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[19836] 【異世界トリップ・建国】黄金の帝国【完結】
Name: 行◆7809557e ID:4f0990fa
Date: 2020/12/25 19:28
「黄金の帝国」




 まえがき





○本作は2010年から2011年にかけて投稿し、一旦完結しましたが、改訂前版の反省を踏まえて今回全面改訂・リメイクをすることにしました。

○大筋に変更はありませんが、地名人名設定展開等かなりの変更があります。混乱の元ですので、改訂前版のことは忘れて読んでください。

○序盤はあまり変わりませんが途中からはほぼ一から書き直しています。

○本作は「小説家になろう」にも投稿しています。




〇電子書籍出版に際しての連絡用メールアドレスです。
 asou.yuki.ougonteikoku@gmail.cpom



[19836] 第一話「奴隷から始めよう」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/11 21:37





 黒井竜也くろい・たつや、一七歳。二ヶ月前までは××県の高校二年生。現在は、奴隷である。







「黄金の帝国」・漂着篇
第一話「奴隷から始めよう」







 太陽は黄金のように明るい光を放ち、雲は新雪のように白く輝いている。海はサファイアのように碧く燦めいていた。産業活動に一切汚染されていない美しい海と自然、それに夏の日差し。竜也はそれを全く他人事のように虚ろな表情で眺めていた――ガレー船の船体と櫂の間のわずかな隙間から。
 板子一枚下は地獄、と昔の船乗りはよく言ったそうだが、竜也の乗るガレー船は板の上こそが本当の地獄である。天井が低く狭苦しい船倉に数十人の男が押し込められている。全員身にまとっているのはボロボロの腰布一枚だ。足を鎖でつながれ、逃げることもできない。眠るときも座ったままで、大小便は垂れ流し。この目も開けられないような悪臭の中で食事もせねばならず、一日一回出される食い物はカビまみれのパン切れや半ば腐った干し肉だ。
 竜也の同僚等、つまり櫂の漕ぎ手だが、彼等のほとんどは白人で、ごく一部に中東系の白人や黒人の姿が見受けられた。彼等がしゃべっているのは竜也が今まで聞いたことのない言語だった。竜也は何度か英語による意志の疎通を試みたのだが、全くの徒労で終わっていた。それでも二ヶ月も彼等とともに櫂を漕いでいれば、必要最低限の単語は覚えるようになる。

「פדאל מהר!」

 赤ら顔の鬼のような船員が船倉に降りてきて、「もっと早く漕げ」と怒鳴っている。

【ころすころすころすころす……】

 竜也は小さく念仏を唱えるように悪態をつきながら、櫂を持つ手に力を込めた。

(くそっ……! 俺の中に眠る『黒き竜の血』が目覚めさえすれば! こんな船一撃で沈めて、あいつは八つ裂きにして、生まれてきてごめんなさいと言わせてやって……今目覚めないでいつ目覚めるんだよっ!)

 竜也は「黒き竜の血」を目覚めさせようと懸命に精神を集中するが、それが目覚める気配の欠片すら感じられなかった――まあ、「竜の血」などただの脳内設定なのだから当然だが。







 竜也が奴隷の身に落とされ、ガレー船の漕ぎ手となってすでに二ヶ月が経過している。
 二ヶ月前まで竜也は普通の高校二年生だった(その性格はともかくとして)。日本に百万人はいそうな平々凡々な高校生に過ぎなかったが(その内面はともかくとして)、それでも奴隷扱いされるような理由は全くなかったのだ(……多分)。

 二ヶ月前の夏休みのその日、竜也はクラスメイトと一緒に海水浴を楽しんでいた。
 お調子者の悪友はナンパを試みてことごとく失敗し、別の友人はクラスの女子生徒と良い雰囲気を作っている。竜也は一人浮き輪に乗って波に揺られながら、

【……ここで溺れて生命の危機に陥ったら、俺の中に眠っているかもしんない『黒き竜の血』が目覚めたりしないかなー】

 等と、たわけた妄想に浸っていた。もちろん竜也も「黒き竜の血」が自分の空想の産物でしかないことは百も承知だ。実際竜也はその空想を外部に示したり、他者に明かしたりしたことは一度たりとてない。両親や級友からの竜也の評価は「物静かで思慮深い読書少年」というものだった。
 だが竜也は、こうして波に揺られつつのんびり哲学でも思索しているように見えながら、その実真剣に考えていたのは「死なない程度の溺れ方」だったりする。
 そうやって、一七歳の夏休みという燦めくばかりの青春の一時をどぶに捨てるみたいな過ごし方をしていた竜也だが、浮き輪が潮に流されて思ったよりも沖合に出てしまったことに気が付いた。竜也は慌てて浜に戻ろうとする。
 そのとき何が起こったのか、竜也には今でもよく判らない。最初は不意に竜巻が現れ、それに巻き込まれたのかと思っていた。急に周囲が暗くなったかと思うと吸い上げられるように身体が宙に浮いて、巨大なミキサーにかき回されたかのようにもみくちゃにされたのだ。散々振り回された挙げ句に渦からはじき飛ばされ、長々と宙を飛んで、再び海に飛び込んだ。何が何だか訳が判らないまま這うようにしてどうにか海岸に上がってみると、そこは竜也の知る場所ではなくなっていたのである。

【……何? ここどこ?】

 竜也は唖然として周囲を見回す。先ほどまでは砂浜にいたはずなのに、上陸した場所は見たこともない港になっていた。粗末な石造りの桟橋があり、多くの船が並んでいる。船は帆船やガレー船、渡し船のようなボートばかりで、エンジンの付いた船が一隻も見あたらない。道路は舗装されていない砂利道で、行き交う車は馬車か荷車ばかりで自動車は一台も見つけられない。周囲の建物は粗末な木造の平屋が多く、一部に石造りの建物が混じっている。竜也の姿を見て不思議そうに騒いでいるのは白人ばかりで、日本人は一人もいない。

【あの海の近くにこんなところあったっけ? タイムスリップでもしたって言うのか? そんな設定考えたことないぞ】

 竜也が状況を理解できずに呆然としている間に、お城の衛士のような姿の官憲がやってきて竜也を拘束。特に抵抗せずに捕まった竜也は簡単な尋問の後(互いに言葉が全く通じないことが確認されただけで尋問は終了した)牢屋にぶち込まれた。そして次の日にはガレー船に乗せられ、以降櫂を漕ぐだけの日々が続いている。

 ガレー船に乗せられる前に唯一身に付けていてた海水パンツを取り上げられそうになり、竜也は抵抗した。が、船員の一人に棍棒で歯が折れそうなほど殴られ、皮膚が裂けるほど鞭打たれて抵抗をやめた。現実を受け入れた。
 自尊心とかヒューマニズムとかいう概念は綺麗な箱にしまって棚の上に片付けて、竜也の身体はただ生き長らえることだけを目的とした機械と化した。身体が現実を認めて苦痛に呻吟し、汚辱にまみれて櫂を漕ぐだけの日々を送り。その一方精神は身体から切り離され、身体の様子を全くの他人事として、俯瞰するように見つめている。
 要するに現実逃避の一種なのだが、そうでもしなければ彼の精神は三日と持たなかっただろう。そして精神につられて身体の方もとっくの昔に死んでしまっていただろう。――ただ、現実から切り離された精神は中二病が重篤にまで進行しているのだが。

 だが、精神的にはともかく身体の方は物理的な限界を迎えつつあった。必要最低限のカロリーも満足に補給できないまま劣悪を極めた環境で過酷な労働を強いられる状態が、すでに二ヶ月も続いている。竜也の隣に座っていた男が櫂を動かせなくなり、船員に引きずり出されて海に投げ捨てられたのは昨日の話である。竜也が同じ末路をたどるのも時間の問題――具体的には、早ければ残りあと数日の話だった。

【とにかく、早くここから逃げ出さないと】

 妄想で現実に復讐して多少なりとも気晴らしをした竜也は、今は過酷な現実を見据えた思考を進めていた。足をつなぐ鎖の目の弱そうな場所を選び、垂れ流される小便をなすりつけ、櫂を漕ぐのに合わせて床に擦りつけ続けてきた。二ヶ月間のその地道な努力が実を結び、鎖はちょっと力を入れればすぐに千切れそうである。
 後は逃げるタイミングだけなんだが、と竜也は船体の隙間から外を見、息をとめた。

(陸地――!)

 鬼のような船員がまた船倉に降りてきて、焦った様子でさらに怒鳴る。

「דרום ליד !בשורה משוטים מהר!」

 細かいことは判らないが大体のニュアンスは判った。「敵国の近くまで風で流されてしまった、もっと早く櫂を漕げ」というところだ。
 竜也達のガレー船は、東の中心地から西の国境沿いの町に食糧や物資を運ぶ仕事をしているようで、今は国境沿いから中心地への帰り道である。急いで中心地に戻るために夜も帆を張って航行していたのだが、方向を間違えたようで敵国のすぐ近くまで流されてきてしまったらしい。

(今しかない)

 竜也は脱走を決意した。竜也達にとっては鬼にも等しい看守のような船員が、姿も見せない「敵」に怯えている。船員だけでなく、竜也の同僚の多くも同じように「敵」の影に怯えていた。皆いつになく協力的に櫂を漕いでいる。

(今しかない。『敵』のところへと脱走する奴がいるなんて、誰も考えてない)

 竜也にとっては彼等が何をそんなに怯えているのか全然理解できなかった。あるいはそれはただの無知の産物なのかもしれない。だが「敵」がどれほど凶悪だろうと、逃げ込んだ先でまた奴隷にさせられようと、この糞そのものの船倉でこのまま息絶えるよりは何倍もいい。
 竜也は櫂から手を離し、両足を持ち上げて鎖を櫂に引っかけた。そして両手両足の全ての力を、全体重を鎖へと集中させる。鉄鎖の砕ける澄み切った音が船倉に響いた。
 船員も含めた一同が唖然としている間に竜也は走り出す。船員が慌てて竜也を捕まえようとするが、竜也は腰に巻いていたボロ布を使って船員の視界を塞いだ。船員の腕が空を切る。船員の横をすり抜けた竜也は足を振り上げ、踵を船員の側頭へと叩き込んだ。船員は崩れるように両手両膝を床につく。
 たった数秒の行動で、竜也は体力の九九パーセントを使い果たしたかのようだった。船員が頭を押さえてうめいている間に、竜也は梯子を上がり甲板へと身を乗り出す。他の船員が事態を把握できないうちに、竜也はそのまま転がるように海へと飛び込んだ。数拍の間を置き、竜也は海面へと顔を出す。竜也の身体はあっという間に潮に流され、ガレー船から遠ざかっていく。ガレー船の甲板では船員が竜也を指さし、何やら騒いでいた。

【あははははは!】

 この二ヶ月間のあらゆる汚辱や屈辱が、冷たい海水に洗い流されていくかのようだった。竜也は一七年間の中で最大級の歓喜を爆発させた。残された体力の全てを笑いの衝動につぎ込んでいく。

【あはははははははは! ざまーみやがれ! 思い知ったかー!】

 潮に流されて見る見る陸地が近付いていく中、完全に体力を使い果たした竜也は急速に睡魔に捕らわれつつあった。眠るにしても上陸してからにしたかったのだが、到底それまで保ちそうにない。

【あ、まずい】

 あるいはこのまま溺れ死ぬかもしれない、そう思いながらも、竜也はそのまま睡魔に身をゆだねる他なかった。竜也の意識は滑り落ちるように暗くなっていった。







 竜也は小さな漁村に漂着し、そこの村民に拾われた。
 スープを飲ませてもらい、餓死寸前の身体に栄養を補給。井戸端で何度も身体を洗って二ヶ月分の垢と汚れを削り落とし、粗末ながらも衣服をもらってようやく人心地ついた。貧しいながらも人情に厚い村人達の対応に、竜也は涙を流して感謝した。竜也は数日の間はゆっくり休み、体力の回復に努める。その後、身振り手振りで何とか意思の疎通を試み、薪割りや薪拾い、田畑の耕作等の雑用をするようになった。
 人間らしい生活を送るうちに、二一世紀の現代人らしい思考も回復するようになる。

【今はいつで、ここはどこなんだ?】

 竜也はガレー船の漕ぎ手をしていたときに火縄銃らしき銃器を運んだことがある。それに教会の尖塔と思しき建物を見たこともあったから、ここは中世のヨーロッパなのだろうと漫然と考えていた。陸地が北にあり、南が海。温暖な気候から考えて、場所は地中海だと思っていた。

【そうなると、陸地が南で北に海のこの場所は北アフリカ、ってことになるんだけど……】

 実際、漁村の住民は黒人系に属する人々だったし、住民の衣服や竜也がもらった衣服もヨーロッパのそれとはちょっと違うエキゾチックな物である。だが、中世の北アフリカであれば絶対にあるべきものがここには存在していない。

【これがこの村の宗教施設……なのかな】

 竜也は自信なげに首を傾げた。薪拾いの道中、竜也が立っている前には石造りの小さな建物――と言うよりは祠がある。石造りではあるが、雰囲気には日本の神社を想起させる。大きさは二メートル四方ほど、窓はなく正面に両開きの扉があるだけだ。扉の上部には、真ん丸が両側に翼を広げている紋章が彫り込まれている。
 その祠の前を通りかかったある村人はその祠へと会釈するように軽く頭を下げ、別の村人――肌も露わな若い女性は目にも留めない様子で通り過ぎた。乳児を抱えた老婆は長々と祈りを捧げ、その後同じように集まってきた村人達と世間話に興じている。
彼等の宗教が何なのかは竜也にはよく判らないが、原始的なアニミズム、またはそこから発達したもののように見受けられた。少なくとも村民がイスラム教徒でないことだけは間違いない。
 竜也の頬に大粒の雨が当たる。竜也は空を見上げた。

【――夕立か】

 竜也はその祠で雨宿りをすることにした。雨はただの通り雨のようで、勢いよく降ってすぐにやんだ。竜也の周囲には大地を埋め尽くすように草木が生い茂っていて、雨粒に濡れた緑の葉がエメラルドのようにきらきらと輝いている。

【暑さにしたって日本の夏とそれほど変わらないし、砂漠どころか砂なんて海岸に行かないと見られない。ここは本当に北アフリカか?】

 村の様子は竜也の知識の中にあった北アフリカの姿とはあまりにかけ離れていた。だが竜也とて実際の北アフリカに行った経験はないし、地理の専門家でもない。

【単に俺が知らなかっただけで、北アフリカにもこんな場所があったってことか? それともここは地中海じゃなくて、インド洋とか大西洋とか? でも、北側の町はただの植民都市じゃなくてヨーロッパの町そのものとしか思えなかったし】

 決定的に情報が足りない中で、悩んでいても結論は出ない。そのうちに思考は明後日の方向へと流れていく。

【もしかしたら過去の地球じゃなくて平行世界、異世界かも】

 よくよく思い返してみれば、北側の陸地で見かけた教会の尖塔の上に立っていたのは、十字ではなくT字だったような気がする。見かけたのがガレー船の中から陸地を見たときで、遠かったので断言はできないが。

【今ならあの距離でも見えると思うんだけどな。すごいね人体】

 日本にいた頃は近視のためずっとコンタクトレンズを使っていたのだが、気が付いたら視力が矯正されており裸眼でも不自由のない状態になっていたのだ。ガレー船ではずっと海を、遠くを見ていたのが功を奏したのだろう。
 だが、満ち足りれば次がほしくなるのが人間というもので、

【異世界トリップならデフォルトで言葉が通じるようにしてくれればいいのに。あと、この身に宿っているはずのチート能力もさっさと目覚めてくれ。具体的には『黒き竜の血』】

 竜也は薪拾いをしながら愚にも付かない妄想を弄んだ。

【現代知識を生かして金儲けや内政をするにしても、とにかく言葉が通じないことにはどうしようもない!】

 経過はともかく、出てきた結論はそれほど間違っていなかった。竜也は積極的に村民に話しかけて言葉を覚えることに注力した。







 そんな調子で半月ほど経過し、村の生活にも大分慣れてきた頃。二人の男が竜也の前に現れた。

「האם הילד הזה?(この子に間違いないんですか?)」

「נמלט האיש הזה מ שלנו(ああ、俺達のところから逃げたのはこいつだ)」

 竜也の肌が粟立った。村民の一人に案内されて竜也の前にやってきた男達は、嫌な雰囲気を漂わせていたのだ。竜也の身体はその感覚を覚えていた。暴力で他者を従わせること、踏みにじることに疑問を抱かず、むしろ悦びを抱く者――ガレー船の船員等と全く同じ気配である。

【――っ】

 竜也はその場から遁走しようとする。だが男達の方が早かった。竜也の逃げようとする先に回り込んだ男は、剣を竜也へと突きつける。竜也は逃亡を断念する他なかった。
 結局、竜也は腕を縄で縛られ、男達に引きずられて村を去っていくこととなった。村人達はそんな竜也を気の毒そうに見送る。一方の竜也は、

【あーる晴れたーひーる下がりー】

 自棄になってドナドナを歌う竜也を、男達は不気味なものを見るかのような眼で眺めた。
 竜也が連れられて移動した先には小さな帆船があった。竜也はその帆船の船倉の牢屋へと入れられる。牢屋には何人かの先客がいた。竜也が入れられたのは男だけの牢屋だったが、女だけの牢屋も別にあるようだった。女性や女の子のすすり泣く声が漏れ聞こえてきている。

【そーじゃないかと思っていたけど……】

 竜也を拘束したのは、以前のガレー船とは全く無関係の連中のようだった。奴隷商人には違いないようだが。
 おそらく、どこかで竜也のことを耳にして「この男は我々のところから逃げ出した奴隷だから返してもらう」等と適当なことを言って漁村の村民を騙したのだろう。村民に多少の謝礼を払っても、普通に成人男子の奴隷を手に入れるよりは安上がりなのだろう。

【状況は理解した、あとはとにかく逃げるだけだ】

 ガレー船のときと比較すれば気力体力ともに充実しており、条件は遙かに良い。竜也は身体を休め、静かに機会を伺った。







 その機会は意外と早くやってきた。
 竜也は日中も座るか寝るかして体力の温存に勤めた。何日かは何事もなく過ぎ、また夜がやってくる。その夜、竜也達を乗せた帆船は港から若干離れた沖合に停泊。竜也は船員に連れられ、すぐ隣に同じように泊まっている別の帆船へと移動させられていた。
 移動先の帆船はマストが二本、帆の数は四、五枚。大きさは二、三〇メートルはあるだろう。竜也だけではなく、幾人かの奴隷が同じようにその別の帆船の甲板に連れてこられているし、さらにまた違う帆船からも奴隷がやってきている。甲板には柄の悪い船員が充満しており、その中央にはボスと思しき男が偉そうに椅子に座っていた。
 そのボスに対し、竜也を漁村で捕まえた男二人が竜也を見せ示しながら何かをアピールしている。どうやらこれは、「商品」の仕入れ具合を部下達がボスに報告する会のようだった。なお竜也は知らないことだったが、中性的な顔立ちで珍しい色の肌をした竜也は、かなり高い商品価値を認められていた――男娼として。
 竜也に続いて数組の奴隷がボスへと紹介され、報告される。竜也は他の奴隷とともに甲板の片隅に押しやられた状態でそれを見つめていた。借金の形に売られたと思しき姉妹には船員から好色に満ちた視線が注がれ、姉妹はすすり泣く。竜也はその場で唾棄したかったが、何とか我慢した。

 そうして報告会は順調に進んでいき、とりを飾るのはこの組織の幹部と見られる男、その男が横に連れている少女だった。体格から見て少女の年齢は六、七歳。身にしているのは長袖の白いワンピースだ。上等そうなワンピースにはフードが付いていて、少女はフードを深々と被って顔の上半分を隠していた。そして、

【……ウサ耳?】

 フードの頭頂部には二つの穴が空いていて、そこから飛び出ているのは二本の兎の耳だ。竜也はあっけにとられてその少女を、そのウサ耳を見つめる。
 幹部の男はもったいぶった態度でボスへと一礼し、鞘に入れたままの剣を使って少女のフードをめくり上げた。声にならない驚きが甲板を満たす。

 幼いながらも美しい少女だったが、それだけではない。その少女は雪のような白い肌とルビーのような赤い瞳を持っていたのだ。作り物めいた、人形みたいに整った顔立ちに加え、その肌と瞳の色が少女の有り様をまるで幻想のように思わせていた。竜也は夢を見るかように少女を見つめ続けている。
 髪の色合いも薄い灰色で、おかっぱに近いショートヘア。その髪の上に兎の耳を生やしている。とは言っても本当に獣耳が生えているわけではなく、アクセサリーの一種のようだった。ウサ耳を付けたカチューシャを髪の中に隠しているのだろう。
 少女は柄の悪い船員に取り囲まれても動揺一つ示していない。まるで路傍の石を眺めるかのような冷たい目を周囲へと返すだけだ。大の大人ばかりの船員等が逆に気圧されたように沈黙した。
 小さな少女は傲然とボスへと向き合う。少女の横には幹部の男が立ち、自慢げに少女をアピールした。ボスは感嘆のため息をついた。

「זהו……(これは、白兎族の娘か)」

「חטיפה……(はい、ルサディルの豪商が飼っている娘を誘拐してきたものです)」

「שמועה……(噂には聞いたことがある。『悪魔』と呼ばれているというあの娘か)」

「כן……(その通りです)」

 これは高く売れそうだ、とボスと幹部は嫌らしく嗤い合った。
 そのとき、いきなり少女が幹部の腕を掴む。反射的に少女に向いた幹部の視線と、少女の視線が空中でぶつかった。

「להרוג……(近いうちにボスを殺し、自分がボスに成り代わるつもりでいる)」

「אתה!(貴様!)」

 幹部は力任せに少女の腕を振り払う。少女は甲板に倒れたが、倒れたまま幹部を嘲笑して見せた。

「רעל……(毒を使って殺すつもり。もう用意していて、梁の上に隠している)」

「אתה……(貴様! 適当な嘘を――!)」

 幹部は剣を振り上げ、少女を斬ろうとした。だが竜也が幹部に体当たりし、諸共に倒れる。竜也は素早く立ち上がり、少女を背に庇う位置に移動した。

(うおお??! 何やってんだよ俺?! 殺されるじゃねーか!)

 少女を助けるために身体が勝手に動き、結果として九割方殺されるだろう状況に陥ったことに、竜也は大いに混乱している。今まで何度か似たような真似をして痛い目に遭ってきたとは言え、今の危険の度合いはこれまでとは桁違いだ。

(うぉぉぉっっ! 目覚めよ『竜の血』! 速やかに目覚めてくださいお願いします!)

 惑乱し妄想へと現実逃避する竜也だがそんな内心はおくびにも出さず、毅然と幹部の前に立ちはだかっていた。少女はそんな竜也の背中を驚きとともに見つめている。
 幹部は竜也と少女をひとまとめに斬り伏せようとした。だが、

「חכה(待て)」

 ボスが幹部を止める。ボスは冷たい殺意に満ちた視線を幹部へと向けた。

「שקר……(ボス、こんな子供の嘘を信じないでください)」

 幹部は笑って誤魔化そうとするが、失敗した。嫌な沈黙と緊張がその場を満たす。脆くも絶妙のバランスの上に成立した、静止状態。それは外部からの衝撃によって崩された。

「אויב――!!」

 見張りの船員が何かを叫ぶ。見張りが指し示す方向には、髑髏の旗を掲げた一隻のガレー船が。そのガレー船はこの船の目と鼻の先まで迫っており、この船の横腹に衝角を向けて猛然と突進してきている。
 驚きのあまり全員が硬直している中、竜也だけが動き出していた。小柄な船員の一人に目をつけ、跳び蹴りを食らわせる。倒れた船員の持っていた短刀を拾い上げ、それを兎耳の少女に手渡した。少女は手早く竜也の腕を縛っていた縄を切る。
 竜也は右手に短刀、左手に少女の手を掴み、甲板の端へと走っていく。短刀を出鱈目に振り回して周囲の船員を避けさせ、ガレー船がこの船に激突するのとタイミングを合わせ、甲板を蹴って海に飛び込んだ。
 短刀は惜しかったが、邪魔だったので捨てた。少女を背負うように首に捕まらせ、夜の海を泳ぐ。途中、衝突で船から転がり落ちた見られる木の樽を発見。それを浮き輪代わりにできたため泳ぐのが大分楽になった。
 そのガレー船の正体は判らないが、髑髏の旗を掲げている以上穏やかな相手ではないだろう。そう判断した竜也は陸地まで泳ぐつもりでいた。だが、

【え、何?】

 首に捕まっている少女がしきりに陸地の反対側を、ガレー船の方を指差した。

【あの船に行けって言うのか?】

 少女は大きく頷く。竜也は多少迷ったものの、

【方向を間違えるかもしれないし、潮に流されるかもしれないし、陸地まで体力が持たないかもしれないし】

 いくつか不安があったこともあり、結局少女の言葉を容れてガレー船へと接近した。それほど近付かないうちにガレー船の船員が竜也達を発見、二人の身柄は髑髏のガレー船に確保されることとなった。
 甲板に上げられた二人には、海水をぬぐうためのタオルらしき布切れが渡された。竜也も少女も乱暴に扱われることなく、拘束されることなく、船長と思しき人物の前へと引き出された。

【うん、ここは過去の地球じゃない。異世界だ】

 船長と思しき人物の姿に、竜也はそう確信した。この船の船長は、中東系白人と黒人の中間くらいの肌の色の大男。半裸の身体は無駄のない鋼のような筋肉に覆われていた。頭部は真ん中を残してきれいに剃り上げられた、モヒカン刈りと言われる髪型。ただしモヒカンにはサメか何かの背鰭を模した冠り物をかぶせている。しかも背鰭の向きが前後逆なのでウルトラマンエースみたいになっていた。
 周囲を見れば、この船の船員の三割くらいは船長と同じ髪型だ。この、世紀末には救世主に指先一つでダウンされられそうな船員達が一方的に奴隷商人の帆船を蹂躙し制圧し、この時点で既にボスや幹部や船員の身柄を拘束し終えていた。

「נסיכה……(お嬢がルサディルのラズワルド、で間違いないですな)」

 船長の問いに、少女が無言で頷く。

「בקשה……(アニード商会の依頼でお嬢を助けに参りました。青鯱族のガイル=ラベクです)」

 ラズワルドと呼ばれた少女が少しだけ目を見張った。彼女が抱いた驚きと疑問を察し、ガイル=ラベクが説明する。

「זה הם……(あの連中にはあちこちから懸賞金が懸けられていて、あの連中の後を追ってルサディルを訪れたんです。そこでアニード氏から仕事を依頼されたんですよ)」

「באמת(そう)」

「בכל אופן……(とりあえず今日のところは客室で休んでください。数日中にはルサディルに返せるでしょう)」

「נמצאו החוצה(判った)」

 ラズワルドは船員の一人に案内され、船倉へと向かう。彼女は当然のように竜也の手を引き、一緒に移動した。竜也は戸惑い周囲を見回すが、助け船を出してくれる者はどこにもいない。竜也は彼女の手を振り払うこともできず、そのまま彼女と一つ部屋で一夜を明かし、さらに数日を共に過ごすこととなった。







 そのまま一生のほとんどを一緒に過ごすことになるとは、この時点では当然ながら想像もしていない。




[19836] 第二話「異世界のでの生活」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/11 21:40

 一隻の船が海を征く。その帆船は戦闘時には船の両舷から櫂を出して漕ぐが、巡航時はマストに帆を張って進むようにできていた。今はマストに白い帆を張っている。
 船の後部には大きな旗を掲げており、黒地に描かれているのは白い髑髏だ。髑髏の図柄は単純というか、稚拙な印象のものである。絵が得意な竜也は「俺に描き直させてくれないかな」等と考えていた。







「黄金の帝国」・漂着篇
第二話「異世界での生活」







 竜也とウサ耳の少女を乗せた髑髏の帆船は一旦東の港町に向かい、そこで奴隷商人等を別の船に引き渡した。どうやらもっと東の大きな町まで連行し、そこで裁判にかけるらしい。その上で船は西へと向かい、竜也も状況に流されるまま乗船していた。
 竜也は船室のベッドに腰掛け、ぼけっとした様子で物思いに耽っている。その竜也の足の間には兎耳の少女がすっぽり収まり、横座りになっている。少女は竜也の胸に半身を預けていた。その光景は、少女の年齢がもっと上ならば「愛し合う恋人の図」となるだろうが、現状では「兄に甘える幼い妹の図」がせいぜいだった。
 少女の身体からはわずかながら汗の臭い、そして蚊取り線香のような強い香りが漂っている。竜也の身体も同じ香りを放っていることだろう。最初に抱きつかれたときにその香りを嗅いで、

(何だろう、これ。この子の香水か? あ、俺の身体汗臭いんじゃないか)

 等と思っていたら、竜也から離れた少女が何かの壺を持ってきて差し出したのだ。見ると、その壺に入っているのは油のようだった。
 少女がその油を少し手に取り、首筋や手首足首に塗っていく。少女の視線で促されて竜也はその真似をし、自分の身体を蚊取り線香の香りで包んだ。

【香油か。臭いからして虫除けの効果もあるのかな?】

 最初はその臭いに閉口していた竜也だがすぐに鼻が慣れた。マラリアのような悪質な感染症をこれで防げるのなら文句のあろうはずもない。

 今、竜也の目の前では作り物のウサ耳がゆらゆらと揺れていて、竜也はそれを見るともなく見つめている。

(多分この子は良いところのお嬢様で、あの奴隷商人等に誘拐されたんだろうな。で、実家の依頼を受けてあのモヒカンが助けに来た。実家は西の方にあって、もうすぐそこに到着するところ、と)

 竜也はラズワルドという名の少女についてそのように推定した。腕の中の彼女が微妙そうな表情をしていることに、竜也は気付いていない。

(で、何でかこの子に懐かれた俺もこの子の実家に向かっている、と。まあ行く当てがあるわけじゃないから助かってるけど。仕事とか生活のこととか、この子の実家で色々助けてもらえるかも知れないし。でも、行く当てのない奴隷一人を子供が勝手に拾って連れて帰るのって、問題にならないのか? それとも問題にならないくらいにこの子の立場が凄いのか?)

 竜也が首をひねる一方、ラズワルドはふるふると首を振っていた。

(……それにしては船員の態度がいまいち変なんだけどな)

 ラズワルドは船員等から露骨に避けられていた。潮風を浴びるため甲板に上がったときは、竜也達の周囲から人がいなくなった。船の通路を歩いていると、船員等は曲がれ右をして姿を隠す。やむを得ずすれ違うときは、巨漢の船員までもが息を潜めて身体を縮めるような有様だ。豪放磊落を絵に描いたような船長のガイル=ラベクすらが、彼女に対しては事務的な、隔意ある対応に徹していた。

(それが、こんな小さな女の子に接する大人の男の態度かよ)

 と竜也は義憤を抱いた。ラズワルドは「うんうん」と頷いている。

(アルビノだから忌まれているって感じでもなさそうなんだけどな、よく判らん。こんなに綺麗で可愛いのに。成長したら物凄い美人になるだろうな)

 竜也は一〇年後のラズワルドの想像図を脳裏に思い描いた。グラビアモデル並みにグラマーで、バニーガールの格好をしていて、扇情的にしなを作っているのは竜也の趣味である。ラズワルドは恥ずかしそうに赤面して竜也をにらんだ。

(多分、実家に戻っても周りの態度はあんなのなんだろうな)

 周囲に忌避されるのは、彼女にとっては多分いつものことなのだろう。あるいは両親や肉親からも充分に愛されていないのではないかと思われた。
 竜也は腕に力を込め、少女の身体を抱き寄せた。ラズワルドは仔猫のように頬を竜也の胸にすり寄せる。少女の表情は大して動いていないが、それでも嬉しそうな雰囲気は察することができた。
 竜也の胸の内は温かく切ない思いでいっぱいになった。

(うん、これは父性愛だ。父性愛に違いあるまい。俺はロリコンじゃないしな)

 竜也は自分の中に唐突に生まれた感情に戸惑いながらも、そう理屈づけた。
 竜也達二人は初日の夜に一つの客室に案内され、小さなベッドで身を寄せ合って一夜を明かした。ラズワルドがもう何歳か年上なら竜也もそんな不作法な真似はしなかったろうが、彼女の印象は幼稚園に通っている親戚の女の子と大差ない。彼女も嫌がるような様子を見せなかったので、遠慮なく同衾したのだ。
 以降、ラズワルドは竜也にべったりぺったりぴったりくっつき続けている。歩くときは手をつなぎ、座るときは膝の上。暇なときは背に乗り、眠るときは腕の中だ。正直ちょっと鬱陶しいときもあったが、愛情とスキンシップに飢えた子供にできるだけのことをしてあげようと思っていた。
 その代わり、ラズワルドは竜也にこの世界の言葉を教えていた。この時点の竜也は一つでも多くの単語を覚えることに力を注いだ。彼女はあまり口数が多い方ではないが、教師としては優秀だった。部屋の中にある物の名詞から始まり、基本的な動詞をゲームやクイズのような形式で教わり、覚えていく。竜也はこの数日でかなりの数の単語を習得していた。
 そうやって一日の大半を船室で過ごすこと数日。竜也は西の港町に到着しようとしていた。窓の外、水平線の彼方に陸地を見出した竜也は、「あー、うー」と何か言いたげに、しきりに陸地を指差した。

「זה העיירה……(あれはルサディルの町)」

「るさでろ?」

「ルサディル」

 竜也の発音をラズワルドが訂正する。竜也は「ルサディル、ルサディル」と正しい発音をくり返した。その発音を覚えた竜也がまた何か言いたげにする。ラズワルドは先回りして、

「בהגיעם בקרוב(もうすぐ到着する)」

「べくぅれう゛?」

「בקרוב」

 竜也は上を指差し、「れまあらあ」と片言で意志を伝える。ラズワルドは、

「סיפון……(甲板に上がるのね。行きましょう)」

 と竜也の手を引き、部屋の外に出た。
 連れ立って通路を歩きながら「それにしても」と竜也は思う。

(こんな片言で言いたいことのほとんどを、言ってないことまで理解してくれるんだもんな。恐ろしく察しが良いというか、まるで心が読めるみたいだ)

 ラズワルドがかすかに身を震わせた。竜也はそれに気付くことなく内心で肩をすくめる。

(まさかね。いくら異世界でもそれはないか)

 ラズワルドは同意するように「うんうん」と頷いた。







 ルサディルはソウラ川と呼ばれる大河の河口西岸にある港町である。人口は約四万人。
竜也とラズワルドを乗せた船がルサディルの港に入港した。下船した二人は数人の男達に出迎えられる。
 上等そうな衣服の、責任者と思しき初老の男。その護衛と見られる剣を持った男達。初老の男はラズワルドの家の執事か何かだろうと、竜也は推測した。
 執事(仮)のラズワルドに接する態度は感情を押し殺したかのような、事務的なものに終始していた。隔意があり、それ以上の嫌悪感があるのが見え見えである。
 ラズワルドが執事(仮)に竜也のことを何か説明している。執事(仮)は竜也のことを胡散臭げに見つめるが、何も言わなかった。竜也はラズワルドに連れられるまま移動する。
 ラズワルドの家(多分)に馬車で向かう道中、竜也は車窓からルサディルの町並みや人々を眺めていた。

【うん、ここは異世界だ】

 竜也は以前確信したことを再度確認した。
 建物は素朴ながら石造りの物が多い。町の雰囲気はヨーロッパ系とはどこか違う、エキゾチックなものである。人々の様子、市場や物売りの様子から、町が豊かで繁栄している様子が察せられた。
 町の住民の多くが黒人系。中東系、というかセム系っぽい白人の姿が次いで多い。一番多そうなのは両者の混血だ。そして、何パーセントかの住民に獣耳や尻尾が生えていた。
 犬耳と長い尻尾を生やした男が物売りをしている。猫耳の老婆と、その孫と見られる猫耳の子供がひなたぼっこをしている。牛のような角の男の一団が通りの中央を物々しく歩いている。馬のような耳の夫婦とその子供達が露天商で買い物をしている。いくら何でも過去の地球にこんな光景があったはずがない。
 やがて馬車は町の中心部に位置する大邸宅へと到着、竜也とラズワルドは馬車から降り立った。町の一区画を占有する広大な敷地に、贅を凝らした屋敷が建っている。ラズワルドは平然としたままその屋敷の中に入っていく。唖然と周囲を見回す竜也は引きずられるようにラズワルドに同行した。
 屋敷の奥の、一際豪華な一室。竜也とラズワルドはそこでその屋敷の主人と対面した。
 アニードという名のその主人は、日焼けしたセム系白人という色合いの、小太りの中年男だった。アニードは舌打ちでもしたげな表情で、酷薄そうな目を竜也達に向ける。竜也の心にアニードに対する強い嫌悪感が唐突に涌いて出た。

「בטיחות……(無事に戻ってきたか)」

「תודה……(おかげさまで)」

 ラズワルドとアニードは礼儀を保っただけの冷たい言葉を交わし合った。アニードが胡散臭そうな視線で竜也を示し、説明を求める。ラズワルドはアニードに竜也を拾った経緯を、竜也を連れてきた理由を説明した。

「רציני……(本気で言っているのか?)」

「ספק……(間違いない。彼はあなたの利益になる)」

「……קנס……(……まあいい、好きにするがいい。しばらくは置いてやる)」

 アニードへの事情説明を終え、承認を得られたのでラズワルドは速やかにその場を立ち去る。竜也も彼女の後に続いた。







 雑用やら言葉の勉強やらに明け暮れているうちに、時間は一気に経する。竜也がラズワルドに拾われ、アニードの屋敷に住むようになって四ヶ月が経っている。この世界にやってきてからは半年以上が過ぎていた。

【で、今日はシャバツの月の二〇日と】

 この世界の暦をまだ理解していない竜也は、今が何月なのかよく判っていない。この四ヶ月で多くの知識や常識を手に入れたが、知らないことの方がもっと多い。
 アニードはルサディル随一の大商人であり、何十人もの召使いを雇っている。今の竜也の身分はその中の一人というものだ。正確には、ラズワルド専属の雑用係というところである。
 アニード邸の一角に建っている小さいながらも豪華なコテージ。そこがラズワルドの住居だった。コテージには台所風呂トイレ等の生活に必要な設備は一式揃っていて、食事は老婆の召使いが用意してくれている。

【これで後はインターネット回線がありさえすれば、引きこもり生活を満喫できるんだけどな】

 と竜也は埒もないことを考えた。今の竜也の主な仕事はコテージ内外の掃除や薪割りくらいで、それ以外の時間はラズワルドから言葉を教わり過ごしている。しゃべる方はまだ片言だが、聞き取る分にはほぼ不自由はなくなっていた。しばらく前から文字の勉強も開始している。
 ラズワルドが自分の身の上について語りたがらないため、竜也は彼女の身分や立場についてよく判っていない。ラズワルドはアニードとは血縁関係もなく、家族でもない。アニードの仕事に何らかの形で力を貸しているようで、アニードに対しては対等に近い立ち位置を保っていた。
 相変わらず飽きもせずに竜也にべったりのラズワルドだが、不定期にアニードに呼び出されて本邸に赴くことがある。竜也はそれに付き添うことを許されず、コテージに一人残される。
 今日、竜也が一人コテージで暇を持て余していたのはそんな理由である。言葉の勉強をするにしても、一人では誰も間違いを指摘してくれないから非効率だし、第一やる気も起こらない。
 今竜也にできるのは、ベッドに寝転がってとりとめのない思考を弄ぶことだけだ。

【あ゛ー、『今異世界にいるけど何か質問ある?』とかスレッド立ててやりてー】





1 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 何でも答えるよー。


2 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 異世界wwww乙wwww


3 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 異世界ってハルケギニア? ムンドゥス=マギクス?


4 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 いや、多分オリ設定。もし商業だったらかなりなマイナー作品。


5 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 文明程度は?


6 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 江戸時代初期の日本と同レベルくらい? 全部人力、機械は存在せず。火縄銃は見かけた。


7 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 言葉は通じんの? 何やって生活してんの?


8 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 言葉が通じん! それでむっちゃ苦労した。今は少しは覚えたけど。
 今はウサ耳幼女に拾われてヒモみたいな生活。


9 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 ちょ、おまwww


10 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 文字はどんな感じ? 読める?


11 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 こっちで使われているのは三〇くらいのアルファベットの表音文字。横書きで、英文とかとは逆で右から左へと文字を読んだり書いたりしてる。
 アルファベットの形は全く見慣れないし、ぱっと見みんな同じに見える。それに、単語とか文章とかは母音を使わないで子音だけで表記しやがるんだこいつら。何考えてそんなわけの判らんことしてるんだか。
 本当、無茶苦茶苦労させられたけど、それでも時間さえかければ何とかある程度は読めるくらいにはなりましたよ。努力しましたから。


12 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 トイレとかどうしてんの?


13 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 これもまた辛いんだよー!!
 トイレは水洗とぼっとんの二種類。水洗は要するに側溝の上に便座を置いたような感じ。ぼっとんは、昔の田舎のトイレを想像してくれれば。回収したブツは結局海に捨ててるみたいだけど。トイレットぺーパーなんかないから、何かの葉っぱでケツ拭いてる。


14 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 古代ローマは風呂が発達していたけど、そっちはその辺どうよ?


15 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 今住んでるところは風呂付き。でも湯船はなくてサウナみたいな蒸し風呂形式。石鹸は存在しているけど贅沢品なんで、手ぬぐいで身体こすってる。


16 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 食い物はうまい?


17 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 作ってくれるお婆ちゃんには悪いんだけど、正直いまいち口に合わない。
 ちなみに今日の昼飯のメニューは、スープと野菜の煮物。
 スープはお湯で小麦粉を溶いて、千切ったパンを入れて山羊の乳のバターと塩で味付けしたもの。野菜の煮物はキャベツとかタマネギとか煮て塩とオリーブオイルで味付けしたもの。
 まあ奴隷やってた頃を思えば極楽みたいな食生活だし、出された物は全部残さず食ってますよ。時々白いご飯が食いたくて泣きたくなるけど。

 あ、食事は一日二食な。三食なんてありません。


18 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 服とかどんな感じ?


19 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 何というか、似非アラビア風?のワンピースとかズボンとかで、肌の露出を増やした感じ。みんな結構シンプル。この世界ももう冬だけど、冬っつっても気候は日本の秋くらいだから、いつもの服の上にマントっぽいの1枚羽織ってる。


20 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 魔法はないの?


21 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 俺はまだ見たことないけど――





【――見たことはないけど、魔法がないとは限らないんだ】

 脳内でわずかばかりスレッドを延ばしたところで、竜也がその事実に気が付く。その途端、居ても立ってもいられなくなった。

【そうだ、魔法があれば元の世界に戻る手懸かりだって見つけられるかもしれない】

 竜也はコテージを出、アニード邸を抜け出す。行き先に特に当てがあるわけではなく、町の中心部へと歩いて行った。
 この四ヶ月間、竜也は数えるほどしかアニード邸の外に出たことがない。ラズワルドと共に町に出る度、彼女が町中のあらゆる人間に忌避されている事実を突きつけられるのだ。それに、また誘拐されるかも知れないという警備上の問題もある。そのためラズワルドはよほどのことがない限り町に出ようとせず、竜也もそれに付き合う他なかった。
 だが竜也としてはこの世界の知識を得るためにも、もっと町を見て回りたかったのだ。だからラズワルドが仕事(?)で不在の今が絶好の機会であると言える。

【いー加減、雑用にも子守にも飽きたしな。魔法を習って『黒き竜の血』を目覚めさせればチートキャラになれるわけだし】

 竜也はラズワルドに対し家族としての愛情を抱き、惜しみなく注いでいる。だがだからと言って、四六時中一緒にいて息が詰まらないわけではないのだ。そろそろ気晴らしが必要だったのだろう。竜也は観光客気分でぶらぶらと町を、市場を見て回っている。それだけで充分に気分転換になっていた。
 露店で軽食でも食べたいところだが、懐具合が心細いために竜也はそれを我慢した。財布に入っているのはレプタ銅貨が十数枚。以前の外出の際にラズワルドからもらったお小遣い、それが今の竜也の全財産だ。

【……しかし、一体どういう異世界なんだろうか】

 市場には、林檎・桃・葡萄・キャベツ・レタス等々の野菜や果物と共に、インディカ米っぽい米や大豆が並んでいる。さらにはトウモロコシ・トマト・ピーナツまでもが平然と売られていた。トウモロコシ等は中南米が起源で、大航海時代以前には旧大陸にはなかったはずの食物だ。

【まあ、火縄銃があるくらいだから新大陸への入植が始まっていてもおかしくないか。そもそもここがユーラシアかアフリカかも判ってるわけじゃないし】

 竜也は食料品の並ぶ露天市場を抜け、安全そうな路地裏へと足を伸ばすことにした。

【おっ、何かそれっぽい店発見】

 表通りからあまり離れていない場所にあるその店は、どうやら本屋のようである。元の世界では重度の活字中毒だった竜也は、飛んで火に入る夏の虫のごとくその書店に誘い込まれていった。
 店の雰囲気は、元の世界の古いひなびた古本屋のそれに近い。ただ、大した数の本は置いていない。ざっと見たところ数十種類くらいか。元の世界と比べれば出版部数は何桁も違っているだろうから、これでもかなり充実した品揃えなのだろう。
店内には店主が一人と客が一人。店主は竜也を胡散臭げに見つめているが、竜也はその視線を気にする余裕もなく懸命に本の題名を読み取ろうとしていた。

「としのふしぎ……たびにおどろく……? むはんまど、るわー……?」

「しょこく、りょこーき……? れー……れー……みゅえ?」

「せかいの、ちず――地図!」

 竜也の手がその地図の本へと延ばされる。だがその手は店主のはたきによって撃ち落とされた。

「只読みは駄目だよ。読むんだったらちゃんと買いな」

 嫌味な口調で店主がそう言う。竜也は慌てて懐から財布を取り出しそうとした。

「その本の値段は一〇ドラクマだ」

 店主の言葉に、竜也の身体が硬直した。ちなみに三三六レプタで一ドラクマ、一ドラクマは普通の労働者が一日働いて得られる賃金に相当する。
 竜也は散々迷いながらも、なけなしのレプタ銅貨を何枚か店主に示しつつ提案した。

「あー、見る、試し、これ、代わり」

 店主は舌打ちしてその提案を却下する。

「冷やかしならさっさと出ていきな、貧乏人が」

 店主は腕ずくで竜也を店内から追い出す。竜也の目の前で書店の戸が無慈悲に閉じられた。

「地図……」

 竜也は恨めしげに書店の戸を見つめるが、結局諦めるしかない。竜也は肩を落として書店に背を向けた。竜也がその場から立ち去ろうとする、そのとき。

「待ってください」

 何者かに声をかけられ、竜也は振り返った。そこに立っていたのは二〇代半ばの、鹿角を持った優男。店の中にいたもう一人の客である。

「地図なら私も持っています。よろしければお見せしますが?」

「本当?」

 竜也の瞳が希望に輝く。優男は微笑みを見せながら竜也に語った。

「あの強欲店主には私も何度も苦い思いをさせられていますので。他人事とは思えなかったんですよ」







 竜也はハーキムという名の、その鹿角の優男に誘われるままに付いていった。一〇分ほど歩いてハーキムの自宅に到着する。
 町中の、木造の平屋の長屋。その一室がハーキムの家だった。八畳程度の部屋が二つ、ハーキムはそこに一人で暮らしているという。その部屋で特徴的なのは百冊以上の蔵書だった。この世界の一庶民としては破格の量と言えるだろう。
 この世界に来てからずっと抱えていた疑問がようやく解消できると、竜也は期待に胸を膨らませた。

「地図、一番大きい、お願いします」

「判りました」

 ハーキムが苦笑しながら本棚から何かを取り出してテーブルに広げる。広げた新聞紙ほどの大きさのそれは、一枚の絵地図だった。

「――」

 竜也は息をするのも忘れるほどに、その地図を食い入るように見つめた。竜也の様子を怪訝に思いながらも、ハーキムは各地を指差して地名を教える。

「ここがこの町、ルサディルです。こちら側の大陸がネゲヴ。こちら側がエレブ、こちら側がアシューとなります」

 竜也はここが異世界である事実を最終確認した。地図に描かれていたのは元の世界とよく似ていながら決定的なところが違う、それは地中海世界の地図だった。

「こちら側がネゲヴです」

 とハーキムが指差す場所は北アフリカ全域である。ルサディルのある場所はジブラルタル海峡のすぐ東の北アフリカ側だ。

「こちら側がエレブ」

 と示された場所はヨーロッパ全域。アシューとはアナトリア半島・シリア=パレスチナ・シナイ半島から東の全域。

「ここ、名前、何?」

 竜也は元の世界のジブラルタル海峡がある場所を指差す。ハーキムの答えは、

「そこはヘラクレス地峡です」

 というものだった。そう、この世界ではネゲヴアフリカエレブヨーロッパが地続きなのだ。

「こちらはスアン海峡です」

 と指し示された場所は、元の世界であればスエズ運河がある場所だ。ネゲヴアフリカアシューアジアは海峡によって隔てられていた。

「ここ、川?」

「西から、ソウラ川・ナハル川・チベスチ川・ナガル川です」

 ナガル川は、おそらく元の世界のナイル川に相当するのだろう。だが他にこんな大河がアフリカにあったなどという話を竜也は知らない。北アフリカの大地が、おそらくはナイル川に匹敵するような何本もの大河とその支川によって縦横に引き裂かれている。

「ここ、何ある?」

「この辺から南は全て大樹海アーシラトです」

 元の世界のサハラ砂漠などは全て緑化し、大樹海となっているそうである。

【どういう地殻変動があったんだよ……】

 あまりの違いにもう笑うしかなかった。

 ナハル川等の大河がサハラ砂漠に水を供給しているため、サハラが緑化。草木が水を保持し、草木から蒸発する水が雲となってサハラに降り注ぐため大河の水量が増え、ますます草木に水が供給され、草木が良く生い茂り、ますます水が保持されて……という好循環があったのだろう。その結果がサハラ砂漠の大樹海化だった。







「あー、凄い、力、ない?」

「は?」

 地図の衝撃を何とか乗り越え、飲み込んだ竜也は、今日の元々の目的を果たすことにした。だが魔法に該当する言葉を知らないために、伝えたいことが伝わらない。ラズワルドなら簡単に理解してくれるのに、と思いながらも竜也は知っている単語を重ねて思いを伝えようとした。

「あー、神様、力くれる。ない?」

「もしかしたらプラスのことでしょうか……」

 ハーキムも何とか竜也の言いたいことを理解しようとした。

「そうですね。あれに参加すれば直接目にすることができるでしょう。声をかけますよ」

 ハーキムの提案を竜也は喜んで受け入れた。後で大いに後悔することになるのだが。
 竜也はその後もしばらくハーキム宅で過ごしたが、夕方になったのでラズワルドの元に帰ることにした。

「それではまた今度」

「はい、さよなら」

 ハーキムに別れを告げ、夕焼けに染まる町を歩いていく竜也。ふと竜也は立ち止まり、沈み行く夕陽に背を向けた。竜也は地平線の向こうを見つめる。

【日本はあの方向か】

 日本の生活、日本の級友、日本の家族の思い出が不意に心の奥底から湧き上がってきた。今まで押さえ込んでいた蓋が外れてしまったかのようである。

【あれ、なんで……】

 竜也はこぼれそうになっていた涙を堪えた。
 父親は小さなスーパーマーケットの社長だが、経営状態は良いとは言えずいつも大変そうだった。母親は愚痴っぽい普通のおばさんだが、夫婦仲は悪くなかったし竜也に対しても決して悪い親ではなかった。
 夏休みは父親のスーパーでアルバイトをする予定だった。父親は「自営業なんてやるもんじゃない。公務員か大企業のサラリーマンが一番だ」と常々竜也に説いていた。だが竜也が会社を継ぐ意志を見せるとかすかに嬉しそうな様子を見せていた。
 心配をかけているだろう、諦めきれずに未だに捜索を続けているかも知れない。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。このまま東に向かって歩いていきたい衝動に駆られた。だが何とか自制する。
 竜也は未練を断ち切るように西に向けて歩き出した。今竜也が戻るべき場所はラズワルドのところだった。
アニード邸に到着する頃にはすっかり日が沈んでいた。

「ラズワルド? いない?」

 竜也は明かりの灯されていないラズワルドのコテージへと入っていく。その途端、竜也は腹部に体当たりを受け、その場に尻餅をついた。

【な――】

 竜也はそのまま言葉を失った。体当たりをしてきたのはラズワルドで、少女は泣き顔を竜也の胸に埋めていた。
 身を切られるような強い不安、世界にたった一人ぼっちのような切なさ、そしてそれが覆った安堵と喜び。竜也の胸の内をそれらの感情が突風のように駆け抜けていく。

【ぐ――】

 竜也は自分の感情の動きが理解できず、唇を噛み締めて感情を押し潰そうとした。激しい情動は嘘のように消え去り、残ったのは腕の中で涙を流す少女の暖かさだけだ。
 竜也の胸の内は、ラズワルドに対する罪悪感と愛しさに満たされた。それは紛れもなく自分の感情であると断言できた。

【ごめん。もう二度と黙って出掛けたりしないから】

 竜也はラズワルドの頭を優しく撫でる。ラズワルドは気が済むまで竜也の胸の中で泣き続けた。






[19836] 幕間0・ラズワルドの日記
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/01 21:07





幕間0・ラズワルドの日記





タシュリツの月・二六日

 やっとルサディルに戻ってきた。
 奴隷商人に誘拐されたけど、髑髏船団が助けに来てくれた。アニードが頼んだらしいのでお礼を言わなきゃいけなかったのが忌々しい。
 タツヤをここにおいてもらえるようになったのはよかった。




タシュリツの月・二七日

 ばあやに心配かけたのは申し訳なかったと思う。ばあやはわたしのことを可愛がってくれる数少ない人だ。半分くらい惚けてるからだけど。




タシュリツの月・三〇日

 タツヤに使用人の仕事をしてもらう。
 でも火の使い方も知らなかったし、他の仕事も大してできない。掃除とか薪割りとか本当に簡単な仕事だけやってもらう。
 早く言葉も覚えてもらわないといけない。




アルカサムの月・七日

 タツヤがばあやの仕事を手伝っていた。ばあやの指示でタツヤが料理を作った。
 タツヤにばあやの仕事を取らないよう注意する。タツヤは不満みたいだったけど、ばあやの仕事がなくなってここをクビになったら他にどこも雇ってくれない、と説明したら判ってくれた。




アルカサムの月・一〇日

 タツヤがやることがなくてつらいみたい。暇なよりは、雑用でも何でも働いている方がいいというのはいまいち理解できない。
 今は早く言葉を覚えるべき。




アルカサムの月・二〇日

 アニードの仕事の手伝い。アニードの嫌われっぷりがちょっと楽しい。
 心が汚れたのでタツヤに癒してもらう。




アルカサムの月・二九日

 タツヤがリモンとかいう本邸のメイドとしゃべっていた。あのメイドは確かばあやの孫娘。
 まだ片言しかしゃべれないくせに随分と楽しそう。わたしが顔を見せたらメイドは慌てて逃げていった。いい気味。




キスリムの月・九日

 タツヤを連れて町に出掛ける。一緒に串焼きを食べた。
 町の人のわたしへの態度がますます悪くなっている。それはわりとどうでもいいけど、タツヤに気遣わせる方がつらかった。早々に戻ってくる。




キスリムの月・一七日

 タツヤがまたリモンとしゃべっていた。お互いただの知り合いくらいにしか見ていないので、隠れて監視するだけで我慢する。




キスリムの月・二八日

 腰を痛めたばあやをタツヤが家まで送っていって、リモンに夕ご飯を食べさせてもらっていた。嫌な予感。




ティベツの月・一日

 ばあやが戻ってくる。「お礼」と称してタツヤを家に招待していたが、止めさせる。
 残念そうなばあやにはちょっと心が痛んだが、仕方がない。




ティベツの月・一一日

 タツヤが文字を習いたいと言ってきたので教材を用意する。
 正直、わたしも文字を読むのは得意じゃなくて言葉のときほどには上手く教えられない。一緒に勉強する。




ティベツの月・二一日

 アニードの仕事の手伝い。
 戻ってきたら、泥棒猫がタツヤとしゃべっていた。弱みを探ろうとしたら逃げ出していった。
 タツヤは泥棒猫から文字を習おうとしているけど、他に習う人はいないのか。




ティベツの月・二七日

 庭を散歩していたら、泥棒猫が他のメイドとしゃべっているのを見つける。わたしには気付かずタツヤのことをしゃべっていた。
 他のメイドがタツヤのことを馬鹿にしていて、泥棒猫がタツヤのことを「いいところもある」とかばっていた。
 しばらく泥棒猫と呼ぶのは止めておこう。




シャバツの月・二日

 やっぱり泥棒猫で充分だあの女。
 タツヤを誘って外に遊びに行こうとしているのを見つける。
 竜也が外出することをことわりに来たので、先手を打ってわたしの外出に付き添うようにお願いした。
 久々に一緒の外出。タツヤの服を買う。




シャバツの月・一五日

 タツヤがまた泥棒猫としゃべっているのを見つける。気付かれないよう近寄って何の話をしているのか聞かせてもらうことにした。
 タツヤはまだ片言なので、泥棒猫が一方的にしゃべっている。お金が貯まったらメイドを辞めて、何でもいいのでお店屋さんがやりたいそうだ。今すぐ辞めればいいのに。
 タツヤは今が精一杯で、先のことはあまり考えていないみたい。
 わたしは将来、どうしたいのだろう。少なくてもこのままここにいたいとは決して思わないけど。







[19836] 第三話「山賊退治」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/01 21:10




 シャバツの月の下旬。その日竜也は山賊退治の軍勢に加わっていた。山賊の元へはルサディルから歩いて二日の行程だ。

【何だってこんなことに……】





「黄金の帝国」・漂着篇
第三話「山賊退治」







 槍を手にした竜也は、死人一歩手前みたいな虚ろな表情で歩いている。槍の柄は二メートルほどの長い木の棒で、その先には古い錆びた包丁が縛り付けられている。仲良くなったメイドから、アニード本邸の厨房で一番古くて要らない包丁を譲ってもらったものである。五〇人ほどの軍勢の中で、竜也の持っている武器が一番貧相で見劣りしていた。

「だ、大丈夫ですか? タツヤ」

 並んで行進しているハーキムが竜也を気遣う。竜也は「大丈夫大丈夫」と強がって返事した。もっとも、ハーキムこそが竜也を山賊退治なんてことに巻き込んだ元凶なのだが。
 竜也は片言を駆使してハーキムから情報を仕入れようとする。

「山賊、誰? 何?」

「敵はエレブから流れてきた山賊です。ルサディルの近郊に居座ろうとすることが、何年かに一回はあるんです」

 そんなに頻繁にあることじゃないのか、と竜也は安堵した。

「エレブ人はネゲヴを『魔物の地』と呼んで怖れていますから。よほど追い詰められないとこっちには流れてこないんですよ」

(そう言えばあのガレー船の船員等もネゲヴのことを怖がっていたな)

 と竜也は一人納得する。でも、と竜也は軍勢の面々を見回した。
 五〇人の軍勢のうち腕が立ちそうに見えるのは多くても一〇人くらい、残りは町中でその辺にいる人を連れてきただけという感じである。隣を歩くハーキムにしても、小学校の教師がお似合いの優男だ。正直言って軍勢と言えるほど上等なものじゃない。

「勝てる? みんな?」

「まあ油断さえしなければ大丈夫でしょう。今回も山賊は全部で一〇人くらいと聞いていますし。戦い自体はムオードさん達に任せておけばいいんですよ。私達の役目は威圧のための頭数と、山賊を町の方に逃げさせないことです」

 ムオードはこの軍勢の責任者となっている、雄牛の角を持つ男である。一番色の濃い黒人と同じ肌をした巨漢で、年齢は四〇代くらい。

「……軍隊、ない? 仕事しない?」

「あなたが前にいたところは軍があって、山賊退治は軍の仕事だったんですね」

 ハーキムの確認に竜也は「はい」と頷いた。

「まあ、山賊なんて滅多に出てきませんし、出てきてもこういう有志の集まりだけで充分対応できるんですよ。だから軍というのは不要なんです」

 ハーキムが何を言ったのか、竜也は最初理解できなかった。

「軍隊、ない?」

「ありません。まあ、エレブやアシューの方は驚くと思いますけど、ネゲヴでは軍がない町の方が普通です。二百~三百年前までは軍もあったんですが、そのときあった軍も海軍中心ですし、陸の敵は傭兵で対応していました。海洋交易が廃れて大げさな海軍を持つ必要がなくなり、傭兵も雇う理由がなくなり、いつの間にか全廃に近い状態になったんです」

「で、でも敵、来る――」

 竜也の戸惑いに対し、ハーキムは柔らかに説明する。

「攻めてくる敵というのがいないんですよ。エレブからは山賊がやってくる程度だし、他の町にも軍はありませんから。ルサディルや他の町でも、収入に対する税率は多くても一割程度ですが、こんな税収では軍を維持できません。軍を持つには税を上げる必要がありますが、そんなこと誰にもできませんよ。こう反対されて潰されるに決まってます。

『他の町にも軍はないのに、誰もどこからも攻めてこないのに、何で税を上げてまで軍を持つ必要があるんだ?』

『どうしても必要なら傭兵を雇えばいいだろう?』って」

 どの町もそんな状態だから、どの町にも軍はないんですよ、とハーキムは話をまとめた。竜也は不明な点を確認しようとする。

「ちょ、ちょっと待って。税集める、誰? 王様?」

「ケムトの方には王様がいて、形式上ルサディルはケムト王に臣従しています」

 ケムトとは元の世界で言えばエジプトに相当する国である。

「ルサディルはケムト王から認められた自治都市……という建前ですが、税を納めているわけでもないですし、ケムト王なんていてもいなくても同じですね。ルサディルも含めてネゲヴの大抵の町はそんな自治都市です。民会で選出された長老が寄り合い、税を集め、町を治めています」

 なお、民会は一定以上の納税または軍務、いずれかの義務を果たしている成人男子が全員参加できる組織である。日本国に例えれば、民会が国会、長老会議が内閣に相当すると言える。

「税集める、仕事それ、人、いない?」

「それが専門の役人ですか? もちろん何人かはいますよ。私もそういう人に雇われて事務仕事をやったりしていますが、それが専門ではありません。まあムオードさん達くらいになるとこういう荒事がほぼ専門ですが、それでも役人や軍人とはちょっと違いますね。むしろ傭兵に近いです」

 つまり、役所は一応あって役人も数は少ないがいる。役人だけで対処できない仕事はパートタイマーを雇ったり、有志を募ったりして対処する、というところだろうか。そして、事務仕事のパートタイマーがハーキムで、荒事を専門に請け負っているのがムオードというところなのだろう。

「泥棒、人殺し、捕まえる、誰?」

「そういう治安担当の役人も長老会議の下にいます。その役人が情報収集を担当する人を個人的に雇っていて、実際の捕縛等の荒事担当はやはりムオードさん達ですね。まあ、そんな事件は早々起こりませんが」

(江戸時代の日本の岡っ引きみたいに、「情報収集の担当者」にはヤクザ者や犯罪者崩れを引き込んで使っているんだろうな、多分)

 ハーキムはそこまでは言わなかったが、竜也はそのように想像した。
 竜也は時間をかけてハーキムの言うことを咀嚼し、ネゲヴの社会を、ルサディルの有り様を理解し、腑に落とし込もうとした。考えるに、治安だけではなく社会全体のあり方が江戸時代の日本に近いのではないだろうか?

(江戸時代の日本だって、戦国時代から離れれば職業軍人と言えるような人はほとんどいなくなっていた。武士の大半はただの役人だったわけだし。日本がもっと広くて、幕府の目が国土の末端まで届かず、そもそも幕府にそれだけの力がなくて、それぞれの地域を治めている藩同士も距離があって、滅多なことでは戦争にもならない……そんな状態が何百年も続けばこんな風になるのかな)

 そんなことを考えているうちに、軍勢は――正確には「山賊退治の有志一同」というところだが――郊外の山腹にやってきた。その洞窟に山賊が居着いているという。
 こちらの接近に気が付いたのだろう。洞窟からは山賊がぞろぞろと姿を現した。

【……っ、多い】

 山賊は二〇人はいそうだった。薄汚れた革製と見られる鎧をまとい、槍や剣を手にしている。それを眼にした竜也の膝が震える。先ほど小便に行っておかなかったことを後悔した。

(安全な今のうちに覚醒せよ『黒き竜の血』! というかお願い助けて!)

 竜也が内心テンパっている間に戦いが始まろうとしていた。
 牛角のムオードが軍勢の前に進み出る。そして、その辺に転がっている一抱えもある大きな岩を持ち上げ、山賊へと投げつけた。

【は?】

 竜也はぽかんとしてしまう。ムオードが投げた岩は、最低でも百キログラムくらいはありそうな代物だ。それをムオードは二〇~三〇メートルもぶん投げてしまった。運悪く、山賊の一人がその岩に押し潰されてミンチと化した。
 混乱する山賊の中に獣耳の男達が突撃していく。虎耳の男が手から雷を発して山賊の顔を焼き、怯んだところを剣で斬りつける。犬耳の男が長剣で山賊をなぎ払い、倒れた山賊に犀角の男が鉄槌を食らわせ、文字通り叩き潰した。山賊の数はあっと言う間に半減した。

「悪魔! 化け物!」

 生き残った山賊等が悪態をつきながら逃げ出していく。ムオード達は深追いはしなかったが、潰せる連中は潰しておこうとした。ムオード達に追われた山賊のうち二人が竜也達の方に逃げてくる。

(うぉぉっっ?! こっちに来んじゃねーよ?!)

 竜也は足がすくんで逃げ出すこともできない。立ち向かうなど論外だ。震える竜也の様子を見て取り、ハーキムが山賊へと進み出て立ち向かった。山賊が振り回す剣を自分の剣で受け止める。両者が鍔競り合いをする中、山賊のもう一人がハーキムの背後に回って剣で斬りつけようとする。

【ハーキムさん!】

 竜也の身体は勝手に動いていた。山賊の首めがけ、粗末な槍を突き出す。

「ぐああっっ!!」

 包丁の穂先が首に刺さり、大量の血が流れた。だが山賊は竜也の槍を掴み、首から穂先を引き抜いた。竜也は槍を引き戻そうとするが、山賊が握りしめて離さない。

【ひ、ひいいっっ!】

 竜也の視界は汗とも涙ともつかないもので遮られた。だが、不意に槍が軽くなる。見ると、山賊は他の市民等の何本もの槍に串刺しになっていた。

「タツヤ、大丈夫ですか?」

 ハーキムが対峙していた山賊も既に斬り伏せられていた。ハーキムが竜也に駆け寄り、声をかける。竜也はその場に座り込み、

【は、は……】

 と痴呆じみた様子で返事をするのが精一杯だ。自分が小便を漏らしていることにも気付いていなかった。
 山賊退治は終わり、ムオード達は残務処理に動き出していた。







 その日は洞窟やその周囲で一夜を明かし、軍勢は町への帰路に就いた。帰りの行程も徒歩二日間だ。

「だ、大丈夫ですか?」

 竜也は往路以上に臨死の表情となっていた。ハーキムの問いに、竜也は「大丈夫大丈夫」と生返事を返す。
 人一人を殺したことは、想像以上に竜也の精神を苛んでいた。竜也はそれを誤魔化すためにハーキムとの会話に集中することにする。

「……あー、聞きたい。あれ、あの力、何?」

恩寵プラスのことですか?」

「プラス?」

「ええ。それぞれの部族の守神様から授けられる、特別な力のことです。ムオードさんは鉄牛族ですから剛力の恩寵。赤虎族には雷撃の恩寵」

 あれを見たかったのではないのですか?と問われ、竜也は何とも言い難い顔をした。あの力は確かに凄いが、竜也が探していたものとはかなり外れていた。

(あれじゃ、魔法と言うより超能力じゃないか)

 とは言うものの、それはそれで興味深い竜也はハーキムに訊ねる。

「ハーキムさん、恩寵、何?」

 その問いにハーキムは苦笑して見せた。

「私が使えるのは多少の身体強化くらいです。――ムオードさん達ほど強い恩寵を得られる人は少ないんですよ。部族に属していても恩寵を得ていない人の方が多く、得られたところで大した力じゃないことがほとんどです」

「その角、あの耳、部族の印?」

「ええ、そうです。私の一族の鹿角族は、鹿の守神を先祖に持っています。私達は鹿の守神の末裔であり、その印で身を飾るのです」

 とハーキムは誇らしげに語る。そのあり方はトーテム信仰の典型例と言うべきものだった。元の世界と少し違っているのは部族に属する者がトーテムに関したコスプレをすることであり、大いに違っているのは信仰する部族神が本当に神秘の力を授けてくれることである。
 竜也は今の話を聞いて、ある一人の少女のことを想起していた。竜也はおそるおそるという感じでハーキムに問う。

「……ウサギの耳は? 恩寵、何?」

 ハーキムは何でもないことのように返答した。

「白兎族ですか。白兎族の恩寵は人の心を読むというものだそうです」







 翌日の夕方、竜也達はルサディルに戻ってきた。
 ラズワルドにどう接するか決められないまま、竜也はアニード邸に到着する。そのまま惰性でラズワルドの住むコテージへと向かった。

「タツヤ!」

 竜也の姿を認めたラズワルドがコテージから飛び出してきた。竜也に抱きつこうとするラズワルドだが、一歩手前でその足が止まってしまう。ラズワルドは今にも泣き出しそうな瞳を竜也へと向けた。

【――っ】

 気が付いたら、竜也はラズワルドの腕を掴んでいた。竜也の心の中に、自分のものではない感情が流れ込んでくる。知られたことへの絶望。嫌われることへの恐怖。捨てられることへの不安。
 確かに竜也の中には、ラズワルドが自分の力を隠し、竜也の心を勝手に覗いていたことへの怒り・不快感があった。だが、ラズワルドの心を知ってその怒りも収まってしまった。彼女の立場になれば、力のことを言い出せなくても無理はないと思えてしまう。

(見てない! タツヤの心は最初の頃に少しだけ深いところを見ただけで、それからずっとほんの浅いところしか見てない!)

 ラズワルドが必死になって自分の心を竜也へと伝える。言葉ならいくらでも偽れる。だがラズワルドの心に嘘偽りは微塵もなかった。ラズワルドは竜也の胸に顔を埋める。

(タツヤの気持ちを感じてた。温かい気持ち、優しい気持ち、すごくすごく嬉しくて、ずっと感じていたかった)

 今ラズワルドは竜也に対し、全ての心の扉を開け放っていた。竜也の心にラズワルドの心が奔流となって流れ込んでくる。その経験が、その感情が、竜也の心を押し流そうとする。竜也は自分を保つために精神力の全てを使わなければならなかった。

(――ごめんタツヤ!)

 自分が何をしているのか気付いたラズワルドは心の壁を再構築した。それでようやく竜
也は一息つく。

「ご、ごめんなさい」

 口に出して謝るラズワルドの頭に、竜也は軽く拳骨を落とした。そしてラズワルドの頭を撫で、微笑みかける。ラズワルドは竜也の胸に頬をすり寄せた。
 心をつなげた二人に言葉は必要なかった。二人はいつまでも身体を寄せ合い、互いの体温を、心を感じ合っていた。







[19836] 第四話「カリシロ城の花嫁」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/08 21:33

「お金を儲けてほしい」

 ラズワルドは見も蓋もないことを言い出した。





「黄金の帝国」・漂着篇
第四話「カリシロ城の花嫁」







 竜也が知ったラズワルドの身の上をまとめておくと。
 まず、ラズワルドは白兎族の族長一家の生まれである。歳は一〇歳。

「もう二、三歳下だと思ってた」

 竜也が正直に吐露し、頬を膨らませたラズワルドが竜也をぽかぽかと叩いた。
 白兎族は人の心を読む恩寵(プラス)を持つため、あらゆる人々に忌避されている。このため白兎族は山奥に隠れ里を作り、そこに固まって暮らしていた。ラズワルドも生まれはその隠れ里だ。
 ラズワルド自身も真実は知らないが、彼女はどうやら族長一家の兄と妹が通じ合った結果の子供らしい。つまり、ラズワルドは生まれたこと自体が罪の証だったのだ。
 族長一家の血の結晶であるラズワルドは強力無比な恩寵を持って生まれてきた。強力すぎて、同じ白兎族からも恐れられ「悪魔」呼ばわりされるほどだというのだから冗談にもならない。

「どうせなら『白い悪魔』と呼ばれるのはどうだろうか」

 との竜也の提案に、ラズワルドは「どうだろうかと言われても」と思わずにはいられなかった。
 地球連邦や時空管理局のエースみたいで格好良くない?という竜也の思いは全く理解できなかったものの、

「タツヤがそう言うなら」

 とラズワルドはその提案を無条件で受け入れた。
 父親と目される人物は失踪し、母親は三歳の頃に衰弱死。ラズワルドはその生まれとその力で同族から忌まれ、恐れられながらも、六歳までその隠れ里で過ごしてきた。
だが六歳のある日、突然彼女は隠れ里から連れ出され、ルサディルに連れてこられた。一族は彼女をアニード商会へと売り飛ばしたのだ。アニードは彼女の力を自分の商売に利用し、莫大な利益を上げてきた。

「大事な交渉のときには隣の部屋にいて、相手の心を読んでアニードに知らせていた」

「そりゃ、そんな手が使えるならやりたい放題できるよな」

「でも、やり過ぎた」

 アニードが白兎族の力を利用していることが取引相手に広く知られるようになったのだ。このためアニードと取引しようとする人間が減り、取引をするときもラズワルドが力を貸せない状況を作って交渉を行うようになった。

「何年もずっと楽をしてきたから、わたしが力を貸さないとアニードはいいカモ。最近は損ばかりしてるらしい」

 ラズワルドはいい気味とばかりに薄く嗤った。その黒い笑みに竜也の腰がちょっと引ける。

「アニードはわたしのことが邪魔になっている。ここでの暮らしは、もう長続きしない」

 そうか、と竜也は嘆息した。

「俺も大分言葉を覚えたし、町に出て二人で暮らしていくくらいは何とかなるんじゃないか?」

 まだ続きがある、とラズワルドは首を振った。

「アニードはタツヤの知識を使って儲けられないかと考えている。タツヤがここじゃない、外のどこかから来たことは最初に伝えている。ここでは誰も知らない、すごい知識があることも」

「ちょっと待って。あのおっさんがそれを信じたのか?」

 竜也の疑問にラズワルドが頷いた。

「昔にもそういう人がいた。西の大陸はその人が見つけた」

 ラズワルドには充分な知識がなく、それ以上「そういう人」についての話は聞けなかった。

「まあ、あのおっさんが儲けようと破産しようとどうでもいいんだが」

 竜也自身がアニードから不利益を被ったことはなく、むしろ恩義があるくらいのだが、ラズワルドの心理的影響を受けた竜也はアニードに対して辛辣な態度を取っていた。
 ラズワルドは竜也の言葉には同意するが、それでもできるなら竜也の知識を金儲けに使ってほしかった。ラズワルドには全く理解できないが、それでも竜也の知識の凄さは判る。竜也はこの世界の誰よりも物知りで、この世界の誰も知らないことを知っている。ラズワルドは竜也の凄さをアニードに思い知らせてやりたかったし、町の皆にも知ってほしかったのだ。
 その上で、今の暮らしが維持できるのであればそれに越したことはない。
 竜也はラズワルドの思いを理解し、できるだけのことをしようと思っていた。だが、

「……金儲けと言っても、この世界にはもう火薬も銃器も活版印刷も存在してるしなー。異世界トリップのパターンで他にあるのは、コークス炉とか?」

 知っているのは概要だけで、実際にそれを作るとなると莫大な投資と長期間の試行錯誤が必要となるだろう。アニードがこんな思いつきじみた話に投資をするとは思えない。

「あとはノーフォーク農法とか?」

 やはり知っているのは概要だけ、農民を指導できるような知識もないし、そもそもそんな立場でもない。竜也が王様ならともかく、一庶民の身の上では大した役には立ちそうになかった。

「あと日本酒や味噌や醤油を作るっていうのもあったか。料理ってパターンも」

 酒造等も初期投資と時間が必要なことには変わりないし、この世界の消費者の口に合う商品を開発するにはやはり試行錯誤が必要だろう。料理は論外だ。便利な魔法も調理器具も保存手段もないこの世界で、どうやって料理で大儲けしろと言うのか。

(要するに、初期投資が小さくても大丈夫で、時間もあまりかからず、専門知識も不要な儲け話……ネズミ講でもやれってか?)

 竜也は首を振って自分の危険な発想を打ち消す。そして不安げな表情のラズワルドに笑いかけた。

「他に何か思いつくかもしれないし、もっと考えてみるよ」







「ということで、知恵を借りに来ました」

「いや、何がそういうことなんでしょうか」

 竜也はハーキムの家を訪れた。竜也が知る限りハーキムはこの町で一番の知識人だ。人にものを教えるのが大好きだし、温厚な性格の好青年でもある。知恵を借りるのにハーキムを選ぶのは当然と言えた。

「それにしても、昨日の今日で随分会話が上達してませんか?」

「色々ありまして」

 竜也は曖昧に笑って誤魔化した。「いつの間にか、ラズワルドの言語に関する知識が頭に流れ込んでいました」などと、気楽に打ち明けられることではない。
 ハーキムは書きかけの何かの原稿を疎ましげに眺めて、

「金儲けに関しては、むしろ私の方が知恵を貸してほしいくらいなんですが……」

「もちろんそのつもりです」

 と竜也が即答し、ハーキムが目をぱちくりさせる。

「この世界のことをまだまだ知らなきゃいけないので、その辺は力を貸してください。逆に俺は、この世界の人達がまだ知らない商売の種を知っている――かもしれません。西の大陸を発見した人みたいに」

 真剣なものとなったハーキムの瞳が竜也を見据えた。

「貴方は自分がマゴルだとでも言うのですか? 冒険者レミュエルのような」

「おお、その人のことが聞きたかったんです。是非教えてください」

 ハーキムは急に変わった話に戸惑いを見せながらも、本棚から一冊の本を取り出しながら説明する。

「冒険者レミュエルは今から四百年ほど前の人です。彼は自分のことを異邦人(マゴル)――つまり、こことは違うずっと遠くの国からやってきた人間だと称していました。事実、彼は今までこちらになかった多くの物を伝えたのです。火薬、鉄砲、活版印刷等は彼によってこちらに伝わりました。
 レミュエルは火薬の販売等で得られた儲けの全てを注ぎ込んで大型帆船を建造。その船で西の大洋へと船出していきました。

『西には大陸がある。そこの王国は金銀財宝を貯め込んでいる。こちらにはない食物があり、誰の物でもない豊かで広大な土地がある』

 彼はそう主張し、実際西の大陸まで到達したのです」

 竜也は無言で続きを促し、ハーキムが続けた。

「――ですが、レミュエルはその最初の航海では大した成果を得られませんでした。東への帰路で彼の船は嵐に遭い、何とか沈没だけはせずに戻ってこれたものの、積み荷の大半は流され、船はもう二度と使い物にならなかったそうです。
 全財産を失ったレミュエルは借金取りに追われ、失意のうちに病死したそうです」

 話を聞いて、竜也は何とも言い難い気持ちとなった。そのレミュエルが竜也と同じ境遇であることはまず間違いないと思われた。西への航路を求めたのも、あるいは彼なりに元の世界に戻る努力をしていたのかも知れなかった。
 西の大陸には一時期入植が盛んに行われ、いくつかの植民都市が築かれた。今でも細々とながら交易があるそうで、アニードもそれを取り扱っている商人の一人である。

「――レミュエルのようなマゴルと言われる人は他にもいるんですか?」

「歴史書上そうだろうと言われているのはレミュエルの他に二人です」

 その数が多いのか少ないのか竜也には判断できなかった。おそらくは歴史に名を残さず消えていったマゴルもいるだろう。三人の何倍、何十倍になるのかは見当もつかないが。

「マゴルが元の国に帰ったって話は……」

「三人ともこちらで一生を過ごしています」

 ハーキムの答えに竜也は「そりゃそうだろうな」と思うしかない。それに、例え「元の国に帰った」と伝えられているとしても、それが本当かどうかを確認する方法はどこにもないのだ。

「あれ、誰か来てるの?」

 突然女性の声がした。竜也が振り返ると、入口にハーキムと同年代の若い女性が佇んでいる。頭部には豹の耳。褐色の肌を惜しげもなくさらした、グラマラスな美人さんだ。

「彼女はヤスミンさんと言います。この町の劇場の看板女優です」

 ハーキムの紹介にヤスミンは「しけた小さい一座だけどね」と笑いを見せた。竜也は室内に入ってくるヤスミンに軽く頭を下げる。

「クロイ・タツヤです。最近この町に来ました」

 ヤスミンは「よろしくね」と軽く言って挨拶を交わしながら、ハーキムの横までやってきた。そしてハーキムが執筆中だった原稿を覗き込む。

「なによ、全然進んでないじゃない」

「うう、すみません」

 ハーキムは身体を縮めて恐縮した。不思議そうな顔の竜也にヤスミンが説明する。

「随分前から劇の脚本をお願いしてるんだけどさ、いつまで経っても脱稿しないのよ。アシューの王様に捧げる詩でも書いてるの? あんたはどこの大文豪?」

「いや、あの、鋭意努力はしていますので……」

「それとも前払いした原稿料、耳を揃えて返してくれるの?」

 どことなく楽しそうにハーキムをいたぶるヤスミンと、恐縮するばかりのハーキムに、竜也が口を挟んだ。

「あの、すみません」

 二人の視線が竜也へと向けられる。

「その話、もっと詳しく聞かせてください。力になれるかもしれません」

 竜也の様子は、興奮を押し殺し冷静になるべく努めているかのようだった。

「大して難しい話じゃないけどね」

 と前置きし、ヤスミンが説明する。

「うちの一座は先々代の頃からのいくつかの脚本を順繰りに上演しているだけなのよね。大抵のお客さんはうちのどの劇も一回は見たことあるから、どんどんお客さんが少なくなってるの。いい加減新作で一山当てないと、先細りする一方なわけ」

「その新作の執筆を依頼されまして。気軽に引き受けたんですが、まさかこんなに難しいとは……」

 説明を引き継いだハーキムがそう嘆息した。

「劇の内容ってどんなのなんですか?」

「うちは『海賊王冒険譚』をほぼ専門にやってるわ」

 ヤスミン一座で使っている脚本の一冊をハーキムが本棚から取り出した。ハーキムとヤスミンの説明を聞きながら、竜也はその脚本に目を通す。
 「海賊王グルゴレット」というのは三百年ほど前の実在の人物だそうだ。グルゴレットは海賊として、商人として、傭兵として、義賊として名を上げ、数々の伝説を残している。虚実入り交じったそれらの伝説を小説化・演劇化したものが「海賊王冒険譚」である。
 劇の内容は冒険活劇。元の世界で言えば「千夜一夜物語」のシンドバッドやアリババのエピソードを想起させるものだった。そこから魔法的な要素を抜いたものと考えればいいだろう。

「新作の冒険譚ということは、全くの作り話でも、今まで誰も知らないような代物でも構わないんですね?」

「むしろそういうのが欲しい。面白ければ何でも構わないわ」

 それならいける、と竜也は昂ぶる心を抑えながらハーキム達に告げた。

「俺が知っている一番面白い冒険譚を劇にしましょう。ハーキムさんには『海賊王』の話にするための改造を。ヤスミンさんには演劇向きにするための修正をお願いします」

 竜也達は脚本を書くための打ち合わせに突入した。

「まずは、グルゴレットに相棒が欲しいですね。銃の名人は出せませんか?」

「その当時には銃はほとんど普及してませんよ。今だってエレブではかなり使われているらしいですが、こちらにはろくにありませんし」

「弓の名人じゃ駄目なの? グルゴレットの好敵手にそんな奴がいるけど」

「じゃあ、その人とグルゴレットが今回はたまたま手を組んだことにしましょうか。あと、剣の達人も出したいんですが」

 ハーキムとヤスミンは少しの間考え込んだ。

「……剣と言えば、牙犬族よね」

 竜也は山賊退治の有志の中に犬耳と犬の尻尾を付けた男がいたことを思い出した。

「あいつらは『烈撃』っていう何でもぶった斬る恩寵を授かってるのよ。剣を持った牙犬族とは戦いたくないわね。得物なしなら怖い相手じゃないんだけど」

「彼等は一族総出で剣術修行を盛んに行っていて、牙犬族の戦士は全員が腕の立つ剣士でなんです。――そう言えば、牙犬族の剣祖と呼ばれる人物が海賊王と近い時代の人でしたね」

「剣祖?」

「ええ。剣祖シノンは三百年前にネゲヴに流れ着いた、マゴルと見られる人物です。優れた剣の使い手で、牙犬族に伝えたその術を『イットーリュー』と称していたと」

 竜也はずっこけそうになった。その剣祖とやらが同郷の人物であることはまず間違いないと思われた。「シノン」は「信之介」とか「忍」とかがなまった名前なのだろう。

「じゃあもう一人の仲間はそのシノンで」

「ですが、シノンとグルゴレットでは活躍した時期が何十年かずれてますし」

 とハーキムが難色を示すが、

「細かいことはいいのよ! そんなところにこだわるお客さんなんて来やしないわよ」

 とヤスミンが押し通した。

「それじゃ次にあらすじです。舞台はどこかの小王国、お話はそこのお姫様が花嫁衣装で逃げ出したところから始まります」







 打ち合わせは夜遅くまで行われ、大筋は完成した。あとはハーキムがそれを書き起こすだけである。
 翌日から竜也の生活が急に慌ただしくなった。
 メインは脚本執筆の補助である。竜也が「見てきたように」口述する台詞や展開をハーキムが文章化していく。ヤスミンは衣装や舞台装置、役者の手配に走り回った。

「うちの一座だけじゃ手が足りないし、これだけの劇なら大きくやらなきゃもったいないよ!」

 ヤスミンはそう言って、近隣をドサ回りしている旅芸人に声をかけていた。

「敵役の宰相の衣装はどうしたらいい?」

 と衣装係に訊ねられた竜也は「敵役はやっぱり黒だろう」と答えた。それで用意された衣装を見てヤスミンと竜也が、

「……なんか地味ね。角とか付けましょ」

「それに金銀の飾りがあれば。あとマントは不可欠」

 二人の補足により仕上がった衣装はネゲヴの人間にとっても異国情緒溢れるものとなった。中世ヨーロッパ風の騎士装束にアラビア風味を加味したような、幻想的なものである。
 脚本は完成したところから座員に渡され、稽古が開始される。絵が得意な竜也は書き割りの作成を手伝ったり稽古を見物したりしていたが、いつの間にか演出に口を挟むようになっていた。
 ヤスミンはシノンの役である。女泥棒の出番は脚本から削られたし、お姫様役にはちょっとばかり適さない。胸にさらしを巻いて小汚い格好をしたヤスミンは、ニヒルな剣士役を嬉々として演じていた。

「シノンが持っているのは斬鉄剣という伝説の剣で、鉄だろうと岩だろうと斬れないものはないんだ。このときの決め台詞は――

『我が剣に……斬れぬものなし』」

「くぅ~っ、格好良いわ!」

 とヤスミンが感動に打ち震える一方、ハーキムは、

「そんな言い伝えはどこにもないんですが……」

 と異議を唱える。が、

「細かいことはいいの(んだ)よ!」

 という二人の合唱に沈黙するしかなかった。

「殺陣は緩急をつけた方がいい。シノンと敵がじっとにらみ合う、にらみ合う、にらみ合って、お客さんが焦れそうになったときに動く! ここですれ違い、一瞬の攻防! そのままの姿勢を維持! お客さんに『どうなった? どっちが勝った?』って思わせて、シノンが納刀、そのタイミングで敵倒れる、そう! そこでシノンの決め台詞、

『――またつまらぬものを斬ってしまった』」

 おおー、と座員が感嘆し、

「くぅ~っ、いかすわ!」

 とヤスミンがまた感動に打ち震えている。ハーキムは、

「あまりに実際の斬り合いとかけ離れていると思うのですが……」

 と冷静な突っ込みを入れている。が、

「これがいいんじゃない!」

 という二人の合唱にまたもや沈黙を余儀なくされた。

「それで、最後の決戦での決め台詞は?」

「それはもちろん『今宵の斬鉄剣はひと味違うぞ!』」

「くぅ~っ! 最っ高っ!!」

 感極まったヤスミンに対し、ハーキムはもう何も言えない。

「あんたに足りないのはこういう外連味よ!」

 ヤスミンは一方的にそう言ってハーキムを切って捨てた。

「本当面白いこの話、凄いよあんた!」

 ヤスミンがばしばしと竜也の肩を叩く。

(本当に凄いのはモンキー=パンチや宮崎駿なんだけど)

 竜也は内心そう思い、忸怩たるものを感じた。だがそれはそれとして、この劇が良い儲けになるよう引き続き全力を投入する。

「スキラの知り合いに手紙を送ったわ。上手くすれば劇を見に来てくれるかもしれない。もっと上手くすればスキラで上演するときに援助してくれるかもしれない!」

 ヤスミンの報告に一座の面々が「おー」と感嘆した。話が見えない竜也がハーキムに説明を求めた。

「ヤスミンさん達は元々スキラ近隣で活動していたんですよ」

 スキラはネゲヴで最も大きな町の一つだが、先々代の頃のヤスミン一座はそこでそれなりに名の売れた一座だったらしい。だが同じ演目ばかり上演していたので段々客が呼べなくなり、別の町に移動して新しい客を開拓。が、そこでも同じ演目ばかり上演していたので段々客が呼べなくなり、また別の町に移動して……とくり返しているうちに、ついにこんな西の果てまで来てしまったそうである。

「この劇、絶対に成功させるよ! そしてスキラに返り咲く!」

 ヤスミン一座は新作劇に一層熱中し、その熱は竜也やハーキムを巻き込んで突き進んでいく。初上演はわずか一ヶ月と半月先、ニサヌの月の一五日と決定された。







「あ゛~、ただいま~」

 日はとっくの昔に暮れていて、元の世界であれば日付が変わるような時間帯。疲れ切った竜也がラズワルドのコテージに戻ってきた。明かりは灯されておらず、コテージの中は暗闇である。

「ラズワルドはもう寝てるよな……」

 と部屋の中へと入っていく竜也。だが、

「おかえりなさい」

 ラズワルドが真っ暗闇の中でテーブルに夕食を用意して待ち構えていた。竜也は思わず「のわっ」と奇声を上げて飛び退く。

「料理を用意するから少し待って」

「あ、ああ」

 動悸を抑えていた竜也は何とかそう返事した。
 それからしばらく後。皿に盛られた料理を差し挟み、竜也はラズワルドと向かい合って遅い夕食を摂っていた。メインディッシュの煮込み野菜はすっかり冷たくなっているが、元の世界のように手軽に温め直しができないので冷めたまま食べる。

「あー、何度も言ってるけど、こんな時間まで待つ必要ないんだぞ?」

「何度も言ってるけど、好きでしていることだから気にしないで。他にすることもないから」

 最早恒例となった会話が交わされ、二人はそのまま沈黙した。竜也は話すべき事柄を探す。

「……上演が始まれば暇になるから。あとちょっとの話だから」

 竜也の言葉にラズワルドは「ん」と頷いた。

「大した金じゃないかもしれないけど、俺達二人がここを追い出されてもしばらくはやっていけるくらいにはなるはずだから。ヤスミンさん達がスキラに行くなら一緒に行って、そこで小説を出版するとかすれば……ネタならいくらでもあることだし」

 竜也の独り言めいた言葉にラズワルドが相づちを打つ。

「劇も一回は見てもらわないとな。初日が一番人出が多いだろうから、いつものフードの中にそのウサ耳隠して、人混みに紛れればいいんじゃないか?」

 ラズワルドは微妙に嫌そうな、複雑な顔をする。それでも何も言わないラズワルドの腕を竜也が掴む。竜也の心にラズワルドの心境が流れ込んできた。

(白兎族の印に周りが何を思おうと、わたしのことをどれだけ嫌おうと、別にどうでもいい)

 ラズワルドは強がりでも何でもなく本気でそう思っていた。

(わたし一人で行くなら印を隠したりしない。隠したくない)

 ウサ耳をつけること、白兎族であることは――そのためにどれほどの辛酸を舐めてきたきたとしても――ラズワルドという少女を構成する最も重要な要素なのだ。他人の目なんて下らない理由で、自分自身を否定するような真似はしたくない。ウサ耳のカチューシャを外すのは論外だし、フードの下に隠すことも世間に負けて自分を否定したみたいで何か嫌だ。

(でも、わたしのせいでタツヤに嫌な思いをさせるのはもっと嫌。だから印を隠すのも仕方ない)

 だが結局、ラズワルドにとってそれが全てに優先するのだった。
 白兎族であることが知られたらお互いに嫌な思いをするだろうから――竜也は軽く考えていたが、それは白兎族を、ラズワルドという少女の何割かを否定することと同義だったのだ。考えが浅かったことを竜也は恥じる。

(でも、周りの反応が間違ってるとは必ずしも言えないんだよな。心の中なんて究極のプライバシーだろ。それを好き勝手に覗かれちゃ――その恐れがあるのなら忌避するのだって当然だ)

 竜也の場合、度々ラズワルドと心をつなげて彼女が力を乱用していない事実を確認しているが故に、彼女を忌避する理由がないに過ぎない。(なお、この時点の竜也は白兎族の力をあまりに過大に誤解していた。たとえ白兎族であろうと、接触テレパスのような会話ができる者などラズワルド以外には一人もいない。)

(初日だし、つまらん騒ぎを起こして上演にケチをつけたくないし、あんなに頑張ってるヤスミンさん達に迷惑かけるわけにはいかないし)

「……ごめん、今回は印を隠してくれ」

 竜也はラズワルドの言葉に甘えることにし、ラズワルドは「ん」と頷いた。だが彼女と付き合っていく限り、同じような問題は何度も出てくるだろう。

(どうするのがいいのか判らないけど、俺がしっかりしないと、考えないとな)

 竜也はそんな決意を新たにしていた。







 月日は流れ、ニサヌの月の一五日。町外れの広場には大勢の観客が詰めかけていた。竜也とフードの下にウサ耳を隠したラズワルドもその前列に混じっている。
 そして夕刻。ヤスミン一座による新作劇「海賊王冒険譚 ~カリシロ城の花嫁」の上演が開始された。ラズワルドにとっては初めての観劇であり、目を輝かせて舞台に見入っている。





『ああ、何ということだ! そのお姫様は海賊の力を信じようとはしなかった! その子が信じてくれたなら、海賊は空を飛ぶことだってできるというのに!』

『そうよ。かつて本物以上と讃えられた、ゴート金貨の震源地がここだ』

『ははは! 切り札は最後までとっておくものだよ!』

『連れて行ってください。海賊はまだできないけど、きっと覚えます!』





 ――「カリシロ城の花嫁」は大好評を博し、ルサディル中の話題を掠うこととなった。

「タツヤのおかげよ、ありがとう」

 ヤスミンが満面の笑みでそう告げる。竜也はようやく本当の意味で自分がこの町の、この世界の住人になったような気がした。






[19836] 第五話「都会を目指して」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/24 19:55
「黄金の帝国」・漂着篇
第五話「都会を目指して」







 「カリシロ城の花嫁」の準備をしている間にアダル月は終わり、月が改まってニサヌの月(第一月)。年も新しくなり三〇一四年となっている。
 この世界でも一年は三六五日だが、春分が元旦・一年の始まりとなっている。季節の経過、一年の経過は元の世界と完全に同期しているのではないかと考えられた。
 ニサヌの月が終わってジブの月(第二月)、ルサディルは祭の季節である。竜也はハーキムやヤスミン達と一緒に町の祭に加わっていた。祭の様子は日本のそれと大きく変わらない。町の男が総出で山車を牽引し、港から神殿までを行進するのだ。元の世界と少し違うのは、山車が船の形をしていることだった。船形の山車は全長一〇メートルを超え、その上には神像が奉られ、さらに金銀赤青とあらゆる飾りで彩られ、神像が埋もれるくらいに花を積んでいる。見ているだけで心が浮き立つくらいに華やかな山車である。
 竜也もまたハーキム達と一緒に山車を牽く行列に加わっていた。山車は町の大通りを通り、神殿まで引っ張られる。竜也は神殿の敷地へと入っていく山車を見送った。見上げると、神殿の門柱には真ん丸が両側に翼を広げた紋章が刻まれている。

「ここの神様って何を祀ってるんですか?」

「ルサディルの守護神と太陽神ですね。ネゲヴの大抵の自治都市では町の守護神と太陽神を祀っています。太陽神ラーはケムト由来の神様です」

 竜也の問いに答えるのはハーキムだ。

「ケムトの神様がこんな遠くで拝まれているんですか?」

「ええ、ネゲヴ中で拝まれていますよ。太陽神殿の神官は熱心に自分達の神様をネゲヴ中で布教して回ったんです」

 太陽神殿の神官が言うには、太陽神ラーはネゲヴに数多いる神々の長であり、ネゲヴに住む全ての民が太陽神の氏子だとのこと。竜也は怪訝そうな表情をした。

「エジプト……じゃなくてケムトの神様と恩寵の民の部族神は全然別物なんじゃないんですか?」

「昔は別物だったんです。一五〇〇年くらい前ですか、当時のケムト王が『バール人の奉ずる神々や恩寵の民の部族神は、全てケムトの神々に起源を有する。それらは名前が違うだけで元は同一の存在である』と主張しだしたんです」

 このケムト流の本地垂迹説を受けて、ケムトの神官は恩寵の民の部族神を始めとする出自の違う神々をケムト神話のパンテノンに組み込む作業に没頭した。さらには太陽神を祀るための神殿「太陽神殿」をネゲヴ全土に設立し神官を派遣、再構成した神話を広く知らしめた。一五〇〇年間に渡るその布教の結果、今日では恩寵の民を含む全てのネゲヴの民がその説を受け入れてしまっている。

「ケムト王は太陽神ラーの末裔を称していて、太陽神殿の神官長としてネゲヴ全土に君臨しています。ただ、その代わり政治の実権は全て手放して宰相任せにしています。ルサディルや各地の自治都市がケムト王に臣従しているのも政治的理由よりも宗教的意味合いの方がよほど強いですね」

 君臨すれども統治せず、権力はなくとも権威は至高、現実世界は支配せずとも精神世界は支配する。それがケムト王のあり方だった。
 竜也は「ほー」と感心し、教えられた知識を脳内のノートに書き記して意識の上からは削除した。実際、この世界にやってきてから宗教について意識したのは今回が初めてで、冠婚葬祭等の大きな行事以外では特に宗教を意識せずに生活できるのだろう。その気楽さは竜也にとってはありがたかった。

「厳格なイスラム世界やピューリタン全盛のヨーロッパみたいな世界だったら息苦しくてたまらんだろうな。ここがそんな世界じゃなくて本当に良かった」

 竜也がこの世界にやってきてすでに八ヶ月。「カリシロ城の花嫁」の上演が無事成功したこともあって、竜也もこの世界に、この町にすっかり馴染んでいる。

「ああ、ヤスミンさんのところの新しい子だね。次の劇が楽しみだよ!」

 竜也は町の人々からそんな風に声をかけられるようになった。ヤスミンや一座の面々も竜也のことを一座の一員としてすでに受け入れてしまっているし、竜也にも異論があろうはずもない。

「――ただ、あのおっさんがそれをどう思っているのかが問題なんだけど」

 竜也はルサディルの戸籍にはアニードの使用人として記載されている立場である。これを単に雇用者と被雇用者の関係、現代風に置き換えて社長と社員の関係のように考えるのはとんでもない間違いだ。竜也の社会的身分はアニードによって保証されているのだから。竜也はアニードの許可なくしては転居も転職も結婚も不可能だ。その一方アニードは竜也の食住を保証する義務があるし、竜也がもし犯罪を行った場合アニードが責任の一端を問われることになる。

「あのおっさんに禁止されたらヤスミンさん達の手伝いもできなくなるんだよな。実際そう命令されないのが不思議なくらいだし」

 演劇に関わるようになってからはアニード邸での仕事は必要最低限、申し訳程度しかやっておらず、それもラズワルドに手伝わせて何とか体裁を整えているくらいである。普通の使用人だったらとっくに馘首になっているはずだ。

「そんな心配はいらない」

 とラズワルドが首を振る。

「タツヤはわたしのもの。アニードもそれは判っている」

 ラズワルドの言葉が足りないため誤解を招く物言いになっているが、足りないところは読心の恩寵で補うのがこの二人のあり方である。要するに、そもそもアニードが竜也を使用人にしたのもラズワルドの要求に応えただけで、竜也の管理監督はラズワルドの権限のうち。よほどのことがない限りアニードが口を挟むのはむしろ筋違いなのだ。

「あのおっさんからすれば俺はラズワルドのペットみたいなものか」

 と竜也が自嘲し、それが正鵠を射ていたためラズワルドは返答に困った。竜也は助け船を出すように、

「それでも、俺がこうやって劇で小銭を稼いでいたらやっぱりあのおっさんが首を突っ込んでくるんじゃないのか?」

「多分それはない」

 とラズワルドは再び首を振った。

「アニードは劇なんかやっても儲からないと思っている」

「まあ確かにそれほど儲かる商売じゃないしな」

 大道具や小道具や衣装、多くの座員と、必要な設備投資の大きさに対して実入りは決して大きくない。普通に日雇いで働いた方が収入が多いくらいだし、実際ヤスミン一座の面々は家計の不足を日雇いの仕事で補っている。

「タツヤがマゴルだってことはアニードも理解したけど、儲けにはつながらないとアニードは失望している。ただ、だからと言って今すぐタツヤを手放そうとは思ってない」

「ラズワルドのことも?」

 竜也の問いにラズワルドが頷く。

「もうそれほど役に立たないとしても他人に渡して利用されたら困る、そう思っている」

 そうか、と竜也は天井を見上げて嘆息した。

「自由になれるのはまだまだ先かな」

 それでも、この世界にやってきてまだ一年経っていないのだ。焦る必要はないと竜也は思っていた。
 そうやって、アニード邸の使用人とヤスミン一座の一員という二足の草鞋を履く生活が続いた。次回作は黒澤明の「隠し砦の三悪人」を元ネタにした冒険譚を構想しており、そのあらすじをハーキムと打ち合わせたりしているうちに月日が過ぎ去り、シマヌの月(第三月)である。
 シマヌの月の中頃。エレブから流れてきた山賊がルサディルに接近したため、竜也やハーキムは山賊退治の有志に加わっていた。

「てえぇぃぃ!」

 接近する山賊に向け、竜也は槍を突き出した。竜也が用意したのは柄の長さが四メートルもある長槍だ。そんな奇妙な武器を使っているのは竜也一人なのだが、ロングレンジで一方的に敵を攻撃できるこの槍を竜也は重宝していた。
 山賊は槍の穂先をかわし、竜也へとさらに接近する。懐に飛び込まれたときにどうしようもなくなるのがこの槍の欠点なのだが、

「我が剣に――斬れぬものなし!」

 牙犬族の剣士がそれを補ってくれていた。竜也を護衛するように立っていたその剣士が山賊を一刀のもとに斬り伏せてしまう。その牙犬族は、

「ふっ……またつまらぬものを斬ってしまった」

 と空しげに呟きながら鞘に剣を収めた。

「ありがとうございます」

 竜也は内心「なんだかなー」と思いながらもそう礼を言う。その言葉に、剣士は片頬だけ吊り上げたような笑みを見せた。ニヒルな俺超格好良い!とか考えているのはラズワルドでなくても判る。
 山賊が全員死ぬか逃げるかして、その日の山賊退治は終了した。ルサディル側には負傷者はいても死者はいない。竜也はその長槍で山賊の何人かに手傷を負わせたものの、一人として仕留めることはなかった。

「タツヤ、怪我はありませんか」

「ハーキムさんも大丈夫ですか?」

 竜也とハーキムは互いの無事を確認し、安堵を共有する。ムオード達は残務処理に取りかかっていた。山賊の死体を集めて埋葬するのである。竜也もまたハーキム達と一緒に死体の一つを運んでいた。その男が山賊だったとは言われなければ判りはしないだろう。農村のどこにでもいそうな、くたびれた初老の白人男性の遺体である。竜也とルサディルの男達はその遺体を浅く掘られた穴へと横たえた。

「おっ、何か付けてるぞ」

「金になりそうか?」

 男の一人が遺体の首飾りに気付き、遺体からそれを取り外す。そして、

「何だ、ゴミか」

 とそれを投げ捨てた。それを拾った竜也は手に取ってじっくりと眺めた。

「どうかしましたか?」

 というハーキムの問いにも答えない。竜也は手の中の首飾りを見つめている。
 大きさは竜也の掌に収まるくらい。材質はおそらく鉛製、鋳造で大量生産されたのだろう。粗末な出来だが何が彫り出されているのかは判る。T字に組まれた棒に一匹の蛇が絡みついている、そんな形の工芸品である。

「ああ、聖杖教の象徴ですね」

 ハーキムが何気なくそう言う。

「聖杖教?」

 竜也がそれを問おうとしたとき、

「おい、あれ」

 と何人かが西を指差して騒いでいる。竜也達もその方角を見、その人影に気が付いた。
 ずっと向こう、何百メートルも離れた西の丘の上に、三つの騎兵の姿が見える。雑兵の類とは思えない。鎧で完全武装したその姿は、どこかの国の正規の騎士のように思われた。その騎兵が掲げている旗にもT字に蛇が絡みついた図柄が描かれている。
 騎兵は竜也達に背を向け、丘の向こうへと消えていく。それを見送った竜也は、

「何かが起こっている。起ころうとしている」

 そんな予感を抱いた――強い不安とともに。







 山賊退治の帰り道、竜也はハーキムからエレブと聖杖教について教わることにした。

「ムハンマド・ルワータという著名な冒険家がエレブについてこう書いています。『彼の地を他の地と違える最大の要因は聖杖教である』と。

 エレブには聖杖教という宗教があり、物乞いから王様までエレブの民の全てが一人残らずその宗教の信徒なのだそうです。何故なら、聖杖教を信じない者は殺されてしまうから――ムハンマド・ルワータはそう書いていますが、話半分くらいに割り引いた方がいいかもしれませんよ?」

 ハーキムはそう言って笑うが、竜也には笑えなかった。

「聖杖教徒は自分達の信じる神こそが本当の、唯一の神であり、それ以外の神は全て紛い物であると主張しています。だから、聖杖教の信徒にとっては我々のような恩寵を持つ民も皆殺しの対象なのだそうです。その昔、エレブにも銀狼族や灰熊族という部族がいたそうなのですが、聖杖教の手により村落ごと皆殺しになり、今は一人も残っていないとか」

「その聖杖教ってのは誰が始めたんですか? もしかしてマゴルが?」

「よく判りましたね」

 さらっと返ってきた答えに竜也は「最悪だ」と頭を抱えたくなった。

「エレブの地に聖杖教を伝えたのは預言者フランシスと呼ばれる人です。聖杖教の教会は公式に否定していますが、彼がマゴルであったことはまず間違いないと見られています。預言者フランシスが登場したのは七百年前、バール人の全盛期です」

「……えーっと」

 竜也の戸惑いを見て、ハーキムは苦笑を漏らした。

「もう少しさかのぼって説明しましょうか」

「お願いします」

 エレブや聖杖教について教わるために、その前提となるこの世界の歴史の知識が必要だったことに竜也達は同時に気付いた。ハーキムの説明が始まる。

「そうですね。まずおよそ四千年前、メン=ネフェルでセルケトがケムト王に即位します」

 えらいところから話が始まったな、と竜也は思ったが、話を止めたりはしない。

 ケムトは元の世界ではエジプトに相当するが、この世界のエジプトには四大文明と呼ばれるような華々しい文明は築かれなかったらしい。ケムトにあったのは古代エジプト王朝のような広大で強力な国家ではなく、メン=ネフェルという小国家を中心とする緩やかな小国家連合体だった。江戸時代の日本の各藩がさらに自治性や独立性を高めた状態、と考えれば判りやすいだろうか。

「メン=ネフェルのセルケト王朝は初代の王セルケトから今日まで実に四千年間、途切れることなく一つの血統により王位が受け継がれ続いています」

 とハーキムは言うが、竜也が「本当に?」と問うと肩をすくめた。

「……まあ、建前上はそうなっているというだけです。そもそも初代セルケトから千年くらいは歴史じゃなくて神話の領域ですし、王の子を排除して臣下が王位を継いだ話がいくつもありますし。臣下と言っても何代かさかのぼれば王家の血が入ってる者の即位ですし、その新たな王は例外なく先王の息女を王妃にしています。母系で見れば万世一系は貫かれている、と言えなくもない……ということです」

 ここ二千年くらいはそういう王朝の交代じみたこともなく、王位が受け継がれているそうである。だがそれはケムトの国際的地位が低下し、ケムトの王位の魅力が減じたことの結果に過ぎない。

「三〇一四年前、アシューのカナンにバール人が都市国家メルカルトを建国します。バール人は後にその年を海暦元年と定めました」

 とは言うものの、メルカルトは名前だけが残るのみで今日では所在すら不明となっている。三〇一四年という数字も神話の類であり、結局は伝説上の都市・伝説上の発祥地に過ぎない。(なお、カナンは元の世界のシリア=パレスチナ一帯に相当する地名である。)

「バール人はメルカルトを最初の拠点とし、数々の植民都市を地中海各地に建設しました。それらの諸都市は交易で結ばれ、航路の安全確保のために軍事的にも手を結ぶようになります。そうして海暦一五〇〇年頃に誕生したのがウガリット同盟(ブリット・ウガリット)、バール人によるバール人のための海洋交易・軍事同盟です。バール人は地中海の覇者として、千年以上にわたって君臨し続けます」

 バール人とは、元の世界ではフェニキア人に相当する民族なのではないかと竜也は推定していた。

「バール人に、宿敵となるような民族は存在しなかったんですか?」

 竜也の問いにハーキムは「うーん」と少し考え、

「ヘラス人は一時期海洋交易の競争相手でしたし、文化的には優越していたくらいなのでバール人にも多大な影響を与えました。ですが内部分裂で勝手に衰退しましたね」

「足みたいな形のあの半島にそういう競争相手はいなかったんですか?」

「レモリアですか? 植民都市が建設されたばかりの頃は土着の勢力と敵対していたそうですが、やがて吸収してしまったようですよ」

 ヘラスはギリシアに相当する勢力、レモリアがローマに相当するようだ。ローマという不倶戴天の強敵は歴史に登場する前に潰され、吸収されてしまっていた。強力なライバルをそうなる前に潰してしまったため、バール人は覇者となるまで勢力を拡大し続けられたのだろう。

「ヘブライ人は……いるわけないか」

 ハーキムが不思議そうな顔をしたので竜也は「何でもないです」と誤魔化した。
 元の世界のヘブライ人はフェニキア人と近い関係にある。この世界にヘブライ人に相当する部族や民族があったとしても、バール人に吸収され、同化しているだろう。竜也はそう考えたが、それは全く正しい。
 そもそも、元の世界のようにヘブライ人=ユダヤ人が成立するにはユダヤ教が成立する必要がある。そのためにはモーゼによるエジプト脱出が必要だが、この世界ではエジプトとシリア=パレスチナが海で隔てられている。
 さらにそもそも、海を挟んでいる以上ケムトがアシュー側と戦争をすることがなく、カナン近辺から奴隷が連れてこられることもない。ケムトは古代エジプト王朝と比較すれば素朴で小さな国家群に過ぎず、神官勢力と王家が先鋭的な対立をすることもなく、アクエン=アテンによる宗教改革も起こらない。アテン神を信仰していたと見られるモーゼが逃亡奴隷に一神教を伝道することもなく、一神教を紐帯としたユダヤ民族がこの世界に生まれるはずもないのである。
 竜也は脇道にそれた思考を元の路線に戻し、ハーキムの説明に耳を傾けた。

「……ウガリット、グブラ、シドン、ツィロ、カルト=ハダシュト、ゲラ。主導する都市は変遷しましたが、バール人の同盟(ブリット)は実に千年以上にわたって存続しました。バール人は地中海の覇者として君臨し続けます。

 バール語はアシュー・エレブ・ネゲヴの三大陸の公用語となり、地中海中の全ての民は母語の他にバール語を覚えるのが当然となりました。各地に入植したバール人と土着の民との混血も進みます。そんな状態が千年以上続いたのでネゲヴだけでなくエレブやアシューでも、多くの地で元々の母語がほぼ忘れ去られてバール語が母語化してしまっているくらいです」

 言語だけでなく通貨単位や長さや重さ等の計測単位、暦等の時間単位が各地のローカルなものからバール人のそれへと置き換えられる。バール人の基準がこの世界の、三大陸のグローバルスタンダードとなったのだ。だが、それでも盛者必衰、驕れる者は久しからず。バール人もやがて衰退を迎えることになる。

「……二七〇〇年代のゲラ同盟分裂を最後に海洋交易・軍事同盟は二度と再建されず、ここにバール人の時代は終わりました。ゲラ同盟分裂後はバール人同士の戦争が起こり、以降百年は無法時代と呼ばれる戦乱の時代となります」

 なお、海賊王グルゴレットが義賊や傭兵として活躍したのはこの時代のことである。

「航路の安全が確保されないために交易が途絶え、都市間の交流が絶たれ、各都市は自分の都市に閉じこもるようになります。戦乱の時代とは言っても戦う理由は交易利益の奪い合いで、戦場は海上にほぼ限られていました。つまり、交易さえ諦めれば都市の安全は確保できるんです。

 各都市がそうした、繁栄と引き替えにした安全を甘受することにより、戦乱の時代はやがて収まっていきます。そしてその後二百年、ネゲヴでは自給自足と相互不干渉による平和が続いている、というわけです」

「バール人と呼ばれる人達はどうなったんですか?」

「地中海中に広がったバール人は土着の民と混血し、外見や血の濃さでバール人かそうでないかを区別するのはナンセンスになりました。それでは何をもってバール人とそうでない人を区別するのでしょう?」

「バール人としての誇りや自覚。バール人としての文化や振る舞い。バール人としての美徳や美意識。そんなところですか?」

 竜也の答えにハーキムが目を見開いた。

「まさしくその通りです。バール人は海洋交易を誇りとし、生き甲斐としていました。そんな彼等が交易の道を絶たれてしまい、誇りも生き甲斐も見失ってしまう。仲間同士の繋がりも途絶えてしまう。

 そんな彼等の子供達は『自分はバール人ではない』『ケムト人だ』『ルサディル人だ』と思うようになります。血筋が絶たれたわけではないのですが、バール人はその数を急速に減じていくのです。

 今日でも海洋交易を行い、バール人として自覚している人も残っています。アニード氏も現代のバール人の一人です。ですが、今のバール人はかつての栄華と繁栄を極めたバール人とはやはり違うと思うのです」

 竜也達はしばしの間、しんみりと歴史に思いをはせた。

「ネゲヴの方は判りましたけど、エレブの方もそうして平和になったんですか?」

「そういうわけにはいかなかったようです。細かい事情はあまり伝わらないのですが」

 バール人の時代には盛んに行われていたネゲヴとエレブの交易・交流は、無法時代を挟んでぱったりと途絶えてしまった。ネゲヴの民が南の大陸に引きこもったように、エレブの民も北の大陸に引きこもったのだ。

「ネゲヴの民はさらに自分の都市に引きこもることにより平和を実現しましたが、それはネゲヴの気候が穏やかで農作物の実りが豊かで、引きこもっていてもそれなりの生活が維持できたからです。

 ですが、エレブは気候が寒冷で民も町も田畑も貧しかった。少ない実りを奪い合う戦争がくり返され、エレブの地は荒廃しました。聖杖教が急激に勢力を拡大するのはこの頃です」

 フランシスの伝道から長い間、聖杖教は田舎の弱小カルト宗教の域を出ていなかった。だが同盟の衰退と混乱の中、聖杖教は荒廃した人心につけ込むようにして徐々に勢力を拡大させる。まず不安に怯える民に浸透し、次いでその信仰心を利用しようとする領主階級にも入り込んだ。そして無法時代の戦乱の中で勢力を一気に拡大させる。
 ムハンマド・ルワータの言葉を借りれば「燎原の炎のごとく」――聖杖教の信仰の灯火は業火となってエレブの大地を舐め尽くしたのだ。
 各地の国王・領主は聖杖教を国教とし、それまで崇拝された多神教を禁教とした。あくまで多神教を奉じる人々は火あぶりとなり、多神教を守ろうとする領主はよってたかって攻め滅ぼされた。そこまでいけば、教会と領主の上下関係を逆転させることももう容易い。こうして聖杖教の教皇は諸侯や国王の上に、エレブの頂点に君臨することとなったのである。

「聖杖教の今の教皇はエレブの全ての軍勢を率いてネゲヴに侵攻することを公言しているそうですよ」

 ハーキムは笑いながら朗らかにそう言うが、

「大変じゃないですか!」

 竜也は怒鳴らずにはいられなかった。ハーキムは竜也の反応に戸惑いを見せる。

「あの教皇はもう何十年も前から馬鹿の一つ覚えのようにそう言い続けているんですよ? ですが未だにエレブの軍勢はやってきていません。バール人の時代からエレブの軍勢がヘラクレス地峡を越えたことは一度もないんですよ」

 ハーキムはそう言って竜也を安心させようとする。だが竜也の不安はむしろ募る一方だ。

(今まで一度も起こらなかったことがこれからも起きないと、どうして言える? 教皇が何十年もネゲヴ侵攻を、同じことを言い続けているってことは、それだけ強い信念を持っているってことじゃないのか? 侵攻のための準備に何十年間かを使ったってことなんじゃないのか……?)

 竜也の胸の内に黒々とした暗雲が広がっていった。







 ルサディルに戻ってきたその翌日。竜也はラズワルドを連れて町に出ていた。行き先はハーキムと知り合いになった書店である。ハーキムによると、あんなひなびた書店でも品揃えはルサディル随一なのだそうだ。

「こんにちは」

 と竜也は店主に声をかける。店主は胡散臭そうに竜也とラズワルドを見つめた。

「聖杖教に関する本があったら見せてほしいんですが。あ、ムハンマド・ルワータの『旅行記』はいりません」

「聖杖教? まあいいが」

 店主は横柄な態度で店の奥に姿を消す。戻ってきたときは古ぼけた薄い、一冊の本を手にしていた。

「ゲラ同盟時代、聖杖教の宣教師がこの町に来たときに置いていった、あの連中の聖典だ」

「正確にはその写本」

 ラズワルドの指摘に、店主は少しの間言葉に詰まった。やがて精神的に体勢を立て直した店主が竜也に説明する。

「この町にはこれ一冊しかない、貴重な本だぞ。二〇ドラクマでなら売ってやってもいいが」

「二ドラクマで売れたなら上出来だと思っている」

 ラズワルドは容赦の欠片なくそう指摘した。しばし絶句した店主は、怒りで顔を真っ赤にした。

「この……! 悪魔が……!」

 店主が腕を振り上げた。ラズワルドは竜也の背後に隠れながらも、

「悪魔じゃない、『白い悪魔』」

 と自己主張をしている。竜也は慌ててラズワルドを庇いながら、

「じゃあ五ドラクマで買います!」

 竜也はドラクマ硬貨を五枚店主に押しつけ、代わりにその聖典を取り上げるようにして受け取った。そのまま「お邪魔しました!」と逃げるように店から飛び出していく。
書店からかなり離れたところでようやく立ち止まり、店主が追ってこないことに竜也は安堵のため息をついた。ラズワルドも呼吸を整えている。
 向かい合い、ラズワルドを見下ろした竜也はため息をつき、

「ラズワルド、あれはやり過ぎ」

 とりあえずそう言わずにはいられなかった。きょとんと不思議そうな顔のラズワルドが竜也の手を取る。

(でも、余計なお金を使わずに済んだ。あの店主はタツヤからお金を騙し取ることしか考えていなかった)

(近代以前の商売人なんてみんなそんなもんだろ、怒っても仕方ない。ラズワルドのやり方の方がルール違反だ)

(せっかくの力なんだからこういうときに使わないと損)

(でも、その使い方がいかにも不味い。あれじゃラズワルドがますます嫌われる)

(別に構わない。好かれようなんて思ってない)

 生まれたときから他者に忌まれ、恐れられるのが当たり前の少女にとって、「他人に嫌われること」は己が行動を制御する理由にならないのだ。他者の感情を誰よりも理解できる少女は、まさにそのために他者の感情に誰よりも無頓着になっていた。

「とにかく。力を使うなとは言わないから、もっと上手い使い方をしてくれ。自分のためでもあるし、周りの人のためでもあるんだ」

 竜也の言葉にラズワルドが頷く。竜也が心配してくれていることを感じ取り、ラズワルドの胸は幸せな思いでいっぱいになった。今まで少女を心配してくれる人など、一人もいなかったのだから。

「ほら、行くぞ」

 竜也はラズワルドの手を引いて歩き出した。少女はその手をしっかりと握った。決してそれを離すことがないように。







 竜也はハーキムの家を訪れた。
 ラズワルドの姿にハーキムが怯えた様子を見せたので、「絶対に勝手に心を読ませたりしない」と竜也が堅く約束し、何とか一緒に部屋に上げてもらうことができた。
 白兎族の少女にぺったり貼り付かれても平然としている竜也の姿を、ハーキムは畏怖の目で見つめる。

「何と言うか、貴方は結構大物なのかもしれませんね」

 ハーキムの感嘆を、竜也は的外れのように感じて適当に受け流した。竜也はハーキムに本を渡す。

「今日はこの本を読んでもらいたいと思いまして」

 竜也も一応字は読めるが速度はかなり遅い。ハーキムに読んでもらって内容を要約してもらった方が早いという判断である。立派な活字中毒であるハーキムにとっても、どんな内容であれ本を読めるのであればその提案に異存はなかった。

「昔はネゲヴにもエレブからの宣教師が来ていたんですね」

「一時期かなり熱心に布教していて多少は信者を獲得したそうですが、無法時代の間にほぼ消滅しましたね。ネゲヴで未だに聖杖教の教会が残っているのはメン=ネフェルくらいじゃないでしょうか」

 メン=ネフェルは元の世界ならエジプトのメンフィスに相当する町である。この町には「聖モーゼ教会」という教会があり、エレブの教皇庁からは離脱して活動しているという。
 竜也とハーキムはその日の午後を費やして聖典を精読していく。夕方には読み終え、内容についての意見交換の段となった。

「……聖杖教が長い間広がらなかった理由がよく判りました」

 今エレブにここまで広がっている理由が理解できなくなりましたが、とハーキムは辛辣な笑みを見せた。竜也も全くの同意見である。
 聖典には、天地創造、エデンの園、カインとアベル、ノアの方舟、バベルの塔等、旧約聖書のよく知られたエピソードが書き連ねられていた。逆に言えば、よく知られたエピソードしか書かれていないということだ。しかもそのエピソードも竜也の知っているものとは微妙に、あるいは大幅に違っている。
 何故そんなことになっているのかは最後まで読み進めれば理解できる。預言者フランシスが作った教団は地元領主の弾圧により一旦壊滅しているのだ。

「預言者が我等に授けし聖書はその全てが炎の中へと投じられた」

 と聖典には大きな悲しみを持って記されている。さらにはフランシスも獄死し、教団が再建されるまで二〇年以上を要したという。再建に指導的役割を果たしたのはフランシスの弟子の一人で、名をバルテルミと言う。

「要するに、元の世界から持ち込んだ聖書がこのとき全部焼失して二〇年後にバルテルミ達が記憶を頼りに書いたのが今の聖典なわけだ」

 この聖典の中ではモーゼが一番偉大な存在として描写されている。推測だが、奇跡を連発しただけのキリストの生涯よりスペクタクルに満ちたモーゼの生涯の方が聴衆の受けが良かったのではないだろうか? フランシスの最初の布教は奴隷や貧民を対象としたものだったのだから。

「自分達にもモーゼのような指導者が現れて、この場所から連れ去ってくれないだろうか」

 布教を受けた奴隷や貧民はそんな風に、キリストよりもモーゼの方をより求めたのではないだろうか?
 その一方預言者ヨシュアと呼ばれているイエス・キリストの扱いは非常に小さなものとなっている。

「山上の垂訓を行ったのもフランシス、『罪なき者がまず石を投げよ』と言ったのもフランシス。一三人目の弟子に裏切られたのもフランシス、三〇枚の銀貨で売られたのもフランシス――イエスの名が残っているのはある意味奇跡かも」

 十字架に掛けられて刑死したイエスと、獄死したフランシス。両者のイメージが混同し、イエスの事績やエピソードの多くがフランシスのものへと書き換えられてしまっているのだ。出涸らしとなったイエスの名がほとんど痕跡だけになってしまうのも当然と言えた。こうして起こったのがキリスト教から聖杖教への移行なのだろう。
 フランシスが伝えたのはちゃんとしたキリスト教だったのだろうがその教えは断絶してしまい、その後バルテルミが記憶だけを頼りに再編した教えはキリストの名を冠すべき代物ではなくなっていたのだ。モーゼが神と直接契約を結んで一神教を創始し、預言者フランシスがその教えをエレブへと伝道――宗派の名前や象徴は創始者に因んだものが選ばれた。
 モーゼが神の命により作った青銅の蛇の旗印、蛇が絡みついた聖なる杖。それがこの新宗教の名前であり象徴であった。――だが、

「この、契約者モーゼの話などおかしいところだらけです」

 聖典の前半最大の山場はモーゼによるケムト脱出(エジプト脱出)である。

「『ケムトの皇帝はアシューのカナンを侵略し、獲得した奴隷をケムトへと連れ帰った』……そんな史実はどこにもないんですが」

 元の世界のエジプトやパレスチナを舞台にした話を、こちらの地理に無理矢理当てはめて記述しているのだ。そのためこちらの史実と全くそぐわない、奇妙な内容になってしまっている。
 モーゼは奴隷を引き連れてケムトを脱出する。神はモーゼとその民に「大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て」の地を与えると約束をした。「日の入る方の大海」とは地中海のことであり、つまり約束の地とは地中海東岸のシリア=パレスチナ一帯――この世界の地名ではカナンの地を指している。

「『モーゼの民はカナンの地に王国を作った』『だが王国は滅び、いくつかの国に服従する時代が続く』『ネゲブ全土を支配した皇帝がカナンも征服した』『皇帝により服従を強いられていた時代、そこに登場したのが預言者ヨシュアである』……もう無茶苦茶です」

 キリストの頃のパレスチナの支配者はローマの皇帝だったのだが、この世界にはローマに相当するような帝国は存在しなかった。そこで、モーゼにとっての敵役であるケムト王をここでも持ち出すしかなかったのだろう。その結果、ネゲヴにエジプト王朝とローマ帝国が合体したような超帝国が存在することになってしまっている。さらには時間を無視してケムト王が皇帝の名称を冠するようになってしまっている。

「だいたい、この皇帝(インペラトル)というのは何なんですか?」

 ローマ帝国が果たした歴史上の役割は、この世界ではバール人の海洋交易・軍事同盟が果たしていたと言える。だがその実態は都市国家連合であり、ローマ帝国のようにただ一人の指導者に支配される巨大国家ではなかった。「ネゲヴの皇帝」のモデルとなったケムトの王家にしても小国家連合に過ぎないのだ。
 どのような形にしろこの世界に「帝国」が存在しなかった以上、「皇帝」の称号がこの世界に由来するはずがない。それはフランシスが元の世界から持ち込んだ言葉であり、概念なのだ――聖杖教の宿敵として。
 巨大なネゲヴの大陸をただ一人で統治する、絶対の支配者。ネゲヴの魔物と軍勢を配下に置いた、恐るべき独裁者。聖典はそんな「皇帝」像をおどろおどろしく描写していた。「魔王」という言葉に置き換え可能と言えばどういうニュアンスで使われているのか判りやすいだろう。

「聖杖教の信徒は、エレブの人達は、ネゲヴがこんな状態だと信じているのか……?」

 竜也は暗澹たる思いを抱きながら呟いた。







 翌日、竜也は一人で港にやってきた。

「エレブと交易している船はありませんか?」

 竜也はその辺を行き交う人の中から温厚そうな人物を選び、訊ねる。多少時間はかかったが目的の船は何とか見つけられた。だがその船はアニードの所有する商船であり、間の悪いことに甲板で商品の積み込み等を監督していたのはアニード本人だった。

「何だ、お前は?」

 不機嫌そうなアニードがそう問う。竜也は内心天を仰いだ。そして、見つかったものは仕方ない、と竜也は気を取り直す。

「ちょっと調べていることがありまして。今のエレブの状況が知りたいんですが。エレブに戦争の動きはありませんか?」

「そんなこと、お前に何の関係がある?」

「エレブの軍隊がルサディルに攻めてきたら、無関係も何もないじゃないですか」

 アニードは「阿呆か、お前は?」と竜也をせせら笑った。

「そんなこと起こるわけないだろう。バール人の時代からエレブの軍がヘラクレス地峡を越えたことは一度もないんだ」

(阿呆なのはお前の方だろう)

 そう言い返したいところを、竜也はぐっと飲み込んだ。竜也は感情的にならないよう努めながらアニードを説得しようとする。

「過去に一度も起こらなかったことがこれからも起こらないと、どうして言えるんです。ルサディルには軍隊はないし、大した城壁もない。もしエレブの軍が本気で攻めてきたらこんな町ひとたまりもないですよ?」

「無駄飯食いの小僧が、誰に知ったような口を利いている!」

 アニードが竜也に罵声を浴びせた。

「屋敷から放り出されたいのか! 戻って自分の仕事をしろ!」

 竜也は「失礼しました」と頭を下げ、その場から逃げるように立ち去った。
 調査に行き詰まった竜也はアニード邸へ帰ることにする。が、足が前に進まなかった。竜也は波打つ海を見つめながら立ち尽くしている。

「どうせ見つかって叱責されるならラズワルドを連れてくればよかった」

 と自分の無力さ加減を噛み締めた。そのとき、

「あれ、どうしたの?」

 声をかけられた竜也が振り返ると、そこには立っていたのはヤスミンだった。ヤスミンの隣には見知らぬ少女が佇んでいる。竜也は「ちょっと調べ物があったんですけど」と簡単に事情を説明した。

「ヤスミンさんはどうしたんですか?」

「ついにスキラに行くことになったんで用意していたの」

「え、もうですか?」

 スキラはネゲヴで最も大きい町の一つである。場所はネゲヴのちょうど真ん中、元の世界で言うならチュニスとトリポリの中間に位置する。

「こちらが後援をしてくれるカフラマーンさん」

 ヤスミンは隣の少女を竜也に紹介した。カフラマーンという名のその少女は竜也と同年代の、闊達そうな美少女だ。身長は平均より若干高いくらいで、めりはりのあるプロポーション。バール人の血が強く肌の色は薄めで、明るい茶色の髪はおかっぱが少し長くなったくらいのセミロング。耳に付けているのは大きな琥珀のイヤリングだ。その琥珀と同色の、好奇心いっぱいの黄色い瞳が竜也を見つめている。

「初めまして。スキラのナーフィア商会に所属しているカフラマーンといいます。カフラと呼んでくださいね。あなたがあの劇の脚本を書いたんですよね?」

 竜也が「ええ」と頷くと、カフラは竜也の手を取る。

「あなたも是非スキラに来てください! こんな田舎町に引きこもってるなんてもったいないですよ!」

 目を白黒させた竜也が、助けを求めるようにヤスミンに視線を送る。ヤスミンは苦笑を見せた。

「『カリシロ城の花嫁』だけでこの先ずっとやっていくわけにもいかないし、わたし達もタツヤには一緒に来てもらわなきゃ、って思ってるのよ。それに、タツヤも前にそんな話をしてたじゃない」

 確かにその通りだが、こんなに急な話だとは思っていなかったので何の用意もしていなかった。

「返事はいつまでに?」

「来月、ダムジの月の一日には出港しますので、それまでには決めてくださいね」

 竜也はそれを了解し、二人に頭を下げた。

「一緒に行けるように努力しますので、よろしくお願いします」







 竜也はその足でハーキムの家へと向かった。

「残念ですが、私はこの町に残ります。私はこの町の出です。しがらみやら父祖の墓やら色々ありまして、簡単に捨てるわけにもいきません」

 ハーキムは以前にもスキラ行きをヤスミンから誘われたそうだが、そう言って断っていた。

「エレブの状況については、こんな田舎町よりもスキラの方がよほど情報を得やすいと思います。何か判ったら私にも教えてください」

「それはもちろん」

 ハーキムの依頼に竜也は頷いた。
 その夜、ラズワルドのコテージ。竜也はラズワルドにスキラ行きの件を説明した。

「この町には何も未練はない。わたしはタツヤについていく」

 ラズワルドの回答は以前にこの話をしたときと全く変更がなかった。竜也もまたラズワルドを置いて一人で行くことを考えもしていない。

「問題はアニード。例え邪魔になっていても、簡単にわたしを手放しはしない」

「確かに」

 竜也は腕を組んで考え込む。そんな竜也にラズワルドが提案した。

「アニードの弱みならいくらでも握っている。脅すのは簡単」

「最悪はそれも選択肢に入れるとしても、もっと穏便な方法はないのか?」

「アニードと交渉して手放させる。わたしがアニードの考えを読めば、交渉に勝つのはそんなに難しくない」

「言い負かすだけなら簡単かもしれないけど、それは交渉で妥協させるのとは違うんだ」

 竜也はたしなめるようにラズワルドに説明した。

「こっちにはろくな手札はないし、下手に追い詰めると失敗する。こっちに都合のいい答えを逃げ道にして、相手をそこに誘導するのが一番理想的な交渉術なんだけど……」

 竜也の脳裏にある考えが閃いた。竜也が脳内で材料を組み立て、崩し、再度組み直す。その過程はラズワルドでも読み取れないくらいの速度である。しばしの時を経て、竜也の脳内ではほぼ完全な作戦が組み上げられていた。ラズワルドもそれを読み取る。

「カフラさんに協力してもらおう」

 アニードは交易のためつい先日までルサディルを離れていたので、カフラが何をしにルサディルを訪れているのか知らない可能性は高い。

「それはわたしが確認すればいい。アニードにはお似合いの手」

「ふふふ」

「くすくすくす」

 竜也とラズワルドは悪辣そうな微笑みを交わし合った。







 それから数日後、アニード邸をカフラが訪れた。
 スキラのナーフィア商会と言えばネゲヴ有数の大豪商であり、その使者が会見を求めているなら会わないという選択肢はアニードにはない。例えその使者がほんの小娘であろうとも。アニードは最大限へりくだってカフラを出迎え、客間へと通した。その隣室ではラズワルドがいつものように待機している。

「――白兎族はもう用意されていますね?」

 挨拶も何もなく、カフラが先制する。アニードは返答に詰まった。

「さ、さて、何のことでしょう」

「下手な芝居は結構。白兎族の悪魔がそちらの手にある以上、普通の交渉は成立しないでしょう。ですが、わたしは交渉に来たのではありません。スキラ商会連盟の総意を通告しに来たのです」

 ラズワルドはいつものように手鏡を使ってアニードに合図を送った。アニードはカフラが嘘を言っていないことを知らされる。(なお、商会連盟とはバール人商人が中心となって組織している商人同士の互助会みたいなものである。)

「スキラ商会連盟に属する全ての商会はアニード商会との一切の取引を打ち切ります」

「そ、そんな……」

 ラズワルドがアニードに合図を送る。アニードの口から唸り声が漏れた。

「一体何故……?」

「貴方が普通に取引や駆け引きに勝ち続けただけなら、こんな決定はされません。ですが、貴方のやり方はあまりに卑劣だった。商人同士の仁義を踏みにじり、一方的に自分だけボロ儲けをし続けた。そのために他の商人からどれだけの恨みを買ったのか、まさか理解していないのではないでしょうね?」

 ラズワルドがアニードに合図を送る。アニードが大量の冷や汗を流した。

「……スキラと交易できずとも、ハドゥルメトゥムやカルト=ハダシュトの商人がおります」

「スキラの動きを知れば、ハドゥルメトゥムやカルト=ハダシュトの商会連盟も同じ決断をするのは間違いありません。ウティカやイギルギリもいずれは追随するでしょう」

 ラズワルドがアニードに合図を送る。アニードが顔面蒼白となりながら言い訳した。

「その、正直申しまして、私も少々やり過ぎたことを反省しているところなのです。白兎族の悪魔は故郷に帰しまして、元のように真っ当に商売をしようと思っていたところでして」

「故郷に帰したところで、貴方や他の商人が悪魔をまた利用しようとするかもしれません。手放すのであれば引き渡していただきましょう。悪魔は我々の商会連盟が共同で管理します」

 アニードが眉を跳ね上げた。

「……あの悪魔は私が高い金を出して白兎族から買ったものです。それを引き渡すとして、我が商会への見返りは?」

「悪魔が貴方の手元にないのであれば、取引を打ち切る理由もありません。それは見返りにはならないと? それに、白兎族に払った対価など端金に過ぎないでしょう? 悪魔を使って得られた儲けから見れば――我々スキラの商人が受けた損害から見れば」

 カフラが斬り捨てるような視線でアニードを見下ろす。アニードは身震いした。

「……最近スキラの商人の幾人かと疎遠となっているのですが……」

「口添えくらいはしましょう。取引を再開できるかはそちらの努力次第です」

 アニードはがっくりと肩を落とす。アニードが落ちたことを、カフラは理解した。







 交渉の翌日にはラズワルドはアニード邸を出てカフラの商船へと移動した。鞄二つにまとめられた着替えと多少の貯金、それがラズワルドの全財産である。竜也がその二つの鞄を持ってラズワルドに同行する。
 ラズワルドは踊るような軽やかな足取りで歩いていた。

「タツヤはすごい、こんなに簡単にアニードから自由になれるなんて」

「あのおっさんが迂闊なだけだよ。ラズワルドが敵に回ることを考えもしていないんだから」

 カフラがアニードに通告した内容は、実は全てカフラのはったりだったのだ。普通の商人ならこんなはったりは相手にもされないだろう。アニードが自力のみでカフラと交渉したなら、あるいはカフラの嘘を見抜けたかもしれない。

「でも、あのおっさんはラズワルドの力に頼って自分で考えようとしなかった。その肝心のラズワルドがカフラさんに協力していたんだから、あのおっさんが負けるのは当たり前だよ」

「当然の報い」

「そういうこと」

 竜也達が港に到着し、やがてカフラの商船が見えてきた。竜也達の姿を認めたカフラが大きく手を振っている。竜也は早足でカフラの元へと急いだ。ラズワルドは少し遅れて竜也に続く。

「カフラさん! ありがとうございます!」

 竜也は真っ先にそう言ってカフラに頭を下げた。

「にゃははは! 別に構わないですよ。わたしもこんなに楽ちんで愉快な交渉は初めてでした!」

 カフラはそう花咲くような笑顔を返した。

「それにしても、随分どきついはったりかましたんですね」

「ん? 全くのはったりってわけじゃないですよ。アニードさんの振る舞いはスキラの一部ではすでに問題になっていましたし、万一交渉が決裂したときは『白兎族の悪魔』の事実を知る限りの商会連盟に言い広めるつもりでしたから」

「『悪魔』じゃない」

 そのとき、ようやく追いついたラズワルドがカフラにそう言う。カフラは恐縮した。

「あ、ごめんなさい。でもあのときの交渉者の振る舞いとしてはあの言い方が最適だったから――」

 ラズワルドはカフラの言い訳を無視し、一方的に告げた。

「『悪魔』じゃない。『白い悪魔』」

 きょとんとするカフラの一方、ラズワルドは偉そうに胸を張っている。竜也は内心「余計なことを教えてしまったかも」とちょっと後悔していた。

「――ええと、ああ、うん。判りました、『白い悪魔』ですね」

 カフラはそう納得して見せてその話をさらっと流し、次の話題に移る。

「それと、ラズワルドさんの力を商会連盟で管理する、というのも嘘じゃありませんよ。少なくてもラズワルドさんにはどの商人にも力を貸さないことを確約してもらいますし、力を使うときは特定の商人のためにではなく、連盟のために使ってもらおうと思っています」

「その報酬は?」

 ラズワルドの疑問にカフラが答えた。

「不自由な思いはしないくらいの金額はお約束します」

 今度は竜也が自分の疑問をカフラに訊く。

「カフラさん自身はこの子の力を利用しようとは思わないんですか?」

「考えなくもなかったんですけど」

 とカフラは苦笑した。

「昨日のアニードさんの醜態を見て考えを変えました。ラズワルドさんの恩寵は強力すぎです。それに頼ると商人として駄目になっちゃいます」

「確かに」

 竜也は深々と頷いて同意した。

「――さて、出港まであと七日です。お二人の戸籍の移動とか、必要な手続はこちらで進めます。タツヤさんには船員の一人として働いてもらいますから、そのつもりでお願いしますね」

 判りました、と竜也が頷く。ラズワルドは用意された船室に移動し、竜也はカフラと一緒に船内に案内された。







 竜也はアニード邸で仲良くなったメイドのリモンと、ラズワルド付きのばあやに別れの挨拶をする。ばあやはラズワルドを孫のように可愛がっていたので、非常に寂しそうにしていた。ラズワルドも別れを惜しんで涙ぐんでいる。

「ラズワルドがいなくなったらおばあさんはクビになるのかな?」

 竜也はリモンに確認する。

「なるかもしれませんが、おばあちゃん一人くらいわたしが養ってみせますから大丈夫です」

 とリモンは胸を張った。そうか、と竜也は安堵する。

「それじゃ、元気で」

「ええ。タツヤさんも」

 リモンはどこか寂しそうな微笑みで竜也を見送った。
 そして七日後、月は変わってダムジの月(第四月)。竜也やラズワルド、ヤスミン等を乗せた船はルサディルを出港した。行き先はスキラ、約一ヶ月の旅程を予定していた。






[19836] 第六話「バール人の少女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/24 19:56



「黄金の帝国」・漂着篇
第六話「バール人の少女」







 竜也達を乗せた帆船はスキラへと向けて海を走っている。
 ルサディルからスキラまでは直線距離でも一〇〇〇キロメートル以上ある。日本の本州の端から端までと同程度だ。帆船で急げば二〇日程度。あちこちに立ち寄る普通の商船なら一ヶ月程度の船旅である。
 ヤスミン達一座の面々が寝泊まりするのは船倉の大部屋だ。男女の区別もなく雑魚寝である。ラズワルドをそこで雑魚寝させるのはいくつかの理由で不可能だったため、狭いながらも個室が用意されていた。この船で個室を使っているのはカフラとラズワルドの二人だけだ。なお、竜也がお休みからおはようまでラズワルドの部屋にいて一緒に過ごしていることは言うまでもない。
 日中竜也やヤスミン達は船員見習いみたいな扱いで様々な雑用に従事している。旅費を多少なりとも浮かそうという、涙ぐましい努力である。もっとも、本職の船乗りでない竜也達が航海中にできる雑用など大した量ではなく、暇な時間は多かった。
 そんな航海の日々にもようやく慣れてきた頃。竜也とヤスミンはカフラから呼び出しを受け、カフラの船室へと向かっていた。

「あの子の実家のナーフィア商会ってスキラ随一、ネゲヴでも有数の大豪商なのよ」

「アニードさんと比べると?」

 竜也の問いをヤスミンは鼻で笑った。

「アニードさんのところも結構大きいけど、それでもナーフィア商会に比べれば木っ端みたいなものよ」

 竜也は「へー」と感心するが充分に理解できているわけではない。

「何の用かは知らないけどとにかく機嫌を損ねないようにね。あの子がその気になればわたし達なんて虫けらみたいに潰されちゃうわ」

 判りました、と頷く竜也。

「――でも、そんな家の子がどうしてたかだか芸人のためにわざわざ直接ルサディルまで?」

「わたしもあの子自身が来るとは思っていなかったわ。使いを寄越してくれれば上出来くらいに考えていたの」

 カフラはナーフィア商会の中で演劇や出版といった娯楽部門の経営を任されていると言う。

「え、ちょっと待って。カフラさんて今何歳?」

「たしか一七歳だったかな。ナーフィア商会全体から見ればほんの小さな部門だろうから……」

 ヤスミンはそこから先の言葉を濁したが言いたいことは伝わった。

(金持ち娘の道楽としてはちょうど手頃なくらい、ってことなのかな)

 ヤスミンはスキラへの再起を目標に、その足かがりを掴むためスキラへと旅したことがあり、カフラとはそのときに面識を持ったと言う。

「二年も前のことだし一度話をしただけだし、正直覚えているかどうかも判らないくらいだったんだけど」

 それでも他に心当たりもなかったヤスミンはカフラへと手紙を送ったのだ、「カリシロ城の花嫁」の脚本前半部分を同封して。

「前半だけでも劇の面白さは理解できる。前半だけなら勝手に上演される心配もない。後半が見たければルサディルに来るしかない。そういうことですか」

 竜也の言葉にヤスミンは「そういうこと」と頷いた。

「それにタツヤのことも最大限利用したわ。この脚本を書いたのはマゴルだ、彼はわたし達の知らない物語をたくさん知っているって」

「――そんな風に書かれたら興味を持つに決まっているじゃないですか」

 とカフラが突然戸を開けて顔を出してきた。「さあ、入ってください」と招かれるままに竜也達はカフラの自室へと入っていく。席に着いた二人の前にカフラが紅茶を差し出した。

「うおー、お茶だ」

 と小さくつぶやいて感動する竜也。この世界にやってきて以来お茶を飲むのは初めてである。

「たまたま所用でイコシウムまで来ていて、手紙はそこで受け取ったんです。ここまで出てきているんだからいっそルサディルまで足を伸ばそうと、その足で向かっちゃいました」

 なおイコシウムは元の世界ならアルジェリアのアルジェに相当する町である。ヤスミンは「運が良かったんだね」と安堵するようにため息をついていた。

「――さて。『カリシロ城の花嫁』のスキラ上演については約束通り支援します。ですが、その先の支援についてはタツヤさん次第です」

 と話を切り出すカフラ。竜也は「え、俺?」と自分を指差した。

「タツヤさんのマゴルとしての知識がナーフィア商会の、わたしの利益となるのかどうか確認させてもらおうと思います。タツヤさんの知っている他の物語が面白いものならこの先もヤスミン一座への支援をお約束しましょう」

 カフラはにこやかな笑顔だが言っている内容は合理的に過ぎると言うか、冷徹そのものだ。ヤスミンは顔を青くする一方、竜也は腕を組んで「うーん」と唸った。

「あ、物語は恋愛物でお願いしますね」

 とカフラは条件を絞ってくる。竜也は「うーん」ともう一唸りし、

「――劇にするかどうかはひとまず置いておいていいんですよね」

「ええ。劇にできないなら小説にすればいいですから」

 それじゃ、と竜也はある物語を語り出した。

「題名は『スキラの休日』。ヒロインはとある小さな国のお姫さま。その国は財政難に陥っていて、お姫さまは財政援助と引き替えにある大富豪の元に嫁ぐことになったんだ。こうしてお姫さまはスキラにやってくる」

 その物語は名画「ローマの休日」この世界に合うように翻案したものである。連日続くパーティに気疲れしたお姫さまは迎賓館を抜け出してスキラの町へと飛び出し、そこで危険な目に遭いそうになる。そのお姫さまを助けたのが一人のチンピラである。
 元の映画では新聞記者だった主人公はただのチンピラとすることにした。チンピラは小遣い稼ぎのためにお姫さまの身柄を確保、お姫さまはチンピラの元で世話になることになる。生活の違いや価値観の違いに衝突しながらも、二人は次第に惹かれ合うようになる。だが、

「……こうしてお姫さまの休日は終わりを告げ、お姫さまは迎賓館に戻っていった。そして結婚式の当日。花嫁衣装に着飾ったお姫さまが馬車で大富豪の元に向かおうとする。それを大勢の野次馬が見物していて、その中にはチンピラが混じっていた。二人はお互いに気付いて一瞬見つめ合う。でも、お姫さまは馬車に乗ってその場を去っていく。チンピラはただそれを見送るだけだった……」

 竜也がその物語を語り終えた。見ると、ヤスミンは「はー」とため息を漏らしながら余韻に浸っている。一方のカフラは、

「……何で大団円(ハッピーエンド)じゃないんですか? 確かに良いお話でしたけど」

 と不満そうな顔をしていた。

「いや、何でと言われてもこの話はこういう話だからだ、としか」

 と竜也は戸惑う。だがそんな解答ではカフラは納得しなかった。

「恋物語は大団円以外認めません。終わり方を変えてください」

 その要求に竜也は途方に暮れるしかない。

「……結婚式の真っ直中に突然チンピラが現れてお姫さまをかっさらっていくとか?」

「カリシロ城でもそれは使ったじゃない」

 タツヤそれ好きだね、とヤスミンが突っ込む。竜也としては発想の元は映画の「卒業」なのだが、「カリオストロの城」のそのシーンの方が「卒業」を元ネタにしているのだろう。

「いいですね、それ。それでいきましょうよ」

 とカフラ。だが竜也としては到底首肯できることではない。

「いや、どう考えても『そして二人はいつまでも幸せに暮らしました』とはならないでしょ。すぐに連れ戻されて終わりじゃないですか」

「実はチンピラさんはすごい武術の達人だったことにすれば」

「例え追っ手から逃げ切って二人で生活を始めたところで、生活水準の違いからすぐに破綻するのが目に見えてるんですけど」

「そんなの二人の愛の力で乗り越えられます!」

「それで結局、お姫さまの母国はどうなるんですか? 財政問題も愛の力で乗り越えるんですか?」

 竜也に言い負かされ、カフラは不満げに頬を膨らませた。ヤスミンが竜也の脇腹を強く肘で突き、小声で、

「ちょっと、カフラさんは支援してくれるんだからその要望にはできる限り応えないと」

「だからって話を滅茶苦茶にしていいわけないだろ」

 話を理解してもらうための翻案や、あるいは面白くするための改変なら受け入れよう。だがストーリー全体の整合性を破綻させるような結末の改悪など受け入れられるわけがない。それが名作として映画史に名を残す物語であるならばなおさらだ。

「ともかく。この話はこういう話でこういう終わり方なんです。大団円がご希望なら他の物語をお話ししますから」

 竜也は断固とした口調でそう告げて改変を拒否した。カフラはまだ不満そうだ。が、それだけではない思いがその顔に浮かんでいた。

「……それじゃ、その大団円の恋愛物を聞かせてもらえますか?」

 とカフラに命じられ、竜也は頭の中を検索する。だが、

「あ、ヒロインは政略結婚されられそうになっているお姫さまか大商人の娘でお願いしますね」

 と条件を絞られてしまう。

「えーと、えーと」

 と竜也は散々悩むが、さすがにこの場ですぐには条件に該当する話を思いつかない。結局この課題は竜也の宿題という形になった。

 ひたすら考えて結局該当する話を思いつかなかった竜也はカフラの要望に添った物語を自作することにした。その日以降、ラズワルドの部屋で頭を抱えて物語をひたすら考え込んでいる竜也の姿が見られるようになる。

「タツヤさん、お話はどうなりましたかー?」

 そこにカフラが突撃してくるのもまた恒例となった。カフラはにこやかな笑顔を絶やさないが、

「……『笑うという行為は本来攻撃的なものであり 獣が牙をむく行為が原点である』」

 竜也の呟きにカフラが「何か言いましたか?」と首を傾げ、竜也は「いえ、何も」とごまかした。

「それでタツヤさん、昨日の続きですが」

 と笑みを浮かべるカフラ。竜也は猫を目の前にしたネズミの気分を味わっている。この猫は腹を減らしていないため獲物で遊ぶことを優先しており、かえってたちが悪かった。

「えー、はい。商人の娘に拾われたマゴルの少年がその子に一目惚れをして、その子の気を惹くために金を稼ぐ手段を考えるんでしたね」

「はい、その通りです」

 「政略結婚されそうになっているお嬢様を助ける話」――その要望に応えて竜也が設定やキャラクターを発案し、カフラがそれを却下したり採用したりし、

「――ヒロインはとある小さな商会の一人娘。彼女の父親は人柄は良いけど経営手腕がなく、商会は倒産しかかっている。そのヒロインの前にふらりと現れたのが主人公」

「その主人公が知恵と力を絞ってその商会を立て直すんですね? それで、どうやってですか?」

「……主人公は恩寵の部族の出身で、腕っ節なら誰にも負けない、とか」

「武術の腕でどうやって商会の経営を立て直すんですか」

「それじゃ、主人公は白兎族の出身で、読心の恩寵を使って」

「現実味がありすぎて、それはどうかと。そんな小説を発表したら、小説の真似をしようとする馬鹿者達が白兎族にどんな迷惑をかけることになるか判りませんよ?」

 こんなやりとりが何日かくり返され、結局主人公の設定として採用されたのはマゴルだったのだ。

「……」

 ラズワルドはベッドの中からこの経緯を面白くなさそうに見守っていた。ラズワルドの恩寵については乗船前に竜也が「勝手に心を読ませたりしない」と固く約束したこともあり、カフラは気にしてはいないようだった。

「主人公は元いた場所では医者の卵で、その進んだ医術を使って」

「悪くはないですけど、タツヤさん自身はその『進んだ医術』を使うことができるんですか? その小説を読む人を納得させられますか?」

 カフラの問いに竜也はしばし沈黙する。

「……ペニシリンの精製とか」

 竜也は幕末にタイムスリップした医者の漫画を思い出していた。作中で描かれていたペニシリンの精製方法はある程度覚えている。だがその利用方法となると途端に心許なくなる。

「……医者でもない俺のうろ覚えの知識を中世レベルのこの世界の職人に伝えて、注射器を作らせて、それを俺が患者に使う……?」

 どう考えても不可能だ、そんな真似できるわけがない。竜也はその案を却下するしかなかった。

「俺が持っていて自信を持って使える知識……」

 竜也はしばし考え、

「……複式簿記はまだないかも」

「タツヤさんの言う簿記ってどんなのですか?」

 竜也は父親のスーパーの経営を継ぐために簿記の資格を取得しており、実務にもわずかだが触れている。カフラにしても商会の経営に携わっているのだから簿記や会計の知識は当然有しているし、実務経験は竜也よりずっと上である。竜也達はお互いの簿記や会計の方法について伝え合い、その結果カフラ達がすでに複式簿記とほぼ同じ会計方法を採っている事実を竜也は知った。

「このやり方は千年前に当時のバール人が発明して三大陸に広めたんです」

 とカフラは誇らしげに胸を張った。この世界のバール人達は竜也の世界の先人よりも数百年分先を進んでいたことになる。さらに言えば、バール人は千年前から為替取引や先物取引を広く行っていて、千年前から銀行や株式会社に似た仕組みを地中海中に広めているという。

「バール人すっげぇ」

 竜也は素直に感心した。

 そうやってあちこちに寄り道をしながらも、竜也がアイディアを出してそれをカフラが却下することが何日もくり返される。そして結局、竜也はカフラが納得できるようなストーリーを組み立てることができなかった。

「やっぱり条件が厳しすぎるって。もう少し条件を緩めてもらわないと」

 両手を挙げて言い訳する竜也にカフラは「むー」と頬を膨らませる。

「大体、ここまで現実に即した条件で金儲けの手段を思いつけるなら実際にそれをやってるって」

 狭い部屋にこもって連日おしゃべりを続けた結果、竜也はカフラに対して敬語を使わなくていいくらいには打ち解けていた。

「ええ。実際にそれをすることを考えていたんですけど」

 やっぱり皮算用でしたか、とカフラは肩をすくめた。

「……え、カフラに政略結婚の話が?」

「いえ、まだ具体的には。ですけどあの家に生まれた以上、家の道具としてどこかに嫁ぐことがわたしの運命であることには変わりありません」

 そう言ってカフラは儚げな微笑みを見せた。

「――だからわたしは恋愛物の、大団円のお芝居や小説が大好きなんです。現実の自分には縁のないものですから」

 竜也はそんなカフラに何を言っていのか判らない。カフラは表情を切り替えて普段通りの笑顔を見せた。

「さて、困らせてすみませんでした。今度はもっと条件を緩めて、普通の恋愛物のお話を聞かせてもらえますか? 大団円の」

「ああ、うん、そうだな」

 竜也もまた気持ちを切り替え、スポンサーの意向に応えようとする。

「それじゃこんな話はどうだ? 舞台は雪深い、北の町」

「雪?」

「……ええっと、どこかのひなびた、港町。父親の交易船に同乗している少年が七年ぶりに訪れたその町で一人の少女と再会する」

 偶然再会したその少女はその町で何かを探していた。少年はその探し物に付き合うことになる。だが探し物を見つけることで、忘れていた、心の奥底に封じ込めていた悲しい記憶が呼び覚まされる。全てを思い出した少年と少女の、最後の対面。

「『ボクのこと、忘れてください! うぐぅー!』」

「それのどこが大団円なんですかー!」

 悲しい物語のクライマックスにカフラは目に涙をためて思わず怒鳴る。一方ベッドの中でその物語を聞いていたラズワルドも「すんすん」と鼻を鳴らしている。

「いや待て。最後まで聞け」

 竜也はカフラを落ち着かせた上でエピローグを語り、

「そんな終わり方でいいんですかー!」

 カフラは再び怒鳴らずにはいられなかった。一方のラズワルドは「良かった」と満足げである。

「いやまあ、確かにとってつけたような終わり方だし、この前で終わってる方が物語としては綺麗だとは俺も思うんだけど、元の話がこうなってるんだから仕方ない」

 カフラはまだ何か言いたげだったがそれを口にはしなかった。代わりに別のことを口にする。

「……確かに一応恋愛物で、一応大団円です。笑いどころも泣きどころもありましたし、お話の面白さにも文句はありません。これを小説として出版することにしましょう」

 生活の糧を掴んだ竜也は内心でガッツポーズを取った。

「他にはどんなお話がありますか?」

「恋愛がメインの話じゃないけど、恋愛要素もある話でも構わないか?」

 カフラが「ええ」と頷いたので竜也はとっておきの物語を持ち出すことにした。

「古今東西の七人の英雄が魔法でよみがえって殺し合いをする話はどうだ?」

 ……カフラは時間さえあれば――なければ時間を作って――ラズワルドの部屋を訪れて竜也とおしゃべりに興じている。劇や小説の話ばかりではなく、話題は多岐に渡っていた。

「ナーフィア商会の令嬢があのような下卑の者と親しげにするなど」

 とカフラのお目付役は渋い顔をしているが、カフラはそれに構わない。今日も今日とてラズワルドの部屋を訪れるカフラだが、竜也はちょうど船内での雑用に向かうところだった。

「タツヤさんの分は免除するよう、わたしから船長に言っておきますから」

「いや、そういうわけにもいかないだろ」

 竜也はカフラの好意を謝絶して雑用の仕事に向かってしまう。その部屋にはカフラとラズワルドの二人が残された。

「……」

 ベッドで横になっているラズワルドはカフラに対し「邪魔」と言いたげな視線を送ってくる。カフラは内心で肩をすくめ、「また来ますね」とその部屋を出て行った。
 暇を持て余したカフラは甲板で一人海を眺めている。そこに、

「お嬢様、お暇でしょうか? あ、俺はヤスミン一座のギボールと言います」

 と声をかけてきたのはヤスミン一座の看板男優だった。ギボールは懸命にカフラに話を振ってくるが、カフラは気のない生返事を発するだけである。

(タツヤさんがわたしに気に入られているから、それなら自分だって、と勘違いしているんでしょうか)

 確かに男はそこそこ二枚目でそこそこ話術もある。だがカフラにはスキラという大都会で活躍するトップ男優とも親交があるのだ。そのカフラから見ればギボールは所詮田舎の旅芸人に過ぎなかった。その話題にもカフラの興味を引くようなものはない。

「――今日も暑いですね」

 話の流れを無視し、カフラは太陽を見上げる。

「え、ええ」

「お日様では何が燃えていてあんなに暑いんでしょうか。お日様は燃え尽きてしまわないんでしょうか」

 カフラの脈絡のない台詞にギボールは立ち往生してしまう。カフラは内心の侮蔑を無表情で隠した。

(歯の浮くような気障な台詞も、機知に富んだ面白い返しも言えないんですか? それじゃ太鼓持ちすら務まりませんよ?)

「なにやってんのあんたは!」

 突然現れたヤスミンがギボールを張り倒した。ヤスミンは這いつくばらんばかりにくり返し頭を下げ、ギボールを引きずって立ち去っていく。カフラはため息を一つついた。

「カフラ、何かあったのか?」

 そこに入れ違いで竜也が姿を現した。カフラは「さあ、何もなかったと思いますけど?」と返し、次いで笑顔を見せる。

「お仕事は終わりですか?」

「ああ」

「――今日も暑いですね」

 不意にカフラは太陽を見上げる。「ああ、そうだな」と竜也もまた空を見上げた。

「お日様では何が燃えていてあんなに暑いんでしょうか。お日様は燃え尽きてしまわないんでしょうか」

「あと五〇億年もすれば燃え尽きるらしいぞ」

 カフラはおなかを抱え、しばらく笑い続けた。そう、これだ。この返しだ。こんな返答、この男以外の一体誰ができる?

「確かにタツヤさんは出自も定かじゃないですし礼儀もなっていませんし思いがけないところで常識も抜けています。ですけど、元いた場所では商人の跡継ぎだったそうですし、タツヤさんなりに礼節を心がけているのは判りますし、とんでもない知識を当たり前のように語って時々びっくりさせてくれます」

 要するに、暇潰しのおしゃべりの相手としては最適の相手なのだ。カフラは竜也の持つ自然科学・人文科学・社会科学のあらゆる知識をしゃべらせた。もっとも竜也の言うことの半分も理解できたわけではないが。

「……宇宙の開闢は一三七億年前のことと計算されている。宇宙は最初砂粒よりもずっとずっとずっと小さな一つの点から始まったんだ。それが爆発のように一瞬で大きく膨れあがって今の宇宙ができあがった。これを『大爆発』理論と呼んでいる」

「……人間の心には無意識という領域がある。おおざっぱに言って、意識は『自分が自分と認められる範囲』、無意識は『自分が自分と認められない範囲』だ」

「……そうやって、市場に任せておけば商品は適切な価格に落ち着くようになる。この市場の持つ価格調整機能を『神の見えざる手』と呼んでいる」

 竜也の航海の日々はそうやって元の世界の知識を伝えたり、あるいは物語を語り聞かせたりしているうちに過ぎ去っていく。そして時間は流れて、アブの月(第五月)に入る頃。竜也達を乗せた船はようやくスキラへと到着した。







 スキラ湖と呼ばれる湖は、元の世界で言えばチュニジアのジェリド湖やガルサ湖、メルリール湖を一つにつなげたものである。元の世界のこれ等の湖は水がほとんど存在しない塩湖だが、この世界のスキラ湖は大量の水を湛えた淡水湖だ。ネゲヴで二番目の大河と言われているナハル川がその水源となっている。ナハル川の水は一旦スキラ湖に流れ込み、また川となって海へと流れていく。
 スキラの町は、そのスキラ湖と海をつなぐ川の北岸にあった。川幅は一番狭いところでも二キロメートル近くあり、船を使わなければ向こう岸に行くことはできない。南岸にあるのは倉庫街、それに漁村や農村で、町の機能は北岸に集中していた。
 町の人口は二〇万とも三〇万とも言われている。ルサディルとは比較にならない賑わい方である。そびえ立つ三階建・四階建の石造りの建物、道を埋め尽くす人々の群れに、ラズワルドは目を丸くしている。
 気候はルサディルと比べるとかなり暑い。今が夏真っ盛りということもあり、日差しは強く気温は摂氏四〇度を越えているものと思われた。ラズワルドはうんざりしている様子だがカフラや他の面々は普段と変わらない。多分このくらいの暑さはいつものことで、ラズワルドは体質的に暑さに弱いのだろう。
 ナーフィア商会が一座のために長屋を用意しており、ヤスミン達はそこに向かって移動しようとしていた。竜也やラズワルドも一座の一員として住むため、それに同行するところである。

「タツヤさんにはヤスミン一座の一員としての戸籍を用意しています。ラズワルドさんはタツヤさんの被保護者です」

 この世界では一五歳になれば成人と扱われる。元の世界では半人前の高校生だった竜也だがこの世界では立派な成人男子である。一方未だ一〇歳のラズワルドは成人による保護が必要とされる年齢だった。

「今からでも保護者をタツヤさんからわたしに変更することもできますが……」

 何気ないカフラの提案に、ラズワルドは敵意をむき出しにしてカフラをにらむ。カフラがひるみ、竜也が「まーまー」と取りなした。

「俺が保護者だと何かまずいことがあるのか?」

 竜也の質問にカフラは「いえ、その」と口を濁した。

「……タツヤさんは前歴が前歴ですし、気にされてないようですけど」

 カフラは周囲を見回してヤスミン達が近くにいないことを確認すると、

「ラズワルドさんまでわざわざ旅芸人に身を落とす必要はないんじゃないかと、そう思いまして」

 とささやくように説明する。

「……ああ、なるほど」

 と竜也は得心するしかなかった。

(芸人の身分は高くないのか。考えてみれば江戸時代もそうだったわけだし)

 この世界には、ネゲヴには、江戸時代の日本のような厳格な身分制度があるわけではない。だが社会的身分というものは確固として存在するのである。

「わたしは気にしない。タツヤじゃない人の世話になるつもりはない」

 ラズワルドがそう断言し、カフラもそれ以上はその話を持ち出さなかった。

「さあ、行くよ!」

 ヤスミンの号令で一座の面々が荷物を持って移動を開始。竜也とラズワルドとカフラの三人はその最後尾に付いていった。竜也とラズワルドが並んでスキラの町を歩いていく。ラズワルドは日除けのフードを被っているがそこからウサ耳を出し、人目にさらしたままである。だが、この町の人々の反応はルサディルの町とは大きく違っていた。

(……? みんな珍しがってるけど、忌避するような目があまりないような)

(うん、確かにみんな珍しがってるだけ)

 竜也はカフラに意見を求めた。カフラは思うところを正直に述べる。

「実際白兎族が珍しいのは確かですよ?」

 ほとんどの白兎族は隠れ里に固まって暮らしているため、町中に白兎族が出てくるとは極めて希であると言う。名前は有名だが誰も見たことがない、「幻の部族」と呼ばれる所以である。

「ルサディルで忌避されていたのは、アニードさんに利用されていたことも関係しているでしょうし、ずっとあの町にいたことも理由としてあるんじゃないかと思います。今はまだすれ違うだけなので単に『珍しい』というだけで済みますが、町中に住んで隣人になるとなったら、また違う反応が出てくると思いますよ?」

「なるほど」

(なるほど)

 カフラの解説に竜也達は納得した。
 やがて一行は新居に到着する。新居と言いつつ古くて小さい、平屋の長屋である。引き戸の戸がずらずらと並んだコの字型の建物で、建物に囲まれた内庭に協同炊事場が設置されている。トイレも共同で風呂はなし。近所に共同浴場があるのでそれを利用することになるだろう。ヤスミン達はその長屋の一角にまとめて入居する。竜也とラズワルドは二人で一室を割り当てられた。
 六畳ほどの部屋が二間あり、家具はない。窓は雨戸が閉じられており、室内は暗かった。雨戸の内側に木製の格子戸があり、格子には薄布が張ってある。網戸の代わりに使うものと思われた。

「古くて狭いけど家賃はそこそこだし、町中にあって劇場もごく近所。言うことはないね」

 とヤスミン達には文句はないようである。以前住んでいたアニード邸のコテージと比較すればあばら屋に等しい住処だが、ラズワルドにも特に不平はないようだった。

「さあ、すぐに劇場に入って用意するよ! 上演まで一月ないんだから!」

 ヤスミンの指示に従い、一座は休む間もなく劇場へと移動した。大道具のほとんどは劇場の倉庫にあった物を流用するが、一部新作を必要とする物もある。竜也は例によって書き割りの作成を手伝った。
 そんな調子で半月ほど過ぎていき、「カリシロ城の花嫁」上演が目前となった頃。竜也が劇場に小道具を運んでやってくると、

「……反応が鈍い」

 楽屋でヤスミンが不機嫌な顔で腕を組み、カフラもまた眉をひそめていた。

「どうかしたんですか?」

 と竜也が問う。

「あちこちで『カリシロ城の花嫁』の宣伝をやってるんだけど、反応が全然なのよ」

「わたしも話題作りをかねて関係者にこの劇を見に行くよう言っているんですけど……」

 竜也は「ああ、なるほど」と納得する。

「ここはルサディルとは桁違いに人が多いけど、娯楽の種類もそれだけ多いんだよな。全く無名のヤスミン一座の芝居をわざわざ見に来る必要もないわけか」

「そういうことね」

 とヤスミンは雑な仕草で肩をすくめた。

「一回でも見てもらえればこの劇の面白さは理解してもらえるし、そこから人づてで話題になると思うんですが」

「一回でも見る気になってくれなきゃ話にならないわね」

 ヤスミンとカフラは腕を組んで「うーん」と唸った。

「とにかく、知り合いでも何でもいいから人に来てもらうのが先決ですね」

「こっちの知り合いなんて先々代の頃の伝手しか」

 と悩むヤスミン。

「タツヤも知り合いには絶対に声をかけておいて。招待券使っていいから」

 竜也は一応「判りました」と返事をして劇場を後にした。だが、

「俺に知り合いなんているわけないじゃん。ラズワルドに拾われる前は漁村の小間使いで、その前は奴隷船で櫂を漕いでいただけなのに――」

 竜也の足が止まる。

「……そう言えばいないこともなかったか、知り合い」

 無駄足になるかもしれないが、どうせ時間はあるんだし行って損はないだろう。そう判断した竜也は一旦長屋へと戻り、ラズワルドを連れて再び外出した。

「それで、どこへ行くの?」

「まずは港に」

 竜也はラズワルドとともに港へと向かった。

「港はどっちだっけ。あの人に聞いてみようか」

「……あれはやめた方がいい。あっちのおばさんの方が安全」

「そうか」

 道が判らなくなったらラズワルドが危険の有無を確認の上、人に道を聞いて回る。

「そこならその通りをまっすぐに行って――」

「それだったらあそこにいる男に頼めば――」

 そうやって竜也はいくつかの手間を省き、目的の場所に到着し、目的の人物に対面することができた。

「お前か、俺に礼を言いに来たとかいう奴は?」

 竜也がいる場所はスキラ港の一角の、停泊するとある軍船の前。竜也の前にいるのはその軍船の船長。モヒカン頭も輝かしい、青鯱族のガイル=ラベクである。

「その節はお世話になりました」

 と頭を下げる竜也。一方のガイル=ラベクは首をひねっている。

「……確かに会ったことがあるな。どこだったか」

「一〇ヶ月くらい前、ルサディルの近くで白兎族の女の子を助けたことがあったでしょう?」

 竜也の影に隠れていたラズワルドが一瞬顔を出す。ガイル=ラベクはそれで「ああ、あのときの」と思い出した。

「それで、こんなところで何をやっている?」

「色々あって、今は劇の脚本を書いたりしてます」

 と竜也は「カリシロ城の花嫁」の招待券を取り出した。

「是非見に来てください」

 と差し出された招待券を、ガイル=ラベクは「ほう」と感心しつつ受け取る。

「この劇の脚本を書いたって言うのか。面白いのか?」

「ええ、もちろん」

 と胸を張って断言する竜也。ガイル=ラベクは再び「ほう」と感心した。

「ま、時間があれば見に行ってやる」

 ガイル=ラベクは竜也達に背を向けて立ち去っていく。竜也にもそれ以上できることは何もなく、その場を後にした。
 そしてアブの月の下旬。「カリシロ城の花嫁」の上演が開始される日である。

「知られざる、若きグルゴレットの冒険譚! 完全新作! さあ見てらっしゃい!」

 ヤスミン達一座の面々が必死に呼び込みをやっているが、客の入りは芳しくなかった。すでに入場しているのはカフラの伝手でやってきた招待客くらいだ。

「まいったな。思ったよりもずっと悪い」

 ヤスミンの顔色も優れないし、様子を見に来たカフラも顔を曇らせていた。
 なかなか客が集まらない中、竜也もまた路上で懸命に呼び込みをやっている。そんなときかなり柄の悪い、傭兵と思しき十人以上の一団が通りかかった。先頭を歩いているリーダーと見られる巨漢の男が劇の看板に目を留め、足を止める。一座の者が怯えながらも劇の宣伝をしようとして、その前に男が動いた。

「よお、来てやったぞ」

「あ、ありがとうございます」

 と頭を下げる竜也。傭兵を引き連れて歩いていたのはガイル=ラベクだったのだ。

「招待客の席はこちら――」

 だがガイル=ラベクはその案内を無視し、

「ところで知っているか? 俺達髑髏船団は三〇〇年以上の歴史を持つ海上傭兵団で、この」

 と看板に描かれた、稚拙なグルゴレットの似顔絵を指差した。

「海賊王が作った傭兵団の一つが起源になっている。その俺達にこの海賊王の劇を見せようっていうんだな?」

 ガイル=ラベクの醸し出す迫力が路上に時ならぬ緊張感を生み出す。が、竜也はそれを全く意に介さず、

「決して損はさせません」

 満腔の自信を持ってそう答えた。ガイル=ラベクは「ほう」と面白そうに笑う。

「そこまで言うなら見てやるが、面白くなかったらただじゃ済まんぞ?」

 ガイル=ラベクは本気か冗談か判らない調子で竜也にそう告げた。一座の面々は顔色を悪くしているが、竜也は全く気にせずに、

「ありがとうございます! 団体様ご案内!」

 と傭兵達を客席に案内する。ガイル=ラベクは肩すかしを食わされたような表情で劇場内へと入っていった。ガイル=ラベクの後ろ姿が劇場内に消えていくのを見送ったカフラが、急いで竜也の元にやってくる。

「ちょっとタツヤさん! 何であの人を知っているんですか?」

「以前助けてもらったことがあったからお礼に招待したんだ」

 と当たり前のように答える竜也。カフラは頭痛を堪えているような顔をした。

「……怖いもの知らずというか何というか。あの人自身が言っていたように髑髏船団は三大陸でも随一の歴史と伝統を誇る海上傭兵団ですがそれだけじゃなくて、その戦力もネゲヴ最強として名高いんですよ。ガイル=ラベクは三〇代半ばでまだ若いのに、実力でその傭兵団の首領になった方なんです」

「へえ、凄い人なんだな」

 と素直に感心する竜也。一方のカフラは何かを悟ったような顔をした。

「……タツヤさんて、馬鹿じゃなかったらよほどの大物なんですね」

「それ、俺が馬鹿だって言ってないか?」

 タツヤの追求をカフラは、

「急に客足が延びてきましたね」

 と誤魔化した。
 だが実際、客が入っている。ガイル=ラベク達髑髏船団の面々が観劇するのを見て、路上の野次馬のかなりの数が入場料を払って劇場内に入っていったのだ。彼等は劇ではなく、髑髏船団が劇に怒って何か騒ぎを起こすことに期待しているらしい。
 一座の面々は不安そうな様子を隠せないでいるが、彼等を竜也とカフラが宥めた。

「大丈夫です、ルサディルのときと同じようにやればいいんですよ」

「ガイル=ラベクはその辺のチンピラとはわけが違いますから、いきなり暴れ出したりはしませんよ。劇の面白さは皆さんが誰よりも知っているはずです。自信を持って、いつも通りに演じてください」

 一座の面々は竜也達の言葉に調子とやる気を取り戻した。ガイル=ラベクのおかげで一応満足できる客の入りとなったところで、劇の上演が開始される。





『ちょっかい出して帰ってきた奴はいない、ってな』

『傷による一時的な記憶の混乱だ』

『もう十年以上前になる。あの頃の俺はまだ駆け出しの、青二才だった』

『さあ、おっぱじめようぜ!』

『奴はとんでもないものを奪っていきました。あなたの心です!』





 野次馬気分で入った客もすぐに劇の世界に引き込まれ、ガイル=ラベクのことなど忘れてしまった。グルゴレットと相棒のカシャットのやり取りに笑い、息もつかせぬ展開に手に汗を握り、お姫様の可憐さに涙する。
 そして終劇。ヤスミン達の熱演に、観客は万雷の拍手を持って応えた。満足げに劇場を後にする客を、出演者と竜也が劇場の外で見送る。ガイル=ラベクが客席から出てきたのは一番最後である。
 竜也がガイル=ラベクの前に進み出、問う。

「どうでしたか?」

 その問いにガイル=ラベクはにやりと笑い、

「髑髏船団団長の、青鯱族のガイル=ラベクが認めてやる! この劇の面白さは本物だ!」

 その台詞は芝居がかった大仰な調子で、一〇〇メートル四方に届きそうな胴間声だった。ガイル=ラベクに認められ、ヤスミン達は「やったー!」と歓声を上げて喜んでいる。竜也も少し安心したように息をついていた。もっともその内容は、

「この人が劇の面白さが判る人で良かった」

 というもので、この劇が面白くないかもなどとは微塵も考えていない。

「時間があったらまた見に来てやる」

 ガイル・ラベク達はそう言って去っていった。
 翌日以降「カリシロ城の花嫁」の客足は少しずつ伸びていく。「あのガイル・ラベクに『本物だ』と認められた」という噂が徐々に広まっており、物見高い人達がわざわざ見に来ていると言う。その客が客を呼び、評判が評判を呼ぶ。「カリシロ城の花嫁」はスキラの演劇業界を席巻しようとしていた。







(あとがき)
 長らくお待たせしました。今回で「序盤」は終了し、次回更新分から一から書き直した箇所に入ります。引き続きお付き合いください。



[19836] 第七話「牙犬族の少女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/29 21:05



「黄金の帝国」・漂着篇
第七話「牙犬族の少女」







 月はエルルの月(第六月)に変わった頃。竜也がこの世界にやってきてから一年以上が過ぎている。
 「カリシロ城の花嫁」の上演が始まって半月が過ぎ、客足は順調に伸び続けていた。竜也は雑用の他、劇に端役で出演してヤスミンにぶった斬られたり、カフラと小説出版の打ち合わせを進めたりしている。一方のラズワルドは特にすることもなく専業主婦生活だ。

「よし、いただきます」

「いただきます」

 竜也は日本風に手を合わせてラズワルドの作った食事を取る。ラズワルドもまた竜也の真似をして手を合わせるのが習慣になっていた。
 夕食のメニューは黒パン、煮込み野菜、干し魚、林檎といったものである。煮込み野菜は材料費・燃料代節約のために一座の面々が協同で作った料理。他の食品も店で買ってきたものばかりで、ラズワルドの仕事はもらった料理・買ってきた料理を並べるだけだ。だが竜也はそれを非難するつもりはない。

「自炊するより買ってきた方が安上がりなんだもんな」

 料理をするには薪が必要なのだが、最初に流れ着いた漁村のように森に行って薪を拾ってくるわけにはいかない。スキラのような大都会では薪も店で買うしかないのだ。元の世界のガスコンロのように火の調節も簡単ではなく、どうしても必要以上に薪を燃やしてしまう。その手間と薪代を考えると出来合いの料理を買ってくるか屋台に行った方が安上がりなのである。
 食事が終わって後片付けの段となり、竜也達は協同炊事場に向かった。

「……?」

 竜也はラズワルドとその周囲を眺めているうちにそれに気が付いた。長屋の主婦達の中でラズワルドの存在が浮いている。互いに話しかけようともせず、無視し合っている。主婦達はラズワルドと竜也を見て何やら陰口を叩いているようだった。

「いじめられてないか? 周りの人と仲良くできてるか?」

 竜也は部屋に戻ってから確認する。ラズワルドは「大丈夫」と涼しい顔である。

「最初はうるさかったけどもう誰も寄ってこない。嫌がらせをしてくる人もいるけど、ちゃんとやり返してる」

 ラズワルドは「静かになって良かった」と嬉しそうに言う。一方の竜也は頭を抱えた。ヤスミンから苦情が寄せられたのはその直後である。

「あの子、もうちょっとどうにかならない?」

「俺ももっと早く気付けばよかったんだけど」

 と竜也はひたすら恐縮した。
 ラズワルドの話とヤスミンから聞いた話には大きな差はなかった。長屋の住民は最初は幼い白兎族の少女をそれなりに好意的に迎えたのだ。それを拒絶したのはラズワルドの方である。住民が話しかけたり世話を焼こうとしたりしてもラズワルドは面倒そうな顔をして逃げてしまう。それが何度もくり返され、住民側には反感が募り、やがて軽い嫌がらせが行われる。それに対してラズワルドが恩寵を使って痛烈に反撃し、住民側の反感が一気に拡大しているのだ。

「できるだけかばってはいるけど物には限度があるのよね。それに、本人が態度を改めないといくらかばっても無意味だし」

 竜也としてはとにかく頭を下げるしかない。

「判ってる。よく言って聞かせるから」

 その夜は竜也による説教タイムである。

「いいか? 人は一人では生きていけない。人という字は人が支え合っている形なんだ。人間とは群れを作る社会的動物であり……」

 竜也の説教はすぐに途切れた。その説教はどこかで聞いた言葉の寄せ集めであり、自分の胸の内から出た言葉ではない。「こんな心のこもらない言葉の羅列に意味なんかない」と気が付いたからだ。

「……ごめんなさい」

 が、ラズワルドは殊勝な顔で謝った。

「タツヤを困らせるつもりはなかった」

「うん、それは判っているつもりだ」

 竜也は「ああ、そうか」と腑に落ちる。ラズワルドが「悪いこと」をしたのなら反省させ行動を改めさせなければならない。だがラズワルドの行動が「悪いこと」、つまり倫理的・道義的な悪だとまでは思っていないのだ。ラズワルドの振る舞いには確かに困っているが、近所付き合いを面倒だからと切り捨てるラズワルドの感性にも共感できるところがないではない。

「確かにここの住人は下世話だし口うるさいしプライバシーなんて概念すら持ってなくて他人の領域に土足で入ってくるし話題と言えば噂話や悪口ばかりだし本を読むどころか文字も読めるかどうか怪しい人達ばかりだし、でも決して根っからの悪人てわけじゃ……」

「それは判る。でも、仲良くしたいとまでは思わない」

 ラズワルドの言葉に竜也は何も反論できない。結局、竜也もまたラズワルドと同じなのだ。この長屋では余所者であり、どれだけ努力しても彼等の中に溶け込むことなどできはしない。ただ竜也には人並み程度のコミュニケーション能力があるので波風を立てないように表面的な近所付き合いくらいはできるだけだ。ラズワルドはこれまでの経験が経験だったのでコミュニケーション能力が決定的に欠落している。コミュニケーション障害なんてものではない、コミュニケーション傷害と言うべきレベルである。

「……ともかく、自分から喧嘩を売るのは厳禁。反撃も自衛の範囲の最低限」

「ん、判った」

 とラズワルドは頷く。結局竜也にはラズワルドの振る舞いを改めさせることなどできはしなかった。ただ喧嘩の原因をできるだけ減らして問題を先送りしただけである。

「……引越も考えないといけないかも。でも、どこに」

 そんな中、竜也はカフラからある人物を紹介される。

「こちらはログズさんです。タツヤさんの代わりに小説を書いてもらおうと思います」

 現時点の竜也は一応文字は書けるくらいの水準で、小説など書けるわけがない。そのためカフラは竜也のためにゴーストライターを用意したのである。
 竜也は「よろしくお願いします」と頭を下げる。ログズという男は軽い調子で、

「おう、こちらこそ」

 と手を挙げた。

 年齢は三十に入ったところだろう。長身とそれなりに整った顔立ちをしているが、無造作に括った長髪と無精髭がどこかだらしない印象を与えている。どう見ても自由業以外の仕事が勤まりそうにない人物だった。

「お前さん、マゴルだってな。元いた場所はどんなところだったんだ?」

 物臭そうに見えて結構おしゃべりな男で人当たりもよく、気が付いたら竜也はいろんなことをしゃべっていた。面倒見もいいところもあり、

「住むところを探している? それならいいところを紹介してやる」

 と早速竜也を連れて移動する。移動した先は町中、繁華街の少し外れにあるカフェだった。

「ここが?」

「いや、この上だ」

 竜也はログズに案内されてそのカフェに入った。「いらっしゃい」と迎えたのは無愛想な女主人である。年齢は三十の少し手前。気怠そうにした、退廃的な雰囲気の美女だった。
 その建物はかなり大きい石造りの二階建てで、その一階がカフェ。二階に上がると、そこにあるのは何かの事務所だった。充満しているのはインクの臭い。様々な本が並び、冊子の束が積み上げられている。

「ここは?」

「俺が刊行している『スキラの夜明け』本社だ」

 竜也は「スキラの夜明け」の一部を見せてもらった。質の悪い紙にいくつものニュースが記されたその刊行物は新聞兼週刊誌というべき物である。竜也は興味深げにその新聞を読んだ。

「俺はこの上に住んでいる。まだ空き部屋はあるからお前さんとその連れくらいは住めるぞ」

 竜也は屋根裏の空き部屋を見せてもらうが、

「うわ……」

 まずその暑さに閉口した。窓はあるものの、熱がこもって非常に暑い。室温は間違いなく摂氏五十度を越えているだろう。

「何、日が沈めば気温も下がる。窓を開けておけば外と同じだ、眠れんことはない」

 部屋の中は非常にほこりっぽく、梁がむき出しだ。天井は低く、竜也が立ち上がると頭がつかえた。人が住むことを前提とした部屋ではなく、元々は単なる物置なのだろう。

「……少し考えさせてください」

「ああ、急ぎやしないさ」

 竜也はその場では判断を保留とした。その後、竜也は小説の打ち合わせもあってログズの元を頻繁に訪れるようになる。







 そんな毎日の、エルルの月も中旬に入ろうとするある日のこと。
 その日、竜也は劇場の仕事の手伝いをしていた。観客で混雑する入口で入場整理をし、入場料の受け取りをする。上演まで間もなくとなり入口の混雑もほぼ解消された頃、一人の少女の姿が竜也の目に止まった。少女としては平均的な身長で、スレンダーな体格である。

「……日本人?」

 少女が身にしているのは裾の広い袴みたいなズボンと、肩衣みたいな上着。腰には日本刀みたいな拵えの刀を差し、やはり和風な編み笠を被っている。よく見れば色々と間違っているが、一見だけならその姿は日本の侍そのもののように思えた。
 竜也はあっけにとられたまま不躾な視線を送り続けている。少女が編み笠を脱ぐと、その下からは凛々しく美しい少女が姿を現した。肌の色や顔立ちは日本人と言っても通用しそうだ。頭頂で結ったポニーテールは長く真っ直ぐな黒髪。その髪の中からは犬耳がひょっこりと突き出ている。

「――これを」

「あ、はい」

 少女が竜也に小銭を突き出し、竜也はそれを受け取った。少女が会場の中へと消えていく最後まで、竜也はその後ろ姿を、袴の尻でゆらゆら揺れる犬の尻尾を見つめていた。

「こら、タツヤ!」

「うわっ」

 一緒に受付をやっていた一座の者が竜也の首に腕を回した。

「なに女に見とれてんだよ。確かにきれいな子だったけど」

「いや、変わった格好だなと思って」

 と竜也は言い訳しつつ腕の中から抜け出す。

「あの子、牙犬族ですよね」

「ああ、牙犬族の部族装束だな」

 へえ、と竜也は感心する。剣祖シノンは剣術だけでなく様々な日本文化を牙犬族に伝えたようだった。

「ルサディルにも牙犬族はいたけどあんな格好はしてませんでしたね」

「そりゃ、ルサディルみたいな地の果てじゃあんな服は手に入らないだろ。ここは牙犬族の里にも近かったはずだしな」

 なるほど、と竜也は納得した。
 そして上演が終わり、ヤスミン達出演者が列を作って観客を送り出す段となる。その端に並んでいた竜也は帰っていく観客の中に牙犬族の少女の姿を見出した。

「ごめん、ちょっと離れる」

 竜也は一言断って列を抜け出した。雑踏の中に紛れそうになっている少女を見つけ、その後を追う。牙犬族の部族装束が幸いし、少女を見失うおそれは少なかった。

「でも、追いかけてどうしようって言うんだ?」

 反射的に追いかけ、ほぼ追いついた。声をかければ届く距離にいる。だが、竜也は無言のまま少女の後を尾行するだけだ。まるで不審者の振る舞いである。

「別に用事があるわけじゃない。剣祖や牙犬族の話が聞ければそれでいいんだ。でもどう話しかければいいのか……」

 その欲求がホームシックの発露であることに竜也自身は気付いていなかった。おそらくは日本人の血が流れる少女の姿に、異国で見た日本文化に、竜也の望郷の想いが刺激されているのだ。だが竜也はその事実から目をそらしている。望郷の想いを抑圧し、故郷の地を思い出さないようにしている竜也は敢えて判ろうとしていない。
 自分でも理解できない衝動に突き動かされ、竜也は少女を尾行する。少女は何か物思いにふけっているようで、竜也の下手くそな尾行にも気付いていなかった。少女が人気のない空き地へと足を踏み入れる。竜也はその後を追った。
 空き地に足を踏み入れようとし、竜也の足は止まってしまう。まるで結界が張られたように空気の質が変わっている。
 空き地の中心では一人の少女が佇んでいる。少女の前には同じくらいの背の高さの大きな岩があるだけだ。だが少女はまるで見えない敵と対峙しているかのようだった。少女から放射される殺気と緊迫感がその場の空気を支配している。それに呑まれた竜也は息苦しさすら覚えた。

「――ふっ!」

 少女の剣が一閃。目にも止まらぬ速さで剣が振るわれ、首がはねられるように目の前の岩の上部が断ち斬られる。少女は鞘に剣を収めながら、

「ふっ……またつまらぬものを斬ってしまいました」

 むなしげに呟いた。一方の竜也はずっこけそうになっている。

 それでようやく竜也の気配を感じ取ったようである。振り向いて竜也の姿を認めた少女は、

「いやあのそのこれは」

 と何やら混乱しつつ赤面している。竜也は笑いを抑えながら、

「君は牙犬族の子だよね」

 と話しかけた。
 怪訝な様子の少女に竜也は正直に話をする。自分がヤスミン一座の一員であること、「カリシロ城の花嫁」の脚本を書いたこと、マゴルであり剣祖シノンと同郷であること、等々。

「……ああ、言われてみれば確かに。顔立ちや肌の色が一族の者と似通っています」

 剣祖と同郷である点が少女の警戒心を解いたようだった。

「申し遅れました。わたしは牙犬族のサフィールです」

 それから二人は長い時間様々なことを話し込んだ。劇のこと、剣祖のこと、牙犬族のこと。

「剣祖が劇に出ているという噂を耳にして見に来たのですが――素晴らしかったです! 劇も面白かったけど剣祖があのような方だったとは……! 剣祖の剣技や振る舞いをこの目で見る日が来ようとは想像もできませんでした」

 と感無量のサフィールの様子に、竜也はちょっと引き気味である。

「……いや、あれはただのお芝居だから。剣祖とは別の剣士にシノンて名乗らせているだけで、剣祖の話なんて俺は知らないし、俺が聞きたいくらいだから」

 サフィールは「それは判っています」と言うが、それが本当かどうかは竜也には疑わしく思えた。

「ですが、一族の中で当代最強と言われる剣士がちょうどあのような方なのです。だから実物の剣祖もあのような方なのに違いありません」

 と拳を握って力説するサフィール。竜也もそれ以上はサフィールを白けさせるようなことを言わなかった。

「……まあ、元ネタの剣士の方もある意味サムライの理想像なわけだし、それが剣祖の実像と一致していてもそれほど不思議はないかも」

「その通りです」

 とサフィールは力強く頷いた。

「それにしても凄いね。これが牙犬族の恩寵か」

 竜也は断ち斬られた岩へと感嘆の目を向けた。斬り口はまるで磨いたかのように滑らかだ。

「確か『烈撃』だっけ」

「はい、剣に恩寵を流し込んで断ち斬る技です。劇の剣祖ほどではありませんが、似たようなことならわたしにもできます」

 と誇らしげに胸を張るサフィール。竜也はあることに気が付いて、

「その剣、少し見せてもらっていいかな」

 その頼みにサフィールは「はい、どうぞ」と剣を差し出す。竜也は剣を鞘から抜いて、

「え、何だこれ」

 と驚きの声を上げた。
 拵えこそ日本刀に似せてあるが刀身は全くの別物だ。刃はなまくらもいいところで、ホームセンターで売っている薄い鉄板と大差ない。その辺の包丁の方がよほど切れ味がいいだろう。鋭器と言うより鈍器である。ただ、美術品みたいな日本刀とは違って頑丈なのは間違いない。打ち合えば日本刀の方がへし折れるのは確実だ。殺傷力にしても、有段者が持てば木刀だって簡単に人が殺せるのだ。この剣が日本刀に劣っているとは思えなかった。ましてやこの剣を使うのは「烈撃」の恩寵を有する牙犬族である。

(真空の刃……じゃ説明がつかないな。恩寵っていう不可視の力で断ち斬っているのか)

「凄いな。こんな剣であんな岩を」

 竜也は剣をサフィールに返した。サフィールはそれを受け取りながら、

「本当の剣祖ならあの劇くらいのことは軽くできるでしょう」

「……いや、マゴルは恩寵なんて持ってないから。恩寵抜きじゃ岩なんか斬れないから」

 サフィールは「それは判っています」と言うが、それが本当かどうかは竜也にはかなり疑問だった。

「牙犬族の里はこの近くだと聞いたんだけど」

「大分離れていますよ。里に一番近い町はサブラタです」

 サブラタは元の世界で言うならトリポリの西に位置する町であり、直線距離でもスキラとは三〇〇キロメートル程離れている。だがルサディルと比較するなら近いうちに入るかも知れなかった。

「わたし達は普段は里から出ることはほとんどありません。ですが戦士の方達は傭兵の仕事で町に出てくることがあります。わたしの父は実戦には出ないのですが、傭兵の仕事を探したり報酬交渉をしたりといった仕事をしていて、今回わたしは父の付き添いとして町に出ることが認められたのです」

 ……二人は随分長いこと話し込んで、気が付いたら日差しが傾き辺りが薄暗くなっていた。

「ああ、もうこんな時間ですね。そろそろ戻らないと」

「そうか、残念だな」

 二人は空き地から道路に出て向かい合った。

「じゃあ良かったらまた劇を見てきてくれ」

「ええ、それはもちろん。今度は一族の者に声をかけてみんなで見に来ます」

 そうしてくれると嬉しいな、と竜也は笑う。そうしてサフィールと別れ、その日は終わった。サフィールが再び劇場にやってきたのはその翌日である。

「タツヤ殿! みんなで見に来ました!」

 とサフィールは朗らかに笑う。その言葉の通り、サフィールの後ろには十数人の牙犬族の剣士が並んでいた。男達の体格は総じて比較的小柄だった。竜也よりも背の高い者が一人もいない。だが、侍を絵に描いたような顔立ちの、武器を持った男が十数人もいて威圧されないわけがない。竜也は何とか笑顔を返すがその頬は引きつっていた。

「おぬしが剣祖と同郷というタツヤ殿か! 儂は族長のアラッド・ジューベイだ」

 と名乗るのは右目を眼帯で覆った初老の男だ。肌の色はやや濃く、年齢は五〇過ぎ。身長はサフィールより少し高いくらいだが、身体の厚みは竜也の倍くらいある。灰色の長髪をちょんまげ風に後ろで結んでいるがさすがに月代は剃っていなかった。

「剣祖の活躍を見せてもらえるそうだな。楽しみにしておるぞ!」

 と哄笑するアラッド・ジューベイ。

「え、ええ。どうぞ楽しんでいってください」

 と竜也は冷や汗をかきながらアラッド達を場内へと案内した。

「ちょっとタツヤ! 大丈夫なの?」

 案内を終えて戻ってきた竜也の元にヤスミンが駆け寄ってくる。

「わたしみたいのが剣祖を演じて、あの人達を怒らせたりしない?」

 見れば不安そうにしているのはヤスミンだけではない。他の出演者も同じく不安げである。竜也は彼等を宥めた。

「サフィールには好評だったし、大丈夫だと想いますよ。いつも通り格好良く演じればいいんですよ」

 ガイル=ラベクにも好評だったでしょ?と竜也は笑う。それでヤスミン達は落ち着きを取り戻した。

「そうね、わたし達はあのガイル=ラベクに本物だって認められたんだから。不安がることは何もないわね」

 と頷き合うヤスミン達。そして定刻となり、ヤスミン達は舞台裏へと向かう。間もなく劇が始まろうとしていた。
 ……それから数刻が経ち。上演が終わって場内から観客がぞろぞろと出てくるところである。

「あ、サフィール」

 竜也はサフィールの姿を見つけ、声をかけた。

「二回目ですが面白かったですね。ただ、ちょっと気になった点がいくつか。剣祖の刀の持ち方なのですが……」

「そこはやっぱりお芝居だから見栄えを優先させて……」

 そんな話をしているうちにしばらく経って、

「あれ、そう言えばアラッドさん達は?」

 牙犬族の他の面々の姿がないことに気が付いた。竜也とサフィールは劇場を出、通りを歩いていく。

「宿に向かったのならこっちでしょう」

 とサフィールが示す方向へと向かう。そのまま道なりに進み、二人は昨日話し込んでいた空き地へとやってきた。竜也がその空き地をのぞき込むとそこには牙犬族の面々が。彼等はそれぞれが空き地のあちこちに散らばって、

「またつまらぬものを斬ってしまった……」

「我が剣に斬れぬものなし……」

「今宵の斬鉄剣はひと味違うぞ……」

 等と芝居の台詞を呟きながら、ときたま剣を岩に、虚空に振るっている。竜也はその場に崩れ落ちるようにひざまずいた。

「おや、タツヤ殿か!」

 竜也に気が付いたアラッドがそばにやってきた。竜也は「牙犬族って一体……」と疑問を抱きながらも何とか立ち上がる。

「サフィールがあまりに言うものだから見てやったが……素晴らしかったぞ! 剣祖があのような方だったとは。剣祖の剣技や振る舞いをこの目で見る日が来ようとは想像だにしておらなんだわ!」

「……いえ、あれはお芝居でお話ですから。剣祖のお話なら俺が聞きたいくらいですから」

 竜也は精神的に疲れながらも何とか言うべきことは言う。アラッドは「判っておるわ!」と笑うが、それが本当かどうかは竜也には極めて疑問に思われた。

「おぬしには剣祖の故郷のことを聞かねばと思っておったところだ。さあ、来い!」

 竜也はアラッド達に捕まり、そのまま連行されてしまった。行き先はアラッド達の宿泊先の宿屋だ。アラッド達は帰ると早々に酒を持ち出し、宴会へと突入した。竜也もそれに付き合う羽目となってしまう。

「剣祖と同郷となればタツヤ殿は我等が同胞も同じ! さあ、飲むがいいぞ!」

 と杯を渡される。竜也は辟易しながらも「ありがとうございます」とそれを受け取り、舐めるように酒を飲んだ。

「サフィールには剣祖の血が入っているんですか?」

「剣祖は当時の族長の娘と夫婦になったからな。族長の血筋には剣祖の血が流れておる。さあ飲め!」

 なおサフィールは前代族長の孫娘に当たるとのこと。

「剣祖が流れ着いたときに持っていたものは……」

「素晴らしい刀を持っておってな、今では一族の至宝だ。儂でも数えるほどしか見たことがない。あれの銘が斬鉄剣だったのだな」

「いやそれは」

「さあもっと飲め!」

 アラッドが好意で勧めてくれていることは判るので竜也も無碍にはできず、だが酒もよっぱらいも苦手な竜也は往生するしかなかった。竜也はその場を誤魔化すために、

「剣祖と同時代の剣士の話にはこんなのがありまして」

 と、とある剣術試合の話を語り出した。

「――狂気に犯されたその領主が開いた、真剣による御前試合。隻腕の剣士が剣をこう、肩に担いで剣を抜いて」

 気が付けばアラッドだけでなくその場の全員が竜也の語りに耳を傾けている。血生臭い、陰惨な話だが、酒の肴には向いているようだった。

「対する盲目の剣士が取った構えは、誰も見たことも聞いたこともない奇っ怪な構えでした」

 因縁の両剣士の、一瞬の決着。そして意外な結末。

「出場した剣士、一一組・二二名。敗北による死者八名、相打ちによる死者六名、射殺二名。生還者は六名、うち二人重傷――領主は乱行の責を負い、腹を切って自刃。多くの犠牲を払い、何物も得られなかった御前試合はこうして幕を閉じたのです」

 竜也の語りが終わり、一同が「ほーっ」とため息をついた。異国の剣士達の凄惨な末路に、言葉も出ないようだ。

「……なるほど、剣祖はそのような地で剣を学んだのか。いや、よく語ってくれたタツヤ殿」

 とアラッドは満足げな様子だった。後日、牙犬族の面々が虎眼流奥義「流れ」を会得し披露してみせ竜也は頭を抱えるのだが、それはまた別の話である。
 こうして竜也は牙犬族の面々と親交を深めることとなった。翌日以降も牙犬族の剣士達は入れ替わり立ち替わり「カリシロ城の花嫁」を見に来ている。数日後、アラッドやサフィールが里に帰る前には挨拶に立ち寄ってくれた。

「おぬしはすでに一族も同然。何か困ったことがあれば力になってやろう」

「ありがとうございます」

 と言いつつも竜也はアラッドの姿に何か違和感を覚えた。内心首をひねり、何がそう感じさせるのか考え込む。その様子にアラッドの方が気が付いたようで、

「タツヤ殿、いかがなされた?」

「いえ、前と何か違っている感じがして。気のせいです」

 ああ、とアラッドが自分の左目の眼帯を指差した。

「多分これのせいだろう」

 説明されてようやく竜也も気が付いた。

「……この間は確か右目にしてませんでしたっけ」

「その通り。今日は左目の日なのだ」

 竜也は引きつったようになりながらも「そ、そうなんですか」と頷いてみせる。

「それではさらばです」

「族長も、サフィールもお元気で」

 サフィールやアラッド達は竜也に背を向けて歩き出した。後ろ姿が豆粒よりも小さくなるまで見送った竜也は、

「……左目の日って何なんだよ!」

 虚空に向かって一人突っ込みを入れていた。
 こうして牙犬族の剣士達は去っていった。竜也が彼等と再会するのはしばらく先のことである。








[19836] 第八話「冒険家ルワータ」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/11 21:51

「黄金の帝国」・漂着篇
第八話「冒険家ルワータ」






 エルルの月(第六月)の中旬のある日。いつものように劇場で雑用に従事していた竜也はヤスミンにある仕事を頼まれた。

「タツヤ、色落ちした看板の代わりを描いてくれない?」

「ああ、確かにもう代えないと駄目でしたね」

 劇の看板はスキラの看板屋に依頼して作成したのだが、雨に濡れて絵の具が色落ちしてしまったのだ。

「やっぱり予算をケチっちゃ駄目ね」

 とヤスミンは舌打ちしている。

「幸い客の入りは良いから今度は予算をかけてもっと上等の看板を頼むことにするわ。その間のつなぎに使えるのが必要なの」

 看板に描かれていたのは海賊王グレゴレットの肖像画だが、竜也に言わせれば「小学生レベルの絵」でしかなかった。エレブでは写実的な絵画や肖像画が美術界で人気だそうだが、ネゲヴでは人物画の技法がまだそこまで発達していない。水準としてはヨーロッパの中世のせいぜい中期くらい。しかも描いたのは場末の看板屋である。

「俺に描かせてくれればいいのに」

 とずっと考えていた竜也は「まあ、やってみます」と内心張り切って引き受けた。
 そして劇が終わった後の舞台、竜也はそこに無地の看板を用意している。看板は二メートル四方の板に白い布を貼った物である。手にしているのは木炭鉛筆だ。絵の具も用意できるとヤスミンは言っていたのだが、竜也はそれしか使うつもりがなかった。
 広い劇場内に竜也はただ一人、看板を前に佇んでいる。照明は安物の油ランプだけだ。深呼吸をくり返した竜也は、

(よし!)

 木炭鉛筆を剣のように一閃させた。
 ……そして翌日、カフラがヤスミン一座の様子を見に劇場にやってくると。

「? 何かあったんでしょうか」

 劇場の前に人だかりができていた。野次馬が集まって劇場に入らず、劇場の前で何やら騒いでいるような様子である。カフラはその野次馬の一団の中に身を投じた。

「なんかすげえな!」

「ああ、何と言ったらいいか判らんが、とにかくすごい」

 人をかき分け、ようやくカフラは最前列へとやってきた。野次馬が囲んでいるのは看板である。白地に黒い線だけで人物が描かれている、ただそれだけの看板だ。だが、

「な――」

 カフラは絶句するしかなかった。
 一方竜也は劇場入口で入場料の受け取りをやっているところである。そこに、

「タツヤさん!」

 とカフラが飛び込んできた。

「ああ、こんにちは」

 という竜也の挨拶を無視し、カフラは竜也を劇場の片隅へと引っ張っていく。

「あの看板描いたのタツヤさんですよね!?」

「ああ、そうだけど何か?」

 結構好評みたいなんだけど、ととぼけた様子で言う竜也にカフラは脱力するしかない。

「……好評にもなりますよ。あの看板だけでお金が取れるレベルです」

 まさか、と笑う竜也にカフラはため息しか出てこなかった。
 短い制作時間と限られた画材。白地に黒一色だけで絵を描いて最大限の効果を発揮する、竜也がそのために選んだ手段は日本の漫画絵の流用であった。

(幼稚園の頃からずっと漫画を読んでいた。一時期は漫画家を志して、落書きノートを何十冊も使い潰した。知識やテクニックも蓄積した。その全てを今ここで活用する――!)

 そうやって、一筆入魂で描いたのは海賊王グルゴレットの肖像である。衣装は劇で見ているそれに加えてガイル=ラベクの格好を参考にし、できるだけ精密に。その一方顔は思い切ってシンプルに描写した。容貌の描写にも間近で見たガイル=ラベクの影響が多分に含まれている。絵柄としては小学生の頃によく模写した尾田栄一郎の「ONE PIECE」が基本だが、それをより写実的にしたものだ。リアルとデフォルメが絶妙の均衡を保った絵柄である。完成した肖像はモノトーンの落ち着いた描写でありながら迫力があり、グルゴレットのしたたかさがよく表現されたものとなった。

「うん。なかなか良い出来になった」

 と自分でも満足していたし、

「こんな絵見たことない」

 とヤスミンや一座の面々にも好評だったのだ。
 だが、ヤスミン達や野次馬にはこの絵の本当の価値を到底理解できないだろう。美術に造詣の深いカフラだからこそ判るのだ、竜也のこの絵がネゲヴの美術界にどれほどの衝撃を与えるかを。浮世絵が一九世紀のヨーロッパ美術界に衝撃を与え、ジャポニズムという潮流を生み出したように、竜也のこの絵はネゲヴの美術界に新しい潮流を生み出す――可能性もなくはないのである。

「タツヤさんにあんな画才があるなんて聞いてないです!」

「絵は得意だ、とは言ったよな?」

「ともかく!」

 とカフラは竜也の言い訳を打ち切らせ、

「あんな絵が描けるのなら肖像画も描いてもらいます。まずはわたしの絵を描いてもらいましょう」

 こうして竜也はカフラの肖像を描くこととなった。準備を整えて竜也がカフラの元へと向かったのは翌日である。それにラズワルドが同行する。
 カフラの家に到着し、その前で竜也は、

「……」

 言葉をなくして立ち尽くしていた。竜也の前にあるのは町の一区画を丸ごと占有した巨大な邸宅である。門からは建物が見えない。

「クロイ・タツヤ様ですね。どうぞこちらへ」

「あ、はい」

 武装した警備員に案内されてその敷地内へと足を踏み入れる。何分も歩いて、ようやく到着した建物の前で、

「……一体どこの王宮なんだよ」

 ようやく出てきたのはそんな言葉だけだ。豪奢を極めた、三階建の石造りの宮殿、そんな建物がそこにはあった。

「ああ、よく来てくれました」

 カフラ自身が宮殿から出てきて出迎えてくれる。竜也達はカフラに案内されてその建物の中へと足を踏み入れた。

「カフラの親御さんもいるのかな。ご挨拶しなくてもいいのかな」

 と竜也は気を配る。ただしその方向性は明後日どころか二年先くらいに全くの見当違いだったが。

「気にしなくてもいいですよ。ここはわたしだけが使っている別邸で、家族は本邸の方ですから」

「……ああ、そう」

 そうして竜也達は中庭へと案内される。四阿にはすでに絵の具等の画材やキャンバスが用意され、何人ものメイドがお茶会の用意も万全に整えていた。
 メイドがお茶を入れて去っていき、その場には竜也達三人だけが残される。お茶を一飲みして軽く休憩した竜也は早速画材の検分に取りかかった。筆や絵の具を手にして眉を寄せ、結局手元に残したのは木炭鉛筆だけで後は全て片付けてしまう。

「ちゃんとした絵の具で描いてほしいんですけど」

 と不満を言うカフラだが、

「これが一番慣れてて描きやすいんだ。他のじゃ上手く描けない」

 と竜也が言うので容認するしかなかった。キャンバスに向かおうとする竜也だが、その袖をラズワルドが引く。

「わたしも描いてほしい」

「ん、判った」

 竜也は軽く答え、用意されていたB5程のサイズの紙にさらさらと絵を描いて、

「ほら、完成」

 とラズワルドに渡した。カフラが興味深げに横からのぞき込む。
 そこに描かれていたのは二頭身までデフォルメされたラズワルドだ。絵柄はつくりものじ氏のそれで、氏の描くセイバーや間桐桜をほとんどそのままパクったものである。

「……すごいですね。こんな絵なのにラズワルドさんだって判ります」

 とカフラが感心し、頬を膨らませたラズワルドがぽかぽかと竜也を叩いた。

「ラズワルドの絵は今度描いてやるから」

 と竜也が宥める。気持ちを切り替えた竜也はカフラの肖像描画に取りかかった。

「……」

 姿勢を正してすまし顔をするカフラ。だが竜也はそのカフラの方をほとんど見ていない。ただキャンバスだけに目を向け、筆を振るっている。

「……モデルを見てなくてもいいんですか?」

「カフラのことはずっと見てきたんだから今更見る必要なんかないよ」

 そう答えながらも竜也の筆は止まらずに動き続けている。カフラは少し赤面しながら「そうですか」と答えて平静を装うべく努力し、ラズワルドはそのカフラをやや険しい目で見つめている。
 カフラはそれでもモデルたるべく、なるべく身動きせずに同じ姿勢で座り続けた。だがそれも一時間もしないうちに終わってしまう。

「よし、完成」

「え、もうですか?」

 竜也にしてみれば必要以上に時間をかけて丁寧に描いたつもりである。

「こんな感じになったけど、どうかな」

 竜也はキャンバスの向きを変え、カフラへと見せる。カフラは自分の肖像画を目の当たりにし、

「――」

 短くない時間言葉を失った。
 絵柄はやはり日本の漫画絵を流用したものだが、より写実的な路線である。中学生の頃に散々模写をした小畑健や矢吹健太朗の絵柄を基本とし、今の竜也に描ける美少女の極致を描いたと言える。

「でもやっぱり本職の漫画家には遠く及ばないし、実物の魅力を充分描けたともとても言えないし」

 と竜也としては不満の残る出来映えとなってしまった。だがカフラは、

「……どうした?」

 長い間彫像のように硬直していたカフラだが、いきなり立ち上がって自分の肖像画を四阿の壁へと向けてしまう。そして竜也の視線から隠すように身体を両腕で抱いた。その顔はトマトのように真っ赤であり、まるでヌードを見られたかのような振る舞いだ。潤んだ瞳でにらまれ、竜也としては戸惑うしかない。

「……あの、カフラさん?」

「タツヤさんはわたしの許可がない限り肖像画を描くのは禁止です!」

 一方的に言い渡され、さらには「今日はありがとうございました!」と屋敷から追い出されてしまった。閉ざされた門扉を前に、竜也はただ呆然とするばかりだ。

「カフラは一体何に怒っていたんだ? 判るか?」

「怒っていたわけじゃない」

 竜也は重ねて「どういうことだ?」と訊ねる。だがラズワルドはそれに答えなかった。無言のまま竜也の尻をつねるだけだ。ラズワルドは竜也を無視するように歩いていく。竜也は首をひねりながらその後を追うしかなかった。
 ……その夜、就寝にはまだ少しだけ早い時間。カフラは自室のベッドでうつ伏せになり、枕に顔を埋めていた。部屋の中央には架台があり、そこには竜也の描いた肖像画が置かれている。
 カフラはベッドの中からその肖像画を眺めた。自分と同じ顔の少女が柔らかく微笑んでいる絵――見るたびに自分でも整理の付かない様々な感情がこみ上げてくる。

「……タツヤさんにはわたしがこういう風に見えているんですね」

 カフラの反応が「まるでヌードを見られたようだ」と感じていた竜也だが、その想像はある意味正しかったのだ。だが竜也が見透かしたのはカフラの素肌ではない。

「ナーフィア商会令嬢のカフラマーンではなく、ただのカフラ。あなたにとってのわたしはそういう子なんですね」

 カフラは誰と相対してもその相手との間には必ず壁が作られる。「ナーフィア商会令嬢」という名の壁である。その壁を作るのは大抵の場合相対する相手であるが、カフラ自身が作ることもある。一つ言えるのは、その壁を透して素のカフラへと目を向ける者はいたことがない、ということだ。
 だが、竜也にとっては最初からそんな壁は存在していなかったのだ。カフラも何となく感じていたことだが、その事実を確固とした証拠付きで突きつけられてしまった。これまでも竜也に対しては好感を持っていたカフラだが、その質が変わりつつある。今はまだ小さな種のようなものだ。だがそれが育ってしまったなら、抑えきれないくらいに大きくなってしまったなら、

「――駄目です、こんな気持ち。現実には大団円なんてあり得ないのに」

 カフラは肖像画を布に包んで衣装箪笥の奥へとしまい込んだ。それと一緒に自分の心も奥底へとしまい込む。宝石のように輝くその小さな種が、決してこれ以上大きくならないように――。







 カフラが劇場にやってきたのはその翌日である。竜也は雑用の合間にカフラと面会した。

「昨日は失礼しました」

 と平静を取り戻しているカフラが頭を下げる。竜也は「それはいいんだけど」と受け流し、

「そんなにいまいちだったかな。あの絵」

 と落胆を隠せない口調で訊ねた。

「いえ、そんなことは!」

 とカフラは慌てて否定する。

「とっても素晴らしい絵でした! あの絵は家宝として残します!」

 竜也はその言葉を単なる誇張表現だと思い、聞き流した。

「……ただ、あまりに良すぎて。あの絵はしばらくは誰にも見せられません」

 と曖昧に笑うカフラに竜也は「どういうことだ?」と訊ねる。

「お母様があの絵のことを知ったなら絶対にお見合いに使います。あんな絵が出回ったならお見合いの申し込みが殺到しかねません」

 わたしはまだ当分自由でいたいんです、とカフラが話をまとめ、竜也はそれを理解した。

「それじゃ劇の看板を描くのも自重した方がいいのかな」

「そうですね、そうしてもらえれば助かります。ちゃんとした看板屋なら紹介しますから」

 だが、竜也達のその判断は結果として少し遅かったようである。竜也の描いた看板の評判がスキラに広まっているのだ。噂を聞いた人が看板を見るためだけに集まり(看板を見るだけなら無料である)小銭のある者は「カリシロ城の花嫁」も見ていき、評判がさらに高まる。それがくり返され、エルルの月が終わる頃には「カリシロ城の花嫁」は満員御礼が連日続くようになっていた。

「タツヤ、新しい看板描いて!」

 ヤスミンは当然竜也にそう依頼する。

「でも、カフラからはもう看板は描くなって」

 と難色を示すが、

「そんなのいまさらでしょ! 『カリシロ城』の今の評判は劇の面白さとあの看板がひとまとめになってるんだから。タツヤの看板がなくなったらお客さんだって納得しないよ!」

 ヤスミンの言うことももっともであり、竜也はそれに反論できない。竜也はカフラに一言断り、カフラもヤスミンの言い分の正しさを認めるしかなく、竜也は看板を新規制作することとなった。
 そしてタシュリツの月(第七月)の初旬。新しい看板のお披露目である。

「おー、今回もすげぇー!」

「なんか荒っぽい絵だけど、迫力は前よりもあるな!」

 朝一番から看板を見るためだけに大勢の見物人が集まっていた。見物人目当ての屋台が出て商売をしているくらいである。
 今回制作された看板は高さは約二メートル、幅は約四メートル。前回の倍の大きさがある。前回はグルゴレット一人しか描かなかったが今回はグルゴレットに加えてカシャット・シノンも描いた。グルゴレットは剣を振り上げ、カシャットは矢を番え、シノンは腰だめに剣を構える。戦いに臨む三英雄の図である。
 丁寧で精密な描写を今回は捨て、勢いと力に任せて描き殴った。このため非常に荒々しい描写となっているがその分迫力は段違いに増している。グルゴレット達が今にも動き出し、襲いかからんばかりだ。

「よしよし、今日も満員御礼になりそうだね」

 看板に人集りができている様子にヤスミンは満足げな笑みを見せる。竜也も満更ではないという感じで、カフラはちょっと複雑そうな表情だった。







 タシュリツの月(第七月)の中頃のその日、

「すみません、お世話になります」

「何だ、結局ここに来たのか」

 ログズは憎まれ口っぽくそう言いながらも竜也とラズワルドを招き入れる。竜也とラズワルドはついに長屋から逃げ出す羽目になったのだ。二人の引越先はログズの元、「スキラの夜明け」本社上の屋根裏部屋だった。

「それで、何をやって追い出されたんだ?」

 ログズの問いに竜也は気まずそうに沈黙する。ラズワルドは偉そうに胸を張って、

「わたしは悪くない」

 と開き直っていた。

「……まあ、ラズワルドだけが悪いわけじゃないよな。巡り合わせというか小さなことの積み重ねというか、色々あって」

 確かに全ての責任がラズワルド一人に帰するわけではない。だが最大の原因がラズワルドにあることは竜也にも否定できない事実だった。
 あるときは長屋の住人の一人が外に干していた竜也の服を狙ってくり返し泥棒をした。ラズワルドは他の住人の面前で、

「その靴はそっちの人から盗んだお金で買った。その服はあっちの人から盗んだ置物を売って作ったお金で買った。今着ている下着はこっちの人から盗んだもの。今日食べたパンは一昨日そっちの人から盗んだもの」

 その人物の盗み癖を徹底的に暴露したのである。元々手癖の悪さで白い目で見られていたこともあり、その人物は次の日には長屋を去っていった。
 あるときは長屋の住人の子供がラズワルドに嫌がらせをくり返した。物を奪い取って壊す、殴る蹴るなどの暴力を振るう、「悪魔」と呼んで馬鹿にする、等だ。ラズワルドはその子供とその両親が揃っている場面で、

「その子の父親はあなたじゃない」

 と突然暴露。その父親が血の気の多かったこともあり、かなり派手な刃傷沙汰に発展した。
 あるときは年若い主婦がラズワルドのことを「あの子は淫売の娘で父親が誰だか判りやしない。あの子自身も淫売だ」などと事実無根の誹謗中傷をし、さらにそれを言い広めた。ラズワルドはその主婦に対し、

「……カルト=ハダシュトで身体を売っていた。店の名前は『人魚の館』。店の金を盗んでスキラに逃げてきた」

 事実の指摘で対抗したのである。その女は憤怒と恐怖と屈辱に一度に襲われ、過呼吸を起こす寸前となった。

「あ、あ、悪魔……!」

 喘ぐようにラズワルドを罵倒するその女。だが少女は、

「悪魔じゃない。『白い悪魔』」

 と冷笑を浮かべるだけだ。結局その女は次の日には姿を消していた。
 そんなことが何度もあればヤスミンだって庇いようがなくなる。

「ごめん、もう無理」

 とヤスミンは両手を挙げた。これ以上ラズワルドを庇えばヤスミン一座全員に被害が及ぶと判断。ヤスミンは一座の面々の安全のために竜也とラズワルドを切り捨てたのである。

「すみません、迷惑かけて」

 竜也としては今まで庇ってくれたことを感謝こそすれ、ヤスミンを逆恨みしたりはしない。ヤスミンの部屋を出た竜也は自分の部屋に向かうが、その竜也を長屋の住民達は無言のまま見つめている。その視線に込められた感情に竜也は悪寒を覚えた。ヤスミンが竜也達を見捨てたことはもう知られているとしか思えなかった。
 暴力沙汰となればラズワルドは非力そのものだし竜也だって五十歩百歩だ。

「さすがにそろそろ危ないかも」

 とラズワルドも警告するので竜也は次の日の朝には長屋を引き払ったのである。

「まあ、スネに傷を持つのはお互い様だ。歓迎するよ、お隣さん」

 ログズはそう笑って竜也達を迎え入れた。
 「スキラの夜明け」社が入っている建物の一階は「マラルの珈琲店」というカフェで、経営しているのはマラルという名の女性である。マラルは建物全部の所有者のようで、竜也はマラルと賃貸契約を結んで部屋裏部屋に住み着くこととなった。引越以降竜也達の生活のリズムも大分変わってくる。
 屋根裏部屋は寝る以外に何もできない場所で、熱がたまりやすく日が沈んでも暑い状態が続く。このためそこで眠るのは深夜から午前のかなり遅い時間まで、となる。それ以外の時間、竜也は「スキラの夜明け」社で場所を借りて小説を書いたりしているし、ラズワルドはマラルの元でカフェの手伝いだ。接客をすることはほとんどなく、掃除や皿洗い等の裏方を担当している。
 客のいない時間帯に竜也が店の様子を覗いてみると、マラルとラズワルドは横に並んで布巾を使ってカップを磨いているところだった。ラズワルドは普段とほとんど変わらない仏頂面だが、それなりに楽しそうである――もっともそれが判別できるのは竜也くらいだろうが。
 マラルもまたラズワルドと同じような、退屈そうな無愛想な面相だ。だが、あの人付き合いが悪く人間嫌いでコミュ傷なラズワルドが結構懐いているのだ。マラルが悪人ではなく、またラズワルドのことを嫌ってもいないことだけは確かだった。
 「マラルの珈琲店」は珈琲やお茶、簡単な軽食を提供する健全な喫茶店である。店内には「スキラの夜明け」を始めとする新聞・書籍が置いてあり、ある程度の小銭と教養を有する小市民が集まって新聞を読んで議論をする、一種のサロンだった。竜也はログズと一緒にときたま議論に加わっている。
 長屋のように自炊できる設備はないがその代わり一日二食珈琲店のまかないを食べさせてくれ、それも賃貸契約の一部である。このため住環境が劣悪な割に家賃はかなり高額だった。家賃を払ったら手元に現金がほとんど残らないだろう。だが竜也達に大きな不満はない。

「毎日寝苦しいけど、そのうち慣れる。元の長屋よりもここの方がずっと居心地が良い」

「確かに」

 ラズワルドの言葉に竜也は全面的に同意した。マラルは下宿人に対して無関心・不干渉という立場で、ラズワルドにはそのドライさ加減が心地良い。ログズやカフェの常連も教養があり、竜也にとっては馬が合う人達だった。







 新居と新しい生活にも多少は慣れてきた頃、月はアルカサムの月(第八月)になっており、その月初め。スキラの書店には「小さな奇跡の物語」という小説が並んでいた。物見高い者達がさっそくその本を手に取っている。

「誰の小説だ、これ……『ニッポンノ・エンタメ』? 変な名前だな」

「ああ、それを書いたのは『カリシロ城の花嫁』と同じ人だって話ですよ」

 と抜け目ない書店の店員が宣伝をする。

「へぇ、期待できそうだな。じゃあ買うよ」

「はい、毎度ありがとうございます」

 一方書店の片隅では竜也とカフラがいて、本の売れ行きを伺っている。目の前で何冊かが売れていくのを確認し、竜也達はその書店から立ち去った。

「売れ行きは順調そうですね。増刷の準備をしておきましょうか」

「その辺の判断はカフラに任せるよ」

「でもタツヤさん、名前を出さなくても本当に構わないんですか?」

 「小さな奇跡の物語」刊行にあたって竜也が選んだペンネーム、それが「ニッポンノ・エンタメ」であった。

「名前を出したくないんだよ。あれは俺が考えた話じゃないんだから」

 それが、他人のふんどしで相撲を取ることに対する最低限の節度だと竜也は思っている。カフラには竜也のこだわりはよく理解できなかったが、竜也の意志を軽んずることもしなかった。

「この分なら『小さな奇跡の物語』は売れるし、評判になるでしょう。もう何冊か出版して売れっ子になったら印税契約に切り替えますから、頑張ってくださいね」

 こちらでは出版物の印税契約は売れっ子の特権らしく、普通は作者に支払われるのは原稿料だけだとか。その本がどれだけ売れても作者には一レプタも入らないが、その代わり本が全く売れずに在庫が山積みになったとしても損害を受けるのは出版社だけである。

「こっちの商慣習がそうなら仕方ないよな」

 と竜也も納得している。

「家賃を払っても結構残るかな。何か美味しいものでも食べに行くか。いや、少しは貯金して、ラズワルドに新しい服も買ってやらないと」

 等と計算をする竜也は完全にこの世界の小市民だった。
 「小さな奇跡の物語」出版から間を置かず、謎の小説家ニッポンノ・エンタメ執筆の小説版「カリシロ城の花嫁」が書店で販売された。さらにその月の中旬にはヤスミン一座が海賊王冒険譚の新作劇「隠し砦の三海賊」の上演を始めている。前作の好評を引き継ぎ、「三海賊」は初日から満員御礼となった。




『馬鹿を言うな。グルゴレットって言や有名な大海賊じゃねぇか!』

『姫も一七、あの者も一七。同じ生命に違いがあろうか!』

『へっ、残念だったな。その娘は唖だ』

『裏切り御免!』




 「隠し砦の三海賊」は黒澤明の「隠し砦の三悪人」を元ネタにした劇だが、かなりの改変を加えている。元ネタでは武将だった三悪人のリーダーにグルゴレットを配置。グルゴレットがとある小国の依頼を受けてお姫様を亡命させる、その逃亡劇を描いたものである。危機一髪が連続し、知恵と勇気で苦難をくぐり抜け、小悪党の二人が足を引っ張り、また笑わせる。
 「三海賊」の面白さもまたスキラ中の評判となり、満員御礼が連日続いた。「三海賊」の好評に伴い脚本を執筆した竜也の評判も高まっている。そんな風に、竜也は順調にスキラでの地位を築いていった。







 アルカサムの月の下旬、竜也を訪ねてカフラが「スキラの夜明け」社へとやってきた。竜也はカフラを「マラルの珈琲店」内の個室へと案内する。その個室はログズや店の常連が応接室代わりや密談等に使っており、重宝している部屋である。

「どうした? 浮かない顔をして」

「はい。どうしようかと思いまして」

 とカフラはため息を一つついて説明を始めた。

「招待状? 俺に?」

「はい、今度催される内輪向けの展覧会です。タツヤさんの看板や小説の評判はかなり上にも届いているんです。招待状を送ってきたのはジャリールさんという方で、ナーフィア商会とも取引があってとても無碍にはできません」

 ジャリールはスキラ有数の大豪商・ジャリール商会の当主である。また、美術品の熱心な収集家としても知られ、多数の芸術家をパトロンとして支援している人物だという。

「古典芸術だけじゃなくて新しいものにも目がない人ですから最初に動くとしたらこの人だと思っていましたけど、予想通りでしたね」

 カフラはまたため息をつく。竜也もその様子を見て気後れがしてくる。

「こっちの礼儀作法とかは全く判らないから、堅苦しいところには行きたくないんだけど……」

 カフラは少しためらっていたようだが、やがて「いえ」と強めに首を振った。

「やっぱり行かないわけにはいきません。タツヤさんの礼儀は確かになっていませんが、タツヤさんが思うように礼儀正しくしていればいいと思います」

 大丈夫です、わたしも一緒に行きますから、とカフラは続けて竜也を安心させた。
 そして何日かを経て、スキラの山裾の高級住宅地の一角。竜也はカフラに連れられてその場所を訪れた。三階建ての石造りの建物は元の世界の超高級ホテルのような印象を受けた。

「ここはどういう場所なんだ?」

「ジャリールさんの別邸です。こういう展覧会を開いたり賓客をもてなしたりするのに使われていますね」

 竜也はカフラの後を付いていくようにその建物へと入っていった。
 竜也達はその別邸のホールへと通される。ホールに着飾った大勢の人々が集まっていた。竜也もまた普段着ではなくカフラに用意してもらった見栄えのする衣装を身にしているが、それでもやはり気後れしてしまう。
 ――脈絡なく突然目覚める黒き竜の血! 人間の殻を破り捨て、黒真珠のような鱗の巨大な竜が天を飛翔する!

「おお、あれは何だ!」

「雨雲か?」

「雷雲か?」

 いや、黒き竜だ! 人々は天空の竜を畏怖の目で見上げている!

「タツヤ、すごい」

 とラズワルド。

「きゃー! タツヤさん格好良い! ステキ、抱いて!」

 とカフラが

「タツヤさん、どうかしましたか?」

 と聞いてくる。心を読まれたならラズワルドにすら愛想を尽かされそうな妄想から現実に帰ってきた竜也は「何でもない」と誤魔化した。妄想で自分を奮い立たせた竜也はカフラよりも先に立ってそのホールの中央へと進んでいった。
 ホールの中にはあちこちに彫像や絵画が展示されていて、数人程度が集まってそれぞれの話に花を咲かせている。

「これはアーテファ女史の新作か。是非とも手に入れねば」

「ヘラスの彫像はいつ見ても見事だな!」

「これは私のコレクションに加えたいのだが」

「いえいえ、これは到底売れませんよ。あちらなどはどうでしょう?」

 芸術談義だけではなく商談も話されているようだった。売買されているのはバール人の時代に制作されたような古典芸術よりは、新作の美術品の方が多いようだ。それらの作品の作者もまたこの場にいて、コレクター等に熱い眼差しを送っている。
 こんな場所は生まれて初めての竜也は、

「へー、ほー」

 と感心するばかりである。
 そのまま会場の一番奥へと進むカフラ、それに続く竜也。カフラはそこでこの展覧会の主催者と対面していた。

「ご無沙汰をして申し訳ありませんでした、ジャリールさん、イフラースさん。今日は楽しませていただきますね」

「ああ、よく来てくれたな」

「お久しぶりです! 相変わらずお美しい」

 ジャリールの年齢は五〇の手前、恰幅が良くエネルギッシュな印象の男だった。その横のイフラースは二〇代半ばの育ちの良さそうな青年だ。容貌からして二人は親子のようだが、ジャリールと比較するとイフラースの線の細さが目に付いた。

「今度僕が後援をしている者の演奏会があるのですが……」

「そうですね。予定を確認してからでないと……」

 イフラースの方は熱心にカフラに話しかけ、カフラも礼儀正しく応対している。だがカフラはちょっと辟易しているように見受けられた。カフラの後ろに佇む竜也だが、ジャリールからもイフラースからも一顧だにされていない。どうやら竜也のことはカフラを呼び出す口実でしかなかったようである。

「できれば助け船を出したいところだけど」

 下手に動くとカフラの顔を潰すだけだと判断し、竜也はカフラから少しずつ距離を置いていく。手持ち無沙汰となった竜也は並んでいる展示品に目を落とした。

「うーむ。これなんかギリシア・ローマの彫像そのものだよな」

 美術品には元の世界との共通点や違いなどが見出され、竜也は一つ一つを興味深く見て回っている。そんな竜也に、

「ああ、そこの君」

「はい?」

 声をかけられた竜也が振り返ると、そこにいるのは軽薄そうな一人の男である。年齢は三〇前後。美女を脇に侍らせ、指輪や首飾りをむやみやたらと光らせているその姿に竜也が好感を抱くことは困難だった。

「君は作品を出展していないのかい?」

 男の問いに竜也は「はい、してないです」と返答する。

「それじゃあこれまでどんな作品を?」

「ヤスミン一座の劇の看板制作を三、四点ほど」

 途端に男は「はっはっは!」と殊更に大声で笑った。

「看板屋か! 確かに看板をここに出展するのは難しいかもしれないね!」

 嘲笑がさざ波のように広がる。どうやら男は最初から竜也を笑い物にするつもりでいたようである。竜也は「ぐっ」と怒りを噛み締め、
 ――脈絡なく突然姿を現す巨大な黒き竜! 阿呆のように口を開けるしかない男に向かい、大きく顎門を開いてその上半身を一飲み! 男は足を残して全身を食いちぎられ……
 妄想で気晴らしをした竜也は一呼吸置き、そのまま怒りを飲み込んだ。

「そうですね、大きな看板は腕の振るい甲斐がありますよ。時間があれば何か出展したところなんですが」

 竜也はにっこり笑いながらしれっとそう答える。男には竜也の切り返しが不愉快だったようである。

「ふん。あんな殴り描きみたいな絵、大して時間はかからないだろう。今からでも描いたらどうだ?」

「そうですね。そうさせてもらいましょう」

 竜也は念のために用意していた画板と木炭鉛筆を取り出し、

「しばらく動かないでください」

 有無を言わせずそう告げると鉛筆を紙へと走らせた。
 しばらく黙々と筆を動かす竜也だが、

「ほうなるほど! こうやって立体感を出すのか!」

 いきなり大声で話しかけられ、びっくりした竜也が横を見るとそこには一人の男が立っていた。年齢は六〇の手前くらいで、かなり太った体格。頭部は半分禿げて、残っているのはぼさぼさの白髪。アインシュタインに体重とおおざっぱさを加えたような老人である。

「え、ええ。光が当たらない方向には陰ができますから、それをこうやって」

「うむ、素晴らしい技法だ!」

 自分の技法を解説しながらも手を動かし、それほど時間はかからずに絵は完成する。絵はデフォルメなど一切行わず、余計な感情も入れず、ただ見たままを紙に写し出しただけのものだ。技術的にはそれなりに高度で写実的だが、ただそれだけの絵である。
 だがそんな絵でも、エレブならともかくネゲヴにおいてはほとんど見られない。この場にいる者なら判らないはずがないのだ、それがどれだけ高度な技術の蓄積の上にある絵なのかが。

「はい、どうぞ」

 男はそれを貶すこともできず、ただ受け取るだけだ。溜飲を下げた竜也はその男からの関心をなくし、男から背を向けた。その竜也に、

「あの『カリシロ城の花嫁』の看板を描いたのは君だそうだな! あれは途轍もない絵だったぞ!」

「あの劇の脚本や小説を書いたのも確かあなただと聞いたのだが」

「マゴルだっていうのは本当? 前にいたのはどんなところだったの?」

「次はわたしの絵を描いてくれないかしら」

 大勢に囲まれた竜也は四方から話しかけられ、目を白黒させた。竜也はその中で一番話しやすい白髪の老人と話をする。色々話をしているうちにもう一度デッサンの技法を解説することとなり、

「それじゃ実際に描きながら説明しましょう。モデルはそうですね、あの方にお願いしましょうか」

 竜也は未だカフラに食い下がっていたイフラースという青年をモデルに指名した。こうして竜也だけでなく、白髪の老人や何人かの腕自慢が加わって時ならぬ写生大会が催される。モデルとなったイフラースは、

「何でこんな目に」

 と思いながらも笑顔を絶やさず、立派にモデルの役目を務めた。竜也はイフラースに対して特に悪意があるわけでもないので、しっかり真面目にその肖像を描いていく――数時間ほどかけて。
 絵が仕上がる頃にはこの展示会は終わりを告げる時間となっていた。竜也はさすがに疲れた様子のイフラースに描いた絵を進呈する。そこでようやくジャリールが竜也へと声をかけてきた。

「今度は私の絵も描いてくれ。もう少し手早くな!」

 ジャリールはそう言って笑う。竜也は恐縮するしかなかった。
 展覧会がお開きとなり、竜也はカフラに連れられてそそくさと会場を後にした。

「――今日はありがとうございます。おかげで助かりました」

 帰り道、馬車の中でそう言うカフラに竜也は、

「いや、俺の方こそ。どうなるかと思ったけど、結構楽しかったよ」

 と笑う。カフラにしても、竜也が思ったよりずっと上手く立ち回ってくれたことに大いに安堵していた。
 この展覧会参加は竜也にとっても大きな利益となった。ヤスミン一座ともナーフィア商会ともつながりのないところに人脈ができたのである。







 何日かを経て、キスリムの月(第九月)に入った頃。竜也は一人でスキラ港を訪れていた。港のその一角は造船所が集まっている場所である。建設中の船がいくつも並んでおり、船大工が忙しく働いている。竜也は、

「おー」

 と感心しながら通りを歩いていった。地図と周囲を見比べながら歩くことしばし、一隻の建設中の船が竜也の目に入った。

「え……なんだこれ」

 竜也は言葉を詰まらせる。目測だが、その船の全長は一〇〇メートルを優に越えている。船底から甲板までの高さは約二〇メートル、甲板の上の構造物も一〇メートルくらいの高さがありそうだった。信じられないくらいの巨船である。
 竜也はぽかんとしながらその巨船に沿うように歩いていき、そしてようやく目的地に到着した。巨船の横に建っているオンボロ小屋。竜也はその小屋の戸をノックする。戸が内側から開けられ、出てきたのは白髪の老人だった。

「おお、君か! よく来てくれたな、入ってくれ!」

「はい、お邪魔します。ガリーブさん」

 竜也が今日訪問したのは展覧会で知り合いになったガリーブという老人である。カフラはこの老人についてこのように語っていた。

「元々建築家として有名になった人で、金持ちの要望に応えて奇抜な建物を数多く設計・施工していました。ナーフィア商会でも何度も仕事をしてもらったことがあります。画家としても優秀です」

 ジャリール商会の展覧会に参加していたのも画家としての参加だったのだろう。

「――ただ、稼いだ金を奇妙な機械を作ることに費やして、すぐに散財することでも有名です。近年は船の設計建造にも手を出すようになったのですが、変な趣向を凝らしすぎて造る船がことごとくすぐ沈没するので『沈没王』の異名で呼ばれるようになっています」

 要するにレオナルド・ダ・ヴィンチや平賀源内のようなマルチタレントなのだろう、と竜也は理解した。

「ところであの船、凄いですね。あれの建造もガリーブさんが?」

「おう、ハマーカ商会のゴリアテ号だ! 全長八〇パッスス・全幅三〇パッスス! こんな巨船は三大陸中に二隻とあるまい!」

 元の世界の単位で言うと、全長が約一二〇メートル・全幅が約四五メートルとなる。排水量は四千トンから五千トンになるだろう。

「それにしても、あれだけの船を運用して採算が取れるんですか?」

 竜也の疑問にガリーブは「さあな!」と笑顔できっぱり言い切った。

「ハマーカ商会はすでにもう倒産寸前だ! 何とか進水まで商会が持ってくれればいいんだがな!」

 はっはっは!と豪快に笑うガリーブ。笑い事じゃないだろうと言うべきか、それとももう笑うしかないのか。判断に迷った竜也は曖昧に笑っておいた。

「ザキィ! 茶を頼む!」

 ガリーブの弟子と見られる20代半ばの青年がお茶を出してきたので竜也は遠慮なくそれを飲んだ。お茶というよりはお茶風味の白湯と呼ぶべき代物だったが、竜也に特に不満はない。
 ――竜也は何か用事があってガリーブの元を訪れたわけではない。展覧会でガリーブに「いつでも遊びに来い」と言われた竜也は素直にそれを受け止め、ガリーブとの親交を深めにやってきたわけだ。それが目的の一つである。

「あれだけ大きな船だと櫂では動かせないでしょう」

「おう、もちろんだ! 帆を使って航行する!」

「俺の元いた場所には外輪船というのがあって――」

「それなら儂も作ったことがあるが、やはり櫂の方が――」

「構造を複雑にすると耐久性に――」

 弟子のザキィも加わったお茶会は大いに盛り上がった。竜也が元の世界の知識をガリーブ達に伝え、二人がそれに鋭い指摘を入れる。ガリーブ達が竜也へとこの世界の技術を教え、竜也もまた疑問点を追求した。三人の知的好奇心は強く刺激され、三人は時間を忘れて語り合った。

「――ガリーブさんはヘラスに留学したことがあると聞きましたが」

「うむ! もう三〇年も前のことだが、実に有意義な経験であった!」

 会話がそんな方向に流れていき、竜也は目を鋭く光らせた。ここを訪れたもう一つの目的をようやく果たせそうである。

「ヘラスのことを、エレブのことを是非教えてほしいんですが。エレブに住む者は全員が聖杖教という宗教の信徒で、そうでない者は殺されてしまうと聞きましたが」

「うむ、その通りだ! 多少の誇張はあっても決して嘘ではない! だがヘラスはその辺はかなり緩やかだったぞ!」

「聖杖教の教皇がネゲヴ侵攻を公言していると……」

「ああ、そう言えばそうだったな!」

 とガリーブは能天気に笑う。

「儂がヘラスに行ったときは今の教皇が就任したばかりだったが、そのときからそれを言っていたし、その前からずっと言っているそうだ!」

「そんな……! それが実現する心配はないんですか?!」

 焦ったような竜也の様子にガリーブは戸惑いを見せた。

「うむ、だが儂がいた頃のエレブは戦乱続きだったからな。よそに攻め込む余裕なんぞありはしなかったぞ」

「それじゃ、今は?」

 うーむ、と腕を組んで考え込むガリーブ。

「彼の地を離れてもう三十年経つし、そもそもヘラスは今のエレブでは辺境みたいなものだからな」

 そうですか、と竜也は失望を隠しつつ答える。そこにザキィが、

「今のエレブのことを知りたいのならあの方を紹介してあげれば」

 と口を挟んだ。ガリーブも「おお、それが良かろう!」と膝を打った。

「今のネゲヴではあの男以上にエレブに詳しい者はいるまい! 紹介状を書いてやろう!」

「どなたのですか?」

 竜也の問いにザキィが「ムハンマド・ルワータさんです」と微笑みながら答える。竜也は驚きに一瞬息を止めた。

「あの『旅行記』の著者の……まさかそんな方を。ありがとうございます!」

 紹介状を手にした竜也は意気揚々とガリーブの元を後にした。竜也は翌日にはムハンマド・ルワータに面会すべく手続きを進める。

『聖杖教の教皇がネゲヴ侵攻を公言していることを聞き、私は危機感を持っています。ですがエレブは遠く、その情勢を知ることは困難です。昨今のエレブ情勢についてネゲヴで最も詳しいのはあなただとガリーブ氏からは聞いております。是非私にそれを教えてほしいのです』

 竜也はログズに代筆を依頼して手紙を作成。ガリーブからもらった紹介状を添付してそれをムハンマド・ルワータへと送ったのだ。

「でも直接送れるわけじゃないんだよな。本当にこれで届くのかな」

 ムハンマド・ルワータもまたバール人の血筋であり、スキラ商会連盟に所属しているという。連絡が取りたければ商会連盟を経由するのが一番確実だそうで、手紙も商会連盟に送付を依頼したのである。
「これで後は向こうから連絡が来るのを待つばかり」

 果たして何日かかることか、そもそも無視されずにちゃんと返答してくれるだろうか、と竜也は心配していたのだが――。







 商会連盟に手紙の送付を依頼して二日後。
 時刻はすでに昼近くだが、竜也達はまだ起き出したばかりである。竜也は朝食兼昼食の前に珈琲店前の道路をほうきで掃いて掃除していた。

「今日は次の小説の推敲くらいしか予定が入っていないけど、どうしようか」

 等と考えつつ機械的に手を動かして掃除が終わった頃、見慣れない人物が接近してくるのが目に止まった。立派な身なりで、年代は三〇代半ば。おそらくバール人商人だろう、海焼けした肌は浅黒い。背が高く、洒落た口ひげを蓄えた伊達男である。
 その男は竜也の視線を受けながら真っ直ぐに竜也へと接近してくる。竜也は出迎えるようにその男へと向かって一歩進んだ。
 男は竜也から数メートルの距離を置いて立ち止まった。男は笑みを見せながら、

「ここにクロイ・タツヤという者が住んでいると聞いたのだが、君がそうだな?」

「はい。あなたはもしかして」

 ああ、と男は頷き、

「私がムハンマド・ルワータだ」

 と誇らしげに名乗った。
 やはり、と思いつつも竜也は驚きを禁じ得ない。

「……まさかわざわざ来ていただけるなんて。連絡してもらえればこちらから伺ったんですが」

「いや、ここは私が出向く方が筋というものだろう」

 とルワータは不敵な笑みを見せる。そして聞き惚れるくらいのその渋い声で、

「すまんが金を貸してくれ」

 いろんなものを台無しにする、それがムハンマド・ルワータという男との出会いであり、最初の会話だった。







[19836] 第九話「日常の終わり」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/12 21:11



「黄金の帝国」・漂着篇
第九話「日常の終わり」





 キスリムの月(第九月)の上旬。「マラルの珈琲店」にムハンマド・ルワータが訪ねてきたところである。竜也は彼を珈琲店内の個室へと招き入れた。
 ラズワルドが運んできた冷水で軽く口を湿らせ、竜也は最初に断った。

「まず、わざわざ来ていただいたことにはお礼を言います。ですがそれと借金の件は別です」

「ああ、判っている」

 とルワータは手を振った。

「君の暮らしぶりを見れば言いたいことは判る。だが私は何も君自身へと借金を申し込もうというのではないのだ。君がナーフィア商会令嬢のカフラマーンと交流があることは聞いている」

「ナーフィア商会への借金に口添えをしろ、ということですか?」

 その通りだ、とルワータは力強く頷いた。竜也が何か言う前にルワータが続ける。

「私はもう一度エレブに行かなければならない。行ってこの目でエレブの状況を確かめなければならないのだ――手遅れになる前に」

 ルワータの鋭い眼光が竜也を射貫く。竜也もまた真剣な眼差しをルワータへと向けた。

「……エレブ情勢は不確かな噂しか聞くことができず、詳しい話が判りません。情勢はそれほど切迫しているのですか?」

「ああ。聖杖教の教皇が今日、今、ネゲヴ侵攻を正式に宣言しても何の不思議もない。私はそう思っている」

 ですが、と竜也は戸惑いを見せた。

「ネゲヴの人達には全然危機感がありません。隣国の最高権力者が戦争を公言しているというのに」

「何も判っていないのだ!」

 ルワータは吐き捨てた。

「この平和なネゲヴにいてあの戦乱続きだったエレブの、何が判る! 数多の神々が崇められるこのネゲヴにいて、たった一つの神しか崇めることを許されないエレブの、何が判る! 彼の地を知るには彼の地に行くしかないのだ、彼の地に行った者の話を信じるしかないのだ。それを……」

 ルワータは歯ぎしりをする。ルワータが自分の気持ちを静めるまで少し間が空いた。

「――失礼した」

 いえ、と竜也が返す。竜也は用意しておいた地図を机の上に広げた。ハーキムの持っている地図を模写した、自作の地図である。

「基本的なところから確認させてください。エレブは戦乱が続いていると聞いています」

「ああ、しばらく前まではな。今は大きな戦争は起こっていない」

 エレブには数多の王国があるが、主要なのは次の五つで五王国と呼ばれている。
 フランク(フランスに相当)。
 ディウティスク(ドイツとオーストリアに相当)。
 イベルス(スペインとポルトガルに相当)。
 レモリア(イタリアに相当)。
 ブリトン(イギリスに相当)。

「このうち一番の大国はフランクだ。聖杖教の中心地、教皇庁もフランクのテ=デウムという町にある。ほんの三〇年ほど前まで、フランクは有力諸侯が好き勝手に勢力争いをくり返し、国王はそれを制御できないでいた。それは他の王国も同じだった。そんな小競り合いや戦乱は無法時代からずっと続いていることだったのだ」

 だがその流れは先代のフランク国王アンリの時代から変わってくる。フランク王アンリは王権強化を打ち出し、その実現に邁進したのだ。彼は国内諸侯の自治権を制限しようとし、軍権を自分の元に一本化しようとし、税収を国庫に一元化しようとした。

「それは、猛反発を受けるんじゃないんですか?」

「当然そうだ。もちろんアンリは一足飛びにそれらの政策を実現しようとしたわけではない。何年も何十年もかけて少しずつ、一つずつ諸侯の特権を剥奪していったのだ」

 この王権強化の動きはフランク王国だけではない。ディウティスク等他の四つの王国においても軌を一にして王権強化が進められた。

「この背後には教皇庁の、教皇インノケンティウスの意志があったと私は考えている。彼は教皇に就任する前からネゲヴ侵攻を主張し、エレブ中を遊説して回っていたのだ」

「教皇はエレブ中の全ての軍勢を率いてネゲヴに攻め入ろうとしていると」

 その通りだ、とルワータが頷く。

「エレブ人同士で争っている限りそんなことは夢のまた夢だ。だからまずはエレブ人同士の争いをやめさせる必要があったのだ。そのためには争う諸侯の力を削ぐ必要があり、そのためには王権を強化する必要があった。これを見てくれ」

 ルワータが何かの書面を取り出し、竜也はそれを受け取る。竜也は書面に目を落とした。

「七年か八年前になるが、私が聞いた枢機卿アンリ・ボケの演説を書き起こしたものだ」

「え、そんな機会があったんですか」

 と驚く竜也。

「ああ。教皇は民衆に直接語りかけることをくり返しているし、その部下達もそれになっている。枢機卿アンリ・ボケは教皇の腹心として有名な男だ。一回だけだが彼の演説を聞く機会があった」

 あの熱狂は凄かったぞ、とルワータは引きつったような笑みを見せた。竜也はその演説を読み進めた。





『……神はアブラハムに「乳と蜜の流れる地」を与えると約束をし、モーゼに人々を約束の地へと導くよう命じた。そして神は我等に約束の地を取り戻すよう命じたのだ。約束の地とは、「大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て」。大海とは西の大洋のことであり、つまりカナンやエレブだけでなくネゲヴもまた約束の地なのだ』

『……神が我等に与えた約束の地は、今忌まわしき異教徒によって奪われ、汚されている。彼の地に巣くう異教徒と悪魔の民を排除し、神と我等の物を我等が手に取り戻さなければならない。異端に奪われた信仰の証を奪還しなければならない』

『……彼の地に巣くう異教徒を生かしてはならない。悪魔の技を使う、呪われた民を生かしてはならない。異教徒に阿り、真の信仰に背を向ける異端を生かしてはならない』

『……神の戦士よ、聖戦の騎士よ。立ち上がれ、そして南へと向かえ。汝等こそまさに神が振り上げる聖なる鉄槌。神の栄光は汝等のものである……』





 そこに書き連ねられていたのは、文字の形をした狂信の結晶。「神の栄光」の美辞麗句の裏には、異教徒を人間として認めない狂気と妄信が。「約束の地を取り戻す」という宗教的情熱の裏には、豊穣なネゲヴの地を奪わんとする悪意と強欲が、隠しようもなく潜んでいた。

「十字軍……! 十字軍が、この世界で……!」

 預言者フランシスの布教から七〇〇年。フランシスが持ち込んだ一神教の狂気と妄信は七〇〇年を経て十字軍の再現という形で結実しようとしているのだ。恐怖とも憤怒ともつかない激情が竜也の臓腑をかき回す。雨に濡れたような大量の汗が、竜也の額を流れた。

「タツヤ?」

「――ああ、すみません」

 ルワータの怪訝そうな問いにタツヤは何とか返事をする。平静を装った竜也は不明な点を確認する。

「ここにある、『信仰の証を奪還しろ』とはどういうことですか?」

「聖杖教の伝説上の創始者、モーゼが使っていた杖のことだ。聖杖教の名の由来でもあり、象徴でもあるその杖がメン=ネフェルの聖モーゼ教会に所蔵されている」

 今から四百年前のゲラ同盟時代のこと。布教のためケムトにやってきた宣教師がメン=ネフェルでモーゼの使っていた杖を発見。それを記念し、杖を守護するために建てられたのがメン=ネフェルの聖モーゼ教会である。

「テ=デウムの教皇庁は聖モーゼ教会に『モーゼの杖』を教皇庁に移管するようくり返し要求したが聖モーゼ教会はこれを拒否。最後には互いに破門し合って、両者は完全に関係を絶っている」

 バール人の時代には多数の教会がネゲヴに建てられたが無法時代を挟んでそれらは全て自然消滅してしまい、現在生き残っているのは聖モーゼ教会とその周囲のいくつかの教会だけである。また、聖モーゼ教会は現在生き残っている唯一の聖杖教の分派でもあるのだ。

「『モーゼの杖』を奪還することは教皇庁にとって長年の悲願なのだ」

「まさか……彼等は杖一本のために戦争を起こそうと……?」

 竜也は愕然としつつそれを問う。ルワータの答えは、

「それだけが目的なわけではない。だが大きな目的の一つになっていることは確かだ」

「馬鹿げてる!」

 竜也は炎を噴くような剣幕で吐き捨てた。

「どう考えも偽物じゃないかそんな杖……! そんなもののために戦争をやろうだなんて……!」

 仮にモーゼ、あるいはそれに相当する人物が実在だったとしても(おそらくは実在するのだろうが)、仮に彼の使っていた杖が三千年の時を経て現存していたとしても(限りなくあり得ない話だが)、それがあるとするなら元の世界であって、この世界にそんなものがあるはずがない。

「確かに君の言う通りだ、あまりに馬鹿げている。……だが、教皇庁にとってはそれは戦争する理由に足るのだ。聖杖教の信者にとっては生命を懸ける理由に足るのだ」

 ルワータは深々と嘆息しつつ首を振った。そして気持ちを切り替えて説明を続ける。

「教皇に言わせればネゲヴ侵攻こそが神の意志、それに反対する者こそ不信心者であり、異端――教皇は自分に協力する王室にそんなお墨付きを与える一方、反対する諸侯に対しては破門をちらつかせて脅迫した。教皇と五王国の王室は互いに協力し合い、利用し合いながら王権強化を進めてきたのだ」

 もちろん特権を奪われる諸侯側の反発も強かった。諸侯側は剣を取って決起し、王室側もそれを迎え撃つ。激しい戦火がエレブ中を舐め尽くした。

「このためこの三〇年はエレブ中で戦乱が絶えることはなかった。この戦乱の印象が強いからこそ、こちらの誰もが『ネゲヴ侵攻などあるわけがない』と思い込む理由になってしまっている」

 ルワータは苦々しげな顔をした。そして「だが」と続ける。

「私の協力者からの連絡ではこの戦乱はもうほとんど収まっている状態なのだ。もちろん戦乱の火種はそこら中に残っている。だがそれぞれの国王に刃向かえるような勢力がもう全く残っていない。王権強化は達成されたと見るべきなのだ」

「――エレブの戦場では鉄砲や大砲は使われるんですか?」

 不意の質問にルワータは若干戸惑いながらも、

「そうだな。以前はあまり使われなかったが、ここ三〇年間の戦乱で急速に広まっている。今では鉄砲や大砲なしの戦争など考えられないくらいだ」

 竜也は「なるほど」と頷いた。
 冒険者レミュエルがこの世界に銃器を伝えたのが四〇〇年前。だがアイディアや現物がいくら伝わってこようと、それを製造し利用するには社会的なバックボーンが必要だ。冶金技術の向上やネジの発明・製造。高価な銃器や火薬を大量生産できるだけの経済力。そういった社会の総合的体力があってこそ初めて銃器を戦場で活用できるようになる。エレブは鉄砲伝来から四〇〇年を経てようやくそれができるだけの背骨を、体力を持つようになったのだろう。

「銃器がなければ戦場で勝つことはできない。それも一丁や二丁じゃない、何百何千と揃えないと戦場では意味がない。でも鉄砲も火薬も非常に高価な代物です。中小の諸侯ではとても何百何千は揃えられない」

「ああ、確かに」

「それができるのは国王か大規模な諸侯に限られる。鉄砲を揃えないと戦場で勝てないのなら、勝てるのは国王と大諸侯だけ。そして教皇庁は国王に味方をした……諸侯が力をなくして特権を奪われていったのはそんな背景もあるんじゃないですか?」

 竜也の指摘にルワータは瞠目した。

「ああ、言われてみればその通りだ。確かにそれは大きな理由だろう」

 竜也の念頭にあったのは日本の戦国時代だ。一〇〇年続いた戦国時代が織田信長の登場により終息していった、その理由。織田信長に鉄砲の威力を認める先見性があったのは言うまでもないが、それを真に戦力とするには先述したようにそれだけの経済力が必要なのだ。雌雄を決するのが経済力となり、小規模諸侯の自主独立は消えていき、大規模諸侯とその連合だけが残っていった。
 織田信長の跡を継いで一応の天下統一を果たしたのは豊臣秀吉だが、彼はその後何をしただろうか?

「……エレブでは長年戦乱が続いていたが今は収まっている、そう言ってましたね」

「ああ」

「これまでは騎士や兵士、傭兵が戦場で戦い続けてきた。でも戦乱は収まってしまった。彼等はどこに行くんでしょうか。故郷に戻って畑を耕す、そんなことができるんでしょうか」

 ルワータは竜也が何を言いたいのかを理解した。

「中にはそういう者もいるだろう。だが大半の者には帰る場所などあるまい。もし何もなければ、奴等は山賊となって跳梁するだけだ」

「何かを考えないといけないですよね。失業した兵士や傭兵の行き先を」

「そうだな――考えるまでもないだろうが」

 竜也とルワータは一つの未来を想像していた。暗澹たる思いを抱きながら。







 その日の夕方。カフラが次の劇の打ち合わせのため竜也の元へとやってきた。だが竜也は演劇の話などそっちのけで、聖杖教の脅威について言葉を尽くしてしゃべり続けた。
 しかし、カフラと同席したログズの反応は竜也の望むものとはかけ離れていた。

「だがタツヤ、バール人の時代からエレブの軍がヘラクレス地峡を越えたことは一度もないんだぞ?」

 ログズさん、あなたもですか、と竜也は頭を抱えたくなった。

「名前は聞いたことがありますが、その人は本当に信用できるんですか? 詐欺を働こうとしていることは」

「いや、それはない。ラズワルドが確認している」

 ムハンマド・ルワータが過去エレブに何年も滞在し、深い知識を持っていること。彼のエレブに対する危惧と恐怖が本物であること。二点ともラズワルドが恩寵を使って確認しており、疑う必要はなかった。

「今まで過去に一度も起こらなかったことがこれからも起こらないと、どうして言えるだよ。本当に侵攻が始まってからじゃ何をしようとしても遅いんだぞ? 動くなら今すぐ動くべきなんだ」

 ログズはその言葉に早い理解を示すが、カフラは当惑したままだ。

「ですが、それならどうすればいいって言うんですか?」

「ムオードさん達町の有志程度じゃ本物の軍に対抗できるわけがない。傭兵を雇って対抗するしかないと思う。でも、エレブの軍勢は最低でも数万、場合によっては十万二十万が攻めてくる可能性だって考えられる。そんなの、ルサディル単独の力じゃどうにもならない。ネゲヴ全体の力を合わせるしかない。ネゲヴ全体の被害を最小限に留めるためにはルサディルで敵を撃退する必要がある。そのためにネゲヴ中の町が協力して、ネゲヴ中の町が傭兵を雇って、ルサディルに送り込むべきなんだ」

 竜也の主張を吟味していたカフラは「んー」と首を傾げ、

「おそらくそれは難しいでしょうね」

 と結論した。竜也は「どうして」と反発する。

「傭兵を雇うにはそれだけの費用がかかりますけど、それを誰が負担するのかという問題があります。わたし達中央の者は『当事者の西ネゲヴの町が負担するべきだ』と主張するでしょう。西ネゲヴの人達は『金を持っているバール人がより多く負担するべきだ』と言い出すかもしれませんし、東ネゲヴの人達は『我関せず』と負担を拒否するかもしれません。仮に敵に対抗して十万二十万の傭兵を集められたとして、それを誰が指揮するのかという問題もあります」

 竜也が問題点を理解しているのを確認し、カフラが続ける。

「負担と指揮を巡ってネゲヴ中の町が対立し、話はまとまらないと思います。話がまとまるとしたらエレブの軍勢が目前まで迫って、どうにもならなくなってからじゃないでしょうか。本気になって動くのはルサディルが落とされてからになるかもしれませんね」

「そんなの……!」

 問題の深刻さを理解させるために町一つを見捨てろ、と言うのか。竜也は無力感を、唇を噛み締める。
 竜也の心の奥底で、黒い何かが身をうねらせた。

(――っ、待て、そんな場合じゃない)

 竜也は首を振って意識を切り替えた。

「ログズさんはどうすべきだと思いますか?」

「タツヤ、俺は場末の新聞屋に過ぎないんだぜ? できることがあるとしたらルサディルの民会か長老会議に警告をするくらいだろう」

「そうですね。それで長老達が相談して、戦うなり逃げるなりの結論が出ればそれでいいんじゃないんですか? タツヤさんにできるのはその程度でしょう?」

 その他人事のような物言いに竜也は反感を覚えてしまう。

「でも、あの町には知り合いがいるんだ」

「ですが、タツヤさんにはどうしようもないことでは? その知り合いに警告して、その方達が自分の判断で逃げて、無事でいてくれればそれで充分なんじゃないんでしょうか。一介の庶民に過ぎないタツヤさんがそれ以上何をする必要があるんですか?」

 カフラは不思議そうに問いかける。竜也はそれに何も答えられなかった。







 その夜、一人屋根裏から屋根の上へと出た竜也は星空を見上げていた。産業活動に一切犯されていない大気はどこまでも澄み、空は宝石箱のように星々が燦めいている。

(確かに、俺の力じゃラズワルド一人守ることだって満足にできない)

 竜也は握りしめた拳を見つめる。大して筋肉のついていない、細い手を見つめた。

(でも、俺には『黒き竜の血』が――)

 エレブの侵略軍が何万、何十万と押し寄せようと、それが目覚めさえすれば皆を助けられるのだ。
 竜也は自分の内側を見つめるように目を瞑った。『黒き竜の血』を目覚めさせるべく精神を集中させた。
 魂の奥底に眠る力を探すつもりで、記憶の奥底に眠る何かに光が当たっていく。

(……ぼくには、ほんとうはすごいちからが……)

 そう言えば、どうしてこんなことを考え出したのだろうか。小学生の頃にはもう信じていた。

「今の親は僕の本当の親じゃない。僕は橋の下で拾われた子で、黒い竜が本当の親なんだ。いつか僕は竜の血に目覚めるんだ」

 確か、最初に考え出したのはそんな設定だった。敖順とか何とか、親の名前や設定も図書館で調べて考えて。竜王族内部の確執があって、親は僕を育てられなくなって人間界に一時的に避難させるつもりで……とか。
 中学生になる頃には、さすがに両親との血のつながりを否定できなくなったし、肉体的に竜の子供だという設定に無理を感じるようになった。だから、

「黒き竜が人間界に転生した姿で、竜の魂に目覚めれば黒き竜の力が使える」

 そんな設定に変わっていったんだ。それで、竜の魂のことを象徴的に「黒き竜の血」と呼んでいて……。
 竜の力を使って、自分が人間じゃないと信じてまで、俺は本当は何がしたかったのだろう。確かそう、小学生の頃、許せなかったものがあったのだ。
 例えば九・一一の同時テロ。その報復としてのイラク戦争と、民間人の殺戮。グァンタナモ等の収容所。アメリカは民間人を殺戮すること、イスラム教徒を侮辱することが目的なのであって、テロとの戦いは単なる口実にしか思えなかった。
 例えば、三・一一の東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故。それまでの生活が奪われ、困窮を余儀なくされる人達がいる一方、事故を引き起こした者達は責任逃れに終始し、何ら処罰もされず、負担や賠償の回避に汲々としている。
 仮にも民主国家で何故こんな非道が認められるのか、どうしても理解できなかったし、許せなかった。悲しいニュースは見たくなかった。悪い奴等をぶん殴って成敗したかった。泣いている人達を助けたかったのだ。
 だけど現実の自分は無力な子供でしかなく、「自分は竜の血を引いている」と信じ、空想の中で悪い奴等をやっつけるしかなかったのだ。

「無力な子供……今でもそうだ。何も変わらない」

 悲惨な戦争が始まろうとしている。多くの人が死のうとしている。それなのに何もできない、何の力もない小さな手を、竜也は強く握り締めた。







 竜也はカフラにムハンマド・ルワータに対する支援を依頼。カフラの回答は、

「エレブの問題はナーフィア商会だけで対応するべきことではないでしょうから、ルワータさんへの支援は商会連盟として行うのが筋だと思います」

 カフラの言うことはもっともで、竜也はぐうの音も出ない。

「ナーフィア商会が支援実施を提案するよう働きかけてみますから」

 とも言っていたが、カフラ自身も結果については自信がなさそうだった。商会連盟を運営しているのは評議会で、有力商会の当主またはその代理人が評議員となっている。ナーフィア商会から評議員になっている人間はカフラにとっては顔見知りだが、命令を下せるような立場にあるわけではない。何かの機会に進言をするのがせいぜいだ。

「……何かもっと確実な方法は」

 竜也は思い悩み考え、やがてある方策にたどり着いた。

「これだってとても確実とは言えないけど、カフラに頼みっぱなしってわけにもいかないしな。俺がしっかり説得すればいいことだ」

 竜也は早速行動を開始、向かう先はジャリール商会である。

「すみません、ジャリールさんにお会いしたいんですが」

「お約束のない方とお会いすることはできません」

 正面突破を計った竜也は敢えなくはね飛ばされる。だがそれも想定内である。

「でしたらこれを」

 竜也は用意していた書状を秘書らしき人物に手渡し、その日は素直に退散した。竜也がジャリールから招待されたのはその数日後である。竜也は意気揚々とジャリール商会へと向かった。
 ジャリール商会本館の応接間で待つこと小一時間、ようやくジャリールが姿を表した。竜也は出迎えるように立ち上がった。

「クロイ・タツヤです。今日はお時間を作っていただきありがとうございます」

「面倒な挨拶は抜きだ、座れ」

 ジャリールはどっかりとソファに腰を落とす。竜也もまたジャリールに向かい合って座った。

「なかなか良い絵を送ってくれたな。礼を言おう」

 とジャリールはにやりと笑う。竜也はジャリールの興味を引くために書状に似顔絵を添付しておいたのだ。例によって木炭鉛筆で描かれたジャリールの素描である。写実的な描写で、好意を得るために三割増しで美化しておいたのが功を奏したようである。

「さて、あまり時間はない。用件は手短に頼む」

「は、はい。ムハンマド・ルワータという著名な冒険家がいます。彼のエレブ調査に支援をいただきたいのです」

 竜也は現在のエレブ情勢について、ネゲヴ侵攻を公言する教皇について、調査の必要性について熱を込めて説いた。事前に資料とカンニングペーパーをまとめておいたこともあり、竜也の説明は簡潔ながら要点を突き、判りやすいものとなった。

「ふむ、なるほど」

 一通り説明が終わり、ジャリールが頷く。

「エレブの状況については交易している船長からも不安の声を聞くことがある。本格的な調査が必要なのかもしれんな」

「はい。商会連盟として調査をするのであればその費用は連盟の運営費から支出されます。ジャリール商会が特別損をするわけではありません。ナーフィア商会のカフラマーンにも協力してもらっています」

「うちが提案し、ナーフィア商会が賛成するなら評議会で通らない議案はないだろうな」

 ジャリールはそのまま沈黙する。竜也もまた口を閉ざし、ジャリールの発言を辛抱強く待った。

「……エレブ調査の件、うちが評議会に提案してやってもいい。だが条件がある」

「何でしょう」

 竜也は身を乗り出した。竜也の必死な視線を受け、ジャリール人の悪い笑みを見せた。

「先日の展覧会で、時間があれば何か出展したかったと言っていたな。その作品を見せてもらおうじゃないか」

「絵画ですか」

 と竜也は若干戸惑う。

「彫像でも構わんぞ。だが詩作や小説は駄目だ。その作品を私が所有し、人に見せびらかして自慢できるものでなければならん」

 ジャリールのあまりにあけすけな物言いに竜也は少し呆れる。だがその裏表のないところはむしろ好ましく感じられた。

「最低限、あの展覧会に出展して恥ずかしい思いをしないもの。望ましいのは人目を引いて話題をさらうくらいの凄いもの……」

 竜也のつぶやきにジャリールは「そういことだ」と頷いた。

「それでどうするのだ?」

「やります。少し時間をください」

 ジャリールの問いに竜也は即答。ジャリールは「よかろう」と鷹揚な態度を取った。

「必要な費用は出してやろう。急ぐ話ではない。一年でも二年でも待ってやる」

 ジャリールはそう言い残し立ち去っていく。竜也もまたジャリール商会を後にした。

「そんなに時間をかけられるか。エレブがいつどうなるのか判らないのに」

 スキラの町中を早足で歩きながら、竜也は何を作るべきか懸命に考えを巡らせた。

「やっぱり絵が一番手っ取り早いよな。でも、以前書いた看板よりインパクトのある絵なんて描けるのか? そうなると彫像……でもヘラス彫刻に匹敵する彫刻なんて俺にはとても……いや、デザインだけやって実際に掘るのは人任せでも構わないか」

 ぶつぶつ呟きながら通りを歩く竜也は前方不注意のため向かいから歩いてきた傭兵風の男とぶつかった。

「すみません、すみません」

 とくり返し頭を下げる竜也。その傭兵は舌打ちをして去っていく。竜也は安堵しながらその鎧を着た男を見送った。

「ん? 鎧……そうか!!」

 エウレカ、とばかりに叫ぶ竜也は周囲の注目を集めるが、竜也はそんなことには構わない。竜也は下宿先の珈琲店に向かって走り出した。
 下宿に戻った竜也は「スキラの夜明け」社の一角を占拠し、制作に取りかかった。ラフデッサンを何枚も何枚も描いてデザインを決定し、それに基づいて完成予想図を何種類か描いて、さらにそれに基づいて設計図を作成する。二日徹夜し三日目にダウンし、その翌日には体調を整えて外出した。向かう先はスキラ港の造船所である。

「おお、タツヤではないか! 今日はどうしたのだ!」

 ガリーブの元を訪れた竜也は経緯を説明した。

「――それで、彫像を作ることにしたんですけど絵と違って自分では作れないんで、良い職人がいたら紹介してもらおうと思いまして」

「ほう! それで、どんなものを作るつもりなのだ?」

 これです、と竜也は机の上に完成予想図を広げる。ガリーブとザキィはそれをのぞき込み、しばし言葉を失った。

「……これは、何と言っていいのかも判らんな」

 と首を振るガリーブ。

「これはもしかして鎧ですか?」

 ザキィの問いに竜也は「ええと、一応」と答える。ガリーブは不思議そうな顔をした。

「こんなもの着れんぞ? 人間はこんな骨格をしておらん」

「ええ、まあ、見た目でジャリールさんを驚かせるためのもので、実際に着て動くことは考えなくていいと思うんです」

 竜也はちょっとばつが悪そうにそう言う。

「それなら鉄じゃなくて木で作ったらどうですか? そっちの方が早いし安上がりですよ」

 竜也は「早い」という言葉に強く心引かれたが、

「でも、木と鉄じゃ質感が全然違います。木じゃあまりに安っぽくなるでしょう?」

「その辺は塗装で何とかしたらいいのでは? こんな曲線の鎧を打ち出すのは腕の良い鍛冶屋でもかなり難しいと思いますよ?」

 竜也も同じことを薄々と感じていたのでザキィの進言を受け入れ、結局それは木材で作られることとなった。

「ここで働いている職人を紹介しますよ」

 と木工職人も同時に手配してしまう。

「造船の仕事はいいんですか?」

「最近は職人への日当も遅配ばっかりで、みんなろくに働いてないんです。彼等にとってもいい小遣い稼ぎになりますから」

 とザキィは虚ろな目で説明する。竜也にできるのは同情だけだった。
 翌日には木工職人を六、七人揃え、鎧の制作が開始される。竜也の指示に従い職人達が木材を切り、削り、それぞれの部品を作っていく。ザキィがそれを補佐した。さらに竜也はガリーブと一緒に塗料の研究を進める。

「一番綺麗な赤が出るのはどれですか?」

「うむ、やはりこれだろう!」

「下地にこっちを塗って、乾いたら本番の塗料を重ね塗りして、仕上げにヤニスを塗って――」

 そうやって試行錯誤をくり返し、本体の作成でも失敗ややり直しを何度も重ね、ようやく満足の仕上がりを見た頃には暦はティベツの月(第一〇月)を通り過ぎ、シャバツの月(第一一月)となっていた。
 シャバツの月の上旬、竜也はジャリールの屋敷を訪れていた。作品のお披露目と納品のためである。カフラがそれに同行した。

「一体何を作ったんですか?」

「ま、それは見てのお楽しみだ」

 屋敷に招き入れられた竜也はジャリールに簡単に挨拶をし、隣室に移動して準備をする。その応接間にはジャリールとカフラが残された。

「一体何が出てくるんでしょうか。ジャリールさんはご存じですか?」

「知らんな。知ろうと思えば知ることはできたが、それでは楽しみがなくなるだろう?」

 とジャリールは楽しげである。カフラは気を揉み、ため息をついた。

「お待たせしました」

 そこに竜也が姿を現し、台車に乗せたそれを運んできた。高さ二メートルを超える彫像のようだが、白い布をかぶせてあり姿は見えない。同行した二人の職人が倒れないように支えている。
 その彫像は部屋の真ん中に設置される。「それでは」と竜也が白い布を一気に引き、彫像がその姿を現した。全身が真紅のその彫像に、

「……こ、これは」

 と言葉を失うジャリール。カフラもまた同じように驚きに見舞われているが、

「ああ、やっぱりタツヤさんですね」

 と心のどこかで納得していた。

「……これは、一体何なのだ」

「一応鎧?です」

 何で疑問符付きなんですか、とカフラは内心で突っ込んでいる。竜也が作成したその鎧?を元の世界の人間(日本人)が見たなら、

「ガンダムに出てくるモビルスーツみたいだな」

 と感想を述べるだろう。もっと詳しい人なら、

「『逆襲のシャア』でシャアが乗っていたサザビーにそっくりだな」

 と言うに違いない。身も蓋もない言い方をすれば十分の一スケールの木製ガンプラ、偽サザビーのウッドモデルである。
 基本は逆シャアのサザビーだが記憶が曖昧な箇所は「天空のエスカフローネ」のガイメレフや「ファイブスター物語」のモーターヘッド等の要素を取り入れている。それに作成者の木工職人達がこの世界の鎧に意識を引きずられたため、サザビーを基本としながらも中世的要素が多く取り込まれた。結果として完成したのは、未来的先鋭的デザインと中世的懐古的デザインが融合した、ファンタジー的としか言いようのない鎧っぽい何かである。

「どうでしょう? 職人さん達も良くやってくれましたからなかなか満足のいく出来となったと思うんですが」

 だが竜也の期待に反し、ジャリールの反応は芳しくなかった。ジャリールは深々とため息をついて首を振っている。

「……確かに出来自体は悪くない。だが我々の常識とはあまりにかけ離れていて、何と比較してどう評価していいのかも判らん」

「そうですね。二の腕や太腿がひどく小さいのがあまりに珍妙ですし、そこから先が随分膨らんでいるのもまた不細工のように思えます」

 思いがけないカフラの酷評に竜也はためらいがちに反論する。

「いや、それが格好良いんだけど……」

「そう言われればそんなような気がしなくもないです。でも、それを理解できる人が果たして何人いることか」

 タツヤさんは未来に生きすぎです、とカフラはため息をついた。

「……え、それじゃ約束は」

 竜也は顔を青ざめさせる。だがジャリールは首を振った。

「いや、君は充分な仕事をしてくれた。エレブ調査の件、約束は守ろう」

「あ……ありがとうございます」

 竜也は安堵で膝が崩れそうになりながらも踏み止まり、深々と頭を下げた。

「ところでこれは何なのだ。君の元いた場所では戦士がこんな鎧を着て戦うのか」

「いえ、これは人気のある絵物語に出てきた鎧で、実際に着て戦うことを考えてあるわけじゃないんです」

 ジャリールとカフラは四方八方からしげしげとその彫像を眺めている。

「そのお話ってどんなのなんですか?」

「この鎧、本当は物語の中じゃこの十倍の大きさがあるんだ。騎士がこれに乗って戦うんだよ」

「そんなもの、どうやって動かすんですか?」

「核融合……じゃなくて、太陽の力で」

 竜也達はその彫像を中心に、しばしの歓談を楽しんだ。
 そしてシャバツの月の下旬、スキラ商会連盟本館にて定例の評議会が開催される日である。ジャリールは今回代理人に任さず当主自ら出席。ジャリールに伴われてムハンマド・ルワータが参考人として出席した。またカフラも発言権は持たないものの、傍聴人として同席している。
 一方竜也は出席も同席もできず、会議場の外で待つことしかできない。議場に続く通路の片隅で背中を壁に預け、竜也は目を瞑って佇んでいた。気を許すと貧乏揺すりをしたりそこらを歩き回りたくなったりしてくる。竜也は心身の動揺を抑えるのに精神力と体力を費やした。

「……静かなること林の如く、動かざること山の如し」

 明鏡止水の境地には程遠いものの、少なくとも身体は彫像のように微動だにせず。竜也はただ静かに会議が終わるのを待つ。
 一体どのくらいの時間そうやって待っていたのだろうか。時刻はすでに夕方になっている。不意に議場の扉が開いて評議員の面々がぞろぞろと退出してきた。竜也はその中に見知った顔を探した。

「カフラ、どうなった? ルワータさん、支援は」

 そんな竜也をジャリールが呼ぶ。

「ついてこい。部屋を取ってある」

 返事を待たずにジャリールが本館の一角へと進んでいく。竜也は慌ててその背中を追い、それにカフラとルワータが続いた。
 ジャリールが向かった先は応接室の一つだった。それなりに見栄えのする部屋の中には ソファとテーブルのセットが置かれている。ジャリールは中央のソファに座り「座るがいい」と促す。竜也達は空いている場所に着席した。
 一呼吸置いてジャリールが話を始める。

「まず伝えておこう。スキラ商会連盟はムハンマド・ルワータに対し、エレブがネゲヴを侵攻する可能性についての調査を依頼。必要な支援を行うことを決定した」

 竜也は目を見開き、思わず立ち上がっていた。竜也はジャリールとカフラに対して深々と頭を下げる。

「ありがとうございます! ジャリールさんも、カフラも」

「何、礼を言われるほどのことでもない」

 とジャリール。次いでカフラが、

「エレブでの現地調査はルワータさんにお願いするとして、その報告や別口で入手した情報を報告書にして評議会に提出する、そういう役目をする人が必要です」

 なるほど確かに、と竜也は頷く。カフラはちょっと呆れたように、

「その役割をタツヤさんにお願いしようと思っているんですけど」

「え、俺に?」

 竜也は意表を突かれたような顔をした。

「それは構わないけど、いいのか、俺で?」

「どうせタツヤさんことだからルワータさんに任せきりじゃなくて自分でも動こうとするでしょう? それなら商会連盟のそういう仕事をしてもらった方がいいと思ったんです。安いですけど報酬も出ますし」

 ああ、それは助かるな、と竜也は破顔する。

「ありがとう、カフラ」

「礼を言われるようなことじゃありません」

 竜也は屈託なく澄んだ笑顔で礼を言い、カフラは素っ気なくそう答えてやや赤らめた顔を竜也から背けた。竜也はそれに気付かずにルワータの方へと顔を向ける。

「それで、ルワータさんはいつエレブに?」

「できるだけ早く。準備が整い次第すぐだ」

 竜也の真剣な瞳に、ルワータもまた真摯な眼差しを返した。

「どうかお気を付けて」

「ああ、もちろんだ」

 ルワータは両商会から支持を受け、商会連盟から充分な支援を受け、万全の準備を整えた。ルワータを乗せた船がエレブへと向けて出航したのはアダルの月(第一二月)の中旬。ルワータがエレブの拠点に到着したのはその月の終わり、間もなく三〇一四年が終わって三〇一五年になろうとする頃だった。
 竜也が元の世界にいたならば高校を卒業して大学生になろうとしている頃だろう。だがこの世界にやってきてから一年半が過ぎ、そんな風に元の世界のことを考えることもほとんどなくなっていた。「このままこの世界に骨を埋めるのだ」と、覚悟も悲壮感もなく、ただ自然にそう思えるようになっている。
 それと同時期――







 年も新しくなり、海暦三〇一五年ニサヌの月(第一月)・一日。教皇インノケンティウスが聖戦を発動、ネゲヴ侵攻の宣戦を正式に布告した。竜也達がその事実を知るのは少し先のことである。







[19836] 第一〇話「エレブ潜入」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/19 21:07



「黄金の帝国」・戦雲篇
第一〇話「エレブ潜入」







 ときは海暦三〇一五年ニサヌの月(第一月)の中旬、ムハンマド・ルワータがエレブに旅立って一ヶ月が経った頃。竜也の元にルワータからのエレブ情勢第一報が到着した。

「聖戦を発動……!」

 教皇インノケンティウスが聖戦を発動し、ネゲヴ侵攻を正式に宣言。それが第一報の内容である。竜也は戦慄を禁じ得なかった。あるいはと恐れていたことが現実のものとなったのだ。
 竜也はその第一報を握り締めてナーフィア商会の一支部、カフラの事務所に直行。カフラに面会を申し入れる。幸いカフラとはすぐに会うことができた。

「ああ、本当にこんなことを言い出しているんですか」

 だが竜也の期待に反し、カフラの反応は暢気としか言いようがないものだった。

「でも良かったです、ルワータさんへの支援が無駄にならなくて。これでうちもジャリール商会も面目が立ちます」

「そんなこと言ってる場合か!」

 たまらず怒鳴る竜也。カフラは竜也の剣幕に当惑するしかない。

「でもタツヤさん、『教皇はエレブ全ての王国と諸侯の軍勢に集結を命じた』『総数百万の軍勢を持ってネゲヴに侵攻する、と噂されている』……いくら何でもこれは」

 とカフラは半笑いを頬に浮かべた。竜也も多少は気まずそうな顔をしたが、あくまで真剣である。

「確かに、百万ははったりが過ぎるだろうと俺も思う。でも、その十分の一でも十万の大軍勢なんだ。何か対策を考えないと」

 カフラは「落ち着いてください」と竜也をたしなめた。

「確かにこれが実行されるなら大事ですけど、まだ第一報でしょう? 次の報告には『やっぱり中止になりました』って書いてあるかもしれないじゃないですか」

「そんなの……」

 と竜也は唇を噛み締める。

「傭兵を雇うには腰が抜けるくらいのお金がかかるんです。連盟を動かすには事態をもっと明確にしないといけませんし、わたし達はそれをお仕事としてタツヤさんにお願いしているんです」

 カフラの言葉に竜也は何も言い返せなかった。
 カフラとの面会が不首尾に終わり、竜也は下宿に帰ってふて寝したい衝動を堪え、商会連盟の事務局に向かった。事務局でスキラ港の入出港記録を調べ、エレブとの交易を行っている商会や船をリストアップ。スキラに帰着している船を訪ねてエレブ情勢について聞き取り調査をするのである。
 連盟傘下の各商会にはエレブ情勢の情報収集に協力するよう要請がされている。このため面会し、聞き取り調査を行うこと自体はそれほど難しくはなかった。ただ、エレブと交易を行っている船はそれほど多くない。聞き取り調査ができるのは数日に一回のペースである。集まる情報のあまりの少なさに、そしてあまりの遅さに竜也は呆然としてしまう。一番早くて半月前の情報なのだ。

「ここにグーグルでもあればいいのに」

 と埒もない愚痴が出てしまう。二一世紀の高度情報化社会の真っ直中に生きてきた竜也にとっては信じられないくらいの迂遠さだった。
 それでも何とか集めた情報を取捨選択し、ひとまとめにして報告書にする。

『……フランク王国・マッサリアを拠点とするムハンマド・ルワータからの報告。ニサヌの月一日、聖杖教教皇インノケンティウスは新年祭で発せられた勅書にて、ネゲヴ侵攻を正式に布告……』

『……その日、テ=デウムの教皇庁には五王国の大使や使節を始めとしてエレブ中の各国代表が参集しており、教皇は全員に対してネゲヴ侵攻軍に参加することを命じた。各国代表は全員一致で聖戦の戦列に加わることを宣誓した……』

『……教皇は百万の軍勢を集めることを命じた。集結地はイベルス王国のマラカ。集結日はアダルの月・一日……』

『全軍の総司令官にはフランク国王王弟・ヴェルマンドワ伯ユーグの就任が予定されている。遠征軍付き枢機卿としてアンリ・ボケの随行が決定している。また、アンリ・ボケは全ネゲヴの教区統括者となることが内定しているという……』

『……すでにバール人の商会には聖戦への喜捨が求められている……』

 そうやってエレブ情勢速報を二回提出しているうちにニサヌの月は過ぎていく。ジブの月(第二月)に入ってすぐ、ルワータからのエレブ情勢第二報が到着した。竜也は港まで出向いてそれを受け取り、その場ですぐに開封して目を通す。

「だーーああっっ!! だめだーっ!」

 奇声を上げて頭を抱える竜也が港の人々の注目を集めた。だが竜也にはそんなことを気にする余裕もない。

「半月待ってこの程度の情報しか集まらないなんて。一日でも早く動かなきゃ間に合わなくなるかもしれないのに……!」

 ルワータが役割を果たしていないわけでは決してない。彼は現地のバール人商人と親交を結び、あるいは人を雇ってあちこちに派遣し、様々な噂話を収集している。ただ、そこに竜也が求める精度の高い情報が含まれていないだけである。だがそれをもってルワータを責めるのは酷だろう。竜也の要求が法外なだけなのだ。

「……やっぱりやるしかないか」

 竜也は以前から考えていたことを決断する。竜也はその場でルワータ宛の手紙を書き、エレブ行きの船に託した。その後ナーフィア商会に向かった竜也はカフラと面会、

「エレブに行く」

 その決断をカフラへと告げた。







「……ちょっと待ってください」

 竜也の思い詰めた瞳がカフラに向けられている。カフラは竜也が本気で言っていることを理解するしかなかった。

「エレブにはもうルワータさんが言っているじゃないですか。タツヤさんがそこに行ってどうすると? 自分ならルワータさん以上のことができるって、そう言いたいんですか?」

「いや、まさか」

 竜也は即座に首を振った。

「人一人が見て集められる情報なんてごくわずかだ。ルワータさんは大勢の人から、エレブの各地から噂話を集めてその中から精度の高い情報を抜き出そうとしている。俺も同じことをここでやってるけど、ルワータさんのしていることと比べれば子供の遊びみたいなもんだ」

「タツヤさんがエレブに行っても意味がない、それは判っていると?」

 カフラの問いに竜也は頷く。

「それじゃ一体何をしに?」

「散々考えたけど、一つしか方法を思いつかなかった。ラズワルドの恩寵を使う」

 カフラの瞳が驚きに見開かれた。

「教皇なり将軍なりに面会できるのが一番なんだけど、さすがにそれは無理だろう。でも、野次馬として垣間見るだけならかなり地位の高い人間でも何とか見ることができると思うんだ。そんな状態でも、ラズワルドの恩寵ならきっと何かを掴めるはずだ」

 カフラは難しい顔をして考え込んだ。最初考えていたのは「どうやって竜也を翻意させるか」だ。かなり長い時間考えて、結局それは無理だと思うしかなかった。
 カフラは深々とため息をついた。

「……予算ならわたしが何とかしますから、しっかりした護衛を雇ってくださいね」

「ああ、判っている。ありがとう」

 竜也は屈託のない笑顔で感謝を述べる。カフラはちょっと顔を赤らめ、そっぽをむいた。
 竜也はその日のうちに護衛の手配へと向かった。危険極まりない異国への潜入と情報収集だ。まず目立たないことを最優先とすべきだし、予算の都合もあるし、多人数を護衛とするわけにはいかない。

「雇えるのは三人か、せいぜい四人。ラズワルドの護衛は女の人が望ましいし、それで最精鋭で信用できるとなると、やっぱり選択の余地はないよな」

 竜也は傭兵の仲介業者に依頼、二日後にはその人物と会う段取りとなった。その日、「マラルの珈琲店」にやってきたのは、

「拙者、牙犬族のラサースと申す」

 ラサースは泥鰌髭が特徴的な、貧相な中年男だった。女房に逃げられて幼い子供を抱えて途方に暮れながら傘貼りの内職をしている貧乏浪人みたいな風情の人物である。竜也はラサースと「珈琲店」の個室で対面する。

「牙犬族の剣士ではサフィールという子と知り合いになったんですが」

「ほう! サフィールと」

 ラサースは嬉しそうに相好を崩した。ラサースの反応に竜也がちょっとびっくりする。

「サフィールは自慢の我が娘です」

 とラサースは胸を張った。

(全然似てない……)

 竜也はそう思わずにはいられない。ラサースの嫁はよほどの美人で、サフィールは母親似だったのだろう。
 竜也とラサースはサフィールの話や劇の話、剣祖の話でひとしきり盛り上がった。結構長い時間そんな話をし、ふと会話が途切れたところで竜也は表情を切り替える。

「――今回依頼するのは非常に危険な仕事です。少数精鋭で、何よりも誰よりも信用できる、その条件に適うのが牙犬族の剣士以外にありませんでした」

 竜也はそう前置きして仕事の内容を説明した。

「……そんなわけで、任務はエレブ潜入に当たっての護衛です。人数は三名ですが一人は女性をお願いします。まず第一に目立たず、次にできるだけ強い剣士を。それが護衛の条件です」

「ふむ、なるほど」

 とラサースは頷いた。

「いや、タツヤ殿を我が一族も同然と思えという族長の言葉、拙者も聞き及んでおります。金獅子族や赤虎族でなく我が一族を選んだタツヤ殿の意、決して無碍にはしませんぞ」

 ラサースはそう胸を叩いて竜也の依頼を引き受けた。
 その後、竜也は自室へと戻り、

「本当にこれで良かったのかな」

 といまさらながら思い悩んでいた。自分が危険な目に遭うだけなら何も問題はない。だがラズワルドを危険にさらすことには、

「他の方法はなかったのか」

 と改めて後悔の念が湧いてくる。

「そんなこと、気にしなくていい」

 ラズワルドはそう言ってベッドに座っている竜也の足の間へと腰を下ろした。そして竜也の腕を取って自分の身体を包むように回す。出会ってから一年半が経ち多少は成長しているラズワルドだが、それでも実年齢より二、三歳幼く見える発育の悪さには変わりなく、竜也にとっての印象も出会ったときそのままである。客観的に見ても今の二人の様子は未だ「兄に甘える妹の図」を抜け出していなかっただろう。

「わたしなら恩寵で危険を避けることもできる。恩寵もない上にろくに戦えないタツヤの方がよっとぽど危険」

 竜也は「それもそうか」と苦笑する。実際誰が一番足手まといになるかと言えば、ラズワルドよりもむしろ竜也の方かもしれないのだ。

「危険な目に遭わせて悪い。でもラズワルドの力が頼りなんだ」

 竜也はラズワルドの身体を抱く腕に力を、優しさを込める。抱き寄せられたラズワルドは「ん」と返事をしながら仔猫のように目を細め、竜也の胸へと頬をすり寄せた。







 エレブ側に受け入れ準備を要請する一方、その返事を待たずに竜也もエレブへと旅立つ準備を始めている。路銀を用意し、船の手配をし、エレブに関する情報を集める。牙犬族の護衛が到着し、全ての準備が整ったのはジブの月の月末である。

「壮健そうで何よりです、タツヤ殿。まさかこんなに早くまたお会いすることになるとは」

 まず護衛の一人、女剣士の枠を埋めたのはサフィールだ。嬉しそうに笑うサフィールに、

「君が来てくれたのか」

 と驚く竜也。ラサースは、

「女剣士に限るならサフィールは一族でも一、二の使い手だ。授かっている恩寵も強い。エレブ人の有象無象くらいなら二十や三十は一人で相手できるだろう」

 と誇らしげに胸を張る。その横でサフィールが同じように胸を反らしていて、竜也も、

「ああ、本当に親子なんだな」

 とようやく実感を得ていた。

「そちらはバルゼル殿。一族の中で当代最強の剣士だ」

 バルゼルは無言のまま竜也に会釈する。年齢はまだ三〇代に入ったばかりなのだが見た目の印象が渋く、四〇代でも通りそうな面立ちだ。背は竜也より少し低いが前後左右がかなり分厚い。全身を鋼のような筋肉で覆っている、巌のような体つきである。その容貌もまた同じく巌のようにごつごつとしていて、殴ったら竜也の拳の方が傷だらけになりそうだ。とは言っても決して醜悪ではない。

「こういう渋い大人になりたいよな」

 と竜也に憧憬を抱かせるくらいには魅力があった。

「そちらはツァイド殿。剣の腕前は並みだが、敵陣に忍び込んだりするのが得意だ」

「よろしくお願いしますね」

 とツァイドはニコニコしながら手を差し出す。竜也は彼と握手を交わした。
 ツァイドは身長も体格も並であり、特徴がないのが特徴みたいな人物だ。犬耳も尻尾も付けておらず、服装も部族衣装ではなく普通の服である。常に笑顔を絶やさない様はバール人商人を思わせ、竜也がこれまで会った牙犬族の剣士達とは毛並みが全く異なっていた。

「船はもう出航準備ができている。あとは俺達が乗り込むだけだ」

 竜也は早速護衛を引き連れて船へと向かおうとする。が、

「タツヤ殿、その前に」

 とツァイドが何かの荷物を取り出した。そしてサフィールとバルゼルを連れてどこかへ移動する。待つこと十数分、ようやく牙犬族の三人が戻ってくる。だが、竜也は一瞬彼等が誰なのか判らなかった。

「サフィール、それ……」

 サフィールとバルゼルは日本の侍みたいな部族衣装を脱ぎ、普通の服を身にしていたのだ。さらには犬耳も尻尾も外している。手にしている刀も似非アラビア風、ネゲヴ風の拵えだ。

「うう、守神様の恩寵が、一族の誇りが……」

 とサフィールは半泣きになっている。バルゼルは沈黙を守っているが、内心ではサフィールと似たようなものだっただろう。ツァイドがサフィールをなだめた。

「敵地に乗り込もうというのですよ? あんな目立つ格好をしてどうするのです。剣を振るわずに事を終わらせるのが最上の勝利なのですから」

「え、ええ。確かに俺が求めているのはその通りです」

 竜也は戸惑いながらも確認する。

「でも、犬耳も尻尾もなしで恩寵は」

 その問いにツァイドが「ああ」と笑う。

「勘違いしている人も多いのですが、あの扮装と恩寵の使用は無関係です。要は気の持ちようです。どのような格好をしようと、守神様は常に我等と共にあるのですから」

「その通りだ」

 バルゼルが初めて言葉を発した。

「守神様の恩寵はこの血の中に、剣祖の技はこの腕に、だ。それを忘れるな、サフィール」

 サフィールは姿勢を正して「はい」と返答した。
 竜也はラズワルドを連れ(当然ラズワルドもウサ耳を外している)、牙犬族の三人を伴い、船へと乗り込んだ。竜也達を乗せた帆船がスキラ港を出港する。帆船は帆に風を受け、北へと向けて海を進んでいった。







 ……竜也達を乗せた帆船はまずネゲヴの港町、ハドゥルメトゥムを経由してカルト=ハダシュトへとやってくる。カルト=ハダシュトは元の世界ならチュニスに相当する町である。かつてはバール人の海洋交易・軍事同盟の根拠地として一時代を築いたこともあり、町並みには歴史と伝統が満ちあふれていた。
 竜也達はここで船を乗り換え、別の船へと乗船する。その船が港を離れ、次に陸地に着いたときにはそこはもうネゲヴではなくエレブである。
 ネゲヴを離れて一昼夜、竜也達の船からはすでに陸地が肉眼で見えている。

「あれがエレブ……」

「ええ、トリナクリア島です」

 トリナクリア島は元の世界ではシチリア島に相当する。竜也達が入港したのはトリナクリア島のセリヌスという港町だ。船は停泊するが、竜也達は船の中に留まっている。陸地に出るのも船荷の積み下ろしを手伝うときくらいである。セリヌスを出航した帆船はレモリア半島(元の世界のイタリア半島に相当)本土へと到着するが、そこでも竜也達はずっと船の中だ。レモリアのいくつかの港町を経由し、竜也達がフランク王国のマッサリアに到着したのはシマヌの月(第三月)の中旬。スキラを発ってからは一五日が経過していた。
 マッサリアは元の世界ならフランスのマルセイユに相当する。バール人によって築かれた歴史と伝統ある港町である。町並みは中世ヨーロッパそのままで、できるものなら観光気分であちこち散策したいところだ。だが、そんなことは不可能だった。

「タツヤ殿、目立っていますよ」

 ツァイドに小突かれて注意され、竜也は「すみません」と謝った。そして船荷の積み下ろしを続ける。今の竜也達はバール人商船の乗員であり人足といった風を装っているのだ。船荷の積み下ろしが終わると、竜也達はまた船へと戻っていった。
 ムハンマド・ルワータがその船へとやってきたのは日が暮れてからである。

「ようこそエレブへ! 歓迎しよう」

「ありがとうございます。迷惑をかけますがよろしくお願いします」

 竜也とルワータは握手を交わした。
 竜也達はルワータの案内で移動する。港にほど近い、石造りの一軒家。それがエレブ諜報網の本拠地であり、ルワータの家だった。

「長旅で疲れただろう」

「いえ、それほどでも」

 竜也達は椅子に腰掛けて一息ついた。ルワータの用意したお茶をそれぞれに飲む。久々に人目を憚る必要がなくなり、サフィールやバルゼル達も少しだけ気を緩めているようだった。

「それにしても、たった半月でスキラからここまで来れるんですね。どうして教皇はマラカなんて地の果てを集結地に。レモリア半島を南下すればすぐネゲヴなのに」

 そう首を傾げる竜也にルワータは苦笑する。

「理由はいくつかある。まず我々はスキラを中心に物事を考えがちだが、エレブ人にとってスキラなどネゲヴの中の数ある町の一つでしかないということだ。連中の目的はヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ネゲヴの全てを征服すること。そうであるならばいきなりカルト=ハダシュトに上陸する方が理屈に合わないだろう?」

「あ、確かにそうですね」

「それにそもそも、敵軍が何十万になるのかまだ判らないが、それだけの兵を乗せる船を用意することなどどこの誰であろうと不可能だ。少ない船で何十往復とするしかないだろうが、それでは各個撃破のいい的になるだけだろう。それにエレブ人はまともな海軍を持っておらず、海軍はバール人の武装商船か海上傭兵団が中心だ。エレブ人はバール人を決して信用していない。バール人に生命を預けて船に乗るより、どれだけ遠かろうと陸路を歩いた方がエレブ人にとってはマシな選択なんだ。こんな言葉がある、曰く『真っ当なエレブ人なら海を恐れる』」

 まるで古代ローマ人だな、と竜也は思いながら小さく笑った。
 お茶を飲み終えて休憩も終わりとし、竜也達は打ち合わせへと突入する。

「これがこの国の地図だ。マッサリアはここ」

 ルワータは卓上に地図を広げ、その一地点を指差した。

「フランク王国の首都のルテティアはここ、聖杖教の根拠地テ=デウムはここになる」

 ルワータは地図上の二箇所を指差した。一箇所は元の世界ではパリに相当する場所、そこが王都ルテティアであり、もう一箇所が元の世界ではリヨンに相当する場所、聖都テ=デウムである。

「諜報対象として最も望ましいのは二人、王弟ヴェルマンドワ伯と枢機卿アンリ・ボケです」

「王弟への接触は現実的ではないだろう。ルテティアは遠く、我々がエレブ人に紛れてそこまで行くのは困難だ。それに王弟が庶民の前に顔を出す機会もほとんどない」

「それではアンリ・ボケの方を?」

 ルワータは「その通りだ」と頷いてもう一度地図上のテ=デウムを指差した。そして指を下方へと滑らせる。

「ここにローヌ川という川がある。これを川船に乗って上っていく。五、六日もあればテ=デウムだ。教皇庁がここにあり、教皇や枢機卿もここにいる」

 ルワータが確認するように視線を送る。竜也が、ツァイドが、バルゼルが無言で頷いた。

「我々は巡礼者の集団に加わる。巡礼者なら枢機卿や教皇に一目会おうと行動しても何の不思議もない。枢機卿は庶民や巡礼者の前に顔を出すことが多いと聞くが、実際に会えるかどうかは運次第だな。それに、巡礼者は大体こういう外套を着ている」

 とルワータが取り出したのは、黒い外套だ。フードが付いていて、身にすれば頭から膝までを全て覆い隠すことができるだろう。外套の胸にはT字に絡みつく蛇の、聖杖教の紋章が描かれていた。

「ああ、身を隠すにはちょうどいいですね」

 と竜也とツァイドは喜ぶ一方、サフィールは不思議そうな顔をしていた。

「ですが、剣はどこに持てばいいのですか?」

「巡礼者が武器など持つか」

 とルワータは呆れ顔だ。

「外套の下に短刀を隠し持つのがせいぜいだろう。剣は別の者に運ばせるように手配している」

 サフィールは「うぐ……」と呻いていたがそれ以上何も言わなかった。バルゼルも不満そうではあるが無言を貫いている。

「それと、念のためにこれを手と顔に塗っておく」

 とルワータはドーランのような白粉を取り出した。

「マッサリアのような港町ならともかく、内陸に行けばエレブ人しかいないからな。顔立ちはどうしようもないが肌の色はそれで何とか誤魔化せるだろう」

 サフィールが興味深げに白粉を手に取り、試しに手の甲に塗っている。ラズワルドがその真似をしようとし、竜也が「ラズワルドには必要ないから」と笑いながら止めた。実際、肌の色だけならラズワルドより白い者などエレブ人にもほとんどいない。

「あとは、我々が六人で固まって動くと目立つだろうから三人三人に分かれるべきだろうな」

 ルワータの言葉にバルゼルとツァイドが「そうだな」と頷く。

「サフィール、お前がタツヤ殿達と一緒に動け」

「判りました」

 サフィールが姿勢を正して返答する。こうして竜也達は女子供チームとおっさんチームに分かれることとなった。

「明日の朝には出発する。今日は早めに休んでくれ」

 打ち合わせが終わり、竜也達は早々に就寝。そして翌朝夜明けと共にその家を出、テ=デウムへと向かって出発した。
 マッサリアの港から船に乗ってローヌ川河口に移動。そこから川船に乗り換えて川上へと遡っていく。船には近隣から集まった巡礼者が何十人も乗っていて、竜也達はその中に紛れ込んでいた。巡礼者は善良そうな老若男女の白人だが、年寄りの数が多いように見受けられた。

「あらまあ、随分可愛らしい巡礼者さんねぇ。どこから来たの?」

 ラズワルドは隣り合った老婆の目に止まり、しきりに話しかけられている。往生するラズワルドに代わって竜也が答えた。

「レモリアのポプロニアからです。おばあさんは?」

「わたし達はセットの近くの村からよ。教皇様に寄進をする金貨を持ち寄って、わたし達は村の代表で」

 へえ、と竜也は感心して見せた。

「僕達、テ=デウムへの巡礼は初めてなんです。おばあさんは?」

「わたしは今回で四回目かしら」

「へえ、ベテランですね」

 その老婆は「ええ、そうね」と笑った。

「わたしが最初に巡礼をしたときはもう危なくてねぇ。道中何度も盗賊に襲われて、テ=デウムに着いたときには人数が村を出たときの半分になっていたものよ。わたしの姉も、あのときに盗賊にさらわれてそれっきり」

 老婆は長い長いため息をつき、不意に顔を輝かせた。

「今みたいに安全に巡礼ができるなんて、あの頃を思えば本当に夢のようだわ」

「それはやっぱり、教皇様と枢機卿様のお力ですよね」

 教皇インノケンティウス、そして枢機卿アンリ・ボケ――ネゲヴ侵攻を主導している二人である。竜也は散々予習をしてきたその二人のプロフィールを思い返していた。

「ええ、本当にその通りだわ! 枢機卿様は徳の高いお方でねぇ、わたし達のような下々にも分け隔てなく加護を授けてくださるのよ」

 枢機卿アンリ・ボケは今年で五六歳になるという。教皇庁の中では傍流の聖堂騎士団に属しながら、巡礼者を盗賊から守る活動を通して名声を高めてきた。その活動でアンリ・ボケは「旅人の守護者」という異名で呼ばれるようになり、聖人に準ずる世評を得ている。

「二回目の巡礼は子供が生まれた後だったかねぇ。身体が弱くていつ天に召されてもおかしくなかったから、枢機卿様の鉄槌で病魔を祓っていただいたんだよ」

 前代の教皇が死んで教皇選挙が行われた際、アンリ・ボケは聖堂騎士団の騎士を率いて対立候補を鉄槌で殴り殺し、インノケンティウスを教皇の座に就けた――という噂である。
 その功績を持ってアンリ・ボケは枢機卿の座を手に入れている。聖堂騎士団の出身者で枢機卿まで出世したのはアンリ・ボケが最初である。枢機卿になってからもアンリ・ボケは騎士団を率いてエレブ中を転戦し続けた。異端・異教徒を殺し続け、屍の山を築いてきた。七〇〇年間の聖杖教の歴史の中で、アンリ・ボケほど人を殺した聖職者はいないと言われている。

「赤い枢機卿」

 敵の血を全身に浴びて赤く染まった枢機卿――それがアンリ・ボケの異名の一つである。公然とその名で彼を呼ぶ者は一人もいないが。

「教皇様がこの間ネゲヴへの聖戦を宣言しましたけど」

「ああ、素晴らしいことだねぇ!」

 老婆は聖杖の首飾りを手にし、それを天へと掲げた。

「ケムトの異端が持っている聖杖を奪い返すことができるんだよ。聖杖がテ=デウムに戻ってきたなら、巡礼のときに見せていただく機会もあるかもしれないよ」

 聖杖とは契約者モーゼが使っていた――ということになっている――聖遺物「モーゼの杖」のことである。ケムトのメン=ネフェルにある聖モーゼ教会がそれを所蔵しており、聖杖の奪還は聖戦の大きな目的の一つだった。

「教皇様が聖杖を手にして導いていただいたなら、わたし達はきっとみんな天国に行けるんだよ」

 老婆の瞳は夢見る乙女のように清らかだった。老婆の言葉に周りの誰かが賛同する。

「ネゲヴの連中は邪神を拝んで生け贄を捧げている。聖杖の教えでそんな邪教を一掃するんだ」

「ネゲヴに入植すればうちの次男坊三男坊も自分の畑を持って、嫁も取れるようになるに違いないよ」

「うちみたいな小さな農家でもネゲヴ人の奴隷を持てるようになるって話だ」

 巡礼者は口々に聖戦への期待を、それがもたらす明るい未来を語っている。竜也は人々の無邪気さに目眩すら覚えた。竜也はそっとラズワルドの手を握る。

(……こいつら、本気か? 本気でそんなことを考えて戦争を……)

(間違いなく本気。心の底からそう思っている)

 念のためにラズワルドに確認させたが、その答えは予想通りのものだった。だがだからと言って衝撃がないわけではない。

(ここにいるのは巡礼者、聖杖教信者の中でも信心深い人が集まっている。この人達だけでエレブの動きを判断するわけにはいかない)

 竜也は自分をそう戒めた。もっとも半分以上は、

「戦争を望んでいるのは一部の信心深い人達だけで、他の一般の人達はそんなことを望んでいない」

 そんな風に考えたかったためでもある。だが、竜也のその思いは数多のエレブ人によって裏切られた。

「ネゲヴに行けば俺も村持ちの領主様だ」

「なんの、俺は諸侯様だ」

 川船に乗船した貧乏騎士達はそう言って笑い合っていた。

「ネゲヴは長い間戦争がなかったって話だ。やりたい放題できるぜ」

「二つか三つの町で略奪すれば一生遊んで暮らせるだろうさ」

 街道ですれ違った傭兵達はそう言って欲望をたぎらせていた。

「良い鍬だねぇ。これをもらおうか」

「おや、鍬を新調するのかい?」

「ネゲヴに行って自分の畑をもらうんだ。もう部屋住みの厄介者なんて立場はごめんだからな!」

 鍛冶屋の店先では農家の二男坊か三男坊と見られる者が期待に胸を膨らませていた。

「ネゲヴから何を仕入れれば一番儲かるんだ?」

「それはやっぱり奴隷だろう。ネゲヴ人はどれだけ奴隷にしてもいいと、枢機卿様からはお墨付きが出ているんだから」

 宿屋ではバール人と見られる商人達が皮算用に勤しんでいた。

(……こいつら、本気で……一人残らず本気で……)

 エレブで出会う者、その誰も彼もが聖戦を喜び、侵略に希望を託し、征服地に明るい未来を思い描いている――本気で、心底から。

(何て愚かな……!)

 エレブ人全員を力の限り面罵したい衝動に、竜也は何とか耐えている。歯を食いしばり、背中を丸める竜也の姿を、ラズワルドやサフィールは気遣わしげに見つめるしかなかった。
 テ=デウムへと遡上する道中の数日間、何百人のエレブ人とすれ違ったか判らない。その中で聖戦に反対する者・不安を抱いている者はごくわずか、せいぜい十数人。その十数人にしても表面上は聖戦を大いに喜んでおり、ラズワルドがその内心を読んで初めて聖戦に否定的だと判るのだ。

「戦争反対を口にできる空気じゃないんですね」

「庶民が聖戦に反対すれば周囲から袋叩きに遭うだろう。諸侯や聖職者が反対したなら異端として火あぶりになるかもしれない。我が身が可愛いなら内心はどうあれ聖戦に賛同するしかない状態なんだ」

 ルワータの言葉に竜也は頷きながらも若干の訂正を入れていた。

(「内心はどうあれ」……心底から戦争に賛同している連中ばかりじゃないか)

 暗澹たる思いが竜也の足取りまでも重くするが、それでも竜也は歩き続ける。マッサリアを出発して六日ほど、ようやく竜也達はテ=デウムに到着した。

「ああ、ここが聖地」

「神よ、我等を救いたまえ」

 巡礼者は感激して地面に伏し、石畳の道路に接吻をしたりしている。ラズワルドとサフィールは物珍しげに周りを見回しており、竜也は注意深く周辺を観察した。
 建ち並ぶ巨大な建物は教会ばかりである。天を突くような尖塔が数え切れないほどに連なる光景は壮観という他なかった。町の風景や建物の様式は、竜也がテレビで見たバチカン市国のそれとよく似ている。ただ大きく違っているのはこの町には十字架が一つもなく、その代わりにT字に蛇が絡みついた聖杖の紋章が無数にあることだ。
巡礼者達の移動に伴い竜也達も移動する。移動した先は町の中心地、そこには大きな広場があり、その先には一際巨大で豪奢な教会が建っていた。

「あれは?」

「聖バルテルミ大聖堂。聖杖教の総本山だ」

 預言者フランシスの獄死から二〇年後、教団再建の中心となった人物がバルテルミであり、そのバルテルミが刑死した場所に建てられたのがこの聖バルテルミ大聖堂である。後の教皇庁はこのバルテルミを初代教皇と見なしている。竜也から見れば聖杖教というキリスト教系新興宗教の真の創始者だ。
 一般の巡礼者には聖堂で礼拝することはもちろん、聖堂前の広場に入ることすら許されていなかった。広場につながる通りに長い行列を作り、広場前の入口から大聖堂を拝んですぐに移動するのだ。

(こんなの、教皇や枢機卿の顔を垣間見るどころじゃない)

 竜也は内心で舌打ちを連発した。

「それにしても、教皇様や枢機卿様のお顔を拝見できないのは残念ですね。何とかは拝見する方法は……」

「枢機卿様はルテティアに行かれているそうだから、拝見するのは無理のようね」

 巡礼者の一人の言葉に竜也は落胆する。だが、

「枢機卿様はもうすぐ戻ってくるらしいぞ。四日か五日くらい待てば町をお通りになる枢機卿様を拝見できるかもしれない」

 誰かの言葉に、

「本当?」「本当ですか?」

 と巡礼者達が色めき立った。それは竜也も同じである。

(ここまで来て手ぶらじゃ帰れない。何としてもこの機会を逃さない)

 竜也は決意と共に拳を固く握りしめた。
 それから数日間、竜也はラズワルドとサフィールを連れてテ=デウムの町をあちこち見て回って過ごした。アンリ・ボケ以外の教皇庁の高官を偶然でも見かけることを期待してのことである。だがさすがにそんな僥倖は転がっていなかった。

「仕方ないな。帰り道のアンリ・ボケを捕まえることに最善を尽くすしかないか」

 竜也はさほど落胆することなくそう考えている。一方のラズワルドとサフィールは観光気分である。

「タツヤ殿のおかげで貴重な体験ができました。里に戻ったら一族の者に自慢できます」

 と無邪気に喜ぶサフィールに竜也は苦笑する。

「別にいいけど、まだ油断しないでくれよ。明日こそ本番なんだから」

 判っています、とサフィールは頷いた。

「――タツヤ殿」

「ん?」

 不意にサフィールは真剣そのものの表情となる。

「タツヤ殿がご命令になるのであれば、わたしとバルゼル殿の二人で敵の隊列の中に突っ込んでアンリ・ボケの首級を挙げることも」

 竜也は慌ててサフィールの口を手で塞いだ。

「滅多なことは言わないでくれ! どこに人の耳があるか判らない」

 サフィールは赤面して何度も頷く。だが周囲を警戒している竜也はサフィールを抱きしめるように拘束したままだ。

「聞き耳を立てている人はない」

 ラズワルドが竜也とサフィールの間に身体を強引に割り込ませる。サフィールはようやく竜也から解放され、大きくため息をついた。ラズワルドが竜也とサフィールの手を取り、その心をつないだ。

(そんな無計画な暗殺じゃ成功するかどうかも判らない。確実なのはサフィールもバルゼルさんも生命がないことだけじゃないか)

(おー、これが白兎族の恩寵ですか。すごいですね)

 サフィールの能天気な感心に竜也はずっこけそうになる。だがサフィールの内心もすぐに真面目なものになった。

(――ですが、本当の戦争となったら無辜の民がどれだけ死ぬか判りませんよ? わたしとバルゼル殿の二人の犠牲で戦争が止められるのなら)

(サフィールだって道中にエレブ人の様子をずっと見てきただろう? 枢機卿だろうと教皇だろうと、人一人が死んだくらいで彼等が止まるとは到底思えない)

 竜也の正しさを認めてサフィールが沈黙する。

(それに、恩寵の戦士……悪魔の民が枢機卿を暗殺したとなったらエレブ人の聖戦意識が余計燃え上がるだけなんじゃないか? 報復っていう正当性をエレブ人に与えかねないし、そうなったら牙犬族が戦争の原因扱いされてネゲヴで肩身の狭い思いをするかもしれない)

 竜也に説得され、サフィールの戦意は急速にしぼんでいった。

(何もできないのですか……悔しいですね)

(何もできないなんてことはない。万一の場合はサフィール達に退路を開いてもらわなきゃいけないんだから。危険な目に遭わせてすまないけど、もう少しだけ付き合ってくれ)

 サフィールは無手のまま剣を抜くような仕草をし、

「お任せください! タツヤ殿とラズワルドの安全はこのわたしが守ります、この剣に誓って!」

(いや、剣ないから)

 と竜也は内心で突っ込みつつも、

「頼りにしている」

 と笑顔を見せた。
 そして翌日、アンリ・ボケがルテティアから戻ってくるという日である。
 その日、テ=デウムの中央通りには朝早くから行列ができていた。アンリ・ボケを一目見ようと集まった巡礼者達が通りの両側に列を作って並んでいるのだ。当然竜也達もその列の中に加わっている。教会の聖職者がパンやスープの配付をしており、竜也もまたそれを受け取って食べていた。
 ひたすら待つこと丸一日。アンリ・ボケが戻ってきたのは夕方、日が暮れる直前の時間帯である。
 最初に姿を見せたのは騎兵の一団だ。数十人の騎兵全員が全身鎧で完全武装しており、その鎧が夕陽を浴びて赤く輝いていた。その一団が掲げる旗には×印のように交差した二本の槌が描かれている。その騎士団の中心にいる、黒い法衣を身にした巨体の男。

「枢機卿様!」「枢機卿様!」

 巡礼者が歓喜の声を上げ、祈りを捧げている。感涙にむせんでいる者もいる。竜也もまた熱狂を演じながら、細心の注意を払って枢機卿アンリ・ボケの姿を凝視した。
 年齢を図りがたい面相だが五六歳という年齢より大分若々しい印象で、四〇代くらいに見受けられる。身長はおそらく一九〇センチメートルに届いている。顔も胴体も横幅が広いが太っているような印象は受けない。積み木で作った人形みたいに四角い顔と胴体である。眼は細く、線にしか見えない。口はやたらと大きく、まるで着ぐるみのようだ。柔和な笑みを絶やさず湛えており、堂々とした体格と相成って聖者としての風格を充分備えているように思われた。
 自分の周囲の巡礼者を見回していたアンリ・ボケが静かに手を一振りする。

「全隊、止まれ!」

 騎士隊長の号令がかかって騎士の一団が即座に静止。微動だにせず、しわぶき一つせずに次の号令を待っている。全員が指先から爪先まで同一の姿勢を保ち、眉の角度すら綺麗に揃っている。驚くべき水準の練度であった。
 路上に立ち止まっているアンリ・ボケの周囲に巡礼者達が徐々に集まってくる。始めは躊躇いながらも、少しずつ大胆に。竜也とラズワルド、サフィールは周囲に押されるようにして否応もなくアンリ・ボケへと接近した。

(近い、近すぎる。とにかく怪しまれないように)

 と焦る竜也。その竜也にラズワルドが、

(大丈夫、アンリ・ボケも他の誰もわたし達のことを怪しんでない)

 ラズワルドの言葉を受けて竜也は落ち着きを取り戻した。

(ともかく、絶好の機会であることには間違いない。このままアンリ・ボケの心を――)

「お前達、何をしている」

 腹の底に響くような低い声での静かな問い。竜也は心臓を鷲掴みにされたように冷や汗を流した。

「お前達はここで何をしているのか、と訊いている」

 アンリ・ボケが再度問い、巡礼者達の間に戸惑いが広がった。互いに顔を見合わせる巡礼者達。その中の一人が意を決して、

「はい、私共はセットの村から巡礼に。枢機卿様のご尊顔を一目与りたいと」

「馬鹿者!!」

 アンリ・ボケの叱責はまるで雷鳴のようだった。巡礼者は等しく身を縮めて頭を抱えている。

「教皇聖下が我等に聖戦を命じたことを知らぬ者はいるまい。お前達は赴くべきはテ=デウムではない、ネゲヴだ!」

 アンリ・ボケは殊更に腕を大きく振って南を指差した。

「ネゲヴには全てがある。奪われし聖杖が、約束の地が、新たなる神の王国が、永遠の楽園が!」

 おお、感嘆する巡礼者達。だがその中の一部の者がおそるおそる、

「ですが枢機卿様、わたしはもうこんな年寄りでとてもネゲヴまでは」

「私も、自分の畑を置いてネゲヴまで行くのは……」

 その反論にアンリ・ボケは「判っている」と頷いた。

「教皇聖下は我等に百万の兵を集めるようご命じになった。お前達の村にも出征する兵が割り当てられる。村人百人につき四人の兵、まずはその割り当てを守る! それこそが聖下の御心に適うことなのだ。巡礼にかける費用などどこにある! その金は出征する兵の支援に遣え!」

「百人につき、四人……」

 竜也は骨が折れるかと思うほど強くラズワルドの手を握りしめた。痛みに顔をしかめるラズワルドだが、文句一つ口にせず恩寵を使い続ける。生まれて初めて恩寵の全力を解放するラズワルドだが、アンリ・ボケの心をどれだけ探っても嘘偽りを何一つ見つけることはできなかった。
 巡礼者達がざわめいている。「百人につき四人」という割り当てが何を引き起こすのか想像しているようである。アンリ・ボケとて、それがどれだけ途方もない負担なのかは百も承知である。だが、

(まさかそんな……本気で)

 それでもアンリ・ボケは本気で百万の兵を集めるつもりでいた。エレブがどんなことになろうと、どれだけの血が流れようと、幾万の無辜の民が死のうと。それでも一人として欠けることなく、百万の兵を揃えることはアンリ・ボケにとっては変更不可能な決定事項だった――教皇インノケンティウスがそう命じたから、ただそれだけの理由で。
 竜也の顔から血の気が失せている。顔だけでなく身体中の血がどこかに流れ去ったかのようだ。全身から体温がなくなり、自分が死体になったかのような寒気を覚えている。身も心も凍えさせながら、竜也はアンリ・ボケの言葉に耳を傾け続けた。

「――確かにお前達には苦難の道を歩ませることとなるだろう。ネゲヴに出征する者も、その行く道が平坦であるはずがない。だが、それこそが神の御元へと続く道なのだ! その道に楽な道があるものか!」

 アンリ・ボケは握りしめた拳を振り上げた。

「兵を出征させればその一家が救われる! 割り当てを守ればその村が救われる! それがこの私が保証しよう! 神の栄光を前に、現世の金貨に何の意味がある? 永遠の楽園を前に、今のこの生命に何の意味がある?」

(嘘がない……この男には嘘がない)

 ラズワルドがアンリ・ボケの心を奥へ奥へと進んでいく。だがその場所のどこにも嘘がなかった。神の栄光の前には金銀財宝も、生命すらも全くの無価値――アンリ・ボケは本当に心からそう思っている。自分の生命にすら神の栄光を、教皇インノケンティウスの理想を実現するための道具としての価値しかなく、他人の生命はそれ以上に無価値な消耗品だった。
 ラズワルドはついにアンリ・ボケの心の最深部へとたどり着いた。ラズワルドはその扉に手をかけ、開く。
 アンリ・ボケは背に負っていた巨大な鉄槌を片手で持ち上げ、高々と掲げた。

「お前達は神の先兵、神が今まさに振り下ろさんとする、聖なる鉄槌! 穢れに満ちたネゲヴの大地を浄化の炎で焼き尽くすのだ!」

 心の扉を開けた瞬間、ラズワルドの全身が炎に包まれた。扉の奥から無限に沸き上がる炎が四方へと広がり、大地の全てを覆っていく。地獄のような業火が何もかもを焼き尽くす――

「神の栄光を!」

 巡礼者の一人が感極まって叫ぶ。それに全ての巡礼者が続いた。

「栄光を!」「栄光を!」「栄光を!」

 巡礼者の熱狂的な歓呼が続く。鉄をも溶かすような熱狂の直中にあり、竜也はただ一人心を凍てつかせていた。竜也の腕の中では気を失ったラズワルドが横たわっている。竜也は身体の震えを抑えるために、ただラズワルドの身体を抱きしめるしかなかった。
 巡礼者の熱狂の宴はいつ終わるともなく続いていた。







 情報収集に成功した竜也達は逃げるようにテ・デウムを後にする。ローヌ川を下り、船を乗り継いでマッサリアに到着する頃にはシマヌの月も下旬となっていた。

「やはり、直接見なければ判らないこともあるな。礼を言う、タツヤ」

「いえ、こちらこそ」

 ネゲヴに戻るための船が用意され、竜也達はそれに乗り込むところである。その見送りにルワータが来ていた。

「私は引き続きこちらでの情報収集を行う」

「ネゲヴに戻ったら、俺はエレブで見たものをできるだけ多くの人に知ってもらおうと思います。それだけじゃ足りないけど、まずはそこから」

 竜也とルワータは固く握手を交わす。それが別れの挨拶となった。竜也達を乗せた船がマッサリアを出港する。
 復路も往路と同じく、トリナクリア島のセリヌスの港を経由する。セリヌスでエレブの船からネゲヴの船に乗り換えた竜也達はセリヌスを出港。竜也達はトリナクリア島を、エレブを離れていく。
 竜也は船の最後尾に立ち、遠ざかるトリナクリア島を、エレブの大地を見つめていた。

「この船にはもうエレブ人はいないですよね」

 視線をトリナクリア島に固定したまま竜也が問い、ツァイドが「ああ」と頷く。そうですか、と呟いた竜也は大きく息を吸い込んで、

「お前等は馬鹿だ!! 大馬鹿だ、どうしようもない愚か者だ!!」

 エレブの大地に向かって力の限り叫んだ。

「戦争なんだぞ!? 人が死ぬんだぞ!? ネゲヴ人だけじゃない、エレブ人が、お前等の家族が、恋人が、お前等自身が! 何人も、何万人も死んでいくんだ! 何でそれが判らない! そんなに戦争がしたいのか! 殺したいのか、死にたいのか!」

 竜也は甲板にひざまずき、拳を床に叩きつけた。

「畜生、畜生……!」

 手が切れて血が流れるのも構わずに拳を床に叩き付ける。流れる涙が床を塗らした。そんな竜也をサフィールが制止する。

「タツヤ殿……」

 サフィールはそれ以上何を言えばいいのか判らなかった。無言のまま竜也の手に手巾を巻いて血を止めようとする。竜也は乱暴に涙をぬぐいながら、

「ごめん」

 と立ち上がった。
 竜也が振り返ると、ラズワルドが、サフィールが、バルゼルが、ツァイドが竜也を囲むように立っている。竜也は真っ直ぐにバルゼルに向き合った。

「……エレブ人と戦わなきゃいけない。ネゲヴを守らないといけません。牙犬族の力を貸してもらえませんか?」

「判った」

 バルゼルはそう即答した。

「用意はしておく。いつでも呼べ」

「ありがとうございます」

 竜也は深々と一礼。そしてもう一度トリナクリア島を、エレブの大地を見つめる。トリナクリア島は水平線の向こうに隠れてすでに見えなくなっている。だが竜也はそこに敵の姿を、百万の敵影を見出していた。




[19836] 第一一話「エルルの月の嵐・前」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/26 21:02




「黄金の帝国」・戦雲篇
第一一話「エルルの月の嵐・前」








 竜也達がエレブからネゲヴへと帰還し、スキラまで戻ってきたのはダムジの月(第四月)の中旬になろうとする頃である。

『……最近のエレブではネゲヴ侵攻軍のことを『聖槌軍』の通称で呼ぶようになっている』

 スキラに戻ってすぐ、竜也は船の中で書きためた原稿を使ってエレブ情勢速報を提出した。

『これは枢機卿アンリ・ボケが説教でくり返し使っている『(ネゲヴ侵攻軍は)神が今まさに振り下ろさんとする聖なる鉄槌』という語句に因んでの命名である。また、枢機卿アンリ・ボケが鉄槌を武器として愛用していることにも因んでいる。今後、本速報においても敵・ネゲヴ侵攻軍のことを聖槌軍の通称で呼ぶこととする……』

 さらに竜也は速報の内容を使って聖槌軍の脅威を訴える冊子を発行しようとした。スキラだけでなくネゲヴ中の人に、できるだけ多数の人に聖槌軍の脅威を理解してもらうためである。だが、

「いや、それは認められないでしょう」

「どうしてですか!」

 スキラ商会連盟の出版部を利用しようとした竜也だが、その利用が認められなかったのだ。竜也の前には事務局の職員が立ち塞がっていた。

「あなたの仕事は情報の収集と分析であって、それをどう利用するかは評議会の仕事じゃないですか。『聖杖教の脅威を広く訴える』なんて、勝手な真似をされては困ります」

「だけど……!」

 竜也はその職員を説得しようとするが、とりつく島もなかった。竜也は失意のうちに事務局を後にする。

「それでわたしのところに?」

「ああ。カフラの力を借りたい」

 次に竜也が赴いたのはカフラのところである。カフラは竜也と、何故か竜也に付いてきているラズワルドを等分に見比べた。

「わたしにできるのはうちの評議員への口添えくらいですが……」

「それもお願いしたいけど、それはまた今度でいい。――はっきり言うと、今の時点で連盟に何かを期待するのはやめることにした」

 と竜也は雑な仕草で肩をすくめる。カフラは戸惑いを見せる。

「エレブが、聖杖教が脅威だと思っていた俺だって、実際にエレブまで行ってみて自分の想定がとんでもなく甘かったことを思い知らされたんだ。今のネゲヴの人達に聖杖教の脅威が理解できないのも仕方ない。連盟が事態を甘く見て動こうとしないのも仕方ないことなんだ」

「それじゃタツヤさんはどうするんですか?」

「できることをやる。やるべきことをやる」

 竜也は拳を握りしめた。

「カフラにお願いしたいのは借金だ。一レプラでも多くの金がいる」

「どのくらいですか?」

「一千タラント」

 カフラは椅子から転がり落ちそうになった。

「たた、タラントですか? ドラクマじゃなくて?」

 竜也はあくまで大真面目に頷く。なお、労働者が一日働いて得られる賃金が一ドラクマで、六千ドラクマが一タラントとなる。小型商船一隻の相場が一タラント、大型商船なら三、四タラントとされている。カフラは深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせた。

「……タツヤさんだって、自分がどれだけ無茶を言っているか判っていますよね? お母様ならもしかしたら用立てできるかもしれませんが、わたしには到底不可能ですよ」

「もちろん判ってる」

 と竜也は頷き「順を追って説明する」と一枚の紙を取り出して机の上に広げた。カフラがそれを見つめる。

「事務局でもらってきた。レプティス=マグナでやっている先物取引の価格表だ」

 レプティス=マグナはサブラタの東にある町である。江戸時代の大阪のような、ネゲヴの小麦取引の中心地となっている町だ。

「小麦価格の推移を見てほしい。戦争が近付いているんだから暴騰しているかと思ったけど、全然上がっていない」

「そうですね。今年は作柄も良さそうですし、本当に戦争になるかどうかまだ判らないと踏んでいる人が多いんでしょう」

「戦争が近付けば絶対に暴騰する。今のうちに買っておかなきゃいけない」

 カフラは非難がましい目を竜也へと向けた。

「先物取引に手を出そうというんですか?」

「誤解しないでくれ」

 と竜也が首を振る。

「丁半博打で濡れ手に粟の泡銭を手にしよう、っていうんじゃない。とにかく穀物が、食糧が必要なんだ。考えてもみてくれ、ヘラクレス地峡を越えて何十万って聖槌軍が西ネゲヴに侵入してくるんだ。略奪や殺戮がくり広げられる、まともな作付けなんかできるわけがない。西ネゲヴの二百万、三百万って人達が飢餓に瀕することになる」

「だから今のうちに食糧を買い占めておく、と……」

 カフラの確認に竜也が頷く。

「でも、そんなの個人でやるべきことじゃないでしょう?」

「誰も動こうとしないじゃないか! どの町も、商会連盟も」

 竜也は憮然とした顔で言い捨てた。

「だから俺が、今のうちに安値で現物を確保しておいて、それを必要とする人達に渡せるようにしたいんだ。できるだけ原価に近い価格で」

 竜也は価格表を裏返し、そこに数字を書き込んでいく。

「現時点の小麦の市場価格が一アンフォラで〇・五ドラクマ。高くも安くもない、平均的な数字だと聞いている」

 一アンフォラは約二六リットル。人一人の一ヶ月分の消費量より少し多いくらいである。なお、〇・五ドラクマという数字はあくまで先物取引での市場価格であり、消費者が買う際の小売価格はその七倍くらいとなる。

「西ネゲヴの人口は二百万とも三百万とも言われているけど、とりあえず百万人分を一年分。それで一二〇〇万アンフォラ、金額は六〇〇万ドラクマ、つまりは一千タラントだ。先物取引なら証拠金があれば取引ができるだろう? 一千タラントの何十分の一かの」

 竜也の説明にカフラは唸るしかなかった。

「確かにそのくらいならわたしの裁量で……それでも一千タラントには届かないでしょうけど、二百か三百くらいなら」

 竜也は「それで充分だ」と頷く。

「だけど……もしこれがお母様に知られたら。表が出るならまだともかく、もし裏が出たなら」

 カフラは顔を青くして震え上がった。

「お母様って?」

「お母様は今のナーフィア商会の当主です。ナーフィア商会は代々女性が当主を務めているんです」

 へえ、と感心する竜也。

「じゃあカフラがその跡を?」

「いえ、わたしは末っ子ですから、いずれどこかの家に――ああでももし表が出たなら」

 今度は何故か赤面したカフラは、

「タツヤさんはスキラ有数の大金持ち、お母様だって認めてくれるはず。どこかのドラ息子に嫁ぐよりはその方がずっと」

 等と小声でぶつぶつ呟いている。そんなカフラを竜也は不思議そうな顔で、ラズワルドは白けたような目で見つめた。

「カフラ?」

「へ? あ? はい、失礼しました」

 竜也に声をかけられ、ようやくカフラは戻ってきた。熱を持った頬を掌でぺしぺしと叩いて冷まし、真面目な顔を作る。

「あ、お母様のこととですね。ナーフィア商会の代々の女性当主は名目だけの当主で、実務はそのお婿さんが担います。使用人の中で最も優秀な人間を選んで当主の婿に迎え、実務を任せる。そうやってナーフィア商会は発展してきたんです」

 女性当主は商会のオーナー、迎える婿は雇われ社長、というところか。と竜也は理解した。

「……ただ、当代当主のお母様は誰よりも優秀な方でした。父を婿に迎えても父に実権を渡さず自分で握り続けたんです。反発した父は先物取引に手を出して大失敗をします。父は閑職に回されて飼い殺しとなり、夫婦仲は完全に冷め切ったものになってしまいました」

 カフラは寂しそうな顔で小さなため息をついた。

「元々ナーフィア商会には『先物取引に手を出すべからず』っていうのが代々の家訓にあるんですが、この一件でお母様の先物取引嫌いは決定的になったんです。だからわたしがそんなものに手を出したと知られたなら……」

 カフラは怯えの表情を見せる。竜也はそんなカフラの両手を包むように強く握った。

「カフラには迷惑ばっかりかけてすまないと思っている。でも、俺にはどうしてもカフラの力が必要なんだ。西ネゲヴの人達を救うために」

 竜也の真摯な瞳が真っ直ぐにカフラの瞳を見つめた。間近から見つめられ、カフラの頬に赤みが差す。カフラはそれを誤魔化すようにその手を振り払った。

「……タツヤさんがエレブで何を見てきたのか知りません。何を根拠に戦争が起きると言っているのか判りません。タツヤさんにとっては値上がりが確実なことでもわたしにとっては博打でしかないんです」

 カフラは立ち上がり、真っ直ぐに竜也へと向き合った。

「タツヤさんはわたしが納得できるだけのものを見せられるんですか?」

「そう言うだろうと思っていた」

 竜也は退屈そうにしていたラズワルドを視線で呼ぶ。二人の元にやってきたラズワルドが両手を差し出し、竜也がその片方を握った。二人が無言のままカフラを見つめる。
 カフラは少しためらったが手を伸ばし、一方に竜也の手を、もう一方にラズワルドの手をしっかりと握った。次の瞬間、カフラの心の中に何かが流れ込んでくる。
 ――戦争を望むエレブの人々、聖都テ=デウムの光景、聖杖教の騎士団と枢機卿アンリ・ボケ、そして大地を焼き尽くす紅蓮の炎――
 一瞬意識が途切れていたようだ。気が付いたらカフラは床に座り込んでいた。竜也が心配そうにカフラの顔をのぞき込んでいる。

「大丈夫か?」

「あ、はい」

 カフラは竜也の手を借りて立ち上がった。カフラは竜也とラズワルドに交互に視線を送り、

「タツヤさん、今のは一体」

「ラズワルドに心をつなげてもらった。俺達が見てきたものをカフラにも見てほしかったんだ」

 カフラは竜也に何か言おうとして、何も言葉にならなかった。何を言うべきなのか混乱していて判らない。何を見せられたのか、雑然としていてよく判らない。ただ一つ言えるのは、戦争が間違いなく起きるという竜也の判断には明確な根拠があるということだった。竜也はアンリ・ボケの心の中という究極のインサイダー情報を元に先物取引をしようとしているのだ。
 カフラは長い長い時間黙っていた。その間竜也もまた口を閉ざしている。たっぷり五分以上の沈黙を経て、カフラは殊更に大きなため息をつく。

「……結局問題はタツヤさんが信じられるかどうかなんですよね」

 そしてカフラは澄んだ微笑みを見せた。

「わたしはタツヤさんを信じます。わたしの生命をタツヤさんに預けます」

 カフラの宣言は大仰でも何でもない。表が出るなら何も問題はないだろう。だが裏が出たならナーフィア商会が大損害を被ることになる。破産の可能性だってゼロではない。カフラがしたことは自分の一家一族の財産を竜也の博打のカタに入れたに等しい。もし裏が出たなら自分の生命を持って償うしかないとカフラは決心している。

「ありがとう。カフラの気持ちは決して無駄にはしない」

 竜也はそう礼を言うと、次にどんな手を打つべきか考え込む。カフラはそんな竜也の横顔を眩しいもののように見つめていた。







 竜也は次に聖槌軍の脅威を訴える冊子を独自に作成・配付することにした。作成や編集にはログズが、印刷・配付や資金面ではカフラがそれぞれ協力する。ログズへの報酬は安いものだし、カフラは自前の印刷工房を持っている。とは言えその費用は決して小さくないのだが、

「一千タラントから見れば端数みたいなものです」

 とはカフラの弁である。先物取引と冊子印刷、もし協力要請の順番が逆だったなら決して上手くはいかなかっただろう。竜也の作戦勝ちである。
 冊子の内容はこれまで作成したエレブ情勢速報のまとめと、エレブでの見聞録である。 竜也はエレブで見てきたことをありのままに書き綴った。日本語ならまだともかく、この世界の文章で技巧を凝らせるほどの文才も知識も竜也にはない。竜也にできるのは稚拙だろうと朴訥だろうと構わずに、赤心と誠意を筆に込めて思いの丈を訴えることだけだ。

『彼等はやってくる。間違いなくやってくるのだ。想像を絶するほどの大軍がやってくる。数百年間戦争をくり返してきた、精強な軍勢がやってくる。自分達以外の信仰を一切認めない、恐るべき侵略者がやってくる。恩寵の民を悪魔と呼んで根絶やしにしようとする、恐るべき狂信者がやってくる。間違いなくやってくるのだ』

「文責クロイ・タツヤ、と」

 最後にその一文を書き添えて冊子は完成する。「スキラの夜明け」をパクって「ネゲヴの夜明け」と名付けられたその冊子は商会連盟を通じ、ネゲヴ中の自治都市の長老会議に、各都市の商会連盟に、恩寵の部族の族長宛に送付された。

「それじゃこれをジューベイさんに」

「はい。お任せください」

 牙犬族宛の分はサフィールを通して送ることにした。エレブから戻ってきてからもサフィールは竜也の元に留まったままなのだ。
 エレブからスキラへと戻ってきたその日、竜也は港でバルゼルとツァイドとは別れた。だがサフィールは竜也に付いてくる。竜也は首を傾げて、

「あれ、サフィールはこっちに何か用事があるのか?」

「いえ、そうではありません。わたしはタツヤ殿の護衛ですから」

 サフィールの返答に竜也は困惑する。

「え、でももうスキラに戻ってきたんだから護衛は必要ないし、報酬はもう払えないし」

「ご心配なさらず。報酬は不要ですし、滞在費はちゃんと用意してもらっています」

 少しばかり押し問答があったがサフィールは「バルゼル殿の命令です」で竜也を押し切ってしまう。こうしてサフィールは竜也達と同じく「マラルの珈琲店」の屋根裏部屋に住むこととなった。初日はマラルの部屋に泊めてもらい、次の日には屋根裏部屋の一つに移動している。
 下宿の隣人として落ち着いたサフィールが竜也の元を訪れて、途方に暮れたような顔で問うた。

「わたしはここで何をすればいいのでしょう?」

 竜也は「知るか」の一言で終わらせたい誘惑に駆られたが何とか我慢した。

「戦争が近付けばやってもらうことはいくらでも出てくると思うんだけど、まだそんな段階じゃないんだよな。仕事ができたらお願いするから、しばらくは英気を養ってくれ」

 はあ、と曖昧な返事をするサフィールだが一応納得はしたようである。ただ、サフィールは何もすることがない状態を苦手とするようで、

「やっぱり日本人の血が流れているんだな」

 と竜也は感心する。ラズワルドなどはひたすら惰眠を貪って満足そうにしているが、どちらかと言えばラズワルドの方がこの世界のスタンダードである。
 一日中木刀で素振りをするサフィールを見かけたヤスミンが「暇ならうちの芝居に出てみない?」と声をかけ、サフィールは「カリシロ城の花嫁」に端役で出演することとなった。役柄はカリシロ国宰相の手下、雑魚その一。剣祖シノン役のヤスミンにぶった斬られて退場する、ただそれだけの役なのだが、

「てええいっ!」

 勢い余ったサフィールが逆にヤスミンをぶった斬ってしまう。使っているのは木製の模造刀だが、木刀で思い切り腹を横殴りにされて悶絶しないはずがない。シノンは身動き一つできなくなり、そのまま舞台から退場してしまった。
 舞台の上にはシノンに勝ってしまった雑魚役のサフィールが残される。サフィールは何とかその場を取り繕うべく、

「ええと、ええと――はっ、今の太刀筋は兄上! ああ、何てことだ、兄上をこの手で殺めてしまうなんて! わたしは心を入れ替えました。兄上の意志はこのわたしが継ぎます!」

 説明くさい台詞を棒読みで述べた上でそのシノン弟は唐突にグルゴレット側に寝返ってしまった。シノン弟はグルゴレットやカシャットを置き去りにして一人で大活躍、敵のほとんどとカリシロ国宰相までもその剣で成敗してしまう。敵役の面々が舞台の上で死屍累々となり、観客は呆然としたまま幕は降りて、芝居は終了するのであった。
 この日の芝居は常連客には思いがけず好評だったそうだがヤスミン一座は数日の休業を余儀なくされ、サフィールには二度と声がかかることはなかったという……。
 そんなサフィールにようやく仕事を与えることができ、竜也はほっとしている。子供の使いに毛の生えたような仕事だがサフィールも非常に張り切っていた。

「それじゃ、これを白兎族の族長に」

 と竜也から「ネゲヴの夜明け」を渡されたラズワルドは微妙に嫌そうな顔をした。

「……白兎族は他の部族みたいな身体強化の恩寵を持ってない。むしろ普通の人よりもひ弱なくらい。戦争の役には立たない」

「そんなことはない」

 ラズワルドの言葉を竜也は強く否定した。

「白兎族の力の意味は今回のテ=デウム潜入でラズワルド自身が証明したじゃないか。俺の元いた場所には『情報を制する者は世界を制する』って言葉がある。白兎族の恩寵にはそれだけの力がある。聖槌軍と戦うにはその力が必要なんだ」

 気が進まない様子のラズワルドだが竜也の熱意にほだされ、族長宛の紹介状を執筆する。

『「情報を制する者は世界を制する」ってタツヤは言っている。白兎族の恩寵にはそれだけの力がある、ってタツヤは言っている。エレブ人と戦うのに力を貸すならあなた達がわたしにしたことを大目に見てやってもいい』

 書き上がった紹介状を見せてもらい、竜也は渇いた笑いを浮かべるしかなかった。

「こんな内容の紹介状じゃ逆効果じゃないのか?」

 と思わずにはいられないが、その一方ラズワルドの同族に対する複雑な感情を無視することもできない。結局竜也はその紹介状の一字一句も削ることなく、付け加えることなくそのまま「スキラの夜明け」に添付した。

「白兎族には旧知の者がおります。私が配達を引き受けましょう」

 とツァイドが申し出てきてくれたので竜也はツァイドに配達を委ねることにした。
 一方、スキラ内の有力者に対しては竜也自身が「スキラの夜明け」を手に配付に回っている。配布先はスキラの長老会議メンバーやスキラ商会連盟の評議会に加わっているバール人商人等である。

「百万の大軍勢? 法螺を吹くにも限度というものがあるだろう」

 長老会議の面々はまだ危機感が乏しく、そんな風に竜也を嘲笑った。冊子を受け取りもせず、門前払いにされるばかりである。
 一方のバール人商人は直接会って竜也の話に耳を傾けてくれる者が多かった。エレブと交易し、その情勢を肌で感じているからだろう。
 バール人商人以外にも戦争の気配を肌で感じている者がいる。

「最初は逃亡奴隷、次に劇の脚本を書いていたと思ったら、今度は商会連盟の使いか」

 巨漢の男は面白そうな視線を竜也へと送った。髑髏船団首領のガイル=ラベクが竜也の面会申し込みに応じてくれたのだ。

「エレブの動きについては俺達も独自に注意を払っている。確かに、これまで経験したことのない大きな戦争になるかもしれんな」

「はい。エレブ人は総力を挙げてネゲヴに攻め込んできます。それに対抗するのにネゲヴ人も総力を結集する必要があるんです」

 熱意を込めた竜也の言葉にガイル=ラベクは腕を組んで考え込んだ。

「……お前の言いたいことは判る。戦争となったら力を貸してやらんでもない。だが、今のままではどれだけ戦力を集めてもエレブ人には勝てんだろう」

「どうしてですか?」

「簡単な話だ。エレブ人は教皇が中心になって聖槌軍を指揮しているんだろう? ネゲヴにはまだ中心となる者がいない」

 ああ、と竜也は納得する。

「それじゃ、誰が中心になれば」

「難しく考える必要はない、スキラも含めてネゲヴのほとんどの自治都市はケムト王に臣従しているんだ。ケムトから国王か、国王の勅命を受けた将軍でも連れてくればいい」

 自治都市がケムト王へと臣従し、ケムト王は自治都市を防衛する――それは形式的な主従関係に過ぎないが、その形式こそがケムト王の権威に大きく寄与しているのは間違いない。ケムト王が自身の権威を守りたいなら義務を果たす必要がある――確かにガイル=ラベクの言う通りだ。
 竜也は大急ぎで商会連盟の事務局へと向かい、商会連盟を通じてある人物に面会を申し込み、翌々日にはその人物と会う段取りとなった。
そして二日後、スキラ市街の外れ。今竜也の目の前には石造りの神殿の建物がある。高い正門に刻まれているのは真円が両側に翼を広げている紋章。その神殿の名は太陽神殿と言い、それはネゲヴ最大の宗教団体の名だった。
 竜也は以前ルサディルにいたときにハーキムに聞いた話を思い出す。

「一五〇〇年くらい前ですか、当時のケムト王が『バール人の奉ずる神々や恩寵の民の部族神は、全てケムトの神々に起源を有する。それらは名前が違うだけで元は同一の存在である』と主張しだしたんです」

 それはバール人の勢力拡大に危機感を抱いた当時のケムト王の、ささやかな抵抗の試みだったのだろう。だが歴代のケムト王とその周囲の神官はこのケムト流本地垂迹説を本気で信奉し、さらには広く布教した。太陽神殿をネゲヴ各地に設立し、神官を派遣して信者を集めて布教し、自身の教説を広める。この一五〇〇年間に渡る努力の結果、今日ではバール人も含む全てのネゲヴの民がこの説を受け入れてしまっている。
 その一方、この教説がネゲヴ中に浸透するに連れてケムト王室もまた変質した。祭政一致が長く続いていたケムト王は次第に「政」を手放して「祭」だけに集中するようになる。数百年前から「政」は宰相に任せきりでケムト王は実務には一切関わらないのが常態となっている。

「初代王セルケト以来四千年間途切れることなく続くセルケト王朝の王、太陽神ラーの末裔、太陽神殿の最高神官」

 ケムト王は政治の実権を全て手放した代わりに、ネゲヴで他に並ぶ者のない権威を手に入れたのだ。多神教と一神教の違い、信者に対するスタンスの違い、他にも差異はいくらでもあるが、その存在はエレブ人における聖杖教の教皇に匹敵すると言えるだろう。

「お待たせいたしました」

 神殿内に通された竜也が応接室で待つことしばし、その部屋に神殿長が現れた。神殿長は日焼けした肌のケムト人で、七〇歳近い老人である。身にしているのは爪先までを隠す白い神官服で、その神官服にも太陽神殿の紋章が描かれていた。

「時間を作っていただきありがとうございます。今日こちらに伺ったのは他でもありません、エレブの聖槌軍のことです」

 竜也は挨拶もそこそこに本題を切り出した。エレブ情勢を、教皇庁の動きを、聖槌軍の動向を説明する。

「聖槌軍という恐るべき侵略者がネゲヴにやってきます。聖槌軍は聖杖教という宗教を心の支えにしている。ネゲヴの中でそれに対抗できるのは太陽神殿を置いて他にはないんです」

「確かにその通りです」

 その神殿長は力強く頷いた。

「私達もエレブの動きについては不安に思っていたところです。これらの情報とあなたの志は必ずメン=ネフェルに伝えましょう」

「ありがとうございます」

 竜也は深々と頭を下げた。







 ダムジの月(第四月)が終わり、アブの月(第五月)に入る頃。竜也はエレブ情勢をまとめて速報を評議会に提出しようとした。が、

「……君は大規模な侵攻があることを確信しているようだが、それに否定的な情報に目を瞑っていないかね?」

 そう言って評議員の一人が報告書を読みもしないで机の上に置く。

「どういうことですか?」

「『聖槌軍は百万を公称するがその実勢力は五万以下。実際に侵攻に参加するのは二、三万程度』――そんな情報が我々の元に入っている」

「そんな馬鹿な……」

 竜也は呆然とするしかない。

「だが落ち着いて考えてみれば、百万を号する大軍勢よりそちら方がよほど現実的だとは思わないかね? 聖槌軍総司令官のヴェルマンドワ伯ユーグは聡明な人物だと聞いている」

「確かにおっしゃるとおりです。でも、今のエレブはそんな道理が通用する場所じゃないんです」

 竜也はその評議員を説得しようとするが、彼は手振りで竜也の口を塞いだ。

「我々が知りたいのは君の信念ではなくエレブの実情だ。このままならムハンマド・ルワータと君の活動に対する支援は見直す他ないだろう」

 竜也は追い出されるようにしてその部屋から出ていく。その後、竜也は港に行って噂を集めた。

「どうやら何とかっていう枢機卿が失脚したらしいな。それで敵の規模が大分縮小されたとか」

「教皇が倒れたって聞いたぜ? 教皇はもう八〇前の年寄りだ。教皇が死んだら後継者争いが始まって、聖槌軍どころじゃないだろう」

 確かにそんな噂が広く流れている。だがそれはただの噂である。しかもエレブでは流れていない、ネゲヴでしか聞かれない、事実とは異なる噂だ。

「枢機卿アンリ・ボケは元気にエレブ中を飛び回っているし、教皇インノケンティウスも健在だ。一体誰がこんな噂を……」

 ムハンマド・ルワータから直接情報をもらっている竜也には「今のネゲヴで俺以上にエレブ情勢に詳しい奴なんていない」という自負がある。その竜也からすれば「枢機卿失脚」も「教皇不予」も根拠のない、流言飛語の類に過ぎなかった。
 だが、そんな流言飛語も馬鹿にならない力を持つことがある。

「……今日も来てないか」

 どうやら「聖槌軍の実総勢は二、三万」という噂は相当広範囲に広がっているらしい。竜也の作成・配付した「ネゲヴの夜明け」に対する反応も非常に乏しい状態だった。即座に返事をくれたのは牙犬族のアラッド・ジューベイだけだが、牙犬族はもう身内みたいなものなので勘定には入れられない。恩寵の部族では、他には赤虎族と金獅子族が返信をくれた。

『エレブ人の無法者共がネゲヴの大地を穢すなら我等赤虎の戦士が奴等を皆殺しにするだろう。安心するがいい』

『我等金獅子族はネゲヴを守護する者、エレブ人の侵略を許しはしない。より詳しい状況が知れたならまた連絡を頼む』

 恩寵の部族の中でも最強と言われる両部族の言葉は心強く感じられる。だが彼等が事態をどれほど深刻に受け止めているのかは心許なかった。
 竜也は折れそうになる心を奮い立たせ、「ネゲヴの夜明け」第二弾を作成する。

『聖杖教は自らの神を唯一絶対と称し、他の神や信仰を一切認めていない。もし聖杖教にネゲヴが征服されたなら太陽神殿は全て破壊され、神官は処刑され、聖杖教の教会が建設されてその崇拝が強制されるだろう。恩寵の民は村ごと皆殺しとなるだろう。エレブ人はまさしくそのようにしてエレブを聖杖教一色に染め上げたのだから』

『聖杖教に改宗すればあるいは殺されずにすむかもしれない。だがそれは恩寵を持たない人達だけの話である。恩寵を持っている人達は決して生き残ることを許されない。改宗した我々が彼等を迫害し、殺すことになる。聖杖教は我々の神を殺しにやってくる。我々の友を殺しにやってくる。我々の良心を、尊厳を殺しにやってくる。我々を奴隷にするためにやってくるのだ』

「……文責クロイ・タツヤ、と」

 末尾にそれを付けた冊子は再びネゲヴ中へと配付された。
 一方、レプティス=マグナに行っているカフラからの手紙が届けられた。

『小麦の買い占めは順調です。すでに三〇〇万アンフォラ分確保しています。価格は一アンフォラでわずか〇・六ドラクマ、暴騰すればタツヤさんはネゲヴ有数のお金持ちですよー』

「……上がらないのは助かるけど」

 噂のおかげで小麦相場も落ち着いており、買い占めを進める良い機会となっていた。だが「本当に暴騰するのか」とカフラも不安になっているようで、その思いが文面からにじみ出ていた。

『根拠のない噂が流れているけどエレブ情勢に大きな変化はない。小麦の買い占めはこのまま進めてほしい』

 竜也は手紙にそう書いてカフラへと送った。
 さらにその一方ヤスミン一座では、

『――このままじゃ村は全滅だ。エレブ人共にはもう我慢ならねぇ』

『村長、どうすれば?』

『――海賊雇うだ!』

 脚本ニッポンノ・エンタメの新作劇「七人の海賊」の上演が始まっていた。言うまでもなく黒澤明の「七人の侍」を翻案した劇である。舞台はネゲヴのとある寂れた漁村・ヌビア村。ヌビア村はあるエレブ人海賊に目を付けられていて、破産寸前になっている。海賊の横暴に耐えられなくなった村人が決意し、グルゴレットやシノンといった傭兵を雇って海賊に抵抗する、というストーリーである。基本的には元ネタとほぼ同じだが、一箇所だけ大きく変更したところがある。

「……確かに面白いけど、ちょっとタツヤらしくないかも」

 最初に脚本を読んだときヤスミンはそんな感想を漏らした。

「集まった七人のうち二、三人は最後の決戦で死んだらいいんじゃない?」

「俺もそう思わなくはないんだけど」

 エレブ人と戦うために集ったのは七人。カルト=ハダシュト近辺を拠点とする海賊グルゴレット、マゴル出身の剣祖シノン、東ネゲヴの傭兵カシャット、他にはバール人商人・太陽神殿の神官・西ネゲヴの傭兵・恩寵の戦士、といったメンバーだ。元ネタでは七人のうち四人が死んでいるが、「七人の海賊」では最後まで一人も死んでいない。

「エレブ人と戦うのにネゲヴ人が総力を結集させてるんだ。その中から犠牲者を出したくはない」

 ヤスミンは何か言いたげにしたものの竜也の主張を受け入れた。ヤスミンは誤魔化すように別の話題を取り上げる。

「ところで、ヌビアってどこにある村?」

「元々はケムトの南の方の地名だから、あるとしたらその辺かな」

 名もなき貧乏漁村に「ネゲヴの別名とか古語とか雅語とかの名前を付けたい」と竜也は要求、ゴーストライターのログズが提案したのは「ヌビア」という村名である。ログズが竜也に解説する。

「――ウガリット同盟よりも古い時代、エレブ人はケムト南部から大量の黄金を輸入していた。このためエレブ人はケムト南部のことを古いケムト語で『黄金』を意味する『ヌブ』にちなんでヌビアと呼ぶようになり、やがてこの言葉はネゲヴ全体を意味するようになった。だがバール人がエレブに入植してバール語が浸透するにつれ、この言葉は使われなくなったんだ」

「ヌビア……『黄金の国』か。良い名前だ」

 ネゲヴにもその単語が輸入され、ネゲヴの知識人も自分達の大陸のことをヌビアと自称していた時期があった。一五〇〇年ほど忘れられていたその地名を竜也は掘り起こしたのである。

『戦には旗印が必要だ』

 と劇中でバール人商人が用意していたのは、中央に大きめの丸印、その周囲に少し小さい七つの丸印が配置された、シンプルな旗だった。観客は劇の展開に熱中し、食い入るように舞台を見つめている。
 「七人の海賊」も例のごとくに好評を博し、順調に客足を伸ばしていた。そしてアブの月が中旬に入る頃、竜也の元を嵐が襲来する。






[19836] 第一二話「エルルの月の嵐・後」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/06 19:37

「黄金の帝国」・戦雲篇
第一二話「エルルの月の嵐・後」







「ナーフィア商会からのお呼びです。どうぞお乗りください」

 アブの月(第五月)の中旬のその日。竜也の元に、「マラルの珈琲店」にやってきたのはナーフィア商会が使わした馬車である。馬車の御者には武装した傭兵、さらには二頭の馬と騎乗した傭兵が二人付いている。
 傭兵達の態度は比較的丁重だったが、もし断ったなら無理矢理にでも連れていくつもりなのは明白だった。

「いかがしますか」

 とサフィールは今にも剣を抜きそうな体勢だ。竜也はサフィールを手で制した。

「判った、乗ろう」

 タツヤ殿、と文句を言いたげに名を呼ぶサフィール。竜也は、

「すぐ戻る。待っていてくれ」

 そう言い残し、馬車に乗り込む。竜也を乗せた馬車はすぐに走り出した。
 少しの時間を経て、スキラ市街の中心地。竜也を乗せた馬車がその建物へと到着する。石造りの四階建ての巨大なその建物はナーフィア商会の本館だった。竜也は傭兵に連行されるように建物の中へと連れていかれる。そして建物の最深部、おそろしく豪華な会議室か、無闇に大きな応接室か判断に迷うその部屋へと放り込まれる竜也。

「タツヤさん!」

 名を呼ばれて竜也は顔を上げた。

「カフラ――」

 竜也はそこで言葉を詰まらせた。カフラがそこに立っている、カフラは溢れんばかりに目に涙を溜め、首には鉄製の頑丈な首輪を付けていた。かつて奴隷だった竜也にはすぐに判った、その首輪が奴隷用の物だということが。

「あなたがクロイ・タツヤですね」

 女性の冷たい声が竜也の名を呼ぶ。カフラの横には一人の女性が席に着いて座っている。年齢は五〇代のふくよかな、上品そうな女性である。微笑めば聖母みたいに見えるだろうその女性は、今は凍て付くくらいに冷たい怒気を放射していた。

「はい、そうです。あなたはもしかしてナーフィア商会の当主の」

「ミルヤム・ナーフィアと言います。今日来てもらったのはこの愚か者のことです」

 ミルヤムは視線でカフラを射貫く。カフラは針で刺されたように身を縮めた。

「先物取引の件ですよね。何か問題でも」

 竜也のとぼけた物言いにミルヤムが歯を軋ませる。ミルヤムは深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせ、話を始めた。

「『絶対に値上がりするから』とあなたがこの者をそそのかして先物取引をやらせた、それに間違いは?」

「ありません」

 竜也はその問いにそう断言する。カフラは、

「お母様! タツヤさんに責任は――」

「お黙りなさい」

 ミルヤムの静かな一言でカフラは言葉を途切れさせた。

「そんなことは判っています。いくら全ての取引がクロイ・タツヤの名前で行われていようと、それにナーフィア商会の名前を使って保証を与えたのはカフラマーン、あなたです。私がクロイ・タツヤをこの場に呼んだのは確認のためだけ。全ての責任があなたにあることは言うまでもないことです」

「はい……」

 カフラは俯いて涙をこぼした。

「あの、説明してもらえませんか。カフラが俺の依頼で先物取引をやった、そこまでは知ってます。それから何が起こったんですか?」

「この愚か者がいくらの取引を契約したかご存じですか?」

 竜也は首を傾げつつ、

「ええっと、以前聞いたときにはたしか三百タラント」

「今日までの時点で二千タラント、二千万アンフォラを越えています」

 竜也はいくつかの驚きを一度に味わった。

「ええっ? そんな額の取引をどうやって。それに価格が全然上がってない?」

「現時点の取引価格は一アンフォラ〇・五四ドラクマです」

 竜也は当惑するしかない。

(この期に及んで何で下がる? エレブの動きに誰も気付かないのか?)

「この愚か者はレプティス=マグナの人間にはめられたのです。『証拠金の差入はいつでも構わない』という取引相手のハーゲス商会の口車に乗せられ、事実上無制限の取引を実行してしまったのです。ハーゲス商会から証拠金の請求が届き、わたしは初めてこの事実を知りました」

 竜也はその説明をゆっくりと咀嚼する。

「……ということは証拠金の差し入れさえしなければ取引は成立しないんじゃ?」

「ナーフィア商会の名で交わされた契約を反故にしろと? 違約金がいくらになるのか判りますか? わたしが彼等とどれだけ不利な取引をしなければならないか判りますか?」

 ミルヤムは冷たい視線で竜也を薙いだ。そしてため息をついて、

「……ですが、実際そうするしかないでしょう。違約金を払うことになっても、どれだけ不利な取引することになっても、このまま契約を実行するよりは損害は小さくなります」

(何で損をすることが前提なんだ?)

 竜也の中の違和感は大きくなる一方だ。

「『この契約を交わしたのはナーフィア商会の人間ではい』――その証拠としてカフラマーンをナーフィア商会の籍から抜いて奴隷として売り払う。そんな言い訳が通用する相手ではありませんが、やらないよりはマシです。それでもおそらく、わたしは東ネゲヴに有している権益のいくつかを彼等に譲ることになるでしょうが」

「……もしかして、ハーゲス商会は最初からそれを狙って?」

 ミルヤムは苛立ちに満ちた目をカフラに向けて、

「ハーゲス商会は海千山千の相場師を相手にしつつレプティス=マグナの先物取引市場を主導し続けています。採算無視の道楽商売しか経験のないこの愚か者など、彼等からすれば赤子同然、手玉に取るなど容易いことです」

(――そこまで利に敏い連中が、何でエレブの動きに気付かない? 戦争の気配を無視している?)

 竜也の中の違和感は頂点に達していた。

「ですが、エレブ人の大軍勢が西ネゲヴに侵攻すれば穀物価格が上がらないわけがありません。わざわざ損な取引をする必要は」

「エレブ情勢を調べているのは自分だけだとでも思っているのですか」

 ミルヤムは呆れと侮蔑、半々の目で竜也を見る。

「わたしの手の者が独自に調査しています。今エレブには厭戦気分が広がっています。聖槌軍も数万程度の小規模な軍勢をネゲヴに送ってお茶を濁し、教皇の面子を立てるのがせいぜいです」

(どこの世界の話なんだそれは)

 今度は竜也が呆れる番だった。

(その「手の者」って奴はちゃんと仕事をしているのか――)

 その瞬間、竜也の中の違和感が全て消失した。足りなかった最後のピースが揃ってパズルが完成したような気分である。パズルには見事な絵が描かれていた。絵の題名は「ハーゲス商会の陰謀」だ。

「……何がおかしいのですか?」

 不審とわずかな苛立ちを込めてミルヤムが問う。竜也は知らずに作っていた笑いを抑え「失礼しました」と謝った。

「ミルヤムさん、俺と賭をしませんか?」

「賭け事が好きなのですね、あなたは」

 ミルヤムは馬鹿を見る目で竜也の提案を迎える。だがその程度では竜也は怯まない。

「俺は勝てる賭しかしませんよ」

 と不敵に笑う竜也。ずっと俯いていたカフラが顔を上げ、その大きな瞳で竜也を見つめる。

「俺が負けたなら、俺もカフラと一緒に奴隷に売ってください。その代わりもし俺が買ったなら、証拠金を差し入れて二千タラントの取引を実行してほしいんです」

「話になりませんね」

 言下に否定するミルヤムだが竜也はそれを無視し、賭の内容を告げた。ミルヤムはカフラと同じような驚きの表情で目を見開いている。







 ……場所はスキラ市外の一角、そこに建っているのは一見したなら普通の商館のように見える建物だ。時刻はすでに深夜近いのにその建物は不夜城のように明かりが煌々と灯っている。そこは一種の高級娼館なのだ。主要な客層は庶民の中の比較的高所得な層、それにバール人商人の中堅以下の層である。
 その商館を一人の男が訪れていた。年齢は五〇代。かつては端麗な容姿だったのだろうが、加齢以上の何かがその容貌を負の方向へと歪めていた。

「お待ちしておりました、インケファード様。どうぞこちらへ」

 インケファードと呼ばれた男は店員に案内され、館内の一室へと案内される。その娼館の中でも最上級の部屋で待っていたのは、高級娼婦ではなく中年男だった。禿げ頭をすだれ髪で隠しているのが特徴くらいの、どこにでもいそうな男である。

「ミルヤム・ナーフィアは契約を反故にしようと動いている」

 インケファードは前置きもなしにそう告げた。

「『娘が勝手にやったことだ』と主張している。娘を除籍し、奴隷として売り飛ばすつもりだ」

「そうですか。予定通りですね」

 と頷く中年男。

「しかし、よろしいのですか? カフラマーンと言えばあなたの」

「言うな。もう決めたことだ」

 インケファードは自分の感情を切り捨てるようにして命じる。中年男はしばし口をつぐんだ。

「それより、契約は守ってくれるんだろうな」

「はい、もちろん。ナーフィア商会から海運路線のいくつかを譲らせ、それをあなたに任せる。あなたもこれで念願の独立商人ですよ?」

「そうか。長かったが、それもあと少しだ」

 そうですな、と頷いて中年男は立ち上がった。

「それでは私はこれで。最後まで油断なきよう」

「判っている」

 中年男はそう言い残して出て行った。一息ついたインケファードは手酌で葡萄酒を飲もうとする。そこにドアがノックされた。

「誰だ? 空いているぞ」

 ドアが開いて何人かの人間が入ってくる。インケファードは葡萄酒の入ったコップを手から滑らせた。葡萄酒が血のように絨毯に広がる。

「み、ミルヤム……何故、どうして」

「あなたが知る必要もないことです」

 ミルヤムの横にはカフラが立っている。インケファードはさらに動揺した。カフラはすでに奴隷用の首輪を外しているがその事実はインケファードにとって何の慰めにもならなかった。

「か、カフラ……」

「お父様……」

 カフラの涙のたまった瞳を向けられ、インケファードは思わず目を逸らす。ミルヤムは重苦しいため息をついた。

「……今すぐスキラを去りなさい。二度とわたし達に関わりを持とうとは思わないことです。そうすれば天寿を全うするくらいはできるでしょう」

「お前が!!」

 その一声には十年分の恨み辛みが、劣等感が、憎悪が、あらゆる負の感情がこもっていた。インケファードは怨嗟の声を続ける。

「お前が、そうやって俺を馬鹿にして、俺に何もするなと……! もう少しだったのに! もう少しでそのすまし顔に吠え面をかかせてやったのに……!」

「他に言いたいことは?」

 だがミルヤムの反応は氷壁よりも冷淡だった。インケファードは血が出るほどに歯ぎしりをした。

「最後の機会です。言いたいことがあるのなら全て聞きますよ?」

「……くそっ、くそっ!」

 インケファードはその部屋を飛び出し、逃げていく。今生の別れと思いそれを見送るカフラとミルヤムだが、その背中はすぐに見えなくなった。
 それからしばしの時間を経て。カフラとミルヤムは娼館の一室へと戻ってきた。

「カフラ、ミルヤムさん。どうなりましたか?」

 とカフラ達を出迎えたのは竜也である。その部屋では竜也の他、ラズワルドとサフィールが二人を待っていた。待ち疲れたラズワルドはソファに丸まって眠っている。

「全て終わりました」

 ミルヤムが端的に説明する。ミルヤムはそれ以上何も言うつもりはないようだ。説明を求めるようにカフラを見る竜也。だがカフラから返ってきたのは悲しみに満ち、涙に溢れた瞳だ。

「……その、カフラにはミルヤムさんもいるし、俺達だってついている。あまり気を落とさないでくれ」

「タツヤさん……」

 カフラが竜也の胸に飛び込む。竜也は一方の腕をカフラの背中に回し、もう一方の手でカフラの頭を撫でた。カフラは夢心地で酔うようにその温かさに身も心も任せる。が、突然頭を撫でていた手が失われた。
 見ると、竜也の右腕にラズワルドがぶら下がっている。ラズワルドは威嚇するような敵意に満ちた目をカフラへと向けた。対抗するようにカフラは自分の身体を竜也の胸へとすり寄せた。

「――これからの話をしましょう。カフラ」

「あ、はい」

 母親の声に、カフラは名残惜しそうに竜也の腕の中から抜け出る。竜也達はそれぞれソファに座った。着飾った一人の老婆がミルヤム達にかいがいしく給仕をしているが、ミルヤムはそれを空気のように扱っていた。その老婆はほんの半日前までこの娼館の主人だった人物である。ミルヤムはインケファードと対決するためだけに金貨を積み上げてこの娼館を丸ごと買い取ったのだ。
 竜也の両側にはラズワルドとカフラが座り、竜也に身体を預けてくる。竜也はカフラの身体の重みと柔らかさ、その体温に動揺しながらもそれを隠しつつ、

「それで結局、インケファードさんがナーフィア商会を裏切ってハーゲス商会に通じていた。それは間違いなかったわけですね?」

「はい。あの男の裏切りをこの目で確認しました」

 竜也の確認にミルヤムが頷く。

「あなたとその子の言う通り、あの男だけでなく他の多くの店員が与していることも間違いないのでしょう」

 ナーフィア商会の中に、それもミルヤムに近い立場の人間の中に、ハーゲス商会の意を受けて動いている者がいる――それが竜也の賭の内容だったのだ。普通なら簡単に勝ち負けが判明する賭ではないが、竜也の元には反則技の固まりみたいな少女がいる。ラズワルドの調査の結果、裏切り者の名が芋づる式に挙がってきたのだ。

「でもまさかお父様がハーゲス商会に通じていたなんて」

「まったくです。わたしも油断していました」

 裏切り者の筆頭はミルヤムの夫・カフラの父親のインケファードだ。慣例を無視して商会の経営権を握り続けているミルヤムに対して、商会の店員全員が信服しているわけではない。密かに反発している人間も数多く、インケファードはそんな人間を口説き落として自分の配下に組み込んでいったのだ。そしてそれをハーゲス商会が全面的に支援する。
 十年前に先物取引で大失敗をした後、インケファードはハーゲス商会と手を切るのではなくより深く手を結ぶことを選んだのだ。それまでは先物取引を介した関係でしかなかったのだが、それ以降は同じ陰謀を企てる盟友となる。十年という時間とハーゲス商会の全面支援、ナーフィア商会に組織的裏切りという病巣を広げるには充分であろう。そしてカフラが先物取引に手を出したのをきっかけに収穫へと動き出す。先物取引と言えばハーゲス商会の独壇場だ、ナーフィア商会を罠に填める絶好の機会だと判断したのは当然である。

「それでも『まさかあの者達までが』と思わないではいられませんが」

 裏切り者の中にはナーフィア商会の情報部門を統括する人間も含まれていた。このためミルヤムも誤ったエレブ情勢を信じ込んでしまい、圧倒的に不利な取引をしてしまう寸前だったのだ。
 「エレブで厭戦気分が広がっている」という噂を流したものハーゲス商会ではないかと竜也は考えている。最終的に小麦価格がどう動こうと、ハーゲス商会にとってはどちらでも良かったのだ。今しばらくの間ミルヤムに「小麦価格が下落する、このまま取引をしてしまったら大損だ」と思わせられたなら。インケファードとハーゲス商会の陰謀は九分九厘成功を見ており、ミルヤムは権益を譲ってでも取引を中止する寸前だった。
 彼等の誤算はただ一つ、ラズワルドがナーフィア商会のためにその恩寵を使ったこと、ただそれだけである。

「賭は俺の勝ちです。『大規模な戦争は起こらない』と、ハーゲス商会がナーフィア商会に信じ込ませようとしたことが明らかになったと思います」

「そうですね」

 すでにそれを認めているからこそミルヤムはカフラから奴隷用の首輪を外している。カフラの処分は保留という扱いである。

「じゃあ、事実はどうなのか? だからと言って『大規模な戦争が起きる』とは断言できない、そう言いたいんじゃないかと思います」

 竜也はそう言いつつミルヤムに「ネゲヴの夜明け」やエレブ情勢速報、その基となった資料をまとめて渡した。ミルヤムがそれを読んでいく。

「……確かに、あなたが聖槌軍に危惧を抱くのもよく判ります」

 長い時間をかけて全ての資料に目を通し、ミルヤムはそう結論づけた。そして、決断を下す。

「判りました。百タラントの証拠金、差し入れましょう。小麦の買い占めを成立させましょう」

「本当ですか?!」

 竜也は思わず立ち上がった。ミルヤムは頷く。

「ええ、もし裏が出て小麦価格が半額になったとしても損失は千タラント。その程度でナーフィア商会は潰れはしません。もし表が出たなら、そのときこそきっと見物というものです」

 ミルヤムは悪辣な笑みを見せる。

「表が出ますよ。俺は勝てる賭しかやらないんです」

 竜也もまた不敵に笑う。竜也とミルヤムはしばし笑みを交わし合った。
 ――アブの月の月末、ナーフィア商会の使者がレプティス=マグナを訪れ、百タラントの証拠金を差し入れる。これにより二千万アンフォラに及ぶ小麦の売買取引が正式に成立した。小麦価格が暴騰を始めたのはその瞬間からである。







「にゅっふふふ……」

 レプティス=マグナから伝書鳩で届けられた小麦の価格表を握りしめ、カフラは堪え切れない笑いを漏らしていた。

「にゅっふふふ……にゅるっふふふ……にゃっははは……」

 カフラの笑いは徐々に大きくなっていき、

「にゃっはっはっはー! にゃーっはっはっはっはー!!」

 最後には哄笑、大哄笑に至っていた。目も口も緩み切って、口からは少しよだれが垂れている。

「カフラ、少し落ち着こう」

 竜也は腰が引けた状態になりながらもそう呼びかける。カフラは赤面し、

「失礼しました」

 とよだれをぬぐった。
 さて、月はすでにエルルの月(第六月)に入り、その初旬。場所はナーフィア商会本館である。賽の目が出たという知らせを受け、竜也はそこにやってきたのだ。竜也にはラズワルドとサフィールが付いてきている。

「タツヤさん、見てくださいこれ!」

 カフラが突きつける価格表を受け取り、それに目を通す竜也。

「一アンフォラ二・二ドラクマ。随分急騰しているな」

 竜也の態度はまるで他人事のようであり、カフラにはそれが物足りない。

「二千万アンフォラで七千タラント以上になります。五千タラント以上の儲けなんですよ! しかも高騰はまだまだ続いているんです!」

 そうは言われても、と言いたげに竜也はサフィールに視線を送った。サフィールもまた事態を飲み込んでいないようで、小首を傾げている。

「金額が大きすぎて理解が及ばないんですが。五千タラントってどれくらいですか?」

「一タラントが六千ドラクマ。一ドラクマが労働者の平均的な日当、だったっけ」

(一ドラクマが三三六レプタ、一日分のパンの代金が四二レプタ……)

 竜也は脳内で様々な数字を組み合わせて計算した。実際の購買力から見れば一ドラクマは一二〇〇円から一三〇〇円だが、生活実感から見れば一ドラクマは五、六千円くらいにはなるだろうか。

(一ドラクマを五千円とするなら、五千タラントは一五〇〇億円か)

「おー、そりゃすごいな」

 ようやく竜也が笑顔を見せる。だがその淡泊な反応にカフラは脱力した。

「何でそんなに他人事みたいな反応なんですか。これ全部タツヤさんのお金なんですよ?」

「え、何で?」

「何でって、そういう契約になっているからです」

 契約を結んだ本人であるカフラが白々しくそう答えた。

「タツヤさんがナーフィア商会から借金をして保証金を用意し、タツヤさんの名前で結んだ契約なんです。タツヤさんはナーフィア商会には借金返済の義務しかありませんから、利子を付けて返したって丸々五千タラント残りますよ」

「そんなお金俺には管理できないからカフラとナーフィア商会に任せるよ。それよりも」

 竜也は真顔になってカフラとミルヤムを見つめた。

「俺が必要としているのは穀物なんだ。聖槌軍の侵攻で西ネゲヴの人達が危機に陥ったときに支援をする、それができるだけの穀物を用意したい。契約書や為替、借金の証文をいくら積み上げたって、それで腹は膨れはしないだろう?」

「要するに、実物の穀物を積み上げる必要があると言うのですね」

 ミルヤムの確認に竜也は頷く。

「どこにですか? 倉庫はどうします? 輸送船の手配は? 保管はどうするのですか? 集めるのは小麦だけですか?」

 ミルヤムが畳みかけるように問うが、竜也は照れたように頭をかいて、

「その辺は全部ナーフィア商会にお願いしたいと思ってるんです。だからこそ五千タラントの管理をお願いして、必要経費はそこから出してもらって」

「そうですね。それが妥当でしょう」

 とミルヤムも頷いた。竜也は続けて、

「これだけ小麦価格が急騰しているとレプティス=マグナがひどいことになるんじゃないかと思うんですが」

「なるでしょうね。五千タラントの支払いを強要したならいくつの商会が倒産するか、何人の商人が首を吊るか」

「だから、あまりひどいことにならないようにしてほしいんですよ。貸しを作って小麦じゃなくても、大麦とか燕麦とか米とか蕎麦とかトウモロコシとか芋とか、長期保存の利く食糧を用意してもらうとかして」

 ふむ、とミルヤムは再度頷く。

「わたしとしても、不必要に恨みを買うことを望むわけではありませんが――ハーゲス商会は別として」

「それは俺も同じです。これからエレブ人と戦わなきゃいけないんだから、ネゲヴ人同士でいがみ合う理由はできるだけ減らしたいんです」

「いいでしょう」

 ミルヤムは竜也に対して手を差し出した。

「あくまでネゲヴを守らんとするあなたの志、決して無為にしないことを約束しましょう」

「よろしくお願いします」

 竜也はミルヤムの手を固く握る。これ以降、ミルヤムは竜也にとっての最大の支援者となる。







 ――エルルの月から始まった小麦価格の暴騰はレプティス=マグナを中心として東ネゲヴのバール人達を大混乱に陥れた。ミルヤムが気を回す時間もないうちにいくつもの商会が倒産し、何人もの商人があるいは首を吊り、あるいは夜逃げをする。なお最大の損害を被ったハーゲス商会では当主一家が追放され、ナーフィア商会の完全な傘下に入ることで形上だけは存続した。
 ナーフィア商会を訪れたレプティス=マグナの商人達に対し、ミルヤムが支払い猶予を宣言してようやく混乱は終息。その代わり、レプティス=マグナの経済界はナーフィア商会に支配されたも同然となった。
 この一連の騒動はバール人商人達によって「エルルの月の嵐」と呼ばれるようになる。そしてこの嵐の記憶と共に「クロイ・タツヤ」の名もまたバール人達の胸に刻み込まれたのだ。







[19836] 第一三話「ガフサ鉱山暴動」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/15 20:41

「黄金の帝国」・戦雲篇
第一三話「ガフサ鉱山暴動」







 エルルの月(第六月)の中旬に入った頃。竜也はカフラの案内でナハル川南岸を訪れていた。
 スキラの町の機能はナハル川の北岸側に集中しており、南岸側にあるのは倉庫や漁村・農村である。竜也が訪れたのは倉庫が建ち並ぶ一角だった。

「とりあえずこの一角の倉庫を在庫ごと買い取っています」

 とカフラが指差すのは道路に区切られた一区画全部であり、そこには三十棟以上の倉庫が並んでいた。竜也は「ふむ」と頷く。

「でも、よくこれだけの倉庫をまとめて買えたな」

「所有していた商会が倒産したので安く手に入れられました。確かハマーカ商会でしたか」

 その名前に聞き覚えのあった竜也は少し考え、思い出す。

「ああ、ガリーブさんのところの。それじゃゴリアテ号はどうなったんだ?」

「あの馬鹿船ですか? 倉庫を買ったら付いてきました」

 地中海最大の巨船がまるでお菓子のおまけのような扱いだった。

「あんな船動かしても持て余すだけだから港に浮かべて倉庫代わりにしようかと」

「いや、動かせるのなら使うべきだ。様子を見に行こう」

 竜也達は船を使って北岸の造船所が並ぶ一角へと移動、ゴリアテ号の前へと直接乗り付けた。竜也はその事務所で久々にガリーブに対面する。

「おお、久しいなタツヤ! 君がこの船のオーナーになったそうだな!」

「お久しぶりです。ゴリアテ号は動かせますか?」

「それはその目で確認してもらおう!」

 とガリーブは言い、竜也達を連れてゴリアテ号へと向かう。全長百メートルを越える巨船を見上げ、カフラも感嘆を禁じ得なかった。

「こうして改めて見ると、大したものかもしれません」

「よくこんなもの造ろうと思ったよな」

「ええ。よほどの途轍もない阿呆だったんでしょう」

 竜也達はガリーブの案内でゴリアテ号内を見て回った。船内は幾層にも別れているが、階層内での仕切りはほとんどない。何十本もの柱が建ち並ぶ空間が広がっているだけである。

「艤装は終わっているし、必要最低限の設備も整っている! 船として充分に使えるぞ!」

「そうか、ならこの船も穀物輸送に使ってくれ」

 竜也はそう即決してカフラに指示を出す。カフラは若干不満そうな表情を飲み込んで何も言わずにその指示を受け入れた。

「多分実際に動かすと色々と問題が出てくると思うんだ。それを洗い出して、次の船の建造に生かしてほしい」

「おお、判った!」

 ガリーブはそう言って胸を叩く。こうして竜也はゴリアテ号を運用することとなった。それを小耳に挟んだミルヤムが竜也に提案する。

「タツヤさん、ゴリアテ号を貸していただけませんか。あれを西ネゲヴに派遣したいのです」

「それは構いませんが、何をするんですか?」

 はい、とミルヤムが説明する。

「ヘラクレス地峡に近い町から順に回り、美術品や貴金属、金貨を預かって回る事業をするつもりです。西の町は聖槌軍に侵略され、戦火や略奪にさらされます。貴重な美術品が灰燼に帰す前に、ネゲヴ人の財産を敵に奪われる前に、それを西ネゲヴに移動させるのです」

 ほう、と竜也は感心した。

「確かにそれは早めにやっておいた方がいいですね」

「はい。それに、財産が東に移動すれば人間も東に逃げようと思うようになるでしょう。そうやって逃げる人間が増えればそれだけ助かる人間が増えるというものです」

 なるほど、と竜也は強く頷いた。でも、竜也は首を傾げる。

「別にゴリアテ号である必要はないんじゃ?」

「確かに絶対に必要というわけではありませんが、ゴリアテ号を使うことが望ましいのです。財産を預ける人間にとって一番大切なのはそれが失われないこと。持ち逃げされたり、預けた船が沈んだりしないことです。持ち逃げしないという信用にはナーフィア商会の名前が有効ですが、その上であの巨船を使って見せれば言うことはありません」

「船の大きさは財力の大きさ、ってことですか。それにあれだけの巨船なら簡単には沈まない、って誰もが思うでしょうし」

 そういうことです、とミルヤムが頷いた。
 なお、ミルヤムは人命尊重だけを目的としたわけでなく、明確にナーフィア商会の大儲けを企図していた。竜也がそれを理解するのはしばらく先のこととなる。
 こうしてゴリアテ号はナーフィア商会に貸与される。ゴリアテ号が西ネゲヴ方面、ルサディルへと向かって出港するのはエルルの月の月末。ナーフィア商会だけでなく他のいくつもの有力商会がこの事業に参加していた。
 聖槌軍のネゲヴ侵攻まであと半年足らずとなり、エレブでは戦争準備が急ピッチで進められている。大規模侵攻が現実となろうとしていることが誰の目にも明らかになってきたのだ。

『エレブでは銃器や大砲、剣や鏃が盛んに作られていて、鉄が極端に不足している。各国の王室は庶民に対して鉄製の鍋・釜の供出を呼びかけた』

『供出した鉄の鍋・釜の代わりに土鍋を使う家が増え、薪の消費が増えて燃料不足もまた深刻になっている』

『生煮えの麦粥を食べて腹を下し、倒れる者も急増している。体力のない老人や子供が次々と死んでいる』

 エレブでの鉄不足はネゲヴにも波及している。バール人商人がネゲヴの鉄をエレブで売って大儲けしているため、ネゲヴにおいても鉄の価格が上昇する一方なのだ。経済動向に敏感なバール人がエレブ情勢に無関心でいられるわけがない。竜也の提出するエレブ情勢速報を評議員達は食い入るように読んでいた。以前とは大違いである。
 「エルルの月の嵐」の騒動により竜也は自分の名前をスキラとその周辺に轟かせた。さらには竜也が早くから聖槌軍の脅威を訴えていたことも知られ、竜也は聖槌軍問題の第一人者と見なされるようになる。

「私はレモリアから帰ってきた交易船の者です」

「俺はフランクに行ってきて昨日帰ってきたんだが」

 今や情報を集めに歩き回る必要がない。竜也の下にはエレブ帰りが入れ替わり立ち替わりやってくるのだから。さらには有名な傭兵団の首領も訪ねてくる。

「エレブ人と戦うならうちの傭兵団がお買い得だぜ?」

「俺に一声かけてくれれば千人の兵士を集めてやるぞ」

 現時点では誰の指揮でどこでどうやって戦うか、何一つ決まっておらず、今傭兵を雇ったところで持て余すだけである。彼等もそれは承知しており、彼等の目的は顔と名前の売り込み、要するに営業である。それに応えて、竜也は彼等の顔と名前をしっかりと脳裏に刻み込んだ。
 また、恩寵の部族の族長、またはその代理が何人も竜也を訪ねてやってきた。

「お前がバール人をだまくらかして巨万の富を稼いだクロイ・タツヤか! いや、痛快痛快!」

 そう言って大笑いをしたのは赤虎族の族長だ。

「貴殿が何人ものバール人を破産させて首を吊らせたと……いや、責めているのではない、その逆だ。あの連中も自分達が普段他人に何をしているのか、これで少しは理解するといいのだがな」

 そう言ってやはり薄く笑っていたのは金獅子族の族長代理である。竜也の下を訪ねてくる大抵の人間が似たようなことを言ってくるのだ。

「どれだけ嫌われてるんだ、バール人」

 と竜也は驚き半分、呆れ半分だった。だがその感覚は竜也も一部共有している。バール人がエレブに鉄を輸出している事実に竜也は愉快ではいられなかった。

「その鉄は剣や鏃、鉄砲の弾丸に使われる。ネゲヴ人の生命を奪うのに使われるんだぞ? それが判らないのか?」

 竜也がそう憤っても鉄の流出は続いた。ネゲヴでも鉄の価格が急騰しようやく流出が止まろうとしているところである。
 そんな中、エルルの月の終わり頃。ある人物が竜也を訪ねて「マラルの珈琲店」へとやってくる。

「全く、お前ほど会うたびに立場が変わる奴は初めてだ」

 そう言って笑うのは髑髏船団首領のガイル=ラベクである。竜也は、

「わざわざ来ていただけるなんて」

 と恐縮した。竜也は例によって珈琲店内の個室を応接室代わりに使っている。ラズワルドが持ってきた珈琲をガイル=ラベクは、

「なかなか良い珈琲だな」

 と旨そうに味わっていた。ガイル=ラベクは周囲を見回し、

「しかし、お前まだここに住んでいるのか? お前さんも今じゃスキラ有数の大富豪なんだろう?」

「いや、あれはネゲヴ防衛のためのお金ですから。俺個人が自由にできるお金なんてありません」

 そんなものなのか、とガイル=ラベクは驚く。そういう反応にも慣れてきた竜也だった。竜也はしばらく前のカフラとのやりとりを思い出す。

「タツヤさん、いつまであそこに住むつもりですか?」

 とカフラは竜也の前にいくつもの不動産の権利書を広げた。スキラ市内で売りに出されている豪邸・屋敷の権利書、その写しである。

「タツヤさんはもうただの庶民じゃないんです。聖槌軍と戦うためにネゲヴを主導しなきゃいけない身分なんですよ? その身分を判りやすく示す服を着、屋敷を持たなきゃいけないんです」

「カフラの言うことは判らなくもないんだけど」

 竜也は困惑を曖昧な笑みで隠した。

「あれはネゲヴ防衛のための資金なんだから、無関係なことに使うべきじゃないだろう」
「関係はあるじゃないですか。今日だってどこかの傭兵団の首領が呆れて帰っちゃいましたし」

 竜也の元を訪れる商人や傭兵は数多いが、竜也の質素な暮らしぶりを見て呆れ、あるいは竜也を軽侮して帰っていく人間も決して少なくはない。だが、

「甘い汁を吸えそうにない、って判断されただけだよ。むしろ好都合じゃないか」

 と竜也は気に留めてもいなかった。
 その後も何度か同じやりとりがくり返されたが、結局竜也が自分の意志を変えることはなかった。

「タツヤさんて結構頑固なんですね」

 とカフラもすでに諦めている。こうして「マラルの珈琲店」が聖槌軍対策本部として機能したまま今日に至っている。

「ところで、今日は一体どんな用件で」

「ああ、これもネゲヴ防衛に全く関係しない話じゃない」

 竜也の問いに、ガイル=ラベクは用意していた地図をテーブルの上に広げた。

「ここにガフサという大鉱山がある。所有者はワーリス商会だ」

 ガフサ鉱山はスキラから西に百キロメールほどの場所に位置している。

「ああ、先日ここで大きな暴動が起こったと」

 竜也の言葉にガイル=ラベクは首を振った。

「いや、それは違う。起こっているのは大規模な奴隷の反乱だし、先日の話ではなく今このときも続いていることだ」

 竜也は小さく驚いた。ガイル=ラベクが説明する。

「ガフサ鉱山一帯で二千人以上の奴隷が使われている。その大半がアシューで売られた戦争奴隷だ」

 アシューには百の王国があると言われ、小さな国同士の戦争が長く続いている。戦いに敗北して捕虜になった兵士が奴隷として売られる、それが戦争奴隷である。

「ここしばらく鉄の価格が急騰しているだろう? ガフサ鉱山でも鉄を増産するためにこれまで以上に奴隷を酷使しようとしたらしい。それに耐えられなくなった奴隷が反乱を起こしたんだ。奴隷の全員が反乱に加わり、奴隷の監督官は殺された。監督官の部下は全員鉱山から追い出され、鉱山は奴隷によって占領されている。俺はワーリス商会から反乱鎮圧を依頼されたんだ」

 はあ、と竜也は判ったような判らないような返事をした。話の内容は理解できる。判らないのはその反乱の話と自分との関わりだ。そんな竜也に、

「お前、俺の代わりにこの反乱を解決してくれんか?」

 竜也は飲んでいた珈琲を吹き出しそうになった。ぎりぎりそれを我慢するが珈琲が気管に入ってしまい激しく咳き込む。少し時間をおいて、何とか竜也は落ち着いた。

「船長、一体何を」

「陸の上は専門外だからな。最初は依頼を断ろうとしたんだ」

 ガイル=ラベクは肩をすくめる。

「だがそうも言っていられなくなった。反乱奴隷に古い馴染みが加わっていてな、そいつが助力を求めてきたんだ。

『このままじゃ使い潰されるだけだから反乱を起こしたが、決してやりたくてやったわけじゃない。何とか穏便にことを収められないだろうか』

 ――ってな」

「穏便に、ですか」

 竜也は腕を組んで唸った。

「俺が依頼を断ればワーリス商会は別の傭兵団に話を持っていくだけだ。そいつ等が正面から反乱を鎮圧するなら大量の血が流れる。そいつは避けたいから依頼を断っていないんだが、どう解決したものかと」

 とガイル=ラベクは両手を挙げる。

「俺には良い方法を思いつかんが、もしかしたらお前ならって思ってな。それで話を持ってきたんだ。それに、お前にとっても決して悪い話じゃない。もしこの反乱を無事解決できたらどうなると思う? アシューで戦い慣れた二千の兵士、それが丸々手に入るんだぞ」

 竜也は目を見開き、次いで口に拳を当てて考え込んだ。少しの時間をおき、竜也がガイル=ラベクを見つめる。

「――まずは現状の把握が必要かと。解決の糸口があるなら、できるだけのことはします」

「判った」

 竜也の回答にガイル=ラベクは満足げに頷いた。







 竜也は即座に動き出した。

「船長はガフサ鉱山に人を送ってください。反乱の代表者と会談を持ちます」

「サフィール、護衛がいるんだ。牙犬族に連絡を」

「カフラ、ワーリス商会って知ってるか? 紹介状を書いてほしいんだ」

 竜也の依頼を受けてそれぞれが行動し、竜也は翌々日にはワーリス商会の当主と会う段取りとなった。竜也はカフラを伴ってワーリス商会本館のあるスファチェへと向かう。
 スファチェはスキラから百キロメートルほど北にある町である。竜也達は船を使って移動、その町を訪れた。港ではワーリス商会の出迎えが待っていて竜也達は馬車で市内を移動、ワーリス商会本館に到着する。竜也はそこでワーリス商会当主のワーリスと会談を持った。

「よく来てくれたの。お主には前から会いたいと思っておったところじゃ」

 ワーリスは非常に小柄な老人で、体格はラズワルドと変わらないくらいに見えた。年齢はおそらく六十代後半。頭頂から七割くらいの範囲はきれいに禿げ上がっているが、下三割には長い髪が残っている。大きな鷲鼻と甲高い奇妙な声が特徴の男であった。
 初めまして、と簡単な挨拶をし、竜也は早速本題に入る。

「ワーリス商会はガフサ鉱山で反乱を起こした奴隷をどうしたいと思っていますか?」

 ワーリスはカフラにちらりと視線を送り、姿勢を崩した。

「正直に言えば、どうすべきか決まっておるわけではない」

「そうなんですか」

 竜也は軽く戸惑うがそれを隠した。

「儂はナーフィア商会に負けんくらい手広く色々とやっておる。ガフサ鉱山はそのうちの一つじゃ。じゃが、穴を掘っとりゃいい鉱山運営なんぞバール人の商売としては醍醐味が足りん。じゃから部下に任せて放ったらかしにしておったんじゃが……そうしたらこの始末じゃ」

 ワーリスは忌々しげに舌打ちをした。

「収益を出すためにかなり悪質な監督官を使っていたようじゃ。その監督官と手を組んで、収益の一部を自分のポケットにねじ込んでおった。その部下はすでに追放しておるが、後任は決まっておらん」

「それなら、殺された監督官の仇を取るつもりは」

 竜也の言葉をワーリスは鼻で笑う。

「それじゃ、この反乱をどうするおつもりなんですか?」

「これを読むがいい」

 ワーリスは竜也に何かの書面を差し出す。竜也はそれを手に取って目を通した。

「『一つ、労働時間は日の出から日の入りまでとする。一つ、まともな食事を提供する。一つ、薬と医者を用意して怪我人・病人を手当する』……これは?」

「奴隷が監督官に突きつけた要求書じゃ。監督官はそれに鞭打ちで応え、反乱を起こされたということじゃ」

 竜也は唖然としてしまう。

「こんなの、当たり前の要求ばかりじゃないか」

「この程度なら応えても構わんが……奴隷は甘やかせばつけ上がる。反乱を起こせば際限なく要求を通せる、そう思われてはかなわん。じゃから傭兵を使って皆殺しにするのもやむを得んと思っておる」

「ちょっと待ってください」

 竜也は反射的にそう言い、脳内で必死に計算をした。少しの時間をおき、竜也はワーリスに提案する。

「――今のガフサ鉱山、奴隷も含めて丸ごと全部。いくらなら売ってくれますか?」

 カフラが慌てたように「タツヤさん」と制止しようとするが竜也はそれを無視。ワーリスは即座に、

「五〇〇タラント」

「買います」

 竜也がさらに即答し、取引は成立した。この間一〇秒もかかっていない。一呼吸おき、

「タツヤさん!」

 とカフラが金切り声に近い口調で抗議しようとした。

「ごめん、でも考えがあるんだ。少し任せてほしい」

 と笑みを見せる竜也。カフラは抗議の言葉を何とか飲み込んだ。そんな二人の様子をワーリスは面白そうに眺めている。

「さて、今度は何をやってくれるのじゃろうな。楽しみじゃて」

「そうですね、一月も時間をもらえれば。支払いはそのときでいいですか?」

 ワーリスは「それくらい待ってやるわ」と笑った。
 ワーリス商会本館を出、竜也達はスキラへの帰路に着く。馬車に乗り込んで身内だけとなって、

「何考えてるんですかタツヤさん!」

 カフラはずっと我慢していた言葉を吐き出した。

「五〇〇タラントあったら何万人の傭兵を雇えると思ってるんですか。戦争奴隷だって一体何万人買えることか。それを、たった二千人の戦争奴隷を手に入れるために使うなんて」

「五〇〇タラントは鉱山だけの値段だろ? ワーリスさんは反乱奴隷を全員処分するつもりだったんだから奴隷の値段は含まれてないよ」

 竜也の少しずれた回答にカフラは戸惑いを見せる。

「それじゃ、タツヤさんは鉱山がほしかったんですか?」

 竜也は「いや」と首を振る。

「二千の戦力、それを手に入れる」

 竜也はそう言い、その拳を握った。







 月はタシュリツの月(第七月)に変わってすぐ。竜也は様々な準備を整え、ガフサ鉱山へと向かった。竜也に同行するのはラズワルドとカフラ。護衛は全員牙犬族で、サフィール・バルゼルを筆頭とする四十名程の剣士である。
 護衛の半数の騎馬を用意しており、護衛は交代で騎乗している。竜也達三人は馬車に乗っていた。荷馬車の台車に乗って荷物に腰を下ろしている状態で、カフラは日差し除けに傘を差している。

「馬車じゃどう頑張っても二日かかるか。こりゃ馬の乗り方を覚えないと」

「そうですね、今後を考えれば今のうちに習っておくべきでしょう」

 スキラからガフサ鉱山までは約百キロメートル。少し無理をすれば馬なら一日で移動できる距離である。

「でもタツヤさん。いくら牙犬族の腕利きの剣士でも、たった四十人で二千の反乱奴隷の相手をするのは……」

 と不安がるカフラを竜也がなだめた。

「この面子で反乱を鎮圧しようっていうんじゃないだろ。交渉に行くだけだ」

 竜也もいきなりガフサ鉱山に乗り込むつもりはない。まず鉱山の麓で反乱奴隷の代表と会談を持つことになっていた。その立会人としてガイル=ラベクも同行している。

「反乱奴隷の代表ってどんな人なんですか?」

「元はアシュケロンの軍人で名前はマグド。アシューの軍人としてはそれなりに名前が売れている方だ」

 ガイル=ラベクの答えに竜也とカフラは顔を見合わせた。

「有名なのか?」

「聞いたことないです。でもわたしが名前を知っているアシューの軍人なんてエジオン=ゲベルのアミール・ダールくらいしか」

「さすがにそこまで大物ではないな」

 とガイル=ラベクは苦笑した。そこにバルゼルが口を挟む。

「名前くらいなら聞いている。部下の助命のために敵に降伏し、奴隷として売られたという話も」

「なるほど、その人望で奴隷の代表をやっているのか」

 と竜也は一人納得した。
 そんな話をしているうちに一行は目的に到着した。鉱山へと続く道の脇に一本の木が生え、それなりの大きさの池がある。その周囲は草原が広がっているだけで非常に見通しの良い場所だ。鉱山との間を行き来する者にとっては格好の休憩所となる場所だろう。
 そこにはすでに先客がいて竜也達を待っていた。人数は三十人ほど、全員痩せこけ、非常に粗末な身なりである。剣や槍、弓を持っているのが半数、残りの半数は棍棒や鶴嘴を手にしていた。
 牙犬族の護衛の間に緊張が走る。竜也は無言のまま手でそれを制した。竜也達の一隊がその場に止まる。奴隷の一団との距離は百メートルほどだ。竜也とガイル=ラベクの二人が一隊から抜け出し、奴隷の一団へと向かってゆっくりと歩き出した。
 一方奴隷の一団からも一人の男が竜也達に向かって歩き出している。他の奴隷はその場に留まったままだ。接近するにつれてその男の姿が目に入ってくる。
男の年齢は四〇代くらい。身長は竜也とそれほど変わらないが、胴回りは竜也の倍くらいあるように見えた。一件中年太りのように見えるが、腹に詰まっているのは脂肪ではなく筋肉であることは間違いない。顔つきは山賊みたいに凶悪だ。さらに右眼は刀傷で潰れ、右腕の肘から先がなかった。
 竜也がその男――マグドと接近する。数メートルの距離を置き、両者は同時に足を止めた。

「お前さんがあのガイル=ラベクか。世話になったな、無理を聞いてくれて礼を言う」

「何、構わんよ」

 マグドはまずガイル=ラベクにそう話しかけた。それから一呼吸おき、竜也へと視線を向ける。

「それで、お前さんがクロイ・タツヤだったか。凶悪な反乱奴隷である俺達とどんな話をしようっていうんだ?」

 マグドの試すようなその問いに竜也はにっこりと笑い、

「そうですね、商売の話を」

 まるでバール人のようにそう言った。マグドは若干の戸惑いを無表情で隠している。
 奴隷の一団と牙犬族の一隊の距離は約百メートル。両者のちょうど中間に竜也・マグド・ガイル=ラベクが立ち、話を続けていた。カフラはいろんなことを心配しながら竜也の背中を見つめているが、竜也達が何の話をしているのかは全く聞こえない。だが、

「がーっはっはっは!」

 突然マグドの哄笑が轟いた。カフラはサフィールと戸惑ったような顔を見合わせる。一方奴隷の一団でも似たような光景が見られた。カフラは懸命に耳を澄ませるが時折発生するマグドの哄笑以外何も聞き取れなかった。
 竜也達の会談は一時間ほどにも及んだだろうか。やがて竜也とガイル=ラベクが牙犬族の一隊の元に戻ってくる。マグドもまた自分の部下の元に戻っていくところだった。

「タツヤさん!」

 カフラが一隊から飛び出して竜也を出迎える。サフィールがカフラに続いた。

「交渉は成立した。予定通りいくぞ」

 竜也は太々しく笑う。

「ここから先はカフラ達の出番だ。頼りにしている」

「え、ええ。任せてください!」

 カフラは一瞬の戸惑いを飲み込み、張り切ってそう答える。

「バール人の本領発揮です。鼻血も出ないくらいに搾り取ってやります!」

 一方マグドの方も部下達に取り囲まれていた。

「お頭」「首領」「将軍」

 部下達はマグドのことを好き好きに呼んでいる。

「あの連中と一体どんな話になったんで?」

「鉱山に戻ってから話す。先に戻って各隊の隊長を集めておけ」

 マグドはにやにやしながらそう言うだけだ。マグドの命令を受け、足の早い一人が先行して鉱山へと戻る。笑いを浮かべるマグドと、戸惑う様子の奴隷の一団がそれに続いた。
 そして数刻後、マグド達がガフサ鉱山へと戻ってきた。マグドは奴隷達の期待や不安の視線を一身に集めながら鉱山の敷地内を歩いていく。向かう先は鉱山の中心部、高台に建っている事務所である。少し前までそこは監督官とその部下や傭兵が集まる場所だったが、今はもうその連中の影も形もない。
 今そこに集まっているのは二十人ほどのマグドの部下だった。マグドは軍隊式に二千人の奴隷を百人ずつ二十の隊に分け、各隊のリーダーとして百人隊長を指名していた。

「将軍、それで一体どんな話になったのですか」

 部下の一人が改めてそれを問う。マグドの言葉を待つ部下達に、

「商売の話だ」

 マグドはそう言ってにやりと笑う。戸惑いを見せる部下達にマグドは最初から説明した。

「ワーリス商会はこの鉱山をどこか余所の商会に売却しようとしているそうだ。ナーフィア商会や他の商会と交渉しているが折り合いが付かず、交渉が長引いている」

 マグドは少し間をおいて、

「決着するのは一月くらい先になるとのことだ」

 戸惑う隊長達がそれぞれに話をしつつマグドの言葉を咀嚼する。ようやく理解に及んだ様子の隊長の一人が、

「それじゃ、その一月の間ここはどうなるので?」

「このままだ。少なくとも一月は攻められる心配はない」

 薄く笑みを見せるマグドに対し、隊長達は途方に暮れたような顔を見せた。

「しかし将軍、この鉱山にはもう食糧が……あと何日分も残っておりません」

 判っている、とマグドは力強く頷いた。

「だから商売の話をしてきたんだ。――ガイル=ラベクに紹介してもらった商人が俺達に食糧を売ってくれる」

「しかし、我々には金なんか」

 馬鹿だな、とマグドは笑い、

「ここは鉱山だぞ? 金はなくとも金目の物ならいくらでもあるだろうが」

 と両手を広げて周囲全てを指し示す。周囲の山々を見回し、隊長達に理解の色が広がった。

「……しかし、それは盗掘と言うのでは?」

「ああ、その通りだ。だが、それがどうした?」

 とマグドは鼻で笑う。

「あの連中は俺達を散々こき使ってボロ儲けしていたんだ。一月やそこら、この鉱山で俺達が好き勝手やったところで大した損失にはならん。こき使われた分を取り戻すためにも一月で少しでも掘り出してやらんと」

 確かにそうだ、とばかりに隊長達が頷いた。

「明日には隊商が食糧を持ってやってくる。精製した鉄が少しは残っているだろう、それを売って当座をしのいで、その間に鉄を掘り出す」

 マグドの命令に隊長達は頷き、了解を示した。
 そして次の日。マグド達は前日のうちには売却する銑鉄の延べ棒を耳を揃えて用意し、隊商の到着を今や遅しと待っている。太陽が中天に達する頃、

「おい、あれじゃないのか?」

 目の良い者がそれに気が付いた。鉱山に向かって何者かが接近している。大量の荷物を抱えた隊商の一団だ。奴隷達が一斉に歓声を上げた。一同は期待に胸を膨らませて隊商の接近を待っている。だが、近付くにつれてその全容がよく見えるようになり、

「何だ、あの連中……?」

 一同に戸惑いが広がっていった。やがてその隊商が鉱山に到着、唖然とする奴隷達の視線を浴びつつ隊商は鉱山の中へと入っていった。
 隊商の人数は百人以上、そのうちの三分の一は護衛で全員が牙犬族だ。隊列を作っていたのは屋台である。さらには何十匹もの牛・山羊・豚を引き連れていた。

「毎度お世話になっております、クロイ商会です」

 と愛想良く笑うのは隊商の中心にいる若い男だ。挨拶を受けたマグドは「お、おう」と何とか返事をしていた。

「それでは早速取引を。銑鉄の方は?」

「おう、ここに」

 マグドは何台もの荷車に乗せた銑鉄の延べ棒を持ってこさせる。一方の竜也も、

「はい、確かに。こちらがお約束の代金となります」

 竜也もまた荷車を移動させた。荷車に乗っているのは大きな木箱だ。マグド達の目の前で、木箱がバールによってこじ開けられる。奴隷達の間にどよめきが広がった。木箱にはドラクマ銅貨がぎっしりと詰まっていたのだ。

「四千ドラクマ、ご確認ください」

 マグドは「おう」と答え、部下と手分けして勘定をする。何分かの後、

「確かに四千ドラクマあった。これで取引成立だ」

 と答える。竜也は「はい、ありがとうございます」と答えた。

「それで、食糧は?」

「こちらで商売をさせていただきます。必要なだけお買い求めください」

 見ると、同行している屋台が店の準備を進めている。連れてきた牛や豚が次々と捌かれ、肉片として切り分けられていた。
 マグドは奴隷達の期待の視線を一身に集めている。マグドは苦笑しつつ、

「この金は全員に均等に分ける、一人二ドラクマだ。各隊の隊長から受け取れ」

 爆発が起こったかのような歓声が轟いた。奴隷がそれぞれ自分の隊長の下に集まり、お金を受け取るための行列を作っている。その間にも屋台の準備が進んでおり、肉が焼ける良い香りが鉱山中に充満していた。奴隷達は空きっ腹を抱えて呻いている。
 金を受け取った奴隷の全員が即座に屋台へと走っていく。

「肉! 肉をこれで買えるだけ!」

「さ、酒もあるのか?! ど、どうする」

 奴隷達は目の色を変えて屋台に群がっていた。

「ああ、酒にすべきか肉にすべきか」

 とハムレットのように悩んでいる奴隷も少なくない。買う物を買った奴隷達は肉にかぶりつき、酒で喉を潤し、

「……ああ」

 と至福の表情を浮かべていた。どんな麻薬よりも甘美な味が舌を、喉を伝って胃の中へと落ちていく。二ドラクマは雪よりも淡く手の中から消えていた。
 あっと言う間に無一文になった奴隷達は恨めしげに屋台を見つめている。奴隷の中には店主を脅して只食いをしようとする不埒者もいたが、即座に牙犬族の護衛に叩き潰されていた。
 日が沈んでその日の商売が終わり、

「まさか一日で全部回収できるなんて」

 銑鉄を買って支払ったはずの四千ドラクマ、その全額が竜也の手元に戻っていた。

「……何か、詐欺で騙されたような気分だ」

 マグドは少し納得がいかないような表情である。竜也は「いやいや」と説明する。

「酒と食い物を売ったじゃないですか。代金を支払ってもらうのは当然です」

 その、酒と食い物の価格がスキラで売っている価格の倍以上だったことまでは説明しない。

「それはそうなんだが」

 とマグドはまだ首をひねっていた。

「ともかく、この調子で明日以降も商売をします」

 と竜也は話を変える。

「マグドさんは鉱山で働くように皆を誘導してください。『鉱山で鉱石を掘り出して金をもらう』『その金で食い物と酒を買う』、この循環を作るんです」

「ああ、判っている」

 そして翌日、ガフサ鉱山では朝早くから奴隷の一団が坑道へと向かっていた。

「お前等ー! 肉が食いたいかー!」

『おーっ!』

 班長の呼びかけに何十人もの奴隷が鶴嘴を振り上げて応えた。

「酒が飲みたいかー!」

『おーっ!』

「なら、掘るぞー!」

『おーっ!』

 マグドは百人の一隊をさらに四つに分け、一隊に四班作った。二五人一班で採掘に従事し、一部の班は製鉄を担当する。日当の支払いは班ごとの出来高制である。二十人の百人隊長はマグド直属として全体の統括監視を担当だ。

「作業に加わっているのは全体の三分の一くらいだ」

 とマグドは浮かぬ顔である。

「思ったよりも少ないですね」

 と竜也は言うが、その表情は平静そのものだ。

「ま、もうすぐ第二陣が到着しますから、明日には全員が作業に加わるでしょう」

「……何をたくらんどる?」

 とマグドは問うが、竜也は笑みを浮かべたまま沈黙を守った。
 坑道の外では作業に加わっていない大勢の奴隷達が、何をするでもなくただぶらぶらとしていた。そこに、新たな隊商の一隊が到着する。暇を持て余していた奴隷達が見物に集まり、

「おい、おいあれ……」

「お、女だ」

 派手な衣装を着崩した、扇情的な女達。そんな女が何十人もいる。どう見てもそれは娼婦の一団だった。
 下卑た笑みを浮かべた男達が彼女達に接近しようとする。が、その前に抜き身の剣を持った牙犬族の剣士達が立ちはだかった。男達は悔しげな顔で、未練がましく女達を遠巻きにするしかない。

「あら、そこの色男さんどうしたの? こっちに来てくれないの?」

 女達がそうからかい、艶やかな笑い声を上げる。その女が指差す看板には「一回一ドラクマ」の文字が太々と記されていた。
 女達と看板を忙しげに見比べていた男は、意を決して女達に背を向ける。鶴嘴を握りしめた男は坑道へと向かって突進するように歩いていった。一人、また一人とそれが続いていく。女達の前から奴隷がいなくなるまでそれほど時間はかからなかった。

「思った以上に効果的でした」

「……まあ、そりゃそうなるわ」

 と語るのは竜也とマグドである。その日のうちに奴隷の全員が採掘その他の作業に加わり、仕事をしない人間は一人もいなくなった。

「あまり働くな、少しは休め」

 数日後にはマグドはそんな命令を出す羽目になったくらいである。マグドは採掘作業を日の出から日没までとし、日没後は採掘禁止を命令。鉱夫達は不平を言いながらもそれに従った。
 日の出とともに坑道に入って懸命に働き、日没後は屋台で飲み食いをし、ときたま女を買う。十日ほどでそんな生活パターンが成立し、ガフサ鉱山は一つの町として機能するようになった。採掘機械でも使っているのかと疑うような勢いで鉱石が掘り出され、製鉄されて銑鉄の延べ棒が見る間に積み上がっていく。だがそれだけで満足する竜也ではなかった。
 ある日のこと、マグドは作業の前に奴隷――鉱夫の全員を広場に集めた。二千人の鉱夫を前にマグドは大声を張り上げる。

「今日から医者がこの鉱山に来てくれることになった! 怪我をしても手当をしてくれるぞ!」

 鉱夫達が喜びの歓声を上げる。マグドは静かになるのを待ち、一同に告げた。

「診察料は一回につき五ドラクマ! 薬を使えばもう五ドラクマだ!」

 広場に驚きが満ち、次いでブーイングが広がった。マグドがそれを手で制す。

「奴隷になる前、町にいたときのことを考えろ! 医者にかかれば普通にそれくらいは取られただろうが!」

 鉱夫達はそれに反論できず黙っている。だが不満はたまったままだ。

「判っている、確かに普段から酒ばっかり飲んでいるお前達が、あるかどうかも判らないいざというときのためにそんな金を貯められるわけがない! だから代わりに俺がその金を貯めてやる! お前達に支払う日当のうち二十分の一を俺がもらう! だが怪我人が出たならただで治療をしてやる!」

 聴衆が戸惑うようにざわめいている。マグドが続けた。

「病人も同じだ! 働けない間はずっと飯を食わせてやる! どうだ、文句があるか?!」

「もし怪我しなかったら、その金は返してもらえるんで?」

 鉱夫の一人の問いにマグドは、

「返さん!」

 と断言した。

「だからお前等、怪我や病気はするなよ!」

 鉱夫達は爆笑し、マグドの提案は受け入れられる。こうしてガフサ鉱山に治療費積み立て……を口実とした医療保険が成立した。今までまともに治療を受けていなった何人もの鉱夫が気軽に治療を受けるようになる。
 またある日のこと、マグドは百人隊長と各班の班長を全員集めて布告した。

「坑道の一番奥で採掘する者には、今日からこれを頭に被ってもらう」

 とマグドが手に持って示したのは木製のヘルメットだった。戸惑う班長達の手にそれが次々と渡される。

「とりあえず百個用意した。そのうち全員分用意する……そうだ」

 その木製ヘルメットを手にした班長達は手で叩いてみたり、頭に被ってみたりしている。

「兜ですか? 木製の」

「鉄兜を被って採掘なんぞできんだろうが」

 とマグド。一部の班長は渋い顔だ。

「しかし、こんな煩わしい物を被っての採掘など」

「怪我をされるよりはマシだ。いいからこれは命令だ」

 とマグドは強引に押し通す。班長達は若干の不満を飲み込んで了解した。木製ヘルメットを渡された鉱夫の全員ではないが大半がそれを被り、いくつかの怪我の危険から守られることとなる。

「あっしはこんな身体になっちまって、もう鉱山で働くことは……」

「判っている、俺に任せろ」

 負傷により採掘や精製に従事できなくなった者は屋台に雇われて働いた。また、鉱山内で治安維持に当たっている警備員も牙犬族から奴隷出身者に少しずつ置き換わっている。すでに警備員の半数以上がマグド配下の元奴隷である。
 その一方、マグドは情報公開を徐々に進めていた。

「あのクロイ・タツヤって若いのは先物取引でバール人を出し抜いて何千タラントもの金をボロ儲けしたそうだぜ。何人ものバール人に首を吊らせたって話だ」

 百人隊長の一人が仕入れてきたその情報を披露、他の隊長達が「ほー」と感心する。隊長達は事務所の窓から鉱山の中央広場を見下ろした。そこには竜也の姿がある。ヤスミン一座を連れてきた竜也は入場料の受け取りをやっていた。

「でも、そんな奴が何で反乱奴隷相手の屋台なんか?」

 首をひねる百人隊長の面々。そこにマグドが口を挟んできた。

「そりゃ、あいつがこの鉱山の持ち主だからだ」

 百人隊長達が驚くのを面白がりながらマグドが説明する。

「あいつは先物取引で儲けた金を使ってワーリス商会からこの鉱山を丸ごと全部買い取っている。俺達も含めてな」

「しかし将軍」

 と一人が問い質す。

「それなら俺達を普通に働かせればいいんじゃ? 屋台なんかやってないで」

「『働け』と命令されたからって、働いたか? 俺達が」

 マグドは逆に問い返した。隊長達は顔を見合わせる。

「……待遇が前と変わらないなら絶対に働きはせんでしょう。牙犬族に脅されようと」

「だがだからと言って、突然ここまで待遇を改善してもやはり働かない恐れがある、と考えたんだろう。『もっと粘ればもっと待遇が改善する』、そう考えたに違いないからな」

 あいつは俺達が自発的に働くよう仕向けたんだ、とマグドは説明をまとめる。隊長達は再び窓の下を見下ろした。広場ではヤスミン一座による「七人の海賊」上演が開始されている。

「……あの若いのはエレブ人と戦うために傭兵を集めているって話だ。先物取引で儲けた金も全部それに使うらしい」

 隊長達の視線が自然とマグドへと向かった。

「将軍、どうなさるおもつりで?」

「そんなもの、決まっているだろう」

 マグドは不敵に笑い、それだけを答える。だが百人隊長の全員がその答えに満足したように頷く。心地良い沈黙がその場を満たしていた。







 そして月はアルカサムの月(第八月)に入り、その初旬。

「……何じゃここは」

 ワーリスは周囲を見回し、呆然と呟いた。場所はガフサ鉱山、反乱奴隷によって占拠されたままとなっている鉱山……のはずである。

「今日の安全目標は『指差し呼称の確実実行』だ! 安全唱和、やるぞ!」

 奴隷の班長が「安全第一・利益が第二!」と安全標語を独唱、それに続いて奴隷の班員が唱和する。標語の唱和で気合いを入れた奴隷の鉱夫達が張り切って坑道と入っていった。
 鉱山の中央大通りと言うべき場所には屋台が立ち並び、酒や食い物が売られ、それを奴隷が買っている。怪我により採掘に従事できなくなった奴隷が屋台で肉を焼いていた。通りの反対側には娼婦が客引きをしており、武装した奴隷が警備を担当している。奴隷達は笑顔に満ち、鉱山は活気に溢れていた。

「ようこそ、ガフサ鉱山へ」

 とワーリスを出迎えたのは竜也である。ワーリスは竜也の招待を受け、ここまでやってきたのだ。

「何じゃここは、まるで一つの町ではないか。お主、一体何をしたんじゃ」

「説明します。こちらへ」

 竜也の案内に従いワーリスは鉱山内を歩いていく。牙犬族の剣士が竜也達を護衛した。
 竜也が向かった先は鉱山の一角、製鉄所である。そこには製鉄された銑鉄の延べ棒が山のように積み上がっていた。それを見てワーリスはさらに目を丸くする。

「この一月の経営についてはこちらにまとめてあります。収支決算書はこちらです」

 竜也から渡された資料に目を通すワーリス。

「……奴隷に金を払っていたと。そんなことをして採算が取れるわけが」

 だが収支決算書に目を通し、ワーリスは沈黙を余儀なくされた。竜也は資料を追加する。

「こっちは俺がここを買う以前の収支決算書です。見比べてもらえますか」

 ワーリスは二つの収支決算書に目を通した。

「……じゃが、今は鉄の値段が高騰しておる。こんなもの比較にはならんじゃろ」

「ええ、ですからこちらは鉄の採掘量だけを比較した資料です。一番下の数字が採掘単価」

 ワーリスはそれにじっくりと目を通し、

「……待て、お主の出しておる採掘経費には奴隷の購入費用が入っておらん。それがなければ」

「ええ、だって買う必要ありませんから」

 竜也の反論にワーリスは沈黙する。

「スキラでもスファチェでも、普通に人を集めて雇えばいいんですから。日雇いに負けないくらいの賃金は出しているでしょう?」

「しかし、奴隷に金を払ってどうして採算が改善するのじゃ。そんな馬鹿なことが」

 竜也は苦笑して肩をすくめた。そして順を追って説明する。

「今までの処遇というのがどんなものなのか、まず考えてみてください。……一日に十数時間も働かせ、全く休みなし。食事もろくに提供されず。働かない奴隷を無理矢理働かせるために監督者が暴力を振るい放題。油断をすれば奴隷が暴動を起こすから、一定数以上の武装した監督者が不可欠。酷使された奴隷がすぐ死ぬからまた買ってくる必要がある。――じゃあ、それが全部逆になるとしたら?」

 ワーリスが目を見開いた。

「……充分な休養が取れて、食事もちゃんと食べられる。少なくとも暴動は起きんか。監督者は武装する必要がないし、数も最低限で済む。奴隷が長持ちするから度々追加で買ってくる必要がない……じゃが、そんな環境で奴隷がまともに働くとは」

「休みも取れず食事もまともに与えられず、暴力を振るわれる環境で誰がまともに働きますか? 監督者がいなければ全力で仕事を怠けるに決まっているでしょう? 労働者が逃げ出さない環境を整えて、後は懸命に働く動機付けをすればいいだけです」

「動機付け?」

 ええ、と頷いた竜也は遠方に見える屋台と娼館を指し示した。

「労働の成果に応じて支払われる賃金、そしてそれで買うことのできる酒・食い物、そして女」

 ワーリスはおかしそうに笑った。

「なるほどなるほど、確かにそれは効果的じゃ。思えば当たり前のことじゃった。奴隷であっても人間であることに変わりはない。牛や馬のように鞭だけでは働かんか」

 そういうことです、と竜也は頷いた。

「ところでワーリスさん」

「ん、何じゃ」

「今のガフサ鉱山、五〇〇タラントで買いませんか?」

 ひょっほっほ!とワーリスは大笑いをした。

「お主、最初からそのつもりじゃったか。よかろう、喜んで買ってやろう」

 ありがとうございます、と竜也は一礼した。そして、

「さらにところで、あの屋台と娼館と隊商は別売りなんですけど、いくらで買いますか?」

 ワーリスはさらに爆笑する。笑いすぎて呼吸困難となり、竜也を心配させるくらいだった。
 こうしてガフサ鉱山の奴隷反乱は誰もが想像もしない形で終息する。ワーリスとの取引を終えた竜也の元にマグドが、百人隊長の面々が、数百人の奴隷が集まってきた。竜也は彼等をなだめるように先回りして説明する。

「鉱山の所有権はワーリス商会に戻りますけど、皆さんの処遇に変わりはありません。その点は安心してください」

「ああ、それはいいんだが」

 何でしょう、と竜也は首を傾げた。

「お前さん、エレブ人と戦うつもりなんだってな」

 ええ、と頷く竜也。マグドは胸を張り、自らを指差した。

「なら俺達を使え。これでも俺はアシューじゃちっとは名の通った将軍だったんだ。アシュケロンの将軍マグドとガフサ鉱山の二千人は、クロイ・タツヤ、お前に忠誠を誓ってやる」

 竜也は瞠目し、マグドを、その配下の百人隊長を、数百人の奴隷達を見つめる。そこに並ぶのは過酷な戦場をくぐり抜けてきた、百戦錬磨の戦士の目だ。その目が篤い信頼を湛えて竜也を見つめている。

「あ……ありがとうございます」

 感無量となった竜也はそれだけを言うのが精一杯だった。
 竜也は忠勇無二の二千の兵力を手に入れ、戦争準備をまた一歩進めることができた。その一方、エレブからの戦雲はより暗さを増していくのである。







[19836] 第一四話「エジオン=ゲベルの少女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/17 21:10


「黄金の帝国」・戦雲篇
第一四話「エジオン=ゲベルの少女」







 時間は少し前後して、エルルの月(第六月)の中旬。ガイル=ラベクにガフサ鉱山暴動の解決を依頼されるより前のことである。
 その日、竜也は穀物買い占めの件でカフラ達と打ち合わせするため外出しており、夕方になって「マラルの珈琲店」に戻ってきたところである。

「ああタツヤ、お客さんに待ってもらっているわ」

 顔を見せるなりマラルがタツヤにそう声をかけてきた。

「判りました、すぐ行きます」

「あの子の知り合いだったみたい。今はあの子が応対しているわ」

「ラズワルドの?」

 タツヤは一瞬首を傾げ、すぐにある可能性に思い当たった。タツヤは大急ぎで個室へと向かう。ノックと同時ぐらいにドアを開けると、

「タツヤ」

 ラズワルドと一人の男が向かい合っているところだった。
 座っている状態でも判る、かなりの長身と痩身。年齢は計りがたいが、四〇前後ではないだろうか。肌は病人のように青白く、長めの髪は黒。長い前髪に半分くらい隠れていて非常に判りにくいが、瞳の色は鈍い赤だ。目は細いが決してそれは笑い顔ではない。笑い顔が想像もできないような、酷薄な印象の男だった。
 竜也の元に駆け寄ったラズワルドは竜也の背後に隠れるような位置に立ち、竜也の手を握った。ラズワルドの強い敵意がその手を通じて伝わってくる。
 竜也はラズワルドを連れてその男と向かい合う位置に移動、席に座った。

「俺がクロイ・タツヤです。あなたは白兎族の――」

「私は白兎族の族長補佐をしているベラ=ラフマという者です」

 やはり、と竜也は思いながらも同時に疑問も抱いた。竜也の視線を感じ取ったベラ=ラフマが説明する。

「この髪は染めたものです。地毛はラズワルドと同じ色です」

 なるほど、と納得する竜也。だがまた別の疑問が湧いてくる。

「でも、何故髪を染める必要が?」

「白兎族と悟られないためです。知られれば何かと面倒ですので」

 そう言えばウサ耳も付けていない、と竜也は今になって気が付いた。ラズワルドが侮蔑を口に浮かべる。

「一族の誇りはどうしたの」

「私の誇りの有り様はお前とは違う。それだけのことだ」

 ラズワルドは反発を強めた。

「苛められるのを怖がって印を外すなんて、臆病者のすること」

 ベラ=ラフマはかすかにため息をつく。

「少しは変わったかと期待していたが……お前は周囲をはばかることを覚えるべきだ。お前をアニード商会に売るのを、ホズン様が好きで認めたとでも思っているのか。お前がもっと自重していたなら私もそこまでやる必要はなかったのだ」

「あー……」

 竜也は内心でベラ=ラフマに同意していた。以前住んでいた長屋での振る舞いから類推するに、売り飛ばされた理由のある程度はラズワルド自身に帰することだったのだろう。
 何か言おうとして言葉を詰まらせるラズワルド。ベラ=ラフマは竜也へと水を向けた。

「クロイ・タツヤ、あなたなら理解できるのではありませんか? あなたは印を外した我々を動かそうとしているのでは?」

「エレブに潜入したときはラズワルドだってそのウサ耳外していただろ? それと同じだとは思えないか?」

 竜也に諭され、ラズワルドは沈黙を余儀なくされた。その間に竜也とベラ=ラフマが話を進める。

「それで、あなたは我々に何をさせようというのですか?」

「エレブに潜入してムハンマド・ルワータさんの手助けをしてほしい。聖槌軍の情報が欲しいんだ。規模・作戦・補給・人事・指揮官の傾向・噂話、ありとあらゆる情報を集めてほしい」

 ふむ、とベラ=ラフマは少し間を置いた。

「しかし、そのような情報が何故必要なのですか?」

 ベラ=ラフマは試すように問う。

「――聖槌軍の規模はどんなに少なくても総勢数十万。もしかしたら本当に百万の軍勢が攻めてくるかもしれない」

 竜也が少しずれた返答をし、ベラ=ラフマはかすかに戸惑いを見せた。

「……しかしそれは」

「俺とラズワルドはシマヌの月にテ=デウムまで行って、枢機卿アンリ・ボケの姿をごく間近に、直接この目で見ている。ラズワルドがアンリ・ボケの心の中を直接探っている。それで判ったんだ、アンリ・ボケは本当に本気で百万の軍勢を揃えるつもりでいる。どれだけの犠牲を払っても、エレブがどんなことになっても」

 ベラ=ラフマがラズワルドへと視線を送り、ラズワルドが無言のまま頷く。ベラ=ラフマの表情はほとんど動いていないが、どうやら衝撃を受けているようだった。

「……その情報は公表されていないようですが?」

「公表したって信じてもらえるわけがないでしょう? ラズワルドの恩寵がどれだけのものか、知っている人間しか信じられるわけがない」

 竜也は雑な仕草で肩をすくめた。

「ラズワルドがいなければ何の備えもないまま百万の軍勢と戦う羽目になるところだった。ラズワルドがいるから百万と戦う準備ができるんだ。俺の元いた場所には『情報を制する者は世界を制する』という言葉がある。白兎族の恩寵にはそれだけの力があると思っている」

 竜也の真摯な瞳がベラ=ラフマを見つめる。ベラ=ラフマの能面のような表情からは何の感情も読み取ることができない。ラズワルドがその恩寵を解放してもベラ=ラフマの分厚い精神防壁に阻まれ、その心中を読み取ることができなかった。

「……判りました。クロイ・タツヤ、あなたに力を貸すことを約束しましょう。白兎族はあなたの目となり、耳となりましょう」

「ありがとうございます」

 竜也とベラ=ラフマが固く握手を交わした。こうして竜也は白兎族とベラ=ラフマの協力を得ることとなる。竜也にとっては万余の軍勢に匹敵する戦力である。
 ベラ=ラフマは早速自分の部下をエレブへと送り込んだ。その一方自分は竜也の元に残り、情報収集分析に従事する。竜也を訪ねてやってくるエレブ帰りから話を聞き、あるいは竜也の元に集まってくる情報を整理し、取捨選択し、精度の高い情報をまとめる。エレブ情勢速報の作成や「ネゲヴの夜明け」編集はそのほとんどをベラ=ラフマが担うこととなった。

「それじゃ、後はよろしくお願いします」

「はい、お任せください」

 竜也がスキラを離れてガフサ鉱山に行くことができたのもベラ=ラフマあってのことである。何日かに一回ずつはスキラに戻ってきたものの、タシュリツの月(第七月)の大半はガフサ鉱山で過ごしていた。その間もベラ=ラフマがエレブ情勢速報を発行し、

「前よりもずっと分析が鋭くなった」

 と好評を得ている。
 アルカサムの月(第八月)に入り、ガフサ鉱山暴動を解決して竜也はスキラに戻ってくる。

「この一月助かりました。それで――」

「はい。この仕事はこのままお任せください」

 と、竜也は引き続き情報収集分析・エレブ情勢速報の発行をベラ=ラフマに任せることとなる。

「さて、手が空いたけどどうしよう」

 場所は「マラルの珈琲店」の個室。その部屋はすでに竜也専用みたいな扱いとなっていて、今は会議室代わりである。室内にはラズワルド・カフラ・サフィール、それにベラ=ラフマが顔を揃えていて、それぞれ珈琲やお茶を飲んでいる。竜也が飲んでいるのは熱々のブラックコーヒーだ。

「やっていただくことならいくらでもありますよ?」

 と告げるのはカフラである。カフラが飲んでいるのは埋め立てするような勢いで砂糖をぶち込んだ珈琲だった。

「タツヤさんがガフサ鉱山でやったことはバール人の間じゃ大評判になっているんです。『うちの鉱山も改善してほしい』ってお話があちこちから舞い込んでいます」

「ナーフィア商会は?」

「うちはもう始めてます」

 と胸を張るカフラ。

「父上から聞いた話ですが」

 と次はサフィールが竜也に伝える。サフィールが飲んでいるのは普通のお茶(紅茶)だが、使っているのは日本風のマイ湯呑みだった。

「恩寵の部族が集まって聖槌軍と戦う義勇軍を作ろうという話が出ています。今はまだ近場にいる族長が集まって色々相談している段階ですが、タツヤ殿にもその相談に加わってもらえたら、と父上が言っておりました」

「いいのか? 俺なんかで」

 と問う竜也に、

「タツヤさんがいなきゃどこでどう戦ったらいいかも判らないと思いますよ」

 とカフラがちょっと呆れたように解説した。
 ラズワルドは黙って話を聞いている。飲んでいるのは竜也に作り方を教えてもらいお気に入りになったカフェオレだが、竜也から見れば「珈琲風味の牛乳」と呼ぶべき代物になっていた。
 最後にベラ=ラフマが話を切り出す。

「オエアが気になる動きをしています」

 なおベラ=ラフマが飲んでいるのはただの水だった。

「オエアというと……あの場所か」

 竜也は脳内でネゲヴの地図を広げる。オエアは元の世界ではトリポリに相当する町である。

「オエアの商会連盟が各地の商会連盟に呼びかけをしています。『聖槌軍に対抗するために海洋交易・軍事同盟を再建しよう』と。スキラの商会連盟にも話は行っているかと思いますが」

 一同の視線がカフラへと集まる。カフラは侮蔑の表情を浮かべた。

「ゲラ同盟分裂から何年経ったと思っているんですか。時代錯誤もいいところです」

「確かに三百年前そのままの再建は考えられないだろう。でも、名前は同じでも中身は大幅に変えて、ならあり得る話じゃないのか?」

 竜也の問いにカフラは少し考え、やはり首を振った。

「いえ、どう考えても現実的じゃありません。千年前のバール人なら自腹を切って、自分達が先頭に立って聖槌軍と戦いネゲヴの民を守ったことでしょう。でも、この時代にそんなことをするバール人が果たして何人いることか。傭兵を雇うのに自腹を切ることすら嫌がる人達が大半でしょう」

「少なくとも、恩寵の民は同盟には絶対に協力しないでしょう」

 とベラ=ラフマが告げる。

「当時のバール人にどんな扱いを受けたのかを恩寵の民は決して忘れていません。同盟の復活を望む恩寵の民が一人でもいるとは思えません」

「そんなのバール人だって望んでいません」

 とカフラ。

「普通に商売をしていた方がよっぽど儲かるじゃないですか。わざわざそんな負担を背負い込もうという人達の気が知れません」

「……バール人だって全員が全員商売繁盛で順風満帆、てわけじゃないんだろ? カフラの言う『普通の商売』ができない人だって多いんじゃないか? そういう人達が過去の栄光にすがり、思いを託し、一発逆転を狙っているんじゃないかな」

 竜也の言葉にカフラが沈黙する。ベラ=ラフマが「おそらくはそうなのでしょう」と竜也の見方を肯定した。

「オエアで聖槌軍対策の議論を主導しているのはギーラという人物です。かれに与している者の多くが中小以下の経営が苦しいバール人商会のようです」

「ギーラ……聞いたことのない名前ですね」

 とカフラが首を傾げる。

「私も簡単に調べたのですが何も判りませんでした。バール人であることは間違いないようですが」

「判りました、うちの商会で調べます」

 とカフラ。竜也が「それでも」と話を戻した。

「動機やら名前やらあり方やらはともかくとして、聖槌軍と戦うのにネゲヴ全体が力を合わせる必要があることは間違いない。そのための話が今オエアで進んでいるのなら、それに積極的に加わることもありなんじゃないか?」

 その竜也の問いにカフラ達三人は否定的な様子を示した。

「タツヤさんを差し置いてそんな話をしている連中、相手にすべきじゃないと思います。少なくてもこちらから話をしに行くのは駄目です、タツヤさんの格が下がっちゃいます」

 サフィールが「その通り」と言わんばかりに大きく頷く。

「俺の格なんて別にどうでも」

 と言う竜也を無視するようにベラ=ラフマが話をまとめた。

「東ネゲヴのことはオエアに任せておくべきでは? 我々は近場の中央と西の町を集めましょう。中央と西で方針を一本化しておけば東と合同しても主導権を握れるでしょう」

「そうですね、それがいいでしょう」

 とカフラが頷く。竜也の意向は置き去りにされたまま重要な話が進んでいく。

「『ネゲヴの夜明け』を使って各町の代表をスキラに集める呼びかけをします。『クロイ・タツヤ』の名を呼びかけ人の筆頭とし、その意志に賛同する者の名を連ねるのです」

 とベラ=ラフマが企画し、カフラとサフィールが全面協力。カフラがナーフィア商会を始めとしてジャリール商会・ワーリス商会といった大豪商の名を、スキラ・スファチェ・レプティス=マグナの長老会議の名を集める。サフィールは恩寵の部族の族長名を集め、さらにはマグドや有名な傭兵団が賛同に加わった。

「ふふん、オエアごときがタツヤさんに対抗しようなんて、身の程知らずもいいところです」

 豪華な名前を連ねた「スキラの夜明け」を手にし、カフラは満足げな笑みを見せる。「スキラの夜明け」はオエアを含むネゲヴ全土に配付され、クロイ・タツヤ名による聖槌軍対策会議への参加もまたネゲヴ中へと呼びかけられた。
 アルカサムの月も中旬となり、竜也達は対策会議の準備を進めている。カフラの元に要請のあった「各地鉱山の経営改善」はカフラとマグドが協力して対応をしているところである。ナーフィア商会・ガフサ鉱山から人材を派遣し、指導をするのだ。さらには、

「にいちゃん、良い身体をしているな。奴隷軍団に入らんか?」

 マグドとその部下の百人隊長は各地の鉱山の元戦争奴隷を片端から口説き、自らの軍団に組み込んでいく。マグド隷下の元戦争奴隷は「奴隷軍団」を名乗り、その陣容を二千から三千、三千から四千と急速に拡大させていった。もっとも「戦争が始まったらマグドの下で兵士になることを承諾している人間がそれだけいる」という意味であり、現時点で即座にそれだけの兵を動員できるわけではない。だが、今のネゲヴにそれだけの戦力を動員できる町も傭兵団も存在しない。竜也に匹敵する、あるいは超える戦力を有しているのは片手で数えられるほどの数のケムトの有力諸侯、およびケムト王国そのものくらいのものだった。
 その一方、オエア側も戦力の充実を急いでいる。

「タツヤさん、やられました」

 不意に現れたカフラが悔しげに竜也にそう報告する。場所はスキラ商会連盟本部、そこでの打ち合わせがちょうど終わったところである。

「誰に、何をだ?」

「オエアのギーラに、です。彼は聖槌軍と戦う傭兵の総指揮官として、エジオン=ゲベルからあのアミール・ダールを招聘したんです!」

「ああ、どこかで聞いたことのある名前だな」

 カフラはまず脱力し、次いで何かを悟ったような顔をした。

「……そう言えばタツヤさんはそういう人でしたね。そうです、タツヤさんですら名前を知っているくらいの、アシューで一番有名な将軍なんです。戦争の名手と謳われている人なんです」

 エジオン=ゲベル王国はエラト湾(元の世界のアカバ湾)一帯を領有する国だ。百の王国があると言われるアシューの中では比較的大きく有力な国である。アミール・ダールはそのエジオン=ゲベル王の弟であり、王国将軍である人物だ。

「独立不遜で通っている各地の傭兵団だって、アミール・ダールが指揮を執るならその配下に収まることを納得するでしょう」

「良いことずくめじゃないか。何が問題なんだ?」

 暢気な竜也に、カフラは吠えるように訴えた。

「タツヤさんが主導権を取れないことが、です! このままじゃオエアに、ギーラやアミール・ダールに主導権を取られてしまいます。タツヤさんは悔しくないんですか? 誰よりも早く聖槌軍の脅威を訴えてきたのに。笑われたり馬鹿にされたりしながらも戦う準備を進めてきたのに、そのタツヤさんを無視するなんて!」

 カフラは悔しげに顔を俯かせた。竜也が「カフラ」と優しく呼びかけ、顔を上げたカフラに笑いかけた。

「他の誰かが俺より上手く戦ってくれるなら、それに越したことはないと思っている」

「でも」

 竜也は黙って南を指差す。カフラの視線が南へと向いた。

「あそこには何がある? ナハル川の向こうだ」

「え、南岸にはタツヤさんの倉庫が……あ」

「そういうことだよ」

 得心するカフラと、頷く竜也。

「カフラとミルヤムさんが買い集めてくれた食糧は兵糧にもなるんだ。俺達を無視して聖槌軍と戦争なんかできっこない。違うか?」

「確かにそうです」

 とカフラは頷く。

「タツヤさんが協力しなければアミール・ダールの軍勢だろうと十日で干乾しになるだけです。アミール・ダールの存在に充分対抗できます」

「別に対抗する必要はないと思うんだけどね。スキラのみんなを無視して無茶をやろうっていうんじゃない限り」

 と竜也は肩をすくめた。

「協力できるならそれが一番だ」

「そうですね。でもそれには向こうが礼節を持って挨拶に来るのが最低条件です」

 カフラはそう話をまとめた。カフラの出した条件が満たされるのは数日後のことである。







 その日、竜也は船に乗って地中海を東進していた。竜也に同行するのはカフラとマグド。護衛にはサフィール・バルゼル他牙犬族の剣士が幾人かと、マグド配下の元奴隷が同数。そしてラズワルドとベラ=ラフマが目立たないところで控えている。

「クロイ・タツヤとその一党勢揃い、というところか」

 とガイル=ラベクは笑っていた。

「そう言うガイル=ラベクさんはタツヤさんに与してはくれないんですね」

 とカフラは冷たい目をガイル=ラベクに向ける。

「ガフサ鉱山の一件では無理難題を引き受けて解決したのに」

「まあ、うちの船団でも色々あるんだ」

 ガイル=ラベクは気まずそうに言い訳した。

「俺としちゃ、オエアに与するよりはお前達に与する方が面白いと思っている。だからこそ俺がお前達の出迎えをしているんだろうが」

 それはそうですが、とカフラは口の中で小さく呟く。竜也はカフラをたしなめた。

「聖槌軍と戦うのに派閥争いなんかしている場合じゃないだろ。ネゲヴが一つとなって戦う、今日はそのための話し合いなんだから」

 カフラはまだ不満そうだったがそれ以上何も言わなかった。一方マグドとガイル=ラベクは竜也のことを興味深げに眺めている。
 ガイル=ラベク率いる髑髏船団はオエアにもスキラにも与せず、中立の立場を取っていた。その立場を生かしてガイル=ラベクはアミール・ダールと竜也との会談を仲介。そして竜也はアミール・ダールに会うために船に乗って東へと向かっている。

「そろそろだな」

 海岸線を眺めていたガイル=ラベクが停船を命令。船は海岸から数百メートル沖合で碇を降ろした。場所は、元の世界であればチュニジアとリビアの国境近くである。
 その場で待つこと数時間。日差しがかなり傾いてきた頃、水平線の向こうから船が姿を現した。髑髏の旗を掲げたその船が次第に接近、ついには竜也達の船に接舷する。
 二つの船の間には移動のための板が掛けられた。竜也達は出迎えのために甲板に並び、隣の船からアミール・ダールが渡っているのを待った。だが、

「え?」

「……どういうことだ?」

 護衛を引き連れて竜也達の船に渡ってきたのは一人の少女だけ、後に続く者はいない。
 服はアラブっぽい軽装で、セム系の白い肌。身長はサフィールより低く、体格はスレンダー。濃い焦茶色の長い髪を一本お下げにして編み込んでいる。年齢は竜也より一、二歳年下だろう。勝ち気そうな、凛々しい美少女だった。

「あの、あなたは?」

 カフラの問いに少女は傲然と答える。

「エジオン=ゲベル王国王弟アミール・ダールが第七子、名前はミカ。今日は父アミール・ダールの名代としてここに来た」

 ミカの口上に竜也達はまず沈黙した。最初に反応したのはカフラである。

「……アミール・ダールは七人の子を伴ってオエアに来ていると聞きます。その中でよりにもよって一番下の、それも女子を名代に選んだのですか」

 カフラは口調に不愉快さをにじませている。竜也を軽んじている姿勢にはマグドも静かに怒っていたし、仲介の面子を潰されたガイル=ラベクもまた同様だ。

「せめて嫡男を送ってくるならまだともかく、女子供を――あいた」

 突然竜也がカフラへと軽く拳骨を落とし、

「女だからって名代が務まらない、なんて考えはおかしいし、カフラが言うことじゃないだろ」

 カフラとミカが同じように目を丸くした。

「カフラだってミルヤムさんの名代としてあちこち飛び回っているじゃないか。年齢にしたって見たところカフラと何歳も変わらない、つまりは俺ともそんなに違わないってことだ」

 とカフラに諭した上で竜也はミカへと向き直った。

「ネゲヴを聖槌軍から守る――立場は違ってもその志には違いはない。そのためにスキラとオエアが、俺達と将軍アミール・ダールが協力しなきゃいけない。今日の会談はその第一歩にしたいと思っている」

 と手を差し出す竜也。ミカは若干あたふたしつつも、

「え、あ、はい。その通りです」

 とその手を握った。
 握手をしつつ、ミカは内心で舌を巻いている。

(わたしを持ち上げることで自分の面子、ガイル=ラベクの面子、そしてわたしの面子、それを全部保つなんて……優れた政治感覚の持ち主のようですね)

 一方カフラはミカの内心をほぼ正確に見抜いていた。

(「こやつ、できる」みたいなことを考えてるんでしょーねー。でもタツヤさんは計算じゃなく素でやってるだけなんですよねー)

 カフラは内心で肩をすくめていた。
 ……竜也達は甲板中央に移動、用意をしておいた席に着く。

「提督ガイル=ラベクには仲介の労を執っていただいたことを感謝します。そして父がこの場に来ることができなくなったことをお詫びします」

 ミカはまずガイル=ラベクに頭を下げた。

「ですが、ご理解いただきたいのです。今の父はギーラに雇われた傭兵に過ぎず、ギーラの意向を無視して自由に動くことができません。一番監視の緩かったわたしが抜け出すので精一杯だったのです」

「……いくつか確認したいことがあるんだけど、まずギーラというのはどういう人物なのか? こっちにはギーラの名前しか伝わってこないんだ。それと、ギーラやアミール・ダールはネゲヴをどうやって守ろうとしているのか? これも知らなきゃいけない」

 竜也の問いにミカは少し考え、

「わたしも詳しいことを知っているわけではありません。ギーラについて判っているのは、オエア出身のバール人であること、ただそれだけです」

「うちの商会で調べてもほとんど何も判りませんでした。多分、真っ当なバール人じゃないんでしょう」

 カフラの言う「真っ当なバール人」とは商売、特に交易に従事する者のことを指している。それ以外の、農家や職人や傭兵は「真っ当でないバール人」となる。ましてや日雇いでその日暮らしをしているような者は決してバール人とは認められない。

「父親かその前の代で商会が潰れ、それ以降は日雇いか何かで暮らしてきたんじゃないでしょうか。急に表に出てきたのは、商会があった頃のつながりが辛うじて残っていたんだと思います」

 ミカの話によると、ギーラの年齢は二〇代半ば。彼は聖槌軍の脅威が噂されるようになった頃オエアの使者としてまずケムトに向かったと言う。

「そこでまず、何故無名のギーラが使者に選ばれたのかが疑問になるんだけど……」

「その時点ではそれほど重視された仕事じゃなかったんじゃないでしょうね」

 竜也の疑問にカフラがそんな回答を示した。ミカの説明が続く。

「ギーラはケムト王国の宰相プタハヘテプの知遇を得、聖槌軍問題に対処するケムト王国の役職を得ています。彼はその肩書きを名乗ってエジオン=ゲベルにやってきたのです」

 エジオン=ゲベルでは国王ムンタキムと王弟アミール・ダールの対立が深刻になっていた。ミカは「エジオン=ゲベルでは子供でも知っている話ですから」と前置きして説明する。

「伯父上は決して無能でも暗愚でもないのですが、声望は父の方に集まっていました。父が華々しい戦果を挙げ続けたのに対し、伯父上は戦場にほとんど出なかったからです。軍でも宮廷でも父に王位を望む声が密かに広がっていました。このままの状態だったなら、伯父上が父を粛清するか、父が反乱を起こすか、どちらかになっていたかもしれません」

 そこにやってきたのがギーラである。ギーラはアミール・ダールを「聖槌軍と戦うネゲヴの軍の総司令官に」と求めたのだ。

「渡りに船だったわけか、国王ムンタキムにとっては」

「はい。はっきり言えば、体のいい追放です」

 こうしてアミール・ダールはオエアにやってくることとなった。「ケムト王国の役職」「アミール・ダールとのつながり」、ギーラはこの二点を持って他者より優位に立ち、オエアの議論を主導していると言う。

「……つまり、東ネゲヴの代表としてケムト王国の役職を得て、その役職でアミール・ダールを雇い、アミール・ダールの存在を持って東ネゲヴの代表になっている?」

「詐欺師の手口ですね」

 カフラは呆れるが、竜也はむしろ感心した。

「父が他の誰かと独自につながりを持ってしまうと自分の優位が崩れてしまう。このためギーラは父を籠の鳥にしているのです」

 ミカは口調に不快さをにじませた。竜也は少し話を変えようと、

「それで、ギーラはどうやって聖槌軍と戦うつもりなんだ?」

「あの男はナハル川南岸を要塞とし、ナハル川を防衛線として聖槌軍をそこで防ぐことを考えています」

 竜也達はあっけにとられてしまった。ミカが何を言っているのか理解できない。理性が理解を拒絶している。

「ちょっ……ちょっと待ってくれ」

 竜也は愛用の地図を用意、それをテーブルの上に広げた。ミカはかなりの近視のようで、顔をくっつけるようにして地図を見つめている。
 ヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ネゲヴ全域が描かれた地図である。ナハル川はネゲヴを東西に分かつように流れる川だ。水源は大樹海アーシラトの南の彼方、もしかしたらチャド湖までつながっているかもしれない。元の世界で言うならリビアとアルジェリアの国境を沿うように川が流れ、地中海へと注いでいる。河口近くにはスキラ湖があり、これは元の世界ならジェリド湖・ガルサ湖・メルリール湖を一つにつなげたものである。ナハル川の水は一旦スキラ湖に流れ込み、また川となって海へと流れていく。その、海まで流れる川の北岸にあるのがスキラの町である。

「こんなところに防衛線を……それじゃ、ナハル川より西の町はどうするつもりなんだ?」

 竜也の問いにミカは目を伏せるだけだ。

「……いや、しかし理には適っている」

 地図をとっくりと眺めていたマグドがそう呟き、ガイル=ラベクが「確かに」と同意した。

「どういうことです」

 と竜也が詰問、マグドはなだめるように説明した。

「ここだ」

 とマグドはスキラ湖から海までをつなぐナハル川を指差す。

「この間の距離はたったの一〇〇スタディア(約一八キロメール)。アミール・ダールはここだけ守っていればいい。聖槌軍はそれ以上東には行けん」

「それに、ナハル川の川幅は一番狭い場所でも一〇スタディア(約一・八キロメール)以上。水深だって外洋船がそのままスキラ湖に入れるくらいだ。守るにこれ以上の場所はない」

 とガイル=ラベクが補足した。

「……でもそんな、それじゃスキラも含めて西ネゲヴを全部捨てることに! 他の方法はないんですか?」

「……父もそれで苦しんでいます」

 ミカは絞り出すようにそう告げる。

「他の方法はないのか、と。敵を食い止めるのにより適した場所はないのか、と。ですが、見つかっていません」

「集められるだけの兵を集めて野戦を挑むのは?」

「馬鹿なことを言わないでください」

 とミカは首を振った。

「敵が指揮系統を一本化しているのに対し、こちらはどう頑張っても烏合の衆にしかなりません。敵が長年の戦乱で戦い慣れているのに対し、こちらの主力は素人の兵。例えアミール・ダールが指揮を執ろうと、野戦では鎧袖一触にされるのが落ちです」

 マグドが無言で頷き、ミカの見解を肯定した。

「ですが、ナハル川に陣取って敵を川に叩き落とすだけなら烏合の衆でも素人でも充分戦える、ギーラはそう考えています。確かにそれは間違ってはいません」

 ガイル=ラベクが無言で頷き、ミカの意見に同意した。

「……でも、それじゃスキラはどうなる? 西ネゲヴの町や人はどうなるんだ?」

 竜也が再度それを問う。甲板の上を沈黙が満たした。口を開いたのはカフラである。

「……多分、お金持ちは資産を持って東ネゲヴに移住するでしょう。お金のない人は西に残って、勝てないまでも戦いを挑んで……」

「聖槌軍をある程度苦しめ、消耗させる。ギーラはそれを期待しているのだと思います」

 ミカがカフラにそう続ける。竜也は怒りで歯を軋ませるが、何度か深呼吸をして怒りを鎮め、気持ちを落ち着かせた。

「もっとマシな方法はないのか、もっと適切な防衛線はないのか。アミール・ダールはそれを探している――そう言ったよな」

 竜也の問いにミカは「はい」と頷く。

「俺達もそれを探す、西ネゲヴの犠牲を少しでも減らす方法を。今のギーラとは到底協力できない。でも、アミール・ダールとは協力ができると思う」

 竜也は立ち上がり、ミカに向かって再度手を差し出す。ミカもまた立ち上がり、その手を固く握った。

「はい。今の父は自由には動けません。ですが、いずれはクロイ・タツヤ、あなたと共に戦う日が来るでしょう。わたしもその日のために戦います」

 ……そして会談が終わり、時刻はすでに夜である。竜也達を乗せた船はスキラへの帰路に着いていた。ミカを乗せてオエアから来た船もオエアへと戻っていく。が、

「……それで、どうして君がここに?」

 肝心のミカが竜也達の船に同乗していた。竜也の問いに、ミカは「何を訊いているのかこの馬鹿は」と言いたげな顔をする。

「オエアに戻っても再びギーラの籠の鳥となるだけ。それならあなたの元に留まって自由に動けた方が父上のためにもなります」

 ミカは偉そうに胸を張った。そんなミカをカフラやラズワルドは白けたような目で眺めている。

「まあ、いいけど」

 と竜也が受け入れ、エジオン=ゲベルの王女ミカが竜也の一党に加わることとなる。







[19836] 第一五話「スキラ会議」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/24 21:05



「黄金の帝国」・戦雲篇
第一五話「スキラ会議」






 竜也がアミール・ダールの末娘・ミカを連れてスキラに戻ってきたのはアルカサムの月(第八月)の下旬である。

「本当にこんなところに住んでいるのですね、あなたは」

 竜也一党の拠点「マラルの珈琲店」に案内され、ミカは呆れたような目を竜也へと向けた。

「いや、ここで特に問題はないし」

「大ありです。警備はどうするのですか? わたしはこれでもエジオン=ゲベルの王女ですよ。末席ですが王位継承権だって持っているのですよ」

 カフラがミカに同調する。

「確かにそうです。ミカさんだけでなくタツヤさんの警備上の問題もあります。不特定多数が自由に出入りをする飲食店をいつまでも使い続けるのは」

 ふむ、と竜也はしばし考え込んだ。

「護衛を増やすとしても、今のままじゃマラルさんの迷惑になるだけか……」

 竜也は「よし」と決断。「珈琲店」の店内へと入っていき、

「マラルさん、いくらならこの店を譲ってくれますか?」

 竜也の後に続いたカフラとミカは崩れ落ちそうになっていた。
 こうして「マラルの珈琲店」は閉店し、名実共に竜也一党の拠点として機能することとなる。だがマラルの生活に大きな変化はない。これまで不特定の客に珈琲や軽食を出していたのを、出す相手が竜也達や竜也の客、牙犬族の護衛に限定されただけである。

「ところでわたしはどこに住めば? ここの屋根裏部屋ですか?」

「君が望むのならそれで……」

 竜也の言葉は途中で途切れてしまった。ミカは笑みを浮かべているが、目は笑っていない。ミカは笑顔のまま竜也を威圧した。

「カフラ、頼む」

「判りました、こちらで手配します」

 ミカの住む場所について竜也はカフラに丸投げし、

「サフィール、牙犬族の女剣士を何人か揃えてくれないか? 彼女の護衛をお願いしたいんだ」

 さらには護衛も手配する。自分の護衛に女性を手配する竜也の配慮にミカは一応の満足を見せた。ミカが席を外した機会を狙い、竜也はカフラ達に確認する。

「あの子、王女様なんだろう? どういう態度で接したらいいんだ?」

「わたしやサフィールさんに対するのと同じで構わないんじゃないですか?」

 カフラの答えを聞いても竜也の困惑は解消されず、より深まるかのようだった。

「構わないのか? それで」

「エジオン=ゲベルならともかく、ここはネゲヴです。故国では王女だろうと、ここでは傭兵指揮官の使者でしかありません」

「タツヤさんは最低でも将軍アミール・ダールとは対等です。ミカさんはアミール・ダールの部下という立場なんですから、タツヤさんより格下なのは間違いないんです」

 ベラ=ラフマとカフラは竜也のことを過大評価する傾向がある(と竜也は思っている)ので、竜也は二人の説明を額面通りには受け入れられなかった。が、二人の言葉を否定する材料も持っておらず、結局は二人の助言そのままに振る舞うこととなる。
 ミカを受け入れた竜也は陣容を整え、ギーラに対抗するための行動を開始した。

「なるべく西の方の町、その周辺の出身者、地理に詳しい者、その辺りで戦った経験のある傭兵。そんな人達を集めてくれ。どこで戦ったらいいか聞き取りをしてまずいくつか候補を出して、実地で調査をする」

 カフラ達が人を集め、マグド達が聞き取り調査をし、ミカ達が調査結果をまとめる。全員が精力的に働いたのだが、充分な成果は出せなかった。

「……なかなかいい場所は見つからないか」

「ええ。ソウラ川、サイダ川、イコシウム、北の谷……ナハル川に負けないくらいの難所はいくつもあります。ですが、敵がそれを避けて通ることも簡単な場所ばかりです。ナハル川ほど都合のいい場所は……」

 そうか、と竜也はため息をつく。

「ギーラという男、決して馬鹿じゃないんだな」

「ええ」

 とミカも同意しつつため息をついた。
 一方竜也達がそうやって動くに伴い、ギーラの防衛構想がスキラや近隣の町で広く知られるようになる。当然ながらオエアに対する反発と反感が広がった。

「あいつら、俺達を犠牲にして自分達だけ助かろうっていうのか」

「冗談じゃないぞ。あんな連中の言いなりになんかなれるか」

 オエアに対する敵意がスキラへの期待を高めていく。ギーラに対する反発が竜也の声望を高めていく。今やオエアとスキラがネゲヴを二分し、ギーラと竜也が両都市を代表する人間として目されるようになっていた。
 月は変わってキスリムの月(第九月)の初旬。スキラで「聖槌軍対策会議」が開催されたのはそんな状況下である。一方オエアでもほぼ同時期にオエア主催で「聖槌軍対策会議」が開催されている。この後、スキラでの会議は「スキラ会議」、オエアでの会議は「オエア会議」の通称で呼ばれるようになる。
 会場はスキラ中心市街、商会連盟の別館。その館の通称をソロモン館と言う。元はソロモン商会という大豪商の邸宅であり、かつてのゲラ同盟が事務局を置いたこともある。四〇〇年以上の歴史と伝統を誇り、城と言ってもいいくらいの規模と豪奢さを持つ建物だ。館周辺や前庭には恩寵の部族や傭兵の護衛等がたむろしている。

「おい、見ろよ」

「へえ、あれが……」

 竜也は彼等の視線を受けながら館の中へと、その奥へと進んでいく。館の最奥、バレーボールのコートくらいの面積がある一際豪奢な部屋が会議の会場だった。会場にはすでに大勢の参加者が集まっている。
 ナーフィア商会当主ミルヤム・ナーフィア、ジャリール商会当主、ワーリス商会当主等、各地の有力なバール人商会。
 牙犬族族長アラッド・ジューベイ、金獅子族族長インフィガル・アリー、赤虎族族長セアラー・ナメル等、恩寵の部族の族長達。
 スキラを始めとして、カルト=ハダシュト、ハドゥルメトゥム、スファチェ、レプティス=マグナ等の近隣自治都市の長老会議代表。
 他にはガイル=ラベクを筆頭とする著名な傭兵団首領、それにマグドが加わっている。
 このそうそうたる参加者の中で、竜也の席は会議室の中心、議長のすぐ隣に用意されていた。竜也は内心の気後れを押し殺しながらその席に座る。議長を務めるのはラティーフという老人で、スキラ長老会議の一員だ。

「温厚で人当たりが良く人望もあり、調整型の政治家としては非常に優れた方です」

 とはカフラの評価である。

「……我々ネゲヴの民は聖槌軍という恐るべき敵に脅かされています……」

 会議はラティーフの挨拶から始まった。その挨拶は割合手短に終わり、

「それではまず彼からエレブの最新情勢について説明してもらいましょう」

 議長の紹介を受け、竜也が立ち上がる。「クロイ・タツヤです」と簡単に挨拶をし、速やかに報告へと入った。原稿はベラ=ラフマがまとめてくれたものである。

「……フランクが二五万、ディウティスクが二五万、イベルスが二五万、レモリアが一五万、ブリトンが一〇万、総勢百万。それが教皇が各国に割り当てた兵数です。全軍の集結地点はイベルスのマラカ、集結日はアダルの月の一日。集結日まではあと三ヶ月、ディウティスク等の遠方では移動が開始されている頃です」

 報告を聞いた参加者がざわめく。そのうちの一人が竜也に問うた。

「いくら何でも百万はあり得ないだろう」

「確かに考え難いことです。ですが、エレブ人は十万やそこらでは収まらないだけの準備を進めている。例え百万の三分の一でも三〇万を越える大軍勢です。我々にどれだけの兵が用意できますか?」

 参加者が再びざわめく。恩寵の部族が義勇軍の結成について宣言し、各町の代表が徴兵の準備について報告する。その他軍費負担、戦場の選定、防衛線の選定等、議題は多岐にわたり活発な議論が展開された。だが、

「つ、疲れた……」

 会議は夜更けになってようやく終了し、竜也は「マラルの珈琲店」に戻ってきたところである。竜也は身を投げ出すように椅子に座った。

「何にも決まらなかった……」

 意見の隔たり、立場の違いがあまりに大きく、散々議論をして結局何一つ決定されなかったのだ。

「まだ初日です。やむを得ないことかと」

 と慰めるように言うのはベラ=ラフマだ。「それはそうだけど」と竜也は顔を上げた。

「――ところで、オエアでも『聖槌軍対策会議』が開かれているんですよね」

「ええ。スキラに対抗してのことでしょう。さすがに海洋交易・軍事同盟の復活を掲げはしていませんが、『聖槌軍対策』の裏側で実質的な復活を目指して活動するものと見られます」

 ベラ=ラフマは「オエア会議の参加者一覧です」と書面を差し出す。竜也は受け取って目を通した。

「……かなり重複してる?」

「はい。スキラ会議の参加者の多くが名代をオエアにも送っています。それはオエア会議の参加者にしても同じです。今日の会議、東ネゲヴの各町からも名代だけは来ていたかと思いますが」

「保険てことか。用心深いことだな」

 竜也は天井を仰ぎ、次いで視線をベラ=ラフマへと向ける。

「向こうでいろんなことが先に決まって先手を打たれるようなことは……」

 竜也の懸念に対しベラ=ラフマは「それはないでしょう」と首を振った。

「意見の隔たり、立場の違いが大きいのは向こうも同じこと。ギーラの立場の強さや声の大きさにしても、他者を圧倒するほどではありません」

 それならいいけど、と竜也は呟いた。
 そして翌日も会議は開かれ、さらにその翌日も続いた。二日目の会議は深夜まで続き、三日目の会議は夕方で議論が打ち切られる。竜也は疲れ切った身体を引きずるようにして「マラルの珈琲店」に戻ってきたところである。

「何にも決まらなかった……」

 竜也は五体投地をするかのごとくに椅子と机に身を投げ出した。

「三日間あれだけ話し合ったのに、本当に、何一つ決まらなかった……」

 その徒労感は尋常ではなかった。竜也は個室の机に同化する勢いで突っ伏している。

「たかだか三日で全てが決められると思う方がおかしいでしょう」

 と辛辣に言うのはミカである。

「会議というのは得てしてそんなものです。焦っちゃ駄目ですよ」

 と慰めるのはカフラである。竜也はわずかに気力を取り戻して身を起こす。

「確かにそうかもしれないけど、もう三日も使ってるんだぞ。なのに……この有様じゃ敵がヘラクレス地峡を突破してもまだ何も決められないぞ」

 竜也は本気でそれを心配していた。

「意志決定のあり方自体を何とかする必要があるんじゃないかな」

「どういう意味ですか?」

 竜也は会議の間中ずっと考えていた案を披露する。

「俺の元いた場所には――俺の国じゃないし相当昔の話だけど――独裁官って役職があったんだ。一国の非常事態には元老院が独裁官を選出して半年か一年の一定期間、政治・軍事の指揮の全てをその人に委ねる。意見や助言はもちろん構わないけど、その独裁官が最善だと判断して決断したことには全員が無条件で従うんだ」

 ああ、とカフラとミカは理解を示した。

「バール人の時代にありましたね、そういう制度が。町同士が戦争をするときはそれぞれの町でよく選出されていました。でも同盟全体を指導するような独裁官を選出することも、そんな制度もありませんでしたが」

「ですが、確かによい考えかと。未曾有の事態なのですからそれくらいやらなければきっと後手に回ってしまうでしょう」

 二人の賛同に竜也は意を強くする。

「よし! 今度の会議でそれを提案するとして、そのために根回しをするとして、問題は誰を独裁官として選ぶかだな」

 竜也は意見を求めようとカフラとミカの方を向き、

「……どうかしたか?」

 何故か白けたような顔をしている二人の様子に首を傾げた。

「……この人のこれは演技ですか?」

「いえ、タツヤさんは素でこういう人なんです」

 二人の会話は竜也にとっては意味不明で、竜也は首を傾げるしかなかった。
 ……三日間空転するばかりの会議には参加者全員が疲れ切っており、数日の休会期間を設けることに誰も異議を唱えなかった。竜也はこの休会期間を根回しに利用しようとする。竜也は顔見知りの会議の参加者に会って回り、独裁官設置に賛意を求めた。

「ああ、確かにあの会議にはうんざりだ。俺は大賛成だぞ。それで、お前さんがその独裁官をやるんだな?」

 と言うのはマクドである。

「お前には色々借りがあるからな。独裁官選出のときはお前に一票入れてやるよ」

 とガイル=ラベク。

「おお、牙犬族の同胞が独裁官となるのか! これはめでたい!」

 と笑うのはアラッド・ジューベイだ。

「……まあ、他に適当な奴もおるまい。お前が独裁官になるのに賛成してやってもいいぞ」

 と金獅子族族長インフィガル・アリー。

「お前がなるんだろう? 他に誰がいる?」

 と当たり前のように言うのは赤虎族族長セアラー・ナメルである。

「当然賛成しますし、あなたに一票投じますよ」

 とミルヤム・ナーフィア。

「ひょひょひょ、お前さんを支持するに決まっとるじゃろ。今度は何をやってくれるのかの?」

 と楽しげに笑ったのはワーリスだ。
 一通り根回しを終え、「マラルの珈琲店」に戻ってきた竜也は、

「……どうしてこんなことに」

 と頭を抱えていた。そんな竜也をカフラとミカが半目で見下ろしている。

「どうしてもこうしてもないでしょうに。皆があなたを支持しているのに何の不満があるのですか」

「いやでも、どうして俺なんだよ。他にもっと適当な人が」

 その竜也の問いに、

「聖槌軍の侵略を最初にネゲヴ中に広く訴えたのは誰ですか? 『ネゲヴの夜明け』を刊行して聖槌軍の脅威に備えるよう唱え続けたのは誰ですか?」

「ガフサ鉱山の暴動を鎮圧したのは誰ですか? 数千の奴隷軍団を配下に収めているのは誰ですか?」

「ナハル川南岸を始めとしてネゲヴ中に数百万人分の食糧を確保しているのは誰ですか?」

「スキラ会議の呼びかけ人となったのは誰ですか?」

 カフラとミカの連撃に、竜也は鯉のように口をぱくぱくとさせた。「いや……でも」とようやく精神的に体勢を立て直す。

「俺、まだ二十歳にもなってないんだぞ? それにマゴルでこっちにはつながりも後ろ盾も、何もないし」

「確かにまだまだ若造ですね」

 と偉そうに言うのは竜也よりも年下のミカである。

「ですが、それはそれほど大きな問題にはならないでしょう。問題はあなたがこの一年間何を成してきたかです」

「それに、マゴルっていう身の上は決して欠点だけじゃありませんよ。『つながりや後ろ盾がない』ことはむしろ利点です」

 カフラの言葉に竜也が「どういうことだ?」と首をひねる。回答を呈示したのはミカである。

「例えばあなたがバール人であったならこれほど支持は広がらなかったでしょう。あなたがアシュー人であっても同じです。ネゲヴがアシュー人に支配・統治されることにわだかまりを抱く人は決して少なくありません。恩寵の部族であっても同じです。同族には支持されてもそうでない人達の支持を受けるのは困難です」

「それに対してマゴルというのは一種のおとぎ話の住人のような、現実離れした存在。どの勢力の色も付いていない、無色透明の存在です。マゴルというだけで支持する理由にはなりませんが、拒否する理由にもなりません。そしてタツヤさんは後者の利点だけを享受できるんです」

 ミカとカフラの説明が脳に浸透する。竜也は顔を青ざめさせた。

「……え、ちょっと待て。アミール・ダールやマグドさんや船長、バール人商人の誰か、どこかの町の長老会議の誰か、恩寵の部族の誰か。誰も独裁官になれないのか……?」

 ミカとカフラは竜也の様子を怪訝に思いながらも、

「立候補する身の程知らずはいくらでも出てくることでしょう。ですが、クロイ・タツヤ、あなたほど支持は集められない」

「いいじゃないですか、タツヤさんがなっちゃえば。そしてガフサ鉱山のときのようにインチキみたいなやり方でネゲヴも救っちゃってください」

 カフラは殊更に明るく軽い口調で竜也をけしかける。だが竜也は顔色を悪くするだけだ。吐き気を堪えるかのように手で口を覆っている。

「……どうやってだよ」

 竜也は絞り出すように問う。カフラとミカは顔を見合わせた。

「百万の敵を相手に、その何分の一かの寄せ集めの烏合の衆を率いて、どうやって勝てって……」

 カフラとミカは気まずそうに顔を伏せる。二人は竜也の問いに答えられなかった。







 ……竜也は漆黒の甲冑を身にまとい、戦場に立っていた。竜也の背後では竜を描いた巨大な軍旗が翻っている。砂塵の荒野の彼方には百万の聖槌軍が雲霞のように蠢いていた。味方にはマグド率いる元戦争奴隷の軍団、牙犬族を始めとする恩寵の部族の戦士達、傭兵の一団が勢揃いだ。
 竜也が剣を鞘から抜いた。黄金に輝く刀身を振り上げ、振り下ろす。それを合図としてネゲヴの軍勢が敵軍へと一斉に突撃。対する聖槌軍は横に大きく広がり、ネゲヴ軍を包囲しようとしていた。
 百万の敵軍に対し、自軍はせいぜいその五分の一……いや、四分の一。普通に戦っては勝ち目はない。竜也は傍らに控えるガリーブへと視線を送る。ガリーブは頼もしげに頷いた。

「な、何だあれは」

 聖槌軍の兵士が動揺を示す。彼等の頭上には鯨のように巨大な何かが風に乗り、ゆっくりと空を泳いでいたのだ。その飛行船は聖槌軍の中心へと爆弾を――

「あーっ! 駄目だ!」

 竜也は髪の毛を掻きむしり、大の字になって屋根に寝転ぶ。その夜、竜也は久々に屋根の上に登っていた。竜也の頭上では満天の銀河が幾億の宝石のように輝いている。

「今から準備して作ったところで、どの程度のものがいくつ作れる? ツェッペリンくらいの飛行船を十隻も用意できるならともかく、モンゴルフィエくらいの気球がいくつかあったって、それが何になるっていうんだ」

 役に立たないことはないだろう。だが百万の敵と戦う決戦兵器になり得るとは到底考えられなかった。

(俺の中に眠る「黒き竜の血」が目覚めさえすれば……独裁官としてネゲヴの全軍を率いて、聖槌軍との決戦を)

 竜也はそんな妄想を弄ぼうとする。だが以前のようにはその妄想に耽溺できなくなっている自分に気が付いていた。カフラやベラ=ラフマからの信頼、マグドの忠誠、ミルヤムやワーリスとのつながり、それらは全て竜也自身の知恵と努力により勝ち取ってきたものなのだ。それに比べれば生まれたときに与えられた(という設定の)「黒き竜の血」になど魅力を感じなくなってむしろ当然。精神的な成長を示すこととして、むしろ健全というものである。
 だが、知恵と努力で勝ち取ってきたその実績と信頼が、今竜也を苛んでいる。カフラやマグド達の期待と信望が竜也にとってはあまりに重苦しい。

「くそっ、俺にどうしろって言うんだ。俺はただの高校生だったんぞ」

 それでも竜也は懸命に脳内を検索し、役立ちそうな知識を総ざらえする。

「毒ガス……? 海水を電気分解すれば塩素を取り出せる。水素は飛行船に使って……」

 第一次世界大戦つながりで思いついたその案を竜也はしばし検討し、結局廃案とした。

「でもガスはともかく毒って考えは悪くないかも。水や食糧に仕込んで、食糧を聖槌軍に売るとかして――」

 竜也はいきなり身を起こした。竜也の脳がフル回転する。

(――百万の大軍勢なんだぞ? 連中、食糧はどうやって補給するつもりなんだ?)

(――そんなの決まってる。現地調達をやるしかない)

(――じゃあ調達できなかったらどうなる? 調達させなければどうなる?)

 心臓が早鐘を打ち、冷や汗が流れる。顔からは血の気が引く一方だ。
 竜也は彫像のように身じろぎ一つせず、その作戦を検討し続ける。竜也はその夜、そのまま屋根の上で夜を明かした。







 翌日、スキラ会議が再開。これまでの議題に「独裁官職の設置」が追加され、さらに活発な議論が展開された。が、やはり何も決まらない状態であることには変わりない。寝不足の竜也は居眠りをして口を開かず、多くの参加者がうんざりしているようだった。
 会議は夕方には打ち切られ、また数日の休会期間が設けられることとなった。ソロモン館を出た竜也に「クロイ殿」と一人の男が駆け寄ってくる。ミカの護衛の一人である。

「ミカが?」

「はい、姫様がお呼びになっています。港に来ていただけませんでしょうか」

 竜也は「判った」と頷き、その護衛と一緒に港へと向かった。
 そしてスキラ港、竜也はそこでミカと合流する。

「何があったんだ?」

「いえ、その……ともかくこちらへ」

 竜也はミカの案内で停泊しているとある船の前へと行く。そこでは一人の男が十数人もの兵士に取り囲まれていた。
 男は上半身裸で船の積み荷に腰掛けている。手にしているのは柄まで鋼鉄製の槍である。男の年齢は二〇代半ば、身長は一九〇センチメートルを越えているだろう。プロレスラーのように発達した筋肉を誇示しており、その身体にはいくつもの傷跡があった。

「おうミカ! 元気なようだな!」

 男が朗らかにそう声をかける。

「ノガ兄さんも相変わらずのようで……」

 ミカは頭痛を堪えるかのように指で眉間を押さえた。

「兄さん?」

「はい、三番目の兄です。父上と一緒にギーラの元で籠の鳥なっていたはずなのですが」

 竜也の疑問にミカがそう答え、その兄――ノガが、

「ああ、護衛と称する連中があまりに煩わしかったからな。ぶっ飛ばして逃げてきた」

 と明るく笑って説明した。

「それは、問題にならないのですか?」

「さあ? ともかく、傭兵が二、三人死んだみたいでオエアの兵士に追われてな。この船に飛び乗ったんだが船賃もなかったんで乗っ取った。で、妹を頼ってここまで来たわけだ」

 ミカの頭痛がさらに深まり、竜也もミカと同じような表情になった。

「ノガ兄さんは一番血の気が多いから遠からずこんなことになるだろうとは思っていましたけど」

「……まあ、ギーラの勢力を削いだと考えることにしようか。この船への保証はやっておく」

 竜也の言葉にミカは、

「すみません、助かります」

 と恐縮し、ノガは、

「おう、世話になるぞ!」

 大威張りで胸を張る。ミカの飛び蹴りがノガの顔面に突き刺さった。
 さらにはその数日後。

「すみません、タツヤ。一緒に来てもらえませんか」

 ミカの要請を受け、竜也は「マラルの珈琲店」を出た。ミカには護衛やノガも同行している。渡し船を使ってナハル川を渡り、南岸へ。そして倉庫街の外れへとやってくる竜也達。そこには数騎の騎兵の姿があった。

「何だ、兄貴も逃げてきたのか」

「当然だろう」

 そう答えるのは騎兵の中心にいる二〇代半ばの青年だ。身長は竜也より少し高いくらいでノガと比較すれば普通の体格である。鋭い目つきとやや暗い表情が特徴の、精悍そうな青年だった。
 二回目なので竜也もすぐに事情を察し、

「ミカの兄弟なら歓迎しますよ。ようこそスキラへ」

「アミール・ダールの第二子・シャブタイだ。世話になる」

 シャブタイは馬を引いて歩き出した。その馬が鞍から紐を垂らして何かを地面に引きずっている。ミカがそれを手にとってよく見、

「ひっ」

 悲鳴を上げて投げ捨てながら竜也に抱きついた。あまりにボロボロだったのですぐには判らなかったが、馬が引きずっていたのは人間の足首だったのだ。

「どうしたんだ? その足」

 お気楽に問うノガと、

「ああ、オエアを出たときには全身があったんだがな」

 当たり前に答えるシャブタイ。竜也とミカは顔を見合わせた。

「……ミカの兄弟って全員こんなのか?」

「……いえ、その、姉上はともかく兄上達はそんなことは……多分」

 ミカは気まずそうに目を逸らす。

「アミール・ダールが兄の国王から危険視されたのって、この兄弟が原因だったんじゃ……?」

 竜也はそんな疑問を抱かずにはいられなかった。







 キスリムの月も下旬に入る頃。スキラでは会議がくり返されているが相変わらず何一つ決まらない状態が続いている。見切りを付けた欠席者の席も目立つようになっていた。

「せっかく人を集めたのにこの有様じゃ……」

 会議を終え、「マラルの珈琲店」に戻ってきた竜也は一人懊悩していた。そこにベラ=ラフマが姿を現す。

「これを見てください」

 とベラ=ラフマが報告書を差し出した。何気なく受け取った竜也はそれに目を通し、

「――オエア会議が解消を議決?」

「はい。オエアでの聖槌軍対策会議で、この会議を解散してスキラ会議に合流することが提案され、それが可決されたとのことです」

 竜也は思わずベラ=ラフマの顔を凝視する。

「どういうことです?」

「ギーラの影響力が弱まっています。アミール・ダールの子息に逃げられたことが堪えているようです」

 竜也は首をひねった。

「息子があんな無茶をやったんじゃ、アミール・ダールの立場の方が弱くなるんじゃ?」

「そうとは限りません。アミール・ダールが本気になればギーラには制御不能――二人の子息の逃亡はその示威行動になったのではないでしょうか」

 ふむ、と竜也は考える。

「ギーラは猫に首輪を付けて飼い慣らしているつもりだったけど、その実猫じゃなく獅子だった、ってところか。で、ギーラじゃ獅子を飼い慣らせないことが知られて、獅子を怖がっていた人達がギーラから離れている、と」

 竜也のまとめにベラ=ラフマが「その通りです」と頷いた。
 数日後、オエア会議からの使者がスキラに到着し、スキラ会議に参加。オエア会議の解消が報告され、スキラ会議への合流が要請される。スキラ会議は満場一致で要請承諾を可決した。スキラ会議で意味のあることが決定されたのはこれが初めてである。
 そしてキスリムの月の下旬。オエア会議が合流して開催される最初のスキラ会議である。オエアからの来訪者が続々とソロモン館に入場する。竜也はソロモン館入口近くに陣取り、参加者の面々を確認していた。手の平サイズの望遠鏡を持ったミカが隣にいて、参加者の解説をする。

「あ、あれが父上です。父上!」

 とミカが一人の男を呼ぶ。竜也もまたその男へと向けて歩を進めた。竜也とその男が数メートルの距離を置いて向かい合う。
 年齢は、見た目は四〇代半ばくらい。息子達がかなりの年齢なので実際にはもう少し上だろう。背は高く、均整の取れた身体付き。アラビア風の略式軍装に、頭部にはフードを被りターバンを巻いている。口髭を生やした伊達男だが、その目は鷹のように鋭かった。

「俺がスキラのクロイ・タツヤです。ミカにはいつも世話になっています」

 アミール・ダールが刃のように鋭い視線を竜也に突き刺す。竜也は一歩後退りそうになったが何とか堪えた。

「……我が兄エジオン=ゲベル王ムンタキムの命により、ネゲヴの助太刀に参上した。非才非力の身ながら微力を尽くすことを約束しよう」

 一呼吸置いてアミール・ダールがそう述べ、竜也が「助かります」と答える。アミール・ダールは軽く一礼し、ソロモン館の中へと入っていく。その後ろ姿を見送った竜也は大きなため息をついた。

「……何か凄い顔で睨まれたけど、嫌われているのかな? 俺」

「そんなことはないはずですが。ギーラよりはタツヤの方をよほど評価しているでしょうし」

 とミカは首をひねっていた。
 それからも何人かミカの解説を聞いていた竜也だが、一人の男が自分を見ていることに気が付いた。

「ミカ、あれが誰か知っているか?」

「ああ、あれがギーラです」

 年齢は二〇代の後半で、体格は竜也と同じくらい。髪や肌の色は典型的なバール人のそれ。そこそこに整った容貌をしているが、どことなく軽薄そうな印象がある。水商売でもやっていそうな、繁華街ならどこにでもいそうな男である。だがその目つき、その眼光だけは常人とは違っていた。身体の中に余計な精力が満ち溢れていて、それが目の光になって現れているかのようだった。
 ギーラが竜也に目を留め、敵意に満ちた眼差しを向けてくる。竜也は対抗するように目に意志と力を込めてギーラを見つめた。しばしの間両者は視線で対峙する。先に引いたのはギーラである。ギーラは嗤いを見せつけ、館の中へと入っていく。竜也はその背中を見つめた。

「……何だ? あの嗤いは」

 余裕と優越感に満ちた、勝者の嗤い。ギーラは確かにそれを浮かべていた。
 ……時刻は会議が始まる定刻、場所はソロモン館内の大広間。参加者は倍近くに増え、議場は人に充ち満ちていた。

「それでは――」

「議長!」

 議長のラティーフが開会の挨拶をしようとしたところにギーラが発言をかぶせてくる。ギーラはそのまま発言を続けた。

「まずはスキラの諸君に、我々オエアに集まっていた者を受け入れてくれたことを感謝したい! そして諸君に是非お目にかけたい方がいる!」

 ギーラが入口へと向かって手を伸ばし、全員がその方向へと注視。一同の視線を集める中、扉が開いて議場に何者かが入ってくる。入ってきたのは杖をついた、かなり高齢の、仙人みたいな老人だった。ギーラは身を翻し、颯爽とその老人の隣に並んだ。

「紹介しよう! この方こそケムト王国宰相プタハヘテプ様より特使に任じられた、ホルエムヘブ様だ!」

「――!」

 やられた、と竜也は唇を噛み締める。竜也はギーラの嗤いの理由を完全に理解した。

「あーまー、宰相閣下はエレブ人とも平和に仲良くやれんかと考えておってのー。儂はそのため聖槌軍……じゃったか? その連中と話し合うよう言われておるんじゃ」

 ホルエムヘブは食後の牛みたいな、おそろしくのんびりした口調で重要なことを一同へと告げる。

「自治都市の者達が自分で身を守ろうとするのは感心なことじゃて、副特使としてこのギーラを派遣するから万事よく話し合って決めるように、とのことじゃった」

「そういうことだ、諸君!」

 ギーラは全員の視線を一身に集めながら議場の中央へと進む――舞台俳優のような歩き方で。

「さあ、ネゲヴを誰がどうやって守るのか、それを決めようじゃないか!」

 まるで歴史という物語の主役のように、ギーラは高らかにそう宣言した。








[19836] 第一六話「メン=ネフェルの王女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/31 21:03


「黄金の帝国」・戦雲篇
第一六話「メン=ネフェルの王女」





 キスリムの月の下旬。スキラのソロモン館、その大広間。今そこでは聖槌軍対策会議、通称スキラ会議が開催されている。オエア会議が解消され、スキラ会議に合流しての初会合である。
 ギーラは副特使の立場を最大限利用、議論の主導権を握ろうとした。聖槌軍と戦うためにネゲヴ連合軍を結成すること、その全軍の司令官にアミール・ダールを選出すること――ギーラはまずそれを提案。西ネゲヴ側は「副司令官をマグドとすること」を条件に賛成、満場一致でその案は可決された。また、それと同時にガイル=ラベクを海軍の総司令官とすることも提案され、可決されている。
 次にギーラが提案したのは「独裁官職の設置」である。一同の視線の半分がギーラに集まり、もう半分が竜也へと向けられた。

「……それを設置するのはいいとして、その独裁官には誰を選ぶつもりなんだ?」

 支持者の視線に背中を押されるようにして竜也が問い、

「私はケムト宰相プタハヘテプ閣下に副特使として任じられ、聖槌軍対策の全権を委ねられている! 私が独裁官職を兼務するのが筋というものだろう」

 ギーラが当たり前のように堂々とそう答える。

「この押しの強さは到底真似できないな」

 竜也は呆れるよりも先に感心してしまった。

「ではその独裁官殿はどうやってネゲヴを守るつもりなんだ?」

 誰かの問いに、ギーラがナハル川を防衛線とする作戦案を提案。その途端議場が騒然となった。

「西にどうしろと言うのだ!」

「俺達を犠牲にして自分達だけ助かるつもりか!」

「ネゲヴ全体が征服されるよりはまだマシだろう」

「反対するなら代案を出せ!」

 激しい罵り合いがくり返され、ときに掴み合いや取っ組み合いがくり広げられる。議論は紛糾し、全く前と進まなくなってしまった。

「副特使ギーラの案を採用して西ネゲヴを全て切り捨てた場合、西は全て聖槌軍の支配下になる。エレブからは入植者が次々と送り込まれ、元からの住民は殺されるか奴隷にさせられるかのどちらかだ。

 そして東ネゲヴはそんな聖杖教の教団国家と川を挟んで対峙し続けることになる。ナハル川がいくら堅牢だろうと、数十万の軍勢相手に一体どれだけ間防ぎ切れる? 一年か二年の時間があれば突破されるんじゃないのか? 仮に突破されないとして、聖槌軍との対峙がいつまで続くことになる? 五年や一〇年の話じゃない、百年か二百年、あるいはそれ以上も奴等は西に居座り続けるかもしれないんだぞ? あなた達はそんな未来を望むのか?」

「ならばどうすればいいと言うのだ? マゴルのクロイ・タツヤ」

 竜也は主にギーラと舌鋒を交わしている。

「我々は負けない方法を選ぶんじゃなくて、勝つ方法を選ばなきゃいけないんだ」

「だからそんな方法があるのなら言ってみろ!」

 ギーラの追求に竜也は沈黙し、ギーラは嘲笑を浮かべた。

「私は宰相プタハヘテプ閣下より聖槌軍対策を一任されている! その私が、これが最善だと判断したのだ!」

 ギーラはそれを前面に押し出して自案を推し通そうとする。だが、

「ケムトからの援軍はないのか? どうなんだ、副特使殿?」

 そのもっともな指摘に今度はギーラが沈黙を余儀なくされた。竜也がホルエムヘブに確認する。

「ケムトは聖槌軍と戦うために出兵しないのですか?」

「儂ゃ宰相からは『何とか話し合いで解決を』と命じられとる。それで何ともならんかった場合に備えるために、将軍アミール・ダールとそこのギーラを派遣しておるんじゃろ」

 その回答に失望が広がった。竜也が取りなすように提案する。

「……ともかく、ケムトに要請して一人でも多くの兵を出してもらうべきだ。その交渉を副特使ギーラにお願いしたい」

「判っている」

 ギーラは平静を装って返答した。

「そこのクロイは自前で数千の兵士を擁しているぞ! お前もケムトから一万くらいは連れてこい!」

 竜也を引き合いにした野次が飛び、嘲笑がさざめく。ギーラは敵意に燃える目で竜也をにらみ、竜也はうんざりしたため息をついた。
 結局、その日の会議は議論が堂々巡りをしたまま閉会となった。

「総司令官が決まっただけ一歩前進か」

 竜也はそう自分を慰めるしかない。
 またもや数日の休会期間が設けられ、その間オエア側は派閥工作に動いている。それはスキラ側も同様である。スキラ各所で密談が行われ、説得工作が展開され、ときに賄賂が飛び交う。

「アラエ=フィレノールムの代表を説得しました。条件次第でこちら側に付いてもいいと言っています」

 カフラが精力的に動き回り、ベラ=ラフマがそれを補佐する。この二人を中心としたスキラ側の派閥工作はオエア側に対して優勢な戦いを展開していた。
 が、竜也はその動きから距離を置いている。

「ギーラの案よりもマシな作戦案があるなら支持なんていくらでも集められるんだ。それがないのにいくら支持者を集めても仕方ない」

 竜也はマグドやミカ、シャブタイやノガに作戦案を検討させ続けた。だが未だに代案、良案は見つかっていない。

「やはり、考えれば考えるほどこの案が必然だとしか思えなくなる」

「父上や兄貴達が散々考えたのに代案が出てきてないんだ。俺が考えたって判るわけがない」

 シャブタイやノガが討議をし、ときに愚痴をこぼすのを竜也は黙って聞いていた。

「……」

 実は竜也には代案がないわけではない。一人で何度も何度も検討を重ね、犠牲を最小限に減らすにはこの方法しかないと思っている。これが唯一最善の作戦案だと確信している。だが、それを披露することはできなかった。
 ラズワルドとベラ=ラフマの二人だけが、竜也がそんな腹案を抱いていることを察している。だが二人とも竜也に対して何も言わなかった。
 スキラとオエアが対立する一方でケムトもまた独自に動いている。

「特使ホルエムヘブが自分の部下をエレブへと送り出しました。聖槌軍との交渉を行うにあたり、準備を整えるのが目的とのことです」

 ベラ=ラフマの報告に竜也は眉をひそめる。

「交渉と言っても……圧倒的に優位な敵を相手に何をどう交渉するつもりなんだ?」

 竜也が疑問を独り言のように呟き、ベラ=ラフマが律儀にそれに答えた。

「ナハル川を境界線に、西ネゲヴをエレブに譲る代わりに東ネゲヴはケムトの勢力圏として認めさせる――そのための交渉だそうです」

「ちょっと待て」

 竜也は愕然とした顔をベラ=ラフマに向けた。

「宰相プタハヘテプは最初からそのつもりで……? ギーラが西ネゲヴを盾にしようとしているのと同じように、東ネゲヴをケムトの盾にするつもりなのか」

 おそらくはそうなのでしょう、とベラ=ラフマ。竜也は頭を抱えた。

「なんてこった……ケムトが進んでネゲヴを分断しようとするなんて。もしこの話が広まったら戦争どころじゃなくなるぞ」

 と懊悩する竜也は、ベラ=ラフマが何か言いたげな顔をしていることに気が付いた。

「何か?」

「ホルエムヘブの部下には口の軽い者がいるようです。この話はすでにあちこちで語られています。遠からずスキラ中に広まるでしょう」

 ベラ=ラフマの報告通り、ケムトの秘密交渉の内容は数日でスキラ会議の参加者の誰もが知る公然の秘密と化していた。竜也の苦悩はさらに深まる。
 そんな中、キスリムの月(第九月)の月末。

「タツヤ、久しぶり」

 その日、竜也を訪ねて「マラルの珈琲店」にやってきたのはヤスミンだった。二人は店先で立ち話をする。

「久しぶりです。景気はどうですか?」

「やっぱり戦争が近いせいか、段々悪くなってるわね。そろそろ新作劇の脚本がほしいところなんだけど」

 竜也が「今はちょっと……」と苦笑し、ヤスミンも、

「ま、判ってるわよ」

 と肩をすくめた。

「今日は珍しいお客さんを連れてきたの」

 とヤスミンが悪戯っぽく笑い、後ろを振り向いて手招き。それを見て隣の建物の陰に隠れていたその人物が姿を現した。

「――ハーキムさん!」

 竜也がその鹿角族の青年――ハーキムへと駆け寄る。ハーキムもまた前へと出、両者は両手で握手をした。

「久しぶりです、無事でよかった」

「タツヤの活躍はルサディルでも耳にしていましたよ」

 二人はひとしきり再会を喜び合った。ヤスミンが立ち去り、竜也はハーキムを案内して珈琲店内のいつもの個室に移動する。カフラとベラ=ラフマがそれに同席した。

「ハーキムさんはどうしてスキラに?」

「もちろん逃げてきたんです。タツヤがスキラで出世したようでしたから厄介になろうと思いまして」

 それは構いませんけど、と竜也は質問を続ける。

「今ルサディルはどうなっているんですか?」

「町を挙げてエレブに、聖槌軍に協力しています」

 竜也とカフラは唖然とする。ハーキムの言っていることが一瞬言語として理解できず、次いでその意味を把握できなかった。

「町の住民が総出で町の外を整地し、軍営地を用意しています。宿舎用の小屋を建てたり、倉庫と兵糧を用意したり、娼館を設置したりも」

 ハーキムの言葉に、カフラは思わず「そんな……」と呟いていた。竜也が問う。

「どうしてそんな、聖槌軍の最初の目標はルサディルでしょう?」

「他に方法がありますか?」

 ハーキムはほろ苦い笑みを見せた。

「聖槌軍に全面協力し、売れるだけの媚を売り、ルサディルへの攻撃を回避する。それが長老会議の決定です」

「『ネゲヴの夜明け』は? 届きませんでしたか?」

「届きましたし、私も読みました。あの本を使って長老方を説得しようとしたのですが……『こんなものただの世迷い言だ』とアニード氏にこき下ろされてしまいました」

 あのおっさんが?と竜也は首を傾げた。

「アニード氏は以前からフランクと取引をしていて、フランク王国軍にも伝手があったそうです。

『聖槌軍とフランク軍に協力するならルサディルへの攻撃はしない』

 アニード氏がフランクの将軍からそう言質を取ってエレブとの宥和策を強硬に主張し、それを押し通してしまったんです。今、ルサディルはアニード氏とフランクの将軍タンクレードの二人に統治されているような状態です」

「将軍タンクレード――ヴェルマンドワ伯ユーグの腹心じゃないか」

 竜也はベラ=ラフマのまとめた聖槌軍指揮官の一覧を思い出す。タンクレードはヴェルマンドワ伯の直属の部下の一人であり、長年ヴェルマンドワ伯の元で軍歴を重ねてきた。軍指揮の面ではぱっとしないが謀略や交渉等の面で活躍し、ヴェルマンドワ伯に重宝されている。ヴェルマンドワ伯の懐刀と言うべき男――だそうである。

「ルサディルには聖杖教の教会が建てられ、派遣された神父が常駐し、町の住民が次々と洗礼を受けて聖杖教徒となっています。太陽神殿は破壊されて神官は追放されました。私達のような恩寵の民への迫害も始まっています」

「それでルサディルを捨てて」

 竜也の相槌にハーキムが「ええ」と頷いた。

「逃げる場所がある人間は既に逃げ出し始めています。それでもまだ大半の住民が町に留まったままですが。私のようにか細くとも何らかの当てがある人間はともかく、そうでなければ逃げようが……恩寵の民にしても一部の戦士は戦うために東の町に向かいましたが、多くは印を外して市井に紛れ込み、迫害をやり過ごそうとしています」

「そんなの……」

 竜也は唇を噛み締めた。

「今はそれで難を逃れたとして、先々にどうなるのか判っているのか?」

「そこまで考えられる状況ではないのでしょう。それに、恩寵の民を除いたルサディル市民の安全が真に保証されたわけでもありません」

 ベラ=ラフマの言葉に竜也が「どういうことです」と問う。

「ルサディルを戦わずして、犠牲を出さずしてエレブ側に取り込もうとしているのはヴェルマンドワ伯です。ヴェルマンドワ伯なら町の住民が密かに太陽神殿を崇拝することも、恩寵の民が隠れ住むことも黙認するでしょう。エレブ側の主導で大規模な迫害を実施したところで誰の益にもなりません。軍事的・経済的利点を考えるならそれが当然の判断です。……が、それに枢機卿アンリ・ボケが同意するかどうかは判りません」

「太陽神殿や恩寵の民を迫害するためにルサディルを攻撃すると?」

「それと、ヴェルマンドワ伯の功績を無為にするために。あのアンリ・ボケならそれくらいのことをしても不思議はありません」

 竜也も、他の誰もベラ=ラフマの言葉を否定できない。室内は重苦しい沈黙に満たされた。

「……面倒なことになるかもしれません」

 沈黙を破ったのはベラ=ラフマである。「何がですか」と竜也が問う。

「ルサディルの動きが知られればそれに追随しようとする町が出てくるでしょう。今は西ネゲヴの各町はスキラ派としてまとまっていますが、その結束が危うくなるかもしれません」

 ベラ=ラフマの危惧は次のスキラ会議で表面化する。月はティベツの月(第一〇月)となり、その月初。休会期間が終わって再開されたスキラ会議は冒頭から紛糾した。

「ルサディルがすでにエレブ人に臣従していることは知っているだろうか? 我々もエレブ人に降伏して町の安全を図ることを考えている」

 そう表明したのはラクグーンの代表である。ラクグーンはルサディルの東隣の町であり、聖槌軍にとってはルサディルの次の攻撃目標だ。

「裏切るつもりか!」

「仲間に弓を向けるか!」

「この臆病者が、卑怯者が!」

 非難と罵倒が渦を巻く。議場は騒然となって意味のある声が何も聞こえなくなった。

「静粛に! 静粛に!」

 議長のラティーフがくり返し、長い時間をかけてようやく議場内が静まる。ラティーフがラクグーン代表に質問した。

「一体どういうつもりでそのような発言を?」

「どうもこうもないだろう、西ネゲヴを先に切り捨てようとしたのはケムトの方だ。我々は自分達で身の安全を図るべく努力するしかない」

 ラクグーン代表は肩をすくめる。誰かが「誇りはないのか!」と野次を飛ばすが、

「誇りのために五万の市民を死なせるのか!」

 と一喝され、誰もが沈黙するしかなかった。

「冗談じゃないぞ、ラクグーンの次は我々だ。メルサ=メダクに聖槌軍の攻勢を支えろと言うのか?」

「降伏して町を、市民を守れるのならそうするのが我々の義務ではないのか」

 ラクグーンに近い町から将棋倒しのように降伏論が広がっている。その一方、

「敵と一緒になって恩寵の民を辱めるか」

「よかろう、まず裏切り者どもから血祭りにしてくれる!」

 決して降伏が許されない恩寵の部族は徹底抗戦を唱えている。さらには、

「西の連中を仲間にしようとしたのが間違いではなかったか?」

「自分達の安全は自分達だけで守るべきか」

 東ネゲヴの各町は西ネゲヴを切り捨てる意向を強めていた。

「やるならやるがいい、我々が聖槌軍の先鋒となってお前達を攻めてやる!」

「ナハル川を攻め落とせると思うのならやってみろ!」

 そんな諍いが議場のあちこちでくり広げられており、一部では乱闘に発展している。ギーラはふて腐れたような顔で沈黙を守り、竜也は天を仰いだ。

「……もう駄目だ。ネゲヴを守るために色々やってきたけど、全部無駄だった」

 竜也ですら絶望し、全てを投げ出しそうになっている。他の者はすでにスキラ会議に見切りを付けてしまっていた。

「もうここで話し合っても無意味だ」

「その通りだ。町に戻って準備をしよう」

 ラクグーン等のヘラクレス地峡に近い町が席を立って去っていこうとする。竜也も他の誰もそれを止めようとしない。スキラ会議の分裂と崩壊はすでに必至――かに思われた。

「どちらに行かれるのですか?」

 議場の出入口で女性の声がする。女性とラクグーン等の代表が何かを話している。竜也はその方向へと視線を向けるが見えるのは各町代表の背中だけだ。

「――立ち去る前にわたしに話をさせてはもらえませんか?」

 その女性に願われ、各町代表は渋々引き返して自分の席に戻っていく。そして各町代表を先触れとするかのように、その女性が議場の中心へと進んでいった。竜也はあっけにとられてその女性を見つめている。
 その女性には同じ服装の四人の女性が付き従っている。引きずるように裾が長く、手が隠れるくらいに袖の長いその白い服は太陽神殿の巫女服だ。金鎖の髪飾りには大きな金の円盤が、ちょうど眉間の位置に来るように下がっている。そして中心にいるその女性も同じ巫女服を身にしていた。ただ周囲の四人の巫女服は綿製なのに対し、その女性は絹の巫女服である。
 年の頃は竜也と同じくらいか少し上。竜也より少し低いくらいの身長で、女性としては背が高い。肌はよく日焼けした日本人と同じくらいの小麦色で、黒く長い髪が艶やかで美しい。グラマラスな肢体を白い絹の巫女服で包んだ、圧倒的な美女だった。

「ファ、ファイルーズ様? どうしてこんなところに」

 ギーラが動揺しながら問う。ファイルーズと呼ばれた女性は「お久しぶりですわね」と簡単に挨拶をした。議場の中心に進み出たファイルーズは優雅に一礼をする。

「皆様ご機嫌よう、わたしはケムト王国第一王女ファイルーズと申します」

「ケムトの第一王女!?」

 竜也は驚きの声を上げていた。ラティーフを始めとするその場のほぼ全員が跳ねるように起立をする。竜也も慌てて席から立った。ファイルーズから「楽にしてください」と命が下り、竜也達は着席した。

「それで、ファイルーズ様が何でスキラにおられるんじゃろうなぁ。エレブの問題は儂等に任されとるはずじゃが」

 ホルエムヘブの問いにファイルーズは微笑みながら答える。

「あなた方がエレブ人と何を交渉しようとわたしは関知しません。わたしはわたしの成すべき事を成しにここに来たのです」

「それは?」

「聖槌軍と戦うことです」

 議場が一瞬で静まり返った。ある者は訝しげに、ある者は期待を込めて。全員の様々な視線を一身に集めながらも、ファイルーズは悠然と微笑んでいる。

「……聖槌軍への対応は私が宰相プタハヘテプから任させています。私も犠牲を減らすべく努力しているところなのです。ですからどうか安んじて」

 ギーラが女を口説くときのような笑みを見せつつファイルーズを説得しようとするが、

「ええ、宰相には戦うつもりがないことはよく判っておりますわ。ですからわたしが戦いに来たのです」

 ファイルーズは両手を胸の前で握り込み、祈るように目を瞑った。

「わたしはセルケトの末裔にして太陽神の巫女。異国の恐るべき狂信者がネゲヴの大地を穢そうというのに、ネゲヴの神々を貶めようというのに、黙って見ていることなどどうしてできるでしょうか? ましてやケムトが戦わずして敵に屈するなど、どうして認められるでしょうか?」

 恩寵の部族等の徹底抗戦派はファイルーズの言葉に意を強くしている。が、西ネゲヴと東ネゲヴの各町代表は同じような当惑の表情を見せた。

「しかしファイルーズ様。聖槌軍は数十万とも噂され、その兵力は圧倒的です。そんな敵を相手にどうやって戦えば」

「それは殿方にお任せしますわ」

 ファイルーズは笑顔で言い切った。

「わたしはわたしにできることをするまでです。わたしはたとえ一人でも、剣を取って聖槌軍と戦いますわ」

 ファイルーズが堂々と宣言する。竜也は顔が、胸の内が熱くなるのを感じていた。それは羞恥なのかもしれないし、高揚なのかもしれない。あるいは感動なのかもしれなかった。

(……ああ、そうだ、その通りだ。彼女の言う通りだ。誰が相手であろうと、決して譲ってはならないことがある。どんなに勝ち目が乏しくても、生命を懸けて戦わなければならないときがある)

 絶望に潰され、項垂れるだけだった竜也は今は顔を上げ、視線を前へと向け、先を見据えている。

(そうだ、たとえ俺一人でも戦うんだ。剣を振るえなくても戦いようはある。ましてや俺は決して一人じゃない。マグドさんがいる、奴隷軍団がいる、牙犬族の面々がいる、恩寵の戦士達がいる――何だ、いくらでも戦えるじゃないか)

 竜也は議場を見渡した。マグドや恩寵の部族の族長達は竜也と同じように絶望から抜け出し、戦う意志を固めている。が、それ以外の面々には失望が広がっていた。

(確かに彼女は具体的な方策もケムトの兵力も持ってないけど……女性にここまで言わせて恥ずかしくないのか?)

 竜也は舌打ちを一つし、次いで大きく深呼吸。

「――ここにはエジオン=ゲベルの名将アミール・ダールがいる!」

 雄叫びを上げた竜也に全員の視線が集まった。竜也が口上を続ける。

「奴隷軍団を率いるマグドがいる! 髑髏船団のガイル=ラベクがいる! 牙犬族が、金獅子族が、赤虎族が、三大陸無敵の恩寵の戦士達が揃っている! 泣く子も黙る傭兵団が集っている! 決してファイルーズ様一人に戦わせはしない!」

 恩寵の部族の族長達が真っ先に反応、声を揃えた。

「そうだ!」

「その通りだ!」

「クロイ・タツヤの言う通りだ!」

 続いて傭兵団の代表が声を上げ、さらには西ネゲヴ・東ネゲヴの代表が抗戦を唱える。ファイルーズの宣言に胸を熱くさせたのは竜也一人ではなかったのだ。議場の空気は一瞬で沸騰し徹底抗戦一色となった。

「しかし、具体的にどうやって戦えば」

 その場の空気に取り残されたギーラが流れを変えようとするが、

「そんなもの後から考えればいい!」

 竜也はそれを勢いで押し流した。

「これだけの面子が揃っているんだ。何も良案が出てこないなんてこと、あり得ない!」

「そうだ!」

「その通りだ!」

 と武闘派の面々が竜也に同調する。結局その日は一日そんな調子で「聖槌軍に対して徹底抗戦すること」を確認して終わってしまった。具体的な作戦案は何も検討されていない。

「まあ、分裂や崩壊が回避できただけでも上出来か。ファイルーズさまさまだな」

 竜也はそんな感想を抱きつつソロモン館を後にした。竜也は今後の打ち合わせのためにマグドを伴い「マラルの珈琲店」へと移動する。「珈琲店」ではいつものようにカフラやミカやベラ=ラフマ、サフィールやラズワルドが竜也を待っていた。

「お帰りなさい。今日はどうでしたか?」

「今日は報告することが多いな」

 竜也達はいつもの個室に移動。それぞれのお茶や珈琲を用意し、珈琲を飲んで一息ついて、今日の報告をしようとしたところに、

「タツヤ、すぐ来て」

 マラルがやってきて竜也を呼ぶ。マラルは返事を待たず竜也を引っ張っていった。

「どうしたんです? 一体何が」

「いいから早く」

 マラルに引っ張られて個室から店内へとやってきた竜也は、

「ふむ。なかなか美味いな」

「ああ、俺も気に入っている」

「いい香りですわ」

 店内で珈琲を嗜んでいるアミール・ダール、ガイル=ラベク、そしてファイルーズの姿に絶句した。

「……どうしてここに」

 何とかそれを問う竜也にファイルーズは、

「急に美味しい珈琲が飲みたくなりまして、船長と将軍にスキラ案内をお願いしました」

 涼しい顔でそう答える。竜也は渇いた笑いを浮かべるしかなかった。
 ……それから少しの間を置いて、「マラルの珈琲店」。店の前では牙犬族の剣士と奴隷軍団の兵士、それに髑髏船団の傭兵が歩哨に立っている。店内ではアミール・ダール、ガイル=ラベクが美味しそうに珈琲を飲んでおり、ファイルーズは、

「本当にこんなところに住んでいるのですね」

 と興味深げに店内を見回していた。マグドやカフラ達も個室から移動してきて、ファイルーズ達と向かい合っている。マラルは平静を装ってカウンターで珈琲を入れているが、その手が微妙に震えていた。

「……しかし」

 こうやって改めてファイルーズとごく間近に相対してみると、その存在感には圧倒されんばかりである(特に胸)。グラマーな女性が好みの竜也にとってはど真ん中への直球剛速球ストライクだ。

「全てがぎりぎりの線なのですよ……! これ以上色気が強かったら下品になる。これ以上脂が多かったら下卑たプロポーションになる」

「タツヤ?」

 感動のあまりどこかのグルメ漫画じみたことを呟く竜也に、ミカが声をかける。それで竜也は「ああ、ごめん」とようやく現世に戻ってきた。心なしかミカとサフィールとラズワルドの視線が冷たいような気がしなくもない。

「それで、どうしてこんなところに」

 ごまかすように竜也が再度それを問い、ファイルーズが答える。

「わたしはネゲヴを救うためならどこにでも行きますし、誰とでも会いますわ」

「それにしても、まさかファイルーズ様ご自身がスキラまで」

 とミカが改めて驚きを示し、ファイルーズがそれに答え、

「宰相プタハヘテプが聖槌軍と手を結ぼうとしているのはご存じでしょう? わたしだけでなく多くの者がそれに反対したのですが、宰相は反対を押し切ってその方針を決定してしまいました。わたしはその方針が正しいとはどうしても思えなかったものですので、何とかしたいと思い、思わずメン=ネフェルを飛び出してきてしまったのです」

 ファイルーズは方針を覆すべく運動したのだが、宰相に睨まれ謹慎処分を受けてしまった。王宮の奥で軟禁状態になったのだが、置き手紙を残して王宮を脱出してきたと言う。

「今頃は王位継承権を剥奪されているかもしれません」

 とファイルーズは深刻さが欠片も伺えない調子で説明した。

「……えーっと、要するに」

 と竜也は戸惑いながらファイルーズの説明をまとめようとする。

「家出娘?」

「まあ、まさしくその通りですわ」

 竜也の端的すぎるまとめに、ファイルーズはおかしそうに笑った。ミカ達は「笑っている場合じゃないだろう」と言いたげな目をファイルーズと竜也に向けている。

「宰相の方針をおかしいと思う者はケムト内にも決して少なくありません。誰よりケムト王ご自身が内心では反対です。特使ホルエムヘブの部下の中にもいましたし、それに特使ご自身も聖槌軍に媚びへつらうことを望んでいるわけではありませんわ」

 特使ホルエムヘブはケムトの有力貴族の出身で、若い頃には辣腕として知られ、大臣職も歴任したことがあるという。ただし十年前に引退し、少し前まで故郷の小さな荘園で悠々自適の隠居生活を送っていた人物だ。

「宰相としてはとっておきの切り札を切った、ってところなのかな。アシューの国との交渉ならそれで間違いはないんだろうけど……」

「確かに、エレブ人との交渉には少し的外れな人選のように思えますね」

 タツヤが首を傾げ、ミカがそれに同意した。ホルエムヘブは部下に交渉実務を任す一方自分はスキラに留まっており、特に何をするでもなく半隠居状態だ。年齢的・体力的に考えてそうなってしまうこともやむを得ない、それが竜也達の見解だった。

「ですが、内心はどうあれ特使が宰相に逆らうのは難しいのでは? それに聖槌軍とまともに戦っても勝ち目がほとんどない以上、宰相の方針が必ずしも間違っているとも言えません」

「確かに、普通に戦っても勝つのは難しいとわたしも思いますわ」

 ファイルーズの思わせぶりな物言いにミカが色めき立った。

「何かあるのですか? 戦う方策が」

「いえ、わたしには」

 ファイルーズは首を横に振り、視線を竜也へと固定する。一同の視線が竜也へと集中し、かなりの時間沈黙がその場を支配した。先に口を開いたのはファイルーズである。

「……クロイ・タツヤ。あなたには何か考えがあるのではありませんか? ギーラさんの案とは別の、ネゲヴを救うための方策が」

 ミカとカフラの視線が竜也に突き刺さるが、竜也は無表情・無反応だ。

「どうしてそんなことを?」

「何となくそう感じたんです、今日のあなたの態度から」

 ファイルーズはそう言って微笑む。少しの間微笑むファイルーズと無表情の竜也が無言のまま対峙。やがて竜也が根負けしたようにため息をついた。

「……ないわけじゃない。『結果的に犠牲を最小限にする』、そのための腹案なら持っている」

「何故それを言わないのです。出し惜しみをしている場合ですか」

 と非難するのはミカである。竜也は目を逸らした。

「どう考えても実行できるとは思えなかったし、実行したくもなかったから。でも、言わないわけにはいかないか」

 当然です、と憮然とするミカ。竜也は躊躇いながらも人差し指を立て、

「――一年だ。一年でこの戦争を終わらせる」

 全員にそう宣言した。







 太陽はすでに西に沈みかけ、時刻は逢魔が時。「珈琲店」内は薄暗がりである。夕闇の中で血のように赤く黒く染まった竜也を店内の一同が見つめている。竜也は口元をきつく結び、一同と相対していた。

「――百万の聖槌軍を皆殺しにして一日でも早くこの戦いを終わらせる。それが『結果的に犠牲を最小限にする』方法だ。焦土作戦をもって奴等を皆殺しにする」

「それはどんな作戦なんですか?」

 とミカが問う。

「エレブ本国からの食糧の補給がない、というのがこの作戦の要諦だ。聖槌軍は食糧をネゲヴで現地調達するしかないけど、それを徹底的に妨害する。奴等を飢えに追い込むんだ」

「一体どうやって」

「聖槌軍の進軍上の街道から、町や村から食糧を全て撤去する。避難する人達に持てるだけの食糧を持たせ、船を使ってスキラより東に運べるだけの食糧を運んでいく。持っていけない食糧は全部焼き捨てるか海に捨てる。収穫前の畑も全部焼き払う」

 それは……とだれが呟き、そのまま沈黙した。竜也の説明が続く。

「できるなら聖槌軍が宿泊に使いそうな建物も全部焼き払って破壊したいけど、そこまでは言わない。敵をスキラまで引きずり込んで、ナハル川を使ってそれ以上の進軍を阻止。本国に引き返すことも阻止、他の町への移動も阻止する。聖槌軍の全員が飢え死にするまで敵をスキラで立ち往生させるんだ。この場合百万という敵数が聖槌軍にとっての最大の弱点となる。我々はそこを徹底的に攻めるんだ」

「ちょっと待てください、それじゃ西ネゲヴの民はどうなるのですか? どうするつもりなんですか?」

「一人でも多く、生命を助ける。この一年を引き延びさせる。それだけを考える。食糧と一緒に人間も街道上からいなくなる。西ネゲブの人口が三〇〇万として、おおざっぱに言って半分くらいはアドラル山脈(元の世界のアトラス山脈に相当)や大樹海アーシラトとかの南に逃げて、残り半分がナハル川の東に逃げたらいいんじゃないかな」

 何とも言い難い沈黙がその場を満たす。最初に口を開いたのはミカだった。

「……いくら何でも無茶苦茶です。そんなことできるわけがない」

「わたしにもそうとしか思えません……けど」

 とカフラ。

「タツヤさんだって散々考えた上での提案だと思います。その考えを聞かせてほしいんです。ルサディルからスキラまでは陸路なら一万スタディアはありますよ? 一五〇万の民にそれだけの距離を歩けと?」

「カフラは勘違いしているよ」

 竜也は慌てず騒がず反論した。

「西ネゲヴの人口三〇〇万という数字は、スキラ・スファチェ・ハドゥルメトゥム・カルト=ハダシュト等のナハル川に近い大都市も全部含めての話なんだ。西ネゲヴの町は西に行くほど小さくなる、人口も西に行くほど少なくなっている。それに、元々街道から外れた場所に住んでいて逃げる必要がない人達も少なくはないだろう」

 カフラとミカは盲点を突かれたような表情をした。

「だからナハル川の近くに住む人達が東に逃げて、西の人達はアドラル山脈か大樹海アーシラトに逃げる。イギルギリあたりから全市民が東に逃げてもらえば」

「ですけど、持って移動できる食糧なんてたかが知れています。南や東に逃げた人達は一体どうやって生活をすれば?」

「もちろん東の人達が全力で支援をするんだ。『東に逃げれば何とかなる』――その保証があるのなら避難を促すことができる」

 なるほど、得心したのはミカである。

「勝つために西の人間にそれだけの苦難を背負わせるのなら、東の人間にも相応の負担をしてもらうわけですね」

 その通りだ、と竜也が頷く。

「西の人間にも東の人間にも滅茶苦茶な苦難と負担を背負わせることになる。でも、それも一年だけだ。一年だけ故郷を捨てれば、一年だけ税金を我慢すれば……一年だけなら、耐えられないことはないと思う」

 だがカフラ達は苦い表情を見せた。

「ですけど、たとえ一年だけの話でも東の人達がそれだけの負担をしようとするでしょうか?」

 無理だろうな、と竜也は肩をすくめた。

「それ以前に、たとえ一年だけの話でも西の人間がそんな避難をしようとするとは思えません。それくらいなら聖槌軍に降伏することを選ぶのではないですか」

 そうなるだろうな、と竜也はさらに肩をすくめた。その上で、

「今のままなら、な」

 と付け加えた。

「どういう意味でしょうか?」

 沈黙を守っていたファイルーズが初めて質問をする。だが竜也はそれに答えなかった。

「近いうちにまた風向きが変わると思う」

 と言うだけだ。
 ファイルーズ達とのそれで会談はお開きとなり、ファイルーズは物足りなさそうな表情で帰っていった。ファイルーズはスキラ市内の太陽神殿を宿舎とするとのことである。
 アミール・ダールもギーラの元に戻っていくがその前にベラ=ラフマが、

「今日ここで語ったことはそのままギーラに報告してもらって構いません」

 と告げる。アミール・ダールはわずかに目を見開き、無言で会釈して立ち去っていった。
 そして次のスキラ会議が開催され、

「――一年だ! 一年で聖槌軍を全滅させる!」

 ギーラは開口一番堂々と宣言。そして焦土作戦を自案として説明した。竜也は呆然ととしたままそれを聞いている。

「馬鹿なことを言うな!」

「我々に死ねと言うのか!」

「聖槌軍に降伏した方がまだマシだ!」

 案の定ギーラは西の各町代表から袋叩きになっていた。さすがのギーラも怯んでいる。

「確かにその案なら戦争を一年で終わらせることができる。結果的に犠牲や負担を最小限にする方法だと思う」

 竜也は助け船を出し、

「それで、オエアがそれを提案するということは、オエアは西の避難民を全力で受け入れると理解していいだろうか?」

 その上でギーラの弱点を突いた。ギーラは沈黙するしかない。結局ギーラの提案は一蹴されてその日の会議は終わることとなった。会議の後、竜也はベラ=ラフマに報告する。

「まさかギーラが本当に提案するなんて」

「はい、思った以上に考えなしな男のようです」

 竜也はギーラという男をそれなりに高く買っている。

「徒手空拳から弁舌だけで東ネゲヴを動かし、ケムトを動かし、エジオン=ゲベルを動かし、今や事実上の東ネゲヴ代表だ。現代知識という下駄を抜きにしたなら、単なる能力だけを比較したなら俺なんかギーラの足元にも及ばない」

 というのが竜也によるギーラの評価であり、自己評価だった。だがそれと同時に、

「能力以前のところで、人間として何か大事なものが根本的に抜け落ちているんじゃないか」

 そう思わずにはいられなかった。

「しかし、これで焦土作戦案に対する各町の反応を知ることができました」

 竜也はため息をついた。

「想像以上に厳しい。検討の余地もなかった」

「はい。ですが、いずれ風向きは変わります。変わらざるを得ないでしょう」

 ベラ=ラフマは竜也に報告書を手渡す。それはエレブ情勢速報の最新号だった。





[19836] 第一七話「エレブの少女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/06/07 21:03


「黄金の帝国」・戦雲篇
第一七話「エレブの少女」





 ――時間は少し遡り、キスリムの月(第九月)の下旬。場所はレモリア王国の港町、ゲナ。元の世界で言うならジェノバに相当する町である。
 ゲナの町から西へと向かう街道沿いのその場所で、兵士達が一夜を明かしていた。兵士は皆外套を着込み、寒さに身を震わせている。元の世界なら一月に相当する季節であり、エレブは冬の真っ直中だった。兵士の数は見える範囲だけで数千人。それぞれ身を寄せ合い、体温を分かち合っている。
 その中で、一人の兵士が仲間から外れた場所に座り込んでいた。他の兵士に比べて非常に小柄な体格で、まるで子供のようである。銀色の髪の毛は短く切られており、フードを深々と被って頭部と顔を、翠の瞳を隠していた。

「ディア様、食事です」

 一人の壮年の男がその小柄な兵士に近付き、黒パンを手渡す。ディアと呼ばれた兵士は無言のまま黒パンを受け取り、栗鼠のように少しずつそれを食べた。

「ディア様、今日は冷えます。こちらに来ませんか」

「ここでいい」

 ディアは短く答えるだけだ。精一杯低い声を出しているが、その声を聞けばディアが女であることはすぐに判る。年齢は十代の前半。顔をわざと泥で汚しているが、その幼くも凛々しく美しい容貌は隠し切れてはいなかった。
 配給の黒パンを少しずつ味わい、よく噛んで食べるが、それでも黒パンはすぐになくなる。今日の夕食はそれで終わりだった。

(……ああ、一度でいいからパンと肉を腹一杯食いたい)

 ディアは空腹に痛みすら覚える腹を抱え、身体を丸めた。
 ――ディア達が生まれ故郷の村から離れてすでに一月近くが経過している。ディア達は聖槌軍の一員としてマラカへ向けての行軍の最中だった。ディア達にとっては決して望んでのことではなく、村を支配する領主に命令されてやむを得ずのことだったが。
 ディア達の行軍は苦難苦闘の連続であり、それは日を追うごとに大きくなる一方だった。最大の問題は食糧の補給が滞ることである。

「てめえ、それは俺のパンだろうが!」

「知るか! 名前でも書いてあるのかよ!」

 あるときはディアが村から連れてきた男達が一切れのパンを巡って殴り合いを演じていた。ディアは、

「やめろ!」

 と両者の間に割って入る。一応殴り合いは止まったものの、両者は憎々しげに睨み合っていた。ディアはため息をついて、

「ほら」

 と一方の男に自分のパンを差し出した。

「ディ、ディア様それは」

「これを食べろ。誇り高き一族の戦士が一切れのパンで争いなど……頼むからやめてくれ」

 二人は気まずそうに目を逸らす。一方の男が食いかけのパンをもう一方に握らせ、その場から逃げていく。両者の争いは一応の解決を見、ディアは元の場所へと戻った。そのディアに村人の一人――ヴォルフガングが声をかける。

「しかし、配給がこの調子では揉め事が起こるのも当然です」

「判っている。だが、どうすれば」

 と悩むディアにヴォルフガングが提案した。

「この先の町にもバール人の商館はあるでしょう。そこを襲撃してはどうでしょう」

「しかしそれは」

 とためらうディア。ヴォルフガングは説得を重ねた。

「忍び込んで貯め込んだ食糧を奪ってくるだけです。バール人と言えど無意味に傷付けるような真似はしません。私が指揮を執ります」

 悩むディアだが、それほど長い時間ではなかった。

「判った、頼む」

 ディアの言葉にヴォルフガングが力強く頷く。ヴォルフガングは部下を三人連れ、隊列から離れていった。
 ヴォルフガングと三人の部下は街道を外れ、山中の獣道を全力で走っている。人目をはばかり、聖槌軍の行軍を避け、ディア達より一足も二足も先に次の町に到着する。ヴォルフガング達はバール人の商館を探し、それはすぐに見つかった。

「……これは」

 その商館はすでに襲撃を受け、略奪された後だったのだ。金目のものも食い物も全てが奪われ、家族のうち女性は強姦されて殺されていた。生き残った商館の男は妻の遺骸を抱いて身も世もなく嘆き叫んでいる。

「……どうします」

「……他の場所を当たろう」

 ヴォルフガングは食糧を求めて町中を走り回り、彷徨い歩いた。そうやってやっとの思いで、たった一ヶ所だけ食糧が潤沢に集まっている場所を発見した。

「……しかしここは」

 男達は躊躇いを見せる。そこは聖槌軍の兵糧倉庫だったのだ。一方のヴォルフガングの決意は固かった。

「他に食い物なんかないだろう。やるぞ」

 ヴォルフガング達は夜影に紛れて倉庫に接近。歩哨が離れたことを確認し、部下に周囲を警戒させる。ヴォルフガングは倉庫の壁に拳で触れた。
 ヴォルフガングは深く深呼吸をくり返し、全身の力を拳へと込める。

「――フン!」

 裂帛の気合いと共に拳がゼロ距離の壁に打ち込まれ、壁は攻城用の破壊槌を食らったかのように崩れ、大穴が空いた。さらに蹴りで穴を広げ、人が余裕で通り抜けられるようにする。

「急げ! 持てるだけ持って逃げるぞ!」

 倉庫に侵入したヴォルフガング達は麦の袋や干し肉を両手に抱え、紐で結んで背中に担いだ。音を聞きつけて歩哨がやってくるのを見計らい、脱出する。幸い追いかけてくる兵はおらず無事に逃げ切ることができた。
 何日か後、ディア達がその町にやってきたので合流する。ヴォルフガング達から食糧を受け取ったディアの兵は密かに歓声を上げた。

「よくやってくれた、ヴォルフガング」

「ありがとうございます」

「それで、あの者達にも少し分けてやってくれ」

 とディアが視線で指し示す先には、幼い子供を抱えた母の姿があった。

「あの者達は?」

 ヴォルフガングは少し非難がましく訊ね、ディアは淡々と答えた。

「お前達が抜けている間に領主様の点呼があってな、それをごまかすために頭数が必要だった」

 頭数さえ揃っていれば中身は問われないからな、とディアが説明をまとめる。ヴォルフガングはため息をついてディアの命令に従った。
 その夜、街道沿いで野営をしているディア達の眼前をある一団が通り抜けていく。十数人の裸の男達が兵士に引っ張られて歩いていた。その裸の男達は牛のような鼻輪をしており、それを引っ張られているのだ。そしてその目から黒い涙を流している――いや、血だ。

「な、何だあれは」

「うぐ……」

 男達は全員両目をえぐられていた。その虚ろな眼窩から滂沱の涙のように血を流している。男達の姿は地獄の獄卒に率いられる亡者そのものだった。

「あれは一体」

 と訊ねるヴォルフガング。ディアが固い声で答えた。

「食糧倉庫を襲撃して食糧を奪っていった犯人達だ。普段なら火炙りにするところだろうが、諸侯様にもそんな余裕はないらしい」

 自分達に便乗して食糧を奪おうとして捕まったのだろう、とヴォルフガングは見当を付ける。一歩間違えれば自分達が、村の仲間やディアまでも巻き込んでああなっていたのだ。ヴォルフガングの肌が粟立った。
 ――教皇インノケンティウスが各国に発した動員令は絶対の勅命と化しており、五王国はそれを遵守すべくあらゆる犠牲を払っていた。
 各王室は諸侯に動員兵数を割り当て義務付け、その諸侯もまた配下の部下・小諸侯へと動員兵数を割り当て、罰則を持ってそれだけの兵数を動員することを強制する。さらにその部下達はまた部下へと連鎖していき、末端では五人一組、または十人一組とした班が組織された。班には定員が決められ、欠員は班員全員の連帯責任で埋め合わせる義務がある。行軍中の脱落による欠員すらも認められないのだ。欠員が出た場合はどんなに軽くても鞭打ち、悪くすると処刑の処罰が待っていた。最悪の場合は故郷の村が丸ごと異端認定されることも考えられた。
 このため各班は欠員を埋め合わせるためにどんなことでもやった。奴隷を買うくらいは穏当な方で、人攫いすら当たり前のように行われる。一家の稼ぎ手を攫われ、途方に暮れた女子供が欠員に加えられることも珍しくない。ディア達の班に加わった女性と子供もそのような素性である。

「……もう駄目か。置いていきましょう」

 その子供は過酷な環境に耐えられず生命を落とし、子供の遺骸を抱いた女性にも先に進む力は残っていなかった。女性はかろうじて生命を保っていたものの、その精神はすでに冥府への列に加わっている。瞳はすでに死者のそれだった。
 女性の瞳をのぞき込んでいたディアは多少の未練を残しながらもそれを振り切り、女性を置き去りにして先に進んでいく。木によりかかって座っていた女性の身体がやがて横に倒れ、二度と起き上がることはなかった。

「早く欠員を埋めないと」

「はい、探してきます」

 ディアの言葉にヴォルフガングが部下を連れて隊列を離れる。彼等が戻ってきたのは夕方になってからである。ヴォルフガング達は老人と老婆と幼い子供を連れてきており、ディアは何も言わずに彼等に食糧を分け与えた。
 欠員は大量に発生しているがそれを埋め合わせることはそれほど難しくはなかった。難民が大量に発生しているからである。聖槌軍の兵士達は不足する食糧を略奪によって補っている。略奪され、生命以外の全てを奪われた人々は難民となって聖槌軍の末端に加わるしか生き延びる方法を持っていなかった。

「ああ、教皇様。一体どうしてこんなことに」

「神よ、どうかお救いください」

 老人と老婆は聖杖のペンダントを握りしめて嘆いている。ディアはその様子を白けたように眺めていた。

(聖戦に熱狂していたのはお前達じゃないか。ちょっと考えればこうなることは判っただろうに)

 とは言えディアもここまで悲惨な有様を事前に想像できたわけではなかった。

「もう少し進めばアルルだ。そこまで行けばフランク王国から補給を受けられる」

 ディア達の領主はそう言って配下の兵を鼓舞した。ディアも、他の兵士達にもすでに聖戦のことなど頭にはない。「先に進めば食糧がある」、ただそれだけの思いが彼等の足を進めている。
 そうやって歯を食いしばって行軍を続けて、暦はティベツの月(第一〇月)の上旬。何とかアルルに到着したディアは、

「……ははは。そうか、そりゃそうだ。ちょっと考えればこうなることは判ることだった」

 眼前の光景に虚ろな笑いを上げる。
 そこに広がるのは、見渡す限りの兵、兵、兵。地平線の果てまで、大地を埋め尽くさんばかりの兵の群れだった。フランクだけではない。ブリトンから、ディウティスクから、レモリアから進軍してきた兵がアルルで合流しているのだ。
 ディア達の苦闘はまだまだ続く。聖槌軍の苦難の行軍はまだ始まったばかりだった。







 ティベツの月も後半に入る頃、スキラ。

「一体エレブで何が起こっているんだ」

 最近のスキラではその言葉が挨拶代わりに交わされるようになっている。フランクを始めとするエレブの五王国は自国を破綻させながらも百万の兵を動員し、自国の社会を崩壊させながらもその兵に進軍を続けさせていた。

「信じられない。奴等は本気で百万を動員している」

 エレブのバール人からは悲鳴そのものの、あるいは悲嘆に暮れた報告が続々と送られてくる。地獄と化したエレブの有様に、想像を絶する事態に誰もが言葉をなくしていた。

「一体エレブで何が起こっているのですか?」

 竜也は他者に会うたびそう問われた。竜也とて事態の全容を把握しているわけではないが、ネゲヴにおいて一番広く深く事態を把握している人間の一人だった。

「大体のところは判っているでしょう? 聖槌軍が食糧を根こそぎにしながら進軍しているところです」

 場所は「マラルの珈琲店」、ファイルーズは毎日のようにそこを訪れ、竜也やミカ達と会談を持っていた。竜也がテーブルを挟んでファイルーズと向かい合っている。マラルの入れた珈琲はすでに温くなっていた。
 ファイルーズはため息をつきながら首を振った。

「……一体どうしてこんなことに。タツヤ様にはお判りになりますか? 何故このようなことが可能となったのか」

「多分、いろんな理由が積み重なって様々な条件が整い、初めて起こり得ることなのだと思います。簡単に説明できることではありません。一つ言えるのは」

 竜也は自分の手を、爪をファイルーズへと向けた。

「前に本で読んだことですが――人間が素手で人間を殺そうと思っても簡単にはできることじゃない。ちょっと想像してみてください。自分と同じだけの体格と体力を持つ人間と向かい合って、その人をどうやったら素手で殺せるかを」

 そう言いつつ竜也自身も想像する。竜也には格闘技の心得がない。確実に相手を殺したいのなら、狙うべきは首だ。どうにかして相手の首を絞めようとするが、相手だって必死に抵抗する。竜也も無傷ではいられないだろう。下手をすれば――いや、下手をしなくても返り討ちになる可能性が高かった。
 多分似たような想像をファイルーズもしたのだろう。ファイルーズは首を振った。

「……逆に相手に殺されてしまいましたわ」

 努力はしたのですけれど、と残念そうに言うファイルーズ。竜也は笑わずにはいられなかった。

「素手ではウサギ一匹狩るのも難しいそうです。弓や棍棒といった道具を使うことで狩りをするのも楽になる。人を殺すのも簡単になる」

 サフィールが「猪くらいなら素手で狩れますが」と言っているのは無視である。

「手軽に人を殺せる分、人を殺すことの意味も重みも軽くなっていくんでしょう。剣を使えば人を殺すのはさらに簡単になります。火縄銃を使えば指一本で事足りる。そして人を使う立場になればもっと簡単に、大量に人を殺せます。アミール・ダールやヴェルマンドワ伯といった将軍は腕の一振りで何千何万の人を殺せるんです」

「確かにその通りですわ。だからこそ、人の上に立つ者は下にいる者の生命の重みを理解しなければならないのです」

 ええ、と竜也が頷いた。

「多分、教皇インノケンティウスは自分の下にいる人々の生命の重みを知らないんでしょう。『百万を動員せよ』――インノケンティウスにとっては一言発し、それで終わりです。インノケンティウスにとって百万はただの数字なんでしょう。でも、下の人間にとってはそうじゃない。百万は一つ一つの生命なんだ。今この瞬間に死んでいる生命にだって人生があったんだ。家族や友人が、愛する人達がいたんだ。それを……」

 しゃべっているうちに腹の底から憤りが沸き上がってくる。竜也は深呼吸をしてそれを鎮めた。

「失礼しました」

「いえ、お気になさらず」

 とファイルーズは華やかに笑う。竜也はわずかに赤面して顔を逸らした。

「『百万を動員せよ』って命じたところで普通なら『不可能です』とか『寝言は寝て言え』って言われて終わりです。だけど、不運なことに教皇庁は普通の組織じゃなかった。教皇インノケンティウスは普通の指導者じゃなく、枢機卿アンリ・ボケも普通の部下じゃなかった。正気の沙汰じゃない命令を本当に本気で実行してしまう、膨大な犠牲を生み出しながらもそれを無視して実現してしまう。いろんな理由でその条件が整ってしまっていた……そういうことだと思います」

 地獄と化したエレブの様子がスキラに伝わり、スキラ会議での論調にも変化が生じている。竜也やベラ=ラフマの予想通り風向きは変わっていた。

「女子供だけでも先に町を脱出させる。東の町に受け入れを要請したい」

「町の外に難民の居留地を設置する、その準備をするよう指示を出した」

「食糧の移送も必要だ。動員できる船の数は」

 西ネゲヴの降伏論はすっかり下火になっており、正面から戦うこともすでに検討から外されている。残ったのは一蹴されたはずの焦土作戦案だけだ。西ネゲヴの民が南と東に逃げることが真剣に検討され、部分的にはすでに実行に移されている。アミール・ダールやマグド達は焦土作戦を前提とした作戦を立案検討していた。

「避難する市民を守るための殿軍部隊が必要だ。聖槌軍の先鋒の前に立ちはだかり、避難民が逃げるまで時間を稼ぐ。避難民が全員逃げたら聖槌軍に食糧を渡さないよう全て焼き払う」

「遊撃部隊を作って聖槌軍の後背に送り込む。目的はまず、聖槌軍の進軍を少しでも遅らせるための嫌がらせの攻撃。焦土作戦の一環の、聖槌軍の食糧や補給を標的とした攻撃。聖槌軍とエレブ本国との連絡の遮断。エレブ本国からもし補給があった場合それも阻止する」

 各部隊の指揮官や配属する戦士の人選も進められていた。遊撃部隊には赤虎族の指揮官が、殿軍部隊には金獅子族の指揮官が配属されることがすでに決まっている。
 また、物資の補給、避難民の移動、避難先の振り分け等、事態の進展につれて発生する事務作業もまた膨大となった。ラティーフ達はスキラ会議の下の事務局を拡充し、山積する事務作業に当たっている。官僚として集められたのは主に各町の商会連盟に属するバール人、他には各町の長老会議に属する役人達だ。

「今まで議論が堂々巡りするだけで何も進んでいなかったけど、物事がようやく進み出したような気がする」

 と竜也は少しだけ安心したような様子である。ベラ=ラフマもそれに同意した。

「その堂々巡りの議論も決して無意味ではなかったのでしょう」

 正面から戦っても敗北は必至。降伏しても破滅は免れないのなら、逃げるしかない――それがスキラ会議の総意(コンセンサス)となろうとしていた。散々議論をくり返し、反論は全て潰され、結局残ったのがその道しかなかった、と言うこともできる。

「ナハル川を要塞と成し、敵をここで食い止める」

「独裁官を選出して政治軍事の全権限を委任する」

 その二点もすでに総意(コンセンサス)となっており、積極的に反対する者はほとんどいない。だが問題は「誰を独裁官をするか」である。いや、それすらすでに問題ではないのだ。ギーラは自分が独裁官となることをくり返し提案し、その度に却下されている。残った候補は一人しかいない。

「クロイ・タツヤ、あなたにお願いがあります」

 その日、「マラルの珈琲店」を訪れたのはミルヤム・ナーフィアだった。竜也の横にはカフラやミカが同席している。

「はい。何でしょうか」

「あなたにとっても決して損な話ではありませんよ」

 とミルヤムは微笑み、説明する。

「あなたからゴリアテ号をお借りしていることは覚えているでしょう? その事業の内容も」

「はい、もちろん。西ネゲヴの人達から美術品や貴金属を預かって回る事業ですね」

「あなたにその事業の責任者になっていただきたいのです」

 竜也は言葉を失った。

「ナーフィア商会だけでなく、ジャリール商会・ワーリス商会、その他の商会も、あなたに責任者になってもらうことを望んでいます。もちろん、いくつかの点を除いて名目だけの責任者ですが」

「……説明してもらえませんか?」

 竜也の言葉にミルヤムは「ええ、もちろん」と頷いた。ミルヤムは視線をミカへと移し、

「ミカさん、あなたならご存じでしょう? わたし達のこの事業がどんな評判を受けているかを」

「はい。言葉を飾らず言ってしまえば『墓穴から副葬品を盗掘するがごとき、金の亡者の所行だ』と」

 竜也はぽかんとして、

「え、どうしてそんな話に。聖槌軍に貴重品を奪われないための事業だろう? 保管料だって特別高額でもなかったし」

「聖槌軍が侵入して戦乱が広がれば大量の死者が出ます。その場合、預けた金品はどうなると思いますか?」

 あ、と竜也はようやく理解した。

「それはもちろん預かった商会のものに」

「はい。わたし達はそれを見込んでこの事業を始めました」

 ミルヤムは悪びれもせずに説明する。

「……ですが、事態はわたし達の予想を絶していました。聖槌軍の規模は百万に達するかもしれず、戦乱は空前のものと、死者は未曾有のものとなるでしょう。預けられる金品はすでに予測を大幅に越えています。得られる利益も莫大なものとなりそうです」

 ミルヤムはそこでため息をついた。

「……バール人でない人達からの反発も」

 ああ、と竜也達は納得の声を上げた。

「それでタツヤを名目上の責任者にして非難を避けようと」

「はい。預かった金品の保管管理は各商会が責任を持ちます。生き延びた人達への返却も。問題となるのは持ち主が死んでしまった金品です。クロイ・タツヤ、あなたならそれをどうしますか?」

「困窮している西ネゲヴの人達の支援に使います」

 竜也の即答にミルヤムは「そういうことです」と満足げな笑みを見せた。だが竜也は困惑しつつ、

「ですけど、別に俺である必要はないんじゃ? その金をもっとうまく遣ってくれる人が他に」

「その場合はあなたからその人に手渡せば済むことです。あなたの実務能力が大したものではないことは承知していますから。わたし達が利用したいのはあなたの世評です」

 竜也が「世評?」と首を傾げ、カフラが呆れながら説明する。

「巨万の富を築きながらそれを全て聖槌軍との戦いに費やし、自分は未だカフェの屋根裏に住んでいる――タツヤさんが清廉で無欲だって評判はネゲヴ中に広まっていると思いますよ?」

 竜也はそれをただの誇張だと思い半分くらい聞き流した。

「……持ち主不明の預かり品について、処分を俺に一任する。そのための名目上の責任者なわけですね?」

「はい。その通りです」

 竜也は少し考え、決断を下した。

「判りました、引き受けます」

「ありがとうございます」

 竜也とミルヤムは握手を交わし、契約は成立する。竜也が金品預かり事業の責任者となったという話題はその日のうちにスキラ会議の参加者の間に広まった。それを耳にしたギーラが、

「どうして俺を責任者にしないんだ!」

 と吠えて悔しがった、という噂も流れた。それを耳にしたカフラが嘲笑する。

「そんなの当然でしょう。素性もよく判らない半端者のバール人を、真っ当なバール人であるわたし達が信用するとでも思っているんですか?」

 世間一般ではギーラが東ネゲヴのバール人を代表しているように思っているが、バール人として内側から見ればそれが事実ではないことはすぐに判る。ギーラはどうしていいか判らない東ネゲヴの人達を強引に引っ張っているだけで、彼等と苦楽や生死を共にしているわけでは決してないのだから。

「同じバール人を責任者にしたところで世間の非難は躱せないでしょうに。そんなことも判らないのですか」

 と呆れるのはミカである。ギーラ、あるいは別のバール人を責任者にしても世間には「バール人同士で利益を分け合っているに違いない」と思われるだけだ。ギーラに特別強欲だという評判があったわけではないが、竜也のように「清廉で無欲だ」という評判も持っていなかった。
 竜也は先物取引で得た資金に次ぐ新たな資金源を得た形となった。バール人の有力商会の支持を得ている事実も改めて示し、また一歩独裁官の地位に近付いた、と言えるだろう。だが、

「どうしてタツヤは独裁官になろうとしないのでしょう」

 ミカはため息混じりの愚痴をこぼしていた。場所は「マラルの珈琲店」。竜也はスキラ会議に参加中で、店内ではファイルーズ・ミカ・カフラ・サフィールがお茶を楽しんでいるところである。カウンターではラズワルドとマラルがいつもの仏頂面で皿を磨いていた。

「今のままではあまりに不便だから早く独裁官を選んでほしいと、父上も言っています。タツヤを説得するよう父上に言われているのですが」

「確かに、タツヤさんさえその気になれば話は簡単です。ギーラさんなんて問題にもなりません」

 とカフラは自分のことのように胸を張った。

「聖槌軍と戦う方法も事実上一つに絞られているし、それに向けて父上も将軍マグドも西ネゲヴの各町も動いている。もう問題は何もないはずなのに」

「……その、戦う方法が問題なのではないでしょうか」

 とファイルーズが口を挟む。ミカが「どういうことでしょう」と問うた。

「今はまだ準備段階ですが、実際に避難が始まれば大混乱となるのは目に見えています。膨大な犠牲も避け得ないでしょう。独裁官はそうなると判っていても勝利のために避難の命令を下さなければなりません。タツヤ様はそれをためらっているのだと思います」

「軟弱な」

 と批判するミカだが、そのミカにカフラが、

「ギーラさんなら混乱にも犠牲にも怯まずに避難命令を出すでしょうけど、ギーラさんの方がタツヤさんより独裁官に相応しいと思いますか?」

 ミカは反論できずに沈黙した。

「何百万人という人の生命に関わることなんです。タツヤさんがためらうのは当然のことだと思います」

「ギーラさんにとっては西ネゲヴの三百万人という人達はただの数字なのでしょう。ですがタツヤ様にとってはそうではないのです」

 ですが、とミカが反論する。

「勝利のために一部の犠牲を乗り越えるのは将の務め、国の未来のために民に一時の犠牲を強いるのは王の務めではないのですか?」

「タツヤさんは庶民ですよ」

 とカフラが苦笑した。

「ミカさんの言うことは間違いではありません。ですが、兵をただの駒と思う将、民をただの数字と見なす王には誰もついていきはしません。真の王者とは兵や民一人一人の生命を思い、その上で必要な犠牲をためらわない者です」

 ファイルーズの言葉にミカが頷く。カフラは、

「そんな人いるんですか?」

 と首を傾げた。

「いないわけではありませんが、王家の生まれでも一部の者だけでしょう」

「タツヤ様がそんな『真の王者』となれるのかどうかは判りません。ですが、そうなっていただかなければネゲヴの勝利はおぼつかないでしょう」

 もちろん竜也にも自分の立場は判っている。自分の役目を、なすべきことを理解している。自分の決断にネゲヴの存亡が懸かっていることも。

「くそっ、どうして俺なんだ……」

 西ネゲヴ三百万の生命が、東ネゲヴ五百万の生活が、竜也の双肩に懸かっている。竜也はその重圧に押し潰されそうになっていた。
 そして月はついにシャバツの月(第一一月)となる。聖槌軍がマラカに集結するまであと一月足らずである。

「西ネゲヴに派遣する遊撃部隊・殿軍部隊の編成が完了した。遊撃部隊は赤虎族のダーラクを、殿軍部隊は金獅子族のサドマを指揮官とする。西ネゲヴへの移送は提督ガイル=ラベクに依頼している」

 スキラ会議でアミール・ダールがそう報告。ガイル=ラベクが補足した。

「船はうちの船団から出す。出発は今月一〇日、来月初めにはルサディルに到着の予定だ。我々はそのままマラカの聖槌軍の動向を偵察する。連絡用に高速船を用意しているので、可能な限り逐次状況を報告するつもりだ」

 両者の報告は全員に承認され、二部隊および偵察船団の派遣が決定された。そこに、

「一ついいだろうか」

 と竜也が発言する。

「俺も、この会議を代表して偵察船団に参加したい。本当の聖槌軍をこの目で確かめたいんだ。それと、可能ならルサディルの人達に東に逃げるよう伝えたい」

 複雑な波紋が議場に広がった。竜也の支持者は渋い顔や苦い顔を突き合わせる。ギーラはまず歓喜を、次いで嘲笑を顔に浮かべ、そしてそれをしかつめらしい表情で隠そうとした。

「非常に殊勝なことだ! もちろん我々はそれを認めよう!」

 と何故か上から目線のギーラ。竜也はそれを無視し、ファイルーズと向き合った。真剣な竜也と微笑むファイルーズが見つめ合う。互いの瞳には互いしか映っていなかった。

「迷惑かけてすまない。でも、行きたいんだ」

「お気になさらず。こちらのことはお任せください」

 ファイルーズは優しく笑った。

「行ってらっしゃい。どうかご無事で、お気を付けて」

「ありがとう」

 安堵した竜也は久々に屈託のない笑みを見せた。
 ファイルーズの承認を受け、竜也の偵察船団参加が確定となった。竜也の支持者もファイルーズには逆らえない。

「どうして認めちゃうんですか? タツヤさんがいなくなったらわたし達がどれだけ困るかお判りでしょう?」

 逆らえはしないが愚痴は言えるのだった。カフラの愚痴にミカもまた同意を示す。ファイルーズは「あらあら」と困ったように笑った。

「あの男、逃げたのではないのでしょうね」

「そういうわけではないと思いますわ」

 ミカの憶測をファイルーズは即座に否定する。

「逃げるのに敵の直中の方を選ぶ者はいませんわ。むしろ、タツヤ様は逃げられないところに自分を追い込みに行ったのではないかと思います」

 とファイルーズは顔を曇らせる。そのやりとりをラズワルドは黙って聞いていた。







 そしてシャバツの月一〇日。スキラ湾には五隻の船と、数百人の偵察船団参加メンバーが勢揃いしている。その中には竜也の護衛としてバルゼル率いる牙犬族の剣士が幾人か含まれていた。また、

「……あの、何であの子達がここに」

 バルゼルの横にサフィールが、さらにその後ろにラズワルドが並んでいるのを見出し、竜也は頭を抱えた。訊ねられたガイル=ラベクは、

「お前がちゃんと手綱を取らないからだろうが!」

 と八つ当たり気味に竜也をどつく。

「ナーフィア商会だけでなくワーリス商会、アミール・ダールやマグドからも要請があったんだ。とても断れん」

 一体どうやってそれだけの手を回したんだ、と竜也は唖然とするしかない。ラズワルドの懇願を受けて八方手を尽くしたのはベラ=ラフマなのだが、そんなことまでは竜也には判らなかった。

「あの子はアニード商会と懇意とのことだから、ルサディルでやってもらうことももしかしたらあるかもしれん。皆にはそう説明している」

 ガイル=ラベクは苦虫を噛み潰したような表情でそう言う。竜也は「判りました」と受け入れる他なかった。
 五隻の帆船が帆に風を受け、スキラの港を出港する。竜也達を乗せた偵察船団は西へと向けて出発した。







[19836] 第一八話「ルサディルの惨劇」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/06/14 21:02



「黄金の帝国」・戦雲篇
第一八話「ルサディルの惨劇」






 紺碧の海を五隻の船が征く。純白の帆が風にはためき、舳先に切り裂かれた水が潮騒となる。風と水のざわめきがまるで勇壮な行進曲のようだ。
 聖槌軍対策軍総司令官アミール・ダールの要請を受け、ガイル=ラベクは麾下の船団の中から最も速力のある五隻の船を選び出した。その五隻に髑髏船団の船員とは別に二百人が分乗しており、その全員が恩寵の戦士である。半数は赤虎族が中心となっている遊撃部隊、もう半数は金獅子族が中心となっている殿軍部隊。両部隊とも危険極まりない任務に従事するため配属されている戦士も精鋭揃いだ。その両部隊を率いるのが、

「おい、タツヤ。あの二人を頼む」

 ガイル・ラベクが指し示す先には、甲板の真ん中で対峙する金獅子族と赤虎族の戦士の姿があった。

「私の妻を侮辱するとは、生命が惜しくないと見えるな」

「誤解するな。俺が侮辱したとしたら、それはお前の嫁のことじゃない。お前の女の趣味だ」

 両部隊の指揮官がにらみ合う光景に、ガイル=ラベクは頭痛を禁じ得ないようだ。

「お前の提案通りにあの二人を隣り合わせにはしたが、こうなるのは目に見えていただろう」

「衝突するなら早い方がいいと思いますよ。派閥を作って船団真っ二つにして対立するよりもマシでしょうし」

「ともかく、あの二人を何とかするのもお前の仕事だ」

「判っています」

 本来男所帯だった偵察船団にラズワルドが強引に乗り込んできた結果(しかもサフィールを巻き込んで)竜也とガイル=ラベクは「紅二点」の二人の扱いに苦慮することとなった。
 竜也はラズワルドとサフィールのために個室を用意したが、それも船長室をわざわざ譲らせたものである。このため竜也はガイル=ラベクに全く頭が上がらなくなっており、それをいいことにガイル=ラベクはあらゆる面倒事を竜也に押しつけていた。竜也はその処理に追われ船団中を走り回る羽目になる。

「成人を迎える直前の瑞々しさこそ美の至高……! それが理解できんとは、さすがに腐肉漁りと名高いだけのことはある」

 と語る金獅子族の戦士の名はサドマと言う。生真面目な印象の、エリートという言葉がぴったり当てはまる伊達男である。

「熟れ切った大人の色気の良さも判らんとはな。悪趣味なのはお前の方だこの変態」

 赤虎族の戦士はダーラクと言う。悪ガキがそのまま大人になったような印象の、愛嬌のある色男だ。両者とも将来を嘱望された、三〇代の精悍な戦士である。女の趣味のことでいがみ合う姿からはそんなことは想像もできないが。
 互いの拳が互いに延ばされるその瞬間、竜也が二人の間に割って入った。サドマの拳が竜也の頬に、ダーラクの拳が竜也の腹にめり込んだ。
 ……しばらく時間をおいて、ようやく竜也が復活を果たす。サドマとダーラクは相変わらずにらみ合っており、野次馬が面白そうにそれを取り巻いていた。

「……それで、何が原因なんですか?」

「ダーラク殿の悪趣味が過ぎたものですので」

「何、こいつがあまりにも変態だったんでな」

 竜也は先にダーラクから話を聞いた。

「こいつ、この間三人目の嫁を娶ったそうなんだが、嫁の歳がまだ一三歳なんだ。しかも、これまでの二人も一三歳になった時に娶っていると言うじゃないか。俺がこいつを変態呼ばわりして、何が悪い?」

 竜也は内心サドマのその所行にドン引きしている。だが、その恥ずかしいはずの所行を暴露されたサドマは堂々としているし、周囲の野次馬にも竜也が思うほど強い拒絶反応がない。
 サドマが反撃を開始する。

「ダーラク殿は一三歳の時に最初の妻を娶ったそうですが、その妻の年齢は当時のダーラク殿の倍近くあったそうです。二人目、三人目の妻もやはり三〇手前の女性を娶っているとか。だから私はこう言ったのです。『腐肉漁りの悪趣味野郎』と」

「小児性愛変質者には言われたくねーな」

「……」

「……」

 火花を散らして睨み合う二人の姿に、竜也はいろんな意味で頭痛を覚えていた。
 一三歳の少女を妻に娶る行為は、この世界ではそれほど非難に値することではないようだった。思えば近代以前の日本でも、そのくらいの歳での結婚は珍しくない。妻を三人も娶ることも、充分な経済力と社会的地位があれば問題とならないようだった。

「ともかく、このままでは二人とも納得できないでしょうから、ここは公平な勝負事で雌雄を決しましょう。いいですね?」

 竜也はガス抜きに二人を直接対決させることにした。

「それはいいが、勝負は何を?」

「剣か? 拳か?」

「いえ、相撲です」

 スモー?と二人と野次馬が疑問を浮かべる。竜也は長いロープを甲板において、簡単な土俵を作った。

「ルールは簡単、相手をこの円の外側に押し出したら勝ち。相手の足の裏以外を床につけたなら勝ち。それだけです。それと武器と恩寵の使用は禁止。あとは何をやっても構いません。いいですね?」

「まあいいでしょう」

「ふん、面白い」

 土俵の中に両者が足を踏み込む。直径三メートル足らずの円の中で、サドマとダーラクがにらみ合った。

「はっけよい、のこった!」

 竜也の奇妙なかけ声を合図にダーラクが動いた。その場で飛び上がり、流星のような連続蹴りを放つ。サドマは両腕でそれをガード。土俵際まで押されるサドマだが、ダーラクの着地と同時に突撃し右ストレートを撃つ。ダーラクは身体を屈めてそれを避ける。そのままサドマの懐に飛び込むダーラク、ダーラクに覆い被さるサドマ。そのまま両者が同時に倒れ、周囲から歓声が上がった。

「両者、引き分け!」

 審判の竜也がそう判定を下す。それに対し、

「ちょっと待て、こいつの方が先に」

 と両者から物言いが入った。竜也は慌てず騒がず、

「じゃあもう一勝負」

 と提案する。二人は再び土俵の中央に入った。
 サドマとダーラクの勝負はくり返されるが、三勝三敗一引き分けで結局勝敗は決しなかった。疲れた二人に代わって他の面々が土俵で相撲に興じている。甲板の上は時ならぬ相撲大会で大いに盛り上がった。なお、その相撲大会を制したのはバカルという鉄牛族の戦士だった。
 その日以降、サドマとダーラクは竜也を審判とし、竜也の提案する様々な勝負で対決をくり返すこととなる。

「それじゃ今日は、飲み比べです」

 カルト=ハダシュトの港では酒場に入ってどちらがより飲めるかを競い合った。竜也が真っ先にぶっ倒れてしまったため、勝負は結局付かないまま終わってしまった。

「それじゃ今日は、カードゲームで」

 この世界にはトランプによく似たカードゲームが存在していて、おそらく冒険者レミュエルが持ち込んだものと考えられた。この日のゲームを制したのはいつの間にか乱入していたラズワルドで、竜也達三人は身ぐるみ剥がれて丸裸にされた。

「ええと、それじゃ今日は」

 やがて勝負の題材が尽きた竜也は、適当な勝負の方法をでっち上げるようになる。

「……『ぐっと来る部分デスマッチ』」

 不思議そうな表情のサドマとダーラク、および観客に竜也がルールを説明する。

「足を止めて、一発ずつ殴り合います。相手の拳を避けてはいけません。相手を倒したなら勝ち」

 久しぶりのガチンコ勝負に二人も周囲も大いに盛り上がる。だがルールには続きがあった。

「ただし! 殴るときには女体の中で自分が一番ぐっと来る部位の名前を叫ぶ! その言霊を拳に乗せ、言霊の重さで相手を打倒する! それがこの勝負です」

 戸惑う二人を向かい合わせ、竜也は強引に勝負を開始させた。

「しりー!」

「おっぱーい!」

「しりー!」

「おっぱーい!」

「ちいさいしりー!!」

「でかいおっぱーい!!」

「ひらたいおっぱーい!!」

「ふといしりー!!」

 サドマとダーラクは阿呆丸出しの台詞を叫びながら、互いの拳をぶつけ合った。

「太腿と太腿の隙間ー!!」

「太腿のたるみー!!」

「×××ー!!」

「×××ー!!」

 到底表記できない部位が言霊として応酬され、伯仲した熱戦が続く。観客の熱気を巻き込み、勝負は大盛況となった。
 この日以降、偵察船団では「ぐっと来る部分デスマッチ」が大流行する。イコシウムの港に停泊中にも一隻でデスマッチが行われ、卑猥な言葉が大声で叫ばれる。周囲の船からの苦情に、竜也とガイル=ラベクが頭を下げて回ることとなった。
 ――言うまでもないことかもしれないが、もちろん竜也やサドマ達はこんな阿呆みたいなことばかりして航海中ずっと遊び呆けていたわけではない。

「……キリスト教、じゃなくて聖杖教の最も大きな特徴の一つは、それが元々奴隷の宗教だったってことです」

 偵察任務の一助になれば、との思いから竜也はサドマやダーラク達に聖杖教について知る限りのことを――元の世界の知識を大いに加味し――しゃべっていた。相手を変えてそんな話をくり返しているうちに、いつの間にか竜也は船団の全員に対して講義を開くようになっていた。

「聖杖教の聖典の中では契約者モーゼが奴隷を率いてケムトを脱出し、彼等がアシューの地で最初の聖杖教の信者となった、ということになっています。これは事実ではありませんが、ケムトとは別の場所でこれに類することが実際にあったものと考えられています」

 正確には元の世界のエジプトやパレスチナの地で、となるのだがそこまでは説明しない。

「聖杖教の前身となったその宗教、その一神教は逃亡奴隷が崇めたものだ、ということです。ここにこの宗教の大きな特徴が現れます。奴隷にとっての絶対者とは主人であり、神とは人間にとっての主人となる――主人と奴隷との関係が、神と人間の関係に置き換えられる。その一神教において、神にとって人間は奴隷なんです」

 講義を聴いていたサドマやダーラク達は判ったような判らないような顔をする。

「……何でわざわざそんな神様を崇めるんだ? もっと親身になってくれる普通の神様を崇めればいいのに」

「それしか知らないからです」

 竜也はまず簡潔に結論を述べた。

「奴隷にとっては主人とのつながりが全てです。他のあり方、他のつながり方、他の関係の持ち方を知らないんです。他のつながり全てを捨てさせられ、鎖につながれたのが奴隷なんですから。そして問題は、彼等が上との関係だけでなく下との関係においてもこれをそのまま適用することです」

「下との関係?」

「はい。神は人間に対して地上の万物全てを支配することを認めています。人間は神の奴隷ですが、それと同じように人間以外の全ては人間の奴隷なんです。そして彼等の神が空想の産物である以上、結局人間が全てを支配する主人となる――ここで言う人間とは一神教の信徒であるということです。この宗教がエレブの地に伝えられ、聖杖教となりました」

 正確にはその一神教――ユダヤ教と聖杖教の間にはキリスト教という経由地があるのだがそこは省略である。

「預言者フランシスはエレブの地の奴隷や貧民を最初の布教対象としました。彼の宗教はその出自から下層民に対する親和性が高いんです。預言者フランシスが刑死して教団は一旦壊滅しましたがバルテルミが教団を復活させ、ここに聖杖教が成立しました。聖杖教はエレブにおいてもまず奴隷や貧民の宗教として広がります。つまり一神教の本質は今なお受け継がれているということです。自分達以外を奴隷と見なす、その本質が」

 竜也は殊更に大きな声を出したわけではない。だがその声は聴衆の耳に、その心に響いていた。

「聖杖教徒はよく隣人愛を口にしますが、彼等にとって隣人とはあくまで同じ聖杖教徒のこと。他の宗教、多神教の信者は決して隣人にはなり得ない。我々は彼等にとっては奴隷とすべき対象でしかないんです。……その事実をどうか忘れないでください」

 竜也の真摯な瞳がサドマやダーラク達を捉えて離さない。彼等は一様に頷くしかなかった。







 シャバツの月の月末、ガイル=ラベク率いる偵察船団はラクグーンに到着した。ラクグーンはルサディルと同じくらいの大きさの港町である。竜也達は船を下り、町へと向かった。メンバーはガイル=ラベク、サドマ、ダーラクといった船団幹部とその護衛。それに竜也とその護衛のバルゼル、サフィール、牙犬族の剣士達である。

「……ひどく乞食が多いですね」

 通りを見渡していてたサフィールが感想を漏らす。通りには一メートル置きくらいに汚れた格好の乞食と見られる者達が座り込んでいた。スキラの貧民窟でもここまで乞食は多くないだろう。

「乞食ではありません。難民です」

 と答えるのはラクグーンの商会連盟の人間である。

「ルサディルから逃げてきた難民が町に入り込んでいるんです。居留地を作って支援もしているのですが、到底追いつきません」

 竜也その光景に心を痛めながら町を進んだ。竜也達が町の中心地、商会連盟本館に到着する。その場所では商会連盟幹部だけでなく、ラクグーン長老会議のメンバー、ルサディルから逃げてきた恩寵の戦士達が集まっていた。

「スキラでの対策会議の結論は伝わっているだろう。我々は聖槌軍と正面から戦いはしない。町の住民は東か南に逃げてもらう」

「避難はすでに始まっている。だがまだ逃げるのをためらっている者が多い」

「恩寵の戦士は何人いる? そいつ等を遊撃部隊か殿軍部隊に組み込みたい」

 打ち合わせは余裕のない状況下のため無駄なく進んでいき、偵察船団は三つに分かれることとなった。
 まずラクグーンに残って遊撃部隊と殿軍部隊を編成するメンバー。それはサドマとダーラクが率いる。次にエレブのマラカに接近して聖槌軍の様子を偵察する部隊。これを率いるのはガイル=ラベクだ。最後が、

「それで俺達がルサディルに潜入して状況を伺う。可能なら町の住民を東に逃がす」

 竜也は自分の部隊のメンバーを見渡した。竜也が率いるのはサフィール、バルゼル、ツァイドといった牙犬族の剣士達、それとおまけのラズワルド。ルサディル出身の恩寵の戦士が二人加わっているが、それでも竜也達の部隊が一番の少人数で総勢九名である。

「今のルサディルは敵地と大して変わらない、かなり危険な任務だ。付き合わせてすまないが」

「お気になさらず。タツヤ殿はわたし達の後ろで大人しくしていてください」

 サフィールの言葉にバルゼル等剣士達が揃って頷いた。

「タツヤ殿はもう以前のような軽い身分ではないのですから」

 バルゼルだけでなくラズワルドも一緒になって頷いている。

「……まあ、判っている」

 竜也は曖昧に笑ってごまかした。
 翌日、アダルの月(第一二月)の一日にはガイル=ラベク率いるマラカ偵察船団がラクグーンを出港、竜也達もそれに乗船する。翌々日の深夜、船団はルサディル近くの海岸に到着した。船は夜闇に紛れて接岸、竜也達が船を下りて上陸する。

「俺達はマラカまで往復してここに戻ってくる。マラカまで二日、偵察に一日、戻ってくるのに二日。この場所に戻るのは九日になるか。十日の夜明けまでは待ってやるが、それまでに戻ってこなかったら見捨ててスキラに帰るぞ」

「判りました」

 偵察船団が岸を離れて沖合へと消えていくのを見送り、竜也達は町へと向かって歩き出した。竜也達がルサディルの町に潜入したのは四日の未明である。

「あれ、あいつはどこに行ったんだ?」

「さっき船を下りたのか? いや、まさか」

 船団の一隻でそんな会話がされていたことを竜也が知る由もない。







 町に入った竜也達は目立たないよう三、四人ごとに分かれて別々の道を進んだ。竜也は例によってラズワルド・サフィールと一緒である。当然ながらラズワルド達やバルゼル達は印を外している。竜也はすっかり変わってしまった町の様子に胸を痛めていた。露店や商店は全く開いておらず、道端で遊ぶ子供の姿もない。殺気立った男が気忙しく行き交い、不安そうな女が目を伏せていた。
 竜也達の目的地は町中のとある民家であり、そこにはすでにバルゼル等が集まっていた。その家はラクグーンの商会連盟に用意してもらった拠点である。

「それで、これからどうするのですか?」

「紹介状を書いてもらっている。この町の長老の一人に接触して話をする」

 ツァイドがこの町出身の戦士を連れて町へと出、竜也達は拠点で待機である。ツァイドは昼過ぎには戻ってきて、そのまま日が暮れる。その拠点に迎えが来たのは夜になってからである。竜也はバルゼルとツァイドだけを連れて拠点を出発した。
 半時間ほど歩き、竜也達はその家に到着する。家の中で待っていたのはルサディル長老会議の一員・サイードで、竜也も何となくその顔に見覚えがあった。

「孫だけでもお前さん達の船でスキラに連れていってくれんか」

 サイードは開口一番そう懇願する。竜也は声を上げそうになるのをぎりぎりで我慢した。見れば、バルゼルも竜也と似たような表情だしツァイドからもいつもの微笑みが消えている。

「……戦うことでもなく逃げることでもなく、恭順を選んだのはあなた達ではないのですか?」

 竜也の指摘にサイードは気まずそうに目を伏せた。

「……敵は百万だ、勝てるわけがない」

「逃げると言っても、どこに逃げればいい。逃げた後どうすればいい」

「『協力していれば危害は加えない』、アニードの連れてきたエレブの将軍はそう言っている」

 呟くように言い訳を連発させるサイード。竜也の内側では不快感や白けた思いが募る一方だ。竜也はまずサイードから最新の情報を引き出すことに専念した。

「そのエレブの将軍・タンクレードですが、ルサディルには彼の部下はどのくらいいるんですか」

「エレブから連れてきている者は二〇人もおらん。だがこの町の全員があの男の部下みたいなものだ。この町の若い衆を集めた兵を三、四百は持っている」

「タンクレードが町の住民に危害を加えることは?」

「今のところは何も。食糧や金品はかなり徴発されたが」

「聖槌軍の先鋒がこの町に入るのは?」

「今月の十日過ぎになると聞いている」

 竜也が質問し、サイードが答える。そんな一方的な会話がかなりの時間続いた。訊きたいことを全て聞き出した竜也はようやく話を変える。

「町の住民を町の外に逃がすことはできませんか?」

「しかしそれは……そんなことをしたらあの将軍がどう思うか」

 と難色を示した。

「もちろんタンクレードに断った上で、です」

 竜也の提案にサイードは刮目した。

「タンクレードだってこの町で不測の事態が起きることを怖れているはずです。住民と聖槌軍の兵士との衝突を可能な限り避けようとしているはずです。町の住民が少ない方がそういう揉め事を少なくできる。聖槌軍が到着するその日だけ、一時的に町の住民が町の外に避難する。その許可を取るんですよ」

 サイードはうなり声を上げて考え込んだ。

「……確かに……だが、あの将軍がそれを許すかどうか」

「評判通りの人なら許す可能性は充分にあります。だってその方が彼等にとって利益がありますから」

 ベラ=ラフマが集めた情報と分析に基づき、竜也はタンクレードという男をそう評価している。彼の判断基準が私怨でも狂信でもなく、あくまで利害であるために竜也やベラ=ラフマにとって非常に判りやすいのだ。

「狂信とは無縁の、非常に冷静で合理的な人間だ」

 竜也達はタンクレードのことをある意味高く評価していた。
 サイードはかなりの時間迷っていたが、竜也の提案を実行する方向で動いてくれるようだった。空が白み始める頃竜也達はサイードの家を後にし、拠点へと戻っていった。
 翌五日・六日は特に動きはなく、七日。サイードの要請を受けて竜也がサイードの家へと向かう。
 そして竜也は戻ってこなかった。







「先日の提案の件で早急に、秘密裏に話し合いたいとのこと。同行していただけませんか」

 七日の日中、竜也達の拠点にサイードの使者が訪れてそう告げる。竜也は護衛にツァイドを連れてサイードの家へと向かった。サイードの家に到着し、その門をくぐる竜也とツァイド。

「……?」

 竜也は首を傾げた。家の中に人の気配を感じない。ドアをノックしても返事がない。

「留守か?」

 竜也はツァイドの方へと顔を向け、言葉を詰まらせた。ツァイドはこれまで見たこともない厳しい顔をしている。

「……やられたかもしれませんな」

 ツァイドがゆっくり、慎重に門の外へと進んでいき、竜也がそれに続いた。門から一歩踏み出し、竜也は息を呑む。サイードの家は数十人の兵士に包囲されていたからだ。しかも兵士はまだまだ増えていく。

「……どういうことです」

 竜也はそう問わずにはいられない。だが兵士達は何も答えなかった。じりじりと包囲を狭めていくだけだ。

「私が奴等を引きつけます。家の中から裏口の方へ」

 ツァイドの言葉に竜也が頷く。ツァイドが雄叫びを上げながら兵士の直中へと突っ込んでいき、それと同時に竜也はサイードの家へと逃げ込んだ。一拍遅れて兵士達も動いている。兵士の一団が怒濤のような勢いで家の中へとなだれ込んだ。
 竜也は庭先を突っ切って裏手へ、塀を乗り越えて裏路地に降り立つ。だがそこにも兵士の一団が待ち構えており、竜也はあっと言う間に捕縛された。荒縄が何重にも巻かれ、身動きも困難だ。槍のように長い棍棒で何発か殴られ、あちこちが痛む。だが生命に別状はなかった。

「落ち着け、すぐに殺されはしない。いずれツァイドさんやバルゼルさんが助けに来てくれる」

 竜也は自分にそう言い聞かせ、とにかく冷静になるよう努めた。竜也はそのまま兵士の一団に引っ立てられ、町の中心へと向かうこととなった。







 一方かろうじて追っ手から逃れたツァイドは一直線に拠点に向かって走っていた。

「あの場で殺されはしないようだが、いつ処刑されるか判らん。一刻も早く助けに行かねば」

 ツァイドはまずバルゼル達と合流することを優先した。だが、

「くそっ、やはりこうなっているか」

 竜也達の拠点の前にはすでに大勢の兵士が集まっていた。遠くから様子をうかがい、状況の把握に努める。見たところ捕縛された者はいない。兵士に怪我人はいるが死者はいないようである。兵士が数人ごとに分散し、走り回っている。ツァイドは胸をなで下ろした。

「……どうやら無事に逃げられたようだな。だが」

 バルゼル達と合流することは非常に望み薄となった。つまりは竜也を助け出すことも至難ということだ。

「おっと」

 すぐ側を兵士が走り抜けていく。ツァイドは物陰に身を隠した。
 ともかく、今は自分が捕まらないことが優先だ。ツァイドは物陰から物陰へ、風のように走っていった。







 竜也が連行された先はアニード邸だった。竜也はかつての自分の勤め先を複雑な思いで見上げる。
 竜也はアニード邸の庭先に放り出されるように連れてこられる。そこに姿を現したのはアニードだった。そしてその横に白人の男が立っている。おそらくその男こそタンクレードだろう。年齢は四十過ぎ。背が高く、洒落た口ひげを生やして伊達を気取っている男だが、美形と呼ぶには足りないものが色々と多かった。

「アニードよ、何事だ」

「何、小賢しい泥棒を捕まえただけだ」

 アニードは警棒のように短い棍棒で竜也を打つ。竜也は悲鳴を上げた。

「アニードさん、一体何を」

「やかましい!」

 アニードの棍棒が連続して竜也を打ち据える。頭部の皮膚が裂け、血が流れる。竜也は地面に倒れ伏した。

「この者は?」

「ええと、確かクロイ・タツヤと言ったかな」

 アニードの答えにタンクレードは首を傾げる。

「それはスキラで巨万の富を築いて聖槌軍に抗しようとしている者の名前ではないのか?」

「そんなに上等な奴ではない。こいつはただの詐欺師で泥棒だ」

 アニードの説明にタンクレードは、

「ただの同名か。ネゲヴの人名は判りにくいからな」

 と納得していた。

「アニードさん、一体どうして……」

 一方の竜也は納得などできる状況にはない。アニードは嘲笑に鼻を鳴らした。

「貴様がナーフィア商会と一緒になって適当な嘘をついて儂からあの悪魔を奪っていったこと、忘れたとは言わさんぞ。あの後儂がどれだけ苦労したと思っている……!」

 アニードは再度棍棒を振り下ろす。だが竜也にとっては棍棒よりもアニードの言葉の方が身に応えていた。

「こいつを牢屋に放り込んでおけ!」

 ようやく気の晴れたアニードは竜也を兵士へと引き渡した。竜也は兵士引きずられてアニード邸を退出していく。それを見送るアニードの横に、不意に現れた一人の男が並んだ。

「処刑はいつするのですか?」

 男の言葉にアニードは動揺を見せる。

「いや、さすがにそこまでする理由は……それに殺してしまってはナーフィア商会と交渉をすることもできん」

 アニードの認識不足に男は内心で呆れていた。竜也がスキラで最重要人物になっているという話はアニードも耳にしているが、その話と実物の竜也を結びつけて認識することができないのだろう。アニードにとって竜也はあくまで元奴隷の自分の使用人に過ぎない。ナーフィア商会がラズワルドを不当に奪っていったことに対する賠償交渉、そのための材料でしかないのだ。

「牙犬族の護衛は捕縛できましたか?」

「いや、まだだ。だが恩寵の戦士と戦える兵などおらん。無理に捕まえようとする必要はあるまい」

 アニードの煮え切らない姿勢に男は軽侮の思いを強くしながらもそれを隠した。

「ですが、牙犬族が牢屋を襲撃して奪還しようとするかもしれません」

「牢屋にも兵はおる。そうそう無茶はできまい」

「兵を増やして、牢屋の警備に念を入れてください」

 男はそう言い残してアニード邸を立ち去る。竜也が連行された方向を眺め、男が独り言ちた。

「……まあ、処刑はされなかったがひとまず目的は達成だ。これでよしとすべきか」

 その男が偵察船団の一員だったことを知る者はこの町にはいなかった。
 一方アニードはタンクレードと打ち合わせの最中だ。タンクレードはすでに竜也のことなど頭にはない。アニードもまた、竜也のことだけを考えるには抱えている問題が大きすぎた。

「それで、トルケマダは今どこに」

「どうやら私の部隊より一日分先行しているらしい。私の部隊にも先を急ぐよう命令はしているが」

 そうか、と呟くように返答するアニード。

「一体何のつもりで……」

 アニードは重苦しい不安に胸が潰れそうになっていた。トルケマダはエレブ中で最も悪名が高いとされる人物だ。一応はアンリ・ボケの部下だがあまりに悪評と黒い噂が絶えないためにアンリ・ボケも距離を置いているほどだ。聖堂騎士団から独立した独自の騎士隊を有しており、形式上はアンリ・ボケの協力者という位置付けである。一際強欲で残虐で、異端討伐では女子供を好んでその標的としている。特に若く美しい女性に目がなく、散々強姦した上に意味もなく拷問して苦しめた上で殺している――という噂が絶えず聞こえている。

「私の隊よりトルケマダ隊が先にこの町に入ったなら何が起こるか判らない。トルケマダ隊には私の隊の後ろに回るよう命令している」

 タンクレードの説明を聞きながらアニードはサイードの提案について一人検討していた。

(やはり住民を一時的に町の外に逃すべきか……いや、それを発案したのはあの小僧だというではないか。私があんな小僧の言いなりになど……!)

 アニードの内心の天秤は大きく揺れており、どちらに傾いてもおかしくはなかった。天秤の一方に乗っているのは現実に基づく不安であり、もう一方はタンクレードに対する信頼、「トルケマダ隊だってタンクレードの顔を潰すような無茶をするはずがない」という理性的判断、そして何より不安から目を逸らしたいという自己防衛の心理である。そして竜也に対する反感が天秤のもう一方への重りとなったのだ。アニードは町の住民を避難させず、何の警告も発しなかった。

「将軍タンクレードに従っている限りこの町は安全だ」

 再度そう布告し、避難を思い止まらせもしたのである。
 ……また一方竜也は町役場に隣接する牢屋へと放り込まれ、そのまま牢屋で一晩を過ごした。その牢屋に収容されているのは竜也一人のようだった。牢屋は壁も床も石造りだ。床にむしろを一枚引いて、それが寝床である。散々打ち据えられて痛む身体を横たえ、眠って体力を回復させることしかやれることがない。

「あのときはあのやり方が最善だと思ったんだ。……今になってあれに足を取られるなんて」

 確かにアニードを騙したあのやり方は詐欺まがい、あるいは詐欺そのものだった。だが竜也はあのやり方を倫理的な悪だったとは思っていなかった。むしろ「頭の悪い奴には思いつかない、冴えたやり方だ」とひそかに誇りさえした。だが、今になってその「冴えたやり方」が思いがけない障害となっている。竜也の自由を奪い、その身を、その生命を危険にさらしている。いや、竜也だけではない。ツァイドやサフィールやバルゼル、そして誰よりラズワルドに危機が及んでいる可能性が高いのだ。

「なのに、何もできない。助けに来てくれるのを待つしかない」

 竜也は唇を、無力感を噛み締めた。

「『黒き竜の血』が目覚めさえすれば……」

 竜也の心の奥底から、久々にそれが湧き上がってきた。だが竜也は首を振って、その妄想を心の底深くへと沈めていく。

「今はそんな場合じゃない。何とか逃げて皆と合流しないと。このとき、この場所からできることを見つけなきゃいけない」

 竜也はむしろの上に横になったまま、頭脳を回転させ続けた。







「ほれ、これもお食べ」

 ラズワルドは老婆の差し出した菓子を口にする。果物を干しただけの代物だが、素朴な甘さが口の中に広がった。
 ん、と満足げに頷くラズワルドを老婆は相好を崩して眺めている。その様子をリモンは呆れたように見つめていた。
 そこはリモンとばあや――以前ラズワルドの世話をしていた老婆の暮らす家である。逃げているうちにサフィール達とはぐれたラズワルドはその家に逃げ込んたのだ。

「それで、どうだったの?」

「確かにあそこにいた」

 そう、とリモンが胸をなで下ろす。ラズワルドは竜也の行方を捜すのにリモンに協力を依頼。リモンがアニード邸で情報を集め、竜也が放り込まれていると思しき牢屋をピックアップ。ラズワルドがその恩寵で竜也の所在を確認したのである。

「あとは助けるだけ」

 サフィールかバルゼルと合流できればそれも難しくはないだろう。牙犬族の恩寵の前では牢屋の戸板など障子ほどの意味もない。だが問題はどうやって彼等と合流するかだ。ラズワルドには良案など思いつかなかった。今は運に任せてあちこち動くしかない、と考えている。

「タツヤを助け出したらどうするの?」

「スキラに帰る」

 リモンの問いにラズワルドは当たり前のように答えた。

「……あの、わたし達も連れていってくれない? おばあちゃんを置いて逃げるのは無理だったからこの町に残っていたけど、タツヤと一緒なら」

 ラズワルドとしては断固拒否したいところだが、リモンはともかくばあやは嫌いではないし、窮状を救ってくれた恩人でもある。無碍にはできなかった。かと言って安易に承諾できることでもない。

「……タツヤに頼んでみる」

 ラズワルドとしては最大級の誠意を持った回答である。リモンも一応それを理解し、

「お願いね」

 と重ねて頭を下げた。
 そして翌日、アダルの月の九日。

「……」

 ラズワルドは家の外に出て空を見上げている。遠方からは遠雷のような唸りがかすかに聞こえていた。

「嫌な空だねぇ。何だろうねぇ」

 ばあやはラズワルドの横に並んで空を見上げる。しばらくそうやっていたラズワルドだが、突然走り出した。

「どこ行くんだい!?」

 ばあやの呼びかけも耳に届かない。ラズワルドの頭には竜也のことしか入っていなかった。







 竜也は牢屋で一夜を過ごし、一日を過ごした。そしてアダルの月の九日。
 その日は朝から空気が違っていた。生温かい空気が帯電しているかのように竜也の神経を逆撫でする。

「誰か! 誰かいないのか?」

 牢屋の外に呼びかけても誰も返事を返さない。竜也は体当たりと蹴りで牢屋の扉を破ろうとした。が、思ったよりも頑丈で扉を破ることができない。
 そうこうしているうちに、窓の外から今まで聞いたことのない音が聞こえてきた。遠すぎて判らないが、この雷鳴が唸るかのような音は人の声なのか。かすかに聞こえるあれは悲鳴ではないのか。町の外れに立ち上るあの煙は何なのか。

「くそっ! 何が起こってる?!」

 竜也は扉への体当たりと蹴りをくり返した。窓の方からの脱出にも挑戦してみたが石と石の隙間は狭く、片腕と片方の肩を外に出すので精一杯だ。扉を破ることに集中するしかない。

「くそっ! こんなところで」

 体当たりをくり返したたため竜也の両肩はひどく痛むようになった。あるいは骨にひびでも入っているかもしれない。その甲斐あって、扉は大分建て付けが悪くなってきている。だが、まだ破れない。朝から何時間もかけているのに、昼を回って大分経っているのに、まだこんなところに閉じ込められたままである。
 はっきり悲鳴と判る声が近くからも聞かれるようになってきた。悲鳴は女性の声が多いがそれだけではない。老若男女問わず、悲鳴が、断末魔の叫びが、泣き声が聞こえてくる。獣のような雄叫びも聞こえてくる。段々その声が近付いてくる。

「くそっ! くそっ!」

 恐怖と焦燥のあまり、竜也は頭がおかしくなりそうになった。そのとき、

「タツヤ!」

 扉の外から、竜也を呼ぶ少女の声。

「ラズワルドか?! こんなところに!」

 こんな危険な場所にどうして、バルゼルさんやサフィール達は無事なのか、いくつもの思考が竜也の脳裏を横切った。だがそれも一瞬だ。

「ラズワルド! 鍵はないか?」

「探してくる!」

 ラズワルドの気配が遠ざかる。竜也はラズワルドを待つことしかできない。その焦る様は、焼かれた鉄板の上で立っているかのようだ。
 短くない時間を経て、ようやくラズワルドが戻ってきた。

「見つけてきた!」

 鍵の束の中から竜也の牢屋の扉の鍵を見つけるのにまた時間がかかり、ようやく鍵を開けたと思ったら立て付けの悪くなった扉をこじ開けるのにまた時間を取られてしまった。竜也はラズワルドの手を引いて外へと飛び出した。
 百メートルも走らないうちに敵に見つかってしまった。

「女だ!」「こっちに女がいる!」

 粗末な革製の鎧を身につけた、白人の男達。鎧や髪は埃で汚れて白くなっていて、血に濡れた剣や槍を手にしていた。その眼だけが狂喜でぎらぎらと輝いている。
 竜也はラズワルドの手を引いて走り出した。それを何人もの聖槌軍の兵士が追いかける。裏路地の、道が入り組み迷路みたいになっている区画に逃げ込む。適当な民家に入り込んで何とか敵兵を撒くことができた。
 竜也達は、今度は敵兵に見つからないことを最優先にして、姿を隠して慎重に歩を進めた。

「この道の方が人が少なそう」

 とラズワルドが先導する。ラズワルドは読心の恩寵を対人レーダーのように使うことで敵兵を回避し続けたのだ。

「とにかく今は町の外を目指すしかない。ソウラ川に出て、川を泳いで渡って東岸まで行ければ敵もいないだろう」

 夜になるのを待った方がいいだろうか、とも考えたが、夜まで隠れていられる安全な場所が見当たらない。敵兵の姿は一分一秒ごとに増え続けていて、先へと進むのがますます難しくなっている。

「待って、向こうから来る」

 ラズワルドの警告に従い元来た道を引き返すが、そちらからも敵兵が姿を現した。竜也は周囲を見回し、少しの間だけでも身を隠せる場所を探す。そして天佑のようにそれを見つけた。竜也の視線の先にあるのは、共同便所の肥溜めだった。
 竜也の手を握ったままのラズワルドもその案を理解する。躊躇と嫌悪がラズワルドの心を詰め尽くすが、次の瞬間にはそれを全て投げ捨てた。ラズワルドは率先して便座を潜り、肥溜めへと身体を沈めた。それに竜也が続く。
 あまりの悪臭に嘔吐しそうになるが、辛うじてそれを我慢した。肥溜めの中は思ったよりも狭く、竜也とラズワルドの二人で満員である。竜也は外からラズワルドを隠すようにしてその身体を抱いた。ラズワルドもその手を竜也の胴に回す。
 悪臭は目が潰れるかと思うほど強烈だった。鼻はもちろん口でも呼吸が困難だが、しないわけにはいかない。唇をほんのわずかだけ開けて、か細く短い呼吸をくり返した。奴隷時代のことを思い出し、精神を現状から切り離し身体を機械とし、ただ生き残ることだけに専念する。ラズワルドは半分以上気絶しているようだったが、その方がいいだろうと考えた。
 竜也達はそのまま肥溜めの中で夜を待った。地獄のような汚濁の中で、永劫とも思える苦悶の中で、ただ互いの温もりだけが価値あるものの全てだった。







 日が沈み、外は夜の闇に包まれた。
 周囲に敵兵がいないことを確認し、竜也とラズワルドは肥溜めから抜け出した。身体を洗うこともできないまま、再び町の外へと向かう。
 町の各所から火の手が上がっているようだった。敵兵の姿があちこちに見られるが、夜の闇が竜也達の姿を隠してくれた。竜也達は敵兵に見つかることなく町の外を目指して歩いていく。
 路地には数メートルごとに市民の死体が転がっていて、地面には血の絨毯が敷かれていた。剣で斬られ、槍で突かれた男の死体。女の死体は一人残らず下半身裸である。腰の曲がった老婆から五歳の子供まで、女という女は一人の例外もなく強姦された上に殺されていた。腹を割かれた妊婦の遺体もあった。
 心を凍らせた竜也とラズワルドはその惨状に目を奪われることなく、前へと進み続ける。視界の端に捉えた二人の死体。全身を無残に斬られた老婆と、裸にされた若い女性の死体が寄り添うように倒れている。竜也にはそれがばあやとリモンのように思えたが、戻って確認したりはしなかった。今はただ先へ先へと進み続ける。ソウラ川のほとりは目前に迫っていた。
 だが竜也達の行く先を阻むように、その道に一人の男が佇んでいた。背の高い、黒い騎士服の男――タンクレードである。
 タンクレードは剣を腰に差しているが、同行者はいないようだった。ソウラ川は目前だ、この男を殴り殺してでも先に進む。竜也はそう決意し、路傍の石を拾い上げてタンクレードに接近した。タンクレードの方も竜也達の姿に気付いたようである。誰か呼ぶかと思っていたが、タンクレードは何もしない。惚けたように立ち尽くしているだけだ。
 訝しく思いながらも竜也はタンクレードに接近する。だが彼は何もしないままだ。タンクレードは悄然としており、わずか二日ほどの間に十歳も老け込んだかのようだった。

「――行くがいい」

 タンクレードは竜也達にそう言い、背を向ける。竜也はその横を通り過ぎ、そのまま走り抜けていった。
 竜也達は川岸からゆっくりとソウラ川の水に浸かり、岸から離れた。流れに身を任せるようにして川の中央へと泳いでいく。ラズワルドは竜也の首に捕まり、竜也は少女を背負うような格好だ。ソウラ川には、二人が見かけた範囲だけでも何百という死体が流れていた。生きて泳いでいる人間もいたが、その数は圧倒的に少ない。
 川に流され、川ではなくソウラ湾に出た頃、竜也達はようやく東岸に辿り着いた。竜也とラズワルドは最後の力を振り絞って岸に這い上がる。陸地に上がったところで力尽き、そのまま寝転んだ。しばらくの間体力の回復に努める。
 泳いでいる間に汚物の大半は流れ落ちたようだが、悪臭は身体に染み込んでいるかのようだった。ちゃんと身体と服を洗おうと思い、竜也は起き上がる。竜也の視界に向こう岸のルサディルの町が入った。
 ルサディルの町の各地が炎上しているようだった。町は不気味な赤色に染まり、何本もの煙が立ち上っている。竜也が周囲を見回すと、町から何とか逃れてきた人々が虚ろな瞳を町へと向けていた。
 これまで堪えてきたものが込み上げてくる。竜也はその場でひざまづいた。力任せに地面の砂を握り締める。竜也の瞳からこぼれた涙が、その砂を濡らした。食いしばる歯が砕ける寸前の軋みを上げた。

「……な、何で」

 憤怒が、激情が竜也の身体を震わせる。

 ――何故ここまで残虐なことができる? 一体何の恨みがあって? 一体どういう権利があって?

 もちろん竜也も知識としては判っている。ルサディルで暴虐の限りを尽くしたのは、エレブの普通の市民・農民なのだ。領主からの重税に苦しみ、聖杖教のプロパガンダに踊らされているだけの、無知蒙昧なただの庶民。領主から苛政を受け、教会から抑圧を受け、その苦しみの転嫁先を探してネゲヴまでやってきて、ルサディルがその最初の捌け口となってしまった。ただそれだけなのだ。
 竜也は力強く立ち上がり、炎上するルサディルの町を見つめた。黒い両眼に宿った確固たる決意が、艶やかに星明かりを照り返す。その瞳はまるで鋼鉄そのものだった。

 ――だが判っているのか? 欲望で他人を殺すのなら、自分も他人の欲望のために殺されても文句が言えないのだということを。

 ――ああ、判っていやしないだろう。判っているのならこんな真似ができるわけがない。だから俺が判らせてやる。

 ――『神の命令に従っただけ』? 『それを神が望んでいる』? 巫山戯るな。そんな淫祠邪教、俺が神と認めない。そう、俺は「黒き竜」。キリストに仇なす悪魔の獣だ。

 ――やっと判った、俺がここにいる理由。俺がこの世界のこの時代にやってきたのは決して偶然なんかじゃない。奴等と戦うためだ。聖杖教と戦い、聖槌軍を滅ぼし、犯され殺されたリモンやばあややルサディルの人々の仇を討ち、ネゲヴをネゲヴの民の手に取り戻す。そのために俺は今ここにいる。

 ――それができるのは俺だけ。俺には「黒き竜の血」が流れている。俺は「黒き竜」なのだから。

 ルサディルの町を見つめる竜也は、ラズワルドがいつの間にか起き出して自分を見つめていることに全く気付いていなかった。少女の内面が今大きく変貌しようとしていることも。
 無意識のうちに竜也の内心を覗いたラズワルドの心に、竜也の激情が流れ込んでくる。少女にはそれに抵抗できるほどの力はなかったし、そもそも抵抗するつもりもなかった。竜也の憤怒に共感し、竜也の覚悟に感化され、竜也の意志を共有する。言わば、少女は自分で自分を洗脳したような状態だった。少年が自分を人間ではなく「黒き竜」だと信じるなら、少女にとってもそれが真実なのだ。







 今ここに黒き竜の少年と、その白き巫女が目覚める。二人がこの世界に何をもたらすのか、知る者はまだ誰もいなかった。







[19836] 幕間1 ~とある枢機卿の回想・前
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/06/21 21:05




 教会が燃えていた。
 敵の襲撃は突然だった。誰もが寝静まった深夜、敵兵は夜闇に紛れてその教会へと接近。彼等は警告も降伏勧告も何一つすることなくその教会へ、教会に併設された孤児院へと突入したのだ。
 教会や孤児院の従僕、孤児院の孤児達、全て合わせれば五〇人を越えていただろう。だが逃げ延びることができたのは二人だけだ。その二人は丘の上から炎上する教会を、孤児院を見つめている。
 一人は教会の責任者の神父だ。その神父は力尽きたようにひざまづき、倒れ込みそうになって掌を地面に付けていても、顔だけは上へと向かせている。視線だけは、教会を焼き尽くす炎から決して離そうとしなかった。

「神父様……」

 神父の隣には小汚い格好の孤児の一人が立っている。神父のことを心配していても彼には何をどうする力もありはしない。今の彼にできるのはその神父に寄り添うことだけだ。





 教会が燃えていた。その神父が心血を注いで築いてきた彼の楽園が、焼き尽くされ、灰になろうとしている。彼の理想に賛同し、協力してくれた同志達が天に召されようとしていた。
 孤児院が燃えていた。その孤児が物心ついてから生まれ育った場所が消え去ろうとしている。一緒に育った仲間達が無惨な死体になろうとしていた。
 燃え広がる炎を、焼け落ちる教会の尖塔を、二人は見つめ続けている。その光景は二人の心に刻み付けられた。炎の輝きは二人の瞳に焼き付けられた。たとえ年老い、死の瞬間を迎えたとしても、この光景を忘れることはないだろう。
 ――この夜、全てを焼き尽くす炎は生き残った少年の過去をも滅却した。そして炎の中から一人の神の使徒が新生したのである。







「黄金の帝国・幕間1 ~とある枢機卿の回想・前」







 かつて呼ばれていた名前はもう思い出すことができない。それは濃霧の中よりも曖昧な遠い記憶の彼方である。一番古い記憶は、その教会の孤児院に拾われた日のことだ。町で浮浪児をしていた彼はそのとき行き倒れて死ぬ寸前だった。町の誰かが彼を拾い、その教会へと世話を押し付けたのだろう。

「やあ、初めまして。僕がここの責任者のピエールだ。君も今日から僕達の家族だ」

 目覚めた彼を出迎えたのはそう告げる神父ピエールの笑顔だった。ただの柔和な笑顔がそのときの彼にはまるで太陽のように光り輝いて見えた。

「まるで神様みたいな人だ」

 その時点の彼の貧困な語彙ではこの程度の喩えすら思い浮かべることはできなかったが、まさしく彼はそんな風に思っていた。後日、教会で神の存在を教えられた後になってもその思いはほとんど訂正されていない。

「神父様は神様のお手伝いをしているんだね?」

 彼の問いにピエールは笑って「そうだよ」と頷く。彼もまた得心して頷いた。

「つまり神父様は神様に一番近い人→神様の次に偉い→ほとんど神様」

 彼の中ではそんなものすごい三段論法が成立していた。彼にとっての信仰の対象は神父ピエールである。神に祈りを捧げるとき、彼が思い浮かべるのは天上のどこかにいる見たこともない神様ではなく、会ったこともない教皇庁の教皇でもなく、神父ピエールの笑顔なのだ。そして彼のこの信仰は今に至るまで揺るぎなく貫かれている。
 実際、この時点のピエールはまだ二〇代の若造でしかない。だがすでに高潔な聖職者として名声を得、一部では聖人とすら呼ばれていた。

「他の教会の神父なんてひどいもんだぞ? 貧乏人からむしり取った金で女を買うくらい当たり前にやっている」

 教会と孤児院には何人もの大人がいたが、彼等は皆ピエールに信服し、神父の理想に賛同した同志達である。

「僕達は聖杖教の真の理想を追求する。神父ピエールの元でならそれができると思うんだ」

 孤児院の運営もまた理想追求の一環なのである。
 孤児院での生活は貧しく苦しいものだったが、浮浪児をしていた頃を思えば天地の差があった。どんなに慎ましくとも一日二回欠かさず食事でき、雨風をしのげる建物の中に自分の寝床がある。差別や理不尽な暴力も非常に少ない。貧しい食生活の中でも彼はすくすくと、急速に成長した。推定で六歳になるくらいの頃にはすでに一〇歳児と変わらないくらいの体格を有するようになっていた。

「そこのうすらでかいの、お前を僕の従者にしてやる」

 彼がその貴族の子供と出会ったのはそんな頃である。

「僕はアンリ・ボケ。騎士の息子で、僕もいずれは騎士になる。お前も僕を守って戦うんだぞ」

 アンリ・ボケと名乗るその子供は貴族には到底見えないみすぼらしい格好で彼の前に立っていた。体格も貧弱で、顔には一面ひどいあばたがある。貴族らしい風格も子供らしい愛嬌も持たない一方、貴族らしい驕慢さと子供らしい憎々しさだけは充分に備えていた。
 その日以降、彼はアンリ・ボケというその子供の従者として生活することになる。とは言っても孤児院の外での騎士修業に付き合うわけでもない。今まで通り孤児院の中での雑用に追われる生活の中に、アンリ・ボケの世話係という仕事が一つ加わっただけである。体格は立派に育っても内面はまだまだ幼い彼は逃げるための上手い口実も手段も思いつかず、アンリ・ボケに従順する他なかった。

「あの子も早くここでの生活に馴染んでくれればいいのですが……困ったものです」

 ピエールが彼の前に立ち、やや苦い顔を見せている。ピエールはアンリ・ボケが不在の一時を見計らい、彼の前に現れたのだ。

「あの子が他の皆と仲良くできるよう、君も気を配ってくれませんか」

 それは……と彼は沈黙する。彼の表情を読み、ピエールは苦笑した。

「――確かに君がどんなに努力をしてもあの子自身に変わる気がなければどうしようもないことですね」

 アンリ・ボケと他の子供達の対立はすでに修復不能の水準に達していた。アンリ・ボケは「自分は貴族だ」という自負の元、傲慢な姿勢を崩そうとしなかった。一方の子供達は、

「何が貴族だ。病死した貧乏騎士の四男だか五男だかで、母親の再婚の邪魔だからここに放り込まれたんじゃないか」

 とアンリ・ボケに対する侮蔑を隠そうとしなかった。

「貴族だなんだ言ったところで、こんな平民用の孤児院に入れられる時点でたかが知れるだろ」

 子供達がアンリ・ボケに聞こえるようにそう言って嗤っているのを彼も聞いたことがある。そんな陰口を聞くたびに、鬱憤晴らしのためにアンリ・ボケは適当な口実を付けて彼を折檻するのだ。孤児院には数十人の子供がいて問題児も多いのだが、アンリ・ボケは入院早々に彼等を追い越して問題児の筆頭と見なされるようになっていた。子供だけでなく教会の大人達すら「平民」と見下し、誰にも従おうとしないからである。が、ピエールに対してだけは一応従う姿勢を見せた。

「当然だろう。あの男は爵位を持つ貴族の家の出だからな」

 彼の疑問にアンリ・ボケはそう答える。初めて知った事実に彼は驚き、機会を見つめてピエールに確認した。

「確かに実家はそうですよ? ですが相続権も弟のものですし、実家は私とはもう関わりのない家です」

 ピエールの実家は爵位も領地もある裕福な貴族で、ピエールはそこの長男とした生まれた。幼い頃に母親を亡くし、父親と折り合いが悪くなったピエールはどうしようもないドラ息子として育ったと言う。

「町の愚連隊を率い、悪さは一通りやりました。今思い返すと恥ずかしいばかりです」

 そのピエールからすればアンリ・ボケの振る舞いなど子供らしく微笑ましいわがままに過ぎないようだった。彼からしてみればたまったものではないのだが。

「そのうち父は後妻を娶り、彼女が生んだ子供に爵位を継がせることを決めます。私は厄介払いに修道院に放り込まれたんです」

 当初はさらに荒れたピエールだが、やがて聖杖教の説く隣人愛に目覚め、聖職者として生きていくことを決意するようになる。

「運が良かったのですね。私は素晴らしい師とめぐり会えましたから。あの方と会っていなければ私は修道院を飛び出して傭兵となり、今頃どこかの戦場で生命を落としていたことでしょう」

 あの子にとっての私が私のとってのあの方となってくれればいいのですが――ピエールはそう語り、アンリ・ボケを導くべく尽力した。何度も面談を重ね、説教をするのだが、アンリ・ボケはかたくなになる一方である。

「神父はこのあたりじゃ聖人と呼ばれているそうだが、僕に言わせればただのペテン師だ」

 アンリ・ボケは彼の前ではピエールに対する敵意も露わにしていた。彼は内心でそれに反発するが表面上は大人しく頷いておく。

「この地上から戦争を根絶する」

 そう公言するピエールは、まずは教会のある領地の領主であるロレーヌ伯から説得を開始していた。

「戦いは何も生みません。生まれるのは悲しみと憎悪だけです。それは神の御心に沿う道ではないのです」

「まずは隣国のライニンヘン伯と友誼を結ぶところから始めましょう。信頼関係が深まれば早々戦争にはならないでしょう」

「少しずつ軍備を減らしましょう。ロレーヌ伯が平和を願っていることを行動で示すのです」

 ピエールに感化されたロレーヌ伯は騎士の数を、兵の数を減らしていく。浮いた予算は租税の軽減へと当てられ、ロレーヌ伯は領民から名君と呼ばれ、慕われるようになる。それとともに神父ピエールの名声も一層高まった。だが、

「ロレーヌ伯が年老いて気弱になったところによほど上手くつけ込んだんだろう。『汝の隣人を愛せよ』『右の頬を打たれたなら左の頬を差し出せ』……そんなのはただの空論だ。領主が実行していいことじゃない」

 アンリ・ボケはそう言ってその領主を嘲笑した。

「でも、税が軽くなったと皆が喜んでいますよ」

「その分敵に対する備えが疎かになっているんだ。ロレーヌ伯はいずれその報いを受けるだろうさ」

 このときアンリ・ボケは自分以外の全ての人間を軽蔑し、憎悪し、嘲笑していたのだろう。
 彼がアンリ・ボケの従者になったことはマイナス面しかなかったわけではない。彼がアンリ・ボケから学んだことも確かにあったのだ。
 ……それから一年もしないうちにアンリ・ボケの予言は的中することとなる。ロレーヌ伯領は隣国のライニンヘン伯から侵攻されたのだ。弱体化していたロレーヌ伯の軍は簡単に撃破され、領地はどんどん浸食されていく。ピエールも含めた教会の大人達が不安げに右往左往する中、アンリ・ボケだけが嗤いを浮かべている。すでにロレーヌ伯の滅亡は誰の目にも避けられないものと見られていた。ロレーヌ伯から多大な援助を受けているこの教会と孤児院もまたこの先の運営が行き詰まることになる――ピエールも教会の大人達も、皆そのことを心配していた。
 ライニンヘン伯の軍が近くまで来ているとの噂が聞こえていたが、教会も孤児院もいつもと変わらない日常を送っていた。その日の深夜、寝床から抜け出して厠へと向かった彼は、たまたまピエールと出会う。

「やあ、良い夜ですね」

 ピエールはいつものように柔和な笑みを浮かべた。二人で厠へと向かい、用を足したその帰り。

「……?」

 何気なく敷地に外へと視線を送ったピエールが眉をひそめた。

「神父様?」

 彼もまたピエールの視線の先を見つめようとする。そのとき、敷地の外が一斉に燃え上がったように見えた。何十本という松明が同時に火を灯されたのだ。その松明の明かりに照らされ、武器を手にした兵士の姿が闇の中に浮かんでいる。一本の松明の周囲に何人もの兵がいる。

「一体何が……」

 呆然とするだけのピエールに対し、彼は迅速に最善の判断を下した。ピエールの手を引いて走り出したのだ。兵が教会敷地へと突入してきたのはその直後である。

「待ってください! あの軍を止めないと」

 そう言って足を止めようとするピエールの手を、彼は大人顔負けの力で引きずっていく。

「逃げるのなら他の皆も一緒に」

 そう言っている間にも兵は教会と孤児院に押し入っていく。数々の悲鳴が二人の耳にも届いた。さすがにピエールもこれ以上は立ち止まろうとしなかった。
 教会の敷地を脱し、森を駆け抜け、丘を駆け上がる。教会を眼下に見渡せる丘の上までやってきて、ようやく二人は足を止めた。二人は後ろを振り返る。

「教会が……」

 教会が、孤児院が燃えていた。神父ピエールの同志達が、彼の仲間の孤児達が、炎に包まれていた。何もかもが焼き尽くされようとしていた。二人は無言のまま立ち尽くし、その光景を心へと刻み付け。炎の輝きを瞳へと焼き付ける。
教会と孤児院が焼け落ち、全てが灰に還るまで、二人はその丘に立ち尽くしていた。







 ロレーヌ伯領の全域に戦渦が広がり、街道には難民が溢れていた。彼とピエールはその難民の一員となって街道を歩いている。
 彼の横で老婆が力尽きたようにひざまづくが、手を差し延ばすものは誰もいない。そこにピエールが手を差し出した。

「大丈夫ですか? さあ、立ちましょう」

 その老婆がピエールの手を取ろうとし、そこで気が付いた。

「あ、あなたは神父ピエール……」

 しばし呆然としていた老婆だが、形相が一変した。

「お前が! お前が余計なことをしたばかりに! 領主様は戦争に負けちまって、わたし達はこの有様だよ!」

 ピエールの正体が周囲の難民に知れ渡り、難民がざわめいた。

「わたしの家を帰しておくれ! 死んだ息子を帰しておくれ! さあ!」

 そして老婆の雄叫びが周囲へと響き、その思いが周囲へと伝わっていく。

「……そうだ、そうだ! お前が余計なことをしたばっかりに!」

「領主様が負けたのはお前のせいだ!」

「どうやって責任を取るつもりだ!」

 最初は言葉だけでピエールを糾弾していた難民達だが、手が出るまではそれほど時間はかからなかった。彼がピエールをかばって難民の前に立ちはだかるが、所詮は子供でしかない。彼にできるのはピエールの手を引いて逃げ出すことだけだ。彼とピエールは難民から石をぶつけられ、血を流しながらも何とか難民の目前から姿を隠した。
 それ以降、二人はあらゆる人間を避けて旅を続けなければならなかった。主要な街道は通らず、選ぶのは人気の少ない裏道や山道。農村で宿を求めることも避け、連日野宿である。乞食と変わらぬ姿となり、畑から食べ物を盗んだり残飯を恵んでもらったりして飢えをしのぎ、旅を続ける。
 普通に移動すれば半月かからず到着する目的地にようやく到着できたのは実に一ヶ月後だった。ピエールが彼を連れてやってきたのは聖杖教の総本山、教皇庁のあるテ=デウムである。
 ピエールは親しい友人の家を訪れた。教皇庁の一職員であるその友人はピエールの姿に驚きつつもその生存を喜び、彼を自宅へと招き入れた。

「ところでピエール、その子供は?」

「彼は孤児院で世話をしていた子だ。名前はアンリ・ボケ」

 友人の問いにピエールはそう答える。彼は驚いてピエールの顔を見つめるが、その表情からはどんな感情も考えも読み取ることができなかった。
 水浴びをくり返して一ヶ月分の垢をこすり落とし、真新しい服をもらい、人間らしいまともな食事を食べさせてもらい、ようやく人心地を付く。その夜、ピエールと彼は客室の一つを提供してもらった。
 ピエールと二人だけになり、彼はようやく疑問をぶつける機会を持った。だが、

「――アンリ、私はずっと考えていたんです。あの夜からずっと」

 ピエールの真剣な眼差しが彼の心を貫く。射止められたように彼は身動きできなくなっていた。

「私が間違っていたのだろうか、と。私が間違った理想を掲げ、ロレーヌ伯や皆を惑わせたのだろうかと。その結果があの夜だったのだろうかと。私はずっと考えていたんです。考えに考え、考え抜いて、ようやく結論に至りました」

 ピエールは一呼吸置き、不意にいつものような――一ヶ月前と同じような笑みを見せた。

「やり方に間違いがあったとしても、掲げた理想に間違いなどなかった。この地上から戦争を根絶したい――その思いが間違っているはずがないのです」

「はい、その通りです神父様」

 彼は脊椎反射の速さでそう答える。

「私はこの地上から戦争を根絶したい。あの夜のような悲劇を二度とくり返したくない。誰にもくり返してほしくない。あの夜を経て私は自分の理想にさらなる確信を得ることができました」

 ピエールはそう言って彼へと手を差し出す。

「アンリ・ボケ。私はあなたの力を必要としている。私の理想を実現するため、あなたの力を貸してほしいのです」

 答えるべき言葉を持たないまま、彼はピエールの手を取る。彼の瞳の輝きを見ればその答えは明確だった。言葉にする必要もない。
 この夜、神父ピエールは自らの理想に向けて再出発をした。その傍らには幼い騎士アンリ・ボケが立っている。この夜、名もなき浮浪児の一人が死んだ。その代わりに新たに生まれたのは、アンリ・ボケという名の神の騎士だった。







 神父ピエールがテ=デウムに逃げ戻ってきた一件は教皇庁の一部にニュースとして知れ渡った。ピエールは清貧を旨とし、聖職者の腐敗を強く批判し、聖人として名声を得た人物だ。そのピエールが自らの理想に足下をすくわれ、挫折した事実は、批判される種類の聖職者にとっては何よりも愉快なニュースだったことだろう。

「あの男がロレーヌ伯領から身体一つで逃げ出したそうだぞ」

「ああ、今はここテ=デウムに戻ってきている。一体どの面を下げて、というところだな」

「あの男のせいでロレーヌ伯爵家は滅亡したんだ。あの男の話に耳を傾ける者はもうどこにもいないだろうさ」

 多くの者が神父ピエールはこれでもう終わりだと思っていた。実際ピエールの活動を支援してきた聖職者も諸侯も、そのほとんどが彼の元から去っている。ピエールはわずかに残ったほんの一握りの支援者からの援助で糊口をしのぎつつ、教皇庁の図書館にこもっていた。友人の家に居候をして連日図書館に通い、聖典やその注釈書、歴代教皇の言行録を片端から読みあさる毎日である。
 一方のアンリ・ボケは教皇庁付属の神学校に入学した。

「……主に従う人は……揺らぐ? 彼は記憶された。彼は悪評を立てられた……? その心は固く信頼している。……えーと、彼は敵を支配する」

 四苦八苦しつつも聖典を読み上げようとするアンリ・ボケを、周囲の生徒達が笑っている。孤児院でも文字は習っていたがまだ一部の単語の読みを習った段階でしかなく、神学校の授業について行ける水準には到底届いていなかったのだ。アンリ・ボケは速やかに落ちこぼれた。
 そんな調子で数ヶ月が過ぎたある夜。

「神父様、今日導師ベネディクトから退学を勧告されました」

 自宅に戻ったアンリ・ボケはピエールにそう報告する。

(一生懸命勉強して立派な聖職者になって、神父様の手伝いをするつもりだったのに)

 アンリ・ボケの気高い目標は最初の一歩目で挫折してしまったのだ。恥ずかしさと自己嫌悪と劣等感で気持ちは地の底まで沈んでいた。

「導師は聖堂騎士団への転籍を斡旋してくれるそうです」

 聖堂騎士団は教皇庁に属する(この時点では)唯一の武装組織である。教皇庁とテ=デウムの治安維持や警備を一手に担っている。が、教皇庁の組織上では外部団体でしかなく、聖杖教の教義からすれば一種の鬼子だった。教皇庁の主流派から見れば手頃な左遷先であり、聖堂騎士団は落ちこぼれや不祥事を起こした聖職者、政争に敗れた反主流派等の吹きだまりとなっていた。
 アンリ・ボケの報告を受けたピエールは「ふむ」と少し考え、

「それもいいかもしれませんね」

 と軽く頷く。ピエールに見捨てられたように感じ、アンリ・ボケの落ち込みようはさらに深まった。その様子を見て取って、ピエールは笑いながら手を振る。

「アンリ、誤解しないでください。あなたが聖堂騎士団に属することは私達の今後にとって必要なことなのです」

 うつむかせていた顔を上へと向かせるアンリ・ボケ。ピエールは笑顔を引っ込め、真剣な表情を見せた。

「ちょうど私の考えもまとまったところです。あなたに今後の方針を示しましょう」

 ピエールの言葉にアンリ・ボケもまたこれ以上ないくらい真面目な顔をする。そのアンリ・ボケに、ピエールは机の上に地図を広げて示した。地図は地中海を中心とし、エレブ・アシュー、そしてネゲヴの三大陸を描いたものである。

「聖典の一節を覚えていますか? ケムトを脱出した契約者モーゼは荒野を放浪する中、神より約束の地を与えられました。その地とは『大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て』。大河ユフテスとはこです」

 とピエールは元の世界ではユーフラテス川と呼ばれている川を指し示す。

「では『日の入る方の大海』とはどこか? それはここなのです」

 とピエールが指し示したのは、元の世界では大西洋と呼ばれている海、この世界では「西の大洋」と呼ばれている海だった。

「……えーと」

 とアンリ・ボケが戸惑いをその瞳に浮かべる。ピエールは苦笑を示した。

「確かに従来の解釈では『日の入る方の大海』は地中海を意味するとされてきました。ですが、三〇〇年前の教皇ウルバヌスがこのような解釈を勅書で発しているのです。『神が我等聖杖教徒に与えた約束の地とはネゲヴのことなのだ』と」

 教皇ウルバヌスは無法時代の教皇だ。この時代、エレブ側とネゲヴ側のバール人都市が海洋交易の利権を巡って戦争を続けていた。この勅書はエレブ側の都市がネゲヴ側の都市を攻めるお墨付きを与えるために発せられたものに過ぎない。聖杖教徒をバール人の戦争に協力させるために発せられたものに過ぎないのだ。本気で主張されたものでもなく、同じ主張がくり返されることもなく、とっくに忘れられたものである。

「ですが、正式に撤回されたものでもありません。そうである以上、ネゲヴが聖杖教の土地であることは三〇〇年前から変わることのない教皇庁の正式な立場であると言えるのです」

 ピエールの説明を受けてもアンリ・ボケの戸惑いは深まるばかりである。そんなアンリ・ボケに構わずピエールは説明を続ける。

「神から与えられた私達の大地が今、異教徒や悪魔の民に奪われ、穢されています。さらには契約者モーゼの聖地ケムトもまた異教徒の支配下にあります。聖杖教徒であるならばこの事態を許せるはずがないのです」

 そしてピエールはアンリ・ボケに対して決定的な一言を放った。

「エレブ全ての軍勢を聖杖の旗の下に率い、ネゲヴを征服します。貧しき民にはネゲヴの農地を、騎士や諸侯にはネゲヴの領地を分け与えるのです」

 アンリ・ボケは呆然とした。短くない時間を経て、ようやく再起動を果たす。

「……そんなことをして、なおさら戦争がひどくなりはしませんか?」

「まず間違いなくひどくなるでしょうね。ですので、そう主張するだけで実際には征服などやりはません」

 と軽く笑うピエール。アンリ・ボケは安堵のため息をついた。

「……充分な時間さえあれば一人一人を説得していき全ての人間を教化し、戦争のない世界を実現するのも不可能ではないでしょう。ですが、それが成されるまで一体何百年の時間を必要とすることか。私は今まさに起こっている悲劇を、今この瞬間に流れる血を、涙を止めたいのです。そのためなら手段の是非を問うてはいられない。問うべきではない……私はあの夜、それを理解しました」

 ピエールは拳を握りしめ、虚空を見つめた。そんなピエールをアンリ・ボケが見つめている。

「私は私の生きている間に戦争の起こらない、戦争の起こりにくい状況だけでも作っておきたい。そのために必要なのは、王権の強化です」

「王権?」

 アンリ・ボケの疑問にピエールが頷く。

「はい。国王と言えば一国の中で一番偉い人のように思えますが、実際のところはそうでもありません。国王は諸侯の中で特に有力な一人に過ぎず、国王は有力諸侯の協力がなければ戦争一つ満足にできません。例えば国王が『国内で戦争をするな』と命令としたとしても、諸侯の誰もそれを守りはしないでしょう。その命令を破ったところで、その領主を処罰するだけの力が国王にはないからです」

「つまり、王様に充分な力があればライニンヘン伯のような奴を抑えることができる……?」

 アンリ・ボケの理解にピエールの顔が輝いた。

「はい! まさしくその通りです。そのために、国王に充分な力を付けるためには国王に戦力を集中させる必要がある。そのためのネゲヴ征服、そのための聖地奪還です。『ネゲヴ征服のために軍を再編する』と称し、諸侯から軍権を奪っていく。逆らう諸侯は異端として討伐していけばいいのです」

 アンリ・ボケは呆然としたように「はあ」と頷いた。ピエールは優しい瞳で遠くを見つめる。

「私の主張が賛同者を集めて教会の主流になるまで十年か二十年、各国の国王にも協力を得て軍権を一本化するまで二十年か三十年……ネゲヴ征服の体制が整う頃には私は天に召されていることでしょう。そうなったら適当な口実を付けて遠征を中止すればいい。それでエレブの平和は実現できます」

 未だ十歳にもならない子供のアンリ・ボケにはそんな先のことは想像すらできない。今のアンリ・ボケに判るのはごく目先のことだけである。

「僕は聖堂騎士団に属して立派な騎士になればいいのですね?」

「その通りです。私には戦争を理解し、武力を有する協力者が必要です。それがあなたであるのならこれ以上の適任者はありません」

 ピエールの言葉にアンリ・ボケは「判りました」と頷く。アンリ・ボケは次の日には進学校を退学して聖堂騎士団に転籍する。こうしてアンリ・ボケは小さな騎士としての第一歩を踏み出したのである。







 それから数年はピエールもアンリ・ボケも足場を固めて力を蓄えることに専念した。ピエールは教皇庁で、エレブ諸国でネゲヴ征服を精力的に説いて回っている。教皇庁でネゲヴ征服構想を呈示した当初は嘲笑を浴びるだけだったが、数年を経て徐々に賛同者を増やしていた。特にフランク王国の王室周辺にはピエールの主張に興味を示している者が多い。ピエールの主張が王権の強化に利用できると気付いているのだろう。
 一方のアンリ・ボケは聖堂騎士団で騎士として頭角を現していた。アンリ・ボケはようやく一二歳になったばかりだが体格はすでに大人のそれであり、年齢を一七歳と偽っている。体格だけでなく体力と腕力にも恵まれ、アンリ・ボケの剣の一撃に耐えられる騎士は聖堂騎士団の中にはいないくらいだった。――もっとも、聖堂騎士団の騎士と言えば見かけ倒しの役立たずばかりと世間でも評判なのだが。
 聖堂騎士団の役目は教皇庁とテ=デウムの警備であり、一般の諸侯の騎士のように戦場に出る機会はほとんどない。アンリ・ボケにはそれが歯がゆくてたまらなかった。

「戦う機会が必要だ。私自身の出世のためにも、聖堂騎士団を精強にするためにも。戦場に出たことのない騎士など張り子にも劣る」

 ピエールに相談しつつ出動する理由を探していたアンリ・ボケだが、ようやくその機会が巡ってきた。アンリ・ボケはあるときテ=デウムを訪れた巡礼者の一団と出会ったのだ。

「お前達、その姿はどうしたのだ」

 アンリ・ボケは驚いて問う。その一団の多くの者が血に汚れ、傷を負っていたからだ。

「はい、道中に山賊に襲われ……村を出てここまで何とかたどり着いたのは半分だけでした」

「何と痛ましい……」

 アンリ・ボケの身体が打ち震えた。
 それから半月ばかりを経て。その巡礼者の一団がディウティスクの村に帰る日がやってきた。テ=デウムの城門の前で一団を待っていたのは、アンリ・ボケ率いる十名の騎士だった。アンリ・ボケは剣の代わりに鉄槌を携えているし、騎士の一団が掲げる旗には交差する二本の鉄槌が描かれている。

「騎士様、これは一体……」

「我々があなた達を故郷まで送ろう」

 巡礼者達は戸惑うしかない。

「で、ですが、私どもには到底騎士様の護衛をお雇いできるような蓄えは……」

「案ずるでない。今回の出動費用は神父ピエールが受けている寄進の中から出されている。お前達はただ神父ピエールに感謝を捧げればいいのだ」

 巡礼者達は這いつくばって礼を言うばかりである。

「おお、有り難いことです……」

「これで生きて故郷に帰れる……」

 ……こうして巡礼者の護衛という格好の口実を得たアンリ・ボケはくり返し自分の騎士隊を出動させた。ときには山賊や傭兵団と戦い、小さくない被害も負った。だが負けたことは一度もないし、アンリ・ボケ自身も必ず生き残っていた。

「何、騎士の補充などいくらでもできる。私に付いてこれない軟弱な騎士など不要だ」

 聖堂騎士団の騎士には貴族や大商人のどら息子等も多く属していたが、アンリ・ボケは自分の部隊からはそんな劣悪な騎士を排除。代わりに貧乏騎士の四男五男や出自の定かではない平民を登用した。貪欲に手柄を欲するそれらの騎士を過酷な実戦に投入し、さらに鍛え上げる。二年ほどで、アンリ・ボケは小さいながらも最精鋭の騎士隊を創り出すことに成功していた。鉄槌の旗を掲げるその部隊は鉄槌騎士隊の通称で知られるようになり、やがてアンリ・ボケ達もその名を自称するようになった。
 今日も今日とてアンリ・ボケは鉄槌騎士隊を率いて巡礼団を護衛中である。護衛対象の中には巡礼団だけでなく一般の旅人や商人の一団も混じっている。

「騎士様、いつもありがとうこざいます。これは神父ピエールへのほんの心ばかりの感謝の気持ちでございます」

 商人の差し出す袋をアンリ・ボケは恭しく受け取った。

「うむ。お前達の志は必ず神父ピエールまで届けよう」

 アンリ・ボケの活動が継続的になり広範囲になるにつれ、資金面でも継続的な収入を得るようになっていた。さらには、



「城門よ、頭を上げよ
とこしえの門よ、身を起こせ。
栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。
強く雄々しい主、雄々しく戦われる主――」



 夜の野営地に朗々とした声が響き渡っている。聖典を読み上げているのはアンリ・ボケであり、巡礼者だけでなく旅人や商人、騎士までがその声に聞き入っていた。巡礼者の中には有り難さがあまって涙ぐんでいる者もいる。
 元々は誰かに聞かせるつもりだったわけでもなく、出来の悪い生徒だったアンリ・ボケが何とか暗記をしようと聖典を読誦していただけであり、長年の習慣を未だに続けているだけである。だが、周囲にはそんなことは判らない。

「騎士隊を率いる立派な聖職者が下々にも祝福を授けてくださっている」

 そう受け止められているのである。アンリ・ボケの人並み外れた巨体と、そこから発せられる大音声がその評判に拍車をかけていた。
 そして一旦戦闘となれば、アンリ・ボケは誰よりも先に前に出て誰よりも勇猛に戦った。

「ぬぅおおおっっーー!」

 傭兵崩れの山賊の一団へと、アンリ・ボケは真っ先に突撃する。他の騎士が遅れないよう後に続いた。
 必死の形相で走ってくるアンリ・ボケの有様は、その鈍重そうな見かけからまるで牛が二本足で立って走っているような、間抜けな印象を与えただろう。実際山賊の中には笑っている者もいる。だが十も数えないうちにその嘲笑は凍り付くのだ。

「神の裁きを受けよーっっ!」

 アンリ・ボケの振り回す巨大な鉄槌が山賊の一人の頭部に命中。その山賊は首から上を西瓜のように粉々に砕かれ、血と脳漿を撒き散らした。
 慌てて剣を振りかざす山賊だが、アンリ・ボケの鉄槌がその剣へと振り下ろされる。鉄槌は剣をへし折りつつ山賊の胸部に当たり、その山賊は胸を大きく凹ませて大地に倒れた。血と涙と小便と、あらゆる液体を垂れ流しつつ、見るも無惨な姿になってもまだ生きている。
 アンリ・ボケの得物は巨大な鉄槌だ。常人なら両手で持つのが精一杯のその鉄槌を、アンリ・ボケは二本の手にそれぞれ一本ずつ持ち、縦横に振り回している。鉄槌が振り回される度に血の花が咲き、死体が製造された。山賊は我先に逃げ出していくが、それを騎士隊の面々が追撃した。
 アンリ・ボケの名は山賊にとっては死神に等しいものとなり、その裏返しとして旅人や行商人にとっては神の使いとなっている。アンリ・ボケの鉄槌の欠片が旅のお守りとして珍重され、アンリ・ボケの髪の一房は病魔を打ち払う魔除けとなった。

「旅人の守護者」

 いつしかアンリ・ボケはそう呼ばれるようになっていた。アンリ・ボケは自分自身の力で聖人に準ずる存在という世評を得るようになったのである。







 アンリ・ボケが巡礼者の護衛任務から久々にテ=デウムに、ピエールの元に戻ってくると、そこには見慣れない人物の姿があった。

「女人禁制の教皇庁に何故女性がいるのだ?」

 最初はそう訝ってしまった。年齢は見たところ十代の前半。身長は低く華奢で、顔立ちはまるで女の子のようだ。それもすこぶる付きの美少女である。髪は金鎖のように輝き、肌は大理石のように白く、まるで絵画に描かれる天使のような姿をした少年であった。

「紹介しますよ。この子が今度私の秘書をしてくれることになったんです。名前はニコラ・レミ」

「ニコラ・レミだ。君とは同い年だと聞いている。よろしく頼むよ」

 ピエールの紹介を受けてニコラ・レミは如才なく笑みを示し、アンリ・ボケに手を差し出す。アンリ・ボケは硬い表情のままその手を力任せに握りしめた。ニコラ・レミは何とかその痛みに耐えて微笑み続けている。
 「アンリ・ボケ(の公式年齢)と同い年」ということは今年一九歳ということになる。とてもそんな風には見えない、幼い容貌をしていた。「アンリ・ボケ(の実年齢の一四歳)と同い年」と勘違いしそうになったくらいである。
 その日以降、ピエールとニコラ・レミが仲睦まじく仕事をしている姿をアンリ・ボケが物陰から見つめる――という状況がしばしば見受けられた。

「あの子は人見知りをしているだけですから、気を悪くしないでください」

「ええ、もちろん。同い年の同僚なんですから仲良くできればと思っています」

 と笑い合うピエールとニコラ・レミ。アンリ・ボケは柱の陰からその様子を見つめている。握りしめた石柱の角が砕けそうになっていた。
 ニコラ・レミはアンリ・ボケに話しかけるなどして、仲良くすべく努力はしているのだ。それを一方的に無視しているのはアンリ・ボケの方だった。しばらくはそんな状態が続いていたのだが、ある日。

「ニコラ・レミ」

 場所はピエールが預かる教会の一角。一人回廊を歩くニコラ・レミの名を何者かが呼ぶ。振り返るとそこに立っているのはアンリ・ボケで――彼は鉄槌を振りかぶっている。

「な――」

 振り下ろされる鉄槌を間五髪くらいで避けるニコラ・レミ。鉄槌は石の壁を砕き、飛び散った破片がニコラ・レミの頬をかすめ、わずかに血が流れた。

「な、な、何を一体」

 うろたえるニコラ・レミに対し、アンリ・ボケは悠然と微笑んでいる。それは獲物を目の前にした肉食獣の笑みだった。

「身に覚えがないとでも?」

 アンリ・ボケの問いにニコラ・レミは壊れた人形のように首を縦に振り続ける。アンリ・ボケは再度鉄槌を振りかぶり、ニコラ・レミは腕で頭をかばいながら叫んだ。

「ぼくが枢機卿ピエルレオニと関わりがあることを言っているのか?!」

「何だ、判っているではないか」

 枢機卿ピエルレオニはピエールの政敵、その筆頭と言うべき人物である。教皇庁の主流派を束ね、次期教皇の最有力候補と目されている。が、女好きで金に目がなく、腐敗聖職者の代表格として悪名も高かった。

「そのことなら司教ピエールはご存じだ! 最初に僕から説明した!」

 アンリ・ボケはわずかに眉をひそめた。だがその鉄槌は振り上げられたままで、いつでもニコラ・レミの頭へと振り下ろせる姿勢のまま微動だにしていない。

「確かに僕は枢機卿ピエルレオニの甥の一人だ。だが母親の身分が低く、甥として公認されていない」

 この場合「甥」とは「息子」を意味する教皇庁内の隠語である。

「司教ピエールの内側に入り込み、情報を探り、工作をして失脚させる。そのために伯父上は僕をここへと送り込んだ。それは一番最初に司教ピエールに説明している」

 アンリ・ボケはようやく鉄槌を地面へと下ろす。ニコラ・レミは大きく安堵のため息をついた。

「貴様は自分の伯父を裏切るのか?」

「一度しか会ったことがなく、僕にこんな汚れ仕事をやらせて捨て駒にしようとする。そんな奴にどうして忠誠を誓わなきゃいけない? 僕が僕のことを考えて行動して、何が悪い?」

 ニコラ・レミは怒りの炎を瞳に燃やし、まるでピエルレオニと対峙するかのようにアンリ・ボケを睨んだ。一方のアンリ・ボケは氷のように冷たくニコラ・レミを見据えている。

「――そのくらいにしてあげてください」

 不意に声が発せられ、二人がその方へと目を向ける。そこには静かに佇むピエールの姿があった。ピエールはため息をつき、

「アンリ。心配してくれたことは判りますが、乱暴な真似は感心しませんね」

 アンリ・ボケは恥じ入り、身を縮める。その豹変ぶりにニコラ・レミは目を丸くした。

「私を枢機卿に、そして教皇にするために力を尽くす――彼はそう約束してくれています。彼は私達の同志です」

「何が目的だ? 伯父に対する当てつけか?」

 アンリ・ボケの問いにニコラ・レミは不遜な笑みを見せた。

「司教ピエールが教皇になれば僕は枢機卿だ。――王宮に入っていたなら僕は将軍にだって宰相にだってなれたんだ! せめて枢機卿くらいにならなきゃ割に合わない」

 成人前の子供のような外見で大言壮語をする姿は普通なら滑稽に見えただろう。だがニコラ・レミはあくまで真剣である。それは自己の能力に対する絶対的な確信、圧倒的な過信だった。

「そ、そうか」

 アンリ・ボケは狂気じみたその姿に威圧されてしまい、引き下がる。こうしてニコラ・レミはアンリ・ボケの信用を得、ピエールの腹心として行動するようになった。だがあくまで「信用」であって「信頼」ではない。

「確かにあいつは神父様を裏切りはしないでしょう。でも」

 ピエールが司教に出世しようと、アンリ・ボケにとって彼はいつまでも最初に出会ったときのままの「神父様」だった。

「はい、彼は私の理想を共有しているわけではありません。彼にとっては理想も手段の一つに過ぎないのです」

 ニコラ・レミにとっての目的は立身出世、自己の能力を世に示し、歴史に残すこと。ピエルレオニのように財貨や贅沢を目的としているわけではないが、聖杖教の理想が手段に過ぎない点では同類の存在だった。

「ですが、彼は口先だけではありません。その高言に見合うだけの能力も持っているのです。彼の力は私にとって不可欠となっています」

 アンリ・ボケは「そうですか」と肩を落とす。そんなアンリ・ボケにピエールが笑いかけた。

「もちろんあなたの力も私にとっては欠かせないものですよ、アンリ。それに何より、私達は理想を共有している。違いますか?」

「いえ、その通りです神父様」

 アンリ・ボケは掌を返したように明るさを取り戻した。

「私が教皇になったならあなただって枢機卿ですよ。私には理想を等しくする後継者が必要なのですから」

「……そのお言葉だけで充分です」

 聖堂騎士団に所属するアンリ・ボケが教皇に選ばれることはどう考えてもあり得ないだろう。枢機卿になることだって現状では夢のような話なのだから。だがアンリ・ボケにとってはそれも些細な話である。

「肝心なのは神父様の理想を実現すること、それに貢献することだ。私の地位や立場や役職など、それこそそのための手段に過ぎない」

 現実にはピエールの力になるにはより高い役職が、より強い権限が必要だ。だからアンリ・ボケも人並みに猟官運動に勤しむのである。

「鼻薬を効かせておきました。次の叙勲では昇進できるでしょう」

 ニコラ・レミが来てからは以前に比べて昇進が非常にスムーズになっている。確かにニコラ・レミはその能力をピエールのために存分に使っており、ピエールの勢力拡大に大いに貢献しているようだった。
 だがだからと言って、彼の存在が気に食わないことには変わりはしない。アンリ・ボケが泥と血にまみれて各地で転戦している間、ニコラ・レミはピエールと共に仕事をし、ピエールの寵愛を一身に受けているのだから。

「……あの、彼は一体」

「焼きもちを焼いているだけです。気にしないでください」

 ピエールはそう言って笑うが、ニコラ・レミには到底笑えない。冷や汗が流れるばかりである。ニコラ・レミの目の端には、物陰に隠れて自分達を見つめながらハンカチを噛み締めるアンリ・ボケの姿が写っていた。







[19836] 幕間2 ~とある枢機卿の回想・後
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/06/28 21:03


「黄金の帝国・幕間2 ~とある枢機卿の回想・後」





 アンリ・ボケはようやく実年齢が二〇歳を越えたところである。だがその事実を知る者はピエール以外には一人もいないし、それを事実だと信じる者もピエールただ一人だろう。公式年齢の「二五歳」を教えられて驚かない者はいないし、一般の多くの者は三〇代だと思っている。
 見上げるような巨体と老成した容貌。それに加えてくぐり抜けてきた戦場と修羅場の数々、それによって培われた経験と自信、さらに「旅人の守護者」という名声。それらが自然と相対する者を圧倒させ、アンリ・ボケの年齢計測を大幅に上方修正させているのだ。
 旅人とともに移動し続けるのがアンリ・ボケの日常である。多くはフランク王国国内。まれにディウティスクやレモリア、イベルスへも足を伸ばすことがある。そして野営のたびに旅人が、近隣からやってきた民衆がアンリ・ボケを取り囲むのだ。
 長い順番を待ち、乳児を抱いた若い母親がアンリ・ボケの前へと進み出る。

「今年生まれた子なのですが、どうにも病気がちで……どうか騎士様のご加護を」

 アンリ・ボケは「うむ、よかろう」と鷹揚に頷き、愛用の鉄槌を両手に持った。T字に組まれた鋼鉄の柱に絡みつく蛇の姿――鉄槌と言うよりはどう見ても聖杖教の象徴たる聖杖だ。柱木部分の長さは一メートル以上。振り回しやすいよう柄が付けられており、全体の長さは一・三メートルを越えていた。儀式用に作られた鉄槌だが、実戦でも使わないわけではない。
 アンリ・ボケがその親子から一歩離れ、手に聖杖を構え、振りかぶった。そして、

「悪しき病魔よ、退くがいい!」

 その赤ん坊の頭へと聖杖が振り下ろされた。聖杖が赤ん坊の頭部を砕くかと思われたが、その寸前で聖杖が止まる。聖杖は赤ん坊の手前数センチの空気を叩き、下げられていった。

「ひとまず病魔は打ち祓った。お前達親子に神のご加護があらんことを」

 と厳かに告げるアンリ・ボケ。若い母親は「ありがとうございます!」と最大限の感謝を捧げ、後ろへと下がっていく。次にアンリ・ボケの前に進み出てきたのはくたびれた中年男だ。その中年男はアンリ・ボケに懺悔をする。

「……あっしはどうにも酒を飲むのが止められなくて……それで仕事も続かず、女房にも逃げられちまいました。あっしの中に悪魔がいるのならそれを是非騎士様に祓っていただきたく」

「思い違いをするでない。悪魔は確かに常に我々を誘惑しているが、それに乗るか否かは自分自身の意志が決めることなのだ」

 アンリ・ボケはその中年男を冷たく見据える。中年男は身震いをした。

「いくら私が悪魔を祓おうとしても、お前自身に悪魔に打ち勝つ意志がないならば、我が鉄槌はお前ごと悪魔を打ち砕くこととなるだろう。覚悟はいいか?」

 アンリ・ボケは殊更に大きく鉄槌を振りかぶった。中年男は怖じけつつ慌てつつ、

「い、いえ、あの、お邪魔しました」

 と逃げ出していく。アンリ・ボケは「ふん」と鼻を鳴らして鉄槌を下ろした。
 アンリ・ボケの鉄槌に「邪悪を打ち祓う聖なる力がある」と言われるようになったのはいつの頃からだろうか。旅人の中から出た病気の子供に対し、気休めで「病魔を打ち祓う」と称して鉄槌で殴る素振りをしたのが最初だったのだ。それが病人が出るたびの恒例となり、やがては通過する村落でも病魔を打ち祓うよう求められるようになった。さらには拡大解釈され、「邪悪な性向・性格をも打ち祓える」と見なされるようになり、アンリ・ボケに懺悔をする者がやってくるに至っている。
 もちろんアンリ・ボケの鉄槌があらゆる病人を救ってきたわけでは決してない。大半の病人は鉄槌の効果も空しく息を引き取っていった。鉄槌に頭を砕かれて絶命した病人もごくわずかだがいないわけではない。だが、病魔を克服した病人も二、三割だが存在した。どこかの異世界人がこの事実を知ったなら、

「それは単なるプラシーボ効果だ」

 とか、

「二重盲検査をしなければ本当に効果があるのかどうか確認できない」

 とか言うだろうが、そんなことを言い出す人間はこの時代にはいない。

「騎士アンリ・ボケの鉄槌には病魔を始めとする邪悪なるものを打ち祓う聖なる力がある」

 それを事実とするだけの実績を、アンリ・ボケの鉄槌は文字通りに叩き出しているのだ。
 この日、アンリ・ボケの前に集まった民衆は五〇人を越えていただろう。アンリ・ボケはほぼその人数分の回数、鉄槌を振り下ろした。巨大な鋼鉄の固まりを何十回も振り回せば、いくらアンリ・ボケであろうと疲労し、消耗する。最後の方になると手元が狂わないよう細心の注意を払う必要があるくらいだ。
 そしてようやく最後の一人がアンリ・ボケの前に進み出た。アンリ・ボケが怪訝そうに眉を動かす。その男の年齢はおそらく四〇代の手前。身にしているのは粗末な皮鎧だが、その態度は太々しい。身長は高くないが胸板が厚く腕も太く、戦士として高い実力を持っているように見受けられた。

「見たところ傭兵のようだが」

「ええ。傭兵のジャックと言えばこの辺じゃそれなりに知られた名前ですぜ」

 「ほう」と感心してみせるアンリ・ボケ。

「その有名な傭兵が私にどんな用件が? 見たところ病魔に憑かれている様子はなさそうだ」

「ええ、その通りです。騎士様にはあたしの悪しき性根を打ち据えていただきたいと思いましてね」

 「ふむ」とアンリ・ボケは頷き、

「聞かせてもらおう」

 と続きを促した。ジャックは頷いて説明を開始する。

「あたしは二〇年以上傭兵一筋でやってきました。領主様のため、村のために戦ったともありましたが、悪いことも散々やってきました。盗み、殺し、強姦、やっていない悪事の方がないくらいです。

 どこかの戦場で戦って死ぬんだろうと思ってましたが、何の因果かこの歳まで生き残ってしまった。そうなると神様が怖くなったんです。散々殺してきたんだから殺されるのは覚悟しているし別に構わないんだが、地獄に堕とされるのはちと勘弁してほしい。そこで、騎士様のお手を煩わせに来たわけです」

「どういうことだ」

 確認するようなアンリ・ボケの問いにジャックは笑いながら答えた。

「騎士様の鉄槌であたしの悪しき魂を祓っていただければ、地獄に堕ちずにすむんじゃないかと思いまして。どうかその鉄槌で思いっきりやってまってください」

 ジャックは全てを受け入れるように両手を広げた。アンリ・ボケは考え込むように沈黙する。周囲もまた沈黙し、息を呑んで事態を見守る中、アンリ・ボケは短くない時間沈黙し続けた。

「――良かろう。お前に我が鉄槌を下す」

 やがてアンリ・ボケが結論を出し、鉄槌を構えた。ジャックは「はい」と目を瞑る。アンリ・ボケは鉄槌を大きく振りかぶり、

「ふんっっ!」

 全力で振り下ろした。ジャックが反射的に肩をすくめる。鉄槌が空気を裂き、ジャックの頭部に命中――

「……あの、騎士様?」

 ジャックの額が切れ、一筋の血を流した。だがそれだけだ。ジャックの頭部は未だ原形を留めている。アンリ・ボケは鉄槌を地面に下ろした。

「――お前の罪がこの程度で償われると思っているのか?」

 アンリ・ボケがジャックを冷たく見据える。鉄槌を振り下ろされても平然としていたジャックが思わず身震いをした。

「神のご慈悲を覚えておくがいい。お前には罪を償う機会が与えられたのだ。お前のような奴にも神のために、弱き者のためにできることがある。これからはそれを成し、お前はお前の罪を償え」

「ははーーっ!」

 ジャックは地面に這いつくばり、平伏した。

「ならば、この私を騎士様の旅にお供させてください! 騎士様の手助けをすることで民の手助けとし、それをもって私の罪の償いとしたいのです!」

「好きにするがいい」

 そう言い残し、アンリ・ボケは背を向けて立ち去っていく。その背中に向けて、ジャックはずっと平伏し続けていた。
 こうしてアンリ・ボケの配下に傭兵のジャックが加わることとなる。そのしばらく後、ジャックはテ=デウムで一人の男と会談を持っていた。

「……いや、あの鉄槌を振り下ろされたときはだまされたかとお恨みしてしまいしましたよ」

「とてもそうは思えないでしょうが、騎士アンリ・ボケはあれでなかなか演技が上手いんですよ」

 ジャックと話をしているのは、すでに二〇代半ばだが未だ十代の少年のように若々しい、というよりは幼い容貌の男――ニコラ・レミその人だった。

「まあ、そうでもなければあの若さであれだけの名声を得られはしないでしょうな」

「今回の出来事が広まれば騎士アンリ・ボケの名声はますます高まることでしょう」

 今回のジャックの懺悔と回心はちょっとしたお芝居だったのだが、その脚本を書いたのがニコラ・レミなのである。

「いくら実績があろうと名声を高めようと、アンリ・ボケが聖堂騎士団を掌握するのはかなりの困難だ。できなくはないだろうが、最低でも十年がかりの仕事となる。そんな時間と手間をかけるよりは、自由になる戦力を外部に持った方がずっといい」

 アンリ・ボケの実績と名声は聖堂騎士団の中では随一だが、それだけに反発する人間も少なくない。最下級貴族という出自、年齢、ピエールという後ろ盾の政治力――アンリ・ボケが聖堂騎士団全てを掌握するにはまだまだ足りないものが多い。そう判断したニコラ・レミが芝居の脚本を書いたのだ。
 ジャックは木槌を旗印とした傭兵団を結成、その任務は鉄槌騎士隊の補助である。戦時には歩兵・弓兵として騎士隊の騎士とともに戦い、平時には補給・情報収集その他諸々の仕事を請け負う。木槌傭兵団にはジャックの元々の部下の他、路頭に迷っている傭兵などが所属。その陣容を急速に拡大させた。数年を経て、アンリ・ボケは中規模の諸侯にも負けないくらいの戦力を保有するようになったのである。







 一方のピエールである。ピエールと彼のネゲヴ征服構想はフランク王国・ディウティスク王国の王室に強い支持を受けている。ピエールはフランク王室と懇意となり、その支援を受けて教皇庁内でもその勢力を拡大させ、枢機卿にまで出世していた。

「ネゲヴ征服を実現し、ネゲヴを我々の手に取り戻すことこそ神の意志である」

「邪神を崇拝するネゲヴの蒙昧な民に聖杖の教えを広めるのだ」

 多神教を滅ぼしたい、聖杖の教えを広めたい、より広く豊かな教区の責任者となりたい――ネゲヴ征服に賛同する聖職者の中では独善・野心・物欲が渾然一体となっている。

「ネゲヴ征服のために、諸侯は国王に軍権を返上すべきである。諸侯は国王の部下なのだと、身の程をわきまえるべきなのだ」

 フランク国王アンリはネゲヴ征服構想を王権強化に利用しようとし、その態度を隠しもしていない。ピエール自身が国王アンリに何度も面会し、自身の思いを説明しているのだからそれも当然だが。

「豊かなネゲヴの農地をエレブの農民に分け与えるのだ。領地を持たない騎士も領地を持てるようになる」

 貧しい騎士や農民もネゲヴ征服の実現に期待を寄せるようになっていた。
 ネゲヴ征服構想はエレブの広い層に熱い支持を受けるようになっている。一方これに反対しているのは、まず王権の強化で割を食う諸侯。そして、

「もしあの男が教皇となったら、我々はどうなるのだ。少なくとも冷や飯を食う羽目になるのは間違いない」

「寄進を集めるのがどんどん難しくなっている。それもこれも清廉を気取るあの男のせいだ」

「冗談じゃない、俺が枢機卿になるまでどれだけ金を使ったと思っているのだ。教皇になって元を取らねばならぬのに」

 他称は「腐敗した聖職者の集まり」であり、自称は「教皇庁主流派」。それが枢機卿ピエールにとっての最大の政敵だった。問題は彼等の自称が概ね事実であることだ。ピエールの支持者は教皇庁の外に多く、中に少ない。

「あの男だけは教皇にするな」

 それが枢機卿ピエルレオニを筆頭とする主流派の合い言葉だった。主流派は諸侯と同盟を結び、手段を尽くしてネゲヴ征服構想に反対をしている。

「悩ましいですね」

 ピエールは憂鬱そうにため息をついた。

「……の司教が食中りで死んだと」

「……の領主が異端として聖堂騎士団の討伐を受けたと」

「……の異教徒の村をアンリ・ボケが焼き払ったと」

 そんな話がピエールの耳にも聞こえてくる。それを聞いたニコラ・レミはその美しい容貌で悪魔のように妖しく嗤っていた。アンリ・ボケは戦場から戻ってくるたびに血臭を漂わせ、その鉄槌は血と肉片で黒く汚れていた。
 ピエールは確かにそれを見ている。その事実を耳にしている。

「お帰りなさい、アンリ。今回も無事に戻ってきてくれて嬉しいです」

 だがピエールはアンリ・ボケのその姿から目を逸らし、その報告から耳を塞いだ。自分の政敵が時に失脚し、時に何の理由もなく引退し、時に血を吐き死んでいっても、そしてそのたびにニコラ・レミが妖しく嗤っていても、

「いつもありがとうございます、ニコラ。決して無理はしないでくださいね」

 ピエールはその嗤いを見なかったことにし、その事実を聞かなかったことにした。
 腐敗しきった教皇庁の中で出世し、地位を得るのに、どんな形であれ手を汚さずにすむはずがない。賄賂を送り、陰謀を仕掛けて政敵を失脚させ、時に脅迫、時に謀殺を駆使する。手を汚すのはニコラ・レミ、そしてアンリ・ボケの役目であり、ピエールはその成果を存分に享受していた。
 彼等二人がいなければ、二人が手を汚すことがなければ自分が枢機卿になることもなく、今の地位や勢力を維持することもできない。自分の理想を実現することもできない。それはピエールにも判っている。だからピエールも二人の行為を黙認するしかない。それが自分の理想からどんなにかけ離れた行為であっても、自分の理想を貶める行為であっても、見なかった振りをするしかないのだ。

「こんなところで立ち止まってはいられない。私が踏みにじってきたもののためにも私はエレブに平和をもたらさなければならないのです」

 良心の呵責を、理想と現実の板挟みを「見なかった振り」で何とかごまかし、やり過ごし。ピエールはこれまで通りに表でエレブの平和を、教皇庁の浄化を説いて回る一方、その裏でニコラ・レミが政敵の陰謀を防いだり陰謀を仕掛けたりしている。ピエールとその反対派の間で勢力が拮抗し、事態が停滞する中、

「――教皇が死んだ?」

 それを契機に事態は堰を切られた激流のように急変する。

「だが聖下はまだ五〇を越えたばかりではなかったか」

「はい、たちの悪い風邪にやられたそうです。謀殺の可能性は低いかと」

 ニコラ・レミは政敵の動きを見張るために教皇庁内に諜報網を張り巡らせている。その網に引っかかったこの重大情報は最優先でアンリ・ボケへと届けられていた。
 ニコラ・レミの部下の報告にアンリ・ボケは「そうか」と考え込む。そして内心で舌打ちを連発させた。

「早い、早すぎる。あと十年……いや、あと五年も時間があるなら確実に神父様が教皇になれるのに。まだ準備が整わないうちにこんなことになるとは、とんだ計算違いだ」

 教皇位は選挙によって選出されるが、投票権があるのは枢機卿を始めとする教皇庁の幹部達だ。現時点ではピエールが教皇になれるだけの票を獲得できる見込みがほとんどない。

「……ともかく、こうしてはいられない。私はテ=デウムに戻る」

 アンリ・ボケは旅人の護衛をジャックの傭兵団に任せ、鉄槌騎士隊を率いてテ=デウムへと急行した。
 三日間、昼夜を問わずに馬を走らせた。アンリ・ボケ一人のために五頭の馬が用意され、馬が疲れたなら乗り換えることをくり返していたのだが、それでも五頭とも乗り潰してしまった。

「テ=デウムまではあと一日の旅程だ、走ってでも行く」

 そう思っているところに教皇庁からの迎えがやってきた。アンリ・ボケの同僚の、聖堂騎士団の騎士である。

「騎士アンリ・ボケ、同行をお願いしたい」

 騎士とその配下の兵がアンリ・ボケを包囲した。アンリ・ボケは詰まらなさそうにそれを見渡す。実力や実績や名声を比較すればアンリ・ボケにとっては木っ端に等しい相手だが、それでもその騎士はアンリ・ボケの同輩であって部下ではない。

「……それは誰の命令だ?」

「枢機卿ピエルレオニよりのご指示です」

 ピエルレオニは次期教皇の座に最も近くなっている人物だ。アンリ・ボケは「ふん」と鼻を鳴らした。

「言われずとも行くわ。私の分の馬はどこだ」

 アンリ・ボケはその騎士を部下のように引き連れ、教皇庁への道を急いだ。
 テ・デウムの中心地、教皇庁の中心地、教皇の権威と権力の象徴――それが聖バルテルミ大聖堂だ。アンリ・ボケがその場所にやってきたのはその日の夕刻である。
 大聖堂に入ろうとするアンリ・ボケを衛兵が咎めた。

「お待ちください。聖堂内は何人であろうと武器の携行を」

「判っている」

 とアンリ・ボケは携えている二本の鉄槌を衛兵に押し付けた。衛兵は鉄槌の重さに尻餅をつきそうになっている。

「お待ちください、その背中の武器も――」

「これは聖具だ、我が信仰の証だ!」

 アンリ・ボケは巨大な聖杖型の鉄槌を背負ったまま聖堂の中へと突き進んでいった。
 大股で、早足で、突撃するように歩いていくアンリ・ボケ。それを監視しようと付き沿う衛兵はほとんど駆け足になっている。聖堂の中を真っ直ぐに突き進み、立ち塞がる扉を突き破るように押し開ける。扉の内側の大広間では枢機卿を始めとする教皇庁の幹部が集まっていた。扉が打ち破られたかのような轟音に、彼等が一斉に振り返る。

「――ふん」

 そこに集まっている教皇庁幹部は三〇人余、その大半がピエールの反対派だった。好意的中立を保っているのが何人かいるくらいで、純粋な味方は一人もいないと言っていい。枢機卿であるにもかかわらずピエールはこの場にいない。

「……それで、枢機卿ピエールではなくこの私をこの場に呼んだ理由をお聞かせいただけますかな」

「枢機卿ピエールはレモリアに赴いていた。戻ってくるのは早くとも明日になるだろう。その前に君に聞きたいことがあるのだよ」

 そう口火を切ったのは枢機卿ピエルレオニ。贅肉で膨れあがった顔と身体をしており、常に笑っているような顔立ちになっている。だがアンリ・ボケは知っている。その福々しい容貌に反し、この男は蛇のように狡猾なのだ。

「聞きたいこととは?」

「君達は枢機卿ピエールを次期教皇にするために各所に対して様々な運動を行っていた。それは間違いないか?」

「教皇の人選など、私ごときが口を差し挟んでいい事柄ではありません。ただ、私の知る限り枢機卿ピエールよりも気高く崇高な魂を持つ方はおられない。多くの方にそれを知っていただきたいと思っておりますし、これまでも折に触れてそれを伝えておりました」

 大広間にアンリ・ボケとピエルレオニの声だけが響いていた。他の者は皆息を呑んでその尋問を見守っている。

「その、伝えた中にはフランクの王室の方もおられるのでしょうな」

「はい。お伝えしたこともあったでしょう」

 アンリ・ボケは戦場で敵と相対しているような緊張を覚えていた。

(この男は私から神父様の落ち度を見つけ出し、それを持って教皇になることを断念させようとしているのだろう)

 そうはさせるか、とアンリ・ボケは気合いを入れ直した。ピエルレオニによる尋問が続く。

「フランク国王と枢機卿ピエールは懇意にしていると聞く。フランク国王は彼を教皇にするために支援を惜しまない、と言っているそうだ」

「枢機卿ピエールを直接知っておられるのなら、そうお思いになるのも当然かと」

「……だが、そのために銀貨を送るとなると話は違ってこよう?」

 思わずアンリ・ボケが眉をひそめた。それを嘲笑するように、ピエルレオニが司祭の一人に視線で合図を送る。その司祭は立ち上がり、一同へと告げた。

「……私はフランク国王の使いから依頼をされました。次の教皇には枢機卿ピエールを支持するようにと。その代価として銀貨三〇枚を受け取りました。これがその銀貨です」

 その司祭は布袋を逆さにしてテーブルの上に銀貨をぶちまけた。

「見よ! このような収賄を行う者が教皇になる資格を持ち得るのか!」

「貴様がそれを言うのか……!」

 アンリ・ボケは歯ぎしりをする。収賄と言えばピエルレオニ達腐敗聖職者の専売特許みたいなものだ。ピエルレオニがこれまで受け取った賄賂の額は銀貨三〇枚の何百倍になるのか判らないくらいである。

「下賤の者の分際で、口を慎むがいい! 貴様のような血の汚れた者を重用すること一つとってもあの男の里が知れるというものだ!」

 ピエルレオニは嗜虐に口を歪めた。アンリ・ボケは必死に怒りを堪えている。

「そもそもあのような口先だけの男を枢機卿にまで登用したことが間違いだったのだ。賄賂は罪悪、とあの男は常々言っていた。ならば自分の言葉の責任を取って枢機卿の地位を返上させるべきだろう」

 アンリ・ボケは一同に訴えるために前に進み出た。だが憤怒を堪えて食いしばる歯が言葉を詰まらせた。渦巻く激怒が冷静な計算の邪魔をした。ピエールの潔白を弁護しようとしてもそれが言葉にならない。その間にも足は前へと進んでいる。そのアンリ・ボケに対し、

「衛兵!」

 ピエルレオニの命令を受け、駆け寄ってきた衛兵が儀仗で背後からアンリ・ボケを殴打。ひざまずくアンリ・ボケに衛兵はさらに儀仗を打ち据えた。

「弁護のしようがなかったからと、力に訴えようとするなど。これだから下賤の者は……!」

 ピエルレオニは計画通りの展開となったことに、愉悦の笑みを浮かべている。元々こんな言いがかりでピエールを排除できるとは考えていないのだ。ピエルレオニの真の狙いはアンリ・ボケだ。尋問で挑発を重ね、わずかでも暴力を振るう気配を見せたなら――そう解釈できる振る舞いをしたなら衛兵に拘束させる。

「牢屋にぶち込んでおけ。あとは拷問をしてでもあの男の罪状を自白させればいい」

 ピエルレオニは衛兵に命じた。何度も儀仗に打ち据えられ、血まみれとなったアンリ・ボケを衛兵が拘束した。
 アンリ・ボケのその姿をピエルレオニの仲間達が嘲笑を浮かべて眺めている。

「しかし、枢機卿ピエルレオニにしては実にお粗末な田舎芝居だったな」

「やむを得んだろう。我々には時間がなかったのだ」

 教皇の死があまりに突然だったのはピエルレオニ達にとっても同じことだった。ピエール達と同じように、ピエルレオニ達にとっても政敵を確実に排除するための準備ができていなかったのだ。

「確かにあまりに稚拙でお粗末な言いがかりだが、今は巧遅よりも拙速だ。我々は急がねばならなかったのだ。この男が決起する前に」

「この男が配下の兵を率いて教皇庁に突入したなら、我々には対抗する手段がない。神をも恐れぬ所行だが、この騎士とは名ばかりの蛮人ならそれくらいのことはやりかねんからな」

 ピエルレオニがまずアンリ・ボケの身柄を拘束したのも、アンリ・ボケが言いがかりを付ける相手として与しやすかったからという理由もあるが、それだけではない。何よりもアンリ・ボケを、その配下の兵を怖れたからである。アンリ・ボケがピエールに絶対の忠誠を誓っていること、ピエールのためならどんな汚れ仕事も厭わないことは周知の事実だ。アンリ・ボケを自由にしたままなら武力を持って教皇の座を奪いかねない――それはピエルレオニ一派全員の共通認識だった。
 アンリ・ボケは衛兵に拘束され、ピエルレオニの陰謀は九分九厘完成を見ていた。だが、

「がああーーっっ!!」

 雄叫びを上げながらアンリ・ボケが跳ねるように立ち上がる。拘束していたはずの衛兵がその勢いだけで吹っ飛ばされた。ピエルレオニ達は唖然とするしかない。

「……おいたわしいことです、枢機卿ピエルレオニ。貴方ほどの方が悪魔に魅入られるとは」

 血まみれになりながらも、笑みを浮かべてアンリ・ボケが歩み寄ってくる。ピエルレオニは足をすくませ、縫い止められたようにその場に立ち尽くした。

「そうでもなければこのような茶番で誰かを陥れようとするはずもない。ですが、ご安心めされよ」

 アンリ・ボケは背に負っている巨大な聖杖を持ち上げた。黒い鋼鉄の固まりが不気味な光を放っている。

「我が鉄槌は悪しきもののみを粉砕する。我が鉄槌にて貴方に取り憑いた悪魔のみ打ち祓って見せましょう。枢機卿ピエルレオニ」

 ピエルレオニは何か言おうとして、舌をもつれさせることしかできなかった。アンリ・ボケは渾身の力を込めて、

「悪霊よ、退くがいい!」

 聖杖を横薙ぎに振り回す。聖杖はピエルレオニの顔面を粉砕、血しぶきは大広間全体へと飛び散った。アンリ・ボケはそのままの勢いで聖杖を振り、ピエルレオニの隣の二人をも殴り飛ばした。粉砕までは行かなかったが、一人は頭部が割れて脳漿が見えており、一人は目に見えて頭部が凹んでいる。両者とも致命傷を負ったのは間違いなかった。
 血の惨劇にその場の全員が凍り付く中、アンリ・ボケだけが自由に動いていた。アンリ・ボケは若干後ろへと移動して大広間の入口前に立った。聖杖を床に、垂直に立てて身体を支え、門番のように入口前に立ち塞がる。

「――このままここでお待ちいただこう。真に教皇に相応しい方が到着されるのを」

 アンリ・ボケは殺気を込めて一同を睥睨する。一同は席に着き、ただ身を縮ませることしかできなかった。

 ――さて、どうするべきか。

 このときのアンリ・ボケには明確な展望があったわけではない。ピエルレオニを撲殺したのも冷徹な計算の上ではなく、九割以上衝動に基づいてである。だが、確固たる方針なら持っていた。

「こうなった以上、このまま力で押し切るまでだ。邪魔する者は粉砕する」

 アンリ・ボケは聖杖を握る手に力を込めた。教皇庁の幹部を監禁したまま、アンリ・ボケはひたすら待つ。死体も飛び散った血も全く片付けられないままで、死臭と血臭が漂う中、待つこと一時間余り。
 そのとき、いきなり大広間の扉が開かれる。救いの手がやってきたのか、と一同が期待を込めて視線を送る。だが大広間に入ってきたのは鉄槌の紋章を掲げた騎士の群れだった。一同に絶望が広がり、呻き声が上がる。一方のアンリ・ボケは自分が勝利を掴んだことに心底安堵していた。

「ニコラ・レミはよくやってくれた。あの男が決断しなければ私は身の破滅を迎えたところだった」

 大広間で異常事態が起こっていることを察したニコラ・レミが鉄槌騎士隊と木槌傭兵団の動かせる全兵力を大聖堂へと投入したのである。教皇庁の主要幹部は今アンリ・ボケが監禁している。大聖堂の制圧は教皇庁の制圧とほぼ同義だった。乏しい情報の中で大聖堂を制圧するという決断はニコラ・レミとって一か八かの大博打だった。だがニコラ・レミはその賭に勝ったのだ。
 大広間の中の状況は、本質的にほとんど変更がなかった。ただ彼等幹部を監禁する者がアンリ・ボケ一人から鉄槌騎士隊の面々へと変更したくらいである。大広間の四方の壁に沿うように、ずらりと鉄槌の騎士達が並んでいる。騎士達は全員完全武装だ、もはや逆らうことなど望むべくもない。
 ……彼等はそのまま待たされた。一夜の間ひたすら待たされ、全員身も心も疲労困憊している。枢機卿達が考えているのは「ともかく無事に解放してほしい」、ただそれだけである。
 そして夜が明け、空が白み始める頃、ようやく彼等が待っている者が到着した。扉が開かれ、その男が入ってくる。アンリ・ボケが恭しくその男にかしづいている。アンリ・ボケに先導されながら、その男は一同の上座へと着席した。
 死体はすでに片付けられているが、飛び散った血しぶきはどうしようもない。その男は室内の惨状に、漂う血の臭いに顔をしかめていた。だがそれも長い時間ではなかったし、暗い屋内だったためにその表情をはっきり見て取った者は誰もいない。男はテーブルの上に両肘をつき、口元を隠すように手を組んだ。

「――皆様もお疲れのようです。速やかに次の教皇を決定いたしましょう」

 その男、枢機卿ピエール――いや、次期教皇ピエールは穏やかな笑顔を見せつつ、一同へと告げた。







 邸宅が燃えていた。
 彼等の襲撃は突然だった。誰もが寝静まる夜半、彼等は夜闇に紛れてその邸宅へと接近。彼等は警告も降伏勧告も何一つすることなく、その邸宅へと突入したのだ。
 邸宅の従僕、枢機卿ピエルレオニの家族、ピエルレオニの愛人、全て合わせれば人数は何人になっただろうか。だが逃げ延びることができたのは一人もいない。全員が鉄槌騎士隊の騎士に剣で斬られ、槍で突かれ、建物内に閉じ込められた。そして炎で焼かれている。
 アンリ・ボケ達鉄槌騎士団が教皇庁を武力制圧したのが前日、ピエールの教皇就任が事実上決定したのが今日の早朝である。そしてその日のうちにテ=デウム郊外のピエルレオニの拠点たる邸宅を急襲したのだ。
 枢機卿ピエルレオニの邸宅、それが今燃えていた。天高々と炎を上げ、何もかもを灰にしようとしている。アンリ・ボケは馬上からその光景を見つめていた。

(……美しい)

 アンリ・ボケは炎の輝きに、その美しさに賛嘆の思いを抱いている。

(これほど美しい炎を見るのはあのとき以来か。……そう、あのときの炎も本当に美しかった。)

 アンリ・ボケの脳裏に映し出されているのはロレーヌの教会が焼き尽くされる光景だった。

(あの炎が私の忌まわしい過去を、出自を焼き尽くした。あの炎の中から私は貴族として生まれ出た。神父様の剣として歩み始めたのだ)

 神父ピエールにとっては忌まわしい地獄の業火だった炎は、アンリ・ボケにとっては神による祝福の光に等しかった。神父ピエールの「二度とあの光景をくり返さない」という誓いを。その思いを、その願いを、アンリ・ボケが真の意味で共有したことはただの一度もなかったのである。

(炎が上がるたびに邪魔者は焼き尽くされ、私は前へと進むことができる)

 ピエールが教皇となることはもう確実だ。アンリ・ボケもまた階梯を上げ、より多く、より強大な戦力を有することができるだろう。

(私はどこまでも前へと進んでいく。私は何度でもこんな光景を生み出し続けるだろう。美しい炎で、くり返し全てを焼き払うだろう)

 アンリ・ボケは己が未来をそう思い描いた。それは予想ではなく、予言でもない。それは誓いであり、確固たる意志。石版に刻まれたように確定している、未来の行動表だった。








[19836] 幕間3 ~とある王弟の回想・前
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/07/05 21:39




 パーティを抜け出し、二人でバルコニーに出て夜風を浴びた。涼しい風がほてった身体に心地良い。
 バルコニーの手すりは幼いユーグの身長よりも高い。ユーグは一〇歳年上の兄に抱えられてようやく手すりの上に身を乗り出すことができた。石造りの手すりの上に腹を乗せ、上半身を宙に浮かせる。
 眼下に広がっているのは城下町だ。町の人々の灯す明かりが蛍火のように揺らめいている。

「見ろ、これが僕達の町、僕達の国だ」

 そう誇らしげに町の明かりを指し示すのは兄のフィリップだ。幼いユーグは町の明かりを、フィリップの顔を交互に見つめる。

「この国はもっと豊かになれるし、もっと強くなれる。僕がそうするんだ」

「じゃあ、僕は兄上を手伝います」

 打てば響くようにユーグがそう言う。そうか、とフィリップは笑った。二人はそのまま城下町を眺める。二人の頭上には、遙か彼方には満天の星々が輝いていた。
 ――ユーグはこの夜のことを決して忘れたことはない。この夜から誓いを現実にするための戦いが始まったのだ。その戦いはユーグの足跡そのもの、ユーグの人生そのものだった。
 教会での洗礼も、騎士の叙任も、決してこの夜の誓いには勝りはしない。それは聖なる誓約だった。






「黄金の帝国・幕間3 ~とある王弟の回想・前」






 海暦二九九四年。その年、フランク国王アンリが死去。その跡を継いで長男のフィリップがフランク国王に即位した。それと同時にユーグもまた騎士の叙任を受ける。ユーグが一四歳の時である。
 そして今、ユーグは一軍の指揮官として反乱軍を迎撃しようとしているところだった。
 前代の王アンリは教皇インノケンティウスと同盟を結んで王権強化のためにありとあらゆる手段を尽くし、アンリの時代に諸侯は特権を次から次へと奪われ続けていた。アンリが死去して国王がフィリップに替わり、諸侯は息を吹き返そうとする。

「新王フィリップには我々が王室の藩屏としてどれだけ貢献してきたかを思い出していただかねば」

 とフィリップからかつての特権を取り戻し、逆に王権に制限をかけることを考えていた。少なくともこれ以上の特権剥奪を進められるつもりは毛頭なかった。だがフィリップは、

「偉大なる前王の業績を受け継ぐ。王権強化こそが国王の責務であり自分の義務だ」

 と意志を明確にしたのだ。これが結果的に最後通告となった。有力諸侯は反フィリップの連合を結成、フィリップを玉座から引きずり下ろすことを掲げて挙兵したのである。反乱軍の方が数が多く、フィリップは不利な戦いを強いられていた。配下の将軍は全て出陣しており、フィリップ自身も兵を率いて反乱軍討伐に向かっている。
 そして叙任したばかりのユーグもまた総司令官として軍を率い、反乱軍討伐に出陣したのである。与えられた兵数は三千。もちろん総司令官とは言っても名目だけで、実質的な総司令官は別にいる。
 ユーグはフィリップの指令通りに三千の将兵を率いてトロワ城塞へと陣取った。一方のユーグに相対する反乱軍はナンシー伯を中心とし、その兵数一万五千。トロワに向かって北上を続けている。敵軍の兵数が予想より遙かに多いことにユーグの将兵は動揺していた。

「幸いこのトロワ城塞は堅強である。五倍の敵であろうとそう簡単に落とせるものではない」

 ユーグ軍の実質的な総司令官・アルトワ伯は籠城戦になることを一同に告げた。アルトワ伯の年齢は六〇近くで、引退間近の老将である。規則の権化と言われるような堅苦しい性格で多くの貴族に敬遠されていた。

「我等の任務は敵軍の注意を引きつけることである。敵軍が城塞攻略をするなら城塞に拠って敵軍に消耗を強い、敵軍がトロワ城塞を素通りしたなら出撃してその後背を脅かす」

 アルトワ伯の言葉に集められた諸侯が頷く。兵数の差を考えれば他の戦法など考えられない。面白味はないが堅実であり確実であり、諸侯から異論は出なかった。

「――待ってくれ。僕は今から出撃すべきだと考えている」

 異論を出したのは諸侯ではない、王弟のユーグである。一同の驚きの視線がユーグへと集まった。

「……しかし王弟殿下、五倍の敵に戦いを挑んでは勝ち目などありません。現実は吟遊詩人の物語とは違います故」

 アルトワ伯は反論に侮蔑をにじませる。だがユーグはそれを気にする様子を見せなかった。

「正面から戦ったならそうだろうな。だが、これを見てくれ」

 とユーグは卓上に地図を広げて一同を集めた。ユーグの指が街道の一部を示す。

「この場所は街道が湖と森に挟まれていて大軍であろうと展開はできない。この場所で敵の出鼻を叩いておきたい」

「確かに、あそこなら待ち伏せには絶好の場所です」

 この近辺の土地勘がある諸侯が賛意を示す。他にも血気にはやる若手がユーグに賛成した。一方、

「そんな博打で国王陛下より預かった軍を危険にさらすべきではない」

「王弟殿下の身に何かあったらどう責任を取るつもりだ」

 とアルトワ伯を始めとする慎重派が反対する。だが結局、

「籠城するとしても、敵と一戦して意気を上げてからにするべきだ。五倍の敵と戦うのだ、そうでもしなければ士気が続くまい」

 その主張が支持され、その日のうちにユーグ軍の全軍が城塞から出撃することとなった。
 そして三日後、トロワ郊外の森でユーグ軍は反乱軍と最初の戦闘をする。そこでは街道が森と湖に挟まれるようにして、蛇行して続いている。ユーグ軍はまず森の出口に石材を積み上げて壁を作り、出口を塞いだ。出口までやってきたナンシー伯の軍は壁に行き当たり、進軍が止まる。だが即座に全軍が停止することなどできはしない。壁を撤去している間にも後続がどんどんやってくる。出口に近くなるほど兵が密集し、まともに身動きすらできないくらいの人混みとなった。

「突撃ぃー!」

 森に隠れていたユーグ軍がそこに襲いかかってきたのだ。まともな戦闘になどなるはずもなく、反乱軍は一方的に蹴散らされた。それは戦闘と言うより虐殺だった。狭い場所で剣を振るおうとし、味方を斬る者。逃げようとして転倒し、味方に踏みつぶされて圧死する者。湖へと逃げて溺死する者。反乱軍一万五千のうち実に五千が死傷し戦闘不能となったとされている。その一方ユーグ軍は損害らしい損害を受けていない。ユーグ軍の士気は天を突くほどに上がっていた。
 意気軒昂となった自軍にユーグが告げる。

「トロワ城塞には戻らない。このまま敵の後背を脅かし続けるのだ」

 もちろんアルトワ伯を始めとする慎重派は反対するが、ユーグに賛意を示す若手がそれを説得する。

「そもそも籠城とは援軍があることを前提として戦法だ。だが今の兄上に援軍を出すだけの余裕があるとは思えない。敵が素通りしたものと考えればいい、城塞へのこだわりは捨てるべきだ」

 結局ユーグのその主張が通り、ユーグ軍は野に放たれることとなったのだ。
 ナンシー伯の率いる反乱軍は一万の兵で北上を続ける。一方ユーグ軍はその後方に回り、その後背を脅かし続けた。徹底的に逃げ回ってまともな会戦は一度もやらず、夜襲や奇襲、補給部隊への攻撃をくり返す。反乱軍は継続的な被害を強いられ、補給を寸断されて飢え、士気は地の底へと潜っていく。脱走する兵、適当な理由を付けて反乱軍から離脱する諸侯、密かにユーグと和睦しようとする諸侯が後を絶たず、日に日に兵数を落としていった。
 結局、ナンシー伯が反乱軍本隊に合流するときには率いる兵は千に満たなくなっていた。いや、本隊に合流と言うよりは本隊へと逃げ込んだと言っていい。本体は総勢数万を超えており、さすがに十倍を越える敵が相手ではユーグ軍も手出ししようがなかった。
 だが、この時点まででユーグ軍が敵味方に与えた影響は決して小さなものではない。たったの三千で五倍の敵を打ち破り、壊滅させる。多くの諸侯に反乱軍に見切りを付けさせ、国王軍へと味方させる。最終的に国王軍が勝利したのはユーグ軍のこの働きがあってのこそである。

「ユーグ軍だけで我々国王軍が勝ったわけではない。だがユーグ軍がなければ我々が勝てていたかどうか判らない」

 フィリップはこのようにユーグの働きを評したと言われている。
 フィリップは自分に敵対的な有力諸侯を撃破、政治的な敵対者を一掃した。フィリップは盤石の王位を確立した――多くの者にはそのように見えただろう。だがフィリップの玉座を脅かす者はまだ残っていたのである。







 一方のユーグは火消しに躍起となっていた。

「いや、僕はただ思いつきを述べただけでそれを形にしてくれたのは部下達です。彼等がいなければ私は何もできなかったでしょう」

「僕など、戦歴を重ねた将軍達から見ればただの賢しらな小僧でしかないですよ」

 戦勝祝いと称してやってきた貴族・諸侯に対し、ユーグはそんな言い訳をくり返した。ユーグの言い訳は事実の一面である。だが、

「いえ、それが当然です。王者たる者が指針を示し、臣下がそれを形と成す。それこそまさしく王国の有り様というものでしょう。殿下は王者のなんたるかを身体で理解しておられる、まさに生まれながらの王というものです」

 彼等の追従にユーグは言葉をなくすしかなかった。
 そう、フィリップを排除して玉座を狙える者がいるとするなら、それはユーグしかあり得ない。ユーグがこの戦役で示した軍才・王器、それはフィリップに敵対的な諸侯にとっての希望の星となるものだった。さらに、ユーグはまだ一四歳の未熟な若造に過ぎない。臣下が意のままに操ることも簡単である。

「くそっ、僕が兄上にとっての邪魔者になるなんて。一体どうすれば……」

 ユーグは頭を抱え込んだ。
 戦後処理が一通り片付いた頃、ユーグはフィリップから呼び出される。ユーグは重い気を引きずるようにして兄の元へと向かった。ユーグが赴いた先はフィリップの私室である。

「よく来たな、まあ座れ」

 フィリップは軽装に着替え、手酌で葡萄酒を飲んでいた。ユーグはテーブルを挟んでフィリップの向かいに着席する。
 ユーグより一〇歳年上のフィリップはこのとき二四歳。容貌はそれなりに整っていて美青年と言ってもいい。が、細い目や痩せた頬、血色の悪さがそれを覆い隠している。多くの者がフィリップの外見から「酷薄な王だ」という印象を抱いているが、それは決して印象だけの話でもなかった。
 まだまだ若輩と言われるような年代だが、早くから父王アンリを補佐して政治の世界に関わり、様々な難題に対処してきたのだ。即位から間もなくとも未熟なところは全く感じられず、すでに何十年も玉座に就いているかのようだった。

「ヴェルマンドワ伯が今回の戦争で戦没している」

 フィリップは前置きもなしにいきなり本題へと入った。

「お前には伯の一人娘をめとってヴェルマンドワ伯を継いでもらう」

「……それはまた、急な話ですね」

 ユーグは何とかそれだけを返答した。フィリップはユーグの戸惑いを意に介さない。

「ヴェルマンドワ伯は有力な味方だった。あの家が敵に回ることは認められない」

「僕はもちろん兄上と敵対するつもりなんて毛頭ありません。ですが、僕の周りには面倒な連中が群がってきています。あの連中とヴェルマンドワ伯爵家が結び付き、僕を利用しようとするのではありませんか? 兄上の邪魔をするために」

 ユーグは不快そうに懸念を問う。フィリップは特別な反応を示さずに話を続けた。

「お前はしばらく韜晦していろ」

「韜晦?」

「馬鹿殿をやっていろ、ということだ。ヴェルマンドワ伯の娘アデライードは見目麗しいと聞く。女色に溺れ、政務を放擲していればいい」

 「ああ、なるほど」と得心するユーグ。が、その顔に不安の色が浮かんだ。

「……僕に上手くできるでしょうか」

 その問いにフィリップが笑う。

「お前みたいに真面目な奴ほど色事にはまったら抜け出せなくなると言う。ほどほどにしておけよ」

 こうしてユーグはアデライードと結婚、ヴェルマンドワ伯爵家を継ぐこととなった。ユーグは部下を引き連れヴェルマンドワ伯領へと移動。初めて自分の妻となる少女と対面したのは結婚式の前日だった。

「わたしは殿下の伴侶なのですからどうかわたしを頼ってくださいね。この領内のことでしたらわたしも力になれますから」

 と胸を張るアデライード。アデライードはユーグより二歳年上の一六歳。非常に華奢な体付きだが背は高く、比較的小柄なユーグとあまり変わらないくらいに見えた。目鼻立ちがはっきりしており、大人びた容貌の美女である。

「あなたも僕のことを頼ってください。僕はあなたの夫なのですから」

 とユーグはアデライードに手を差し延ばす。彼女は頬を染めてその手を取った。ユーグは自分が恵まれた相手と結婚できることを神に、そして兄に感謝した。
 結婚式当日。ヴェルマンドワ伯領には国内外から賓客がやってきている。ユーグと面会した国内諸侯の一部は、結婚祝いの言上と同時に玉座を狙うことをそれとなく吹き込んでいた。ユーグは愛想笑いでそれをいなし続ける。
 教皇庁からは教皇インノケンティウスがやってきている。遊説の途中で立ち寄ったという教皇は自らが司式者となり、ユーグ達二人に秘跡を与え、二人の門出を祝福した。
 そして披露宴を兼ねた晩餐会である。ユーグはホストとなって賓客をもてなす。ユーグ達にとって最大の賓客とはもちろん教皇インノケンティウスである。
 インノケンティウスはこの頃すでに六〇近いが、同年代と比較すればまだまだ若々しい印象を与えている。穏やかな笑みをたたえながら、いつものようにエレブの平和を、ネゲヴへの遠征を説いていた。教皇の周囲に集まるユーグを始めとする何人かがそれに耳を傾けている。

「……ネゲヴのさらに南にはアーシラトという森が地の果てまで広がっていると言います。エレブと民とネゲヴの民が力を合わせてその森を切り拓き、地の果てまでを麦畑としましょう。エレブの農民、ネゲヴの農民が等しく豊かな大地の恵みを享受できる。私が望んでいるのはそんな世界なのです」

「――ですが、それは現実的ではありませんね」

 ユーグの放った一言に、一瞬大広間全体が静まりかえった。少し間を置き、人々が殊更に大声で談笑して場を取り繕おうとする。一方ユーグと教皇の周囲の何人かはそれすらできず凍り付いたままである。教皇は、

「……確かに、容易に実現できることではないと私も思います」

 不快な様子を欠片も見せず、穏やかな微笑みを浮かべ続けていた。

「ですが、困難だからと言って何もしなければエレブの民には救いはありません。困難であるならそれを実現する方法を考えるべきではないでしょうか」

「はい、確かに。問題を明らかにしてそれにどう対処するかを考えていくべきかと思います」

「殿下にはネゲヴ征服にあたっての問題とその対処方法の存念があるように見えますが、それを聞かせていただけますか?」

 もはや誰も談笑を取り繕おうとはしていない。会場の全員がユーグと教皇の会話に耳を傾けていた。

「――まずネゲヴの民には聖杖教徒はほとんどいません。自分達とは違う神をいただく我々を彼等は決して歓迎したりはしないでしょう。聖杖の教えを広めるとしても、布教がそんなに簡単に進むはずもありません。結局我々はネゲヴの民と国家と戦うことになる。ネゲヴには悪魔の技を使う戦士も多いと聞きます。この戦いは容易なものとはならず、我々は大きな損害を受けることになるでしょう」

 ユーグの指摘に教皇は「ふむ」と顔を曇らせた。

「私はエレブの民や兵を死地に追いやりたいとは思いませんし、異教徒であろうとネゲヴの民を無為に死なせることも望みません。どうすればいいと考えますか?」

「……方法があるとするなら、ネゲヴを戦わずに屈服させることだと思います。そのためには『戦っても無駄だ』と思わせるだけの大軍を動員しなければなりません」

 教皇は少し考え、

「十万くらいでしょうか?」

 と問うた。ユーグは首を振る。

「その程度の兵数ならネゲヴとて用意できます。……そうですね、百万も動員すれば戦わずしてケムトまで制することもできるでしょう」

 あちこちから笑い声が起こる。多くの者がユーグの言葉を冗談だと受け止め、教皇もまた笑みを見せた。

「いや、さすがに『戦争の天才』と名高いだけのことはあります。殿下の意見は心に留めておきましょう」

 教皇のその言葉を区切りとしてユーグと教皇の歓談は終わり、その後は特に事件の起きることもなく晩餐会は終了した。

「『戦争の天才』などとおだてられて、調子に乗ったか小僧!」

 事件が起こったのは晩餐会の後である。賓客が全員帰ってすぐ、フィリップがユーグに叱責を浴びせたのだ。

「貴様のような小僧が聖下にあのような意見をするなど、不遜も甚だしい。しばらく謹慎していろ!」

 ユーグはヴェルマンドワ伯城の私室に閉じ込められる形となった。だが、その私室を早速訪れる者がいる。

「……あれでよかったのですか? 兄上」

「まあ上出来だろう」

 フィリップはユーグと二人だけで密談をしているのだ。

「お前が教皇と不仲ということになれば、お前を担ごうとする者も減らせるだろう。ネゲヴ征服についても釘の一つは刺しておく必要はある」

 満足げなフィリップに対し、ユーグは抱えていた疑問をぶつけた。

「……教皇のあの言葉は本当にただの建前だけなのですか? 教皇は本当にネゲヴを征服するつもりがないのですか?」

「確かに、お前が不安を抱くのも無理はないな」

 とフィリップは苦笑を見せる。

「安心しろ、その点は父上も私も何度となく確認している。教皇が考えているのはネゲヴ征服を口実とした軍権の統一、それによる王権の強化だと。王権を強化し、エレブで戦争が起きないようにするのが目的だと」

「……果たして、そんなに上手くいくのだろうか」

 ユーグの独り言はフィリップの耳には届かなかった。

(王権が強化され、諸侯の力が弱まれば確かに国内での戦乱は収まるだろう。だが王国間の戦争はどうなる? 諸侯間の戦争とは桁違いの大規模で悲惨な戦争になるのではないか? それに、本当に教皇インノケンティウスはネゲヴ征服をやらないのか? ……やらないで済ませることができるのか?)

 ……ユーグの形ばかりの謹慎は半年で解けたが、ユーグは政務にも軍務にも関わろうとしなかった。謹慎中に読みふけっていた古典書物にすっかりはまってしまったのだ。

「兄上にも馬鹿殿をやっていろと言われている。これは兄上に対する政治的援護なのだ」

 格好の口実を手にしたユーグはヴェルマンドワ家の財力に任せて古典書物を買いあさった。古典書物はバール人時代に記された書物の総称だが、ユーグはその中でも娯楽物を好んで読んだ。戦記から英雄譚、恋愛物・悲劇・喜劇まで、バール人の時代には自由な発想で無数の書物が記された。だが無法時代には本を出版するだけの余裕がなくなり、それ以降のエレブでは聖杖教の禁欲主義により娯楽物の書物が焚書の憂き目にあっている。現在では規制が緩んで焚書などは滅多に起こらないが、それでも教会が良い顔をすることはあり得ない。
 だが、ユーグは公然と教皇を批判したこともある人間だ。今更地元の教会ににらまれる程度、痛くも痒くもありはしない。さらに、そんなユーグの評判を聞きつけて旅芸人や劇団、芸術家・著述家がヴェルマンドワ伯領へと集まってきた。ユーグは優れた芸術家に対する支援を惜しまず、ヴェルマンドワ伯領にはルネサンスが華やかに花咲くこととなる。







 そうやって教会ににらまれ、政治的には愚物・役立たずと見なされながら十年。この頃のユーグは「芸術殿下」と呼ばれていた。揶揄であり蔑称であるが、ユーグ自身はその呼ばれ方を結構気に入っている。芸術に耽溺する今の生活をユーグは心から愉しんでおり、そもそも韜晦が目的だったことなどすっかり忘れ去っていた。
 アデライードとの間には何人もの子供を設けている。全員女子だが長女にはすでに婚約者がおり、その婿養子にヴェルマンドワ伯を継がせることも決定済みである。公私ともに何の憂いもない日々を送っている――傍から見ればそう思えたかもしれない。だが、

「万物は流転する、そう唱えたのは古代の哲学者だったか。日は沈む、夏は過ぎる、若き者は老いる、人は変わる……時の流れほど無情なものは、ない」

 秋を迎えた庭園を眺め、ユーグはため息をついている。今のユーグは諸行無常を理屈ではなく心で理解していた。もう少し時間があったならユーグは悟りを開いて仏教を立ち上げていたかもしれない。

「こんなところにいたのですか、我が夫よ」

 背後から声をかけられ、ユーグは陰鬱なため息をついた。次いで表情を作って、

「ああ、何かあったのかい? 我が妻よ」

「何かあったのか、ではありません。政務を投げ出してこんなところで何をしているのですか。そんなことで下の者に示しが付くと思っているのですか。大体あなたは……」

 アデライードによる一方的な非難をユーグは反論せずに聞いていた。芸術に耽溺し政務を放擲しているユーグに代わり、ヴェルマンドワ伯領を実質的に統治しているのはアデライードである。このためユーグはアデライードに全く頭が上がらず、アデライードがひたすらこぼす愚痴も黙って受け入れている。アデライードが愚痴っぽく口うるさくユーグの一挙手一投足に文句を言うような性格になってしまっても、そんな妻でも愛するのが自分の義務だと心得ている。だが、

「彼女がこんな性格になってしまったのは僕のせいかもしれないが、こんな外見になってしまったのはそうじゃないだろう」

 今ユーグの目の前にいるのは、ユーグの倍くらいの横幅を持つ女性だった。
 ……結婚当初は痩せすぎの体格をしていて「少しは肉を付けた方がいい」と誰もが口を揃えたのだが、今はそんなことを言う人間はいない。妊娠・出産を経て肉付きがよくなり、最初のうちはユーグも「抱き心地がよくなった」と喜んでいたのだが、妊娠・出産を経るたびに肉を付ける一方で減らすことがなかったのだ。さらには妊娠・出産とは無関係に肉を付けるようになり、今日に至っている。
 結婚当初から見て体重は倍に、見た目の横幅は三倍くらいになった。ただ、顔にどれだけ肉が付いても目鼻立ちのはっきりした顔立ちに大きな変化はなく、その容貌の美しさは一〇年を経ても変わりはしなかった――顔の輪郭を無視すれば、の話だが。
 また、アデライードは非常に嫉妬深い性格で、ユーグが愛娼を持つことも許していない。それでもユーグはこれまで何度か旅芸人をつまみ食いしたのだが、必ず浮気がばれてそのたびに手ひどい制裁を受けていた。
 一人寝室で、結婚前にもらったアデライードの小さな肖像画を眺め、

「あの頃は可愛かったのに」

 そうつくづくと慨嘆するのがユーグの日常であった。
 ユーグがフィリップに呼び出されたのはそんな頃である。アデライードと離れる口実を得たユーグは意気揚々と王都ルテティアに向かった。

「もういいだろう。そろそろ仕事を手伝ってもらおう」

 王宮で久々に対面したフィリップは喜びを垣間見せつつ告げる。

「これまでお前の名誉を回復させてやれなかったが、ようやく状況が整った。『芸術殿下』の汚名を返上し『戦争の天才』の異名を取り戻すときだ」

 ユーグの本心としては「余計なお世話」と言いたいところだったが、もちろんそんなことを言えはしない。それに、この十年無駄飯を食うばかりで兄のために何もしてこなかったという負い目もある。ユーグはひざまずき、改めて兄王に忠誠を誓った。

「……この無能非才の身で兄上のお役に立てることがあるのであれば、これに勝る喜びはありません。王国と王朝の繁栄のために微力を尽くす所存です」

 うむ、とフィリップはうなずいた。

「早速だが、私の名代で軍を率いてほしい。ディウティスクでは先年国王が崩御したが、現在王位継承を巡って二人の王子が争っている。教皇庁がその紛争を仲裁することになっているが、お前の役目はその支援をすることだ」

 紹介しよう、とフィリップはある男を玉座の間へと招き入れた。
 ユーグは全身の毛が逆立つ思いがした。男は見上げるような巨体であり、前後左右が等しく分厚い。まるで積み木で作った人形のように四角い身体と顔をしており、糸のように細い目とむやみやたらと大きな口は柔和な笑みを湛えていた。だがユーグは知っている、この男の手がどれほどの無辜の民の血で汚れているかを。

「お会いするのは初めてでしたな。アンリ・ボケという神の僕でございます」

 アンリ・ボケは恭しく礼をした。ユーグもまた礼儀作法に則って挨拶をする。

「ヴェルマンドワ伯、王弟ユーグである。猊下の高名は私も聞き及んでいる」

「私も殿下の高名を良く耳にしております。陛下と殿下の力添えがあるのなら、この仲裁もなし得ないことはないでしょう」

 こうしてユーグは十年ぶりに軍を率いて出陣することとなった。僚軍にはアンリ・ボケの率いる鉄槌騎士団がいて、その配下には銅槌騎士団・木槌傭兵団がいる。
 鉄槌騎士団に属しているのはアンリ・ボケ自身が厳選した騎士で、少数ながら精鋭である。鋼鉄の規律と信仰心を誇り、エレブ最強の騎士団の一つと言われている。鉄槌騎士団の騎士は全員聖職者という扱いになっているが、銅槌騎士団は世俗の騎士の一団だ。聖職者にはなれなくとも聖杖教に貢献したいと考える騎士が結成したのが銅槌騎士団だ……ということになっている。歩兵中心の木槌傭兵団と同じく、戦場で鉄槌騎士団とともに戦うのがその役目だった。
 アンリ・ボケの配下に五千、ユーグの率いる軍が二万。合計二万五千の軍勢がディウティスク王国へと侵入した。だが、それは少し遅かったのだ。
 ディウティスクの二人の王子の戦いはすでに仲裁できる段階を通り越しており、アンリ・ボケとユーグは両方の王子を敵に回しての戦いを余儀なくされた。ディウティスクの戦乱は一年以上続き、ユーグとアンリ・ボケはディウティスク中を転戦した。
 戦いの連続で勘を取り戻したユーグはその軍才を発揮し、最終的には二人の王子の両方を撃破することで戦いを終結させる。ディウティスクの玉座にはアンリ・ボケの推薦した幼い王族の一人が就くこととなった。







 ……ヴェルマンドワ伯となってから最初の十年は惰眠をむさぼるだけのユーグだったが、次の十年は戦場を駆け巡る歳月となった。ユーグはフィリップの名代として、教皇インノケンティウスの勅命を受けた騎士として、エレブ中を戦場から戦場へと渡り歩いた。本領に戻るのは一年のうち一月にも満たない期間だけだが、ユーグに不満があろうはずもない。

「いやあ、仕方ないなあ、兄上のご命令だからなあ」

 今日もユーグは自軍を率いてイベルスの戦場へと向かうところである。補給を担当するのは各地のバール人商会、また各地の王室に従順な諸侯である。

「殿下、今日はこちらの者を」

「うむ、ご苦労」

 そしてユーグに女性を差し入れて接待するのもまた彼等の役目だった。禁欲を強いられてきた反動は大きく、ユーグは各地で貪欲に女をあさった。

「船乗りには港ごとに女がいる。ヴェルマンドワ伯には戦場ごとに女がいる」

 そう揶揄されるくらいである。だが、これだけ派手なことをしていれば当然噂はアデライードの耳にも届く。

「我が夫よ、今回の出征からはこの者達を側仕えとして置いていただきます」

 とアデライードが五人の男をユーグへと示した。そこにいるのは何代も前からヴェルマンドワ伯に仕える重臣、その子弟ばかりである。婿養子のユーグではなく、ヴェルマンドワ家そのものに絶対の忠誠を誓っている男達。ユーグから見ればアデライードの犬であり、監視役である。
 こうしてユーグは戦場でも自由を失ってしまった。女遊びをしようにも監視役の面々がそれを妨害し、決してユーグに女を近づけさせない。ユーグは一人寝室で、

「……あの頃は可愛かったのに」

 アデライードの肖像画を眺めて泣き寝入りし、夜を過ごすこととなった。
 さらにはその話がアデライードの耳にも入り、

「……そうですか。我が夫が」

「はい。ヴェルマンドワ伯はアデライード様の肖像画を眺めて夜の無聊を慰めております」

 そうですか、とアデライードは乙女のように頬を染めている。確かにその報告には嘘はないが、いくつかの重要な点が意図的に省略されていた。しばしの間幸福に浸っていたアデライードだが、

「わたしの絵姿が我が夫の心の慰めになるのならこれほどの喜びはありません。誰か、絵師をお呼びなさい」

 そしてユーグが戻ってきた際、アデライードはユーグの前にあるものを用意した。

「これは?」

 ユーグの前にあるのは高さ二メートル、幅一メートルほどの箱である。全体が黒檀で作られており、金細工の飾りで彩られている。正面が観音開きの扉になっていて、形としては衣装箪笥に近かった。もっと言うなら一番印象が近いのは仏壇だ。
 アデライードは無言のままその箱の扉を開く。そこにはもう一人のアデライードがいて、

「っ……!」

 ユーグは心臓が止まるかと思った。箱に入っているのはアデライードの肖像画だ。大きさは完全な等身大、実物と見間違うくらいに精密で正確な描写である。少しは美化すればいいものを、肥え太ったアデライードのそのままの姿を写真さながらに描き写してていた。

「次の出征にはあの者達にこれを持って行かせます」

 アデライードの言葉にユーグは目の前が真っ暗になる。

「どうぞこれで夜の無聊を慰めてくださいますよう」

 そう微笑むアデライードに、ユーグは引きつった笑みを返すので精一杯だった。
 次回の出征から、ユーグの本陣に荷車に乗った黒檀の箱が同行する光景が見られるようになる。いつまでも少年のように若々しかったユーグが年相応の落ち着きを見せてきたのもこの頃からである。
 それからしばらく後の、ある戦いでのこと。
 その夜、ユーグの軍は戦場に近い山城で一夜を過ごしていた。ユーグには客間が割り当てられ、そこには例によって黒檀の箱も運び込まれている。ユーグは箱から目を逸らしながらやけ酒を飲んでいるところだった。そこに、

「殿下、枢機卿アンリ・ボケが殿下にお目にかかりたいと」

 今回は異端と目された諸侯討伐のためアンリ・ボケが教皇庁の騎士団を率いて友軍として同行していた。ユーグはアンリ・ボケを自室に招き入れる。

「夜分に恐れ入ります。王弟殿下」

 客間に入ってきたアンリ・ボケは黒檀の箱に目を留める。というか、部屋の真ん中に鎮座しているのだから何をどうしようと目に入るだろう。

「これが噂の……王弟殿下は愛妻家なのですな」

 と笑うアンリ・ボケ。ユーグにはそれが嘲笑としか思えなかった。

「ご夫人の肖像を拝見させていただいてもよろしいですかな?」

 アンリ・ボケのその頼みに頷いたのも自棄になっていたからであり、深い考えがあったわけではない。アンリ・ボケもまた単に話のきっかけにしようと思っただけである。箱の扉を開いてアンリ・ボケはその肖像画を目の当たりにし、

「……」

 アンリ・ボケはかなりの長時間言葉を失った。

「枢機卿?」

「――え、ああ、失礼しました」

 我に返ったアンリ・ボケが扉を閉じる。

「いや、大変見事な肖像でした。奥方もまた美しい、聖母とはあのような方を言うのでしょうな」

「ありがとうございます」

 熱を込めたアンリ・ボケの追従にユーグは適当に頷く。アンリ・ボケはどうでもいいようなことを少し話をし、立ち去っていく。ユーグは「何をしに来たんだろう」と首をひねっていた。
 それまでもアンリ・ボケと轡を並べて戦う機会はあったのだが、それが目に見えて増えたのはそれ以降である。時にアンリ・ボケの窮地を助け、時にアンリ・ボケの突撃により敗色を覆した。客観的には、ユーグにとってアンリ・ボケはもはや戦友と言っていい。
 だが、それでもユーグはアンリ・ボケに気を許すことはなかった。アンリ・ボケが自分を見つめる目に、ユーグは不穏な何かを感じていたからである。
 あるとき、ふとした雑談の中でユーグはその思いを腹心の一人に漏らした。

「枢機卿が僕を見る目に何かの思いを感じることがある。それが何なのか判らないが、何か不穏なものだ」

 そう感じたことはないか?というユーグの問いに、その腹心・タンクレードはこともなげに答えた。

「ああ、それはおそらく『嫉妬』でしょう」

 ユーグはほんの少しの間、唖然とした。

「……嫉妬? あの枢機卿がこの僕に? まさかそんなことはないだろう」

 アンリ・ボケとの付き合いもう短い期間ではない。ユーグはアンリ・ボケのことをよく知っている。異教徒や異端、敵に対しては容赦の欠片もなく、悪魔の民(恩寵の民)の赤ん坊を自らの手で篝火の中へと放り込んでいるところも目撃している。その一方正統の聖杖教徒に対しては慈悲深く、飢えた貧民や貧農に軍の糧食を分け与えているところも何度も直接その目で見ているのだ。

「独りよがりではた迷惑な御仁だが、聖杖教の聖職者としてあれ以上の方と言えばそれこそ教皇くらいのものだ」

 それがユーグによるアンリ・ボケの評価だった。

「それもまた枢機卿の一面でしょうが、別の、隠している一面があるのは間違いありません。殿下はそれを感じ取ったのだと思います」

 タンクレードの言葉にユーグは腕を組んで考え込んだ。

「なるほど。では、その隠している面というのはどのようなものだろうか」

 これはあくまで兵卒どもの無責任な噂話ですが、とタンクレードは前置きし、

「枢機卿は殿下の奥方に横恋慕をしている、と」

 ユーグはかなりの長い時間二の句が継げなかった。

「……いや、まさかそんなことは」

 反射的にそう言いつつも、ユーグにも全くの心当たりがないではなかった。アンリ・ボケが度々ユーグの元を訪れるのもアデライードの肖像画が見たいからではないのか? アンリ・ボケがヴェルマンドワ伯本領を訪れた際もアデライードのことを気にしていたのではなかったか? 会えたときに嬉しそうにしていたのも、あれは演技ではなく本心ではないのか?
 「確かに体格的にはお似合いの二人だが」とか「欲しいのならリボンをかけてくれてやるが」とか、様々な思いがユーグの心をよぎった。

「……しかし、いくらアデライードに横恋慕しようと枢機卿にはどうしようもないだろう。例え僕が戦死しても、枢機卿が僕の後釜に座れるわけがない」

 ユーグの感想にタンクレードは苦笑するしかない。ユーグは王族としてはかなり型破りであり下々とも気安く接しているが、それでも貴人は貴人である。他者の感情の機微に疎いところがあった。

「それは枢機卿も嫌と言うほど理解していることでしょう。ですが、恋心に限らず人の感情というのは不合理なものなのです。それが無意味だと理屈でどれだけ判っていても身も心も焦がされる、それが恋心であり、嫉妬という感情なのです。およそ男の妬心ほどたちの悪いものはありません。どうか殿下もご用心を」

 覚えておこう、と頷くユーグ。元々タンクレードを腹心としていたユーグだが、その会話以降さらにタンクレードを重用することとなる。








[19836] 幕間4 ~とある王弟の回想・後
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/07/12 21:03




「黄金の帝国・幕間4 ~とある王弟の回想・後」







 時に、海暦三〇一五年。
 国王に対する敵対勢力をほぼ一掃し、フランク王国では平和が享受されていた。ブリトン・ディウティスク・レモリア・イベルスの諸外国でもまた同様に強力な王権が確立しており、エレブは数百年ぶりの平和と繁栄を謳歌している。

「あの教皇は本当に神の使いなのかもしれんな。まさか私が生きている間にこんな平和な時代がやってくるとは」

 とフィリップは賛嘆する。エレブ全土に平和をもたらした教皇インノケンティウスの権威は天を突かんばかりとなっていた。
 一方この十年戦い続けてきたユーグはフィリップのように楽観してはいられない。

「……不満を強引に抑え込んでいるだけです。それがいつ爆発してもおかしくはありません」

 教皇インノケンティウスは教会よりも民衆に、諸侯よりも兵士に直接訴えることを好んだ。民衆に教会という中間を飛ばして直接教皇につながるという意識を持たせ、教会の既得権益を奪い取ろうというのである。フィリップ達五王国の国王もそれを真似、諸侯を排除して直接民衆や兵につながろうとした。もちろん、諸侯や教会という中間の存在を完全に撤廃したわけでは決してないし、そもそもできるはずもない。だが長い戦いにより諸侯・教会という中間の存在はかつてないほどに力を弱めていた。
 中間搾取を廃することにより教皇・国王というトップと民衆は大きな益を得、教会や諸侯は貧する。反発する教会や諸侯を民衆の支持を得て撃滅していき、王権と教皇権を強化していく。
 そうやって敵対勢力を掃討し続け、ようやく五王国は王権強化を確立したのである。だが既得権益を徹底的に奪われた諸侯には膨大な不満がたまっている。言わば、フィリップ達の玉座は可燃ガスが目いっぱい入ってはち切れそうになっている風船の上に乗っているようなものなのだ。

「諸侯はネゲヴ征服の発動を求めています。僕の元にも毎日のように嘆願書
が届いています。

『一日でも早くネゲヴ征服を』『騎士達は馬具を揃え剣を磨き、その日を待ちわびているのです』と」

「ディウティスクなどは国王自身が誰よりもネゲヴ征服の積極派だということだ。なんと愚かな……!」

 フィリップは吐き捨てるように言う。ユーグもまた無言のまま頷いて同意した。

「私はネゲヴ征服などという愚行で兵や民の生命を損なおうとは思わない。ユーグ、お前の役目は教皇とともに時間を稼いでネゲヴ征服の発動をなし崩しのままに有耶無耶にしてしまうことだ」

 判りました、と頷くユーグ。ユーグは教皇庁のあるテ=デウムへと向けて出立した。
 教皇インノケンティウスは五王国の国王に対して軍権の全権を担う使節をテ=デウムに派遣するよう求めたのである。目的は説明されなかった。だが教皇が各国の使節を集めて発表すること、あるいは話し合うことがネゲヴ征服発動に関する問題なのは自明のことだった。
 ユーグがテ=デウムに到着する頃には他の諸王国からの大使もすでに到着していた。ディウティスクからは国王自身がやってきている。ディウティスク国王フリードリッヒは二〇歳になったばかりの、血気盛んな若者である。

「お久しぶりです、ヴェルマンドワ伯。いよいよ聖戦の発動かと思うと血がたぎりますね!」

 フリードリッヒは自分の即位に尽力してくれたユーグのことを兄のように慕っている。ユーグは苦笑しつつもフリードリッヒを宥めた。

「いえ、まだどうなるか判りませんよ。いきなり軍を率いて進軍するのではなく、まず使者を出す必要があると思いますし。いずれにしても、聖下のお言葉を待ちましょう」

 ユーグの日和見な姿勢にフリードリッヒは不満そうである。フリードリッヒは王国の実権を宰相に握られており、傀儡として十年を過ごしてきた。フリードリッヒはネゲヴ征服の発動を宰相から実権を奪い返す機会としようしているようだった。
 そして今、ユーグ達各国大使五人がサン=バルテルミ大聖堂の礼拝堂へと集められている。五名が片膝を付いて頭を伏せる中、五人の前に静かに教皇インノケンティウスが姿を現した。教皇の隣には枢機卿アンリ・ボケが影のように佇んでいる。そのアンリ・ボケが教皇の前に出、五人の眼前に立った。

「――今、エレブにはかつてない平和がもたらされています。それも、ヴェルマンドワ伯ユーグ・ディウティスク国王フリードリッヒを始めとする神の使徒たる騎士達の、長きに渡る戦いの結実というものです。ですが! 我等は決してこれに満足してはいけない。神の愛を、栄光を、この地上全てにあまねく注ぐ。それこそが教皇庁の責務、あなた方神の騎士の新たなる義務!」

 ユーグは鞭打たれたように小さく身を震わせた。嫌な汗がうつむいたままの額を流れる。

「――今、ネゲヴの大地は異教徒と悪魔の民に支配されている。聖典にある通り、ネゲヴの大地は我等聖杖教徒に与えられたもののはず! 彼の地を取り戻さなければならない! 汚らわしい異教徒を一掃し、蒙昧な民に真の信仰を理解させ、おぞましい悪魔の民を浄化する! それこそが我等聖杖教徒の聖なる義務!」

 沈黙を守っていた教皇インノケンティウスが立ち上がり、アンリ・ボケと入れ替わって前へと進み出る。そして五人に向けて厳かに告げた。

「――教皇の名において聖戦を命ず。聖杖の旗の下に、ネゲヴの全土を制するのです」

 五人の口から声にならない感嘆が漏れた。フリードリッヒは感動のあまり滂沱のごとく涙を流している。その場の全員が新たな歴史を刻むことに血を熱くする一方、ユーグの心はどこまでも冷え切っていた。教皇が言葉を続けた。

「私はエレブの兵や民を無為に損なうことを望みません。異教徒であろうとネゲヴの民にも戦ってほしくはない。ですので、戦わずともネゲヴ全土を制することができるだけの兵を動員します。――百万です」

 五人の使節が彫像のように凍り付く中、教皇の宣言が続く。

「フランクが二五万、ディウティスクが二五万、イベルスが二五万、レモリアが一五万、ブリトンが一〇万。各国はそれだけの兵を動員してください。集結はアダルの月一日、場所はイベルスのマラカ。そこに百万の兵を集結させるのです。そして全軍の指揮はフランク国王王弟・ヴェルマンドワ伯に執っていただきます」

 ユーグは全身の血が氷になったかのように思えた。指の一本すら意のままに動かせない。血の代わりに流れる氷片が血管を裂き、心臓に突き刺さる。早鐘を打つ心臓が胸を刺す痛みをさらに強めた。教皇とアンリ・ボケが退出し、各国代表が興奮して、あるいは不安そうに話し合いを始めても、ユーグは俯いたまま身動き一つできないままだった。
 ……一体あの後どう行動したのだろうか。気が付いたらユーグは迎賓館の一室にいて、寝台に腰掛けていた。この場に他の誰もいないことを理解し、ユーグは頭を抱え、絞り出すようなうめき声を上げた。

「……一体、何故こんなことに」

 そのまましばらく唸っていたユーグだが、

「そうだ、こうしてはいられない」

 ユーグは勢いよく立ち上がりアンリ・ボケの元に向かった。幸いアンリ・ボケとは間を置かずに面会することができた。

「一体これはどういうことですか!」

 ユーグの剣幕を「はて、何のことでしょう?」ととぼけた顔で受け流すアンリ・ボケ。ユーグは拳を握りしめた。

「聖戦のことだ。聖戦は王権強化のためのただの手段だったはず、実際に聖戦をするつもりはないと教皇は言っていた。あれは嘘だったのか!」

 アンリ・ボケは困惑の表情を作って見せた。

「聖下が嘘をおっしゃるはずもありますまい。どうやら何か行き違いがあったようですなぁ。王権強化は聖戦を実現するための準備段階、それは判っていただいているものと思っておりましたが」

 歯を軋ませるユーグだがゆっくり深呼吸をし、冷静さを取り戻そうとする。

「……今、エレブの民全てが平和を謳歌している。僕達が十年間戦い続けてようやく掴んだこの平和を、この繁栄を、何もかもを無為にするおつもりか? 聖下に奉られた『平和の使徒』の名声を、地に投げ捨てるおつもりか?」

「確かに、このまま平和が続くのであればそれに越したことはありません」

 アンリ・ボケはわざとらしく頷いた。

「ネゲヴのことなど無視してしまい、エレブだけで平和と繁栄を享受する……確かにそれは素晴らしいことでしょう」

「だったら――」

 だがユーグの説得はアンリ・ボケの「それができるのであれば」の一言によって遮断された。

「殿下、よくよく思い返していただきたい。私とあなたがどれだけの血を流してきたのかを。どれだけの民の屠り、どれだけの貴族を破滅させ、どれだけの聖職者を処刑してきたことか。その全ては『聖戦』のためではなかったのですか? 今更それをなかったことにできると、本気でお思いなのですか?」

 アンリ・ボケの正しさを認め、ユーグは沈黙する。

「そして巷の声に、民衆の思いに耳を傾けていただきたい。彼等は皆等しく聖戦を望んでいる。彼等の願いをなかったことにできると、本気でお思いなのですか?」

(……確かに、この期に及んでなかったことにできるはずがない)

 ユーグはそれを認める他なかった。不満を今にも暴発させそうな諸侯、ネゲヴに教区を持つことで失地を取り返そうとする教会、散々信仰心を煽られて狂信者の群れと化した民衆、ネゲヴに自分の農地を持つことを夢見ている零細農民、自分の領地を持つことを夢見ている貧乏騎士、ネゲヴを略奪することしか考えていない傭兵崩れ。もし教皇インノケンティウスが前言を翻してネゲヴ征服を中止にしたなら彼等の不満は教皇庁へと向かうことになるだろう。インノケンティウスを教皇の座から引きずり下ろし、ネゲヴ征服を実行する別の誰かを教皇の座につけようとするに違いない。

(それは僕や兄上にしても同じことだ)

 フィリップやユーグ、フリードリッヒや他の諸王国の国王にしても、ネゲヴ征服の実現を口実として軍権を国王へと集中させ、王権を強化してきたのだ。もしネゲヴ征服に反対したなら王権強化の正当性を自分でひっくり返すこととなる。部下も諸侯も民衆も離反する、教皇庁からも異端と見なされる。臣下の誰かが適当な王族を担いで反乱を起こし、フィリップとユーグは処刑されるだろう。そして結局その新たな国王がネゲヴ征服を実行するのだ。
 ユーグはその場に崩れ落ちるようにひざまずいた。

「……だが、しかし」

 ユーグはそれでも顔を上げ、アンリ・ボケを見つめた。

「いくら何でも百万は無茶苦茶だ。そんなことできるわけがない」

「勝つためには百万を動員すべきだ、そう説いたのはあなたでしょう」

「あんなもの、子供の頃の戯言だ!」

 ユーグが思わず激高する。だがアンリ・ボケは微笑んでいるだけだ。

「いえいえとんでもない。殿下のご高見には感服しているところです。確かに確実に勝利し、ネゲヴ全土を制するにはそのくらいの兵は必要でしょう」

 アンリ・ボケは笑っている。いつもと変わりない笑顔をユーグに向けている。目尻が下がり、口の端が上に向き、それは確かに笑顔のはずである。

(この男は……一体)

 ユーグにはその笑顔が何か別のものに見えたのだ――途轍もなくおぞましい何かに。ユーグの全身が悪寒に大きく震えた。

「マラカ集結まであと一一ヶ月しかありません。明日からは忙しくなりますよ、王弟殿下」

 アンリ・ボケはそう言い残して去っていきその部屋にはユーグだけが残された。ユーグはいつまでもその部屋で一人、震える身体を抱いているだけだった。







 ついに聖戦が正式にエレブ全土へと発令された。聖戦を、ネゲヴ遠征軍への集結を説いた教皇勅書が印刷機で印刷され、エレブ中へと配付される。勅書は回覧され、民衆の前で読み上げられた。
 長らく待ち望んでいた勅命がついに下ったのだ。エレブ全土に熱狂の渦が巻き起こった。ある諸侯は隣の諸侯に領地経営の全てを委託し、配下の騎士全員を引き連れマラカへと旅立った。ある村落では村人全員が剣や槍の代わりに鍬や鋤を手にし、マラカへと向かって移動を開始した。
 その熱狂の中でも、フィリップとユーグは苦い顔を隠せていない。

「……ともかく、兵を集めねばならない。それはお前に任せる。私はマラカ集結を支援する準備をしなければならない」

 はい、とユーグは頷く。フィリップとユーグはそれぞれの仕事に取りかかった。

「百万とはまた気宇壮大だな」

「エレブが空っぽになってしまうぞ」

 最初は各国の王室や諸侯も笑っていたが、その笑いが凍り付くのにそれほど時間はかからなかった。

「教皇聖下は各国に兵を割り当てられた。それを守っていない、守ろうとしていないのはどういうことですかな?」

 枢機卿アンリ・ボケが、その部下が各国王室を訪れて動員計画の進捗状況を確認。動員が割り当てに届きそうにないのなら計画の変更を要求する。

「この計画ではあまりに余裕がありません。もう二割動員を増やしましょう」

「監視員を派遣します。割り当ての遵守は信仰の証、陛下が不信心者と見られないことを祈るばかりです」

 アンリ・ボケと教皇庁は百万の動員を本気で実現するべく動いている。威圧・脅迫・断罪を駆使し、アンリ・ボケは各国に動員割り当ての遵守を迫った。

「教皇は正気か」

 フィリップは愕然とし、ユーグはただ天を仰いだ。

「教皇はともかく、枢機卿はどう考えても正気じゃありません。ですが、それは最初からだったんです」

 ユーグは諦念のため息をつくばかりである。

「他の各国も割り当てを守ろうと必死になっています。我々だけ守らないわけにはいきません」

 ユーグはフィリップに割り当て遵守のための強権を求める。フィリップは毒杯を仰ぐような顔でその要求を呑んだ。
 ユーグはまず国王直属の軍の九割を動員。当然それでは足りないので国内全ての諸侯へと動員兵数を割り当てる。幸い諸侯は次々と参集してくるが、それでも二五万には届かなかった。

「仕事をなくした傭兵がいるはずだ。それを集めろ」

「村を捨ててマラカに向かおうとしてる民衆がいるそうだな。それも軍に組み込め」

「バール人どもから奴隷を買ってこい。それを兵とする」

 そこまでやってもまだ二五万には届かない。ユーグは最後の手段を選ぶしかなかった。

「……獄舎を開放しろ。牢につながれている囚人を全員連れて行く」

 囚人に勝手に逃げられると問題なので、囚人には一人ずつ番号を振られ、その番号の入れ墨をされる。その時間がなければ焼きごてをして番号を刻印した。
 ユーグは部下や諸侯に動員兵数を割り当て義務付け、その部下や諸侯もまた配下の部下・小諸侯へと動員兵数を割り当て、罰則を持ってそれだけの兵数を動員することを強制する。さらにその部下達はまた部下へと連鎖していき、末端では五人一組、または十人一組とした班が組織された。班には定員が決められ、欠員は班自身・班員全員の連帯責任で埋め合わせる義務を負っている。欠員が出た場合は最悪出身村落に残した家族までが連帯責任を問われ、処刑されるかもしれないのだ。
 各班は欠員を埋めるための手段を選ばなかった。兵の供出を割り当てられた家から成人男子の兵が出せなければ、男の老人を、それができなければ男の子供を、それができなければ女であろうと兵として引き連れていった。

「もうたくさんだ!」

 自分で自国を破壊するに等しい行為にユーグは我慢できなくなり、ついに教皇庁に押しかけた。

「異端に問われたって構うものか。もう教皇に直談判するしかない」

 ユーグは教皇に面会を申し込む。が、ユーグの前にはアンリ・ボケが立ちはだかった。

「聖下はご気分が優れない模様。代わりに私がお話をお伺いしましょう」

「ネゲヴ出征を、聖槌軍を中止するべきだ。今すぐに」

 アンリ・ボケは眉を跳ね上げた。

「……さて、神の忠実な騎士たる王弟殿下のお言葉も思えませんな」

「あなたこそ、この国のこの有様が目に入らないのか! ネゲヴでの戦いがどうであろうと、このままではこの国が滅んでしまう!」

 成人男子は全員出征し、残ったわずかな男手も通過する聖槌軍の軍勢が欠員を埋めるためにさらっていく。根こそぎ奪われ、破滅に瀕した村では村民が聖槌軍の末尾へと加わっている。残るのは無人となった村と荒れ果てた畑だけ――そんな光景が今フランク王国全土で広がっていた。

「あなたは知らないのか、この実態を!」

「いえ、そんなことはありません。無手であろうと、女子供であろうと聖地回復に立ち上がる、信仰心篤き民草の健気さには涙が流れる思いです」

 アンリ・ボケの白々しい言葉にユーグは歯ぎしりをする。我知らずのうちに手が腰の剣に伸びていた。が、幸か不幸か剣は衛兵に預けたままだ。ユーグは何とか冷静になろうとした。

「……今、巷には教皇庁と王室に対する怨嗟の声が満ちあふれている。あなたはこのままでいいのか? 敬愛する聖下が民衆の憎悪の的になっているのだぞ」

「いいえ、殿下。民衆の憎悪を一身に受けているのは私です。民草の聖下に対する信心は未だ失われてはおりません」

 ユーグは思わずアンリ・ボケを見返した。

「……あなたは、それでいいのか?」

「何か問題でも?」

 むしろアンリ・ボケの方が不思議そうだ。

「聖下のために血を流し、泥にまみれ、敵と味方に憎まれる。それが私の役目です。それで聖下の理想が実現するのなら、どうしてその役を厭う理由があるでしょう?」

「その、聖下の理想とは何なのだ。これほどまでに民衆に犠牲を強い、血と涙を流させる、それは聖下の理想に反することではないのか」

 それはユーグの心底からの疑問だった。何故教皇は今のこのフランクの、エレブの惨状に何も言わないのか。何故教皇はこの悲劇を見過ごし、何もしようとしないのか――それはユーグだけではなく、エレブの大多数の人間が等しく抱いている深刻な疑念だった。

「理想の実現に犠牲はつきものです」

 その問いに対し、アンリ・ボケは胸を張って誇らしげに答えた。

「聖下は心優しいお方です。犠牲には胸を痛めておいででしょうが、いつものように『見なかった振り』をしてくださいますよ」

 ……結局、ユーグは教皇インノケンティウスと面会できないまま教皇庁を後にした。

「『見なかった振り』……そうか、『見なかった振り』か」

 アンリ・ボケの答えはユーグの意志を打ちのめしていた。教皇に面会しても意味がない、ユーグはそう悟る他なかったのだ。

「教皇はこのフランクの惨状を『見なかった振り』ですませることができるのか。異端でも異教徒でもなく、教皇の民草である聖杖教徒の血と涙を『見なかった振り』でやり過ごすことができるのか」

 ふと、ユーグの脳裏をある疑問が過ぎる。それは、本当に何も見ていないことと何が違うのか?
 教皇が就任してから三〇年、アンリ・ボケやニコラ・レミはさらにその前から今の教皇のために大量の血を流してきた。四〇年以上ずっと、流された血に「見なかった振り」をしてきたのなら――あるいは本当に何も見えなくなってしまうのではないのか?
 それはただの想像である。だがユーグにはそれが正解だとしか思えなかった。







 フランクを始めとする各国は百万を越える人間を動員し、南へと送り込み続けた。集められた雲霞のごとき大軍勢は、ただ通過するだけで街道沿いの町や村を破壊していった。
 聖槌軍に参加した諸侯の全員が自力での補給など考えていない。持てるだけの貨幣・貴金属を用意し、道中それで食糧を購入することを考えていた。が、実に百万の軍勢が移動し、食糧を、物資を求め続けるのだ。食糧の値段は高騰し持ってきた財貨はすぐに尽きる。そうなると彼等にできるのは二つしかない。街道沿いの町や村を略奪するか、道中の諸侯や教会に支援を求めるか、だ。

「ともかく食糧を集めろ、街道へと送り込め。聖槌軍を飢えさせるな」

 もちろん弱体化した諸侯には支援する力など残っていない。そうなると道中の食糧支援の最終的な責任はフランク等の各王国王家が受け持つこととなる。フィリップはそれを見越し、国庫を空にする勢いで食糧を買い求めた。それでも足りないのでバール人商人から借金をし、それを踏み倒し、それでも足りないので教会に金品を供出させ、それでも足りないので各村から食糧を吐き出させる。多くの村落が来月の食糧も、来年の種籾すら奪い取られ、破産していき、絶望した農民が聖槌軍の末尾に加わる。そして彼等は奪われる側から奪い取る側に回るのだ。
 そうやって、略奪と絶望を何度も再生産し、聖槌軍は雪だるま式に膨れ上がっていく。軍勢が通過した後はまるで蝗の通った後のように何も残らず、ただ荒野が広がるだけだった。
 フィリップは自国のあまりの惨状に言葉も出ない。

「七〇年前の大飢饉の時もこんな有様だったのだろうか」

 国庫は空となり、農村は荒れ果て、作付けも行われず、街からは灯が消えている。王宮からも人気がなくなり、わずかに出仕している臣下も虚ろな顔をぶら下げているだけだ。

「陛下、枢機卿アンリ・ボケの率いる鉄槌騎士団がフランク領を抜け、イベルス側へと入りました。聖槌軍の軍勢はこれで全て我が国を通過したことになります」

 臣下の報告にフィリップは「そうか」と答えた。もう食糧を手当てする必要もない。落後した兵や農民を処分する必要も、替わりの兵を補給するために人狩りをされることもないのだ。

「……行け、行け! どこへでも行ってしまえ! 地の果てまで行ってしまえ! そしてもう二度と帰ってくるな!」

 一人になったとき、フィリップは臓腑にため込んでいた暗い思いを吐き捨てた。何はともあれ、これでフランク王国にとっての聖槌軍は終わったのだ。出立した軍勢の先行きなど知ったことではない、弟さえ無事に戻ってくるならそれでいいと、フィリップは決め込んでいた。これからは国内の復興という大仕事が待っているのだから。







 イベルス王国の下級騎士にゴンザレスという名の男がいる。武芸は人並み以下で事務仕事も人並み程度、生真面目で几帳面なのが取り柄という、イベルスに五万といるであろう男である。だがこの凡人はこの時期にある任務を完遂し、それによって歴史に不滅の名を残している。
 マラカの町の南の門番だった彼は三ヶ月間城門に陣取り、通過する全ての軍勢から兵数を聞き取りそれを記録として残したのだ。
 フランク・ディウティスク・イベルス・レモリア・ブリトンの五王国を中心とし、ポルタスカラ・エイリン・マリヌス・モノエキ・ベルガエ・ホラント・デーンマルク・シュヴィツ・オストマルク・マジャール・スヴェリ・イスラント・ポリエ・ルーシ・ポロツク・ノルレベク・スオミ・ヘラス・ブルガール・ロマニ・シキペリセ、合計二六ヶ国。参加総兵数一〇二万五五五九人。それがゴンザレスの書き残した聖槌軍の全容である。もちろんその正確さについては相当割り引いて考えなければならない。だが万単位で見るならばその数に間違いはないものと考えられている。
 総勢百万の大軍勢、それがユーグの指揮する軍の威容である。この軍勢の行く先にどんな運命が待っているのか、それを知る者はまだどこにもいなかった。








[19836] 幕間5 ~とある牙犬族剣士の回想
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/07/26 21:25

 ときは海暦三〇一五年の年末、場所はスキラ市内。海にほど近いその丘には下層に近い庶民が寄り集まって住んでいた。一間か二間しかないような小さな家が密集して丘を埋め尽くしている様は、まるで巨大な蟻塚のようである。道は細く曲がりくねっていて、迷路そのものだ。大抵は舗装されていない砂利道だが部分的に石畳の階段が作られている。
 その丘の中腹にある一軒家を一人の男が訪れていた。

「邪魔をする」

「……どちらさん?」

 男を出迎えた家主の女は警戒を示した。男の身長は高く痩身。肌は白い、というよりは蒼白だ。中途半端に長い髪は不自然なくらいに黒く艶やかで、長い前髪に半分隠れた目は鈍い赤。表情は暗く、感情があるのかどうかを疑ってしまう。憲兵や徴税官といった規律に服する職務が何よりも似合いそうな、嫌な印象の男であった。

「俺の古い馴染みだ。入れてやってくれ」

 部屋の奥から別の男の声がする。その女は無言のままその来客を家の中に招き入れた。

「怪我の具合はどうだ?」

「何、もうほとんど直っているさ」

 部屋の奥で退屈そうにしていたのは、愛想のいい笑い顔を絶やさない陽気な男である。年齢は四〇前後で、やや長身でやや細身。特徴らしい特徴のない、外見の上では印象の残らない男だった。
 これを、と来客は家主の女に手土産を渡す。女はそれを持って台所に向かった。

「酒か?」

「怪我人に酒はまずいだろう。バラタ産の茶だ」

 気の利かん奴だな、と男はつまらなさそうに肩をすくめる。来客はその憎まれ口に何の反応も示さなかった。男の視線に促され、来客は椅子に腰掛けた。
 少しの間、無言のまま時間が流れる。家主の女が茶を入れてやってきた。二人の男に茶を差し出し、女はまた台所へと下がっていった。

「……今の女とは長いのか?」

「一〇年は経っていないな。何のかんの言っても一番気楽に付き合える奴だ」

 また無言のまま、二人は茶を味わった。窓の外から子供の声や物売りの声が聞こえている。二人はその声を観賞するかのように沈黙していた。時折思い出したように言葉が交わされるが、数えられるほどの回数だ。
 そうやって小一時間を過ごし、その来客は立ち去っていった。それと入れ替わりに家主の女が部屋へと戻ってくる。

「随分変わった人だったわね。何なのあの人」

「古い馴染みさ」

 男はそれだけを言い、過去を懐かしむかのような笑みを見せた。





「黄金の帝国・幕間5 ~とある牙犬族剣士の回想」





 もう二〇年以上も昔のこととなる。その頃のツァイドは二十歳にもなっていない若造だった。
 そのとき、牙犬族は海賊退治の仕事を請け負ってキュレネの町を訪れたところだった。ツァイドはその一員に加わっている。キュレネは地中海を挟んで対岸にヘラス(元の世界のギリシア)があり、交易の盛んな町である。
 ツァイドは一人で港に近い賭場を訪れていた。半地下の大広間は二〇〇人を超える客で充満している。何十というテーブルが並び、あるテーブルではサイコロ博打が、あるテーブルではカードゲームが催されていた。各々のテーブルには十人に満たない人間が集まり、皆が賭け事に熱中している。ツァイドはサイコロ博打の席に加わった。酒を片手に小銭を賭けて、勝っては大喜びをし、負けては大いに悔しがる。胴親の警戒心を解いたところで、

「ところで近頃何とかっていう海賊が出ているそうだけど」

「ああ、メファゲル海賊団のことか。あの連中のせいでこの頃は景気が悪くなって仕方ない」

 そこに横の客が口を挟んできた。

「長老会議が牙犬族の傭兵を雇ったそうだぜ。これであの連中もおしまいだろう」

「ああ、そりゃ心強いな!」

 ツァイドはことさらに喜んで見せた。

「でも相手の海賊団だって手強いんじゃないのか?」

「ああ、人数は百人以上って話だ。この辺りじゃ一番大きな海賊団だ」

 ツァイドはそうやって情報を引き出し、負けが込んだところで適当にサイコロ博打を切り上げた。ツァイドは賭場内をぶらぶらと歩いて回り、どこで情報を集めようかと検分している。そのツァイドの目に写ったのはある人集りだ。ツァイドはその人集りに加わった。見ると、胴親と客がカードゲームで一騎打ちをしているところである。
 胴親はこの賭場では最も名前の売れた男だ。見栄えのする容姿と華麗なカードさばきからこの賭場の花形で通っている。その胴親が、常の余裕を失ってだらだらと脂汗を流している。相対しているのは背の高い若者だ。年齢はツァイドと変わらないくらい。深々とフードを被っているが、その隙間から灰色の髪が覗いていた。
 胴親と若者が同時にカードを広げ、その場の一同がどよめいた。ツァイドが手札を確認し、若者の勝ちであることを理解する。積み上げられた金貨がごっそりと若者の方へと移動した。胴親は蒼白となっているが何とか笑顔を作り、肩をすくめて見せた。

「やれやれ、かないませんね。有り金が全部なくなってしまいました、残念ですがこれでおひらきとしましょう」

「判った」

 ツァイドは胴親と、金貨を鞄にしまっている若者とを等分に見比べた。胴親は端正な顔を暗く歪め、嘲笑を浮かべている。ツァイドは胴親のその様子に不審を抱いたが若者の方はそれに気付いていないかのようだ。ふと、若者がツァイドに視線を止める。若者の赤い眼差しがツァイドを見つめた。

「――」

 若者はフードの付いた外套を翻して立ち去っていく。ツァイドは少し距離を置いて若者に続き、その後を尾行した。
 賭場を出、一スタディアも歩かないうちに若者は何人もの男に取り囲まれていた。

「ふん、勝ち逃げなんか許すと思っていたのか?」

 その中心にいるのは有り金を全て奪われた胴親である。胴親が引き連れているのは賭場の用心棒で、その数五人。

「俺の面子をあれだけ潰して無傷で帰れると思っていたのか?」

 胴親は若者を嘲笑し、用心棒が追従するように「馬鹿な奴だぜ」と笑う。だが若者は軽くため息をつくだけだ。

「お前達こそ、私が一人であの賭場に来ていたと思っていたのか?」

 用心棒が慌てて背後を振り返るとちょうどそこにはツァイドの姿が。この状況ではツァイドがどう言い訳しようと無関係とは思われないだろうし、ツァイドもまた無関係を装うつもりもなかった。ツァイドは自分から用心棒の一団の中に飛び込んでいく。

「このガキ――!」

 警棒を振り上げる用心棒の腹に、目にも止まらぬ速さで拳の一撃を食らわせる。背後から迫る用心棒の顎を足で蹴り上げ、もう一人の顔面に足の裏を叩き込んで鼻をへし折った。

「こ、こいつ、恩寵持ち……!」

 ツァイドは恩寵も剣の腕も、牙犬族の中では弱い方の部類に入る。だがそれも「恩寵持ちの中では」の話である。恩寵がなくても恩寵の一族の生まれであれば、大抵は優れた身体能力を持っている。そして恩寵持ちとそうでない者の間には決して越えられない壁がある。元々優れた身体能力を身体強化の恩寵で強化しているのだ。無手のため烈撃の恩寵を使えずとも、恩寵を持たない人間に負けるはずがなかった。
 残った用心棒は完全に怯えており、もはや勝負にはならない。胴親もそれは理解できたのだろう。

「くそっ! 覚えていろ!」

 陳腐な捨て台詞を残して胴親が逃げていき、用心棒もそれに続く。その場にはツァイドと若者が残された。

「助かった。礼を言う」

 若者が淡々と告げる。ツァイドは「別に構わんが」と受け流し、気になっていた点を確認する。

「もしかしてあんたは白兎族か?」

 若者がその問いに頷き、ツァイドは軽く驚いた。「幻の部族」と言われる白兎族をこの目で見るのは初めてである。

「私は白兎族のベラ=ラフマだ」

 若者はそう名乗る。それがツァイドとベラ=ラフマとの出会いだった。







「あなたがいてくれなければこの金貨はもちろん私の生命があったかどうかも判らない。これくらいは当然だろう」

 ベラ=ラフマは賭場で儲けた何百ドラクマもの金貨の半分をツァイドに譲ろうとした。が、ツァイドはそれを固辞。

「金の代わりにちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。あんたの恩寵を使って」

 ツァイドがその仕事の内容を説明し、ベラ=ラフマが了解。次の日からツァイドはベラ=ラフマを連れてキュレネの町を歩き回った。

「獲物はメファゲル海賊団だ。規模が大きくてなかなか厄介な敵なんでな、色々と調べて回っているところだ」

「牙犬族の剣士と言えば、雇い主の命令があればその通りに敵陣に突っ込むものとばかり思っていたが」

「考えなしの馬鹿ばかりと言いたいんだろう? 確かにそんな連中ばっかりだ」

 とツァイドは明るく笑った。

「だが、俺は他の連中に比べて剣も恩寵もいまいちなんでな。弱者は弱者なりに色々と工夫しているわけだ」

「お前を弱者と呼んだら白兎族の立場がないが」

 とベラ=ラフマも薄く笑う。大抵の恩寵の部族は身体強化の恩寵を持っているが、白兎族だけはそれを持っていなかった。白兎族の者は総じて体力にも体格にも恵まれず、一般の人々と比べてもひ弱なくらいである。

「私も大して強い恩寵を持っているわけではない。工夫が必要だという話はよく判る」

「それこそ俺の立場のない話だな」

 ベラ=ラフマの恩寵は情報収集に画期的な威力を発揮した。「昨日までの苦労は何だったのか」とツァイドが愚痴を言いたくなるくらいである。

「この男の話は半分は法螺でもう半分は町の噂話だ。もう切り上げよう」

「どうやら何かを隠しているようだ。それが何なのかまでは判らないが」

「概ねは事実を語っていたが、この点とこの点は嘘をついていた。では何故嘘が必要だったのか? そこから別の事実が判るのではないだろうか」

 大して強くないと称する恩寵でも嘘をついているかどうかは簡単に判別できるのだ。さらにはベラ=ラフマは集まった情報を分析することにも長けていた。その分析結果から次の情報収集の方針が決まっていく。これまでが暗闇の迷宮を手探りで進んでいたようなものなら、今は夜目が利いてマッピングの得意な者が仲間に加わったようなものである。ツァイドは最短距離で迷宮を走破し、敵情報の核心へとたどり着いた。

「メファゲル海賊団の幹部会が開かれます。敵の幹部を一網打尽にする絶好の機会です」

 ツァイドは幹部会の急襲をアラッドに提案した。アラッドは「何故そんなことが判ったのか」と不審がるが、ラサースの口添えもあってツァイドの提案が受け入れることとなる。
 そしてその夜、キュレネ市内の高級娼館を牙犬族の一団が急襲した。メファゲル海賊団も選りすぐりの護衛を連れていたが、牙犬族も恩寵を持った腕の立つ剣士ばかりを揃えている(ツァイドとラサースは例外だが)。十人程度の牙犬族が数倍の敵を圧倒した。
 特に目覚ましい活躍をしたのがバルゼルだ。バルゼルはこの日が初陣で人を斬るのも初めてだったのだが、斬られた海賊達はそんなことを想像もできなかっただろう。ツァイドが剣を一振りする間にバルゼルは三回くらい振っている。ツァイドが恩寵を出し惜しみしているのに対し、バルゼルにはそんな精神的余裕はなく常に全力全開だ。結果として、バルゼルの通った後には人間の部品が散乱することとなった。バルゼル一人で敵の半数を斬り伏せているが、その中には何人もの恩寵持ちも混じっている。

「無我夢中で剣を振るっていたらいつの間にか戦いが終わっていた」

 本人は後日そう語っている。

「恩寵を無駄に使いすぎだ。少しはツァイドを見習え」

 アラッドにもそう叱責され、バルゼル本人としてはなかったことにしたい部類の初陣となったようである。が、周囲はそうは受け止めなかった。

「一人で敵の半分を斬ったのか。初陣でこれなら先々どこまで延びるか判らんな」

「いやはや、末恐ろしいと言うべきか」

「次代の牙犬族も安泰だ」

 今回の勲一等はバルゼル、と衆目は一致したのだが、バルゼルはそれを固辞した。

「ツァイド殿の働きの方がよほど大きいではないか。ツァイド殿がいなければ我々は敵を探してまだキュレネの町をうろうろしているところなんだぞ」

 だがバルゼルの主張に賛同したのはラサースくらいのものだった。

「あの男が何人斬ったと言うんだ」

 それがツァイドに対する同族の評価である。それを聞いたバルゼルが怒って褒美の受け取りをボイコットし、それを取りなすためにアラッドがツァイドの功績をバルゼルに次ぐものと認める。それでようやくバルゼルも納得することとなった。
 一方当事者のはずのツァイドはこの経緯を他人事として眺めているだけである。

「バルゼルがどう言おうと、俺達の働きを認めているのはバルゼルとラサースの二人だけ。もう仕方がない、牙犬族とはそういう一族なのだ」

 ツァイドはベラ=ラフマと二人でささやかに祝杯を挙げていた。

「ならば、一族を離れるか? お前の腕ならどこに行っても重宝されるだろう」

 ツァイドはその提案にわずかに目を見開く。

「そういうお前はどうなんだ。お前の恩寵はどこの誰にとっても垂涎の的だろうが」

 ベラ=ラフマは酒をあおり「それもいいかもしれん」と呟く。だがベラ=ラフマが本当に一族を離れるとは、ツァイドには思えなかった。それが実現不可能な願望にすぎないことを二人は最初から判っているかのようだった。







 ツァイドがベラ=ラフマと再会したのはそれから数年後のことである。

「一族の様子が落ち着いたのでな。見聞を広めるために旅をする。護衛として雇いたい」

 ベラ=ラフマの申し出をツァイドは即座に引き受ける。ツァイドは限りなく出奔に近い形で里を出、旅路につくこととなった。

「結婚の話が進んでいたと聞くが……構わんのか?」

「気にするな。結婚してしまってはもうこんな旅はもうできなくなるだろうが」

 この後ツァイドの結婚話は破談となり、ツァイドは独身のまま四〇となってしまう。ベラ=ラフマもこの先独身のままである。

「そういうお前には結婚の話は来ていないのか。族長の一族なんだろう」

「弟も妹もいる。私のように恩寵の弱い者が血を残しても仕方ない」

 ツァイドは美男子というわけではないが愛嬌があって人当たりがよく、女にもよくもてた。訪れた町では必ず女を作ってその女の家に転がり込んでいる。一方のベラ=ラフマには女の影は全く見られない。ごくまれに一人で娼館に赴くくらいだった。
 ベラ=ラフマが髪を黒く染めるようになったのもこの旅の中、二人がケムトの港町ジェフウトに立ち寄ったときのことである。

「白兎族と判ったら警戒されてしまう。これなら白兎族と判りはしないだろう」

 と言うベラ=ラフマの向かう先は賭場である。その賭場を潰しかけるまで大儲けをしたベラ=ラフマはツァイドを引き連れて高級娼館へと向かった。その娼館を貸し切りにし、十数人もの女を侍らせて三日三晩にわたって酒池肉林の宴を謳歌する。タラント単位で儲けた金はその三日間で全て散財してしまい、手元に残っているのは数ドラクマだけだ。

「あー、腰が抜けるまでやりまくったぜ。当分女は見たくない」

 ツァイドは黄色くなった太陽を見上げる。その横に立つベラ=ラフマは常と変わらぬ涼しげな様子だ。

「うむ。なかなか得難い体験だった」

 その高級娼館はジェフウト随一と評判で、実際素晴らしい女が揃っていた。その十数人の美姫が王様もかくやと言うほどにかしづき、痴態の限りを尽くし、快楽の限りを極めてくるのだ。どれほど自らを律する心が強くとも、普通ならそんなものはどろどろに溶かされてしまうだろう。

「ベラ=ラフマさえいればいくらでも金が手に入る。もう一度――いや、何度だって、一生だってあの贅沢を味わえる。味わい続けることができる」

 ツァイドにもそういう思いは存在する。ベラ=ラフマを説得しようという衝動が確かにある。が、ベラ=ラフマには何らの変化も見られなかった。ベラ=ラフマにとってはこの贅沢や散財は一種の実験のようで、二回も三回もやる必要はないと判断しているようだった。
 ツァイドは「もう一度やろう」という言葉を辛うじて飲み込んだ。贅沢三昧を味わいたいという欲求よりもこの得難い友人に侮蔑されることの耐え難さの方がずっと大きかったのだ。ツァイドは代わりに問いを口にする。

「……何か判ったのか?」

「この恩寵の使い道だ。今回は、少なくとも金や贅沢のために使うべきではないと知ることができた」

 ベラ=ラフマの言葉にツァイドは首を傾げる。

「恩寵は一族のために使うものだろう? その恩寵を使って一族のために金を稼いだりはしないのか?」

「その場合、目的はあくまで一族に貢献することだ。金を稼ぐのは手段に過ぎず、恩寵を使わずに稼げるのならその方がいいのだ。お前も知っているだろう、白兎族がどう見られているかを」

 ツァイドは沈黙する。心を読む恩寵を持つ不気味な部族、忌まわしく呪われた部族――それが白兎族に対する一般的な見解である。

「一族のことを考えるならこんな恩寵は使わない方がいい。ない方がいいくらいなのだ。だが守神様は恩寵を授けてくださる。この恩寵が何のためにあるのか、私はそれが知りたい」

 この旅はそれを探す旅なのだろう、とツァイドはようやく得心する。ベラ=ラフマに影響されたツァイドもまた恩寵の使い方を考えるようになった。とは言っても、烈撃の恩寵には人を斬ることしかできない。問題は誰のために、何のために斬るのか、だ。
 ツァイドとベラ=ラフマの二人はナガル川を遡上し、ケムト王国の王都メン=ネフェルを訪れる。メン=ネフェルは元の世界ではメンフィスに相当する。四千年を超えるセルケト王朝が綿々と続く歴史と伝統の都、太陽神殿にとっての聖地である。

「ケムト王は太陽神殿の祭祀を担当していて政治の実権は全て手放している。ケムト王に仕えても剣を振るう機会はないだろう」

 次に二人が訪れたのはハカー=アンク、元の世界ではカイロに相当する町である。宰相府を始めとするケムトの行政組織は全てこの町に揃っている。ケムトの政治と経済の中心地となっているのがこの町だ。

「宰相プタハヘテプはなかなかの名宰相だと聞いている。宰相に仕えるのは?」

「この国は平和が続いている。私達が腕を振るう機会はないのではないか?」

 ベラ=ラフマの言葉にツァイドも「そうか」と頷く。二人はケムトを出、さらに東へと向かった。
 ……この頃のベラ=ラフマとツァイドは二十代前半。主観的には自分達の恩寵とそれを駆使する才覚に相応の自負を抱いている。が、客観的には何の実績もない、無名の若造に過ぎない。ケムト王やケムトの宰相が三顧の礼で迎えに来るような立場では決してないのだ。自分達から必死に売り込みに行って、運良く仕えることが許されたとしても相当の下っ端から始めなければならないだろう。
 もちろん二人もその程度のことは理解している。だが、それと同時に夢を見てしまうのだ。もし自分達に相応しい主君に仕えることができるなら、その主君のために恩寵を最大限に使うことが許されるのなら――と。

「俺とお前が組めば一国だって傾けられるさ。違うか?」

 ツァイドの壮語にベラ=ラフマは薄く笑う。だが否定はしなかった。
 ツァイド達はアシューのうち地中海東岸を一巡りし、その後エラト湾まで足を伸ばした。エラト湾一帯を領有するのはエジオン=ゲベル王国で、その王弟アミール・ダールは猛将としてその名を近隣に轟かせていた。

「アシューでは戦いが続いている。新しい王国が建てられたり古い王国が潰れたりは日常茶飯事だ。俺達が成り上がる機会もあるんじゃないのか」

「だが、弱小な王国や惰弱な王に仕えても意味がないだろう。アミール・ダールくらいならば私達が仕えればアシューを制覇することも」

 二人はエジオン=ゲベル王都のベレニケに長期間滞在し、アミール・ダールについて調べた。アミール・ダールに仕える意味があるかどうか、仕えるための糸口はあるか――これまで通過した町でもその国の王や実力者について同じことを調べていた。だがここまで本気で調査するのは初めてである。

「……駄目だ、この男には野心がない」

 ベラ=ラフマは残念そうに首を振った。

「アミール・ダールは将軍という立場に満足していて王位には興味を持っていない。早かれ遅かれ、この男は国王に粛清されるだろう」

 そうか、とツァイドも頷く。もっとも、もしアミール・ダールが野心に満ちた男であったとしても、もし仕官の糸口があったとしても、二人が本当に仕えていたかどうかはまた別問題だが。

「さて、次はどうする? 北の方に行ってみるか? それともいっそ、ミディアン半島からバラタの方に」

 その提案にベラ=ラフマは首を振った。

「……里を出てもう二年だ。そろそろ戻るべきだろう」

 それもそうだな、とツァイドは淡々と頷く。二人はネゲヴへの帰路に着くこととなった。
 ――ネゲヴには「青春」という年代区分も概念もないが、その三年足らずの旅こそが二人にとっての青春だったのだろう。隠れ里に戻ったベラ=ラフマはすっかり落ち着き、族長補佐としての役目を淡々と果たしている。
 一方のツァイドは結婚話が流れたこともあり、大人になり損なったような気分を味わっていた。一族の中にツァイドの席はなく、はみ出し者扱いだ。見識の広さや情報収集能力・交渉能力等は重宝がられているがそれだけであり、一種の便利屋として一族の末端に加わることが認められている格好だ。そんなツァイドと積極的に関わろうとする者はほとんどいなかった。

「さて、今日も旅のことを聞かせてもらうぞ」

 例外はラサースとバルゼルの二人くらいである。バルゼルは今日も酒瓶を片手にツァイドの元を訪れていた。

「しかしいいのか? 俺なんかと付き合っていたらお前まで白い目に」

「お主の価値も判らん連中に何を言われようと構いはせんだろう」

 ツァイドは酒を飲みながら旅の出来事をおもしろおかしく語って聞かせた。バルゼルは羨望をにじませてそれを聞いている。

「やはり俺も付いていけばよかった」

「勘弁してくれ。お前を連れ出していたら追っ手がかかっている。それを振り切ったとしてももう一族に顔向けできなくなるだろう」

 ツァイドの言うことはバルゼルも判っているが、それでもそう思わずにはいられないようだった。

「それだけの長旅なら、やはり強敵にも出会ったのだろうな」

「俺達はわざわざ強敵を斬りに行ったりはせんよ。そりゃもちろん死ぬかと思うような目には何度もあったが」

 ツァイドは「やはりお主はそれが目的か」と笑う。ふと、バルゼルは真剣な表情をツァイドに向けた。

「なあ、ツァイドよ。俺達の恩寵は、剣祖の技は、何のためにあると思う?」

 思いがけない問いにツァイドは言葉を失った。バルゼルは答えを期待していない様子で、自分で続ける。

「恩寵も剣祖の技も一族のため――そんなことは百も承知だ。だが、血反吐を吐くほどに鍛錬をし、岩をも断つほどの恩寵を授けられ……肝心の斬る相手は場末の海賊や山賊ばかりではないか。俺がこれまで積み重ねたものはこの程度の相手のためなのか?」

 ツァイドはバルゼルの横顔を穴が空くほどに見つめている。ツァイドはバルゼルのことを一族の剣士の典型例であり理想像だと思っていた。斬ることが全て、そのために鍛えることが全て、そのことに何ら疑問を抱かない――だがそう見えたバルゼルは疑問も憂悶も抱いていたのだ。

「……生まれるのが三百年ほど遅かったかもな」

 もし戦乱の無法時代に生まれていたなら――旅の中でベラ=ラフマとそんな与太話で盛り上がったことを思い出す。戦乱の最中なら自分達が活躍する機会も無数にあるだろう。海賊王と並ぶところまではいかずとも、歴史に名を残すくらいのことはできたかもしれない。
 他者が聞けば「平和ボケの痴人の妄想だ」と笑うだろう。もちろんそれはツァイドにも判っている。二十代を過ぎ、三十代になり、自分の分際というものを否が応でも理解するようになる。バルゼルという当代最強、歴代でも最強かもしれない剣士がごく身近にいるのだからそれも当然だが。

「俺にできるのは闇討ちくらいか。どんな時代に生まれようと歴史に名を残すなど夢のまた夢だな」

 バルゼルなら、戦乱の時代に生まれさえすればきっとその名を轟かせただろう。伝説の剣士としてその名を歴史書に刻み込んだかもしれない。ベラ=ラフマにしても、機会さえあれば陰謀家としての名を歴史に残す、それだけの力を持っているのだ。その二人に比べれば自分はただの凡人に過ぎない。

「ベラ=ラフマの部下として名前が残れば幸運な方か」

 ツァイドは一人そんな自嘲を漏らしていた。
 ツァイドとベラ=ラフマの付き合いは続いている。数年に一回、ベラ=ラフマが遠出をする際に護衛をするのはツァイドの役目だった。ツァイドが三十代半ばの頃、数年ぶりにベラ=ラフマの護衛となり共に旅をした。珍しく二人旅でなく、旅連れがいる。

「何だ、この子は?」

 ベラ=ラフマは一人の幼子を連れていた。年齢は四、五歳。身体に合わない大きな外套を引きずるように身にまとい、フードの下には人形のように可愛らしい容貌を隠している。ただ、子供らしい感情を表すこともほとんどなく、その意味でもまるで人形のようだった。

「この子をルサディルまで連れていくのが今回の目的だ」

 事情については道々教えてもらう。要するに、並外れた恩寵をあまりに自儘に使うために一族の中に居場所がなくなり、バール人商会に引き取ってもらうことになった、とのこと。

「子供が増長しているだけだろう? ぶん殴って矯正すればいいだけの話じゃないのか?」

 ツァイドの言葉にベラ=ラフマは嘆息し、首を振った。

「もうそんな段階を通り過ぎている。このままこの者を里に置いておいても誰もが不幸になるだけなのだ」

 その説明に必ずしも納得したわけではないが部外者としてそれ以上口を挟むことも自重する。ツァイドとベラ=ラフマとその連れのラズワルドの三人は船でルサディルへと向かった。
 道中、ツァイドはベラ=ラフマの嘆息を嫌と言うほど理解することになる。

「その人が財布をすろうとしている」

 人が充満した狭い船倉で、ラズワルドは隣り合った船客を突然指差し、そんなことを言い出した。

「こ、このガキ! 何を言い出しやがる! 何か証拠でもあるってのか!」

 内心大慌てのツァイドだがラズワルドはそんなことには構わない。

「そっちの人から盗んだ財布が懐に入っている」

 とラズワルドはさらに別の人間を指差す。慌てて懐を押さえるスリだが、ツァイドはその手をねじり上げた。その手から財布がこぼれ落ちる。結局そのスリは船員に突き出されることとなった。

「運がよかった。本当に財布をすっていたなら指が切り落とされていた」

 ラズワルドの言葉にまた周囲が「ぎょっ」と息を飲んだ。確かにツァイドにはそれができるし、実際にやったこともある。懐に忍ばせた短刀に恩寵を流し込んでいれば、不届き者が手を入れてきたなら自動的に指がこぼれ落ちるのだ。
 この騒動の後、ツァイド達の周囲には人間がいなくなっていた。船倉は狭く船客でいっぱいでありながら、ツァイド達三人の周りだけ人間がいないのだ。だが心理的にはツァイドは肩身が狭くて仕方ない。船が港に到着すると同時にツァイド達は逃げるように船を後にし、西に向かう別の船を探す羽目になっていた。

「確かにとんでもない恩寵だな」

 ツァイドもため息ができるばかりだ。場所は場末の宿屋の一室。ラズワルドは二つあるうちのベッドの一つを占領し、猫のように丸くなって眠っている。その寝顔だけ見ればまるで天使そのものだ。目が覚めたなら悪魔としか言いようがなくなるのだが。

「お前のところの守神様は何を考えてこの子にこれほどの恩寵を授けたんだろうな」

 ツァイドの言葉は愚痴の一種である。だがそれに対するベラ=ラフマの答えはツァイドの予想を絶していた。

「守神などいない」

「――何?」

 ベラ=ラフマの言葉が聞こえなかったわけではない。理解できなかったわけでもない。だがそれでもツァイドは問い返していた。問い返さずにはいられなかった。

「一族を守護する神などいない、と言っている。恩寵を授けてくれる神などいない、と言っている」

「何……を言っているのだ。守神様がいなければどうして恩寵などがあると言うんだ」

 ツァイドはベラ=ラフマが酒に悪酔いしたのかと思ってしまった。だがベラ=ラフマは素面であり正気である。あくまで真剣にそれを主張している。

「恩寵とは血に宿る力だ。それ以上でもそれ以下でもない。私がどれほどに一族に貢献しようとこの恩寵は強くならない。逆にどれだけ一族に徒なそうとこの恩寵はなくなりはしないだろう。違うか?」

 ツァイドは沈黙するしかない。牙犬族の歴史の中にも、恩寵を使って一族の名を貶めた者は少なからず存在する。だが彼等の恩寵はその生命の最後まで失われることはなかったのだ。

「それではお前は太陽神や他の神々も存在しないと言うのか」

「――お前もエレブの聖杖教のことは知っているだろう」

 逆に問い返されたツァイドは頷く。

「あの者達の神が実在していると思うのか?」

 ツァイドは無言のまま首を横に振った。以前聖杖教のことが話題になったとき、ツァイド達はこう言って笑ったものだった。――あんな馬鹿馬鹿しい神様を信じる連中の気が知れない、エレブ人はどうかしている――と。

「エレブ人の神が存在しないと断じるならネゲヴの神々が存在するとどうして考えられるのだ。そのどちらもがただの言い伝えに過ぎないと、それを虚飾で覆い隠したものに過ぎないと考える方がよほど理屈に合っているではないか」

 ツァイドは何も言い返せなかった。ベラ=ラフマの主張には確かに筋が通っている。合理的で論理的である。だが、

「お前、それを他の奴には」

「口にしたのは今回が初めてだ」

「ならば黙っていろ。俺も忘れる」

 ツァイドは固い口調でそう告げる。ベラ=ラフマもまた沈黙した。これ以降、この話題が二人の口に上ることは決してなかった。一ヶ月の船旅を経て、ラズワルドはルサディルのアニード商会に引き渡され、ツァイドの護衛任務は終了する。ツァイドがベラ=ラフマと再会するのは数年後のことである。







 三〇一五年アブの月(第五月)、場所はキルタ(元の世界のコンスタンティーヌ)を南に下がった山奥。ツァイドは白兎族の隠れ里の近くでベラ=ラフマと再会していた。

「面白いことになっているぞ」

 ツァイドは会って早々興奮気味にベラ=ラフマに告げる。「まずはこれを読んでくれ」とツァイドはある冊子を突きつけた。冊子に記されているのは「ネゲヴの夜明け」という題名だ。
 ベラ=ラフマはまず「ネゲヴの夜明け」に目を通した。次にツァイドの差し出す書簡を読み、頭痛を堪えるような顔になる。その書簡はラズワルドの記した紹介状だった。

「あの者も相変わらずのようだな……」

「いや、以前よりは大分マシになっていると思うぞ。タツヤ殿の影響は大きい」

「クロイ・タツヤか。どういう人間なのだ?」

 ツァイドは待ってましたとばかりに竜也に関するあらゆることをベラ=ラフマに伝えた。マゴルであること、小説や劇の脚本を書いていること、商会連盟でエレブ人の脅威を調査する仕事をしていること、その調査の一環でエレブまで潜入したこと、自分がそれに護衛として同行したこと、等。
 なお、エレブ潜入に同行していたラズワルドはツァイドの顔も名前も完全に忘れていたが、前に会ったときの年齢を考えればやむを得ないことだろう。

「エレブ人が脅威だなんだと言ったところでたかが知れていると思っていたのだが……まさかエレブがあんなことになっているとは想像もできなかった。戦争になるぞ。戦乱になるぞ。無法時代にもなかったような空前の大戦争だ」

 まるで歌うようにそう訴えるツァイドにベラ=ラフマは、

「……随分浮かれているようだな。戦争になるのがそんなに嬉しいか?」

 ツァイドは悪びれもせずに「ああ」と頷いた。

「お前も覚えているだろう、ケムトやアシューを旅したときのことを。仕えるべき主君を探していたあの旅を。俺はタツヤ殿こそがその主君ではないかと思っている」

「だが、その者は庶民に過ぎないのだろう?」

「今はそうだな。だが、エレブ人とは絶対に戦うことになる。タツヤ殿にはあの先見がある、エレブ人と戦うときには重要な地位を占めることになるだろう。逆に言えば、タツヤ殿がそれだけの地位を占められるよう俺達が力になるべきなのだ」

 ツァイドの傾倒ぶりにベラ=ラフマは内心の驚きを隠した。その一方クロイ・タツヤという人物に興味を抱かずにはいられない。

「情報を制する者は世界を制する」

 紹介状に記されていた一節である。情報を使い、エレブ人の大軍勢と戦う――その想像がベラ=ラフマの血を熱くする。柄にもない感覚にベラ=ラフマはわずかに苦笑した。

「よかろう。クロイ・タツヤに会いに行こう」

 ベラ=ラフマの決断にツァイドは「当然だ」とばかりに頷いた。
 こうしてベラ=ラフマはクロイ・タツヤと出会い、彼にとっての股肱の忠臣となるのである。そしてツァイドもまた竜也のためにその剣を振るうこととなる。







 ――その年のアダルの月(第十二月)、ツァイドは竜也の護衛としてルサディルに潜入していた。ルサディルを訪れたのは、ラズワルドを送りにやってきたときが最初でこれで二回目だ。
 が、今ツァイドは護衛対象の竜也とはぐれ、町中に潜伏しているところだった。バルゼルやサフィール達ともはぐれ、完全に一人である。竜也はルサディルの町の兵士に捕まり連行されていった。すぐにでも助け出したいところだが、今は自分が捕まらないようにするので精一杯だ。

「どうやらまだ処刑されないようだな」

 ツァイドはアニード邸を遠くから伺い、胸をなで下ろした。ちょうど竜也がアニード邸から別の場所へと連行されていくところである。もし竜也が即座に処刑されるなら死を覚悟して突撃するところだが、そこまで切迫しているわけでもないようだ。
 竜也が町役場に隣接する牢屋に放り込まれるのを確認したツァイドは、次に自分の身の安全を図るべく動いた。適当に引っかけた娼婦と昵懇になり、その女の家の転がり込む。

「さて、一応の拠点はできたことだし、あとはタツヤ殿を奪還するだけだが」

 奪還自体はそれほど難しい話ではない。牢屋に突撃して敵兵をぶった斬り、戸板を斬り開ければいいだけなのだから。だが問題はその後だ。

「俺一人なら潜伏することも逃げ回ることも容易い。だがタツヤ殿を連れては……タツヤ殿には三日だけ我慢してもらおう。船団が戻ってくるのが九日、タツヤ殿を解放するのはその日だ」

 その時点では決しておかしな判断をしたわけではない。だがツァイドは自分の判断を心底悔やむことになる。
 ツァイドは数時間置きに竜也の様子を確認する一方、バルゼル達の姿を探して回った。

「一体どこに潜伏しているんだ。ハンジャルの伝手の誰かのところか、それとも町の外にでも逃げたのか」

 ハンジャルはこの町出身の牙犬族剣士である。後で聞いた話ではバルゼル達の潜伏先はハンジャルの知り合いの元だったそうだ。ラズワルドがバルゼル達とはぐれているとはツァイドは予想だにしていない。
 何の成果も得られないまま三日間が過ぎ、そしてアダルの月の九日。
 その日もツァイドはバルゼル達の姿を探して町を歩き回っていた。特に当てや手がかりもない捜索なのでただ町をぶらぶら歩いているだけである。カムフラージュに娼婦の女を同行させているので、端から見れば単なる散歩にしか見えなかっただろう。

「……何だ? 何かあったのか?」

「行ってみましょうか」

 町外れの方角から何かの騒ぎの声が聞こえてくる。ツァイドはその方向へと足を伸ばした。少し歩くとその方向から誰かが必死に走ってくるのが見える。大勢の人間がその方向から逃げてきている。ツァイドは逃げてきた男を強引に捕まえ、訊ねた。

「どうした? 何があった?」

「エレブ兵だ! エレブ兵が攻めてきた!」

 どういうことだ?とツァイドは首をかしげた。

「聖槌軍の到着は明日だろう? 到着するのは将軍タンクレードの兵じゃないのか? それがどうして攻撃を」

「そんなこと知るか! エレブ兵が手当たり次第町の人間を殺しているのは間違いないんだ!」

 男はツァイドの腕を振り払って逃げていく。ツァイドは少し考えていたが、エレブ兵がいると見られる方向へと向かって走り出した。娼婦の女が何故かツァイドについてくる。ツァイドは「逃げていろ」と命じたが女はそれを無視した。五スタディアも走った頃、ツァイドはそこにエレブ兵の姿を見出した。
 エレブ兵が男を殺している。エレブ兵が女を強姦している。エレブ兵が商店を襲って金品を略奪している。エレブ兵は洪水のような勢いで増えており、町の四方へと入っていく。エレブ兵のいる場所からは悲鳴が、罵声が、断末魔が響いている。それが急速に広がっている。

「一体何が……」

 想像を絶する事態にツァイドは呆然とするしかない。そのツァイドにもエレブ兵が接近していた。何人ものエレブ兵が剣を振りかざしてツァイドに襲いかかる。呆然としながらもツァイドは条件反射だけで彼等の首を斬り裂いていた。喉を、頸動脈を断ち切られ、血を吹き出しながらエレブ兵が崩れ落ちる。

「いやぁーっ!」

 娼婦の女がエレブ兵に襲われる。女は太腿を剣で斬られた上で地面に押し倒され、エレブ兵にのしかかられていた。ツァイドはそのエレブ兵の心臓を背後から一突きし、足で蹴ってエレブ兵の身体を女の上からどかした。女は苦痛と恐怖に涙をあふれさせている。

「たすけて……たすけて」

 必死に腕を伸ばす女にツァイドは優しく笑いかけた。

「判っている」

 女が安堵したように頬を緩めたその瞬間――女の首は胴体から離れていた。首を断ち切られても女はまだ笑っている。女にはツァイドの剣が一閃したことを察知できなかっただろう。自分が死んだこともまだ理解していないかのようだった。

「すまんな。俺にできるのは楽に死なせてやることくらいだったんだ」

 ツァイドが全力を費やせば、負傷した女を抱えて逃げることもあるいは不可能ではないかもしれなかった。だがツァイドには成すべきことがある。重荷を抱えているわけにはいかないのだ。ツァイドは自分の成すべきことを成すため、振り返りもせず走り出した。
 ルサディルの町はすでにエレブ兵であふれかえっていた。その地区では住民の大半がすでに逃げているようで、エレブ兵の姿しか見あたらない。たまに逃げ遅れた人間が襲われているのが見られるくらいである。ツァイドはエレブ兵に見つからないことを最優先として町を進んだ。物陰に隠れ、植え込みに逃げ込み、屋根に上り、慎重に歩を進める。それでもエレブ兵に見つかることがあり、そんなときは、

「運が悪かったな」

 とため息をついた。その間にエレブ兵は首の頸動脈を切られて死んでいる。そうやって、何人かのエレブ兵を始末しつつ一〇スタディア弱を進み、ツァイドはようやく町役場にやってきた。ツァイドは脇目もふらずに牢屋へと向かう。

「タツヤ殿!」

 だが竜也の入っていた牢獄はすでに空っぽになっていた。ツァイドは焦り、逆上するが、必死になって「冷静になれ、冷静に」と自分に言い聞かせた。

「タツヤ殿の姿がない、もうここからは逃げ出しているということだ。鍵を使って開けられているということは、バルゼル達が助け出したわけではない、ということか」

 ツァイドは牢屋を出、東へと向かった。牢屋を逃げ出した竜也がどこへ向かうか、町を出て髑髏船団の船と合流しようとするに決まっている。運が良ければ逃げる途中の竜也を見つけることもあるだろう。
 ツァイドは今度は速度優先で町を突き進んだ。ツァイドの前にエレブ兵が立ちはだかるが、ツァイドは無造作に剣を振り回して彼等を切り裂いていく。

「こうやって俺が目立っていればその分タツヤ殿が目立たなくなる。タツヤ殿が助かる可能性が高くなる。それにタツヤ殿が俺を見つけてくれるかもしれない」

 ツァイドの得意技はあくまで隠密行動だ。剣士としては二流でしかないツァイドにとってそれは死をも覚悟しての陽動だった。だが、それでもツァイドは笑っていた。

「邪魔だ!」

 不用意に前に出てきたエレブ兵の横を駆け抜け、置き土産にその脇腹を切り裂く。エレブ兵は粗末な革の鎧を身にしていたが、烈撃の恩寵の前ではそんなものは絹の服と変わらない。そのエレブ兵の腹からは腸がはみ出て、エレブ兵は子供のように泣きわめいた。
 その気になればツァイドはエレブ兵を大根のように横に真っ二つにできるが、体力と同じで恩寵には限りがある。ツァイドは恩寵の消耗を極力抑えるため最小限の斬撃で効率よく敵の無力化を図った。ツァイドが狙うのは敵兵の手首、喉、目である。手首や喉を斬られたエレブ兵が血を撒き散らし、目を斬られたエレブ兵が悲鳴を上げて転げ回り、その周囲のエレブ兵が動揺する。一人のエレブ兵を斬るたびに五人のエレブ兵が追跡の足を止め、五人のエレブ兵がツァイドの前から退いた。
 だがどれだけエレブ兵を斬り、怯ませても、後から後から新たなエレブ兵が湧いてくる。エレブ兵の数には際限がないように思われた。

「くそ、さすがに疲れたな」

 恩寵と体力を消耗したツァイドは民家の屋根へと上って敵をやり過ごした。屋根から屋根へと伝って二、三スタディア進んだところで、

「――」

 ツァイドは部屋に伏せて身を隠し、様子をうかがった。ツァイドの視線の先にはバルゼルがいる。サフィールがいる。ハンジャル、ピギヨン、サキン、ハッドが、ルサディルに潜入した牙犬族の剣士がそろっていた。だが竜也とラズワルドの姿が見当たらない。

「二人を町の外に逃がして剣士だけが残っているのか」

 最初はそう考えたツァイドだが、すぐにそれが間違いだと気がついた。もし竜也達が合流しているなら最低でもサフィールはその護衛についているはずだ。
 だがサフィールは六人の先頭に立って剣を振るっている。六人のうち誰よりも怒りに満ち、冷静さを失っているように見えた。

「シッ!」

 サフィールの剣閃はツァイドの目ですら追うのが困難だ。エレブ兵の目には到底見えはしなかっただろう。見えない剣撃が烈風のようにエレブ兵を、その目を、その喉を、その手首を切り裂いていく。両目を裂かれたエレブ兵は悲鳴を上げて地面を転げ回っている。喉を裂かれたエレブ兵はあえぐようにくり返し口を開き、ゆっくりと倒れた。手首を裂かれたエレブ兵は剣を取り落とし、左手で右手首を押さえている。だがあふれる血は止まろうとしなかった。
 サフィールは威圧するようにゆっくりと前に進み、エレブ兵はそれに押されて後ろに下がった。意を決した五人のエレブ兵がサフィールを包囲し、同時に斬りかかる。中心にいたサフィールが切り刻まれ――いや、そこにいたのはサフィールではない。サフィールを包囲していたはずのエレブ兵の一人である。同士討ちに動揺するエレブ兵がようやくサフィールの姿を見出す。だが次の瞬間にはサフィールの身体が陽炎のように揺らめき、気がつけば身体のどこかを斬られているのだ。
 サフィールから少し離れた場所ではバルゼルが同じようにゆっくりと歩いている。エレブ兵の目には無防備なまま歩いているようにしか見えなかっただろう。数人がかりなら殺せるように見えただろう。だが、そう思って行動したエレブ兵は一人残らず大地に伏していた。バルゼルの無造作にふるっているようにしか思えない剣が、エレブ兵の目を、喉を、手首を、腹を切り裂いていく。
 サフィールはその恩寵を、そのほぼ全てを「速さ」に費やしていた。烈撃に使っている恩寵は申し訳程度、必要最小限だ。誰よりも恵まれた恩寵のほとんどを身体強化に使用し、剣閃の速度を、動きの速さを常人の数倍まで引き上げている。このためエレブ兵の目にはバルゼルよりもサフィールの方が化け物じみて見えただろう。
 だがツァイドの目から見ればバルゼルの方がよほどの化け物だった。バルゼルに立ち向かった勇敢な、だが愚かなエレブ兵は「順番に一人ずつ」「自分から急所をさらして」「進んで斬られに向かっている」――ツァイドの目から見てもそんな風にしか見えないのだ。

「剣祖から三〇〇年、これほどの剣の使い手がいただろうか」

 バルゼルのことを誰よりも高く評価しているつもりだったツァイドだが、その認識は改めなければならなかった。ツァイドはバルゼルの真の実力など判ってはいなかったのだから。
 できればこのまま剣舞のような二人の戦いぶりを見ていたかったのだが、そういうわけにもいかなかった。エレブ兵の弓兵部隊と火縄銃部隊がバルゼル達の方へと急行している。それがツァイドのいる場所から見えていた。

「おっと、いかんな」

 ツァイドは屋根を伝って移動した。
 一方駆けつけた弓兵部隊と火縄銃部隊は弓と銃口をそろえ、バルゼル達に狙いを定めている。指揮官の騎士が手を振り上げ、一斉攻撃の命令を下さんとするまさにその瞬間、

「よう、邪魔をするぞ」

 不意に彼等の眼前にツァイドが現れた。騎士の手が固まった次の瞬間にはツァイドは敵兵の真っ直中へと飛び込んでいた。両手に長剣を持ったツァイドが舞うように剣を振り回す。嵐のような剣閃がエレブ兵を襲い、血の雨が降った。

「撃て! 撃て!」

 騎士が必死に命じ、兵がそれに応じるがそのときにはすでにツァイドはその場にはいない。また別の場所で血煙が上がり、血飛沫が舞っているのだ。パニックに陥ったエレブ兵がでたらめに火縄銃を撃ち、矢を放つ。そのほとんどが同じエレブ兵を穿ち、あるいはその生命を奪っていた。ツァイドが斬った兵よりも同士討ちで負傷した兵の方がずっと多いくらいである。だがツァイドもまた無傷とはいかなかった。太腿には矢が刺さり、腕には銃弾がめり込んでいる。

「ツァイド殿!」

 だがその頃にはサフィールやバルゼルが接近していて、残っていた敵を掃討するのだ。運良く生き残ったエレブ兵は銃や弓を放り捨てて逃げていった。

「タツヤ殿は一緒じゃないのですか?」

 サフィールの問いにツァイドは首を横に振った。

「囚われていた牢屋に行ったのだが、そこからはすでに逃げ出していた」

 サフィールは絶望に膝を屈しそうになる。が、何とか踏みとどまった。

「待て、どこへ行く」

 ツァイドの横を通り抜けて町中へと、敵の方へと向かおうとするサフィールと、そのサフィールの腕をつかむツァイド。サフィールは煩わしげにツァイドの腕を振り払った。

「タツヤ殿を……タツヤ殿を見つけなければ」

「落ち着け。多分タツヤ殿はどこかに隠れている。夜になるのを待っている。闇雲に探し回ったところで見つかりはしない」

 サフィールは牙をむいてツァイドをにらみつけた。

「そんなこと、どうして判るのです」

「俺がタツヤ殿ならそうするからだ。これ以上戦うのは難しいだろう、一旦町の外に逃げるべきだ」

 ツァイドは剣士達を見回した。ハンジャル達四人は手傷を負っている。サフィールとバルゼルは無傷だが疲労の様子が色濃かった。ハンジャル達はツァイドと同意見のようで、バルゼルの考えは読めない。サフィールは、

「どうぞご随意に。わたしは一人でもタツヤ殿を探します」

 背を向けるサフィールの腕をツァイドは再度掴む。それを振り払おうとするサフィールだが、今度は振り払われはしなかった。

「落ち着け! タツヤ殿を信じろ!」

「何を信じろというのですか! あの方はわたし達がいなければ……!」

「タツヤ殿がここで死ぬならそれまでの人だったということだ」

 サフィールはエレブ兵が即座に逃げ出すほどの殺気をあふれさせ、今にも剣を抜きそうになった。そのサフィールにツァイドが「だが」と続ける。

「もしタツヤ殿が、我等一族が忠義を尽くすに値する方なら――こんなところで死にはせん。俺はそう信じている」

 ツァイドの力強い言葉にサフィールは毒気を抜かれたような顔をした。ツァイドがバルゼルに視線を向け、バルゼルが頷く。

「――一旦町の外に逃げる」

 バルゼルがそう決断を下し、一同が頷く。サフィールは少し遅れてだが、無言のまま頷いた。
 ……バルゼル達にとっては敵に正面から立ち向かうよりも逃げる方がより困難な戦いとなった。恩寵はほとんど使い果たし、体力もろくに残っていない。あるときは逃げ遅れた者を見捨て、あるときは味方を逃すために一人が犠牲になった。かろうじて生き残った一人も、

「エレブ兵を一人でも多く地獄に送ってやる」

 とソウラ川を渡ることを是とせず、その場にとどまった。ソウラ川を渡って落ち延びたのはツァイド・バルゼル・サフィールの三人だけである。ツァイド達が生き延びた竜也とラズワルドと再会するのは翌一〇日のことだった。
 ――この日、ルサディル攻撃に参加したエレブ兵の総数は二万と三万とも言われているが、そのうち七人の牙犬族剣士が斬った数はどんなに多くても五百人ほど。しかも七人のうち四人が犠牲になっている。このためバルゼルやツァイドはこの戦闘を、

「敵に一矢報いた」

 くらいにしか考えていなかった。実際、聖槌軍全体から見ればこの戦闘による物理的被害は無視していい範囲のものである。だがその心理的被害と影響はツァイド達の想像を超えて広がった。







 ……時刻は夕刻、ツァイドはスキラの町並みを丘の上から、丘の上にある家の窓から眺めていた。丘の上からはスキラの町が一望できた。夕日の赤に染まった町は美しかった。だが見ようによっては血の海に沈んでいるかのようであり、あるいは炎の海に包まれているかのようでもある。
 今はまだ平和と平穏が続くスキラの町だが、ここがルサディルのように惨劇の舞台となる日はそう遠くはなかった。長くても三ヶ月もあれば聖槌軍がこの町に到着するのだ。

「戦争だ、戦乱だ、百万の敵と戦う空前の大戦争だ」

 ツァイドは血が沸き立つのを、胸の高鳴りを静かに抑えていた。敵の先鋒と遭遇し、手傷を負わされてもツァイドの戦意は失われはしなかった。が、それと同時にルサディルの惨劇を目の当たりにしてもツァイドにとってそれは他人事に過ぎなかった。ツァイドにとってこの戦争は自分の才覚を世に示す舞台に過ぎないのだから。

「ベラ=ラフマよ、我が友よ。俺を使え、俺に命じるがいい。エレブ人だろうとネゲヴ人だろうと、お前の命じるままに俺が斬る。お前の陰謀に俺が形を与えてやる。お前が画家なら俺は絵筆だ。俺はそれでいい」

 画家の名前が歴史に残っても絵筆の名前が残ることはないだろう。それはツァイドも理解している。その上でツァイドは絵筆であることを是としたのだ。

「お前はどんな絵を歴史に残すのだ? その絵を最初に俺に見せてくれ、我が友よ」

 ベラ=ラフマはこの戦乱をキャンバスとし、陰謀という素晴らしい絵を描いてくれることだろう。自分という絵筆を縦横に使ってくれることだろう。ツァイドはそれを確信していた。










《お知らせ》



 投稿が追いついてストックが乏しくなってきたため、しばらくの間更新を休止します。

 週一ペースでは間隔が空き過ぎだったとか、改訂版というのがそもそも評価されないものだったとか、幕間を連投しすぎたとか、色々と判断ミスもありまして、読者からの評価が乏しくなる一方です。モチベーションを維持するのも難しくなっています。

 ですが、一旦始めた以上は最後まで改訂したいと思います。そこで、最後まで改訂が終わってから一気に投稿することにしました。年内の更新再開を目標に努力しますので、それまでお待ちください。




[19836] 第一九話「ソロモンの盟約」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/07/19 21:03



「黄金の帝国」・会盟篇
第一九話「ソロモンの盟約」





 聖槌軍によるルサディルの殺戮から一夜が過ぎ、アダルの月(第一二月)の一〇日。東の空が赤くなり、太陽が間もなく昇ろうとする頃。
 場所はルサディル郊外、街道からやや外れた海岸である。漁村もなく民家もなく港もないその場所は普段なら人影は全く見られない。が、今その場所には人が溢れていた。
 獣道を歩く何百という人間、その全員がサディルからの避難民である。ほとんどの者が着の身着のまま、手荷物を持っている者は少ない。怪我を負っている者、力尽きて行き倒れる者も少なくなかった。小さな峠を乗り越えると彼等の眼前に海と海岸が広がる。虚ろな表情でその光景を眺める彼等の目にある船影が写った。

「船?」「船だ!」

 髑髏の旗を掲げた三隻の船が海岸に接岸しているのが見える。ガイル=ラベクの髑髏船団、マラカ偵察に向かい戻ってきた船団である。避難民は最後の力を振り絞って足を速める。避難民が吸い寄せられるように船団に向かっていた。
 停泊した船の前では、岩場に降り立ったガイル・ラベクが誰かを待つように仁王立ちになっている。その彼に亡者の群れのような避難民に群がっていた。

「どうしてもっと早く来てくれないんだ!」

「乗せていってくれ!」

「お願いです、この子だけでも」

 見当違いの八つ当たりをする者もいるが、大半は何とか船に乗るべく懇願をし、あるいは同情を誘おうとしている。避難民の振る舞いにガイル=ラベクは閉口しているようだった。
 ガイル=ラベクの背後にはバルゼルが佇んでいる。元は白かったバルゼルの服は今は全身が返り血で汚れ、赤と黒の斑模様となっていた。汚れていない場所を探すのが難しいくらいだ。

「夜明けだな」

「まだ昇り切っていない」

 ガイル=ラベクの呟きにバルゼルが答える。が、そんな問答の間にも日は見る間に昇っている。太陽が地平線から離れたのはそれから間もなくのことだった。

「出港準備だ」

 ガイル=ラベクが部下へと静かに指示を出す。

「そんなに慌てなくてもいいだろう」

 バルゼルは腰の刀に手をかけつつそう言う。周囲にいる髑髏船団の船員に緊張が走った。ガイル=ラベクはため息をつく。

「俺だってあいつを待ちたい気持ちは同じだが」

「ならば、待つべきだ」

 バルゼルはルサディルの方角を見据えた。山中の獣道に程近い場所に大きな岩があり、その上には獣道を見張るサフィールの姿があった。

「タツヤ殿抜きでどうやって聖槌軍と戦うつもりだ」

「だが……生きていると思うのか? あの殺戮の直中に放り出されたあいつが」

 バルゼルはその問いに答えなかった。こみ上げてくる焦燥と後悔と慚愧を押し潰すように必死に蓋をし、ただひたすらにルサディルの方角を見据えている。
 一方、サフィールは船からやや離れて内陸に少し入った場所に陣取っている。サフィールは大きな岩の上に立ち、そこから獣道を見張っていた。
 太陽は徐々に高くなり、強い日差しがサフィールの肌と黒い髪を焼いている。だがサフィールは流れる汗をぬぐいもせず、彫像のように微動だにせず、瞬きする時間すら惜しんで獣道を見つめ続けていた。
 未明から立ち続けて数時間、時刻はすでに朝と強弁するのも苦しい頃になっている。きつく結ばれたサフィールの口元が、不意にほどけた。元々大きい瞳をますます大きく見開き、前のめりになって獣道へと視線を注ぐ。姿勢が崩れて岩場から落ちそうになる寸前、

「――ラズワルド殿! それに、タツヤ殿!」

 そのまま岩から飛び降りたサフィールは転がるようにして二人の元へと走っていく。何呼吸か遅れてバルゼルがその後に続いた。
 一方竜也は力尽きたラズワルドを背負って歩き続けている。髑髏船団の船影はとっくの昔に視界に入っていた。本来ならすでにこの場所を離れている時間だ。待ってくれていたことを安堵する一方、今にも離岸するのではないかと焦りを抱かずにはいられなかった。

「あと二スタディア(約三六〇メートル)くらいだから、あと千歩も歩けば到着する。あと九九九、あと九九八……」

 だが竜也にできるのは念仏を唱えるように一歩一歩を数えて大地を踏みしめることだけだ。あと九〇三歩になったところで、

「――タツヤ殿!」

 名前を呼ばれた竜也が顔を上げると、竜也達に向かって走ってくるサフィールの姿が目に入った。

「サフィール!」

 竜也もまたサフィールへと足を速めた。だがその速度は早歩きよりもまだ遅い。竜也が一〇メートルも進まないうちにサフィールが眼前へとやってきていた。

「ご無事でしたか!」

 サフィールは感激のあまりそのまま竜也の胸へと飛び込もうとし――その寸前で足を止めた。

「……タツヤ殿、一体何が」

 サフィールは顔をしかめて鼻をつまんでいる。竜也は「まだ臭いかな」と自分の身体の臭いを嗅いだ。服と身体を海水で散々洗った竜也とラズワルドだが、身体に染み込んだかのような悪臭は簡単には落ちてくれないようだった。

「そう言うサフィールもひどい格好だけど、怪我は」

「ご心配なく、これは全て返り血です」

 エレブ兵の返り血で染まったサフィールの服は元の色を思い出すことも困難な有様だ。そこにバルゼルもやってくる。バルゼルの全身はサフィール以上に返り血で真っ黒に汚れていた。竜也は思わず訊いてしまう。

「一体何人斬ったらそんなことに」

「いちいち数えていられなかった。二百かそこらは斬っただろう」

 とバルゼル。「わたしが斬ったのは多分百くらいです」とサフィール。竜也は引きつったような笑みを返してその場をごまかした。
 眠ったままのラズワルドをサフィールに委ね、竜也はバルゼルに肩を貸してもらい、船への帰路を急いだ。

「他の皆さんは無事ですか?」

「ハンジャル、ピギヨン、サキン、ハッドは死んだ。ツァイドは手傷を負ったが無事だ」

 竜也の足から力が抜け、崩れるようにその場でひざまずいた。死んだ四人のうち二人はスキラから連れてきた牙犬族、もう二人はルサディル出身の恩寵の戦士である。

「ハンジャル殿とピギヨン殿も何十というエレブ兵を斬ったのですが、恩寵を使い果たしたところを敵に囲まれ、討たれました。サキン殿は恩寵を使い果たしたわたし達を逃がすためにおとりとなって敵に突っ込んで、そのままです。ハッド殿は逃げることを是とせずにルサディルに残りましたが……」

 サフィールが説明するが、その表情は仲間の死を悼む思いと竜也への気遣いが半々となっていた。実際、竜也は自責の念に駆られている。自分がアニードに捕まらなければ彼等だってもっと早くに逃げ出せていた、彼等が死ぬこともなかった――竜也はそう考えている。

(俺のせいだ)

 その思いが言葉となって口からこぼれそうになるのを竜也は寸前で堰き止めた。顔を上げた竜也は自力で立ち上がり、バルゼルの肩を借りずに前へと歩いていく。バルゼルとサフィールがその後に続いた。
 船の前へとやってきたバルゼルとサフィールは避難民をかき分け押しのけて前へと進んでいく。ラズワルドを背負った竜也がそれに続いた。人混みの海を泳ぐようにして、ようやく竜也はガイル=ラベクの前へとたどり着いた。

「よく無事だったな」

 ガイル=ラベクは大きな安堵のため息をついた。一方のバルゼルも似たような表情だ。ガイル=ラベクは斬られずに済んだことを、バルゼルは斬らずに済んだことを心底安堵していた。

「はい、何とか」

「早く船に乗れ。すぐに出港するぞ」

 群がる避難民の排除はバルゼルとサフィールに任せ、ガイル=ラベクと竜也は船へと乗り込んだ。

「出港してどこに向かうんですか?」

「ん? ともかくお前を一日でも早くスキラに帰す。俺達はこっちに残って聖槌軍と戦う。当初の予定通りだ」

 竜也が通路に足を止め、ガイル=ラベクもまた立ち止まった。

「それなら、スキラに戻る船に一〇人か二〇人は乗せることができますよね」

「ああ。サドマとダーラクの部隊の者が降りるからな。避難民を乗せるつもりか?」

 ガイル=ラベクが非難がましく問い、竜也が「ええ」と頷いた。

「ルサディルで何があったかの生き証人になってもらいたいんです。あちこちの大きな町に一人ずつ残して、スキラに何人か連れていって、聖槌軍がルサディルで何をしたかしゃべってもらおうと思います」

 ガイル=ラベクは少し考えて「まあ、いいだろう」と頷いた。

「連れていっていいのは二〇人だ。半時間以内にあの中から選べ」

「判りました、すぐに」

 竜也はラズワルドを背負ったまま元来た道を引き返す。サフィールとバルゼルがその後に続いた。
 より悲惨な体験をした者、より多くの殺戮を目撃した者、より教養のある者、より体力を残している者。ラズワルドの恩寵を使ってそんな人間を二〇人選び、竜也は船に乗り込む。髑髏船団がその場所から離れて沖へと遠ざかっていくのを、残された千を越える避難民が嘆き、恨みながら見送っていた。







 竜也を乗せた高速船は最速で地中海を駆け抜ける。途中、補給のためにいくつかの町に立ち寄ったときはルサディルの避難民をその町の長老会議に託して残していった。彼等はルサディルで何があったかを問われるままに語り続けるだろう。最初は疑われるかもしれないが、彼等は第一報に過ぎないのだ。今後、西からの避難民が続々と東の町へと移動していく。生き証人も次々とやってきて、ルサディルの惨劇のニュースは西ネゲヴを席巻することになるだろう。

「聖槌軍に全面協力し、住民の多くが聖杖教に改宗したルサディルですらあんなことになったんだ。聖槌軍に降伏しようなんてもう誰も言い出さないだろう」

 残された方策は、抗戦するか逃げるかの二つ。百万の軍勢と戦って勝てるはずがない以上、逃げるしかない――選択の余地も何もない。ネゲヴが採るべき戦法は焦土作戦しか残っていない。

「俺が独裁官になる。独裁官として焦土作戦を推し進めて、西ネゲヴを地獄の荒野と化す。百万を飢え死にさせて、この戦争を一年で終わらせる」

 竜也の進む道は茨の道となるだろう。百万の敵だけではなく何十万という味方を、西ネゲヴの無辜の民を死に追いやることになるだろう。だがそれでも、竜也は前に進むと決めたのだ。

「俺には『黒き竜の血』が流れている。聖槌軍と対等に戦えるのは『黒き竜』の俺だけ、ネゲヴを救えるのは俺だけなんだ」

 ――その脳内設定だけを心の支えとして。
 竜也達がスキラに到着したのはアダルの月・二四日。通常急いで二〇日程度の航路を最速で走り続け、半月足らずで帰着してしまった。夜に入港しようとして場所を見間違え、ナハル川の南岸に接岸。さらに焦っていたため船が座礁し、船の底には大穴が空いてしまった。その船はもう二度と使い物にはならないだろう。
 渡し船を使ってスキラの町に入ったきたのは二四日の未明。竜也やラズワルド、サフィール達が「マラルの珈琲店」に到着したのはようやく夜が明けた頃だった。群青色に染まる空の彼方で太陽が昇り、地平線と雲が茜色に輝いている。早朝の涼しい空気が肌に心地良く、町にはまだ人影がほとんど見あたらない。
 そんな時間帯にもかかわらず、珈琲店の前には大勢の人間が集まっていた。牙犬族を始めとする恩寵の戦士達が、奴隷軍団の兵士達が、ベラ=ラフマが、ハーキムが、竜也が帰ってくるのを待っていたのだ。そして誰より、

「お帰りなさい、タツヤ様」

「無事でよかったです、タツヤさん」

「ずっとあなたを待っていたのですよ、タツヤ」

 ファイルーズが、カフラが、ミカが店の前で竜也を出迎える。

「――ああ、ただいま」

 竜也は久々に自分が笑ったような気がした。







「――ルサディルで何があったかは今話した通りだ」

 場所は「マラルの珈琲店」内のいつもの個室。集まっているのは竜也・ラズワルド・サフィール、そしてスキラ居残り組の主要メンバー、ファイルーズ・カフラ・ミカ・ベラ=ラフマである。竜也はスキラ居残り組とまず情報交換から始めていた。

「……聖槌軍はそこまでするのですか」

「そんな軍勢が百万も……」

「しかし、にわかには信じられません」

 竜也の報告を受けたファイルーズ達は慄然とした顔を見合わせている。

「俺の証言だけじゃ足りなくとも証人なら何人も連れてきている。彼等にはスキラ会議でも証言してもらうつもりだ」

「いえ、タツヤのことを疑っているわけではありません」

 ミカはちょっと慌てつつ、

「……ですが、どうしても信じられないのです。そんな虐殺にどんな意味があるのですか? それを成すことで聖槌軍に、エレブに何の得があるのですか?」

「ルサディルで殺戮を繰り広げたのは枢機卿アンリ・ボケの部下でトルケマダという男の兵だと聞いています。あの男なら異教徒を異教徒であるという理由だけで殺戮しても何の不思議もありません。何も起きなかったとしたならそちらの方が異常なくらいです」

 そう解説するのはベラ=ラフマだ。

「それに、自国の中ですら神の名の下に略奪や人攫いを散々やってきた連中なんだ。元々乏しかった自制心が、他国に来て完全に外れてしまったと考えればそんなに不思議はないんじゃないか?」

 と竜也が補足し、ミカも一応の納得の様子を見せた。

「それで、こっちの動きはどうなんだ?」

 竜也の問いに一同の視線がベラ=ラフマに集まる。一同を代表してベラ=ラフマが説明を始めた。

「偵察船団がスキラを出港した直後、ギーラが自分を臨時独裁官とするよう提案。それが採決されています」

「臨時独裁官?」

「はい。あくまで偵察船団が戻ってくるまでの期間限定の、仮の独裁官です」

 カフラが顔を曇らせて、

「タツヤさんが、他の候補がいないのに強硬に反対しても仕方ないと、賛成に回る人が多かったんです。ファイルーズ様も期間限定の遵守を条件に賛成するしかありませんでした」

「臨時独裁官ギーラはまずネゲヴ軍を再編します。将軍アミール・ダールはナハル川方面を担当、将軍マグドはトズル方面を担当とし、将軍マグドをトズルへと移動させました」

「トズルというと……ここか」

 竜也はテーブルの上に広げたスキラ近辺の地図を確認した。トズルは、元の世界で言うならジェリド湖とガルサ湖に挟まれた場所に位置している。この世界ではジェリド湖とガルサ湖は一つにつながりスキラ湖という名前で呼ばれており、トズルはその北側の地名である。トズルとその対岸は橋のように、岬のように大地が突出しており、一番狭いところでは一スタディアも離れていなかった。

「ナハル川を迂回して東進するならトズルを通るしかありません。その防衛は不可欠ですし、ガフサ鉱山にも近いその場所に将軍マグドを配置することも不自然ではありません」

 ふむ、と頷いて竜也は続きを促す。

「現在、将軍アミール・ダールはナハル川南岸の要塞化を進め、防衛線を構築しようとしています。将軍マグドはトズルで砦を築城しています。一方臨時独裁官ギーラはナハル川南岸の整備をしようとしています」

「まあ、必要だろうな」

 と頷く竜也。ミカ達もまたそれに同意する。

「二〇万とも三〇万とも言われるスキラの市民、それにスファチェ、ハドゥルメトゥム、カルト=ハダシュトといった大都市の住民、それより西からの避難民。全部合わせれば百万を優に超えるでしょう。それだけの数が遅くとも三、四ヶ月のうちに大挙してナハル川南岸に押し寄せてくるのです。避難民を受け入れるためにナハル川南岸を整備することは必要不可欠です。ですが……」

「こちらをご覧ください」

 とベラ=ラフマが大きな紙を広げる。そこに描かれているのはスキラ近隣の地図だった。ただし現実のものではない。ナハル川南岸には現時点では影も形もない巨大な都市が記されている。碁盤の目のように大通りが整備され、運河があり、ローマ式の水道橋があり、政庁があり、太陽神殿があり、四階建て五階建ての石造りの建物が整然と並んでいる。壮大かつ絢爛な都市建設の計画書と完成予想図であった。

「これは?」

「ギーラが公表したナハル川南岸の整備計画です。ギーラはこの都市を『ギーラ=マグナ(大ギーラ)』と名付けています」

 竜也がその事実を咀嚼し、理解するに数十秒ほどの時間が必要だった。

「……まあ、何十万という避難民がやってきてナハル川の要塞化工事に従事したならこの辺りは放っておいても都市になるだろう。今のうちに戦後を見越してちゃんとした都市計画を立案しておくのは決して無意味なことじゃない」

「タツヤ様の言うことにも一理ありますわ。ですが、どう考えてもギーラさんは優先順位を間違えているとしか思えないのです」

 ファイルーズの言葉を竜也も否定しない。竜也もそこまではギーラを庇いはしなかった。

「ギーラも今すぐにこの都市を建設しようとはしていません。ギーラはまず独裁官の仮設政庁を建築しようとしています。この場所です」

 ベラ=ラフマが指差したのはナハル川河口、海に面した小高い丘である。その丘は葡萄が多く自生していることから葡萄(ゲフェン)の丘と呼ばれていた。

「また、ギーラは政庁に隣接して王女ファイルーズの行宮を建設するつもりでいます。警備上の問題から王女ミカにもそこに入るよう指示がありました」

「ついでにわたしもそこに入るよう命令されました」

 カフラが皮肉げな笑みを浮かべてそう言う。竜也は十数秒ほど開いた口がふさがらなかった。

「……何を考えているんだ? あの男」

「理解できる理由が全くないわけではありません。周囲が臨時独裁官ギーラに対して非常に非協力的なのです。将軍マグドは自分が納得できる範囲でしか、必要最低限の協力しかしておりませんし、それは将軍アミール・ダールも同様です。王女ファイルーズと太陽神殿、ナーフィア商会を始めとする各バール人商会、西ネゲヴ各地の商会連盟、各町の長老会議もまた同じです。ギーラの主要な支持層のはずの東ネゲヴの各町・各商会連盟すらが全面協力には程遠い状態です」

「多分、ギーラに深入りして梯子を外されるのを怖れているんでしょう」

 ベラ=ラフマの説明にカフラが補足した。

「笛吹けど踊らず、ってことか?」

「まさしくその通りです。焦ったギーラが強権を振り回し、白けた周囲がますます非協力的となり、ギーラがますます焦り、と悪循環に陥っています。それを打開するためにわたし達の身柄を欲したのでしょう」

 ミカの解説にベラ=ラフマが続ける。

「王女ファイルーズを自分の手元に置くことはその支持を得ていることの証明となります。王女ミカは将軍アミール・ダールの、カフラマーンはナーフィア商会の支持の証明となるでしょう。それだけの支持があれば周囲も非協力的な態度を改める他ありません。周囲の支持を得られれば実績も上げられる。そうなれば臨時独裁官から正式な独裁官に就任することも難しくはない――それを意図してのことと見られます」

「もちろんわたし達はその指示を拒否しましたわ」

 とファイルーズ。

「ギーラは私兵を集めているようですから、強攻策に出るのではないかと考えて将軍マグドの部下や恩寵の戦士を集めて守ってもらっているところです」

 ミカの言葉に竜也は思わず苛立たしげに舌打ちした。

「そんなことをしている場合じゃないだろう」

 ファイルーズは面目なげにしているがミカは「誰のせいだと思っているのですか」と反撃する。竜也は一瞬言葉を詰まらせるが、

「判っている」

 と頷いた。

「――ギーラを排除して俺が独裁官になる。皆の力を貸してほしい」

 その場を一瞬静寂が満たし、次いで静かな高揚が徐々に水位を上げていった。

「もちろんですわ。わたしと太陽神殿がタツヤ様の力となります」

 とファイルーズ。

「やっとですか。ですが、あなたなら少なくともギーラよりはマシな独裁官となれるでしょう」

 とミカ。

「タツヤさんならできます。タツヤさんのやり方でネゲヴを救っちゃってください」

 とカフラ。

「言うまでもありません。牙犬族はタツヤ殿の剣となって敵を斬り払います」

 とサフィール。
 ラズワルドとベラ=ラフマは無言で頷くだけだ。だがその瞳を見ればその意志を問う必要などなかった。
 全員の賛同を受け、意を強くした竜也は即座に行動を開始した。

「まずはスキラ会議でルサディルの惨劇について報告して、その場で支持を集めて独裁官に就任する。次のスキラ会議は?」

「来月の一五日です」

 ミカの答えに竜也は数拍言葉を途切れさせた。

「……何でそんな先に」

「臨時独裁官の意向です」

 とミカは肩をすくめる。

「臨時でも独裁官がいるのだからスキラ会議を頻繁に開く必要はない、と主張しそれを通してしまいました」

 竜也は「そんなに待てるか」と舌打ちをしつつ、

「ギーラに構わなくていい、スキラ会議の面子を集めてくれ。ルサディルの惨劇について報告する」

 竜也の指示を受けてミカが、カフラが、その部下が動き出す。竜也はその現実を当然のものとして受け止めていた――そのように見えた。

「……タツヤさん、何だか変わりましたね」

 ベラ=ラフマの報告を受け、指示を出す竜也の背中を見つめながら、カフラが独りごちる。以前であれば指示や命令をするにしてもどこか遠慮やためらいが感じられたのだが、すっかりそれがなくなっているのだ。

「ようやく人の上に立つ自覚が出てきたのでしょう」

 とミカは頷き、

「タツヤ様、無理をされていなければよろしいのですが」

 とファイルーズは眉を寄せている。それに対して、

「タツヤは自分の血に目覚めた」

 そんなことを言い出したのはラズワルドである。

「自分の血?」

「そう。クロイ・タツヤという名前は『黒き竜(シャホル・ドラコス)』という意味。タツヤは黒竜の恩寵の民」

 ミカ達は「まさか」と思うがラズワルドは真剣な表情で、嘘や冗談を言っているようには到底見えなかった。竜也の脳内設定をラズワルドが勝手に本気で信じ込んでしまっただけ、それをネゲヴ風に独自解釈しているだけ、とファイルーズ達に判るはずもない。

「……その、黒竜の恩寵というのはどんなものなんですか?」

「よく判らないけどとにかくすごい」

 ラズワルドが大真面目にそう答える。カフラとミカとファイルーズは全身から脱力して崩れ落ちそうになった。







 スキラ会議参加者のほぼ全員が招集され、竜也主催の「ルサディルの惨劇・報告会」が開催されたのは二六日のことである。その日、竜也達は揃ってソロモン館に出かけていた。一方「マラルの珈琲店」にはラズワルドとベラ=ラフマの二人が残されている。ラズワルドは竜也に付いていきたかったのだがベラ=ラフマに引き留められたのだ。

「何の用?」

 不機嫌な感情を露骨に声に出してラズワルドが問う。

「ギーラは独裁官タツヤの暗殺を計画し、その工作員を偵察船団に潜り込ませていた。心当たりは?」

 ラズワルドは驚きに息を呑んだ。「心当たりがあるようだな」とベラ=ラフマが頷く。

「この情報を掴んだのは偵察船団の出港後で、工作員の名前や具体的な工作内容までは未だ掴めていない」

 お前がいてくれれば話は早かったのだが、とベラ=ラフマは内心で呟いた。一方のラズワルドは殺意に真紅の瞳を燃えるように輝かせている。

「許さない、殺す」

 ラズワルドの人生の中でこれほど強い憤怒を覚えたのも、これほど明確な殺意を抱いたのも初めてだった。自分が決死の覚悟で助けに行かなければ竜也は間違いなく死んでいたのだ。自分もまた間一髪で死ぬところの連続だったが、竜也を喪うところだったことを思えば些細な話である。

「落ち着け。ギーラの暗殺は認められない」

 ベラ=ラフマに止められ、ラズワルドは「どうして」と強く反発した。

「独裁官タツヤの立場を悪くするだけだからだ。暗殺をするような指導者を兵も民も支持しない。独裁官タツヤもまたそのような手段を許可しないだろう」

 政治的な立場云々の話はラズワルドにはいまいち理解できなかったが、竜也が暗殺を許可しないという話ならよく判った。ラズワルドのよく知る竜也ならそうするに決まっている。

「ギーラを殺したい。いい?」

「駄目に決まってるだろ」

 脳内の竜也にあっさりと却下され、ラズワルドは軽く落ち込んだ。

「もちろん必要とあれば独裁官タツヤの許可を得ないまま、内密のまま暗殺をすることも考えられる。だがそれは独裁官の政治的立場に悪影響を及ぼさない限りにおいて、あるいは独裁官が意図した殺害と疑われない限りにおいて、だ。今のギーラはこの条件に合致しない」

「じゃあどうするの」

 すねたように問うラズワルドにベラ=ラフマが力強く告げた。

「独裁官タツヤを守る。独裁官の目となり耳となり、素早く危機を察知し、先回りしてそれを排除する。今できるのはそれだけだ」

 ラズワルドが「判った」と頷く。ラズワルドの瞳に意志の光が輝いた。今の自分にできることを呈示され、行動する意欲を強く発露している。

「部下が欲しい。白兎族の女を集めてほしい」

「いいだろう。手配をしよう」

 ラズワルドの依頼にベラ=ラフマが頷く。ラズワルドはいかにして竜也を守るべきか、その思考を巡らせている。暖かな微睡みの中で眠るだけだった「白い悪魔」が真の意味で目覚める刻は、そう遠くはなかった。
 一方のソロモン館。そこにはスキラ会議メンバーのほとんどが集まっていた。アミール・ダールは長男のマアディームを名代として寄越し、トズル方面からはマグドがやってきている。ギーラの支持層であるはずの東ネゲヴ各町代表もほぼ顔を揃えていた。

「東ネゲヴの各町からも代表が来ているな」

 参加者名簿に目を通した竜也が述べ、ミカが解説した。

「はい。大部分は名代でしょうけどこの場に集まっています。ギーラがあまりに頼りないのでタツヤとのつながりを保っておこうというのでしょう」

 竜也は特に何も言わず、「ふん」と小さく鼻を鳴らした。

「……本日集まってもらったのは他でもありません。西ネゲヴに偵察に向かった船団が帰着しました。西ネゲヴで何が起こっているのか、クロイ・タツヤからの報告を皆に聞いていただきたい」

 いつものようにラティーフの挨拶から報告会が始まった。ラティーフと交代して竜也が議場の中心に進み出た。

「クロイ・タツヤです。俺はアダルの月の四日にルサディルの町に潜入しました。聖槌軍の先鋒がルサディルに到着したのは九日です」

 竜也は自分が見たことだけを、経験したことだけを淡々と語っていった。議場はしわぶき一つ起こることなく静まり返っている。その中で聞こえるのは竜也の声だけだ。竜也がルサディルの光景を一つ語るたびに議場の温度が一度下がるかのようだ。

「……俺が経験したことは以上になります」

 竜也の語りが終わる頃には議場の空気は完全に氷点下となっていた。

「……しかし、まさかそんな」

「到底信じられない」

 ようやく発せられた声はそんな内容ばかりである。竜也は視線を議場の入口に送る。入口で待機していたサフィールが十人ほどの人間を引き連れて議場に入ってきた。訝しげな思いが広がっていく。

「彼等は俺がルサディルから連れてきた避難民です。全員、あの日、あのときにルサディルにいた人達です」

 その十人が議場のあちこちに分散して移動するのを確認し、竜也は告げた。

「俺の証言だけでは不足でしょうから、その人達からも話を聞いてください。あの日、あのときにルサディルで何が起こったのかを」

 当初は戸惑ったように顔を見合わせていた参加者達だが、やがて各々が近くの場所にいる避難民の元に集まってきた。最初は遠慮がちに、次第に熱心に避難民に質問をする。避難民は涙を堪えながらも、あるいは泣き崩れながらもその質問に答えていった。

「妻は何人ものエレブ兵に犯されていた。妻を犯すために何十人ものエレブ兵が集まっていた。俺はそれを助けることもできず、それどころか妻をおとりにして逃げ出してきたんだ……!」

「父と母がわたしを逃がすためにエレブ兵に立ち向かいました。父も母も、身体中を槍で刺されて、それでもわたしに逃げろって……」

「俺のご主人は光り物が好きだったからエレブ兵のいい獲物になっていた。エレブ兵の一人がご主人の腕を剣で斬り取って、腕ごと指輪を奪っていって、別のエレブ兵は耳飾りを耳ごと奪っていった。奪われるものがなくなったご主人はエレブ兵の腹いせに剣で串刺しになっていた」

「夫とはぐれたわたしは子供を抱えて、隠れるところを探して、どぶ川の中に隠れたんです。でもあの子はまだ五ヶ月で、あの子が泣き出して、エレブ兵が近くまで来ていて、何とか泣き止ませようとしてわたしは……自分が助かりたい一心であの子を水の中に沈めて……この手で……!」

 各場所での聞き取りは一時間ほどで終了する。憔悴した避難民が退場していき、議場の中は泥沼の底のような重苦しい静寂に満たされた。

「――ついに奴等はやってきたんだ。俺達を皆殺しにするために。俺達を奴隷にするために」

 ただ竜也の声だけが議場に響いている。

「奴等がネゲヴを地獄にしようというのなら――俺達もまたそうしてやるだけだ。奴等全員を飢餓地獄に落とし込んでやる。百万の聖槌軍を皆殺しにする。一年でこの戦争を終わらせる」

 竜也の静かな宣言が全員の耳朶を打った。その決意が胸に響き、その覚悟が心臓に轟いた。

「一年だ!」

 竜也は人差し指を立てた手を高々と頭上に掲げた。

「一年だけあなた達の生命を俺に預けてくれ! あなた達の力を、あなた達の財産を、あなた達の権限を俺に貸してほしい! そうすれば俺が一年で聖槌軍を皆殺しにする。一年でこの戦争を終わらせる!」

「それはあなたが独裁官に就任するということですか? クロイ・タツヤ」

 ラティーフの問いに竜也は力強く頷く。

「やっとその気になったか、待ちかねたぞ!」

「もちろん我々は支持するぞ!」

 真っ先に反応したのは恩寵の部族の族長達だ。西ネゲヴの各町が、各バール人商会が、竜也の支持を表明する。

「今更言うまでもないだろう。俺達奴隷軍団はタツヤのために戦い、死んでやる」

 マグドが静かに、だが明確に宣言。

「アミール・ダールの真の忠誠は正式な独裁官に捧げられます」

 マアディームはアミール・ダールの名代としてそう明言した。
 議場の半分以上が竜也の独裁官就任を熱く支持する一方、もう半分――東ネゲヴ各町の代表が集まっている箇所は静かなままである。だが、

「……反対しないのか?」

「敵は半月も前にネゲヴに侵入しているんだぞ。いつまでも内輪で揉めている場合じゃないだろう」

「あの男はあまりに期待はずれだった。所詮は口先が上手いだけの男だ」

 誰かの言葉に周囲が揃って頷く。東ネゲヴの各町でも誰も積極的に反対しようとしていない。

「臨時独裁官ギーラはどうするのだ?」

「説得して降りてもらう」

 誰かの問いに竜也が即答。「それができるのなら特に文句はない」と東ネゲヴ各町も竜也の支持を表明した。
 そんな中、ファイルーズが椅子から立ち上がり、竜也の前へと進み出た。一同の注目を集める中、竜也とファイルーズが議場の中央で向かい合う。

「タツヤ様、ネゲヴを救ってくださいますか?」

「約束する。聖槌軍を倒し、ネゲヴを救うと」

 竜也は静かにそう宣言した。ファイルーズは竜也の手を取る。

「ネゲヴを、ケムトを、わたし達の未来をあなたに託します。あなたに太陽神の御加護を」

「ありがとう」

 竜也はそう応え、全員に向き直る。竜也は静かに、もう一度人差し指を立てた手を高々と掲げた。

「独裁官クロイ!」

 誰が竜也をそう呼び、その呼びかけが議場全体に広がる。

「独裁官クロイ!」「独裁官クロイ!」

 熱狂的な呼びかけがソロモン館全体を揺るがすかのようだ。その歓呼の声はいつ果てるともなく続くこととなった。







 スキラ会議の支持を受けて竜也が独裁官として就任――その知らせに対し、ギーラは表面上は動揺を示さなかった。

「何を言っている? 正式なスキラ会議の開催は来月の一五日だ。非公式の会合でスキラ会議の参加者が何人集まって何を決めようと、それに何の意味がある?」

「ガイル=ラベクが戻ってきていないのに偵察船団が戻ってきたとは言えんだろう。つまりは私が独裁官から退く理由もないということだ。ガイル=ラベクが偵察の報告を寄越したのは聞いている――クロイ・タツヤ? ふん、知らんな。そんな小物の名前は」

 ギーラは公然とそのようにうそぶいた。それを聞いた竜也やその支持者は当然呆れ果てたが、それは竜也達だけではない。

「東ネゲヴの各町がますますギーラから距離を置いています。ギーラに完全に見切りを付けてしまった者も少なくないようです」

 ベラ=ラフマの報告に竜也は「まあ、そうなるだろうな」と頷いた。

「さて、どうする? タツヤ。ここまで来たら少々強引な手段をとっても問題はないだろう」

 と今にも自らギーラの元に向かいそうなのはマグドである。ベラ=ラフマが無言のまま頷き、他の面々もマグドに反対していない。
 だが竜也は「いや」と首を振った。

「ギーラはできるだけ説得で退かせたい。それで誰に説得させるかだけど――」

 竜也がある人物の名前を挙げ、その場の全員が戸惑いの表情を浮かべた。特にミカは驚きに目を丸くしている。







 スキラ市街地の一角、とある商会の別邸。そこが臨時独裁官ギーラの官邸となっている場所だった。その別邸はオエアのある商会の所有物件で、ギーラが一時的に借り受けているものである。
 その官邸を警護しているのは数十人の傭兵だ。ギーラはアミール・ダールに警護を依頼したのだが人手不足を理由に断られている。仕方なしに自分で傭兵団を雇ったのだが、予算の関係もあって雇えたのは無名の、二流の傭兵団でしかなかった。
 ギーラは執務室内を苛立たしげに歩き回っている。執務室は大して広くなく、ギーラは檻の中のハツカネズミのように短い範囲をぐるぐると回っていた。執務机は部屋の広さにそぐわないくらいの大きさであり、その上にはギーラ=マグナの完成予想図が広げられている。

「……くそっ」

 気に食わない。気に食わない。何もかもが気に食わなかった。東ネゲヴの各町は自分を利用しようとはしても自分に協力しようとはしていない。アミール・ダールは反旗を翻す隙をうかがっているかのようだし、ファイルーズは自分になびこうともしなかった。

「くそっ、あの小僧。あいつさえちゃんと死んでいれば……!」

 そして誰よりギーラが気に食わない人間がスキラに戻ってきている。ギーラのものだった地位を、名声を、権力を奪おうと画策している。

「今からでも遅くはない、あいつさえ死ねば問題は全て解決するんだ。何とか殺す方法は」

 ギーラは思考を巡らせるが上手い方法はなかなか見つからなかった。その人間に付いている護衛があまりに厄介なのだ。無双の威力を持つ恩寵の剣士達と、アシューで歴戦を重ねた戦士達。彼等が