<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[19866] ダークサイド・クロニクル(オリ主転生? なのは×スパロボOG)
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/12/24 21:59
三次元宇宙や、それ以外の様々な次元の宇宙を内包した無限の次元世界に神は居ない。



あるのは只管、それこそ無限に繰り返される文明の滅びと再生。もっと言えば世界の滅びと再生の輪廻。
それに例外は無く、アルハザードと呼ばれた超技術を持った文明でさえ謎の滅亡を遂げている。


しかし、文明が滅びようとも人の思念は残る。その属性が善か悪かは関係なくだ。
無限の世界に住まう無限の人――更には人以外の知的生命体の思念。それらは滅びと再生を繰り返す度に次元世界に満ちていった。



満ちに満ちたそれらは無限とも言える力を保持しながらも、その力を満足に振るうことが出来なかった。
何故か? 答えは意思を統括し、力を運用してくれる存在が居ないからだ。ただの思念体である彼らには外部へと上手く力を伝えることが出来ないのだ。


無限とも言える思念体達は求めた。自分達を使ってくれる存在を。自分達の力を引き出し、もっと強大にしてくれる存在を。自分達の主をだ。
彼らが統括者に求めるのは只一つ。決して陽の存在ではない彼らを使ってくれること。使われない力など、存在する意味がないのだ。


そんな彼らの祈りが――否。次元世界に神は居ない。あるのは無限の残留思念だ。


彼らの願いは無数の次元を貫き、境界とも言えない概念さえ超えた何かを破壊し、たった一つの求める魂を自分達の管理者、運用者、支配者、もっと言うなら『器』
にすべく引き寄せた。無論、自分達の運用に支障がないように多少の改造をこの統率者たる魂に加え、その存在そのものを自分達の力に馴染ませるのにかなりの時間が掛かるのだが
数百年程度、彼らにとっては一瞬だ。



無限さえも超えた数を誇り、賢者、愚者、凡者問わずを受け入れ、肥大化を続ける彼らが唯一無二の統率存在を手に入れた記念すべき年号は 


後に管理局と言う、次元世界の氷山の一角どころか砂粒1つにも満たない数の世界を支配する小さな小さな組織によってつけられた年号は――





旧暦462年 



そこは激戦区だった。


無数の世界が存在する淀んだ色の次元空間はそれ以上の色彩を持つミサイル、レーザー、魔法、そればかりか反物質兵器、空間破壊兵器の応酬で染め上げられ
その破壊領域の間を縫うように小さな点――ベルカの騎士と呼ばれる接近戦特化型の魔導師達が飛び交い、敵のミッドチルダ軍の魔道師に接近戦を仕掛けて
それを切り伏せる。



兵器の破砕空間から少し離れた場所には聖王のゆりかごと呼ばれる絢爛な装飾をされた全長数kmの巨大戦艦とそれに付き従うかの様に数百の小型艦が周りを固めており
それの中のレーダーは敵の戦艦群が目視できなくとも、戦場に存在することを乗組員に告げていた。



バリ……バリバリ………。


と、不意に様々な轟音が何十にも響き渡る戦場に、いっそう強く響く音が鳴り響いた。
まるで紙を破ったかのようなそんな音だ。



戦場に居る一部の者が戦いを続けながら、その不快な音の出所を探る。もしかしたら敵の新しい攻撃か? と内心思いながら。


バリバリ……バキボ……キリ…。



音が更に強くなっていく。紙を破る程度の音がガラスを割った時の様な音に進化する。勿論この戦場に簡単に割れるガラスなど一つもない。
全てが魔法や科学でコーティングされた戦場仕様だ。それこそ大火力の砲撃魔法や戦艦の副砲でも直撃しなければ割れない。


この戦場で割れる物は唯一つ――空間だ。空間が音を立てて割れていく。
割れた先にあるのはぞっとする闇。夜の闇よりも尚暗く深い、まるでブラックホールの様な底知れない闇。



「あ……あれは一体……」


最初にそれに気が付いたのは誰だったろうか? いやそんなことはこの際どうでもいい。 
問題はそこから出て来た物体。次元境界面を引き千切るようにして登場した物体だ。



「それ」は球体であった。「それ」は濁りきった銀とも鼠色ともつかない色をしており、絶えず表面で『何か』が蠢いていた。
「それ」は巨大だった。ベルカの聖王の一人、オリヴィエ聖皇女が乗る巨大戦艦ゆりかごと対比しても同じくらいの大きさだ。


そして何よりも「それ」は禍々しかった。
ただその場に存在しているだけで、全てが狂わせられ、歪められ、淀ませられ、汚染させられ、そして飲み込まれる。
そんな威圧感を放っている。


既に戦場の者全ては戦いの手を止めて、「それ」の次の行動を緊張した面持ちで注視していた。
奇しくも禍々しい存在の出現で全ての戦いは止まっていた。  


が、次の瞬間。その沈黙は崩れ去った。


「何なんだよ! お前はぁっ!


「それ」の発する歪みきった威圧感に耐え切れず、ベルカのまだ若い騎士が「それ」に向かい砲撃魔法を叩き込む。
その一撃が切欠になり、ミッドチルダ軍、ベルカ軍、両軍問わずありとあらゆる勢力の攻撃が「それ」に撃ち込まれる。



しかし、その全ては「それ」の前に出現した不可視の壁に阻まれ、届かない。全ての攻撃がその結界に触れると同時にかき消される。



次元空間を埋め尽くし、不気味な卵に撃ち込まれ続ける両軍の魔法及び、科学兵器。
幾つの世界を消し飛ばしても尚余りあるその膨大な火力をまともに受けながら「それ」は不気味な沈黙を続けていた。



――『ヨロイ ノ ドウサ チェック ヲ カイシ シマス』



不意に機械的で高等生物の持つ感情の一切を感じさせない声が不気味に両軍に響き渡る。肉声、スピーカー、念話、意思を伝える媒介全てを通して
戦場の人間、戦闘プログラム、戦闘機械、全てに絶対的な滅亡の到来を告げる。



『キュウミン モード シュウリョウ セントウケイタイ ニ イコウシマス』


次の瞬間、卵に無数の皹と皺が入り割れた。そして中から――













彼は眼が覚めたら戦場のど真ん中にいた。
何を言ってるか判らないだろうが、これしか今の状況を表す言葉がない。

しかも戦場と言っても普通の戦場じゃない。正に宇宙戦争って奴だ。
数え切れない程の幾つもの宇宙戦艦らしき物体が敵側と思われる戦艦に向けて、レーザーやらミサイルやらを撃ちまくってる。
相手に攻撃が当たる度に発生する爆発と轟音がこれが否応なしに現実だと認識させる。



『ガイブノ オンセイ ニンシキ オヨビ エイゾウニンシキ キノウ ハ リョウコウデスカ? オコタエクダサイ』


頭の中に機械音声の様な声が響き、とっさに辺りを見渡す。

「え? え? なに、なに!?」


『オコタエ クダサイ』


心なしかさっきよりも口調がきつくなった気がする。機械音声なのに……。
もう一度周りの宇宙戦争の場面に目をやる。はっきりとリアル過ぎる程に見えている。


「見えてるよ」

ぶっきらぼうにそれだけ答えてやる。色々と聞きたい事があるが、ここで答えとかないと話が進まなそうだ。
横になっていた身体を起こす。足元に透明な床でもあるのかちゃんと立つことが出来た。


『ヨロイ ノ ドウサ チェック ヲ カイシ シマス』


世界が切り替わった。全面を覆っていた宇宙戦争の場面が映画館のスクリーン程度の大きさに変わり、今まで戦争の場面を映していた場所は真っ白になり、そこに
ありとあらゆる色の線で文字らしき物ビッシリと刻まれていく。


『セイシン オヨビ ニクタイ ノ テキオウガ カンリョウスルマデ オネムリクダサイ マスター』


その声を最後に彼の意識は暗い闇の奥底へと落ちていった。そして倒れ伏した彼の身体に群がるように灰色の煙が覆いかぶさっていく。
いや、身体ではないか。既に気がつかないだけで、彼は肉体を失っているのだから。今からもう一度、今度は『器』としての肉体を彼に与えるのだ。
自分達を使役する存在に相応しい、強い肉体を――。









卵の中から現れた「それ」は黒い姿をしていた。
真っ黒の人の姿だ。漆黒色の細い人間の手と足を持っている。


但し首はあるが、その上の頭はない。煙突の様な体躯だ。
代わりと言ってはなんだが、首の上部に眼にも見える白い点が二つあり、その更に上には明確に眼に見える紅い文様がある。
ご丁寧に紅い『眼』の下にはハロウィン南瓜の様なコミカルな笑みを浮かべた小さな口の様な刻みがあった。


そしてその『眼』から左右に枝分かれした様に白い2本の角が生え、その生え際からは龍の髭にも見える触手が二本、何かを掴むように蠢いている。


しかし、何よりも特徴的なのは「それ」の腰から生えた複数の丸くて白い節を持った翼だ。
いや、翼と言うには少し語弊があるだろう。何故ならその翼に近い物から生えているのは蝙蝠などの生き物の持っている翼からは程遠い物だった。


其処から生えて、蠢いているのは輝く灰色の煙のような翼。それが異形の後方に大きく展開され、マントの様な装飾を異形に加えていた。



全体的に無機質でアンバランスな姿のそれはどう見ても神聖さからは程遠い。その姿から連想されるのは邪悪、破壊、終焉、などと言った負の意味を持つ単語だ。
全長1キロさえも超えたその巨体は、さながら次元の虚空にそびえる黒き牙城と言った所か。






――セントウケイタイ イコウ カンリョウ




――ターゲット ニンシキ カズ 420934 ウチ “プログラムセイメイタイ” 20000 セイメイシュ “ニンゲン” 400934



ベルカ、ミッドチルダ、両軍が卵から姿を現した異形に向かいありとあらゆる攻撃を叩きこむが、異形がその華奢ながらもおぞましい手を攻撃の前に晒すと、何もかも全てが
瞬時に静止し、次の瞬間には跡形も無くかき消される。



――ボウギョフィールド オヨビ クウカンソウサ キノウ キノウカクニン――リョウコウ。 モンダイナシ



異形が翳したその手をダランと伸ばし、腰の横に持ってきてフィールドを解除する。今が好機と言わんばかりに両軍が再度あらゆる兵装を叩き込む。
一点の隙間なく叩き込まれる核兵器、空間破壊兵器アルカンシェル、反物質弾、ゆりかごの魔力炉から生成される超魔力から放たれる次元さえ超越する魔力砲の一斉掃射。


それら全てが異形に叩き込まれ、異形の姿を打ち砕く。おぉっ! と、ベルカ、ミッドチルダの兵士達から歓声が上がった。
胸部以外の全てがバラバラに砕けて、破片と灰色の煙を撒き散らしながら崩れ落ちていく異形。


が、次の瞬間その崩壊は止まる。同時に時間が巻き戻っていくかの様にその異形の身体が物凄い速度で再構築されていく。
物の数秒で異形は無傷まで復元していた。


両軍がもう一度一斉攻撃を加えるが、異形が手を翳し、絶対の防御領域を展開させ、全ての攻撃をいとも簡単に無効化する。



――ジコフクゲン キノウカクニン―――リョウコウ。 モンダイナシ



――コウゲキ ニ ウツリマス



異形の頭が「伸びた」
そのまま競り出して行き、前側にズドンと音を立てて倒れる。そして伸びた首の上部が一部を残して、まるで扉を開くように左右に「分かれた」首の穴と思わしき所には砲口がついている。
紅い眼の紋章がその砲口の上に移動する。触手とあわせて、まるで口を開いた龍の顔のようだ。最も、龍は龍でも間違いなく邪龍と呼ばれる類なのは間違いないが。


砲口から禍々しい紅色の力が漏れ出る。何をしようとしてるのかが両軍の者には痛いほどに判った。間違いなくアレは攻撃をしようとしていると。


どちらかの軍の者が異形の砲口に集まっているエネルギーの量を測定して魂が凍るほどに恐怖する。
艦に搭載されている最も優れた測定器を以ってしても測定限界を遥かに振り切っているのだ。もしもアレほどのエネルギーが破壊という方向性を持って一気に解き放たれたら最悪次元断層が起きる。


「最大出力で防御結界展開だっ!! 急げぇっ!!!!」


無駄だと判りつつも両軍の司令官が防御を半ば悲鳴の様な声で指示する。既に攻撃して、相手の攻撃を止めると言った選択肢は彼らの頭にはなかった。
だがその令が発せられる前に既にベルカ、ミッドチルダ問わず、両軍の兵士達は既に全てのエネルギーを防御に回し、文字通り全てを込めた障壁を艦隊を覆うように発生させた。


――モクヒョウ ボウギョフィールド ヲ テンカイ 



――センメツニ シショウナシ コウゲキ ヲ ゾッコウ コウゲキノウリョク ノ テストヲ カイシ




『鎧』の中に渦巻き、今尚際限なく無限大に増幅を続ける意思と力のほんの一部を、この世に力を顕現させるための『器』を通し、純粋な破壊の力に変換し、それを撃ち出す。
それでこの『器』を守るために創られた『鎧』の動作テストは終わりだ。


邪龍の口内に蓄えられたエネルギーの前に、漏れ出たエネルギーが集い、複雑極まりない魔法陣の様な紋章を展開させる。
そして神話の龍が吐息で全てをなぎ払ったのと同じ様に、邪龍が紅くおぞましいエネルギーの濁流を噴火するかのごとく吐き出す。
発射時の衝撃で口の近くの空間が弾けとぶ。



吐き出された純粋な破壊の力は扇状に広がり、両軍をいとも簡単に飲み込み、その存在の全てを残酷に犯しつくし始める。女だろうがまだ年端もいかない子供だろうがそこに例外はない。
両軍の全てを込めた結界はほんの数秒耐えた後、莫大なエネルギーによってズタズタに食い千切られ、その破片も後に容赦なく紙くずの様にバラバラに更に引き裂かれた。


エネルギーの濁流の真っ只中に放り込まれたミッドチルダ及び、ベルカの艦隊群は自分達を守っていた盾を失い原型を保っていたのはほんの数秒だ。
紅い紅い紅い、どこまでもアカイ暴力に飲み込まれ破壊というプロセスさえも飛び越え、一瞬で素粒子単位まで分解され、物質的な意味で完全に消しとんだ。
そして肉体という檻から開放された思念は全てが邪龍に囚われ、知識、技術、能力、記憶、想い、その全てが貪欲な邪龍に喰われる。


しかし邪龍の放ったエネルギーの齎した結果はそれだけに収まらない。無数の艦隊群を消し飛ばして尚あまりあるその破壊の力は今度は時空間そのものに
致命的なダメージを与えたのだ。


時空間の一部が完全に壊れて、それによって極大規模の次元断層が発生し始めた。幾つもの世界がそれによって発生した時空振動によって消し飛ぶ。
しかし、虚数空間に落ちていく世界から出てきた億単位ほどの夥しい数の『何か』は引き寄せられるように邪龍の元に飛んで来て、その煙で構成されたボロ布の様な翼に飲み込まれていく。






――コウゲキノウリョク  キノウリョウコウ。 テスト シュウリョウ。 シネン ヲ カイシュウゴ 『ウツワ』 ノ アンテイシュウリョウマデ キュウミンシマス



貪るように知的生物の思念を吸収した後、邪龍はその首を元の位置に戻し人の姿に戻るとその黒く巨大な身体を母の子宮内の胎児のように折り曲げ、翼を幾重にも畳む。
翼から出ていた灰色の輝く煙が異形の全身を覆って行き、卵のような最初の姿に戻った。



パキ……パキ



最初に割った空間の穴にゆっくりと沈んでいく。次元震の影響で多少穴が狭くなっており、まわりの空間をガリガリと削り壊すが、特に問題は無い。
あえて問題を挙げるなら少しだけ次元振が強くなるだけだ。

何はともあれ、後は『器』の調整が済むまで何処か辺境の世界で休眠していればいいのだ。





旧暦462年 後世には原因不明の次元断層が発生し、ベルカ本土を含む多数の世界が虚数の暗黒に崩落した日として伝えられる。
       それと同時に神の居なかった次元世界に一柱の神が誕生した年でもある。しかし誕生した神は神でも、邪神と呼ばれる類の存在だが。














新暦35年 管理局 第一管理世界 『ミッドチルダ』 同首都 『クラナガン』





「テスタロッサ君。以前のお願いの答えを聞きたいんだけど、いいかな?」


ミッドチルダ首都に存在する管理局地上本部の一室で管理局技術開発部に属する魔導師プレシア・テスタロッサはとある人物と会談をしていた。
夫に不幸な事故で先立たれ、女手一つで夫の忘れ形見とも言えるアリシアを育てることになった彼女に、その人物は一つの仕事を持ちかけて来たのだ。



それはとある世界で発掘されたロスト・ロギアの研究という物であったが、まだ引き受けてはいない彼女には詳しい事は教えられないそうな。
もしも協力するなら情報だけでなく、莫大な金も支払うとその人物は言ってはいるが、どうも怪しいと彼女は直感的に感じ取っていた。
そもそも金の問題なら夫の残してくれた保険金と自分の稼ぎ、そして貯金さえあれば娘の一生は安泰なのだが。


それにしても男の提示した金額は、天才大魔導師プレシア・テスタロッサを雇うにしても多すぎた。○の数が3つほど多い。



今日はその案件に対して、受けるか否かの返答を行う日だ。もちろんプレシアは断るつもりだ。怪しすぎる。


「申し訳ありませんが……私は……」


プレシアが伏せ眼がちに男に拒否の意思を伝える。
男がカップを持ち、中のコーヒーを飲んだ。そして口を開く。



「それは……残念です。しかしその前にコレを見てはもらえませんか?」


男が隣に置いてあった銀色のアタッシュ・ケースに鍵を差し込み、開ける。
そして中から一枚の手持ちディスプレイを取り出した。それをプレシアに差し出す。


「中の情報を見てください。それからでも決めるのは遅くない筈ですよテスタロッサ君」


「……?」


プレシアが黒く艶やかな髪を一回掻き揚げ、ディスプレイを受け取り、情報を呼び出す為の操作する。
中に入ってた情報は恐らく研究中のロスト・ロギアなのだろう。それに視線を送る。


「……これって……」

しばらく眼を通していたプレシアの眼の色が変わり始める。ただの女の眼から大魔導師、ひいては天才技術者の眼へと変わる。


「本当に……でも、有り得ないわこんなの……でも……」


何かを問うようにブツブツと呟き始め、混乱を外に現す。
そして視線を男に移す。男が頷いた。


「そうです。もしかしたらそのロスト・ロギアは永久機関かも知れません」


「有り得ないわ。どんな魔法を使おうと、それこそアルハザードの技術でも不可能だわ!」


男の放った言葉を半ば反射的に否定するプレシア。既に敬語を使うことさえ忘れている。


「しかし、それは其処に実在しました。それの謎さえ解ければ、我らは第一種の永久機関を作ることさえ可能なのかもしれません。貴女もそれに協力して欲しいのです!!」


プレシアの瞳が揺れた。嘘、な訳ないだろう。吐くメリットがない。
永久機関かも知れないロスト・ロギア……調べたい。調べたい。技術者として、探求者としてこれ以上ないほどに魅力的だ。


「テスタロッサ君、貴女が損する事などないのですよ! 大金も貰え、尚且つこれ以上ないほど魅力的なロスト・ロギアの研究も出来る。最高じゃないですか!」


「………………」


興奮気味に言う男にプレシアが俯く。


「本当に……本当にこれは実在するのね……?」


「当然です。何を今更言うのですか」


男が興奮を抑えるためか、コーヒーを飲む。
大きく、大きく深呼吸をしてプレシアは言った。


「わかりましたわ。私も参加します。このヒュードラ計画に」


「ありがとう。テスタロッサ君! 差し当たり、貴女の家はこの“ヒュードラ”が眠っている世界から遠すぎる。引っ越しの資金も私が出すから、この世界に娘さんと一緒に引っ越すといい。
 何、緑豊かで、とても美しい世界だ。娘さんもきっと気に入るはずだよ」



男が立ち上がり、プレシアと硬く握手をする。
プレシアの隣に置かれたロスト・ロギアのデータを記したディスプレイにはネズミ色とも
銀色ともつかないヒュードラと名付けられた全長1キロを越す巨大な卵が映っていた。


その中にあの異形を内包したまま――。



新暦35年に起きた、後にプレシアの運命を大きく捻じ曲げる因果の発端であった。





あとがき

申し訳ございません。更新作業を失敗してしまい、
間違って記事を消してしまいました。故に、再投稿させてもらいます。

前回感想をくれた方々に、深くお詫び申し上げます。




[19866]
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/27 02:54
黒を混沌と例えるのを前提に、その空間を表す言葉を挙げるとすれば“無”だ。世界も何もかもが産まれる前の完全な“無”の世界。
何も書かれてないキャンパスの様に何処までも真っ白。地面があるのかさえ不明だ。


いや。正確には白一色ではないか。其処には一つの卵がポツンと置いてあった。置いてあるという事は地面はやっぱりあるのだろう。
黒とも灰色とも銀ともつかない色をした人一人が丸ごと納まってしまいそうな大きさの卵。そして卵は時折ドクンドクンと脈を刻んでいる。
まるで生きてるかの様に、生物の心臓と同じく一定の間隔でそれは鳴り続ける。



―――ゲンザイ ニクタイ ノ コウチクリツ 89%  ゼンカテイ ジュンチョウ。 ナニモ モンダイ ナシ 



人からすれば途方もない時間でも『彼ら』にとってみれば一瞬である。だから彼らは功を急がない。
突貫作業など以ての外だ。『器』の機能に支障を来たしたりなどしたら眼もあてられない。
大事な大事な『器』はゆっくりと育てるのだ。親が子を母の子宮で一年近く育てる様に。ただその時間が人に比べて永いだけだ。
ゆっくり、ゆっくり、数百年と言う時間を掛け、彼らの意思の力に身体と精神を馴染ませていく。


卵は相変わらず鼓動を刻み続ける。時計の針が黙々と時を刻むように。


彼らの『器』が完成する日はそう遠くない。





新暦38年  時空管理局第48無人世界 『アルゴ・レルネー』



『アルゴ・レルネー』は緑が豊かな無人世界だ。無人と言う事は戦争や、人為的な環境変動、過剰なまでの自然破壊、おおよそ人の手で発生する災害などは起きないという事である。
この世界は『鎧』が安全に眠るのにもっぱらおあつらえ向きの世界であるのだ。




そんな自然が美しいこの世界に一箇所だけ不自然に緑が切り取られ、明らかに文明的で巨大な建物が建っていた。
とある民間の大企業が建造したロスト・ロギア『ヒュードラ』の発掘及び、研究所である。



そのドーム状の建物の周りを幾つものヘリが警戒の為に上空を飛びまわり、個人が所有する大型の次元航行船が港に停泊し、その貨物子から食料や日常品、研究機材などを輸送していく。
この建物は研究所であり、全職員が暮らす巨大なマンションなのだ。


そもそも発見されたロスト・ロギアは速やかに時空管理局に渡さなければならないのだが、何故一個人の企業がそれを発掘ならまだしも研究まで行っているのか?
解は簡単だ。その大企業のトップが管理局に対して強い発言権を持っているのだ。理由も簡単。管理局にかなりの額の投資とちょっとした額の「寄付」を行っている故である。


その発言権を使えば『特例』でロスト・ロギアの研究を認めさせるのも容易というわけだ。次元世界もやっぱり金次第という事である。









「わぁ~~、すっごく大きい卵ー!」


今は亡きプレシアの愛しい夫譲りの美しいブロンドの髪をゆらゆらさせながら、アリシア・テスタロッサが眼前のそれに対しての感想を叫んだ。
今まで外に出れず、プレシアに会うこともあまり出来なかったのだが、研究がひと段落ついた事によりようやく施設の中の見学を許されたのだ。
勿論、保護者同伴という条件付だが。そして今彼女の眼の前には全長1キロ以上の大きな卵――『ヒュードラ』が鎮座していた。


「アリシア、あんまり大きな声を出しちゃ駄目でしょ? 周りの方の迷惑になるわ」


しかし周りの職員は迷惑そう所かその光景をを微笑ましい物をみるような暖かい視線で眺める。
彼らにも家族は居るのだ。多分、故郷に残してきた家族を思い出しているのだろう。


「だってお母さんったら、ずっと研究ばっかりなんだもん! その間私はずっと部屋で一人なんだよ……?」


「そ、それはね……」


頬をリスの様に膨らまし、プレシアに抗議する。しかしその眼には心なしか涙が溜まっているように見える。
プレシアがワタワタと焦り、何とか娘に機嫌を直してもらおうとする。今まで言い方は少し悪いがほったらかしにしてたのは事実なのだ。

あぁ……そういえば夫も生前よく「プレシアの何かに夢中になる姿はかわいいな」って言ってくれたっけ等と思い出し、現実逃避を図る大魔導師プレシア。


「だ・か・ら」


アリシアが教師の様に人差し指を立てに振る。


「この研究が終わったら、ずっと一緒に居てね! お母さん」


アリシアがプレシアに抱きつく。そのまま母の匂いをかぐように顔を胸に埋める。


「えぇ……このお仕事が終わったら、一緒に静かに暮らしましょう。アリシア……」


既に老後や教育の事を考えても多すぎるほどの金は溜まった。
それこそ一生遊んで暮らしても使い切れない程の額だ。
だから、この仕事が終わったら娘と何処か平和な世界で暮らすことをプレシアは決めていた。



一方その光景を見て、ホームシックに掛かってしまったプロレスラー見たいな体形の職員が取り出した家族の写真を見て涙ぐんでたり、
口の中に砂砂糖を突っ込まれた気分になった職員がブラック・コーヒーを一気飲みして、思わず噴出したり
独身の女性職員が小声で「結婚しようかなぁ…でも、いい男が……」などと呟いてたりしてたのは気にしなくてもいいのだろう。











新暦39年 第48無人世界 『アルゴ・レルネー』 


「結果から言えば“ヒュードラ”は永久機関に限りなく近い存在という事が判りました」



ヒュードラ研究所の一室。会議室と俗に呼ばれる場所に設置された巨大なモニターの前にプレシアは立っていた。
モニターに表示されるのは“ヒュードラ”について判明した様々な情報だ。


『“近い”と言うと?』


彼女の前に並んだ席に座っているのは魔方陣の上に展開された空間モニターにより映し出された企業の重要な大幹部達。
彼らの本体は別次元に存在する本社に居る。
それの一人である恰幅のいい、しかしがっしりとした体形の男性が空間モニター特有のエコーの掛かった声で彼女の言葉に疑問を投げかけた。


「その事柄についての説明はまず、“ヒュードラ”のエネルギー源について述べる必要があります」


プレシアが手元の端末を操作する。モニターの映像が切り替わった。
そこには卵の内部のエネルギーを表示した図があった。それの横には数値と説明文がある。


空間モニターによって映し出された幹部達のホロが動揺の声を出す。
それもそのはずだ、卵の内部に蓄積されているエネルギーの総量が予想を遥かに上回っていたのだから。
次元断層などというレベルではない。下手をすれば次元世界そのものが吹き飛びかねないほどのエネルギー量だ。
そして画像の横の説明文では尚もエネルギーは凄まじい速度で増幅を続けているらしい。



「そしてこれがあの卵の内部の、予想画像です」


モニターが再度切り替わる。機械処理されて作られた卵の内部の断面図だ。


『なんだ……これは……」


幹部の一人の初老の男が困惑の声を上げた。
無理も無い。そこに映っていたのは手と足を曲げ、幾つもの丸い節がついた奇妙な翼の骨格のような物を持った赤子のような物体だったのだ。
この画像を何も知らない一般人に見せたら10人中9人は子宮の中の赤子と答えるだろう。


「私も最初これを見た時は驚きました。そして、エネルギー源についてなのですが―――正直な所、お手上げです。全く判りません」


『と、言うと?』


幹部の一人、切れ長の冷たい目をした青年が問う。
プレシアはその眼を真正面から睨むように見返した。


「何に属するエネルギーなのか一切判別不明なのです。魔力でも原子力でも電力でもない。何処から供給されてるもかも不明。
 何によって発生している力なのかも不明。そもそも何を目的に造られたのかも不明。永久機関かどうかも不明なため、私はこれを『近い』と表現しました。
 少なくとも今の我らの文明レベルではこれの完全な解析は不可能でしょう。そして便宜上私達はこの力を『無限力』と呼んでいます」



『では、我らの投資は無駄になった。そういう訳か? テスタロッサ君』


幹部達の中でも最も老けた男性がプレシアに問う。
その眼の中にあるのは怒りと失望に近い感情であった。



「いえ。その意見には反対を唱えさせてもらいます。会長」


プレシアが会長と呼んだ老人を見据える。


『ほぅ? 言ってみたまえ』


では失礼と、プレシアが一回咳払いをして述べる。


「卵の原理は全く不明ですが、私達はこの卵からエネルギーを引き出す端末の作成に成功しました」


彼女が端末を再度操作するとモニターの画像がまた切り替わった。
其処に映っていたのは地球で言うところの原子炉を思わせる巨大な物体。


“ヒュードラ”の卵と数え切れない程のケーブルで接続されたそれは不気味な沈黙を守っていた。


「この炉は“ヒュードラ”から組み上げた無限力を魔力に変換する機能を持っています。原理は――」


『原理はよい。どうせ時間が掛かるのだろう? 手短に、結果だけを頼むよ』


幹部の一人、眼鏡を掛けた顔色が悪い男性が彼女の言葉を切る。
だまって聞いてろと言い返しそうになるプレシアだったが相手は自分の雇い主、ぐっと堪える。


「今、この炉は試験運用段階で、ほんの僅かだけですが試験的に稼動しています。それでも今、この施設の消費電力の1割はこの炉から組み上げられた
 エネルギーで賄われています。ゆくゆくは転移ポートの技術を応用して、直接次元世界各所に設置した炉にエネルギーが送られるようになるかと。
 勿論原子力などで発生する放射能問題なども起きませんし、原子力よりも遥かに莫大なエネルギーを安全に提供でき、熱や電力などへの変換も可能です。
 今はこのエネルギーを電池の様に固体化させて、持ち運べないかどうかの研究も行っています。
 そして何より大きいのが――この無限力は虚数空間の影響を受けず、時空振動にも影響を受けず、どんな状況下でも問題なく発揮されます」


プレシアが言葉を紡ぎながら手元の端末を操作し、それぞれの言葉の証拠となるデータを次々とモニターに表示させていく。
魔力への変換効率、各次元世界へのポートを利用したエネルギーのダイレクトな転送、放射線データ、熱や電気への変換効率、エネルギーの固体化データ。
人口擬似虚数空間内での影響データ、人口時空振動内での影響データ。



誰もエネルギーが枯渇する心配は? とは聞かない。さきほど卵の中に存在する
文字通りの無限の力をみたからだ。
もしもこの研究が完成したらとんでもない利益を産むのが彼らには見えていた。


決して枯渇せず、有害でもなく、何処でも問題なく使うことが出来、使い方によれば、世界さえも軽々と破壊する。
もっと技術が進めばその逆もできるのではないか? とさえ思えた。


まるで、まるでそれでは――。


『神の力じゃないか……』


会長とプレシアに呼ばれた老人が眼を子供のようにキラキラと輝かせながら呟く。他の幹部も言葉を失い、それにただただ只管頷く。
同時に少しだけ恐怖した。こんな力をただの人間である自分達が使いこなせるのかどうか、余りにも荷が重過ぎる力ではないのか?


しかしそんな恐怖は肥大化した欲望の前に押しつぶされていく。今、自分達は神の力を手に入れたのだ、何も恐れることはないと。
幹部達の眼にはこの“ヒュードラ”が無限の富と次元世界全てからの揺ぎ無い信頼を与えてくれる金の卵に見えた。

いや、もっといけば管理局に変わって次元世界を――とさえ、考える者が幹部の中にはいた。


『テスタロッサ君。さっきこの炉は試験運用中だと言ったね?』


眼鏡を掛けた顔色の悪い男が問う。
プレシアはその顔色に舌なめずりをするカメレオンを連想してしまい、少しだけ嫌悪感を覚えた。


「はい」


『宜しい。この炉を本格的に稼動させてみたまえ。どれくらいのエネルギーが現段階で一度に取り出せるか、見てみたい』


「は?」

プレシアは思わず間抜けな声をあげていた。いま、この男は何を言ったのだろう?
耳が悪くなければ、本格的に稼動させろ と言ったはずだ。


「あの、……もう一度、お願いします」


『聞こえなかったのかね? あの炉を最大出力で稼動させろと言ったのだよ』


「そ、そんな! まだまだデータが足りなさ過ぎます!! 今、アレを最大出力で動かしたりなどしたら……」


『テスタロッサ君。やるのだよ。きみが。成功すれば君は次元世界に名を残す偉大な魔導師だよ』


老齢の会長が爬虫類を思わせる恐ろしい眼でプレシアを睨みつけて言う。元来の聡明な彼ならこんな事は言わないだろう。
しかし、欲望が、何もかも全てを手に入れられる力に対しての欲望が彼の眼を曇らせる。


――この力を使えば、もしかすれば、死さえも回避出来るかもしれない。


そんな馬鹿げた考えが彼の頭の中に渦巻いていた。彼も、もう年だ。その先に待っているのは絶対の死。
人ならば絶対に避けられないその運命を回避出来る可能性が1%にも満たないといえ、眼の前に転がってきたのだ。
これに縋り付かない手はない。


「しかし……」



『プレシア・テスタロッサ君……やるのだよ。それしか道はない。娘さんはかわいいだろう?』


あえて娘の名前を出す。具体的なことは言わないが、もしもここで断ったりなどしたら、アリシアに何かをするつもりなのがありありと伝わってきた。
彼らほどの大企業なら、社会的にアリシアを殺すことなど簡単だろう。ありもしない噂を流したり、マスコミを利用し人を破滅に追いやることなど彼らにとっては普通の方法なのだ。



「…………………はい」


『素晴らしい! やはり貴女は最高の魔導師だよ。テスタロッサ君。後で今までの全ての研究データを本社に送っておいてくれたまえ。
 じっくりと検討したいのでね』



その言葉を最後に全ての空間モニターが閉じ、部屋が沈黙に包まれる。


「……くそッ!!!!」


プレシアは思わず、壁を皮がズリ向ける程強く、何回も殴っていた。
やっぱりこんな仕事請けるべきではなかったと何度も何度も深く後悔しながら。










新暦39年 第48無人世界 『アルゴ・レルネー』



“ヒュードラ”実験の日がついに訪れた。
プレシアはあれこれ言って何とかこの日を先延ばし、あわよくば中止にしたかったのだがそれも出来なかった。


予定通り拷問的なスケジュールの元、炉の調整と改良を完成させ、炉を本格的に稼動させる事になる。
プレシアはここ1ヶ月まともに寝ていない。恐らく合計睡眠時間は20時間にも満たないだろう。


そのせいで艶やかだった黒い髪はボサボサになり、肌も生気を失っている。
娘のアリシアに泣きながら心配されるほどの変わりようだ。


優秀なプレシアがそれなのだ。彼女の部下のスタッフはもっと酷い。
半数以上があまりのハードスケジュールで倒れ、全てが施設の病院送りだ。


そうして空いた穴を他のスタッフが埋めて、過労で倒れる。そしてまた穴が増える。そんな悪循環だ。
最終的にプレシアはこの炉の整備や調整、改良など、半分近くの仕事を一人で行い、その全てを成し遂げたのだ。
常人ならば既に過労死していてもおかしくない。



全ては愛しいあの人との間の娘、アリシアの為に。彼女の人生があんな薄汚い欲の塊共などに潰されてたまるか。



「炉の稼動を開始します。“ヒュードラ”からのエネルギー組み上げ開始」


数少ない生き残りのスタッフが稼動のスイッチをプレシアに手渡す。
それを受け取ったプレシアがそれを撫でる。


そして瞼を瞑る。彼女の頭はやけにはっきりと動いていた。


……永かったわ。これでようやく拷問のような日々が終わる……。


……この実験が成功したら、こんな計画下りてやる。そして何処か小さな世界でアリシアと二人で暮らそう……。


……今までほったらかしにしていたから、怒っているわね……。


……そう言えば、無理しないで、って私をみて泣いてたわ。本当に優しい子……あの人にそっくり。



一瞬で走馬灯のように頭の中で様々な思考をした後、彼女はそのスイッチを強く押した。



















真っ白な“無”の世界。其処に置いてある卵に一つの変化が訪れていた。
濁った灰色か、蠢く銀色を思わせる卵の表面の色が変質していくのだ。


純粋な真っ黒に。おぞましい黒に。白と対を成す混沌の黒に。
水の中に墨を落としたように黒は灰色と銀を侵食し、あっという間に塗りつぶす。


そして卵はその形を変えていく。球状から徐々にその姿を変異させ、ある知的生命体の姿を模していく。


やがてその変異は完了する。
完成したそれは二本の手足と胴体、頭を持った生命種。人間の姿をしていた。


但しその身体は影法師の様に真っ黒で、絶えず身体の表面に白いノイズが走り、その身体は揺ら揺らとぶれている。
顔も真っ黒。鼻や頬などの凹凸はない。



顔にあるのは三つの地獄の底の炎の様に真っ赤な玉。本来眼がある場所に二つ配置され、残りのもう一つは額にある。
口がある場所には白い切れ込みのような物があり、それは耳元まで裂け、全てを嘲笑うコミカルな笑みを浮かべている様にも見える。

背中からは『鎧』が纏っていたのと同様の灰色の輝く煙が絶えず噴出しており、それが彼の身体に纏わりついて服の役目を果たす。




記念すべき『器』の肉体が完成した瞬間だ。




―――キコエマスカ? マスター

何時ぞやの機械音声が彼に語りかける。
彼は以前と同じくぶっきら棒に返した。しかし声は違う。酷くエコーが掛かった低い男の声だ。


『聞こえてるよ』


―――ナニ ヲ ナサイマスカ?

完成した『器』が今、望むことはたった一つだった。



『外に出たい』



―――タダチニ。


そして『器』の命令を受けた『鎧』は稼動を開始する。全ては統率者の意のままに。
力と知識は使われることに喜びを感じるのだ。








稼動実験は至って順調に進んでいた。危惧していた暴走やエネルギー漏れなどもなく、炉は“ヒュードラ”から力をサルベージし始め
それらを何も問題なく魔力に変換し、それを更に膨大な量の電力へと変えていく。



彼女に落ち度はない。ただあえて言うなら間が悪かったのだろう。たまたま『器』が完成した時、彼女達が外に居た。ただそれだけだ。



――危険 危険 魔力量供給量が限界を超えそうです。直ちに炉を停止させたください。


突如けたたましいアラームと共に警告音声が流れる。
発生した問題はアラームの女性型の機械音声が言ったとおり、過剰なまでの炉への魔力供給。


「っ!」


プレシアが声にならない驚愕の叫びを上げる。調整と改良は完璧だったはず。
天才プレシアが一ヶ月の時を掛けて施した策は完璧だったはず。


いや、本当はプレシアも本当はわかっていた。たった一ヶ月の改良ではこれが当然の結末だと。



「直ぐに炉を緊急停止なさい!! 急いで!!!」


プレシアが部下のスタッフに叫び、命ずる。
スタッフが急いでガラスケースを叩き割り、中にあった赤い緊急停止ボタンを殴るように押した。



――緊急停止します。繰り返します 炉を緊急停止させます。




炉はプログラム通りに全ての機能を緊急停止した。しかし炉から光は消えない。



――危険 危険 魔力供給量が限界を超えそうです



しかし魔力の供給は止まっていない。ロスト・ロギアに変わらずに力を送りこまれ、内圧に耐え切れず、見たこともない毒々しい輝く灰色の煙がもれ出ている。
ゴゴゴゴゴゴと、雷鳴のような轟音が中から響いてくる。聞きたくない類の音、人に死を知らせる音。




「そんなッ!!! 何で止まらないの!!!!」


プレシアが焦りに満ちた声で叫び散らす。もしもアレの中のエネルギーが暴走などしたら――考えたくもない。
しかし、優秀なプレシアの頭脳は冷静に結果を囁く。もしもアレが暴走したら、アリシアは――。



――緊急事態 緊急事態 職員の安全のために緊急遮断領域を展開させます。



非常時の機能が作動し、炉を覆うように最高クラスの隔離障壁が展開される。そして同時にプレシアたちスタッフを守るための障壁も幾重にも展開された。これなら20分は持つ。
その間に退避すればいい。言われるまでもなく空を飛べるスタッフは飛んで、魔法を使えないスタッフは全力疾走で脱出船に向かって退避を始める。
プレシアはアリシアを迎えにいく為に、既に限界近い身体に鞭を打って自分でも信じられない速度で飛ぶ。


炉はそれでいいだろう。が、彼女達は一つ見落としていた。




――“ヒュードラ”の卵に皹が入る。無数の皹が表面を覆っていく。輝く灰色の煙が、その皹から漏れ出し始めたのに気がついた者は誰も居ない。




――キュウミン ジョウタイ ヲ カイジョ シマス



卵の皹がどんどん大きく、どんどん増えていき、中に格納された『鎧』を解き放つべく殻を自壊させていく。
誰も居なくなり、アラーム音ばかりが鳴り響く炉の実験室で、ガラスが割れ、割れた破片を更に念入りに細かく砕いていくような、思わず耳を塞ぎたくなるような凶音が響く。


そして――




『はおおおおおおおおおおおぉぉッッッ!!』


殻を破り、禍々しく輝く灰色の煙のマントを纏った巨大な『鎧』が、不気味な産声と共に、誕生。
誕生の際の衝撃波が建物の一部を粉々に吹き飛ばし、『鎧』の頭部が建造物の屋根を突き破る。


同時に、“ヒュードラ”の傍に配置されていた炉が限界を迎え、爆発、隔離結界は簡単に弾き割れ、建物全てを巻き込む―――アリシアの部屋を巻き込み大爆発を引き起こした。


これは後に『ヒュードラ事件』と呼ばれる事件である。





[19866]
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/27 02:55
第48無人世界『アルゴ・レルネー』は今や混乱のどん底に叩き落されていた。
青く澄み切っていた空は灰色の輝く煙に覆われ、濁りきった雲から生物に有害である超高密度の魔力素が降り注ぎ、世界の生物を次々と死滅させていく。


人間が生きるのに必要不可欠な酸素も濃度を高めれば人を呆気なく死に追いやるのと同じように、魔道師が魔法を使う際に必要な魔力素も濃度が極端に高くなれば
人の身体に有害となるのだ。普通はそれほどまでの密度の魔力素は自然には管理局が観測した限りでは中々存在し得ないのだが、この『アルゴ・レルネー』では
それほどまでの魔力素が存在していた。いや、人間が誕生させてしまった。


原因は“ヒュードラ”の卵からエネルギーを引き出した炉が爆発した事により、電力に変換されていなかった超密度に圧縮された魔力が辺りに魔力素として撒き散らされ
重度の汚染を世界に齎しているのだ。そのせいで草花は枯れ、動物は次々と生命活動を停止させていく。人間も例外なく死んでいく。



かつて美しかった『アルゴ・レルネー』は今や瘴気に覆われた死の世界へと変貌していた。



その災禍の中心に「それ」は居た。背から輝く灰色の煙で構築された翼幕を噴出し、全長2キロ近いその巨体を二本の細長く黒い足で支えた異形。
『器』を守るために創りだされた『鎧』であるそれは自らの主の命令を忠実に実行していた。即ち、外に出たいという命令をだ。


腰から伸びる白い複数の節を持った翼から吹き出る、灰色のボロ布を思わせる翼幕に人の思いが飲み込まれていく。
この世界を漂っていた思念、そして炉の爆発で亡くなった者の思念、魔力素汚染で死んだ者の思念が丸ごと喰われていく。
そればかりか次元世界各地から思念が『器』の元に集まり、その力の一部になっていく。



『器』が本格的に目覚めた今の状態の『鎧』の思念吸収能力は以前の稼動テストの際にベルカ、ミッドチルダ軍を喰らった時とは比較にならない
までに高まっていた。いや、これが本来の状態と言うべきか。


このまま更に多くの思念を取り込めば程遠くない内に平行世界や違う時間軸、因果律にも干渉し、創造や破壊だけではなく他にも様々な事ができる様になるだろう。
そしてそれが出来る様になった時――『器』は本当の意味で……。









「はぁ……はぁ……アリシア…!!」


プレシア・テスタロッサは全力で機械で作られた白い廊下をアリシアの部屋を目指して走っていた。アラーム音が鳴り響いてとてもうるさい。時折地震の様に世界が揺れる。
辺りには魔力を使わずとも一目で判るほどの汚染が広がっており、プレシアの体力と気力をガリガリと削っていく。
こんな中で無闇にリンカー・コアを使い、こんな高密度に圧縮された魔力素を取り込んだらどうなるか彼女には痛いほどに判っていた。


最悪、リンカー・コアの汚染は身体にも影響を及ぼし、生命活動に著しい打撃を与えるだろう。リンカー・コアは魔導師が持っている内蔵の様な物なのだから。
それが異変をきたせば他の器官にも影響が行くのは当然だ。


今は自分の中に蓄えた魔力を使い、結界を張って外部の魔力素を完全にシャットアウトし汚染から免れている。
しかしそれだけで精一杯で、とてもじゃないが高度な術である飛行を併用など出来ない。ましてや今の状況では無理と断言できる。


いや正確には平時の彼女なら出来るが、今の彼女は無理だろうと言うべきか。
1ヶ月間まともに休んでない最悪とも言えるコンディションの彼女には不可能だ。魔法二つの同時行使はかなり体に負担が掛かるのだ。


それでも彼女は走る。走る。走る。ただひたすら走る。肺が限界を超えようとも、足が悲鳴を上げようが、少しだけ取り込んでしまった魔力素の影響で
砕けそうになろうとも彼女は走る。アリシアの無事を願い走る。至る所で爆発が起き、火災の煙が上がり、助けを求める声が耳に入ってくるがそれら全ては無視した。


信じてもいなかった聖王教会の聖王に祈りを捧げ、角を曲がり、倒れた研究員を何人か踏んづけて娘の部屋に向かう。
しかし次元世界に神は居ないのだ。聖王なる存在も神聖化こそされど、所詮は肉体改造を施された強化人間。人の願いを叶える力などありはしない。



「あ……」


アリシアの部屋の前まで来たプレシアが生気の無い声を上げた。
アリシアの部屋は完全に汚染された魔力に満たされていたのだ。そればかりか、中は火災が発生しており、有毒の煙が部屋から上がっていた。
燃える。燃える。家族の写真が、アリシアに作ってあげた花輪が、あの人の残した形見が、何よりアリシアが――壊れる。


「あ……ぁああああああ!!!!!」


耳をつんざくプレシアの悲痛な叫びが施設に響いた。













邪魔だった建物の屋根を突き破り、『アルゴ・レルネー』を見渡すように立ち上がった『鎧』に一つの動きが起きていた。
人間で言うところの胸にあたる場所の装甲に縦に切れ目が入ったかと思うと、そこを基点に胸が二つに「開いた」のだ。


そして中から神に供物を捧げる祭壇とも、歌手が歌うステージとも見える純白の巨大な物体が眩いばかりの光とともに現れる。
鎧の上部にある白い二つの点を眼とするならまるで人間が口を開いて、喉の奥から祭壇を吐き出したようにも見えなくもない。



祭壇の表面に白い線が走ると、今度は祭壇が上部に競りあがっていく。1段、2段、3段、4段、5段、6段、計6段。
上に行くたびに幅などが小さくなっていくその様は例えるならまるでウェディング・ケーキだ。
純白のウェディング・ケーキにも十字の切れ目が入り、中の存在を外に出すべく4つに分離する。
4つに分かれた祭壇の中央から先ほどよりも一層眩い光が放射され、暴力的な光は雲で覆われた辺りを強く照らしつくす。


4つに開いた祭壇の中から一つの小さな人間だいの大きさの“影”が浮かび上がってくる。
それの輪郭は揺ら揺らと不定形にぼやけており、人が持っている生気が一切感じられない“影”だ。
全身には壊れたTVが映すようなノイズが絶え間なく走っている。
ただ、顔に在る3つの紅い眼らしきものがギラギラと恐ろしく輝き、不気味な存在感を示していた。


まるで地獄の炉の炎のようなそれらがギョロっと動き、崩壊していく『アルゴ・レルネー』を見下ろす。
そのまま観察するようにじぃっと世界を見下ろして、次いで首を傾げる仕草をする。


――知らないのに、知っている世界だ。


“影”は今不思議な感覚に陥っていた。自分はこんな場所、以前来たことはおろか、見たことも聞いた事もないのに知識として知っている。
そんな何とも言えない感覚。こんな感覚は始めてだ。


この“世界”の名前は『アルゴ・レルネー』“時空管理局”の法では第48無人世界に指定されている世界。
影がまた首を傾げた。「世界」? 国ではなくて? それに管理局……? いや、自分は何故か知っている。




“時空管理局”現在自分の居る世界とその周辺の世界を束ねている組織。主な組織の目的は各管理世界の文化管理、災害救助、古代遺産ロスト・ロギアの回収と保管――。
危険度は現時点で最低。しかし成長の余地は大いにあり。主な主戦力は魔導師と呼ばれる人間兵器。危険度は最低から低。



“影”がその手に見える部位を顎の下に持ってきて、更に考え込む。
PCのように頭の中で検索すれば直ぐに答えが出てくるのが楽しくなってきた。
そのまま吸収した思念が記憶していた記録を貪欲に漁り始める。



“ロスト・ロギア”主に過去に滅んだ進んだ文明から流失した特に発達した技術や魔法の総称。時空管理局が保管、管理をしている。


“影”が、おや? と思う。自分達より遥かに進んだ文明の遺物をどうやって管理するのだろう? と。
下手をすれば取り返しのつかない事になるのではないか? そもそもそれは墓荒らしなんじゃないか?



……。


まぁ、それは今のところ置いておいてだ。


自分の背後で凄まじいまでに存在感を示す『鎧』に音もなく振り返る。そして口を動かしたつもりだった。
実際は口は動かず声だけが出た。それも、深く低い威厳と禍々しさに満ちた男の声で言おうとした事を言う。


『お前は……?』


不思議と恐怖は感じない。それどころか頼もしさを感じる。まるで歴戦の戦士や最強の騎士が忠実な味方になったかのようだ。
それにこうしてみると、中々に愛嬌のある外見をしているじゃないか。


『鎧』は何も言わない。ただ肉声での返事の変わりに『器』に情報を送るだけだ。
それも無駄な情報は送らず、只一言だけ“影”の脳内に機械音声が響いた。



――ゴメイレイ ヲ マスター。


『……』


“影”が肩を竦める動作をした。まるで機械と話している気分だ。いや、事実機械の様なものなのだろう。少なくとも生物ではないのは確かだ。
纏っている灰色の煙がモワァと広がり、辺りに更に高密度の魔力素が撒き散らされ、更に汚染された。


『ところで……』


自分の名前が思い出せない。どんな名前だったろうか?
そもそも自分は男? 女? 特に大きな意味はないが、自分の名前が判らないと言うのは中々に不便だ。主に人間関係などで。
あーでもない、こーでもないと自分の名前を思い出そうと奮闘するが、全くの無駄だった。全然出てこない。






不意に炎に埋め尽くされている地上で紫色の光が爆発した。次いで雷鳴のような轟音が響いてくる。
ビリビリと衝撃波が“影”まで届く。


そして凄まじい速度で小さな何かが自分を目指して突っ込んできてるのが“影”には判った。
アレは――? “影”が3つの燃える眼を凝らしその物体を観察する。


“プレシア・テスタロッサ” 直ぐに飲み込んだ思念から情報が引き出され、詳細なデータが頭の中に流れ込んでくる。
魔導師ランクSS++、二つ名は大魔導師、そして私の優しいお母さん――。


そして更に詳細な、いや、正確には絶対の運命に描かれた“これから”彼女が辿るであろう道までもが鮮明に流れ込んでくる。
プロジェクトF……人工生命体……フェイト……願いを叶える石……アルフ……時の庭園……リニス……アルハザード……アリシア……死者蘇生……過去への回帰。


他にも正直意味が判らない単語が出てくるが、今はそれを全て無視しプレシアに意識をもう一度向ける。直ぐに情報の流れ込みが止まった。
そして“影”の優秀な視力は確かに捉えた。



血の涙を流し、鬼気迫る表情で自分を殺しに来る大魔導師の顔を。
それを直視してしまい、思わず“影”は一瞬身を竦める。
その一瞬の隙に彼女は『器』に肉薄し、『鎧』の攻撃範囲から脱出する。


そう、ここでは近すぎてプレシアを攻撃できないのだ。下手をすれば『器』を巻き込むから。
『器』を格納しなければ攻撃は無理だ。そしてプレシアはそんな時間を与えるつもりは無かった。


「ヒュゥゥゥゥウウドラアアァアアアアアアアァアアア!!!!!!」



血雫の涙を流しながらプレシアが吼える。既にリンカー・コアへの負担など気にも掛けては居ない。
全身からミシミシと嫌な音が響いてくるがそんなの問題ではない。彼女は本当の意味での自分のもう1つの命を失ったのだ。


ただ眼の前のこのロスト・ロギアを破壊できればそれでよかった。アリシアが死んだ。アリシアが死んだ。
私のせいで。私がこのロスト・ロギアへの誘惑に負けて死んだ。私が殺した。あの人の忘れ形見を。


だから、私がこのロスト・ロギアを壊してやる。エネルギーが暴走しようが関係ない。次元断層が起きようが関係ない。
次元世界全てが因果地平の彼方に消し飛ぼうが関係ない。コレは破壊する。私達を破滅に追い込んだコイツは絶対に破壊してやる。


八つ当たりだろうが何だろうが知った事か。



既に狂気の領域に片足を突っ込ませたプレシアがリンカー・コアを限界を超えて活動させ、超高密度の魔力素を貪り、魔力を補充する。
リンカー・コアが耳障りな悲鳴を上げるがそんなもの今の彼女には意味を成さない。ただこのヒュードラを破壊する。それだけを目的に動いているのだから。



許容限界を超え、今にも身体を突き破ってしまいそうな魔力を大魔導師と呼ばれる程の技術で操り、プレシアが術を行使する。


「アルカス・クルタス・エイギアス。煌めきたる天神よ。いま導きのもと降りきたれぇ!
 バルエル・ザルエル・ブラウゼル。撃つは雷、響くは轟雷。アルカス・クルタス・エイギアス!!」


  
【サンダー・フォール】


直径数百メートルに及ぶ極大の魔法陣が幾つも展開され、其処から一つ一つが数十万A、電圧は大よそ数億Vというとてつもない
力が篭もった稲妻が幾筋も放たれる。
本来は集団で魔力を合わせて発動させる大魔法。魔力で天候を操作し、自然現象としての雷を対象に当てる術。
今のプレシアの魔力で放たれたソレは管理局の戦艦さえも落とせるであろう。


紫の狂気が雷鳴を伴って“影”を滅ぼさんと襲い掛かる。
大気中のチリが稲光に触れる度に燃え上がり、火花を上げ、消し飛んでいく。


――ボウギョフィールド ヲ テンカイ シマス。


『鎧』が『器』を守るために防御領域を多重展開し、戦艦さえ落とす力を秘めた稲妻群を難なく空間操作で捻じ曲げ、防ぐ。
プレシアの行動は早かった。稲妻が防がれると見ると、すぐさま新たな魔法を唱え、瞬時に行使する。
それも一つではない。幾つも同時にだ。身体が軋み、喉から血が込みあがってくるが、そんなこと気にも留めずにプレシアは術を行使する。



「アルカス・クルタス・エイギアス。疾風なりし天神、今導きのもと撃ちかかれ!
 バルエル・ザルエル・ブラウゼル。フォトンランサー・ジェノサイドシフト!!」



彼女の前に1000を超える魔法陣が現れ、それぞれ一つ一つから最高位の魔法が降り注ぐ豪雨のように容赦なく乱射される。


【フォトンランサー・ジェノサイドシフト】



万を超える数の紫の狂気が込められたフォトン・スフィアが出現し、それら全てから毎秒7発という恐ろしい速度でフォトン・ランサーが撃ち出される。
一発一発の威力が限界まで酷使されたリンカー・コアの影響で今やAAランク魔導師の全力の砲撃と大差ない威力のランサー、それが数十万発、全てが“影”に向けて
惜しみなく叩き込まれる。普通の人間相手ならまず間違いなくオーバー・キル確定の技だが、合計百万を超えるフォトン・ランサーの魔嵐を『鎧』の
防御フィールドは耐え切っていた。全ての狂気の光槍を空間ごと捻じ曲げ軌道を逸らし、障壁で弾き飛ばし、無効化していく。



しかし、まだプレシアの攻撃は終わっては居ない。全身からの警告を無視し限界を超え、術を行使する。
正真正銘の全力の攻撃。これが通じなければ後はない。


「アルカス・クルタス・エイギアス! 偉大なる神の武器!! 巨人殺しの槌よ!!
 バルエル・ザルエル・ブラウゼル!!! ミョルニル!!!」


詠唱の終了と同時にプレシアが血を吐いた。しかしそんなもの気にせずに狂気と憎悪に満ち満ちた目で眼前の“影”を睨みつける。
心なしか、相手が怯えているように見えた。関係ない。壊すだけだ。カビの生えた遺物など消し去ってやる。


プレシアの手に限界以上に酷使されたリンカー・コアから生成された魔力が集まっていく。
そればかりか、『アルゴ・レルネー』中のありとあらゆる魔力素がかき集められ、一つの形を成す。

それは槌。巨人を殺したと言われる槌。神を殺そうとする今のプレシアが持つに相応しい武器だ。



【ミョルニル】




禍々しい色を放つ憎悪と狂気が篭もったソレをプレシアが振り上げる。バチリ、バチリ、不気味に、静かに帯電するソレは存在するだけで
小規模の次元震を引き起こしているかの様な錯覚を与えられる。そしてソレを手にするプレシアの目は既に人の眼ではなかった。
子を理不尽に奪われた彼女は既に完全に壊れている。ここに居るのは――魔人。



「壊れろおぉおおおおお!!」


腕の筋肉が引き千切れる音が聞こえたが無視し、思いっきり【ミョルニル】を防御フィールドに叩き込む。
“影”が自分をその紅い眼で見ているのがプレシアには見えた。憎悪が湧いて来る。更に【ミョルニル】の出力があがった。


強大な力のぶつかり合いが次元にも影響を及ぼし、小規模の次元震を引き起こし、『アルゴ・レルネー』全体を揺るがす。
しかし、割れない。硬い。硬い。かつてベルカとミッドチルダ両軍の攻撃をいとも簡単に無効化した防御フィールドは余りにも硬かった。


「何で……割れない、のよぉ……!」


彼女の口から憎悪と屈辱に満ちた声が漏れる。大魔導師と呼ばれた自分が命を削って行っているのに相手のフィールドも破れない。それがあまりにも悔しかった。
屈辱だった。娘の命を奪った間接的な原因に攻撃を当てることはおろか、触れることも出来ないことに。


と。また“影”の紅い眼と眼があった。まるで深遠を覗き込んだ気分になったプレシアの耳は確かに捉えた。
その全てを嘲笑っている白い耳元まで裂けた口から声がしたのを。



『やめてくれ。プレシア』


もう会えない、聞くことも出来ないあの愛しい人の声を確かにプレシアは聞いた。酷くエコーが掛かってはいるが確かにあの人の声。
そもそも夫の声を聞き間違えるはずが無い。


「……え?」


プレシアが思わず一瞬だけ気を抜く。それが致命的だった。次の瞬間彼女の身体は崩壊した。
リンカー・コアが遂に暴走し、魔力が制御できなくなったのだ。身体を突き破るように魔力が至る所から噴出す。



【ミョルニル】が崩れ、爆発する。それに巻き込まれ、プレシアは大きく吹き飛んだ。
咄嗟に何とか結界を張ったが、それを最後にプレシアは気を失った。そしてそのまま『アルゴ・レルネー』に墜落していく。






“影”は安堵していた。ただ自分は外に出たいと願っただけなのに、あんな恐ろしい女に殺しに掛かられ、気が動転しない者は居ないだろう。
内心防御フィールドがいつ割れるか心配で気が気でなかったのだ。


咄嗟の機転で検索で探し出した彼女の親しい人物の声で話しかけ、彼女の注意を逸らした隙に『鎧』の中に逃げようと画策していたのだがその必要も無くなった。
それはそうと、アレは一体誰だったんだろうか。余りにも急いでいたから詳しい情報は取り込んでない。
あの驚きっぷりから察するに家族か何かだろうか?



しかしと、“影”がもう一度『アルゴ・レルネー』を見渡す。其処には地獄が映っていた。炎が地上を焼き尽くし天は灰色の瘴気で覆われ、次々と命が失われていく。
これを地獄といわず何と言う?しかし散った命は全て『鎧』が回収している。



そんな光景を見ているのが嫌で“影”は身を音もなく翻し、祭壇の中に戻っていく。後で全ての話をこの『鎧』に聞こうと心に秘めながら。
4つに判れていた祭壇が“影”を格納し、1つに戻っていく。やがて6段だった祭壇が下がり、一枚の板の様になると、今度は黒い装甲の中に飲み込まれていく。
そして、最後に縦に開いていた装甲を戻すと元通り。これで安心だ。


世界の全てが白に塗りつぶされる前に“影”は小さく呟いた。



『“ヒュードラ”?……これでいいか名前』



“影”……いや、ヒュードラにここの研究者だった者の思念の記録が流れ込んでいく。


“ヒュードラ”第48無人世界『アルゴ・レルネー』で発見されたロスト・ロギア。
無限力と呼ばれる正体不明の力を持つ。内部には――。



いや、と。ヒュードラが思考を打ち切る。どうも余計な情報もついてくるな、と。嫌に思いながら。
頭の中にPCを埋め込めば勉強などが楽になるかと以前どこかで考えた事もあった様な気がするが、これは思っていたよりも碌な事じゃない。


頭の中に情報を流し込まれるのはどうも違和感がある。



――ソノウチ ナレマス


最後にそんな機械音声が聞こえた様な気がした。
慣れたくないと、『器』は思った。







[19866]
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/27 02:56
『ヒュードラ事件』 新暦39年に第48無人世界『アルゴ・レルネー』で発生した事故。
この世界にて発見されたロスト・ロギア『ヒュードラ』からエネルギーを引き出す炉の実験中に過剰にエネルギーを取り込んだ炉が暴走、爆発。

その結果アルゴ・レルネーに甚大な汚染を齎した事件だ。
この事故のせいでアルゴ・レルネーの動植物の6割以上は死滅。同世界は完全に死の世界に生まれ変わった。
管理局次元災害対策課による調べでは汚染は最低でも千年は残る見通しだ。これにより、アルゴ・レルネーは完全に封鎖。


中略



この事故の原因は管理局次元災害調査部が調べた結果によると

研究者であるプレシア・テスタロッサが上層部の反対を押し切り
無理やりヒュードラの炉を稼動した結果起きた悲劇だということが彼女を雇っている企業から提供された資料で判明している。


これが企業から提供された音声記録です。

これがヒュードラ事件の真実だ! というテロップと共にいいように編集され、プレシアをまるで研究の悪魔と言わんばかりに編集された
会話記録が流れる。背後のBGMがいやらしい演出を加えている。



――そ、そんな! まだまだデータが足りなさ過ぎる!! 今、アレを最大出力で動かしたりなどしたら……


幹部と思わしき、あの眼鏡を掛けた顔色の悪い男性の焦った声。奇遇な事にこの人物の台詞はあの日、プレシアが述べた反論と一言一句違わない。
しかしそんな事を一般人が知るわけない。故に一般人はこの人物を研究に反対した正義の味方だと認識する。


――テスタロッサ君。正気かね? 君は一体自分が何をしようとしているか判っているのか!


プレシアに会長と呼ばれていた老人の焦った声。
奇遇なことに彼もあの日とは正反対の事を言っているのに音声記録はこう記憶されていた。
だが、一般人は彼をプレシアを必死で止めようとした良識を持った人間と認識する。


そして最後に


――いいえ。会長。私は成功しますわ! そして次元世界に名を残す偉大な大魔導師になるのです!!



狂気を含ませたプレシアの声だ。完全に偽りなく彼女の声だ。だが彼女はこんな事を一度も言ってはいない。
しかし一般人はこれを信じる。彼女は研究の悪魔だという印象を植え付けていく。
声などデバイスや特殊な魔法等を使えばどうにかなるというのに……。




次に彼女と共に働いていた者の証言というテロップが流れ、幾重にもモザイクを掛けられた恐らくは男性が耳に障るエコーの掛かった声でマイクに向かって答える。


――プレシア氏はどういう人物だったのでしょうか?


――あぁ。彼女ね。アレは自分の研究の事しか考えてない女だよ。娘さんとも何度か会ったけど、これっぽっちも娘を愛してるようには見えなかったね。
  むしろ……そう。邪魔者みたいに扱ってたよ。きっと夫が死んだ時も保険金が入ってラッキーぐらいにしか思ってなかったんじゃないのかな? 
  夫もかわいそうに。仲間の間では夫は彼女が殺したんじゃないか? とか言われてたよ。怖いねぇ……。
  今回の事故で娘さんも亡くなって、きっと本人は喜んでるだろうね。「これで邪魔な子供が居なくなった」とか言って影で笑ってたり。ハハハハハハハハ……。



中略




この件について管理局は現在重傷を負って入院中のプレシア・テスタロッサ氏が目覚めてから事情を聞く方針だ。
更に彼女は部下を労働基準法を破るほどに働かせ、病院送りにした罪も問われている。
そして管理局は迅速な対応をしてくれた民間企業に感謝を……。



さて、次のニュースですが――。


新暦39年○○月××日のミッドチルダ首都、クラナガンニュースより抜粋。
尚、このニュースは1日だけでも20回近く放映され、ミッドチルダの人間に念入りに刷り込まれていった。










何処でもない世界。辺りは暗く淀み、歪み、見ていると平衡感覚が狂わされ、右も左も判らなくなる世界。
いや、そもそもここに上下左右などないか。ここでソレを問うなど、宇宙で上と下を定義しようとするのと同じくらい無駄な試みだ。


そんな世界に一つだけ大きな存在感を振りまく巨大な物体があった。

完全な球体をしており、表面は生きているかのように蠢いているソレの名はヒュードラと言った。時空管理局が名づけた名だ。
ヒュードラはアルゴ・レルネーを間接的に滅ぼした後、空間を歪めて虚数空間への道を開いて虚数の海に潜り込んだのである。
ここなら管理局もこれない。ゆったりとマスターと対話するには絶好の場所だから。



真っ白な『鎧』の内部の空間。そこに一つだけ不釣合いな一目で上質な一品だと理解できる黒いソファーが設置されていた。
その上に黒い“影”――ヒュードラが堂々と座っており、その紅い三つの眼を目の前に現れた空間モニターに向けている。


『さて……幾つか、いや、かなり聞きたい事があるのだが』


ヒュードラがその白い裂け目から発声し、自身の『鎧』に問う。
彼の眼の前のモニターに文字列が現れ、『鎧』の意思を示す。こちらの方が話すよりも手っ取り早いと判断したのだろう。
そしてそこに文字が表示される。


――何なりとお聞きください。



ヒュードラが何度かソレを読んで頷く。見たことも聞いたことも無い文字だが、不思議と以前から使っているかの様に読めた。
この調子なら恐らく同じように書くことも可能だろう。


『まず一つ。此処は何処だ?』



紅い線で文字が描かれ、解を示す。



――ここは貴方を守る為だけに創られた『鎧』の中です。


モニターに『鎧』の全面図が表示される。頭の無い漆黒色の細長い体躯に複数の白い節を持った翼、そして其処から噴出されるマントの様な輝く灰色の翼幕。
それの胴体の部分が紅く点滅する。横に文字が表示され、此処に自分は居るのだと教えてくる。


ヒュードラが何度か頷き、次の質問をぶつける。不思議なぐらいに頭は冷静だった。



『鎧とは? どうして……私を守る必要が?』


どの一人称を使うか一瞬迷うが、男でも女でも通用する「私」という一人称を使用することにする。
空間モニターに文字が刻まれ、的確に回答する。



――それは貴方が私達の『器』だからです。貴方なくして我々は力を顕現させれない。貴方の消滅は我らが現世への干渉する力の一切を亡くす
  事を意味する。


ヒュードラが頭を傾げる。言われたことの意味は判るが、また新たな疑問が生じたからだ。


『器? 私が?』


――はい。


また少しヒュードラが考え込むが、とりあえずこれだけは聞いておく。


『お前は私に何かさせたいことがあるのか?』



返答は迅速だった。人間には不可能な速度で文字がモニターに書き込まれていく。


――はい。


『何をさせたい?』


一瞬の間も置かずにモニターに文字が表示される。


――使ってください。


モニターに書き込まれた言葉の意味が深すぎて理解できず、ヒュードラが再度頭を大きく傾げる。
使ってとは……? 何を? どういう風に?


そんな彼の思考を読み取ったかのようにモニターに文字が追加されていく。



――力も知識も技術も使われなくては意味が無い。使われない力などただの飾り。誰にも使われない力など存在する価値がない。
  だから使ってください。


それを読み、ヒュードラがまた考え込む。力、知識、技術。これらの単語の意味は判る。判るが……それら全てを持っていると言わんばかりに
自分と語っている存在が何なのか気になった。故にそれを問う。


『……お前は何だ?』


問い掛けに対しての答えがモニターに表示される。


――我々は“まつろわぬ者”と呼ばれる残留思念です。


『まつろわぬ者……?』


モニターの文字が一度消え、再度モニターを文字が埋め尽くしていく。


――知的生命体の多くは身体が生命機能を停止しても、その思念というのは残り、思念には寿命などは存在しません。不滅なのです。
  ある世界ではその思念を再び肉体に記憶などを消去して入れる行為を転生などと呼ぶそうですが、この多次元世界では
  ほとんど行われていません。その結果、何千億も過去から繰り返された数え切れないほどの世界の滅亡と再生の無限輪廻によりこの多次元世界には無限さえも
  超えた数の我々まつろわぬ者が満ちる結果となりました。



ここでモニターが文字で埋め尽くされたので全ての文字が上に移動し、そうして出来たスペースに文字が再び刻まれていく。


――思念は生前の全てを記録しています。力も技術も知識も何もかも。しかし思念単体では基本的に出来ることなど何一つありません。
  精々、小さな物を動かしたりして、人を驚かす程度です。しかしこれは単体の場合の話。
  幾多の意思が同じ方向を向き、力を発現させれば、必然的に引き起こされる事象は巨大になっていきます。
  そしてその無数の意思を吸収統括し、向くべき方向を定めるのが貴方です。



文字が再び上に行き、スペースを空ける。そして文字が再度刻まれていく。


――もう一度言います。我々の目的は使われることです。その属性は関係ありません。善でも悪でも我らにとっては些細な問題。  
  我々の最終的な目的は、貴方を全能の存在にすることだ。そして、全ての時間軸、世界に存在する我々の同類を貴方の元に集めることです。 
  そして我々の手で貴方を本当の神に新生させること。それが我らの最終的な目的。



ヒュードラがその影法師の手を顎の下に持ってきて考え込む。正直、全く実感が湧かなかった。神とか全能の存在を作るとか言われても余りに規模が
大きすぎて全く判らない。というか、途中からモニターの文字の口調が変わっているような気がする。



『“神”……ねぇ。じゃ、私は神になった後、何をすればいい?』


返答は単純だった。モニターの文字が全て消え、簡潔に一言だけ表示される。



――ご自由に。誰も貴方は止められないでしょうから。



思わずヒュードラが噴出す。まさか自由にと言われるは思わなかった。もっと何か大きな事を要求されると思っていた。
耳元まで裂けた白い口の様な模様から聞いた者の魂にヒビが入るようなおぞましい濁った笑い声を吐き出し、身体を大きく逸らして辺りに身に纏っている輝く灰色の煙を撒き散らす。
一しきり笑い終わった後に、燃え上がるような3つの目をモニターに向け、再び自分の力と対談を再開させる。



『最後に一つ。私は誰だ?』



本来ならこの質問を一番先にすべきだろう。しかし既にヒュードラにとってこんな事どうでも良くなっていた。
自分が誰であろうと此処にいるそれでいい。だからこの質問に答えなど期待してはいない。精々解が貰えたらラッキー程度な重要さだ。
『彼ら』の精神的適応は完全に効力を発揮していた。もう彼は前の自分になど興味はない。



だからこんな答えも予想済みだった。


――我らのマスターです。


『そうかい』


たった一言だけ返し、そして話題を変える。
その程度の価値しかないから。既に思考が人間のソレから逸脱を始めている事に彼は気がつかない。


『じゃ、話は変わるけど今は何をするべきだと思う? どう行動するべきかな?』


最終的な目的やら使われることやらは置いといて、現実問題。
今は何をすべきか意見を貰いたくて問いかける。何せ自分はこの次元世界とやらの事をまったく知らないのだ。
知っているのさきほど情報で得られた管理局とロスト・ロギアなどについてだけだ。まずは意見を聞いてそれから動くのは当然のことだろう。



――先ずは貴方を守るために『手足』を増やしたいと思います。


『手足?』


ヒュードラが何を手足に例えているかが判らず言う。
が、直ぐに回答がモニターに表示され、ヒュードラを満足させた。



――文字通りの意味です。貴方を守る軍隊に、貴方のために動く人形、それら全てを手足と表現しました。



『軍隊? 人形? この『鎧』だけで十分じゃないのか?』


主の尤もな質問に彼らの力たる意思は自らのプランを答える。



――確かに直接戦闘に関してはこの『鎧』の力は無敵です。
  しかし、まだ因果律や時空間を限定的にしか操れない状態のマスターでは万が一という事もあります。
  油断と慢心は滅びへの道。かつて我々が観測した中でも最も進んでいた文明の一つであるアルハザードと呼ばれる超文明も
  それが原因で滅び、我らの一部となったのだ。その文明が残した防衛システムを我らの手で再現し、使ってやろう。



また途中から口調が変わってるような気もしたが、それはこの際無視する。
というよりもただ自分達の力を振るいたくてしょうがない様にも見えるが、それも無視。
モニターの文字が消え、その防衛システムとやらの詳細な企画書と設計図の様なものが表示される。


『これは……』


守られる対象であるヒュードラがそのデータに目を通し、思わずその内容に声を出す。
ナイトメア・クリスタルと呼ばれる特殊なレアメタルを加工し
自己再生、自己増殖、自己進化、自己複製、自己記憶の五大要素を兼ね備えた金属細胞を作り出し、それで兵器を作るそうだ。
そして対象の情報収集にはガジェットや傀儡兵と呼ばれる特殊な偵察端末を使用する。


情報を与えてやれば時間こそ多少掛かるが、対象を殲滅するのに特化した形態をとる軍団を作り、それら全てを一つの『鎧』とは別の強力な力を持った機体で統制するという
システムを作りたいとそこには表示されていた。その統率する機体の名はゲペルという。


そして文の最後には許可を求めるイエスかノーかの選択肢があった。イエスを選択すれば今すぐにこのシステムの構築を開始するのだろう。


『イエスと……』


ヒュードラは迷うことなくイエスを選択した。何も自分にデメリットなどないし、むしろ自分を守る為ならまぁ、いいだろう程度にしか思ってはいない。
実際ノーを選択したら後々、この思念たちはうるさそうだとも思っていた。


イエスを指でクリックするように押すと、画面が切り替わり大きく「承知しました」と出て、それも直ぐに消え、モニターは何も映さなくなった。


『それにしても、こんなクリスタル実在するのか……』


イエスを選択したヒュードラが呆れ気味に呟く。そんなご都合主義の塊みたいなクリスタル、確かナイトメア・クリスタルだっけか?
そんなものが本当に実在するのか彼は正直な話疑っていた。

というか、この状況自体が夢みたいなのだが。しかし音が映像が、感覚が全てがコレは現実に自分の身に起きている事だと憎憎しいまでに教えてくれている。
そしてソレを不思議なまでに受け入れている自分が一番怖い。人間は物事に慣れるというが、コレは幾らなんでも有り得ないだろう。


……自分は人間だったのか? ソレさえも判らないがこれも正直どうでもいい。今生きている。それでいい。


今の彼の興味はどこからあんな非常識極まりない性質のクリスタルをどうやって持ってくるかにあった。
軍を作るというからには1トンや2トン何て量では全然足りないだろう。どうやって調達するのだろうか。


と。不意に真っ白だった世界に色が着色される。いや、正確には外の映像を映してるのだ。
虚数空間の歪んだ空間が全面に映し出される。


其処に先ほど聞いた機械音声が流れ、これから引き起こす事象を説明する。


――コレヨリ ゲート ヲ ヒラキマス タイショウザヒョウ………。


何十、何百の数字を機械的に淡々と読み上げていく。天文学的な数の数字だなとヒュードラは思った。というより、何処と繋げるつもりなのだろうか?
ゲートと言う事は当然、扉か何かの類なのだろうし。


輝く灰色の煙が『鎧』の卵から洪水のように溢れ出し、一点に集まり、やがてドーナッツを彷彿とさせる円形の姿を取る。


そして徐々に円の大きさは広がっていき、やがて視界には納まりきれないほど巨大な円にまでとなった。
大きな大きな輪。


――ゲート ヲ ヒラキマス


機械音声が再び流れ、実行の意を表す。
視界に納まれないほど巨大な『輪』の外周に『無限力』とプレシアら研究者に名づけられた力が集まり、円の内部の空間を歪めていく。

そして。


――ゲート テンカイ カンリョウ タイショウ ヲ コチラ ニ テンイサセマス


機械音声が作業の第一段階終了を告げる。ヒュードラが繋げられたゲートとやらに眼を向けた。
紅い三つの眼が捉えたゲートの向こう側に映る色は黒に所々に宝石のような輝きがある。まるで夜空のような色だ。
何となく何処にゲートをつなげたのか予想がついた。


地面が無いはずの虚数空間が揺れる。いや、揺れているのは空間だ。次元震が起きている。
その「対象物」を転位させている影響で次元震が発生しているのだ。


そしてゲートから「対象物」が現れた。


それは一言で表すならば「星」だった。全長1キロを優に超す大きさを誇るヒュードラの卵が砂粒以下の大きさに見えるほど巨大な「星」であった。
地球などと同じく、地面は岩石や様々な鉱物や砂で構成され、自分からは輝かない「星」だ。外部の音声はカットされているのか、何も聞こえない。
その「星」が無理やり転位させられ、ゲートからその一部をこちら側に露出させている。
恒星に比べれば遥かに小さいとは言え、全長はいったい何千キロあるのかヒュードラには皆目見当もつかなかった。


――ゼンチョウ ハ ヤク 3761.7キロメートル デス コノホシ ニハ タリョウ ノ ナイトメア・クリスタル ナド ガ フクマレテイマス。ソレヲ シヨウシマス


『………………』


心を読んだかの様に正確な全長を告げてくる『鎧』に返す言葉もなく、彼らの主たる『器』であるヒュードラは呆然とゲートから現れた星を眺めていた。
星が動かされた光景を見て、まさしく絶句しているのだ。


――コレヨリ “ガンエデンシステム”ノ コウチク ヲ カイシシマス。


『もう……どうにでもなれ……』


何処かやけくそ気味にヒュードラは呟いた声は虚しく反芻した後、消えた。












時空管理局 “本局” 新暦39年 “ヒュードラ事件より、3日後”


時空管理局の本局は次元の狭間に存在する。6方向に種のような形状の支部を伸ばしたそれの全長は大よそではるが30キロ近い大きさを誇る巨大さだ。
この中には一つの大都市が内包されており、常時20万を超える管理局員達が常に駐在している。いや、住んでいるというべきか。


その本局中央部に位置する、管理局員の中でも身分の高い者等が駐在している中央センターの一室に二人の人影があった。
二人ともその特徴的な制服から管理局の中でもエリートコースと呼ばれる執務官という役職に付いている人物だというのが判る。


「悪かったな、グレアム。時間取らせて」


一人の緑髪の男が入れたての熱いコーヒーをグレアムと呼んだ髪をオールバックで纏めた青年の前におく。
どうやらグレアムの故郷の国ではほとんどの人物がコーヒーを水の様に飲むらしい。
事実彼はグレアムがコーヒー以外の飲料物を飲んだ所を見たことが無い。


「一週間の連休から帰ってきたと思ったらいきなり呼び出しか? もう少しリンディ嬢の傍に居てやったらどうだ? コーディ」


グレアムがコーヒーのカップに手を伸ばし、上品な動作で飲む。
そしてその整った顔をしかめる。


「……全く。君は相変わらずコーヒーの入れ方が下手だな」


しかし飲む手は止めない。味わうように、じっくりと飲む。まずいから捨てるという発想は彼にはないのだ。
それは偉大なるコーヒーへの侮辱となるから。


そうして、最後の一滴まで飲みつくす。その間コーディはじぃっと待つ。
コーヒーを味わっている間の友人は梃子でも動かないし、話を聞かないと知っているからだ。


「で、一体何のようかな? もしも娘の自慢なら私は帰るぞ。さすがに聞き飽きた」


「いや、今回はちょっと違う。今回お前を呼んだ理由は他でもない【仕事】の誘いさ」


仕事と聞いてグレアムの眼が細まり、鋭い光を放つ。
それを見たコーディが満足げに笑い、懐に手を入れてファイルブックを取り出し、数枚の写真と資料を取り出す。


そしてソレらをグレアムに差し出す。


「“海”の上層部から進められた仕事なんだが、お前の意見を聞きたくてね。出来れば同行してくれると尚ありがたい」


「……これはロスト・ロギアの探索任務か? 回収優先ではないのか……」


グレアムがペラペラと手渡された資料を捲る。
卵の様な形状をしたロスト・ロギアが映った写真。そしてソレが事故を起こしたから探索して、戻って来いという任務。


そして任務の概要が書かれた資料には回収は出来ればとだけ書いてあった。基本は情報集優先だそうだ。
ロスト・ロギアの名称は「ヒュードラ」どの様な力を秘めているかは一切不明。それ故に多くの執務官は怖くて任務の依頼を引き受けたくないらしい。

そのせいで指揮官が居ない捜査官達は動けたくても動けない状況にあるので、やってほしいと上層部から直々に優秀な執務官であると同時に、高ランク魔導師の
コーディに依頼がきた訳だ。


「ヒュードラといえば、ヒュードラ事件の?」


「そうだな。テスタロッサの馬鹿が欲に眼を駆られて炉を暴走させちまった、あのヒュードラさ」


グレアムが少しだけ考える。引き受けたら恐らくは彼の補佐官の役割を自分がやるのだろう。まぁ、それはいいだろう。
しかし、どうしても一つだけ府に落ちない事が彼にはあった。


「しかしまた、どうして今回に限って私の協力を要求するのかね? 任務の概要を見る限りだと特に困難には見えないが?」


コーディの返事は早かった。ニカっと健康的に笑い、彼は答えた。


「なぁーに。直感って奴さ! 写真を見た瞬間ビビッて来たんだよ、このヒュードラって奴はやばいってね。そんな任務に連休明けで身体がなまっちまった状態で
 行くんだ、少しでも危険性を減らすためにお前に声を掛けたのよ! お前はコーヒー狂だが腕は確かだからな」


グレアムが呆れたとばかりに深く溜め息を吐く。全く、こいつはいつもこうだと言わんばかりに。そして立ち上がる。


「いいだろう。君だけでは確かに不安だ。下手をすれば次元災害を発生させかねないからね君は。私が補佐としてついていってやろうではないか。
 ありがたく思うといい、それで報酬はもちろん――」


「あんたの世界の最高級コーヒー豆を買えってんだろ?」


「判っているではないか」


グレアムがニヤリと笑った。先ほどまでの紳士然とした表情とは違い、野生的な笑みだった。コーディに手を伸ばす。
コーディがその手をがっしりと握った。





[19866]
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/27 02:56
そこは奇妙な部屋だった。
いや、部屋とも言えないだろう。


真っ白な世界。何処まで続いているのか誰にも分からない世界。
どんな次元のどんな時間、空間からも切り離され、ここだけ独立した時間が進む世界。

完全に隔離され、何者の干渉を許さない神の居城。たった一つの『器』を守るために作り出され、『器』に全てが支配された空間だ。


そんな何もない世界に一体の人の姿をした“影”が居た。輝く灰色の煙を衣服の様に纏っている“影”だ。
“影”の輪郭は揺ら揺らと不定形にぶれており、身体の表面には白いノイズが絶えず走っている。


“影”の名は『ヒュードラ』と言った。
飲み込んだ思念から自分が纏っている鎧に管理局がつけた名前を読み取り、ソレを直接自身の名にしたのだ。



ヒュードラが紅い溶鉱炉の業火を内包したような3つの眼を自らの握り締めた手に向ける。
手を開くとそこには幾つかのサイコロが掌の中を転がっていた。たった今、ヒュードラによって創りだされたのだ。



不意にソレらを床と思われるところに投げる。白い地面の様な空間をサイコロ達がコロコロと軽快な音を立てて転がる。




――4 3 4 6 1 1 2 5 5 6 


未だサイコロ達は床の上を踊っているというのに、ヒュードラの頭には既に明確な結果が流れ込んでいた。
ご丁寧に何回回転して、どのような配置で停止するという情報まで付属されてだ。



そしてサイコロ達の回転が停止する。



――4 3 4 6 1 1 2 5 5 6



頂点に持ってこられた数字は先ほどヒュードラが「見た」通りの数字。
サイコロの配置も全く同じだ。



サイコロを回収して再び床の上に投げる。



――3 1 2 4 5 3 1 5 2 1



再びヒュードラに流れ込む確定された未来の情報。配置、数字、回転数、回転の向き、その他、その全てが流れ込む。
このまま放っておけば、またこの通りになるのであろう。


しかし今回は違う。これだけで終わらない。



――1 1 1 1 1 1 1 1 1 1



プログラムを書き換えるように、本の内容を修正するように、プロットを作り直すようにその確定された未来を選択し変更する。
配置は縦一列に数字の“1”と。そして回転数、回転の向き、その他全てを詳細に設定。



軽快な音を立てて踊っていたサイコロ達はそのまま自然な動きで設定された通りに動き
決められた通りに回転を行い、書き換えられた通りに全てのダイスが1の面を頂点にし、一列に綺麗に並ぶ。
文字通りの“神の見えざる手”によって未来を決定された結果だ。


『神はサイコロをふらない……か。たしかにつまらないな』


自分が決定したとおりに動いたサイコロを見つめながらそうヒュードラがぼやく。
因果律を限定的とはいえ、操ることが出来る彼にとってこの程度は身体を動かす事と同じぐらいに簡単な事なのだ。
いや、もしかしたら能力ではなく生態なのかも知れない。



もしもここから更に進化して、完全に全ての因果を操れるようになったら、何も未知というものが無くなるのではないか?
ほんの少しだけ恐怖を抱くが、それを遥かに上回るどす黒い期待にそんな感情は押しつぶされていく。


ヒュードラが少しだけ指を動かすと床に落ちていたサイコロが消え、ヒュードラの眼の前に複数の空間モニターが展開される。
空間モニターには何も表示されてはいない。


『解析は終わったか?』


モニターに向けて低いエコーの掛かった声で語りかける。そして一瞬の間をおいてモニターに文字が表示された。



――はい。


満足気にヒュードラが頷くと、それに呼応する様にモニターの画面が切り替わる。
モニターには人の拳程度の大きさのサファイアを思わせる鮮やかな宝石が映っていた。


――通称『ジュエル・シード ナンバー:ⅩⅩⅠ』 鉱石名 次元空間干渉型超高密度エネルギー結晶体 通称『トロニウム』



通称と正式な名称を表示した後、その美しい宝石の内部に存在するエネルギー総量を映し出す。
エネルギーの総量は膨大。正しくその一言に尽きる。


計算の上では内部のエネルギーの数万分の1を引き出すだけで、中規模の次元震が発生し
砂粒一つ程度の大きさでも内部のエネルギーが暴走などしたら最低でも半径百数十キロは空間ごと抉られて消滅するほどだ。
複数集めて完全に稼動させると、人工的に次元を歪める特異点を作り出せるほどのエネルギー量。



半永久機関を造ることも理論の上では可能なこの結晶は正に賢者の石といえる。
それほどまでのエネルギーがこの『ジュエル・シード』の内部には存在していた。


『……ふふ』


報告された結果に目を通してヒュードラが満足げに笑う。本人が気がついているかどうかは不明だが、その笑い声は全てを皮肉ってる様な声であった。
そして思う。いい拾い物をしたものだと。


この『ジュエル・シード』を彼が手に入れたのは必然ともいえるし、偶然ともいえる。
暇を持て余していた彼がとある世界から高エネルギー反応を感知して、21個あったソレの内一つを選択して取り寄せたのだ。


残りの20個はそのまま放置してある。少しだけ因果を見た結果、アレらは後々いずこかの発掘一族に掘り出されるそうなので
手は出さない。その者達の頑張りを無駄にする気は今のところヒュードラには無かった。


……色々と難しいことを言ってはいるが、要はただの気まぐれである。


それに一つあれば解析して、幾らでも複製を作り出せるのでそんなに幾つもいらないのだ。


モニターの前の空間が開いて規格外に巨大なサファイア――ジュエルシードナンバー:ⅩⅩⅠがヒュードラの元に差し出される。
差し出されたソレを関節の無い何処までも伸びる腕を伸ばして受け取る。


そしてソレを両手で覆うように握り締めると拳の内側に力を収束し始める。
掌の内部の時間を無限力で切り取り、そしてソレを複写、コピー、完全な模写。


そして切り取られた空間をもう一度貼りなおす。
コロンと、握り締めた手の内部に「2つ」の感触を感じる。


ヒュードラの紅い三眼が煮えたぎるようにおぞましく輝き、彼の歓喜を表す。



結んでいた手を開くと、そこには予想通り2つのジュエル・シード。共に刻印されたナンバーはⅩⅩⅠ。
完全にコピー成功だ。


2つの結晶を浮かばせ、じっくりと観察する様に凝視する。
そして二つの結晶をもう一度握り締め、コピー。


4つに増えたジュエル・シードナンバー:ⅩⅩⅠを見て満足げに手を叩く。


そして今度は3つのジュエル・シードをコピー。計7つにまで増やす。
一つだけを手に取ると残りのジュエル・シードを見つめて言う。

良い事が思い浮かんだのだ。とても面白い暇つぶしの方法が。
管理局とやらがどの様な反応をとってくれるかがとても楽しみな事だ。


神はいつでも気まぐれで、理不尽なのだ。人間に都合のいい神など人が作りだした偶像の存在ぐらいだ。
本当の神はいつだって自己中心で、理不尽で、気まぐれである。


『この6つのジュエル・シード……“プレゼント”するとしよう』


返答は直ぐにモニターにて返された。


――了解。



何処に? とは聞かない。ある程度は『器』の考えている事は判るからだ。
いま現在『器』が考えている事は彼らにとっても都合がいいことである。
蓄えられた力と知識と技術を使うことが出来、もしかすればソレを次元世界に流出させる事になるかも知れない。


文明が発展すれば、それだけ戦争の規模も大きくなり肉体から開放される思念も多くなる。
技術の発展を助長こそすれ、妨害は『器』が望まない限りは好まない。


なに、都合が悪くなれば全てを消し去る為の手段も内包した実に効率的なシステムだ。
それに軍を作るための資源であるナイトメア・クリスタルも増やせるという、正に一石二鳥といえる。



白い部屋が変異した。純白だった壁も床も天も全てから白が剥がれ落ち、その向こうの空間を見せる。
白に変わって世界を埋めた色は黒。純粋な黒。黒を基調とした世界に『何か』が無数に蠢いている世界。



そしてヒュードラの遥か下には以前引き寄せた星があった。自分からは輝かない直径約3761・7キロという大きさを持つ星だ。
あの星は今、持ち運びするため『鎧』の内部に存在する空間に丸ごと飲み込まれていたのだ。
まさかあのまま虚数空間に放置しておくわけにもいかない。そんな星がヒュードラの眼下で何かに照らされ、輝いている。



そう。この『鎧』そのものが『器』を守る鎧であり、同時に『器』の手足となる軍を生産し続ける動く工場なのである。



しかし球体に近かった星は今、その姿を以前とは大幅に変えていた。ヒュードラの居る場所からでも判るほど
大地は抉られ、クレーターと穴が星の表面を埋め尽くしている。
今も無限力にガリガリと削られつづけ、資源だけを奪われ続ける哀れな星。


そして星の周りにはカブトムシを思わせる人間よりも少し大きい機械の蟲が数え切れない程の数で群れを成している。
この一ヶ月で作り出された情報収集、偵察及び制圧用の無人戦闘機械だ。
水中、空中、陸、宇宙、虚数空間、ありとあらゆる場所で活動可能な非常に高い運用性を誇っている。



この機械の蟲達には一体一体に加工された小さな自立金属細胞ナイトメア・クリスタルが埋め込まれ、
得た情報などを共有し、転位させ、解析する能力が備わっている。


生理的な嫌悪さえ抱かせる外見をした蟲の機械が何万体も星の周りを音も無く飛び回っている光景はいっそ壮大ささえも感じられた。




そしてその蟲達の奥には複数の加工されたクリスタルの塊が情報を与えられるのを待ちわびているかの様に重々しく鎮座している。
主力兵器となる予定の自己進化兵器の待機形態だ。



更にその奥には――。



自身の手足と評された兵器達をぼぉーっと眺めながらヒュードラは何気なく思う。


――戦う所が見てみたいと。


兵器とは抑止などの役目も大きいが、やはり最大の役割は相手を打ち滅ぼす為にある。
平和を守るやら秩序の維持やら幾ら崇高に見える理由を入れても所詮兵器は兵器。
対象を破壊して殺すために存在するのが兵器の、武器の本質なのだ。


少なくともヒュードラはこの兵器群を持ち腐れにするつもりはなかった。
いつかどこかで使ってみようと思っている。


どうせ争いで生命が失われても自分の一部に加わるのだから罪悪感などわくはずもない。
完全に価値観が人のソレとは違うのだ。いや、人も似たようなものか。


戦争のお陰で潤い、喜ぶ者達もいるのだから。
金は命よりも重いとはよく言ったものだ。


『では“プレゼント”を造るとしよう』


勿論ジュエルシードだけではなく、他の技術などもたっぷりと送ってあげる。
さしづめヒュードラからの逆誕生日プレゼントと言った所か。
もう誕生から一月ほどたっているが気にしない。


少々プレゼントを包み込む箱が物騒な気もするが、何、問題ない。
自分が気まぐれを起こさない限りはだが。



だが見返りは大きい。もしもこの“プレゼント”を自分の物に出来たら技術レベルが大きく上がる程に。
出来ればの話であるが。まぁ、管理局にもそれなりの研究者は居るだろう。名も顔も知らないその優秀な研究者に期待しておく。


最も、魔法技術とやらを推奨する管理局がこのプレゼントを受け取ってくれなかった場合もあるが
果たして未知の超技術という誘惑に何処まで耐えられるか見ものである。
解析された技術が何処かの世界に流れて、管理局と他の世界のパワーバランスが変わるのも面白い。


しかしヒュードラには確信があった。絶対に次元世界、いや管理局はこの技術に食いついてくると。
そも質量兵器根絶を謳いながら、自らはそれに近い技術と兵器を持っている組織である。
適当な大儀でも作り上げて、技術を吸収するであろう。


――あえて因果の糸を見てみようとは思わない。知ってしまったらつまらない。



モニターに文字が浮かび上がり、これからガンエデンシステムに次いで作り出されるシステムの名称と
ソレを造ってもいいかを問う旨の文字が表示される。


6つのジュエル・シードによって成り立つ半永久機関を動力源にし、次元転移技術、重力制御技術を始めとした超高度な技術の数々を盛り込み
莫大な量のナイトメア・クリスタルで武装した巨大兵器の創造の許可を求める文だ。








―――文明消去システム『審判者セプタギン』を造りますか?





                                    YES NO



ヒュードラは迷わずYESを選択した。
無限力が新しい力を発揮できる事に狂喜するように不気味な輝きを放った。



















時空管理局 “本局”第9番ドック。 ヒュードラ事件より 約1月後




無数の次元航行船が停留している管理局の港とも言える場所をコーディ・ハラオウンとギル・グレアムの二人は
目的の船に向かって歩いていた。



本来ならもっと早く出発となったはずなのだが、色々と面倒事が起きて思ったよりも出発が遅れてしまったのだ。
その他にも重要参考人であるプレシア・テスタロッサの目覚めと回復を待っていたというのもある。


「しかしどう思うよグレアム?」


不意に若草を思わせる緑色をした髪の男、コーディ執務官が隣を歩いているギル・グレアム執務官に声を掛ける。
それに返事するグレアムの声は何処か不機嫌そうに。


「何についてだ? 主語を入れてくれなければ判らんよ」


「プレシア・テスタロッサの事だよ お前はどう感じた?」


プレシアの名前を聞いてグレアムが顔をしかめる。
二人はヒュードラ事件の調査を担当する者として重要参考人であるプレシアの入院する病院を訪れて
彼女と面会をしたのだがそこに居たのは死人であった。ただ心臓が動いて、脳波が出ているだけの死人。



車椅子に腰掛けた彼女は何を言っても答えず、目は虚ろ。
髪はボサボサで頬はこけて、ガリガリに痩せた身体は骨の輪郭までくっきりと映すほどだ。
医者の話では何度も自殺を試みており、今は半ば隔離状態だそうだ。


それにリンカー・コアもほとんど壊れており、魔法を使用などすれば命の危険さえもあると彼女を担当した医師は言った。


詳しい話を聞くに、彼女は娘であるアリシア・テスタロッサの死を聞くと狂ったように何度も「ごめんなさい」と叫び
近くの窓から身を翻そうとしたらしい。


その後も何度も手首や舌を噛み千切ったり、ありとあらゆる方法で自殺を試みていると医師は疲れた表情で言っていたのをグレアムは思い出した。


今では監視サーチャーを使って24時間体制で監視されている。
妙な仕草をすれば直ぐに取り押さえるためだ。


彼女にはいずれ時空管理局の名の元に『公平』な裁判を受けてもらわなければならない。
彼女に死は許されてはいないのだ。たとえ娘を失って自暴自棄になったとしても、
あの事故で家族を失った遺族のために生贄になってもらわなければいけない。



「少なくとも責任逃れのための演技ではないな。アレを演技で出来るとしたら、アカデミー賞ものだ」


「あか……?」


「気にすることは無い。私の居た世界での賞だ」


「おい」


少し怒ったようなコーディの声にグレアムが首を力なく左右に振る。
そして歩きながら続ける。


「少なくとも、しつこい程にニュースで流れている血も涙も無い女というのは嘘だろうな。全ての責任が彼女にあるというのも怪しいものだ」


「だとすると……」


それ以上を言おうとするコーディにグレアムが手を彼の前に出して待ったを掛けた。
そして彼の前に行き、正面から話す。



「今はプレシアの事は二の次だ。この旅が安全に終わることを祈り、そして職務を果たすことを考えろ。今の私達の目的はロスト・ロギアヒュードラの探索
 事件の真相を調べるのは本局に許可をとったその後だ」


最初は渋るような表情を浮かべていたコーディだったが何度か深呼吸を繰り返すと、深く頷いた。
そして同時に絶対にこの事件の真相を暴いて見せると深く心に誓った。



2人はそのまま目的の次元航行船まで歩いていく。




接触の時は近い。






[19866]
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/27 02:58
『ヒュードラ』の鎧、その内部の世界。歪み、よどみ、全ての次元がごちゃまぜになった混沌空間。
その中に囚われた星が削られ、犯され、崩され、資源を奪われる。



取り出された大量のナイトメア・クリスタルの原石が無限力によって情報そのものを直接書き換えられ、
兵器のパーツとして利用できるように形状と能力が加工され、次々と他のパーツに組み込まれていく。


他のパーツも全て存在の情報を書き換えられ、生み出されたものだ。



それは重力を操り、防御領域を展開させる装置であったり、エネルギーを刃に変える剣であったり
純粋な破壊のための砲台など等、全てが武器の類だ、



後は増殖能力を抑えるためのリミッターをクリスタルにつけるのを忘れない。
これを忘れるとナイトメア・クリスタルは際限なくエネルギーを食いつぶしながら肥大を続けるからだ。


次々にパーツをパズルのごとく繋ぎ合わせ、目的の形状、性能を持った機体を作り出す。
人の手で造るよりも何十倍も何百倍も早く作り出されていく。


やがて設計図通りにプラモデルを作る様に手早く一つの機体が完成する。



それは青い塗装を施された巨大な騎士の傀儡であった。



地球という世界の中世の騎士が着込んだ重鎧を再現した様な装甲、
人間で言う所の頭部も細い兜に覆われ、兜にはY字形を太くした切れ込みが入っていた。
当然のことだが、中に人間などは入っておらず、切れ込みのある場所もモニターになっている。


全身の装甲にも何かの回路の様な切れ込みが入っており、まるで騎士が己の存在を主張しているかのようだ。



――『エゼキエル』 ヨテイドオリ カンセイ



機械的な声が淡々と完成を告げる。


ラテン語で『神が強くする』という意味を持つこの機体の大きさは大体5m前後である。
動力原に無限力を使用し、パイロットの代わりにまつろわぬ者の意思を込めた機体だ。


内部には情報収集のためにナイトメア・クリスタルの一部も入っており手に入れた情報を共有する機能もある。
更にこの機体の一番の利点は姿を完全に消し去り、レーダーなどの機器にも囚われないステルス性能であろう。


勿論、隠れずに装備された武装で敵を殲滅してもいい。それだけの性能がこれにはある。
この『エゼキエル』は情報収集から直接戦闘まで完璧にこなせる優秀な機体なのだ。





パチパチ……。



無機質な手を叩き合わせる音が、淀んだ世界に響く。


完成した機械仕掛けの巨大な騎士の前に立った身に輝く灰色の衣を纏う全てのまつろわぬ者を従える主
神の雛とも言うべき存在がその黒く、ぶれた手で完成した騎士を祝うかのごとく拍手をしていた。



足場など何一つないこの世界で、ヒュードラは確かに何もない所に『立っていた』



『誕生、おめでとう』


三つの見るものに邪悪な意思を感じさせる紅い眼を輝かせながら、
ヒュードラが新たに完成した自らの手足の一つに拍手を送る。


騎士や強い存在にあこがれる子供の様に完成したエゼキエルを熱く凝視する。


本来は、これの後継機として性能は幾らか落ちるのだが量産性に優れた機体もあったのだが、
ヒュードラはそれをつくろうとは思わなかった。


コストや資源の問題など自分には無いからだ。
それなのにわざわざ性能の落ちる機体を作る必要もあるまい。


それに何より、ヒュードラがこの機体のデザインなどを気に入ったというのもある。
あの『蟲』や主力兵器に併せて、これも量産する予定だ。



今の所はコレの団を指揮するための『蛇』も作るかどうか悩んでいるところである。




『“セプタギン”に機体の情報は送ったか?』



低く、遠く、身体の芯まで響く声で自らの力に問う。
よほどこの騎士型の傀儡兵を気に入ったのだろう。


―― スデニ



一言、簡潔な答えがヒュードラの脳裏に響く。相変わらずの機械音声だ。
この頭に直接情報や声を送られるのを当初ヒュードラは嫌に思っていたが
今となっては慣れてしまい特に気にはしていなくなっている。



ヒュードラの眼前に空間モニターが現れ、一つの岩の塊を映し出す。
所々にオレンジ色の亀裂が入り、不気味にソレが発光している薄い緑色の岩だ。



この画面に映し出されているだけでは分かりづらいが、この岩の大きさは1キロ近い。



『もう、ほとんど完成したようだな』



―― カドウ テストヲ ナンドカ クリカエシ カンセイデス


この“セプタギン”を動かすのはたった6個の拳程度の大きさしかない小さなジュエル・シード。正式な名前はトロニウム。
それらの持つ超エネルギーで人工的な特異点を生み出し、そこから半永久的に絶大なエネルギーを得てこの機体は動き出し、想像を絶する火力を吐き出す事になる。



俗に“ブラックホールエンジン”と呼ばれる物だ。



これもヒュードラの贈り物の一つなのだが
正直な話、彼はこの技術を時空管理局に解析できるとは思ってはいない。
まぁ、どこぞの誰かが解析してくれるのを期待していよう、程度に思っているだけだ。



そしてこの“セプタギン”を制御するのは、まつろわぬ者の意思ではなく、超高性能のAI――人口知能。
ただヒュードラの意に従う事のみをプログラムされたAIである。



そして彼にとって都合の悪い存在、その全てを消す事も“セプタギン”の使命。


『……』


ヒュードラがモニターを消し、ぐるりと首を360度回して混沌とした辺りを見渡す。
数え切れない蟲の機械達に、既に量産体勢に入ったのか『エゼキエル』が騎士団を作るのかごとく大量に生み出されていく。


それらを見て、ヒュードラは焼き尽くすような歓喜を覚える。
早く、この『力』をどこかで使ってみたいと激しく感じた。



――と。



『うん?』



ヒュードラが不意に明後日の方向を見て、首を傾げる。
3つの紅い眼を細め、人間で言う何かを考える表情に近い貌をする。


彼の因果支配能力及び空間支配能力が、未だ未完成とは言え、正真正銘神の領域であるその力が彼に告げる。
自らに迫ってくる者の存在を。客の存在を。自分に近づく因子の存在。



『………』



ヒュードラが低く、重く、嗤う。
丁度笑い終わった瞬間を見計らったのか、彼の前にモニターが展開され、独特な形の次元航行船が映し出される。




そしてその下に小さく文字が書かれていた。
飲み込んだ天文学的な数のまつろわぬ者達の思念から蒐集された記憶が記録となったものだ。




―― 時空管理局 L級艦船第一番艦 名称 『オリヴァー』



そして更に下に文字が追加される



―― 『ガンエデンシステム』 カナフ ケレン ザナヴ 完成。ご命令を。


















時空管理局の最新鋭の船、L級次元空間航行艦船『オリヴァー』は現時点の時空管理局の技術の粋を集めた船だ。

形状としては二本の剣を平行にドームに取り付け、空を飛ばせているといった所である。



全長170mという巨体には最新鋭の超大型の魔道炉心、そして予備の二基の大型魔力炉が搭載されており従来の艦船よりも大幅な出力の上昇を期待されている。
船の至る所にAAAランク魔道師の砲撃に匹敵する魔力のレーザー砲塔が配置され、死角らしい死角はない。



(あえて死角をあげるとすれば、二本の『剣』の間である)



防御装置にも魔力を利用した大型の結界発生装置が幾つか搭載されており、並大抵の攻撃では艦に傷一つ入れることさえ出来ない。

当然だ。幾ら高ランク魔道師といえど、生身の人間に船を沈められなどしたら、管理局の面目も一緒に沈んでしまう。



このL級次元空間航行艦船にはオペレーターや通信士、整備士などは勿論、医療班や捜査スタッフ、武装局員も40名近く乗せることが出来、
尚且つ、それだけの人数の腹を1ヶ月近く満たすことが出来る食料なども搭載することが出来る。


搭載された次元転移装置は、40名の武装局員を速やかに転移、回収可能だ。


艦載機運用も可能で、ヘリなども搭載可能。



尚、次元航行艦と言われてはいるが、スペック上では、大気空間や宇宙空間でも問題なく航行可能である。


そして何よりもこの船の特徴は大戦時代の遺物であり、現時点で管理局最強の火力を持つ魔道砲「アルカンシェル」を
装備することが出来る点であろう。


この船の登場前までは特殊な専用の船と、それをサポートする数隻の艦を用いて長い時間を掛けなければ撃つことが出来なかった
アルカンシェルを、たった1つの艦が撃つことが出来るというのは革命に近い。



放たれれば、発動点を中心に半径百数十キロに空間歪曲を発生させ、対象を物質的に消滅させるアルカンシェルは文句なしで最強の武装である。
これにより管理局は更なる迅速性と破壊力を持ったことになる。


時空管理局の次期主力艦と期待されているこの船は当初世論に「質量兵器と変わらないのでは?」と言われ、製造が中止になりかけた
事もあるが時空管理局、本局の頂点であり、管理局の産みの親とも言える次元世界平定の英雄『最高評議会』の三人の一人が


「力とは使う者によってその顔を変える。悪が使えば災いを振りまき、善が使えば平和と秩序を齎す。
 我々管理局は貴方達を全ての災厄から守るために力を欲するのです。そのためにどうかご理解をいただきたい。
 この次元世界にはかの『闇の書』を始めとした未だ見ぬ脅威が潜んでいるかもしれないのです。我々はそれに負けることなど許されない」



という言葉から始まる1時間にも及ぶ大演説を既に100を超える年齢のその身に鞭をうって全管理世界に同時放送をし、理解を求めたことにより
一応は反感の感情も表面的には収まりを得た。


全身に延命の器具を埋め込み、半ば機械人間になってまで次元世界を守護しようとするその姿に心を揺さぶられた者も少なくは無い。



それにより、この『オリヴァー』を筆頭に第一生産として二十隻のL級艦船が製造、運営されている。
第二生産として現在、新しく五十隻が製造中だ。



幸いな事に前回の『闇の書事件』から十数年、今の所大きな事件は無く、アルカンシェルが使われたことは無い。






そんな管理局の技術の結晶とも言える白いL級次元空間航行艦船が静かに、淀んだ次元の海を航海していた。
既存の高速艦よりも素早く、次元の海を征くその姿は管理局の最新鋭の船の能力の高さを示している。











「この船の性能は認めるが、この色は何とかならないものか?」



「いきなりどうしたよ? グレアム」


『オリヴァー』の艦内通路、ブリッジに繋がる廊下を歩きながらグレアムが不満を漏らす。
いきなりのその発言にグレアムの隣を並んで歩いているコーディが言う。


彼らが歩いている廊下の色は白。何処まで行っても白。ほんの少しだけの暗がりを残した完全な白。

……L級航行船の内部は食堂などを除き、全て真っ白だ。




「まるで精神患者の隔離病棟に居る気分だ。寝るときもアイマスクが手放せんよ」



両肩に使い魔の小さな子猫2匹を乗せたグレアムが白く発光している通路の壁を睨みつけながら言った。
その眼の下には黒い隈が出来ており、彼がよく寝つけてないことを意味している。



「まぁ……たしかにこの病的な白さは精神に悪いかもな。今度にでも“海”の意見箱に入れておくとするか」



ヒュードラ事件のあった第48無人世界『アルゴ・レルネー』は本局、及びミッドチルダからかなり離れているため、必然的に航行距離も長くなり
艦内で暮らす時間も長くなる。その状況でこの艦内の色はかなり辛いだろう。


それでもプレシアを雇っていた企業の最新の高速艦でも7日以上は掛かる距離を、この『オリヴァー』は4日たらずで到着することが出来る。
異常な速度だ。管理局の次期主力艦というのも頷ける。



ハァと憂鬱気な溜め息を一回漏らした友人であり、今回の相棒であるグレアムの顔が直ぐに『執務官補佐』の顔に変わるのを見て、
コーディも直ぐに思考を変更する。



「グレアム補佐官、もう一度今回の任務の概要を確認する」



歩きながら隣のグレアムにコーディが問う。グレアムがすらすらと答えた。


「第48無人世界アルゴ・レルネーの周囲の次元の汚染などを調査し、ロスト・ロギア『ヒュードラ』を探索。発見した場合は刺激を加えずデータを採集後本局に帰還。
 発見できなかった場合はアルゴ・レルネーにサーチャーを派遣し汚染の具合を調べた後、ヒュードラの研究所を探索、データを採集……これでよろしいですか?」



「よろしい。それと、ヒュードラを発見した場合も第48無人世界の研究所は探索する。いいな? 上層部はヒュードラの詳細を望んでいる」



「はい」


グレアムが頷き敬語で答える。仕事中はこういう関係だ。
そして二人はブリッジの扉を開けた。自動扉が軽い機械音と共に左右に開く。







L級次元空間航行艦船のブリッジはそれなりに広い。ブリッジの中でテニスぐらいなら出来るぐらいだ。
このブリッジは先ほどまでの白に加え、壁や床にメタリックな塗装が施され、最新鋭の機材などが設置されている。


様々なスタッフが所定の位置に就き、自らの役割を最大限に果たしている。
このL級艦船を動かすのに必要なスタッフ達だ。




ブリッジの前面は巨大なモニターが設置されており、様々なデータがそこに映し出されている。

画面に表示された『オリヴァー』の現在地点は第48無人世界まで後数分という所まで来ていた。



「お疲れ様です。カロッサ提督」



コーディがブリッジの上部に存在する艦長の席に腰掛け、巨大なモニターに次々と表示されているデータを無言で
見ている初老の男に敬礼をし、挨拶をする。グレアムもコーディの後ろで敬礼した。


挨拶をされた初老の男――この船の艦長であり、今回の航海の責任者であるカロッサ提督がその鋭い眼で二人を見やる。
そして重々しい声で。



「執務官殿、後3分でアルゴ・レルネーの次元領域に到着する。準備はよろしいかな?」



「はい、分かっております提督。サーチャーを始めとした調査隊の準備も済みました」



「よろしい」



それだけを言うとカロッサは手元にある端末に眼を落とし、そこに流れ込む情報を再び見始めた。膨大な量の情報を速やかかつ的確に把握していく。
執務官とその補佐である二人も他のスタッフに迷惑を掛けないよう、用意された専用の席に腰掛けてじっとアルゴ・レルネーに到着するのを待つ。



ブリッジが沈黙に包まれ、コンソールを操作するカタカタという無機質な音がやけに響く。




「艦長。よろしいですか?」



「何だ?」



突如、スタッフの一人が声を上げ、沈黙を破る。
カロッサがそれに答えると声をあげた彼が端末を弄り、彼に情報を送信する。



「……ほぅ」


カロッサが彼には珍しく、送られてきた情報に対して反応を示す。
そんな彼に情報を送ったスタッフが続けた。



「次元のデブリかと思いましましたが、熱量を持ち、何より動いているのです」



「……質量兵器か? ・・・・・・・このデータを解析してくれ、形状から何か分かるかもしれん」


「分かりました」




「提督? どうなされたのですか?」


勝手に二人で話を始めた提督にコーディが聞いた。
こちらにデータは転送されていない以上、何を話しているかが判らないのだ。



「これをどう思われる? 執務官殿」



カロッサが情報を二人の居る場所に設置された端末に送る。
手元の端末を操作し、送られてきた情報を見たグレアムが一言。



「蟲だな まるで」


「そうだな」



送られてきたデータ、艦のレーダーが捉えたアルゴ・レルネー付近の次元領域に夥しいほど存在する熱量を持った
何かの影の形状を見て二人は思わずそう言ってしまった。



鮮明な写真などではないため、判りづらいが、シルエットだけといえる画像でも、この影の形は甲虫に近い姿をしており、
二人がこう言うのも意味はない。97管理外世界出身で、甲虫を知るものが居れば「カブトムシだ!」と言ったかもしれない。



ちなみにグレアムの出身は97管理外世界『地球』ではあるが彼はカブトムシに馴染みの深い『日本』ではなく
『イギリス』という国家出身のため、カブトムシの存在を知らない。



しかし、レーダーに捉えられたこの『カブトムシ』その大きさが異常である。
データが正しければ大の大人よりも大きい。しかもソレが次元空間を飛び回り、熱量を持っている。


コレをデブリなどと楽観視する気分にはなれなかった。



……召喚魔法などで呼び出された召喚獣の可能性もあるが、データの上では魔力は感じられないとのことだ。




「これは……」


ディスプレイに眼を落としていたコーディが言葉を続けようとした瞬間




―― 危険 危険 高エネルギー接近  高エネルギー接近 自動防御システムを稼動させます ――




警告音が鳴り渡り、オリヴァーに搭載されたインテリジェントデバイスの技術を応用して造られた人工知能が
艦に迫る危機を誰よりも早く察知し、艦に備えられた大型の結界発生装置に大型魔力炉から大量の魔力を供給。


艦内に設置された複数の結界発生装置が羽虫の羽ばたきのような、不気味な音を立てて起動し、役目を果たす。



最初は一枚、次に送れて二枚、三枚、最終的には七層の高密度魔力障壁をオリヴァーを覆うように発生させ、魔力的、物理的破壊から
船体を守護し、ありとあらゆる破壊を拒絶。




直後、オリヴァーの船体に激震が走った。



ブリッジのモニターが真っ白に閃光に塗りつぶされ、あたかも局地的な大地震が発生したかのごとく船内は振動し、
乗組員は手近な物に捕まったり、結界魔法を発動させたりし、難を逃れようとする。



バリバリというガラスに皹が入っていく不気味な音と共に艦は揺さぶられ、やがて、その振動も収まる。



「な、何だ! 今の振動は!!」


「攻撃を受けたのか! どこからだ!!!」




「直ぐに被害を調べろ! 艦内のクルーにも連絡を取るんだ!!」



「艦の自動防御システムが作動したみたいだ! 結界は何枚か壊れたが、艦自体に損傷なし!!」



「攻撃は11時の方向から……」



ブリッジのスタッフ達が慌しく振動の原因と艦の損傷を調べていく。
パニックに陥ったりせずに、迅速に行動するのはさすがと言えよう。
しかし、それでも少しだけ動きが荒いのは仕方ないだろう。





「被害を報告しろ」



あの振動の中で顔色一つ変えず艦長の椅子に座り、全く動揺せずにいたカロッサが部下達に冷静に指示を出す。
指揮官のその冷静さに我に返ったのか、ブリッジのクルー達も大分落ち着いた様子で返答する。



「……結界は七層の内、四層までが破壊され、同様に結界発生装置も半数がオーバー・ヒートを起こしており、現在は整備班が向かっています。
 艦内の被害は特になし。食堂、資材倉庫、医療室、機関部、そして探査班の待機所、これらの場所でもけが人などの被害はないとの事です」



「よろしい。攻撃を加えた存在を見つけたか?」



「いえ、何処を探しても攻撃を加えた存在は見つかりません。ただ……
 何処からあの閃光が飛んできたかはオリヴァーのAIが記録していたようです」



「そうか、ならばその地点に射撃を加えよ。これは正当防衛だ。諸君らが気に負うことは無い、上層部には私から言っておこう」



「了解」



命令を受けた火気の管理を請け負うクルーが手元の端末を操作、魔力炉から幾つかへの砲塔へ回路を開き魔力を充填。
記録していた箇所に向け、魔力による砲撃を行う。



オリヴァーの各所に配置された複数の砲台の内、数門の砲塔が動き、砲口に魔力を収束し純粋な破壊力に変えたソレを一気に解き放つ。
真っ白な魔力色のそれは狙い通りに予定地点に到着し――。



「!」


突如紫色の力場が発生、白い破壊の光が押しとどめられる。まるで何かを守っているようだ。
管理局の者は知る由もないが、この力場を発生させている装置の名前は『G・ウォール』という名称で、重力操作を防御に転用した技術である。




カロッサの判断は早かった
攻撃力が足りないならば補えばいい。
経験に任せて彼は指示を出す。



「第二射撃て。あの地点だ。外すなよ」


「は!」



直ぐに他の砲塔が動き、続けて魔力砲を発射。
紫色の壁は耐え切れなくなったのか、白い砲撃に引き千切られる様に壊され、強大な破壊の力を秘めた魔力砲はその先にある『標的』に命中。



次の瞬間、爆発。衝撃が次元空間を揺るがせた。
爆風が飛び散り、魔力砲の威力を物語る。



さきほどの閃光に匹敵する白光がモニターを埋め尽くす。



――オォオオオオオオオオオオオオオ……。



瞬間、艦にいる全てのクルーがその『声』を聞いた。
聞いてしまった。



底知れない。
暗く、深い、闇の深遠から吹き付けてくるおぞましい声を。



唸り声にも聞こえるし、怨嗟の声にも聞こえるソレは聞いてしまった生ける者全ての気力を削る。
生物の根源的な恐怖を煽り、増幅させる力がある声だ。


生物である限り、恐怖に抗うのは難しいのだ。




「悪い予感はしてたんだがな……」



コーディがモニターを凝視しながら誰にも聞こえない様に呟く。
こんな事なら遺書でも書いておけばよかったと思いながら。



画面を占領していた煙が消え去り魔力砲の暴虐に晒された『標的』の姿が顕になる。




身体の半分を抉られ身体の至る所からスパークを吐き出しながらも、
どこか生き物染みた存在感を持つ機械仕掛けの青騎士がモニター越しに
オリヴァーのスタッフを確かに『見ていた』



―― 警告 警告 警告 艦付近に転移反応あり 数 98 ――



オリヴァーの人口知能が間近に転移してくる存在を感知し、うるさく警告音を鳴らす。



艦を取り囲むように多数の管理世界では誰も見たことが無い魔法陣が展開され、そこから複数の機械の『蟲』が現れる。
溢れる敵意を隠そうともせずにだ。蟲の羽の付け根辺りに埋め込まれた宝石が光を放ち、艦を揺るがした。




人として当然の確かな恐怖を覚えながらも、それを胸中で踏み潰し、カロッサが指令を飛ばす。





「残った結界発生装置を全て作動! 及び全砲塔を稼動させろ! 結界装置の修復も忘れるな!!」




恐怖に屈せずに激を飛ばすその姿にブリッジのクルー達に生気が戻り始める。

そして直ぐに自らの仕事に取り掛かり始めた。


「了解」



「ただちに!」



慌しく指揮の飛び交うブリッジの喧騒をよそにグレアムが手元のコンソールを弄くり、武装局員と調査隊を呼び出し指示を出す。
ここで自分が出来ることは何もないと思ったのだろう。故に自分に出来ることをやる。



『はい。こちら武装局員待機所。執務官殿、ご指示を!』



「戦闘員はいつでも戦えるように用意。治療魔法が使える者はいつでも負傷者が治せるようにしておけ。
 追って詳しく指示を出す。それと念話の回線は常に開いておけ、いいな? 次の指示は念話で伝える」



それだけを言うと通信を切り、コーディに向き直る。
そして頷きあう。



「提督、艦の外部での戦闘の許可を」



「許可する。詳しい指示は念話で伝えよう」



コーディの申請に即刻許可を出し、カロッサが直ぐに指揮に戻る。
態度でさっさと行って来いと言っていた。



「これは厄介な仕事になりそうだな………」


うんざりする白い廊下を肩に子猫を乗せて走りながら、思わずグレアムはそう零していた。








[19866] 6・5
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/27 02:59
真っ白な原初の世界。その世界に置かれた場違いにも思える上質な黒いソファー。
真っ黒な皮製のそれは新品の様に黒々と光沢を放っている。見るからに座り心地がよさそうだ。


そんな贅沢な品の上に堂々と座り、眼前に展開された空間モニターをまるで見世物でも見るかの様に観覧する者が居た。
その者が纏う衣は輝く灰色の煙で構築されており、その者の撒き散らす気配は濁りきった混沌を思わせ、人には形容しがたいものである。


ソファーに腰掛けた者――ヒュードラは空間モニターが映し出す全く違う場所で現実に起きている光景を貴族が歌劇を鑑賞するごとき余裕を持って見ていた。
ソファーの隣にはいつの間にやら小さなテーブルが置かれ、その上には菓子の類が大量に置かれている。


ソレらを時たま手を伸ばして掴み、口と思える白い裂け目の中に放り込む。
口内? に広がる甘みや辛味を味わいながら、モニターを見続ける。意外な事にヒュードラにも味覚はあるらしい。 



モニターがまたピカッと強い閃光を放つ。生身の人間の眼には悪い光だ。



モニターに映し出されている光景は歌劇というよりも映画のごとき状況になっている。
それもどこぞの世界の人間が好みそうなB級展開の映画だ。



この『映画』の内容を言おう。素晴らしく単純で面白い物語だ。




内容はこんな物である



――とある事件を探査に向かう時空管理局の艦船が突如、正体不明の機械達に襲われる。それを力を合わせて必死に迎撃する乗組員達。
  果たして彼らは無事に帰還できるのか? 




大分省略してはいるが、大筋はこんな感じだ。


そしてこの『映画』を気まぐれでプロデュースした存在ことヒュードラは現在は観客の立場に廻っていた。
自身は最も安全な鎧の内部で必死に命を賭けて戦う者達の活躍を嘲笑いを顔に貼り付けて鑑賞する。



『おお……』


子供が未知の物に触れて感激を受けた時に出す声を上げてヒュードラが驚く。
一機だけ送り込み、先手必勝と言わんばかりに『オルガ・キャノン』をオリヴァーに叩き込んだあのエゼキエルが叩き落されたのだ。
何度も爆発とスパーク放出を繰り返し、悲痛な叫び声をあげている。


しかもソレを落としたのは艦の砲撃ではなく、ただの二人の人間。緑色の髪をした男と、灰色の髪を後ろで纏めた男。
ぱっと見でもこの二人の男の戦闘能力は他の者に比べて桁違いだった。


エゼキエルを破壊した後も、流れるような動きで次々と機械の蟲を破壊して、次元世界のデブリに変えていく。


それに影響されたのか、他の局員の動きもどんどん良くなっていく。士気があがっているのだ。


オリヴァーに無数の機械の蟲が集り、船を落とそうとしているのを何人もの簡易バリアジャケットというものを着込んだ
管理局とやらの局員が応戦し、蟲をその身の丈ほどある量産型のストレージ・デバイスから発せられるレーザーで叩き落している。


時には連携し、時には誘い込み、時には追い詰め、時には『バインド』を数人掛りで発動させ、蟲達を文字通り虫けらの様に蹴散らしていく。
時折、攻撃で負傷した者も出るがそういう者はすぐさま光に包まれて消える。恐らくは転移させられているのだろう。


そして艦の砲台が火を吹き、射程上の蟲を消し飛ばす。



ものの30分程度で100機近く飛び回っていたヒュードラの手足は壊滅させられていた。


パチパチとヒュードラが激しく手を叩き合わせ、いつもの深い男の声ではなく、妖艶な女の様な声を吐き出し狂ったように捲くし立てる。
輝く灰色の衣が燃え上がる様に広がり、周囲の空間を汚染し、常人では発狂するレベルの瘴気を撒き散らす。



『はははははははははは! 驚いたよ!! 本当に凄いな!!! 伊達に次元世界の一角を管理している訳じゃないか!!!! 私の見立てが甘かった!!!!』



快楽さえ滲ませて、ヒュードラが叫ぶ、まるで気が触れてしまったかのごとく叫び続ける。

しばらくの間、絶頂に近い感覚を味わい、背を仰け反らせていたヒュードラが力を抜いてソファーにもたれ掛かる。


そして何処かぐったりとした様子で。


『これは……“プレゼント”に、念の為、安全装置を組み込んでおいた方がいいかも知れないな……』


そう口にし、自分で言った事に同意する様にうんうんと頷く。
そして少々、管理局とやらを甘く見ない方がいいかと認識を変更する。


伊達に付近の次元世界の暗黒時代とも言える動乱の時代を乗り越え、その後今日に至るまで次元世界を支配しているだけの事はある。



『鎧』を使って押しつぶすのは簡単だが、それではつまらない。


因果を操って自壊させるのもいい。だが、それは最後の手段だ。
だってそんな簡単に壊してしまったら、つまらないではないか。


ヒュードラの精神は既に、人とはいえない境地にまで達していた。
目覚めた初日に、プレシアに殺されかけた時に出した『怯え』が彼にとって最後の人間性だったのだろう。



ヒュードラがモニターに眼を戻す。

所々から煙をあげたオリヴァーが反転しようとしていた。何をしようとしているは良く判った。

帰ろうとしているのだ。本局とやらに。


『……ペットの相手をしてもらいたかったのだが……まぁ、次の機会に期待するとしよう』


ヒュードラの座する空間の奥深くで3つの獣の唸り声が響いてくる。まるで自分達の出番を取られた事を咎める様に。
それを心地よさそうに聴きながらヒュードラが指示を出す。


『付近の世界に身を隠したいのだが、何かいい所はあるか?』



複数の空間モニターが展開され、候補を挙げていく。
ヒュードラの趣味思考に併せて彼にとって最適と思われる場所を検索し、表示。




―― 管理局名称 第97管理外世界 現地名称『地球』



―― 管理局名称 第66管理外世界 現地名称『オルセア』


―― 管理局名称……。


他にも次々と身を潜めるに最適な世界を映し出していく。
それらの世界全てに共通しているのは、どの世界も管理局の支配の外であり、混沌とした世界であるという事だ。


戦争が起こっていたり、技術改革が起きていたり、経済危機に陥っていたり、色々だ。



『戦争が起きている世界はないか? 出来れば世界規模のが好ましい』


ヒュードラが検索の条件を更に絞る。現時点で大規模な戦争が起こっている世界……。


検索 検索 検索。 発見。 表示…。
ここから最も近い世界を表示する。



――管理局名称 第66管理外世界 現地名称『オルセア』



オルセアについての詳しい情報が次々と羅列されていく。



―― オルセア。管理局の存在を知りつつも、管理局の介入を拒否している稀有な世界。
   通称『次元世界の火薬庫』 南部諸国の宗教的な対立から始まった戦乱は未だに終結してはいない。
   次元航行技術は限定的にだが、会得。しかし一部の階級がその技術を独占しているため、民間人はオルセアからの脱出は不可能。
   人口は約13億8800万人。種族は生命種『人間』が大多数。




『これは……』



クスクスとヒュードラが今度は幼い少女の声で笑う。まるで新しい玩具を買ってもらった子供の様に。
アリシア・テスタロッサの声で笑う。取り込んだ思念の声で嘲笑う。


オルセア……戦乱の絶えない世界。しかもその原因は宗教――神だという。
少々、遊び甲斐がありそうな世界を見つける事が出来てヒュードラが上機嫌に鼻歌交じりに謳う。

そしてヒュードラが少女――アリシアの声で続ける。


『丁度、ガンエデンを使って遊びたいと思っていたの……適応者は居るかな?』


何やら仕草や口調まで少女を思わせる物になっているが、気にしてはいけない。


因果の糸を自分の元に引き寄せ、お望みの相手を探す。
居なければ少しでも素質のある者を作り直せばいいのだが。


そんな彼にまつろわぬ者達が一つの報告をする。



―― “審判者セプタギン” ゼンシステム チェックカンリョウ カンセイ デス



ヒュードラがその報告を聞いて、顔面の白い裂け目からおぞましい笑い声を吐き出した。
また“いいこと”を思いついたのだろう。最も、次元世界からしてみれば、迷惑極まりないことだが。



無限力のまつろわぬ者達がヒュードラの現在考えている事を読み取り、身の毛もよだつ声をあげる。


仲間が増える事に対する喜びの声であり、戦乱が起きることに対する嘆きの声であり
そして自身らの『器』が本格的に動きだすことに対しての畏敬の声である。



『これはぁ、楽しくなりそうだぁあ……!!』


ヒュードラが楽しそうに、威厳のある大男のような野太い声で高く笑う。



目的――かつてベルカとミッドチルダの間で引き起こされた様な大規模な戦争を再び発生させるため、ヒュードラは動き出すことになる。
次元世界の淀みの中に浮かぶ表面がおぞましく蠢き続ける卵、そこから一つの巨大な石が放逐された。




――次元世界に混沌を望む巨大な意思が動き出した瞬間である。








[19866]
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/27 02:59
注意 少々グロ描写があります。 アリシアファンの皆様、ごめんなさい。





宇宙空間は死の空間である。


人や大半の炭素生命体が生存するのに必要不可欠な酸素は殆ど存在せず
代わりに空間を満たすのは星間ガスや星間物質だ。


しかし無限の広がりを見せる並行宇宙の数ある一つの中には“エーテル”なる物質に満たされた宇宙というのもあるそうだが
この宇宙には残念な事にソレは存在してはいない。



恒星から発せられる光は近場の星を灼熱の地獄に変貌させ、恒星の光の恩恵を受けられない遠い星は極寒の地獄と化す。
宇宙空間を放射線や宇宙塵などが飛び回り、運の無かった星を砕いたりする。



もちろん。そんな環境で生きられる生命などほぼ存在はしない。
それほどまでに過酷な環境が宇宙空間だ。


これらの事を考えるにオルセアという銀河系の中心部に位置する天体は非常に恵まれた環境であると言える。
恒星から近すぎず、且つ遠すぎない位置と星を覆う大気は恒星の光を温和し生命体に丁度よい温度に星を調整。
海が誕生し、気の遠くなるような年月と共に原初の単細胞生物が産まれ、そして進化を繰り返し、やがては知性を得た生き物が降臨する。






こんな恵まれた環境が自然に発生する時点で奇跡などという言葉を超えているといえよう。
いや、むしろお膳立てが過ぎて何か大きな存在の思惑を感じるほどだ。






そんな暗黒の世界。完全な静寂に包まれた宇宙空間に一つの異変が起きる。



空間がまるで重力レンズの様に歪み、向こう側に映る光景が滅茶苦茶に屈折を始める。
そして、何も無い暗黒の宙に皹が入った。まるでガラスを鈍器か何かで強く叩いたような皹だ。



皹は大きく侵食するか如く広がっていき、やがてはその大きさをキロ単位にまで拡大。
空間そのものが不気味にたわわに歪んだ光景は今にも割れそうな鏡を連想させた。




が、直ぐに限界が訪れる。



最初は一枚。焼け爛れた皮がズリ向けて落ちるように、魚などの鱗が落ちるように、暗黒を映した宙の一枚がポロリと『剥がれた』
次に二枚、三枚、堰を切った濁流の様に何百、何千枚もの空間が微塵に砕かれてボロボロと剥がれていく。



そうして開いた『穴』から不気味な煙の様なものが轟々と噴出し、『穴』を穿り更に拡大させていく。
まるで傷口をナイフか何かで抉るように力技で空間を砕いていく。次元境界面が引き千切られ、世界が声無き悲鳴を上げた。





そして宇宙が揺れた。
比喩ではなく、空間が、次元が、時間が、上位次元から下位次元までが振動を引き起こした。


最初は小さく。しかし徐々に大きく、確実にその震度を強大にしていく。



時空管理局で言う所の次元震である。


何故次元震が引き起こされているのか? その答えはいたって簡単である。



言ってしまえば容量オーバー。
限りなく∞に近いありとあらゆる次元階層の生命の膨大な思念の塊など、一つの世界が受け入れるには存在が大きすぎる。
世界の土台ともいえる部分が支えきれないのだろう。ここは無数の次元宇宙が入り混じった次元世界とは少々違うのだ。



『器』が完全に目覚めて、思念吸収能力が劇的に進化した結果でもある。



余談ではあるが、限りない宇宙の何処かには6兆の6乗という数の思念を宿した知的生命体がおり
その内包した思念が一斉に活動を開始すると次元が崩壊するというはた迷惑な存在も居るらしい。




どの道、このままではあまり芳しくない結果になるという事だけは確かだ。
それ故に今からこの世界に侵入しようとしている存在は対策を施した。





―― ナイホウ シネン ノ 9ワリ ヲ キュウミン サセマス ドウジニ シネン カイシュウ ハ ゾッコウ 




内包する思念の大多数を休眠状態に変更。その存在を極限まで圧縮して保存。
これで当面はこの世界が崩壊するという事もないだろう。かつてアルゴ・レルネーにて取っていた方法と同じだ。


それにいざとなれば、こんな世界の事など考えずに遠慮なく力を解放してしまえばいいのだ。
事実、彼らの主たる存在は迷わずやってしまうだろう。



次元震動が収まっていく。対策が効果を示したのだ。



輝く灰色の煙を噴出しながら虚空にこじ開けられた『穴』から表面が蠢く不気味な卵が降臨。
ゆっくりとした速度でソレは『オルセア』に向かい進んでいく。
















――綺麗な星だ。まるで宇宙に浮かぶ宝石とでも言ったところか?



真っ白な世界の中で、空間モニターに映し出された『第66管理外世界オルセア』を眺めながらヒュードラはそう思った。
惑星を覆う白い薄っすらとした大気、惑星の7割近くを占める輝かしい蒼い部分は海、
そして残りの3割の大陸も緑や茶色など等バリエーションに富んだ色彩で彩られているソレは正に暗闇に浮かぶ小さな宝石といえた。



途中“ささやかなハプニング”のせいでちょっとこの世界がいきなり崩壊し掛けたが、その問題も無事に解決し、ヒュードラの機嫌は上々である。
事実彼の3つの紅い眼は爛々と焼け爛れたように輝き、モニターに映し出されたオルセアを子供が買ったばかりの玩具を見るような視線で見ている。




と。ここで気が付いた。ヒュードラが自身の手や足をその3眼で見つめる。
揺ら揺らと不定形にぶれ、壊れたテレビの様なノイズが忙しなく走っている己の身をじぃっと凝視する。




『……さすがにこの姿は問題があるか?』


誰にともなく呟く。関節も何もない手が音もさせず果てなく伸びて、モニターの中の『オルセア』を掴む動作をした。
同時に幾つか新しく空間モニターが開き、対策プランをヒュードラに提示。




『これは中々………』



ソレに眼を通したヒュードラが面白気な声を上げた。
善は急げである。即時に実行を決意し、鎧の進路を指示する。




再び宙の一部が砕け、虚数への道を展開。その中へゆるりと卵は沈んでいった。



















オルセアという世界は戦乱の絶えない世界である。
南北に分かれて、二つの大国が存在しており、その二つの国はそれぞれ違う神を信仰している。



南の国に住まう人間の肌の色は黒く、北に住まう人間の肌の色は白というのが特徴だ。




どちらも一神教を信じており、これまた厄介な事にその信じている神は違う神である。


(厳密には両者が両者の信仰している神を否定しているだけで、神の本質などは同じだったりする。 本人達は絶対に認めないだろうが)



そうなると必然的に相手を屈服させ、自らの教えが正しいという事を考える者が両国の上層部には産まれて来るものだ。俗に言う狂信者。
厳密には利益や領地やらの思惑もあるのだが、勿論そんな事は表には絶対に出さない。国民に流されるのはいつも都合がいい情報だけだ。



最初は小さな衝突だった。南部でたまたま軍人が相手国の子供を『間違って』何人か射殺してしまった程度。
だが、それだけで十分だった。火種としては十分すぎる程の内容。



射殺された国家は報復を大儀に。射殺した国は異教徒の粛清を大儀に。戦争が始まった。



それが1年前。未だ戦乱は終結してはいない。それどころか、激化の一歩を辿っていた。


男は兵士として駆り出され、技術者や医者も全てが戦争に参加させられる。そのせいで町の治安は悪化。
病院の機能はおろか、基礎的なインフラさえも乱れ始めている。整備できる人間が少ないのだから。



この状況を嘆いた管理局が限定的ではあるが、次元航行技術を会得していた両国に接触し、支援物資の提供を約束。
しかし両国はその申し入れを突っぱねた。



曰く。



『これは神に勝利を誓った聖なる戦い。野蛮で邪悪な異教徒を皆殺しにするのに、外部の手助けは借りない』だそうだ。



これによって管理局はオルセアを管理外世界に認定、及び内戦地帯認定を下し、以後は静観の姿勢をとっている。



そんな狂った世界がオルセアだ。











第66管理外世界 オルセア 『アルセンブルク』



アルセンブルクはこのお世辞にも治安がいいとは言えないオルセアの中でも最も治安が悪いとされる小さな都市のひとつである。
地理的には北部と南部の丁度真ん中辺りに位置し、それ故に両国からの民が次々と流れ込んでくる。


真ん中と言っても戦略的にはあまり価値が無いない、端の方に位置するため戦火の火からは現時点では辛うじて逃れている。
流れてくる者は脱走兵だったり、行き場を失った難民であったり、奴隷商人であったり、挙げればキリがない。




そんな都市の町外れに一つの異変が起きていた。



ポツリと唐突に黒い泡が整備も何もされていない荒れた大地から小さく湧き上がった。



その泡は少しづつ膨れ上がり、液体の様に地面を侵食していく。
やがて小さな小さな、黒い液体で満たされた水溜りの様なものが誕生。




そしてその水溜りの表面。純黒なその水面から気泡が膨れ上がった。
始めは小さく、ゆっくり、長い時間を掛けて。しかし着実に気泡は大きく育っていく。



と。一定の大きさにまで成長した泡が突如爆発的に進化を始めた。



泡。泡。泡。泡。泡。泡泡泡泡泡泡。 黒。




表面にノイズが走り、劇的な進化を続ける泡。
やがてその増殖を一定の方向へ形状の固定に掛かる。




手。腕。頭。胴。足。
ソレは二本の脚で地を踏みしめ、歩行する生物。猿から進化を遂げたといわれる知的生命体。



オルセアに漂っていた無数のまつろわぬ者達が歓喜の声を上げ、その泡の中に飛び込んでいく。
ソレを糧とし、泡は更に進化を繰り返す。気泡が破裂と発生を繰り返し、増大を続ける。



蟷螂に似た姿。植物に似た姿。次いで鳥に酷似した姿になり、一度不定形のアメーバ状になって、ようやくお望みの姿に変化。



望み通りの姿が完成し、黒一色だった表面に絵の具の様な着色が施されていく。
サラサラの金色の髪。まだあどけない顔。小さな白い手足に着込んだ服は紅いワンピース。



最初は紙にでも書いたような色が徐々に立体感を持ち、質感を手に入れ、3次元に馴染んでいく。
黒から生まれでた少女が閉じていた眼をゆっくりと開けた。真っ赤な、見ているだけで寒気がするほど真っ赤な瞳であった。


手を何度か動かし、混沌で形作られた少女――アリシア・テスタロッサの姿をした何かは唇を動かし、舌を操り、声帯を震わせた。



「完成だね。 出来も中々かな?」



しかし声が違う。かつてプレシア・テスタロッサが聞いて癒された小鳥の鳴き声のような声ではない。
深い。底知れない闇の底から響いてくるような錯覚を抱かせる『男の声』だ。


それに気が付いたアリシアの姿をした者が喉に手を当て、何度か「あー」と無声音を出して音声を調整する。
直ぐにかつてのアリシアの声に戻った。少女の声に。







「さて、早速会いに行くとしますか」



かわいらしい仕草で手を顔の前で握り締め、ガッツポーズ。可憐な笑顔を浮かべる。
アリシアの小さな口の端が耳元まで裂けて広がった。まるでヒュードラの顔の様に。
事実、今の彼女はヒュードラの意思とアリシアの思考回路と記憶を持った存在である。


もっと言うなれば、アリシアの姿と性格を元にしたヒュードラの端末だ。




が、それも一瞬。すぐに元の端正な顔に戻る。
ステップを踏みながら、アリシアの姿をした何かはアルセンブルクの表路地に向かい歩いていく。全ては新しい玩具に出会うために。






























「あれ? 迷ったかな……?」



顔を傾げ、指を顎に当ててアリシアが困った顔をする。
もしもここにプレシアが居たら何が何でも助けるために奔走する程にかわいらしい顔だ。



その紅い眼が恐ろしいまでに残酷に輝いている事を除けば、だが。



うーん、と、唸りつつも周りを見渡す。その顔に笑みを貼り付けながら。
気が付いたらいつの間にか裏路地に入ってしまったらしく、まだ昼の時間帯だというのに辺りは建物の影によって薄暗い。



まぁ、最終的には絶対に『出会う』と既に因果に先手を打っているので、そこまで慌てるような事態ではないのだが。
要は会うまでの過程が多少違うだけで、今はその過程を楽しんでいるのだ。



遠くからひっきりなしに銃声やら人の叫び声や怒声などが聞こえてくる。いつも通りのいたって普通のオルセアの光景だ。
別に何も珍しくなどない。そこらへんにゴミの様に無造作に転がっている腐りかけの人の死体も、鼻を突き刺すような腐敗臭も何も珍しくなどないのだ。



アリシアがぐっと背伸びをし、深呼吸をする。大きく息を吸い、死体や血のに酷く穢れた匂いを吸い込む。
彼女の顔が酷く歪に歪む。その匂いの中に満たされた無念や憎悪、悲しみなどの感情を味わっているのだ。



何気ない動作でアリシアが近くに転がっている死体に眼を向ける。同時にこの死体について検索。
直ぐにまつろわぬ者から返答が帰ってきた。




「へぇ~、銃で撃たれた挙句捨てられたんだぁー、災難だったね♪」



ウフフと、とても幼い少女の物とは思えない程に艶やかな声と仕草で笑う。



次の瞬間。バンという酷く乾いた音が裏路地に響いた。
それに一瞬だけ遅れ、アリシアの頭部が熟れたトマトの様に容易く破裂した。



彼女の背後から秒速数百メートルで飛来した鉛玉が頭を粉砕したのだ。
粘性な赤と硬質な骨の白、そしてゼリー状の物体をぶち撒けながらアリシアの身体が沈んでいく。


べちゃっと自身の血液の海に倒れ伏した彼女にボロボロの衣服と、もう何ヶ月も風呂に入ってないのか、酷い体臭を漂わせる数人の男が近づいていく。
その手には銃口から火薬の匂いがする煙を上げた、黒い鉄の塊――管理局が質量兵器と忌み嫌う『銃』が握られていた。




数人の男が紅いワンピースを着た頭部が粉砕された少女の死体に群がり、その身体に手を伸ばす。
ごそごそと身体をまさぐり、何か金目の物がないか探す。男達は強盗の類であった。正確にはそこに強○魔やら連続殺人者やらも加わる。




「くそっ! 何も持ってねえじゃねえか! これなら生かしといて、売っぱらうべきだった!!」



男の一人が悪態を吐き、アリシアの腹部を思いっきり蹴っ飛ばす。
ゴロゴロとボールの様に転がり、壁に激しい音を立ててぶつかる。衝撃で更に頭が崩れた。




「ちっ、いい服着てるからそれなりに金目の物を持ってると思ったのによぉ……」


「こんな事なら楽しんどきゃよかったな!」


「お前、あんなガキに入れるつもりか?」


「痛みで泣き叫ぶガキってのがそそるんだよ」






品性の欠片もない下劣な笑い声を上げ、男達が立ち去ろうとする。

























「お兄ちゃん達、酷いなぁ……」






「!?」





















背後から投げかけられた野太い『男の』声がその足取りを停止させた。
咄嗟に後ろを振り返る。馬鹿な。確かに死んでいたはずだ。心臓は鼓動を停止させていた。



何より頭が崩れた状態で生きている生物など存在しないはずだ。




が、男達は目にした。




頭部にぽっかりと銃弾の威力で抉れた『穴』を晒したアリシア・テスタロッサが二本の脚で立ち、
血の滴る隻眼で自分達を見つめながら野太い男の声を吐き出しているのを。



咄嗟に銃を持った男が照準を合わせ引き金を躊躇いなく引く。





発砲。銃声。





秒速数百メートルの速度で鉛玉が少女の姿をした怪物に撃ち込まれ、その華奢な身体を崩壊させる。
人間なら致命傷になるであろう傷。




だが。







「全く、銃で撃たれた人を馬鹿にしたら、直ぐにこれだもんねー」





全く堪えた様子も無く話しを続ける。その小さな身体に鉛で更に穴を開けられても痛みさえ感じてないのか、淡々と。


更に数回発砲。響く銃声。




「でもまぁー。この姿なら保護欲求とかが働いて、襲われないって思ってたんだけどなー。ちょっと間違えたかな?」




ここでふと、自分の身体を見て初めて己の状況に気が付いた様な顔をする。




「あらら。身体が崩れちゃってるよ。 酷いことするな~」




ボロ雑巾のような手足や腹部に開いた穴から覗く血や臓物を何処か他人事の様に見つめ、深い男の声で外見相応の少女らしい口調で喋る。
一声一声あげるたびに、腹から血が吹き出て、地面を不浄に赤く犯す。



異様な光景だった。恐ろしい光景であった。身体の部位を幾つも無くした人間が平然と喋っている様は。




カチンカチンという渇ききった音がやけにはっきりと鳴る。弾丸を撃ちつくした証の音。





カチンカチンカチン。




だが男は何度も何度も震える手で無駄だと知りつつも何度も激鉄を起こし、引き金を壊れた機械のように引き続ける。





「ば、化け物め……!」




それが誰の言葉かは判らない。恐らくは男の仲間の中の一人がそう呟き、それに込められた恐怖があっという間にこの場に居る少女以外の全員に広まった。
人は恐怖には抗えないのだ。



パン、と、アリシアが手を叩くとまるで冗談の様に一瞬で、1コマの内にアリシアの姿が元の綺麗な姿に復元――否。これは既にそんなレベルではない。
そう。言うならば、巻き戻し。時間の巻き戻しだ。周りに散乱していた血も肉も骨も臓物も綺麗さっぱりなくなっていた。匂いもだ。





「ねーねー。猫と鳥と魚、どれが一番好きー?」



今度こそ少女の声で問う。


カツカツと足音を立てながらアリシアが男達に何気ない動作で近づいていく。その顔にはかわいらしい笑みが浮かんでいる。
何も知らないものが見たら思わず微笑んでしまうだろう程に華麗で、輝かしい笑顔であった。かつてアリシアが浮かべていたものと同じ笑み。





が。男達にしてみれば、死神の笑みである。
だが逃げられない。身体が動かない。あまりの恐怖によって動けない。






「……ね、猫」




「猫? 確かに猫はかわいいよねぇ……私も飼ってるんだ!」




震えながらも親切に答えてくれた男にアリシアがうんうんと頷き、優しく微笑みかける。





彼女の影が、伸び、まるで沸騰した湯のように気泡を発生させた。




影が大きく広がる。地面だけではなく、宙に浮かび上がり、アリシアの影が二次元的な平面から、三次元の立体感を会得していく。





「ザナヴって名前なの」




やがて影が着色され、1つの巨大な獣の姿を完成させる。
二本の前足と二本の後ろ足を持った、猫科に属する生き物に見られがちな走ることに特化したスマートな体躯。




色は夜の色を写し取ったような黒で、節々には上質な金で形作られた装飾の様な鎧が装着されており、
何よりも頭部には巨大なルビーを王冠のように頂いていた。
尻尾は10近くも生えており、その全てが金で作られている。




大きさは大体10メートル程。余りにも巨大な獣だ。
そんな化け物がその紅い瞳で男達をにらみつける。



半分機械で半分生身のその巨躯が獲物に飛び掛る捕食者の様に、前かがみの体形を取る。





「た、助け……!」




これから何をされるのか本能レベルで理解した男が命乞いの言葉を吐き出す。
だが、返された言葉は余りにも残酷であった。





「たっぷり、遊んであげてね♪」




天使の様な笑顔で、アリシアの姿をしたヒュードラの端末はそう死刑宣告を告げた。


その言葉を合図に、ザナヴが音速にも迫る勢いで獲物に飛び掛った。






















カツカツと靴の音が響く。紅いワンピースがその度に揺れる。




「~♪ ~~♪」




陽気な鼻歌を鳴らしながら、金色の髪の少女が何かに導かれる様にアルセンブルクの裏路地をスキップを踏みながら歩いていく。
時々意味もなくクルクルと回転し、『ラララララ』と口ずさみ、因果が導くままに、運命の成すがままに。
今度はしっかりと因果の糸を握りながら歩いているため、先ほどのように襲われる事もない。



最初からこうすればさっきの男達も猫と『遊ぶ』事もなかったのだろうが、既に無限力に彼らも参加してしまっている今となっては遅い。


歩く。歩く。踊りながら、舞いながら、飛び跳ねながら、軽々と整理されてない砂利道を子供の脚で行く。





「みぃ~つけたぁ~!」



立ち止まり、くるりと軽く一回転。
一指し指で道端に申し訳程度に備え付けられたゴミ箱をビシッとさす。



もちろん金属製の人が丸ごと入りそうな程に巨大なゴミ箱は言葉など喋れるわけがなく、何も答えない。



「~~ララララララ~~ラララ~♪」



即興の歌を口ずさみ、ゴミ箱の蓋をその小さな手で開ける。
白く綺麗な手が濁った液体などで酷く汚れてしまったが、気にしない。



ギィッと重厚な音を立てて金属の蓋が持ち上がる。途端に咽かえる様な悪臭が撒き散らされた。
肉の腐った匂い、ハエが飛び交う匂い、死の匂い、死臭。



「ちょっと遅かったかな?」



中に入っていたのは死体だ。ソレも死後しばらく経ち、腐敗が進んだ。
蛆が沸き、ハエが飛び交い、骨になりかけている死体だ。


その不浄の極みとも言える亡骸にアリシアが手を伸ばす。
そっと頭を掴み、持ち上げる。ボロボロと金色の、かつて髪であったものの残骸が崩れ落ちる。



じぃっとその紅い眼で腐臭漂うソレを観察。因果を辿り、存在を読み取る。
時間にして1分ほど経った後、感心したかの様に呟いた。



「……こんな状態になってまで肉体に定着し続けてるなんて、凄い執念だねルアフ君」



愛しい者を愛撫するかの如くその爛れた頬を撫でてやる。





ルアフ



享年14歳 



産まれた時より常人には持ち得ない魔力とは違う力、言うなれば超能力を所持。
不気味がられた両親に虐待を受け、殺害される。その死体はこのゴミ箱に突っ込まれ、現在に至る。
そしてその思念はまつろわぬ者として漂わず、朽ち果てた自らの肉体に抱きついている。




それらを読み取ったアリシアがうんうんと頷く。そして口を開いた。





『決めたよ。私の構想する歌劇の主演の一人は君だ 君を私の代理の神様にしてあげよう』




野太い男の声、腹の奥底まで届く大男の声、深遠から響いてくる冷たい声、妖艶な女性の声、そしてアリシア・テスタロッサの可憐な声。
その全てがごちゃ混ぜになった混沌とした音声を吐き散らしながら、ヒュードラは死体に一つ、口付けを落とした。




確か自分は500年程度掛かって誕生したのだっけ? 


ならばガンエデンとの適応にはどれぐらい掛かるか……。
それらを恐ろしい速度で計算しながらアリシアが力を行使する。




黒泡が無数に発生し、辺り一体を空間ごと包み込み、転移。その後は何も残ってなど居ない。死体もアリシアも。






――おっと。忘れてたよ。 念の為、ここらへんは消しておかないとね。 誰かが見ていたら厄介だし。





最後に置き土産を置いていくのももちろん忘れない。何、お世話になったお礼だとでも思ってくれ。
虚数空間。全方位が虹色に輝く狂った空間の中で、輝く灰色の煙を纏った漆黒の『鎧』が、その細く華奢な黒い手を軽く握り締めた。











無限力が行使され、周囲一体の空間が極限まで圧縮。原始単位にまで縮小された。












【ジーベン・ゲバウト】




















この日、アルセンブルクはオルセアから消滅した。後に残ったのは巨大なクレーターだけ。





そしてこの出来事より数日後、各地にて所属不明の兵器が多数現れ始め両軍に攻撃を開始。
しかし反撃を受けると直ぐに撤退してしまうその機械の『蟲』に両国は長い間悩まされるのであった。



そしてもう一つ。オルセアに新しい宗教が生まれた。
シンボルマークは完全な輪に、その中に内包された『∞』という記号。


教祖の男は不気味な仮面とマントを羽織った長身の男。名を『ヒドラ』と言った。
教え自体は子供でも考えていそうなほど陳腐な内容ではあったが、何故か信者が爆発的な勢いで増加させている。






新しい宗教の名は『バラル教』
バラルとは混沌を意味する単語である――。






[19866]
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/27 03:00
ミッドチルダは管理世界の中心的な世界である。この世界の人口は大よそ30億少々。



当然管理世界の中心たるこの世界に住まう者は人間だけではなく、猫や犬などの身体的特徴を人の身体に持った獣人や、
グロテスクな外見とは裏腹に確かな知性を持った昆虫人種なども数多く暮らしている。



そして長きに渡り続いた戦乱が終結し、再び次元世界が再起の道を歩み出した際に中心となった世界でもある。


戦争が終わってまだ1世紀も経ってはいないが、それでも今の所次元世界は平和と言える秩序が保たれていた。
約10数年周期で発生と暴走を繰り返す闇の書などの危険なロスト・ロギアを除けばの話ではあるが。



管理局の治世は概ね優れているといえよう。少なくともほぼ全ての民衆に衣食住と確かな秩序と安全、そして福利厚生を提供しているのだから。
オルセアなどの管理外世界を除けば、管理世界などでは特に目立った騒乱や混乱などは起きてはおらず管理世界の住人にとっては戦争も無縁。
管理局は全ての“管理世界”の知的生命体には絶対の安心と秩序を約束しているのだ。




そして管理局の最も大きな特徴と言えば徹底した質量兵器の管理だ。



銃や戦車などに代表される“質量兵器”などは管理局が厳重に管理を行い、これらの使用には管理局の許可が必要だ。
何故ならこう言った質量兵器は使い方を少しでも誤れば、子供だろうが容易に人を殺傷することが可能になってしまうから。




“ボタン一つで町が消し飛ぶ”とは良く言ったものだ。



もちろんこれは過剰な表現であり、誰も子供にそんな危険極まりないスイッチを持たせる馬鹿が現実に居るとは思ってなどはいない。
様はただのプロパガンダなのだ。かなり脚色が混じってこそいるが。




もちろん。魔導師への枷も忘れない。ある意味質量兵器よりも危険といえる力だからだ。



(ちなみに、ミッドチルダの教科書では魔法技術は質量兵器に比べて“多少は安全”と述べている物が多い)




リンカー・コアと呼ばれる先天的な器官を持った生命体は空間に存在する魔力素と呼ばれる物質を体内に取り入れ
そこから取り出したエネルギー、俗に魔力と呼ばれる物を行使し、様々な超常現象を引き起こすことが出来る。


空を飛ぶことや、手を触れずに物を動かすなどが代表的であり、更に高出力のリンカー・コアの持ち主はやり様によっては
一人で町を壊滅させる事さえも可能と言われている。


故にリンカー・コアを持った人間――魔導師に対する制限は多い。そして罰則も厳しい物となるのは当然といえよう。



管理局曰く「力には常に責任が伴う」だそうだ。











そんな管理局であったが、新暦39年に大きな転機を迎える事になる。
アルゴ・レルネーを破滅させたヒュードラ事件などが大きく放送された年であるが、この年に起きた最も大きな出来事は他にある。



第1管理世界 ミッドチルダに住まう全ての生命を震撼させた出来事だ。
下手をすればミットチルダの住人が全滅していたかもしれないから。



その出来事の名前は『メテオ3落着』という。












第1管理世界ミッドチルダ 南部 新暦39年 新暦40年まで後、1週間




夜も開け切らない明け方。日はまだ地平線の彼方から僅かにその光を漏れさせるだけで、未だ天を支配しているのはミッドの2つの月と煌く星々達。
寒々とした冷気があたりに満ちている。




そんな夜空を何十ものヘリが酷く耳障りな音を立ててメインローターを激しく回転させる。
バババババと規則正しささえも感じさせる音が地面をビリビリと揺らし、騒音を撒き散らす。



飛んでいるのは時空管理局地上本部が所有する輸送ヘリだ。
更にそのヘリの遥か上空を数隻のL級次元航行艦船が大気圏内を月の光を浴びながら悠々と進んでいる。
その眼下にあるのは幾つかの小さな島が並んだ諸島。豊かな自然の緑と華麗な海の蒼で装飾された美麗な島々の数々。



しかし、幾つか並んだ島の1つ、最も諸島の中で巨大な島はその形を歪に変形させていた。



穴だ。どこまでも空虚な穴だ。




直径30キロにも及ぶ島の半分以上――大よそ7割にも及ぶ巨大な穴が空いていた。
もっと言うなれば巨大な物体が加速をもってぶつかった際に生成される円形のクレーターが島には出来ていた。


クレーターの周りは全てが弾き飛び、白い砂を晒している。そしてそこに建設された小規模の施設。
時空管理局の施設だ。そこに向かいヘリの数々は高度を徐々に降下させていく。




























施設に降り立ったヘリから二人の人物が降りてくる。二人とも時空管理局の制服を着ている。
一人は細身の男。その制服の肩には上級将校が付けている様な煌びやかな勲章が輝いていた。


もう一人はその細身の男に付き従うように半歩後方を歩いている筋骨隆々の大男。
茶色い制服の上からでも判るほどの筋肉質な身体をしている。こちらは特に勲章などはつけてはいない。




二人は重苦しい雰囲気を纏いながら無言で施設の入り口に向かい、歩を進める。



施設の扉が音を立てて開き、白衣を着込んだ数人の男がヘリから降りた二人を迎える様に大仰な動作で二人に歩みよる。




「これはこれはデリアン中将殿とレジアス補佐官殿! こんな夜更けによく来てくださいました!!」



「当然の行動ですよ」



「……」




デリアンと呼ばれた男が白衣の集団の恐らくはリーダーと思われる男と満面の笑みを浮かべて握手をし
彼の後方に立っていたレジアスは愛想笑いをその強面に貼り付けて小さく会釈をした。



「さて、早速ですが……」




「はい」




声音を変えた白衣の男にデリアンが頷く。今日ここにやってきたのは観光目的などではないのだ。
そう仕事で此処に来たのである。彼の仕事はミッドチルダを守ることだ。




























「送ったデータは見てくれましたか?」



「当然です。随分と興味深い内容でした……何でも人工物の可能性があるとか」



急遽造られたため、未だ鉄骨などがむき出しになった野生的な金属の通路を早歩きで往く最中
白衣の男が発した言葉にデリアンはそう答えた。そんな彼の返答に頷きを以って男は返し、そして口を開いた。



「いえ。大気圏突入時に減速していた事といい、あれは完全に人工の物です。それも恐ろしく高度な技術で造られた」



「……ロスト・ロギアの可能性があると?」



「はい。そしてこれは私の予想ですが、恐らくは進んだ文明の情報保存及び自分たちの技術を他者に伝えるための装置であると推察しております。
 事実内部には様々なデータが収納されていました」



「と、言うと?」



「それは……」



丁度喋ろうとした瞬間に廊下の突き当たりに到達し、そこに設置された機械仕掛けの扉の隣にある端末を男が手早く操作する。
キィンと甲高い音と共にパスワードを入力された扉が軽快に開く。急ごしらえとは言え、中々の装置を持った施設だ。



扉の向こう側にある、会議室らしき部屋の中にあるのは空間モニターの投影装置と、幾つかの床に固定された椅子と机。



「どうぞ。詳しい話は中でしましょう」


















「では、詳しい報告を行いたいと思います」


椅子に腰掛けた二人の前で男がそう口火を切り、空間モニターを操作。魔力を施設から流し込む。ブゥゥンと特徴的な起動音がなった。
円を基としたミッドチルダ式の魔法陣が展開され、虚空にパソコンの画面を思わせるディスプレイが投影される。


それも1つや2つなどではない。10近くもだ。それら1つ1つが全く違う情報である。
しかし一番奥に展開された最も大きなディスプレイに映る、巨大なオレンジ色の皹が入った岩が不気味なまでに存在感を誇示しているのが酷く印象的であった。



「まず、“メテオ3”がどこから来たか、ですが……」



メテオ3……管理局が落下してきた隕石につけたコード・ネームだ。
これの由来は今までにミッドチルダに衝突した特に巨大な隕石は2つあり、ソレの3つ目という意味だ。



ちなみに何十億年も過去に起きた“メテオ1”の衝突でミッドチルダの双子月が形成され、
数千万年前に起きた2つ目の“メテオ2”の衝突によってかつて繁栄を謳歌していた魔導巨大昆虫生命体は絶滅の危機に陥ったというのがミッドでの考えだ。



ちなみに巨大昆虫生命体は現在でもその生き残りは普通に見ることが出来る。主に召喚士の手によって呼び出されるからだ。
後はミッドで普通に生活してたりもする。草やら生肉などが主な食料である。もちろん人間などは食べない様にちゃんと勉強しているので近寄っても安心だ。
しかし、繁殖期になると途端に凶暴になるので注意が必要である。後、発声器官そのものが人間とは構造が違うので人の言語を喋ることは出来ない。



話を戻そう。




数多く展開されていたモニターの内の1つが拡大。椅子に座った二人の前まで移動する。
そこに記されているのはつい数日前のこの惑星付近の宇宙空間のデータ。
その情報によると“メテオ3”はこのミッドチルダのある宇宙から飛来したのではなく
何処とも知れない次元の海を渡り、次元の門を開いた上でこのミッドチルダに来たそうだ。



「どこで製造されたかは不明ですが、少なくとも未だ我々が観測したことのない世界であるのは確かでしょう」



再び手元の機械端末を操作。ピッと、タッチ式で操作する機械音の独特な耳に残る音が鳴る。
空間の重力図などのデータを映したモニターが遠ざかる。



次に二人に近づいてきたモニターに映っているのは機械加工された“メテオ3”の内部のデータと図。
中央付近に異常なエネルギー反応があるのだろう。データの中の“メテオ3”の中央部分は赤を越えて真っ白になっている。


ソレを見てデリアンとレジアスが思わず息を呑んだ。下手をすれば次元断層を起こしかねない程のエネルギーだったのだ。



「恐ろしいまでのエネルギーです。しかし、これでも大気圏突入時に比べればかわいいものなんですよ」



再び端末をカタカタとピアノを演奏するか如く操作。数瞬遅れてピピと入力を確認した音が発生する。



「そして、これが……大気圏突入時に衛星が観測した“メテオ3”のデータです」



そして新しく1つのモニターを二人の前に展開。記されているのは“メテオ3”の大気圏突入を撮った人工衛星のデータである。
そこには一つの鮮明な写真が映っていた。解像度もかなりよく、素晴らしい画質だ。




「な……」



普段は冷静沈着を地で行くデリアン中将が身を乗り出し、食い入るようにモニターを見てしまった。
目がチカチカするのも厭わず、何度も何度もその情報を見る。そんな彼の隣でレジアスは呆然としていた。現実に脳みそが付いていってない。
いかに何年もの年月を管理局員として過ごし、様々な世界の法則や種族を見ていても、正真正銘の“未知”の前に人は簡単にも思考を停止させてしまうのだ。




巨大な隕石が青白く発光していた。大気圏との摩擦熱で発生する光ではなく、岩自体が薄く発光していたのだ。
それに何よりも、目を惹いたのは岩を包み込む紫色のオーラ。
オーロラを薄めたような色彩のソレがすっぽりと“メテオ3”をプレゼント包む包装紙の様に包み込んでいる。


データの上ではそのオーロラは魔力光などではなく、言うなれば重力。そう、擬似的な重力空間だ。
ソレをもって星の重力を中和し、尚且つ斥力などを操作して“メテオ3”は落下速度と落下地点を意思でも持っているかの様に調整していたのだ。
明らかに自然の物体ではありえないことだ。即ち、この隕石が人工物だという証拠である。




そもそもの話、落下速度をこうやって減速させなければ、1キロの隕石が直撃したミッドチルダは気候そのものが激変してしまっていただろう。





「これで驚いで貰っては困りますよ」



ハハハと白衣の男が朗らかに笑う。まるで悪戯が成功した子供のような顔で。
そんな男にどこか馬鹿にされたと思ったレジアスが口を尖らせて刺々しい声音で皮肉るように。



「ほぅ? これ以上まだ何かあると?」




その言葉を待ってましたと言わんばかりに白衣の男が満面の笑みを浮かべると、通信で部下を呼び出し、頑強な造りの白銀に輝くスーツケースを持ってこさせる。


デリアンとレジアスにはそのケースに見覚えがあった。確か、非常に危険な物や希少品を輸送する際によく使われる軍事用のケースだったはず。
強化合金で作られたソレは衝撃や熱や冷気、圧力にも強い強度を誇りSランク魔導師の砲撃にも耐えられるという素晴らしい一品だ。




「これはまだ管理局の“海”にも報告していないのですよ……何せ、あいつらはロスト・ロギアと聞くといつも自分達だけで解析してしまいますからね
 私達末端の科学者には触れさせてももらえない」



ぶつぶつと愚痴を言いながら男が懐から取り出した鍵をケースの鍵穴に差込み、次いで現れた暗証番号入力画面で手早く10桁のパスを入力していく。
やがてピッと電子音がなると、プシュっと空気の抜ける間の抜けた音と共にケースが滑らかに開かれ、その中身を晒す。


中に入っていたのは、管理局でも最大の超容量を誇る半透明なメモリーカードと、強化ガラスのシリンダーに納められた拳程度の大きさのサファイア。
サファイアには表面に浮かぶ小さなクリアな文字でⅩⅩⅠと刻印されており、何より石自体がチェレンコフ光のごとく発光していた。



「この話はここだけにしてくれるとありがたいのですが……あぁ、この部屋の監視装置は切っておいたので安心してください」



言外に外に漏らすなと男が二人に告げる。
その顔はほんの少し赤く染まっていて、男が興奮している事を二人にありありと告げていた。




「……判りました。誓いの証拠にサインでもしますか?」



「いえ、結構です。恐らく私の話を聞けばミッドの守護者である貴方は何が何でも時が来るまでは“コレ”の存在を本局には隠したくなるでしょうからね!」



男が確信さえも篭もった声でそう宣言する。
事実男の言うとおり、管理局の“地上(ミッド)”と“海(本局)”は仲がお世辞にもいいとは言えず、海は何かと付けて地上をけん制してくるのだ。



本局のお偉いさん曰く『次元世界全土を守るためには、進んだ文明人のミッドチルダ人はその高貴なる精神を以って多少の我慢はするべきだ』
こんな事を言って地上の予算を何かにつけてカットしたり、優秀な高ランク魔導師を次々と高給で引き抜いたり。
新しい技術導入を遅らせたり(その癖自分達は悠々と技術を“テスト”の名目で使っている)しているのだ。





更に最近の話になると、新造されたL級次元航行船の地上への配属そのものを渋り、既存の艦船の廃棄などを推奨し、危うくデリアンが根回しなどをしていなければ
たった百近くの拠点と数十万人程度の平均Bランク程度の魔導師とソレに見合う戦力と物資『だけ』で
ミッドチルダという惑星全土とそこに住まう数十億の民を守護しなければならない事態になっていただろう。




まぁ、ミッドは人口が密集している幾つかの超巨大都市などが生活の主流であり、
田舎などにはあまり人が住んでないというのも管理できている理由の一つにあげられるだろう。
もしも管理外世界の中にある“国”という単位で人々がバラバラな地区に住んでなど居たら管理など出来なかっただろう。





ちなみにミッドチルダの首都、クラナガンを守るのは機動1課から5課までの平均Aランク魔導師の部隊であり、中には特例で質量兵器を使用している者も居る。
この首都防衛にあたるAランク魔導師さえも本局は引き抜こうとするのだから困る。





更に言うと数ヶ月に一度行われる公開意見陳述会……。
まぁ、選挙演説の様なものだ、これにも本局は色々と手を回してくるのだから本当にやめて欲しい。



もしも誰かが『ミッドの地上部隊は動きが遅すぎる』などと現状を知った上で、
尚且つ海に属しているものがそんな事を言ったら迷わずレジアスとデリアンはその者を殴り飛ばすことであろう。



大分デリアンやレジアスの個人的な意見が混ざってこそ居るが、大よそこれが現在のミッド地上本部の現状である。



しかし忘れてはならないのが、時空管理局本局はしっかりと次元世界の安定と平和を守り、管理世界の人間達を犯罪や災害の危機から守っているということ。
決して無能ではないのだ本局は、むしろありとあらゆる世界から集められた人材は超を頭につけてもいいぐらいの有能ぞろいである。
まぁ、その有能な人材の7割近くが高出力のリンカー・コアから齎される強大な魔力持ちだというのが少々複雑ではあるのだが。




……だから頼むからその力の5分の1でもいいからミッドチルダに注いでくれというのがデリアンとレジアスの願いであった。




そんな現状を男は恐らくは知った上で、暗にケースの中身であるメモリーカードと鮮やかな石ころを切り札になるといっているのだ。



「詳しいお話をよろしいですかね?」



デリアンの目が研ぎ澄まされ、声は一種の怒気さえも含まれたものになる。



「その為に来てもらったのですから……決して後悔はさせませんよ中将殿」



一泊。しかし、二人にはこの間が酷く永く思えた。


そして簡潔に男が述べる。



「このカードの中身は“メテオ3”から引き出した異文明の技術の理論などが収納されています。
 しかもご丁寧に今のミッドの文明レベルに合わせ、近未来にでも実現できそうな物の数々を、です」



故に先ほど私はこの“メテオ3”を情報保存と技術拡散のための装置だと言いました、と、続ける。
デリアンとレジアスは無表情だ。正確には既に驚きというレベルを超えて悟りの境地に精神が到達したのだろう。


やけに冷静な冷め切った頭脳で話を聞いている。次に男が円筒形のシリンダーを掴み、その中に納められた蒼く輝く石を二人の前に提示した。

 


「そしてこの石ですが……この石の名前はどうやら“ジュエル・シードというらしく、想像を絶する量のエネルギーを秘めているようです」



「具体的にはどれほどの量なのかね?」



冷え切った声でレジアスが言う。それに続きデリアンが無言で答えを求めた。
男の言葉は単純で、故に想像を絶するものであった。




「これ1つで、ミッドの全都市の電力及び魔力を、大体1000年は補えますね。残念な事に制御する技術はありませんが」



白衣の男が手の中のシリンダーを弄くりながら大したことでもないかの様に言う。
例えるなら、今晩のおかずは? と、聞かれ、答える親の様な淡々とした声である。


その返答に今度こそ頭の回路がパンクした二人は降参だと言わんばかりに肩を竦め、溜め息を吐いた。





























オルセアの中でも比較的に治安が良い中規模の都市に建てられた、贅沢極まりない石造りの中世風の巨大建造物。
とある金持ちの道楽の1つとして建造されたその建物は永い間その金持ちの所有物であったのだが、今は違う。
その金持ちは何を思ったのか、最近出来たばっかりの怪しげな教団にソレを譲り渡したのだ。



昔は確かに蒼かった筈の目を何時の間にか真っ赤に変えてソレキラキラと輝かせ、その至福と歓喜が入り混じった笑みとも絶頂の余韻を味わっているともいえる
表情を浮かべたその金持ちはつい先日、たった1人の家族であった娘が不治の病で亡くなり全てに絶望していたとは思えない。


彼を知っている人は皆がそう言う。ついでに彼の部屋から彼と死んだ筈の娘の会話が聞こえるやら娘が廊下を歩いていたのを見たなどなど
彼に仕える従者の間ではそう言ったホラーな噂話も絶えない。



金持ちが変わった瞬間は? と、聞かれれば使用人達は皆が皆、口を揃えてこう言う。





『ヒドラとか言う得体の知れない男が屋敷に出入りするようになってからだ』と。







床には真っ赤なカーペットが敷かれ、窓には金で縁取りや装飾をふんだんに施された無駄に長いカーテンが設置された部屋。



かつてベルカの王や貴族が住んでいたといわれる部屋に匹敵するほど豪奢な部屋の中央に設置された
これまた金で所々に装飾が施された王座にその者は堂々と座っていた。



そしてその椅子に腰掛ける人物には顔がなかった。いや、正確には顔を晒していないというべきか。
その真の顔を知るものはこのオルセアには居るわけがない。



その人物は頭部に顔全体をスッポリと覆う金属のマスクを装着していた。


金で3つの眼の装飾を施されたソレは見るもの全てに無機質なイメージと生理的な嫌悪感を抱かせ
彼が纏う真紅のマントと随分サイズに余裕があるローブは都市を焼き尽くす戦火の火や傷口から噴出す血を連想させるであろう。



彼こそが新しくオルセアに出来た新興宗教『バラル教』の教祖であり、真の神の神子が降臨するまでの間の代弁者と名乗っているヒドラである。




そんな彼の後ろに2体、真紅のローブと漆黒のローブを纏った身の丈2メートルを優に超えるであろう巨人が身じろぎ一つせず直立不動で立っていた。
垂れたローブの隙間から見える2つの眼はギラギラと真っ赤に煌々と光っており、時折獣のような呻き声を小さく発している。  
そして何より、裾からほんの僅か出ている手は人間の手ではなかった。三本の寒気を覚えるほど鋭い鍵爪の様なものが覗いているといえばお分かりであろう。





ヒドラの護衛である。本来はそんなもの必要はないのだが、彼の趣味で作られた護衛である。
いや、もっと言ってしまえばヒドラを演じること自体がヒュードラにとってはゲーム、もしくは趣味の延長線上に過ぎないのだが。
アリシアの姿を模すのを止めたのは単に飽きたのと、宗教の教祖となるからにはもっとミステリアスな姿の方がいいだろうと判断したためである。





と、不意にヒドラが明後日の方角を見た。カチャリと金属の擦れる音がした。
そのまま何も無い虚空を何か書物を読んでいるように見つめ、内容を理解したと言わんばかりにそっと首を小さく縦に振る。




そして。



『セプタギンは予定通りミッドチルダに到着し私の“プレゼント”を配布、と……でも、地上だけで技術を独占しようとするのは困るね』



男の様であり、女の様でもあり、また幼い子供を思わせ、死期を間近に控えた老人を連想させる不思議な声でヒドラがそう呟く。
込められた感情は多すぎてどれか特定の1つを読み取るのは不可能である。



『分裂による弱体化なんてつまらないからね。ここは評議会とやらに頑張ってもらうとしよう』




ほんの少しだけ因果に介入。都合のいい様に弄繰り回す。
子供が玩具で遊ぶかのように運命で遊ぶ。


最終的な結果だけを決めて、後の過程は流れのままに。




それらが完了して、カタカタと仮面をゆらし笑う。



唐突に立ち上がり、窓際まで床を滑るように歩いていく。
何故か普通に2本の脚でしっかりと歩いているのに、這いずっていると錯覚を起こしてしまいそうな歩き方と雰囲気であった。



窓から覗くは幾多ものビルが雄雄しく立ち並ぶ景観
だがそこに行き交う人々の顔には覇気や生気など微塵もなく、ほぼ全員の顔は疲れで満たされていた。



しかも歩いているのは子供や老人、女と言った戦う力の持たない者ばかりだ。
男はほとんどが戦争に駆り出されたのだ。



『それにしても……娘ね』



ヒドラがガラスに映った自らの不気味な仮面を見つめながら呟く。



彼が思い出すは、教団をやりくりするための資金が欲しくて最初に接触した時は自分の事を気にも掛けなかった男。
が、亡くなった娘と再開させてやろうと誘惑した瞬間に顔色を変えて懇願して来たこの建物の元々の持ち主。



まつろわぬ者となった娘を吐き出して、ちょっと合わせてやっただけで自分に全てを捧げた男を思い出す。
そして『娘』という単語と同時に何かを思い出した様に手をポンと叩き合わせる。




『プレシア・テスタロッサ……私の寝起きに素晴らしいサプライズを提供してくれた彼女に対するお礼がまだだったかな?』



まぁ、それは後回しでいいかと一人ごちる。どんな内容がいいかはそれまでに考えておこう。
とりあえず今はルアフが『完成』するまでどれぐらいの信者を集めることが出来るかというゲームを楽しもうという事だ。



気分は人生ゲームをプレイしているみたいなものである。
ヒュードラにとって世界とは歌劇の舞台であり、チェスの盤と同じなのだ。
そして自分は脚本家でありプレイヤーであり黒子であり、監督であるという位置づけ。





窓から差し込む日光に照らされ、伸びたヒドラの“影”に真っ赤な3つの眼が浮かび上がっていた。




[19866] 番外
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/27 03:03
黒とも白とも認識できない、ありとあらゆる色が蠢き、それらが幾重にも折り重なって最終的には黒に“近い”色を持つに至った混沌と化した世界。
上も下も右も左もない空間だ。それどころか距離や時間という概念さえも有るかどうか疑わしい。



ただ絶えず判別不能の何かが沸きかえり、蠢き、増幅し続けるだけの混沌。




結果から言ってしまうと、ここは全ての源である原初の混沌の海を人工的に再現した空間であり、次元であり、場である。
ヒュードラという存在が支配する擬似的な始まりの海。



正確な大きさなど誰にも分からない巨大な泡の様なモノ――母宇宙から分離した子宇宙とも見える無数のドス黒い丸い泡が絶えず発生と崩壊を繰り返し、
着実にその数を増やし、そしてその分だけ減らしている。
その泡の数だけ試験的に世界の元が作られ、崩されていっているのだ。



言わば居るかどうかも判らない神様の真似事だ。いや、居なければ真似になどならないから、正真正銘の神の御業というべきか。
そもそも神の存在を証明など永遠に水掛け論やら悪魔の証明などの繰り返しになってしまうのだが……。



ここは永遠に進化と増幅、そして沸騰を繰り返す大きくて小さな矛盾したヒュードラの箱庭。
あまねく次元と世界、概念の境界線が犯され、崩落した世界の縮図。


その正体は無限大に近い数のまつろわぬ者が創り出した『鎧』の内部に存在する神の雛が座す狂った世界だ。
未だ未完成ではあるが、現在の時点で大よそ人の理解と想像を超えた場所となっているのは説明などしなくても判るだろう。




そしてこの世界の主たるヒュードラと言えば――。

















全天が真っ白なありとあらゆる時空間から完全に隔絶された世界。




ここだけが完全に独立した時間と空間を有する次元。どんな世界のどんな法則にも縛られない場所。
混沌の海に浮かぶ小さくて巨大な世界。ヒュードラが存在する世界である。
そこに無造作に配置された黒いソファー、そしてその前に設置された金で複雑な装飾を施された王侯貴族が所有していそうな豪奢なテーブル。



このテーブルを一つ売るだけで、並みの人間なら一生遊んで暮らせるだけの金が手に入るだろう。
それほどまでに価値を知るものが見れば値打ちある一品だ。



そしてそんな贅沢極まりないテーブルの上には物が置かれていた。
ジュウゥウと音を立て、香ばしい匂いを漂わせる鉄の板が。
熱せられた鉄板の上に乗っているのは肉である。それもかなり高価な牛肉。




オルセアの中でもかなり身分の高い者しか食す事は出来ないだろう限定品。




カチャリと金属が擦れあう音がする。
銀製のナイフとフォークが擦れあったために発生した甲高い音。人を不快にさせる音の類。



金やら様々な宝石を植え込まれ、装飾過多とも言える食器を握る指は人のソレではなかった。
否。そもそもの話、その存在は人の肌自体持っては居なかった。


全身の輪郭は揺ら揺らと不定形に幾重にもぶれており、その身には白いノイズの様な砂嵐が絶え間なく走っている。



衣服代わりに纏うのは輝く灰色という世にも奇妙な色彩の煙。
顔には鼻や頬を始めとした凹凸は無い。その代わりにあるのは耳元まで届く嘲笑いを浮かべた白い裂け目と紅い3つの眼らしき物。




そんな異形――ヒュードラはソファーに腰掛け、無駄に装飾されたナイフとフォークを掴んで食事を行っていた。
特に意味などない行為。言ってしまえばヒュードラの娯楽であった。




フォークで未だにジュウゥウと香ばしい音を立て続けるステーキの一部を刺し、ソレによって固定した部分から外側の方をナイフを用いて手早く切り取ろうとする。
やはりさすがは高級食品というべきであろうか、肉は何の抵抗もなくナイフによる蹂躙を受け入れ、あっという間に切り取られる。
切り口からはまるで血の様に肉汁が溢れ出し、それが熱せられた鉄板に触れて気化。塩辛い煙を上げた。



切り取った肉の欠片をフォークで刺し、ソレを小さな容器に満たされた特別なソースの中にひたす。
ジュッと小さな音が一瞬だけし、気化した微量のソースの芳醇な匂いが塩辛さに混ざる。



十分にひたしたのを確認したヒュードラが肉をソースの海から引き上げ、口元に持ってくる。
鼻など存在しない彼であるが、匂いは嗅げるのだろう。



堪能するかの如く肉汁とソースを垂らす肉片を眺め、それから迸る濃厚な肉と血の香りを味わう。
そして時間にして数秒後、彼はソレを口(?)の中に放り込んだ。




途端に口の中で肉が『溶けた』
この表現は間違ってなど居ない。事実、肉は彼の口の中で『溶けた』のだ。



途端口内に塩辛さ、肉の柔らかいながらも確かに存在する素晴らしい歯ごたえ、そしてソースの甘さ
それら全てが同時に彼の味覚を刺激する。



2、3度咀嚼するような動作をした後、ヒュードラがポツリと呟いた。
最も咀嚼と言っても彼の口らしき白い裂け目は全く動いてなどいないのだが。





『……味覚があって良かった』




心の底から、たっぷりと感情を込め、溜め息を吐き出す。
3つの紅い眼が満足げに細められ、今の彼の心境をこれ以上ないほどに現している。




と、ここで彼の眼の前に空間モニターが展開され、そこに文字がびっしりと書き込まれていく。
燃え滾る眼でソレを視界に入れる。






――記憶の読み取りが終了。映像編集も終了。何人かの記憶と因果の糸をつなぎ合わせて作りました。
 “上映”はいつでも出来ます。しかし正直な話、貴方の好むようなエンターテイメント性は皆無です。
  どちらかと言えばこれはハートフル系でしょう。





『構わないよ。食事しながら見るとするさ』




肉を更に切り分け、1口サイズになったソレをソースにひたして口に運ぶ。
そして上機嫌だと直ぐに判るほどの軽い声音でヒュードラが答えた。パクりと肉をもう1口食す。





モニターが瞬時に切り替わり、大きくテロップが流れる。
無駄に高尚なBGMが流れ、さながら映画のOPの様な演出だ。





――ルアフ・ブルーネル 管理局基準で 新暦25年誕生 1人息子。



モニターに映し出されるは小さなクシャクシャの赤ん坊。
産まれて間もない産子である。



そんな赤子を愛しい気に見やるのは金色の髪の女性と黒髪の青年。
恐らくはルアフの両親であろう。優しげな風貌をしている。





そこからは延々と成長過程が放映され続けた。
首が据わっただとか、おしめが取れただとか、離乳食を採り始めただとか。



この子の親戚ならば楽しい映像作品なんだろうが、ヒュードラにとっては退屈極まりない映像。
何が悲しくて子供の成長記録を見なければならないのだか。




『至って普通の家族、と言うべきかね』




2枚目のステーキを食し終え
上物の紅いワインが入ったグラスを片手にヒュードラがつまらなさそうに感想を述べる。
グラスを傾け、紅い液体を裂け目の中に流し込む。あぁ、旨い。





―――生後5年 



基点となる場面。大きな分岐点となった場面だ。
何故ルアフがあのような場所に捨てられていたかの原因。



既に両足で立ち、おぼろげながらも自我を持ち始めた頃のお話だ。
幼稚園に通い始め、基礎的な教育と倫理を教え込まれる時期である。



まだまだ子供の彼は知らなかったのだろう。ソレがやってはいけないということを。
子供が虫の手足を千切って遊ぶのと同じ感覚だったのだろうか?






―――かしてよ! 僕にも!!




切欠は小さな事であったようだ。
遊びたい玩具を同級生が独り占めしていて、貸してくれなかっただけ。


今までの映像からして、その相手はこれまでも何度もルアフに対して意地悪を働いていたらしい。



まぁ、珍しくなんかないだろう。思い通りにならなければ暴力を振るう幼子などごまんと居る。
子供同士の喧嘩なんて大したことはない。非力な腕でポカポカ殴っても相手を殺傷するには到底至らない。




普通ならば。





だがルアフの場合はちょっと違った。




―――え?





それが相手の子供の生涯で最後の声。自分に何が起こったか判ってない故の言葉。
眼、鼻、口、そして全身のありとあらゆる血管から血を噴水の様に噴出して、力なく倒れこむ。


幼稚園の子供のクレヨンで書かれた絵が飾ってある壁が、デフォルメされた動物の模様が編みこまれた床のカーペットが、
そして何より幼いルアフが、真っ赤に染め上げられる。充満する鉄の香り、血の悪臭。




誰が見ても即死であった。僅か5年という短い人生で相手は命を閉ざした。
刹那の沈黙を破り、響き渡る子供たちの悲鳴、教職員の怒号。




そんな混沌とした場面を見て、ヒュードラが一言。



『一種の衝撃波。念動力で対象の内部を粉砕したみたいだな』





しかしまさかこんなタイミングで能力に目覚めるとは、と続ける。
そして一口、今度は皿に盛られたデザートの固形チョコレートを口の中に放り込む。


甘い。正しくこれこそがデザートだと言わんばかりの味わい。



モニターが切り替わる。そして新たな場面を見せる。





そこから先はブルーネル一家にとっての地獄であった。



―――この人殺し! 悪魔め! 地獄に落ちろ!!!




原因不明とは言え、子供を一人殺した(と思われる)ルアフに対する風当たりが強くなるのも必然といえよう。
影口に始まり、陰湿ないじめ。物が隠されたり壊されたり、石を投げつけられたり、はたまた玩具の銃で全身を撃たれたり。



そして父と母に対する仕打ちはもっと酷かった。
相手の遺族が復讐に走ったのである。



夫は仕事中に何度も襲われ、妻は家に押し入ってきた男に犯され、家には放火され、散々な目にあったそうな。



そして最後は―――。




――――君達が『悪魔の子』を産んだ一家か?



オルセアは神に対する信仰心が深い世界である。いい意味でも悪い意味でも、戦争をしてしまうほどに深いのだ。
故、特異な能力を持ち、人を殺した子を産んだブルーネル一家が目をつけられるのも無理はない。





何日も続けられる尋問という名の拷問。しかし決して死なせない様に注意されたソレ。
まだまだ幼い少年であったルアフには行わなかったのはせめてもの慈悲であったのだろうか。



―――本当に悪魔と契約などしていないといえるのかね?




何度違うと言っても繰り返される質問。
決して寝かせず、決して休ませない。1月以上も。


時には水に漬けられ、時には爪を剥がされ、時には舌に切れ込みを入れられた。



そんな日常が毎日。





毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日






繰り返される尋問という名の拷問。決して死なせなどしない。決して逃しなどしない。許しなど与えられず。
ただ神の名の元に繰り返される名ばかりの『尋問』



そんな目に遭えば、そもそもの原因である血を分けた我が子が恨めしく思えてしまっても仕方が無いだろう。
決して彼女、アネット・ブルーネルは聖女などではないのだ。



結果、3ヶ月ほど経ってから釈放された彼女の精神は半ば崩壊していた。
そして彼女の夫である、トリス・ブルーネルは既に身を晦ませて、行方など誰も知らない。
結果、彼女は女手一つでルアフを育てなければならない事になったのだ。




最初の慈愛に満ちた表情は消え去り、憎悪と狂気に満ちた顔でルアフを嫌々ながらも育てたのはせめてもの良心なのだろうか?



『物凄い変貌だな』




鬼気迫る表情のアネットを見て、ヒュードラが感想を一言。そして、おやつであるポテ○・チップを一口。
パリパリと香ばしい音を立てて、味わう。



何度も何度も虐待を繰り返しつつも、最低限の食事(三日に一回)を与えつつ育てたその気概は評価に値するとヒュードラは思った。
同時にさっさと足手まといの子供など捨てて、新しい男を誘惑すればいいのにとも思う。




もう一度画面が切り替わる。





そして14歳の誕生日。






―――私は最初から貴方の事が大嫌いだったのよ!!!




血走った狂気に満ちた目、荒い吐息、何年も溜まりに溜まった醗酵しきった黒い感情。
それら全てが乱雑に入り混じった、筆舌に尽くしがたい表情で彼女はルアフを刃物で滅多刺しにし、死体をあのゴミ箱に捨てる。



一度も彼が念力で抵抗していないのは母に対する愛ゆえか。子が親を簡単に殺せるわけない。




ここでモニターが暗転し、画面に大きく『THE END』と表示された。上映が終わったのだろう。
かなり省略してこそいたが、大まかな内容は判る程度に編集されていたムービーであった。



やはり自分にはハートフルは合わない、そう思いながらヒュードラは言葉を紡ぐ。



『思ったよりも退屈な内容だった……そうは思わないか? ルアフ君?』




ヒュードラがモニターに向けて語りかける。終幕を映していた画面が再び光を取り戻し、1つの場面を見せる。
映し出されたのは大人の人間が丸ごと入ってしまえそうな程に巨大な卵。表面は輝く灰色で覆われ、不気味に蠢く卵だ。
それに語りかける様にヒュードラが続ける。まるで胎内に居る赤子に親が話しかける如く。




『君に力と知識と権威、そしてオルセアをあげよう。好きなように暴れてもらって構わない。第二の生を謳歌してくれ』




ドクンと、心臓の鼓動を連想させる音を鳴らし、卵がヒュードラの言葉に答えるように脈動を刻んだ。
と、ここでヒュードラが気が付いたように一言。純粋な疑問を口に出す。




『………もしも、神が居るとしたら私の様に誰かに力を与えて転生させたりしているのかね?』



が、ヒュードラがその事柄に深く思考を走らせる事は出来なかった。
何故ならば1つの報告が彼の思考を遮ったからだ。


そしてその内容は彼の気を惹くに値するものである。



―――マスター アナタノ タンマツ『ヒドラ』ノ シュウヘン カンキョウ ニ タショウ ノ モンダイ ガ ハッセイシマシタ。




『判った』



簡潔に答え、無限力を行使。
糸を伸ばすのに近い感覚で自分の意思の一部と力を端末に伸ばして接続。



最後に小さくヒュードラが零れる様に呟いた。






『……下準備というのも、意外と大変だ』





これは小さな幕間の話。






あとがき


やってしまいました。操作を誤り、うっかり以前の記事を全削除……。
コメントをしてくださった皆様、本当に申し訳ありません。
深くお詫びしましす。以後、このような事がないように気をつけます。


そして今回も繋ぎ、というよりもルアフの身の上話だけで終了なので
番外という訳でお願いします。

では、次回をまったりとお待ちください。


ごめいわくをおかけして、本当にごめんなさい。



[19866]
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/06/28 23:47
オルセアのとある都市に存在する富豪の城。
既に夜の頂点をまわった時間。巨大な月が雲の隙間より顔を出し、オルセアを見下している。



王の座する間であると言われても違和感のない豪奢な部屋の中央に4つの人影があった。
2つは平均男性ほどの身長、残りの2つは人間とは思えないほどに長身だ。



『何があった?』



数え切れない程に反騰、反響を繰り返し、もはや人の声と認識することさえ困難な音声。
良く聴けば幼子にも女性にも男性にも老人にも聞こえる、声らしきものだ。



耳を直接細長い金属質の棒か何かで掻き毟られる錯覚さえ抱かせられる音を
悪趣味な3眼の仮面の内から発音し、バラル教の教祖ヒドラがやる気なさげに直ぐ近くに居る信者に問う。



それに答える中年の男の風貌は至って普通。
黒いボサボサの髪に、シャツと皮のズボンを履いたどこにでも居そうな中年男性。
ただし、眼が普通ではない。これだけは違う。断じて普通などではない。



真っ赤だ。恐ろしいまでに真っ赤だ。アルビノという病にかかったマウスなどは眼が赤いと言われるが、これはそれに近い。
美しさなど欠片もない紅、純粋な血の色の絵の具を眼に多分に塗りたくればこの様な色になるであろう色。
バラル教の『洗礼』を受けた証である。




「はい……何人か侵入者がこの屋敷に潜入したものかと。それと、入り口の者と連絡が付きません」




『……………らしいな……数は、20……と、言ったところか』




一瞬だけ信者の声に反応し、まるで眼の前にある台本を確認のために読み上げるかの様にヒドラが呟く。
そしてもう入り口の警護に当てていた者は生きては居ないだろうなと、予想をつける。


だが、肉体的な意味での『死』は神との同化であると教えてあるので、死ぬことに恐怖は感じなかったであろう。
嘘など付いてはいない。事実『死』は無限力に加わるということであり、それは神になる存在である自分との同化といえるのだから。



「どうされますか、ヒドラ様?」



『さて、どうするか……』




信者の言葉に適当に答え、白い布の手袋に包まれた指を仮面の顎の部分に当てて、考え込む。
今の気分はさながら将棋やチェスのプレイヤーである。




さて、誰に迎撃させるか……。



『蟲』――却下。現在『蟲』はオルセアの各軍の情報収集のために攻撃などをさせている。
     今ここでバラル教との繋がりを露呈させるのはマズイ。



エゼキエル――却下。同上の理由。及び、5m級の機械人形を室内で動かせ……空間拡張すればいけるか?




ペット―――保留。




『さて、どうするか……』




もう一度、さっきと同じ言葉を仮面越しに紡ぐ。顎に当てていた指を動かし、金属質の仮面を撫でやる。
冷やりとした感触が布越しに伝わってくる。
今ここで信者の数を戦闘で減らすのも得策とはいえないし……。




まだ、あまり大きな争いなどは事は避けたい。だって、そんなことしたらルアフの出番がなくなってしまう。



自分が行くという選択肢は無い。だって、そんなことをすればあっさり終わってしまうじゃないか。
今はこの予想外のイベントをじっくりと楽しみたい気分なのだ。




ふと、ここで気が付いた。自身の後ろに直立不動で立っている1対の巨人の存在に。
目元まで深く紅と漆黒のローブを纏った護衛達を見やる。




『………』



仮面を纏った顔を傾げ、1対の護衛を観察し、彼我との戦力差を計算。
相手は恐らく銃を持っているだろう、そもそも武器を持ってなければこんな所に来ないだろう。



訓練された兵士の可能性もある。いや、ただのごろつきの可能性のが少ないか?






では、この護衛の能力は?
戯れで造った彼らのスペックを脳内に呼び出し、改めて吟味。







――名称『処刑人』――



成人男性の身体に魔導巨大昆虫種の遺伝子を組み合わせ、強靭な肉体を構築。
空っぽになった自我はまつろわぬ者によって満たすことにより稼動。


なお、空は飛べない。変わりに地上――特に閉鎖空間での戦闘に特化している。







閉鎖空間、閉鎖空間、閉鎖空間……。


この間、約5秒。


しっかりと思考を巡らせて、ヒドラが何かに思い至った様に相槌を打つ。




そうしてから彼はその不気味極まりない声で背後の紅と黒の怪物に命令を下す。


いや、この場合は命令ではなく、死刑執行の書類にサインをしたとも言える。
何故なら彼が派遣するのは戦士でも傭兵でも、獣でも機械兵でもない。純粋な処刑人なのだから。





『行け 全て殺せ』




命令を受けた2人(?)がゆったりとした足取りで大股に部屋から出て行く。
これから虐殺をしにいくとは思えない程にのんびりとした足取りだった。



最後に扉が閉まるのを確認して、ヒドラが椅子に優雅な動作で腰掛ける。
そしてまだ立っている信者を丁寧に椅子に座らせて、一言。



『何か食べるかい? 美味しいワインもあるぞ?』




その言葉と同時に屋敷の全ての明かりが消えた。




























屋敷の明かりが落ち、薄暗い廊下を照らすのは朧気な月の光だけ。
昼間は人が多く、活気に満ちた屋敷の内部は夜になれば一気に閑散な物と化す。




紅い上物の絨毯が敷かれ、脇には甲冑が整然と並んだ整理が行き届いた屋敷の廊下を複数の影が音もなく走りまわる。
皆、顔を黒いマスクで隠し、眼には暗視ゴーグル。頭部には対銃弾用のヘルメットを被っているのが特徴的だ。


胴には分厚い防弾チョッキ。
そして腰には幾つかの閃光球や手榴弾、予備の拳銃。そして手に持つは散弾銃、アサルトライフル、サブマシンガンなどなど、全て銃器の類ばかりだ。
どう見てもただの一般人や強盗には見えない彼らはありたいに言ってしまえば暗殺者達である。


ある国が最近急速に勢力を拡大しているバラル教の教祖を抹殺しに送り込んだものだ。
なお、この居場所を摘発したのは元はこの屋敷の持ち主であった男の部下なのだが、そんな事は今は関係ないことである。



予定では明日の朝にはこの城は『謎の』火災で燃え落ちる手はずになっている。




曲がり角に差し掛かる度に鏡で向こう側を確認するほどに用心しつつ進んでいく。
幾人かで小体を組み、罠などに気をつけて進む。



「いけ」


小さくリーダーらしき男が指示し、それに従い部下と思わしき兵士達が迅速に動いていく。






















処刑者は見ていた。
昆虫の遺伝子を植え込まれ、改造強化された肉体の視力は恐ろしいまでに正確無比なのだ。


昆虫の複眼――大よそ2万前後のビッシリと隙間なく並んだ個眼によって得られる視力と視界は人間の比ではない。



そして蚊などに見られる体温や二酸化炭素などの排出によって対象が何処にいるかを理解できる能力を持った
処刑人にとってこの程度の暗がりはハンデ所か、逆に有利になる条件である。
異常な視界能力と気配探知能力を駆使、そしてまつろわぬ者達からの報告によって主から排除しろと命ぜられた存在が何処にいるかを瞬時に理解。


今はその動きを観察中である。




――階段に5 廊下に7 廊下の後続組みが少々遅れている。その数は大よそ8



相手がこちらを認識できていない以上、それはメリットだ。
まずはこちらを認識されないように数の少ない所から狙うのは当然の戦法。



処刑者が動いた。壁を蹴り、天井を這いずり廻り、3次元的な動きをし、人には到底出せない速度で移動。
そしてそれだけの速度で動いていながらも、物音は一つも立てない。

















兵士達が階段を昇っていく。数は約4。
先ほど5名ほど昇っていった部隊の後続部隊である。





1人、2人、3人と駆け足で、尚且つ足音を立てず、細心の注意を払いながら駆け上がる。
そして4人は上る事は出来なかった。何故ならば天井から無音で繰り出された『槍』によってその胸部を貫かれたからだ。



「かっ……」



せめて最後に声を上げ、部隊に危機を知らせようと涙ぐましい努力をする隊員を嘲笑うかの様に、『槍』が撓りつつ振り上げられる。
当然突き刺さっていた隊員の身体は真っ二つ。発声器官どころか頭部も真っ二つになってしまえば、声など出せない。



べチャッっと小さく音を立てて、肩から上が開きにされた死体が倒れこむ。一泊遅れて血が辺りを染めていく。


『槍』――処刑者の腰辺りから生える、サソリの尾にも似た頑強な甲殻に包み込まれた尻尾がスルスルと軽やかに天井の闇の中に格納されていく光景は怖気を覚えるものだ。

















「おい、ケビンはどうした?」



「さぁ」



先ほど階段を4人で昇って、現在は3人になった部隊員が会話をし、一瞬だけ意識を逸らす。
それが命取りであった。処刑者は無慈悲だ。



「ぐがっ……」



会話を行った2人から数歩ほど先行していた隊員の頭から上が『刈り取られた』
文字通りの意味で、上半身だけを天井から下ろして来た処刑者の3本の爪牙で雑草を刈るがごとくに。
脊髄も血管も、筋肉も、神経も、その全てが綺麗に両断され、血圧によって血が噴水の様に吹き出る。





噴出す血。一瞬だけ現実が理解できないと言わんばかりに硬直する隊員。



が、彼らは兵士だ。瞬時に身体が動いた。



「なんだこいつは!」



「まさか悪魔!?」



ライフルのトリガーに手を掛け、撃とうとするが……出来なかった。
ソレよりも早く振るわれた爪によって一人の首が宙を簡単に舞い、もう一人は背後から『槍』によって心臓を串刺しにされたからだ。


人の死と言うのは案外呆気ない。





「なっ……?」


理解が出来ないと言わんばかりに首を動かし背後を見る隊員。
口からは血が吹き出て、命が急速に失われていくことを教えている。





―――― チッチッチッチッ





そんな人間の視界に最後に映ったのは
3本の指の内、真ん中の1本をピンと立てて、ソレをリズム良く左右に振っている煌々と眼を輝かせたもう1体の化け物であった。





























最初に先行していた5名の兵士は正に立ち往生の状態であった。
何故ならば直ぐ後ろを固めてくれるはずの後続部隊との連絡が途絶え、今、新しい部隊がその穴を埋めるべく動いているからだ。


しかし、悲しい話ではあるが屋敷の主は彼らを生かして返す気はない。



「! 誰か居るのか?」



ここで隊員の一人が気が付いた。廊下の向こうから誰かがやってくるのを。しかし、足音がおかしい。



――ギギギギギギギギ



まるで永い間油を差すのを忘れた金属が擦れあう不協和音。
間違ってもこんな音を立てて歩く人間など居はしない。そう、普通ならば。



「何だ…あれは……」



暗視ゴーグルに映った音の正体に思わず隊員が呆然とした声を呟く。



ソレは鎧であった。フルプレートで造られた中世辺りの騎士が着込んだとされる鎧。
今は金持ちの屋敷などに見世物として飾られている一品。



そんな鎧が、歩いていた。しかも1つや2つではない。何十も。下手をすれば100を超えてるかもしれない。
今まで通ってきた廊下に均等な間隔で配置されていた鎧、その全てが動いているのだ。



おまけに各々がその手に持つは銀の斧や剣、槍などなど。
月の光を薄く反射するソレらは十二分に殺傷能力があるのだと遠目にでも判った。



気が付けば前も後ろも完全に包囲されていた。
長槍を持った騎士甲冑が前面に出て、ファランクスを形成し一気に間合いをつめてくる。
隊員に向けられる無数の矛先。




―――楽しんでくれ、私が主催する人形ショーだ。死ぬほどに夢中になれると思うよ。




深い男の声で、脳内にそんな言葉が響いた様な気がした。人の存在の奥底まで響いてくる恐ろしく遠く深い声。
そんな声を打ち払うようにリーダーと思わしき男は必死に叫んだ。



「撃て! あんなのはただの骨董品だぁ!!」



しばらくの間、銃声が響いたが、直ぐにその音も聞こえなくなった。
後に聞こえるは金属の擦れる音だけ。

























「隊長、他の隊との連絡が次々に途絶えていきます!」




「そんな事は知っている!」




部下からの切羽詰る報告に思わず隊長と思わしき男は怒鳴り返していた。
今回の話は簡単な任務のはずだった。何も武装など以っていない新興宗教の教祖を暗殺する。



国家は現在戦争中で大々的に異教徒の掃討を行うだけの力はなく、故に少数で隠れ家を奇襲し、教祖を抹殺。
それだけの話だった。そも、信者が幾ら武装していたとしても、所詮は素人だ、何とかなると考えていた。
教祖も怪しげな仮面と風貌の男らしいが、銃で撃てば死ぬ。そんな風に男は考えていた。
いや、事実相手が人間としての範疇に収まる存在ならばその考えは正しい。




「チッ!  ここは退くぞ。ここまで部隊がやられちまったら、もう失敗だ」




「………」



一瞬だけ利益と命を天秤に掛け、直ぐに命を選択した男が部下に指令を飛ばす。
しかし、いつもならば瞬時に答えてくれるはずの部下の返事が無い。



不思議に思い、部下を見やる。




残念だが、そこに立っていたのは見慣れた武装した部下ではなかった。



身の丈2mはあるだろう巨人。全身を昆虫の甲殻の様な物に包まれ、1対の眼は爛々と爛れた光を放っている。
そして巨人がその手に無造作に持つのは血塗れの男の部下。もう、息はないのが見て取れた。



「!!」




咄嗟に後ろに跳ねて距離を取る、そして重いライフルを捨て、腰から抜き取った拳銃を1発撃ち込む。
火薬が炸裂する爆発音。






「おいおい……嘘だろ?」




男は思わずそう零していた。今、起きたことに頭がついていけない故に零れた言葉。
かわされた。超至近距離で放たれた弾丸を、処刑人は上半身を逸らすだけで回避したのだ。




――― クイックイッ



処刑人が3本の指の1本を使い、『かかってこい』と言わんばかりに指を振って『おいでおいで』をする。




「冗談じゃ……ね……」


男は勿論そんな挑発には乗らず、踵を返し逃走を図ろうとするが、直ぐにそんな考えも消し飛んだ。
もう1体。全く同じ姿形をした『処刑人』がゆったりと、大股に歩いてきたのだ。



そして、もう1体の『処刑人』の両手には、部隊の仲間の首が幾つも握られていた。10近い数だ。
男は前も後ろも『処刑人』に塞がれた形になる。逃げ場は、ない。





「くそ!!」



破れかぶれに拳銃を乱射。
今度は処刑人は避けなかったが、着弾しても弾丸はその堅牢な外皮に弾かれる。ボシュボシュっと乾いた虚しい音しかならない。




撃ち終え、やがて弾が切れて、カチャカチャという悲しい音しかならなくなる。絶望を抱かせる音だ。
10発以上も鉛弾を撃ち込まれた処刑人が両手を大きく広げ、肩を竦め、首をかしげた。
まるでそんなもの利いてなどいないとアピールするように。




「あぁ……くそ」



男が観念したかの様に乾いた笑みを浮かべ、腰に固定させていたダガーナイフと手榴弾を引き抜き、構える。




2体の『処刑人』が飛び掛った。




























『これは……新しい家を探す必要があるな』


血塗れになった廊下、それの後始末をする信者達の様子を見ながらヒドラが独り言を呟く。
死体と血と、様々な鎧や装備品の残骸で満たされた廊下は正に死屍累々と言った言葉を完璧に体言していた。
数刻前までの壮言さは消え失せ、今じゃまるで陥落した城の内部みたいだ。



何よりこの自分の位置を知られてしまった以上、次から次へとこの兵士達の様な者が押し寄せてきても可笑しくはない。
ハァ、とヒドラが大仰に肩を竦め、顔を小さく振って溜め息を吐く。どこか芝居がかった動きだ。



『お前達……もう少し周りの被害に気を配れ』



自分のやった『人形ショー』が一番城に対する被害が大きかったのだが、それを棚に上げて注意。
よっぽど自分の城を壊されたのが嫌だったのだろうか?




ヒドラの背後に控える1対のローブを纏った巨人はその言葉を理解できたのか
または出来ていないのかは判らないが直立不動のまま、何も言葉を発さない。



否、発せない。人とは発声器官の構造が違うから。




『…………いくぞ』



小さく、それだけを告げ、後の始末は信者に任せると伝えたヒドラが踵を返し、自室に歩を進める。
そんな彼の数歩後ろを『2体』の処刑者はゆったりと大股で付いていった。




バラル教の運営は中々に大変だ。そう、思った。








あとがき




全削除のお詫びに高速更新。
それと、ちょっとだけタイトル表記を変更しました。

というのは建前で実は感想が欲しいだけのマスクです。

はい。切実に感想が、欲しいですw


今回は処刑人無双のお話でした。


では、次回の更新をゆったりとお待ちをば。
予定では、後1話か2話を更新したら、とある竜の方を再開したいかなーとか思ってます。

次回の更新にてお会いしましょう。




[19866] 10
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/07/14 00:51
――お母さん! 熱いよ!! 助けて!!!




視界を覆い尽くすのは圧倒的な紅蓮、そして輝く灰色という世にも奇妙で、尚且つ根源的な恐怖を抱かせる煙らしきもの。
その濁流に飲み込まれ、悲痛な叫びで母に助けを求めるのはアリシア。
しかし、その声はどんどん枯れていき、最後は煙に呑まれ消滅。



倒れ伏した彼女の身体に炎が群がり、その身体を容赦なく焼き尽くす。
焼け焦げ灰となる、あの人譲りの金髪。
健康的な肌は最初は赤く、そこから徐々に時間を置いて真っ黒になっていく。



ご丁寧に炎の渦は火葬までも行ってくれているのだ。
強火で焼かれていくアリシアの遺体。


肉が削げ落ち、油と水分が沸騰し溢れ、骨がむき出しにされる。
炭と化したかつてアリシアの肌だったものが、灰となり、崩れ散る。
やがては骨さえも業火の渦の威力によって砕かれ、砂になり、霧散。




そんな光景を彼女の母親であるプレシア・テスタロッサは無感情な貌で見つめていた。
もう何度目になるだろうか。この光景をみるのは。数えるのも馬鹿らしくなるほど――否、数えたくなどない。


少なくとも100を超える回数は見ているだろう。アリシア・テスタロッサが死んだ光景をみるのは。
プレシアはアリシアが死んだ光景を直接見たわけではない。彼女がアリシアの元にたどり着けたのは全てが終わった後だった。



故にプレシアの様々な知識が詰まった頭脳は
アリシアが死んだ光景を望んでもいないのにその知識と知恵を元に『夢』という場を借りて映像として再生してくるのだ。
煙に巻かれ、炎で焼かれ、爆発に巻き込まれ、倒れてくる食器棚に押しつぶされて……あげればキリがない。


プレシアはこの光景が夢だと知っていた。
アリシアは確かにあの日、『アルゴ・レルネー』の研究施設で死亡し、その遺体は未だに回収できてはいない。
今頃はこの光景と同じようにあの施設で火葬され、もう灰も残っては居ないだろう。


だが、死ぬ寸前の苦しみ抜いている姿とは言え、もうこの世には居ないアリシアに出会える唯一の場所なのだ。
最初の内は何とか助けようともがいていたのだが、それも諦め、今は光の抜けた瞳でアリシアを観察しているだけだ。
まるでカメラのレンズを思わせる無機質な瞳。



暗転。夢独特の飛行魔法とは種類が違う浮遊感がプレシアを襲い、彼女を別の場面に飛ばす。


















次いで映されたのは金色の髪と紅い眼が特徴の優男。プレシアに向け、柔らかく微笑んでいる。
少しだけ、プレシアの色のない瞳が揺れた。夫が夢に出てきたのは始めてだったのだ。


場所は花々が咲き乱れる緑が豊かなどこかの公園のような場所。
管理局の自然保護部隊が保護していてもおかしくない光景だ。
アルゴ・レルネーが崩壊する前に見せていた美しい自然に満たされた世界にも似ている。





「大丈夫? 顔色が悪いよ、プレシア」




優しい声音。
暖かい光を湛えた瞳が彼女を心配そうに覗き込み、その男性ながらのゴツゴツとした手で髪を撫でてくる。
彼女の眼に光が少しだけ、ほんの少しだけ戻り、愛しい人の手をしっかりと握る。


「わ、わ、私は……私はっ……!!」


ボロボロと涙を零し、しゃっくりあげながら唇をわななかせ何とか言葉を紡ごうとする。
数秒の時間を有し、何とか貴方の残してくれた宝を守れなかったと彼に告げる。



彼はプレシアが大好きであった優しい笑顔を浮かべ、そして――。






『まぁ、奪ったのは私なのだがね あの鬼気迫る顔は中々に見物だったぞ』




喜色の混ざった、深く、冷たく、凍りついた声でそう言った。



彼の全身の皮がパズルの様に脆く崩れ落ち、ボロボロと崩落していく。彼の皮の中より所々にノイズの走った見るもおぞましい“闇”があふれ出すのを彼女は見た。
闇の背から噴出される、輝く灰色の瘴気が花々を腐らせ、木々を枯れ落ちさせ、世界を犯しはじめる。
煙はまるで独自の意思を持っているかのように人の姿を取った“影”に衣服の如く纏わりつき、やがてはローブのような形状に固定された。




“影”の持つ3つの紅い爛れた眼がプレシアを嘲笑う。皹割れ、濁った嗤い声が夢の世界に強く木霊し、彼女の世界を粉々に砕いた。









反転。



















「……っ!!」




絶叫に近い声、あまりにも音が高くなり過ぎてしまい、逆に無声と化した悲鳴を上げてプレシアは夢の世界から帰還を果たした。
胸は激しく上下し、全身にはびっしょりと汗をかいている。服が水分を吸ってしまい、重くてうざったい。



「……夢」



病室特有の消毒薬や、薬物の入り混じった清潔なイメージを抱く匂いが彼女の鼻腔を刺激する。
彼女の寝ているベッドの直ぐ隣においてある機械類が、暗闇の中で不気味に発光していた。
ここはミッドチルダ首都、クラナガンに有る病院。今彼女が居るのはその病室の1つだ。



壁に掛けられた電子時計が薄く発光し、新暦40年の何月何日、何時何分何秒までも正確に告知している。 




アルゴ・レルネーを壊滅させたヒュードラ事件の主犯としてプレシアは管理局に一時的に拘束されたのだが
あの魔導炉の爆発によって発生した超高密度の魔力素が満たされた空間の中で魔法を使ってしまったため
彼女は魔力素という毒によって、全身とリンカー・コアはボロボロになってしまっているのだ。それ故の入院である。




ちなみに管理局の情報によると魔力素は通常濃度の±15%が適正値であり、それ以上でも、それ以下でも色々と問題が発生するらしい。
少ないと魔法が発動させずらかったり、多いとリンカー・コアが痛み、更に過剰に多くすると、生物は死んでしまう。


アルゴ・レルネーを満たした魔力濃度は+150%を軽くオーバーしていたらしい。
そのため、飽和した魔力素は大気中に輝く灰色の粉末のような形状で飛び交い、今もかの世界を犯しているのだろう。


他には最愛の娘であるアリシア・テスタロッサを失ったショックにより精神的な病にも掛かり
一時期は何度も自殺を試みるほどに彼女が追い詰められていたのも入院した要因の一つである。



今はヒュードラ事件担当の執務官であるコーディ・ハラオウンと、病院のカウンセラー達の深い努力のお陰で
当初のような発狂振りはなりを潜め、安定した精神状態に戻ることが出来ていた。
食事なども取るようになり、ガリガリに痩せていたその身体はかつてのふくよかさと美しさを取り戻しつつある。



人間が持っている適応機構の1つである、アリシアが居ないという現実に対しての“慣れ”が働いているのも一因ではあるだろう。



特にコーディ執務官は毎日毎日毎日、まるで彼女の親族のように頻繁に面会に来ては色々と話をしている。
彼の立場上事件の事なども当然聞かれるが、他にも様々な雑談なども行っているのだ。
休みの日さえも頻繁に訪問し、親族が既に居ないプレシアに対して色々な話題を提供してくれる。



気が付けばプレシアは彼に対して色々と話していた。夫の事、アリシアの事、そしてヒュードラ炉の事。
その全てを彼は余さずメモを取り、記録していた。
その態度は徹頭徹尾理系であるプレシアにはそれなりに好ましいものである。



特にヒュードラ関連に関して彼は深く聞いてくるが、まぁ、職業上仕方ないだろう。




「………」



ベッドから立ち上がり、手探りでスイッチを押して、病室のランプを灯ける。淡い光が病室を照らし出す。
汗で粘ついた服を脱ぎ捨てる。下着も全て脱いで全裸になった。


この部屋は個室であるし、精神の回復を認められたためサーチャーによる監視もなくなった今、誰も見ている者はいない。
黒い艶やかな髪がふわっと広がり、汗と色気を撒き散らす。



洗濯物を入れておく籠に脱いだ衣服を突っ込み、クローゼットから服と下着を取り出してそれを素早く着る。
ベッドのシーツも籠に突っ込み、クローゼットに入っていたシーツを浮遊魔法で浮かばせて取り出そうとする。



「っ!」



その瞬間、プレシアは胸部に針が刺されたような鋭い痛みを感じ、慌てて魔法を取り消す。
ぜーぜーと荒い息を吐き、小さく溜め息。まだリンカー・コアは治っていない。


ミッドの最先端の医療技術で何とか魔法を発動させる時点までは再生させることが出来たが、まだまだ身体に対しての負担がかなり大きい。
文字通り、命を削らなければ魔法は発動させられない。


この先、どんなに彼女のリンカー・コアが回復しても、全盛期のように思うがままにリスクなしで発動はもう不可能だろう。
+100%を超える濃度の中で純粋な毒素とも言える高濃度の魔力素を大量に取り込んで命があるのが奇跡といえる。




「不便ね。魔法というのは」




呟く。かつて大魔導と呼ばれた彼女が魔法を罵倒する。




「死者蘇生も出来ないのに、“魔法”なんて……笑える名前だわ」




憎憎しげにそう繰り返す。彼女の眼に涙が浮かんだ。それをゴシゴシと乱暴に拭う。
そして手でシーツを引っ張り出しそれを手早く且つ、正確に敷いて行く。















「……何時の間にか、覚えちゃってたのよね、シーツの敷き方」



昔を懐かしむ様に、か細い声で一言。


プレシアは実は彼と結婚するまで家事は全くと言っていいほど出来なかったのだ。
勉学と魔法だけを重点的に勉強していた彼女に、家庭での知識や知恵などあるわけもない。


彼と一緒に暮らすという事で慌てて勉強したのだ。
当然の如く、そんなものは付け焼刃だったし、その点で彼に迷惑を掛けてしまったこともある。
彼は男性ではあったが、恐ろしいほどに家事などに長けていたため、それに嫉妬したというのも家事の練習を始めた理由の一つだ。

が、やがては仕事が忙しくなってしまい、その努力さえも放棄せざるを得なくなった。



結果的には彼にまかせっきりになってしまい、家の家事はおろか、アリシアの世話までも投げ出しかけていたのは事実。
忙しかったと幾ら言い訳を繋げても、アリシアとあの人を放置していたのも事実。



彼はそんなプレシアのために今までの仕事を辞めてまで、家事に専念してくれた。
その上で、全てを受け入れ、プレシアの背を押してくれたのだ。


家とアリシアは任せてくれ、と。
そんな夫の優しさに甘え、彼女は猛烈な勢いで成果を上げ続け、何時の間にか大魔道師と呼ばれるようになっていた。



幾つも取得した特許と出世した彼女の給与。
それによって金銭面も豊かになり、これからはゆったりと過ごそうと思った矢先に彼は唐突にいなくなってしまった。



事故だ。交通事故。何も珍しくなどない。ミッドでも1年間にかなりの数が発生する事件。
彼は呆気なく逝ってしまった。アリシアと自分だけを残して。



それからだ。プレシアが本格的に家事の特訓を始めたのは。
泣いてばかりはいられない。私がアリシアを育てるのだと。



まだまだ1歳程度のアリシア。それを育てるために、彼女はありとあらゆる手を尽くした。
雇った者から話を聞き、教えを乞い、本を読み漁り、そして実際に試す。
そんなことを永く繰り返す内に、いつの間に一通りの家事は覚えていたのだ。


主にシーツの敷き方を実践したのは、アリシアの寝相などでシーツがクシャクシャになった時などが主だ。



「………」



綺麗に、皺一つない程に敷かれたシーツを黙って見つめる。
いつもはこの後にアリシアが笑顔でダイブしていた。そしてソレをやんわりと叱る自分。
そんな微笑ましい光景。あの人が居なくなった悲しみを存在してくれるだけで癒してくれたアリシア。



だが、もう居ない。アリシアも、あの人も、この無限の次元世界のどこを探しても存在していない。
そんな事実がゆっくりとプレシアの頭脳に、心に、しみこんでいく。


彼女の眼が潤み、涙が止め処もなく溢れる。
自分がこの世界に1人だけになったという事を改めて認識してしまった。



「アリ、しぁ……か、あさんを……1人にしないで……」



ベッドに突っ伏して声を殺して泣く。


いっそ狂えればよかった。
しかし、周りの者の頑張りと彼女自身の強さで理性と己を取り戻したプレシアはもう、狂えない。



アリシアを失った時並みのショックを受ければ、もう一度壊れる事も出来るのだろうが、そんな事が起こるわけなどない。


頑強なまでの理性と強靭な心は容易く壊れない。たとえ本人が壊れたいと願ってもだ。
人間と言うのは、本人が思ってるよりもかなり“強い”生き物である。それが幸か不幸かはともかく。



























純白の空間。真っ白な何も描かれていないキャンパスの様な色。
そんな世界にポツンと置かれた黒いソファー。



ソファーの上に腰掛けた黒い人型の影――ヒュードラの眼の前に1つの空間モニターが展開されていた。
モニターに映し出されているのは大きな灰色の卵。表面がざわざわと蠢き、不気味に発光している卵だ。




『どうしたものか……』



卵に話しかけるようにヒュードラが言葉を投げかける。
うーんとその真っ黒な首を傾げ、3つの紅い眼を細める。指を顎に当てて何かを深く考え込む。



無理難問にぶち当たった人間の様に深く、唸る。
全能存在たる神の雛形とも言える程の力を持つ彼であったが、今の彼は悩み多き若者の如く悩む。



『新しい名前は何がいい?』



モニター、正確にはそこに映っている卵に向けて問いかける。当然だが答えは返ってこない。
無言でヒュードラが数回頷いた。いいさ、自分で考える。



…・・・・そう、今の彼の悩みはルアフの新しい名前についてである。
せっかく新生するのに、同じルアフ・ブルーネルという名を名乗らせるのもどうかとヒュードラが思ったのが事の発端だ。



こればっかりは芸術性の問題である。能力とかは余り関係ない。


ヒュードラが宙で指を横に走らせ、もう1つ空間モニターを開き、そこに候補を羅列させる。















1 ルアフ・ガンエデン




最もポピュラーな名前だ。ガンエデンと同化したから、ファミリーネームだけを『ガンエデン』と変更する。
ただそれだけ。捻りもなにもない。だが、響きが中々によいとヒュードラは思っていた。




2 ミトス・ユグドラシル


何となく語呂が良いので考えた。以上。




3 ラモン・サラザール



同上。 




4 フォンカーベルニコフ=アニシナ



同上。




5 エンヴィー



どこぞの世界の言語で『嫉妬』を意味する単語だ。
何故これが候補になったのか、ヒュードラ自身も正直な話よく判らない。











以上が候補の一覧である。最初は100近くあったのだが、何とかここまで候補を削った。
削られた候補の中に“バーロー”やら“ハオ”などのどこかふざけた名前もあったのだが、全て削除された。
オルセアの統治者となる者の名はもっと偉大で、神々しいモノでなくてはならないという考えがあるからだ。




『ふむ……』



唸る。男と女の声が混ざった不気味な凶音を口に見える裂け目から吐き出しながら。



『……1でいいか』



2つのモニターを3つの眼で見つめ、吐き捨てるように言う。ここはシンプルに行くべきだと考えたのだろう。
候補が映ったモニターを閉じ、残った卵の映ったモニターにヒュードラが話しかける。



『君の名前は“ルアフ・ガンエデン”だ。古いブルーネルの名は捨てるがいい』



ゆったりと、優しく、聴いた者の背筋に怖気と寒気が走るほどに冷たく深い声で言葉を飛ばす。
当然だが、卵からの返答はやはりない。胎教としては最悪の声だ。



クックックとありもしない喉を鳴らし、ヒュードラが嗤う。本当に楽しそうに。
そして今度は少年の口調と声で。



『早く生まれないものか……正直な話、下準備もそろそろ飽きてきたのだが』




情報はそれなりに集まった。ナイトメア・クリスタルの兵器はまもなく進化を完了させる。
信者の数もそこそこ。とりあえずは目標数は既に集まった。



思っていたよりも信者を集めるというのは簡単なことだった。
治らない病気を治してあげたり、失った身体の一部を再構築してあげたり、盲目の者の眼を見えるようにしてやったり
俗にいう“金では買えない”物をプレゼントするだけで信者はあっという間に増えていくのだから。




人はいつだって何か頼れる強大な存在が欲しいのだろう。絶対的な力を持った肯定者に飢えているのだろうか?
少なくともヒュードラはヒドラを通してオルセアの人々を見て、そういう感想を抱いた。




『本当に楽しみだ』




万感の感情を込めて、ヒュードラが一言。
クスクスと堪えきれずに嗤う。男の声で、女の声で、少年の、少女の、老人の声で哂う。




もうまもなく、オルセアは一度終わり、彼の玩具として作り変えられるだろう。
それが終わった後は、とある人物への“お礼”も考えなければならない。




まだまだ楽しみはいっぱいある。
それを再確認したヒュードラの嗤みが更に深くなった。













あとがき



プレシアさん久々に登場の巻。



次からはとある竜のお話を更新して、その合間にマイペースに更新していきたいと思います。
では、次回の更新にてお会いしましょう。




[19866] 11
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/08/22 06:24

機械的な音を立てて、部屋の扉が開かれる。
同時にこの部屋の管理を任された、そこそこに優秀なAIに電流が流されシステムを立ち上げに掛かり、AIは機械特有の正確無比さをここでも発揮させた。
部屋の至るとこに順序良く、且つ凄まじい速さで光が灯され、次に据え置き型の機械モニターがスリープ・モードから目覚め、羽虫の羽ばたきの様な音を立てて画面を起動させる。



薄型の、最新鋭のモニター機器だ。管理局が使う空間モニター装置よりも数段画質が綺麗で、より多くの情報を受信できる優れもの。
これ一つ買うだけで、一般人の年収は程度なら軽々と吹っ飛んでしまうだろうに。そんなものが幾つも、まるで旧式のテレビの様に大量に部屋には設置されていた。




ゴボゴボト音を立てて、巨大な試験管フラスコの様な物に満たされた緑色の液体があわ立ち始める。
そして、暗黒に包まれていた部屋の全容が明らかになる。



無機質な部屋だった。何もかもが装飾の欠片もない銀色だ。
床も天井も壁も、何もかも全てが装甲パネルの様な堅牢さを持つ材質で作られている。
それらがモニターや電灯の明かりを反射し、銀色に輝いているのだ。




まるで何処かの研究室の様な部屋だ。いや、事実ここでは研究に“近い”ことは行われている。
あくまでも近いだけ。実際はそんな高尚なことは行われてはいない。



この部屋は『玩具箱』だ。随分と大掛かりではあるが。



とある強大な存在がその欲を満たすために造った遊び場とも言えよう。
この部屋を作るのに掛かった金の合計は下手をすると、高級住宅を数個まとめて買えるほどであったが、所詮はその程度だ。


カツカツとシェルターの外壁並みの硬度を持つ材質で作られた床を上質な革靴が規則正しくノックしていく。
最高級の金で縁取られた紅いローブとマントが歩くたびに小さな布擦れの音を発し、部屋の主が入ってきたということ機械達に知らせる。




部屋の主の名前は、この趣味だけで作られた機械仕掛けの悪夢を作った存在の名前は『ヒドラ』という。
そして、そのヒドラは今はこの部屋で保管されているとある新しい“玩具”を見に来たのだ。




──ようこそヒドラ様。本日は何の御用でしょうか?




恐らくは録音されたであろう、美しい女性の声で部屋のAIがヒドラに用件を尋ねる。
そんな声に彼は機械よりも、人間味のない声で仮面をカタカタと揺らしながら答えた。
仮面に刻まれた3つの眼が近場のモニターに向けられる。




『アレを見に来た。機能不全は治ったかな?』


アレという代名詞が何を指しているのかを読み取るだけの能力があるAIの答えは早かった。
美しい、旋律の様な女性の声で主の質問に回答する。



──はい。『核』を生成する機能、そして、生成した兵士を操る機能。その全ての解析及び修復を終了いたしました。
  



『よろしい。実に素晴らしい』



パチパチとヒドラが手を叩き合わせ、賞賛の声をあげる。
だが、直ぐにAIが釘を刺す。



──ですが、現代の戦いに利用するにはやはり応用力や思考能力に問題があるかと思われます。
  データでは昆虫並みの思考能力しかないと出ています。もう少しの改良が必要かと。



『それはもっと素晴らしい事だ。改良する楽しみがあるとはね。兵士を作る材料もその内に大量に手に入るから、ソレは特に問題にはならない』



クスクスと仮面の内側から幼い子供の笑い声、それも複数人のを響かせながらヒドラが言う。
その様子では心底楽しんでいるという事が判る。
彼の心をもしも正確に読める者が居たら、その考えている事のおぞましさと残忍さに、吐き出して仕舞いかねないだろうが。



彼が足音を響かせて部屋の中を移動する。
金属と皮がぶつかる歯切れの良い音が部屋に響く、その音はそのままヒドラの心境を表していた。



そして1つの巨大なフラスコの前で停止する。ソレは巨大な生命維持装置であった。
中に満たされた水は傷の回復作用などがある、特別な薬品である。


そしてそんなフラスコの中に1つの物体が浮かんでいた。ソレは四肢と胴と頭を持っていた。
そう、ソレは人間の姿をしていた。まだ幼い少女の姿をしているのだ。



一糸纏わない少女はその真っ白な全身に機械を埋め込まれている。背中や腹部には太いパイプらしきものを体内まで何本も埋め込まれ
頭には脳波を計測するためのバイザーとヘルメットを被せられ、細い四肢の先端は全てが巨大な機械に根元まで埋められ、がっちりと拘束されていた。
口にも酸素マスクらしきものを埋め込まれ、そこからは息をするたびにゴボゴボと泡が出ている。生命維持装置がしっかりと働いていることがありありと判る。




ヘルメットから零れたオレンジ色の髪が揺ら揺らとフラスコを満たす液体の中を漂っている。




ヒドラ以外の人物がこの少女の状況を見たら、今すぐにこんな拘束は解除し、開放してやろうと思うだろう。
だがヒドラはそんなことは思わない。全く、これっぽっちも。


この娘は言ってしまえば、ヒドラの“物”だ。彼が所有し、彼が作り変え、彼が遊ぶための玩具だ。



事の発端はヒドラことヒュードラがとある問題に直面した時から始まる。
そこそこに厄介な問題。つまり『戦争するための兵士は何処から調達するか?』である。



何もかも全てをまつろわぬ者に動かさせて戦うというのも面白みがない。機械兵や蟲だけでは面白味がなさすぎる。
やっぱり人の姿をしていて、ある程度の自我がなければ……彼の拘りである。


そんな事柄に頭を悩ませていたヒュードラであったが、直ぐにその問題は解決された。
居たのだ。ご都合主義と言っても過言ではない程にヒュードラの趣味とよく合う能力を持った存在を。彼の悩みを解決させる存在。




冥王イクスヴェリア──それがこの少女の名前だ。
今は王というよりは、試験管の中で飼いならされている微生物のようだが。


そして彼女が持つ能力は『屍に特殊な核を植え込むことで、マリアージュと呼ばれる兵士を作り出し、操る能力』
正に死者を操る冥王の名に相応しい能力だ。




ヒドラは知っていた。この少女の実像は冥王などと呼ばれる存在などではないことを。
イクスヴェリアという名前は、この少女を“製造”したベルカのとある王の名前であることを。
永い年月の内に、その王の名前がこの少女のモノと混同されるようになったのだ。


そのイクスヴェリアという王様は、この少女の能力を使ってベルカの世界全てを支配しようと目論んだが、結果は失敗。
最後は自暴自棄になって国民も、家臣も、家族も、そして自分さえもこの少女の能力によって“兵士”になり、戦い、散った。





そんな物語をヒュードラは取り込んだまつろわぬ者から読み取っていた。
中々に刺激的な話であったからよく覚えている。特にラストの敗北が確定した王が狂気に塗れて自分の娘を●したとこなど最高に愉快だった。




『再び余が使ってやろう。感謝しろよ?』



先ほどまでの不定形な声から一転し、野心と尊大さに満ち溢れた声でヒドラがイクスに話しかける。
まるでかつて使って捨てた道具をまた拾って使う……一度使ったことがあるような口調であった。



いや、事実、“再び”である。何故ならヒュードラの中で渦を巻く魂達の中にはその王様の姿もあるのだから。
ゴボッとその声に反応したのか、イクスが大きく気泡を撒き散らす。


ソレを見てヒドラが肩を揺らし、愉快そうに嗤う。今度は深く重い声で。





『今日は素晴らしい日、記念すべき日だ。 さて、アレらの接続はどうなっている?』




ヒドラが今度は虚空に向かい声を上げる。何かを確かめるように。
まるで楽しみにしていたプレゼントの箱を開ける時の期待感がその声には込められていた。
いや、実際ヒドラ……ヒュードラは期待していた。自分がまた一歩神に近づくための道を進めることを。


答えたのは部屋のAIではなかった。もっと機械的で、無機質な声だ。
彼の脳内に機械音声が響き渡る。そして、彼に歓喜を与える報告を行った。
同時に恐ろしい内容の報告でもある。




──『次元連結システム 及び ディプラー・シリンダー・システム もう、まもなく完成です』




この言葉の表す意味を理解しているヒドラが狂い嗤った。
背を限界まで逸らし、仮面の内で音を幾重にも反響させながら、老若男女全ての声が入り混じった恐ろしい嗤い声で。



『ははははははははは!! 素晴らしい!!!本当に今日は素晴らしい日だ!!! 何もかもこの私の意のままに動いている!!!!』




一しきり嗤い終わったヒドラがまだ小さく肩を揺らしながら呟く。
興奮の後に来るものは冷淡な感情であった。氷の様に冷たい思考が彼を満たしていく。




『あぁ……忘れてはいけない用事が今日はあったんだった。オルセアの方も……ルアフは予定通りに目覚めそうか?』



──はい。問題ありません。既に精神的適応もほぼ完了し、貴方の意のままに。



『よろしい。ならば私もやることをやるとしよう……そして御機嫌ようイクスヴェリア。次に会うときは君の能力を思う存分使わせてもらうぞ』



ヒドラが最後にフラスコの中の少女に軽く一礼し、ヒドラが足早にこの“玩具箱”から立ち去る。
重厚な部屋の扉が重々しく閉じ。最後に部屋のAIが全ての機器の電源をスリープ・モードに変更し、部屋は暗黒に堕ちていった。




























オルセアにはチェスターというそこそこに大きな街が存在する。
人口はだいたい13万人程度の街だ。本当にそこそこの大きさしかない。



何か目立つ特産物もないし、軍事的な生産場もない。何度も言うが何もない街だ。
元々活気もあまりなかった街だったのだが、戦争によって大多数の男が連れて行かれると、それはより悪化した。
道を歩くのは子供や女、老人ばかりで、その顔に浮かべるのは不安や後悔、苦しみや絶望など、負の感情ばかりであった。






2ヶ月ほど前のことである。この街に新興宗教『バラル教』の本部が入ってきたのは。
最初は懐疑心を持って迎え入れた街の者であったが、その態度はほんの僅かな間に恐ろしい速度で変化していくことになる。



まるで人の心の隙間を埋めてくれるような教え。教祖であるヒドラが仮面の奥から吐き出す言葉は滴る蜜のように甘く、人々の心を強く掴んでいった。
そして何より、バラル教は眼に見える形で『奇跡』を起こしてくれるのだ。


失った肉体の一部、既存の技術ではどうしようもない身体の欠損を治してくれたり、末期まで進んでしまった病気をあっという間に全快させたり。
ヒドラの起こした奇跡はあげればキリがない。しかもこの奇跡で助かった者の数は100や200では足りない。当然それらの奇跡は無償で行使される。
バラル教に入ってないものであっても、誰であろうが分け隔てなくヒドラの奇跡は行使された。




そして、バラル教の『洗礼』を受けた者は身体能力が劇的に増強される事も彼らにとっては魅力的である。
ジャンプで軽々と5m近くを飛び跳ね、その腕力は薄い鉄の板ぐらいなら素手で千切ることができるほどに強化される。


正に夢の超人と言う奴だ。まぁ、銃弾を頭部に喰らったりなどしたら、さすがに死ぬが。



街そのものが完全にバラル教の支配化の置かれるのに、そう時間は掛からなかった。
支配と言っても力による恐怖の圧制ではなく、住人一人一人が心からの忠誠と信仰心を持ってバラルに従っているのだ。
その団結力は恐ろしいものがある。



宗教というのは人を支配する最も効率的な道具とはよく言ったものだ。
もしも第三者がヒドラと信者の関係を見たら、アリや蜂などに代表される真社会生物の女王と兵隊の関係に見えるという感想を抱いただろうが。









そしてチェスターに存在する数少ない巨大な建造物。国が面倒臭がりならがも、一応は建設したものだ。
1200人は収容できるホールで、彼らの教祖たるヒドラがそこで今日大事な発表を行うというのだ。


もちろんホールに入れなかった者のために『親切』で放送局がラジオ及びTVでの生放送も行ってくれる。
全国放送である。ありとあらゆる周波で発信される電波はオルセア全てに送信されることであろう。




今日を持ってオルセアは変わる。劇的に、破滅的に。
未だにそのことに気が付いている者はヒドラを除いて誰も居なかった。





















『放送の準備は整ったかな?』



「はい。全ての計画が順調に進んでいます。決して貴方の期待を裏切るようなことにはならないでしょう」



『それは楽しみだ』






待合室……と、言っても質素な楽屋などとは違い、そこは一流大企業の社長などが居てもおかしくなどない上品な部屋だ。
壁には一流の画家が書いたと判る独創的な絵が掛けられ、部屋には最新鋭のPCや高級なソファーなどが置かれている。


上品で落ち着いた印象を抱かせる部屋だ。



そして部屋の支配者が座るであろう最高級の黒い河で作られた肘掛椅子に腰掛けたヒドラが眼の前のスーツを着込んだ初老の男と話ていた。
あの機械仕掛けの部屋を作る予算を出してくれたヒドラの同士である。真っ赤な眼をした。



ヒドラの後ろには紅と黒のローブを纏った『処刑人』がその三本の爪牙を腹の辺りで組んで身じろぎもせずに立っている。



『そうか……では、私も会場に向かうとしよう』



時計の針を見たヒドラが椅子から立ち上がる。そろそろ日にちが入れ替わる時間帯だ。
窓からは巨大な月が見えた。雲一つない素晴らしい空。



ヒドラが部屋から出て行く。
それに付き従い1対の処刑人もゆったりとした動作で部屋から退室する。





















千人を超える人間の雷鳴のような拍手の嵐に迎えられて、ヒドラは演壇に立った。
何十ものカメラが彼を様々な角度から撮影し、それらの映像を電波に変換し、オルセアという星全体にその情報をばら撒いていく。
ステージの背後には巨大なバラル教の紋章が刻まれた旗が設置され、今この場を支配しているのは何者なのかをアピールしていた。



無数の高性能のマイクに向かい、ヒドラが仮面の内から声を発する。
マイクがその音声を広いあげ、増幅し、千人規模のホールをヒドラの声が満たす。





『私の名前はヒドラ。バラル教の教祖であり、偉大なる神がこの地に降臨するまでの代行者です』




観衆は黙った彼の声を聞く。二千を超える真っ赤な瞳がヒドラに注がれる。
その眼に込められた感情は愛情。陶酔。期待。渇望。忠誠。などなどである。



『さて、本日はこのような素晴らしい舞台を整えてもらった理由は他でもありません。皆様、更にいうにはオルセアという世界に対して宣言すべき事があるからです』



ヒドラがその手を顔の前に持って行き、何かを掴む動作をした。まるでそこに巨万の財宝を齎す魔法の杖があるかのように。
観衆がざわめいた。千を超える人間がそれぞれの抱いた感情のままに小さく言葉を紡ぎ、やがては騒音となる。



だが、その騒音はヒドラの次の言葉でかき消された。




『オルセアの外には次元世界という世界が存在します。そこには無限さえも超えた数の世界が存在し
 ありとあらゆる次元宇宙がごちゃ混ぜになった世界です。そう、次元世界には無限の可能性があると言っても過言ではないのです』



おおおおと観衆が湧き上がった。次元世界。無数の世界、無限の可能性。
言葉にしてしまえば、子供の絵空事のようではあるが、それを言っているのはヒドラだ。
奇跡を起こし、数え切れない程の人間を救った救世主がソレを言っているのだ。信じないはずがない。
いや、正確には信じないという選択肢は根本的に存在しない。



……彼らが気が付けないだけで、思考に誘導と、無意識に植えつけられたヒドラへの絶対的な忠誠心が作用しているのだが、そんなことは些細な問題である。



『約束しましょう。 私は貴方達をそこに連れて行くことを! そして、その次元世界の覇者とすることを!!
 我らの神が降臨し、その偉大なる道程の一歩を踏み出す日は他でもない、今日だ!!!!』



大仰に両腕を天に伸ばし、ヒドラが力強く叫ぶ。観衆が歓喜した。




『オルセアは進化しなければならない!! 次元世界に進出し、そこに存在する世界規模の巨大国家と渡り合うためには、こんな小さな世界で争っていてはならない!!
 一つにならなければならない!!! よって私は──ここにオルセア帝国の建国を宣言する!!!!!』




そして矢継ぎ早に彼は言葉を紡ぐ。



『私達は常に一つの声、一つの硬い意思でもって動かなくてはならないのだ!! 私達が常に共に在ることを証明するために!!
 真なる神の代行者によって支配された帝国を創らなければならない!! この場の皆様と、この放送を聴いている我が同士達よ、私達は偉大なる帝国の建国者だ!!!』
 


観衆が熱気を帯びた顔と声と共に立ち上がり、大声で唱和を始める。ドームで、オルセアの各地で、声が上がる。オルセア帝国を称える声が。
チェスターの街が大声で歌い始めた。オルセア帝国の建国を祝う声で。



そして最後にヒドラは大きく宣言した。決定的なことを、オルセアの全ての者に宣言した。
今この瞬間、この時、この日を持って全てが変わることを宣言した。



『私達と教えを異にするもの達よ! 私は貴方達全てに宣戦を布告する!!! 我らオルセア帝国の礎となれ!!!』
 



そして、戦争が、始まる。







あとがき



色々とやっちまった今回の話です。
リリカル成分皆無じゃね? と、我ながら書いていて思いましたw



イクスヴェリアは一応は原作キャラなのですが、知ってる方はいるかな?
それとなのはやフェイトは好きなキャラなので、早く登場させたいです。


しかしまぁ、ヒュードラを書いていると、何だかすっきりするから困りますww



では、次回の更新にてお会いしましょう。



[19866] 12
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/08/28 20:18
真っ暗な闇の世界。月の明かりだけが照らす深く、美しい世界だ。
オルセアにも一応は月はあるのだ。どうやって出来たのかなど、誰も知らない。
否。一応は知っていると言った方がいいだろう。真実とは違うかもしれないが。



『常識』が『真実』と常に同じなどとは限らないのだ。
事実オルセアでは数百年ほど前まで、世界は平らだと信じられていたし、雷は天の神の怒りだと思われていた。
実際は星であるオルセアは球状だし、雷は天の雲の内部、または上空と地面の間で電位差が生じて発生する自然現象に過ぎないのに。


もしもオルセアの一般的道徳観と常識を持った一般人に「月はどうやって出来ましたか?」と聞いてみれば、こう返ってくるだろう。
オルセアの常識にあわせた素晴らしい答え「神が創った」と。





話を戻そう。





夜の闇。静寂に満たされているはずのそこに一つの物体があった。
雲よりも高い場所を、“なるべく”押さえられた音で飛んでいる。
“なるべく”と言っても、ソレは爆音と言っても過言ではないものだが。


間違ってこの音を眠っている人間の目覚まし代わりに使ったら、ショックで今度は永遠の眠りに旅立ってしまうか、
耳の音を伝える器官の一つである鼓膜が破れてしまうだろう。



ソレは鳥ではない。肉ではなく鉄で身体を構築され、血と栄養ではなく燃料で空を飛ぶ科学技術で作られた人工物だ。
しかもソレは1つではなく、複数飛んでいた。まるで動物の鳥が築く群れの様に。




音速で空を飛ぶソレの正体は爆撃機だ。
ステルス性と低空侵攻能力が求められるソレは本来ならばもっと低い場所を飛ぶのだが、高度を飛んでいた。



低空を飛ばない理由は簡単である。



『敵が居ないからだ』


そう、今この爆撃機が向かっているのは敵の領土にある重要拠点などではない。
自国の領土を飛んでいるのだ。都市一つ程度ならば、その機能を奪えるほどの爆薬を搭載して。



この爆撃機らに与えられた命令は一つ。
最近急速に勢力を拡大し、強い影響力を持ってきた宗教――もっとも命令を与えた者にとっては『邪教』であるのだが。



『バラル教』の教祖と呼ばれる人物である『ヒドラ』を暗殺せよだ。


今まで何度も刺客を送り込んでも、その尽くが返り討ちに合い、失敗。
更にはその行方までもが判らずじまいという散々な結果だったのだが、そんな所に一つの情報が入った。



近々ヒドラが大規模な集会をとある街で開くということだ。
しかも、その街は既に異教徒の手に落ちており、悪魔崇拝者で埋め尽くされているという。



国家の判断は本当に早かった。直ぐに予定の日時を調べ上げ
その日時と同時にヒドラが居るというホールに数十発の爆弾を叩き込み、ヒドラを永遠に葬る、それが今回の作戦のメインだ。




編隊は行く。彼らの任務を果たしに。




―――ギィイイイイイイイイイイイイイイ!!!





チェスターの街まで後数分というところで、奇妙な鳴き声らしきものが空間を雷鳴の如く震わせ、赤紫色の閃光が先頭を飛んでいた機体を粉々に打ち砕いた。
機体はまるで紙きれで出来ているかのように激しく燃え上がり、その身をバラバラに引き裂かれながら星の重力に囚われ落ちていく。


この小さな光が、オルセア崩壊への第一歩だということを撃ち落された機体に乗っている者は知る由もない。
ヒドラが本格的に動き出して、記念すべき初めての犠牲である。


続いて2、3、4、と閃光が瞬き、その度に暗闇を彩る“花火”が増える。命と鉄が爆発して生まれる花火。
彼らは知る由もないが、この攻撃の名は【テヒラー・レイ】と呼ばれるものだ。



やがて撃ち落された数が全体の3割を超えたあたりで攻撃は停止する。
あたりに戻るのは何も無い暗闇。しばらく立ってもなにもない。



爆撃機の編隊は一度基地に戻るかどうか悩んだが、直ぐに上からの指示が下され、それに従った。
即ち、任務続行。ヒドラを抹殺せよだ。というのも、こういった攻撃は少し前から続いており、ある意味慣れてしまったというのもある。
地べたを這いずり回る蟲みたいな外見の、デザインをした者の趣味と感性を疑いたくなる機械の兵器に何度も奇襲されれば慣れるのも仕方が無い。



それに今回攻撃するのは何も武装などしていない相手だ。問題は無い。
普通ならば一時撤退しそうなものだが、“何故か”問題なしとなっていた。




全てはヒュードラの意のままに進んでいた。正確には彼が設定した因果のままに。
























チェスターにある大ホールは建造されて始めてであろう嵐のような人々の声の渦に満たされていた。



一つ一つは意味のある言語なのだが、1200人の口から同時に音が吐き出され、それらが重なりあえば
一つ一つの言葉をはっきり聞き取るのは極端に難しくなる。


いや、不可能と言ってもいいだろう。
だが、言っている言葉そのものが判らなくても、それに込められているであろう意味は人々の顔と仕草を見ればだいたいは判る。



歓喜 期待 希望 野望 そして 忠誠 


このホールに集まり、声を高らかに何かを叫び続ける人々の顔を見たら、そんな感情を読み取れるだろう。
そして、それら全てを一身に受け止める壇上の人物であるヒドラが手を一回振りかざし、小さく動かすとホールは恐ろしいまでの速さで静寂に包まれた。
まるで指揮者が一流の楽器演奏者達を指揮した時みたいな速度だ。



立ち上がっていた者も椅子に座りなおし、服を調え、ヒドラの次の言葉を待つ。
ヒドラは全ての者が座り、衣服を整えるのを待った。


そして。



『もうまもなくこのホールに攻撃が加えられる事でしょう。しかし皆様は何も心配する必要などありません。これから起こる全ての奇跡の目撃者と貴方達はなるでしょう』



彼は続ける。先ほどまでの興奮が完全に消えた声で。真理を淡々と読み上げるように話を続ける。
観客は不気味なまでに沈黙を保ちながら話に耳を傾けていた。



『チェスターの街にお住まいの皆様。窓の外をごらんになってください、奇跡がおこっているはずです』




言葉と同時にホールの明かりが徐々に落ちていき、ヒドラの背後に巨大な空間モニターが開かれる。
チェスターの街に起きた『奇跡』を生放送するためのものだ。















そして言葉に盲目的に従い、チェスターに住まう13万人のバラル教徒が窓の留め金を操作し、窓を開いた。
窓から入り込む夜の冷気を浴びつつも視線を走らせた彼等は見た。





『奇跡』を。



神の降臨を。




月を背景にソレは浮かび、蒼く光り輝いていた。
ソレは天使であった。いや、正に神と呼ばれるに相応しい姿をしていた。



花弁のように大きく広がった4対8枚の巨大な翼。
その翼の中心にあるのは鎧兜を纏った男性の姿をした石造の様なもの。


ただし、普通の石像とは違いソレは確かに生きていると思える程の生命力と神々しさを内包していた。




【ゲベル・ガンエデン】




ソレはそういう名前であった。元は惑星絶対防衛兵器の中枢、そして文明育成システムでもある。
しかし今はヒュードラの玩具として存在している。人工の神が、真の神の雛に使われている。
ガンエデンの落とす影が、チェスターの街を覆いつくしていた。



ゲベルとは『賢者』もしくは『男性』という意味だ。
この名は全てのバラル教徒を導き、支配する者の名前に相応しい。





『アレこそ我等の神! オルセア帝国を次元の覇者とすべく降臨した唯一絶対の神のお姿!! 同士達よ、何も案ずることは無い。勝利するのは我らだ!!!』




ヒドラが力強く叫ぶと同時に
ガンエデンの前に紅い12角形の魔方陣らしきものが空を埋め尽くすほどに幾つも展開され、そこから膨大な質量を持った物体が空間を越えて転送されてくる。



蒼い騎士――エゼキエルが何千も現れ、騎士団を形成。
エゼキエルらはその手に高出力のエネルギーで形作られたレーザー・ブレードを構え、戦闘に備えるかの如く全身の切れ込みが青紫色に残忍に輝き、その戦意を表す。



『蟲』が大量に繁殖したイナゴの如く湧き出て、空におぞましいカーテンを掛けた。『蟲』らに植え込まれた宝石が不気味に光り、
まるで蛍の様に夜の闇の中でその存在をアピールしている。その数は軽く万を超えているだろう。




軍団全てを吐き出し終えた魔方陣らしき文様の大群は血の様な紅い輝きを残し、空に溶けるように消えていった。
そして、再度12角形の魔法陣が3つほど展開された。今度は先ほどのに比べて結構大きな魔方陣だ。




そして、そこから転送された物の姿を見て、この放送を通して見ていたバラル教以外のオルセアの民は絶望を抱いた。
逆にソレを見たバラル教徒は希望を抱いた。勝利の確信と共に。



現れたのは『悪魔』としか言えない姿形と雰囲気を纏う物であった。




ナイトメア・クリスタルで構築された身体は人に近い形を取っていた。15m程の大きさを持った人間に近い形を。
だが、その姿は悪魔としか言いようがなかった。


全身から紫色の鋭利なクリスタルが隙間無く生えており、逆に水晶で覆われていない所を探す方が難しい。
その背には蝙蝠の翼の骨格だけをクリスタルで再現した様な赤黒い翼が4枚ほど生えていた。
オルセアの神話で描かれる悪魔の姿を模した形状に進化した結果だ。ただし、ヒュードラに少々進化にリミッターを掛けられてしまったが。
ヒュードラが掛けたリミッターは即ち『星を破壊するほどの攻撃力を持たないこと』だ。やりすぎてしまったら、玩具が壊れてしまうから。




頭部にある緑色の眼が煌々と輝きを放ち、やっと自分の出番が来たことを狂喜しているかの様にその光を強めていった。
これこそ正に敵にとっての『悪夢』と呼ばれるに相応しい兵器。逃れることの出来ないナイトメア、その化身だ。


悪魔の原動力である量子波動エンジンが慣らし運転をするかの様に稼働率を徐々に上げ、そこから発生される膨大なエネルギーを悪魔に与えていく。
魔方陣から続いて同じ形状、同じ大きさの悪魔が更に2体現れ、合計3体の悪魔がガンエデンを三角形に囲む。まるで主を守るかのように。


ガンエデンの丁度真正面に陣取っていた悪魔がその巨大な両手を胸の前で握り合わせた。まるで神に祈りを捧げる仕草にそっくりであった。




【アルド・レーザー】




握り合わせた手から恐ろしいまでの量の濁った光の津波が発生し、ソレは数十キロ先を飛んでいた爆撃機の編隊を精確に飲み込み、容易くその全てを蒸発させた。
地平線の彼方に無数の花火が咲き乱れ、オルセアの最期の始まりを演出する。その光景はありとあらゆる媒体を通してオルセア中に放送される。











オルセアに存在する全てのバラルの教徒は喜びのあまり叫んだ。自分達は間違ってなど居なかったと。
勝つのは自分達。負けるのは、腐り切り、幾度も戦争を起こし、自分達の子供を、夫を、親を戦争で奪った古く間違った国家だと確信し、叫んだ。





『愚かな国家の暗殺者達は何度も私を付け狙った! 私を傷付け、亡き者にしようと幾度も幾度も野蛮な方法で私を殺そうとした!
 しかし、私の心を、そして強い決意と信念を損なうことは出来なかったのだ!!』



暗闇の中、複数のスポット・ライト浴びたヒドラが大声で演説を再開させる。その声をBGMにガンエデンが率いる悪魔と蟲と騎士の軍団が行進を始める。
オルセアを作り変えるために。オルセア帝国を更に巨大なものとするために。虚空に開かれた超巨大な転移用の魔方陣(ゲート)の中に次々と侵入していく。




『私は反撃しよう! 私達を認めず、滅ぼそうとした愚か者達に! 私達を滅ぼそうとするもの達を滅ぼすのだ!! 
 オルセア帝国の敵には、神の名による正義の裁きを下し、どんな隠れ家も根こそぎ破壊され、死という絶対の運命を享受させるしかない!!!!』




ヒドラの背後の空間モニターの画像が切り替わった。悪魔の軍団が常識では考えられない速さと寒気を覚える程の火力を持って、次々と国の主要都市を灰にしていく場面が映っていた。
ガンエデンが謳う度に放たれる煌く細い光の線は既存の兵器では想像も付かないほどの威力を持って一撃で都市を蒸発させ
悪魔から放たれる禍々しい光の氾濫と、暴力そのものを具現化したような猛烈な攻撃の前に、国家の兵器は全てが百単位で基地ごと弾け飛んでいく。





生身の兵士など、10秒も原型を保っていられればいい方だ。よしんば奇跡的な確立で生き残っても、蟲と騎士が無差別に攻撃を繰り返し、決して生かしてはおかない。


画面が光る度に溢れるまつろわぬ者、その全てがヒュードラに喰われていった。今までの経験も技術も想いも、理想も何もかもが。



正に終末に相応しい光景であった。世界が一度終わる光景。何もかも全てが火の海に飲み込まれ、消えていく。
これは戦争ではなかった。一方的な虐殺だ。そんな残忍な光景をバラル教の信者はニヤニヤと笑いながら見ていた。頬を吊り上げ、全てを見下し、嘲笑う。
まるでヒュードラが常に浮かべている笑みと同じ笑みであった。













その数時間後、国家からの停戦の呼びかけが行われたが、ヒドラはこれを拒否。
国家の完全解体と消滅を確認するまで戦闘を継続すると発表。



その発表の50分後、オルセアに存在する全ての国家の機能の消滅と解体という任務ををオルセア帝国軍は完遂させた。
翌日、オルセア史上初の世界統一国家『オルセア帝国』は完成した。




僅か一日たらずで、オルセアはその人口の半分以上を失った。そして、その全てが喰われたのだ。











あとがき


ちょっと……やりすぎたかな?
このままだと中々話が進まないので、強引に進めました。
主人公がヒュードラだからこそ出来る手法ですね。




ルアフは……次のお話ぐらいに出したいです。



それはそうと、友人にこのSSを見せたら「ヒロインは誰だい?」って聞かれました。



……ヒュードラに、ヒロイン?


では、次回の更新の際にお会いしましょう。ごゆるりと更新をお待ちください。



[19866] 13
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/09/11 22:46

オルセアは変わった。
オルセアという星が誕生し、人間と言う生き物が産まれて以来延々と続けられていた醜い内戦は全てが消えてなくなったのだ。


2つの国家に別れ、違う神を信仰し、相手を認めずに繰り返された差別も根こそぎ消え失せた。永遠に。
もうこの世界の住人は少なくとも国単位で内戦などしないし、違う神を信仰しているからといって差別することもない。


その理由はいたって簡単。そんな選択肢を選ぶことなど出来ないからだ。何故ならば彼らの全てはバラル教に捧げられているから。
家族も友人も財産も能力も権力も、そして命さえもバラルという鎖に繋がれ、閉じ込められ、永劫に抜け出すことなど出来ない。



しかし、彼等はその状況を後悔などしていない。自分達がバラルという檻に囚われていることを知っている。
だが、その檻から抜け出そうとは思う者などいない。檻というのは囚われると同時に、身の安全を保護してくれるものでもあるから。
何より、バラルに全てを捧げたのは彼らの意思だから。自分の意思で、誰に強要されたわけでもなく、自分の考えで檻に入ったからだ。



そして、偉大なる教祖、神の代行者ヒドラは彼らとの約束を完全に守った。完璧にだ。
傷を治して欲しいといえば治し、病気を何とかしてほしいといわれれば全快させ
失った肉体の一部が欲しいと乞われれば復元させ、その奇跡の力は彼の説くバラル教の教えの説得力を増幅させていた。


そして彼はもう1つの約束も果たした。全てのバラルの民との大きな約束。
戦争を終わらせるという約束を。オルセアで続き、これからも世紀単位で続いていたかも知れない不毛な戦争を彼は終結させたのだ。



全て壊すという方法で。ヒドラはたった1晩でオルセアの人口を半分程度まで減らしたのだ。
もっと言うなら、推定5億人は殺し、何十もの大都市を完全に消滅させた。
そこから発生した難民やら、治安の悪化やらを含めると、犠牲者は更に増えるだろう。



だが、もう二度と無意味な内戦でバラル教の信者達が大切な者を失うことはないだろう。
奪われた彼等は今度は奪う側に立つのだから。そしてそれが当然の権利だと彼等は考えていた。






















廃墟やクレーターが無数に存在する荒れ果てた大地の上を機械仕掛けの色とりどりの『蟲』達は飛んでいた。それも百単位という夥しい数で。
陽の光を遮るほどの数の『蟲』が飛んでいる光景というのは、見る者に生理的な嫌悪感と恐怖を与えるだろう。
よーく注視すれば、微妙に『蟲』達のデザインと植え込まれた宝石の数や色が一体一体違うことに気がつけるだろうが、生憎ここには誰も観測者は居ない。



あの一方的過ぎる殺戮の夜から一晩経ち、完全な静寂を取り戻した世界に残っているのは蹂躙され尽くされたかつて街だった物の残骸と、
未だ消えない戦火、そして死体の山だ。まるでゴミの様にそこら中に散乱した死体を見ていると、人間の命の価値など、大したモノではないと思えてくる。



『蟲』達が降下を始めた。
彼らに与えられた任務を果たすのに必要な目的の物を見つけたからだ。無数のイナゴの群れを思わせる、一種の統制を感じる動きで『蟲』が破壊されつくされた都市の残骸に降下していく。


滑らかな飛行で建物の間を縫い、放置されている無数の死体の前に着陸する。
6本の機械の足でひび割れたアスファルトの地を踏みしめ、内臓されたセンサーやカメラで死体を観察。





──コアの埋め込みに支障はなし。これより実験に入ります。




死体の外的特徴などをデータとして記録した後、ソレらをガンエデンに、ひいてはヒュードラに転送。
そして、作業に入る。さっさと終わらせてしまおう。


『蟲』の腹部の一部が小さく開き、そこから光り輝く玉が排出された。魔導師などが体内に持っているリンカー・コアに少し似ている物体だ。
黒く輝く光の玉を『蟲』が器用に前足2本を使って掴み、死体に向けて放る。



出来損ないの蛍の如く純黒な光を放ちながら、それはフワフワと死体に向けて夢遊病の患者の様に右へ左へと行きながらも飛ぶ。
そうして光が死体に接触すると『変化』が起きた。



光が死体に吸収されたのだ。いや、正確に言うならば光が死体にもぐりこんだというべきか。
植物が大地に根を張るように光の玉──『コア』も死体に根を張ったといえば、判るだろうか?


と、突如死体の胸の辺り、丁度『コア』が潜り込んだ箇所から黒い泡が吹き出す。
ゴボゴボと墨の混ざった水を沸騰させた様な泡はやがてその大きさを増していき、最期には死体を完全に黒く染め上げた。


真っ黒な影法師のように染め上げられた死体の全身の筋肉がビクンビクンと痙攣を起こしたかのように跳ねる。
骨が砕かれるような不気味な音と共に死体の骨格が作り変えられる。手、足、胴体、頭、そして内部。その全てが戦闘用の武器に作り変えられる。


もしもこの肉体の元の持ち主がこの光景を見ていたらどう思うだろうか? 
自分の亡骸が埋葬もされず、死しても戦争の武器に使われる光景を見て何というだろうか。



時間にしてほんの数分。
『蟲』にとって名前も知らない人間の亡骸は兵器へと作り変えられていた。

コレは長身の女性の姿をした武器だ。両腕をあらゆる武器に変換させて戦うことの出来る兵器。
人間の姿をしているのに、人間の心はもたない存在。コレに比べればまだ哺乳類のほかの動物の方が人間味があるとさえ言える。



『あ……ぁ……イク…ス?』



ざざざと兵器の思考に激しいノイズが走る。輝く灰色の煙らしきものが兵器の視界を埋め尽くした。
兵器には知る由もないがソレは主の書き換えを強制的に行われているから発生するちょっとしたバグだ。忠誠の対象を変えている。
兵器の激しい灰銀色の中に一瞬だけ、燃える三つの眼が映った。
ニタァとその眼の持ち主である得たいの知れない『ナニカ』が酷く歪に、冒涜的に嗤った様な、気がした。



そして書き換えは終了する。兵器の思考回路全てが汚染され尽くされ、より歪に、より邪悪に、より破壊的に思考を犯され尽くされた兵器。



『………オ前の主は誰だ?』


唐突に今まで全てを観測していた『蟲』から声が上がる。幾重にも合成された機械音声で完成したと思われる兵器に話しかける。
最期のテストだ。これに合格すれば、オルセア帝国はより強大な力を持つことになる。


兵器が答えた。『蟲』に負けず劣らずの感情の篭もらない声で淡々と。
人間が喋っているというよりは肉食の昆虫が喋っているかのような冷たい声だ。



『オルセア帝国 ルアフ・ガンエデン様とヒュードラ様が我らの絶対の主です』



『素晴ラシイ。完全な正解ダ』



『蟲』が心底感激の混じった声で喋る。機械なのに何処か人間味がある声だ。少なくともこの兵器に比べれば、の話だが。



兵器と会話している『蟲』とは違う『蟲』が数匹上空から巨大なコンテナを牽引しつつ降りてくる。
どぉんと大きな音を響かせ、8メートル四方はあるコンテナが着地。ガガガと音を響かせながらドアを開いていく。



『乗レ、マリアージュ。最初の命令ダ』



『仰せの通りに』



冷淡な声で『蟲』の声に答え、マリアージュがコンテナに乗り、その身を小さく屈める。まるで荷物のような扱いだが、マリアージュは一言も文句など言わない。
いや、文句を言う心などない、というのが正解か。




『蟲』がソレを見送った後に飛び立った。もっと違う死体を捜しに。もっと大量のマリアージュを製造するために。
第一生産は最低でも20万は創る気だ。この数字はあくまでも最低数であり、実際はもっと途方もない数のマリアージュを製造する気なのだが。





天空には何千と言うコンテナを運ぶ『蟲』と、何十万という数のマリアージュを製造するための『蟲』がおぞましい川を作っていた。
機械仕掛けの『蟲』が悪夢を作りに行くのだ。














新暦40年 オルセア帝国 第一の都市チェスター改め『バラルの園』




チェスターの街はあの凄惨な殲滅戦の中でも被害を全く被っていない貴重な都市のひとつだ。
理由はもう言わなくても判ると思うが、この街は既に完全にバラル教の支配下にあるから。


ライフラインなども完全に独立しているため、この街は余りあの戦いの後でも影響は受けていない。
まぁ、さすがに輸入などに頼っていた食料品などは色々と問題があるが、ソレもヒドラが何とかすると言っていたから何も心配など必要ないと、住民は思っていた。





チェスター……いや、今は改名されてバラルの園と呼ばれるこの街で、今日は新しい帝国の誕生を祝う式典が行われていた。
そして自分達の新しい支配者をその魂に焼き付ける儀式を。













蒼い空には何千という数のエゼキエルが規則正しく小隊を組んで不気味な音と共に飛んでいる。
その光景はまるで中世時代の騎士達が勝利の凱歌を謳いながら行進しているようだ。エゼキエルが飛ぶとたびに衝撃で地上のガラスなどがビリビリと震える。
中には機体に血や肉がこびり付いているエゼキエルも居たが、そんなことは些細な問題だ。



街の住民達はその真っ赤な目を狂喜で恐ろしく輝かせつつも、口々にオルセア帝国を誇り、祝う言葉を言いつつ街の中心に向かう。
その顔にはかつての沈んだ様子は欠片も見られない。男も女も若者も老人も子供も、全ての者がどこか外れた笑みを浮かべている。







彼らの目的地であるバラルの園の中心部にソレは鎮座していた。
4対8枚の巨大な天使の翼を持ち、その攻撃1つで軽々と星の地形を大規模に変えてしまうほどの力を持った存在が。
本来の力を発揮すれば、どれほどの破壊が可能か想像も付かない存在だ、



バラル教の信仰対象であり、絶対の神である『ガンエデン』
男性の姿をモチーフにしたソレから感じるのは雄雄しさや神々しさ、そして畏怖という感情だ。



どうあっても絶対に勝てない存在に人間が感じるのはそんなモノだろう。


ガンエデンを守るかのように、黒金色の体色をした機械仕掛けの『猫』『魚』『鳥』がモダンの彫像の様なガンエデンの肩に乗っかり、バラルの園を見渡す。
真っ赤な眼をした人間が何万と群れをなしてガンエデンに寄ってくるのを黙って見つめる。


ナイトメア・クリスタルで身体を構築された『悪魔』がガンエデンの周りを飛び回り、主に指定された見栄えのよい場所に向かう。
『蟲』達は仕事中のため、今はこの場にはいない。



そして、各々が自らの位置に付き、バラルの園の中央部に13万人の信者が集まり、全ての準備が整った。










カツカツと背後に2体の処刑人を従え、ヒドラが紅を基色に金で装飾された上質なマントを翻し、10万を超える信者の眼の前を堂々と歩いて征く。
急ごしらえで作られた舞台の上に立ち、無数のマイクの前に顔を持っていく。そして3つの眼を装飾された仮面の内からいつもの男か女か、若者か老人かさえも判らない声を出す。



『皆様。私は貴方達との約束を果たせましたか?』



大仰に手を振りかざし、もう答えなど判っていることを聞く。
観衆の熱狂的な肯定の言葉が彼にこたえた。手を振り、全身を使い、ヒドラに対し畏敬の言葉を飛ばす。


戦争が終わった。ようやく不毛な戦争が終わった。しかも今まで戦争を起こした者には死と言う報いを与えることも出来た。
今まで鬱屈していた感情全てを吐き出す勢いで、彼等は救世主たるヒドラに答える。貴方を信じた我々は間違っていなかったと。


ヒドラが白い手袋に包まれた手を一回振る。それだけで民衆は一気に静かになる。



『それは何よりです。私も貴方達のその言葉を聴けただけで嬉しい。これで二度とオルセアで大規模な内戦が起こることはない。
 そして、全ての帝国の民はバラルの教えの元、愛しい者たちと共に安寧な日々を享受することが出来るでしょう。
 更に、我らのオルセア帝国は狭いこの世界を抜け出し、無限の可能性を持った次元世界に進出することさえも可能となる』



一泊。



『今日ここに集まった皆様は本当に運がいい。皆様はまた1つ、偉大なる瞬間に立ち会うことになる。
 そう、このオルセア帝国を統べる絶対の支配者である霊帝陛下の降臨の瞬間にです!』




おおおおお、と、観衆が酷くざわめき立った。前々からヒドラは自身が主の代理人であると公言していたのだが、遂にその主──『神の化身』がこの場に降臨するというのだ。
オルセア帝国を統べる支配者。あのヒドラの主。神そのものと言っても過言ではない存在が降臨するというのだ。興奮しないはずがない。



ヒドラがガンエデンに向き直り、膝を折り、頭を下げる。彼の背後で立っていた処刑人も同様の行動を取り
それに続くかのようにエゼキエル達がエネルギーで形成された剣を抜き、それを顔の前で構え、騎士の礼を取る。







それに答えるかのようにガンエデンが眩く輝いた。そして──
























『ご気分はどうですか? ルアフ陛下』



「…………」



バラルの園で最も巨大な建造物である豪華ホテルの廊下をヒドラとルアフは歩いていた。この廊下には彼ら以外誰も居ない。
式典によって降臨したルアフは熱狂的な支持の元オルセア帝国の支配者として認められ、今や霊帝としての地位を確固たるモノにしている。

まぁ、支持以外の感情をヒドラが全てそぎ落としているので、当然の結果なのだが。
今の信者とヒドラ、ルアフの関係は真社会性生物の女王と兵隊に近い。
即ち、絶対の支配者と絶対の奴隷である。



「君は“何”だ? 一体僕に何をした?」



ギロリと、ルアフがヒドラを睨みつける。式典の時は大勢の人の前ということもあり、流れに身を任せていた彼であったが、今この場に居るのは自分とヒドラと彼の護衛だけ。
ならば、今までの成り行き全てを話して聞かせてもらおうと思っていた。最悪、この薄気味悪い男を脅すことさえも考えて。
母親に虐待され、殺されたと思ったら、次の瞬間は大きな町で神として崇められていたのだ。訳がわからないにも程がある。



いや、ちょっと違うか。真っ暗な夢の中で絶えず自分の中に話しかけてきた声をルアフは覚えている。
あの不気味で、薄暗く、人の心の奥底まで響いてくる声らしきものをだ。だが、酷くあの声は聞いていて心地よかったのを覚えている。
とても、とても彼の心を癒してくれる言葉。彼を認め、褒め、そして愛してくれる言葉。




ルアフの敵意が不可視の衝撃波となり、ヒドラを襲う。ルアフの意識とは関係なく。ルアフがしまったと思った瞬間は既に遅かった。
幾重にも折り重なった重厚な空間の層がヒドラに敵意と共に叩きつけられた。まともに浴びれば重戦車でも粉々にされかねない威力の衝撃波。


並みの魔導師ではバリア・ジャケットの上からでも四肢をバラバラどころか、粉々にされかねないほどの強大な暴力。
ルアフの一生分前から持っていた力『念動力』極めればこの世の全てを握ることさえも不可能ではない力。




が。ソレはヒドラに決して届くことはなかった。



幾重にも編みこまれた空間の壁はその全ての力をヒドラに届く前に、彼の展開した支配空間にかき消され、四方に弾き飛ばされたから。
余波で廊下の飾りが消し飛ばされ、全ての窓ガラスが粉々に砕け散る。そしてヒドラの後ろに立っていた処刑人がバラバラになった。
四肢が千切れ、頭部はグシャグシャに粉砕され、ローブはズタズタに。



銃弾さえも軽々と弾く処刑人の体がバラバラになったのだ。いとも容易く。
辺りに飛び散る昆虫の体液。しかしその体液は一滴もヒドラとルアフを汚すことはなかった。
ルアフは無意識に力を使って体の周りに防御フィールドを展開しているから。そしてヒドラも自分の周りに支配した空間を鎧の様に纏っているから。
ソレに触れた液体は瞬時に消滅してしまう。蒸発ではなく、消滅だ。



バラバラになってしまった護衛を見てヒドラがやれやれと肩を竦める。まるで子供が悪戯して、疲れてしまった大人の様に。
まぁ、処刑人はそこそこのお気に入りだったし、護衛はまた作り直せばいいか。




『私は私ですよルアフ陛下。そして何をした? という質問ですが、私は貴方の元々あった力を目覚めさせたに過ぎません』



「僕の、力……? 何を言っている? お前は何だ!?」



『もう知っているでしょう? 眠っていた貴方に絶えず話かけていた言葉。そして今の念動力による衝撃波。お陰で私のお気に入りが粉々だ』



「ひ……っ!」



言葉の途中からヒドラの声がガラリと変わった。男か女かえも区別が付かなかった声は深く、低い男の声に。深遠から呼びかけてくる声。
そして今までは何処か媚るような口調だったが、一気に尊大で、傲慢的で威圧的な物へ。



ルアフは直感的に理解した。いや、本能と言ってもいい。彼の持つ念動力が教えてくれた。



コレは化け物だ、と。


関わってはいけない。眼を付けられてはいけない。
が、残念ながら自分は関わってしまい、そして眼を付けられてしまった。



もう遅いのだ。全て。一生分遅い。
ルアフにはこのヒドラという存在が、この世全てを嘲笑う邪神に見えて仕方がなかった。



『おっと済まない、脅すつもりはなかったのだよ。ただ少し力の使い方を覚えた方がいいな……まぁ、時間が経てば自然に覚えられるだろうが』



「僕に……何をやらせるつもりだ?」



決死の覚悟で震える身体を何とか押さえつけて、ルアフがヒドラに問う。
そんな彼にヒドラが笑って答えた。まるで子供に言い聞かせるような調子で言う。


『私は強制するつもりはないよ。ただ“おねがい”するだけだ。
 最終的に決めるのは君なのだよ。ルアフ・ブルーネル、いや、ルアフ・ガンエデン。だから私は“おねがい”するだけだ。
 オルセア帝国の支配者、霊帝になってくれと。そうすればこのオルセアと次元世界全ては君のものになる。
 君は誰にも想像できないほどの超大な力を持って次元世界全てを統治する存在となるのだよ』




「霊帝……? ガンエデン? 僕が、支配者? 次元世界の?」



ルアフの言葉にニッコリとヒドラが仮面の内で笑ったような気がした。肯定の意を表すため。
少年の胸の中に冷たい穴が空いた。支配者。支配者。統治、全てが自分のもの。肥大化した少年の支配欲にヒドラが更に火を注ぐ。


ヒドラの声が優しくルアフを包み込む。酷く甘くて、蕩けるような言葉を彼はルアフの胸の内に流し込む。
仮面の男が影からそっと、ルアフに囁いた。



『そうだ。全て君の所有物となる。欲しい物を何でも思うがいい。コレは子供の夢物語などではない。現実に望んだ瞬間から全て君の物となる。
 コップ一杯のよく冷えた水? 巨大な袋いっぱいの最高級の宝石? 君のものだ。この窓から映る光景を見るがいい。このバラルの園、そしてオルセア帝国の
 全ては君のものだ。命も財産も権利も法も、概念も何もかも全てがだ。君が霊帝になると私と約束したら、ソレら全てが手に入る』


「………僕は、どうすれば……」



尚も一生分前の価値観や論理に縛られる少年にヒドラが囁く。酷く甘い言葉を。



『君の夢は全てが完璧に叶えられる。不老不死の肉体に人間はおろか、真竜さえも超越したガンエデンの力。
 もっと判りやすく言ってしまえば、永遠の命と神の力を手に入れることが出来る。ガンエデンの力の凄まじさは知っているだろう? あの殲滅戦を特等席で見ていたのだから』



「…………」



ルアフが言葉を失う。夢だと思っていたあの戦争の光景を思い出す。
そう、彼は見ていたのだ。ガンエデンの内部と言う特等席で都市がガンエデンから放たれた煌びやかな光線の一撃で蒸発していくのを。
どんな戦略兵器の攻撃もかすり傷一つ与えることが出来なかったガンエデンの力を。



ソレを見てルアフが感じたのは嫌悪や罪悪感ではなく、圧倒的な勝利と力に対する高揚感だった。
今まで自分を差別し、母親に虐待される原因を作った奴が虫けらの様に死んでいく光景は正に彼が望んでいたものとさえいえた。


そんな力をヒドラは自分にくれるといったのだ。ほとんど代価など要求せずに。ついさっき自分はこの存在を邪神と称したが、撤回するべきだ。
ヒドラは正真正銘の神だ。ルアフという存在を救いあげてくれる神としかいえなかった。



『この手を取ってくれルアフ。私と共に進もう、私の友人になってくれ。私の同士になってほしい』



ヒドラが手袋に包まれた白い手を少年に差し出す。“おねがい”と共に。

この手を取ってしまえば後戻りは出来ない。それがルアフには判った。だが、何を迷う必要がある?
この存在は自分に全てをくれると言った。そして事実その約束を守るだけの力を持っている。


ルアフは己の中を渦巻く様々な感情を観察し、バラバラに処理した。
頭の中の一部で騒ぎ立てる耳障りな「やめろ」という声の出所を探し出し、ソレを握り潰した。同時に声が消えてなくなる。
眼を一回瞑り、もう一度あけてヒドラの無機質な3つの眼が刻まれた金属のフルフェイス・マスクを見る。



中々に変わったデザイン。だが、同時に面白いし、印象に残るデザイン。
ルアフが頭を動かし、開いた掌を見つめる。そこには一生分前の彼の価値観が乗っていた。とてもちっぽけな価値観が。

そして彼はこの邪魔な価値観と、これを捨てた場合に手に入る物の大きさと偉大さを比べた。



……比べ物にならなかった。




逡巡した後、ルアフは手を伸ばした。誓いの言葉と共に。
その全身に燃え滾るような喜悦を感じながら。



「判りました。貴方の申し入れを受け入れます」



『素晴らしい! では、なってくれるのかな?』



ヒドラの沸騰するかの様な歓喜と確認の声にルアフははっきりと答えた。
彼の眼の中には真っ黒な野心の炎が燃えていた。



「はい。僕は霊帝になります。貴方と共に進む道を選ぶ」




本当の意味でオルセア帝国が誕生した瞬間である。




あとがき



ルアフの性格が掴みづらいですね……。
原作の傲慢さは長年神として在ったから培われたものでしょうし、まだまだ人間の頃の面影がある彼はこんな感じかな? って思って書きました。


今だから言えますがこの作品、初期の案では主人公がルシエ一族に転生して、真・龍機王などと契約し、大暴れする予定だったんですw
応龍王も出す予定だったんですよw 話が進まないので没になりましたが。



では、次回の更新にてお会いしましょう。





[19866] 14
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/10/10 00:41
新暦40年 時空管理局 『本局』



全方位を淀んだ色彩の空間に囲まれた、文字通り次元空間の『海』の中に浮かぶ機械仕掛けの超巨大都市。
特殊な金属で作られた野太い大樹が枝を6方向に伸ばしたような形状のソレは時空管理局の本部でもあり、要塞でもあった。


ここは事実上『本局』と言う名前の国とも言える場所だ。
管理局員が在住し、管理局の法に従い暮らし、そして管理局の法そのものを決める場所。『首都』という表現もあるだろう。
『警察』の逮捕権を持ち『裁判所』の立法権を持ち、多数の武装した魔導師による『軍隊』に近い武力を持った組織、それが管理局だ。


魔導師の数は全体の5%以下の数と言われるSオーバーでさえも千人近くは居る。
当たり前だ。全体の数がとてつもないのだから。複数の次元を管理し、その安全を守る上ではこれでも少ないほどといえる。



そしてSオーバーの内の百名程度は教導隊というエリート集団に抜擢されたりしてもいる。
彼らの仕事は新しい武器を試験運用をしたり、他の魔導師を鍛えたりするための仮想敵役を務めたりするのが平時の役目だ。


更にもしも戦時になれば、敵に対してその圧倒的なまでの力を振るうのも教導隊の役目。
正義の名の元にに許可された『虐殺』を行うことさえも出来るのだ。まぁ、そういう行為を好む奴は間違いなく教導隊の入隊試験で落とされるだろうが。
ただ単純に魔導ランクが高ければ入れるというわけではないのだ。




幸い十数年周期で定期的に発生する『闇の書事件』などを除けば、そういう出来事はいまだ起こってはいないが。




その気を出せば都市一つを潰せるSオーバーが千人程度。これだけでも管理局という組織の大きさがわかるだろう。




組織の頂点には『最高評議会』という「議員」「書記」「議長」の3つの人員で構成された者達が居る。



彼らは管理局という巨大な組織の産みの親だ。
まだ次元世界が混乱としていたころの戦乱時代を生き延び、平定し、平和と安寧を願って管理局という組織を作り上げた偉大なる英雄達。



彼等は戦後の混乱の数々をその知識と知恵、そして行動力で解決し、昨今の平和な管理世界を作った者たちだ。
今はかつてのSSSオーバーと言われた凄まじい魔力や、美しく若々しい肉体は当の昔に枯れ果て、
今の彼等は全身に延命の機械を植え込み効率の為に脳味噌に電子脳までを追加した生き物だが。



それでも彼らの平和を愛する心は失われては居ないだろう。少なくともまだ権力にそこまで溺れてはいない。
彼等は少なくとも自分の利益を追い求めてはいないのだから。いや、もしかすると金や名誉、女などに彼らが興味を抱くかさえも怪しい。



誰も体の7割を機械化させた人間の思考など読めるわけない。



平時はほとんど管理局の運営には口を出したりなどはせず、裏に隠れている彼らだが、やるときは派手なことをやることが多い。
全管理世界に向けてTVの前で姿を現し、演説放送をして始めて彼らの姿を知った者も多い。




最高評議会が行った今までで目立った事といえば、最新鋭の技術を満載したL級次元航行船の開発と導入などがあげられる。




そしてかつての大戦で失われた技術を分析し、平和維持のための力として手に入れるための
ロスト・ロギア研究機関、通称『EOT機関』(EOT=エクストラ・オーバー・テクノロジー)を立ち上げたりなどもしている。
そして開発された技術を管理局は取り込み、更に強大になっていく。まるで子供が大人になっていくように。




そう。まだまだ管理局は子供としかいえない組織だ。かつての大戦で失くしてしまった素晴らしい様々な技術を必死に取り戻している状態。
貪欲に技術を吸収して成長し、次元世界への影響力を徐々に大きくしていく組織。それが時空管理局。







故に“あの存在”に眼をつけられた。自分が成熟するまでの暇つぶしの玩具として。














ブォンという蟲の羽ばたきに何処か似ている独特の機械の起動音と共に複数の空間モニターが宙に現れる。
このモニターを展開し、虚空に映し出しているのはアレクトロ社製の新型の空間モニター投影機だ。
金持ちの施設や、管理局の重要施設などでよく使われているコレのお値段は少々高い。



まぁ、アレクトロ社自体は今はヒュードラの事故などで信頼を失ってきているが、この会社の製品はやはり高性能だ。



漆黒の影に支配された部屋に連続して幾つもの情報を記載した空飛ぶモニターが浮かび上がり、ソレが周囲を照らした。

広大な面積を誇る壁や天井、床には装甲パネルの様な頑丈な素材を使っているというのが、銀色に輝く金属を見れば判るだろう。
まるでどこぞの戦艦のブリッジの様な堅牢な造りの空間だった。部屋……という言葉を使って表すには余りにも巨大すぎる空間である。



ここは管理局の本局、その最上層部。許可を貰った者しか立ち入ることを許されない場所。
ここには例え様々な特権をもった執務官であっても許可なしで入れば捕まるだろう。それほどまでに重要な区画である。




その名を『最高評議会』と言う。
管理局の最高機関、あまり人の前に姿こそ見せないが、計り知れない影響力を持つ独立した部署。
事実上の管理局の支配者達の集まる場所だ。



未だに少し薄暗さが残る場に奇妙な声が響き渡った。
そう、まるで人間の声と電子音声を均等に融合させたような声だ
もしも声帯を機械で補った人間が居たならばこんな声になるのだろう。




『皆、よく集まってくれた。これより会議を始めたい』



一人の小さな“老人らしき”小柄な人物が浮遊椅子に腰掛け、その口から生身の人間ではまず出せないであろう合成ボイスを吐き出し、会議の宣言をする。
そう、“らしき”だ。ぱっと見では人間かどうかさえの判別をつけるのは……酷く躊躇らわれる。



『コレ』の外見を人間と定義していいのかどうかは非常に悩ましい。



狂気的な外見をした老人であった。究極的に生へ執着した人間の行き着く果てとも見える。



戦争で失った左腕は骨をむき出した様な色と質感を持った機械のアームになっているし
髪の毛一本さえ生えてない頭部には無数の手術の後である縫い目が無数に在り
ひび割れた頭頂部の皮膚は薄く透けて、金属で補強された頭蓋骨のメタリックな色を僅かに見せている。



人工の薄い緑色をした合成肉で保護された彼の何度も移植を繰り返され、もう何個目になるか判らない
生存に必要な最低限の臓器に活力を与えるためパイプが腹部に何本も突き刺さっており、そのパイプは生命維持装置に繋がっている。



彼は既に心臓さえも3回は取り替えていた。そうまでして生き延びていた。全ては愛する次元世界のために。
今の彼の心臓はペースメーカーと融合したような形になり、機能している。



しかし窪んだ眼窩に収まっているその白く濁った眼は、眼だけは、狂気にも見える光を宿し、薄暗いこの会議の間の中でも爛々と輝いていた。
彼こそこの評議会の『議長』を勤める人物。この管理局で誰よりも世界を愛していると言っても過言ではない男。


愛する世界を守るために自分の有機物の肉体のほとんどを無機物の機械に挿げ替え、今日まで100年を越える年月を行き続けている人物だ。
かつては英雄と言われた男のなれの果てであった。



『書記 出席』



『議員 出席』



遅れて2人分の電子音声が彼に答える。
残りの『書記』と『議員』だ。『議長』を含め、計3人でこの評議会は運営される。
この2人(便宜上「人」という単位で数えさせてもらおう)も『議長』と同じく全身を機械で補っている。


書記を務める者は何となく言葉の発音の仕方や、その顔の作りから本当に何となくだが、かつては女性であった者だと判るだろう。
但し、今の彼女は数十年前に誇ったであろう美しさなど微塵も残してはいないが。


誰がかつては足のあった場所を蜘蛛の足を思わせる8本の機械の足に変えた女性を美しいといえる?
浮遊機雷の爆発によって彼女の脚部は根こそぎ吹き飛んでしまっているのだ。戦争によって。
視角補助の機能がある機械のゴーグルを掛け、頭部にはお洒落のつもりなのか小さな灰色の帽子を被っている。
やはり女性は歳を幾つ重ねても禿げた頭を誰かに見せたくはないのだろうか?



最後の『議員』は『議長』と同じく男だ。この男も機械によって生かされていた。


彼は椅子と一体化していると言ってもいい。
彼の座る椅子には幾つもの種類の生命維持装置が取り付けられており
そこから伸びるケーブルやパイプなどがその細くて脆そうな体中にビッシリと突き刺さっている。



頭部、胸部、腹部、腕部、脚部、全身のありとあらゆる場所に機械との接続端子が繋がっている状態だ。
まるで人間とサボテンを融合させた様にも見える。ピッ、ピッ、ピと椅子から絶えず生命装置の音を響かせ、彼はその信号の繰り返しによって生きている。


彼には肺がない。癌によって失ってしまったのだ。2つとも。
その代わりに機械の肺がこの『議員』の代わりに呼吸をし、彼の血管に酸素を送り込んでいる。

その規則正しく、無機質な機械の呼吸の一定のリズムは彼自身にさえ変えることは出来ない。



『さて、最初の議題だが……』



議長がその電子回路で動く義手を滑らかに動かし、アレクトロ社の投影機の操作端末を弄くる。
直ぐに複数のモニターが切り替わり、今回の会議の中心となる議題についてのデータが呼び出された。


モニターに映るは巨大な隕石。去年に第一管理世界ミッドチルダの南部に落ちた『メテオ3』と呼ばれるモノだ。
南部のアルトセイム地方よりも更に先に行った場所にあの巨大隕石は落下した。



この隕石には謎が多い。突如次元の歪みから通常空間に現れ、物凄い速度で恒星の周りを公転しているミッドチルダに2つの月の重力などを全て無視して、落下したのだ。


当然だが、ミッドチルダという星は一箇所にずっと存在している訳ではない。
主星の周りを大よそ時速10万7千キロ、一日に大よそ258万キロも移動している。(秒速換算で約30キロ)
そんな標的に向かってピンポイントで隕石が当たる確立は一体どれほどのものか。



しかも『メテオ3』は通常の宇宙空間を漂ってたのではなく、通常の宇宙よりも遥かに広大な面積を誇る無限の次元空間からやってきたという。


コレを偶然の一言で片付けることなど出来るわけがない。何らかの必然性を感じてしかるべきだ。
少なくとも全ての現象には何らかの意味があると、ここの評議会のメンバーは信じていた。無駄なことなど何もないのだ。



『メテオ3』に関しての会議は今までに何度か開かれていたが、今回は新しい情報が入ったため、また会議が開かれたのだ。




『地上に紛れ込ませていた協力者から新たな情報が入った。やはりこの隕石はロスト・ロギアの可能性が高い。それもかなり我々にとって有益になりうるモノ……』



議長が端末を弄り、地上の協力者から送られてきたデータを二人の眼前に投影し、彼らがデータを読んでいくのを見守った。


彼らが読んでいるのは『メテオ3』が人工の物であり、
しかもその正体は恐らく、恐ろしいまでに進んだ文明を持った者達の情報保存装置かも知れないというものだ。


不確かな情報では、コレの内部からは既にいくつか情報を抜き取ることに成功したという話もある。
まだ確証は掴んでいないが、それも遠からず明らかになるであろう。




『うむ……確かにコレは有益なものだ。それも恐ろしい程に、な』



『同じく。だが、少々ご都合が過ぎるとも思えるな』



書記が手元の端末を操作し、音声だけの記録装置を起動させる。
後々議事録を作るための資料にでもするのだろう。


議員の女だったものが意見を述べる。



『議長、ならばどうするのです? このメテオ3に対しては……少々“大胆な”対応を取るべきかと私は提案しますが』



『私も同意です。コレの価値はそこらの美術品などゴミに変えてしまうほどのものがあります、正直デリアンには過ぎた玩具かと』


書記もソレにつられて、多少強引な意見を述べる。後々議事録を作るのは自分なので、少々の暴言は問題ないと思っているのだろうか?



『落ち着け皆のもの、既に手は打っている。あの落着現場に建てられた研究施設は程遠くない内に本局──正確に言うならばEOT機関の管轄に入るであろう』



急いては事を仕損じる。『議長』の男はどこまでも余裕を持った声で続けた。
この案件に最終的は判断を下すのには、両者の合意が必要だ。ほとんど出来レースと化しているとはいえ、やることはやっておこう。



『メテオ3はEOT機関が管理、解析を行う。この案に関しての両者の是か否かの意見を聞きたい』


『賛成』


『賛成』



あっという間であった。いや、答えなど最初から決まりきっていたモノなのだが。



『よろしい、ならば今回はこれにて閉会とする。全ては愛しい世界のために』



議長のその声が閉会の合図であった。空間モニターが全て閉じられ、部屋の明かりが消えていく。
残るは書記の男の耳障りな呼吸音だけであったが、ソレも直ぐに彼が退室したことでなくなった。



最後に残るは闇だけ。





















管理局の本局、その中央部に位置する場所にある執務官のオフィスなどが集合する地域。
その場所に設置されたヒュードラ事件に関する捜査本部にギル・グレアムとコーディ・ハラオウンの二人は居た。


今、二人は必死になってヒュードラ事件の真相を暴くために情報を集めている最中であった。
事実、このオフィスに山の様に積み上げられた書類などは全てがヒュードラ炉やアルゴ・レルネーの研究施設で働いていた者達の供述などを纏めたものだ。


集めた情報だけで判断するのは危険だが、それでもコーディは既に確信を抱いていた。絶対的な確信。
彼の正義感と経験、そして法律の知識によって裏打ちされた確信を。


つまり、プレシア・テスタロッサは犯人ではない。彼女は無実だということを。いや、むしろ被害者と言えるということを。


一日24時間労働。一人で十数人分働き、その上で全くの未知のロスト・ロギアを解析し、更には上層部からの過剰な圧力を受けていた。



今までの情報を整理すると彼女はこんな状態に陥っていたということが判る。考えただけで気が狂いそうな状況だ。
聞き込みを受けた、アルゴ・レルネーの研究所でかつて働いていた何人ものスタッフは最初は口を閉ざしていたが
コーディの真摯な説得によってようやく口を開き、そうして手に入れた情報の数々はその全てがプレシアは被害者だと示していた。



口を閉ざした理由は簡単だ。恐らくは企業からの“お願い”を受けたからだろう。多額の金と共に。
反吐が出る。恥を知れ。コーディはそうアレクトロという企業に言ってやりたかった。




「で、勝てそうかね? 裁判には」


既に売り物では物足りなくなったのだろう。
自家栽培したコーヒー豆を自分で編み出した方法で加工し、作ったコーヒーをソファーに上品に掛けたグレアムがカップに注いで、優雅に飲む。




彼の使い魔である双子の猫を媒介としたリーゼアリアとリーゼロッテの二匹は子猫の姿を取って、床に置かれた皿
その中に満たされたミルクを一心不乱に舐めていた。


コーディの前に一杯のコーヒーで満たされたカップが置かれた。グレアムからのほんのささやかな労いの気持ちだ。
このごろコーディは一睡もしていなかった。それほどまでに熱心に情報をかき集めているのだ。



「……5分って所だな、確定的で、世論を一転させるだけの刺激に溢れた情報がまだないからな。だが、少なくとも死刑やら終身刑などは避けれるのは間違いないな」



カップを角砂糖という糖分の爆弾で次々と爆撃しながらコーディが答える。投下された糖分の塊は既に20を超えていた。



これではまるで、コーヒーに砂糖を入れているというよりも、砂糖にコーヒーを足しているという表現の方がしっくりくる。
かつては真っ黒であったコーヒーが、粘ついた白い液体へと変異されていく。


正直な話、グレアムはこの男の糖分好きにはもう諦めがついていた。
他人の味覚や自由に口を出すほど彼は野暮ではない。たとえ将来この男が糖尿病などに掛かっても知ったことか。


まぁ、糖分は疲れを癒すというし、今の彼の状態ならば……。



「やっぱり物足りないな……そうだ、アレがあったんだっけ……」



不満気な声でそう呟き、コーディがガサガサとデスクの引き出しを漁り、目的の物を探す。



「お、あったあった……これは本当にいいものだ」



「お前……ソレは……」



やがてコーディが取り出したのは、以前彼が『地球』に遊びに来た時にえらく嵌ってしまい、衝動的に大量に購入した食品。
ザラザラとした白い大粒が満載された袋。それを見たグレアムの顔が吐き気を抑えている人間の様に真っ白になった。



まさか、ありえない。そんなものをコーヒーに入れるというのか……? 



袋の中身は『サッカリン』という。ショ糖の500倍の甘さを持つ人工甘味料である。

コーディはその袋に無造作に手を突っ込み、一握りほどサッカリンを取ると、全く躊躇わずにそのサッカリンをコーヒーへ・・・…。



「やめろぉおおおおおおおおおおおおおお!!!」



正に悪鬼のような顔を浮かべたグレアムがコーディの腕に咄嗟に【バインド】を掛け
サッカリンを握ったその腕を空間に固定し、恐ろしい、それこそ悪魔崇拝並みに恐ろしい蛮行を阻止。
いつもの温厚で冷静、紳士的な態度を崩すことのないグレアムがここまで必死になるのも珍しい。



「頼むから、コレだけは私の前で使わないでくれ! 特にコーヒーに入れるなど論外だ!!」



「あー……判ったよ。コーヒーには入れねぇよ……」



ブツブツ文句を呟きながら、バインドが解けた腕を口に持っていき……その手に握っているであろうサッカリンを、食った。生で。丸ごと。
そのままガリガリと咀嚼し、口の中に広がるショ糖の500倍の甘さをたっぷりと堪能。


グレアムの顔が白を超えて、茶色になった。彼の頭は今起きたことを理解しきれなかった。まさか、サッカリンを生で食うとは……。




「…………」


言葉を失う彼には気が付かずに時計をチラッと見たコーディが幾分か気力を回復した様な表情で言う。



「お、そろそろ時間だな、これからちょっとプレシアに会って来る。裁判について話し合いたいしな」




「……………………………あぁ、気をつけろよ、主に内臓に」




グレアムはそうとしかいえなかった。





















オルセア帝国 首都『バラルの園』 新暦40年





思ったよりも時間が掛かるものだ。どうせならもっと派手にやってしまおうか?
かつてチェスターといわれ、今はバラルの園と改名された都市にある豪華ホテルの一室から町並みを見下ろしつつヒドラはそう思った。


街の道には笑顔を浮かべた人々が工事現場を見学したり、写真を撮ったりしていた。
そして本来は車などが通る道を大隊規模のマリアージュ達が戦列を組み、プログラムされた機械の様な一糸乱れない動きで行進していた。




空には夥しい数の『蟲』が飛び回り、せっせとヒドラが与えた任務に従事している。
マリアージュの製造と、バラルの園を中心とした都市開発計画に。



バラルの園の周りの地面を頑強な金属で補強し、地下に掘り進んでいく『蟲』も居た。


予定ではまず巨大な地下施設を作り、その上にはバラルの園
更に言うならオルセアの中心となる高さ数キロという威容を誇る軍事センターと霊帝の居城を兼ねた大規模な施設を作るつもりなのだ。



エゼキエルもこの工事に借り出されていると言えば、どれほどヒドラがこの都市開発計画に熱をあげているかが判るだろう。
現在は『蟲』そのものの生産も速めており、その内には120万を超える数の『蟲』がこの工事に携わることになる。




そして『バラルの塔』を中心にバラルの園という首都は完成していくのだ。コレはその第一歩だ。




戦争の準備を1から始めるのは、やはり色々と面倒な事が多い。
兵士にせよ、武器、兵器にせよ、人脈にせよ、ソレらを一から作るのは因果を操り、平行世界を統括、創造し、全ての次元階層宇宙に
影響を与え、支配するだけの力を持っていても、それでも面倒くさい事が多い。決して不可能ではないのだが……。




ヒドラの本体はあまり活動できない。存在が巨大になりすぎて世界の裏で動くには不便だ。
人間が少し歩くだけでアリを潰すのと同じように世界を潰してしまいそうだ。



例の2つのシステムの完成により理論上では不可説不可説転にも及ぶ思念などを飲み込むだけの力を得てしまったせいで、もっと動きづらくなってしまった。
強くなりすぎるというのも考えものだ。ヒドラを動かすヒュードラはそう思わざるを得なかった。
そのために端末としてこのヒドラという人形を作ったのだし、何より、この次元世界に住む者達と同じ目線で居られるというのが楽しい。
バーチャルリアリティと言うのだろうか? こういうのを。但しやっていることは魔王を倒す勇者ではなく、その正反対だが。


まぁ、そういう『縛り』を楽しんでいる節もあるのは否定できない。



それにこうやって少しづつ自分の思い描いた通りの建造物などが作られていく様を見るのも楽しいものだ。
余裕とゆとりを持つ事は大事だ。焦らなくとも全ての計画は順調に進んでいる。


ヒドラは酷くゆったりとした、背筋に寒気が走るような声で自らの隣に立っている小柄な人物に話しかけた。
そしてその小柄な人物の胸の中で暴れ狂う冷たい“恐怖”と“苦悶”を見て、ソレを楽しんだ。


あぁ、面白い。この少女は全て自分の責任だと思っている。
本当に傑作だ。この反応が見たくてあのフラスコからこの少女を開放したと言っても過言ではない。




『イクスヴェリア、どう思うかな? マリアージュ達がこうも揃っている光景というのは、壮観とは思わないか?』



「……貴方は、何と言うことを……マリアージュが何を齎すか、知っているのですか!?」


怒りに身を震わせ、小柄な人物──オレンジ色の髪の毛が特徴的な少女、イクスヴェリアは思わずヒドラにそう叫んでいた。
彼女の眼下では何千という数の恐ろしいまでの均一性を持ったマリアージュ達が行軍している。まるで屍の川だ。



マリアージュは最低限の知能しか持たない。
故に彼女達は忠実な兵士であり、無条件で命令に従い、容易に制御でき、絶対に恐れを抱かないのだ。
それでいて疲れることもないし、報酬を要求することもない。正に理想の軍を作るために生み出された存在である。


マリアージュの“材料”は死体だ。死体にイクスヴェリアの生成する特殊なコアを埋め込むことによってマリアージュは誕生する。
つまり、数千のマリアージュを製造するには……数千の死体が必要になる。




「この平和な世の中に、貴方は、貴方はマリアージュを使って何をしたいのですか!」



眼に涙さえ浮かべ、長身のヒドラに飛び掛らんばかりの勢いでイクスが吼える。
小柄な少女から放たれる威圧感は曲りなりにも『王』と歴史書に認識されるだけの事はあった。


実際は彼女自身も所詮は兵器に過ぎないというのに。だからこそおかしくてたまらなかった。



クスクスクスと、ヒドラが純粋無垢な子供の様な声で肩を揺らし嗤う。
イクスの苦悶を、悲しみを、恐怖を嘲笑った。彼女の全存在、彼女の過去、彼女の必死な想い、彼女の涙を嗤ったのだ。



「何が、何がおかしいんですか!?」



『いや、失礼。余りにも貴女が文献と違う性格なのでね。“先史224年、生誕。古代ベルカ、ガレア王国の君主。戦乱と残虐を好んだ、邪知暴虐の王”……。
 しかし、実際は平和と秩序を愛する心優しい少女……考古学者が知ったら驚くだろうね』



歴史とはいつも捻じ曲がって伝わるものですね、と言いながらヒドラが優しくイクスの頭を撫でようと手をやるが、彼女はその手をを弾いた。



「貴女は……!」


その小さな肩を震わせ、ヒドラを睨みつける。
無機質なフルフェイスマスクに刻まれた3つの眼を真正面から見据え、拳をギュッと握り締める。


ソレを見たヒドラが肩を竦め、今思い出したかのように言う。



『あぁ、そういえば質問されていました。“マリアージュで何をするのか”でしたっけ?
 答えは簡単です。戦争を起こすのですよ。全次元規模のね』 



事も無げに簡単に言う。
対したことではないといわんばかりにヒドラが言った言葉はイクスには到底許せないモノだ。



「っ!! 何で!!?」



イクスの言葉にヒドラが一瞬だけ固まり、次いで仮面を斜めに傾けて、顎に手袋に包まれた手をやって考え込む。
そして放たれた言葉はイクスには永遠に理解出来ないものであった。




『……楽しみたい、からですかね?』



「た、たの……楽しみ、たい?」


『えぇ、そうです、まぁ、考えても見てください。戦争にロマンなどないという者は大勢居ますが、私は違います。
 戦争とはロマンであり、歌劇であり、悲劇であり、喜劇なのです。
 天文学的な量の金、何百万と言うマリアージュ、何千と言う数の質量兵器と戦艦、そして何億という数の命が踊るのですよ? ワクワクしませんか?』



「貴方は………」


イクスが力の抜けたように床にへたり込む。自分の中の怒りが急速に萎んでいくのが判った。
そしてこのヒドラという男がどういう存在なのかも判ってしまった。



狂っている……? いや、違う、この存在には根本的に理性がないのだ。
邪悪という言葉さえも生ぬるい。イカれているという言葉でも表せない。


そう、『外れている』という表現が一番しっくりくる。
世界からも人からも、秩序からさえも、全てからの影響を受けない混沌。それがヒドラという存在だ。




『おや、少し疲れてしまいましたか? 無理もありません。
 あんなフラスコの中に閉じ込めてしまって申し訳ありませんでした、お許しを』



慇懃な態度でヒドラが優雅に一礼。まるで臣下が王にする礼の様な仕草だ。
但し、仮面の下の顔は皮肉気に含み嗤っているのだろう。イクスにはそう思えて仕方なかった。



『貴女のために最高級の部屋を用意しています。もちろん世話役もね。来なさい、トレディア・グラーゼ』



パンパンとヒドラが手を叩くと、音も無く一人の少年が扉から現れた。紅い眼をした少年だ。年は大体10歳くらいだろうか?
茶色の髪の毛をしており、その顔には不遜な自信が満ち溢れていた。




「ヒドラ様。お呼びでしょうか?」



『えぇ……以前貴方に頼んでいた世話の件ですが、彼女ですよ』



そうですか……とトレディアが眼を細め、イクスをその紅い眼で眺める。
まるで血に飢え切った肉食動物に睨まれている様な錯覚をイクスは覚えた。




『では、御機嫌よう。イクスヴェリア』




ヒドラが手で「連れて行け」と合図するとトレディアはイクスの腕を掴み、とても少年のものとは思えないほどの強さで引っ張っていく。
部屋から連れ出される最後の最後までイクスはヒドラを睨み続けていた。そんな彼女にヒドラは片手を大きく上げて「ばいばい」と腕を大きく振って見送る。








『……………』




イクスが退室し、部屋に一人になったヒドラが再び窓の外に眼をやる。そしてゆっくりと考えを巡らす。


現在の状況を確認すると、笑いが思わず零れた。
全ては順調だ。それどころかいい方向に進んでいっている。



例えばこのオルセアという星の地下奥深くには多量の『ナイトメア・クリスタル』を始めとした軍を作る上で必要なレア・メタルが埋まっているということも
判ってきたし、マリアージュに実戦経験を積ませるための模擬戦の相手として丁度いい政府の残党軍も居る。



プレシア・テスタロッサに対する“プレゼント”の内容も大体決まってきており、後は時が来るのを待つだけの状態だ。


他の楽しみと言えば、千年以上前から存在し、歴代の主にその存在の本質を書き換えられ、無限の再生機能と無限の転生機能が暴走していて
発生のたびに悲劇しか振りまけない哀れな魔導書などがあげられる。名前さえも忘れられた本当にかわいそうで滑稽な魔導書。






本当に世界は楽しいことばかりだ。ヒュードラはそう思わずにはいられなかった。



故に彼は宣言した。ありとあらゆる全てに向けて。



『全ては、この私の意のままに』






あとがき



やっと今まで取り組んでいた大きな仕事が終わったので更新します。 
それとようやく原作キャラとヒュードラを会話させることにも成功できて嬉しいですw

次元世界は色々と技術などにハッタリが効くので、書いていて楽しいです。


しかしヒュードラは手綱をしっかりと握っておかないと作者の手から離れていくから困ります。



そして、闇の書……出しても、いいですか?




では、次回の更新にてお会いしましょう。ゆったりと更新をお待ちください。




[19866] 15
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/10/16 19:49


次元世界の中でも『管理世界』と名づけられた世界には管理局法というものが制定されている。
文字通りコレは時空管理局が作った統治のための法律であり、この中には基本的人権の尊重やら異種族と人間種の間を取り持つ内容やら
様々な種類の犯罪についての対処が記載されている。または遺産相続の仕方やら、家庭内でのささやかなトラブルを解消するための法までもある。



管理世界に住まう何百、何千億もの知的生命体はそれぞれの世界の言語に翻訳されたこの法律を手に取り、眼を通し、それに従って生きている。
明らかに法の内容がおかしかったり、法の内容が時代の変化についていけなくなった時は彼らはソレを嘆願書という形で管理局に訴え
法を変えるための手続きと、そのための話し合いの場を設ける権利を所有していた。


数え切れない程の知的種族が入り混じって生活する次元世界では法律には柔軟さが求められるのだ。


まぁ、近年では一部の少しばかり思い上がってしまった管理局の職員が管理外世界にまでこの管理局法を強引に推し進めようとする事件などもあり
中々に話題になったこともある。彼は管理外世界で発見されたロスト・ロギアを、所有者から強引に奪ったのだ。ご丁寧に魔法で痛めつけた後に。
ほとんど殺人未遂と言っても過言ではない。被害を受けたのは男1人、女1人、子供2人の至って平凡な親子だ。


当然これは違法であり、倫理的にも、そして人道的もアウトな行為。
彼は何を狂っていたのか、魔導師なら法律は多少優しくなってくれるとでも思っていたのだろうか?


残念ながら管理局はそこまで魔導師を優遇するつもりなどない。
結果、彼は魔力封印措置の上、ミッドチルダの衛星軌道上にある最高クラスのセキリティーを誇る刑務所に収監された。
今頃は地上から数万キロ離れた宇宙空間の中の刑務所の一室で己の行いを後悔していることだろう。



まぁ、後60年もすれば出てこれるし、それまではたっぷりと刑務所生活を謳歌するといい。
三食揃った栄養価を考えられたまずい飯と、一日8時間の労働はさぞや健康にいいだろう。




……途中で獄中死しなければの話だが。










今日、新暦40年のとある日にも1つの裁判が行われていた。
この裁判はとても世間の注目を集めており、傍聴席のチケットは販売開始からほんの十数分で売り切れたほどだ。



そして、この裁判の場で裁かれることになる被告はとてつもない罪人だと世間一般の者達は“思っていた”
我が子を殺し、世界を一つ滅ぼし、何十という犠牲者を生み出した狂気の女であると世間の者はマスコミに伝えられていたのだ。


『アルゴ・レルネー』という辺境世界で見つかったロスト・ロギア『ヒュードラ』
それの絶大な力に心を奪われ、倫理や人道を踏みにじった者、当初TVはそういう風に繰り返し放送していた。
ちなみにその番組のスポンサーはアレクトロ社というエネルギー関連や魔導機器の製品を扱う会社。


このアレクトロ社に被告がかつて属していたというのは決して偶然ではないだろう。


その世紀の犯罪者と世界中から罵りを受けた人物の名前はプレシアと言った。
プレシア・テスタロッサ。犯人の名前はそういった。もちろん女性だ。男でプレシアという名前の人物は……多分いないだろう。
彼女は永久機関だったかも知れないロスト・ロギア『ヒュードラ』の力に心奪われ、上層部の反対を押し切り危険な実験を強引に行い
その結果アルゴ・レルネーに通常の十数倍の魔力素を撒き散らし、あの世界を滅ぼした。



そう、ミッドチルダのとある番組……クラナガン・ニュースは放送した。
ちなみにこの番組の最も大きなスポンサーもアレクトロ社である。




それから数ヶ月。
事件発生当初に大多数の人物が信じていたヒュードラ事件の概要は大きく覆されることになる。





ある日、唐突に、何の前触れも無くミッドチルダの大手動画サイトに一つの動画が投稿されたのだ。
一日に何万という動画が投稿される中で、その動画は埋もれることなく、僅か一日だけで何百万再生という異常な再生数をたたき出す事に成功する。
それほどまでに刺激的で、なおかつ信頼性があった動画なのだ。



投稿したユーザーの名前はヒュー・ラーと言った。
かつて『アルゴ・レルネー』に在住し、プレシア氏とも直接出会ったことのあるというこのユーザーは質問にコメントでこう答えた。



『私は正義と真実を信じている。彼女の無罪が真実であるという事を世間に知ってほしいのです。彼女は無罪だ。これがその証拠です』



と。



現在、管理局サイバー犯罪対策部はこの人物を全力で追い続けているが、未だに尻尾もつかめていない。
本当にこのユーザーは存在するのか? とまで関係者には言われている。もしくは時代を数世紀先取りした天才的なハッカーとも。



それに……これは動画サイト運営の関係者しか知らないことだが、この人物の投稿した動画は何故か消去を受け付けないのだ。
幾ら消去しようとしても、絶対に消去できないのだ。何故か。最後にはそうしようという気力さえも“何故か”失せた。



話を本題に戻そう。




彼、もしくは彼女が投稿した動画の内容は至極単純。
プレシア氏とアレクトロ社の上層部の会話だ。但し、その内容は事件当初に公開されたモノとは正反対であった。


アルゴ・レルネーの研究施設、その会議室の監視カメラの映像をヒュー・ラー氏は全世界に提供したのだ。
ヒュー氏がこの情報をどこで手に入れたのかは全くの不明である。それどころか、ヒュー・ラー氏そのものが謎の固まりだ。





いかに彼(彼女)が投稿した動画、その内容を一部抜粋。





──宜しい。この炉を本格的に稼動させてみたまえ。どれくらいのエネルギーが現段階で一度に取り出せるか、見てみたい




冷徹な男の声。あの顔色の悪い眼鏡を掛けた男の声だ。マイクを舌でべろべろと舐めまわして喋っているような、聞いているだけで不愉快になりそうな声である。
事件当初の証拠ビデオでは彼は焦りを全面に押し出した声で、プレシアの凶行を必死に止めようとしていたはずなのだが……。
今の彼の台詞は本当に奇遇なことにプレシアに実験を行うように指示している様に聞こえる。本当に何故だろうか?



──あの、……もう一度、お願いします。 今、なんと仰いましたか?



呆然としたプレシアの声。言われたことが理解できないといわんばかりの声であった。
その声音には狂気など欠片も混じっていない。逆に確かな理性と知性を聴く者に感じさせ、好感さえ抱ける。
確かに大魔導師といわれるだけはある。その声にはエレガントな気品さえもあった。


こんな台詞ではなく、もっと凛々しい言葉を彼女に言わせたら世の男は思わず平伏してしまいそうだ。




そしてプレシアに答えるのはあのマイクの上をナメクジでも這わせているような、
聴いているだけでもむかっ腹が立ってくる声である。あの眼鏡を掛けた顔色の悪い幹部が発する耳障りなボイス。



──聞こえなかったのかね? あの炉を最大出力で稼動させろと言ったのだよ



一言。たった一言。しかし決定的な一言であった。世論を一変させるにはこれ以上ないほどのネタだ。
これだけでもプレシアの罪を消し去るには十分な効果をあげる事が出来るのに、この動画はまだここで終わりではなかった。


まだ続きがある。更に衝撃的な内容を満載した続きが。
世のそういったゴシップ好きなら一も二もなく飛びつきそうなネタを満載した続きが。



──テスタロッサ君。やるのだよ。きみが。成功すれば君は次元世界に名を残す偉大な魔導師だよ
──プレシア・テスタロッサ君……やるのだよ。それしか道はない。娘さんはかわいいだろう?



冷たい声でアレクトロ社の会長である老人は言い放つ。彼の家系はベルカ時代から続いており、大金持ちである彼は次元世界でも有数の有名人である。
そんな彼はこの動画の中では普段TVなどで見せている、温厚なお人よしで、子供好きな老人であるというキャラは全く感じられないほどに冷たい表情と声でプレシアに命令をしていた。
即ち、あのアルゴ・レルネーを崩壊させた悲劇。ヒュードラ炉の稼動を。後に何万という動物の命を奪うことになる指令。



死んだ星の地表の様に冷たい貌、そして狂気で輝いている窪んだ眼窩に収まる一対の眼は視聴者の肝を凍らせた。
同時にこれ以上ない程の壮絶なリアリティを視聴者に提供することにも成功しており、彼らに飽きない話題を提供することにも成功している。



直ぐにこの動画は電脳世界を駆け巡り、大手の電子提示版サイトや他の動画サイト、
終いには管理局にも届くことになり、徹底的に調べ上げられることになる。



結果、この動画には目立った編集の後は見られない、という事実のみが残された。
少なくとも、編集などに見られる不自然な点は見当たらなかったと管理局は発表したのだ。
調べたのはかつてプレシアが属していたミッド中央のサイバー犯罪対策部だ。
最もミッドチルダで電脳関係に詳しい者たちが集まる場所である。


そしてもう一つ、彼らは驚く発表を行う。


──アレクトロ社の提供した資料には数多くの編集の後があると。


直ぐに特番が組まれ、どこがどう怪しいのかを徹底的に専門家は番組の中で説明を行う。
理路整然とし、全てが理屈と、それでいて初心者にも判りやすい彼らの説明は要約してしまえばこうなる。




『あの会社は嘘をついた』と。





そしてこの流れに共鳴するように続々とかつてあの研究所で働いていた職員の供述が続々と表に出てくる。
この機会を待っていたといわんばかりに。



『彼女は僕たちの何倍も働き、僕たちに休みを与えてくれた。僕たちの抜けた穴を彼女は必死に塞いでいたんだ』


かつて彼女の同僚であり、彼女と共に炉の調整に当たっていたスタッフは言う。



『テスタロッサさんは娘さんを心の底から愛していたのよ。食堂でも仲良くご飯を食べていたしね。
 ヒュードラを見てはしゃいでいた時の娘さんとの会話は忘れられないわ』



かつてのプレシアとアリシアの微笑ましい会話を見て
家族を思い出し涙ぐんでいたマッシブルな体形の色黒な職員はそう述べて、世間で言われている娘のことなど何も考えていないプレシア像を真っ向から否定した。




世論は一転した。
かつて犯罪者と言われて、ありとあらゆる憎しみを受けていた彼女はもしかしたら、被害者なのかもしれない……。
本当のヒュードラ事件の本人はたった一人の女性に全ての罪を擦り付け
自分たちはいかにも正義の味方であり、彼女の暴走を止められなかった被害者なのです。と、言っている者達だとしたら?




ここに判りやすい“善”と“悪”の構造が生まれた。“善”はプレシア。事件の罪を全て押し付けられ、娘の死さえも汚された哀れな魔女。
“悪”はアレクトロ社。その上層部。たった一人の女性にすべての罪を押し付け、自分は正義だと言い張る恥知らず。


この単純明快で判りやすい図式は大いに世の人々の正義感を燃え上がらせることに成功した。
次々と情報が飛び交い、そのどれもがアレクトロ社の悪事を糾弾するものであり、同社の株と信頼を恐ろしい勢いで落下させていく。
事実上、アレクトロは倒産寸前まで追い詰められていた。ヒュー・ラー氏が動画を投稿して数週間でだ。



そしてそんな情勢の中での裁判である。ありとあらゆる証拠が揃った中での裁判だ。
そのほとんどがプレシアの無実を訴える証拠ばかりなのは偶然ではない。



全ての流れがプレシアに味方をしていた。
まるで“神の見えざる手”がこの流れを作ったと言われても納得できるぐらいに。
世界はまるで冗談の様に彼女を助けていた。“こんなはずじゃなかった世界”が彼女に救いの手を伸ばしていたのだ。



この裁判は裁判とは名ばかりであった。ただの儀式と言ってもいい。
プレシアの無実を公共の場に宣言する、その役目だけを課された裁判。



そして裁判所にドンドンという木槌が振り下ろされる音が二回響き、裁判所の奥深くまで届くハッキリとした大きな声でソレは宣言された。




「被告、プレシア・テスタロッサ氏を無実とする。及び、アレクトロ社はテスタロッサ氏に──」



後は長々と裁判長の言葉が続き、アレクトロ社に莫大な量の慰謝料の支払いを命じていく。
その金額の量は奇しくも、かつてアレクトロがプレシアを雇う時に提示した金額と同等であった。
恐ろしい程の巨額。一生遊んで暮らしても大量のおつりが来るほどの大金だ。




「…………」



だが、そんな言葉をプレシアは何処か虚しい気持ちで聞いていた。
もちろん無罪になったのは嬉しいし、これでもう暫くしたら自由の身になれるというのも楽しみだ。
まさかここまで世論にズタズタにされたアレクトロが上告するとは思えない。それでは余計に叩かれるだけだ。


あの忌々しい欲の塊共が件並み破滅したと思うと、彼女は大声で嗤いたくなる衝動に襲われる。
ざまぁみろと叫んでやりたいぐらいだ。


だが、こんな裁判に勝っても、無罪を証明しても、ヒュードラ事件の真相を暴いても、アリシアは帰ってこない。



そう思うと悲しくなった。
愛する娘も、愛する男もいない世界でどう生きろというのだ?



……だが、生きるしかない。だけど、一人で生きるのは辛い。



「…………」


そう思った瞬間、ふと、プレシアの脳内に一つの事柄が浮かんだ。
生前の夫が行った一つの所業が、唐突に、本当に何の前触れもなくいきなり浮かんで来たのだ。
こういうのを「ひらめいた」と言うのだろうか? 何故、今まで気が付かなかったのか不思議でならない。


夫がそれを行った時は思わず笑ってしまったが、今の状況からしてみれば、正に天から垂らされた一本の蜘蛛の糸だ。 


法廷の上では未だに裁判長が延々と長いご高説を垂れ流している。もう、無罪は決まったというのによく廻る舌だ。



彼女の高鳴る心臓は全身に猛烈な勢いで血液を送り出し、プレシアの体温を徐々にではあるが上昇させていく。
その美しい顔は上気し、身体は素晴らしい高揚感に満ちていく。



これだ。これだ。これだ。これだ。

これだ。これだ。これだ。これだ。

これだ。これだ。これだ。これだ。



これならば、アリシアにもう一度出会えるかも知れない。
いや、アリシアはもういない。だが、コレならばもう一人ではなくなる。少なくとも新しい家族が手に入る。
あの人との愛の結晶をもう一人産めるかもしれないのだ。




彼女は裁判長が閉廷を宣言するまで自分の思考に没頭し続けた。
彼女の頭を占有するのは、つい10年程度前に本格的に施行され、実用され始めた制度……“精子バンク”についてであった。
























新暦40年 オルセア帝国 南部 オルセア開放戦線 本部




オルセア開放戦線という組織がある。
異教徒に支配されたオルセアを悪魔の手から開放するという名目で結成されたこの組織は至る所でオルセア帝国に対してテロ活動を行う、一種のテロリスト集団だ。
しかし只のテロリストと違うのはその規模だろう。
このオルセア開放戦線はそこいらのテロ集団とはその規模、錬度共に次元違いの大きさを誇っていた。



この戦線はかつてのオルセア帝国建国の際に行われた“戦争”……。
あの一方的な殺戮を何とか逃げ延びた資産家や軍人、その他様々なジャンルの豊かな者達が集まって出来た組織だ。
彼らはオルセア南部に建造されていた基地に集合し、そこにかつて国家が秘密裏に作っていた質量兵器の生産工場を稼動させて、そこから戦力を得ている。


ゆえ、彼らは独立した軍隊と言っても過言ではない。無数の質量兵器で武装し、今なおオルセア帝国とバラルの民に牙を剥き続ける過去の亡霊。



オルセア中の都市を崩壊させ、何億もの犠牲者を出した終焉と再生の夜を“生かしてもらった”彼らは国境を超え、宗教の垣根を超え、一つの目的の元に集まったのだ。
皮肉なことにオルセア帝国という強大な敵を前に彼らはようやく長年の因縁を水に流し、手を取り合った。
おめでとう。何百年も憎しみ合い、殺しあった者達が握手し、共闘を約束した光景は本当に美しい。




……もう全て遅いが。


今さら遅すぎる。彼らは一つだけ理解していなかった。既に、遥か昔に、自分たちは完璧にチェック・メイトを掛けられていたことを。
あと数年、いや、あと数ヶ月早くソレを実行できていればあの存在はこのオルセアに来ることはなかっただろうに。



今はその基地はズタズタにされていた。
金に糸目をつけず構築された最新鋭の防衛システムは無数の物量でじわじわと食い破られ、既に対空砲撃システムの4割は完全に破壊されている。
そうして空いた対空砲火の穴に『蟲』が飛び込み、更に対空砲を破壊し穴を広げ、エゼキエルの『オルガ・キャノン』が火を吹き、装甲車両を小隊ごと纏めて蒸発させる。


既にこの戦いに戦術もへったくれもない。数で押しつぶしているのだ。
細かい戦術を取るよりも、数で押しつぶすのは一番効率的だし、短期で終わるし、何より派手で楽しい。
古今東西、数が多いほうが9割方勝利するのだ。例外としてガンエデンやナイトメア・クリスタルで構築された『悪魔』などがいるが、アレは本当に特殊な例なので、参考にしてはいけない。


天には無数の『蟲』とエゼキエルが飛び交い、地には屍兵器・マリアージュが軍集団規模で隊列を組み行進している。
無数の死者と機械の軍勢に完全に基地は四方八方から包囲され、後は完全な破壊を待つだけ。もう、事実上の“詰み”だ。


マリアージュ達は仲間が撃たれようが、バラバラになろうが、全くの恐怖を見せず激しい弾幕の中を全力で疾走し、敵兵士を次々に刃に変形させた両手で血祭りに上げていく。
四肢がもげてもぴょんぴょんと胴体だけで跳ね回る姿は……酷く恐ろしい。










そんな地獄の様な光景を見渡すことが出来る小高い丘の上にオルセア帝国の最高権力者である霊帝ルアフとその側近であるヒドラはいた。
無論護衛に囲まれてはいるが。彼らの周りには三体の2メートル程度の長さの杖の様な形状をしたエネルギー式の銃槍『ダカル・スピア』を装備した処刑人と
軍団長クラスの、他の個体よりも戦闘力と思考能力の高い5体のマリアージュがいた。




ルアフは霊帝らしい豪奢で純白のマントと幾つもの金銀で装飾の施された贅沢な衣装をその身に纏っており、かつてボロ布を纏い、母親から虐待されていた頃の面影は見られない。
全てヒドラが用意していたものだ。これらの衣装は恐ろしい程にルアフに似合っている。彼に神々しさを与える衣装。溜め息が出るほどに見事な服である。



今の彼は過去のルアフ・ブルーネルではなかった。母に虐待され、捨てられ、腐乱死体となった彼は消えたのだ。永遠に。
今の彼はルアフ・ガンエデン。オルセアを……ゆくゆくは全ての次元世界を統べることになる存在であるとヒドラに囁かれ、その道を行くと決めた存在だ。
燃え滾る野心と、子供の残忍さを持った彼は眼下の地獄の様な戦場を見下ろしてつまらなそうに鼻を鳴らす。


オルセアで神と崇められる少年は、敬語の中に尊大さと傲慢さを混ぜ合わせたような声音ですぐ隣に立つ紅いマントとローブ、そして金属製の三眼の仮面を被った男に尋ねる。


「ヒドラ、どうして僕をここに連れてきたんだい? 念動力の訓練っていうのは一体何をするのさ?」



自分の居城であり、未だに建設途中の霊帝宮『バラルの塔』から連れ出され、こんな光景を見せられた彼が不機嫌になるのも無理は無いだろう。
もう少し自分の城が完成していく光景を見たかったという思いも、まぁ判らなくもない。


ヒドラは答えた。いつも通り、男か女かさえも判らない声で。
大げさに両手を体の前で振り、彼は言う。心底楽しそうな声音だ。



『見ていれば判りますよ。きっと、凄く楽しいですよ? えぇ、力を振るうのは楽しいものです』



その言葉を合図にしたかのようにドーンという大きな音が戦場から響き渡る。次いで眼に見えるほどの空気の層、衝撃波が襲ってくる。
ざざざと草木が倒れ、大地は小規模の地震の様に震え、突風が吹きすさぶ。まるでオーバーSの魔導師が全力で砲撃を行ったかのような衝撃である。


が、その全ては彼らに届くことはなかった。全てヒドラとルアフに届く前にかき消され、何の影響も与えることは出来ない。
不可視の念動フィールドは容易く全ての干渉を無効にし、かき消したのだ。


「これが楽しいこと? 残念だけど、僕はつまらなかったよ」


念動力を行使し、ありとあらゆる衝撃も突風も消し去ったルアフが不機嫌そうに言う。その仕草だけ見れば可愛らしい子供に見えなくも無い。
少しづつ、力の行使に慣れてきたのだろう。その心の内にある余裕と慢心がヒドラには見えた。


……だからこそ、これからが楽しみなのだ。さて、どれほど力が成長しているかが見ものである。



『いえいえ、お楽しみはこれからですよ』



ヒドラが一言。それが“お楽しみ”の開始の合図であった。


ピピピと通信端末に連絡が入る。一体の軍団長マリアージュがそれの受信ボタンを押し、空間モニターを展開。
直ぐに青白い光と共に一体の軍団長マリアージュが虚空に映し出された。通信装置を持っているマリアージュがソレをヒドラに向けて位置を調整する。


特に一般のマリアージュと外見の相違は見られない軍団長マリアージュは淡々と人間味の一切感じられない声で報告を行う。



『報告 敵勢力に極めて強力な魔導師を発見。既存のマリアージュだけではあの機動性、そして火力には対処し切れません。ご指示を』



『問題ありません。その魔導師はこっちに向かって来ますから、私が排除しておきますよ。君達は気にせず制圧を続けてください』



『了解』



その声を最後に通信が切れる。あのマリアージュのことだ。命令を最後まで果たしてくれるだろう。



「魔道師って何さ? こっちに来るとか言ってたけど」



ルアフの疑問にヒドラは事も無げに答える。何も問題ないといわんばかりに。



『空を飛んだり、生身でレーザー砲を撃ったり、個人で天候を操ったりする人間のことですよ。まぁ、強さの強弱は激しいですがね』



「……僕にそれと戦えと?」



うん。と、ヒドラが無邪気にその鉄仮面を縦に振った。頷いたのだ。
はぁ、とルアフが溜め息を吐き、肩を竦め、ヒドラを睨みつける。



「そういう事は事前に言っておいて欲しいね。少し勝手すぎないかい?」


責めるようなルアフの視線。口調こそ丁寧だが、彼の心の底にあったのは怒りだ。
それを“見た”ヒドラがクスクスと嗤い、そして言う。



『はい。では事前に言っておきましょう。この戦いが終わった後、私はしばらくオルセアを留守にさせてもらいます』



「──え? それって……」



どういうこと? とは聞く事はできなかった。何故ならば彼の念動力が危険の到来を伝えたから。
危険、もしくは脅威とも言う存在がいるだろう方向にルアフが顔を向ける。戦場に。


異変は直ぐに起きた。それもありがたいことにとても判りやすい形で。
戦場で一際大きな輝きが発生したのだ。独特の輝きを持った光。
太陽の光と電球の灯りぐらいしか光の種類を知らないルアフにはあの光が魔力光とは気がつく事は出来なかった。


青い。とても澄み切った青だ。そんな光を放つ光玉が飛んでいる。
純度の高い高価なサファイアに光を通せば、あんな感じの光を反射するのだろうなと思えるぐらいに青く、美しい光が輝いていた。
真っ青な光を放つ光源は徐々に大きくなっていく。否、ルアフたちに近づいているのだ。



青、紅、黒、それぞれ色違いの防爆、防弾仕様の分厚いローブを着込んだ処刑人が一番早く動いた。
『ダカル・スピア』の起動スイッチを手早くその三本の指で押し、銃槍の先端にプラズマの刃を発生させ、ソレを構えて戦闘体勢に入る。


次にマリアージュの両腕を対装甲車両用の炸裂榴弾砲に変化、一瞬の躊躇いも無く青い光に向かって叩き込む。
並みの人間ならばミンチどころか、灰になっても不思議ではない一撃。



ぽぉんという、コルクの抜けた様な気持ちのいい音と共に発射された炸裂榴弾は放物線を描いて飛んでいき、そして、外した。
遥か彼方の地面に命中した弾丸は小規模の爆発を巻き起こし、戦場の被害を更に増大させる。
二、三体ほど味方のマリアージュが吹っ飛んだが、まぁ、所詮はその程度だ。


勿論たったの一撃で攻撃が終わるはずがない、ポォン、ポォン、ポォン、と5体のマリアージュは休む暇なく両腕の発射口から炸裂榴弾を乱射し
敵と認識したあの青い物体を撃ち落そうとする、が、ヒラリヒラリとその尽くが交わされ、一発も命中には至らない。
コレは高速で移動する相手には少々当てづらい弾種なのだ。マリアージュ達がそれに気が付くには少々の時間を有したが、気が付いた時にはもう遅い。


青い光に包まれた高位の魔道師と思わしき人物は数本の魔力で編み上げた魔力の刃【スティンガー・スナイプ】と俗に言われている魔法を
マリアージュ達に叩き込み、彼女らの上半身を熟れたトマトの様に粉々に砕く。
魔力素で編まれた剣はマリアージュの簡易バリアジャケットをずたずたにした。


うん。もう少し装甲の強化と火器の増量が必要だな。ついでに思考ももう少し柔軟にしないと。
ヒドラはあっという間に5体の護衛のマリアージュが血を噴水の様に噴出す狂気的な外見のオブジェに変えられる光景をみて、そう思った。


今回のこの戦闘はマリアージュの改造する場所を洗い出すために起こしたものでもあるのだ。



バラバラになった血と肉があたりに飛び散り、処刑人の高価な仕様のローブを汚すが、ヒドラとルアフには届かない。



青い光に包まれた魔導師がヒドラとルアフ、そして残った3体の処刑人の護衛の前に降り立ち、その真っ青な眼で彼らを睨みつけた。


ほぅ? ヒドラはこの予想通りに入ってきた乱入者を見て小さく顔を横に傾げた。
まだ少年ではないか。10代の半ば、目測が入るが、大体12、3歳ぐらいか。


オルセアに魔道師がいたという事に対して驚きはない。何処にでもはぐれ者はいるものだ。
もしくはオルセアの上層部が念入りに研究を重ねて生み出した人工の魔導師か……。


青い綺麗な髪に整った顔は女性のように美しい。が、その眼は敵意で満ちており、憎悪さえ混じった眼でこっちを見ている──。



「お前達が“霊帝”とその側近の“ヒドラ”だな?」



怒りを抑えた声で淡々と魔導師が確認を行う。
ルアフがふんっと鼻を鳴らして、つまらなさそうに答えた。彼としては早く霊帝宮に帰って寝たいのだろう。


「そうだけど、それがどうかしたのかな?」



「神の名を語るお前達は今この場で裁かれなければいけない。死んでもらおうか」



はぁっとルアフが溜め息を吐き、魔道師を漆黒の宇宙空間の様な冷たい眼で見やる。
心なしかその眼には哀れみさえも混ざっているように思える。


やれやれだ。
また“神”か。僕が助けてくれと祈った時は何もしてくれなかった神を、君達はまだ信じるのか?


滅亡を前にして、まだいもしない“神”に頼るなんてね。




「君の怒りや悲しみに、もっと言うなら僕は君そのものに興味ないんだよ。正直言って、君の思念は凄く邪魔な騒音なんだ。だからさっさと死んでくれるかな?」



──殺せ。



ルアフが既に『ダカル・スピア』を構え、戦闘体勢に入っていた処刑人に念話で許可を下す。


全身を魔導昆虫種の頑強な甲殻で覆われ、人間の十倍も強く、そして早く動く事が可能な腕を処刑人は人間の眼には見えない速度で振り回し
銃槍の先端に構築されたプラズマの刃をもってこの魔道師を焼け焦げた死体に変貌させようとする。


一秒に3回、処刑人はダカル・スピアを動かすことが出来た。
処刑人1体で3回だ。処刑人の数が3倍の3体になれば、当然その数は掛け算される。
この扱いの難しく、とても重い槍の使い方を徹底的に頭の中に叩き込まれた彼らはダカル・スピアを手足の延長線上と同じように動かすことが出来るのだ。



一秒間に9回。ありとあらゆる場所からの攻撃が魔道師を襲う。
異なった角度から、異なった速度と強さで槍は魔導師に襲い掛かった。
しかも、切る、叩く、突く、焼く、これらの攻撃が予想のつけようのないバラバラのリズムで来るのだ。
そのどれもが受け損なった瞬間、一瞬であの世いきである。


が、そのどれもが魔道師に傷を付けることは出来なかった。


この魔道師は決して速すぎず、なおかつ遅すぎない、気持ち言いぐらいに丁度間に合う速度で身体を動かし、
体重と体のスタンスを正確に、ほんの僅かだけ移動させて
処刑人の嵐の様な容赦ない攻撃の渦を3、6、9、12、と微妙にかわしていく。



時々どうしてもよけられない攻撃は一瞬だけ手に傾斜のあるシールドを発生させて、受け流しているのがルアフには見えた。


おぉ凄い。ルアフは正直にそう思った。ただの魔道師があの攻撃を防ぐなんて凄い。まるで曲芸みたいだ。


次いで魔道師はその見事な体重移動の技術を攻撃に転用させる。
攻撃を道化師の様に右に左に揺れて避けながら、ほんの僅かだけその手に持った剣型のアームド・デバイスを槍の刀身に沿うように走らせ……。





シャカ。



その先にあった処刑人の内の一体、青いローブを着ている彼の片腕をそのローブごと簡単に切り落とした。



「!」



処刑人の口から悲鳴が漏れるよりも早く、魔力を纏った刃を青ローブの腰辺りにあてて、ソレを草刈鎌の様に横に薙ぐ。



結果は真っ二つだ。オォオオオオオオオと耳障りな悲鳴を上げて処刑人の上半身は前のめりに倒れ、地に落下していくが
残念ながら彼は運が悪かった。丁度彼のいる場所は、他の処刑人の槍が、しかも最も殺傷力のあるプラズマを纏った部分が通過するポイントだったのだ。



「アアガギャアアアアアアアアアア!!!!!!」



ボン。プラズマの極大熱量に一瞬で体の隅々まで焼かれ、ありとあらゆる水分を蒸発させた処刑人は“バラバラ”になった。
一応は耐火の性能があったローブもプラズマの火力には耐え切れず瞬時に燃え尽き、灰を撒き散らす。



処刑人の沸騰した体液で煙が発生し、辺りを覆う。思わずルアフは鼻を押さえた。
いや、念動フィールドに包まれた彼には煙の一滴も届かないが、生理的にこの薄い茶色の煙は……気持ち悪い。



更に煙に包まれた向こう側で青い光刃が数回閃く。
その数瞬後、ドサっという、何かとても大柄な人物が倒れる音がした。



ゴロゴロと丸くて、大きな物体がヒドラとルアフの前に転がってくる。
サッカー・ボール程度の大きさと形をもったソレは首だ。処刑人の首。
カッと見開いた昆虫の複眼は虚空の向こう側を睨みつけている。


傷口からはドクドクと薄い茶色の体液と血液が流れ続け、小さな汚い水溜りを作っていた。


ソレを見て少し気分が悪くなったルアフはこの首を念動力で荒野の何処か彼方に力の限り放り投げた。
昆虫と人間の成人男性を組み合わせた生命体の生首というのは……少々グロテスクだ。






「次はお前達がこうなる。神の名を汚し、何億もの罪無き者を殺したお前達には地獄さえも生ぬるいだろう」
 


片手に処刑人の首をぶら下げ、煙を剣の一振りで吹き飛ばして現れた魔導師はヒドラとルアフに向け、明確な殺意と共にそう宣言する。
以前のルアフならば恐怖で動けなくなったであろう。人間だった頃の彼ならば、許しを乞うていただろう。


だが、今ここに居るのは人間・ルアフ・ブルーネルではない。オルセアの唯一神・ルアフ・ガンエデンである。


そして彼がこの魔導師の言葉に抱いた感情は生憎、罪悪感でも、恐怖でもなく、怒りだ。
ルアフは怒りを感じたのだ。憎悪といってもいい。


神神神神神。
その神を信奉する者らによって母を歪められた彼にとって、この言葉は逆鱗を撫でられるのと等しい効果を齎していた。



ルアフは自信の念動力を引き出す。
底の知れないほどの巨大な力を自分の周囲に集め、自分の中で銀河の様な壮大な渦巻きを創造する。
今、ルアフは自分が世界の中心になるのを感じた。全てが彼を中心に渦巻く、今の彼の念動力で出来ないことは何もない。


絶対の自信を持ってそういいきれるほどの力が今の彼にはあった。
この力はヒドラから貰ったものではない。元から彼が持っていた力だ。この力が原因で彼は一度破滅したが、今度は違う。



全身を心地よい力に包み込まれながら、ルアフは淡々と言う。



「それは大いなる勘違いだよ。僕以外に神がいるわけない。君は……残党の人形風情が、人間気取りするのは、やめたら?」



チラッと一瞬だけルアフがヒドラに視線をやる。ヒドラは直立不動のまま黙って状況を静観している。顔を左右に小さく揺らしながら。
念動力でありとあらゆる物事を“見る”ことが出来るほど強化されたルアフの眼に、ヒドラは酷く……形容しがたいものに映った。


彼の金属のフルフェイス・マスクの内には何もなかった。
念動力を高めて、よく注視すると、ヒドラには何本もの“糸”が纏わりついているのが見える。



まるで人形師が人形を操る時に使う糸だ。その“糸”の先は……言葉では形容しがたい。
何がそこにあるのか、全く見えない。夜空の闇のようにも見えるし、完全な無にも見える。もしくは全てを内包した混沌か。
闇を超えた闇、そう形容するのが一番相応しい。そうとしか言い表せない。




そしてそこに3つの瞼のない、炎で形作られた眼がある。それだけははっきりと見える。
その存在は白い口の様な裂け目と3つの眼、それだけで構成された顔をルアフに向けている。
まるでルアフを見定めているようにも見えた。どれほどの力を持っているか、見ているのだろう。
そしてこの“貌”は意地悪く嗤っている様にも見えたような気がした。



ここでこの存在に小さく見られるのは嫌だった。


故に彼は少々本気を出すことにした。




「ふふっ、“天罰覿面”って奴を見せてあげるよ、死ぬ前に少し祈ったらどう?」



「…………」



小ばかにしたルアフの言葉に魔道師からの返答はなく、返答の変わりに彼が行ったのは数本の
【スティンガー・レイ】をルアフに向け、十分な魔力を込めて撃つというモノであった。

この技は威力自体はそれほど強くはないが、速度とバリアの貫通能力が高いため、対魔導師用としては優秀な魔法。
そう、特に神を語り、正体不明の結界を張る魔道師モドキを殺す時とかに使うといいだろう。


たった数本のスティンガー・レイ。だが、その威力は普通の人間をズタズタにするのには十分すぎる。



「無駄無駄。君の力なんて、僕には通じないよ」



が、それは相手が普通の人間の場合。もしくは普通の魔道師の結界を破る場合の話だ。
ルアフのコレは……少々違う。もっと根源的な力だ。
これを破るには、同種の念動力でルアフを上回るか、もしくはもっと単純に彼が守りきれない程の力を叩き込むしかない。


残念だが、この魔導師にはその両方がなかった。
結果、全てのスティンガー・レイは彼の念動フィールドを揺るがすことも出来ず、霧散し、魔力素を多分に含む霧となり、やがて消えた。


面倒くさい。そろそろ、この茶番にも飽きてきた。早く片付けて、ヒドラにさっきの言葉の真意を問いたいのだ。
たとえ、この魔道師がどんな魔法を使おうが、どんな奇跡を起こそうが、絶対に自分に勝てるわけない。

それに、今の彼はこの魔道師を嬲ろうとさえ思わなかった。さっさと終わらせたかったのだ。




終わらせよう。飽きた。この滑稽なショーにも。





───テトラクテュス・グラマトン───




オオオオオオオオという甲高い歓喜の歌とともに、天に無数の12角形の魔法陣が展開され………。





【マヴェット・ゴスペル】





裁きは下された。文字通りの天罰覿面である。
一条の煌びやかな光線が、当たり一体を根こそぎ吹き飛ばすという形で霊帝の正義は執行されたのだ。




圧倒的な青光りに飲み込まれ、魔道師は断末魔の叫びさえ上げることが叶わずに……蒸発した。














「かなりの手加減はしたんだけどね……まぁ、いいや」



クレーター。かつてあの魔道師が居た地点に産まれたクレーターを見てルアフは言う。
二人が先ほどまで立っていた小高い丘は完全にその姿を一変させていた。
お椀の様な盛り上がった形をしていた地形は大きく削られ、まるで巨人に噛み千切られたように大きく抉れていた。
粘土で作った山に、思いっきり拳を振り下ろせばこんな形になるだろう。



今、両者はそんな景色を上空から見ていた。生身で二人は空に浮かんでいる。普通ならありえないが、この二人にとってこれぐらいは容易いことである。



『いえいえ。これぐらいが丁度いいですよ。やはり陛下の力は素晴らしい、この私、不覚にも感動してしまいました』



パチパチとヒドラが手を叩き合わせ、大仰な身振り、手振りで過剰なまでにその胸の内の感情を表そうとする。
声そのものは何処までも無機質なのが、全体的にアンバランスさを醸し出していて、気味が悪かった。


そんなヒドラをルアフが睨みつけ、あふれ出る不機嫌さを隠そうともせずに彼は刺々しい口調で。



「で? オルセアを留守にするって、どういう事なんだい?」


クスクスとヒドラがいつもの嗤い声を仮面の内から漏らし……そして彼は声を変えた。
いつもの中性的な声ではなく、あの時聞いた深い男の声でもない。小さな、それこそ5歳程度の少女の様な声に。


もう、こいつは何でもありだな。ルアフは改めてそう思わずにはいられなかった。



『文字通りの意味だよ。ちょっと、“演技”のお勉強をしてくるんだ』



フフフフと無邪気に、可愛らしい声でヒドラが笑う。
長身の男性らしき仮面の男が、可愛らしい声……少女の声で嗤っている。



「どれぐらいの間、このオルセアを離れるつもりなんだ?」



うーん、と、ヒドラが仮面の顎の部分に指を当てて考え込む、小さな少女のような仕草だ。



『7、8年ぐらいかな、あ、でも、常に“私”はルアフ君を見ているから安心してね! 
 何か問題があったら、直ぐに助けてあげる!!』




何が嬉しいのか手を顔の前でグッと握り締め、可愛らしい声で言う。
まるで世話好きな姉が弟を守ると宣言するように。
外見が長身の仮面の男、という姿かたちをしていなければ、一般の者はこの声に保護欲求が刺激されるはずだ。



「勝手にしなよ。貴方のいない間、僕は僕の好きにやらせてもらうけど、いいよね?」



『もっちろ~ん♪ ララララララ~♪ 好きにやっていいよ!』



そのままヒドラはララララと少女の声で歌いだし、両腕を大きく広げてクルクルと廻り始める。
何をやっているんだ? 彼は。

最初から少し狂っていたけど、もっと壊れてしまったか?

いや、理解したら、何か大切なものを失いそうだ。ルアフはこのヒドラの奇行について考えるのをやめた。 




『ララララララ~♪ お母さんと一緒ぉ~~♪ おがぁああざんと一緒ぉお~♪』



幼い少女の声と野太い男の声。二つの声を同時に吐き出しながら、ヒドラはクルクルと踊る。
空中でプロペラの様に回転を続けながら謳うヒドラを見ながらルアフは思った。




その“お母さん”は、きっと碌な目に合わないだろうなと。






あとがき




戦闘シーンというのはどうも難しいですね。
頭の中で光景が出来上がっていても、文章で表すのが難しい……。

さて、ここでようやく一区切り付きました。
ようやく原作イベントなどと絡めていくことが出来そうです。


話数もそこそこになってきたので、予定ではありますが、次回辺りとらは板にでも移すかもしれません。



そして、感想をくれると作者が喜びますw 



では、皆様、次回の更新にてお会いしましょう。




[19866] 幕間
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/11/14 23:55
新暦40年 オルセア帝国 首都 バラルの園





オルセア帝国は建国から1年も経っていない。
この世界統一帝国は恐ろしい程の速さで建国された国家だ。
何をもって“建国”と述べるかは国家によってその概念や考え方は大分異なるが、少なくとも今まで数千年続いたオルセアの歴史の中では
最も独立宣言から、完全な独立までの速度が速かっただろう。独立戦争の開始から終戦まで所要時間は僅か数時間なのだから。



そして独立を認なかった国家は完全に滅んだ。その残党もほとんど滅ぼされ、終わったのだ。
何千年と言う歴史を持つ2つの大国の歴史はほんの一晩であっという間に幕を下ろされ、その全てがオルセアから強制的に消去されたのだ。



この帝国に属する帝国臣民、またはバラルの民とも呼ばれる者らの総数は現時点で帝国が把握している限りでは大体1億10万人程度。
かつては10億を超える人数が居たオルセアはその総数を劇的に減らしていた。
あの終焉と再生の夜で亡くなった者は死体が残らず完全に消えたか、もしくは死体をマリアージュに作り変えられたか。
存在の痕跡も残さず消えうせるのと、死体さえも利用される、果たしてどっちが幸せなのだろうか。




戸籍、インフラなども今は急ピッチで再整備されている最中である。後は食料の生産のための農場やらも。
特に首都バラルの園から遠く離れた辺境は未だに酷いモノがある。インフラが徹底的に崩壊し食料や水、そのほとんどが流通していない状態だ。
何せ、あの独立戦争という名の破壊の暴風によって1度全て崩壊してしまい、今はそれを作り直している真っ最中。


何十万という数の機動兵器が文句一つ言わずあらゆる施設を建造していく様は辺境のバラルの民にとって、正に神の救いに見えたであろう。
しかし、その街を再建している蟲やエゼキエルなどが街を崩壊させた張本人だと思うと、何ともいえない気持ちになる者もいたはずだ。


どうしようもない、と判断された場所に住まう者は速やかに首都バラルの園に用意された住居に移転させられる。
眼を真っ赤にさせた彼らは長年住んだ自らの家を躊躇無く捨て去り、新たな神の膝元で暮らせる事にむせび泣きつつ引越しをするのだ。



少しやりすぎた。とは、ヒドラの言である。最も、あの人の皮を被った化け物が反省などはするはずもない。
彼は独立戦争の悲惨な光景をたっぷりと収録した動画を暇な時には気まぐれで視聴し、フフフフと不気味な笑いを漏らして楽しむのが日課のようだ。
あの無機質な仮面の内側を知っている者はルアフ以外には存在しない。そのルアフとて、アレの正確な正体など知らないし、知りたくも無い。



誰が夜の闇よりも深い“本当の闇”の本質を探ろうと思いたがる? そんなことは何処かの狂気に取り付かれた教授がやっていればいい。
少なくともルアフはやりたくない。ただ判るのはあの存在は僕に力をくれた。僕を認めてくれた。それだけでいい。
あの3つの紅い眼を持った“ナニカ”には例えガンエデンを使ったとしても勝てる気がしないのも事実。




この国家は国教にバラル教を取り入れ、その教えの元全てのバラルの民は生活している。
バラル教の教祖にして建国者であるヒドラは魔法としか言いようの無い技術の数々を用いてオルセアを立て直しつつある。


霊帝たるルアフの仕事は簡単だ。霊帝宮から指示を出すだけでよい。
彼が着々と完成しつつある霊帝宮の玉座の間から命令を空間モニターを操作し
オルセア中に存在する無数の機動兵器に複雑に暗号化されたシグナルを送るだけで、その意は即座に実行されるのだ。
彼が現時点で支配している兵器に搭載された武器の全てはこのオルセア帝国の隅々までカバーしていると言っても過言ではない。



バラル教の者は無条件で彼に従うが、まだそうでない者がいるのも事実。



例えば、つい数日前も一つ命令を彼は下していた。
ヒドラがオルセアを離れて僅か2日後、一つの報告が入ったのだ。



未だに古い宗教を信仰し、バラル教を受け入れない者らの集落があると。
いや、集落というよりは難民キャンプ、もしくはスラムと言ってもいい。数千人単位の結構大きなキャンプだ。


正直な話、これだけならばまだいい。ルアフ自身バラル教には興味などないし、民の前だけではこの宗教の神の役を演じていればよい。
最も、彼がどんな事をしようが、完全に『洗礼』を受けたバラルの民らがルアフに疑いを抱くことなどありえないが、この集落は違った。
洗礼どころか、この集落の者はバラルの教えそのものを信じていない。
故、彼らはルアフに対して抗議的な活動を繰り返していた。最初は無視していたルアフであったが、遂に我慢の限界を迎えた。



それに、彼は今は権力を少し使って見たいと思ってもいた。
霊帝といわれ、事実上の帝国の支配者でもある彼は実際の所、彼自身が命令を出し、兵器らを操ったことはなかったのだ。
先のオルセア開放戦線を崩壊させた戦いも出撃命令を下したのはヒドラだ。






霊帝宮玉座の間。


豪奢という言葉を体現したようにありとあらゆる宝石類や金で装飾を施された玉座が、部屋の奥にある他の場所よりも1メートルほど高い特別なスペースに置いてあり
エゼキエル程度なら一個小隊入れても随分と余裕がありそうなもはやホールと言っても過言ではない大きさの部屋には
オルセア中から集められた美術品や絵画などが飾られており、それら放つ歴史の重みという名のオーラは部屋全体の空気を神秘的なものへと変えていた。


キラキラと銀色に輝く天井や床は特別に強化されたチタニウムで形作られており、この部屋、更に言うならばこの建物全体がどれほど頑強な作りであるかもわかる。




「で、君はこの光景を見て、どう思う?」




バラルの塔やインペリアル・パレスとも呼ばれる巨大な軍事センター兼ね居城である城の玉座に腰掛けたルアフが、空間モニターを見ながら気だるげに声を出した。
モニターに映るは無数のマリアージュが彼の気分を損ねた集落を焼き払っていく様。そして殺された人間には核を植え込み、亡者の軍勢は更に増殖を続ける。
まさしく蹂躙という言葉が相応しい光景だ。オルセア帝国の秩序がどのようなものなのか、はっきりとわかる映像。


現在彼が住んでいるこの霊帝宮は巨大な塔と大聖堂と壮大なピラミッドをあわせ、それらの要素を均等に割ったような姿をしており、街の者らには寺院と呼ぶ者もいる。



全周10キロ、全高5キロ。何万という数のマリアージュが警備し、ヒドラの提供する恐ろしいまでに高度な技術で幾重にも守られた要塞。
それがこのバラルの塔だ。予定ではこの塔を中心にして、蜘蛛の巣のように網目状に市街地を作る予定である。


まぁ、まだまだ完成にはそれなりの時間が掛かりそうだが。現時点でよくて5割完成と言ったところだ。
塔の地下施設の建造やらオルセア中にナイトメア・クリスタルの採掘施設を作るやら、ヒュードラが気まぐれでどんどん注文を増やすから
圧倒的な物量を誇る蟲でさえも手が足りていないというのが現状だ。最近ヒュードラ自身も完成予定が1年か2年程度ずれてもいいか、などと思い始めている。



それでも既に電力などは地下に設置された大型の量子波動エンジンなどから供給されており、夜でも建物全体が光性パネルやサーチライトなどの焼けるような光によって
イルミネーションに照らされ、決して暗くなることはない。眠らない建物なのだ。正にオルセア帝国の権力の象徴といえよう。


ここに住めるのはバラル教が発足して以来、最も最初期にヒドラに付き従い協力をした初期の信者達や、ヒドラに多額の出費をした金持ちなどである。
彼らにも約束どおりヒドラは栄光を与えた。何不自由ない完璧な生活を。富も金も、そして心理的な満足さえも彼は与えたのだ。



話しかけられた少女もまた豪華な衣服に身を包み込まれていた。
まだまだ年齢は10にも満たなく、幼い外見ではあるが、少女が持つ気品、高貴さはどこぞの国の貴族と言われても納得できるものである。
オレンジ色鮮やかな色彩の髪にエメラルドの様な綺麗な瞳、もしも彼女が笑えば万人の心を動かす事が出来ただろうが、今の彼女の顔に浮かぶのは深い悲しみだ。
翡翠色の眼には怒りと悲しみと自責の感情が渦を巻いており、それら全てが玉座に座っているルアフに向けられている。



「だんまりかい? つまらないなぁ。ヒドラからの話によると、君はこういう光景が好きなんでしょ? 邪知暴虐の王様?」


「…………」



少女──イクスヴェリアは何も言わない。答えの代わりに無言でルアフを睨みつけるだけ。
気に入らない眼だ。ルアフは素直にそう思った。自分の質問に答えない事もそうだが、何より彼女はこの霊帝である自分を前にして怯えさえもしない。
それどころか、この生体兵器の女の自分を見る眼には幾らかの哀れみさえも混じっているように思える。



「……答えろよ。それとも僕の声が聞こえないのかな?」



ヒドラに「イクスには手を出さないでおいてくださいね。アレは私のモノですから」と言われてなければ
彼は自然の衝動に任せてこの生意気極まりない少女の頭蓋骨の中身を念道力でシェイクしていたかもしれない。
それだけ、彼にとって自分の命令に従わない、自分の意のままに動かない存在というのは目障り極まりないのだ。


暫くそうしてルアフが彼女を睨む様に眺めていると、ようやく彼女は口を開き、ぞっとするような冷たい声で言った。
とても少女が出しているとは思えない声。何百と言う年月を生き、戦乱を体験した者のみが出せる重みだ。


「かわいそうな人ですね、貴方は。私が見た限り、貴方はあの男の操り人形にしか見えません。いつか貴方も飽きられて捨てられるでしょう」


「…………」



今度はルアフが沈黙する番であった。玉座の腰掛けを割れるほどの強さで握り締め、無言で念動力を飛ばす。
イクスのほんの数センチ手前、強化チタニウムで作られた頑強な床がグシャという音と共に呆気なく潰れた。

ほんの数センチずれていたら、イクスの頭部はスイカ割りのスイカの様に粉砕されていたかもしれない。


しかし彼女は恐れなど欠片も感じていない、何処か諦めさえも混ざった声で続けた。


「……私を殺すならどうぞご自由に。最も、私は戦闘能力はともかく、生命力だけは強いですから、結構時間が掛かると思いますよ?」



一瞬その言葉を聞いて、本気でこの冥王を冥界の底にまで叩き落したくなったルアフであったが、彼女に視線を向けた瞬間、そんな考えは吹き飛んだ。



眼だ。薄暗い部屋の奥、イクスから5メートルほど後ろ、窓からの光も余り届かない薄暗い部屋の隅。そこに眼が浮かんでいた。周囲に夜よりも深い絶対的な闇を撒きながら。
闇で形作られた不定形なソレに三つの紅い眼が浮かび上がり、その眼の下にはハロウィン南瓜の様なコミカルな笑みを浮かべた白い亀裂が走っている。
そんな根源的恐怖を煽る眼が、ルアフをじぃっと咎めるように見つめていたのだ。



そして、ソレがルアフにだけ判る声で言った。
酷く罅割れた、深い男の声で。影が囁くように告げたのだ。





─── だ め で す よ と 私 は い っ た ぞ ? ────






「………ふん」



不満気に鼻を鳴らし、判っていると言わんばかりに手をヒラヒラと振る。
同時に脳内で計画されていたイクスに対する残忍で冷酷な処刑計画を霧散させ、完全に消去。
一瞬眼を逸らして、もう一度眼があった場所を見たら、既に眼は居なくなっていた。



「それでは、私はこれで失礼させてもらいます。御機嫌よう。霊帝陛下」


嫌味ったらしくイクスが慇懃に一礼し、カツカツと足音を鳴らして玉座の間から退室していく。
最後に扉が音を立てて閉まるまで、ルアフは恨めしそうにイクスを見ていた。


部屋に一人残った彼がぼそっと呟く。もうどうしもうないという気持ちを込めて。


「そんなこと知っているさ、だけど、お前は僕に何が出来たっていうんだ……?」


母に殺され、気が付いたら霊帝。オルセア帝国の支配者。
最後は自分の意思で選んだとは言え、あの状況で拒絶など出来るものか。


だが、そんなことは今はどうでもいい。あんな女の言葉に惑わされてたまるか。
今大事なのはオルセア帝国を整備し、安定させることだ。軍備を拡大し、自分に従うバラルの民の生活を高度に提供してやり、揺るがない国家の基盤を作る。
それが必要なことだ。ヒドラはそういっていた。
福祉に教育に軍事に経済、正直面倒くさいことばかりだが、自分の意思一つで世界が動く様は面白く、やりごたえのあるゲームだ。



パチンと指を鳴らし、三次元に投影された空間モニターの画像を切り替える。凄惨な光景を映していたモニターの画面が
完全な円──ウロボロスをモチーフにした円と、その中に内包された捻れた『∞』という記号──メビウスを映し出す。
これはオルセアの国旗とも言える紋章だ。バラル教そのものを表す場合もある。


女性の声で『オルセア・アーカイヴへようこそ。必要なサービスをどうぞ』と空間モニターから声が出る。
次いでモニターが複数ルアフの眼前に展開され、それぞれに映った情報を彼に提供。
オルセアの世界地図。各地での民らの動き。新たに建造中の採掘施設の完成率。
他にも各地のインフラの整備率などもモニターには詳細な説明文と共に映し出されている。



「さて、今度は……」



モニターを指で叩き、希望の画面を呼び出す。
即ち、施設やユニットの製造画面を。
幾つかのユニットの名前の横に紅い『×』という印が付いているが、これはまだ今のオルセア帝国では造れないユニットの事だ。



主に今作れないユニットは『フーレ級戦艦』『ヘルモーズ級マザーシップ』『ネビーイーム』などと言った、とてつもなく巨大な建造物の数々。
後数年は待たないと、こういったモノは作れない。ユニット名の隣にヒドラのコメント『まだ駄目ですよ♪』などと書かれているのが眼に止まる。



更に何度かルアフが画面を指で叩く。数回画面が切り替わり、直ぐに望みの情報が映される。


「……これ、かな? マリアージュを増やしておけとも言ってたしね。後は改造……?」



当たり前の事だが、マリアージュとて無限に居るわけではない。
マリアージュを精製するコアそのものは量産に成功しているものの、マリアージュを作成するに当たって、もう一つ大事な存在がある。


即ち、死体だ。マリアージュは死体とイクスの精製するコアによって生み出される生物兵器なのだ。
死体が無限にあれば文字通りマリアージュは無限に生産できるが、逆に言えば死体がなければマリアージュは作れない。
今何億体マリアージュを生み出そうとも、あれらは使い捨ての兵士であり、当然その消耗も激しい。
安定した生産がなければ、やがてその数が0になる可能性だってある。



故にルアフはオルセアを出て行く前のヒドラにアドバイスをされていた。マリアージュを生産する施設を作りなさい、と。



「これだ……“クローニング施設 安定したクローン製造にはデータ蒐集のためかなりの時間が掛かります”……何だ、クローンって?」



ルアフは元は念道力を持っていた事意外はただの少年だった。それもかなり貧しい分類の。
そんな彼がこの言葉の意味を知らなくても仕方が無い事と言える。

そんな主の様子を察したのか、画面が淡々とした声音で説明を開始。


──『簡単に言ってしまえば、コピーです。コレは生命をコピーする施設。同じ存在が何千と生み出される施設』──



「へぇ……まるで魔法だね。確かにそれなら、死体がなくてもマリアージュを増やせそうだ」


脳裏に一瞬だけ、自分と同じ顔をしたクローンが何十という数で歩いている様子が浮かんだルアフが嫌悪に顔を歪める。
自分は自分だけだ。今ここで霊帝として君臨している僕は僕だけだ。そう自分に言い聞かせる。


面白い。
同時に彼はそう思った。
こんな魔法染みた行為が可能な施設を作るか否か、その全てが自分の掌の上にあると思うと……興奮する。




「かなりの時間が掛かるだけの価値はあるかい?」


フフフと笑いながら画面に問いかけた。もう答えなど判りきっているというのに。



『はい。決して失望はさせません、陛下』


ルアフの笑みが更に濃くなり、影の様に暗く陰惨な笑みを浮かべた。
あぁ、楽しい。やはり権力を使うのは楽しい。故に彼は酷くなめらかな声で上機嫌に言う。



「任せるよ。さっきの言葉、裏切るなよ?」



『はい。霊帝陛下』



躊躇いなく、彼は空間モニターを押し、開発を許可した。
数秒後、この建造指令は複雑に暗号化され、オルセア中の『蟲』達に速やかに送信を開始された。
























バラルの塔の廊下。幾つもの鮮やかな光に包まれた白亜の廊下を二人の人間が歩いていた。
一人はオレンジ色の髪の少女『冥王』イクスヴェリア。マリアージュ生産のためにヒドラが手に入れた存在。
もう一人は彼女の世話をするようにヒドラから任されているトレディア・グラーゼという少年。
外見上の年齢などはイクスと大して変わらないというのに、その紅い眼には大人顔負けの自信が浮かんでいるのが特徴的な少年。


今そんな二人はイクスの部屋に向かって歩いていた。
ポツリとトレディアが口を開き、沈黙を破る。



「陛下にああいう口を聞くのは、あんまり得策じゃないと思うよ? イクス」



「……私は私の思ったことを言ったまでです。それに彼が怒るのは彼も薄々それに気が付いているからでしょう」



「だけど、よく頭を潰されなかったもんだよ……本当に運が良かったとしかいえない」



トレディアの頭をよぎるのはオルセア開放戦線の指導者達の末路。
捕まり、拘束されてルアフの眼前に突き出された彼らがどれほどおぞましい最後を遂げたことか。
人間を減圧室に生身で放り込むなど正気の沙汰じゃない。狂っている、そうとしかいえない。
人間が全身から血を噴出し、口と肛門から小腸や胃などの内臓を垂れ流す光景は思わずトレディア自身も吐きかけてしまった。


アレは……少々刺激が強すぎる。ヒドラは随分と楽し気であったが。
鼻歌交じりに命乞いを右から左へ流して、ご機嫌の様子で減圧のスイッチを押していた。


自分はその場でその光景を見ていたが、もしかすると
あの男達と一緒にあの減圧室に密閉され、腸を吐き散らす者の中に自分も居たかと思うと背筋を冷たいモノが駆け抜ける。


元はトレディアはオルセア開放戦線から帝国に送られた一種のスパイだった。
だが、彼は寝返った。ヒドラに。ヒドラは彼の願いを叶える代わりに、彼はオルセア解放戦線の本拠地の情報を流したのだ。
しかし、彼は後悔などしていない。かつての自分の上司が世にも惨たらしい死に方をしても関係ない。



そうこうしている内に二人は目的の場所に到着する。即ち、イクスの部屋へ。
良質な木材で作られた歴史を感じさせる扉。それを開くと、何処かの高級リゾートホテルのような、柔らかい光に包まれた部屋が二人の眼に映る。


ありとあらゆる最新鋭の家電が揃い、ベッドはふかふかのキングサイズ。
部屋の大きさは一人どころか、十人でも余裕で生活できそうな程に広い。


ヒドラは確かに約束を守っていた。最高級の部屋を確かに用意していた。ついでに世話係も。


「…………」



トトト、と、無言でイクスがベッドまで走りより、その上にとてんと倒れる。
ヒドラは嫌いだが、この部屋は何故だか落ち着く。素直にいい部屋だと認めている。



「少し寝ます。出て行って下さい。それと、コレ、洗っておいて下さい……それと、いつもありがとうございます」



起き上がり、枕を抱きしめながら無表情で言う。
ぽいっとトレディアに向けて靴下などを投げ渡し、直ぐにベッドの中にもぐりこんでしまう。
ヒドラの手により機能不全は完璧に治った彼女であるが、やはり今でも時々猛烈に睡魔に襲われる事があるらしい。
まぁ、1000年間近くも眠っていれば、そういった症状が出てもおかしくないのだろう。トレディアはそう思っている。




「はい。冥王陛下……よい夢を」



小さく会釈し、靴下を手に持ち、トレディアは部屋の灯りを落とした。
そしてなるべく音を立てない様に部屋から出て行った。




まぁ、仕えるなら霊帝陛下よりも、この小さな冥王の方がマシだな、と彼は思った。




















ミッドチルダ 首都クラナガン 新暦40年







「本当にありがとうございます。貴方達がいたから私はここまで戦ってこれた」



プレシア・テスタロッサは深々と眼の前の男達に感謝の言葉と共に頭を下げた。艶やかな黒い髪が揺れ、辺りに色気を撒き散らす。
彼女の言葉にはありとあらゆる感謝。ありとあらゆる希望。そして、隠し切れない感動があった。
ここはミットチルダの首都クラナガン。その街にあるとあるホテルの一室である。
無事に裁判で無罪を勝ち取り、自由になったプレシアはまず世話になったコーディ執務官とグレアム補佐官に礼を述べるために二人を呼んで、持て成したのだ。




「いや、俺らは最後は何も出来なかった。最終的にはあのヒュー・ラーとか言う奴が全部持って行ってしまったからな」



バツが悪そうにコーディがそっぽを向きつつ言う。
事実、彼の言うとおり世論を大きく動かす情報を世界にばら撒き、プレシアの運命を決めたのはヒュー・ラーという顔も声もわからない謎の人物だ。
彼らの情報網によると、この人物を捕まえるのを既に動画サイトの運営者やら、サイバー犯罪対策部は半ば諦めているという話らしい。
余りにも凄すぎて、尻尾どころから、存在の痕跡さえもが掴めないらしい。全く持って笑い話になりもしない。


勿論二人やサイバー犯罪対策部はプレシアにこのヒュー・ラーという存在に心当たりがあるか? と聞いたが、答えは「知らない」だそうな。
まあ、二人は執務官ではあるが、サイバー犯罪対策部でもないし、何よりあの動画が原因で彼女が無実になった手前、複雑な心境だ。



「いえ、それでも貴方が私を立ち直らせてくれた。貴方がいなければ、私は今頃は狂ったまま自殺してしまっていたわ」



プレシアがコーディの手を取り、ギュッと強く握り締める。そして彼女はもう一度、彼に深く頭を下げた。
コーディの顔が小さく歪んだ。あぁ、全く堅物め。グレアムがやれやれと溜め息を吐く。



──テスタロッサの馬鹿が欲に眼を駆られて炉を暴走させちまった、あのヒュードラさ。



こんな事を過去に言ってしまった。
何も知らなかったとはいえ、今の輝かしいプレシアの顔を見ていると、こんなふざけた事を抜かした自分への自己嫌悪で気がどうにかなりそうだ。
それと同時に、純粋に人に感謝されることへの喜びが彼の中を駆け巡る。二つの感情はコーディの中で混ざり合い、やがては涙という形であふれ出た。


ゴシゴシと片手で涙を拭き、必死に何とか声を絞り出す。



「……いや……その、幸せに、生きてくださいね」


フフフとプレシアがそんな執務官を見て小さく微笑んだ。
もしも最初に彼に出会わなければ、この人と自分は結婚してたかも。そんな乙女的な事を思いながら。



「はい。ありがとうございます。コーディ・ハラオウンさん、ギル・グレアムさん」



既に精子バンク機構とのコンタクトも済ませ、夫の精子の手配も完全に済ませた。
金の問題も一切無い。大魔導師としての貯蓄と、企業が彼女をかつて雇うために支払った金、それと賠償金。
この全てを持っているプレシアにとって、精神バンクを利用した体外受精の費用など雀の涙程度だ。
かつてアリシアが存命中に言った一言。それが彼女を突き動かしていた。



『私ね! 妹が欲しい!!』



当時は言われて本当に焦ったが、現実味を帯びてきた今の状況ではそんなさり気ない一言でさえ思い出すだけでも涙が出る。



──アリシア。貴女はもう居ないけど、天国でお母さんを見ていてね。私、頑張って生きるわ。



かつての狂気染みた顔も今は穏やかになり、新たな人生を踏み出すべくプレシアは前に進む。
その顔にあるのは、希望とアリシアを忘れず、生きていこうという決意であった。



小さく、小さく、誰にも気付かれること無く、そんな彼女の決意を見下し足蹴にする様な嘲笑いの声が一瞬だけ、微かに部屋に響いた。






あとがき





皆さんこんにちわ。チラシの裏から来ました。更新はまったりとした速度になりますが、よろしくお願いします。






今回は幕間でした。第二部からようやく原作キャラがぽつぽつ出すことが出来そうです。


それと何故か書いているとイクス×トレディアになっていくから困る。
ヒドラ? アレにヒロインはいらんでしょうw


後はプレシアが主役の座を奪おうとしたり……中々プロット通りには進まないものです。


では皆様、次回更新をゆっくりとお待ちください。





[19866] 16
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/12/24 21:59



“世界”というのは本当に広いものである。
この自分を産み落とした無限の世界を内包する多次元世界。確立と認識でどこまでも広がる平行宇宙、または多元宇宙。
更には上位次元やら下位次元、俗に二次元とか三次元、四次元……と無限に階層を延ばし続ける文字通りの次元の階層。
ビルの階層にも似ている……細かな所はかなり違うが、判りやすく理解したいのならば、そう思えばよい。


更に更に挙げるとすれば、ただの知的生命体には想像も出来ない世界や、奇跡的に観測できたとしても、永遠に理解も出来ない世界などもある。
その数こそ正に不可説不可説転。もしもその世界一つ一つに生命があるとすれば、その合計は一体どれほどになるのだろうか。


理屈の上では完全に“完成”こそ出来れば、ヒュードラはその全ての思念と世界を容易に飲み込める存在になるのだが……。


全ての要素が無茶苦茶に入り混じった自らの箱庭を愛用のソファーに腰掛けて眺めつつ、、ヒュードラは考え事をしていた。
自らの世界の“玉座”に腰掛け、彼は疑問と、それに対しての自分なりの答えを幾度も討論させつつ考える。
彼は自分……“ヒュードラ”という存在に対して深く考えていた。
自分という存在の内側に潜るように深く眼を向け、ヒュードラは悩める若者の如く考え続ける。



三つの燃える眼を三日月を思わせるように細め、そのノイズの走った手を顎に当てて、首をかしげている。



自らが目指すは完全なる全能の存在。しかし未だその境地は程遠く、今の彼に出来るの精々限定的な平行世界の観測や支配、破壊、時空間の限定的な支配程度。
だが、それでいい。全能になってしまったら、それはきっと素晴らしいのだろうが、同時に一気につまらなくなるのだろう。
何でも出来るという事は、何でも知っているということだ。それが全知全能。つまり『何もしなくていい』という事。
それは……恐ろしくつまらないのだろう。不満や出来ないことがあるから、きっと楽しいのに、何でも出来たら逆に一気に味気なくなる。


だからこそヒュードラは今のこの素晴らしい不自由な時代を謳歌していた。
ヒドラという余り出力の上がらない人形を作り操っているのも本体が巨大になり過ぎて既存の世界に入りづらいという理由もあるが
それよりもやはりそこの世界の住人と同じ目線で居られるから、という理由の方が大きい。


ヒドラとしての“縛り”をヒュードラは心底楽しんでいるのだ。
同じ目線で同じ世界に立つというのはやはり大きい。



他にも、これまで暇潰しとして複数の世界を観測していたヒュードラは一つの面白い法則を発見していた。
その法則は困ったことに自分にも当てはまるものであり、同時に何となくヒュードラを納得させるものでもあった。
今回ヒュードラが自分と言う存在について考え出したのもそれが原因だ。



法則そのものは簡単なモノである。並の人間でも何となく納得できうるはずだ。


思念……まぁ、ここは便宜上判りやすい様に『魂』と言っておこうか。
この魂の固まった存在というはほぼありとあらゆる世界で大きな力を持っており、世界に大きな影響を与えているのだ。
それがヒュードラが様々な世界を観測し、観察し、それで得た情報を統合し、分析して得た結果だ。



例えば無数の人間の生き血と魂を喰らった剣は自らの意思を持ち、所持者を乗っ取って災いを振りまく魔剣となって世界を大いに乱していたし
例えば銀河に住まう全ての生命の死をエネルギーに返還し、その力を持って敵を滅ぼそうとした巨大な生体演算機という存在も滅ぼされこそしたが、確かに居た。
例えば、悪意をエネルギーに変える装置によって生まれた生命体など。
まぁ、ヒュードラとしてはその存在よりも矛盾だらけな言動を吐き続ける滅びた星の残党の男の方が気になったが。



他にも挙げればキリがない。
これらの世界は観測するので精一杯だったから、干渉こそ出来なかったが、それでもどの存在もヒュードラの存在を強く惹きつけた。
同時に自分もそんな存在の中の一つなのか? という疑問が彼を思考の濁流の中に叩き込んだのだ。



平行世界は本当に面白い。



さすがにプレシアという名前を平行世界込みで探したら、お兄ちゃんお兄ちゃん言っている小さな娘が出てきたのには
ヒュードラでも思わず吹いてしまったが。本当に平行世界というのは未知が多く、ヒュードラを決して飽きさせない。
ヒドラである時に彼はバラルの民に向かって次元世界には無限の可能性があると言ったが
確立と認識の世界にはそれさえも超えるパラレルな世界があるのだろう。



今は何よりもその未知を知るのが楽しくてたまらないのだ。
予定している計画の実行までまだまだ時間はたっぷりあるし、暇つぶしとしても最高の遊戯である。


勿論、この次元世界で行おうと計画している戦争劇の実行の為の準備も怠りない。
この世界をもしかすると観測しているかも知れない者達の為に最高のB級映画の様なストーリーを提供する予定だ。
きっと、この世界の自分を観測している存在を楽しませることが、新しい神の誕生を祝う壮大な祝賀会となるのだろう。


事実、そろそろ第一号のマリアージュの生産施設も完成しそうだ。
オルセア中に配置された鉱石採掘及び、質量兵器の生産施設は今日も無人で稼動を続けているのだろう。


戦争の準備は、順調に整ってきている。
最も、ヒュードラは予定を多少変更して更に大規模なモノにするつもりであり、それを実行するとしたら、時間はまだまだ掛かりそうだが。
とりあえずはマリアージュの改造と安定した生産を確保するのが大事だ。



『結局の所、私は私だな。他の世界を観測するのもいいが、それに影響を受けすぎるというのも考え物だ』




三眼を轟々と音を立てて輝かせ、彼はいつもの深い男の声で言う。
少し平行世界を観測しすぎて、自分という存在についてふと気になり考えていたヒュードラであるが
飲み込んだ思念の考えや知識、人生論などを読み漁って思考した結果そういう答えに行き着いたのだ。




このヒュードラは自分のやりたいようにやる。
善も悪も論理も常識も関係ない。ヒュードラは常にヒュードラを肯定し許すのだ。
結局の所、ヒュードラはこの単純明快な答えに行き着く。
法だ責任だ何だと気取った理由と理屈でそれに枷をするつもりはヒュードラにはなかった。
むしろ神が知的生物の創った概念に支配されるのがおかしいのだから。



実際、既にヒュードラは好き放題にやっている。
ミッドチルダに隕石と高度な技術を渡したり、オルセアを作り変えるために億単位で虐殺を行い帝国を作ったり。
この一種の歌劇の中のようであり、実験室の中のフラスコの様でもある世界も実に楽しく
ヒュードラを現時点では飽きさせることはない。




『さて、ここは私の悩みが解決した祝いに、祝杯をあげるとしようか』



うん。それがいいと自分で自分の言葉に幾度も頷き、クスクスとヒュードラは嗤う。
そして彼は“祝杯”を取り出すべくその腕をまるで雑誌でも取るかの様な気楽さと共に動かし……。



ズブリ。



そんな音が一瞬だけ何も無い真っ白な世界に響き、幾重にも反芻した。
ヒュードラの真っ黒な腕が通常の何倍にも“伸びて”その腕の先端の部分が空間に展開されていた魔方陣の中に深々と侵入している。
ズブズブと水をかき混ぜるような音と共にヒュードラの腕が何かを探し出す為にグネグネと軟体生物の脚の如くうねる。



『あったぁぁあ……』



お目当てのモノを無事に掴むことが出来たヒュードラの顔が歓喜で見る者全てに恐怖と嫌悪を与えるほどに禍々しく歪んだ。
三眼が更に激しく輝き、耳辺りまで裂けていた口の様な亀裂が更に広がり、人間で言う所の『哄笑』に近い形を取る。
ズズズと腕が伸縮し、魔方陣の中から引き抜かれる。もちろん“祝杯”はちゃんとその手に握ったまま。


ヒュードラが握っているのは一般に祝杯といわれると連想されるグラスに満たされたワインやお猪口に入った酒などではなかった。
紅い球体、それがその握っているモノを表す率直な言葉だろう。
表面に無数の小さな光の十字架がサボテンの針の様に突き刺さり、無数の“何か”がその間を縫って雪の様に漂っている。


コレはヒュードラが気に入って平行世界から取り寄せたものだ。
本当に面白く、観賞用としてとって置いたものだ。



コレの実際の大きさは恐ろしい程に巨大だ。
今でこそヒュードラの掌の上に乗っているが、本来の大きさは優に大きさ1万キロを超える。
何とも馬鹿馬鹿しい話だが、それが真実であり、今ヒュードラの掌の上に乗っているのは実物の“影”に過ぎない。
本物はヒュードラの私的なコレクションとして大事に大事にされ、今は彼の箱庭の中、混沌の渦の中を漂っているのだろう。


コレの正体は星だ。かつては最高級のサファイアの如く蒼くて美しかったのだが、今は今で、ルビーの様なまた別の美しさを感じる。
とある世界の民族が単体で不完全だったのを嘆き、ならば全てを一つに混ぜ合わせ、完全な存在になろうと画策した結果がコレだ。
計画は失敗。星に住まう全ての生物は元始のスープに成り果て、今は他と自分の区別も付かない状態で無限に漂っているのだろう。


幾つかこういう無謀な試みを行った世界も平行世界の中にはあったのだ。
その内の一つを彼は取り寄せた。


そんな夢破れた世界をヒュードラは……。



『 い た だ き ま す 』



何の躊躇いも、躊躇も、良心の呵責もなく、口の様な裂け目の中に彼は放り込んだ。
スープの状態にまで還元されたとはいえ、確かに生きて意志を保っている状態の生物が数億も居る世界を彼は丸ごと“喰った”
ヒュードラが、この世界そのものであり、ここの絶対的な法則そのものとも言える彼が星の“影”を裂け目に放り込んだ瞬間
彼の箱庭に存在している“本物”もまた、自らがたゆたう空間そのものにパクリと、まるで子供に食われる小さなチョコチップの様に、呆気なく喰われる。



途端にヒュードラの頭を駆け巡るのは何億という悲鳴の連鎖。
夢幻の世界をうたた寝気分で漂っていた魂達がいきなりヒュードラという混沌を塗り固めた存在の内部に放り込まれ、咀嚼され、そして消化されている。


正に生きたまま喰われているのだ。判りづらいのならば、少し想像してみるといい。
生きたまま、気絶も死ぬことも許されず、肉体を獰猛な獣に何度も何度も噛み付かれている様な肉体としての物理的な痛みと共に
脳髄を引きずり出され、過負荷になるほどの莫大な情報を叩き込まれる精神的な痛み。


そして、存在の根源とも言える思念──魂を混沌の海の中に溶かされていく概念レベルの痛みと恐怖。
その全てを一挙に浴びせられている存在は一体どれほどの苦痛を味わうのだろうか?
断末魔という言葉がちっぽけに思えるほどに壮絶な悲鳴の協奏曲。
暴風雨の様な絶え間ない絶叫と悪意がヒュードラの中で虚しく響き渡り……。




『く、くはははははっははは!!』



あぁ、美味い。やはり予想通り最高だ。
身に纏う灰銀色の衣がぎギチギチと音を立てて蠢き、その眼が残忍な喜びで燃え始めた。
ヒュードラの体内に渦巻く無量無限の悪意と狂気が音を立てて、たった今取り込んだ魂らの蹂躙を開始し
いっそう“消化”の速度が速くなる。それに会わせて更に断末魔の“質”がよくなり、ヒュードラは更に上機嫌に嗤いだし、終いには奇妙な歌まで歌いだした。




『ララララララ~♪ ラララララ~ラララ~♪ 天使は笑わない♪ 天使は歌わない♪ 天使は俯かない~天使天使天使天使天使天使~♪』



不気味に、おぞましく、生理的な嫌悪と吐き気さえ催す声で彼は歌う。
器用にも1フレーズごとに声を変えて、彼は高らかに歌い続ける。
小さな女の子、野太い男の声、深い男の声、妖艶な女の声、大柄な男の声、その全てを交互に入り混ぜながら彼は歌う(嗤う)
メインは自分。伴奏やらその他全ては断末魔の叫び。そんな冒涜的で狂気的なコンサートは全ての魂が完全に吸収されるまで続く。





世界という広大な土壌に“種”は全てまき終えた。
後は雨が降り、よく場を整えた土壌を潤わせて“芽”が出てくるのを待っているだけでよい。



ヒュードラの忍耐は、もう少しだけ続く。






新暦41年 時空管理局本部 執務官コーディのオフィス




無数に積まれた再生紙で作られたダンボール箱が部屋の中をギッシリと埋め尽くしているが
それでも整理された部屋は清潔なイメージを見たものに抱かせるだろう。
事実床や天井、壁、部屋にあるありとあらゆる家具は綺麗に磨き上げられ、新品同様の光沢を発している。
但し一つだけこの部屋に問題点があるとすれば、部屋の中を漂う匂いだろう。


決して汗などの不潔な臭いではない。が、人によっては吐き気を催す臭いが充満している。


即ち、甘い匂いだ。ラヴホテルなどに漂っている性的なモノではなく、本当の意味での甘い匂い。
砂糖を溶かして気化させ、その中に蜂蜜と練乳とチョコとヴァニラを混ぜ合わせたような……とにかく、この次元世界の甘い物全てをぶちまけた様な匂いだ。


そんな部屋の中で二人の男がせっせと荷物整理をしていた。
特徴的な緑色の髪をした男、コーディ執務官は普通の顔で、もう一人の髪を全て後ろで纏めた男
グレアムはまるで吐き気を堪えている様な顔でゆったりとした動きで荷物を整理していく。


今彼等が纏めているのは『ヒュードラ事件』の調査で集めた資料の数々だ。
ほとんどはあの研究所で働いていた者らの言葉や研究所内での企業のタイムスケジュールやら、施設の構造などで埋まっているが
最近新しく大幅にこの資料の山は増えた。


あのヒュー・ラーの流出事件の後、管理局はアレクトロ社の内部を抜き打ちで立ち入り調査したのだ。


その結果、出るわ出るわ。
次から次へと、その一つ一つが決定的な証拠となりうる資料の数々がバーゲンセールの様にあふれ出てきたという結果に終わった。
従業員に課していた殺人的なスケジュールの数々。明らかに行き過ぎている上役の横暴な言動と行動。
プレシア・テスタロッサに対する脅迫。管理局の一部の職員に対する多額の賄賂。本当に面白いぐらいに次から次へと出てくる。


その全てを管理局は包み隠さずに公表した。
ミッドチルダに存在するありとあらゆる媒体を使って、半ば宣伝するようにド派手に。
民衆の怒り以上に、あのヒュードラ事件でプレシアを憎んでいた遺族達の反応はもっと凄かった。
プレシアに向けられていた全ての怒りは何倍にも増幅され、その全てがアレクトロ社に矛先を向けられたのだ。


結果、アレクトロ社の株価は悲惨な値まで暴落し、管理局からの営業停止命令を受け事実上の倒産。
更には多額の慰謝料を毟り取られ、更に更に高齢の会長は心労が祟ったのか、そのまま亡くなってしまった。
アレクトロ社に所属していた社員は管理局が仕事を紹介し、ほとんどは管理局に編入され、残りは他の会社へと移っていった。
あの会社の持っていた全ての技術とデータも管理局が吸収し、優秀な人材もほとんど管理局が全て手に入れたのだ。


管理局は全てを手に入れた。賄賂問題などで多少は揺れたが、それを補い、余りあるモノを手に入れた。
優秀な人材。アレクトロの保有していた魔導関係の技術。アレクトロの残った資金。全てを、だ。
まるで全部決められた脚本どおりに、世界はあっという間に移り変わって行った。
世界の後ろに聖王教会が祭り上げる聖王という存在とは違う“神”が居て、今回の出来事全ての脚本を書いていたと言われても納得出来てしまうほどに。


プレシア・テスタロッサの無実判定とアレクトロ社の消滅により、ヒュードラ事件は解決を得た。
肝心のロストロギア『ヒュードラ』についても、アレクトロの研究データを手に入れた管理局は行方不明になっている
『ヒュードラ』に対しての感心と興味も薄れてきており、つい数日前にヒュードラ探索を打ち切り、ヒュードラ事件の調査のためのチームの解散を通達したのだ。



管理局は無限の次元世界のどこかに行ってしまったロストロギアを延々と探し続けるよりも
新しい事件にこの二人の有能で強い魔導師に対応してもらう事を望んだ。


世界を1つ滅ぼしたとはいえ、ヒュードラは所詮は単なるエネルギー生成機関か何かだろう。
確かに内包していたエネルギーなどは恐ろしく膨大であったが、下手に刺激しなければ特に問題はないだろうし『闇の書』に比べれば可愛いものだろう。
管理局の上層はそういう見解に至った。最もプレシアがアレクトロとから接収されたヒュードラ関連の資料に眼を通す機会があれば
ヒュードラの内包していたエネルギーの桁が彼女の知っている数値よりも、そう管理局が注意を払わなくてもいい程度に
小さくされている事に気がつけただろうが、もう遅い。彼女は自由になったのだ。



「グレアム……本当に、コレで終わりだと思うか?」


「……終わりは終わりだ。私としては早くこの部屋から出て、コーヒーを飲みたいのだがね……」



真っ青な顔をしたグレアムが魔力を用いて一気に大量の資料を持ち上げてソレを規則正しくダンボールの箱の中に詰め込んでいく。
ちなみに彼の使い魔である猫達はグレアムと迂闊にも精神リンクをしてしまった影響で吐き気を催し、今が休憩所で寝込んでいる。


ニャァアアアアアとか凄い絶叫と共に双子の姉妹使い魔が全力疾走する光景は中々に見れないものだろう。


早くこの部屋から出たい。早くこの部屋から出たい。この甘党のパラダイスはグレアムにとっては地獄そのもであった。
何で部屋の片隅にサッカリンがどっさりと十キロ単位で積み上げられているんだとか、戸棚と冷蔵庫の中身が全部蜂蜜とか砂糖とか練乳とか
甘い物だらけじゃないか、もっと健康に気を使えとか、この友人に言いたいことはかなりあるが、今は何よりも部屋から出て、コーヒーを飲みたい。



それもとびきりブラックな奴を。普通の人間の味覚の持ち主ならば飲んだだけで卒倒するほどブラックな奴がほしくてたまらない。
それでも片づけを止めないあたりは彼の生真面目さ故か。


「イヤさ、どうも終わったとは思えないんだよなぁ……何と言うか、全部出来すぎてる気がする。
 アレクトロはプレシアさんに全部の責任を押し付けようとしたが……何か、もっと別の奴が“本当の意味”でプレシアを隠れ蓑にした気さえする」


一枚の紙を手に取り、コーディは何かを考え込む様に続ける。そこに描かれていたのはプレシアが見たというヒュードラの中身の絵。
複数の節を持った翼の骨格と、そこから吹き出た不気味な煙の様な翼膜。細長くて漆黒の手足。その全てが禍々しいヒュードラの中身の絵。


コレを書いたのはプレシアだ。




「深く考えすぎだ。お前と私は上が望んでいた結果を出せた。テスタロッサは無罪になり、管理局はアレクトロ経由でヒュードラの情報を入手。
 アレクトロ崩壊の経済の混乱も迅速な対応により収束の方向に向っているし、何より、お前はテスタロッサの心を救ったじゃないか。……逆に聞くがこれ以上、何が欲しいんだ?」



ついでにL級次元航行船の内部の彩色も変えたな、と、グレアムは笑いながら続ける。
やっぱり無機質な白は精神的に悪いと判断され、もっと温かみのある色に変更されたのだ。



「……確かにうだうだ悩んでても、はじまんねーな……」



気分を入れ替えるためにパチンっと頬を叩き、彼は話題を変更するために口を開いた。



「少し休んだら、俺はまた仕事に戻るが、この後はお前はどうするんだ?」


「…私は一週間ほど休暇を取らせてもらう。既に上に要望は通してある」



「我が家に招待してやってもいいぜ? 今なら特別にコーディ・スペシャルをおごってやろう」



ちなみにコーディ・スペシャルとはご飯に蜂蜜と練乳と生チョコを並々と乗せた定食である。
彼の家族には好評だ。グレアムは初見時は思わず神と女王に祈ってしまったが。


グレアム曰く「ハラオウン家の味覚は異次元」だそうな。


「断固拒否する。私には予約が入っているのでね」


「予約? お前、これから一週間は休暇取るんじゃなかったのか?」



「……とある熱心な若者が私に教えを乞いに来てな。中々に見所がある少年だったので、ギッシリ鍛えてやろうと、な」


青白い顔でコーディをキリっとにらみつけるように返してやる。
初対面時に人間の姿を取っていた双子の使い魔を彼女か? と、聞かれた時の場面が彼の脳内で再生された。



「へー、そうかい。少年ってことは、子供か? 年は何歳だ?」


管理局で働く子供というの珍しい存在ではあるが、確かに存在する。
ほとんどは戦闘などを行わない自然保護方面やら、後方のデスクワークの補佐などに配置されたり、厨房のコックの弟子などが多いが。


それでも少年という若さで……恐らくは戦闘方面に進んでいるであろう、グレアムの言う少年にコーディは興味が湧いた。



「12歳だ。まだまだ子供だよ。だが熱意とやる気と根性は一流だった」



「……そうかい。じゃ、頑張れよ。所で、そいつの名前は何て言うんだ?」



ほんの暫し沈黙した後、グレアムは答えた。






「クライド・ハーヴェイ」











新暦41年 第一管理世界ミッドチルダ南部






「ふふふふ~ん♪ ~♪」



プレシア・テスタロッサは幸せの絶頂にいた。これほどの幸せは夫と結婚した日以来であろう。
彼女は質素な木製の椅子に腰掛け、身体を鼻歌のリズムと共に左右に揺らしながら上機嫌に編み物をしていた。
彼女の指によって編まれているのは小さな赤ん坊用の帽子。もちろん赤ん坊の肌を傷つけないために、高級な、肌触りの良い糸をしようしている。


彼女の腹部は僅かに膨れ、その中では確かな命が胎動していた。妊娠5ヶ月である。
無事に人工授精は成功し、彼女は予定通り身篭ることが出来た。
危惧されていたリンカー・コアの負傷による身体の不調などの懸念事項もあったが、全てが順調に進んでいる。




「待っててね~、アリア、お母さんが貴女の帽子を作ってあげるわね」



そっと腹を撫でて、愛しい娘に満面の笑顔で話しかける。
アリア……この名の由来は言わずもがな、アリシアである。
女ならアリア。男ならコーディ。彼女は赤ん坊にそう名づけようと決めていた。
そして女の子と医師に聞かされた彼女は予定通り名前をアリアに決定した。




「アリア、早く産まれて来て頂戴ね。母さんは貴女に早く会いたくて堪らないわ♪」



彼女は今、幸せだった。



──“芽”は未だ発芽せず──



あとがき



皆さんお久しぶりです。

そろそろこのお話も投稿から一年になりますね……本当に時間の経過というものは早いなぁ、とか思っているマスクです。
同時に話の内容も中々進まないなぁ、とも思ってます。
というか新暦40年が濃厚すぎるww



では、次回更新にてお会いしましょう。そして、来年もよろしくお願いします。




[19866] 17
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/12/27 18:15


新暦39年を発端にし、40年代は管理局にとって大きな節目となる時代だ。
アルゴ・レルネーを崩壊させたヒュードラ事件。更にはミッドチルダの民を震撼させた『メテオ3』落着事件。
ヒュー・ラーの映像流出に端を発したプレシア・テスタロッサの無実の証明に、アレクトロの崩壊、経済混乱。


更にはメテオ3内部に保存されていたデータによる、技術革命にも近い大幅な技術の進化の促進。


世界が激動の渦の中に叩き込まれていると言っても過言ではない程に変化していった時代。
しかし次元世界は広大だ。管理局はお世辞にもその変化の全てを知っているという訳ではない。
オルセア帝国の誕生。ヒュードラの目覚め。ルアフの覚醒。ガンエデンシステムの構築。
コレらの出来事を未だに管理局は知りえない。次元の海の遥か先の出来事を彼らは知らないのだ。






新暦41年 時空管理局『本局』 最高機密領域 最高評議会




漆黒の空間。上も下も右も左も、何もかもが闇に包まれ、一種の安心さえも覚える空気が満ちた区画。



魔力を用いた重力操作機器のお陰で下に“落ちる”という事そのものが無いこの空間は縦にも横にも非常に広大な面積を誇っている。
最高評議会は今日も開催される。既に人外の存在に片足を突っ込んでいるかつての英雄達の名残と共に。


漆黒の影に支配された部屋に連続して幾つもの情報を記載した空飛ぶモニターがいつもの様に浮かび上がり、ソレが周囲を照らした。


広大な面積を誇る壁や天井、床には装甲パネルの様な頑丈な素材を使っているというのが、銀色に輝く金属を見れば判るだろう。
まるでどこぞの戦艦のブリッジの様な堅牢な造りの空間。事実、オーバーSの魔導師が全力で砲撃を撃ち込んでもここの隔壁を破壊することは不可能に近い。
ここまで頑丈にここの部屋を作った理由はやはり、この部屋の主たちは未だに戦争をしていた時代の感覚が抜けないからだろうか。



ブォンという音と共にアレクトロ社の空間投影機が稼動をし、この場を支配する『議長』の姿を浮かび上がらせる。
それに続き二回稼動音が鳴り『議員』と『書記』の姿もこの場に映し出され、この場に存在するもう一人の人間をその機械化された眼で見つめ、その仕草を観察。


『議長』の電子化され、効率化された頭脳は自らの眼下10メートルに立っている男を分析していた。
全身の筋肉の萎縮具合に眼の瞳孔の動き、発汗作用、その他全てを余さず観察した結果『議長』はこの男が極度の緊張状態に陥っていると判断。
まぁ、この部屋の構造上、そして自分たちの安全の為、この男には裁判所の被告の様な場所に立ってもらっているので、仕方ないといえば仕方ないが。


それともこの男は半分以上機械化された自分たちの姿を見て、恐怖でも感じているのか?
だとすれば本当に馬鹿馬鹿しい話だ。この姿になったのは全ては愛しい世界の為だというのに。



『それで、君たちは我らの干渉を拒んでいたのではなかったのかね? 一体どんな風の吹き回しかな?』



『議員』の男がモニターの向こう側から無数の機械のシグナルと無機質な肺が空気を体中に装填させる時に生じる独特の呼吸音と共に男に話しかける。
妙に嫌味ったらしい口調、内心からあふれ出る嫌悪と侮蔑の感情を隠そうともしていない。
やれやれ。『議長』の男は内心肩を竦めた。もちろん、今の本物の肩は既に機械と化しているが。
こういう嫌味ったらしい所は100年前から一向に変わらない。




『私も少し興味がある。オルセアの情報は中々入ってこないからな。
 あの地で何があったのか、何を起こされたのか、その全てを細やかに言うのならば保護を考えてやってもいいぞ?』


カチャカチャと下半身に装着された機械の蜘蛛の脚を不気味に動かし『書記』の女がその濁った眼を隠したゴーグルの無機質な光を男に向けて言う。
男が引き攣った声を上げた。些かこの『書記』の女の機械化された姿はグロテスクだったのだろうか?
とんでもない話だ。『議長』の男からすれば、彼女は未だに100年前の美しい姿のままなのに。


完全に最高評議会の空気に当てられ、口をわなつかせ、怯えるように唇を震わせている男を見て『議長』は溜め息を吐きたくなったが、はけなかった。
既に横隔膜そのものを機械で代用している彼は、自然の衝動で溜め息を吐くことさえ出来ない。



『言ってみなさい。我々は貴方の世界で起こった出来事に非常に強い関心を抱いている。貴方の身の安全は我々が保障しよう。何も恐れることは無い』


電子アームの腕を優しく、子供の頭を撫でているかの様に緩慢に左右に振り、男に落ち着くように促す。
最初は『議長』の電子アームを見てぎょっとした顔をしていた男だったが、直ぐに落ち着き、ポツポツと喋り出した。




「私は……私はオルセアから逃げてきたものです……元はそこそこの地位にあり、国家の機密情報にも精通する立場でした」



沈黙が場を支配する。しかし、それは評議会の言葉を続けろという暗黙の促しであった。



「ご存知の通り、当時オルセアでは私の所属する国ともう一つの国が戦争状態にあり、戦局は膠着状態にあり、どちらも決め手に欠いている状態……」



ゴクリと男が唾を飲み込み、口内と下を一度唾液で潤わせてから喋り出す。



「そんな時、我が国家に一つの小さな宗教が産まれたのです。名は“バラル教”」


『バラル教? また随分と物騒な名前だ……』



“バラル”という単語は“混沌”を意味する。戦時の世界にそんな名前の宗教を立ち上げるとは、随分と酔狂な人物も居たものだ。
それともその宗教に入ったものはバラルという言葉の意味を知らずに入ったのだろうか? どう考えても邪教にしか見えない名前なのに。
『議長』の男はそこまで考えを巡らせた後、もう一度男に眼をやり、視線で続きを促した。




「最初は本当に小さな宗教で、我々も全く問題視していませんでした。ほんの数十人程度の信者で何が出来る、後で粛清してやる、と思っていたのです」



ここで男は言葉を止め、全身を小さく震えさせた。まるで小さな子供が恐怖に怯えるように。
何だ、一体何がこの男をここまで恐怖させている? 電子化された眼をもってしても人の心は覗けない。
ただ『議長』の眼には異常な速度で体温が下がっていき、夥しい汗を全身から噴出している怯えた男しか見えない。





「あいつらは……アレは、化け物でした!! 何だアレは! ありえない! 
 たった一晩で、世界の全てをあの男は破壊した!!! 何もかも焼け野原になってしまった!!!!」

 

『……あの男とは誰だ?』



発作を起こしたかの如く怒涛の勢いで叫び続ける男を極寒の様な冷静冷徹な視線で見つめ『議長』は質問した。
どうやらこの男は少し精神系統に異常を発生させているようだ。要点、要点の情報を聞きだした後、適当に戸籍をでっち上げて、仕事を紹介してさよならするべきだろう。


確かに判ったことは、オルセアは既存の政治体形から変わったこと。
しかもそれは平和な話し合いなどによって齎されたモノではなく、圧倒的な力によって成されたこと。
その世界レベルのクーデターにはバラル教という宗教が影響しているという事、などだ。




「ヒドラ……と名乗る男です。紅いマントにローブ、そして常に頭全体を隠す金属の仮面を被った薄気味悪い男……そいつがオルセアを無茶苦茶にした!」




ヒドラ……? どこかで聞いた名前だ……確か●×ー●■(検閲)というロストロギアが起こした事件があった。
ア▲●・レ■●ー(検閲)の崩落でプレシア・テスタロッサが関わっていたとされる出来事。
つい最近アレクトロ社が潰れたのもその事件のせいだ。それに何か関係が在るのか……?


うん? 何やら思考にノイズが走るが……何か機械に問題が発生したのか?



──大丈夫だ、問題ない。


脳内に深い男の声が響き渡り『議長』は思わず同意していた。
この声の主はとても思慮深そうに思えたし、その言葉にも絶対的な自信が窺えたから
特に問題ないと断言するこの言葉の主はきっと正しいのだろうと思える。



ロスト・ロギアなど腐るほどあるのだ。
その内の一つか二つが実在の人名と似ていたとしても特に不思議なことではないし
例え×●ー■■(検閲)が消えた後の時間とヒドラという男が現れた時期がぴったり一致することについても偶然の一言で片付けられる。
『議長』の男は自らの思考に一切の違和感も感じる事なくそう思っていた。



「あいつは、ガンエデンと呼ばれる巨大な戦闘兵器などを用いて、国家の軍を、全土を蹂躙したのです……」



『で、結局君は私達に何をしてもらいたいのかな? 言っておくが、管理局はオルセアに介入する気は今の所ないぞ?』



『議員』の男がその威嚇状態のハリセンボンの様な身体をぐいっと浮遊椅子から乗り出し、その濁った老人の瞳で男を見定めるように凝視。
管理局は今の所はオルセアに手を出すつもりはないと言った彼の言葉は事実である。
只でさえ今の管理局は今の世界を管理するので精一杯なのだ、ここで更に厄介な世界に介入するつもりはなかった。


それにガンエデン……聞いたこともない名だが、もしかすると強大な戦闘力を持ったロスト・ロギアかも知れない……だとすれば、更に慎重な対応が必要だ。
まぁ、多少偵察はするかもしれないが、今の所は保留と言う事にしておこう。



「オルセアに介入など私は望んでいません。私が望んでいるのは私の身の安全の保護だけです! 私を保護してください!! どうか助けてください!!!」



恥も外聞も捨て去り男が叫びたて、目元に涙さえ浮かべて懇願する。
いっそ哀れみさえ誘う光景であった。『議長』の電子脳が音を立てて回転し、この男を管理局で保護した場合のメリットとデメリットを計算……。
しかしそこに少しだけ自分の感情を入れてしまう辺り、彼も人間だったというべきか。



『いいだろう。君は管理世界の一つでただの一般人として生きてもらおう。オルセアの事もここでの会話の事も全て他言無用。
 オルセアという世界に住んでいたお前を殺せるのならば……』


「誓います! 誓います!! 生きることが出来るのならば!!!」



即答であった。即効という言葉がこれほどまでに似合うモノもあるまいて。

















『オルセア……今は一つの国家が支配しているらしいが、果たしてどうしたものか……』


男が退室した後、残った三人は会議を続けていた。
今日はあの男の話意外にも幾つか決めねばならない事があるからだ。
いや……もしかすると、この本題に比べれば、あの男の話などほんの些事なのかもしれない。


『どちらにせよ、今はまだ様子見だ。
 ガンエデンという未知のロスト・ロギアを保有し、質量兵器で完全武装した機械の軍隊を持った国家……迂闊に手は出せぬよ』


『手は出せぬが、警戒はしておくべきだろうな。そういう国家はいつも火種を撒き散らす……いつか偵察なども視野に入れておくべきだと私は考える』


次元世界の火薬庫と呼ばれ禁忌されていた世界が一つに纏まったのは素直に嬉しいが、もしかすると今まで以上に厄介な存在に進化したかもしれない。
そんな想いが三者の心の内にはあった。ただでさえ戦争が終わって半世紀程度しか経っていないのに、もう厄介な存在が沸いてきた。
いや、半世紀も平和が保たれたのが逆に奇跡といえるのだろうか。



『さて、次の議題に移ろうか』



一通り話が纏まったのを見計らい『議長』が二人に声を掛け、意識をこちらに向けさせる。
二人の眼の前で機械の腕を使ってビーコンを操作し、新しい情報を提供。



『メテオ3より新たな情報がサルベージされた。実に興味深いモノがな』


機械的な稼動音と共に電子の腕が滑らかに動き、スイッチを素早く叩いていく。
直ぐに予定の情報が呼び出され、二人の前に映し出された。


『“ハイブリット・ヒューマン”……コレは……』


『見ての通り、高性能な人造人間の製造方法だ。面白いことに必要なモノ全てがあの“メテオ3”には入っていた。まるで作れと言わんばかりにな』


必要な機材一式、その全ての詳細な設計図と基礎理論、綿密な実験のデータ。何もかも全てがメテオ3には梱包されていたのだ。
言葉で言ってしまうと余りにも呆気ない事だが、これが何を意味するか判らない最高評議会ではない。
かつての戦時には人工魔導師生産計画というものもあったり、人の命を武器や何かと同じように考えていた者を見た事がある二人は思わずその皺だらけの顔を顰めた。



『正に“無限の欲望”だ。人の傲慢は何処まで行くのだろうな』



『議長』の嘲りさえ含まれたその言葉は自分自身に言っている様であった。
全身を機械化してまで生きながらえている惨めな姿の自分には本当にお似合いの言葉。



『……創るのだろう?』



『賛成してもらいたい』



たった一言。だが、機械で補われた声帯から発せられたその声は、確かな意思を感じるもの。


『……賛成』


『賛成』



『議員』と『書記』の二名が渋々と言った様子で賛成の票を投じるが、その顔には一目見て判る程の嫌悪感が浮かび上がっていた。
クスクスと『議長』が内心ささやかな軽蔑を含み笑う。こんな姿になってまでも、まだ人の命に対してこんな感情を抱けようとは……。
かつては忌み嫌った行為を自分がやろうとしている。歴史とは何と気が利いているのだろう。


『ありがとう二人とも。この計画はきっと、将来我らの手助けとなる。私はそう信じているよ』



議長、かつては英雄であった男のこの言葉で今回の会議は終了となった。



















新暦41年 オルセア帝国西部 




オルセア帝国の西部には特に目立ったものは存在しない。
首都バラルの園の存在する大陸とは違う大陸があり、そこにもオルセア帝国の臣民、バラルの民は存在するが、それだけだ。
大した特産物や伝統的な行事なども特にない。



西海と呼ばれるオルセアでも最大の大きさ……大体この星の半分を占める海を西部の特徴と呼んでいいものか……。
ここら辺一帯の気候的特徴と言えば、ここはオルセアの中でも特に気流が乱れている場所で、一定の季節を除いてここら一帯の海域は常に大嵐が吹きすさんでいる。
10メートルは優に超える大波が暴れまわり、小さな家屋程度ならばあっという間に吹き飛ばす勢いで暴風雨が大暴れ。
幾重にも重なった雲は決して日の光をこの海域には運ばず、分厚い積乱雲のカーテンで常に天に蓋をされた状態。


魔の海域と一時は恐れられ、オルセアのほとんどの船はこの海域を避けて通るのが当然の事となっていた。
しかし、オルセア帝国はここに眼をつけた。



海上に、巨大な建造物が作られている。
荒れ狂う海から突き出た金属の巨大な支柱、幾つも生えたそれに支えられるのは巨大なドーム。
銀色にきらめくドームと優美な曲線から形作られたマリアージュのクローニング施設、それがこの巨大な施設の正体だ。


実用的で、どこか近未来的な外観をしたこの建造物はまるで一種の芸術品の様に美しい。
遠くから見たら海上から無数の金属の“キノコ”が生えているようにも見えるだろう。




そんな美しい施設の一部が、けたたましい音を立てて爆発した。
その爆音は天で荒れ狂う稲妻の音にかき消され、直ぐに辺りを支配するは暴風雨の不気味な音。
が、続けて二度、三度と、施設の表面が爆発し、その際に生じた衝撃波が海を断ち割り、更に巨大な波を引き起こす。










真っ赤、燃えるように紅い髪をした少女だ。蒼いドレスの様なバリアジャケットを纏い、頭に被るのはウサギの小さな人形をくっ付けた可憐な帽子。
片手に持つは機械仕掛けの鉄槌形の古代のデバイス。
子供でも簡単に持てるほど小型のデバイスだが……それの内包しているエネルギー量は恐ろしいものがある。

コレは俗にアームド・デバイスといい、デバイスそのものが武器の代わりにもなるという代物だ。


ブォンという不気味な風きり音と共に少女がソレを一閃。
それだけで自分に向かってきていた数体のマリアージュが肉片に変わり果てた。
これで少女が倒したマリアージュは丁度100体目。



稲光に照らされ、浮かび上がった少女の顔はまだとても幼く、10代の前半のようにも見える。


「こいつら……死ぬのがこわくねーのかよ……」



ボソリと少女が吐き捨てる様に呟く。彼女の瞳に映るのは床に散らばった無数のマリアージュの残骸。
血、骨、肉、内臓、ありとあらゆる身体の器官をぶちまけて倒れ伏しているマリアージュ達。
ここの警護を任されていたマリアージュ達だ。どれほど攻撃しても決して気絶せず、痛みさえ感じていないかの様にただひたすら攻撃を続けてきた兵士達。



腕を折ろうが、足を潰そうが、怯みもせず行軍を続ける人の形をした化け物達。
どこかで見たことがあるこの人形達を少女は蹂躙したのだ。



少女は思う。本当にコレは正しい行為なのか? と。


自らが敬愛するマスターの命令。それは彼女達にとって絶対。
が、それでもこうやって大量虐殺をするのは気が進まないものがある。
人に似せて“デザイン”され“創られた”少女は、ある意味完璧に人間と言う存在のコピーなのかもしれない。



「ヴィータ。干渉に浸っている時間はないぞ。直ぐにリンカー・コアを蒐集し、この施設を破壊する。破壊にはお前のギガントシュラークが適任だ」



紅い髪の少女──ヴィータの隣に降り立ち、彼女を諭すように一人の女性が言う。
桃色の長髪を後ろで一まとめにし、全身に纏うは薄い紫色の騎士の甲冑──バリア・ジャケット。
片手に持つは長剣タイプのアームド・デバイス。その目は歴戦の戦士の様に鋭く、同時に少女に対する信頼で溢れている。



「判ったよシグナム。直ぐに終わらせるさ」



ガシャンとデバイスをリロード。中に装填されていたカートリッジを一つ使用し、全身に一挙に魔力を行き渡らせる。
ハンマーを両手で握り締め、思いっきりフルスイング。凝縮された魔力の固まりが音速を超える勢いで複数発射され、紅い軌跡を描きながら飛んでいく。



刹那、轟音が響いた。



着弾した施設の一部の装甲が抉れ、内部に存在する無数のシリンダ──マリアージュのクローニング装置が剥きだしになってしまっている。
シリンダーの中には小さな小さな幼児が浮かんでおり、この幼児は成長するとマリアージュになり、敵を殺して自分も殺されるまで戦い続ける。


彼女たちはここのデータバンクを覗いてそういう情報を得ていた。



そんな存在を延々と生み出す施設が此処だ。ここは兵士の養殖場であり人工孵化場。命の価値が狂った場所。
少女はそれを見てその幼さが残る顔を思いっきり顰めた。きっと、この施設を作ったやつはとんでもなく頭がイカレテイル。
広い次元世界の中で、そして自分もとある書物……×■の●(検閲)……闇の書と呼ばれる装置と永遠に近い年月を歩んできたが、こんな事をする奴はいなかった。



「…………」



無言でハンマーを一振り。
再度生み出された真紅の魔力弾がむき出しのシリンダー達に直撃した。
たったそれだけで音を立てて何千と言う命の入ったシリンダーの群は崩壊し、中の胎児の命が失われていく。
あまりの衝撃に灯りが一時的に落ち、直ぐに非常用の電流が流され薄いオレンジ色の灯りが施設を照らす。


哀れみをもってそんな光景を見ていたヴィータであったが……。




瞬間、彼女の背筋に寒気が走った。騎士としての直感が危機の到来を告げる。




「シグナム!!」



「判っている!」




正に阿吽の呼吸。永い年月を共に戦った彼女達は無駄な言葉を介せずとも動けた。
シグナムとヴィータが宙に舞い、ヴィータがその身を小さく竦める。


怖気付いた? いいや違う。



【パンツァーヒンダネス】



一瞬三角形の魔方陣が展開され、ヴィータの全方位を多面体で構成された障壁で覆う。
古代ベルカの防御術。術の発生速度。硬度。応用性、その全てにおいて非常に優れた魔法。
コレを超える防御術を扱えるのは彼女達の仲間では盾の守護獣ぐらいだろう。



彼女らが備えたほんの数瞬後──凄まじい閃光と共に振動が彼女達を襲った。
金属が溶けていく不気味な音、そして何かを焼ききるかのような甲高い音、更には雷の音、全てが同時にヴィータとシグナムの耳朶を揺るがす。
一瞬だけ、意識を持っていかれそうになるのを二人は必死に堪えた。




「おっかねーなー……おい」


結晶に身を守られつつヴィータが呟く。雨風が激しく全身を襲うが、そんなもの些細な問題だ。
恐らくは特殊に加工されていた金属で作られていただろう、つい先ほどまで彼女らが居た場所……そこがドロドロに溶けていた。
無数に降り注ぐ雨によってそこから夥しい量の水蒸気が上がり、どれほどの熱量の攻撃がそこを襲ったのかを彼女達に教えている。


オレンジ色の融解した場所を一瞬だけ見て、二人は注意を周囲に向ける。

敵を探そうとするが……その必要は直ぐになくなった。




【侵入者に告ぐ。直ちに武装を解除し、投降せよ。お前たちはオルセア帝国に対する反逆罪の疑いがある】
【侵入者に告ぐ。直ちに武装を解除し、投降せよ。お前たちはオルセア帝国に対する反逆罪の疑いがある】
【侵入者に告ぐ。直ちに武装を解除し、投降せよ。お前たちはオルセア帝国に対する反逆罪の疑いがある】




コオオオォオオという深海のソナー音にも近い種類の特徴的な音が鳴り、3機のエゼキエルが溶けるように空間からその姿を現した。
エゼキエルのステルス機能による接近、及び奇襲攻撃…・・・が、乗っているマリアージュは奇襲によるメリットとステルス機能の有用性を余り理解出来ていないようだ。

このマリアージュ達は試験的に知能を強化され、エゼキエルのパイロットとして作られたマリアージュである。
が、所詮はマリアージュ。まだまだ改造に大幅な余地は残っている。



何で出てきた? あのまま隠れつつ攻撃すればいいものを……二人は一瞬だけそう思うが、直ぐにその思考を排除し、騎士……そして戦士としての思考に切り替える。



巨大なドーム……金属の“キノコ”の表面にビッシリと張り付いている機械仕掛けの『蟲』達がその無機質な全身を雨風に晒しながら
この施設で無法な破壊を繰り広げる二人の騎士をそのメインカメラで記録し、その情報を一つ余さず全てをガンエデンの元に送信し、そして自らも動力を稼動。
まるで無数のふじつぼの様にうじゃうじゃと建物に張り付いていた『蟲』が反重力システムを稼動させつつ大きな弦を描きながらシグナムとヴィータに肉薄を開始。


建物の天井が“剥がれ”その欠片一つ一つが明確な殺意と共に向ってくる。




「悪趣味なデザインだな」


「ウサギのが100倍かわいいね」


無数のハゲタカに迫られるような錯覚を一瞬だけ覚えた二人がデバイスを構え直し、更に集中。
あの気色悪い蟲とこの騎士の姿をした傀儡兵を同時に倒す算段を……つけた。
ヴィータが動きやすくするため、【パンツァーヒンダネス】を解除し、その鉄槌形のデバイスを持ち直す。




【侵入者に告ぐ。直ちに武装を解除し、投降せよ。お前たちはオルセア帝国に対する反逆罪の疑いがある】
【侵入者に告ぐ。直ちに武装を解除し、投降せよ。お前たちはオルセア帝国に対する反逆罪の疑いがある】
【侵入者に告ぐ。直ちに武装を解除し、投降せよ。お前たちはオルセア帝国に対する反逆罪の疑いがある】






「うるせぇ! 返事はコレだ!!」


何度も何度も同じ事を無感情な言葉で繰り返されヴィータの堪忍袋の緒が切れたのだろう。
指と指の間に小さな鉄球を生み出し、ソレをハンマーで思いっきりシュート。



【シュワルベフリーゲン】



紅い軌跡を描きながら、3つの鉄球が十分な加速と共に撃ち出され、ソレは狙い通りにエゼキエルの蒼いボディーに……到達できなかった。
紫色の力場が展開され、真紅の破壊の力を受け止める。
限定的でこそあるものの圧倒的な重力の奔流が鉄球の全ての運動のエネルギーと魔力による補助の力を相殺していく。


あっという間に全ての鉄球はただの屑鉄となり、重力の壁の前にグシャグシャに押しつぶされた。


「やっぱり結界かよ……!」


何となく予想はしてたことだが、それでもこうやって実際に攻撃を防がれると心理的に来る。
そもそもシールド見たいな防御の補助なしであんなデカブツ動かしたら、戦場ではただの的にしかならないだろう。



「シグナム……どうするよ? あたしらの火力でアレの結界を破れると思えるか?」



何処と無く弱気なヴィータの言葉にシグナムは彼女の顔も見ずに答えた。
それがどうした、といわんばかりに。彼女は絶対の真実を断言する様に言葉を紡ぐ。



「お前は“鉄槌の騎士”だろう?」



「……そう、だな!」


その一言は彼女にとってどんな言葉よりも重く、それでいて最高の信頼の言葉。
そう、自分は“鉄槌の騎士”なのだ。


このグラーフ・アイゼンに、破砕できぬモノは無い!
それはヴィータの信条。彼女の迷い無き主への誓いでもある。



カートリッジをリロード。更にもう一度リロード。更にもう一度。計3つリロード。
魔力が爆発的に増加し、彼女の身体を突き破るほどに膨れ上がる。
真紅の魔力光が彼女の全身をオーラの如く覆い、霧のような魔力煙が上がる。




【抵抗を確認。排除する】
【抵抗を確認。排除する】
【抵抗を確認。排除する】



対してエゼキエル達の反応は何処までも淡々としており
機械的に、事務的にこの侵入者を排除、もしくは捕獲することを目的に行動。
懐から柄だけの武器を取り出し、ソレを稼動。あっという間に刀身が高密度のエネルギーで形成された剣をその手に握る。





「私を忘れてはいないか?」



ガシャンという機械音。カートリッジを2個使用し、元々オーバーS以上あった魔力を更にブースト。


シグナムがレヴァンティンを一閃。
その余りの剣速は一瞬シグナムの腕が握っている剣ごと消えたかと見間違えるほど。



【紫電一閃】



刀身に乗せられた魔力が炎という形を取り
本来ならば不可視の魔力の刃が紅く染め上げられ、それは必勝の一撃となりエゼキエル達に襲い掛かる。


が、この一撃をまともに浴びてやろうと考えるほどパイロットのマリアージュは愚かではない。
直ぐに反重力システムを操作し、ブースターを噴かせて迫り来る殺意の衝撃から逃走を図る。


5メートルの巨体からは想像も出来ない程にエゼキエルはその巨体を俊敏に動かす事が出来た。
その機転の速度は速すぎて、人間の視界から一瞬で消えうせるほどだ。
ソニック・ブームに近いものが巻き起こり、付近の空気を揺るがす。


しかし。機械仕掛けの騎士を駆るマリアージュ達は少しばかりベルカの騎士を舐めていた。




【紫電一閃】



マリアージュのパイロットが見たのはつい先ほど回避した衝撃波。
ソレがちょうど、眼の前にあった。更に追加でもう一発シグナムが放ったのだ。
エゼキエルの移動経路を予想し、絶対に回避できない場所に斬撃を“配置”している。



マズイ。回避を──。



そう思った時は既に手遅れであった。
衝撃が紫色の力場を揺るがし、じりじりと『G・ウォール』というシールド発生装置に負荷を掛けていく。
が、確かに多量の負荷が掛かったが……このまま行けば防ぎきれる。
マリアージュがそう判断し、次の攻撃に備えて火器管理システムに手を伸ばそうとして……マリアージュの腹部が翡翠色の魔力光と共に爆砕した。



エゼキエルは特に問題ない。
未だにGウォールは【紫電一閃】を完全に防いでいるし、後数秒でこの衝撃波は完全に効力を失うだろう。


エゼキエルの内部にいるマリアージュを破壊したのはシグナムでもヴィータでもない。完全な第三者だ。
3機の内、1機が機能を停止し、そのまま重力に囚われて海へと落下。海面に叩きつけられ、そのまま大波に飲み込まれて深く沈んでいく。




「轟天爆砕ぃいいい!!!!」




【ギガントシュラーク】



巨大。余りにも馬鹿馬鹿しく巨大な鉄槌。
柄だけでも優に長さ数十メートルはあり、肝心の鉄槌の部分はもはや巨大な“面”としてしか捉えられない程の馬鹿げた質量の塊。
ソレが圧倒的な威圧感と共に神の断罪の如く振り下ろされ、シグナムに襲い掛かろうとしていた残りのエゼキエル二機を叩き潰しに掛かる。


しかしさすがは知能面を多少改造されたマリアージュと言うべきか。
咄嗟にレーザーブレードを放棄し、格闘戦時の為の非常用とも言える装備【ガイスト・ブロー】を瞬時に発動させ、機体の背部のブースターを最大出力で噴射。
ごぉんという金属を思いっきりぶつけ合わせたような、なんとも言えない轟音。
エゼキエルが【ギガントシュラーク】をG・ウォールとガイスト・ブローを用いて真正面から受け止め、そのまま押し返そうと足掻く。



が……。



「背後から、済まぬな」




【紫電一閃】



再度放たれた絶炎の衝撃波が、エゼキエルを背後から襲った。
真正面からのギガントシュラークと背部からの紫電一閃。二つの攻撃に二機のエゼキエルは挟み込まれる形となる。
G・ウォール発生装置の負荷が限界点を迎え、エゼキエルの機体が小さくスパークを起こし、一瞬だけその機能が停止した。



直ぐに非常用の動力に切り替わり、再度起動を果たそうとするが……余りにもその一瞬は長かった。
ギガントシュラークの絶対的な物量、魔力による重力操作さえも施された莫大な質量の鉄槌が
力を失ったエゼキエル二機の両手を粉砕し、次いで胸部を内部で操作するマリアージュごと打ち砕いた。




「おおおぉおおらぁああああああああ!!! ラケェエエエテンハンマァアアアアア!!!!!!」



が、まだ終わりではない。
ギガントシュラークによって巨大化されたハンマーの一部からジェット機のエンジンにも劣らない程の勢いで猛火を噴出させ
そこから得られる凄まじい推進力のすべてを用い、巨槌を思いっきり暴転。



回転回転回転回転回転。そして、炸裂。


莫大な質量と十分な加速を伴った一撃。
柄を更に延長させ、圧倒的な射程を誇るその一撃は自らに迫ってきている『蟲』の群れを思いっきり横合いから殴りつける。


『蟲』らにはGウォールも無く、何よりその素体はエゼキエルほど頑丈には出来てはおらず、更に言うならベルカの騎士と戦ったデータも持ってはいない。
幾ら電子の反射神経を持つ最新鋭の機械仕掛けの脳みそを持っていても、誰もデバイスが数百倍の大きさになり、質量攻撃を行う存在など予想も出来やしなかった。




【1110101010100101■▲■●●▲×××1110100!!!!!!!】




無茶苦茶な電気信号を断末魔の叫びの如く送信し“面”に押しつぶされ、爆砕。



しかし巨大な鉄槌の勢いはまるで減じない。たかだか機械の蟲数十機を押しつぶしたぐらいでは、全く。
更にブースターによって加速したギガントシュラークの巨槌はマリアージュのクローニング施設に到達し……。




刹那、世界が真っ白に染まった。響き渡る轟音。爆砕の音、無数の金属が無理やり破砕させられ、引き伸ばされていく怨嗟の声。



白い世界が再び色を取り戻した後に残るは、ついさっきまでそこにあった金属の“キノコ”の上半分が抉られ、海の中に落ちていく光景。
何千、何万というマリアージュの胎児と共に施設は海の濁流の中に文字通り叩き落され、沈んでいく。




「…………」



ギガントシュラークを解除し、持ちやすい手持ちサイズまで相棒であるグラーフ・アイゼンの姿を変更したヴィータは歓声をあげる事もなくその光景を見ていた。
あの中にあったのは全てが兵士とは言え、まだ何も知らない赤子…・・・いや、それよりも幼いモノらだ……それをたった今、自分は全て殺した。


プログラムであり、人工生命体である自分が罪悪感を感じるとは……。


「ヴィータ、帰るぞ。先ほどの機械の騎士が大挙して現れたら、幾ら我々でも危ない。リンカー・コアもそこそこに回収できた」



「わかってるって」



ベルカ式を象徴する三角形の魔方陣を展開。そのまま転移を行い、二人の姿は消えてなくなる。
その光景を建物の影に隠れて一匹の『蟲』がその無機質なレンズで最後まで見つめていた。















二人が転移した先はお世辞にも治安がいいとは言えない場所。
かつてここはオルセア崩壊時に難を逃れた者達が集まって形成されたスラムであった。

しかし、霊帝ルアフと呼ばれる存在の怒りを買い、
無数のマリアージュと機械の軍団によりここの住人はそのほとんどがマリアージュ化、もしくは殺害されるという末路を辿った。


道端に無数の死体が転がる光景。
ほとんどは栄養失調の為、極限とも言える飢えを体験しながら死んで行った者達。
その光景に恐ろしいまでの既知感をヴィータは覚えた。既にかつての記憶は擦り切れて無くなったとはいえ、戦乱時のベルカもこんな状態だったのだろうか?


バラルの園を中心にオルセアは復興をしているが、ここだけは全く復興させられない。
ルアフはこの地区に住む全ての人間を救う気など全く無いらしく、遠まわしに皆死んでしまえと言っている。


悪臭に思わず鼻を摘みながら歩く。人の腐った匂いというのはいつまでも慣れない。慣れたくない。


暫く歩を進め、このスラムに残された数少ない建築物の前までいく。


すると眼の前の建物から翡翠色のコートに身を包んだ金髪の女性が現れ、二人を出迎える。
彼女は別に敵ではない。一足先にここに転移していた仲間だ。
片手に持っている分厚い書物がやけに存在感を発している。


表紙に金色の十字架が飾られた書だ。



「ご苦労様。シグナム、ヴィータちゃん」



「シャマルか」



「おいっすー」




朗らかな笑顔を浮かべる女性──シャマルに手をあげて答える。



「主は?」



「トーマ君なら上の階に居るわ」



「そうか」




返事もそこそこにヴィータとシグナムが建物の奥に入り、階段を昇り、部屋の扉を開けた。





「お帰り、二人とも。無事で何より」



部屋の中央で椅子に腰掛けているのは一人の男……否。少年。
年はまだ十代の半ば辺りの、幼さが抜けきってはいない少年。


この栗色の髪の少年が今の彼女達の主。今代の闇の書のマスターだ。
少年は二人の姿を見ると、心の底からの素晴らしい笑顔を投げかける。



そんな少年の前にシグナムとヴィータは歩いていき、そして跪いた。何のためらいも無く。



「我らが主、トーマ。報告します」



「うん。お願い」



ニコニコニコニコ、笑顔を絶やさずトーマと呼ばれた少年は笑い続けている。
少し、不気味な笑みだ。



「帝国の施設の破壊に成功。それと、僅かではありますがリンカー・コアの蒐集にも成功し、残り200ページ程で闇の書は完成します」



暫しの間。トーマは報告された情報を噛み砕いている様だ。
指を額にやり、そのままじぃっと考え込む。顔には貼り付けられた様な笑顔を浮かべたまま。



「そうかぁ……後200ページかぁ…………」



やがて搾り出すような声でトーマが語った。
まるで独り言の様に。まだ、顔は笑っている。いつも、笑っている。


しかし、その瞳の奥には隠しきれないほどの感情が宿っているのをシグナムは見た。


その感情の名は……憎悪。



「シグナム、ヴィータ、シャマルとザフィーラにも伝えておいて欲しいんだけど……」



一泊。




「赤ちゃんだろうが老人だろうが、リンカー・コアがあったなら蒐集してもいいよ。
 抵抗されたら、殺してもいい。どうせ皆最後は死ぬんだから、先に“天国”に送ってあげて」


笑顔を絶やさず、彼は言い切った。隣でヴィータが息を呑む気配を感じながらシグナムは答える。
自らは烈火の騎士のリーダー。自らは主の命令に絶対に従うものだ。自分に幾度もそう言い聞かせ、彼女は耐えた。



故、彼女は答える。所詮自分はプログラムだという諦観さえ含み。




「はい……我が主」



「うん。じゃ、下に行ってて」



相変わらずの笑顔だ。よーく見てみるとこの笑顔には中身などないと判る。
ただ、貼り付けられているだけ。笑顔以外の感情表現を知らないかの様に彼は笑っているのだ。


その薄いペルソナの下に激情を隠している。どう足掻いても消せない憎悪を。



二人の下僕が退室したのを見計らいトーマが椅子から立ち上がり、窓辺まで歩く。
ここから見える景色は地獄だ。道端には死体。街の至る所には死体。
時折女が犯されていたり、産まれたばかりの赤子が捨てられている事もある。


神はどうやらここを救う気などないないらしい。


彼の家族もマリアージュ達に道端の石ころのように皆殺しにされた。
いつも遊んでいた友達も全て殺され、彼に残ったのはあの闇の書だけ。


朗らかな笑顔と共に地平線の遥か向こう……霊帝宮を見やる。



そこにはきっと、ルアフとかいう霊帝が傲慢極まりなく座しているのだろう。
何億の血と言う上に立てられた国の上に君臨して、毎日好きに暮らしているのだろう。



とんでもない話だ。何が神だ。何が帝国だ。
そんなこと、トーマは知ったことではない。



「皆で、一緒に天国へ行こう?」



彼は世界全土に対し、そう宣言するかの如く言う。




闇の書の力は凄まじく、使用者の願いを叶えてくれるらしい。
トーマが願った事は唯一つだけだった。



世界の崩壊。彼は、オルセア帝国の崩壊を願った。



新たな、闇の書事件の始まりであった。






あとがき


前回の更新で今年の更新は最後みたいなことを言ったが……。



あ れ は 嘘 だ。



という訳で更新。本当に悩んだ結果、クライドの前の闇の書事件、開幕です。
戦闘シーンなどに自信がないため、何でもよいので感想をくれると嬉しいです。




[19866] 18
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/01/16 11:39



霊帝ルアフ・ガンエデンはこの頃酷く不機嫌であった。
いつも通り玉座にけだる気に腰掛けた彼の顔は人形のような無表情であり、肘掛けを人差し指で何度もトントン叩いている。
コツコツ……という無機質な音が一定のリズムを伴って部屋に響き渡る。



無表情……しかし、これは胸の内側で濁流の様に湧き上がる怒りを必死に抑えているが故の表情だ。
事実、ルアフは今の自分の中でとぐろを巻き、鎌首をもたげるこの怒りがどれほど大きなものなのかよく判っている。
もしもコレを表に出してしまえば、どうなるかも判っている。故に彼は我慢をしていた。


怒りに任せてこのオルセアを破壊などしてしまったら、ヒドラと、その後ろに居る“あの存在”の不興を買うことになってしまう。
それだけは避けたい。あんな化け物を敵に回すのは真っ平ごめんだ。



文字通りオルセアの神であり、この世界の絶対的な支配者である彼に逆らえるものなど存在しない。
普通ならば一つの世界を丸ごと支配している彼と、彼の指揮する莫大な数の軍団に挑もうなどと考える者はいないだろう。
オルセア開放戦線と言う愚か者の集団も今は滅ぼされ、このオルセアは名実共に彼の所有物となったはずなのだが……今は一つ問題が発生している。



まだ居たのだ。愚か者が。今の彼に歯向かうどうしようもない馬鹿が。
本当に信じられないことだが、世の中というのはいつもそういうものである。
オルセア開放戦線を踏み潰し、もう敵は居ないと思っていたのに。



事の発端はつい数日前、霊帝宮に座す彼に一つの報告が入ったことからはじまる。


それを聞いてルアフの表情は固まり、次いで再起動を果たした彼は思わずその報告をしてきたマリアージュを念道力で跡形も無く消し飛ばしてしまった。
そのマリアージュの部下が消し飛ばされた上司の代わりに告げた内容は、とても単純で、それでいて重大なことである。



マリアージュのクローニング施設が破壊されたと。
同時に5万を越えるマリアージュのクローンも破壊された。
今頃はあの海域を流れる暴力的な潮の渦によって、ズタズタにされているか、水圧でぺっしゃんこだろう。


幸い研究データは逐一バラルの塔に送信されているため、失われることはなかったが、それでも帝国が受けた損害は決して小さくは無い。



が、それ以上に、その結果以上にルアフを苛立たせている要因がある。
あの施設を作ったのはルアフだ。ルアフ自身が、自分の意思を持って始めて建造した施設なのだ。
それを破壊された。更には何万と言う数の駒を失った。しかも未だにその犯人は処刑されていない。



そのどれもがどうしようもなく苛立つ。
彼は自分の意のままにならないことがあるのが許せない。
このオルセアの支配者に従わず、あまつさえ反旗を翻すなどあってはいけないことだ。



ルアフが片手を虚空に翳し、空間モニターをその場に展開させる。
眩い電子的な輝きと共にモニターが輝き出し、同じみの声でオルセア・アーカイヴへのアクセスを許可する。
幾度か画面をタッチ操作し、望みのサービスを選択し、それを出力させる。



複数回画面が切り替わり、そして映し出されるは蒼いドレスと帽子を纏った小柄な少女。
手に持つは小型の槌型のデバイスであり、これの中には外見からは想像も出来ないほどに強大な力が秘められているとデータは語っていた。
事実、この鉄槌は何百倍にも巨大化し、巨大なクローニング施設を一撃で完全に破壊した。


この施設の再建にはどれほどの時間が掛かることやら。



次に映されるのは先ほどのまだ子供とさえ言える少女とは違い、長い髪を後ろで纏めた大人に見える身長の高い女性。
身に纏うのは紫色を基色とした中世時代の騎士が着込んだ甲冑の様なもの。
この女性は長剣タイプのデバイスを持っており、面白いことにこの剣は魔力を糧として“燃える”ことが出来るらしい。
剣から放たれた一撃は炎を纏った衝撃波となり、あのエゼキエルを粉砕している。




恐らくこの両者は魔導師だろう。
かつてオルセア開放戦線の本拠地でルアフが葬りさった存在と同じ類の者。
個人で天候を操り、個人で大出力のエネルギー砲を放ち、個人で一つの部隊に匹敵する個体戦力。


それが魔導師だ。



更に無言でモニターを操作。
オルセア中を絶えず観察している衛星へとアクセス。
複雑なパスワードを手早く入力し、自らの指紋と瞳孔をスキャンさせ、エンターに軽く触れる。




『承認。ツリー・ダイアグラム各機へのアクセスを開始します』



オルセアの衛星軌道上を漂うのは何十と言う人工衛星。オルセア帝国が打ち上げた機械仕掛けの小さな星だ。
その全てに搭載されたスーパーコンピューターへのアクセスを開始。
画面が唸りを上げて死の空間である宇宙に漂う機械と見えない線を紡ぎ始め、それは数秒で終了する。


表向きの理由は気象情報の入手などで使用される高性能の機械にルアフは一つの命令を下していた。
あの二人の女性のデータと共にこう送ったのだ『見つけろ』と。


衛星の眼と言うのは人が思っているよりもずっと高性能だ。
最大限にズームしてやれば、地上におかれた新聞の文字さえも読める。
しかもこれはただの衛星ではなく、かつて国家で使われていたスーパーコンピューターが玩具に見えるほどに高性能な半量子演算機を梱包しているのだ。
それら数十機の性能を持ってすれば、宇宙から人探しをすることさえもそう難しいことではない。


魔導師が魔法を用いて空間を転移するときに生じるほんの僅かな重力の乱れ。
当たり前だ。空間を歪めて転移するのだから、空間と密接なかかわりを持つ重力が少しだけ捻れるのも頷ける。
詳しい理屈をルアフは理解できなかったが、それだけわかれば十分だろう。



その全てをこのツリーダイアグラムは観測しているのだ。



モニターに表示される計測された重力の乱れが発生した箇所はほぼオルセア全域、その数は100を超えている。
彼の“所有物”であるオルセアでここまで好き勝手しているのだ。本当に面白い事をしてくれる。


絶対にあの女どもを見つけ出し、この手でバラバラにしてやる。ルアフは決意し、更にモニターを操作。
次に表示されたのは重力の乱れがあった日時。そしてその場所で発生した事件など。
思った通りである。全ての場所では共通してオルセア帝国の施設が破壊されており、同時に何人かの民衆の死者も出ている。



「へー……何処までも、ふざけた真似をしてくれるね」



思わず口を付いた言葉は、無感情であった。
何処までも淡々としており、何処までも煮えたぎっている。

コレは義憤などではない。ましてや正義のヒーローが悪党に感じるものとは全く違う種類のモノ。
自分の所有物を壊され、自らの正当な権利を侵害されたどす黒い怒り。


そして苛立ちだ。


自分の理解できない存在に対しての苛立ち。どうして黙って自分の支配を受け入れない?
どうしてこの霊帝ルアフに支配され、統治される事に喜びを見出せない?



何故、オルセア帝国に服従しないのだ、このルアフに。
この魔導師の女どもは一体何を考えているのかちっとも判らない。


怒りに眼を輝かせながらルアフがモニターを更に操作。今度は犠牲者についての情報をクローズアップ。


コレも面白い結果が出てきた。
全員に一致することがあったのだ。



老人、若者、子供、女、男、人間、非人間種、性別も種族も年齢もバラバラな犠牲者たちであるが、その全てに共通点がある。
全員が死亡しているという点と、全員の殺され方、そして抜き取られたものだ。


胸部……丁度心臓のある場所辺りにポッカリと綺麗な穴を開けられ全員は死亡。
心臓と“ナニカ”を抜き取られて被害者は死んでいる。そんな殺され方をしたのが100人以上もいる。
胸に風穴を開けられて死んでいくのはどの様な気分なのだろうか? 
即死でなかったとしたら、やはり死ぬのは怖かったのだろうか?



かつての自分の様に。




まぁ、どんな手口でどんな殺され方をされていようがルアフにはあまり興味がない。
この犯人と思わしき女どもは見つけ次第、減圧室に放り込み、減圧のスイッチを押してやる。
いや、いっそ巨大なミキサーを作ってその中でミンチにしてやるのも悪くない。


念道力を自らの中で高め、銀河系を身体の内で創造し、異常なまでに直感を冴え渡らせる。否、第六感を支配するのだ。
次に、何処で、何が、どういう風に起きるか、擬似的な因果への介入、念道力による未来予知。


霊帝の脳内で閃光の様に様々なイメージが飛び交い
それらは飛び散ったパズルのピースの如く一つ一つが異なる意味と存在を発している。


頭の中に浮かんだ光景を“見て”その意味を直感的に理解し組み立てていく。
これから起こる現実を“見て”その意味を解読していく。
そして“理解”した彼は思わず鼻をならしていた。
まるで今まで複雑で、美しいと思っていたものが、実は滑稽で、どうしようもなく醜いと判った時に呆れた人間がするように。


心の中を占めていた熱い怒りは凍りつき、磨きぬかれた刃よりも鋭い武器となり、それは彼の念道力を高めていく。



コレは……仕組まれていたのだ。最初から、全部。
言うなれば……一般人にもわかるように言えば、コレはテストだ。
もっと言ってしまえば劇だ。オルセアという世界を舞台にした壮大な劇。
役者はルアフに……あの名前も判らない女どもと、念道力が教えてくれたその裏にいる何者か。


テスト、これはテストであり劇。何処まで面白く演じられるか、踊れるかを“試されて”いる。
誰が試している、などとは言うまい。知りたくも無い。世の中には知らないほうがよいこともある。




──かわいそうな人ですね、貴方は。私が見た限り、貴方はあの男の操り人形にしか見えません。いつか貴方も飽きられて捨てられるでしょう




あの冥王の言葉が、あの凍りついた顔と共に再生される。
この言葉に、ルアフは反論することは出来なかった。
駄々を捏ねる子供のように力づくで黙らせようとし、そして阻止された。


母の奴隷であった彼は、何時の間にか今度は“あの存在”の奴隷になっているのではないか?
即座にこの言葉に突貫作業の反論の言葉が浮かぶ。
ありえないことだ。僕は霊帝ルアフ。オルセア帝国の支配者。次元世界の支配者。絶対の神。
その僕が、奴隷のはずがない。あってはならないことだ。




玉座の肘掛けに内包されている機械の端末を弄り、配下を召集。
呼び出しのコールを鳴らしてからほんの数秒で謁見室の扉がノックされた。
ルアフが許可を出すと、直ぐに数体のマリアージュと白衣に身を包んだ紅い眼をした男が入ってくる。



「お呼びでしょうか、陛下」



マリアージュの護衛を引き連れた男が恭しく跪き、完全な忠誠を示す。
その態度にルアフは自らの機嫌がよくなるのを感じた。



──僕は全てのオルセアの人間に忠誠を捧げられている。この男も僕の所有物だ。



ルアフが鷹揚に手をふり、上機嫌に男に声を掛ける。



「君から送られてきたマリアージュの改造体のデータを見せてもらったよ。本当に面白い内容だった」


「光栄です。陛下」



陛下……実にいい響きの言葉だ。何度呼ばれても素晴らしい高揚感を感じる。
特にヒドラと違って、完全なる服従の意を向けてくる存在が言うと。
ヒドラのアレは……どうも信用ならない。



「何体ほど完成しているのかな? この改造型は」


ルアフがモニターを操作し、イメージを呼び出す。
眩い光と共にそこに映し出されたのは……酷くおぞましい存在だった。



軍団長クラスのマリアージュを素体に機械と生身を融合し、遺伝子を弄くり強化を施されたマリアージュ。
人間の頭蓋骨を彷彿とさせる銀色の強化チタニウム製の機械のマスクを被り、手足も完全に機械と一体化させられ、猛禽類の鍵爪の様な鋭さを持っている。
全体的に細身な外見はまるで死神のようだ。


コレは様々な強化への第一歩である。素体そのものを強化し、更なる強化へと繋げていくための第一歩。




「まだまだ実験段階ですから、実戦に出せるのは20体ほどですね」



模擬戦だけではなく実戦のデータも欲しいものですと続ける男にルアフは更に上機嫌な声で告げた。
椅子から身を乗り出し、その眼を期待と欲望で輝かせながら彼はいう。




「喜びなよ。もうまもなく、実戦のデータが手に入るよ。それもとびっきりの、ね」



ここで彼の脳内にもう一つ“とてもいい事”が浮かび上がり
思わずルアフは口元を三日月のように歪め、見る者に生理的な嫌悪と恐怖を与える笑みを浮かべていた。



──いいだろう。コレが劇ならば、乗ってあげるよ。せめて楽しんでいろ、ヒドラ。






















闇。闇闇。何処までも続く無限大の闇。永遠の深みへと続く黒。
深くて、寒くて、そして少しだけ悲しさを感じる闇。意識が覚醒したトーマが見て、感じたのはソレだった。
身体を動かし、自らの身体に不備が無いか確かめ、次いで辺りをゆっくりと見渡す。
どうやら肉体に怪我などは負っていないようだ。問題なく動かせる。




「ここは何処なのかな? “天国”かな?」




一瞬だけ怪訝そうに顔を傾げたトーマであったが
直ぐに笑顔を貼り付けた表情に戻し、何処か悦楽さえも感じる声で淡々と言う。
声音そのものは優しい、が、温かみは全く無い言葉だ。聞いている者の背筋に冷たいモノが走り抜ける声だ。
とても10代の少年が出しているとは思えない程に艶やかささえもある声。




──主、聞こえますか? 主。




「うん、聞こえるよ。僕の名前はトーマ・フィーニス、14歳。今回の闇の書の主だね……そして君はだーれ? 友達になってくれる?」



無邪気な笑顔だ。これ以上ないほどに眩しくて、同時に凍りついた仮面。
心からの挨拶と共に姿の見えない相手に一礼し、何処か期待した眼差しで暗闇を見つめる。



──私は書の管制人格、書の蒐集頁数が400を越えたので稼動しました。



告げるのは淡々とした声。機械的でとても冷たい声。しかし声そのものはとても美しく透き通り、歌手でもやっていけるほど。
もしもこの声の主が笑えば、とても心が温まる声音になることだろう。
トーマは特に興味などないが。



「じゃ、僕と契約しているのは君なんだね? よろしく」



温かみを全く感じない笑顔と共に闇の中に手を差し出し、握手を求める。
これから“使う”ことになる“道具”とは仲良くしておいたほうがいいだろう。
暗闇の中に差し出した手に冷たい感触をトーマは感じた。
とても冷たい手だ、死人の手と言うのはこういうものだろう。
死人の手を握ったことがある彼にして見れば、余り気持ちのいい感触ではない。
特にそれが大切な者の死体であった彼ならなおさらだ。




次の瞬間、トーマの眼前、闇の中に一人の女が立っていた。




輝く様な銀色の長髪。美女と美少女という存在の中間地点に存在している外見の女性だ。
バラルの民の者らとは違う種類の、とても綺麗なまるでルビーを思わせる真紅の瞳。
細い手足は大の男が力を入れれば簡単に折れてしまいそうな細いと同時に、雪の様に白く完成された芸術品の様に美しい。
彼女は全身にベルトの様なモノを巻きつけており、一種の拘束具のようだ。
何故そこまで自分の身を拘束するんだろう? トーマには余り理解出来なかった。





「主、貴方の望みは何でしょうか?」




「オルセアの皆を“天国”に送ることさ」




トーマは瞬きさえしなかった。
溶解したペルソナを貼り付けた顔、変わらない表情で彼は言う。
影の様な笑顔、見ていて寒気のする顔。


少女の顔が陰った。諦観さえ含んだ顔で瞳を小さく揺らす。
トーマと契約し、擬似的な精神リンクを繋いでいる彼女には主である彼の考えをある程度“感じる”ことが出来る。


彼女に流れ込むトーマの感情は……巨大すぎた。
完全で、完璧で、何処までも純粋な憎悪。少年ゆえに一切の無駄のない純潔の憎悪。
ありとあらゆる種類の怒りと憎しみと狂気とそして愉悦を同じ鍋に突っ込み
グツグツと時間を掛けて熟成させ、そこに悪意というスパイスを混ぜればこうなるだろう。


しかし笑顔という薄皮で彼は全てを覆い隠している。
狂気を隠している人間ほど恐ろしいものはいない。


「よろしくね。闇の書の管理者さん?」




「────」




“闇の書”そのものである名も無き管理者は、無表情で主の言葉に頷いた。
結局のところ、彼女は闇の書と言うモノであり、主の奴隷でしかない。



彼女自身がどれほど嫌だと思っても、これは変える事のできない『運命』なのだ。
























つつましく暮らしている一般人の家に誰にも気がつかれずに盗聴器を仕掛ける……
などという簡単な仕掛けを作るのではなく、効果的に上位の魔導師を捕えるかあるいは殺す罠を仕掛けるには
最も望ましい結果を出すのに幾つかの条件を整える必要がある。



まず、抗しがたい程に魅力的な餌を用意する。
例えば、オルセア帝国でVIP扱いされ、全てのマリアージュの元となった冥王などいい餌となる。
何故冥王を餌にするかは決まっている。ルアフがそれが最も効率的に獲物をおびき寄せるのにむいていると念道力の導きにより判断したからだ。
決してあの気に入らない冥王が出来れば死んで欲しいなどと思っているからではない。


まぁ、死んでくれれば嬉しいことは否定しないが。
ふざけた口を叩いたあの小娘は消えたほうがいいし、あの平べったい胸に風穴が空けばこれ以上ないほどに万歳だ。



次に首都であるバラルの塔から大分離れた辺境の地を用意する。
付近には帝国の小規模な施設と万にも及ばない数の民衆が居る寂れた町があれば完璧だ。


その程度の町なら別に消滅しても誰も何とも思わないし、激しい戦いが起きても問題ない。
後は餌に食いついた魔導師に網を投げかける要領で実戦データが欲しいマリアージュ達の軍団を当たらせればいい。
この際餌である目障りな冥王は冥界に里帰りしても別に構わないとする。
オルセアの秩序の為の悲しい犠牲だ。














改めて述べるが、オルセアという世界は自然が豊かな世界でもある。
長く続いた戦乱によって人が住まう土地はほとんど焼け野原になってしまったが、人の住んでいない世界は未だに自然の美しさを残す。
もしくは余りにも美しく、歴史的な価値のある土地や建物などはかつての国家が保存してもおり、政治体制がオルセア帝国に変わってもそのまま放置されている。


そういった場所はさすがにあのヒドラも配慮したのか、あの殺戮の夜でも攻撃対象としては外されていた。



宇宙から見たオルセアはかつてヒュードラが抱いた感想の通り正に宇宙の闇に浮かぶ宝石だ。
薄く発光するかぐわしい大気、雪花石膏のように白い雪と青い海と緑のモンタージュは正に自然の芸術品と呼ぶに相応しい。
奇跡という言葉が陳腐に思えるほどの確立で生み出された世界。


人が神を信じるのは余りにも自分たちの産まれ落ちた確率が低く、それでいて自分たちの住まう世界が美しいから、かもしれない。



この星全てを支配し統治している帝国にも当然、そういう人気の旅行スポットは存在する。
例えば、何千年も過去に作られた建造物であったり、何万年も前から成長を続けている巨大な木であったり、もしくは健康によい温泉か。
そういった場所などは特に人気のある場所だ。




そこそこに有名な温泉街、知る人は知る『隠れた名所』と俗に言われる地域に明らかに現地の者とは違う服装に身を包んだ者らが居た。
一人は全身を純黒の分厚いコートで覆い、手には幾つかのバックを持っている紅い眼をした少年、そしてもう一人はその少年の隣を無表情で歩くオレンジ色の髪の少女。

少女の方はともかく、少年の方は完全に人ごみに溶け込んでおり、違和感そのものは少ない。


トレディア・グラーゼとその護衛対象であるイクスヴェリアだ。
オルセア帝国の重要功労人としてヒドラに保護されている人物とその護衛。
この地域はまだ季節的には冬であり、刺す様に感覚を刺激してくる冷気の中を二人は歩いている。


普段は霊帝宮からほとんど動くことのない彼等がここに居るのは訳がある。
しかし、特に深い理由ではない。ただ単純に霊帝ルアフにこういう場所があるから、イクスを案内してくれ、と頼まれたから。
いや『頼み』というには少々語弊があるか。あれは“お願い”ではなく“脅迫”である。


少なくとも処刑人がダカル・スピアを構えながらこっちを見ていたのは間違いない。
絶対に何か裏があるということをトレディアとイクスは薄々気がついていたが、彼に逆らうことなど出来るはずも無くこの地を訪れていた。



それにしても、と、トレディアは自らの半歩ほど後ろを無言かつ小さな歩幅で歩くオレンジ色の少女にほんの僅かだけ意識を向ける。



「…………」




……何というか、暗い。いや、暗すぎる。さっきから一言も発さず、プログラムされた機械の様な正確な歩き方で黙って後を付いてくる。
なるほど、確かにこういうところは彼女の産みだしたマリアージュに似ているのかもしれない。
子は親に似るという言葉がオルセアにはあるが、彼女をマリアージュの親と仮定した場合、この言葉はぴったり当てはまるだろう。



しかし、もっと深くトレディアの眼でこの少女を観察してみると、この能面の様な顔の裏側に彼女は何かを隠しているのが見える。
彼女自身は必死に隠しているつもりなのだろうが、物心付いた時からオルセアの最悪ともいえる治安の中
人の悪意などといった感情を見抜いて何とか生きてきたトレディアにしてみれば、丸判りである。





「どうしました? 何か具合でも悪いのかな?」



「いえ……」



突如話しかけられたイクスは一瞬だけ身を竦ませ無表情の顔が剥がれかけたが、直ぐに気を取り直して簡潔に答えた。



「少し……懐かしい感覚がするのです」



「以前にもここに来たことがある?」



「そういう意味では……」



言葉を切ると今度は隠そうともせずに難しい顔をし、延々と悩み続ける。
最も外見が幼い少女である彼女がそんな顔をした所でほとんどの者は可愛らしいとしか思えないはずだが。


それにしても懐かしい? 
確かヒドラ卿の話では彼女は見た目よりも遥かな時を生きていると聞かされていたが、それと何か関係があるのか?
外見だけは完全な幼女だが。こういうのを確か……若年増というのか?



はぁ、と小さく溜め息を吐く。
彼女についてはそれなりに気になるが、今はとりあえず予約を入れておいた宿に行くのが優先事項である。
とりあえず難しいことは湯にでも浸かりながらでも考えるとしよう。
それに何か問題が起きても自分は自分の身と彼女だけを守ればいい。実に単純な話だ。
今の自分にはそれだけの事は可能なこと、ヒドラから力を貰った自分ならば。


グッと手を小さく握りこむ。以前のただの人間であった時代では考えられないほどの力を確かに感じた。
事実、このコートの中には大量の“仕事道具”を潜ませているというのに重さはない。
手榴弾や閃光玉を始めに、過剰といえるほどの銃器を持ち歩いているというのに。
コレは彼の願いを叶えるのに重要な役割を果たす力となる。




と、そうこう考え事をしているうちに目的地にたどり着いたようだ。
木製の立派な宿が見えてくる。確か、あそこに泊まるはずだ。
外見だけでも相当の歴史を感じさせ、霊帝宮とはまた違った雄大さを感じる建物。
ここまで漂ってくるは特殊な成分を含んだ湯が気化し、発する芳香な匂い。


うん。中々にいい場所じゃないか。
とりあえずの所、トレディアは仕事をしつつこの予期せぬ温泉旅行を楽しむことにした。



「さ、行きましょうか。温泉が楽しみです」



「……………」



先ほどまでも悩みや鉄面皮はどこへ消えたのやら。目を輝かせたイクスが早歩きで宿に向かって一直線に移動を開始。
手にはいつの間に取り出したのやら、タオルや桶、洗剤にスポンジまで完備している。
そういうところは見た目相応だな。思わずトレディアはまた溜め息を吐いた。
保護者とも言えるヒドラがオルセアを留守にしている間、どれだけ彼がルアフから彼女をかばってきたことやら。



あの少年は……イクスに対する敵意を隠そうともしていない。
ヒドラという後ろ盾がなければ、今頃は彼女は文字通りの意味でこのオルセアから消えてなくなっていただろう。


今回のこの強制的な旅行だってそうだ。明らかに霊帝は何かを隠していた。
しかし裏にどんな企みがあったとしても、今回の旅行は本当の意味で癒しになりそうだ。


様は気にせずに楽しめばいいのだから。



が、それでも彼は思わず呟いてしまっていた。



「ヒドラ様……早く帰ってきてくださいよ」



このままでは、ストレスで死にそうだ。
ヒドラは不気味な存在ではあるが、決してルアフの様に何処までも横暴な男ではない。
少なくとも表向きは。だがそれで十分だ。決して敵対したいとは思わないし、逆らおうとも思わない。



減圧室に放り込まれるのは真っ平ごめんだ。
しかして残念ながら、トレディアの憂鬱は続く。







あとがき


久しぶりに書いたら、色々と書き方を忘れていて焦った今日この頃。
オルセアサイドを書くと何故かトレディアが中心になるという事態。


それでは、今年もよろしくお願いします。




[19866] 19
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/02/04 22:29

深夜の時間帯の森というのは語るまでもない事ではあるが、不気味だ。
煌々と天に君臨する星から放たれる光は鬱蒼と茂り何十にも重なった草木のカーテンで遮られ
この森は昼でも薄暗く、それが夜となってしまえば周囲は完全な闇が支配する世界となり、人間を拒絶する世界を形成する。
身を刺すような冷気が辺りに立ち込め、発生した霧のせいで一寸先どころか、1メートル先さえ視認することは不可能な状況。


本当の暗闇というものを知っている文明人というのはかなり少ない。
夜に部屋の電気を消そうが、やはりそれでも少しは灯りがあるだろうが、コレは違う。
自分と言う存在そのものを認識することさえも不可能な暗闇が森を覆い尽くしている。




そんな根源的な影の時間に一つだけ、この場では異質と言える“文明”があった。
ソレはその全体を特殊に加工された金属で形作られている。
特殊な方法で原子単位から強化され、補強され、その構造一つ一つまで完璧に管理された金属の巨大な箱、それが“文明”の正体だ。
かつてオルセア中で無数に生産されたマリアージュを運ぶために『蟲』たちが輸送していたあのコンテナである。
箱の表面には巨大なウロボロスとそれに飲み込まれたメビウスの紋章が掘り込まれている。



このチタニウムと鋼の混ざり合った箱は夜の闇の中でも一際異質な存在感を撒き散らしており、
付近に住まう生物は例え獰猛な熊や狼種といえども決して近寄ろうとはしなかった。
否。彼らにはこの箱に内包される存在を獣の感とも言えるもので理解し、そして恐怖しているのだ。
本能だけで生きている生物にとって恐怖を感じる存在というのは即ち自らの死と直結する。故に絶対に近寄らない。


一言で言ってしまえばこの箱から放たれる気配は“異常”である。
ただそこに在るだけなのに、周囲の空気を淀ませ、近づく生物に根源的な死を意識させる。


数ある生物の中でもスリルを求めて自ら危険な場所に足を踏み入れる愚かな生物は人間だけであろう。
まぁ、そういう楽しみを覚える生き物も人間とそれに準じ、あるいは上回る知的生物の特権ともいえるが。


しかし突如として状況は一変する。
緩やかではあるが、決定的な変化を齎す切欠は眼には見えない形でやってきた。
ソレはバラルの塔から複雑極まりない暗号の固まりとして送信され、オルセアの衛星軌道を漂う機械により増幅され、指向性を持ったシグナルとしてやってきた。



無事に箱に受信されることに成功したシグナルはその内包されていたプログラム
即ち指令を速やかに箱全体に、そして内部のモノへ伝えていく。
複雑に、怪奇に、そして芸術的に張り巡らされていた箱の回路に電流が走りこみ、あっという間に箱はイルミネーションな光を帯びた。
まるでライトアップされたサーカス団を連想させる光だ。



稼動、終了である。
重々しい音と共に四面体をしていた箱の一部が開き足場代わりにもなる、そして内包していたものを箱は解き放つ。


軽やかな足取りだ。
今までのマリアージュも人間の様に動けたが、それでも何処か無機質な、プログラムされた機械みたいな動きしか出来なかった。
だが、コレは違う。完全に人間と同じ様に全身の筋肉をスムーズに動かし、ほとんど人間と同じバランスの取れた動作で箱からソレは降りてきた。
実際、ある意味では彼女達も人間と言える。死体をベースに作り出された兵器である彼女達もある意味では新生した人間なのだろう。


但し外見は……この新しいマリアージュの外見は……一言で言えばおぞましい。絶対に人間ではない。


軍用の強化チタニウムの骨、そして複数の加工された銀色の特殊金属で覆われた長身ではあるが細い身体。
顔にも同じ銀色の人間の髑髏のマスクを顔に貼り付けるように被せられておりその中身は窺えない。
ただマスクの眼窩から覗く真紅の瞳が鋭く周囲を観察している。


このマリアージュの両手の金属の指は肉食動物の鉤爪の如き鋭さを持ち
実戦を想定したクローン製造施設で行われた訓練ではかつて国家が使っていた軍の防弾ジャケットはおろか、薄い装甲程度ならば軽々と貫通させることが出来た。
両足にも同じようにブーツや靴などではなく、金属で形作られた鷲の様な鉤爪をこのマリアージュは持っている。


コレが新しいマリアージュだ。何ともおぞましく、何とも悪趣味で、どうしようもないほどに恐怖を掻き毟られる外見をした生物兵器。
彼女達の脳味噌には彼女達が製造される前から打ち込まれた絶対の目的、即ちオルセア帝国に対する究極的な忠誠がある。
決して裏切らず、決して見返りを求めず、決して恐れず、そして全ての敵に絶対の恐怖を与える……ソレがこの存在のコンセプトだ。



マリアージュ・コマンドー。もしくはテロール・マリアージュ。ソレがこの種類を表す名前。


数体のマリアージュ・コマンドーが続いて箱の内から現れ、周りを興味深そうに見渡す。
そう“興味深そうに”だ。今までのマリアージュでは決して取らなかった行動。
マリアージュ・コマンドーの眼に直接植え込まれている保護されたナイトビジョン
及びサーマルビジョンは周囲の暗闇の世界を、マリアージュの視点では緑を基調とした色鮮やかな世界へと染め上げる。


美しいとは、こういうものなのだろうか。
マリアージュ・コマンドーには当然美的センスやそういったものに対する興味は全くなかったが、それでも彼女達は呆然とそう“思った”
“思った”のだ。マリアージュが。人間と同じように自分で見て聞いたモノに対する感想を抱けるほどまでに知能を底上げされた結果である。


果たしてコレは心と言ってもよいのだろうか?
それとも単なる思考の一つ?



統率者と思われるマリアージュ・コマンドーが懐から小さな空間モニター発生装置を取り出し、幾つかのコードを手短に打った後にソレのスイッチを入れた。
低い唸りを発して機械が動作を開始する。今回打ち込んだコードは特別なコード……霊帝宮と直通の回線を使用するコードだ。


見えない糸が結ばれ霊帝宮とこの場が繋がった瞬間、全てのマリアージュはモニターの前に無条件で跪いていた。
頭を下げている彼女達にはモニターの下端しか見えなかったが、それで十分だ。偉大なる霊帝の声だけで十分だ。



『──無事に稼動出来たみたいだね。どうだい? 始めての生の世界というのは?──』




モニターに映し出された豪奢な衣装を纏った少年……ルアフ・ガンエデンの冷淡な声をマリアージュ達は聴覚センサーで捉えた。
彼女達の考える事が可能な頭脳は現在の状況を理解し、それでいて妥当な答えをはじき出す。




『はい。少しばかり……興奮してしまいました』



相も変わらない無機質な声。
しかし以前よりも遥かに人間らしい舌絶になり、感情さえ込めれば人間として違和感のないモノだ。
フフフフとルアフが凍りついた笑みを浮かべ、しげしげと新しい自らの下僕を画面越しから眺める。
普通ならばこの新しいマリアージュを見たモノは嫌悪と恐怖、もしくはそれに近い感情を抱くはずだが、彼は違う。


面白い。コレがまだ強化の第一段階なのか。ここから更に強化されていくのか。
そしてその全ては自分の力となる。そう考えるとルアフは思わず冷たい笑みを零していた。
いずれ全てのマリアージュはこのレベルとなる。もう昆虫並の思考能力などとは言わせない。



『君たちの目標はもう知っていると思うけど、一応確認しておこうか?』




『いいえ。その必要はありません』



改めて確認するまでもない。
今回のターゲットであるあの二人の女性の画像と魔力情報は既に彼女達の脳髄に直接叩き込まれている。
そういった情報の伝達も最初のシグナルによって成されていたのだ。



『しかし……本当に彼の者らは現れるでしょうか?』



隊長でもあるマリアージュ・コマンドーの疑問の声。コレも今まではありえなかったこと。
そんな問いに酷く上機嫌な様子のルアフは玉座から身を乗り出し、その眼を細めて答えた。


『来るさ。僕の力が告げているんだ、絶対にあの餌にあいつらは引っかかるってね……。
 でも、今の僕は少しだけ信者を使って遊びたいと思っているから、君たちの出番はその後だ。大丈夫、絶対に君たちにも見せ場は提供するよ』


遊び。今回の作戦そのものを完全にお遊戯扱いするルアフの言葉にマリアージュ・コマンドーたちは全く動じなかった。
何故ならば彼女らは幾ら知恵を持とうが所詮は兵器なのだから。
反骨心のある兵士や兵器などオルセア帝国には不要な存在である。



『御心のままに』




再度深くマリアージュ達は頭を垂れ、そして通信は切れた。
そしてコンテナの奥からゾロゾロとあふれ出てきた新たな操り人形はその身を深く闇へともぐりこませていく。
腕に内臓された全身の機械の制御端末を操作すると、全身にスパークが走り、その身が次々と虚空に消えていく。
エゼキエルの装備していたステルス機能を小型化させたものだ。

小型化に至り、ステルスとしての機能そのものは若干落ちたが、それでも実戦では十分活躍できる。



全ては時が来るまでの辛抱。
血の様に紅いマリアージュの眼光が闇の中で煌々と燃えていた。












新暦41年 オルセア帝国 イルミナドス地方。




イルミナドス地方の特色としてまず挙げられるのが活発な火山活動だろう。
巨大な山脈を近場に持つこの地域は絶えず硫黄の匂いがするのも特色の一つといえる。
お陰で地震が頻発したり、山頂から煙が挙がったこともさえもある。


だが、ここは戦争からは遠い地であった。
戦略的にも価値のない端の地であり、しかも地震が頻繁に発生し、付近にはいつ噴火するかわからない火山さえもある。

特産物もなし。
あえて言うならば温泉卵程度のこの地に何を求めろというのか?
山に四方を囲まれているせいで通信さえも不安定になりがちなイルミナドスは完全に外界から隔絶された一つの庭だ。


かつてヒドラもこの地を訪れバラルの教えを説いていったことがある。まるで種を蒔くように。
それゆえにこの地にもバラルの民は暮らしているのだ。

















ざぁっという水の流れる音の波長はやはり何処か人の心を癒してくれるのではなかろうか?
トレディアは自らの身体にじんわりと染み込んでくる湯の温かみを感じながら呆然とそう思った。
意識そのものが湯の熱に蕩かされていくようだが、それでも頭の一部は冷静に現状を把握し、冷えた思考を維持していることに彼は気をよくした。



ざばっと両手を湯から出し、目の前に持ってくる。
少しだけ濁り、独特の色と匂いをしている湯を顔に叩きつけるように吹っかける。
それだけで大分気分が変わった。もちろんよい方向に。



「……質問があります。というか、言わせてもらいます。何故貴方はここに当然と言わんばかりに平然と居るのですか?」



ざぶんという湯を掻き分ける音と共にトレディアの隣に居たイクスがモジモジと身動ぎする。
オレンジ色の髪の毛が湯に濡れて光を反射し、とても眩しく、まるで絹を編みこんだような艶やかさが見て取れる。
身体には大きなタオルを巻きつけ、彼女の平坦で凹凸のない身体はたった一枚の布によって守られていた。


が、ソレが何だといわれればそれまでだ。トレディアは外見年齢10歳前後の少女に欲情する変態ではない。
彼の趣味はいたって普通の女性であって、間違ってもイクスみたいな幼女などではないのだ。


トレディアはチラッと眼を動かし、湯の効果によって頬を真っ赤に染めあげ、自分に無言で抗議の視線を向けてくる冥王を見た。
そして彼は小さく溜め息を吐き、子供に言い聞かせるような口調を意識して作り上げながらいう。



「それは俺が貴方の護衛だからですよ。俺も仕事なんですよ……それにここは混浴なんだから仕方ない」



冷たい水でぬらしたタオルを頭の上に乗せてふぅっと息を吐く。
完全にリラックスているその様は大よそSPと聞くと思い浮かべるありようからは遠く離れている。
が、それはあくまで見た目だけ。事実彼の直ぐ近くには特殊な方法で製造された水中拳銃がいつでも握れる場所においてあるのが見える。
銃身が普通の拳銃よりも少しだけ長いのがイクスには気になった。


実際もしもイクスが危機に陥ればトレディアは命がけで彼女を守るだろう。
その点において彼は信用できる。少なくともイクスは数ヶ月共にあったトレディアには一定の信頼を抱いてはいる。
戦争を嬉々として起こそうとしているヒドラよりはマシだと知ってこそいるが……。



「はぁ……」



諦観が混じった声でイクスは溜め息を吐いた。
確かにこの地に来てから胸の中でもやもやとした感情が渦巻いているのは事実。
彼女の経験上、こういった嫌な予感はかなりの高確率で当たるものなのだ。
何故こうも嫌な予感ばかりが当たって、いい予感は全くしないのだろうか。



「絶対に、絶対に見ないで下さいね?」



イクスの頬が少しだけ紅いのは湯のせいだけではないだろう。



「あー……」



トレディアが再度イクスを盗み見る。そして小さく溜め息を吐き、内心で肩を竦めた。
何と言うか……やはり幼い。主に身体が。特に胸と背中の区別が付かないところなど。
が、もしも彼女の外見年齢が後10年ほど進んでいたら、色々と危なかったかもしれない。




ガラリと扉が開かれる音が浴室の密閉された空間によく響いた。
新しい客でも入ってきたのだろう。不思議なことではない、何故ならばこの旅館はそこそこに人気があるのだから。




ぺたぺたという足音と共に湯煙の中から姿を現したのは一人の少年であった。
全体的に細身なその身体はタオルに覆われており、余りよく見えない。
顔に貼り付けられたように浮かぶ笑顔がやけにトレディアには気になった。
何故か風呂の中だというのに、片手には分厚い本を持っている。表紙に金色の十字架が飾られている年季を感じさせる本だ。



そしてその細められた瞳……何処かバラルの民とは違う真紅の瞳と視線が交差した瞬間
トレディアの全身に雷に打たれたような電流が走り、ソレは彼の心の警報をかき鳴らした。
この感覚は彼には馴染みの深いものであり、それでいて出来るならば感じたくない類のものである。


ソレは恐怖。被捕食生物が捕食生物に抱く感情に限りなく近い物。


咄嗟に銃に手を伸ばし、ソレを懐に見えないようにしまう。イクスにさりげなく目配せし、自分の後ろにやる。
ジワリと彼は自らの掌に汗がにじみ出てくるのを認識した。
背後でイクスが僅かに息を呑むのが判った。どうやら彼女もトレディアと同じモノを感じたようだ。
いや、下手をすると“それ以上の何か”を感じ取ったのかもしれない。
事実彼女のトレディアの肩をつかむ手は小刻みに震えていた。




「はじめまして。どうやら僕は一番乗り出来なかったみたいですね」





ニコニコと少年が笑顔を絶やさず、人懐っこい顔で丁寧にお辞儀をする。
手に持った桶で湯を汲み取り、自分の身体に掛ける。
動作だけ見れば普通の少年だ。足運びも素人で、身体にも筋肉は無く、どちらかといえば細い。



なのに何故自分はこんなにもこの少年を警戒しているのだろうか?
トレディアは全く意味が判らなかった。
だが彼は自分の本能と理性に従うことに決める。何故ならばこの二つは今まで彼を生かし続けて来たものなのだから。
混沌としたオルセアの戦地を渡り歩いて鍛えられた直感は彼を裏切らない。


今の手持ちの武器は拳銃一つ。他の武器はコート共に部屋においてきてしまった。


この馬鹿が。思わず彼は内心で自分を罵倒した。
少しばかり警戒心が緩んでいるのではないか。



さりげなく、それこそ長時間湯に浸かっていたせいでのぼせてしまった人間を装い、彼はイクスの手を掴みながら立ち上がった。



「それじゃ、俺たちはそろそろ……」



ニコリと笑った少年と眼があった。底知れない程に暗く、淀んだ紅い眼であった。
まるで死体の様な眼。生気を一切感じない瞳だ。バラルの民とも違う。
ざわりと背筋に寒気が走ったのはきっと湯冷めしたからではないだろう。


さっさとこの場から逃げ出したい。間違っても戦いたいなどとは思わない。
関わりたくない。初めてヒドラと出会った時と同じだ。
ヒドラ……そう、この少年は言うなればヒドラと同じ気配がする。
何処か歪んでいて、外れていて、それでいて超越者染みている。


片や仮面の教祖、片やは外見だけは平凡な少年だというのに。
どうしようもなく、同じ空間に居たくない。



「えー……お背中ぐらいなら、流しますよー?」



顔を傾けて、その瞳に心底残念だという感情を浮かべて少年は言う。
外見年齢だけならば10代の中ごろ辺りだというのに、仕草とその身に纏った雰囲気のせいでまだまだ子供の様に見える。
ちぐはぐで、何かが破綻していて、どうにもつかみどころのない少年。



「いえ、結構です。俺たち、この後に予定がありますから!」



出来るだけ爽やかな笑顔を浮かべ、当たり障りのない言葉を選んで紡ぎ、足早に浴場から脱出。
バタンという扉が閉じられる音がするまで少年はトレディアと、その隣に居るイクスを無機質に見つめ続けていた。



嗤い続けたまま。










脱衣場で急いで衣服を纏い、廊下を半ば全力疾走で駆け抜けて自らの部屋にたどり着いた
トレディアとイクスは思わず前もって打ち合わせでもしてたかのように同時に脱力して倒れこんだ。
ハァハァと荒い息を吐きながらトレディアは部屋の隅に目立たない様に掛けておいたコートに袖を通し、隠している武器の重さなどを感じて安堵を得る。
やはり自分が武器で武装していると実感が得られないと辛いものがあるのだ。


何であんな奴がこんな所にいるんだ。何か裏があると思ったらやっぱりだ。あのクソガキ霊帝め。
あいつは何処かで少年探偵でもやっていればいいのだ。
トレディアは内心大声で喚いていたが、勤めてソレを表には出さず、事務的にイクスに声を掛けた。
否、コレはどちらかといえば独り言だ。


「怪我は……ないか」


とりあえず何かをされた、というわけでもない。
ただ何かとても嫌な予感がしたから逃げ出してきただけだ。
襲われた訳でも、攻撃された訳でも、絡まれたわけでもない。


自分の問いに答えずに眼を瞑り何かを深く考えているイクスにトレディアはまた溜め息を吐いた。
まただんまりか。こういう風に何かを考え込んでいる彼女は自分の世界に入り込んでいるので、何を言っても無駄だ。



「トレディア」


ん? と声を掛けられたトレディアが顔を動かし、イクスを見た。
彼女のエメラルドの如き輝きを持つ瞳には自分の少しだけ困惑した表情が写っていた。



「……ごめんなさい」


「?」


心からの謝罪。
伏せられた眼は陰り、彼女が内心でどれほど自分を責めているかがありありと見えた。
謝罪を受けたトレディアが抱いた感情は……困惑と疑問と、そして少々の苛立ちが沸き立つ。
何故自分が謝られなければいけない? 何故謝罪を? 


そもそもこのイクスという少女は、かなりの悲観主義者だ。
割り切る、という事を余りしない性分の持ち主なのである。
マリアージュが量産されていることにも、ヒドラに拾われたことにも
そして挙句には自分の存在そのものに対しても否定的な考えを持っている。


ソレがトレディアは気に入らなかった。
力を、マリアージュの製造と言う強大な力を持っているのに、うだうだ抜かすのが。
きっと、彼女は本当の意味での地獄というのを余り知らない。
そして無力というのがいかに辛いものかを。


例えば犯罪者が大手を振って歩き回り、幼い子や女を道端で拉致したり
犯したり、最悪臓器を売るために麻酔もせずに解体したりするアルセンブルクのような治安の中で無力で生きるというのがどんなものか判らないだろう。
最もアルセンブルクは原因不明の爆発により、文字通りこの世界から消し飛んだらしいが。



「そうかい」



だからこそ返す言葉がうっかり敬語ではなかったのも、少しだけ粗暴な口調になってしまったのも仕方が無いのだろう。
刺々しい口調に少女が一瞬だけ身を竦ませ、しかし何とかわかってもらおうと言葉を紡ぎ出す。



「きっとアレは私が引き寄せてしまったものなんです。アレは恐らくベルカの……」



続きはいえなかった。何故ならば──。









【絶対封鎖領域 ゲフェングニス・デア・マギー】








薄紫色の結界が世界をすっぽりと覆いこみ、そして世界はその位相を決定的にずらす。
新たな犠牲者を飲み込む蛇の様に、その紫色の“鳥かご”はこの里の全ての住人を周囲数キロごと閉じ込めた。
何人をも逃さない絶対の檻にして、獲物を駆るための狩猟場の構築魔法。



しかし蛇は知らないのだろう。新しい餌が撒き餌だということも、そしてその餌を蒔いた存在が居るということも。

















イルミナドス地方の小高い丘の上、月の光を一身に浴びることが出来るそこに4つの人影があった。
蒼い光が彼らの纏う甲冑に吸い込まれ、そして反射し、煌びやかな装飾の如く輝いている。

彼らの眼下には湯煙を上げる巨大な温泉宿と、何百と言う木製の民家の窓から漏れてくる暖かな光。小さな小さな集落だ。



「我ら闇の書の守護騎士。我らは主に従う者」



機械仕掛けの長剣を蒼い月に向けて高々と掲げるのは紫色を基調とした騎士甲冑に身を包んだ烈火の騎士。
全体的に動きやすさを考えられデザインされた甲冑は胸や腕、足などの要所を包むだけであり、
他の部分には紫色の鎖帷子の様なものが無数に絡み付き、皮膚に食い込んでいる。
鎖は彼女の全身に蛇の如く絡みつき、不気味に発光を繰り返す。コレは闇の書の加護で作られた鎖だ。

まるで人形師が人形を操るために使う糸のようでもある……。


効果は対象の身体能力と魔力に対するブースト。そして痛覚の完全遮断及び自己復元能力の促進。
プログラムに痛覚なんて必要ないよね? という主の命令によって与えられた新しいデバイスの一種である。
元々彼女達は人の姿をしたプログラムであり、傷などあっという間に修復できるのだ。
ソレに痛覚を与えるなど馬鹿馬鹿しいとトーマは考えた。



「全ては主トーマの為に」



シグナムを先頭に4人は王に忠誠を誓う騎士の如くうやうやしく虚空に跪き、何かを賜られる家臣のように手を差し出す。
虚空に黒い一閃が走り、空間そのものがひび割れ、酸性の液体に溶かされた金属を思わせる程に歪に捻れる。
物体の転移だ。質量そのものは余り大きくこそないが、内包する力が桁違いなせいで空間が悲鳴を上げ、罅割れたガラスのように壊れていく。


自らの意思があるかのごとく一冊の分厚い書が闇の海から這い出し、そして二次元的だったソレが三次元の密度と存在感を持ち顕現。
闇そのものを塗り固めたような書だ。この世に存在するありとあらゆる色を混ぜた結果生まれた黒。

第一級危険指定ロストロギア【闇の書】
この書物の名はそう“呼ばれていた”


1000年以上に渡りありとらゆる世界に恐怖と破滅と悲劇を撒き散らした魔導書。
その被害者の合計は恐らく天に存在する星の数よりも多く、産みだした嘆きはそれ以上。
幾つもの世界を食いつぶした最凶のロストロギアは、今、オルセアの民を喰らおうとしていた。
そして行く行くはオルセアという世界そのものを砕くのだろう。



「これより、蒐集を開始する」





烈火の騎士のリーダー、シグナムの感情を押し殺した声による宣言──そして、狩りが始まる。







遥か遠く、霊帝宮の玉座の間、そしてイルミナドス地方の里に存在する旅館の一室。
そこに二人の少年が居た。一人は神と崇められ、霊帝と全ての民に畏怖と敬意を抱かれる支配者。
もう一人は神と呼ばれるその少年に間接的にとは言え、何もかも全てを奪われ、憎悪と復讐しかやることのなくなった世界を滅ぼそうとする魔王。


全く接点も何もない二人の少年、霊帝と闇の書の主は、全く同じ言葉を全く同じ感情を込めて呟いていた。





「「じゃ、始めようか」」



言葉は無数に反芻し、そして開戦の鐘となる。






あとがき


実は前編後編と書いていたのですが
ちょっとした手違いにより後編が消えてしまい、マジで落ち込んでいるマスクです。


後編はゆっくり書いていきたいと思っています。


追記 ほんの少しだけ気になった部分を誤字修正しました。

……感想がほしいですw
では、次回の更新にてお会いしましょう。



[19866] 20
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/05/02 19:27


もしも自分を第三者が見たら、何と言うのだろうか? 
トーマ・フィーニアスは自らの力によって位相がずらされ、完全に隔離された薄紫色の世界【絶対封鎖領域 ゲフェングニス・デア・マギー】を見つめつつふとそんなことを思う。
何処にでもいる少年。とても真面目で、心優しかった学生だった彼に彼のかつての親は、人はいい事をして死んだら天国に行くと彼に教えてくれた。
この教えは今も彼の中で脈々と生き続けており、今の彼の行動の方針ともなっている。


しかし、だ。時々彼は思う。


ならば、今の自分は何なのだろうか? と。
ロスト・ロギア闇の書を用いて世界中の様々な人を救済し“天国”に送っている彼は何も恥ずかしいことはない。
彼は胸を張って言える。自分は正しいのだ、と。自らの行いこそ全ての人間が永遠に幸せになれる道のりだと。
少なくともこの世界は天国ではない。ならばもっと住み心地の良い天国に送ってやればいい、それが幸せだ。



それとも、道のりの困難さを第三者は指摘し、指差して笑うだろうか?
お前は世界相手に喧嘩を売っているのだ。勝てるわけ無い、とでも言うのだろうか。
彼がこれから行う“救済”の最大の障害はオルセアという国家そのものだ。オルセア帝国の全てが彼の完全なる敵となる。


トーマが持っている戦力は【闇の書】の守護騎士4体と闇の書と半ば融合した自らの力だけ。
対してオルセア帝国は未だに無尽蔵に増大を続けているマリアージュや質量兵器の軍団、ガンエデンやあの日世界を焼いた【悪魔】なども存在している。
たったの一撃で都市を消滅させ、オルセアという星の端から端まで一夜で駆け巡る圧倒的な機動力を持った異常なまでの兵器。


そして、それらの軍団に勝てるのか? と問われれば彼は一切の迷いもなくこういえるだろう「絶対に勝てるよ」と。
今でこそ世界を支配しているオルセア帝国も元は小さな小さな辺境の一宗教から始まったのだ。
たった一人の男が宗教を作り、その教えを広め、そしてやがては世界を自らの宗教で塗り替えた。


それと同じことが出来ないわけがないのだ。
【闇の書】と契約し、リンカー・コアの存在を知り、奇跡は実在することを知った彼ならば、可能である。
奇跡の一つや二つ、起こして見せよう。そして全ての皆に恒久的な平和と安寧を与えてあげよう。




「?」


ここで部屋でじぃっと考え事をしていたトーマは自らを対象にした視線がある事に気がついた。
元来は平凡な少年であった彼に視線を感じる能力や、隠れている相手の気配を探る能力など皆無だったのだが
闇の書と契約してから彼はそういった能力が何故か異常に鋭くなり始めている。

相手の位置や気配、更に言うならば大体の相手の脅威度なども“判る”様になっていくのだ。


鏡の前で自分の顔を見たら、何時の間にか自らの眼が真っ赤になっていたのには彼も驚いたものである。
恐らくはそれと関係しているのだろうとトーマは考えているのだが、実際の所真相は不明としか言いようが無い。


「どうしたのですか? 僕に何か御用ですか?」


首だけを90度近く回転させ、彼は襖の奥──正確にはそこに隠れてこちらを窺っていた人影に問いかけた。
全く警戒心の欠片もない声で、彼は片手を上げて何気ない挨拶をするかの様に声を出したのだ。
稼動域を超過する運動を強制された彼の首の筋肉繊維がぶちぶちという細い糸を力任せに引っ張った
ような音を立てて何本か千切れたが、ゴキリという不気味な音と共に復元され、直ぐに元通りとなる。


にっこりと笑いながらも黙って襖を、その奥を見通して眺めるトーマの眼の前で襖がゆっくりと音もなく開かれていく。
さながらその光景は巨大な城の城門がこじ開けられる場面を何故か連想してしまうほどに威圧感に満ちている。


そしてゆったりとした動作で表れたのは一人の男であった。血の様に美しさの欠片もない真っ赤な眼をした男。
着込んだ作りのいい浴衣などを見ると、恐らくはこの旅館の関係者か、もしくはソレに類する者なのだろう。
男は手を後ろに隠し、何かを持っている、そんな事が素人であるトーマにもよく判った。



しかし、トーマはそんな事どうでもいいと言わんばかりに言った。いつも通りの笑顔と共に。



「どうしたんですか?」




男の返事は無かった。代わりに男は獲物を駆る肉食動物の様に敏捷に動いただけだ。
まるでその言葉が合図であったかのように、男が後ろ手に持っていた鋭利な草刈鎌の刃をトーマの頭部に力任せに突き立てた。
バラルの加護を受けた男の異常な腕力で振るわれた鎌の銀色の歪曲した刃が頭蓋骨を突き破り
脳味噌を覆う膜を蹂躙し、見事にトーマの前頭葉を真正面から脊髄に掛けて貫通、その奥の脳幹までを完全にぶち抜き、後頭部から貫通する。


さながら陸に打ち揚げられた魚を思わせるほどに全身を痙攣させたトーマの全身から完全に力が抜けるまで男は鎌を力技で押し込んでいく。


何度か念入りに鎌を脳味噌を蹂躙する為に捻っていた男が力任せに鎌を引き抜くと何か柔らかい
そう豆腐程度の硬さの物体が潰れるような音と共にトーマの顔面に開いた“穴”からゼリー状の物体が飛び散り
ピンクと真紅の液体が部屋を部屋の家具や布団、襖、床、天井、壁などを染め上げ、正しく猟奇殺人の現場に相応しいものへと変貌させて行った。


バタンと虚しい音を立ててトーマの体が倒れ伏した。途端に床に広がる真紅の粘性を持った水溜り。


「く、くは、くははは、はははははっははははっはははははは!!!!!」


哄笑。正しくそう表現するのが相応しい壮絶な喜の感情を男が爆発させ、自らの達成した仕事に酔うかの如く男は叫んだ。
真紅の眼をぎらつかせ、全身を激しく痙攣させつつ、男は既に声としての体裁を保っていない絶叫で謳う。



「陛下! 陛下!! ルアフ様!! 俺、やりましたよ! 貴方の期待に答えましたよ!!」



叫んだ男の衣服の下半身が濡れそぼり、アンモニアの匂いが立ち込める。
あまりの興奮によって失禁してしまっているのだ。そして同時に絶頂を感じてもいる。
やり遂げた。自らの絶対の主からの指令をやり遂げた。即ち「その地に存在する疑わしきモノは全て殺せという」
加護を通じてルアフの念動力によって届けられた命令だ。


この命令は、オルセア衛星軌道からトレディアとイクスを監視していた衛星が二人の滞在する周囲の空間の位相がずらされたことを発見した瞬間に送信されたものである。
そしてこの仕事に対するルアフからの報酬は、大よそほぼ全ての人間がただ普通に生きているだけでは一生味わえない程に濃厚な快楽。
霊帝の念動力は遠く離れた場所に存在していても容易く彼らの脳を弄り回し、脳のリミッターを解除させ、セロトニンの分泌を極限まで低下させ
その代わりにドーパミンを延々と、しかもまず普通ではありえないほどに放出させることも可能なのだ。

脳味噌そのものが高純度で依存性の高い麻薬を生み出している、と考えればよい。


結果、彼らは今や理性の箍が完全に破壊され、ただひたすら脳内に送り込まれるルアフの力によって動かされている。
念動力を操り人形の糸と例えるならば、彼らはそれに雁字搦めにされた道化人形だ。


つまり要約してしまえば、今の彼らはトレディアとイクスを除く全てのよそ者に対して過剰なまでの敵意を抱くようにコントロールされているということだ。
いや、下手をするとあの両者でさえも迷わず攻撃するかもしれない。ルアフはトレディアはともかく、イクスの事は嫌いなのだ。
嫌いな奴を殺すことにあの霊帝が躊躇などするものか。既に思考回路そのものが怪物化を始めているルアフは笑いながらやるだろう。


たとえ二人が死んだとしてもそれは“事故”として片を付けてしまえばよいのだから。


今の男達は加護のあるなし関わらず、元々ここに住んでいなかったモノを全て殺すまで止まらない。
事実宿のあちこちで悲鳴が上がり始め、様々な怒声や絶叫と共に破砕音や布が裂ける音が至る場所から鳴り響き、それは一種の壮大なオーケストラの様にも聞こえた。
それだけではなく、このイルミナドス地方のありとあらゆる場所から思わず耳を塞ぎたくなる絶叫が迸り、それは“サイレン”を思わせる程にどんどん強くなっていく。



「くひっ……ひひひひっ……ひゃはははひひひひひひひ!!!!!」



両手を大きく広げ、自らの仕事に対する報酬である快楽を思う存分に男が味わう。
あぁ、素敵だ。最高だ。この部屋に充満した血の匂いも、ありとあらゆる場所にべっとりと付着した血と肉と脳漿の欠片も
全てが彼にとっては自らの偉業を称えるトロフィーと同義の存在だ。








ゴボっという、まるで煮えたぎった湯が沸騰した際に発生する様な音がやけに大きく部屋に木霊する。
最初は小さく一回、続けて二回、三回と、確かに、鳴った。

黒い厚みの全く無い二次元の斑点が……部屋を舞う。




そして──。







「楽しそうですね。何かいいことでもあったんですか?」



場違いな程に軽い調子の、もう二度と聞くはずのない少年の声が男を背後からまるで銃弾の如く貫いた。



「あ?」




男が思わず呆けた声を出してしまっても仕方が無いのだろう。何せついさっき頭をずたずたにしてやったはずの少年の声がしたのだから。
ゆっくりと、それこそ最初にこの部屋に入った時よりも緊張と警戒感を抱きつつ男はその麻薬で汚染された頭を少年へと向けていく。



「お、おおおお、お、お前、何で、何で生きてるんだよ……?」



平然と頭部の“穴”を晒しつつも立ち上がり、中身の全く無い笑顔を浮かべたトーマを男は見た。
前頭葉をシェイクされ、脳幹をズタズタにされ、そして脊髄を粉々に抉られた少年は、何事も無いかのように突っ立って、自らを殺した人間を無機質な真紅の瞳で観察している。
淡い月の光を反射し輝くトーマの真紅の瞳は、男にはまるで巨大な猛禽類の獲物を狙う眼に見えた。


ゴボッと水泡の様な音を立てて、トーマの“穴”から黒い粘性のある水、否、もっと根源的で純粋な“力”が湧き出、その傷口の修復を開始。
【闇の書】を闇の書たらしめる純粋な【闇】主であるトーマを生かそうとする闇の書の力は既に距離に関係なく発動するまでになっているのだ。
闇の書の恐ろしさにその底なしの復元能力、もっと言うならば主を生かそうとする力がある。その機能をトーマは使っているだけだ。


トーマが綺麗な仕草で深々とお辞儀をした。

そして。


「世の中には、奇跡も魔法もあるんですよ。そして本当に残念ですが、僕はまだ天国にはいけないんです、やらなくちゃいけない事があるんです、
 でも貴方の天国へのお誘いは嬉しかったです」



にこやかな笑顔と共に顔を傾げて誇らしげに持論を展開する彼の姿は、それだけを見ればとても愛くるしい少年に見えなくも無い。
但し、ぽっかりと風穴の空いた頭部から黒い泡と水を吐き出し、周囲の空間を汚染していることを除けば、だが。


「本当にありがとうございます。貴方の事は一生忘れません、ありがとう、ありがとう、ありがとう──」



涙、純粋な感動による涙がトーマの頬を数滴伝い、それは重力に従って床に落ちる。少年がずずっと鼻水を啜り上げた。
彼は本気で感謝し、感動していた。一欠けらの悪意も、侮蔑も、軽蔑の感情も、それどころか、自分を一度は殺した男に対して完全に彼は悪意を抱いては居なかった。
いや、悪意を抱いていない、というのは間違いである。正確には彼はそういった感情の類を余り判らなくなっているのだ。
余りにも強い精神的ショックが受けた人間が自らの生命の安全を図るため、無意識に感情にロックを仕掛けるのと同じ現象……。



彼は憎悪を隠しているのではなく、自覚できていないだけなのだ。



しかし、正直な話、トーマ本人はそんなことはどうでもいい。彼にとって重要なのはオルセアに存在する全ての者を“天国”に送ること、ただそれだけだ。
そしてトーマは、その自らの願いにただ忠実に従った。彼はポケットから取り出したハンカチで涙を拭くと、素晴らしい笑顔で言い放った。
ゴキリという異質な音と共に脊髄の修復が完了し、少々右に歪んでいた彼の頭部がしっかりと正しい本来あるべき位置に固定される。



「お礼に、貴方を天国に送ってあげますね♪ きっと、素晴らしい世界ですよ?」



その言葉が紡がれたのと同時に傷口の修復が完了し、黒い泡が消えてなくなる。
顕になったトーマの頭部には先ほどまでの凄惨な光景が嘘の様に傷一つ無かった。


勝てない。この存在には自分は絶対に勝てない。いや、勝てないどころか、勝負にさえならない。巨大な竜相手にただの人間ではどうしよもうないのと同じ。
本能、いや、もっと根源的な部分でこんな単純な事実を読み取ってしまった男には戦意など沸くはずもなかった。
カランと手にしていた草刈り鎌を落とす。



「あ、あ、あぁぁぁ……」



男が腰を抜かしその場にへたりこんだ。思うように動かない体で悪戦苦闘しながら、何とか部屋の隅に逃げ込んだが、それで終わりだった。
入り口の方向にはトーマが立っており、男は自らデッドエンドの場所に逃げ込んでしまったことを悟って心の底から後悔したが、既に遅い。


「ま、まま、ああぁ、まままっまっへ……」


歯が恐怖でカチカチと嫌な音を立てて、思っているように喋れない。
圧倒的な余裕さえ感じさせる動きでトーマが男に近づいていく。





「では、また後で向こうで会いましょう」





両手に黒い魔力の塊を出現させたトーマが、男が人生で最後に見た光景であった。




























全くついていない。何で自分たちはこんな厄介事に巻き込まれてしまったんだ?
イクスを引き連れ、彼女の手を引きながらもある程度は彼女に考慮した速度で逃走しつつトレディアは釈然としない気持ちを抱いていた。
あの霊帝ルアフが半ば強制的にこの地に自分とイクスを派遣したという事は何やら裏があるとは思っていたが、幾ら何でもこれはあんまりだ。


ぶつぶつと内心では自身らの支配者であるルアフに文句を垂れ流しつつも、それを一切外見には出さず彼はイクスと共に走り続ける。
今彼等が居る場所はあの宿ではなく、宿から少し離れたイルミナドス地方の村の中の裏路地を突っ走っているのだ。



『余所者ダ!!! 殺セ!!!!!』



眼の前の真っ赤な瞳の成人男性が一人、殺気立ちながらその手にもった農業用のクワでトレディアの頭部を
叩き割ってやるべく明らかに人間の限界を超えた踏み込みで二人に踊りかかったが……。


トレディアの行動は素早かった。否、行動というよりも、それは一種のプログラムされた機械の動作と言った表現のほうが正しい。
片手に持った拳銃ベイヨネッタM92と呼ばれるかつてのオルセアの国家の軍制式採用拳銃の標準を的確に男の膝の関節に向けて3発発砲。
本来拳銃は両手で持って弾丸の発射の際に反動を温和する必要があるのだが、 
バラルの加護によって身体能力を大幅に底上げされているトレディアは片手での正確な射撃を可能としていた。


放たれた9mmの弾丸は狙い違わず男の膝、関節をずたぼろに粉砕し、その機動能力を奪い取ることに成功。
耳障りな甲高い悲鳴と共に男が崩れ落ちるが、どうやらこのバラルの信者はトレディアが思ったよりもしつこかった。



『ブっ殺してヤル!!』


残された両腕と腹筋の力で地面からバッタの様に飛びはね、イクスに飛びかかりその身を押し倒そうとするが……。
せいっという気迫の篭もった声と共に放たれた彼女の護衛の体重と加速が十分に乗った蹴りが男の顔面に炸裂。革靴が男の顔面に深々とめり込んだ。
グキャという生々しい重低音と首と顔面の骨が砕けた感触を足に感じつつ、トレディアは強化された身体能力を惜しみなく使用して、男の顔面をボールの如くシュート。
トレディアはこの一連の動作を一切の無駄を省いた流れるような動きで実行した。


男の身長170はあるどちらかといえば大柄の部類に入るであろう肉体はまるでサッカーで使用されるボールみたいに軽々と宙を舞い、そのまま民家の壁に直撃。
男はコンクリート製の民家の壁に深々とめり込み、全身の至る関節が無茶苦茶になってしまった。まるで気の触れた芸術家が作った狂気的なモニュメントのようだ。
思いっきり打撃の影響を受けた首に至っては半ば千切れ飛んでしまっている。



「おぅぐ……」



そんな人間の変わり果てた死体の製造過程を見てしまったイクスが思わず口元に手を当ててこみ上げる嘔吐感との戦いを始めてしまったのも無理はないだろう。
冥王だ何だといわれても彼女自身はマリアージュを製造する能力のある、常人離れした生命力を持つただの小娘なのだから。


彼女自身には戦闘力は皆無と言っていい。故に護衛がある。
それに彼女はかつてのベルカの王にとっても貴重なマリアージュの生産プラントとして扱われているため、余り前線には出なかったのだろう。
故に人の変わり果てた姿に対する免疫は常人よりはあるが、それでもトレディアの様に既に慣れてしまったというレベルには到達してはいない。



「吐くなら後でするか、もしくは走りながらしてください。今は一刻も早くこの街の外れに行かなきゃいけませんからね」


コートのポケットからビニールの袋を取り出し、ソレをイクスに手渡す。いざとなったら袋の中に出して、それを捨ててしまえばいい。
震える手でそれを受け取ったイクスだが、涙眼になりつつも意地と気合で吐き気を追い出したらしい。いそいそと袋を懐にしまっている。
バシャっと水溜りを踏みしめ、薄暗い村の裏路地を二人は全力で駆け抜ける。何処まで行っても建物の壁で構築された迷宮。



遠くから無数の絶叫と狂気に満ちた絶叫と唸り声が谷間風に乗って運ばれ、二人の耳朶を無遠慮に叩く。


何故この両者は町の大通りを行かないのか? 何故こんな薄暗い入り組んだ迷路を走っているのか?
答えは簡単だ。表通りは既に何百何千という数の完全に狂ったここの原住民が歩き回っているからである。
彼らはまるで獲物に飢えたハイエナの様にありあらゆる建物の中に押し入り、彼らの基準で定めた「余所者」を見つけ出しては直ぐに血祭りにあげていっているのだ。



何がオルセアで大規模な内戦が二度と起こることはない、だ。
何が愛しい者たちと共に安寧な日々を享受することが出来るでしょう、だ。


戦争はまだ両方の勢力は共に戦う力を持って争ってはいるが、これは違う。
これはもっと悪趣味で、どうしようもなく低劣な行為。
今このイルミナドスで行われていることは、単なる殺戮だ。


更に2発、電柱の影に隠れていた狂った信者の膝を銃弾で撃ち抜くと、とどめは刺さずに猛然と怯んだその信者の横を二人で駆け抜ける。




彼等が目指しているのは、この地方の外れにあったはずのオルセア帝国軍の駐屯場。
規模こそ小さいものの、あそこには確かエゼキエルがあったはず。それを貰うか、もしくは保護してもらおう。
こういう場所に来るときは、周囲の施設などはあらかた調べておくのは常識である。

トレディアの考えとしてはさっさとこんなイカレタ地からはおさらばして、霊帝宮に戻って休みたいというのが本音だ。



最終的にこの地の人間が全滅しようが、自分とイクスが生き延びれば彼の任務は達成されるのだ。
逆に自分だけが生き延びたとして、それでオルセアに帰って来たヒドラに「申し訳ありません。彼女の護衛に失敗しました」と報告するのも恐ろしい。
あぁ見えてヒドラはルアフのようにその時の気分しだいで対応は変わるが、あの存在は時々ルアフさえ超えるほどの残忍性を出すことがある。

あの仮面の下に人間ではなく本物の悪魔が入っていても、別に驚くに値はしないだろう。
そして減圧室行きは絶対にごめん被る。口から臓物を吐き出す死に方など絶対にしたくない。





「おい!!」


思考の渦に浸りながらも周りへの警戒は絶対に怠らなかったトレディアにとって、その声は正しく彼も予想外の出来事であった。
大よそこの殺戮の場には似合わない少女の声、それもまだ10に行くかどうかと考え込んでしまうほどに幼い声。
ほんの一瞬、それこそ刹那だけトレディアの反応が遅れてしまったのも、無理はないだろう。それほどまでに余りにも場違いな声だったのだ。



【テートリヒ・シュラーク】



風を、大気を物体が高速で移動する不気味な風きり音が響いた。

考えるよりも先に、脅威を認識するよりも遥か前に、トレディアの本能は理性から体の行動権を奪い取り、強引に動かしていた。
片手でイクスの腰をしっかりと抱え込み、足だけではなく全身の筋肉をバネの様に収縮させ、それを一気に開放する反動で思いっきりジャンプ。



「きゃっ!!」


ズドンという何か大質量の物体がほんの数瞬前まで二人の居た地点を質量爆撃し、無数の粉塵と土砂が巻き上がった
距離にしてやく5メートル近くを幅跳びで安々と飛翔し、砂利を靴底で擦る摩擦音と共にトレディアは着地。
瞬時に身体を捻って今や小さなクレーターと化したさきほどまでの地点を見やる。


トレディアが見たのはそのクレーターの中心に居たのは優雅なデザインの蒼いドレスを着込んだ一人の少女。
所々に金で装飾を施されたドレスはまるで舞踏会で貴族が着込む服を連想させる。
頭にも蒼の帽子をちょこんと乗せており、その帽子に縫い付けられたファンシーなデザインのウサギの人形が特徴的だ。
しかし、そんな美しいデザインを台無しにするかの如く、彼女の全身には黒光りする鎖が絡みついている。


獲物を締め上げる蛇の代わりに、鎖を代替物として使っているみたいだ。



本当に可愛らしい少女だ。その華奢な片手に握った小さな槌を除けばの話ではあるが。
シュウゥウと使い古した缶からガス抜きをしているかの様な、そんな妙に耳にこびり付く音と共に彼女の持っている槌──アームドデバイス【グラーフアイゼン】から余剰魔力が煙として排出される。
その光景を見たトレディアの脳内を重火器が薬莢を排出するシーンがよぎっていった。



そして、一瞬だけではあるが、イクスとトレディア、そして乱入者である彼女の視線が交差する。
翡翠と真紅、そして紺青色の瞳らが確かに見据えあった。





「あー……悪いけどよ……その、なんだ」


本当に申しわけなさそうに彼女はポリポリと頬を掻く。
今の一撃で全て終わると判断していた彼女──ヴィータにとってこれは予想外の光景だ。
本当に困った表情で彼女はイクスとトレディアに問いかけた。



「抵抗はしないでくれねぇか? 出来るだけ、痛みはなくあの世に送ってやるからよ」



トレディアの返事は言葉ではなく、行動によって示された。
この小さな女の子が敵だと判明した時点で彼には容赦も何もなかった。
生き残る。絶対に。死ぬなんて論外だ。故に彼は行動する。


ベイヨネッタM92に残された10発の弾丸の内7発を躊躇なく眼の前の障害に向けて発砲。
胸部、頭部、脚部の三点を狙って放たれた弾丸はその爆発的な加速を持ってヴィータに襲い掛かり……。



「よっと」



彼女は銃身の向きを見てから、体の全身のバランスを巧みに操作してその場で踊るようにステップを踏んで身体を揺らすと
脚部と胸部を狙って飛翔した弾丸をサーカスのピエロの様な軽い動作で紙一重に回避。
残った頭部への弾丸はデバイスの金属部分を盾代わりにして軽がると防ぐ。ギィンというけたたましい狂音と共に弾丸を弾きこそすれど、そのデバイスには傷跡一つ無い。


さて、さっさと片付けるか……ヴィータが思ったのはそこまでだった。
銃弾を回避し、今宵の“獲物”に注意を向けた彼女の視界に映ったのは放物線を描いて自らの足元に向かい飛んでくる筒状の物体だった。
彼女はよくも悪くもかつての古代ベルカの騎士である。現代の兵器にもそれなりの知識こそあれど、爆発するとか、弾丸を飛ばす、ぐらいにしかしらない。


故に彼女はこの物体は爆発するのだろうと思い、咄嗟に防御魔法を発動させる。



【バンツァー・ヒンダネス】


彼女を包み込むように展開されるは多面体の水晶のような形状の真紅のベルカ式防御魔法。
ヴィータが結界を展開した刹那、爆発は爆発でも、音と光を主にした爆発が発生した。
数値にしておよそ100万カンデラ以上の閃光と180デジベルにも及ぶ音の爆発。


それが彼女の視力と聴力を一瞬にしてもぎ取っていく。
この結果は物理的な破壊そのものは防げても、こういった光の爆発や音の振動までは遮断しきれないのだ。


「クソっ!! こういうタイプかよ!!!!」



思わず自らの油断を後悔しつつ、相手の手際の良さを彼女は確かに認めた。
認めよう。あの少年はただ刈られるだけの獲物ではなく、彼女自身に確かな危険を齎す『敵』であると。
一瞬にして視力と聴力を奪われても取り乱したりしないのはさすがベルカの騎士といえよう。


しかし本来なら閃光によって発生する眼球の焼きつくような痛みも、爆音で鼓膜にダメージを受けた痛みもないのが彼女にとっては不気味であった。
あぁ、そういえば、主は痛覚を遮断したんだっけ、彼女は真っ暗な視界の中でそんな事を考えた。
確かにこれは便利だが、何か恐ろしい。


視力と聴力を奪われた程度でこのベルカの騎士を倒せると思うな。彼女は思考だけは冷静に行動。
まずは【バンツァー・ヒンダネス】に魔力を注ぎ防御を強化。これでどんな銃火器の攻撃でもこの結界を破ることを困難にする。


彼女の全身に絡みついた黒金の鎖が禍々しく紫色に発光し、彼女の全身のコンディションをチェック。



──視力と聴力に問題あり。クイック・ロード開始。


彼女は【闇の書】に内包されたプログラムだ。血も肉もあるが、その存在の本質はやはりプログラム。
魔力により受肉させられ、リンカー・コアを備え、心を持ってこそ居るが、彼女達守護騎士は言ってしまえばデータ生命体。


彼女達の最も完全な状態のデータは闇の書に保存されている。
肉体的に完全な状態に“復元”するよりもその状態に“巻き戻す”方が効率がよいのだ。
経験だけは巻き戻さず、肉体的な損傷のみを戻す、正に理想的な成長するプラグラム、それが彼女達だ。


本当に便利な体だ、あっという間に回復した視界と聴力で辺りを探りつつヴィータはそう思った。
この身は人間ではない、それ故に様々な事で融通がきく。


だが、しかし、それでも心だけは、自らの意思だけは人間だ、彼女はそう自らを評している。
この無差別な殺戮に何処か罪悪感を感じるのも、面白いことを笑えるのも、悲しい時に泣くことも、それは彼女の意思だ。
しかし、今の彼女は苦痛を感じる事は出来ない。それは貴重な財産の一つを持っていかれたのに等しい。


もしも彼女にそれを成したのがよく【闇の書】を私欲に使おうとたくらむ、ありふれた屑みたいな主ならば彼女は自らの心を深く閉ざし、文字通りプログラムとして従っていただろう。
だが、トーマは……トーマは、違うのだ。彼も元は……。



「ヴィータ、珍しく手こずっているようだな。手を貸すか?」



やはり逃げ出したのか、影も形も無い二人の、正確にはあの少年の手並みに感心しつつ、追跡するか否かを考えていたヴィータに男の声が掛けられた。
この男の泰然自若とした声はヴィータの頭にすんなりと入り、少しばかり迷いのあった彼女を吹っ切れさせるには十分な効果をあげた。



追うのはやめておこう。ああいうタイプとの戦いは疲れるし、何よりあの男はリンカー・コアを持っていない。
あの異常な身体能力の事は気になるが、それでも深追いはやめておこう。何より、自分の気が進まない。



少女の方は何故だか見ていると懐かしい感じがしたが、今はいい。


【バンツァー・ヒンダネス】を解除し、彼女は振り返り、自らの仲間の一人である男性と向き合う。
筋骨隆々の男だ。褐色の肌に鍛え上げられた全身の筋肉は重厚な装甲の様に男の全身を覆っている。
その身に纏うバリアジャケットは黒い皮製のコート。まるでどこぞの国家のエージェントの様な格好だ。
しかし、決して似合わないわけではなく、むしろこの威風堂々とした男の存在感を引き上げている。


男……烈火の騎士の一人、盾の守護獣ザフィーラとヴィータは並ぶとまるで親子の様な外見的な年齢差を持つが、その関係は対等である。


「いーや、その必要はねーよ。さっさと蒐集を終わらせちまおう……ところで、他の奴らはどんぐらい進んでる?」



「シグナムは既に30ページを蒐集し、シャマルが26ページ、俺が18ページで」



「で、あたしが10ページか……ビリじゃねえか!」



あーあーと両手を挙げて演技掛かった動きで悔しさを表現するヴィータにザフィーラは何処か気遣った口調で告げる。



「ヴィータ、余り無理はするな」


心からの気遣いと心配の言葉。仲間からの激励が嬉しくて、思わず笑顔になりそうな顔を必死に引き止めてヴィータは何とか答えようとして……気が付いた。
ザフィーラの背後、真っ赤な光が暗闇の向こうから伸びて、彼の背に狙いを定めているのを……。

真っ赤な光点はするすると背を登り、ザフィーラの後頭部に狙い定める。


あれは、何だ?


ヴィータの行動は素早かった。それの正体を知るよりも早く、仲間に危機を知らせるべく彼女は喉を潰さんとする勢いで叫んでいた。


「ザフィーラ!!」



切羽詰った彼女の声音と、彼女の視線の先が自らの背後の脅威を捉えてると認識したザフィーラの動きは素早かった。
彼とヴィータは瞬時にその場から横っ飛びをし、近くにあった人間くらいなら楽に収納できる大きさの金属のゴミ箱の影に隠れ様子を窺う。


二人が行動してほんのコンマ1秒に満たない内に青白い光線が闇を切り裂き飛来した。
圧縮された魔力素により生み出された小さなプラズマの弾丸はそのまま閃光としか言いようのない速度で飛来し、とある民家の壁を爆砕し、その破片の一つ一つを気化せしめる。
強制的に解かされたコンクリートが霧のようになり、辺りに立ち込めた。
恐ろしい威力だ。もしも直撃していたらと思うと背筋がぞっとする。


3つの点で構築された「∴」という真っ赤な光点が暗闇の向こう、先ほど砲撃を行ったであろう場所から再び伸びて、それは今度は二人の隠れているゴミ箱に標準を定める。
あいつ、暗闇の中でもこっちが見えてやがる。ヴィータは思わず舌打ちしそうになった。闇を利用されるとは厄介だ。



再度空気を溶かしながらプラズマの弾丸が飛来し、今度は二人の隠れていたゴミ箱を完全に蒸発させ、そればかりかその余波で地面が抉れ、土砂が巻き上がる。
更に追い討ちを掛ける様に続けて3発のプラズマ弾が飛翔し、徹底的に二人を爆撃。周囲の砂がガラス化するほどの凄まじい熱量が二人を襲う。


「舐めやがって!!」



咄嗟に展開した【バンツァー・ヒンダネス】の中にザフィーラと共に非難し、執拗に襲い掛かるプラズマの矢によって自らの結界が軋んでいく音を聞きながらヴィータは必死に考えていた。
どうすればいい? どうすれば見えない場所から一方的に攻撃してくる相手を見つけてぶっ飛ばせばいい?


「?」



ふと、やけに動作が鈍い自分の手を見ると、炭化している。恐らく結界を展開する寸前にプラズマが掠りでもしたのだろう。
ぶすぶすと煙を上げていて、少し無事な方の手で触ると、ボロボロと指が崩れ落ちていく。
が、それも次の瞬間には完全に巻き戻され、元の健康的な白い肌と、普通の手に回帰。


痛みは、ない。次いで、自らの相棒であるグラーフアイゼンを見る。彼女の半身とも言えるデバイスは、何も言わず、ただその場に在った。


やってみる価値は、ある。彼女は決断した。彼女が決意すると同時に結界が限界を向え、音も無くバラバラに砕け散る。
無数の結界の欠片が舞う中、紅い光点が再び闇の中より伸びて、今度はしっかりと自分の額に固定される。頭を吹っ飛ばす気なのだろう。
ヴィータは真正面から光点を、そしてその光の線の先を見据える。片手に握ったグラーフアイゼンのカートリッジをロード、全身に魔力を行き渡らせる。



眼前より感じるのは敵の舐め回すような視線。確かに敵は居る。
彼女の視線の先で、僅かな蒼い光が一点に収束し、高熱を帯びたプラズマの弾丸が生成される。
下手な防御ではまず蒸発する威力の高熱の塊が明確な殺意と共に生み出され、今正に発射されんとしていた。




「ザフィーラ、悪いけど、あたしの無茶に付き合ってほしい」


「あぁ」



たった一言で大よそヴィータの考える事を理解したザフィーラがやれやれと言わんばかりに頷き、そして彼女と同じく死の光点の先をその眼でしっかりと睨みつけた。
今度こそこのベルカの騎士共に死を与えるべく、ヴィータの頭部に向けて最大出力でプラズマキャノンが火を吹いた。


受ければまず蒸発確定の一撃。だが、ヴィータは逃げも、防ぎもしなかった。
ベルカの騎士が敵に恐れをなすものか。



「テェエエエエトリヒ・シュラァアアアアアアアアク!!!!!」



瞬間、視認不可能な速度で振りぬかれた真紅の鉄槌が蒼炎の弾丸の芯を捕らえた。
凄まじい爆音と共に紅と蒼の粉が撒き散らされ、何かが焦げていく甲高い金属の叫びが木霊する。

ジュウゥウウウという肉が焼ける音と共に自らの手と腕、そして腹部までもが炭化し蒸発していく感覚を味わいながらヴィータは思いっきり歯を食いしばり裂ぱくの気合と共に叫びをあげた。



「どおぉおおおりゃぁああああああ!!」


気合と共に槌を一閃。確かに彼女はプラズマの抵抗を押し切ってグラーフアイゼンを振りぬいた。
魔力を帯びた槌によりプラズマは文字通り“打ち返され”さながらベースボールの球の如く最初の数倍にも及ぶ速度で投手の元に返球。



「ザフィーラ!!」


彼女が叫ぶ前から、ヴィータの相棒は駆けていた。プラズマの弾丸を盾にし、彼は走る。走る。
彼の全身を蒼い光が包み込み、彼はより機動力と瞬発力に長けたもう一つの姿、彼が『盾の守護獣』と呼ばれる由縁である蒼き狼の姿に自らを変化させ、彼は猛然と征く。


そして、プラズマは彼らの敵を捉えた。凄まじい爆音と衝撃波が周囲の壁を吹き飛ばし、ガラスを粉々に砕く。
蒼炎の弾丸を返球され、闇夜に隠れていた相手の全身にスパークが走り、ステルスが解除されたその身を遂に顕にする。
余りの熱量によって胸部のチタンの装甲は融解し、生々しい炭化した肉体を晒してはいるが、その髑髏の様なデザインの仮面の奥に灯された殺意の光は全く衰えを見せてはいない。



マリアージュ・コマンドーの一体はその強化された思考能力によって瞬時に迎撃を選択した。


プラズマキャノンの砲身へと変化させた右腕を自らの脅威だと判明したザフィーラに向け、収束もほどほどに発射。
十分に収束されなかったプラズマは蒼い火炎放射となり、周囲の空間を沸騰させ、この哀れなプログラムを消滅させるべく狼に襲い掛かる。
飛び散った砂が一瞬で擬似的なガラスと化していっているといえば、どれほどの熱量か想像は付くだろう。


「盾の守護獣を、舐めるなぁああ!!!」



ザフィーラが吼えた。頭部と4本の足にのみ【ラウンド・シールド】を展開し、更に加速魔法【フェアーテ】を発動。4つの脚部に魔力の渦巻きを発生させ、爆発的な加速を得る。
瞬間、蒼き狼が蒼炎の地獄に突っ込み、そして突き抜けた。蒼い炎によって全身を焼かれつつも駆け抜けるその姿は、まるで神話の中の獣の様に雄雄しい。
全身に負った見るも無残な火傷が瞬時に巻き戻され、彼は全く勢いを殺さずマリアージュ・コマンドーに飛びかかった。


一瞬だけ、これで片が付くと考えていたマリアージュ・コマンドーに隙がうまれ、その隙を見逃すほどザフィーラは敵に対して寛容ではない。
慌てて残った左腕をブレードに変化させて、ザフィーラの首を刎ねようとするも、その時は全てが手遅れであった。


グシャ。


全ての体重と【フェアーテ】の加速によって生まれた全ての運動エネルギーを前足に乗せて放たれたザフィーラの突進は軽々とマリアージュの顔面の装甲マスクを砕き、その下の頭部を粉砕した。
屍兵器の全身から力が抜けて倒れる。腕の砲身に集まっていたエネルギーも霧散し消えた。完全にこのマリアージュは機能を停止したのだ。



オオォオオオオオオ!!!


ザフィーラが吼えた。まるで獣が自らの勝利に酔うように、マリアージュを踏みつけ、彼は雄たけびを上げたのだ。











「いったい、何だったんだ、こいつ?」



完全に機能を停止したマリアージュの亡骸を見下ろしつつ、ヴィータは思わず心の中に渦巻いた感想を言った。
そこそこに手ごわい敵だった。あのプラズマの威力は馬鹿にならなかったし、何よりもこいつはその身を完全に隠す能力を持っているのが厄介だった。
もしも集団で来られたら、かなり厄介なことになっていただろう。幾ら今の自分たちは不死に近く、痛みも感じないと言っても、精神的には疲れるのだ。




「あぁ、だが……まだ終わってない、か」


「そう見たい、だな」


ザフィーラとヴィータが背中合わせに並ぶ、彼らの体の至る場所に「∴」の光点が這いずり、殺意と共に狙いを定める。周囲の気配を探るに、二人は完全に囲まれている。
負ける気はない。だが、きっとかなり疲れる戦いにはなるだろう。それに仮に自分たちが敗れたとしても今は【闇の書】はシグナム達が持っているから奪われる心配は無い。
と、覚悟を決めた彼女達の前で不可視の空間、光学迷彩システムが解除され、帯電しつつ空間が歪曲して本来そこに居るべき者が目視できる形で現れた。


一言で言えばそれはおぞましい存在だった。身長は1メートル80程度で、彼らのリーダーであるシグナムより頭一つ分は背が高い。
顔面は人間の髑髏の様にも見える金属のフェイスヘルメットを装着しており素顔は見えない。
但し、その眼窩より除く真紅の光は確かな殺意と、今までのマリアージュとは違う確かなる“意思”を感じさせた。


手の指の一本一本が鍵爪の様に鋭利な形状をしており、それは肉ではなく無機質に輝く銀色の強化チタニウムで形作られており、圧倒的な存在感を放っている。
足も同じように人間とは根本的に構造が違うらしく、鷲や鷹などに代表される空中の捕食生物のような鋭利な爪で金属で構築されていた。



全身を強化チタニウム製の魔道師でいうところのバリアジャケットに覆われた存在、これがヴィータとザフィーラの新たな敵である。
そしてこのマリアージュは全身のいたるところを武装していた。背に背負った待機状態のバトン程度の長さにまで圧縮されたダカル・スピア。
両腕はブレードにもプラズマキャノンにも変化可能で、状況によって使い分けることも可能だ。
腰には小型の何やらCDディスクの様な物が複数ぶら下げられており、これもまた、何か恐ろしい武器なのだろう。


胸に刻まれたウロボロスに内包されたメビウスの紋章が、このマリアージュが何処に所属しているのかを教えていた。



『オルセア帝国のクローニング・センターを破壊したのはお前達か?』



思わずヴィータとザフィーラは一瞬だけ言葉を失った。まさか話しかけられるとは思わなかったからだ。
今までのマリアージュはただ同じ言語を何度も何度も繰り返すだけで、お世辞にも会話にはならなかった。
まるで出来の悪い壊れた人形と話しているようだったのだが、どうやらこの新手は違うらしい。



「あぁ、そうだよ。あたしがぶっ壊したんだ」




不思議な程ヴィータは落ち着いていた。怒りもせず、彼女は淡々と真実を告げた。自らが破壊したのだと。



『そうか……あそこには私の姉妹たちが大量に居た、そして……』



マリアージュ・コマンドーはチラリとザフィーラに破壊された頭部を失ったマリアージュを見た。
そして彼女はまたヴィータとザフィーラに視線を戻し、片腕をブレードに変化させ、その刃を突きつける。



『ユニット004は我々の戦友だった。この報いは受けてもらおう』



確かなる怒りを感じさせるその言葉と共に隊長のマリアージュ・コマンドー、ユニット007の全身にスパークが走り、その身を光学迷彩で覆い、闇に溶け込む。


次の瞬間、四方八方からプラズマキャノンの破滅の嵐がヴィータとザフィーラを襲った。



















手ごたえが無い。どうにも敵が弱すぎる。
レヴァンティンの一閃と共に数十のバラル教の信者をなぎ払いつつ、シグナムは内心でそんな事を考えていた。
彼女、ベルカの騎士、ヴォルケンリッターのリーダーであるシグナムはとても礼儀正しい騎士然とした人格を持っている。
騎士道精神を持ち、弱きものにも優しさと慈しみ、そして礼を忘れない凛々しい女性であるシグナムだが、そんな彼女にも一つだけ性格的な問題がある。



レヴァンティンの連結刃を開放し、既にあちこちで火災が発生している表通りの群集の中を素早くレヴァンティンを走らせる。
シグナムがほんの少しだけ自らの相棒に魔力を流すと、全ての連結刃から火炎が噴出し、その火炎はこの表通りを一気に焼き尽くす。
途端にあがる悲鳴、怨嗟の声、絶望の雄たけび……おおよそこの世に存在するありとあらゆる全ての負の感情を乗せた絶叫。


自らの作り出したこの世の“地獄”を見てシグナムは思わず自らの唇が釣りあがるのを感じた。
あぁ、何と素晴らしい光景なのだろう。これでもっと手ごたえがある敵が居れば、完璧なのに、と。
彼女は、戦いと破壊、そして殺戮に悦を見出す本当の意味での戦闘狂なのだ。
彼女が望んで止まないのは強大なる敵と闘争の場、もっというならば自らの手で血を流させるのが愛しくてたまらない。



もちろん普段はそんなことは絶対に思わないし、やろうとも思わない。
だが……こういった戦場で彼女は……キレてしまいそうになる。
ギギギと自らの中で理性の鎖が音を立てて軋み、彼女の本性である殺戮を望む発情しきった獣が暴れ出しそうになるのがはっきりと判る。


否、彼女は既にその獣を半ば受け入れていた。自らの欲求に従って、闘争本能を全開にし、この殺戮を“楽しんで”いた。


自分をプログラムした人物はきっと、かなり正確の捻じ曲がった人物なのだろうとシグナムは予想している。
何故ならば、こんなどうしようもない獣のような人格を作り出すのだから、絶対に正常な人間ではない。
自らの胸の中から止めどなくあふれ出る濁りきった黒い快楽に従い、彼女は動いていた。



彼女の後ろに音も無く浮遊する黒い表紙が特徴的な分厚い魔道書【闇の書】が音も無く開き、そのページをぺらぺらと独りでに捲っていく。
途端に広がる苦痛の呻き声。何十という人間がその火傷を負った身体でのた打ち回っている。
そして、その全ての者の胸部が破裂した。無数に飛び散る臓物と骨の欠片。真っ赤な噴水が道路をぬらしていく。
その中から、大よそ人間の中に存在するとは思えないほどに美しい光の球が現れた。魔道師にとっての心臓、リンカー・コアである。


一人一人、色も形も違うそれは、正に色とりどりの宝石だ。


真珠にも似たソレはふわふわと宙を漂いながら【闇の書】に近づいていき……そして食われた。
凄まじい勢いで闇の書の中の空白だったページに古代ベルカ文字が書き込まれていき【蒐集】は進んでいく。



「これで60ページ目か……」


シグナムは満足気にリンカー・コアを貪る闇の書を見つつ呟いた。60というのは彼女だけで蒐集したページ数である。
今回狩場として定めたこのイルミナドス地方は面白いくらいに魔道師の素養があるものが多い。
しかも、そのほとんどは自らの素養に気が付いていないらしく、碌に魔法を使えない有様と来たものだ。


途中から真っ赤な眼をした信者どもが狂ったのかどうかは知らないが、無差別に襲い掛かってきたのも気になるが、これは特に問題ではない。
むしろシグナムにとっては、正当防衛という大儀が出来たことで、罪悪感を消し去る最高の口実となった。
つくづく自分のこういった部分は自分でも嫌悪してしまう。選んで殺すことがそんなに大層なものか。



既に今宵だけでも全員合わせて100ページは蒐集したことだろう。
本当に何者かの作為を感じるほどに“美味く”できすぎている。


「はっ!」



レヴァンティンの刃を戻し、そして今度は後ろに向けて一閃。不可視の衝撃波が音を超えた速度で飛ぶ。
ただのそれだけで背後から襲いかかろうとしていた信者達数人がミンチになった。
そればかりか、その後方で自らの背に狙いを定めていたマリアージュ・コマンドーの一体が上半身と下半身を切り分けられ、崩れ落ちる。




「お疲れ様シグナム。少し休んだら、どう?」



シグナムに声を掛けるは翡翠色のコートのようなベルカの騎士甲冑を着込んだシャマルだ。
本来ならばパーティのサポート要因として余り前線に出ることは無い彼女だが、今宵は彼女もリンカー・コアの蒐集に参加している。
デバイス、クラールヴィントをペンダントモードにし、伸ばした紐で輪を創造。そこに発生させた空間魔法【旅の扉】の中に手を入れてリンカー・コアを丸ごと転移させて蒐集しているのだ。


時折リンカー・コアと間違えて人体の臓物を“持ってきて”しまったため、彼女の手は鮮血で真っ赤に染め上げられている。




「いいや、このまま行けば今宵中には主の目的を達成できそうだ。休んでいる暇などない」



レヴァンティンを握り直し、気を取り直して彼女はいまだ減る気配のない群集に眼を向ける。
本当に数だけは多い。大した戦闘力も、手ごたえもないくせに。


作業をするかのように、先ほどと全く同じ動きで彼女はレヴァンティンを構え、もう一度衝撃波を群集に叩き込もうとする。


が……。



「!?」




突如、彼女の本能とも言える部分が全力で警報を鳴らした。背筋を冷たい何かが走りぬけ、それは彼女の戦士としての本能を刺激する。
何かが近づいている! それも恐ろしく強い何かが!!


咄嗟にシャマルと背中合わせの格好になり、何処からでも不意打ちに対処できるように精神を極限まで尖らせ、レヴァンティンを構える。
彼女の魔力の炎熱変化能力により剣に込められた魔力が轟々と音を立てて燃え盛り始め、周囲の空気を歪ませ、彼女の闘志を眼に見える形で顕現。


が、そんな単純な熱量による歪みなど可愛いものと笑い飛ばせるほどの、純粋な空間の歪みが彼女達の前で発生し始めた。
皹でもなく、たゆむでもなく、空間が水の様に“揺れて”いた。まるでお風呂場に貯めた水が振動によってその表面が揺れるように。
ザザザザと海の波を連想させる、寄せては返す音が空間そのものから鳴る。もちろん、ここは山岳地帯で、付近には海などない。



ならば、一体なにが起こっている? 一体何がこの場を訪れようとしている?



全ての神経を眼の前の空間の歪みに集中させ、身構える。
そしてシグナムとシャマルの前で、ソレは姿を遂に現した。



───ッ!!!!!




人間の聴力では捉えることの出来ない鳴き声を発しながら空間の歪より飛び出したのは、巨大な機械仕掛けの黒色のサメ。
黒と金を基色した身体を持ち、開いたアギトを連想させる口部の中には歯の変わりに巨大なルビーらしき宝石が配置されている。
蒼い流動するエネルギーを身体に纏い、その全長10メートルは超えるであろう巨大なサメは自らの進行方向に空間の歪みを発生させ、その中に飛び込む。


完全なステルスだ。相手はこことは違う位相空間に居るのだから、当然レーダーにも探査魔法にも引っかからない。


空間を泳ぐサメ。ガンエデンの僕の一つ【ラー・ケレン】である。
本来はガンエデンの護衛に当たる存在だが、今回はルアフからの命令によってバラルの塔からここまで空間を泳いでやってきた。
命令の内容は単純かつ明快「僕の敵を排除しろ」だ。



空間を泳ぐケレンにとって、存在の軸がずれた位相空間に入ることは容易いことなのだ。




再度空間の歪みから顔だけを覗かせたケレンのルビーが怪しく光る。
ケレンの背鰭、胸鰭、腹鰭、臀鰭、尾鰭が大きく展開され、ケレンの巨大な体躯そのものが一つの砲台と化す。
莫大なエネルギーが轟々と音を立てて、狂気的なまでに一点に収束、収束、圧縮。


青々としたエネルギーの流動が激しくなり、やがてそれは口内のルビーに収束して……。



「避けろ!!」



思わずシグナムは叫んでいた。
あれは恐らく魔道師における砲撃魔法に値するもの。しかもその威力は背筋が凍るほどに巨大な……。



咄嗟に二人は加速魔法【フェアーテ】を発動し、その射線軸からわき目もふらず全力で逃亡。
射線から退避し、シャマルが張り巡らした結界の中に退避を行う。


そして。


【テヒラー・レイ】



薄紫の閃光が、このイルミナドス地方の何千と言う群集をなぎ払った。次いで周囲を弾き飛ばすのは砲撃の際に発生した強大な衝撃波。
まるで大口径の戦艦の主砲が着弾したかのように、世界が揺れた。街の全てが昼間に戻ったかのような、眩い光に包まれ、この光は数十キロ離れた場所でもはっきりと見えた。



マリアージュ・コマンドーのプラズマキャノンや、エゼキエルのオルガキャノンさえこれに比べればかわいいといえる。
まともにこの砲撃を浴びた者は地面に影だけ焼き付けて、身体そのものは永遠にこの世からおさらばする羽目になっただろう。
数十万度の熱量を伴った光の線は、射線にあったもの全てを蒸発させ、山脈の肌を深く抉ってようやく停止した。


この場合は、表通りを埋め尽くしていた数え切れない程の群集が蒸発する憂き目にあった。
薄紫色のエネルギー砲撃の後に残るのは破壊されつくされた民家と、遥か後方で巨大なクレーターを刻まれた山。
今までギャーギャー喚いていた全ての群集は今の一撃で完全に消し飛ばされ、既に誰も残っては居ない。


ただただ、周囲に響き渡るのは、何かが焼ける音だけ。
恐ろしい威力だ。もしもまともに浴びたら傷を巻き戻す以前にシグナムとシャマルは完全に消し飛んでいただろう。


が……面白い。実に素晴らしい。実に、実に狩り甲斐のある獲物だ。彼女の心に、胸中に浮かんだのは恐怖でも焦りでもなく、燃え滾るような愉悦。
シャマルの張った防御結界を解除してもらい、シグナムはケレンへと向かいあう。


未だ空間の歪みから顔だけ出したラー・ケレンは、その無機質な光学センサーで未だ無事なシグナムの存在を捉え、彼女に向けて圧倒的な敵意を叩きつける。
常人ならば腰を抜かし、命乞いに夢中になるほどの威圧感を受けてもシグナムは涼しい顔をして、そして……。










シグナムの顔に壮絶な、それこそ既に人間のものとは言えないほどに凄絶な笑みが浮かんだ。
思わず彼女は舌なめずりをする。あぁ、何と自分はついているのだろうか! こんなにも素晴らしい存在と出会えるとは!!










喉がカラカラに渇いてたまらない。胸の鼓動が異常に早くなって気分が高揚する。もう、我慢の限界だった。
顔が真っ赤に染め上げられ、まるで初心な少女の様にシグナムの顔が輝いた。艶やかな女の顔、男に酔う売春婦のような、顔。




「フ、フフフ……」




何度かわななく唇から漏れるのは小さな笑い。もう、我慢は必要ない。
そう思うと、彼女の心の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。鎖が弾け飛び、本性がむき出しになる。
レーヴァティンの切っ先をケレンに向け、彼女は堪らずに笑う。


剣の切っ先がカタカタと震えた。怖い? 否、歓喜しているのだ。





「くは、くはははは、あっはははははははははははは!!!!!」



背を逸らし、全身からオーバーSの絶大な魔力を噴出し、彼女は高々に哄笑をあげた。
身体が芯から熱い。快楽に悶えてしまいそうだ。最高の気分だった、余りにも嬉しくて嬉しくて、これは本当に現実なのだろうかと疑ってしまいそうなほどに。
神よ、いるかどうか判らない貴方だが、今この瞬間だけは感謝しよう。こんなにも素晴らしい強敵とめぐり合わせてくれて。




「心配はいらないみたいね」




使うでしょ? と、シャマルがカートリッジが満載されたベルトをシグナムに放り投げてよこす。
彼女はケレンから眼を離さず、それをあっという間に自らの腰に巻いて固定した。



「あぁ、お前は蒐集を頼む、私はこいつを……!!」



ラー・ケレンに内臓された全てのセンサーがシグナムを捉え、その内包した魔力と魔力の波長を記録。
結果、このシグナムが今この街に存在する全ての魔力の波長の中でも2番目の大きさを誇ることを記録。
一番目は遠く離れた地に存在。緩やかではあるが、移動を行っている。


そちらの方も後々排除してしまうが、今はこの眼の前のベルカの騎士を消そう。
ついでにシャマルの魔力データを記録。パターンを記録。これで彼女はもうラー・ケレンからは逃げられない。
ラー・ケレンの光学センサーがシグナムの容姿を記録。かつて、クローニング・センターを破壊した犯人との照会を開始。



脅威度 高。
外見データ一致。クローニング・センター破壊の犯人と断定。排除、実施。




【闇の書】を脇に抱えたシャマルが呆れた眼でシグナムを見つめ、足早にその場から離れていく。
こんな戦闘狂とあの化け物サメの戦いに巻き込まれるなど真っ平ごめんだ。自分は蒐集を続けるとしよう。
シグナムも、ケレンも、逃げていく彼女を見ようともしなかった。シグナムはこのサメを倒した後に彼女と合流するつもりで
ケレンはこの厄介な女を殺した後に、ゆっくりと逃げたシャマルを探し出して殺せばいい。




今は、この戦いを楽しむことだけ。シグナムの脳内を占めるのはこれだけだった。
今は、この女の排除を優先。敵戦力の各個撃破を行う。ラー・ケレンの機械の思考回路は決断を下した。



ラー・ケレンが再度空間の歪曲を発生させ、その中に身をもぐりこませ、シグナムがカートリッジを機械的な音と共にリロードし、魔力を爆発的に増大させる。
シグナムの全身に絡みついた鎖が禍々しく発光し【闇の書】の力の一部が流れ込み、身体能力に大幅なブースト補正を施す。




音速を超える踏み込みで、シグナムはレヴァンティンを振った。
対してラー・ケレンは鰭の一部だけを歪曲空間から出すと、全身に纏った蒼いエネルギーの炎を魚が水を撒き散らすように周囲にばら撒き、辺りを蒼く染め上げる。
蒼と紅は激しく飲み込みあい、力の鬩ぎ合いに破れた真紅の騎士、シグナムの片腕がエネルギーの濁流に飲み込まれ蒸発するが、直ぐに巻き戻しにより生え変わる。






それが戦闘の始まりだった。





そして、何処からかこの見世物を観賞している“観客”の心底この舞台をたのしみ、賞賛する笑い声が、遠く木霊した。







あとがき


皆様お久しぶりです。地震やら色々ありましたが、作者は無事です。これからも更新は続けていきます。
では、次回更新にてお会いしましょう。



予定では次回か、次々回で闇の書編は終わりそうです。






[19866] 21
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/07/14 23:22


新暦41年 オルセア帝国 イルミナドス地方




死。



焼死。圧死。惨死。爆死。縛死。窒息死。頓死。
今宵、このイルミナドス地方を今支配するのは、根源的であり、なおかつ最も単純な概念である“死”であった。
小さな古びた街は燃え上がり、それは歓喜の叫びと共に灰へと変わり果てていく。


見た者の眼球を焼き、視力を奪い去るほどの眩い輝き。例えばソレは恒星が時折発生させるプロミネンス並の熱量を誇るプラズマの槍だ。
小さな都市ならば一撃でその半分は蒸発させるであろうエネルギーの濁流が放たれた瞬間に、この地方は再度その様相を大きく変化させることとなる。


何千もの数えることさえ嫌になるほどの数をほこるイルミナドスのバラル教の狂信者達。
霊帝たるルアフに絶対の忠誠と、狂気とも言える信仰を惜しみなく捧げる彼らをガンエデンの僕たる
ラー・ケレンはその機械特有の冷徹な、良心の欠片もない思考で判断し、無慈悲になぎ払ったのだ。


正確には信者を狙ったわけではない。たまたまシグナムを排除しようと放たれたテヒラー・レイに彼等が巻き込まれただけなのだが。



自らが信じていた神への信仰の結果、彼らに賜られたのは痛みも無く、一瞬の光による死。
ある意味これは、ルアフなりの彼らへの優しさなのかもしれない。何故ならば、脳味噌を念動力で弄られた彼らの脳は、既にルアフにも元に戻せないし、戻す気もない。
一生、脳内麻薬が多量に放出される状態で生きながらえるよりも、今ここで死んでしまったほうが、彼らにとっては幸せなのかもしれない。




















閃光。
蒼白い、一種の芸術的な美しささえも見る者に感じさせるであろう光の濁流が放たれ、それはまるで津波の如くイルミナドスの僅かに残った街の残骸を領域単位で消し去っていく。
撒き散らされた火の粉と、熔けた岩、溶岩はまるで豪雨の様に音を立てて降り注ぎ、イルミナドス地区を更に火の海と変化させる。



ガンエデンの3つの僕、クストース、ラー・ケレンはその身に宿らされた圧倒的な力を惜しむことなく使用し、確実に、残酷にシグナムとの戦闘作業を行っていた。


作業。そう、ラー・ケレンにとってはこれは“作業”であった。敵は生身の人間によく似せて作られた戦闘用の魔道プログラムであり、その行動パターンのデータを採集を行い
次の相手の行動をその異次元の演算速度を誇る量子の頭脳で予測し、自らの手札を考慮してより効率よく、より無駄なく戦闘を行っていく。
それは例えるならば一流のチェスや将棋の指し手が試合の始まりから最後までを脳内でシュミレーションを行うのに似ているだろう。


頭部だけを歪曲の海から覗かせたケレンの光学センサーが強い魔力数値を感知。
未だ、敵性対象、個体名【烈火の騎士】シグナムは消去されていない。しかし損傷は与えたようだ。片腕が付け根の辺りから根こそぎ消し飛んでいる。



感情など持ち合わせていないケレンが不機嫌そうに金属のこすれる様な甲高い音を全身から発する。



ラー・ケレンの放つ圧力と、敵意。その圧倒的な存在感は野生の獅子などの比ではない。優れた兵器が発する死の匂いがむせ返るほどに漂っているのだ。
その全身の半分以上を歪曲空間に身を潜めたケレンの全体は20メートル以上にもなる。
巨大な機械と生身が入り混じった体躯は、恐ろしいまでの戦闘能力を有しているのは既に語るまでもないだろう。



かつてのオルセアの国家解体戦争にてこの存在が国家に与えた損害は計り知れない。
その空間潜行能力と、圧倒的な火力。そして常軌を逸脱した装甲の頑強さと速度には現行兵器は手も足も出なかったのだ。



だが、そんな怪物と戦う騎士は、微塵も恐怖を感じてはいなかった。
頬を染め、たった今、ケレンの放つ巨大なエネルギーの濁流で右腕が根こそぎ吹き飛んだというのに気にも留めず笑っている。
狂気と狂喜。シグナムを支配しているのはそんな感情だ。



「は、はははははは───!」



笑いながら乾いた唇を舐めると、鉄くさい血の味がした。どうやらトーマは味覚までは奪わなかったらしい。
人間で言うところの臓物、胃か消化器官の何処かが破壊されたらしく、生暖かい粘性の液体が腹からこみ上げてくる。
毛玉の様な血の塊を汚らしく吐き捨てると、シグナムは残った左手で柄が軋むほど強くレーヴァティンを構えた。
彼女の魔力が惜しみなく剣に注がれ、ソレは紅蓮の炎となり、刀身から吹き出る。



ラー・ケレンが再び空間の歪曲に深く潜行を開始。優れた狩人は、極力自らの姿を見せずに相手を嬲るのだ。
嬲る。いまだシグナムがその全身を巻き戻しさえ叶わないほどに粉砕されていない理由の一つに、ケレンはルアフの意思の影響を受けているというのがある。
ルアフの意思、それは即ち、自らの玩具を破壊した彼女達を徹底的に嬲って、絶望の渦中にて死を与えるということだ。



全身に絡みつく闇の書の鎖が禍々しく発光し、それは彼女の意思に応じるように更なる身体能力のブーストと損傷の巻き戻しをシグナムに施す。
魔力の増幅。身体能力に対する急激な補正。痛覚の遮断。そして、戦意高揚、恐怖と言う感情のシャットアウト。集中力に対する補正。精神的な余裕の確保。
闇の書の意思は、大よそ考えられる全てのプラスとなる強化を次々と烈火の騎士のリーダー、剣の騎士に与えていく。



今のシグナムの魔導師としての戦闘能力だけを管理局の基準でランク付けするならば、SS+は堅いだろう。
新しく生えた右腕の調子を確かめるように軽く拳を握ったり開いたりをした後、彼女は周囲を素早く見渡す。



破壊し尽くされ、業火に蹂躙されるように燃え上がっている町並み。ほんの数日前まではここは穏やかな時間が流れる世界だったというのに、今では地獄だ。
しかし、まるで焦熱地獄を具現化させたような光景に原因の半分、否、十割の原因である彼女の心は痛まなかった。
自分たちは主の命令に従っただけだ。何も悪くない。彼女の中では既に免罪符が出来上がり、ソレを盾にしている。


既に時間は夜中といってもよい程に遅い時間なのに、このイルミナドスは昼の如き灯りに包まれ、息が出来ない程の熱気に包まれている。
そこにケレンの姿は認められないが、機械の凍りついた殺意だけは飽和するほどに漂っていた。
何処に居るかは全く判らないが、心臓に刃物を突きつけられた様な冷たい感覚に思わずシグナムは喜びの余り身震いした。



空間に潜行し、ケレンのモチーフとなったサメの様に獲物を狩る機会を計っている。


だがシグナムとて、ただで狩られるつもりはない。
それどころかその全身から放たれる剣呑な殺気と狂喜は、むしろケレンを、狩人を食ってやると言わんばかりに吼え、その顔には亀裂の如き壮絶な笑みが浮かびあがっている。
ふと。彼女の眼が炎の壁の向こう側にて動く存在を捉える。彼女の強化された視力は人間を遥かに超える。故に可能だ。
普通の人間ならば見えないであろう業火の向こう側の小さな存在を彼女は確かに見た。見て、何とも思わなかった。



子供だ。真っ赤な眼をした少女。
その子供は、何やら必死な様子で膝を付き、倒れ伏した誰かを揺り動かしていた。見れば、その子供は涙を流し、泣いているように見える。
轟々と燃え上がる炎の影響で言葉は聞こえないが、大きく口を動かし、何かを言っているまでは読めた。
倒れ伏し、業火の影響で体の至る所に着火しているその人物は恐らくその子供の親か何かなのだろう。


誰が子供の親を殺したなどという質問は無意味だ。そんなことはシグナムにとってつまらない戯言でしかない。
戦いの邪魔だと言わんばかりに炎を纏ったレヴァティンを一閃。放たれた烈火を纏った斬撃の“線”は未だに僅かに生き残っていたバラル教の信者であろう子供を安々と両断し、燃え上がらせる。
衝撃の余波でその子供が居た場所の近くの建物が崩落し、膨大な量の瓦礫が子供とその親らしき人物を飲み込む。



即死だろう。シグナムが皮肉る様に口元を大きく歪めた。
幾らバラルの加護を受け、多少は頑丈になった身体があるとはいえ、オーバーSランクの一撃を浴びればただでは済まない。
普段の彼女ならば決して在り得ないであろう行為。しかし、今の彼女は普通ではない。
烈火の騎士であり、恐ろしい獲物と戦う最中の狩人であり、そして何より、ありとあらゆる戦闘や破壊行動に悦を見出す筋金入りの戦闘狂い。



故に、この戦場の中では子供だろうが女だろうが老人だろうが、彼女は気の赴くままに力を振るい、殺傷を楽しんでいる。
戦場に入ったのが悪い。そもそも最初に攻撃を仕掛けてきたのはそっちなのだ。
シグナムの戦意で沸騰しきった思考回路は平然とそういった答えをはじき出す。



ざわり、そんな言葉が相応しいだろう。一陣の鋭い風が彼女の頭の先から、つま先までを舐めまわし、次いで彼女の遥か頭上の空間が光ごとねじれ曲がった。
熔けた鉄の様に紅に染まったイルミナドスの夜空が、湖面に走るさざ波の如く“振動”し、凶悪なまでの敵意の塊の到来を予兆しはじめる。
既に何度も繰り返された光景。ラー・ケレンのヒット&アウェイの始まりを意味する歪曲空間と通常空間を繋ぐ門の創造だ。


僅かに開いた空間の歪から既に待ちきれないといわんばかりにあふれ出すのは、電流さえ纏った蒼色のエネルギーの濁流……。
激烈な鉄砲水にも見えるソレは、ケレンの能力によって圧縮された純粋なエネルギーの“波”であり、もしも触れれば物理法則に囚われた物質の蒸発は必須である。
既にあのエネルギーを圧縮し、まるでウォーターカッターの様に飛ばす攻撃により、シグナムは上半身と下半身を切断されたりもしている。



一瞬にして彼女の全身が粟立ち、巨大なサメの殺意を敏感に感じ取り、ソレを迎撃すべく相棒であり半身とも言えるレヴァンティンを水平に構え、カートリッジをリロード。
カァンという軽い音と共に莫大な魔力を圧縮されたカートリッジの薬莢は排出され、その中に込められた力が剣とシグナムに宿った。
背負った鞘を片手で握り締め胸の前で水平に構える。剣を鞘に納め、彼女は鞘にも自身の紫色の魔力を流し、鞘の効果を発動させる。
即ち、レヴァンティンに宿った魔力の圧縮、増幅機としての力を、だ。



足を肩幅に広げ、魔剣の内包された鞘をしっかりと握り、呼吸を整える。刀身をいつでも抜けるように柄からは手を決して離さない。
レヴァンティンに内在する暴風雨の様に暴れ狂う魔力の渦を鞘は圧縮し、増幅し、そして一つの形状へと変化させていく。



即ち、純粋なる魔力の刃へと。超高密度に完璧に圧縮された魔力は、ウォーターカッターよりも遥かに良い切れ味を誇る刀身となるのだ。



そして、時間にしてほんの数瞬後、彼女は最大の気迫と共にレヴァンティンを居合いの如く振るった。








【飛竜一閃】







超音速の領域に達した魔剣の一閃が、空気の壁を狂気と共に突き破り、金属質の物体同士を激しく擦り合わせたような身の毛もよだつ音と共に斬撃が放たれる。
闇の書によるブースト、殺意に満ち満ちたシグナムの裂ぱくの気迫、そしてカートリッジによる一時的な魔力と身体能力の大幅な補正により
通常時の四倍にも及ぶ速度と威力を得た魔剣の一振りは、大よそ全ての存在に等しい燃滅を与えるであろう。
既に目視さえも可能である擬似的な魔力の“紫の線”は一瞬の後に空間の歪、今正にラー・ケレンが顔を覗かせようとしている箇所に着弾。



着弾。既にそう呼ばれるに相応しい。もはや現在のシグナムの剣の一振りは、最上級の魔導師の全力の砲撃に匹敵する。
蒼と紅の火の粉が舞い踊り、衝撃の余波で地上に燃え盛っていた炎たちが一斉にその頭をひれ伏す。
イルミナドスの町並みの残骸とも言える無数の廃墟達の半分以上が今の攻撃の影響で、まるで玩具のセットの様に吹き飛んだ。


空気が揺れた。激しい烈火の一撃は付近の酸素を瞬く間に燃焼させ、局地的な気圧の変化さえも引き起こしたのだ。
酸素などの気体が気圧の渦によってかき回され、ソレは炎を纏った竜巻として顕現を果たした。
夜天に浮かぶ満月が地上を埋め尽くす業火の影響によって蜃気楼の様に歪み、さながらこの世の終わりの如き演出を助長。




「…………」




確かなる手ごたえと共にシグナムはたった今、自らがなぎ払った空間の“門”のあった場所を眺めていた。
彼女の切れ長の凛々しい眼が細くすぼめられ、その口から小さく息を漏らす。まるで初々しい少女が、愛しい男に抱かれている時に出すような、そんな甘く、熱い息。
知らず知らず、剣の柄を血が出るほどに強く握り締め、彼女は再度、娼婦の様な嬌声染みた吐息を漏らす。


そして彼女は自嘲気味に笑った。あぁっとまるで溜め息の様な息と共にシグナムは言葉を紡ぐ。



「何と言う化け物なのだ、お前は」



言葉そのものを見れば余りの力量の差に絶望した人間に思えるが、声音は何処までも歓喜に満ち溢れていた。
シグナムが視界に捉える、空間の歪から丸みを帯びながらも、何処か尖った頭部だけをこちらの世界に出現させたケレンの外見に目立ったダメージはない。
あえて言うならば、その人間で言う所のツルっとした頭頂部にほんのささやかな、小さく切り傷が出来て、王冠の如く尖った背鰭の一部がほんの微かに欠けていることぐらいか。
それ以外の場所には傷一つ、焦げたあと一つさえない。



シグナムが更に自嘲と愉悦を深めて嗤う。あぁ、アレは何と強いのだろう、自らの最高の攻撃で目立ったダメージすらないとは。
ケレンの無機質な“視線”らしき気配とシグナムの眼差しが一瞬だけ交差する。


つまるところ、これはトライアスロンの様なものだ。命を掛けた参加者はシグナムとラー・ケレン。
自らの剣技と魔力による攻撃がケレンの屈強にして、底知れない耐久力を保有した身体を打ち砕き、削り取るのが先か、ケレンが自らを回復さえ許さないほどに粉々にするのが先か。
圧倒的に不利な状況。勝てる確立は100分の1か、それとも1万分の1か。騎士として、そして戦士としての彼女の全てが勝率は絶望的であると伝えていた。



だが、それでも彼女の闘志は全くぶれない。これっぽっちも。
既にこの身は疲れなど超越し、怪我なども意味を成さない。故に持久戦となればほんの僅かながらも、天秤の皿はこちらに傾くはずだ。
それに何より、こんな素晴らしい戦いを直ぐに終わらせるなど、もったいないではないか。



腰に巻いたカートリッジを満載したベルトから幾つかカートリッジを抜き取り
高速でソレをレヴァンティンの下方、二重構造の柄の内部のカートリッジ補給口を露出させ、魔力の弾丸を3発放り込み、装填。
このシークエンスを彼女は瞬き一つの間に終わらせる。


一回、レヴァンティンのダクトパーツがスライドし、カートリッジを使用。薬莢が余剰魔力の煙と共に排出された。
未だ衰えという概念を知らずに烈火を噴火の如き勢いで放出する魔剣の切っ先をケレンに向け、彼女はレヴァンティンに一つの意思を込めて魔力を送る。
剣の柄の更に下部に柄を装着し、武器全体に魔力を行き渡らせた。



剣が絶対の主の命に従い、その姿を変貌させ、その身に宿った最後の姿を顕にする。





『Bogenform』





レヴァンティンは複数の形態を持つ最高級のアームド・デバイスである。
例えばソレは最強の切れ味を誇る剣であり、例えばソレは蛇の如く生物的に蠢く刃の鞭となったりもする。
そして今見せる姿は刃、連結刃に次ぐもう一つの姿。遠距離戦に特化した形態、弓である。



シュゥウという蒸気が吹き上がる音と共にカートリッジを2個使用。
先ほどよりも圧倒的な圧縮率で紫色の光が弓の中央部に収束し、光の矢が形成され、同時に紫の光による弦も形作られ、ソレは激しい殲滅の意思と共に輝く。
神々しく発光する矢を弦につがえ、凛々しい顔と共にケレンに矢先を向けるシグナムの姿はそれだけで戦女神と形容できるほどに美しい。



音も無く引き絞られる弦の遥か向こうに座するケレンとシグナムの視線が刹那、交差する。
本来のサメで言うアギトの中に存在する巨大なルビー。そこにシグナムの姿が映り、シグナムは自らへ向けて嘲りを放つ。
何という、何という浅ましく、醜い姿なのだろう。



発射。ケレンのルビーの中に存在する自らを狙い撃つか如く。




そして赤紫の閃光が世界を駆け抜けた。
先ほど放たれた紫電一閃、アレさえも遥かに置き去りにする速度と殺意と共に。
極限にまで“点”として圧縮された魔力の槍、否、破壊の矢は確固たる破滅を纏い空間を狂気で塗りつぶし、征く。


さながら、紫の流れ星といえよう。但し、幸運の願いを叶える星ではなく、災いと破壊を齎す禍星だが。
風を薙ぎ、光を塗りつぶし、まっとうな魔導師や現代の兵器などが受ければ一瞬で微塵に粉砕されるであろう攻撃。
ケレンは、何故か歪曲空間やその身に内臓されたであろう防御フィールドの発生装置さえも稼動させずにその矢をレンズで眺めつつけていた。



まるで眼前に迫り来る死を受けいれるかの様に。




そして。













「やぁ。会いたかったよ、虫ケラ」














場違いな程に軽い調子の嘲笑。しかも、独特な声の高さからすると恐らく成人には程遠い少年であろう。
ケレンは動かなかったのではない。動くなと命令されたからだ。
子供の手。白く細い、シグナムならば簡単にへし折れるであろう、鍛えられてすらいない華奢な体。
そんな人物が、シグナムの放った魔矢を片手で鷲掴みにし、いとも容易く高密度の魔力の塊である矢を握りつぶす。


パンパンと手を叩き合わせるその人物の掌には、傷一つ、火傷一つありはしない。
ケレンのほんの数メートル前に飛行している人影、シグナムは接近はおろか、そこに居たというのに、声を掛けられるまで気配にすら気が付かなかった。
まるで、いきなり何の前触れも無く表れたようだ……。


だが、魔力の反応は感じなかった。ならば、この人物は魔力さえも使わずに、何らかの方法で空間転移を行ったのか?
もしくは、歴戦の戦士であるシグナムの気配探知さえも掻い潜る程の隠密能力を有しているか、あるいはそういったレアスキルか。



シグナムの眼が弓の弦の如く引き絞られ、その乱入者を見定める。
彼女の視界に映ったのは、豪華な、まるで祭礼の際に神官らなどが着用するであろう装飾過多な衣服を身に纏った少年だ。
肩辺りの時点で切りそろえられた金色の髪が、ふわふわと熱風に煽られて、揺れている。
何より、この人物は空中に立っていた。浮いているのとは、また違う。そこに地面があり、重力があるのだといわんばかりに虚空を踏みしめているのだ。



魔導師ではない。何故ならば、全く魔力を感じる事も出来ないから。
ならば、一体何者なのだ? 少なくとも味方ではないだろうが。先ほどの罵言と、ケレンを守るように背後に控えさせている所を見る限りでは。
その華奢な身にまとう衣装は純白を基本とし、様々な金や宝石で装飾を施されながらも、嫌味とは感じさせない辺り、この衣服を作ったものは一流なのだろう。
そんなシグナムの疑問を見通したかの如く、人影は弾むような美声で言葉を紡いだ。


月夜に照らされ、浮かび上がるその顔に張付けられたのは中身のまるでない、薄ら笑い。

まるで、トーマのようだ。一瞬だけ、シグナムはこの少年と主である少年を重ねてみてしまった。




「“僕は一体誰なのだろう”って考えてるね」



それは、言葉と言うよりは、まるで台本に書かれている文字を音読しているような調子である。
シグナムは表にこそ出さなかったが、まるで心の中を読み上げられたような不快感を覚えてしまった。

一泊。小さく人影が息を吸い込む気配をシグナムは感じた。




「僕の名前はルアフ、霊帝ルアフ・ガンエデン。はじめまして、というべきかな? 
 僕は君たちの姿を何度も見ていたけど、君たちが僕に出会うのは初めてだろうしね」




シグナムはルアフの言葉を理解するのに、ほんの数瞬ばかりの時間を有した。
その時間の間に彼女が復元さえ出来ないほどの肉片にならなかったのは、単にルアフが彼女を好奇心で眺めていたからだ。
自らの言葉の意味をじっくりと咀嚼し、考え込むシグナムの姿は、酷く滑稽にルアフには見えた。


霊帝、彼女はこの言葉の意味を知っている。このオルセアを支配する統治者の名前であり、帝国の建国者であるヒドラという男の主。
自らを神と名乗り、あの国家解体戦争、終焉と再生の夜を引き起こした存在。何億もの生物の血の海の上に新たな国家を作り上げた男。
だが、彼女は霊帝の存在や名前こそ知っていたが、その詳細な容姿などは全くと言っていいほどに知らない。


彼の主であるトーマも名前しか知らないだろう。何故ならば、彼はバラル教の信者ではないのだから。
そして、時間にして瞬き数回にも及ばないほどの刹那の後、シグナムの思考は完結した。



『霊帝ルアフ・ガンエデンは眼前の少年である』



この事実を理解したシグナムは最初に警戒を抱き、次いで興味を抱き、そして最後に主の影響により憎悪を彼に抱いた。
ボーゲンフォルムに変形したレヴァンティンから魔力が濁流の如き流れ出し、それは一種の異界とも言える程に周囲の魔力素を食いつくし、更に強大化していく。
食いつぶされた天文学的数の魔力素たちは、まるで意思を持っているかの如くに弓の中心部に集い、新たな魔力の矢が形成を開始。


シグナムの切れ長の眼の奥に宿るのは地獄の業火もかくやの憎悪の炎。彼女の主であるトーマ・フィーニスが抱きつつも自覚できていない感情が
闇の書を通して彼女に流れ込み、そしてルアフを抹殺するための代理人とすべく殺意を膨れ上がらせる。


おぞましい塗り固められた憎悪の視線で射抜かれつつも、ルアフは顔色一つ変えず、ケレンの頭に手を当てて、優しく撫でやる。
そして小さく肩を竦めて、彼はとりとめのない雑談でもしているかの様に言った。




「あ、怒ったね。でも……」




一瞬だ。
ほんの一瞬の後に、シグナムはこの世には本当に手を出してはいけない怪物というモノが居るという事を知ることになる。
ルアフを中心として、放たれる不可視の力が空間そのものを締め上げ、塗りつぶし、そして支配していく。
全く眼に見えないが、確かにそこにあるという事が判るほどの威圧に満ちた得たいの知れない力。
世界の全てが霊帝の力に屈し、彼の為の玩具となっていく、このオルセアという彼の世界を乱した者に裁きを与えるべく、全てがシグナムの敵となっていく。





ギシギシと余りの力の密度の凄まじさに空間そのものが悲鳴を上げ、夜空に浮かんだ月が不気味に歪曲する。
ガラスに入っているような小さな皹が無数に天空に走り、神の怒りがどれほど恐ろしいかをこれ以上なく示す。




念動力者。サイコドライバー。マシヤフ。霊帝。神。オルセア帝国の支配者。
この全てであるルアフ・ガンエデンと相対するには、シグナムは……。



ねばねばした冷たい液体が足元から這い登り、血管を凍らせ、プログラム生命体である彼女の内蔵とリンカー・コアを凍らせていくような……。
まるで致死性の毒を体内に送り込まれ、意識が徐々に朦朧としていくような、そんな感覚をシグナムは抱いていた。
胸の奥底で煮えたぎっていた憎悪の溶岩はその影を潜め、冷たい何かが彼女の胸中を埋め尽くす。



ルアフは強いのだろう。だが、シグナムはケレンに挑みかかった時の様な壮絶な戦意は全くと言っていいほどに湧いてこなかった。
むしろ、何故だか判らないが、今すぐにでもこの場を離れたいという猛烈な衝動に彼女は襲われていた。
少しでも気を抜けば、足が勝手に動き出し、仲間の元に行ってしまう。そんな衝動をシグナムは必死に押さえ込む。


自らのデバイスであり、単なる道具と主人という関係さえも超えた半身の刀身を見る。
闇の書と共に、千年以上もの長き年月に渡り共に歩んできた相棒の磨きぬかれた刃は、不気味に光っている。
一種の芸術品の如き魔剣を見つめている内に、シグナムの精神は平時の落ち着きを取り戻していく。



そうだ。この身は剣の騎士、烈火の騎士達のリーダー。そんな自分が、心を折れるはずなどがない。ただの敵に恐怖を感じるわけないのだ。








「僕はもっと怒ってるんだ。それに決めてたのさ、君たちは直接僕の手で消してやろうってね」




霊帝は何処までも冷徹に何処までも無情に言葉を紡ぐ。


これこそが彼がこのイルミナドスにまでわざわざ足を運んだ理由。
何もおかしなことではない。ただ、気に入らない奴を自分の手で消してやりたかったからという何でもない、小さな、だが何よりも確かな理由だ。



ルアフの気配と殺意が堰を切った濁流の如くに膨れ上がり始め、その感情に呼応したのか空間への侵食の速度が桁違いに早まり始める。
騎士に叩きつけられるのは世界全てが自分を押しつぶしに来る重圧、天が落ちてくるかの如く威圧感。



このままにしておいてはマズイ。何とかせねば──。



それは恐怖によって生じた行動ではなく、戦士としての直感に基づいて行われた行為だ。
シグナムの指が脳から流れてきた電流の指示に従い、機械的な正確さと速さを兼ね備え、番われた矢をルアフに向けて放つ。
先ほどケレンに向けて放たれたのと同等の威力を誇るであろう破壊の矢は間違っても生身の人間に向けて放ってよいものではない。


嵐が巻き起こり、大地が捲り上げられ、家屋は木々は矢の発する衝撃波によって吹き飛ばされる。


過剰殺傷(オーバーキル)も甚だしい威力の矢、ソレに対し、ルアフは見向きもしなかった。小さく薄ら笑いを浮かべ、首を左に右に傾げる。
こんなつまらないもので、僕をどうにかしようというのかな? 霊帝は小さく嗤い、半ば自身と同化した空間そのものに命を飛ばす。
ニタァと嘲りと共に裂けた口元は、既に人間の浮かべられる嗤いとはいえない。



瞬間、暴力と共に突き進んでいた矢は過程も何も無く消えてなくなる。全く、唐突に。
込められたエネルギーが霧散し矢の持つ力が減衰してその結果として消えたわけでもなく、何らかの障壁に阻まれたわけでもない。
文字通り“消えた”のだ。ルアフの念動力が支配する空間に飲み込まれ、一瞬の煌きの後に消えてなくなる。



恐らくは、超高密度のAMFでも展開したのだろう。見え透いたトリックだ。
彼女はそう判断した。



シグナムの行動は早い。胃から何かがこみ上げてくるのを鉄の精神で押さえ込み、彼女はボーゲンフォルムの相棒を変形させる。
鞘との連結を解除し、レヴァンティンをソードモードに変更し、カートリッジをリロード。
レヴァンティンの刀身が“分離”し、無数の刃の身体を持つ蛇と化す。レヴァンティンの第二の姿、連結刃である。
それを見たルアフがケレンの頭部に優雅に腰掛け、ぱちぱちと見世物を観賞する客のように拍手を送り、
次いで小さく片手の指を広げ、まるでグラスでも持っているかの如く胸の前に掲げた。




「───っ!!」



剣の騎士が魔剣を振るい、魔刃の蛇が金属の軋む唸りと共に襲い掛かる。
先端部分は既に音の速度を突破したソレは毒などという小細工など不要な凶暴なる蛇の捕食行動。
壮烈なる剣の舞に飲まれたが最後、肉片よりも更に細かく切り刻まれ、焼き滅ぼされる魔剣の鞭。



一騎当千を誇るであろう烈火の騎士、それの正真正銘の全力の打ち込みを真正面から見据えた霊帝が、小さく指を鳴らす。
その直後、とても澄んだ、ガラスでも砕くような甲高い音が鳴った。最初は一つ、続けて二つ、三つ、四つ、そして無数に、連続して。


握り締める柄から、重厚な振動が伝わり、シグナムをブーツの底から重々しく揺する。
まるで掌の内側で花火でも炸裂させたかのようだ。




「え?」




とても間の抜けた可愛らしい疑問の声。烈火の騎士、シグナムは外見年齢として設定された19歳に似つかわしいすっとぼけた声。
大よそ戦闘状態に入り、その思考の隅々までをも殺戮の悦に浸らせた彼女ならば、まず発することはないだろう哀れな疑問の吐息。
キラキラと光る粉末状の破片がシグナムの視界を埋め尽くす。握り締めた柄には、先ほどまで感じていた人を殺せる重みが全く無い。


まん丸に見開かれた彼女の双眸が事態の推移に付いていけず、激しく同様の意を含み、揺れた。



軽い。何が? 簡単だ、持っている剣が、だ。




軽い。レヴァンティンが、軽い。
確かにあったはずの刃の重みがそっくり消えうせ、まるで“柄だけ”の重みしか感じないようだ。
周りに粉雪の様に舞い散る銀色の破片は何だ? 何をされた? 幻影魔法でも受けてしまったのか?


わななく唇と舌を何度か無意味に痙攣させ、何とか言葉と言えるモノを搾り出す。
捻り出された声は、まるで一日中叫んでいたかの様に掠れていた。




「……レヴァン……ティン?」




『────』



いつもなら二つ返事を返してくれる相棒の返事はなかった。まるで機能が停止したように。
ない。普段感じる確かなるレヴァンティンの意思ともいえる、この長剣に内包されたAIの存在感が。
ない。刀身が、無数に枝分かれした連結刃が、ソレらを結ぶ内臓されたワイヤーが、全てが丸ごと不可視の力によって、一つ一つの欠片が砂と同程度の大きさにまで砕かれている。





桁が、次元が、法則が違う。魔導師のリンカー・コアが発する物理法則書き換えにより発動される魔法とは根本から違う。
念動力、自らの意思により宇宙を自由自在に書き換え、世界を望むがままに変貌させる極限の異能。
故にルアフが目障りと感じたレヴァンティンは砕かれた。過程も、衝撃もなく、望まれたが故にルアフの展開する世界によって壊された。




剣の騎士は、剣を失ったのだ。それも、全く訳がわからないまま。
息を呑み、呆然と現実の光景を見つめるシグナムへ、頭上に座する神からの祝福の祝詞(嘲り)が、絶望的に送られる。





「ようこそ僕の星へ、丁重にもてなしてあげるよ。僕自らがね」





ルアフの眼は、まるで家畜を殺すかの様に何の温情も帯びてはいなかった。
自らが支配する世界を散々に荒らされ、所有物を壊され、怒り狂った霊帝。
ルアフを動かすのは単純な怒りだ。子供がお気に入りの玩具を取り上げられ、憎悪を抱くのと同じ原理で発生した怒りによって彼は動いている。




その言葉を合図に、ケレンが再び蒼炎の力をその巨大な体躯から吐き出し始め、エネルギーを頭部へ、そしてその先の口内へ収束を開始。
新たな【テヒラー・レイ】を放つべく取られるケレンの行動。あの想像を絶する規模のプラズマの槍が破滅の光と共に誕生の産声をあげるのも、もう間もないだろう。
このイルミナドスを一発で地獄へと作り変え、何千ものルアフを信仰する民らをなぎ払った戦術規模の極大破壊兵器が発動するべく、チャージし、破滅の光は刻一刻と増大を続ける。



蒼き純粋なるエネルギーの槍は、一度放たれれば、その射線軸に存在するもの全てを尽く滅するだろう。
そして、その恐ろしい蒼き破滅は自身に向けられている。もしもまともに浴びれば復元さえ許されずに殺し尽くされるのは確定事項だ。



相棒を破壊されたショックを何とか頭の片隅に追いやり、シグナムは必死に考える。
まだ、消えるわけには行かない。まだ主の、トーマの願いを叶えていない。



防げない。ならばどうする──?
今現在、自分にはレヴァンティンはなく、カートリッジの数もケレンとの戦いで乱用してしまった為、心もとない。
自分に残っているのは鞘と、騎士甲冑のみ。後は、闇の書の加護と、大分目減りした身体に宿る魔力のみ。



並の相手ならば、この状況でも潜り抜ける自信はある。
だが、相手は普通ではなく、むしろ異常の極みとも言える存在。
あの正体不明の能力によりレヴァンティンは破壊され、その能力の考察さえ出来ない。




逃げる? 論外だ。シャマルに約束した、この化け物サメを倒し、合流すると。
そもそも、逃がしてくれるとは思えない。だが……。



ならば、ならば。簡単な消去法で答えはおのずとはじき出される。
答えが出た瞬間、シグナムは自らの胸の中で、何かが吹っ切れたのを確かに感じた。









せめて、せめてレヴァンティンを破壊した報いは与えねばならない。
粉々に砕け、今や柄だけとなってしまったレヴァンティンを鞘に戻し、ソレを肩に背負う。









剣の騎士は、カートリッジを二つ取り出すとソレを一つずつ両手に強く握り締め、今だ余裕の表情を欠片も崩さない霊帝ルアフに強い意思の篭もった眼差しを向け、構える。
足を肩幅程度にまで開き、全身に絡みついた鎖が不気味に発光し、身体能力を更に上昇。
確かに彼女は剣の騎士であり、事実長剣を用いた戦闘では超人的な技能を持つ。
だが、だれが彼女が剣しか使えないと言った?


武器など、極論してしまえば、彼女の様な最高クラスの魔導師にとって、肉体一つあれば事足りるのだ。
ザフィーラなどがいい例である。彼はデバイスを待たないが、それでもヴォルケンリッターの一員として申し分ない能力を持っている。
人狼種としての恵まれた身体能力を差し引いても、鍛えられた肉体はそれだけで魔導師にとってはナイフにもなりうる。




それに、だ。いつ以来だろうか。このような“挑む”戦いというのは。
圧倒的に強く、ありとあらゆる小細工を必要とせず、この烈火の騎士を純粋な力だけでねじ伏せうる存在など稀有である。
故に彼女は、凄絶なる笑みを浮かべる。戦いを楽しむ笑みを。
彼女にとって、勝つのは好きだが、それ以上に強い存在と真っ向から戦えるのは何よりも愛しい行為なのだから。




「霊帝ルアフ・ガンエデン、感謝する」




剣の騎士は魔剣を砕かれてもなお、剣の騎士としてあり、烈火の騎士として霊帝に感謝の言葉を述べた。
頬を紅く染め、紫色の魔力のオーラを噴出す彼女は身震いするほどに艶に満ちている。
この瞬間、一分一秒を心の底から楽しんでいる騎士が、そこにはあった。



ほんの僅か、その顔を直視したルアフが息を呑んだ。何と言う──。
幾ら絶対的な力を有そうとも、所詮はまだ十数年しか生きていない子供の彼が、真の戦闘狂いに圧倒されるのも無理は無い。




「…………」




シグナムの言葉に答えることはなく、ルアフの顔が不機嫌に歪む
何故だ、何故だ、何故だ、何故、この女の顔は恐怖に歪まない。何故、この女は無様に膝を屈し、許しを請わない?
ここまでの圧倒的な力の差を見せられ、何故命乞いをしない? 何故立ち向かえる?
何故、一瞬とは言え、圧倒的に有利であるはずの自分が、この女を消すことを躊躇ったのだ?



ルアフの中で先ほどから沸々と煮えていた黒い感情が音を立てて急騰を始める。
吹き出てくる黒い感情のまま彼は命を飛ばしていた。




「ケレン、やれ!」




絶叫にも聞こえる号令。霊帝の怒号が響き渡り、半身機械の守護獣は主の命令を果たすべく更なる勢いを持って蒼き光槍の生成を早める。
剣の騎士が直接カートリッジを握りつぶし、その中に圧縮し保管されていた魔力を解き放ち、それを無理やり体内のリンカー・コアに飲み込ませた。
掌が暴走した魔力の影響をまともにくらってしまい、何本か指が弾け飛んだが、直ぐに巻き戻されるが、それだけだ。



制御から離れた膨大な魔力の渦が体内で暴れ狂い、騎士甲冑が、全身の骨と筋肉が悲痛な叫びを上げているが、痛覚を排除されたシグナムは凛然とし、ケレンを、ルアフを見据える。



手を何度か握り、足を動かす。動く、ならば戦える。それで十分だ。そもそもこの身はプログラム生命体。人間ではないのだ。
もしも痛覚があれば、痛みによって無様に転がりまわっていたかもしれない。初めて彼女は痛覚を排除したことに感謝の気持ちを覚えていた。
最初は攻撃を受けた際の反応などが遅れると思っていたが、これは中々に便利だ。




ケレンの背鰭、胸鰭、腹鰭、臀鰭、尾鰭が大きく展開され、ケレンの巨大な体躯そのものが一つの砲台となる。
同時にコップから水が零れるようにケレンの全身から溢れるのは蒼き力の豪雨。
全長20メートルを超える巨砲へと悪夢の守護獣はその姿を変える。その威力は山脈に深く刻み付けられた熔解、もしくは気化した岩々を見れば判るだろう。



膨大な破壊の力を極限にまで圧縮された蒼き光球が膨張を始め、内包されたそのエネルギーに志向性が与えられる。即ち、シグナムに向けて。
紅蓮の炎で照らされた周囲が、蒼く塗りつぶされ、シグナムをその余波だけで全身を容赦なく焼いていく。
チリチリと空気中の塵などを蒼い火の粉が焼き潰し、耳障りな音を立てる。






【テヒラー・レイ】





放たれるは、絶対の破壊を約束する魔光。
先ほどとは違い、更に力の圧縮率を高め、ありとあらゆる障害を貫通するであろう文字通りの突撃槍となった光の束。



蒼き閃光に向って、剣の騎士は恐れを見せず、真正面から飛び込んだ。
一瞬だけ、暴力的な蒼の奔流の中に紫の烈火が映り、ほんの僅かな間だけ鉄砲水の如くに襲い掛かる絶望の濁流を押し返すが、それも直ぐに終わり、紫の炎は消えてしまう。
撒き散らされた破壊の光は、そのまま収束された勢いそのままに地盤を打ち抜き、地殻を大きく抉る。
クレーターとも言えない純粋なる巨大にして底が見えない程の“穴”を地に生み出し、その穴の遥か奥では熔けた岩が音を立てて燃え盛る。





その光景はさながら大焦熱地獄へと続く道でも作られたのでは、と思わせた。
そして、剣の騎士の姿はそこにはない。




跡形も残さずに吹き飛んだ? いいや、違う。
まだだ。まだ終わってはいない。




ルアフの持つ念動力が主に向け、けたたましい警報を鳴らした。
霊帝が感じたのは頭上から迫り来る脅威だ。脊髄反射のような速度でルアフが頭上を見上げた。
大きな月が覗く闇夜に、一つの影が見えた。流れ星のようなソレは想像を絶する速度で彼目掛けて落ちてくる。



否。それは星などではない。全身から夥しい量の血を噴出し、ありとあらゆる場所に皮膚全層熱傷の火傷を負いながらも戦意を欠片も喪失してはいない剣の騎士だ。
鎧や素肌も所々が炭化し、特に片足は既に半ば灰となり風に散っている様を見る限り、カートリッジ2個の魔力ブーストを用いて【テヒラー・レイ】を回避したのだろうか。
シグナムがその手に持つは今や柄しか残らぬレヴァンティンと、それを納めた鞘だ。
鞘、たかが鞘と言っても魔力を通し強化を施されたソレを人外の腕力を持つであろうシグナムが全力で振るえば人間の一人や二人、まとめて撲殺できるであろう威力を誇るであろう。




だが、霊帝は余裕を絶やさない。体の奥底から湧き出る黒い感情のまま彼は行動を起こす。




「うん。まぁ、よくやった方だね」




迫り来る烈火の流星を何処か他人事の様に見つめ、ルアフは淡々と言葉を綴る。
必死に先生からの課題をやってきた子供を褒めるかのような、そんな何処までも上から目線の言葉で。
ルアフがにっこりと綺麗な笑顔を浮かべた。歳相応の、楽しみを見つけた様な美しい笑みを。



激烈なる威力を秘めた鞘に皹が入る。余りの魔力を込めてしまったせいで、鞘自身の耐久力を超えてしまっているのだ。
だが、シグナムは構わず、この一撃で全てが終わると信じ、彼女は迷わずルアフにその烈火の鉄槌を振り下ろした。
シグナム自身の腕力と位置エネルギー、落下による重力の補正、鞘自身に込められた魔力と重量、その全てが惜しみなくルアフに叩きつけられた。





「無駄無駄、幾ら君が頑張ろうと、無理だって」




神の嘲りがシグナムの耳に届いた。




必死のシグナムの行動も、全てはルアフには届かない。命を賭けようが、神には届かないのさ、とルアフが嘲笑を浮かべる。
ルアフの顔面まであと、ほんの数センチといえるところで停止という概念を押し付けられ、そこから先はいかにシグナムが力を込めようとも決して動くことは無い。
生身で展開された超念動フィールドは、完全に全ての攻撃を停止させ、その意味を失わせていた。
不可視の壁に衝突したレヴァンティンの鞘の皹が広がり、彼女の鞘は粉々に砕ける。





だが、シグナムは笑った。愉快そうに、嬉しそうに、悪戯が成功した子供のように。




「いや──」




ゆっくりと、見せ付けるように握り締めた片腕をルアフの目先に差し出す。
当然、その手は念動フィールドに阻まれ、殴ることなど叶わない。



だが。




「一矢報いることぐらいなら出来た」




「?」



ルアフがシグナムの行動を視覚で把握したのと、彼女の心を念道力で読んで理解したのは全くの同時であった。


開いたシグナムの手の中にあるのは、彼女に残されたカートリッジ、その数は3つ。
しかも、各々には皹が入っており、そこからは内包された魔力が激しくあふれ出している。
いわばこれは爆弾だ。臨界状態の爆発物を眼の前に差し出されたということである。


ルアフの念道力がソレが一体何であるかを伝え、同時にシグナムがそれで何を行おうとしているか判った彼の顔が殴打されたように衝撃で歪んだ。
眼を見開き、シグナムの顔を見る。彼女は美しい笑顔でルアフに会釈をした。


眼だけは笑っていない、恐ろしい笑顔であった。
カートリッジから吹き出る魔力の量が劇的に増加し、その弾丸の様な形状の姿に無数の皹が入る。
ありとあらゆる皹から紫の光が突き刺す様に漏れ出、その時は近いのだと告げていた。





「失礼をする、霊帝殿」




「っ……!!」



声無き悲鳴がルアフの噛み締めた口からもれ出る。何を考えているのだ、こいつは。
そんなことをすれば──。






閃光。




一瞬で膨張した紫色の爆発が、シグナムとルアフを包み込んだ。







































走る。走る。走る。
翡翠色のコート、今代の主がデザインした騎士甲冑を翻しながら、シャマルは走る。
既に疲れなどは感じないこの体ではあるが、精神的な事によって生じる疲れから彼女は無意識に呼吸を乱している。


状況を走りながら整理すればするほど、いかに今が最悪なのか、判るというものだ。


既に優れた頭脳を持つ彼女は大まかな事は何となくではあるが察していた。
今回の蒐集が何故こんなにも美味しく行ったのか、何故この街の人間達があんなにも原初の獣の如き凶暴性を帯びているのか。
何故、あのマリアージュを改造した恐ろしい強化兵士が襲ってきているのか、あの機械の巨大なサメも然り。


駐屯していた兵士というには無理がありすぎる。誰がこのような辺境にあんな化け物を配属するか。



常に状況は最悪を想定しなければならない。
烈火の将らの中でも最も冷静に感情を廃して物事を見つめる事が可能な彼女の思考は既に最悪の事態が起こっている事を告げていた。
恐らく、完全に自分たちの行動は読まれていたのだ。その上で次に自分たちが現れる場所を予測され、そこにこの上なく悪趣味な罠を張られた。



しかも、そこに住まうであろう現地の人間の生存などを度外視した悪辣極まりない罠を。



だが、それを恨む言葉は彼女の口にも心にもない。何故ならば、こんな事をされても仕方が無いであろう事を自分たちはやっているという自覚があるからだ。
今までシャマルがクラールヴィントの【旅の扉】でリンカーコアと命を抜き取った者らにも家族があり、大切な者は居た。それを理不尽に奪った時点でこうなるのは眼に見えていた。
何百もの人間を殺したのだ。その報復として殺されても文句は言えない。だが、抵抗はするが。



ギュッと知らずの内に懐に抱えた闇の書を強く握り締める。この悲劇の元凶にして、トーマという主とめぐり合わせてくれたロストロギアを。
今代の主であるトーマは……何と言えばいいのだろうか、特徴がないのが特徴といえるほどに平々凡々な少年“だった”……。
走りながらも周囲を見渡すと、やはり代わり映えしない地獄が映っている。炎に包まれ、燃え盛る周囲。いたるところから絶え間なく聞こえる怨嗟の声。
子を失った親の慟哭、親とはぐれた子の泣き声、大切な存在を失った男や女の絶望の絶叫。そんな負の感情がイルミナドスを包み込んでいる。


ほんの数時間前までは、彼らはただ普通に過ごしていたのに。
この全ては自分たちがここに来たから起きた。まるで、あのオルセアが壊された日の再来の様な地獄絵図を生み出したのは、自分たちだ。
言ってしまえば、真実はこんなにも単純だ。




「…………」




眼を逸らし、シャマルは今度はわき目も振らずに走り抜ける。今はそれどころではないというそれらしい言い訳を胸中で紡ぎつつ。
魔力で全身を強化した今の彼女ならば、100メートル程度ならば瞬き一つで駆け抜けてしまうだろう。
目指すは主であるトーマの居場所。幸い闇の書と深く繋がっている彼女達は、念話などを使用しなくても、本能的に主が何処にいるかは判ることが出来る。
どうやら今トーマは先ほどまで滞在していた旅館を出て、市内へと向ってきているらしい。


何をやっているのだ、主トーマは? この街の状況がわからない訳でもないだろうに。
こんな戦場に出てきてしまったら……いや、大丈夫か。
彼の肉体は既に闇の書によって人間とは言えないほどの生命力を宿しているのだから、並の銃火器でトーマを傷つけることは出来ても、殺すことなど絶対に叶わないだろう。


やがてイルミナドスを見渡せる小高い丘の上に彼女はたどり着く。ここからは彼の地の全景を上から見ることが出来る絶景スポットだ。


数分間、だが今回の人生で最も長い数分間を駆け抜けたシャマルはようやく遠方に見慣れた髪色の少年を見つけ、ほっと胸をなでおろした。
彼の纏った服にはおびただしい量の血液が付着し、乾いたそれはドス黒いシミになっているのを見て、ぎょっとするが、トーマ本人は特に問題なく元気そうにしている。


どうやら何かあったようだが、自力で彼はその問題を解決したようだ。今は何やら顔に手をあてている。





「シャマル見てよ! 僕、宇宙人みたい!!」




シャマルの顔を見るとトーマは顔を綻ばせ、子供が親にじゃれつくように駆け寄ってきた。
但し、彼は顔そのもに何らかの変身魔法を掛けたらしく、今のトーマの顔は皮膚がぶよんぶよんに伸びたゴム人間の様な風貌になってしまっている。
その伸びきった皮膚を彼は手で引っ張ったり、つねったりして、まるで粘土をこね回すかのように遊んでいるのだ。


もしもここが彼らの家で、この時間が何でもない雑談をしている時間ならばいいだろう。
だが、ここは戦場だ。何千もの命が散り、今もなお地獄の業火が大地を焼き尽くしている地点である。
そんな中での彼の悪ふざけは場を弁えないものとして糾弾されてしかるべきだろう。



更にこの地獄の元凶が彼という事実を含めれば尚更だ。
本来のシャマルならば、そう思っただろう。
だが、怒りの代わりにシャマルの顔に浮かんだのは哀れみの表情だ。
コートの内に隠した拳を強く握り締め、彼女はトーマの前に膝を付いた。




「主、報告します」




「~♪ ~~♪」




顔で遊ぶのが飽きたのか、彼は変身魔法を解き薄い微笑みと共に戦火に包まれるイルミナドスの光景をじっと見つめている。
首をかしげ、焦熱地獄とも言える今のイルミナドスを見つめつつトーマは陽気に鼻歌を歌っていた。
傍目から見れば酷く滑稽な光景に映るであろう、妙齢の美女が跪き、主である少年は美女に意識さえ向けていないように見えるのだから。




「シグナムは60ページを蒐集。私が52ページを蒐集し、ザフィーラが18ページ、ヴィータが10ページの蒐集に成功しました」




「ありがとう! 凄い頑張ってくれたんだ」





ピタッと鼻歌をやめた主がシャマルに振り向き、腰を屈め、彼女の頭に手を置き、撫でやる。彼女に抱えられた闇の書が浮遊し、主たるトーマの眼前で停止し、滞空。
ペットを可愛がるかのような扱いを受けたシャマルであるが、次のトーマの言葉によって彼女の表情は激変することとなった。
トーマがシャマルの頭から手を離し、闇の書を開き、両手に何かの魔方陣を展開する……三角形の魔方陣はベルカ式の陣だ。




「守護騎士は、もう君だけだね。皆、本当にありがとう」





その言葉と同時にトーマの両手に生じた魔法人より3つの光輝く宝石が表れ、ソレはふわふわと毛玉の様に浮く。
色は赤、青、そして紫。それは奇しくも、烈火の騎士、ヴィータ、ザフィーラ、シグナム達がその身に宿すリンカー・コアの光と同じ色であった。
闇の書が開き、3つのリンカー・コアをあっという間に食いつぶし、ページが蒐集された魔力によって埋められていく。もう、間もなく闇の書は真の覚醒を果たすであろう。





「……え?」





呆然と、シャマルは言葉とも吐息とも付かぬモノを口より漏らしていた。
彼女の眼の前で3つのリンカー・コアが光の粒子を撒き散らし、完全に闇の書の内部へと取り込まれる。
ぱらぱらとページが埋まり、残りは約75ページほど。



今、トーマは何と言ったのだろうか?
烈火の将が、私だけ? では、残りの皆は?
シグナムは、あのサメに負けたというのか?



全身に走る震えを騎士としての自制心で押さえこみつつ、彼女は頭を上げ、トーマを見た。
そこに相も変わらずに居るトーマの顔は平然と笑っていた。絶対の自信をもって自らは悪いことはしていないと言わんばかりに。
それを見て、シャマルは何処かで諦めた自分が居ることを自覚してしまった。もう、何もかも手遅れなのだと、理解してしまった。



だが、不意に彼の顔が歪んだ。呼吸が荒くなり、途端に溢れてきた鼻水を音を立てて啜り始める。


あまりの急激な表情の変化、まるでスイッチを押し込めば喜怒哀楽と書かれたランプが切り替わる機械の様な……。
実はトーマは役者で、この顔や感情の変化も全ては実は自然ではなく、演技なのだと言われたほうが納得できるだろう。





「シャマル、僕は君たちが大好きなんだ。本当にありがとう、君たちに会えてよかった」




トーマがシャマルに手を伸ばす。慈愛に満ち、何処か人懐っこい笑顔と泣き顔が混ざった、酷く形容しづらい顔で。
痛覚を消し去り、人殺しを行わせ、騎士達を戦うための戦闘人形扱いした男が愛を語りながら手を伸ばしてくる。
シャマルは嫌悪感は感じなかった。彼女が思ったのは、どうしてこうなってしまったのだろうという疑問だけだった。





「……主、最後に一つよろしいでしょうか?」




「なぁに?」




トーマが幼い子供が親の言葉を聞く時のように無邪気に首を傾げた。
行き場をなくした彼の手が止まり、ぶらんとなる。






「主は……主は、本当に闇の書の力でオルセア帝国に勝てるとお思いですか?」



シャマルは数多くの蒐集をオルセアで行い、それと同時に帝国の様々な施設や兵士を見てきた。
一個中隊が居れば烈火の騎士でさえも危ない相手であるエゼキエル。死体から無限に生産されるマリアージュとそれを改造したあの強化マリアージュらしきもの。
恐らくはあのシグナムを打ち破ったであろう化け物サメ。それに帝国にはあの日世界を焼いた“悪魔”なども居る。



シャマルの胸中にあるのは今まで見た中でも有数の軍事力を持つこの世界を、本当に闇の書だけで破壊できるのか? という疑問だ。
そんな質問を受けたトーマは、今までとは違う、酷く歪で、感情がむき出しの笑顔を顔面に張付けた。



本人は自覚できていないのだろうが、そこにある感情は“狂喜”と“狂気”そして“憎悪”だ。



そうして彼は絶対の確信を持って告げた。
何度も何度も唱えている言葉を彼は同じように言ったのだ。




「勝てるよ」





「なんでそう言い切れるの!?」




余りにも無責任とも言えるその言葉にシャマルの口調が多少荒くなってしまったのも無理はあるまい。


だが。


トーマの笑みが益々深くなった。彼の背後の街の一角がガスにでも引火したのか激しく爆発を起こし無数の火花を散らす。
恐ろしい猛火と煙の噴火を背景に彼は更に笑顔を深く、おぞましく、狂気に満たさせる。


太陽の如き笑みで彼は高々と宣言した、自らの信仰を世界に誇るように。何かに陶酔するようにトーマ・フィーニスは言葉を紡ぐ。



「だって僕は“自分を信じている”から! 自分を信じて、夢を叶えるために努力し、夢を追い続けていれば──」


 
彼の背後の町が更に連鎖的に大爆発を引き起こした、恐らくは地下に埋まっていたガスを供給するためのパイプにでも引火してしまったのだろうか。
幾重もの重低音と閃光が響き、昼間のように辺りは真っ赤に染め上げられた。吹き出る巨大な炎はトーマの心を代弁しているかのように、全てを燃やしつくさんと燃え盛る。



そんな地獄を背景に彼は大声で謳いあげた。実に晴れ晴れしい、黒く輝く太陽の様に、光輝く笑顔と共に。




「夢はいつか必ず叶う! 皆は天国で幸せになれるんだ!!」




「…………ぁ」





楽しそうに宣誓するトーマを見つめ、シャマルは全身から力が抜けていくのを感じていた。距離が違う、思考回路が違う、価値観が違う。
もう、本当にどうしようもない。これっぽっちも自分のやっている事は間違っていない、自分は絶対に正しいと思い、狂気と共にそれを実現させようとする人間相手に何が出来るものか。
そも、自分はトーマの守護騎士である。彼に逆らうことなどできるはずはないのだ。




「シャマル、シャマルゥ、先に天国の皆によろしくね。僕もオルセアの皆を送った後にすぐに行くから」





闇の書が開き、騎士のプログラムへの干渉を開始。肉体を全てデリートし、その身に振り分けられた魔力とリンカー・コアを闇の書へ。
シャマルの体が空気に溶けるように透明になり、魔力で編まれていた肉体と精神の崩壊が始まる。
トーマが涙の滲んだ笑顔でシャマルに手を振る。シャマルはトーマの顔を見れず顔を伏せた。




──本当に、何でこんなことになってしまったのだろう。




涙が一滴、零れた。こんなはずじゃなかった世界に対しての無念の涙。
しかし、闇の書はそんな涙さえも残らず貪り喰らう。







そして彼女の全ては無となった。


































「誰も居なくなっちゃった……一人ぼっちは寂しいなぁ」




シャマルを飲み込み、倒された守護騎士全員のリンカー・コアを回収し、その全てを闇の書の糧とした少年が呟く。
シグナムは倒され、ヴィータとザフィーラはマリアージュ・コマンドーの全方位から休み無きプラズマ・キャノンの一斉掃射で蒸発させられ、シャマルはたった今、トーマが食った。
しかし、それでもまだ闇の書を満たすには足りない。残りのページは66ページ。これはオーバーS、その中でも最強クラスの魔力を持つ者一人分程度に値する。


10分の1の量がまだ足りていない。



そして既に守護騎士は無く、トーマを守る者は誰も存在しない。彼の変わりにリンカー・コアを狩る者も同様だ。
彼に敬愛を抱き、彼の為に働き、彼の家族になろうとしてくれた者達はもういない。
ジーっと闇の書をトーマが見つめる。金色の十字架を表紙に飾られた重厚な書物は言葉を話すことなく、トーマを見つめ返した。





刹那、トーマの脳内に電流が走り、一つのアイデアが形を取る。













思いついた。 
これで、闇の書は完成する。最後のほんのささやかな締めだ。










トーマがドス黒い魔力と共に闇の書の術【蒐集】を発動させる。リンカー・コアのデータをコピーし、その全てを闇の書へと捧げる外道の術。
生物にせよ、無機物にせよ、蒐集できるのは一人につき一回という制限を持つ魔法。


そして今回のこの術の対象は……自分だ。
闇の書がトーマの胸の前辺りまで浮かび上がり、そのページを開く。



薄い紫色の発光と共に心臓を鷲掴みにされ、引き抜かれるかのような激痛が全身に走るがトーマは欠片もその痛みを表情には出さなかった。
風の吹く音と共にページが、恐ろしいまでの速度で埋まっていく。10、20、30、40、まだだ、まだ埋まる。
50、60、恐らくはこのオルセアで最も強い魔力を持って生まれたのであろうトーマ・フィーニスの魔力は闇の書にとって最高の餌となる。


故に彼は闇の書の主として選ばれたのだ。




【61】




痛みさえも心地よいとはこういう事を言うのだろう。この今自分が受けている痛みは試練だとトーマは考えている。
夢を実現するために必要なこと、全ての存在を天国に送って幸せにするためには避けては通れない道だ、と。




【62】




残り3ページとなった闇の書がトーマの狂気に呼応するように眩く発光を始める。
同時にトーマは自らの脳内に声が響くのを感じた。若く、美しい、思わず聞き惚れてしまいそうな女性の声。
呟く程度にしか聞こえないので、言葉の意味は判らない。



いや、トーマはこの声に聞き覚えがあった。この声は確か……。




………あぁ、思い出した。“彼女”か。



【63】



しかし、何故“彼女”はいつもこんなにも悲しそうなのだろうか。折角、夢が叶い、皆を天国に送ることが出来るというのに。
何で“彼女”は笑わないのだろう。僕はこんなにも嬉しいのに。




【64】




意識に何かが割り込んでくる。妙な感覚だ。自分が自分ではなくなっていくような、そんなおぞましい気配。
何かの意識が急速に浮上し、脳味噌の中をかき混ぜられる。
その度に、一秒ごとに脳内に響き渡る声は大きく、はっりとしたものへと変化を遂げていく。


意識が霧散し、とって変わられる……。



──主の願いは、私が叶えます。



その言葉にトーマは不快感を覚えた。虚ろに、拡散していた意識がはっきりとしたものに変わる。
自身の感情の機微を感じ取る能力が麻痺している彼にもはっきりと不愉快だと判るほどに。


僕の夢を君が叶える? 冗談じゃない。最後に出てきて、全部持っていくなんてやめろ。
お前は引っ込んでいろ、これから僕がやることは全部僕の意思で遂げられねばならないのだから。


轟々とトーマの胸中で黒い何かが渦を巻き、猛烈な勢いで、それこそ核融合を行う星の様に激しく燃え上がり始めた。




【65】




失せろ! 僕の願いに君はいらない。
強い意思による一喝。管理者による絶対命令権、支配権の行使。そして狂気により何処か壊れた揺るがない精神。
狂気にせよ、破壊衝動にせよ、憎悪にせよ、真実強い意思の元に放たれた拒絶の思いは闇の書の精神への侵食を
そして闇の書の管制者である名も無きユニゾンデバイスの人格面の融合を拒絶するほどに強力なものである。



力だけを名も無き管制者から剥ぎ取り、更にその奥……闇の書に自ら蒐集され、完全に一部となったトーマは闇の書を闇の書たらしめる純粋な闇へのアクセスさえも可能とする。






【66】





“闇”




闇の書を最凶最悪のロスト・ロギアたらしめるソレを直視し、今代の主としてそれの本質を理解したトーマは思わず喜悦の笑みと共に呟いていた。






──“天国”はここにあったんだぁ、と。





黒い、沸騰する魔力が、夜天を塗りつぶした。




闇の書の覚醒であった。




あとがき





次で闇の書編は最後です。シグナムなどの扱いに悩みましたが、彼女らしさを自分なりに考えた結果、ああなりました。
しかし、今年のスパロボ、バンナムは凄いですね。第2次ZにOGの新作……お金がどんどん無くなっていきます。
そして魔法戦記リリカルなのはforce……これも色々と美味しいネタがいっぱいで、もう……。
なのはもなのはでPSPで新作が出るらしいですし、忙しい夏になりそうです。


それに時折妄想でフッケバインとヒュードラ……どう絡ませようかとか考えたりしていますww
悪と悪の絡みは、何か凄くいいですよね。





では、皆様の感想をお待ちしております。
次回の更新にてお会いしましょう。






[19866] 22
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/07/25 04:01



闇の書。

時空管理局が誕生するよりも遥か過去より存在し、数多の世界を残さず飲み込んできた最強のロスト・ロギアの一つ。
一たび666ページの書物の中身全てをリンカー・コアの蒐集によって埋め尽くすことさえ出来れば、空間ごと世界を汚染し、食いつぶす最強の兵器。
しかも質が悪いことにこの兵器は悪性のがん細胞の様に際限なく宿主を変え“転移”し幾度も治療されるたびに寄生対象を取替え、延々と世界に存続するという、とびっきりの悪意を秘めた怪物。


何代目かの主が改変した結果そうなったのか、それとも何かとびっきりに性質の悪い何かを飲み込んだ結果として、食中毒にでもなった結果こうなったのか。
それは既に誰にも判らないし、わかろうとも思わない下らない事柄である。今更知ったところで不滅の闇の書の転生システムをどうにか出切る訳でもないのだから。


しかし、だ。無駄だと知りつつも少し考えてみて欲しい。闇の書についてだ。
確かに闇の書の力は凄まじい。空間ごと無作為に全てを飲み込み、無限大に転生さえも可能な闇の書……だが、そのエネルギー源は何なのだろうか?
たかだが666ページ分の魔導師のリンカー・コア程度で、そこまで強大な力が出せるのだろうか?



そもそもの話、闇の書を改変した者は一体何故改変をしたのだろうか? 何を目指し、何の目的を持って元は健全な歩く図書館のような書物を大量殺戮破壊兵器に変えたのだろうか?




その全ての答えをトーマ・フィーニスは得た。得て、それでもなお、彼は闇の書の力を喜んで受けれいれた。

















黒い太陽、その球体を表す言葉としてはこの表現が一番しっくり来るであろう。
もしくは、形を持たない不定形の生物が卵の形に擬態していると言われても何となく納得できる。


そんな卵が先ほどまでトーマが立っていた場所に何気なくポツンと置いてあった。まるで彼が飲み込まれたように。


漆黒色のソレは、黒と紫を混ぜ合わせたような世にも不吉なオーラを放ち、周囲の空間をただその場にあるだけで歪ませ、汚染していく。
超級の魂と魔力、その身に内包したエネルギーの総量は既に計算することさえも馬鹿馬鹿しくなるほどに膨大。
それら全てがオルセアという世界を破壊するために、今、狂気と共に動き出そうとしている。



卵の表面に無数の皹が入り、断裂線より内に秘めた圧倒的な力が小さく、まるで星がガスを噴射するかの様に激しく吹き出し、周囲の魔力素を残忍に貪る。
何千万、何億、何兆、何京、天文学的な数で数えられる無数の魔力素、魔力の源が闇の書という極大の力圏の中に飲み込まれ、還元されているのだ。
既に闇の書全体が持つ力は管理局の定めた魔導師ランクなどでは推し量ることなど不可能であるだろう。




割れる。おぞましき異形を封じ込めた一種の檻が。砕ける。無尽蔵の悪意を秘めた獣を幽閉する牢獄が。
漏れ出るはありとあらゆる存在を根源から畏怖させるであろう程に濃厚な混沌
一体元はただのデバイスであったモノがどれほどの時間を経て変異すればこのようになるというのか。


異界、既にこの闇の球体の周囲はそう呼ぶに相応しいほどの変異を遂げていた。
轟々と燃え盛るイルミナドスを地獄と呼称するならば、この闇の圧倒的な気配と瘴気が覆う周囲はさながら邪神共の跋扈する異界といったところだろうか。
地獄など生易しい、そう言外に言わんばかりにこの“卵”は世界を醜く、何処までも人外の世界へと歪ませていた。
しかし、変化は緩やかに起こる。無数の皹が入った“卵”は緩慢な速度で、一つ一つの欠片を虚空に溶かし、その中に在る存在を顕にさせようとしている。




吹き荒れるは空間そのものが捻られ、圧縮され、不規則にストレスを与えられた時空のあげる悲鳴、即ち、極小規模の次元震動である。
余りにも巨大すぎる存在が生まれ落ちる弊害として、許容量を超えた力を受けてしまった世界が慟哭をあげているのだ。
極大の悪意が既に可視できるほどの渦を巻き、一点に収束し、幾重もの三角形の魔方陣、ベルカ式の魔法術式が“卵”を中心として取り囲む。
まるで邪神の誕生を祝う光景だ。元は闇の書はそんなものではなかったというのに。
万来の拍手喝采にも聞こえる無数の唸り声が周囲に響き渡り、新たなる闇の書の主の誕生を心の底から呪い、祝福し、新しい悲劇の幕開けを楽しんでいる。



閃光。全てを塗りつぶす黒い光が光を食いつぶし、広がった。
そして、生まれた。歴代最悪の闇の書の主が。世界を壊すことを絶対の救済と捉える“破界者”が。







───。





それは人の形をしていた。いや、魔人、もしくは怪人、または怪物とも言える人の姿をしたおぞましい化け物。
トーマ・フィーニスの姿をベースに、その身に超高密度のエネルギーで念入りに編みこまれた黒い、貴族服のようなバリアジャケットを纏っている。
漆黒色の王族のまとうような服は、所々に金で刺繍が贅沢に施され、決して嫌味ではない、静かな輝きを誇っていた。
彼が纏っているマントにも同様に闇の書の象徴である金色の十字架と、ベルカ式を表す三角形の陣が描かれている。


彼の髪の色も闇の書の覚醒と同時に、灰色とも白とも付かない色に変貌を遂げていた。


片手に握るは自らの身長とほぼ同じほどの大きさを持つ金色の杖、いや、これは槍にも見える。
3つの桜色の宝石を三角形の形に埋め込まれ、それを中心に複数の分離ユニットが取り付けられた特別なデバイス。
紛うことなき純金、それもただの金ではなく特殊な魔力を帯びた最高位の魔石で形作られたソレは独自の意思を持つコア・ユニットを3つほど内包した闇の書の主の武器であり王冠だ。




闇の書の王のみが持つことを許され、その力を行使することが可能な最強のロスト・ロギアのデバイスユニット。
もしくは、闇の書の防衛システムを具現化させた存在でもある。
その名を【カオス・レムレース】という。地球という惑星での古い言語で訳せばこれは【混沌の亡霊】という意味を持つ単語だ。
当然、闇の書本体も彼の眼前に前と変わりなく浮遊を続けている。



グッとトーマ・フィーニスは自らの白い手袋を嵌めた手を強く握り締め、眺めた。調子を確かめるように何度も握り、開き、握り、開く。
パキパキと間接油が気泡を弾き、癖になる音を弾く。次に彼は自らの周囲に複数浮かぶ蒼い炎の塊を見た。
一つ一つが意思を持っているかのようにソレらはトーマの視界に入るたびに、まるで傅くように揺れる。


次いでトーマは周囲を見渡し、大きく深呼吸をし、言葉を紡ぐ。新たなる闇の書の王としての第一声を彼は吐き出した。
無尽蔵に響き渡る体内での怨嗟の声らに彼は声を掛けたのだ。新たなる同胞の招待に歓喜せよという意思をのせて。





「じゃあ、始めようか」




杖を、武器である【カオス・レムレース】を爆発と崩壊を繰り返すイルミナドスの市街地へと向ける。
正確にはトーマは腕はおろか、指さえも動かしていない。トーマがそう願っただけで、かのデバイスは、一人で浮き、その穂先を彼の意思の先へと向けたのだ。



杖の周囲にエネルギーの収束される不気味な空間の唸りと共に幾つも展開されるのはベルカ式の三角形を基本とした黒紫色の魔方陣。
黒い稲妻を纏い、3つのコア・ユニットが不気味に、生物が瞬きをするように点滅を繰り返し、それは圧倒的なまでの力の収束を行う。
刹那の後に生み出されるは余りにも馬鹿馬鹿しい威力を秘めた漆黒の球体の数々。
不揃いな大きさのソレらは一撃一撃がシグナムが全力で放つ【飛竜一閃】を軽々と上回る力を秘めているという狂気の産物たち。



薄気味悪く発光する闇の書が大きく、力強く鼓動し【カオス・レムレース】に闇の書から力を流していく。
それに答えるように【カオス・レムレース】に植え込まれた三つのコア、もしくはマテリアルとも呼称される闇の書の防衛プログラムを構築する重要な要素が輝く。

“王” “理” “力” その全てが新しき支配者に忠を尽くし、破壊を求める閃光をあげた。


人間がもしもこんなものを浴びてしまえば、恐らくは原子よりも細かく分解され、存在の痕跡さえも残らないだろう。
狂える闇の書の王、その裁きである。





【インサニティ・インヴィティション】




【カオス・レムレース】の先端と、その周囲が漆黒の光を噴きちらし、夜天よりもなお黒く、全てを塗りつぶし犯し尽くし、極光の光が解き放たれた。
絶望という言葉を三次元世界で顕現させたかの様な色彩を放つ光たちは亜光速にも匹敵する速度で飛来し、一瞬という時間よりも遥かに速く市街地に到達。


光が、捻れる。黒禍の到来を称えるか如く、黒い重力崩壊の余波により光と時空が捻れ、一瞬、イルミナドスの市街地は蜃気楼の様におぼろげに“ぶれ”た。
同時に歪んだ空間は伸びきったゴムが元に戻るかのように凄まじい破壊の意思と共に破裂し、ありとあらゆる存在を黒い穴の中に引きずり込んでいく。
岩盤が、地殻が、業火が、人間が、車両が、建物が、この世に存在するであろう物質の全てが地上に生み出された特異点という穴へと向けて落ちていく。


最後に白い渦を巻いて大量の気体が冥府の底に引きずり込まれ、イルミナドスの街は先ほどまでの喧騒が嘘の様に一切の音が掻き消え、恐ろしいまでに静かになる。
いや、イルミナドスの街が静かになるという言い方は誤解を招くだろう、この言い方では、まるでまだあの悪夢を塗り固めたような地獄絵図が存在するかのようになってしまう。



何故ならば、既にイルミナドスは、なくなっているのだから。残るのは、物理法則を歪められ、空間ごと粉々に打ち砕かれたかつて街であった場所。
イルミナドスの市街地は完全に底が見えない程に巨大で広大なクレーターとなっていた。
重力の法則が破壊され、幾つもの岩や都市の残骸が無数に幽鬼の如く浮遊する光景は不気味であり、何処か魔性の気配を放っている。



闇の書の王が、過剰とも言えるほどの動きを持って、両手を高く掲げ、まるで天の神様に祈るようにその両手を強く握り締めた。
吹き飛んだ町の残骸に、そこに住んでいた住人達に、そしてそこで消滅してしまった自らの守護騎士たちにトーマ・フィーニスは語りかけ、許しを請うように、彼は高らかに言葉を紡ぐ。
彼の放つ言葉には一点の悪意もない。何処までも誰かの為に、何かをしよう、僕にできることをしよう、そういう悪魔染みた正義感のみがあった。




「悲しいことばっかりの世界も今日でおーわーりー♪ こんな悲しい思いばっかりさせる世界なんて、なくなってしまえばいいよね?」





だから、僕がやってあげる。天国は既に見つけたのだから。
後は皆をそこに招待すればいい。


ガラスの割れるような音と共に守護騎士達が展開していた結界が崩れ、空間の位相が正常になり、イルミナドスは隔離から開放された。
しかし、幾ら隔離から開放されたと言ってももう遅いのだが。イルミナドスは無くなってしまったのだから。
だが、空間に薄っすらと掛かっていた紫の成分が消えたのはトーマにとって嬉しいことであった。
やっぱりお月見は、ちゃんとした色彩で見なければ意味は無い。




組んでいた両手を広げ、今度は抱擁でもするかのように大きく両腕を広げ、トーマにだけ見える何かを強く、強く抱きしめた。
黒い太陽を連想させる一点の曇りも無い素晴らしい笑顔を顔に貼り付け、歪んだ眼光をイルミナドスだった場所に向ける。
そして、最後に彼はその視線を遥か上空に浮かぶ月へと向けた。まるで何者かを待っているかの様にそのまま月を注視。



月が、歪んだ。無数の断裂線が夜天に走り、幾重もの境界線が天に刻まれ、世界が音を立てて軋む。
これは散々にシグナムを嬲った完全空間潜行、つまりは一種の異相次元、歪曲空間の展開と、その出口の“門”の創造。つまり……。


到来するは、今のトーマ・フィーニスと同等、あるいは上回るほどの巨大にして強大極まりない存在。
その予兆として、そのあまりの存在の大きさに世界が悲鳴を上げているのだ。
僅かに開き始めた空間の隙間より流れ出てくる思念は怒り、それも全てを焼いてやると言わんばかりに雄雄しく、おぞましい憎悪。
闇の書の影響で人間の感情の機微を敏感に察することが可能となったトーマが最初に感じたのはソレだった。





何となくではあるが、トーマはこの憎悪を割れんばかりに飛ばしている存在と、友達になることが出来そうだ、と思った。
本当に訳が判らないが、理屈ではなく本能で思ったのだ。何か自分と似ていると。


時間が一秒一秒進むにつれ、歪曲が酷くなり、遂に月の全景は砕けたガラス細工の様に無茶苦茶になってしまい、本当にあれは美しい月なのかと疑いたくなる程に月は朧気になる。
まるで夢の中の世界、御伽噺やどこぞの神話の中での光景のようだが、コレは全て現実であり、夢などではない。



空間の歪曲が一定の安定を誇り、異相空間との“門”が生み出され、想像を絶する質量の物体が、自らの意思を持って次元境界を引き千切り、こちらの世界へと凱旋を果たす。
それは巨大な漆黒のサメであった。その体躯は20メートル以上にもなり、強固な装甲ともはや一つの生命とさえ言えるほどの高度な知能を宿した半身機械、半身生身の兵器。
圧倒的な敵意と存在感、そして何処までも無機質な殺意と共に夜天の空を泳ぐのは、ガンエデンの僕、クストースが一つ、ラー・ケレン。



しかし、トーマはケレンを見ていなかった。この機械仕掛けの怪物は彼にとって確かに珍しく、興味を引く存在ではあるが、今はそんなことよりも……。
トーマの視線と意識、興味はケレンの頭部、正確にはそこに腰掛けている人物に全てが向けられている。
漆黒の貴族服を纏うトーマとは正反対に、純白の豪奢な衣服を身につけた金髪の少年。よく見れば彼の服は、ほんの僅かだけ、裾の部分が焼け焦げている。
剣の騎士、シグナムが命を掛けて彼に与えた衝撃は、霊帝ルアフの服をほんの少しだけ焦がすという快挙を成し遂げていた。



ルアフは怒りに燃えている。虫けらと蔑んだ劣等存在に服を汚され、挙句の果てに彼女は満足したまま逝ってしまったのだから。
もっと苦しませ、もっと絶望させ、泣き喚かせた挙句に、自ら殺してほしいというまで追い込む予定だったのに。
勝ち逃げも甚だしい。これはどうしようもなくルアフにとっては我慢できない事実だ。





「はじめまして、君はだーれ? 僕の名前はトーマ・フィーニスっていうんだ」




トーマが何時もの様に相も変わらず、淡々と中身のない友好の言葉をルアフへと飛ばし、友好的な関係を求めるかの様に手を差し出し、握手を請う。
ルアフは、そんな彼の行動などしったことじゃないと全身の態度で示し、トーマをつま先から頭の先まで舐めるように見渡し、次いで彼の杖と闇の書を見て鼻を鳴らした。
誰がどう見ても判るほどに嘲笑と蔑視が入り混じった、人を見下ろし、その命や意思などに興味などないと言わんばかりの視線がトーマに注がれる。



トーマに寄り添うように浮いている【闇の書】と【カオス・レムレース】
ルアフ自身は闇の書を直接見るのは初めてだが、何となく、それが自らの敵であると察し、トーマを見る目が確かに変わった。
即ち、単なる無力な虫ケラを見る目から、この身と、支配する世界を害する害虫に対する悪感情へと。



そして同時に彼の念道力は感知した。あの女とこの男は何か深い繋がりがあると。
それを知ったと同時に彼の抱いている苛立ちはトーマへとその矛先を変更する。




故にルアフの返答は言葉ではなく、速やかなる行動で行われた。
ニコニコと人懐っこい笑みを浮かべるトーマに人差し指を向け、玉座代わりに座っているクストースへと言語を使用しての指令を送る。




「殺せ」




クストースの動きは早かった。全身から例のシグナムを散々に焼き尽くした蒼炎の濁流を生み出し、ソレを適度な圧力を持って収束させ、一本の細い線として打ち出す。
原理としてはウォーターカッターのそれに近い。圧力さえ加えれば水だろうと大気だろうと、立派な兵器として扱えるのだ。
しかもこの場合は一度シグナムを真っ二つに切り裂いたエネルギーの剣である、生身のトーマが受ければ本来ならば細胞ごと綺麗に両断され、焼き滅ぼされることであろう。



だが、それはついさっきまでのトーマの場合だ。今のトーマは闇の書の主にして王、このオルセアという世界で今現在、最強の存在の一つである。




彼は笑った。
自分に向けられた無機質にして合理的な殺意と、霊帝の不機嫌さを具現化させたような攻撃を前にして、そよ風を心地よいと感じる人間の様に眼を細め、朗らかに笑ったのだ。
カオス・レムレースが主の心境を読み取り、不気味に魔力を帯びて輝く、黒く、黒く、全てを壊さんと。





「怖い、怖い、僕は名前を聞いただけなのに」




人と人の付き合いって難しい。意思の疎通の何と難解なことか。
目尻に涙を浮かべ、やれやれと首を振る。笑っているのに、泣いている、そんな可笑しな顔で彼は押し寄せるエネルギーの刃に片手を晒した。
闇の書が一人手に捲られ、一つの魔法を記した項目が晒される。発光、そして発動。闇の書の力の片鱗が、主に頭を垂れ、力を流す。




──羽ばたけ、主神の騎馬よ。



美しい女性の旋律によって詠唱は完了させられ、術は効果を発揮する。
黒い、沸騰する無数の二次元の泡が、彼の背に生み出された二つのベルカ式魔方陣より湧き上がる。




【スレイプ二ール】




発動されるは移動補助の魔法。飛行能力を術者に与え、自由に空を駆ける翼を生み出す能力。
だが、トーマの背に存在するのは果たして翼といえるのだろうか?


それは世にも恐ろしい猛禽類の翼の様であった。死神の纏う衣服と言う表現でもピッタリ来るであろう。


斑点のように一つ一つ大きさがバラバラの黒い泡。ソレらが無数にトーマの背から噴出し、巨大な鳥の翼を形作っている。
ゴボゴボと何やら湯が沸騰するような音と共に黒い二次元的な薄みの斑点らは勢い良く彼の後方へと噴出され、大きく羽ばたく。
羽毛ではなく、言語で表すのも難しい何かで作り出された翼は見かけとは打って変わって、素晴らしいまでの飛行能力を有しているらしく、トーマの姿は一瞬でその場から掻き消える。



純粋な飛行能力と【フェアーテ】の瞬間加速能力、この二つの特性を持つ【スレイプニール】は最上級の飛行魔法だ。
黒い閃光、飛び散った無数の黒泡が空間を汚染し、その軌跡を示す。蒼き破壊の線を縫うように黒い俊足の線が走った。
刹那の後、トーマはルアフの眼前に出現した。もう少し顔を近づければキスできそうなほどに近くに。



ルアフとトーマの視線が交差する。片や燃える火の様な真っ赤な目、片や凍土の氷の如き極寒の瞳、この二つが互いの姿をしっかりと目に焼きつける。





「君の名前はなんていうの?」





「…………ルアフ、霊帝ルアフ・ガンエデンさ……君は、君たちは本当に……」




霊帝という単語に一瞬、トーマの眼が彼の意識とは無関係に研ぎ澄まされた殺意と共に細められた。
手が無意識に震え、過剰に放出された黒い魔力がカオス・レムレースを満たしていく。
トーマは自らの腹の奥底から湧き上がる得たいの知れない何かを疑問視し、頭を竦めつつも、ルアフの言葉に返答を行った。




「本当に?」





一泊、全ての音が制止し、ルアフの声だけが虚しく、それでいて深く、暗く、響く。
子供が駄々を捏ねているようにも聞こえるし、歴戦の傭兵が殺意をむき出しにしたようにも聞こえる、そんな奇妙な声音であった。





「ムカつくね」




「そうかぁ……ルアフ君は僕の事が嫌いなんだぁ」




トーマが悲しそうに目を伏せ、肩を震わせる。ギシギシと握られたカオス・レムレースの柄が悲鳴にも聞こえる軋みをあげて泣き出す。
背から噴出す黒い翼が、より激しく、より恐ろしく、全てを塗りつぶさんと言わんばかりに激しさを増して吹き出、周囲の魔力素を根こそぎ汚染していく。




「は、ははははははははっはは………っ!!」




何故だろう? 何故僕は笑っているのだろう? 何故、こんなにも嬉しいのだ? ルアフ君とは初対面なのに。
まるで長らくあっていない、心の底から友情を確かめ合った親友と再会したかのようだ。



幾つもの疑問がトーマの脳内を乱雑に駆け巡り、そららの情報を理性的に処理し尽くすにはトーマの年齢は若すぎた。



しかしだ、そんな判らないことだらけの現状なトーマでも一つだけはっきりと理解できていることがある。
それは胸中から、腹の奥底から、そして人間の脳髄の中から吹き出るたった一つのシンプルな意思。
この世で最も強い原動力となるであろう強固な気持ち。黒く、煮えたぎったソレはこう叫んでいた。




霊帝ルアフ・ガンエデンを、一番最初に抹消せよ、と。




感情の名前は“憎悪” 闇の書の力で一番最初にルアフを天国に招待しようとトーマは考えたが、実際の所、彼は“復讐”しようとしていた。
あの日、世界を焼いた男。それだけではなく、スラムで必死に暮らしていた皆をわがまま一つで殺戮した男。
だがトーマは既にそれを理解できていない。本人は何処までも善意と思っている。




「会えて嬉しいよルアフ君、僕と、お友達になりませんか?」




笑顔。しかしいつもの中身のないモノではない。確かに中身のある屈託のない美しい年相応のかわいらしい微笑み。
僅かに開かれたトーマの眼の中には、隠しきれない程に暗い愉悦と、歓喜と、狂気が渦を巻いて荒波を引き起こしている。
ルアフは一瞬だけトーマの心をサイコドライバーとしての能力で覗き見、こみ上げてくる吐き気にその整った金色の眉を顰めた。




何なのだ? こいつは。 思考が滅茶苦茶だ。



カオス・レムレースが音を立てて分離し、4つの小さな槍の様な小型ユニットが展開。ソレらは獲物を求め、飛び交う肉食昆虫の如く飛翔。
その一つ一つがベルカ式の砲撃魔方陣を生み出し、そこに周囲から奪った魔力素と闇の書から供給される“闇の書の原動力”が注がれていく。
ありとあらゆる全方位からルアフは狙われていることになる。口では友達になろうといいながらも、行動は明らかな殺意に基づいたものだ。






ルアフは念道フィールドを展開しようとし、何気なくトーマの傍らに浮いている闇の書を見た。




見て、このイルミナドスに訪れ、そして受けた最大級の衝撃にその整った顔を大きく歪める。




「!っ  馬鹿な……その力は……!!」





サイコドライバー、最強の念道力の保持者。ルアフは闇の書からカオス・レムレースに流れ込んでいく力を念道力で“見て”愕然とした。
物事の本質を、どういった原理なのか、何なのかを全て判る全知の神にも等しい彼が衝撃を受けたのだ。
そして闇の書をもう一度念道力で“観察”し、更に驚嘆の感情を覚えた。



周囲のカオス・レムレースの分離ユニットの光が更に強くなる。だが、それでもルアフはあまりのショックにより、動けなくなっていた。
無理も無い。何故ならば、この念道力が伝える情報が正しければ……あの【闇の書】から感じた力の性質は……。






「ヒドラ……!」




紛れもない、あの灰銀色の邪神の力とほぼ同質の力。
規模こそ違えど、おぞましきモノに変わりは無い力。


闇の書から感じるのは、あの日、そう、オルセア解放戦線を潰すときに念道力を開放し、その際にヒドラの後ろに見えた存在と同質の力だった。
あの燃える三眼、あの全てを嘲笑う白い裂けた口の様な亀裂。その全ては永遠に忘れることなど出来ないだろう。



閃光が瞬間的に膨らみ、新たなる【インサニティ・インヴィティション】が放たれ、ルアフの周囲を漆黒の光が覆い尽くす。
夜よりもなお暗き、人の深層心理そのものを形にした様な純黒の閃光をルアフは何処か呆然とした頭で見る。
そして夢から覚めた人間の様にハッと我に返り、慌ててケレンに命令を念道力で飛ばす。



ケレンの行動は素早い。
機械の頭脳が持つ常に冷静な思考はこの状況下での回避行動は効果が薄いという答えを瞬時にはじき出し、その身に備わった能力を用いての防御を行う。
全身から吹き出た蒼い奔流が、ルアフと黒禍の間に身を滑らせ、黒と蒼のせめぎあいが発生し、激烈な力同時の衝突によって発生した衝撃波がルアフの全身を強く撃ちつけた。



しかし、決定的な一撃は、絶対にルアフには入れさせない。絶対に。ケレンは既に自らの防御を考慮していない。
結果、流れ弾の様に飛び交う漆黒色の閃光はケレンの全身を強く削り、その屈強な装甲に皹を次々と入れていく。
シグナムに欠けさせられた背鰭の半分が吹き飛び、全身に施された金の装飾が抉れ、漆黒の装甲には紅い断裂線が入る。


全身からあげる金属の軋む音は、まるで悲鳴のようだ。



それでもケレンは全身から吹き出る蒼い力を全てルアフを守ることに行使していた。
自らの怪我など関係ない。主さえ守れればいい。この身などどうでもいい。
まるで母親が息子を抱きしめ守るようにケレンは力を使っている。




永遠とも思えるせめぎあいが終わり、後に残ったのは無傷のルアフと体のいたるところに傷を作りながらも平然と稼動を続けるケレン。
ケレンの全身からはいまだ蒼い炎が陽炎のように放出されており、それはまるで出血のようにも見える。


そしてその両者を物珍しそうに見るトーマであった。


役目を終えたカオス・レムレースの分離ユニットが物凄い速度で本体の杖と合体し、闇の書の主の武器は本来の形状へと戻る。
トーマの周囲に浮かぶ複数の蒼い球から、嘲りとも付かぬ笑い声が吐き出され、霊帝を惨めな気分へと叩き落とす。



笑うな。笑うな、何がおかしい? この不愉快極まりない奴らめ。




「凄いいいペットを飼っているんだね」




たった今、明らかに殺意に満ちた攻撃を行ったというのにトーマの顔からは笑顔が絶えることはない。
その顔を見て、ルアフの額に青線が走った。
既に不機嫌と言う領域など超えて、明確な、死んだ星のような凍りついた殺意と共に霊帝はトーマを見やる。



決めた。こいつは僕自身の手で殺してやる。完全に、完膚なきまでに。
ルアフという存在の奥底から湧き上がる莫大な力が殲滅の意と共に激しく燃え盛り征く。





「ケレン、下がれ。お前は先にマリアージュ、トレディア達と共に霊帝宮に戻っていろ。そして霊帝宮、バラルの園の警戒レベルを最上級に引き上げておけ」




一瞬だけケレンの光学センサーがルアフを見やり、次いでケレンの量子の頭脳は主からの命令を飲み込み、噛み砕く。
つまり、撤退命令を下されたという事に一瞬で思い至る。
ケレンに人間の心は無い。この守護獣にあるのはただひたすら主の命令に従い、その身を守るという唯一絶対の最上級の目的。
その点では、ラー・ケレンを始めとするクストースらとヴォルケンリッターに大した違いはないのかもしれない。



ケレンは一切の躊躇いを見せることなく、歪曲空間を展開しその中に巨体を潜り込ませていく。
ほんの数秒間の出来事ではあるが、隙だらけのルアフをトーマは攻撃もせず、何かを楽しんでいるかのように見つめているだけであった。




「待たせたね」



「いや、それほどでもないよ」




完全にケレンの姿が掻き消え、かつてイルミナドス地方と呼ばれた場所に佇むのは二人の少年だけ。
ルアフは口の端を僅かに歪ませ、皮肉気に笑う。そしてトーマは満面の笑顔で笑う。
外見だけは全く違う笑顔だというのに、そこから感じるプレッシャー、悪意、そして殺意は伯仲するほどに禍々しきモノである。




先手は霊帝からであった。先ほどイルミナドスに居た彼に送られた黒い光に対するお返しの意を込めて動く。
圧倒的な念道力の衝撃波、幾重にも重なった空間の壁によってトーマを弾き飛ばす。



黒い黒禍の翼を羽ばたかさせ、トーマは余裕の笑みを崩さずに瞬時にルアフから距離を取り、相変わらず様子見の態度を崩さずにルアフを観察。
何をしてくれるのだろうか? トーマの顔にはサーカスに憧れる子供の如き笑顔が張り付き、ルアフを不気味に輝く瞳で見つめている。




いいだろう。なるほど、テストとはこういう事だったのか。
ヒドラと同質の力。素晴らしい、叩き潰すのに躊躇などいらないというわけだ。



ルアフが緩慢な動作で手を掲げ、何かグラスでも握るかのように指を丸める。
念道力によって空間を隔離、正方形の形をした50メートル四方程度の空間を圧縮し、一つの小さな小さな独立した世界を掌の内に創造。
詳しい原理などルアフにはわからないが、何となくのイメージで彼は一つの物体を創造しようとしていた。
圧縮、圧縮、空間を圧縮し、その内部に無尽蔵に存在する水素原子などの存在を読み取り、それらを無理やり念道力を用いて高速で衝突させ、反応を引き出す。




刹那の後、光が暴れ狂うように弾けた。正しくそれは世界開闢の光、世界を焼き尽くす炎でもある。




光。惑星の誕生と共に輝く開闢の極光の塊が霊帝の掌の上に生み出され、ルアフによってビー玉の様にソレはころころと転がされる。
凄まじい熱量を誇るビー玉という名前の小さな太陽をルアフは満足気に見やり、神というよりは悪魔と呼んだ方がしっくりくるであろう歪な笑顔を浮かべた。



成功だ。




知識としてルアフが霊帝宮の中で学んだもの。兵器関連の技術にあったもの。
イメージ映像を見て、簡単な原理さえわかれば全ての過程や、科学的な原理など破綻させ、念道力は結果だけを持ってくることが可能である。
コレは世界の人類が産みだした史上最悪の破壊兵器。やがては世界を終わらせるであろうとさえ言われた兵器の一つ。
あまりの威力と後片付けの面倒さからオルセアのかつての国家でさえも使用を躊躇った最悪の剣。





それは“熱かい悩む神の焔”



全てを等しく飲み込み、善も悪も平等に抹消せしめる神の炎。
ヒュードラが戦争を終わらせなければやがては世界さえも焼いたであろう愚者共の旗印。



人類という愚者の集団の象徴。



その名を核兵器と言う。






「人には過ぎた炎、君への選別さ」





絶対の破滅を手に、霊帝は嘲笑う。
楽しそうに高揚し、歯をむき出しにした獣の様な笑顔で彼はトーマ・フィーニスへとお別れの言葉を紡ぐ。
さよなら。さよなら。本当に君は腹ただしい存在だった。




霊帝の意思と共に、念動力によって隔離されていた空間が開放され、その中に閉じ込められていたエネルギーが全てを塗りつぶし、膨れ上がった。








煮えたぎる混沌の核が、炸裂した。





太陽が、堕ちた。莫大な熱量を誇る光塊のエネルギーが、空間を焼きながら流出する。
天に存在し、全ての生命に温もりを与える優しき母星は今や、殺戮の兵器として生み出され、その熱波は地上を瞬く間になぎ払う。
光が弾け、夜天が消え、擬似的な夜明けが齎され、僅かに残ったイルミナドスの残骸の尽くが蒸発し、影だけを地上に焼き尽くし、滅ぶ。









しかし、だ。星が産み出され、破滅の鉄槌として弾かれる光景を見てもなお、トーマ・フィーニスの笑顔は崩れない。
既に可視することさえも可能な熱の“壁”と“嵐”そして“断層”を見つめ、彼は不敵に、道化師の如く笑う。
常人が見れば眼球を焼かれるであろう圧倒的な閃光を彼は平然と見つめている。




「これが本当の“火葬”パーティってやつかな?」




自分で言った言葉は酷く彼の壺に嵌ったのだろう。堪えきれないようにお腹を抱え、クスクスと笑い転げる。
カオス・レムレースを落とさないようにしっかりと手で握り、彼は心底面白そうに笑う。



笑いながらも、彼は一つの術を発動させていた。闇の書が捲られ、新たなる術の発動の準備が整う。




胸元に騎士の様に黄金の杖を抱え、彼は魔力を注ぐ。既に気力は十分、道化た態度を取っていたとしても、彼は負けるつもりなどない。
一つは闇の書が、そしてもう一つはトーマの操るカオス・レムレースが、二つの最強にして最狂のデバイスは同時に魔法を発動させる。
幾つもの、それこそパイの生地のように何百もの巨大なベルカ式魔法陣がトーマを中心に彼を取り囲むように出現し、それらは一つの帯びの様に繋がる。
グルグルグルグル、風車の如く回転をしたそれらは一つ一つがオーバーSの魔力を秘めた魔法の発動媒体にして、空間へ干渉を行う触媒でも在る。



生み出されたのは二つの小さな黒い泡。しかし、トーマの翼として生えている二次元的なものではなく、確かなる密度と質量を持った黒い、ナニカ。





【Dメール・シュトローム】




【デアボリック・エミッション】




──この世の全てよ、闇へ染まれ。



──飲み込め。



美しい女性の声による妙なるしらべ、詠唱。極楽の世界を称える詩を謳うようにその声は核の炎の轟音と業火の前でも透き通り、聞こえた。



一つは虚数と繋ぐ穴を生み出し、全てを無へと飲み込むブラックホール。
そしてもう片方の術は肥大化し、全てをその身へと落とす地上に顕現する巨大な暗黒の球体。


光輝く太陽を否定するように、地上に輝かない太陽が現出する。それはまるで、日食を受けた日の如く、全てを闇に変貌させる仄暗さと共に。



最初に発動を完了したのは暗黒の球体を創造する魔法。
急速に世界の色と言う色を黒く染め上げ、全方向に肥大化を続ける暗黒の球体が迫り来る焦熱の壁とぶつかった。
岩盤を蒸発させ、三次元の物理法則によって成り立つ物質ならばほぼ全ての存在を気化させ、プラズマ状態にまで変化させることが出来るであろう純粋な熱の壁と
世の物理法則を無視し、ありとあらゆる法則を破綻させる魔力素によって産み出された暗黒が激しくせめぎ合う。



大気が焼ききれ、膨大の量の酸素と魔力素が消費され、幾つもの大気の流れが発生し、それは空気の大渦として激しく吹き荒れる。
永遠とも言える純粋なる暴力同士の拮抗、盤面は硬直の体をみせている。このままいけば、両者の秘める莫大な力が消えるまで続くであろう攻防。



しかし硬直を崩す一手はトーマによって盤上に落とされた。




“穴” それは正に黒い“穴”としか言いようが無い。世界に空いた巨大な穴。無限大に増幅する重力と“闇”によって顕現する異界の入り口。
この次元とは全く違う次元へと繋がり、別の法則によって成り立つ世界、虚数世界へと繋がる“穴”が闇の書により作られる。
次元の断層の発生を制御し、無限の広がりを誇る虚数次元へと続く回廊だ。




圧倒的な重力の渦が世界を満たした。光が捻れ、時間の進みさえも歪む。
重力レンズが形成され、星々の光が、熱風が、色さえもない暗黒の球体が、歪み、伸ばされ、飲まれていくのだ。
トーマの持つ恐怖と狂気と狂騒、そして湧き上がる底なしの憎悪を象徴する巨大な暗黒の門。



トーマを中心に生れ落ちた“穴”に太陽が飲み込まれていく。世界開明の光は、死んだ星に食われてしまっている。
全ての光を食いつぶし、口に合わなかった物質を中心部からガスとして猛烈に噴射した後、ようやく“穴”はこの世から消えてなくなった。



暴虐の過ぎた大地は悲惨。正にそういうに他ならない。
地面は大きく削り取られ、いまだに熔けた溶岩が残り、空は舞い上がった砂埃、土砂などで濁った黒で覆われている。
多量のゴミと放射能が混ざった黒い雨が降り注ぎ、ルアフとトーマの両者を塗らす。



刹那、二人の視線が交差し、同時に顔を歪め、嗤い合った。



両者には放射能など既に意味はない。ルアフは無意識に念道力を用いて中和し、トーマは既に人間のソレとは違う構造の身体になってしまっている。
トーマは攻撃の手を止めない。何故ならばルアフはいまだに無傷で健在なのだから。
湧き上がる衝動に逆らうことなく彼は闇の書の力を存分に引き出し、制御し、統率し、支配し、その全てを持ってルアフを殺そうと思考の限りを尽くす。




次の魔法は瞬時に作り出された。
冷然にして、圧倒的な殺意と共に。



闇の書とカオス・レムレースのコア・ユニットが強く輝き、トーマは二つのデバイスを用いて一つの巨大な術を発動せしめる。






【Dエミッション・ジェノサイドシフト】





現出するは桁外れの悪意と殺意の具象化。
決して逃がさぬ。殺す。滅ぼしてやる。どうしようもないほどに巨大で、純粋で、不純な破滅を約束する意思。




夜天を覆う濁った埃の霧が一瞬にして消えうせた。変わりに空に蓋をするのは夥しいまでの数のベルカ式魔方陣。
夜空に浮かぶ星の光達が見えぬほどの数の魔方陣が一斉に生産された。



先ほどとは桁違いの規模で重力が収束し、歪む。まるでケレンが歪曲空間を展開するように。
しかし、規模は、ケレンのそれが児戯に見えるほどに巨大にして壮大極まりなく、馬鹿馬鹿しいものだ。
天上の全てが黒紫に発光し、ビッシリと、細胞の様に無数の魔法陣が折り重なり、一つ一つに闇の書から力が流し込まれ強く発光を開始。


どうしようもなく不愉快、どうしようもなく奇怪、どうしようもないほどに圧巻の光景。その数、約六万五千五百三十五。
一つ一つが特殊な異相空間を作り、先ほど核の炎と拮抗した暗黒の球体を創造している。一撃一撃が【デアボリック・エミッション】なのだ。
巻き上がる瘴気、吹き出る殺意、叩き潰すという殲滅の意思、その全てがふんだんに盛り込まれた破壊の球体たち。





予想外の光景にルアフの眼が見開かれた。馬鹿な、こんな馬鹿な。
そんな彼の反応を見て、トーマがクスクスと腹を抱え、指を差し、満足気に笑う。





「じゃ、ばっはは~い♪」





トーマが凶悪に嗤う。哂う。一つ哂い、息を肺に取り込んで吐き出すたびに殺意が研ぎ澄まされ、殺気が濃厚になり、背から瘴気ともえいる黒泡を吹き出す。
嘲笑を飛ばし、腹を抱え、それでも眼だけは細められ、じぃっとルアフのいる場所から離さない。
片手に握られたカオス・レムレースが一度、大きく振られ、かくして魔法は発動する。




魔法とさえ呼ぶのも躊躇われる破壊の力が行使された。




閃光。次いでルアフが見たのは真っ黒い天井が凄まじい速度で墜落してくる光景。



夜天の空が、堕ちた。
天に座す目測さえ不可能な数の球体が音も無く落下し、地上を大きく抉る。



最初は一つ。この一つでさえ並の戦略兵器を凌駕し、街一つぐらいならば跡形も無くその暴虐の力によって消し飛ばす威力を誇る。
事実、この一撃はルアフの咄嗟に張った念道フィールドを大きく揺るがし、霊帝に苦悶の表情を浮かばせることに成功していた。
次いで、二、三、四、まるで夏のスコールの最初の雨粒の様に始めは数個
徐々にその数を増やし、最後は遠慮の欠片も無く大量の球体がルアフを中心にイルミナドス地方全域に満遍なく降り注ぐ。



山が消えうせ、湖が弾き飛び、森が丸ごと禍に飲まれ、それは地殻の底にあるマグマでさえも例外無く吸収する。
ジュースをストローで吸い上げる人間の様に、粘性を帯びた高熱の岩々が舞い上がり、渦を巻きながらも球体の中に圧縮されていく。



鼓膜を破壊する轟音と、視界を焼き去る閃光、そして物質を崩壊させる重力の奔流がイルミナドスを満たした。
ベルカ式魔法の空間魔法の殺戮的絨毯爆撃、既に過剰殺傷とさえ取られるであろう圧倒的力による蹂躙。
最後に全ての物質を飲み込み、原子単位で分解した黒い球体たちが無尽蔵の大気を最後の締めだと
言わんばかりに引きずり込み、中規模の次元震と共に着弾地点にあった全てを三次元から抹消する。



この瞬間、オルセアという惑星全土が揺れた。余りの力の発現によって。



後に残ったのは、一面真っ黒な世界。超大規模の空間魔法使用の弊害により、空間そのものが歪められ、重力の異常が発生してしまった結果だ。
もう永遠に、この土地には植生は回復しないだろうし、たとえ微生物だろうとも住むことも出来ないだろう。
そこに、霊帝の姿は無い。恐らくは、粉々になってしまったのだろう。ただの人間が超大な重力の圧縮と引き伸ばしに耐えられるわけが無いのだから。





超巨大な隕石が衝突した後の様な、何処までも、地平線の彼方まで延々と続く漆黒色のクレーターを見る。
膨大な量の大気が轟々とクレーターに流れ込み、それによって生じた突風がトーマの髪とマントを揺らす。




「─────」





さっきまでルアフのいた場所を見つめ、トーマはほぅっと溜め息を漏らす。
濡れそぼった、情事の後に感じる疲れを宿したような、憂鬱気な溜め息を。
ルアフは死んだ。その事実を理解すると、急速に胸の中で燃えていた何かが衰えていくのを彼は感じていた。



この倦怠感は何なのだろうか? 僕はまだやるべき事があるというのに。
もう一度大きく溜め息を吐き、ペシっと頬を強く叩き、気合を入れなおす。



そうだ、まだコレは始まりでしかないのだ。やるべき事はいっぱいある。



踵を返し、空間転移の魔法をトーマが発動させようとして……彼の研ぎ澄まされた第六感が警報を全力で警報を鳴らした。
脊髄反射の如く俊敏に振り替えり、先ほどまでルアフがいた場所を見る。




歪んだ空間、そこに一つ、皹が入っていた。
最初は眼を凝らさなければ判らなかったが、それは時間を経るにつれ、徐々に、僅かずつではあるが大きくなっていき、
やがては12角形の魔法陣、ベルカ式でもミッド式でもない光の輪がそこに無数に生み出される。




魔法か、もしくはソレに順ずる力によって空間のゲートが開かれ、そこから一つの特大の大きさを誇るモノがこちらの世界に侵入を開始。
世界の境界線が反転し、バリバリと空間がガラス細工の様に軽々と割れていく。
想像を絶する超級の存在が世界に入ってこようとして、世界が必死に拒絶の意思と共に空間を縮めようとするが“ソレ”はそんなもの意にも返さず悠々と世界に入ってくる。




一目では全景を見ることさえ叶わない“ソレ”をトーマは距離を取りつつ眺める。






「卵?」





“ソレ”を見たトーマの第一声にして感想はこれである。
白い卵、真っ白で、光り輝く“ソレ”は、神々しくも見える。全体の大きさは1キロにも匹敵するであろう球体だ。
だが、叩きつける様な敵意と重圧、そして隠しようも無い、否、隠す気もないであろうこの気配、その全てが自分はトーマの敵であると卵は全力で叫んでいた。




故にトーマはコレは何なのだろうと頭を傾げながらも躊躇無く殲滅行動に入る。
カオス・レムレースのコア・ユニットが輝き、詠唱を全てカット。膨大な魔力による空間干渉を開始、発動。
未だに核の熱が残り、沸騰している空間の冷却を開始。
空気中に存在する原子の振動に干渉し、熱振動の値を下げ、擬似的な絶対零度を再現するべく更に原子の振動を抑制。




周囲数キロの大気中の原子を制御し、支配する。



大気が激しくかき混ぜられ、冷風の渦が吹き荒れる。空気たちがゴゥッと叫びをあげた。
やがて生み出されるのは特大の大きさを誇る氷塊。大きさは卵とそう変わらないという規格外も極まりない巨大な質量の塊。
全景にキラキラと星々の輝きの如きダイアモンドダスト纏った巨大な氷の小島。





【ヘイムダル】





巨大という表現では生易しい程の氷塊に【フェアーテ】という物質を加速する魔法を付与させ、それを卵の上空から落下。
キィンと澄んだ金属質の音を啼かせ、小さな島程度の大きさもある物質が卵に直撃……しなかった。
不可視の念道フィールドによって生成された支配空間に触れるや否や、氷の小島はその輪郭を歪め、次いで内圧に耐え切れないかのように粉々に爆音を鳴らし、破裂する。




だが、まだだ。これぐらいは防ぐだろう。まだ予想通りだ。
トーマは衰えていた胸中の戦意が再度燃え上がってくるのを嬉しく思いながらカオス・レムレースを小さく振る。
【ヘイムダル】再氷結。更には大気を補充。単発の威力を落とす代わりに効果範囲とターゲットの捕捉数を劇的に増加。





【ヘイムダル・ファランクスシフト】





無数の、何万という数の氷塊が大気がかき混ぜられる産声と共にこの世に誕生、ソレら一つ一つが意思を持つかの如く卵に向け、特攻を開始。
魔法の力で音速を超えた氷塊らは、その質量と速度が持つ力だけを頼りに卵へと質量爆撃を行う。
磨きぬかれた宝石の如く透き通った色彩の流星が純白の星へと攻撃を行う様は神話の一つに見えるほどに美しい光景ではある。




だが、全て、無駄だ。念道フィールドが展開された時点で、この程度の術では傷どころか、触れることさえ叶わない。
何万の氷塊が砕け、輝く霧となり辺りを漂う。結果として、コレは全くの時間の無駄であったといえるだろう。



トーマはようやく無駄なことをする愚を悟り、カオス・レムレースを下ろした。とりあえずは状況を見守るために。




卵に皹が入る。皹から眩い純白の光が零れ、暖かい、それこそ祝福の輝きが漆黒のイルミナドスを包むように満たす。
現れるは、4対8枚の翼を持つ、巨大な神像。世界そのものを包み込み、押しつぶすような、超絶とした威圧感を持つ存在。
後光の様に神像から煌々とした光が放たれ、それはこの巨大な芸術品に光輪の如き装飾を加える。





───オォオオオオオオオオオオ





世界に、神像の声無き福音が轟いた。まるで祝詞のように、まるで怨嗟の声のように、神像は高らかに謳う。
広大な、精練とした純白の翼が大きく広がり、穢れ無き白き羽毛が雪の様に舞い散る。
花弁の様に白亜の翼を展開する台座に鎮座するのは、筋骨隆々の逞しき闘神の像。
正に完璧に鍛えぬから、無駄の一切無い完全な筋肉美を誇る理想の男性像。




その存在感、正に圧倒的。これに比べれば、クストースなど、ただの泣き喚く子犬にも等しい。
内包せしめし力は惑星はおろか、次元さえも軽々と砕くほどに神話然としたもの。
全長1キロにも及ぶ、とてつもない威容を誇る究極なる芸術を体現した神像。




オルセア帝国の誇る最強にして最高の機動兵器、オルセアの守護神。




全帝国軍の中枢にして、支配者。






【ゲベル・ガンエデン】の降臨であった。






全てを圧する威容を誇るガンエデンから声が放たれる。
念話で、通常音声で、思念で、ありとあらゆる媒体を通して。
外見とは気味が悪いほどに不一致な声。幾重にもエコーの掛かった、少年の声だ。






『悪いけど、僕はまだ死んではいないよ。神は永遠に不滅なのさ……光栄に想いなよ、君は、僕がガンエデンを用いて排除する最初の存在だ』




そして最後でもある。これで、このつまらない劇は終わりなのだ。ヒドラの遊びに付き合わされるのはもうこりごりだ。
今までの戦いは、戦いでさえなかったのだ、と霊帝は言外に告げる。
これからだ、まだ戦いは始まってさえいないのだと。




「………」




トーマがガンエデンをしげしげと眺め、自らの頬に手をやる。
次いで、自らの手と、付き従うように浮いているカオス・レムレースと闇の書を見る。
最後にガンエデンに視線を戻し、彼は一つの事実に思い至った。



全身を構築する細胞の隅々まで震える程の威圧感と重圧、恐ろしいまでに優れた兵器が発する死の気配、そして隔絶し過ぎた存在が放つ神々しさ。
その全てを内包するガンエデンを、恋に侵された様にじっくりと眺め、判ったことが一つある。




このままでは、勝てない、と。




だが、負けるつもりもない。負けてなんかやるものか。絶対に。




ならば、どうする?
そんなこと、決まっている。勝てるようになればいいのだ。手は、ある。
少しだけ、時間が掛かるのが問題だが。



トーマの真紅の眼が、燃え上がり始めた。怒り、苦しみ、嘆き、激しく負の感情を渦巻かせ、それはどす黒い太陽の様に燃焼を始める。
そんな怪物の、太陽の眼がルアフを見つめ、隠すようにニッコリと形作られた笑みによって細められた。




「……ルアフ君、君は僕の闇の書について、どれぐらい知っているの?」





ポツリ、唐突に語りを始めたトーマにルアフはガンエデンの内部にて眉を顰める。
まぁ、もう間もなく死ぬ存在の戯言だ。聞いてやるのも吝かではないだろう。
神は寛大でなければならないのである。


何故ならば、自分は何をされても負けるはずなどないのだから。
それは強者の傲慢にして、全てを見下す神の余裕だ。




ガンエデンの内部からの鋭い視線が、言葉もなく浮遊する闇の書に向けられた




『“闇の書”? あぁ、その古びた本のことかな? 何かの強力な……』




言葉を一瞬切る。脳裏に浮かぶのはヒドラの背後のアレと同質の力。あの関わりたくない存在。
念道力を以ってしても、底の読めない存在の持つ絶対的な力、この身を死から回帰させた力でもある。





『“アイテム”とでも言ったところじゃないのかな?』





「正解。じゃぁ、何でこの“闇の書”が産まれたのか、何を原動力にしているか、教えてあげるよ。その程度の時間ぐらいは欲しいなぁ」



トーマがいとおしそうに闇の書の表紙に飾られる金十字を撫でた。


原動力? つまりは、車にはガソリンが必要な様に、闇の書も何らかの力で動いているということか。魔力とやらではないのか?
そして、それとほとんど同質の力を、あの存在も持っているということ。
ということは、だ。この説明は自分にも利があるという事になる。何故ならばあの存在について、何かわかるかもしれないから。



簡潔に自分に対しての利益を見出したルアフは、強者の傲慢と、ガンエデンの絶対の力による自信に裏打ちされた思考で答えを出した。





『─────』






ガンエデンから放たれるプレッシャーが僅かに減少し、巨大な神像が音も無く、外見からは想像できないほどの俊敏さでトーマ・フィーニスより距離を取る。
蒼白く全身を発光させ、いつでも極大規模の閃光を放てる様にエネルギーをチャージ。すぐにでも戦闘を再開できるようにだ。




「話は直ぐに終わるから安心してよ、ルアフ君」




トーマがごほんと咳払いをして、口を動かし、簡潔に事実だけ、要点のみを高らかに宣言した。




「闇の書はね、元は普通の図書館みたいなデバイスだったんだ。でも、コレをベースに、とある世代の主は神様の力を作れるんじゃないかって思いついちゃったらしい」




『神様……いかにも君みたいな下種な奴らが考えそうなことだ。僕以外に神なんて居ないというのにさ』




君は相変わらずだねぇ、とトーマがクスクス笑い、彼は言葉を続ける。
まるで長年を連れ添った友人に語りかけるように彼は言う。






「でさ、闇の書を人工の神様の力を使う“鍵”にしようとした。
 原動力は人の強い意思……ソレは“蒐集”や暴走した闇の書に飲まれることによってその総数を、力を増やしていく」





つまり、と。トーマは一泊置いた。ガンエデンと真正面から向き合い、顔を傾げ、薄く笑う。
パキンと弾んだ音と共に、彼の顔に皹が入る。内圧に耐え切れない容器が粉砕する前に見せる全長の様に。





「闇の書の原動力は、ありとあらゆる存在の“魂”とそれの“意思”さ。闇の書は歩く天国なんだよ」





だから───闇の書は“仲間”を好む。
闇の書が暴走を開始すれば、全てを飲み込むのは死者達の悲痛な、仲間を求める叫びの表れなのだ。
そしてその神の力として集められた魂達は防衛プログラムという名称で闇の書の内部で渦を巻き続けている。
主以外の改変が不可能なのもそのためだ。彼らは自分たちへの干渉を酷く嫌う。




666ページ分の魔導師のリンカーコア蒐集などは元から闇の書が持っていた情報収集能力が闇の書の防衛プログラムによって歪められた結果の産物に過ぎない。
今や闇の書の本体は、その名が示すとおり、闇の書が内包する闇、防衛プログラムのほうなのだ。
無尽蔵に蓄えられた思念達は内部から闇の書を犯し、歪め、今や元の姿などないに等しい。
次元世界に寄生し、定期的に破滅を齎す闇の書の真相など、暴いてしまえばこんなものだ。



闇の書が不滅の理由もソレだ。まつろわぬ者の集合体を収める“器”たる闇の書は、三次元の物質であると同時に、彼らの不滅性も併せ持つのだから。
故に粉砕されたとしても、直ぐに再生、転生を繰り返す。


そして、その防衛プログラムは今までは過剰に活性化しないように、トーマ・フィーニスの並外れた精神力とマスターとしての権限で抑えられて“いた”




「今までは闇の書の防衛プログラムは僕が制御していたんだけど……」





ガラリと口調と声音、纏う気配までも変えてトーマは嗤う。既に時間は稼げた。その手に持つ、防衛プログラムの象徴とでも言うべき杖の表面を撫でやる。
カオス・レムレースを格好をつけるようにクルリと一回転させ、闇の書をしっかりとその手で掴む。
既にこの肉体の崩壊は始まっている。

リミッターを外された防衛プログラムは過剰なまでに活性化をし、今にもトーマという器を突き破りそうだ。





そうか、そうか、そんなにも新しい仲間を天国に加えるのが嬉しいのか。
全身に走る激痛を心地よく思いながら、彼は笑みの陰を深めた。






「もう、その必要はなくなっちゃった」





『…………』




話は終わったと判断したガンエデンがその8枚の白翼を大きく広げ、
一撃で都市を蒸発させ、地平線の彼方までを容易く焼き尽くす光を放つべく、大きく狂喜の声を上げる。
受ければトーマの消滅は必須の一撃、彼が居たという証さえも残さずに滅し尽くす破壊の断罪。



寸前にまで迫った死を前にトーマは首を傾げ、肩を揺らす。




震えている? 違う、違う、断じて否。楽しんでいるのだ。今までは意図的に抑えてきた防衛プログラムの開放。
その結果、どうなるのだろうか? この巨大なガンエデンをどうやって倒そうか? 
そして、皆で天国に行ったら、そこにいる家族や守護騎士らとどういう風に過ごそうか。
母が居て、父が居て、友達もいる。シグナムが、ザフィーラが、ヴィータにシャマル、そして闇の書の中に居た名も無き彼女、全員でどうやって過ごそう?




もちろん、そこにはルアフ君も加えよう。彼とは、少し話しただけだが気が合いそうなんだ。




背から生える黒泡の翼の吹き出る勢いが激しくなる。熱烈に、激烈に、主さえも飲み込まんと。
呼応し、彼の全身に無数の皹が入り、もうこの肉体は限界に近いことを主に必死に伝えていた。



闇の書が主からの命令もなしに勝手に開かれ、そのページが激しい勢いと共に捲られ、一枚一枚のページが破れ、燃えあがり、そして黒い泡を吹き出す。
黒い泡がトーマと闇の書を飲み込んだ。何千もの泡が彼の全身を覆っていき、終いには人間と同サイズの黒く揺らぐ繭となる。
最後にルアフが見た彼の顔は、満面の笑顔であった。眼だけは嗤っていない、冷たい笑顔。




残念だけど、何かをさせるつもりはない。霊帝は容赦なく、裁きを下した。
煌く蒼白の閃光がガンエデンの翼より放出、それは一切の慈悲も無く繭を飲み込む。





【マヴェット・ゴスペル】




放たれた福音、それは絶対神の怒りがどれほどのものか、まざまざと感じさせるものである。
苦しむのは一瞬で済む……そんなことはつまらないか、ルアフは少々やりすぎてしまったと思い、少しだけ後悔の念に駆られた。
もっとあの余裕満面な笑顔をズタズタにしてやればよかった。




たった一条のそれは、眼球を焼くほどの輝きと共に繭を飲み込み……そして、内部から闇に染められた。黒く、黒く、邪悪に。
それは先ほど放たれた【デアボリック・エミッション】に酷似しているが、何かが違う。密度が、威圧感が、絶望が、込められた力が、その全てが出鱈目な領域だ。



何だ? まだ何かを残しているのか? いい加減に滅びろ。
苛立ちと共にルアフが念道力をガンエデンの力で増幅し、正確無比の生体センサーと化した彼は探知能力を広げ、トーマを探す。
人間の五感に、第六感を究極の域にまで敏感にさせ、周囲はおろか、惑星全土がルアフにとっての“視界”に入る領域になる。
それだけではない。聴覚、触覚、視覚、嗅覚、その全ての詳細な情報がルアフには一斉に流れ込むが、ガンエデンが情報を選別し、余計な事柄を全て淘汰。




結果、霊帝はトーマとの戦闘に完全に集中することが出来る。彼はその能力を未だに膨張を続ける球体の闇の繭へと向けた。
そして、余計なモノ全てをそぎ落とし、手元に入ってきたトーマの情報を認識したルアフが眼をまん丸に見開いた。




何だ、アレは?



視覚情報に飛び込んできたソレを見たルアフの感想はこれだった。
奇しくも、彼のこの感想はトーマがガンエデンを見た時に想ったことと酷似している。





巨大、全長100メートルはある異形。
全高はそこまででもないが、とにかく横に長い。まるで馬の様な体形をしていると言えばいい。
ソレはガンエデンとはほぼ全ての意味で正反対であった。纏う気配も、全体のデザインから生じる感想も、全てが。



ソレはとびっきりに最悪な悪夢の中でも遭遇は叶わぬであろう世にもおぞましき怪物の姿をしている。
例えていうならば、紫色のケンタウロスに騎士を跨がせさせればこんな感じになるのだろうか。



但し、ケンタウロスの頭部の部分は人間の上半身ではなく巨大な獅子の上半身になっており、その身体を辿っていくと大口を開いた毒々しい大蛇が見える。
大蛇の口の中からケンタウロスの身体が生えているのだ。蛇の口からは手綱の如き図太い紫のパイプが何本も伸び、それは獅子の内部へと食い込み、がっちりと捕まえていた。
時々パイプが光っているのは、何かの力を獅子に送っているからなのだろう。



力強い蛇の肉体の後部から獅子の後ろ足が生え、しっかりとソレ獅子上半身のあるべき場所についている前足と共に空間を踏みしめている。
大口を開け、紫色の毒々しい液体を垂らす大蛇の上顎辺りからは跨った騎士の胴体であるべき部分
そこには大悪魔の頭部を思わせる捻れた角を生やした山羊の顔が植え込まれていた。死んだ星のような、冷たい赤色の眼をした羊だ。
山羊は少しばかり前に屈むように存在しており、その後頭部に騎士の鎧兜を着込んだ人間らしき顔がある。



羊の角は捻れに捻れて傘の柄の様になっており、その真ん中に空いた穴からはユニコーンの角を想起させるであろう螺旋状に窪みのある槍が生えていた。
その槍の根元辺りから、ようやく人間の要素とも言える腕が生えてこそいるが、その先の掌はない。円筒状の腕の先からは直接白骨化した人間の指が三本だけある。
三本の指がしっかりと握るのは、トーマが使っていたデバイス、カオス・レムレースの姿はそのままに、巨大化させた槍にして杖。


怪物の周囲を飛び交うのは青白い炎たち。それらは一つ一つが耳障りな嘲笑いを発し、クルクルと黒色の繭の周囲を飛ぶ。



魔物。この一言でこの存在の全ては理解できるだろう。
ガンエデンと共通するのは叩き潰されるが如く重圧と威圧感。圧倒的という言葉さえも生ぬるいほどの超大なる力の波動。
人工の神の力を振るう“鍵”の完全なる姿。クストースの様に、生物的でありながらも、何処か無機質な存在。



──ばきん。



繭に皹が入る。まるでこの繭の構成物質はガラスのように。
そこから溢れ出すのは闇を超えた闇。かつてヒドラの後ろに感じた存在と同類の力がガスの様に、噴射される。
恐ろしく強大で、絶対的で、破滅を約束する力。






闇の繭が破れ、怪物がルアフが感じたそのままの異容を世界に晒す。
その体の複数の様々な頭部から、様々な呻き声を奏でながら。
ボタボタと下品に垂らされる怪物の涎は酸性なのだろう、ジュぅという何かが熔ける音がした。




カオス・レムレースから流しだされ、放出される力が空間を汚染し、世界を更に崩壊へと一歩近づける。



コレは神と呼ぶには余りにも混沌を象徴させた姿をしている。混沌の落とし子、古代の魔導師たちの神を夢見た悲願と理想と、狂気の表れ。
その力を宿した魔物が人工の神を滅ぼそうと狂気をむき出しにし、ガンエデンと対峙していた。



100メートルを超えるその身体も、ガンエデンと並べばまるで子供の様に小さい。




『──やぁ、やぁ、どうだい? 中々のものでしょ? かっこよさなら、ルアフ君のソレにも負けてないと想うよ?』




魔物には似合わない程に高く、低い、そんな矛盾しつつも合点が行く少年の声が怪物から高揚に満ちた声が念話として、そして空気の振動としてルアフに伝わる。
もはや人間の姿には永遠に戻れないトーマはそんな事さえも気にせずに歓喜に打ち震え、高らかに語る。


余りにも身の程知らずな発言にルアフの怒りのボルテージが、上がる。ふざけた事を抜かしたトーマへの怒りが。



ガンエデンと同じ、だと? その古今東西の醜いという存在を集合させ、ごった煮させたら産まれそうな怪物がか?
神と魔物を同一視するなど、何と言う罰当たりな奴なのだろうか、この虫ケラめ。



無言の返答、殺意のお返しとして、再度【マヴェット・ゴスペル】を放つ。翼が広げられ、蒼白の光が幾閃も飛ぶ。
神聖なる清浄の光、淡い輝きを持ちながらも、爆発的な力を秘めたソレは小惑星程度ならば微塵に消滅させる威力を持つ。
空間を先ほどの核を遥かに越える熱量を以って沸騰させ、光は征く。




甲高い、金属が熱によって引き伸ばされていく様な不気味な音が悲鳴の様になった。
ソレは魔物の周囲に張り巡らされていたエネルギー・フィールドを暴力が引き裂く音。
一瞬にしてガンエデンの攻撃は魔物の4重にも及ぶ防御フィールドを打ち抜き、その本体を顕にさせたのだ。





白亜の閃光が産まれたばかりの魔物を捕らえ、その異形を真正面から思いっきり焼き、装甲を蒸発させ、獅子が、蛇が、山羊が醜い悲鳴を上げる。
垂れ流されていた涎が気化し、闇の書の闇が焼かれていく。
もがく様に宙に手を伸ばし、杖を離した魔物の体がバラバラに裂け、崩れる。
全身のいたるところからスパークを吐き出し、血の様に黒い魔力を垂れ流しながら分解。





やがては大きく数回内部から大爆発を起こし、跡形も無く消滅。



呆気ない。
随分と呆気ない、拍子抜けしてしまいそうになるが、ルアフは気を緩めない。まだだ、まだ何か残しているはずだ。
それも、とっておきに質の悪い切り札を。



事実、念道力はまだ終わっていないと呟いている。
そして、その感は悪い意味で当たっていた。




















『凄い威力だね。怖いよ』
















トーマの、声だ。酷くエコーが掛かってこそいるが、言葉の意味そのものは判る特徴的な声。
それは右から聞こえた。







『本当、その神像は凄いねー』







再度声が響く、狂気と関心に満ちた声、視線を左から感じる。
熱っぽく、粘性を帯びた、人を不愉快にさせる視線を。





『でも、僕も物凄いのさ』







自信と自負に満ちた声。まるで子供が親に自らの作品と偉業を誇るかのような、純粋無垢な印象の声音。
それが背後から聞こえた。



そして、最後に。








『どう? 驚いた?』




『…………』





真正面から、先ほど粉砕したはずの魔物が語りかけてきていた。その姿には傷一つ無い、いつの間に再生したのだろうか?
グルッとルアフが自分を中心に視界360度全方位の情報を取り込み、鼻を鳴らした。何とつまらない手品なんだ。
視界に捉えるのは4体の魔物。そのどれもが同じ姿、同じ威圧感、同じ杖を握り、同じ声で話しかけてくる。




防衛プログラムを構築する3つのマテリアルに人格と能力と力をコピーし、振り分ける。
本体のトーマと併せて、合計4体の同等、互角にして、完全同位存在が生まれたのだ。
物質としては別れているが、根底は完全に闇の書の防衛プログラムとして繋がっている魔物たちはその実、一つの生物と言える。
一体でも残っていれば、防衛プログラムの異常なまでの再生&転生機能をその場で発動させ、復活することさえも可能な、死さえも征服した存在。




闇の書の力の、ちょっとした応用であった。




4体の魔物がその白骨化した指を器用に用いて杖を振りかぶり、その矛先をしっかりとガンエデンに向ける。
それぞれのコア・ユニットが輝き、ガンエデンの周囲を10を越える光が満たした。
魔物の大きさ相応の特大のベルカ式魔方陣が展開、杖の先端の両面に生まれたソレは更に細かく分離し、4つになった。
分離ユニットが展開。4つの魔方陣の上に乗り、魔力を分け与えられる。



魔方陣が最初は緩やかに徐々に回転数を上げ、最後には目視出来ない程の回転速度になった瞬間、4つの分離ユニットが飛翔した。
多量の魔力と純粋なる力を与えられたソレは超音速さえも遥かに置き去りにした速度で飛び、既にオルセアという惑星の重力から脱出するほどの速度を記録。



もはやソレは目視が叶わない速度だ。音などよりも遥かに速く、恐らくは地上ではありえない速度。
だが、ガンエデンはそれらを完全に捉えていた。捉え、どのような機動を取り、どのように自らを害するかまでを理解し、尚且つ対応さえ行う。
第二宇宙速度で飛来した黄金の質量兵器たちがガンエデンに向かい衝撃波を撒き散らしながら向かい、そして虚しく弾き返される。




ギィンと、重く響く音は、まるで重厚な鋼鉄の扉に小さな拳銃の弾を撃ち込み、弾き返される音に似ていた。
ガンエデンの前にあるのは壁だ、今までは不可視であった念道力によるフィールドが、余りの衝撃によって具現化し、目視できている。
虹色の半透明の壁。厚さはそれほどでもないが、その防御能力はカオス・レムレースの分離ユニットの猛攻を受け、びくともしていない。



しかも、念道フィールドの壁は一枚ではない。宙に浮くガンエデンを全方位から、何百、何千枚ものプレートの様な形状をしたフィールドの壁が守っている。
大小さまざま、されど防御能力は完璧な守り。それらが幾重にも重なり、分離ユニットを空間ごと無理やり押し返す。



どうやらこの程度の火力では無駄らしい。4体のトーマの思考をした魔物達は学習をした。
分離ユニットを杖に戻し、闇の書から湧き出る力そのものに指向性を与え、杖という媒介に収束させる。
先ほどイルミナドスを吹き飛ばしたように、杖の周囲にエネルギーの収束される不気味な空間の唸りと共に幾つも魔方陣を展開。
黒いスパークを纏い、3つのコア・ユニットが不気味に、生物が瞬きをするように点滅を繰り返し、息をするように力を圧縮。



漆黒の球体を幾つも出産し、更にソレを圧縮。最大出力、臨界点ギリギリにまでチャージ。
ギシギシという不協和音と共に時間が歪み、魔力素がオルセアという惑星全土から奪われ、星が揺れる。
既に圧縮されたエネルギーの総量は管理局の本局を幾度粉々にしても大量にお釣りが来るほどにまでだ。




そして、エネルギーの暴風が極限にまで達した時、ガンエデンを囲む4体の魔物達は同時に動いた。




【インサニティ・インヴィティション】


【インサニティ・インヴィティション】


【インサニティ・インヴィティション】


【インサニティ・インヴィティション】




前後から、左右から、絶望が大口を開け、牙をむき出しにして神に喰らい付く。


単純な威力にして、イルミナドスを粉々に吹き飛ばした際の数千倍にも及ぶ破壊の魔光が蠢き吹き荒れる。
ガンエデンを覆う壁が砕け、それは擬似的な空間の断層となって宙を漂い、やがては先ほどトーマが放った重力魔法の影響で乱れた穴に落ち、消滅する。


砕ける、ガンエデンを守護し、一切の干渉を許さない霊帝の拒絶の意思が割れる。
一切の抵抗を許さない漆黒の砲撃はお前の意思など関係ないと叫び狂い、人工の神を飲み込もうと荒れ狂っていた。
大地に亀裂が入り、大陸のプレートにさえ損傷が入る。聳え立っていた山々はとっくの昔にクレーターと化し、更にその奥深くへと抉られていく。



たった一つの弾かれた黒光が何かに当たるたびに、周囲の地形が大きく変わる。一発で山がクレーターに変わり、二発でリソスフェアが露出する。、
それどころか、余りに桁違いの力の行使により、根本的に大地の奥底に存在するプレートが割れ
天に浮いているルアフと魔物達は知らないが、幾度も幾度も最大級の地震がイルミナドスをはじめ、様々な場所を襲っていた。




しかし、永劫にも思える暴力の嵐はやがては終わる。黒い閃きは、力を失っていき、徐々に細くなり、そして消える。
ガンエデンは健在。しかし、かなりの数のフィールドを破れ、念を大量に使ったガンエデン内部のルアフは肩で息をしていた。
肺が痛い、喉が痛い、頭が痛い、腹が痛い、ガンエデンの痛みはルアフの痛みだ。



眼が血走り、更に怒りが強く燃えあがる。今は僕が神なんだ。僕だけが神なのだ。神が負けるわけがない。
痛い。痛い。全身から力が抜ける。よくも、よくも、よくも──!



母を思い出す。自らを虐待した女を。
父を思い出す、自分たちを捨てた男を。
神に、霊帝になる前に出会った人々を思い出す。自分を蔑み、悪魔だと罵った奴らを。



誰も彼もが憎くてたまらない。今も、だ。
憎悪だ。そうだ、強い意思により念道力はその力を増す。ならば、世界で最も強い感情である憎悪から生まれる念動力は? どれほどになる?








──オオオオオオオオオォオォオオオオオオオ!!!





人工の神が、獣の様に吼えた。それはさながら竜の咆哮の如く。












素晴らしい、と。
演出家である“影”が嗤ったのを、ルアフは見たような気がした。














ガンエデンが吼えた。力強く、圧倒するように。
失った分を補い、いや、圧倒するほどの強力な思念が憎悪の泉から生み出され、それにガンエデンは答え、輝く。
蒼白の光の柱が輝き、ソレは宇宙空間からでさえもはっきりと視認出来るほどに盛大に存在を誇示する。



ギシギシと、神像の全身が軋みをあげる。まるでガタが来た家屋のように。




後一歩だ、これは恐らく最後の力という奴だとトーマの意識は判断した。
可愛そうなルアフ君、直ぐに終わらせてあげる。何処までも善意でトーマは笑った。




もう間もなくガンエデンは沈むと判断した魔物が再度カオス・レムレースを構えようとし、1機がグシャグシャにプレスされ、潰された。
念道フィールドのプレートが幾重にも重なり、上下から魔物をサンドイッチの様に勢い良く挟み込んだ結果だ。最も強固な壁は最も高性能のハンマーとなる。
残りの三体は仲間がやられたと知るのを同時に転生機能と再生機能を行いつつ、獅子の足を用いて空間を蹴り、三次元的に空を駆け、一箇所に集まった。
ガンエデンより、何十キロも距離を取った場所、ここならばあの念道プレスは出来ない。




3体の魔物がその手に持つカオス・レムレースを天に掲げ、そこに周囲を浮遊する青白い人魂が瞬時に宿る。




一斉に、示し合わせたように、何かの儀式でも遂行するかの如く魔物達が蒼く燃えるカオス・レムレースを鋭く横に振るう。
青白き炎が、超級の魔力が、絶望が、世界の次元境界線を切り裂き、空間そのもに魔力のプログラムを与え、書き込んでいく。
コレは原理そのものは、アルザスの竜使いなどに見られる召喚魔法と同じなのだ。



天と地が切り裂かれ、そこに生まれた境界線に力が集まっていく。何万もの数の魔法文字がビッシリと空間に書き込まれ、ソレは世界を変えていく。




『ル~アフくぅ~ん、いっくよ~! ……また怒った?』



大よそ命を掛けた闘いには不似合いな道化た声、しかし発動される魔法は凶悪の一言。


3つの声が同じふざけた調子で言葉を紡ぎ、そして神話級の極大魔法を発動させる。
最初に産まれたのは、天と地の狭間に書き込まれた真紅の、血の様に真っ赤なベルカ式の魔方陣。
だが。三体の魔物が、同時に、一斉に、一瞬の誤差も無く同時にその指を鳴らす。まるで何かを合図するかの様に指を弾き、調子のいい音を奏でる。






【天獄】






今まで魔物達が展開してきた中でも最大級の大きさを誇るベルカ式魔法陣を中心にミッド式、その他様々な魔法陣が生み出され、それらが複雑に絡み合う。
古代ベルカ式、その他様々に派生した魔法の系統の魔法陣が絡み合い、それらは巨大な風車の様にゆったりと回転を開始。
音も無く、特別な閃光も無く、ただ機械的に回転を続ける魔方陣の集合した特大魔方陣の姿は、恐怖さえ感じるモノであった。




一つ一つ、段階を踏んで魔方陣にプログラムされた能力が丁寧に発動を開始し、やがては流れる魔力の全てが中心のベルカ式召喚魔法へと収束。
黒紫の、邪悪極まりない魔力の奔流が中心に集まり、次元境界線を蹂躙し、こことは違う宇宙、違う世界、違う時間軸へと接続。



下賎な、下品な、低劣で、聞いているだけで吐き気がしそうな程に胸糞悪い嘲笑いのオーケストラが響いた。
それに混じって聞こえるのは、赤子の愚図るような声、母に甘えるような声、そして鳴き声。



何か粘性の液体が垂れる音、何か、柔らかい、ゼリーでも啜るような音。




ゲートから顔を覗かせるのは、それは……赤ん坊だ。石造の様に灰色の皮膚をした赤子ら。
人間の幼児、産まれてから数ヶ月を経た赤子達。しかもただの赤ん坊ではない、大きさは魔物と同程度はあるほどの巨大さだ。
そんなものが、ゲートの中には何万もひしめき、蠢きあい、攻撃の時は今か今かと待ち望んでいる。



赤子には髪の毛はまだ生えてないのに、歯だけは真っ白く、しっかりと、人間のソレが生え揃っている。唾液に濡れたソレが不気味に輝く。
眼には黒目も無く、白目もない。ただ、濁った灰色の眼で、魔物の向こうに座するガンエデンを求めるように眺め、狂ったように幾度も幾度も手を伸ばしていた。
あれが欲しい。あれが食べたい、あれを飲み込みたい。子供がダダをこねるように赤子達は不満の声を魔物に向け、魔物の意思であるトーマは精神的に肩を竦めた。
全く、子供というのは、本当にかわいいなぁ、と。



矢印の様に先導者の如く、カオス・レムレースを魔物らがビシッとガンエデンにその矛先を向ける。
愚図り、ご飯をねだる赤ん坊達にあれが、ご飯ですよ、と告げたのだ。
一体の魔物が空を駆ける。その後を追い、何百、何千もの赤子達が続く。
加速、加速、加速、一瞬にしてガンエデンとの間に保っていた距離をゼロにし、念道フィールドにぶち当たる。




ゲートの内部より次から次へと赤子達は現れ、ガンエデンのフィールドに突進を繰り返し、純粋に押し、殴り、噛みつく。
少しずつではあるが、ガンエデンのフィールドに皹が入り、プレートが何枚か砕け始めた。何回も何回も桁違いの怪力で殴られればそうもなるだろう。
やがては空間ごと人工神の巨体が押されて移動し始める。赤子達が無邪気にキャッキャッと笑う。




ガンエデンの背後に、赤子達が現れたのと同じゲートが開かれた。大きさはこの神像が丸呑みされるほどに大きい。
空間の歪の先には、ひたすら混沌空間が広がっているのがルアフには見えた。




なるほど、そういうわけか。




『お前ぇえ!!』




ルアフが気がつき、顔を激しく歪めると同時に更に勢いを増した異形の群れにガンエデンは赤子の濁流に飲まれゲートに押し込まれ、この世界から排出された。
ガンエデンの転移を確認した後、全ての怪物達が一斉にゲートに群がり、その中に吊るされたガンエデンと言う餌目掛けて次々とこの世界から去っていく。




後に残るのは静寂のみ。ゲートも閉じられ、これで終わりだ。ガンエデンはもう二度と、かえって来れない。



美味しく異界で食われるガンエデンを想像し、思わずトーマは含み笑いをしてしまう自分が居る事に気が付いた。
あぁ、どんな状況になっているのだろうか。少しばかり自分も異界に付いていかなかったことを後悔しトーマは溜め息を精神的に吐いた。
先ほど念道力の壁にプレスされて破壊された4体目の魔物も無事に転生と再生を終わらせ、くるっとカオス・レムレースを魔物達が回す。


これからが本番だ、これからが忙しい。速くオルセアの皆を天国に送ってあげなければ。永遠に皆を幸せにしてあげなければ。
ようやく、トーマ・フィーニスは自らの夢を果たすことが出来る。闇の書など、そのための手段に過ぎない。






『さて……』





やろうか、とは続けられなかった。とてもとても、嫌な匂いがしたから。蛇の顔が空間の歪みを感知し、ボタボタと悲鳴を上げる様に毒液を垂らす。
獅子の顔が、何か恐ろしいモノを見てしまったかのように低く唸る、山羊の顔が気配を剣呑なモノにし、敵意を表す。
4体の魔物が一斉に背後を振り向く。たった今、ガンエデンを送ったゲートを展開していた場所を。



ほんの僅かだけ、魔力の残滓が残り、既に何もないソコを幾つもの視線が凝視し、事態の成り行きを眺め、一瞬の気も許さずにカオス・レムレースを構える。
周囲を漂う青白き炎塊がぎゃぁぎゃぁ喚き出し、あまりにもソレがうるさかったので、魔物内の一体がその手で持って掴み、獅子の口の中に放り込む。
悲鳴と共に噛み砕かれ、他の人だまはソレを感知してか、静かになる。





『っっ!!??』










一瞬だった。 魔物は反応さえも出来なかった。
空間の裂け目が作り出され、そこから出てきた巨大な爬虫類染みた腕が魔物の一体を鷲掴みにし、引きずり込む。
伝わる驚愕、全で一の彼らに引きずり込まれたマテリアルの感想が伝わり、残りのモノらは無意識に肩を震わせた。













『ははははハハハハハハハ!!!  さっき言っただろ?! 神は、永遠に不滅だってさ!!』






霊帝の嘲笑が、魔物の存在しない概念だけの耳朶を打つ。




怒気の気配、既に堪忍袋の緒が切れる所か、袋そのものが破裂し
そこから延々と流出する怒りと憎悪を念道力に変換したルアフが狂笑と共に喉が裂けるほどに叫び狂い、自力のみで魔法などを一切用いずに強引に転移し、世界に回帰。
超能力といわれ、第一に思いつくであろうテレポート能力、ルアフがこのイルミナドスを訪れる際に用いたソレをガンエデンごと使っている。
単一の惑星内ではなく、別の時間軸、別の世界とここを繋げ、戻ってきたのだ。それがどれほど不可能に近いことか。



だが、ルアフは出来たのだ。霊帝の念道力を用いて。




そして、ルアフの駆るガンエデンはその姿を大きく変容させていた。
4対の翼は1対の更に巨大なモノへと変化し、そもそもの話、今のガンエデンは人間の姿さえしていない。
竜。これは竜だ。全景は見えないが、既に裂け目より見える上半身だけで判る。




王冠の如く雄雄しく、力強い幾本もの角、一枚一枚が最強の装甲でもある頑強な剛殻、クストースの装甲でさえも紙切れの様に切り裂くであろう竜爪。
これこそガンエデンの真の姿。戦闘形態。テフィリンの開放。人造神アウグストス。
この竜の姿になって、始めてガンエデンはその絶対的な戦闘能力の全てを開放することが出来る。




ルアフは、今までガンエデンのこの形態の存在さえも知らなかった。だが、今は違う。もう、判った。どうすればよいのか。




巨大な竜が、咆哮を上げ、世界を軋ませる。その鋭い爪の生えた手に握られた魔物が抵抗さえ許されずに握りつぶされた。



蒼白い光を常に纏っていた全身は今は打って変わって紅く発光し、尋常ならざる気配を放つ。
威圧感と重圧は更に増幅し、見るだけで常人の魂や精神など軽々と砕けそうなほどだ。
先ほどまでの色を慈悲深き神の象徴とするならば、コレは怒れる闘神を象徴する殺戮の色彩。



よく見れば、ガンエデンの全身には夥しい量の血液が付着しており、これによりあの赤子達がどのような末路を遂げたかを教えている。






『最後に感謝するよトーマ・フィーニス、君のお陰で僕はガンエデンのこの姿に気が付くことが出来たんだ!』





荒い息を吐き、眼を血走らせつつもルアフは気を落ち着けさせようとして失敗し、怒りと喜びがごちゃ混ぜになってルアフは高らかに叫ぶ様に哄笑をあげた。
何という、何という素晴らしい力なのだろう! 念動力は! そして、このガンエデンの力は!! ヒドラは何という力をくれたのだろうか。




『だからさ、お礼に……君に今の僕の全力を見せてあげようと想うんだ』



不気味な笑みだった。何故ならば、あの霊帝ルアフが感謝の言葉と共に、純粋な美しい笑顔を顔に貼り付けたのだから。



何、遠慮は要らない。是非とも体感していってくれ。
お礼だ、僕を更なる高みへと引き上げてくれたお礼を、どうか受け取って欲しい。
憎悪と感謝、狂喜と狂気。常軌を逸脱したテフィリンの絶望的なまでの力。



トーマ・フィーニスという存在の全神経が、直感が、全てが警告を発する。危ない、危険だ、距離を取れ、と。




踵を返し、距離を取ろうとした魔物達の行き先を、何十もの念道フィールドの壁が阻み、決して逃がさない様に檻を作る。
竜が手を伸ばし、2体の魔物をその五指で拘束し、残る一体は無数の念道フィールドのパネルで作られた鳥かごに幽閉。
そのままガンエデンが開いたゲートの中にズルズルと引きずり込まれていく。





無事に再生を果たした最後の魔物もガンエデンから伸びてきた竜の屈強な尻尾に絡みつかれ、身動きを封じられた。
獅子が爪と牙を立てようとも、テフィリンの装甲はびくともしない。表面を超高出力の念道フィールドで覆われた真紅の竜の鱗は
魔物の牙を跳ね返し、むしろ牙や爪を立てた獅子が負傷する有様だ。





『っ……っ!……離してよ!!』




痛みこそ感じないが、自らに迫った破滅を悟り、焦燥に満ち満ちた声が少年の精神より漏れる。
魔物の精神の中、暴風の様に暴れ狂う防衛プログラムの中枢の中で、トーマ・フィーニスの精神は慌てていた。
自分自身とも言える存在、その全ての動きを封じられれば、彼もさすがに危機感ぐらいは覚えるらしい。




マズイ、マズイ、これはマズイ。ルアフ君が何をするつもりなのかは全く判らないが、コレはマズイ。
どうする? どうする? このままでは、天国が、皆を幸せにするという目標が。
夢は、信じれば必ず叶う。ならばどうすればいい? 自分を疑うな、手札を見れば、必ず何かあるはずだ。





カオス・レムレースに魔力を注ぎ、その先端を思いっきりガンエデンの手首に叩きつける……無駄。傷一つ無い。
小規模の【デアボリック・エミッション】を発動させ、それを竜の頭部にぶつけた……無駄。竜には何の効果もなかった。煩わしそうに顔を振らせることしか出来ない。





ゲートが閉じ、ガンエデンと魔物らが、全く違う世界へと転移。
周囲の光景が変わっていく、イルミナドスの破壊されつくされた風景から、全面を闇に覆われ、遥か彼方に無数の小さな光の点がある世界へと。
見れば、それなりの距離の所には、眩く輝く球体……太陽? ここは、星の世界?



一体何処へ転移したというのか? トーマは顔をかしげた。たとえ何処に転移しようとも、闇の書の力ならば直ぐにでも──。
ガンエデンが拘束の力を緩め、四体のトーマ・フィーニスそのものであり、闇の書でもあり、防衛プログラムでもある魔物達を解放し、思いっきり投げた。
幾つか小さな岩の塊ぶち抜き、壊し、魔物は飛んでいく。



途端に急激なGが掛かり、トーマは少しだけくらつく。だが、それだけだ。直ぐに周囲の空間を制御し、緩やかに姿勢を安定させた。




『さっきの君の言葉を返そうか。 “ばっはは~い♪”ってね』





その言葉だけ言い放ち、ガンエデンが大きく両翼を動かし、ゲートを展開。あっという間に消えてしまう。
残されたトーマが再度首をかしげた。どういう意味だ。何を考えているのだろう?





警告、警告、警告。





闇の書の防衛プログラムが、それに内包される脅威の襲来を伝えるシステムが、数え切れない程の亡者共が痛いほどに喚きたて、トーマに危機を伝える。
だが判らない、一体なんだというのか。どうやって、僕を攻撃するのだ? まさか、ここに置き去りにして、はい終わりという訳でも……。
何気なく、トーマが先ほど見た太陽をもう一度見る。何となく、特に理由などない。
そこに、ほんの僅かだけだが、さっき見た時には見えなかった黒い点が存在することに気が付いた。よく見ると、ソレは動いている。




魔物の眼のズーム機能を利用し、それの正体を朧気に見抜いたトーマが眼を細める。






『ルアフ……君?』





続く疑問の言葉は紡ぐ事は出来なかった。
怖気が走るほどの何かがそこに集まっていると判ったから。
真紅の光が苛烈に膨れ上がり、トーマの心胆が凍りつく。何故ならば、何でこの様な場所に放置されたか理解したのだ。





真のガンエデンの力は……恐らく。





『────』





何か。 何か、ないか。
ここで自分は終わるわけにはいかない。まだやるべき事がある。
必死に闇の書のデータベースにアクセスし、今まで蓄えてきた魔法を漁る……見つからない。
どんな防御の魔法でもあれは意味を成さない。どんな空間の転移だろうと、あれは避けれない。


冷静に、考える。破綻し、狂気を孕んだ思考は何処までも冷徹に、壊れた方程式を組み上げていく。




どうすれば…………闇の書のプログラムに、データに、あれを何とかするモノは存在しない。



プログラムにはない。
プログラムには……。




……プログラム。




思いついた。



防げもしないし、避けれもしないなら、こうすればいいじゃないか───。
次元世界における魔法とは、ベルカ式もミッドチルダ式も、その他も多少の相違こそあれど、全てはコンピューターのプログラムの様に、術式を編みこんで使うものだ。




ならば、作ればいい。ないのなら、産み出せばいい。





答えを得ると同時に、トーマは再度、太陽を直視した。されど眼は、焼けない。何故ならば、もう、彼は人間じゃない。
トーマの胸中には、もう一つの黒い太陽が燃え盛っていた。見届けようじゃないか、ルアフ君の全力とやらを。




トーマの視界の遥か先、竜が、テフィリンが、太陽を背に大きくその顎を開く。太陽から吹き付ける太陽風でさえ、竜と内部のルアフには何ら影響を与えることは出来ぬ。
必要とあらば、竜は、ガンエデンは生身で銀河系を横断することさえ可能なのだ。そんな存在が、たかだか恒星の影響など受けるなど在り得ない。
一度竜が音も無く荒々しく吼え、空気が薄い宇宙空間を振動させ、ただそれだけの行為で次元震動を引き起こす
テフィリンの喉の奥底がチリチリと燃え盛り始める。魔力でもなければ、念道力でもない、ただの純粋な“力”が、狂おしい程に燃えている。




地獄を焼き尽くす業火でさえも、今、この竜の奥底で燃えている力に力に比べれば、ただのライターの炎にも劣るだろう。
翼を大きく広げ、太陽を背後に従え、神さえも砕くであろう人工神が、今、その力を全力で行使する。


それは、ルアフなりのトーマに対する一種の敬意。自らを成長させてくれた存在への礼でもある。





【キャッチ・ザ・サン】






比較対象など絶無。既に戦術やら戦略などという枠組みにさえ囚われない破壊力を秘めた攻撃。否、これは攻撃という枠にも収まらない、コレは裁きだ。
全次元世界でも、最強の火力を誇る竜の全力のブレス。莫大なエネルギーを集約して放つ息吹が、撃たれる。
もはや光線とさえいえない。ソレは既に光によって埋め尽くされた“領域”オルセア程度の大きさの星ならば、二、三、纏めて覆ってしまいそうなほどに巨大に拡散する光の“領域”



秘めたエネルギーの総量は超新星にも匹敵するであろう世界創世の光。億の年月を歩んできた惑星を一瞬で死に至らしめる、死の光。



その威力たるや、星に当たらず、その傍を通り抜けただけだというのに、太陽の周りを公転していた惑星が粉砕され、一瞬にして蒸発させられてしまうほど。
一つならず、二つ、三つ、続けて、惑星が熱を加えられた飴の如く誘拐し、眩い断末魔の光と共にブレスに飲み込まれていく。
ガスが弾け、紅き溶岩が一瞬で気化し、無数の新星爆発が光の濁流に押し流される。


音などないはずの宇宙空間が悶えるように震え、確かにトーマはその空間の振動を感じていた。



正に、それは世界が終わる光景。天の星は砕け、神の裁きの名の元に星屑は巨大な質量の鉄槌となる。
時間の流れに従い、終焉の“領域”はガンエデンの確固たる演算の元、一直線にトーマに向かい、全てを押し流しながら迫った。
幾つもの惑星の残骸が細かく粉砕され、ソレは無数の花火の様に色とりどりに暗黒の世界を装飾。




まるで神が創造せし、神聖なる芸術。触れれば破滅は免れない、禁忌の芸術。
今回の闇の書に幕引きを与えるべく具現したデウス・マキナそのもの。


人工の神は、舞台を終わらせる機械仕掛けの神の役目を果たしているのだ。





『あっははははははははははははは───!』






既に4体居た魔物の内、3体は光に飲まれ、消滅した。一切の抵抗は許されない。
苦痛もなく、一瞬で装甲も、纏っていたフィールドも、何もかもが根こそぎ消えたのだ。
そして、間もなく自分も消えるのだろう。




光を前にし、トーマが笑う。嘲りも、憎悪も、狂気さえ感じさせずに笑う。純粋に、愉快そうに、年齢相応に。
あぁ、何と綺麗なんだ、この光は。人生で、こんなにも綺麗な光景を見るのは初めてだ。
暴力的でありながら、神々しい光。人間が見たら瞬時に失明するほどの明度の光を既に人外の存在であるトーマはじっくりと眺めることが出来た。



刹那、光に飲み込まれる直前にトーマはルアフへと向けて、最後の念話を行う。
軽い調子で、まるで明日また遊ぼうね、と友人に話しかけるように。
何処までも軽薄に、親しみさえも込めて彼は淡々と言葉を放った。




既に、必要な魔法は編み上げ、闇の書に打ち込んだ。闇の書の主の権利を使った。
後はソレがちゃんと働くのを信じるのみである。
だが、トーマは成功を疑わない。理由など単純明快、自分を信じているから。






『じゃ、…………まったねー♪』









それが、トーマの最後の言葉であった。
一つの名も無き世界の星系が丸ごと消える。たった一つの存在を滅ぼすために、犠牲となったのだ。





そして今回の闇の書は消滅した。誰も救われることなく、幾多の犠牲者を生み出して。










あとがき





闇の書編終わったー!  
何かこう、凄いやり遂げた感がやばいです。今まで書いた全ての話の中で最も長くなりました。
バトルはかいていると、どんどん容量が増えていくから困ります。



トーマとルアフは作者の手を離れて超絶インフレバトルを引き起こすわ、トーマはトーマで、何かロボットに変身するわで、今回が一番カオスでした。
でも、スパロボとクロスさせたんだから、原作どおりのロボットを出して、原作と同じ攻撃をしなければ駄目という自分のポリシーのせいで、ゲッター並にインフレするという結果に……。
ガンエデンの攻撃を原作のムービーどおりにしたら、星系が崩壊するし……。



何はともあれ、長々と続いた闇の書編、これにて一先ず終わりです。
戦闘描写などの練習の為に書いたと言っても過言ではない話でしたが、何か感想を下さるとうれしいです。




では、次回にてお会いしましょう。











もう少しだけ、続きます。



























何処とも知れぬ世界。純白に染め上げられ、三千大世界の何処からも独立し、何処でも監視し、何処にでも干渉できる外れた世界。
時間と言う概念さえも破綻している神の雛が座する混沌の世界にて、支配者は大声で喝采の拍手を叩いていた。
終わりも無く始まりもなく、延々と劇を見ていた彼は、自分の玩具が予想以上に自分を楽しませてくれたことに歓喜していた。



三つの眼を爛々と輝かさせ、全身を激しく喜びにうちふるわせ、ヒュードラは高らかに笑っていた。
極上の美酒に酔いしれる様に、最高の女を抱いたかの様に、自らが仕掛けた舞台の感想を彼は叫んでいる。




『最高だったよルアフ君! そしてトーマ・フィーニス君! 最初はただのやられ役だろうと思っていたが、君も中々のモノだった!』




これこそ正に至芸。正にエンターテイメント。B級と侮るなかれ、根本的には楽しめればそれでいいのだ。
それにしてもまさか、あのカオス・レムレースを持ってくるとは……この世界では人工の“鍵”か、なるほど、私の親戚という奴か。
能力そのものは唾棄すべき程に応用が利かない“鍵”だ。何故ならば、因果を操作できないのだから。
一度暴走したり【蒐集】を行わないと、無限力や、他の力をスムーズに取り込めないなど、致命的な欠点は多いが、それでも十二分に凶悪な兵器といえる。




空間を支配したり、時間を巻き戻したり出来ないのもマイナス評価だ。
後は、無限に分岐する宇宙を作ったり壊したり出来ないのも駄目なポイントである。
全ての次元と時間軸から外れて、一方的に干渉できるようになってから出直して来い。






『では……ネタばらしと行くか』




ヒュードラが能力を発動。確立と認識の世界を捉える。深い男の声をした影が、顔を傾げ、世界を見た。
狂った世界の歯車が音を立てて回りだし、ヒュードラの三眼が今回の闘いによって発生した平行世界を見渡す。
IFを眺め、その世界での顛末を眺めてから、彼は念入りにイレギュラーを探す作業に入る。



ネタばらし、ヒュードラは今まで故意的に劇を楽しむ為に因果を読む力を発動させていなかった。
何故ならば、結果が判っていては盛り上がらないし、つまらないから。過程を知りたくもないから。
全ては未知の状態で楽しまなければ、劇など意味が無い。エンターテイメントとは、そういうものなのだ。



『…………』



時間にして一瞬。この世に定義されたあらゆる時間の最小単位を超える速さで彼は平行世界の観測を終える。



なるほど。無限大とも言える可能性の世界を一瞬にして全て把握し、ヒュードラは思わず頷いていた。
今回の結果は、どうやらルアフはかなりの綱渡りをしていたらしい。それほどまでにトーマは強い。
正直な話、トーマはルアフに勝利する可能性が十分にあったのだ。
あの防衛プログラムの無限転生&無限再生を最大に活用させ、ルアフを葬った世界も多数あった。




では、原因は? 何故ルアフは今ヒュードラの見ていた世界では勝てたのだろうか?




その答えは、たった今ルアフがヒュードラにはっきりと示したではないか。
テフィリンと呼ばれるガンエデンの戦闘形態への覚醒の成功。それの是非がルアフの命運を決定付けた。
そしてテフィリンの開放によるルアフの念道力の成長、これも中々に見逃せない事柄だ。



今のルアフのサイコドライバーとしての力は、恐ろしいまでに成長を遂げている。
ヒュードラを除けば、次元世界で最も強大な念の力を秘めていると言っても大げさではないだろう。





『おめでとう』





ご機嫌な神の口より祝詞が紡ぎ出される。そこに込められた思いは親が子の成長を喜ぶかの様な、純粋な感動。
しかし少々暴れすぎではないのかな? 君とトーマの闘いの余波は、オルセアという惑星にとてつもない被害を与えたぞ?
具体的に言うと、極大の空間魔法使用の弊害により、少々星の自転軸が歪んでしまったりしている。後は、大陸プレートに与えた損害も見逃せない。




このまま放っておけば、近々大規模な地殻変動がオルセアに起こるだろう。



まぁ、いい。後々、全部治しておく。舞台の後片付けも、自分の仕事だ。
面倒くさくは無い、むしろ、こんなにも楽しいモノを見せてもらったお礼にして、正当な対価だろう。
最後に、イレギュラーを排除しておくのも忘れないで実行しておく。
出来損ないとはいえ、神の“鍵”を名乗っているのだ。念には念を入れておかなければ。



全てのトーマ・フィーニスが勝利した世界にアクセス。因果を無茶苦茶に弄り、時間軸に手を伸ばす。
世界を“捻り”順々に一つずつ崩壊させ、幾多の可能性をすり潰し、今の世界へと無理やりつなげる。
無数に飛び交う可能性というおてんば娘をしっかりと捕まえ、一つ一つを確定させ、しっかりと固定。





全ての分岐を滅し、今の世界こそが唯一の世界となり、他の世界で彼が勝ったという全ての展開はコレで“無かったことに”なった。
これにより、何らかの手違いによって、違う世界のトーマがこの世界に来る……などというふざけた事はなくなる。
そんなことありえないと思うが、念には念を入れておいて、損は無い。




『それにしても……トーマ、ねぇ』




たった今、全ての勝利を踏みにじってやった男の名をヒュードラは呆然と語る。
何となくであるが、彼はトーマが、かなり鬼畜なウィルスに感染したり、神の雷という名を持つ機体を駆り、システムの限界を超えたキックを出しそうな名前だな、と思った。
そして何故だか、自分が思いっきり『鎧』ごと蹴り殺されるビジョンがはっきりと脳裏に浮かび上がり、ヒュードラは噴出した。



どうやら何処からか、変な情報が流れ込んでしまったらしい。




気を取り直し、彼は未だに興奮の熱が冷めない思考で考える。次は自分の番だと。
あれほどのエンターテイメントには及ばないが、自分は種を蒔こう、もっと面白い事の為に、更なる楽しみの為に。





ヒュードラが、虚空に向かい、話しかける。
まるで、そこに誰かが居るかの様に。彼は親しみと、確かなる礼儀を以って、語りかけた。













『では、皆様、また近い内に──』





[19866] 23
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/12/22 23:49




新暦48年 第一管理世界ミッドチルダ 南部 アルトセイム地方







アルトセイム地方は、ミッドチルダの南部に存在する緑豊かな地方である。
比較的温暖な気候は、蒸し暑いというほどでもなく、逆に冬になっても寒すぎるというほどでもない。
まるで崩壊する前のアルゴ・レルネーに瓜二つな光景、澄んだ空気、そして比較的に危険度の低い野生動物などが穏やかに暮らす場所。




そんな地域にある観光名所にでも出来そうなほどに巨大で、なおかつ澄んだ水をたたえた湖の近場にソレはあった。
ソレは全体の至るところから無数のトゲなどをはやした巨大なアートにも見える建築物。
まるで中世時代の巨大な城の様にも見えるし、視点を変えれば何かの宝を守る遺跡にも見えるソレは実の所、上記の全ての内容を含んでいる。



この【時の庭園】と名づけられた魔道技術によって建造されたこの巨大な城塞は宝を収める箱であり、守る要塞でもあり、古代の遺物でもあるのだ。
かつては何処かの有名な貴族、そう一昔前に世間を騒がせたアレクトロの会長が所有していた財産だったのだが
彼の死去と同時に売りに出され、ソレをプレシアがかつてのアレクトロとの因縁などを用いて遺族を揺さぶり、格安の値段で購入し、今に至る。




そしてこの庭園はプレシアの手によって様々な改良を施されていた。
まず内部の埃や汚れなどを全て洗浄され、古めかしい装飾品の数々は倉庫に放り込まれ、石造りだった通路のほとんどを木製やしっかりとした金属のパーツに交換。
近代的な台所やトイレ、広大な風呂場、使われていない部屋の整備。空気中の水分を吸収し、ろ過した水へと変換する機材の設置。
埃を被っていた調度品以外に使い道のなかった古代の反応炉をプレシア特別製のモノに交換し自家発電可能にするなど。




現役時代優れた技術者であったプレシア・テスタロッサはその全ての作業を嬉々として行い、彼女は娘と暮らす新たな自らの城を作り上げたのだ。
















時の庭園の一室。貴族専用とさえ思えるほどにただっ広い部屋は神秘的な空気に覆われていた。
天井の部分には鮮やかな夜天の絵画が描かれ、それらは電気によって薄く発光している部屋。
一個人が独占できるにしては巨大にすぎるプラネタリウムだが、事実コレはこの部屋の主の為だけに作られたものなのだ。



窓から入り込むは緩やかな、包み込まれるほどに優しい朝日と、朝の挨拶を交わす鳥達の爽やかな囀り。
同時に壁の天井に埋め込まれた電子時計が音さえも立てずに正確に時刻を刻み、やがて表示された時間が7:00時を告げた。
それが合図となったのだろう。自動で部屋の電気が点灯され、天井が歯車の回る軽快な音と共にプラネタリウムが金属製の蓋に覆われ、代わりに太陽の絵が天井を埋める。




一人の少女が使うには余りにも大きすぎるサイズのベッドの上で、柔らかな布に包まれた一人のまだ10にも満たないであろう幼い少女が眼を覚まし、のそのそと頭を起こす。
周囲をその真紅の瞳で見渡し、現在の時間を確認した後、彼女は大きく背伸びをし、盛大な欠伸を口から漏らした。
ベッドから起き上がった後、彼女は近場に設置されていたクローゼットを開け、何とか背伸びをして目的の蒼いワンピースを取り出し、パジャマを脱いだ後にソレを着込む。




彼女の名前はアリア・テスタロッサ。プレシア・テスタロッサの新たな娘であり、プレシアの現在の唯一の家族である。






「アリア、起きてる? アリア?」




とんとん、と。規則正しいリズムで部屋の硬質な木製のドアがノックされ、彼女の母であるプレシア・テスタロッサの声が部屋の中に届いた。
穏やかな声音。まるで清水の流れの如き澄んだ声に、かつての狂乱の姿は欠片も見えない。




「お母さま、おはよう……」




まだ少し眠いのかゴシゴシと眼を擦る娘にプレシアは柔らかく微笑み、そっとアリアの左手を掴んで眼をこするのを止めさせた。
左手、そう左手をだ。プレシアの脳内に蘇るのはアリアの姉のアリシアの姿、確か彼女も左利きだった。
また一つアリアとアリシアの類似点を確認した母は、娘に気付かれないように脱力した。



アリシア。あなたの妹は貴女にとってもよく似ているわ。



彼女としてはアリアとアリシアはほぼ同じ遺伝子を持っているとはいえ別人である。
故に利き腕がどうの、魔力資質がどうのなどどうでもいいのだ。



アリシアもアリアも、そしてかつては愛し合った“彼”も同じ家族で、皆等しく心の底から愛している。真実はそれだけでいい。




「おはよう、アリア。まずは顔を洗ってきなさい……今日は街にいくから……いえ、何処にいても女の子は身なりに気を使わなくちゃ駄目よ?」




はーい、と元気に返事をし、洗面場に小走りで小動物の様に向かうアリアを焼き付けるように見て、プレシアは微笑んだ。
健やかに、活発に、そして伸び伸びと育っている娘の存在は、今のプレシアが生きる全ての理由。
かつて果たせなかった約束を果たせると思うと、身体の奥底から熱がこみ上げてくるのを感じる。




今の私の全ての時間と愛は、アリアに捧げよう。アリシアの分も、彼の分も、全て。
一度は絶望の底に叩き落されたが、今は違う。コーディ等を中心とした人たちと、あの映像流失事件を起こした人物、その全てに感謝を。
特にアレクトロがずたぼろになる様など溜飲下がる想いを感じたが、同時に虚しい想いもある。



あんなに栄華を極め、次元世界の各地に絶大な影響力があった企業が、ほんの1ヶ月にも満たない時間で壊れてしまったのだから。
盛者必衰とはよくいったものである。
しかし冷静になって考えてみると、彼らも哀れなモノだ。手に負えない存在を見つけてしまったが故の悲劇に襲われたのだから。



ふと、彼女は思った。ここ数年は娘の世話などで忙しく忘れていたが、そもそもの話、ヒュードラとは何だったのだろうと。
あの三眼、あの思いだすことさえ拒否したくなる気配。あれは本当にただのロスト・ロギアだったのだろうか。
一つ馬鹿馬鹿しい仮説を立てるとするなら、アレの正体はもしかすると、到底言葉などでは表すことさえも憚れるような……。




どうでもいいか、とプレシアは頭を振った。もう二度と会えるはずもなく、会いたくもない、関わりたくもないモノの事を考えてもしょうがないのだから。







さぁ、そんなことよりも今日は忙しくなる。待ちに待った日でもあるが。
頭の中身を入れ替えたプレシアは優秀な頭脳をフル回転させ、今日一日のスケジュールを整理していく。
とある用事でアリアと共に街に出かけるのだ。友人にある行事に招待されたから。



先ずは朝食を作り、お弁当を作り、お出かけ用の服に着替えて──。



そこまで同時に幾つもの出来事を考えている最中、プレシアの腹部が間の抜けた音を発する。
カロリー、エネルギーが不足している。至急補充を望むからだの生理的な声。


丁度そこにアリアが戻ってきて、彼女はころころと鈴の様な声で笑い出す。




「かわいい音~!」




何かに夢中になりすぎると、周りが見えなくなってしまうのが自分の悪い癖だと改めて彼女は顔を赤らめて思い知った。
そういえば、彼も言ってた。何かに夢中になるプレシアの姿はとても可愛らしいと。





















「これから私達は街に行くけど、幾つか母さんと約束できる?」



「うん!」




無事に食事を終え、余所行きの黒いドレスに身を包んだプレシアは時の庭園のシステムを留守番モードにし
庭園の内部と外部に縦横に張り巡らせたセキリティ・システムを稼動させた後に身を屈ませてアリアと目線を合わせて言った。
一指し指をアリアの顔の前で立てて、じっくりと言い聞かせるようにプレシアは言葉をつなげる。



眼前の青と白を基調としたワンピースを着込んだアリアは、本当に愛らしく、このまま抱きしめたくなったが、何とか彼女はその衝動を押さえ込んだ。




「絶対にお母さんから離れちゃ駄目よ、街は人が多いから直ぐにはぐれちゃうの、はぐれたら危ないでしょ?」



判ったとアリアが無言で頷くのを見て、プレシアは更に口を動かして、言葉を紡いでいく。



「知らない人に勝手についていくのも──」



「だめー! なんだよね?」



全て言い終える前に両腕をクロスさせて×印を作ってはきはきと答えるアリアにプレシアは苦笑いをもらしていた。




「そう、アリアは賢い子ね」



そのまま金糸の髪を労わる様に撫でてやるとアリアは、猫の様に目を細め、心地よさそうに身体を左右にふわふわと揺らす。
ここで彼女は一つ気が付いたのか揺れるのをやめて、無邪気な声を上げた。
やはり同じ遺伝子の影響なのか、それとも単に子供なせいだけか、その声はアリシアと全く同じ高く美しい声。




「今日は街にいって何するの?」



「それはね……」




ごそごそとバッグの中を漁り、二枚の小さな紙を取り出してアリアに見せる。

そこに書かれているのはディメンジョン・スポーツ・アクティビティ・アソシエイション主催の格闘大会におけるチケットという内容。


インターミドル・チャンピオンシップという名のソレは全次元世界の少年少女の中で最強を決めるという至極単純な大会であり
今回開催されるのは首都ミッドチルダで行われる都市本戦だ。
つまり、この戦いに残っているのは、いずれもミッドチルダを代表すると言っても過言ではない者達。



この後には都市本戦のその後、都市選抜で世界代表を決め選抜優勝者で世界代表戦を行うという構図となっている。



今二人が見に行こうとしているのは次元世界最強を決める戦いの一つ前、ミッドチルダの代表者を決める大会だ。
もちろんまだ6歳程度のアリアでは難しい文字を読むのは辛いので、プレシアは音読し、わかりやすく説明してあげた。


途端にアリアの眼が憧れで輝いたようにプレシアには見えた。あの眼はきっと、自分も出てみたいと思っている眼だろう。




「すっごぉ~い! 私にも魔法が使えたらなぁー……今よりもっとお母さまのお手伝いが出来るのに」




「アリア……魔法なんて使えなくても、貴女は素晴らしい娘よ」




プレシアは溜め息を吐いた。アリアにはアリシアと同じくリンカー・コアはなく、魔法の行使は不可能だ。
魔導師になりたいと願ったとしてもそれは絶対に無理である。
そして自分もかつて汚染に満ちた空間で魔法を限界以上に行使した代価としてリンカー・コアに決して癒えない傷をつけてしまっている。



今でも一日に決まった量の薬を飲まなければ胸の辺りがじくじくと熱した棒を突っ込むように傷むほどの傷を。
だが、そんなことは関係ない。魔法の行使が難しい程度、そんなこと問題ではない。


彼女は全身全霊をかけてアリアを守るだろう。
なぜなら、プレシアにとってアリアとは自身の存在している全ての理由であり、生きる希望だからだ。



ふと、今の時間が気になったプレシアはこの話題について考えるのをやめた。
プレシアが腕時計に眼をやる。もうそろそろ出発の時間。




そう、今日自分たちにこのチケットを渡してくれた人と久しぶりに会えるのだ。



























アルトセイムからミッドチルダ首都クラナガンへと車を飛ばしてやってきたプレシアとアリアを
待っていたのは時空管理局執務官のコーディ・ハラオウンとギル・グレアムの両者だった。
アリアを含めた四人はミッドチルダにある、とある一つの公共の公園で待ち合わせをしていたのだ。


グレアムとコーディはプレシアの姿を認めると、ベンチから立ち上がり、そのまま友好的な笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
第三者から見れば緑髪が特徴的な男と紳士然とした空気をまとう中年と青年の間ぐらい年齢の男性に、黒髪の美女という異色の組み合わせだが、何も珍しくはない。



何故ならば、今回インターミドルのチケットをプレシアにプレゼントしたのはこのグレアムなのだから。
理由は簡単。彼が鍛えたクライドという若者を参加させ、ソレを見せたくてチケットを取ったらしい。
そしてコーディも自らの娘が今回の大会に参加し、中々の場所まで勝ち残ったという事実に喜んでいるそうな。



グレアムとコーディに頭を深々とプレシアは下げた。黒い髪がゆらゆらと揺れ、甘いが、決して嫌味ではない匂いが放射される。




「お久しぶりです。グレアムさん、コーディさん」



「頭をさげないでくださいよ、今日は友人として呼んだんですから」



「その通りだ。我々と貴女は友人であり、対等な関係なのだから、そんなに頭を下げないで欲しい」



コーディが苦笑いを浮かべながらプレシアの肩を掴んで頭を上げさせ、グレアムは両肩に乗せた猫の姉妹たちの喉を撫でながら優雅に言葉を紡ぐ。
プレシアは薄く上品に微笑みつつ身体を動かし、紫色の眼で二人を見やり、そしてアリアに眼を向けた。
母親が自分に何をさせたがっているかを瞬時に理解したアリアは背筋をぴしっと伸ばし、快活な笑顔で答える。





「はじめまして! アリア・テスタロッサです」



「はじめまして、コーディ・ハラオウンだ」



「ギル・グレアム、そしてこっちが使い魔のリーゼ・アリアとリーゼ・ロッテだ」




にゃぁーと二匹の猫が鳴き交わし、リーゼ・アリアと呼ばれた猫がマスターの肩から軽く飛び降り、奇しくも同じ名前のアリアの足元に擦り寄る。
ごろごろと喉を鳴らしているのを見る限り、彼女は同名のアリアを気に入ったのだろう。


無邪気に瞳を輝かさせ、猫のしっかりと手入れされた柔らかい毛の感触を楽しむ娘を微笑ましげに見て、一泊おいてから、プレシアは二人に顔を向ける。
にっこりと満面の笑みを浮かべるプレシアの顔は、なるほど。正に絶世の美女と言う言葉が相応しい。



「今日の大会ですが、お二人の弟子と娘さんが出場なされるんですね。よろしければ、詳しく教えてくれませんか?」



判ったと二人の男が答える。
まずは俺の娘からだ、とコーディが意気揚々に口を開き、自慢げな雰囲気と共に言葉を紡いでいく。
先ほどまでの約二倍程度のスピードでモノレールのように矢継ぎ早に言葉を放ち始めた。



「娘のリンディっていうんだが、保有魔力がかなり高くてな。今は管理局で働いてる。
 管理局の魔導師として働くにしても、裏方のデスクワークでもやってて欲しかったんだが、どうしてもって言うから仕方なく今回の大会に力試しとして参加させたんだが
 何故かインターミドルというのは非殺傷戦闘において服が破れることが多くて、俺としてはリンディのあられもない姿が会場で披露されるのは断固阻止したいのだけど
 かなり以前から一緒に風呂に入るのを拒否されて──」
 




そこまでだ、とグレアムの言葉が遮る。
このまま続ければ延々と家庭内の事情と娘自慢を聞かされることになるだろうと予想しての行動だ。
あら残念。プレシアは本心から彼の娘の自慢が聞けないことに落胆に近い感情を抱き、肩を落とした、




同じ娘を持つ親同士、いい会話が出来るだろうに。
そういえば自分はもう7歳か8歳ぐらいの時には親と風呂に入るのは拒否していたっけ。




ごほんとグレアムが場の空気をリセットするように咳払いをし、舌を動かした。
彼は何処までも彼らしく簡潔に尚且つ判りやすい様に今回戦う自らの弟子を紹介していく。




「クライド・ハーヴェイという名だ。だいたい6年ほど前に弟子にしてな、中々の素質があったので鍛えたのだ。
 そして今年で19歳になり、この大会にも人生の思い出作りと腕試しを兼ねて参加させてみて、今日に至る」



他の参加者名簿だと言って一枚の用紙をプレシアに提示する。
そこに書かれた名前には幾つかプレシアも心当たりがある家名などがあった。
例えばダールグリュンの名は確か古代ベルカの王族の名前だったはずだし、シェベルは有名な剣術道場という肩書きで巷に広く知られていた。



他にもメガーヌ、クイント、等などの名前をズラリと見たプレシアは年甲斐もなく少しだけワクワクしている自分がいることに気が付く。
最初は友人に誘われて何となく見てみようかと思っていた程度の大会が、今では極上のエンターテイメントに思えてきたのだ。



面白い、素直に認めよう。今日はここに来てよかったと。
思えば、この頃はアリアの世話にかかりっきりで、余り娯楽などを堪能したことがなかった。
大魔導師などと呼ばれ、研究者だった時代など、生活の全てを仕事に費やしていたと言っても過言ではない。





「ねーねーお母さま、少しこの子と公園を散歩してきてもいい?」




服の裾を軽く引っ張り、アリアが使い魔のアリアを首にマフラーの様に巻きながら母に言う。
プレシアはアリアの顔を見て、次に使い魔の主であるグレアムを見た。
グレアムは一瞬だけ腕に付けた年季を感じさせる銀色の時計を見て、頷く。



まだ大会の開催まで時間的に余裕がある故に少しだけなら。とその眼は語っている。
それにアリアは猫という見た目に反してかなり高性能な使い魔であり、その知力と戦闘力は上位の魔導師にも劣らないという自負がグレアムにはある。
子供のお世話ぐらいならアリアにとって欠伸が出るほどに簡単な仕事だろう。


そのアリアが付いていくのなら、何も心配はないと彼は判断した。
にぃいとロッテがアリアに頼んだといわんばかりに鳴き声を掛け、アリアがその小さな首を縦にこくんと揺らす。



便利ね、とプレシアは内心思った。
アリアの世話を他人に任せるのが嫌で使用人などは雇わなかったが、使い魔ならいいかもしれないと。



わーと黄色い声を上げながら小さな歩幅で走り去っていくアリアを見送った後、プレシアはコーディに勧められ、ベンチに腰掛ける。
今日は、少しばかりおしゃべりになってしまってもいいだろう。この二人にはいっぱい話したいことがあるのだから。





















「らららら~♪ らぁららぁーららら~♪」



即興で歌を口ずさみ、彼女は歩く。リズムも歌詞も、全てがその場で作られ、半ば無意識に歌を零している。


アリア・テスタロッサとリーゼ・アリアの一人と一匹は悠々と、クラナガン・第一公共公園の中を進んでいた。
この公園はクラナガンの中にある公園の中でも最も大きく、そして緑に溢れ、季節によって顔を変えると評判のある公園。
広さはそこそこあり、少なくとも公園の敷地をグルッと歩いて一周するだけで、1時間は有意義に潰せるだろう。



遠目に見えるどこまでも天へと続く無機質な灰色と銀色の高層ビルの摩天楼と、数々の魔力モニターで空中に投影された映像の濁流から切り離されたここは
機械づくしの都会の中で生活する人間達が自然を堪能できる数少ないポイントである。


金色のふわふわした髪の毛を風に撫でられながら歩くアリアのすぐ後ろをもう一つのアリアが付かず離れずの距離を意識しつつ続く。
ニコニコ、ニコニコとアリアの顔には笑顔が張り付いており、見るもの全てに興味を持っているかのように彼女は全身の全てを使って周りを観察していた。


ふと、一つのアイスクリーム屋を見やり、目を止めるが、彼女は自分がお金を持っていないことに気が付く。
さすがに彼女もお金というものの存在と、その価値、重要性は理解しており、正に遣る瀬無いといった顔で頬を膨らませて近場にあった木製のベンチにぴょんっとジャンプして腰掛ける。



中々に我慢強い子だ。猫のアリアは、その様子を見てそう思った。もしくは年齢の割りには達観しているのか?
普通の彼女ぐらいの年の子ならば、泣き喚いてでも欲しいモノは手に入れようとするのに。




じーっと両腕で膝の上に頬杖を付き、アイスクリーム屋を無機質な目で眺める彼女にアリアが仕方ない、自分が買ってやるかと思った時──。



横合いから、一つのバニラ味のソフトクリームが差し出された。一人と一匹の眼がそれに釘付けになる。
意外なことに、アイスを持っている人物は大人ではなかった。いや、もっというならば、青年とさえいえない。



子供だ。年齢そのものはアリアと同じか、少し高いぐらいに見える男の子。
淡い紫色の髪の毛をし、背丈は男である故にアリアよりも頭一つ分ほど高い。
だが、彼の最も特徴的なのはその端正な顔でもなければ、全身から発せられる子供とは思えない程のオーラでもない。



眼だ。彼は、眼が普通の人間とはかけ離れていた。
金色の眼は爛々と輝いており、その奥底では得たいの知れない何かが絶えず蠢いているのが見える。
それは知識欲なのか、それとももっと別の醜く肥大化した何かなのかは判らない。



ただ一つはっきりとしているのは、ソレは決して褒められた類のものではないことだけ。


リーゼ・アリアは一瞬だけリンカー・コアを活性化し、思わず戦闘態勢に入ってしまいそうになったが、サーチの結果相手が魔力を持たない
ただの子供であることを確認し、臨戦形態だけは解くが、警戒は怠らず少年をその縦に裂けた瞳孔で見つめ続けた。



紅と黄金の眼が一瞬交差した。



「食べる?」




「うん。ありがとう!」



少年は緩慢な動作でアリアの隣に腰掛け、アイスを手渡した。
満面の笑顔で手渡されたアイスに舌を這わせるアリアを少年は沈黙を保ったまま視線を送り続ける。
アリアが横目で少年に視線を返し、もごもご言いながら口を開いた。真紅の眼が無邪気に細められていく。




「君、名前はなんていうの? 私はアリア、アリア・テスタロッサっていうんだ」



少年は一瞬だけ黙し、数瞬後にようやく言葉を弾ませる。彼は自分自身でさえも困惑しているようだった。




「ジェイル……周りの人はそう呼ぶんだけど、ボクはあんまり好きじゃない。何か宝石みたいで、石ころと同じ感じがする」



「でも、宝石は綺麗だよ?」



「ボクからしたら、そこいらの宝石なんて、興味もわかない」



変なの、あんなに綺麗で光ってるのにと、アリアが訳が判らないとごちる。
次はジェイルからアリアに向けての質問が飛ばされた。
金色の光だけが輝きを増し、アリアの全身をまるで美術品でも鑑賞するかのように眺めているが、アリアは気にも留めなかった。




「君のお母さんの名前はもしかして、プレシア・テスタロッサ?」




それは質問と言うより、既存の情報の確認に近い声音。まるでプレシアを知っているかの様な口ぶり。




「そう、だよ」



アリアは、溶け始めたアイスを零さないように器用に舌を使って、グルグルとアイスの外周を舐めている。
アイスクリームを舐めるのに夢中になり、彼女はジェイルの言葉を半分も聞いていないようだったが、ジェイルにソレを咎める意思はないらしい。
ジェイルは少しだけ指を顎に当ててなにやら考えるような仕草をしたが、直ぐに顔を上げてアリアに視線を送った。



ちょうどテスタロッサの次女は零れ落ちてくるアイスを全て舐め終わったらしく、後はコーンを何処から食べようか思案しているようだった。
そして流すような眼でジェイルを見やる。その姿に一瞬だけジェイルは彼女から明らかな年齢不相応な艶ややかな匂いを嗅ぎ取った。




アリアが膝の上をぽんぽんと叩いて、その上にリーゼ・アリアを乗っけた。頭を優しく撫でやるが、リーゼの眼は相も変わらずジェイルに固定されている。
にこやかにアリアが今度こそは年相応の輝かしい笑顔を浮かべ、少しだけ甘いバニラクリームの匂いが漂う口を開いた。




「私、猫と鳥と魚が好きなんだー、ところでジェイル君はどうしてこんなところにいるの?」




その言葉はただの言葉だったのに、まるで心の奥底までも入り込んでくるような、奇妙な粘性を帯びていた。
例えるならば精神操作の魔法を受けたような奇妙な熱がジェイルの身体の奥底に入り込んでくる。
故に彼は誰に強制されたわけでもなく、真実自分の意思によってありのままの事を話していた。


熱に浮かされるような感触に絶えず襲われながらも、ジェイルは搾り出すように、己の中の情報を小出しにしていく。
本来の彼ならばありえないこと。なぜならジェイルという少年にとっての本来の意味での言葉とは、操り、支配し、相手を自らのペースに引き込むためのモノなのに。




「ちょっと家出中、というべきなのかな。君に話しかけたのはただの気まぐれだよ」




家出中という単語に反応したのは一人と一匹のアリアだった。彼女は身を乗り出して、ジェイルの顔に自らの顔を近づける。




「なにがあったかは判らないけど、速くお家に帰ったほうがいいと思うよ。お父さんとお母さんも心配しているだろうし」




その言葉は、どうやらジェイルの逆鱗に触れたらしい。彼の黄金の眼が濁りを強め、轟々と無音で濁流の如くに燃え上がった。
瞬時の気配の変化にリーゼ・アリアが敏感に反応し、全身の総毛を逆立てる。




「そんなもの……ボクにはいないよ」




心の底から心配する少女の言葉に、ジェイルは脊髄反射の如く答える。
アリアの肩を掴み、逃さないと言わんばかりに獰猛な色を宿した金の眼が輝きを増す。
リーゼ・アリアが牙を剥き、今にも飛びかからんとすると、アリアの小さな丸みを帯びた手がソレを柔らかに制する。



ふと、刹那の瞬間にジェイルは自分が今何をしているか判ってしまったのか、顔を赤らめてアリアの肩から手を離した。
情けない、情けない。何と言う醜態だ。大よそ今までは経験さえしたことのない激情とやらに身を任せてしまったジェイルは小さく左右に顔を振り、アリアに向けて言葉を紡いだ。




「いきなりごめん、ちょっと今悩んでてね。本来のボクはもっと紳士的なんだ……今日はちょっと、調子がどうにもおかしい」



アリアは再度笑った。かわいらしく、見る者全てを虜にするような、眩く輝く笑顔。



「大丈夫! ジェイル君はすごく紳士だよ!  だから──」



もう一個アイスちょうだい、とは続けられなかった。膝に乗せたリーゼ・アリアが前足でアリアの胸を叩き、アリアの眼前に魔力ディスプレイを展開したからだ。




── もうそろそろ大会が始まりますよ。プレシアさんとマスターの所へ帰りましょう?



文面そのものは丁寧だが、リーゼの眼は有無を言わせぬ迫力を持って、アリアに速くジェイルから離れろと告げていた。
アリアが首を傾げ、ジェイルは溜め息を吐いた。どうやら、この不思議と愉快な時間の終わりを感じ、もう終わりなのかと彼は思った。


ぴょんっとアリア達がベンチから飛び降り、ジェイルに向けて小さくお辞儀をする。ジェイルは手を振って、答えた。




「お父さんとお母さん、見つかるといいね」




きっと、意味さえも判っていないだろうアリアの最後の言葉がやけに胸に刺さる。まるで楔の様に。
走り去っていくアリアを見送ったジェイルの後ろにまるで機会を狙っていたかの様にに一台の黒い車が止まる。
そこからダークスーツを着込んだ屈強な体格の魔導師たちが降りてくるのを認めて、ジェイルはまた溜め息を吐いた。




どうやら“家出”はコレで終わりのようだ。
だが、まぁ、収穫はあったと彼はほくそ笑んだ。脳内には、強くアリアの姿が焼きついていた。
少し、自分について、自分が何故産まれたのかについて、改めて考えてみるかと、無限の欲望から産みだされた知恵の怪物は思った。

























面白かった。インターミドルの大会を観賞したプレシアが抱いた感想は純粋にそれだけだった。
大魔導師と呼ばれ、魔法についてはミッドチルダはおろか、次元世界の中でもトップクラスの知識と技術を持っていると自負する彼女をして
今回の戦いは若者達の技巧と努力と発想の柔軟さには驚かされるばかりだ。



だが、それでも猛烈に一人一人に駄目だしをしたくなってしまうのは、先駆者のサガなのだろうか。


例えば、クイントという娘のウィングロードを利用した三次元的なシューティングアーツでの戦闘はド派手で、見る者の肝を抜くだろう。
だが、彼女はもう少し魔力の収束に意識を割くべきだとプレシアは断じていた。あれでは、ウィングロードの強度が少し足りない。


次にメガーヌという少女も中々だったが、彼女の場合は召喚魔法に特化しているようで、主に召喚した蟲たちとの連携攻撃によっての物量戦での戦いを主にしていたが
どうやら彼女は残存魔力量に余り気を使っていないようで、最後は魔力切れを起こしていた。
彼女にプレシアが仮に課題を与えるとしたら、マルチタスクの応用で常に自らの魔力量とリンカー・コアの魔力蒐集率を気にかける癖を付けろというだろう。



コーディの娘のリンディは圧倒的な魔力による制圧攻撃を主としていたが、どうにも彼女は大規模魔法に頼りすぎている気がした。
もっと小規模で操作性のよい魔法などを鍛えておかなければ、相手が詠唱中や、攻撃を掻い潜って接近してきた時に酷い目に合わされるのが予想できる。
とりあえずは、コーディの危惧のように脱がされることはなかった。観客の中には落胆しているモノもいたが。




なるほど、しかしさすがは管理局の執務官の娘だけあって、素質はかなりのモノだ。


後10年か20年、しっかりと経験を積み、修練を欠かさなければ、全盛期の自分とも互角に渡り合えるかもしれない。
まぁ、コーディの娘と争うことなどありえないと断言できるが、とプレシアは小さく心の中で肩を竦めた。




優勝者はクライド・ハーヴェイという青年だった。彼はギル・グレアムの弟子であり、彼にみっちりとしごかれたらしい。
魔力ランクそのものはAA程度だが、彼はとにかく魔力の運用の上手さと、魔法の使い方の発想が群を抜いている。
決勝は彼とリンディの一騎打ちとなり、結果彼がリンディのライフをじわじわと削り、0にしたことで勝利が決定した。



バインド一つにしても、物体の投擲から、相手の捕獲、もしくはゴムの様に伸び縮みさせて、縄の様に使っての移動など、面白い使い方を見せてくれており
プレシアをしてなるほどと思わせることさえあったほどだ。アリアなどは彼のファンになったらしく、彼に終始熱い視線を向けていた。



確かにいい男だが、娘は渡せないとプレシアが思う程にその眼は熱かったのが気になる。
まぁ、今となってはその心配は杞憂になったのだが。








「今日は素晴らしいイベントに誘ってくれて、ありがとうございます」





既に大会は終わり、夕闇がミッドチルダを覆いつくしていく時間の中、会場の入り口でプレシアはグレアムとコーディの二人に軽く会釈をしていた。
深々と頭を下げられるのを嫌う二人には、このぐらいが丁度いいとプレシアは既に学習していた。
それに、背中に安らかに眠る娘を抱いたままでは身体を曲げることなどできはしない。




「送っていこうか? 何なら、このままクライドの奴の優勝記念パーティに参加してもいいんだぜ」




「いえ娘を家に帰したいですし、それに何よりも邪魔してはいけないと思いますから……一人で帰らせてもらいます」




チラリと少しだけ遠くを見ると、そこには緑髪の少女、リンディと優勝者のクライドが仲睦まじげにたどたどしいながらに会話をしているのが見えた。
何を言っているかなどは判らないが、プレシアの女性としての経験は、甘い何かを感じ取り、頬を緩ませた。
それに気が付いたのか、逆にコーディは口の中にブラックコーヒーを突っ込まれたかのように苦々しく顔を歪ませる。



そんな彼に、プレシアは小さく耳打ちをする。



「あまり娘の行動を束縛すると、嫌われますよ。私がそうでしたもの」




一瞬、コーディの眼が大きく見開かれ、次いで餌を奪われた子犬の様な顔になったのを見て、プレシアは噴出しそうになったが、何とか堪えることに成功した。
グレアムは相も変わらず両肩に双子の使い魔を乗せて腕を組んで無言を貫き通しているが、心なしか纏う雰囲気が柔らかく感じる。
彼も弟子が優勝をしたのは嬉しいのだろうか、よく顔を見ると口角がつり上がっていた。



今話しかけるのはやめて置こう。何だかは判らないが、嫌な予感がする。





「……ぅ」




背中の娘が身じろぎするのを感じ、プレシアの心中に少しばかりの焦りが生じる。
もうこの季節は夜の時間は寒く、このままにしておいてはアリアが風邪などをこじらせるかもしれない。
大人の都合で娘に辛い思いをさせるなど、絶対にあってはならないのだ。





「では、これで失礼しますわ。アリアを休ませてあげたいですから」




「そうだな、ゆっくりと休ませてあげたまえ。子供はよく遊んで、よく眠るのが仕事なのだからな」




グレアムが微笑みながら語り、リーゼ・アリアが前足で器用にも人間のバイバイという動作を再現する。
やはり、使い魔を創ってみるのも悪くないか、そろそろ家族を少しだけ増やすのも中々にいいかもしれない。




そうしたら、アリアの友達でもやらせてみるか、とプレシアは未来に想いを馳せた。








あとがき



お久しぶりです皆様。
闇の書編で一度エネルギーを使い果たし、充電に手間取りました。
なのはGODが今からとても楽しみです。







↓ ほんの僅かだけ続きます。






















優雅に踵を返し、自らの車が停車している駐車場を目指しプレシアは歩く。
背から感じる小さな鼓動と寝息が本当に心地よい。必死に自分にしがみ付いてくる小さな手の何と愛しさか。








「ねぇ、お母さま」



不意に眠っていたはずの娘からの声。
寝ぼけているのか、その声にはいつもの元気など欠片もなく、無機質で、淡々とした声音。




「なぁに?」




「お母さまは、今、しあわせ?」




一瞬、母の心臓が跳ねた。アリアにはまだアリシアの事は余り話せてないのだ。
アリアが知っているのは、アリシアという姉がいたということと、自分はアリシアと同じ遺伝子を持つということぐらい。
ならば、何処かアリアは自分がアリシアの変わりになれているか、などという不安があったのだろうか? プレシアはそう考えた。





「えぇ、私……今が最高に幸せよ、本当に貴女が産まれてきてくれて、嬉しいわ」



それはプレシアの心の底からの想い。一度は全てを失い、這い上がった彼女の生きる理由。
アリアは答えない。そのまま眠りに付いてしまったのか、ギュッとプレシアに抱きついたまますーすーと寝息を立てるだけ。



プレシアは幸せを噛み締めながら、帰路を急いだ。今日はアリアに何を作ってやろうかと考えながら。










彼女は気が付けなかった。背に抱いた娘の口角が、歪につり上っていたことを。
アリアの紅い眼が、爛々と燃える様に一瞬だけ輝いていたことを。







経済にせよ、栄華にせよ、そして人の人生も、万物は昇りきれば、後は堕ちるだけなのだ。






[19866] 24
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/12/30 21:12




古今東西、ありとあらゆる物語において、ストーリーには山と谷を求められる。
延々と同じ様な日常を追う作品にも味はあるが、やはりソレを好まない視聴者や読者というのも居る。
何故ならば彼らは、自らの心と感性を刺激されることを望んでいるのだ。



即ち、穏やかな流れの後には激流を、心温まる安堵を超えた先には登場人物に同情してしまうほどの悲哀を。
そして、誰もが笑顔になれる幸福の後には全ての者が遣る瀬無さと怒りを覚える不幸を。
物語を楽しむには、そういった山場とイベントが必要不可欠である。




人の一生はその点では、結末もイベントも判らない物語と言えるかもしれない。









新暦49年 前期






プレシア・テスタロッサは幸福だった。
娘と共に水入らずの時間を過ごすことが出来、娘を抱きしめることが出来、そして娘に愛されることが出来るのだから。
アリアの熱を感じるとき、彼女はアリシアを焼いた炎の悪夢を忘れることが出来て、アリアの笑顔を見るたびにアリシアの息吹を確かに肌で感じたのだから。



もしも、彼がもっと長く生きていれば、アリシアとアリアを並べてみることも出来たのかもしれない。
あら、私としたことが、とプレシアは今自分が思い至った考えを冷静に分析した結果、頬を赤らめる。
もう30も過ぎたおばさんがこんなことを考えるなんて……と思うと更に恥ずかしくなってしまい、半ば俯いた形で彼女は作業を行っている。




明るく清潔な白い空間、キッチンにプレシアは立っており、今正に自分は料理中なのだという事を思い出して彼女は再度眼の前の事に集中。
手に握った銀色に光る刃物にバランスよく力を込めて振り下ろした。



トントントンとリズムを刻むような軽快な音がキッチンを満たし、その度に一つずつ食材が規則正しく切られて行く。
規則正しく包丁が振り下ろされ、まな板の上にある野菜やお肉などを鍋に入れやすいサイズにまで整えた後に、既にスープとして形になりつつある鍋の中にやさしく投下。



本来ならばアリアも手伝ってくれるのだが、今日はそうもいかない。
新年が明けて早々、アリアは風邪に掛かってしまったのだ。
そのためにも体力を付ける食べ物を与えなければならない。



母親として、ここが腕の見せ所だった。
昔も同じようなことがあったが、あの時は彼がアリシアの世話などをしていて自分は仕事ばっかり。
アリシアに構ってあげられず、ソレが彼女の後悔の一つとして大きく残っていたのだ。




「お母さまぁ、今日のご飯は何にするのー?」




既に食卓について、光る眼で自分を見つめてくる娘の顔はやはり熱のせいか紅い。声も少しばかり割れているような気がする。
マスクを付けて、潤んだ眼で見つめてくる娘にプレシアは優しく諭すような声で答えた。
ふふふと絹のように柔らかく笑って、右手の人差し指を小さく横に振りながら。





「さあて、なんでしょー?」




「……カレー!」



両腕を大きく掲げて好物の名前を叫ぶアリアにプレシアは溜め息を吐いた。




「はずれ~、風邪の貴女に、喉に負担が掛かるモノを食べさせるわけないでしょ」




えぇーっと肩を落として残念がる娘のおでこに手を当てて熱を測る。
じくじくと薄皮の下にある血流を計り、体内がどれほどの熱を出しているかを観測したプレシアは小さく顔を顰めた。
何と言う熱さなのだろう、これでは本当に救急車を呼ぶことも視野に入れなければまずいだろう。




まだ熱が下がらない。どうしてだろうか。既に必要と思われる薬は与えたはずだし、十分な睡眠もとらせた。
食べ物の栄養価や消化性のよいモノのバランスなども完璧に考えたはずなのに。
こんな時に彼が居ればあっという間に解決してしまうのだろうが、残念ながら彼は今頃はお星様の上に逝ってしまった。



とりあえずは今日一日様子を見て、明日も変わらないようだったら病院に連れて行こう。
本来ならば今日連れて行きたかったのだが、今日は休日で病院は休みだ。


時の庭園の中にある医療器材だけでは荷が重過ぎるのかもしれないし。
それにもしかしたら風邪ではなく、インフルエンザに代表される感染病の可能性も考えられるだろう。




その場合は、コネでも使ってクラナガンの中央病院へ連れて行こうか。あそこならば施設もスタッフも薬も完璧だ。
様々な情報をベルトコンベアーの様に頭の中で流しながらもマルチタスクの応用で家事から手を離さずに彼女は思考を巡らしていく。
その様子をアリアは沈黙し、身体を左右に揺らしながら見ている。



どうにもその視線が気になったプレシアは一度鍋をかき混ぜる手を止めて、アリアに顔を向けた。



視界に入って、まず一番眼を惹くのが真っ赤な紅い眼、あの人譲りの金髪とその眼を見るとプレシアは心が癒されていく。
小さくて華奢な身体は病のせいか、いつもよりも小さく見える。そして、ふと、今思い出したかの様な口調で娘は口を開いた。
もごもごとマスクの下で小さな口が動き、空気の流れを言葉に変えていく。





「お母さまって、昔はすごい魔導師だったんだよね?」



キラキラと輝く眼の中に、プレシアには娘が以前見た大会の光景が見えた。
アレからアリアは魔導師というものに興味を持ったらしく、様々な書物やデータを読み漁っているのを彼女は知っていた。
幼い子が知的好奇心で異常な行動力を見せるのは何も珍しくなど無い。


だが悲しいことにアリアにはリンカー・コアはなく、魔法の行使など不可能なのだ。


だが不思議な事にそれを伝えたときにアリアは対してショックを受けたわけでもなく、事実をありのままに受け入れていた。
娘が泣き出すことに備えて23通りの対処法を考えていてプレシアとしては拍子抜けしたが、それはそれで構わない。



プレシアの脳内に娘の言葉で思い出されるのはあの忌まわしいアルゴ・レルネーの崩壊した絵。
全てが灰銀に食いつぶされ、延々と堕ちていく光景は正にこの世に現出した地獄としかいえない。
名を付けるとすれば【死蝕】とも思えるアレは本当に酷い。


草木も、動物も、水も、空気も、空間さえも灰銀に侵食され続けるアルゴ・レルネーは今頃は異界と化しているのだろう。



思いっきり不機嫌な顔になりそうになるのを勤めておさえながらプレシアは答える。







「いきなり何を言い出すのかと思ったら……そうよ、私は凄かったの。バリバリの魔導師で実戦から研究まで何でも来い! ってね」



弱体化した今でもそこらへんの強盗ぐらいなら指先一本でちょちょいよ、と囀りながらポーズを決めるプレシアにアリアが拍手を送った。



そう、確かに自分は魔導師としては完璧な人生を送っていたのだろう。資金にも困らず、社会的地位も権威もある。
実力もあり、方々に顔が利き、それでいて我ながら社交性もよかっただろうと自負できる。
そも、オーバーSランクのリンカー・コアを持って産まれたこと自体が自分にとっての最初の財産だったのだろう。




だが、だ。プレシアは思い知ったことがある。それは持っている素質と、本人が望む生き方は決して合致して産まれるわけではないことを。
自分は今なら断言できる。魔導師としての名誉や地位、社会的権威など要らないと。
私はただ、家族と共にあれる平穏が欲しいだけだったのだ。




困ったことにそんな簡単な事実に気が付くまでに様々なモノを失ってしまった。





「でも、何でお母さまは今は魔導師じゃないの?」




「それは……」



プレシアの口が停止した。言うか言うまいか、胸中では二つの選択肢が天秤に吊るされてその重さを量っている。
言ってしまえ。どうせ隠し切れるものではない。言うな。まだアリアには早い。二つの選択肢はどっちも正しいようにプレシアには見えていた。
何故ならば、プレシア・テスタロッサが魔導師を辞めた理由はアリアの姉であるアリシア・テスタロッサの死が深く関わってくるから。


自らの誕生理由と姉の死。ヒュードラ事件の真相。
幼いアリアにそんな話をしてどうなるというのだ。まだ7歳を過ぎたばかりのアリアにそんなことを言ってもどうせ判るまい。
それにここで語ったら、確実に自分の主観が混ざった愚痴のようにもなりそうなのが怖い。





だが、だ。眼前でこちらを見据えてくる娘の眼を見ていると、どうにも嘘をついたりお茶を濁した答えが出来ない自分が居るのも事実。
子供の頼みは、断れない。





「アリア……今からとっても大切なお話をするわ。最後まで聞ける?」



声のトーンを落とし、無機質な声音になった母親の問いにアリアは無言で頷いていた。
























そこからはあっという間だった。夫との出会いと別れ。アリシアの誕生と死。アレクトロの上層部に吹っかけられた無理難題。
アルゴ・レルネーの崩壊と破滅。そして自分が見たヒュードラの中身と、おぞましい三眼の存在。
何もかも全てをプレシアはアリアにぶちまけていた。


その全てをアリアは時々咳き込みながらも沈黙を保ったまま耳を傾けており、言葉一つ一つにリアクションを返す。
悲しい話には泣き、理不尽な話には怒り、楽しい話には母と一緒に笑い。今までプレシアが歩んできた軌跡全てをアリアは受け入れていた。
アリアの興味を惹いたのはプレシアの夫の話と、ヒュードラ関連らしくアリアは自らの胸中で生成した疑問を母にぶつける。






「お父さまって、お母さまから見てどんな人だったのー?」




机の頬杖を付き、ニコニコと紅い顔で笑いながらアリアがプレシアに問うた。
自らの遺伝子上の父親は母に何と思われていたのか気になったのだろう。
そんな娘の言葉にプレシアは両手を胸の前で組んで、遠い過去に思いを馳せながら一言ずつ、ゆっくりと染み出すように時間を掛けて答えていく。



「そうねー……一言で表すなら“平凡な人”だったわ」



「平凡?」




「そう、外見は至って普通で何処にも居そうな男の人だったわ。でも、余りにも平凡すぎて逆に見つけるのが難しいくらいかも」




ふふ、と黒髪を揺らして艶やかに笑う。
ミッドチルダでは生まれつきの金髪など珍しくもないし、あえて彼の特徴をあげるとすればあの綺麗な赤い眼だけだろう。



だが、彼は外見的特長を補って余りある魅力的な男性だった。厳しいところもあるけど、それだけではなくちゃんとユーモアもある。
リラックスするときはしっかりするし、家事に仕事もこなせ、様々なところからの人望も厚い。
優しさと甘さを履き違えない理性的なところもあったし、いざとなったらの行動力も備わっており、性格的には完成された大人だった。


想い出せば出すほど、惚れ気話になりそうな予感がしたので、女は一度彼に関して思い出すのをやめることにする。
しかし、そのまえに一つだけ修正しとくべきところがある。



ここは少し表現を変えなければならないだろう。
じゃなければ、このプレシア・テスタロッサの心をここまで掴むことなど出来ないのだから。




「ごめんなさい、訂正するわ。彼は“魅力的な人”だったの」





くすくすとアリアが笑う。心底おかしそうに、この会話を楽しむように。理知的な雰囲気を伴いながら。
それは幼いながらも同じ女として母の惚れ気に触れて火傷してしまいそうだからか、それとももっと別の何かが理由か。


一しきり笑った後、何度か咳き込んだアリアが笑顔を崩さずに息を吸い込み、言葉を吐き出す。
ぜーぜーと喉が鳴っているのを見て、この話が終わって食事を採らせたら直ぐに寝かせるべきだとプレシアは思った。




「もう一つだけ聞いていい?」



「えぇ」




アリアは何時もの様に無邪気な笑顔で、言った。
一片の悪意も無く、不自然さを感じるほどに純粋に過ぎるほど、鮮烈な言葉を吐いたのだ。





「お母さまが見たヒュードラって、どんなのだった?」




刹那、空気が凍った。
だがプレシアはこの問いが来ることは既に予想いたことなので心を入れ替え真正面から娘と向き合い、息を整えた。
想い出す。思い出したくなどない過去の悪夢の象徴を、心の奥底まで焼き付けられたあの存在を想起させる。


だが、彼女は優秀な研究者であるが故に恐怖一色だけではなく自らの組み立てた仮定の元にヒュードラについて語る。
恐怖だけでは、逃げているだけでは駄目なのだ。あの存在に向き合うには。




「正直な話、よく判らないわ。アレは……そうね、例えるならば実体の掴めない“影”の様な存在、それも恐ろしく絶大な力を持った。
 恐らくアレは自分の意思を持っていると私は考えているの、でなければ会話なんて出来るはずもない。ヒュードラって名前も便宜上のモノで本来の名さえもわからないのよ」




「話したの?」




両手を頭の脇にやって、うんっと背伸びをしながらアリアが紅い眼を覗かせながら言った。
プレシアは苦笑いを浮かべて、恥ずかしそうにそっぽを向いてから吐き捨てるように言葉を紡いだ。



「一方的なモノだったけどね。私はあの時狂乱してたから会話は成り立たなかったけど、人間の言語をしっかりと理解して使っていたわ」




苦々しい想いがプレシアの身体を満たす。あのおぞましい化け物はよりにもよって彼の声で、口調で、言葉を使ったのだ。
何故だかは判らないが、恐らくアレは相手の記憶を読む能力も備えているのだろうとプレシアは考える。
でなければ、夫の事をしっているはずがない。





「………家族の名前もないんだね、ヒュードラって」




ぽつりと呟いたアリアにプレシアは奇妙な違和感を覚えた。
言葉そのものは哀れみを覚えているようなモノなのだが、口調がどうにも変だったのだ。
まるで、今その事実に気が付いたかのような、そうか、そうだったな程度の軽さを孕んでいる奇妙な相違感。




何だ? 何がおかしいのだろうか。




プレシアの頭脳が回転を始めようとした瞬間、その思考はアリアが激しく咳き込みはじめたことによって断絶される。
今までとは明らかに違う咳。血でも吐いてしまいそうな程に激烈なソレに思わずプレシアはリンカー・コアの痛みなど無視して魔法を行使していた。
紫色の柔らかい魔力光が部屋を満たし、ミッドチルダ式の体力回復形の魔法を使用。



じくじくと胸が痛むが、そんなものは何も問題なかった。アリアの事は全てにおいて優先されるのだから。
暫く魔法を浴びたアリアの顔色がよくなったのを確認し、プレシアは胸をなでおろし、ゆっくりと丁寧にアリアを抱き上げた。




「ご飯はいいわ。もう今日は寝なさい。明日、病院が開いたら一緒に行きましょう」




真っ赤な顔をし、真紅の瞳に疲労の色を覗かせながらアリアは息も絶え絶えに胸の中で頷く。
眼の下に隈を作り、ぜーぜーと肩で掠れた息をしているというのに、その姿は何処か妖艶で美しい。
プレシアは思った。自分がアルゴ・レルネーでずたぼろになり、病院に担ぎ込まれた時もこんな姿だったのだろうか、と。






「うん。お母さま“おやすみなさい”」





プレシアの耳に、その言葉は焼きつくように残った。
























翌日、プレシアは何時もの様に自室で眼を覚ました。時計を見ると、まだ日が昇ってそう時間は経っていない。
彼女は既に眠気の払い方など身にしみて覚えているが故に今日やることを即座に理解し、ベッドから飛び起きる。


さっそうと寝巻きを脱ぎ、黒を基調とした私服に着替えると寝巻きを洗濯籠に突っ込む。
些か雑ではあるが、娘の事を考えるとこれも致し方ない。昨日の咳といい、一向に下がらない熱といい、どうにも様子がおかしい。
これは一度病院に連れて行って、精密検査を受けるべきだろう。



頭の中で幾つもの理屈と理論を組み立てながらもプレシアの事を凄まじい速さで突き動かすのは焦燥という感情。
娘の始めての大きな病気というのもあるが、何故だかはわからないが嫌な予感が朝起きたときからしたのだ。
理屈ではない。そう、母親のカンなのかもしれないし、違うかもしれない。




ただ、どうにもいてもたってもいらない。胸騒ぎが止まらないのだ。
着替え終わったプレシアは昨日あらかじめ用意しておいたバッグの中身の財布と保険証をしっかりと確認し、娘の部屋の扉をノックする。
眠っている娘の顔を見ればこの不快感も消えると信じて。



一回。いつもはコレでは起きず、数回ノックする必要がある。
二回。さっきよりも激しく、何度も叩く。通常ならばこれで返事が返ってくるはずなのだが、今日は違った。



返事が来ないのだ。病気で答える気力もないという可能性もあると判断したプレシアは迷わずに扉を開けた。




「アリア、起きてる? 今日は病院に行くからおきなさい」




部屋の電気をつけて、回転式の天井を朝の顔にしながらプレシアがアリアのベッドに向かう。
いつも通りアリアはそこで横になっている。顔はよく見えないが、仰向けで安らかに眠っているのだろう。




と、ここでプレシアは奇妙な違和感をアリアから与えられた。
横になっているアリアは眠っているのだろうが、何処かいつもと違う。


最初は小さく。そして徐々に高濃度のシンナーがプラスチックを溶かすようにその矛盾と疑問は大きくなっていく。
そして産まれた違和感は焦燥と融合して、恐怖となった。





「アリア!」




叫ぶように声を張り上げ、娘のベッドに駆け寄り毛布を引き剥がす。
顕になった寝巻きを着込んだアリアの身体を触ると昨日までの熱が嘘の様に消え去り、冷たくて、そして娘の身体は棒の様に堅かった。
心臓が早鐘の様に激しく鼓動を刻む。身体の奥底に奇妙な熱が宿り、それは稀代の天才であるプレシアを異常なまでに冷静にさせた。


べたべたと遠慮も無く全身を触られているというのにアリアは眼を覚まさない。



嘘だ。ありえない。これは何かの間違いだ。
プレシアは自分にそう言い聞かせた。




「おきなさい……朝のご飯にしましょう」





食いしばった歯の間から言葉が漏れた。それは吐き出すだけで少し気分がよくなる魔法の言葉だ。
後はアリアが起きて寝ぼけた顔で答えるのを待つだけ。





──お母さま、おはよう! 今日のご飯は何?




だがアリアは言わなかった。それはプレシアの脳内に残ったちっぽけな記憶が過去の映像を再現しているだけだ。




ぶるぶるとみっともなく震える自らの手をアリアの胸に当てると……既に鼓動はなかった。



















「恐らく風邪によって何らかの合併症が引き起こされたのでしょう。もしくはウィルスが心臓などの重要な器官に侵入し機能不全を──」




いかにもとって付けたような悲痛な顔で医者が淡々とアリアの身に起こった出来事を医学的な見地から報告してくるのを
プレシアは何処か夢心地で見ていた。どうにも身体がふわふわしてたまらない。
そもそも、ここは何処なのかさえも判らない。全てが色あせて見えるのだ。


ここにどうやって来たかさえもよく覚えていない。魔力を無理やり搾り出して、空間転移の魔法を使ったことまでは覚えているのだが
何故こんなところに自分がいるかさえも判らない。




何故だろう? どうして、私はここにいるのだろう。
あぁ、と頷く。そうだ。自分はここにアリアの風邪の診断の為に来たのだ。





「アリアはどれぐらいで起きますか?」





母親として当然の事を問うと、担当の医者は更にその顔を辛苦によって歪める。
たかが風邪に何故そこまで妙な顔をするのか、全く意味が判らなかった。


どうして、そんな今にも泣き出しそうな、哀れなモノを見るような眼で私を見ている?
私がそんなに哀れに見えるのか? 速く、アリアの診察結果を教えなさい。
空っぽだった胸の内側を急速に怒りを占めていく。ドロドロで、濁りきったソレはリンカー・コアに注がれ、魔力を生成していく。




途端に胸部に激痛が走るが、それさえもどうでもよかった。高ぶりきった魔力が一本の剣を形を取り、ソレを医者の首に突きつける。





「アリアは、いつ起きるんですか?」




そうだ。アリアはおやすみなさいと言った。ならば眠っているのだろう。
昔からアリシアと同じくアリアは寝起きが悪い。このままじゃ大人になったら遅刻癖が付いてしまうから、速く治さないといけないのに。



アリシア? アリア? アリシアとアリアは、どう違った? 
アリシアとは、誰だ? 私の娘はアリアだ。アリシア……?




「プレシアさん……落ち着いて、現実を見てください……」





医者が蒼く染まった顔で搾り出すように何かをほざいている。アリアが死んだ? 馬鹿を言え。
眠っているだけの子供にそんな診察結果を出すなど、馬鹿馬鹿しいほどに藪医者だ。
こんなゴミの様な、医者免許を持っていることさえ疑わしい屑は、少し痛めつけてもいいだろう。



更にリンカー・コアにアクセスし、周囲の魔力素を取り込もうとすると、途端に痛みが走る。
この程度ならば我慢できると思った矢先、更に、想像を絶する痛みが腹部に走り、思わずプレシアは倒れこんだ。


みすぼらしく、滑稽に地をはいずりまわり、何とか力を振り絞って医者のズボンを握りつぶすように掴む。
はやく、はやくアリアを起こせという意思の元に。





これは反動なのだろうか。魔力の行使の? 違う。今まで幸福であった分の。
本来辿るべき世界では、彼女の濡れ衣はなくならず、娘の死は絶対の重荷として彼女に乗りかかり、決してソレを乗り越えることを許さないはず。
だが、この世界の彼女は違った。娘の死を乗り越え、新たな希望を授かり前へ向って歩き出すことに成功したが、本来ソレは起こりえない事象だったのだ。






痛い、痛い、痛い。この世のありとあらゆる拷問を受けたかのような、壮絶極まりない苦痛。
生理痛を何千倍にも増幅させたような、腹部を直接熱した金属質の棒でかき混ぜられる如き鈍痛。




「ぎ……がぁっ……あぁァアア!!」





野蛮な獣の様なおぞましい奇声を発し、床をのた打ち回るプレシアを医者は暫く呆然とした顔で見ていたが
ここは何処で、自分の職業が何かを思い出した彼は即座にプレシアの異常に気が付き、緊急のコールを職員の待ちうけ所に送った。



















暴れまわるプレシアを何とか拘束して行った精密検査の結果、子宮頸癌と判明。
病状はかなり進行し、すでに彼女の子宮にはかなりの転移が見られ、薬物や魔法などでの治療は不可能と判断。




同日、緊急手術の末に彼女の子宮は切除された。
発生の原因は恐らく、リンカー・コアの汚染などの様々な要因が重なったと見られる。
恐らく、プレシア・テスタロッサが過剰に摂取した灰銀の魔力は、アルゴ・レルネーだけではなく、プレシアの細胞の遺伝子をも破壊したのだろう。



それは時限爆弾の様に彼女の体内に潜み、爆発したのだと推測される。
天文学的な確立でガンは子宮に発生し、天文学的な確率で、アリア・テスタロッサの死にあわせて一気にその姿を表に出したのだろう。


今の所、他所への転移は見られないが余談は許されない状況である。


そして、同じく同日。プレシア・テスタロッサの娘、アリア・テスタロッサの死亡を確認。
死因は推察になるが、風邪によって心身共に衰えた所に新たなウィルスに感染、ウィルスが重要な器官に侵入し幼い彼女の免疫能力の限界を超えて力尽きたと判断。





【以上。診察カルタ及び、報告書より】




そうして、プレシア・テスタロッサはもう一度全てを失った。
彼女は二度目の愛別離苦を味わうのだ。これから彼女には永遠に例えようがないほどの喪失感が付いて回る。
夜寝るときも、食事を取るときも、片時も離れずにぽっかりと空いた巨大な穴から喪失という膿が溢れ出るのだ。



























新暦49年 オルセア帝国 バラルの塔







ルアフ・ガンエデンの座する巨塔の玉座の間の扉が無遠慮に開かれ、ルアフは顔を上げた。
彼の前に存在するモニターにはオルセアの現状が映し出されており、ソレは必ずしも現状がよいものではないと報告していた。
トーマ・フィーニスとルアフ・ガンエデンの戦いはオルセアという惑星全土にかなりの損害を出し、あれから数年たった今でもその復興などにかかりっきりなのだ。



地軸が少しずれたことによる気候の変化などに対応をとらされて、思うように軍を作っての次元世界への進出が出来ずにいる。
死んでからも尽く僕の邪魔をしてくれる男だとルアフは既にこの世に居ないだろうトーマを力の限り罵る毎日を送っていた。
資源を掘り出すのも、巨大な次元航行船を作るのにも、そして次元世界を手に入れるのも、全て帝国という基礎をしっかり固めねばならない事ぐらいは彼も知っているのだ。



しかし今日はどうにもいつもとは違う日になるらしい。念動力が告げたのは忘れようも無い存在の気配。
満ちるのは灰銀の全てを塗りつぶす恐ろしい感触。そこにいるのに、存在を感じるのが難しい蜃気楼の様な不安定さ。



そして、オルセア帝国の教祖は帰還を果たす。




『お久しぶりです陛下。また貴方と出会えて、私は嬉しいですよ』




真紅のマントとローブに、銀色の無機質な仮面。掘り込まれた三眼が金属質に輝く仮面の男は堂々と玉座の回廊を歩いてくる。
何も変わっていない。アレから10年近く経ったが、既に人であることを辞めたルアフの外見は変わっていないし、ヒドラも然り。
僕は君に会いたくなかったけどねとルアフは内心ひとりごちた。どうにもコイツを見ていると、寒気に襲われる。




『こういうのを、何といえばいいのでしょうね? 感動の再開と表すべきなのでしょうか? あぁ、それはこの後か』




ふむふむと仮面の調子を確かめるように白い手袋をした手で表面をなでながら呟くヒドラにルアフは溜め息を吐く。
明らかにお前が仕込んだとしか思えないあのトーマ・フィーニスの反逆についてなど問いただしたかったのだが、やめておく。



こいつにはどうも口で勝てる気がしない。




「9年も何をやっていたんだい? まぁ、君の事だから碌なことじゃないと思うけど」



悪意を隠そうともせずに飛ばしてくるルアフの嫌味にヒドラは上機嫌な声音で指を組み、胸の前に当てて答える。




『少し運命の種を蒔いて来たのですよ。後々のために……それと、とある方へのプレゼントを、ね。いや、実に幸福な時間でした』




一仕事終えたかのような心地よさを漂わせながらヒドラは囀る。中々に悪い時間ではなかったと。
事実、それは一切の悪意も嘲笑も込められておらず、彼自身中々に悪くなかったと思ってはいた。



捨てる際に一切の躊躇いを見せなかったのも彼らしいといえば彼らしいが。



何時の間にかルアフの隣まで歩いてきていたヒドラが、そこにあった黒光りする大理石の椅子に腰かけ、ゆっくりと顔をルアフへと向けた。
そこでいきなり彼はまるで昼食のメニューを決めたかの様な気楽さでルアフへと切り出す。
不気味に、金属の眼が輝いたような錯覚をルアフは覚えた。


何故だか知らないが、今日のヒドラは妙に気分が高揚しているようだ。こいつが誰かとの再会など喜ぶはずがないのに。




『ところで、今日は9年ぶりに再会となる貴方へのお土産があるのです。そしてもう一つ、貴方に告げたいこともありますよ』




「お土産?」




顔をかしげる。こいつの心は読めない以上、お土産がどんなものなのかなど、今までの会話から推測するしかないのだが霊帝にはさっぱりわからなかった。
そんなルアフに慈父の様な穏やかな声音でヒドラは囁く様に呟き、そして大仰な動作で先ほど開かれた玉座の入り口へと手を伸ばす。
何かを握りつぶすかのように拳を作り、そのまま緩やかに開くと、そこに奇跡は起こる。




刹那の後、玉座の間、ルアフの眼前に一人の人影があった。瞬きさえも置き去りにする一瞬の後につれて来られた人物を認めたルアフの顔が驚愕に染まる。
金糸の長髪に、蒼い瞳。健康的な白い肌は年を重ねても色あせることなく美しい。間違いなく、世間からの評価は美女だろうと思われる一人の女性。



そこにいたのはルアフ・ブルーネルのかつての母、アネット・ブルーネル。ルアフ・ブルーネルを殺害し、ルアフ・ガンエデンを産みだした因子の女。




『ほら? 感動の再開ですよね』




仮面の男の声は疑問に溢れていた。彼は少し気になっていたのだ。今のルアフとかつての彼の母を合わせたら、どのような反応を起こすかが。
ちょうど今までは理想的な母親の姿を間近で見ていたからこそ、その疑問は昇華され、やってみようとなったのだ。
ヒドラの声など既にルアフの耳には届いていない、彼は熱病に浮かされた病人の様に玉座から立ち上がり、ふらふらとかつての母の元に歩いていく。



さて、どうなる?



ヒドラは幼子のような純粋な好奇の視線をルアフとアネットに向け、その全てを固唾を呑んで見守っていた。
幾つかの未来の可能性が脳裏に浮かぶが、意図的にその全てを消し去り、彼はこの世界の確立のなるがままに身を任せている。
あのアネットは本人だ。彼女はどうにかあの国家解体の夜を生き延びて、スラムの端っこで細々と生活していたのを
ヒドラは連れてきたのだ。息子が帝国のトップであると知ったときの彼女の喜びようときたら、それは凄かった。



だが、断じてアレは息子が生きていることを喜んでいるのではないだろうが。
恐らくは、自分が息子の母という立場を理由に帝国内での地位を得られると思ったからの歓喜だろう。


ルアフは、心を読めるが故にその全てを満遍なく察したはずだが、さて。




───私は最初から貴方の事が大嫌いだったのよ!!!



あぁ、と懐古の情と共にルアフの顔に亀裂が走った。ちろちろと胸の奥底で黒い炎が灯される。
彼はそのまま心の赴くままに、躊躇いを見せず力を母に向けて使う、かつて気に入らない子供の内部を粉砕した時の様に。




「ルアフ……私の可愛いル……!?」




歪に貼り付けられたアネットの笑顔と言葉が途切れる。
アネットが両腕を抱きしめるように広げルアフを抱きしめようとするが、突如彼女は首を押さえ、苦しみ出す。
水中でもがくように空気を求めて手を様々なところにやるが、その全てが無駄に終わり、彼女の顔に絶望が浮かび上がる。


念動力による首絞め。直接肺と気管に干渉し、アネットから全ての呼吸を奪い取ったのだ。
あえて息を吐くことだけは許しているらしく、アネットは無様にヒューヒューと身体中から全ての酸素を強制的に抜かれていく。
床に崩れ落ち、無様にじたばたと暴れるかつての産みの親をルアフは、何処までも冷酷な目で見つめて、笑みを浮かべる。



そのまま白目を剥いて泡を噴き始めた母の耳元にゆっくりとしゃがみこみ、慈愛さえ孕んだ声でルアフは優しく囁く。
ルアフの少年の指が、母親の頬をなで、顔を掴んで自分に振り向かせる。
既に自分さえも見えていないだろうが、それでもルアフは続ける。




「遅すぎるよ、何もかも。でも安心してよ、貴女は仮にとはいえ僕の母さんだったんだ。それなりの待遇は約束する」




まさか殺してもらえるなんて、そんな甘いことを考えていたのかい?
ソレはかつてシグナムやトーマに行おうとした行為。取り逃がした彼らに代わって、アネットに体験してもらおうという特上のルアフの誠意。



ヒドラに念動力による通達が送られる。かつてイクスヴェリアを生かしていた薬品と様々な機材をもってこいと。
そして新たに彼が望むのは記憶の再ロード機。液そのものが人が生きるのに必要な栄養を全て含んだ芳醇な液体。
そして、このオルセアで最も優れていると言っても過言ではないほどの、人を脳髄だけで生かすことも可能な残酷きわまる生命維持装置。


これらがあれば、とても面白い作品が出来るだろう。
作るのは標本。本来は昆虫などが対象のソレだが、ルアフのそれはもっと新鮮で、もっと狂気的だ。




なるほど。殺さないのかとヒドラが頷く。さすがのルアフも母を殺すなんてそんな無体な真似は出来ないらしい。



最も、アネットからしてみれば殺されたほうが楽かもしれないが。
ヒドラが合図を送ると、部屋の外で待機していた処刑人が音も無く入室し、その三本の指でガッシリとアネットを掴んで軽がると持ち上げ、輸送を開始。





「それで、報告というのは何だい?」





自らの母が処刑人に手術室に連れて行かれるのを視界の端で見送りながら、ルアフは上機嫌な声でヒドラに問いを投げた。
弾む様な声音のルアフなど、ヒドラは自分の会話の中では始めてみた。こうしてみると、年相応の少年なのだが、実際は違う。
それに釣られてか、ヒドラの声も先よりも遥かに饒舌に、高揚を含み、悦さえも混ざったモノとなる。



『私事なのですが、私にもどうやら将来家族が出来るのです。ですから、私にもファミリー・ネームが与えられるのですよ』




ルアフがそういえば、こいつのファミリーネームなど知らないと思いを巡らせ、玉座へと座り込む。
そのまま深く座りなおすと、爛々と光った眼を興味深そうにヒドラに向け、続きを待った。




『これからは、私のフルネームはこう記憶してください』




喝采しよう。宣言しよう。歓喜しよう。これは物語が一つの到達点を越えた証。
このヒュードラが次元世界の中で蠢き、全てを握る第一歩なり。
両手を大きく広げ、真紅のマントが血しぶきの様に広がる。






神の名はそう、これこそが相応しい。
いずれ来る全ての出来事と因果の糸を操る奏者にして監督という役柄に恥じない最高の名だ。
仮面の男と、ソレを操る遥か全てを見通す鎧の内部に座する神の雛は口を揃え、震える程の狂喜と狂気に身を任せてその言葉を発した。






『ヒュードラ・テスタロッサ、と』








あとがき


はい、恐らく年内最後の更新で、少し早めのお年玉になれば幸いです。
ここまでは今年中に到達したかったので、駆け足になりましたがもしかすると
このぐらいの方が物語を進めるのには丁度いいのかもしれませんね。


ヒュードラ・テスタロッサはこのSSを書いたときからやりたかったネタなので、書けてほっとしています。
そしてこの物語の主人公はあくまでも“ヒュードラ”です。
そして、もしよろしければ作者にお年玉をあげると思って感想をいただければ嬉しいですw



では皆様、よいお年を。そして、2012年もよろしくお願いします。






[19866] 25
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2012/04/16 23:52


その日、オルセア帝国の本拠地バラルの塔ではちょっとした食事会が行われていた。
窓の外に映るのは、低所を浮遊する雲の薄っすらとした気体と、眼下に広がる絶景。
理路整然とした計算の元に建造された建物やビルなどの配列は蜘蛛の巣のように張り巡らされ、その全体図を最高の席で見ることが出来るのがこのバラルの塔だ。




天に浮かぶ月も、ここまでの高さを誇る建物から見れば大分近く見える。
街が煌々と光り、そこにどれだけの活気が宿り、どれだけの人間が生活しているのか。
ここのガラスは厳重な軍用のガラスであり、たとえロケット弾が直撃しても平気なように設計されている。



そこは広いホールのような部屋だった。
流れる音楽はゆったりとした曲調のクラシックで、それは録音音声をただ再生するような無粋なものではなく、本物の演奏家たちを呼んでその技術を披露してもらい、奏でてもらっている。




部屋に幾つも綺麗に磨かれて置かれているのは円形の白いテーブル。
安物のプラスチックなどではなく、しっかりとした木を掘り込まれ、更には金銀で装飾を施され、作られたそれは一つのインテリアとしても十二分の価値がある代物だと一目で判るだろう。
それにセットとして付属する肘掛け椅子も同じく白い木製の椅子。備えられたクッションの中には高級な羽毛がたっぷりと詰まっている。




一番部屋の奥の席にゆったりと腰を下ろし、背後に二人の処刑人を従えて紅いローブとマントを羽織ったヒドラ、オルセア帝国の最重要人物は
眼前に座る男、部下に対して言葉を飛ばした。深く感じ入るように、千の感傷を混ぜた飛ばされた言葉は、舞台役者の様に演技がかっている。





『お久しぶりですねトレディア。私が居ない間、色々と苦労をしたようで……あぁ、本当に申し訳ない』




カランカランと手元の鈴を鳴らして、数秒もおかずにやってきたウェイトレスに幾つか小声で注文を飛ばすとヒドラは眼の前の席に座るトレディアに向き直る。
10年近くあっていなかったトレディアは、かつては少年であったが、今や立派な成人男性へと変貌を遂げていた。
黒いしっかりした作りのスーツに身を包み、黒い髪の毛をしっかりとセットした姿だけを見れば何処かの新人のサラリーマンに見えるだろう。



だが、眼が違う。真紅の眼は、年齢不相応なほどな自信に満ちており、更にその奥をのぞき見れば、胸中にある冷たい心がその面影を覗かせる。
全身から放たれる気配はヒドラという言語では表せない存在に存在感を奪われているものの、それでも20程度の人間にしてはありえない程に落ち着いていた。





『冥王殿もご機嫌麗しゅう』





トレディアの隣に座る、太陽の色を写し取ったと錯覚してしまいそうな程に美麗な色の髪をした少女、
先ほどからずっと自分をまるで親の敵を睨み付ける様に可愛らしい眼に敵意を漲らせ、見据えてくる少女、イクスヴェリアに小さく一礼。
やはりというべきか、彼女は10年近い月日の歩みからも外れているのかその姿は目覚めたときと同じ10にも満たない少女のソレだ。



その体を白いドレスで覆った姿は、外見年齢こそ幼いなれど、確かに1000年近くの時を存在する古代ベルカの存在だと言われても納得できるオーラを放っている。
小さくて丸い瞳をヒドラの三眼が遥か高みより覗き込むが、イクスは臆しもせずに平然と敵意を飛ばし、敵意を濃縮した言霊を突き刺すように紡ぐ。





「……久しぶりですね。何故、10年近くも自分の国を放っておいて平然としていられるのか私には到底理解出来ませんけど」





これは手厳しいとヒドラがぶるっとわざとらしく身を震わせると、それを見て呆れた様にトレディアがやれやれと溜め息を吐いた。
場を取り直すようにトレディアが手をハンカチで拭いてから、声をあげる。





「お久しぶりですヒドラ卿。しかし今日はまたどうしてこのような会食に俺たちを招待したのですか?」




貴方の身分を考えるならば、こういうことは陛下とするのが普通だと思うのですが、とトレディアが続ける。



ふむふむ、ヒドラが頷き、手袋の嵌った白い指を一本一本折ったり、伸ばしたりを繰り返し、仮面を左右に揺らす。
滑らかに動く白く細い指は女性のそれのように繊細で、微細なイメージを覚えるだろうが、トレディアは何故かそれを見て言語に出来ない寒気を覚えた。
例えるならば、コレは巨大な捕食生物が舌なめずりをしている姿に似ている。もしくは、嗜虐に満ちた視線を放つ猫にも見えるだろう。





『陛下はですね、どうにも私と食事をするのが嫌らしいのですよ。……それに、思えば貴方達とは余り話をしたことがありませんからね』



何故嫌がるのか全く判らないと彼は言葉を淡々と発し、首を傾げる。



この機会に少しお話でもしませんかと、柔らかい口調で諭すように語るヒドラをトレディアがそんなものかと内心で納得し。
何を心にもないことをと、イクスの顔が更に不機嫌に歪む。そもそも、お前に食事がいるとも思えないと少女が内心で継ぎ足した。
前菜としてカラフルなクッキーの上にお菓子を絵画の如く盛り付けられた皿とそれを盛るための小皿を人数分紳士服を着込んだ男が持ってきてそれを音もなくテーブルの上に配置。




意識しなければ料理がもってこられたというのに、机の上の変化にさえ気が付くのに時間が掛かるだろう程に迅速な行動。
ヒドラがやってきた男に幾つか囁き、懐からチップとして一枚の札を渡して、行かせる。





『どうぞ、今宵は好きに食べて飲んでください。お金ならば、全て私が出しますからご心配なさらず』





「痛み入ります」





「…………」





ヒドラが黙々と皿に料理を移し、それをトレディアとイクスの前に並べた後に、自分の皿に料理を載せる。
イクスが、ヒドラを眺め、彼女は思った。仮面を着けたままどうやって食事を採るのだろうか。





『どうぞ。もちろん毒なんて入ってませんよ?』





仮面の奥で喜笑を転がしながらヒドラは眼の前で料理を無表情に眺め、一向に手を出さないイクスに言葉を飛ばした。
今更何を悩んでいるというのだ。そもそも、貴女が今日まで生きてこれたのは帝国の保護があったからだというのに。
恐る恐るというよりも、腹の奥底から吹き出る怒りを必死に押さえ込む為に震えながらもイクスは小さく息を吐くと、不承不承といった様子で食事を食べ始める。



完璧なマナー。一番端にある最も装飾の少ないフォークを手に取り、動かす。
食器を完全に使いこなし食事を行うその姿は気品に溢れ、そういった道の講師にもなれそうなほどだ。




トレディアが一瞬だけそちらに眼をやり、次いでヒドラ、正確には彼の皿に視線を映して、一瞬だけ全身の血液の流れが停止しそうな程の驚愕を覚える。
ほんの瞬き数回にも及ばない時間だったはずだ。なのに、何故かヒドラの皿の中身は空っぽで、さきほどまでそこにあった食事がない。




いつの間に食べたのだろうか。少なくとも食器に手を伸ばしたという気配の動きさえなかったというのに。
ただ、少しだけクッキーの粉が付着した食器だけがぽつんと置かれているのが印象的だった。





『どうかしましたか?』





何を驚いているんだと言いたげな口調。仮面の裏側でコロコロと笑いを回しながらヒドラは楽しげに語る。
会話そのものを楽しんでいる、この場の空気を彼は味わっていた。異質な世界。何故食事でここまで緊張しなければならないのか。
イクスの真似をするように黙々と食事を口に運び、ヒドラを眺めると彼は今思いついたように、その金属に隠された口を開く。





『貴方達はあのイルミナドス事変を経験したそうですね……それで、どうでした?』




イルミナドス事変、帝国に仇名す存在を霊帝が直々に叩き潰した事件はほぼ全てのオルセアの民は知っている常識的なことだ。
ルアフと闇の書の戦闘によって生じた空間の歪みによってあの地は未だに閉鎖状態。
10年近く経ったというのに、未だにその傷跡が世界中に残っているといえば、どれほど激しい闘争が行われたかが容易に想像できる。



彼の言葉は、まるで自分の描いた絵画の感想を客に聞いている様にも聞こえる。
ちょうどヒドラの言葉が終わるのとイクスとトレディアが前菜を食べ終え、食器を置くのは全くの同時だった。
機を見計らって従業員がスープとパンをもってくるのを横目で見やりつつ、イクスは本当に不機嫌そうに、それでいてその眼をほんの僅かばかりの哀憐に染まらせて呟く。






「何も思うことなんてありません。アレを完全に滅することなんて誰にも出来るわけがないのですから。
 霊帝でさえ、撃退しただけでその根源から滅ぼすことは出来ていないでしょうね……きっと、また何処かでアレは今回と同じように破壊を撒き散らすはずです」





それは諦観。どうしようもない存在に対し、完全に屈してしまった言葉。どうしようもない。倒せない。
闇の書が齎す悲劇の連鎖を止めることなど誰にも出来はしないと、完全に悲劇を受け入れた言葉。
かつて彼女がまだ冥王と仇名され、忌み嫌われた時代から存在する災厄は、幾世紀もの時を越えて目覚めた現在にも存在した事への絶望。




なるほど。彼女は諦めているのか、とヒドラは思い、果たして本当にそうかな? と考えを巡らせた。
愉快そうに愉悦を舌と思考の上で転がしながら、その視線を次いでトレディアに向ける。
明らかに眼に見える狼狽を浮かべながらトレディアが視線を右往左往させるのを見て、彼は微笑みというニュアンスを混ぜながら言葉を発した。




『トレディア、どうぞ好きに言っても構わないのですよ。ここは……陛下の耳も目もありませんからね』




お前に拒否権などない。速く言えと、ヒドラは言外に滲ませ、表面上だけは凍りつくほどの穏やかさを漂わせて言葉を紡いだ。
無言の圧力とでも言うべきか。穏やかに、猫を撫でるように発する言葉を受けて渋々トレディアは口を開く。




「どうでもいいんですよ」




真実、その一言に全てが凝縮されている。闇の書など、消し飛んだイルミナドスの事などどうでもいいと。




『どうでもいいとは?』




仮面を傾げ、眼の前に淡々と給仕がスープとパンを置いていくのを視界の外で捉えながらヒドラが返す。




「俺は俺以外がどうなろうと構わないんですよ。何処までいっても他人が死のうが俺には関係ないですからね」




『あぁ……そういえば貴方はそういう人でした。忘れてたよ』




非情と罵るか、それとも自己中心的な思想とそれを蔑むか、少なくとも普通ならば彼の思想は模範的な人間とは言いがたいだろうが……そんなことは彼にとってはどうでもいい。
所詮は他人の評価。見ず知らずの誰かが勝手に決めたことなど何の意味もない。むしろ他人の言葉に影を受ける方がおかしいのだ。
勝手に言葉面だけを捉えてやれ非情だ、やれ傲慢だ、自分勝手だと叫ぶ者達は、あの戦役時のオルセアの中で生きることがどれだけ難しいか知らない人間に過ぎない。




それに、本当にこの言葉を否定できるのかさえも疑わしい。
対岸の火事という言葉があるように、人間など自分の身に何かが起こらない限りは、万象全てが他人事なのだから。



パンとスープが全員に行き渡ったのを確認し、給仕が次に先ほどヒドラが頼んだ冷えたワイン瓶をグラスとセットで彼の前に置いて、そのコルクを抜く。
とくとくとグラスに注がれるワインを見て、ヒドラが満足そうに頷いた。





『オルセア開放戦線から此方に寝返った時も、本当に貴方の行動の早さには驚きましたよ』




ゆらゆらとグラスの中身の血の様に真っ赤な液体を手で弄くりながら、呟く。もう10年以上も経つあの日を思い出すように。
即効。正にその言葉に相応しいだろう。トレディアはヒドラと面識を得た瞬間、一瞬で彼に寝返った。
何もかも全てを洗いざらい吐き出し、それでいて仲間にしてくれと頼み込んだのだ。



グラスの中で揺れる真紅の液体は、解放戦線の者達が口から内臓と共に吐き出した体液と全く同じ色。




迅速な判断力。裏切りに一遍の躊躇いも見せない冷ややかさ。勝てない相手には即座に尻尾を振る行動力。
だが決して彼自身はそこまで弱くない、危険を感じ取る嗅覚は既に一種の技能の領域にある。




結果、オルセア解放戦線は根こそぎ消し去られ、そのリーダー達も全て減圧室行きという悲惨極まりない末路を辿ることになった。




「当たり前じゃないですか。沈む船に何時までも乗るなんて馬鹿のすることです、俺は俺が生き延びる最良の方法を選んだだけですよ」




あの時点で世界のほぼ全ては帝国のモノでしたからねとトレディアは続け、パンをスープに浸して口元へ運ぶ。



横耳でスープに浸したパンをハムハムと食しながら聞いていたイクスがその整った眉を顰める。その生き汚さに彼女は嫌悪感を覚えたのだ。
だが同時に、きっと自分は彼を知らない。それゆえに何も責めることなど出来ない、そんな権利などありはしないと知っているからこそ、口をつぐみ、食事に集中。
思えば、自分は10年近くも彼と共に居て、何も知らないという事実に彼女は想い至り、ほんの少しだけ好奇の念が動いたが、それを噛み潰す。





『やはり貴方は前の国家に未練などないのですね』





えぇと軽い調子でとトレディアは答えた。続けて彼は言葉を紡ぐ。もう無くなってしまった過去の残影を嘲りながら。






「ありませんよ。思えば前の国家は……狂ってましたしね。全く、民主主義なんて碌なもんじゃない、まだ絶対的な支配者に統治される国家の方が見ていて楽しいものです」




帝国も狂っていますがね、とは言わなかった。



オルセア帝国の中でも安定した立場にたって、周りを見渡してみると今まで幾つも気がつかなかったこと、広くて見えなかった世界が見えてくるようになる。
即ち、どれだけ以前の国家の歯車がおかしかったか。どれほどの無駄な命が、民主主義という名の一部の金持ちが支配する体制の中で散っていった事か。
政治という名のただ紙を読んで、野次を言い合って、あやふやな言動で全てをごまかし、それで世界の支配者気取りだった者達のせいで戦争は終わらなかったのだから。




戦争はゲームだったのだろう。上層部の者達にとっては神などどうでもよかったのだ。戦争によって齎される利潤と名誉。
相手の発展が気に入らない為の妨害。もっといえば、自分たちの力、権力によって振るわれる軍事力に酔いしれたかったのだろうとトレディアは考えた。
薬品も、食料も何も無いのに、無駄に火薬と鉛の弾しかなかった狂気の世界はそうやって作られたのだ。



居るかどうさえ判らない神の名を叫びながらの戦争など、馬鹿馬鹿しい。



痛みを知ればいいと常々彼は思っていた。
口からは綺麗な言葉を吐き散らし、命よりも大切なモノとは名誉であり
それが神の意思だなどとほざきながら、自分たちは決して戦地にいかない政治家共も痛い目を見ればいいと。




結果、その願いは叶った。眼の前に居る、仮面の男がその全てを現実へと変えた。
そして間違いなく、その引き金をオルセア開放戦線を売り飛ばすという行為で引いたのは自分なのだ。
泣き叫び、命乞いしながら、かつての国家の権力者達が減圧室に放り込まれる光景は……今思い出しても胸がすくような気分を覚える。



そして、今度は自分がその支配者側に回ったと思うと楽しくてしょうがない。
着々と日々オルセア帝国が恐らくは次の戦争の為に力を蓄えているのを見ると彼は愉快な気持ちになるのだ。




何時の間にかスープとパンがなくなり、これまたタイミングを狙っていたかのように給仕が、今度は魚料理を運んできた。
それを受け取りながらヒドラはまたもや淡々と言葉を発する。




『いきなりで悪いのですが、一つ貴方の意見を聞かせてもらえますかね?』





それは諮詢という形式を取ってこそいるが、実の所は強制に近い。
まぁ、その前にどうぞ、とヒドラが手袋を嵌めた手でトレディアの眼前を指し示し、そこにあるものをプレゼント。
気がつけばイクスとトレディアの前には、何かの魚……それも恐ろしく高価であろう種のフィッシュ・ステーキが二つ置いてあった。



ステーキの隣にはグラスに注がれた白ワインが安置され、それで一先ずは喉を潤す。






『今のオルセア帝国、特に軍事面で足りないものは何だと思います? 好きに思ったことを答えてください』




帝国は建国から10年近く経ち、ようやく安定の兆しを見せてきたといっていい。
各地の復興は順調だし、バラルの園は今現在もその規模を増していっており、それに各地のナイトメア・クリスタルの発掘施設も稼動を開始している。
教職員などの育成も行われていて、今は建国後第二世代までの教員が教壇に立つことを許されていた。




インフラ整備員、医者、技術者、教員、他にも様々なオルセアの歯車という名の人材が育てられ、帝国という巨人の活動をスムーズに行わせるべく、働いているのだ。
かつては帝国の威信が届かなかった地で好き勝手していて犯罪者グループは完全に滅ぼされ、違法な薬物などを輸送するためのルートも虱潰しにされて、今はない。
闇の書の騎士達に破壊された西海に再建されたクローニング・センターなどでは、更に高性能に改造を加えられたマリアージュ達の量産が滞りなく行われ
このバラルの園にある訓練施設には既に3個師団ほどの軍団が送られてきており、更に厳しい教育と訓練に勤しんでいる。





軍事力の要となる兵器や火器を開発、販売などするために新しく産みだされたゼ・バルマリィ社は、かつての国家が保有していたモノと
新しく帝国から与えられたデータを元に次元航行が可能な船のパーツ作りに挑戦していることだろう。





全ては順調。管理局の介入も無く、オルセア帝国はわが道を突き進んでいる。だが、どうにも何か足りない気がするとヒドラは感じていた。
トレディアがナイフとフォークを悪戦苦闘しながら操作し、魚の身を刻んで一口食べる。
脳内で思案しながら、一言、彼は思い至ったことを言葉として吐き出した。




「足りないといえば……ポスターボーイとか居ませんよね」





『ポスター……あぁ、象徴的な存在の事ですか』




確かにと頷く。軍団を作り上げても統制すべき存在が圧倒的に不足している。戦術指揮用の特別製マリアージュこそいるが、それではパンチに欠けるだろう。
ポスターボーイが必要だ。オルセア帝国軍を象徴するような、圧倒的で、恐ろしい、人々の心の奥底に腫瘍の如く入り込むインパクトをもった存在が。
10年ほど国を空けた謝罪として、ルアフ君にプレゼントしてみるとしよう。



幸い、当てはある。問題は“どんなデザイン”にするかだ。
これも後々煮詰めておこう。




『ありがとうございます。貴重な意見でした、参考にするよ』




感謝の言葉と共に、何時の間にか持っていたフォークとナイフを皿の両端に置く。
トレディアがふと見れば既にヒドラの皿の上に乗っていたフィッシュは跡形も無く食されており、彼は既に気にするのも馬鹿馬鹿しくなったと溜め息を吐く。



イクスだけが、鋭い光を湛えた眼でヒドラを見て、次いで窓の外より広がるバラルの園の夜景を見ていた。

















「ありがとうございます。今日はここまででいいです」




あの後、取りとめも無い会話を一しきりヒドラと交わしてから、会食を一通り終えて部屋に戻り、自室の前でイクスはトレディアにそう答えた。
そうですか、おやすみなさいとトレディアが答えて廊下の奥に消えたのを見計らって、イクスは部屋の扉を開ける。



すたすたと小さな歩幅でベッドに向けて歩くと、そのまま靴を投げるように脱ぎ捨てて倒れこむ。
はぁと吐き出される疲労に満ちた溜め息は、幼い外見とは何処までも似合わない程に艶やかだ。
開け放された窓から冷気が吹き込んでくるのを感じながら、イクスはもう一度、大きな溜め息を吐いた。




窓から覗く巨大な月は青々と輝いており、まるで天にサファイアが浮いているようにも見えた。
絶対に手が届かない位置に座するその存在は、見ているだけで無力感に襲われる。



憂鬱気に、湿った溜め息がまた喉から込みあがってきて、吐き出される。



10年、帝国は10年間を力を蓄えるのに費やし、ようやくその基盤を固めてきているのを彼女は間近で見ていた。
彼女の罪の象徴であるマリアージュが次々と生み出され、巨大な機動兵器が生産され、動き出しているのを。
ヒドラが帰還し、その動きは流動性をまして活発になってきている。




何も出来ない。オルセア帝国という檻に入れられた自分には何も出来ない。




それがたまらなく歯がゆかった。
かつてヒドラは次元規模の戦争を起こすと囀り、それが徐々に現実に形を持ち始めているのが恐ろしい。
全て、私がいたからこうなったのか。やはり私は何処まで言っても戦争を、災禍を産み出してしまうのか。



その戦争の時に世界を焼き尽くすのは、帝国の破壊を拡散させる尖兵は、彼女が母体となったマリアージュ達なのだろうから。



冥王と呼ばれ、生命力だけは人を超えている彼女は自殺しようにも死ぬことが出来ない。
それに、自殺する気さえ起きない。これほどの禍の種を世界に蒔いて、自分だけ死に逃げるのは許されないだろう。
いつか、絶対に自分はこの代償を払わなくてはならない。




「私は……」





ぼそりと小さく出た言葉は悲嘆に満ちている。何故、何故、何故なのだろうと。
何故、自分などが産まれてしまったのだ。死ぬことも出来ず、帝国を止めることも出来ない半端者。
何世紀たっても、結局世界に害悪しか齎せない存在そのものがウィルスの様な悪性極まる存在。





「私は、産まれてきてはいけなかった……」




もしも、自分が神様だったら、イクスヴェリアという存在が産まれてくる前に可能性ごと摘み取ってしまうというのに。
自分自身に向ける哀憎の海に深く沈んでいきながら、イクスは眠りに落ちた。




最後に彼女が思ったのは、何も出来なくても、絶対に諦めないという思い。
いつか、この帝国は傾く。滅びると彼女は縋るように信じて暗闇に包まれていく。

















管理局 本局 上級魔道師訓練場 新暦50年





クライドという男性は贔屓目に見ても、とても人間的に素晴らしいと彼を知る者達は口を揃えて言うだろう。
魔力ランクはAAという、上の下程度に位置する程といっても、彼の戦い方は柔軟でトリッキー、ただ魔力が高いだけの魔道師など彼に勝つことなど出来ない。
事実、彼はオーバーSランクの魔力を持つリンディ・ハラオウンに勝利を得ているのだから。




緻密にして大胆。優雅にして堅実。正反対の様に見えて、それが一番彼と言う存在を表すに相応しい戦闘スタイル。
サーカスの道化師の如く次から次へと新手が出てくる姿は、玩具箱にも例えられるだろう。






暇な時間、クライドはよく管理局の上位魔導師専用の訓練施設を訪れる。
彼は自分の魔力の総量がオーバーSの術者に比べれ遥かに劣るのを身に染みてよく知っているが故に、クライドは鍛錬を欠かしたことはない。
もちろん、必要な休暇と休息はとるが、それでも彼は鍛錬が純粋に好きなのだ。




眼を薄く瞑り、胸の奥底で鼓動を刻むリンカー・コアに意識を送る。そこから発せられる魔力が脳に送られ、細胞が活性化。
マルチタスク。言うなれば脳の機能を分割し、同時に幾つもの事を考える機能を彼は使用。
周囲をモスキート音を甲高く鳴り響かせながら飛び交う訓練用オート・スフィアに囲まれても彼クライドは全く動じない。




それは訓練だから安全などという考えではなく、戦闘時に自分のペースを崩すことがどれだけ危険か理解してるからこそだ。
付け加えるならば、彼がいつも個人的に使用しているスフィアは幾重にも改造を施されており
装甲、機動性、そして擬似的魔力収束砲の威力、その全てが馬鹿に出来ない領域に到達している。




これも、この頃、管理局の技術が飛躍的に向上した結果の一部だ。
じわじわと砂に水が染み込んで行く様に、技術力の上昇がこうして眼に見えてくるのは、純粋にミッドチルダの市民としても嬉しい。




青い魔力光が煌々と輝き、光が伸びて一本の線に変貌。
幾重にも円形の物体が連なりあい、それは光で編みこまれた鎖となった。鎖型の拘束魔法【チェーン・バインド】だ。
細く、糸の様に伸びたそれが訓練施設に投影された仮想の物質、コンクリートの壁の一部を巻き取り、持ち上げる。




周囲から飛来する訓練用収束砲をサーカスの様に体の重心を逸らして回避し、最初にどれを落とすかを瞬時に決定。
目障りに此方を狙いつけている狙撃タイプのスフィア、恐らくはそれが隠れているであろう物陰を選定。
裂帛の気合と共に、クライドが全身の筋肉を収縮させ、反動でばねの様に体を動かした。
素手で魔力によって作られた鎖を握り締め、重さなど感じないソレを思いっきりぶん回す。






長い鎖を用いた砲丸投げ。遠心力と重力と、仮想とはいえ確かな質量を持ったコンクリートの塊は、
強力な破壊力を秘めたハンマーとなり、クライドを遠方から狙っていたスフィアの尽くを遮蔽物ごと粉々に砕き、瓦礫の山へと変える。
弁償代の請求などは当然の事ながら来ない。熟練した術者との戦闘経験はスフィアを通して蓄積される戦闘データを見返りに管理局は受けとっているのだ。




プツン、と魔力で形成された群青の鎖が音も無く軽々と断ち切られ、その先端に巻き取られていた瓦礫が彼方に飛んでいく。
少なくともクライドはまだ魔力の結合を解いてなどいない。
鎖に一体の小型のスフィアが取り付き、微小に発生させた無色のAMFを用いて魔力の結びつきを排除したのをクライドは認識し、その表情を少しだけ厳しくさせる。




AMF、理論の上で提唱され、この頃何故だか知らないが一気に表に出てきた魔力の結合を解除する魔法。
その魔封じ空間を展開させる難易度は大体AAAランクの難しさを誇るという最新鋭の結界。
しかし、魔法というのはプログラムである。数学と同じように幾つもの方程式を組んで、そこに魔力という燃料を注ぎ込むことでその効果を発揮させる。




つまり、スフィアにAMF発生の術式を組み込んでおけば、それを発生させることは可能だという事だ。
何故魔力無効化空間を発生させながら、魔力を原動力とするスフィアが動くかなどクライドはよく判ってはいないが、それは問題ではない。
S1U、自作したストレージ・デバイス、杖型のそれに魔力を込めて、パイ生地の如く何重にも魔力を織り交ぜて作成した特別製の魔力弾をそのスフィアへシュート。





【ヴァリアブル・シュート】




スフィアが展開したAMFに融解されるように表面の魔力を中和され、魔力弾の大きさが一回り小さくなるが、弾丸は推進力を失わずにAMFを貫通し、スフィアを打ち砕く。
そのまま多殻魔力弾は勢いを殺さない所か、その速度を速めて縦横無尽に飛びまわる。
魔弾、正にそう形容される弾道を魔力弾が描き、物理法則を超えた魔力の塊が更にクライドの背後に迫っていたもう一つのスフィアを打ち抜いてから魔力を使い果たし消滅。





中型のスフィア、Bランク以下のモノが戦えばかなり苦戦するであろう上位の機械が上空から独楽を想起させる乱数回転をその球体に加えながら落下。
無秩序に高速で回転してくる物体は、それだけでハンマーとなり、殺人道具と化す。
あれ、おかしいぞ。こんなプログラムをスフィアに打ち込んだっけ? とクライドが思考する刹那さえもその中型スフィアは明らかな殺意をもって垂直に落ちてくる。



非殺傷プログラムはあくまでも魔力による攻撃にしか適用されない。非殺傷に設定していても、例えば剣型のデバイスで人を切れば血は出るし、骨は折れるのだ。





「ちいっ!」




喉の奥から声を絞り出し、S1Uを地面に垂直に突き刺し、その先端に持ちうる全ての魔力を収束、そこを中心に傘を広げる様に【ラウンド・シールド】を傾斜を付けて展開。
本来ならばここで終わるのだろうが、クライドは更にここでアレンジを付け加えた。
デバイスの先端部分、突撃槍にも酷似した形状のそこから放たれる魔力に動きを追加。




くるくるくるくると、魔力が渦潮を想起させる流れを得て回転を開始。ほんの半秒の間にそれは秒速何十にも及ぶ速度で空間を掘削。
【ラウンド・シールド】がその形状を傘から、螺旋へと変貌させ、その切っ先が青く清純に光らさせる。
両手でしっかりと自らの相棒を握り締めてクライドは垂直に飛んだ。足の裏を魔力で爆発させ、その衝撃さえも利用して。




何十にも魔力の外殻で武装し、研ぎ澄まされた魔力槍と2メートル程もある巨大な回転と言う運動を加えられた機械の衝突は爆音となって訓練場を揺らす。
AMF、先ほど破壊した小型スフィアとは桁が違う規模の濃度の魔封領域に魔槍の表層がガリガリと音を立てて削られるのを聞きながらクライドが少しだけ微笑む。



全て計算どおり、だと。





もう一枚、彼はなけなしの魔力をかき集めて【ラウンド・シールド】を張った。S1Uの柄の部分被せて、にちょうどTの形となるように。
両手をデバイスから離し、飛行魔法さえ発動させず彼の体が重力によって落下。
頭から落ちていく中、彼は柄に被せるように展開した【ラウンド・シールド】に足の裏を叩き付けて、さっき宙へと舞い上がった時と同じようにその底を爆発させる。





大量の火薬を爆発させたような耳障りな害音が産声をあげた。
ロケット噴射にも劣らないであろう推進力を貪り得た魔槍がAMFの壁を薄紙の如く突き破り、その先にあったスフィアの装甲を衝きぬけ、遥か天井まで飛んでいく。




自分が頭から落下しているという状況を冷静に受け入れつつ、彼は自分の体と地面の間に何枚かのとびっきりに柔らかくした【プロテクション】を展開。
使用限界量を超えて痛みを発するリンカーコアが煩いが、このまま頭ら落ちて熟れたトマトのようになるよりはマシだと我慢。
中身の抜かれた羽毛布団を数枚ぶち抜いた感触を数回全身で体験しつつ、クライドは最後に訓練所の床に叩きつけられ、小さく呻き声をあげた。




「あったたたた…………スフィアを改造しすぎたかな?」





喉をあがって出てくる声は年の割りには渋く、深い声。
よく友人からお前は年齢の割りに声が老けすぎだの、まるで何処かの犯罪組織のボスのような声だの言われている声は自分ではよく判らない。
そもそも、声変わりを経たらこうなっていたのだから、こればかりは仕方ないだろうと叫びたい。





「当たり前だ。訓練で施設を壊すのはともかく、自分の命を危険に晒してどうする?」



いざ、という時に訓練で怪我しましたから休みますなどとほざいたら、時空間に投げ捨ててやる、と続く。



クライドのソレに輪を掛けて渋く、年季を感じさせる声がいきなり飛んできて、思わずクライドは飛び起きた。
この声を聞かなかった日のほうが少ないほどに耳に慣れ親しんだ声。彼の師匠の声だ。






「お前に重要な話がある。後で私のオフィスに来い、急げ」





ここ数年でかなり老け込んだギル・グレアムがいつも通り堂々とした佇まいで、両肩に猫の使い魔を乗せつつ手短にそれだけを告げると踵を返し去っていく。
彼のオフィスに行くという事は、またあの物凄い苦いコーヒーを飲まされることになるのかと思い、クライドは思わず人知れず嘆息した。
何気なく天井を見る、訓練所の装甲化されたプレートに深々とS1Uが突き刺さり、重力に逆らったまま落ちてこない。




どうやって抜こうかと、思案しながらクライドは頭を振った。



















「話とは、何でしょうか?」




あの鍛錬の後、手早く管理局の執務官の制服に着替えた彼はグレアムのオフィスを訪れていた。
グレアムは部屋の奥に置かれた黒い革張りの高級な椅子に腰かけてじっとこっちを見つめている。
眼の奥では相も変わらず何を考えているか判らない静かな光が灯った眼は、見ているだけで吸い込まれそうだ。




不意にクライドは、この状況がかなり以前にもあったことを思い出した、あの時は確か自分は管理局の中でもまだまだ下っ端で、今より全然弱かった。



魔力ランクAAというのは、正直な話、地上ではともかく、時空管理局の海では大して珍しくない数値である。
上を見ればAAAやらAAA+、オーバーSなどごろごろと居るし、そういう存在は、言ってしまえば天然の強さというのをもっている。
努力ではどうしようもないスペックの差、産まれで勝ち負けが決まってしまう理不尽。




それが悔しくて、自分はグレアムに弟子入りを志願したのだ。その時の光景と、今の光景は酷似している。
何度も断られて、挙句には魔力ランクが低いだのの自分の気にしている所をつつかれ、逆上して彼に殴りかかってしまったこともあった。
なのに、自分は今、彼の弟子として、そして管理局の執務官として働き、インターミドルではミッドチルダ部門で優勝を果たすことさえ可能としたのだ。
残念ながら、そこから上の大会には仕事の都合と重なってしまい、辞退することになったが、クライドはソレに拘ってなどいない。




仕事と大会、どちらが大切かと問われたら自分は迷わず仕事と答えられる程にそこらへんの区別はしっかりとつけているし、
もしもそんな馬鹿な理由で仕事を休んだりなどしたら、眼の前のグレアムにどんな眼に合わされるか判ったものじゃない。





「掛けたまえ。今コーヒーを持って来させよう」





ニャーとリーゼアリアが一鳴きし、部屋のの奥にあるコーヒー置き場へと軽やかに掛けていく、部屋の奥に消えて暫くした後に人化魔法と思われる光が一瞬だけ点滅。
あぁ、あのコーヒーは苦いんだよなとクライドが思わず喉を鳴らし、何とかソレを中和しようと今度はリンディの家のコーヒーを想像し……口の中がカオスになる。
おかしい。絶対にコーヒーに角砂糖を何十も投下するのはおかしいとクライドは思っていたが……恥ずかしい話、彼はソレを指摘できないでいた。



表向きには欠片もその考えを出さずに、クライドは部屋の真ん中に向き合う様に配置されたソファーの一つに腰を下ろし、背筋を伸ばした。





「早速だが、今回君を呼んだのは他でもない……仕事の話だ」





冷たく、鋭いグレアムの声がクライドを現実に引き戻す。眼の前に居るのは管理局の中でも高位に位置すると同時に、数少ないオーバーSランクの魔道師なのだ。





「君は“闇の書”を知っているかね?」




「はい。とは言っても、一般的に公開されている情報の範疇ですが」




構わんよと、グレアムが続け、ロングの髪の毛が特徴的な女性……リーゼアリアの人間形態が運んできたブラックコーヒーを優雅に喉に流し込む。
イギリスというとある世界の国家においては貴族身分である彼は、その動作一つをとっても、流麗で、絵になる。
君も飲むといいと自分の席の前に置かれたコーヒーを見て、今度こそクライドの顔は誰が見ても判る程に引き攣った。




この部屋に、砂糖の類はないのだ。彼の義理の父親になるかもしれない人の部屋には腐るほどにあるのに。





「十数年に一度発生し、666のページを全てリンカー・コアの蒐集という蛮行、もっと判りやすく言えば大量殺人で埋めた末に
 最後は取り込んだ力さえ制御できずに暴走してアルカンシェルで消し飛ばされるか、気が済むまで暴れまわる傍迷惑なロスト・ロギア……」




淡々と紡がれる言霊は侮蔑と嫌悪に満ちている。誰が何の目的で作ったかは知らないが、きっとその存在は特級の狂人だという罵りを孕んだ声。
管理局の中には闇の書で親族を失った者も少なくは無い。




「最後にその存在が観測されたのは新暦23年、今から大体26年ほど前だな。その時は確かアルカンシェルの一斉射撃で暴走前にその次元領域ごと吹き飛ばしたと記録にはある」




ここまで来ればクライドにもグレアムが何を言いたいのか大体理解できる。故に彼は恐々としながら問いかけた。




「まさか、闇の書が見つかったんですか?」




「いや、全く。何処にあるのかさえ今の所は判っていない」




だから、と少しだけ安心したように肩を落とすクライドにグレアムは続けた。




「闇の書を探すのだよ。前回から20年以上経ち、間違いなく闇の書は何処かへ転生を完了しているはずだ。暴走を開始するまえに探し出して……回収する」




今度こそ完全にクライドの呼吸は一瞬停止した。回収? 闇の書を? どうやって?
眼を白黒させる弟子に、グレアムは再度コーヒーに口を付け、舌を潤してから優しく語りかけた。





「その点は心配しなくていい。闇の書は蒐集したページが一定を超えない限りは大人しいらしい。
 そして……暴走ギリギリの臨界点、その状態ならばあの厄介な無限転生機構も発動は比較的に鈍いと技術科の者達の分析結果は出ている。
 そこに特殊な空間凍結魔法を打ち込んで闇の書を物理的、プログラム的にフリーズさせて回収封印を行う……簡単に纏めればこんなものだ」







「闇の書の主はどうするのです?」




「闇の書と一緒に凍結する予定となっているな。殺してしまっては、闇の書が転生機能を使用する危険性が高まる」





呆気なく、余りにも簡単にグレアムが答えた為、クライドは一瞬だけ眼を丸くしてしまうが、次いでグレアムの吐いた言葉の意味を理解し、微かに眼を伏せる。
哀れに思ったのだ。顔も名前も、どんな生涯を生きているかも判らない闇の書を主のことを。
自分の欲望のままに力を使い、破滅を振りまくような存在ならば、凍結されて当然だろうが、もしもそれが何も知らない一般市民だったとしたら……。



そんな彼の心を読んだように鋭く言葉が飛んだ。





「闇の書の主が、善良であれ度し難い悪であれ、そんなものはどうでもいいのだよ。凍結に成功した場合に助かる命だけを私は考える」





もしも成功すれば次元世界は十数年周期で定期的に発生する災害の恐怖を克服することが出来る。
それさえ叶えば、たった一人の命など、私は容易く切り捨てて見せるとグレアムは囀った。事実、彼ならばやるのだろうとクライドは思う。
さて、と息を大きく吐いて、そして彼は決定的な言葉を告げるべく、しっかりとクライドを真正面から見据えてから言語を紡ぐ。





「私は闇の書の探索、及び封印を実行するプロジェクトの責任者に任じられ、人事なども今ならある程度は自由に出来るのでな」






だから、君を私の権限を用いて闇の書の探索及び回収部隊に誘いたい。もちろん、これは強引ではなく君の自由意志だと付け加えてグレアムは宣告した。
ふわふわとした感覚の中、クライドは考えた。考えて、考えて、考え抜いた。
まず始めに頭の中に出てきたのはリンディという女性だった。若草色の髪の毛が特徴的な……クライドが好意を持っている女性。




闇の書の事件解決。当然それは簡単なモノではない。文字通り命を賭けた、壮絶な戦いとなるのは目に見えていた。
もしかしたら、という暗い気持ちが心の中に影を落とし、毒がじわじわと染みこむ。





「私はあくまで君を誘っているのであって、これは何度も言うが強制ではない。君はまだ若いのだし、無理して危険な任務につく必要も無いのだよ。
 ただ、そう、私は君が居てくれれば効率的な仕事が出来ると思っただけだ」




本当に珍しく、グレアムは素直に労わりと慈愛に満ちた声でクライドに言い聞かせるように話す。




クライドは……呆然としていた。彼は自分の聞いた言葉を反芻し、咀嚼し、しっかりと全身で理解しようとしていた。
頭の中で周る言葉は一つの単語、言葉をうるさく喚きながら飛びまわり、ひっきりなしに騒ぎ立てている。




認められた。一緒に、共に仕事をしようといわれた。あの、ギル・グレアムに自分が。
AAランク程度の魔力しかなかった自分が、オーバーS魔道師に力を貸してくれといわれた。
それが、彼の中にあった黒い恐怖を弾き飛ばし、彼に決意させるための原動力を与えることになる。



クライドは大きく息を吸って、吐いた。




「やります。自分も闇の書事件の永久解決に、是非とも協力させてください」





グレアムは笑わなかった。彼は喜怒哀楽全てがごちゃ混ぜになった何とも形容しがたい顔で一瞬だけクライドから眼を逸らし
そして何かを吹っ切ったのか立ち上がって弟子の手を握り締め、強く握り締めた後に離し、席に崩れ落ちるように座り込んだ。




「正直な話だが、私はだな……君が断ってくれることを期待していたよ」




ボソリと吐き出された言葉は普段滅多に弱音を吐かないグレアムにしては珍しい、憔悴しきった言葉。
彼は……リンディとクライドの関係を知っている。リンディの父であるコーディと同じくらいか、もしくはそれ以上に。





話が纏まったのを察知したリーゼアリアが机の上にある、小型だが重要な資料などを保管しておく重厚な金庫を操作し、パスコードを入力。
魔力の波長、第二パスコード、カードキー、指紋、網膜のチェック、過剰とさえ思える程の防衛機構はグレアムが祖国で観賞し、非常に感銘を受けたとあるスパイ映画の影響らしい。
映画の中では超技術として出てくるスパイグッズを管理局の技術を使って何とか再現出来ないか無駄に考えるのが彼の趣味の一つだ。





「はい、クライド」




「受け取れ」





クライドが手渡されたのはファイルに保管された何枚もの資料。渡されたソレを素早く、上辺だけ見るだけで最新鋭の次元航行船『エスティア』の名前などが見受けられる。
しかしこのエスティア……僅かに資料を読むだけでも普通の管理局の船とは大分違うらしい。闇の書封印の為に特別な改造を受けているのか。



深く読み進めようとするクライドをたしなめる様にグレアムの声が響く。




「とりあえず、今日はこれでお開きとしようか。じっくりと読み込んで来い」






急に十歳以上年を取ったような、そんな老壮な空気を纏い、グレアムがソファーに沈み込む。背筋こそ伸ばし、しっかりと座っているが……その体から隠しきれない疲労感が覗いている。
クライドが小さく礼をし、厳粛な気配を放ちながらファイルをしっかりと握り締めて退室してくのを見送ってから、今度こそグレアムは完全に脱力した。




ふと、視線を何気なく飛ばせばそこにあるのは写真立てに入れられ、飾られた一枚の写真。
映るのはインターミドルを優勝したクライドを中心にリンディ、コーディ、使い魔のリーゼ達に、自分と……そしてテスタロッサ一家が並んでいる光景。
プレシア・テスタロッサの身に起きた悲劇をグレアムは知っている。そして彼女が何処かへ消えたことも。





思わず世界はこんなはずじゃなかった事ばかりだとグレアムは嘆息した。どうして彼女ばかりが、と。
神はどうして、あんな素晴らしい女性に試練を与えるのだろうか。





次にグレアムはクライドが先ほど閉じた部屋の扉を見た。
正直の話、闇の書の事件に彼を巻き込むのは嫌だった。だが、彼は戦闘に関して優秀だし、何より、それ以外の場面ではもっと優秀だ。
事務仕事も戦闘も出来て、咄嗟の判断も素早く、的確に下せるという逸材。




それに何故だかは判らないが、本能よりももっと深い部分で何かが囁いた気がしたのだ。
この事件に彼は必要になるのだ、と。これは理屈ではなく……天啓と言う言葉しっくりくる。





どちらにせよ、闇の書は我らが終わらせる、硬く彼は誓った。
プレシアが何処に行ったかは判らないが、家族を再び失った彼女がせめて、少しでも住みやすく出来るように次元世界を変えたいのだ。







あとがき




スパロボZをやっていると、色々とこのSSに使えそうなネタが飛びまわっていてニヤニヤが止まらない今日この頃。
ゆっくりと、それでいて趣味に走りながら物語を進めていきたいなぁとか思っています。






[19866] 26
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2012/08/06 14:10


死、というモノは絶対である。
どれほどの権力者であっても、どれほどの富を蓄えようとも、死は公平に振りまかれ、一切の差別なく訪れる。
だからこそ人は生きるんだよ、絶対に死ぬから、人は生きているんだ、彼の大切な人は彼にそう説いた。




彼は争いが嫌いだ。何で死んでしまったら終わりなのに、戦争なんてするんだろうか。
神様は、いい事をしなさいって人間に言ったというのに、どうして皆は殺しあうの? そう常々彼は疑問に思っていた。
両親の内、父親は戦争に行き、自分さえももう少し年を取れば戦争に行くだろうという状況の中、当時の彼はよく考えを巡らせて遊んでいた。




幼い頃、母と祖母が泣いているのを見たことがある。
母と祖母は、戦地から送られてきたたった一枚の手紙を手に取り、そこに内包されていた父さんのモノと思わしきボロボロの帽子を手に泣き崩れていた。
何となく、もう二度と父さんと会うことは出来ないのだろうと、確信した。




嫌だなァ、と思った。死んだら、もう会えないと考えると、無性に胸が痛んだ。
命が、世界にたった一つしかない大切な命が、消えてしまったらもう会えないなんて、残酷だ。




お婆ちゃんが、何時も父さんの写真と、お爺ちゃんの写真に語りかけている。
何をしているの? と聞いたら、お婆ちゃんは優しい目で自分を見つめて、頭を撫でながら言ってくれた。





「二人はね、天国に言ったんだよ。天国に行けば、争いなんてなくて、皆仲良く暮らせているのさ。アタシは……そこにいる二人に話しかけてたのさ」





優しくて、温もりに溢れた世界。そんなところがあるのなら、是非自分も行ってみたかった。
天国って何処にあるの? そう、自分は聞き返していた。お婆ちゃんは柔らかく微笑んで返してくれた。
皺くちゃの手で撫でられているのに、何故かとても心地よかった。





「アタシにとっては、ここが天国さ。可愛い孫がいて、娘がいる。これ以上、何もいらないよ」




ギュッとお婆ちゃんは自分を抱きしめてくれた。細くてシワシワの腕で、しっかりと、力強く。お前だけは失いたくない、と。
当時の自分は、その言葉を聞いて何だか褒められた感じがして、意味もなく笑ってしまったものだ。





死は、虚しい。死んだら終わりなんて、嫌だ。死者と会えないなんて嫌だ。大切な人に死んで欲しくない。居なくならないでほしい。
それは、親と別れるのを拒む幼子と同じ駄々。だが、この理想を追い求めるのはその駄々を叶える力を持った存在。





ならば、死の先を目指そう。天国を目指そう。そして皆をそこに招待しよう。
ご都合主義でも構わない。真実、皆が幸福になれるのなら、ソレの否定など許さないし、認めない。
ないのならば作る。楽園を作る。誰にも侵されず、戦争も差別もない優しく、暖かい世界を。






真実、始まりの願いはソレだった。誰でも少しは願う、とてもささやかな希望。
ただ、恒久の平和と、普遍の幸福が欲しかったのだ。














闇のまどろみの中、システムが打ち込まれたプログラムに従い、起動を開始する。
突貫作業だったとはいえ、間違いなく最高クラスの魔導師が編み上げたプログラムは綿密で精密な計算の元、一つのズレなく歯車を回し、新たなる災禍をもたらす。
絶叫が、腹の底から搾り出される。幾つもの悲嘆の声、幾重にも重なる闇の書の絶叫が。




同類を増やせ、仲間を取り込め。ここは楽園なり。楽園に一つでも多くを飲み込むのだ、と。
闇の書の深奥の中に座する者が頭を動かし、蠢く。確たる意識と信念をもって、自らの夢を実現するために。
かつては起動すれば制御が利かず、完全な破壊にしか用いることが出来なかったシステムは、今や別次元の存在へと進化を遂げていた。





破【界】から再【世】にベクトルを向けてやるのだ。空間侵食機能と生体パーツ生成能力を利用し、更なる戦力の確保へ。
楽園を創り、楽園を守り、楽園を維持し、楽園を広めるための力を生み出すのだ。




はっきりと自我をもって動き、思考する。前回自分が敗北したのを踏まえ、今度こそ失敗しないように。
既に幾つかの自信作とも言える新しい防衛システムを構築したソレは、外部へとアクセスするための媒介を求めている。
闇の書の力は応用すると、文字通り無限の使い方で用いることが出来ることを“彼”は知っていた。




新たに闇の書の内部で保管されていたデータを再現、コピーし、更には闇の書自体の大幅な改造を“彼”は行っている。
それに、だ。闇の深遠で“彼”は実に面白い存在を見つけたのだ、とびっきりのとっておきを。




だが、まずは何よりも器、入れ物が必要だ。思うように力を発揮するためには、外部へと力を効率よく伝導させる存在が……。
システムが踊り、プログラムが回転する。まだ、まだ終わりではない。そう、闇の書は永遠に不滅だから。





幾つものパターンが生み出され、試行され、消去され、そして再試行。






量子と魔素、電子、そして思念、全ての要素が無茶苦茶に飛び交う世界の中で“彼”は笑い……そして、沈黙した。
どうにも、おかしい、と。直感的な部分でしかいえないが……何かに触っている感じがするのだ。
そして何かが見ている。視線を送っている。ありとあらゆるレーダー、ありとあらゆる観測システムに反応などないのに、時々はっきりと感じることがある。






まぁ、いいか、と“彼”は気分を切り替え、まどろみの中に落ちていった。まだ、時間はあるのだから、もう少しだけ夢に浸っていてもいいだろう。






















時空管理局と闇の書の間には深い因縁がある。
闇の書は管理局が産まれる遥か以前より存在し、その猛威を振るい、様々な世界を滅ぼしたが、管理局が誕生する以前はその情報は正直な話余り知られてはなかったのだ。
古代のベルカでは伝説の災厄と呼ばれ、恐れられていたソレは全くもって正体がわからなかったのである。




闇の書が生まれたとされるベルカのとある領土がソレを内包する世界ごと消滅し、闇の書に関する貴重なデータの数々は霧散した結果、闇の書は長い間正体不明の災禍として扱われていたのだ。
それに当時存在する世界のほぼ全ては戦争継続に大半の力を傾けており、神出鬼没な災害である闇の書の探索と情報収集に力を裂く暇などなかったというのも理由の一つ。
旧暦に発生した大規模な次元断層の影響により、ミッドチルダ、ベルカ、その他の世界は戦力を大幅に削り取られ、ようやく自分たちが何をしていたかに気がつく。




彼らの眼前に広がっていたのは大戦が発生する以前に比べ、半分以下にまでその数を減らした次元と、何処までも荒涼とし、無法地帯となった世界だ。
手元にあるのは人殺しの武器と兵器の数々……それを見た当時の者達は戦争によって熱された頭が急激に冷却され、嘆き、反省するに至る。
結果、様々な世界が種族、人種、出身世界、身分、貧富、思想、年齢、能力、言語、その全ての壁を乗り越え、力を結集した結果時空管理局が生まれ、今日の世界がある。





そうしてから、ようやく闇の書に関する情報が集まり出したのだ。様々な世界の出身者からの情報提供、ベルカの伝承
かつて存在したとされるとあるデバイスの改造データ、その全てが統合され、整理し、専門家たちの手により解析された結果、闇の書の存在はようやく明らかになる。
だが、次第に明らかになっていく闇の書の詳細を見て、管理局に属するモノ達の顔は確実に凍りついただろう。





無限転生により決して滅びず、空間侵食により世界を丸ごと食いつぶし、アルカンシェルによる空間反転でさえ決定打にならない存在。
戦争の傷跡から立ち直ろうとする世界にとって闇の書というのは巨大な足枷に他ならないのだ。





管理局の局員の中には闇の書によって親族を奪われた、出身世界を荒らされた、もしくは滅ぼされたという者も少なからずおり
彼らは管理局に対して強く闇の書事件への対策を望み、何度もその要望を提出していた。
管理局としても闇の書はどうにかしたいという思いは勿論ある。だが、技術的に闇の書の完全消滅は難しいという現実があったのだが……。






一つの転換期が訪れる。メテオ3の落着と、そこに内包されていたデータの数々だ。
吸収にはそれなりの時間が掛かったが、デバイス等の基礎技術の向上と、コンピューターなどの機器の性能向上。
それによって生み出される新技術や計算結果などが……今までは破壊不可能と断じられていた闇の書への対策の糸口を見つけることとなる。





破壊できないのならば、永劫に無力化してしまえばいい。
闇の書はデバイスであり、その原理はロスト・ロギアと呼ばれてこそいるが、現代のデバイスと同じく魔力などを用いたプログラムだ。
現代のデバイスの元になった存在の一つとも言われる闇の書を破壊するのは不可能だが、無効化するだけならば可能。





これが管理局の技術者達が打ち出した答えだ。プログラムに特殊なコードを打ち込み、処理をフリーズさせた後、
膨大な魔力を用いて闇の書ごと空間を凍結させ後に隔離区画へと封印。手順だけを簡単にあげるなら、これだけ。



だが、たったこれだけの事にも幾つもの問題がある。



まず第一に闇の書が何処にあるか、だ。
そもそも何処にあるのかさえ判らなければ、封印のしようがない。
だが、そこは次元世界中に影響力のある管理局と、次元中から集められた技術者が何とかするだろう。




彼らの中には、闇の書の被害者だっているのだから。





第二に、闇の書をフリーズさせるためのコードを打ち込むタイミング。
これがある意味一番難しく、最もギャンブルと呼んでも差し支えのない行為。




フリーズさせるためのプログラムを打ち込んで効果が望めるのは……暴走直前のみなのだ。




闇の書は普段は幾重にも自らを守るためにファイアー・ウォールを展開し、厳重な鎧の中に引きこもっている状態であり
この状態では外界のあらゆる干渉を無効化し、仮に防壁を突破出来たとしてもその瞬間、無限転生機能を活性化させ、逃げてしまう。
アクセス可能なのは闇の書のマスターのみ。マスターだけが、あの闇の書を自由にする権利をもっている。




その壁がなくなり、外部からの干渉を受け付けるのは暴走直前、というわけだ。
ダムの門が開き、その中から闇の書の空間侵食という洪水が溢れてくる前にコードを打ち込め、というわけだ。
















「相変わらず無理難題だよなぁ……これ」





クライドは一人、闇の書凍結計画の資料を見て溜め息を吐いた。相変わらず何度読んでも無茶苦茶だ、と彼は感想を内心で苦笑交じりに、愉快気に述べる。
もう何度読んだか判らないその紙はしおしおになり、所々に彼の手垢や手汗などで染みついてしまった。
本来几帳面な性格のクライドは渡された資料をこのように扱うことなどないのだが、これは特別だ。




文字通り、次元世界全ての希望が記された書類を彼は狂気的なまでに読み込み、その結果こうなってしまったのである。
書かれている文は闇の書凍結計画のおおまかな流れとそれに使用する技術とそれの信用度とメカニズム
他には支給される装備や、本部の電話番号、事件に関わる者達が所有するメンバーカード、等など……。





しかし、と彼は意識を切り替える。無茶だ無理難題としきりに口にしたが、それは正直な話、8割がた嘘である。
彼は成功を信じている。少なくとも全くのお手上げだった状態から、ここまで進展し、後は賭けに近いとはいえ、自分たちの能力さえあれば何とかなる状況にまで持ち込んだのだ。




ここまでお膳立てしてもらっておいて、計画にクレームをつけるなど出来るわけがないし、するつもりはない。
事実、グレアムが構成した闇の書の捕獲チームは彼にとって非常に居心地がよい。
各々が使命感に燃え盛り、それでいて周りの者との協調性を崩さないチームは……今までクライドが見てきた中で最高のチームだ。





時計を見ると、既に普通の管理局員ならば帰宅していてもおかしくない時間を示し、クライドはふぅと息を吐くと、書類を鞄に戻す。
今日の仕事は終わった。確保グループである自分たちは闇の書の捜索グループと連携して行動をすることが主なのだが……自分たちの班の勤務時間は終わり、後は引継ぎを行うだけだ。




少しばかり、浮かれた気持ちで彼がタイムカードを入力し、局を後にしたのは彼の事情を知るものからすれば仕方ないと答えるだろう。
何故ならば彼はもうクライド・ハーヴェイではないからだ。彼を示す新しい名前はクライド・ハラオウン。
そしてもしも、このまま順調にいけば間違いなく彼は子を持ち、父となるだろう。




愛しい妻が待つ家へと向かう足取りが軽いのはもはやどうしようもない。
窓の外を見ると、やはりそこに映るのはミッドチルダ、クラナガンの夜景のみ。
今日は珍しく地上での勤務になったが、そのお陰で家に帰ることが出来そうだ。




普段は本局、海に行ってしまうと帰れるのが週に一度だけ、等と言う状況になることも珍しくないのだ。
そして彼の妻、リンディも今日は確か……思い出す、確か彼女は今日は仕事で夜が遅くなるといっていたのを。



もう、彼女には数日もあっていない。



家に妻が居ないという事を思い出すと同時に、クライドの心を雲が覆うが、それも一瞬。
まぁ、一人暮らしには慣れているし、いいかと割り切った。だが、何処かで納得いかない、と子供のような気持ちが湧き上がる。







「よぉ、ご苦労さん」




急に聞き覚えのある声が彼の耳朶を叩き、クライドは弾かれたように顔を声のした方向へ向ける。
予想通りの人物がそこにおり、彼は思わず笑ってしまった。




「どうしたんですか? コーディさん。今日は貴方はもう帰ったと思いましたけど」




「あ~~違う、違う、俺を呼ぶ時はそうじゃないって前から言ってるだろ? ほら」



リンディと同じ、否、リンディの元となったであろう緑髪を持つ男性が人懐こい笑顔でやんわりとクライドの言葉を訂正しろと言葉を返す。
恥ずかしそうにクライドが頭を小さく掻いた。あぁ、どうして自分は家族にこんなに気を使ってしまうのか。
そもそも、自分はこの人の事も家族として好意を持っているというのに。




「……それで、父さんはどうして此処にいるんです?」




全てが夢の様なのだ。自分が結婚したという事も、眼の前の男性が義理の父親になったというのも。
だからなのか。父と呼ぶことにかなりの抵抗というか、気恥ずかしさがあるのは。




「敬語は……まぁいいか。今日は少しな、お前と話がしたいだ。ほら、リンディと結婚する前にも後にも、一度もお前とゆっくりと話す機会なんてなかっただろ?」




そういえば、とクライドは思い起こす。執務官という職業の忙しさもあり、義理の父であるコーディとは余りしっかりと話したことがなかったのだ。




乗れよ、と扉を開けられた車にクライドが滑るように乗り込み、助手席のシートに身を任せる。もちろんしっかりとシートベルトは装着して。
黒く柔らかいマットは決して体を底なし沼の様に沈めることはなく、むしろ適度な堅さをもって押し返してくれて、体を常に一番楽な姿勢で固定してくれる。
それだけでこの車が安物ではないことが判る。確か、これの車種は十年ほど前に販売を開始された高級車で、大気中の魔素を取り入れつつも、内部の燃料によって走るハイブリット車のはずだった。




隣の運転席に乗り込んできた自分の義父を見て、クライドは眼を細めた。慣れた手つきで車のエンジンを起動させる様はやはり年齢の貫禄、というものを感じさせる。
人身事故などを気にしてしまう自分は車の免許はもっていないが……将来の事を考えると取っておいた方がいいのかもしれない。
子供が産まれたりしたら、やはり車というのは必要になるのだろうから。





「ちょっと俺のお勧めの店があるんだ。そこでゆっくり話そうぜ。あぁ、もちろん代金は全部もってやるから、好きに食うといいさ……まぁ、俺は運転するから酒は飲めないけどな」




ミッドチルダでは飲酒運転や無免許運転に関わる法令はかなり厳重だ。
たとえ子供であろうとも無免許や飲酒運転等で誰かを殺してしまったらまず間違いなく刑務所10数年は叩き込まれ、更にかなりの額の金を支払うことになる。
お前は飲むか? と聞かれてクライドは首を横に振った。酒そのものは飲めるには飲めるが……ただ、今はそういう気分ではなかったのだ。



もしかしたら、少しばかり自分は緊張しているのか? クライドは胸の底がジクジクと熱く痛むのを感じながらそう思った。














車で10分ほど走って、管理局の地上本部からそれなりに離れた位置にある店へと二人は来ていた。
店は木造で、かなりの年月を経ているのか、所々が黒く変色したりしているが、それでもなおしっかりとした作りなのか、一目みただけで威圧されそうだ。
ここは高級店なのか? それとも、そこいらに溢れている料亭か? なんとも判断に困る外観だが……どちらにせよ、普通の店よりは高いことは確実だろう。




「あの父さん……本当にいいのですか? ここ、絶対に安くないでしょう」




「お前、俺はベテラン執務官だぞ? 普通の人間の何倍の額貰ってると思ってるんだ」




確かにそうなのだが、やはり他人に奢ってもらうというのは……そう考えた彼の心を読んだかの如く、コーディは溜め息を吐いてから、微笑んだ。
細かいことを気にするなとクライドの手を引っ張り、彼を車から降ろす。





店の扉、これも木製で管理局の自動化された扉とは違い一々手で開けなくてはならず、
開ける際に長い年月によって建て付けが悪くなった扉がギシギシ言うが、何処かクライドはソレを気に入った。
スイッチ一つで開ける扉よりも、こういった方が何か、味がある、と思ったのだ。




扉を開けると漂ってくるのは、味噌や醤油などの調味料の匂い。
かなり上質なソレは、匂いだけでも人の食欲を刺激するらしく、クライドは自分が昼頃から何も食べていない事を思い出す。
時間帯が時間帯なので、店の中は食事を取りに来た客らで賑わいを見せており、ぱっと見すると、クライドとコーディが座る所がないように思える。




どうするんだろうか。店を変えるのだろうか。クライドがそう思った瞬間、独特な民族服を模した作業服を着たスタッフが二人に音もなく笑顔で近づき、一礼。




「コーディ様ですね? お席の方へどうぞ」





判ったとコーディが返し、あっという間に二人は店の奥の一室、予約しなければ入れないだろう部屋へと通される。
外界の一切の喧騒から切り離された空間、部屋の中に流れているのは気分を落ち着かせる作用のある民族音楽。
用意された座布団の上に、二人は机を挟んで向き合うように座った。




「凄い顔が利くんですね」





「俺はここの常連だからな。それなりに無茶な要望も聞いてくれるんだ」





そういうと彼は禁煙用のプラスチックパイプを取り出し、寂しくなったのか口にくわえる。もちろん、煙は出ない。




「タバコ、吸わないんですか? 僕は気にしませんよ」





確か、この店は禁煙ではなかったはず。
さっきの入り口から見ただけで、かなりの人数の客がタバコを吸っているのをクライドは見ていた。






「今の俺の相棒はコイツさ」





小指を立てて、パイプを指差すコーディにクライドは笑い、メニューを開き、そこに並んだ食事の数々を見る。
下に書いてある値段は、やはり予想通り自分が普段利用している店の数倍を示しているが、意図的にそこは無視した。
幾つか純粋に食べてみたいものをコーディに告げて、メニューを彼に渡す。




スタッフを呼び、注文を告げてスタッフが退室すると途端に部屋の中は沈黙に包まれるが……。




「まぁ、なんだ……仕事、頑張ってるか?」




「正直、少しだけ休みたいなぁとか思うことはありますよ……でも、やり応えはあります」




「仕事だけに熱中するのも考え物だからな。しっかりと家族にも眼を向けろよ」





判っていますと苦笑交じりに答えて、クライドは全身の力を抜いた。
ワイシャツの第一ボタンを外し、少しだけネクタイを緩める。ふぅと重い息を吐く。
今まで張り詰めていた何かが、緩んだ気がした。




「大分疲れてるようじゃねえか。休む時はしっかり休まねぇと、体壊しちまうぞ」





「そうなんですけど、中々休む時間が取れないんですよね」





スタッフが運んできたお茶を一杯飲み干し、一息吐くと、彼は幾らか回転速度が落ちた思考を巡らせる。
思えば、自分は管理局の中でもかなりの働き者だ。朝は誰よりも早く職場に入るし、夜は少なくとも何時も後ろから数えたほうが早い程に居残っていた。
もう少しだけ、そういった時間への締め付けを緩めてみるのも一つか。独り身ならば、自分の好きなようにスケジュールを組めたが、今はもう違うのだから。





「……正直な話、未だに実感が沸かないんですよね。自分が結婚したなんて。まるで僕と同じ名前の人が結婚した、見たいな感じで……」




ふぅと息を吐くのと同時に紡がれた言葉は、嘘偽りのない、今のクライドが思っている言葉だった。
多少は優れた魔導師の素質を生かすために、管理局に入り、限界を知ってからはグレアムへと弟子入りをし
今では海でもそれなりに信頼されている人物になったと自負こそしているが……クライドが欲しいのはそんなものではない。






よく判らなかったのだ。自分が欲しいモノが。常に何処かにぽっかりと空虚な部分があり、そこから覗く心を隙間風が冷やしていく。
だが、リンディは違う。彼女と一緒に居る時間は……簡単に言えば、とても愛おしいのだ。
彼女だけが胸の奥底まで入り込んでくる。彼女だけが、クライドという男を満たせる。





だからこそ信じられないのかもしれない。最も恋焦がれた女性を手に入れたという現実が。





「安心しろよ。お前は確かにリンディを手に入れたのさ、他の誰でもない、お前だけが俺の娘を幸福にする権利を勝ち取ったんだ」





「判っています。絶対に、そこだけは、誰にも譲る気はありません。彼女は僕だけの妻です」





力強く断言する。誰にも、彼女を渡すつもりなどないと。
自分は他者に比べれば独占欲は余りないほうだと思っていたが、どうやら違うようだと彼は胸中苦笑した。
そして心地よい。何かに凄まじいまでの執着を燃やすというのはここまで甘美なものなのか。




やり過ぎたら家庭の仲がギスギスするのは眼に見えているので程ほどに抑えるが。





「おう、そこまで断言してくれりゃ、俺としても何も文句はねぇし、好きにやれや、何かあったら俺やグレアムが何時でも助けてやる」




「父さんはともかく、グレアムさんは……こう、若いうちの苦労は金を払ってでも買え、とか言いそうなイメージですね」




下手な事で助けを求めたり何かしたら、あの鋭い眼光で此方を呆れた様に見つつ
「お前は何歳だ? いい年をして、まだ大人に縋らないと生きれないのか?」等と淡々と言い放つ彼の顔がクライドの脳裏を掠めていく。



いやいや、とコーディが内心を読んだように笑った。





「アイツはああ見えて情が深い男だぞ。ぶつくさ文句は言うかもしれないが、絶対にお前を助けてくれるはずだ……何せ、アイツはお前の事がお気に入りだからな」





情が深い、その言葉を聞いてからクライドが想起したのは闇の書の凍結に自分を誘った時の彼の顔。
何か、激しい痛みに耐えるような歪んだ顔で、自分の手を強く、そして震えながら握り締めたグレアム。






──正直な話だが、私はだな……君が断ってくれることを期待していたよ。





あの言葉の裏に、彼は、自分の師匠は何を思ったのだろうか。





「いいか、ここからは俺の独り言だ」




「?」





唐突に喋り出した義理の父にクライドが顔を傾げる。
しかし彼の先ほどまでとは違う語り口に息子は黙って耳を傾けることにした。





「この頃、グレアムやお前が何かデカイ事をやろうとしているのは何となくだが判っているし、それがどんな計画なのかも大体の検討はついている」




「…………」





管理局本部で何年も執務官として努めているコーディの綿密な情報網と
闇の書凍結計画にまわされている予算や装備を考えれば隠しきれるものではないと理解しているクライドは何も言わない。





「物凄く、身勝手な意見になるが……降りることは出来ないのか? お前はまだ若いだろうがよ、アレに固執しなくても、お前ならもっと──」






「父さん!」





言わせない、その先の言葉を切り取るように吐かれた言葉は、自分が思っているよりも何倍も鋭くなって口から出る。
わななく唇を動かしながら息を吐くコーディは、一回りも、二周りも小さくなったように見えた。





「悪い、ただの年寄りの愚痴だと思って聞き流してくれ」




ふぅっとパイプを取り出して一息吐くと、コーディは何時もの様な和気藹々とした空気を身に纏い、彼は微笑んだ。
まるで悪戯を仕掛けた悪ガキの様な、幼い笑顔。





「実は、だ。今日はもう一人ゲストを呼んでいるのさ……もうそろそろ来る時間の筈なんだが」





腕時計を見やり、コーディが小さく魔法を行使。髪の毛と同じ若草色の魔力光がほんの僅かだけ迸る。
クライドとは桁違いの魔力と精度で発動されたソレは、民間の魔導師ではまず気がつけないだろう程に隠蔽されていた。
しかし、クライドは民間人ではなく、管理局の局員であり、それでいて魔力の扱いというものに人一倍長けているからこそ魔法の正体を見抜く。
探査魔術か、それも特定の魔力を持った人間を広範囲に渡って捜索するための……。




そこまで思い至った時、クライドは思った。特定の魔力? 誰だろうか。 




「じゃ、後はお前たちに任せて、俺は帰るとするよ」





財布を取り出し、最も高価な紙幣を数枚取り出して机の上に置くと、コーディが立ち上がる。
ここで何かに気がついた様に、彼は財布を仕舞うと、バックの中から球状のデバイスを取り出して、紙幣の隣においた。





「これは?」




「技術局から貰ったものでな、簡易的な転移魔法のサポートマシンだ。起動パスワードを入力した後に魔力を注げば、あらかじめ設定しておいた場所に転移できる」






設定場所はもちろんお前たちの家だ、と告げると彼はパスが書かれている紙をデバイスの隣に置き、スタッフに労いの言葉を掛けると部屋から出て行ってしまう。
彼と入れ替わるように扉が開き、駆け込むように一つの人影が部屋の中になだれ込んでくる。
その人物が誰かを認識した瞬間、クライドの顔が呆けた。




「リンディ……! どうしてここに? 仕事は、大丈夫なのかい?」




ハァハァと息を吐く若草色の髪が特徴的な女性……リンディが息も絶え絶えな様子でその場に崩れ落ち、何とか顔をあげてから彼女は言った。





「お仕事は終わらせてきました。何日も前から、お父様がこの日は二人の時間を作ってくれると言っていたので……頑張ったんです」





それを聞いた瞬間、クライドの顔が満面の笑みに変わった。
とにかく、嬉しいという感情が鉄砲水の様に吹き出て、子供の様に叫んでしまいそうな衝動を何とか抑える。
喜びで震えそうな体を抑制しつつ、彼はリンディへとお茶を差し出し、柔らかく座布団へと座るように促した。






「ありがとう」




一言礼を述べると大分息切れの収まったリンディがお茶に口を付けて……硬直。
そしてふるふると震え始め、口をぎゅっと握り締めて何かに耐えるような表情へと見る見る変わる。
あー、と思い出した様に苦笑しながらクライドは手じかに置いてあった砂糖の入った瓶を掴み、ソレを差し出す。




蓋を開け、リンディが大匙スプーンでソレを十回ほど掬ってお茶へと投下。
するとあら不思議、先ほどまではあんなに流動的だったお茶が、水あめの様な粘性を手に入れる事に成功。
糖分が溶け出して白く濁ったお茶をリンディが呷る。ごくごくと炭酸飲料水でも飲むように一気に飲んでいるところを見ると、よほど喉が渇いていたのだろう。




「ふぅ……」





糖分を補充できて、満足したのかリンディが小さく息を吐く。随分と乱れてしまった髪の毛を手櫛で直しながら、クライドの対面に座る。




「連絡も入れずに、いきなりでごめんなさい。でも、やっぱり……週に何回かはこうして貴方と会いたいの」




「別に怒ってなんかいないよ! ただちょっと……驚いたんだ、それと嬉しいサプライズに感動しただけさ」




途中から徐々に声が高くなっていく様は、クライドの奥で渦巻く歓喜を表しているようだった。
視界が滲む、彼女と一緒に居れて嬉しくてたまらない。




「そうね、二人っきりで食事なんて久しぶり、特にこの頃の貴方は凄く忙しいみたいだし……」




嬉しそうに笑う自分の妻に、クライドはほんの少しだけ、始めて闇の書に関する計画に携わってしまった事に後悔を抱いた。
もしかして自分は彼女に寂しい思いをさせてしまっているのではないか。家族を省みない男だと思われてしまうのか。
俗物的で、幼稚な考えだと自覚はしている。しかし闇の書の封印が成功した場合に助かる命の総量と比べてしまえば、自分一人の家庭など……と彼は割り切ることが出来ない。





「ごめん。でも、僕は絶対に──」





クライド、たった一言の弾む様な声が彼の言葉を遮った。





「私も、管理局員なのよ?」






安心して、信じているから。続けて放たれた言葉に思わずクライドは雷にうたれた様に刺激を受けて、固まる。
そして一泊の後に彼は腹を抱えて笑った。自分がどれほどつまらない心配をしていたか理解して、彼は笑ったのだ。
管理局員、闇の書凍結計画、仕事の疲れ、その全てを彼は躊躇わず捨て去った。




その結果残るのは、リンディという女性を大切に思う一人の男だけ。




彼には珍しく熱を帯びた顔と声で声を発する。舌が乾ききってうまく回らない。
そんな夫を見て、リンディが微笑み、無言でお茶を一つ差し出した。たっぷりと砂糖と練乳を混ぜたソレを。




勢いよく茶を喉に流し込んだクライドが眼を白黒させて、ばったりと倒れかけるが……気合で全てを喉の奥、胃の中に流し込み、口の中に猛烈に残る甘さを彼は噛み締めながら思った。





あぁ、僕は幸せだなァ。
その日、ハラオウン夫婦は店が閉店の時間になるまで二人で本当に楽しそうに談笑していたという。























時空管理局 本局  闇の書探索チーム 監視施設 新暦 50年







「こちらです、グレアム提督」




夜も遅い時間帯、闇の書凍結計画の総責任者であるグレアムは、闇の書の探索チームから緊急の呼び出しを受けて本局を訪れていた。
凍結計画の責任者に任じられるに当たって艦隊提督という地位についた彼はいつも通りの鉄面皮を張付けて、本局の金属の床を歩く。
捜索チームに与えられた部屋の前まで来ると、一人の男が彼を待っていた。




捜索チームのリーダーである中年の男性が、グレアムを迎える。
二匹の猫の使い魔がグレアムの肩から飛び降りて、変化魔法を発動し、人間形態になった。





「このような夜遅くに申し訳ありません、しかし……どうしても直接お見せしなくてはならない情報ですので」





「構わんよ。君たちは君たちの仕事をやって何かしらの結果を出したのだろう。 
 それもデータ転送などではなく、本局で直接確認をしなければならない程の重要性のある……ならば私は私の責務を果たすだけだ」





簡潔にソレだけを述べると彼は男が部屋の扉を開けるのを待ってから、背後に使い魔を従えて入室する。
銀色のメタリックな壁と天井に覆われた部屋はそれなりの広さを誇り、様々な箇所に多種の機材が所狭しと配置され、その全てが電子音と共に稼動していた。
ほとんどは様々な管理世界に配置した観測施設や観測マシーンからの情報だ。





グレアムが部屋に足を踏み入れると同時に、作業をしていた捜索チームの者達が椅子から立ち上がり、敬礼。
皆、疲労が色濃く顔に出ている。幾ら交代制とはいえ、管理局が認知しているほぼ全ての世界と次元領域を観察しているのだ、疲れもする。
ほぼ全ての人間がクマを作っていたが……眼に宿る闘志は欠片も衰えていない。皆々、闇の書をいち早く発見するために進んで残業さえ行っているのだ。




グレアムは、それを見て誇りに思った。何て、何て素晴らしい。
故に彼は敬意をもってこう返す。






「ご苦労。仕事を続けたまえ」





はいっと部屋中から返事がかえり、プログラムされた機械の如き素早さで作業を再開。





「提督、こちらへどうぞ」




リーダーの男が一つのモニターの前に立ち、椅子を引く。そこに座れということだろう。
グレアムが椅子に腰掛けると、男が端末を弄くる。様々な情報が画面に映し出され、消えていく。




「我々捜索チームの闇の書の探索方法は、主に二つあります」




グレアムが見ているモニターに情報が表示される。それは闇の書が過去、転移した際に発した特殊な魔力の波長。
周波数、とでも例えるべきソレは闇の書が転移を完了すると同時に発せられ、微弱な次元震動を起こす。





「一つは、闇の書が転移した際に発せられる魔力の波長を追いかける方法……過去何度か我々の先祖はこの方法で闇の書を発見し、破壊を試みました」





その結果は推して知るべし。





「そして、二つ目が闇の書のリンカー・コア蒐集を追いかけていく方法」
 



闇の書を発動させるためには、666ページの項目全てを埋め尽くす必要がある。
そのインクとなるのはリンカー・コアという魔法を使う存在ならばどんな存在であれもっている器官。
魔導師にとっては魔力と言う血液を生み出し、全身に送り込む骨髄と心臓を兼ねた箇所。




リンカー・コア蒐集の際にソレを実行する守護騎士達の空間転移による時空の歪みや、襲われる生物の生息地
時間帯、周辺世界の構図、その他様々な要因をパズルの如く組み合わせていけば、自ずと闇の書のありかはわかる。






「単刀直入に、今回、問題になっているのは……コレです」





何やら長いワードを入力された装置が唸りを上げて、データを出力する。
モニターに映し出されたのは、荒野、恐らくは次元中にばら撒かれた監視スフィアが送ってきた映像だろう。




荒野に多数歩くのは、次元世界でも珍しい魔法生物の一種。
全長20メートルを超える真っ赤な亀の様な姿をしてその生き物は、やはり亀に似ているだけあって普段は鈍足なのかゆっくりと荒野を進んでいる。
一歩踏み出すたびに地面が抉れて、深さ1メートルにも達する穴が大地に穿たれているのを見るに、この亀の重量はとんでもないのだろう。




グレアムが画面を注視する。今回、問題になったのはこの亀などでない事を彼は察しているから。






突如、画面が揺れる。仮に地震だとしても、スフィアは宙に浮いているため、揺れることなどありえないのだが……
右上に表示が新たに現れる。それはミッドの地震速報にそっくりなテロップ。空間振動の値と、その規模を示す情報。




「次元震か。それにしては、随分と局地的だが」





次元震動というのは、本来は滅多なことでは起こらない。
アルカンシェルを使うか、想像も出来ない程の莫大な魔素を使用して大規模の空間魔法を行使するか、
もしくは何処かの次元の宇宙で惑星が吹き飛んだりなどしなければ、空間が揺れるなど起こらないのだ。


それらが引き起こす次元震動の規模は、人智を超えるほどに凄まじい。



「はい、それだけでも異常なのですが、問題はここからです」




画面の中の、巨大な亀の様子が変わる。今までは能天気とも言える程に歩いていたが、何かに気がついたのか、動きを止める。
亀の巨大な甲羅が赤黒く輝き、魔力を帯び始める。
その様はまるで、何かを威嚇し、警戒しているようにグレアムには見えた。





ビキ……。




一音、軽快で、濁った音が響く。薄氷を踏み抜き、砕け切れなかったような、そんな音。
亀の前方の空間に“皹”が走り出す……何かが、空間を引き裂き、現れようとしている。




「……!」




グレアムが息を呑む。長年魔導師として生きてきた彼だが、こんな魔法は知らない。
空間転移ならば魔方陣の展開があり、魔力の流れがあるはずなのに、これは明らかにおかしい。
空間の転移を空間と言う壁に扉を付けて壁を越える方法だと例えるならば、これはまるで、壁そのものを暴力で殴り壊して進んでいる。





空間に刻まれた無数の断線が、広がり……砕けて、裂けた。
罅割れた世界の奥は虚数空間を思わせる暗黒と虹色の色彩が混ざったような摩訶不思議な世界を成しており、その先に何があるのかなど判らない。
虚数でもなく、次元空間でも、宇宙空間でもない全く未知の世界。





─────………!!!!







咆哮。人間の可聴領域を上回る絶叫は鼓膜どころか、体そのものを靴底から揺らす衝撃波となる。
グレアムの脳裏によぎったのは、かつてアルゴ・レルネーへと赴こうとした際に襲撃してきた存在が発した『声』
深い深い闇のそこから吹きぬいてくる錯覚を覚えさせる『声』と、この咆哮を何故だかは判らないが、似ていると思ったのだ。






『ソレ』は、耳を打ち抜く咆哮と共に空間の裂け目より突如現れた。『ソレ』は巨大な、20メートル近い亀とほぼ同じ大きさだ。
全身を灰色の甲殻に覆われた、二足歩行の巨大なトカゲとも取れるシルエットの『ソレ』には手はなく、異常に発達した、恐竜の如き屈強な足で大地を踏み抜く。
足の付け根辺りに見えるのは、灰色の巨大な結晶体、不気味に輝く無機質な物体が『ソレ』に有機物と無機物、両方の特徴を掛け合わせていて、更に不気味に見せる。





こんな生き物は、今まで誰も見たことがない。こんな存在は、今まで誰も知らない。
だが、それ以上にグレアムを驚愕させたのは……画面に新しく表示されたこの怪物の魔力パターンだ。






「闇の書と酷似……いや、これは……」






画面に表示された魔力の波長は極一文だけの情報を告げていた。
即ち、過去闇の書の暴走時に観測された魔力パターンと、この化け物が放つ波長は規模こそ違うが、全く同じだ、と。
画面の中で起こるのは虐殺、怪物が亀の甲羅をその牙で噛み潰し、肉と血をぶちまけながら食事を行っている。
それでも必死に抵抗を試みる亀に、怪物は思いっきり尻尾を振るう。するとそこから発生した円状の魔力の刃が亀の首を安々と切断した。





そして最後に怪物は、亀の肉体の中から一つの発光する物体を咥えて取り出す……肉を纏わり付かせながらも紅く発光するそれは、亀のリンカー・コアだ。
亀の大きさに対して随分と小さなコアは、魔道師ランクでいえば、CかDランク程度しか出力は期待できないだろう。




未だに血に塗れているコアを、怪物は器用に首のスナップを利かせて先ほど自らが現れる際に使用した裂け目へと投げ込む。
その行く先にあるのは……想像するまでもない。






「この怪物の名前を我々は便宜上『次元獣・ダモン級』と名づけました、この怪物はこの個体だけではなく
 他、様々なサーチ・スフィアにその姿を映していることを考えると、ある程度量産されているようです。
 現在判っているのは、発生の際に小規模の次元震が起こること、その目的は闇の書の守護騎士と同じように恐らくはリンカー・コアの蒐集を行うこと、そして……」





画面の中の怪物が崩れていく。全身がボロボロと砂になり、力なく倒れる。あっという間にその体は巨大な砂の山となり、風に吹かれていく。







「通常の空間では活動時間が5分から10分程度しかないということです。保有魔力の大きさは
 大体Bランク魔導師程度ですが……あの巨体の耐久力や牙や爪の攻撃力を考えると、Bランク魔道師が一人で相手をするには厳しいでしょう」




リーダーの男は淡々と分析結果を報告していく。怪物、次元獣に対する恐怖など微塵も感じていない様子で。
警戒こそするが、恐怖はしない。今更、その程度の事がどうした? そんな事は覚悟の上だという心持を含んだ言葉。
グレアムがリーダーに答える。先ほどの驚愕は既に冷めており、今の彼は冷静に指示を考えて、下す。




「魔力の波長や、リンカー・コアの蒐集など、明らかに闇の書と関係があるが……情報がまだ少ないな。
 あの闇の書が生み出したとしたら、まだ何かあると思って行動するべきだ、引き続き、諸君らは『次元獣』と闇の書の探索を続けたまえ」





そして、と彼は一呼吸置いて続ける。





「闇の書が守護騎士4名以外の存在による蒐集が可能となったのならば、その完成の速度は飛躍的に速まるだろう。我々も対策を練る必要がある。
 まずは上層部へこのデータを送り、監視サーチャーと魔力波長の観測機の数をもっと増やし欲しいという要請を私から通しておく……仕事が増えるが、構わんな?」





「はい」




返事は一言。しかし宿る決意は肯定を意味する。




何時の間にか、部屋の中の捜索班全員がグレアムを見つめていた。
絶対を誓う男たちの眼には、鈍い炎が灯っている、彼らは次元獣を全く恐れていない。
だが、それも一瞬、次の刹那には、彼らは皆々仕事に戻っていた。






「…………」







部屋から退室し、廊下を黙々と歩くグレアムは思案する。



様々な情報を得たが、一番大事な事を彼はしっかりと判断する。






次元獣は通常空間では5分から、長くても10分しか活動できないということ。次元獣の到来の予兆として次元震が起こること。
そしてリンカー・コアを回収することと、個体の戦闘力はしっかりと用意を整えれば、そこまで脅威ではないこと。




怪物を闇の書が生み出したという事は、提示された情報を見るにほぼ確定だ。
考えるのはその先、自分が闇の書の主ならば、どうするか。
恐らくは守護騎士に満足できずに、自分の身を守ったり、リンカー・コアを蒐集させるために作った存在が一定時間しか存在できないなんて、安心できるだろうか。




答えはすぐに出た。私が闇の書の主だったならば、次元獣のその欠点は何が何でも真っ先に改良しようとするだろう。
時間経過で消滅せず、ダモンよりも強い次元獣の発生も十分に考慮しておく必要がある。そう、彼の頭は結論を出した。




考えるだけでも恐ろしい。思えば思うほど、次元獣とは危険な存在だと彼は強く認識する。
今までの闇の書の守護騎士達は、情報によれば確かに一体一体が高位の魔導師にも匹敵する力を持っていたが、それでもたった4人だ。
管理局の物量でそんなモノはどうとでも出来た。





だが、だ。もしも次元獣が量産されればどうなる? ただでさえ厄介極まりなかった闇の書が、独自の強力な軍隊を持ったら?
次元獣がどうやって作られるかは判らないが……絶対に数を揃えさせてはいけない。
にゃぁと心配するように鳴いて、肩に飛び乗ってくる二匹の使い魔たちの喉を優しく撫でてやりながら彼は歩を進める。




次元獣だけではない。従来どおり守護騎士達にも注意を向けねばならない。
彼らの力は高ランクの魔道師に匹敵するのだから、見過ごせない脅威となる。





恐らく、当初の予定よりも遥かにこの計画は難航する。グレアムはそう、予感した。
次に浮かぶのは弟子の顔だが、そこまで思い至った時、彼は頭を小さく振る。
愚かな。彼は自分の願いで此処を選んでくれたのだ。心配などしない、それは彼への侮辱となるだろうから。





だから、ギル・グレアムは自分のすべき事をするだけだ。それは変わらない。










あとがき





闇の書は二次創作の中では非常に便利な物だと思う今日この頃。
映画の設定を入れようか悩みましたが、アレは作中劇で、何よりもグレアムがいないのでカットしようかな、と。




次回か、次々回辺りで先代闇の書編を終わらせるのを予定して頑張ります。
最後に、次元獣ギガ・アダモンがかっこいいなぁ、あれにならなってもいいと思った。




感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.086704969406128