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[20246] 【習作】学園黙示録異聞 HIGHSCHOOL ANOTHER DEAD(学園黙示録HOTD 死亡分岐有り 転生オリ女主)
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/03/31 13:40
この作品は学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEADの二次創作です。
作中に登場する人物、団体は全て架空のものであり、現実とは一切関係ありません。
原作沿いです。
グロ注意! スプラッターシーンが普通に出てきます。
直接的な描写はありませんが、15禁相当の性表現が一部あります。


【分岐説明】
本編の末尾に分岐がある場合、次の更新で本編とは別に死亡シーンが追加されます。


更新履歴
以前投稿分全削除orz
感想くださった方々すみません
厳密にはTSでないと判断し題名からTS表記削除
寄せられた感想は大切に読ませていただいています
感想をくださる読者さんたちに感謝
他人を揶揄するような感想、横レス、暴言はご遠慮ください
徹底スルーでお願いします
十三話、十四話のジェノサイドシーン関連修正
久しぶりに復活
こんな作品を待っていてくださった方々ありがとうございます
第一話(2013/2/17)改
第二話(2013/2/17)改
第三話(2013/2/17)改
第四話(2013/2/17)改
第五話(2013/2/17)改
第六話(2013/2/17)改
第七話(2013/2/17)改
第八話(2013/2/17)改
第九話(2013/2/17)改
第十話(2013/2/17)改
第十一話(2013/2/17)改
第十二話(2013/2/17)改
第十三話(2013/2/17)改
第十四話(2013/2/17)改
第十五話(2013/2/17)改 最後の破綻表現削除
第十六話(2013/2/17)改 井豪関係一部加筆
第十七話(2013/2/17)改
第十八話(2013/2/17)改
第十九話(2013/2/17)初 一部欝表現、15禁相当の性表現有り
第二十話(2013/2/22)初
第二十一話(2013/3/2)初
第二十二話(2013/3/9)初
第二十三話(2013/3/16)初
第二十四話(2013/3/23)初
第二十五話(2013/3/31)改 感想で指摘された箇所の修正
死亡シーン集(2013/3/2)改 死亡シーン追加



[20246] 第一話(一巻開始)
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:46
 あたしには前世の記憶がある。
 記憶によれば、前世のあたしは駅のホームからうっかり線路に転落し、ちょうど入ってきていた電車に撥ねられたらしい。
 減速していたとはいえ、物が物。あたしは身体をぶつ切りにされて死んでしまった。
 前世の自分に言いたいことは沢山あるものの、生まれ変わった今はもう関係のないことだ。今更文句を言おうとは思わない。
 ただ、そんなあたしにも一つだけ許せないことがある。それは前世のあたしが男で、どうしようもないほど女好きだったことだ。
 あたしの名前は御澄嬌(みすみきょう)。
 男性だった頃の記憶に引きずられ、どうしても男に恋愛感情を抱けずに、レズになってしまった女である。


□ □ □


 あたしが自分の性癖を自覚したのは、小学校に上がった頃だ。
 それまでも母親と入浴して何故かドキドキしたり、近所の美人な若奥様の胸や尻を何となく目で追いかけてしまったりと、片鱗があったのは認めよう。
 それでも一線を越えることになった切っ掛けは、間違いなく毒島冴子と出会ったことだった。
 冴子はその頃から子どもながら凛とした眼差しに、落ち着いた物腰で、小さな大和撫子とでもいうべき様相だった。
 一目見てハートを撃ち抜かれたのだ。ズキューンという幻聴さえ聞いた。
 その頃のあたしは前世から得た知識で、同性を恋愛の対象にすることが一般的ではないことを既に知っていたから、どうしても自分の殻に引き篭もりがちだった。
 クラスメートにまともに話し掛けることが出来ず、かと言って開き直ってカミングアウトする勇気も無い。
 友だちらしい友だちも作れないまま幼い恋心を持て余していたあたしの小学生の思い出は、独りぼっちで冴子を遠くから眺めていた記憶が殆どを占めている。
 中学受験では悩んだ末に冴子と同じ中学校を選んだものの、状況は変わらず、それどころか一度として同じクラスにすらなれない日々が続いた。
 思い余って冴子をストーキングしてしまい、痴漢や変質者の類と勘違いされ、当の冴子自身に叩きのめされそうになったこともあった。
 しかもそのあたしをさらに知らない男がストーキングしていたらしく、冴子は一度別れたというのにわざわざ追いかけてきてくれて、襲われていたあたしを助けてくれた。
 男に襲われたこと自体は最悪の出来事だったが、それを切っ掛けに冴子と話す回数が増え、結果的に親友と呼べる関係になれたのだから、人生何が福となるか分からない。
 冴子と仲良くなったおかげか、高校に上がる頃にはあたしの他人に対する引け目はすっかり影を潜めていた。
 当然の如く冴子と同じ高校に進学し、高校3年になって初めて冴子のクラスメートになり、今までよりも一緒にいる機会が増えたあたしは、これから充実した幸せな日々が始まるのだと疑いもしなかった。
 そんなささやかなあたしの喜びは、よりにもよってあたしの性癖を歪めた前世の記憶によって破壊されることになる。
 前世のあたしは俗に言うオタクという人種だったらしく、残っている記憶は漫画とかゲームに関することが殆どを占めている。
 それによると彼はいわゆるゾンビが横行するパニックホラーものの漫画を好んで読んでいたらしく、死ぬ数日前まで学園黙示録という漫画を好んで読んでいたらしい。相当好きな漫画だったようで、十八年経った今でも、主要登場人物や印象に残った場面くらいなら、記憶から引き出すことは容易い。
 その漫画に関する記憶を探ってみると、何故かあたしの知り合いと同姓同名の高校生たちが主人公であるようなのだ。
 視覚的に漫画と現実の違いがあるので分かり難いものの、例えばあたしの親友かつ片思いの相手である冴子は、漫画に出てきた毒島冴子と容姿や性格がよく似ている。
 冴子以外にも、武道を嗜んでいる好で割と仲の良かった娘が以前同学年にいて、その娘の名前が宮本麗だったりする。彼女は優等生だったにも関わらず、今年になって何故か留年させられている。
 新しい麗のクラスには男前な彼女の彼氏と幼馴染がいるそうだ。その幼馴染の素行は最近あまり良くないらしく、度々授業をサボることがあるという。名前までは知らないので絶対ではないとはいえ、偶然とは言い切れない一致である。
 去年の入学式の時には、新入生代表でツインテールの美少女が答辞を読み上げていた。漫画に出てくる高城沙耶を彷彿とさせる姿の少女は、今年になって小太りで眼鏡をかけたオタク風な、これまた平野コータっぽいロン毛の少年と一緒に、麗と同じクラスに組み分けされた。
 ここまでくると気持ち悪いくらいだが、記憶と現実の奇妙な一致はそれだけではない。
 学校の保健医がこれまた漫画に出てくる鞠川静香先生によく似た乳魔人な天然美女で、名前も同姓同名だった。
 去年から繰り上がりで担任になるはずだった先生が産休で休職し、代わりに誰が担任になるのかなと思っていたら、漫画に出てくる人物とそっくりな紫藤先生になった。
 ここまできてあたしはようやく事態の深刻さと危機的状況に気付いたのだが、あまりの非現実さと馬鹿馬鹿しさにその時はすぐ打ち消してしまった。
 それでもいわゆる怖いもの見たさで記憶を掘り返す作業は続き、漫画での発生時期が、冴子が3年生、他の主人公組が2年生で、桜が咲き乱れていた時期だということを思い出した。
 ちなみに今の季節は春真っ盛りで始業式はとうに終わっているし、実際に外で盛大に桜が咲き誇っていたりして、明らかに発生間近だといういうことが分かる。
 あたしが現実でも発生時期が近付いていることに気付いたのはついさっきで、今何をしているのかといえば暢気に授業を受けているのである。
 本当に起こるとは思っていないが、怖いことには変わりない。本当に起きたらと思うとぶっちゃけ泣きたかった。
 まさかとは思うが、そう遠くないうちに起こると仮定するならあたしに取れる対応としては、授業が終わった後で貯金をはたいて食料を買い込み、自宅に引き篭もるくらいしか方法がない。
 タイミングとしてはかなり微妙だが、事が起こるのが今日でさえなければぎりぎりまだ間に合うだろう。
 結局何も起こらずに、冴子と話す際の笑い話にでもなるのならそれはそれで構わないし、それが一番良い。いざとなれば発想を転換させて、冴子の自宅に転がり込んで冴子とさらに仲良くなるチャンスにしてしまうという手もある。
 唯一の家族である父親が現在外国にいる冴子は1人暮らしだから、きっと2人っきりの桃色な空間が作れる。もし本当に事が起こるのなら、吊り橋効果で冴子の心の壁も緩くなるはずだ。
 あんなことやこんなことをして、なし崩しにレズの道に引き込むチャンスかもしれない。
 なんてね。
 所詮本気で考えていたことではない。冴子のことを考え出したのを境に、思考はどんどん逸れていく。
 ニヤニヤしながら現実逃避気味の妄想に耽っていたあたしの耳に、突然放送が入った。

『全校生徒、職員に連絡します!
 全校生徒、職員に連絡します!
 現在校内で暴力事件が発生中です
 生徒は職員の誘導に従ってただちに避難してください!!
 繰り返します
 校内で暴力事件が発生中で』

 思わず頭が真っ白になった。
 バファ○ンの半分は優しさでできているというが、どうせなら世界の半分も優しさでできていて欲しかった。
 起こるはずが無いと思っていたから、こんな風に暢気に構えられていたのだ。実際に起こるとか聞いてない。
 せめて明日なら多少なりとも対応できたかもしれないのに、気がついた直後に有無を言わせず突入とか、イジメとしか思えない采配をやらかしてくれる。
 物語には多少のご都合主義はつき物というけれど、こんなご都合主義は勘弁して欲しい。
 何時の間にか放送が止んでいる。
 一瞬の無音状態。
 なのに空気が張り詰めている。静寂が耳に痛く感じるくらいだ。胸に手を当てると、普段なら聞こえもしない心臓の鼓動だけがやけにうるさく感じた。
 緊張が緊張を呼ぶ。ちりちりとした焦燥があたしの背を駆け上がるり、悲鳴になって咽喉から迸りそうになるのを懸命に堪える。
 頭の中では生存本能がしきりに警鐘を鳴らし、ニゲロニゲロと叫んでいる。
 それでも事が起こるまで動けなかったのは、この世界が前世のあたしが読んでいた漫画の世界なのだと、たった今から日常が壊れるのだと、この期に及んで認めたくなかったからだろう。
 当たり前だ。誰が自分が生きている現実を、知人と登場人物が同姓同名とはいえ、そう簡単に漫画の世界なのだと信じられるだろうか? 少なくとも、私はこの状況でなおまだ半信半疑だった。
 僅かなハウリングの後、マイクか何かを落としたような、固い金属音が響く。
 ──世界が地獄に変貌する。

『ギャアアアアアアアアアアッ!』
『助けてくれっ止めてくれっ』
『助けっ』『ひぃっ』
『痛い痛い痛い痛い!!』
『助けてっ死ぬっ』
『ぐわああああああっ!!』

 断末魔を最後に放送は終わった。
 もう教室内で座っている人は誰もいない。不安そうに回りを見回している人もいれば、呆気に取られた顔で放送用のスピーカーを凝視している人もいる。
 かくいうあたしも、先程から身体の震えを止められずにいる。歯の根も噛み合わず、ガチガチと耳障りな音を立てて鳴りっぱなしだ。
 スピーカーから流れた悲鳴は、映画なんかで流れる悲鳴とは全然違った。
 痛いという苦痛。
 何故という混乱。
 怖いという恐怖。
 死にたくないという絶望。
 あらゆる感情がぐちゃぐちゃに交じり合った悲鳴が、生命の消失と同時に最期の断末魔を残してぶっつりと余韻すら残さず消え失せてしまった。
 そして戻ってくる、今となっては薄ら寒いほどの静寂。
 理解した。どうしようもなく理解させられた。
 事が起こってしまった今、もうどこにも逃げ場なんてない。日常は終わった。これから、地獄の日々が始まるのだ。
 いち早く硬直状態から脱した何人かが教室を飛び出していったのを皮切りに、教室内の生徒が恐慌に狩られ、2つある出入り口に殺到する。
 教室と廊下を隔てるドアは、一度に大勢の人間が行き来できるような構造にはなっていない。
群がればどうなるかは自明の理だ。
 狭い出入り口はたちまち生徒で埋まる。
 そこに容赦なく後続が押し寄せ、膨れ上がったかと思うと水洗トイレのように生徒たちを押し流していった。
 大量の靴音に混じって、怒号や悲鳴があちらこちらから響いている。
 聞こえてくる喧騒を聞く限り、パニックは学校中で起こっているようだった。
 冷や汗をかきながら呆然と級友たちを見送ったあたしは、その場に残っていた冴子に、油の切れたブリキ人形のような動きで振り向く。
 見なくても分かる。あたしの顔はきっと盛大に引き攣っていることだろう。
 もう、漫画の世界だとか、半信半疑とか言っている場合じゃないことは分かっていたけれど、それでも否定して欲しくて隣に残っていた冴子に声をかける。

「ねえ。これ、避難訓練だよね?」

「……有り得ない。放送が真に迫っていた。それに」

 冴子はこちらに視線をちらりと向け、あたしの願いをぶった切った。
窓際に歩いていって外を眺め舌打ちして、あたしに顎をしゃくる。見ろ、ということらしい。
 確かに窓からなら校庭の様子が見える。普段なら無人か長閑な体育の授業風景が窺えるはずだ。光景に予測がつくのでぶっちゃけ見たくないのだが、確認しないわけにもいかない。

「うぁ」

 校庭を見たあたしは絶句せざるを得なかった。
 予想通り、校庭は地獄とでもいうべき惨状になっていた。
 普通なら明らかに死体の仲間入りをしているはずの人間が歩き回り、生きている人を襲って喰い散らかしている。
 1人の女子生徒が、状況に戸惑っているうちに死体もどきに囲まれ、貪り喰われた。
 逃げ惑っていた女子生徒が、サッカーゴールの上に逃げようとして、ふくらはぎを喰い千切られて転落し、たかられて咀嚼された。
 窓が閉まっているうえに距離が結構あるので、幸か不幸か鮮明な悲鳴はここまで聞こえて来ない。まるで出来の悪い映画の1シーンを目にしているかのように現実感が無かった。
 それでもこれは現実に起こっていることで、外では現在進行形で多くの生徒たちが喰い殺されている。

「ちくしょう。何の悪夢よ、これは」

 現実だと意識した途端気持ち悪くなり、思い出したように吐き気が込み上げてきた。せり上がってきそうになる咽喉を焼くそれを、眉を顰めつつ片手で口を押さえて必死に堪える。

「実際に起こっている以上、現状に文句を言っても始まるまい。私たちも早く逃げねばならんが……生き残るためには、武器が要るな」

 こんな事態でも冴子は冷静だった。さすがに厳しい表情になっているものの、あたしが必死になって吐き気と戦っている間に自衛の手段まで考えようとしている。
 その姿はとても心強いけれど、同時にその完璧さが少しだけ羨ましい。あたしには、冴子ほどの強さは精神的にも肉体的にもない。

「弓ならあるけど、部室よ。勿論矢も」

 何とか気を持ち直したあたしは、口に当てた手を離して背筋を伸ばし、できるだけクールな声を装う。よりにもよって冴子の前で、何時までも無様な姿は見せていられない。やっぱり好きな人には良い格好を見せたいものだ。

「奇遇だな。私も木刀があるが、今日は生憎部室に置いている」

 つまり、必要でも武器が無い。思いつく限りでも最悪の展開だった。
 あまりの理不尽さに泣きたくなる。こんな展開あんまりだ。あたしなんか、冴子に比べたら一山いくらのモブキャラだってのに。
 比較的自由に逃げられる校庭からしてああなのだ。前世の記憶にある漫画の通りなら、校舎内はきっと校庭以上の惨状になる。
 この先で何が起こるにしても、一瞬の遅延が生きるか死ぬかの明暗を分けることになるのは想像に難くない。自衛のための武器はできるかぎり使い慣れている、手に馴染んだものを用意しておいた方がいい。

「仕方ない。取りに行こう」

 冴子もあたしと同じ考えらしく、部室に行くことを決めていた。
 頷こうとして、ふと掃除用具入れが目に留まる。中には掃除で使うモップが入っている。麗のような槍術の腕はあたしにはないが、冴子なら剣道の要領でそれなりに使えるかもしれない。
 そう考えていると、冴子が掃除用具入れに歩み寄ってモップを取り出し、柄を取り外していた。
 どうやら同じことを考えていたらしい。冴子が使うなら、ただのモップでも役に立つ。良かった、あたしの心配は杞憂だった。

「一応持っていこう。こんなものでも素手のままよりは心強い」

「その方が良さそうね」

 目を見合わせて頷き合う。そのまま、冴子はあたしにもモップの柄を差し出す。
 少し躊躇した。
 弓以外では、ひたすら冴子をストーキングしていた中学時代に見様見真似で覚えたにわか剣道くらいしか心得がない。一応たまに冴子に付き合って鍛錬していたとはいえ、実力は冴子どころか一般の剣道部員にも劣るだろう。
 冴子のお父さんがまだ床主にいた頃はあたしを筋がいいって褒めてくれたけど、あれは単なるリップサービスだろうし。
 親が弓道家だった関係で小学生の頃から弓道をやっていたから、高校でも弓道部に入ったけど、こんなことなら剣道部に入部しておけば良かったと、今更ながらに後悔してしまう。
 安易に弓道部を部活に選んだ自分を心の中で罵りながらモップの柄を受け取る。いつもは軽く感じるそれが、今はやけにずっしりと重い。
 ええい、もうなるようになれ。
 あたしはやけくそ気味に声を張り上げた。

「それじゃあ、殺し殺されの世界へレッツゴー!」

「……軽口を叩く余裕があるのだな、君は」

 毒気を抜かれた顔の冴子に、あたしは引き攣り気味の笑顔を返す。
 どんなに怖くても、こんなくそったれな現実には負けられない。冴子と両思いになるまでは絶対に死ねないのだ。死んでなんかやるものか。
 取り合えず部室で武器を調達したら、保健室で鞠川先生を拾い、記憶に残っている展開通りに職員室に行こう。そこで主人公組が全員集合するはずだ。
 その後は抜け落ちた記憶も多いけれど、冴子が小室に惹かれていくことだけは冴子に関係することだからかはっきりと覚えている。
 出来ることなら冴子と2人きりのままでいたかったけれど、あたしは彼らと合流しない選択肢を選べなかった。
 漫画の展開通りなら、小室たちと合流した方が冴子が生き残る確率は高いに違いないのだ。あたしだけならまだしも、冴子の命が懸かっている以上、迂闊な選択肢は選べない。
 どうしようもない二律背反。本当に業腹だ。

「ちくしょう。あたしだけで冴子を守れればなぁ」

「実力で言えば、私が君を守る方が自然だと思うが」

 冴子が真面目な顔で口を挟んできた。
 その通りだけど、冴子に守られてばかりというのも情けない。前世から受け継いでしまったあたしの中の男の部分が、それは嫌だと叫んでいる。

「男の誇りを守ってやるのが矜持なんでしょ? 男の子は好きな女の子を守りたいものなのよ」

「何を言っている。君は女だろうに」

「……まあ、そうなんだけどさ」

 全然分かってない顔の冴子を見て、自然とため息が出る。
 冴子はあたしがレズだということを知らない。今のところノーマルである冴子にとって、あたしは恋愛の対象に入らない。
 そんなことは分かっている。だけど、それでもあたしは冴子が好きなのだ。例え叶わないと分かっている恋でも、両思いになりたいと思うのは間違いだろうか。
 確かに冴子ならあたしを守ってくれるだろう。でも、肝心の冴子が危機に陥ったときは誰が守る。小室? 冗談じゃない。
 前世の影響とはいえ、あたしは男心を持つ女。他の誰でもないあたしが守ってみせよう。……今はまだ、冴子の後ろで守られるだけの存在だけれど。
 冴子と一緒に、何が何でも絶対に生き延びてやる。
 スクールバッグを手に持って、もう片方の手でモップを握り締めながら、あたしは決意を胸に冴子と一緒に教室を出た。


□ □ □


 パニック直後で閑散としている廊下を冴子と走る。
 階段の踊り場に差し掛かった時、前方から悲鳴が聞こえた。冴子が足を止め、あたしに合図して壁を背に身を隠す。
 あたしが冴子に倣うと、冴子が若干緊張した表情でそっと踊り場を覗き込む。

「……誰もいないな。先程の悲鳴は、階下からか」

 一先ず見える範囲に危険がないのを確認した冴子は、階段を少し下りて手すり越しに階下を覗き込み、あたしを手招きした。

「下はかなり危険な状態になっているようだ。だが降りなければ外には出れない。どうする?」

 静謐な冴子の声に、あたしはため息をつく。
 下からは最初の悲鳴を皮切りに次々に悲鳴が連鎖して聞こえてきていた。もう少しすれば、水が逆流するようにこの辺りも生徒と<奴ら>で溢れ返るだろう。
 あたしはまだ生きている生徒たちを見捨てることに後ろめたさを感じて、若干声を小さくする。

「このまま正面玄関から出るのは難しそうだわ。1階まで下りるのは止めて渡り廊下から管理棟を回って行きましょ」

「その方が良さそうだな。後ろは任せる。背後の警戒を怠らないでくれ」

「了解。援護は任せて」

 会話を終え、慎重に2人して階段を下りていく。
 惨劇は主に昇降口に近い1階で起きているようで、管理棟への渡り廊下がある階を含め、1階より上の階段はまだ安全だった。
 ただ、その代わりにパニックで歩けないほどの怪我を負った人が所々に倒れていて、それでも逃げようと懸命にもがいていた。

「助けなくて、いいのかな」

 きっと、今頃は先程の悲鳴を上げた人も死んでいるだろう。生き残るためには仕方がないと分かってはいても、目の前でまだ生きている人すらも見捨てようとしていることに対する良心の呵責は消えない。
 とはいっても、冴子に良心の呵責がないわけではないということを、彼女のために特筆しておく。自分の手がどこまで届くのか知っているだけだ。

「今は他人にかまけている余裕はないぞ。早く部室に行って武器を確保しなければ、すぐに私たちもああなってしまう」

 冴子が目の前のの踊り場を指し示す。
 その指先を辿ったあたしは、踊り場の光景を見て絶句した。
 女子生徒がいた。だが、ただの女子生徒ではなかった。倒れた男子生徒に覆い被さって、その肉を喰い千切り咀嚼していたのだ。

「……何あれ」

 思わず漏らしたあたしの乾いた声を聞きつけたのか、女子生徒が男子生徒を食べるのをやめてこちらを振り向く。
 その女子生徒は片目が抉られていて無くなっていた。腹の肉が食い千切られていて、今にも腸が零れ落ちそうになっていた。
 間違いなく死んでいそうな怪我なのに、ゆっくりと立ち上がって近寄ってくる様は、言い様も無く生理的な嫌悪と恐怖感を煽る。
 奇妙な呻き声が一層ホラーじみていて、あたしは持っていたスクールバッグを取り落としてしまった。
 モップを両手でしっかりと握り締めて恐怖を誤魔化すが、身体の震えは止まらない。このままだと二人ともあの男子生徒と同じように喰い殺されるだろう。
 あたしは隣の冴子に助けを求めた。

「どどど、どうする? モモモップなんかじゃどうにかなりそうにないんだけど?」

「落ち着け。幸い私たちの方が上にいる。階段から突き落として、その隙に走り抜けよう」

 こんなときでも冴子は冷静だった。落ち着いて対策を決めると、静かに呼吸を整えて女子生徒が階段を登ってくるのを待っている。
 冴子がそう決めたのなら、あたしがどうこう言う理由は無い。冴子の決断がいつも正しいことは、普段から一緒にいるあたしが一番よく知っている。
 だから、あたしも腹を括って、女子生徒が近付いてくるのを待った。
 女子生徒は時々バランスを崩しながら、覚束ない足取りで階段を登ってくる。鼻や口の端から血を流し、死に際の恐怖と激痛で凝り固まった、絶望の表情で顔面を凍りつかせて。
 ある程度まで女子生徒が登ってきたところで、冴子がモップを振るって胸を突いた。
 木刀での研ぎ澄まされた一撃に比べれば凡庸なその突きは、それでも不安定な女子生徒のバランスを崩すには充分だったようだ。
 中々豪快な音を立てて、女子生徒が階段を転げ落ちていく。
 起き上がろうともがいているその横を、あたしは冴子と2人で走り抜けた。
 それがあたしにとって<奴ら>との、初めての遭遇だった。


□ □ □


 出くわした<奴ら>を冴子が似たような方法でやり過ごし、あたしたちはやっと部室棟に着くことが出来た。
 さて、これから弓を取りに行くわけだけど、どうしようか。あまり時間をかけてると危険だし、手早く終わらせたいのが本音だ……。


 1.効率優先。1人で取りに行く。
 2.安全優先。2人で取りに行く。



[20246] 第二話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:47
 1.効率優先。1人で取りに行く。
→2.安全優先。2人で取りに行く。


 時間はかかっても身の安全には変えられない。
 急がば回れということで、冴子についてきてもらうことにした。
 部室の中は昨日弓道具を片付けに来た時と全く同じ状態だった。部屋の広さはそこそこだが、所狭しと物が詰め込まれており、動き辛い。
 しっかりと部室のドアを閉めて鍵をかけた冴子が、辺りを見回して呆れたような声を上げた。

「久しぶりに見たが、随分雑然としているな」

「整頓したくても、今はこんな状況だもの」

 あたしは苦笑しながら新品の弓を取り出し、ざっと状態を確認する。

「新しい弓を買ったのか?」

「うん。あたしも今年から主将だし、前の弓はもうだいぶ古かったから」

 昔から弓道をやっていたあたしは、高校でも弓道部に所属している。
 冴子のように好成績こそ収めていないものの、2年次には弓道の全国大会も経験していた。同学年で一番の経験者であることと、全国大会に出れたのがあたしだけだということで、今年主将に抜擢されたのだった。
 もっとも、こうなってしまっては主将という肩書きは全く意味がない。大役に少しでも見合うように奮発したが、今思うと無駄になってしまった気もする。
 作業を続けながら、少しの間感傷に浸った。
 こうして暢気に装備を整えていられるのも、冴子がドアの傍で外を警戒してくれているおかげだ。1人で来ていたらこうはいかない。最悪不意を突かれて襲われて、死んでいたかもしれない。そう考えると、ちょっと背筋が寒い。
 弓の確認を終えたあたしに、冴子が外を警戒しながら視線だけ向けた。

「他に持っていく物は?」

「矢とゆがけと胸当て、あとできれば最低限の修理道具が欲しい。この先何があるか分からないし」

「あまり時間は取れんぞ。<奴ら>は待ってくれない」

「何、もう近くにいるの?」

「今のところ姿は見えないが、いつ現れてもおかしくはない。急げ」

 冴子に背中を押される形で、あたしは手早く部室中の矢を集め始める。金属シャフト矢を三パック、カーボン矢を五パック、遠的用のカーボン矢を二パック、全部で六十本の矢を手に入れることができた。

「これでよし、と」

 カーボン矢を私物の矢筒に十二本入れていく。
 あたしの矢筒はそれほど大きくはないものの、それでも十二本くらいなら楽々入る。頻繁に出し入れすることを考えると、あまり詰め込みすぎも良くない。これくらいが懸命だろう。
 矢筒を背負い、残りの矢をバッグに詰める。弓を射るには一度バッグを置かなければいけないが、矢筒に入れた分だけでは心許ないから仕方ない。
 続いてゆがけと胸当てを取り出したところで、外の様子を窺っていた冴子から待ったがかかった。

「悪いが時間切れだ。奴らが来た。窓から逃げるぞ。窓の下にテーブルを動かすから手伝ってくれ」

「う、うん」

 悠長につけている余裕はなさそうだ。
 ちょっと動揺しながらも、胸当てとゆがけを無理矢理バッグに押し込み、冴子と協力してテーブルを動かす。
 動かし終わって一息つき何気なくドアの方を向くと、覗き窓越しにこちらを覗く上唇を喰い千切られ歯茎が剥き出しになった男子生徒の<奴ら>と眼が合った。
 心臓がどくんと脈動する。

「ひっ……!」

「焦るな。鍵を閉めてあるから、脱出する時間はある」

 恐慌を起こしかけたあたしを冴子が冷静に窘めてくれた。
 テーブルに登り、何とか冴子に支えて貰いながら、二人で窓から脱出する。
 窓の外は部室棟の裏に繋がっていた。とりあえず見える場所に<奴ら>はいないようだ。

「あ、そうだ、冴子の木刀……」

 冴子の武器が未だにモップなので、このまま行くわけにはいかないのだった。木刀を取りに再び戻らなければいけない。かなり憂鬱だけど、冴子のためだ。
 弓を手に入れたから邪魔な場所にいる<奴ら>を狙撃できるようになっているし、多分何とかなるだろう。あたしの腕じゃそれこそ冴子の露払い程度にしかならないけど、援護するならそれでも充分役に立つ。
 殺傷力のある武器を手に入れた途端、気が強くなるのがあたしの性格である。別名チキンとも言う。
 手早く胸当てとゆがけを着ける。長居は無用だ、早く出よう。

「それじゃ、行こっか」

「ああ」

 あたしたちは頷き会って、再び死地へと舞い戻った。


□ □ □


 剣道部の部室に行く途中、やり過ごせない位置に<奴ら>がいたので、あたしの弓で狙撃して進む。
 <奴ら>とはいえ人間の姿をした存在に矢を射るのは思ったよりも勇気が必要だった。
 しかもあたしは一匹を倒すのに矢を何本も消費してしまい、かなり危ないところまで追い詰められてしまった。
 当たれば運が悪ければ人死にが出ることもあるとはいえ、比較的安全な競技用の矢であったこともあるし、<奴ら>が肉体的にしぶとかったせいもある。ただ、一番の問題は単純に当たらなかったのである。普段でもあたしはプレッシャーに弱く的中率にむらがある方だったが、これは酷すぎた。
 ……よく考えてみれば、こんな状況下でいつもとは距離すら違うのだから、同じように射れば当たらないのはある意味当然だ。こんなことにすら気が付かないなんて、間抜けにも程があるだろあたし。命が懸かった状況で気が動転していたのか。
 しかも不運というのはこういう時に限って重なるらしく、この遭遇で冴子のモップが折れて使い物にならなくなってしまった。かさばる和弓とバッグのせいで、あたしが持っていたモップを持ってこれなかったのが悔やまれる。
 唯一の救いは矢を回収して消費を節約できたことくらいだ。
 それでも殆どの矢は明後日の方向に飛んで見つからなかったり折れたり血みどろ過ぎて触る気になれなかったりで回収出来ず、部室に着いた頃には、三十本あったカーボン矢は残り20本にまで減っていた。
 ドアの覗き窓から部室の中を覗き込んだ冴子が、あたしを振り向いて小声で言った。

「中に誰かがいる。おそらくあの女子と同じだ」

「嘘。鍵はかけてあるんでしょ? 職員室に取りに行ける状況でもないのにどうして?」

 引き攣った声で問い返すあたしに、冴子は真剣な表情で頷く。

「私を含めて、個人的に部員の何人かが合鍵を持っている。恐らくそののうちの誰かが噛まれた状態で部室に入り、成ったのだろう」

「<奴ら>に噛まれただけで<奴ら>になるってこと? 笑えないわ。まるでゲームじゃない」

 どうしても口調が苦々しくなるのを押さえきれず、あたしは吐き捨てた。
 きょとんとしてこちらを向く冴子に説明する。

「ゾンビとか呼ぶわけにもいかないでしょ。だから<奴ら>よ」

 軽傷でも噛まれれば終わりなんて馬鹿げている。そうだとすれば、それこそ鼠算式に<奴ら>は増えていってしまうではないか。

「……出鱈目よね。現代医学に真正面から喧嘩売ってる」

「理解できなくとも今はそういうものだと納得するしかないよ。私たちに解明できるとも思えない」

 そこで会話を打ち切ると、冴子ははたと目を丸くし、ちょっと照れたように微笑んだ。
 何、その超レアな表情は。クラッときてしまったじゃないか。

「すまない。本題に入る前に話を脱線させてしまった」

「別にいいわよ。で、どうするの?」

 表情を取り繕って話の先を促す。
 できれば安全な方法がいいけど、そうも言っていられないだろうなぁ。ああ、憂鬱だ。

「狭い部室内で奴らに掴みかかられれば、私でも命が危うい。だから、私が囮になって部室にいる<奴ら>を外に誘い出す。その隙に君が私の木刀を回収してくれ」

 あたしは冴子の申し出に頷けなかった。
 確かに、それなら冴子の危険にさえ目を瞑れば楽に木刀を回収できるけど、武器のない冴子を危険な目には遭わせたくない。

「弓持ってるんだからあたしが射殺すわよ。その方が安全でしょ?」

 代案を出してみる。これだけ近いなら多分外さないだろう。
 あたしの申し出に冴子は心配そうな顔をしていた。

「……何よ、その顔は」

「仕留められなければその長弓を持って<奴ら>の矢面に立つことになる。危険だぞ」

 そんなことは分かっている。でも誘き出すのが上手くいくとも限らないし、冴子を危険に晒すくらいなら自分が危機に陥る方がまだマシだ。

「大丈夫よ。頭を狙って一射で仕留めるから」

「……分かった。そこまで言うなら任せよう」

 自信満々に言ったおかげか、冴子もしぶしぶ納得してくれたようだ。冴子の心配を杞憂にするためにも、鮮やかに決めなければいけない。
 万が一にも外したら格好がつかないから、ここで弓道についてさらっと復習しておこう。
 弓道ではアーチェリーや射撃のように狙って当てるのではなく、射法八節を踏み正しい射形を作ることによって中る状態を作り出すことを基本としている。
 まあ突き詰めればどちらも的を狙っていることにあまり変わりはないのだが、当てるために狙うのではなく、狙った結果当たることを重視している、とでもいえば分かりやすいだろうか。
 射法八節とは射の過程を大まかに八つに区分したもので、主に「足踏み」「胴作り」「弓構え」「うち起し」「引き分け」「会」「離れ」「残心」のことを言う。「会」がいわゆる弓を引き絞った状態で、そこから矢を手から離す「離れ」、離した後の「残心」へと続くわけだ。
 命がかかった現状で悠長に八節を踏むなんて馬鹿だと思う人もいるかもしれないけど、これをきちんとやらないと射が安定しないだけでなく、怪我や事故のもとになる。元々精神修養も目的としたスポーツだから、丁寧に八節を踏めば、自然と集中力も増して射形にも注意がいき、より的に当たりやすくなる。
 まあ、弓道場のように安全な場所で遠くから弓を引くならともかく、実際に<奴ら>の前に立った時いつもと同じように八節を踏めるかどうかはあたしも自信が無い。
 閑話休題。
 あたしは矢筒から矢を二本抜き出した。使うことはないだろうが、一本は念のためだ。弓道では矢を床に置かないで射を二回連続でする時、二本目を右手に持って行う。
 丁寧に八節を踏み、一本目を「会」の状態まで持っていく。
 この間、あたしの心は極めて無心に近くなっている。もう、見るべきものはこれから射抜く<奴ら>の頭だけだからだ。今この時のあたしにとって、<奴ら>の顔は距離や大きさが違えど、弓道場の的と同じ。

「開けるぞ」

 確認の声に視線すら向けず頷きだけ返す。文字通り、全神経を射に集中した状態だから、声を出す労力すら惜しい。
 冴子がドアを開け放つ。あたしはその瞬間に「会」から「離れ」へと移ろうとした。
 違和感。一瞬首を傾げて胸元を見ると、胸当てがずれている。安全でない場所で急いでつけたからか、紐が一部緩んで解けそうになっていた。通常なら有り得ない失態である。
 射を中止しようとしたが、向かってくる<奴ら>を見て思い直す。胸当てを付け直している暇も、再び八節を踏む暇もあるとは思えない。
 そのまま「離れ」に入る。弦が跳ね返ってくる。バシッという音と鋭い衝撃が胸に走った。ずれているとはいえ一応胸当てをつけているので何もつけてないよりかはマシだが、それでも痛い。素で悲鳴を上げてしまう。
 何時の間にか<奴ら>から眼を離していた。

「あ」

 慌てて<奴ら>に目をやったが、放たれた矢は狙いを逸れて、胸に突き立っている。<奴ら>はピンピンしていて、胸に矢を生やしたまま近付いてくる。
 動揺したあたしは八節が頭からすっ飛んでしまい、あたふたしてしまった。何とか思い出して後退しながら矢を番えた時には、<奴ら>は目前に迫ってきていた。

「嬌!」

「馬鹿、来るな!」

 焦りは無謀にもあたしと<奴ら>との間に割って入ろうとした冴子を見た瞬間に倍増した。
 冴子には今武器がない。いくら腕に覚えがあるとはいえ、素手で<奴ら>の前に立つのは自殺行為だ。

「結果的に<奴ら>を誘い出せたでしょ! あたしは大丈夫だから、今のうちに木刀を取ってきなさい!」

「だが……!」

 冴子がまだ迷う様子を見せたので、あたしは弓を引き絞りながら焦れて叫んだ。

「助けようとしてくれるのは嬉しいけど、あんただって素手なのよ! 無茶するんじゃない!」

 余裕の無い状態で放たれた矢は外れはしたものの運良く<奴ら>の足を射抜き、一瞬<奴ら>をよろけさせた。その僅かな隙をついて、あたしは転がるように後退して距離を稼ぐ。

「……すぐ戻る! それまで耐えてくれ!」

 あたしと<奴ら>との距離がある程度開いたのを見て、冴子は部室の中に駆け込んでいく。
 それでいい。
 後は、<奴ら>が冴子のいる部室に戻らないように、あたしが<奴ら>を引き付けて始末すればいい。
 あたしは緊張で流れ落ちる汗もそのままに、再び矢を番える。狙うのは頭。他の場所に当てても効果は薄い。
 ──外した。
 舌打ちして二本目を射る。
 ──胴体に刺さった。
 <奴ら>はピンピンしている。
 もう一度矢を二本取り出し、続けざまに放つ。
 ──二発とも<奴ら>の頬の肉を裂いただけだった。
 これだけ弓を引いて一つも的中が出ないとは、あたしはよほど焦っているらしい。
 矢筒に入れてあった十二本のカーボン矢は、今や残り六本になっている。バッグから新しい矢を出す余裕はないから、これを使いきったら形振り構わず逃げるしか選択肢がなくなってしまう。
 もう丁寧に八節を踏む余裕もない。祈る気持ちで矢を二本取り出す。七射目。当たると思ったが、またしても外れる。
 後退しながら射を行っているので、壁際に追い詰められて段々逃げ場がなくなっていく。いい加減緊張と疲労で強張った手が攣りそうだし、何よりも弦で胸を払いそうになるのが怖くてたまらない。今は威力重視で腕力に合わせいつもよりも弦の引きを強くしてあるので、胸を払った時は痛みも大きいのだ。
 二本目は下にずれ、<奴ら>の右太股に突き刺さった。僅かに<奴ら>の身体が傾いで、僅かに得たその隙にまた後退する。
 そこであたしはふと気付いた。

「もしかして……」

 矢筒から残り4本のうち二本を取り出し、一本目を番え、試しに足を狙って射る。
 こういう時に限って一発で当たった。足は二本あるし、頭よりも大きいからかもしれないが、ちょっと泣ける。
 とにかくこれで足に当たったのは三本。残りは皆外れるか、胴体に当たった。勿論頭には当たっていない。だが──。

「やっぱり、効いてる」

 足を射ることで<奴ら>の動きが鈍くなっていた。勿論<奴ら>に痛みを感じられる機能が残っているとは思えないから、矢傷か突き立っている矢そのものが単純に人体の仕組み的に歩行の邪魔になっているとか、そんなところだろう。
 それでも<奴ら>の速さを殺すのに成功したことは変わりない。矢を消耗したのは痛いけれど、それだけの収穫は充分にあった。
 駄目押しにもう一発足に射て、逃げ場が無くなるのを承知で後退し、<奴ら>から距離を取れるだけ取る。
 矢筒から最後の矢を二本取り出した。もう逃げることは出来ない。けれど、さながら<奴ら>の歩みは亀のよう。それがあたしを勇気付ける。
 深呼吸をして心を落ち着かせ、丁寧に八節を踏んでいく。これを外せば後はない。
 弓を引き絞る。番えられた矢は今か今かと発射の時を待っている。心は凪に。緊張も恐怖も、静かに心の奥底に鎮めていく。
 ──中れ。
 初めに経験した胸の痛みが唐突にフラッシュバックした。

「あ」

 動揺して狙いが逸れる。矢は愕然としたあたしの手を離れ、真っ直ぐに<奴ら>の横を通過していった。
 身体中から嫌な汗がぶわっと噴出す。
 真っ白な思考のまま二射目を行おうとするが、手がカタカタと震えて上手く番えられない。その間にも<奴ら>が近付いてくる。
 ゆっくりとした<奴ら>の歩みが、逆にあたしの恐怖を煽った。ゲームではないのだ。捕まればそれで終わり。実際に感じる死の恐怖の、何と濃厚なことか!
 ようやく「会」の状態に持っていった時には、すでに<奴ら>は目の前に迫っていた。
 恐怖に耐え切れず、番えていた最後の矢がこぼれてしまう。しまったと思ったときにはもう遅い。
 多大な後悔とともに、諦めがあたしの身体を包む。
 それでも心は生存本能に従って貪欲に逃げようとするが、身体がついていかず尻餅をつくだけに終わった。
 とうとう<奴ら>が前までやってくる。大きく口を開け、あたしに覆い被さろうとしている。

「やだ……怖い、怖いよ」

 <奴ら>を目前に、あたしは恐怖に襲われていた。感情が昂ぶって、ポロポロ涙がこぼれ落ちていく。
 身体は諦めているのに、あたしの心は見苦しくも生を欲している。
 だって、こんな所で死にたくない。冴子を残して死にたくない。冴子と、冴子と一緒にいたい。
 ──生きたい。

「……たすけて、さえこ」

 無意識のうちに、涙と一緒に言葉を零していた。
 そのあたしに、<奴ら>がゆっくりと覆い被さって──。
 次の瞬間、<奴ら>の頭が揺れた。グチュ、という形容し難い異音と共に、<奴ら>の頭が凹んで目玉が飛び出た。
 どう、と音を立て、目の前で男子生徒の<奴ら>が床に沈む。倒れた<奴ら>の後ろに、木刀を携えた冴子が立っている。

「え?」

 一瞬目の前の光景を理解出来なかった。
 しばらく呆然として、<奴ら>が本当に動かなくなったのを実感してから、あたしはようやく何が起こったのかを理解した。
 間一髪で飛び出してきた冴子が<奴ら>の頭を叩き割ってくれたのだ。
 た、助かった……!
 緊張の糸が切れたあたしは、そこでようやく自分が緊張のあまり息を止めていたことに気付き、思い出したように深く息を吐く。

「怪我はないか?」

「……うん、大丈夫。助けてくれてありがと」

 冴子に引き攣りながらも笑顔を向けて立とうとするが、下半身は地面に張り付いたように動かない。困りきって冴子に助けを求める。

「腰が抜けて立てなくなっちゃったみたい。立たせてくれない?」

 恐怖の反動で甘えたくなって伸ばした手を、冴子が苦笑して取って立たせてくれた。
 冴子に捕まりながら立ち上がる間際、死体に戻った<奴ら>だった男子生徒が見えて、あたしは眼を伏せる。
 あたしや冴子も死んだらきっとあんな風になる。この男子生徒も、死にたくなんかなかっただろうに。弔うことも出来ず、こうして放置していかなければいけないことが悲しい。
 視線を向けてくる冴子に、あたしは肩を竦めた。

「面倒だけど、矢を回収しなきゃね」

 抜けた腰に鞭打とうとすると、冴子に押し留められる。

「私がやろう。君はしばらく休んでいればいい」

「……うん」

 優しさが胸に染みてじんわりきた。
 くそう、惚れ直したぞ。やっぱり小室なんかには渡せない。何とかして冴子の恋愛フラグを叩き折りたいものだけれど。
 そんなことを考えているうちに、冴子がまだ使えそうな矢を回収して戻ってきた。
 数は六本。これでも奇跡的に残った方だけど、十二本放ったうちの半分も駄目にしてしまったことになる。この調子だと先が思いやられるな。反省しなければ。
 制服の隙間から胸の状態を確認する。無傷とはいかないが、覚悟していたよりも酷い状態ではなかった。これならすぐ治るだろう。
 胸当てを今度こそしっかりと付け直して、冴子にバッグを取ってもらい中から残っていたカーボン矢を二本取り出し、一パック開封して矢筒に補充する。
 カーボン矢の方が量もあるし矢飛びもいいから優先して使ったけど、思ったよりも消耗が激しい。バッグに残っているのを入れても、もう残り十四本しかない。
 遠的用のカーボン矢が二パックと、金属シャフト矢が三パック手付かずで残っているから、合わせて騙し騙し使っていくことにしよう。

「そろそろ動けるか?」

「ん。よっと……大丈夫みたい」

 そろそろと腰を入れたあたしは、動けるようになっているのを確認して、冴子から身を引く。

「ありがと。助かったわ」

「礼には及ばない。君が無事でよかった」

 綺麗な微笑みを浮かべた冴子は、表情を真剣なものに戻す。

「お互いの獲物を手に入れた今、ここに用はない。行こう」

「了解」

 あたしたちは走り出す。
 前世の記憶である程度の未来を知っているとはいえ、これから先どうなるかなんて分かりはしない。
 けれど、冴子と一緒なら、それがどんな未来でもきっと生きていける気がした。


□ □ □


 次の目的地は保健室だ。
 わざわざ教室棟にある保健室に行く理由をいぶかしんだ冴子を、最低限の治療道具を確保するためだと説明して納得させる。
 本当は運転免許を持ってる鞠川先生と合流するためだ。<奴ら>に噛まれた傷はどうしようもないけど、それ以外の怪我には鞠川先生の手当てが必要になるだろうし、あながち間違いでもないと思う。
 来た道を戻って、冴子と一緒に再び管理棟経由で保健室へ向かう。予想していたこととはいえ行けば行くほど<奴ら>がいて、進むのに物凄く時間がかかった。
 一々出遭った<奴ら>の頭を潰しているとキリがないし、足止めされて囲まれてしまうので、冴子を先頭にして走り抜けたのだが、物凄く怖かった。
 一応冴子が前を進みながら邪魔な<奴ら>を木刀で退かしてくれたとはいえ、それでも何回も弓や服の袖に手をかけられそうになって、その度に寿命が縮む思いをした。
 階段に着いたところで、冴子が前と同じように先行して様子を窺う。
 冴子は珍しく戸惑った表情で戻ってきた。

「私だけでは判断が難しい。君も見てくれ」

 あたしもそろそろと物陰から階段を覗き込む。
 ぶったまげた。
 誰の仕業かは分からないが、登り階段の一番上に机で大きなバリケードが作られていたのである。だが大きいだけの間に合わせで、教室の机を組み上げてビニールテープで固定しただけの代物だった。
 そこにざっと数えられるだけでも10匹程度の奴らが集まっていて、あーうー言いながらバリケードを破ろうとしている。
 バリケードは既にミシミシと音を立てていて、今にも<奴ら>と一緒に転がり落ちてきそうだった。

「これ……やばいんじゃないの?」

「すぐに動けば無事に通れる可能性もある。引き返してもいいが、私たちが通ってきた廊下も総合的な危険度で言えば大して変わらない」

 掠れた声で冴子に尋ねると、とても判断に困る答えが返ってくる。

「……どちらにしろ、時間が経てば経つほど危険は増すわね。さっさと通っちゃわない?」

「そうだな。急ごう」

 冴子と一緒に階段前を通り抜けようとしたあたしは、登り階段を見上げてぎょっとした。
 今にも崩れ落ちそうだったバリケードがついに傾いている。

「さ、冴子!」

 思わず前を行く冴子に声をかけて、すぐさまそれを後悔した。
 冴子が足を止めた最悪のタイミングでバリケードが破れ、<奴ら>がバリケードの残骸と一緒になだれ落ちてきたのだ。
 振り向いてそれを見た冴子はあたしが反応するよりも早く、尋常でない反射神経で下り階段に飛び込んでいった。階段を転がり落ちるのではなく、途中の段に手をついて倒立の要領でさらに跳び、踊り場の壁に激突しないように靴の裏の摩擦を利用して上手く勢いを殺しながら弧を描いて着地する。
 見てて惚れ惚れする動きだったが、生憎あたしは冴子のような神懸かった運動神経は持ち合わせていない。
 振り返った冴子が叫ぶ。

「避けろ!」

 あたしは──。


 1.下り階段に飛び込む。
 2.廊下側に飛び退く。



[20246] 第三話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:47
 1.下り階段に飛び込む。
→2.廊下側に飛び退く。


 冴子のように上手く着地する自信がないあたしは、遠くの下り階段に飛び込むのを諦め、より近い廊下側に飛び退いた。
 <奴ら>や机の殆どは壁に激突して止まったが、机の幾つかは衝撃で跳ね返って、あろうことか冴子がいるはずの下り階段をさらに転げ落ちていった。

「さ、冴子、大丈夫!?」

 慌てて崩れ落ちてきたバリケードに近寄って階段を覗き込むと、壊れかけた机の傍に少々青い顔の冴子が立っているのが見えた。
 どうやらさすがの冴子もこれには肝を冷やしたらしい。それはそうだろう。いくらなんでも、まさか机が追いかけてくるとは思うまい。あたしだったら1発目は避けられても、2発目はきっと当たっていたと思う。
 青い顔の冴子はバリケードの残骸からあたしに視線を移す。

「私に怪我は無いが……君の方こそ大丈夫か?」

「あたしは平気よ。ちょっとびっくりしたけど」

「それは良かった。私も咄嗟に身体が動いたから良かったものの……避けられなかったらと思うと今でもぞっとする」

 よく見れば、冴子の膝は微かに震えている。余程怖かったのだろう。冴子だって完璧じゃないから、当然だ。
 あたしの視線に気付いたか、冴子が恥ずかしそうに僅かに頬を染め、膝に力を入れて震えを無理矢理押さえ込んだ。

「……みっともない所を見せてしまった。すまない」

 普段見せない冴子の弱みに胸がキュンキュンしていたあたしはいささか脳が沸いていたようだ。
 思っていても口には出さないようなことを言ってしまう。

「別にいいわよ。そんな冴子も可愛いわ」

 言った後で、我に返って自分で照れた。
 やばい、凄く恥ずかしい。さらっと何言っちゃってるんだあたしは!?
 冴子が苦笑している。あれはダメな娘を見る眼だ。早く話題を変えないと。

「それよりもどうするの? さすがにこのバリケードを越えるのは勇気がいるんだけど」

 というか、バリケードの下で何かがもぞもぞ動いてる。これって明らかにまだ生きてる<奴ら>がいるよね。
 下手に踏み越えたら足を取られて噛み付かれるかもしれない。そしたら<奴ら>の仲間入りだ。
 あたしであろうと冴子であろうと遠慮したい。

「私がそちらへ行こうか?」

「駄目! それは絶対駄目!」

 思わず叫んでしまう。
 あたしの剣幕に冴子が驚いている。
 仕方がないじゃないか。私が冴子を危険に晒すくらいなら、私自ら渡った方がまだマシだ。
 ……ああああ、迷ってるうちに<奴ら>が起き上がってきた!
 慌てて距離を取る。冴子の姿は見えなくなった。
 前はバリケードから這い出してきた<奴ら>がいるし、来た道を引き返してもやり過ごした<奴ら>でいっぱいだ。あたし一人で無事に通り抜けられるとは思えない。
 生き残るためにはバリケードが崩れた後の階段を駆け上がるしかない。結構な数がバリケードと一緒に落ちてきたみたいだし、この階よりは<奴ら>が少ないだろう。
 落ちてきた<奴ら>はまだ登り階段から遠いバリケードの残骸の傍に固まっている。今走れば通り抜けられるはずだ。大丈夫、きっと大丈夫。

「冴子! ここは別行動にしよう! 集合場所は保健室で!」

「……分かった! 私はこのまま保健室に向かう。どうか生き延びてくれ!」

 決断すれば私も冴子も行動は早い。
 冴子の靴音が遠ざかっていくのを聞きながら、あたしも<奴ら>がいない階段を駆け上がる。
 階段を登りきって振り返れば、<奴ら>はバリケードの残骸に足を取られて立ち往生したり、無理矢理渡ろうとして転んでもがいたりしていた。

「これなら背後の心配はしばらくしなくていいかな」

 呟いて深呼吸する。
 気持ちは急いて走り出したいところだけど、弓を抱えてる以上速くは走れないし、射を行うにはある程度時間と距離が必要だ。
 慎重に行こう。こういう時こそ急がば回れ。急いては事を仕損じる。昔の人は良いことを言う。
 気合を入れ直し、あたしは歩き出した。


□ □ □


 再び渡り廊下を通って管理棟に出る。
 そろそろこの辺りにも<奴ら>出てくるかな、と心の準備をしていたが中々出てこない。
 原作を思い出す限り生徒の生き残りは教室棟にまだ多くいるようだから、<奴ら>もそちらに引き寄せられているのかもしれない。保健室に向かった冴子が心配だが、あたし独りで戻っても<奴ら>に囲まれて喰い殺されるのが目に見えているから、今すぐ助けには行けない。

「まずは、ここが安全なうちに同行してくれる生き残りを見つけなきゃ……」

 階段を下りて1階下の廊下に出る。一気に下まで行きたいが、そうすると大勢の<奴ら>と鉢合わせる可能性が高い。
 フラフラと歩く男の後ろ姿が見えた。
 どこか見覚えのある後ろ姿だ。健康サンダルを履いている。背格好からして生徒ではない。多分教師だろう。
 距離はまだ遠い。私は廊下の端で、男は中程を過ぎている。
 声をかけようとして思い止まった。
 男が生きている人間か、それとも<奴ら>か遠くから見る後ろ姿だけでは分からなかったからだ。
 生きた人間だったら射るのは危ないし、声をかけるのは論外だ。<奴ら>だったら気付いていない私の存在をわざわざ気付かせることになる。
 無視しようにも廊下は一本道だから無視できないし、幅が狭くて気付かれずに追い越すこともできない。
 仕方がないので、いつでも射に移れるように矢を持ちつつ後をつけることにした。
 足音で反応されないようにすり足で移動する。
 男の姿が曲がり角に消えるのを見届けながら、あたしは小骨が咽喉に刺さったような違和感を覚えていた。
 何かを忘れている。それが何かは分からないけれど。

「あ、そっか! 現国の……」

 反射的に口を噤む。
 じっとりと汗ばみながらその場に立ち尽くすが、男が引き返してくる気配はない。
 良かった。うっかり声を出しちゃったけど、遠くて聞こえなかったみたいだ。
 男の正体が分かったので違和感が無くなるかと思ったけど無くならなかった。むしろ一層強くなっている。
 あたしの前世の記憶が確かなら、コイツに噛まれたせいで誰かが死ぬ。
 確信は持てないし、死ぬのが誰かも分からない。あたしの前世の記憶は冴子のことを除いてあやふやだ。冴子に関係する事柄ならかなり正確に思い出せるけど、それ以外は霞がかったように頼りない。
 記憶にある場面が本当に起こることなのか、それともあたしのあやふやな記憶が作り出した捏造なのか、判断ができない。
 それでも誰かが死んでしまうというのなら、できれば助けたい。勿論、あたしと冴子の安全を脅かさない範囲でだけれど。
 半信半疑のままあたしも曲がり角に近付き、用心深く向こうを覗き込む。
 男の向こう側に制服を着た男女が3人いた。
 男子生徒2人に、女子生徒が1人。男子生徒2人は数回見たことがある程度だが、女子生徒の方は良く知っている。
 あたしは、彼女とクラスメートだったことがあった。
 井豪永。
 小室孝。
 宮本麗。
 3人の顔と名前が目の前の情景と一致して、霞がかっていた記憶の靄が取れた。
 襲われる彼ら。
 前世の記憶にある漫画で、井豪永は麗を助けようとして噛みつかれ、<奴ら>になる。
 ──間違いない。
 麗がモップの柄を<奴ら>に突き込むが、<奴ら>は倒れずに麗に手を伸ばして襲い掛かろうとした。
 井豪が後ろから<奴ら>に組み付いてそれを止めている。
 駄目だよ。それじゃあ、君は死ぬ。

「助けなきゃ」

 八節を踏んで狙撃の体勢に入る。
 丁寧に、でもできるだけ迅速に。猶予はない。彼が噛まれる前に<奴ら>を殺す。
 一瞬彼に当たったらどうしようという不安が頭を過ぎったけれど、すぐに無視した。
 逡巡している時間はないし、彼は冴子ではないのだ。私としては噛まれずにいてくれさえすればそれでいい。

「中れ……!」

 あたしが射た矢は、過たず<奴ら>の井豪に噛み付こうとする<奴ら>の後頭部に直撃した。
 よほどうまく刺さったのか、頭蓋骨を削るだけに留まらず、回りを陥没させて貫通し深く突き立っている。
 ここまで綺麗に仕留められるとは考えていなかったので、思わず口笛を吹く。
 井豪に矢傷を作る覚悟で二の矢を用意していたのだが、不要になったようだ。怪我をさせずに済んで良かった。

「誰だ!」

 バットを握り締めていた小室が驚いた様子で振り向き、叫んでくる。
 それに反応して一瞬呆然としていた井豪も我に返り、麗を抱き起こして死体に戻った<奴ら>から距離を取った後で油断なくあたしを注視する。あたしが<奴ら>かどうか確認してるのかもしれない。
 麗だけが、呆けたようにあたしを見ていた。

「生きてるわよ。あたしは<奴ら>じゃない。あなたたちを助けたんだから分かるでしょ?」

 彼らに近付いて、まず井豪に頭を下げた。

「ごめんね。慌てて射たけど、一歩間違えれば君に当たるところだった」

 井豪が憮然とした顔でちらりとあたしの顔を見た。

「助けてくれたことは感謝する。でもどうしてこんな危ないことをしたんだ?」

「君が噛まれそうだったから。素手で<奴ら>に組み付くなんて無謀だよ。噛まれればそこで終わりなのに」

「どういうことだ?」

 小室が口を挟んでくる。
 あたしはそれに答えようとして、少し迷った。こればっかりは実際に目撃しないと信じて貰えないと思ったからだ。
 窓に歩み寄って外を見た。ちょうど男子生徒が歩いていた。腕を噛まれているようで、左腕を押さえている。

「あれを見て」

 外を歩く男子生徒を指差す。
 四人で観察していると、男子生徒が突然血を吐いた。その場に倒れ、二度三度吐血した後動かなくなる。

「嘘……死んだ?」

 麗が目を見開いて呟いた。

「一つ。<奴ら>に噛まれた人間は、どんなに軽傷でもすぐに死ぬ」

「そんなこと有り得るはずが……」

 小室の台詞を遮って続きを言った。

「二つ。それによって死んだ人間は<奴ら>になる」

 あたしたちが見守る中で、死んだはずの男子生徒が身じろぎをした。

「あっ、動き出したわ!」 

「生きてるわけじゃない。ただの動く死体よ」

 男子生徒は立ち上がった後、動かずに奇妙なうめき声を上げながら立ち尽くしている。

「そんな……」

 絶句する麗。
 茫然自失といった風の麗にあたしは言う。

「理屈に合わなくても、そういうものなんだって割り切らないと生き残れないわよ。<奴ら>はあたしたちの事情なんて鑑みてくれないもの」

 会話しているあたしと麗を代わる代わる見ていた井豪が麗の傍に近寄り、袖を引いて囁く。

「今は生き残る方が先決だ。彼女の言う通りにした方がいいんじゃないか」

 逃げ延びてきたらしい集団があたしたちの傍を通り過ぎ、階段を駆け下りていった。
 その先で、絶叫が連鎖して上がる。
 険しい顔で井豪が皆を見回した。

「こうしていても埒があかない。一先ず屋上に出て、立て篭もろう。そこで救助を待つんだ」

「立て篭もるって、そんな場所屋上にあるの?」

「天文台がある。……孝もそれでいいな?」

「ああ、構わない。多分、ここもすぐに<奴ら>でいっぱいになるだろうしな」

 あたしを置いてけぼりにして計画を練っている三人に声をかける。

「相談しているところ悪いんだけどさ、お願いがあるんだ」

「何だよ?」

 仲睦まじい様子の井豪と麗をどこか複雑な表情で見ていた小室が問い掛けてくる。

「友達とはぐれちゃったの。無事でいれば保健室を目指してると思うから、合流したいのよ。でも教室棟を一人で歩くのは不安で……良かったら一緒に行ってくれないかな?」

「じょっ、冗談だろ!? 教室棟なんて今頃<奴ら>で溢れ返ってるぞ!」

 凄い剣幕で小室に怒鳴られ、あたしは少し鼻白む。
 小室の言うことはもっともだ。誰だって、教室棟から逃げてきたのに赤の他人のためにもう一度教室棟に戻りたいなんて思わないだろう。それはあたしだって全力で同意する。
 だけど冴子が教室棟にいるのだ。冴子はあたしなんかよりも遥かに運動神経に優れているし、頭が良く機転が利く。彼女のことだから保健室に辿り着くのは間違いないと思うけれど、それから先は分からない。
 前世の記憶に残る漫画の中の冴子と現実の冴子はとても良く似ているし、こうなった以上同一存在であることを否定する要素はないが、紙に描かれているだけの漫画の中の冴子と違って、現実の冴子は生きている。息をして、きっと今も生き残ろうと戦っている。別れてからもう結構時間が経った。ずっと1人にしていると死んでしまうかもしれない。
 あたしはその場で三人の前に膝をつき、額を頭に擦りつけた。無様だとか、情けないとか言ってられない。

「そんな……そこまでするの?」

 呆気に取られたような、麗の声。
 麗とは高校から仲良くなったから、麗はあたしが冴子と友達であることを知ってはいても、あたしが冴子に恋心を抱いているまでは知らない。
 だから、この非常時に自分よりも他人のことを気にするあたしは麗にとって余程奇妙に映っただろう。
 それでいい。別に理解なんて冴子以外の誰にも求めていないのだ。

「無理を承知でお願いするわ。あたしにとって、冴子は大切な友達なの。一緒に来て」

 しばらくして、重苦しい口調の声がした。

「……女子に土下座なんてさせられない。顔を上げてくれ」

 井豪は唇を真一文字に引き結び、眉を険しく顰めて苦々しい表情をしている。

「君は俺の命の恩人だ。俺たちもできることなら君の友達を助けたい。でも、今はそんな余裕は無いんだ。だから、行けない」

 断られても不思議とショックは無かった。
 あたし自身自分の要求が相当無茶であることは自覚していたし、冴子のことばかり考えて井豪たちの身に降りかかる危険を度外視していることも分かっている。
 だから、「ああ、やっぱりな」と落胆しただけだった。

「そっか。そうだよね。ごめんね、無茶言って」

 空笑いするあたしに距離を感じさせる口調で麗が問い掛けてくる。

「あなたはどうするの?」

 麗は去年までのようにあたしのことを名前で呼んではくれなかった。
 多分、留年の話題に触れられたくないのだろう。それとも詳しい事情を井豪たちに話していないのか。
 ショックなんか受けていない。多分、あたしは笑えているはずだ。

「もちろん保健室に行くよ。心細いけど、これ以上時間をかけると冴子が死んじゃうかもしれないし。行きは大丈夫だったんだから、帰りもきっと何とかなるわ」

「……良かったら、俺たちと一緒に屋上に行こう。救助を待つにしても、先輩の友達を助けに行くとしても、まずは落ち着いて考える時間が必要だ。そう思わないか?」

 井豪の言うことは最もだけど、あたしはそれに頷けないくらい、気が逸っている。冴子を一人にさせているのが、心配でたまらないのだ。
 だから──。


 1.一人でも冴子を助けに行く
 2.井豪たちと一緒に屋上に行く



[20246] 第四話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:49
 1.一人でも冴子を助けに行く
→2.井豪たちと一緒に屋上に行く


 冴子のことは気が気でならないが、辿り着けずに死んでしまっては意味がない。あたしは冴子を信じて井豪たちに同行することにした。
 どのみちあたし一人では、保健室に行くのは無謀すぎる。途中で<奴ら>に出遭ってメインディッシュになるのが関の山だろう。
 いくら冴子が心配でも、関係無いところであたしが死んで、冴子に余計な心労をかけるわけにはいかない。

「分かったわ。意地を張っている場合でもないし、焦ってもいいことは無いものね」

 一度大きく息を吐いて気持ちを切り替える。
 気付けば階下から、あたしたちが通ってきた道の向こうから、<奴ら>の不気味な唸り声が近付いてきている。

「あたしを追いかけてきた<奴ら>もじきにここに来る。早く屋上に向かいましょ」

「麗、孝、行くぞ!」

「分かったわ!」

「……ああ」

 井豪の呼びかけに麗は快活な返事を返したが、小室少年の返事はどこかぎこちない。
 でも構っている暇はなく、あたしたちは<奴ら>から逃れて屋上への道を進んだ。
 扉を開けて屋上に出たあたしたちは、一望できる風景の惨状に愕然とした。
 火事がそこかしこで起こっているのか、幾条もの黒い煙が狼煙のようにたなびき、パトカーのサイレンと人の悲鳴が風に乗って流れてくる。

「……まるで終末ね。映画の中にいるみたい」

 ぽつりと呟くあたしの横では、井豪たちが呆然として立ち竦んでいる。

「一体何が起こってるんだ……」

 小室は自失した面持ちで屋上から見える風景を凝視している。

「こんな状況じゃ、警察が電話に出ないはずだ……」

 歯を食い縛り、眉をきつく寄せた苦々しい表情で井豪が呟く。

「なんなのこれ!? 一体何が起こってるのよ!」

 麗が泣きそうな潤んだ眼で、井豪と小室に詰め寄っている。
 遠くからプロペラの音が聞こえた。
 風で舞い上がる髪を押さえ、あたしは空を見上げる。

「ねえ、教えてよ! 朝までは……ううん、ついさっきまではいつも通りだったのに──ヘリ?」

 遅れて気付いた麗が空を見上げた。
 迷彩服姿の人員が見えるくらい近くを、編隊を組んだヘリが通過していく。

「きゃあっ!」

「麗!」

 手を伸ばそうとした小室より先に、傍にいた井豪が強風でよろめいた麗を支えた。
 小室が辛そうな顔で手を下ろすのを見て、あたしは理解した。
 きっと小室は麗のことが好きなのだ。麗に片思いしている。しかもその彼氏が親友で、怒ることもできないのだろう。
 あたしも冴子がもし彼氏を作ったら、どういう行動を取るのか自分でも予想がつかない。考えただけでも胸がぎゅっと締め付けられたようになって、寂しく居たたまれない気持ちになるのだ。

「自衛隊のヘリみたいね」

 気持ちを切り替え、空を見上げて、機体に書かれた陸上自衛隊という文字を確認する。

「どこから来たんだ? 近くに駐屯地なんかないのに……」

 小室の呆気に取られた声がした。
 ヘリはまるで戦争に行くかのような様子で、あたしたちの近くを通過していく。

「助けてーっ!」

「無駄だ」

 遠ざかっていくヘリに向けて手を振る麗を、井豪が制する。

「何でよ! 校舎の中にだってまだ生き残りはいるでしょう!? あたしたちを助けに来たんじゃないの!?」

「孝がどこから来たんだって言ったろう? 確かにその通りなんだ。きっと俺たちを助けるのとは別の特別な任務を与えられてる。わざわざ寄り道する余裕なんかない。……そうだよな?」

 どうしてそこで部外者のあたしに振る。
 でもまあ、蚊帳の外に置かれるよりかはいい。話を振ってもらったことだし、頑張って会話に参加しよう。
 ……冴子を放って何やってんだろ、あたし。
 虚しい気持ちを抱えながらあたしは校庭を見下ろす。

「生存者が襲われてるのに、ヘリはそれを無視してる。そうである以上、あたしたちにもしばらく救助は来ないと考えた方がいいでしょうね」

 振り返って三人に告げる。

「さっきまでひっきり無しに悲鳴が響いてたのに、間隔が疎らになってる。皆殺されたのよ。そして<奴ら>になった」

 井豪がうめく。

「……そうか。だから<奴ら>か」

「どういうこと……?」

 理解できなくておろおろする麗に、井豪は言う。

「今の状況は映画やゲームでよくあるゾンビで溢れ返った街と同じだ。まさか現実でフィクションと同じように呼ぶわけにもいかないだろ?」

 校舎から一際大きな断末魔の悲鳴が響いてきた。
 耐え切れなくなったのか、麗が目を閉じて現実逃避をするように耳を塞いで蹲る。

「もう嫌……何なのよっ!」

「くそっ、壊れて……! これじゃ<奴ら>が入ってくる!」

 少しでも<奴ら>の侵入を遅らせようと校舎に続くドアの鍵を閉めようとした小室が、焦燥に満ちた表情で叫んだ。
 額に汗を滲ませる井豪に小室が詰め寄る。

「永! どうするんだよ!」

「……天文台に上って、階段を塞ぐのはどうだ?」

「それがいいでしょうね。屋上は広いから逃げ回れるけど、その分一度に多くの<奴ら>を相手にすることになる。囲まれたら危険よ」

「でも、それからどうするの? 救助が来ないんじゃ立て篭もっても意味ないわよ」

 俯いていた顔を上げて心配そうな顔をする麗に、あたしは記憶の底を探って答える。

「天文台には消火栓があったはず。屋上に<奴ら>をおびき寄せて、集まったところを消火栓の水圧で薙ぎ倒せばいいわ。いい加減冴子と合流したいし、その隙に校舎内に戻りましょう」

「校舎内に戻るの? 天文部が使ってるんだから、泊まり込みはできるはずよ。救助を待った方が良くない?」

「確かに、屋上に<奴ら>が来た後なら校舎内の方が安全かもしれないな。でも救助を待つ方が現実的か……?」

 井豪が顎に手を当てて思案する。
 三人の中では井豪がリーダーシップを取ることが多いらしく、彼が音頭を取った。

「よし、とりあえず天文台に上がって階段を塞ぐ作業に入ろう。どちらにしろ、いつ<奴ら>が上がってくるか分からない。どうとでもできるように、準備を早めに済ませるんだ。……君もそれでいいな?」

「ええ。構わないわ」

 救助を待たれるのは困るけど、駄々を捏ねて纏まりかけた意見を白紙にしてしまっては、かえって冴子のもとに行くのが遅くなる可能性が高い。
 あたしは逸る気持ちを抑え、三人について天文台に駆け上がった。
 天文台に着くと、まず抱えていた弓とスクールバッグを置く。
 麗と二人で天文台の寝泊り室を探索し、天然水のペットボルとお菓子にライターを見つけた。流しとトイレもあるので、麗の言う通りしばらくなら泊まり込みもできそうだ。
 井豪と小室が慌しく階段を塞ぐための机や椅子を運び出しているのを見ながら、消火栓をいつでも使えるように試行錯誤しながら準備をする。
 作業が完了して、強張った肩を解した。

「ふう……」

 横に立った麗があたしに顔を向けた。

「スクールバッグ持って来れたのね。私たちはろくに何も持って来れなかったのに」

「最初は冴子と一緒にいたから。悪い言い方になるけど、クラスメートが先に逃げ出して襲われた分、準備する時間があったのよ」

 寝泊り室の入り口に出たあたしたちの視線の先で、井豪と小室がてきぱきと机と椅子を階段の前に並べ、セロテープで固定している。
 セロテープの強度を心配する小室に、井豪がぐるぐる巻きにした場合の強度の強さを説明していた。
 仲が良さそうな二人の様子を見ながら、あたしは麗に顔を向けずに言う。

「ところでさ。いつまで他人の振りするつもり? 去年まで仲の良かった友達にそういう態度取られるのは、ちょっと辛いんだけど」

 同じようにしていた麗は一瞬身体を震わせると、居心地悪そうに身動ぎした。

「……ごめん。留年の話題には、あんまり触れられたくないの」

「そっか。それなら仕方ないね」

 息を吐く。
 麗には麗の事情がある。あまり首を突っ込むのは野暮というものだろう。漫画に描かれていたような気もするけど、実はよく思い出せない。何故か紫藤先生が関係していることだけ覚えてる。
 どうしてだろう。もしかして、紫藤先生も何か冴子を危険に晒すような事件でも引き起こすんだろうか。だとしたら要注意だ。
 冴子はあたしが守る。……いつも守られてるのはあたしだという事実は置いておく。いつか本当に守れるようになるんだもん。ぐすん。
 作業が終わって井豪と小室があたしたちの傍にやってきた。
 それを横目に遠くから校舎内へと続くドアを眺めれば、ドアが僅かに開いている。
 鍵は閉まらないけどドア自体は小室がちゃんと閉めていたはずなのに、何で空いてるんだろう。
 首を傾げながらドアを凝視していると、ドアの隙間の暗がりから血まみれの顔が覗いているのを見つけてしまった。

「……うわぁ」

 ホラーじみた光景に思わずぞくりとしてしまう。怖いよ。

「何してるんだ? ……ああ、来たのか。間一髪だったな」

 問い掛けてきた井豪があたしの視線を追って、屋上のドアから覗く顔に気がついた。
 ドアがゆっくりと開かれ、中からぞろぞろと<奴ら>が屋上に出てくる。

「バリケードはしばらく持つのよね?」

 麗の問いに、井豪が落ち着いた表情で頷く。

「ああ、さすがにずっとというわけにはいかないが、これくらいなら問題ないだろう」

 原作ではそろそろ彼が死ぬ頃だ。でも、現実での彼は噛まれていないから、今ここで死ぬことはない。冴子のことでもないのに、何故かそれが無性に誇らしい。
 あたしは若干上擦った声音で言った。

「じゃあ、<奴ら>が集まるまで休憩しようか。よく考えたら自己紹介もまだだったでしょ?」

 何故か、あたしの提案に三人ともきょとんとして顔を見合わせた後、申し合わせたように噴出してくすくす笑っている。

「何よ三人して笑って……」

 膨れっ面になるあたしに、まだ笑みの残る顔で井豪が言った。

「いや、別に何でもないんだ。ただ、君が<奴ら>のことを何でもないことみたいに言うから」

「……むう」

 まあ、非常時だし、短時間とはいえ<奴ら>から逃げ惑うのはとても濃い時間だったから、あたしの変な発言で緊張の糸が切れて気が抜けたというところか。
 そういうことなら仕方ない。
 気を取り直した井豪が先に自己紹介をしてきた。

「井豪永。二年B組です。こっちの二人は同じB組の小室孝と宮元麗」

「御澄嬌。三年A組よ」

「先輩だったんですか!」

 散々タメ口を叩いていたことに井豪が焦った声を出した。
 あたしは脳内フォルダーからお気に入りの冴子の笑顔を再生し、意識して似せて浮かべる。

「こんな状況だし気にしないで。よろしくね、井豪君。小室君。宮本さん」

 何故か井豪が目を見開き、視線を彷徨わせて顔を逸らした。
 え、何その反応。

「永、どうしたの?」

「いや! 何でもない! 何でもないんだ!」

 きょとんとした表情の麗に顔を覗き込まれた井豪は、急いで首を横に振った。

「変なの、永ったらそんなに慌てて」

 くすりと笑う麗にも、井豪の反応の意味が分からないようだ。
 そんな井豪と麗を怪訝そうな顔で見ていた小室が閃いたかのようにやおらぽんと手を打った。
 ……意味分かんない。


□ □ □


 屋上には着々と<奴ら>が上がってきていた。
 バリケードの前が少しずつ<奴ら>で埋まっていくのに戦々恐々としながら、小室が井豪に声をかける。

「おーい、まだかー!?」

「まだ<奴ら>が少なすぎる。もう少し引き付けるぞ」

 井豪の返事に焦れた様子で同じ場所を行ったり来たりする小室に、天文台の壁際に座り込んでいる麗がため息をつく。

「檻の中の熊みたいにうろうろ歩き回らないでよ。孝は永の言うことに従ってればいいのよ。永はいつも正しいんだから」

「……くそっ、そうかよ!」

 どうやら小室少年は荒れているようだ。
 気持ちは分かる。好きな相手に冷たくされて、しかも別の男ばかり見られていたらそりゃたまらないだろう。
 井豪と麗を見ていると、片思いをしている親近感もあって小室があまりにも哀れに見えてくる。
 元々原作では死んでいた井豪を助けたあたしが言える台詞ではないが、あたしは小室と麗がくっつけばいいなー、と何となく思っていた。
 というか、このまま行くと冴子と合流してから、傷心を慰められたりした小室がころっと冴子に転がりそうで、とても怖い。
 つい井豪のことを助けたけど、改めてよく考えたらあたし自分の首を自分で締めてるじゃないか。
 仕方ない。小室と麗をくっつけるためにここはおねーさんが一肌脱ぐことにしよう。
 各々が休憩している間、井豪は屋上全体を見ながら麗の機嫌を取り、小室を宥めてさらには一人だけ部外者であるあたしが会話に参加できなくて退屈しないように気を使うという離れ業を、あたしたちが休憩している間中延々とやっていた。
 君はどこの超人かと言いたい。

「井豪君、ちょっと休憩した方がいいんじゃない? さっきからずっと気を張り詰めっぱなしでしょ」

「先輩? いえ、これくらい大丈夫です」

「休める時に休んどきなよ。今は平気でも、疲れって糸が切れたみたいに後からどっと来るんだからさ」

 さり気なく小室と麗から離れながら、渋る井豪を説き伏せる。

「小室君、あたしたち少し休憩するから見張りよろしくねぇ~」

 去り際に小室に向けてウインクすることも忘れない。
 気付けばよし、気付かなくてもそれはそれで構わなかった。

「あ、永……」

 麗の寂しそうな声が聞こえる。
 これも冴子のためだ。麗は今のうちに小室と仲良くなって、小室の冴子フラグを折っておけばいいと思うよ。

「貴重な時間なんだから、宮本さんも休んでなさいな」

 小室はあたしのウインクに気付かなかったようで、ちらちらとバリケードの様子を窺いながら麗の隣に座り込んだ。
 あたしに連れられていく井豪を見送った麗は、小室にちらりと視線を向けると少し離れた場所に座り直す。
 バリケードには着々と<奴ら>が集まりつつあるが、それ以上に屋上全体に散らばる<奴ら>自体が増えてきている。
 やっぱり放水の後は強行突破かな、これじゃ。その前にバリケードを破られないようにしないと。

「どんどん階段まで群がってくるぞ。大丈夫なのか?」

「……真面目ね。いつもはやる気ないのに」

 不機嫌そうな顔のまま横目で見てくる麗に、小室は親指でバリケードを指し示す。

「この状況でやる気なくしてどうなるよ?」

 バリケードの向こう側では相変わらず<奴ら>が無数に蠢き、ガシガシと音を立ててバリケードを破ろうとしている。

「ふふっ」

 自分の質問のおかしさに気付いたのか、麗が思わずといった風に表情を崩す。
 堪えきれなくなったのか、麗の軽やかな笑い声は鈴の音のように鳴り響き空に吸い込まれていった。
 憑き物が落ちたようにさっぱりとした顔になった麗は、立ち上がって小室に手を差し出した。

「私、お父さんに連絡してみる。携帯貸して」

「いくら麗のお父さんが警察官だっていったって、110番も通じないんだろ? 無駄じゃないのか?」

 久しぶりに自分に向けられた笑顔にちょっと胸がときめいた小室は、思わず顔を逸らして携帯を手渡す。
 麗は携帯を操作して耳に当てた。
 
「大丈夫。普段絶対にかけちゃいけないっていう秘密の番号、知ってるから」

 数コール分の沈黙。

「通じた……」

 小室が目を見開いてピクリと反応し、身体を麗に寄せて耳をそばたてる。

「本当か、麗!」

 井豪が慌てて駆け寄っていった。

「お父さん? 私たち学校で……! 私の声聞こえないの!? お父さん!?」

 麗が身を竦ませた。

「電話……切れちゃった」

 呆然とする麗は、すぐに気を取り直しリダイヤルしようとするが、通じないようで段々声がヒステリックになっていく。

「今通じたばかりじゃないの! どうして! どうしてよ!?」

「やめろ、もういい!」

 錯乱したかのように何度もリダイヤルする麗を井豪が遮った。
 肩を振るわせる麗を抱き寄せる。

「もういいんだ、麗」

 小室が二人の後ろで、切ない顔で所在なさげに伸ばしかけていた手を下ろした。
 井豪に抱かれる麗の眼からは、涙が伝っている。
 本当はこの時、携帯はまだ生きていたのだけれど、神ならぬあたしたちにそれが分かるはずもない。
 でも、あたしはそれで良かった。そのために、彼らが脱出しようとするのに便乗して、冴子を助けに行くことができたのだから。


□ □ □

 
 消火栓で<奴ら>を薙ぎ払う役目は、あたしと井豪がすることに決まった。小室と麗はそれぞれ金属バットとモップの柄を武器に校内に突入する際の露払いを担当する。
 井豪は空手の有段者で、ある程度の自衛はできるが素手なので危険だ。あたしも激しく動きながらでは矢がどこに飛ぶか分からない。
 あたしに限っては、役立たずだったので消火栓担当になったと言い換えてもいい。自覚すると挫けそうになるのであたしは頑として認めないが。
 射が外れるんじゃなくて、的の方から逃げていくの。下手なわけじゃないの。ないったらないの。

「あの、先輩?」

「はい! 何!?」

 考え事をしている時に突然声をかけられて、驚いて飛び上がる。
 声をかけられた方向に顔を向ければ、井豪が少し怪訝そうな顔をして立っていた。

「<奴ら>がバリケード近くに大分集まってきたので、そろそろ始めたいんですが。俺が消火栓のホースを持つから、俺の合図で開けてくれませんか?」

「う、うん! 任せて!」

 弓とスクールバッグを持って小走りに消火栓の操作盤に向かう。
 あたしが移動して準備するのを確認し、井豪が声を上げた。

「回してください!」

「了解!」

 消火栓を開く。
 カキリという手応えとともに、ぶるぶると消火栓のホースが震え、井豪が持つホースの先から水が吹き出た。

「くっ……!」

 井豪は一瞬水の勢いに振り回されかけたが、上手く押さえ込みホースを保持する。

「いくぞ! 麗、孝、離れろぉ!」

 小室と麗がバリケードから機微な動きで飛び退るのと同時に、猛烈な勢いの水が奔流となってバリケードに叩き付けられる。
 今まで<奴ら>の侵入を防いでくれた即席のバリケードが、あっさりと水の勢いに負けて決壊し、後ろにいた<奴ら>を巻き込んで押し流されていく。

「このまま放水で<奴ら>を叩いて道を作る! 道が出来たら四人で一気に駆け抜けるぞ!」

「分かったわ!」

「……ああ!」

 元々仲が良いこともあり、三人の呼吸は抜群に合っていた。それはもう、あたしが空気になるくらいに。
 一応これでも最上級生なんだけどなぁ。何でこんなに影薄いんだろ。
 栓を回した後何もしないのもアレなので、あたしも放水してる間弓で<奴ら>を狙撃して援護しようと思うが、さすがに射た後で無事な矢を探している余裕は無いだろうし、勿体無いかもしれない。
 どうしよう?


 1.井豪を援護する
 2.何もせずに待つ



[20246] 第五話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:50
→1.井豪を援護する
 2.何もせずに待つ


 カーボン矢は残り十四本。
 バッグに残っている分はまだ矢筒にも入れてない未使用の矢が二本だけで、残りの十二本は矢筒に入っている。
 これからは矢の消費も多くなるだろうから、あまり外して無駄使いをするわけにもいかない。
 弦の張りを強めに調整し、遠的用のカーボン矢を1パック開封する。
 矢筒に入れたほうが素早く補充出来るが、安全が確保されている場所からの狙撃なので今回は入れる必要はない。
 硬い感触を返してくる弓を何回か引き絞り、感覚を掴む。男でも結構力がいる張りの強さだが、伊達に小学生の頃から弓道をやっていない。弓を引く力は大の男並に鍛えられている。
 ……そのせいで、ノースリーブの服とか恥ずかしくて着れないんだけどさ。
 井豪の放水に合わせ、走り抜けるのに邪魔そうな<奴ら>を選別して目標にする。
 安全性が増している現代の矢でも、あたしが本気で射れば<奴ら>相手に充分な威力が望める。弓を引くのが常人であっても、当たり所によっては人を殺せてしまうのだ。射角に注意して頭に当てれば<奴ら>を殺すのに不足は無い。
 丁寧に八節を踏んでいき、六回射を行った。
 全て狙った<奴ら>の頭に命中する。

「ま、こんなものかな」

 当てたのではない。中るべくして中ったのだ。
 散々外しまくったあたしだが、安全な場所から冷静になって射ればこれくらいはちょろい。
 全国大会ではプレッシャーに負けて結果を残せなかったとはいえ、小学生時代から積み上げてきたキャリアは伊達ではない。
 放水を止めた井豪が音頭を取った。

「あらかた片付いたな。行こう」

 井豪の放水とあたしの射を休憩を取りながら見ていた小室が立ち上がる。

「起き上がってくる奴は僕と麗で相手するよ」

「二人だけじゃ危険だ。俺も前に出る。心配するな、これでも俺は空手の有段者だぞ」

「前にそう言って噛まれそうになったのは何処のどいつよ」

 じとーっとした半眼の麗に突っ込まれ、井豪がたじろいだ。

「ど、どうしたんだ?」

「……別に、何も」

 そこでなんであたしに視線を向けてくるんですか、麗さん。

「永。麗の言う通りだ。武器が見つかるまでは無茶しない方がいい。先輩を見ていてくれよ」

 あたしと麗の間に立って、小室が言う。
 何か、さり気なくお荷物扱いされてる気がするんだけど、気のせい?
 まあ、弓を抱えて矢筒を担いで、スクールバッグも持ってるから、何かあった時即座に反応できない以上、お荷物と言われても仕方ないんだけどさ。
 複雑な気分。

「……確かに先輩には助けてもらった借りがある。見ていよう」

 話が纏まり、あたしたちは走り出す。
 荷物ありと無しでは走力が違う。あたしはあっという間に三人から離された。
 皆走るの速いな!
 井豪だけが気付いて、戻ってこようとするのを手で制する。

「大丈夫。あたしのことは気にしないで」

 走るのが遅いとはいっても邪魔をしそうな位置の<奴ら>は事前に始末したし、さすがに遠くの<奴ら>に捕まるほど遅くはない。
 誰一人欠けることなく、あたしたちは放水したことで非常ベルが鳴る校舎内に再突入を果たした。


□ □ □


 何時の間にかあたしと井豪の二人きりになっていた。

「え? ……え!? ええぇ!?」

 何だかD○Oも真っ青の時間停止を味わった気分だ。
 あたしが三番目で、荷物を持っているせいで足が遅いあたしがはぐれるのを防ぐために、一番後ろを井豪が走っていたのだが、どうやら走力の違いで少しずつ前の二人に引き離され、気付かないうちに道を間違えていたらしい。あたしがあまりにも迷いなく道を曲がるものだから、井豪も疑問に思わずそのままついてきてしまったようだ。
 いつも通ってる学校なのに、どうしてこんな時に方向音痴発揮するかな!
 辺りに佇んでいる<奴ら>の何体かはこちらに気付いたようで、ゆっくりと身体の向きを変えるところだった。

「……やばいですね。囲まれる前に逃げないと。それに二人が心配だ。無事で居てくれるといいんだが」

 今までは冷静だった井豪も、さすがに冷や汗を垂らしている。

「ごめん。あたしすっごいヘマした」

 とんでもない大ポカに半べそになっているあたしに、井豪がため息をつく。

「俺は素手だし、先輩も近くで戦うのには向いてない。今はひとまずどこかに立て篭もって武器を調達しましょう。……ここから一番近いのは、工作室か」

 井豪に手を引かれて素早く進路を変える。
 コイツ、頭の回転が冴子並に速いな! 羨ましくなんかないもんね。ちくしょう。
 工作室前の廊下まで来ると、前からやってくる二人の人物を見て井豪が声を上げた。



「高城! 平野!」

 あたしたちを見咎めた高城が目を見開く。

「井豪! それに……えーと、誰?」

 平野が後ろを振り向いて、身体を震わせて高城に叫ぶ。

「そんなの後々! 高城さん、早く逃げよう!」

 二人の後ろの工作室から続々と<奴ら>が出てきていた。

「何であんなにいっぱいいるのー!?」

「仕方ないでしょ! ついさっきまで立て篭もってたんだから!」

 あまりの数に思わず叫んだあたしに、高城が尖った声で怒鳴り返す。

「喧嘩してないで二人とも足動かしてーっ!」

「平野の言う通りだ! とにかく逃げるぞ!」

 いち早く我に返った井豪に急かされ、あたしたちは走り出した。


□ □ □


 始めに二人がいないことに気付いたのは、麗の方だった。

「孝! 永と先輩がいない!」

「げっ、はぐれたか!?」

 慌てて立ち止まる二人。
 幸いにも<奴ら>は遠くに数体ぽつぽつと見えるだけで、しばらくは立ち止まっていても大丈夫そうだ。

「ど、どうしよう! 探しに行かなきゃ!」

「永がついてる! 今探しに行ったら最悪擦れ違って堂々巡りになる!」

「で、でも……」

 引き返そうとする麗を孝は押し留める。

「僕たちはこのまま行った方が早い! 今は僕を信じろ!」

 その言葉が癇に触れたのか、麗が激昂した。

「信じられるわけないじゃない! あの時だって真面目に聞いてくれなかったくせに! だから私、永と……!」

 孝が絶叫する。

「僕は麗の方が大事だ!」

 その言葉に麗の挙動がぴたりと止まり、双眸から涙が溢れる。

「馬鹿……! 今更遅いわよ……!」

「……とにかく、僕たちは永を信じて先に進もう。それがきっと一番早く合流できるはずだ」 

 麗は孝の顔を見つめる。

「……信じて、いいのね?」

「ああ。今は僕を信じて」

 目の前に手が差し出される。
 真剣な孝の眼を見て、麗はおずおずとその手を取った。
 昔の関係に戻ったわけではない。麗の心の中には相変わらず永がいる。
 だがそれでも、二人は手を繋いだまま走り出した。


□ □ □


 <奴ら>を振りきったあたしたちは、周りを見回して<奴ら>が近くにいないことを確認すると立ち止まった。

「あー、びっくりした……」

 少し息が上がっていたあたしは、まだ動悸の激しい胸に手を当ててゆっくりと息を吐く。
 ちなみに井豪は数回深呼吸しただけで気息を整えたらしい。相変わらず超人じみている。
 膝に手をついて肩で息をしている高城に井豪が声をかけた。

「そういえば、平野の持ってる釘打ち機以外にも色々持ってきてるんだろ? 良かったら見せてくれないか? 武器が欲しいんだ」

「ああ、アンタ今素手だものね。ならこれなんかいいんじゃない?」

 高城が井豪に手渡したのは、先端がくねっと曲がったバールのようなものだった。正式な名称があると思うが、知識がさっぱりないあたしにはようなものとしか言い様がない。
 バールのようなものを受け取った井豪は、何回か振り回して感触を確かめると、満足そうに頷く。

「充分だ。助かる」

 <奴ら>が近付いてきたので、また移動する。
 移動しながら会話は続いた。

「ところで、お前達はどこに向かってるんだ?」

 通路に佇んでいた<奴ら>をバールのようなもので殴り倒しながら井豪が高城に聞く。
 それによって出来た僅かな安全地帯を高城が走り抜ける。

「今目指してるのは職員室よ。工作室で聞いたんだけど、平野が車を運転できるらしいわ」

 巻き添えになって転んだ<奴ら>が立ち上がろうとするのを蹴飛ばして再び転がし、井豪は難しい顔をした。

「そうか……こっちの先輩が保健室に用があるらしいんだが」

 釘打ち機で井豪を援護する平野が、姿の見えない二人に気付いて心配そうな顔をした。

「そういえば、小室君と宮本さんは?」

「途中ではぐれた。多分向こうも脱出を目指しているはずだ」

「じゃあこのまま一緒に行けばいいわよ。二人ともそんな簡単に死ぬようなタマじゃないわ。音が大きい釘打ち機だってあるんだから、アタシたちが近くで<奴ら>と戦っていれば気付くでしょ」

「確かに、それもそうだな……」

「そんな! それ困る!」

 井豪についてきてもらって保健室に行くつもりだったあたしは思わず声を上げた。
 ちらりとあたしに視線を向けて、井豪は諭すように言う。

「先輩の友達も、生きていれば脱出するために保健室を出るはずだ。こっちから行くよりも向こうから来てもらった方が時間を短縮できる」

 どうやら保健室に行こうと思っているのは、もうあたしだけのようだった。
 あたしは拳を握り締める。
 皆と一緒に職員室に向かうか、それともあたし一人でも保健室に向かうか。
 普段のあたしなら迷わず皆についていく方を選ぶけれど、今は事情が違う。
 既に一回遠回りしているのだ。もうこれ以上我慢できそうにない。

「……悪いけどあたし、一人で行く。ここまで来れば保健室まで近いし、何とかなると思うから」

「駄目だ、危険過ぎる」

 否定する井豪にあたしは首を振った。

「危険でも行くよ。冴子はきっとぎりぎりまであたしを待ってる。もしかしたらそれで逃げ遅れちゃうかもしれない」

 言うなり、あたしは身を翻して駆け出す。
 井豪はあたしを追おうとしたようだったが、ちょうど道を塞ぐような形で<奴ら>が起き上がってきたので、その相手をせざるを得なくなった。
 その隙にあたしは角を曲がり、井豪たちの視界から逃れる。
 背後に彼らが追いすがってくる気配はない。

「ま、そりゃそうよね。井豪が彼女たちをほっぽり出してあたしを追ってくるわけないし」

 でも、分かっていたはずなのに、何故か残念な気持ちが湧いてくるのは何故だろう。
 まあいいか。
 近寄ってくる<奴ら>を弓で叩いて押し退ける。
 本当はこんな使い方したら弓が壊れるからしちゃいけないんだけど、命と比べたら背に腹変えられない。
 あたしの弓はそこそこ丈夫な方だし、転ばせるのは無理でもよろけさせて時間を稼ぐくらいなら充分にできる。
 そうやって<奴ら>をいなしながら進み、角を曲がる。
 通ってきたのと変わらない光景に絶句した。

「……多いってば」

 数えられるだけでひいふうみい……七体はいる。
 相変わらずの<奴ら>にげんなりとするが、ここを通らなければ保健室には行けない。後ろからはやり過ごした<奴ら>が追いかけてきている。立ち止まっていればあっという間にお陀仏だ。
 生きるか死ぬか。覚悟を決めて突破を図った。
 幸い<奴ら>は連携するだけの知能を残していないので、時間さえかけなければ一体ずつ相手にできる。というか、そうしないとあっさり喰われて死ぬ。
 右の廊下壁際を歩く一体目の<奴ら>を左に寄って走りながらかわし、真正面に来た二体目を弓で打ち据え、よろけた隙に横を駆け抜ける。
 三体目との距離が離れていたので、あたしから近付いて<奴ら>の腕をよく見て、掴もうと伸ばしてきた手を掻い潜って前に出る。
 ……何これ怖い。
 <奴ら>の手が後ろ髪を払ったのを感じ、ぶつぶつと腕に鳥肌が立つ。さらに走り、伸びて来た五体目の腕を擦れ違い様に弓で叩き落す。
 抜けたところで六体目と七体目が思ったよりも近くにいた。

「あっぶな……!」

 手を振り上げて掴みかかってきるのを、反射的に弓を縦に抱えてスライディングし、空いていた<奴ら>の間を滑り抜ける。
 ぱんつが! スカートが捲くれてぱんつが丸出しに!
 涙眼になりながら立ち上がり、なおも走る。
 ようやく保健室が見えてきた。
 窓とドアが破られて、<奴ら>がどんどん侵入していた。そして、保健室の中には<奴ら>に迫られて今にも襲われようとしている人影が。
 それが冴子だと思ったあたしは、一瞬でキレた。

「……舐めんじゃ、ないわよ!!」

 矢筒から矢を取り出し、弓を引く。
 人影ににじり寄っていた<奴ら>の頭を見える範囲で射抜いて、保健室に突入する。

「冴子! 大丈夫!?」

「へ?」

「は?」

 知らない男子生徒と見詰め合う。
 保健室内を見回すが、他にいるのは鞠川先生だけだ。

「あなた、後ろ後ろ!」

「っと!」

 <奴ら>に後ろから掴みかかられそうになって、危ういところで身を翻して避ける。

「こっ、この!」

 男子生徒が重そうな保健室の備品を振り上げ、あたしを襲おうとした<奴ら>に振り下ろした。
 <奴ら>の頭がグシャッと潰れ、モザイクが必要になるくらいスプラッターな様相になる。
 ……あれー、もしかしてまだ冴子来てない?
 どうやらあたしは、勘違いして自分から死地に飛び込んだらしい。

「手伝ってください! 数が多すぎる!」

「あー、もうしくった!」

 矢筒から矢を取り出し、<奴ら>に射る。
 なるべくなら男子生徒を援護してやりたいが、他にもあたしに近付いてくる<奴ら>や、鞠川先生に近付こうとする<奴ら>まで出てくるので、その対処に手を取られて中々彼まで援護の手が回らない。
 あっという間に矢筒の矢が尽きたので、仕方なく新しい矢を補充しようと弓を置いてバッグを開ける。

「矢が無くなったから、補充するまで一人で持ちこたえてー!」

「そんなの無理だぁー!」

 悲鳴を上げながら、奮戦していた男子生徒が<奴ら>にたかられてあたしたちの方へ倒れこんでくる。
 ちょ、くんな! <奴ら>も一緒に来るでしょうが!
 仕方なく新しくパックを開封するのを諦めて、残っていたカーボン矢二本を手に取り弓に番える。冴子の声が聞こえてきたのはそれとほぼ同時だった。

「嬌、無事か!?」

 駆け込んできた冴子によって<奴ら>の頭に次々と木刀が振り下ろされ、頭を木刀の形に凹ませた<奴ら>が次々と倒れていく。
 さすが冴子、いいところに来た!
 冴子があたしたちの前の<奴ら>を片付けている間に、あたしは落ち着いて射を行い冴子の背後に1匹残っていた<奴ら>の頭を射抜いた。

「ありがと。ナイスタイミングよ」

 保健室の中にも外の廊下にも<奴ら>が残っていないことを確認して、あたしは冴子に抱きつく。
 制服越しに香るひさしぶりの冴子の匂いは、冴子と合流できたのだと強くあたしに実感させ、緊張で張り詰めていた気を一気に蕩かした。
 至福の表情で冴子の胸に頬擦りするあたしの背中を、苦笑しながら赤子をあやすようにぽんぽんと撫でてからやんわりと引き剥がした冴子は、あたしの後ろに進み、座り込む男子生徒に膝をついて声をかける。

「私は剣道部主将、毒島冴子だ。二年生、君の名前は?」

「石井…かず……」

「よく二人を守った。石井君、君の勇気は私が認めてやる……」

 あたしと鞠川先生の視線が、荒い息をついて座り込んでいる石井君と呼ばれた男子生徒に集中する。
 彼の鎖骨あたりには、はっきりと分かる噛まれた痕があった。制服ごと肉が食い千切られ、赤黒い傷口が覗いている。
 出血が酷く、素人目にも分かるくらい顔色が悪い。石井君の命はもう長くはない。

「噛まれた者がどうなるか知っているな? 親や友達にそんな姿を見せたいか? 嫌ならば、これまで人を殺めたことはないが……私が手伝ってやる」

 冴子の言葉に石井君は微笑んだが、ずれかけた眼鏡から覗く瞳に浮かぶ涙が、何よりも彼の気持ちを物語っている。
 その全てを押し隠して、石井君は言った。

「お……お願いします」

「え、ちょっ、ちょっと何を……」

 止めに入ろうとする鞠川先生を、冴子は手で制する。

「校医といえど、邪魔しないでもらいたい。男の誇りを守ってやる事こそが、女たる私の矜持なのだ」

 静かに紡がれる冴子の声。
 木刀を構える冴子の声はいつも通り静謐で、一片の動揺も見られない。
 でも、いくら完璧超人大和撫子を地で行く冴子でも、人を殺すことに何も思わないはずがない。
 冴子が暴力に酔う自分の心を恐怖していることを、あたしは知っている。
 好きな男性に告白することもできないくらい、恐れを抱いていることを知っている。
 そんな冴子に、人殺しなんてさせられない。
 だから、あたしは冴子の後ろで弓を構え、たった一つ矢筒に残った矢を番えて引き絞り──


 1.石井君に射る。
 2.冴子に任せる。



[20246] 第六話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:51
→1.石井君に射る。
 2.冴子に任せる。


 木刀が振り下ろされるよりも僅かに早く、あたしが放った矢は石井君の頭部に的中し、その悪夢を終わらせていた。

「……嬌?」

 寸止めで木刀を冴子がきょとんとした顔で振り返る。
 なるべく声に感情が出ないよう注意して答える。

「石井君との付き合いはあたしの方が長いのよ。だからあたしがやるべきだと思っただけ」

 嘘だった。石井君とは今日顔を会わせたのが初めてだ。長さなんて、せいぜい数分くらいしか違わない。
 心配そうな表情で冴子が言った。

「大丈夫か?」

「何が?」

 なるべくいつものあたしを保とうとするが、ついさっきまで一緒に会話をしていた男の子を殺したという恐怖が、今更になって圧し掛かってくる。

「人を殺めて大丈夫かと聞いているんだ」

 思わず息を飲む。
 冴子の視線が注がれているのを見て、あたしは必死に手の震えを押し隠し、平静を装う。

「平気よ。それよりも、冴子の方こそ大丈夫なの? ただでさえ爆弾持ちなのに、今より酷くなったらどうするのよ」

 今度は冴子が沈黙する番だった。
 普段は落ち着いた物腰や態度に隠れているが、冴子には暴力に酔う危険な性癖がある。最初にそれが露見したのは、男にあたしが襲われているのを助けた時だ。
 冴子はやがてぽつりと言う。

「この状況では止むを得まい」

 思わず拳を握り締める。
 そんなことにはさせないためにも、あたしは──。

「まだ私は殺戮を楽しんでなどいないよ。君がいてくれるからな」

 不意討ちだった。
 え。ちょっ、冴子、それ反則! 照れる! マジ照れる!
 熱くなっていく頬を手で押さえる。今あたしの顔は真っ赤になっているだろう。
 くすくすと冴子が笑う。

「そういうことだ。まあ、あまり無理はしないでくれ。私の後ろはいつも君だと決まっているんだ。いなくなるのは寂しい」

 む、とあたしは口を尖らせる。

「守られるだけの関係なんてごめんよ。あたしも冴子を守るんだから」

「あと十年は修行が必要だな」

「何よ、もー!」

 あたしはぽかぽかと冴子の胸を叩く。
 大して力を篭めていないから、冴子も笑うだけであたしのするがままにさせている。
 気付けば、あたしの胸はすっかり軽くなって温かいもので満たされていた。
 助けるつもりだったのに、何時の間にかまた冴子に助けられている。
 本当にもう、あたしったら情けない……。
 嘆いていても仕方ない。
 大きく息を吐いて気持ちを切り替える。感動の再会はもう終わりだ。いい加減現実に戻らないと。

「若い子っていいわねー」

 声がした方に真っ赤になって振り向く。

「学生だった頃を思い出しちゃったわ」

 すっかり準備を終えた鞠川先生が口に手を当てて笑っていた。
 先生のことすっかり忘れてた……。穴があったら入りたい。


□ □ □


 同行者に鞠川先生を加え、空になった矢筒に金属シャフト矢を十二本補充したあたしは、冴子と一緒に<奴ら>が徘徊する校舎を往く。

「職員室とは……まったく面倒なことを言ってくれる」

 ため息をつきながら、冴子が掴みかかってきた<奴ら>の腕を逸らしてさばく。
 鞠川先生を見ているのに、後頭部に目がついているかのような冴子の動きは、相変わらずほれぼれする。
 というか、保健室から出てからあたしが反応する前に全部冴子がやってしまうので、あたしは何もしていない。
 手伝おうと思って弓で<奴ら>を叩こうとしたら、弓を粗末に扱うなと冴子に怒られた。あたしも自分がやってることじゃなかったら激怒するし、当たり前なんだけどさ。
 楽でいいんだけど、何か釈然としない。

「車なら逃げられるでしょ? キィはみんなあそこなんだもん」

「井豪たちは職員室に向かってる。小室たちも脱出するならどのみち車を使うことに思い至るはずよ? 皆と合流できる確率が高いわ」

「私は君の言う殆どの人物を知らないんだが……」

 若干呆れの表情を滲ませた冴子が<奴ら>を次々に突き、あたしたちが走り抜けるスペースを作る。
 あたしに続いてそこを走りながら、鞠川先生が不思議そうな顔をした。

「どうしてやっつけないの? 毒島さんなら簡単なのに」

「出くわすたびに頭を潰すのは足止めされているのと同じだ。取り囲まれてしまう」

 冴子の言う通りだった。
 安全に<奴ら>の頭を潰すのは、遠くから攻撃するのが一番だ。銃があれば最善なのだろうけど、生憎日本じゃ殆ど手に入らない。だけどあたしは弓を持っているから、威力や連射性は劣るけど代わりにはなる。
 もっとも、こんな近くに<奴ら>がうようよしてる現状じゃとてもじゃないけど射なんてできない。

「それに、腕力は信じられないほど強い! 掴まれたら逃げるのは難しい」

「はー、すごいのね……ひゃん!」

 後ろで何かが倒れ込むような音と鞠川先生の小さな悲鳴が上がり、<奴ら>に捕まったのかと焦ったあたしは、慌てて背後を振り向いた。
 思わず脱力する。

「……何やってんですか」

 何のことはなく、鞠川先生がただ足を縺れさせて転んだだけだった。

「やーん! 何なのよもー!」

「走るには向かないファッションだからだ」

 戻ってきた冴子が肩膝をつき、上体を起こした鞠川先生のタイトスカートに手をかける。

「えっ!」

 ビリビリビリと、布が裂ける音が響く。

「あー、これプラダなのにー!」

 ショックを受けた様子の鞠川先生に、冴子は呆れたようにため息をつく。

「ブランドと命と……どちらが大切だ?」

 そんなまったく種類の違う比較されても困ると思うんだけど……。冴子、きっと素で大真面目に聞いてるんだろうなぁ。

「……両方!」

 ご愁傷様です。
 そんなことをしていると、小さな破裂音が立て続けに聞こえた。
 涙眼になってる鞠川先生の横を通り、冴子に囁く。

「今の音、聞こえた?」

「……職員室からか?」

 あたしは鞠川先生を助け起こし、冴子を先頭に職員室へ向かった。
 合流は近い。


□ □ □


 職員室前では、高城を守りながら井豪と平野が奮戦していた。
 あたしたちがやってきたのとは違う道からはちょうど小室と麗がやってきていて、眼が合うと頷いてくる。
 小室たちに冴子が呼びかけた。

「右の二匹をやる!」

「麗!」

「左を押さえるわ!」

「おねーさん、射掛けますよぉー。射線上のお客様は退避してくださいねぇー」

 そこKYとか言わない。
 飛び道具を持っているあたしは、まず近付かなければいけない他の皆よりも先に攻撃できるのだ。
 冴子がいることで虎の威を借りた狐状態になっているあたしは、にっこり笑って軽口を叩きながらも立ち止まって素早く八節を踏み、井豪と平野の迎撃を掻い潜って高城に喰らいつこうとした<奴ら>の頭を射抜いた。

「うーん、我ながら最高の感覚。絶好調♪」

 矢に追いすがるような勢いで駆けていった麗が、わざと相手の腕を空振りさせた後で<奴ら>の至近まで一気に潜り込み、下方から上方へとモップを突き上げる。

「やああ!」

 鮮やかな一撃が顎に食い込み、<奴ら>は棒立ちになった後倒れて動かなくなった。

「ほう……」

 間合いを詰める途中でそれを横目で見て感嘆の声を漏らした冴子は、そのまま目の前に来た<奴ら>2体の胸に突きを入れ、よろめいたところに威力たっぷりの面打ちを脳天に連続で放つ。
 ……あのー、今音が二つ殆ど繋がって聞こえたんですけど。冴子さんどんだけー。

「うおらあああああああ!」

 最後に飛び込んできた小室がジャンプし、残り一匹になった<奴ら>の頭を金属バットでぶん殴った。
 念のため<奴ら>の頭を潰して止めを刺した麗が、高城のもとへ駆け寄っていく。

「高城さん!」

 見ればあたしが<奴ら>を射たのは本当にギリギリだったのか、高城は血飛沫こそ浴びていないもののギュインギュイン動く電動ドリルを持ったまま、へなへなと床に座り込んで震えている。

「大丈夫?」

「みやもとぉ……」

 声まで震えている高城に鞠川先生も近寄っていき、心配そうに声をかけ始めた。
 その横では冴子が初見の小室たち後輩組と自己紹介を交わしている。
 あたしは油断なく残心を止めて弓を抱えると、<奴ら>の死体がある射を行った場所からゆっくりと冴子の隣に歩いていった。
 身長が冴子より4cm低いだけであたしも長身なので、あたしと冴子が並ぶととても目立つ。冴子は言わずもがなの黒髪長髪にスタイル抜群の大和撫子的な美人だし、あたしも胸の大きさではまあまあ自信がある。少なくとも冴子よりは大きい。

「同じA組の御澄嬌よ。一時はどうなることかと思ったけど、皆無事みたいで何より」

 冴子の真似をしてにこっと微笑んでみる。
 先ほど自己紹介時に微笑んだ冴子に見とれていた平野がまた頬を染めた。
 ……井豪、あんたまで顔赤くしてどーする。

「永?」

「いや、何でもない」

 怪訝そうに見上げる麗に我に返ったのか、井豪は顔を顰めると首を横に振った。

「なにさ、みんなデレデレして……」

 電動ドリルを持ったままの高城がぽつりと呟いて立ち上がる。

「何言ってんだよ、高城」

「馬鹿にしないでよ! アタシは天才なんだから!」

 宥めようとする小室の手を払い、高城はあたしを睨み、近付いてくる。

「助けなんかいらないのよ!」

 ドリルを振り上げた高城は、しかし突き立てることはせずに、唖然とするあたしの目の前でドリルを取り落とした。

「怖くなんて……なかったんだから……」

 俯いて震える高城の小さな身体に、あたしは少し躊躇いがちにそっと手を置いて引き寄せる。
 高城の身体がかくんと崩れ落ち、高城に引っ張られる形であたしもまたその場に座り込んだ。
 高城をそっと抱き締める。

「もういいの。強がる必要なんてないのよ」

 あたしの制服を強く握り締めた高城の口から嗚咽が漏れ出す。
 やがてそれは号泣となって、あたしの胸を濡らしたのだった。


□ □ □


 職員室には<奴ら>に侵入されるような位置に窓がないので、扉さえ何とかしてしまえばしばらくは安全だ。
 井豪、小室、平野の3人が協力して、扉の前に机や椅子、中身が満載の重いダンボール箱などを積み上げる。

「こんなもんかな」

「うん」

「積み上げたはいいが、ちょっとやりすぎたな。いざ脱出する時に苦労しそうだ」

「……」

「……」

 苦笑いする井豪の言葉でその時の労力を想像してげんなりする2人。

「皆息が上がっている。少し休んでいこう」

 冴子の申し出に皆が賛同し、散らばっていく。
 麗が水道の水を汲んだペットボトルを配って回るのを見ながら、あたしはスクールバッグから部活の後で飲むつもりだったボトルを取り出し、冴子に放り投げる。

「ほら、良かったら飲みなよ。咽喉渇いてるでしょ?」

「ありがとう。だが、君の私物じゃないのか?」

 空中のボトルをキャッチした冴子は、あたしと手元のボトルを代わる代わる見比べる。
 あたしは昼休みに飲んだ空のペットボトルを取り出し、軽く振ってみせた。

「いーのいーの、あたしは水道の水飲むし。いつも冴子に守ってもらってるんだから、たまには恩返しさせてよ」

「そうか。……恩に着る」

 ボトルを開けて口をつけた冴子は、ストローを吸って一口飲むと頬を緩めた。

「美味いな。これは、スポーツドリンクか」

 もう一口飲んで相好を崩した冴子は、ボトルを閉めてあたしに投げ返した。

「私だけ味わうのも悪い。皆にも分けてやってくれ」

「はーい」

 ボトルをキャッチし、冴子から離れる。
 歩きながら蓋を開け、ストローに口をつけてスポーツドリンクを飲みながら、井豪たちのもとへ向かう。
 近付いてくるあたしに気付いた井豪が、隣の小室に向けていた顔を上げた。

「御澄先輩?」

「はいこれ。回し飲みで悪いんだけど、良かったら飲む?」

 ボトルのストローから口を離して突き出す。

「え? え?」

 何故か井豪は慌て、横の小室は苦笑している。

「ん? どったの?」

「いいえぇ、何でもないですよぉ先輩?」

 ペットボトルを配り終えてやってきた、引き攣った笑顔の麗にボトルを引っ手繰られる。
 そのまま口をつけた麗は目を丸くした。

「あ、冷たくて美味しい」

「でしょでしょー、保冷効果があるの、高かったんだよ」

「へぇ、麗、僕にも飲ませてくれ」

「あ、はい」

 短時間とはいえ、2人きりで行動した感覚が抜けきっていないのだろう。
 小室に言われ、麗はいつも取っていた素っ気無い態度を忘れたかのように素直にボトルを差し出す。

「お、こりゃ確かに」

 口をつけた小室は<奴ら>と相対していた時は終始釣りあがっていた眦を満足そうに下げる。
 ある程度飲んだ小室が所在なさげにボトルを掲げた手をぶらぶらさせるので、あたしはボトルを受け取った。
 また一口飲む。
 視線を感じて振り向くと、我に返った麗に冷たくあしらわれてる小室の横で、あたしが飲んでるボトルを見る井豪とばっちり眼が合った。

「いる?」

「あ……すいません」

 頭をかく井豪にボトルを手渡す。
 眼を細めてボトルを傾ける井豪に満足しながら、あたしはこれみよがしに手を使って言った。

「えーと、あたしから宮本さんで、宮本さんから小室君で、小室君からまたあたしで、あたしから井豪君か」

 つまり間接キス。

「ぶっ!」

 ストローを吸っていた井豪が咽た。
 あたしは眼を見開くと、自分の口に手を当てて井豪の背中を擦る。

「大丈夫? 駄目だよ、ゆっくり飲まなきゃ」

 もちろん、手で隠した口は盛大ににやけている。
 ごめん、全部確信犯です。
 小室と麗をくっつけないと冴子に手を出されちゃうかもしれないのに、ついうっかり井豪を助けちゃったから、麗が中々小室に振り向いてくれなくて困ってるんだよね。
 だから仕方なく、こうして遠まわしに彼氏を誘惑して麗が小室を見ざるを得なくなるように外堀を埋めているのでありました。
 麗に嫌われるのは悲しいけど、冴子さえあたしのことを好きでいてくれればあたしにはそれで充分だから……。

「か……勘弁してください。ただでさえ麗の機嫌が悪いのに」

 口元を拭った井豪がげっそりした顔でボトルを返す。
 ボトルを受け取ったあたしはにっこりと笑い、残る2名がいる流しに向かう。
 流しでは高城が顔を洗っていた。その横で平野が彼女に話し掛けてツンツンされている。
 おう、つんでーれ。
 残されてしょんぼりしている平野に声をかける。

「飲む? 冷えてて美味しいよ」

 何故か高城がやってきた。

「いただくわ」

「えっ」

「いただくわって言ってんのよ。くれるの、くれないの、どっち!?」

「……はい」

 剣幕に負けてすごすごとボトルを差し出すと、高城は引っ手繰って、腰に手を当てて飲んでいく。
 口からストローを離すと、飲み口をハンカチでごしごしと拭いて平野に押し付けた。

「ほらっ、あんたも飲めば?」

 あたふたする平野はあたしとむすっとした顔の高城を見比べ、手元のボトルを見てもう一度あたしを見る。

「飲んでいいよ?」

 あたしが許可を出すと、平野はようやくストローに口をつけて飲み始めた。

「あ、美味しい……」

「部活に備えて氷いっぱい入れてきたからね。今日一日は冷たいと思うよ」

「へえ。全部飲んじゃってもいいの? 今となっては貴重なんじゃない?」

 眼鏡の奥の眼を不機嫌そうに細めて、高城が言う。

「そうだけど、時間が経てばただの薄くてぬるいスポーツドリンクになっちゃうからねえ。逆に早めに飲み干さないと」

 満足したらしい平野から受け取る。
 2人から離れたあたしはストローに口をつけて一口飲むと、鞠川先生が座るデスクに向かった。
 組んだ腕の上に顔を載せてぐったりとしている鞠川先生のタイトスカートは、冴子の手によって際ど過ぎるスリットが入っており、そこから艶かしい御御足が覗いている。
 冴子って見かけによらずああいうの好きなんだよね。初めて冴子と買い物に行った時、服を選んでもらったら凄いことになった。主に露出的な意味で。
 あたしに気付いた鞠川先生が億劫そうに顔を上げる。

「飲みます? 飲めるうちに飲んでおいた方がいいですよ」

 片手を伸ばした鞠川先生は、力尽きたようにまたデスクに突っ伏す。

「飲ませてぇ~」

「はいはい」

 苦笑しながら口元にストローを近付けてやると、鞠川先生はストローをぱくっとくわえ込んでちゅーちゅー吸い始めた。
 鞠川先生の表情がへにゃっと崩れる。

「しあわせー……」

 全員に回って元々量が少なかったのもあって、鞠川先生は全部飲みきってしまった。

「ごめん、全部飲んじゃった」

 人心地ついたのか身体を起こしてボトルを返してくる鞠川先生に、あたしは首を振ってみせる。

「気にしなくていいですよ。元々ここで飲みきるつもりでしたから。飲み過ぎでいざという時に動けなっても困りますし、助かりました」

「鞠川先生、車のキィは?」

 向こうから小室が声をかけてくる。
 あたしは空になったボトルを玩びながら周りを見ると、麗がテレビを見ていたので隣にデスクの椅子を持ってきて座った。
 何とはなしに流れているニュースを見る。
 ううむ……これは酷い。
 耐え切れなくなって早々に見るのを止め、再びやり取りを観察する。

「あ、バッグの中に……」

 職員室に置きっぱなしだったらしいバッグを引き寄せて中身をかきわけ始める鞠川先生に、腕組みをし足を組んで寛いでいる冴子が疑問符を上げた。

「全員を乗せられる車なのか?」

「うっ」

 車のキィを探す鞠川先生の動きがピタッと止まる。

「そういえば無理だわ……コペンだもん」

「部活遠征用のマイクロバスはどうだ? 壁の鍵掛けにキィがあるが」

 冴子の言葉に窓の近くにいた平野が外を確認し、マイクロバスを見つけて指差す。

「まだあります」

 キィを探すのを止めた鞠川先生が話し込んでいる小室と井豪に振り向いた。

「バスはいいけど、どこへ?」

 答えたのは小室と何やら話し込んでいた井豪だった。

「家族の無事を確かめに行きます。近い順に家を回って家族を助けて、それから安全な場所を探して……勤務先にいるかもしれませんが」

「見つかるはずよ。警察や自衛隊が動いてるはずだもの。地震の時みたいに避難所とかが……どうしたの?」

 高城があたしたちに声を掛けてきた。
 まだテレビを凝視している麗の横で、あたしはため息をついてテレビを指差す。

「ニュースがやってたから見てたのよ。……ほんと、まるで悪い夢を見ているみたいだわ」

 手元にあったリモコンを手にとり、冴子がテレビのボリュームを上げる。
 テレビでは、現地でリポーターが中継をやっていた。リポーターの背後ではいくつもの死体袋が台に積まれており、車に乗せられようとしている。
 拳銃の音が鳴り響き、リポーターの背後で死体袋が次々とむくりと起き上がっていく。
 リポーターの驚愕の声と断末魔を最後に映像が乱れ、スタジオにカメラが戻った。
 動揺しながらも落ち着いて無かったことのように流すキャスターに、皆が絶句している。

「それだけかよ……どうしてそれだけなんだよ!」

「……パニックになるのを恐れているんだ」

 激昂する小室の横で、険しい顔の井豪が感情を押さえた声で静かに言った。
 不安からかあたしの袖を掴んでいる麗が井豪を振り返る。

「いまさら?」

「いまさらだからこそよ」

 麗の疑問に答えたのは高城だった。眼鏡をくいっと押し上げて冷徹な表情で言う。

「恐怖は混乱を生み出し、それはやがて秩序の崩壊を招くわ。秩序が崩壊したら……どうやって動く死体に立ち向かえるというの?」

 誰もが項垂れていた。
 冴子でさえも、表情には出すまいと努めているようだったが、その白磁から一筋の汗が伝っている。

「朝ネットを覗いた時はいつも通りだったのに、どうしてこんなことに……」

「信じない……信じられない……たった数時間で世界がこんなになるなんて」

 つぶやく平野の眼も、麗の眼も恐怖に満ちている。
 あたしはといえば、怖いことには変わりはないのだが、何と言うか皆が怖がりすぎてかえって冷静さを取り戻していた。
 なまじ中途半端に漫画の知識が記憶としてあるせいで、ある程度の希望が見えているからかもしれない。
 または、今頃になって、冴子たちを現実の人間だと思えなくなったのか。
 ……いや、それだけは有り得ない。
 皆目の前で生きているのだ。息をしている彼ら彼女らを見ずに、彼らが漫画の登場人物に過ぎないなんて言わせない。

「家族の無事を確認した後、どこに逃げ込むかが重要だな。好き勝手に動いていては生き残れまい。チームだ。チームを組むのだ。生き残りも拾っていこう」

 冴子の言葉を聞いて、小室が井豪に視線を向ける。

「永。どこから外へ行く?」

 しばらく黙考していた井豪は、皆を見回して答えた。

「正面玄関だ。そこから出れば、最短距離でバスに向かえる」

「ならば準備が済み次第出るとしよう。このままここにいても事態が悪く……何?」

 くいくいとスカートを引っ張るあたしに気付いて、冴子が怪訝そうに片眉を跳ね上がる。
 やべえ、皆に見つめられて言い辛い。でももう我慢できそうにないし……。

「トイレに行きたくなっちゃった」

 ピシリと音を立てて空気が凍った。
 さて、どうしようか。


 1.冴子に付き添いを頼む
 2.一人で行く



[20246] 第七話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:51
→1.冴子に付き添いを頼む
 2.一人で行く


 冴子についてきてもらって呆れの視線を浴びながら用を足したあたしは、職員室に戻ると冴子からありがたい説教をもらった。
 全て冴子の方が正論なので何も言い返せない。でもね、女の子なんだからあたしも冴子も羞恥心って捨てちゃいけないと思うんだ。

「恥ずかしいなら物陰でペットボトルにでもすれば良かっただろうに」

 ぐうの音も出ない。
 最後に拳骨を頭に一発頂戴して説教は終わる。
 皆が準備を終えたことを確認して、井豪が声を上げた。

「皆準備はいいな? 行くぞ!」

 井豪を先頭に少し後ろに小室、冴子とあたしと平野、麗と鞠川先生、最後尾に高城という順番で、陣形を組んで進む。
 武器が飛び道具である関係で遠目が利くあたしと平野が索敵を担当して<奴ら>をより早く発見し、先制を加えて冴子、小室、井豪、麗の四人で片付けるという形だ。
 鞠川先生は救護役、高城は予備戦力兼鞠川先生の護衛となる。ぶっちゃけこの二人まで<奴ら>に襲われるようならあたしたちは全滅してるだろうから、この人選にあまり意味はない。

「最後に確認しておくぞ。無理に戦う必要はない、避けられるときは絶対に避けろ! 転がすだけでもいい!」

「連中、音にだけは敏感よ! それから普通のドアなら破るくらいの腕力があるから掴まれたら喰われるわ! 気を付けて!」

 冴子と高城が皆を見回し、言い聞かせる。
 些細なものも見逃さないように視線をあちこちに飛ばして回りに気を配っていたあたしは、階段の踊り場で<奴ら>が固まっているのに気付き眼を凝らす。

「人がいる! まだ生きてるわ!」

 踊り場の壁際に、<奴ら>に囲まれて男子生徒三人と女子生徒二人が追い詰められていた。

「キャアアアアアアアアアア!」

 逃げ場が無くなったことに気付いたのか、女子生徒の一人が悲鳴を上げる。
 冴子たちが助けようと飛び出していった。

「平野! 皆の突撃を援護するよ!」

「は、はい!」

 あたしはその場で八節を踏み、ギリギリと弓を引き絞った状態のまま叫んだ。

「いい加減見飽きたのよ、アンタたちは!」

 射られた矢は真っ直ぐに飛翔し、過たず男子生徒に接近していた<奴ら>の側頭部を射抜く。
 続いて平野の釘打ち機から発砲音が飛び出し、<奴ら>の何匹かが頭に釘を生やして倒れ付す。
 平野に笑いかけた。

「ナイスショット!」

 この一合で冴子たちは<奴ら>を排除したようで、手招きを受けてあたしたちも降りていく。
 皆の会話を聞きながら、あたしは射た矢を回収し残量を確認していた。
 ちなみに職員室に入る前に使った二本は無事だったのでちゃんと拾っている。数に限りがある以上、一本たりとも無駄にはできない。
 現在矢筒に入っているのが金属シャフト矢十本で、今回回収したのが一本。バッグの残りが……やばい、金属シャフト矢も遠的用のカーボン矢も一パックずつしかない。うう、脱出まで持つかなぁ。
 不安になってため息をつくあたしの他所では、男子生徒たちの同行が決まったようだった。

「どうした?」

 あたしの様子を見咎めた冴子が尋ねてくる。

「ん、ちょっとね。ここに来るまでに矢を使い過ぎたかも」

「そうか。なら少し下がれ。戦えない者も増えた。彼らを見てくれると助かる」

「任されたわ」

 冴子に手をひらひらと振ってあたしは後ろに下がった。


□ □ □


 ようやく正面玄関に着いた。
 そろそろと忍び足で一番左の下駄箱に身を隠したあたしたちは、ここをどう通るか頭を回らせる。
 井豪が影からそっと身を乗り出して、驚いたようにすぐに身を隠す。

「……駄目だ。突破するには数が多すぎる」

「見えてないから隠れることなんて無いのに」

「じゃ、高城が証明しろよ」

 小室に言われ、高城は身を竦ませた。
 怖いよね、そりゃ。
 腕を組んで思案していた冴子が口を開いた。

「たとえ高城君の説が正しいとしても、この人数では静かに進むことなどできん。校舎の中を進み続けても……襲われた時、身動きが取れない」

 後続の視界を塞がないように肩膝を立てて中腰になっている麗が、緊張に満ちた声を出す。

「玄関を突破するしかないのね」

 麗の方を見て頷いた冴子は、再び正面玄関がある方向に視線をやった。

「誰かが……確かめるしかあるまい」

 一同の間に緊張が走る。
 井豪が一度出ようとして、麗に泣きそうな顔で引き止められた。
 それ以外は誰も名乗りを上げない。今まで<奴ら>と立ち向かってきたのとは訳が違う。出口が近いのだ。なまじ希望が見えているだけに、誰も命を賭けようとは思えないのだろう。
 でも、冴子を始めとして責任感の強い人も多いから、これは多分言い出すタイミングを窺っているせいもある。きっと誰かが口を開けば連鎖的に口を開くはずだ。
 あたし? あたしは冴子以外のことで危険に飛び込むつもりなんてこれっぽっちもありませんが、何か?
 ……って、ここって誰が言い出すんだっけ? まずい、思い出せないや。
 周りを窺っていると、小室と眼が合った。しばし眼を彷徨わせたあと、何故か眼を瞑ってため息をついている。何ぞ?

「僕が行くよ」

 冴子と井豪がぴくりと眉を動かし、麗が顔を小室に向けて驚愕の表情を浮かべる。

「待て孝、やっぱり俺が行く」

「私が先に出た方がいいな」

「いや、毒島先輩はいざという時のために控えていてください。永も、できれば皆のフォローに回ってくれ」

 出て行こうとする孝に、麗が聞いた。

「孝……なんで? 何もかも面倒じゃなかったの?」

「なんでかな」

 小室は麗を振り返った。
 麗の隣にはいつも通り井豪が寄り添っていて、そこに小室が入る隙間は無い。
 ずっと永の位置に座りたいと思っていたのだろう。永が嫌いなわけではなくとも、それでも嫉妬がないなんてことは有り得ない。
 いや、本当は嫌いだったのかもしれない。
 あるいは耐えられなくなったのか。これ以上、自分ではない誰かに寄り添う麗を見るのが。

「今でも面倒だよ」

 遣る瀬無い笑顔で出ていく小室を見て、あたしには小室の気持ちが、少し分かった気がした。
 思わず後を追おうとした麗が、厳しい表情の永に止められている。
 想い届かず、独りで限りなく死に近い難事に挑む小室が哀れだった。
 だからだろうか。

「いいえ、あたしが行くわ」

 冴子に危険があるわけでもないのに、そんな馬鹿なことを言ってしまったのは。


□ □ □


 皆に猛反対された。
 衝動的に言ったのは確かだけど、そこまで反対されるとは思っていなかったあたしは、半ばムキになって下駄箱の陰から出た。
 <奴ら>の後姿が、すぐ目の前にある。
 勇ましかった気持ちはたちまち萎び、後悔が頭をもたげてくる。形振り構わず冴子のもとに逃げ帰りたくなるのを堪え、あたしはこれも冴子のためだと思い込む。そう思わないとやれそうにない。
 ──こわい。
 震えて音が鳴りそうになる歯を強く噛み締め、一歩一歩、亀のような歩みで歩を進める。
 ちょっと走って手を伸ばせば届くような位置に<奴ら>がいる。
 緊張からか聴覚が異常に冴えていた。自分の呼吸の音さえ耳に障り、思わず唾を飲み込む。そんな音すら五月蝿い。
 一番前の<奴ら>の足元に、誰かが脱ぎ捨てたのか、下駄箱の上に置きっぱなしにしていたのが落ちたのか、シューズが落ちている。あれを投げれば<奴ら>を誘導できるかもしれないけど、そこまで近付いたら気付かれるかもしれない。
 弓で射ようにも近過ぎて、弦の音で絶対に気付かれる。
 <奴ら>の目の前に着いた。もう身体が震えるのが止められない。恐ろしい。
 ──こわい。
 ゆっくりとしゃがんで、<奴ら>から目を離さずにシューズを拾い上げる。
 震える手で振りかぶって──投げた。
 傘立てに当たって大きな音が響く。四方八方を向いていた<奴ら>が、皆あたしたちがいる方向とは逆の方向に一斉に振り向き、よろよろと向かい出した。
 その隙に、正面玄関のドアに手を掛けて、そっと外に開く。蝶番が軋む小さな音にさえ怯えた。
 <奴ら>は戻ってこない。
 やり遂げたことに安心して、涙が出てくる。
 下駄箱の陰で息を潜めていた冴子たちに向かって、泣き笑いの表情になりながら頭の上で大きく丸印をつける。
 冴子が真っ先にやってきた。井豪も飛び出そうとしたけど、傍にいた麗に袖を引かれて来れなかった。
 皆が足を忍ばせて外に出て行く中、ドアの横に陣取った冴子があたしの頭をぽんぽんと撫でた。
 その手がとても温かくて、あたしは少しだけ皆から視線を外して、冴子の手の温もりに身を委ねた。
 それがいけなかった。
 一番最後のさすまたを持った男子生徒が正面玄関を潜ろうとした瞬間、金属と金属をぶつけたような鋭い音が響く。
 既に外にいた井豪と麗、あたしと一緒にドアの横にいた冴子と小室が、驚愕と焦燥に彩られた表情で振り返る。
 あたしは、最悪のタイミングで原作の展開を思い出していた。
 そうだ、あの男子生徒だ。あらかじめこれを予見できたあたしだけは、彼を見張っていなければならなかったのに。どうして忘れていたの!? こんな馬鹿なことで冴子を危険に巻き込むなんて!
 あらぬ方向に歩いていた玄関内の<奴ら>がぴたりと止まり、一斉にあたしたちの方に振り向く。
 外を見ていた小室が叫んだ。

「走れ!」

 外からも中からも<奴ら>が近付いてくる中、一斉にあたしたちは地を蹴る。
 冴子がすぐに横に飛び出し、手近にいた一体の顔面に木刀を薙ぐ。その<奴ら>は顎が折れ、歯が砕け、さらに余波によって転倒した。
 すぐに冴子の後を追い、冴子の動きと同調するように動いて<奴ら>に矢を射掛ける。
 頭に当たらなくてもいい。ちょっとでも牽制になってさえくれれば、その隙に冴子が動ける!

「なんで声だしたのよ! 黙っていれば手近な奴だけ倒してやり過ごせたかもしれないのに!」

 走り出そうとする小室に怒鳴る高城に、モップの柄で<奴ら>の足を払って転ばせながら麗が叫んだ。

「あんなに音が響くんだもん無理よ!」

 麗の隣でバールのようなものを<奴ら>に叩きつけた井豪が前方を見て言う。

「前からも来るぞ! 先に逃げた鞠川先生たちが危ない!」

 先頭に飛び出しながら小室が叫んだ。

「話すより走れ!」

 あたしと冴子はお互いに死角を補い合い、時には位置を入れ替えながら、マイクロバスへの道を作るのを小室と麗に任せ、殿として集団の最後尾に残り、<奴ら>の相手をする。
 右を見ても左を見ても前を見ても<奴ら>だらけで、幸い誤射を気にする必要は無いが、如何せん数が多すぎる。

「冴子! 下がらないと囲まれるよ!」

「だが下がれば集団の横腹が<奴ら>に襲われる! もっと動いて<奴ら>を引き付けるぞ!」

「無茶言うなー!」

 思わず叫ぶあたしの後ろから、冴子の鋭い気合が迸る。冴子の気配が一瞬ぐんと大きくなり、背後で動く速度がさらに上がった。

「ああもう! こうなったらとことんやってやるわよ!」

 あたしは叫び、肩に背負っていたスクールバッグを邪魔だとばかりに振り上げ、遠くに見えるマイクロバスに向けて放り投げた。投げたスクールバッグは大きな放物線を描いて集団の先頭を通り過ぎ、マイクロバスの前に落ちる。大きな落下音がした。
 段々興奮してきたのか、口元をにやりと釣り上げながら冴子が叫ぶ。

「相変わらずの馬鹿力だな! 凄い音がしたぞ!」

「うっさい茶化すな!」

 冴子の後ろで、目に見える<奴ら>に片っ端から矢を射る。激しく動きながらでは射形に注意を払えず、中々狙った場所に矢が飛んでくれない。それでも<奴ら>の数が多いので外れることは少ないが。
 先頭を行く誰かが叫んだ。

「もうすぐだ!」

 その声が意味する事実にあたしは笑みを浮かべる。あとちょっとだ、頑張るぞ!
 自分を鼓舞しながら背中の矢筒に回した手が空を切る。

「げ! もう矢がない!」

 すぐ後ろで<奴ら>の頭を木刀で叩き割った冴子が、あたしにちらりと眼を向ける。

「充分だ。先頭集団が今バスに着いた。私たちも戻ろう」

「オッケー」

 攻撃手段を失ったあたしは冴子に守られながら、少しずつ後退を始める。
 後退しているうちに、タオルを首に巻いた男子生徒が<奴ら>を叩くのに夢中になって、何時の間にかあたしたちの前に取り残されているのを見つけた。

「ちょっと! あんたも戻らないと……」

「ぎゃあああああああ!」

 あたしが言い終わる前に、男子生徒は<奴ら>にタオルを掴まれ、噛み付かれた。そのまま押し倒されて咀嚼される。

「卓造!」

 目元にそばかすの残る女子生徒が、高城の制止を振り切って男子生徒のもとへ走っていく。
 ちくしょう、あたしのせいだ! 矢が無くなったからって下手に下がるんじゃなかった!

「やああ!」

 下がるのを止めて弓を棒のように振り回し始めたあたしを見て、冴子が目尻を釣り上げた。

「こら、粗末にするなとあれほど……! 君はもう下がれ!」

 あたしは手を止めて冴子を振り返り、怒鳴る。

「命には代えられないわ! だいたい冴子が残ってるのに一人で戻れるわけないでしょうが!」

「嬌、前を見ろ!」

 慌てて正面を向いたあたしに、<奴ら>が飛び掛ってきた。
 反射的に避けようとして硬直する。
 今後ろに冴子がいるから、避けたら冴子が襲われる!

「──!」

 眼を見開いたあたしは死を覚悟した。
 集中力が限界まで増し、一瞬が永遠に引き伸ばされる。
 走馬灯は思い浮かばない。ただ絶対に冴子を死なせるものかと思っていた。
 例え喰い殺されることになっても、それで冴子を守れるなら構わない。
 ──冴子に指一本触れられると思うな!
 心の中でそう絶叫する。
 だから、<奴ら>の額に突如ぽすと間抜けな音を立てて釘が生えた時、あたしは状況を理解できずまじまじとそれを見つめてしまった。
 我に返り振り返って釘が飛んできた方向を確認する。
 マイクロバスの方からだ!

「平野ぉ! ファインプレーだよ!」

 腕を突き上げて快哉を上げた。
 続けて援護射撃を受けてマイクロバスの前にようやく辿り着いたあたしと冴子は、小室と一緒に他の皆が乗り終わるまで大立ち回りを演じる。

「急げ!」

「急げ、急げ!」

 冴子や他の誰かが叫ぶのを聞きながら、両手で弓を持って奴らの顔面に一閃する。
 鞭で打ち据えたような鋭い音とともに<奴ら>が仰け反り、その隙に後退して反転する。入れ違いに飛び込んできた冴子が仰け反らせた<奴ら>の脳天に木刀を叩き込むのを見ながら、またすぐさま違う<奴ら>を弓で打ち払う。
 ええい、さっきからうっとぉしい! こいつら全然減らない! というか弓が! 弓が壊れる!
 マイクロバスを振り返った。

「急ぎなさいよ! まだなの!?」

「いつまでも支えられんぞ!」

 横で奮戦する冴子の声にも焦りが出ている。
 最後の一人がバスに乗り込むのを見て、冴子が小室に叫んだ。

「小室君、全員乗った! 君も戻れ!」

「御澄先輩から先に!」

「冴子が先よ!」

 奇しくもこの状況で譲り合いになって、バスから固唾を飲んで見ていた高城がヒステリックに絶叫する。

「誰からでもいいから早く乗りなさいよ!」

 あたしたちは顔を見合わせる。
 結局冴子、あたし、小室の順でバスに乗り込んだ。
 小室がバスのドアを閉めようとする時、あたしは今まで切り開いた道を通って、集団が走ってくるのを見つけた。
 その先頭を走る人物を見て、あたしは冴子に声をかける。

「ねえ、あれ紫藤じゃない? うちの担任の」

「そうだな」

 あたしたちの背後で、麗の低い声がした。

「……紫藤」

 運転席で発進の準備をしていた鞠川先生が運転席近くに来た小室を振り仰ぐ。

「もう出せるわよ!」

「もう少し待ってください!」

「前にも来てる! 集まりすぎると動かせなくなる!」

「踏み潰せばいいじゃないですか!」

 口論する鞠川先生と小室の後ろから、冷静な声で高城が鞠川先生の言いたいことを補足した。

「先生の言う通りよ。この車じゃ何人も踏んだら横転するわ」

「……仕方ない。永、出るぞ!」

 小室が井豪に声をかけて金属バットを片手に飛び出そうとするのを、麗が後ろから抱き付いて止める。

「助けることないわ! あんな奴死んじゃえばいいのよ!」

「何だってんだよ一体!」

「孝、待て! 麗には事情があるんだ!」

 あたしは彼らのやりとりを聞きながら、強い既視感に襲われていた。あたしの手は無意識のうちに彷徨い、誰かが持ち込んでいてくれていたらしいスクールバッグを探し当てる。
 どこか夢見心地のまま、あたしは矢を取り出してフラフラと歩いていく。

「……嬌?」

 横にいた冴子が、不思議そうな表情であたしを見ている。
 まだ空いていたドアの前に立ち、矢を持ったまま遠くの紫藤先生を見つめる。

「何をしている?」

 冴子の声が耳に入らない。
 代わりに感じる強烈な既視感。あたしはこの場面を知っている? どうして?
 ……決まっている。あの忌々しい前世の記憶のせいだ。
 前世の記憶が、あたしにまだ知らない場面を幻視させた。
 大きな屋敷で、皆が束の間の安息を得ていた。高城が誰か、両親らしき男女と一緒にいた。着物を着た冴子が、刀を手に捧げ持っていた。
 そこから先はまだ不明瞭でよく分からない。
 ブレーキが利かなくなったバスがバリケードに突っ込んだ。運転席の紫藤先生が鼻と口から血を流している。大人数の<奴ら>に鉄門が破られ、安息の場だった屋敷が、<奴ら>によって汚されていく。
 誰かが<奴ら>に突っ込んでいった。彼と行動を共にした結果、<奴ら>に埋没して見えなくなる長い髪。
 それがあたしには何故か、小室と冴子に見えた。
 一瞬で脳が沸騰した。血液が泡立った。身体中の血管が燃え上がって、今まで感じたことのない怒りがあたしを満たす。
 させない。そんなことはさせない。許せない。他の誰が許しても、冴子を守ると決めたこのあたしが許さない。
 それがもし本当に起きるのだとしたら、例え人殺しと罵られることになるとしても、その原因を生かしてはおけない。
 もしかしたらあたしの勘違いで、それは冴子ではなかったのかもしれない。別の誰かだったのかもしれない。それでもあたしは己の衝動が命じるままに行動した。
 外に飛び出して八節を踏む。

「っ! 止せ!」

 どこか遠くから冴子の声が聞こえる。
 紫藤先生があたしに気付いた。
 あたしは──


 1.紫藤先生を射る
 2.紫藤先生を射ない



[20246] 第八話(一巻終了)
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:52
→1.紫藤先生を射る
 2.紫藤先生を射ない


 習慣というのは不思議なものだ。
 例え意識が沸騰して半ば我を失った状態であっても、身体は練習していた通りにいつもと同じ手順を踏み、あたしは最高の射を行っていた。
 距離は目測で凡そ六十mほど。弓道の遠的とほぼ同じだ。
 殺意を乗せた矢が、獲物へ襲い掛かる猛禽の如く<奴ら>の間を抜けて紫藤先生目掛け飛翔していく。

「……っ!」

 あたしの眼は、紫藤先生が飛んでくる矢を見て眼を見開いた瞬間を捕らえていた。
 肉を抉り、骨を貫く生々しい音が響く。
 頭に矢を生やした紫藤先生がゆっくりと倒れ付した。
 突然起きた殺人に、必死で走っていた生存者たちが急停止する。
 同時にあたしの意識が現実に帰ってくる。
 不思議な体験も、根拠のない意味不明な衝動に従って殺人を犯したという事実も鑑みることなく、あたしは彼らを見て反射的に叫んでいた。

「走りなさい!」

 朗々と響き渡るあたしの声。
 遠くから紫藤先生の遺体とバスにいるあたしを見比べている彼らに、あたしはもっと大きな声で叫んだ。

「生き残りたければ、走りなさい!」

 あたしに対する恐怖より、迫る<奴ら>に対する恐怖の方が勝ったのだろう。
 必死に走り出した彼らはバスに辿り着き、乗り込んでくる。
 車内に漂う異様な雰囲気を無視して、あたしは鞠川先生に叫んだ。

「全員乗りました! 出してください」

「行きます!」

 運転することに集中していて一連の出来事に気付いていない鞠川先生がギアを入れ、クラッチを踏んだままアクセルに足を掛ける。

「あれはもう人間じゃない……」

 アクセルを踏み込み、クラッチを緩める。

「人間じゃない!」

 急発進したバスは、前にいた<奴ら>を跳ね飛ばして走り出した。
 前世の記憶に残る紫藤先生の台詞が、あたしの脳裏に不気味に響く。

『生き残るためにはリーダーが絶対に必要です。目的をはっきりさせ、秩序を守らせるリーダーが……』

 その紫藤先生を、あたしは殺してしまった。これからどうなるのだろう。
 多種多様な問題を抱えながらも、あたしたちを乗せたバスはこうして無事学校を脱出したのだった。


□ □ □


 バスは人気の無い道路を走っていく。
 鞠川先生の車はオートマだったようで、初めのうちは鞠川先生はマニュアル車の運転に慣れない様子で何度かバスをエンストさせていたが、今はそれもなく軽快に走っている。
 あたしはついさっきまで皆に問い詰められていた。紫藤先生が足を挫いた生徒を見捨てたことを原作から思い出して、前世の記憶のことは隠して実際にその行為を見てしまったから直感的に危険だと思ってやってしまったと説明した。
 信じてもらえたかどうかは定かではないが、一応今は追求は収まっている。
 コンビニ発見。お菓子食べたいなぁ。
 殺人の余韻が消えず震えて思うように動かない手を皆から隠してそんなことを現実逃避気味に考えていたら、鞠川先生が道路をふらふら歩いていた人影を思い切り跳ね飛ばした。
 ……<奴ら>だよね? 人じゃないよね?
 思わず額に汗していると、怒鳴り声が響く。

「だからよぉっ、このまま進んだって危険なだけだってば!」

 振り向けば不良っぽい男子生徒が立ち上がって周りをねめつけていた。
 運転している鞠川先生がこちらをバックミラーでちらちらと窺っている。
 集中してください。事故ったら怖いんで。
 冴子は我関せずで木刀の血を拭っているし、あたしはあたしで今は亡き紫藤先生が連れてきた生徒たちの視線が鬱陶しくてたまらない。

「だいたい何で俺らまで小室たちに付き合わなけりゃならないんだ? お前ら勝手に街に戻るって決めただけじゃんか! 寮とか学校の中で安全な場所を探せばよかったんじゃないのか!?」

 トラックが事故って道路を塞いでいたので鞠川先生がハンドルを切ると、トラックの陰から乗用車が飛び出してきた。
 急ブレーキがかかり、外から罵声が聞こえてくる。

「……五月蝿いなぁ」

 ただでさえ紫藤先生を殺してしまったことで、自分でも分かるくらい情緒不安定になっているあたしは、外にも中にもイラッとして呟いた。
 ちらりと心配そうにこちらを見てくる冴子に微笑んで何でもないと首を横に振ると、あたしはなるべく冷静さを保つよう心がけて車内でがなり立てる不良生徒に眼を向ける。

「このバスに乗り込んだのはあたしたちが最初だし、あんたたちが乗るまでの道を切り開いたのもあたしたちよ? 別に付き合えとは誰も言ってないんだから、嫌なら降りればいいじゃない」

「人殺しに言われたくねえよ! お前こそ降りろ、この犯罪者が!」

「何ですって?」

 かなりカチンときた。

「このまま進んでも危ないだけだよ……さっきのコンビニとかに立て篭もった方が」

 根暗そうな男子生徒が恐る恐る言う。

「今からだって遅くない! 俺は……」

 あたしたちよりも先に、鞠川先生の方が限界だった。
 慣れない運転で神経を擦り減らしてるっていうのに、車内はこんな状況だ。無理もない。
 鞠川先生はバスを乱暴に路肩に止めると、こちらを振り返って怒鳴る。

「もういい加減にしてよ! こんなんじゃ運転なんかできない!」

 見かねたのか、井豪が険しい顔で立ち上がった。
 優男風な甘いマスクに反してガタイが良い井豪に気圧され、不良生徒が焦って叫ぶ。

「んだよぉっ、やろうってのか!」

「ならば君はどうしたいのだ?」

 木刀を拭い終えた冴子が不良生徒に眼を向ける。
 曇りの無い凛とした眼に見据えられ、不良生徒がたじろぎした。
 我に返ったように慌てて小室を指差す。

「気にいらねーんだよ! こいつが気にいらねーんだ! 何なんだこいつさっきからエラそうにしやがって!」

 どこからどう見ても言い掛かりです本当にありがとうございました。
 いきなり因縁をつけられれば小室も黙ってられないわけで。

「何がだよ? 俺がいつお前に何か言ったよ?」

「てめえっ!」

 一触即発の空気にモップの柄を手に持った麗が無言で席を立った。
 つかつかと不良生徒に歩み寄ると、おもむろにモップの先で思い切り脇腹を抉る。
 わーお、冷静な顔してキレてらっしゃる。
 最後の自制が働いたのか、辛うじて尖った金具の部分を打ち込むのは避けたようだけど、それだけだ。
 不良生徒はバスの床に倒れ込み、胃液を吐いて身悶えている。

「……最低」

 倒れ付す不良生徒を見下げ、麗が絶対零度の声を出す。井豪がぽんぽんと慰めるように麗の肩を叩く。
 ゼーゼーという不良生徒の呼気が響く中、車内に何ともいえない空気が流れた。
 ううむ……紫藤先生のことは好きじゃなかったが、あの人のいうことは、一部だけならその通りだったかもしれないな。
 あたしは立ち上がり、皆が注目するように声を張り上げた。

「みんな聞いて。人数が増えてきたし何かあるたびにこうやって意見が衝突するんじゃ、この先行き先を決めるだけでも大変だと思うの。多数決でも何でもいいから、意見を纏めるリーダーみたいなのを決めた方がいいと思うんだけど……」

 真っ先にあたしに反応したのは高城だった。

「リーダーねぇ。構わないけど、候補者はどうするの? 下手したらその時点でまた揉めるわよ?」

 スクールバッグから授業で使っていたノートを取り出し、あたしは白紙の部分を破った。

「とりあえず、自薦他薦どっちでもいいから、匿名で書いてみて。後で集計するから、一番多かった人が暫定的にリーダーになるってことで。あ、他人と相談するのはなしね」

 腕を組んでいた冴子があたしを見る。

「もし票数が一番多かった人物が拒否したらどうなるのだ?」

「そうしたら、次に多かった人をリーダーに指名してもらうわ。それで、拒否した人にはリーダーの補助についてもらう。人望はあるってことだから、それくらいはしてもらわないと」

 事態を静観していた井豪が立ち上がり、あたしがしている紙を人数分に分ける作業を手伝い始める。

「このまま立ち往生しててもいつか<奴ら>に追いつかれる。とにかくやってみよう」

 こうして、『第一回リーダー決め選挙』が行われたのだった。


□ □ □


 集計した投票結果は以下の通りである。

 冴子……四票
 井豪……三票
 小室……三票
 あたし…五票
 その他…二票

 つーことは……?

「君で決まりだな」

 冴子が笑みを浮かべて言ってくる。

「あ、あれ……?」

 自分に票が集まるとはまったく思っていなかったあたしは、思わず冷や汗をかいた。
 そもそも大人なのに鞠川先生に全然票が集まっていないのは何故だろう。天然で普段が頼りないからか。

「こんなの言い出しっぺに票が集まるに決まってるじゃない」

 狼狽するあたしを見てにやにやと高城が笑っている。

「いいんじゃないの? 御澄さんなら三年生だし、弓道部でも部長してるんでしょ?」

 一番年上であるはずの鞠川先生は運転席からこちらを振り返り、のほほんとしている。
 後から来た人たちがあたしに投票するとは思えないから、どうやら主人公組メンバーの殆どがあたしに入れたらしい。

「ででででもあたしには拒否権がっ」

「私はやらんぞ。柄ではない」

 指名する前に冴子に否定された。ちくしょー。

「あの、やりたくないなら俺やりましょうか……?」

 苦笑して井豪が手を上げた。
 三票で並んでいるのが井豪と小室だから、指名はこの二人から選ぶことになる。
 前世の記憶は確かではないが、原作ではこの時点で井豪が死んでいたから、時が経つにつれて自然と小室がリーダー的存在になっていった気がする。
 責任感があり実力もある冴子とよく一緒に行動するようになり、ついには神社で一泊した時に冴子の秘密を聞いて、全てを肯定してハートをがっちり掴むのだ。冴子に関係することなのではっきりと覚えている。
 これを壊すには、まず冴子と小室を一緒に行動させないようにするのが一番だ。でも井豪をリーダーに指名するのはあまりよくない気がする。井豪がリーダーだと、麗がますます井豪に夢中になって小室を蔑ろにするかもしれない。そうなると、かえって小室が冴子に転がる可能性がある。麗にはぜひとも小室に振り向いてもらわないと。
 そのためには井豪と麗を何とかして別れさせないといけない。麗は今の時点でもちょっと小室が気になってるみたいだから、やり方次第ではどうにかなりそうなんだけれど……。
 誰かを焚きつけてみるか? 井豪は見目良し、頭良し、運動神経良しの優良物件だから、意外と乗ってくれるかもしれない。
 ……そういえば、後から来た中に同学年の夕樹美玖もいたような。同じクラスになったことはないけど、冴子とは違う意味で目立つ美人だから名前くらいは知っている。
 暴走族とつるんでるとか、ヤクザの知り合いがいるとか黒い噂が耐えない娘だけど、今となってはそんな噂には何の意味も無いし。
 まあどちらにしろ、頼むならまずは仲良くなってからだなぁ……。
 いけない、つい考え込んでしまった。

「ごめん。冴子が無理なら小室君に頼みたいんだけど、いいかなぁ?」

「えっ、俺ですか?」

 事態を見守っていた小室が素っ頓狂な声を上げた。

「うん。だって小室君っていざという時決断早いし結構行動力あるでしょ? 学校から脱出する時も、1人で正面玄関開けようとしてくれたし。なかなかできることじゃないと思うよ」

「それは……別に、そんなつもりじゃ。あれも結局やったのは御澄先輩だったし」

 困った顔の小室は、がりがりと照れ臭そうに頭をかく。
 井豪の傍にいた麗がハッとした顔をする。そしてその時のことを思い出したのだろう。井豪から顔を背けて、少し切なそうな顔をした。
 あたしはそれを見ながら、小室に近付いて彼の耳に顔を寄せ、彼にしか聞こえないように耳元で囁いた。

「良いところを見せて麗を振り向かせるチャンスよ?」

 小室の目が大きく見開かれる。
 愕然とした顔でこちらを振り向き、あたしを見つめてくる小室に、あたしはにっこりと微笑んだ。
 しばらく考えていた小室が厳しい顔で重々しく頷いたのを見て、あたしは皆を見回した。

「決定だね。リーダーは小室君で、彼をあたしが補佐するから。皆も協力してね」

 さすがに後から合流した組は全員が全員賛成しているような顔ではなかったが、代案も無いようで黙っている。

「じゃあこれからどうするかだけど、小室君、決めてくれる?」

 小室が答える前に、黙っていた麗が声を上げた。

「あの、ちょっといい? どこに向かうにしても、こんな大人数になると思ってなかったから、学校から持ち出してきた食料じゃ一日も持ちそうにないの。少し戻ればコンビニがあるから、そこで何か買っていった方がいいと思う」

 麗の提案を聞いた小室は言った。

「なら僕が買い出しに行くよ。麗、ついてきてくれるか?」

「え? ……ええ、分かったわ」

「俺は行かなくていいのか?」

「永は皆を見ていてくれ。人数が多いから、先輩たちだけじゃ大変だと思う。買い出しするだけなら二人で充分だ」

 ふと思いついて、あたしは後続組に目をやる。

「あ、そうだ。うちらは小室が携帯持ってるんだけど、そっちは誰か持ってる人いる? いれば小室と番号交換しといて欲しいんだけど」

「わたし持ってるわよ」

 そう言って携帯を掲げたのは、夕樹美玖だった。
 小室と夕樹が番号を交換する。
 あたしは皆を見回した。

「じゃあ見張りはあたしと冴子と井豪でやろうか。小室たちが買い出しに行ってる間、もし<奴ら>を見つけたら夕樹に伝えて。夕樹は小室に連絡して呼び戻してちょうだい。戻ってくるまで平野はバスからあたしたちを援護。小室たちを回収しだいここを離れるわ」

 黙って事態を静観していた冴子が口を開いた。

「小室君らが帰ってくるまで、バスが持ちそうにない場合はどうする」

「無ければいいとは思うけど、もし小室たちが間に合わないようだったら先に出発する。連絡を取って別の場所で落ち会いましょう」


□ □ □


 バスは来た道を戻り、コンビニの前で停車する。
 ちょうど<奴ら>らしき人影を跳ね飛ばした場所で、顔が潰れた死体が近くに転がっていた。

「それじゃ、行ってくるよ」

 麗を連れて、小室がバスを出てコンビニに歩いていく。
 あたしと冴子、井豪も降りてバスの回りに陣取った。
 <奴ら>を呼び寄せないためにバスのアイドリングもストップさせているため、車の音もなく辺りは静けさに満ちている。
 安全とは言えないが、学校を脱出するまでの危険に満ちた時間に比べれば、今の時間は平穏といえるものだった。

「御澄?」

「ん?」

 バス内から呼びかけられて振り向くと、窓を開けて夕樹があたしを見ていた。

「あれ、どうしたの? 小室から何か連絡でもあった?」

「ううん、今のところは何も」

 それきり夕樹は黙りこくっている。
 なんだなんだ。いったいどうしたのさ。

「これあげる」

 窓から投げられてきたものを反射的に受け取る。

「ガム?」

 何の変哲も無いよくある細長い板状の小さなガムだった。
 自分も食べている最中のようで、夕樹はガムを膨らませる。

「今皆に配ってんの。本当は自分だけで食べるつもりだったんだけど、わたしらのために食料買い足してくれるみたいだし、これくらいしといた方がいいかなと思って。これでも感謝してんのよ、バスに乗せてくれたの」

「成り行きだったし、別に気にすることないわよ」

「あんたが気にしなくたって、わたしは気にするの。他の皆だって同じよ。だから、気にしなくてもいいと思うわよ? 紫藤を殺したこと」

「別に、気にしてなんか……」

 夕樹はバスの窓枠に肘をつき、顎を乗っけた。

「これでも見直したのよ。あんた、今まで毒島たちと同じ優等生だと思ってたけど、わたしたちみたいに結構イカレタところあるんじゃない」

 それであたしは理解した。
 ああ、そうか。知り合いだったわけでもないのに急に馴れ馴れしくなって妙だと思ったら、夕樹はあたしを同類認定したんだな。

「一応褒め言葉として受け取っておくよ。ガムありがとうね」

 あたしが礼を返すと、夕樹はニッと笑って窓を閉めた。
 包装を解いて口にガムを放り込む。噛んでいくと、口の中に爽やかな柑橘系の味が広がった。結構美味しい。
 再び回りの風景を見ながら、感慨に耽る。
 見た目でちょっと敬遠してたけど、夕樹ってちょっといい奴だなぁ。原作だとどんな奴だったっけ? そもそも出てたかな……。
 そんなことを考えながら遠くを見ていたあたしは、ふと、バスが走っているのを見つけた。バスは時折り危なっかしく蛇行運転しながら、かなりの勢いでこちらに向かってくる。
 まだしばらくかかりそうだけど、このままだとあたしらのバスに激突するかもしれない。

「何あれ……危ないな」

 呟き、眼を凝らす。昔から視力には自信がある。モンゴルの遊牧民並と言われたこともあるくらいだ。

「……っ!」

 顔が強張るのが自分でも分かった。
 急いでバスに戻り、手鏡を開いて化粧を直していた夕樹に叫ぶ。

「今すぐ小室たちを呼び戻して! 前から<奴ら>満載のバスが暴走しながらこっちに向かってる! 下手するとこのバスとぶつかるよ!」

 車内にいた全員がぎょっとしてあたしを見た。
 我に返った夕樹が、慌てて携帯を操作し始める。
 鞠川先生が急いで運転席に戻り、「えーとABC、ABC」と呟きながら発車の準備を始めた。
 遅れてバスに気付いた冴子と井豪が車内に戻ってくる。

「2人はまだ戻ってないのか!?」

 井豪が車内を見回し、携帯を耳に当てた夕樹に駆け寄っていった。
 冴子があたしの前にやってくる。

「嬌! 前方からバスが来る!」

「あたしも見たよ。今報告して、鞠川先生が発車の準備をしてる。小室たちが戻り次第全速力で逃げるよ」

 鞠川先生がこちらを振り向いて叫んだ。

「いつでも出れるわ!」

 夕樹を急かしていた井豪が振り返って叫ぶ。

「待ってください! まだ麗と孝が戻ってません!」

 窓から身を乗り出して前方を見ていた高城がこちらに振り返った。

「早く出ないと大惨事になるわよ!」

 携帯を耳に当てている夕樹が立ち上がった。

「繋がったわ! もしもし、聞こえる!?」

『聞こえてます! 何があったんですか!?』

 通話をオープンにしているようで、かなりの音量で小室の声が携帯から聞こえてきた。

「前から<奴ら>がいっぱい乗ってるバスが走ってきてるの! コントロールを失っていて、このままだと接触するわ! 逃げるから早く戻ってきて!」

『っ! すぐに戻ります! 麗、早く来い!』

 震える手で携帯を畳もうとした夕樹にあたしは叫んだ。

「通話はそのままで! 小室君もよ!」

 平野が窓から出していた釘打ち機を仕舞った。

「かなり近付いてきてる! 急がないと間に合わなくなるよ!」

 後発組の女子生徒2人が目を閉じて両手を握り締め、ガタガタ震えている。
 麗に悶絶させられた不良生徒が動揺した様子であたしの肩を掴んだ。

「おっ、おい! 大丈夫なのかよ! 小室たちなんか放っておいてさっさと逃げた方がいいんじゃないのか!?」

 あたしは不良生徒を睨みつけて肩に置かれた手を振り払い、前方のバスを見る。最初の時とは違い、目を凝らさずとも車内の惨状ははっきりと見えるようになっていた。
 窓ガラスに大量の血液と血の手形がこびり付いている。窓を叩きながら絶望の表情で泣いている遊び人風の男がいた。<奴ら>にあちこちを掴まれて泣き叫びながら、若い女性がそれでも必死に逃げようとしている。<奴ら>に集られ、運転手は運転どころではないようだ。
 もう迷っている時間はない。これ以上待てば、あたしだけでなく冴子が危険に晒される。
 一瞬の逡巡のうち、あたしは決断を下す。

「もう無理です! 鞠川先生、出してください!」

「また急発進になるわよ!」

 鞠川先生がバスをUターンさせ発進させた。

『待ってください! 今外に出たところなのに──!』

 夕樹の携帯から小室の焦った声が聞こえる。
 結果的に、この判断で稼いだ距離があたしたちの命を救った。
 マイクロバスが走り抜けた後、道路に放置されていた車に<奴ら>を乗せたバスが激突し、部品を撒き散らせながら横転したのだ。
 横転したバスはガソリンに引火したのか、轟音ともにオレンジ色の炎を噴き上げて炎上した。
 鞠川先生にバスを停止させ、冴子が木刀を手にドアを開けて外に出る。

「小室君、大事ないか!?」

 ちょっ! 冴子! せっかくあたしが一生懸命邪魔してんのに、素でフラグ立てんな!
 焦るあたしの内心など分かるはずもなく、炎の中から出てきた燃え上がる<奴ら>を見て、冴子は無言で木刀を構えた。
 燃え上がるバスの向こうから、小室の声が響いてくる。

「警察で……! 東署で落ち会いましょう!」

「時間は!」

「午後5時に! 今日が無理なら、明日の同じ時間で!」

 揺れる炎の間から一瞬だけ、小室の顔が見えた。
 冴子がバスに戻り、ドアをしっかりと閉める。

「鞠川校医! ここはもう進めない! 戻って他の道を!」

「皆何かに掴まって! 発進します!」

 再びの急加速。
 バスが走り出した。



[20246] 第九話(二巻開始)
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:53
 生まれてから18年間、あたしはずっとこの世界が現実だと思って生きてきた。それは漫画のストーリーと同じことが起こり始めた今も変わらない。
 前世の記憶のせいで本来育まれるはずだったあたしの性格は歪み、変化した。あたしは冴子に恋をしている。冴子を守るために、あたしは紫藤先生を手に掛けている。後悔して、罪悪感に苛まれて、血反吐を吐くほど苦しんでも、冴子を危機に陥れるのなら、あたしはきっと何度でも同じ選択をするだろう。
 弓矢は凶器であり、決して人に向けていいものではない。弓道家である両親や、指導をしてくれた先輩や先生たちがことあるごとにあたしに口を酸っぱくして教えてくれたことだ。あたしも今までずっとそう思っていた。
 もうその教えは何の意味もない。弓矢を精神鍛錬の道具としてのみ使うことが許された世界はもうない。今あるのは、あちこちを<奴ら>が彷徨い、一寸先に死と絶望が転がっている、悪夢のような世界だけだ。
 でも、あたしはまだどこかで希望を持っていた。この変わり果てた世界を冴子と一緒に生き抜けば、いつかあの幸せな日常に帰れるのだと信じていた。
 つまるところ、あたしはまだ分かっていなかったのだ。あたしたちが築き上げてきた世界はもう、とっくの昔に終わっているのだということを。
 そしてあたしたちとはぐれた彼らもまた、終わりの意味を知ることになる。


□ □ □


 途中で拾ったバイクに跨り、後ろに麗を乗せて走る孝の上空を、任務を受けているらしい軍用機が飛んでいった。
 手を振る麗に、パイロットが手を振り返したのを見て、麗ははしゃいだ声を上げた。

「ほら、今、見た!? パイロットの人私たちに気付いてた!」

「……助けはしばらく来ないよ」

 笑顔だった麗は、眉を顰めて厳しい顔の孝を見つめる。
 少し見直したと思ったら、またこれだ。こんなことなら永と買い出しに行けば良かったと思ってしまう。もちろん今は口には出さないが。
 その代わり文句を口に出す。

「どうしてそう盛り下がることばかり言うのよ!」

 孝はブレーキをかけてバイクを停止させ、背後の麗を振り向く。

「学校の屋上で見たヘリと同じさ。例え自衛隊が動いていても、僕らを助ける余裕はまだない。もしかしたら……この先もずっと」

「じゃあどうしたらいいっていうの!?」

「できることを可能な限りやるだけさ!」

 どこか投げやりな孝の態度に、麗は不満そうに眉を寄せ眼を細めた。

「孝っていつもそうよね。大事な時に盛り下がることを口にして。……幼稚園の頃からずっと」

 麗の機嫌が悪化したことを悟った孝が慌てて怒鳴る。

「それと今の騒ぎが何の関係あるってんだよ!」

「ないけど……あるのよ!」

 自分でも矛盾したことを言っている自覚があるようで、麗はちょっと焦っている。
 そんな態度でも今まで素っ気無い態度を取られてきた孝はどぎまぎして、正面を向いてため息をついた。
 何だか、2人きりになってから麗の反応が優しい。昔の関係に戻ったような気がした。
 ふとガソリンのメーターが眼に付く。

「もういくらも走れないな。スタンドを探さないと」

「それなら確か、2つ先の信号にあったと思うけど」

 <奴ら>を前にしてガソリンが切れたなんてことになったら目も当てられない。
 強い風が吹く。麗が向かい風に目を細めて髪を押さえた。
 無人のマンションが佇む道路を、孝と麗を乗せたバイクは走っていく。
 途中で横転した自転車を見つけ、血の痕を辿っていくと血溜りの中に可愛らしい少女用の鞄が落ちていた。血溜りの傍には、片方だけの靴が転がっている。飢えているのか、喉の渇きを癒すためなのか、猫が数匹その血溜りを舐めていた。
 鞄の持ち主の末路が窺える痛ましい光景だった。だが、今ではどこにでも転がる有り触れた光景でもあった。
 それでもやるせないことには変わりなく、2人の表情は沈んでいる。
 割り箸やどんぶりがぶちまけられたまま放置されているうどん屋の前を通り過ぎ、運転手がいない血の手形が生々しく残る車の傍を通った。
 ただ風が吹くばかりで、辺りは静寂に包まれている。

「誰もいない。皆死んだのか?」

 麗は孝の肩に置いていた手に篭める力を強くする。

「馬鹿言わないでよ。死んだら<奴ら>になるじゃない」

「生きてる連中を追いかけていったんだろ」

 答える孝の顔は暗い。
 唇を噛み締めた麗は、急に笑顔を浮かべ、手を伸ばして前方を指差した。
 建物の影に隠れてちらりとパトカーが見えたのだ。

「孝! ほら、あそこ! 交差点の右側!」

 警官がいるかもしれないと気付き、孝の顔にもようやく笑みが戻った。

「無免許、ノーヘル、盗んだバイク! 確実に補導されんな!」

 軽口を叩く余裕すらある。

「あんなに<奴ら>と戦っておいて、いまさらパトカーを怖がるの?」

「そんなわけないだろ!」

 2人きりの時に見つけた希望の欠片。
 後から思えば、それは孝が終わりの意味を知る第一歩だった。警官は確かにいた。ただし、生きてはいなかったのだ。
 道を曲がった孝と麗は衝撃の事実を目の当たりにする。
 パトカーを見つけた場所からは死角になっている後部に、横から大型トラックが突っ込んでいた。
 トラックの前面とパトカーの後部が丸ごとひしゃげ、地面には黒い液体が漏れ出している。

「マジかよ……」

 戦慄する孝の後ろで、麗がバイクから降りる。

「麗! 何するつもりだ。ガソリンが漏れてるから危ない」 

「何か役に立つものが手に入るかもしれないでしょ?」

 ちらりと孝に眼を向けてそう言った麗は、すたすたと歩いていた足を止め、不満そうな顔でくるりと振り返った。

「孝も来なさいよ! 何ボケてんの!」

 こういう時、女はたくましい。
 バイクを降りて、孝は麗と一緒にパトカーに近寄って車内と警官の死体を漁る。
 拳銃に警棒、鍵付き手錠が見つかる。麗の考えは正しかった。
 パトカーから戻った孝と麗は、バイクのシートにそれらを置いた。
 銃を手に取り、孝が麗に見せる。

「どうやって使うんだ?」

「テレビとかで見た通りなら、たぶんこう……」

「撃つ時以外、引き金に指掛けちゃいけないんだよな」

 拳銃のグリップを握った孝は、緊張した表情で汗を一筋垂らす。
 そのまま黙り込む孝に麗は怪訝な顔をした。

「どうしたの?」

「重い。なんかずっしりくる」

「本物だもん。当たり前でしょ」

 呆れる麗の横で、孝は覚束ない手付きで銃身からシリンダーを外す。
 篭められた弾が露わになった。

「5発しか撃てないのか……。これじゃすぐ弾切れになるな」

「手、出して」

 落胆する孝に麗が何かを手渡してくる。
 もう5発の銃弾だった。
 麗は死体を漁って血まみれになった手を拭きながら、何でもないことのように言う。

「それ、もう1人の巡査の。銃は握るところが折れてたけど、弾は大丈夫みたいだから」

「凄いな……お前」

 感心しながらも若干引き気味の孝に、麗は制服のポケットに警棒を仕舞いながらフンと鼻を鳴らす。

「お父さんが持ってたの見せてもらったことあるし。それに今さら血がついたくらいで驚くと思う?」

 そう言う麗の制服は、確かにところどころ返り血で汚れている。
 拳銃をズボンのポケットに入れながら、孝はそれでも女は強いと思った。目の前にいる、自分の片思いの相手である幼馴染などは特に。
 孝がバイクに跨る。その後ろに座りながら、麗が両手にモップの柄と金属バットを孝に向けて掲げた。

「これどうする?」

 孝は振り向いて答える。

「予備はあった方がいいよ。銃は練習しないと当たらないし」

「でもちょっと安心してるんじゃない?」

 ニヤニヤと笑う麗に気持ちを見透かされ、孝は仏頂面を作って誤魔化す。恥ずかしいやら、嬉しいやら。
 こんな風に麗と話すことができるなら、何だか<奴ら>が徘徊する世界のままでもいいような気がしてしまう。
 少々長居をし過ぎたようだ。<奴ら>が建物から姿を現し、近付いてくるのが見える。

「……そろそろ行こう」

 バイクはエンジン音を響かせて走り出した。


□ □ □


 ガソリンが尽きる前に、孝と麗は何とかスタンドに着くことができた。

「まだ残ってたらいいんだけど」

「どんなスタンドでも乗用車千台分くらい入るタンクを備えてるっていうから、大丈夫だろ」

 給油する機械を見た孝は舌打ちする。

「どうしたのよ?」

「このスタンドセルフ式だ。そっちにカードか金を入れないと」

「入れればいいでしょ!」

「さっきジュース買ったから30円しか持ってないんだよ」

 麗は呆れた。
 コンビニに買い出しに行った時も殆ど麗が払ったのに、それで無いってどういうことだろう。

「……最低」

 氷点下の声。
 呆れ果てた麗の様子に、孝はついカッとなって言わなくてもいいことを言ってしまう。

「悪かったな、永じゃなくて!」

「何よいきなり! なんで永が出てくるのよ!」

 麗も過剰反応してしまい、その分孝もヒートアップする。

「どうせ買い出しだって本当は永と行きたかったんだろ! そうすりゃ今頃永と2人きりでデート気分だったに決まってる!」

 否定はしても、心のどこかで孝を認めつつあった麗は、曲がりなりにも永の彼女である自分の前で嫉妬を露わにする孝に幻滅した。
 やっぱり……大嫌い!

「本当に……最低ね」

 孝を睨みつける麗は、目の前に拳を突きつけられて殴られるのかと思ってビクッとする。
 何もないことを不思議に思ってそうっと目を開けた麗の目の前では、孝が麗の前に手を差し出していた。
 不覚にも少しドキドキした麗は、それを隠そうと思ってつっけんどんに言う。

「……何よ」

「金、貸してくれ!」

 よほど恥ずかしいのか、孝の顔は真っ赤だった。

「無理よ。コンビニで殆ど使っちゃったもん」

 2人揃って沈黙する。金がなくて麗に払ってもらった孝は何も言えない。
 仕方なく、孝はレジから金を抜き取ることにした。

「ここで待ってろよ。何かあったら叫べ」

 麗に言って、建物の中に入る。

「誰かいませんか? ……いるわけないか」

 ため息をついて、レジを探す。

 すぐに見つけて開こうとしたが、開かない。

「駄目か……」

 落胆した孝は、すぐに気を取り直してカウンターに足をかけた。

「ま、いいか。一度やってみたかったし」

 カウンターに上がり、孝はレジの前で金属バットを振り上げる。
 孝の口元に、危険な笑みが浮かんだ。
 実のところ、前の世界ではできなかったことをするのが、孝はたまらなく楽しかったのだ。素っ気無かった麗が少しずつ自分を見てくれるようになっているのも、とても嬉しかった。
 この世界なら永から麗を奪い取れるかもしれない。麗を自分に振り向かせることができるかもしれない。孝は<奴ら>のいるこの世界を好きになり始めていた。
 レジを叩き壊した孝は、中から札だけを選んで握り締める。

「これだけあれば、後でまた必要になっても──」

 満足そうな孝の表情は、次の瞬間凍りついた。

「キャアアアアアアアア!」

 孝の眼が大きく見開かれる。

「麗!」

 バッドを握り締め、孝は全速力で外に走り出た。


□ □ □


 時間は少し遡る。
 建物の中で孝がレジを叩き壊す音を聞いていた麗は、呆れてため息をついた。

「……孝、変わったな」

 しばらくそのままでいた麗だったが、やがて笑みを浮かべる。

「私も人のことは言えないか」

 孝が変わりつつあるように、自分もまた変わりつつあることを麗は自覚していた。
 暴力を振るうことを躊躇わなくなってきた。永へ抱く好意は変わらないのに、孝に対する気持ちまで変わってきている。
 小さい頃にした約束を、麗は忘れてはいなかった。孝が自分を好きなことも知っていたから、自分も半分以上そのつもりだった。
 でも、紫藤の手回しによって謂れのない留年を告げられて、落ち込んでいたところに父から真実を告げられて、心が折れた。
 助けを求めても、孝はめんどくさがって真面目に取り合ってくれなくて、麗はもう一人の幼馴染である永に助けを求めた。
 永は話を聞くだけでなく、心の拠り所となって麗を支えてくれた。そんな永が孝よりも素敵に見えたから、麗は孝を見限って永と付き合い始めたのだ。
 もう孝のことを好きになることなんてないと思っていたのに、今になって麗は永よりも孝のことばかり考えている。
 正面玄関で見た孝の笑顔が、いつまで経っても頭から消えない。あの笑顔を見て、胸が締め付けられるような衝撃を感じた。何か、自分がとんでもない間違いを犯しているような気がした。
 孝に行かないで欲しいと思った。もう二度と会えなくなるのではないかと恐怖した。そう思うほどあの時の学校は地獄で、孝の行動は死にに行くとしか思えなかった。
 今では、こうして孝と2人きり。永を放って、留年などまるで無かったかのように振舞っている。
 ある意味、もう無かったことにしようとしている。

「……紫藤は、死んだしね」

 あれほど憎かった紫藤はもういない。あっさりと殺されてしまった。紫藤を殺してくれた人物のことを思い浮かべて、麗は微笑む。

「まさか、御澄があんなことをするなんて思わなかったなぁ……」

 自分勝手な態度を取る麗に何も言わず、彼女は話を合わせてくれた。いつも気楽そうで、悩みのなさそうな笑顔を浮かべていた彼女は、それでいて周りに気を配れる娘だった。
 よく考えれば、彼女の行動は突拍子のないものが多い。いつも毒島冴子の隣にいて、さえこさえこーとか言って笑いながらよくじゃれ付いていた。そういえばそういう時、彼女の手は大抵わきわきと妖しく蠢いていたが何だったのだろう。
 まあ面白い娘には違いないし、少しずつ、また去年みたいに仲良くしてみてもいいかもしれない。
 そんなことを考えながらバイクにもたれかかった時、麗は後ろから襲い掛かられて捕まったのだ。
 <奴ら>ではなく、ナイフを持った生きた人間に。


□ □ □


 孝が外に出ると、大男が麗を片手でがっちりと抱き締めて咽喉下にナイフを突きつけていた。

「ひゃーはっはっはっは!」

 どこか箍の外れた高笑いを響かせる男のすぐ傍で、麗は咽喉下に感じる冷たい金属の感触と、自分の身体を抱く男の腕の感触に絶句している。
 落ちたモップが乾いた音を立てた。

「兄ちゃん可愛い彼女連れてるじゃねーか」

「麗を放せ!」

 焦った顔で金属バットを構える孝に、男は耳障りな笑い声を上げる。

「ばーか放すかよ! 化け物だらけになっちまった世界で生き残るには、女がいねーとなぁ。ひゃわははははははは!」

 常軌を逸した男の様子に、孝は厳しい表情で金属バットを握り締める。

「……壊れてるのか、お前」

「壊れてるかだって? 当たり前だ! 俺の家族は目の前であいつらと同じになったんだよ! 俺は……俺は……」

 男の血走った眼がかっと見開かれる。

「1人残らず家族の頭をブチ割ってきたんだ! 親父もオフクロもバアちゃんも……弟も妹もなぁ! まともでいられるわけねーだろ!」

 舌なめずりをした男は、麗の胸を掴んで強く絞り上げた。
 麗が嫌悪混じりの悲鳴を上げる。

「あー、なかなかでっけぇ胸してやがるだけあって、最高の揉み心地だぁぁぁ。ほら鳴け、鳴けぇぇぇぇ」

「ぎっ……あっ……」

 孝の眼に、憤怒の光が灯る。食い縛った歯が今にも砕けそうだ。

「羨ましいぜぇ。お前この子とヤってんだろ? 毎日ヤリまくってんだろ?」

「わ、私……そんなのしてないっ」

 否定する麗の言葉を聞いて、男は孝を嘲って馬鹿笑いした。

「まだヤってねーのかよ? そりゃ残念だったなぁ! ひゃはははははは!」

 我慢できなくなったのか、孝が一歩踏み出した。

「おっとこいつがどうなってもいいのか!?」

 咽喉の皮膚にナイフが食い込み、麗が悲鳴を上げる。
 麗を人質に取られたままでは、孝は止まるしかない。

「女の命が惜しけりゃバットを捨てな! それからバイクと食料もいただくぜ!」

「……ガソリンが無い。お前が乗ってもすぐに走れなくなるぞ」

「レジぶち壊して金はたんまりあるんだろ! 給油しろよ!」

 音で<奴ら>を呼び寄せることが分かっていても、孝は麗を助けるために男の言う通りにするしかなかった。
 放り投げられたバットは、地面に落ちて大きな音を立てる。
 機械に金を入れ給油をしながら、孝は男に交渉を試みた。

「なあ……見逃してもらえないか? 僕らは、親が無事かどうか確かめに行く途中なんだ」

 その間にも、孝の頭は目まぐるしく動いていた。
 実をいうと麗を助ける算段はついていた。先ほど手に入れた銃があるのだ。使わない手は無い。
 だが、ただ使っただけでは避けられるだろうし、先に麗に危害を加えられるかもしれない。そもそも自分がちゃんと撃てるかどうかも分からない。確実に当てるためには男に密着して、銃口を男に当てて反動を男自身の身体で支えるしかない。
 何としてでも、男に近付かなければならなかった。
 それを知らない男は、孝が弱気になったと思ったのか嵩に回る。

「街にいたんじゃ今頃とっくにくたばってる! 俺の家族と同じだよ!」

 ついに給油が終わった。
 ポンプがバイクのタンクから抜かれる。

「終わった」

「いいぜ、行っちまえ!」

 ポンプを元に戻さずに孝はそのままにする。男は高笑いしている。置いていかれると思ったのか、麗のすすり泣く声が聞こえる。
 拳を硬く握り締め、歯を食い縛る。怒るな。今はまだ怒るな。
 孝は男の心情を見抜いていた。
 男は今、自分が有利な状態にあると思って油断している。近付けば必ず隙を見せるはずだ。やるなら今しかない。

「なあ、頼むよ。武器もバイクも僕の命でも欲しければ何でもくれてやる。だから、麗だけは見逃してくれ」

 言いながらどんどん近付いていく。まさかそこまで言うとは思っていなかったのか、ぽかんとした麗の顔が見えた。

「女も俺のもんに決まってるだろうが! なんなら願い通りこのままぶち殺してやってもいいんだぜ!」

 至近距離まで来て、ついに男がナイフを麗から離して振り上げる。
 ──今だ!
 素早くポケットから銃を抜いた孝は、そのまま銃ごと男に体当たりする。
 ごり、と抉りこむような勢いで男の肩口に銃口を捻じ込む。
 引き金を引き、撃鉄を起こした。

「撃つのは初めてだけどこれなら外れない。──よくも麗を」

 孝の声は高校生が到底持ち得ない凄みを帯びていた。
 もしも見る眼のある者がこの光景を見ていれば、こう言っただろう。
 殺気が滲み出ていると。

「ガ、ガソリンに引火するかもしれねーぞ!」

「女を奪われるよりマシだ」

 <奴ら>との戦いで荒んだ孝の眼。限界まで見開かれ、そこからギラギラとした意思の光が覗いている。
 麗は自分の状況も忘れて、その眼に意識が吸い寄せられていた。暗く重い眼だったが、それが麗には何故かとても綺麗に見えた。
 永よりも、格好よく見えた。
 光。音、衝撃。
 男の右肩に穴が穿たれる。

「ひいっ、ひっ、これ、ひいいいいい!」

 尻餅をつき、男が肩口を押さえて泣き叫ぶ。

「穴がっ、血がっ、いてぇ、いてえよぉぉぉぉ」

 男から解放された麗が警棒を引き抜いた。
 一振りして伸ばし、怒りの形相で男に近付いていく。

「よくも……よくもっ!」

 怒りで言葉が出ないとはこのことか、と麗は思う。
 よくも散々好き勝手してくれた。その代償、今ここで思い知らせてやる。

「やめとけ、麗」

 かけられた声に振り向く。
 孝が給油を終えたバイクに跨ってエンジンをかけようとしていた。

「でも……」

 逡巡する麗に孝は言った。

「そんな奴を相手にしてる暇はない。それに」

 エンジンがかかる。重低音が地面を伝わって響いてきた。

「僕らは随分と音を響かせたはずだ……」

 男はなおも泣き喚いている。
 ハッとした麗は慌てて辺りを見回した。
 四方八方で呻き声が響いていた。近く、遠く、あちこちから<奴ら>が近付いてくる。
 麗は急いでバイクに駆け寄り、孝の後ろに飛び乗る。

「おい……おい……行っちまうのかよ! 俺を、俺を助けてくれよ!」

 身勝手な男の嘆願に、麗が憎悪の篭った眼で一瞥をくれた。
 男を死地に残したまま、バイクが走り出す。
 背後から響く悲鳴を置き去りにしていく。孝は自分たちが今、これまでの全てが終わる真っ只中にいるということをようやく理解していた。
 これからもこういうことはいくらでもあるのだろう。そう思ってため息をつく。
 そこでふと気付く。自分はさっき人を死に追いやった。だけどそれよりも早く、人殺しになった人間がいたじゃないか。

「……先輩は紫藤を殺した時、どんな気持ちだったんだろう」

 麗は今までよりも少し頼もしくなったような気がする孝の背中に、頬を寄せた。

「……そうね。あの人の考えることはよく分からないけど。少なくとも、きっと誰かを守りたかったんだと思うわ。孝が私を守ってくれたみたいに」

 背中にかかる自分が守った者の重みに、孝の表情が和らぐ。
 くすりと笑った孝に、麗がきょとんとした。

「どうしたの?」

 首を横に振る。
 永ではなく、自分が麗を守った。例え手を黒く染めたとしても、その事実が嬉しくて──。

「何でもないよ。急ごう」

 孝は思い切り、アクセルをふかすのだった。


□ □ □


 こうして、世界がとっくの昔に取り返しのつかないところにまで来ていることを、彼もまた理解したというわけだ。
 もちろん終わりはあたしたちの周囲だけではなく、あらゆる場所で始まっている。
 生きている人々の中には既存の秩序が崩れつつあることで様々なくびきから解き放たれ、思うが侭に行動する者が出始めている。
 船でしか行けない洋上空港では、生きてやってきた誰かが噛まれていて<奴ら>になったのか、溢れ返った<奴ら>にその機能を麻痺させられつつある。
 終わりは緩やかに、しかし確実に、全世界を覆い隠そうとしていた。



[20246] 第十話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:54
 小室たちとはぐれてから数十分後。
 あたしたちを乗せたバスは渋滞に飲み込まれていた。
 前にも後ろにも延々と車が並び、その間を引っ切り無しに徒歩の避難者が通過していく。
 バスの通路をゆっくりと歩きながら、あたしは不安そうにしていたり、心細そうな顔をしている人がいないか見回っていた。
 鞠川先生は運転手であるにも関わらず、あまりの渋滞の長さに暇になってハンドルに持たれかかり完全にだれて暇そうにしている。
 運転席から2つ後ろの席では、窓側に座って平野が思いっきり寝ていた。その隣の通路側に座っている高城は何か考え込んでいるのか、それとも平野のように眠っているのかは知らないが、眼を瞑って黙り込んだまま微動だにしない。
 その後ろの後続組の女子生徒2人に眼を移した。
 余程疲れたのだろう、2人とも背凭れに背を預けてぐっすりと眠り込んでいる。起きている間は恐怖と緊張でずっと強張っていた顔が緩まって、あどけない表情になっていた。
 眼鏡を掛けたお下げ髪の娘が、夢の中でまで<奴ら>が出てきたのか眉を顰めて背を丸めガタガタ震え始めた。
 肩を揺すってやると、小さな悲鳴を上げて飛び起きる。

「大丈夫? 魘されてたわよ」

 状況を掴めていない様子で眼を何回も瞬かせるお下げの娘に話し掛けると、お下げの娘はようやくあたしに気付いて顔を向けた。

「あ……ありがとうございます」

 まだ紫藤先生を殺したことを怖がられているようで、お下げの娘の言葉はちょっと震えていた。
 ちょっと傷付くがまだ数時間も経ってないし、仕方ない。

「もしかして、怖い夢でも見てた?」

 優しくあたしが尋ねると、しばらく沈黙した後お下げの娘はこくりと頷く。

「はい。学校で<奴ら>に追いかけられてました。追い詰められたところで眼が覚めて」

 そりゃ怖いわ。あたしでも怖い。現実でも夢でも<奴ら>に追いかけられるなんて哀れな……。
 その時の恐怖を思い出したのか、お下げの娘の身体がぶるりと一際大きく震える。

「安心して休んでなさい。今は安全だから」

 小さく震える体を両腕で抱き締めて俯くお下げの娘にそう言って、あたしはさらに2つ後ろの席に向かった。
 そこには冴子が座っていた。
 通路側の席に腰掛けた冴子は、木刀を肩に掛け眼を瞑り休息を取っている。恐らく耳を澄ませれば静かな寝息が聞こえるだろう。
 足音に気付いたか、冴子が眼を開けた。

「あ、ごめんね。起こしちゃった?」

 あたしを見た冴子は怜悧な顔をこちらに向ける。

「いいや、瞑想していただけで寝てはいない。見回りか?」

「うん。大体終わったから窓から外を見張ろうかって思ってたところ。今はいいけど、いつ<奴ら>がこの辺りに紛れ込んでくるか分からないし」

 冴子はちらりと窓に眼をやり、相変わらず人と車が溢れ返る状況に嘆息する。

「確かに、この様子では一匹でも<奴ら>が入り込めば惨事になりかねんな」

 木刀を左手に携えて冴子が立ち上がる。

「代わろう。君も少し休むといい。バスに乗ってからろくに休んでいないのだろう?」

「大丈夫よ、これくらい。ずっとやってたわけじゃないし」

「疲れは急に来るもの、というのは私を休ませる時の君の口癖だったと思うが?」

「う」

 痛いところをつかれ思わず黙り込む。
 そうなのだ。あたしは中学校で冴子と仲良くなってから、冴子が鍛錬で根を詰め過ぎるのを心配して、度々冴子の世話を焼いていた。
 それは冴子の自宅だったり、道場だったり、保健室だったりと場所は様々だったが、あたしはいつも冴子の言う通りのことを言って、練習で無理をしがちな冴子を休ませていたのだ。
 冴子は全国大会で優勝するほどの腕前だが、その剣の腕は才能はもちろんそれ以上の弛まぬ努力によって支えられている。
 その努力は普段の生活でも身を結んでいて、冴子はあらゆる姿勢がぶれない。歩くときも、走るときも、立ったり座ったりする時も、一切身体が揺れたり、たたらを踏んだりすることがないのだ。
 動く時は凄く滑らかに動くし、止まるときはまるで機械みたいにピタッと止まる。
 背筋もいつもピンと一本筋が通ったように張っていて、背を丸めたりすることがないので見ていてとても気持ちがいい。
 今でこそ無いが、中学校の頃は修練のし過ぎで冴子が倒れることもあって、そういう時によくあたしが口にしていたのがその台詞だった。
 自分の口癖を逆手に取られては、あたしも従うしかない。

「……じゃあ、お願いしていい?」

「任せておけ」

 眼だけで微笑んだ冴子が立ち上がり、通路に出て行くのと入れ違いに、あたしは冴子が座っていた席の隣、窓側の席に座った。
 言われた通り自分が気付かないだけでかなり気を張って疲れていたらしく、座り込んだ途端に疲労が圧し掛かってきた。

「あー……」

 力を抜くと、たちまち心地よい眠気が襲ってきて意識が持ってかれそうになる。
 冴子がいるのだから、しばらくは寝ていても大丈夫だろう。
 あたしはそう判断して、少しの間睡魔に身を任せることにした。


□ □ □


 唐突に眠りから目覚める。
 窓を見ると眠りに着く前と変わらない光景が広がっていた。
 まだ御別橋さえ見えてこない。どうやらあまり時間は経っていないようだ。
 あたしは一度目覚めるとなかなか寝付けない性質なので、すっぱり二度寝を諦めて立ち上がる。
 仮にも意見を纏める人間が事が起きた時に熟睡してるとかシャレにならないし。
 平野と高城が座る席の前に冴子と井豪に鞠川先生が集まっているので、あたしも近付く。
 あたしに気付いた高城が振り返り、ニヤッと笑った。

「起きたのね。アタシらが一生懸命これからのことを考えてるのに、気持ちよさそうに寝てくれちゃって」

 思いっきりタメ口だった。
 高城は冴子相手でもそうだが、人を選んで言葉を使い分けるということをしない。あたしに対してもそれは同じで、初めて会った当初から一貫している。
 冴子もあたしもそういうのはあまり気にしない性質だし、いまさらそんなことを持ち出しても何の意味も無いのを知っているのでそのままだ。

「ごめーん。で、何の話かな?」

 視線を動かす。
 釘打ち機を膝の上に置いた平野が答えた。

「全然バスが進まないので、このまま待つかバスを捨てて歩くか話し合ってたんです」

 そんな重大な話をしている割には、話し合う人数が少な過ぎるような。
 あたしは周りを見渡す。

「他の人の意見は聞かないの?」

「聞いたんですが、皆バスを捨てるなんてとんでもないの一点張りで」

 困った顔をした平野が頭をかく。

「ふーむ」

 ちらりと後続組の方を見つめながら考え込む。
 あたしたちは今まで、生き残るために必死で<奴ら>と戦ってきてある程度自衛できるから、いざという時にはバスを捨てる選択ができる。まったく怖くはないとはいえないが、バスを捨てても学校にいる時よりはマシだからだ。限られた空間内での<奴ら>の発生は本当に恐ろしい。逃げ場が限られているのにどんどん<奴ら>が増えていくから大変なことになる。その分外なら逃げ場がいくらでもあるので、移動用の足さえ確保できれば外の<奴ら>はよほど大量でない限り怖くない。
 でもそれは命を張って戦ったことのある人にしか分からないから、彼ら彼女らはバスを捨てるなんて自殺しにいくようなことにしか思えないのだろう。

「バスの回りに<奴ら>が溢れ返るようになってくればさすがについてくるだろうけど、それじゃ遅すぎるしねぇ」

 んー、と唸りながらバスの天井を見つめて考え込むあたし。
 高城が嘆息しながら、やれやれと手を上に向ける。

「残りたいって奴らは残らせておけばいいのよ。アタシたちだってまだ高校生なんだから、そこまで面倒見切れないわ」

 ある意味非情とも取れる高城の意見に、井豪が反論した。

「そういうわけにもいかないだろう。一度は俺たちを頼ってきたんだ、見捨てるのは寝覚めが悪い」

 腕を組み、平野たちの反対側に背を持たれて立つ冴子が言う。

「自らの手を汚してでも生き残ろうという気概を彼らから感じられないことが一番の問題だ。これではいざという時足を引っ張られる事態になり兼ねん。それで全滅しては元も子もない」

 窓を見ていた平野が高城の方を向いた。

「<奴ら>が来なくても、こんなに渋滞が続くんだったら歩いた方が早いよ。床主大橋と御別橋以外の橋は通行止めになってるみたいだし、床主大橋もどうせ渋滞してるだろうから、川沿いに歩いて渡河する方法を探した方が案外小室たちと早く合流できるかもしれない」

 平野の意見を顔を伏せて無言で聞いていた冴子がこちらを向いた。

「私たちの意見は出た。小室君がいない今、決断するのは君だ。どうする」

 皆の意見を聞いたあたしは思案する。

「あたし? そうねぇ、あたしは時間が許すぎりぎりまでは後続組の説得に当たりたいかな。それでも頷かないようなら、見捨てるのも仕方ないと思う」

 幅を取る平野を押し退けながら、高城が背凭れにもたれ込んだ。

「結局折衷案か。人1人殺した割には甘いわねぇアンタも」

「……っ!」

 思わず息を飲む。紫藤先生のことを指摘されるのは辛い。
 高城が自分の腕時計を見た。

「まあいいわ。まだ合流まで時間に余裕はあるもの。好きにすればいいんじゃない?」

 あたしは頷いて、後続組のもとに向かった。


□ □ □


 実を言うと、あたしは携帯を持っている夕樹さえ説得できればそれでいいと思っている。
 あの不良生徒はいるだけでも場の雰囲気を悪くしそうだし、根暗そうな男子生徒や女子2人もいざ奴らを前にして戦えるとは思えない。残る男子生徒は、そもそも学校でさすまたをぶつけた張本人だ。戦う気概があってもまたヘマをやらかしそうで安心できない。
 だから、最初に4人の説得を試みて即行で断られたあたしは、あっさり諦めて夕樹の取り込みにかかることにした。
 あたしが来るのに気付いた夕樹がつまらなそうに外を見ていた顔を上げる。

「何よ。まさかあんたまでバスを捨てて逃げようって言うつもり?」

 夕樹の一つ前の席に腰掛け、座席の上で膝立ちになって夕樹の方を向く。

「このまま待ってても、いつ通れるようになるか分からないからね。小室たちと合流しなきゃいけないし。夕樹も一緒に行こ?」

「冗談。時間がかかるとはいってもこのまま進めば確実に通れるのに、どうしてそんな無駄な真似しなきゃならないのよ」

 そっぽを向く夕樹にあたしは言う。

「だって、このままここにいたらいつ<奴ら>に襲われるか分からないよ?」

 凄い勢いで夕樹が振り向いた。

「ちょっ、ちょっと待って何よそれ!?」

 お、いい反応。
 あたしはにんまりと笑いたくなるのを堪えて人差し指を立てる。

「考えてみなさいよ。これだけ人が集まって、騒いだりクラクション鳴らしたりしてんのよ? いつ<奴ら>が集まってきてもおかしくないわ。一度襲われればすぐ地獄になる。人が多すぎるもの」

「……そのこと、他の人に言ったの?」

「もちろん言ったわよ。でも皆そうなる前に通れると思ってるみたい。そんなに上手くいくなら誰も悩まないのにね」

 スカートを両手で握り締め、夕樹は黙り込んだ。眼が忙しなく動き、唇は真一文字に引き締められている。必死に考えている証拠だ。
 やがて夕樹があたしを見た。

「決めた。わたしもあんたたちについて行く。本当にそんなことになるんなら、このまま残るのは自殺行為だわ」

「なら、向こうで今そのことについて話してるから行きましょ」

 夕樹を促し、あたしは立ち上がった。


□ □ □


 メンバーに夕樹を加え、あたしたちは今後について話をする。
 顎に手を当てて考え込んでいた冴子が言った。

「バスを捨てなければ、約束の時刻に東署に着けそうに無いな。何とか御別橋を渡って東署へ向かわないと……」

 冴子の台詞に、立ち上がっていた高城がひくっと口を引き攣らせる。

「ずいぶん小室との約束を気にするじゃない? 自分の家族は心配じゃいの?」

「心配だが、家族は父1人だし今は国外の道場にいる。つまり私にとって小室君との約束以外に守るべきは自分とここにいる嬌の命だけなのだ。そして父からは、一度した約束は……命を賭けても守れと教えられた」

 へーへーと一見平静そうに流す高城だが、その頬には一筋汗が伝っている。
 守る対象にあたしも入っているのは嬉しいけど、冴子に守られているばかりでは我慢がならない。
 あとまた素で小室への恋愛フラグを立てないで、お願いだから。

「あたしも冴子を守るのーっ」

 小室に取られてたまるかとばかりに冴子に飛びつく。

「そうだな。期待しているよ」

 あたしを身体で受け止めたまま微動だにせず、全然そう思っていない顔でくすくすと笑う冴子。

「……どう考えても御澄が毒島に守られてる姿しか想像できないんだけど」

 同学年である夕樹が呆れた眼をしていた。
 何時の間にか運転席に戻っていた鞠川先生が振り返って尋ねてくる。

「そういえば、高城さんってお家どこなの?」

「小室とか井豪と同じ! 御別橋の向こう!」

 付き合ってらんないとばかりに肩を竦める高城の後ろで、立ち上がっていた平野が鞠川先生に言う。

「あー、僕も両親は近所にいないんで、あの、高城さんとかと一緒ならどこでも」

 冴子がにこりと微笑んで聞いた。

「ご家族はどちらにおられるのだ、平野君?」

「父さんは宝石商なんでオランダに買い付けに。母さんはファッション・デザイナーなんでずっとパリにいて」

「いつの時代のキャラ設定よそれ!」

 突っ込まずにはいられない性質なのか、無視を決め込もうとしていた高城が反応する。

「……初めて知ったが、凄い家族だな」

 黙って聞いていた井豪が苦笑した。
 鞠川先生がころころと笑う。

「漫画だとパパは外国航路の客船で船長さんとかでしょ」

「お祖父ちゃんがそうでした。お祖母ちゃんはバイオリニストだったし」

「か、完璧……」

 隙の無い布陣に高城が頭を抱えた。
 にこにこ微笑みながら鞠川先生があたしたちの傍にやってきて訪ねてくる。

「で、結局どうするの? 私も一緒に行きたいから」

「いいの? アタシたちが出た後バスが動かなくなるわよ」

 高城の疑問に、井豪が口を挟む。

「それは大丈夫だろう。これだけ人がいるんだ、俺たちがバスを捨てれば代わりに乗りたいと思う奴はいくらでも出てくるさ。渋滞も今すぐに解消される様子はないから他の車が立ち往生する前に運転できる誰かが拾うだろ」

 鞠川先生が背凭れに寄りかかり、あたしの目の前で胸が揺れる。
 やっぱり間近で見るとますます大きいなぁ……。う、羨ましくなんかないもんね。嘘です少しぐらい分けろください。

「私はもう両親いないし、親戚も遠くだし。どのみち車を運転できる大人は必要でしょ?」

 それは、確かに。鞠川先生が来てくれるのなら大助かりだ。医師免許も持ってるみたいだから、いざとなったら診てもらえるし。
 外から悲鳴が響いてきた。
 冴子の眼が細まり、険しくなる。

「始まったか。こうなると早めに出た方がいいな」

 あたしは同じく悲鳴を聞いて、不安そうに辺りをキョロキョロと見回し始めた4人に叫ぶ。

「近くに<奴ら>が来たから、あたしたちはバスを捨てて逃げるわ! 残るも良し、ついてくるも良し、あんたたちは好きにしなさい!」

「待てよ、まさか置いてく気か!?」

 慌てる不良生徒にあたしは指を突きつける。

「好きにしろって言ったはずよ。あたしたちがいなくなってもきっと誰かが運転してくれるわ。あんたが安全だと思う方を選択すればいい。……あなたたちも」

 震えている女子生徒2人に眼を向ける。
 恐怖でぶるぶる震えながらも、お下げの娘を支えるもう1人の娘が言った。

「私たちも連れて行って。置いていかれるのは嫌」

 さすまたをぶつけた男子生徒に眼を向ける。

「お願いします! 家族が心配なんです!」

「ぼ、ぼくも!」

 根暗そうな男子生徒も続き、あたしは残る不良生徒を促す。

「君は?」

「……この状況で残るなんて言えるかよ。ついていくしかねえじゃねえか」

 不良生徒が歯軋りする。
 下りる面々を見回し、あたしは宣言した。

「それじゃ決まりね。すぐに出発するよ!」


□ □ □


 外に出たあたしたちは、周りを警戒しながら話し合う。

「どう進む? 私はこの辺りはよく知らん!」

 こういう時でも冴子は無駄に堂々としている。たまに天然が混じってるよね、冴子って。

「とりあえず御別橋を確かめてからがいいわ」

 工作室と書かれた袋を肩に掛けた高城に、平野が反論する。

「たぶん封鎖されてますよ。これ普通の渋滞じゃないです」

 井豪が腕を組んで回りを見回した。

「川沿いに歩いてみたらどうだ? 孝たちもこの状況じゃ向こうに渡れずに進みあぐねているはずだ。合流できるかもしれない」

 あたしは井豪の案に賛同する。

「それがいいと思う。こっちに来てる<奴ら>から逃げることにもなるし」

「確かにね。もし小室たちと出会わなくても、一応床主大橋の方も確認できるから、何か渡河する方法が見つかるかもしれない。行きましょ」

 高城の一言であたしたちは頷き、歩き出した。
 しばらく歩くと、前方からバイクに2人乗りした見覚えのある男女が見えてくる。
 鞠川先生がホッとしたように顔を輝かせる。

「ねえ、あれって……」

 視線を追って眼を凝らしたあたしは、その2人が誰だか分かって思わず飛び上がった。

「小室くんと宮本さんだ!」

 叫ぶと同時に、向こうもあたしたちに気付いたらしく、麗がバイクから降りてこちらに駆け寄ってくる。

「先生!」

「あらあら宮本さん!」

 再会の抱擁をかわす2人の横で、小室と冴子が見詰め合っていた。

「無事なようで何よりだ、小室君」

「毒島先輩も……」

 小室は労をねぎらう冴子に照れたような顔をする。
 あたしは冴子に身体を寄せ、胸で冴子の腕を挟むように抱き締めた。

「ん? どうした?」

 きょとんとした顔をする冴子に何でもないと笑顔で首を横に振ると、彼にだけ分かるように仏頂面で小室を睨む。
 声には出さずに口だけ動かした。

「あたしの」

「あのー、御澄先輩?」

「これは、あたしの。お分かり?」

「……」

 意味が伝わったかどうかは分からないが、絶句した小室の袖を、高城がぐいぐい引っ張る。

「ねえ、アタシは?」

「ぶ、無事でよかったよ高城も」

 至近距離で拗ねたように睨んでくる高城に、小室はたじたじだった。

 というか、あれは本当に拗ねてるんじゃなかろうか。

「……渡河する方法を見つけられないでいる」

 あたしを腕にぶら下げたまま冴子が言った。さすが冴子、あたしの奇行に全く動じない。

「僕らも同じです。床主大橋からバイクできたんですけど、渡れそうな場所は見当たりませんでした」

 小室は冴子と違ってあたしが気になるようで、ちらちらとこちらを見ている。
 高城が小室を見て言った。

「上流は? この辺りは護岸工事しちゃったから渡れないけど、上流ならイケるかも。ほら、小学校の時遊んでて流された子がいたじゃない」

「どうかな。この間雨降ったから増水してるし……」

「あの……」

 2人の会話に遠慮がちに手を上げて鞠川先生が割り込んだ。
 あたしを含め、皆が鞠川先生を見る。

「今日はもうお休みにした方がいいと思うの」

「お、お休みってそんな簡単に」

 平野が呆れた声を漏らす。
 皆の注目を集めたことに少々焦りながら、鞠川先生は続ける。

「一時間もしないうちに暗くなるから。……暗い中出くわしたら毒島さんでも大変でしょ?」

「それはそうだけど、どこで朝までの時間を潰すの?」

 呆れた声の高城に冴子が近くにある城を見上げて言う。

「篭城でもするか」

 ……冴子の顔も笑ってるし、冗談だよね? まさか本気じゃないよね?
 こらえきれずに小室が噴出す。

「広すぎてこの人数じゃ守りきれませんよ」

 言葉を弾ませる小室の後ろで、麗がどこか寂しそうな顔で小室を見つめている。

「麗、どうした?」

「……永? ううん、何でもないわ」

 近寄って肩に手を置こうとした井豪の手を偶然か故意にか避けると、麗は井豪から遠ざかるようにこちらに歩いてくる。
 おおおおおおおおお。もしかして、小室君の方に気が向いてきてる?
 でかした小室!
 心の中で拳をぐっと握るあたしを他所に、鞠川先生の話は続く。

「あ、あのね、使えるお部屋があるんだけど。歩いてすぐのところ」

「もしかしてカレシの部屋?」

 ニヤニヤ笑って高城が茶化す。
 鞠川先生は慌てて身体の前で手を振って否定する。

「ち、違うわよ。お、女の子のお友だちの部屋なんだけど、お仕事とかが忙しくていつも空港とかにいるから、鍵を預かって空気の入れ替えとかしてるの」

「マンションですか? 周りの見晴らしはいいですか?」

 現実味が出てきたためか眼鏡の奥で真剣な眼になった平野が尋ねる。

「あ、うん。川沿いに建ってるメゾネットだから。すぐそばにコンビニもあるし」

「安全に一晩過ごせるんですか!?」

 蚊帳の外で話に参加していなかったお下げの娘が勢い込んで言った。

「それは、行ってみないと分からないけど……。あ、車も置きっぱなしなの。戦車みたいな四駆の」

 こんなに大きいのよ、と鞠川先生が大きく両手を上げて回してみせた。
 腕を組んで冴子が頷く。

「どのみち移動手段は必要だ。ちょうどいいな」

 話を聞いていた高城が気だるげに髪をかきあげた。

「確かにもうクタクタ。電気が通ってるうちにシャワーを浴びたいわ」

「わたしも。制服も汚れてるし、早く落ち着きたい」

 高城の意見に賛同して、夕樹が制服の胸を汚さそうに引っ張った。
 ちらりとブラジャーに包まれた胸が見える。……こいつも大きいな。

「そ、そうですね」

 たまたま見える位置にいた平野が口をにやけさせて2人を凝視していた。

「このスケベ!」

「何見てんのよ!」

 平野の尻に2人の蹴りが入った。
 その後ろで小室がバイクに跨り、鞠川先生を呼ぶ。

「静香先生、後ろに乗ってください」

 ……まて、どうして小室は鞠川先生を名前で読んでる。しかも何故か鞠川先生がそれで普通に反応してるし。まあ、先生の場合は天然の可能性が高いけど。
 あたしは気を取り直して小室に尋ねる。

「確かめに行くならあたしが行こうか? バイクなら免許持ってるし。小室君も持ってるならいいんだけど、無免でノーヘルは凄く危ないよ?」

 小室があたしの言葉にぎくりと身を震わせ、こちらを振り向く。

「あー……ならお願いしてもいいですか?」

「ん。任せて」

 愛想笑いを浮かべる小室と入れ違いに、あたしはバイクに跨った。あたしの後ろに鞠川先生が跨る。

「じゃあ、行ってきます。小室、後は頼んだよ」

 エンジン音を響かせ、あたしはバイクを加速させた。


□ □ □


 バイクを走らせながら、あたしは背中に感じる驚愕の事実に愕然としていた。
 鞠川先生……さっきも思ったけど胸大きすぎ!
 もう押し付けられてるのは胸じゃなくて、胸に似た何かとしか思えない。

「あ、そこ、そこよ」

 しばらく進むと鞠川先生のストップがかかった。
 思った以上にゴツいその車にあたしは思わず渇いた声を漏らす。

「うっわー、何あの車」

「ね、戦車みたいでしょ?」

 鞠川先生の声を聞きながらマンションに眼を移すと、殆どの部屋が窓やドアが開けっ放しになっていた。いくつかの窓はカーテンが舞い上がっていて、中がよく見えない。
 もしかしたら<奴ら>がいるかもしれない。皆に知らせて手を借りるか、先にあたしだけで確かめるか……どちらにしよう?


 1.皆の手を借りる
 2.先に調べておく



[20246] 第十一話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:54
→1.皆の手を借りる
 2.先に調べておく


 1人で調べるのは明らかに無謀なので、鞠川先生を乗せて一度バイクで皆のところに戻り、メゾネットまで案内する。

「鞠川先生のお友だちって、どんなお友だちなのよ……」

 駐車スペースに止めてある車を見て、高城が唖然としていた。

「たぶん、警察か軍関係者だろうな。……既婚なのか?」

 バールのようなものを握り締めた永が車からメゾネットに眼を移し、麗にちらりと視線を向ける。

「<奴ら>は塀を越えられないだろうから、安心して眠れそうね」

 麗は井豪の視線に気付かない様子で、メゾネットをぐるりと囲む塀を見て安堵の息をついていた。
 その後ろで後続組の女子2人がホッとした顔をする。

「高城、何か使えるものないか? 拳銃は手に入れたけど当てる自信がないんだ」

 小室の問いかけに、高城が袋をまさぐり出した。

「え、銃!?」

「後で好きなだけいじらせてやるよ。ともかく今は……」

 食いつきの良い平野に苦笑した小室が不意に言葉を途切れさせる。
 1階の開きっぱなしの窓、割れた窓から<奴ら>がゆっくりと姿を現す。<奴ら>は麗の予想通り堀を越えられないようで、大勢であたしたちを呪うかのような唸り声を響かせている。
 袋から大ぶりのスパナを取り出した高城が不安そうな、心配そうな顔で小室に差し出した。

「小室、これでいい?」

 スパナを受け取った小室の目が鋭くなり、凄みを帯びる。

「ああ、充分だ。下がってろ」

 冴子と一緒にあたしも前に出る。その隣に井豪が並んだ。
 凛とした声で冴子が皆に言う。

「お互いにカバーし合うことを忘れるな。戦えない者は戦える者の後ろにいろ!」

 緊張した様子でそれぞれの得物を構える皆にあたしも声を張り上げる。

「周りをよく見て行動して。突出は厳禁よ!」

 帰ってきてから態度が変わった麗が気になりつつも、井豪がそれを思考の隅に追いやるように首を振ってバールのようなものを握り締める。

「……今はただ、やるべきことをやる。それだけだ」

 前に出た小室がメゾネットの門に手をかける。
 あたしはスクールバッグを起き、矢筒から矢を取り出して八節を踏み、引き絞る。
 平野が釘打ち機を構えた。

「行くぞ!」

 門が開け放たれた瞬間、あたしと平野は門の前にいる奴らに斉射を浴びせた。
 矢や釘を生やした奴らが倒れ伏せる中、小室たちがメゾネット内に突入していく。

「平野、突入!」

「はい!」

 釘打ち機を四方八方に向け、メゾネットに駆け込んだ平野が片っ端から<奴ら>の頭に釘を打ち込んでいく。
 まるで阿吽の呼吸のようにぴったりと小室に続いた麗が<奴ら>の腕が伸びきるよりも早く懐に潜り込み、走りこんだ勢いを乗せて警棒を口の中に突き込む。
 冴子が最初の斉射でバランスを崩した<奴ら>の頭を踏みつけ、その後ろにいる<奴ら>を木刀で薙ぎ払う。
 時折りバールのようなものだけでなく蹴りや拳を交え、井豪が<奴ら>の頭を潰していく。
 先陣を切った小室は、危険な場所に誰よりも早く飛び込んで<奴ら>を殴り倒していく。
 あたしは戦車みたいな車の屋根に攀じ登り、その場に待機してひたすら弓を引いた。矢を射掛け、皆の不意を突きそうな<奴ら>を射抜いていく。
 メゾネットの敷地内から冴子の声が聞こえてきた。

「入り口近くの安全は確保した! 嬌もそろそろ入って来い! 私たちは引き続き掃討を続ける!」

 車の屋根から飛び降り、門前に回って素早くスポーツバッグを回収し、門を潜る。
 門を閉めてしっかりと閂をかけると、あたしは入り口で所在なさげにしている夕樹たちと鉢合わせた。

「どうしたの?」

「毒島が入り口以外はまだ危ないから、ここで待ってろって」

 不安そうに両手を握る夕樹に、あたしは冴子から何を託されたか理解する。

「そっか。じゃああたしも待ってようかな。冴子たちを信じないわけじゃないけど、もし<奴ら>が残ってたらあなたたちだけじゃ大変だろうし」

 夕樹がホッとした柔らかい表情を浮かべた。

「ありがと。どっかの誰かが外見の割に凄くヘタレだから、出くわしたらどうしようかと思ってたの。助かるわ」

「ヘタレって誰のことだよ!」

 背後で上がった怒鳴り声に夕樹は振り返り、盛大なため息をつく。

「あんたよあんた。男の癖に後ろに隠れてみっともないったらありゃしない。わたしだって、実際に戦いはしなくても一応護身用に金槌借りてるのに」

 ……ああ、あの不良生徒か。そういえばまだいたんだっけ。すっかり忘れてた。
 後続組には夕樹以外に武器は持たせていない。というか武器がないか聞きに来たのが夕樹しかおらず、相変わらず自分で何とかしようという気がないようだ。
 まあ、下手に武器を持たれても意見が割れたりした時が怖いので、あたしとしてはこのまま武装してもらわない方がいい。
 夕樹たちからメゾネットに眼を向けた。
 よくよく考えてみれば、今回の行動はあたしたちの驚くべき変化を示している。
 今までのあたしたちは、いつだって逃げるために戦っていた。誰かを守るため、死にたくないがために、やむを得ず武器を取り<奴ら>や人間を相手にした。
 だけど、この時のあたしたちは決して逃げることを目的としていたのではない。生き残るために、明日を迎えるために、この終わりつつある世界の中で初めての攻勢に出たのだ。
 しかもそのことに、誰も疑問を覚えていなかった。そう、本来ならばこのような変化に聡いはずの冴子や高城すらも。
 事が起こってから半日、たったそれだけであたしたちは変化していたのだ。
 これから先、あたしはその事実が指し示す意味を何度も思い出し、心を奮い立たせることになる。
 小室の戦闘終了の声が聞こえた。あたしは夕樹たちを連れて部屋に向かう。懐かしく思える日常の空間が、あたしたちを待っていた。
 そして、終わりの中で迎える、初めての夜が訪れる。


□ □ □


 キャッキャ、ウフフ。
 キャッキャ、ウフフ。
 今の状況を擬音語で表せば、こんな感じになるのだろう。
 あたしは今、鞠川先生の友だちの部屋でお風呂に入っている。しかも同性全員で。
 外では今だに闇夜の中<奴ら>が徘徊し非常事態を伝えるニュースが飛び交っているのに、まるでここだけ修学旅行のノリである。
 鞠川先生の友だちの部屋のバスルームは、なかなか広くて立派だった。下手な一軒屋のお風呂よりも広いんじゃなかろうか? とはいっても、八人も入ればさすがにぎゅうぎゅう詰めなのだが。
 たっぷりと湯を張ったバスタブには順番につかることになっていて、今は麗と鞠川先生が入っている。メロンのごとく湯に浮かぶ鞠川先生の胸のようなものを見ると、推定Eカップの麗がまるで貧乳に見えるのだから恐ろしい。つかでかい。でかすぎる。鞠川先生が赴任したときからでかいとは思ってたけど、正直ここまでとは思わなかった。何食べたらあんなに大きくなるんだろ。
 ちなみにあたしは弓道をやっているせいかどうかは分からないが、気付いたら胸がFカップにまで成長していた。おかげで胸当てをしても起伏を潰しきれず、弦で胸を払うことがありやりにくい。弓道部仲間にそれを言うと涙眼で揉まれまくるので実際にそれを口にしたことはないけれど。
 冴子に勝てる数少ない自慢だったのになー。上には上がいるということか。

「うわっ、先生って……本当に大きい」

 麗がいる位置で見ると鞠川先生の胸のようなものはあたしが見ている以上に衝撃的な大きさらしく、湯船につかる麗が呆然とした声を出す。

「うん、よく言われる」

 鞠川先生はおもむろに自分の乳房を両手で持ち上げると、たぷたぷと湯の上で揺らして見せた。
 うううう、羨ましくなんかないもん。冴子に勝ってればいいんだもん。

「くうっ、なんて自信満々な……えーい!」

 顔を引き攣らせた麗が、バスタブ内で器用に背後に回り鞠川先生の胸を揉むという暴挙に出た。

「あひゃ! だめぇ! だめっ、そこだめぇ♪ 許してぇ♪」

 鞠川先生はたまらず逃げようとするが、バスタブ内では麗の魔の手から逃れられずなすがままになって嬌声を上げている。
 それを見ているあたしの後ろで、冴子と高城と並んで身体を洗っている夕樹が冴子にひそひそと話し掛けていた。

「……ねえ毒島。さっきから気になってるんだけど、バスタブにかじりついて御澄は何やってるの?」

 身体を洗っている冴子は、あたしの方にちらりと視線を向け、くすりと笑う。

「おおかた鞠川校医の乳が自分よりも大きいのが納得いかないのだろう。嬌は自分の胸に自信を持っていたようだから」

 あたしは冴子の言葉に思わず背中をびくりと震わせる。
 え、ちょ、どうして冴子がそのこと知ってんの!? 冴子には打ち明けたことなんかないのに……!
 驚いたが、そのおかげでガン見していた鞠川先生の胸から眼が離れ我に返る。
 冴子たちを誤魔化す意味も含め、隅の方で背を向けてこそこそと洗っている後続組2人に気付いて近寄っていく。

「君たちもそんな隅っこに固まってないでこっち来たら?」

 あたしの声を聞いて、お下げ髪の方の娘がこちらに振り向く。
 何故かじーっと胸に注がれる熱い視線。
 思わず胸を隠すあたしに、もう1人の娘がぼそりと言った。

「私たちにしてみれば、鞠川先生も御澄先輩も同じです。どうしてそんなに大きいんですか。どうやったらそんなに大きくなるんですか」

 え、何これ。
 動揺するあたしに、2人が座った眼でじりじりと近付いてくる。疑問形なのに語尾が上がってないのが地味に怖い。

「えいっ」

「揉んじゃえっ」

 飛びついてくる2人を止めようとして手を思わず前に出したあたしは、その下を掻い潜られる。1人に正面から、もう1人に後ろから胸を揉まれまくった。

「あん! やっ、そこだめぇ、だめだってばぁ♪」

 意外と本当に気持ち良かったのと、何だか修学旅行みたいで楽しくて、ついあたしも悪乗りしてしまった。
 そこかしこで上がる嬌声に辟易した様子で、高城が関わるまいと眼を瞑り髪を洗いながら言う。

「ぬるい18禁ゲームじゃあるまいし……」

 眼を開ければあたしの艶姿が眼に入ったようで、高城の首がくるりと回り、今度は鞠川先生の艶姿が眼に入ったらしく結局横の冴子に固定された。

「何でわざわざ全員でお風呂入ってるんだか」

 そう言う高城の顔はお風呂に入っている要因以外で真っ赤になっている。
 身体を洗う冴子は回りの状況をとても楽しそうに見ていた。

「高城は分かっているだろう」

「それはそうだけど……」

 不満そうな高城の横で、冴子はお湯に設定されていたシャワーを冷水にすると、おもむろに隣の高城に向ける。

「ひゃああああ!」

 冷水の冷たさにびっくう! と思い切り身体を逸らした高城に、冴子が邪気のない笑顔を向ける。

「……思ったよりいい声だな」

 額に青筋を浮かべた高城が洗面器に冷水を溜め、片手を伸ばして冴子の背後に洗面器を持ち上げ、傾けた。

「んっ、ふっ、あぁっ」

「くうっ、こんな時まで姉系の反応とは……」

 冷たかったことには変わりないようで、口惜しがる高城の横で膝を抱えて「ふー」と長く息を吐く冴子に、あたしは後続組2人を纏わりつかせたまま飛びついていく。
 頭をかき抱くように冴子に抱きつきながら、あたしは高城に顔を向ける。

「冴子はこういうの経験済みだもん。あたしが冴子の家にお泊りするたびにやってたらすっかり慣れちゃって」

「……嬌、胸が重いぞ」

「乗せてんのよ」

 あたしの胸を頭に乗っけた冴子が楽しそうな微笑を浮かべたまま文句を言ってくるので、あたしは冴子に笑顔で言い返した。

「アンタのせいかっ!」

 冷水シャワーを浴びせてきた高城に、あたしは素早くお下げの娘を盾にした。いい加減胸揉むの止めてー。

「後輩ガード!」

「ひにゃああああ!」

 背中から冷水を浴びたお下げの娘がびっくりしてあたしの胸から手を放す。その隙に後ろから伸びる手首をちょっと強めに握って外すと、高城の後ろに回ってその手を彼女の胸に導く。

「こっ、こっちも大きい! 皆敵だーっ!」

「うきゃああああ!」

 再び素っ頓狂な悲鳴を上げる高城の横で、夕樹が頭を押さえた。

「小学生じゃあるまいし……何やってるんだか」

 このひと時は、中々に楽しい時間だった。それは夕樹も同じようで、やがて苦笑する。

「何か、色々これからのことで悩んでた自分が馬鹿みたいだわ」

 あたしは夕樹に顔を向けて笑う。

「明日がどうなるなんて誰にも分からないわ。だからこそ、あたしたちは今を楽しむべきなのよ」

「……ああもう、分かったわよ!」

 ついには夕樹も笑顔になって、あたしに冷水シャワーを浴びせてきた。

「つめたっ! こらっ、あたしにかけるな!」

 冷水を洗面器に溜め、夕樹に仕返しする。

「きゃっ! ちょっとぉ、冷たいじゃないの!」

 バスルームから黄色い悲鳴が上がる。
 <奴ら>が徘徊する世界を唯一忘れられた一幕だった。


□ □ □


 女性陣が風呂に入っている間、男性陣は何か役立つものがないか部屋を手分けして探していた。
 ただし後続組の男子は探索に参加させずに別室で休ませている。下手に武器を持たれると仲間割れになった時が怖いからだ。

「楽しそうだなぁ」

 漏れ聞こえてくる声が気になって探索に集中できないようで、孝がぼやく。

「セオリー守って覗きに行く?」

「止めた方がいいぞ。明日を拝むつもりがないなら俺は止めないが」

 ニヤッと笑う平野に、鍵のかかったロッカーをバールのようなもので開けようと悪戦苦闘している井豪が苦笑した。
 平野は先にこじ開けた方のロッカーを漁り、小室を振り向く。

「こっちには双眼鏡と各種弾薬類があるね。これならもう一つの方には銃がありそう」

「そうだといいけど……何も入ってなかったら頭痛いな」

 頭をかく孝に平野が言う。

「入ってるよ。弾薬はあったんだから絶対に……」

 バールのようなものをロッカーの隙間に突き入れ、井豪が振り返った。

「どちらにしろ、開けてみないと分からないな。2人とも手伝ってくれ」

 3人で思い切りバールのようなものを押し、ロッカーの鍵をこじ開ける。
 一瞬とても硬い感触を伝えたロッカーは、耐えはしたもののすぐに力尽き開く。
 つんのめって転んだ3人はその拍子に打った箇所を擦りつつ起き上がる。

「これは……」

 一番初めに起き上がった井豪がロッカーの中を見て絶句した。

「やっぱりあった……」

 会心の笑みを浮かべてぐっと拳を握り締める平野の後ろで、孝が呆然として呟く。

「静香先生の友だちだっていったよな、ここの人。……いったいどんな友だちなんだ?」

「ただの友だちじゃないことだけは確かだな」

 唖然としていた井豪が我に返り、ため息をつく。
 銃を前に舞い上がって平野が1人の世界に突入しているので、小室は平野を放っておいてロッカーの中身を漁る。

「こっちにもまだ何かあるぞ」

 平野に代わって弾が入っていた方のロッカーを漁っていた井豪が奥に解体されたままの弓のようなものを見つけ、手をつける。
 取り出した井豪に気付いた平野が眼を輝かせて説明した。

「クロスボウ。ロビンフットが使ったやつの子孫だよ。バーネット・ワイルドキャットC5、イギリス製の有名な猟用クロスボウだ」

「弓の一種か……。御澄先輩なら使えるかな。後で持っていこう。平野、どうやって組み立てるんだ?」

「それはここをこうやってこうして……」

 説明を聞きながら井豪がクロスボウを組み立てていく。
 何とはなしに1つ残った銃を取り出した孝に平野が反応し、振り向いた。

「それはイサカM-37ライオット・ショットガン! アメリカ人が作ったマジヤバなショットガンだ。ヴェトナム戦争でも活躍した」

 興奮しがちな平野とは対照的にどこか白けた表情の孝が、銃を構えたまま何気なく平野に振り返る。

「例え弾が入ってなくても絶対に人に銃口を向けるな!」

 驚いた平野が大げさに身を捩った。真剣な表情で平野が孝に顔を向ける。

「向けていいのは……」

「<奴ら>だけか……。本当にそれで済めばいいけど」

 麗と2人で行動した時のことを思い出し、孝が難しい表情で銃を下げた。
 弾込めを手伝いながら、孝は平野と会話する。
 実は平野は実銃を撃ったことがあるとかで、孝は若干引き気味になりながら感心した。
 しばらく会話が途絶え、弾込めとクロスボウを組み立てるカチャカチャという音が部屋に響く。
 弾込めに飽きてきた孝が顔を上げた。

「にしてもどういう人なんだ、静香先生の友だち? ここにある銃絶対に違法だろ」

「基本的には違法じゃないよ、ここにある銃とパーツを別々に買うのは。その後で組み合わせたら違法になるけど」

 答える平野の横でクロスボウを組み立てていた井豪が口を挟んでくる。

「そういえば警察特殊部隊の一員だって鞠川先生が言っていたな」

「警察なら何でもありかよ?」

「普通じゃないのは確かだね? 独身の警官がこんな部屋を借りてるなんて、実家が金持ちか……」

 声を潜めた平野の台詞を、同じく声を潜めた井豪が引き継ぐ。

「……付き合ってる男が金持ちか、汚職でもしてるか、か」

 しばらく3人を気まずい沈黙が包んだ。
 同時に1階の風呂場から聞こえてきた女性陣の声に、平野がそわそわと階段を振り返る。

「さすがに騒ぎ過ぎかも」

「大丈夫だろ」

 孝はカラカラと音を立てるガラス戸を開け、双眼鏡を持ってベランダに出る。

「<奴ら>は音に反応するけど、ここよりももっとうるさい場所がある」

 双眼鏡を覗き込んだ孝の眼には、昼に渡ろうとしていた御別橋の緊迫した状況が映し出されていた。
 封鎖のために警察が展開するバリケードに生存者たちが押しかけ、物凄い騒ぎになっている。
 生きている人間に紛れてあちこちに<奴ら>がいて生存者も必死なのだ。
 バリケードの向こう側には逃げ遅れたらしいテレビ局の取材陣がいて、蔓延する恐怖と喧騒の中少しでも職分を全うしようと中継を行っているようだった。
 警察もまだ辛うじて治安を保ってはいるが相当厳しい状況のようで、車両の通信機を地面に叩きつける者もいる。

「……映画みたいだ」

「小室、俺にも見せてよ」

 外に出てきた平野が手を差し出してきたので、孝は双眼鏡を渡す。
 橋の状況を見た平野が嘆息した。

「地獄の黙示録に確かこんなシーンが……ん、何だあれ。向こうに妙な連中が」

 テレビで確認しようと小室が部屋の中に戻ると、ちょうど井豪がテレビをつけたところだった。
 映像の中では横断幕やプラカードを掲げた団体がバリケードの向こう側でシュプレヒコールを上げている。
 画面を見つめる井豪が顔を顰める。

「警察の橋の封鎖に対する抗議行動みたいだな。生物兵器による病気って……本気で言ってるのか?」

 井豪の横に座り込んだ孝が乾いた声を漏らした。

「殺人病って何だよ……こんなの病気なんかで説明つくわけないじゃないか!」

「連中設定マニアなのかな? それとも現実を見ないだけの悪い病気なのか。 左翼だよね?」

 部屋に戻った平野の答えに孝は唸った。

「確かに左翼は設定マニアで悪い病気だ。極右の人種差別者と同じくらいに悪い病気だよ」

「驚いた。小室もそういうこと口にするんだね」

 平野がニヤニヤ笑いながらまたベランダに向かおうとするのを見て、孝は困ったように嘆息した。

「お袋の同僚に今でも左翼活動やってるのがいてさ。学校で起きてた苛めは見て見ぬ振りするような反戦主義者様だった」

「そのお袋さんの仕事は?」

「小学校の先生! 川向こうの御別小学校で1年生のクラスを持ってる。生徒がいる限り逃げてないな……そういう人なんだ」

「お袋さんも左翼? それとも日教組とか」

 ガラス戸に手を掛けた状態で振り返りニヤッとする平野に、孝は苦笑して首を横に振る。

「まさか! 俺のお袋だぜ? むしろ若い頃は」

 テレビから銃声が響き、孝の語りは中断させられる。
 僅かに身動ぎした井豪が組み上げたクロスボウを横に置き、孝たちを振り返る。

「見てみろ。バリケードに<奴ら>が近付いてきてとうとう警察が発砲し始めた。これから荒れるぞ」

 <奴ら>の中にも生存者が紛れ込んでいるが、警察はそれすら通すまいとしている。
 仕方のないことだ。<奴ら>の真っ只中にいる以上生きてはいても<奴ら>にならないと判断することはできず、警察としては<奴ら>と同じように扱うしかない。
 それを裏付けるように、ぐったりとした子どもを抱き抱えながら走ってきた女性が、突然子どもに首の肉を噛み千切られ呆然とした表情のまま血を噴き上げて倒れ付す。その横で母親を喰い殺した子どもが<奴ら>と化して立ち上がろうとしていた。
 その子どもにも警察が発砲する様を見た団体が一層抗議の声を張り上げた。
 警察官の1人が静かな足取りで団体に近付いていく様子がテレビに映し出される。

「なんだ……? 何をしようとしてる?」

「まさか、力付くで黙らせるつもりじゃ……」

 テレビを凝視する井豪と平野の目の前で、ブラウン管に映る警察官が拳銃で抗議行動の主催者らしき人物を撃ち殺した。
 リポーターの悲鳴とともに映像が切り替わったのを見て、井豪が険しい表情のまま額に汗を滲ませる。

「もう警察でもどうにもならなくなってるな。まずいぞ」

 平野が銃を掴み、僅かに腰を浮かせる。

「すぐに動いた方がいいんじゃないの?」

 首を振り、孝は平野を手で制した。
 
「駄目だ。明るくならないと<奴ら>にいきなりやられるかもしれない」

 そういう孝の後ろから、突然真っ白な腕が伸びてきた。

「ひっ!?」

 気付いて悲鳴を漏らす平野に遅れ、小室と井豪もそれに気付くが、もう遅く腕は小室の首に絡みついて──。
 酔っ払った鞠川先生だった。



[20246] 第十二話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:55
 風呂から上がると、鞠川先生がお友だちの取っておきだというお酒を持ってきた。台所からグラスを持ち出して、女性一同で少しずつ味わう。
 確かに美味しい。度数も結構強いみたいだから量は飲めないけど、酔うには持ってこいだ。バスの時みたいに魘される娘もいるだろうし、ぐっすり眠るという点では悪くない。
 あまりたくさん飲んだ自覚はないが、8人で飲んでいたせいもあってあっという間に空になる。
 程よく酔っ払ったあたしたちは、外に出ない、大きな音を立てないことを条件に思い思いに散っていく。自由行動である。
 ちなみにコンビニで買い込んだ食糧だが、小室と麗はその殆どをはぐれている間に無くしていた。聞いた限りではかなり大変だったみたいだから仕方ない。幸いいくつかは無事だったので、この部屋の冷蔵庫や調味料を漁れば何とかなるだろう。

「私はこれから皆の夜食を作るが、君も来るか?」

「もちろん。人数分作るのは大変でしょ? 手伝うわよ」

 冴子に誘われ台所へ。
 ちなみにあたしたちは合うサイズの服がなかったので、二人とも洗濯の間仕方なく下穿きを穿いてエプロンをつけただけの格好で誤魔化している。あたしは恥ずかしくてついつい猫背になるのだが、冴子はこんな時でも堂々としていてあたしが猫背になるたびに姿勢が悪いと注意してきた。下穿きは鞠川先生の友だちのを借りたのだが、それがまた布地の部分が極めて少ないスケスケのティーバックで恥ずかしさを助長している。何のバツゲームだ。

「……改めて思うけど凄い格好よね、あたしたち」

 食材の下拵えをしながらぼやくと、冴子がきょとんとした顔を向けてくる。

「そうか? 私はこれくらいなら小室たちに見られても大丈夫と思っていたのだが」

 思わず絶句するあたし。相変わらず冴子の感性は常人離れしている。つーか、裸エプロンで大丈夫って、冴子の恥ずかしいと思う格好があたしにはさっぱり分からないよ。

「まあ、冴子がそう思うならいいけど」

 嫌だと言っても着るものがないことには代わりがないので仕方ない。割り切ることにする。
 一緒に料理をするのは今に始まったことではないので、特にトラブルもなく調理は進む。
 1人暮らしの冴子はもちろん、あたしも冴子ほどではないがそこそこ経験はある。
 夜食ということで、冴子は簡単に汁物を作るつもりらしい。春先とはいえ夜になればまだ肌寒いし、身体を温めるのは悪いことじゃない。<奴ら>を連想させないよう肉の使用は控えたし、あっさりとした味付けにすれば後続組の子たちも食べられるはずだ。
 ある程度形ができてくると味付けの段階に入り、冴子の独壇場になった。手持ち無沙汰になったあたしは、台所の中央で仁王立ちになって、上のほうから聞こえてくる酔った鞠川先生や麗の声と、びっくりしたように騒ぐ小室たちの声を聞きながら、やってくるラッキースケベを待ち構える。
 冴子の裸エプロンなんてあたし以外に見せてたまるか!

「ぶっ! 御澄先輩、何て格好してるんですか!?」

 ……あれ? 井豪? 何で井豪が来るのー?

「ん? 何入り口で立ち止まってるんだ?」

「ま、待て、今は入るな!」

「何だってんだよ……」

 結論。小室も井豪の後ろにいました。
 井豪は紳士的に後ろを向いて小室を押しとどめようとしたようだけど、小室はひょいと井豪の身体を避けて台所に入ってくる。
 増えた気配に気付いたか冴子も振り返る。あああ、もうだめだ。

「小室君たちか。もうすぐ夜食ができる。明日の弁当もな」

「助かります。すみません、先輩たちに面倒ばかり押し付けて……」

 恥ずかしそうに頭をかいた小室の動きがあたしたちを見て止まった。隣で井豪が頭を抱えている。

「ええええええええ!?」

 声に驚いた冴子がきょとんとする。

「どうした?」

「どうしたも何も」

 視線が自分の身体に注がれているのに気付いて、冴子がエプロンを引っ張った。
 見える見える! 色々大事なものが見えるから引っ張らないで!

「ああこれか。合うサイズのものがなくてな。洗濯が終わるまで誤魔化しているだけだが……」

 顔を真っ赤にする小室たちに冴子はエプロンを身体に押し付けて見える面積を少しでも減らそうとする。
 でもそれ、乳首浮き出るから! かえってエロいから!

「やはりはしたなさ過ぎたようだな。すまない」

 この天然さんめ!
 だめだ早く何とかしないと……。

「ほらほら男どもはさっさと後ろ向く! まったくもう、冴子はこういうことには無頓着なんだから……だいたいこんな格好で<奴ら>と戦うことになったらどうすんのよ」

「無頓着なわけではないぞ。評価すべき男には絶対の信頼を与えるようにしているだけだ」

 小室、気持ちは分かるけど嬉しそうにすんな。さっさと後ろ向きなさいよ。井豪なんて耳まで真っ赤にして後ろ向いてるじゃない。
 階段から小室を呼ぶ酔っ払った麗の声が聞こえてくる。井豪が麗を気にする素振りをしたが、振り返る小室を見て何を思ったのか結局その場を動かなかった。

「見てやった方がいいぞ。女とは時にか弱く振舞いたいものだ」

 すっごく楽しそうに口元を緩ませながら、冴子は鍋に向き直って調理を再開する。

「毒島先輩もですか」

「友人には冴子と呼んで欲しいよ」

「さ、さ……」

 どもっている小室を見て、可愛いものを見るかのように冴子がくすりと笑った。

「練習してからでいい」

 冴子の笑顔に見とれる小室にあたしは笑顔で近付いていく。

「で、小室君はいつになったら後ろを向いてくれるのかな?」

 顔をあたしに向けた小室が、真っ赤だった顔を青褪めさせる。
 あは、信号機みたい。どうしてそんな反応するのかなぁ? うふふふふふふふ。

「み、御澄先輩……。さすがに包丁持ち出すのはやばいんじゃ」

 井豪が何か言ってるけど、あーあー聞こえなーい。つーかさり気なくこっち向くな。

「さっさと出ていきなさい!」

 あたしは包丁を突きつけて2人を一喝した。


□ □ □


 小室は麗を構いに出ていったが、井豪は何故か台所に残ったままだった。
 律儀にまた後ろを向いた井豪にあたしは声をかける。

「君は行かないの? 宮本さんの彼氏なんでしょ?」

 井豪は振り返らずに頭をかいた。

「麗は、もともと孝の方が好きでしたから。麗と孝がよりを戻すのなら祝福してやらないと」

 あたしは井豪の言葉に絶句した。お人好しにもほどがあるだろう。冴子のことが大切なあたしにとっては小室が麗の方を向くのでいいことだが、複雑だ。

「君は宮本だけでなく、小室君との友情も大事なのだな」

 汁物を小皿に取って味見していた冴子が振り返る。

「幼馴染なんで……。こんな事態ですし、あまりあいつとしこりは作りたくないんです」

「愛ではなく友情を取るか。損な性分だな、井豪君」

「よく言われます」

 空笑いなのが何となく分かって、あたしは居たたまれなくなる。麗が小室を向くように工作したのはあたしなのだ。冴子のためだから恨まれることは覚悟していたけど、こんな風に井豪が引くなんて考えもしなかった。
 井豪の背中に声をかける。

「……こっち向いてもいいよ」

「え。それは……」

 逡巡する井豪に言い募る。

「別にいいわよ。冴子はもともと気にしてないし、あたしも井豪君なら気にならないわ」

 恐る恐る振り向く井豪の前であたしは胸を張る。やましいことがあると思わせてはいけない。いつもの自分を心がける。
 あたしも冴子も裸エプロンだからか、井豪は凄く居心地が悪そうだった。前を向いても視線はあらぬ方向に飛びまくって落ち着かない。
 ……あまりにも井豪が緊張しているものだから、何だかあたしまでドキドキしてきた。

「ねえ、井豪君。やっぱり親友だとしても不満はたくさんあるんでしょ? 違う部屋で愚痴くらいなら聞いてあげるよ」

 つい雰囲気に流されてそんなことを言ってしまう。元凶のあたしが何言ってるんだろ。というかこんなのあたしの柄じゃないのになぁ。
 鍋をかき回していた冴子が戸棚からお酒のビンを一本取り出し、グラス2つと一緒にあたしに手渡す。

「行ってくればどうだ? 残りは私1人でもできる。明日も<奴ら>を相手に命のやり取りをすることになるのだから、吐き出せるものは今日中に吐き出しておいた方がいい」

 冴子からゴーサインが出たので、あたしは控えめに井豪の手を取る。
 この時あたしは、自分の格好を完全に失念していた。

「ほら、いこ?」

 だから、頷いて立ち上がった井豪が顔を背けながらもどこか熱の入った眼でじっと見つめてきたことの意味を、深く考えはしなかったのだ。


□ □ □


 誰もいない部屋に移動したあたしは、井豪をソファに座らせてグラスを取り、お酒を注いだ。

「これ飲んで」

「……ありがとうございます」

 グラスを受け取った井豪は少し逡巡した後、グラスに口をつけた。
 半分ほどを飲み干した頃、井豪の口から次々と愚痴が溢れ出てくる。

「最初に麗のことを好きになったのは孝かもしれないが、俺だって麗のことが好きだったんだ。なのにどうして……」

 息継ぎで話が途切れる合間にあたしは相槌を打つ。話し易いように、空になったグラスに酒を足すのも忘れない。

「ずっと面倒臭がって麗のことを見ていなかったのに、事が起こってからの孝はまるで人が変わったように……」

 小室に限らず、<奴ら>と相対して一日を生き抜いてきたあたしたちは、大なり小なり昨日までのあたしたちとは変わってしまった。小室は普段が鬱屈していたみたいだから、その変わり様が他人よりも大きく見えるだけだろう。
 幼馴染だからこそ、変化を認められないという気持ちを、あたしはよく分かっているつもりだ。
 だって、まさにあたしと冴子の関係がそうなのだから。冴子があたしじゃなくて他の人を好きになったらと考えると胸が苦しくなる。
 あー、何か、今までは小室に同情してたのに、今度は井豪に同情してきてるぞあたし。あたしが蒔いた種なんだから自業自得なのに。

「麗のことを支えているのは俺だって自負があったんだ。でも麗は二人で行動しているうちに孝の方を向いてしまったみたいで……」

 痛い。何がってあたしの良心が痛い。さっきから井豪の愚痴を聞けば聞くほどドスドスあたしの心に罪の意識が刺さってきてる。
 ううう、ごめんなさい……。たぶん、あたしが最初に井豪にちょっかいかけたり小室を炊き付けたりしてなかったらここまで酷くはなってないと思います……。
 居心地悪そうにしてるあたしに気付いたか、井豪が我に返ったようにあたしを見た。

「すみません。こんなこと先輩に話しても意味ないのに」

「そんなことないよ。話してくれてすごく嬉しい。学校でたくさん助けられたから、力になりたいと思ってたんだ」

 これはあたしの本心だった。井豪を見捨てていれば、きっと今頃学校であたしは<奴ら>に喰われて死んでいただろう。井豪は小室たちとはぐれた時、あたしを守ってくれた。その恩返しがこんなマッチポンプみたいな方法なのは本当に申し訳なく思う。
 でもそれと同時に、冴子とは関係の無いことだからと割り切って冷静に井豪を観察する自分がいることも、あたしは感じていた。あたしの一番はいつだって冴子で、それは事が起こる前から決まりきっていることだ。
 あたしにとってしてみれば、最悪回りの人間が皆死んでしまっても冴子とあたしが生き残ってさえいればそれでいい。もちろん冴子の願いならば他の人間を助けることもやぶさかではないが、あたしは基本的に冴子と自分の命を一番上に持ってきている。冴子のために、あたしは他人を踏みつけることを厭わない。
 でもまあ、これくらいなら別にいいだろう。あたしは彼にそうするだけの負い目があるのだから。
 そう思って井豪を抱き締め、その頭を撫でた。

「せっ、先輩!? 何を……」

 腕の中で井豪が慌てている。別に動揺することないのに。案外初心なんだろうか。
 そんなことを思っているあたしは、完全に自分の格好を忘れていた。そりゃ傷心してるところにエプロンしかしてない女性に抱き締められたりなんかしたら辛抱たまらないよね。のほほんとしていたけど、この時のあたしはさりげなく貞操の危機だった。我慢してくれた井豪には本当に感謝している。

「御澄先輩……ありがとうございます。おかげで少し楽になれた」

 真っ赤な顔で、何かを堪えるかのように腕を震わせながらあたしの腕を丁寧に外した井豪は、大きく息をつくと真面目な表情に戻って頭を下げた。

「元気が出たなら何より。それじゃあそろそろ……」

 犬の鳴き声が外から聞こえてきて、あたしは言いかけた口を止めた。
 しばらく耳を澄ます。
 ……冷や汗が出てきた。結構大きくないか、この鳴き声。

「まずいな。近いぞ」

 そんな状況ではなくなって完全に冷静さを取り戻した井豪が立ち上がり、慌てて部屋を出て行く。
 あたしはすぐさま井豪を追いかけ、二階に上がってベランダに出る。既にベランダに出ている小室や井豪、平野を掻き分けて厳しい表情で下を見下ろす冴子の横に立つ。
 外を見た途端戦慄が走り、冷や汗が背中を伝うのを感じた。

「嘘でしょ。犬が鳴いてるだけでこんなに……」

 メゾネット前の道路は、昼とは様相を一変させ<奴ら>が無数に徘徊する地獄と化していた。
 集まってきた<奴ら>は隠しきれないわずかな生活音を聞きつけたのか、道路に面した家々を襲い始めている。住宅のドアなど、集まった<奴ら>の腕力にかかってはひとたまりもない。次々とドアが破られ、家の中から悲鳴が上がる。
 <奴ら>の中をどこから持ち出してきたのか銃を持った少年が逃げ惑い、発砲するも弾込めが間に合わずあっという間に喰い殺された。

「畜生、酷すぎる!」

「小室っ」

 踵を返して部屋に戻ろうとする小室を平野が呼び止める。

「何だよ! 時間がないんだ、早く助けないと」

「行ってどうするつもりなの?」

「そんなの<奴ら>を撃つに決まって……!」

 小室の背後で冴子が硬質な声を出す。

「忘れたのか? <奴ら>は音に反応するのだぞ。そして……」

 静かに部屋に戻った冴子は壁にある蛍光灯のスイッチに手を掛ける。パチリという音と共に明りが消えた。

「生者は光と我々の姿を目にし、群がってくる。むろん、我々には全ての命ある者を救う力などない!」

「なんだよそれ……まだ生きてる人だっているんだぞ、見捨てるのかよ!」

 憤って冴子に詰め寄ろうとする小室の前に、あたしは立ちはだかる。

「割り切りなさいよ。一行の命を預かるリーダーが一時の感情に流されてどうするの」

「俺は好きでリーダーになったわけじゃないっ!」

「どっちでも同じ。君をリーダーに指名しなかったとしても、あたしは君の行動を認めない。君が撃てば、あたしたちにまで危険が及ぶから」

 自分だけが犠牲になるのならまだいい。だけど他人を巻き込む危険を考えずに動くのは現実を見ないただの夢想家だ。あたしたちが伸ばせる手はあたしたちが思っている以上に狭くて、全てを助けるなんて到底できない。何かを助ければ、必ず他の何かを取りこぼしてしまう。
 ベランダから道路を見下ろす。
 家から逃げ出して<奴ら>だらけの道路を逃げ惑う女性がいた。袋小路に追い詰められ、絶望の表情で鉄パイプを握り締める男がいた。きっと襲われている家の中では、生き残れるはずがないと分かっていても動けなくて、部屋の中で震えている人間だっているはずだ。
 それを、あたしたちは全て見捨てなきゃいけない。
 できれば助けてあげたい。見て見ぬ振りなんてしたくない。それでも、あたしたちが生き延びるためには切り捨てるべきなのだ。
 何に変えても冴子と一緒に生き延びる。それが駄目なら、せめて冴子だけでも生き延びさせる。他の全ては二の次だ。それがあたしの取捨選択。そのためにあたしは学校でたくさんの生徒を見捨て、紫藤先生を手に掛けた。……小室、君はどうするの?
 冴子が諭すように小室に語りかける。

「彼らは己の力だけで生き残らなければならぬ。我々がそうしているように。何を言いたいかは分かる、宮本から聞いたよ。君は過去一日において厳しくはあるものの男らしく立ち向かってきた」

 逃げ惑っていた少女が喰われた。追い詰められた男が喰われた。家の中から断末魔が聞こえた。
 聞いただけで恐ろしくなるその声を聞きながら、冴子は小室に双眼鏡を差し出す。

「だが……よく見ておけ。そして慣れておくのだ! もはやこの世界は男らしくあるだけでは生き残れない場所と化した」

 部屋に戻って双眼鏡を受け取った後、小室は気後れしたように言った。

「……俺、先輩たちはもう少し違う考えだと思ってた」

 小室の言葉に、冴子があたしたちに背を向けた。
 しばらく黙り込んだあと、冴子はジレンマを彷彿とさせる力のない笑顔で振り向く。

「間違えるな小室君。私たちは現実がそうだと言っているだけだ。それを好んでなどいない」

 その言葉は、聞いていたあたしが心配になるほど部屋の中に弱々しく響いたのだった。


□ □ □


 1人きりになった孝は、双眼鏡を手に平野がいるベランダに出た。

「あ、外を見るときはこっそりとやってよ」

 平野の言葉にまだ納得できないものを感じながらも、孝は緊張した表情で恐る恐る双眼鏡を覗き込む。
 喰われている人間がいた。顔を苦痛と恐怖と絶望を合わせてぎゅっと濃縮したような表情に歪め、身体の中身をあちこち露出させて痙攣している。
 別の場所では逃げ惑っていた人間が追い詰められ、喰い付かれて絶叫した。すぐに最初に見た人間と同じ末路を辿るだろう。

「……地獄だ」

 呟く孝は、親子らしい男性と小学生くらいの少女が逃げ惑って近くの家の門を潜ったのを見つけた。
 男性は少女を連れ、その家のドアを叩いて助けを求めている。だが、家の住民は決してドアを開けようとはしない。
 どこも同じなのだ。生存者を助けることで<奴ら>を招き入れる結果になる事を恐れ、小さなコミュニティーの中で縮こまっている。
 痺れを切らした男性がドアを壊すと脅すとようやく住民はドアを開け始めた。
 開かれるドアに安堵の表情を浮かべた男性に、棒に包丁を括り付けた手製の槍が突き立てられる。
 男性は己の胸に突き立てられた包丁を唖然とした表情で見つめ、倒れた。
 ドアが閉まり、再び鍵がかけられる。
 慌てて駆け寄る少女に男性は顔に死相を浮かばせたまま何か囁いている。おそらくは逃げろと言っているのだろう。少女がいやいやをするように首を振り、男性に縋りつくのが見えた。
 もう男性は動かない。少女の泣き声に<奴ら>が少しずつ集まってくる。
 孝は歯噛みした。見捨てるしかないのか。今すぐ助けに行くべきじゃないのか。
 だがそう思うたびに、突きつけられた現実が頭に浮かんで孝を縛りつけようとする。

「く……そっ!」

 <奴ら>が少女の背後に立ったのを見て、孝は思わず眼を瞑る。少女が喰われる瞬間なんて見れない。
 諦めかけた時、隣で勇ましい声がした。
 銃声が鳴り響く。

「ロックンロール!」

 その声はまるで孝に諦めるなと告げているかのようだった。
 少女に喰らい付こうとした<奴ら>の頭が吹き飛び、少女が後ろを振り返って涙を浮かべたままきょとんとした顔をした。
 過たず目標を狙撃できたことに、平野はスコープを覗いたまま眼を見開いて喜色を露わにする。

「試射もしてない他人の銃でいきなりヘッドショットをキメられるなんて! やっぱ、こういうことは天才だなあ俺。ま、距離は百もないけど。……お?」

 再び少女に迫った<奴ら>が平野によって狙撃された。驚いて頭を抱えて蹲る少女の前で、頭を撃ち抜かれた<奴ら>が次々に倒れ付す。
 腰を浮かせた孝の眼が希望に輝いた。

「撃たないんじゃなかったのか? 生き残るために他人を見捨てるんじゃなかったのか?」

「小さな女の子だよ!?」

 迷いを振り切るように平野が背を向けたまま絶叫する。

「助けるんでしょ? 僕はここから援護するから!」

 ニヤッと笑い、頷いて駆け出す孝に平野が振り向いて怒鳴る。

「何してんのさ! せめてショットガン持ってきなよ!」

「使い方知らねーんだよ!」

 でも問題はない。孝も平野も、己のすべきことは分かっているのだ。
 少女の救出が始まる。



[20246] 第十三話(二巻終了)
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:56
 冴子と一緒に台所に戻る。
 心の中は自己嫌悪でいっぱいだ。自分がクズだってことは、あたし自身がよく知ってる。奇麗事で飾り立てても、彼らを見捨てる事実は変わりはしない。だからこそ、あそこで小室に現実を突きつけて泥を被るのは冴子じゃなくてあたしがするべきだったのに。

「すまない。気まずい思いをさせてしまった」

 落ち込むあたしを見て困ったようにはにかむ冴子の近くには、いつでも手に取れるように木刀が立てかけてある。きっと冴子は小室がどのような選択をするのか分かっているのだろう。あたしだって認めたくないけど、小室がどういう人間なのか薄々感付いてきているのだ。冴子に分からないはずがない。

「こっちこそごめん。冴子に汚れ役させちゃった」

 あたしは今でも彼らを助けようとは思えない。あたしの優先順位ははっきりしている。他の人を助けに行って結果的に冴子を危険に晒すようでは本末転倒だ。
 あちこちに手を差し伸べていては、本当に守りたい者を守れない。あたしと同じ、恋心を抱く大切な存在がいる小室なら、それが分からないはずがないのに。失ってから後悔するのでは遅過ぎる。
 銃声が聞こえた。
 堪えきれなくなったように冴子が笑う。

「先に平野君が耐え切れなくなったみたいだな」

 機嫌が急降下していくのを感じ、あたしは顔を押さえる。

「……本当に、どいつもこいつも考えなしなんだから」

「仕方ないさ。我らのリーダーが助けることを選択したのだから。そんなことを言いながら、君も結局手伝うのだろう?」

 全然思うようにいかないからか、いつもは大好きなはずの冴子の笑顔が異様にムカつく。くそう、清々しい顔してくれちゃって。

「冴子が望むから、よ。あたしの本意じゃない。間違えないでよね」

 せめてもの反抗とふてくされてみせるが、冴子は分かっているとばかりにあたしの顔を優しく見つめるだけで何も言わない。
 台所を出て、階段を駆け下りてきた小室を冴子と2人で出迎える。
 階段の踊り場で引き止めていた麗に冴子が声を掛けた。

「行かせてやれ。男子の一言なのだ」

 あたしたちに気付いた小室が歩を緩め、あたしと冴子に頭を下げる。

「すいません。どうも僕、こういう人間らしいです」

「……知っていたよ、もちろん」

 小室と擦れ違い様に呟いた冴子の横顔を見て、あたしは思わず顔を背けた。
 横顔から読み取れたのは、小室の行動を評価し、命を預けることを決めた親愛の情。
 小さい頃からずっと冴子を見続けてきたあたしが何年もかけてやっと得た冴子の信頼を、小室はこんな短期間で手に入れつつあった。
 冴子が小室に惹かれていくことは最初から分かっていたつもりだった。吊り橋効果もあるだろうし、冴子の安全のためなら、冴子の心があたしから離れていくのも仕方ないと覚悟していた。だけど、それを現実として突きつけられるのは思っていた以上に衝撃的だった。
 妬ましい。あたしたちを無駄に危険に晒している小室に、どうして冴子は好意を抱くのだろう。分からない。大切な者がいるという点では似ているはずなのに、あたしと小室が選んだ行動は正反対だ。似ているからこそ余計にイライラが募る。
 あたしは深呼吸して気持ちを落ち着かせた。こんなことで小室に隔意を抱いて仲間割れの火種を増やすわけにはいかない。何とか平常心を取り戻さないと。
 ポニーテールにした髪を翻し、冴子が木刀を片手に小室を振り返る。例え裸エプロンでも、冴子はいつものように凛々しかった。

「ここは何があっても守る。安心して行ってこい!」

 振り向いた孝の顔が喜色に染まるのが見えた。
 玄関の電気を消して出ていこうとした孝を麗が呼び止め、拳銃を手渡す。

「孝。これぐらいは持って行って」

 小室は見た者を安心させるような覇気に満ちた顔で拳銃を受け取った。
 外に出ていく冴子たちと一緒にあたしも外に出る。
 冴子が小室に話し掛けていた。

「銃を過信するな。撃てば<奴ら>は群がってくる」

「どのみちバイクで音が出ますよ」

「そうだ。しかし……バイクは動くために音を出すのだ。銃声が轟く時、君は動いていない」

 緊張に満ちた顔で小室が頷く。
 バイクに跨った小室に、麗が声をかけた。

「準備は良い?」

 門に手を掛けて振り向いた麗を見ながら、小室はフィンガーレスグローブを嵌めてグリップを握った。
 冴子と麗によって門が開かれる瞬間に小室はバイクのエンジンをかけ、アクセルを回し飛び出していく。

「一体何の騒ぎよ?」

 騒音に気付いた高城が外に出てくる。

「いいことがあったの」

「何よ?」

 門を閉めながら笑顔で答える麗に、高城は呆れ顔をした。

「私たちはまだ人間だって分かったのよ!」

 ……なら、今でも本当は見捨てたいと思っているあたしはもう、人間とはいえないのだろうか。
 そんな疑問がふと頭を過ぎる。
 麗の発言を肯定するかのように、再び銃声が轟いた。


□ □ □


 小室が出て行って、あたしたちは慌しく動き始める。
 高城が眠っている鞠川先生を起こしに行き、あたしは事態に置いてけぼりになっているであろう後続組のもとへ向かう。

「ちょっと、さっきから銃声みたいな音が聞こえるけど、どうしたのよ」

 部屋に入るなり夕樹に詰め寄られ、あたしは口早に説明した。

「<奴ら>が近くまでいっぱい来てるの。ここにいると危険だから逃げるよ」

「げ、またぁ?」

 天井を仰いだ夕樹は、顔を顰めて舌打ちするとベッドで熟睡している不良生徒を蹴り起こす。

「さっさと起きなさいよ! いつまで寝てんの!」

 身を寄せ合って不安げな様子の女子2人があたしに近付いてきた。

「あの、<奴ら>が来たって本当ですか……?」

「う、嘘ですよね?」

「こんな時に笑えない嘘ついてどうするの。今高城たちが荷物を車に積む準備してるから、君たちも早く自分の荷物を纏めて」

「そ、そんなぁ……」

 しょんぼりとしながらも、お互い励まし合って女子2人は勇気を奮い立たせたようだった。
 さすまたをぶつけた男子生徒が慌てふためく。

「ここまで来てるんですか!? 大変だ、早く逃げないと」

「落ち着いて。今は小室がバイクで出て<奴ら>の注意を引いてるから準備する時間はあるわ。自分の荷物を纏めたら高城たちを手伝ってあげて。決して大声を上げたりしないこと! いいわね?」

 真実ではないが、間違ったことは言っていない。
 身を竦ませてこくこくと頷く男子生徒の背中を押して、動くきっかけを与えてやる。
 一歩踏み出した男子生徒は、ごくりと唾を飲み込むと1階に下りていった。

「僕は何をすれば……」

 根暗そうな男子生徒がおろおろしているのを見て、あたしは聞いてみた。

「銃は扱える?」

「扱えるわけないじゃないですか! 持ったこともないです!」

 やはり平野のような只者ではないオタクはそうそういないらしい。

「じゃあ君も下に行って脱出準備!」

「は、はい!」

 全員が準備を終えて下に行くのを見届けて、部屋の外に出る。
 別の部屋から出てきた高城と鉢合わせ、そのままエプロンを掴まれた。

「ちょうどいいわ! あんたも手伝って!」

「待って、引っ張らないで! 分かったから!」

 必死に身体を隠すエプロンを死守し、高城と鞠川先生の後ろをついていく。
 というか鞠川先生裸じゃん……。
 あたしたちに気付いた平野が振り向いて鼻血をぶっぱした。うん、気持ちは分かる。

「た、たたたた高城さん?」

「あんたは自分の仕事をしてなさい。絶対に必要なものだけを教えて!」

「そこのロッカーにあるのとベッドにあるのと銃はもちろん全部。でも何でです?」

 流していた髪をリボンでツインテールに括りながら、高城はぽかんとしている平野に眼を向ける。

「こんな大騒ぎ起こしといていつまでもここにいられるわけないじゃない! 逃げ出す準備よ! あんたもいつでも動けるようにしておいて」

 声に押されるように、鞠川先生が寝ぼけ眼であたふたしながら平野の言った通りに荷物を纏め始める。
 準備するのはいいけど先生全裸……もういいや、気にしないでおこう。
 高城と鞠川先生が部屋を出た後周りを見回したあたしは、部屋の隅にぽつんと隠れるように置いてあるクロスボウに気が付いた。たまたま見え難い位置にあったから高城たちも気付かなかったのか。

「これ……」

「あ、それもお願いします! 井豪が先輩に渡すって組み立てたやつです!」

 平野の声を聞きながらクロスボウを手に取る。射たことはないが、スコープもついてるみたいだし何とかなるだろう。
 使ってた弓は学校での手荒い扱いが祟って壊れそうだったからちょうどいい。

「そうなんだ。ありがと、後で礼言っとく」

 クロスボウと持てるだけの荷物を持って先に下りた高城たちを追って下に行く。
 1階の玄関前で高城がなにやら後続組と揉めていた。
 不良生徒が激昂している。

「乗せられないってどういうことだよ!」

「言葉の通りよ! ハーヴィーじゃ全員乗り込むのは物理的に無理なの!」

「お前らのせいで気付かれたんだろ、ならお前たちが乗らなければいいじゃねえか!」

「車のことに気付かなかったのはアンタも同じでしょ! どうしてアタシたちがそんなことしなきゃいけないのよ?」

 つんけんとする高城にさすまたをぶつけた男子生徒と後続組の女子2人が取りすがる。

「そんな。ぼくたちを置いてくつもりですか!?」

「お願いです、私たちも連れていってください!」

「み、見捨てないで!」

 これでは荷物を運ぶどころではない。
 今は時間が惜しいというのに……。

「何とかしてあなたたちも乗せられるようにするから! 今は準備の邪魔をしないで!」

 後続組を一喝する。
 根暗そうな男子生徒が必死な表情であたしを振り向いた。

「本当ですか!? 本当に乗せてくれるんですね!」

「ええ、約束するわ」

 にっこりと微笑んでやる。
 彼らも状況が切迫していることは分かっているらしい。
 頷いてみせると、後続組の面々は不安を残しつつも不承不承納得したようだった。

「ちょっと、そんな出来もしない約束……」

 文句を言おうとして詰め寄ってきた高城に人差し指を唇に当てて黙らせる。
 今は時間がないのだ。嘘でも何でもいいからひとまず納得させて脱出する準備を進めた方がいい。
 そのことに高城もすぐ思い至ったようで、顔を顰めただけで結局何も言わなかった。

「じゃあ準備再開!」

 あたしの号令で再び皆が動き始める。
 外に出た高城が門の傍で気まずげに立つ麗と井豪を呼び止めた。

「そこは毒島先輩に任せてアンタたちも手伝って!」

 横を相変わらず全裸のまま荷物を運ぶ鞠川先生がフラフラと通り過ぎる。
 服を着ようとしない鞠川先生に高城がため息をついた。

「静香先生はもういいからとりあえず何か着て」

「あっ、寒いと思ったら……」

 鞠川先生がハッとした顔で自分の身体を見る。
 やっぱり気付いてなかったんだ。天然ってレベルじゃない気がするんだけど……。まあ、今はそれどころじゃないのでスルー。

「で、車の準備!」

 高城が門に駆け寄っていく。
 門から外を見張っていた冴子が外から眼を離さずに言った。

「今なら車に乗り込めるな。<奴ら>は小室君に引きつけられている」

 門から外を見た高城は、駐車スペースの向こうに大量の<奴ら>がいるのを見て思わずうめき心配そうな顔をする。

「どうするつもりよ? あれじゃバイクを使っても戻って来れないわ」

「なら、迎えに行ってあげるしかないんじゃない?」

 眠そうな半眼な眼のまま服を着ながら言った鞠川先生は、その場にいる全員に愕然とした顔で見つめられてたじろぐ。

「あ、あの、先生変なこと言った? 車のキィとかはあるんだし」

 冴子が眼を細めて笑みを浮かべる。

「いいや、名案だ」

 高城もニヤリと笑った。

「決まりね! 小室を助けたあと川向こうに脱出! さ、準備して!」

 荷物の運び出しには少し時間がかかった。
 人数が多すぎても<奴ら>に気付かれるし、後続組は何か起こった時にどうなるか心配だったので、手伝わせずに部屋で待機させたからだ。
 山と詰まれた荷物の前であたしたちはどうやって荷物を車に積むか話し合う。
 鞠川先生が荷物の量を見て不安そうな顔をした。

「凄い量になっちゃったわね。全部詰めるかしら」

 麗が腕を組んで外に視線を飛ばす。

「それよりどうやって積み込むかよ。途中で<奴ら>が来たら」

「間違いなく荷物を運ぶどころじゃなくなるわね」

 あたしも外に視線を向ける。
 <奴ら>は小室に引きつけられているが、一番外側は駐車場の端ぐらいにまで散らばっているのだ。車を停めてある場所からそれほど離れていない。それこそ車数台分の距離にいる。

「俺が囮に出て奴らをもう一度引き付ける。そのうちに車の準備をしてくれ」

 外に出ようとする井豪を麗が慌てて引き止める。

「足も無いのに。どれだけいると思ってるの」

 井豪と麗の複雑そうな視線が絡み、しばらくしてどちらともなく眼を逸らした。
 荷物の一部分を背負い上げた高城が門に近付く。

「宮本の言う通りよ。気付かれないことを祈ってRPGの盗賊みたいにこっそりやるしかないわ」

「ではそうしよう」

 冴子がそっと門を開け、そろそろと外に出て行くのにあたしたちも続いた。
 車に辿り着いた鞠川先生がロックを解除し、高城にトランクの鍵を渡す。
 高城が車の後ろに回り、鍵を使ってトランクを開けた。
 鞠川先生が左ハンドルの車の動かし方に戸惑っている。
 荷物を積み込み終え、高城が音を立てないようそうっと慎重にトランクを閉める。
 あたしたちに手を振って先に乗り込むよう合図した高城は、ふと気付いたように辺りを見回す。

「そういえば、平野は?」

「まだ二階じゃないの?」

 車に乗り込もうとしていた麗が高城を振り向いた。

「ったく、凄いんだか鈍いんだか……何やってんのよアイツ」

 ため息をついて何気なくドアの方を振り返った高城は、至近距離にふらりと人影が現れたのを<奴ら>かと思いびくりとする。

「ひっ」

「えっ」

 銃を二丁担ぎ、懐中電灯を2本頭に括り付けた平野が立っていた。
 重装備ないで立ちと相反して間の抜けた平野の登場の仕方に、あたしたちは毒気を抜けさせられる。

「え、あの、どうしたの」

 4人の美少女にじっと見つめられて鼻息が荒くなる平野に、高城が呆れた目を向けた。

「楽しそうねアンタ」

「大したこと無いよ。小室に比べたら」

 ニヤッと笑った平野の視線を追う。
 小室が少女を背負って犬を懐に入れ、塀の上を歩いて少しずつこちらにやってきていた。

「なるほど。考えたな」

 冴子が感心したような声を出す横で、高城があたしを見て口を尖らせる。

「それはいいとして、どうするのよ? 準備は終わったけど、あいつら全員を乗せるスペースは相変わらず無いわよ。詰めに詰めてせいぜいあと一人ね」

 あたしは少し思案して答えた。

「えっと、じゃあ話し合って決めてもらうとか……」

 頑張って考えた平和的な解決策だったが、高城にばっさり切り捨てられる。

「はあ? そんなの決まるわけないじゃない。揉めに揉めた挙句時間切れで小室もアタシたちもゲームオーバーになるのが関の山よ」

 そうだった。今はそんな悠長なことをしていられる時間はないんだった。

「じゃ、じゃああたしが一人選んで決めるとか……」

「駄目。残りが絶対納得しない。アタシたちが出発しようとしたら、無理矢理にでも邪魔してくるでしょうね。最悪車を奪われるかもしれないわ」

 これも論破されてあたしは黙り込む。
 本当は解決策は頭に浮かんでいたけど、あたしはそれを言い出せなかった。
 だってあまりに酷すぎる策だったのだ。それは、携帯電話を持ちあたしたちに協力的な夕樹だけ生かしてあたしたちが逃げる邪魔をしそうなそれ以外を殺すという、あの紫藤先生が原作で取った行動よりもはるかに外道な方法だった。言えるわけがない。
 時間の猶予がないのは確かで、話し合っている暇はない。本当なら車を初めて見た時点で気付いてしかるべきだったのに、安全な場所で休めることに浮かれ、皆車があるという事実だけ見て人数制限なんか実際に乗り込む準備をするまで頭から吹っ飛んでいた。言い訳なんかできない失態だ。

「ねえ、どうするの? 早く迎えに行かないと小室がヤバイわよ」

 高城があたしを急かしてくる。
 あたしと高城以外は車に乗り込んでいて、冴子などは車の天井に仁王立ちして今か今かとあたしたちを待っていた。

「ならどうすればいいの?」

 ついに困りきって逆に聞き返したあたしに、高城は嘆息する。

「アタシなら全員見捨ててこのまま出発するけどね。別にアイツらは向こうが勝手についてきただけだし、今のアタシたちに他人の面倒見る余裕なんかないもの。せいぜいできることは銃声で<奴ら>を引き付けて、あいつらの生存率を少しでも上げてやるくらいよ」

 高城の意見はもっともだった。
 自分の命を守ることすらままならないのに、同情心からすぐ傍に転がっている命を助けようとするようでは、いざという時に本当に守りたいものを守れない。それどころか、何から守るべきかすら分からなくなる。
 小室ならきっとあの子たちを助けようとするのだろう。実際に今、女の子を助けに行ってるからそれくらいは簡単に想像がつく。
 だけど、あたしは小室と同じことはできない。
 思い出せ。あたしの一番は何だった。事が起こった時の誓いは何だった。冴子と一緒に生き延びることじゃないのか。
 一時の感情に流されてはいけない。本当に守りたいものを守るために、あたしは最善を尽くすべきなのだ。その結果皆の非難を浴びることになっても、生き残る確率が少しでも上がるのなら良心などいっそ捨ててしまった方がいい。
 ここから逃げ出す羽目になったのはそもそも小室と平野のせいだから、本当は助ける努力をするべきなのかもしれない。だけど、そうすることでもし冴子の身に何かが起きたらと考えたら、そんな選択肢は選べない。
 話し合っている時間はない。車を譲るわけにもいかない。彼らが車での脱出を諦めてくれるとも思えない。彼らの説得に時間を浪費すれば、それだけ冴子を危険に晒すことに繋がる。
 もともと紫藤先生を殺したことで、あたしたちのもとへ転がってきた命だ。彼らの安全に責任を持てないのなら、あたしは彼らをバスに置き去りにするべきだった。責任の所在は連れて行くことを決断したあたしにある。今度こそ、あたしたちが生き残るために正しい選択をしなければならない。


「分かった。高城たちは先に小室を助けに行って」

「アンタはどうするのよ?」

「<奴ら>が多すぎて突破は無理でしょ。こっちに戻ってくるだろうから、その時に拾って貰えればいいわ」

「何するつもり?」

「一人は乗せられるんでしょ? 選んでくる。残りは見捨てるよ。今度こそ間違えない」

 口にした言葉は、きっとあたしが思う以上にうすら寒く響いたに違いない。
 高城はあたしがしようとしていることを薄々察したのか表情を険しくする。

「……時間が無いし具体的にどうするのか深くは聞かないけど。アタシらが戻ってくるまでには外に出てなさいよね。いなかったら置いてくわよ」

 背中越しにかけられた声を背負い、室内に戻る。後続組の面々が不安そうな表情で待っていた。
 入ってきた瞬間皆に見つめられる。紫藤を殺したという前科があるからか、あたしを見る夕樹以外の面々からは警戒の念が色濃く読みとれる。
 これから行う悪魔の所業を想像してクロスボウを持つあたしの手が震えた。もう片方の手で震える手を握り締める。
 迷うな。躊躇うな。時間は巻き戻せない。あたしたちが生き延びるために、やるべきことをやるんだ。
 あたしはなるべく感情が声に出ないよう平静を装い、彼らの前に立った。

「話がついたわ」

 にっこり微笑んでやると、少しの沈黙のあと彼らの間から歓声が上がった。あたしが声を抑えるようにとジェスチャーすると、たちまち声が萎む。

「混乱を避けるため、あなたたちには順番に外に出てもらう。小室たちを下ろして戻ってきた車が拾ってくれる手筈になってる。まずは夕樹からよ」

 本当は時間的にそんなことをしている余裕はない。これは後続組を納得させるためについたその場凌ぎの嘘だった。
 そもそも今は小室を助けに行っているのだ。安全な場所に皆を下ろした後では、車は<奴ら>に阻まれてきっと戻ってこれない。
 ずっと中にいた後続組には分からないことだけど。

「わ、わたし? 本当に乗せてくれるの?」

 発車した車のエンジン音を聞いてもう半ば諦めていたようで、夕樹は名指しされた瞬間眼を瞬かせ、弾かれたように立ち上がる。

「ええ。もちろんよ」

「ありがとう……ありがとう、御澄ぃ……」

 夕樹が涙ぐみながら外に出て行く。
 それを見送ったあたしは、残りの彼らに眼をやった。

「おい、次は誰だ!?」

 不良生徒が腰を浮かせて、今にも飛び出したそうにしている。

「次は、そうね──」

 あたしは答えながら手に持っていたクロスボウを何気なく構えた。

「悪いけど、君たちは乗せられない」

 予想外の言葉に、残った後続組の誰もがきょとんとする。

「ちょっと、まてよ。それどういうことだよ」

 乾いた声で不良生徒があたしに問い掛けてくる。

「言葉通りよ。車には夕樹1人しか乗せるスペースが無いの」

「てめえ……!」

 怒りで歯を剥き出しにする不良生徒にあたしはクロスボウを突きつけた。
 番えられた矢を不良生徒が凝視し、引き攣った顔で冷や汗をかき始める。

「動いたらトリガーを引くわ。何も死ねって言ってる訳じゃない。あたしたちが途中まで<奴ら>を引き付けてあげる。そのうちにバリケードを作って部屋の中に立て篭もればいい」

 まあ、少しでもこっちが危険になれば即座に逃げるつもりではあるが。言わなければ分かるまい。
 涙眼で話を聞いていたお下げの娘が声を上げた。

「た……立て篭もったあとはどうすればいいんですか?」

「さすがにそこまでは面倒見切れない。自分の力で何とかして。ここに残っているものは自由にしていいから。……あなたたちの幸運を祈ってるわ」

 最後に、あたしは彼らに心から頭を下げる。
 助けたのに、結局見捨てることになってごめん。


□ □ □


 その他細かい説明を早口で捲くし立てて外に出る。酷く気分が沈んでいた。
 門の傍にいた夕樹が振り向く。

「他の人たちは?」

「来ないよ」

 きょとんとする夕樹に説明する。

「車に全員乗せられなくてさ。あたしたちが乗ったらあと1人分しかスペースに余裕が無かったんだ」

 夕樹は眼を瞬かせた。

「あれ、じゃあ話がついたっていうのは……?」

「全員じゃなくて、1人だけ連れて行く話がついたってことね。他の子たちには残ってもらった。あたしたちでできるだけ<奴ら>を引き付けるけど、生き残れるかどうかはあの子たち次第かな」

「……見捨てるの?」

「仕方ないよ。あたしたちが生き延びるためだもん」

 エンジン音が近付いてくる。

「車が来た。行こう」

 背を押して夕樹を促す。
 <奴ら>を振り切って走ってきた車が門の前で停止した。
 中から高城がドアを開け、あたしたちを手招きする。

「ほら、早く乗って! さっさと逃げるわよ!」

 夕樹を先に乗り込ませ、あたしもすぐに車内に滑り込んだ。

「嬌、残りはどうした?」

 上から冴子の声が聞こえてくる。高城も怪訝そうな眼であたしを見ていた。
 あたしは跳ね上がる心臓の鼓動を悟られないように深呼吸して答える。

「説得したら何とか聞いてくれたよ。バリケード作って立て篭もるってさ」

 説得というよりも脅したのだが、非常事態だ。これくらいの嘘は許されるだろう。
 それに何より、冴子はあたしのことを信頼してくれている。だからこそ多少不自然でもあたしの言葉を疑わない。高城は発案者だから薄々感付いているかもしれないが、彼女は割り切れる娘だ。あたしの行動が自分たちの利に適っているうちは何も言わないだろう。
 小室が複雑な顔であたしを見た。

「……すみません。俺たちのせいでこんなことになって」

 あたしは小室を振り向き苦笑する。

「いいよ。結果的にあたしたちは彼らを切り捨ててここから逃げ出すことになったけど、君の選択はきっと人間として正しい。せいぜい<奴ら>を引き付けて、彼らの無事を祈りましょう」

 ──こうして最初の夜、あたしたちの脱出は終わった。
 もちろんそれはこれから続く悪夢のような毎日のたった一日が終わったに過ぎない。
 そのたった一日であたしは変わった。石井君を殺し、紫藤先生を殺し、男子生徒たちや一緒にお風呂に入った娘たちを見捨てた。
 きっとあたしが落ち込んでいる様を見せれば冴子は悲しみ、でもあたしを責めはせずに自分のせいだと自身を追い詰めるだろう。
 だから、あたしはひたかくす。涙で枯れ果てたあたしの心も、耳の奥で響く紫藤先生の幻聴も、汚れた血で真っ赤に塗れて見えるあたしの手も。
 冴子の前では、ただの能天気なあたしで居よう。いつも通りに笑い、いつも通りにふざけ、いつも通りにじゃれ付くあたしで居よう。
 本当のあたしを、決して冴子に見せてはならない──。



[20246] 第十四話(三巻開始)
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:57
 メゾネットから脱出した後、以前出た高城の意見通りあたしたちは御別川の上流に向かった。
 本来ならば渡河は禁止されているが、御別橋も床主大橋も今はより酷い状態になっていて、警察は周りに眼を向けている余裕がないようだった。
 着くまでの間少女の自己紹介を聞き、あたしは彼女が希里ありすだということを知る。
 上流に着くと、窓から身を乗り出して高城が川の様子を観察した。

「思った通りね。増水はそんなでもないみたいだし、これなら充分この車で渡れそう」

「い、行くわよぉ……」

 おっかなびっくり鞠川先生が車を川の中に進めていく。浸水してるわけでもないのに何となく車の中がひんやりしてきたように感じて、あたしは隣の冴子に寄り添って暖を取る。冴子の身体ぬくいです。
 張り詰めていた気が抜けてきたのか、小室が不意に大きな欠伸をして慌てて口を押さえる。
 それを見た麗がくすりと笑う。
 井豪が回りを見回した。

「皆あまり眠っていない。川の中にまでは<奴ら>も来ないだろうから、少し眠ろう」

 あたしも諸手を上げる。

「賛成。夜明けまでまだまだ時間があるし、今動き回るのは危ないわ」

 小室の隣に座る麗があたしに顔を向けた。

「でも、この車で一度に全員寝るのは無理よ」

「半分に分かれて交代で眠ればいい。残りが天井に上がれば身体を伸ばすスペースもできる。ついでに乾燥の途中で回収した洗濯物も干しておこう。……嬌、少し退いてくれ」

 冴子は積み込んだ荷物の山から洗濯物を取り出し、量を見て首を傾げた。

「随分多いな」

「あそこに残った人たちの分もあるからじゃない? 初めは乗りたがってたみたいだし。どうして意見翻したのかは知らないケド、よく説得できたわよね」

 意味ありげな視線を向けてきた高城に、あたしはにっこりと笑ってやった。

「誠意ある説得のたまものよ?」

「へーへー」

 高城がそっぽを向く。

「ん? どうしたんだ、2人とも」

 きょとんとした顔の冴子を、高城はフンと鼻で笑った。

「何でもないわよ。ただ、副リーダーの意外な決断力に驚かされただけ」

 心臓に悪い台詞にまたあたしの心臓が撥ねた。あまりその話題には触れられたくはない。

「ああ、そういえばまだ礼も言っていなかったな。嬌、君が彼らを説得してくれたおかげで私たちは生き延びることができた。残していくのは辛い選択だったと思うが、ありがとう」

 平常心を保たなきゃと思うのに、冴子の言葉に思わず泣きそうになった。
 あたしは冴子を騙している。本当は説得なんかしなかった。彼らを脅して強制的に認めさせた。
 石井君や紫藤先生を殺した時とは訳が違う。介錯の意味があったわけでもないし、怒りで我を忘れていたわけでもない。あたしの意思で、あたしたちを生き残らせるために彼らを見捨てたのだ。
 衝動的に冴子に全てぶちまけてしまいたい衝動に駆られるが、出来ない。話すことで、あたしが彼らを見捨てたことを気に病んでいるのを知られるのが怖かった。
 それでもきっと、あたしは同じ状況に置かれるたびに同じことを繰り返すのだろう。今のあたしは、冴子を守ることを理由にすれば生きている人間を見捨てることができる。できてしまう。そんなのは冴子に依存して自分の行動の責任を押し付けているのと同じだ。でも分かっていてもあたしは止められない。だって実際に、それで冴子を守ることが出来ているのだから。
 思い悩むあたしの袖を、小さな手がくいくいと引いた。振り向くと、平野に抱えられたありすがあたしを見上げている。

「嬌ちゃん、大丈夫?」

 心配そうなありすの表情に、あたしは自分が情けなくなってしまった。ありすだって目の前で父親を亡くしたばかりなのに、気を使われるなんて情けなさ過ぎる……。

「……大丈夫だよ。ありがとうね、ありすちゃん」

「うん!」

 にっこりとありすは花のような笑顔を見せてくれた。
 この子も冴子のために見捨てようとしたんだ……。やっぱり、あたしはもう人間じゃないのかもしれない。
 実感するとともに諦観してしまう。受け入れよう。あたしはもう、もし日常が戻ってきても今までのように過ごすことはできない。
 それが冴子を守ろうとした結果であることが、悲しくもあり同時に誇らしかった。
 頭を撫でるとありすはくすぐったそうな顔で、嬉しそうに眼を細める。
 自分の顔が微笑みを刻むのが分かる。自然と重く沈んでいた気持ちが浮かび上がり、そこでようやく皆に注目されていたことに気付く。

「ど、どうしたの?」

 思わず引き気味になるあたしに、皆から生暖かい眼差しが注がれる。
 我に返ったように小室が頭をかいた。

「いえ、最初に誰が寝るか決めようと思いまして。御澄先輩はどうします?」

「冴子はどっち?」

「私は後だ。小室君たちもそうなっている」

「ならあたしも後でいいよ。小室君、先にありすちゃんたちを休ませてあげて」

「じゃあ配分はこんな感じで……」

 話し合った結果、先に鞠川先生、高城、平野、井豪、ありすが休み、しばらくしたら交替であたし、冴子、小室、麗、夕樹が休むことになった。
 交代組4人で天井に上がる。

「じゃあ、アタシたちが寝てる間見張りお願いね」

「はいはーい。視力に自信はあるから任せといて」

 車内からこちらを見上げる高城に返事をする。

「さて、今のうちに洗濯物を干すか」

 洗濯物を持って冴子が車体の後方に向かった。

「あたしも手伝うよ」

 冴子にならいあたしも後に続く。

「僕たちも手伝いましょうか?」

「いや、2人いれば十分だ。小室君と宮本は前方の見張りを頼む。後方は私たちが引き受けよう」

 振り返った冴子は何故か赤面している小室にきょとんとする。

「どうした?」

 不思議そうな顔の冴子は背を向けたことで乳尻太股が丸見えになっていた。
 反射的にあたしは身体を割り込ませて小室の視線を遮る。
 そういえばあたしたち未だに裸エプロンだったのだ……。うわ、恥ずかしー。

「……このスケベ」

 小室を睨んでぼそり。
 視線に気付いた小室があたしに振り向き慌てて弁解する。

「あ、いや、これは違うんです」

 弁解するのはいいけど、一番フォローするべき人間を忘れてないかい?

「孝ぃ?」

「いてててて!」

 笑顔で額に青筋を浮かべた麗に小室は頬をつねられ悲鳴を上げた。


□ □ □


 時間が経ち、起きてきた皆と交代であたしたちは車内に戻る。

「麗、大丈夫か?」

「……さすがに眠いわね」

 小室の肩にもたれかかった麗が欠伸をして眼を擦る。
 あたしは小室の麗がいる方とは反対側の隣を陣取った。こうすれば、小室の両隣は塞がれる。冴子はあたしの隣に座るしかない。
 うふふふ、これで冴子に膝枕をしてあげるのだ!
 冴子はあたしが作ったスペースをスルーした。
 あれー?

「私まで入っては嬌が寝辛いだろう。私は助手席で寝るよ」

 ちょ、あたしの『冴子に膝枕してムフフ』計画がっ! まってー! 冴子まってー!

「そそそそんなことないわよ!」

「そうか? ならいいのだが」

 必死に首を横に振るあたしを見て不思議そうな顔をしながら、冴子がもぞもぞとあたしの隣に移動していく。
 内心胸を撫で下ろしながら、表面上はあくまで笑顔であたしは自分の膝をぽんぽんと叩く。

「ほら、あたしの膝で良ければ枕に使って。その方がスペース少なくて済むし寝やすいでしょ?」

「だが、そうすると君に負担が掛かるだろう」

「大丈夫だってば。これくらいなんてことないわ」

 しばし冴子と見詰め合う。
 にっこにっこ微笑んで期待の眼差しを送っていると、冴子が諦めたようなため息をついて、どこか恥ずかしそうにあたしの膝に頭を乗せた。
 いやーん、これで冴子の顔がばっちり見下ろせる。なんて幸せなのかしらん。
 にまにまにまにまにまにまにま。

「……なんか、御澄先輩から桃色のオーラがだだ漏れてるんだが」

「完全に顔のデッサンが溶け崩れてるわね」

 若干引き気味な小室と麗の声を無視して、あたしは冴子を見下ろしながらその綺麗な黒髪に指を通す。引っかかることなく滑らかにすっと抜けることに、思わず感嘆のため息が漏れる。

「やっぱりいいなあ冴子の髪。綺麗」

「何をいう。君の髪も充分美しいだろう」

 そう言ってくれるのは嬉しいけど、あたしの髪は染めてて冴子ほど状態が良くない。そりゃトリートメントには気を使ってるからぼさぼさではないけど、冴子の髪みたいな見事な色艶は到底望めない。
 でもお世辞でも冴子に髪を褒めてもらえたのが嬉しくて、あたしは眼を細めて微笑んだ。

「ありがと」

 礼を言ったあたしに微笑み返した冴子は、やがてあたしの膝の上で寝息を立て始める。
 気が付けば小室と麗も寄り添うようにして眼を閉じている。

「……あたしも寝ようかな」

 静かになった車内で、あたしも冴子の頭を膝に乗せたまま静かに眼を閉じる。
 めくるめく夢の世界へ行ってきます。どうかいい夢を見られますように。
 疲れてるけど眼が冴えてるから、羊でも数えようか。いや、ここは変則的に冴子で数えてみようか。冴子がいっぱいとかあたし的に嬉しすぎる。
 冴子が一人、冴子が二人、冴子が三人冴子が四人……。
 ぐう。


□ □ □


 鞠川先生の声で現実に引き上げられた。すぐに思い出せなくなったが、何だか怖い夢を見ていた気がする。

「皆起きて! そろそろ渡りきっちゃう!」

 眼をパチリと開けてまず意識したのは、窓から差し込んでくる陽の光だった。
 夜が明けてる……!
 同じく鞠川先生の声で眼を覚ました麗が小室の肩を掴んで揺らす。

「孝、もう朝よ」

「んん、何だ?」

 気持ちよさそうに寝ていた小室が眼を覚まし、寝ぼけ眼で周りを見回す。
 起きてないのはもうあたしの膝の上でぐっすりと寝こけている冴子だけだ。
 冴子の頭の重みで少々足が痺れているが、これくらい冴子の寝顔を見る喜びに比べればどうってことない。
 そろそろ起こさなきゃいけないんだけど、このまま寝顔を見ていたい気もする。まあ起こさないことには仕方がないから起こすけどさ。

「起きて、冴子。そろそろ岸に上がるって」

「……ん?」

 囁きながら軽く揺すると、冴子は眼を開いた。
 寝ぼけているのかぼんやりとした眼であたしを見ている。よほど熟睡していたのか口元には涎が垂れていて、あたしのエプロンに小さな水溜りを作っていた。

「おおう、よだれよだれ」

 完全に覚醒される前に指で冴子の口元の涎を拭った。さすがに人前で涎姿を晒すのは冴子も嫌だと思う。現にあたしもそれはごめんだし。
 鞠川先生が運転する車は少しずつ川を進み、やがて対岸に辿り着いた。
 車が動く前に車内に戻って上半身だけ天井から出した高城が、双眼鏡で念入りに辺りを見回す。

「人影は見えないわね。近くに<奴ら>はいないみたい」

 背を伸ばしたりストレッチをしたりして強張った身体を解していた小室は、高城の報告を聞いて車内にいるあたしたちに告げた。

「いったん降りよう」

「え、何でよ?」

 怪訝な顔をする麗に、小室は説明する。

「堤防を登らなきゃいけない。先に警戒した方がいいだろ」

 会話が聞こえていたらしく、天井から井豪の声が聞こえてくる。

「それなら服も着替えた方がいい。……その、先輩たちは特に」

 あたしは自分たちの格好をマジマジと見つめ、改めて実感した卑猥さにため息をつく。

「確かにそれはそうね」

 外に出ると車の上から平野がこちらを見下ろしてきた。

「誰か手伝ってくれ。ありすちゃんを下ろしたい」

「あ、僕がやるよ」

 小室が振り向き、車の前に歩いていって手を掲げてありすを受け取る準備をする。

「それじゃ、いくよ」

 平野に抱えられたありすは小室の前に持ち上げられると、さっとスカートを裾を引っ張って押さえた。
 顔が真っ赤になっている。

「あの、あの、あの」

「ん?」

 きょとんとする小室。

「どうした? 何か問題があるなら代わるぞ」

 有り難くない井豪の援護射撃に、ありすは消え入りそうな声で答えた。

「……おぱんつ、はいてない」

「あ゛」

「え゛」

 小室と井豪の挙動がぴたりと止まる。
 背後にいる女性陣の不穏な気配を感じたか、2人はだらだら汗をかき始めた。
 そういえば、ありすのぱんつは救出の時に粗相したとかで、頼まれて洗ったんだった。今は他の洗濯物と一緒に車のアンテナらしきものに括りつけて干してある。
 麗の顔が引き攣っていた。

「ちょっとは考えなさいよあんたら……」

 続いてあたしも2人を残念なものを見る眼差しで見つめる。

「年下の女の子相手でも、デリカシーって必要だと思うな」

 怯む小室たちに、高城が肩を竦めてニヤニヤ笑う。

「まあ、井豪や平野はともかく小室が朴念仁なのは今に始まったことじゃないけど」

 呆れたように腰を片手を当て、冴子が嘆息した。

「君たちはそういうところが……いや、私がわざわざ口を出すことでもないか」

 女性陣の口撃でがりがり精神力を擦り減らす男どもに、ニヤニヤ笑う夕樹の止めの一言が放たれる。

「そんなんじゃモテないわよ、あなたたち」

 まるで1tと書かれた錘が降ってきたかのような反応を見せる三人に、呆れた顔の麗が近付いていく。
 というか井豪、一応最近まで彼女持ちだったのに何で君まで衝撃を受けてるんだ。
 散々な言われ様ではあるが、女性の方が人数が多い構成上仕方あるまい。昔から言われていることだが女は群れると強い。色んな意味で。

「ったく、これだから男子は……」

 つんと尖った顔で麗は平野からありすを奪い取る。受け取ったというよりも、奪い取ったという表現の方がしっくりくる強引さだった。
 ありすを男どもの視線から隠すかのように身体で隠した麗は、振り向くとうって変わって満面の笑みを浮かべる。

「それじゃ、男どもはほっといてお姉さんたちと一緒に向こうでお着替えしようか?」

 ありすは大きく頷くと、恥ずかしそうに頬を染め、小さな声で麗にぼそりと耳打ちする。

「えっと、おぱんつの替えある?」

 麗はありすににっこりと微笑んだ。

「もちろんあるわよ」

 返答に眼を輝かせたありすがぶんぶんと小さな手を振る。

「じゃあありすお着替えする!」

 慈愛に満ちた表情の麗がくるりと小室たちの方を向き、じとっとした眼を向ける。

「あたしたちも着替えるからこっち見ないでよ!」

 おかんむりな様子の麗に、男子3人は顔を見合わせて苦笑するのだった。


□ □ □


 車から少し離れた河原であたしたちは服を着替える。
 もちろん周囲の安全は確認済みだ。着替えている途中で<奴ら>に襲われたらシャレにならないので、そこらへんの警戒は充分にしている。
 下着などを替えたら基本的には昨日と同じ服を着るが、一応鞠川先生の友だちの部屋にあった洋服も何着か予め用意してある。
 ちなみにその提案をした張本人は高城だが、高城自身は学校でドリルを突き刺す前にあたしが<奴ら>を倒したので制服のままだ。
 上下とも着替えた人はいないが、冴子はスカートを鞠川先生の友だちのものらしい深いスリットの入ったタイトスカートに替え、靴を濃い紫色のブーツにした。さらに何だかアダルティ感溢れる太股までの黒いストッキングをガーターベルトで留めているのだが、黒の紐付きパンティーはそのままなのでセックスアピールがもの凄く、下半身だけ見れば大人びた容姿も相まって誘ってるのかと疑いそうな格好だ。
 でも冴子の場合は全然そんなことはなくて完全に趣味だったりする。服装に関しては天然さんな冴子は、常人とは好みがかけ離れているのだ。しかもそのことに冴子本人が気が付いていない。あたしはそんな冴子を見ると普段の凛々しさとのギャップであまりの可愛さに身悶えしそうになるので、敢えて指摘せずにそのままにしている。
 他にも鞠川先生がスカートを替えようとしていたものの、生憎鞠川先生が穿けるサイズのものは全て動きにくそうなタイトスカートで、友だちとはいえ他人の洋服を破くわけにもいかず泣く泣く適当な布を巻いただけの簡易スカートのままでいることになった。
 麗とあたしは上下とも制服のままで、槍だけでなくある程度格闘戦もこなせる麗は膝と肘にプロテクターをつけている。
 銃が手に入ったので麗は武器を槍代わりにもなりそうなスプリングフィールドM1A1スーパー・マッチに持ち替え、不要になった警棒はあたしが譲り受けた。あたしもある程度なら冴子のように動けるし、クロスボウはどうしても連射性に難があるので、接近戦の選択肢が増えるのは有り難い。最初の方はいいけど、弦を引くのにかなり力が要るから何発も撃ち続けると疲れて引けなくなりそうなんだよね、アレ。手で引かなきゃいい話なんだけれど、そうするとただでさえ低い連射性能がさらに低くなってしまうのが困りどころだ。
 全員の準備が完了したのを確認して、男性陣のもとへ戻る。
 最初にあたしたちに気付いたのは小室で、振り向いてあたしたちを見た途端口をあんぐりと開けて唖然とした。
 たぶん先頭の麗の姿を見て驚いてるんだろうな。セーラー服に銃とか本当にマンガみたいだし。

「ん? 孝、どうした」

 固まった小室の様子に気付いた井豪が視線を辿ってこちらを振り返り、やはり硬直した。

「二人とも、どうしたっての……あ!」

 怪訝な顔をしていた平野がようやくあたしたちに気付き喜色を浮かべる。
 逞しく物々しい女性陣の雰囲気に小室は早くも腰が引き気味になっている。

「あははは」

 もう笑うしかない、とでもいうような乾いた笑いだった。
 井豪も笑っているが、勇ましい姿の麗が自分の方を向かないことに少し寂しそうだった。
 眼が合ったので手を振ってみると慌てて逸らされる。ちょっとショックだ。

「うふふふ」

 小室たちに比べ、平野の方は何だか笑い方が怪しい。何を想像してるんだろう。
 ありすと一緒に助けられたジークと名付けられた犬が雄雄しくワンと一鳴きした。
 歩いて小室に近付いた麗は、ニヤッと挑戦的に笑って流し目を送る。

「なに、文句ある?」

「いや、似合ってるけど……撃てるのかそれ?」

「平野君に教えてもらうし、いざとなったら槍代わりに使うわ」

「あ、使える使える使えます! それ軍用の銃剣装置ついてるし、銃剣もあるから!」

 かくして麗の持つ銃に銃剣がついた。
 父親から銃剣術を教えてもらったと留年する前麗自身に聞いたことがあるので、きっと上手に使いこなせるのだろう。というか、銃を槍のように扱う手付きが明らかに素人ではない。

「よし、じゃあ車を道路に上げる準備をしよう。永、平野、僕で安全を確認する。それでいいな?」

 問い掛けた小室に二人とも頷く。
 三人は足音をできる限り殺すため、敢えて階段は使わずに芝生を通ってそろそろと土手を上がっていく。
 道路に出た三人の姿が消え、しばらくして小室がジークと一緒に姿を見せて手を振った。

「大丈夫だ! <奴ら>はいない!」

「静香先生!」

 合図を確認した麗が鞠川先生を促す。
 こくりと麗に頷き、アクセルを踏んで鞠川先生が一気に車を走らせて道路に踊り出た。
 カーブをかけ、ちょうど道路の白線に沿うような形で停車する。
 豪快だ。

「よし。じゃああたしたちも上ろうか」

 皆に声をかけ歩き出す。
 道路に上がると、高城が双眼鏡を手に首を回らせて辺りを調べ始める。
 あたしも高城にならい、裸眼で回りを見渡した。
 渡ってきた向こうと代わらない、廃墟のような光景が広がっている。
 遠くで黒煙がたなびき、窓ガラスが割れた放置車両には人の姿は見当たらず、血痕だけが残っている。
 相変わらずの終わりの様相にあたしは落胆した。

「……ここも変わりなし、か」

 双眼鏡を覗きながら高城が首を傾げる。

「河で阻止できたわけじゃないみたいね。あの封鎖に何の意味があったのかしら?」

 高城の疑問に答えたのは、あたしの傍にいた冴子だった。

「世界中が同じだとニュースで伝えていた。こちら側は比較的少ないのかもしれないが、油断は禁物だ」

 心なしか不安そうな顔で車の傍に立つ夕樹が疲れた様子でため息をつく。

「少しは安全だと思いたいけど、今までの経験だとまるで当てにできないわね」 

 だんだん悲観的になっていく雰囲気に気が付き、麗が希望的観測を述べる。

「でも、警察が残っていたらきっと何とかしてくれるはずよ」

 しばらく考え込む高城の表情は厳しい。今さら警察に何ができるのかと思っているのかもしれない。
 結局高城は考えを口にすることはせず、父親が警官である麗を気遣い話を合わせた。

「そうね。日本のお巡りさんは仕事熱心だから」

「うん……うん!」

 会話の切れ目を縫って、運転席からあたしたちの方に鞠川先生が身を乗り出してくる。

「ねえ、これからどうするの?」

 ちょうどいい。今は<奴ら>もいないし、後で慌てないように改めて決めておかないと。

「高城は東坂の二丁目だったよな。ここからなら高城の家が一番近いけど……」

 小室は気まずそうに高城を見つめる。小室の言いたいことを察した高城は、諦観の表情で微笑んだ。

「分かってるわ。期待はしてない」

 井豪が小室に提案する。

「鞠川先生の友だちの家みたいに安全な場所があるかもしれない。一応行ってみるべきだ」

 夕樹があたしに近付き、気安くあたしの背中に抱きついてきた。

「<奴ら>がいない場所ならどこでもいいわ。行くなら早く行きましょうよ」

 気を使われたとおもったのか、高城が俯いて声を震わせる。

「皆ありがとう……」

 高城に微笑み、小室が皆に号令をかける。

「よし、行こう!」

 全員車に乗り込み、小室と麗が天井に出る。
 あたしたちを乗せた車がゆっくりと走り出す。
 道中明るい声で麗が小室に話し掛けていた。

「ねえ、気付いてる? あたしたち、夜が明けてからまだ一度も出くわしてないわ」

 一瞬はっとした小室は、やがて厳しい表情になって空を見上げる。
 あたしも窓からなびく黒煙と流れていく雲を眺めた。
 きっと小室も気付いたのだろう。
 昨日頻繁に姿を見せていたヘリや旅客機が、今は一機も見えないということに。

「あの」

 後ろから肩を叩かれ、振り向くと平野が申し訳なさそうに表情をしていた。

「すみませんが御澄先輩も天井に上がってもらえますか。このままだとちょっと狭すぎていざという時に動けないので」

 ……確かに、寝るならともかく後部座席だけで四人も乗っていたら動き難いことこの上ない。

「そうだね。じゃあ上がるよ」

 頷いて動こうとすると、あたしと平野の会話を聞きつけたか、冴子があたしの制服の袖を掴んだ。

「待て。ならば私が出よう。天井にいると<奴ら>から逃げる時に振り落とされかねん。危険だ」

 確かに冴子の言うことはもっともだけど、それは言い換えれば代わったら冴子が振り落とされるかもしれないってことだしなぁ。
 あたしの答えは……。


 1.冴子に頼む
 2.自分が上がる



[20246] 第十五話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:57
 1.冴子に頼む
→2.自分が上がる


 車の天井に上がろうとしたあたしに、冴子が荷造り用のビニール紐を差し出してきた。

「何これ?」

 意図がよく分からず首を傾げるあたしに、冴子が説明する。

「片方を車内に固定してある。これで振り落とされないようにしておいた方がいい」

「……途中で千切れるんじゃない?」

「大丈夫だ。やり方次第ではバンジージャンプだってできる。昔君に借りた漫画に載っていた」

「それフィクションだから! 実際にやったら大怪我するってば!」

 変なところで冴子は天然だから困る。

「そうなのか?」

 冴子がショックを受けた顔をした。
 一部始終を眺めていた高城が会話に参加してくる。

「別にいいんじゃない? 二重三重にすれば耐久性も充分だし、振り落とされないように胴体を固定するだけなんだから、巻く前に厚手の布でも当てておけばいいでしょ」

 高城はあたしと冴子のやりとりを見てニヤニヤと笑っていた。明らかに面白がっているのが丸分かりである。

「そうか。なら大丈夫だ。幸い残った彼らの衣服がある。当て布は豊富にあるぞ」

 差し出されたビニール紐と、あたしが断るとは思ってもいない表情の冴子を交互に見つめる。
 まあ、確かに言うことには一理ある……かもしれない。人数多くて長時間しがみ付くのも大変だろうから、した方が良い……のか?
 よく分からなくなってきた。

「あたしがやるんだったら小室君と宮本さんもした方がいいんじゃないかな。だからどうするかは任せるよ」

 判断に困って二人に丸投げする。

「なるほど、それもそうだな。小室君、君たちはどうする」

 振り向いた冴子に、小室が苦笑した。

「えっと……いざという時に動けるようにしておきたいので俺たちは遠慮しておきます。御澄先輩にやってあげてください」

 丸投げした判断が墓穴を掘って戻ってきた。
 こうしてあたしだけ、命綱付きで天井に上がることになったのである。ううう、冴子の気持ちは嬉しいけど、格好悪いし動き難いよこれ……。


□ □ □


 初めは<奴ら>の姿は無かったが、進むうちにあたしたちは転進を余儀無くされていった。
 進めども進めども<奴ら>だらけの風景に、麗が焦れたように叫ぶ。

「どうしてこんなにいっぱい居るのよ! これじゃ何時まで経っても辿り着けない!」

「そこ左! 左に曲がって!」

 高城の声に従い、鞠川先生が四つ角で急ハンドルを切る。タイヤが地面に激しく擦れる日常ではそうそう聞くことのない音を立て、車はほとんどスピードを落とさずに角を曲がった。
 振り落とされないように必死に車にしがみ付いた小室が、麗を支えながら顔を上げる。

「何だってんだ!? 東坂二丁目に近付くほど<奴ら>が増える一方じゃないか!」

「何か……何か理由があるはずよ!」

 麗が小室に言う後ろで、あたしは眼を凝らしていた。何か危険があるなら、できる限り早く見つけるのがあたしの役目だ。
 記憶では高城の家に着く前に何かあって、高城の母親に助けられた気がするんだけど、相変わらずおぼろげで肝心の何があったのかが全く思い出せない。
 <奴ら>の向こうで何かが太陽光を反射してキラリと光った。よく見るとそれは前方一体に張り巡らされた何かのようにも見える。

「宮本! 前方に何かある!」 

 声を掛けると麗は眼を細めてあたしが指し示す空間を凝視する。
 必死に車を運転する鞠川先生が、佇む<奴ら>を見て叫ぶ。

「ここにも<奴ら>がいるわよ!」

「突破できないほどじゃない! 押し退けて!」

 助手席に座る高城が鋭く声を張り上げた。
 車はそのまま突っ込み次々に<奴ら>を跳ね飛ばしていく。
 視界がクリアになって、やっと麗とあたしは前方にあるモノの正体を掴んだ。

 そうだ、ワイヤートラップ!

「いけない! 鞠川先生、ブレーキ踏んで!」

「え?」

 アクセルを強く踏み込んでいた鞠川先生は咄嗟に反応できなかった。
 叫んだあたしたちに続き、気付いた冴子が後部座席から身を乗り出す。

「ワイヤーが張られている! 車体を横に向けろ!」

 強行突破させようとした高城が唖然として冴子を見る中、鞠川先生が慌ててブレーキを踏み、めいっぱい左にハンドルを切る。
 車体を横に向けることには成功したものの止まりきれず、かなりの勢いで車はワイヤーに接触した。車とワイヤーの間にいた<奴ら>が押し潰され、バラバラに切断される。
 原形を留めない人体の欠片が大量の血と共に窓ガラスにぶちまけられた。

「見ちゃ駄目だ!」

 反射的に平野がありすを抱き寄せ、凄惨な光景を遮断する。
 ワイヤーを巻きつけて固定している電信柱の表面が砕けて削られたことが、接触した時の衝撃を物語っていた。
 麗がなおも動く車を見て動揺する。

「!? 滑り過ぎてる!」

 運転席では鞠川先生が必死にブレーキを踏み込んでいるが、車は一行に停止する気配を見せない。

「停まって! どうして停まらないの!?」

 焦るあまり珠の汗をにじませながら足元を見る鞠川先生に高城が叫ぶ。

「人肉、違う、血脂で滑ってるのよ!」

 後部座席から井豪、平野、夕樹の声が次々に飛んだ。

「摩擦が無くなってブレーキが効かなくなってる! 地面にぶちまけられた油と同じだ!」

「タイヤがロックしてます! ブレーキ離して少しだけアクセルを踏んで!」

「急ブレーキでタイヤの回転を止めてるから滑るのよ! ゆっくり回転させてやれば元に戻るわ!」

「分かったわ、やってみる!」

 鞠川先生がペダルを踏み替えると、ロックが解除されて車が加速する。
 壁に一直線に突っ込もうとする鞠川先生に小室が慌てた。

「先生! 前っ、ぶつかる!」

「ひえええええっ、あたしこういうキャラじゃないのに!」

 再びブレーキを踏む鞠川先生の叫びと共に車が急停止した。

「ぐえっ」

 天井にいたあたしたち三人は、慣性を殺しきれず盛大につんのめった。
 あたしは命綱がその役目を果たして転落は免れる。小室も堪えたが、何もつけていなかった麗が前方に放り出された。
 小室が麗に手を伸ばすが、掌1つ分の差で空を掴んだ。
 呆然とした表情のまま麗は背中を車の角で強打し、地面に転がり落ちる。
 すぐに起き上がろうとするが、背中を痛めたようで麗は起き上がれない。

「スライドを引いて」

 呟きながら小室が飛び出す。
 麗の傍に着地すると、ショットガンを<奴ら>に向けて構えた。
 痛めた身体を押して起き上がろうと震える麗がやってきた小室を見た。

「た、孝……逃げて」

「頭のあたりに向けて……」

 引き金を引く小室の指に、躊躇いは無い。

「撃つ!」

 反動で後ろに転びそうになった小室はたたらを踏んで堪えながら薬莢を排出する。

「なんだよ! 頭狙ったのにあんまりやっつけられないぞ!」

 平野が援護するために天井から上半身を出そうとしたので、あたしは邪魔になるといけないと思い慌てて車内に戻る。
 命綱を解いてあたしは車内で外の様子を冴子と一緒に窺う。冴子はいつでも皆のフォローに回れるようにだったが、あたしはその冴子のフォローをするためだ。

「下手なんだよ! 反動で銃口がはねてパターンが上にずれてる! 突き出すように構えて胸のあたりを狙って!」

「突き出すように構えて……! 胸のあたりを狙って……! 撃つ!」

 今度こそ、小室が撃った一発は<奴ら>二体を巻き込み、上半身をミンチに変えた。
 衝撃で上半身のほとんどが欠けた<奴ら>が倒れるのを見ながら、小室は再びたたらを踏む。

「スゴイ……けど数が多すぎるな」

 眉根を寄せる小室の前では、あたしたちを追いかけてきたらしい<奴ら>が続々と倒れた<奴ら>を踏み越えて押し寄せてきていた。
 自らも銃で<奴ら>を狙撃しているようで、上から銃声と一緒に平野の声が聞こえてくる。

「一発撃ったあとトリガーをしぼったままスライドを引くんだ! 銃口は少しだけずらせ!」

 言われる通りにもう一発撃った小室は、文字通り吹っ飛ぶ<奴ら>に快哉を上げた。

「ひょおっ、最高!」

 続けてもう一撃加えようとするが、銃声はしなかった。どうやら弾切れらしい。
 <奴ら>を前にしての弾切れは死を色濃く連想させる。焦って予備の弾をポケットから出そうとした小室は、そのほとんどを<奴ら>がすぐ傍にいる地面にばら撒いてしまった。

「くっ、くそっ!」

 慌てて拾い集めようとする小室を見て、素早く冴子が車内から木刀を片手に飛び出そうとした。

「この数を1人でどうにかできると思ってるわけ!? 無茶よ!」

 袖を掴んで止めたあたしに冴子は振り向き、強張った笑みを浮かべた。

「宮本を見捨てるわけにもいくまい。小室君が決めたのだ。もはや死中に活を求めるより他に我ら全員が生き残る術は無い!」

 ドアを開き、冴子が外に飛び出る。

「ここは私が支える! 小室君はそのうちに宮本君を車へ!」

 こちらに振り向いた小室が冴子を呼び止めた。

「ダメです! 木刀で戦うには<奴ら>の数が多過ぎる!」

「……分かっているよ!」

 小室に言葉を返し、冴子は近付いてきた<奴ら>の顎を木刀の柄で打ち上げ、その余勢を利用して振りかぶる。
 一瞬仰け反って棒立ちになった<奴ら>の頭を、冴子は木刀で叩き割った。

「俺も出るぞ! 皆麗を助けるために戦ってるのに、一人だけ安全な場所に居られるか!」

 井豪が冴子に続いて外に飛び出そうとするのを夕樹が止めた。

「無理よ! 大勢が立ち回るには場所が狭過ぎる! あなたまで出たらかえって毒島が動けなくなるわ!」

「くそぉっ!」

 遣る瀬無い表情で井豪が腕を窓に叩きつける。
 伸びてくる無数の手の一つに掴まれそうになった冴子が、危ういところでその手を打ち払った。
 弾を拾おうとしていた小室の前に<奴ら>が立ちはだかる。
 零れ落ちたショットガンの弾は小室が拾う前に<奴ら>の足元に飲み込まれた。
 こうなってしまってはもう小室は下がるしかない。

「畜生!」

 麗のすぐ傍まで後退を余儀無くされた小室は、自分を見上げる麗に青褪めた顔で笑みを向ける。

「孝……」

「少なくとも……一緒に死ねるか」

 せめて盾になろうというのか、小室が麗を<奴ら>から庇うように覆い被さった。
 我慢できずに再び飛び出そうとする井豪を夕樹が再び引き止める。
 振り返った井豪は覚悟を決めた顔をしていた。

「止めないでください……! 孝も麗も、俺は失いたくないんだ!」

 夕樹の手を振り解いて井豪は外に飛び出る。
 外から平野のもの以外の銃声が再び聞こえてきた。見れば小室が這いつくばって麗の銃を撃っている。

「孝、止めろ! それじゃ麗を運べない!」

「どの道無理だ! こいつらを何とかしないと車に乗せる前に喰われる!」

 止めようとする井豪に小室が怒鳴った。
 銃声が響くたび、ジークを抱き締めて縮こまるありすが身を震わせた。
 やがて銃声が1つ減り、平野が後ろ手に空になったマガジンを差し出してくる。

「弾が無くなった! 誰かこれと同じ物を探して!」

「コータちゃん?」

「これを!」

「うん!」

 ジークと一緒に荷物を掻き分けたありすは、ジークの助けを借りて換えのマガジン二つを見つけ、平野に差し出した。

「コータちゃん! これ!」

 マガジンを受け取った平野は、力強い手付きで銃のマガジンを交換する。

「やっつけてやる」

 再び銃を構えて狙撃の体勢に入った平野の表情はあたしの位置からは見えない。あたしには知る由も無いことだが、歯を食い縛り、眼は極限にまで見開かれたその顔は、大人でなくともハンサムとは言えずとも、仲間を守るために戦う男の凄烈な横顔だった。

「みんなやっつけてやる!」

 平野の絶叫と共に銃声が増える。

「どうして!? エンストしてからエンジンがかからない! ……高城さん!? 何するつもり!」

「小室の鉄砲を拾ってアタシが使う!」

「あ、危ないわよ!」

 引きとめようとする鞠川先生に高城は微笑んだ。多少引き攣ってはいても、いつも通りの自信に満ちた顔で。

「知ってるわ、先生!」

「待ちなさい!」

 鞠川先生の制止を振り切り、高城が勢いよく外に出る。

「御澄は行かないの?」

 1人残った夕樹に尋ねられる。
 目の前に差し出されたのは、あたしが放り出していたクロスボウだった。

「……行くわよ! 冴子が外に出てるんだもの!」

 クロスボウを奪い取り、恐怖で行きたくないとごねる身体を叱咤して天井に上がる。
 立ち上がって見下ろせば高城が小室の銃撃で<奴ら>が倒れたことで、再び拾えるようになった銃弾を拾い、ショットガンに篭めているところだった。高城の近くに<奴ら>が迫っているのを見て、あたしはクロスボウを構え、引き金を引く。
 気付いた冴子が駆け寄るよりも早く、あたしが放った矢は<奴ら>の頭を貫いていた。
 <奴ら>がすぐ傍まで来ていたことに怯えた表情を浮かべた高城は、自らの弱気な心を叱咤するかのように歯を食い縛る。

「アタシは守られるだけの人間じゃない。アタシだって戦えるのよ」

 高城は拾った弾を素早い手付きで正確にショットガンに篭めていく。
 ショットガンを構える。奇しくもそれは、平野が小室に教授した通り、突き出すように構えて胸のあたりを狙う構えだった。

「アタシは臆病者なんかじゃない!」

 かっと高城の眼が見開かれ、ショットガンが咆哮する。

「死ぬもんですか! 誰も死なせるもんですか!」

 反動で放り出しそうになる銃を保持する腕の痛みと、目の前まで迫る<奴ら>の恐怖に涙眼になりながらも、高城は引き金を引き続ける。
 そのたびに<奴ら>が弾け、物言わぬ躯に戻ってアスファルトに積み重なっていく。

「……アタシの家はすぐそこなのよ!」

 弾切れになってまた地面の銃弾を拾う高城の姿は勇ましく、一向に減らない<奴ら>に停滞気味になっていたあたしたちの心を奮い立たせた。
 戦いはまだ終わらない。


□ □ □


 あたしたちは本当によく戦ったと思う。
 迫る<奴ら>相手に一歩も引かず、死力を尽くして宮本を守るために長時間戦い続けたのだから。
 だけど現実には、覚悟や気合だけではどうにもならないことが多々ある。今回もただそれだけのことだった。
 冴子の木刀が<奴ら>に奪われ、平野が持つ最後のマガジンが空になった。地面に散らばったショットガンの弾は<奴ら>の波に完全に飲み込まれた。
 小室が持つ麗の銃も弾切れになり、井豪ももう疲労で武器を振り上げる力が残っていない。
 クロスボウの矢だけがまだ残っていたが、あたしはもう<奴ら>に矢を撃ち込む気力をなくしていた。だって他は全員まともに戦う手段を失っているのだ。あたし一人矢を射て何になる。
 あやふやな原作知識で覚えていた高城家の応援も、何時になっても来る気配がない。やはり本当かどうかも分からない記憶など当てにするべきではなかった。
 これまでだ。早く逃げないとあたしと冴子まで喰われてしまう。
 そう判断したあたしは、車の傍にいる冴子に呼びかけた。

「もう無理だよ! 冴子、逃げよう!」

 ちらりとあたしを振り返って見た冴子は、余裕のない笑みを浮かべて首を横に振る。

「私が引けば皆が喰われる。それに今から私がワイヤーを越えようとしても間に合わない。君だけで逃げてくれ。君ならそこからワイヤーの向こう側に飛べば逃れられるはずだ」

 思わず笑ってしまう。冴子を置いてそんなことあたしにできるわけ無いじゃないか。
 あたしはポケットから警棒を抜き、車の上から冴子の傍に飛び降りた。

「馬鹿者……! どうして降りてきた!」

 驚愕する冴子に、あたしは何てことのない風を装ってにっこりと微笑みかける。

「あたしが時間を稼げば冴子が車に登って逃げられるでしょ? 皆を逃がすための時間稼ぎなんて、そんな格好いいことさせないよ」

 もちろんやせ我慢だ。本当は怖くてたまらない。今すぐ逃げ出したい。
 だけど冴子を見捨てて逃げるなんて、あたしがあたしである限り絶対に有り得ない。あたしと冴子の命を天秤に掛けるならば、答えなど決まっている。
 いつもと同じ笑顔を浮かべ、迫る<奴ら>への恐怖も、自ら生存の可能性を捨てた後悔も、これからの冴子を見ることが叶わない悲哀も、全て押し隠す。あたしにとっては、冴子が全てだ。

「冴子には生きていて欲しいから。そのためにならこの命、捨てても惜しくないよ」

 虚を突かれたように立ち竦む冴子を、車のドアを開けて中に押し込む。再び冴子が出て来れないように、体重を乗せてドアにもたれかかった。

「止めろ、駄目だ、開けてくれ、嬌──!」

 こんな時にも関わらず、口元に笑みが浮かぶ。
 あは。冴子でも、そんなに取り乱すことってあるんだね。それだけでもこうして良かった気がする。あれ、おかしいな。嬉しいのに涙が出てくるよ。
 奴らを足止めできるのがあたししかいなくなったから、もう小室たちは宮本を助けるだけの時間を稼げない。かといって退けば冴子が皆を守るために素手のまま危険の中に飛び込もうとするので、あたしもここを動くわけにはいかない。
 迫り来る<奴ら>から眼を逸らして振り仰げば、ぼやけた視界の中、平野がありすを車の上に連れ出して逃がそうとしているのが見えた。

「よいしょっと」

「コータちゃん……」

 不安そうなありすの声とは裏腹に、平野の声は安心させようとしているのか不自然なほどに明るい。

「さあ、ジークと一緒にワイヤーの向こうにジャンプだ!」

「でも皆は?」

「大丈夫、皆すぐ行くから!」

 きっと死の恐怖に押し潰されそうになる心を叱咤して作り笑顔を浮かべているのだろう。せめてありすだけでも生き延びさせるために。
 だからこそ、それはありすに見破られる。

「うそ!」

 平野が息を飲んだのが気配で分かった。

「パパも死んじゃう時にコータちゃんと同じ顔したもん! 大丈夫っていったのに死んじゃったもん!」

 絶句する平野にありすは縋りつく。意地でも離れまいと、その無垢な双眸に涙を浮かべながら泣き叫ぶ。

「いやいやいやいや! ありす1人はいや! コータちゃんや孝お兄ちゃんやお姉ちゃんたちと一緒にいる! ずっとずっと一緒にいる!」

 ──本当に、誰も彼もが優しすぎたのだ。
 誰かを助けようともがいて、誰かが欠けることが許せなくて、結局誰も救えず選択を間違えて全滅しかけている。
 でも、だからこそ尊いのかもしれない。冴子を守るだけで精一杯なあたしには、誰も死なせないだなんて口が裂けても言えないことだから。
 肩を震わせてありすの言葉を聞いていた平野が決意したかのようにありすを抱き上げ、視界から消える。
 その時だった。

「皆その場で伏せなさい!」

 突然後方から聞こえた第三者の声に、車のドアに掛けていた力が思わず緩んだ。
 力ずくで飛び出してきた冴子にあたしは近くにいた高城もろとも押し倒され、そのまま抱き締められる。
 地面に這いつくばったあたしたちの目の前で、次々と<奴ら>が吹っ飛んでいった。あたしたちがあんなに苦労して戦い続けた<奴ら>の群れが、風で吹き飛ぶ紙切れのようにもの凄い勢いでその数を減らしていく。

「今のうちにこちらへ! 車は後からでも回収できる!」

 訳の分からないまま、あたしたちは重装備の性別すら分からない人物の先導でワイヤーの向こう側に避難する。
 皆が安堵のため息をつく中、あたしと冴子は久しぶりの大喧嘩をやらかしていた。

「君は馬鹿だ! 筋金入りの大馬鹿者だ! 君の命を犠牲にして生き残って、私が喜ぶとでも思うのか!?」

「な、何よ! そりゃ喜ぶとは思わないけど、それでも死なせたくなかったんだから仕方ないじゃない!」

 喜べばいいのか怒ればいいのか自分でもよく分からなくなっているあたしの耳に、落ち着いた上品な笑い声が響く。

「随分と仲がよろしいのですね」

 振り向けばあたしたちを助けてくれた重武装の人間の1人が立っている。
 我に返った冴子の顔がたちまち朱で染まる。
 取り繕うように咳をして何とか冷静さを取り戻した冴子は、向き直って深深とお辞儀をした。

「危ないところを助けていただき、真にありがとうございます」

「当然です」

 その人物がヘルメットを脱ぐと、ばさりと長い髪が翻る。

「娘と、娘の友だちのためなのだから」

「……ママ!」

 吃驚した顔の鞠川先生の横で高城が女性に駆け寄っていく。抱きついた高城を、女性は母性溢れる笑顔でそっと抱き締めた。
 誰もが喜んでいた。自分のため、高城のために喜んでいた。このまま全てが終わっていれば、本当にめでたしめでたしだったと思う。
 もちろん、そんなことにはならなかったのだけれど。



[20246] 第十六話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 02:58
 空間を裂いて竹刀が走る。
 頭目掛けて閃光のように振るわれたそれをあたしは必死に避けた。だが到底避けきれるものではなく、脳天にもらうことこそ防いだもののその一撃は肩口に命中する。

「ぎゃん!」

 頬を張られたのを強烈にしたような鋭い痛みと、じんわりと肩から広がっていく熱に思わず悲鳴を上げる。
 反撃とばかりにやけくそになって竹刀を振り上げるが、振り上げ過ぎてがら空きになった胴をしたたかに打たれた。一瞬息が出来なくなるほどの衝撃にたまらずあたしは座り込む。

「いったあ~っ!」

 相対していた相手が慌てた表情で駆け寄ってきた。

「すまん。強く打ちすぎたか?」

「いいのよ、防具なし寸止めなしで相手してくれって言ったのはあたしなんだし」

 痛みのあまり眼の端に浮かんだ生理的な涙を指で拭い、あたしは笑って立ち上がった。

「あ~あ、冴子の鍛錬いつも見てるからいけると思ったのにな。やっぱり外で見るのと実際に前に立つのじゃ体感速度が全然違うね。あたしじゃ剣道で冴子みたいに動くのはやっぱり無理なのかな」

 あたしの前に立った冴子は、凛々しい胴着姿でふんわりと微笑む。

「いや、未経験者にしては中々動きが様になっていたよ。ただ、嬌の動きは剣道ではないね。どちらかといえば古流剣術の動きに近い」

「へ? 違うの?」

 冴子のしていた鍛錬が全て剣道のものだとばかり思っていたあたしはきょとんとした。
 体育の授業での剣道は選択制で、あたしは冴子が選択しなかったので剣道を選択しておらず、鍛錬の見分けなんてつかなかった。
 ちなみにその冴子が体育で選択した武道は弓道だ。冴子いわく、あたしがやっているのを見て前から興味を持っていたらしい。嬉しい限りである。
 あたしたちが通う高校である藤見学園は武道系統の活動が盛んな学校で、剣道部、槍術部、弓道部などが特に強い。その関係上この3つは体育の授業でも選択で取ることができ、安全を重視して部活動ほど本格的ではないが体験することができた。
 もちろん冴子にはあたしが嬉々として手取り足取り教えたのは言うまでも無い。

「ああ。確かに部活では剣道を嗜んでいるが、父からは古流剣術を学んでいるから。どちらかといえばそちらの方が専門だ。真剣を振ったこともあるよ」

「マジで!? すごーい!」

「木刀で良ければ寄っていって君も振ってみるか? 父は今日家にいるから、真剣も振るのは無理だろうが頼めば見せてくれると思う。君は父に気に入られていることだし」

「行く! 行くよもちろん!」

 何でもない日常のひとコマ。
 全てが崩壊する2年前、あたしたちが高校に入学したばかりの頃の話である。


□ □ □


 眼が覚めた。どうやら本を読んでいるうちに舟を漕いでいたらしい。横を見れば冴子がいつもの静かな表情で本のページを捲っている。
 ……題名が英語だ。しかもDeathって書いてある。どんな本なんだろう。何だか怖そうだ。
 ちなみにあたしが読んでいたのはハ○ー・ポッターの1作目である。右翼団体会長の家に置いてあるにしてはあまりにも浮いた本だが、普通に最終巻まで本棚に並んでいた。誰の趣味だか知るのが怖い気もする。
 冴子がこちらを向いた。

「本を読むのは退屈か?」

「そういうわけじゃないけど」

 首を傾げる冴子にあたしは肩を竦めてみせる。

「あれだけ必死になって生き抜いて来たから、こうして平和に過ごしてるのが何だか落ち着かなくて。気を紛らわそうと思ってここに来たけど、かえって疲れちゃった」

 あたしは緩やかな時間が流れる日常の空気に馴染めなくなっていた。自分がまるで場違いな場所にいるかのような居心地の悪さを感じるのだ。
 安全な場所に来れたのはいいけれど、なまじ日常を意識してしまったせいでどうも感覚にずれが出て調子が出ない。
 ため息をつき、椅子の背にもたれて天井を眺める。当たり前だが血でべったり汚れていたりなんてことはない。
 でもあたしは、血で汚れていない綺麗な内装に酷い違和感を覚えてしまうのだ。本来ならそれが普通であるのにも関わらず。
 このたった数日で、あたしの常識は180度ひっくり返ってしまった。きっと、もう元には戻れないのだろう。
 ため息をついてぼやいた。

「なあんか平和よねぇ。世界中相変わらず<奴ら>だらけなのに、ここにいるとそのことを忘れてしまいそう」

「それだけ初期の対応が良かったのだよ。<奴ら>が侵入できないように家の回りの道を塞ぎ、人員を置いて常に<奴ら>を監視している。常人にできることではない」

 そういえば、百合子さんたちがあたしたちの危機に駆けつけられたのは、設置したワイヤーやバリケードなどの状態を見るために、定期的に人員を見回りに派遣していたからだ聞いた。
 だがその方法は何かあった時の対応にどうしても時間が掛かってしまうので、これからは負担は大きくなるが人員を増やして常時監視に切り替えるらしい。

「水や食料も豊富にあるみたいだもんね。まさか前と同じような食事を3食とも取れるとは思わなかったわ。ここに着くまでは、そのうちカロリーメイト一本で一日我慢する羽目になると思ってたのに」

「思った以上に人数が膨れ上がっていたからな。このような言い方はしたくないが、彼らがいないからこそこうして受け入れられている面もあるだろうさ」

「人数が多すぎても面倒見切れないものね。あたしもそれを思い知らされたわ。授業料にしては高いツケだったけど」

 思い出すのは、メゾネットで見捨てた後続組の顔。今のあたしに知る術は無いけれど、彼ら彼女らは無事に生き延びて朝を迎えることができただろうか?
 後悔はあるが、判断が間違っていたとは思わない。自分たちも命の危険に晒されかねない状態で咄嗟に迫られた判断だった。親しい他人を取るか、親しくない他人を取るか。結局はそれだけのことでしかない。
 ふと顔を上げ、冴子に振り向いた。

「そういえば、高城のお母さまから着物を貸していただいたって聞いたけど」

「ああ。君の分もある。退屈しているようだし、気分転換に着てみるか?」

「え、いいの? あたし着物の着方知らないよ? 浴衣くらいしか着たことないし」

「私が知っている。何なら着付けもしてやろう。大した手間じゃないから、遠慮する必要はないよ」

 大した手間じゃないはずがない。自分が着た経験こそないが、他人の着物姿を見たことはある。とてもではないが簡単だとは思えなかった。冴子の気遣いが透けて見える。

「……ありがとう。凄く嬉しい」

 あまりの嬉しさに顔が熱くなる。着物を着ることが嬉しいのではない。こうやって冴子に想われるのが嬉しいのだ。だからこそ冴子のために命を賭けたいとも思える。

「君はここに来てから塞ぎこんでいたようだからね。着物姿で周りを散策するだけでも、不思議といつもと違ったものが見えてくるものだ」

 冴子の台詞を心の中で反芻した。
 いつもと違ったものか。冴子は着物を着ていつもの風景を見て、どんなものを見出すのだろうか。そして着物を着た時あたしには何が見えるのだろう。
 そんなことを考えていると扉がノックされた。返事をすると、見知った顔が入ってくる。

「あれ、井豪君? どうしたの?」

 あたしが声をかけると、井豪はあたしたちを見て本棚に眼を移す。

「手持ち無沙汰なんで、本でも読んで暇を潰そうと思いまして。先輩たちもそうですか?」

 先ほどまで読んでいた本に栞を挟んで閉じた冴子は、テーブルの上に本を置いた。

「さっきまではな。これからは部屋に戻って着替えるつもりだ」

「着替えるって……パジャマにでも着替えるんですか?」

 抜けた井豪の言葉に、あたしは呆れてため息を漏らす。

「こんな時間にパジャマに着替えてどうすんのよ。高城のお母さんに着物を貸してもらったからそれに着替えるの」

 ……何故そこで顔を赤らめるのだ君は。別に恥ずかしい話なんて何もしてないと思うんだけど。
 ははーん。

「何? もしかして、あたしたちの着物姿でも想像しちゃった?」

「別に、俺はそんなつもりは……」

 あたしは立ち上がり、本を本棚に戻してきた冴子の傍に歩み寄る。
 井豪に振り返って小さく舌を出した。

「そ。まあ別にどっちでもいいわ。じゃああたしたちは着替えてくるから。またね」

 微妙な表情でこちらを見て立ち尽くす井豪に手を振ると、あたしは冴子の腕を自分の腕に絡め、組まれた腕を見て不思議そうな顔をする冴子と一緒に部屋を出た。


□ □ □


 押さえつけられた麗が、艶かしく潤んだ眼で孝を見上げる。

「た……孝ぃ」

 何かを懇願するような荒い吐息は色っぽく、孝の劣情を否応なしに高めさせた。
 うつ伏せでベッドに横たわる麗の背後で、鞠川先生が両手にどろりとした粘性の液体をたっぷりとつけて妖しく笑っている。

「いくわよぉ。逃がさないでね、小室くん」

「いたいのいやあぁ~」

 まるで幼児に逆行したかのような顔でじたばたともがく麗の反応に、小室は顔を真っ赤にする。
 子どもじみた可愛らしい反応だが、麗の格好は臀部にタオルを一枚かけただけであとは全裸だ。自分の分身がいつ自己主張を始めるかと、孝は気が気でなかった。それくらい今の麗は孝にとって色っぽく見えたのである。

「ひえ」

 先生が手を下ろすのを風圧で感じ、麗が身を固くする。

「いやーっ!」

 室内に麗の悲鳴が響いた。

「車から落ちた時に背中を打ったんだから、お薬塗らないと何時までも痛いままよぉ?」

 ヌチュヌチュと鞠川先生は両手でたっぷりと掬った塗り薬を麗の背中に塗り広げていく。
 何てことはない。麗の背中にある打撲傷を治療しているだけである。
 でも何でこんなにエロく見えるのかと、孝はそんな現実逃避気味なことを考える。
 まず第一に体勢がよくない。麗が薬を塗られる時の痛みで暴れ出さないように上から肩を押さえているのだが、麗は痛みを堪えるためか孝のズボンを固く握り締めており、下手をすればズボンがずり落ちそうだった。
 しかも麗の顔はちょうど孝の股間の真正面にある。その状態できつくズボンを握り締められ、痛みで口を大きく開けた状態で縋られているのだ。あともうちょっと麗が動けばびくびくとそそり立ちたそうにしている息子とズボン越しにフレンチキスである。そうなればどうなるか想像するだけでも恐ろしい。きっと孝は五体満足で明日を拝めまい。

「ハイ終わりっ」

 今日の治療を終えた鞠川先生が麗の背中から手を離す。
 孝はまるで地雷原を裸足で突破したかのような疲労に満ちた顔をしていた。

「あはははは~染みた~? 先生特製だぞっ」

 手に残っている薬をねばねばとさせながら鞠川先生は暢気に言うが、謎の液体過ぎて見た目がやばい。

「裏切り者っ」

 解放された麗が涙眼で孝に文句を言う。

「な、何でだよ。薬塗るの手伝っただけじゃないか」

 反論するも顔を真っ赤にしたままでは信憑性が皆無であった。

 だが仕方ないことでもある。女と付き合った経験のない孝はまだまだ純情なのだ。先ほどの行為は刺激が強すぎる。

「そういうことじゃない!」

「じゃあ何だよ!」

 焦る孝に、麗は状態を起こし、シーツで孝の視線から身体を隠しながら言う。

 その後ろで鞠川先生が鼻歌交じりに後片付けをしていた。

「場面で考えなさいよ! お薬塗ったらいいだけなんだから……静香先生じゃなくてもいいじゃない」

「はい?」

 謎の台詞に孝は怪訝な顔をする。
 医者でありなおかつ校医でもあるのだから、鞠川先生が治療するのは当たり前だ。
 暗に麗は孝に薬を塗ってくれと言っていたのだが、悲しいかなそんな遠まわしな言い方では孝に分かれという方が無理である。経験値が足りない。

「出てってよ」

 甘えに気付いてもらえなかった麗は膨れっ面で孝から視線を外し、そっぽを向いた。すっかり臍を曲げてしまっている。

「何だよ急に」

「あんな鉄砲の撃ち方するからおっぱいも痛いの! 今から自分で薬塗るから!」

 孝は理不尽な剣幕で麗に部屋から追い出された。
 廊下に出た孝はため息をつく。

「ハァ……いい気なもん……」

 文句を口に仕掛けた孝はしばらく押し黙り、やがて諦めたようにへらりと微笑んだ。

「……仕方ないか。ようやくまともに休めたんだしな」

 高城の実家に保護されて既に一日が経っている。<奴ら>がはびこるようになってから始めて過ごす、<奴ら>を気にする必要のないいつも通りの穏やかな時間だ。

「分かったわよ! ママは何時だって正しいのよ!」

 乱暴にドアを閉める音と怒声が聞こえ、吃驚した孝は音のした方を振り向く。
 顔を歪めて涙を湛えた高城が大またで足早に向こうから歩いてこようとしていた。

「高城……」

 尋常でない様子に心配になった孝は高城に声をかけるが、振り返った高城に物凄い眼で睨みつけられたじろぐ。

「名前で呼んでって言ったでしょ!」

「あ、えと、ごめん」

「男のくせにほいほい頭を下げないでよ!」

 ならどうすればいいんだと孝は困惑した。

「まあいいわ……今はいい! アンタにだけは……もおいい!」

 泣きそうな顔で階段を駆け下りていく高城を孝は唖然とした顔で見送る。
 立ち尽くす孝は後ろから声をかけられる。

「……迷惑をかけてしまいましたね」

 振り返れば、高城の母の百合子が立っている。孝とは高城を通して旧知の間柄だが、直接会うのは騒動が起こってからが初めてだった。

「いえ、あー」

 言葉を濁す孝に、百合子は済まなさそうに微笑んだ。

「慣れていますか? 幼稚園の頃からのお友達ですものね」

「はは、いやあの……にしても凄いですね。大きな家だってことは知ってましたけど、ここまで凄かったなんて」

「あなたは遊びにいらしたことなかったものね」

 痛い点を突かれて孝はどもった。

「いや、まあその」

「右翼団体会長の家は怖いものね?」

「えーと、あの……すいません」

 幼馴染の家に一度も遊びに行かなかった孝は言い繕おうとするのを諦めて事実を素直に認める。
 ぶっちゃけ小さい頃孝は高城の父親が苦手だったのである。

「正直な男の子は好きよ」

 娘の幼馴染の少年に、くすりと百合子はたおやかに微笑んだ。


□ □ □


 孝のところから走り去った高城は、傷心を抱えどこでどういう結論に達したのか分からないまま、気付けば何時の間にか平野がいる部屋に辿り着いていた。
 平野は入り口に背を向けて銃の分解整備の真っ最中であり、背後に佇む高城に全く気付く様子はない。
 どうしてアタシはこんなでぶちんのところに来たのかしら、と高城は首を傾げる。まあ、心当たりがないわけではなかった。高城は天才なのだ。どこぞの誰かとは違って自分の心の有り様くらいきちんと理解している。
 自分が今生きているのは、この眼の前にいるでぶちんが身体を張って守ってくれたからだ。プライドが邪魔をして決して態度には出せないが、高城は平野に感謝している。頼りにしていることもまた事実だった。
 しばらくは平野の作業を見守っていた高城だったが、時間が経つに連れてイライラが募り始める。いつになったら自分に気付くのか、いつになったら整備が終わるのか、そもそも本当に気付いてくれるのか。いっそのこと殴ってやろうかしら、などと理不尽なことを考える。
 だからといって高城は決して自分から声をかけようとは思わない。自分に気付いて欲しいから声を掛けるなんて、まるで平野に気があるみたいではないか。勘弁して欲しい。
 アタシが好きなのは小室なんだからと自分で自分に言い訳しつつ、ずっと待っていた高城だったが、元々が短気な少女である。我慢はあっさりと崩壊した。

「楽しそうね、アンタ!」

 言った直後に発言したことを後悔するが、平野が振り返ったことで高城は自分の調子を取り戻す。

「今のうちに楽しんでおけばいいわ。どうせこんなところ何時までも居られないもの」

「どうしてですか、高城さん? こんな要塞みたいな屋敷だったら」

 やっぱりコイツは馬鹿ね。アタシがいてやらないとどこでうっかり死ぬか分かったもんじゃないわ。
 そんな平野に対していささか失礼なことを考えた高城は、呆れたようにため息をつく。

「電力や水の確保がどれだけ大変か考えたことないの? 小学校で教わることよ?」

「え、えーとつまり……」

 平野は混乱している。

「あの巨大なネットワークを維持し続けるのには、安全な日常のもとでさえ高度に組織化された多数の専門家が安心して働ける環境が必要だった! 電力会社や水道力は軍隊じゃないもの、当然よ!」

「じゃあ今は?」

「何処もかしこも<奴ら>だらけ! ママの話じゃ自衛隊が守ってるらしいけど、技術者たちだってこんな状況じゃいつまで働き続けられるか分からない。いつ電気や水道が止まってもおかしくないわ!」

 話している途中でつなぎ姿の男性が部屋に入ってきた。
 男性は平野が整備し終えた銃を見て、少し慌てたように言う。

「おいおい。兄ちゃんそれ本物だろ? 子どもが弄っていいものじゃないぞ」

「いや、えとあの」

 しどろもどろになった平野を守るために、腕を組んだ高城が不満そうな顔で話題を変えにかかる。

「松戸さん、用はそれだけ?」

「あ、沙耶さま……いやあの、乗ってこられた車の整備が終わったことをお伝えしようと」

 松戸と呼ばれた男性は慌てて頭を下げる。
 高城は松戸の態度を当然のことのように受け止めて礼を言った。

「分かったわ、ありがとう! もう行っていいわよ」

 整備員が帰ったあと、平野が顔を輝かせる。

「本当にお姫様なんですね! すげー」

 ひくっと高城の頬が引き攣った。完璧すぎる家族構成の平野に言われても、まさにお前が言うなである。

「アンタに言われたくないんだけど。それよりそれ! 早く何とかした方がいいわ」

「銃をですか?」

 平野が銃を見ながらきょとんとした顔をする。

「さっきの反応で分からない? ここにいるのは大人がほとんど! じゃあ彼らにとって、アタシたちは何?」

 ようやく高城の言わんとしていることに気付き、平野が顔を引き締めて真剣な表情になった。

「──分かりました。小室と相談してみます」

 部屋を出る段になって高城が思い出したように言った。

「そうそう、忘れてたわ」

 珍しく高城はしばらく言いよどんだあと、意を決したよう平野に振り返る。

「御澄先輩のことなんだけど──」


□ □ □


 皆が思い思いに過ごす中、井豪もまた同じようにいつも通りの時間を過ごしていた。
 身の安全が保障されると、今まで考えなかった、あえて考えようとしなかった問題が頭をもたげてくる。
 もともと麗が好きでありながら、この騒ぎが始まってから急速に御澄に惹かれ始めた井豪は、自分でもどちらが好きなのか分からなくなりかけていた。
 人にどちらが好きか聞かれれば、井豪は麗と答えるだろう。だが麗を見ていても、気がつけば御澄の姿を眼で追っているのだ。井豪自身無意識のうちに、いつも麗ではなく御澄の姿を探している。
 最初の切っ掛けは命を救われたこと。その時は命を助けられたのだから、麗を守りながらできる範囲でなるべく死なせないように守ろう、という程度の気持ちだった。
 だが一緒に過ごしているうちに、井豪は御澄のことが気になるようになった。気付いたことがあったのだ。
 御澄は毒島を失うことを極端に恐れている。いつもは自分と他人の命をきちんとはかりにかけ、自分の方が重くなるような行動を取っているのに、他人という位置に毒島が乗ると彼女はすぐさま自分をはかりから下ろしてしまう。
 それは、毒島か自分しか生き残れないといったような二者択一を迫られた時に、御澄が簡単に自分の命を手放し兼ねないという危険性を示している。
 井豪にとって、そんな御澄はとても奇妙に映った。確かに御澄は毒島のことをとても慕っているようだったが、それでも躊躇いなく命まで差し出そうとするのは異常だ。
 一緒にいればいるほど、御澄の精神のありかたは井豪の眼には危うく映る。
 毒島が残っているかもしれないからと危険を承知で単独行動に出たり、毒島がいるからと身の安全を顧みず安全な場所から死地に飛び込んでいったり、まるで毒島の命と自分を含めた他の命が等価でないとでもいうかのような行動ばかり取っている。
 助けられたあとで大喧嘩した時も、御澄は毒島だけでも助けようとして、結果的に全員助かったものの他の皆を見捨てている。
 個人としてならそれでもいいかもしれないが、御澄は小室がいない時に率先して動く立場にある。
 いざという時に上に立つ人間が個人を贔屓しているのはまずい。何だかんだ言ってできるだけ全てを助けようとする小室がリーダーだったからこそ、皆小室を慕ってついてきたのだ。
 今までならば良かったが、助けられる前に彼女が取った行動は、御澄が誰よりも毒島を優先する人間だということをはっきりと示してしまった。
 このまま放置していては、このことは不和として残るだろう。これからどうするか、一度皆で話し合った方がいいかもしれない。
 麗のことは心配だが、孝がついているし自分はもっと他に眼を向ける必要がある。それが結果的に麗の身を守ることに繋がるはずだ。
 ただ直接的に守ろうとするだけが守る方法ではないのだと、井豪は御澄に教えてやりたかった。


□ □ □


 夕樹美玖は元々不良少女だ。タバコや飲酒なんてしょっちゅうしていたし、彼氏も気に入った男をとっかえひっかえしていた。
 エッチの際も常に男は置いてけぼり。勝手に感じて勝手に達してハイおしまい。え? まだイッてないからやらせろ? じゃあ別れましょ。やりたい放題だった。
 もちろんそうした数だけ男の恨みを買っていたが、授業を真面目に受けず成績は悪くとも頭の回転自体は悪くなかった夕樹は、ヤクザに関わりの深い男をキープすることによって、自分に手を出したらただじゃ済まなくなるぞということを彼らにアピールしていた。
 実際にそれは功を奏していて、何度か面目丸つぶれの恨みを晴らそうと頭の悪い男に襲われたりしたこともあったが、その全てに復讐してきっちりとワビを入れさせている。
 たまにキープした男に浮気がばれてピンチに陥っても、様々な偶然が重なり夕樹は今まであらゆる危機を無事に切り抜けてきた。
 だからこそ、事が起こってからも夕樹は自分だけは大丈夫という自信を抱いていたのだ。全ては奇跡のような偶然の賜物だということにも気付かず。
 身を守るために身体を餌に味方につけた男たちは、<奴ら>が現れた途端に雲の子を散らすように逃げ出して勝手に死んでいった。
 極限状態の校舎では色々と黒い噂があって敬遠されていた夕樹を助けようとする人間などほとんどおらず、今まで比較的仲がいいと思っていた不良仲間もいざとなるとあっさり夕樹を見捨てた。たった1人では何もできない夕樹は、逃げ惑っているうちに紫藤が率いる脱出グループに拾われ、命からがら何とか校舎外に出ることができたのである。
 そして御澄と出会った。
 生き延びた夕樹は紫藤を殺した御澄に興味を持ち、それはやがて好意に変わった。御澄自身が夕樹をどう思っているかは夕樹本人にとって大した問題ではない。元々が他人を屁とも思わず自分本位に動く少女だ。
 一見強固そうに見えて、その実支える柱が崩れれば壊れてしまいそうな精神の危うさ。人殺しになり、同行者を見捨てた事実に苦しみ、毒島を守るという支えに縋り付いて正気を保っている御澄は夕樹にとってとても魅力的に映った。
 どうせなら今の御澄ではなくて、壊れた御澄が欲しいと思った。壊れた御澄に、毒島みたいに想われたいと思った。
 それは初めて現実に躓いた夕樹が、御澄を同類と見たことによる親近感に、メゾネットで選ばれたことによる感謝と、<奴ら>が徘徊する世界で生きなければならないという危機感から生まれた、生き延びるための恋に限りなく似た執着。
 ──いつか、毒島から御澄を奪い取ってやる。
 小室たちを乗せて戻ってきた車に乗り込んだ時、夕樹はそう決意していた。
 そして今、深く静かに潜行している。



[20246] 第十七話
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/02/17 03:01
 宛がわれた部屋に戻ったあたしは、冴子が持ってきた大量の布にしばし呆然とする。

「……こ、こんなにいっぱい着るの? 一着でいいんじゃないかなぁ」

 勘違いしているあたしに冴子が苦笑した。

「何着も着て比べるわけじゃないよ。これ全てで一着だ」

「……マジで?」

 思わず綺麗に畳まれた布や紐の数々をまじまじと見てしまう。
 そのうちの1つを取り上げ、冴子が広げてみせた。

「これは長襦袢という。肌襦袢の上に着て着物の下に着るんだ。嬌、早速だけど服を脱いで欲しい」

 驚愕の事実に呆然としていたあたしは冴子の言葉をほとんど聞き流し、最後の単語だけを辛うじて聞き取った。
 脱げ? 何を? 服を。どこで? ここで。
 ……冴子の前で?
 意識した途端恥ずかしくなって文脈を頭から吹っ飛ばしたあたしは、冴子の前でしなを作り、ベッドに座って腕で胸を隠して身を捩る。

「だっ、だめ! いきなり本番なんて早すぎるよ! そりゃあたしは凄く嬉しいけど、こういうのはまずキスからでしょ!」

 眼を瞑って拒絶を表し、でも内心で押し倒されることを期待していたあたしの耳に、冴子の呆れたような声が聞こえた。

「……君は何を言っているんだ?」

 眼を開けて冴子を見る。眉を顰めた表情。

「……違うの?」

 眼を開けてきょとんと首を傾げたあたしを見て、冴子は深いため息をつく。
 何だか呆れられてるー!?

「長襦袢を着せるためにまず肌襦袢を着なければならないから服を脱げと言っているのだ。それでどうして睦み合うことになる。第一私と嬌は女同士だぞ。あり得ん」

 うん、そうだね。どんなに仲良くても女同士だもんね。分かってたけど、はっきり否定されると凹む……。
 若干気落ちしてのろのろと着ている洋服を脱ぐ。これも高城のお母さんから貸してもらったものだ。やたらとフリフリがついていて正直自分に似合っているとは思えなかったが、文句を言える立場ではないので有り難く借りていた。
 下着姿になってドキドキしながら冴子に向き直ると、最初に白足袋を渡された。
 白足袋を履いている途中で冴子の声が飛ぶ。

「ブラも外してくれ。和装ブラをつける。胸が強調されていると綺麗に見えないから、胸の下にタオルも巻こう」

「あ、うん、分かった」

 慌ててブラジャーも外す。
 何だかんだ言って冴子の前で裸になる機会はほとんど無くて、落ち着かなくて妙にそわそわしてしまう。
 揃って裸エプロンになって今さら恥ずかしがるのも変だけど、あの時は恥ずかしがるどころじゃなかったし。
 白足袋を履いて渡された和装ブラとタオルで胸の凹凸を整え、肌襦袢を着ると、冴子が長襦袢を羽織らせてくれた。後ろ襟を抜き下前の衿と上前を合わせ、腰紐を締めたあと、冴子がもう一本でっかい腰紐みたいなものを取り上げたので、あたしは不思議になって聞く。

「それ何? 腰紐はもう締めてもらったけど」

「これは伊達締めだ。腰紐じゃない。見栄えを良くするためのものだな。着崩れを防ぐ効果がある。そもそも伊達締めとは……」

 冴子は詳しく説明をしてくれたが、冴子の説明はあたしにはちんぷんかんぷんだった。あたしはおろおろしながら冴子を見る。
 苦笑した冴子は説明を止め、伊達締めを締めて綺麗に結んでくれた。
 長襦袢を着終えたあたしの前に冴子がキャスター付きの全身鏡を持ってくる。

「わっ、可愛い~」

 桜色の生地に白抜きで桜の花が散りばめられた長襦袢は、良い生地を使っているのかいざ着てみると凄く着心地が良い。

「じゃあ、着物を羽織らせるぞ。嬌、ちょっと後ろを向いて」

「あ、はーい」

 言われた通りに後ろを向いたあたしに、冴子は着物を羽織らせる。
 衿先を持って背中芯で合わせ、着物の衿と衿の背の中心を一緒にクリップで留める。
 手元を見つめて作業をしていた冴子があたしの顔を見た。

「上前の幅はどれくらいにしようか?」

「良くわかんないから冴子に任せるよ。見苦しくなければいいや」

「そうか。分かった」

 冴子が上前の幅を決め、その位置を握っていったん上前を広げ、下前を巻く。
 あらかじめ決めた位置で上前を下前に合わせ、腰紐を結んだ。着物の前のだぶついた部分の皺を伸ばし、脇下の空いた部分から手を入れて弛みの部分を伸ばす。着物が腰紐に引っ掛かっていないかも冴子はきちんとチェックする。
 左右の掛け衿を身体の中心で合わせ、長襦袢の衿に添って着物の下前の衿を整え、留める。背中の皺を取り脇の部分を綺麗に整え、最後に着物の伊達締めを締めた。

「余計な皺はない。背縫いもちゃんと身体の中心になっている。裾もきちんとつぼまっているし、うん。我ながら上出来だ」

 あたしを色んな角度から見て仕上がりを確認した冴子は破顔一笑した。

「これで終わり?」

「いや、まだ帯を結んだりするこまごまとした作業があるよ。でもあともう少しで終わる」

 ふくら雀の形に冴子が帯を締め、帯締めと帯揚げをつけた。
 最後に白足袋を渡されて、それを履く。

「よし、完成だ。私も着替えてくるから少し待っていてくれ」

 冴子が部屋を出る。
 自分に宛がわれた部屋に冴子が着替えに行っている間、あたしは鏡に映る自分の着物姿を楽しんだ。
 髪を結い上げてはいないけど、それでも着物を着たあたしの姿は、自分でいうのも何だがいつもとは違う華やかさがあった。
 たまにはこういうのもいいなあ。情緒溢れてて。
 鏡に映る綺麗に整えられた帯をかえりみる。冴子の薀蓄によれば寒さで羽毛を膨らませた雀が翼を広げる様に似ていてふくら雀という名前がついたそうだが、確かに何となく似ている気がする。
 鏡の前でポーズを取ったり「あーれー、お代官さまご無体をー」などと口走りながらくるくる回って遊んでいると、扉がノックされた。

 その場でぴたっと止まりドアに顔を向けて返事を返す。

「どうぞー」

 入ってきたのは井豪だった。

「あら、井豪君」

 声をかけると、部屋に入ってきた井豪はあたしの方を向いてピタリと止まる。
 それきり無言。
 ……なんだなんだ。何か用があったんじゃないの?

「えっと、その。綺麗です。着物姿似合ってます」

 しばらくして再起動した井豪に照れながら言われて、あたしは思わず動揺してしまう。

「そ、そう? ありがと」

 何だか頬が熱を持ったように熱くなってくる。冴子に言われたのでもあるまいし、何でこんなただのお世辞に赤面してるんだあたしは。
 ちなみにちょうどこの時、戻ってくる途中で冴子が小室を見つけて話し掛け、原作通りに同じようなことを言われて赤面していたりするのだがあたしには知る由もない。
 くそ、覚えていれば意地でも邪魔をしに行ったというのに。
 井豪はただ美形というだけではなく、愛嬌があって親しみの持てる顔をはにかませた。

「これから麗の様子を見に行くところだったんです。良かったら一緒に行きませんか」

「いいけど、冴子も一緒でいい?」

「構いません。毒島先輩が戻ってくるまで待たせてもらってもいいですか?」

 ……何だか妙なことになってきた。まあ、麗の部屋に行く途中でも冴子と景色を見ることはできるだろうし問題ないだろう。
 頷くと、井豪は冴子が座っていた椅子に腰掛ける。私も井豪がいるので席に戻って大人しくすることにした。
 しばし沈黙が流れる。
 どうしよう。どう会話すればいいのかまったく思い浮かばない。こうして井豪と同じ部屋にいるのが妙に気恥ずかしくて、自然と顔を俯かせてしまう。
 ちらりと視線を上げると井豪と眼が合った。
 吃驚して慌てて視線を下げると、小動物的なあたしの反応がおかしかったのか、井豪が思わず漏らしたであろうくすりという笑い声が聞こえてくる。
 さ、冴子早く来てー!
 あまりの居たたまれなさに心の中で絶叫していると、あたしの祈りが通じたのかノックの音と聞きなれた「私だ。入っていいか?」という冴子の声が聞こえてきた。
 親しき中にも礼儀ありという言葉を地でいく冴子に返事をすると、冴子が小室とありすを連れて入ってくる。
 何処となく親しげな様子の冴子と小室を見て、あたしは心臓にナイフを突き立てられたような気がした。自然とあたしの眼は冴子と小室に釘付けになる。
 動悸がうるさい。知らず呼吸が乱れているのを自覚して、すぐに深呼吸して心を落ち着かせる。
 慌てちゃいけない。別に冴子と小室が一緒だったからって、冴子があたしじゃなくて小室を選んだことにはならない。たまたまばったり会って会話が弾んだだけだろう。
 だいたい冴子と過ごした時間はあたしの方がはるかに長い。そう簡単に冴子が小室を選ぶとは思えない。まだ、まだ小室よりあたしの方が冴子に想われているはず。
 だけど、たぶん神社での例のイベントが起きてしまったら、冴子があたしよりも小室を優先させるようになるのは決定的だ。あたしとどんなに絆を育んでいても、女である以上冴子はきっと小室に惹かれていく。冴子が異性に惹かれるのは当然で、女として何の不思議もないからだ。カミングアウトしていない以上、冴子にとってあたしはいくら親しくても女友達に過ぎない。
 どんなに頑張っても、今のままのあたしでは冴子の一番にはなれないことなど、初めから分かりきっていたことだった。

「御澄先輩? どうしました?」

 井豪に問い掛けられ我に返り、首を振って悲観的な考えを振り払う。
 要は例のイベントさえ起こさせなければいいのだから、いざとなれば冴子の代わりにあたしが小室についていけばいい。冴子みたいに上手く刀を扱うことはできないけれど、劣化冴子くらいの働きならできるだろう。冴子を死地から遠ざけることにも繋がるから一石二鳥だ。紫藤先生はもう死んでるからバスが原因で<奴ら>をここに侵入させるようなことはないだろうし。
 問題はバスが事故を起こして<奴ら>を侵入させてしまうのは分かっていても、そのまま<奴ら>を敷地内にまで侵入させてしまった理由が思い出せないということだ。
 携帯で連絡すればすぐさま<奴ら>が侵入したことは伝えられるだろうから、門を補強するなりトラックとかを動かして道を塞いだり、<奴ら>の侵入を防ぐ手段などいくらでもあったはずだ。時間を稼いで高城邸のバスで脱出することは充分にできただろう。
 それがどうして<奴ら>の群れの中を徒歩で突破するような羽目になったのか。
 ……っと、また思考の海に没頭するところだった。あたしの悪い癖だね、これは。
 考え込んでいる間に三人で話が纏まっていたらしく、結局四人で麗が安静にしている部屋へ向かうことになった。
 小室と一緒にいたことに気を取られて大事なことを言い忘れていたのを思い出し、あたしは満面の笑みを浮かべて冴子の着物姿を見る。

「すごく似合ってる。……きれい」

 着物を着た冴子は長い黒髪が着物に映え、まさに大和撫子という呼び名が相応しい艶やかさを備えていた。
 冴子は陽だまりのような微笑みを浮かべてあたしを見る。

「ありがとう。でも、嬌も似合っているよ」

 胸がとくんと鳴り、頬がほんのり熱を帯びた。思わず両手で頬を押さえ、少し逡巡した後、小室がいる方とは反対側の冴子の隣に並ぶ。
 そっと冴子の手を取ると、しっとりとした感触と温もりとともに、冴子が優しく手を握り返してくれるのを感じた。
 だいじょうぶ。まだだいじょうぶ。
 ずっと冴子の傍にいられるのなら、例え冴子が小室に惹かれていくのを間近で見せ付けられたとしても耐えられる。
 いつかその微笑みがあたしに向けられるものでなくなったとしても、絶望したりなんかしない。
 あたしは冴子を守りたいから守っているのであって、決してその見返りに愛してもらいたいわけじゃない。
 そんな義務的な愛なんて、あたしは欲しくないのだから。
 こうしてあたしは、何のために着物を着ているのかなんてすっかり忘れ去り、冴子に寄り添いながら麗の部屋へ移動するのだった。


□ □ □


 麗の部屋には鞠川先生と、暇を持て余したのか椅子の1つを占領して携帯を弄っている夕樹がいた。

「あれ、夕樹? 以外ね。宮本さんと一緒にいるなんて」

「だって暇なんだもの。わたし別に本なんて読みたくないし」

 あたしと夕樹のやり取りに、ベッドでうつ伏せに寝ている麗はイラッとした顔をしている。

「だったら鞠川先生の手伝いくらいしてください。ずっとそこで携帯弄ってるだけじゃないですか」

「どうしてわたしがそんな殊勝なことしなけりゃならないの?」

 夕樹に鼻で笑われ、麗の額に青筋が浮かぶ。

「あなたね……」

「まあいいんじゃないか? 静香先生だって一人で充分みたいだし」

 井豪が眼を向けると、鞠川先生はにっこり笑いながら首を縦に振る。

「先生のお仕事取っちゃダメぇ~」

「……ならいいですけど」

 麗は不満そうに頬を膨らませ、ふて寝する。
 そのまましばらく皆で雑談しているうちに、高城と平野まで部屋にやってきた。
 外から聞こえてきた話し声に気付いた冴子と小室がドアを開けると、高城は小室の顔を見てホッとした顔をする。

「良かった。ここにいたんだ」

 後ろで大荷物を背負い、荒い息をついている平野と高城を見比べて、小室は呆気に取られた顔をする。

「何してんだ?」

 部屋に入り、見回して全員いることを確かめた高城は、そのままつかつかと部屋の中央に歩み寄る。
 こちらに振り返った高城の表情は厳しい。

「小室。アタシたち一度話し合っておくべきことがあると思う」

「ありすも一緒でいいの、コータちゃん?」

 荷物を置いて椅子に座った平野にありすが駆け寄る。

「もちろん! ありすちゃんもジークも仲間だからね」

 平野は自身満々に親指を立てる。
 嬉しそうにぱあっと笑顔を浮かべたありすに、平野はうへへと鼻息荒く笑った。
 1人ベッドの上にいる麗が小室に何か暗に別のことを言いたげな顔で文句を言う。

「……何も全員ここに集まってくることないじゃない」

「お前がまともに動けないんだ。仕方ないだろ」

 一気に部屋の密度が上がったことに、麗は不満そうに口をへの字にしている。
 どこで調達しておいたのか、鞠川先生がバナナの皮をむきながら高城に尋ねる。

「それでどういうお話なの?」

 テラスへと続くガラス張りの扉の前まで歩き、高城は腕を組む。

「話は二つよ。一つはメゾネットで彼らを助けられなかったことについて」

 思わず息を飲む。
 触れられたくなかった話題が出てきて、氷を入れられたように背筋が冷えていくのを感じた。
 あたしの様子を横目で見た夕樹が高城に反論する。

「助けられたわたしが言うのも何だけど。生き延びるためには仕方なかったことじゃない。あいつらが死んでるって決まったわけじゃないんだし。わざわざ話し合うようなことなの?」

「反省しなきゃいけないことよ。最初に気付いていれば、車をもう一台調達してくるなり全員で逃げる方法はいくらでもあったのに、誰も気付けなかった。その結果、アタシたちは御澄先輩一人に重荷を背負わせる羽目になったわ」

 振り返ってあたしをじっと見つめた高城は、腰に手を当ててあたしから視線を外さないまま話を続ける。

「それだけじゃない。ママが助けに来てくれる前、アタシたちは今までにない危機的状況に陥った。最終的に誰が誰を優先させようとするのかが浮き彫りになったのよ。それは、アタシたちの誰もが誰かのために見捨てられる可能性があるということ」

「待てよ、だけどそれは……!」

「勘違いしないで!」

 口を挟んだ小室に、高城は鋭い舌鋒を向ける。
 次いで、高城は顔面が蒼白になっているであろうあたしに優しく声をかけた。

「別にそれが悪いことだと言ってるわけじゃないわ。毒島先輩だけを助けようとした御澄先輩を非難しているわけでもない。生き延びるために成り行きで組んだチームだもの。いずれ齟齬が出るのは当然よ」

 再びあたしたちに背を向けた高城は腕を組み、背筋を伸ばして声を張り上げる。

「これを踏まえて二つ目。アタシたちがこれから先も仲間でいるかどうかよ」

 話を聞きながらバナナにかぶりついていた鞠川先生が吃驚して咽喉に詰まらせ、焦ったように咳き込んだ。
 ベッドの上の麗も慌てて顔を上げ、高城を見る。

「仲間って……」

 答えたのは硬質な表情で話を聞いていた冴子だった。

「当然だな。我々は今諸々の問題を抱えた状態のまま、より大きく結束の強い集団に合流した形になっている。つまり……」

 言葉を切った冴子に、高城が続く。

「そう、選択肢は二つきり! 飲み込まれるか」

「……別れるか。でも別れる必要なんてあるのか?」

 バナナを咀嚼している鞠川先生が困惑した表情で、高城の言葉を引き継いだ小室に頷き、同意する。
 ガラス張りの扉を開け放ち、テラスに飛び出た高城は、こちらに振り返り外に向けて手を振り翳した。

「ここで周りを見渡せばいいわ! それでも分からないのなら……アタシのこと名前で呼ぶ権利はナシよ!」

 平野から双眼鏡を借りた小室は、テラスに出て双眼鏡を覗き込み、外の風景を眺める。

「街は……酷くなる一方だな」

 あたしの眼でも、血に塗れた路上と徘徊する<奴ら>の様子を捉えることができた。
 誰かの片足を引き摺る<奴ら>がいれば、死体に群がり獣のように肉や内臓を貪る<奴ら>もいる。
 高城の言いたいことが、あたしにもようやく分かった。
 時間が経てば経つほど、どんどん状況は悪くなる。あたしたちの当面の目的は小室と井豪と麗の家族の安否を確認することだけど、飲み込まれたらいつ出かけられるか分からない。
 だってそれは、組織の一員として行動を束縛されるということだ。それが悪いことだとは言わないけれど、あたしたちの今の目的とは相容れない。
 ここで働く大人は皆、何がしかの役割を与えられている。働いていないのはあたしたちみたいな子どもだけだ。だけどそれは何もしなくていいわけじゃない。庇護される対象という役割を、押し付けられているということでもある。

「手際がいいよな、親父さん。右翼のエライ人だけのことはあるよ。……お袋さんも凄いし」

 外を眺めながら言った小室に、高城がこちらを向いたまま叫ぶ。

「ええ、凄いわ! それが自慢だった! 今だってそう、これだけのことをたった一日かそこらでやってのけて」

 張り詰めていた声が途切れ、高城は俯く。
 やがて再び紡がれた声は濡れていた。

「でも。……それができるなら、どうして」

 歯を噛み締めて親に捨てられたかのような顔の高城の眼から、涙がぽろぽろと零れる。

「高城……」

 思わずといった調子で声をかけた小室に、高城が振り向いて怒鳴った。

「名前で呼びなさいよ!」

「ご両親を悪く言っちゃいけない。こういう時だし、大変だったのは皆同じだし」

「いかにもママの言いそうな台詞ね!」

 笑顔すら浮かべて小室の発言を嘲った高城は、大きく息を吸い込み背筋をピンと伸ばし、上を向いた。
 両の拳を握り締め、悲しみを吐き出すかのように絶叫する。

「分かってる、分かってるわ、アタシの親は最高! 妙なことが起きたと分かったとたんに行動を起こして、屋敷と部下とその家族を守った! 凄いわ、凄い、本当に凄い!」

 唖然とする小室に涙を堪えた笑顔で高城は振り返り、詰め寄っていく。

「もちろん娘のことを忘れたわけじゃない! むしろ一番に考えた! さすがよ! 本当に凄いわ! さすがアタシのパパとママ!」

「それくらいに……」

 小室の前に立った高城は本当に嬉しいことであるかのように自分の胸に手を当てる。その眦からとめどなく涙を溢れさせながら。

「生き残っているはずがないから、即座に諦めたなんて!」

「やめろ、沙耶!」

 怒鳴った小室が高城の胸座を乱暴に掴み上げる。衝撃で眼鏡が吹っ飛び、高城の身体が一瞬宙に浮き上げられた。
 驚いた顔で皆が小室と高城を見つめる中、平野だけが憤怒の形相を浮かべる。

「あ……何よいきなり。でもようやく」

「お前だけじゃない、同じなんだ!」

 困惑と喜びが入り混じった泣き笑いの表情を浮かべた高城に、小室は顔を近付ける。

「みんな同じなんだ。誰だって同じ思いを抱えてる」

 そうなのだ。大人である以上、あたしたちの両親には子どもを優先させたくてもできないしがらみが存在する。
 大人である鞠川先生を除けば、皆ある意味では両親に捨てられたと言っていい。例え両親がそう思っていなくても、事実としてあたしたちはそう受け取ってしまう。
 だって思ってしまうのだ。あたしたちがこんな酷い目に遭っているのに、どうして助けに来てくれないのか、と。助けに来れないのは既に死んでいるか、他を優先させているからではないのか、と。
 それを分かっているのだろう。
 小室は俯き、弱々しく言葉を紡いだ。

「親が無事だと分かっているだけお前はマシだ」

 誰もが神妙な顔をして小室の言葉を聞いていた。冴子も遠い父親のことを想っているのだろう。どこか遠くを見ているような顔をしている。

「……分かったわ。分かったから放して」

 もう高城は泣いてはいなかった。
 手を放し、小室は高城から離れる。

「悪かった」

 落ちた眼鏡を拾い上げ、掛け直しながらも、名前で呼ばれたことに高城は満足げだった。

「ええ本当に。でもいいわ。さ、本題に入らないと、アタシたちは」

 その時ちょうど何台もの車が入ってくるような轟音がして、あたしたちは外に眼を向ける。
 平野が怪訝な顔をした。

「? あれは……?」

 高城は敷地内に入ってくるたくさんの車やトラック、バイクを見て表情を引き締める。

「そう。この県の国粋右翼の首領! 正邪の割合を自分だけで決めてきた男!」

 あたしは高城の視線を追い、やがて1人の男が車から降り立つのを見つけた。
 遠くから服越しでも分かる、鍛え上げられた巌のような身体。抜き身の刀を思わせる、冴子よりも遥かに硬質な雰囲気。

「アタシのパパよ!」

 どこか自慢げな高城の声を背に、あたしはその男と一瞬視線が絡んだ気がした。


□ □ □


 メールを読み終えた夕樹は、携帯の履歴からある人物関係のメールを入念に削除した。
 携帯を握り締め、にっこりと笑う。その笑顔はいつもの邪な彼女にしては珍しく、純真で邪気のない表情だった。
 愛しい愛しいあの人の心を手に入れる算段がついたのだ。そのための手段も手に入った。逃げ込んだ先が、武器が豊富にあるこの屋敷だったことは彼女にとって大きな幸運だった。
 何も考えてなさそうな末端の男を見繕って色仕掛けをするだけで、その男はあっさりと目的のものを渡してくれた。
 武器とはいっても、<奴ら>相手には大して役に立たないもので、夕樹のような女の子が持っていてもそれほどおかしくないせいもあるだろうが。
 あとは自分に疑いの眼が向かないようにするために、どう立ち回るかだけ。それさえ間違えなければ、傷心の思い人がこの手に転がり込んでくる。
 うまくいけば邪魔な女を追い払えるし、生き残るために大人の庇護を得ることができる。失敗しても彼女と邪魔者の間に不和を引き起こせるし、不安定な彼女の感情を揺さ振ることができる。
 どちらに転ぶにしろ、自分の目的には確実に近付けるのだ。
 一時的に彼女を危険に晒してしまうことになるが、自分も同じように危機に陥るのだ。これくらいは許容範囲内だろう。

「~♪」

 知らず鼻歌が口をついて出る。
 夕樹は上機嫌だった。
 不幸なことに、そのたくらみを知るものはまだ誰もいない。



[20246] 第十八話
Name: きりり◆4083aa60 ID:089411ce
Date: 2013/02/17 03:02
 あたしたちが見ているうちに、高城邸の庭に大きな台が作られていく。
 憂国一心会という文字が縫い取られた布で装飾されたその台に、人1人が入りそうなくらい大きな檻を運ぶ特殊作業車が横付けされる。
 檻の中ではヒトガタの何かがもがき、唸っているようだ。

「あれは……何が入ってるの?」

 思わず漏らしたあたしの呟きに、冴子が静かな声で答える。

「シルエットから見て、獣ではないな。あのような仰々しい台を作り、観衆を集めたのだ。おそらく人でもあるまい」

「獣でも人でもない……?」

 冴子の言葉を復唱する。
 獣でも人でもないならば、檻の中にいるのは何だろう。あの、ヒトによく似たアレは何なのだろう。

「<奴ら>だ。きっと<奴ら>を使って何かをするつもりなんだ。でも、何を──?」

 冴子とは反対側の隣に来た井豪が疑問を呈した。
 その疑問は響き渡る朗々とした声によって氷解する。

 ──この男の名は土井哲太郎! 四半世紀もの間共に活動してきた我が同志であり友だ! 救出活動の最中部下を救おうとし……噛まれた!

 集まった群衆に向けて演説するのは、高城の父親である壮一郎さんだった。

 彼は日本刀を腰に下げ、憂国一心会の制服姿で台の上に立っている。

 ──まさに自己犠牲! 人間として最も高貴な行為だ! しかし……。

 壮一郎さんがちらりと視線を向けるその檻の中では、同じ制服を着た<奴ら>が壮一郎さんを襲おうとしきりに檻の鉄棒を揺らしている。
 それはまるで、<奴ら>がヒトのまま「ここから出してくれ」と懇願しているような錯覚をあたしたちに与えた。
 知り合いではないあたしたちですらそうなのだ。<奴ら>になった男が親友だったのならば、壮一郎さんはその錯覚をより大きく感じていることだろう。情に負け、檻から解き放つようなことがあっても誰も責められまい。
 だけど、壮一郎さんは鋼の精神で規律を保ち、場を支配していた。

 ──彼はもはや人間ではない、ただひたすらに危険な`もの`へとなり果てた! だからこそ私は今……。

 腰に吊り下げられた鞘を左手で支え、壮一郎さんが右手を刀の柄に伸ばす。小さく鍔鳴りの音がし、白刃に日の光が反射しきらめく。
 檻の扉が開けられ、<奴ら>が外に出てくる。

 ──我が友へ最後の友情を示す!

 抜き放った刀を振り上げた壮一郎さんは、あたしたちが見ている前で躊躇わず、躊躇せず、迷い無くかつて同朋だった<奴ら>の首を一刀両断した。
 台の前で一部始終を見せられた観衆が皆一様に恐怖の表情を浮かべる。
 思わず眼を瞑ったり、顔を強張らせていたり、あたしたちを含めて観衆の中にその光景を正視できた者は殆んどいない。例外は仏頂面で眉を跳ね上げただけの冴子くらいだ。
 ちょっと人には言えない危ない性癖を持ってる冴子だから、もしかしたら自分もやりたいなーとか思っているのかもしれない。

 ──さらばだ……。

 首だけになってもなお呻き声を上げつづける<奴ら>に向けて、壮一郎さんは瞑目し、厳かに別れを告げる。

 ──友よ! おおおおお!

 かっと目を見開いた壮一郎さんは己の気を高めるかのように声を張り上げ、雄叫びとともに<奴ら>の頭を軍靴で踏み潰した。
 生肉を固い容器ごと踏み潰したような、生々しい異音があたしたちの耳にまで響いた気がした。

 ──これこそが我々の……。

 静寂に包まれた空間に響く壮一郎さんの声は、はっきりとあたしたちの耳にまで届いてくる。
 壮一郎さんはたったいま<奴ら>を斬った刀を左手に携え、右手を群衆に向けて振り翳す。
 遠くで聞こえていた壮一郎さんの声が、集音マイクでも使ったのか、まるで目前で言われているかのような迫力で迫ってきた。

「今なのだ!」

 ぶるりと身体が震え、思わず冴子の腕を強く掴んでしまう。
 おそらく強張っているであろうあたしの横顔を見たのか、冴子の腕を掴んだあたしの手を、あたしを安心させるかのように冴子がもう片方の手で包む。
 はっと我に返ったかのように群衆の視線が壮一郎さんに集中する。
 彼らの顔に浮かんでいるのは恐れ、否定、戸惑いといった、現状を受け入れられない念だ。

「素晴らしい友、愛する家族、恋人だった´もの´でも、躊躇わずに倒さなければならない! 生き残りたくば……戦え!」

 現実を告げる壮一郎さんの声は、一部始終を見ていたあたしたちの心に、様々な思いを呼び起こす。
 強張った顔の小室の横で、平野が渋面で呟く。

「刀じゃ効率が悪すぎる……」

 呟きを聞きつけて、冴子が平野に眼を向ける。

「決め付けが過ぎるよ、平野君」

「でも日本刀の刃は骨に当てたら欠けますし、三、四人も斬ったら役立たずに……!」

 食って掛かろうとする平野をあたしが掴んでいる方とは逆の腕で遮った冴子は、顔を平野に向けて告げた。

「たとえ剣の道であっても、結果とは乗数なのだ。剣士の技量、刀の出来、精神の強固さ。この三つが高いレベルにあれば、何人斬ろうが刀は戦闘力を失わない」

 一見到底信じ難いトンでも理論だが、あたしは実際にその理論を裏付ける現象を目撃したことがある。
 中学生の頃冴子に付き合って冴子のお父さんに連れられ鍛錬の一環で山篭りをしたことがあるのだが、その時に冴子のお父さんが同じような話をしてくれた。
 冴子のお父さんは実演も見せてくれて、あたしたちは目の前でバターのようにスライスされていく薪におおはしゃぎで喝采を上げたものだ。
 その後冴子と一緒にフィクションかと思うような厳しい修行をさせられてあたしは半べそをかいたのだが、それはまた別の話。

「で、でも、血脂がついたら……!」

「料理と同じだよ。良い包丁を腕の良い職人が用いた時、刃に無駄な脂は残らない。人体と日本刀でもその理屈は変わらん」

 もわもわとあたしの頭の中で見事な刺身を作る冴子と、虐殺解体ショーを繰り広げるあたしの姿が浮かび上がる。
 かつて冴子と海釣りに行った時、実際にあった一場面なのがあたしを何とも言えない気持ちにさせた。
 魚の絞めから解体まで全部やるとか無理だってば……完璧にできる冴子の方が絶対おかしい。

「でも、でも!」

「お、おい平野、もういいじゃな……」

 見かねて引きとめようとした小室の手を、平野は乱暴に払い除けた。
 手を払い除けられた小室は、伸ばした手を反射的に引っ込める。

「触るな!」

 衝撃と痛みで顔を顰めた小室を鋭く睨みつけた平野は、普段小室を含めたあたしたちに見せる穏やかなな顔とは似ても似つかない荒々しい表情で怒鳴った。

「邪魔するなよ、まともに銃も撃てないクセに!」

「平野っ! アンタいい加減に……!」

 非難しようとした高城に背を向け、口をへの字に曲げた平野は銃をかき集めてテラスを出て行ってしまった。
 部屋の扉を乱暴に閉める音に、ベッドにうつ伏せに横になっていた麗と、傍で膝立ちになって麗と何か話していたありすがびくりとする。

「なんなんだ、あいつ」

 唖然とする小室に、食って掛かられていた冴子が遠慮がちに微笑んだ。

「分かってやれ。平野君もまた男子なのだよ」

「それは分かってますけど」

 なんでそんな当たり前のこと聞くんだ、などと言いたげな表情の小室に、冴子はため息をつく。
 ……傍から見れば、平野が高城に好意を持ってて小室にジェラシーを感じたってことくらい分かりそうなんだけど。
 どうして気付かないんだ小室は。

「君はそういうところが……いや、同じ硬貨の裏表か」

 呆れたようにため息をついた冴子は小室に背を向け、テラスを出ていく。

「鈍感は時に罪だよ」

 冴子の後を追うあたしもまた、小室と擦れ違い様にそう言葉を残す。
 この言葉は後にあたし自身に跳ね返ってくることとなるのだが、今のあたしにはまだ分からなかった。


□ □ □


 テラスにいる鞠川先生を除けば部屋には麗と井豪のみが残っていた。
 お互いの変心を薄々感付きながらもまだ未練の残る2人は、どこか気まずげな表情で見詰め合う。

「……怪我は大丈夫か?」

 躊躇いがちに尋ねた井豪に、麗は驚いたように数回眼を瞬かせ、淡い笑みを浮かべる。

「うん。薬塗ってもらったからだいぶ楽になったわ」

「すまない。お前が車から落ちた時、傍にいてやれなくて」

「いいわよ、永は車の中ですぐに出てこれる状況じゃなかったし。最後に助けようとしてくれたの見てたもの」

 麗も井豪も口を噤み、部屋に沈黙が満ちる。
 気まずい雰囲気の中沈黙を破ったのは麗だった。

「ねえ……今でも私のこと、好き?」

 恐る恐る井豪を覗き込むようにして尋ねた麗に、井豪は一瞬の間を置いて答える。

「……ああ」

「うそね」

 ぽつりと漏らした麗の言葉に井豪は気圧され、押し黙る。

「騒動が起こって先輩に助けられてから、永は先輩ばっかり気にしてる。本当は先輩のことが好きなんじゃないの?」

「それはない……!」

 反射的に強く否定しようとした井豪の口に、麗は微笑んでそっと人差し指を当てた。

「別に責めてるわけじゃないから、無理に否定してくれなくてもいいわ。私だって人のこと言えないもの。……私、好きって気持ちがどういうものなのか、よく分からなくなっちゃった」

 井豪から眼を逸らした麗は、悲しんでいるような、戸惑っているような、衝撃を受けているような、そんなあやふやな表情を浮かべていた。

「前はね、永と一緒にいると凄く安心していられたの。まるでお父さんと一緒にいる時みたいに心が温かくて、ふわふわしてた」

 話す麗の顔はとても嬉しそうなのに、井豪の胸は胸騒ぎで掻き乱される。

「でも、今は違う。永の傍にいると、凄く胸が苦しくなる。嫌いになったわけじゃない。むしろ前より好きになってるのかもしれない。学校で守ってもらった時だって嬉しかった。でも、先輩から<奴ら>に噛まれたら死んで<奴ら>になるって聞かされて、凄くショックだった。だってそれって、もし永が噛まれてたら、<奴ら>になってたってことでしょ? 永を見ていると目を離すのが怖くなる。また、私を守ろうとして死んじゃいそうで」

 麗はベッドの前に佇む井豪を見上げた。眉に皺を寄せて苦悩する井豪と、微笑みを消して真剣な表情になった麗の眼が交錯する。

「私は死にたくないし、永を死なせたくない。親しい人は誰にも死んで欲しくない。そのためなら何だってするわ。売女呼ばわりされたって構わない」

「……俺から孝に乗り換えるのも、そういう理由なのか」

 そんなつもりなどなくとも、どこか責めるような口調になってしまうのを井豪は押さえきれなかった。
 非難されているように感じたのか、麗は声を上擦らせる。

「そうよ。だって、今までとは違うのよ。高校生らしい甘酸っぱい恋愛なんてもうできない。私は孝の支えになるわ。今の永よりは、孝の方がリーダーとしては適してる。まだ甘いところもあるけど、ちゃんと皆を生かすように平等に決断してくれるから。永は優しいから、平等にしてるつもりでもどうしても私のことを優先させてしまうでしょ? 普段だったらそれでも良かった。だけど、今はそれが命取りになる」

 井豪は言い返せなかった。
 昔から麗のことが好きだった井豪にとって、麗が誰よりも優先して守るべき特別な存在なのは確かだったから。
 それでも、どうしてよりにもよって選んだのが孝なのかと、井豪は思わずにはいられなかった。
 そんな井豪の悩みを汲み取ったのか、麗が言葉を紡ぐ。

「事が起こってから孝は見違えるようになったわ。今の孝の傍にいると胸がドキドキするの。身体の中心が熱くなって、何が何でも一緒に生き延びてやるって気分になる。永の隣にいても、もうそんな気分にはなれないわ。苦しくて、切なくて、不安で胸が張り裂けそう」

 ──これが嫉妬なのね。こんな気持ち、知りたくなかったけど。
 麗は小さな声でそう言った。
 井豪はうめくように麗に尋ねる。

「……俺よりリーダーに適してるのは孝だけじゃないだろう」

「静香先生は性格的にリーダーが勤まるような人じゃないし、毒島先輩は本人が先に辞退してる。御澄先輩は問題外よ。永の悪いところをより重傷にしたような人だもの」

 留年するまでクラスメートだった麗には、御澄の短所がよく分かっていた。
 明るい性格で誰に対しても分け隔てなく接する御隅は、本人は気付いていなかっただろうが校内一の人気者である毒島冴子と同じく、密かに人気が高かった。
 美人度は同等でも純日本風の大和撫子だった毒島とは違い、髪を茶色く染めいかにも今風の女子高生らしい容貌だった御澄は親しまれやすく、一見すると毒島よりも社交的に思えたほどだ。
 しかし武術を嗜むよしみでたまたま他人より両人に深く接する機会があった麗は、御澄の本質を知ることとなった。
 御澄の誰にでも平等に接する態度は親しみから生まれたものではない。
 彼女の特別は、今も昔も毒島冴子ただ一人だけである。
 表面的な平等さは、毒島と有象無象という著しい不平等さの裏返しでもあったのだ。


□ □ □


 冴子を追って裏庭に辿り着いたあたしは、突如鼻を襲ったむず痒さにくしゃみをした。

「どうした? 寒いのか?」

 穏やかな眼をあたしに向けた冴子に、あたしは手を振って何でもないことを示す。

「たぶん、他の人が噂してるんじゃないかな。そういう時くしゃみが出るっていうし」

「ならいいが。体調管理にはくれぐれも気をつけてくれ。我々はひとまず安全地帯に逃げ込むことができたが、それで油断してしまっては意味が無い。兜の緒を締めるくらいの心持ちでなければ」

「分かってるわ。いつまでもここにいられるわけじゃないし、気を引き締め直さないとね」

 膝を折り池に眼を落とした冴子に合わせ、あたしもその場にしゃがみ込んで水面を眺める。
 水の中では地上の地獄など知らぬげな顔で、錦鯉が悠々と泳いでいた。
 何も悩みがなさそうなその姿が、少し羨ましい。

「……素晴らしい九紋竜だな。これ程のものとなると滅多に見られない」

 相槌を打とうとしたが、冴子の言葉はあたしにかけられたものではなかったらしい。
 あたしの後方から冴子に向けて声が投げかけられた。

「剣道だけじゃなくて錦鯉にも詳しいってワケ? まあ、確かに似合ってるけどさ」

 振り向いた先に佇んでいたのは高城だった。腰に手を当て、呆れた表情であたしたちを見ている。
 あたしの前で、冴子が静かに膝を伸ばした。

「私は……いや、私も機嫌が良いわけではないよ」

 立ち上がった冴子と高城を、場違いに心地よい春風が煽っていく。

「理由は分かっているわけね、あなたも」

 高城は腕を組み、ツインテールに括った髪とひらひらしたスカートを風にはためかせ、厳かに告げた。

「昨日と変わらない今日、今日と変わらない明日を当然のものとして受け入れる幸せは喪われたわ。……たぶん、永遠に」

 全てが終わればまたもとの世界が戻ってくるのだと希望を抱いていたあたしは、高城の台詞にショックを受けた。
 呆然とするあたしを置いて、二人のやり取りは続いていく。

「そうだ。あの懐かしい世界はすでに滅びた。よって、君が口にした設問に戻るわけだ」

「ええ。飲み込まれるか、別れるか。どちらを選ぶかによって、これからの全てが変わる」

「もし飲み込まれたら……どうなるの?」

 あたしの質問に、高城は風で舞い上がる髪を押さえながら儚げに笑った。
 まるで、それが自分の手に届かない選択肢であることを分かっているかのような、そんな諦観混じりの笑顔だった。

「飲み込まれた時どんな世界で生きていくのかはパパが実演してくれた。気楽でいいわよ? まだしばらくは子供でいられるわ。<奴ら>で溢れ返りつつあるこの世界で、うれしはずかしな恋愛ごっこだってできる」

「それもまた、楽しくはあるだろうが……」

 返す冴子の声が、どこか遠い。
 飲み込まれて、子供のままで、冴子たちと一緒に日々を過ごす。
 その選択肢が示す先は、とても幸せそうな未来に見えた。
 擬似的でも、現実から眼を逸らしているに過ぎないのだと分かってはいても、今までと同じ穏やかな日々を過ごすことは、今のあたしにとって何物にも替え難い願いだったからだ。
 冴子が振り返ってあたしを見た。

「嬌。君はどうするつもりだ」

「あ、あたし!? あたしは……」

 一番守るべきなのはやはり冴子の命で。なら、飲み込まれるのは悪くないことであるはずで。
 だって、そうすれば冴子を守ることができるのだ。冴子を危険から遠ざけることができるのだ。
 答えなど決まりきっているのに、喉の奥でつっかえて中々言葉として出てこない。
 悩みがあった。
 だって、冴子はともかく、人を殺したあたしの方は、子供として生きることが許されるとは思えない。
 冴子の手を汚させたくないから、殺そうと思って石井君を殺した。前世の記憶っぽい衝動に突き動かされて、そう遠くない未来冴子に降りかかるであろう危機を打ち払うために、紫藤先生を手に掛けた。見捨てれば死ぬかもしれないと理解したうえで、冴子を含めたあたしたちが生き延びるために後続組を見捨てた。
 全て冴子のためだという理由が根底にあったとはいえ、そんなものはただの言い訳だ。人を殺して子供のままでいたいというのは、さすがに身勝手すぎる。
 あたしが別れると言えば、冴子はあたしのためについてくるだろう。自惚れでは無いが、その程度は冴子に思われているはずだ。
 最善は、冴子を生かすこと。そのためには、あたし自身の欲を優先させるわけにはいかない。傍にいられなくても、冴子が生きているならそれでいいと思わなきゃいけない。
 だから、あたしは冴子に対して、生涯で2度目の嘘をついた。
 こうしてあたしはどんどん、好きな人に対して嘘吐きになっていく。それがよくないことだと分かっているのに。

「ここに残るよ。だから、冴子も残ってくれる?」

 冴子は少し意外そうな顔をしたあと、悩む素振りを見せた。
 約束を守ることを大切にしている冴子のことだから、小室たちと一緒に行くか、あたしと一緒に残るか考えているのだろう。
 あたしが駄目かもしれないと思い始めた頃、冴子は諦めたように穏やかな顔で笑った。

「……君がそう望むなら」

 やや影を帯びていて、でも嘘をつかれているなんて考えてもいなさそうな、慈愛に満ちた笑顔。
 胸をつかれる。
 ──さえこが、しんねんをまげてまで、あたしをえらんでくれた。
 その事実がただ嬉しい。
 同時にまたしても冴子の信頼を裏切ってしまった罪悪感が胸を突く。
 表情に出さずに飲み込み、逃げるように高城に顔を向ける。
 それを答えの催促と受け取ったのか、高城はため息をついた。

「悪いけどアタシは別れる方を推すわ。今さら子供のままではいられないもの」

「……なんで?」

 尋ねたあたしの顔が心底不思議そうだったのか、高城は若干イラついた顔になる。

「アタシは自分が生き残るためにクラスメイトを気にせず動いた。間違っているとは思わないけど、子供が教わる正義とは全然違……どうしたの?」

 何かを見つけたかのように遠くを見た冴子に、高城が怪訝な顔をする。

「見知った顔が見えた。あれは……」

 その時だった。
 壮一郎さんの大声が表の方から聞こえてきたのは。
 何事かと急いで表に向かう冴子たちの背を見送る。
 行った先で何があるのかも気になったが、冴子のいう見知った顔の方が気になった。
 冴子が見ていた建物の影に回たあたしは、信じられない人物を見つけて立ち竦む。
 太陽が隠れ、妙に肌寒い不吉な風があたしの髪とスカートを舞い上げていく。

「──よう」

「あんたは……」

 最後に見た時よりも少しやつれた顔に浮かぶ粗野な凶相。
 そこにいたのは、あたしがメゾネットで見捨ててきたはずの、あの不良だった。



[20246] 第十九話
Name: きりり◆4083aa60 ID:a640dfd1
Date: 2013/02/22 20:01
 ここで一つ、過去の話をしよう。
 まだ世界の終わりなど来ていなかった頃のお話。
 前世の記憶を持って生まれたせいで、あたしは普通の子供のように正常な精神の発達を望めなかった。
 何故なら前世の記憶を認識できるということは、その時点で少なくても論理的な思考を組み立てることが出来る程度には自我が発達していなければならないということでもあるからだ。
 もちろん生まれたばかりの赤子にそんな高度な自我があるはずもないが、それは逆に一つの事実を示している。
 それは、今あたしをあたしとして認識している意識が、前世の記憶の持ち主であった男の意識とイコールであるということだ。
 前世の記憶というすでに完成された媒体があるのだから、当時赤ん坊で未発達の自我しか持たないあたしの意識が男の意識に上書きされるのは当然のこと。
 自我というものが年月の蓄積によって培われる以上、あたし自身の自我など、前世の記憶という完成された自我を持って生まれてしまった時点で発生する余地がないはずだった。
 ところが趣味嗜好その他の全てが前世の記憶によって男のものに染め上げられてしまったのに、どういうわけか肝心の男の自我が発生することはなかった。あたしは初めから完成された意識を前世から引き継いでおきながら、あたしのままこの世に生れ落ちてしまったのだ。
 そんなことになって、精神の発達に異常が出ないはずがない。
 目にする全てのものがあたしにとって真新しいものであるはずなのに、前世の記憶のせいで全ての未知はすでに経験している有り触れた既知へと置き換わってしまう。
 新しいものを目にするたびに起こる認識のすり替えのせいで、あたしはあたし由来の経験やそれに付随する感情を手に入れても、それを自分のものとして留めておくことができない。
 自我そのものを構成するパーツがあたしのものではないせいで、あたしが経験して感じた全てのものは、男がかつて経験して感じたことに取って代わられてしまう。
 例えば好き嫌いがそう。あたしはピーマンが好きで、にんじんが嫌いだ。それは前世の男がそうだったからで、あたし自身は初めてにんじんを食べた時はそんなに嫌いじゃなかった。むしろほろ甘くて美味しくて、好きだった。だけど二口めからどうしてもその甘い味を身体が受け付けてくれなくなって、それ以来食べると吐きそうになってしまうから、結局にんじんは苦手だ。
 逆に苦くてあまり美味しいとは思えなかったピーマンは、食べると相変わらずクソ苦いけど、今では身体が慣れてしまっていてその苦さを求めずにはいられない。自分でも意味分からない表現だけど、まさにそんな感じで食べ出したら止まらなくなる。
 あたしはあたしだ。それは胸を張って言えること。でもそれ以前に、あたしはあの男であることもまた事実なのだ。
 恋愛に関しても同じだが、こちらはもっと酷かった。
 小さい頃冴子に一目ぼれしたあたし。でもあたしは前世の記憶のせいで女の子にばかり好意を抱いていたから、それが本当にあたしの中から出てきた感情なのか自信がなかった。
 また男の子に対するような恋愛感情を同性に抱いているということが恥ずかしくて、己を曝け出すことができず、それでも滾るこの想いを諦めることなんてできないまま、いつも独りで罪悪感を抱きながら、遠くから冴子の後ろ姿を追いかけていた。
 そんなあたしでも、たった一度だけ男の人に恋したことがあった。
 中学校時代、冴子が当時所属していた剣道部の先輩に、冴子とどこか似た雰囲気を纏った先輩がいたのだ。
 竹刀を振るう姿は冴子のように凛々しく、物静かで思いやりがあり冴子に声をかけられずに外から部活の様子を延々と覗き込むような不審者そのものだったあたしにも、邪険にせずに接してしてくれた優しい人だった。
 言葉を何度か交わし、やがてお互いが顔見知りになったころ、あたしは彼を好きになっていることに気付いた。彼は男の人だったから、それは間違いなく、前世の記憶とは関係のないあたしだけの感情で、あたしが心から渇望していたものだった。
 一大決心の末告白してOKを貰えた時の喜びは、今でも覚えている。
 彼と付き合っている間は毎日がバラ色のようで、手を繋ぐだけでも舞い上がって胸を熱くしていた。彼はあたしを愛してくれたし、あたしも彼を精一杯愛した。それは今思えば本当にただの初々しい恋人同士のやりとりでしかなかったけれど、それだけであたしは幸せだった。
 彼の前では前世の記憶など忘れて、年相応の女の子でいられた。少なくとも当時のあたしにとってははそうで、彼がガチガチに緊張しながらあたしを抱きたいと言ってくれた時、あたしは本当に嬉しくて、嬉し涙で目尻を濡らしながら、笑顔で彼に頷いたのだ。
 なのに、だというのに、いざ彼の求めに応じて行為に及ぼうとした瞬間、想像していたような彼と関係を持つ喜びはなく、あたしは逆に途轍もない嫌悪感を感じてパニックに陥った。
 肌が泡立ったとかいうレベルじゃない。全身の産毛が文字通り逆立って、それでも無理に身体を重ねようとすれば引き付けを起こして呼吸困難になったあげく、猛烈な吐き気を感じてその場に反吐をぶちまけるほど酷いものだった。
 そうなれば当然もう行為どころではない。片付けにおおわらわで、その日は結局何もすることなく終わってしまった。
 幸い彼は笑って許してくれたし、あたしを好いたままでいてくれたけれど、あたしの方がもうだめだった。
 それからというもののあたしは彼に近付けなくなったのだ。彼を好きなはずなのに、触れられると怖気が走る。彼と手を繋いだり、スキンシップをすることを考えただけで吐き気がこみ上げる。
 彼とそういう関係になることを意識するだけで心と身体があたしの意思に反して強い拒否感を示して抵抗するので、彼に身体を求められてもあたしは拒むことしかできなかった。
 自然と彼との仲は気まずくなり、あたしは次第に接触を避けるようになった。彼は何度もあたしに会いに来ようとしてくれたが、あたしが避け続けるとそれも無くなった。
 自分でもよく分からない嫌悪感から徹底的に彼を避け続けていたあたしのもとに、彼はとうとう来なくなり、あたしと彼の仲は自然消滅してしまった。
 それでも意地汚いあたしは、自分の態度が招いたことだというのに、彼のことが諦めきれず放課後屋上に呼び出してしまったのだ。
 ところがいざ彼の目の前に立つと、再び意思を無視して強い拒否反応が起こり、あたしの意思表示を封じてしまう。
 もしかしたらあたしが何かを言うことを期待していたかもしれない彼は、何も言わないあたしに傷付いた顔をすると、やがてあたしを残して去っていった。
 彼を傷付けてしまったことによるショックより、体の反応が消えたことによる安堵感の方が大きくて、そのことにあたしはまた衝撃を受けた。いつの間にか雨が降り出していたことも分からないほどに。
 あたしを打ちのめしたのはそれだけでない。
 自失したまま歩いていたあたしは、無意識のうちに濡れそぼった制服姿のまま、救いようがないことに、また当然のように部活を覗いて冴子をストーカーしていたのだ。彼が視界に入っていたのに、あたしの目はまるで彼が路傍の石であるかのように彼を素通りして冴子を追っていた。彼が好きだという気持ちすら浮かばなかった。
 見咎めた彼に強張った顔で声をかけられて、我に返ったあたしは初めて気付き愕然とした。彼に何してるのか問い質されても何も答えられなかった。そんなこと、あたしが教えて欲しいくらいだった。自分で自分が理解できなくて、あたしは泣いた。
 ぽろぽろと涙を流すあたしの顔を見て気まずそうな顔になった彼は、がりがりと頭をかくとあたしの頭に清潔なタオルを被せた。

「……見学するなら中に入ったら。風邪引くよ」

 彼が去っていくのを見届けたあたしは、剣道場の隅に座り込んで彼がくれたタオルを頭から被り、鼻をすすりながら何かに憑かれたように膝を抱え、一心不乱に冴子の姿を眼で追い続けた。


□ □ □


 剣道部の活動が終わる頃にはもう雨は上がっていて、辺りは薄闇に覆われていた。
 暗がりの向こうにはぼんやりと歩いている冴子の姿が見える。呆然としていても自然と冴子の後をつけて歩くことができている自分がおかしくて、あたしは笑った。
 ある程度時間を置いたことで、自分の身に起きた症状が何なのかについては理解出来た。
 恋愛感情に一喜一憂して、普通の女の子に戻れると思っていた自分が本当にバカみたいだった。
 
「すき、きらい、すき、きらい、すき……」

 声には出さずにつぶやく。
 彼とは違い、冴子に対しては同性だというのにそういうことに対する嫌悪感は微塵も沸かない。
 あたしはずっと前世の記憶なんてあっても、彼を好きでいられ続けると思っていた。 
 でも、違うのだと彼との恋愛で思い知らされた。
 よく考えてみれば不思議なことでも何でもない。好きだと感じたものが、次の瞬間には嫌いなものになる。そんな経験は昔からいくらでもあったじゃないか。

「そうだよね。続くわけないよね。男の子との恋愛なんか」

 自分の間抜けさに思わず笑いがこみ上げてくる。
 普通の女の子に戻れるかもしれないなんて、馬鹿な希望を抱いた結果がこのざまだ。
 彼を傷付けて、自分も傷付いて、結局それだけであたしたちの関係は終わってしまった。
 けれど、あたしはもうそれに感傷を抱けない。抱きたくとも、それは無理な話。
 何のことはない。
 あたしは自分を女だと思っているし実際そうだけれど、その趣味嗜好は前世の男のものでしかなかったというだけのこと。

「どうせならきれいな女の子とやりたいもんね」

 思わず天を仰いでつぶやく。
 彼に対する反応も当然だ。
 嫌悪感が出るのは当たり前。ホモになっちゃうのと同じなんだから。
 前世の記憶を持って生まれた以上、誰もが望むような平凡な恋愛なんて、出来はしない。
 泣きたいくらい悲しいはずなのに、涙すら流れない理不尽なこの身体。意思とは無関係に、彼との関係はもう終わったこととしてあたしの中で処理されてしまった。
 今ならば彼に恋した理由すら、あたしは推察することができる。あれはきっと、彼自体に恋していたわけじゃなかった。あたしはよく似た雰囲気を持つ彼の中に勝手に冴子を投影して、彼に恋したつもりになっていただけだ。
 その証拠に、冴子への気持ちは変わらずあるにも関わらず、残っている彼への気持ちは申し訳なさと感傷、あとは後悔しか残っていない。あれほど未練があったはずなのに、最後の一線を踏み越えずに済んだことに、いまでは安堵すらしてしまっている。
 いくら冴子のことが好きだからといって、これはない。こんなのあんまりだ。
 でも人とは違う生まれ方をしてしまった以上、仕方のないことだった。

「やだな……なんで前世の記憶なんて持って生まれちゃったんだろ」

 雨が上がったばかりの空は曇っていて、それがまた気分を憂鬱にさせた。
 良かったことといえば、これで恋愛における前世の記憶による認識の修正がかかるトリガーについては大体分かったということぐらい。
 相手が同性であれば問題ない。男に対するものでも、彼と付き合った経験から推測すれば、性行為を明確に連想させる行動を取らなければ何とかなるだろう。
 でも、それで何を喜べというのか。
 男との間に愛を育んでも、実を結ぶことができないのは証明された。かといって前世の記憶に従って女を愛しても、それはそれで何も生まず育まない不毛な関係でしかない。子どもを作ることができない以上、子孫を残すという種の理から反している。
 とはいえあたしにはどうすることもできないこともまた、事実。前世の記憶をどうこうしようなんてあたしには不可能だからだ。
 それこそ頭を打ったりして天文学的な確立で記憶喪失にでもならない限り、あたしが前世の記憶から開放されることは有り得ない。仮に開放されたとしても、良くも悪くも今の人格のベースとなっている根幹の記憶が失われるのだ。どの道正常な人間としては生きられないだろう。
 ただの性同一性障害なら性転換手術とかで何とかなるかもしれないけれど、それもあたしには意味がない。あたしの身体は本来男に生まれるはずだったなんていうことはないし、あたしは女である自分が好きだ。性別まで前世の記憶と同じにされたらと思うとぞっとする。
 普通の女の子がするような男との恋愛は、あたしにはつらいことの方が多過ぎた。結局、あたしの恋愛相手は同性しかいないのだ。だったらやっぱり冴子がいい。
 気持ちが沈んでいるからか、顔を戻しても俯いてばかりで見えるのはスカートから伸びる自分の足くらい。
 そのせいで、ずっと自分の後ろをついてくる気配を怪訝に思った冴子が、曲がり角で木刀を携えて待ち構えていることにも気付かず、あたしは冴子の戸惑う顔と鉢合わせすることになった。

「あれ……? 女の子?」

 聞こえた声に顔を上げれば、振り上げた木刀をあたしに当たる直前で寸止めさせた、眼前にどアップで映るどことなくちょっと残念そうな冴子の顔。

「……」

「……」

 見詰め合うこと十数秒。
 あたしは完全に思考停止していた。
 色々と何か言わなければいけない気がしたけれど、あたしは何も言葉を口に出来なかった。
 何よりもまず、冴子の顔が近すぎる。

「えっと……君、誰? 同じ学校の子みたいだけど……」

 木刀を下ろした冴子が身を引いたので、誰何の声でようやく我に返る。
 同時にようやく状況に理解が追いついて、今更ながら自分の格好に対する羞恥心がこみ上げてきた。
 だって制服は雨に濡れたまま生乾きになってしまったせいで何だか異臭を発している気がするし、整えていた髪はタオルを被っていたせいでぼさぼさだ。
 唇だってきっと真っ青になっているだろうし、カタカタカタとさっきから五月蝿いと思っていたら、寒さで自分の歯が鳴る音だった。
 こんな格好で冴子の前に出るなんて、恥ずかしすぎる。

「ごっ、ごめんなさい!」

 ぺこぺこと米搗きバッタのように頭を下げ、振り返って猛然とダッシュ。
 引きとめようとする冴子の声を振り切って、近くにあった路地に逃げ込んだ。
 しばらく走り冴子がすぐに追いかけてこないことを確認して、ホッと一息をつく。
 せめて髪だけでも整えようと鞄から櫛を取り出し、手鏡を取り出して髪を梳る。

「び、びっくりしたぁ……」

 別に逃げる必要はなかったけれど、心の準備をしてなくてつい逃げ出してしまった。
 去り際に引き止められていたことを考えると戻りたい気持ちはあるけれど、今からまた冴子に会う勇気はちょっと無い。
 明日学校話しかけられたらどうしようと一瞬思うものの、すぐに冴子があたしに話しかけてくるはずがないと思い直す。冴子と直接会話したことなんか一度もないし、いつも遠くで見ているだけだったから。
 こんな些細な出来事なんて、冴子もそのうち忘れてしまうに違いない。
 ……何だか寂しいな。
 冴子と友達になりたい。話しかけてもらいたい。これは紛れもないあたしの本心だ。
 でも、冴子はあたしみたいなちょっとおかしい子と友達になりたいなんて思ってくれるだろうか。そう考えると、こちらから話しかける勇気なんてなくなる。
 意気地のない自分が時々嫌だ。
 ため息を一つ。
 今日はもう帰ろうと櫛と手鏡をしまって踵を返したあたしを、暗がりから伸びた手が掴み引きずり込んだ。
 思わず悲鳴を上げようとした口を後ろから伸びてきた無骨な手が塞ぎ、もう片方の手があたしの胴を拘束する。
 首筋に押し付けられた吸い付くような謎の感触と、うなじを払う生暖かい空気。
 胴を拘束している手が胸をまさぐり始めたのを見て、あたしはようやく自分の状況を知った。
 身体を這い回る感触に、二重の意味で怖気が走る。
 見知らぬ男に襲われている。

「やっ、止めてよ!」

 反射的に振り解こうとするが、男はあたしの抵抗をものともしなかった。
 誰かに助けを求めようにも辺りに人影は無く、静まり返っている。
 道路は一本道で、逃げ場なんてどこにもない。
 市街地からかなり離れていて人気のない辺鄙な場所だから、叫んだところで人が来るとも思えない。
 冴子のことが一瞬頭を過ぎった。別れたばかりだから、きっとまだ近くにいるはずだ。助けを求めたら声を聞きつけてやってきてくれるかもしれない。
 けれど、もしあたしが助けを呼んだ結果、冴子までがこの男に襲われてしまったらと思うと、あたしは大声を出せなかった。いくら強くたって、冴子だって女の子なんだ。不覚を取らないとも限らない。
 だから身体を触られ続けても我慢した。男が行為に及ぼうとする瞬間だって、決して声を出さなかった。
 心の中で、どうか冴子が来ませんようにと、それだけを念仏のように唱えていた。
 それからのことはあまりよく覚えていないし、正直思い出したくもない。
 ただ一つ言えるのは、こういう時ばかり一致する嫌悪感や拒否感情と、突如走った身体を引き裂くような痛みで訳が分からなくなっているうちに、気がついたらあたしの身体はもう取り返しがつかなくなってしまっていて、男はいつの間にか現れていた冴子に木刀を浴びせられていたということ。
 あたしは男に組み敷かれていた格好のまま、乱れた自分の衣服を整えもせず、我慢しきれないかのように口をきゅっと笑みの形に吊り上げて木刀を構える冴子の横顔を見つめていた。
 どうして、という疑問は浮かばない。
 暗がりの中わずかな光に照らされた冴子はとても綺麗で、木刀を振るう姿は禍々しくも美しくて、その姿にただ見蕩れた。
 男に木刀を振るうたび、徐々に冴子の唇の端の笑みが深く鋭く歪んでいく。
 それをもっと間近で見たくて、あたしは立ち上がった。
 何故か下半身に痛みが走り、ふらふらとおぼつかない足取りで歩く。
 冴子があたしに気付き、我に返ったかのように眼を見開いてあたしを見つめ、木刀を取り落とした。
 ずっと見ていたかったあたしは、もう止めてしまうのか、と少し残念に思う。
 恐れの表情を浮かべて身を強張らせた冴子の傍を通って木刀を拾い上げ、倒れて呻く男の前に立つ。
 木刀の切っ先で男の身体をつつくと、男のうめき声のトーンが変わった。
 それが面白くて、何度も男をつついた。
 男の身体が震える。

「くす」

 出し抜けに笑いがこみ上げる。
 ちょっと強めに木刀を振り上げて叩いてやると、小さな悲鳴を上げるのがまた面白い。
 たまにあたしを反抗的な眼で見上げてくるのが気に入らなかったので、スコップで地面を穿るように木刀で男のわき腹を抉ってやると、眼を見開いて呻いた後咳き込み出したのでまたおかしくなる。

「くすくす」

 どうしてかは分からないけれど、男が苦しむたびに心に羽が生えたかのように軽くなっていくのが楽しくて、木刀を振るいところ構わず何度も叩いた。
 しばらくすると男の反応が薄くなってきたのでつまらなくなり、どうにかしてまた鳴かせられないかなと考えていると、ふと微かに膨らんだ男の股間が眼に入る。
 なんとなく踏んでみたところで、あたしは自分の下半身がすっぽんぽんになっていることにようやく気付いた。
 一瞬どうしてこんな格好なのか疑問が頭を掠めたけれど、下半身に力を入れるたびに走る痛みは消えないし、なんだか靴越しに感じる感触が硬くなってきたのがむかついたので、気にせず楽しいことに集中することにした。
 体重をかけて踏み込むと何かが潰れるような感触が伝わってきて、にまにまと堪え切れない笑みがこぼれる。
 今までとは次元が違う大きさの叫び声を上げ、油の張った鍋に投入された芋虫のように激しく身悶え泡を吹く男の前で、あたしは木刀を持ったまま両方の拳を口元に当て、顔が醜く笑みの形に歪むのを隠す。

「くすくすくすくす」

「も、もう止めろ! 止めるんだ!」

 我に帰ったらしい冴子に、後ろから抱きしめられて男から引き剥がされ、木刀を取り上げられてしまったので、しぶしぶ中断する。
 しかたないね。
 その代わり身を捩って冴子を見上げ、あたしは子どものように笑った。

「ねえさえこ。ぼうりょくって、たのしいね!」

 その時のあたしは幼児退行を起こしていたけれど、前世の記憶のせいであたしに起こった変化は外見からはほとんど伺えない。
 普段と違うところといえば少々口調が舌足らずになったことくらいで、それがかえって異常に映ったのか冴子は否定も肯定もせず、ただ痛ましそうな眼であたしを見て、あたしを抱きしめる力を強めた。
 その唇は、何故か何かを悔やむかのように強く噛み締められている。

「すまない……本当にすまない……」

 あたしの意識はそこで途切れた。
 

□ □ □


 眼が覚めるとあたしは病室のベッドで寝ていて、傍では何故か疲れた様子の冴子が椅子に座ったまま眠り込んでいた。
 上体を起こして窓に眼を向ければ外は晴れていて、空の青と雲の白と、芝生の緑のコントラストが綺麗だった。
 いまいちはっきりとしない頭で記憶を辿るが、思い浮かぶ記憶が断片的で何があったのかよく思い出せない。

「???」

 首を捻っていると、冴子が身じろぎして目を開く。
 冴子はあたしの顔を見るとパッと顔を輝かせた。

「眼が覚めたのか!?」

 本当なら答えなきゃいけないところなのに、あたしは冴子の笑顔にぽけっとした表情で見蕩れていた。
 思い浮かぶ疑問は、どうして冴子はあたしを見て、こんなに嬉しそうに笑っているんだろうということだけ。

「嬌? 大丈夫か?」

 下の名前で呼ばれたことに驚いて、慌ててぶんぶんと首を横に振る。
 目をまん丸に見開くあたしに疑問を察したのか冴子があたしの手を取った。

「ああ、名前のことなら、君の母上が教えてくれたよ」

「……お母さんが来てるの?」

「そうだ。今は席を空けているが、さきほどまでここに居られた」

 あたしが知らないうちに、冴子とお母さんは知り合っていたらしい。あたしを差し置いて冴子と先に知り合うなんてずるい。
 謝られるとは思ってなかったあたしは、お尻にむずむずする感情を感じて身を捩った。

「いたっ」

 下半身に走った痛みに思わず悲鳴を上げて身体を丸めたあたしの背を、冴子が立ち上がって慌てたようにさする。

「無理するな。今人を呼んでくるから──」

「待って」

 離れようとする冴子の服の袖を、反射的に掴む。

「ごめんなさい。でも、独りになるのはなんだか怖くて」

 そんなことを言うのは駄々をこねる子どもっぽい気がして恥ずかしかったけど、わずかな時間でも独りきりになると思うと何故か身体が震え出しそうだった。
 まだ記憶は乱れているけれど、下半身に痛みが走ったことにより、犯されたのだという事実だけは思い出したのだ。
 冴子はしばらくの間あたしを見つめた後、椅子に座り直した。

「分かった。もうすぐ君の母上も帰ってこられるだろうし、少し待とう」

 冴子はそれきり黙り込んで俯き眼を閉じてしまい、かといってあたしから何か話題を切り出す勇気もなく、しばらく規則正しい時計の音だけが響く。
 だんだん頭がはっきりしていくにつれて昨夜の出来事の一部始終を思い出してきて、恐怖がぶり返してきたけれど、不思議と目の前にいる冴子の顔を見ると和らげられ、冴子が傍にいることによる安心感の方が大きくなってくる。
 やがて、再び目を開いた冴子はあたしに向けて深く頭を下げた。

「……君には謝らなければならない。私が遅れたせいで、君の身体は取り返しのつかないことになってしまった」

「ううん、気にしないで。助けてくれてありがとう」

 にこっと笑って、大丈夫なのだということを態度で示してみる。
 実際、あたしは自分の身体に起こってしまったことよりも、冴子が自分と同じような目に遭わずに済んだことに胸を撫で下ろしていた。
 犯されてショックを受けないはずがないし、あたしだって全然気にしてないと言ったら嘘になるけど、冴子が無事ならそれでいい。
 でも冴子は納得がいかない様子で、どこか思いつめた目であたしを見た。

「償いというわけではないが、君には私の恥ずべき秘密を知ってもらいたい。誰かに言いふらしても構わない。それも報いだろうから」

 あたしは黙って首を横に振る。
 昨夜の体験によって得た情報を繋ぎ合わせれば、冴子の秘密とやらを想像することは難しいことじゃない。
 声を上げていないのに冴子が現れたってことは冴子の方からあたしに気付いたってことだし、だとしたら冴子は自力で気付けるくらいあたしの近くにいたことになるからだ。
 でも冴子が助けに入ってくるのは、あたしが犯されていた時間に比べ遅すぎた。
 木刀を振るってる間、冴子は楽しさを押さえきれないように笑っていたから、たぶんあたしを助けるのはついでで、本当は男を痛めつけたかったのだろう。
 であれば、大体の見当はつく。

「いいよ。全部知ってる。あの時のこと大体思い出したから、分かってるつもり。……毒島さんは、ただ愉しみたかっただけなんでしょ?」

 返事を聞いた冴子は驚愕の表情を浮かべ、思わずといった様子であたしを恐れるように自分の身体をかき抱いていた。
 恨むつもりは毛頭ないのだが、冴子があまりにも可哀想なくらい怯えていたので、あたしはちょっとだけわがままを言ってみることにした。
 弱みに付け込むようで嫌だけど、こうでもしないとあたしには一生無理そうだし、少しでも冴子に元気を取り戻して欲しかった。

「あの……毒島さん。ちょっといいですか?」

 姿勢を正して声をかけると、弾かれたように冴子が振り向く。
 思いがけずその目には保身ではなく私を案じているのであろう心配そうな感情が浮かんでいて、そんな目で見てもらえるとは思ってなかったあたしは縮こまる。
 ……いやいや、ここで萎縮してどうする。
 こんなチャンスなんておそらく二度とないだろうから、勇気出せ私。
 高鳴る心臓の鼓動を両手で胸を押さえて堪えた。

「母から聞いたなら今更かもしれませんけど、あたし、御澄嬌っていいます。引っ込み思案で臆病でバカだから、こんな時期になっても友達が一人もできなくて。クラスは違うんですけど……良かったら友達になってくれませんか?」

 冴子はいかにも予想外であったというように、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔で動きを止めた。

「……どうして? 私なんかで、いいの?」

「なんかじゃなくて、毒島さんがいいんです。あたし」
 
 しばしの沈黙のあと、一大決心してそう告げると、あたしを見つめる冴子は感極まったように目を潤ませ、泣き出してしまった。
 吃驚仰天したあたしは顔を覆って嗚咽を漏らす冴子を前にあたふたするしかない。
 慌てるあたしに冴子は抱きつき、くしゃくしゃになった笑顔を向けてきた。

「私でよければ喜んで。私は毒島冴子。敬語はいらないよ。友達には冴子って呼んで欲しいな」

 反射的に口に出そうとしたあたしの言葉は、空気に溶けて消えた。
 ありがとう、とかこちらこそよろしく、とか言いたいことはいっぱいあるのに、何一つ形にできないこのもどかしさ。
 目の前には涙を浮かべた、髪をポニーテールにした冴子の笑顔。視線を落とせば見える、自分を抱き締める冴子の腕。
 小学校で一目見たあの日から、ずっと、友達になることを夢見てきた。
 どうせあたしじゃ無理だと諦めながら、それでも諦め切れずにずっと冴子を追いかけてここまできた。
 それが思いがけず現実になりそうな予感に、あたしは自分からお願いしたのにも関わらず尻込みしてしまう。
 だって。
 本当に、いいの?
 あたしみたいな人間が、冴子と友達になっていいの?
 やっぱり駄目だよ。あたしなんかと仲良くしたら、冴子まで汚れちゃうよ。
 でも、でも。いけないことなのに嬉しい。すごく嬉しい。
 胸の内を色んな感情が駆け巡って、一気に涙腺と他に緩んじゃいけないものが緩む。

「なんで泣くの!?」

 ぶわっと目を潤ませたあたしに冴子が慌てふためく。

「すみません……。毒島さんと友達になるのが小さい頃からの夢で、それが叶ったかと思うと、嬉しくて」

 えぐえぐと嗚咽を漏らすあたしの頭を、冴子は自分も泣きながら撫でてくれる。

「大げさだね。それなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」

 言えるわけがない。
 あたしにとって冴子はいつも雲の上の人だった。尊敬する人であり、大切な人であり、憧れそのもので、到底手が届かない場所にいる人だった。
 友達になりたいと思いながら、同時になれるはずがないと否定していた。
 前世の記憶のおかげで勉強はできててもコミュ障でぼっちだったあたしと、大人びた奇麗な容姿と立ち居振る舞いから男女を問わず人気があった冴子じゃ、住む世界が違い過ぎたから。
 それに本当はそれだけじゃなくて、先輩との失恋話とか、昨日の体験とか、そんな辛かった出来事を、冴子がいるのだからもう恐れなくていいのだと感じて、一気に気が抜けてこんな歳にもなって粗相したなんて、恥ずかしくて絶対に言えない。
 それからはお母さんが戻ってきて二人して抱き合って泣いているあたしたちを見てまたひと悶着あったり、粗相したことがばれて逃げ出そうとしたあたしが下半身の痛みにひっくり返ったり、警察の事情聴取もろもろを受けてとても恥ずかしい思いをしたり、診察に来たお医者さんの治療を受けて妊娠しないようお薬を飲んだり、あたしを襲った男の顛末を聞いてお母さんが顔を蒼白にしたり(なんとかとかいう骨が二本折れたうえに全身打撲、さらには玉が一つ潰れていたらしい。ざまぁみろ)色々あったのだが、色んな人が尽力してくれた結果最終的にあたしも冴子もお咎めなしで済んだので割愛する。
 病院を退院してからは冴子が積極的に話しかけてくれるようになって、舞い上がったあたしは失恋のショックとか感情すら捻じ曲げた前世の記憶に対する絶望とか、不本意な処女喪失のトラウマとかを引きずらずに済んだ。
 嫌なことはいっぱいあるけれど人生そればかりじゃない。
 これはただ、それだけのお話。


□ □ □


 てな感じで、あたしは自分自身の経験やそれに付随する感情が前世の記憶と食い違えば、全て前世の記憶のものに書き換えられてしまうという難儀な性質を持っているのだが、奇跡的に冴子に対するあたしたちの感情は一致している。
 前世の記憶の持ち主だった男も毒島冴子が好きだったけれど、それはあくまで漫画の登場人物に向けられるものでしかなかった。
 当然あたしが現実の冴子に向けるような愛情ではないはずなのだが、この男はよほどのツワモノだったらしく、二次元でも気に入った女性ならば本気で愛情を注いで不毛な行為に没頭できるほどの変態さんだった。
 はっきりいってドン引きすぎる前世だが、そのおかげで冴子への感情が塗り替えられずに済んでいるあたしとしては、苦笑いするしかない。
 そして塗り替えられていないという事実こそが、冴子に対する愛が、あたし自身の感情の発露によるものであるという証明と信じたい。
 女が好きなのはあたし由来の感情ではないし、冴子を好きになったきっかけも今となってはあたしのものではなかったかもしれないけれど、冴子と過ごした日々によって育まれたこの愛情の深まりと、あの日、初めて冴子と出会って感じた急激な胸の高鳴りだけは、あたし自身のものだ。
 ……とまあ、あたしの冴子ラブ愛してる抱いて! 的感情以外はこんなふうに前世からあたしの意思に反して無理やり引き継がされてしまった産廃的なものなので、あたしが根本的なところでゲスなのも仕方ないことなのである。
 あまり冴子に心配をかけたくないあたしとしては、冴子に彼らを見捨てたことをばらされる前にコイツの口を手段を問わず封じなければならないのだが……万が一露見した時のことを考えると手荒な手段に出るわけにもいかない。

「無事だったんだね。良かった。他の皆は?」

 生きていてくれてホッとしたのも事実だったので、顔を綻ばせて聞いてみたら、物凄い眼で睨み返された。

「……死んだよ。俺以外皆食い殺されちまった。アンタのせいでな」

 あたしのせいじゃない、と反射的に言い返そうとして口を噤む。
 たぶんそれは、彼らを見捨てる選択をしたあたしが口にしちゃいけないことだ。

「そっか。それは残念。で、何の用? あたしに復讐でもしにきたの?」

 殊勝にしていればいいものを、口から出てくるのは相手を挑発するような言葉。
 原因はあたしとはいえ、こちらとしても苦渋の選択だったから、自然と喧嘩腰になってしまう。

「分かってんなら話は早い。おいアンタレズなんだろ」

 思わず息を飲む。
 そんなこと、誰にも言ったことないのに。

「何で分かったって顔してるな。毒島にあんなにベタベタしてたら誰でも分かると思うぜ」

「べっ、別にベタベタしてなんか……!」

「まあ、そんなことはどうでもいいんだよ」

 ムキになって口に出そうとした言葉は、途中で遮られ尻すぼみになった。

「なあ、毒島が大切か?」

 唐突にそんなことを言われ面食らう。
 さっきからコイツは何が言いたいんだ。

「当たり前でしょ。分かりきったこと言ってんじゃないわよ」

 憮然として言い返すと、不良は片手で顔を押さえて天を仰ぎ、笑い出した。

「そうだよな。アンタならそう言うよな。だからこそこれが復讐になるんだ」

 不良はあたしに顔を近付け、至近距離でにたぁっと笑みを浮かべた。
 友好的なものには見えないそれは、あたしにはまるで口が裂けたかのように邪悪に見えた。

「なら毒島をレイプさせてくれよ。お前は誰かにばれないように俺を手伝え。断ってもいいが、そしたら毒島を殺すぜ?」



[20246] 第二十話(三巻終了)
Name: きりり◆4083aa60 ID:a640dfd1
Date: 2013/03/02 23:57
 その言葉を聞いた瞬間体中の血管がきゅっと収縮したような気がした。
 もし今鏡を見ることができたなら、今のあたしは相当剣呑な表情をしていることだろう。
 あまりの怒りに唇がわなないているのが自分でも分かった。
 この男は今、あたしに向かって何をほざいた?
 懐に忍ばせていた警棒を抜き放ち、軽口を叩きながら不良に近付いていく。

「一応聞くけどさ。それ、本気? あたしがそんなの承知するとでも思ってるわけ? だいたいどうやって冴子を殺すつもり? そもそもあたしがここにいるのに」

 よりにもよってこのあたしに冴子をレイプさせろだと?
 しかもそれが飲めなければ冴子を殺す?
 ふざけんじゃないわよ。バカも休み休み言え。
 このあたしがいる以上、そんなことは絶対に許さない。

「おっと、それ以上近付くなよ。俺には協力者がいるんだ。俺に何かあれば、報復としてそいつが毒島を殺す」

 あたしはぴたりと足を止めた。止めざるを得なかった。
 本当に腹の立つヤツだ。あたしの反応は予想済みってわけ。
 視線だけで射殺さんとばかりに、不良をにらみつける。
 不良は大げさにおどけると、後ずさりする。

「おー怖い怖い。相変わらず毒島のこととなると怖え女だな。だがさすがに、毒島の命がかかってるとあっちゃ簡単に手を出せねえな?」

 ……コイツ、マジで殺してやりたい。

「冴子は関係ないじゃない。復讐するんなら、あたしだけにすればいいでしょ。冴子まで巻き込まないで」

 かなり怒気の篭もるあたしの押し殺した声も、不良が有利な立場にいる今はかえって虚勢に聞こえるだけ。
 案の定不良は増長し始めて、あたしの不快感をさらに煽るようなことを言う。

「それも考えたんだけどよ。アンタならこっちの方が堪えるだろ? なに、毒島だってちょっと痛い思いはするかもしれねーが、死ぬわけじゃねぇ。何ならお前も混ぜてやってもいいんだぜ。アンタだっていい思いができるし、毒島が死んじまうよかマシだろ?」

「で、できるわけないじゃないそんなの……!」

 感情が怒りの沸点を突破し、声が裏返った。
 言うに事欠いて、よりにもよってコイツはあたしにそんな戯けたことを言うのか!
 怒鳴ろうとしたあたしの機先を制し、不良が身を乗り出す。

「アンタよぉ。何か勘違いしてねーか?」

 不覚にも一瞬迫力に押されてしまう。
 眼を見開いて思わず息を飲んだあたしを嘲笑う不良は、不意に真剣な顔をした。

「これは俺だけじゃねぇ。見殺しにされて死んだ奴らのための復讐なんだよ。お前には罪を償おうって気持ちすらねーのかよ」

「そ、それは……」

 答えるべき言葉が見つからず、あたしは俯いた。
 償えるものならあたしだって償いたいけど、冴子をレイプさせろだなんてそんな無茶な条件は飲めない。
 顔を上げれば、あたしを見たまま真剣な表情を崩さない不良がいる。
 あたしはできるだけ誠意を込めて頭を下げた。

「罪を償おうっていう気持ちはあるよ、もちろん。でもだからって冴子に手を出すのはおかしいし、間違ってるよ。お願い、別なのにして」

「駄目だ」

 間髪入れず返された拒否に、思わず拳に力が入るが、悪いのはあたしなのだからと怒りを押し殺して顔を上げる。

「ねえ、ならあたしとしよ? あたしならなにされてもいいからさ。エッチもいくらでも相手するから……どうか、冴子だけは」

「駄、目、だ」

 あたしの言葉を遮り、不良はにたにたと笑った。

「どの道アンタに選択肢なんてねーんだよ。毒島を死なせたく無かったら、お前はもう俺を手伝うしかねぇ。分かってると思うが、他の奴らにこのことを話しても毒島は死ぬからな」

 大き過ぎる怒りに、あたしは不良に飛び掛りそうになる体を全力で押さえつけなければならなかった。
 どんなに怒ろうとも不良に手出しできないあたしを見て、不良は少し溜飲を下げたようだった。
 ズボンのポケットに手を入れ、踵を返そうとしながら顔だけこちらに向ける。

「ま、俺も鬼じゃねーからよ、一時間だけ猶予をくれてやる。決心がついたら俺のところに来い。俺は一足先に毒島たちの所に行ってるからよ。ああ、あの時のことは別に話したりしねーから心配しなくていいぜ。アンタが誠意を見せてくれるなら、俺の胸にしまっておいてやるよ」

 そう言い捨てて、不良は去っていった。
 残されたあたしは、呆然と立ち竦むしかない。
 どうしよう。そんな意味のない言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回る。
 ここが安全だと思ったから、せっかく騙してまで冴子に居てもらおうとしていたのに、これじゃ意味がない。
 冴子がレイプされるのを黙って見てるどころか、手伝う? このあたしが?
 できないよ。できるわけないよ。
 でもそうしないと冴子が死ぬ。それはやだ。そんなのやだ。
 かといって冴子がレイプされるのもいやだ。
 誰か大人に相談する?
 でもどこで協力者に聞かれてるか分からない。相談した人が実は協力者だった、っていう可能性だってないわけじゃない。
 あたし一人で協力者を探すのは無理だ。一時間じゃ時間も労力も全然足りない。
 じゃあ冴子たちに相談するのは? 皆なら協力者ってこともないだろうし。……いや、だめだ。あいつは冴子たちと合流するって言ってた。相談するそぶりを見せた時点で凶行に及ばれる可能性がある。一時的に不良を引き離してから相談するにしても、その時点で感付かれるかもしれない。どちらにしろ、うかつな真似はできない。
 不良は一見普通そうに見えたけど、後先考えずにあたしへの復讐だけを目的にして動いているようだった。冴子をレイプするという行為自体も、性欲もあるだろうがそれ以上にあたしへの悪意が大いに含まれているように思えた。
 だとしたらあたしへの恨みは果てしなく根深いだろう。殺すって決めたら、きっと何を犠牲にしてでも冴子を殺そうとするに違いない。
 それにあいつの言うことを聞かないと、あたしがあの時説得ではなく脅迫したことまでばらされてしまう。
 手詰まり?
 違う。考えろ。きっと何かいい方法があるはずだ。
 幸いあいつは自分が圧倒的優位に立ってると思って油断している。何とかして裏をかいて、そこをうまくつけばあるいは。

「あ、こんなところにいた」

 聞こえてきた声の方向に振り向くと、夕樹が小走りに駆け寄ってきていた。
 泣きそうになっていたあたしの顔を見て夕樹は怪訝そうな顔をする。

「……どうしたの?」

「ううん、何でもない。それよりそっちこそ何か用?」

 慌てて指で目尻を拭って問い返すと、立て板に流した水のごとく夕樹がまくし立ててきた。

「そうだった、ちょっと聞いてよ! メゾネットで分かれたアイツらが、1人だけだけど生きてたのよ! あっちで皆と再会を祝ってるから、御澄も来なさいよ!」

「あたしはいいよ。夕樹だけで行ってきなよ」

 何でもないかのように装って断ったのに、夕樹は何故か怪訝そうな顔をした。

「なーんか様子がおかしいわね。 また何か隠し事してない?」

「してない」

 即座に否定し、それ以上の追及から逃れるために背を向けた。
 背中に感じる視線。
 しばらくして後ろからぼそりと夕樹の声が聞こえた。

「……アタシ、協力者の1人なんだけどな」

 驚愕して思わず身体ごと振り向くと、夕樹は含み笑いをした。

「反応したわね。けど、本当はアタシあいつに協力するつもりなんてないんだ。助けてあげるわ。ここじゃまずいし、向こうで話しましょ?」

 夕樹はニヤリと笑って、親指で不良が去っていったのとは逆の方向、人気が無い裏道を指し示した。


□ □ □


 無言で夕樹の後をついて歩く。

「ま、ここらでいいかしらね」

 足を止めた夕樹は、振り返ってあたしに向き直る。

「先に一つ言っておくけど、アタシをどうこうしようなんて思わないで。内緒話をするくらいならともかく、騒ぎを起こしたらさすがにあいつにばれちゃうから」

「協力してくれるって、本当なの」

 警戒するあたしに、夕樹は微笑んだ。

「本当よ。アタシはね。あんたらと行動を共にしている立場を利用して、監視するのが役目だったの。あいつは小室たちを見張ってるけど、アタシが味方だってことに油断してる。だからこうしてあなたとアタシが密談しててもばれないってわけ」

「どうして協力してくれるの。そんなことしたって、夕樹が得することなんて何もないのに」

「理由なんてないわ。強いて言うなら、アタシは御澄に恨みなんてないし、あいつより御澄のことを気に入ってるってだけよ」

 あたしが警戒を解かずにいると、あたしの手を夕樹が掴み、両の掌でそっと包んだ。

「メゾネットで置いていかないで連れてってくれたじゃない。嬉しかったのよ、アタシ」

 虚を突かれ、思わず夕樹を凝視する。
 思いがけず、夕樹は表情を引き締めて真面目な顔をしていた。
 携帯持ってたから打算で夕樹に決めただけで、そんな感謝される理由なんかあたしにはないのに。
 夕樹から目を逸らす。

「それで、恩返しってこと? あたしのこと買い被り過ぎだよ」

「かもね。でもアタシが御澄を助けたいだけだもの。御澄がどんなに悪人だろうがアタシには関係ない。やりたいようにやるだけだわ」

 自分勝手な理屈にちょっと呆れる。
 でもそうだった。夕樹はもともとこういう娘なんだ。原作でも紫藤側にいたし、問題児だった。とてもじゃないけどいい子とはいえない。
 とはいっても完全に悪い子ってわけでもない……と思う。少なくとも学校からこうして一緒に逃げてきた限りでは。
 ……まあ、今まで寝食を共にしてきて、夕樹もあたしも多少なりともお互い気を許してきてるだろうからそう見えるというのもあるかもしれないが。
 考え込むあたしに、夕樹が話しかけてきた。

「それで、どうするの?」

 あたしは頭の中を整理するために、しばし間を置いてから答える。

「お願いしてもいい、かな。助けて欲しいんだ」

 夕樹はにっこりと嬉しそうに微笑んだ。

「いいわよ」

 本当に困っていたので、ついうるっとしてしまう。
 それをこらえ、夕樹に深く頭を下げた。

「ありがとう。これで冴子を守れます。……本当にありがとう」

 顔を上げると、何故か夕樹は面食らった顔をしていた、

「どうしたの?」

 不思議に思って首を傾げると、夕樹は腰に手を当てて苦笑する。

「何でもない。それよりこれからどうするの?」

 事情を共有する仲間を得たあたしはいつもの調子を取り戻していた。

「決まってるわよ。夕樹があいつの気を引いて、そのうちにあたしが冴子に事情を話してあいつから協力者が誰か聞き出してそれぞれ叩けば、それで解決!」

 ピースサインを出して自身満々に言ったあたしに、夕樹は思案げな顔をする。

「あいつを叩くまではまあ問題なくできるだろうけど、もし大人たちに見咎められたらどう説明するつもり?」

 あたしは両指の人差し指をつんつんと突付き合わせ、へらりと笑った。

「えーとそれは、正直に事情を話せば分かってくれると思っちゃったりなんかして……」

 楽観的なあたしの言葉に夕樹は呆れたような顔でため息をつく。
 それ、ちょっと地味に傷付くんですけど、夕樹さん。

「どうかしらね。もともとアタシたちの行動が原因なんだから、ある意味今の状況は自業自得よ? 緊急避難を適用してくれるかもしれないけど、こんな状態じゃ騒ぎを起こしたってだけで放り出される理由になるわ。治安を乱しちゃうもの」

「う……」

「それに、うまくいったとしてもよ? あいつが嘘ついてたらどうするの? 関係の無い奴締め上げたらそれだけでアタシたち悪者よ? しかも協力者は野放し。今は大丈夫でも、ほとぼりが冷めた頃に絶対毒島が殺されるわね」

「ならどうすればいいのよう……」

 ものっそ凹んで泣き言を言い始めたあたしは夕樹に助けを求める。
 夕樹を腕組みし思案にふける。

「うーん……<奴ら>でも襲ってくればどさくさに紛れて逃げれるしあいつらも復讐どころじゃなくなるだろうけど、ここはしっかり守られてるからそれも無理か」

 あたしは慌てて反論した。

「駄目だよそれじゃ結局冴子が危険に晒されちゃう。それに、関係ない人がいっぱい死んじゃうよ」

「ハンヴィーがあるからアタシらだけなら逃げること自体は危険も少ないし簡単よ。それに死ぬっていったってよほど運が悪いやつだけでしょ。こんなに厳重に警戒態勢引かれてるのよ? すぐ退治されるわよ、そんなの」

「それは確かにそうかもしれないけど……」

「いっそのこと停電でも起きないかしら? そうすればケーブルで繋がってるここの機械類もだいたい死ぬから……御澄? どうしたの?」

 独り言のように呟いていた夕樹が、急に黙り込んだあたしに気がついて顔を向けてきた。
 でもあたしはそれどころではなかった。
 停電。
 停電。
 聞き覚えがあるフレーズだ。
 そういえば、何か、大事なことを、忘れているような、気が。
 頭をよぎるのは、紫藤を殺す時に見た、幻覚のようなもの。
 いや違う。あれはたぶん幻覚じゃなくて、前世の記憶にあった、知識の断片。
 あたしが忘れていた、原作の展開。
 思い出した!

「……停電、起きるよ」

「は? 何でそんなこと分かるのよ?」

 怪訝な顔でこちらを見る夕樹。

「理由は言えないけど、分かる。起きるよ、停電。それもただの停電じゃなくて、電気が関係してるものなら何でも止まっちゃうような特別なやつ」

「適当に言ってる……ってわけでもなさそうね」

 顔面蒼白になっているあたしを見てただ事ではないと思ったのか、夕樹はいぶかしみながらもあたしの言葉を一蹴しようとはしなかった。

「ねえ夕樹、教えて。ここに来る前、冴子は何してた? 小室たちは何か車を貰ってた?」

「何って、高城の親父が話があるとかでちょっと前に邸の中に入ってったけど。つか車ってなんのことよ? 乗ってきたハンヴィーじゃなくて?」

 眼を白黒させる夕樹を他所に、あたしは前世の記憶から知識を探る。
 夕樹のこの様子なら、小室たちがまだ車を貰ってないのは間違いない。
 高城のお父さんが冴子を連れて行ったのなら、今はちょうど冴子が高城のお父さんから刀を譲ってもらってる頃。 
 停電が起こるのは、乗り物を貰った後冴子と小室と麗が出発準備を終えて、鞠川先生が小室から電話を借りて使用してる最中だったはず。
 ならまだ時間があるはずだ。
 <奴ら>をここに招き入れることになった原因の紫藤先生がいないけど、そんなの避難用のバスでも奪ってあたしが運転して突っ込めばいい。
 そうすればこの辺りは<奴ら>でいっぱいになるから不良もあたしたちに構う暇はなくなるし、夕樹以外の協力者も冴子どころじゃなくなる。
 冴子たちは高城のお父さんが譲ってくれる原作と同じ停電でも動かせるバギーで逃げれば安全に脱出できる。

「って、何当然のように事件を起こす前提で考えてるのよあたしは! だいたいバスジャックするにしても高電圧のスタンガンとかない限りあたしじゃ無理だっての!」

 我に返ったあたしは、物騒な思考を展開していた自分に自分で突っ込んだ。

「あるわよ、スタンガンなら」

「は?」

 思わず聞き返す。

「アタシも護身用に武器が欲しくてさ。銃とかはさすがに無理だったけど、スタンガンはほとんど<奴ら>に効果がないからか比較的警備が緩かったから、邸にあったのをこっそりかっぱらっておいたのよ」

「ちょ、それ窃盗……」

「借りただけよ、借りただけ。ちょっと警備の人に見られたけど、胸チラしながら襲われたりしないか心配なんですぅとか言ってみたら持ち出し許可してくれたし」

 あたしは頭を抱えた。
 誰だか知らないが、色仕掛けに惑わされんな。没収しろよ、そんな危険なもの。
 頭を抱えるあたしの横で、夕樹は上機嫌に笑う。

「でも事件を起こすのはいいアイデアね。そんな停電が本当に起きるなら、<奴ら>の侵入を防ぐバリケードに車をぶつけたりして無理やり退かしちゃえば元に戻せなくて大混乱になるわ」

「待ってよ。それなら確かに冴子は助けられるけど、犠牲が大きすぎ……」

「ならどうやって毒島を助けるわけ? 誰かに相談するにしても、実力行使に出るにしても、このままじゃ協力者全員をあぶり出すのは不可能だわ。あたしたちが知らない協力者がいた時点でアウトよ?」

「で、でもそいつが必ず冴子を殺そうとするとは限らないよ。もしかしたら自己保身に走って何もしないかも」

 願望混じりのあたしの言葉に、夕樹は呆れたようにフッと笑う。

「それは希望的観測が過ぎるんじゃない? 協力者が金銭とかに釣られた赤の他人なら有り得るかもしれないけど、御澄を憎む人物だったらかえって意地でも毒島を殺そうとするんじゃないかしら」

 あたしに憎しみを抱く人物。
 そんなの探せばいくらでもいるに決まってる。
 少なくとも死んだっていうあの子たちの家族とか友達が避難民にいたら、あの不良にあたしのことを教えられれば、あたしを憎んで協力することは十分に考えられるかもしれない。
 生前の彼らにその人たちのことを聞いていて、ここに来たあの不良がその中の誰かを見つけたのかもしれない。
 ……やっぱりだめだ。可能性も含めると潜在的な敵が多過ぎて、誰が協力者かなんてあたしじゃ絞れない。
 そもそも猶予期間を与えられたのだって、不良の気まぐれのようなもの。本当はもういつでも誰かが冴子を殺せる状態にあるのかもしれない。
 犠牲を度外視するなら、確かに停電に合わせて<奴ら>をここに引き入れるのが一番だ。あいつらもまさかあたしがそんなことをするとは思わないだろうし、一見すると冴子を守るためだなんて分かりっこない。確実に不意をつけるはず。
 でも、できないよ。
 そんなことをしたら、あたしは。あたしは。
 葛藤していると、夕樹があたしにどこからか大きめのポーチを取り出して押し付けてきた。

「使うか使わないかは別として、とりあえずスタンガンは渡しとく。アタシはそろそろ行くわ。あんまり御澄の近くに居過ぎても不審に思われるかもしれないし」

「……うん。色々ありがとうね」

 浮かない顔のままのあたしに気にするなとでもいうように親指を立てると、夕樹は去っていった。


□ □ □


 夕樹が去った後も、あたしはしばらくその場で自問自答していた。
 話していた間も時計の針は着々と進んでいる。それほど残された時間に余裕があるわけでもないから、迷ってばかりじゃいられない。
 色々考えて、最終的に絞り込んだ選択肢は二つだ。
 それらの可能性を吟味しよう。
 一つは高城のお父さんに事情を話して協力を仰ぐこと。
 冴子と一緒に会えば冴子の身の安全もひとまずは保障されるし、事情を話せばきっと高城のお父さんなら不良の口を割らせて、協力者ともども外に放り出してくれるだろう。
 騙されないように裏を取らなきゃいけなくて時間がかかるから、不良から提示された刻限には間に合わないけど、全てが終わるまで冴子と一緒に高城のお父さんの傍にいるとかすれば、協力者も最後まで手出しができないと思う。さすがに側近にまで協力者が紛れ込んでるってことはないだろうし。
 問題は停電が起きれば高城のお父さんたちはその対応に忙殺されてあたしたちどころじゃなくなるであろうことと、停電が起こったら調査なんてろくに進まなくなるだろうから、実質停電が起きる前に不良と協力者を全員見つけ出せてないといけない。
 今から急いで動いても、停電が起きるまでに間に合うかどうかは分からない。
 予め停電のことを告げて対策を取ってもらうにしても、さすがに理由を言わないままで信じてもらえるかどうかは怪しい。かといって前世の記憶とか本当のことを話すともっとうそ臭く聞こえるし。
 だいたいあの不良が全部の協力者を明かす保障もどこにもないのだ。
 排除しきったと思って安心して、実はまだいた協力者に不意を突かれる可能性は否定できない。
 もう一つの方は、あたしとしてはかなり気が進まない。
 それは停電に合わせてわざと事故を起こし、<奴ら>を招き入れることでどさくさに紛れて脱出するというもの。
 要は原作をなぞるルートだ。
 停電が起こるまでの原作の展開は思い出したから、小室や鞠川先生の動きに注意していれば停電がいつ起こるかはある程度予測がつく。
 ただ紫藤が死んじゃってるので、こっちを選択するならあたしがわざと事故を起こす必要がある。
 誰かに頼む手もあるけれど、協力してくれる人なんていないだろうし、無責任だ。
 第一本末転倒すぎる。冴子のためとはいえ、これでは何のために紫藤を殺したのか分からない。
 それに間違いなく冴子に嫌われる。一時的とはいえ冴子を危険に晒さなきゃいけなくなる。高城のお父さんの部下や避難民にもいっぱい犠牲が出てしまう。
 高城の両親も死んでしまうかもしれない。そうなってしまったら、高城は絶対にあたしを許してくれないだろう。
 ただ、冴子の生存のみに目を向けるなら、ほぼ確実に冴子は助かる。
 避難民の中に協力者がいても、<奴ら>が雪崩れ込めば冴子たちとは別行動になるだろうから、その場は確実に逃げられる。
 あんまりいい言い方じゃないけど、原作でも隣家に避難した高城のお父さんたちのその後の描写は無いから、状況的に見て協力者ごと全滅する可能性が高い。
 嫌われるのは辛いけど、それでも冴子に死なれるよりは遥かにマシだ。
 でも、本当にそれでいいのだろうか。
 あたしには分からない。


 1.高城のお父さんに相談する
 2.事故を起こす



[20246] 第二十一話(四巻開始)
Name: きりり◆4083aa60 ID:a640dfd1
Date: 2013/03/09 21:57
→1.高城のお父さんに相談する
 2.事故を起こす


 いや、いくら冴子を助けるためでも、やっぱり自分から<奴ら>を呼び込むなんてそんな馬鹿なことはできないし、しちゃいけない。
 もっと穏便に済ませられる方法があるんだから、どう考えてもそっちを選択するべきだ。
 ここは一つ、冴子を連れて高城のお父さんを訪ねてみることにする。
 回りに誰もいないのを確認して、外で作業をしている高城さんのお父さんの部下に面談の約束を取り付けてもらえるよう頼む。
 しかしどうやら今高城のお父さんはとても忙しいらしく、今からだと時間が取れるのは早くても日が暮れてからになるという。
 ダメだ、それじゃ間に合わない。
 食い下がって今すぐ会わせてくれるように頼んだけれど、納得してもらえるような理由を思いつくことができず、子どものわがままとしてすげなく断られてしまった。
 本当のことを言えればよかったけれど、前世の記憶で云々とか荒唐無稽すぎて信じてもらえるわけがない。夕樹が信じてくれたこと自体奇跡のようなものなのだ。
 ……気が進まないけれど、乗り込むしかないみたい。
 邸に近付くと、入り口に佇む不良と鉢合わせた。

「決心がついたのか。案外早かったな」

 嫌らしく笑う不良に吐き捨てる。

「違うわよ。時間はまだあるでしょ」

 無視して邸に入ろうとしたら、不良に腕を掴まれ呼び止められる。

「待てよ、どこ行く気だ」

「離して。あんたには関係ない」

「いいのか。そんな理由で邸に入ったら、俺は他人に相談しようとしてるって見なすぜ」

 不良がこれ見よがしにポケットから携帯を取り出してみせる。
 それで協力者に連絡を取るつもりなんだろう。
 ……コイツ、携帯持ってることあたしたちに隠してたのか。
 どうしよう。さすがにこのまま冴子のところに行くのは無理そうだ。
 夕樹に対応を任せて、こっそり中に入ろうか。でも近くにいると思ってたけど、見える範囲に夕樹はいない。そういえば夕樹と分かれる時にどこに行くのかも聞いていなかった。これだけ大きいお邸じゃ、当てずっぽうで探したってすぐに居場所は分からない。
 理由を取り繕おうか。ダメだ、疑われてる状態でそんなことしても騙されてくれるはずがない。今から冴子を探して、果たして間に合うのか。
 待てよ? 冴子は高城のお父さんと一緒にいる。なら話が終わるまでは安全は確保されているはずだから、その前にあたしがたどり着ければ何とかなるかもしれない。
 不良が電話を持っているのもかえって好都合。携帯の履歴を調べれば誰に連絡したかなんて一目瞭然だし、相手も携帯を持っているなら、登録されている名前が本名じゃなくてもかなり協力者を絞り込める。時間短縮が見込める。
 いけるかもしれない。
 そう考えて、あたしは賭けに出た。

「好きにしなさいよ」

「……へ、そうかい」

 腕を振り払い、電話をかけ始める不良の横を通り過ぎる。
 もう後戻りはできない。早くあいつより先に冴子を見つけて高城のお父さんのところにいかないと。
 急いで辺りを見回し、目に付いた高城のお父さんの部下に冴子の居場所を尋ねて走り回る。
 幸い高城のお父さんとの会談の最中だったので、冴子の居場所はすぐに判明した。
 すぐに移動し、教えてもらった部屋の前に到着する。
 話が長引いているらしく、もう終わってしまったかと心配したけれど部屋の中にはまだ冴子たちがいるようだった。
 冴子が無事だったことにほっとしながら聞き耳を立てると、高城のお父さんとのやり取りが聞こえてくる。

「どうしても、受け取ってはもらえないか」

「私は友人と約束しました。彼女とともに此処に残ると。望んだ選択ではありませんが、それでも私は彼女の意志を尊重したいのです。高城家令嬢をお守りすることができない私には、この刀をいただく資格がありません」

 雲行きの怪しい会話に思わず首をひねる。
 何だかおかしなことになっている。
 ここは冴子が刀を受け取るシーンのはずなのに。
 まさかあたしが冴子を引きとめたせいか?
 首を傾げたあたしは、次の瞬間あることに気付いて蒼白になった。
 この雰囲気の中出て行くの?
 冴子が高城のお父さんの頼みを断る原因になったあたしが、ずうずうしくも高城のお父さんに冴子が命を狙われているので助けてくださいって頼むの?
 面の皮が厚いってレベルじゃないよこれ。
 とてもじゃないけど、まともに聞いてもらえるとは思えない。

「それは私の娘よりも、君の友人を優先するということかね」

「……無礼を承知で申し上げますが、その通りです」

 冴子と高城のお父さんの会話はかなり緊張を孕んでいる。
 迷ってる暇はない。今更後戻りはできない。駄目もとだと分かっていても、飛び込むしかないんだ。
 躊躇いを振り切るように、勢いよく息を吸い込む。
 ええい、こうなったら出たとこ勝負!

「すみません、失礼します!」

 叫んで、襖を開けた。
 緊張で力加減を誤り、勢い余った襖がすぱーんとかなり派手な音を立てる。
 いきなりやってしまったと青ざめるが、後悔してももう遅いし慌ててる場合じゃないとあたしは自らを叱咤して平常心を保つ。

「嬌? どうしてここに?」

 驚いた表情でこちらに振り向く冴子とは対照的に、高城のお父さんはあたしにちらりと視線を向けただけで、無表情を崩さない。

「何事だ、騒々しい」

 あたしは居住まいを正し、座敷に乗り込んだ。

「ご無礼を働き、申し訳ありません。私は冴子の友達の御澄嬌といいます」

「……君が毒島家ご息女の言うご友人、か」

 眼力の強さに怯みかける体を必死に押し留める。
 特に声を荒げているわけでもなく、ただ自然体であるだけなのに、相対しただけで身体が震えるほどの威圧感を高城のお父さんは纏っていた。

「このような形でお会いできる立場でないことは、十分に存じております。ですがそれを承知でお願い申し上げたいことがあるのです」

「……生憎出発を2日後に控え、予定が立て込んでいる。私に会いたいのならば、時を改めてもう一度会いに来るがいい。要件はその時に聞こう」

 一抹の不安は抱いていたものの、まさか本当に話すら聞いてもらえずに断られるとは思っていなかったあたしは、思わず呆然として高城のお父さんを見つめる。

「私としても、一度譲ったものを返されたからといって受け取るわけにはいかぬ。もう一度会談の席を設けるまで、どうかそれは貴女に納めてもらいたい」

 高城のお父さんは冴子にそう言うと、結局冴子が受け取らなかった刀をその場に残したまま、足早に座敷を後にした。
 残されたあたしは、呆けたままへなへなとその場に腰を落とす。
 話すら聞いてもらえなかった。
 何故、と自問自答しようとして、あたしは気が急ぐあまり、入る前に声をかけて入室許可を求めるという、常識として当然のことすらしていなかったことに、ようやく気付く。
 しかも正座で待たずに、自分から立ったまま座敷を跨いでしまった。開けた襖も閉めた覚えが無く、見てみれば案の定あたしが開けた襖はそのまま開きっぱなしになっている。
 思わず天井を仰ぎ、手で顔を覆う。
 予定無しに乗り込んだ挙句に、とんでもない礼儀知らずな真似をしてしまった。こんなの、うまくいかなくて当然だ。
 どうしよう。あたし、失敗しちゃった。

「何かあったのか? 普段目上に対して礼儀正しい君が、こんな無作法を働くなんて……」

 襖を閉めた冴子が心配そうにあたしを見上げる。
 頭の中を焦燥感が埋め尽くし、頭を抱えた。
 あたしは冴子の質問に答えられなかった。
 今直面している問題を知らないから、冴子はいつもと同じように凛としている。いや、むしろいつもよりも少し穏やかで、どちらかというと歳相応に素が出ている方かもしれない。
 命を懸けてでも、あたしが守りたい人。
 ずっと冴子を守るために頑張ってきたのに、何てことだ。
 冴子のために良かれと思ってした行動が完全に裏目に出てしまった。危険から遠ざけるどころか、これではあたしが冴子を危険に放り込んだのと同じことじゃないか。
 無理を通したせいで不良はもう冴子を殺すために動き始めてしまっている。これから先冴子にどんな危険が迫るか分からない。
 こんな展開、ちょっと考えれば予想できたはずなのに。予想していなきゃいけなかったのに。
 原作知識を思い出したことに浮かれて、その通りに物事が進むんだと思い込んでいた。あたしががしてきたことも忘れて。そんな保障どこにもあるはずがないのに。
 予想外の事態を目の当たりにして狼狽して、最低限の常識に従うという当たり前なことですら、あたしの頭からは吹っ飛んでしまっていた。
 失敗した。なら次はどうすればいい? どうすれば冴子を守れる?
 真っ先に考え付くものは一つある。
 とはいえその選択肢を実行に移すにはかなりの覚悟が必要だ。
 たくさんの人が犠牲になる。
 きっと冴子とも修復不可能な溝が生まれる。
 事情を説明しようにも、前世の記憶に関わることだから話せない。こんな荒唐無稽な話、話しても信じてもらえるものか。かえって話をこじらせるだけだ。
 高城にも憎悪されるだろう。
 小室たちだって、あたしを敬遠するに違いない。
 当たり前だ。あたしだって小室たちの立場になれば、自分みたいな女と係わり合いを持ちたいとは思えない。核弾頭を背負った人間の隣で歩いているようなものだ。
 自分で自分の首を絞めて、そのたびに他人を巻き込んで自爆する、なんてはた迷惑なピエロ。
 こんなことをしたって、きっと冴子は喜びはしない。他人に犠牲を強いるこの方法が、冴子が望むような解決方法であるはずがない。
 バカなことをしようとしているってことは自分でも分かってる。
 でも、それでも。あたしは冴子に死んで欲しくなかった。あたし自身を含めた誰を犠牲にしてでも、冴子には生きていて欲しかった。
 小室に冴子を取られたくないとか、そんなものは私情に過ぎない。
 結局のところあたしはただ、冴子を守りたいだけなのだ。
 友達になってから、冴子にだけは嫌われたくないと思って生きてきた。
 隣に並んでくれる冴子を、あたしみたいな人間を友達にしているという理由で汚さないように、少しでも冴子と釣り合うように精一杯背伸びして生きてきた。
 全てはいつか冴子のパートナーとして、それが駄目でも、せめて一番の親友として隣にいたかったから。

「……ねえ。冴子が残るのを決めたのって、やっぱり死にたくないから?」

 質問の答えを返さないまま、突然あたしが逆に質問したことに冴子はちょっと驚いたようだったが、すぐに穏やかに笑った。

「一介の剣士として剣の道を歩むと決めてから、いつでもその覚悟はできている。死にたくないというのは確かにそうだが、それだけじゃないよ」

「……それは、あたしのため?」

 さすがに明確に言葉にされると少し気恥ずかしかったのか、冴子は言葉を口に出さず、ただ微かに頬を染めて頷く。
 胸を打たれて、思わず着ていた着物を両の手でぎゅっと押さえつけた。
 嬉しい。すごく嬉しい。この喜びを外に表せないのが辛いくらい。
 その嬉しさが、皮肉なことに迷っていたあたしの背を押してくれた。

「小室のこと好き? もちろん恋愛対象として」

「いきなりだな? 確かに好ましい男子だが、別にそんな感情など抱いていないよ」

 視線を向ければ、いつも通り冷静さを崩さない冴子の顔があった。
 一見なんとも思ってなさそうだけど、冴子だからなぁ。取り繕ってるだけで、実は好きだなんてことも十分に有り得る。
 次の質問に移るために、あたしはこの質問については煙に巻くことにした。

「冗談よ、冗談」

「そういうことを冗談交じりに尋ねるのは感心しないぞ」

 ちょっと不機嫌な様子の冴子に窘められる。
 うーむ、いまいち冴子の本心が掴めない。
 もうちょっと踏み込んだ質問をした方がいいのだろうか。

「処女をあげるなら、冴子は誰がいい?」

 その瞬間の冴子のリアクションといったらなかった。
 あの冴子が、まるで普通の女の子みたいにのぼせ上がって動揺し、何か言い募ろうとして口を開けては、結局何も言えず俯いて黙り込むなんて。
 いや、ちょっと人より強いだけで、冴子だって普通の女の子なんだけどさ。
 ああ、でもこんな風に反応するってことは、冴子ってばやっぱり好きな人がいるのかなぁ。

「で、どうなのよ?」

「う……」

 全力で視線を逸らす冴子をにこにこ微笑みながらじっと見つめる。
 やがて横顔に突き刺さるあたしの視線に耐えられなくなったのか、冴子が眼を潤ませて口をへの字に歪め、あまつさえ嗚咽を漏らしそうになったので、あたしは慌てた。

「ごめんね、答えにくいこと聞いちゃったね。冗談だから無理に答えようとしなくていいからね」

「君は、本当に、性質が悪いぞ……!」

 ちょっと恨めしそうな冴子の声。

「ごめんってば」

 手を合わせてもう一度謝って謝意を示し、あたしは努めて普通に言った。

「それでさ、あたし冴子に此処に残って欲しいって言ったけど、それ取り消すよ。あたしは大丈夫だから、冴子は小室たちを助けてあげて?」

 なるべくいつものあたしを意識して言ったつもりだが、発言の内容自体が不信感を与えたらしく、冴子は顔を強張らせた。

「何故だ? 先ほどのことを気に病んでいるのなら心配は無用だぞ。君と一緒に居たいというのも私にとっては本当なんだ。妙な遠慮はしないでもらいたい」

「……ほんとう?」

「本当だよ。こんな時に嘘は言わない」

 じっと冴子を見つめる。
 先ほどまでの取り乱し様はなりを潜め、冴子はすっかり冷静さを取り戻していた。
 本心なのか、それともあたしを気遣ってるだけなのか、判断がつかない。
 ねえ冴子。それって本当にあたしのことを本心から選んでくれてるって思っちゃってもいいのかな。本当にあたしを選んで、あなたは後悔しないの?
 あなたが本心を見せてくれないなら、あたし、怖くて聞けなかったこと、聞いちゃうよ。
 たった今思いついた質問であるかのように、まるで本当の冗談のような気軽さで。
 事が起こってからずっと、心に秘め続けたこの質問をあなたに問いかけちゃうよ。

「じゃあさ、あたしと小室なら、恋愛対象としてどっちが好き?」

「え──?」

 びっくりしたようにきょとんとした表情であたしを見下ろしてくる冴子の肩に手を添え、しっかりと目を合わせる。
 親友という居心地の良い冴子との関係を壊したくなくて、聞きたかったけれど我慢していた言葉。
 冴子の本心を知るための試金石として、悔いの無いように今ここで吐き出してしまおう。
 ここから先は冗談抜きだ。あたしも本気で、ぶち当たる。

「もし小室の方が好きなら眼を逸らして。もしあたしの方を好きでいてくれるなら……キスしてもいいかな」

 一秒。
 二秒。
 三秒。
 少しずつ顔を近付けていく。
 永遠にも思える時間。
 揺れる冴子の瞳に、緊張した面持ちのあたしの顔が映っている。
 わざわざこんな時に聞く必要はなかった。
 それでも聞いたのは、本当に冴子のことが好きだったから。
 好きだからこそ、どんな答えが返ってくることになっても受け入れよう。
 静かにその時を待つ。
 やがて。
 あたしを見つめていた冴子は、気まずそうな顔で、眼を逸らした。
 冴子の心の中でどんな葛藤があったかは分からない。
 悩んでくれたのかもしれないし、冴子にとってもこれは苦渋の選択だったのかもしれない。
 だけど冴子があたしを拒絶したという事実は変わらない。
 それが全てだった。

「……そっか。強引な方法で聞いちゃってごめんなさい。でもありがとう、正直に答えてくれて嬉しい」

「違うんだ、これは……別に君が嫌いとかそういうわけじゃなくて」

 慌てて弁解しようとする冴子から離れ、あたしは笑って首を横に振る。

「ううん、気にしなくていいよ。だって」

 泣きそうな気持ちを隠し、あたしは大きく息を吸い込む。
 こんな質問をしなくても、最初からうすうす全部分かってたんだ。やっぱり予想通りだった。
 だけど割り切ることなんてできなくて、もしかしたらという一縷の望みに縋った。結局駄目だったけど。
 本当に、冴子は優しいね。小室の方じゃなくて、ずっと付き合いが長い親友だとはいえ、恋愛対象ではない同性のあたしを優先してくれてたなんて。
 律儀すぎるよ、冴子は。
 でも冴子は小室のことが好きなことに変わりはないんだね。
 頑張って冴子の友達を続けてきたつもりだったんだけどな。やっぱり同性で友達でしかないあたしじゃ小室には敵わなかったか。
 仕方ないよね。実際小室は格好いいし、原作だって冴子は小室に惚れてたもん。あたしがどんなに頑張ったって、冴子は小室とそうなる運命だったんだ。
 ならその恋を成就させてあげるのが、友達ってものだよね。
 あたしの恋は悲しい結果に終わってしまったけれど、おかげで決心がついたよ。冴子の恋をあたしの恋みたいに失恋で終わらせたりなんかしない。
 あなたのためなら、あたしは自分の心にだって嘘をつく。人に指差され石を投げられる悪魔にだってなってやる。
 大げさに手を広げ、冴子に笑顔で告げた。

「ぜーんぶ嘘だからね! 驚いた? 嬌ちゃんの必殺悩殺ジョークでしたー。びっくりした? ねえびっくりした?」

 ひゃっほーい! と両手を挙げてうざいくらいにテンションを上げて冴子にまとわりつく。

「うっしっし。さすがの冴子さんも本気で信じ込んでいましたね。あたしってばマジ名女優!? うひょーこれであたしも芸能界でびゅーか!? あ、でも今その芸能界自体が機能してないんだったー! 嬌ちゃん残念!」

 やけくそ気味に声を張り上げて笑顔で背中に抱きつくと、彫像のように固まってポカンとしていた冴子が、ようやく理解したのかどっと疲れを滲ませた表情で言った。

「……まだその冗談が続いていたのか。いつにも増して酷いぞ。最悪だ」

 あたしは冴子の背中でテヘヘと笑う。

「ごめんごめん。でもやっぱり冴子は自分の心にもっと正直になった方がいいよ。こんなご時世なんだもの。恋心を隠したままでいたら、きっと冴子だって後悔しちゃうよ」

 口にする言葉は、全て自分に突き刺さるブーメラン。
 だからあたしはバカなんだ。
 でも仕方ないじゃないか。あたしが何より望んでいるのは、冴子の幸せなのだから。

「しかし私は……私には、そんな資格があるとは思えない。君も知っているだろう? 私の罪を」

 此処で話し始めてから初めて冴子の声が震えた。
 それが指し示す事実は、やっと冴子の本心が出てきたのだということ。

「そうだね。でもきっと受け止めてくれるよ。冴子の罪も、本当の姿も、きっと」

 小室ならきっと冴子の全てを受け入れるはずだ。
 悔しいけど、彼はそれだけの器を持ってる。
 一見やる気が無さそうに見えても、いざとなれば危険を顧みず勇敢に<奴ら>に立ち向かっていく。ありすちゃんを助けたみたいに正義感もあって、見知らぬ誰かのために身体を張れる魅力溢れる男の子。
 こんな子今時そうそういない。
 冴子の髪がさらりとゆれる。
 まるで迷い子のような表情で、冴子が振り返って私を見つめていた。

「そうだろうか……。本当に私を、受け止めてくれるだろうか……」

 弱音に満ちた冴子の声。
 その手を優しく包み込むように、あたしは自分の声を被せる。

「大丈夫だよ。だって冴子はこんなに飛びっきりの美少女なんだから。冴子はもっと自分の恋に対して我がままになるべきだよ」

 あたしを見つめてくる冴子に微笑み、時計を確認すれば、あれからもうかなりの時間が経っている。
 高城のお父さんが残していった刀を見て、あたしはちょっと思案した後に拾い上げた。

「ほら、着替えて皆のところに戻ろう? 小室と宮本がそろそろ出発する頃だよ。早くしないと遅れちゃう」

 表情を隠すために後ろに回って動きの鈍い冴子の背中を押して部屋に戻る。
 借りていた着物から元の服に着替え、後のことに備えてこっそりプロテクターやクロスボウなどの装備を解体して自分のバッグにしまっておく。
 バッグを肩にかけ、冴子の方を振り向くと、冴子は着物を脱いで服を手に持った状態で、まだ先ほどの余韻を残した物憂げな表情のまま立ち尽くしていた。

「何してるの? 早く着替えなよ」

「あ、ああ」

 我に返り、ぎこちない手つきで服を着ていく冴子。
 服を着ただけで終わらせようとした冴子に、あたしが無言で首を横に振ってやると、諦めたようにため息をついてしぶしぶ自分の装備を装着していく。
 あたしが装備を準備していることに違和感を抱かせないためにセットで用意したものだけれど、結果的に大正解だったようだ。
 着替え終わった冴子は、何か問いたげな視線を向けてくる。
 さすがにさっきの冗談の連発は、いつもみたいに誤魔化すにはちょっと違和感が有り過ぎたかもしれない。
 それでもあたしは冴子の背中を後押しするために、いつもと同じ調子を心がけて接する。

「わーお! 冴子ってば超せくしー! これなら男どもは誰だってイチコロだね」

「さすがの私もこうも繰り返されれば学習するぞ」

「えー何そのつまんない反応」

「……まったく、君は」

 ジト目で見つめてくる冴子に、あたしはいかにも残念であるかのように装い不満を漏らす。

「あ、そうだ。これ」

 あたしは何気なく冴子に刀を手渡す。

「とりあえず冴子が持っててよ。あたしが持ってても仕方ないじゃん」

「む。しかし」

「いーから! さっさと受け取る!」

「むう」

 不承不承受け取った冴子が腰に刀を携えたことを確認したあたしは、スタンガンをいつでも使えるようにしながら部屋のドアを開けた。
 スタンガンを用意したのは、不良と決裂した以上そろそろ襲われても不思議じゃないと思ったからだ。
 案の定ドアを開けたとたん、出し抜けに迫ってきた包丁の刃。
 驚きで目を見開く冴子目掛けて不意打ちしてきた包丁を持つ下手人の手をとっさに掴み、当たる前に片手で何とか捻り上げて拘束する。
 あんまりこういうのは得意じゃないけど、あたしでも予測さえしていればこれくらいのことは出来るのだ。
 腕力だけは強いしね。
 自画自賛しながら下手人の背中に取り出したスタンガンを押し当てた。
 高電圧の電流が流れ、下手人は悲鳴のようなうめき声を上げて倒れ付す。
 顔を確認してみると、見知らぬどこにでもいそうな中年の女の人だった。
 どうやら不良の連絡を受けて部屋の外で出待ちしていたらしい。
 年齢的に、メゾネットで死んじゃった誰かの母親とか、かな。
 ごめんなさい、と心の中で詫びる。

「妙だな。誰だ?」

 邸内で見覚えのない人物に襲われたことに、冴子が怪訝そうな顔をしている。

「分からないけど、高城のお父さんの部下の人に頼んどけばいいんじゃない?」

 平常心を意識して、あたしはニヤニヤしながら冴子をからかうように言った。

「それより早くいきましょ。早くしないと小室と宮本に会えなくなっちゃうよ?」

「え、でも私は」

 気まずそうな顔をする冴子の手を引き、途中ですれ違った高城のお父さんの部下の人に邸の中で襲われたことを告げて対応をお願いする。
 慌てて走っていく後姿に目礼すると、あたしは冴子と一緒に外に出た。
 眼に飛び込んでくるのは、とても嬉しいことがあったかのように、飛び跳ねて喜びを表現している鞠川先生の姿。
 あたしはそっと冴子の背を押す。

「ほら、行きなよ。今ならまだ間に合う」

 だというのに、冴子はこの期に及んで一歩を踏み出そうとはしなかった。

「……やはり私は行けない。私は彼らについていくべき人間ではない」

「もう。まだそんなこと言うの?」

「だって君も見ただろう!? あの時の私は本当に」

 声を荒げようとした冴子の唇に、そっと人差し指を当てて止めさせる。
 そんなことは、冴子が今言うべきことじゃないはずだ。
 冴子は黙り込んだものの、意地でも意思を曲げるものかと間違った方向に決意を固めた眼であたしを見ている。
 頑なな冴子の態度に、あたしは深いため息をつく。
 鞠川先生を見れば、小室から携帯を借りて電話をかけようとしていた。
 都合が良すぎるタイミングに苦笑する。
 タイミングがずれてたらまだ思い留まれたかもしれないのに。
 ままならないなぁ。本当に神様は意地悪だ。
 細部が変わって色々展開も変わっているにも関わらず、こういう時はきっちりと辻褄合わせをしてくる。
 もしかしたら何も起こらないかもしれない。
 全部あたしの思い過ごしかもしれない。
 停電なんて起きないと決め込んで、他の選択肢を取るべきなのかもしれない。
 今だって本当は、それが正しいんじゃないかって不安は拭えない。
 だけどこれなら冴子を不良やその協力者たちから守りつつ、小室と一緒に脱出させてあげられる。冴子の恋だって、もしかしたら実を結ぶかもしれないんだ。
 それにさ。一度経験しちゃうと怖いんだよ、起こるかもしれないのが分かっているのに、何もしないままでその時を待つっていうのは。
 原作で停電が起きたのは鞠川先生が電話をしている最中だった。今目の前では鞠川先生が原作通りに電話をかけようとしている。やるならタイミングは今しかない。
 学園のバスは無いけれど、ちょうど事故を起こすのに都合がよさそうな補強された避難用のバスが荷物を積むために車庫から出ていて、すぐ近くでエンジンキーを刺したままの状態で待機してる。
 補強されているなら走れなくなるまで破損することはないはずだ。仮に停電が起きなかった場合でも、バスが使えなくなることはない。
 止めようとしてくる人たちがいても、スタンガンで排除できる。
 普通の女の子ならバスの運転なんてできないけど、前世の記憶から無理やり乗用車の運転経験を引き継がされたあたしなら可能だ。
 恐ろしいよ。奇跡みたいな確率なはずなのに、実行するためのピースが全て揃ってる。まるで誰かがあたしにやれって囁いているみたいだ。
 紫藤が死んでるだけならそもそもこんな選択をする必要なんてなかった。
 不良に脅されているだけなら、解決する方法なんて他にいくらでも見つけられた。
 あの時冴子の優しさにつけこんで安全な場所にいてもらおうと変な画策をしなければ、冴子をこんなに苦しめることにはならなかった。
 冴子の背を押すためだけなら、こうして色んな人を犠牲にするような悪手なんて絶対に取らずに済んだのに。
 一つ一つだけならそれほど問題なかったことが、いくつも塵のように積もり重なって、気がつけばあたしはこんなコトをする羽目になっている。
 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。あたしは冴子のためを思い頑張ってきただけなんだけどなぁ。
 全部自業自得なのがまた私らしい。
 本当にあたしはバカだ。成長ってものがまるでない。
 何度痛い目にあっても、懲りずに同じ間違いを繰り返してる。
 でもしょうがない。
 あくまであたしは前世の記憶を持ってるだけの凡人にすぎないし、どんな言い訳を口にしたって、過去の行いが変わるわけじゃない。
 結局今回のこれだって、限られた条件の中でもがきながらあたしなりに必死に考えて出した答えなんだ。

「冴子」

 あたしが一番大好きで、大切な人に呼びかける。
 梃子でも動かないぞ、とやぶにらみで見つめてくるその人の手を取り、両手で握り込んで額を当てる。
 奇麗な容姿に反する剣ダコだらけの手は、冴子が今まで積み重ねてきた努力の証。
 剣の道を志す者には仕方がないことだって笑ってたけど、冴子って実は結構自分の手のこと気にしてたよね。
 こっそりあたしの手と見比べて、ため息ついてたこと知ってる。
 剣ダコだらけでも、あたし冴子の手嫌いじゃないよ。
 あなたを守る。例え、皆を敵に回してでも。

「誓うよ。これから先、どんなことがあっても、その結果あたしがどんな目に遭おうとも、あたしは最期の瞬間まで冴子のためにこの命を使い続ける。そのためなら、地獄に落ちることになったって構わない」

「……嬌?」

 いつものあたしと違うことに、歳相応の幼さを感じさせる不安そうな冴子の声。
 そりゃ不安にもなるよね。冗談で誤魔化してるけど、さっきからむちゃくちゃ不自然だもん。
 でもごめん。今回も本気なんだ。

「あたしね、冴子のその性格好きだよ。そりゃ嫌なことだってなかったわけじゃないけど……冴子がそんな性格だったおかげで、あたしは冴子と友達になれた。だから辛かったこともひっくるめて全部、今はかけがえのない出来事だって思えるの」

 息を飲む音が聞こえる。
 きっとあたしがレイプされた時のことを思い出してるんだろう。
 あの時、間に合わなかったことを冴子は今でも悔いているようだから。
 でもそれは冴子のせいじゃない。
 何か理由があって助けるのが遅れたとしても、助けに来てくれた冴子を、どんな理由であろうとあたしが恨むということだけは絶対にない。

「だから冴子はもっと欲張りになっていいんだよ。自分の心を恐れないで。それで罰が下るなら、きっと神様の方が間違ってる。そんな罰は、あたしが代わりに全部被ってあげるから」

 未練を振り切るように勢いよく冴子の手から手を離し、あたしは走り出す。
 近付いたことであたしに気付いた小室たちの横を通り、少し離れた場所で独り携帯を弄くっている夕樹から携帯を失敬する。

「悪いけど借りるね!」

「ちょっと御澄、何するのよ!」

 最初の方こそ取り替えそうと追いかけてきた夕樹だったけれど、あたしがバスの前まで来ると顔色を変えた。

「あんたまさか」

 あたしを凝視する夕樹にあたしは困ったように頭をかく。

「ごめんね。あたしバカだから、結局こんな方法しか思いつかなかった」

 身勝手な理由で巻き込んでしまうことを心の底から詫びつつ、バスに素早く乗り込んだ。

「君、作業の邪魔だから降りて──ぐわっ!」

 声をかけてきた中にいた人に、<奴ら>が来てもなるべくすぐに動けるよう弱めの電圧でスタンガンを押し当て、バランスを崩したところを蹴っ飛ばして強制下車してもらう。
 あとのことを考えるともうちょっと丁寧にしてあげたかったけど、もたもた下ろしている時間が無かったのでどうしても手荒にならざるを得ない。歩けなくなるような怪我をしていないことを祈る。
 しっかりとドアを閉め、運転席に座ってシートベルトを締めた。
 ああ、色々悩まされてきた前世の記憶だけど、車の運転経験まで引き継がれてることだけは本当に感謝しよう。
 外ではようやくあたしに気付いて騒ぎが起き始めたようだけれど、もう遅い。
 バスを発進させ、加速する。
 進行方向に何故かのこのこ不良が出てきたので、とっさにかわせずに跳ね飛ばしてしまった。
 死んじゃってたらどうしようと慌てたけど、あたしがいなくなった後で冴子と一緒にバギーに乗り込まれても困るから、これはこれでいいかもしれないと思い直す。
 というか一番忘れてはいけない不良の対処をすっかり忘れていた。逆恨みであることは十分自覚しているので、あたし自身の手で手を下さなければならないということに気が咎め、無意識に考えないようにしていたのかもしれない。
 間接的とはいえ、協力者を皆殺しにしようとしているのに今更いい子ぶってどうするんだあたし。冴子の命に関わるんだから、うっかりでは済まされない。もう少ししっかりしないと。
 こういうのも不幸中の幸いと言うのだろうか。
 門を過ぎ少し進んだところで、バスが急にエンストを起こしてブレーキが効かなくなった。
 夕樹の携帯を取り出してみれば、壊れていて電源がつかなくなっている。
 案の定過ぎて思わず苦笑が漏れた。
 携帯をしまい、ハンドルを握る両腕を踏ん張って衝撃に備える。

「本当、嫌になっちゃう。こんなことばっかり、きちんと原作通りに起こるんだから」

 もう止めたくても止められない。賽は投げられた。ならばあとは委ねよう。
 あたしを乗せたバスはそのまま<奴ら>の侵入を防ぐバリケードに突っ込み、人力では修復不可能なほどにバリケードを破壊し吹き飛ばした。



[20246] 第二十二話
Name: きりり◆4083aa60 ID:a640dfd1
Date: 2013/03/16 21:56
 御澄が急に走っていったのを、毒島は半分以上混乱した頭のまま見つめていた。
 不安が胸を渦巻く。
 彼女の今の言い方は、まるで二度と会えなくなる相手に当てた言葉のようで。
 でも先ほどからそんな冗談を連発されていたから、御澄がバスに乗り込んでも、毒島はそこからまた御澄がいつものように「うっそぴょーん!」とかいいながら笑って出てくるのではないかと思っていた。
 予想とは裏腹に御澄を乗せたバスはそのまま行ってしまって、御澄のために残ろうとしていた毒島はどうしたらいいのか分からない。
 自分の望みならば分かっている。
 御澄のために仕方なく残るなんていうのは本心を隠すただの言い訳で、そんな資格はないと御澄の頼みをだしにして自らの心に蓋をしていただけ。
 その結果がこのありさま。きっと罰が当たったのだ。
 なんて、無様なのだろう。

「あのバカ! まさか本当にやるなんて! ああもう、こんなことならあんなこと言うんじゃなかった!」

 後を追いかけようとして断念した夕樹が悪態をつくのを他人事のように聞きながら、毒島はバスが走り去っていくのを呆けた顔で見送る。
 どうして御澄はこんなことをしたんだろうと毒島が疑問に思っていると、走り去ったバスの方角を見ながら、小室が怪訝そうな声を上げた。

「何するつもりなんだ。二日後に出発なんだから、今バスを奪ってまで逃げる理由はないはずなのに」

 井豪が御澄をかばう。

「分からないが……何か俺たちの知らない事情があるんじゃないか。彼女が自分のためだけにこんなことをするとは思えない」

「事情? どんな事情があるってのよ」

 機嫌が悪そうに眉を顰めて高城が井豪に尋ねた。

「それよりもまずいよ。万が一事故でも起きて、<奴ら>が入ってきたら……」

 <奴ら>の侵入を恐れる平野は、険しい顔で門の向こうを睨んでいる。

「でも、これだけ厳重に警備されてるんだし、すぐに退治されるんじゃない?」

 緊張感を漂わせる平野の発言に、宮本が楽観的な答えを返した。
 平野を安心させようというのか、あるいは自分が安心したいがためか。
 その時だった。
 遥か上空で奇妙な光の爆発が起き、少し間を置いて遠くで衝突音が響いた。
 何の音だろうかと毒島はよく働かない頭で思考する。

「あれ? な、なんで?」

 突然切れた通話に慌てて何度もリダイヤルを試していた鞠川先生は、やがて諦めてうんともすんとも言わなくなった携帯を小室に返す。

「小室君、携帯壊れちゃった。もしかしたら私が壊したのかも……」

 ごめんねー、手を合せて謝る鞠川先生に、小室は怒るわけにもいかず不満そうな声を上げて受け取る。
 戻ってきた夕樹が鞠川先生と小室のやり取りを見て、怪訝な顔をした。

「こんな時に故障? アタシの携帯は御澄が持っていっちゃったから貸せないわよ」

 周りの状況を観察した高城は、あちらこちらで電子機器が故障していることによる騒ぎが起きているのを見て、硬い表情で呟く。

「……タイミングが良すぎる。まさか、御澄はこれを見越してた?」

「どうしましたか? 沙耶さん」

 何事かに気付いた様子の高城に気付いた平野が高城に顔を向ける。
 自分に振り向いた平野に、高城は焦りを滲ませた声音で命じた。

「あんたのは大丈夫なはずだから、そこで見張ってなさい! 絶対に門から眼を離すんじゃないわよ。いい!?」

 手で門を指し示すと、高城は足早に宮本の下へ向かう。

「宮本、サイトのドットは見える?」

「え、なんで?」

「いいから早くして!」

 声を荒げる高城に戸惑いながらも、宮本は言われたとおりに銃を構え、サイトを覗き込む。
 奇しくも銃で狙われる形となった高城が、サイト越しの視界の中で慌てて身を翻すのが見えるが、あるはずのドットは存在しない。

「んーと……見えない」

 返答を聞いた高城は、父親である壮一郎に振り向くと声を張り上げる。

「パパ、早く門を閉めた方がいい! これはただの停電じゃないわ! さっき出ていったバスが事故を起こしてたら、そこから<奴ら>が入ってきちゃう!」

 それを聞いた壮一郎の部下が慌しく動き始める。

「外を警備している者たちを呼び戻せ!」

「無理です! 携帯が通じません!」

「全部故障だと!? くそ、誰か手が空いている者はいないか!?」

 リモコンを持った部下が他の部下と怒鳴り合っているのを見て、壮一郎は命じる。

「……止むを得まい。吉岡、門を閉めろ」

「ですが、それでは外にいる者たちを見捨てることに!」

「我々は戦えぬ多くの守るべき市民を抱えているのだ。それを忘れるな」

 吉岡と呼ばれた部下がハッとした顔でリモコンを操作する。
 しかし、門は動かない。

「携帯だけでなくリモコンまで……。 誰か閉めろ!」

 吉岡の声に応じて門を閉めに行った数人が、着々と門の前目掛けて迫りつつある<奴ら>に悲鳴のような声を上げる。

「ちくしょう、もうこんなところまで入ってきてやがる! 外の奴らは皆やられちまったのか!?」

「一人逃げてきてる奴がいるぞ! 援護してやれ!」

 門を閉めようとしていた人たちが作業を中断する。
 遠くにひしめく<奴ら>の前で、逃げてきたのであろう男が、腰が抜けそうな様子で足をもつらせ必死に走っていた。
 男に襲いかかろうとする<奴ら>に、駆けつけた警備班が次々と銃撃を加えていく。
 だが恐怖心から身体がうまく動かないのか、男の走りは迫り来る<奴ら>とタメを張る遅さで、<奴ら>を引き離すどころかだんだん距離が狭まっていく。

「ポケットの中には、──が一つ」

 あわやというところで男に覆いかぶさり押し倒そうとした<奴ら>の頭を、平野が狙撃する。
 見事なヘッドショット。
 着弾した瞬間頭部に奇麗な弾痕を残した弾丸は、頭蓋骨内部に到達すると回転運動によって得た運動エネルギーを余すところなく開放した。
 弾丸はぐちゃぐちゃに脳組織を掻き回しながら突き進み、反対側の頭蓋骨を派手に突き破って外に抜ける。
 間一髪で倒れ伏す<奴ら>を確認し、平野が会心の笑みでサムズアップした。
 これにはある理由がある。
 ちょうど御澄が不良と相対していた時、平野は高城邸の大人たちに銃を取り上げられそうになっていた。
 その時平野を誰よりも早くかばったのが小室で、小室は壮一郎と相対しても臆さず、自らの主張を貫いた。
 地獄が始まってからずっと、平野が高城を守り続けてきたのだと。
 銃を使って高城を守ることが、その容姿体型から蔑まれがちだった平野が見つけた、唯一誇れることだったのである。
 特筆すべきは、小室が平野の気持ちに気付けていたという点だろう。そうでなければかばうことなどできない。なるほど、平野をよく見ている。
 これこそが一行が小室をリーダーだと認める所以なのだ。
 小室の信頼に応えるために、平野は自らが一番銃を使えるのだということを、行動することで証明してみせた。
 ようやく敷地内へ辿り着いた男を収容し、門が重い音を立てて閉じられていく。
 閉じ切った門に、たどり着いた<奴ら>が次々にすがり付いていくのを見て、宮本が少し安心した表情で言った。

「しばらくは、大丈夫そうね」

「いつまで持つか分からないけどね」

 高城は厳しい表情を崩さない。

「おい、どういうことだよ!?」

 事態についていけず騒いだのは、バスに撥ねられ、治療を受けていた不良だった。
 メゾネットにいた時とは人が変わったように怪しいくらい朗らかでフレンドリーだったのだが、元の粗野な口調に戻っている。
 再会した時から何か腹に一物抱えているような胡散臭さが全開だったので、大怪我を負ったというのに不良は誰にも心配されていなかった。
 ギロリと胡散臭そうに不良を睨み、高城は腕組をする。

「事故の音、聞いてないの? <奴ら>は音に反応して集まってくる。集まってきた<奴ら>が次に目指すのは、人が多い分雑音を隠せないここよ」

「にしても、なんで御澄先輩はわざわざ事故を起こしたんだ? えらく急いでたみたいだったけど……」

 事態の展開に取り残されて呆けたままの毒島が気になるらしく、ちらちらと視線を向ける小室は高城に問いかける。

「アタシが知るわけないでしょ! でも彼女、携帯や車が使えなくなることを知っていたみたいね」

「まさか。そんなのどうやって予測するっていうのよ?」

 門から目を離して振り向いた宮本が、高城の発言に眉をひそめる。
 高城はちらりと宮本に視線を向ける。

「分からないけど、そうじゃないと御澄はすぐ対処されるのにも気付かず事故を起こしたただのマヌケってことになる。本来ならバリケードの一部が壊れたくらいじゃこんな騒ぎにはならないわ。すぐ本部に連絡が行って事態は収拾されていたでしょうね。こんなの少し考えれば誰だって分かることよ」

「そういえば、最初に事が起こった時は対応が早かったみたいだし、俺たちの時もすごかった。さすが高城の両親だな」

 納得したように頷く井豪は、そのまま高城に続きを促す。
 両親を褒められた高城は少し満更でもない顔をすると、表情を改めて続けた。

「実際あたしたちが助けられた時からも分かるように、ここの対応の速さは脅威的! 中央から末端まで連携が行き届いてて、大抵の事態になら対応できるようになってる」

 次々と<奴ら>が増えつつある門前を見つめ、高城は険しい表情で言う。

「御澄が起こした今回の事故だって、ちゃんと携帯や車が使えていたら後手に回らずにすぐ大量の人員を事故現場に送れたはずよ。彼らが<奴ら>の進入を防いでいるうちにフォークリフトでバリケードを張り直すことだってできたはずだった」

 不安そうな表情で自分の服の裾を握ってきたありすを井豪が撫で、安心させようと手を繋いで尋ねる。

「そもそもさっきの妙な光は何なんだ? あれから一斉に携帯や車が使えなくなったみたいだが……」

 しばらく考え込んだ高城は、やがて顔を上げた。

「たぶん、EMP攻撃。HANE……高高度核爆発ともいうけど、主に大気圏上層で核弾頭を爆発させた時に起きる、ガンマ線が大気分子から電子を弾き出すコンプトン効果のことを指すわ。これによって電子が飛ばされると地球の磁場に捕まって、電子パルスが発生する。この電子パルスは広範囲に放射されるから、それがアンテナになり得るものから伝わって、集積回路が焼けて壊れたんだと思う」

「なら、今俺たちは……」

 うっすら顔を青ざめさせて呟く井豪に、高城は頷く。

「そう。あたしたちは今、ろくに電子機器を使えない。ケータイ、コンピューターは勿論、電子制御を取り入れている自動車もダメ。この分だと発電所も落ちてると思った方がいいわ。EMP対策でも取ってれば別だけれど、そんなの政府と自衛隊のごく一部に過ぎないはずだし。御澄がこのことを知っていたのなら、わざと事故を起こしたのも納得がいく。ただ、動機が分からないのよね。こんなことして御澄に何の得があるんだか……」

「アタシ、知ってるわよ。御澄が事故を起こした理由」

 夕樹の発言に、呆然としていた毒島がぴくりと反応した。
 ゆっくりと顔を上げ、夕樹を見つめる。
 ようやく少しずつ事態を理解してきた毒島だったが、それによってさらなる混乱に襲われていた。
 御澄がこんなことをした理由が分からない。こんな事態になることが分かっているなら、バリケードを壊せばどうなるかくらい、彼女なら予想できたはずだ。
 いたずらに他人を危険に晒すような、そんな最低なことをする人間ではないと思っていた。
 でも今、その自信が崩れかけている。
 
「その理由とは、何だ」

「何アンタ。もしかして、知りたいの?」

 迷い児のように覇気の無い毒島に夕樹はゆっくりと近付いていく。

「頼む。理由を知っているのなら教えてくれ。嬌は何故、こんなことをしたのだ」

 毒島の前まで歩いてきた夕樹は、満面の笑みで毒島に告げた。

「なら教えてあげる。御澄ねぇ。アンタを犯すのを手伝わないとアンタを殺すって、そいつに脅されてたのよ?」

 誰が誰を犯す? 誰がそれを防ぐために何をした?
 頭の中で、断片的だった情報が猛スピードで整理されていく。
 理解に至った瞬間、毒島の脳は認識を拒否した。
 それくらい、示された事実は毒島にとって衝撃を伴うものだったのだ。
 夕樹が指差したのは、計画をばらされたことに怒り狂いもはや狂相を隠そうともしていない不良だった。


□ □ □


 聞いていた全員が、一斉に不良を凝視する。
 夕樹は不良を鼻で笑うと、唇の端を吊り上げにやりと笑った。

「メゾネットで残る羽目になったのを御澄のせいだと思ってるみたいでね。わざわざ死んじゃったやつらの家族や友人を探し出してまで、復讐しようとしていたのよ」

 不良から視線を外した高城が、夕樹に質問する。

「理由は分かったけど、二つ疑問があるわ。どうしてあんたがそれを知ってるの? それに御澄が誰かに助けを求めようとしなかった理由は? 助けを求めてればこんな奴の浅知恵どうとでもなったはずよ?」

「アタシが知ってるのは、こいつが元々アタシの知り合いで、電話で協力を持ちかけてきたからよ。アタシだけじゃなく、こいつにはメゾネットで死んだ奴らと親しい関係にあった人間が協力してる。毒島を人質に取られた形になって、御澄はほとんどの選択肢を削られてた。御澄も必死に解決策を考えたみたいだけど、一時間で決めろってそいつに言われちゃってて。協力者が誰かも分からなかったから、アタシが手を貸してやるまで誰にも助けを求められずにずいぶんと困ってたみたい」

 もともとアタシはあいつに協力するつもりなんてこれっぽっちもなかったからねー、と夕樹はいけしゃあしゃあと不良を哂う。
 ずいぶんと意気消沈した様子で毒島は俯いた。
 毒島はようやく理解していた。
 今思えばそれらしい不審な動きを、壮一郎との会談に乱入してきてから御澄は何度も毒島に見せていた。
 いきなり毒島の好きな人間を聞いてきたり、かなり際どい質問をしてきたり、他人が聞けばまるで毒島のことを愛していると受け取られかねない質問までしている。
 最後に彼女が全部冗談として流してしまったから、毒島はどことなく不自然さを感じていながら納得してしまった。御澄は普段からそういう軽口をよく口にする子だったから。

「どうして……そんなことになってるのなら言ってくれれば良かったのに」

 気付けなかった自分が情けないと、毒島はうな垂れる。

「御澄のことだから、毒島の負担になりたくないとか迷惑をかけたくないとか、そんな馬鹿なことでも考えてたんじゃない? コイツがあんたたちに常時張り付いてたせいでもあるだろうけど」

「……そうか。君が頻繁に私に話しかけてきたのは、そういうことか」

 夕樹の言葉に、毒島の不良を見る目が凄みを帯びた。
 皆が夕樹の話を聞いている間に妻の百合子とともに武装を済ませ、事態を見守っていた壮一郎が高城に顔を向ける。

「大体の事情は分かった。だが壊れたものを直す方法はあるのか」

 高城は少しの間視線を中に彷徨わせ、答えた。

「焼けた部品を変えれば動く車はあるかも。電波の影響が少なくて、壊れずに済んだ車がある可能性も……。もちろんクラシックカーは問題なく動くわ」

「すぐに確認させろ」

 壮一郎は部下に命じると、向き直って高城を見下ろした。

「沙耶」

 名前を呼ばれたことに驚いた表情を見せる高城は続いた言葉に息を飲む。

「仲間が起こしたこの騒ぎの中、感情に流されずよく冷静に物を見た。褒めてやる」

 思いがけない賞賛の言葉に、高城は少しの間我を忘れた。
 厳格な性格のこの父は、娘である自分を甘やかすことは本当に少なくて、こんな風に褒めてもらえたのは数えるほどしかなかった。
 それが嬉しいやらこんな状況で複雑な気持ちやらで高城が複雑な表情をしていると、門の方から一際大きな音が響く。
 振り返ればいつの間に集まったのか、門の前には目を覆わんばかりの数の<奴ら>が押し合いへし合い、身体をすり減らし骨を砕きながら無理やり門を破ろうとしていた。
 何人かが必死に門の補強を試みているが、この混乱した状況下ではまともに作業できず、効果は望めそうにない。
 鉄でできた頑丈な門は補強する必要があるとは思えないほど重厚な佇まいを見せていたが、今や想定外の<奴ら>の圧力に悲鳴を上げ、門を固定するボルト部分が弾け飛びそうになっている。

「おい……、やばいんじゃないのか!?」

 横から門を押さえていた一人が焦燥に満ちた声を上げた瞬間。
 ついにボルトが外れ、まるでドミノの一番目を倒したかのように勢いよく鉄門が倒れ込んだ。
 次々と邸の敷地内に侵入した<奴ら>たちは、門を押さえていた人たちに遅いかかり、手近にあった避難民のテントへと向かっていく。
 逃げ遅れた不運な避難民が<奴ら>に捕まり、食い殺されていく様子を悲痛な目で見つめていた百合子が壮一郎を見る。

「あなた──」

「パパ! このままじゃ……! 一先ず引いた方がいいわ!」

 高城もまた、壮一郎に邸に篭城することを提案する。
 だが壮一郎は高城の提案を一蹴した。

「あの鉄門が破られた今、守って何の意味がある! 押し入られ喰われるだけだ!」

 二階から邸周辺の様子を確認していた壮一郎の部下の吉岡が戻ってきて、隣家はまだ安全が確保されていることを壮一郎に伝えた。
 報告を聞いた壮一郎は<奴ら>から逃げ惑いぞろぞろと邸の前まで逃げてきた避難民や部下たちに号令した。

「これより我々は敵中を突破し隣家に向かう! 戦う気概のある者は集まれ! 女子どもで生き残りたい者はその後ろに固まれ!」

 お互いの顔を見合わせていた避難民たちの中から、覚悟を決めた顔で何人かが動き始めると、呼応するように次々と男たちが家族や恋人、友人たちを守るため前に出ていく。
 もう自分たちの都合で親を探しにいくべき時ではないと思ったのだろう。小室もまた、彼らと同じように前に出ていこうとした。
 その小室を、機先を制するように壮一郎が叱責する。

「親孝行をするのではないかな小室君! ためらわず自分の道を往くのだ!」

 気迫に押され足を止めた小室は、気まずそうな顔で俯き、足を止める。
 少し前、まだ邸の中にいた時に、壮一郎とかわしたやり取りを思い出した。
 壮一郎の目の前で、小室は言った。
 自分たちは両親を探しに行ってくる。脱出までには戻るつもりだが、もし戻ってこなければ両親の下に残ると決めたのだと思って見捨ててくれて構わないと。
 本来ならば壮一郎よりも、親を探しに行く自分たちの方が遥かに危険だったはずだ。それが今では、全く逆の状況になっている。

「……はい」

 小室は理解していた。
 この<奴ら>の群れを徒歩で突破して隣家に向かうのは不可能に近い。
 例え辿り付けたとしても極少数だろう。
 そしてその中に、壮一郎や百合子が入っている保障などどこにもありはしない。
 全てを承知の上で、壮一郎は避難民を保護し、部下を率いる責任ある立場につく者として、義務を果たすため行動しているのだ。

「平野君」

 振り向かず前を見据えたまま、壮一郎は言葉を紡ぐ。

「娘を、頼んだぞ」

 表情が見えないことがかえって言葉の重みを増し、平野は決意を決めた表情で頷いた。

「パパ! それっていったい」

 何か不吉な予感を悟って高城が食い下がろうとするのを、厳しい表情の百合子が平手打ちして止める。

「壮一郎さんと私には役割があるのよ、沙耶ちゃん。より多くを生き延びさせるため、共に戦ってくれる勇敢な方々の勇気を奮い立たせるために、私たちは彼らの先頭に立って率先して死人と戦わなければならない。あなたを平野君や小室くんにお預けするのが、親としての唯一の我が侭なの。たったそれだけですら、自分の娘を特別扱いしてしまったと他の方々に対して罪悪感を覚えている。お願いだからこれ以上苦しめないで!」

 頬を押さえ呆然とした顔で見上げてくる高城を、百合子は強く小室たちの方へと押し出した。

「さあ、お行きなさい! 決して振り返ってはなりません!」

 ありすが百合子の前へ駆け寄っていく。

「……おばちゃん」

 百合子はしゃがみこみ、ありすをそっと抱きしめた。

「いい子ね。おばさんの娘もいい子なのよ。お兄ちゃんとお姉ちゃんたちのいうことをよく聞いてね」

 ありすは幼いながらも今生の別れになるであろうを感じ取ったのだろう。
 涙ぐみ、百合子をじっと見つめたまま頷く。
 置いてかれそうになっている不良が慌てて叫ぶ。

「おい待てよ、俺も連れてってくれよ!」

 近くにいた毒島が立ち止まり、振り返った。
 目に浮かぶのは殺意混じりの激情。

「……君がそれを言うのか」

「毒島家御息女よ」

 突然壮一郎に名前を呼ばれ我に返り、冴子は不良に一定の注意を払いながら振り向く。

「その少年はこちらで預かろう。貴女は小室君たちについていくのだ」

「会長。ですが、私は……」

 毒島の表情は晴れない。
 一度壮一郎の頼みを断った自分が、壮一郎たちの配慮に縋っていいものなのか、毒島は迷っていた。

「気にする必要はない。その刀で、貴女が守りたいと思う者を守ればいい」

 壮一郎の言葉に、毒島はハッとした顔をする。
 やがて毒島は何か吹っ切れた顔で、いつもの凛々しい表情を取り戻して壮一郎に頭を下げた。
 泣いてしまいそうなのを辛うじて堪えた震える声で、高城は言う。

「パパ、ママ。大好きよ!」

 未練を振り切るように、高城はハンヴィーのエンジンを調べている松戸のところへ駆け出していった。
 壮一郎が部下に命じ、ダイナマイトを投げさせる。
 爆発の中心付近にいた<奴ら>が吹き飛び、身体の大部分を欠損させて倒れた。
 ダイナマイトの爆発音に驚いて足を止めた皆を高城が怒鳴りつける。

「何やってんの! 早く来なさいよ!」

「でも、皆の後ろに続いて逃げた方が安全じゃないですか? 高い塀ばかりだから、乗り越えるのも難しいし」

 先頭を走る高城の後を追いかけながら平野が尋ねる。

「パパとママがわざわざ私たちを送り出してくれた理由が分からないの? あのハンヴィーは軍用! もし対EMP処置が施されているなら、ちょっとメンテナンスしてやればまた動くようになるわ!」

 高城がハンヴィーの傍に駆け寄ると、ハンヴィーの下で作業をしていた松戸が出てくる。

「こいつの持ち主は凄いぜ。予算が削られて対EMP処置は見送られた車種なのに、自前でやってやがる!」

 松戸は沙耶に気付くと立ち上がり、ニッと笑って言った。

「大体の整備は終わりました! 本音を言えばもうちょい弄くりたいですが、ひとまずこれで走れますぜ!」

 自分たちのために車を整備し直してくれた松戸に、高城は尋ねた。

「ありがとう。あなたはどうするの?」

 松戸は手に持ったスパナをびしっと構えて答える。

「残ります。惚れた女がみんなといますんでね」

 他の皆がハンヴィーに乗り込んでいく中、松戸が残っていた高城に頭を下げた。

「沙耶お嬢様、どうかお元気で!」

「私はいつだって元気よ」

 照れくさそうに高城は笑い、ハンヴィーに乗り込む。
 全員を乗せたハンヴィーは、<奴ら>の大多数が壮一郎たちに引き付けられている隙をつき、高城邸を脱出した。



[20246] 第二十三話
Name: きりり◆4083aa60 ID:a640dfd1
Date: 2013/03/23 22:47
 一瞬、気を失っていたらしい。
 胸の痛みに目が覚めて、大怪我を負ったのかと焦って自分の身体を確認する。
 ……良かった、大丈夫そう。
 幸いシートベルトが効果を発揮して、痛む程度の打ち身で済んだようだ。
 窓から外を見れば、空いたバリケードの隙間からぞろぞろと<奴ら>が敷地内に入り込んでいる。
 思わずごくりと唾を飲み込んだ。
 原作なら冴子たちは逃げ切れるだろうけど、実際は現状どうなるか分からない。
 こんなバカなことをしでかしたのも、全ては冴子を守るため。
 なら、あたしは冴子のところに戻らなきゃ。
 だけどバスの外では<奴ら>がうようよとうごめいていて、次々に高城邸の方へと向かっていっている。
 これじゃあ徒歩で戻るには<奴ら>の数が多すぎる。何か足が必要だ。
 幸い心当たりはある。
 またしても前世の記憶頼りになっちゃうけど、これだけ捩れても大筋が原作と奇妙に一致してるこの世界なら。
 アニメの展開で見た、あのバイク屋に行けば手に入るかもしれない。
 高城邸に辿り着く前に散々ハーヴィーでこの辺りを走り回ったから、すでに場所の目星はついている。ここから近道を経由した最短ルートだって分かってる。
 クロスボウを組み立てタイミングを見計らって外に飛び出し、<奴ら>を避けて進む。

「お願い、間に合って……」

 祈るように呟き、その場所にたどり着いた。
 中に入り、目的の物を探す。

「あった!」

 一番奥のスペースに、隠されるようにひっそりと鎮座していたそれ。
 停電で電気が消えたせいで、暗い中外から差し込む光で薄ぼんやりとシルエットが浮き上がり、無骨なフォルムを晒すそれは、原作で小室たちが貰ったのと同じATV、八輪のアーゴ水陸両用バギーだった。
 小室たちのと同じものなら、きっとこれもエンジンが動くはずだ。
 エンジンキーを探し、見つけると乗り込んでおそるおそるエンジンをかける。
 力強いエンジン音が轟いた。

「動いた! これ、まだ使える!」

 あたしは喜色満面の笑みを浮かべると、バギーを発進させる。

「うわっとっとと!」

 普通の四輪乗用車とは違う、バイクに近い独特な加速に吃驚しながらも、何とかハンドルを取られずに保持したまま外に飛び出した。
 道路に出てアクセルを目いっぱい握ると、グンと景色が後ろに流れる。

「すごい……これならすぐ冴子のところに行ける!」

 喜び勇むあたしだったが、高城邸まであと少しまで来たところで、動かなくなっているはずのハンヴィーがあたしが来た道とは別の道を曲がり、消えていくのが見えた。
 一瞬え、どうしてと驚愕したがすぐに思い直す。あそこにバギーがあったのだ。アニメと同じように、ハーヴィーも何とか動ける状態で済んだのかもしれない。

「小室たち……良かった、無事だったんだ!」

 後を追いかけようとしたところで、ふとある可能性に思い立つ。

「冴子は? 冴子はあれに乗ってたの?」

 ちらりと見えただけだったから、誰が乗ってるかまでは確認できなかったのが悔しい。
 このまま邸に行くべきか。それとも引き返して小室たちを追いかけるべきか。
 小室たちと顔を会わせるのは気まずいけど、冴子が一緒にいるならそっちに行くべきだ。それにこんなことをしておいて言えた義理じゃないけれど、許されなくても高城に謝っておきたい。
 でも、直前まで冴子はあたしのために残ろうとしてくれていた。当のあたしはこんなことをして飛び出してしまったものの、もしかしたら冴子はあたしのために今も待ってくれているかもしれない。
 原作を思い出そうとしても、今正確に思い出せていると断言できるのは停電が起こるところまで。そこから先は霞がかったかのように頼りなく、正しいかどうか自信が無い。
 小室たちなら冴子がいくらごねても、こんな状況じゃ乗せていきそうな気がするが、それだって保障があるわけじゃない。

「どうしよう……あ!」

 紫藤を殺してしまった時のことを思い出す。
 あの時に見た風景。それは冴子と小室が隣家に避難しようとしていて、<奴ら>の群れに押し潰され消えていくものだった。
 愕然とする。
 ちょっと待ってよ。どうしてそんなことになってるの。
 混乱して頭を抱えた。
 知らぬ間に何か勘違いをしてる? そんなはずはない。だってこれは前世の記憶から得た知識のはずなんだ。
 でも誰かと見間違えたのをあたしが冴子と小室だと思い込んだ可能性は?
 当たることもあれば外れることもあったけど、それはあたしが考えなしに行動したせいで、手出しできない部分はおおむね原作通りに進んでいる。
 だからおそらくは、これはきっと冴子と小室じゃなくて、高城の両親だろう。小室たちを追いかければたぶん冴子に会えると思う。
 だけど。
 だけど。
 一度幻視したあの光景が、どうしても頭から離れない。
 いくつもの仮定に突き当たるたび、あたしはいつも最悪の展開を想定して動いてきた。
 あたしにとっての最悪はもちろん冴子が死んだり、傷付いたりすること。その可能性を回避するために、あたしは紫藤先生を殺し、後続組を見捨て、今回強烈なしっぺ返しを食らった。
 賢い人間ならこれに懲りて、次はもう少し楽観的な選択をしようとするはずだ。きっと大丈夫だって自分に言い聞かせて、それで納得しちゃうはずだ。
 でもあたし、バカなんだよ。
 それで納得できないんだよ。
 絶対そっちの方が賢い選択だって分かってるのに、そうすべきだって分かってるのに、冴子のことを思うと、そっちに進めなくなるんだ。
 だってそれで冴子が死んじゃったらあたし自分が許せない。
 <奴ら>が溢れかえるこの地獄のような世界で、何があるか分からないって分かってるのに、どうして最悪を想定して動かなかったんだって絶対後悔する。
 常にその選択が正解だっていう保障はどこにもない。今回は大丈夫、今回は大丈夫、ってどんどん楽な方向に進んでいった結果、冴子が死ぬようなことになったらどうするの。
 どちらにしろ、冴子が絶対に死んでしまう可能性を完全に無くすことは出来ないんだ。結局どの選択肢を選んでも後悔するんなら、せめて最善を尽くして後悔したいよ。
 それにもしかしたら、高城の両親だってまだ生きてるかもしれない。あたしまだ謝ってないんだ。命を救われて、衣食住まで提供してもらったのに、恩を仇で返しちゃった。
 けじめをつけなきゃいけない。楽な選択肢なんか選べない。<奴ら>がいっぱいで怖くたって、ううん怖い場所だからこそ、そこに助けを求める人がいるはずなんだ。
 なら進路は高城邸。向かうのは<奴ら>が一番いっぱいいる場所。そこに冴子と小室も、高城の両親もきっといる。
 あたしはアクセルを思い切り回し、急発進した。前輪が浮き上がる勢いで加速したバギーは猛スピードで角を曲がり、<奴ら>を跳ね飛ばしながらひた走る。
 そしてたどり着いたのは、あたしがバスを突っ込ませたところ。こっち側の路肩に突っ込んだ状態で放置されたバスの後ろに、吹っ飛ばされたバリケードがあり、バギーがぎりぎり一台通れるか通れないかくらいの隙間が空いていた。
 バリケードの両端には、何かを擦ったような後。
 普段なら最徐行してあちこち確認しながら、ぶつからないかびくびくして進むようなところ。
 でもこんなところをのろのろと進んでいたら、<奴ら>の餌食になってしまう。
 だから、敢えて、アクセルを全開にする。
 原作で小室がやってたんだ。なら、あたしだって……!
 通るべき隙間以外の見えていた景色全てを置き去りにして、あたしは叫んだ。

「男は度胸──女も、度胸!」

 瞬間車体越しに伝わる衝撃。
 バリケードに新たな傷を作りながらも、バギーはバリケードを通過していた。

「よし、次は!」

 素早く辺りを見回し、<奴ら>を睥睨する。
 <奴ら>は門から少し離れた辺りに密集していて、大体Uの字を描くようにしながら中央に向かって動いている。なら言うまでもなく、冴子たちがいるのは中央だ。
 壁が分厚すぎて正面や側面から突撃してもたどり着けないから、突入するなら比較的包囲が薄い場所の方がいい。
 なら、冴子たちが作った道を通ろう。
 ハンドルを回して急カーブ。
 遠心力に振り回されそうになる身体を押さえつけて、明らかに<奴ら>が少なく死体が多く散らばっている場所に向かって突撃する。
 そこがこの集団の後方、突入口だ。
 中心で戦っている高城の両親を一番に見つけ、そこにバギーを滑り込ませた。

「助けに来ました! 乗ってください!」

 叫んで飛び降りると同時に、二人を襲おうとしていた<奴ら>をクロスボウで射抜く。

「こっちだ、百合子!」

 高城のお父さんは百合子さんを呼び、百合子さんと一緒に運転席に走っていく。
 二人が乗り込むまで、<奴ら>を食い止めるのはあたしの仕事。
 悠長に次の矢を装填している暇はない。警棒に持ち替え、追いかけようとする<奴ら>を牽制する。

「あなたも乗りなさい!」

 バギーの助手席から百合子さんが叫んでくるのを、あたしは振り向かずに叫び返した。

「まだです! 冴子と小室が乗っていません!」

「あの子たちなら先に脱出したわ! 早く!」

「へ?」

 きょとんとして、うっかり避け損ねそうになった<奴ら>の腕を慌てて掻い潜り、胸を警棒で突いて弾き飛ばし距離を取る。
 思わず変な笑いが漏れた。
 どうやら今回も楽な道が正解だったようだ。あれだけ意気込んでおいて相変わらず役に立たない自分の頭に呆れてしまうけれど、今回は高城の両親を助けられただけでもよしとする。
 あたしが後部座席に乗り込むと、高城のお父さんがバギーを発進させた。
 手摺を掴んで急加速によるGを堪えながら、あたしは恐る恐る前の二人に問いかける。

「あの、他の人は助けないんですか?」

 振り返らず高城のお父さんが言葉少なに答える。

「生きているのは私たちだけだ」

 そんなことを言われて、あたしがそれ以上何かを言えるはずもない。
 黙り込むしかなかった。


□ □ □


 今、あたしは高城邸の隣家の一室にいる。
 物凄く大きなお邸だった高城邸に比べ、この家は田舎にあるような一軒屋よりやや大きい程度で、土台を盛り土されてできた高台の上に建っていた。
 入り口は人一人がやっと通れるくらい細い階段を上った先にある門を通り、大きな庭を通ってたどり着く正面玄関のみなので、階段を塞いで門さえ補強してしまえば<奴ら>から身を隠すにはちょうど良かった。
 ある程度食料や飲み水の備蓄があり、非常用の物資も保管されていたため、停電が起こった今もここに配備されていた高城のお父さんの部下の人たちと高城の両親くらいなら、しばらく養うことができる。
 そしてあたしの目の前には、ソファーに座る高城のお母さんがいた。
 高城邸に戻ってきたが結局冴子はいなかったので、再び冴子たちを探すために出発しようとしたあたしは、高城のお母さんに少し話があると呼び止められたのだ。
 ……まあ、当然だろう。
 あたしは高城邸でわざとあんなことをやらかしたのだ。事情説明をしないわけにはいかない。
 どんな非難の言葉をかけられようとも、当然の報いとして受け止めるべきだ。
 そう覚悟して部屋に入ったというのに、意に反して高城のお母さんは一見あたしがしたことなどちっとも怒っていないかのような穏やかな顔で、あたしに今となっては貴重な嗜好品であるはずの紅茶を勧め、自らも優雅に紅茶を飲んでいるだけで、一向に話を切り出そうとしない。
 気まずさと早く冴子を見つけたい一心でそわそわするあたしは、ついに耐え切れなくなって自分から口火を切った。

「あの……、あたしのこと、怒ってらっしゃらないんですか?」

 僅かに声を震わせたあたしに、高城のお母さんはにっこりと笑う。

「あら。私はあなたの何を怒ればいいのかしら。あなたはただ、お友達のためを思って少し無茶をしてしまっただけでしょう? それが不運にもあの停電が重なって、不幸なことになってしまった。そうではなくて?」

 反射的に言い返そうとして口ごもる。
 どうやら、あたしがバスを奪ってバリケードを壊した動機は全てバレているようだ。
 夕樹なら事情を知っているし、別れる前に彼女が話したのかもしれない。
 悪いのはどう考えてもあたしなのに、色んな人に気を使わせてしまっているのが心苦しい。
 ……高城のお母さんは、今回の一件をあたしが冴子を守りたい一心の浅知恵でしたことで、深い考えなどなかったのだと思っているようだ。本当はそんなことないのに。
 でもそれも仕方ない。前世の記憶であらかじめ停電が起きることが分かっていたなんていう理由など、誰が思いつけるものか。

「それでもです。あたしのしたことの重大さは、分かっているつもりですから」

 ティーカップをソーサーに置き、高城のお母さんはあたしに顔を向ける。

「そうねぇ。なら、一つ私のお願いを聞いては下さらないかしら」

 微笑みながら紡がれたその言葉に、あたしは何を頼まれるのかと緊張してごくりと唾を飲み込んだ。

「あたしにできることなら、喜んで」

 高城のお母さんはあたしの返答に満足そうに頷くと、懐から一枚の便箋を取り出した。

「あんな別れ方をしてしまったから、きっと沙耶ちゃんは私たちの生存を絶望視し、悲しんでいるわ。ですからこの手紙を沙耶ちゃんに渡し、私と壮一郎さんが生きていることを伝えて欲しいの」

「ぜっ、ぜひやらせてくださいっ」

 願ったり叶ったりだった。
 両親が生きていることを知れば、高城はきっと喜ぶだろう。
 それで許してもらおうなどと虫のいい考えは持っていないが、それでも彼女のためになることがしたい。
 幸い高城の両親は間に合ったが、他の人は誰一人助けられなかった。松戸さんや吉岡さんはもちろん、他にもたくさん高城邸にいた人が死んでしまっているのだ。
 あたしには後ろめたさがあった。
 今回あたしが取った選択は最悪という言葉では表現しきれない悪手中の悪手だ。
 冴子を守るという身勝手な理由で避難民を全滅させてしまったし、大勢いた高城のお父さんの部下も、いまやこの隣家にいる人たちだけになってしまった。
 こんなにも多大な犠牲を出してしまったというのに、あたしは罪悪感を抱いている以上に、冴子を守れたことにホッとしている。
 避難民が全滅したのならば、紛れていた協力者も全員死んだのだろう。
 ひとまずの危機は去ったのだ。
 あとは不良がどうなったかだけ。

「あの……あたしを脅してた男はどうなりましたか? もしまだ冴子と一緒にいるのなら、あたし」

 言っているうちに焦燥感を募らせて声を高くしたあたしを、高城のお母さんは宥める。

「直接目でその瞬間を確認したわけではないけれど、おそらくはもう生きていないでしょう。彼は怪我をしていたし、私たちが生き延びただけでも奇跡でしたから。あなたが来てくださらなければ、私たちも今頃外で死人となっていたはず。本当に、あなたには感謝しているのよ」

「……そんなふうに感謝されるようなことしてません。全部あたしが原因なのに」

 かけられる言葉が、胸に痛い。
 感謝されることがこんなに辛いものだとは思わなかった。これならまだ罵ってもらった方が気が楽だ。
 たぶん、高城のお母さんの態度の理由には、あたしがまだ彼女から見て子どもでしかない年齢であるのも理由のうちに含まれている。
 子どもだから、許される。
 子どもだから、間違っても仕方ない。
 それが世間一般の常識だからだ。
 でも全てが壊れてしまった今は、そんなことは言っていられない。
 他人の優しさに、いつまでも甘えてちゃいけない。
 差し出された手紙を受け取り、大事にバッグの中にしまい込む。

「手紙は高城にお渡しします。必ず」

 一礼して席を立ったあたしに、高城のお母さんは少し楽しそうな声で言った。

「そうそう。ここを出る前に、必ず壮一郎さんのところに顔を出してくださいね。あの人もあなたに話があるようだから」

 歩き出そうと一歩目を踏み出そうとした体勢のまま思わず固まる。
 ……そうだよね。そうしないわけにはいかないよね。
 あの人に会うのは怖いけど、仕方ない。
 何度も言うが、やってしまったことからは逃げるわけにはいかないのだ。


□ □ □


 邸にあったような重厚な扉ではないけれど、それなりに立派な扉の前に立つ。
 この先の部屋が隣家での高城のお父さんの執務室になっている。
 緊張を和らげるために深呼吸をし、覚悟を決めてノックする。

「鍵は開いている。入れ」

 中に入ると、高城のお父さんが執務机に落としていた視線を上げてあたしを見た。
 その口から、単刀直入に言葉が紡がれる。

「何か申し開きはあるか」

 張り詰めた空気に、思わず息を飲み込む。
 ……やっぱり、重圧が凄い。
 気を抜けば萎縮しそうになる心を奮い立たせ、真っ直ぐ高城のお父さんを見詰める。

「いいえ。どんな言い訳をしたところで、あたしのしたことが許されていいことだとは思えません」

「それが分かっていて何故、こんなことをした」

 眼光鋭い目があたしを射抜く。
 反射的に目を逸らして平伏したくなるのを堪え、あたしは高城のお父さんを見つめた。
 悪いとは思っているし、償いたい気持ちもある。だから高城のお母さんに頼みごとをされた時も喜んで受けた。
 だけどそれとこれとは話が別。
 冴子のためにやったことが例え間違いであっても、やるべきことではなかったとは思いたくない。

「親友を、守りたかったのです」

 高城のお父さんの顔に怒気が浮かぶ。

「その浅はかな考えのために何人死んだと思っている?」

 思わず下を向きたくなる気持ちをぐっと堪えた。
 耐えろ。今は俯いていい時じゃない。
 厳かな声で高城のお父さんはあたしに尋ねる。

「今後、二度とこのようなことをしないと誓えるか」

 数瞬、どう言おうか迷った。
 たぶん、ここではいと答えれば、きっと許してもらえる。次はないだろうが、今回は子どものやったこととして、大目に見てくれるだろう。
 だからここは間違いなく、頷いておいた方が賢い選択だ。
 でも、きっぱりと否定する。

「可能な限り努力します。ですが、お約束は出来ません」

 言葉を口にした瞬間、あたしは高城のお父さんを前にして、彼が刀を持っているわけでもないのに、一瞬真っ二つに斬殺される自分を幻視した。
 それほどまでに、高城のお父さんが発した鬼気は凄まじいものだった。
 あまりの恐怖に思わずその場を飛び退いて形振り構わず逃げ出したくなるのを堪え、高城のお父さんの圧力に耐える。
 逃げてはいけない。ここで逃げたら、あたしの決意なんて所詮その程度だったってことになる。
 今回自分がしたことについて反省はしている。
 だけどこれはあたしが自分の意思でやったこと。そうである以上保身のために口先だけの約束をして、高城のお父さんを騙すようなことはしたくない。
 正直であることだけが、あたしが高城のお父さんに示せる誠意だった。
 あたしがしたことは冴子のためっていう理由があったとはいえ、本来ならば許されることなんて絶対に有り得ない悪行だ。
 起こる惨事の全てを理解したうえであたしはやった。ならその結果について回る罪科も、あたしが背負ってしかるべきなのだ。
 行動する理由を冴子に押し付けてはいけない。あたしが冴子のために動いているのは、あくまで冴子を守りたいというあたし自身の感情によるものだ。それを冴子を理由に免罪符にしてしまったら、あたしがしたことの責任の全てを冴子に押し付けることになる。
 そんなことをしてしまうくらいなら、あたしなんて今すぐこの場で喉を掻き切って自殺してしまった方がいい。
 ごめんなさい、高城のお父さん。悪いことだと分かっていても、あたし、また冴子と大勢の人の命を天秤にかけるようなことがあれば、きっと冴子を選びます。だから誓えません。あたしにとっての一番は、いつだって冴子なんです。

「くっ、くくくく……。ははははははははっ!」

 額に汗を滲ませて必死に震える身体を隠し、高城のお父さんを睨んでいたら、突如高城のお父さんが大口を開けて笑い出す。
 ポカンとしたあたしが高城のお父さんを見つめていると、高城のお父さんは険しかった顔を崩し、愉快そうな顔をした。

「なんと今の時世にこれほどまでに親友思いな女子がいるとは! そこまでして毒島先生のお嬢さんを守ろうとするか。これでは私の言葉など届きそうにないな」

「……申し訳ありません」

 高城のお父さんは執務机に肘をつき、あたしを見る。

「君の決意はよく分かった。そこまでして毒島先生のお嬢さんを守りたいと願うのであれば、もはや何も言わぬ。好きにするがいい。その代わり、最期まで何があっても努力するというその言葉、決して違えるな。今回の件はそれで帳消しにしてやる」

 驚いたことに、高城のお父さんはあたしのことを許してくれた。
 あまりの懐の広さにあたしはそれ以上何も言えず、ただ感謝の念を篭めて深く頭を下げる。

「毒島先生のお嬢さんは我が娘と共に、小室君たちと行動を共にしているはずだ。早く行ってやれ」

「絶対に死なせません。この命に換えても」

 許してくれた人たちのためにも、あたしは全霊を賭して冴子を守り続けよう。
 それがきっとあたしにとって、犠牲にしてしまった人への贖罪になるだろうから。
 あたしは高城のお父さんにもう一度頭を下げ、部屋を出た。



[20246] 第二十四話
Name: きりり◆4083aa60 ID:a640dfd1
Date: 2013/03/31 00:18
 隣家を出発したあたしは、バギーを走らせながらこれからのことを思案していた。
 原作については順調に思い出してきてはいるものの、高城邸での思い違いもあることだしそれが本当に正しい記憶かどうかは分からない。
 細部が色々変わっちゃってるから、例え原作の知識が正しかったとしても、その通りに物事が進むとも限らないのが辛いところだ。
 本当はあたしなんかが小室たちの前に姿を現すべきではないと分かっているけれど、それでもあたしは冴子の傍にいたい。
 遠くから冴子を守るっていうのにはやっぱり限界があるし、いざという時のことを考えると、やはり冴子の近くにいる必要がある。

「皆、あたしを許してくれるかなぁ……。無理かなぁ」

 思わず弱気がこぼれ出る。
 ため息を一つついて、頭をぶんぶんと振った。
 ええい、今頃怖気づいてどうする。冴子を守るんだろ。ならシャキッとしろ、あたし!
 とりあえず国道に出てみようか。
 バギーを走らせたあたしは、聞こえてきた銃声にスピードを上げた。

「あれは……!?」

 国道では、停止したハンヴィーの近くで小室たちが<奴ら>と戦っていた。
 ボロボロになったハンヴィーとかを参考に状況的に見て、ここまで来たまではいいものの、もともと対EMP処置がされてるとはいえ不調気味だったハンヴィーが動かなくなり、応戦するしかなくなったとかだろうか。

「いけない! とにかく、早く助けなきゃ!」

 バギーを走らせ、次々と<奴ら>を弾き飛ばし、小室たちが逃げる道を作る。

「御澄!? あんたよくも今更私の前にのこのこと……!」

 気付いた高城が物凄い目で睨んでくるのを叫んで止める。
 予想通りの反応に思わず身体が震えるが、自業自得なんだから我慢。

「話は後! あたしが<奴ら>を引き付けるから、今のうちに早く逃げて!」

 言ってる傍からあたしはハンドル操作を誤り、<奴ら>の群れに突っ込みそうになった。
 本当あたしってばドジだな!

「ぎゃー! 死ぬ! 死ぬ!」

 慌てて反転して距離を取り、何とか事なきを得るあたし。
 いきなり自殺しそうになったあたしを見兼ねてか、冴子と小室が走り寄ってきた。

「囮なら僕たちがやります! 御澄先輩は麗たちと一緒に!」

「え、だけど……!」

 反論しようとしたあたしは、続く冴子の言葉に何も言えなくなる。

「積もる話は後だ。今は彼女と和解することだけ考えろ」

 そう言って冴子が指差した先にあったのは、他の皆と一緒に横転していた車の陰に避難していく高城の姿。
 やはり怒っているようで、目も合わせてはくれない。
 本当は冴子についていきたかったけど、やっぱりこっちをほっとくわけにもいかない。
 原作では神社で夜を明かして、小室とのイベントがあって冴子の小室に対する気持ちが決定的になるはずだ。
 今の時点で冴子は小室に好意を抱いているはずだから、ここは冴子のためを思うなら行かせてあげるべきだろう。

「……そうだよね。うん、そうする」

 ついていくべきか本当に迷ったけれど、煩悶した末についていかないことにした。
 もちろん高城のことが理由の一つにあるが、それだけじゃない。
 神社でいざその場面に居合わせた時、あたしがどういう行動を取るか、あたし自身想像がつかなかったからだ。
 冴子の背中を押してあげることを決めたあたしだが、間近であんなイベントを朝まで生で見せられたら、さすがに嫉妬で発狂する自信がある。割と本気で。
 だから冴子についていきたくとも、今回ばかりはついていけない。
 小室がいるんだもん。……大丈夫だよね?
 心配だったので、バギーから降り、入れ違いに乗り込もうとする冴子と、あとついでに念のために小室にも言っておく。

「絶対に無理しないでね。合流地点でずっと待ってるから。あと小室、これ水陸両用だから、いざという時は水の中に逃げて。ちゃんと冴子のこと守りなさいよ。怪我させたらむしる」

「あの、むしるっていったい何を……」

 嫌な想像でもしたのか、一筋の汗を流しながら愛想笑いを浮かべて聞いてくる小室にべっと舌を出す。
 そんなの決まってるでしょ! むしるといったらアレよ、アレ!

「合流した時に冴子が掠り傷一つでも負ってたら全部むしり取ってやる! 覚悟しときなさいよ!」

 冴子を取られることを承知で、小室に冴子を託すのだ。これくらいの冗談は許されるだろう。
 あーあ。これで、合流した時には冴子は非処女か。
 原作とかアニメの展開的に、あれって絶対やることやってるもんね。でないと朝になって<奴ら>が集まってる理由が分からないし。
 あたしの初体験は最悪だったのに、冴子はいいなぁ。
 うー、冴子が小室とそうするって考えるだけで、すごくジェラシー感じちゃうよ。
 前世の記憶なんていうもののせいで女の自覚と男の性欲を同時に持つことになってしまったあたしは、もちろん男が抱くような女に対する独占欲だってあるわけで。
 こう冴子が他の男とやってる場面を想像するだけで、わなわなとしてしまうわけですよ。
 態度には絶対出さないけど。同性にそんな感情を抱くのがおかしいことくらい、あたしだって知ってる。
 ……分かってて冴子を送り出しちゃうなんて。
 本当にあたしってバカだなぁ。
 走り出すバギーを見送り、あたしも横転した車の陰に足音を忍ばせて歩いていく。
 皆の傍まで見ると、色んな感情に満ちた視線に出迎えられた。
 う……気まずい。
 そうだ、今のうちに手紙を渡しておこう。

「高城さん。これ、あなたのお母様から」

 知らん振りする高城の手に、無理やり手紙をねじ込む。

「あたしが言ってもたぶん信じられないだろうから、読んでみるといいよ」

 一瞬敵意に満ちた目であたしを睨んだ高城は、いかにも不承不承といった様子で億劫げに手紙を読む。
 その表情が不満から驚愕へ、驚愕から歓喜へと魔法のように移り変わっていくのを見守る。
 手紙を読み終わった高城は、手紙を大切に懐にしまいながらあたしを軽く小突いた。

「助けてたのなら早く言いなさいよ!」

 不機嫌そうな表情を作りながらも、喜びで興奮しているのは隠せないようでわずかに頬を蒸気させ、<奴ら>から隠れている中で器用に声を潜めて怒鳴ってくる。
 どんなことが書いてあったのかは分からないけど、機嫌が良くなったようで何よりだ。これで何もかも償えるとは思えないけど、お姉さん冴子のことが絡まない限りは精一杯頑張るよ。
 いじらしい表情の高城にあたしは笑った。

「ただ言葉にするよりも、説得力があるでしょう?」

「あんたねぇ……」

 なおも高城は文句を口にしたそうにしていたが、口げんかしている場合でないことを思い出したのか気を取り直してあたしに向き直る。

「まあ、色々言いたいことはあるけど、今は簡便してあげるわ。感謝しなさいよね」

 横で話を聞いていた夕樹が首を傾げた。

「えっと……、結局、どういうわけなの?」

 高城はあたしをちらりと見てから夕樹に振り返る。

「落ち着いてから説明する。今はそれどころじゃないし」 

 一区切りついたと見たのか、井豪があたしたちに言う。

「そろそろ移動するぞ。孝たちが<奴ら>を引き付けてくれている間に、何とかして合流地点に向かおう」

 おお、井豪が久しぶりにリーダシップを発揮してる。
 何だか彼って一番割りを食ってる気がする。リーダー気質があるはずなのに性格が良すぎるせいで引いた立ち位置にいるから、あまり活躍出来なくて小室に麗を取られちゃってるし。いや、元を正せばあたしのせいだし死んでた方が良かったなんてことは絶対ないけどさ。
 井豪を助けられたのは、あたしの数少ない自慢。
 あたしが完全に女だったら、いかにも惚れちゃいそうないいオトコなのだ。外見だけでもかなり好みかもしれない。しかもかなりの善人ときている。
 気を抜くと何かの拍子にコロッといきそうで怖い。うっかり血迷ったら拒否反応に潰されて酷い目に遭うから気をつけないと。
 <奴ら>がこっちに向かってこないように、警戒していた平野が井豪に振り返る。

「この辺りはよく知らないんですけど、合流する道までの道は分かってるんですか?」

 井豪は麗と少し顔を見合わせると、平野に説明する。

「大丈夫だ。この辺りは小学校の通学路だったから、麗がよく知ってるらしい」

「そういうこと。さ、ついて来て」

 麗と井豪の先導で、あたしたちは走り出した。


□ □ □


 激しく揺れるバギーの上に立つ毒島は、<奴ら>を見据えたままバギーを運転している小室に尋ねた。

「さて。嬌にはああ言ったが、どうするかね? ずっとこうしていても埒があかないよ」

 バギーの後方からは、数えるのも馬鹿らしくなるくらい大勢の<奴ら>が、奇妙なうめき声を響かせながら迫ってくる。
 その歩みは遅く、車で動ける二人にしてみれば亀が歩いているようなものだが、それでも数が多いので囮を務めるのは中々に重労働そうだ。
 とはいえ、今の毒島は御澄の真意を知り、わずかな時間とはいえ再会を果たせたことで気力が充実しており、不安はあまり無い。
 高城邸でのことについては忸怩たる思いだし、次会った時は御澄のことを叱らないといけないだろうが、助けようとしてくれたこと自体は嬉しかったのだ。
 せめて今だけは御澄が無事だったことを喜んでいたいと思う。

「なるべくたくさん引き付けてから、川に入ります。<奴ら>は水の中じゃ動けないから、安全なはずです!」

 小室は毒島にそう告げると、さらに引き付けようとややスピードを落としてバギーを走らせる。

 しばらくすると、見渡せる範囲にいる<奴ら>が全員バギー目指して歩いていた。
 その様を見て、小室は頭をかく。

「……ちょっと引き付けすぎたかな」

「君はやること成すこといつも極端だよ、小室君」

 さすがにちょっと呆れた様子の毒島に突っ込まれ、小室は軽く落ち込む。

「でもおかげであらかた引き付けられたことだし、そろそろ川の中へ行くのかな? 私はいつでもいいよ」

 少し楽しそうな表情の毒島の言葉に応じて、小室はバギーを川の方へと転進させる。
 急勾配の坂をバギーで下りていくと、釣られた<奴ら>が次々と坂に足を踏み出し、転げ落ちていく。
 その様子を横目で確認した小室がえっと驚きの声を上げた。

「あいつら階段は容赦なく上り下りしてくるのに、急斜面は下りられないのか!?」

 もしかしたらこれで倒せるんじゃないかと淡い期待を抱いた小室が川原に倒れた<奴ら>を注視する。
 だが残念なことに、<奴ら>は何事もなかったかのようにのそのそと起き上がろうとしていた。
 ほどなくして起き上がった<奴ら>は再び二人が乗るバギーに近付いてくる。

「駄目か……くそっ」

 険しい顔で悔しがる孝を毒島は真剣な表情で<奴ら>を睨んだまま、慰めの言葉をかける。

「簡単にうまくいくものでもないさ。当初の予定通り川に入ろう」

「そうですね。いきます」

 小室はバギーを川に進入させる。
 水陸両用の八輪バギーは水の中に入っても沈むことなく浮き上がったが、衝撃で水が跳ねるのまでは予想できず、二人とももろに頭から水を被ってしまう。

「冴子さん、大丈夫でしたか……って、うわわわ!?」

 振り返った小室は、困った様子で制服をつまむ毒島を見てとても慌てた。
 毒島の制服はびっしょりと濡れたせいで肌に張り付き、肌が透けて見えてしまっている。あろうことか、毒島がつけている紫色のブラジャーまでもが透けて見えている。
 不思議なもので、小室の目にはメゾネットで見たような下着姿よりも、かえって艶かしく感じられた。
 あの時毒島は堂々としていたが、今はちょっと恥ずかしがっているみたいなので、表情の違いもあるのかもしれない。
 とはいえ、裸エプロンは良くても下着が透けるのは嫌だという毒島の感性は、小室にはよく理解出来なかったが。
 なんとか透けずにできないものかと制服をつまんで持ち上げては離し、また持ち上げては離しを繰り返していた毒島は、まじまじと小室が固唾を呑んで見つめているのに気がつき、顔を真っ赤にして胸を隠す。

「見るな! 私も女だぞ!」

「は、はいっ、ごめんなさい!」

 反射的に叫んだ小室は前に向き直り、取り繕うかのように川辺に取り残されている<奴ら>の様子を確認しながら慎重にバギーを進ませた。
 目論見通り<奴ら>は川の中までは追ってこれないようで、川原で唸り声を響かせるばかりだ。
 その光景に安心した小室はバギーのエンジンを停止させ、思わず深いため息をつく。

「男子がため息をつくのは感心しないよ」

 顔を寄せた冴子に耳元で囁かれ、小室はドキッとしてあたふたする。

「あ、はい。でもちょっと冴子さん近過ぎ……」

「今はなるべく声を抑えたほうが良かろう?」

 動揺しながらも、もっともな話にこくこくと頷いた小室に、冴子はなおも問いかける。

「ところでこれからの算段はついているのか? 川に入れば確かに<奴ら>からは逃れられるが、川岸には<奴ら>が溢れたままだ。いつまでも水の中にいるわけにもいくまい。このままでは何の解決にもならんぞ」

「大丈夫です。ほら、あそこを見てください」

 そう言って小室が指し示したのは、川の真ん中に位置する中州だった。

「ほう、中州か……。考えたな、小室君」

 感心した様子の冴子に、小室は照れたように鼻を擦ってみせる。

「この辺りは意外と深いし流れも速いから、子どもの頃絶対に遊ぶなって何度も言われてたのを思い出したんです。あそこならたぶん<奴ら>をやり過ごせますよ」

 川の流れに任せて中州に乗り上げたバギーを、小室と毒島は二人がかりで上陸させる。

「うまくいくにしろ、いかぬにしろ、ひとまずはここで一休みだな」

 バギーに腰掛け、張り詰めていた気を緩めさせる毒島に、小室は川岸を見据えたまま声をかける。

「交代で見張りましょう。とりあえず冴子さんは休んで……」

 言いかけた小室の背後で、へくちっという可愛らしいくしゃみの音が響く。
 今のってまさか冴子さんのくしゃみなのかと意外に思って振り返った小室が見たのは、頬を染めて顔を逸らし、寒さに縮こまる毒島の姿だった。

「す、すまない。今ので身体が冷えてしまったようだ。こんなことになるとは思わなくて、荷物を取らずに出てしまったから……」

 どぎまぎして毒島の方を見ないように意識しながら、小室は自分の荷物を漁る。

「あの、それならとりあえずこれを」

 一番に目に付いた代えの黒いタンクトップを見つけると、毒島に手渡した。

「ありがとう」

 ちょっと嬉しそうな顔で受け取った毒島が着替えようとした手を止めて、ふと自分を見たままの小室をちらちらと見る。

「す、すみません!」

 その意味をすぐに察した小室は、慌てて川岸に顔を視線を戻し、警戒を再開する。
 後ろで微かに鳴る衣擦れの音に、小室は全身全霊で平常心を保たなければならなかった。
 あそこにいるのは先輩、先輩、あくまでただの先輩、可愛く見えても手を出したらたぶん死ぬ。あとで鬼がやってくる殺されるむしられるのは嫌だー!
 混乱し始める小室の頭に思い浮かんだのは、毒島の親友だという御澄という少女。毒島と同じく小室にとって先輩にあたる彼女は、毒島に対して並々ならぬ好意を寄せているようだった。
 それは少々同性に向けるものにしては行き過ぎているように見えて、異性に対するものと同じなんじゃないかと小室は密かに疑っていたりするが、当の本人に聞けるはずもなくモヤモヤした状態のままそのままにしている。
 彼女は別れ際にしっかり守れと釘を刺していったが、それが小室の耳には「手を出したらコロス」という意訳にしか聞こえず、小室は毒島に対して紳士的に振舞わねばならなかった。むしるという脅しが怖すぎる。いったい何をむしられるのか。

「もういいよ」

 悶々としているうちに毒島が着替え終わったようで、小室は声をかけられて振り返る。

「さ、冴子さん!?」

「うん? 何か変だろうか」

 狼狽しながらも視線は自分から動かない小室に、毒島は濡れて肌に張り付くようになった髪をポニーテールの形に括りながら尋ねる。
 変も何も、小室が思った感想は全く逆のものだった。
 全体的に雰囲気は一変しているが、相変わらず毒島は美しい少女だった。
 髪型が変わった毒島は、髪を下ろしていた時とはまた違った魅力があり、その魅力を小室のタンクトップを着ているという事実が助長している。
 艶かしい鎖骨のラインや、それとは対照的に無駄な贅肉無く引き締まり、鍛え上げられた筋肉を纏った身体のラインが、本来の美を損なうことなく単なる女性美ではない一風変わった魅力を形成している。
 そして何よりも一番の問題は、毒島がブラジャーを付けていないということだ。一行の中では小さめだが、それでも十分に大きいといえるバストがタンクトップの中に押し込められ、乳首が布越しでも分かるほど浮き出ている。
 元々毒島が常人とは一線を画した美少女であるという事実に加え、このインパクトは小室の理性に著しい衝撃を与えていた。

「違います! 変というわけじゃなくて、むしろ逆にその」

 慌てて目を瞑って言い訳をする小室は、そうっと目を開いたことで自分を見つめる毒島の横乳がタンクトップでは隠し切れずに見えそうになっていることに気付き、またあたふたする。
 その一部始終を見ていた毒島は、微笑ましいものを見るような顔で目を細めた。

「小室君は私をいつも女として見てくれるな」

 女と見られるのが嫌いなのかと早合点した小室は、慌てて言い繕う。

「あ、もしかしてそういうの嫌だったり……」

「いいのだ。私は女だよ?」

 返された返答はどこか嬉しげなもので、そうなると小室としてはいても立ってもいられないほど浮き足立った気持ちを隠すため、視線を逸らすしかない。
 沈黙が気まずい小室は、何とか話題を探そうとしてポロッと口を滑らせる。

「あ、あの。冴子さんってやっぱり御澄先輩とそういう仲なんですか?」

「何故そう思うのかね?」

 意表を突かれたであろうに、それを態度に見せることなく目を興味深そうに細めて聞き返してきた毒島に、逆に小室の方が慌ててしまった。

「いや、あの、だっていつも一緒にいるし、御澄先輩はあんな人だし」

 しどろもどろな小室の言葉に答えることなく、毒島はただ遠くを見つめる。

「……有り得ないよ」

 その言葉は小室が気まずさによる沈黙に耐え切れなくなってきた頃、ぽつりと呟かれたのだった。



[20246] 第二十五話(四巻終了) NEW
Name: きりり◆4083aa60 ID:a640dfd1
Date: 2013/03/31 13:59
 それからしばらくして、服が乾きある程度<奴ら>が少なくなったのを見計らい、川岸から道路に出た二人は、再び増えてきた<奴ら>をバギーで弾き飛ばしつつ走っていた。

「どうするつもりなのだ! これでは中州に逃げ込む前と同じだぞ!」

 疾走するバギーの上で手摺につかまってバランスを保つ毒島に、小室は運転しつつ答える。

「次の角を曲がれば分かります!」

 小室の宣言通り角を曲がったバギーの先を見て、毒島は怪訝な顔をする。

「公園?」

「別にダンボールのお家を作るわけじゃないんで安心してください!」

 目論見通りになったことにホッとしつつ軽口を叩く小室は、そのまま公園の中央にある噴水目掛けてバギーを走らせていく。
 そのまま噴水にバギーは飛び込み、せっかく乾かした服をまたしてもずぶ濡れにされた毒島は抗議の声を上げた。

「君は女を濡れ鼠にする趣味でもあるのか!」

「そこのバックパックからテープを取ってください!」

 取り合わずに手を差し出す小室に、毒島はとっさに意図が掴めずきょとんとしつつも、探し出したテープを手渡す。
 バギーのハンドルをテープで固定した小室は、毒島に得意げな顔で振り返る。
 ハンドルごとアクセルを固定されたバギーは、小室が運転せずとも噴水内を走っていた。
 走る際のエンジン音と水音に加え、噴水にバギーがぶつかるたびにゴンゴンと音を立てているので、かなりやかましくなっている。
 <奴ら>が噴水に集まってくるのを見た毒島は、ようやく納得がいったと唇を歪める。

「そういうことか。これで<奴ら>のを気を引き、その間に私たちは脱出するわけだね」

「東側の出口からが一番近いです。あと、音が出るんでなるべく銃は使いたくないんですけど……」

 お願いできますか? とバックパックを背負い銃を持った小室に暗に聞かれ、毒島はそっと木刀の代わりに新しく愛刀になった小銃兼正村田刀に手をかけた。

「なるほど」

 刀の柄に手をかけて佇む毒島の姿は、いまだ静謐。自然体で立つその佇まいは、まるでこれが散歩の途中であるかのような気負いの無さ。
 だがそれも、鯉口が切られるまでのことでしかない。
 白刃が身を覗かせていくごとに纏う気配は鋭さを増して剣呑なものとなり、毒島の身体は戦闘態勢へと移り変わっていく。
 噴水の淵に立つ毒島の足に力が篭められ、その姿が低く低くたわんでいき、力を十分に溜め込んだその瞬間。

「承知した!」

 叫んだ毒島は力強く地を蹴り、身を宙に踊らせていた。
 右手には抜き放たれた抜き身の刃。
 見事な跳躍でホームレス姿の<奴ら>の傍に着地した毒島は、近付いてくる<奴ら>を見て怯えるのではなく、逆に好戦的な眼差しで睨みつける。
 血の臭いに混じる隠し切れない特有の悪臭を嗅ぎ、それらを以て明確な敵と認識した毒島の唇がゆっくりと笑みの形に吊り上がっていく。

「臭いな。せめて髪だけでも洗ったらどうだ」

 軽口を叩いた瞬間、毒島の筋肉が躍動する。
 一閃。
 勢い良く振るわれた村田刀は、鮮やかな軌跡でホームレス姿の<奴ら>の首もとに吸い込まれ、その首を一刀のもとに斬り飛ばしていた。
 胴と分かたれた<奴ら>の首は慣性の法則に従い、勢い良く宙を飛んで噴水に落下する。
 刀を振るう姿のあまりの美しさと技量の高さに、小室は声を失って毒島に見蕩れた。
 得物を通して伝わった肉と骨を断つ生々しい感触に、知らず知らずのうちにうっとりとしながら、毒島は『敵』たちに語りかける。
 手加減など、要らない。
 食い殺したいのならば全力で掛かってくるがいい。
 それでこそ、闘う悦びも一際増すというもの!

「さあ……遠慮は無用だ!」

 剣鬼の蹂躙が始まった。
 反応も許さず、逃走も許さず、突進する毒島の進行方向にいる<奴ら>は容赦なく斬り捨てられる。
 恐ろしいのは、その全てが一太刀で迷い無く行われていることだ。
 毒島が刀を振るうたびに振るった数だけ、いやそれ以上に<奴ら>が斃れ、出口への道筋が真っ直ぐ形作られていく。

「すげぇ……」

 後ろを進む小室の傍らで、勢いよく<奴ら>の頭が上下に分かたれ吹っ飛んでいった。
 それを成した毒島はすでにそこにはおらず、前方に走り込み次の<奴ら>を屠っている。
 このままなら簡単に抜けられそうだと小室が思うほどに、毒島と<奴ら>の戦いは一方的だった。
 だがその快進撃が、あともう少しで出口に辿りつくというところでぴたりと止まる。
 村田刀を振り上げた姿勢のまま呆然とする毒島の前には、幼い子どもが成った<奴ら>の姿。
 興奮が冷め、ゆっくりと毒島の頭が冷えていく。
 同時に、心の中を恐怖が覆い尽くしていった。
 幼子の成れの果てを目にしながら、毒島は自問する。
 今、自分は何をしていた。
 <奴ら>を斬った。それは当然だ。斬らねば後ろにいる小室を守れない。
 だが自分はそれを愉しんではいなかったか? あまつさえ骨と肉を断つ感触に酔い痴れ、我を忘れてはいなかったか?
 高城邸で親友に肯定されたこの性格。彼女は好きだと口にしてくれた。それによって受けた被害も、全てかけがえのないものなのだと言ってくれた。
 それはとても嬉しいこと。
 しかし。
 こうもあっさり意味もなく暴力に酔ってしまえる自分は。やはり。

「何してるんです、冴子さん!」

 <奴ら>の目前で無防備に立ち竦んでいる冴子に気付いた小室が、自分に近寄ってきた<奴ら>をイサカの銃床で殴り倒し駆け出す。

「あ……」

 まるで<奴ら>に怯えるただの少女のような覇気の無さで、毒島が背後から走ってくる小室に振り向いた。
 それは最悪の行動だった。
 自分たちから完全に目を離し隙だらけになった毒島に、子どもの<奴ら>が襲い掛かっていく。
 いつもの彼女らしくない毒島の失態に、小室は焦りが募り吐き捨てる。

「どうしたってんだよ……!」

 命の危険を感じてようやく我に返った冴子が振り返るが、すでに<奴ら>はとっさの動きではどうにもできないほど目前に迫っている。
 どうあがいても、もう回避も防御も間に合わない。
 今からではどうしようもないと毒島が悟った瞬間、彼女は険しい顔の小室によって脇に押しのけられていた。
 代わりに突き出されるイサカの銃口。
 銃声が鳴り響き、子どもの<奴ら>が頭の大部分を損失して倒れ伏す。
 瞬間、今まで噴水を走るバギーに引き付けられていた<奴ら>が、一斉に小室たちの方に振り向いた。
 一発限りでも、より大きな音が鳴った方角に反応したのだ。

「こっちです! 急いで!」

 こうなればもう悠長に相手などしていられない。
 小室はまだ動きが鈍い毒島の手を引き、進行方向に立ち塞がる<奴ら>に向けてイサカを発砲することで吹っ飛ばし、強引に進んでいく。
 そんなことをすればさらに<奴ら>を呼び集めることになるのは言うまでもない。

「くそっ、増えてきた……!」

 自分たちを取り囲むように集まってくる<奴ら>に追い立てられ、小室と毒島は予定していた合流地点への最短コースから外れていく。

「まだダメか……。まずいな、このままじゃ振り切れないぞ」

 追いすがる<奴ら>たちから逃げ惑いながら、小室は立て篭もれる場所を探す。
 神社の鳥居と石段を見つけ、小室は笑みを浮かべた。

「そうだ。ここなら……」

 毒島の手を引き、長い石段を小室は登っていく。
 石段を登りきった小室は余勢そのままに本殿に駆け込み、閂をしっかりとかけた。
 御神体などが祀られている本来ならば入ってはいけない場所だが、命の危機が迫っている今はそんなことを言っていられない。

「冴子さん、いったいどうしたと──」

 言いかけた小室が見たのは、御澄に置いていかれた時のように落ち込み、力なく座り込む毒島の姿だった。
 すっかりしょげ返っているその姿を見て、小室はそのまま言葉を飲み込み、別の言葉をかける。

「今の装備で夜出歩くのは危険です。今日はここで朝を待ちましょう」

 小室一人ではとてもではないが合流地点に辿り着けない。毒島には何としても、夜が明けるまでに立ち直ってもらわねばならなかった。
 とりあえず何かないかと本殿の中を探し回る小室は、燭台と蝋燭が入った箱を見つけ顔を綻ばせる。

「お。これなら暗闇ですごさなくて済みそうだ」

 手持ちのライターで火を点けた蝋燭を床に置いた燭台に立てると、小室はバックパックから敷き布を取り出し広げる。
 本堂の隅に隠れるように座る毒島は、作業する小室を暗い瞳で見詰めて呟いた。

「何も、尋ねないのだな」

 手を止め、小室は毒島に振り返る。
 返答には少し間があった。

「冴子さんがあんなふうになるなんて、よほどの理由でしょう。そりゃ気にならないって言ったら嘘になりますけど、無理に聞き出そうとは思いませんよ」

 一通りの作業を終えた小室に、毒島は声をかける。

「……君には何の意味もないことだが、聴いてもらえるだろうか?」

 恐る恐るかけられた毒島の問いかけに、小室は敷き布の空いたスペースを示す。

「まずはこっちに来て座ってください。そのままだと冷えますよ」

 立ち上がる気力もなく手と膝を動かして近付いてきた毒島に、小室はバックパックを漁ってあるものを取り出し、差し出す。
 必要なものだと思ったから持ってきたものの、他人にしかも憧れの対象であった異性に手渡すのはかなり恥ずかしかったが、小室は耐える。
 怪訝な顔でそれを見る毒島に、顔を近付けそっとささやいた。

「携帯トイレでございますよ、冴子さま」

 それを聞いてきょとんとした顔で小室を見上げた毒島は、小室が耳まで真っ赤にしているのに気付く。
 こんな時だというのに間の抜けた行動と可愛らしい小室の反応に、毒島は思わず噴出した。
 目尻に涙を浮かべ、両手で口を押さえて笑い続ける毒島に、小室は少々大げさにおどけて答える。

「笑うなんてひどいなぁ。これでも学校の時みたいに困らないようぼくなりに考えてですね」

 毒島は首を横に振り、目尻に浮かんだ涙を拭う。

「違うのだ。嬉しい。嬉しいよ」

 小室は毒島の顔を見てドキリとした。
 口から手を離した毒島は、まるで可憐な少女のように微笑んでいた。
 いつもの刀を振るって<奴ら>と戦う勇ましい姿からは、到底想像もつかない儚い姿。
 やがて微笑むのをやめて下を向いた毒島は、搾り出すように声を出す。

「……思い出してしまったのだ、かつて抱いていた虞を」

 <奴ら>の相手をしていた途中で毒島の様子が急変したことを思い出し、小室は自分なりに考えて原因を挙げてみる。

「小さな子の<奴ら>がいたから……とか?」

「困ったことに、そういうわけではないのだよ」

 そんな理由であれば、まだどれだけ良かったかと毒島は述懐する。

「君は中州で、私と嬌が好き合っているかどうか聞いてくれたな」

「あ、あれはその!」

 血迷って踏み込みすぎた質問をしていたことに小室は今更ながら気がつき、慌てる。

「いいのだ。私も嬌と同じような感情を抱いていることは否定しないよ。しかし、この気持ちを彼女に伝えようと思ったことはない。彼女が本当に私を好きだとはどうしても思えないのだ」

「でも、好きじゃなかったら冴子さんのためとはいえあんなことをするはずが……!」

 その時小室の脳裏を過ぎったのは、御澄がバスを奪い高城邸のバリケードを破壊した時のこと。
 本当に毒島のことが嫌いなら、自らの立場が悪くなることを承知でそんな手段を取ろうとするだろうか。

「過去に私が原因で、彼女が強姦されたことがあってもかね?」

 言い募ろうとした小室は、毒島の台詞の異質さに思わず動きを止める。
 黙りこんでしまった小室を見て、毒島はやはりそうだろうな、と自嘲する。

「昔……夜道で男に襲われていた少女を助けたことがある」

 今でも毒島のその時の光景をありありと思い出せる。
 それは、自分をつけていた少女が逃げ出したすぐ後のこと。
 きっとその光景は、傍から見れば通りかかった剣道少女が正義感を発揮して少女を助けた一幕にしか見えなかっただろう。

「襲われる前に助けてやることこそ出来なかったが、代わりに携えていた木刀で男を半死半生に追い込んでやった」

 女の子のピンチに颯爽と登場した、勇敢なヒーロー。
 誰もがその光景を疑わなかったに違いない。
 一皮剥けば、そこにどんなにおぞましい感情が作用していたとしても。
 見えなければ、気付かないものにとってはそんなもの無いのと同じことだからだ。

「少々やり過ぎてしまっても、少女が私をかばってくれたこともあって、警察が私を罪に問うことはなかったよ」

 警察だけでない。病院の医師たちも、少女の母親も、少女自身ですら、誰一人として毒島を責めなかった。
 それどころか少女は自らの身に起こった不幸を嘆くのではなく、毒島と友達になれたと、そんな些細なことを一生の宝物を得たかのように喜び、嬉し泣きまでした。
 退院した後もまるで妹のように毒島に懐き、アヒルの子どものように後ろをちょこちょことついて歩きたがった。
 男に襲われたことなど、まるでただの悪い夢でしかなかったのだというように。
 まさか気付いていないはずがない。それは少女自身が肯定している。毒島から逃げ出してすぐ少女は男に襲われた。少女を追いかけていた毒島は、少女が襲われた時男の声すら聞こえるような距離にいた。遅れるなど有り得ない。それほど毒島は近い場所にいた。
 なのに少女が皆にした説明は、襲われる前には誰とも会っていないという、毒島の立場を保障するものだけ。
 かつて毒島が御澄と初めて言葉をかわした、苦々しくも大切な思い出の一つ。

「でも、確かにやり過ぎたのは問題かもしれないけど、間に合わなかったのは別に冴子さんのせいってわけじゃ!」

「私を縛っているのは、間に合わなかったことではない」

 毒島は自らを嘲笑う。
 それは本当に自嘲の笑みだったのか。それともその時に感じた悦びを思い出したことによる興奮だったのか。
 唇が歪み、醜い微笑みを毒島は浮かべる。

「──わざと遅らせたのだ」

 ぽつりとこぼした言葉が宙に消えると、毒島は身を乗り出し小室に言葉を叩きつける。
 その言葉が記憶によって反芻される快感とともに、自分自身の心をも傷付けていくと知りながら。
 普段の毒島ならばあのような愚かな選択はしなかっただろう。
 だがその時の毒島は、直前に少女を痴漢と間違えたことにより、自分でも知らないうちに期待していた暴力を振るう機会を失ったことになり、膨れ上がった欲求のはけ口を無意識に求めていた。
 さらに言うなら、少女は毒島にとって初恋の人だった剣道部の先輩と付き合っていて、少女に対して当時の毒島は恥ずべきこととは知りつつも、心の内にわだかまる嫉妬心を消せないでいた。
 どちらかだけなら、きっと毒島はすぐに飛び出すことができていた。そうできるだけの自制心が毒島にはあった。
 だからきっとそれは、お互い巡り合わせが悪かったのだ。

「彼女を襲われるよりも早く助けることが出来たのに! あろうことかすぐ助けてしまっては満足に力を振るえないと私は己に言い訳し──見過ごしたのだ!」

 ぎり、と毒島の手に力が篭められ、敷き布越しに床に爪が立てられる。
 己に対する怒りによるものか、手には筋肉の筋が走り、指先は力を篭め過ぎて白くなっている。

「どうしようとも言い逃れが出来なくなった状況を見計らい、私は男に襲いかかった。予想通りだったよ。楽しかった。本当に楽しくてたまらなかった。男に暴力を振るったことも、被害者の少女を見捨てたことも、私にとっては全てが等しく悦楽だった」

 今でもその時のことを思い返すと、毒島は思わず自分を斬り殺したくなる衝動に襲われる。
 男が倒れ、凶行の余韻が覚めやらぬ中。
 何の感情も映さなくなった彼女に虚ろな目で見つめられていることに気がつくまで。
 当時の毒島は、彼女を見捨てたことについて、助けなかったことに対する後ろめたさ以外何も感じていなかった。
 あの状況で見捨てるという行為がどういう結果を生むのか頭で理解してはいても、それが少女の心にどのような爪跡を残すのか、全く実感出来ていなかったのだ。
 毒島は感情の昂ぶりとともに、声を上ずらせ身を乗り出す。

「分かるか? 小室君。これが真実のわたし。嬌が好きだと言ってくれた毒島冴子の本質なのだ。力に酔い、挙句の果てに身勝手な嫉妬で彼女を犠牲にしてしまった私が、当の彼女に好かれているなど。本当に有り得ると思うかね?」

「でも、御澄先輩は」

 これだけ言ってもまだ言い縋ろうとする小室に、毒島は苦笑した。
 毒島は御澄のことを親友だと思っているし、これからも御澄が許してくれる限り親友でいたいと思っているけれど、御澄の真意だけはいつもよく分からない。
 あんな目に遭ったのにどうして笑っていられる。
 原因を作った相手に、友達になってなどと何故頼める。
 自分を見捨てた相手に、どのような理由で好意を示せる。
 御澄はよく、自分が毒島を守ると口にするが、それが身の丈に合った発言でないことくらい、御澄自身すら分かっているようだった。
 ならば、それは暗に毒島に自分を傷付けた責任を果たせと迫っているということではないのか?
 落ち着いて考えれば一笑に付すような考えであっても、一度疑心暗鬼に陥った心は止まらない。
 親友という位置にいつも御澄がいてくれたからこそ、それが目に見える戒めとなって毒島はそれ以上狂気を育まずに正常な人としてここまで来れたのだ。
 けれど、いつだって本当は心の奥底で恐れていた。
 同性に対するものとしては、自分が御澄に向ける情が深すぎることくらい、毒島だって承知している。だがその情愛は全て悔恨を源泉として育まれたものだ。
 自らの過ちを後悔しているからこそ慈しみ、守りたいと願う。そうして生まれた感情を、果たして愛情と呼べるのか。仮に呼べるのだとしても、そこに義務感が混じってはいないと否定できるのか。
 毒島が御澄に抱く愛情の中に、「彼女が望む自分であり続けなければならない」という一種の強迫観念が含まれているのと同じように、御澄が毒島に向ける愛情に、表裏一体の憎悪からくる執着心が含まれていないと誰が断言出来るだろう。
 恨んでいないはずがない。毒島も女であるから、処女というものが女にとってどんなに大切なものであるかはよく知っているつもりだ。本来ならばもっと別な形で違う相手に捧げたかったろうに、毒島のせいであんな形で奪われる羽目になってしまった。

「彼女は私を守るためならば、回りに災厄を振り撒くことを厭わなかった。それこそが、今もなお彼女が心のどこかで私を恨んでいるという証明に思えてならないのだ──」

 でなければ、親友を守るためとはいえどうしてたくさんの人間を犠牲にできるのか。
 誰だって禁忌を犯すことを恐れる。それが正常な人間の反応というものだ。
 普通の人間ならば躊躇してしまうようなことを御澄がやれてしまう理由を毒島は他に思いつかない。
 それでも、慕ってくれた彼女のために傍にいたいと思っていた。
 自分の醜い本性だって、押さえ込めると信じていた。
 その結果が、これだ。

「噴水の前で気付かされたよ。私はあの時のまま、何一つ変われてなどいなかった。それどころか、彼女と離れただけで酷くなる一方だ」

 それきり毒島は再び黙り込み、喋らなくなる。
 夜が更けても毒島の心が回復する兆しは無かった。
 最低限取らなければならない睡眠時間のことを考えると、このまま毒島を戦闘力として数えられないままでは、明日合流地点まで辿り着けるかどうかは非常に危うい。
 多少荒療治になろうとも、約束を破ることになろうとも、毒島が抱く悩みを払拭させてやらなければいけない。
 宮本や御澄を怒らせることになろうと、死んでしまうよりかはマシだ。
 小室は宮本にもう一度会いたかった。確かに年頃の男であるから、他の女性に目を奪われてしまう部分が無いとはいわない。
 だが本来の小室は、宮本が井豪と付き合い始めても小さい頃にした約束を忘れられないでいるほど、宮本に一途な男だ。
 生きて再び宮本と巡り合うためならば、何だってしてやると小室は覚悟を決めた。
 最後の手段に賭けるしかない。
 毒島の手を取り、心の中で御澄に謝りながら身体を近付けていく。
 初めの方こそ戸惑った様子を見せた毒島だったが、彼女にも思うところがあったのか、やがて小室と同じように身体を近付けていった。
 それから先の話は小室と毒島にしか分からない。
 ただ一つ確かなのは、この日を境に毒島の一番が入れ替わるような、そんな出来事が起こったのだということだけ。


□ □ □


 朝になった。
 出発する準備を終えた小室が恐る恐るゆっくりと本殿の扉を開けると、穏やかな葉鳴りの音と、<奴ら>が出現するまでと変わらない長閑な鳥の声が出迎える。
 とりあえず目に見える範囲を確認した次第では、<奴ら>はいないようだった。
 ホッとした小室は、最後の手段を試した結果後ろでスカートの位置を気にすることになった毒島に合流場所までの予定を伝えようとする。

「裏から道に出ます。みんながいる場所まで、ここからなら歩いても二十分で着きますから──」

 囁くように紡がれた小室の言葉は途中で遮られた。
 遮られざるを得なかった。
 特徴的な亡者のような唸り声と共に、<奴ら>が正面の石段から、横の林から、次々と現れたからだ。

「なんでだよ!?」

 叫んでも結果が変わらないことを理解していても、小室は叫ばずにはいられなかった。

「葉鳴りの音でなのか!? もっと大きな音が無いからか!?」

 尋ねようにも周りには<奴ら>と、結局最後の手段まで使ったのにいくら手を尽くしても駄目だった毒島がいるだけ。
 返事など返ってくるはずもない。
 我に返った小室は、頭を冷やそうとイサカの銃床で額を打ち付ける。

「冴子さん、このまま走って逃げましょう! 今ならまだ間に合うかもしれない!」

 一縷の希望に望みをかけて毒島に話しかけても、毒島はまだいつものような覇気が戻らず、反応を返さない。
 それどころか、<奴ら>が近付いてきているというのに、観念した様子で目を閉じてしまう。
 もはや毒島の心は数千に乱れ、自分にとって一番大切なものが何なのかも判然としない状況だった。
 生きて帰ったところで、こんな身体でどんな顔をして自分を慕う少女の前に出ればいいのか。
 ずっと親友でいてくれた子を、最後の最後で裏切ってしまった。
 暴力に酔ったあげく、親友の心の奥底を勝手に恐れて手近な救いに逃げてしまった自分は、このまま戻っても彼女を傷付けるだけだろう。
 そうなるくらいなら、いっそここで死んでしまった方がいいのではないか。
 彼女だって、案外悲しまないかもしれない。
 ならばやはり、死ぬべきだ。

「冴子!」

 自分を呼び捨てにする声が聞こえ、毒島は顔を上げた。
 誰だろう。
 最上級生である己の名を呼び捨てにする相手はそう多くない。一番可能性が高いのは、やはり親友だったあの子だろうか。
 考えた瞬間、心の内に歓喜が湧き上がる。
 あの子が来てくれた?
 しかしすぐに現実を思い出し、希望は落胆に変わる。
 彼女は自分がここにいることを知らない。来れるはずがない。
 だとしたら、誰?
 疑問の答えはすぐに出た。
 毒島の後ろに回った小室が彼女を抱き締め、その身体をかき抱いている。

「理由なら僕が与えてやる!」

 それは毒島にとって、初めての経験だった。
 女という己の性を嫌でも自覚させる、胸に当たる彼の手の感触。
 締め付けんばかりの力が腕に篭められているせいで息が苦しい。
 耳元で猛る生きたいと願う彼の叫びが強過ぎる。
 何よりも、小室に胸を触られただけでただの乙女のように動悸が早くなってしまうこの身体が、心に痛かった。

「例えお前が誰に嫌われようと、生きている限りぼくはお前を好きであり続けてやる! お前を最高の女だと信じ抜いてやる!」

 ガツンと頭に衝撃が走る。
 そんなことを男に言われたことなど、ただの一度も無かった。
 同じようなことを言ってくれたのは親友だけ。その親友も同性だ。こんな頭にハンマーを叩きつけられるかのような強烈な衝撃を伴いはしない。
 彼の声を聞くたびに、この沸き起こる名状しがたい感情。
 その名前を、毒島は知らない。

「だから死ぬな! 彼女に会うまで、ぼくを死なせるな! 頼む、ぼくのため、全ての罪と共に、本当のお前であり続けろ!」

 叫び声が木霊する。
 絶叫を聞いた瞬間、毒島は本能的に、もう何も自分の心を偽らなくていいのだと理解した。
 かつて親友である彼女が言ってくれたように。
 暴力に酔う己の性癖を恥じることも、親友の本心を恐れ、自分の心に蓋をすることも、もうしなくていいのだと分かった。
 過去の行いに囚われ続ける必要はもうない。
 全ては心の思うままに。彼がそう言ってくれた。
 ならば全力で、新たなる誕生の産声を上げよう。
 しばらくして、毒島はゆっくりと身体を抱き締める小室の手を取った。

「ありがとう。もう、大丈夫だ」

 我に返った小室が慌てて手を離すと毒島はゆっくりと前に出て小室に振り返る。
 昨日と同じ、凛々しさを失ったただの少女のような顔。
 けれどその身体からは、再び立ち昇りつつある覇気がある。

「嬉しいよ。孝」

 毒島は涙ぐみながら微笑んでいた。
 信じられないほど気持ちは晴れやかで、気が沈んでいた時はあれほど重かった身体が嘘のよう。
 今まではかすかに感じていた、身体を鈍らせる<奴ら>への恐怖すらもうない。存在しないのではなく、程よい緊張感に取って代わられたのだ。
 まるで本当に生まれ変わったような高揚感を毒島は感じていた。今ならば何だって出来るような気さえする。
 それは誇張ではなかった。それだけの修練を毒島は積んできた。時には一人で、時には御澄と二人で。
 ならば何を恐れることがあろうか。
 <奴ら>に向き直ると構えを取り、村田刀の柄を握る。
 心に吹き荒れる、これから味わうであろう暴力への悦び。
 今までは必死に押さえようとしてきたそれを、押さえずにあえて撒き散らす。
 恥じる必要はない。
 今の自分には、全てを受け止めてくれる彼がついている。
 彼女に会ったら、今まで聞けなかったことを聞こう。彼女が愛を求めているというのなら、今度こそ心の赴くままに与えてやろう。
 さあ、そのためにも早く始めよう。生きて彼女に、会いに行くのだ。
 地を蹴り、抜刀。
 他の<奴ら>は目もくれず、一直線に突き進む。
 狙うは奥に離れて立っている、孤立した<奴ら>ども!
 太刀を振り切った瞬間、毒島は笑い声を上げていた。

「これだ!」

 天高く三つの首が舞い、遅れてまだ残っていたのか<奴ら>の胴体から血が吹き上がる。
 心躍る剣舞を止められない。止めようとも思わない。
 両側から挟みこむように迫ってくる<奴ら>を自分により近い左から斬り、即座に反転しもう一匹を斬る。
 斃れる死体には目もくれず再び駆け出し跳躍、<奴ら>の頭を踏みつけ蹴り倒しながら着地し、村田刀を逆手に持ち替え突き刺す。
 骨を貫き、脳をかき回すこの痺れるような感触。
 血刀を手に、ただ、衝動の命ずるまま、叫べ。

「これなのだ!」

 背後から追い縋ってきた<奴ら>を振り返りざまに袈裟斬りにする。
 斬らせろ。
 もっと、斬らせろ。
 もっと、もっと味わいたい。
 欲望に任せて<奴ら>目掛けて突進し、すれ違いざまに次々と斬って捨てる。
 自分がどこを目指しているかなどもはや二の次。
 今はただ、<奴ら>のみを追い求める。

「たまらん!」

 少々やり過ぎてしまったようで、気がつけば三匹の<奴ら>のただ中。
 だが恐怖はない。
 恐れるに足りない。
 迫ってきた<奴ら>を前に、この程度動くまでもないと一回転。
 円を描くように勢いを増し剣閃三連、全ての胴体を斬断する。
 もうずっと、顔は歪んだ笑みを形作ったままだ。
 性の交わりなどよりもはるかに感じるこの悦楽。これは。これは。
 迸る感情に任せ、ただ叫んだ。

「濡れるッ!」

 <奴ら>を斬り続けながら毒島はしみじみ思う。
 どうして今の自分に嫌いだと思えるような人間がいないのかと。
 残念でならなかった。
 御澄に生まれ変わった自分を見て欲しかった。おぞましくも美しいこの姿を見て欲しかった。
 誰よりも先に彼女に見てもらい、そして伝えたい。
 これが私だ。本当の私なのだと。
 そして叶うなら、彼女と共に、この欲望の渦の中に溺れてしまいたかった。

「冴子、こっちだ!」

 包囲を突破した小室が叫んでいる。
 もう終わりかと不満に思った毒島は、すぐに唇を吊り上げる。
 <奴ら>はどこにでもいる。それら全てを斬り捨てない限り、当面の楽しみが無くなることは有り得ない。
 高ぶる気を静め、小室の後を追いかけた。
 前を往く小室に話しかける。

「……孝」

 完全に正道から外れてしまった毒島は、剣士としても人としても、邪道に突き進むしかなくなった。
 そのことに虞よりも期待を抱いていることこそが、その証拠。
 心を解放する快感を知ってしまった以上、もう元の自分には戻れない。
 だから。

「責任……取ってくれるね?」

 少しくらい、欲張ってみてもいいと思うのだ。
 彼女が自分のことをどう思っていようと、毒島は今後絶対に彼女を離さない。
 同じように、彼もまた、いつか。

「望むところ!」

 今はただ、果て知れぬ恋の予感に酔い痴れよう。
 こうして二人は、合流地点であるショッピングモールに辿り着いた。



[20246] 死亡シーン集
Name: きりり◆4083aa60 ID:8aa228eb
Date: 2013/03/02 23:54
第一話選択肢

→1.効率優先。1人で取りに行く。
 2.安全優先。2人で取りに行く。


 冴子は心配そうな顔をして同行を申し出てくれたが、あたしが時間が惜しいからと断ると、渋々ながら納得してくれた。
 こういうのは、親友としてでも冴子に大切に想われているのが分かるので嬉しい。ちょっと心が温かくなった。冴子のためにも、冴子の命を脅かさない範囲で頑張って生き延びたいと思う。
 表情を改めた冴子と、最後に言葉を交わした。

「私は剣道部の部室に行って木刀を取ってくる。別行動になるが、気を抜くな。思わぬ所に<奴ら>がいるかもしれない」

「教室棟や管理棟と比べて通路が狭いものね。出会ったら逃げられない」

「そういうことだ。万が一<奴ら>がいたら呼んでくれ。すぐに駆けつけよう」

「そっちこそ1人で無理しないでね。何かあったら呼んでよ」

 冴子と別れて弓道部の部室に入る。
 部室の中は昨日弓道具を片付けに来た時と全く同じ状態だった。10畳ほどの部屋の中に所狭しと物が詰め込まれており、動き辛い。
 あたしは弓を取り出し、ざっと状態を確認する。
 この弓はついこの間手に入れたものだ。今までは使い慣れた古い弓を使っていたのだが、いい加減年季が入っていたし主将に抜擢されたので、それを機に新しい弓を購入した。今まで使っていた弓よりも扱い辛いが、慣れてしまえばそれほど気にならない。
 何より良くしなり、矢が飛ぶ。今の状況では頼りになる相棒と言えるだろう。

「……問題は矢ね」

 私物としては、カーボン矢を2パックしか持ってきていない。緊急事態ということで、こっそり他人の矢をパチることにする。
 金属シャフト矢を3パック、カーボン矢を3パック、遠的用のカーボン矢を2パックちょろまかす。
 全て1パックに6本ずつ矢が入っているので、あたし自身の矢を合わせて全部で60本の矢を手に入れたことになる。

「これでよし、と」

 早速自分のカーボン矢を私物の矢筒に12本全部入れた。あたしの矢筒は小さめだが、それでも12本くらいなら楽々入る。
 頻繁に出し入れすることを考えると、あまり詰め込みすぎるのも良くないので、これくらいが懸命だろう。
 矢筒を背負い、残りの矢をバッグに詰める。弓を射るには1度バッグを置かなければいけないが、仕方ない。
 続いてゆがけと胸当てを探そうとしたあたしは、部室のドアの外に張り付いているモノを見つけてしまい、思わず硬直してしまった。

 <奴ら>だ。上唇を喰い千切られた男子生徒の<奴ら>が、歯を剥き出しにして、覗き窓越しにこちらを焦点の合わない死んだ魚の目で見ている。

「しまった、鍵かけてない……!」

 あたしはドアノブを見て、反射的に思わず叫ぶ。
 弓道部の部室はドアが壊れていて、鍵をかけないと押しただけで開いてしまうのだ。
 <奴ら>が部室の中に入ってきたのは、あたしが叫んだのとほぼ同時だった。
 出入り口は<奴ら>に塞がれている。背後の窓から逃げようと後退ったが、物に躓きバランスを崩してしまった。

「来ないで! 来ないでってば!」

 部室棟に着くまで冴子に守られてばかりいたあたしは、結局自らの手を汚してでも生き残るという覚悟が足りなかったのだろう。
 実際にこうして独りきりで<奴ら>に襲われて、手元に武器があったにも関わらず、気が動転してただ逃げることしか出来なかったのだから。
 だから、これは当然の結果。
 何とか窓際に辿り着いて窓を開けたところで<奴ら>に捕まったあたしは、無理矢理引き倒されて首元に喰い付かれ、肉を喰い千切られた。
 その瞬間は、多分絶叫したのだと思う。激痛のショックで明滅する視界の中、見慣れた部室に、首から噴出す鮮血が彩りを加えるのが見えた。

「あ、あ……!」

 首元の傷口から噴水のように血が噴出していくのを反射的に手で押さえるが、それこそ慰めにすらならない。手の隙間から血が溢れ、こぼれ落ちていく。
 痛みを通り越して、焼け付くように傷口が熱い。そのくせ身体は急激に血を失って、末端から冷え込んでいく。声を出そうにも首元を喰い千切られたせいで、物理的にも精神的にも掠れた声しか出ない。
 遠くから冴子の声が聞こえた。普段の冷静な態度からは想像もつかない、余裕を失った冴子の声。
 あたしの絶叫を聞いてこちらに来ようとしているのだろう。途中の通路で<奴ら>に絡まれたのか、冴子の切羽詰った怒号が聞こえた。
 こんな時にも関わらず、あたしは不思議と幸せな気分になってしまった。時間はかかっても、冴子が助けに来てくれる。あたしのために来てくれる。それがとても嬉しかった。
 残念なのは、その間にあたしの身体は<奴ら>に貪り喰われてしまうだろうから、助けは絶対に間に合わないということだ。血が一気に流れ出たせいか意識がぼんやりとしてきて、もう痛みだって遠退いてきた。それだけ死が近くなっている。
 死んで<奴ら>に喰われているあたしを見て、冴子は何を思うだろうか。義理堅いから、多分仇を討ってくれるとは思う。その後はあたしの死に折り合いをつけて生きるのだろう。冴子は強いから。
 ──あたしが死んだら、漫画通りに話が進むのかなぁ。
 腹を食い破られて自分の腸が引きずり出されるのを他人事のように見ながら、あたしは最期にそんなことを思った。





DEAD END





第二話選択肢

→1.下り階段に飛び込む。
 2.廊下側に飛び退く。


 あたしは反射的に、廊下の方が近かったのにも関わらず冴子と離れ離れになるのが怖くて下り階段に飛び込んでいた。
 冴子とは違い、飛び込んだ勢いそのままに半ば転落する形で身体中をぶつけながら無様に転げ落ちる。

「あ……ぐ……!」

 止めとばかりに背中から壁にぶつかって、一気に肺の空気が押し出され息が詰まった。

「まだだ、動け!」

 焦ったような冴子の声に、痛みを堪えながら顔を向ける。
 駆け寄ってくる冴子の視線は、あたしの頭上に向けられていた。

「へ?」

 頭上を仰ぐと、冗談のように視界一杯に机が降ってきていた。
 何のことはない。雪崩のように崩れたバリケードの机の一部が、壁にぶつかったり机同士でぶつかり合ったりした結果、何の因果かあたしがいる階段の方向にさらに転がり落ちてきただけだ。
 問題は、それを避ける力が今のあたしにはないということ。あたし自身結構な勢いで階段から落ちたんだ。すぐに動ける状態じゃない。
 身代わりになろうと、目の前に冴子が身体を滑り込ませようとしてくるのが見えた。
 あたしはその行動の意味を理解した途端、冴子を力いっぱい突き飛ばしていた。
 信じられないという風に目を見開いたまま安全地帯に転がる冴子と、あたしの視線が交錯する。
 その時自分がどんな表情をしていたのか、あたしには分からない。
 ただ一ついえるのは、廊下の方が近かったのに、あたしは独りになるのを恐れ、冴子がいるという理由だけでわざわざ遠い階段に飛び込んだということだ。
 自分の失敗で冴子の命を危険には晒せない。だから、この結末はあたしの自業自得。
 机は一直線にあたしの頭を直撃する。
 ごき、と異様な音がして視界が真っ赤に染まるのを最後に、あたしの意識は暗転した。





DEAD END





第三話選択肢

→1.一人でも冴子を助けに行く
 2.井豪たちと一緒に屋上に行く


「……ごめん。冴子が心配だから、あたしは保健室に行くよ」

「そうか。……助けられた俺が言うのも何だが、気をつけてくれ」

 井豪はそう言って、麗と小室を連れて去っていった。
 協力を得られなかったのは痛いけど、仕方ない。今は一人でどうやって保健室まで辿り着けるか考えないと。
 ……いや、どうやら考える時間はないらしい。
 あたしがやってきた方角から、バリケードを乗り越えてきたのか何人もの<奴ら>の人影が見える。
 今はまだ遠いけど、ぐずぐずしているとすぐに追いつかれそうだ。

「この階段を下りていくしかなさそうね……」

 生き残りの一団が駆け下りていった階段を見る。
 もう悲鳴が聞こえないのは無事どこかに逃げ延びたからか、それとも生存者が一人もおらず、全員<奴ら>と化したからか。
 前者ならともかく、後者だったら最悪だ。
 残るは屋上に行った井豪たちと同じ道しかないが、残念なことにその先にあるのは屋上に向かうための上り階段だけで、屋上に行ってしまっては何のために無理を押して一人で行くと決めたのか分からない。
 保健室に行くには目の前の階段を下りるのが一番早い。危険であることには違いないが、冴子のことを考えれば多少のリスクは容認すべきだろう。
 ──この時、あたしは気付かないうちに決定的なミスを犯していた。
 この時保健室にはまだ冴子は着いておらず、鞠川静香養護教諭だけでなく、最終的に<奴ら>に噛まれて冴子が介錯をした男子生徒が立て篭もっている最中だったのだ。
 あたしは冴子の身を案ずるあまり、そのことを思い出せずに冴子が既に保健室に着いて一人で応戦していると思い込み、盲目になっていた。
 ただでさえあやふやな前世の記憶だ。冴子に関する記憶なら多少はっきりしているとはいえ、その前提も冴子を一人きりにしているというあたし自身の先入観で容易に霧の中に遠退いてしまう。
 急がば回れ、急いては事を仕損じる。昔から格言になるほど同じ失敗が重ねられてきているのに、あたしは気付かないうちに昔の愚者と同じ選択をしていた。
 その代償を、あたしはすぐに己の命で支払うことになる。
 階段を少し降りた場所では<奴ら>が群れを成してひしめいていた。下りていった生き残りのなれの果てかどうかは分からないが、事実だけがあたしの目の前にある。
 到底通れるとは思えず、焦燥を募らせながら後退しているうちに、後ろからも追いついてきた<奴ら>の足音が迫ってきていた。
 気が付けば元の道に入りこんでしまっている。前後を挟まれて、もう逃げ道はない。
 一縷の望みに掛けて突破しようとしたが、頼みの矢はあっという間に尽きた。
 顔を強張らせ、弓を抱えたまま腰が抜けて廊下の隅に座り込んだあたしに、<奴ら>がじりじりと近寄ってくる。
 最初の一体を皮切りに、次々と奴らがあたしに集い、肉を食い破った。
 それで、もう何も分からなくなった。
 ただ熱くて、痛くて、苦しくて、のた打ち回るあたしの肉を、骨を、臓物を、<奴ら>が無遠慮に喰い付き掴み上げて引き千切り貪っていく。
 その度にあたしは生きたまま刺身にされる魚のように、びくびくと痙攣した。死ぬまでの僅かな間、血を噴き上げながら奇怪なダンスを踊った。
 今日は<奴ら>のパーティーです。メインディッシュは、馬鹿な女の活け作り。
 ごめん、冴子。保健室には、行けそうも無い。





DEAD END





第四話選択肢

 1.井豪を援護する
→2.何もせずに待つ


 ここから先何があるか分からない。
 あたしはこれからのために矢を温存することにした。
 放水が終わるまでの間、じっと待ち続ける。

「あらかた片付いたな。行こう」

 放水を止めた井豪が音頭を取った。

「起き上がってくる奴は僕と麗で相手する」

 その間休憩を取っていた小室が立ち上がる。

「二人だけじゃ危険だ。俺も前に出る。心配するな、これでも俺は空手の有段者だぞ」

「前にそう言って噛まれそうになったのは何処のどいつよ」

 じとーっとした半眼の麗に突っ込まれ、井豪がたじろいだ。

「ど、どうしたんだ?」

「……別に、何も」

 そこでなんであたしに視線を向けてくるんですか、麗さん。

「永。麗の言う通りだ。武器が見つかるまでは無茶しない方がいい。先輩を見ていてくれよ」

 あたしと麗の間に立って、小室が言う。
 何か、さり気なくお荷物扱いされてる気がするんだけど、気のせい?
 まあ、弓を抱えて矢筒を担いで、スクールバッグも持ってるから、何かあった時即座に反応できない以上、お荷物と言われても仕方ないんだけどさ。
 複雑な気分。

「……分かった。確かに先輩には助けてもらった借りがある」

 話が纏まり、あたしたちは走り出す。
 荷物ありと無しでは走力が違う。あたしはあっという間に三人から離された。
 井豪だけが気付いて、戻ってこようとするのを手で制する。

「大丈夫! あたしのことは気にしないでへぶっ!?」

 走っている途中で、でっぱりなんて何も無かったのにあたしはこけた。
 痛いし、恥ずかしい。思わず涙が出てくる。
 あたしってこんなドジッ子キャラじゃないはずなんだけどなぁ……。

「あはは、転んじゃった」

 誤魔化し笑いをしながら起き上がろうとして、井豪があたしを見たまま硬直しているのに気付いた。

「どうしたの?」

 尋ねるが、井豪は驚愕の表情を浮かべているだけで、じっと一点を凝視している。
 その視線を追って首を回らすと、井豪の視線はあたしの右の足首に注がれていた。
 足首を青白い手が掴んでいる。
 一瞬の硬直の後、その意味を理解してぞわっと身体中の毛が逆立つ。

「やっ、やだ!」

 慌てて振り解こうと足をばたつかせるが、手は青痣になりそうなくらいの握力でがっちりと足首を握り締めて離さない。
 それどころかあたしの身体は少しずつ井豪から離れ、手の持ち主のもとへと引き寄せられていく。

「先輩!」

 井豪が慌てて駆け寄ってくるが、間に合わない。
 足に感じる激痛。

「いやぁぁぁぁぁぁぁっぁっ!」

 何かがごっそりと欠けたかのような喪失感と、足首から焼けるような熱さの液体が溢れ出て地面を濡らしていく感触に、自分の身に何が起きたのか嫌でも理解してしまう。
 まだ死んでいなかった<奴ら>に足首を捕まれて倒され、噛まれたのだ。

「くそっ! この野郎!」

 すぐさまあたしの足を掴む<奴ら>の頭を、井豪が体重をかけて何度も踏み付ける。
 頭蓋骨が割れ、血と脳漿を飛び散らせて<奴ら>の頭が潰れた。

「大丈夫ですか!?」

「……あはは。もう無理みたい。噛まれちゃった」

 矢をケチったことを今更になって後悔する。
 出し惜しみなんかせずに安全第一に動けば良かった。そうすればこんなことにはならなかったのに。
 自分の判断ミスのせいだから、誰も憎めない。
 沈痛な面持ちの井豪にあたしは務めて明るく言った。

「先に行って。あたしはじきに<奴ら>になる。一緒にいたら危険だよ。あたしのことは気にしなくていいからさ」

「……すみません。恩返しにも何にもならなかった」

「いいのいいの。あ、でも冴子に会ったら伝言頼めるかな。約束守れなくてごめんねって一言伝えてくれるだけでいいから」

 空元気であることがあたしでも分かる酷いレベルだったけど、それでも井豪は微かに笑ってくれた。

「伝えます。必ず」

「ん、ありがと」

 こちらを振り返りながら、躊躇いがちに歩いていた井豪の姿が校舎の中に消える。
 それを見届けると、あたしは歯を食い縛って痛みを堪え、立ち上がった。噛まれた足を庇いながら歩き、震える手で転んだ際に転がったスポーツバッグと弓を回収する。矢は転んだ拍子に散らばってしまったが、矢筒は固定してあったので無事だった。
 びっこを引きながら、ゆっくりと校内へと続くドアを目指して歩く。井豪にはああ言ったけど。あたしは生きることを諦めるなんて嫌だった。
 冴子と逢えないまま寂しく独りで死ぬなんて嫌だった。

「ゲホッ、ゴホッ」

 でも現実は非情で、唐突に出てきた咳を押さえた掌には、赤い鮮血がべったりとついている。

「あは、あはは、あはははは……」

 知識としては知っていても、経験してみるとあまりの理不尽さに、自分の身に起きた事ながら笑ってしまう。
 どんどん吐血が酷くなって、身体中の感覚が遠退いていく。あたしはドアから数メートルも離れていない場所で、べしゃりとその場に崩れ落ちた。

「参ったなぁ……あんな近くにドアがあるのに、凄く遠い……」

 屋上には<奴ら>を除いてあたしと物言わぬ躯以外何も無い。
 せめて<奴ら>にならないように頭を潰して自害したかったけれど、何時の間にかそんな余力すらも無くなっている。
 喧騒もどこか遠く聞こえて、あたしは静かに微笑んだ。

「……」

 最期に呟いた言葉は、決して冴子には届かない。
 誰にも聞き届けられずに、青い空に溶けていく。
 倒れたあたしに<奴ら>が近付いていく。
 後には何かが咀嚼される音のみが響くばかりだった。





DEAD END






第五話選択肢

 1.石井君に射る。
→2.冴子に任せる。


 あたしは結局射なかった。
 冴子が決めたことだ。あたしが手出しするべきじゃない。
 でも本当はそんなのは言い訳で、単に自分が手を汚すのが嫌だったのかもしれない。
 嫌なことばっかり冴子に押し付けて、あたしって最低な女だ。
 沈んだ気持ちを引き摺ったまま、同行者に鞠川先生を加え、矢筒に金属シャフト矢を12本補充したあたしは、冴子と一緒に<奴ら>が徘徊する校舎を往く。
 職員室前では、高城を守りながら井豪と平野が奮戦していた。
 あたしたちがやってきたのとは違う道からはちょうど小室と麗がやってきていて、眼が合うと頷いてくる。

「右の2匹をやる!」

「麗!」

「左を押さえるわ!」

 皆が飛び出す中、あたしは弓を構えずに事態を静観していた。
 わざわざあたしが何かやらなくても、これだけ人数が揃っているんだし誰かが何とかしてくれると思ったのだ。
 冴子が石井君を殺してから、後悔ばかりで何でか妙にやる気が出ない。

「おー、凄い」

 追い詰められた高城が工作室から持ち出してきたらしい袋から電動ドリルを取り出して、<奴ら>の額にぶっ刺している。
 血と脳漿と細かい頭蓋骨の破片を浴びながら「死ね死ね死ね!」と絶叫している様は物凄く鬼気迫っていた。
 ……あの子は絶対怒らせないようにしよう。
 あ、冴子がこっち見た。やっほー。

「嬌! 後ろだ!」

「ほえ?」

 自分の担当を片付けた冴子が焦燥に満ちた顔で突っ込んでくるのを見て、あたしは疑問に思った。
 冴子は何であんなに慌ててるんだろう。職員室前にいる<奴ら>は全員片付きそうなのに。
 首を傾げながらも振り向く。
 そこには、口を大きく開けて今にもあたしに噛み付こうとしている、あたしたちを追いかけてきた<奴ら>が──。





DEAD END






第六話選択肢

 1.冴子に付き添いを頼む
→2.一人で行く


 あの後皆に呆れられた。
 冴子にまで呆れられて、あまつさえ「今ここでしろ」などと無茶言われた。
 誰もついてきてくれそうになかったので、仕方なく皆の目を盗んでバリケードを一部崩し、廊下に出た。
 今は音を立てないようにゆっくり歩いて<奴ら>をやり過ごしながらトイレに向かっている。
 めっちゃ怖い。気分はスネ○クだ。ダンボールとかあればいいのに。そういえば職員室にあったな、ダンボール。
 アホなことを考えながらも順調に女子トイレに辿り着き、中に入る。
 一つだけある洋式の便座にはそこで誰かが死んだのか真っ赤な血がぶちまけられていたので、和式の便座がある個室に入り、音がしないように注意しながら鍵をかけた。

「ふう……」

 気が緩んでついため息が漏れる。目を見開いてすぐに口を押さえるが、耳を澄ませても<奴ら>がやってくるような気配はない。
 今度こそあたしは大きく息をついた。ああもう、トイレに行きたかっただけなのに凄く疲れた。
 便座にしゃがみ込んでスカートとぱんつを下ろし、放尿の音を消すための習慣で先に水を流す。
 大きな音を立てて水が流れ、失敗に気付く。全身の血の気が引いた。
 しまった、やっちゃった!
 すぐにずるっずるっと何かを引き摺るような足音と、特徴的な<奴ら>の唸り声が複数聞こえてきた。
 音と声がどんどん近くなってくるのを聞いて、身体ががたがたと震え出す。
 その震えを何とか押し込めて、あたしはなるべくドアの遠くに身を寄せて個室の床に座り込んだ。
 来ないで、来ないで、来ないで。
 祈る気持ちで息を潜める。
 どこか遠かった<奴ら>の声が急にクリアになった。
 ……トイレの中に入ってきた!
 戦慄するあたしのドア越しに、<奴ら>の唸り声が聞こえる。
 ここまで来て、<奴ら>はあたしがどこにいるか分からないようだった。
 気付くな、気付くな気付くな気付くな。このまま出ていって。
 亀のようにじっとしてドアの外に全神経を集中させるあたしは、靴越しに足に何かが乗っかる感触を感じてふと下を見た。
 ──ゴキブリ。

「ひっ」

 思わず生理的な嫌悪感に声を上げ、足を動かして音を立てててしまう。
 外の<奴ら>の声が途絶えた。
 思わずドアを凝視した瞬間、ドアが猛烈な勢いで叩かれ出し、蝶番が今にも吹っ飛びそうに軋み始める。

「やっやだ!」

 慌ててドアを押さえるが、持ちこたえたのは一瞬で、すぐに蝶番が吹っ飛び<奴ら>が中に入ってきた。
 その後ろでは、あたしには見えなかったが私がいないことに気付いた冴子がやってきて、トイレに入ってきていた。

「助けて! 冴子、たすけ」

 あたしの助けを求める声は、頭を庇った腕を<奴ら>に噛まれ、肉を喰い千切られたことによって悲鳴に変わった。
 焦燥に満ちた形相で駆け寄る冴子によって<奴ら>は頭を1匹残らず叩き潰される。

「なんて馬鹿なことをしたんだ! くそ、こんなことなら初めから私がついてやっていれば……! 物音を聞きつけて<奴ら>が集まってくる、すぐに職員室に戻るぞ!」

 <奴ら>が壁になってその瞬間が見えなかったのか、冴子はあたしが噛まれたことに気付いてはいないようだった。
 助けが来たことで安心し、激痛とショックでパニックになるのを逃れたあたしは、脂汗をかきながらゆっくりと首を横に振る。

「ごめん、戻れない」

「どうして……っ!?」

 問い質そうとした冴子の眼が、あたしの腕に吸い寄せられる。

「嬌……君は」

 あたしは肉がごっそりとなくなって血が噴出している腕を冴子に見えなくなるように庇い、微笑んだ。
 死にたくなかったけれど、自分の浅はかな行動が招いた結果だから仕方ない。最後に冴子を一目見れたことで、諦めはついている。

「うん。噛まれちゃった」

 冴子は眼を彷徨わせ、何か言いたそうに口を開け閉めする。やがて苦い表情で口を噤むと、視線をあたしに固定した。
 あたしもまた、冴子の澄んだ瞳をじっと見つめる。あたしには冴子の言いたいことの予想がついていた。そして冴子が今から何をしようと思っているのかも。
 昔は遠くから、今は隣で、ずっと冴子を見ていたのだ。こういう時に冴子が考えることくらい、手に取るように分かっている。
 冴子が無言で木刀を構えたのを見て、あたしは微笑んだ。

「ありがと。やっぱり冴子はやさしいね」

 きっと、冴子ならそうしてくれると思っていた。冴子の手にかかるなら本望だ。
 言い残したいことはいっぱいあった。謝りたいこともいっぱいあった。でも死んだ後で冴子の重荷にはなりたくない。だから何も言わずに、ただ振り上げられる木刀を見つめる。
 ──ねぇ、冴子。あたしね、ずっとあなたのことが
 木刀が振り下ろされた。






DEAD END






第七話選択肢

 1.紫藤先生を射る
→2.紫藤先生を射ない


 冴子の声がした瞬間、あたしは我に帰った。
 紫藤先生を殺そうなんて、冴子のためとはいえなんてことを考えていたのだろう。
 慌てて弓を下ろし、ゆっくりと時間をかけて慎重に番えていた矢を弓から抜き取る。

「嬌、早く戻れ! そこは危険だ!」

 焦る冴子の声に、あたしは外に出ていたことに気付いて慌ててバスの中に戻った。

「大丈夫か?」

 顔を向ければ、冴子がいつもの澄んだ眼で冴子があたしを見ていた。

「違うの。あたし、別に紫藤先生を殺そうとか、別にそんなつもりじゃ」

「……調子が悪いなら席で休んでいた方がいい」

 あたしの様子に眉を寄せていた冴子は、やがてあたしの頭を撫でると背を向けて離れていく。
 冴子はあたしを本気で心配していたようだった。
 でもいつもと同じ冴子の瞳でも、本気で紫藤先生を殺そうとしていたあたしはそこに非難の色を見出してしまい、パニックを起こして後退る。

「きゃっ」

 同時に紫藤先生たちがバスに辿り着いて、ちょうど入り口を塞いで乗車を邪魔する形になったあたしは、必死な彼らによって邪魔だとばかりに車外へと引きずり落とされた。
 あたしが外に落ちたのとほぼ同時に、紫藤先生が生存者を先導してバスに乗り込ませていく。
 慌てて立ち上がろうとしたあたしは、右足首に鈍い痛みを感じて再びその場に倒れこんだ。
 どうやら今ので足を挫いたらしい。

「た、助けて……」

 次々に乗り込んでいく生存者たちに声をかけるが、皆自分が生きることで精一杯なのかあたしに眼を向けることはあっても手を差し伸べてはくれない。
 最後に紫藤先生がバスに乗り込もうとした。
 あたしが落ちた瞬間を見なかったのか、冴子はあたしがいないことに気付かずに紫藤先生にこれで全員か聞いている。
 まだここにいるよ! あたし乗ってない!
 叫ぼうとした言葉は声にならなかった。
 紫藤先生に顔を靴底で思い切り踏み躙られたのだ。靴底が退けられた後で、あたしは鼻血を撒き散らす折れた鼻を押さえ、痛みに悶える。

「? 紫藤先生、今のは?」

「なあに、<奴ら>がバスの近くに来ていましたので、少し処理しただけですよ」

 バスに乗り込む直前、最後にあたしに顔を向け、紫藤先生は鼻で笑った。
 唇がこう動いていた。
 ──私を殺そうとしたお返しです、御澄さん。
 愕然とするあたしの目の前でバスのドアが閉まる。
 <奴ら>を跳ね飛ばし、バスが発進する。

「嬌、どこだ?」

 視界から消え去る直前、バスの中の冴子はあたしがいないことに気付いたのか、心配そうな顔で車内を見回していた。
 エンジン音を立ててバスが遠ざかっていく。
 恐る恐る振り向けば、見渡す限り<奴ら>ばかりで、学校で生きている者はあたし1人しかいないようだった。
 絶望と死の恐怖に満ちた、独りきりの世界。

「……死にたくない」

 痛みを堪えて何とか立ち上がる。
 バスから落ちた拍子に弓も矢も手放してしまったあたしは、挫いた足を引きずりながら、<奴ら>から少しでも逃れようと歩き出す。

「嫌だ……死にたくないよ……」

 怪我のせいで満足に歩けないあたしは、じわじわと詰まっていく<奴ら>との距離に怯えていた。

「助けて……誰か助けて……」

 ついに、<奴ら>の手があたしの制服にかかり、押し倒す。

「冴子ぉ……」

 一つを皮切りに、次々とあたしの上に<奴ら>が群がっていく。
 生きたまま喰われていくあたしの悲鳴は<奴ら>の中に飲み込まれ、春空へと消えた。
 惨劇が終わり<奴ら>が散った後にはただ、喰い散らかされた躯しか残らなかった。
 そしてその躯すら、やがて<奴ら>になって動き出すのだ。





DEAD END





第十話選択肢

 1.皆の手を借りる
→2.先に調べておく


 あたしが先に安全を確認する旨を告げると、鞠川先生は焦った顔をして引き止めてきた。

「本当に大丈夫なの? 毒島さんとか呼んできた方がいいんじゃない?」

「平気です。大体これくらいでわざわざ冴子たちの手を煩わせるわけにもいきません。鞠川先生はそこで待っててください。あ、何かあったら呼んでくださいね」

 心配そうな鞠川先生を置いて、門を開けてメゾネットに入っていく。

「とりあえず、部屋までの安全が確認できればいいよね」

 誰とはなしに呟いて、道中鞠川先生に聞いた部屋番号を探す。
 ちょっと手間取ったが、無事に見つけることができた。
 留守だったからか、この部屋は窓も割られてなくて安心して眠ることもできそうだ。何よりメゾネットだから、あたしら全員が入ってもまだ余裕がありそうなのが一番良い。
 ドアの前で中を確認しようか思案する。
 まあ、鍵かかってるし中にまで<奴ら>が侵入しているということはなさそうだ。鞠川先生も待ってるだろうし、早く戻ろう。
 そう思って踵を返す。

「……」

 立ち止まり、隣の部屋で翻るカーテンを凝視した。
 気のせいか、何か、おかしいような。
 割れた窓から、カーテンの陰に隠れて見えるあれは……足?

「生存者かな? それとも……<奴ら>?」

 確認するべきだろうか。しないで帰るべきだろうか。
 逡巡した後、あたしは確認していくことにした。<奴ら>だとしても音を立てないようにゆっくり行けば大丈夫だろう。生存者だったらできれば助けてあげたいし。
 カーテンの傍に恐る恐る近付く。
 すぐ傍にまで来ても布一枚隔てた向こう側にいる足の主は動く気配を見せない。
 やっぱり<奴ら>なのか? それとも気付いていないだけ?
 そうっと、おそるおそるカーテンに手を伸ばす。
 カーテンをめくろうとすると、僅かに金具が擦れて音が鳴った。
 ゆっくりと、足が動く。

「あ──」

 思わずその様子をカーテンに手をかけたまま凝視してしまう。
 我に返って慌てて手を放そうとして、腕を掴まれた。

「いづっ──!」

 まるで万力で締められたかのような痛みと圧迫感。
 やばい。コイツ<奴ら>だ!
 <奴ら>は物凄い力であたしを室内へと引き込もうとする。引き込まれたら、喰われる!
 あたしは腰に力を入れ、<奴ら>に少しでも抵抗しようと踏ん張った。でも<奴ら>の力は強過ぎて、地面の土を抉ってあたしの足は部屋の中へと滑っていく。

「や、やだ……! 放せ放せ放せ……!」

 半ば半狂乱になって抵抗するが、どんどん部屋が近付いてくる。
 風でカーテンが捲れあがる。

「……あ」

 最後に<奴ら>の姿を見て、あたしは部屋の中に引きずり込まれた。
 液体がつまった袋を破くような音とあたしの絶叫が部屋から響く中、カーテンがどんどん赤い色に染まってまだらになっていく。
 やがて声が途絶えた時、あたしの命も終わっていた。
 後はただ、ゆらゆらと佇む<奴ら>の影がカーテンに映っているだけで──。





DEAD END





第十四話選択肢

→1.冴子に頼む
 2.自分が上がる


 最初は姿を見せなかった<奴ら>も、車を走らせるにつれて段々その姿を見せるようになった。
 東坂二丁目に近付くにつれ徘徊する<奴ら>は多くなり、車は急ハンドルを繰り返して大きく揺れる。
 そのたびに天井にいる組が振り落とされそうになるが、小室も麗も冴子も良く耐えている。あわやという場面もあったが、あたしは根拠もなく冴子なら大丈夫だと信じ込んでいた。
 荷物と人員で重量を増して猛スピードで走る車の慣性は、時に大事故を引き起こしかねないほど強いものだということは、少し考えれば分かりきっていたことだというのに。
 猿も木から落ちる、河童の川流れ、弘法にも筆の誤り。達人も時には失敗するのだということを、あたしは全く考慮に入れてはいなかったのだ。

「わっ、ここも! もう嫌!」

「じゃあそこ左! 左に曲がって!」

 何回目かの急カーブ。
 車内にいて何もできないあたしは、窓から車の後方を監視する。
 だからこそ、あたしはその光景を見ることができた。
 急カーブをした瞬間、天井から転がり落ちた冴子が自分でも信じられなかったのかきょとんとした表情のまま、アスファルトに叩き付けられるその一部始終を。

「毒島先輩!」

 ──思考が凍りついた。

「止めて! 毒島先輩が落ちたわ!」

 小室と麗が静香先生に必死に何か言っている。
 事態を理解した瞬間、あたしはまだ止まりきっていない車のドアを開け、外に踊り出ていた。
 たった今通ってきた四つ角に、冴子が倒れていた。身を起こそうとしているが、倒れた時にどこかを強打したらしく動きがぎこちない。
 その冴子に向けて、たむろしていた<奴ら>がゆらゆらとした足取りで近寄って囲んでいく。
 あたしは必死に走り出した。

「静香先生、クラッチ踏んでアクセルめいっぱいふかして! クラクションも押す!」

「え? え?」

「いいから早く! 音で<奴ら>を車に引きつけるの! やらないと毒島先輩が死ぬわよ!」

 高城と鞠川先生のやり取りが遠く聞こえる。
 すぐにエンジン音とクラクションが重なって後方で轟き、近くにいた<奴ら>があたしの足音より大きい爆音に釣られて傍をすり抜けていった。

「麗、永! 先輩たちが戻るまで車を守るぞ! 平野、援護頼む!」

 小室の声を背に、あたしは一直線に冴子を目指して駆け抜けていく。
 状況を素早く理解したようで、冴子は立ち上がるのを止めその場に伏せてじっとしているようだ。
 ほとんどの<奴ら>は車に引き付けられたが、数匹が冴子の回りに残っていた。

 咄嗟だったのでクロスボウは持ってきていない。警棒を抜いて振りかぶる。

「冴子に……触るなああああああ!」

 勢いを殺さず、目の前の<奴ら>の顔を思い切り薙ぎ払った。
 柔らかい何かを潰し、固い何かをぐしゃぐしゃに砕く異様な手応えが警棒越しに手に伝わる。
 顔面を陥没させた<奴ら>を蹴り倒して冴子に駆け寄った。

「大丈夫!?」

「……足を捻ってしまったようだ。危険だと言って代わっておきながら、無様な真似を晒してしまってすまない」

「いいわよそんなの! 冴子が生きてくれさえすればどうでもいいことだわ!」

 すぐさま冴子を抱き起こし、肩を貸して来た道を戻る。小室たちに気を取られている<奴ら>の間を抜け、何とか車内に転がり込む。

「よし、すぐに僕たちも乗り込んでここを脱出しよう!」

 手際よく小室に促され、時間稼ぎをしていた面々も車内に戻る。
 ハンドルを握り締めた鞠川先生が涙眼であたしたちを振り返った。

「どこに行けばいいの!? そこら中<奴ら>だらけなのに!」

 最後に乗り込んだ小室が前方を指差す。

「このまま真っ直ぐ行ってください! 他のどの道も集まってきた<奴ら>で塞がれてます!」

「真っ直ぐでいいのね!? じゃあ、飛ばすわよ!」

 鞠川先生が車を発進させて急加速する。
 それからは急展開の連続だった。
 ワイヤーが張られた道路に突っ込みそうになり、何とか止まったは良いものの急停止した反動で麗が<奴ら>が近くにいる地面に投げ出された。
 ショットガンを片手に小室がすぐさま車から飛び降りて倒れた麗に駆け寄り、<奴ら>にショットガンを撃つが上手く当たらない。
 同じく車の天井から上半身を出して<奴ら>に銃撃を加え出した平野から、小室はショットガンを撃つコツを教わる。
 多過ぎる<奴ら>の数に冴子が足を引き摺りながらぎこちない動きで車外に出て木刀を振るおうとしたので、あたしはすぐに外に出て冴子を車内に放り込んだ。

「この馬鹿! そんなよろよろした動きで<奴ら>と戦えるわけないでしょ! ここはあたしがやるから怪我人は引っ込んでなさい!」

 警棒を振り抜いて手近な<奴ら>に叩き付けたあたしは冴子にそう怒鳴るが、冴子は脂汗をかきながら強情にもまた外に出てきた。

「もはや私たちに後はない……。今戦わずしていつ戦うというのだ!」

 例え本調子ではなくてもこうなったらもう冴子は梃子でも動かない。仕方なく、あたしは冴子をフォローするように動く。
 小室がショットガンを捨てて地面に這いつくばり、麗の銃を使う。
 高城が車内から飛び出てショットガンを広い、落ちている弾を篭めて必死の形相で発砲する。
 冴子の木刀が奪われ、手近な弾薬が無くなり、あたしたちの心が絶望に飲み込まれそうになった頃、救いの手が差し伸べられた。
 騒ぎに気付いた高城の母親の百合子さんが手勢を引き連れて助けにきてくれたのだ。
 彼らの援護を受けて窮地を脱したあたしたちはワイヤーの向こう側に避難する。
 しかし、百合子さんの手勢が<奴ら>の掃討を始める中、冴子だけが頑としてワイヤーを乗り越えようとはしなかった。
 振り返ったあたしはワイヤーを隔てて反対側にいる冴子に問い掛ける。

「もう、どうしたのよ? 早くこっちにこないと危ないよ」

「悪いがそちらへは行けない」

 あたしに向けて、冴子は片手をよく見えるように突き出してきた。

「……!」

 冴子の手に<奴ら>に噛まれたとおぼしき傷を見つけ、あたしは眼を見開いて絶句する。

「え、どうして……!?」

「落ちてすぐにやられた。噛まれている者を安全な場所に連れて行くわけにはいくまい」

 言葉を切った冴子は寂しげに微笑む。まるで、あたしたちに後を託すかのように。

「──私はここまでだよ、嬌」

「待って、待ってよ! どうしてそんなに簡単に諦めちゃうのよ! もしかしたら冴子なら<奴ら>にならないかもしれないじゃない!」

 必死に説得を試みるあたしは、助けに来てくれた百合子さんに肩を叩かれた。
 振り返れば、沈痛な表情で首を横に振られる。

「残念ですが、私たちの経験上噛まれた者は皆死人と化しています。可能性がある以上、彼女の言う通り噛まれた者を通すわけにはいきません」

「そういうことだ」

「……何よ、それ」

 あたしは両拳を握り締める。眼からぽろぽろと涙が零れていくのが分かった。

「ちくしょう……ちくしょうっ!」

 涙も枯れよとばかりに泣き叫ぶ。
 本当はあたしだって分かっていた。冴子は噛まれてしまったのだ。噛まれた以上、何をしても絶対に助からない。冴子の運命はもう死で定められてしまっている。
 口惜しい。冴子を守れなかった。絶対に守ると決めたのに。そのために手段を選ばずに、人殺しになってまで守ろうとしたのに、こんなところでヘマをした。こんなことになるなら、あたしが上にいた方が良かった。
 ぎり、と歯を噛み締める。冴子を残して行くなんてごめんだ。冴子を見捨てて生き残るなんて嫌だ。あたしの居場所はいつも冴子の隣。それ以外居場所なんて要らない。
 顔を上げ、再びワイヤーを乗り越えた。

「冴子が残るならあたしも残る」

「待て、君が私に付き合う必要はない!」

 狼狽する冴子にあたしはくすりと笑った。
 いつも沈着冷静だった冴子が慌ててる。何だかおかしい。
 傷付いた冴子の手を取り、傷口にそっと口付ける。顔を上げ、冴子の揺れる瞳を見つめた。

「昔からずっと冴子を見てたよ。友だちになってからはずっと一緒にいたよね。──だから、死ぬときも一緒。冴子が助からないなら、あたしの逃避行もここで終わり」

「小室君……頼む。嬌を、嬌を連れて行ってくれ」

 冴子が弱りきった声で小室に懇願する。
 それは、親友を自分の死に巻き込みたくないという冴子の悲愴な思いが伝わってくるものだった。
 今までの静謐な声とは似ても似つかない、縋るような冴子の声。
 結局告白はしてないし、冴子をあたしに振り向かせる機会はもう永遠に失われたけど。嬉しいな。あたしは冴子にこんなにも想われている。
 だからこそ、あたしを冴子から引き剥がそうとするのは許せない。例えそれが冴子の望みだとしても。冴子だって、我慢できるだけで1人で死ぬことが寂しくないはずがないのだ。冴子の命を守ることができなかった以上、せめて冴子を最期まで孤独から守りたい。

「止めて。もし無理矢理あたしたちを引き離したら許さないよ。冴子のいない世界なんて興味ない」

 語気に篭められたあたしの怒りを感じ取って、反射的に動こうとした小室の足が止まる。
 もう、冴子は何も言わなかった。ただ、無言で泣いていた。涙が頬を伝い、アスファルトに小さな染みを作っている。
 あたしは振り返り、百合子さんに頭を下げる。

「おばさま。介錯を頼んでもいいですか?」

「ちょっと、何言ってるのよ!」

 向かってこようとした高城を百合子さんが手で押し留める。

「……決意は、固いのね?」

 厳しい眼で見つめてくる百合子さんに、あたしは微笑を浮かべた。
 もちろん死ぬのは怖い。本当は死にたくなんかない。だけどそれ以上に、あたしは冴子を見捨てたくない。
 とうとう冴子が吐血し始めた。もう時間がない。

「冴子を<奴ら>にしたくないんです。できればあたしがしてあげたいけど、ちゃんと死なせてあげられる自信がなくて。だからお願いします」

 くず折れて咳き込む冴子を支え、もう一度頭を下げると百合子さんはようやく頷いてくれた。
 ワイヤーから離れたあたしたちに、先ほどまで<奴ら>に向けられていた凶器が向けられる。
 意識が朦朧としてきたのか、唇の端から血を流しながらあらぬ方向を見つめている冴子を、ぎゅっと強く抱き締める。
 1人になんてするもんか。ずっと傍にいるから──。
 引き金が引かれる前に、あたしは皆を振り返る。
 高城と麗が肩を寄せ合って泣いていた。小室と井豪は泣かずに唇を噛み締めてただあたしたちを見つめている。
 あたしたちに駆け寄ろうとするありすを、平野が必死に止めていた。夕樹でさえも眼を赤くしている。何故か夕樹は誰よりも口惜しそうだった。
 ──ああ、今ならよく分かる。
 冴子を生き延びさせるためだけに合流したけど、あたしもきっと、彼らのことが気に入っていた。少なくとも、別れを惜しむ姿を見て、似合わない感傷が湧き上がるくらいには。
 最期に浮かべた笑顔は、冴子を真似したものではない、あたしだけのものだった。

「そういうわけだから、ごめんね。あたしは冴子に付き合うよ。君たちとはここでお別れ。──ばいばい」

 百合子さんが引き金を引いた。
 向き直って冴子の顔を見ながら迫り来る死を待つ刹那に想う。
 願わくば、来世というものがあるのなら、幸多き人生を今度こそ冴子と共に歩めますように──。





DEAD END





第二十話選択肢

 1.高城のお父さんに相談する
→2.事故を起こす


 未だ迷いながらも、あたしはバスを奪って事故を起こすことに決めていた。
 笑いたければ笑えばいい。
 責めたければ責めればいい。
 あたしだって良心の呵責がないわけじゃない。
 それでも、あたしは大勢の赤の他人の命より、冴子一人の命の方が大事なんだ。
 不良を刺激しないように外で時間を潰し、鞠川先生が電話しているタイミングを見計らい、何気ない素振りでバスに近付き、さり気なさを装って中に入る。

「君、勝手に入っちゃ駄目だよ」

 中にいた人を誤魔化すためにっこり笑いつつ、隠し持ったスタンガンを押し当てる。
 バランスを崩して持たれかかってきたところを外に蹴り落とした。
 運転席に座り、シートベルトを締め、バスを発進させる。
 外では大きな騒ぎになってるけど、今は無視。
 門を出て、そのまま真っ直ぐ走らせる。
 あとは停電を待つだけ。
 まだ停電は来ない。
 こういうこともあるさ、と焦る気持ちを落ち着かせた。
 バリケードと門の中間くらいを通り過ぎる。
 ちょっと遅いな。早く起きてくれないと間に合わなくなっちゃうよ。
 もうすぐバリケードにぶつかる。
 あとは停電を待つだけなのに。
 今からでもブレーキを踏んだ方がいい?
 な、何で? 何で停電が起こらないの?
 判断を下せなかったあたしは結局ブレーキが間に合わず、そのままバリケードを吹っ飛ばしてしまった。
 幸いシートベルトやエアバッグなどが作動したおかげで大した怪我は負わなかったけれど、騒ぎに気付いた見張り役らしい高城のお父さんの部下が慌てて集まってきて、あたしはバスから引き摺り下ろされた。
 部下の人はあたしが子ども、しかも女だったことに驚いたみたいだけど、それでも職務に忠実にあたしを他の部下の人に預け、携帯で応援を呼ぶ。
 すぐに駆けつけた応援の人たちにより、あたしが空けたバリケードの穴は<奴ら>を呼び込むことなく塞がれた。
 罪人のように左右を固められて引き立てられたあたしを待っていたのは、おかしな人間を見るような目であたしを見る冴子たちの瞳だった。
 それは、まるで理解できない狂人を見る目だった。
 小室も、井豪も、麗も、平野も、高城も、冴子ですら、あたしを理解できない様子で強張った表情のまま、頭が変になった異常者を見るような目で見ていた。
 冴子にそんな目で見られていると自覚した瞬間、体中から血の気が引いた。

「待って。待ってよ。そんな目であたしを見ないでよ。あたし、冴子のためにやったんだよ。どうして冴子までそんな目であたしを見るの!?」

 半分錯乱した状態ですがり付こうとした手は、反射的に後退った冴子によって振り払われる。冴子は自分自身がしたことなのに、自分の行動に気が付いたとたんまるで自分が傷付けられたかのように表情を歪めた。

「私のために、どうしてバスを奪ってまでバリケードを破壊する必要がある。下手をすれば<奴ら>が入ってきていたかもしれんのだぞ」

 あたしは全身を恐怖でがくがく震わせながら、言い訳を試みる。

「だって、これにはちゃんとした理由があって」

 だがその試みは冴子によって途中で遮られた。

「何か正当な理由があったのなら、どうして事前に相談してくれない? 私たちは親友のはずではないのか? 私はそんなに頼りにならないのか?」

 言えるわけがなかった。
 よりにもよってすぐ傍で不良に命を狙われていた冴子に、どうして相談できる。
 そんなことをしたら、相談した時点で冴子の死が決定付けられてしまうじゃないか。
 出来るわけ、ないよ。
 何も言えずにいるあたしを、冴子は平手打ちする。

「……所詮君にとって私はその程度の存在というわけだな。これでは、一人で君を親友だと思い込んでいた私が馬鹿みたいではないか!」

 あたしの行動に対して、冴子は本気で悲しみ、怒っていた。
 そりゃそうだ。事情を知らなければ狂人の所業にしか見えない。立場が違えばあたしだってきっと同じようにしていたに違いない。
 脅されていたとはいえ、何も言わずに行動に移したあたしが悪い。
 それでも、冴子を傷付け、冴子に否定されたという衝撃は、あたしを錯乱状態に追いやるに充分過ぎるものだった。

「仕方ないじゃない! そうしないと冴子を守れないと思ったんだもの! あたしがどんな気持ちで行動したかも知らないうちに、勝手なこと言わないでよ!」

 打たれた頬を手で押さえて泣き喚くあたしの言葉に、冴子は目を見開いて口を噤んだ。きつく眉根を寄せ、唇をかみ締め、呆然と立ち尽くしている。今にも決壊しそうなほど涙を湛えた瞳は戸惑いで揺れている。

「何を言う……! 何も言ってくれないのは、君の方ではないか!」

 ショックを受けた様子で叫ぶ冴子に怒鳴り返そうとして、ふと気付く。
 そういえば、不良の姿が見えない。彼はどこに行ったんだろう。

「……え?」

 突然、あたしが見ている目の前で出し抜けに冴子の身体が揺れた。
 冴子のわずかに開かれた口元から赤い鮮血がつつ、と垂れていく。

 呆然とした顔のまま後ろを振り返ろうとして、冴子は果たせずにゆっくりと前のめりに倒れた。
 その背中に広がっていく赤と、冗談みたいに背中から生えているナイフの柄。後ろから心臓のあたりを一突きされている。そのナイフが一度捻られ、一気に引き抜かれた。血飛沫が飛び、ナイフを捻ることで広げられた傷口から湯水のように血が溢れ出す。
 素人目でも分かるほどの、どう考えても助かりそうもない出血量だった。
 目の前で行われた一連の状況が理解できず、真っ白な思考のまま顔を上げれば、目の前で不良があたしを嘲笑っている。
 自業自得だとその狂気で窪んだ目が告げていた。
 誰がやったのかは言うまでもないだろう。
 失敗したことを自覚する。こんなの予想してしかるべきだった。
 <奴ら>がなだれ込むからこそうやむやにできるのだ。未然に防がれてしまったら、あたしがしたことの真意くらいすぐに悟られる。
 これは、その報復か。
 全てを理解した瞬間、あたしの心は死んだ。
 身体はまだ生きている。でも心が死んだ。冴子を守れなかったあたしに、生きる価値なんてない。
 笑い声が聞こえる。
 不良の声か。それともあたし自身が上げているのか。
 どちらでもいい。やることはどうせ一つだけだ。
 復讐はしたい。でも出来ない。全てあたしが蒔いた種だから。
 だからせめて、冴子の後を追うことを許してください。
 この僅かな時間だけですでに物言わぬ骸になってしまっている冴子の目をそっと閉じさせ、ナイフを持つ不良の前に立つ。
 ごめんね、冴子。痛かったよね。死なせちゃってごめんね。守れなくってごめんね。
 寂しくないように、あたしも、そっちにいきます。
 釈明はあの世でさせてね。

「殺しなさいよ。冴子が死んだこの世界で生き続けても、しょうがないわ」

 不良がにやにや笑みを浮かべながら、冴子の血に塗れたナイフを喉に押し当てる。
 気付いた人たちが止めようと走ってくるのを見ながら、冴子の後を追って地獄みたいなこの世に別れを告げられることを喜ぶ。
 あたしのこともちゃんと殺してくれる不良に、少しだけ感謝した。
 だからこそ、その言葉がどういう意味を持つのか、あたしには理解できなかった。

「嫌だね。毒島が死んだ世界で、お前は惨めに生き続けろ」

 ナイフが横に引かれる。
 カヒュ、と声にならない声を漏らし、不良が血飛沫を撒き散らしてその場に崩れ落ちていく。
 体中を赤くまだらに染めながら、あたしは呆けていた。
 どうしてあたしじゃなくて、不良が死んでるの?
 その疑問の答えは、ようやく我に返って動き出した周りが出してくれた。

「なんてことだ……。復讐のためとはいえ、自殺するなんて!」

 協力者だったらしい避難民のダレカが叫んでいる。
 つまりはそういうことだ。
 あたしの行動の真意を理解した瞬間、不良は冴子を殺すために動いていた。最初からあたしだけを生き残らせるつもりで。これがあたしが一番苦しむ方法であることを、知っていたから。
 それを理解した瞬間、あたしの中であたしを辛うじて真っ当な人間として支えてきた何かの箍が外れた。
 気狂いのような笑いが止まらない。

「何。何これ。何なのこれ。どうしてこんなこんなことになってるの? あたしのせい? あたしのせいなの? 自業自得なの、これ? あは、あはは、あはははは。馬鹿みたいだ、あたし。……こんなことなら、初めから殺しておけばよかった!」

 衝動的に死んだ不良からナイフを奪い取り、憎しみに任せてその身体に突き立てようとする。
 我に返った大人たちにナイフを取り上げられ組み伏せられたあたしが見たのは、目を閉じた状態で斃れている、血の気が引いて青ざめた冴子の死相だった。
 最愛の人の死に顔が目に焼き付いた瞬間、あたしは壊れる。
 それからのあたしについては語るまでもないだろう。
 小室たちと残された協力者たちが語る事情を聞いた大人たちにより、死んだ冴子と不良は悲劇の存在として手厚く葬られ。
 二人が死んだ元凶とされたあたしは高城の両親に憐れまれ、またあたしに同情した高城たちの願いもあり、皆が去った後も冴子がいない世界で人目に憚る存在のままひっそりと生き続け、最終的に<奴ら>に食い殺されて死んだ。






DEAD END


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