水曜日の夕方。お気に入りの雑誌が売り出されている今日。
いつもだったら行きつけのコンビニで立ち読みしているはずの私は今、買い物カゴを片手にスーパーの中をウロウロしていた。
一つ一つ手にとって吟味して、慎重に食材を選んで、会計を済ませて、買った物を大きめのビニール袋に詰め込んで。
買い物を終えてスーパーを出ると、私はその足を病院へと向ける。アイツが入院している病院に向かって歩き出す。
ゆっくり歩いたつもりなのに、気がつけばもう着いてしまっていた。あっと言う間だった。でもまあ、そんなの当たり前だ。
何しろ、もうすっかり慣れてしまった道だったから。
アイツのお見舞いに来るのに、何度も何度も使っている道だったから。
玄関が近づいてくる。
何だか、胸がドキドキしてくる。
玄関はどんどん、どんどん近づいてくる。
それに比例するように、ドキドキもどんどん激しくなっていく。
気がつくと、立ち止まっていた。
病院はもうすぐそこだ。入口まで、あと十メートルくらい。
うー、と思わず唸ってしまう。
会う前からこんな調子で、本当に大丈夫なんだろうか?
家事を手伝いたい、なんて。ちゃんと伝えることが出来るんだろうか?
今日、退院するって言ってたアイツに。
日常生活にも不自由する程の大ケガをしているアイツに。
落ち着け。落ち着くのよ、私。
別に特別なことをするワケじゃない。
これからやろうとしているのは、人として当然のこと。
そう、忘れちゃいけない。アイツの手助けを私が申し出るのは当然のことなのだ。
だって、アイツがケガをした原因は他でもない、私なんだから。
少しでもアイツの役に立ちたいって思うのは、至って自然な流れなんだから。
だから大丈夫。アイツが変に遠慮なんかしたって、そんなの全く問題無し。
その時には、このビニール袋を見せつけてやる。
もう夕飯の買い出しもしちゃったんだって言って、困らせてやる。
ああ、でも露骨にイヤな顔をされたりしたら応えるだろうな。
迷惑だ、なんて言われたら、ものすごくショックだろうな。
そんなことを考えたせいか、目頭がちょっとだけ熱くなった。
ああ、もう、ヤだなあ。
アイツのことになると、どうしても上手く気持ちが整理できない。
でも、一つだけ。たった一つだけど、でも、はっきりと分かっていることがある。
それは私、御坂美琴が上条当麻に惚れてしまったってこと。
どうしようもないくらい、大好きになってしまったってこと。
とは言え、それを口に出したことは一度だってないんだけど。
うーん……私は、どうしたいんだろう?
自問してみる。でも、答えなんて決まっている。
アイツに認めてもらいたい。好きだって、言ってもらいたい。アイツとずっと、ずっと一緒にいたい。
ほら、考えるまでもない。
毎日毎日アイツの顔ばっかり浮かぶ私に、他の答えが出てくるワケがない。
だから、いつまでもこんな所でグジグジしていられない。
……よしっ!
覚悟を決めて足を動かそうとした、その時だった。
背後で何か音がした。ドサリ、と。地面に何かが投げ出されたような、そんな音。
首だけで振り返ってみる。
「……え?」
人が倒れている。真っ白な衣装に身を包んだ誰かが、コンクリートの地面に伏している。
「ちょっ、ちょっと!」
そばに駆けつけ、しゃがみ込み、その身体を仰向けに抱え起こす。
顔を見て、すぐに分かった。女の子だった。綺麗な銀色の髪をした、女の子だった。
「どうしたの?」
女の子の顔は真っ青だった。唇は震えている。
「しっかりして!」
叫んだ。
「ねえ!」
でも、返事は無い。
「ねえってば!」
女の子はぐったりしたまま。
私は辺りを見回した。誰もいない。声も聞こえない。
でも、救いの手は絶対にある。病院の中なら、きっとある。
この子、軽そうだし、私一人でも充分運べそうだ。
女の子に目を戻すと、その瞼が少し震えた。
「大丈夫!?」
女の子の頬をそっと叩く。
「しっかりして!」
少しだけ瞼が開いた。
「……か……た……」
私を見ながら精一杯、唇を動かす女の子。
「え?何?」
女の子の口元に耳を寄せる。
「お……いた……」
途切れ途切れになりながらも、女の子は必死に言葉を紡ぐ。
「お……か……いた……」
もう少し。もう少しで、この子が何を伝えたいのか分かりそうだ。
全神経を耳に集中させて、私は聞いた。
「おなか……すいた……」
はい?聞き間違い、かな?
そう思ってもう一度、耳を傾けてみる。
「お腹……空いた……」
残念ながら、聞き間違いじゃなかった。
えーっと、つまり……この子が倒れた原因はケガでも病気でもなくて、ただ単に空腹で立っていられなくなったってだけ?
とりあえず、近くにあったベンチに女の子を寝かせる。
「ちょっと待ってて」
全く反応が無い女の子の前で、ビニール袋をゴソゴソと漁る。
「はいコレ」
リンゴを一つ、差し出す。
「すぐ食べられるの、コレしかないけど良かったら……」
その次の瞬間に起きた出来事を、私は生涯、忘れることはないだろう。
私の手の中から、リンゴがいきなり消えたのだ。
驚きで声を上げかけたものの、何とか踏ん張る。
しかし、リンゴの行方を追って前方に視線をずらしたところで。
「ええっ!?」
今度こそ、驚きの声を上げてしまった。
目の前では、女の子が物凄い勢いでリンゴにかぶりついていた
ついさっきまでピクリとも動かなかった女の子がベンチにきちんと座り直して、両手でしっかりとリンゴを固定して、ひたすらモリモリ食べている。
そして、程無くしてリンゴは跡形もなくなってしまった。果肉はおろか、種も、芯も残らなかった。
みんな等しく、分け隔てなく、女の子の胃袋に収められてしまった。
ここまで時間にして約十秒。恐るべき早業、そして荒業である。
リンゴを食べ終えると、女の子はニッコリと微笑みかけてきた。
一点の曇りも無い笑顔には、たった一つの思いが込められていた。
もっと欲しい。もっと食べたい。
思いっきりキラキラした目は、明らかにそう告げている。
「あ、ははは」
思わず笑みを返してしまった。笑う以外、他にどうしろというのだ。
ビニール袋にはもう、すぐに食べられる物はない。調理を必要とする物しか入っていない。今の私では、彼女の望みを叶えてあげられない。
でも、その事実をなかなか言い出せない。期待に満ち満ちた目で見つめられて、言い出せない。
女の子は私に笑いかける。私は女の子に笑いかける。
お互い、笑顔でひたすら見つめ続ける。
何と言うか、異様で微妙な光景だった。
ちょっと緊張していた。
緊張していないフリをしようとすればするほど、逆に緊張が高まっていく。
室内はしんと静まり返っていた。
私は一人、台所で鍋の様子を見ている。火にかけた鍋の中身が、ぐつぐつと音を立てて煮えている。
確認しよう。
私は一人、台所で料理をしている。
銀髪の女の子と、彼女が飼っているらしい三毛猫は、居間と寝室を兼ねた部屋でくつろいでいる。
上条当麻の部屋にいるのは、それで全員だった。
『お腹いっぱい、ご飯を食べさせてくれると嬉しいな』
腹ペコ少女に連れられて、辿り着いた先。そこは、とある学生寮のとある部屋。ネームプレートには上条の文字。
まさかと思って、女の子に訊ねてみた。だって上条なんて、どこにでもいるような苗字じゃないでしょ?そうしたら案の定
『ここ?とうまの家だよ』
彼女の答えに、胸がチクリと痛んだ。
とうまの家だよ、だって。当麻、だって。
呼び捨てだった。ちょっぴり……ううん、かなり羨ましかった。
あの子はアイツの、何なんだろう?
妹って感じじゃない。だって、アイツとはこれっぽっちも似てないし。家族とか、親戚とかじゃ絶対にない。
でも、じゃあ、何なんだろう?あの子は一体、何者なんだろう?どうしてアイツと一緒に住んでいるんだろう?
そんなことをグダグダと考えていると、居間から声が聞こえてきた。
「にっくじゃがー。にっくじゃがー。にっくじゃがー」
妙な節を付けて、女の子が楽しそうに歌っていた。
私が作っている肉じゃがを、よっぽど楽しみにしているらしい。
その声はまるで小さな子供のようで、私は少し笑ってしまった。
さっきまでのモヤモヤした気持ちは、どこかに吹き飛んでしまった。
しょうがないなあ。
あんなに期待してくれているのだ。期待通りの、いや、それ以上の物を作ってあげようじゃないか。
「うわぁ……」
思わず声が洩れた。目の前の光景は、それだけ凄まじいものだった。
五合は炊いたご飯も、四人分は作った肉じゃがも、大根を丸々一本使用して作った大量の味噌汁も。女の子はみんなみんな、きれいさっぱり平らげてしまったのだ。
「よっぽど飢えてたのねー」
「そう!そうなんだよ!」
お腹が膨れて、すっかり元気になった女の子がズズイっと身を寄せる。
「それもこれも、とうまの退院が一日延びちゃったからなんだよ!」
拳を握って、女の子は熱弁する。今朝、彼女にかかってきた電話のことを。
アイツは昨日、病院で頭を強打してしまったそうだ。何でも、散歩中に廊下で足を滑らせ、転んでしまったらしい。
で、足を滑らせてしまった理由ってのがまた、とんでもなくて。
「バナナの皮?」
「うん。廊下に落ちてたんだって」
何だかなあ。
バナナの皮で滑って転んじゃうなんて、今時漫画でも滅多にお目にかかれないような光景だ。
だけど不思議と、アイツだったら有り得るなって思えてしまう。
アイツのことだ。ふ、不幸だ、なんて頭を打った直後にボソッと呟いたに違いない。
検査の結果、とりあえず異常は何も見られなかったらしいけど。
「念のためってことで、もう一日入院する羽目になったのかも」
この子が餓死しかけていた理由も、これでようやく分かった。
つまりアイツが今日の分の食事を用意してなかったのが原因だったワケだ。
かと言って、アイツを責めるワケにもいかない。
アイツには何の落ち度もないんだから。悪いのはアイツじゃなくて、アイツの運なんだから。
ホント、しょうがない。明日また仕切り直そう。
もうじき門限だ。寮監の厳しい目もあることだし、今日はもう帰った方が良さそうだ。
そんなことをぼんやりと考えている時だった。
女の子は静かに立ち上がった。
「ちょっと歩こうよ。みこと」
まだ教えてもいない私の名前を口にして、女の子は玄関に向かって歩き出した。