無い。


だったら、どうするのか。答えは簡単だ。
垣根帝督とは違った方向の強さを目指す。これしか手は無い。
幸いにも私は、垣根帝督が持ち合わせていないものを持っている。それは小賢しさだ。


絶大な力を誇る垣根帝督。
だけど能力自体の扱いにおいては、お姉ちゃんや私を下回っている。


この間の戦いを見ていて確信した。
学園都市第二位は、自身の能力を完璧に把握しているワケではない。
『未元物質』に秘められた力を彼は知らない。引き出せていない。
能力そのものが圧倒的であるが故に、小細工を施す必要も無かったのだろう。
だからこそ生まれてしまった第二位の欠点。『未元物質』の本来の使い手である彼に、私が勝る唯一つの点。


だったら、それを使わない手は無い。
能力の規模で劣ろうとも、やり方次第で対抗できるはず。
そう結論付けた私は浮遊をやめて、屋上に戻る。
床に足が着くと同時に、背中に生えていた翼は消失した。


顕現を持続していられるのは二分間。
それを過ぎると、強制的に能力が解除されてしまう。
これが現状における私の限界。だけど、ううん、だからこそ誓おう。
これからは、この能力だけを伸ばしていく。
あまりにも遠い超能力者との距離を、少しでも縮めてみせる。
お姉ちゃんの助けになれるだけの力を、絶対に身に付けてみせる。












散々歩き回って、結局、ビジネスホテルに泊まることになった。
まあ、ビジネスホテルと言っても都心にあるような立派な物ではなく、薄汚れた外壁の七階建てだが。


そして確保したのはツインを一部屋。
これはインデックスの身の安全を考えた上で当然の処置だ。
無防備に眠っている彼女を一人きりにしておけるはずがない。
決して彼女の寝顔をもう少し見ていたいとか、そういった個人的な願望によるものではない。
とは言え、どんな理屈を並べても若い男女が同じ部屋に泊まっているという事実に変わりはないワケで。

「どこにいるんですか?」

御坂美琴から電話がかかってきたのは、夜の二時だった。
僕は部屋の真ん中に置かれたソファに身を沈め、うたた寝をしていた。


ああ、と間抜けな声が洩れる。

「思いの外、話が弾んでさ。その、えっと、ファストフード店にいるんだ」
「早く寝ないと、明日がきついですよ」
「そうだね。もう戻るよ」

ふうん、と気の無い返事。

「何か隠していますね」
「え、何で」
「ちょっと早口だから」
「そんなことはないけど」

何故か電話はいきなり切れた。
後ろを見ると、体操服姿のインデックスがいた。
ベッドの上で気持ち良さそうに眠っている。
どうにかしなければならない。


こちらから掛け直すと、御坂美琴は二回目のコールも待たずに出てくれた。

「驚いたよ。急に切れたものだから」

そうですね、と彼女は返した。

「私も吃驚しました。まさか嘘を吐かれるなんて思ってなかったから」

淡々とした口調には、どこか苛立ちが含まれている。

「素直に言えばいいじゃないですか。酔い潰れたインデックスを介抱しているんだって」

頭がくらくらした。


どうして御坂美琴は知っているのだろう。
僕は一体、どこで失敗してしまったというのだ。

「御坂美鈴かい?」

ようやく思いついたことを口にした。

「つい先程、連絡がありまして」
「彼女から全て聞いていたワケだ」
「すみません。母が迷惑をかけてしまって」

いや、いいよ、と僕は言った。

「こちらこそ申し訳なかった。後ろめたい気持ちがあっても、君にだけは真実を伝えるべきだった」

それから僕は今日の出来事を包み隠さず話した。
インデックスに告白されてから今に至るまでの流れを告げると、軽く笑われてしまった。

「何やってるんですか」
「同感だね」
「インデックスが可哀想です」
「僕は?」
「ステイルさんに同情の余地はありません」

酷い言われ様だ。
返事をする勇気の無かった僕に非があるのは、素直に認めるけどさ。

「インデックスの勇気を無下にしないで下さい」

そんなこと、わざわざ他人に言われなくても分かっている。
反論しようとしたが、肝心の言葉がなかなか浮かび上がってこない。

「じゃあ、切りますね」

あ、と僕は声を上げた。

「ちょっと待って」
「まだ何かあるんですか」
「いや、大した用じゃないんだけど」

文句が思いつくまでの時間が欲しいなんて、口が裂けても言えるはずがなく。

「だったら早く済ませて下さい。明日も朝一で練習なんですから」
「練習?」

その一言に、疑問を覚えた。

「君ほどの実力者が今更、何の練習をするんだい?」

少し間をおいてから、御坂美琴の声が端末を通して聞こえてきた。

「チアリーディングです」

声音は静かで、それでいて少し震えていた。

「チア?」

一瞬、聞き間違えたのかと思った。

「君が?」

少し間を置いてから肯定の返事が返ってきたが、どうにも信じ難かった。


チアリーディングとなれば、かなり刺激の強い格好を求められるはず。
普段からガードの固い彼女が率先して出るような種目とは思えないのだが。

「一体どうして」
「訊いちゃいますか、それ」

御坂美琴が苦笑している。抵抗はしてこない。
ここまで話して途中で止める気は、彼女にもなかったのだろう。

「土御門さんとの約束なんです」

その名前が出ただけで、大方の予想がついた。

「対価を要求されたワケだ」
「恥ずかしながら、その通りです」
「上条当麻は知っているのかい?」

そうなんです、と消え入りそうな声。

「で、でも私」
「うん」
「あんな格好をしているところを、当麻に見られるって思うだけで」

はあ、と艶めかしい吐息が聞こえる。
何だかんだ言っても、やる気は充分にあるらしい。
わざとらしい咳払いが聞こえたのは、軽く二分は過ぎた頃だった。

「というワケで、私は眠らせてもらいます」
「ああ、お休み」
「インデックスのこと、泣かせたら承知しませんからね」

こちらの返事を待たず、御坂美琴は勝手に電話を切ってしまった。
僕達の居場所を突き止めようとは、結局のところしなかった。
とりあえず、許してもらえたと解釈して良いのだろうか。


携帯電話を閉じて、目の前にあるテーブルの上に置く。
夜は静かだ。自分の話し声がなくなると妙に寂しくなった。
僕の視線は自然とインデックスの眠るベッドに向けられていた。


静けさの中、僕は訊ねてみた。

「なあ、インデックス」

返事は無い。

「起きているかい?」

やっぱり返事は無い。


色んなことを考えに考えた末、ソファから起き上がると、ベッドに向かった。
横になっている彼女の顔を、そっと覗き込む。
予想した通り、彼女は夢の真っ只中にいた。

「すまない」

彼女の寝顔に語りかける。

「結局、返事できなかったな」

酔い潰れていると思っていた。
聞かれていないと確信していた。

「愛してる」

だから、思ったままの言葉が口をついて出た。

「愛してるよ、インデックス」
「本当?」

だから、完全に油断していた。

「本当に?」

ゆっくりと目を開け、インデックスが再び訊ねる。
他人の耳をくすぐるような、いつもの甘い声で。

「ああ」

酔っていたせいだろうか。
酒に。雰囲気に。そして何より、目の前にいる彼女に。

「愛してる」

彼女から目を離さず、はっきりと。
自分でも驚くほど、あっさりと。
この胸に抱え続けてきた想いを、僕は告げた。

「インデックス。僕は君を愛している」

端正なインデックスの顔が、ふにゃっと崩れた。

「えへへへへ」
「酷いな。笑うなんて」
「だって、嬉しくて」

ふやけた笑顔で、彼女は弁解する。

「でも今、ちゃんと聞こえなかったな」

ベッドで横になったままで、こちらを見上げてくるインデックス。
何を期待されているかなんて、いちいち言葉にされなくても分かってしまう。

「あー、いや、その」

しかし改めて言おうとすると、かえって緊張してしまうもので。
愛している。そのたった一言を言い切るのに、随分と時間がかかってしまった。
しどろもどろになった上に、あちこちで噛んでしまうというオマケまで付けてしまった。
冷房の効いた部屋の中にいるのに、汗がどっと噴き出してくる。

「私だって、そういうところも全部含めて、ステイルのことを愛しています」

そう言うと、彼女はベッドの上に座り直して目を閉じた。
何を求められているのかなんて、いちいち言葉にされなくても分かってしまう。


インデックスの肩を抱き寄せ、僕はキスをした。
彼女の唇はとても温かくて、とても柔らかかった。











[20924] 第99話 大覇星祭編⑩
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/05/26 22:40
電話を切った後、チアリーディングの衣裳を手に取った。
紅組に所属する私の手元に届いたのは、上下共に真っ赤な衣裳だった。
パジャマを脱ぎ、手早く着替えて姿見の前に立ってみたのだが、


――凄いなあ、これ。


思わず赤面してしまう程、それは際どい格好に見えた。
サーシャ=クロイツェフの下着同然の格好も、これに比べたら可愛く思える。


――パンツとか、丸見えじゃない。


スカートの裾を軽く持ち上げるだけで、下着が露わになってしまう。
まあ、だからこそアンダースコートを履くのだろうけど。


肩が剥き出しなのは構わない。
常盤台指定の体操服も同じ作りなので、許容範囲内だ。
だけどミニスカートはいただけない。しかもショートパンツを履かずに身につけるなんて。
私自身の感覚からすれば、肌を覆う面積がとにかく少ない気がした。
それに今の時期、こんな格好では肌寒いだろう。
ただ、寒さなんて感じないのかもしれない。これを身につけて公の場に飛び出す羞恥を思えば。
大勢の人に見られてしまうことを思うといかにも気恥かしいのだが、それでも約束なのだから仕方がない。
そう、約束だ。エツァリの身の安全を保障してもらう代わりに、一つだけ土御門さんの言うことを聞くという約束。
もし聞き入れなかったら、自分は一生、土御門さんに頭が上がらなくなるかもしれない。
そう思って渋い顔をしつつも了承したのだ。


それにしても不思議だった。
チアリーディングの格好を他人に見せることに対しては躊躇いしか感じない。
なのに、当麻に見てもらえると考えるだけで違ってくるのだ。
想像しただけで全身がむず痒くなるような、妙な感覚に襲われるのだ。


この感覚の正体を、何となくだけど私は知っている。
今まで見せなかった姿を見てほしいと願う自分が、確かにいる証だ。
こんなことを口にするのは恥ずかしいから、絶対、誰にも言わないけど。


さて、そろそろ寝ないと明日に響いてしまう。
パジャマに着替えようとシャツとスカートを脱いだところで、ふと手を止めた。
ブラジャーに包まれた薄い膨らみを見下ろす。
鼓動が高鳴っているのが、触れなくても分かる。
なんだかんだ言っても、当日を楽しみにしている自分がいる。


――これもみんな、当麻のおかげなんだよね。


当麻と出会えたことは、本当に幸運だった。
彼を学園都市の闇に巻き込んでしまったことを思うと、少し複雑な気持ちになるのだけど。


――この街がどうなるにしろ、当麻とはずっと一緒にいたいな。


こんな風に考えてしまうのは先走りなのだろうか。
重い女だと思われてしまうだろうか。
別に契りを交わしたワケでもないのに。


――ち、契りって……!?


自身の思考なのに、思わず自分自身で吃驚してしまう。


姿見に顔を向ける。
そこには顔を真っ赤にした女の子が映っていた。
これでは電撃姫という異名も形無しだ。


いつだったか、黒子に指摘されたことがある。
御坂美琴は輪の中心には立てても混ざることは出来ない人間なのだと。
自身の内面を他人に見せようとは絶対にしない人間なのだと。
それが今はどうだろう。鏡には生き生きとした表情が映し出されているのだ。


――私、確かに変わったんだろうな。


当麻と出会って。あるがままの自分を受け止めてくれる人に会えて。


鏡に顔を寄せて赤い頬を見つめる。
それから下着だけを身につけた自分の身体をまじまじと観察した。


――胸、大きくならないなあ。


視線をお腹から下着、そして脚へと滑らせる。


――当麻だって、やっぱりスタイルとかを……。


妙な視線で自分の身体を見つめていることに気づき、思考を中断する。


――何てこと考えてるの、私!


全身がどうしようもなく火照っていた。
今や顔だけでなく、身体中が桃色に上気している。


ふう、と息を吐いて衣裳をベッドに放り投げる。
シャワーでも浴びて、頭を冷やした方が良さそうだ。












一週間という長期に渡るプログラムが組まれた大覇星祭も、今日で四日目。
初日からの晴天は未だに続いており、本日も雲一つない青空が広がっている。
その昼休み。当麻、インデックス、そして帽子とサングラスで変装した美月の三人と合流した私はオープンテラスの喫茶店に入った。
大覇星祭の間に一度くらいは一緒に御飯を食べたいと美月に散々お願いされていたのだが、今日になってようやく実現させることが出来たのだ。


本当は那由他も参加したがっていたのだけど、運悪く巡回の当番が回ってきてしまったようで。
がっくりと肩を落としたまま仕事に向かう那由他の後ろ姿は、あまりにも可哀想で。
この埋め合わせはどこかで必ずしてあげようと、心の中で誓うのだった。


丁度お昼時だけあって、喫茶店は学生やその家族と思しき大人達で賑わっている。
それでも四人分の席は確保でき、注文した品々も、長々と待つことなく無事に届いた。

「那由他って、さっきの金髪の子だよね。あの子と一緒に住んでるんだ」
「ええ。あの年でマンションの経営までこなしてしまう、凄い子です」

食事が届いた後も、主に話をしているのはインデックスと美月の二人だった。
互いに人見知りをしない性格故か、二人が打ち解けるのに時間はほとんどかからなかった。


二人の会話に耳を傾けながら、サンドイッチを一口齧る。
パンはパサパサしていて、挟んであるハムとチーズはちっとも味がしなかった。
どうにか一切れだけ食べたものの、それ以上はとても無理だった。

「もう食わないのか」

ほぼ手つかずとなっている皿を見て訊ねる当麻に、私は肯く。

「今日はちょっと、ね」
「体調でも悪いのか」

ううん、と今度は首を振る。

「だけど、あんまり入らなくて」

多分、緊張しているのだ。
この後、いよいよチアリーディングを披露するのだから。
味が分からないのも、きっとそれが原因だろう。

「当麻、食べてあげたら」

インデックスの何気ない提案。

「え」

であるはずなのに、どういうワケか当麻は身を竦めた。

「お前は?」
「私はもう、お腹いっぱいだし」

ええ、と悲鳴に近い声を上げる当麻。

「嘘だろ。グラタン一杯しか食ってないのに」
「一般女性の昼食としては充分な量だと思うけど」
「お前の胃袋は一般女性を軽く凌駕しているだろうが」
「酷い言われ様なんだよ」
「いいから、お前が食え。その程度じゃ全然足りないだろ」
「だから大丈夫なんだって。むしろ、今までが異常だったと言うか」

当麻は不思議そうな顔でインデックスを見つめる。
まあ、信じろと言われても無理があるかもしれない。
インデックスの旺盛過ぎる食欲を目の当たりにしてきた彼には、特に。

「呪いが解けたって感じかな」

仕方がないので、助け船を出すことにした。

「呪いって、大食いのですか」

そう訊いてきたのは美月だ。
インデックスのかつての食欲を知る者の一人として、彼女も私の話に興味を持ったらしい。

「当たらずとも遠からじ、かな」
「と、言いますと?」

私はインデックスの顔を見た。
彼女は笑みを浮かべると、小さく肯いてくれた。

「正確には呪いじゃなくて、とある魔術がインデックスに施されていたの」

そうして、私は説明を始めた。
インデックスの持つ魔力全てを用いて施されていた魔術を。
十万三千冊もの魔道書を守る為に設置された、インデックスに対する鎖を。
発動したが最後、魔道書を狙う者を問答無用で破壊する兵器へと彼女を作り替えてしまう呪いを。
その根源となる紋章は当麻が打ち消したと、ステイルさんは語ってくれた。と言っても、当麻本人はそのことを覚えていなかったのだけど。


おそらく、この時だったのだろう。
当麻が自身に関する記憶を全て失ってしまったのは。
自身の記憶を犠牲にして、彼はインデックスを救ったのだ。
しかし当麻の能力を以てしても、インデックスに施された魔術を完全に破壊することは出来なかった。
不安定ながらもインデックスの身体に巣食い、彼女の内にある多大な魔力を貪っていたのだ。
そして常盤台中学にインデックスが編入し、一緒になって魔術と能力の考察を行なっていく内に偶然、それらの事実に辿り着いたのだ。


その存在さえ突き止めれば、後は簡単だった。
魔道図書館と揶揄されるインデックスは自力で魔術を解除し、本来の魔力を取り戻した。
彼女の食欲が人並みにまで落ち込んだのは、それからすぐのことだった。

「これは推測でしかないんだけど」

と前置きして、私は続けた。

「インデックスの燃費の悪さって、施された魔術が原因だったんじゃないかな」

言葉を一旦切るが、誰も何も言わない。

「消費の続く魔力を補う為に、身体が本能的に食べ物を求めていたんじゃないかな」

再度、語りかけてみるも反応は無い。
あまり沈黙を続けられると自信が無くなるし、真面目に語っていた自分が恥ずかしく思えてくる。

「成程。そういうカラクリでしたか」

最初に声を上げたのは美月だった。

「凄く納得です、姉さん」
「確かに。それなら全部、説明がつくな」

美月に続いて当麻も肯く。


インデックスは何故か誇らしげだ。

「そう。そういうことなんだよ」

とか言いながら、胸を張っている。

「そういうワケだから、当麻が食べてあげて」
「じゃあ、そうするかな」

そう言って、今度は躊躇いなく私の皿に残った料理に手を伸ばす当麻。ただ、サンドイッチを頬張りながら、

「もう少し早く、その存在に気づいてくれていればなあ」

なんて、ぶつぶつ呟く彼には乾いた笑いで応えるしかなかった。












昼食も終わり、いよいよ待ちに待った時間帯が訪れた。
準備に入った美琴と別れた俺は、独りで真っ直ぐグラウンドに向かった。
インデックスと美月の二人とは別行動を取ることになった。
急遽入った仕事とやらで、学園都市を離れていたステイルを迎えに行ったのだ。
昼食の間に意気投合した美月に、自慢の彼氏を紹介したいそうで。
合流後は三人でチアリーディングを見物するつもりらしい。


それにしたって、驚きだ。
ステイルがまさか、インデックスと恋仲になっていたなんて。
煮え切らない態度だったインデックスの背中を、美琴が押したってことだけは聞いていたのだが。

「いよいよだね」

震える声を出したのは、街の巡回を終えて戻ってきた那由他だ。
キラキラと輝く瞳で、グラウンドに美琴が現れるのを今か今かと待ち侘びている。

「ところで那由他」

そんな彼女に、俺は合流してからずっと抱いていた疑問を口にした。

「その格好は何だ」

肩が剥き出しになったシャツに、膝まで裾の届いていないミニスカート。
おまけにポンポンまで持って、えへへ、と那由他は笑った。

「チアガールだよ」
「いや、見れば分かるけどさ」

ちょっとばかり、力が入り過ぎてはいないだろうか。
出場するワケでもないのに、そんな格好までして。
まあ、はしゃぎたくなる気持ちは分からなくもないが。それに、だ。

「お姉ちゃんと、お揃いなんだよ」

満面の笑みを浮かべて騒いでいる那由他の姿を見ていると、仮に落ち着くようにと注意しても素直に受け入れてくれそうにない。


今現在、グラウンドの中には誰もいない。
しかし入場門に目を向けると既にチアリーダー達が待機していて、会場の熱気は否が応にも高まっている。


それにしても、と那由他が呟いた。

「今年は大騒ぎになっちゃったね」
「大騒ぎ?」
「お姉ちゃんがチアリーディングに出ることが知れ渡って」

ああ、と声が洩れる。

「常盤台辺りじゃ、そうなのかね」
「どこだって同じだと思うよ」

そうかもしれない。ただ、俺が気づかなかっただけで。
学園都市の第三位として、美琴は一目も二目も置かれているのだから。
そんなことを考えていると、やがて紅白に分かれて競われるチアリーディングの開始を告げるアナウンスが流れてきた。
おお、という歓声にグラウンドが揺れた。誇張でも例えでもなく、本当に揺れた。

「紅組からの入場です」

どうぞ、とアナウンスが流れる。

「緊張してきちゃった」

那由他が拳を握り締める。力強く、ぎゅっと。

「美琴はどっちだったっけ」
「紅組だよ」

開始早々、美琴の出番がやって来たというワケだ。


改めて、入場門に目を凝らす。
さっきは気づかなかったが、先頭に一際目立つ美少女の姿を見つけた。
スピーカーから軽快な音楽が流れ始めたのは、丁度そんな時だった。


チアリーダー達が一斉に駆けてくる。歓声も一気に高まった。
うわあ、と那由他がうっとりしたような声を上げる。
おお、と俺も声になっていない声を上げる。


美琴の周りには、同じ格好をした女子が何人もいる。
だが俺も那由他も、視線は美琴に釘付けだった。

「お姉ちゃーん!」

那由他の声が届いたのか、美琴がこちらに目を向けた。
いつもより更に華やかな笑顔を浮かべる彼女は、本当に綺麗だ。

「おーい」

俺が手を振ると、美琴もポンポンを持つ手を軽く振ってくれた。
ダンスの動きではなく、俺に向けて、俺の為だけに、そうしてくれたのだった。


――本当に丸見えだな、スカートの中とか。


アンダースコートを履いているのは勿論、分かっている。
だけど、あの美琴が堂々と晒していると思うと、変にドキドキさせられた。


ようやく全体に目を向けると、チアリーディングの本質であるダンスも見事に統率が取れている。
全体での練習も相当積んだのだろうということが、動きを見れば一発で分かる。

「こんな素敵な応援をされたら、紅組の優勝は間違いないね」
「だろうな」

しみじみと肯く俺に、那由他は怪訝な表情を返してきた。

「でも、いいの?」
「何が」
「お兄ちゃんは白組じゃなかったっけ」

確かに、ウチの学校は白組に属していたような。

「お前はどっちなんだよ」

苦し紛れに出してしまった問いだった。
口にした瞬間に後悔の念が押し寄せてきたが、今更になって慌てたところでもう遅い。

「どっちでもないよ」

真っ直ぐに俺を見据えてくる。

「私、学校には通ってないから」

そう言って、那由他は小さく笑った。
どんな気持ちで笑ったのか、俺には見当すらつかなかった。











[20924] 第100話 大覇星祭編⑪
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/08/24 00:22
四日目の競技も全てが滞りなく終了。
大成功を収めたチアリーディングの余韻に浸りつつ、私は独り、夜の闇の中を歩いていた。


みんなで練習を重ねた結果を披露し、拍手と歓声で迎えられる。
とても恥ずかしかったけど、でも、嬉しくもあったりして。
始めから乗り気というワケではなかったのだけど、出て良かったと心から思える。
学校別の戦績でも、今日の時点でついに常盤台中学が一位に躍り出たし。
どうせなら、このまま気持ち良く優勝を決めてしまいたい。


――うん。全くその通りだよね。


だからこそ、今日中に見極めておきたいことがあった。
学生寮に戻る前に、どうしても確かめておきたいことがあった。


深夜一時を過ぎて、あらゆる音が街から消えた。
道を行く人の姿は無く、道路には車の一台すら見当たらない。
建物から光は消え、月の明かりも星の瞬きも暗い雲で覆われた夜。
誰もいない、何も起きないはずの街並み。けれど、異常は確かに迫っていた。
私は足を止めた。背後に感じる気配もまた、同じく動きを止めた。


――この辺りでいいか。


建物と建物の隙間にある、道とも呼べない路地裏に入り込む。
程無くして、背後の気配は私に追いついた。いや、正確には追いつかれてあげた。
人目の無い路地裏で立ち止まり、やって来た人物を確かめる。
私の前に現れたのは、耳より低い位置で、お下げのように髪を左右に結った女性だった。
下は金属製のベルトを巻き付けたミニスカート。
そして上半身は、さらしを豊かな胸に巻いた上にブレザーを引っ掛けただけという随分と刺激的な服装をしている。


その出で立ちは、予め調べ上げた通りのものだった。
学園都市統括理事長の居場所まで、選ばれた人間を導く案内人。
空間移動の使い手として、彼女を超える者はいないとまで言われる程の能力者。

「何か用かしら」

距離にして五メートルのところで立ち止まった彼女を睨みつける。

「霧ヶ丘女学院の、結標淡希さん」

結標淡希は両肩を小さく震わせる。
声を押し殺して笑う彼女が、私に人差し指を向ける。
空気の揺れる気配を感じたのは、そんな時だった。


次の瞬間、私の身体は上下逆さまになっていた。
様子見も含め、まずは地面に倒してしまおうという魂胆か。
しかし彼女には悪いけど、大人しく思い通りになってやるつもりはない。


上下逆さまに転移させられたのとほぼ同時に、私は生体電気を全身に流していた。
空中で身体をぐっと丸める。逆さだった身体はくるりと半回転した直後に、両足から地面に降り立つ。
転移されてから体勢を立て直すまで、時間にすれば一秒にも満たない。
能力が絡んでいなければ馬鹿げているとしか思えない光景。だけど結果として、私が頭からの落下を免れたという事実がそこにある。

「参ったわね。私の身元が割れるのは、もう少し先だと予定していたのに」

残念そうに俯いて、彼女は言う。

「私は何か、下手を打ったのかしら。貴女の電磁波に捉えられないよう、細心の注意を払っていたはずなのだけど」

そうね、と私は同意した。

「少し前までの私だったら、気づけなかったでしょうね」

だけどAIM拡散力場の完璧な制御を覚えた今は違う。
有効範囲が広がったのは勿論だが、何よりも精度が段違いに上がった。
半径五百メートルまでの範囲であれば、その気になれば数ナノメートルに過ぎないウイルスの動きすら逃さない自信がある。


なるほど、と赤みがかった髪を掻き上げて彼女は肯いた。

「貴女、まだ成長しているのね。恥ずかしいわ。標的の限界を見誤るなんて、初歩的なミスを犯してしまったなんて」

困った風に笑う結標淡希。

「その様子だと分かっているみたいね。私の目的も」

私は僅かに視線を逸らし、それでも静かに肯いた。
彼女の、いや、学園都市の狙いは私のDNAマップだ。
絶対能力進化実験が頓挫した今も尚、私の能力に関する研究を続けたいらしい。

「アンタみたいな奴にDNAマップは渡さない」

正面から結標淡希を見据えて、私は言った。
それでも彼女は余裕綽々といった感じの表情を崩さない。

「それは残念ね。出来ることなら穏便に済ませたいのだけど」

無理な話ね、と口にしつつ、この場から如何にして逃げ出そうか考える。
普通の喧嘩なら望むところだけど、殺し合いに直結する高位能力者同士の喧嘩なんて、したくもない。

「そんなことはないわ、御坂さん。だって貴女は数少ない私の同類ですもの」
「同類?」

ええ、と優雅に肯いて結標淡希は応える。

「貴女も私も、特別な力に人生を狂わされた」

辛そうに、本当に悲しむように彼女は語る。

「こんな力さえ無ければ、普通の女学生として、普通の生活を楽しめたかもしれないのに」

苦しげに呟いて、彼女は掌を自分の胸に押し当てた。

「なのに、どうして貴女は笑っていられるのかしら」

ぐ、と胸を掻き毟るように、掌が力を帯びていく。

「この街の裏側を知っているのに、どうして一介の女学生の真似事を続けていられるのかしら」

軽蔑するような眼差しで、結標淡希は私を見た。
何か、絶望的なまでに危険な空気が張り詰めていく。

「DNAマップを渡しなさい、御坂さん。私、貴女とは争いたくないわ」

そう告げて、くすりと彼女は笑った。

「嫌よ」

短く、私は答えた。
結標淡希は、小さく溜め息を吐いた。

「仕方ないわね。貴女とは気が合うと楽しみにしていたのに。そんな気がしない?」
「全然。全く。これっぽっちも」

私は即答する。
ふふ、と彼女は笑った。

「そうかしら。私と貴女、とても似ているのに。望んでもいない力に翻弄されているところなんて、特に」

肩の辺りの空気が動いたように感じたのは、その直後だった。


反射的に後ろへ跳ぶ。
すると、何も無い中空にワインのコルク抜きが突如として現れた。
動き出すのが一瞬でも遅れていたら、私の肩に食い込んでいたことだろう。


目標を失ったコルク抜きが地面に落ちて、からんと音を立てる。

「え」

そんな声を洩らしたのは、結標淡希の方だった。

「どうして」

明らかに動揺している。逃げるなら、今しかない。
けれど予想に反して、彼女の動揺は一瞬で終わってしまった。
踵を返そうとしてすぐ、再び異変が現れたのだ。
周囲の空気が震えたかと思うと、軽く十本は超えるコルク抜きが一斉に現れ、私に突き刺さった。


両肩と二の腕、太腿に加えて脇腹まで。
咄嗟に身体を捻って回避を試みたものの、いかんせん数が多過ぎた。
結果、全てを避けることは叶わず、六本ものコルク抜きがその身に食い込んだ。
あっと言う間に傷は痛みを通り越し、どんどん熱くなってくる。
少しでも力を抜けば、地面に膝をつけてしまいそうになる。


マズイ、と内心で舌打ちをする。
思っていたより遙かに、結標淡希の能力は厄介だ。
直接触れなくても、ただ思い描くだけで至る所に対象を転移できるなんて。
大能力者と認定されている黒子ですら、自身以外を転移させるには対象への接触が必要不可欠だというのに。

「貴女」

何なの、と結標淡希は洩らす。

「転移先が予め分かっていたみたいだけど」

信じられないものを見るような目で、彼女は私を見ている。
絶対的に有利な状況にある人間の態度とは、とても思えない。

「教えてもらえるかしら、御坂さん」

一歩、結標淡希が前へ出る。
それと同時に、今の今まで黒一色だった世界で光が爆ぜた。
突如として、世界が白く塗りつぶされる。

「な……!?」

戸惑った声を上げる結標淡希。
どうやら彼女にとっても、この事態は予想外だったようだ。

「これは、一体……」

先程の光で、何も見えなくなっているらしい。
かく言う私も、全く同じ目に遭っているのだけど。


これは多分、閃光弾だ。
眩い光で相手の視覚を奪い取る手榴弾。
以前、実際に受けたことがあるから分かる。

「御坂」

声が聞こえる。

「撤退しますよ」

私の身体を誰かが抱き上げる。
おお、と別の誰かが歓声を上げる。

「お姫様抱っこなんて、見せつけてくれるワケよ」
「非常時にふざけたこと言わないで下さい」

この声、間違いない。
絹旗さんと、フレンダさんだ。

「彼氏を差し置いてナイトになった気分はどうなのさ」
「それ以上、無駄口叩いたら本気で殴りますよ」

最強の空間移動能力者から、辛くも逃れることが出来て。
走りながら叫び合う二人の声に紛れさせて、私はそっと息を吐くのだった。












「私達、仕事で第一位の跡をつけていたんですけど」

背中を丸めた姿勢でゆったりブランコを漕ぎながら、絹旗さんは窮地に立たされた私を如何にして見つけたのかを打ち明けてくれた。

「尾行に気づかれ、振り切られてしまった所で丁度、御坂が結標淡希と戦っていまして」
「へえ、そうだったんだ」

関心なげに答えた私だったけど、実際は背中を預けているジャングルジムからずり落ちそうなほど驚いていた。


ブランコに座ったまま、

「依頼内容を話したこと、麦野には内緒ですよ」

と、人差し指を立てる絹旗さんの姿は妙に可愛らしくて。
それでも、胸の内で膨らむ不安を紛らせるには至らなくて。


学園都市第一位である『一方通行(アクセラレータ)』が、あの場にいた。結標淡希に会う為に。
推測でしかないけど、でも、間違ってはいないと思う。
私に用があるなら、きっと正面から堂々と会いに来るはずだ。


あの『一方通行』が何故、結標淡希を探していたのか。
彼の尾行を絹旗さん達に依頼した人物とは一体、誰なのか。
訊いてみたが、二人も依頼人について知っていることは全く無いそうで。
学園都市第一位の動向を追ってほしい、と。たった一言、電話越しに告げられたそうで。


絹旗さんが前後に揺れる度に、古いブランコはきいきいと甲高い音を立てる。
視力を取り戻した時には、この場所に辿り着いていた。
ブランコとジャングルジムの他に遊具の無い、小ぢんまりとした児童公園。
そこで応急手当をフレンダさんから受け、今に至るワケである。

「それにしたって反則じみた強さだよねえ、空間移動って」

公園の入口で辺りの様子を窺っていたフレンダさんが、へらへらと締まりの無い笑みを浮かべて近づいてきた。

「彼氏さん、その傷を見たら吃驚するよ」

すぐ側まで来たかと思ったら、私の顔を無遠慮に覗き込んできた。

「結標淡希を殴り飛ばしに行っちゃうかも」

あはは、と乾いた笑みで応える。


当麻の性格を考えると、やりかねないだけに否定は出来なかった。

「んー」

上目遣いで私を見つめていたフレンダさんが、おもむろにジャングルジムに手をかけた。
軽やかな身のこなしでジャングルジムを登っていく。速い。
細い鉄枠に両足を置いて遊具のてっぺんに立ったフレンダさんは、その場で大きく伸びをした。

「ちょっと、危ないですよ」

脚を広げているので、フレンダさんのスカートの中は丸見えだ。
ストッキングを穿いているとは言え、あまりに無警戒な大股開きには、むしろこちらが恥ずかしくなってしまう。
何より、今にも転落してしまいそうで見ていられない。

「高い所って、やっぱり格別なワケよ」

頭の上で、フレンダさんは誇らしげに言った。

「その気持ちは分からなくもないですけど、立つのは止めて下さい。危ないですって」
「大丈夫だって。ほら」

そう言うとフレンダさんは、細い鉄棒の上を二本の足で器用に歩き回った。

「とにかく降りて下さい」

こちらの足が竦んでしまう。

「もう鯖料理、作ってあげませんよ」
「それは困る」

フレンダさんはジャングルジムの上を歩くのを止め、地面までするすると降りてきた。

「でもね御坂。こんなもんじゃないんだよ」

降りてくるなり、鋭い瞳でこちらを見据えるフレンダさん。

「アンタの彼氏は、もっと危険な目に遭うかもしれないんだよ」

彼女の言わんとしていることは、ちゃんと理解できた。

「当麻が狙われる可能性もあるってことですね」

その可能性は決して零ではない。むしろ高いくらいだ。
有利な状況を作り出す為、学園都市の連中が当麻と私の関係性を利用しないはずがない。

「大能力者クラスの奴らが寄って集って上条当麻を捕らえにかかる可能性も捨てきれないワケよ」

彼女の意見はもっともだ。
だけど、ううん、だからこそ私は多くを語らなかった。

「そうかもしれませんね」

と、薄く笑みを浮かべて返すだけ。


それを見て、フレンダさんは意外そうに顔をしかめる。

「御坂、驚かないの?」
「え?」
「アンタの彼氏に身の危険が迫っているかもしれないって言ったんだよ、私は」
「まあ、そんな気はしていましたから」

淡々とした口調で答えると、フレンダさんは怪訝そうに眉をひそめた。


携帯電話を見ると、既に時刻は午前三時を過ぎていた。

「じゃあ私、行きますね」

ジャングルジムから身体を離し、私は言った。
そろそろ帰って寝ないと、明日の競技で満足に動けなくなってしまう。
それに結標淡希との再戦も近い内に必ずある。
身体の調子は万全にしておくべきだろう。

「ありがとう」

二人に背を向けたところで、出し抜けに言った。

「何が」
「助けてくれて」

フレンダさんの問いに対して間髪入れずに答え、私は振り返った。

「ありがとう、二人共」

お辞儀をして歩き出す。

「御坂」

急ぐ背中が、

「大覇星祭が終わったら映画鑑賞に付き合って下さい。約束ですよ」
「鯖料理の方も、お願いしたいワケよ」

なんて、さよならを聞いていた。











[20924] 第101話 大覇星祭編⑫
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/06/23 00:20
視力が完全に回復するのを待って、私は霧ヶ丘女学院の学生寮に向かった。
と言っても、空間転移で一瞬の内に自分の部屋の前まで辿り着いたのだけど。
ドアのノブを回し、その身を中へと滑り込ませる。


呼吸のリズムがおかしくて、目眩がする。
壁に寄りかからないと、巧く立っていられない。
おそらく、原因は御坂さんだろう。


学園都市第五位のおかげで、私は確かに強くなった。
自身を転移しても、吐き気に襲われることがなくなった。
集中力も演算速度も上がり、思い描いた地点にすぐさま対象を送り込めるようになった。
それなのに、どうして御坂さんは転移先を読めたのだろうか。
トラウマを克服した私に敵う相手なんているはずがないのに、どうして。


答えの無い問いに苦しみながら足を進ませる。
玄関から廊下へ。廊下から寝室を兼ねた居間へ。


電灯を点けていないから、部屋は真っ暗だ。
闇の中で、自身の荒い息遣いだけが聞こえる。
明かり。そうだ、明かりだ。暗いから不安になる。


――えっと、スイッチは……。


蛍光灯のスイッチを求めて、壁を手探りで調べていく。と、その時、玄関のドアが開く音がした。
誰かが入ってきた、と身構えるよりも早く、侵入者は電気を点けて部屋のドアを開けた。
足音も立てずに、けれど、これ以上ないという程の存在感を持って、その人物はやって来た。


侵入者は男性だった。
その肌も髪も、まるで雪のように白い。
しかし目は。ぼんやりとこちらを見つめる瞳は爛々と赤く輝いている。

「何してやがるンだよ、電気も点けずに」

同級生を非難するような冷たい口振りをすると、上下黒一色という服装に身を包む彼は部屋のドアを閉めた。
そのまま脇にあるソファに腰を下ろすと、片手に持っていたコンビニのビニール袋にがさがさと手を突っ込んだ。

「飲むか?味は保証するぜ」

ぽい、と缶コーヒーを放ってくる。


何が起きているのか分からず立ち尽くしている私を無視して、彼は袋から出したもう一本の缶コーヒーを傾けている。
膨らみ方から察するに、袋一杯に入ったそれは全て缶コーヒーであるらしい。


私は冷たい缶コーヒーを両手に持って、理性を総動員させた。
この男は、あの御坂さんですら手も足も出なかった学園都市最強の超能力者。
半年足らずで学園都市第三位のクローンを一万以上も手にかけた、生粋の殺人鬼。
そんな彼は今、ソファに身を沈め、早くも二本目の缶コーヒーに口をつけている。
勝手にテレビまで点けて、まるで自分の部屋であるかのようにくつろいでいる。


少なくとも私を殺しに来たワケではないらしい。
そのつもりなら、とっくに私は亡き者にされている。
でも、だったら何をしに来たのだろうか。
学園都市総括理事長直属の部下である私に手を出せば、第一位と言えど無事では済まされないことぐらい分かっているはずなのに。

「貴方、ヤバイ人間なのね」

自分自身を棚に上げ、そんなことを口にする。
すると彼、『一方通行(アクセラレータ)』は大声で笑い出した。

「ヤバイ、ヤバイと来たか。いいセンスしてるじゃねェか。ぐっときたぜ、全く」

『一方通行』は真剣に笑っている。
バラバラに切られた白髪が乱れて、私には本当にヤバイ人間にしか見えなかった。

「そうだな。この界隈じゃ俺ぐらい物騒な奴は二人といない。でもテメエだって同じだろ。いきなり他人様の身体にコルク抜き捩じ込むなンて、まともな人間に出来る芸当とは思えねェ」

含み笑いをして、学園都市第一位の男が私を見上げてくる。

「話はそれだけか」

どこか危うい穏やかさを持った顔は、新しい玩具を手に入れた子供に似ていた。

「いえ、もう一つ」

不法侵入中の彼を睨みつけ、訊ねる。
同類とみなされたのは心外だったけど、そのことに関しては口にしない。
この男の機嫌を損ねてはいけない。私だって、命は惜しい。

「どうして私を訪ねてきたのかしら」

『一方通行』は少しだけ考え込んでから、妙なことを訊ねてきた。

「芳川桔梗って、知ってるか」
「絶対能力進化実験の責任者の一人よね。つい先日、自殺してしまったけど」

知っていることをそのまま口にすると、『一方通行』はつまらなそうな顔で、

「ふゥん」

と、相槌を打つだけだった。

「それがどうしたって言うのよ」
「アイツは自殺を選ぶような人間じゃねェ」

『一方通行』は鋭い瞳でこちらを見据えた。

「テメエの人生を途中で諦めるような奴じゃねェんだ」

彼の言いたいことが、何となくだけど分かった。

「芳川桔梗は誰かに殺された、とでも言いたいのかしら」

訊ねると、『一方通行』は顔を伏せた。
その通りだ、と態度で答えているようなものだった。

「そっか。仇を討つつもりなのね」

意外だった。この殺人鬼が他人の為に動こうとしているなんて。
だけどまあ、芳川桔梗と彼との関係を考えれば当たり前なのかもしれない。
この殺人鬼と人間らしい意志疎通を取れていたのは、おそらく彼女以外にはいなかっただろうから。


長らく学園都市の裏側で働いてきたのだ。
この程度の情報だったら、幾らでも手元に入ってくる。

「何を言ってンだよ、テメエは」
「え?」
「俺はな、あの女が殺された理由を知りたいだけだ。そもそも何だよ、仇討ちって。アイツなんかの為に割いてやる時間なンざ、これっぽっちも持ち合わせてねェよ」

ぴしゃり、と言い切って彼は再びコンビニの袋に手を入れる。
取り出したのは、またもや缶コーヒー。これで三本目だ。

「芳川桔梗の殺された理由を知って、どうするの?」

仇なんて討つつもりはない。だとすれば、彼が芳川桔梗の死の真相を求める理由は何なのだろうか。

「別に何も。強いて言うなら暇潰しかね。他にやることもねェし」


――何よ、それ。


思わず口走りそうになるのを、寸でのところで堪える。


いくらなんでも、そんなバカみたいな理由があるものか。
確かに今、私の神経は酷く擦り減っているけど、そんな言葉に引っかかるほど疲れ切ってもいない。
その証拠に、彼が嘘を言っているのかどうかくらい見抜いてみせる。


ごくごくと音を立ててコーヒーを飲む学園都市第一位を睨む。
それを彼はまるっきり気に留めない。無視するのとは違う、堂々とした自然さだ。


嘘でしょ、と声にならぬ声で呟く。
困ったことに、彼が全くの本音で話していることに疑う余地が無い。

「で、どうなンだよ。何か知ってンのか」

リモコンでチャンネルをあちこち回しながら、『一方通行』が訊ねてくる。

「学園都市の第六位様は」

その一言に、私は顔を顰めた。

「その呼び方は止めて」
「何でだよ。事実じゃねェか」
「今の私は超能力者じゃない。そんな肩書き、とうの昔に剥奪されたわ」

二年前、転移座標の計算に失敗してしまったせいで。
壁にめり込んだ自身の足を、考えなしに引き抜いてしまったせいで。
超能力者として正式に登録される直前の出来事だったので、私が第六位としてほんの一時でも認められていたことを知る人間なんて片手で数える程しかいないのだけど。


それにしても、今になって考えてみても不思議でならない。
あの時、どうして私は転移に失敗したのだろうか。
演算自体は呼吸するのと同じぐらい、単純なものだったのに。


肩を竦めて話を終えると、失礼なことに『一方通行』は声を上げて笑い出した。

「何よ。今の話に可笑しいところなんてあった?」

頭に来たので、目を細めて睨みつける。
と、『一方通行』は笑いをぴたりと止めて私を見つめてきた。

「知らねェってのも、一種の救いなのかね」

ワケの分からないことを彼は口にする。
けど、それは何か、とても意味のある言葉であるように感じる。

「まあ、いい。今日のところは切り上げてやる」

テレビを消し、立ち上がる『一方通行』。

「それより第六位。アイツに手を出すのは止めておきな。大怪我するぜ」

彼の台詞は、私の中途半端な思考を止めてしまうほど意外だった。


彼の言うアイツとは、御坂さんであると考えてまず間違いないだろう。
確かに彼女の能力は厄介だ。不完全とは言え、私の指定した転移先を読めるみたいだから。
でも、それを踏まえても私が手を引く理由は見当たらない。


先程の戦いでは、常に私が主導権を握っていた。
邪魔さえ入らなければ、あのまま仕留めることだって出来た。
なのに、どうして私の方が痛い目に遭うなんて言い切るのだろうか。

「気のせいかしら。私では御坂さんに勝てないと言われたような気がするのだけど」

目を更に細くして睨みつけても、彼は顔色一つ変えずに肯くだけ。

「そう聞こえたンなら、テメエの脳は正常だ」

『一方通行』は踵を返す。
部屋のドアを開けたところで、首だけをこちらに振り向かせる。

「邪魔したな」

それだけ言うと、彼はドアを閉めた。
死んだように静まり返った部屋の中で私は一人、立ち尽くす。
あとに残るのは空っぽになったコーヒーの缶が四本。
それと『一方通行』が言い放った言葉だけ。
アイツに手を出すのは止めておきな、という忠告めいた台詞だけ。

「違う。私は負けない。私の方が強い」

泣くように私は呟いた。
寒くもないのに、身体が震え出す。


第五位の能力に頼ったとは言え、私はトラウマを克服した。
第一位や第二位が相手ならばともかく、電撃使いに過ぎない御坂さんに負けるはずがない。
仮に追い詰められてしまったとしても、その時は逃げ出せばいいだけ。
御坂さんを倒してほしいと依頼されたワケではないのだから。


そう何度も言い聞かせても、身体の震えは暫く止まってくれなかった。











[20924] 第102話 大覇星祭編⑬
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/07/07 20:50
九月二十五日。大覇星祭最終日の朝。
首位を走るのは常盤台中学だけど、僅差で長点上機学園が迫っているので油断できない。


インデックスを中に残したまま、私は学生寮の門をくぐり抜けていた。
結標淡希から連絡なり接触なりといったものは今日まで一度も無いが、近い内に必ず私の前に現れるはずだ。
学校指定の体操服の上にパーカーを羽織って、緊張した面持ちで外に出る。
すると、そこには見知った顔が私を待ち受けていた。

「電話してくれれば、すぐに出てきたのに」
「ちょっとな、待ち惚けってやつをしてみたい気分だったんだ」

だから仕方ないだろ、と当麻は肩を竦めた。
その仕草に、私は知らず安堵の吐息を洩らしていた。
こうして二人きりで会うのは、随分と久し振りな気がする。

「朝御飯、まだだよね。付き合ってよ。話しておきたいこともあるし」

言って、私は手を差し出す。


当麻は穏やかな笑みを浮かべ、その手を取ってくれた。












パンと飲み物を買って、私達はコンビニを後にした。
結標淡希の話をしながら、故障気味の自動販売機が置かれた公園に向かう。
久し振りに訪れた二人きりの時間。それを満喫したくて、当麻にぴったりと寄り添って歩く。

「でもさ。どうして『一方通行(アクセラレータ)』は結標淡希に会おうとしたんだろうね。当麻が聞いた話と何か関係があるのかな」

気になっていることを口にすると、当麻は難しい顔つきで肯いた。

「だと思う。あの実験で胸を痛めたって点は、アイツも同じだしな」

私は応えない。
当麻も、それ以上は話しかけてこない。
私達は暫く無言のまま、人気の無い住宅街を歩いた。


長い沈黙と思案の後、当麻は呟いた。

「俺にもっと、力があれば」

喉から絞り出すように、か細い声で。

「お前の隣に立てるぐらいの力があれば」

ぎり、と歯を食い縛る音が聞こえた。

「当麻」

そんな彼の名前を呼び、振り向いたところでデコピンを見舞ってやる。

「何を言うかと思えば」

おでこを押さえて痛がる当麻を横目で眺めながら、呆れつつも告げる。

「とんでもない勘違いだよ、それ」

私の言葉に当麻は首を傾げて考え込んでしまう。
それも当然か。恐らく無意識の内に、こなしているのだろうから。
記憶を失う前の彼は、もしかしたら理解していたのかもしれないけど。

「綺麗に決まったよね、今のデコピン」

にこりと笑って、私は言った。
いきなり答えを明かすような真似はしない。
これは当麻の能力なのだ。彼自身にも少しは考えてもらわないと。

「電撃だったら、絶対に防がれていただろうけど」

勿論、電撃だけではない。磁力でも、電磁波でも。
私の持つ最高の手札である荷電粒子砲ですら、当麻には効かないだろう。
どれだけ不意を突いても、彼は必ず反応して右手を翳すだろう。
もっとも、それを証明するつもりなんて、これっぽっちも無いのだけど。
当麻を傷つけるような真似なんて、もう二度としたくないから。

「何だよそれ。新しい謎かけか?」

さあ、と私は惚けてみせる。

「どうだろうね」

私の返答に、更に深く考え込んでしまう当麻。
そんな彼の隣で、私は口元に笑みを浮かべたまま歩き続ける。
二人だけの心地良い時間を、もう少しだけ堪能していたかった。


気がつけば、私達は公園を通り越して見知らぬ道を歩いていた。
顔を見合わせて、互いの不注意さに溜め息を吐く。

「御坂さん」

その時だった。

「ちょっと付き合ってもらえるかしら」

先日の露出狂じみた格好とは違い、霧ヶ丘女学院の制服にしっかりと身を包んだ結標淡希が現れたのは。












美琴と別れてから、目的も無く街を歩き回った。


本音を言えば、俺も一緒に行きたかった。
危険な目に遭うと分かっているのに、独りで行かせたくなんてなかった。
だけど、他でもないアイツ自身に止められた。

「フォークダンスが始まるまでには戻るから」

なんて、とびっきりの笑顔で言われたら何も言い返せなかった。


大覇星祭の締め括りとして盛大に行なわれるフォークダンスで一緒に踊ろうと、約束を交わしたのが八月三十一日。
夏休み最後の日。あれから俺は、少しでも美琴に釣り合うだけの男に近づけているのだろうか。


祭りの最終日とあって、街は普段以上の活気に満ち溢れている。
誰もが佳境を迎えた大覇星祭に浮かれている中、俺だけが独り、冷めていた。
出場するべき種目が今日は一つも無かったのが、せめてもの救いだった。
行事を楽しむ余裕なんて、今の俺は持ち合わせていなかった。


昼が過ぎて、さすがに歩き疲れてきた。
適当なベンチに腰を下ろし、片手に提げていたビニール袋からホットドッグとコーヒー牛乳を取り出す。
コーヒー牛乳は、すっかり温くなってしまっていた。
当然だ。これを買ったのは二時間以上も前なのだから。


お世辞にも美味いとは言えない食事を終えても、俺は立ち上がらなかった。
ベンチに座ったまま、ぼんやりと時間を過ごした。人通りは激しさを増すばかりだった。
歩道には人が溢れ、信号が青になれば車を塞き止める勢いで横断歩道に人波が流れていく。
みんな大抵は笑顔か、訳知り顔で前へ前へと歩いていく。そこに迷いなんてものは一切、見当たらない。俺とは大違いだ。


俺は人の波から目を背けて、空を仰ぐ。
相も変わらず雲一つない青空。今の俺には眩し過ぎる。


ふと、先程の美琴の台詞を思い出す。
力があればと嘆いた俺に、アイツは答えた。
とんでもない勘違いだよと、たったの一言で。


美琴は何を思って、勘違いなんて言葉を使ったのだろうか。
俺の実力では魔術師や高位能力者と渡り合うことは出来ない。それは疑いようの無い事実。
俺には圧倒的に力が足りない。美琴の隣に立つなんて、夢のまた夢。
今だって、アイツの為に何もしてやれない。


空を見上げることにも飽きて、再び街を眺める。
人波は依然として途絶えることを知らない。
俺の心なんて無視して、ひたすら前へと進んでいく。

「上条さん」

声をかけられ、正気に戻る。
肩越しに振り向くと、そこにはテレポート女が立っていた。
お姉様、と美琴のことを呼び慕う常盤台中学の一年生で、本名は白井黒子。
大覇星祭の最中であるにも関わらず、体操服ではなく制服に身を包んでいる。

「少しお時間、頂けないでしょうか」

表情の無い顔で、彼女は訊ねてきた。

「大事な話があるのですが」












早足で歩く白井の背中を追う。


ついてきて下さい。
そう告げてから、白井は一言も口にしない。
人通りの少ない方に向かって、ひたすら歩みを進めるだけ。
胸の中に、嫌なイメージが湧き上がる。
このままだと酷く危険な目に遭うな、という予感に苛まれながらも、逃げ出そうという気にはなれなかった。


住宅街に足を踏み入れる頃には、全くと言っていいほど人とすれ違わなくなった。
それでも白井の足は止まらない。小さな路地へ曲がり、祭りの喧騒からどんどん遠ざかっていく。


歩き出してから二十分は過ぎただろうか。
真ん中に大きな池のある公園に、俺達は辿り着いていた。
微かに流れる風で、水面が音も無く揺れている。
白井のツインテールもまた、同じように揺れている。

「なあ、そろそろいいだろ」

池を半周したところで、前を行く背中に声をかけた。

「大事な話ってやつ、そろそろ聞かせてもらえないか」

ぴたり、と白井の足が止まる。

「あれ」

きょろきょろと辺りを見回す白井。

「ここは、一体」

おまけに妙なことまで口走ってくれる始末。

「白井」

仕方なく、もう一度だけ呼びかけてみる。
白井は俺に視線を寄越すと、あからさまに眉を顰める。

「上条さん」

俺の名を囁く声には微かな敵意が存在した。

「良ければ説明してもらえますか。どうして私が貴方なんかと一緒にいるのか」

問い詰める声に対し、ありのままに俺は答える。

「お前がここまで連れて来たんだよ。大事な話があるって言ってさ」

白井が息を呑む。

「私が?」

その目が驚きに見開かれる。
まさか覚えていないのだろうか。
俺に声をかけたことも。人気の無い場所まで連れ出したことも。

「御苦労様」

突然に。公園の入口から、そんな言葉が投げかけられた。
犬型のロボット達を引き連れ、声の主は親密気な笑顔を浮かべて近づいてくる。
数えてみれば、それは三十匹を超えていた。

「早速だけど、君はもう用済みだ」

そう言い終わるよりも早く、ロボットの一体が白井に体当たりを仕掛けていた。
速い。『風紀委員(ジャッジメント)』として戦闘の訓練を積んでいる白井が反応すら出来なかった。
鋼鉄の塊による突撃を正面から受けた白井は、公園の大部分を占める池の上まで吹き飛ばされて。


一呼吸の後、盛大な水飛沫が上がった。
しかしそれも、数秒の後には元の落ち着きを取り戻す。
白井は浮かんでこない。浮いてくる気配も見せない。

「一緒に来てもらうよ。上条当麻」

少々太り気味な身体を揺らし、声の主である男は言った。

「君の力を欲しがっている人がいるんでね」

柔和な笑みを崩さぬまま、ロボット達を引き連れて俺との距離を詰めてくる。

「しかし分からないな。どうして君なんかが学園都市第一位に勝てたのかね」

じりじりと距離を縮めつつ、男は語り出す。

「聞けば、御坂美琴も君には負け続きだそうじゃないか。全く、情けないにも程がある。あの女も所詮、世間知らずのお嬢様に過ぎなかったワケだ。まあ、誰かの為になんて格好つけている時点で、彼女の底は知れているけどね」

自分でも僅かに聞き取れるぐらいの音で歯軋りをすると、俺は知らずソイツを睨みつけていた。

「テメエ」

前方には犬型ロボット。背後には池。
どこにも逃げ場が無いとか、まるで勝ち目が無いとか。
そんなことは正直、どうでもよくなっていた。
今はただ、この男を一発でも殴ってやりたい気持ちでいっぱいだった。
美琴を侮辱したコイツに、一撃でも見舞ってやらなければ気が済まなくなった。


玉砕覚悟で拳を握り、一歩を踏み出そうとして。
そして、池から派手な音を立てて何かが飛び出した。


ツインテールを施した、肩より長い金色の髪。
右腕に付けているのは、この街の平和を守る『風紀委員』の証である腕章。
彼女の手の中には意識を失っている白井が抱えられている。
ぐったりとしているものの、命に別条は無さそうだ。

「お待たせ、お兄ちゃん」

俺の隣に着地した那由他はそう言って、にこりと笑ってみせるのだった。











[20924] 第103話 大覇星祭編⑭
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/08/24 00:27
意識の無い白井先輩をお兄ちゃんに預け、犬型ロボットの群れと対峙する。


――良かった、間に合って。


実を言うと、数日前から白井先輩の異変に気づいていたのだ。
先輩自身のAIM拡散力場の他にもう一つ、全く別の力場が微弱ながら流れているのが視えていた。
なのに、先輩は普通だった。異物が流れ込んでいるのに、気にした様子をまるで見せていなかった。


何か仕掛けられているな、と思った。
そう遠くない内に、誰かが先輩を利用するつもりなのだ。
確証は無いけど、確信は充分過ぎる程にあった。
だから以前、お姉ちゃんの動向を窺っていた時と同様の手を使った。
学園都市中に設置された監視カメラの制御を一時的に奪い、先輩を見張っていたのだ。
そして怪しい動きを見せたところで現場へと急いだのだが、どうやらそれで正解だったみたいだ。

「暴行及び傷害の現行犯で拘束するよ、お兄さん」

感情を押し殺し、低い声で呟く。

「言ってくれるね、お嬢ちゃん。冗談としては上出来だ」

余裕の笑みを崩さない小太りのお兄さんを、私は冷ややかに見る。
巡らす視線の先には、お兄さんを守るように佇む犬型のロボット達。
大能力者の白井先輩に対し、瞬間移動による回避も許さなかった程の速度は確かに油断ならない。
だけど、それだけだ。あの程度なら恐れるに値しない。私の方が間違いなく速く動けるのだから。


まずは自分との実力差を相手に思い知らせようと身構えた、正にその時。
いつの間にか、二体のロボットが目の前にまで迫っていたのだ。
口の部分に取り付けられた鞭をしならせ、襲いかかってくる。
紙一重で避けたが、直後、額に汗が滲んだのが自分で分かった。
標的を見失った鞭は叩きつけた地面を深く、深く抉り取ったのだ。
直撃を許せば、サイボーグの身体を以てしても無事で済みそうにない。


その点だけでも厄介なのに、更に、

「なっ……!?」

避けた瞬間、再び私は驚く羽目になる。
ロボット達は私の動きに対して機敏に反応し、即座に向きを変えて鞭を振るってきたのだ。
先程とは段違いの速さ。私の最大出力と、その速度はほとんど変わらない。


一撃で勝負を決めかねない重い一撃が、息つく間もなく撃ち出される。
ロボット達の連撃を避けながら、私は何とか反撃を繰り出す。
だけど効かない。硬過ぎる。殴ったこちらの方が壊れてしまいそうだ。

「最初の威勢はどこに行ったのかな、木原那由他」

名前を呼ばれ、思わず顔を向ける。

「君のことは調査済みだ」

ニヤリと口の端を歪ませ、小太りのお兄さんは得意げに語り出す。

「機械の身体とAIM拡散力場を視覚的に捉える能力を併せ持つ、学園都市が誇る科学力の中枢を担う木原一族の異端児。だけど君も察している通り、このロボット達は君の義体よりも高性能だ。その上、無能力者の僕に対して君の能力は何の役にも立たない」

見る者を不快にさせる嫌らしい笑みで、そう断言される。

「大人しく上条当麻を渡せば痛い目を見なくて済むよ」
「痛い目、ね」

皮肉に言いながら、私は目の前にいる自信過剰な男を見た。
その背後に侍る、主人の命にのみ忠実に従うロボット達を見た。

「気に入らないな、その目」

我儘な子供のように、お兄さんが言う。

「全く、困ったお嬢ちゃんだ。万に一つも勝ち目は無いって言うのに」

そしてまた、あの嫌らしい笑みを浮かべる。

「どうやら想像力の無い人間は実際に体験しないと理解できないらしい」

その言葉が合図だったかのように、再び二体のロボットが跳びかかってきた。












高層ビルの屋上から別のビルの屋上へと跳び移って、結標淡希の後を追いかける。
空間転移を繰り返して移動する彼女は速く、なかなか距離が縮まらない。


追いつくことは出来ず、かと言って振り切られることもなく。
大覇星祭の喧騒から次第に離れていき、やがて第二十三学区に辿り着く。
すると結標淡希は一切の迷いも無く、この学区において唯一の出入り口であるターミナル駅へと入っていった。
学園都市中の全線をかき集めた故に、国際空港並みの広さと複雑さを持つその駅に。


学園都市内において最も機密性が高く、大覇星祭の期間中においても一般公開が唯一許されていない第二十三学区。
祭りの最終日ということも手伝って、この学区には現在、私達二人を除けば誰一人としていないようだ。
だけど、それだけが理由であるとは到底思えない。いくら何でも静か過ぎる。


罠だということは誰の目から見ても明らか。
だけど、ここまで追ってきて何もせずに戻るのもバカらしい。
私は一度だけ溜め息を吐いて、ターミナル駅の自動ドアを潜った。


薄暗い駅の中に結標淡希は独り、佇んでいた。
背後で扉の閉まる音を聞いて、私は彼女と向かい合う。

「懲りない人ね、御坂さん」

お気に入りの下級生を窘めるような雅な口調で、結標淡希は言った。
けれど、私にはそれが芝居じみた物にしか聞き取れなかった。

「この嘘吐き。出来ることなら穏便に済ませたいなんて言ったくせに」
「仕方ないわ。貴女が協力してくれないのだから。聞き分けの悪い後輩には躾をしっかりとしてあげないといけないでしょう」

にこり、と結標淡希が笑う。
そんな彼女を私は、ただ黙って見据えるだけ。

「DNAマップを渡しなさい、御坂さん」

言って、彼女はこちらに向かって一歩を踏み出す。

「大丈夫、心配することは無いわ。今まで不完全なクローンしか作れなかった理由は、単に貴女の同意を得ていなかったから。統括理事長も言っていたわ。想いの強さが能力に直結するんだって。だから今回は成功する。貴女の意思でDNAマップを提供してくれれば、必ず。そして貴女は能力者として、更に特別な存在になれるのよ」

どこか思い詰めたように、結標淡希は語る。


私はただ、首を横に振った。

「特別なんて要らない。アンタだって、そう思ってるんじゃなかったっけ」
「バカね、あんな言葉を信じたの。嫌なワケがないでしょう?この能力のおかげで私は特別になれたのよ。普通の人間には到底出来ないことだって出来るようになった。あの女に借りを作る羽目になったけど、私はようやく、なりたかった自分に戻ることが出来たのよ」

あの女、とは恐らく食蜂操祈のことだろう。
なるほど、ようやく見えた。結標淡希が私を狙った本当の理由が。

「早く同意した方がいいわよ。さもないと貴女の彼氏、どこかに連れ去られてしまうかもしれないから。上条当麻、だっけ。彼の力も特別らしいわね。科学者、特に木原幻生は随分と気にかけていたわ。まあ、私にはどうでもいいことだけど」

肩を竦めて、彼女はそんな風に話を締め括る。

「アンタの彼氏は、もっと危険な目に遭うかもしれないんだよ」

そう、フレンダさんは言っていたけど。

「あら、驚かないのね。貴女の呆然とする顔が見たかったのに。おかしいわね。どうして驚かないのかしら」

結標淡希は不思議そうに訊ねる。


――だって、そんなことは。


「分かっていたわよ、初めから」
「え?」

呆然としたのは、彼女の方だった。


そう。そんなこと、結標淡希に初めて会った時から分かっていた。
あの夜、無理にでも私を捕らえようとしなかった時点で勘付いていた。
情報を操作して、こちらの目を欺こうとしていたことも。
当麻から私を遠ざけて、すぐには助けに行けない状況を作ろうとしていたことも。


それでも。普通の生活を送りたいという彼女の言葉に、嘘は無いと思ったのに。
せめて愚痴くらいには、とことん最後まで付き合ってあげようと思っていたのに。

「だったら、どうして私を追ってきたのかしら。彼氏が危険な目に遭うかもしれないと分かった上で」

動揺を隠し切れていない声。
それに応じるよりも先に、彼女は一つの答えに辿り着いた。

「木原那由他ね」

小さく、掠れるような笑い声と共に、結標淡希はそう呟いた。

「残念だけど、彼女への対策は既に練ってある。期待するだけ無駄よ」

くすり、と嬉しそうに小さな微笑を零す結標淡希。

「上条当麻の元に向かったのは、木原那由他にとって最も相性の悪い相手なのだから」

何の反応も示さない私に、更に言葉を重ねてくる。

「負けを認めなさい、御坂さん。貴女だけが上条当麻を救えるのよ」

誘蛾灯に誘われる虫のように、結標淡希は私に歩み寄る。
そんな彼女から目を離し、私は小さく溜め息を吐く。

「負けない」

仕方なく、口にする。


言葉の意味が分からなかったのか、結標淡希は立ち止まって目を瞬かせる。

「何、ですって」
「対策を練られたくらいで、あの二人は負けないって言ったのよ」

そう。相手が異能の使い手でなかったとしても、当麻は決して怯まない。
自身の持つ力が全て効かなかったとしても、那由他は絶対に諦めない。
その程度で二人を攻略したつもりでいるなんて、とんでもない思い違いだ。
どんなに辛くても、進むべき道を自分で選んだ二人が簡単に負けるワケがない。

「勿論、私だって」

呟いて、私は前に出た。
特別な力に溺れてしまった先輩の目を覚ましてやる為に。












――嘘だろ、おい。


偵察と戦闘の両方をこなす犬型ロボット、タイプ:グレートデーン。
木原病理とか言う科学者によって改良を加えられた僕の手駒が次々と破壊されていく。
事前調査の結果、負けるはずが無いと確信していた相手に易々と切り刻まれていく。


木原那由他。彼女の能力は他人の能力への干渉と模倣だったはず。
しかし今、そのどちらでも説明のつかない能力を彼女は行使している。


彼女は今、自らの髪を伸ばし、武器にして戦っている。
ツインテールの先端に刃を形成し、迫り来るロボット達に切りかかる。
伸ばした髪は自在に操れるらしく、上条当麻を守りながら実に器用に立ち回っている。


全く、末恐ろしい子供もいたものだ。
予想外の事態も想定に入れ、四十体も用意していたタイプ:グレートデーン。
その半数以上が既に、彼女の振るう刃の餌食となっている。
この調子では持ち駒の全てが破壊されてしまうのも、時間の問題だろう。


だがまあ、そんなことはどうでもいい。瑣末なことだ。
どれだけ多くの駒を失おうと、任務さえ遂げることが出来れば挽回は可能だ。
彼女の使う未知の能力については、ここまでの戦いの中で見極めさせてもらった。
この僕、馬場芳郎の天才的な頭脳に掛かれば造作も無いことだった。


自身の髪を操る能力を使い始めてから十分が経過しようとしている今、木原那由他は随分と苦しそうな顔をしていた。


呼吸は荒く、顔からは大量の汗を流している。
能力を使えば確かに疲労はする。汗だって勿論、流れるに違いない。
だが、あの量は異常だ。しかも彼女は『風紀委員(ジャッジメント)』として多くの実戦経験を積んでいる。
ペース配分を考えず、がむしゃらに能力を行使するような真似はしないはずだ。


これらの状況証拠から導き出される結論は一つ。
木原那由他はペース配分を考えなかったのではない。考えるだけの余裕が無かったのだ。
強化を施されたタイプ:グレートデーンですら容易く切り裂くあの能力は、一流の能力者であり科学者でもある木原那由他を以てしても消費の激しい代物なのだ。


長期戦に持ち込めば、おそらく彼女の方から勝手に自滅してくれるだろう。しかし相手は木原那由他だけではない。
無能力者の上条当麻はともかく、食蜂操祈が操っていた大能力者が目覚めてしまうと厄介だ。
こちらも駒の数に限りがあることだし、戦いを長引かせるのは得策ではない。


――これを使うとするか。


木原那由他に気づかれぬよう、細心の注意を払いつつポケットからカプセルを取り出す。
一見するとシャーペンのように見えるカプセルの中に入っているのは、蚊を模した極小の昆虫型ロボットだ。
タイプ:モスキートと呼ばれるそれは蚊のように飛行して取り憑き、口の針から対象を無力化するナノデバイスを注入する。
相手がサイボーグであろうと関係ない。生身の部分がごくわずかでもあるならば、ナノデバイスは対象をたちどころに行動不能とする。


シャーペンの芯を出すようにスイッチを押し、僕はタイプ:モスキートを起動させた。
豆粒よりも更に小さなロボットは、音も立てずに対象の死角へと回り込んでいく。

「いやあ、なかなかやるね」

パンパンと手を叩いて木原那由他の意識をこちらに向けさせた時、まともに動けるタイプ:グレートデーンは五体しか残っていなかった。

「僕の計算では残り一体になったところで君が力尽きる予定だったんだけど」

肩で息をしながら、木原那由他がこちらを睨みつける。
それこそが僕の狙いであることに、全く気づいていない。

「これでは僕自身が君の相手をするしかなさそうだ」

木原那由他は黙って僕を見据える。
間もなく身体の自由が効かなくなるなんて、きっと夢にも思っていない。

「僕は幼少期から特殊な暗殺術を仕込まれている。家庭の事情でね」

彼女の注意を引き付ける為、僕はハッタリを続ける。


それにしても、お人好しな奴だ。
敵の無駄話に黙って付き合っているのだから。

「公に使うことは禁じられているのだけど、君のような強者が相手では仕方ない」

木原那由他の首筋にタイプ:モスキートが取り憑く。
勝利は決定的なものとなり、僕はニヤリと笑う。

「さあ、楽になるといい」

直後、うつ伏せになって木原那由他は倒れ込む。
ナノデバイスを撃ち込まれ、立っていられなくなったのだ。

「那由他!」

上条当麻が喚く。
何も出来ないくせに、自己主張だけは一人前だ。


まあいい、ゴミクズが何を喋ろうが僕には関係ない。
現時点で任務遂行の妨げと成り得るのは木原那由他だけ。
彼女さえ仕留めれば、僕の勝利は揺るぎないものになるのだから。











[20924] 第104話 大覇星祭編⑮
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2014/01/19 17:34
「随分と歯痒かっただろう。君の能力の射程距離である二十三メートルに、僕が入って来なかったのを見て」

的確な指摘に、私は思わず倒れ込んだ頭を起こした。

「何故それを、とでも言いたげな顔だね」

口の端を上げて、再び見る者を不快にさせる笑顔を作るお兄さん。

「僕くらい洞察力に優れた人間なら、射程距離を見切るくらい造作も無いこと」

得意げに語りながら、お兄さんが歩み寄ってくる。
私は動かない。うつ伏せになったまま、近づいてくるお兄さんを見据えるだけ。

「それだけじゃない。変形を繰り返して誤魔化していたつもりだろうが、同じ形状を維持していられる時間が二分なのもお見通しだよ」

私の目の前で立ち止まるお兄さん。

「さて、どうする」

倒れたままでいる私を、彼は醜悪な笑みを浮かべて見下ろす。

「命乞いでもするか、それとも御坂美琴が助けに来るよう神様にお願いしてみるか」

言って、お兄さんは笑った。

「駄目だね。君に許されるのは軽率に首を突っ込んだ自分を呪うことだけだ」

笑い声さえ、癇に障る。
いい加減、この男の声を聞くだけでも嫌になってくる。
それでも私は動かない。
私の頭を蹴りつける為に振り上げられた足を、ただ睨みつけるだけ――

「――なんてね」

蹴られる寸前、私は身体を横に転がして難なく攻撃を避けた。
バランスを大きく崩し、お兄さんは仰向けになって地面に倒れ込む。
私はツインテールの先端を刃に変え、残っていたロボット達を切り裂く。
全てを片付けたところで、お兄さんの首筋にその内の一本を当てた。

「な……」

お兄さんが、私を見上げる。
勝利を確信していた彼は、現在の状況を把握できず、言葉すら失っていた。
ロボットを全て失ったお兄さんは何も言えず、自らの首筋に当てられた刃に怯えている。

「何で、動けるんだ」

上擦った声で、お兄さんが訊いてくる。
その目に映しているのは間違いなく、私の首筋に止まっているロボット。
細長い針で私の首を刺した結果、その針が抜けなくなり、身動きが取れなくなっている。

「鍛え方の違いだよ、下品な笑顔のお兄さん」

くすりと笑って、自身の首筋を平手で叩く。
衝撃でロボットは呆気なく潰れ、私の首から離れる。
本当のことを教えてあげるつもりなんて、これっぽっちもない。
体内に馴染ませた『未元物質(ダークマター)』のおかげだなんて、親切に教えてあげる義理はない。


自分の髪を自在に操ったり、正体不明の毒を無効化したり。そんな出鱈目も『未元物質』を使うことで可能になった。
『未元物質』を自らの身体と一体化させ、思い描いた通りの変形と肉体の著しい強化を実現させたのだ。
今の私では肉体にしか馴染ませられず、運動能力の底上げには繋げられていないのだけど。でも、いずれは機械の部分にも適応させてみせる。
今よりも『未元物質』を使いこなせるようになって、そして、もっと強くなるんだ。

「拘束するよ、お兄さん」

ふらつく足をこらえて告げる。
呼吸も完全には整っていないし、頭は割れるように痛い。
だけど、まだ能力を行使できる内に全てを終わらせることが出来そうだった。

「困ったな」

次の言葉が、お兄さんの口から出てくるまでは。

「まさか奥の手を使う羽目になるなんて」

そんな呟きが聞こえた直後、凄まじい地響きが轟き渡った。
べきばきと周囲の樹木を薙ぎ倒しながら進んでくるのは、蟷螂を模した大型のロボットだった。
その巨体に圧倒されているところに、私の背丈を優に超える大きさの鎌が降ってきた。
私の目の前で、鎌はコンクリートの地面に深々と突き刺さる。
地面から鎌を抜く僅かな隙をついて刃を叩き込むが、かすり傷すらつかない。


犬型のロボットとは比べ物にならない硬さと力強さ。
その両方を、この見上げる程に巨大なロボットは持ち合わせている。
おまけに、こちらは満足に能力を使えないくらいに疲弊している。

「小娘の分際で、よくも僕を見下してくれたね」

ロボットの影に隠れて、お兄さんがニヤリと笑う。

「ただ殺すだけでは、この屈辱は収まりそうにない」

再び優位に立った彼の饒舌は止まらない。

「今より君を凌辱する。女に生まれたことを後悔させてやろう。心も身体も壊した上で、その様をネットで世界に配信して、社会的にも抹殺してやる」

そしてまた、あの気に障る笑い声を上げた。


こうして蟷螂型のロボットとの鬼ごっこが始まった。
自身の身の丈の倍はある鎌を紙一重で避け続ける私の額には、汗が滲んでいた。
その威力は犬型ロボットの鞭とは比較にすらならない程に重く、力強い。
一撃でも直撃を許せば、真っ二つにされてしまうだろう。


だけど、勝ち目が全く無いというワケでもなかった。
このロボット、パワーは桁外れだけどスピードはそれ程でもない。
まだ体力が残っている内に装甲の薄い部分を見つけ出せれば、このロボットを倒せるかもしれない。


迫り来る鎌をかわしつつ、私はロボットを隅々まで観察する。
だけど見つからない。私の刃が通用しそうな箇所が見当たらない。
ロボットは私を捕まえられず、私の攻撃ではロボットに傷をつけられない。
ある意味で膠着してしまった戦況は、しかし小太りのお兄さんによって動かされた。

「行け!」

彼が指差した先にいたのは私ではなく、お兄ちゃん達だった。
未だに気を失っている白井先輩を抱えていては、ロボットの攻撃は避けられない。


考えている暇なんて無かった。
残った力を振り絞って背中に翼を作り出した私は、ロボットの鎌が振り下ろされるよりも先にお兄ちゃんの前に到達。
お兄ちゃんの襟首を掴むと、すぐさま真上へと飛ぶ。直後、轟音と共に地面が大きく削れた。


間一髪。どうにか間に合った。
鎌を地面に突き刺したロボットを空から見下ろす。
このまま逃げられれば最高なのだが、残っている力では浮遊が精一杯。
しかも、ゆっくりとだけど高度が落ち始めている。
翼を羽ばたかせて維持を図っても、まるで効果が無い。


巨大な蟷螂の顔が、どんどん近づいてくる。
高度を下げていく標的に向かって、ロボットが鎌を振り上げる。


そこへ。一条の光が割って入った。
青白い光はロボットの顔を掠め、その動きを止める。
私も、そして小太りのお兄さんも、光の飛んできた方へ顔を向ける。

「バカな」

驚きの声を上げたのは、お兄さんだった。

「何故、君がここにいるんだ」

私もまた、救援者の突然の登場に驚きを隠せなかった。

「天使に巨大ロボット。状況の把握が難しい構図ですね」

お姉ちゃんと同じ、常盤台指定の体操服に身を包んだ美月お姉さん。
その隣には、お姉ちゃんのルームメイトであるインデックスお姉さんの姿もあった。

「そうか。君は」

他人を不快にさせる例の笑みを浮かべて、ぽつりと呟くお兄さん。

「クローンだな」
「妹です」

美月お姉さんは答えた。
間髪入れず、明らかな怒気を声に含めて。












御坂美琴のクローンが掌から電撃を放つ。
五メートルもの巨体を持つが故に動きの鈍いタイプ:マンティスは避け切れず、直撃を許す。だが、

「無駄だよ。その程度の電撃では足止めにしかならない」

この蟷螂を模したロボットの耐久力は、主に偵察を目的として作られたタイプ:グレートデーンの比ではない。
純粋な工学技術によって、学園都市に七人しか存在しない超能力者に匹敵、或いは超越する力を誰しもが手に入れる。
そんな夢物語のような話を現実とするべく開発された兵器が、試作段階とは言え、本家の足元にも及ばないクローン如きに敗れるはずがない。


銀髪の方も、恐れるに値しない。
彼女の能力は、先日に行なわれた玉入れの時に見せてもらった。
他者の発現させた能力を問答無用で跳ね返すという、反則じみた能力の持ち主。
どうやら大気中のAIM拡散力場に干渉できるようだが、能力を一切使わない僕に対しては何の意味も持たない。


クローンはタイプ:マンティスに電撃を浴びせ続ける。
いい加減、無駄だと気づいてもおかしくないはずなのに。
直視が出来ないくらいに火花が飛び散っているが、それだけ。


第三位が元になっているとは言っても、所詮はクローン。
能力だけでなく、頭の方も欠陥だらけというワケだ。


まあいい、好きなだけ足掻くといい。
何をしようが、僕の勝利は揺るがないのだからね。
クローンの顔が絶望に染まる様を想像し、思わず笑みが零れる。


それから程無くして、放電が止んだ。
時間にして、三分も経っていないのではないだろうか。
しかし僕の視界に真っ先に飛び込んできたのはクローンの絶望に染まった表情ではなく、

「は?」

タイプ:マンティスの周りを取り囲むように浮遊する、青白い光の玉の群れだった。


僕くらい洞察力に優れた人間ならば、あの光が電撃とは違うものであることは一目で分かる。
だけど、その正体までは分からない。この馬場芳郎の頭脳を以てしても、あれが何なのか理解できない。


改めて周囲を見渡すと、銀髪の身体が淡く輝いている。
光の玉と同じ、青白い光に包まれた彼女がこちらを睨みつけている。


それは有り得ない光景だった。
一人の人間が所有できる能力は、たった一つ。
そして銀髪の能力は、他人の能力の制御を奪い取るというものだったはず。
では、目の前に広がる光の玉の群れに対して一体、どういった説明をつければいいと言うのだ。

「調子に乗り過ぎだよ」

そんな言葉が僕の耳に届いた直後、空に浮かぶ全ての光の玉から光線が飛び出した。
放たれた光の筋はタイプ:マンティスを倒すのに充分過ぎる程の破壊力を有していた。
装甲は焼き切られ、手足はもがれ、数多の鉄の破片と化して地面に散乱する。
ほんの一瞬。それだけの時間で、僕の切り札は単なる鉄クズに成り下がってしまったのだ。


ひ、ひい、と情けない悲鳴が自らの口から洩れる。
そして今更ながらに理解する。御坂美琴のクローンは、ただ闇雲に電撃を流していたのではない。
銀髪が光の玉を設置するまでの間、こちらの注意を引き付けていたのだと。


木原病理から譲り受けた手駒を全て破壊された僕の元に、クローンが歩み寄ってくる。
表情に出していなくても、口を真一文字に結んだ彼女が怒っているのは纏っている雰囲気だけで分かった。
その指先からは、バチバチと青白い火花が飛び散っている。

「覚悟は宜しいですね」

唇の端を歪めて、クローンは微笑んだ。

「ま、待って」

言い訳を始めるよりも先に、彼女は僕の首を掴んだ。
痛みを感じる間もなく、僕の意識は奈落へと沈んでいった。












「な……」

ゆっくりと歩き出す私を見て、結標淡希は小さく声を洩らした。
どうして真正面から。距離だって随分と離れているのに。
大きく見開かれた彼女の目が、そう告げていた。

「正気じゃないわね、貴女」

そうとしか、結標淡希には思えないのだろう。


私を見つめて、彼女は能力を行使する。空気が震える。

「那由他と違って、視るのは得意じゃないんだけどね」

AIM拡散力場によって作り出された異次元の道を通り、コルク抜きが私の心臓に突き刺さった。突き刺さる、はずだった。

「アンタ、乱発し過ぎよ」

私は立ち止まり、何も無い空間に手刀を叩き込むだけで結標淡希の転移を中断させた。いや、彼女が作り出した異次元の道を断ち切った。

「自分の技を見切って下さい、なんて言っているようなものよ」

微笑む私に、結標淡希は繰り返し能力を行使してきた。
次々と生み出される空間の歪みを、私は手刀で悉く切り払った。

「貴女」

何者なの、と青い顔で結標淡希は訊ねる。

「この間の傷も完治しているみたいだし。病院には行っていないはずなのに、どうしてなのかしら。まさか自力で治したとか?」

さあ、と惚けるだけで私は答えない。
実はインデックスに魔術で治してもらったのだけど、黙っておくことにした。
本当のことを教えてあげるつもりなんてない。これっぽっちもない。

「とりあえず一発、殴らせてもらうから」

一足で結標淡希との間合いを詰め、腰を深く落とす。
彼女のお腹へ確実に決まるはずだった正拳突きは、しかし、突然の乱入者によって阻まれる。
私と結標淡希の間に割り込んだ乱入者によって、私は軽々と吹き飛ばされる。


乱入者。それは、つい先日にも一戦を交えたばかりの男だった。

「この静けさ、やっぱりアンタの仕業だったのね」

辛うじて転倒を避けた私は、すぐさま生体電気を全身に流して身構える。

「殴るだけで済ませる、か。本当に甘いよな、お前」

両手をズボンのポケットに突っ込み、垣根帝督が唇の端を上げて笑みを浮かべている。
結標淡希も戦闘態勢に入ろうとするが、それを垣根帝督は手で制する。

「お前は上条当麻を回収してこい」
「でも、それは馬場芳郎が」
「あのデブは失敗した」

正面から私を見据えたまま、背後の結標淡希に情報を伝える垣根帝督。

「行け。俺は美琴と二人きりで話がしたい」

分かった、という声が聞こえたのは軽く十秒は過ぎてからのことだった。

「後は任せるわ」

結標淡希の姿が一瞬にして消える。
そして、この場に残ったのは垣根帝督と私の二人だけとなった。











[20924] 第105話 大覇星祭編⑯
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/08/24 00:38
「で」

油断なく身構えたままで、垣根帝督に話しかける。

「話って、何?」

私の問いに対し、彼が返してきたのは気障な笑み。
そして背中に展開する三対の真っ白な翼。
これらが意味することは一つ。すなわち、戦いの意。


――分かり易いことで。


私もまた、握った拳に青白い電流を走らせることで受けて立つ意を見せる。
正面から互いに睨み合い、しかし両者共に動こうとはしない。重苦しい沈黙のみが場を支配する。
垣根帝督へ今すぐにでも攻撃を仕掛けたいというのが、私の本音だ。
だけど、それが出来ない。隙が無い。どこから攻めていいか分からず、動けないでいるのだ。
このような場合、相手から仕掛けてくれた方が戦い易いのだけど、

「何だよ」

攻めあぐねているのは、どうやら向こうも同じようで。

「攻めてこないのか」

垣根帝督が挑発してくるが、もちろん無言で返す。
私が誘いに乗る気がないと分かり、彼もまた黙り込む。


再び訪れる、重苦しい沈黙。
恐らく時間にすれば数分程度しか経っていない。
だけど、こうして睨み合うだけで驚くほど消耗している自分がいる。
既に何十分、何時間も経ってしまったような錯覚に陥ってしまう。
この緊迫した状況から今すぐにでも逃れたい、と思い始めた時。先に痺れを切らしたのは垣根帝督の方だった。


飛び出した垣根帝督の拳と、正面から迎え撃った私の拳が音を立ててぶつかり合う。
均衡が続いた数秒の後、私達は同時に後ろへと飛び退って距離を取る。
そして相手が体勢を立て直すよりも早く、私は腕を前に突き出し、開いていた掌をぐっと握る。
その瞬間、垣根帝督の片翼が消失した。
空間爆砕。三対の翼を空間ごと焼き潰した結果だった。


続けて、指先で収束させた熱線を放つ。
対し、垣根帝督は瞬時にして翼を修復させるが、それだけ。
熱線は立ち尽くしたままの垣根帝督の肩に当たる。しかし効いていない。
彼の服を焦がしただけで、垣根帝督の身体には傷の一つすら付いていない。
強くなっている。この短期間で、学園都市第二位としての凶悪な能力を更に高めている。

「驚いている暇は無いぜ」

垣根帝督が指をパチンと鳴らし、数百にも及ぶ刃を彼自身の周囲に作り出す。

「食らえ」

まるで嵐の中で横向きに降り注ぐ豪雨のように、那由他の義体を容易く切り裂いた刃が襲いかかる。


だけど私は動じない。
刃が自らに到達するまで、ほんの二、三秒。
その僅かな間で、刃の嵐に対する最も有効な対処法を探していた。


プラズマ球で応戦するか。
いや、駄目だ。以前よりも刃の数が遙かに多い。
防戦一方になってしまうのは目に見えている。


身体に流している生体電気の出力を上げ、回避するか。
いや、これも駄目だ。実行すれば、迫り来る無数の刃を相手に極めて神経を削る作業を強要されてしまう。


刃の嵐を空間ごと焼き潰してみるのはどうだろうか。
いや、空間爆砕は威力が高過ぎる。刃だけでなく、垣根帝督まで巻き込んでしまう可能性がある。
彼は確かに敵であるが、殺したいほど憎んでいるワケでもない。
殺さずに済むのならば、たとえ敵でも殺したくなんてない。


――アレ、使ってみるか。


強く床を踏みしめ、両手の人差し指と中指を立てて指先に意識を集中させる。
そして目前に迫る刃の嵐の前で両手を前に突き出すと、何も無い空間に両手の指を突っ込んだ。


これは例えでも比喩でもない。
本当に、文字通りに、空間に指を突き入れたのだ。
更に指を左右に広げると空間は大きく裂け、その中に刃の嵐は吸い込まれるように入っていく。
そして空間の裂け目を通り抜け、垣根帝督の背後から刃が飛び出した。

「――ッ!?」

突如として現れた刃に反応すら出来ず、垣根帝督は自らの作り出した刃の群れを無防備な背中に浴びる。

「く……!」

前のめりになるも、垣根帝督は倒れない。
全く効いていないワケではないようだけど、決定打には程遠いということか。
プラズマ球が直撃しても平然としていた時から思っていたが、恐ろしいほど打たれ強い。
どうやら私が生体電気によって身体能力を上げているように、彼もまた、自らの能力を身体に直接流し込んで強化を図っているようだ。


さてどうしようか、と次の手を考えていると、垣根帝督は大声で笑い出した。

「やっぱりお前は最高だよ、美琴」

そう言って、今もまだ残っている空間の裂け目に視線を向ける。

「これ、零次元の極点だろ」

その通りだった。
まさか初見で見破られるとは思わず、返す言葉も無い。

「まだ完璧には使いこなしていないようだけどな」

それも正解。
全く、一度見ただけで、どうしてそこまで看破してくれるかな。


彼の言う通り、私は零次元の極点を完全には自分のものにしていない。
理論上は地球の反対側にだって一瞬で行き来できるようになる能力なのだけど、今の私では百メートル先までを繋げるのが精一杯。


気持ちだけでも負けるものかと垣根帝督を睨みつける。
すると彼は背に生やしていた翼を消して、私に背を向けた。

「どういうつもり?」

その突然の行動に、私は眉をひそめた。

「確認は終わりだ。やはりお前は俺の物になるべき人間。それが分かっただけで今は充分だ」
「確認?」

私の疑問に、学園都市第二位は答えない。

「今は、な」

それだけ言い残して、垣根帝督は去っていった。
助かったという事実には喜ぶべきなのだけど、肩透かしを食らった気分だった。

「何だったのよ、一体」

私の呟きに、ただ沈黙だけが続くのだった。












「貴女は……!」

空間移動によって突如として現れた私に、いち早く反応を示したのは木原那由他だった。


御坂さんに負けず劣らず厄介な存在なのが、実は彼女だった。
AIM拡散力場をその目で追える彼女の能力は、私にとって脅威そのもの。
しかし白目を剥いて昏倒している馬場芳郎が、必要最低限の仕事は果たしてくれたらしい。
能力を過度に使用して疲れ切っている様子の彼女は、敵である私を前にしても膝をついたまま。
たとえ転移先を読まれようと、対応できないのであれば恐れるに値しない。

「手短に済ませるわ」

呟き、そして一番近くにいた御坂さんのクローンに視線を向ける。
一見したところ、戦えるだけの力を残しているのは彼女と銀髪の少女の二人だけ。
白井黒子は気絶しているし、上条当麻は近づきさえしなければ無能力者と変わらない。
木原那由他が疲弊して動けない今、つまり、残りの二人を潰せば私の勝利は確定する。


御坂さんのクローンが掌をこちらに向ける。だが、遅い。
電撃が放たれるよりも早く、私は自らの身を彼女の背後へ転移させる。
何も無い場所に掌を突き出す彼女が慌てて振り返ろうとするが、これも遅い。
無防備となった首の付け根に手刀を叩き入れ、クローンを地面に倒す。
先ず、一人。起き上がってこないことを確認し、自身を転移してクローンから距離を取る。

「美月!」

地面に倒れたクローンを心配し、銀髪の少女が慌てて駆け寄ろうとする。
しかし、それは早計と言う他ない。敵である私の前で、大きな隙を作ってしまったのだから。


腹の辺りに拳を突き出してから、私は自らの能力を行使する。
直後、目の前に現れた少女は突き出している拳に自ら飛び込んできた。
走った勢いの加わった腹部への一撃を受けて、地面に倒れた少女が弱々しく呻く。


ここまで、たったの数秒。
超能力者である私には、それだけの時間でも充分過ぎる程だった。
大能力者に匹敵、或いは越えるだけの力を持つと報告を受けていた二人が相手でも、まるで苦にならなかった。


確信する。やはり私は強いのだと。
今の自分は超能力者の中でも極めて上位に属している。
規格外と評される学園都市第一位や第二位とだって並べるかもしれない。
そんな自分が、一介の学生を気取る御坂さんに後れを取るはずがない。取っていいはずがない。
先程は転移先を読まれた焦りから、本来の実力を出せなかっただけで。
いずれ再戦を申し込んで、完膚なきまでに打ちのめしてやる。

「一緒に来てもらうわよ、上条当麻」

上条当麻と木原那由他の前に、私は仁王立ちする。


既に勝敗は決している。
奇跡でも起きない限り、私の勝利は揺るがない。
それ故に二人の、特に上条当麻の態度には酷く腹が立った。

「一つだけ、訊かせてくれ」

どうして彼は真っ直ぐこちらを見据えているのだろう。

「お前、他人を傷つけても何とも思わないのか」

その目に怯えも、焦りも、浮かべていないのだろう。

「だったら何だと言うのかしら」

そうか、と吐き捨てるように呟く上条当麻。

「あの時のアイツと同じか」

上条当麻が早足で私の方に向かって歩き出した。

「ありがてえ」

目が吊り上がっていた。口は右端が歪んでいた。
物凄い形相だった。怒り狂っているのが一目で分かった。

「お前を殴るのに、遠慮なんて要らないワケだ」

私は思う。この男はバカなのだろうか、と。
力の差は歴然としていることを、分かり易く目の前で見せてあげたばかりだというのに。
だけど、この男はきっと本気で言っている。私を殴る、なんて癪に障る言葉を吐いている。気に入らない。


――痛い目を見ないと分からないようね。


私は懐に忍ばせたコルク抜きを一つ、転移させる。
だけど上条当麻は全てを無効化する右手を振るい、その転移を中断させる。
出来過ぎた偶然。有り得ないことでもないか、と気を取り直して再び能力を行使する。
コルク抜きを、今度は同時に三つ。転移が完了する寸前、上条当麻はその全てをたったの一振りで無効化する。


――コイツ、どうして……?


鼓動が早くなる。嫌な汗が流れ出す。
どれだけ転移を繰り返しても、上条当麻は空間の歪みを全て打ち消してしまう。


私の勝利が揺らぐ。奇跡が起きている。
いや、違う。こんなの、偶然でも奇跡でもない。
そんな不確かなものに、超能力が破れるはずがない。
でも、だとしたら、どうして私は追い込まれているのだろうか。
御坂さんのように、能力で感覚を研ぎ澄ませているワケではないのに。
木原那由他のように、AIM拡散力場が見えているはずがないのに。
分からない。この男が、どうして私の思い浮かべる転移先を読めているのか。
全ての異能を無力化する右手。それを除けば無能力者と変わらないはずの男が、どうして。


上条当麻が私の真正面まで来て、立ち止まる。

「手加減なんて期待するなよ」

そう言って、私の腹を殴った。思い切りの握り拳で。
身体能力に限って言えば一般人と大して変わらない私の意識を刈り取るのに、その一撃は充分過ぎた。












――そうか。彼女は失敗したのか。


学園都市内に星の数ほど存在する研究施設。
その中の一つに身を潜めているところで、僕こと木原幻生は垣根君からメールで報告を受けていた。


結標君如きでは御坂君の相手にすらならなかった、と。
あの調子では上条君の確保だって失敗に終わるだろう、と。


まあいい、この結末は想定の範囲内だ。
今回で手に入れられなければ、また次の機会を狙えばいいだけ。
アレイスター君の興味が御坂君に移った今ならば、その機会はすぐにでも訪れるだろう。


それに、だ。どれだけの力を有していようと、この街の子供達は籠の中の鳥に過ぎない。
たった一人で洗練された軍隊すら易々と壊滅にまで追い込める超能力者であっても、その点に関してはまるで変わらない。
その事実に食蜂君は勘付き、足掻こうと努力しているようだが、だからと言って直接的な攻撃手段を持たない彼女一人に出来ることなどたかが知れている。


彼女の思惑を逆に利用して、随分と働いてもらった。
御坂君の動向を探らせたり、結標君のトラウマを克服させたり。
何かと役に立っていたのだが、そろそろ潮時だろう。
こちらの居場所を突き止められてしまう前に、どこか別の施設に身を隠さねば。


ノートパソコンを閉じ、椅子から立ち上がる。
そのまま廊下に出て、たらたらと歩き、休憩室へと足を踏み入れる。広さは大体、八畳くらい。
コーヒーメーカーからサーバーを取り出して紙コップに黒い液体を注いでいると、コーヒーの湯気がかかった。


――ああ、すっかり煮詰まってるじゃないか、このコーヒー。


飲んでみると案の定、とてもコーヒーとは思えない味がした。まるで泥水だ。
飲む気が失せ、しかし捨てる気にもなれず、ただ紙コップを持ったまま流し台にもたれかかる。


それにしても学園都市第一位の彼は一体、何を考えているのだろうか。
怪しい動きをしていたので麦野君に調べさせてみたが、まさか結標君との接触を図っていたとは。
絶対能力進化実験が事実上の中止に追い込まれたことで、僕を恨んでいるのだろうか。
だとすれば、筋違いであるとしか言いようがない。
絶対能力者への道を閉ざしたのは、他でもない彼自身だと言うのに。
あの時、上条当麻という不穏分子に敗れさえしなければ、今頃は人の身でありながら神に匹敵する力を手に入れていたかもしれないのに。


何となくコーヒーを一口飲んでしまい、私はむせた。
本当に不味い。吐きそうな味だ。これ以上は飲む気には到底なれない。


泥水のようなコーヒーを流しに捨てる。
と、目の前に缶コーヒーが差し出された。
好みの銘柄ではなかったが、この際、贅沢は言うまい。

「気が利くな」

振り向き、礼を述べようとして、僕は固まった。

「よォ」

横に立つ第一位が、ニヤニヤと笑っていた。


そう、それは学園都市第一位だった。
最強の超能力者である『一方通行(アクセラレータ)』君だった。

「分かっているのかい」

目を細め、第一位を睨みつける。

「僕を殺せば学園都市を敵に回すことになるよ」

だが、上下共に真っ黒な服に身を包んだ男はニヤニヤとした笑みを崩さない。


そんな彼を、じっと探るように見る。

「君の魂胆なんて、たかが知れている。実験を再開したいのだろう。絶対能力を手に入れる為に」

笑みを退け、第一位は冷たい目を私に向ける。

「そうだな。確かにテメエの言う通りだった。けど」

けどな、と繰り返して第一位は続ける。

「今は違う。今、俺が欲しいのは」

ぐしゃ、という音がした。
手にした缶コーヒーを、第一位が潰した音だ。
吹き出した中身が、流しを黒く染めていく。

「テメエの命だ」

第一位が僕の首に手を伸ばす。
触れるだけで人を死に追いやる、恐るべき右手を。
目前に迫った死を、だけど僕は甘んじて受け入れるしかなかった。











[20924] 第106話 大覇星祭編⑰
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/09/21 22:25
ゆっくりと流れる雲だけが、生きているようだった。


ベンチに横たわる白井と、そんな彼女の目前で佇む俺。
そこへ、散歩の帰りの様な足取りで美琴がやって来た。

「お疲れ様」

美琴の声に、俺は黙って肯いた。

「その様子だと、分かったみたいね」

何が、と問い返すまでもない。


思い出すのは、結標淡希との戦い。
あの時、彼女の指定した転移先を俺は読んでいたワケではない。
美琴や那由他のように、前もって転移先を知る術を得ていたワケでもない。
俺はただ、右手を振るっただけ。全ての異能を打ち消す右手が望むままに、動いてやっただけ。

「電撃だったら、絶対に防がれていただろうけど」

あの時、美琴が伝えようとしていたことが、ようやく分かった。


電撃でも、砂鉄でも。
それが異能でさえあれば、どんな現象でも無効にしてきた。
しかし今、思い直してみると一つの無理が存在することに気づく。
それは、電撃の様な瞬きよりも速い攻撃さえも右手で防いでいるということ。


有り得ないのだ、本来ならば。
あくまで一般人程度の身体能力しかない俺では、光速どころか音速にだって対応できるはずがない。
攻撃されたことにすら気づかず倒されたとしても、おかしくはない。
だけど事実として、俺は右手を翳して電撃を打ち消してみせた。
有り得ないはずのことが、実際に有り得たのだ。


何故か。理由は一つしか思い浮かばない。
この右手が異能に向かっていくのだ。俺の意志とは無関係に。
何の為に。それは今の段階では分からない。
ただ、結標淡希との戦いで気になることがあった。


彼女の能力を無効にする度、力が少しずつ漲っていくような感じがした。
気のせいとは言い難いくらいに、身体が軽くなっていった。
もしかすると、この右手は異能を打ち消しているのではなく、取り込んでいるのかもしれない。
能力であろうと魔術であろうと、お構いなしに。
異能と呼ばれる全ての存在を単なる力に戻し、吸収しているのかもしれない。
俺が思っていた以上に、この右手は危険な代物なのかもしれない。


気がつくと、美琴が俺の横に寄り添ってくれていた。
何も言わずに、上目遣いで、呆然と立ち尽くしている俺を見ている。

「手」
「ん?」
「繋いでもいいか」

そう言って、俺は手を伸ばした。
その手を美琴は取った。ぎゅっと強く握ってきた。
彼女の手は小さくて、だけど、とても温かくて。
そんな手が精一杯に握ってくる強さは、やけに儚く、そして愛おしくて。


人気の無い公園。
那由他も、美月も、インデックスもいない。
ここにいるのは俺達だけだった。


俺の不安を感じ取ったのか、美琴が俺の腕にしがみついてきた。
決して小さくない、柔らかい物を二の腕辺りに感じるが、そこは理性を総動員して堪える。


俺は今、かつてないほどに不安を抱いていた。
この右手には自分の知らない、いや、忘れてしまった力が込められている。
自身のものであるはずなのに、全くそうと思えないほど得体の知れない力が。


正直言って、怖かった。
力を取り込んでいく度に、自分が自分でなくなっていくような気がして。
けれど俺が手にしている温もりは、そうした不安よりもずっと確かで強かった。
その温もりに触れていられるならば、どんな困難にも立ち向かっていける。

「さて。そろそろ黒子を治してあげるとしますか」

未だに気を失って横になっている白井の頭に手を置き、美琴は目を閉じる。


以前、那由他が教えてくれた。
その気になれば、美琴は学園都市第五位の真似事だって出来るって。
第五位の真似事。それはつまり、対象の脳に流れる電気信号を意のままに操るということ。
そう、美琴は自力で元通りにするつもりなのだ。
白井の頭に流れる電気信号を正常な状態に戻して、第五位による洗脳を解こうとしているのだ。


これでもう大丈夫。一件落着だ。
俺達を襲ってきた奴らは、那由他達が連れていったし。
そこかしこに散らばっているロボットの残骸は、清掃ロボが勝手に片付けてくれるだろうし。


そう、全ては解決した。
学園都市の闇に、俺達は打ち勝ったんだ。
そして、これからだって勝ち続けてみせる。
美琴と一緒なら、どんな相手であろうと負ける気がしない。
この右手の、本当の使い方だって思い出してみせる。
美琴が傍にいてくれれば、きっと上手くいく。そうに決まっている。

「当麻」

優しい声が、俺を現実に引き戻す。
白井の頭から手を離し、美琴が立ち上がっていた。
風に髪を弄られ、微笑んでいた。

「終わったよ」
「ああ」

全く、変なものだ。
美琴が笑っていると、それだけで俺も微笑んでしまうなんて。

「ねえ、当麻」

美琴が俺の瞳をじっと見つめてきた。
随分と長い間、一言も発さないまま互いに見つめ合う。

「黒子のこと、お願いできるかな」

結局、沈黙を破ったのは美琴の方だった。

「もうすぐ障害物競争が始まるんだけどさ。それに出なくちゃいけなくて」

構わないぞ、と俺は二つ返事で了承した。
ありがとう、と美琴は満面の笑みを返してくれた。












風が吹いている。
ゆっくり、のんびり、吹いている。
大会初日と比べ、日差しは柔らかいものに変わっていた。
俺達が戦っている間にも、季節は確かに移ろい、揺らぎ、変化し続けているのだった。


あと一週間もすれば、より本格的に秋が訪れるのだろう。
そんなことを考えていたところ、携帯電話が鳴った。
着信を知らせるだけの、甲高い電子音。
液晶を確認すると、木原那由他と表示されていた。

「どうしたんだよ」

眠っている白井を起こさないよう、俺は声を抑えて言った。

「お兄ちゃん!」

端末越しに、那由他の慌てた声が届く。

「『一方通行(アクセラレータ)』が!」

何だよ、『一方通行』がどうしたって?












「あのさ」

私は横になっていた。自室のベッドに。
『一方通行』はソファに座って、缶コーヒーを飲んでいる。
またしても勝手にテレビを点けて、自分の部屋であるかのように寛いでいる。

「どうして、こうなったのかしら」
「怪我人だからだろォが」
「横になっただけで、治るワケが」

睨まれたせいで、言葉を失った。

「だから言っただろォが。第三位に手を出すのは止めておけって」

立ち上がり、『一方通行』が近寄ってきた。
近づくにつれ、コーヒーの強烈な匂いが漂ってきた。

「ひょっとして、一日中飲んでいたりするのかしら」
「悪いのかよ」
「そんな飲み方を続けていたら、絶対に身体を壊すでしょうね」
「要らねェ心配だな。俺はなァ、ガキの頃から一日に最低でも十本は飲んできたンだ。そこらへンの奴とは胃袋の出来が違うンだよ、出来が」

ワケの分からない自慢だ。
いや、そもそも自慢なのだろうか。

「大人しく忠告に従ってりゃ、そんな怪我もせずに済ンだのによ。どうして分からなかったのかね。どうなってンだよ、テメエの頭ン中は。空っぽか?叩くとスカポンって鳴ったりすンのか?」

言葉通り、頭を叩かれた。
スカポンとは鳴らなかったけど。それにしても痛い。
怪我人の頭を叩くなんて、どういう神経をしているのだろうか。


そんな『一方通行』に意を決して、

「どうして私を助けたのかしら」

と訊ねたら、何故か不思議そうな顔をされた。明らかに戸惑っている。

「何を勘違いしてンだ、テメエは」
「え、違うの?」
「俺はな、頼まれただけだ。ある情報と引き換えに、テメエを回収してくれって」
「ある情報?」
「潜伏先だよ。木原幻生の」

その言葉に、私は驚きを隠せなかった。
木原幻生と言えば、学園都市の闇に深く関わっている私ですら足取りを掴めない程の重要人物。
そんな男の居場所を特定できるなんて、その情報提供者は一体、何者なのだろうか。


気になる点は、もう一つ。
その人物は、どうして『一方通行』に私の救出を依頼したのだろうか。
アレイスター直属の部下として、私が手にする情報を狙っているのだろうか。
でも、だとすれば一刻も早く目的の人物と接触を図ろうとすると思うのだけど。


納得の行く答えを見出せずに唸っていると、

「おい」

と言って、『一方通行』が何かを差し出してきた。
受け取ってみると、それはタブレットPCだった。

「何よ、これ」
「黙って目ェ通せ」

言われるまま、画面に視線を落とす。
何かのテキストデータが表示されていた。
どういったファイルなのだろうかと疑問に思いながら冒頭を見ると、学園都市統括理事会議事録、と記されていた。

「これって」

顔を上げると『一方通行』は二本目の缶コーヒーを傾けていて、もう私を見てはいなかった。

「見ての通りだよ」

どうやって、と訊こうと思ったが口には出さなかった。訊くまでもなかったからだ。
件の情報提供者は、どうやら学園都市に喧嘩を売るつもりらしい。

「二年前の日付のところ、見てみな」

少し戸惑いながら、私はページをスクロールさせていく。
議事録を読み進めていくにつれて、心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。

「嘘でしょ」

そう呟かずにはいられなかった。

「そこに書いてある通りだ」

テーブルに置いた袋から新しい缶コーヒーを取り出しつつ、学園都市第一位は淡々と告げる。
プルトップの開く音が、やけに遠く聞こえる。

「二年前の件は事故じゃねェ。仕組まれてたンだ」

私が思うように能力を使えなくなった原因となった事故。
あの時、自らの転移に失敗したのは偶然ではなかったのだ。
何者かが私の能力演算を阻害したのだ。AIM拡散力場を掻き乱す装置を使って。
何者かの思惑によって、意図的に引き起こされたものだったのだ。


議事録の中には、ソイツの名前が何度も登場していた。
木原病理。学園都市の裏側に君臨する、木原一族の一人。

「この街の裏側にテメエを引きずり込む為の罠だったンだ」

下らないといった様子で、『一方通行』が溜め息を吐いた。

「いいように利用されてたンだよ、テメエは」
「黙って!」

瞬間的に、感情が熱く煮えたぎっていた。

「目を背けンのか。現実ってやつからよ」
「黙ってって言ってるでしょ!」

無意識に伸びた手が、『一方通行』の胸倉を掴む。

「俺を殴ったところで、何も変わンねェぞ」
「五月蠅い!」
「少しは落ち着け、第六位さんよ」
「今は違う!何度も言わせないで!」

感情に任せて叫ぶ私を見て、何故か彼は笑みを浮かべた。

「おい、第六位」
「だから、違うって」

訂正を求める声は、しかし途中で切れることになる。

「力を貸せ」

なんて言葉を、『一方通行』の口から聞いてしまったから。

「裏に巣食ってる奴ら、特に木原を見つけるにはテメエの能力と情報が必要不可欠だ」

胸倉を掴んでいた手から力が抜けて、だらりと垂れ下がる。

「連中の居場所を知ってどうするのかしら、なんて訊くのは野暮ね」

肩を竦めて言う私に、『一方通行』は笑みを崩さぬまま応える。

「全員、潰してやるに決まってンだろ」

さも当然のように言い切る『一方通行』に、私は首を横に振る。

「全員は無理だと思う」
「どォしてだよ」
「数が多過ぎる」

機嫌を損ねたような『一方通行』の前で、私は自嘲的な笑みを浮かべた。
そして、絶望的と呼ぶに相応しい一言を放った。

「木原一族はね、私の知る限りでも五千人はいるの」

学園都市の核に位置する存在である木原一族。
学園都市を作ったのは統括理事長だけど、現在の規模にまで発展したのは間違いなく彼らの功績なのだ。
そして今も尚、彼らの研究の成果によって学園都市は成り立っている。
能力を生み出した彼らの掌の上で、学園都市は動いている。


そんな連中に手を出すことはつまり、学園都市への宣戦布告に他ならない。
この街を敵に回した上で、五千人もの要人を手にかけるなんて。そんなの、夢物語としか言いようがない。

「目的を果たす前に殺されてしまうわ」

それは誇張でも何でもなかった。
現実だった。どんなに足掻いたところで、無駄なのだ。
学園都市に生かされている存在である私達に、勝ち目など無いのだ。


少しだけ間を置いてから、『一方通行』は俯いた。

「構わねェよ」

そう言って、『一方通行』は顔を上げた。私の目を、じっと見つめた。
この上なく真剣な瞳から逃げ出すようにして、今度は私が俯いた。


随分と長いこと、私は俯いていた。
返事は決まっているのに、なかなか口を開けないでいた。


背中を押したのは、花火の音だった。
どこか遠くの方から、花火の音が聞こえてきた。
ほとんど間を開けずに、何度も何度も。
七日もの間続いた祭りを締め括るに相応しい、派手な演出。

「言っておくけど」

独白のように、呟く。

「私、弱いわよ」

知っている、と一言で返される。

「第五位の能力が解けたら、使い物にならなくなるかもしれないわよ」

それも知っていると、彼は表情一つ変えることなく返す。

「で、どうすンだよ。俺と組むのか、それとも組まねェのか」

私には分からない。望まれるままに殺人を続けてきた彼が、どうして今更になって学園都市に牙を向ける決意をしたのか。

「いいわ」

だから、知りたいと思った。
学園都市で最も危険な男を変えたのは一体、何だったのか。

「やってやろうじゃない」

そして、誰よりも近くで見せてもらおう。
一万以上の人間をその手にかけた、殺人鬼の真意を。


そう言えば、と今更ながらに気づく。
コイツ、胸倉を掴まれたのに反射しなかったんだなと。











[20924] 第107話 大覇星祭編⑱
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/10/06 21:21
研究所の屋上には、無数のシーツやタオルがはたはたと舞っていた。まるで踊っているみたいだ。
そんな光景を見ながら、私はぼんやりと日向ぼっこをしていた。
空は澄み切って青く、雲なんて一つも無く、風は穏やかで、まるで春のように暖かい。
日溜まりに座っていると、身体の芯まで温まり、だんだん眠くなってくる。


世界中の偉人や超人のDNAを元にして、ボタン一つで好きなだけ天才を製造できる装置の開発を目指してきた研究施設は、三年前とまるで変わっていなかった。
きっと、これからも変わったりはしないのだろう。この研究機関に属する人間全てを私の支配下に置いている限りは、決して。


そう言えば、ドリーもよく、こうして座り込んでいた。
外出を許されなかった彼女が唯一、外の世界を感じられた場所で。
ドリーと過ごした日々が、記憶が、時の流れと共にゆっくりと、しかし確実に過ぎ去っていく。


誰にでもいいから、教えてやりたかった。
ドリーという名を与えられた女の子を。
私の能力を知っても、それまでと何一つ変わらず接してくれた子を。
私の大切な友達なんだと、胸を張って言えた子を。


ドリーは確かに、生きていた。この世界にいたのだ。
一ヶ月にも満たなかったけど、私と同じ時間を過ごしてくれたのだ。


勿論、実際には誰にもそんなことを話したりはしないのだけど。

「はあ」

なんて返されるに決まっているからだ。

「それで」

と先を促されたりしたら、立ち直れなくなるかもしれない。


それにしても、寂しい。
独りきりの自分に、孤独に耐えている自分に、うっとりと自惚れたくなってしまう。
ほら、大抵のドラマには、孤独でニヒルな敵役がいるでしょう?
屋上で風に吹かれている今の私って、傍から見れば正にそんな感じだったりして。


心の中で盛り上がってみたものの、たった五秒後には溜め息が洩れていた。

「はあ」

下らない。全く下らない。
どんなに格好をつけても、今の私は友達の仇も討てなかった敗北者に過ぎなかった。
終わってしまった恋を未だに引きずっている、未練がましい女に過ぎなかった。
何一つとして上手く事を運べなかった、びしょ濡れの負け犬のようなものだった。


孤独がかっこいいなんて、とんでもない間違いだ。負け犬の遠吠えだった。
だって、私は寂しくてたまらない。誰かの傍にいたい。声が聞きたい。話したい。触れたい。

「はあ」

また、溜め息が洩れる。


自分がここまで弱い人間だなんて、考えもしなかった。
木原幻生の居所を暴く為に、奴の命令にも黙って従ってきたのに。
最も信頼を寄せている人が狙われていると分かっても、命じられるままに動いてみせたのに。
なのに、何一つとして上手くいかなかった。
私の真意に気づいていたのか、木原幻生は雲隠れしてしまったし。
御坂さんとの関係も、今日を境にして最悪なものになることが決まっているし。


空は青くて高かった。
手を伸ばしても触れられそうにもなかった。

「はあ」

三度目の溜め息が洩れる。
その時だった。屋上の扉が開いたのは。
誰が来たのか、なんて確かめるまでもない。
立ち上がって振り返ると、そこにいたのはやはり、御坂さんだった。
障害物競争を終えて真っ直ぐこちらに向かってきたはずなのに、息の一つも乱していない。

「はあい」

陽気さを装い、声をかける。
御坂さんは目を細め、不快そうな表情を浮かべた。
全く、相も変わらず正直な子だ。そういう所、嫌いじゃないけど。


まるでライオンのような足取りで、彼女は近づいてくる。

「こんな所にいたんだ」
「ちょっと一人になりたい気分だったのよぉ」
「らしくないわね。取り巻きの一人も置いていないなんて」

低い声で指摘してくる。
どうやら相当、嫌われたらしい。
それでも私は余裕綽々といった感じで、手すりにもたれかかる。

「ねえ、御坂さん」
「何」
「私、もしかして嫌われた?」

ジロリと睨まれた。


こんなに強い目をした人を、私は目の前にいる彼女を含めても二人しか知らない。

「まあ、そうね」

それに、はっきりしている。

「今のアンタに、少なくても好感は持ってない」
「どうしてかなぁ」

また、ジロリと睨まれる。
その視線の強さに、ぞくぞくと背中が震えた。
これが本物。修羅場を潜ってきた人間にしか出来ない、本気の目。

「まず、そういうことをズケズケと訊いてくるところ」
「ふむふむ」
「あと、こういう話をしているのに、ニヤニヤ笑っているところも」
「成程」
「それと、何より、黒子の気持ちを弄んだのが気に食わない」

何のことかしらぁ、と惚けてみる。
私を睨む視線が、更に強く、厳しいものへと変わる。

「あの子の無意識下に、私に関心を持つように刷り込んだでしょ」
「そっか。とうとう気づかれちゃったかぁ」
「どうして、あんなに酷いことをしたの」

御坂さんは、まだ睨んでくる。
やられっ放しでいるのも癪なので、少し睨み返してみた。
だけど全く怯んでくれず、結局、こちらから目を逸らしてしまう。


そのまま空を見上げる。
真っ青な空に、巨大なスクリーンが備えつけられた飛行船が一機。
第三位と第七位。学園都市が誇る超能力者同士の直接対決を辛くも制した御坂美琴選手が、個人の部で優勝。
昨年の覇者、長点上機学園を破って常盤台中学が創立以来初となる総合優勝を果たす。
そんな報告を映像付きで流しつつ、大空を優雅に漂っている。


はあ、と心の中で溜め息を吐く。
全く、律義な子だ。所属する学校の為に、競技を優先させてから来るなんて。

「別に理由なんて無いわ」
「じゃあ、アンタは興味本位で黒子の想いを掻き乱したって言うのね」
「かもしれないわねぇ」
「何で笑っているのよ」
「どうしてかしらねぇ」

御坂さんが舌を鳴らした。顔を顰めた。
ぐしゃぐしゃと前髪を掻き乱した。
ああ、面倒臭いと吐き捨てた。

「正直に言いなさいよ。私の監視役に相応しい駒が欲しかったんだって。入学したばかりの頃から、黒子に細工を施していたって」
「そうだけどさぁ、何か問題でも?」
「黒子の心は黒子自身のもの。誰であろうと踏み込んじゃいけない場所。なのにアンタは、そこに土足で踏み込んだ。今の今まで、あの子の本当の気持ちを歪めてきた」

御坂さんは本気で怒り始めている。

「分かっているのよね。分かっているのに、そういうことをしたのよね」

そうよぉ、と私は肯く。

「もう一度だけ訊くわ。どうして、あんなことをしたの?」

マズイな、と思った。
背中に走る悪寒が、さっきよりもずっと強くなっている。
まるで綱渡りだ。ちょっとでも言葉を間違えたら、真っ逆さまに落とされるだろう。
心のどこかに、それを面白がっている自分がいる。望んでいる自分がいる。
真っ逆さまに落ち、それで全てを終わらせることが出来るのなら、どんなに楽だろうか。

「決まっているじゃない」

その面白がっている自分が、口を開いていた。

「楽しいからだゾ」
「アンタね……!」

言葉と、それは同時だった。
あまりに速かったせいで、そこに至るまでの過程が全く見えなかった。
私は両肩を掴まれていた。悲鳴を上げたくなる程、強く。
このままでは折れてしまうのでないかと思う程に痛くて、思わず笑ってしまった。
額から脂汗を流しながらも、顔には笑みが浮かんでくる。


はは、と声が洩れる。

「分かるワケがない」

あまりに痛過ぎて、気が狂ったのかもしれない。

「アンタなんかに、私の気持ちが分かるワケがない」

自身の気持ちをそのまま晒すなんて、バカげた真似をしてしまうなんて。
心の読めない、私の支配下に置けない人間なんて、あの人以外で信じられるはずがない。
ドリーの一件で、そんなこと、充分過ぎる程に思い知ったはずなのに。

「分からないわよ」

少しは戸惑ってくれるかと思ったが、しかし御坂さんは吐き捨て、その手に更なる力を込めた。

「アンタが何も言わないのに、分かるワケないでしょうが」

痛みとは違う理由で、両肩が震えた。
同時に、何かが私の顔から落ちた。


コンクリートの地面を濡らしたそれは、涙だった。
ドリーが私の前から消えたその日から、出したくても出せなくなった涙だった。
顔を伏せ、垂れ下がった両手に握り拳を作っても涙は止まらない。次から次へと溢れ出てくる。

「バカね」

肩にかけられていた力が緩む。

「辛いなら、辛いって言えば良かったのに」

顔を上げた私に、御坂さんは言った。
私の思い出に鮮明に残っているものと同じ言葉を。


全く、どこまでお人好しなのだろう。
私はただ、自分に罰を与えたかっただけなのに。
御坂さんに嫌われ、彼女の恋人となった上条さんにも酷い女だと思われて。
そうして、ようやく自らの想いを断ち切れると思っていたのに。
ありのままの自分なんて、誰にも見せないと決めたのに。


この人はバカだ。
本当に、どうしようもないくらいにバカだ。
好きでもない相手すら、受け入れようとするなんて。
ぶっきらぼうだけど、温かい言葉をかけてくれるなんて。
そんなことを言われてしまったら、縋りたくなってしまうではないか。


気づけば、自分の身体を御坂さんに寄せていた。
御坂さんの胸に顔を埋めて、私は声を上げて泣いた。
ドリーの為に。ドリーの為に何もしてあげられなかった自分の為に。


御坂さんは何も言わなかった。
ただ、私の髪を優しく撫でてくれた。何度も、何度も。












食蜂操祈が泣き疲れて眠ってしまった頃には、すっかり日は沈んでいた。
研究所の人間に彼女を任せ、私は重い足取りで第二学区を後にした。
秋が近づいてきたせいか、空気が少しだけ涼しかった。
パーカーを羽織っていないと、肌寒さを感じてしまうくらいだった。
私はパーカーのポケットに両手を突っ込み、夜の街を歩いた。


何もかもが憎らしくてたまらなかった。
側を走り抜けていったバイクの爆音に殺意を覚えた。
人の波を掻き分けて移動する、ドラム缶のような清掃ロボを蹴り倒したかった。
店の硝子を一枚一枚、割って歩いてやりたかった。
そして何より、自分自身を思い切り殴ってやりたかった。


訥々と語られた食蜂操祈の独白に、私は言葉を失ってしまった。
彼女もまた、犠牲者だった。悲劇は、まだ終わってなどいなかった。


あんなにも弱々しい食蜂を見たのは初めてだった。
知らなかった、なんて無責任な言葉で済まされるものではない。
私のDNAマップから生み出されたドリーのことも。
彼女の死に心を痛め、信じる心を捨て去った食蜂のことも。
DNAマップを取り返した程度で満足していた自分が腹立たしかった。


それにしても、私はどこに行こうとしているのだろうか。
そんなことさえも分からず、ただひたすら歩き続けている。
当麻の通う高校を通り過ぎ、常盤台の学生寮を通り過ぎ、故障気味の自動販売機がある公園すらも通り過ぎて。
まるで回遊魚みたいに、ぐるぐると学園都市を歩き回った。


世界は何も変わっていなかった。いつもと同じように存在していた。
今は亡き親友を想って涙を流す超能力者がいても、自らの想いを捻じ曲げられてきた『風紀委員(ジャッジメント)』がいても、お構いなしだった。


どれくらい歩いたのか分からない。
気が付くと、私はまた当麻の通っている高校の前に立っていた。
どこをどう歩いてここに戻って来たのか、ほとんど記憶に無かった。


校舎を見上げていると、足音が聞こえてきた。
足音はだんだん大きくなってくる。

「美琴」

名前を呼ばれたので、吃驚して振り返る。
当麻だった。こちらに向かって走ってくる。
すぐ傍に来たところで、立ち止まる。
膝に手を置き、荒い息を繰り返す。

「どうして」

思わず、そう呟いてしまう。
自分自身ですら、どこを歩いていたのか見当もついていなかったのに。

「あんまり遅いから、迎えに来たんだよ」
「迎え?」
「フォークダンス、一緒に踊るって約束しただろ」

差し出される手。
でも、素直にその手を取れない自分がいた。
私のことを、当麻が探しに来てくれたのは嬉しい。
当ても無かったはずなのに、それでも私を見つけ出してくれて本当に嬉しい。
この気持ちは嘘ではない。だけど今は、とてもではないが祭りを楽しめるような気分ではなかった。
今を楽しむ権利が自分にあるとは思えなかった。

「白井にさ、怒られちまったよ」

なかなか手を取らない私に、当麻が優しく語りかけてくる。

「お姉様の傍に、どうしていないんですのって」

私は目を見開いた。
どうして黒子は、そんなことを言ったのだろうか。
食蜂の洗脳が解けた今、私への想いは消え去ったはずなのに。

「お姉様がそれで顔を曇らせたら全部、貴方のせいですからねって」

まだ荒い息のまま、当麻は続けた。

「フォークダンスを俺達が踊るのは、白井の願いでもあるんだ」

だからさ、と当麻は手を伸ばす。

「行こうぜ」

泣きそうになるのを堪えつつ、その手を取った。
もう離すものかとばかりに強く、強く握った。











[20924] 第108話 大覇星祭編⑲
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/10/06 21:25
大覇星祭の締め括りとして行なわれるフォークダンスが始まってから、既に三十分以上が経過している。
お姉様がチアリーディングを披露したグラウンドの中を、何気ない素振りでぶらぶら歩きながら、私は二人の到着を今か今かと待ち侘びていた。
いつ終了を告げられてもおかしくないのに、肝心の二人は未だに姿を見せない。


――まさか、お姉様をまだ探しているなんてことはありませんよね。


私は焦っていた。
もし実行委員が片付けを始めようとしたら、何としてでも止めようと思っていた。
でも、どうやって止めればいいのだろうか。
実行委員の中に、親しい知り合いは誰もいないのに。
力ずくで止めてしまえば、フォークダンスを仕切っている大勢の方の迷惑になってしまうし。


ああもう、私のバカ。
こんな大事な時に、どうして何も閃かないのだろう。


やがて、お姉様を伴って上条さんがグラウンドに入ってきた。
二人共、肩で息をしていた。だけど、その手はしっかりと握られていた。
上条さんはフォークダンスの輪を見て、それから私の方に顔を向けた。


私は口だけを動かして、

「頑張って」

と、声を出さずに言った。


上条さんは決然とした目で肯いてきた。
そして、お姉様に声をかけて歩き出した。
手を繋いだままダンスの輪へ向かう二人を見ていると、お似合いだなと思った。
持っている雰囲気が何となく似ているのだ。


二人がダンスの輪に入ったところで、いきなり曲が止まった。


早く次の曲をかけて下さい。
お願いします。あと一曲でいいんです。
お願いです。早く、早くかけて下さい。


祈るような気持ちで、私は運営のテントの方を見た。
その途端、マズイと感じた。テントの下にいる人達は、フォークダンスを終わらせようとしていた。
机の上に置いてあるマイクに向かって、実行委員の一人である吹寄制理さんが歩き出した。終了の宣言をするつもりらしい。


考えるよりも先に自身の能力を行使していた。
空間を飛び越え、一瞬でテント内へと転移して吹寄さんの前に立ちはだかる。

「白井さん、よね。どうしたの、急に」

突如として現れた私に驚くことなく、吹寄さんが訊ねてきた。
吹寄さんとは、それほど親しい仲ではない。お互い、顔を知っているくらいだ。

「もう一曲、かけて下さいませんか」

けれど、全く遠慮なく頼み込んだ。

「理由を聞かせてもらえる?」
「もう少し音楽を聴いていたい気分でして」

適当なことを私は言った。
さすがに適当過ぎて、吹寄さんは首を横に振った。

「駄目よ。もう時間なの。それに近所から苦情が出始めたらしいのよ。音楽がうるさいって。さっさと切り上げないと」
「かけて下さい。一曲だけでいいんです」
「だからね、白井さん」
「お願いします。かけて下さい」

必死になって、私は声を上げていた。
あまりに必死だったせいか、周囲の運営委員が、何を言っているんだコイツは、という顔になった。


冷静に考えれば引くべきなのだろう。確かに私はバカなことを言っている。
分かっていたけれど、私は引かなかった。引くワケにはいかなかった。
証明する為に。お姉様に対する私の、本当の想いを示す為に。


私は、お姉様が本当に好きだった。
どんな偉人よりも尊敬できる先輩だった。
言葉ではなく態度から、その生き様から大切なことを幾つも教えてもらった。
だから、きっかけをくれたのが食蜂操祈だと言うなら、感謝ぐらいはしても構わない。
植え付けられた恋愛に近い感情が綺麗さっぱり消え失せても、この気持ちだけは変わらない。


今までも。そして、これからも。
この想いだけは、決して変わることはない。
お姉様を慕う私の気持ちは、紛れもなく本物なのだから。

「一曲だけ。それだけでいいんです。どうか、かけて下さい」
「でも苦情が」
「お願いします!」

腹の奥から声を出し、私は両手を地面につけた。

「どうか!」

そして、深く深く頭を下げた。


答えは返ってこない。
吹寄さんも、他の運営委員も。誰も、何も、言わない。
まるで、このテントの中だけ時が止まってしまったかのよう。


会場中が祭の終わりを意識し、ざわざわし始めた。
私は泣きそうな気持ちになっていた。
あと少しなのに。一曲だけで、それだけで充分なのに。

「私からも」

すぐ側で、声がした。
誰だろうと思い、顔を上げてみる。

「お願いします」

インデックスさんだった。
私の脇で、私と同じ姿勢を取っている。
綺麗な銀髪が地面についてしまっているが、まるで気にしていない。

「お願いします!」

彼女の横では『風紀委員(ジャッジメント)』の同僚である木原那由他さんが、やはり見事な土下座で懇願していた。

「お願いします!」

私もまた、土下座の体勢に戻った。さっきほど悲しくはなかった。
インデックスさんが、木原さんが、悲しみをどこかに追いやってくれた。
何をどう言っても私が、いや、私達が引かないことに吹寄さんは気付いたみたいだった。
はあ、と溜め息を吐いた後、彼女は音響装置の前に立っている運営委員に向き直った。そして、こう言った。

「一曲だけ、かけてあげて」












「一部始終、見届けたぞ」

フォークダンスの会場を出てすぐ、旅掛に電話を入れた。
こちらの目論見通りに学園都市第一位と第六位が手を組んだことや、彼の娘が無事にフォークダンスを満喫できたことを見たままに話した。
大事な娘を取られたことに少なからず気分を害するかと思ったけれど、彼は苦笑いしただけだった。

「しかし第二位が出てきたのは予想外だったな。まあ、無事で何よりといったところか」
「貴方の娘は甘過ぎる。敵にまで情けをかけていては、この先の戦いで生き残れないぞ」
「まあ、その通りかもしれないけどね。多分、忠告しても無駄だよ」

頑固な子だからさ、と旅掛は言った。

「それにしても水くさいな。彼氏が出来たなら、俺にも教えてくれればいいのに」

今度は私が苦笑いを浮かべる番になった。


この男は美琴の父親だ。
そして年頃の娘というものは、異性の親をそれとなく敬遠するものである。
父と娘。どちらが悪いというワケでは勿論、ないのだが。
そういうことを伝えてみようかと考えたものの、上手く言葉に出来そうになかった。
出過ぎた真似という気もする。

「すぐに戻る」

結局、それだけを言った。

「いや、のんびりしていいよ。ここでの仕事も一応の区切りはついたし」
「そうか。では、お言葉に甘えるとするかな」

電話を切ろうとした時、旅掛が何か言った。
携帯電話を耳から離しかけたところだったので、言葉がはっきり聞こえなかった。

「どうした」

慌てて携帯電話を耳に戻す。

「ショチトル君」

旅掛が訊ねてきた。

「美琴は嬉しそうだったかい」
「え」
「彼氏が出来て、美琴は嬉しそうだったかい」

ああ、と私は答えた。

「にこにこ笑いながら、上条当麻と踊っていた」
「そうか。なら、いいんだ」

旅掛の声も嬉しそうだった。

「息子が出来る日も、そう遠くはないのかもな」

そして電話はいきなり切れた。


息子、と旅掛は言った。
最後の最後で、本音が洩れたのかもしれない。
深いところから息が洩れた。ふう、と。












自らを総合コンサルタントと称する男、御坂旅掛。
気を失った私を学芸都市から連れ出してくれたのが彼だった。
美琴の父親である彼は、救いようも無い程のお節介焼きだった。
世界中を渡り歩き、困っている人がいるならば問答無用で手を差し伸べる。
故郷に帰りたいと告げた私の願いにも、笑顔一つで応じてくれた。


旅掛の導きで戻ってきた故郷には、しかし何も存在しなかった。
荒れ果てた大地が広がるばかりで、他には何一つとして見当たらなかった。


事の顛末はトチトリから聞いた。
無念の死を遂げたトチトリの魂が教えてくれた。
それこそが本来、私が勤めてきた役目。
死者の声に耳を傾け、その意思を現世に繋ぎ止める。


故郷を滅ぼしたのはローマ正教の人間、右方のフィアンマ。
神と等しき力を持つと噂される組織、神の右席の中でも最強と謳われる男。
あまりにも大き過ぎる仇に立ち向かう勇気をくれたのは、旅掛の短い言葉だった。

「仕事柄、私には敵が多くてね」

膝をつき、俯いていた私の肩をポンと叩いた。

「用心棒の一人でもいると、心強いのだが」

顔を上げた私に、温かい笑顔を向けてくれた。
その途端、身体の中から力が湧き上がってくるのを感じた。


組織は確かに滅ぼされてしまった。
大切な人達が大勢、亡くなってしまった。
だけど私は独りではなかった。手を差し伸べてくれる人が残っているのだ。
だったら、あるはずだ。絶望に打ちひしがれるよりも前に、やるべきことが。


こうして私は、旅掛と行動を共にするようになった。
あの日の出来事を、私は生涯、忘れることはないだろう。
存在そのものを消されてしまった故郷も。
仇を相手に一矢すら報いることの出来なかった幼馴染みの無念も。
あっさりと言った旅掛の顔も。低い声も。












たまたま通りがかった児童公園にベンチがあったので、休んでいくことにした。


風が流れ、身体に篭った熱を持っていってくれる。
乗り手のいないブランコが、風に揺られている。
私の気持ちも、同じように揺れている。


この街には涙子も、美月も、それにエツァリお兄ちゃんもいる。
だけど私は、誰にも会うつもりはなかった。会いたいけど、会いたくなかった。
顔を見てしまえば恐らく、いや、間違いなく私は甘えてしまう。
彼らに対して、我儘を言ってしまう。愚痴だって、たっぷりと零してしまう。
今まで何とか耐えてきたものが、一斉に溢れ出してしまう。


だから今は、我慢しなければならなかった。
どんなに会いたくても、会うワケにはいかなかった。
頬を伝うものがあったので、私は何度も顔を拭った。
顔が熱いのは気温のせいか、それとも溢れ出るもののせいか。


ショチトル、と声がした。
振り向いてみると、遠くにエツァリお兄ちゃんの姿があった。
闇に紛れて、輪郭がぼんやりとしている。
お兄ちゃんは走ってきた。その間に、涙を拭った。

「花火を見に行こう」

私の前に立ったお兄ちゃんは、何気ない口調で言った。

「花火?」

私も何気ない口調を装った。
いや、装っているのはお兄ちゃんも一緒か。
久し振りに会った妹弟子を、挨拶も無しに突如として花火へ誘おうとしているのだから。


返事も待たず、お兄ちゃんは私の手を取って歩き出す。

「仕事は終わったんだろ。だったら、ほんの少しでも祭りを楽しまないと」
「いいのか。美琴と鉢合わせてしまうかもしれないぞ」

からかってみる。


大丈夫、とお兄ちゃんは言った。

「御坂さんは彼氏とフォークダンス会場に行っている」
「よく知っているな」
「その彼氏、実は今、自分が世話になっている奴の悪友なんだ。だから情報は筒抜けってワケ」
「彼氏と花火か。それに比べ、私達は寂しいものだな。兄妹で花火とは」
「麗しき兄妹愛と言ってほしいものだ」

いや、麗しいというより情けないだろうと冗談で言うと、全くだとお兄ちゃんも笑った。


花火を背にしつつ、私達は肩を並べて歩いた。
手は繋いだままだった。お兄ちゃんを誰よりも近くで感じていた。

「着いた。ここだよ」

お兄ちゃんが立ち止まったのは、大きなマンションの前だった。
上の方はライトアップされているのか、暗闇の中、煌々と輝いている。

「こんな所から見るのか」

ああ、と自信たっぷりに肯くお兄ちゃん。

「ここ、オートロックを付けてないんだ。だから住人じゃなくても屋上までは行けるってワケ」

エレベーターに乗り込み、屋上へ向かう。

「大人しく会場まで足を運んだ方が良かったんじゃないか」
「そう言う台詞を吐くのは、実物を見てからにしてくれよ」

屋上には誰もおらず、コンクリートの地面が広がるばかりだった。
安全面を考慮に入れてのことか、周囲には網目状のフェンスが張り巡らされている。


ぽん、と音がした。花火の音だ。
純粋な闇の中で、光の花が広がった。


へえ、と声が洩れる。

「悪くないな」
「だろ」

お兄ちゃんは床に腰を下ろした。
胡坐を組み、両手は後ろに回し、背を伸ばして花火を見ている。


すぐ隣に私も座った。
スカートを穿いていたので胡坐というワケにはいかず、一応、膝を揃える。
こういう時に限って言えば、女というものは本当に面倒臭い。


花火はどんどん、惜しげもなく上がっている。
クライマックスが近いのかもしれない。
ふと気になって、隣をちらりと盗み見る。
胡坐をかいているお兄ちゃんは穏やかに笑っていた。


お兄ちゃんは自分とは違う、と私は思った。
力が抜けていて、軽やかだ。
そんな風に生きられればいいのに。

「自分も行くから」

そのお兄ちゃんが、ぽつりと言った。

「行くって、どこに」
「イタリアに」

一瞬だけ置いて、お兄ちゃんは言葉を続けた。

「まさかローマ正教を敵に回す日が来るとは夢にも思わなかったけど」
「どうして知ってるんだ」
「教えてくれたんだよ。ショチトルの恩人が」

確かに、旅掛ほどの情報通ならば私達の関係を調べ上げることも容易だろう。
けどまさか、お兄ちゃんと接触した挙句に全てを話してしまうなんて。

「何でも独りで抱え込むな。お前の悪い癖だぞ」

誰にも何も言わず、学園都市を出ようと決めていたのに。
旅掛の手助けをしつつ、仇討ちを独りで進めていくつもりだったのに。

「少しは自分を頼ってくれ。たった二人だけの家族なんだから」

どう応じていいか分からず、私は黙るしかなかった。


お兄ちゃんが一緒に来てくれれば、確かに心強い。
どんなに辛くても、お兄ちゃんが一緒だったら頑張れる。
だけど美琴のことはいいのだろうか。
組織から見捨てられても尚、守りたいと思える相手ではなかったのだろうか。
訊きたかったけど、訊けなかった。上手く言葉に出来なかった。


エツァリ、と私はようやく言った。

「ん、何」

お兄ちゃんは呑気に欠伸をして、そのままごろりと横向きに転がった。
右手で頭を支え、絶え間なく打ち上げられていく花火を見ている。


夜風が吹いて、私の髪を揺らした。
お兄ちゃんの髪も、同じように揺れた。
ぽんぽんぽん、と連続して花火が上がった。
いよいよクライマックスらしい。

「もうすぐクライマックスだな」

私は言った。

「確かに」

寝転がったままで、お兄ちゃんは応えた。

「綺麗だな、花火」
「ああ。本当に綺麗だ」

クライマックスは、白い花火の連発だった。
星の光すら押し退けて、光の花が真っ白に輝いた。
空の全てが真っ白に染まる様を、私はしっかりと目に焼き付けた。

「終わったな」
「そのようだな」

答えた私に、お兄ちゃんは言った。

「じゃあ、行くか」

そして立ち上がると、さっさとエレベーターに向かってしまった。


やれやれ、と私は思った。
これでは一緒に行かざるを得ない。
私の返事を聞くまでもなく、ついてくるつもりだったのだろう。

「相も変わらず、勝手な奴だ」

嬉しかったけど、照れ隠しで私はそんなことを呟くのだった。











[20924] 第109話 大覇星祭編・その後
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/11/03 21:48
「え、佐天お姉さんが?」
「はい。僅か一ヶ月ほどで無能力者から強能力者へと成長した功績を認められたそうで。明日にも姉さんと同じ学生寮に移るそうですよ」

私の問いに、美月お姉さんはそう答えた。


大覇星祭が終わり、一ヶ月が過ぎた。
太陽の光は、すっかり褪せてしまった。
いつまでも続くように思えた夏も案外、あっさり去ってしまった。

「凄いね。常盤台に転入するなんて」
「そうなんです。凄いんです」

私と美月お姉さんはテーブルで向かい合って、栗の皮を剥いていた。


栗は当麻お兄ちゃんのお裾分けだった。
なんでも、実家から大量に送られてきたそうで。
実に立派で、粒が大きく、その皮は艶々と光っていた。

「ルームメイトは決まったのかな」
「そのようですが、敢えて訊かなかったそうです。当日のお楽しみにしたいのだとか」
「お姉さんらしいね」
「全くです」

にっこりと、美月お姉さんは笑った。
この笑顔が一番、美琴お姉ちゃんに似ている。


包丁をくるりと回して、固い皮を剥がす。
能力で手の形に変えたツインテールの先端部分も使い、二人分の仕事をこなす。
お姉さんも頑張っているけど、思ったように包丁を動かせないでいた。
手を切りそうになってしまい、慌てている。

「お姉さんって、不器用だよね」
「難し過ぎますよ、これ」

あ、また失敗した。

「どうしたら、そんなに上手く剥けるんですか」
「簡単だよ。手首のスナップを利かせるんだ」

私はまた、包丁をくるりと回してみせた。
皮がはずれ、新聞紙の上に落ちる。

「こんな感じですか」
「そうそう。そんな感じ」

けれど失敗した。


親の仇でも見るかのように、お姉さんは中途半端に落ちた栗の皮を睨みつける。

「ねえ、お姉さん」
「何ですか」
「もうちょっと、肩の力を抜いてもいいんじゃないかな」

包丁を動かす。皮がぽとりと落ちる。

「お姉ちゃんも一緒なんだから、平気だよ」

お姉さんは暫く黙っていた。

「怖いんです」

そんな言葉がお姉さんの口から漏れたのは、随分経ってからだった。栗を十個ほど剥いた頃だ。

「正直に伝えて、今の関係が壊れてしまうのではと思うと」
「だから、大丈夫だって」
「根拠の無い励ましは止めて下さい」

お姉さん、と私は言った。

「ちゃんと知ってるよ。お姉さんも、それにお姉ちゃんも、ずっとずっと悩んでいたこと。だから大丈夫だって思えるんだ。お姉さん達の気持ちが伝われば、絶対に大丈夫」

何故か、絆理お姉ちゃんの顔が浮かんだ。
無事に退院を果たしたお姉ちゃんは、柵川中学校へ編入することになった。
今では無二の親友である衿衣お姉ちゃんと寝食を共にし、念願だった学校生活を楽しむ日々を送っている。


それが嬉しくもあり、悲しくもあった。
絆理お姉ちゃんの後を追うことは、私には出来ない。
サイボーグと化した私の肉体が成長することは決してない。
お姉ちゃん達を救い出せれば、自分なんてどうなってもいいと思っていた。
なのに今、絆理お姉ちゃんの元気な姿を見ても心から喜べないでいる。

「栗って面倒臭いですね。美味しいけど、ここまでして食べる程ではないと思います。これから渋皮も剥かないといけませんし」
「私は好きだよ」
「食べるのが好きなんですか。それとも剥く方ですか」

ちょっと考えてから、私は答えた。

「両方かな。手間がかかる分、美味しく感じられる気がするし」
「那由他は変わっていますね」
「後、憧れもあるんだ。栗の木の下にみんなで集まって、栗拾いしてみたい。どうやって硬いイガを剥くか、お姉さん、知ってる?」

いいえ、とお姉さんは首を振った。

「どうやるんですか」
「踏むんだよ」
「踏む、とは」
「そのままの意味だよ。長靴を履いてね、イガを両足で交互に踏むんだ。そうすると、結構簡単に剥けるらしいよ」
「普通の靴では駄目なんですか」
「駄目みたい。底の浅い靴だと突き抜けちゃうんだって」
「そこまでして人は栗を食べるんですね」
「それだけ美味しいってことだよ」

私とお姉さんはひたすら栗の皮を剥いた。
一時間ほどで、全ての皮を剥き終えた。
新聞紙の上に栗の山が出来た。
ちょっとした達成感だ。












朝の四時半。
ようやく太陽が顔を出し始めた時刻。

「ねえ、インデックス。ついてきて」

ベッドで寝息を立てていたルームメイトに、そう頼んだ。

「どこに」

眠たそうに両目を擦りながら、インデックスは訊ねてきた。

「コンビニ」

いいけど、と言いながら、インデックスは既に立ち上がっていた。

「どうして私がついていくの」

パジャマを着替えながら訊ねてくる。

「怖いから」
「もう朝だよ。暗くないよ」
「そうだけど」

別に、外が怖いワケではないのだ。
コンビニに行くこと自体は、怖くも何ともない。
そう、今は怖くない。今から怖がってなんかいられない。

「お願い」
「分かったよ。ほら、行こう」
「ありがとう」

冬物の制服に着替え終えたインデックスと、一緒に部屋を出た。
休日、しかも早朝なだけあって、通りには誰もいなかった。車の一台も走っていない。


薄暗い道を歩くと、涼やかな風が胸に入ってきた。
まともに眠れず、すっかり回転の鈍った頭も、少しだけすっきりした。
涼やかな風が、疲れと不安の幾らかを吹き飛ばしてくれた。
インデックスがついてきてくれたから、怖くないし。


足取りが軽くなり、私はどんどん進んだ。

「美琴」
「何」
「ちょっと待って」

気がつくと、インデックスは大分後ろの方にいた。
彼女は早足になって、私との距離を縮めようとしている。


立ち止まり、インデックスが追いついてくるのを待った。

「どうしたの」
「え」
「やっぱり、不安なの」

風が吹いた。
インデックスが続けて何か言ったけど、その風のせいで、耳に届かなかった。
気づいたのか、気づいていないのか、インデックスは優しく笑っている。


そうか、と私は思った。
言葉にしなくても、ちゃんと伝わっていたのだ。

「どうなの」

ううん、と私は唸った。
ママとパパ、それから美月の顔が浮かんだ。

「どうなのかな」
「自分のことでしょう」
「やっぱり不安、かな」
「大丈夫だよ」
「どうして」

だって、と前置きしてインデックスは言った。

「美琴だから」

そして、眩しいくらいの笑顔を見せるのだった。












やがてコンビニに着いた。

「何を買うの」
「ホッチキスの芯」

ええ、とインデックスは声を上げる。

「どうしたの」
「私、ホッチキスの芯、持ってる」
「そうなんだ」
「言ってくれれば、分けてあげたのに」
「ごめんごめん」
「まあ、いいけど」

不貞腐れた顔が、ちょっと可愛かった。
コンビニまで、わざわざ来たのは面倒だったけど。
インデックスのこんな姿を見られたんだから、まあいいか。

「私も何か買おうかな」

気を取り直してインデックスが向かった先は冷凍食品のコーナー。
あったあった、と嬉々として手に取ったのは冷凍物のパスタだった。

「時々、無性に食べたくなるんだよ」
「それぐらい、言えば作ってあげるのに」
「駄目だよ、それじゃ」

それからインデックスは熱く語り出した。
人間には不意に、身体に悪い物を食べたくなる時があるのだと。
いい加減な、ジャンクフードみたいな奴を身体が求める瞬間があるのだと。
私の作るパスタはとても繊細で美味しいけど、この欲求ばかりは満たせないのだと。


その理屈は分かるような、さっぱり分からないような。
とりあえず、はっきりと分かることは一つ。
このまま放っておいたら、いつまで経っても話が終わりそうにない。


まだ語り足りないと言わんばかりのインデックスの腕を引っ張り、レジに向かう。
ホッチキスの芯とパスタの会計は、私がまとめて済ませることにした。

「ついてきてくれたお礼ってことで」
「ありがとう」

ビニール袋を右手に提げ、コンビニを出る。


辺りはすっかり明るくなっていた。
思っていた以上に、長い買い物になってしまった。

「あんまり意味の無い買い物だったね」
「ごめん」
「でも、まあ、悪くなかったよ」
「そうなんだ」
「少しは元気になったみたいだから」

太陽の光を浴びて微笑みかけるインデックスは、まるで女神のように輝いていて。

「頑張ってね」
「うん。ありがとう」

肩を並べて、私達は自然に歩き出していた。
一緒に歩いて、一緒に住んでいる部屋に、一緒に帰った。












どうも、状況が理解できない。
いや、目の前で何が起きているのかは分かっている。
美月のことを、美琴が紹介しているだけ。
対面に座る美琴の両親に、美月の生まれた経緯を話しているだけ。


どうして、そんなことをするのか。
また、どうしてこの場に自分が居合わせることになったのか。
それが俺にはどうしても理解できない。


日曜の遅い午後。
窓の外から柔らかな西日が降り注いでいる中、俺は温かな布団の中で惰眠を貪っていた。
二学期の中間考査に夜を徹しての猛勉強の末に挑んだ結果、心身共に疲れ果てて泥のように眠っていた。
そんな俺を無情にも叩き起こしたのは、充電器に差しておいた携帯電話の着信音だった。

「今、時間あるかな」

あるけど、と布団に包まったままで答える。

「付き合ってほしい所があるんだけど」

不自然なほどの間を置いてから、美琴はそう続けた。


いい休日になりそうだ。
そんな期待を胸に待ち合わせ場所に向かったところまでは良かった。
ところが、美琴に連れられて入ったファミレスで様相は一変した。
案内された奥の席で待っていたのは美月と美鈴さん、それにスーツ姿の男性だった。
誰なのか、と訊ねるまでもなかった。

「パパ、久し振り」

男性と目が合うなり、美琴がそう口にしたから。

「大体のことは美月から聞いたと思うけど」

混乱する俺を他所に、美琴は話し始めた。
美月達のことを。美琴のDNAマップから生み出された、一万人近くものクローンのことを。


話が進むにつれて、美琴の両親の表情が曇っていく。
二人とも瞬き一つせず、娘の言葉を正面から受け止めている。

「それでね」

事の顛末を両親に伝え終えた美琴は、更に言葉を並べた。

「パパとママにも、美月達のことを認めてほしいの」

隣に座る美琴の声は震えていた。
否定されてしまうのではないかという恐れから、震えていた。

「パパとママの娘として、この子達を見てもらいたいの」

娘の言葉に美琴のお父さんは呻くような溜め息で応え、きつく腕を組んだ。


居たたまれない空気だ。
視線を持っていく場に困り、俺は横目で美琴を見た。
美琴は下を向いて固まっていた。
両膝に置かれた握り拳を小刻みに震わせて、どうにか自身を保っていた。


胸が締めつけられる。
不安に駆られた美琴を見ているだけで、俺はたまらなくなってくる。


美琴の強張った手に、自分の手をそっと重ねる。
ぴくりと一瞬だけ震えた手は、程無くして開かれ、俺の手を握る。
美琴が安堵の吐息を洩らすのが気配だけでも分かる。


ここに来て、ようやく理解した。
俺が何故、この場に呼ばれたのか。
両親に美月達の存在を打ち明けるのに、美琴が俺を必要としてくれた理由が。


長い沈黙を破り、美琴のお父さんが口を開く。

「参ったな」

低く、静かな声だった。

「無理だ」

その返答を聞き、美琴の眼差しにまた不安の影が差す。
唇を僅かに動かすのだが、声が詰まって言葉にならない。


美琴のお父さんの気持ちも分かる。
一万人近くの、それも同じ容姿をした娘が存在するなんて言われたら、気も動転するだろう。
だけど、だからと言って頭ごなしに否定する必要は無いではないか。

「あの」

思わず身を乗り出した、その時だった。

「どう考えても無理だ」

両手で頭を抱え、張りのある声でお父さんは叫んだ。

「俺の給料では、一万人もの娘は養い切れない」


――はい?


中途半端に身を乗り出したままで、俺は固まってしまう。


どうにも、意味がよく掴めない。
この人は今、何を言ったのだろうか。

「ここは俺の小遣いを削るしかないか。ああ、でも晩酌の回数をこれ以上減らすのは拷問に等しい行為なんだが」

美琴のお父さん、どうやら完全に自分の世界に入ってしまった模様。
何やらブツブツと呟くばかりで、いくら待っても説明の言葉は出てこない。

「認めるも何もないわ」

様子を見かねたのか、美鈴さんが取りなすように言った。

「美琴ちゃんの妹なんだから、私達の娘でもあるに決まってるじゃない」

一万って数字にはさすがに吃驚したけど、と少しだけ困ったように微笑む美鈴さん。
その仕草は中学生の娘を持つ母親には到底思えない。
大学生だと紹介されても、きっと誰も疑ったりしないに違いない。


きちんと座り直し、深く溜め息を吐く。
この瞬間、俺は完全に油断していた。
美鈴さんの視線がしっかりと俺を捉えていたことに、全く気づいていなかった。

「ところで」

その笑みを小悪魔的なものに変えて、美鈴さんが訊ねてきた。

「順調に愛を育んでいるようですね、お二人さん」

その言葉に、美琴のお父さんの動きがぴたりと止まる。

「気になる話だな、それ」

お父さんはゆっくりと顔を上げる。
表情は硬く、眉間には皺が寄っている。

「そうだな。まずは自己紹介をお願いできるかな、美琴の彼氏君」

張りのある声と眼差しの迫力に気圧されながらも、俺は答えた。

「上条当麻と言います。その、美琴さんとは今年の夏からお付き合いさせて頂いていまして」
「そうか。年は」
「十五です」
「成績は」
「お世辞にも良いとは言えません」
「希望進路は」
「一応、大学進学を」

静かだが迫力ある声に、俺の答えは尻すぼみになっていく。

「パパ、一度に訊き過ぎよ」

美鈴さんに諌められ、すまないと小さく詫びる美琴のお父さん。

「少し大人げなかったな」
「いえ、大丈夫ですよ、お父さん」
「誰がお父さんかね」
「あ、いや、その、すいません」

俺の無様な応対を見ても、お父さんはくすりとも笑わない。
その鋭い眼光に射すくめられて、小さくなる一方だ。

「あのね、パパ」

不意に、美琴が口を挟んだ。

「当麻って、優しいの」

口元に笑みを浮かべて、

「私の弱いところとか、全部受け止めてくれるの」

お父さんと正面から目を合わせて、

「大好き、なの」

聞いているこちらが恥ずかしくなるような台詞を、さらりと言ってのけた。

「そうか」

暫く続いた沈黙の後、返ってきたのは低い声。

「なら、仲良くやりなさい」

そう言って、ようやく笑ってくれた。












結局、遅めの昼食を食べ終えたところで美琴が帰る時間になった。

「夕飯も一緒に食べましょうよ」

美鈴さんはそう誘ったけれど、美琴は首を振った。

「インデックスが夕食を作ってくれてるから」

インデックスが料理を覚えてからは、毎日交代で夕食を作っているのだそうで。
最初は美琴が付きっきりで指導していたのだが、今ではそんな心配は全く無いのだと、まるで自分のことのように、嬉しそうに話してくれたっけ。

「ああ、そうね。美琴ちゃんがいないとインちゃんも独りだし、寂しいよね」
「うん」

美琴は実に健気に肯き、立ち上がった。

「だから私の分も含めて、今日は美月とお話してあげて」
「分かった」

母親の返事に満足そうに肯くと、美琴は出口へ向かった。

「上条君。美琴ちゃんを宜しくね」

続けて立ち上がった俺に、美鈴さんは笑顔でそんなことを言う。

「分かりました」

美琴のお父さん、旅掛さんの表情を気にしながら、俺も笑いかける。

「すいません、失礼します」

返事は無い。薄く笑みを浮かべた顔から、その心情は読み取れない。

「あの、俺、美琴さんが本当に好きですから。彼女のこと、絶対に大事にしますから」

旅掛さんは黙り込んだまま。
お願いです。何か喋って下さい。

「本当に、美琴でいいのかい」

やがて、静かな問いかけが返されてきた。

「勿論です」

思っていた以上に、淀みなく答えることが出来た。

「美琴さんと、ずっと一緒にいたいと思っています」

俺はペコリと頭を下げ、その場を後にした。
ファミレスを出ると、美琴がそこに立っていた。

「送るぞ」
「うん」

そして俺達は、少し暗くなった学園都市を歩き出した。
秋の日はもう建物の向こうに消え、空はうっすらとした闇に染まっている。
西の方はまだ白っぽく光っているけれど、東はもう夜そのものだ。


俺達以外に人通りの無い道を二人並んで歩いていると、

「ねえ、当麻」

美琴が言った。

「今日はありがとう」
「おう」
「それと、ごめんね」

俯いて、美琴はそんなことを口にする。

「ろくに説明もしないで、こんなことに付き合わせちゃって」
「いや、いいけどさ」

それは本音だった。
今回のことを、俺は別に気に病んでいない。
美琴の力になれて、むしろ誇らしく思えたくらいだ。

「そっか」

それだけ言うと、美琴は俺に身体を寄せてきた。
俺の胸に顔を押しつけ、抱きついてきた。

「ごめん」

くぐもった声。

「ちょっと充電させて」

断る理由なんてなかった。
身体は自然と動いてくれた。


俺は美琴の身体を抱きしめた。
学園都市に七人しかいない超能力者でも、常盤台のエースでもない。
腕の中にすっぽりと収まった美琴は、どこにでもいる普通の女の子だった。











[20924] 第110話 誰が為に①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/11/03 21:50
ぼんやりとした意識のまま、私、神裂火織は身を起こした。


私は廃工場の中にいた。電灯は点いていない。
点いていたところで、今の私には見えやしないのだが。
私の周囲に在るのは暗い闇。ただ、それだけだった。

「ふう」

悩ましげに吐息を洩らし、自身の長い黒髪に触れてみる。
髪そのものは辛うじて無事だったが、それを結わえていたゴムは消失していた。
切られたのでも、燃やされたのでもなく。
最後まで抵抗を試みた女が放った光線は、掠っただけで物質を跡形も無く消し去る程の威力を有していたのだ。


紙一重で光線を避けた後も、身体は勝手に動いていた。
気がつけば、リーダー格と思われる女に斬りかかっていた。


全く、どうして思い通りにいかないのだろうか。
誰かを傷つけなければ、私は前に進めないのだろうか。
そんなことを考えつつ、自らの置かれている状況を確認する。


どうやら私は罠に嵌められたらしい。
この廃工場に標的と思われる人物が入ったところで、バカ正直に追いかけたのは失策だった。
工場の中へと足を踏み入れた途端、標的の少女がスカートから何かを落としたのだ。
それは地面に落ちると強い閃光を発し、私の視界を瞬く間に塞いだ。
突然のことに戸惑う間もなく、何者かが複数で襲いかかってきた。


だが彼らは、いや、彼女達は見誤っていた。
視界を奪った程度で、この私に勝ったつもりでいたのだから。
まあ、少しは骨のある相手だったのだけど。


ようやく視界が晴れてきた。
周囲を見渡すと、自分を襲った面々が床に倒れていた。
血を流し、骨を折られて、意識を失っていた。


殺してはいない。
殺してだけは、いない。


――こんなこと、本当はしたくないのに。


悔しさに任せて、私は下唇を噛んだ。
皮膚が切れて血が滲み出てしまうくらい、強く。
普段の自分から程遠い浅はかな行ないに驚きつつ、私は考える。
おそらく彼女達は私の始末を依頼された傭兵のようなものなのだろう。
とすれば、彼女達をいくら問い詰めたところで本物の標的には辿り着けまい。


仕方がない。
乗り気ではないが、土御門に助けを求めるとしよう。
とは言え、あの男のことだ。素直に協力などしてくれないだろう。
何らかの代償を要求されるだろうが、まあ、甘んじて受け入れてやろうではないか。
安っぽいプライドなんて要らない。
今はただ、一刻も早く務めを果たさなくてはならないのだから。


そう結論を下すと、不思議と気分が落ち着いた。
身の丈を超える愛刀を一振りして返り血を払い、鞘に納める。


――ん?


そこでようやく気づいた。


――三人?


襲われた時は確か、四人分の気配があったはず。
しかし床に転がっているのは三人だけ。

「一人、逃がしてしまいましたか」

儚げに洩らす。


でもまあ、放っておいても問題は無いだろう。
先程の戦闘で、実力の差は嫌と言うほど身に染みたはず。
軽々しく私の前に再び姿を現すこともないだろう。
どんな輩であろうと、自身の命は惜しい。
仲間を置いて逃げ出すような軟弱者なら尚更だ。


ふう、と再び吐息を洩らす。
と、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
真っ直ぐこちらに向かっているようだ。
人払いの魔術を行使している今、外界から目の前の惨状は察知できない。と言うことは、つまり。

「成程」

逃げた一人はただの軟弱者ではない、という事実に私は安堵した。

「見捨てたワケではなかったのですね」

呟き、口元に笑みを浮かべた。


自嘲でも、皮肉でもなく。
その笑みは自然と零れていた。












「出来た……!」

予想以上に手間取ってしまった。
軽はずみな気持ちで引き受けるものではなかった。
裁縫には自信があったけど、でも、修道服なんて初めてで。
真っ白な修道服は刺繍も縫い方も複雑で、使われている生地も特殊なもので。
ロンギヌスに貫かれた聖人を包んだトリノ聖骸布の正確な複製品なんて、触るのはおろか見るのだって初めてなワケで。


家庭科でペルシャ絨毯のほつれや、金絵皿の傷んだ箔を直したこともあった。
だけど、はっきりと断言しよう。この修道服の修繕に比べたら可愛いものだ。


一向に進まない作業を前に、情けない気持ちでいっぱいになることもあった。
夜を徹して縫い続けることも、一度や二度ではなかった。
でもやはり、努力ってやつは最後には報われるもの。
冬休みに突入して二日目の深夜、とうとう修復作業が完了したのだ。
すぐにでも見てもらいたかったけど、生憎とインデックスはテーブルに突っ伏して眠っていた。


彼女だって頑張ってくれたのだ。
作業を始めてから今日まで、身の回りの世話を引き受けてくれた。
身体を気遣ってホットミルクを作ってくれることもあった。
電子レンジではなく、ちゃんとミルクパンで温めたものだった。

「全然味が違うんだよ」

インデックスの言う通り、確かに味が違った。
彼女の淹れたホットミルクはとても美味しかった。
熱が全体に行き渡っている感じ。それに味が凄く柔らかかった。


一緒に美味しいホットミルクを飲んで、一緒に夜更かしして。
そしてようやく、修道服は元の形と機能を取り戻したのである。


この服のこと、インデックスは何て言ってたっけ。ああ、そうだ。歩く教会だ。
服なのに教会なんて名前が付いているのは、何だか変な気もするけれど。


眠っているインデックスを抱え上げ、ベッドまで運ぶ。
元通りになった修道服を前にして、どんな顔を見せてくれるのだろうかと考えながら。
花の咲いたような笑顔を想像しつつ、私も自身のベッドに入って目を閉じた。
すぐに睡魔が覆い被さってきて、意識は夢の世界に落ちた。












どれくらい眠っただろうか。
扉の開く音で、意識の半分を夢の世界から現実に引き戻された。
控え目な足音を立て、誰かが部屋の中に入ってくる。
いつの間にかインデックスが外に出ていて、そして今、戻ってきたのだろうか。
そんなことを思いながら再び眠りにつこうとしていると、足音がベッドに上がってきた。
寝惚けてでもいるのか、インデックスは私の布団に入り込んできたのだ。


私は目を瞑ったままでインデックスに手を伸ばした。
押しのければ、さすがに目を覚ましてくれるだろうと踏んだ上での行為だ。
だけど、その手に触れた感触は想像していたものとはまるで違っていた。


その感触を簡潔に表わすなら、大きい。
羨ましいくらいに大きい。少し押したくらいではびくともしない。
服の上からでも一発で分かる、圧倒的な存在感。


さすがにおかしいと思って、目を開けてみる。
目の前には食蜂操祈の寝顔があった。伸ばした手は彼女の胸を揉んでいる。


慌てて身体を起こし、伸ばしていた手を引っ込める。


――やっぱり、大きい。


思わず、離した手をまじまじと見つめてしまった。
背丈は私と大して変わらないくせに、この大きさは反則ではないか。
何を食べたりすれば、ここまで大きくなるのだろうか。
機会があれば、呆れられるのを覚悟した上で訊いてみるか。うん、そうしよう。


更なる温もりを求めて、食蜂は布団に潜り込んでくる。
私は心を鬼にして、勢いよく布団を剥がした。

「ちょっと、食蜂」

返事は無い。
うーん、と唸りながら身体を丸めるだけ。
起きるつもりなんて、これっぽっちもない。
頬をぺちぺちと叩いてやると、ようやく半分だけ目を開けた。

「何よぉ」

眠たげに目を擦りながら、そんなことを訊いてくる。

「アンタこそ、何してんのよ」
「見れば分かるでしょう」
「分からないから訊いてるんでしょうが」
「ここで寝るのよぉ」

虚ろな目をこちらに向け、食蜂は応じる。
会話を止めてしまえば、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうだ。

「自分の部屋で寝なさいよ」

充電器に挿した携帯電話の液晶は午前五時四十五分を示している。
寮が定めた起床時間は七時。まだ一時間はぐっすりと眠っていられるはずだったのに。

「あの子が起こしてくるのよぉ」

眠気のせいか、普段よりも更にゆったりとした調子で応える食蜂。

「冬休みに入っても関係無し。毎朝六時に起こされる私の身にもなってよぉ」

それだけ言って食蜂が夢の世界に旅立とうとしたのとほぼ同時に、勢いよく扉の開く音が聞こえた。

「やっぱり」

そう呟いて、涙子が部屋に入ってきた。
迷いなくベッドまで近づいてくると、食蜂のパジャマの後ろ襟を掴む。

「ほら、行きますよ」

そのまま、ずるずると部屋の外へ引っ張っていく。
御坂さん助けてぇ、と手を伸ばした食蜂が涙を溜めた目でこちらを見つめてきたが、私は視線を泳がせて気づかないふりをした。
不用意に口を挟めば、私まで早起きに付き合わされてしまうかもしれないし。
食蜂には申し訳ないが、触らぬ神に祟りなしである。


常盤台に転入した涙子のルームメイトが食蜂になると知って、最初は不安で様子を窺ったりもしていたけど。
彼女は意地悪することも、能力で意のままに操ったりすることもなく、実に自然に涙子との共同生活を受け入れて。
涙子に主導権を握られて慌ただしい日々を送るようになった食蜂が、年相応の女子中学生に見えるようになって。
誰かに振り回されている食蜂を見るのは新鮮で、涙子に促されて一緒に掃除や洗濯をしている姿は、少し微笑ましくもあったりして。
時々、今日みたいに助けを求めてやって来る食蜂をあの手この手で追い返しながらも、これはこれでいいかと思えるようになっていた。












今日は酷く寒かった。
朝のニュースでは天気予報士のお姉さんが凄い手柄でも立てたみたいに、

「今日はこの冬一番の寒さです」

なんて、誇らしげに断言していた。


実際、たまらなく寒かった。
風は強く、冷たかった。空は鈍色の雲に覆われていた。
もうすぐ正午になるというのに、気温は一向に上がる気配を見せなかった。
やたらと重いダッフルコートを身に付け、マフラーを巻き、手袋をし、吹きつけてくる寒風に耐えながら、私は当麻が暮らす学生寮までの道のりを踏破したのだった。


ここ数日、当麻とは顔を合わせていない。
夏休み中に終わらせるはずだった補習に彼が追われていたからだ。
加えて、私自身もインデックスの修道服を直す作業に没頭していて。
ようやく補習が終わったと知らせてくれるメールが彼から届いたのが、つい先程のことだった。
指先は冷たく凍りついているし、身体はすっかり冷え切っている。


一刻も早く当麻の顔を見たかった。
下らない冗談を言って、当麻を呆れさせたかった。
当麻の温もりや匂いに癒されたかった。


逸る気持ちを抑えつつ、玄関のチャイムを押す。
古臭いピンポーンという音が、部屋の中で三回響く。
やがて足音が聞こえてきて、ドアが開いた。
当麻だと思い、すぐに抱きつこうとしたけれど、意外な状況に固まってしまった。

「いらっしゃい」

当麻ではなかった。

「上がるでしょ。どうぞ」

当麻の同級生である姫神秋沙さんが、玄関に立っていた。











[20924] 第111話 誰が為に②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/12/01 21:40
リビングの方から、男の人の声が聞こえてくる。
台所で洗い物をしている私には、話の内容までは分からない。
それにしても、姫神さんと土御門さんが来ているなんて思ってもみなかった。
大事な用件があるからと、今朝早くから当麻の部屋にお邪魔しているという話だけど。
意外な展開に少しばかり戸惑いつつ、そのことから目を逸らす為、私は洗い物に没頭した。


昼食に使った皿を一枚洗っては、隣にいる姫神さんに渡す。
姫神さんは無表情でそれを受け取ると、ゆっくりと、丁寧に拭いてくれる。
どういうつもりなのか分からないけど、姫神さんは私が当麻の部屋を訪ねてから、ずっと傍にいる。
昼食の準備に取り掛かった時も、食事中も、そして今も。
あまりにも近くで、しかも堂々と見つめてくるので、

「あの、何か」

と、訊ねてみたところ、

「別に。何でもない」

なんて答えが返ってきた。
表情も無く突き纏われるのは正直、不気味でしかないんですけど。

「これで最後です」
「ん」

コップを受け取った姫神さんはすぐに拭き始めたりせず、微妙な視線で私を見てきた。

「何ですか」

戸惑いつつも、訊いてみる。
うん、と姫神さんは無表情のままで肯いた。

「上手くいってるんだ。上条君と」
「何ですか、急に」
「前から気になっていたから」

何を、とまでは口にしてくれなかった。
まさか当麻のことが、異性として気になっていたとか。
表情の無い顔から、その真意を読み取れるはずもなくて。

「上手くいってますけど」
「キスはしたの。それとも」

ずいっと顔を寄せてくる姫神さん。

「その先まで。いったの」

何なのだ、一体。
どうしてここまで踏み込んでくるのだ、この人は。

「ええっと」
「どうなの」

寄せてくる顔に相変わらず表情は無い。
だが、その目は好奇心からキラキラと輝いていた。












「終わったよー」

ちょっとばかり疲れた声で言いながら、私は姫神さんと一緒にリビングに戻った。


とにかく恥ずかしかった。
顔から火が噴き出るかと思った。
当麻と過ごした甘い日々を無理に白状させられたのだから。

「おう、お疲れ」

当麻からは労いの言葉を、土御門さんからはニヤニヤと人をバカにしたような笑みを返され、とりあえず腰を下ろす。


座る場所は勿論、当麻の隣だ。
うん、やっぱり、ここが一番落ち着く。

「ヒメっち。お前さんにも一応、聞いておきたいんだが」

姫神さんも腰を下ろしたところで、土御門さんが話しかけてきた。
はあ、とぼんやり反応する私。

「最近、ねーちんと連絡を取ったりしてないかにゃん?」
「神裂さんと?いえ、してませんけど」
「そうか。ヒメっちには居場所を伝えてると踏んでたんだけどにゃー」

はあ、と私は再び生返事をする。

「全く、どこに雲隠れしちまったんだか。せめてヒントぐらい残していってもらいたかった――」

言いかけて、土御門さんが眉をひそめた。
唇の端を上げて笑みを浮かべると、

「おいでなすったぜい」

と、呟く。


土御門さんは制服のポケットから折り鶴を取り出すと、姫神さんに手渡した。

「それを持って壁際に立て。すぐにお客さんが来るが、徹底して無視しろ。声も上げるな。カミやんとヒメっちも、姫神はいないって顔をしていろ」

人差し指でサングラスを持ち上げ、そんなことを言う。
笑みこそ浮かべているものの、そこには、

「是非は問うな」

という切迫した緊張感があった。


丁寧な細工を施された折り鶴を掌に乗せ、姫神さんは壁際に立つ。と、すぐに足音が聞こえてきた。
碌に手入れのされていないこの寮の、コンクリートの床を敢えて誇張するような甲高い靴の音。
それは一度も立ち止まることなく、一直線にこの部屋の前までやって来た。
チャイムが鳴らされるとほぼ同時、土御門さんが玄関に向かう。
程無くして土御門さんと一緒にリビングに入ってきた訪問者を見て、私は思わず息を呑んだ。

「貴女に会えるとは思っていませんでした」

Tシャツの上に青いジャケットを羽織るという出で立ちで、彼女は現れた。
お洒落の一環なのか、今日はいつものポニーテールではなく、その長い黒髪を下ろしている。
そして、その手には勿論、彼女の愛用する大刀が握られている。

「お久し振りです、美琴」

なんて、親しみに満ちた笑顔を神裂さんは浮かべた。
でも私には、それは何かを隠す為に無理やり作ったものにしか見えなかったのだけど。


神裂さんはリビングの真ん中に置かれた硝子テーブルの前で立ち止まる。
土御門さんは座るように促したけど、彼女はやんわりと断った。

「長居をするつもりはありませんので」
「そんな釣れないこと言うもんじゃないぜよ。ちょっとぐらいのんびりしても、罰は当たらないんじゃないかにゃー?」

神裂さんの返答は冷ややかな眼差しだった。
笑顔なんて、元から無かったかのように完全に引っ込めてしまっている。
それを前にしても、土御門さんはニヤニヤと笑っていた。

「にしても、らしくないにゃー。このオレを頼ってくるなんて。こりゃあ、明日は大雪かもしれないぜい。そういや、ねーちんのこと、イギリス清教の連中が血眼になって探してるみたいだけど、それと何か関係があるのかにゃん?」

マシンガンのように喋る土御門さんを、神裂さんは片目で睨んで黙らせる。

「積もる話はまたの機会に」

今は一刻を争うので、と付け足す神裂さんの表情は厳しい。

「無愛想なのは相変わらずか」

くく、と意地悪い笑みを零す土御門さん。

「で、用件ってのは何だよ。内容によっちゃ、協力してやらんことも無いぜい」
「貴方こそ相変わらずですね。まあ、どうでもいいことですけど」

言葉とは裏腹に、神裂さんの声は僅かながら上擦っている。

「率直に訊きます。姫神秋沙はどこですか」

神裂さんは、土御門さんしか見ていない。
本当に姫神さんのことが見えていないし、気づいてもいないようだ。

「知らないとは言わせませんよ」
「そりゃまた、どうして」
「貴方くらいしかいませんからね。私の目を欺いて彼女の身を隠せるのは」

神裂さんは目を細め、土御門さんを睨みつける。
けれど土御門さんは我が意を得たり、とばかりにニヤリと笑った。

「欺かれて当然の行為をしているって自覚があるんだな」

ぴくり、と神裂さんの眉が動揺に歪む。

「やり過ぎたな、神裂。暗部の人間、それも超能力者に手を出しちまった以上、学園都市も黙っていないだろうよ」


――暗部の、超能力者?


「神裂さん」

瞬間、私は立ち上がっていた。
二人が一斉にこちらを振り向く。
あくまで笑みを崩さない土御門さんと、呆然と私を見つめている神裂さん。

「その超能力者を、どうしたんですか」

震える声で、私は訊ねた。

「まさか、殺したんですか」

短く、問いただした。

「貴女には関係ありません」

辛そうに、本当に苦しそうに目を背ける神裂さん。
しかし彼女のことだ。最悪の事態には陥っていないはず。そう信じたい。

「手を引け、神裂。余計な犠牲を増やす前に」

まるで命じるように、土御門さんは言った。
神裂さんが動揺している今こそが、説得の好機と判断したのだろう。

「違います」

けれど土御門さんの予想に反して、彼女の動揺は一瞬で終わってしまった。

「余計ではありません」

いや、むしろ先程より強い意志で土御門さんを見据えてさえいる。

「全ては姫神秋沙の確保に必要なこと」

何だろう、この叩きつけるような断定の強さは。

「どうして姫神さんを?」

ざあ、とその長い髪を揺らして神裂さんは答えた。貴女には関係ありません、と。

「これ以上の話し合いは無意味ですね」

決めつけるように言うと、神裂さんは踵を返した。

「それでは。私にはやるべきことがあるので」

最後まで厳しい表情を崩すことなく、神裂さんは立ち去っていった。












「全く。病院の人間ってのはどうして、融通の利かない奴ばっかりなのかね。テメエの好物ぐらい、好きに食わせてくれてもいいだろうに」

ベッドの上で上半身を起こした麦野さんは、そう愚痴りながら私がコンビニまでひとっ走りして買ってきた鮭弁当を食べていた。
全身を覆うように巻き付けられた白い包帯が痛々しい。しかし幸いなことに命に別条は無く、傷も完治すれば跡も残らないとの話をもらった。


結局、土御門さんは何も教えてくれなかった。

「姫神のこと、暫く頼むぜよ」

それだけ言い残して、当麻の部屋を後にしてしまった。


電磁波で神裂さんの位置を特定してみよう、とも思ったけれど、それは止めておいた。
先程のやり取りから考えて、もう一度顔を合わせたところで何かしらの進展が期待できるとは思えない。
ろくな成果も上げられず、すごすごと引き返す羽目になるだろう。そこで、神裂さんと交戦したという暗部の超能力者に会うことにした。
学園都市中に数千万と散らばる七十ナノメートルのシリコン塊。『滞空回線(アンダーライン)』と名付けられた、この街の統括理事長が最も信頼する情報網を電磁波で一時的に乗っ取り、その超能力者が運び込まれた病院を特定して話を聞きに行くという流れになったのだ。


その超能力者が入院しているのは案の定、カエルみたいな顔をした医師が経営する病院だった。
そして、これもまた案の定だったのだけど、神裂さんと交戦した暗部とは麦野さん達のことだったのだ。

「それにしたって、この弁当は酷いね。どうして皮を剥いじまったんだよ。鮭で一番美味いのは皮だってのに。そんなの常識だろう。うわ、よく見たら賞味期限ギリギリじゃん」

盛大に愚痴ってるわりには、ひたすら食べ続けている麦野さん。
丸椅子に座る私は乾いた笑みを浮かべつつ、質問を開始する。


ちなみに当麻は、姫神さんと一緒にお留守番。
その身を狙われている姫神さんを外に連れ出すのは得策とは思えなかったし。
かと言って、当麻の部屋に彼女一人を置いていくワケにも行かなかったからだ。

「昨夜の相手、そんなに強かったんですか」
「ああ。格好もいかれてたけど、強さの方はそれに輪をかけていたね」
「とにかく超速かったです。目にも止まらぬ速さって、きっとああいうのを言うんでしょうね」

麦野さんの隣のベッドで、やはり上半身を起こして絹旗さんが会話に加わる。
彼女もまた昨夜の一件で大きな怪我を負ったらしく、ギプスで右腕を固定していた。

「気づいたら斬り込まれていたって感じでした。私達の攻撃はまるで当たらないし、ようやく当たったと思えば痛いのはこっちの方だし。麦野の『原子崩し(メルトダウナー)』すら当然のように避けるし」

悪夢でも見ているようでしたよ、と絹旗さんは語る。
私は自分でも聞き取れるぐらいの音で歯軋りをすると、この病室の一番奥にあるベッドに目を向けた。
そこには穏やかな顔をした滝壺さんが横たわっていた。
意識は戻っていない。まるで死んでしまったかのよう。
それは神裂さんに自身の能力を使った結果だった。
魔術への干渉を無謀にも試みた能力者の行き着く悲惨な末路だった。


命に別条は無いとカエル顔の医師から断言してもらえたのが、せめてもの救いだった。
彼女が意識を回復させるのに、もう二、三日は必要となってしまうだろうとも言われたけれど。

「しかし、こうなるとフレンダの身が心配になってくるね」

独り言のように呟き、ペットボトルのお茶を傾ける麦野さん。
三分の一ほど残っていた中身を一気に飲み干し、満足そうに息を吐く。

「保護対象に変装して、標的を誘き出したのはあの子だからね。下手をすれば腹いせに殺される可能性だってある」
「それはないと思いますよ。彼女がそこまで血の気の多い人だったら、麦野さん達は今、こうして無事でいられなかったでしょうし」
「そりゃそうだけど」

そこまで口にした麦野さんが、唐突に言葉を切った。

「アンタ、あいつのこと知ってるの?」

訝しむように、こちらを見上げてくる。

「私達、相手が女だったなんて一言も言ってないよね」

しまったと自分を叱るけれど、そんなものは後の祭りだ。

「ま、私には関係ないか」

けどさ、と麦野さんは言葉を続ける。

「私が言うのも何だけど、付き合う相手は選んだ方がいいんじゃない?あいつ、普通じゃないわよ」

彼女の言葉に、即答できない。


土御門さんから唐突に押しつけられた事実を前に、息が出来なかった。
あの優しい神裂さんに限って、そんなことは有り得ないと反論したくて、私はここまでやって来た。
なのに、結果は私にとって最悪に近い事実が返ってきただけだった。


――けど、それがどうしたっていうのよ。


まだ落ち込むには早過ぎる。
だって、私はまだ自分の目で何一つ確かめていないのだから。

「その話は、もう止めておきましょう」

自分自身に言い聞かせるように頭を切り替える。
訊くべきことは、まだ二つほど残っている。

「これは単純な興味なんですけど。今回の依頼人って、実は結構、偉い立場の人だったりします?」
「ああ。統括理事長だよ」

何気ない風を装って訊いてみると、麦野さんはあっさりと答えてくれた。
その、あまりに平然とした態度に面食らいつつも、自分でも分かりきっている質問を続ける。

「統括理事長って、この街の?」
「そう。姫神秋沙っていう少女を狙う奴を排除してくれって頼まれてさ」

鮭弁当の礼なのか、それとも、依頼に失敗して投げやりになっているのか。
麦野さんは躊躇いもせず、淡々と質問に答えてくれる。
いやまあ、こちらとしては大助かりなんだけどさ。

「そんな依頼が来た理由とかって、やっぱり分かりませんよね」

僅かな期待を込めて訊くと、麦野さんは難しい顔をして肯いた。

「私達、そういうことには我関せずって方針だから」

ですよね、と肯きつつ、私は腕を組んで考え込む。
当麻から聞いた話によると、姫神さんは稀有な能力の持ち主らしい。
その能力とは西洋の怪物としてあまりにも有名な吸血鬼を呼び寄せた挙句、問答無用で灰に返してしまうというもの。
夏休みに入ったばかりの頃の私だったら、まず間違いなく話半分で聞いていただろう。
だけど今は架空の存在として教えられてきた怪物が実在すると言われても、すんなりと納得できてしまう自分がいる。
全く、慣れというものは本当に恐ろしい。

「でも、妙な依頼だとは思いましたけどね」

滝壺さんに目を向けたまま、絹旗さんが淡々と語り出す。

「どこにでもいるような無能力者をつけ狙う奴を始末しろと、学園都市のトップが頼んでくるなんて」

姫神さんは表向きには当麻と同じく、無能力者として世間に認知されている。
普段は自身の能力を首から提げた十字架で抑えつけているからだそうで。
その十字架はインデックスの所属する『必要悪の教会(ネセサリウス)』から譲り受けた物らしい。
なんでも、あの歩く教会に勝るとも劣らない結界を張れるのだとか。


――ん?


ふと、疑問が浮かび上がった。
魔術協会も学園都市も、やけに姫神さんを大事に扱ってはいないだろうか。
より正確に言えば、『必要悪の教会』と学園都市総括理事長だけど。


秋沙の能力は本来の用途以外にはまるで使い道の無い代物、とはインデックスの弁。
滅多にお目にかかれないとはいえ、応用の全く利かない能力の持ち主をどうして手厚く保護しているのだろうか。
彼女の不幸な境遇に同情して、なんてことは絶対に有り得ないだろうし。

「で、どうするつもりなのさ。あいつを止めようとか考えてんの?」
「その前に訊いておきたいことがあります。フレンダさんが今、どこにいるか分かりませんか」

途端、麦野さんは顔を曇らせる。
すぐに答えが返ってこないところを見ると、やはり彼女もフレンダさんの消息を掴めていないようだ。

「連絡も来ないんですね」
「ああ。こっちから電話をかけても返事は無し。一体、どこで油売ってるんだか」

麦野さんは歯を見せて笑った。
それは引き攣った笑みだった。
明らかに作り物の笑顔だった。

「ありがとうございます」

礼を言って、私は立ち上がった。
普段着にしている制服の上に、ダッフルコートを羽織る。

「身体、大事にして下さい」
「あんまり無茶はするなよ。と言っても、アンタは聞く耳持たないだろうけど」

拗ねたように言う彼女は、普段よりもずっと幼く、可愛く見えて。
吹き出すのを必死で堪えつつ、私はもう一度礼を言って病室を後にした。











[20924] 第112話 誰が為に③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/12/16 01:14
「……ふうん」

話を聞き終え、最初に出てきた言葉がそれだった。
前向きになろうとした心を早速、折られてしまったような気分。

「ふうん」

気まずそうに笑う当麻を前に、ただ、そう繰り返す。

「だって、しょうがないだろ」

そうだけど、と返す声には不満がたっぷりと込められていて。


当麻の言い分は分かるよ。
私だって、子供じゃないんだし。
姫神さんの側には確かに、誰かがいてあげなきゃいけない。
守ってあげなければならない。けど、それを差し引いても見過ごせない事態だってあるワケで。

「私の部屋でいいじゃない。インデックスもいるし」
「そんなワケにはいかないだろ」
「何で」
「俺は男で、お前は女だから」
「はあ?」
「そういうもんなの」

ワケ分かんないと言って、私はそっぽを向いてしまう。


でも、本当は分かっているのだ。
当麻に下心なんて全く無いってことぐらい。
インデックスや私を危険な目に遭わせたくない一心での決断だってことぐらい。
そんなの、分かり過ぎるくらいに分かっている。
だけど、それでも二人きりになるという事実は変わらないワケで。
それを黙って見過ごせるほど、大人になれない私がいて。

「とにかく、そういうもんなの」

そう繰り返す当麻の顔を、まともに見られなくて。

「バカ」

力なく、そう呟くのが精一杯で。


それにしても、あんまりだと思う。
せっかくの冬休みなのに。恋人が出来て、初めて迎えるクリスマスなのに。
窓の外を見ながら、私は腹の底から対抗心がふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
いや、別に姫神さんのことを疑っているワケではないんだけどさ。

「ま、しょうがないか」

妙案を思いついたのは、その瞬間だった。

「うん、よし、決めた」

私はそう言っていた。

「私も泊まる」
「え、マジで」

私は小さく肯き、真顔で続けた。

「それなら文句ないでしょ」
「でもお前、寮の方はどうするんだ?」
「外泊届けを出して、正式に認めてもらう」
「そんな簡単に通るのかよ」
「まあ、何とかなるって」

自然と笑みが零れる。
何だか急に、楽しくなってきた。
門限なんて気にせず、当麻と一緒にいられる。
同じ部屋で、同じ時間を過ごすのだ。

「当麻はさ」
「ん」
「私が泊まったら迷惑?」
「そんなワケあるか」

肩を竦めて当麻は笑う。

「むしろ、こっちからお願いしたいくらいだ」
「でしょ」

すました顔で答えたが、ちょっとしたきっかけで踊り出してしまいそうな気分だ。
先程から私達のやり取りを無表情で観察している姫神さんの視線が痛いが、それがどうした。
当麻と一緒にいられるのなら、その程度の痛み、甘んじて受け入れてやる。
でも、まずその前に涙子と連絡を取っておかなければ。












新年を間近に控え、街はすっかり冷え込んでいた。
時刻は午後九時少し前。風は冷たく、星の隠れた空は真っ黒に染まっていた。
雪が降り出してもおかしくない寒空を見上げ、そう言えば今日はクリスマスイヴだっけと今更ながらに思い出す。
そのせいだろう、いつもは人混みで賑わう駅前にも日常の華やかさが無い。
たまにちらほらと見える人影も、揃って早足でこの場を去っていく。
きっとみんな、寄り道もせずに自分の家へと帰っていくのだろう。
温かな場所で、温かな食事に囲まれ、家族や友達、或いは恋人と楽しい時を過ごすのだろう。


流れていく人々。
一段と厳しくなる寒さ。
いつもより闇の濃い街並み。
そんな光景を、私はただ眺めていた。
何でよ、という単語を意味も無く繰り返しながら。
駅前から離れた大通りの外れ、缶ジュースの自動販売機の横。
そこに隠れるようにして、膝を抱えて座り込んでいた。


あまりの寒さにかちかちと歯が震える。がたがたと身体も勝手に震える。
身軽な動きを信条とする私は、夏とほとんど変わらない服装をしている。
普段と違うものと言えば、変装に使った長い黒髪のカツラぐらい。
防寒にはまるで役に立たないから、逃げている途中で捨ててしまったけど。
頭痛が激しくなる。身体中の痛みも増してきて、意識がはっきりしてくれない。


あれから、どのくらいの時間が流れたのだろう。
三人が倒されてから、私は何も出来ずに立ち尽くしていた。
動くものがなくなってからも、標的の目は閉じられたままだった。
当たり前だ。私の落とした閃光弾をまともに受けたのだから。
でも、視覚を失った相手に私達は手も足も出なかった。
能力で強化した絹旗の拳を腹に、それも無防備に受けたのに、膝をついたのは殴った絹旗の方だった。
鈍い音はきっと、拳の骨が折れた証。


それだけではない。
防御も回避も不可能なはずである麦野の『原子崩し(メルトダウナー)』を、あの女は容易く避けていた。
屋内という狭い空間の中、最小限の動きで光線から逃れつつ麦野を戦闘不能にしてしまった。
いつの間にか抜いていた刀で、いつの間にか麦野は斬られ、血を出して倒れていた。


その一連の動きは全く見えなかった。
あまりにも速過ぎる。私に分かったのは、たったそれだけ。


残ったのは直接戦闘においては麦野と絹旗に劣る、私と滝壺の二人だけ。
そして、その滝壺もゆっくりと、まるでスローモーションのようにコンクリートの床に倒れてしまう。
相手を無力化しようと、自身の能力を行使していたはずなのに。


多分、私は悲鳴を上げたと思う。
三人の仇だというのに刃向かおうなんて思えもせず、私は夢中で逃げ出した。
走って、走って、息が止まるぐらいまで走って、廃工場から逃げ出した。
外に出られたところで、匿名で病院に電話をかけ、再び走り出した。
とにかく廃工場から、あの女から少しでも離れたいという一心で走り続けた。


途中、何度も転んでしまった。
身体を強く打ちつけることもあった。
それでも、すぐに起き上がって私は走った。


走って、走って、走り続けて。
そうして、気がつけばこんな所で震えている。

「何でよ……」

もう何千回目にもなる言葉が零れる。そんなことしか出来ない。


私は最低だ。
仲間を置いて逃げ出してきた。
目の前で三人がやられたというのに、自分の身の安全を第一にしてしまった。

「何でよ……」

震えは止まらず、まだそんなことを呟いている。
全く、自分のことながら大笑いだ。


私が下手を打っても、滝壺は常に変わらず接してくれていた。
憎まれ口を叩きながらも、絹旗はそれとなく援護してくれていた。
怒ると怖いけど、リーダーとして麦野は私達を支えてくれていた。


暗部の仕事を共にこなしてきた、大切な仲間達。
そんな彼女達を私は見捨てた。たった一人で、逃げ出してきたのだ。

「何で、よ……」

スカートのポケットから、スマートフォンを取り出す。
そして真っ黒になった液晶を睨みつける。
何度目かの転倒の際に落としてしまってから、ずっとこんな調子だ。
これでは麦野達と連絡が取れない。
連絡手段を潰してしまった自身に腹を立てたところで、どうにもならない。


こうなってしまっては、仕方がない。
どんなに惨めでも、情けなくても、今は自分の身を守ることを第一に考えるしかない。
あの女はきっと、どうにか逃げ切った私が姫神秋沙の居場所を知っていると勘違いしているはずだから。


ああ、それにしても痛い。
打ちつけた部分がジンジンと痛む。


もう、心身ともに限界だった。
頭痛も止まらず、関節の痛みは酷くなるばかり。
息をすることさえ上手く出来なくて、苦しかった。

「……ぐす……ひっく……」

泣いた。泣いていた。
膝を抱えたまま、悔しくて泣いていた。
自分が無力で、臆病で、一人では何も出来なくて、泣いていた。

「うう……」

寒いよ。痛いよ。お腹減ったよ。
どう呟くか決めかねている間に、私は意識を手放していた。












気を失っていたのはどれくらいの間か。
目を覚ましたのは、聞き慣れたものより少し低い声に呼ばれてだった。

「大丈夫ですか」

薄く目を開けると、見知った人物が腰を屈めて私を見下ろしていた。

「御坂……?」

ジーンズのズボンに革製のジャンパーといった出で立ち。
普段の制服姿とは違うが、友達の顔を見間違えるはずがない。
しかし、目の前にいる女の子はどういうワケか首を横に振った。

「確かに私は御坂ですが、貴女の知っている御坂ではありません」

私は戸惑ってしまった。


御坂だけど、御坂ではない。
それは一体、どういう意味だろうか。
新手の謎かけか。それとも、ふざけているだけなのか。
でも冗談にしては全く面白くないし、言われてみれば普段の御坂とどこか違う気がする。

「じゃあ、さ」

とりあえず訊ねてみることにした。アンタは誰なの、と。

「御坂美月」

うっすらと笑みを浮かべ、彼女は名乗った。

「学園都市第三位、御坂美琴の妹です」

そして差し伸べられた手を、私はほとんど無意識の内に取っていた。












美月の好意で、彼女が世話になっているという人が経営するマンションへ向かうことになった。
厄介事に巻き込んでしまう可能性が高かったけど、何か食べさせてくれるという申し出には抗い難かった。


美月が名乗ったので、私も名乗ることにした。
何となく、それが礼儀の様な気がしたから。
相手が御坂の妹さんならば尚更だ。

「フレンダ=セイヴェルン」

確かめるように、私の名前を呟く美月。

「格好いい名前ですね」

そう言われて、悪い気はしなかった。
自分の名前を褒めてもらえたワケだし。


でも、今の自分は全然格好よくなかった。
仲間を置いて、一人で逃げ出して。
格好いい名前に、自分の行動が全くついていけなくて。
そう思うと、少し気分が沈んだ。


美月が私を連れ帰った先は、クリーム色に統一されたマンションの最上階だった。
二つしかないドアの内、美月が選んだのは一戸建てのような門がある方。
美月がチャイムを鳴らすと、中から鍵がガチャリと回った。家主はご在宅らしい。


何の音も立てずに開くドア。
中から顔を出したのは金色の髪をツインテールに纏めた女の子だった。
次の誕生日で十一才となる妹のフレメアと同じくらいに見える。
美月が世話になっているという管理人の娘だろうか。

「ただいま戻りました」

女の子の顔色を窺うように、美月が声をかける。
美月の後ろにいる私に気づくと、女の子の目が見る間に細くなった。

「そのお姉さん、どうしたの」

どうにも棘のある言い回しだ。

「拾いました」

美月の言い回しも酷い。

「捨ててきて」

言うなりドアを閉めようとする女の子。
しかし美月が一足早く、玄関に足を突っ込む。なかなか素早い。

「何の予告も無しに突然ドアを閉めるのは危険ですよ、那由他」

しれっとした顔で、そんなことを言う。
那由他と呼ばれた女の子はそれ以上ドアを閉めるのを諦め、まくし立てた。

「美空のお見舞いに行く度、どうして何かしら拾ってくるかな。お姉さんが大手を振って街を歩けるようになったのは私も嬉しいけど、それとこれとは話が別だよ。家はそういう施設じゃないんだから。噛まれたりしたら大変だし」

この子、どうも一言多い。

「大丈夫ですよ、犬じゃないんですから。絶対に噛みませんし、噛ませません」

美月も一言多い。

「勿論、那由他のことだって噛ませません。大丈夫です!」
「そんな心配してないから!」

ギャーギャー喚き合う二人を横目に、私はもう一方の、飾り気のまるで無いドアに視線を向けた。
住人がいたら何事かと出てきてしまいそうな騒ぎだが、件のドアは静まり返ったまま。
この階には、美月達以外に住人はいないのかもしれない。
それでもこの騒ぎを放置するのはどうかと思ったので、私は二人の間に口を挟んだ。

「あのさ」

一言挟んだだけで、二人は揃って私に振り向いた。

「何」

じろりと女の子に睨まれ、へらっと笑う。

「結局、噛みつくとか要らない心配なワケよ。どっちかって言うと、私、魚派だし」

がくりと肩を落とした女の子に、美月が言い募る。

「ほら、自分でも噛まないって言ってるじゃないですか。だから」

入れてあげて下さい、と美月が続ける前に女の子は投げやりにドアを開け放す。

「分かったよ、もう」

盛大に溜め息を吐き、奥へと引っ込む女の子。

「では、どうぞ」

美月に促されて、私も上がり込む。


殺風景で調度の少ない2LDK。
二人で住むには充分過ぎるほどに広い。
そして先程から気になっているのだが、美月と女の子以外に人の気配が感じられない。

「世話になっている人って、ひょっとして」

訊くと、美月は肯いた。

「そう、那由他です。でも安心して下さい。多少怒りっぽいところもありますが、優しい子ですから。私のことも面倒を見てくれていますし」

マンションを経営し、女子中学生の面倒を見ている小学生。
一般常識が狂っている学園都市でも滅多にお目にかかれない光景ではないだろうか。

「何か食べる物を出しますから、休んで待っていて下さい」

丸一日何も食べていなかった私は、一も二も無く肯いた。


何は無くても、まずは燃料補給。
考えるのは、それからだ。











[20924] 第113話 誰が為に④
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2013/12/31 21:42
クリスマスの翌日、私は寮のキッチンで、涙子と交代で水と小麦粉をこねていた。

「何やってんのぉ」

やって来たのは、操祈だった。

「うどんを作ってるんだよ」
「うどんって、何でまたぁ?」
「年越しに備えての練習ですよ。ぶっつけ本番じゃ危なっかしいし」

そう答えたのは涙子だった。


当麻の部屋に美琴が泊まるようになってから、何かと面倒を見てくれるようになったのが涙子だった。
着物とか、食べ物とか。美琴とはまた違った視点で、涙子は日本の良さを教えてくれた。
魔術に関する知識しか持ち合わせていなかった私には、どれもこれもが新鮮で楽しかった。

「うどんって、どうやって作るのよぅ」
「最初が難しいんだよ。水合わせって言うんだけど」

覚えた手順を一字一句違えず反芻したところ、だんだん操祈の顔が険しくなっていく。
肯いてはいるものの、頭に入っていないのは明らかだった。
学園都市に七人しかいない超能力者の一人で、精神学と心理学において右に出る者はいないとまで呼ばれている才女なのに、料理のことは全く駄目らしい。

「応用力を駆使しなきゃいけないのねぇ」

操祈は面白い喋り方をする。
わざとやっているのだろうけど。

「慣れてくると、楽しいよ」

粉と水が混ざっていくのは面白い。
操祈は立ち去らず、私達の作業を興味深そうに眺めている。
それを見て、にやりと笑みを浮かべる少女が一人。

「食蜂さん、手伝って下さい」
「何をかしらぁ」
「これはもう、食蜂さんに頼むしかないと思うんです」

涙子は袋に生地を入れ、床に置いた。
どうぞ、と手で示した。

「踏んで踏んで踏みまくって下さい」
「え、何で」
「コシが出るんです。インデックスさんだと軽過ぎるんですよね。食蜂さんならばっちり」

さあ、と促す涙子。

「悪いけど、遠慮するわぁ」

ええ、と非難の声。

「床に置かれた物を踏むなんて下品極まりないじゃないのよぉ。はしたないから貴女も改めなさぁい」

大体ねぇ、と話のまだまだ続きそうな操祈に対して涙子は、たった一言。

「ですよね。食蜂さん、体力無いし」

一瞬の間。それから、

「はァーッ?はァーッ??」

顔を真っ赤にして、声を荒立てる操祈。

「誰が体力無いって!?」
「だって食蜂さんが体育の授業受けてるの見たことないですし」
「こんなもの楽勝だモン!」
「ホントですかぁ?」

疑いの眼差しを向ける涙子。
操祈の対抗心に火を点けるのに、それは充分過ぎた。

「いいわよぉ、見てなさい!」

その後、たっぷり三十分は生地を踏んでいた。
くたくたになった操祈は、床に寝転がった。

「これだけ協力したんだから、私にも分けてくれるんでしょうねぇ」
「勿論です。たくさん食べて下さい」
「いつ食べられるのよぉ」
「三十分後くらいかな」

生地の入った袋を持ち上げ、私は答えた。

「一旦寝かして、製麺機で裁断して、アツアツに茹でたら完成だよ」
「面倒臭いのねぇ」

上体を起こして、操祈はそっと笑った。とても魅力的だった。

「その方が美味しくなるんだよ」

時間をかけた分、良くなるのだ。
うどんも。人と人との繋がりも。












目を覚ますと、太陽はとうに沈んだ後だった。
私は眠る為に忍び込んだビルの屋上から、隣のビルの屋上へと跳び移る。
私が寝床に使っているビルの屋上は関係者以外立ち入れない類のもので、隣にある貸しビルの屋上に登り、誰もやって来ないであろうそのビルに跳び移って眠っているのだ。
こんなバカみたいな生活を、私はかれこれ四日間も繰り返している。


ビルから路地に出て、静かな違和感を覚えた。
生まれた時から備わっていた聖人という私の肌が、危険なものを感じ取る。


刀の柄に手をかけ、用心して路地裏の奥へ奥へと入っていく。
路地裏から更に路地裏へと奥まったそこに、その男は佇んでいた。
頭の先から足の裏まで緑色の修道服に身を包んだ、美琴と同じくらいの背丈を持つ白人の男。
顔つきからして、三十前後といったところだろうか。身体は痩せぎすで、服の中は随分とゆったりしているように見える。
ローマ正教に属し、神と同等の力を持つ者の一人と称されるその男を、私はよく知っていた。

「私に何か用ですか、左方のテッラ」

苛立ちをまるで隠さず、不躾に訊ねる。
しかしテッラは気にする素振りも見せず、小憎らしい笑みを浮かべるだけ。

「その様子だと、『吸血殺し(ディープブラッド)』の居場所すら未だに掴めていないようですね」

どこか嘲るようなその言葉に、私は露骨に表情を険しくする。

「随分とのんびりしているのですね。私としては、こんな辺境の島国に長居などしていたくはないのですが」

にやり、とテッラは笑みを深くして私に近づいてくる。

「それとも、あの女がどうなっても構わないと解釈してよろしいのですかね」

その台詞が耳に届いた時、私はほぼ反射的に刀を抜いた。
否、抜こうとした。しかし鞘から刀が抜けることはなかった。
まるで接着剤で固定されたかのように、ぴくりとも動かなかった。

「威勢だけはよろしいようで」

テッラはあくまでも飄々とした態度を崩さない。

「これ以上は失望させないでもらいたいのですがね。私、堪え性が無いものでして」

刀を抜く姿勢のまま固まっている私の肩をぽんぽんと叩き、テッラは耳元で囁いた。

「あまり待たされると、手元が狂ってしまうかもしれません」

そして、楽しそうに笑いながら去っていった。












買い物を終えてスーパーを出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
しかし夜は始まったばかりで、人の流れは尽きることなく溢れ返っている。
何事も無かったかのように、今日も一日が過ぎていく。

「……」

知らず、溜め息を洩らしている。


そう、少しは期待していたのだ。
数日も過ぎれば、全てが元通りになると。
神裂さんとのやり取りは手の込んだ芝居に過ぎなくて。
私や当麻を驚かす為に姫神さんも巻き込んで仕組んだものだったんだって、土御門さんがニヤニヤと笑いながら種明かしをして。


だけど、そんなものは夢物語に過ぎなくて。
神裂さんの目的は分からず、フレンダさんの居場所は突き止められず。
何の手がかりも掴めない現実から目を背けているだけだと思い知らされて。
それでも時間というのは律義なもので、誰に対しても規則正しく流れていく。
ずっと眠ったままでいる美空にだって、それは勿論のことであって。


彼女が意識を失ってから、あと五日でちょうど四ヶ月となる。
パパとママの二人で考えてくれた名前で、一刻も早く彼女のことを呼びたいのに。
美月や遠く離れた場所で調整を続ける一万近くの妹達と同じように、彼女もまた、生きることを望まれるようになったのに。


幼き日の私と瓜二つの姿をした彼女は、目を覚ます気配を一向に見せない。
身体を流れる電気の流れにも異常は無い。だけど目覚めない。
まるで彼女自身が目覚めることを拒んでいるかのように。


ぼんやりそんなことを考えていると、背後から声をかけられた。

「美琴」

振り向くと、そこに立っていたのは当麻だった。

「重そうだな。俺が持つよ」

言うが早いか、私の手から日用品の詰まったビニール袋を取り上げる。


睨むように、私は当麻を見た。

「姫神さんはどうしたの?」
「ちょっとな」
「何よ、ちょっとなって」
「いやその、だから、ちょっとだよ」

困ったように頭をポリポリと掻く当麻。


どうも様子がおかしい。
姫神さんに何か吹き込まれでもしたのだろうか。
有り得る。あの人だったら充分に有り得る。

「ちょっとさ」

出し抜けに当麻はそう切り出した。

「遊んでいかないか」
「こんな時間に?」
「ゲーセンなら問題ないだろ」
「姫神さんはどうするのよ」
「だから、ちょっとだけだよ」

むう、と私は唸った。


ここから最寄りのゲームセンターまでは目と鼻の先。
当麻の寮からも、そこまで距離があるワケではない。
いざという時は姫神さんの方から連絡を入れてくるはずだし。
それに何より、久々に二人きりになれるチャンスを逃したくないし。

「じゃあ、ちょっとだけ」
「おう」

というワケで、二人並んで歩くことになった。
ゲームセンターに向かって、とぼとぼと大通りを進んでいく。
ちらりと見ると、そこには当麻の肩があった。


どうにも不思議な感じだ。
当麻はもう少し背が低かった気がする。
横を向いたら、目の前に唇があるくらいというか。


ああ、そっか。
当麻の背が伸びたのか。育ち盛りだもんね。
初めて会った時から、もう半年近く経つんだもんね。


十分くらい歩いて、ゲームセンターに着いた。
甲高い電子音が、そこかしこに聞こえる。
室内は人の熱気もあって、ほんのりと暖かい。


それほど大きいワケではない。
筐体は一昔前に流行った物が半分近くを占めている。
でもゲームの種類は豊富なので、ちょっとした気晴らしには最適の場所だった。

「美琴」

電子音に紛れて、当麻の声が聞こえた。

「あれ、やってみようぜ」

返事も待たず、当麻は私の手を引っ張るのだった。












美琴の手を引き、最近流行っているという脳の検定ゲームの前にやって来た。
タッチパネルで入力し、記憶力や判断力を調べるゲームだ。
ちなみに格闘ゲームやシューティングゲームはパス。
時間を忘れ、のめり込んでしまう可能性が高いからだ。


椅子に並んで二人協力プレーを選択。
現れた数字を記憶したり、漢字を書いたり、線を繋げたり、音声から出る指示を瞬時に判断したり、計算式を解いたりする。


楽しかった。そして何より、驚いた。
美琴は本当に桁外れの成績を取っていた。
俺がもたもたと考えている間にも、美琴の手は常に目まぐるしく動いていた。
ほんの一秒の躊躇すら無く、次々と正解を選んでいく。
立体の把握も、一般常識も、複雑な歯車も瞬時に見抜く。全く死角が無い。
この手のゲームにはお約束と言える全国ランキングで、美琴は見事に総合一位という栄冠を手にしていた。

「お前、本当にスゲエな」

呆れたように呟く俺を見ると、美琴は口元に笑みを浮かべて、

「似たようなことを学校でもよくやってるから」

バツの悪そうな声。

「慣れてたってだけよ」

そういう問題ではない気がする。
とにかく、とんでもない力を美琴は持っているのだと改めて感じ入った。


続いて美琴をダンスゲームに連れていく。
リズムに合わせて、光るパネルの上を踏んでいく類のものだ。


実を言うと、俺自身はこの手のゲームは苦手としていた。
どうも俺にはリズム感というものがまるで無いらしい。
以前、土御門や青髪ピアスと一緒に来た時は壊滅的なスコアを叩き出して大笑いされた。
だけど、美琴がこのゲームをしている姿を是非とも見てみたかった。


言いだしっぺの法則により、まずは俺が挑戦。
やっぱり酷いものだった。最下位クラスの得点。
ボクシングの特訓を以てしても、俺のリズム感は上げられなかったらしい。
のたのたと必死でパネルを踏んでいく俺を見て、美琴はずっと曖昧な表情をしていた。
同情するような、励ますような、そんな微妙な表情。

「ドンマイ」

と、汗を拭う俺の肩を叩く美琴。

「じゃあ、次は私」

そう言って小銭を投入し、パネルの上に乗る。


難易度を選択して、ゲームスタート。
軽快な音楽に乗って、美琴は舞い始める。
恐らく器用にこなすだろうと思っていた。だが実際はそれ以上だった。
美琴は実に慣れた様子でステップを踏んでいた。
足を伸ばし、手を振り、ゲームの上級者がやるようにくるりとターンを決めて。

「これも学校でやったことあるってオチか?」

華麗に踊る美琴に訊ねると、返ってきたのは満面の笑み。

「こういうのは初めて!」

栗色の髪を振り乱して、美琴は踊り続ける。


俺とは違う。
ただ漫然と光るパネルを踏んでいるのではない。
難易度を最大に設定したにも関わらず、リズムに合わせて軽快に踊っている。


そして楽しそうに笑っていた。
そう、笑っていたんだ。


良かった、と素直に思えた。
二人きりでここを訪れたのは正解だったのかもしれない。
姫神を部屋に匿うようになってから、初めて美琴が心から笑っている気がした。
汗の一つもかかず、楽しそうに踊り続ける美琴を見て、俺もまた同じように微笑んだ。












夜の学園都市を二人並んで歩く。
当然のように、自然に、当麻と手を繋いでいた。
吐く息が白くなるほど寒かったけど、まるで気にならなかった。
ぎゅっと手を握ると、ぎゅっと握り返してくれる。
笑いかければ、笑い返してくれる。
それだけで、じんと痺れたような感じになった。
幸せだって、心の底から思うことが出来た。


ポケットに突っ込んだままだった右手を出し、私は彼に抱きつこうとした。
しかし、いきなり当麻が私からすっと身を引いた。
私達の間を、少し冷たくなった風が吹き抜けていく。
突然の出来事に私は驚き、寂しくなり、切なくなって。


当麻がズボンのポケットから取り出した物を見て、ようやく合点がいった。
当麻の携帯電話がぶるぶると震えて着信を知らせている。
私はその振動に殺意さえ覚えた。


――もうちょっとだったのに……。


すまない、と片手を上げて当麻は電話に出た。

「もしもし」

そこで相手が応じたらしく、途端に当麻の顔が変わった。

「土御門か」

男っぽくなったというか、戦闘モードに入ったというか。

「お前、どこにいるんだよ」

声もやけに真面目だ。
ほんの一瞬で変わってしまった雰囲気に戸惑っていると、私の携帯電話まで鳴り出した。
食蜂からだろうか。この時間、インデックスは夕御飯を作っているはずだし。
一向に寮へ戻らないでいることを肴に、私を虐める魂胆なのかもしれない。

「もしもし」

液晶も見ず、嫌々ながら電話に出る。と、携帯電話の向こうで息を呑む気配が伝わった。

「神裂さん?」

何の根拠も無く、それが彼女なのだと気がついた。

「今、よろしいですか」

張り詰めた声で神裂さんは訊ねる。

「いいですけど」

どうしたんですか、と訊ねると彼女は黙った。
その間は大体、十秒くらい。だけど私にはもっと、ずっと長く感じられた。

「姫神秋沙をかけて、私と勝負して下さい」

感情を押し殺した声。

「惚けても無駄です。貴女が、いえ、貴女達が彼女を匿っているのは分かっています」

この電話はつまり、神裂さんからの宣戦布告。
それも有無を言わせるつもりなんて毛頭無い、一方的な押し付け。
分からない。どうして私が神裂さんと戦わなければならないのか。
そこまでして姫神さんを求めようとしている理由とは一体、何なのか。

「姫神さんをどうするつもりですか」
「貴女には関係ありません」
「関係あります。姫神さんはインデックスの友達ですから」

短い沈黙の後、そうでしたね、と神裂さんは答えた。
その声は冷たくて、電話越しでさえ私は震えてしまった。
殺意しか無い、恐い声。
神裂さんはまさか、姫神さんを殺すつもりなのだろうか。


正直に言って、私は神裂さんと戦いたくなかった。
神裂さんは友達だ。互いの実力を認め合った仲間でもある。
そんな彼女と、どうして互いに傷つけ合うような真似なんて出来るはずがない。でも、だけど。

「それがこの街の治安を脅かすなら、たとえお姉様が相手でも黒子のやることは変わりませんの」

ふいに、黒子の言葉が脳裏を過った。
学園都市の治安を心の底から守りたいと思っている、最も信頼の置ける後輩の言葉が。
相手が何者であろうと、自らの信念を決して曲げない心の強さ。
それこそが彼女の力の源であり、そして白井黒子という少女の原点なのだ。


私は考える。
超能力者の一人として、自分はどうするべきなのかを。
神裂さんは友達だ。だけど、ううん、だからこそ止めなくてはならない。
友達として。そして学園都市第三位として。
神裂さんの成そうとしていることを止める責任が、私にはある。
だったら答えは一つしかない。

「分かりました」

悩むまでも無い。
返答なんて最初から決まっている。

「やりましょう」

私は宣言した。
静かに、だけど神裂さんに負けないくらい力強く。











[20924] 第114話 誰が為に⑤
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2014/01/19 17:37
圧倒的だった。
天草式十字凄教が誇る精鋭達が成す術も無く倒されていった。
今は遠き江戸の時代より、幕府の迫害から逃れつつも十字教を信仰する為に仏教や神道などで偽装を重ねて生き延びてきた組織が、たった一人の手によって全滅に追いやられていた。
或る者は巨大な剣から生じる風圧のみで吹き飛ばされ、また或る者は三十メートルにも及ぶ水の槍にその身を貫かれて。
ふと気がつけば、立っている味方は誰もいなくなっていて。
これ以上は無いという程の存在感をもって、惨劇を生み出した男は近づいてくる。


その男は茶髪の白人だった。
長身で、がっしりとした体格をしている。
険しく厳しい眼差しで私を見据え、こちらに向かって歩いてくる。
私――五和は全身が凍りつくような恐れをこの時、初めて体験した。

「加減はしてある。が、このままでは誰一人として助かるまい」

誰も助からない、という単語が手品めいた鮮やかさで私の意識を縛る。
それは、嫌。苦楽を共にしてきた仲間が死んでしまうなんて、絶対に嫌。

「彼らを助けたいか」

催眠術じみた魔を持った声がする。

「その身を引き換えとする覚悟はあるか」

私は、自分が肯いていることすら気づかなかった。

「承知した。では貴様の身柄、しばし預からせてもらう」

表情を変えず、男は右手を私の背中に当てる。
だがその前に、私は一つだけ訊ねた。

「貴方、何ですか」

その質問に、男はつまらなげに答えた。

「神の右席――後方のアックア」

言葉は神託のように、私の内側に重く響いた。












夢から覚め、私はゆっくりと目を開けた。
薄暗い倉庫の中、私は両手足を鎖で繋がれ、身体の自由を奪われている。
どうして自分がこんな目に遭っているのか。私は別にそれを疑問に思ったりはしていない。


私がここにいるのは、あの男のせいだ。後方のアックア。
自らを神の右席と名乗ったあの男が、私をこの場所まで連れて来たのだ。
あの男との戦いで受けた傷は死なない程度にしか治療されず、食事も最低限。
それも手を自由にしてもらえない為、顔の前に出された物を犬のように食べなければならないという屈辱。しかも美味しくない。
おまけに周囲には人払いの結界でも張られているらしく、どんなに声を張り上げてもまるで反応が無い。


これでは逃げようにも逃げられない。全く酷い待遇だ。
だけどまあ、要求を受け入れたら大人しく引き下がってくれただけマシか。
一応、交わした約束はしっかりと守ってくれる人のようだ。


それにしても、あの男はどうして私なんかを拘束したりするのだろう。
あれだけの実力を持つ彼が人質を必要とする知り合いとなると、私には一人しか心当たりが無いのだけど。

「起きているか」

考え事をしていると、食事の時間が来たらしい。

「食事の時間だ」

水の入ったペットボトルとパンを持ったアックアが、足音も立てずに中に入ってきた。


顔の前に出してもらったパンに噛みつき、半分ほど千切る。

「位置、そのままでお願いします」

苦虫を潰したような顔を向けてくるアックアを、しかし私は全力で無視する。


両腕を拘束されているのだから、仕方がないではないか。
どんなに屈辱的であろうとも、貰えるものは貰っておく。
いざという時の為に力を出せなくては元も子も無いのだから。

「あ、水飲ませて下さい」

だからですね、気にしたりなんかしませんからね。
そんな呆れ返ったような目で見られたって、絶対に。












第二十三学区にある国際空港。
動く物が何も無い巨大な滑走路で、私は美琴の到着を待っていた。
この学区は普段から人の出入りが無い。
故に互いの能力を存分に振るっても、ここであれば人的被害を気にする必要は無いと判断した上での選択だった。


前回の天使との戦いで、美琴の能力は見せてもらっている。
一方、私は美琴の前で自身の持つ力の一端しか見せていない。
片方の手の内は晒され、もう一方はまるで見せておらず。
この時点で、どちらが有利かなど火を見るよりも明らかだ。


――来ましたか。


険しい目つきで見据える先、そこから一つの光がゆっくりと近づいてきている。
光の正体は彼女が自身の能力を解放させることより全身から発せられているものだ。


それにしても凄まじいまでの威圧感だ、と私は思う。
ただ歩いているだけなのに、まるで暴風の直撃を受けているかのような居心地の悪さを感じさせるのだから。
超一流と称される魔術師であっても、これだけの威圧感を出せはしないだろう。


しかし、一人で来るとは意外だった。
まずは上条当麻と共に私の説得を試みるだろうと踏んでいたのだが。
まあ、身体能力としては常人に過ぎない彼がいても足手纏いにしかならないか。


こちらに向かって歩きながら手袋を外し、マフラーをほどき、ダッフルコートを脱ぎ捨てる美琴。
そして露わになるのはベージュのブレザーに膝丈よりも短いチェック柄のスカートの組み合わせ。
能力者が集う学園都市の中でも一握りの人間しか入ることの許されないエリート校、常盤台中学の制服。

「じゃあ、始めますか」

到着早々、第一声がそれである。
どこまでも真っ直ぐな、彼女らしいと言えば彼女らしい台詞だ。

「ですね」

私もまた、余計な言葉を一切加えずに応える。

「貴女を倒し、姫神秋沙を確保するとしましょう」
「させませんよ、そんなこと」

私は魔力を、そして美琴は能力を高める。
互いの力の余波で周囲の風が乱れ、コンクリートの地面に亀裂が走る。
どうやら向こうも、本気でかかって来てくれるつもりらしい。

「いい気迫ですね」

そりゃどうも、と口の端を歪めて美琴は笑ってみせる。

「おかげで、こちらも一切の遠慮なく戦えます」

目を細め、神経を研ぎ澄ませる。
しかし直後、その瞳は驚愕に見開かれることになる。
少なくても十メートルの距離は置いていた美琴が、突如として目の前にまで移動していたのだ。何の予備動作も無しに、一瞬で。
何らかの能力を使った気配は無い。つまりこれは、純粋なる彼女自身の速さ。

「はあっ!」

突然の事態に反応が遅れた私の頬を、美琴の拳が打ち据える。
いくら速かろうと、それは十四才の少女が放つ拳。
大した衝撃は無いだろうと高を括っていた。

「くっ……!」

だが実際にはどうだろう。
確かに私を打倒し得る威力は持っていなかった。
だが一般の少女と大して変わらない筋力しかないはずの美琴が、どうして聖人である自分を殴り飛ばせるのだ。
そう思いながら、私は虚空へと吹き飛び、そして重力に従って地面へと打ちつけられた。


――そんなバカな……!


殴られた頬の痛みよりも、身体能力に限って言えば雲泥の差があるはずの人間に殴られたという事実が私の心を掻き乱す。
一体、何が起きているのだ。美琴の能力は電気を操るものであって、彼女自身の肉体には影響を及ぼさなかったのではないのか。

「ちぇいさぁっ!」

困惑から立ち直れない私に、美琴は追い打ちの蹴りを放つ。
咄嗟に鞘で受け止めるも、威力を殺し切ることは出来ず僅かに後ずさる。


完全に見誤っていた。
手の内を晒していないのは、どうやら私だけではなかったらしい。

「せいっ!」

上体を反らすことで更なる蹴りをかわすも、美琴は攻撃の手を休めない。
立て続けに高速で放たれる拳を的確に捌いていると、私の髪が一瞬だけ視界を遮った。
その僅かな間に美琴は更に踏み込み、私の懐に飛び込んできた。
そして地面が砕けるほど強く踏みしめ、放たれたのは渾身のアッパー。
彼女の拳は真っ直ぐに私の顎を狙うが、私はそれを難なく掌で受け止める。
乾いた炸裂音が響き、衝撃で互いの髪がなびく。


その態勢から一瞬の膠着の後、美琴は素早く手を離して距離を取ると左手の人差し指と中指を私に向ける。
直後に来るのであろう攻撃の危うさを本能で察知した私は瞬きの間に回避を選択。
彼女の指から次々に撃ち出される熱閃を右へ左へとフットワークを駆使してかわし、反撃の刀を横薙ぎに振るう。
しゃがみ込むことで美琴は避けようとするが、それを予測していた私は彼女の足を払う。


そう、横薙ぎの抜刀は避けられることを前提にしたフェイント。
地面へと倒れ込んだ美琴に向けて、今まさに振り下ろさんとする鞘の一撃こそが本命なのだ。
倒れ込んだ今の姿勢では、この一撃をやり過ごすことなど不可能……だったのだが。


しかし、やはりと言うか、美琴は一筋縄ではいかなかった。
美琴の腹を捕らえる直前、金属製の鞘が私の手から離れ空高く舞い上がった。
鞘だけではない。右手に構える大刀までもが美琴に反発するかのように吹き飛ばされたのだ。


自身の身体に流れる磁力を一瞬にして引き上げたのか。
器用な真似を、と心の中で毒づいてから視線を美琴に戻す。
しかし、そこに彼女の姿はない。武器の行方を追って目を逸らした、ほんの一瞬の間に。

「……っ!?」

背後に気配を感じ、咄嗟に身を屈める。
瞬間、今まで私の上半身があった場所を青白い電光が素通りした。
一瞬でも反応が遅れていたら間違いなく感電させられていただろう。
しかし避け切った今、絶好の好機が訪れた。


美琴は今、私の真後ろに立っている。
その手は電撃を放った状態のまま突き出されている。
私は振り返ることなくその手を掴み、一気に前へ体重をかける。
そして自身の背を通し、美琴を空中へと放り投げる。
投げると同時、上体を起こして掌に炎を生み出し、狙いを定める。
体現したのは地獄の炎。罪深き者を焼き尽くすまで消えることのない業火。
だが美琴も黙ってはいない。不安定な姿勢のまま私に人差し指と中指を向ける。


渦巻く閃熱と収束された閃光が互いの中央で激突。
耳をつんざく大爆音が響き、視界を塞ぐ爆風が巻き上がる。
そして煙が晴れて私が目にしたのは、腕を僅かに焦がした美琴の姿だった。












学園都市の中でも、特に中高生の割合が多い第七学区。そこには公園が一つあった。
現金を入れても飲み物が出て来ないことのある、故障気味の自動販売機が置かれた公園。
その販売機の横にあるベンチに、真っ黒な外套に身を包んだ、やたらと背の高い魔術師が座っていた。

「飲めよ」

俺が差し出したのはホットコーヒーの缶だった。
砂糖もミルクも入れていない、正真正銘のブラックコーヒー。
ここに来る途中で寄ったコンビニで買った物だ。


どうも、と言って俺の施しを素直にステイルは受け取った。
燃えるように赤い髪は、街灯の下でも充分過ぎる程の存在感を示している。
真冬の公園はただひたすらに寒く、吐く息は真っ白に輝いた。

「俺の奢りだ」

ステイルが座っているベンチに、どすんと腰掛けた。

「じゃあ、ありがたく」
「おう」

一口すすった途端、ステイルは顔をしかめた。

「お子様の口には合わなかったかな」

意地悪く笑ってみせる。

「熱くて驚いただけだよ」
「そっか。じゃあ残さず飲めよ。俺が奢るなんて珍しいんだからさ」
「もしかして君、僕の好みを知っているのに、敢えてブラックを選んだのかい」
「まあな」

インデックスの惚気話を聞かされている身から言えば、これぐらいの仕返しは許されて当然だ。
その辺りの事情をステイルも察しているらしく、文句の一つも零さずに黙ってコーヒーをすすっている。

「あんまり無理するなよ」

しかめっ面で飲み続けるステイルから、ひょいとコーヒーを取り上げる。
代わりに押しつけたのは、ホットココアの缶だった。

「そっちは苦くないぞ」

暫く無言のまま、俺はコーヒーを、ステイルはココアを飲んだ。
身体が内側から温められ、冬の寒さが少しだけ和らぐ。

「君さ、戦いには向いてないだろ」
「よく知ってる」
「弱いくせに、自分の理想だけは声高に叫んで」
「そういう性分なんだよ」
「土御門は、君が来たら行動を共にしてほしいと言っていたけど」
「お前だけなんだよな。五和って子が捕まっている場所を土御門から聞いたのは」

ステイルがココアの缶を傾ける。
苦くないから、顔をしかめることもない。

「覚悟は出来てるかい」

何の、と訊ねるとステイルはベンチから立ち上がった。

「何があっても生き残る覚悟さ」

夜空に浮かぶ星空を見上げながら、ステイルは独り言のように呟いた。

「今回の件で、君の身に取り返しのつかないことが起きたとしよう」

背を向けているので、表情は見えない。

「御坂美琴は悲しむだろう。苦しむだろう」

でも、その声は確かに、はっきりと聞こえた。真剣だった。

「それって全部、僕のせいだろう」

命を賭して戦い続ける男の、それは最後通告だった。
戦いに赴くか、見守るか。最後の選択を迫られているのだ。


俺は何かを腹の底に流し込む為、コーヒーをごくごくと飲んだ。
いつも飲んでいる銘柄なのに、やけに苦かった。

「要らねえよ、そんな心配」

白い息を吐いて、俺は言った。

「テメエの身くらい、テメエで守る」

ステイルが振り返る。
わざとらしく、真っ白い溜め息を吐く。

「ついてくるつもりなのかい」

質問の形を取ってはいたけれど、ほとんど確認みたいなものだった。
ここに来た時点で、俺の答えは決まっているのだから。

「勿論」

ベンチに座ったまま、俺はニヤリと笑ってみせた。











[20924] 第115話 誰が為に⑥
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2014/01/19 17:42
俺とステイルの二人は倉庫に辿り着いた。
公園の入口でタクシーを拾ってから一時間後、第二学区にある無人の倉庫に。
ここに神裂の仲間が閉じ込められていると、土御門が調べをつけてくれていた。


辺りに人の気配は無い。
夜の九時を過ぎた倉庫街に寄りつく物好きはいないし、ここに住んでいる人間もいないからだ。
おまけに爆物や兵器の訓練場といった騒音の出る施設が密集しているので、この学区の周囲は防音壁でぐるりと覆われている。
ここなら確かに、何をしようと邪魔をされる恐れは無い。


俺達は互いに目配せし、目的の倉庫を探した。
ステイルが事前に聞いていた通り、その倉庫はすぐに見つかった。
それは無愛想な灰色の箱のような建物だった。
学校の体育館に近いような大きさだったが、倉庫と言えないこともない。
音をなるべく立てないようにして倉庫に駆け寄る。
重い鉄の扉に鍵はかかっていない。横に滑らせて開けるタイプだ。


俺達は体重をかけて重い扉を押し開けた。
中は完全な闇ではない。磨り硝子の窓から、ほんの僅かに光が滲んでいる。
もっと明かりが欲しかったが、どこに電気のスイッチがあるのか分からないので、扉を一杯に開けてそこから入る光に頼る。
倉庫にしては整然としていた。物が剥き出しで雑多に突っ込まれた様子を想像していたが、様々な大きさのベージュ色のコンテナがサイズ別にきちんと積み重ねられている。

「おい」

先を歩くステイルが小さく声を上げる。

「あれ」

指差す先は、倉庫の一番奥。
コンクリートの地面に、誰かが投げ出されている。
気絶しているのか、それとも動けない程に衰弱しているのか。
俺達が倉庫の中に入って来ても、その身体はぴくりとも動かない。

「驚きましたね。この場所を嗅ぎつける者が現れるなんて」

男性にしては高い声が倉庫に響く。


俺は勢いよく振り返る。
倉庫の入口に痩せぎすな男が立っている。
頭の先から足の裏まで緑色の礼服に身を包んだ魔術師が。

「しかし喜ばしいことでもありますがね。調整を済ませたばかりなので、肩慣らしをしたいと思っていたところでしたから」

かけられた言葉の意味を俺が理解する前に、男の礼服から大量の白い粉が噴き出す。
それは男の手の中に集まり、白い刃を形成した。正方形の下端を強引に斜めに断ち切ったような板状の刃を。
その形は俺の脳裏にギロチンを思い起こさせる。

「歓迎するよ、異教徒の諸君」

白いギロチンを手にした魔術師は楽しげに笑うと、芝居がかった仕草で大袈裟に一礼した。












天草式十字凄教の女に食事を提供してから一時間ほど経った頃、私はアレイスター=クロウリーの居城に辿り着いていた。
この場所を突き止めるのは簡単で、単に学園都市の中で隠し切れていない魔術の跡を辿ってきたら、その大元に辿り着いたというだけだった。
十二月の寒空の下、月に届けとばかりに直方体の建物が建っている。それが魔術の限界を悟った男の本拠地であるらしい。


周囲に立ち並ぶ中高生の学び舎とは一線を画する建物。
この妙な建物は変わった造りをしている。内部に侵入する手段が無いのだ。
ドアは勿論、窓も、通気口すらも無い。これでは、ただ大きいだけの箱と大差は無い。
或いは脱出不能の檻といったところか。無論、何者かが既に内部に存在する、という前提が必要となるが。


物は試しに、と壁面を思いきり殴ってみたが無駄だった。
壁には罅の一つも付かなかった。残ったのは壁を殴った瞬間の違和感だけ。
全力で殴りつけたにも関わらず、まるで手応えが無かった。
衝撃に耐えたというより、逸らしたという感じだった。
この壁、どうも単純に硬度が高いというワケではないらしい。
魔力を全開にすれば、破壊も或いは可能かもしれない。
壁が壊れる前に、この周囲一帯は間違いなく焼け野原と化してしまうだろうが。


それは私の望むものではない。
犠牲とは、いかなる場合においても最小限に抑えられねばならないもの。
諸悪の根源さえ潰せば、要らぬ悲劇など起こるはずもないのだ。


日に日に現実味を帯び始めた、魔術師と能力者の全面戦争。
それを止める手立ては一つ。学園都市の頂点に立つアレイスター=クロウリーの抹殺。
魔術師を必要以上に見下す、あの男さえ亡き者にすれば全ては丸く収まる。


敵地へと赴く機会を得た今回、奴を仕留めることも或いは可能かと考えたのだが。


――止むを得ん、か。


ここは大人しく、フィアンマの策に乗るとしよう。
アレイスターの後ろ盾を、こちらに取り込んでしまうのだ。
あの女を我々の味方につけることさえ出来れば、全てが上手くいく。
その為にも、今回の任務は必ず成し遂げねばならない。
吸血鬼を我らが手中に収める為にも、必ず。


そんなことを考えていた時、ふと、ある光景が視界に入った。
楽しそうにお喋りをしながら通りを歩く三人の少女。
その内の一人には見覚えがあった。否、見覚えがある程度の話ではなかった。


――学園都市第三位……?


要注意人物として挙げられている、電気を自在に操る超能力者。
今頃は神裂と戦っているはずの彼女が何故、こんな場所にいるのだ。


まさか圧倒したのか、あの神裂を。
いや、考えられない。未熟とはいえ奴も聖人。容易く負けるはずがない。


神裂の挑戦に応じなかったのか。
それなら有り得る。あの少女と神裂は互いに見知った間柄であると聞いている。
神裂の実力も当然、知り尽くしているはず。
とすれば、聖人として圧倒的な戦闘力を誇る神裂との勝負を避けようと考えても不思議はない。


このまま姿を眩まされては厄介だ。
不本意ではあるが、私が相手をするしかあるまい。


吸血鬼の協力を得るには、あの女が必要不可欠。
故に彼女の居所を知る第三位を、黙って見逃すワケにはいかない。
私自身の手で彼女を倒し、『吸血殺し(ディープブラッド)』の居場所を突き止める。
それが私、後方のアックアの出した結論だった。












今日は朝から、美月と那由他の二人と一緒だった。久々の外出だった。

「家に篭ってばかりいたら身体に悪いですよ」

そう言って、部屋の隅で体育座りをしていた私に微笑みかけてくれて。
那由他のマンションに転がり込んでから、私は二人に甘えてばかりいた。


寒空の下、どうして独りぼっちで震えていたのかを未だに二人に打ち明けていない。
それどころか、事情を幾らか知っているはずである御坂への連絡さえ断って。


全ては私のわがままでしかない。
なのに二人は何も訊いてこない。無理強いをしない。
御坂にも、私のことについては何一つとして伝えていないみたい。

「なんで、そんなに優しいかな」

つい口に出してしまう。

「私、何もしてないのに」

美月は首を振ると、黙って私に手を差し出した。
彼女の優しさに甘えて、その手を私は取ってしまうのだった。


他愛も無い話をしながらブラブラとあちこちを巡っていたら、いつの間にか夜になっていた。
時間を忘れてしまうほど、今日は楽しかった。目一杯、二人と一緒に遊んだ。
ひょっとして、と私は思う。こういう何気ない時間を、私は求めていたのかもしれない。


妹を養うのに、手早く大金を掴めるからと安易な気持ちで入った暗部。
思った通り、金には困らなくなった。仲間にも恵まれた。
でも、こういう生き方だってあるんだよね。
暗部も、抗争も。血生臭いものは一切、気にすることなく穏やかに生きる。
そんな暮らしこそが、本当の幸せというものなのかもしれない。

「二人共」

隣を歩く二人に向かって、にこりと笑いかける。

「ありがとね」

さっき買ったクレープを片手に、きょとんとした表情を見せる二人。
おまけにクリームを口元に付けているせいで、より間の抜けたものになってしまって。


あははは、と大声で笑ってしまった。
こういう時間って本当にいいなあ、と心から思う。
こんな風に気の許せる相手と一緒に過ごしていければ、とても嬉しいな、と。

「悪いが、そこまでだ」

突然の低い声。


心臓を掴まれたような気分で、声のした方へ顔を向ける。
男が一人、そこには立っていた。大きな男だった。
頑強な身体つきをしている。ざっと見て、二メートルはありそうだった。


男の顔に表情は無かった。
ただじっと、こちらを見据えてくる。

「教えてもらおう」

男の手には一振りの剣が握られていた。
形だけを見ればアーミーナイフのようだけど、大きさがまるで違う。
刃の部分だけで、男の背丈の倍近くはある。


一目見て、分かった。この男は同類なのだと。
麦野達を圧倒した、あの女と同じ世界に住む人間なのだと。

「『吸血殺し』をどこに隠した」

男は静かに言った。












緑の魔術師が右手を横に薙ぐように振るう。
その度に白い刃が飛んでくるが、右手で受け止めて元の白い粉に戻す。
刃の数を増やしたり、飛ばしてくる間隔を狭めたりしてきたが全て防いでみせた。
しかし男の顔に浮かんでいるのは余裕の笑み。
自身の魔術が全く通じていないのに、うろたえる素振りすら見せない。

「さすがだね」

すぐ後ろで声がした。

「下調べは済ませてあるってワケだ」

俺の背に隠れるようにして、ステイルは白い刃をやり過ごしていた。
その腕には意識を失った一人の少女を抱えている。


この少女こそ、神裂が望んでもいない戦いに駆り出されている理由。
彼女をこのまま救出できれば全てが上手くいく。
俺達と敵対する必要の無くなった神裂は、きっと力を貸してくれるだろう。
彼女が味方についてくれれば、姫神を守り切るのだって決して難しくはない。

「どういうことだよ」

同時に迫ってきた五つもの白いギロチンを、右手の一振りでまとめて打ち消す。

「やり過ぎたんだよ、君は」

ステイルはあくまで冷静だった。
携帯電話を取り出し、メールを打つ余裕すらある。

「少なくても神の右席に警戒心を抱かせてしまうくらいにね」

神の右席。初めて聞く名前だった。
それが白い刃を操る魔術師の通り名なのだろうか。
それとも魔術師ならば誰もが持つ、魔法名とか言うやつだろうか。
その疑問を口にすると、ステイルは動かしていた指を止めた。
メールを書き終え、送信も済ませたらしい。

「人の限界を越えた魔術を使役する化け物達の総称さ」

携帯電話を握り締め、苦々しい顔でステイルは言った。

「その力の一端なら、君は夏の終わりに体験しているはずだ」

そう言われて、俺はロシアから来た一人の女の子を思い出す。
ミーシャ=クロイツェフ。親父のせいで、天使をその身に宿してしまった魔術師。


一歩でも間違えていたら、あの時、世界は終わっていた。
美琴と神裂の二人を相手にしても、全く引けを取らなかった。
それだけでも天使の実力は充分過ぎる程に思い知らされたっていうのに。

「天使と同じくらい強いっていうのかよ、アイツ」

絶え間なく放たれる白い刃を右手で受け止めつつ訊ねると、またもステイルは苦々しい顔をして肯いた。

「そうかもしれない」

返事が曖昧なのは、天使の実力まではステイルも把握していないから。


そもそも神の右席というのはね、とステイルは言葉を続ける。

「十字教旧教三大宗派の一つで、実に二十億もの教徒を従えるローマ正教に属する組織の名前なんだ。元々は教皇の相談役に過ぎなかったんだけど、歴代の教皇達が有能な彼らに頼り過ぎてしまったんだろうね。いつの間にやらローマ正教の中心に据えられるようになって、指導者としての権力が逆転してしまったんだ」

何だか歴史の授業でも受けているような気分になってきた。

「なあ、その話はいつまで続くんだ」

視線は緑の魔術師に向けたままで訊いてみる。

「まだまだ序の口だけど」
「長い。まとめてくれ」
「左方のテッラ」

細い目をして、ステイルは首だけを振り向かせる。

「神の右席の一人にして、今回の騒動における首謀者。それが奴の正体さ」

質問はあるかい、とステイルは訊ねる。
何もねえよ、と緑の魔術師を見据えたまま答える。
より一層の力を込めて、迫り来る白い刃を殴りつける。
白い刃はそれだけで単なる粉に成り下がり、周囲を白く染める。

「そろそろ頃合いですかね」

テッラの呟く声が聞こえる。
白い粉は倉庫中に充満し、奴の姿はほとんど見えない。
だけど位置さえ分かれば問題は無い。
俺の能力を知っているからこそ距離を保っているのだろうが、無駄だ。
この右手に備わっている本当の力を見せてやる。


意を決し、一歩を踏み込む。
その前に、魔術師は発音した。

「優先する」

空気が変わる。
白い粉が動きを止める。
入口から流れ込んできていた風がぴたりと止む。


周囲に浮かぶ白い粉。
それは俺に一つの光景を思い起こさせる。
今から四ヶ月前、第十七学区で目の当たりにした光景を。


――粉塵爆発……!?


「さようなら、幻想の破壊者」

直後、鼓膜を揺さぶる爆音を伴い、世界が真っ白に染まった。











[20924] 第116話 誰が為に⑦
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2014/02/02 19:55
冷たい北風が吹く。
がたがたと身体が震える。
自分の意思とは無関係に震える身体は、しかし寒さのせいではない。
逃げなきゃ。早く逃げなきゃ。
そんな言葉だけが頭を占め、膝が笑う。


大剣を片手に、男はゆっくりと歩きだす。
男の放つ圧倒的な存在感に気押され、意識すらも凍りついていく。

「止まりなさい」

凛々しい声が、私の意識を呼び起こした。
私を守るように、美月と那由他の二人が男の前に立ち塞がる。

「二人共……」

声を出して、初めて自分が涙ぐんでいたことに気づく。

「退く気は無さそうですね」
「みたいだね」

男は歩みを止めない。
ゆっくりと、でも確実に私達との距離を詰めてくる。

「じゃ、援護よろしく」

そう言うと同時に那由他が疾走。
一陣の風となり、一直線に男へと走る。
美月は飛び出さず、掌に青白い電撃を纏って腰を深く落とす。
男に何らかの動きがあれば即座に迎え撃つつもりだ。
一方、男は変わった動きを見せない。歩く速度も一定のまま。
まるで那由他の接近を気にも留めていないようで。


あっと言う間に男との距離を零に詰めた那由他が、手刀を一閃。
男の首筋に手刀が決まろうとしていた、正にその時だった。
男の足元から彼自身の背丈ほどもある金属棍棒が飛び出し、那由他の顎を捉えたのは。
予期していなかった攻撃を受け、那由他の身体が空高く舞う。

「那由他!」

電撃を収め、慌てて駆け寄ろうとする美月。だけど、それは失策だった。
那由他を吹き飛ばした金属棍棒が突如として爆発。
衝撃に備えていなかった私達は軽々と吹き飛ばされ、何メートルも転がされた。
地面に身体を何度も強く打ちつけ、気を失いそうになる。

「う……」

それでも何とか立ち上がると、辺りの景色は一変していた。
アスファルトの地面は大きく抉れ、破片が所々に散らばっている。
あちこちに火の手が上がり、息苦しささえ感じる。
そして、私のすぐ横には、

「美月……!?」

身体の至る箇所に切り傷を作った美月が倒れていた。
爆発の瞬間、飛び散ったアスファルトの破片が彼女を襲ったのだ。
私は彼女の後ろにいたから、爆風で吹き飛ばされただけで済んだのだ。

「しっかり!」

美月のもとに駆け寄り、応急処置を施す。
いや、施そうとする。だけど上手くいかない。
スカートの中から出てくるのはガラクタばかり。
いかなる出血もすぐさま止めてしまう、チューブ型の応急処置ウェポンを取り出せない。


いつものように空間同士を繋げられない。
自分の能力なのに、まるで使いこなせていない。

「待ってて、すぐに治すから」

出て来い、出て来い。
下着が丸見えになってもお構いなしに、スカートの中を探る。
だけど駄目だ。肝心の応急処置ウェポンを取り出せない。
震える指が掴むのは、閃光弾や手榴弾ばかり。
思い通りの物が取り出せない。自分の能力なのに。
情けない。大事な友達の妹を助けることすら出来ないなんて。

「フレンダさん」

泣きそうになっている私に、美月は言った。

「逃げて下さい」

掠れた声で、呟いた。

「え?」

一瞬、自分の耳を疑った。


この私に、逃げろと言ったのか。
他でもない彼女自身が一番、苦しいはずなのに。
争いごとに慣れているのは私の方なのに。
本来であれば、私こそが美月達を守らなければならないのに。


私は心から思った。
なんて強い子だろう、と。


それに引き換え、今の自分は何だ。
戦う力があるのに何もしない。
助ける力があるのに動けやしない。
死の恐怖なんかに縛られて、美月達の好意に甘えて。

「結局」

笑みが零れる。

「情けないにも程があるワケよ」

スカートの中に右手を入れる。
取り出した時、その手はチューブ型の応急処置型ウェポンを掴んでいた。


傷の深い箇所を優先して美月にチューブを塗っていると、誰かの足音が聞こえた。

「学園都市第三位」

舞い上がる土煙から姿を現したのは、あの男だった。
爆発の中心にいたはずなのに、傷はおろか汚れの一つすら付いていない。

「その身柄、この後方のアックアが預かる」

この男、どうやら美月のことを御坂だと思い込んでいるらしい。
御坂の奴、またしても厄介事に首を突っ込んでいるというワケか。


――結局、姉妹揃って強過ぎるワケよ。


震える足を思い切り殴り、立ち上がる。


死の恐怖は未だ拭えない。
今だって、怖くて怖くて仕方ない。
それでも私は逃げない。もう逃げたくない。
死ぬのは嫌だ。傷つくのは嫌だ。
でも、大事な友達を失うのはもっと嫌だ。


わざとらしく唸ってみせる。ふうん、と。

「これで勝ったとか思ってるんだ」

男の勘違いを指摘したところで、大人しく退いてなどくれないだろう。


おそらく彼は知らないのだ。
御坂には瓜二つの妹がいることを。
だったら、やるべきことは一つ。力づくでも退場させてやる。


麦野達が倒された時の恐怖が蘇る。
あの女との戦いの恐怖が心を支配する。

「これからは、お姉ちゃんのやりたいことをして」

かつて妹がかけてくれた言葉を頭の中で反復し、小さく笑う。


そうだね、フレメア。
結局、アンタの言う通りだったワケよ。


暗部の仕事は確かに誇らしかった。
お姉ちゃんは正義の味方なんだって、妹に胸を張って言えた。
血生臭い仕事ばかりだったけど、いい仲間に恵まれた。
並大抵の人間では一生かかっても稼げないだろう莫大な報酬も貰えた。
だけど、いつしか私は見失っていた。自分にとっての一番とは何なのかを。
誇りも大金も、私が心から望んでいたものではなかったのだ。


今になって、ようやく見えた。
自分のしたいことが、はっきりと形になった。


そもそも、暗部への誘いを受け入れた最初の理由は何だったのか。
自分は一体、何の為に戦おうなどと思ったのか。
それはフレメアの為。幼くして両親を亡くした妹に、せめて金銭面では不自由な思いをさせたくなくて。


そう、全てはたった一人残った家族の為。
なのに私は、そんな大切なことをいつの間にか忘れていて。
お金の為なら殺人も厭わないような人間に成り下がっていて。
全くもって、失格だ。人としても、そして姉としても。

「そういう台詞は結局、ちゃんと全員仕留めてから言って欲しいのよね」

強い意志を込めた言葉に、アックアと名乗った男は眉を怒らせる。

「何が出来るというのだ」

明らかに侮蔑の念を込めて、アックアが返してくる。

「つい先程まで、恐怖で震え上がっていた貴様に」

私の答えは、スカートの中から取り出した真っ白なテーブルクロスだった。
大人の一人や二人、余裕で包み込めるくらいのそれを広げ、仰向けに倒れている美月に被せる。

「ワン、ツー」

スリーの掛け声と共にテーブルクロスを勢いよく引っ張る。
そこにいたはずの美月は忽然と姿を消していた。

「貴様……!」

アックアが睨みつけてくる。

「よほど死にたいようだな」

この男の怒りを買った今、いつ殺されてもおかしくはなくなった。

「んなワケあるかっての。この若さで殺されるなんてまっぴらゴメンよ」

でも、それでも後悔はしていない。

「でもさ。結局、格好悪いのよね。大事な友達を見捨てて逃げるなんてさ」

もう逃げたりしない。
どんなに怖くても、泣きたくなっても、戦ってみせる。何故ならば。

「そんなことをするくらいなら、死んだ方がマシってワケよ」

スカートの中に手を突っ込み、取り出したのは小型ミサイル。
ロケット花火のような形をしたそれを三発、一斉に発射。


まずは挨拶代わりのミサイル三連撃でアックアを出迎える。
爆音が響き、その衝撃波が十メートル以上離れた位置にいた私にまで届く。
煙が晴れた時、そこにあったのはミサイル着弾前と何ら変化の無いアックアの姿だった。


予想はしていたけど、全く効いていない。
何らかの能力を使っているのだろうけど、その正体が掴めない。
とりあえず、ミサイルの直撃を受けても平然としていられるくらい頑丈だってことは分かったけど。
あの様子だと武器庫に保管してあるミサイルを全て注ぎ込んでも、大した効果は期待できそうにない。


――さて、どうしたもんかな。


手持ちの武器では明らかに火力不足。
それを痛感しても、身体が動かなくなることはない。
いや、それどころか嘘みたいに身体が軽い。


倒す必要なんて無い。
ただ、この場を退いてもらえれば良いだけ。ならば手はある。
相手は美月の居場所を訊き出したいが為に、すぐさま私を殺せないのだから尚更に。


アックアとの距離を二十メートルに保って、ミサイルを次々と叩き込む。
ミサイルは確かに当たっているが、やはり傷を負わせるまでには至らない。

「ねえねえ」

ミサイルを撃つ手を止め、アックアに話しかける。

「一方的にやられるのって、どういう気持ち?」

返事は無い。だけど表情を見れば分かる。
私の言葉に多少なりとも苛ついている。

「どんなに強かろうが、近づけなきゃ意味が無いってワケよ」

静かに怒るアックアの前で不敵に笑い、私は言った。

「くやしかったら攻撃してみろっての」

私の足元から金属棍棒が飛び出してきたのは、その直後だった。
安い挑発に乗って、本当に攻撃を仕掛けてきたのだ。


那由他を吹き飛ばし、大爆発を起こした金属棍棒の召喚。
不意打ちとも言える攻撃は、しかし私には当たらない。
地中より飛び出した棍棒は私のスカートの中へと吸い込まれ、

「……!?」

アックアの顔が歪む。
彼の真横に現れた空間の裂け目から金属棍棒が飛び出し、無防備だった脇腹を突いたのだ。


これが私の持つ能力。
離れた空間と空間とを繋いで対象を移動させる。
要するにアポートとアスポートの両方を兼ね備えた能力というワケ。
まあ、制約も色々とあるんだけどね。
移動できる質量には制限があるし、少しでも慌てると能力を使えなくなるし。


一番の制約は、入口を作るのに媒体が必要だということ。
しかもその媒体、身体の一部分でもいいから触れていないといけなくて。
考えに考えた挙句、別空間へ通じる入口をスカートの中に設定することにした。
ここなら物の取り出しも楽だし、能力の正体も看破されにくい。
ミサイル辺りを出すと下着が見えてしまうのだが、まあ、そこは御愛嬌ということで。


今まで私は、この能力を自分の愛用する爆弾やら罠やらを収めた武器庫への通路ぐらいにしか使っていなかった。無能力者であるかのように振る舞ってきた。
理由は単純。その方が狙われにくいから。格下を演じていれば、真っ先に標的とされることはないから。
どこまでも悪賢い奴だなと、我が事ながら呆れてしまう。


だけど、これからは違う。
今後は能力を積極的に使っていく。
この能力を最大限に活用してみせる。


使い方次第で、まだまだ私は強くなれるはずだから。
出口を設定し直せば、相手の攻撃を跳ね返すことだって出来るのだから。
そう、ちょうど今、アックアの棍棒を召喚した本人に当ててやったように。


巨大な鉄の塊の直撃を受けたのに、アックアは吹き飛びもしなければ苦しそうな顔も見せない。
相手をしている身としては、本当に嫌になる。
一体どれだけ鍛えれば、あそこまで頑丈な身体が出来上がるのだろうか。


でも、まだだ。まだ終わりじゃない。
手札はまだ残っている。自分はまだ、戦える。


軽く腰を落とし、スカートの中に手を入れる。
牛乳瓶ほどの大きさの瓶と、一本のミサイルを取り出す。
あの男をどうしても止めたいの、だから通じて。
そう、強く強く願いながら。











[20924] 第117話 誰が為に⑧
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2014/02/16 21:41
――油断し過ぎたか。


ベレー帽の少女が私に恐怖を抱いていることは理解しているつもりだった。
同時に、あの三人の中では最も戦闘能力が低いということも。
だからこそ彼女は戦力として数えなかったし、立ち向かってきても容易にあしらえると判断した。
好きなだけ抵抗させ、その無意味さを悟らせるつもりだった。そうしたら、まさかの善戦である。


だが、それでも警戒を全くしていなかったワケではない。
この国には窮鼠猫を噛むという諺がある。
非力な彼女でも、何らかの科学兵器を使って攻撃してくる可能性がある。
その程度であれば考えていたし、周囲の警戒は怠っていなかった。
しかし彼女が高位の能力者であるとまでは予想していなかった。
それも一流の魔術師でも使い手の限られる、空間を操る力の持ち主だったとは。


たとえ音速に迫る勢いで金属の塊をぶつけられようと、人の身を超越した私に効果は無い。
加えて、あのような奇襲は二度も通用しない。それは彼女とて百も承知なはず。
しかし、どういうワケかベレー帽の少女は笑っている。
腰を落とし、彼女は異空間へと繋がっているのであろうスカートの中に手を入れる。
取り出したのは一本の瓶と、またしてもミサイル。


何をするつもりなのかと様子を窺っていると、

「ぬおっしゃあっ!」

と奇声を上げ、持っていた瓶を投げつけてきた。


放物線を描き、少々小振りな瓶がこちらを目がけて飛んでくる。
中に何か入っているようだが、避けてしまえば何の問題も無い。
この少女の策に大人しく乗ってやる必要は最早ない。


そう考えた矢先、私の頭上で瓶が爆発した。
少女はミサイルを投げたばかりの瓶に撃ち込んでいたのだ。
宙を舞っていた瓶はミサイルによって粉々に砕かれ、中身をぶちまける。
鮮やかな緑色をした粉が辺りに降り注ぐ。鼻の奥にツンとした刺激が走る。

「学園都市特製の劇薬、スリーピング・ビューティー」

芝居じみた口調で、少女は言った。

「鼻の奥に針で刺されたような痛みを感じたが最後。後は眠るように息を引き取るだけ」

成程。それで『眠れる森の美女(スリーピング・ビューティー)』か。
新しい物ばかりを追い求めるこの街で、まさかグリム童話集にも取り上げられたヨーロッパの民話を耳にすることになるとは思いもしなかった。

「さすがのアンタも、身体の中までは鍛えられないでしょ」

にやり、と少女は笑う。
私はただ、少女を見据えるだけ。

「治療法は、たった一つ」

彼女はスカートの中から先程と全く同じ形状の瓶を取り出す。
違いと言えば、中に入っている粉の色が緑ではなく白だということぐらい。

「この中に入っている粉を吸えばいいだけ」

簡単でしょ、と言いかけた少女の顔が一瞬にして引き攣る。

「そうだな」

軽く十メートルは離れた場所で話を聞いていた私が、一瞬にして目の前に移動したから。


左手が動く。少女が動き出すよりも先に。
剣を持たない方の手が、少女の顔を鷲掴みにする。

「あ――」

少女の喉が震える。
その手から瓶がするりと抜け落ちる。
地面に落ちた瓶は割れ、中身を曝け出す。
北の冷たい風に乗って、白い粉は空気中に舞い上がる。


私は大きく息を吸った。
肺にも届かんばかりに白い粉を吸い込んだ。

「ぐ……!?」

直後、景色がぐらりと歪んだ。


頭の芯が痺れ、身体に上手く力が入らない。
身体の変調を感じるのとほぼ同時に、私は、自らの顔に衝撃を感じた。
それが宙吊りにされた状態で少女が放った蹴りなのだと把握した時、彼女との距離は再び大きく離れていた。
ずっと息を止めていたのか、彼女は白い粉の影響を受けていないようだ。


ぼんやりとする頭を二、三度降って顔を上げる。
そこには悪戯を成功させた子供のような笑みを見せるベレー帽の少女の姿が。


――そういうことか。


少女の切り札は緑色の粉などではなかった。
解毒剤と称して吸わせた白い粉こそが、彼女の本命。
多少の毒なら余裕で耐え切れる聖人の肉体にすら影響を与える程に強力な睡眠薬。


睡魔に蝕まれる己が身を顧みつつ、私は思考する。
聖人の肉体は回復能力にも長けている。
この程度の異物ならば眠りに落ちるよりも先に除去できるだろう。
暫く動きは鈍くなるだろうが、この少女一人を屠る分には全く支障は無い。だが、しかし。

「見事である」

目の前にいる少女を、私は素直に称賛した。
強き者には敬意を払うのが礼儀だ。
今の彼女の姿は敬意を払うに値するものだった。


恐怖に打ち勝ち、遙か格上の相手に一矢を報いた少女に一言だけの賛辞を送り、そして踵を返す。

「貴様の勇気、しかと見届けた」

おそらくテッラは声高に罵ってくるだろう。せっかくの好機を自ら潰すなんて、馬鹿げていると。

「覚えておけ」

構わない。何と言われようと、私は自身の流儀を貫き通す。

「次は無い」

それだけを言い残し、私はこの場を後にした。












上条君を送り出すよりも前から勿論、考えていた。
私の匿われている場所に勘付いている人間だっているんじゃないかって。
土御門君のくれた折り鶴の力で気配を消していても、騙し切れないんじゃないかって。
だから私は電灯を点けていないリビングで一人、息を潜めて立ち尽くしていた。
お守り代わりの特殊警棒を掌が痛くなるくらいに強く握り締めて。


上条君が部屋を出てから、もうじき四時間。いくらなんでも遅過ぎる。
彼の身に何かあったのだと考えるのが自然だった。
そして、ひょっとすると御坂さんにも。


胸が痛む。ズキズキと、疼くように。
暫く忘れていた痛みだった。ようやく忘れられると思っていた痛みだった。
私のせいで、また他の誰かが傷ついている。
どうして、こうなってしまうのだろう。ただ在るだけで、私は周囲に不幸を振り撒いてしまうのだろう。


少しでも痛みを和らげたくて、警棒を持っていない方の手で胸を押さえつける。と、その時、玄関の音が開く音がした。
誰かが入ってきた、と身構えるよりも早く、侵入者はリビングまで上がり込んできた。
侵入者は私の姿を見つけるなり、

「いやあ、探しましたよ。『吸血殺し(ディープブラッド)』」

なんて、親しみに満ちた笑みを浮かべるのだった。












「何だってのよ」

アックアの姿が見えなくなって、初めて出た声がこれだった。
即効性の、しかも小匙一杯分の量でマウンテンゴリラでも卒倒するくらい効き目抜群の眠り薬を使ったのに。
相手は倒れないどころか、こちらに話しかける余裕すらあったのに。
その時点で私の負けだったのに、言うだけ言って、何もせずに立ち去ってしまうなんて。


目を細めて考えを巡らしていた時だった。

「お姉さん」

誰かに肩を叩かれた。
振り向くと、那由他が立っていた。
あちこちに擦り傷を作っているけど、大事には至っていないようだ。

「凄いね」

にこりと微笑む那由他。

「あのお兄さんに勝っちゃうなんて」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「勝った?」

あんぐりと口を開ける。

「私が?」

うん、と大きく肯く那由他。
その様は酷く幼く見えた。
普段、やたらと大人びているせいかもしれない。


そっか、と呟く。
実感はまるで湧かないけど、そうか。
あんな怪物に、たった一人で勝てたのか。

「でも、まだ終わりじゃないワケよ」

浮かれそうになる自身を咎めるように、声を出す。

「終わりじゃないって、どういうこと?」
「御坂が危ない」

スカートのポケットに手を突っ込んでから、思い出す。
そうだ。スマートフォン、故障中だった。

「お姉ちゃんを助けに行くんだね」

こちらの顔を覗き込むようにして訊ねる那由他。
その手には、最新鋭のスマートフォンが握られている。

「手伝うよ」

迷いなんて一切無い、その一言が嬉しい。

「でも、その前に」
「ん?」
「私、お姉さんに一つ、訊きたいことがあるんだけど」

スマートフォンを操作しつつ、那由他は困ったように視線を彷徨わせる。


私の素情とか、訊いておきたいのかな。
だとしたら、出来る限りは答えてあげよう。
今の今まで散々、迷惑をかけてきたことだし。
これから一緒に戦ってくれる仲間に、隠し事なんてしていたくないし。

「あのさ」

長い睫毛を瞬くと、那由他は囁くような声で訊ねた。

「美月お姉さん、どこ?」












第二十三学区の空港で、美琴との戦いは未だ決着の気配を見せていなかった。
剣術、体術、そして魔術を駆使して秒間に数十発もの速度で攻撃を繰り出す私。
それら全てを学園都市第三位としての能力と機転で凌ぎ、時には反撃すらしてみせる美琴。
攻撃しては捌かれ、避けられ、傷を負わせても微々たるもので。
こちらが反撃で受ける傷も、傷と呼ぶにはあまりにも浅いものばかりで。


ただ悪戯に時間ばかりが過ぎていく。
この局面を打開することは決して不可能ではない。
聖人である私が本気で攻勢に回れば、たとえ美琴でも耐え切れないはずだ。
唯閃を当てることが出来れば、勝負など一瞬で決まってしまうだろう。


だけど私は攻め切れずにいた。
唯閃を当てるとは即ち、美琴を殺すことを意味する。
こんな不本意な戦いで、どうして美琴を、心の底から友と呼べる彼女を殺さねばならないのだ。


それに加えて美琴は賢い。
私の知らない技をまだ隠している可能性がある。
思いもよらない方法で反撃を仕掛けてくる危険性がある。
更に言えば、美琴だって持っているのだ。こちらを一撃で葬り去れるだけの切り札を。
この星を破壊する勢いで放たれた一撃と互角以上の威力を見せた必殺技を。
あんな代物の直撃を食らえば、この身など一瞬にして蒸発してしまうだろう。
故に私は攻撃を行ないながらも、常に美琴の反撃に備えていた。
いつ、どんなタイミングで、どんな方法で反撃を仕掛けてきても対処できるように。


一瞬の判断ミスが死に直結する状況であるのに、全力では戦えず。
目の前を通る青白い閃光を見ながら、妙に落ち着いた頭で思う。
これで何度、自分の前を電撃が横切っただろう。
攻めの姿勢を崩さず、しかし瞬きほどの間でも隙を見せれば反撃を受けて。
随分と長いこと、この攻防を続けているように思えるが実際はどうなのだろう。
もう二、三十分は経ったのだろうか。それとも、もしかしたらまだ一分も過ぎていないのだろうか。
時間の感覚すら最早、曖昧になってきた。


まだか。まだ続くのか。
いつまで続ければいいのか。
そんな弱音が心の内側から顔を見せ始めるが、無理に心の奥底へ押し戻す。
弱気になって尚も戦い続けられる程、この相手は甘くない。


光の速度で迫る電撃は、見てから対応しているようでは間に合わない。
美琴の視線や仕草から攻撃方法と範囲を見極め、防御するか回避するかを選択する。
そして自らの持つ技や魔術の中から対処に最も適したものを探し出し、実行に移す。
これらを行なうのに許される時間はほんの数瞬。
しかも必要最低限の動きでかわさないと、いつまでも追撃が続いてしまう。
一瞬でも判断が遅れたならば、その瞬間に敗北が決定する。

「やれやれ」

そうした一連の攻防に終止符を打ったのは、あまりにも意外な人物だった。

「どこまでも使えない人ですね」

私も、そして美琴も動きを止めて声のした方へ振り向く。
そこに立っていたのは左方のテッラだった。
その細い肩には意識を失っているのか、ぐったりとしている黒髪の少女が担がれている。

「たった一人、それも魔術師でもない人間の始末も出来ないとは」

私と美琴とを交互に、そして無遠慮にジロジロと見るテッラ。
その視線を不快に感じないワケがなかったが、努めて気にしないようにしつつテッラを睨みつける。

「私を笑いに来たのですか、テッラ」
「おや、不快にしてしまいましたか。これは失敬」

悪びれた様子を全く見せず、言葉ばかりの謝罪をテッラは口にする。
いえね、と勿体ぶった調子で痩せぎすな魔術師は話し始める。

「こうなることは目に見えていたので、少しばかり手助けして差し上げようかと思ったのですがね」

何を、と口を開きかけた矢先。
指でコインを弾く音が、すぐ横で聞こえた。
わざわざ振り向き、確認するまでもない。
それは美琴の二つ名にもなっている技、『超電磁砲(レールガン)』だった。


親指で弾かれたコインはオレンジ色の閃光と化し、テッラの頬を掠めた。
閃光は遙か先に置かれた金属製のコンテナにぶつかり、跡形も無く消し去った。
普通の相手であれば、それは威嚇として充分だった。充分過ぎるほどだった。
しかし、この相手は普通ではなかった。

「危ないですね」

言って、肩に担いだ少女の黒髪に手を伸ばすテッラ。
あの閃光を前に、テッラは動かなかったのか、それとも動けなかったのか。
余裕の笑みを崩さないところを見ると、まさかとは思うが、前者なのだろうか。

「お友達まで亡き者にするつもりですか」

痩せ細った手で少女の髪を撫でる。
美琴に見せつけるかのように、何度も何度も。

「放しなさい」

低い声。誰が発したのか、すぐには分からなかった。

「何か」

テッラは笑いながら訊ねる。自身の優位をまるで疑っていない。
美琴は答えない。拳を固く握って立ち尽くす彼女の表情は、垂れた前髪のせいで見えない。

「何か言いましたか」

楽しげに笑って再度、テッラは訊ねる。

「聞こえなかったの」

またもや低い声。
聞く者を震え上がらせる、ドスの利いた声。その直後、

「その人を放せって言ったのよ!このモヤシ男!」

地響きのような声が上がった。
腹の底から絞り出された叫び声に、背筋が震えた。
それと正に同時だった。身体中を何か得体の知れないものが駆け巡り、意識が薄れ出したのは。


美琴とテッラが何か言い合っている。なのに最早、何も聞こえない。
彼女達が発音している何かを、脳が理解してくれない。


――ビギリ。


音。鈍い音がしたな、と私は他人事のように思った。


気がつけば、腰を深く落とし、拳を前に突き出していた。
確かな手応えを感じたところから察するに、何かを殴ったらしい。
霞んでいく視界を僅かに上げると、軽く二十メートルは離れた先で美琴が倒れていた。


結論は、すぐに出た。
テッラに気を取られて無防備だった美琴を、私が殴り飛ばしたのだ。
あの音は、骨の砕ける音。
腰を落とした自身の構えから、おそらく脇腹を突いたのだろうと推測できる。

「貴様」

今にも消えてしまいそうな意識の中で、テッラを睨みつける。

「何を」

身体が熱い。焼けるようだ。
立っているのか倒れているのすら、曖昧になってきた。

「貴女の理性を下位に置いただけですよ」

緑色の魔術師は、笑いながらそう言った。

「いくら強いと言っても、その魂は人間のそれと同じ。直接触れさえすれば、いくらでも修正は出来る」

あの時か、と声にならぬ声で唸る。
確かに一度、この男に触れられたことがある。
あの時は、ただ私を見下しに来ただけだと思っていた。
私を意のままに操る為の仕込みだったなんて、考えもしなかった。

「しかし拍子抜けですね。こんな簡単に事が運んでしまうと」

視界が白く染まっていく。
これ以上、燃えるように熱くなった身体を抑えていられない。
もう駄目だと、意識を自ら手放そうとした時だった。

「いや、そうでもないみたいだぜ」

それまで存在していなかったはずである人物の声が聞こえたのは。


シルエットしか確認できないような目で、しかし、確かに見た。
幻想を打ち砕く右手を持つ少年と、炎を司る赤い魔術師。
それに、捕らえられていたはずである五和の姿を。

「妙ですね」

この期に及んで、テッラは尚も余裕の笑みを崩さない。

「貴方達が爆発から逃れる手立てなど無かったはずなのですが」

それに答えるかのように、ステイルの背後から何者かが姿を現した。

「何と」

テッラの顔が初めて、動揺に歪む。

「貴女の仕業でしたか」

その子は、私のよく知る人物だった。
かつては互いに親友と呼べるほどの間柄だった。

「魔道図書館」

真っ白な法衣に身を包んだ彼女は、テッラに細い目を向けている。
十万三千冊もの魔道書をその身に刻み、使いこなせるだけの魔力まで取り戻した銀髪の少女は静かに怒りを燃やしている。

「遅かったじゃない」

そんな緊迫した場にまるで合わない、気楽な声が突如として響いた。


いつの間にか、美琴は立ち上がっていた。
その口元には安堵の為か、笑みが浮かんでいる。

「ああ、悪い」

まるで悪びれた様子も見せず、美琴と同じように口元に笑みを浮かべて上条当麻は前へ出る。

「調子に乗るなよ、魔術師」

未だ得体の知れない緑の魔術師と対峙した彼は、意識を失いかけている私にさえ不思議とよく通る声で言った。

「お前の幻想、全部まとめてぶち殺す」











[20924] 第118話 誰が為に⑨
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2014/03/23 20:03
「まだ起きてたんですか」

寝惚け眼で、あたし、佐天涙子は言った。


今日は特訓の為に能力を酷使していたので、ベッドに入った瞬間、眠りに落ちた。
一秒かからなかった。即死のように寝た。
ところが、二時間もしない内に目が覚めてしまった。
何か不吉な予感がした。誰かが何も知らない自分を笑っているように思えた。


むむう、とか思いつつ上体を起こす。
明かりの点いていない部屋の中で、食蜂さんは起きていた。
ベッドに腰掛け、ミネラルウォーターのボトルを手の中で揺さぶっている。まるで子供みたいだ。

「寝ないんですか」
「まあねぇ」

こちらに目も向けずに答えてきた。やっぱり子供みたいな声だ。


自分のベッドから起き出し、食蜂さんの隣に座る。
食蜂さんは変わらずボトルを揺さぶっている。
ボトルの中で水が揺れるのを、じっと見ている。

「帰ってくるまで、寝ないつもりですか」
「かもしれないわねぇ」

あっさりと答えを返してきた。
無視されると思っていたので、いささか意外だった。


それにしても今日は先輩方が悉くおかしい。
こんな夜更けに、インデックスさんは外へ出たいと言い出した。
真っ白な法衣を着て、足早に常盤台の学生寮から出ていった。
そして食蜂さんは彼女のサポートを買って出た。
寮内の人間に、インデックスさんを認識できないようにした。
あたしを除いた寮内の全員の精神に干渉したのだ。


しかし妙だ。どこかおかしい。
何がおかしいのまでかは、分からないのだけど。


考えが浮かばず唸っていると食蜂さんが、

「飲む?」

とばかりに、ボトルを目の前に差し出してきた。

「いただきます」

素直に受け取り、そのまま口につける。
冷えた水が喉を流れていく感触。少し目が冴えた。

「後悔してるんですか」

返事は無い。

「一緒に行けば良かった、とか思ってるんですか」

食蜂さんは肩を竦め、首を振った。

「そんなの無理よぉ」
「無理?」
「世界が違い過ぎるわぁ」

信じられないという顔で見つめると、食蜂さんは笑った。弱々しい笑みだった。
それで分かった。食蜂さんも、本当は待ってなどいたくなかったのだ。


インデックスさんは、あたしの同行を許してくれなかった。

「大丈夫だから」

そう言って、にこりと笑ってみせるだけだった。


あたしには送り出すことしか出来なかった。
そして、それは食蜂さんにとっても同じだったんだ。


ボトルを返そうとしたら、あの弱々しい笑みのままで食蜂さんは首を振った。

「全部飲んでくれると助かるわぁ」

なんて言われたので、お言葉に甘えることにした。


残っていた中身を飲み干し、部屋の隅に置いてあるゴミ箱へと視線を向ける。
狙いを定め、バスケットボールの要領で空っぽになったボトルを投げる。
ボトルは放物線を描き、縁に当たることもなく綺麗にゴミ箱の中へ入った。

「よし」

小さくガッツポーズをしたところで、気づく。
食蜂さんの顔から表情が消えていた。
唇を真一文字に引き結んで、私をじっと見ていた。

「どうしたんですか」

訊ねると、食蜂さんは慌てて顔を背けた。

「何でもないわぁ」

あまりにも分かり易い嘘だった。

「それにしては、辛そうな顔をしていましたね」
「そんなことないわぁ」
「でも」
「しつこいんだゾ」

急に立ち上がると、食蜂さんは一度もこちらを振り返ることなく部屋を出ていった。


明かりの無い部屋に、あたしは独り、取り残された。
コチコチという時計の音が、やけにはっきり聞こえる。
他の音は聞こえないのに。コチコチ、コチコチ、コチコチ……。












放つ、放つ、放つ。
青に黄色、それから緑色に輝く光の矢を次々と空中に生み出して、私は放ち続ける。
標的として視界に捉えているのは緑の魔術師。
天使の如き圧倒的な力の一つを、その身に宿した男。
神の右席の一人、左方のテッラが持つ能力は完璧にではないが理解できていた。
炎に包まれた倉庫からステイル達を助け出した、その時に。


燃え盛る炎を魔力の風で吹き飛ばした後、残ったのは白い粉だった。
何の変哲も無い、魔力の一片すら流れていない白い粉。
意のままに操れたとしても、こんな物で人の身体を切り裂けなどしない。性質そのものを変えない限りは、決して。
それにステイルが教えてくれた。調整を済ませたばかりだと、魔術師が洩らしたのを。
これらの事実と十万三千冊の魔道書から成る知識から、私は強引ながら一つの結論を導き出した。


緑の魔術師は防戦一方だった。
痩せぎすな身体に似合わぬ素早さで光の矢を避け続けるが、それだけ。
しばしば小麦粉から形成された白いギロチンを飛ばしてくるが、全てステイルが防いでくれている。
ステイルの作り出した炎の壁が、白いギロチンを完全に食い止めている。


やはり思った通りだった。
左方のテッラは優劣を変化させる術を心得ている。
天使の持つ莫大な魔力量を考えれば恐らく、如何なるものの優劣を自在に変えることが可能なのだろう。


しかし絶対的な力を有している故に、その扱いは極めて困難となる。
たとえ神であろうと、定められた理を一瞬にして捻じ曲げることは不可能。
だから私は光の矢に様々な属性を付与させている。純粋な光の他に雷、水、風、そして土。
火は付与しない。ステイルの得意とする属性とは絶対に被せてはいけない。


単一の属性を相手とするならば、テッラは無敵に近い強さを発揮する。
しかし属性が複数に及べば対処は追いつかず、結果として彼の能力は封じられるのだ。


戦局は明らかに私達が有利だった。
神裂火織の方も、美琴と当麻の二人で完全に抑えている。


当麻と合流したことで、負傷をしながらも美琴は持ち直していた。
吸収した異能を身体能力に変換させるという右手の新たな力を見出し、当麻も善戦していた。
さすがに美琴には及ばないが、常人を遙かに超えた速さで動いていた。
近距離では美琴が前に出て格闘戦を行ない、遠距離からの攻撃は当麻が右手で打ち消して。
聖人相手に全く引けを取らない戦いを展開し、むしろ圧倒さえしていた。


このまま勝てる。そう確信して、優勢に戦いを進めた。
だけど光の矢が遂にテッラを捕らえたかと思ったところで戦局は覆った。
光の矢をテッラの足に当て、動きを止めれば勝ちは決まったはずだった。
しかし突如として矢の軌道に現れた人物によって、矢は弾かれてしまった。
物質ではない、魔力の塊である光の矢を、その男は造作も無く蹴飛ばしたのだ。


横幅の分、ステイルよりも更に大きく見える男は言った。
我らが目的を果たす為、『吸血殺し(ディープブラッド)』の身柄を預かると。


この男が現れたことにより、戦局は一気に私達の不利へと傾いた。
彼が大剣を振るえば剣圧のみでコンクリートの地面を割いた。
召喚された無数のメイスが爆発し、あちこちにクレーターを作っていった。


防御用の結界を維持するのが精一杯で、私は反撃できない。
爆発によって生じた熱風が邪魔で、ステイルは思うようにルーンを組めない。
槍を構えた五和が爆風に正面から突っ込み、渾身の突きを試みるも大剣の一振りで呆気なく吹き飛ばされた。


――どうすれば……。


必死に考えるも打開策など浮かばず、私はただ絶望的な戦いに身を投じるしかなかった。


このままでは負けてしまう。
それが分かっていても、何も浮かんでこない。
焦れば焦るほど、意味の無い言葉の羅列ばかりが頭の中を駆け巡る。


気持ちを落ち着かせようと深呼吸を一つ。
その一瞬の間に、男は目の前に立っていた。

「インデックス!」

ステイルの声はしかし、大剣の一振りでかき消される。
私の顔を片手で鷲掴みにして、男は私を持ち上げる。そのまま地面に叩きつける。
歩く教会のおかげで痛みはないが、私の身体はコンクリートの地面に完全にめり込んでしまった。

「これで余計な真似は出来まい」

男は理解していた。
私の法衣が並外れた守備力を持っていることを。
身体能力としては、私は一般人とまるで変わらないことを。
その上で、最も効果的な対処を施してみせたのだ。

「大人しくしていろ」

身動きの取れなくなった私を見下ろし、男はそう言い放った。












緑の魔術師と大男が背を向け、歩き出す。
姫神さんを背負って、この場を離れようとしている。
大男の圧倒的な実力の前にステイルさんは倒れ、インデックスも動きを封じられている。

「美琴」

荒い息を吐く私に、隣に立つ当麻が声をかけてきた。
振り向くと、当麻が真っ直ぐ私を見つめていた。
その黒い瞳は意志の力で輝いていた。


私は何も聞かなかった。聞く必要がなかった。
当麻が何をしたいのか、そして私に何を求めているか。
そんなもの、彼の目を見れば一発で分かった。


私は大きく頷いた。

「任せて」

そして、むりやり笑ってみせた。
肋骨が折れているみたいで凄く痛かったけど、それでも笑った。
当麻も唇の端を上げて笑ってくれた。そして全力で走り出した。二人の魔術師を追って。


――さて、と。


大きく息を吐き、任された敵と向かい合う。
術者が遠く離れても、神裂さんは正気に戻らない。
あまり宜しくない状況ね、と他人事のように思う。


全身はズタボロだ。
能力で無理やり高めた身体能力で、一時間以上も戦ってきた。
瞬きの間に五回は拳をぶつけ合うほどの速さで動き続けた。能力だって休みなく使い続けた。
今はもう、立っているだけでも辛くてしょうがない。
膝はガクガクと震え、息も荒い。明らかに限界だった。
だけど、それでも倒れるワケにはいかなかった。
私達の日常を、ありふれた日々を。この街で掴んだ幸せを奪われるワケにはいかなかった。


息の整わない私に、神裂さんは襲いかかってきた。
身体を後ろに反らし、回し蹴りをどうにか避ける。
しかし、こちらが体勢を整えるより先に距離を詰められてしまった。


――マズイ……!


聖人の動きについていく為に酷使してきた身体は、まともに動けなくなっていた。
言うことを聞かない身体に焦りながら、両腕でガードを固める。
しかし神裂さんはガードの上から容赦なく打ってきた。


どん、と重い衝撃。
バランスが崩れる。
ガードが甘くなる。


腕の間を縫うようにして、神裂さんの拳が私の顔面を捉えた。
頭の芯が真っ白になる。どうやらまともに食らったらしい。


破れかぶれで右腕を振り回すが勿論、神裂さんには当たらない。
それどころか開いた右腹に強烈なボディブローを打ち込まれた。
喉の奥の方に、熱い物がせり上がってくる。


それからはもう、一方的だった。
吐き気を堪えるのがやっとの状態である私に、神裂さんの突きが、蹴りが、面白いように決まった。
耐久力を上げるのに全能力を集中させたが、それでも耐え切れるものではない。


どうする?
どうする?
どうする?


頭の中で同じ言葉がぐるぐる回る。
しかし焦ったところで実際に出来ることなど何もなく、神裂さんの攻撃を立て続けに食らった。
鼻の奥がじんとして、生温かいものが口まで伝い落ちてきた。どうやら鼻血が出たらしい。
それを拭う間もなく、更に拳が飛んできた。肩をしっかりと入れた、右ストレートだった。これもまた、まともに食らった。
頭が激しく揺さぶられ、真っ白になる。それでもどうにか倒れずに踏ん張っていると、神裂さんが私から距離を取った。


ぼんやりした視界の先に見えたのは炎。
掌に生じさせた真っ赤な炎を、神裂さんは私に向けている。
まだ彼女の意識が正常だった頃に、その威力は身を以て体験している。


マズイ。あれは本当にマズイ。
あの炎の軌道から一刻も早く逃れなくては。
だけど駄目だ。身体が言うことを聞いてくれない。
頭もぼんやりしていて、まともに演算が出来ない。
今の私には火花を散らすほどの力すら残っていない。


荒い息を吐いて立ち尽くす私に、炎は放たれた。
赤い炎が渦を巻き、私を飲み込もうと近づいてくる。


時間にして僅か一秒。
その間に私の頭は急速で思考を展開していく。
どうすればいいのか。どうすれば助かるのか。
それらを高速で考え、やがて一つの結論を出した。


――あ、死んだ。


確信した直後、炎は目の前まで迫っていた。


ごお、と物凄い音がした。
炎が私を飲み込んだ音、ではなかった。
炎は私まで届かなかった。すぐ前で止まっていた。

「あ……」

那由他が立っていた。両腕を広げて踏ん張っていた。
神裂さんに向き合い、私を背に庇って。その小さな身体を、そのまま鉄壁の盾にして。


神裂さんの放った業火は那由他を飲み込み、肉体の大部分を焼き尽くした。
炎が収まるのとほぼ時を同じくして、顔と肩の部分だけが残された那由他が地面に落ちた。


那由他は笑っていた。
熱かったはずなのに、苦しかったはずなのに。
私の為にその小さな命を投げ出した少女は、それでも満足げに笑っていた。











[20924] 第119話 誰が為に⑩
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2014/03/23 20:05
何もかもが流れていってしまう。
変わらないように思えても、全ては変わっていってしまう。
そして変わっていくように思えている時に限って、何も変わっていなかったりする。


佐天さんから逃げるように部屋を出た私は、屋上にいた。

「はあ」

ここに来る途中で買ったミルクティーのペットボトルを脇に挟み、手すりに両手を置き、顔を上に向けていた。


空には満月が輝いていた。
淡い光を放ち、世界を青白く染めていた。
輪郭のはっきりしない雲が東から西へと流れていく。
月の光を浴びて、元より曖昧な輪郭を更に曖昧にしながら。


私は手すりにおでこをつけた。

「はあ」

さっきから、溜め息ばかりが出る。


手すりから離れると、私は蓋を開けていないペットボトルを両手で持って眺めた。
佐天さんと同じく、あの子も運動神経は悪くなかったんだろうな。
私なんかより、ずっとずっと良かったんだろうな。


ドリーが私の前からいなくなって、もうじき三年になる。
まだ三年なのか、それとも、もう三年なのか。
ドリーを失った私に訪れたのは、彼女と出会う前の日常だった。
何の変哲もない、当たり前でつまらない日々。その当たり前さに、私は打ちのめされた。
ドリーがいなくても、時間は普通に過ぎていく。


御坂さんといい佐天さんといい、私の周囲を騒がせる人達はどうして身体を動かすのが好きなんだろう。
揃いも揃って青春力を大いに発揮して、ドタバタと走り回って。
御坂さん達みたいに、ドリーも走ったことがあるのかな。ないんだろうな。ずっと施設で暮らしていたって言っていたし。


思考が雲のように流れていった。定まらない。止まらない。
こういう時は寝ちゃった方がいいのよね。
考えたって、何かいい考えが浮かぶワケでもないんだし。
ベッドに入って目を閉じていれば、嫌でも朝は来るんだし。


やがて、背後から声がした。

「こんばんは」

振り向くと、結標淡希が立っていた。

「眠れないのかしら」

直接会うのはこれで二度目となる彼女が、そう訊ねてきた。


あはは、と笑っておく。

「そんなところねぇ」

一度目は大覇星祭の時だった。
木原幻生がいなければ、出会うことの決してなかった相手だった。

「それ、飲まないの」

ミルクティーを指差し、ほんの一時とはいえ学園都市第六位の座に就いていた彼女が言った。

「冷めてしまうわよ」
「これから飲むところだったんだゾ」

でも実際には、飲むつもりなんて全然なかった。
私はただ、ペットボトルを抱きしめていた。
それだけで良かった。それだけしか出来なかった。

「だったら、いいのだけど」

結標淡希はそして、苦笑いを浮かべた。

「面倒よね。眠れないと、要らないことを考えたりしてしまうから」
「全くよねぇ」

あはは。私達は笑い合った。
けれど、大して親しいワケでもなく、その笑いが消えた途端に喋ることが出来なくなった。
私も黙っていたし、結標淡希も黙っていた。


私はぼんやりと空を眺めた。
さっきの雲はどこに行ってしまったんだろう。
探したけれど、見つけられなかった。
見えないところまで行ってしまったんだろうか。
それとも消えてしまったんだろうか。


――何もかも、流れていってしまう。


何故か急に寂しくなって、私はペットボトルを持つ手に力を込めた。これだけは失いたくなかった。
たとえ何があったとしても、いつか他の全てを失ってしまうのだとしても、ドリーを想う気持ちだけは、しっかりと持ち続けていよう。
もしこの決意を守れなかったら、私はきっと何一つ守れない女になってしまうだろう。

「――たいよ」

色んなことを考えていたので、結標淡希の言葉を聞き逃した。

「何かしらぁ」
「あの子、生きているみたいよ」

それだけで、彼女が何を伝えようとしているのかが分かった。
能力を使う必要も、彼女の顔色を読む必要もなかった。












美琴は泣いていた。

「那由他……」

一人の少女だった物を信じられないように見つめて。

「那由他……」

歩み寄り、抱きしめて。

「那由、他……!」

どっと涙を溢れさせていた。


死んでしまった。那由他が。


今まで数えきれないほどの死を目の当たりにしてきた。
自ら手をかけたことだって、一度や二度ではない。
人の死を見るのは、慣れているはずだった。なのに、どうして私は立ち尽くしているのだろう。
頭の芯が麻痺したような感じになって、目に入ってくるものを上手く捉えることが出来ない。


静寂の中に沈んだ国際空港は、現実味が酷く薄れていた。
聞こえるのは御坂の嗚咽だけで、他に音は一切ない。
外灯も無い空港は完全な闇に沈んでいて、ただ月の青白い光だけが弱々しく世界を照らしている。


胸が痛い。
締めつけられているみたいだ。
何てことをしてしまったんだ、私は。
最悪だ。最低だ。とんでもない大馬鹿者だ。


――ごめんね、那由他。本当にごめん。


後悔の念が止めどなく押し寄せる。
でも今は、泣きじゃくっている場合じゃなかった。
あの長身の女が掌を御坂に向けていた。
那由他を焼き殺した炎が、今まさに放たれようとしていた。


――させるかっての!


スカートから真っ白なテーブルクロスを取り出し、女と御坂達の間に割って入る。
アックアの時と同じように、炎を跳ね返してやる。自身の技で大怪我させてやる。
前に出た私もろとも焼き尽くそうと炎が勢いを増し、しかし、


――え?


直後、信じられないことが起きた。
辺りの景色を歪めるほどの熱を持った炎を、彼女は自ら握り潰したのだ。
握った拳から、もうもうと黒い煙が舞い上がる。


誤爆でもしたのだろうか。
いや、だとすれば、すぐにでも次の炎を作り出そうとするはず。
だけど彼女は一向にその気配を見せない。
突き出した腕を小刻みに震わせるだけで、動かない。


それを見て、私は唐突に理解した。
彼女もまた、戦っているのだと。
最後の一線だけは越えまいと、必死に抗っているのだと。


彼女の脇に設置していた空間の出口を解除して、柄にも無く私は祈った。


――お願い、目を覚まして!


ほんの一端でも事情が見えてしまった今、彼女と殺し合いなんてしたくなかった。
だけど現実ってやつは、どうしようもなく無情だった。
彼女の突き出していた手が突如として開かれ、そこから炎が撃ち出された。
この時点で、任意の場所に出口を設定するだけの余裕は私に残されていなかった。
私の能力に必要なのは正確な演算力。コンマ一秒すら残されていない時間の中で、特定の座標を導き出すのは不可能。
でも、大丈夫。手詰まりになったワケではない。


テーブルクロスを広げ、炎の前にかざす。
やることは変わらない。能力による炎の転送。変わるのは飛ばす先だ。
大雑把な座標指定だけで事足りる。そんな場所に出口を設定し、私は能力を発動させた。
テーブルクロスに吸い込まれた炎の行き先。それは上空に浮かぶ雲の、更に上。淡い月の光を湛える夜の空だった。


上空ならば誰も被害を受けないし、幾らでも転移していられる。
その考えに間違いは無かったが、一つだけ見落としがあった。
それは熱。薄い布一枚を隔てて、炎の熱が容赦なく襲いかかる。


テーブルクロスを持つ手が焼けるように熱い。
ここで手を離してしまえば終わりだ。
本当に、文字通り焼かれてしまう。


炎は収まる気配をまるで見せない。
もう駄目かも、という考えが初めて頭に浮かんだ。
けれど、すぐに頭を振って、その考えを打ち消した。


死ぬワケにはいけない。諦めるワケにはいかない。
何としてでも、御坂と一緒に生き残るんだ。
だってさ、そうじゃなきゃ、那由他に合わせる顔が無いじゃない。


テーブルクロスを持つ手を離したら、終わりだ。
私も御坂も、ものの数秒で骨すら残らず焼き尽くされてしまう。
全てが無かったことになってしまう。
那由他の決死の想いも、無駄になってしまう。
そんなことを思うと、腹の中で何かがきゅっと縮み上がった。


死にたくない。死なせたくない。
だけど熱はじわじわと私の体力と集中力を奪っていく。
助けも、退路も、逆転の一手も無い。

「ありがとう、フレンダさん」

背後で、そんな声が聞こえた。


吃驚して、それでも手は離せないので首だけを振り向かせる。

「御坂……!」

御坂の身体が、雪のように白く、優しい光に包まれていた。
驚くことに、遠目からでも痛々しく見えた傷が無くなっていた。
顔も、身体も、身につけている物さえも綺麗になっていた。


更に、それだけでは終わらない。
御坂に抱きしめられている那由他にも、真っ白な光が集まっていく。
光は那由他を覆い尽くし、優しく包み込む。
光は創り上げていく。一つの形を。少女の輪郭を。那由他が失った部分の全てを。

「まさか……」

思わず、そんな声が洩れる。


こんな事態を一体、誰が予想できると言うのだろう。
目の前で死んだ人間が、同じく目の前で生き返るなんて。
それも、五体満足な状態で。


焼き尽くされたはずの身体が、綺麗さっぱり直ってしまうなんて。
こんなの、能力なんて生易しい代物なんかじゃ断じてない。もっと別の、次元の違う力だ。


御坂はゆっくりと立ち上がると、滑るように私の横に移動した。
そして、その身体を今も猛威を振るう炎へと無防備に晒す。
那由他の肉体を軽々と焼き尽くした炎は美琴を直撃し……それ以上進むことはなかった。


驚きのあまり、もはや声が出ない。
御坂を包む真っ白な光は、治療だけでなく防御も出来るというのか。

「もう大丈夫」

そう言って微笑む御坂は、まるで神話に出てくる女神様のように美しかった。












那由他の身体を抱きしめ、私はずっと己の内面に意識を向けていた。
呼びかけていたのは、己の潜在能力。全てを癒し、鎮めてみせた優しい光。
一度目は天使に追い詰められた時。二度目は垣根帝督に瀕死の重傷を負わされた時。


私は強く、強く念じた。目覚めて、と。
那由他を、神裂さんを、そして姫神さんを救いたい。
だから応えて。私の意思で、あの力を使わせて、と。
そして、その想いは、届いた。


炎を完全に打ち消した私は、光を纏ったまま神裂さんの方へと歩いていく。

「お待たせしました」

掌を突き出した姿勢のまま、微動だにしない神裂さんの手を両手で包む。

「今、治しますね」

白い、優しい光が神裂さんを包み込む。
正気を失った瞳に、理性の光が蘇っていく。
やがて光が収まった時、神裂さんは完全に自身を取り戻していた。

「私、は……」

神裂さんは頭を押さえ、低く唸る。


きっと憶えているのだ。
操られている間に、何が起きていたのか。
彼女自身が一体、何をしていたのか。

「貴女がやったことじゃありません」
「いいえ。私がやったんです」

か細い声で、神裂さんが言った。

「取り返しのつかないことを、してしまったんです」

今にも泣き出してしまいそうな顔で、そう言った。

「すみませんでした」

謝罪の言葉を口にし、その場を立ち去ろうとする神裂さん。

「何か忘れていませんか」

しかし、私のたった一言で彼女は立ち止まる。
道端に置き去りにされていた大刀を、私は両手で拾い上げる。

「それと、もう一つ」

にっこりと笑って、ステイルさんに手をかざす。
放った真っ白な光はステイルさんを覆い、彼の傷をみるみる内に癒していく。

「これは……」

光が収まり、ステイルさんがゆっくりと起き上がる。
まるで何事も無かったかのように完全に治った彼は、何が起こったのかと不思議そうに辺りを見回した。
そして、その目は光に包まれた私を視界に捉えたところで止まる。

「調子はどうです?」

珍しく、きょとんとした表情を見せるステイルさん。

「う、うん。凄く軽いな。さっきまで動けなかったのが嘘みたいだ」

戸惑いを隠せない感じでいるステイルさんに苦笑しつつ、続いて槍使いの女性と火傷を負ったフレンダさんを同じように光を浴びせる。
更に神裂さんに協力してもらい、コンクリートに埋まったインデックスを引き上げてもらう。
最後にインデックスの魔力を回復させて、ほぼテッラが介入する前、いや、戦いが始まる前の体調に戻った。

「取り返し、ついちゃいましたね」

神裂さんは応えない。
ただただ、呆気に取られている。


神裂さん、と改めて声をかける。
いつまでも、この場に留まってはいられない。

「力を貸して下さい」











[20924] 第120話 誰が為に⑪
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2014/05/05 22:45
学園都市で使われる工業製品の製造を一手に担う第十七学区。
かつて『一方通行(アクセラレータ)』と死闘を繰り広げた場所でもある操車場で、俺は見えない敵との戦いに苦しんでいた。
見えない、と言っても別に相手が透明になっているというワケではない。
単純に、あまりにも速過ぎて目で追い切れないというだけ。

「おらあっ!」

感じられる気配だけを頼りに拳を振るう。
だが拳は先程から明後日の空間を虚しく突くだけ。
前から、横、そして背後へと移動する気配に追いすがるように拳を振るうが、まるで当たらない。

「どうした。この程度か」

後ろから声が聞こえ、咄嗟に振り向くよりも先に拳を突き立てる。
だが、やはり当たらない。近づかれる度に拳を振るうが、掠りすらしない。


何もない場所を殴って無防備になった俺に、しかし相手は何もしない。
刃の部分だけで俺の背丈すら越えているであろう剣を片手に、動き回るだけ。
時に懐に飛び込まれることもあるが、特に何をすることもなく距離を開けられる。


――くそ、遊んでやがる。


このままでは勝ち目などない。
相手の圧倒的なスピードに翻弄されながら、そう悟らざるを得なかった。
せめて魔術を使ってくれれば右手が反応してくれるし、多少は身体も動くようになるのだが。
自らをアックアと名乗った魔術師は、様子見の為に一、二度ほど水から造り出した槍を放っただけで、それ以降は純粋な肉弾戦に持ち込んできたのだ。
異能であれば勝手に反応してくれる右手も、これにはお手上げである。
新たに異能を吸収することも出来ず、身体能力が一般人のそれと大して変わらなくなるのも時間の問題だった。


ちくしょう、と吐き捨てる。
緑の魔術師を相手に出来なかったのが、一番の誤算だった。
アックアが俺の足止めを買って出て、緑の魔術師を先に行かせてしまったのだ。
あの男はアックアと違い、魔術に頼り切っていた。
奴がいれば異能の供給には困らないと踏んでいたのに、見事に当てが外れてしまった。

「そろそろ、こちらからも攻めさせてもらおうか」

その言葉を聞いたのと、腹に強烈な衝撃を受けたのはほぼ同時だった。
ワケの分からぬまま、俺の身体は高々と宙を舞っていた。
大剣の腹で思い切り殴られ、吹き飛ばされたのだと気づいたのは地面に落ちてからだった。

「あの野郎」

よろよろと立ち上がる。

「ヤード単位で飛ばしやがって。俺はゴルフボールじゃねえっての」

指や手を動かし、自分の身体を見回してみる。
あちこち痛むが、動かない箇所はない。
神裂と戦った時に吸い取っていた分が、まだ残っていたようだ。
だが、それが底をつくのも時間の問題だろう。

「異能なしでも強い魔術師なんて、反則だろ。神裂じゃあるまいし」
「呼びましたか」

振り向くと、神裂が腕組みをして立っている。
冬の冷たい風に、肩より長い黒髪が靡いている。

「美琴もすぐに来ます」

そう言って微笑む神裂の表情が、一瞬にして強張る。

「そうか」

苦しみに耐えているような表情で、アックアが大剣を掲げ歩いてくる。

「目を覚ましたか」

巨大なアーミーナイフのよう剣の切っ先を俺達に向け、近づいてくる。
対して俺は拳を強く握り、神裂は愛刀の柄に手を添え、迎え撃つ姿勢を取った。

「行くぞ、神裂!」












深夜の滑走路は水を打ったように静かだった。
国内外、全ての空の玄関として機能する国際空港の滑走路はただひたすらに広くて。
見渡す限り、コンクリートの地面が広がるばかりで。
そんな道路に飛行機がただの一機も走っていない光景は、この上なく寂しくて。

「何だかなあ」

重々しく息を吐き、顔を上げる。


空には満月が輝いていた。
淡い光を放ち、目に見えるもの全てを青白く染めていた。
どこまでも続くように見える滑走路も。
コンクリートの地面に腰掛けている私も。
同じよう体勢で、私の隣で座っている真っ白なシスターも。
周囲に誰か潜んでいないかと、警戒して歩き回る赤髪の大男も。
ぱっと見た感じでは、あの滝壺に匹敵するんじゃないかと思うくらいに胸の大きな女性も。
そして、私の膝の上で安らかな寝息を立てている那由他も。


こうして眠っている姿は、紛れも無く年相応の女の子だった。
あどけない寝顔を見ていると、自然と笑みが零れる。
私の膝を枕代わりにして眠る彼女は、温かった。
彼女は生きている。生きていてくれている。


ねえ、那由他。
御坂ってホント、強いよね。
腕っぷしとか能力とかもだけど、それ以上に、心がさ。
どんなに絶望的な状況でも、絶対に諦めなくて。
御坂のことを本当のお姉さんみたいに慕う気持ちも、よく分かる。


でもさ、無理は禁物だと思うのよね。
意識の戻らないアンタのことを私に任せて、自分はまた戦いに向かって。
結局、少しは自身の身も気遣いなさいって、説教してやりたくなるワケよ。
と言っても、私なんかじゃ足手纏いにしかならないから、肯くしかできなかったんだけど。
私がもう少し強ければ、御坂も頼りにしてくれたのかな。
一緒に来てほしいって、助けてほしいって、言ってくれたのかな。


そんなことを考えながら那由他の頭を撫でていると、スマートフォンが鳴った。
鳴り出したのは、那由他のスカートのポケットに入っていたスマートフォンだった。
灼熱の業火で一度は跡形も無く焼き尽くされたはずである、那由他のスマートフォンだった。


全く、なんて出鱈目な能力なんだろう。
御坂の光を浴びたあらゆるものが、直ってしまっている。


鳴り終わるのを待とうかとも思ったが、液晶に表示されていた名前を見て考えが変わった。

「美月?」

アックアとの戦いで重傷を負った美月。
戦いはおろか歩くこともままならなかったので、那由他のマンションで安静にしてもらうことにしたのだけど。

「その声、フレンダさんですか」

弱々しい声。

「どうしたの?何かあった?」
「いえ、そうではないのですが」

えーっと、と美月は言葉を濁す。
私は黙って、美月の言葉を待った。

「何だか、胸騒ぎがしまして」

突然、目の前が真っ白になった。
その瞬間、炎に包まれた那由他を、泣きじゃくる御坂を思い出していた。
クローンだとか、血が繋がっていないとか。そんなものは一切、関係なかった。
美月達の間には、確かな繋がりがあった。それこそ、本当の家族みたいに強い繋がりが。


そして、それは私にどうしようもない現実を突きつけた。
私は実の妹であるフレメアと、もう一年近くも顔を合わせていない。
笑った顔、怒った時の瞳、時々ひどく寂しさを感じさせる背中。
何もかもがゆっくりと、しかし確実に遠ざかりつつある。
その気になれば、いつだって会えるはずなのに。
仕事を言い訳にして、大切な家族を自ら手放してしまっている。

「フレンダさん?」

心配そうに、美月が訊ねる。
あはは、と笑っておいた。

「大丈夫。御坂も那由他も、二人ともピンピンしてるよ」

殊更明るく、私は応えた。
詳しいことを話すつもりはなかった。
目の前で人が死んで、すぐに生き返ったなんて。
上手く説明できるとも、信じてもらえるとも思えなかった。

「――さんは?」

明るく振る舞うのに必死で、最初の部分を聞き逃した。

「フレンダさんは?」
「え」
「大丈夫なんですか」

うん、と答えるまでに少し時間がかかってしまった。

「平気」
「そうですか」

ほっと息を吐くのが、電話越しに伝わる。
そっか。私のことも、心配してくれていたんだ。

「ありがとう」

気がつけば、そんな言葉を口にしていた。

「何ですか、急に」
「ん、何となく」

嬉しかったから、とは言わなかった。
それを口にするのは、さすがに恥ずかしかった。












荒い息を吐きつつ、私は走っていた。
呼吸のリズムがおかしく、目眩がする。
その速度は一般人の全速力とまるで変わらない。
いや、下手をすればもっと遅いかもしれない。


身体に目立った傷はない。
そんなものは身体から溢れ出た光が取り除いてくれた。
だけど光は私から、もう一つの力までも奪っていた。
身体の内側に呼びかけても、能力が発動してくれない。
ほんの一瞬の火花すら、今の私には生み出せない。


あまりの息苦しさに立ち止まる。
酷い痛みに耐え切れず、胸を強く押さえる。
身体を前に倒し、肩を大きく上下させて呼吸を繰り返す。


当麻の居場所は分かっている。
彼の持つ携帯電話の位置をGPSで辿ったから。
普段の私なら、二十分もかからずに現場に迎える程度の距離。
だけど、今はその道が果てしなく遠かった。
能力による底上げが許されない身体は、巧く動いてくれない。
ふとショーウインドウを見れば、自分の顔色が蒼白になっていることが分かった。
情けない。当麻も、神裂さんも今頃は必死に戦っているはずなのに。


こんな調子で、果たして間に合うだろうか。
間に合ったところで、二人の力になれるだろうか。
街灯に寄りかかって、そんなことを考える。


以前は当麻も、こんな気持ちだったのかな。
自分一人では何も出来ない状況に立たされて。
どんなに吠えても、足掻いても、結局は他人に頼るしかなくて。
自分の無力さばかりを、ただただ思い知らされて。


――どうしよう。私、どうしよう。


喘ぐ呼吸のまま、私は地面に倒れ込む。
それを、細い、何者かの腕が引き止めた。


驚いて顔を上げる。
そこにいたのは、銀色の髪を持つ誰か。
その表情は幼くも見えるし、険しくも見えた。
男性にも女性にも、大人にも子供にも見える、そんな曖昧な人。

「大丈夫かい」

低く、透き通った声。

「顔色が悪いようだが」

この人の声は否定を許さない。

「自分の能力なのに、上手く使えなくて」

何故だか、正直に悩みを打ち明けてしまう自分がいた。
助けを請う瞳で、私は目の前にいる人物を見上げていた。


その人物は表情一つ変えず、私の耳元で囁いた。

「それは君の気のせいだ」

それだけで、身体がふわりと軽くなった。
荒かった息も収まり、心臓の痛みも一瞬にして引いた。

「君の武運を祈るよ、御坂美琴」

私の腕を掴んでいた手が離れる。
正体不明の人物は音も無く夜の闇へ消え行こうとする。
その前に、私は一つだけ訊ねた。アンタ何者なの、と。


その質問に、相手は答えてくれなかった。
立ち止まりも、振り向きさえもしなかった。












「では、フレンダさんも気をつけて」
「分かってるって。んじゃ、切るよ」

なんて言ったくせに、それから更に五分くらい話してから、ようやく私は電話を切った。
手のひらの体温で生温かくなったスマートフォンを那由他のスカートのポケットに戻すと、ふうと息を吐いた。


胸が少し弾んでいた。
まだまだ私だって捨てたもんじゃない。
今からだって、充分にやり直せる。
そんな感じが楽しげに揺れている。
そして振り向いた先では、真っ白なシスターは今も俯いたまま。


肩まで伸びた髪は銀色でサラサラ。
顔は綺麗と言うより可愛い。同姓の私から見ても、めちゃくちゃ可愛い。
体型の分かりにくい修道服に身を包んでいるが、その膨らみから小柄ながら出ているところは出ているように見える。
おそらく百人が百人とも美少女と判断するであろう女の子。
その美しさ、或いは可愛さの中に、しかし私は危うさのようなものを感じていた。


神裂って人に助け起こされてから今まで、この子は一言も口にしていない。
唇を引き結んで、顔を俯かせている。まるで何かに耐えているかのように。
こんなに辛そうな表情を間近で見せられると、どうにも気になる。

「ねえ」

我慢できなくなって、私は声をかけた。

「さっきの、神裂火織だっけ。アイツと知り合いなの」

今日の天気でも語るような、何気ない調子で訊ねたつもりだった。
しかし、体育座りをしていた女の子は弾かれたように顔を上げた。
驚きに見開かれたその目が訊ねていた。どうして分かったの、と。

「ひょっとして、アイツに虐められてたとか」

この子は神裂火織と一度も目を合わせようとしなかった。
相手が見つめてきても、すぐさま目を逸らしていた。


操られていたという事実は認めるけど、やっぱりアイツ、嫌な奴なのかも。

「どうなの」

女の子に顔を寄せて、私は訊ねた。
すると女の子の顔がくしゃりと歪んだ。
両肩が微かに震え出す。


――え?


私は目を瞬かせた。
何かが女の子の頬を伝った。それは涙だった。


――何で?どうして?


疑問符が飛び交った。
泣いている理由がさっぱり分からない。


事実を指摘したから?
触れられたくない過去だったから?
でも、この子は何にも悪くないでしょ?

「――なの」

ぼそりと、女の子が呟いた。
あまりにも小さな声だったので、聞き取れなかった。

「え?」

私は訊ね返した。


女の子が、もう一度、同じ言葉を繰り返した。

「悪いのは、私なの」

女の子の頬を、涙が止めどなく流れていく。
だけど彼女の両手は膝を抱えたまま。決して顔を覆おうとはしなかった。

「火織のこと、今の今まで私が忘れていたから。だから、だから……」


――ええっと……。


私は自分の髪の先に指を絡めながら、空を見上げた。


何やら妙なことになってきた。
そう思いながら、改めて女の子に視線を向けた。
涙を流しながらも、彼女は決して俯かない。
涙を必死に堪えようとしているのか、修道服をしわが出来るくらい強く握っている。


一つ溜め息を吐いて、私はスカートの中に手を入れた。
武器の他にも、あれを非常食として幾つか仕入れていたはず。
目的の品は、それほど苦労することなく見つかった。

「とりあえず、さ」

鯖缶を取り出して、私は言った。

「食べる?」











[20924] 第121話 誰が為に⑫
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2014/06/01 23:33
――う、嘘でしょ……。


私は目の前の光景に唖然としていた。


神裂さんが味方についてくれて、勝ったも同然だと思っていた。
世界をたった一人で滅ぼせるだけの力を持つ天使と互角の戦いをしてみせた神裂さん。
そんな彼女と自らの持つ力の使い方を知った今の当麻が組めば、それだけで学園都市の闇とだって渡り合えるだろうと踏んでいた。
辿り着いた操車場。そこで真っ先に目に飛び込んできたのは、二人の酷い有り様だった。


神裂さんは全身に切り傷を作り、肩や膝、そして背中には深い火傷を負っていた。
戦いの途中でジャケットは邪魔になったのか、上には白いTシャツ一枚を着ているだけ。
そのシャツですら所々が切り裂かれ、うっすらと赤く染まっている。


当麻の方はもっと酷い。
上半身は何も着ていない半裸状態。
学校のない日でも外出時にはいつも身につけていた学ランは、完全に切り裂かれてしまったようだ。
その上、寒空の下で晒された素肌には幾つもの傷がついており、血が流れている。
あんな有り様で立っていることは凄まじいけど、実のところ立っているのもやっとだろう。


そして、これが最も信じられないことなのだけど、当麻と神裂さんをここまで追い詰めた相手はたった一人だった。
しかも、あの二人を相手にして全くの無傷。
その衣服に目立った傷はおろか、僅かな汚れすら見当たらない。
二メートルはあろうかと思われる大男は、その身の丈より更に一回り大きな剣を片手に当麻達から十メートル、いや、二十メートル近くの距離を置いて静かに立ち尽くしている。


大男を目の端に映しつつ、油断なく当麻達の元へと駆け寄る。

「待ってたぜ、美琴」
「ごめん、遅くなった」

遠目で見た通り、二人の傷は決して浅くはなかった。
だけど二人は私を笑顔で迎えてくれた。
その心遣いが苦しくて、でも、どうしようもなく嬉しくて。

「美琴」

表情を固くして、当麻が私の名を呼ぶ。

「今、どっちだ?」

神裂さんが露骨に顔をしかめた。
当麻が何を言いたいのか分からなかったのだろう。
まあ、無理もない。あの得体の知れない力の副作用を、私は誰にも話していないのだから。
ただ一人、当麻を除いてしまえば、誰にも。

「大丈夫」

当麻の顔を真っ直ぐに見つめて、私は応えた。

「戦える」

そして、にっこりと微笑んだ。

「そっか」

そう言って、当麻も表情を崩した。だけどそれも、ほんの一瞬。
当麻も、それに私もすぐに表情を引き締めて、立ち向かうべき相手へと視線を向ける。
その気になれば今の間にも攻撃できたはずなのに、男は変わらず立ち尽くしたまま。
一体、どういうつもりなのだろうか。

「もうよせ。お前達に勝ち目はない」

身構えた私達に、男は語りかける。

「そもそも、何故に私達の前に立ち塞がるのだ。『吸血殺し(ディープブラッド)』を手にして尚も戦う理由など、こちらは持ち合わせていない」

聴く者の脳を鷲掴みにする、重い声。

「日常に帰れ。お前達には守る者があるのだろう」

男の言葉に迷いはない。
その声は意志の力で、より一層の重みを感じさせる。


私は悟った。
この男は誰かの命令に従って動いているのではない。
個人の損得を考えて行動しているワケでもない。
己の信じる道に、愚直なまでに忠実なだけ。
自らの定めた正義を、何があろうと貫こうとしている。

「だったら姫神さんを返せっての」

口の中が緊張でカラカラに乾いているのを自覚しつつ、私は声を上げた。

「私達の日常にはね」

ぎり、と双眸に敵意を込めて男を睨む。

「姫神さんも、入っているのよ」

その鋭い眼光の下で、男は何を思っているのだろうか。
男の表情には感情というものが欠落していた。
ただ静かに、しかし冷たい目をこちらに向ける。

「そうか、分かった」

そして目を瞑り、肯く。

「退く気は無いと言うのだな」

そして再び目を開いた時、そこにあったのは敵を見る目だった。
底知れない殺気を含んだ瞳を向けられ、肩がびくりと震える。

「ならばこのアックア、全身全霊を以て敵を排除するのみ」

アックアと名乗った大男が私を指差し、怒気を含んだ声で宣言する。

「神の右席の力、その瞳に焼き付けて死ぬが良い」

その迫力に思わず一歩退きそうになり、しかし自らを奮い立たせるように拳を強く握る。
そして取り戻したばかりの能力を解放し、全身へ馴染ませていく。

「美琴、何か手はあるのかよ」

全身に黄金色の光を纏った私の横に当麻が並び、アックアを見据えながら訊ねてくる。

「俺と神裂の攻撃は悉く防がれた。魔術も剣術も、俺の右手も駄目。半端な技を仕掛けたら間違いなくやられちまうぞ」

そう言いながらも当麻も拳を強く握る。
かけてきた言葉とは裏腹に、彼だって諦める気など毛頭ないのだろう。

「ある。一つだけ」

だが、それを使うには確かめなければならないことがあった。

「神裂さん」

肩越しに背後を見遣る。

「アイツは天使より強いんですよね」
「え、ええ。そうですが」

摩耗しきった身体で刀にもたれる神裂さんが、戸惑い気味に答える。

「それが何か」

そこまで言って、神裂さんは急に黙り込んだ。
おそらく彼女は思い出したのだ。私の全身を覆う黄金の光を見て。

「神裂さんは休んでいて下さい」
「美琴!」
「大丈夫ですよ。今、一番動けるのは私なんですから」

自分も万全とは言い難い状況ではあるのだけど。

「まあ、見ていて下さい」

私は笑ってみせた。にっこりと。

「全部終わったら、一緒に年越し蕎麦でも食べましょう」

神裂さんが両目を見開く。
それを尻目に、私は腰を落とした。


――短期決戦だ。


相手の能力を見るまでもなく、私はそう決心していた。
自分には長い時間を戦えるほどの余力がない。
対し、あの二人と戦った後にも関わらずアックアの表情は涼しいもの。
戦いが長引けばどちらが不利になるかは明白である。
だから一撃に賭ける。私が持つ最強の手札、荷電粒子砲に。


しかし、その腹積もりは早々に打ち砕かれる。
荷電粒子砲の準備を始めるよりも早く、アックアが攻撃を仕掛けてきたのだ。
アックアの周囲に青白く輝く魔法陣が無数に展開されている。
宙に描かれたその魔法陣は天使が使っていたものと同等か、それ以上の代物。

「行くぞ」

砲台の役割を成す魔法陣。
そこから光の柱が一斉に飛び出す。


――マズイ!


荷電粒子砲は間に合わない。
零次元の極点で跳ね返そうにも、範囲が広すぎる。
かと言って、回避するワケにもいかない。
私が止めなければ、この力は辺り一帯を蹂躙する。
後ろにいる当麻と神裂さんを直撃する。

「はああああっ!」

収束しかけていた光を前方に展開。
イメージするのは麦野さんが使っていた技。
触れるもの全てを無に帰す光の盾を、突き出した右手の先に生み出す。
かつて彼女が私の攻撃を防いだ時より、一回りも二回りも大きな盾を。
同時、無数の光が盾に襲いかかってきた。
柱の如き太さを持つ光の群れが唯の一点にて食い止められる。


その衝突は爆裂を生んだ。
余波が周辺を叩いて過ぎ、土を剥ぐ。
爆風は当麻達の苦鳴すら塗り潰す。


斜め上方から降り注ぐ光の柱が、それらを受け止める私の身体を大地に縫い付ける。
光はほんの少しですらも猛威を衰えさせず、だから私も一瞬たりとも能力を緩めることが出来ない。
全身を万力で締め上げるような光の負荷は果てが無く、突き伸ばした右腕を維持することすら苦痛になってきた。
徐々に、徐々に視界が白く染まって――

「まだまだああああっ!」

大声を上げて正気を取り戻す。
この程度で倒れるほど、ヤワな鍛え方なんてしていない。

「美琴、構うな!」

頼もしい声が背中に届く。

「こっちは俺が防ぐ!」

だったら、心配事は綺麗さっぱり無くなる。


強化にかける時間は、ほんの一瞬。
瞬きの間に生体電気を全身に浸透させ、より強靭に肉体を締め上げる。
度重なる消耗の為に不安定に崩れる体勢の、その関節の部位一つ一つを精緻に調整し矯正する。
更に脚力をこれまでの何倍にも引き上げる。

「行くわよ!」

光の鎧を纏って突進。
蹴り出した地面を爆発させる。
これまで抑え込まれていた光の柱が解き放たれる。
しかし、それらが猛威を振るうことはなかった。
青白い光は大地に衝突する寸前、その間に割り込んだ当麻の右手に例外なく吸い取られる。


音を超える速度で横手に回り込んだ私を、しかしアックアは見失わなかった。
大剣を地面に突き刺し、身体を私に向け、両手に青白い光を溜めている。
だけど、彼が後手に回ったことに変わりはない。


魔力を持たない私でも分かる。
あの光は攻撃ではなく、防御の為に生み出されたもの。
短期決戦。あくまで最初の目的は変わらない。ここで決める。


何も無い中空から無数の光の粒を生み出す。
光の粒は私の周りを加速しながら旋回し、やがて右手へと収束する。

「荷電――」

そして叫ぶ。学園都市の科学力を以てしても、未だに実用の目途が立っていない兵器の名を。

「粒子砲!」

次の瞬間、撃った自身の目すら眩むような黄金の光が放たれた。
突き出した右の掌から撃ち出したのは亜高速にまで達した荷電粒子。
膨大な量の放射線と赤外線を撒き散らし、それはアックアへと襲いかかる。

「ぬう、お、おおおおっ!」

両手を掲げて光を受け止めるアックア。
その姿は恐れを通り越して、感服すらしてしまう。
天使の魔法陣を一掃した光を、魔力を帯びているとは言え素手で掴むなんて。


荷電粒子砲を維持しながら、私は心から思った。
やっぱり、任せて正解だったと。












「むう……!?」

その膨大な力を感じ取ったのは、学園都市第三位の放った黄金の光を受け止めている最中だった。


――何が、起きている……!?


力を感じた方向へと目を向け、そして、愕然とした。
そこには、あらゆる幻想を打ち消す少年が立っていた。
見上げるほどに大きな、黄金色に輝く一匹の龍を傍らに従えて。


光から生み出されたその龍は美しかった。
そして同時に、途方も無い破壊力を有していることが一目で分かった。
あんなものの直撃を受ければ、天使に匹敵する耐久力を持つ私とて無事では済まない。
心のどこかで油断していた。相手は学園都市第三位ただ一人であると、勝手に決めつけてしまっていた。


まさか、と私は思う。
戦慄すら覚え、学園都市第三位に目を向ける。
そこにいたのは黄金の光を放ちつつ、悪戯が成功したような笑みを見せる第三位の姿。


――始めから、これを狙っていたのか……!


彼女は自身の手で私を倒すつもりなのだと思っていた。
だが違った。彼女は幻想殺しの少年が放つ一撃を当てる為の布石。
要するに、単なる囮に過ぎなかったのだ。

「やっちゃえ、当麻!」
「おう!」


――見事に嵌められた、か。


そんな感想を抱きつつ、私は迫り来る光の龍を見つめていた。












「遅い」

砂利が敷き詰められただけの殺風景な景色の中、私は苛立ちを募らせていた。


約束の時間である午前一時になっても、相手は現れなかった。
アニェーゼの奴め。時間は厳守しろと、あれほど念を押しておいたのに。

「全く。何を手間取っているのですかね」

背負っていた『吸血殺し』を地面に下ろし、呟く。


約束の時間を五分過ぎても、十分過ぎても、二十分過ぎても。
とうとう三十分が過ぎようとしているが、アニェーゼは現れない。連絡の一つも寄越さない。
一体どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
今頃はアニェーゼの手配したヘリに乗り込み、イタリアへの帰路に就いていたはずなのに。


午前一時四十五分。
ようやく電話がかかってきた。

「もっしもーし」

しかし声が約束の相手と違う。
どう考えても、それは男性の声だった。

「こちら匿名希望のペンネーム、『人生と書いて妹と読む』さんだにゃー」

ワケが分からない。
私が待っていたのはアニェーゼだ。
こんな得体の知れない男からの連絡ではない。


学園都市の外で、シスター部隊を従えて待機しているはずのアニェーゼはどうした?
電話をかけてきた男は、どうやって私の番号を知ったのだ?


何をどう訊ねるべきか戸惑っていると、

「いやー、目を血走らせたシスターが次から次へと迫ってくる様は圧巻だったぜよ」

電話の主がそう言った。

「あれがメイドさんだったら、至福のひとときだったんだけどにゃー」
「アニェーゼ、いえ、シスター達をどうしたのです?」
「全員洩れなく、ノックアウトさせてもらったにゃん」

ふざけた語尾のおまけ付きで、とんでもない答えが返ってきた。


二百五十人余りのシスターが控えていたんだぞ。
加えて全員、ある程度の魔術を心得えているというのに。

「お節介ながら、一つだけ忠告しといてやるぜい」

こちらの動揺などまるで無視して、男は語る。

「お前さんの未来は死だ。左方のテッラ」
「……!」

私は振り返る。

「テメエか、学園都市に喧嘩売った身の程知らずってのは」

背後に男が立っている。
胸元の大きく開いたシャツに、赤いスーツ。
その出で立ちは、ホストという言葉を私に連想させた。
しかし、驚くべきは男の外見などではない。

「テメエのおかげで、こんな真夜中に叩き起こされちまった」

接近されていたのに、男は気配を感じさせなかった。
距離にして七メートルもない。こんな近い間合いまで相手を感知できなかったなんて、信じられなかった。

「覚悟は出来てんだろうな」

鋭い、まるで肉食獣のような目が私を捉えた。

「俺の安眠を妨げた罪は重いぞコラ」











[20924] 第122話 誰が為に⑬
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:14971a14
Date: 2014/06/01 23:35
「一分だ」

一歩、男は前に出る。

「それで全部、終わらせてやる」

無造作で隙だらけの前進に、私は反応できなかった。

「思い上がってもらっては困りますね、能力者!」

司祭服に仕込んでいた小麦粉を全て、服の外へと噴き出させる。
小麦粉は私の魔力を受けて、数メートルに及ぶ白い津波を形成する。


そう、私は神の右席だ。
天使の力を授かった、人を越えた存在なのだ。
そんな私が神の加護を無下に扱う能力者に負けるはずがない。
その存在の優先順位を引き上げられた白い津波が、神の敵である赤いスーツの男に襲いかかる。
だが。男を一息に飲み込む寸前のところで、白い津波は元の小麦粉に戻った。


ほんの一瞬。それだけで白い津波は消えてしまった。
あるのはただ、赤いスーツの男と空気中にばら撒かれた大量の小麦粉。
そして男の目の前に浮かぶ、光り輝く一本の剣だけだった。

「な……」

その光景を、私は夢心地で眺めていた。
両刃の片手剣。その刀身はまるで太陽のように力強い光を放っている。
悪夢でも見せられているのか、と私は息を呑む。

「まさか、それは」

男は答えない。代わりに、おかしなことを口にした。

「神話ってのは便利だよな」
「何?」

予想だにしていなかった言葉を前に、ただ訊き返すことしか出来ない。
その隙をついて、男は目の前に浮かぶ剣を掴んだ。

「零からイメージを作り上げるよりも、ずっと楽なんだからな」

私は愕然と、唇の端を上げて笑う男と、彼が握っている剣を見つめていた。
英国の騎士王、アーサー=ペンドラゴンが妖精より授かった聖剣の中の聖剣、エクスカリバーを。

「でも、これじゃ駄目だ」

男の語りは続く。

「威力が強過ぎる。テメエ如きじゃ、まず耐え切れねえ」

男の手の中で、聖剣はただの光となって消え失せる。
私は愕然と、自分とは遠過ぎる相手を見つめていた。

「私を、どうするつもりなのですかね」

男は答えない。ただ冷淡な眼差しを私に向けてくる。
私はもうずっと止まらない悪寒に耐え切れず、自らの両手で自身を抱いた。
寒さは、余計に強くなる一方だった。

「そうか」

やがて、男は口を開く。

「心臓は要らねえな」

にやり、と。この上なく邪悪な微笑みを浮かべて、赤いスーツの男は言った。
穂先にルーン文字が刻まれた、金とも銀とも知れない輝きを放つ巨大な槍をその手に握って。
グングニル。どんな防御も貫き確実に相手を仕留める神槍が、私の心臓に狙いを定めた。












荷電粒子砲と、当麻が右手で吸い込んできた異能を一気に放出した結果である光の龍の二連撃。
私達が持ち得る攻撃手段の中で最も効果が期待できる技であり、たとえ天使であろうと一溜まりもない一撃が決まった。


油断なく煙が晴れるのを見ながら、私は当麻の元に駆け寄る。
体力が幾分回復したらしく、神裂さんも私達の側まで駆け足で来てくれる。


数秒後に晴れた煙の先、

「う、ぐ……」

そこにいたのは服が破れ、身体のあちこちから血を流すアックアだった。
私と当麻の切り札によって甚大なダメージを受けたことが見て取れる。

「こ、ここまで、追い詰められる、とは……」

息も絶え絶えに呟くアックア。
大剣を支えにどうにか倒れるのだけは踏み止まっている。

「お前の負けだ、アックア」

当麻が拳を固め、アックアの前に立ち決着を告げる。
神裂さんと私もアックアを取り囲むように立つ。

「お、のれ……!」

アックアは凄まじい形相で私達を睨みつける。その時だった。

「ふっふふふふ――」

不気味な笑いが遙か頭上の闇に谺した。

「むう……」

途端にアックアが顔色を変えた。

「アレイ、スター……!」
「アレイスター!?」

その名前を聞いて、私は思わず声を上げてしまった。
闇に響く低く、透き通った声は紛れもなく私の能力をたったの一言で呼び戻した人物のそれだったから。

「実に滑稽だね」

その低い声には、先程にはなかった背筋が凍るような恐ろしさと威圧感があった。

「無駄な時間稼ぎに己の命まで賭けるのかい、君は」
「どういう意味、だ」

苦しそうに喘ぎながら訊ねるアックア。

「左方のテッラは始末させてもらった。『吸血殺し(ディープブラッド)』も返してもらったよ」
「な、何だと」

アックアは愕然とした。
先に行かせた仲間が倒されていたとは思いもよらなかったのだろう。

「他愛のないものだね。これで神の右席も残すところ、あと一人になるワケだ」
「く……」

アックアの顔が苦渋に歪む。

「間もなく私の悲願が叶う。魔術では成し得ることの出来なかった奇跡が現実のものとなる」

次の瞬間、大気のうねりを肌で感じた。

「残念だよ。その瞬間に立ち会うことなく、君はこの世を去るのだから」

ほんの数秒の後、稲妻がアックアの頭上に落ちる。
それを察知して、考えるよりも先に身体が動いた。


稲妻を受け止めようと拳に電撃を纏い、一歩を踏み出す。
だけど、そんな私より更に早く動いた人物がいた。当麻だ。
闇を切り裂く一際大きな稲光を、かざした右手で受け止める。

「美琴!」

一本の巨大な光の矢と化した稲妻を吸い込みながら、当麻が私の名を呼ぶ。
それで充分だった。それだけで、当麻が私と同じ考えなのだと分かった。


何も無い空間を右手で掴み、ジッパーを下ろすようにして切り裂く。
空間に亀裂が生じ、学園都市の外に繋がる通路が作り出される。

「入って!」

稲光のあまりの眩しさ故に目を閉じていたアックアに向かって、私は叫んだ。


躊躇したのは、ほんの一瞬。
アックアは飛び込む。零次元の極点によって生み出された空間の亀裂に。
そして直後、ジッパーを上げる要領で、その亀裂を閉じる。

「どういうつもりだい?」

雷が完全に収まってすぐ、アレイスターの低い声が遙か頭上より谺した。

「別に、どうもしないわよ」

居もしない人物の姿を見るように、私は顔を上げる。
電磁波を張り巡らせても、かの人物を捉えることは出来ない。
だけど、何となくだけど分かる。
全ての元凶である男の意識は間違いなく私達の頭上に在る。

「ただ、アンタの思惑通りに話が進んでいるのが気に入らなかっただけ」

私の言葉に、アレイスターは一度だけ息を吐いた。

「私と争うと言うのかね」
「やんない。そんなの無意味だし」

きっぱりと答えて、私はアレイスターの意識から視線を外した。


学園都市総括理事長との問答なんて、どうでも良い。
そんなものより当麻の傷の手当ての方がよっぽど重要だ。
スカートのポケットから包帯を取り出し、当麻の身体に巻いていく。

「いいのかい。新たな能力に目覚めた君なら、或いは私を打倒し得るのに」
「お断りよ。こっちはもうヘトヘトなんだから」

あくまで視線は逸らしたままで、アレイスターの声に答える。

「アンタを倒したいって気持ちは確かにある」

でもさ、と一呼吸置いてから、私は続ける。

「アンタを力づくで捩じ伏せたとしても、私の望む世界はきっと来ない」

私の言葉に、アレイスターは答えない。
月明かりの下、誰も、何も、喋らない。
包帯を巻く音だけが、やけにうるさく聞こえる。

「私には仲間がいる」

結局、沈黙を破ったのは私だった。

「かけがえのない大切な人達と、この街を少しずつでも変えていってみせる」

包帯を巻き終え、顔を上げる。

「勿論、協力してくれるよね」

当麻の答えは満面の笑顔だった。

「当然だろ」

それだけで心が満たされる自分がいた。
自然と笑みが零れてしまう、そんな自分がいた。


ふむ、と肯く声。

「では、君の決意が如何ほどのものか、今後じっくり見せてもらうとしよう」

アレイスターの意識が立ち去ろうとする。

「さらばだ。愛しい愛しい、私の敵よ」

最後まで目を背けたままで、私はそれを見送った。












「こんな結末になるとはね」

感情なく呟いて、俺は人気の無い礼拝堂の中で瞼を開いた。


手に持つ水晶玉に映っているのは、一つの景色。
それは、ここイタリアとは九時間近くの時差がある日本。
『吸血殺し』を迎え入れる為に神の右席二人を送り込んだ、真夜中の学園都市。
心臓を貫かれて絶命したテッラを担ぎ上げているのは確か、学園都市第二位だったか。


――神の右席が能力者に敗れた、か。


認めたくないものだな、と微かに唸る。だが真実だ。
テッラは死亡、アックアは瀕死の重傷を負って撤退。
これを敗北と呼ばずして、何と呼べばいいと言うのか。
保険として神裂火織まで利用したというのに、何というザマだ。


仕方ない、と俺は肯いた。
事の顛末を確認して、俺は水晶玉を懐に仕舞う。
俺は自ら、学園都市に出向いて『吸血殺し』を手に入れることにした。
だが、それを妙に格式ばった英語で彼女は引き止めた。

「覗きとは趣味が悪いな」

どこか優しさを含んだ声で、ローラ=スチュアートはそう言った。
俺は言葉も無く、ベージュの修道服に身を包んだ金髪の少女を見つめる。


――何だよ、これは。


心の中で呟き、片手で額の汗を拭う。
背骨から蜘蛛が伝うような、さわさわと内臓に染みいる寒気がある。
それが吐き気だというものだと、俺は十数年ぶりに思い出した。


――何ビビってんだよ、俺様ともあろう者が。


自らの弱気を叱咤する。
だが、肉体の異変が止まることはなかった。
ローラは礼拝堂に足を踏み入れると、そこで歩くのを止めた。
肩より遙かに伸びた黄金の髪を掻き上げ、礼拝堂の奥にいる俺を視界に収める。
距離にして、俺達は軽く二十メートルは離れている。
なのに、俺は心のどこかで感じ取っていた。死が、そこまで迫っていると。

「何の用だよ、吸血鬼」

動揺を必死で隠しつつ、俺は口にする。

「それとも、アレイスターの娘と言った方がいいか」

吐き出す言葉に力を込める。
この女に恐怖を抱いているなんて事実を、受け入れたくなくて。

「お前の生い立ち、調べさせてもらったぜ」

俺の言葉に、しかし金髪の少女は動じない。
眉の一つも動かさない。ただ柔らかな微笑をその顔に湛えるだけ。

「全く、酷い父親もいたもんだよな。テメエの娘を吸血鬼に変えちまった挙句、そのまま放り出しちまうなんてよ」

礼拝堂に満ち溢れるばかりの勢いで、俺は笑い出す。

「さぞかし憎んでいるんだろうな。アレイスターのことも、吸血鬼となる原因を作った姉のことも」

けれど、それをローラ=スチュアートは否定した。自分は姉を憎んでなどいないと。

「今の私を作り上げたのはアレイスターだ。リリスは関係ない」

静かな声で少女は言う。
吹き抜ける風が、さらさらと彼女の金髪を揺らしていた。

「だが、お前を破滅させたのはリリスだ。それだけは言っておく」

少女の言葉に俺は瞳を細める。
この俺を破滅させるのは彼女の姉だと、ローラは言った。
そのようなことは断じてない。
もし仮に自分を破滅できる者がいるとすれば、それはアレイスターか目の前の少女のどちらかだ。
あの、自らの正体にすら気づいていない魔道図書館などに殺されるなど、断じて。

「ふざけるなよ、吸血鬼。アイツは何もしちゃいない。自分の立場も分かっていない子供じゃねえか」

苦しげな俺の呟きに、そうだな、と少女は答えた。

「あの子は何もしていない。だがな、あの子は姫神秋沙と神裂火織の二人と親密な仲であろう?」

はあ、と思わず間抜けな声を上げてしまう。


それがどうした、と俺は思う。
吸血鬼の天敵である彼女と魔道図書館が友人であることは承知している。
神裂火織と、かつては親友同士の間柄であったことも知っている。
だが、それが俺の破滅とどのようして繋がると言うのだろうか。


ローラ=スチュアートは言う。

「私を手駒にするべく、お前はあの二人を利用しようと試みた。その時点で、お前の死は確定していたのさ」

そして、彼女は一歩だけ前に出た。
その足捌きはあまりにも自然で、俺はまるで反応できなかった。

「私にとって、貴様などどうでもいいのだ」

少女は更に歩いてくる。
散歩するように気負いのない、自然な足取り。
その中で少女はつまらなそうに口を開けた。

「しかし、放っておけば貴様はこの先何度でもあの二人を利用しようとする。その度にあの子が――リリスが悲しむ」

先程までの穏やかさとは一変した冷たい視線で少女は俺を見た。

「煩わしいのは御免だからな」

少女は歩みを止めない。
俺との間合いをどんどん狭めていく。
十二メートル、十メートル、八メートル、六メートル……。
殺気を放ちつつ、俺との距離を四メートルにまで少女は詰めてきた。
静かに、礼拝堂全てに流れゆく殺気は、俺の肌をチリチリと焼くかのようだ。


だが、それでも俺は少女に敗れることはないと分かっていた。
彼女が人類の常識を遙かに超えた力を有する吸血鬼だということは理解している。
それを考慮しても少女の力は自分には及ばない。
神の如き者の力の前では、如何なる敵も障害にすら成り得ない。
聖なる力を帯びた右手で触れさえすれば、それだけで俺の勝利は確定する。

「ここで幕を下ろしてもらうぞ、右方のフィアンマ」

今までただ鋭いだけだった殺気が、明確な刃となって俺の全身を貫く。
それが僅か一瞬だけの攻防となる戦いの合図だった。


俺は右腕に力を込めて振りかぶる。
この腕が振り下ろされた瞬間、少女の敗北は決定的となる。
だが、俺は見た。俺が腕を振り上げるより遅く動き出した少女が、俺が腕を振り上げるより速く活動するその異様を。


それは閃光とさえ錯覚するほどの速度。
胸の前で構えた手刀を、それを更に越えた速度を以て少女は横一文字に薙ぎ切る。
直後、俺の右腕が宙を舞った。
万物を滅ぼす聖なる右が、吸血鬼の手刀によって斬り飛ばされたのだ。


俺は残された左腕に力を込める。
苦し紛れということは承知の上で、それでも障壁を張ろうと魔力を込める。
それだけの行動は、しかし少女の前では遅過ぎた。

「……!」

俺は声も無く、思考さえ間に合わず、その一撃を受け入れた。
口から血が零れる。臓腑から追い出され、逃げ場を失った血が堪え切れずに吐き出される。

「何故、だ」

俺には分からなかった。
聖なる右が単なる手刀に敗れた、その理由が。
簡単なことだ、と俺が吐き出した血を正面で受けた少女は答えた。

「吸血鬼の力は天使を凌駕する。ただそれだけのことさ」

俺の身体を貫き、取り出した心臓を見つめながら少女は続ける。

「まあ、貴様の場合は己の力を過信していたのも敗因であろうが」

少女の呟きに俺は答えない。
答えるだけの力も、時間も、残されていない。

「吸血鬼。最後に呪いを、残してやる」
「聞こう。急げ、あと数秒も保たん」

自分で殺しておいてそれはないだろう、と毒突く。

「不老不死、の、化け物の行く末は、孤独だ」

ともあれ、ここは少女の言う通りである。

「仇を成そうが、姉を救おうが、テメエは、どこまで行っても、一生、独り」

俺の身体は、もう唇しか満足に動かなかった。

「哀れだ、な」

否定はせず、呪いだけを受け取って、少女は呟いた。

「時間だ」

その言葉が合図だったかのように、俺の視界は急速に白くなっていった。











[20924] 第123話 誰が為に⑭
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:14971a14
Date: 2014/06/15 21:21
私と、美琴と、上条当麻と。
この三人が揃って同じ道を行くというシチュエーションは、初めてではなかった。
一度目はそう、『御使堕し(エンゼルフォール)』の術者と疑わしき火野神作を捕らえるべく、上条当麻の自宅までタクシーで向かった時。


あの時はサーシャ=クロイツェフも一緒だった。
そして本当なら、あの男も含めて五人で目的地に向かうはずだった。
嘘ばかり吐いて、ふざけた態度ばかり取って、自身ばかりを傷つけるあの男も。


私達はしんと静まり返った道路の真ん中を堂々と歩いていた。
空港で待っているに違いない、大切な人達の元へと向かっていた。
深夜ということもあって、道行く人も通り過ぎる車も無い。
この瞬間、世界はたった三人のためにあった。


空には月だけでなく、木星もぴかぴか光っていた。
私達は三人で歩きながら、だらだらとお喋りをしていた。
吐いた息がすぐに白くなるくらい寒かったけど、それほど気にならなかった。
夜というのは不思議なもので、輪郭のはっきりしない言葉を口にすることが出来る。
意味をちゃんと捉えず、互いに確信を持たないままでも、不安にならずに済むというか。


美琴はせっかく上条当麻が、つまり恋人が傍にいるというのに、私とばかり話していた。
女同士の気楽さもあったのだろう。上条当麻に遠慮することなく、私もまた、美琴とのお喋りを楽しんでいた。
蚊帳の外となった上条当麻は、すっかり不貞腐れてしまい、私達の前をぶらぶらと歩き出した。

「神裂さん、好きな人はいないんですか」

いるワケないでしょう、と私は頬を染めながら答えた。
その程度の会話ですら顔を真っ赤にしてしまうくらい、恋愛には奥手なのだ。
そう、だから違うのだ。単なる気の迷いなのだ。
好きな人を訊かれた瞬間、あの男の顔が脳裏を過ったのは。

「じゃあ、気になる異性とかは」
「いませんね。恋愛に現を抜かしている暇などありませんでしたから」
「意外と近くにいたりするんじゃないですか」
「愚問です。誰が土御門のことなんて」

くすくす、と美琴が白い息を出して笑った。

「私、訊きましたっけ」

意地悪な笑みを浮かべ、美琴は言った。

「土御門さんのことが気になるんですか、なんて」
「な……」

火照った顔を見られたくなくて、私は俯いた。
美琴がくすくすと笑う声が聞こえる。
顔を上げて確認してみたところ、彼女は優しく笑っていた。
その余裕や心遣いが、とても大人っぽく思えた。私の方が年上なのに。

「あの男は駄目です」
「どうしてです?」
「嘘吐きですし、極度のメイド好きですし」

そのこだわりは尋常ではなく、義理の妹をメイド養成学校に通わせるほど。
まあ、当事者である義妹さんも嫌がっているワケではないようなので止めはしないが。

「それに、本当に大事なことは話してくれませんし」

いつだって、彼はそうなのだ。
天使と戦った時だって、今回だって。
大事なことは全部独りで抱え込んで、人知れず傷ついて。

「恋って厄介ですよね」
「だから、私は土御門のことなんて」
「でも、全く無いと寂しいですよね」

美琴はまだ優しく笑っていた。
その笑みに促され、普段は心の中に押し込めてしまう気持ちを口にした。

「美琴もそうなんですか」

優しい笑顔のまま、美琴は肯いた。
癖の無い前髪が垂れ、月に照らされた彼女の青白い頬を隠した。

「平気だろ」

上条当麻が振り返り、後ろ向きに歩きながら、言葉をかけてきた。

「俺がいるんだから」

ほう、と感心半分、呆れ半分で声が洩れる。
恋人と二人きりではないのに、そんな言葉を平気で口にするとは。

「ほら、こっち来いよ」

うん、と美琴は肯いた。
その瞬間、彼女はいきなり恋する乙女になって、上条当麻の元へと駆けていった。
自然な仕草で上条当麻が手を伸ばすと、美琴も手を伸ばした。

そして、二人の手は繋がった。しっかり握り合った。


その瞬間、私は何故か幸せだった。
本当に幸せなのは美琴と上条当麻で、私は話す相手を失い、独りきりになってしまったというのに。
なのに、寂しいなんて微塵も思わなかった。胸に温もりが溜まっていた。
一生懸命に上条当麻を見上げる美琴の背中の反り具合とか、その背中を支える上条当麻の腕が、とても大切に感じられ、永遠に取っておきたいとさえ思った。


何か話す二人を、いくらか離れたところから眺めつつ、私は歩き続けた。
ベストポジションだな、と思ったりもした。
幸せたっぷりの二人から、お裾分けを貰っている。

「あ、いたいた」

不意に後ろから声が聞こえた。
次いで、タタタッと走る音が近づいてくる。


道には相変わらず私達以外の姿は無い。
とすれば、美琴の知り合いだろうか。
上条当麻の知人という可能性も捨て切れない。
まあ、少なくても私に用のある人間ではあるまい。
聞いたこともない少女の声だったし。
そもそも、私には学園都市にほとんど知り合いなんていないのだし。


――何者でしょう?


私は振り返った。ハリセンが見えた。


――は?


「この根性無しいいいいっ!」

助走を付けた上でのハリセン横殴り。

「ぐわっ!?」

完全に不意を突かれ、まともに顔で受けてしまった。
それでも私は半ば無意識に後ろに飛び跳ねていた。
打撃力を軽減する術を身体が覚えているのだ。
傍から見れば、私が派手に殴り飛ばされたように見えたに違いない。

「よし」

彼女の上半身が隠れてしまうくらい巨大なハリセンを片手に腕を組み、凶行の張本人は道路の真ん中で仁王立ちになる。

「これくらいで勘弁してあげる」
「え?え?」

数メートル先まで吹き飛ばされた、もとい、飛び跳ねていた私は尻餅をついた姿勢のままで、鼻の頭を押さえながら問題の人物を見上げる。


セーラー服にベレー帽といった出で立ちの少女だった。
一度は私に恐れをなして逃げ、しかし再び立ちはだかってきた金髪の少女だった。

「な、何ですか急に」
「何ですかもジンギスカンもあるか!」

ハリセンの切っ先をビシッと突きつけてくるベレー帽の少女。

「文句言う暇あるなら、インデックスと面と向かって話し合えっての!」

私は絶句した。
インデックスと私の関係を知っているのは、この街に限って言えば三人だけ。
美琴と上条当麻はずっと私と共にいた。
ステイルが易々と他人の話を持ち出すとは思えない。
しかし今の発言から、ベレー帽の少女が全ての真相を知っているのは明らか。

「どうして、それを」

呟き、そして、その解答に辿り着いた。


私はぶんぶんと首を振る。
信じられない、いや、そんなことは有り得ない。
しかし、それ以外には説明がつかないし、それならばこの状況が有り得るのだ。
だが、と私はもう一度だけ自身に問いかける。
そんなことが、本当に有り得るのだろうか。

「火織!」

疑問を全て振り払う声が届く。
振り向くと、通りの曲がり角からインデックスが駆け寄ってきていた。
潤んだ両目は赤く充血している。どこかで泣いていたのだろう。
導き出された答えの通りだとするならば、きっと私のせいで。
そう考えただけで、胸が締め付けられる。


座り込んだままの私に、インデックスが飛び込むように抱きついてくる。
少し痛かった。だけど彼女が受けた心の痛みに比べれば、かすり傷にも値しない。
痛みを堪え、しっかりと彼女を受け止める。

「ごめんなさい、火織!」

私の名を呼び、彼女は謝った。

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

泣きながら謝り続けた。

「インデックス……」

目頭が熱くなる。


インデックスは間違いなく記憶を取り戻していた。
私の前に、戻ってきてくれたのだ。親友だった彼女が。
もう決して会えないと諦めていた彼女が。

「謝らねばならないのは私の方です」

自分の首に腕を巻き付けてくる彼女を、ぎゅっと抱き返す。

「ごめんなさい。貴女を傷つけてしまって」

インデックスは激しく首を横に振った。

「私が、私が思い出していれば……!」
「貴女は何も悪くありません」
「でも!」
「悪くないんです」
「ごめん。ごめんね、火織」

インデックスは何度も何度も謝り続けた。

「全く」

顔を上げると、いつから見ていたのか、ステイルが苦笑いを浮かべていた。
その側には神の右席との死闘を生き延びた全員の姿があった。
先程ハリセンで襲いかかってきたベレー帽の少女も、身を挺して美琴を守ったツインテールの少女も、私のせいで囚われの身となっていた五和も。
そして当然ながら、美琴と上条当麻も優しい笑みを浮かべて私達二人を見守ってくれていたりして。

「これは姫神秋沙の受け売りなんだけど」

そう前置きして、ステイルは続けた。

「最初から、そうしておけば良かったよね」

全くですと言い返しそうになり、私も苦笑を洩らさずにはいられなかった。












悪い予感ってヤツは、どうして当たるんだろう。全く理不尽だ。
例えばコインを投げれば、表と裏の出る確率は半々だ。
世の中には大体、同じくらいの幸運と不幸があるのだろうし、いい予感も悪い予感も等しい確率で当たるはずなのだ。


それなのに、だ。
当たるのはいつだって、悪い予感ばかりで。
全く、この世界って呆れるくらいに理不尽だ。


だから私は参ってしまう。
いやいや、勿論、参っている一番の原因は今日の、いや、もう日付も変わったから昨日の昼か。
その時に、およそ飲み物と認めたくない代物を口にする羽目になったことだ。その名も、いちごおでん。
佐天さんがどうしても一緒に飲みたいと駄々をこねるので、仕方なく頼んだのが間違いだった。
互いに喧嘩し合ったまま喉を通っていくおでんの出汁といちごの果汁が、とにかくたまらないくらい後味が悪かった。
あんな飲み物があるなんて、どうかしている。味といい、組み合わせといい、最悪だ。
そう、いちごおでんのせいで参っているだけだ。それだけだ。

「でも、貴女の能力でも起こせないかもね」

結標淡希の声が時折心に響くのは、全然関係ない。


突如として現れた彼女が教えてくれたのだ。ドリーは生きている、と。
限界を迎えた肉体を、新しい、もっと幼いものと取り換えられて。
どうしてそれをと訊ねると、貴女にお願いがあるのだけどと結標淡希は答えた。


もうしばらく、私に暗示をかけ続けていてほしいの。暗示って、何のことかしらぁ。
惚けないで。今、私が能力を扱えているのは貴女の能力のおかげでしょう。あー、そういうことになってた気もするわねぇ。
どういう意味よ、それ。悪いけど、貴女の望みは叶えてあげられないわぁ。どうしてかしら。だって、最初から暗示なんてかけてないしぃ。
そんなはずない。だって、貴女と会ってから私は能力を使えるように。その通り。でも、会っただけなんだぞ。
本気で言ってるの、貴女。嘘を吐く理由が私にあるとでもぉ?……ない、わね。でしょう?
これまでの気苦労って一体、何だったのかしら。あははは。笑わないで――と。


私達は普通に笑って、普通に怒って、普通に屋上で別れ、普通にじゃあねなんて言ったりした。

「でも、貴女の能力でも起こせないかもね」

なんて不吉な言葉を、別れ際に残されて。


というワケで、結標淡希が去ってすぐ、病院に足を運んだ。
そして自分の無力さをまたも思い知らされ、失意の内に学生寮へと戻ってきた。
時刻は午前三時。真夜中である。真っ暗である。
当然、誰も起きてなんていないだろうと踏んでいたのだけど。
玄関前で、佐天さんが手を後ろに組んで立っていた。
病院へ行く前。学生服に着替える為、部屋に一旦戻った時は眠っていたはずなのに。

「お帰りなさい、食蜂さん」

笑いながら。

「で、どこ行ってたんですか」

私は勿論、平静を装って答えた。

「ちょっと外の空気を吸いたくてねぇ」
「散歩ですか」
「そんなとこだぞ」
「運動嫌いで有名な食蜂さんが、二時間も」
「そ、そうよぉ」
「気分転換、出来ましたか」

言いつつ、佐天さんは不敵に笑った。
実に楽しそうな笑みだった。


私は無理やり笑顔を作った。

「当然よぉ」
「じゃ、戻りましょうか」
「そうねぇ」

佐天さんと並んで学生寮に入る。
明かりの無い寮内は、ただただ寂しかった。
無駄に広いせいで、余計にそう感じるのかもしれない。

「ねえ、佐天さん」
「はい」
「……」
「何ですか」

私は佐天さんに言ってしまいたかった。
心の中に仕舞いこんでしまったものを、何もかも吐き出してしまいたかった。
でも、そんなことをしても何も変わらない。ただ佐天さんを困らせてしまうだけで。

「何でもないんだぞ」
「そうですか」


――ごめん。


心の中でだけ、謝っておく。
何かが佐天さんに伝わればいい。
いや、伝わらない方がいいのかな。よく分かんないや。

「寒いですね」
「そうねぇ」
「ホント、寒いですよね」

佐天さんはパジャマの上に羽織ったカーディガンのポケットに手を突っ込み、足を投げ出すようにして歩いていた。
何だか小さな子供みたいな歩き方だった。
ああ、そう言えば私も、佐天さんと同じように小さな子供みたいな歩き方をしている。


ふと、自分の靴が目に入ってきた。専門店で買った特注の革靴だ。
買ってきて暫くは光沢を放つほど綺麗だったそれは、すっかり薄汚れてしまっていた。
いつの間に、こんなに汚れてしまったのだろう。

「とうちゃーく」

私達の部屋の扉を開けて、佐天さんは言った。

「少し休みましょう。寝不足は肌にも悪いですし」
「……」
「どうしたんですか。ボーっとして」
「……」
「ほら、早く入りましょうよ」

私は俯き、薄汚れた革靴を見つめた。
ねえ、いつからそんなに汚れてしまったの。
でもね、新品の時より、何だかいい感じがするぞ。

「佐天さん。貴女、徹夜しても平気な方?」
「はい?」
「聞いてもらいたい話があるんだけどぉ」
「話、ですか」

佐天さんの声は静かだった。

「大事な話、なんですよね」

私の心の内を見透かすかのように、じっと見つめてくる。

「ええ」

私は大きく、ゆっくりと首を縦に振った。

「とても大事な話」
「そうですか」

何を考えていたのか分からないけれど、佐天さんは暫く黙っていた。
部屋の入口の前で、明かりもつけず、私達は互いの目を見つめ合っていた。

「待ってて下さい」

佐天さんがそう言ったのは多分、一分か二分。
いや、もしかすると三分くらい経った頃だったと思う。

「お茶、淹れてきますから」
「え?お茶?」
「リラックスしましょう。話はそれからってことで」











[20924] 第124話 誰が為に⑮
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:14971a14
Date: 2014/07/20 22:19
月は見えなくなっていた。星も姿を消していた。
明けかかった空は銀色に染まっていて、そのせいかやたらと高く感じられた。
背伸びをし、両手をいっぱいに伸ばしても、決してあの空には触れられないのだろう。
私の指先は虚空を彷徨い続けるに違いない。
東の空だけが、地平線のすぐ向こうまで来ている太陽のせいで、眩い金色に輝いていた。


一日が始まる。或いは、終わる。
誰かが傷つこうと、誰かが傷ついたことで同じように他の誰かが傷つこうと。
日常はいつもと同じように始まり終わり、それをどこまでもいつまでも繰り返す。
だからこそ、日常は日常なのである。
路上に停められた車にも、道路のアスファルトにも、私の吐く白い息にも、日常は等しく宿っていた。
そして死もまた、そういった日常の一つに過ぎない。
何の予兆も無く、突如としてやってくる。逃れられない。


私はよたよたと歩き続けた。
泣き疲れて眠ってしまったインデックスを背負って。
神裂さんは最後まで付き添いたかったようだけど、遠慮してもらった。
大人数で不用意に近づけば、寮監に見つかる可能性が高いから。
現在、絶賛無断外出中のインデックスの無事を願うなら、私に任せてもらうしかない。


常盤台学生寮の朝は年末であろうと変わらず早い。
朝日が昇るよりも前に起き、既にざわついていることも珍しくない。
しかし、今日に限って寮内はしんと静まり返っていた。
堂々と玄関から入り、あっさりと、誰にも見つかることなく、自分の部屋に辿り着く。
けれど、私は立ち止まった。この異常を起こしている原因に思い当たったからだ。
対象の脳細胞に直接、命令を与える心理操作系の能力。
その頂点に立つアイツならば、寮にいる人間の眠りを深くすることだって、そう難しい話ではない。


背後から、声がした。

「美琴さん」

涙子だった。

「お帰りなさい」

足早に私の元へ歩み寄り、彼女はドアを開けてくれた。


ありがとう、と笑顔で礼を述べる。
いえいえ、と涙子の顔にも笑みが浮かぶ。

「ちょっと来てもらえますか」

インデックスをベッドに寝かすと、背後からそんな声が聞こえた。

「涙子の部屋?」

振り向いてみる。

「はい」

先程と寸分変わらぬ笑顔で、涙子は肯く。

「ここじゃ駄目なの?」
「駄目です。絶対」

にこにこと笑ったまま、はっきりと言い切られてしまう。
心の奥底が揺れた。ざわっと。












涙子の部屋に行くと、食蜂がベッドの縁に腰掛けていた。
連れてきましたよ、と涙子が言った。


食蜂が目を逸らした。
涙子が咳払いをした。
沈黙が続いた。


ざわっと。また心の底が揺れる。

「食蜂さん」

涙子が低い声で言った。

「分かってるわぁ」

顔を上げずに、食蜂が呟く。

「御坂さん、そこ座ってくれるぅ?」
「そこ?」

辺りを見回したけど、近くに椅子なんてなかった。


食蜂は何で気づかないの?
見ていないから?
そんなことも分からないの?


どう反応すべきか困っていると、涙子が椅子を持ってきてくれた。

「どうぞ」

涙子に促されるまま、椅子に座る。

「実はねぇ、御坂さん」

やはり顔を上げることなく、食蜂は言った。

「ドリーがね、生きていたの」
「え」
「肉体を新しい、もっと幼いものに取り換えられて」

悪い話を聞かされるものだとばかり思っていた。
けれど、耳に届いたのは悪い話なんかではなかった。
別の、全く予想もしていなかった言葉だった。

「でも、喜んでばかりもいられないのよねぇ」

大きく息を吐く食蜂。

「あの子ぉ、夏の終わりから意識力をずっと失くしたままらしくて」
「夏の終わり?」

そうよぉ、とやはり顔を下げたままで肯く食蜂。

「より正確に言うと、八月三十一日から」

八月最後の夜、担架で病院に運ばれていったあの子を思い出す。
私のDNAマップから生み出された少女。
小学校時代の自分と瓜二つの姿を持つ、私の妹。
末っ子だとばかり思っていた。だけど違った。
食蜂の話が本当なら、あの子は――

「私はドリーを起こせなかった。何度呼びかけても、あの子は応えてくれなかった」

食蜂の声には抑揚が全くなかった。
すぐ後ろに立っている涙子に、私は目を遣った。
祈るように両手を合わせ、ずっと俯いたままでいる食蜂を見つめている。


まだあるのだ。
食蜂が言うべきことが。
涙子はそれを待っている。
彼女が言えると信じて、ただひたすらに待っている。


だから私も待った。
その時が来るのを、私も信じることにした。
一分経った。二分経った。五分が過ぎようとした。
その時だった。食蜂が突然、立ち上がったのは。

「あぁー、御坂さん、そのぉー」

いつにも増して語尾を伸ばす食蜂。


唖然としていると、食蜂は頭をバリバリと右手で掻き回した。
どういうワケか、その視線が泳ぎまくっている。
一瞬だけ目が合ったが、すぐに逸らされた。

「貴女にぃー、こんなこと言うのはぁー、ちょっと癪なんだけどぉー」
「はあ?」
「そのぉー、貴女の能力ってぇー、私よりずっと強力でしょぉー?」
「精神関係はアンタの方が上でしょうが」
「うーんー、確かにぃーそうなんだけどぉー」
「つか、その気持ち悪い喋り方止めて」

食蜂は私を正面から見据えた。

「お願い」

そして、深々と頭を下げた。

「力を貸して」

その瞬間、胸の奥底で何かがカッと燃え上がった。
今の今まで、どうして忘れていたんだろう。
突如として訪れるのは、悪いものばかりじゃない。


頭を下げたままの食蜂に、私は言った。

「あのさ」
「な、何よぉ」
「ちょっとばかり他人行儀過ぎやしない?」

大袈裟に溜め息を吐く。

「友達相手に、そこまでする必要ないでしょ」

食蜂が顔を上げる。
不思議そうな顔をしている。
明らかに戸惑っている。

「友達?」

ぼそりと呟く。

「貴女と、私が?」
「少なくても、私はそう思ってるんだけど」

ようやくまともに視線が合う。


食蜂は面白いくらいに動揺しまくっていた。
口は半開きだし、視線は定まらないし。
顔全体が強張っていた。

「そっかぁ」

やがて、その口から言葉が洩れる。

「そっかぁ」

掠れた声。


次の瞬間に起きたことを、私はずっと忘れなかった。
いつまでもいつまでも、例えば食事の合間に、その光景を思い出したりした。


一緒に食べていた当麻に、

「どうしたんだよ」

と訊ねられ、

「ううん、何でもない」

などと虚ろに言ったりした。


食蜂が笑ったのだ。
他人を馬鹿にしたような笑みでも、自嘲的な笑みでもない。
にっこりと。花がぱっと咲いたような、満面の笑みで。

「御坂さん」

小さな声。

「ありがとう」

だけど、ちゃんと届いた。
私の耳に、そして勿論、心にまでも。












あの子がいる病室に着いた。
結標淡希の言った通り、彼女はすっかり小さくなっていた。
だけど分かる。この子は確かにドリーだ。間違いない。

「じゃあ、私はフォローに回るから」
「ええ」

肯き、御坂さんと共にベッドの脇に進む。
ドリーがいる。眠っている。

「ドリー」

話しかける。

「ドリー」

無駄だとは分かっていた。
だけど、話しかけずにはいられなかった。
ドリーに会えなかった間に、色々なことがあったから。
本当に、本当に、色んなことが。


その全てがいきなり蘇ってきた。
ドリーのいない世界に放り出された私。
彼女の死を信じられなくて、信じたくなくて。
だけど、ようやくここまで辿り着いた。


私はドリーの右手を、御坂さんは左手を。
両手で包み込むようにして、それぞれ握る。
そして私達は互いの能力を解放する。
御坂さんの圧倒的な出力に後押しされて、ドリーの深層心理に潜り込む。


――ドリー、私よ。


彼女の心に直接、呼びかける。


――お願い、起きて。


何度も、何度も。

「う……!」

熱いものが喉を突く。
自身の限界を超えた能力の行使に、身体が悲鳴を上げている。
激しい吐き気に襲われた私は、身体を曲げ、ドリーのベッドに縋りついた。
吐き気に耐えられたのは、ドリーのベッドを汚したくないと思ったからだった。

「食蜂!」

駆け寄ろうとする御坂さんを、私は手で制した。

「大丈夫よぉ」

荒い息を吐きつつ、私は顔を上げた。

「ドリー」

声が滲んだ。

「起きてよぉ、ドリー」

もう少しなのだ。
後、ほんの一歩のはずなのだ。
ずっと我慢してきた。耐えるしかなかった。


でも、もう駄目だ。
求めずにはいられない。
ドリーの声を、優しい瞳を、明るい笑顔を。

「ドリー」

思わず、声が大きくなっていた。

「ドリー、起きてよぉ」

その時だった。
真っ直ぐに伸ばされているドリーの右手。
その中指が、ピクリと動いたのは。
数秒後、また同じように動く。


私は御坂さんを見た。
彼女は目を見開いていた。


見た、と視線だけで訊ねる。
うん、と大きく肯いてくれる。


夢じゃない。幻でもない。
動いた。確かに。

「ドリー?」

今度は瞼が震えた。
まず右の瞼が、続いて左の瞼が微かに動く。
今まではきっちりと合わさっていた唇が微かに開き、そこから息が洩れた。

「……ちゃん……」
「え?」
「みさき、ちゃん……?」

開いていた。
さっきまで震えていた、ドリーの瞼が。
少し色の薄いドリーの瞳が、そこにあった。


夢じゃない。幻でもない。違う。
これは紛れも無い、現実だ。

「ドリー!」

慌ててドリーの手を取った。
両手で、彼女の右手を握りしめる。
その手の温もりは、あの日、彼女が初めて私の名前を呼んでくれた時と全く同じだった。


ドリーはそっと微笑んだ。
弱々しく、けれど確かに、こちらの手を握り返してくる。

「ドリー。私、私……」

何を言いたいんだろう。何を伝えたいんだろう。
話すことがたくさんある気がするのに、ちゃんとした言葉が出てこない。
でもね、本当にあるのよ。話したいことが。
本当に、呆れるくらいに、たくさん。











[20924] 第125話 誰が為に⑯
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:14971a14
Date: 2015/02/22 20:26
思い出すものは、無造作に積み上げられた大量の死体。
いや、死体と形容するのは少しばかり滑稽かもしれない。
魂と呼べるだけの存在が入ることの無かった器に、生も死もあったものではあるまい。


魔術こそが至高と呼ばれる時代だった。
だからこそ神に縋った。奇跡を信じた。不老不死に辿り着いた。
吸血鬼を生み出す術を手に入れた。二番目の娘を吸血鬼として生まれ変わらせた。
それ以上でも、以下でもない。紛れも無い人間の器を造り出すことに成功した。
だが、それでも駄目だった。
最も欲するものだけは、この手に取り戻すことが出来なかった。


あと一歩のところまでは、行けたのだ。
リリスが戻ってきてくれたのだと、本気で思えた瞬間があったのだ。
でも、それも長続きはしなかった。
小高い丘に建てられた小さな病院で、リリスは二度目の生を閉じた。
アンという仮初の名前を外す間もなく、あちらの世界へ舞い戻ってしまった。
結局、私に残されたのはリリスと似ても似つかない人形の山でしかない。


リリスを救えない。
リリスを取り戻せない。
魔術では、リリスの救済は有り得ない。
何故なら神の、他の誰かに依存した力には限界があるから。


――魔術では、私の願いは叶えられない。


そうして限界を、そして神を超える力を生み出す実験が始まった。












蒸気の音と、水の泡立つ音の中で私は目覚めた。
明かりの無い闇の中、大の大人がすっぽり収まる程のビーカーに囲まれ、立ち上がる。
頭が重い。少し、夢を見ていたようだ。

「この私が夢とはね」

自らの未練を目の当たりにするなど、何十年ぶりであろうか。

「もうじきだ」

誰に聞かせるでもなく、呟く。


もうじき、私の望みは叶う。
ここまで来れば、後は待つだけ。
あの優しい光が完成した時、最愛の娘は戻ってくるのだ。

「アレイスター」

唐突に、声がした。

「随分と楽しそうじゃないか」

そいつは姿を現さない。
闇の中、しゃがれた老人の声だけが響く。

「あの娘、御坂美琴と言ったか。成程、あの光を以てすれば我ら魔神にも対抗できよう。お主の願いすら、或いは叶えられるのかもしれぬ」

感心しきったように、うんうんと肯く声が聞こえる。

「僧正。人の身で在りながら神の域に達した化け物がこんな場所に何の用だ」
「決まっておろう。お主に会う為さ。願えばすぐにでも魔神と成れるにも関わらず人間で在ることに執着する愚か者に、忠告の一つでもくれてやろうと思ってな。それとも私の好意は迷惑かね」

僧正の声に、私は答えない。

「このまま実験を続けたところで、お主の望みは叶わんよ。あの娘の力は確かに魔術でも、お主の編み出した能力とやらでもない。あれこそ魔法。神の力すら超越した奇跡。いや、奇蹟と呼ぶべきか」

しかし、と語気を強める僧正。

「誠に残念ながら、あれは人間如きが御し切れる代物ではない。人が神を超えるなど有り得ぬ。あってはならぬ」

僧正の言葉は偏見にまみれていた。
一歩間違えれば、否、間違えなかったら自分もこうなっていたのだろう。
リリスを、最愛の娘を、失ってさえいなければ。

「私の答えは変わらない」

人間を大した理由も無く見下すこの男を、私は正しいとは思わない。


人間は確かに脆い。
間違いだって何度も起こす。

「私は一人の人間としてリリスを取り戻す」

だが、彼らにはあるのだ。
そうした弱さを補って余りある、心の強さを。

「そこまでして人間にこだわる理由があるとでも言うのかね」

心底不思議そうに問う僧正に、唇の端を上げて答える。

「お前には永遠に分かるまい」

魔法を扱えるのが人間だけである理由も、今なら納得できる。
数値で表せる代物ではないので、この男に見せられないのが残念でならない。


私はただ瞳を閉じる。
長く別れていた数十年を清算する、束の間の会話はここまでだ。
僧正は最後に、一人の魔術師として私に問いかけてきた。

「アレイスターよ、何を求める」
「神を越えし、力を」
「アレイスターよ、どこに求める」

僧正の声が、遠くなる。

「神が造りし、人の中に」
「アレイスターよ、どこを目指す」

耳を澄まして、ようやく聞こえる程度の声。

「知れたこと」

迷うこと無く、私は答える。

「愛する娘の笑顔に決まっている」

声は返ってこなかった。だが、


――成し遂げてみせるがいい、若造。


そんな答えが、返ってきたような気がした。












お気に入りの少女漫画を読んでいる内に、眠ってしまったらしい。
私こと結標淡希が目覚めた時、日は随分と高くなっていた。
重い瞼を擦りながら、ベッドから身体を起こす。

「よォ」

突然の声。

「やっと起きたか、ねぼすけ」

振り向くと、『一方通行(アクセラレータ)』がソファに腰掛け、新聞を読んでいた。

「おそようさん」

いきなり、からかってきた。
おはよう、と語気を強めて訂正を求める。
だけど返ってくるのは意地悪な笑みと、

「おそよう」

の繰り返しだけで。

「おそようございます」

結局、折れるのはいつだって私の方で。


壁にかかった時計を確認すると、十二時を幾らか過ぎていた。もうお昼だ。
おはよう、なんて挨拶は確かに変だったワケだ。

「貴方も暇ね。毎日毎日、押し掛けてくるなんて」
「合鍵を渡したのはお前だろォが」
「来るたびに玄関の扉を壊されるくらいなら、そっちの方がマシだと判断しただけよ」

欠伸をしつつ、ベッドから起き上がる。

「ねえ」

ううんと唸りながら腕と背中を伸ばし、訊ねてみる。

「お腹、空いてる?」
「何だよ、急に」
「何か作ろうかと思って。もし貴方も食べたいなら、ついでに作ってあげる」
「減ってる」

答えがすぐに返ってきた。
私はいささか呆れてしまった。

「貴方は食べるのって訊くと、必ず食べるって答えるのね」
「そォでもねェだろ」
「いいえ。作ってる私の実感だから、間違いないわ」

厭味っぽく言いながら、キッチンに向かう。
冷蔵庫を開けたところで、そっと振り返ってみる。
リビングに残った彼は、再び新聞に目を遣っている。

「はあ」

知らず、溜め息が洩れる。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
つい数時間前までは、このもやもやした想いの正体すら掴めていなかった。
食蜂操祈に、教えられるまでは。

「手を繋いだり、隣を歩いたりしたらドキドキするんでしょう?」

彼女の前に突如として姿を現した理由を訊かれて、

「苦手だった料理とかに、挑戦しちゃってるんでしょう?」

整理のついていない頭の中を、どうにか言葉にして並べてみたら、

「彼女じゃないって否定されたら、本当のことだけど傷ついたんでしょう?」

我が子の成長を喜ぶ母親のような優しい笑みで、

「それってさぁ――」


――ああ、もう!


ぶんぶんと頭を振る。
腰まで伸びた長い髪が前後に大きく揺れた。


少し前の一番の悩みは勿論、トラウマによって能力が制限されたことだった。
あの頃はもう、どうすればトラウマを克服できるのかと毎日のように悩んでいたっけ。
今の自分は、トラウマを抱えていた時と同じくらい悩んでいるかも。
いやいや、胸はずっと苦しい。種類がまるで違うって感じだった。
頭のてっぺんから足の先まで、ぎゅうぎゅう押し潰されているようだった。

「六十点」

大いに悩み、それでも作り上げたチャーハンに『一方通行』は容赦なく辛口の採点を行なった。

「チャーハンくらい、もォ少しまともに作れねェのかよ」
「文句があるなら食べなきゃいいでしょ」

まあ、『一方通行』の言い分も、分からなくはないのだけど。
塩を振り過ぎたせいか、やたらと辛いし。
御飯は水分が多くて、ベタベタしているし。

「いいわよ、残しても」

彼は何も言い返さない。
黙々とチャーハンを口に運ぶだけ。

「無理しなくていいってば」

別に、と素っ気ない返事。

「食えなくはねェし」

それによ、と少し間を置いて、

「ちったァ、マシになったンじゃねェか」

それだけ言って、ベタベタの御飯を蓮華で掬う。
表情の無いまま、チャーハンをひたすら口に運ぶ。


私はと言うと、顔が熱くて仕方なくなっていた。

「あ、そ、そう」

まともに返事も出来ないくらいだった。
もう、どうしようもないくらい茹っていた。


今思えば、初めて手料理を作った時から彼は優しかった。
完全に炭化した、真っ黒な野菜炒めを全部食べてくれた。
あまりにも惨めな結果に泣きそうになっていた私に、

「今度はもっとマシなの作れよ」

なんて言ってくれた。
次も食べてくれると言ってくれた。


不器用で、わがままで、だけど本当は優しくて。
百人が聞けば、きっと百人全員が信じないだろうけど。
それでも私は断言する。彼は優しいんだって。
ただ、人付き合いというものを知らないだけで。
当然だ。最強の能力者として恐れられ、彼はいつだって独りだった
他人との距離の置き方なんて、学びたくても学べなかったのだ。


彼と出会ってから、助けられてばかりいた。
手を組む、なんて大口を叩いておきながら、今の今まで何も出来ていない。
私は何もしていない。ただ、ターゲットである木原一族の元へ転移を行なうだけ。
唯の一度だって、私は自分の手を汚していない。
そういうことは全て、彼がやってのけた。
罪を重ねるのは、いつだって彼だった。


木原一族は確かに悪だ。
彼らのせいで不幸になった人間は、それこそ星の数ほどいる。
だけど、それでも、やっぱり彼らも人間であるワケで。
殺してしまえば、他人からは人殺しと蔑まれてしまうワケで。


いつだって、彼は独りだった。
彼は確かに人を殺した。
かつては御坂さんの妹達を。そして今は木原一族を。
その罪が消えることは決してない。
彼は一生、苦しみ続けなければならない。
一万人以上の人間をその手にかけた殺人鬼としての罪を背負って。


いつしか、それを辛いと思うようになった。
彼の重荷を、ほんの少しでも、一緒に背負いたいと思うようになった。
そう、だから不本意だけど、本当に不本意だけど、食蜂祈操に会ったのだ。
トラウマによって制限をかけられてしまった私の能力、『座標移動(ムーブポイント)』。
空間移動系としては最強と呼ばれるこの能力を最大限に引き出す為には、彼女の助けが必要だと思って。
結局、知らない間に自身の内で解決していたみたいだけど。

「あの、さ」


――そっか。


他人に気づかされたというのは、少しばかり癪だけど。

「その、ありがとう」


――私、『一方通行』が好きなんだ。











[20924] 最終話 巡る季節
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:14971a14
Date: 2014/08/09 21:38
気がつけば、夏休みが終わろうとしていた。
ふと、シャーペンを走らせていた手を止めて、カレンダーに視線を移す。
今日は八月二十一日。あと十日も経てば、また学校が始まる。


――もう、そんなになるのか。


操車場で『一方通行(アクセラレータ)』と死闘を繰り広げてから、一年が過ぎようとしていた。


色々なことがあったけれど、あっと言う間だった気もする。
楽しいことも、少しだけ悲しいことも、振り返ってみればどれもいい思い出だと今なら言える。
そして、そんな時、いつも隣にいてくれたのが美琴だった。
だけど今、俺の傍に彼女はいない。


美月を始めとした妹達の為に何が出来るのか。
その答えを求めて、美琴は走り始めた。
世界各地に散らばる妹達の存在を公表した。
自ら立ち上げたサイトに、美月と一緒に話している動画を上げて。


妹達の存在について、公の場で話を求められるようになった。
学園都市の外で講演することも、珍しくはなくなった。
これまで以上に、好奇の視線を向けられるようになった。


魔術と能力の関係について、徹底的に調べるようにもなった。
三年生に進級してからも続けて同室になれたインデックスと一緒に。
今ではインデックスの妹と名乗る怪しい女と連絡を取るまでに至っている。
なんでも、イギリス清教で一番のお偉いさんだって話らしいけど。
どういうワケか、その人、俺と会うことを極端に避けるんだよな。
そのことで愚痴を零したら、美琴の奴は曖昧に笑うだけだったけど。
消えちゃうかもしれないしねえ、と一人で勝手に納得していたりしたけど。


まあ、それはともかく、だ。
美琴は以前にも増して忙しくなった。
妹達が堂々と光ある場所を歩けるようにする為に。
能力とも魔術とも言えない、あの優しい光を完全に自分の物にする為に。
インデックスがかつて、リリスと呼ばれていた頃の記憶を蘇らす為に。
彼女の命を救った代償として失ってしまった、俺の記憶を取り戻す為に。
アレイスターに狙われることなど、百も承知な上で。


美琴が本気で取り組みたいことを見つけたのは、素直に嬉しい。
目的に向かって突っ走るアイツは格好良いし、凄く綺麗だし。
まあ、本人の前じゃなかなか口に出せないんだけどさ、そんなこと。
だけど美琴が自分の立ち入れない場所にいることに、寂しさを感じてもいる。


美琴と会う時間は確実に減った。
今日も、美琴と顔を合わせてはいない。

「独り、か」

電話でもいい。
急に、誰かと話をしたいと思った。
自分でも少し、戸惑ってしまうような感情だった。
暫く悩んで、俺が聞きたいのは誰かの声じゃなくて、美琴の声なんだと気づいた。
玄関のチャイムが鳴ったのは丁度、そんな時だった。

「ん?」

誰だろうと思いつつ、腰を上げる。
もしかしたら美琴かもしれない、と期待して。
思わず早足になって玄関へ向かう。
確認もせずに扉を開けると、そこには、

「やっほー」
「お、おう」

本当に美琴がいて、一瞬、驚きの声を上げそうになった。

「ちょっと付き合ってほしいんだけど、いいかな」
「ああ、いいぜ」

即答する。
駄目なことなど、あるもんか。

「オッケー。じゃあ行こう」

美琴が俺の手を掴んだ。そのまま引っ張られる。

「で、どこへ行くんだ」

玄関先で靴を履きながら言った。


まあ、訊いてみただけだ。
答えなんて気にしていない。
どこであろうと、ついていくつもりだった。

「どこでも」
「ん?」
「当麻がいれば、どこでも」

ほんの少し頬を赤らめて、にっこりと美琴は笑った。

「久し振りに、デートしよ」












「それじゃあ、上手くやってるんだな」

陽炎が揺らめく程の暑さに汗を流しながら、すぐ隣を歩く美琴に話しかける。

「うん。それもこれも、当麻のおかげ」

穏やかな笑みを向けられ、こそばゆい気持ちになる。

「俺は、何も」
「うじうじ悩んでいた私の背中を押してくれた。変わる勇気をくれた」

美琴は言葉を切ると、暫く黙り込んでしまった。


――変わる勇気、か。


この一年で変わったのは、美琴だけじゃない。
俺も変わった。変わらざるを得なかった。


夢物語だとばかり思っていた魔術の存在を痛感させられた。
当たり前のように暮らしていたこの街が、どれほど危険に満ち溢れているのかを知った。
ギリギリのところで生かされているのだと、思い知らされた。
だけど、絶望ばかりが残っているのではないとも分かった。
奇蹟も、魔法も、希望だってあるのだと教えられた。
隣を歩く大切な人に、教えられた。

「ねえ、当麻」

次に口を開いた時には、少しだけ寂しい表情を覗かせる。

「私達の関係も、いつか変わっちゃったりするのかな」
「そいつはどうかな」
「すれ違っちゃったり、するのかな」
「それは嫌だな」

考えたくもなかった。
だけど考えなければならないとも思った。

「だからさ」

難しく考え込んでしまった俺に、美琴が明るく声をかけてくる。

「約束しよう」
「約束?」
「うん。お互いに隠し事をしないって約束」
「俺は別に、隠し事なんて」

反論しかけた俺に、ポツリと美琴が呟く。

「美空のこと」

う、と言葉に詰まってしまう。
美琴と全く同じ能力を持つクローンがいるって、土御門から聞いていたことか。


四ヶ月近い眠りから覚めて無事に退院した美空は現在、那由他の世話になっている。
この春、常盤台中学に入学し、晴れて寮生活となった美月と入れ替わる形で。
どこぞの中学で女王と呼ばれ敬われている、とあるお嬢様に至っては、

「私だって一緒に暮らしたいのにぃ」

と今でも駄々をこねているが、彼女のイメージ保護の為、個人名は伏せておくことにする。


そう言えば、もう一人いたな。美空にご執心な奴が。
那由他のマンションを頻繁に出入りするようになった女子中学生が。
見ない顔だったけど、まあ、悪いようにはならないだろう。
霧ヶ丘中学の制服を着たその女の子に会って、美空の奴、凄く嬉しそうだったし。
みーちゃん、と満面の笑みで美空に呼ばれ、女の子も笑っていたし。


人見知りを全くしない美空はたちまち那由他とも打ち解け、今では仲良く同じ小学校に通っていたりする。
そう、那由他は学校へ通うようになったのだ。機械の身体から、文字通り解放されて。
美琴の光を浴びて生き返った那由他は、本来の人間としての肉体を取り戻したのだ。
おまけに、サイボーグだった頃よりも格段に強くなった。
やっぱり生身だと能力を馴染ませるのが楽だよね、と那由他は笑顔で言っていたけど。
肉弾戦で生身の、それも小学生の女の子に手も足も出ない現状ってやつは男としては複雑だったりする。

「あれは別に、悪気があったワケじゃ」

ふーん、と唸る声には信用の欠片も無くて。

「美琴にだってそういうの、あるだろ」
「私?」

俺の指摘に、きょとんとした表情で自らを指差す美琴。

「私は、一つだけ」

そう言って、はにかんだ笑みを見せる。

「何だよ、それって」
「それはね――」

言いかけて。
灼熱の太陽の下で輝く笑顔に見惚れて。
続きを聞くタイミングを完全に失ってしまった。












フリードリンクを持って、部屋に戻る。
その場にはノリノリで熱唱する美琴の姿があった。
マイクの角度の調整に、とことんこだわったり。
歌詞をまるで見ることなく、最後まで楽々と歌い切ってみせたり。
相当に通い慣れていると見た。

「オレンジジュースで良かったんだよな」
「うん。ありがとう」

歌い終わった美琴は、笑顔でジュースを受け取る。
続け様に入力されていた美琴の歌もひとまず途切れ、部屋が静かになる。が、

「隣もノリノリだな」

壁の向こうからアニソンの絶叫が聞こえてくる。
防音の施された壁をほとんど素通りしてくるとは。
すげえな、アニソン。マジですげえよ。

「フリードリンクで幾らでも喉を潤せるからね。気兼ねなく歌い続けられるってワケ」
「それにしたって、すげえよ」
「隣が?」
「いや、美琴が」

ここまで一時間近く歌い通してきた美琴のレパートリーは、これでもかと言うくらい広かった。
数年前までならまだしも、俺達が生まれているかいないかの時代の曲まで。
美琴は実に幅広い歌謡曲の知識を披露してくれていた。


時には拳を握って、時には短いスカートを翻して。
また或る時には俺にウインクしたり、手拍子を求めたりして。
そして終始、眩しいばかりの笑顔を振り撒いて。
仕切られた個室で、歌を、俺との時間を楽しんでいた。

「負けてられないな」

美琴の隣に座り、自分が歌えそうな歌を探し始める。

「やっと歌う気になった?」

ああ、と顔を下げたままで肯く。

「楽しまなきゃ損だからな」
「いい心がけね」

そう言って、俺の頭を撫でる美琴。

「よしよし」
「お前な」

声を低く、そして目を細くして美琴を見る。
でも、やめさせようとは思わなかった。
こういうスキンシップも、随分と久し振りだったから。

「当麻とカラオケに来るのって、初めてだよね」
「そうだっけ」
「うん」

か細い声。

「ずっと行きたかったのに」

言われるまで気づかなかったが、確かにその記憶がない。
デートの定番中の定番であるが故に、無意識の内に優先順位を下げていたのかもしれない。

「当麻とカラオケに行けたら歌おう。そう思って練習した歌がたくさんあるんだ」

嬉しそうに微笑む美琴に、俺の頬も思わず緩む。
と、急にスピーカーから音楽が鳴り出した。
いつの間にか、美琴が新しい曲を入力していたらしい。
部屋に響くイントロ。それは時代を越えて愛される夏の定番ソングだった。

「この曲なら、当麻も歌えるでしょ」
「そりゃあ、な」

よし、と満面の笑みで肯く美琴。

「じゃあ、一緒に歌おう」
「任せとけ」

使われないままだったもう一本のマイクの電源を入れると、俺は席から立ち上がる。
えへへ、とすぐ隣から笑う声。

「初デュエットね」

歌詞など見なくてもフルコーラスで歌えるほど聴き込んでいる。
生まれ育った土地である湘南の海を歌い、当時の歌謡界を震撼させたバンドのデビュー曲。


湘南という響きに、一年前の記憶が蘇る。
ほぼ全ての記憶を失った俺を、美琴はすんなりと受け入れてくれた。
思えば、あの神奈川での騒動が決め手だった。
美琴を特別な存在として、はっきりと意識するようになったのは。


――ホント、楽しそうに歌うよなあ。


おかげでモニターを見るべき時間の何割かを、美琴が歌う横顔を眺めるのに使うことが出来たのだった。












カラオケの後も美琴に一日中連れ回され、俺はヘトヘトになっていた。
ショッピングモールで小物を見たり、喫茶店でケーキをつまんだり、他愛の無い話に花を咲かせたり。


それは楽しい時間だった。
いつの間にか、日が傾きかけていた。
ここ数日感じていた寂しさは、跡形も無く吹き飛んでいた。
こういうのも、かけがえの無い思い出になるのだろう。


肩が触れ合うくらいの距離で隣を歩く美琴が、んーっと声を上げて伸びをした。

「久し振りに遊び回ったわね」
「おかげで、俺はヘトヘトだよ」

だらしないなあ、とからかう声。

「しょうがないだろ。色々あったんだから」

そう、本当に色々とあったのだ。
夏休みの宿題を終わらせてからも、自主的に勉強を続けた。
『必要悪の教会(ネセサリウス)』を離れ、仲間の元へ戻った神裂に特訓してもらうこともあった。
ほんの少しでも、美琴の力になりたくて。
いざって時に美琴の元へ駆け付けらないなんてことになったら、悔やんでも悔やみ切れないだろ?

「そういや、さ」

疲れ切った表情を引き締め、美琴を見据える。

「お前、常盤台を卒業した後はどうするんだ?」

笑顔が一転、真剣な表情になる美琴。

「うん」

美琴ほどの実力者ならば、引く手など幾らでもある。
能力開発なら常盤台と肩を並べる実績を持つ霧ヶ丘女学院が、最も有力だけど。
しかし肯いた直後に美琴が返してきた答えは、こちらの予想を遙かに超えていた。

「当麻の後輩になってみようかと」

柔らかい笑顔に、俺の胸が大きく鳴った。

「そ、そうなのか」

驚きを抑え、どうにか応える。

「でも、どうして」
「理由は幾つかあるんだけど」

そう前置きして、美琴は語り出す。
少し頬を赤らめて。俺の高校への入学を決意した決め手を。

「やっぱり、当麻の傍にいたいから」

美琴の顔がますます赤くなる。
俺の顔も、きっと赤い。


それからは二人して黙り込んでしまった。
顔を赤くしたままで、ただただ歩く。


ああ、何でだよ。
何か言わなきゃいけないのに、どうして声が出ないんだよ。
美琴のせいだ。コイツが恥ずかしい台詞を聞かせたりするからだ。


まあ、いいさ。
とりあえず頭を撫でてやろう。
さっきの仕返しだ。
後のことは、それから考えよう。
ワシャワシャと力強く撫でてやったら、美琴は怒るだろうな。
騒いじまおう。喚いちまおう。
そうやって、この雰囲気を消しちまおう。

「あ――」

けれど、果たせなかった。


茜色に染まる大通りを歩く俺達の反対側から、一組のカップルが歩いてきた。
男の方は、この暑いのに上下黒一色。
女の方は、涼しげな白のワンピースに身を包んでいる。


俺と美琴は同じ調子で歩き続けた。
だんだん二人が近づいてくる。顔がはっきり見える。


二人は手を繋いでいた。
女の方はにこにこと笑っていた。
男の方は嫌そうな顔をしていた。
だけど手を解こうとはしない。
あれは多分、いや、間違いなく気恥ずかしいだけだな。


男が俺の方を見た。
もっと嫌そうな顔をした。
もう一年も前のことなのに、記憶はあまりにも鮮やかに蘇ってきた。


真夜中の廃工場。
闇に響く銃声。
怒り狂った声。
苦しそうに喘ぐ一人の少女。
立ちはだかる黒一色の男。


身体が熱かった。
心が熱かった。
手を貸さずにはいられなかった。


黒づくめの男、『一方通行』とすれ違った。
奴自身は声をかけてこないどころか、顔を背ける始末。
奴の隣を歩く女、結標淡希は微笑みかけてきた。
誘うように、或いは、からかうように。
そうして二人は背後に去った。


遠ざかる二人の気配を感じつつ、俺は色んな感情を奥底に仕舞い込んだ。
今はまだ、屈託なく、共に笑い合うことは出来ないけど。
どれだけ絶望に打ちひしがれようと、それでも救いはあるんだ。


諦めなければ。
立ち向かい続ければ。
いつかはきっと、明るい場所に立てるようになるんだ。












鉄橋の真ん中まで来ると、風が強く吹いた。
歩みを止めた私に、当麻が手を差し伸べてくれた。
ぎゅっと握った手はとても大きくて、温かくて。
そんな大きな手から伝わってくる優しさに、つい頬が緩んでしまう。

「変わってないね」

当麻の方を向き、ぽつりと呟いた。

「そうだな」

当麻は穏やかに、昔を懐かしむように、微笑んでいた。


鉄橋へ行こう。
そう言い出したのは私だった。
『一方通行』との死闘から一年が過ぎた今日。
当麻と一緒に、もう一度、胸に刻んでおきたかったのだ。


この場所で起きたこと。
私のしでかしてしまったこと。
当麻に言ってもらえたこと。
絶対に忘れたくないこと。
忘れちゃいけないこと。
心の奥底に、鮮明に残しておきたいこと。
いつか私の命が尽きるその瞬間まで、ずっと。


暫く手を繋いだまま、川の向こうに沈む夕日を見つめていたのだけど、

「そう言えばさ」

沈黙に耐えかねたのか、当麻が不意に訊ねてきた。

「隠し事って、何?」

ああ、とわざとらしく声を上げる。

「知りたい?」
「知りたい」

即答だった。
それも、思いっ切り表情を引き締めて。
夕日に照らされた当麻の顔は、いつもより凛々しく感じられた。

「大したことじゃないんだけど」

ええ、と不満の声。

「隠し事はしないんだろ」

そうだね、と呟く。

「実は、ね」

恥ずかしいけど、ここは観念するしかない。

「私はここで助けてもらった時から当麻に惚れてた!」

早口で、一気に言い放つ。

「って、こと……よ」

それでも恥ずかしいことには変わらず、尻すぼみになってしまう。

「え?」

当麻の顔が強張る。

「マジで?」
「ん」
「お前が先なの?」
「ん」
「俺じゃなくて?」
「ん」

口をパクパクと金魚のように動かすが、肝心の声が出てこない当麻。
本人からしてみれば、相当ショックだったんだろう。
まさか、私の方が先に当麻を好きになっていたなんて。
当の本人以外には結構、バレバレだったんだけど。


まあ、そう思っているんだろうなという予感はあった。
全く。他人の気持ち、特に恋愛感情に関しては本当に鈍感なんだから。

「まあ、とにかく」

ボリボリと頭を掻くと、当麻は繋いでいた手を強く握り直した。

「これからも、よろしく」
「うん、よろしく」

肯いたら、肩を抱かれた。
当麻の胸の中に、私の身体が収まる。
自然な感じで、すっぽりと。
間近で見つめられ、思わず視線を逸らしてしまう。

「夕日」

横顔を見つめられているのを気配で感じながら、そう口にする。

「沈んじゃうね」

オレンジ色の太陽が、水平線の向こうへ沈もうとしていた。
西の空はまだ明るくて、東の空は深い紫色に変わり始めている。
幾つかの星が控えめに瞬いているのが見えた。

「当麻がいてくれて良かった」

私は顔を上げた。

「辛いこともあったけど、この一年、本当に楽しかった」

にっこりと、当麻に微笑みかけた。


当麻が、私の前髪に触れた。
今度は目を逸らしたりしなかった。じっと見つめ合う。
顔が真っ赤なのは、微かに残った夕日に照らされているせいではない。
ずっと繋いだままにしていた右手が、熱いくらいに火照っていた。


握っていた手を組み替えて、指を絡める。
瞼を閉じて、顔を上げて、その時を待つ。
やがて、柔らかな唇が触れた。甘く、熱く、優しいキス。
夏の夕焼けは一瞬で。まるで演劇の舞台が暗転するみたいに、私達の姿を闇に包んでいった。


この先も、色んなことがあるだろう。
どれだけ覚悟を決めたって、叩き潰されそうになるだろう。
そういうことが幾つも幾つも起きるだろう。
私の未来なんて薄汚れてしまっているのかもしれない。
そもそも未来なんて無いのかもしれない。
魔神なんて得体の知れない連中まで現れてしまったし。
あの時、当麻が来てくれてなかったら間違いなくやられていた。
右手から八匹もの光の龍を呼び出して、奴らを退けてくれた。


それにしても、どうしてだろう。
私もだけど、当麻もまた、どんどん人間離れしていっている。


奇跡としか言いようがない、とはローラ=スチュアートの弁。
当麻と私。奇蹟を呼び起こせるだけの異能の持ち主が同じ時代に生きて、しかも巡り合うなんて。
魔術にも能力にも属さない。私達の持つそれぞれの力を、彼女は魔法と表現していたけど。
だけど今のままでは、当麻とインデックスの記憶を取り戻せないかもしれない。
クローン技術によって生み出された妹達が世間に認められる日は来ないかもしれない。
アレイスターや魔神といった途方も無く巨大な存在に、成す術も無く呑まれてしまうのかもしれない。


そう、分かっている。
生まれて間もなく殺されてしまった一万三十一人もの妹達。
あの子達が教えてくれた。
ちょっとした巡り合わせで、命すらも無残に消え去るのだ。
希望や期待や権利なんて関係なく、終わりは突如として訪れる。


それでいい。
その時が訪れまで、私は懸命に生きていく。
多くを失い、より多くのものを得た、この街で。
自分よりも大切だと心の底から思える人と出会えた、この街で。
今日も、明日も、明後日も。
学園都市。この街が、私の居場所なのだから。










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